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【捩れ屋敷の利鈍】 森博嗣
「僕はこの鳥籠を見るたんびに、自分の寛大さを嬉しく思うのさ」と、彼は言う。「この籠には鳥を一羽入れたっていいわけだ。それをこうして空っぽにしとく。万一、僕がその気になったら、たとえば茶色の鶫とか、ぴょいぴょい跳び回るおめかし屋の鶯とか、そのほかフランス中にいろいろいる鳥のどれかが、奴隷の境遇に落ち込んでしまうんだ。ところが、僕のお蔭で、そのうちの少なくとも一羽だけは自由の身でいられるんだ。つまり、そういうことになるんだ」
(博物誌/ルナール)
プロローグ 要請 request
車は霧の山道を登っている。
FMの電波もさすがにもう届かない。しかたがないので、AMに切り換えて、天麩羅《てんぷら》のような雑音混じりのニュースを聞いていたけれど、ときどきそれも掠《かす》れ、背中の後ろで唸《うな》る空冷エンジンの心地良いサウンドに掻き消される。車内には私一人。目は前方を見据え、両手はステアリングを握っていた。
しかし、この道の先にあるものを考えることは不思議になかった。その代わり、何故か懐かしい思い出が浮上する。こういった状況下において、過去を思い出さないことは無理というものか……。たとえ、女性の背中のボタンを片手で外すことに長《た》けていても、あるいは、髪に櫛《くし》を通すときの微妙な抵抗感にすっかり慣れていても、つまり成熟した紳士という意味であるが、そうであっても、思慕に関する抵抗性はおおかたは同じだ、と思う。霧の山道に特有の作用かもしれない。
当然ながら、仕事に出向く途中だった。適度な軽い緊張感が、銀紙みたいに皺《しわ》の寄った躰中に、偏《かたよ》ることなく均等に広がっていた。仕事に向かうときの私は、いたって不機嫌なのだ。自分ではまったくわからない。むしろ高揚し、前向きで明るく、元気だとさえ認識しているくらいなのに、端《はた》から見ると、暗く不機嫌に見えるらしい。「朝から、何をそんなに怒っているの?」と何度か指摘されるうちに、ようやく気づいた。この種の忠告ほどありがたいものは人生において珍しいだろう。瞬時に笑顔をつくり、「いや、何も怒っていないよ」と応えるだけのことなのに、その切り返しの僅《わず》かなタイムラグに生じる精神効果は極めて貴重で、しかも愛おしいものである。砂漠のオアシスに匹敵するといっても良い。逆に、ときどき私は女性に向かって尋ねることがある。「何をそんなに怒っているの?」と。ほとんどの場合、それは深夜のことで、その結果得られるものといえば、万が一にも笑顔ではありえない。いったい、これはどうしたことだろう? もちろん私の不徳が主たる原因には違いない。違いないのだけれど、しかし、かといって一人くらい、「いいえ、何も怒ってなんかいないわ」と微笑んでくれても良さそうなものではないか。
瀬在丸紅子《せざいまるべにこ》が、そう言って微笑んでくれた唯一の女性である。何故ならば、そのときの彼女は本当に怒っていたからだ。当然ながら、私にはそれが理解できたし、彼女はそういう女性なのだ。ただし、どうして彼女が怒っていたのかは思い出せない。都合の悪いことは記憶しないのが、人間の頭脳の仕組み、自己防衛を目的としたごく普通の機能らしい。だから、そんな明るい光景、つまり彼女の魅惑的な笑顔だけを都合良く思い出して、私は今頃になってようやく、少し笑うことができるのである。懐かしい友から久しぶりに届いた手紙が、結婚を知らせるものだったときのように。
しかし、努力して忘れよう、と思う。
良い思い出は、できるだけ早く、新鮮なうちに素早くフリーズしておくにかぎる。きっと、いつか落ち込んだときに、とても辛いときに、そして死ぬ直前にでも、それが役に立つだろう。否、役に立つという表現はいささかニュアンスが違う気もする。それに、そんな将来のために何かを残そうとしている自分にも、多少の違和感を覚えてしまう。いったい全体どうしたというのだろうか。こうしてまた、思い出し笑い。
相変わらず、ぱたぱたというエンジン音が追いかけてくる。もちろん、私の車の音だ。じりじりと坂道を走り、タイヤの音は路面の湿《しめ》り具合を教えてくれる。もうかなり上っているはず。高度などの表示は一切なかった。周辺は白っぽい空気に満ち、おそらくは鬱蒼《うっそう》とした森に取り囲まれているはずだが、その全体像は確認できない。僅かにほんの一部が、割れた磨りガラス越しに見るときのようにときどき現れた。
その幻想的な孤独の坂道に割り込んできたものは、後方からのヘッドライトの明かりだった。次に、低いエンジン音が聞こえ、私はしばらくぶりにバックミラーを覗《のぞ》き見た。いつの間に追いつかれたのか、すぐ後ろに車がついて走っている。不作法なほど接近しているわけではなかったものの、しかし、完全に追いつかれていた。私のビートルは、残念ながら、この状況を克服するに充分な高出力のエンジンを持っていない。ヘアピン・カーブを三つほど通り過ぎたところで、多少の道幅の余裕を発見し、私は車を左に寄せた。ウインドウを半分下げ、手を出して、先へ行くように、と後続車に促《うなが》した。
車高の低い車だなとは思っていたけれど、私の車を追い越していったのは、赤いフェラーリだった。ふぉんと軽くクラクションを鳴らしたのは、道を譲ってやったことに対する礼のつもりだろう。低いエンジン音と円形のテールランプがたちまち霧の中へ消えてしまった。
私はポケットから煙草を取り出し、ライタで火をつける。こういうときの私の動作は、自分でも嫌になるくらい緩慢だ。先祖が白熊かもしれない、と思う。ウインドウはそのまま上げないでおいた。そして、最初の煙と一緒に、自分のこれまでの人生と同じ程度の長さの溜息をもらし、さらに、それから絞り出した潤滑オイルを思い浮かべて、ギアをローに押し込んだ。ビートルはかたかたと乾いた音を鳴らして、また上り始めた。
今回の物語は、多少これまでと趣が異なっているかもしれない。たとえるならば、動物園の片隅に建っている昆虫館や、は虫類館に入ってしまったような感覚に近いだろう。
第一の特徴(これは内面的なものだが)として、探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか、とだけ予告しておこう。
さらに、表面的な性状においても、これまでと違う点がある。
今回は、私、保呂草潤平《ほろくさじゅんぺい》以外の、いつもの三人が登場しない。すなわち、瀬在丸紅子、小鳥遊練無《たかなしねりな》、香具山紫子の三人が知らない場所で、この事件は起こった。したがって、私一人の観察(および情報収集)によって得られたデータを基に、いつものごとく細《ささ》やかなアレンジを加えて、ストーリィが再現されている。一人称で書くことも可能であったけれど、これまでの流れに水を差すこともないと判断し、相変わらずの手法(つまり、私を含めて全員を三人称で語る視点)で通したい。使い慣れた手法は道具と同じで、知らず知らずに手に馴染《なじ》む、といった理由を言い訳にしておこう。
使っている最中には気づかないものだが、他のものを使ったときに道具の存在に気づかされる。そうしたあとで、再び、慣れ親しんだ道具に戻ったときには、実に心地が良いものだ。その意味で、今回は少しだけ、一時の違和感を楽しんでいただきたい。
道具に限らず、目に見えない数々の手法、それも、自然に習得し、知らぬ間に構築された独自のやり方によって、人の営みの多くは支えられている。それらは掛け替えのないもの、消えてしまって初めて気づく価値である。
道具といって私が思い出すのは工具。特に、切断や切削《せっさく》を行う各種の小さな工作具だ。子供のときから、私はこれらに愛着があった。どうして好きになったのかわからないのだが、何かを買ってもらえる機会があれば、必ず工具をねだった記憶がある。いつでも手に入れたい工具の優先順位が頭の中でリストになっていたくらいだ。
良い道具には、それが道具であることを忘れさせてくれる機能がある。まるで魔法のように、それを使う人間の腕が上がったように錯覚させてくれる。人は、悪い道具を使ったとき、初めて道具を使っていること、道具のせいで仕事が上手く捗《はかど》らないことを認識することになる。このことは、あらゆる手法、たとえば、言葉やマナー、さらには、健康や友人、そして愛情や恋人にも当てはまる法則であろう。
ときには、人生という仕事をやり遂げるための道具が、個人の躰と頭脳そのものである、つまり、私たちの存在すべてが道具なのだ、と感じずにはいられない。
選べる道具と選べない道具があるが、少なくとも、選べるものは選ぶべきである。つまりそれは、可能な最良の筋道を選ぶことと等しく、また同時に、選べなかった道筋の存在を自覚する重要さにも気づかされるだろう。
この物語に登場する私の古い友人(おそらく、向こうは私のことを友人とは認めたくないだろうが)は、一流の道具に拘《こだわ》る、道理をよく承知した人間だった。私は彼が好きだ。これは好意を寄せているという意味ではない。彼を観察することに価値がある、彼の人生が興味深い、という理由であって、換言するならば、イグアナをガラス越しに覗き見たい、という動機と同種のものである。ある意味では、観察させる能力を持っているといえるし、また別の意味では、その能力に対して尊敬の念に近い感情を抱かなくもない。ようするに、だからこそ、私は仕事を思いつき、仕事を実行する。
私の特徴は、決断が遅く、実行が早い、というものだ。いつもこのパターンである。しかしどうしたって、実行よりも決断を遅らせることは不可能なのだから、決断が早く実行が遅い人間よりは、はるかに恵まれているだろう。
さて、愛すべきは、瀬在丸紅子である。
彼女に向かうとき、私は、数学的にしか存在できないほど正直者になるようだ。彼女が使う道具として私が生まれていたら、どれほど幸せだったか。
私は事後、今回の仕事の成果を彼女に告白した。
すると、紅子はこう尋ねた。
「貴方が成しえたことが、貴方が成しえなかったことよりも、常に価値があるものだと、確信しているのね?」
「そんなことはありませんよ」私は答える。
「そうかしら?」紅子はにっこりと微笑んだ。「私には、そう見える。貴方は自分の選択を楽しんでいるようだわ」
「うーん、それは、まあ、そうかもしれない」
「でも、玉に瑕《きず》なことが一つ」紅子は綺麗な指を一本立てた。
「何ですか?」
「私にお話しになったことよ」紅子はじっと私を見つめる。「黙っていられないの?」
なるほど、彼女の言うとおりだ、と痛感した。
それは事実、以前から自覚しているところでもある。
そう……、どうして私は、彼女に話してしまうのだろう。こうして物語を綴《つづ》ることさえ、彼女のためなのである。この不合理を、どう説明すれば良いだろうか。
もちろん、その答を、私は知っている。
それは明確なものだといって良い。
けれども……、
彼女の忠告を尊重して。
ここはひとつ……、
黙っていよう、と思うのだ。
第1章 来客 guest
毎日使っているうちに夜もだんだん摺《す》り切れて来る。
保呂草潤平は秋野秀和《あきのひでかず》と名乗って、この屋敷を訪れた。
秋野の名刺には美術品鑑定士とあった。これは保呂草の本来の仕事と非常に似通っている。美術品の価値を見極めるところまではまったく同じといって良い。その品に価値を認めなければ、上品に微笑んで、何も言わずにそれで終わり。もし、価値がある場合には、その後の対処、つまり行動が、単なる美術品鑑定士と、保呂草の本来の職種とで若干異なってくる。言い換えれば、その美術品に対するアプローチが、ソフト的なものかハード的なものかで、両者が分けられる。
この熊野御堂家《くまのみどうけ》の別荘に、保呂草が鑑定士として招かれるに至った経緯を詳しく説明すると、物語が五割ほど長くなってしまうだろう。したがって、ここでは詳細は述べない。ただ、少なくとも偶然の結果ではない。保呂草のことをよく知っている人には、それくらい容易に想像できるだろうし、また、彼を知らない人のために、さらに彼の名誉のためにも、偶然ではないことだけは付記しておきたい。多少の時間と細《ささ》やかな投資が、それなりに必要だった。すべては保呂草が描いた青写真のとおりにことが運んだ結果である。
彼のこの用意周到な性格は、つい最近になって形成されたもののようだった。というのも、子供の頃にはそのような片鱗《へんりん》はまったくなく、どんなことにも行き当たりばったりの人間だったからだ。ときどき、今の自分を眺めて不思議になる。大人になり、成長するごとに臆病になっているせいだろう、というのが彼の自己分析だ。サーカスのスターも歳をとればピエロを演じるしかない、つまりはそれと同じ原理だろう。
保呂草が、熊野御堂家の別荘に客として招かれるよう画策した理由は、ただ一つ。ある美術品を自分の目で鑑賞したいという願望、極めて純粋な動機だった。彼は通常は絵画を専門に鑑賞、あるいは蒐集《しゅうしゅう》する傾向にあったのだが、この美術品は数少ない例外の一つである。
エンジェル・マヌーバ(Angel maneuver)は絵画ではない。スカイ・ボルト(Sky bolt)、あるいは、フライト・ファザ(Flight feather)とも呼ばれていたが、それは、「天使の演習(Angel maneuver)」と呼ばれるに相応《ふさわ》しい工芸品で、もしそれが実用に供されることがあるならば、短剣、すなわちナイフの役目を果たす以外になく、その実用性とは無関係に、人間の一生に比べれば多少長い歴史と、禁欲的ともいえる均整に優れた装飾とに彩られ、特に、マスカヴィ・マァマァ(Mascovy murmur)と名付けられた極めて大振りの宝石が填め込まれている、とそう噂される一品だった。人によっては、エンジェル・マヌーバとは、その宝石の名前だと勘違いしている向きもあるくらいだが、この品はそういった即物的な価値に還元できる代物《しろもの》では本来ない。もっと人の手が刻んだ時間の結晶だ、と保呂草は信じている。
時価数億円といわれるこの美術品の来歴については、あえてここでは詳しく述べない。また、どうしてこれが日本にあるのか、という点についても、今回は説明を省略する。
いずれにしても、保呂草潤平個人にとっても、多少の曰《いわ》くのある品であったことは事実で、専門外にもかかわらず珍しく執着している自分に彼自身興味をいだいたほどだ。その品がもし実在するのならば、一目、実物を拝んでみたい。そして……、そう、可能ならば、この手に取り、その感触を確かめてみたい、と切望していた。
希望がついに叶うことになりそうだった。だから、それが決まった先週頃から、彼はとても上機嫌で、同時に、軽い緊張感に襲われた。大きな仕事をするときの緊張感ほど、健康に良いものはないだろう。少なくとも、この状態で死んでしまう人間は少ないものと思われる。それが生命力というもの。こういった仕事の緊張感こそ、生に対する麻薬的な効果を持っているようだ。面倒で、苦労が多く、体力を消耗し、危険でさえある仕事に、幾度も彼を差し向ける。こうしてみると、人間はすべて緊張の奴隷、といっても良いかもしれない。
ベランダに出て煙草を吸っていた保呂草の耳に、話し声が聞こえてきた。彼は静かに手摺まで身を寄せて、下を覗き込んだ。彼の部屋は屋敷の二階である。ちょうどすぐ下の小径《こみち》を、人が二人通りかかった。森林の散策から帰ってきたところであろう。一人は白い大きな帽子を被っている。その円形の直径は六十センチくらい。服装から明らかに女性である。長いスカートを穿《は》いていた。保呂草がいることに気づき、こちらを見上げて、彼女はにっこりと微笑んだ。まったく曇りのない笑顔だった。保呂草は、その笑顔が誰かに似ている、と感じた。
もう一人は、白いシャツにジーンズという、リゾートにはあまり相応しくない普段着で、メガネをかけていた。話しかけているのは白い帽子の女性の方で、彼女の高い綺麗な声の中から、「先生」という単語が聞き取れた。つまり、メガネの人物が彼女の先生なのだろう。
二人は煉瓦塀の蔭になり、すぐに見えなくなった。時刻は、夕方の五時。車で上ってきた山道は深い霧に包まれていたのに、今は嘘のように晴れ渡っている。もしかしたら、ここは雲の上なのかもしれない。さきほどの彼女の笑顔のようにクリアだった。
そう、思い出した。
あれは瀬在丸紅子の笑顔に似ている。自信と博愛の笑顔といえばオーバだろうか。人形のように滑らかな、完璧な微笑である。もっとも、赤の他人に対してこういった感想を持つこと自体、保呂草としては珍しい。
気温はかなり低かった。雪や道路の凍結が心配されたが、なんとか辿《たど》り着くことができた。あとは仕事を完璧に遂行し、そして、無事に下山すること、保呂草の頭にはそれしかない。
時刻はわかっているのに、また時計を見た。ディナは六時半からである。熊野御堂家の面々と、あとは数人の来客。今の彼女たちも、ゲストであろう。食事のとき、彼女の笑顔がまた見られるかもしれない。予想外の楽しみの出現を味わいつつ、彼は煙をゆっくりと吐き出した。
保呂草がラウンジへ下りていくと、中庭を望む大きなガラス戸の近くに、七、八人は楽に座れそうな長いソファが置かれていて、そのほぼ中央に彼女が一人ぽつんと腰掛けていた。低いソファだったので、柔らかそうなスカートから出た彼女の膝が、形の良い鋭角をつくっていた。彼は思わず十字を切りたくなった。
「こんにちは」保呂草は、弓形のソファの内側に回り、彼女に近づいて挨拶する。
「こんにちは」雑誌を読んでいた彼女は顔を上げ、保呂草を見て微笑んだ。「ディナは少し遅れそうだって、さきほど、こちらの方がおっしゃっていました」
「そうですか……」保呂草は彼女から二メートルほど離れたところに腰掛ける。「それは都合が良い」
「どうしてですか?」軽く小首を傾《かし》げて、彼女がきいた。
「いえ、ここに座ってみたかったから」
「もしかして、ビートルでいらっしゃいました?」
「え? ああ……、ええ、そうですよ」保呂草は突然の質問に驚いたが、すぐに察した。駐車場で彼の車を見たのだろう。「古い車です」
「年代物ですよね」彼女も頷《うなず》く。「でも、差し出がましいことで、お気に障ったら聞き流していただきたいのですけれど、エンジンの調子が今一つのようでした。まだまだ、ちゃんと手入れをしてあげれば、あれくらいの坂道はすいすいと上れるはずです」
「手入れをしてやって、あれなんですけどね」保呂草は軽く頷いた振りをしてから考える。ここへ来るときにビートルを追い越していったのはフェラーリだけ。つまり、あの車に乗っていたのが彼女だったわけだ。とすると、先生と呼ばれているプレイボーイがあの派手なスポーツカーを運転していたことになる。保呂草は、もう一度彼女の笑顔を観察し、その金持ちのボーイフレンドが羨ましくなった。この感情も久しぶりのものだったので、自分でも驚いた。
「お連れの方は?」彼はきいた。
「あ、ええ……、もうすぐ来ると思います」彼女はそう答えてから、座り直して、僅かに躰をこちらへ向け、膝の上で両手を重ねる。「あの、私は、熊野御堂氏にご招待いただいた西之園《にしのその》といいます」
「あ、どうも、失礼。はじめまして、秋野と申します」
「秋野さんですね」彼女は片手の人差し指を軽く頭の横につけた。そこにレコーダのスイッチがあるのだろう。
「僕は美術品を見るのが仕事です。貴女が右手にしていらっしゃる時計、失礼ですが、本物でしたら、五百万は下らない品ですね」
「あら」彼女は白い歯を見せて微笑んだ。自分の腕を見ようともしなかった。「それが、お仕事なのですか? なんだか、よくある手口って感じですけれど」
「ええ」保呂草は肩を竦《すく》める。「まあ、それなりに、効果がある証拠でしょうね」
「何の効果ですか?」くすっと彼女は吹き出す。
「それ、本物ですね」保呂草は言った。
「え?」小さく可愛らしい口を開ける。「どうして?」
彼女は大きな瞳を一度|瞬《またた》いた。その効果を彼女は知っているだろうか。
「偽物だったら、貴女はそれが人からどう見られているのか、確認せずにはいられない。僕に言われたあと、貴女は一度も自分の時計を見ていない。その自信が本物の証《あかし》です」
「ああ、なるほど」ますます嬉しそうな表情で彼女は大きく頷いた。「それが、貴方の編み出された方法かしら?」
「ええ、どんなものにも適用できます。全部これでOK」
「美術品は、どんなものがご専門ですか?」
「美しいものだったら、何でも扱いますね。まあでも、そうですね、多いのは、やっぱり絵かな」
「でしたら、こちらにある、エンジェル・マヌーバは専門外でしょうか?」
「いいえ、美しいものであれば、ジャンルは問いませんよ。美術品でも、生きものでも」
「生きもの? 熱帯魚とか?」
「そんなストイックな人間に見えますか?」
「ご覧になったことがあるの?」
「え、何を?」
「エンジェル・マヌーバです。美しいっておっしゃったわ」
「ああ、いえ……」保呂草は首をふった。「だけど、美しいことは確かです」
「どうして?」
「名前が美しい」
「素敵」彼女はまた微笑んで、唇を噛んだ。えくぼが片方だけできる。
「え、名前がですか?」彼はきいた。
「いいえ、お答えが」
「ありがとう。ところで、えっと、西之園さん、どうしてこちらへ?」
「私は……、うーん、なんだろう」彼女は無邪気な表情で、天井を見上げた。保呂草も思わずつられてシャンデリアを見上げてしまった。「私、熊野御堂さんと、お友達なのです」
「これはまた、予想外に簡潔なお答えですね。どちらの熊野御堂さんですか?」
「あ、もちろん、ご当主の熊野御堂|譲《ゆずる》さんです」
「熊野御堂氏は、確か……、七十七?」
「はい、つい先日、喜寿をお迎えになったばかり」
「お友達にしては、その、歳が離れていませんか?」保呂草は尋ねる。目の前の女性は、サイボーグでもないかぎり、どう見ても十代後半から二十代前半。熊野御堂家の主とは、軽く半世紀もの隔《へだ》たりがある。
「いけないかしら?」首を傾げながら彼女は目を細め、余裕の表情を見せる。「それに、そういうのって、面白いコンディションだとは思いません?」
「コンディション?」
「川の向こう岸が遠いほど、思いっきり走らないと飛び越えられないわけですし」彼女は口もとを上げた。
「それ、意味深な比喩ですね」
「ええ、私、ちょっと今、酔っていますの」
今まで気づかなかったが、窓際のテーブルに、小さな空のワイン・グラスが立っていた。ドリンク・サービスがあったようだ。
「秋野さん、でも、変わっていらっしゃいますよね」
「え、どこが?」
「美術鑑定家が、あんな骨董品の車に乗ってやってくる、というシチュエーションは、やっぱり特異だと思います」
「特異? 何故?」
「普通は、もっと新型のぴかぴかのベンツかBMWじゃありません? ほら、だって、こういうものって信用商売でしょう? アルマーニにロレックスとか、それなりに、見せつけ系のもので飾ってこないと……」
「ああ……」保呂草は頷いた。
「違いますか? ビートルじゃあ、お仕事に差し障りません?」
「ええ、まあ、確かに、そういう場面もあるでしょうね。そういったところへは、ちゃんと、それなりの格好で行きますよ。でも、ここは大丈夫でしょう。だから、安く仕上げてきたわけです。あ、でも、車はですね、あいつが本当に好きなんですよ」
「ええ、素敵です」
「え、ビートルが?」
「いえ、そういうお考えが」
「うーん、よくわからないけれど、まあ……、褒《ほ》めてもらったみたいだから、どうも……」彼は軽く頭を下げた。「ところで、熊野御堂氏が最近作った、えっと、その、変な部屋があるって聞いたんですが、ご存じないですか? なんでも、エンジェル・マヌーバは、そこに飾ってあるとかって聞いたんですけれど」
「ええ、そう……。私、そちらが専門ですから」
「専門? そちらって……」
「建築が専門です」
「ああ、部屋のことですか」
「何だと、お思いになりました?」
「あ、いえ……、なるほどね、建築ですか。うん、どうもお話から、それっぽいな、と」
「え、そうですか?」
「でも、まだ……」彼は片手を西之園の方へ向ける。
「はい、学生です」
「失礼ですが……、どちらの?」
「N大」
「え、本当に? それは奇遇だなあ。近くですよ」
「那古野《なごの》からいらっしゃったの?」
「ええ。今まで、どうして出会わなかったんでしょう、僕たち」
「確率的に順当だと思います」
「何年生ですか? あ、いえ、歳をきいているんじゃありませんよ。もし、お嫌でしたら……」
「大学院生です」彼女は頷く。「あの、でも、申し上げたかったのは、建築が専門だから、という意味ではなくて、熊野御堂さんの趣味の部屋が、その、つまり私の専門なんです」
「趣味の部屋?」
「もし、まだご存じないのでしたら、それは、熊野御堂さんの演出でしょうから、これ以上、私が勝手にしゃべるわけにはいきません。一度ご覧になってから……。それなら、いくらでもディスカッションできると思います」
「うーん、なんだか、不安になってきましたね」保呂草は苦笑する。それは三割程度は本当の苦笑だった。
幸運なことに、保呂草の席は西之園の向かい側、テーブルを挟んで真正面だった。しかし、その憎らしいテーブルがビリヤードの台ほども大きかったので、残念ながら、距離は相当に離れていた。二人だけの内緒話は不可能だし、テーブルの下で手も握れない。何かを手渡そうとしても、両方が立ち上がり、身を乗り出さないかぎり無理だった。
彼女の隣、保呂草から向かって左側に、メガネをかけたボーイフレンド氏が座ったが、これが大間違いだということはあとで判明する。つまり、男性だと勘違いしていたが、彼女の先生というのは女性だったのだ。名前は国枝《くにえだ》というらしい。無口で無表情な人物である。食事の間も、ほとんど口をきかなかった。
「国枝先生は怒っているんです」西之園が話した。「私が騙《だま》してここへ連れてきましたから……。実は、私たち、昨日まで金沢であった学会に出席していたのですが、国枝先生は電車で帰られるおつもりだったところを、私が車でお送りしますってお誘いして、それで……、その、どうせ明日は日曜日ですし、ちょっと、ええ、誘惑しちゃったんです」
「私のことを話さないでほしいな」国枝が表情を変えずに言った。確かに機嫌が悪そうに見えた。「明日が日曜日だと、人を騙しても良いというルールが、貴女にはあるの?」
「まあまあ」テーブルの端に座っている熊野御堂譲がオーバな表情と手振りを交えて話した。七十七歳の老人にしては、よく通る声である。「いや、国枝先生のことはね、西之園さんから私もお聞きしていた。いやあ、本当に、お越しいただいて、嬉しい。どうか、ご機嫌を直してもらえませんかね? 楽しんでいって下さい」
「突然お邪魔をして申し訳ありません。ご歓迎には感謝します」国枝が熊野御堂の方を向いて軽く頭を下げた。「私は現在、特に機嫌が悪いという状態ではありませんので、ご心配なく」
保呂草の左隣の席が空いていた。フォークやナプキンは用意されていたので、誰か来る予定らしいことがわかる。そこがテーブルの一番端だった。
少し遅れて、熊野御堂家の面々が現れた。当主である譲の娘、熊野御堂|彩《あや》が夫と息子を連れて部屋に入ってきた。彼女が先頭だったので、まさに引き連れて、といった印象である。彩は三十代の中頃。肌の露出が多いワンピース。肩に垂れたストレートのロング・ヘア。つり上がった眉に、やや大きめの赤い唇。いずれにも、消極的なイメージは見つからない。自信に満ちた笑顔を客たちに万遍なく注いで挨拶し、最後には、保呂草の隣に座った。
「秋野さん、ようやくお会いできましたわね」彩は小声で言った。「絶対にお会いした方が印象が良いと思いますわ」
彼女とは電話で数回話をしたことはあったが、実際に会うのは初めてだった。
「お招きいただいて光栄です」保呂草も小声で挨拶する。
向かい側の西之園の隣に、彩の夫、熊野御堂|宗之《むねゆき》が腰掛けた。年齢は四十くらい。白髪混じりの髪を中央で分け、丸いメガネをかけた大人しそうな中年男である。隣に若い女性が座っているのに、声もかけず真っ直ぐに姿勢良く座り、テーブル越しに妻を見据えていた。
もう一人は子供で、熊野御堂|保《たもつ》。メガネをかけ、面もちは明らかに父親似だった。紹介されて、黙ってぺこんと頭を下げ、彼は母親の隣に座った。俯《うつむ》き気味の顔は緊張している様子だが、上目遣いに客たちをときどき観察している。
「いつものごとく倉知《くらち》君が遅刻か」熊野御堂譲が片方の眉をつり上げる。「しかし、待つこともない」彼は横を向いて囁《ささや》く。「さあでは、始めようか……」
部屋の隅に立っていた小柄な男が、主人に一礼してから、奥の通路へ入っていった。あとからわかったことだが、その男は名を光岡《みつおか》という。熊野御堂家に長く仕えている執事で、もともとは譲の同郷の後輩に当たるという。つまり、年齢は主人よりも若いことになるが、見かけはまったくその逆だった。頭の上にはほとんど髪が残っていない。目は落ち窪《くぼ》み、顔には深い皺が刻まれていた。
テーブルについている熊野御堂家の四人、それにゲストの三人、合計七人の料理を、すべて光岡が一人で運んだ。動きは遅く、けっして手際が良いとはいえなかったが、譲と彩、それに西之園の会話が弾み、それが中心となって、場は適度に和《なご》やかな雰囲気を保っていたため、ゆっくりとしたペースの支度がかえって気が利いていた。
しかし、どういうわけか、話題はまったくの世間話に終始した。最近の景気の話、天気の話、この近辺のどこに道路ができたとか、昨日は茸《きのこ》を採りに山へ入ったとか、数回応酬するだけで、お互いに手持ちの情報を消費してしまうような、軽く浅い会話である。メインディッシュの皿がすっかりテーブルから片づくまで、そんな状態が続いたので、保呂草の頭の中で、さすがに焦心の火が燻《くすぶ》り始めた。
例の特殊な部屋はどうなったのか……。
エンジェル・マヌーバの話は?
こちらが持ち出すのをわざと待っているのだろうか。そもそも、それが今夜の余興のメインだということは明らかなのに。
もしかしたら、デザートが出るまでは、実質的な会話をしてはいけない、というのが上流社会の暗黙の了解事項かもしれない。そういう演出なのだろう。できるだけ我慢して、大人しくしているにかぎる。一般に、焦ることはプラスになりえるが、焦っていると他人に思われることは、確実にマイナスだ、というのが保呂草の法則の一つだった。
デザートのババロアの製法に関する会話が一段落したあと、数秒間の沈黙を破ったのは、西之園だった。
「あの、私の状態を、お話ししてもよろしいでしょうか?」
「ん? 何かな。西之園さんの状態、と言われたようだが」熊野御堂譲がきき返す。「お食事がお気に召しませんか?」
「いいえ、とんでもありません。そちら側ではもう十二分に堪能《たんのう》させていただきました。本当に素晴らしいご馳走でした」西之園は上品に微笑んだ。彼女には、天然の気高さのようなものが感じられる。それは話し方なのか、それとも仕草なのか、保呂草はまだ分析中だった。「でも、美味《おい》しいものでお腹がいっぱいになったことで、逆に、もう一つの欲求で、どきどきしています。もう、よろしいのではありませんか?」
「そう……」熊野御堂譲は頷く。「特にもったいぶっているわけではない。倉知君を待っていたのだが、彼は運がなかったということで……、諦めてもらおうか」彼はそこでにっこりと微笑んだ。「まず、そうだね、そちらのコースにも、オードブルが必要だろう。まずは、ちょっとしたクイズを……」壁際に立つ光岡を主人は見た。「あれを、持ってきてくれんかね」
「うわぁ、何でしょう?」西之園が躰を弾ませて囁いた。本当に嬉しそうだ。
期待の沈黙が続く食堂に、再び光岡が現れる。彼はトレイを両手に持っていて、その上には紙のリボンのようなものをのせていた。
「メビウスの帯をご存じかな?」それを手に取り、熊野御堂譲が言う。「理系のお二人は、たぶんよくご存じのことと思うが。一番こういったことに遠いのは、秋野さんあたりかな?」
「いえ、知っています」保呂草は頷いた。「わりとその方面は好きなんです」
「おやおや、これは失礼」
熊野御堂譲が手にしているメビウスの帯は、おそらく画用紙かケント紙だろう、白い紙を幅五センチ、長さ八十センチほどに切り出し、両端を接着してリング状にしたものである。綺麗に作られていたので、張りあわせた部分が目立たない。普通に接着すればただのリングであるが、これを捻《ひね》って、裏と表を接着すると、メビウスの帯と呼ばれるものができあがる。捻ることによって、裏が表に連続することになり、結果的に、この帯には裏と表の区別がなくなる。たとえば、帯の片面に色を塗っていくと、一周したとき、いつの間にか裏側を塗っている。最終的には、両側とも着色されてしまう。
「よくあるパズルだが、このメビウスの帯の中央、つまりセンタ・ラインにハサミを入れて、これを二つの細いリングに切り離そうとすると、どうなるか、という問題はご存じかな?」熊野御堂譲が質問した。
保呂草がテーブルの前を見ると、西之園は軽く微笑みながら頷いた。彼女の横の国枝は少々呆れたという表情。そんなことは簡単過ぎる、とでも言いたそうだった。
「どうなるのですか?」保呂草は社交辞令で尋ねることにした。彼もそれくらいならば想像ができたけれど、この場はあまり出しゃばらない方が得策だ、と判断した。
「実験しても良いのだがね、こういったことは、頭の中で考える、つまり思考実験をする方が断然面白い」主人は楽しそうに話す。
「メビウスの帯が二つできるんじゃないの?」高い声で突然尋ねたのは熊野御堂保だった。少年は祖父のすぐ横にいたので、小さな手をテーブルの上に伸ばして、メビウスの帯に触れようとした。
「考えてごらん」譲は孫にそれを取ってやり、優しく言った。
残念ながら、少年の答は間違いだ、と保呂草は考える。メビウスの帯には裏表がない。ということは、帯の右端も左端も区別はなく、一本の線で繋《つな》がっていることを意味する。したがって、帯を中央で切ってしまっても左右の端が連続しているため、二つのリングには分かれない。それが道理である。おそらく、捩《ねじ》れた細長いリングが一本できあがる。ハサミで切った切り口が、リングの新たな端になるが、これは本来あった端とは繋がっていないので、できあがったリングには、表と裏がある。すなわち、捩れていても、偶数回だ。
「メビウスの帯が、薄い紙ではなくて、厚さを持ったものでできていると考えてみよう」熊野御堂譲が話を続ける。誰に対して説明をしている、というわけでもない。孫の保はもちろん、娘の彩も、娘婿の宗之も、静かに主の話を聞いていた。「そうだな、蒟蒻《こんにゃく》でできたメビウスの帯が良いだろうね。蒟蒻が捩れて繋がっている。裏と表がないが、厚さはある。だから、この蒟蒻の中を通るトンネルを造ることはできるだろう。このトンネルをどんどん広げていき、四角い断面の蒟蒻のぎりぎりまで穴を広げると、そこには、四角い長い部屋が一つできることになる。エンドレスの通路みたいなものだね。想像できるかな?」彼は、全員の顔を順番に見た。「さて、この通路の中を歩いてみることにしよう。良いかね? 蒟蒻の床だと思っているところを歩いていくと、それはいつの間にか天井になるだろう。つまり、上下がひっくり返ってしまうわけだ。重力さえなければ、床と天井を区別なく歩くことができる。両側にある壁も実は離れていない。繋がった一枚の壁だ。不思議ではないかな?」
「中を歩いている人間には、左右の壁はどこでも一度も接触していないのに、実は繋がっているのですね」西之園が言った。
「どうして、私がこんな話をするのか、おわかりかな?」悪戯《いたずら》っ子のような表情で、譲が西之園を見据える。
「はい」彼女はすぐに頷いた。「理由は二つあると思います」
「ほう……」笑った口を少しだけ開けて、主人は顎《あご》を上げた。
「第一に、さきほどの、メビウスの帯をセンタで切り離す問題の答えがそれです。つまり、そのメビウスのトンネルの床と天井、あるいは両サイドの壁が、メビウスの帯を切り離したときにできるリングと同一のものです」
「さすがに、かの西之園博士のご令嬢だけのことはあるね。で、もう一つの理由というのは?」
西之園は唇を軽く噛んで、熊野御堂譲を上目遣いにじっと見た。その目は歓喜に微動し、今にも光を放ちそうだった。
「そのお部屋を、お造りになったのでしょう?」彼女は言った。
その答えを保呂草は予想していなかった。彼は慌てて熊野御堂譲を見た。主人は、これ以上はない、という満足そうな笑みを浮かべ、小さく何度も頷いた。
西之園は両手で口と鼻を隠し、目を見開く。声も出ない、といったジェスチャであろうか。その隣に座っていた国枝が、メガネを指先で押し上げながら囁くのが、辛《かろ》うじて保呂草の耳まで届いた。
「馬鹿みたい」
テーブルの上には、キャンドルとレプリカの花飾り、そしてコーヒーカップ。それ以外のものが綺麗に片付いてしまったあとも、まだメビウスの帯の話は続いていた。主として、熊野御堂の主と西之園の令嬢の間でアカデミックな情報が行き交った。「幾何学的には」あるいは「トポロジィでいう」といったキーワードが数回。その間、国枝は姿勢良く座ったまま、ほとんど視線も移さなかった。部屋の壁や天井を眺めている、としか思えない。明らかに今夜の晩餐には退屈している様子である。しかし、そもそもこんな人物なのかもしれない、と保呂草は思い始めていた。大学人にはこのタイプが珍しくないからだ。
話が一応の終結をみたところで、娘婿の宗之が立ち上がり、「仕事の約束で電話をしなければなりませんので、失礼いたします」と丁寧に挨拶して部屋から出ていった。彩が全員に聞こえるほどの鼻息を鳴らしたが、このときばかりは何故か、彼は妻を一度も見なかった。
「さて、では、案内しようか」ようやく熊野御堂譲が立ち上がる。時刻は九時を回ろうとしていた。「お前はどうするね?」彼は娘の彩に尋ねた。
「どうしてほしい?」彩がきき返す。
「かまわんよ。保ももう眠たいだろう」譲が答える。表情に変化はなかったものの、目が一瞬だけ不機嫌な形になった。
「僕、眠くないよ」保が高い声で言う。
「いいえ、もう失礼しなくてはいけませんよ」彩が立ち上がり、隣の保を立たせる。彼女は保呂草の方へ振り向いた。「またのちほど……」
のちほど何があるというのか、と思ったが、保呂草は微笑んで頷く。母と子が部屋から出ていくと、熊野御堂譲が溜息《ためいき》をつき、窓際へ歩み寄った。西之園、国枝、そして保呂草の三人も席を立ち、そちらへ移動する。
窓の外には、ライトアップされてグリーンに輝く中庭が広がり、館の壁がそれを取り囲んで、部分的に白く浮き上がっていた。真っ黒な空との境界も鮮明だった。テラスに出るドアが窓の横にあり、主人は、そこを開けた。
「そうそう、夕方のニュースで聞いたのだが……」熊野御堂は振り返る。「この近くの刑務所から、殺人犯が脱走したそうだ。西之園さん、ご存じかな?」
「いいえ」西之園は首をふった。彼女が譲の一番近くにいた。
「刑務所がこの近くにあることは知っていますけれど……、そうなんですか、物騒ですね」
「こんな山奥まで来るようなことはないだろう」譲が広げた片手を振って言った。「頭の良い者なら、一刻も早く山を下りて、街へ逃げ込むはずだ」
「この近くに、人家は?」保呂草は尋ねる。
「半径二キロ以内には、何もないよ」熊野御堂がドアの外に立って答えた。彼は、客たちをさきに通して、ドアを閉めた。「ここへ上ってくる道、あれは私が造らせたものだ。私道といって良い。山の反対側へ下って、ぐるりと周回させようという計画もあってね、そうなると、ちょっとしたレースができるな。オートバイか、小型車のね」
「素敵ですね、それ」西之園が胸の前で両手を合わせる。「そのときは、是非、私にもコースを走らせて下さいね」
「貴女も、車がお好きなのでは?」保呂草は、すぐ隣に立っている国枝に尋ねた。こうして並んでみると、女性にしてはかなりの長身だった。
「いいえ」横目で彼を睨んで、国枝は一言答える。
「でも、フェラーリを……」
国枝は保呂草を見据えて黙っていた。思わず息を飲み込みたくなる。たまらなくなって、彼は西之園の方へ視線を向ける。
「あれ、私の車です」西之園は答えた。
フェラーリを運転していたのが西之園だった、と保呂草はようやく気づいた。この令嬢はよほど車が好きらしい。女子学生がフェラーリの最新モデルを乗り回せる、という状況は、しかし一般的ではない。自分の人生と無関係のままではもったいない情報だ。彼女と何らかの関わりを持てたことは幸運と見なすべきだろう、と保呂草は予感し、多少の興味、そして興奮を覚えた。
「なるほど」表面上は冷静さを装い、小さく呟いてから、彼は国枝に微笑んでみせる。
だが、それでも国枝はにこりともしなかった。メガネに手をやり、粘性の低い仕草で視線を逸らし、夜空を見上げた。髪は短く、見た感じは少年のようである。歳がいくつくらいなのか、見当もつかないが、西之園から「先生」と呼ばれていることや、彼女に対する態度からも、歳上であることは間違いないだろう。ディナが終わったのに、こうして西之園と一緒についてきたところをみると、確かに不機嫌なわけではなさそうだ。いずれにしても、不思議な二人である。
「少々暗いので足許にご注意下さい」光岡が最後にテラスに出てきて言った。
光岡が先頭になり、ステップを下りる。その先には中庭を抜ける小径があった。全員がそこを歩き始める足音が、静けさを押しのける。
建物が途切れている方向には、黒い森林のシルエットが空の半分まで立ち上がっていた。土地はそちらへ向かって上っている。最初は細かい砂利を敷き詰めた道を歩き、次に石段を上った。大木に囲まれた平たい場所に出ると、常夜灯が一本、その下に金属製のベンチ。その横には、水道だろうか、手洗い場があった。さらに、その広場の奥にログハウスのような小さい建物が佇《たたず》んでいる。おそらく中は一部屋だろう。正面にドアが一つ、その横に窓が一つ。明かりは灯っていない。
「あれは?」西之園がきいた。
「あのログハウスは、また、別の趣向でね」熊野御堂譲が答える。「もっと奥です。でも、こちらも、きっと西之園さんが気に入ると思うな。明るいときに見てもらった方が良い。明日にでも……」
「楽しみがいっぱいですね」彼女は嬉しそうだ。
少し先に階段が白く浮き上がって見えた。風はないが、空気は冷たい。全員が室内着の軽装であったので、長くはいられないだろう。
階段を一列になって上がった。先頭が光岡、次に西之園と国枝。そして熊野御堂譲、最後が保呂草だった。西之園はしきりに国枝に話しかけていたが、聞き取れなかった。
「この辺りの自然を見ていると、実に力強いと思うよ」譲が後ろを振り返って言った。
「本当に……」保呂草は頷く。
人類が自然を破壊する、という言葉の存在が、実は逆説的な表現なのだろう、と思える。ほんの僅かの自然の変化にびくびくして、それを自然破壊と呼ばねばならない。それが弱い人間の立場なのだ。
「うわぁ、凄い!」階段を上りきった西之園が最初に叫んだ。
保呂草も、それを見た。
グラウンドに近い広さの平面が、僅かに傾斜して、美しく緑に輝いている。
そこにあるものは……、
この世のものとは思えないサイズ、そして形。
「素敵……、本当にメビウスの帯なんだ」西之園が呟く。
そのとおりのものが、目の前にあった。
白いコンクリート製の巨大なオブジェだった。
第2章 風趣 zest
紅鶴《フラミンゴ》を見に行ってやりたまえ。薔薇色の下着の裾が泉水の水に濡れるのを心配して、ピンセットの上に乗って歩いている。
ほぼ正確な平面に見える芝生の大地は、周囲の自然の中にあって極めて異質な、無機質な、つまり人工的な刺々《とげとげ》しい光を放っていた。手前が低く、奥が高い。傾斜は緩《ゆる》やかで、じっと見ていると、それが水平の地面であると錯覚してしまう。
白いオブジェは、建築物と呼ぶには異様過ぎる。捩れた壁の形状が、ライトアップされることで微妙なグラデーションの影を落とし、傾斜した芝の地面に埋もれる様は、まるで海に浮かぶ宇宙船のようだった。こういった光景を想像したことは誰もないだろう。しかし、どこか懐かしく、子供の絵のような、公園の遊び場のような、不思議なノスタルジィの匂いがした。
ディナの席で熊野御堂譲が話していた蒟蒻で作ったメビウスの帯が、そのまま拡大され、コンクリートで作られていたのである。その大きさは、とてつもない。上空から見下ろせばわかるかもしれないが、リングが円形なのかどうかも不明。向こう側、つまり、リングの反対側はまったく見えない。左右に延びる壁は非常に緩やかなカーブを描いている。右へ行くほど、壁は少しずつ持ち上がり、左へ行くほど、逆に埋もれていく。捩れているのだ。見える範囲では、それはとても僅かだった。壁の高さは四メートルはあった。つまり、蒟蒻のメビウスの帯の厚さがそれくらいある、という意味である。この比率から想像して、リングの周長は百メートル以上は確実にあるだろう。
「これを造るのが大変だったんだ」熊野御堂譲がこちらを向いて立った。嬉しそうな表情である。「計画は簡単だったが、まず、設計図を描くことが難しい、さらに、施工が難しい。コンクリートの型枠を組み上げる作業一つとっても大変だった」
「ええ……、本当に」西之園はまだ両手を合わせている。この仕草は、瀬在丸紅子と似ている、と保呂草は思い出した。「こんなに大きいなんて……、ああ、もう私、びっくりしてしまって……」
「どうせ造るならば、できるだけ大きなものにしたかったからね」譲はポケットに両手を突っ込んでいたが、肩を上げ、口を斜めにした。こういった仕草は若々しく、とても八十に近い老人には見えない。「建築というものは、敷地が広く、図体がでかくなるほど、神秘性を持つものだ。昔の権力者が、少しでも大きなものを造らせようと、やっきになった気持ちがわかる。そもそも、人間は大きなものに対して恐れを抱く本能があるんだ」
「すべてコンクリートの打ち放しですか?」珍しく質問をしたのは国枝だった。
「ああ、そう、室内もそうだよ」熊野御堂が答える。「国枝先生、どうです? ご興味がわきましたか?」
「ええ」国枝は無表情で頷いた。
「それは良かった」
「良かったと思います」
「先生、私にも謝って下さいよう」西之園が嬉しそうに言う。
「そうだね」国枝が頷く。
「それだけですか?」
「うん……、悪かった」
西之園が小さく舌を出す。彼女は保呂草を見て、微笑んだ。酔っているのかもしれない。真面目なのか、不真面目なのか、どうもとらえどころのない娘である。
「では、中をご覧に入れましょう」熊野御堂がそう言うと、光岡が前に進み出て、中央の壁にある唯一のドアの前に立った。彼はポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し入れる。「外から眺める以上に、中は面白い。少なくとも、私には、だがね」
ドアが手前に開く。その入口は、地面から二十センチほど高いところにあった。ドアを支えて立つ光岡の前を、順番に全員が室内に入った。
予想外に普通の部屋である。
左右に通路が延びていると想像していたので、保呂草は多少驚いた。ほぼ正方形の床に、丸い照明が一つぽつんとある天井。その高さも床の幅と同じくらいなので、立方体に近い。
唯一異質だったのは、両側の壁のドアである。それらが、いずれも少し傾いていた。正面に立って見ると、右が高く、左が低い。しかし、とても微妙である。片側が僅かに六、七センチ高いだけだ。両側にあるドアが、どちらも同じように反時計回りに傾いている。
いずれのドアにも、小さな嵌《は》め殺しの小窓が開いていた。そこから、隣の部屋を覗くことができる。左右いずれも、隣に同じような部屋があって、これが、今いる部屋と微妙に角度がずれている。ドアと同様に傾いているのだった。また、隣室の対面の壁には、さらに奥の部屋へ通じるさらに傾いたドアが見えた。そのドアの小窓の先は暗い。照明が消えているようだ。
庭から入ってきたドアを光岡が閉める。微《かす》かにセメントの匂いがした。室内の壁もコンクリートが剥《む》き出しだった。非常に無機質な空間である。窓がないため、地下の倉庫か監獄のような雰囲気だ。
「ちょっと変わった仕組みになっていてね」熊野御堂が右手の壁のドアを指で示して説明した。「こちらのドアには取手がある」次に左手の反対側のドアを指さした。「向こうのドアには取手がない。光岡、鍵を……」
主人の言葉を待って、入口に立っていた光岡が、ドアノブのすぐ下にあるレバーを捻った。たった今、全員が入ってきたドアがロックされた。外からは入れなくなったわけである。
「一応、ここはプライベートな場所だからね」熊野御堂は言う。彼は、右の壁の傾いたドアのノブに手をかけて、それを押し開ける。
「向こうの取手のないドアは、開かないのですか?」保呂草は、反対側の壁にあるもう一つのドアを指さした。ドアノブがないので、押し開けることはできても、引くことは困難だろう。
「そう。向こうは出口なんでね」熊野御堂が答える。「ここは、一方通行なんだ」
彼が開けたドアから中へ入る。傾いた次の部屋も、ほぼ同じサイズだった。対面に同様のドアがある。ドアの小窓の向こうで、奥の部屋に自動的に照明が灯ったようだ。そのドアは、床や壁の傾斜よりもさらに傾いている。
なるほど、こうして、メビウスの帯を一周する形で、少しずつ回転角を増しながら小部屋が連続しているのだろう、と保呂草は理解した。
「面白い」西之園が溜息とともに囁く。
床の傾斜は、右が高く、左が低い。部屋の両隅を比べると、おそらく、二、三十センチの差になるだろう。しかし、それは十パーセント以下の傾斜であって、その場に立つことは容易だった。
最後に入った光岡が、ドアを閉め、さきほどと同じように、ドアノブの下にあるレバーを捻ってロックした。すると、どこかで軽い金属音が鳴る。何かの機構が作動したようだ。
「入ったドアをロックすると、進む先の、次のドアのロックが解除される。そういう仕組みになっている」熊野御堂が説明した。彼は次に部屋へ入る傾いたドアを押し開ける。三つ目の部屋がさらに傾いて現れた。「少しずつ捩れてくるからね。だんだん、立つのが大変になる。足許に気をつけて」
三つ目の部屋も、相変わらず、大きさはやはり四メートル四方。高さも同じなので、四メートル立方。それが、床も、壁も、そして天井も、左下がりに傾いている。まえの部屋よりも傾きが大きい。斜めに立ってる人間たちが、どことなく不思議な存在に感じられた。
「一周で、どれくらい部屋があるのですか?」西之園が尋ねる。
「全部で、三十六部屋ある」熊野御堂が答えた。「中心角で十度ずつだ」
その説明でようやく気づいた。床の傾きに気を取られていたため、部屋の床も正方形ではないことを今まで認識していなかった。手前の壁と奥の壁は平行ではなく、その差が十度の角度になる。最初に入った部屋も、おそらくそうだったのだろう。奥行き方向へ窄《すぼ》んでいたので、気づかなかったものと思われる。連続した部屋が、こうしてぐるりと回ってリングとなり、もとの部屋へ戻ることになるのだろう。
「ちょうど、百八十度行ったところ、リングの反対側で、床だった面が、完全に壁になる」熊野御堂が説明する。「つまりそこで、部屋が九十度捩れるわけだね」
「ということは、隣の部屋との角度の差は、五度ですね」ドアの小窓から次の部屋を覗きながら、西之園が言った。計算が早い。「この部屋の床は十度傾いていることになります」
ぐるりと回りながら、一周で百八十度捩れる。つまり、床だった面が、天井になる、という理屈である。メビウスの帯の中にいるのだから、それが道理だとはわかるものの、巨大過ぎてどうも全体像が認識できない。
次のドアは壁の中央にはなかった。左に、つまり、床が低くなる方へ一メートルほど寄っていた。
「本当ならば、ドアは、すべて壁の中央に作りたいところだが、残念ながら地球上では重力の作用で、人間も物体も常に一番低いところへ引き寄せられてしまう。それで、苦肉の策で、ドアの位置をこうすることにしたんだ」
手前のドアを光岡がロックし、先のドアを熊野御堂が押し開けた。これを繰り返すごとに、まったく同じ部屋が、少しずつ傾きを増して、つまり捩れて現れる。結局、何も変化がないのに、そこにいる人間だけが、重力に引っ張られて、床に立てなくなる。五人は、床の一番低いところに一列に並んだ。幸い、床と壁が接する部分は、直角にコーナができているのではなく、幅が二十センチほどの緩衝帯《かんしょうたい》が作られていた。つまり、正確には、部屋の断面が八角形といっても良い。その部分は、床に対しても壁に対しても、四十五度であり、つまり、床が四十五度持ち上がったときには、その細い帯の部分が水平になり、人間はそこに立つことになる。脚を広げて、両側に傾斜した床と壁に片足ずつを乗せて立つことも可能であるが、特に女性陣には、その芸当は難しいだろう、と保呂草は思った。だが、振り返ると、後ろの国枝がそのポーズで腕組みをして立っていた。
「面白いですか?」保呂草は彼女に尋ねてみた。
「別に」国枝が無表情のまま答える。
部屋を移動するうちに、床の傾斜は四十五度を越え、逆に水平に近づいた左の壁の上に立てるようになった。ドアは、その壁に接するようになり、これが次第に中央へ移動する。さらに、幾つか部屋を通り過ぎると、その壁がほとんど水平になり、つまり床になってしまった。ここまでがリングの半分、つまり、最初の部屋から一番遠い、ほぼ反対側の位置まで来たことになる、と保呂草は想像した。
敷地が傾斜していたので、もしかしたら、この部屋の辺りは地面の下に埋もれているかもしれない。窓がないので、そういった外部との関係はまったくわからなかった。
「途中の部屋からは、外へ出られないのですか?」保呂草は質問した。
「ええ、そう」熊野御堂が頷く。「全体を走り抜けることもできない。ドアを一つずつロックして、次のドアのロックを解除しないとね。しかし……、これが、実に良い。ここをぐるぐると一人で回っているとね、それがわかる。そう、座禅を組んでいるときに近いかな。そんな気持ちになるんだ」
「そんな効用があるとは……」保呂草は苦笑いする。座禅を組むなら、畳が一枚もあれば充分である。それに比べて、この空間はあまりにも無駄が多過ぎる、と彼は思った。
「次の部屋で、ちょうど半分ですか?」西之園が尋ねた。「なんだか、ずっとこの中にいると、平衡感覚が狂ってしまうのか、どれが水平なのかわからなくなりますね。この部屋、まだ、傾いていますよね?」
保呂草も同感だった。水平だと言われれば水平、傾いていると言われれば傾いている気もする。ボールを床に置いてみないとわからないだろう。
「次が、ちょうど半回転捩れた部屋だね」熊野御堂が答え、ドアを開けた。「目印がある」
その次の部屋には、これまでにない特徴があった。部屋の中央に一本の柱が立っていたのだ。太さが三十センチほどの円柱で、床と天井を真っ直ぐに繋いでいる。壁や床と同様に、その柱もまた剥き出しのコンクリートだった。さらにこの部屋には、壁の高いところに、細い四角形の金網があった。縦が十センチ、横幅が五十センチほど。おそらく換気口だろう。今まで通ってきた部屋では見かけなかったものだ。
しかし。
それよりも目を引いたのは、その柱に張り付くように飾られた、短剣だった。金色と銀色の装飾が美しく、周囲の灰色の中で繊細な光を反射して、著しく際立っていた。
「これは……」保呂草は思わず声をもらした。
「本物?」西之園が囁く。
「もちろん、本物だよ」熊野御堂譲がくすっと笑い、顎に手を当てながら、上目遣いに三人を順番に眺めた。明らかに、突然現れた秘宝に対する客たちの反応を楽しんでいるのだ。
保呂草はもう一度、柱の短剣を見た。
呼吸が止まるほど、それは美しかった。
「エンジェル・マヌーバですね?」保呂草は呟くようにきいた。
答は返ってこなかったが、保呂草には、熊野御堂の返事は必要なかった。
「凄い……、本当に綺麗」西之園が柱に近づく。
「本当だ」保呂草も彼女の横に立った。「素晴らしい」
一見それは十字架に見えた。柄《つか》の部分を上にして、ほぼ同じ長さのスレンダな鞘《さや》もアウトラインは端正な直線だった。目を近づけてフォーカスを合わせると、精密な文様のほとんどは幾何学的な図形で、極めてモダンなデザインだとわかる。象徴的なのは十字の中央、鍔《つば》のやや上の位置に埋め込まれたブルーともグリーンとも、あるいは紫とも思える透明な光源で、そこだけに許されたような緩やかな曲面を纏《まと》った宝石だった。思わずそこから、もう一つの別の世界を覗き見たい衝動にかられる。鍔のすぐ下、鞘の部分の最上部の両側から延びた鎖が、その突き出た多数の小さな金具に引っかけられている。この鎖を切らないかぎり、短剣の鞘を他所へ持ち運ぶことはできない。それは明らかだった。そもそも、どうやって、この状態を作ったのかが不思議である。
「ああ、素敵……」溜息をついていた西之園が、急に振り返り、声を変えてきいた。「でも、どうして、こんなところに?」
当然の質問だ、と保呂草も思ったので、彼も熊野御堂譲の顔を見た。
「やはり、これだけのものを飾るには、それなりに魂を入れてやらないとね」彼は一度小さく肩を竦めた。「ひょんなことから、この短剣を手に入れて、それからというもの、仕事上でも、私生活でも、沢山の幸運に恵まれた。私はとてもついていた。本当にラッキィの連続だったんだよ。まあ、そのお返しというわけでもないけれど、ちゃんとした場所にこれを飾ってやりたいと思ったわけだ」
「それが、ここなんですか?」西之園がくすっと吹き出した。
「可笑《おか》しいかね?」
「ごめんなさい。失礼しました」口を片手で押さえて、彼女は目を丸くする。「ですけれど、その、なんていうのか、一般的にいって……」
「そう、一般的にいって、ここはとんでもない場所だ」熊野御堂が大きく頷く。「無駄に金をつぎ込んで、何の役にも立たないものを造り上げた。私以外の人間の誰もが反対をしたよ。特に、娘も、それにあの大人しい婿も。いずれは自分たちの金になるものが、こんな馬鹿馬鹿しい子供騙しの遊技場に化けてしまったんだからね、まあ、無理もないが」
「いえ、そんなことは……」西之園が両手を小刻みに振った。
「しかし、芸術とは、そもそもが役に立たないもの、無駄で、とんでもないものなのだから、それに相応しい場所だとは思わないかね? 歴史ある宮殿の中にあるのと同様に、この場所もまた、実に無駄な造形の極致という点では、負けていない」
「ええ、それはそのとおりです。あの、私が言いたかったのは、そういう理由ではありません」
「というと?」
「セキュリティのことです」西之園は瞳を周囲の壁へ向ける。「もちろん、ちゃんとなさっている、とは思いますけれど。こんな貴重な品を、屋敷以外の場所に置いておくなんて……」
「ここにあることが、まず知られていない」
「そうでしょうけれど、でも……」
「まあ、次第に噂にはなるだろうね」
「ええ。入口のドアも、簡単な鍵だったように思います。大丈夫なのですか? コンクリートなんて、専用のドリルを使ったら、簡単に穴を開けられてしまいます」
「この建物は、ただの鉄筋コンクリートではない。壁には、全面に鉄板が入っている。コンクリートは耐火用に、鉄を被覆《ひふく》しているだけだ。いわば、ここは巨大な金庫。大き過ぎて、金庫ごと盗まれる心配もない」
西之園は小さく口を開けて頷いた。その点では、納得したようだ。
「それに、この柱にも、特殊な仕掛けがあってね」熊野御堂が続ける。「これは、実は、この鎖を切らずに造らせたものだ。柱の方が、あとから造られた。鎖を一旦切って、繋げたのではない、ということ」
「この鞘の部分は、鎖を切るか、それとも、この柱を壊さないかぎり、ここからは持ち出せない、ということですね?」
「そのとおり」
「でも、短剣を鞘から抜いてしまえば?」西之園がきく。「価値があるのは、この宝石の部分ではありませんか? だとしたら、この短剣だけを引き抜いてしまえば簡単です」
「やってごらんなさい」熊野御堂譲はそう言って、手の平を上に向ける。
「よろしいのですか? 触っても……」
「どうぞ。特に呪いなどの噂のある代物でもない」
「ええ、呪いでしたら、私、全然平気なんです」西之園は白い歯を見せて微笑んだ。彼女は両手をそっと伸ばし、柱の秘宝に触れた。右手は上部の柄に、左手は鞘を掴む。そして、両者を引き離そうとした。保呂草は、すぐ横でそれを観察している。綺麗な細い指に力が加わるのがわかった。
「抜けない」西之園は一度大きく呼吸をした。彼女はもう一度力を入れる。
「つまり、そういうこと」熊野御堂が愉快そうな表情で話す。「いくら力を入れても無駄だよ。それは抜けない。錆《さ》びついているわけでもない。もともとが、そういうものなんだ」
「え、では、短剣じゃないの?」
彼女と同じく、保呂草も驚いた。
「短剣に似せた、装飾品だね」熊野御堂が頷いて、口許を上げる。「つまり、実用品ではない、ということ」
「なるほど、抜けないから、エンジェル・マヌーバなんだ」保呂草は呟いた。
「え? どうして?」彼女が振り返る。
「なんとなく……」保呂草は微笑んだ。イメージは明らかだが、言葉で説明する自信がなかった。
「ふうん……」小さく頷く西之園。彼女は腰に両手を当て、姿勢良く立っている。「あ、でも、この鎖を切ってしまえば、やっぱり、簡単に持ち出せますよね?」
「この鎖の部分、もう少しよく観察してみてはどうかな」熊野御堂は人工的な笑みをつくった。
西之園はさらに近づいた。彼女のすぐ後ろから、保呂草も覗き込む。国枝が、柱の後ろ側に回って見ていた。鎖は母材が銀色で非常に細かい細工の方々に金が填め込まれている。極めて精巧な造形だった。驚くべき技巧である。
「ああ……、これは凄い」保呂草はまた感嘆の声を上げた。
「え、何が?」西之園が振り返って彼を見た。「どういうことですか?」
「この鎖を切るような人間はいない、ということですよ」保呂草は小声で答えた。
「どうして?」
「これは、普通の鎖じゃない。無垢《むく》の銀から削り出したもので、どこにも継ぎ目や接着面がない。この鞘の部分も含めて、最初は一つの金属の固まりだった」
「だから?」西之園が首を傾げる。
「この鎖だけで、相当な価値を持つ工芸品だということです。つまり、これを切断することは、この柱を切るよりも、ずっととんでもなく馬鹿な行為だ、ということ」
「へえ……」西之園はまた短剣の方を見る。「そうなんですか、うーん、そう言われてみれば、確かに、どことなく気品がありますね。だけど……」彼女はまたこちらを向く。今度は熊野御堂を見据えて言った。「短剣を盗むような人だったら、こんな鎖、ちょきんってペンチで切ってしまうんじゃないかしら?」
「恋人を奪うために、首を切っていくようなものだ」熊野御堂が笑いながら言った。
「ちょっと、その比喩は……」西之園が顔をしかめる。
「詳しくは言えないが、まあ、一応そのためのバックアップは用意してある。この場所の特殊性を活かしてね」
「あ、やっぱりそうなんですね」西之園が幾度か小さく頷いた。「そうでなくっちゃ……」
保呂草は彼女の顔をじっと見る。何がそうでなくてはいけないのか、意味がわからなかったからだ。
「いえ、こういうものは、こうでなくてはいけないのですよ」彼の表情から察したのか、西之園が指を立てて保呂草に説明した。
「こういうものって?」
「うーん、つまり、天下の秘宝、そして、この陸の孤島ともいうべき隔離された特殊空間」
「陸の孤島? だって、道が通じているじゃないですか」保呂草は思わず吹き出した。
「イメージですよ、イメージ」西之園が頬を膨《ふく》らませた。ジェット戦闘機のインテークの曲面のように、なかなか魅力的な形状だ、と保呂草は感じる。「密室に秘宝、うーん、あとは、首なし死体とかがあると最高なんですけれど、でも、本当にあったら困るし」
「困るでしょうね」保呂草は肩を竦めてみせる。
「貴女、酔ってない?」腕組みをしたまま国枝が言った。西之園の指導教官なのだろうか、さすがに的確な意見である。
「だけど、こんなふうだと……」西之園は国枝の言葉を無視して質問した。「熊野御堂さんも、これをここから持ち出せないわけですよね?」
「もちろん、そうなるね」秘宝の持ち主は余裕の表情で頷く。
「永遠にここに?」
「をれを望んでいる」熊野御堂は微笑んだ。
その後は、また、ドアを開けて中に入り、ロックして、次の部屋へ進む、というパターンを繰り返し、捩れたリングの残りの半分を通った。やはり途中で床だった面に立てなくなり、左の壁だった面が床になった。そもそもそれは一番最初は天井だった面である。その面が次第に水平に近づき、一周した三十六部屋目の次に、再び床の水平な最初の部屋に戻った。
この部屋だけ、右手の壁に三つ目のドアがある。そこがこの風変わりな建物の唯一の出入口というわけだ。そのドアには小窓がない。つまり、この建物には、屋外の光を取り入れる開口部は一つも存在しないことになる。
「建築基準法に通らないですよね、これ」西之園が呟く。
「そう、つまり建築ではない、というわけだ」熊野御堂譲が笑った。
保呂草は、最後に通ったドアを振り返って見た。そこには、こちら側にドアノブがなかった。前の部屋からは押し開けて出てきたわけだが、一度閉まってしまったドアは、こちら側からは開けることができない仕組みのようだ。一方通行と熊野御堂が話していた意味がわかる。
「今通ってきた方向へしか、回れないわけですね?」保呂草はそれとなく確認してみた。
「うーん、まあ、そうだね」熊野御堂が囁く。「ご関心がおありかな?」
「ええ。つまり、一つの部屋で、手前のドアをロックしないと、次のドアが開かない仕組みですよね? もし、途中で戻りたくなったときは、どうするのですか?」
「それは、簡単じゃないですか」西之園が横から言う。「ロックを外しながら、逆方向へ回れば良いだけでしょう?」
「まあ、そうだね」熊野御堂がまた意味ありげに頷く。「ただね、その場合は、ロックを外したと同時に、同じ部屋にある背後のドアの鍵がロックされる。もし後ろのドアが開いたままの状態だと、ロックが解除できない。ようするに、一つの部屋の中で、ロックが開いているドアが常に一つだけになるようにできている」
「うーん、そうか……」西之園が大きな瞳を天井へ向ける。この表情は、保呂草に瀬在丸紅子を連想させた。「あ、でも、この部屋はどうなんです? ドアが三つありますよね」
「そう、ここだけは出入口があるからね」熊野御堂が答える。「最後に出てきた、そっちのドアが閉まると、そこは自動的にロックされて、反対の、一番最初に通った、あちらのドアのロックが解除される。それで、またぐるりと回れる、というわけだ」
外に出るためのドアのロックは独立したものらしい。最初にその出入口を施錠させたのはセキュリティの意味だったわけだ。あんな高価なものがあるのだから、当然といえよう。
光岡が出口のドアのロックを解除し、外に押して開く。彼はドアを持ったまま外に立った。西之園、国枝、保呂草、そして、最後に熊野御堂が外に出る。
森林の冷たい空気が出迎えた。
「来た甲斐がありました」西之園がお辞儀をして言った。「とても面白かったです。どうもありがとうございました」
その約一時間後のこと。保呂草はシャワーを浴びたあと、冷たい空気と、それに付随して味わえるニコチンを求めて、部屋を出た。
客間は、玄関ホールから階段を上がり、通路を右手へ進んだところに幾つか並んでいた。いずれも屋敷の正面、つまり南向きの部屋だったので、窓から望めるものは巨大な森林のシルエットと明るい南の空の対比だけだった。空は今は晴れ渡り、高い位置に満月、そして理科の時間に習ったとおりの鮮明な星座が見えた。北側の部屋であれば、例の巨大なメビウスの帯が見えるだろうか。否、あの土地はずいぶん高い位置になる。二階の窓くらいの高さでは無理かもしれない。そういえば、あの異様な建造物は何という名称なのか、聞いていなかった。外に散歩に出て、外観だけでももう一度拝みたいものだ、と保呂草は考えた。
とりあえず、様子を窺うために、ホールを見下ろす階段の手前で煙草に火をつけた。そこで床置きの吸殻入れを見つけたからである。部屋の中では吸っていなかったので、久しぶりの煙だった。それを二呼吸ほど楽しんだところで、通路の奥のドアが開く音に振り返る。
出てきたのは、西之園だった。服装がさきほどとは違う。黒いスラックスに、上は白のカーディガン。彼女はすぐに保呂草に気づき、にっこりと微笑みながら近づいてきた。
「どうしました? 貴女もスモーキング・タイム?」
「室内、禁煙だったかしら?」
「いえ、そんな表示はありませんでしたね」保呂草はポケットから煙草の箱を取り出した。「吸われますか? よろしかったら、どうぞ」
「ありがとう、でも、私は、けっこうです」
「お嫌いですか?」
「いえ、嫌いじゃありません」西之園は微笑む。「どうぞ、お気になさらないで下さい。もしかして、外に出て、あれを見にいこうとなさっていたのでは? 今、外を見たら、大きな月が出ていましたから」
「いつものやつですよ」
「え?」
「いえ、月が」
「ああ……」彼女はくすっと笑う。
「そうそう、名前をまだ聞いていませんでしたよね」
「私ですか?」
「あ、えっと……」保呂草は苦笑する。建造物の名称のつもりだったのだ。「いえ、そうじゃありませんけれど、でも、そうですね、そっちの方がもっと知りたいことに、今気づきました」
「西之園|萌絵《もえ》といいます」
「萌絵さんですか、可愛らしいお名前ですね」
「どうして?」
「いや、単なる感想です」
「意味のないことをおっしゃるんですね」
「それじゃあ、あの先生は? 名前は何と?」
「国枝先生は、桃子さんです」
「桃子さん……」一瞬、煙でむせた。咳《せ》き込みそうになるのを必死で堪《こら》えながら、保呂草はゆっくりと呼吸を取り戻す。
「可愛らしいお名前でしょう?」西之園萌絵が言った。
「どうして?」
「たまには、意味のない発言もしてみたかったの」
「酔っていますか?」保呂草はきいた。
「私、それ、今夜だけで何回きかれたかしら?」
「僕の知る範囲では、国枝先生が一回、あとは、貴女がご自分でおっしゃったのが一回」
萌絵は保呂草をじっと見据えた。表情は変わらなかったが、目が驚いている。それがわかった。
「どうしました?」保呂草はジェントルな発声できいた。
「あ……、いえ」彼女は一度瞬き、遅れて笑顔をつくった。「数えていらっしゃるの?」
「興味のあることだけです」
「その、似た方を知っているので……」萌絵のその言葉は独り言のように途中で消えてしまった。「秋野さんは、お名前は?」
「僕は秀和です」
「嘘ですね、それ」
「え?」保呂草の心臓が大きく打った。彼女のその突然の言葉を、彼はまったく予期していなかったからだ。「どうして?」
「秋野秀和といえば、有名な殺人犯の名前じゃありませんか」
「よくそんなこと覚えていますね」保呂草は言った。それは素直に出た言葉だった。
「本当は何ておっしゃるの?」
「困ったな……」彼は頭を掻いた。「同姓同名で、たまに言われるんですけれど」
「本当に?」西之園萌絵は、保呂草をじっと見た。
彼は動かなかった。ときどき、すべてを成り行きに任せよう、と思うことがある。彼はそれを「お任せ時間」と呼んでいたが、このときがそれだった。
二秒間ほどの僅かな沈黙。
「すみません」彼女は軽く頭を下げた。
「いえ、何が?」
「あ、外を歩きますか?」
「ええ……」保呂草は慌てて頷き、灰皿で煙草を揉《も》み消した。
萌絵は階段を下りていく。彼女の表情が見えなくなったので、保呂草は少し不安だった。うまく誤魔化せたのかどうか、確かめるまえに彼女が話題を変えてしまった。それにしても、切り換えが素早い。何を考えているのか、なかなか読めない人格だ、と彼は思った。
リビングのドアを開け、テラスに出て、中庭へ下りる。
「どうしても、あのメビウスの帯がもう一度見てみたかったの」歩きながら彼女は話した。「つき合わせてしまって、ごめんなさい」
「脱獄した殺人犯がうろついているかもしれませんからね、ボディガードが必要でしょう?」
「ええ、頼もしい」萌絵は笑顔を彼に向ける。それが価値ある報酬になることを知っているようだ。「でも、本当は、貴方の部屋のドアが開いたのを聞きつけて、私、出てきたんですよ」
「ああ……」保呂草は一瞬立ち止まった。「それは、えっと、ますます良い状況なのか、それとも、多少悪い状況かな。難しいなあ」
「一人で見にいくよりは、いろいろとディスカッションができた方が面白いと思ったのです」
「ディスカッションね。あまり得意なジャンルじゃない」
「何がお得意ですか?」
「うーん、にらめっこかな」
「その手にはのりません」
「頭の回転が速い」保呂草は笑いながら言う。
「今の言葉こそ、速いと思います」萌絵が言い返した。
保呂草は小さく溜息をついて頷いた。
沈黙。二人の足音だけになる。
「どうしました?」彼女が尋ねる。
「いえ、たまには無口なところを見せようかと思って」
「じゃあ、私も」
黙って石段を上った。風はなく、冷たい空気も眠っている。月明かりは常夜灯よりも優しかった。黒々とした樹々の枝葉は、生きていることを忘れているようだった。ただしかし、何かが、ふっと今にも動きだすのではないか、という不思議な予感があった。地面に落ちている石ころか、それとも、天空の星の一つか。何か一つが動けば、それが大きな変動を引き起こす。そうすれば、自分は目の前のこの魅力的な女性を抱き締めることができる、と保呂草は予感した。
何故だろう?
保呂草はもう一度、萌絵の顔を覗き込んだ。彼女は横目でこちらを見た。笑いを堪えている様子である。その滑らかさが感動的でさえあった。
だが、何一つ動かないうちに、石段を上りきった。広場の奥に、ベンチや小さなログハウスが見えてくる。さきほどは、行きも帰りもこの前を通っただけで、その小屋には近づいていない。案の定、萌絵はそちらの方へ歩いて行く。
幅が五メートルほど、奥行きも同じくらい、屋根が大きい。平屋の建物で、正面にドアと窓が一つずつ。ドアも頑丈そうな木製だった。近づいて窓から中を覗いてみたが、暗くてよくわからない。小屋の周囲は背の低い雑草に囲まれ、基礎の部分がほとんど隠れていた。小屋の後ろに回ってみると、その後ろの壁にも窓が一つある。こちらからも中を覗いてみた。
「熊野御堂さん、このログハウスが何かの趣向だって、おっしゃっていましたよね?」
「そうでしたね」
「何だろう……、特に、変わった感じではないけれど……」
「この中に首なし死体でもあったら、どうでしょう?」
「ええ、せめてそれくらいじゃないと、私的にはちょっとね」彼女は口を斜めにして首をふった。不思議なリアクションである。常に少しだけずれている。それが彼女の魅力の象徴なのだ、と保呂草は思う。
さらに、小屋の周りを歩く。片側の側面から斜めに小さな庇《ひさし》が突き出し、その下に、幅二メートル、奥行きが一メートル足らずの物置が作られている。小屋の正面に向かって左側だ。そちらは背後に森が迫っていたので、多少暗かった。物置の棚に置かれた雑多なものたちは、庇で雨だけを凌《しの》いでいる。各種のスコップや工具類、荷物を持ち上げるためのチェーン・ブロック、その他、煉瓦やタイルなどのパーツ、バケツ、布袋、それに古そうな薪《たきぎ》もある。その他は、何かの肥料だろうか、ビニルに包まれて防水されている袋。ガーデニングに使うものかもしれない。
「セメントだわ」萌絵が言った。
「専門ですか?」保呂草は尋ねる。
「ええ、少しだけ」
ぐるりと一周して、ログハウスの正面に戻った。萌絵は入口の前に立って、ドアにある小さなプレートに顔を近づける。
「あらら……」彼女が小声で呟いた。
「何て書いてあるんです?」煙草を取り出し、それに火をつけながら、保呂草はきいた。
「ミッシツ・インポッシブル」
「ミッション・インポッシブル?」
「いいえ、密室インポッシブル」萌絵が繰り返した。「ローマ字で MISSHITSU、それから、英語で INPOSSIBLE」
「酷《ひど》い駄洒落ですね?」保呂草は煙を吐き出しながら言う。ステップを上がることはしなかった。
萌絵はドアを開けようとして、ノブを掴んだが、それは回らないようだった。彼女はドアを押したり引いたりしている。
「うーん、頑丈な鍵みたい」
しかし、ドアにはそれらしい鍵穴はなかった。
「たぶん、中に閂《かんぬき》があるんじゃないかしら。ガタが全然ない感じ」
「完全な密室だね」
「そうか、これが、私に対する挑戦なんだ」彼女は腕組みをした。
「え、どうして?」
「私の専門だからです」
「建築が?」
「いえ、密室が」萌絵は振り返ってにっこりと微笑んだ。
保呂草は煙と一緒に吹き出した。
「意味がよくわからないけれど……、まあ、いいや」
「ええ、これは、明日のお楽しみ」彼女はステップを下りてくる。そして、保呂草の目の前で首を傾げた。「さてさて、では、上へ行きましょう」
西之園萌絵と一緒にまた石段を登った。保呂草は、少々不安を感じた。というのも、この魅力的な女性が、自分のことをすっかり信用しているからだ。それほど安全な男に見られている、という証拠ではないか。それが不安、否、不満の原因である。しかし、僅かに別の可能性も残されている。その正反対の場合だ。
振り返ると南の空に丸い月が明るい。地球上の男性の何人かが今頃狼に変身していることだろう、と彼は思いついた。
やがて、緑の芝生と歪んだ白い建造物が見えてきた。さきほどはライトアップされていたが、今はそれが消えている。熊野御堂が客に見せるために照明をつけさせていたのだ。今はその代わりに、軟らかい有機的な月光に照らし出されて、そのオブジェは僅かに赤みを帯び、生命体に近づきつつある。たとえるならば、巨大な動物の骨のような印象を醸《かも》し出していた。
保呂草は黙って、先を行く萌絵の後を歩いた。彼女はまず正面の入口の前に立ち、ドアを確かめた。開かないようだ。
彼女は振り返って保呂草を一瞥《いちべつ》し、次に右手の方へ、白いコンクリートの壁に沿って歩きだした。その壁は、微妙に捩れている。壁が僅かずつ持ち上がり、地面から離れ、また後方へ倒れ込むように、少しずつ傾きを増していた。それと同時に、壁は左へカーブし、二人が歩く経路も、左手へと方角を変える。土地がそちらへ向かって上っているので、少しずつ高い方へと、彼らは歩いた。どうも、斜めに立っているような錯覚に襲われる。部屋の中も捩れていたが、近辺の空間まで、この巨大な物体のために歪《ひず》んでいるのではないか、と疑いたくなる。
一つの部屋がだいたい四メートルくらいだった。それが三十六部屋。つまり、百五十メートルに近い円周になる。直径は約五十メートルにも及ぶ巨大な捩れたリング。これに似た捩れた形状のパスタがあるのでは、と保呂草は想像した。
芝生の土地が傾斜しているため、逆に建物は少しずつ地面に潜り込んでいく。ただ、捩れるに従って壁も床も持ち上がっているため、最初はそれがあまりわからなかった。中心角で九十度近く回り込んだ頃、建物の上部が低くなったことに気づいて、ようやく把握できた。さらにしばらく進むと、ついにリングの内側、つまりドーナッツの穴の部分が見えてくる。ここまで来て初めて、この異様な形状の構造物の全体像を見渡せた。熊野御堂はこれを見せたくなかったのかもしれない。室内を探索する場合には、全体の大きさを把握できない方が面白いはずだ。
メビウスの帯は、入口の反対側ではほとんど土の中に埋もれていた。つまり、エンジェル・マヌーバが飾られた柱のある部屋は、思ったとおり、地下になる。
「そうか……」萌絵が呟く。久しぶりの声だった。「地面の下なんですね。壁を壊されないようにってことかな」
それほどの効果があるとは思えないけれど、もちろん、建物を破壊して目的を達成することを考えれば、地上よりは多少面倒だろう。
二人は芝の斜面を上り、メビウスの帯の一端が埋もれている上に立った。この下に、秘宝が安置された部屋があると考えると、深呼吸の一つもしたくなる。彼らの目の前には、ぐるりと白い、捩れた巨大リングが見渡せた。地面の両側から現れ、ぐるりと円を描き、向こう側でつながっているリング。その周囲には鬱蒼とした森林。正面上方に月。正確な緑の平面。その傾斜。白いリングの捩れ。これらは、いったい何なのだろう、どんな意志が潜んでいるのだろう、と呟かずにはいられない。
「どうして、人間って、こんなものを造るのかしら」萌絵が小声で言った。
同じことを考えていたので、保呂草は驚いた。しかし、彼はその驚きを隠して黙っていた。人間が、どうしてものを造るのか、どうして創作するのか……。それらは、宇宙の進行には何ら影響のない、無駄な運動である。
答があるだろうか。
答があったとしても、きっとそれさえも、人間と同様に、限りなく無に近いちっぽけな理由だろう。
月が動かないように、空気も草も、動かなかった。
人間の小ささを、少しでも集めようと、しばらくそのまま、じっとしていたい、と保呂草は考えた。そういった消極的な考えは、自分には珍しいことだ、と感じつつ。
しかし、それは、はたして消極的だろうか?
西之園萌絵との距離は二メートルほど。その距離をもう少しだけ詰めようか、と思い至ったとき、彼らが歩いてきた同じ方角から、誰かがこちらへやってくるのに気づいた。
「あ、国枝先生?」萌絵がそちらを向いて言った。
国枝は、月面車のように一定の速度で近づいてきた。そして、保呂草のすぐ目の前まで来て、立ち止まる。
メガネのレンズ越しに、国枝はじっと保呂草を睨みつけた。
「こんばんは」堪《たま》らなくなって、彼は挨拶をする。
国枝はようやく視線を逸らし、今度は萌絵に一歩近づいて、彼女を見据えると、小さく舌打ちした。
「もう、戻ろうと思っていたところです」萌絵がさきに口をきいた。
「人を心配させるのが好き?」国枝が小声で言う。彼女は、もう一度保呂草を横目で見た。
国枝と萌絵は、おそらく同室なのだろう。教え子がこの時刻に散歩に出かけたとあれば、心配するのも不自然ではない。脱獄犯の話を聞いていればなおさらである。しかし、そういった常識的な感情を、この国枝という人物が持っていることの方が、保呂草には新鮮な情報だった。
彼は、両手を広げて軽く上げてみせた。中途半端なホールドアップであったけれど、気持ちもだいたいそんな感じだった。
帰りの道は、来たときに比べるとつまらなかった。
保呂草の数メートル先を、国枝と西之園が並んで歩き、二人の背中とその上の月をときどき眺めながら、彼は別のことを考えようとした。
前からはときどき、西之園の話し声が漏れ聞こえてくる。国枝の声は届かなかった。何も話していないのかもしれない。
「私、これでも男の人を見る目はあると思うんです」という言葉が保呂草の耳に届いた。萌絵のその台詞に、国枝は、ふんと鼻息をもらしたようだ。どういう意味だろうか、と彼は考えたくなったが、しかし、このときも思考をコントロールして、別のこと、彼が直面しているもっと困難な仕事のことを考えた。それに集中するのが最も自分らしいし、精神的にも、あるいは社会的にも安全だと感じたからだ。多少の疑問を唱える声が彼の内部から上がったものの、それらは一切無視した。
屋敷の近くまで来る。幾つかの窓に明かりが灯っていた。
前を歩いていた二人が立ち止まった。強い語調の女性の声が聞こえたからだ。砂利道を歩く音が辺りを支配していたのだが、保呂草も立ち止まると、その静けさの中を、はっきりとした声が伝わってきた。
「お前に言われる筋合いじゃないんだよ」と聞こえる。明らかに男の声ではない。さらに、相手を罵倒《ばとう》する幾つかの断片的な台詞。屋敷にいる女性といえば、熊野御堂彩だけである。その声は、まさに彼女のものに違いなかった。
保呂草の位置からは樹の枝が邪魔だったので、彼は静かに前進して、国枝と西之園のところまで近づき、二人が見上げている方向へ自然に視線を向けた。ステップを上ったテラスの奥、明るいリビングに二人の人影がぼんやりとしたシルエットとなって見えた。熊野御堂彩と、おそらくは、その夫の宗之ではないか。
「お願いだから、ちょっとは冷静になってくれ」ようやく、男性の声が聞こえる。やはり、宗之に間違いない。
「今すぐ、私の前から消えてくれない?」彩の声である。
近づいてきた保呂草に、萌絵が黙って目を向ける。彼女に顔を近づけ、「入りにくいね」と小声で囁くと、彼女は眉を寄せ、困った表情で頷いた。
女の叫ぶ声と前後して、ガラスの割れる音。
高い音だったので、グラスか何かだろう。いよいよこれは中に入っていって止めるべきか、と保呂草は考える。だが、急に静かになった。リビングの人影も消えた。
「大丈夫かしら」西之園が囁く。
「あのくらい、普通じゃない?」国枝が言った。
普通じゃない、に一票入れたかったが、保呂草は黙っていた。それから、一分か二分、三人はテラスの下で佇んで様子を窺っていたが、音はそれっきり何も聞こえなくなった。西之園が保呂草を一度見る。目で合図を送られたように思えたので、彼は頷いて、ステップを上がり、テラスを歩いて、リビングに近づいた。後ろから、国枝と西之園がついてくる。
保呂草は何も知らない、という感じを装って、ガラス戸を開けて部屋の中へ入った。
食堂に近い、左手の奥に、宗之の姿をすぐに見つける。彼は、突然入ってきた保呂草に驚いた様子で、見開いた目が数秒間、不自然に動かなかった。国枝と西之園も室内に入ってくる。
「いや、ちょっと、散歩を」保呂草が代表して言った。
「あ……、そうですか……」宗之はようやく表情を戻し、慌てて自分の持っているものに視線を落とす。彼は片手にゴミ箱を持っていたのだ。「あ、今、グラスを落としてしまって、片づけているところなんです。その辺、危ないですから、気をつけて下さい」
「手伝いましょうか?」西之園が一歩前に出た。
「いえいえ、とんでもない」宗之は片手を広げる。その彼の手に血が流れているのが、見えた。
「あ、怪我をなさっています」西之園が言う。
「あ、ええ、大丈夫。お構いなく。大したことありませんよ」
「でも……」
通路側のドアが開き、光岡が現れた。
「あ、すまない。グラスを割ってしまってね」宗之がそちらを向いて説明した。「その辺りまで飛んでいると思うよ。気をつけて」
「掃除機を持ってまいります」光岡はそう言うと、またドアから出ていった。
「本当に、皆さん、ご心配なく。もう、けっこうですから」宗之がこちらを向いて微笑んだ。
保呂草は軽く頭を下げ、リビングからホールの方へ出る。西之園たちも彼に従った。階段を上り、客間の前まできたとき、彼は振り向いて、二人を見た。
隣の部屋らしい。そのドアの前で彼女たちは立ち止まっていた。西之園がにっこりと微笑んで軽く頭を下げる。
広げた片手を軽く立てて微笑み返し、保呂草は何も言わずにドアに手をかける。そして、一気に部屋の中に入った。スカイダイビングの決定的な一歩のように、一瞬の勇気が必要だった。
第3章 探求 quest
そして、何一ついい前触れをもってこない鴉にさえほほえましいほど、すべてが新鮮な光の中に浸る。
翌朝、西之園萌絵が目を覚ますと、隣のベッドに国枝の姿がなかった。バスルームだろうか、と思ったが、どうもそんな気配もない。手近の時計を信じるならば六時半である。こんなに早く目が覚めたのは、自分の部屋ではないせいか、それとも、上等なアルコールによる純度の高い睡眠のせいか、と考えた。
彼女は、ベッドから足を下ろし、目を擦《こす》ってから溜息をついた。その頃には、昨夜の刺激的な幾つかのシーンが鮮明に思い浮かんだ。少しずつ捩れていく連続した部屋、永遠に柱に通されたままの秘宝の鎖、地面に埋もれた巨大なリング、そして、秋野と名乗っている男……。
それにしても、国枝はどこへ行ったのだろう?
洗面と着替えを簡単に済ませる。ドアを見にいくと、ロックはかかっていたが、室内を見渡したかぎりキーがなかった。つまり、国枝が持ち出しているのだ。そう思って確認すると、確かに彼女の靴もない。
萌絵は部屋を出て、階段を下り、玄関のドアがロックされていることを確かめた。次に通路を奥へ入り、リビングへ行く。誰もいなかった。昨夜、この部屋の奥でガラスを片づけていた熊野御堂宗之のことを思い出す。テラスへ出るガラス戸に近づくと、鍵がかかっていなかった。彼女はそれを開けて外へ出た。
朝の冷えた空気は、適度な水分と森林の匂いが混ざっていた。霧が出ていたので、中庭の先の石段の辺りは霞《かす》んでいる。立ち並んだ高い樹木も灰色のスクリーンと化して立体感が薄い。その先にすぐ海がある、と想像することも容易だった。
ガラス戸の鍵がかかっていなかったのは、誰かが出ていった、と解釈して良いだろうか。単なる締め忘れかもしれない。しかし、国枝が屋敷の中をうろついているとは考えにくかった。一番の可能性はジョギングである。見たことはないし、国枝が自分から話すはずもないのだが、彼女がジョギングをする、という話を萌絵は友人から聞いたことがあった。
中庭に下りて砂利道を進む。石段の辺りまで来たとき、上の方から微かな足跡が聞こえた。規則正しい音で、近づいてくる。萌絵が石段を上っていくと、霧の中から国枝が現れた。
「ああ、良かった、先生で」萌絵は溜息をつく。
「珍しい、早く起きられるじゃない」国枝が言った。スポーツ・スーツ姿である。昨晩も部屋でこれを着ていたので、旅行のときはいつも持っていくのだろうか、と不思議に思ったのだ。国枝の皮肉は、萌絵が大学に出てくる時間がいつも遅い点に言及したものだった。
「上のメビウスの帯を見てきたのですね?」
「あそこ、グラウンドみたいで、走りやすそうだったから」国枝は深呼吸をしてから、膝の屈伸運動を始めた。「どうするの? 今日、帰るんだよね」
「えっと、ええ……」萌絵は曖昧《あいまい》に頷く。まだ見せてもらっていない趣向がある。このすぐ近くにあるログハウスもその一つだ。
「私じゃなくて、犀川《さいかわ》先生と来たら良かったのに」国枝が言った。
図星である。当然ながら、そうしたいのは山々だった。犀川|創平《そうへい》助教授は、萌絵の指導教官であり、彼は国枝の上司に当たる。残念ながら、先日の学会には彼は出席しなかったのだ。
「あーあぁ」萌絵はまた溜息をついた。
既に国枝は石段に腰を下ろしている。萌絵も彼女の横に座りたかったが、生憎《あいにく》汚れると困る服装だったので諦めた。
「あのメビウスの帯だけど」国枝が淡々とした口調で話した。運動のあとのようだが、汗もかいていなければ、息も上がっていない。「どうして、一周で百八十度捩ったのかな。九十度捩れば、床も壁も天井も、全部連続になるのにね。ずっと、それを考えていた」
「そんなことを考えながら走ったのですか?」
「うん」
朝は幾分、機嫌が良さそうな国枝である。
下から誰かが近づいてくる足音が聞こえ、近くまで来て、ようやく光岡だと認識できた。
「おはようございます。西之園様、それに国枝様」光岡は石段を数段上ったところで立ち止まり、頭を下げた。「お早いですね」
「おはようございます」萌絵が頭を下げる。国枝も横で立ち上がった。
聞き取れないほど小さな声だったが、国枝は珍しく普通の挨拶をした。大学では、彼女が挨拶の言葉を口にするのを聞いたことがなかったので、萌絵は驚いた。
光岡は、また頭を下げ、二人の間を通り抜けて、石段を上っていった。
「あの、どちらへ?」萌絵は尋ねる。
「はい」光岡が振り返って答えた。「上の、捩れ屋敷へ参ります」
「あ、捩れ屋敷っていうのですか?」
「ええ」
「こんな時間に何をしに?」
「旦那様を探しております。こちらでお見かけしませんでしたでしょうか?」
「いいえ」萌絵は首をふってから、国枝を見た。
「私は見ていません」国枝が答える。「上で二十分くらい走っていましたけど」
「でも、霧が出ているから……」萌絵が言いかける。
「失礼しました」光岡はお辞儀をして、くるりと背中を向け、再び階段を上り始めた。うっすらと立ち込めた霧のため、彼の後ろ姿がしだいに不鮮明になっていく。
「私も、ちょっと、捩れ屋敷を見てこようっと」萌絵は、国枝の腕を取り、引っ張った。
「貴女ね、口で言ってることと行動が分裂してる」
「先生、ねえ、一緒に行きましょうよう」
「どうして私が行かなきゃいけない?」
「私一人だと心配でしょう?」萌絵は首を傾げて微笑んだ。
国枝は舌打ちして黙る。表情は変わらない。反対しないところをみると、諦めたようだ。
二人は石段を上っていった。
「なんで、こんなのが屋敷なわけ?」国枝がぶっきらぼうに言った。
二人はすぐに光岡に追いつき、捩れ屋敷の入口の前まで来た。光岡はそこでポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し入れる。鍵を持った彼の手が右に回転すると同時に、鮮明な金属音が鳴った。
「あ……」という小さな声を彼は漏らす。何か、驚いたふうだった。彼はドアを少し引き、それが開くことを確かめた。動きがぎこちない。
「どうかしましたか?」萌絵はきいた。
「鍵がかかっておりました」
「かかっているんじゃないですか、普通」
「いえ、その、外からの鍵がかかっていた……、つまり、中には誰もいない、ということになります」光岡が説明した。
「え、どうしてです? だって、ドアの内側からロックしたかもしれないでしょう?」
「いえ、ご覧になればおわかりかと存じますが、このドアの鍵は、外側からのものと、内側のものとが、完全に独立しております。したがいまして、どちらか一方からかけた鍵を、もう片方から外すことはできません」
萌絵は、ドアの両面および断面を見て確かめた。光岡の説明のとおりの機構だった。
「そうか、じゃあつまり、熊野御堂さん、この中にはいらっしゃらないのですね」
「そうなります」光岡は頷き、少しだけ眉を寄せて困った表情になる。「もしも、旦那様が中においでであれば、必ず、内側の鍵をお締めになるはずですから」
「あの、一応、中を見せてもらっても良いですか?」萌絵はきいた。「念のために」
「どうして?」突然、後ろから国枝が尋ねる。無駄なことだ、と言いたいのだろう。
「だって、先生……。中で鍵をかけ忘れた可能性もありますし、外の鍵は、誰か他の人が間違えてかけたのかもしれませんよ」
「すぐ、そういう可能性を考えるんだ、貴女は」国枝が呟く。
萌絵が言いたかったのは、第三者に閉じ込められた場合のことだった。
光岡は萌絵の言葉に頷き、ドアを引き開ける。室内に自動的に照明が灯った。
誰もいない。部屋は無人である。
「中には、いらっしゃいません」光岡が言った。
「いえ、もっと奥の方の部屋に……」そう呟きながら、萌絵は室内に足を踏み入れる。室温は外気温とほとんど変わらなかった。
彼女は左手のドアの方へ歩く。そして、なにげなく、ドアの窓越しに隣の部屋を覗き見た。
そこも照明が灯っていた。
「あ……」という声が背後から聞こえた。それは光岡の声である。何か、ちょっとしたことに驚いた、という声だった。しかし、萌絵は振り返ることができなかった。ガラス戸の向こう側の様子が、彼女の目を捉えて離さなかったからである。彼女は黙って、さらにドアに近づき、小窓を覗き込む。
右側が僅かに上がり、左側が低い。傾いたドアが対面に一つ。
床は傾斜している。
微妙な傾斜だ。
しかし、
それでも、
液体は、左のコーナへ向かって流れていた。
そこに溜《た》まっている。
それがよくわかった。
赤い液体。
部屋の中に俯《うつぶ》せに倒れている人間の血だった。
「あ、あの」萌絵は振り返った。
反対側の壁のドアのところに、光岡と国枝が立っている。二人はそこでドアを開けようとしているようだった。
「おかしい……。鍵がかかっています」光岡が呟いている。
「あの……」萌絵は自分の呼吸を整えようと努力した。「すみません。こちらの部屋に、誰か倒れています」
「え?」国枝が振り返り、すぐに近づいてくる。彼女はドアの小窓から隣の部屋を覗き込んだ。そして、表情一つ変えずに、萌絵を見据えて言った。「誰、あれ」
「いえ、わかりません」萌絵は首をふる。「でも、大怪我をしているみたい」
光岡もやってきて小窓から凝視する。無言だったが、息を吸い込む音が聞こえ、背中からでも驚いていることがわかった。
倒れている男は、頭が左、脚が右、こちらからは顔が見えない。ただ、体格や頭髪の具合、あるいは服装などからも、見覚えのある人物ではなかった。少なくとも、この屋敷の住人ではない。上下とも薄汚れた灰色の作業着のような服装で、靴は白い質素な運動靴、これも汚れていた。どこに怪我をしているのか不明だが、出血は相当な量である。ただ、着衣を染めている血が、それほど新しいものには見えなかった。たった今、傷を負って倒れた、というわけではなさそうだ。かなり以前からその状態だったと思われる。壁や床に飛び散った血の跡も、ほとんどが既に黒く乾いていた。
「とにかく、熊野御堂さんに知らせてきて下さい。それから、救急車と警察に電話を」萌絵は早口で言った。
光岡が神妙な顔つきで頷き、慌てて出口から飛び出していく。
萌絵は、目の前の取手のないドアを触ってみた。壁との間の隙間はごく僅かで、とても開けられそうにない。
「これって、向こうからぐるっと回っていかないと、駄目ってことですよね?」
「このままにしておくしかないんじゃない?」国枝は普段どおりの口調だった。「私たちが駆けつけたって、できることなんてないよ」
「でも……」萌絵は部屋を横断し、対面の壁にあるドアの取手を掴む。しかし、ドアは開かなかった。「駄目だ、鍵がかかっている。困ったなあ……、どうしよう」
「誰か来るのを待つ」国枝が腕組みしながら言う。「それとも、ガラスを割るかだね」
「あ、下のログハウスの横にスコップがあった」萌絵は昨夜のことを思い出した。「取りにいってきます」
彼女は出口のドアを開けて外へ飛び出した。
「こら、待ちなさい」後ろから国枝の声。
萌絵は芝の上を走り、後ろから国枝の足音を聞きながら、石段を駆け下りた。
霧のため中庭も屋敷も見えない。鳥の声が聞こえ、ぼんやりと明るくはなっているものの、空気はとても冷たかった。ログハウスがようやく見えてきた。
小屋の左側に木製の庇、その下に簡素な棚、そこにあった一本のスコップ。昨夜それを見た。萌絵はその物置へ駆け寄り、目的のものをすぐに見つけた。彼女はスコップを手に取る。しかし、そのすぐ横、錆び付いた鎖の下に、もっと都合の良い工具を発見した。長さが七十センチくらいのバールである。ドアをこじ開けるには、こちらの方が適当だろう。国枝が追いついてきた。
「先生は、上で待っていて下さったら良かったのに」萌絵は言った。
「あのね」国枝はメガネを指で押し上げた。「状況判断って、わかる?」
そのとき、萌絵は一瞬、僅かな閃光《せんこう》を感じた。それは目が見た現実の映像ではない。彼女の脳裏に、何かのシグナルが光ったのである。
「あれ?」彼女は息を止め、目を瞑《つむ》った。
もの凄い速度で次々に映像が切り換わる。
自分の記憶をスキャンする。
何か変だ、何だろう、自分は何を考えているのだろう。
「どうしたの?」
「あ……」萌絵は目を開けて、すぐ横の棚を見た。
そこにあるものを、じっと観察する。
「昨日と違う」萌絵は呟いた。
「何が?」国枝が問う。
「よくわからないけれど、昨日のとおりじゃないんです。秋野さんと見たときは、確か……」
「それ、今、重要なの?」
「もう一つ、大事なことを思い出しました」萌絵は息を飲む。国枝を見つめる目に、力が入るのが自分でもわかった。
「一度に二つも思いつけるんだ」国枝が口を斜めにする。
「さっき、あそこの右のドア、開きませんでしたよね?」
「右のドア?」
「人が倒れていた部屋とは、反対側のドアです」
「ああ、うん」
「変じゃありませんか?」
「何が?」国枝が僅かに目を細める。
「あちらのドアに鍵がかかっていることが変なんです。だって、左のドアを一度開けて、それが閉まったら、右のドアはロックが解除されるって、ね? 昨日の晩、熊野御堂さんがおっしゃっていたでしょう? もし、それが本当なら……」
「うん、そうか」国枝は頷いた。萌絵の言いたかったことは理解してもらえたようだ。「でもね……」国枝は何かを言いかけた。
右のドアは、左のドアを一度開け閉めしないとロックが解除されない。つまり、右のドアから入り、そこをロックして次のドアへと進む。それを繰り返してメビウスの帯を一周する必要がある。自分が通った後ろのドアをロックすると、すぐ前にあるドアのロックが解除される。最後の部屋でも同様だ。ロックが解除された最後のドアを押して出る。それが閉まると、一番初めのドアのロックが解除されて、元の状態に戻るのである。ところが、さきほどは、右の壁にある最初のドアが開かなかった。ということは、つまり……、
「まだ、中に誰かいる、ということだわ」萌絵はそう言うと、バールを両手に握り、駆けだした。
「だから、その誰かっていうのが、つまり、倒れていた人なんじゃないの?」横を走りながら国枝が言う。
階段を駆け上がった。
走りながら、萌絵は考える。
国枝の言うとおりだ。
最後のドアはまだ開けられていない。
だから、最初のドアがロックされたままなのだ。
でも……、
あの状況は?
そう……、血を流して倒れていた人物は……。
彼は、自分一人で、あんな大怪我を?
どうも、そうは見えなかった。
怪我の原因は何だろう?
もし、第三者、
つまり加害者が存在したとするならば、
その人間は、どこへ?
最後のドアは通れない。
もし通ったら、
右のドアのロックが解除されているはずだ。
つまり……、
まだ、あの中に?
そう、あの捩れ屋敷の中にいることになる。
芝の上を走り抜け、萌絵は白いコンクリートの壁の前まで戻った。国枝が彼女のすぐ横にいる。それが、とても頼もしい。ドアを開けるまえに萌絵は国枝を一瞥する。彼女よりも国枝の方が頭一つ分背が高いので、見上げるような角度になる。二人は目で頷き合った。
ドアをゆっくりと引き開ける。
二人は室内に入った。変化はない。
萌絵はまず右手のドアを確かめにいった。
やはり、ロックされたままだ。
「良かった」彼女は呟く。「まだ、出ていない」
ドアの小窓から覗いてみたが、隣の部屋にも異状はない。彼女は、今度は反対側のドアへ歩み寄る。国枝はそこで待っていた。そちらのドアには取手がない。小窓から中を覗くと、さきほどと同様、血を流した男が倒れている。変化はない。
萌絵は持ってきたバールをドアと壁の隙間にねじ込んだ。壁側のコンクリートが小さく欠け落ち、鉄鋼製のドアの塗装にも傷がついた。ヒステリックな摩擦音が鳴る。
「できそう?」国枝がきいた。
萌絵が手こずっていると、国枝が横から手を出す。国枝がバールを掴んだので、萌絵は手を離して後ろに下がった。
国枝の長身が斜めになり、体重を預けてバールが隙間に押し込まれた。彼女の片足は壁に押し付けられ、握り締めた両手は力で震えている。細かいコンクリートの破片が飛び散り、不快な軋《きし》み音とともにドアが手前に少しだけ動いた。そこへまたバールを押し込み直す。国枝は躰をぶつけるようにして繰り返し力を入れる。とても自分の力では無理だ、と萌絵は思った。
最後は軽い音を立ててドアがこじ開けられた。
萌絵がさきに部屋の中に飛び込む。彼女は、向こう側へ回って、倒れている男の顔を覗き込んだ。見たことのない顔である。それは歪《ゆが》み、そして変色していた。
近くで見て明らかになったことが一つ。怪我は頭部だった。血は頭から流れている。何かにぶつけたのだろうか。しかし、この部屋には、それらしいものは見当たらない。
「どう?」バールを持ったまま、国枝が戸口の付近に立っている。
「駄目です」萌絵は男から目を逸らして答えた。「亡くなっています」
「そう」国枝は頷いた。「誰なの?」
「わかりません」
国枝は、奥の部屋へ通じるドアへ行く、彼女はドアノブを掴んだが、それは動かない。ロックされているようだ。萌絵もそちらへ近づき、隣の部屋を小窓から覗いた。何も異状はない。こちらよりも傾いた部屋がそこにあった。
「遅いなあ」国枝が呟く。
屋敷へ主人を呼びにいった光岡のことだ。もう警察には電話をかけただろうか。救急車は、急いで来ても、しかたがない。
国枝は死体に近づき、じっと見つめていた。まるで資料を調べるときのように冷静に観察しているようだ。彼女はまだバールを持っていた。
萌絵はもう一度隣の部屋を見た。この捩れ屋敷の残りの部屋のどこかに、誰かが潜んでいるかもしれない、と考える。国枝が持っているバールが、不思議と頼もしい。
「奥へ行ってみましょうか?」萌絵は提案する。
「どうして?」国枝がきいた。
「誰か中に隠れているかもしれない」
「そんな馬鹿がいるわけないよ」
「でも……、向こうのドアに鍵がかかっている以上、そう考えるしかありません」
「私たちの知らない条件がある、と考える方が自然だね」
「いつだって、自分の知っている条件の下で考えるしかありません」
「この人が自分で転んで怪我をしたのかもしれないし」
「こんな怪我を?」
「うーん」国枝は唸った。「じゃあ、その点は貴女の説に譲るとしても……、でもね、どうして、中へ逃げ込む? それから、どうして、私たちがそいつを見つけにいかなくちゃいけないわけ? 貴女ね、自分の身が守れるの?」
「ええ、それはなんとか」萌絵は両手を握ってみせた。
「ああ、もう……」国枝は片手を額に当てる。「どうして、こうなのかな、本当に……。なんで、私はここにいるわけ?」
「先生、落ち着いて下さい」
「落ち着いてるよ!」国枝が叫ぶ。彼女は速い溜息をつき、二秒間ほど目を瞑った。「ごめん」舌打ちをして、国枝は目を開ける。
「すみません」萌絵も謝った。「みんなが来るのを待ちましょうか?」
「どっちでも」
「じゃあ、奥へ」萌絵は提案した。
「引かないよね、貴女って」国枝が口を斜めにする。
萌絵は奥へ向かうドアのロックを解除しようとした。しかし、レバーが動かない。
「ああ、そうか。あちらをちゃんと閉めないと駄目なんですね」萌絵は反対側のドアを見にいく。国枝がバールで壊したドアである。ほとんど閉まってはいたものの、変形した部分が引っかかり、僅かにずれていたのだ。萌絵は取手を掴んで引っ張った。ドアは内側に数センチ動いて閉まった。
もう一度反対側のドアへ戻ってレバーを確かめてみると、今度はそれが動いた。ロックは解除された。正常ならば、対面のドアが施錠されることになるが、そこは壊れているから、おそらく作動しないだろう。施錠部分の金具が壊れているからだ。
昨夜とは逆の方向へ進むことになった。
萌絵は次の部屋に入る。傾いていることを除けば、何も異状はない。国枝が後ろからついてくる。入ってきたドアを閉め、奥のドアへ行き、ドアノブの下のレバーを捻ってロックを解除すると、入ってきた背後のドアが施錠される。これを繰り返せば、右回りにリングを一周できるはずだ。三つ目の部屋にも異状はなかった。昨夜と同様に、右側の方が持ち上がり高くなる。床は左へ左へと傾いていく。
その次の部屋も同じだった。
このまま、永遠に、どこまでも続いていきそうだ。
しかし、萌絵の頭の中にあったのは、
リングのほぼ中央、一番奥に位置する部屋。
そこにある、あの美しい短剣だった。
光岡は主人を探して屋敷の中を走り回った。
もちろん、真っさきに熊野御堂譲の寝室へ向かったが、やはりそこには誰もいなかった。ベッドは使った形跡がある。昨夜ここへ、光岡は最後のお茶を運んでいた。それがトレイにのったまま、すなわち、光岡が置いたままの状態で、ベッドのサイドテーブルにあった。
そのあと、心当たりのある場所を回ってみたけれど、主人の姿は発見できない。まだ探していないのは、彩と宗之の部屋、それに客間くらいである。しかし、主人がそれらの部屋へ行くことは考えられない。残る可能性としては、森へ朝の散歩にでも出かけたのか……。しかし、天候からして、どうもそれも考えにくい。
そもそも、主人の姿が見つからないので、彼は捩れ屋敷へ向かったのだった。深夜でも、あるいは朝方まででも、主人は捩れ屋敷に一人で籠《こ》もっていることが幾度かあったからだ。
警察へ電話することも、主人の許可を得なくてはできない、と光岡は考えたので、すべて後回しだった。途中で厨房に寄ったとき、朝食の支度をしていた佐竹《さたけ》に声をかけた。
「旦那様を探しているのだが」
「一時間ほどまえ、誰かがテラスから出ていかれたで」佐竹はオーブンの中を覗き込みながら答えた。
「誰かが? どちらへ行かれた?」
「さあな……」それ以上話すことはない、と言いたげに、佐竹は次の作業に移る。
料理長の佐竹が屋敷では朝一番早く起きている。一時間ほどまえというと、六時よりも早い。そんな時刻に主人が起きているとは思えない。
どうしたものか……。彩お嬢様を起こしにいくべきか。しかし、こんな早朝である。きっと、頭ごなしに怒鳴りつけられるだろう。などと思案しながらリビングまで戻ってくると、客の秋野がソファで煙草を吸っていた。
「おはようございます」光岡は頭を下げた。
「どうかしましたか? なんか慌てていますね」
「はい、その……」
光岡は、捩れ屋敷で発見した怪我人のこと、救急車と警察を呼ぶように指示されたが、主人が見つからないこと、を話した。
「え、じゃあ、上にまだ、西之園さんたちがいるのですか?」秋野が煙草を消しながらきいた。「女性二人だけで?」
「はあ」光岡は頷いた。何か叱られている気がする。
「一緒に行きましょう」秋野は立ち上がった。「そういえば、さっき、通路の窓を開けたら、彼女たちの声が外から聞こえたんですよ。霧で見えなかったんですけど」
光岡と秋野はテラスから中庭に下り、砂利道を進んでいった。相変わらず霧が立ちこめている。
「ねえ、どこへ行くの?」後ろから高い声に呼び止められた。振り返ると、テラスの手摺から頭を出して、熊野御堂保が見下ろしていた。「捩れ屋敷へ行くの? 僕も行く」
「おぼっちゃま、今は、その、ちょっと立て込んでおりまして」
「何? 立て込んでるって」少年が笑ってきいた。
「駄目だってさ」秋野が言った。「うちの中に入っていた方が良いよ」
「どうして?」
「寒いから」
「寒くないよ」
しかし、少年は手を振ってから、素直に引っ込んだ。二人は早足で中庭を通り抜け、石段を上った。ログハウスがある広場に出ると、すぐ近くで鳥の羽ばたく音がする。
突然、光岡は立ち止まった。
「もしかして、こちらでは……」彼はログハウスを見る。
屋敷にもいない、それに捩れ屋敷にもいない、となると、残された場所は、ここしかない。夏であれば、この小屋で主人をたまに見かける。しかし、この季節では……。
光岡はログハウスへ足を向けた。
「この小屋は何に使っているんですか?」歩きながら、秋野が尋ねる。
「旦那様は、ここで木工をなさいます」
「モッコウ? ああ、木を削って、何かを作るんですね? 家具とかを」
「あまり大きなものは作られませんが、ええ、夏にはよくこちらで……」そう言いながら、光岡はログハウスの窓の中を覗いた。
窓越しに小屋の中が見える。
窓は小屋の背面にもあるため、充分な光が室内に届いていた。
床のほぼ中央。
男が倒れている。
仰向けだった。
眠っているようにも見えたけれど、顔面の半分が、影のように黒っぽく、汚れている。
「熊野御堂さんじゃないですか」秋野が押し殺した声で言った。「怪我をしている」
秋野は小屋のドアを開けようとした。しかし、それはびくとも動かない。
「どうやって開けるんですか、これ」秋野がきく。
「いえ、私も……、それは」光岡は首をふった。
背後に気配がする。
「ねえ、どうしたの?」その声に二人は素早く振り返る。
保少年が、ベンチの近くに一人ぽつんと立っていた。
西之園萌絵と国枝桃子は、捩れていく部屋を次々に通り抜けた。ドアを閉め、部屋を横断して次のドアのロックを外して開ける。傾いているため非常に歩きにくい。それに、ドアを開けるまえに、次の部屋を充分に観察する必要があった。誰かが潜んでいるかもしれないからだ。国枝がバールを持ってすぐ後ろについてくる。
だが、誰にも出会わなかった。
外気とはまったく違う空気。いつからここにあるのだろう。この建物には換気システムがないのではないか。少なくとも一見したかぎり、そんなものは見当たらない。大勢の人間が一度に入ったら、酸欠になるかもしれない、と萌絵は考えた。
平衡感覚を奪う形状もさることながら、生命を拒絶するような空気、そして静けさが、とても気持ちが悪い。
しかし、ついに柱のある部屋に到着した。
この部屋にだけは換気口があることを萌絵は思い出した。ドアを開けて入ると、確かにその部屋の空気は違っていた。彼女は少しほっとした。
「まだ、半分だね」あとから部屋に入ってきた国枝が言う。「そろそろ誰か来る頃じゃない?」
「そうですね。だけど、どうせだから、一周しましょう」萌絵はそう言いながら、柱の向こう側へ回って、エンジェル・マヌーバを見ようとした。
ところが……、
「あれ?」彼女は口を開け、柱の中央を見つめて立ち止まった。
そこに、短剣がなかったのだ。
「ない」その一言しか思いつかない。
国枝も近づいてきて、そこを確かめる。
鎖はもちろん、短剣の本体も、すべて消えていた。
約五秒間の沈黙ののち、三秒間ほど、二人は黙って見つめ合った。
「どうしよう?」萌絵がさきに口をきく。
「どうしようもないと思う」国枝が淡々と答える。
「盗まれたのかしら?」
「持っていった人間が、持ち主でなければね」
「犀川先生みたい」萌絵は国枝を見上げて目を細めた。
「悪かったね」
「悪くありません」彼女は目を瞑る。「えっと……」両手を頭の横に当てる。この状況について考えようとした。「どうして、こんなことに……」
「簡単だよ」国枝が言った。「鎖を引きちぎって、誰かが持っていった。それだけ」
「あの……、殺されていた人は?」
「さあね」
「そうか、二人で盗みに入って、仲違《なかたが》いしたんだわ」
「どうしてわかる?」
「財宝に目が眩《くら》んで、独り占めしようとしたの」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「そういうものなんです」萌絵は口を尖《とが》らせる。
「ふうん……。そうなんだ」国枝が口を斜めにした。彼女は視線を逸らせて小声で呟いた。「最初から、ちゃんと話し合っとけよな」
「困ったことになったわ。どうしよう……。とにかく、早く戻りましょう」
「先へ行くんじゃなかったの?」国枝がきいた。
「あ、そうですね。うーん、その方が早いかな」
「それにしても、面倒な場所。ドアとか間仕切りとか、なくして、ぱあっと走れたら面白いのに」
「まあ、国枝先生のお言葉とも思えませんね」
国枝はにこりともしなかった。
ログハウスのドアは開かなかった。まったく歯が立たない。体当たりしてみたが、ぴくりとも動かないのである。保呂草は、ドアの下の隙間を覗き込んだ。なんと、そこはコンクリートかモルタルで固められているのだ。指で触ってみると、完全に固化しているのがわかった。
「これじゃあ、無理だ」彼は立ち上がって舌打ちする。「窓を壊すしかありませんね」
最初に窓を調べたが、二枚戸が中央で確実に固定されていて、隙間もほとんどなかった。小屋の裏側にあるもう一方の窓も同様だった。
保呂草は左手の物置へ行き、そこにあったスコップを手に取った。
「ガラスを割ります」彼は光岡に言った。一応、確認のつもりだった。
光岡は保と一緒に心配そうな顔で立っている。保呂草の言葉に、彼は頷いた。
正面に戻り、片手でスコップを振り上げ、躊躇《ちゅうちょ》なく窓ガラスを割った。ガラスにひびが入る。倒れている熊野御堂にガラスの破片が当たる可能性があったので、できるだけ最小限のエネルギィで割れるように、力をコントロールした。
何度かガラスを叩き、内側に破片を落とす。割れて開いた隙間から手を入れて、戸の中央にある鍵を開けた。ねじ込み式の古いタイプのものだったので、面倒だった。
鍵が外れると、戸をスライドさせ、保呂草は窓から室内に入った。彼は床に倒れている熊野御堂譲の横に跪《ひざまず》く。
頭を殴られているようだ。傷口はよくは見えない。顔面に血がこびりついている。しかし、それが致命傷とは思えない。口からは舌が飛び出し、異様な形相だった。
「どうですか? 旦那様は……、あの、いかがでしょうか?」窓から光岡が覗いている。保は頭しか見えなかった。背が届かないので、室内の床を見ることは彼にはできない。
保呂草は窓の方を向いて、首をふった。
言葉にすることは簡単だったが、少年に聞かせたくない、と思ったからである。
「とにかく、すぐに警察を呼んで下さい」彼は言った。
「わかりました」光岡は頷く。事情を察したようだ。
「ね、どうしたの?」保の頭が動く。
「おぼっちゃま、さあ、まいりましょう」光岡が遠ざかる。保も小屋から離れたようだ。
熊野御堂譲は昨日と同じ服装だった。殺されてから数時間は経っているだろう。保呂草は、セータのネックの部分を指で引っかけ、死体の喉を確かめた。思ったとおり、鮮明な紫色の痣《あざ》が残っていた。彼は手を引っ込めて、立ち上がった。
明らかなのは、熊野御堂譲が首を絞められて殺されたこと。
つまり、他殺である。これは自殺ではない。
このログハウスの床はコンクリートだった。工房として使われていたようだ。部屋には椅子が二脚。正面から入って右手の壁には木製の棚が取り付けられている。書物や置物、それに、熊野御堂の作品だろうか、鳥や魚の形に彫られた木工作品が幾つか並んでいた。また、入口の対面の壁には、窓の下に作り付けのデスクがあって、その上にも未完成の作品や各種の工具、ペンなどの筆記具、それに電話がのっていた。争ったような様子はどこにもない。
ドアをもう一度調べてみた。内側にある閂は外れている。つまり、通常の鍵はかかっていない。床に目をやると、やはり、ドアはコンクリートで固められていた。ほとんど床と一体化している、といっても良いだろう。ドアをこんなふうに固定するには、室内からも、また室外からも、非常に入念な作業が必要だったことは明らかである。
保呂草が入ってきた窓の下に、白い紙が落ちていた。B5判の大きさの無地の紙だった。彼は割れたガラスの破片に気をつけて、それを拾い上げる。サインペンで書かれた細い文字が読めた。
この密室が解けるかな。
この謎を看破した者に、
エンジェル・マヌーバを
譲ろう。
ただし、あれを柱から
抜ける者に限る。
縦書きで、比較的大きな文字で書かれていた。紙には裏側から、短く切ったセロテープが貼られ、その半分が紙から飛び出している。つまり、どこかに紙自体を張りつけておこうとしたようだ。おそらく、その場所は窓だろう。テープは木枠の部分に貼られたかもしれない。それが剥がれて、今の位置に落ちた、と考えられる。
もしかして、これが趣向か?
昨夜の熊野御堂譲の発言を思い出した。
「あのログハウスは、また、別の趣向でね」
それは、西之園萌絵に対する言葉だった。
急に、保呂草は、彼女のことが心配になった。上の捩れ屋敷でも怪我人が発見された、と光岡が話していた。彼女たちはまだ上にいるのだろうか。
保呂草は、窓に足を掛けて、外に出た。一応、小屋の周囲を回って、点検しておく。特に変わったものは見つからなかった。
ドアはコンクリートで固められている。窓は内側から鍵がかかっていた。ねじ込み式のものだから、外部から施錠することは不可能だろう。
となると……、
どのようにして、この状況が作られたのか……。
紙に書かれた挑戦状ともいえる文句。
そのとおり、完全な密室である。
しかし、
今は棚上げにしよう。
保呂草は捩れ屋敷に向かって走りだした。
「もしかして、あの死んでいた人、脱獄した殺人犯じゃないかしら?」萌絵は歩きながら話した。「実は、この熊野御堂家の誰かと関係があって、そのために、わざわざここへ来たの」
「殺されに?」国枝がつまらなさそうに言う。
「ええ、何かの秘密を知っていて、口を封じられたんですね」
「なにもあんなところで」
「うーん、そこですよね、ポイントは」
「うん、それはそうだね」
「嬉しい……」萌絵は両手を合わせる。
「大丈夫? 貴女」国枝は立ち止まった。ちょうど、次の部屋のドアを開けたところである。
「国枝先生と、こんな議論ができるなんて、夢のようです」
「私も夢のようだよ」国枝が片目を僅かに細める。「悪夢ってやつ?」
「そうなんですよね……、どうして、この場所で殺されたのか……、ここに、どんな目的、あるいは、意味があったのか」
「人の話聞いてる?」
「あ、でも、先生。たまたま、ここにいただけ、というのも、ありですよね。それとも、やっぱりエンジェル・マヌーバが関係しているのかなあ……」
「話しながら、考えないでくれる?」
「あ、そうか……、そうですよね、彼が、財宝を盗もうとしたところを見つかった、というのは、どうでしょう?」
「別に、どうも」
「でも、正面からじゃなかった。手で防ぐ暇もなかったんです。きっとあれは、顔見知りの犯行だと思います」
「少なくとも、外の鍵を持っている人物だよ」
「そうです」萌絵はうんうんと頷く。
「都合の良いことは聞こえるね」
「あの鍵の管理がどうなっていたのか、あとで光岡さんにきいてみないと……。チェック」萌絵は頭の横に指を一本当てた。小窓から次の部屋を覗きながら彼女は続ける。「もうあと、五部屋くらいですよね。このまま、ここに誰もいないことが判明したら、あの鍵の状態は、どう説明すれば良いかしら」
「単なる故障」
「今、私たちよりも少し前を、誰かが逃げている、という可能性は残されていますよね。うーん、だけど、複数の人間がここに入った場合に、個々の鍵がどんなふうに作動するのか、昨日の説明だけでは条件が不確定ですね。ただ、もし単独の人間による行為だと仮定すると……」
「一人で転んで頭をぶつけた、それが一番現実的」
「うーん、ですけれど、それだと、エンジェル・マヌーバが……」
「ポケットとか調べてみた? 彼が持ってるかもよ」
「鎖を引きちぎって、ですか?」
「そう」国枝は頷いた。「簡単だ」
「簡単過ぎます。ポケットには入りませんし」
「入るよ、あれくらい」
「駄目です。そんな、ポケットに隠すなんて、安易な」
「何がいけないわけ?」
次の部屋も無人だった。床の傾斜が水平に戻りつつある。
「警察に連絡、ついたかしら」萌絵は言った。「岐阜県警だから、誰が来るかな」
「こっちにも知り合いが?」
「いえ、それほどでも」
西之園萌絵の保護者である叔父の西之園|捷輔《しょうすけ》は愛知県警本部長である。それが、過去の数々の事件に彼女が深入りすることができた理由の一つだった。
「ああ、なんかまた足止め食いそうな、嫌な予感」国枝が珍しく小さな溜息をついた。「貴女と一緒だと、ろくなことがないな」
「死んでいたのが、誰なのかわかりませんけれど、大丈夫ですよ。私たちに関係がないのは一目瞭然ですから。明後日くらいには帰れますって」
「明後日ね……、ああ……」国枝は上を向いた。
その次の部屋も異状はない。萌絵が先になり、次の部屋をドアの小窓から覗く。相変わらず、部屋は傾いている。
「まさか、でも、これが熊野御堂さんが言っていた、趣向じゃないでしょうね」萌絵は顔をしかめた。
「そもそも、あの金持ちとは、どんな関係?」国枝はきいた。「あ、長くなるなら別にいいよ。どうせ、貴女の家の誰かと古くからつながりがあるんだろうね。ちょっときいてみただけ」
「先生、可愛い」萌絵は笑った。
「何が?」
「熊野御堂さんと知り合ったのは、まだ三ヵ月まえです」
「じゃあ、本当に貴女のお友達?」
「ええ」
「どこで知り合ったの?」
「ネットで」
「あ、そう。きくんじゃなかった」
「どうしてです?」
「いえ、なんでもない」
その次の部屋に入った。
「ね、先生。今ここを、私たちみたいに何組かが回っていたら、ちょっと恐いですね」
「恐いか?」
「あ、そうそう、山小屋に四人がいて、暗闇の中でぐるぐる回る、あれ、先生、知りませんか? ああ、恐い。あれ恐いですよね、本当に」
「何の話?」
「寒くて、眠ってしまってはいけないからって、四角い部屋の中を歩くんですよ、一晩中。最初四人が、部屋の四隅に立って、まず一人が壁に沿って歩いて、次の角の人にタッチして、そうしたら、その人がまた次の角まで歩いて、朝まで運動していたっていうお話」
「知ってるよ」
「なんだ」
「その話がどうかした?」
「あれ、本当に恐いわぁ、もうぶるぶるきちゃいますよね」
「それだけ?」
「ええ」
「あ、そう」
その次の部屋に入る。床はかなり平らになった。その次の部屋を小窓から覗くと、対面のドアの窓が今までよりも明るかった。
「あ、あと一つですよ」萌絵は言う。「ようやく一周できました。あっという間でしたね」
「矛盾したこと言わないで」
「あ!」萌絵が声を上げる。
「どうした?」
「あ、なんだ、びっくりした。秋野さんだ」
向こう側の小窓から、秋野がこちらを覗いているのが見えたのだ。
二人は、最後の部屋を通り抜ける。秋野が覗いていた小窓のあるドアには、鍵がかかっていなかった。
「これ、さっき、向こう側のドアを壊して開けたからですね」萌絵は国枝に囁く。
出入口のある最初の部屋に戻った。
秋野は、隣の部屋へ入って、死体の横に立っている。
「いつからここに?」戸口から萌絵は尋ねた。
「たった今」秋野が短く答える。不機嫌そうだ。しかし、死体を目の前にしているのだから、当然かもしれない。むしろ、この男の落ち着きようが、萌絵には不思議だった。
「このドアは、どうやって?」萌絵は尋ねる。彼はここにどうやって入ったのだろう、やはり鍵が壊れたのか……。
「これは、酷いな……」秋野は死体を見つめて呟く。萌絵の質問には答えなかった。
「光岡さんは?」萌絵は別の質問をした。
「警察を呼びにいってもらった」彼は答える。
「いってもらった?」
秋野は顔を上げて、ようやく萌絵の方を見た。一瞬だったが、これまでにない真剣な表情、鋭い視線だった。彼女はちょっと驚いた。
彼はドアから出てきて、出入口まで行き、そして、そのドアの外に立った。煙草をポケットから取り出して火をつけるのが見えた。
萌絵は秋野の様子をじっと観察している自分を認識する。昨夜の秋野とは、何か違うようだ。仕草が落ち着いている。それは、武道の試合で高段者が見せる洗練された立ち振る舞いに類似したものだ、と萌絵は連想した。彼女は、弓道と、それに合気道に若干の心得がある。秋野の物腰が普通ではなかった。気配が違うのだ。具体的には何も根拠はないけれど、ただ者ではない、と感じる。
萌絵が窺っているのを察知したのか、秋野は振り返って彼女を見据えた。
「中を一周してきたんだね?」秋野はきいた。横に立っている国枝の方へも一度だけ視線を向ける。
「ええ」萌絵は頷く。
「誰かいた?」
「いいえ」彼女は首をふる。「あの、秋野さん、ここへ来たとき、そちらのドア、覗いていらしたでしょう? そこ、開きましたか?」
「最初はそっちは鍵がかかっていた。左のそっちのドアは閉まっていたけれど、壊れているみたいだったから、こじ開けた」
「こじ開けたって……」萌絵も外に出た。
「中が見えたからね」秋野は一歩後ろに下がった。
「どうやって?」
秋野はポケットから小さな折り畳み式のナイフを取り出した。
「ナイフを持ち歩いているのですか?」
「他にも、ヤスリ、爪切り、コルク抜き、刺《とげ》抜き」秋野は一瞬だけ笑顔をつくる。「あの、実はね……、もう一つ、死体があるんだ」
「え?」予期しなかった秋野の言葉に、萌絵は声を上げてしまった。
国枝も外に出てきて、萌絵の横に立った。彼女は秋野を睨みつけている。男同士だったら喧嘩になりかねない目つきだった。
「下のログハウスで……」秋野はそこで言葉を切って、煙を吐き出した。「熊野御堂氏が殺されていた。たった今、それを見てきたばかりだ」
「本当に?」萌絵は片手を口に当てる。いろいろな感情が立ち上がったが、彼女は一瞬にしてコントロールした。「ログハウスなら、さっき、私たちも……」
「中を見た?」
「いいえ」
「ドアがコンクリートで固められていた」秋野がまた煙を吐きながら話した。「窓も内側から施錠されている」
「死因は?」
「首を絞められたのだと思う」
「ああ……」萌絵は目を瞑った。
「密室が、君には解ける?」秋野が言う。
「え?」萌絵は目を開けて、彼の顔を見上げる。
「この密室が解けるかな」秋野はゆっくりとした口調で言った。「紙に、そう書いてあったんだ。窓の内側に張られていたらしい。その紙が、部屋の中に落ちていた」
「この密室が解けるかな?」萌絵は言葉を繰り返し、同時に首を傾げた。「あ、見てこなくちゃ……」
歩きだそうとした萌絵の手首を力強い手が掴む。彼女は驚いて振り返った。秋野がすぐに手を離した。
「何ですか?」少し腹が立ったので、彼女はそれがわかる表情をつくって尋ねた。
「君の番だ」
「私の番? 何のこと?」
「情報を交換しよう」秋野が言った。「何か、僕に話していないことがあるね」
「どうして、そんなことが?」
「わかるよ、君たち二人の顔を見たら」
萌絵は、秋野の後ろに立っている国枝を見た。国枝には変化はない。だとしたら、自分の表情か……。
「エンジェル・マヌーバがありませんでした」萌絵は単刀直入に言った。
「え?」
「盗まれたみたい」
「なんだって?」秋野は目を見開いた。「どうして? どうやって? 鎖を切ったのか?」
煙草が地面に落ちた。よほど驚いたようだ。
「わかりません。とにかく、何もかも、消えていました」
「なんてことを……」片手を額に押し当てて、秋野は天を仰ぐ。「鎖を切ったんだ。ちくしょう! なんだと思ってるんだ、馬鹿野郎!」
「私に怒らないで下さい」
「君に怒っているんじゃない」秋野は深呼吸した。それから舌打ちする。また新しい煙草を取り出し、金属製のライタで火をつけた。「どこの、どいつだ……、まったく……」
「あの、熊野御堂さんが殺されたんですよね」
「そう」秋野は頷く。
昨夜の彼に戻っていたので、萌絵は少しほっとした。この男には、殺人よりも秘宝の盗難の方がビッグ・ニュースらしい。それはしかし、仕事柄しかたのないことかもしれない。熊野御堂とは、それほど親しい仲ではなかったのだろう。
急にまた、密室、という単語が彼女の思考に舞い戻る。
「とにかく、見にいってきます」萌絵はそう言って歩き始める。
「僕は、エンジェル・マヌーバの部屋へ……、いや……」秋野も、萌絵と同じ方向へ歩きだした。「一緒に行こう。そっちの方がさきだ」
「あ、でも」萌絵は後方を振り返る。
「私はここで見張っている」国枝は両手に持ったバールを胸の位置まで持ち上げた。
萌絵は秋野とともに石段を下り、ログハウスのある広場に出た。少し霧が晴れてきたように思える。ベンチと手洗い場の前を通ったとき立ち止まり、水道の蛇口の下を見た。夜のうちに雨が降った形跡はなかったが、排水溝が濡れていた。しかし、夜露かもしれない。ベンチには特に変わった様子はなかった。
辺りには二人の他に誰もいない。鳥の鳴き声が相変わらず喧《やかま》しかった。屋敷の人間は何をしているのだろう。警察への連絡はついただろうか。しかし、この山奥までやってくるには、それなりに時間がかかるに違いない。
ログハウスを正面から見る。昨夜と変わっているのは、開け放たれた窓だけだ。その窓の下の壁にスコップが立てかけられていた。左手の物置にあったものだ。これを使って、秋野がガラスを割ったのだろう。萌絵はそこに近づき、振り返って秋野を一瞥してから、室内を覗き込んだ。
照明が灯っていない。中は暗かった。
中央に熊野御堂譲が倒れている。秋野の短い説明のとおりである。ただ、頭から血を流している点が、萌絵には意外だった。
「絞殺って……」横に立った秋野に、彼女は言いかける。
「首の痣を見た。頭の傷、血が流れているけれど、傷口はよく見えない。たぶん、致命傷ではないと思う」
「では……、殴られてから首を絞められた、ということ?」
「まず間違いない」秋野は頷いた。
萌絵はドアを調べる。
「下を見てごらん」秋野が後ろから言った。
ドアは、コンクリートで基礎の部分と固定されていた。これでは開けることは不可能だ。
「中に入っても良いかしら?」萌絵はきいた。
「窓からしかないけれど、君のその格好じゃ、あまりおすすめできないね。ガラスも割れているし」
「スカートじゃなかったら、簡単なのに」
「現場にあまり手をつけない方が良いと思う。僕だけで充分だ」
「この窓の下に、メモが?」
「そう。同じ場所に戻しておいた」
萌絵は窓から首を突っ込み、真下を覗き見る。秋野の言ったとおりだった。ただ、文字を読むことはできない。
「誰が書いたものだと思います?」
「見当もつかないね」
室内は一旦諦め、ログハウスの周囲を調べることにした。何か落ちていないか。壁などに特別な跡は残っていないか。彼女はゆっくりと歩いた。ほぼ一面に雑草が膝ほどの高さまで伸びているため、地面はほとんど見えない。小屋の周囲だけは幅数十センチにわたって砂利が敷き詰められているようだったが、それもほとんど地面に埋もれていた。足で草を除けながら観察すると、空缶やビニル袋が落ちていたり、小さな昆虫が動いたりした。だが、これといって変わったものは見つからない。正面から見て右奥の角の付近には、短い曲がった鉄が地面にめり込んでいた。緩やかにカーブしたレールのようでもある。長さは一メートルくらいだった。
「何でしょう、これ」萌絵はそれを足の先で示して秋野にきいた。
「さあ……」彼は笑っている。
「何か可笑しいですか?」
「いや、失礼」秋野は肩を竦めた。「お嬢様が、そうやって足でものを示すっていうのが……」
「あ、それ、まえにも誰かに言われたことがあります」
次はログハウスの裏面を調べた。壁の端に太い金具が打ち込まれていた。何かを引っ掛けるものだろうか。窓は、正面のものと大きさはほぼ同じ。その窓の上の高い位置、ちょうど屋根の頂点のすぐ下のところの壁に、二十センチ四方ほどの換気口があった。屋根が突き出しているので雨は当たらないだろう。金網が奥に見える。
「換気口は正面にはない」秋野が言った。彼女が何を見ているのかを観察していたようだ。
「内側から鍵をかけた、というケースなら、そういった隙間が重要ですけれどね」萌絵は歩きながら話す。「でも、あのドアの状態は、そんな生易《なまやさ》しいものじゃありませんし」
「そう。外側からコンクリートを塗り込めただけではない。内側も綺麗に鏝《こて》が当ててある。ちゃんとした左官職人がやった仕事みたいだ」
「お詳しいですね」
「西之園さんの方こそ」
「私は建築を専攻しているんです」萌絵は立ち止まった。「秋野さん、ご本職は?」
「美術品の鑑定……」秋野は顎に手をやる。「といいたいところだけど、実はいろいろやっています。いわゆる便利屋稼業」彼は僅かに微笑んだが、目は笑っていない、と萌絵は感じた。
「そんな生易しいものですか?」
「どういう意味です?」彼は吹き出した。
「たとえば……、元警官、元自衛官、うーん、それとも、何かのスポーツを教えているとか」
「全部外れ」
「本当に?」
「貴女も、普通の大学院生には見えませんよ。特に、いくら建築が専門だからって、こんな調べ方はしない」
「ええ、それはそう……、確かに」萌絵は微笑んだ。
小屋の左側面、物置の棚があるところまで二人は来る。
「コンテナにセメントが入っています」萌絵は棚の一番下にあるプラスティックの箱の蓋を少しだけ持ち上げる。「早強《そうきょう》ポルトランドセメントです」
「何です? それ」
「普通のセメントよりも、硬化するのが早いセメントです」
「へえ……。そこのドア、それを使って?」
「ずっと以前に、このセメントを使った密室の事件がありました。そのときは、さらに硬化が早いセメントでしたけれど……。この早強は、どこにでも売っている一般的なものです」
「どれくらいで固まる?」秋野は尋ねる。
「普通のセメントでも一日で固まりますけれど、充分な強度に達するには、一週間から一ヵ月くらい。この早強セメントだと、それが数日になります」
「あまり変わらないね。コンクリートって、それがいつ作られたものか、固まったものを分析したらわかります?」
「難しいと思います。水分の量とか、反応物質の状態を見ることになりますけれど、種類や環境や、それに含水状態によって大きく左右されるし……」
再び正面に回り、萌絵はもう一度、窓から室内を覗き込んだ。倒れている熊野御堂の横顔をじっと眺めた。
昨日は生きていた人間が、今は動かない。
彼とのメールのやり取り、電話での会話、そして昨日の幾つかのシーンが、彼女の頭の中で無理矢理、倉庫に仕舞われようとしていた。一切を詰め込んで、真空パックにして、その弾力も、匂いも、なくしてしまおうとしている自分に気づく。
こういう機能が、いつの間にか働くようになってしまったのだ。
彼女の両親が死んだ夜からである。
「解けそう?」
「え?」萌絵は秋野を見上げる。
「密室が、解けそう?」秋野は言い直した。
周囲の森林が見えるようになった。それらがすべて現実のものとして存在することを、ようやく感じられる程度に、朝の光が不透明な空気を押しやった結果だった。
下から声が聞こえ、何人かの人間が近づいてくる気配。
秋野は、萌絵をじっと見据えていた。明るくなった空を背後に、彼の顔は逆光で暗い。
彼のその視線は何だろう?
好意か愛情か、
それとも、警戒か挑戦か。
三十六部屋の一番最後の部屋で死んでいた男と、
閉ざされたログハウスで殺された屋敷の主。
全体像はまだ見えない。状況が把握できない。しかし、考えることは決まっている。萌絵の頭脳はそれに集中しつつあった。
誰が、何のために、これをしたのか?
それを考えるには、少々情報が少な過ぎる。熊野御堂家の事情に、彼女は詳しくない。どんな人間が、この近辺に近づくことができたかを想像することさえ不可能だった。
だが、もう一つの問は決定的である。
それは、彼女が把握している目の前の観察事項のみによって、解答が導ける性格のものであるはず。だから、ひとまずは、それを考えよう、と思った。
どのようにして、この密室は作られたのか?
第4章 整理 digest
彼らはちゃんと知っている。いよいよ、善い虻がやって来て、悪い虻を追い払ってくれるのだ。
警察の第一陣が到着したのは、通報から三十分後、さらに一時間後には、大勢の捜査員が詰めかけた。
保呂草は、屋敷のリビングのソファにずっと腰掛け、新聞を読んだり、テレビを見たりしていた。テラスへ通じるガラス戸が頻繁に開け閉めされ、大勢が出入りする。熊野御堂彩とその夫の顔も見た。憔悴《しょうすい》しているのは、夫の方で、彩は顔色一つ変えず、気丈に振る舞っている。少年の姿は、あれ以来見かけない。保は自分の部屋にいるのだろう。
何度か、刑事が保呂草に事情をききにきた。そのたびに、現場へ行って説明しましょうか、と提案したのだが、それには及ばない、と断られた。西之園萌絵は、二度ほど、テラスから出ていき、すぐに戻ってきた。今は国枝と一緒に客間にいるはずだ。
十一時頃、光岡がやってきて、食事の用意ができたと告げた。食事のことなど保呂草はすっかり忘れていた。遅い朝食を、光岡は頭を下げて詫びた。
自分の部屋へ戻り、髭を剃ってから食堂へ下りていくと、西之園と国枝の二人が既にテーブルに着いていた。熊野御堂家の者の姿はない。保呂草が椅子に腰掛けると、待っていたかのように、正面の萌絵が話しかけてきた。
「捩れ屋敷の死体は、倉知さんという人だったそうです。演出家の方だとか……」
「倉知さん?」
「昨日のパーティにいらっしゃらなかった……」
「ああ」保呂草は思い出した。
「頭を後ろから殴られていて、あの場所に倒れて、数時間で亡くなっただろうというお話でした。死亡推定時刻は、今のところ、夜の二時から三時頃、つまり、その少しまえが犯行時刻になります」
「誰から聞いたんです?」保呂草は尋ねる。
光岡が現れ、テーブルのカップにコーヒーを注いだ。
「もちろん、警察の人に」萌絵は小声で答える。
「そんなに、ぺらぺらしゃべるなんて……」
「ええ、それは、私の場合は特別なんです」
「へえ……。だけど、それを僕に話すのは、どうかと思いますよ」
「ええ、それは確かに」萌絵は横に座っている国枝をちらりと見てから、再び保呂草を真っ直ぐに見据えた。「でも私は、秋野さんを信用しています」
「光栄です」保呂草はカップを手に取りながら微笑んだ。「それよりも、熊野御堂さんの方は?」
「はい」萌絵は頷き、上目遣いになる。「首を絞められて、殺されたのは、やっぱり、深夜の一時から三時頃」
「エンジェル・マヌーバは? 見つかりましたか?」保呂草はそれが一番心配だった。
「いいえ、今のところ、どこにも」萌絵は首をふる。「午後にはもっと捜査員が大勢来て、周囲の森を捜索する、と聞きましたけれど」
「そんな……、捨てていくはずがない」
「捩れ屋敷の鍵の仕組みについても、確かめてもらっています。やっぱり、私は、あの鍵の状態に納得がいきません」
「そもそも、あの入口の鍵は、誰が持っていたの?」保呂草はコーヒーカップを口につける。
「熊野御堂さんです」
「でも、彼は、ログハウスで……」一口飲んだコーヒーは少し薄かった。「昨日の夜は、光岡さんが持っていましたよね」
「ええ、昨夜は、熊野御堂さんから渡されていた、ということです。今朝は、部屋へ呼びにいっても熊野御堂さんがいらっしゃらないので、光岡さん、屋敷の方々を探したとか……。それで、書斎のデスクの上で、捩れ屋敷の鍵を見つけた……、あ……、そうですね?」
「そのとおりです」トレイにのせた料理を運んできた光岡が頷いた。
「いつも、鍵はそこに?」保呂草はきいた。
「いいえ、とんでもありません」光岡が首をふった。「あの鍵は、いつも、旦那様がご自分で管理されております。一度も鍵があのように置きっぱなしになっていたことはございません」
「それで、不審に思ったわけですね?」萌絵がきいた。
「さようでございます。その後も、屋敷の中をあちらこちら探しましたが、どこにもいらっしゃいません。そこで、鍵のことを思い出しまして、もう一度旦那様の書斎へ戻り、あの鍵を持って、裏の捩れ屋敷へ出向きました。その途中で、西之園様と国枝様にお会いしたのでございます」
「その、書斎というのは、鍵はかかっていたのですか?」萌絵が質問する。
「いえ、かかっておりませんでした」
「ありがとう」萌絵は微笑んだ。
光岡は頷き、食堂から出ていく。テーブルには、各自の席の前にサラダの皿が並べられていた。保呂草はフォークを手に取った。国枝は黙ってコーヒーを飲んでいる。
「ということは……」萌絵が話した。「つまり、捩れ屋敷の出入口の鍵は、誰でも使うことができた。倉知さんを殺害したあと、あそこの鍵をかけるのに鍵が必要ですからね。ただ……、どうしても不可解なのは、何故、入って右側のドアの鍵がロックされていたのか、という点です。倉知さんが倒れていた左の部屋から出てきたら、あのドアは、ロックが解除されるはずです」
「故障」サラダを食べながら国枝が一言。
「警察に詳しく調べてもらっていますけれど、もしも故障じゃなくて、しかも私が理解しているとおりの仕組みなら、あの状況は、捩れ屋敷の中にまだ誰かがいた、と考える以外説明できません」
「でもいなかった」国枝がまた言った。「少しは現実を見たら?」
「私たちは左側のドアを壊して入りました。あのとき、右側のドアのロックは解除されなかったでしょうか?」萌絵は保呂草を見る。「今になって思うと、確かめておけば良かった」
「よくわからないけれど、少なくとも、僕が行ったときには、右のドアは、ロックされていました。そう言わなかったっけ?」
「ええ、お聞きしました」萌絵は頷く。伏し目がちになり、何か考えている様子である。「変だわ……、どういうことかしら」
「僕には、ログハウスの方がずっと不思議だけど」
「ああ、ええ」萌絵が顔を上げる。「あの小屋のドアが、いつから、あんなふうにコンクリートで固定されていたのか……、ここの皆さんに伺ってみなければ……」
「あんな綺麗な仕事を、昨夜のうちにしたとは思えない」
「ええ、私も、そう思います」
光岡がトレイを両手に持って食堂に入ってきた。今度はスープである。主人が死んだ。それがわかってまだ数時間なのに、萌絵の前に最初の皿を置いた光岡は、普段と変わらない表情だった。だが、この種の人間は珍しい存在ではない。人は見かけほど、また、こうありたいと望んでいるほど、感情的な生物ではない、と保呂草は考えている。
「光岡さんは、あのログハウスのドアが開くところを、最近、見たことがありますか?」萌絵が質問した。
「はあ……」光岡は姿勢良く立ち、目を細めた。「私は、あの小屋の中に入ったことが一度もございません」
「いつから、あれはあるのですか?」
「かれこれ、そうですね、半年ほどになりますか。春先に、旦那様が直接、業者を連れてこられて、ものの三日ほどでお建てになったものです。あそこを使っておられたのは、旦那様だけですので、誰も、入ったことはないものと存じます」
「僕、入ったことあるよ」通路の方から声がした。
食堂の入口に、保の顔が覗いていた。躰の半分は壁に隠れている。今までの会話を立ち聞きしていたようだ。
「本当に?」萌絵が少年を手招きしながら言う。「それは、いつのこと?」
「昨日」彼女の横まできて、保が答える。
「誰かいた?」
「おじいちゃんがいた」
「お祖父《じい》様が、ドアを開けたの?」
「うーん」保は丸い目を萌絵に向けたまま、しばらく考える。「僕がいったとき、おじいちゃんは小屋の中にいて、それで、ドアのところから、おじいちゃんって呼んだら、中に入っておいでって」
「それじゃあ、保君が開けたんだね?」萌絵がきく。
「違う、開いてた」
「ふうん、そうか……」萌絵は頷いた。「他には、誰かいなかった?」
「いない」
「お祖父様は、あそこで、何をなさっていたの?」
「作っていた。木を削っていた」
「ずっと、それを見ていた?」
「つまらなくなって、すぐに帰ってきちゃった」
「それは、昨日のいつ頃?」
「うーんと……」
「おぼっちゃまが学校からお帰りになったのは、一時頃でございます」光岡が言った。「そのあとのことでございますね」
「保君は、どこの小学校へ? この近くに学校があるのですか?」
「私がお車で送り迎えをさせていただいております。所要時間は片道四十分ほどです」
「昨日は、そのあと、誰か来ませんでしたか? 特に、あのログハウスの付近で、誰かを見かけませんでしたか?」
「いえ、私は、お客様の支度がございましたので……」
「熊野御堂さんが、たとえば、どこかの建築業者を呼んで、昨日のうちに、あそこで工事をさせたりとか、そんなことが可能でしたでしょうか?」
「さあ……。確かに、駐車場から直接裏庭へ回る道がございますので、できないことではございません。一応途中のゲートに簡単な鍵があるにはあるのですが……」
「熊野御堂さんご自身が鍵を開けて、導いたのかもしれませんし」萌絵が言う。「でも、私たちが到着したときには、それらしい車はありませんでしたね」
「僕たちがここへ来たのは、四時頃だった」保呂草は言った。「充分な時間とはいえないし、それに、もし、熊野御堂さんが西之園さんのために考えた趣向だとしたら、そんなぎりぎりの工事をするだろうか?」
「確かに……」萌絵は難しい顔で頷く。
「おじいちゃんは死んだの?」保が高い声できいた。
萌絵は目を瞑る。保呂草は光岡の顔を見た。
少年が大人たちの顔を順番に窺う間、沈黙が続く。
「そうだよ」コーヒーカップを口から離し、国枝が答えた。
「ログハウスの中で死んでいたの?」保は国枝にきいた。「どうして、死んだの?」
「それは……」国枝はカップをテーブルに戻し、無表情のまま少年の方へ顔を向ける。「今、警察の人たちが調べている」
「木を削っていて、失敗したの?」
「そうじゃないわ」萌絵が首をふる。一瞬だけ彼女の眉に現れた悲壮な形を、保呂草は見逃さなかった。
「おぼっちゃま、こちらへ」光岡が保の手を引き、通路の方へ連れていった。
彼らが出ていくと、萌絵は溜息をつき、額に片手を当てて下を向いてしまった。彼女はまだ食事に手をつけていない。
「ようやく、現実が少し見えた?」隣の国枝がきいた。
本格的な事情聴取は午後になってから始まった。ログハウスと捩れ屋敷の両方の現場へ足を運び、実際に、誰が何をしたのか、を説明するよう要求され、そのとき誰がどの位置に立っていたのかまで再現しなければならなかった。唯一の慰めは、現場から既に死体が運び出されたあとだったことだ。
同じ質問、似たような質問が繰り返され、何度も確認させられた。その間、保呂草が顔を見たのは、光岡、西之園、国枝の三人だけで、残りの屋敷の人間たちは、外にはいなかった。屋敷の中のどこかで事情聴取を受けているのだろう。
大勢の捜査員が次々に到着し、二つの現場以外にも、屋敷の中、そして近辺の森林へと人員が投入されている。
午後四時頃、ようやく少し解放された保呂草が、リビングで煙草を吸っていると、食堂の方から西之園萌絵が顔を覗かせた。
「コーヒーを飲まれますか?」彼女はきいた。
「あ、ええ」保呂草は腰を浮かせたが、彼女がすぐに引っ込んでしまったので、彼はまた座り直した。
数分後、萌絵は二つのカップを持って、非常にゆっくりとした歩調で部屋に入ってきた。
「コーヒーカップを一度に二つ運ぶのに、慣れていない人?」保呂草は冗談できいた。「どうもありがとう」
「ちょっと、いっぱいに入れ過ぎてしまって」萌絵は言い訳をする。「無計画でした」
「国枝先生は?」
「上です。たぶん、読書。厨房にも誰もいません。佐竹さんは、車で出かけられたみたいです」
「佐竹さん?」
「あ、ええ、コックさんです。夕食の買い出しだと思います」
「光岡さんは?」
「さあ……」萌絵は首を捻る。「彩さんご夫婦のお世話があるのでは?」
「何か新しいネタを仕入れてきましたね?」保呂草はコーヒーを一口飲んでから尋ねた。
「え、私?」萌絵の目が大きくなる。「あれ、どうして、わかるのですか?」
「話したくて、うずうずしている感じだから」
「そうかなぁ……」
保呂草はまたコーヒーカップを口へ運んだ。わざと萌絵の方を見ないようにした。彼女が話し始めるのを待つためである。
「いろいろ話したいことがあるんですけれど、どれから聞きたいですか?」
彼は顔を上げて鼻から息を洩らす。思わず顔が笑ってしまった。
「僕の知り合いにも、そういう無理な選択問題を出す人がいる」
「それじゃあ……、面白い方がさき? それとも、面白くない方がさき? どっちか選んで下さい」
「面白い方をさきに」
「実は、私、密室の謎を解きました」萌絵はそう言うと、自分のカップを両手で持ち上げて口をつけようとした。「あ、駄目、まだ熱い……。氷でも入れなくちゃ、とても飲めないわ」
「君が淹《い》れたんだよ」
「いえ、作ったのはコーヒー・メーカです」
「あそう」
「あ、今の……」萌絵は驚いた表情。「私の知っている方にも、それと同じリアクションをされる方がいます」
「何か面白いアイディアを思いついた?」
保呂草は煙草をポケットから取り出し、一本をくわえて、ライタで火をつけた。その間、萌絵は何も話さない。彼が最初の煙を吐き出すまで待っていた。おそらく、自分の話の内容に自信があるのだろう、と保呂草は分析した。
「密室の謎を解いた者にはエンジェル・マヌーバを譲ろうって、そう書かれていましたよね? あれは、熊野御堂さんが私に出したクイズだったのです。私、それを解きました」
「まだ、答を聞いていないよ」保呂草は多少冷たい口調になっていたかもしれない。
「秋野さんは審判じゃありません。私が、あの密室の方法を貴方にお話しする義務はないと思います」
「じゃあ、どうして、こんな話を持ち出したんです?」保呂草はきいた。できるだけ優しい口調に努めながら。
「貴方が審判になってくれたら良いな、と思ったからです」
「うーん、なんか無理難題を押しつけられているみたいだけれど、えっと、僕が、その、君の言う審判になれる条件は?」
「二つあります。そのうちの一つについては、もう貴方は満たしている。そして、もう一つは、答を知っていることです」
「何の?」
「密室の方法」
「ああ、なるほど。つまり、君が考えたアイデアが正解かどうかを僕に判定してほしい、という意味だね?」
「いいえ、私のアイデアが正解であることはもうわかっています。警察も、すぐに気づくだろうと思います。私がきいているのは、貴方が知っているかどうか、です」
「知らない、と言ったら?」
「やっぱり、知っているのね」萌絵は真っ直ぐに保呂草を睨んだ。「だから、エンジェル・マヌーバを……」
彼女は眉を寄せ、下を向いた。残念そうな、否、悔しそうな表情、おそらくは、そうだろう、と保呂草は想像した。
「ちょっと待ってくれないか」彼はソファで座り直し、灰皿に煙草を置いた。「言っていることが、よくわからないよ。君は頭が良い。僕なんかには、とてもついていけない。密室の謎を解いた、というのはわかった。それを話したくないと言うなら、それもかまわない。でも、今、僕にこうして話している理由がまったくわからない。審判とか、僕が知っている、知らないとか、どうして、そんな話になるのか……」
「お上手ですね」
「何が?」
「面白くない方の話をさきにすべきだったわ」萌絵は顔を上げて、また保呂草を見据えた。淀《よど》みのない綺麗な瞳が、精確に彼の目を捉えていた。「失礼な言い方になるかもしれませんけれど、それは、どうか大目に見ていただきたいと思います」
保呂草は無言で頷く。
「審判は、もちろん熊野御堂さんでした。密室の問題は彼が作ったものだからです。ただ、彼があんなことになってしまったので、もう、メモに書かれた約束もすべて無効になった。それはわかっています。でも、さきほど、自分の部屋で考えていて、私は唯一の解答に至りました。それが正解です。となると、熊野御堂さんの遺志を尊重して、エンジェル・マヌーバを譲り受ける権利が私にはある、と考えても良いのでは、と思うのです」
萌絵はそこで言葉を切った。保呂草は動かなかった。灰皿に置いた煙草の灰が長くなっている。細い煙が垂直に立ち昇っていた。二人以外、近くには誰もいない。警察の関係者に聞かれている心配もないようだ。
「それで?」保呂草は話のさきを促す。「結論は?」
「貴方が盗んだエンジェル・マヌーバをいただきたいのです」萌絵は言った。囁くような声だったが、これまで聞いたうちで最も力強い語調だった。
このとき、保呂草はこの娘に対する自分の評価を大幅に変更する必要に迫られた。思っていたよりもずっと彼女は強い、今までの言動は完全に人工的なもの、意識してつくられたもの、いわば仮面だったのだ。甘えたお嬢様の振りをしている。否、あるいは、この多重人格性は天性のものだろうか。もしそうだとしたら、瀬在丸紅子に酷似している。そう、彼女にそっくりではないか。
「僕が盗んだ?」保呂草はきき直した。彼は腕を灰皿に伸ばし、燻《くすぶ》っていた煙草を揉み消す。自分の手が震えないようにコントロールするには、集中力が必要だった。いくら場数を踏んできても、相手の人間はいつも新しく、そして未知である。
「警察の方に、捩れ屋敷の鍵のシステムを確かめてもらいました。電子的なプログラムではなく、リレーによって作動する非常に原始的な回路でした。私が認識していたとおり、最初の部屋の左側のドアを最後に開け閉めしないかぎり、右側のドアのロックは解除されません。したがって、最初に私たちが駆けつけたとき、あのリングの中のどこかの部屋に、まだ誰かがいました」
「そいつは、どうやって外に出た?」
「ドアを壊す道具を取りに、私たち一度ログハウスまで行きました。そのときです。隠れていた人物は、そのとき、あの最後のドアを通って外に出ました」
「死体のあった部屋から?」
「はい」
「だとすると、そのとき、右手のドアのロックが解除されてしまう。君たちは、それを確かめなかったの?」
「確かめました。戻ってきたときも、ドアはちゃんとロックされていました」
「じゃあ、矛盾する」
「いいえ」萌絵は躊躇なく首をふった。
彼女は真剣な表情だった。しかしそれは、僅かに悲しみに曇っているようにも見えた。また同時に、どことなく微笑んでいるようにも見えるのだ。おそらく、この女性は、そんな多面性を生来持っているのだろう。ただこのとき、保呂草は、この若い娘がすべてを見通していることを知った。
「簡単です。解除された右のドアに入って、中からロックをすれば良いのです」萌絵は一定の口調で話した。コーヒーを運んできたときの彼女とは、もはや別人だった。「貴方は、私たちが出ていったあと、左の出口から外に出た。そのまま逃げなかったのは、私たちが戻ってくるのが見えたからだと思います。霧が出ていたので、私は気づきませんでしたけれど、貴方はとっさに中に隠れた。右のドアから入って、あそこをロックしたのです」
「良い推論だと思う。しかし、それが僕だという判断の根拠は?」
「あのドアをロックすると、その次のドアが解除されます。けれど、再びロックを解除すれば、また元通りになる。そうやって、貴方はそこから出た」
「それで?」
「一度、屋敷へ大急ぎで戻った。光岡さんに会って、もう一度、庭に出ていく。ログハウスで熊野御堂さんの死体を見つけて、そのあと、捩れ屋敷へ戻って、私たちが壊したドアをナイフでこじ開けて、そこで待っていた」
「僕は死体を確認していただけだ」
「まえのときには、その暇がなかったのですね?」
「どうして、そんなことが断定できる?」
「右のドアがロックされていた、と秋野さんはおっしゃったんです。でも、私たちがリングを逆方向に一周して、最後の部屋に辿り着いたとき、あのドアだけはロックされていませんでした。そこから、誰かが出たあとだったんです」
「でも、それは……、その……」
「計算違いをなさいましたね?」萌絵は言う。
「そう……」保呂草は舌打ちした。
沈黙。
保呂草は溜息をつく。煙草を吸いたくなったが、灰皿を見て我慢した。彼はコーヒーを飲む。それは今は苦く、美味《うま》かった。
「君たちが見たままの状態、つまり、右のドアがロックされている状態の方が自然だと、咄嗟《とっさ》に考えて、答えてしまった。あとで考えて、まずかったとは思ったよ」
「鍵の状態は複雑です。咄嗟の判断では、無理かもしれません。私がドアの状態を尋ねると、予期していなかった?」
「それが僕の敗因だね」
「そうです」
「でも、ドアを壊したのだから、そんなことに拘るとは思わなかった。国枝先生の方が、君よりもずっと常識人だね」
「負け惜しみですか?」
「そのとおり、負け惜しみだ」
「お認めになるのですね?」
「君の前では認める」保呂草は頷いた。
「え?」萌絵は初めて驚いた表情を見せた。「どういう意味ですか?」
「君以外の前では絶対に認めない」
「でも……」
「単なる言い間違い、あるいは聞き間違いだ、と言えば済むことだ。僕は、右のドアのロックなんか確かめなかったかもしれない」
「国枝先生も聞いています」
「ちょっと待ってくれないか」保呂草は片手を広げた。「君は、僕が、あの男を殴り殺した、と考えているの?」
「いいえ」彼女は首をふった。「そうではありません。殺人を犯した人間が、あの時間までずっと中に残っているなんて考えられません。殺したあと何時間も経過しているのです。すぐに現場から離れようとするのが普通ではありませんか?」
「そう、普通だったらね」
「貴方は普通の方です」
「ありがとう。でも、財宝に目が眩んだ普通の人かもしれないよ」
「外から鍵をかけたのは誰でしょうか?」萌絵は真っ直ぐに保呂草を見た。
「何でも知っているみたいだね」
「そう言いましたでしょう?」彼女はにこりともしない。「貴方は、エンジェル・マヌーバを盗み出すためにあそこに忍び込んだ。そのとき外側の鍵をどうしたのか、私にはわかりません。スペア・キーが存在するのか、それとも、貴方には鍵を開ける特殊な能力があるのか……」
「たまたま開いていたのかもしれない」保呂草は微笑んだ。
「そう……」萌絵は表情を変えずに頷く。「私もそう考えました。ちょうど、殺人の加害者が被害者を連れてあの中に入ったときだったからです」
「中の鍵をかけ忘れたわけだ」
「ええ、あとをつけていった貴方には、千載一遇のチャンスだった」
「すると君は、誰が犯人なのかを僕が知っている、と言いたいんだ」
「もちろん」
「ああ、困ったなあ」保呂草は苦笑いした。
「貴方は、二人のあとに続いて、捩れ屋敷に入ろうとしました。でも、右のドアは当然ながらロックされていますから、それ以上中へは進めない。一端、外に出て様子を窺っていると、かなり経ってから、一人が外に出てきた。血のついた凶器を捨てにいこうとしている加害者です。そこで貴方は、そのチャンスに中へ入って、右から順に奥へ進んだ。エンジェル・マヌーバのあるところまで」
「それで、閉じ込められたってわけ?」
「そう……、殺人者がわざわざ戻ってきて鍵をかけるとは思わなかったのです」
「うーん、なかなかディテールまで、ちゃんと考えたね」
「認めるのですね?」
「認めない」保呂草は首をふった。「僕は、殺人犯を見ていない。それに、エンジェル・マヌーバも盗んではいない」
「酷い」
「酷いって……」保呂草は思わず言葉に詰まった。「あのね、今の状況、僕にとって最悪なんだけど」
「私の前では認めるって、そうおっしゃったじゃないですか」
彼女の怒った顔はとても可愛らしい、と保呂草は思った。どうしようか、ここが判断のしどころだ、と考えながら、彼は新しい煙草を取り出した。その一本をテーブルの上で立て、指で数回短く落下させる。彼にしては珍しい動作だった。自分の手元を見ながら、そう思ったのである。何故こんなに冷静でいられるのだろう。何が自分を支えているのか。
自信? それとも、虚脱?
「僕は鍵を開けることができる」保呂草は本当のことを話した。「僕があそこへ行ったとき、鍵がかかっていた。僕はそれを開けて中に入った。左の窓は残念ながら覗かなかった。あんなものがあるなんて思ってもいない。すぐに右のドアへ飛びつき、中へ入った。それだけだ。つまり、たぶん、もうそのときには、左側の部屋に死体が転がっていただろう」
「本当に見なかったの?」
「当たり前だ。見ていたら、そのまま中へ入るはずがない」保呂草は両手を広げてみせる。
「そうか……」萌絵は頷いた。「すると、エンジェル・マヌーバを盗み出して、左の部屋まで回ってきたとき、初めて死体に気づいたわけですね?」
「僕は盗んでいない。エンジェル・マヌーバは、もうなかった。あの部屋になかったんだ。僕は、何もない柱を見にいっただけ」保呂草は煙草に火をつける。「とんだ災難だよ」
「自業自得っていうんじゃありませんか?」
「あの先生みたいだね」
「え?」
「国枝先生が言いそうな台詞」
「ええ、そうですね」萌絵はようやく少し微笑んだ。
「とにかく、ぐるりと回ってきたら、死体が転がっている。それに、さらにもっと悪いことに、出口が開かなかった」
「外から施錠されたからですね。開けられなかったの?」
「いくら僕でも、手の届かない鍵はなんともならないよ。あそこの鍵、ドアの外側と内側で完全に独立している。最初に僕が開けたのは外側の鍵で、その鍵がまたかけ直されたってこと」
「それじゃあ、また誰かが戻ってきて、鍵をかけ直した、ということですね?」
「そうなるね」
「秋野さんは、中にいるとき、その内側の鍵をロックしておいたのですか?」
「まさか……。そんなことしない」
「どうして? 万が一、誰かが来たとき、その方が安全じゃありませんか」
「そんなことをしたら、中に誰かが立て籠もっていることがまるわかりだ。閉じ込められて、警察を呼ばれたら、それでおしまい」
「でも、結果的に、ほぼ同じことになってしまったわけですよね」
「そう」保呂草は口を斜めにして頷いた。
「その、鍵をかけ直しにきた人は、鍵がかかっていないことを不審に思わなかったのかしら? 秋野さんが開けてしまったわけですから」
「不審に思わなかったとしたら、理由は一つ」保呂草は煙を吐き出しながら言った。「そのまえに鍵をかけた奴とは、別の人間だったんだ」
「あ、そうか……」萌絵は小さく口を開けて頷いた。
「とにかく、そういうわけで、僕は君にエンジェル・マヌーバを渡せない。天地神明《てんちしんめい》に誓って、僕はエンジェル・マヌーバを持ち出していない」
「信じても良い?」萌絵は保呂草を見据えた。
「僕に、あの鎖が切れると思う?」
長い沈黙があった。
保呂草はその間に煙草を吸い、それを灰皿で消した。
萌絵は冷めたコーヒーを飲んだ。
「貴方、何者なのですか?」萌絵がきいた。
「それは、こっちがききたい」保呂草は答える。
彼女はにっこりと微笑んだ。それを見て、保呂草は少し安心した。おそらく、この種の笑顔に対して無条件で安心してしまう神経が、いつの間にか彼の躰で成長し、ニューラルネットを築いていたのだろう。それは間違いなく、瀬在丸紅子のせいだ。
「ところで、ログハウスの密室だけれど、あれはどうやったの?」保呂草は尋ねた
「え、ご存じじゃないの?」萌絵はカップをテーブルに戻す。
「わからない」保呂草は首をふった。
「ああ、良かった」彼女は目を細め、溜息をついた。
「何が?」
「私もまだわからないんです」
「え?」保呂草は五センチほどのけぞった。「でも、君、さっき……」
「ええ、ちょっと、はったりで、鎌をかけてみたんです」萌絵は胸に片手を当てて、首を傾げる。どういう意味のジェスチャなのかさっぱりわからない。
なんということだ。
保呂草は幾つかの汚い言葉を飲み込んだ。もう一本煙草を吸わずにはいられなかった。
その後もう一度、捩れ屋敷に呼び出された。このときは、萌絵、国枝、そして秋野の三人が一緒だった。警察は、このリング内のロック機構を完全に停止させていて、その工事に一時間以上かかった、と刑事が話した。しかし、おかげですべての部屋のドアが開けっ放しになり、空気が流れていた。この建物始まって以来の新鮮な空気かもしれなかった。
捜査員たちが、ところどころで痕跡の採取をしている。刑事たちは、萌絵たち三人を、一番奥の部屋、すなわちエンジェル・マヌーバがあった部屋まで導いた。丸い柱が一本、寂しく部屋の中央に立っているだけだった。
幾つか質問があった。前夜、熊野御堂譲が三人をここへ案内した。そのときの様子に関して、細かい質問が繰り返された。警察は、エンジェル・マヌーバの行方ではなく、熊野御堂の殺害に焦点を絞っている、といった印象である。消えてしまった秘宝に関しては、詳しい追求がなかったからだ。
萌絵は、円柱をじっと眺めていた。今は何もない、のっぺりとしたコンクリートの曲面だ。間近に見ても、傷のような痕跡らしいものは見つからなかった。目を近づけると、コンクリートの表面に細かいひびが幾つかあるだけだ。彼女は諦めて、その柱の上下、つまり、天井や床に近いところを観察した。
柱から、鎖のリングを外すには、どうすれば良いだろう。
「あ、そういえば……」萌絵は思い出した。
「何ですか?」刑事の一人が尋ねる。
「鎖を切ることに対して、何かそれなりに考えてある、というようなニュアンスのことを、熊野御堂さんがおっしゃっていました」
「鎖って、ここにあったという短剣の鎖ですか?」刑事が質問する。
「そうです。それが切られたら、警報がなるような、何かのセキュリティが施《ほどこ》されていたはずです」
「ああ、それなら……」戸口に立っていた若い刑事が軽く手を広げた。背広に似合わない白い手袋をしている。「そこの換気口の外側に警報装置がありますけど、作動しなかったんでしょうか」
「どんな種類のセンサですか?」萌絵がきいた。
「さあ……、調べてみないと。何しろ、配線がコンクリートの中に埋め込まれているので、何が何なのか、ちょっとわかりません。これを造った施工業者を探しているところです」
「屋敷の方は捜索しましたか?」
「これから、本格的に」刑事は答える。「しかし、そいつよりも、殺人の方が重要ですから」
「盗んだ人が、殺人犯かもしれませんよ」萌絵は言った。
「その可能性も高いですね」刑事は頷く。
結局、そのまま三人は解放されて、屋敷へ戻ることになった。
「秋野さん、どうかされました?」萌絵はきいた。
「いや、特に」前を歩いていた彼が振り返る。
「なんだか、元気がないようですけれど」
「考え事です」
階段を下りていくと、ログハウスの周辺で、数名の捜査員が地面を見つめて歩いている。正面の窓が開いたままで、室内にも捜査員の姿があった。窓のすぐ下に、プラスティックのコンテナが底を上にして置かれている。おそらく、窓から出入りするためのステップに使われているのだろう。当然ながら、ドアは固定されたままのようだ。
「国枝先生は、どう思われます?」萌絵が立ち止まってきいた。「先生のことだから、きっと何か自分なりに解釈をされているのでしょう?」
「あまり真剣には考えてないよ」国枝は行き過ぎたところで振り返り、メガネに手をやった。「でも、中で死んでいた人が、ログハウスを建てさせた本人なんだし、オマケに、問題を解いてみろなんてメモを残したらしいってことからも、何らかの仕掛けが存在していることは確かだ、と考えるのが自然な流れ」
「そうそう……」萌絵は嬉しくて、躰を弾ませた。「屋根が蓋のように持ち上がる、とかですよね」
「まあ、そうかな」
「それだと、ジャッキか何かが必要だし、室内にそれを支える機構が残ります」萌絵は真剣な表情をつくる。冗談で言っているわけではない。
「だけど、その種のハード的な解釈よりも……」国枝は秋野を横目でみた。「ソフト的な手法が、この場合は現実的だと思う」
「というと?」今度は秋野が尋ねた。
「熊野御堂さん自身が、窓の鍵をかけた」国枝は即答する。「頭を殴られたあとに」
「え、それは違います。首を絞められて殺されたのですから」萌絵が言った。
「あ、そうか……」国枝は一瞬、珍しく目を見開いた。「首を絞められたあと、意識|朦朧《もうろう》として、少しの間生きていることってないわけ? 鍵を閉めたあとで、力つきて倒れる、ていうのは?」
「ちょっとありえないと思います」萌絵が応える。
「メモが引っかかるよね」秋野が発言した。「そもそも、あれは誰が書いたものなのか。筆跡鑑定をするんだろうけれど」
「エンジェル・マヌーバという名称を知っている人間は限られています」萌絵が話した。「あ、裏側にあった換気口を使った、という方向性はどうかしら?」
「そんなものがあった?」国枝がきいた。興味を示した、というような口調ではなく、呆れている、に近い感じだった。
「金網があるようでしたけれど、ひもかロープくらいなら通るかもしれません。被害者の首をそれで絞めておいて、それを最後には抜き取った、とか」
「それだったら、死体があんな真ん中に倒れていないし、それに、首にそれなりの痕が残るから、すぐにわかるよ」秋野が言う。
「そういう痕じゃありませんでしたか?」萌絵が質問した。
「あれは違う」秋野は首をふった。「細いもので絞めたんじゃない」
「どうして、秋野さん、そんなにお詳しいの?」
「わりと死んでいる人間に縁があって、何人か見たことがあるんですよ」
「殺された人間をですか?」
「まあね。どういうわけか。うーん、そういう星のもとに生まれたっていうか……」
「ドアをコンクリートで固めたのは、犯人ではないかもしれないですよね」萌絵が話題を変えた。「あれだけは、熊野御堂さんご自身がなさったことのように思えます」
「仕事が綺麗だからね」
「つまり、本当に私たちに見せるための趣向だったのです。メモだって、そのためのものだったんだと思う」
「あ、そうだ、そういえば……」秋野が唸る。
「何ですか?」
「上で殺されていた倉知という人、演出家だって言ってましたね」
「ああ、ええ……」萌絵は頷く。「そうか、つまり、彼も一緒になって、何かを演出しようとしていた、ということ?」
「いや、単に連想しただけ」秋野は口もとを上げた。
「倉知さんと、熊野御堂家は、どんな関係だったのでしょう」萌絵は瞳を上へ向ける。
覆い被さる樹木の枝葉、その隙間から、曇った空が覗き見えるだけだった。
第5章 示唆 suggest
雲雀は天上に棲んでいる。そして、天上の鳥のうち、この鳥だけが、我々のところまで届く声で歌うのである。
ディナと呼べるような宴《うたげ》はなかった。ようやく、主を失った屋敷の沈痛がどの部屋の隅々にも、飾り棚に並んだ小物たちにも、充分に浸透したように空気が重い。食堂に用意された料理は、変わりなく美味しく、もちろんそれ単体としては豪華だったのに、テーブルに着いたのは客たちだけで、熊野御堂家の面々、すなわち彩、宗之、そして保は現れなかった。
食事中の話題は事件に関係のないものばかりで、保呂草はそれなりに楽しかった。おそらく、光岡が出したワインのせいだったのだろう。西之園萌絵は明るい調子で自分のことを語った。家で待っている愛犬のこと、研究テーマに関すること、そして、研究室の様子など、実に他愛のないことを、脈絡もなく話すのだった。わざとではないか、そういった目眩《めくら》ましの演出ではないか、と保呂草には思えた。そうとでも考えないかぎり、今日の午後の、あの先鋭な彼女のイメージとはまったく相容れない。彼は、なるべく萌絵に視線を合わせないようにして、そんなことを考えていた。帰ったら、この女性について多少調べてみる必要があるだろう。必要というよりも、自分はそれを知りたがっている。だから、きっと自分は彼女のことを探るだろう、と不思議なほど冷静に予測できた。
若い刑事が食堂に入ってきて、萌絵に話がある、と囁いた。
「私一人に?」彼女が尋ねると、
「はい、できれば」と刑事は答える。
彼女は料理を半分以上残していたが、席を立ち、食堂から出ていった。
保呂草は、テーブルで国枝と二人だけになった。彼女は既にコーヒーを飲んでしまっている。今すぐにでも席を立ちそうな雰囲気だったが、おそらく、彼女たちの部屋で、刑事と萌絵が話をしている、と考えて遠慮しているのだろう。
保呂草は彼女に話しかけた。しかし、会話が続いたわけではない。幾つか彼女に質問をし、それに対する返答があった、といった方が正確である。
国枝桃子は、つい最近までN大学工学部の研究室の助手だったが、今は、那古野市内の私立大学の助教授だという。てっきり萌絵の指導教官だとばかり思っていたが、彼女の指導教官は別にいて、N大の助教授だという。
それにしても国枝は不思議な人物である。メガネの中の瞳がときどきこちらを睨む。不機嫌で、怒っているように見えた。だが、憤りを感じさせるような熱いものではない。もっと冷たく、突き放したような感じである。もしかしたら、人類全体に絶望しているのではないか、と思えるほどだ。
保呂草はテーブルを離れ、食堂を出た。国枝は、まだそこにいるつもりのようだった。
階段を上がり、自室に戻った彼は、すぐに部屋中を確認した。
思ったとおり、あらゆるところに小さな変化が発見できた。食事をしている間に、この部屋が簡単な捜索を受けたことは間違いない。一時間以上あったのだから、思う存分調べることができたはずだ。
保呂草は静かにベランダへ出る戸を開ける。庭から森へ向かう小径がすぐ下を通っている。近くに人の気配はなかった。警察の捜査員たちがまだ外にいるものと思われたけれど、それはきっと中庭の方に集中しているのだろう。
音を立てないように注意して、隣のベランダの方へ近づいた。隣は西之園と国枝の部屋だ。カーテンの隙間から室内の灯りが漏れている。話し声が聞こえてきたが、はっきりとは聞き取れなかった。
彼は、ベランダの手摺を跨《また》ぎ、外側の出っ張りに足をかけた。それから、隣のベランダへ軽く飛びつき、手摺と雨樋《あまどい》に掴まって体重を支えた。雨樋はあまり強度がない。急いでベランダの中に入り、躰を低くする。幸い、大きな音は立てなかった。ベランダにあったプランタの鉢が一つ倒れそうになったが、植物が彼の躰にもたれかかる方向だったので助かった。それを戻してから、彼は窓の下を移動し、もう一方の壁に身を隠して立ち上がった。
ガラス戸の上の部分に換気用の小窓が開いている。そこから室内の声を聞くことができた。カーテンは二重で、厚い方は無理だが、薄い方は明るい室内が透けて見通せる。
部屋のほぼ中央、肘掛け椅子に西之園萌絵が座っている。椅子の背に隠れて彼女の顔は見えないが、右手と組まれた脚が見えた。そういえば、夕食のときから彼女は細いジーンズだった。こちらを向いているソファに、刑事が二人腰掛けている。一人は三十代でがっしりとした体型の男、もう一人は五十代で角刈りの痩せた男である。いずれも、今日一日、何度も見かけた顔だった。
「では、殺人犯が脱獄したというのは、嘘だったのですね?」萌絵の声である。「あ、そうか、あれは、熊野御堂さんが私たちを驚かせようとした趣向の一つだったんだ」
「趣向?」刑事の一人がきいた。
「ええ、とにかく、私に捩れ屋敷やログハウスの密室を見せたかったのだと思います。もともと、その関係のネットで、私たちは知り合ったんですから」
「西之園さんが、その方面での有名人だから、挑戦しようとしたわけですね? それが、どこでどう間違ったものか……」
「たぶん、演出家の倉知さんも、熊野御堂さんの趣向の協力者だったのでしょう。ご当人たちが二人とも殺されてしまったのですから、確かめようがありませんけれど」
「いえ、倉知氏をここまで送ってきた、助手の人から話を聞いたんですが……」
「え、それ何時頃ですか?」
「昨夜十一時過ぎですね。その助手は、ここでちょっとした仕事を手伝って、すぐに戻っています。麓《ふもと》のホテルに一時頃に到着しているのが確認されていますから、当人には殺人は不可能なんですが、その……」若い刑事は、そこで言葉を切って、年輩の刑事の顔を見た。話しても良いか、といった合図であろう。上司が小さく頷くのを確認してから、彼は続ける。「彼の話によると、ここへきて、熊野御堂氏のメークをした、と話しているんですよ」
「メーク?」萌絵が言った。「あ!」
「ええ、メーキャップです。被害者の顔面の血が、そうです。最初、私たちも気づきませんでしたが、鑑識が来て、すぐに変だということになって……」
「それじゃあ、殴られていたわけではないのですね?」
「怪我なんてありません」
「ああ、そうなると、あのメークをしていた熊野御堂さんの首を、犯人は絞めた」
「そうです。そのとおりです」
「そのメークは、どこで?」
「書斎のような部屋だったと言っています。熊野御堂氏の書斎でしょう。倉知氏もそこに一緒にいたそうです。それで、そのまま、助手は帰ったわけです。誰にも会わなかったそうです。彼は、ログハウスも捩れ屋敷も知りません。裏庭には出なかったと話しています」
「だいぶ見えてきましたね」萌絵が言った。
「内密にお願いしたいのですが、実は、倉知という人は、ここの熊野御堂夫人と、ちょっとした関係がありましてね」
「え、彩さんとですか?」
「そうです。ずいぶん古くからのつき合いらしいです。彼女が以前、素人劇団に所属していた頃ですから、宗之氏と結婚する以前から、ということになりますか」
「その情報は、どこから?」
「ええ、これも、その倉知氏の助手からです。誰にも話すなと念を押されていたそうですが、そのボスが殺されてしまったわけですから、これは暴露した方が良いだろう、と判断したのでしょう」
「暴露? すると、最近でも、その、続いていた、という意味ですか?」
「ええ、はっきりとはわかりませんが、その可能性はあります。たとえば、その関係で、倉知氏が、夫人を強請《ゆす》っていた、といったケースも考えられるでしょう」
「ああ、なるほど、彩さんには、倉知さんを殺す動機がある、とおっしゃりたいのですね?」
「ここだけの話ですよ。私たちも、愛知県警からの電話がなければ、貴女にこんな話はしていません。ぶっちゃけた話、僕の上司が、貴女のことをよく知っていましてね、是非とも情報を提供して、アドバイスを受けろ、なんて言うんですよ。普段そんなことを言う人じゃないものですから、ちょっと驚きました」
「でも、秋野さんの部屋はハズレでした」
「ええ……」
「申し訳ありません」萌絵が頭を下げるのが見えた。「ただ、エンジェル・マヌーバを彼が隠し持っている可能性を、私はまだ捨てきれないんです。部屋になければ、庭のどこかにでも埋めたのか……」
「今、身元を照会しています。明日にでも、ちゃんとしたことがわかりますよ。とにかく、確かに胡散《うさん》臭い感じですよね」
「彼が殺したとは思えませんけれど」
「熊野御堂氏の方は、ですね。ただ、上の方の現場は、わかりませんよ。盗みに入って、見つかってしまったから、咄嗟にやった可能性もある」
「いえ、それでは、鍵の状態が説明できません。中に一人いて、外からも鍵をかけないといけませんから」
「うーん」刑事は唸った。
「彩さんや、宗之さんは、鍵のことで何か話していませんか? 彼らは、昨夜、捩れ屋敷には近づかなかったのですか?」
「一歩もこの屋敷から出ていない、と二人とも言っています。ただ、あの夫婦は、どうもあまり仲が良くないようですね」
「そうかもしれません」萌絵が話した。「言い争っているのを聞きました」
「いつですか?」
「昨夜」
「この家で働いている者も、ほぼ全員、そういった印象を持っているようです。使用人が主人のことを話すのですから、実際には、よほど酷いのでしょう。倉知氏と夫人の関係もありますから、何かトラブルがあったのかもしれません。ただしかし、我々の前では、まったくそんな素振りはありません。何も知らないの一点張りです」
「そういったことについては、私、関心がありません。ただ、今回のことでは、ログハウスの密室が一番の謎です。もう一晩考えさせて下さい。明日の朝には結論に到達できると思います」
「我々も明日は、あそこを徹底的に調べるつもりです」刑事は時計を見てから立ち上がった。「さて、どうも長居をいたしました。もう失礼させていただきます」
「どうも、お力になれなくて申し訳ありません」萌絵も立ち上がった。
保呂草は急いでベランダを飛び越え、自分の部屋へ戻った。もしかしたら、刑事たちがドアをノックするかもしれない、と考えたからだ。しかし、耳を澄ませていると、廊下を二人の足音は遠ざかっていく。彼は、静かにドアを開けて通路に出ると、迷わず隣の部屋の前まで行き、ドアをノックした。
「開いていますよ」という声が中から聞こえる。
保呂草はドアを開けて中に入った。西之園萌絵の姿はない。バスルームだろうか。彼はドアの鍵をかけて、部屋の中へ進み、素早く確認してから、バスルームのドアの前に立って待った。
「先生、ごめんなさい。お待たせして」と言いながら出てきた彼女を、保呂草は素早く拘束した。振り上げた萌絵の左手を掴み、それを彼女の頭の後ろの壁へ押さえつける。同時に、彼の左手は、彼女の口を覆った。
「静かに!」保呂草は囁いた。「声を立てるな。手を離すから」
「どういうことですか?」
「二十秒で君を殺すことだってできる」
「離して下さい」
「エンジェル・マヌーバをどこへやった?」保呂草はきいた。
「え?」
「この部屋にあるはずだ」
「まさか……」萌絵は目を見開いて、ますます怒った顔になる。「どうして私がそんなことを?」
「探しても良い?」保呂草はきいた。
「どうぞ」
「声を立てるな」
「貴方はもっと紳士的な方だと思っていました」
「僕も、君のことを誤解していた。まさか、警察に僕の部屋を探させるとはね。恐れ入ったよ」
「ああ……」彼女は溜息をつく。「そうか」そして舌打ち。「盗み聞きしたのですね?」彼女はベランダの方へ視線を向けた。「しかたがないな……。ええ、確かに。だって、エンジェル・マヌーバを盗んだのは、貴方以外にありえないんですもの」
「そうかな?」保呂草は言う。「捩れ屋敷で死体を発見したのは君たちだ。そのあと、あの中に入って、エンジェル・マヌーバを盗み出すことができたはずでは? ドアの鍵の状態だって、君たちが口で言っているだけのことだ」
「だって、国枝先生も……、それに、光岡さんも」
「みんなが君のために嘘をついているってこともある。僕があそこへ行ったとき、君はスカートの中に、短剣を隠していたんじゃないのかな。あんなときに、わざわざリングを一周したなんて、変だと思ったんだ」
「違います!」
「僕だって違う。それなのに、一方的に犯人扱いだ」
保呂草はまだ彼女の左手首を掴んでいた。
「手を離してもらえませんか?」萌絵が上目遣いに彼を睨みつける。
「この状態だって話せるだろう? 君は左利きだ。何かの武道を習っている。そういう相手を僕はあまり信用しないことにしているんだ。何度も酷い目に遭《あ》っているからね。それに、一度攻撃を受けると、僕は何をするかわからない。制御が苦手でね」
「何もしません」萌絵は一度目を閉じ、溜息をついた。「ええ、ごめんなさい。確かに、私は貴方を疑っていました」
「今も?」
「わからない」彼女は首をふった。「急に疑うなって言われても無理です」
「他の可能性を考えたら?」
「熊野御堂さん自身が、エンジェル・マヌーバをどこかへ隠した」萌絵はすらすらと言った。
「そう」保呂草は頷いた、少し驚きながら。
「私たちに見せたあとで、あそこから短剣を取り外して、金庫か、どこかもっと安全な別の場所に保管した」
「そのとおり。それが妥当な考えというものだ」
「つまらないですけれどね」萌絵はぎこちなく微笑んだ。
保呂草は手を離した。彼は後退し、彼女から離れる。蹴られたくなかったし、それに、あまり長く近くにいると、離れられなくなりそうな気がしたからだ。
「ありがとう」小声で萌絵は言った。「冷静な分別には感謝します。でも、貴方が私にした失礼は、簡単には消えません。貴方の評価を落としたことは確かです」
「できれば、君には、あまり評価されたくない」
「どうして、こんな性急なことをなさったんです? ドアをノックして、普通にお入りになったら良かったのに」
「そうしたつもりだけど」
「少なくとも、名乗られるチャンスはありました」
「熊野御堂氏の金庫は? 警察は調べた?」
「そんなものは、この屋敷にはないそうです」
「そんなはずはない。これだけのところに……」
「ええ、わかりません。でも、少なくともまだ見つかっていないわ」
「彼は、君にログハウスの密室を見せようとした。それと同じように、僕には、エンジェル・マヌーバを見せた。さも、あの場所から、あれは永久に外せないかのように思わせたんだ。それが、つまり、セキュリティだったってわけ」
「どんな仕掛けが?」
「わからないけれど、たぶん、あの柱が床か天井へ抜けるんじゃないかな。柱自体が上がるか下がるかして、鎖が外せるようになっているんだ。あの捩れ屋敷は、そういう、巨大なキー・ホルダなんだ。外側ではなくて、内側に鎖を取り付けるキー・ホルダ。捩れたリングに相応《ふさわ》しい反転だ」
「素敵なアイデアだわ」
「おやすみ」保呂草は言う。しばらく目の前の女性を見つめていた。
沈黙が数秒間。
「おやすみなさい」彼女は表情を変えなかった。
ドアがノックされる音。
「あ、国枝先生」そう囁くと、萌絵はそちらを向いて言った。「はーい、ちょっと待って下さいね」
「ベランダから出ていこうか?」保呂草は小声できく。「それとも、僕がここにいることにする?」
「出ていって下さい」
ガラス戸の鍵を開け、保呂草はベランダに出た。そして、さきほどと同じように、自分の部屋のベランダに飛び移った。
今夜は月が出ていない。そんなものは夜にも、そして彼にも、必要なかった。
一時間ほどしてから、保呂草は一階のリビングへ下りていった。熊野御堂宗之がソファに腰掛け、新聞を広げていた。今日の朝刊のようだった。もちろん、この屋敷の事件が載っているわけではない。
「あ、秋野さん、どうも、いやもう、大変なことになってしまって、申し訳ありません」
「いえ」保呂草は対面の席に座りながら応える。「なんと申し上げて良いのか……。もし、お手伝いできることがあったら、何でもおっしゃって下さい」
「明日になれば、親戚の者が来てくれます。ご心配はご無用です」絵に描いたような沈痛な面もちに、ぎこちない笑顔を浮かべて、宗之が言った。「お客様も、明日にはお帰りになれると思います」
「警察がそう言いましたか?」
「ええ」
「そうですか。僕には、そんなこと言ってくれませんでしたけれど、もしかしたら、西之園さんたちだけ、かもしれないな」
「そんなことありませんよ」
「何か、お心当たりがありませんか?」
「え? 何の話ですか?」宗之がきき返す。
「もちろん、二つの殺人についてです」
「僕は、あの、倉知という人には面識がありません。ここへ何度か遊びにきていたそうですが、たまたまなのか、僕がいないときばかりで、一度も顔を合わせたことはありませんでした。おそらく、彼と一緒にやってきた誰かが、義父と彼を殺したのでしょう」
「別々の場所で?」
「うーん、そうですね。それはまた、何か別のことを、義父たちがやろうとしていたんじゃないでしょうか」
「たとえば、どんな?」
「いえ、全然わかりません」
「盗まれた短剣のことは、いかがです?」保呂草は煙草を取り出しながら尋ねた。
「いえ、それも、まったく」宗之は首をふった。「警察にきかれて初めて知ったような次第ですよ」
「では、捩れ屋敷の中に入ったことは?」
「一度もありませんでした。建設中に、外から眺めた程度のことなら、ありましたけれど……。その、私は、この屋敷にずっといるわけではありません。仕事の関係で、普段は東京におりますので」
「奥様もそうですか?」
「いえ、彼女は、ここに住んでいます。息子もそうです」
「では、奥様は、あそこにお入りになったことがあるでしょうね?」
「さあ、どうでしょう」
「お聞きになったことがないのですか?」
「ええ」宗之は苦笑した。「知りません」
夫婦でその程度の会話もないものだろうか。この屋敷で、あの場所はかなり特徴的なもの、巨額の資金を費やして造られた特別な存在だ。これほど関心がないのも不自然ではないか。しかし確かに、金持ちの家にはこういった人種が多いこともまた事実である。無関心にならなければ処理できない環境のためだろうか、と保呂草は想像した。
「何のお話かしら?」リビングの戸口に熊野御堂彩が立っていた。
「あ、どうも」保呂草は立ち上がって頭を下げる。「このたびは……」
「ああ、聞きたくない」苦笑いしながら彩は部屋の中に入ってきた。「そんな心にもないこと、おっしゃらないで……。無駄ですよ」
「いえ、とんでもない」
「いいんです。父が亡くなったって、あの歳ですから、別に驚くようなことじゃありません。道楽の小屋の中で死ぬなんて、最後まであの人らしい。幸せだったかもしれませんわ」
「しかし……」
「殺された」彩はソファに腰を下ろし、脚を組んだ。ただ、夫の側のソファではなく、保呂草の隣だった。彼女は保呂草の手を掴んで引っ張る。座れ、という意味らしい。「ええ、そりゃ確かに、その点は驚きました。ホント、びっくり。交通事故みたいなものですわ。どこのどいつだか知りませんけれど、割の合わないことをしたもんだなって」
「あ、私は、ちょっと失礼するよ」宗之が立ち上がった。
「おやすみなさい」彩がすぐに言った。「あなた、明日は、東京ですね?」
「あ、いや……」
「東京へ行かれた方がよろしいんじゃない? お葬式の段取りで、忙しくなる。そうなったら、しばらく戻れないかもしれなくてよ」
「わかった」
宗之が部屋から出ていった。
「何か、召し上がります?」彩は、早々と視線を保呂草に戻し、口調を変えてきいた。
「いえ、お構いなく」彼は短くなった煙草を灰皿で揉み消す。
彩は立ち上がり、キャビネットへ歩いていった。そこでブランディのボトルを取り出す。グラスも並んでいた。
「氷が必要でしたら、持ってきますけれど」
「必要ありません」保呂草は答える。
にっこりと微笑んで、彼女はグラスを二個片手に摘《つま》み上げ、こちらへ戻ってきた。今度は対面するソファに腰掛け、テーブルの上で、グラスに琥珀色の液体を注《そそ》ぎ入れる。組まれた白い脚が膝の上まで露出し、前傾した躰は、胸元を保呂草に見せつけているような角度だった。髪は茶色に染まっている。前髪の一部が空色だった。昨夜もそうだっただろうか、と保呂草は思い出す。あまり記憶になかった。いかに自分がこの女性に関心を持たなかったか、という証拠かもしれない。少なくとも今は、昨夜よりは多少関心が持てた。
「どうぞ」グラスを保呂草の前のテーブルに置く。
「ありがとう」彼はそれを手にして、ゆっくりと口へ運んだ。一口飲むと、柔らかい香りが喉で仄《ほの》かに熱くなり、すぐに消えていく。「上等なお酒は、ストレートにかぎりますね」
「あら、これ上等?」ボトルを持ち上げて彩が笑った。
「何か、僕にお話があるようですね?」保呂草はきいた。
彩は、通路の方を一度見た。辺りの気配を窺っているのだろう。
「できれば、私の部屋までお越しいただきたいところですけれど、貴方は、きっとお断りになるでしょうね?」
「その場になってみないと、わかりませんが、警察もうろついていることですし、あまり危険な真似はしたくありません」
「もう、充分に危険な真似をなさったから?」
「どういう意味でしょうか? それは」保呂草は微笑みを浮かべてきいた。少し籠もった発声を意識していた。
「あの短剣をご覧になったでしょう?」
「エンジェル・マヌーバですね。ええ、拝見しましたよ、昨夜」
「本物でしたか?」
「おそらく」保呂草は頷いた。「もしあれがレプリカだとしても、そうですね。本物の二割程度の価値は充分にあるでしょう」
「その可能性がありますか?」
「わかりません。通常は、それだけの資金を投入するなら、間違いなくオリジナルの品を造らせるはずです。造る方も一流ですから、その方が励みになって良い仕事をします。それだけ、出来の良いものになるので、価値もまた上がる。それに比べて、いくら精巧でも、レプリカは割が合いません。しかし……」
「父なら、やりかねない?」
「いえ……、僕には、なんとも」
「あんな、とんでもないものを造らせたんですよ」
「捩れ屋敷のことですか?」
「そう。馬鹿みたい」
「失礼ですが、貴女は、エンジェル・マヌーバをご覧になったことがあるのですね?」
「ええ」彩は頷いた。彼女のグラスは既に空になっていた。だが、彼女の顔はますます白く、しかも真剣な表情に変化している。今までが酔っていた、今は醒《さ》めている。そう感じられるほどだった。
「どこで、ご覧になったのですか?」
「最初、父があれを手に入れた日に、私に見せてくれました。それから、裏のあの中でも。あそこが竣工した日に、やっぱり、私に見せてくれた。いつもそうなんです。父は何でも私に見せたがった。私に見せて自慢するんですよ。そのために買ってくるのか、と思えるくらい」
「お父様のことがお好きでしたか?」
「そういう質問は下らないと思われませんか?」
彼女に合わせて、保呂草も微笑んだ。彼はグラスに口をつけて、中身を一気に喉に流し込む。
そうだ、実に下らない、と彼も思った。
下らないのに、言葉にしなければならない、その状況は、もっと下らない。
「死んでしまったんだわ」彩は溜息をつき、目を細める。
「もう一杯飲まれますか?」保呂草はきいた。
「お願い」
保呂草は二つのグラスを並べて、ボトルのキャップを外す。
「もしよろしかったら、本当に、どこか別のところで、いつか、ええ、いつでもけっこうです、お会いできないかしら?」保呂草は彩の声を聞いた。「もっと、その、そう、私の良いところがお見せできると思うんです。こんな酔っぱらって……」くすくすと笑う声。「何なのかしら、初めて会った方なのにね……、可笑しいでしょう?」
ブランディを注いで、彼はグラスを彼女の前に戻した。テーブルに彼女の腕が伸びる。白い手がグラスを掴み、赤い口へと運んだ。そのすぐ横、彼女の頬に涙が伝っていた。
保呂草は、それを見なかった振りをして、ポケットの煙草を探した。二つ目のポケットでそれを見つけ、ライタを取り出して火をつけた。この間に彼女は頬を拭い、証拠を消し去ったようだった。
「失礼なことをおききしますが……」保呂草は言った。「熊野御堂氏が亡くなられたら、この屋敷は、貴女のものですか?」
「ええ」彼女は簡単に頷いた。「彼のものは、すべて私のものに、そして、保のものになるはずです。ただし、税金で沢山持っていかれるでしょうけれどね」
「亡くなられたもう一人の方は、ご存じだったのですか?」
「ああ、ええ……、倉知さん」彩は目を閉じ、グラスに口をつける。そして、それをテーブルに戻すと、壁の方へ視線を向け、口を笑った格好にしようと努力した。「もちろん、父の友人でしたから。こちらへ何度かお越しになっていましたし」
「どんな方でした?」
「どうして、おききになるの?」
「失礼」保呂草は煙草の煙を吐き出した。「きくことを思いつかなかっただけです。特に知りたいわけではありません。だいたい、お酒の席の会話って、そんなものではありませんか?」
「だったらもっと、面白いことをお話しになれば良いのに」
「面白くなかったですか?」
「ええ」
「それじゃあ、そうですね、シマウマの縞が、黒地に白か、白地に黒か、みたいな無駄な会話をしましょうか?」
「やっぱりそれも、つまらないでしょうね」彩は苦笑する。「でも、何もないよりはましかも」
「あの巨大なメビウスの帯を造られた、そのきっかけは、何だったのでしょうか?」
「ああ、そう……、それは、きっと私しか知らないことだわ」
「是非お聞きしたいですね」
「私が父にプレゼントしたキー・ホルダなんです。最近、お友達のおつきあいで、革細工を少しだけやったんですよ。そのときに、一日でできる簡単なもの、ということで、小さな革をベルト状に切って、それをリングにして、そこに金具を付ける、というだけのものなんですけれど、私、それを作って父にプレゼントしたんです。でもね、そのとき、ちょっと捻ってやろうと悪戯に思いまして、わざとベルトを捻って縫い合わせたんです」
「メビウスの帯ですね」
「私、そんなこと知りませんでしたわ」彩は微笑んだ。これまでの中で一番上品で魅力的な微笑みだった。「でも、それを受け取った父が、これはメビウスの帯だって、そう教えてくれたんです。だから、裏のあれが完成したときにも、私、最初に父に案内してもらって、もうびっくりしました。だって、それまで、一度だって中を見せてはもらえませんでしたし、外側はテントで覆われていて、何か大きなコース、ほら、ローラ・スケートのようなものの、そういうものを造っているとしか思っていなかったんです。でも、一番奥の部屋で、あの短剣の前で、父が言ったんですよ。彩がくれた、あのキー・ホルダだよって」
「やっぱりそうですか。僕もそれは思いました。エンジェル・マヌーバは短剣というよりも、大きな鍵のようではありませんか」
「ああ、そうですね。ですけど、キー・ホルダの内側に鍵があるなんて……」
「それでこそ、メビウスの帯なんですよ」
「そうなんですか……」彩は、遠くを見る視線を保呂草の背後へ送る。再び寂しそうな表情に戻っていた。「そういう意味だったのね。私、父のやることのほとんどが、理解できなかったわ」
国枝がバスルームを使っているとき、またドアがノックされたので、萌絵は少し緊張した。ドアのところへ行き、慎重にそれを開けると、通路に立っていたのは、小さな男の子が一人。
「保君か」萌絵は微笑んだ。
「こんばんは、お邪魔してもいいですか?」保は真面目くさった顔できいた。
「どうぞどうぞ」萌絵は、彼を招き入れる。通路に顔を出すと、ちょうど階段を上りきり、秋野がこちらへやってくるところだった。向こうも気づいたようだったが、彼女はすぐにドアを閉めて、鍵をかけた。
「ねえ、お兄さんはどこ?」部屋の中央に立って、保が高い声できいた。「お風呂?」
「ええ、そう」萌絵はくすっと吹き出す。「でも、お兄さんじゃなくて、お姉さんだよ」
保は首を捻った。萌絵の言い回しがわからなかったのかもしれない。
「何のご用事?」
「本当はね、望遠鏡を持ってきて、見せてあげたかったんだけど、重いから、僕一人では運べないし、光岡にお願いしようと思っていたけど、おじいちゃんが死んだから、みんな忙しいんだ」
「そうね……。望遠鏡って、天体観測?」
「そうだよ。おじいちゃんに買ってもらった」
「何を見るの? 星? それとも月?」
「どっちも。今日はでも、曇っているからできない」
「あ、そうね」
「お姉ちゃんも、天体観測をする?」
「ええ、大好き……、というほどでもないか。でも、望遠鏡は持っているわ」
「ここへ持ってきたら、もっとよく見えるよ」
「街で見るよりも、ここは空気が綺麗だから?」
「うん、おじいちゃんが、そう言ってた」
「そうだね。だいぶ違うと思う。どこで見るの? 保君の部屋のベランダ?」
「うん」
「お祖父様は、望遠鏡を持っていなかった?」
「わからない」
保はソファに腰掛け、きょろきょろと部屋の様子を眺め始める。萌絵はまだ立っていた。
「明日、もう帰るの?」保がきいた。
「うん、たぶんね。私はもう少しいたいのだけれど、国枝先生が、お仕事があるから、送っていかなくちゃいけないんだ」
「フェラーリで?」
「保君、よく知っているね」
「秋野さんは、フォルクスワーゲン」
「そうそう」そう答えながら、萌絵の脳裏に一瞬、あるアイデアが閃いた。「そうか、車か……」
「え、何?」
「ううん、何でもないわ」彼女は誤魔化して笑った。「あ、ベランダに出てみようか? お月様、見えるかもしれないよ」
保は立ち上がり、ガラス戸の方へ駆け寄った。萌絵もそちらへ行く。外に出ると意外に寒い。さきほどまで曇っていた空は、雲が流れ、明るい月が南東の空に浮かんでいた。
「あ、出ているね」萌絵は言う。
「ねえ、どうして、月は地球の周りを回っているの?」
「どうしてっていうのか、うーん、もし回っていなかったら、地球に落ちてきちゃうんだよ」
「太陽もそう?」
「えっと、太陽の場合は、どっちかっていうと、地球が落ちていく方だね」
「太陽に落ちるの?」
「地球が太陽の周りを回っているし、太陽の方がずっとずっと大きいから」
「月よりは、地球が大きいでしょう?」
「そうね、えっと、直径で四倍だったかな」
「太陽の周りを地球が回っているってことは、太陽は止まっているってこと?」
「ううん、違う、太陽も動いている」
「じゃあ、どうして、地球が回っている方だってわかるの?」
「えっとね、それは、他の惑星、つまり、水星や金星や火星や木星も、太陽を回っているから」
「それが理由?」
「うん……、なんとなく、だけど」萌絵は少し自信がなくなった。
「太陽の周りを回っている惑星って全部で九個だよね」
「今のところはね」
「まだ増えるの?」保は首を傾げた。
「まだ見つかっていない惑星があるかもしれないから」
「ふうん」
隣のベランダで、ガラス戸の開く音がした。
「寒くない?」萌絵はきいた。
「ちょっとだけ」
開いた戸から秋野が顔を出す。こちらを向いた。
「入りましょう」萌絵は少年に言った。
「おねえちゃん、ログハウスの謎、解けた?」
「え?」
「ドアをどうやって開けるのか、わかった?」
「ううん、まだ」
彼女はガラス戸を開けて、保を促して室内に入った。温かい心地良い空気が二人を出迎える。
国枝がベッドの付近に立っていた。メガネをかけていなかった。
「こんにちは」保が国枝に挨拶する。
「こんばんはだろ」国枝がにこりともせず答える。
「僕、もう帰るね」彼は振り返って萌絵を見上げ、にっこりと微笑んだ。それから、両手を頬に当て、背伸びをした。萌絵は腰を屈め、少年の口へと耳を近づける。「あの人、本当に女?」
彼女が頷くと、少年はまた国枝を見る。国枝はベッドに腰掛け、こちらに背中を向けていた。
「じゃあ、おやすみ」保が言う。
「おやすみなさい」部屋を横断したところで、保は国枝に向かって頭を下げた。
向こうむきのまま、片手を挙げて国枝が応える。
少年を送り出し、ドアを閉めたとき、萌絵はさきほど思いついたアイデアを思い出そうとした。保との会話の中で何か、思いついたはずだった。それは頭の中の保留棚からすぐに見つかる。
なるほど、車か……。
しかし、予期せぬことに、もう一つ、その同じ保留棚に、見かけないものが残っていたのだ。
えっと……。
何かしら。
彼女は部屋の中に戻りながら、考えた。
今にもそれを掴めそうな気がした。
彼女は息を止めて、必死で考える。
何だろう……、この、イメージは……。
目を瞑っていた。
真っ暗な空間に、点のように、
小さな光が、見えた。
ここは?
宇宙?
「大丈夫?」という声。
「あ、わかった!」萌絵は声を上げた。
「どうしたの?」すぐ近くに国枝の顔があった。
自分はいつの間にかベッドに倒れ込んでいた。
「わかった」
「何が?」
「あの密室」萌絵は起き上がる。「そうか……、そうだったんだ。犀川先生に電話しなくちゃ!」
「さっきかけてなかった?」
「だいぶまえです。もう五時間くらいまえ」彼女はデスクにあるバッグのところまで歩いた。「ああ、早く先生にお知らせしなくちゃ」
バッグを手に取り、携帯電話を探す。
「あのね、そのまえに私に教えてくれても良くない?」国枝が腕組みをして言った。「こんなにつき合ってるんだからさ」
第6章 付会 wrest
寒がりの羊どもは、太陽のまわりに眠る。太陽は大儀そうに冠を脱ぐと、明日まで、その後光を彼らの毛綿の中に突き刺しておくのである。
西之園萌絵は、その晩、何度か指導教官の犀川助教授に電話をかけた。研究室と彼の自宅の双方へである。しかし、どういうわけか彼は出ない。
「もう、どこへ行っちゃったんでしょう?」ベッドの上で電話を耳に当て、彼女は言った。
「いいんじゃないの、別に」隣のベッドに寝転がって読書をしている国枝の口調は冷たい。「結婚してるわけじゃなし」
「あ、そうなんですか?」萌絵は国枝の言葉を聞き逃さなかった。「あの、結婚していたら、やっぱり、良くないですか?」
「結婚した相手による」国枝は本を見たまま答えた。
「国枝先生の場合は?」
「不明」
そういうわけで、萌絵はなかなか眠れなかった。翌朝も、まだ薄暗いうちから目が覚め、ベランダへ出て、朝の冷たい空気で自分を頭を冷まそうと思った。ちょっと熱くなっているかもしれない、と自覚したからだ。
一応七時まで我慢した。それまでにすべての準備、つまり、具体的には身だしなみを標準レベルにまで整えるだけのことだが、それがすっかり終わっていた。国枝に遠慮して、通路へ出る。階段を下りていき、そこで電話をかけた。もちろん、犀川にである。彼の自宅で電話のベルが十二回鳴ったとき、ようやく繋がった。
「もしもし」アザラシのような籠もった声である。
「おはようございます。私です。西之園です。先生、すみません、朝早くから」
「何時? 今」
「七時過ぎです」
「あそう……」
「昨日お話しした密室のことなんですけれど、私、解けました。答がわかったんです」
「そう、そりゃ良かったね。おめでとう」
沈黙が三秒間。
「あの、先生、どんな答か……」
「あーあぁ、おやすみ」
「先生! あ、ちょっと」
「何?」
「昨日の夜も電話をしたんですよ。どちらにもいらっしゃらなかったから」
「どこかにはいたと思うよ」
「どこにいたんです?」萌絵は少し腹が立った。
「あーあぁ……」また欠伸《あくび》をしているようだ。「密室か……、うん、そうか、解けたんだ」
「どこにいたのですか?」
「相対運動っていうやつだろう?」
「え? あの……」萌絵はびっくりした。
「国枝君は、今日は大学に戻ってくるかな? ちょっと、こっちへ寄ってくれって、言っといて」
「あ、ええ、はい、お送りします。午後になると思いますけれど」
「あと、何だったっけ、えっと……、何か、なくなったって……」
「はい、エンジェル・マヌーバです」
「ああ、えっと……、眠いなあ……、えっと、そうそう、柱にね、鎖のリング?」
「そうです。それは、まだ見つかっていません」
「鎖を切らない、という条件は確かなの? なんか、君、そんなふうなこと、言ってたよね」
「ええ……、たぶん」萌絵は電話を持ったまま頷く。しかし、確かにその条件は曖昧だった。美術品としての価値がわかる者ならば鎖を切らないかもしれない、というだけだ。だが、背に腹は代えられない、という言葉があるではないか。
「もし絶対に鎖を切らない、と仮定すると、君が観察した現象を説明する解答は、一つしかない」
「え! 一つ?」萌絵はびっくりした。「一つあるんですか?」
保呂草が階段を下りていくと、途中で西之園萌絵が話している声が聞こえた。ホールの隅で電話をしているようだ。ちょうど死角になって、彼女の姿は見えない。向こうからもこちらが見えないので好都合である。そもそも、隣のドアが開いて足音が聞こえたので、少し間をおいて出てきたのだった。
彼女の声はよく抑制されていたものの、興奮し、何かに驚いているのは明らかだった。
「あ、待って下さい。いえ……、考えます。あと一時間。え? あ、はい……、わかりました。それじゃあ、二時間ですね。はい……、ええ、その頃にまた、電話をします。先生、ごめんなさい、起こしてしまって……」
保呂草は時計を見た。七時五分である。彼は部屋へ引き返し、帰り支度を整えることにした。ただ、どうしても、彼の足はベランダへ向かわざるをえなかった。外の様子を確かめ、昨夜と同じように隣の部屋のベランダへ飛び移った。明るいので、今度は鉢植えを倒すこともなく滑らかな手際だった。
やがて、ドアの音が聞こえてくる。萌絵が戻ってきたのだ。
「凄いんですよ」興奮した彼女の声である。「やっぱり、犀川先生だわ。密室の謎、とっくに解いてしまわれていたみたい」
「貴女と同じ意見だった?」
「ええ、正解でした。もちろんですよ。あ、それに、もう、凄いんですよう。犀川先生、エンジェル・マヌーバの方も解けたって、おっしゃるんです。柱からあれを抜く方法を思いつかれたみたい」
「まさか」
「本当です。だって、犀川先生がそうおっしゃったんですから」
「わかった、わかったから、怒らないでくれる」
「とにかく、えっと……、まず、刑事さんをつかまえて、ログハウスのことを確認して、それから、あと二時間か……、どうしよう。ゆっくり考えている暇があるかしら」
「何? 二時間って」
「犀川先生が寝直す時間です」
「は?」
「それが、私に与えられたラスト・チャンス。私も、エンジェル・マヌーバの謎を絶対に解いてみせますから」
「車を調べるんじゃなかったの? 昨日、そう言っていたけど」
「そうですね。やっぱり、そっちが優先かな。とにかく、私、刑事さんを探しにいってきます」
「一緒に行こうか?」
「大丈夫です」
足音が聞こえ、ドアが開く音がした。萌絵が出ていったようだ。
どうやら、エンジェル・マヌーバを保呂草が隠し持っている、とまだ彼女は考えているようだ。彼の車を警察に調べさせようとしているわけである。
期待外れかもしれない、と保呂草は思った。
彼女の聡明な指導教官の頭脳に期待するしかないだろうか。
保呂草は、誰にも見られていないのに微笑んだ。
保呂草は荷物を整えて、玄関ホールから外に出た。屋敷の前庭の小径を駐車場へ向かった。警察の捜査員の姿がところどころに見える。しばらく歩くうちに後方に気配を感じたので、立ち止まって煙草に火をつけた。ライタをポケットに戻すとき横目で確かめる。ぞろぞろと三人。しかし、知らない振りをすることに決めた。彼はそのまま、愛車のビートルまで辿り着く。
助手席のドアを開けてバッグを後部座席に放り込んでいると、刑事たちが近づいてきた。
「お帰りになるのですか?」刑事の一人が尋ねた。
「あ、ええ……、仕事がありますので。いけませんか?」
「ええ、無断では困りますね。そう申し上げたはずですが」
「これから、どなたかに、言おうと思っていたところです」
「お荷物と車を、調べさせてもらってもよろしいでしょうか。なにぶん、非常に高価なものが紛失していることもありまして、その、我々といたしましても……」
「ええ、いいですよ、どうぞご自由に」屋敷の方の小径を、西之園萌絵がこちらへ歩いてくるのが見えた。保呂草は煙草の煙を吐きながらきいた。「どれくらい、かかりますか?」
「少々お待ちいただかないと……」刑事は答えた。
萌絵が近づいてくる。眩しそうな表情だ。保呂草のすぐ前に立つと、彼女は顎を上げて、彼を真っ直ぐに見た。
「これから、ログハウスで実験をします。おつき合いいただけないかしら?」
「僕に?」
「私、誰に話しかけていますか?」
保呂草は吹き出した。
本当に、瀬在丸紅子に似ている。何度そう思っただろう。
「五回だ」保呂草は小声で呟いた。
「誤解かどうか、もうすぐわかります」
「いや、違う」保呂草は両手を広げる。「今のが誤解だ」
「時間、少しくらいなら、よろしいでしょう?」
「わかった」彼は頷く。そして刑事たちの方へ振り返る。「じゃあ、その間に、調べておいて下さい。できたら、エンジン・ルームもチェックしておいてもらえると助かります。オイルは換えたばかりだけれど、バッテリィが多少心配なんで」
刑事が近くの警官を呼びつけ、指示を始めるのを見届けてから、保呂草は萌絵と二人で屋敷へ向かう小径を戻った。
「お急ぎでしたか?」歩きながら萌絵がきいた。
「そうですね、あと一時間くらいなら、なんとか」保呂草は答える。二時間もいるつもりはない。
屋敷の脇を通り、客間の下の小径を抜けた。そのベランダから、国枝桃子が手摺に寄りかかってこちらを見下ろしていた。
「国枝先生も、ログハウスへいらっしゃって下さい」
「OK」国枝は頷き、部屋の中に消える。
森へ入る手前で道を逸れ、煉瓦敷きの通路を抜けて中庭に出た。そこから細い坂道を上がっていくとテラスだった。
国枝が出てくるまえに話そう、と保呂草は考えた。
彼は立ち止まる。萌絵が先で振り返って、彼を見た。
「どうしました?」
「殺人犯が、誰か教えよう……、君だけに」
「え、誰?」萌絵は戻ってきて、保呂草に近づく。
「宗之氏と彩さんの二人」保呂草は小声で言った。「ただし、実際に手を下したのは宗之氏だ」
「どうして、それを?」
「簡単な推理」
「嘘だわ」萌絵は、保呂草を突き刺すような視線で見据えた。「貴方は、見たのですね? そうでしょう?」
どうして、この娘には見抜かれるのだろう。表情を読まれるような、下手な真似はしていないはずだが、と彼は考える。
「これは交換条件だ。一度しか言わない。言ったら最後、僕は忘れてしまう」
萌絵は黙っていた。保呂草は彼女の唇の形を見た。
「捩れ屋敷から出ていく宗之氏を見た。倉知氏を殴り殺したあとだ。手に何か持っていた。それで殴ったんだ。そのあと、僕は、あの中に入った。君の言うとおり。それで、閉じ込められてしまった。もう一度、戻ってきて鍵をかけた奴がいる。それは、宗之氏ではない。彼なら、鍵が外れていたことで異状に気づいただろう。つまり、それが彩さんだと思う」
「思う? それが推理?」
「宗之氏には動機がない」保呂草は続ける。「妻の不倫相手を殺すというだけなら、義父までは殺さない。そうだろう?」
国枝がテラスに現れ、ステップを下りてきた。
「あとで、続きを」萌絵は保呂草に囁いた。
萌絵はくるりと背中を向けて、国枝のところへ駆け寄っていく。
「犀川先生だったら良かったのにぃ」明るい声で萌絵が言った。
その切り替えの素早さには本当に感心する。
「ねえ、ちゃんと詳しく、犀川先生に話して下さいよ」
「自分で言えば?」国枝は萌絵に答えながら、しかし視線を保呂草へ向けていた。
「おはようございます」彼も歩み寄る。「なんか、朝から、面白いものが見られるみたいですね」
ログハウスの前には、刑事が二人、警官が二人、それに紺色の制服を着た捜査員が三人、合計七人の男たちが既に集まっていた。
萌絵と国枝、それに保呂草が階段を上がっていくと、刑事の一人が出迎えた。
「お待ちしていました。何か必要なものがありますか?」
「いいえ」萌絵は首をふる。「ちょっと不確定なんですけれど、たぶん、大丈夫です。ただ……」
「何です?」
「うーん、力が必要かもしれません」
「力、ですか?」刑事は歩きながら言う。「どんな力です?」
「ちょっと待って下さい」
ログハウスの正面に全員を待たせて、萌絵は、下を見ながら建物の周囲を回った。現在は窓も閉じられ、黄色のテープが貼られていたが、ドアにはそれがなかった。ドアが開けられる心配はない、と警察も判断したのだろう。
萌絵が一周回って、戻ってくる。
「小屋の向こう側の壁に、金具が取り付けられていますよね。あれにチェーンを引っ掛けて……」萌絵は近くを見回す。「あのベンチかな、それとも水道かしら? あ、もしかしたら、その樹?」彼女はそちらへ歩いていく。「ほら、ここですね」
萌絵が指差したのは、手洗いのすぐ手前にあった松の樹の幹だった。皆がぞろぞろとそちらへ移動する。
「ロープかチェーンを掛けた跡があります」萌絵が指で示す。僅かであったが、樹の幹に傷がついていた。「つまり、ここで支えて、チェーン・ブロックを巻き上げたわけです」
「もしかして、小屋を引っ張るのですか?」刑事が質問した。
「そうです。元に戻すときは……」萌絵は遠くを見てから、指を差した。「たぶん、向こうの、あの樹でしょう」
「ちょっと待って下さい。確かに、この小屋は基礎に固定されていません。それは我々も確認しています。だから、クレーンで持ち上げたんじゃないかって冗談も出たくらいなんですけど、でもですね、こんなので横にちょっとずらしたくらいじゃあ、中には入れませんよ」
「それに、跡が残る」別の刑事が言った。しかめっ面の男だが、怒っているのか、難しいことを考えているのか、いずれかだろう。「そんなずるずる引きずったような跡は残っていない。そんなことをしたら、雑草が倒れるはずだ」
「少しだけなんです」萌絵はそう言って、小屋に近づき、左手の側面へ回る。「ええ、たぶん、チェーンを使わなくてもできると思います。三人くらいで、こちらから……、この辺りを、向こうへ押して下さい」
彼女が指示したのは、物置のある場所の横だった。
「押すって? どうやってですか?」刑事がきいた。
「力いっぱい」萌絵がにっこりと微笑み、首を傾げた。
警官が二人、それに捜査員が一人加わって配置につく。
「せーの」という掛け声とともに彼らは小屋を押した。
最初は揺れただけだった。
しかし、かけ声を繰り返し、何度かトライするうちに、小屋は摩擦音を上げて動いた。
「よし、もういっちょう!」刑事が妙な声援を送る。
「せーのぉ!」声もだんだん大きくなる。
ずるずると少しずつ、小屋は移動した。何度もこれを繰り返し、男たちが押している部分が、五、六十センチ下がった。
「はーい、けっこうです。もうOKです」小屋の正面に回っていた萌絵が手を振って止めた。「こちらへいらして下さい」
全員が彼女の方へ移動する。
小屋の正面。
ずれたログハウスに変わりはない。
だが、入口のドアが開いていた。
「ああ、なるほどね……」誰かが声を上げる。
皆がドアに近づいて中を覗き見た。開いているのは僅かなので、躰を横向きにしてぎりぎり通れるかどうか、という幅だった。
「太っている人でしたら、もう少し開けないと無理ですね」萌絵が言う。
つまり、ドアは固定されている。小屋の方が動いたのだ。おそらく、ドアと小屋の壁が接する部分に、回転の軸が埋め込まれているのだろう。この小屋は、ドアは基礎に固定され、小屋の方が回転するように造られていたのだ。
保呂草も多少は感心したが、もっと手の込んだ仕掛けがあるものと考えていたので、ちょっと拍子抜けである。自分で造らせた密室ならば、どんなことだって可能だ。からくりのように、どこかの丸太が一本抜けるとか、ジャッキで小屋ごと持ち上げるとか、金持ちならやりかねない、と予想していたが、これほど原始的で単純だとは思わなかった。それに、これならば、保少年が見たという、ドアが開いている状態、も頷ける。子供の言うことだと信用しなかったのを、大いに反省した保呂草だった。
「これが、正解です」萌絵は両手を合わせて微笑んだ。「ドアは、これが造られた最初から、地面に完全に固定されています。たぶん、ドアの内部には鉄骨が仕込まれていて、それが下の基礎部まで貫通しているはずです。ドア部分が支点になっているわけですから、それくらいの強度が必要です。熊野御堂さんが一人で出入りするときは、さきほど、ご説明したように、物置のチェーン・ブロックを使われたはずです」
「これを、西之園さんに見せたかったのですね?」刑事がきいた。
「ええ……」萌絵は頷く。もう笑っていなかった。「メークをして、ここで自分が倒れているところを、私に見せようとしました。でも、力持ちなら、室内で壁を押して、ずれた小屋を戻すことができるでしょうけれど、ちょっと熊野御堂さん一人では無理です。チェーン・ブロックを使う場合は、もう一人別の協力者が必要です。道具も片づけないといけません。それは、もちろん、倉知さんの役目だったと思います」
「ということは、倉知が熊野御堂さんを殺害した、と?」若い刑事が尋ねた。
「いいえ。違います。倉知さんは、熊野御堂さんのメークをしたあと、自分の役目である、捩れ屋敷の死体に扮装しようとしました」
「では、向こうも演技だったわけですか」
「たぶん、同じように偽物の血糊を顔に塗って、仰向けに倒れている、という具合だったと思います。その両者の準備が整ったところで、熊野御堂さんが光岡さんに電話をして、私たちを夜中に呼び出すつもりだったのでしょう。光岡さんが早朝から、熊野御堂氏を探したのも、おそらく、夜中にあるはずの指示がなかったからではないか、と想像できます。それで、不審に思って書斎にあった鍵を持って、捩れ屋敷にやってきたのです。彼は、ご主人の不名誉になりはしないか、と心配して、それらのことを隠しているのでしょう」
「光岡を呼んでこい」年輩の刑事が指示する。
「あ、少しまえですが、車で出ていきました。あの……、子供を小学校へ送るんだとか……」
「休ませなかったのか?」刑事が舌を打つ。「まあいい、帰ってきたら確認しろ」
「これは私の想像ですけれど、書斎でメークを終えた熊野御堂さんが、さきに一人でログハウスへ来たのでしょう。その後をつけてきた犯人が、彼を絞め殺しました。密室を完成させたのも、その人物だと思います」
「誰なんだね? それは」年輩の角刈りの刑事が尋ねた。
「あとでお話しします」萌絵は答え、保呂草を一瞥して、話を続ける。「そのあと、助手を帰してから、倉知さんも庭に出て、こちらへやってきます。もう深夜でしたので、誰も彼に会っていません。来たときも、熊野御堂さんが裏口から招き入れたのでしょう。倉知さんは、まずログハウスへ行きました。小屋を元通りに移動させるのが彼の役目でしたが、そこは、既に密室ができあがっていました。窓から覗いても、暗くてよく見えませんけれど、もう熊野御堂さんは倒れている様子です。どうしたものか、と思案していたところへ、犯人がやってきます。きっと、上手な嘘をついたのでしょう。代わりに自分が捩れ屋敷を案内する、と犯人は倉知さんを誘いました。倉知さんは自分一人でもできる、と言ったかもしれません。犯人が捩れ屋敷の中に入った経験があるかどうかは、私にはわかりません。このとき、鍵は倉知さんが持っていたと思います。それでドアを開けて、中に入りました。右から順番に回ったはずです。エンジェル・マヌーバも、このときには、まだありました。異状はなかった。それで、最後の部屋で突然、犯人は倉知さんを殴って殺しました。おそらくズボンか背中に、それなりの凶器を隠し持っていたのでしょう。犯人は倉知さんの鍵で施錠して、凶器を持ち去った。それは綺麗に洗われて、今頃どこかの工具箱に収まっているかもしれません」
「顔見知り、ということだな?」
「もちろんです。この屋敷内の人間だと断言しても良いでしょう。そもそも、熊野御堂さんと倉知さんを、こんな密室仕立てで殺害したのは何故でしょうか? それは、密室やエンジェル・マヌーバに興味のある客がその日に来ていたからです。普段の状態で、しかも身内ならば、わざわざ、こんなところで殺さない。私や国枝さん、それに秋野さん、当然この三人が疑われる、というのが犯人の計算でした、実に幼稚な思惑ですけれど……。捩れ屋敷やログハウスの密室を創作した頭脳とは、雲泥の差といって良いでしょう」
「誰なんだね?」刑事がまた尋ねた。もう痺《しび》れを切らしているといった深い皺が額に刻まれていた。
「大変申し訳ありませんけれど、今回の殺人および密室に関する私の説明は以上で終わりです」萌絵は優雅な仕草で頭を下げた。彼女は顔を上げると、上品に微笑んで、周囲の皆を見回した。「二時間後に再開したいと思います」
「ちょっと待った……」刑事が言いかけた。
「後半の論点は、もちろん……」萌絵は微笑を、保呂草に向ける。「エンジェル・マヌーバは、いかにして巨大なキー・ホルダから外されたのか、です」
部屋に一人戻った西之園萌絵は、ソファにもたれかかり、ずっと考え続けた。国枝は下のリビングだろう。結局、秋野は帰ってしまった。彼の車は徹底的に調べられたが、不審なものは発見できなかったのだ。
彼女は、時計を見る。犀川に電話をかけるリミットの九時が迫っていた。
しかし、どうしても思いつかない。
柱から短剣の鎖を外すことは絶対に不可能だ。
強引な方法は、柱を途中で切ること。しかし、そうすれば、上部構造の荷重がかかって、その隙間は直ちに塞がってしまうだろう。そもそもノコギリなどで簡単に切れるものではない。電動のカッタを持ち込んでも、やはり荷重による圧力で回転刃が止まってしまうはずだ。
絶対に不可能だ。
それならば、柱ではなく、天井や床に切れ込みを入れる?
あの建物は梁《はり》のないフラット・スラブ構造だった。他の部屋に柱がないのだから、構造的には柱は必要がない。だとすると、案外、柱が外れるのでは?
否、そんなふうではなかった。それに、そんな秘密を、熊野御堂氏以外の人物、特にあの秋野という男が知っているはずはない。捩れ屋敷に潜んでいたのも、エンジェル・マヌーバを盗み出したのも、間違いなく、あの男なのだ。
天井か床を切断することを考えた。鎖の長さから、それが可能かどうか。それに、切った部分は、どう処理するのか……。
そうか、
セメントで埋めておけば良い。
補修すれば良いのだ。
セメント?
「あ、そうか!」彼女は躰を起こした。
セメントなら、あそこにあった。そう、ログハウスの物置に。バケツもスコップもあった。水は、そう、ベンチのところに手洗い場がある。すべて揃っているではないか。
「だから、あんなに長時間あそこにいたのね。補修に時間がかかったんだ……」
しかし、コンクリートを切るような道具はあったのだろうか?
電動のコンクリート・カッタはかなり大がかりな工具である。簡単に持ち運べる代物《しろもの》ではない。
時計を見る。あと五分。
解答に近づいているだろうか。
犀川助教授の顔が思い浮かんだ。
彼は、いつだって、何かのヒントをくれる。
あとになって、それとわかるのだ。
ログハウスのことでは……、そう、相対運動だと言った。もともと、萌絵が思いついたのも、昨夜、保と天体の話をしていたときだった。
犀川は、捩れ屋敷の謎について、何と言ったか?
解答は一つしかない、と言った。
萌絵は思い出す。
「もし絶対に鎖を切らない、と仮定すると」
彼女は自分の口でそれを反復した。
「絶対に鎖を切らない、と仮定すると」
他には?
思い出す。
そうだ……、
「君が観察した現象を説明する解答」
確か、犀川はそう言ったはず。
「観察した現象を説明する解答は、一つしかない」
観察した現象?
つまり、
もしかして、自分の認識は間違っているのか?
あの部屋の柱をもう一度思い出す。
円柱の、のっぺりとしたコンクリート。
のっぺりとした。
セメントだ。
息を止める。
数秒後に、浮上する閃《ひらめ》きを予感した。
背筋がぞっと寒くなる。
「わかった」冷静な声で、彼女は囁いた。
なんてこと……。
そうか。
そうだったのか……。
なんて、馬鹿馬鹿しい!
腕の時計を見た。
ジャスト九時。
萌絵はトランポリンから下りるようにソファから立ち上がり、サイドテーブルの携帯電話に駆け寄った。
第7章 克服 conquest
そして、黙っていることも、まずまず心得ている。
「もしもし」犀川の声である。
「おはようございます」
「ああ、君か……。あぁあ」
「先生、九時です。起きて下さい」
「寝ながら、しゃべっていると思う?」
「言うと思いました」萌絵は笑った。
「切るよ」
「だめだめ」慌てて声を上げる。「あの、だって、エンジェル・マヌーバの謎が……」
「解けたんだろう?」
「はい」彼女は頷いた。
「じゃあ、終わりだ」
「あ、待って! ちょっと待って下さい」
「OK」
「あのでも、どうして、解けたってわかるの?」
「声の大きさでわかる。うちの電話のメータが振り切れているから」
「え、メータがついているんですか?」
「嘘だよ」
「ああ、先生……。凄いじゃないですか、朝から、冴え冴えですね」
「ところで、車は調べた?」
「え? ええ……」萌絵の声は少しトーンが落ちる。「でも、車はもう関係ないのでは……」
「まあ、うまくすれば、そうかな」
「うまくすれば?」
「切るよ。大学に行かなくちゃ」
「ではまた、のちほど電話しますね、研究室に」
「別に良いよ、かけてこなくても。えっと、今日は、ああ、駄目だ。朝から委員会だから」
「そうですか……、でも、お昼頃には連絡します。ちゃんと、報告しますから」
「帰りの運転に気をつけて。優秀な頭脳を二つも失いたくない」
「頭脳だけですか?」
「哲学的なことをいうね。それじゃあ……」
「はい。失礼します」
電話を切り、彼女は深呼吸をした。
さて、理論と現実との比較が待っている。
捩れ屋敷の白いコンクリートの壁が、芝と森林の二種類の緑を分け、その背後の青い空を美しく鮮明にしていた。正面の前に集まった刑事たちの渋い表情とは対照的だ。萌絵と国枝がその場に到着したのは、九時十分過ぎ。約束より五分の遅刻である。一応、事前に電話で話し、道具の準備も依頼してあった。
入口は開放されている。中に足を踏み入れると、左右のドアも開いたままだった。それどころか、三十六部屋のドアがすべてそうらしい。一応、セオリーどおり右から順に部屋を回っていったが、立ち止まらず次の部屋へと進めるので、印象がずいぶん違った。展開が早くなった分、トンネルが捩れていく様子がまえよりも体感しやすい。実に新鮮だ。ここを走り抜けることができたとしたら、きっと酔ってしまうだろう。どこが水平で、どちらが下なのか、わからなくなるに違いない。
半分の部屋を通過し、柱がある問題の部屋までやってきた。
「どうしてここへ?」刑事が尋ねた。「ここじゃないと、説明できないことなんですか?」
「説明というよりは、確認です」萌絵は答える。「エンジェル・マヌーバを盗もうとした人物は、どうしてもその貴重な鎖を切断することができなかったのです。そもそも、その価値を彼は知っていた。価値を知っていたからこそ、この美術品に興味を持っていた。これのために危険を冒す価値がある、と判断したのです」
「それが、あの秋野だとおっしゃるのですね?」
「いえ、その確かな証拠はありません」萌絵は結論を避けた。それは、彼が教えてくれた、殺人犯が誰なのか、という目撃情報との交換条件を意識してのことだった。自分では認めたくなかったのに、と彼女は確かに迷っていた。「ただ、エンジェル・マヌーバは、盗まれてはいないのです」
「え? でも……」
「もとから、なかった、ということですか?」
「いいえ、そうではありません」萌絵は首をふった。「簡単です。エンジェル・マヌーバは、柱から外されていないのです。事件のあと、この柱を見たとき、何か違和感を抱いたのですが、それが何なのか、さきほどまで気づきませんでした」
「さきほどまで?」
「ええ、実は、たった今、つい十分ほどまえに気がついたのです」
「でも、二時間後に再開するって……」若い刑事が眉を顰《ひそ》める。
「あと二時間で思いつこうと決めていただけです」萌絵は言った。「変ですか? でも、思いつこうと思わなければ、思いつかないでしょう? 考えなければ、アイデアは浮かびません。突然、何もしていないのに思いつくなんてことはないはずです」
国枝桃子が小さく鼻息をもらした。可笑しかったのだろう。
「さて、私が覚えた違和感は、この円柱の柱です。何も出っ張りのない曲面」彼女は柱に片手を触れる。「これは、最初に見たときとは、違っていました。最初は、短剣があった。それ以外にも、あったものが、今はありません」
「短剣以外のもの?」
「ええ、エンジェル・マヌーバがここに飾られていたときは、それが下にずり落ちていかないように、柱に小さな金具が打たれていたのです。それが周囲に何本かあって、それに鎖が掛かっていました。そうでしたよね? 国枝先生」
「そういえば、そう」国枝は頷いた。「なるほどね」
「ご覧のように、今はそれがありません」萌絵は指をさす。
「つまり、金具も引き抜いた、ということですか?」刑事がきいた。
「それでしたら、コンクリートの表面に、金具の穴が残っているはずです。よく観察して下さい。穴はどこにもありません。その代わり、細かいクラックがあるだけです」
「クラック?」
「ええ、ひび割れのことです。これは、乾燥収縮ひび割れと呼ばれているクラックですが、セメントと水が反応して、硬化するとき、乾燥によって体積が減少するので、内部に引張応力《ひっぱりおうりょく》が作用して、細かいひび割れが発生します。特に、セメントと水だけを練り混ぜたものは、これが酷くなります。砂を混ぜてモルタルにしたり、さらに砂利を混入してコンクリートにすれば、固体が入った分、多少は体積減少が抑えられますけれど」
「西之園さん、あの、申し訳ありません。ちょっと説明が専門的だと思います」若い刑事が両手を広げて言った。「とにかく、それが、どう関係するのですか? 我々は一刻も早く捜査を再開しなければなりませんので……」
「すみません。つまりですね、皆さんがご覧になっている、目の前のこのコンクリートの柱は、昨日、私が見たものではないのです」
「え?」数人が声を上げた。
「金具のあとがありません。それに、モルタルで造られたばかりのような乾燥収縮クラックが発生しています。これから、もっと酷くなるでしょう。剥がれ落ちてくるかもしれません。とにかく、突貫工事だったのですから」
「突貫工事?」
「工具を持ってきてもらえましたか?」萌絵は、紺色の制服の捜査員を見た。
「あ、ええ、一とおりは」
「では、この柱の表面を剥がしてみて下さい。表面に塗られたモルタルだけを剥がす。ただ……」萌絵は正面の顔の高さを指で示した。「この辺りに、エンジェル・マヌーバが埋まっているはずですから、傷をつけないように、後ろに回っているリングにも、充分に気をつけて下さい」
萌絵が説明を終えても、数秒間沈黙が続いた。
誰もが柱を見つめたまま動かなかった。
萌絵がもう一度、工具箱を持った男へ視線を向けると、彼は屈《かが》み込み、工具箱から大きなドライバとハンマを取り出した。それを持って、彼は柱の前に立つ。
「いいですか?」上司の顔を見て、捜査員は許可を求めた。
「ああ……」角刈りの刑事が頷く。「慎重にやれ」
コンクリートを叩く音が鳴り響いた。ハンマがドライバの後部にぶつかる甲高い音と、柱が振動を受け止める鈍い低音が重なり、また、金属的な乾いた音と、どこか湿った音が、入り交じって、独特の衝撃音を発しながら、作業は進められた。最初の十数回の打撃で、まず手のひらほどの大きさのモルタルが剥がれ落ちた。その奥に、微妙に異なる灰色の綺麗な曲面が現れる。そこまでの深さはニ、三センチだった。つまり、剥がれ落ちた固まりの厚さが、それくらいだったことになる。
「私の説が証明されましたね」萌絵がにっこりと微笑んだ。
「これ、犀川先生から聞いたの?」横に立っていた国枝が耳打ちした。
「いいえ」萌絵は首をふる。「ちゃんと自分で考えました」
捩れ屋敷の一室で、その後も作業が続いた。優に一時間はかかるだろう、と予測されたので、一旦、萌絵と国枝、それに刑事たちは建物の外に出た。粉塵《ふんじん》と騒音から解放されて、さらに爽《さわ》やかな晴天の下、森林の空気は都会とは比べものにならないほど清々しかった。
年輩の刑事は、名前を井上といった。角刈りの痩せた男である。萌絵は、決心して彼に話すことにした。誰が今回の事件の主犯なのか、そして、おそらく共犯者か、それに準ずる者がいることを。ただ、それらはあくまでも彼女の推測である、という程度の話に留めた。井上はそれで充分だと頷いた。自信ありげな表情だった。警察にも何か持ち駒があるのであろう、と萌絵は感じた。
「かなり、せっぱ詰まってのことだった、と私は思いますね」井上が呟くように話した。「この謎めいた舞台とは、まったく対照的です。白々しく、見え見えといってもいい」彼は、ふんと鼻息を鳴らし、口を歪める。
「汚されてしまったのが、とても残念です」萌絵は言った。
熊野御堂譲の趣味は、普通の者の理解を超えた、とても尋常ではない領域の無駄事だったかもしれない。しかし、少なくとも汚れてはいなかった。殺人をモチーフにしたゲームだったけれど、実際に他人の命を奪う行為とは、明らかにかけ離れている。一線を画する高尚さがあった。それが、血に汚れた欲望のために、すっかり台無しになってしまったのだ。
いつだって……、
綺麗なものが、汚される。
大切なものが、壊されてしまう。
しばらく、萌絵は国枝とともに、捩れ屋敷の周囲を散策し、その構造物の造形について意見交換をした。メビウスの帯には、曲面の境界となる一本の閉曲線が存在するが、これを消すために曲面が延びて繋がると、クラインの壺になる。そちらをモデルにした建築物なら、世界にも幾つか例がある、という話を国枝がした。空間における内と外の関係、そこに現れるダイナミクスは、建築の永遠のテーマといって良い、と犀川の授業で聴いたこともあった。そんなディスカッションをしているうちに、時間は瞬く間に過ぎる。
作業は思ったほど時間がかからなかった。捩れ屋敷の中から捜査員が出てきて、中に来てくれ、と告げた。
刑事たちが慌ただしく入っていき、萌絵と国枝も遅れて中に戻った。
リングの一番奥の部屋。一本だけの柱は、コンクリートの円柱のまま、そこに立っていた。その下に、細かい破片が沢山落ちている。表面を覆っていたモルタルがすべて剥がされた。萌絵が指摘した小さな金具も露出していた。柱は一回り細くなったはずだが、その差は僅かである。
「で?」井上が最初に口をきいた。「出てきたのか?」
「いいえ」
「え?」萌絵は口を片手で覆った。
「何もありませんでした。ご覧のとおりです」
「そんな……」彼女は柱に近づく。「だって、それじゃあ、何のために、柱にモルタルを塗りつけていったんですか? これだけの仕事を、いったい何の目的で?」
誰も口をきかなかった。答えようがない疑問だったからだ。
萌絵は唇を噛みしめる。
涙が出そうになった。
けれど、一瞬にしてスイッチを切り換えた。
考えなくては……、
泣いている場合ではない。
とにかく、
考えなくては……。
反撃しなくては……。
目まぐるしく、彼女の頭脳が回転する。
犀川の言葉が脳裏に過ぎる。
「車」
萌絵は呼吸を取り戻す。
「私の車?」
思いついた。
そうか……、自分の車じゃなかったのか。
「どうしました?」井上が心配そうにきいた。「ご気分が悪そうですが……」
「いえ、大丈夫です」
「たぶん、このモルタルを塗っている途中で、気が変わったんでしょう」井上が言った。「結局、鎖を引きちぎって持っていったんですよ。屋敷のどこかに隠したのに違いありません」
「すぐ私の車を調べて下さい。たぶん、バンパか、それとも、フェンダの下か裏側に、粘着テープか何かで……」
「那古野に戻ってから手に入れようとしたってことですか?」井上がきいた。
「西之園さんの車なら目立ちますからね」他の刑事が言う。
萌絵は頷こうとしたが、目眩《めまい》がして、目を瞑った。
急に苦しくなる。
彼女は、その場にしゃがみ込んだ。
いけない、いつもの貧血だ……。
自分では意識があるのに、躰が急に動かなくなる。
昨日の寝不足がいけなかったのか……。
「大丈夫?」国枝の声が遠い。「西之園さん?」
保呂草潤平は、山道を下ったところにある麓の町の喫茶店でコーヒーを飲んで時間を潰《つぶ》していた。カウンタの後ろの棚に、なんともレトロな置物が並んでいる。店自体が古いので、レトロ趣味でわざと集めたものではなさそうだった。都会へ持っていけば、マニアには結構な値で売れるかもしれない。他には、サインされた色紙などといった際物《きわもの》もある。「一期一会」という文字が読めた。否、確実に読めたのは「一」だけで、あとの漢字ははっきりとしない。一日一善、一長一短、一喜一憂などを当てはめて、まあまあそれらしいものを想像したに過ぎない。もちろん、そんな人に読めない文字を書いた本人の名前はもっと崩れていた。何か後ろめたいことがあるのか、それとも、売名行為を嫌う謙虚な人間に違いない。
自分の座右の銘は何だろう、と保呂草は考える。
おそらく、
欲しいものは手に入れる、どんなことをしても。
くらいだろうか。色紙に書くには多少文字数が多いが。
時間を見計らって、外に出た。
駅前の売店で新聞を買う。小さな噴水が見えた。その近くで、スケートボードで遊んでいる若者が数人。
保呂草は、そちらへ歩いていく。そして、しばらく彼らの動きを眺めてから、一番腕の立ちそうな小柄な少年に近づいた。髪を染めた中学生くらいの男の子だ。もちろん、中学生であれば、この時間にここにいることはできないはずだが。
「なんだよ?」彼は保呂草を見上げた。
「簡単な頼み事があるんだ」保呂草は彼の手にそっと一万円札を握らせる。
「え……、やばいことか?」
「全然」彼は微笑んで首をふった。
指示は簡単だった。
片手には売店で買ったスポーツ新聞。もう一方の手で、胸のポケットに引っかけてあったサングラスを取り、それをかける。左右を眺めてから、道路を横断し、バス停の付近に立った。バスが停車しても、彼はそれをやり過ごす。そこで、また十数分間、時間を潰し、煙草を二本消費した。
子供の声が聞こえてきた。歩道を何人かの児童が並んで歩いてくる。少し先に小学校の門が見えた。子供たちはそこから出てきたのだ。
黒いセダンがゆっくりと近づいてきた。
保呂草は、サングラスに指を当てて、合図を送る。
セダンは校門の前に止まった。
大きなランドセルを背負った男の子が校門から出てきた。
彼は一度立ち止まり、振り返って校門の方へ手を振る。そこへ、スケートボードの少年が向こう側から突っ込んできた。
「危ない!」と誰かが高い声を上げる。
スケボーの少年は、男の子の直前で派手に転んだ。蹴られたボードが回転して、反対向きに地面に落ちた。
ランドセルの男の子は立ちつくしている。
保呂草は歩きだした。真っ直ぐに黒いセダンに向かって。
運転席の男が慌ててドアを開け、飛び出していく。彼は歩道の真ん中に立っている男の子のところへ走った。
保呂草は歩道から車道に下りる。道路を渡る振りをして、路上駐車の車の脇を進む。黒いセダンの後部まで来たとき、彼は屈み込み、新聞紙を地面に置いた。
マフラの右横、フェンダの裏側だ。
針金を使ったから、多少面倒だったけれど、捻った方向も、回数もすべて記憶していた。それを逆に戻す。
目的のものを左手が掴む。そのまま地面の新聞に挟み込む。
保呂草は立ち上がり、サングラスを右手で直す。道路の車を確認する。そして、横断した。
センタ・ラインまで来たとき、振り返って校門の前を窺った。男の子は車に乗り込もうとしている。運転手はドアを支えて立っていた。スケボーの少年がこちらを見たので、保呂草はさっと背中を向けて道路を渡りきった。
歩道を足早に遠ざかりながら、彼は考える。
あの柱に、モルタルを塗っているとき、偶然にも気づいた。
エンジェル・マヌーバの鎖の、最初のリングと接続している部分、そこが一部壊れていた。その部分がレジン・プラスティックで補修されていたのだ。
彼は大きな溜息をつき、その場に膝を落とすほど落胆した。
美術品は、心ない者によって既に破壊されていたのだ。
やり場のない憤りを感じた。
何でも良いから、思いっきり蹴飛ばしてやりたくなった。
しかし、彼は細い精密ノコギリをポケットから取り出し、そのレジン・プラスティックの部分を削ることにしたのである。
実に簡単な作業だった。
おそらく、西之園萌絵に出会っていなければ、そのままで逃げ出していただろう。彼女の顔を思い浮かべ、そして、瀬在丸紅子のことを連想しつつ、彼は、練ったモルタルをすべて使うことにした。捨てるくらいならば、ここで使ってやった方が良いだろう、と考えた。
まさに、塞翁《さいおう》が馬。
色紙に書くとしたら、これだな、と彼は思った。
ビートルは、ずっと遠く、駅の裏の駐車場で待っている。
駅の噴水のところまで戻ると、スケボーに乗った少年がにやにやと笑いながら近づいてきた。
保呂草は、ポケットから一万円を取り出し、彼に手渡した。
「おじさん、何したんだよ?」
「何も」彼は答える。
「けっ」少年は横を向いて唾を吐いた。
「いくつだ?」保呂草はきいた。
「さあね」
片手を軽く挙げて、保呂草は少年と別れた。駅の構内へ入り、反対側へ抜ける。
しかしそのとき、背後から聞き慣れた音が近づいてきた。彼は立ち止まって足を止める。
さきほどの少年だった。金が足りないのだろうか、と保呂草は予測する。
「何だ? もう用はない」
「俺、もう少ししたら、警官になるんだぜ」
「へえ」保呂草は表情を変えない。「それが?」
「そんときには、おじさんを捕まえることがあるかもな」
保呂草は少し笑った。少年の日焼けした肌と対照的な白い前歯を見る。
「その頃には、引退してるよ」保呂草は言った。
「何だよ、引退って」
「死んでるってことさ」
エピローグ 洒落 jest
保呂草潤平は、数日後、瀬在丸紅子に会った。煉瓦に蔦《つた》の這《は》う日当たりの悪い店で、彼は待っていた。紅子は店に入ってくると、すぐに彼を見つけたが、テーブルの向かいの席に座るまで、片手も挙げず、彼を見ることもなく、それに笑いもしなかった。
「不機嫌そうですね」保呂草は言った。
「うーん、そうかな」一瞬だけ口もとを上げて、紅子は彼を見る。近づいてきたウエイトレスに「美味しいコーヒー」と告げたあと、保呂草が差し出した煙草の箱から一本を抜き取り、彼が振ったライタの火にそれを近づけた。
「エンジェル・マヌーバを手に入れましたよ」保呂草は言う。
「へえ……」紅子は煙を細く吹き出しながら、片方の眉を僅かに上げた。「それはそれは」
「苦労しましたよ」
「念願叶う、ていうのかな」
「お話ししましょうか?」
「ええ、煙草をいただいたんですもの、話くらい聞かなくちゃ」
そこで、保呂草は、否、私は、今回の顛末《てんまつ》を彼女にざっと説明した。私には直接関係のない、ちょっとした事件が起きてしまったこと、それに、そこで出会った、少し変わった女性のことも。
どうして話すのかって?
それは、紅子の反応が見たいからだ。
彼女の反応が見たかったから、私はあれを手に入れたのだ、とさえ思える。それは言い訳か、あるいは洒落か……、まあ、どちらでもかまわない。だいたい同じだ。
「その人、名前は?」
「ああ、西之園さん」
「え?」紅子はここで目を見開いた。
エンジェル・マヌーバと聞いたときよりも、ずっと大きな驚きだったようだ。これには、私もびっくりしたほどだ。
「ご存じだったのですか?」
「あ、ええ……」紅子は座り直した。「保呂草さん、お願いがあります」
「何です? 改まって」私は少し嬉しくなった。彼女にお願いをされるなんて久しぶりのことである。
「彼女には、手を出さないで」
「彼女って、西之園さんのこと?」私がきくと、紅子は頷いた。当然ながら、私は尋ねる。「どうしてです?」
「うーん、いろいろ理由があるわ。彼女の叔父様は、愛知県警本部長ですよ。叔母様は、県知事夫人。亡くなったお父上は、N大の元総長でした」
「あの……、紅子さん、なんか誤魔化しているでしょう?」とても可笑しかった。私はサングラスを外す。「そもそも、ちょっと引っかかったんですけど、手を出すなっておっしゃいましたよね。それ、どういう意味です?」
「相変わらず、白々しい方ね」紅子はむっとした表情になる。
「じゃあ、たとえば、今の紅子さんと僕の関係なんかも、これ、僕は手を出していることになりますか?」
「そりゃそうですよ。私なんか、もう貴方のせいで人生めちゃくちゃといっても良いでしょうね」
「ちょっと待って下さい。そりゃ、いくらなんでも言い過ぎですよ」
「ええ、ちょっと言い過ぎてみました」紅子はにっこりと笑った。「怒らないで」
「まったく……」私は呆れて溜息をつく。
「とにかく、一切何も、関わらないでほしいの」
「そんなつもり、ありませんよ。あの子はね、そりゃ魅力的だけど、ちょっと……、なんていうのか、危険だな」
「あら、そう?」
「それに……、誰かにそっくりだ」
「誰に?」紅子は真剣な表情で目を丸くした。
「わかりません?」
彼女は首を傾げ、大きな瞳を天井へ向ける。
そっくりだ。
そのあと、私は、西之園萌絵に関する永世不可侵を約束する交換条件として、彼女に関する詳しい情報を紅子から入手したのである。この物語の記述にも、既にその情報が盛り込まれていることを最後に断っておこう。つまり、あとから知った情報だ。
だが、このとき紅子の話を聞いて、逆に、私は心底驚かされた。まさに驚愕である。
なんと、そんなことがあろうとは……。
もし、それを事前に知っていたら、どうなっていただろうか。本当に、思い出しただけでぞっとする。ニアミスに近い、といっても良いだろう。
私はこの事情を知って、簡単に紅子の要求を受け入れた。
まったく異存はない。
しかし、いずれにしても、
瀬在丸紅子と西之園萌絵の二人の類似を、私よりもさきに知った人物がいたことだけは確かだ。その点については、どういうわけか、少しだけ私の肩に作用した荷重が減少した感がある。不思議なものだ。
さて、これで終わりである。
私を驚愕させた事実が何か、知りたいって?
そう、知りたい気持ちは、もちろん充分に理解できる。
それが人間の欲望というもの。
大切にしてほしい。
けれど、
話せない。
なにしろ、彼女からお願いされてしまったのだ。
手を出す、関わる、知ろうとする……。
どれも同じだろう。
だから、悪いけれど、これだけは諦めてほしい。
洒落だと思って、見逃してほしい。
永遠に……。
私は黙っているつもりだ。
少なくとも、引退するまでは。
fin.