イナイ×イナイ
森 博嗣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)椙田《すぎた》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)折々|朦朧《もうろう》
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〈帯〉
巨大な屋敷の地下で密かに育まれる凄絶な事件の芽!
待望の森ミステリィ、Xシリーズ第1弾
[#改ページ]
〈カバー〉
森ミステリィの最新説!
死んでしまえば良いのに。
殺してしまえば良いのに。
「私の兄を捜していただきたいのです」美術品鑑定を生業とする椙田《すぎた》事務所を訪れた黒衣の美人・佐竹千鶴《さたけちづる》はこう切り出した。都心の一等地に佇立する広大な佐竹屋敷、美しき双子、数十年来、地下牢に閉じ込められているという行方不明の兄・鎮夫。そして自ら〈探偵〉を名乗る男が登場する。旧家で渦巻く凄惨な事件の香り……。新章開幕、Xシリーズ第1弾
いないいない
どこにもいない
いるよいるよ
どこかにいるよ
だあれだあれ
どこかにいるの
どこもどこも
だれかがいるよ
[#改ページ]
イナイ×イナイ
[#地から1字上げ]森 博嗣
[#地から1字上げ]講談社ノベルス
[#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS
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目次
プロローグ
第1章 美しき囚われ人
第2章 闇と血の消散
第3章 黙する紫の花
第4章 白き頬に赤き唇
第5章 香しき思慕の末
エピローグ
[#改ページ]
[#中央揃え]Peekaboo
[#中央揃え]by
[#中央揃え]MORI Hiroshi
[#中央揃え]2007
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登場人物
佐竹家の人々
佐竹《さたけ》 重藏《じゅうぞう》…………故人
佐竹《さたけ》 絹子《きぬこ》…………妻
佐竹《さたけ》 信子《のぶこ》…………先妻
佐竹《さたけ》 千鶴《ちづる》…………娘
佐竹《さたけ》 千春《ちはる》…………娘
佐竹《さたけ》 鎮夫《しずお》…………息子
兼本《かねもと》………………会計士
倉田《くらた》………………執事
江川《えがわ》………………家政婦
立花《たちばな》………………運転手
六郎《ろくろう》………………下男
それ以外の人々
鷹知《たかち》 祐一朗《ゆういちろう》………探偵
椙田《すぎた》 泰男《やすお》…………美術品鑑定業
真鍋《まなべ》 瞬市《しゅんいち》…………芸大生
小川《おがわ》 令子《れいこ》…………助手
鈴木《すずき》………………刑事
[#改ページ]
彼の女の語る挑発的な巧妙な舒述《じょじゅつ》は、一言一句大空の虹の如く精細に、明瞭な幻影を私の胸に呼び起して、私は話を聴いているより、むしろ映画を見ているような眩ゆさを感じました。同時に私は、その公園へ今まで何度も訪れたことがあるらしく感ぜられました。少くとも彼の女が見物したというそれ等の幻燈の数々は私の心の壁の面に、妄想ともつかず写真ともつかず、折々|朦朧《もうろう》と浮かび上って私の注視を促すことはしばしばあるのです。
[#地付き](魔術師/谷崎潤一郎)
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プロローグ
[#ここから5字下げ]
私は、魔術師が諄々として語り続ける滑らかな言葉よりも、むしろ彼の艶冶《えんや》な眉目と阿娜《あだ》たる風姿とに心を奪われ、いつまでもいつまでも恍惚として、眼を|※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》らずには居《お》られませんでした。
[#ここで字下げ終わり]
真鍋瞬市《まなべしゅんいち》は、ドアが開く数秒まえに気配を感じた。通路を歩く甲高《かんだか》い音は、男性の靴が立てることができない波長だったからだ。ここへ彼が出入りするようになって以来、女性といえば、小川令子《おがわれいこ》以外には一度も遭遇した機会がないこと、さらに、少なくともいつもの彼女のアップテンポな歩き方ではないことを一瞬で解析した。何故そんな一瞬の判断が自分にできるのかと不思議に思うほどだったが、ときどきこんなことがある。なにかの弾みで僅《わず》か数秒の間に意外なほど遠くまで思考が到達する経験は珍しくない。静かな午後であったし、頭脳が比較的良い環境の湖に浮いてリラックスしていた。言い換えれば夢心地でもあった。体調も良好。稀《まれ》な好条件だったかもしれない。特に、のんびりとなにもせずに時間を潰しているときにかぎって、今なら世紀の大発見か、究極の芸術のテーマでも思いつけるのでは、と感じることがある。
小川令子だったら良いな、と一瞬は思った。今、自分はこの事務所で一人留守番をしている。こんな退屈さが綺麗に裏返しになって、デザートのように甘くて楽しい午後を予感した。けれども、一瞬で現実はそうではないと思い直し、急いでテーブルの上にのせた自分の足を下ろした。もちろん、自分の足でなければ簡単には下ろせないし、小川令子であってもなくても、下ろしていたことはまちがいない。
控えめなドアのノック。真鍋は一テンポわざと遅れて「はい、どうぞ」と落ち着いた演技の声で返事をした。
ゆっくりとドアが開き、黒髪の美人が部屋に入ってきた。これには少なからず驚いた。しかし、足音から予感したものは妄想ではなかったのだ。黒い軽そうなコート、そして細いブーツ。部屋の奥に真鍋を見つけた瞳は、ほんの僅かに視線が逸《そ》れているような感じだった。逸れていなかったら、射抜かれていたかもしれない。瞬きが三度。それから、慎み深そうな赤い唇が動き、高い震えるような声が空気を伝わってきた。
「あの……、椙田《すぎた》さんは、いらっしゃいませんか?」
ここは椙田|泰男《やすお》の事務所である。真鍋は単なる留守番。したがって、真鍋を訪ねてくる人間はいない。人が訪ねてくるなんて滅多《めった》にないことだし、実際にも訪問客を見たことは一度もなかった。それに、訪ねてくる人間の集合にこんな美人が含まれるとは、まったく想像したこともない。
「いえ、ちょっと出かけておりますが、あの、お約束だったでしょうか?」
「いえ……、その」
「えっと、私は、椙田の助手をしている真鍋といいます。もし、良ければ、ご用件を伺いますが……」
美人は目を瞬かせ、小さく頷《うなず》き、ドアを閉めた。小さなソファがある場所へ真鍋は客を導いた。テーブルも小さい。すべてそのまま粗大ゴミになっても不自然でないほどの代物である。彼は、デスクにあったパイプ椅子を移動させて、テーブルの対面に腰掛けた。
「先日、椙田さんに骨董品を見ていただきました佐竹《さたけ》の娘で、千鶴《ちづる》と申します」美しい口から細い声で、言葉が綴《つづ》られる。「あの、お聞きになっていらっしゃいますか?」
「はい、もちろんです」真鍋は頷いた。
ほとんど聞いていない。佐竹という名前も覚えていなかった。ただ、椙田が、大金持ちの家に骨董品の鑑定のために出向いたことは知っていた。そこの主が死んだという話だった。遺産相続のためだろうか、そのコレクションの整理が必要になったというわけである。
「父が亡くなりまして、すっかり変わってしまいました。彼はいわば暴君だったのです。家の中はすべて父によって統制されていました。誰も、その封建的なやり方に反対ができなかったのです」
綺麗な声で語られるにしては、少々違和感のある表現だった。千鶴という人物が普通の女性ではないな、と真鍋はまず感じた。普通でない、それはつまり、少なからず異常だ、という意味である。そうでなければ、初対面の人間に、いきなりこんな話を始めるだろうか。けれど、もちろん黙って聞くしかない。これが自分の仕事、というわけではないが、少なくとも留守番役の責任の範囲ではある。
佐竹千鶴の説明によれば、その暴君だった主人が死んだので、このように娘が外に気軽に出てこられるようにもなった、ということだった。
「先日、椙田さんから、お名刺をいただきました。玄関口でたまたまお会いしたのですけれど、そのとき、私、この人ならば、信頼が置けるのではないか、と直感いたしました」
「あ、そうですか」真鍋は頷いた。
椙田という男は、もう五十代である。長身で痩せている。白髪混りの髪と顎鬚《あごひげ》、それに銀縁のメガネをかけている。たしかに、若い頃にはもてたのではないか、というのは、そう、小川令子の評価である。それはさておき、一見して信頼できそうな人間には見えない。どちらかといえば、その逆。少なくとも、真鍋はそう思うのである。
「なにか、ご依頼の物件がある、ということでしょうか?」
「はい、是非、お願いしたいことがございます」
「ええ、もちろん、えっと、私では正式にはお返事ができませんが、椙田でしたら、喜んで引き受けると思いますよ。どんなものでしょうか? 鑑定が必要なのですね?」
「あ、いえ、その、鑑定ではありません」
「え?」
「お名刺には、美術品鑑定のほかに、調査、探偵、とございました」
「探偵? ああ、はいはい、そうです」真鍋は頷いた。確かに、椙田の名刺には、そう書いてある。しかし、探偵なるものが具体的にどんな仕事をするものなのか、真鍋にはさっぱり想像ができなかった。それは、テレビのドラマにしか登場しない職業だと考えていたからだ。
「調べていただきたいことがあるのです」
「はい、どんなことでしょうか?」
「詳しくは、一度、当家へお越しいただいて、そのときに説明をいたしますが、あの……、簡単に申しますと、私の兄を捜していただきたいのです」
「はあ、お兄様が、行方《ゆくえ》知れずなのですか?」
「はい」
「いつからでしょうか?」
「私たちが生まれるまえです」
「私たち?」
「あ、あの、ごめんなさい。私には双子の妹がおりますので、いつも、つい私たち、と言ってしまうんです」
双子の姉妹か、と真鍋は想像する。それはまた、ドラマティックではないか。思わず微笑みたくなったが、顔の筋肉に力を込めて我慢した。
そのあとも、なにか話が続くのか、と期待していたのだが、ただ沈黙が低音で振動するかのように部屋中に広がるだけだった。じっと真鍋の方を見据える美しい瞳は、潤《うる》んでいるようにも見えた。それがデフォルトなのか、それとも言葉にならない感情が僅かに染み出た証《あかし》だったのか、それはわからない。
「えっと、それでは、いつ頃お伺いすればよろしいでしょうか?」
「なるべく早くお願いいたします」佐竹千鶴は答えた。「今夜にでも」
「今夜、ですか。はい、わかりました。椙田が戻りましたら、必ず伝えます」
「お仕事をお願いするのですから、おいくらか、お支払いしなければなりません」佐竹はハンドバッグを膝の上にのせた。
「あ、いえ、それもですね、椙田に相談しなければわかりません。たぶん、仕事の内容をお聞きして、そのうえで、だと思います。できることなのかどうかも、判断しなければなりませんし。料金については、そのあとでけっこうです、はい」
「是非、引き受けていただかなくては……、あの、とても困っているのです」
「あ、はい、できるかぎり、お力になりたいとは思いますが」
「どうかよろしくお願いいたします」
佐竹は頭を下げてから、幽霊のように身軽に立ち上がった。真鍋も慌てて立ち上がり、彼の方がドアに近かったので、それを客のために開けた。
もう一度、無言で頭を下げてから、佐竹は通路へ出ていった。階段を下りていく途中で見えなくなったが、足があることは確かだった。幽霊ではない。
ドアを閉め、真鍋はデスクの上にあった煙草を一本抜き取って口にくわえた。ライタも卓上のものがテーブルにあるので、それで火をつけた。日頃は煙草は吸わない。金がかかるからだ。貧乏学生の彼には贅沢品である。その煙草は椙田のもので、よくデスクに忘れたまま出かけることがあるため、何本か拝借している。彼がいるときにも、ときどきすすめられるので、たぶん許容範囲であろう。
煙を吐き、深呼吸。ちょっとした運動をしたあとのような火照《ほて》りが躰に残留していた。もう少しで汗をかきそうなくらいだ。さきほどまでは、室温が低いと感じていた。そろそろ電気ストーブかエアコンをつけた方が良いのでは、と考えていたくらいだ。
しかし、自分の応対には少なからず感心した。案外、すらすらと言葉が出てきたではないか。子供の頃から、社交的な方ではない。それでも、大人になって、対人モードが自分でも気づかないうちに発達していたのだな、という感慨である。社会に出てやっていけるだろうか、と不安になっていたのだが、これならなんとかなるかもしれない、などと少し微笑ましい。しかし、相手によるのかもしれない。あんな美人だったから、いつにもなく頭がフル回転したのではないか。自分が気に入られるように、本能的に頭が働いたものと分析できる。
また溜息を煙とともに。
大通りまで、歩いて出て、そこでタクシーを拾ったのだろうか。真鍋はそんな想像をした。窓は北向きなので、建物の前の道は見えない。
また通路を近づいてくる足音。今度は聞き慣れたヒールの高い音だった。
ドアが開き、小川令子が入ってきた。大きな荷物を両手で抱えている。それを持ったまま部屋に入り、椙田のデスクの上にのせてから、ふっと速い息を吐いた。
「何ですか、それ」真鍋はきいた。
「うん、えっと、CDプレイヤとアンプとスピーカ。もの凄く小さいやつがあるの、最近」
「音楽を聴くんですか」
「そうだよ。落語なんか聴かないよ」
「へえ、ここでですか……」
「良かったら、真鍋君、自分のCDを今度持ってきて」
「え? CDなんて持ってないですよ」
「ああ、そうか、今はそういう時代なのね」
「いえ、そうじゃなくて、音楽聴かないから……」
「あら、そう」
「いえ、特に、嫌いではありませんけど」
「こういうしいんとした部屋って、私、駄目なの。もっと、こう、いつもリズムとメロディに包まれていたいわけ」
「椙田さんが、そう言ったんですか?」
「私が言ってるの」
「へえ……」
「あれ?」急に宙を見つめる表情で小川は止まった。「何の匂い?」
「あ、煙草ですか?」真鍋は片手を上げる。まだ煙が漂《ただよ》っている。
難しい顔のまま、小川は近くへやってきた。そして、真鍋の胸の近くに顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
「違うなぁ……」小川は片手を顎に当てる。「香水みたいだけれど、君じゃないか」
「ああ、そうそう、今、お客さんが来たんですよ。たった今です。もの凄い美人の」
「何?」
「お客さんが……」
「そのあと」
「もの凄い美人の」
「へえ……。よく抵抗なくそういうことを言うわね」
「あ、すみません」
「たとえば、私は?」
「美人ですよ」
「凄くはない?」
「凄い美人です」
「もの凄くはないわけ?」
「うーん」
「躊躇《ちゅうちょ》してるじゃない。駄目だよ、そんなことじゃあ。もっと飛び込んでこなくちゃ」
「はぁ」真鍋は首を傾《かし》げる。「あの……」
「何?」
「もの凄く鼻が利きますね、小川さん」
「何、何? どんな用件だったの?」
真鍋は佐竹千鶴のことを話した。非常に簡単だ。ほとんど情報はなかったからだ。
「今夜かぁ……、よぉし」小川は頷いた。
「何が、よしなんですか?」
「私が行く」
「え? 椙田さんは?」
「椙田さんは、今日は帰ってこない」
「あ、そうなんですか」
「と思う」
「え、違うんですか?」
「なんとなく帰ってこない気がするの。だからね、そこは私が行ってくるわ」
「佐竹さんのところへですか?」
「ええ、だって、私、椙田さんの助手なんですから、それくらいの仕事はしなくちゃいけないわ。えっと、君は?」
「は?」
「真鍋君も、もしかして、椙田さんの助手なんじゃない?」
「いえ、助手っていうような、その、具体的な名称は、今まで一度もイメージしたことはありませんけれど」
「使命感を持たないと……。駄目よ、ぼうっとしていたら」
「はぁ」
「自分の立場で、できること、その可能性を最大限に活かさないと。そうやってのし上がっていくの」
「のし上がっていくんですか」真鍋は言葉を繰り返した。
小川令子は、そうやってこれまでのし上がってきたのだろうか。そのことに関して少し話を聞いてみたいものだ、と真鍋は思った。
その後、小川が箱を開けて、小さなCDプレイヤやスピーカをセットするのを真鍋は手伝った。彼女は自分のCDも五枚ほど持ってきていた。クラシック、ジャズ、ロックと分野はさまざまだった。それらの音楽を聴きながら、二人で紅茶を飲んだ。この紅茶も彼女が淹《い》れたものだった。椙田事務所に小川がやってきたのは最近のことであるが、それ以来、春が到来したような変わり様である。おしゃべりをしていたら、あっという間に数時間が過ぎてしまった。
夕方に電話があった。小川が受話器を取り、真鍋としゃべっていたときの声より一オクターブ高い声で応対した。
「お世話になっております。椙田泰男事務所でございます。はい……、あ、はい、わかりました。いえ、大丈夫です」
電話の相手は椙田のようだ。ここの電話が鳴ることは滅多にない。鳴れば、ほぼ椙田である。
「お客様がお一人いらっしゃいました。仕事の依頼なのですが、詳しい説明をこれから、聞きにいってまいります……。ええ、そうです。あ、はい。真鍋君と二人で行ってきますので、大丈夫です。はい、ご心配には及びません。ええ、わかりました」
小川は受話器を置いた。
「あの、僕も行くんですか?」真鍋はすぐにきいた。
「そりゃあ、私だけでは不安でしょう?」
誰が不安なのかな、と真鍋は疑問を持ったが、口にしなかった。
どうもおかしい。自分は、単にここの留守番役にすぎない。バイト料をもらっているわけでもない。事務所の留守番をしていると、ときどき椙田が夕食を奢《おご》ってくれることがある、というだけの際《きわ》どい非営利目的だったのだ。少なくとも、小川が来るまではそうだった。
それでも、佐竹千鶴の顔を頭に思い浮かべると、一切の抵抗要因は綺麗に消滅してしまう。
「この格好で良いでしょうか?」真鍋はきいた。自分の現在のファッションが気になったからだ。
「うーん」小川は腕組みをして、真鍋をじっと見た。「どっちともいえないわね……」
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第1章 美しき囚われ人
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私は彼の骨格、筋肉、動作、音声の凡ての部分に、男性的の高雅と智慧《ちえ》と活撥とが、女性的の柔媚と繊細と陰険との間に、渾然として融合されているのを見ました。
[#ここで字下げ終わり]
1
真鍋瞬市は、小川令子と二人で佐竹家に向かった。地下鉄の駅から上がると、もうすっかり日が暮れていて、高層のビルが幻想的なグリーンに輝き、空を遮《さえぎ》っていた。ホテルや企業の本社が林立する地域だ。交差点の横断歩道を渡り、同時に高速道路の下を潜《くぐ》り抜ける。左手に小さな人工の池があって、覗き込むような角度で、下にボートハウスが見えた。白い蛍光灯の光が水面に映っているが、人気《ひとけ》はない。反対側の右手には高層のホテル。二十年まえにはモダンなデザインだったかもしれないが、今では異文化だ。まるでSF映画に登場する古風な宇宙船にも見える。
小川令子と話をしながら、緩やかな坂道を上っていく。佐竹家には電話をかけて、時刻を約束した。まだ二十分も早いので、二人の足取りには余裕があった。
「高いんじゃないですか、この近辺は」真鍋は言った。もちろん、海抜のことではない。
「そうね。ああ、懐かしいわ。この辺り、仕事でしょっちゅう来ていたから」
「ホテルにですか?」
「ええ、ホテルもそうだし、あそこがK建設の本社でしょう。それから、この向こうの道は、SB会館。けっこう政治に近い界隈だね」
「小川さん、そんなお仕事をされていたんですね」
「いえ、私は単なる社長秘書」
「社長秘書っていうのは、具体的にどんなことをするんです?」
「それは、まあ、人によっていろいろ。パートナやマネージャに近い人から、単なる鞄《かばん》持ちや運転手まで」
「どうして、椙田さんの秘書なんかになったんですか?」
「え? どうしてって?」
「いやぁ、そのぉ、もっと別の、つまり、またどこかの社長の秘書になれば良かったんじゃないかなって」
「もう嫌」小川は口を歪《ゆが》ませて、首をふった。「二度とできないと思う。そうねぇ、椙田さんは、どうしてかな……、自分でもよくわからないんだけれど」
「誘われたんですか?」
「ええ、そうかな。私から、押し掛けたみたいに見えた?」
「ああ、いえ……」
「椙田さんが、そう言っていたの?」
「ああ、あの、ええ、言っていました。違うんですね。なんか、うーん、これ以上聞いちゃいけないようなことがありそうですね」
「いえ、ないわよ」
「そうなんですか?」
「きいてきいて。どぉんと飛び込んできて」
「椙田さんの、その、恋人っていうか、彼女っていうか、もしかして、そういうのかなあって」
「おお、良いわね、その表現」小川はにっこりと微笑んだ。「懐かしいなあ。愛人っていうのもあるわよ」
「愛人ですか?」
「全然違う。嬉しい?」
「え?」
「嬉しくない?」
「何がです?」
「ちょっと鈍いところがあるわね、君」
「ええ……。まあでも、椙田さんも、けっこう嬉しそうでしたよ。小川さんが来てから、なんだか明るい感じになっちゃって」
「私ねぇ、そういう才能があるの。なんていうの、男の人をやる気にさせるのね。私がいれば、商売繁盛、出世まっしぐら。うん、そう、そういう人生だったのね、これまでは」
「その、まえの社長さんも、出世まっしぐらだったんですか?」
「そうよう。私が秘書になってから、十年かな……。歳がばれちゃうわね。とにかく、とんとんとんと駆け上って、合併や買収があって、大きな会社と張り合ったり、ああ、毎日が戦争みたいに忙しかったなあ」
小川はそこで黙って、空を見上げた。真鍋も上を向く。空はぼんやりとグレィで星は見えなかった。右手に神社か寺があるようだ。建物が途切れたかと思うと、樹木の枝が道の上にまで伸びていた。
まえに聞いた話だが、小川令子が秘書を務めていた、その社長という人物は急死したのだそうだ。それで、彼女は仕事を辞めて、椙田のところへ再就職すると決まったあと、一ヵ月ほど海外で遊んでいたという。優雅な話だ。いずれも、真鍋のこれまでの人生および現在の彼の周辺とは、かなりかけ離れた遠い世界の雰囲気が漂っている。
右手に細い脇道が現れた。二人は立ち止まり、辺りを見回した。五十メートルほど先は、道路が突き当たっている。暗くてよく見えない。右へ入れば一本道、と電話で聞いていた。
「たぶん、この道だね」小川は言った。
「そうですね」真鍋は時計を見た。まだ十分ほど早い。
二人はその道へ入る。光が後方へ遠くなった。右手は、小さな森林。神社だった。途中で鳥居が並んだ小径《こみち》が見えた。左手は、古い料亭、そして、その奥は洋館で、ほんのりと明かりが灯っていた。
「ああ、ここ。えっと、どこかの大使館、あそこの裏手になるんじゃないかしら」小川が呟《つぶや》いた。
「僕は、こんなところ、来たことないですよ」
道は直角に右へ曲がり、しばらく行くと、逆にまた直角に左へ曲がっていた。途中で分かれ道はない。やがて、ずっと先に門が見えてきた。最後の直線は、道の両側に瓦屋根のついた塀が、突き当たりの門までずっと続いていた。
「この塀が、もうそうなんじゃない?」小川が言った。
「てことは、この道も、もう敷地かもしれませんね」
「私道ってことね」
「だったら、あの門を、もっと手前に作ったら、庭が広くなりません?」
「そう考えるのが、庶民」
「はあ、僕は庶民です」
「門に訪ねてきた人間を、両側から観察できるし、攻撃することもできる」
「攻撃?」
「矢とか、銃とかでね」
「戦国時代ですか」
急に左右が気になった。建物は見えない。壁にも弓矢や銃のための窓らしきものはなさそうだ。しかし、どこからか、自分たちが観察されているような気がしてきた。
門の前まで来た。右手に通用門があり、インターフォンが見つかった。小川がそのボタンを押す。少し遅れて、女の声が聞こえた。
「椙田事務所の小川と申します」またも周波数の違う声で小川が応対する。どうやって切り換えているのか不思議である。
かなり長く待った。家が遠いのだろう。ようやく門が開いた。
「どうぞ」
「こんばんは。失礼いたします」
「お気をつけ下さい」
門の中に入った。石畳の広い道がそのまま真《ま》っ直《す》ぐ奥へと続いている。門の扉を開けば、自動車でもそのまま中へ入れる。奥の左手に駐車されている車が三台。見える範囲に、二、三、明かりが灯っているものの、しかし、建物はやはりどこにも見えなかった。
応対に出てきたのは中年の小柄な女性だった。石畳の道路とは別の道を、彼女の案内で歩く。平面的で大きな石と小さな石がランダムに敷き詰められた小径である。足許に近い位置に、ときどき明かりが灯されていた。途中で石段を三段上る。竹の柵が近づいてきて、そこに浮いたような扉があった。
それを開けて入る。やっと建物が見えた。池の向こう側である。窓の明かりが左右に点々と見える。屋根は大きく、樹木がその向こう側に黒々と茂っている。ここが都心だとはとても思えない。そういえば、もう自動車の音もまったく聞こえない。しんと静まりかえっていた。
小径は、池にかかる木橋へ続いている。中央が高く盛り上がった橋が、全部で三つ。それを渡り、建物の入口に近づいた。石段を二段上がり、格子《こうし》の扉を女が引き開けた。玄関の中は、ほんのりと黄色っぽい明かりが灯っていた。
「どうぞ、こちらから、お上がり下さい」
真鍋と小川は、そこで靴を脱いだ。小川はブーツだったため、時間がかかった。スリッパがあったので、それを履く。案内の女性は玄関口に立ったまま、上がってこなかった。小川がようやくブーツを脱ぎ終えて、スリッパを履いた。
「通路を、そちらへお入り下さい。千鶴様がお待ちでございます」女は片手を差し出して方向を示す。
通路は左右に延びていた。右へ行けと言われたので、二人はそちらへ歩いた。通路の突き当たりは、三十メートルほど先。途中で振り返ったが、二人のほかには誰もいなかった。
十メートルほど進んだところで、左手に一段低い場所が広がり、周囲に大きな窓があった。照明された中庭がガラス越しに見える。ソファが幾つか並んでいたが、その一つに腰掛けている人物がすっと立ち上がって、こちらを向いた。佐竹千鶴だった。
「どうも、こんばんは」真鍋は頭を下げた。
佐竹はこちらへ近づいてくる。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました」
「はじめまして、小川と申します」
「では、あちらの部屋で、お話をいたしましょう」佐竹は段を上がって、通路へ出ていく。そして、さらに奥へ二人を導いた。
「素晴らしいお屋敷ですね」小川が言った。
「ここは、最近建てた離れです」歩きながら佐竹が答える。「母屋《おもや》の方は、もう古くて、方々に不具合がありますの。滅多に行かないんですよ」
これが離れか、と真鍋は思った。たしかに、玄関は今風の簡素な感じではあった。しかし、離れだけでも、普通の住宅の何倍も広い。
左手に並んだ襖《ふすま》を開ける。今度は和室だった。奥の襖が開いていて、板張りの縁が見える。その奥はガラス戸。鬱蒼《うっそう》と茂った樹木が部分的にライトアップされ、グリーンに輝いているのが見えた。畳の部分だけでもかなり広い。畳を真鍋は数えた。二十四枚ある。左手の壁に床の間があり、右手は襖で仕切られている。続きの間があるようだ。中央に大きなテーブルが置かれている。卓球台と同じくらいの大きさだった。
左手の奥に佐竹千鶴が座った。右手に座布団が二つ用意されていたので、奥に小川が、手前に真鍋が座った。
しかし、小川は名刺をバッグから取り出し、すぐにテーブルの横へ移動して、佐竹にそれを手渡した。
「お電話でご説明いたしましたとおり、椙田が今夜は所用で来られません。しかし、私、小川が、この件につきましては、責任を持って当たらせていただきます。どうかよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」真鍋は名刺など持っていないし、何をよろしくお願いしているのかもわからなかったが、とりあえずお辞儀だけした。
2
「三ヵ月まえになりますが、父が亡くなりました。遺産のことで、まだこれからいろいろあると思います」佐竹千鶴は溜息をついた。「ですけど、私には関係がない。どちらでも良いことです。この家は、もうとうの昔に崩壊しているんですよ。家族はばらばら。まったくといって良いほど。顔を合わせることも滅多にありません。ただ、申し上げましたとおり、私たちには兄がいるんです」
私たち、という言葉を使ったことは、小川令子にも説明してあった。今ここで、それを聞くと、まるで佐竹千鶴の横にもう一人の令嬢が座っているかのように想像できた。
「名前は鎮夫《しずお》といいます。鎮静剤のチンという字に、オットです。私たちより、一歳歳上になります。戸籍上は、生まれて八ヵ月で亡くなったことになっておりますが、でも……」
佐竹は口もとに片手を当て、下を向いた。
沈黙。
真鍋は横目でちらりと小川を見た。小川もこちらへ視線を向けた。
テーブルの対面には、姿勢良く座る美人。その肩が、僅かに震えているように見えた。呼吸が震えている。しかし、顔を上げ、目を一度閉じたあと、再びこちらへ瞳を向けた。潤んだ眼球が微動して、瞳孔は内部に浮かぶ球のように錯覚できた。
「でも、私たちは、何度も兄を見ているのです。子供の頃からずっと……、死んではいません。生きているのです」
「どこにいらっしゃるのでしょうか?」小川が尋ねた。
「この屋敷におります」
「屋敷のどちらに?」
「母屋の地下の……、どこかだと思います。母屋には、地下に誰も入らない秘密の部屋があるんです。そこは、牢獄のような恐ろしい場所です。おそらく昔は、本当に牢として使われていたのでしょう。兄はそこに、閉じ込められております」
「本当ですか?」真鍋は思わずきいてしまった。
「信じられないかもしれません。ええ、当然だと思います。ですけど、本当なのです。世話をしている者がおります。兄は生きているのです」
「何度も、お兄様をご覧になった、とおっしゃいましたが、一番最近では、いつ頃のことですか?」小川が質問した。相変わらず、仕事モードの高い声である。
「一番最近……」佐竹は宙を見つめるように視線を上げる。「私たちが、高校生のときが、最後かしら」
「あの、失礼ですが、それは何年ほどまえのことでしょうか?」
「ああ、えっと……、もう十五年以上まえになりますね」
「十五年ですか……」
真鍋もびっくりした。佐竹千鶴は自分とそんなに歳は離れていないと思っていた。三十歳を越えているということか。
「お兄様は、生きていらっしゃるとすると、おいくつですか?」
「私たちの一つ上ですから、三十三になります」
「もう、ここを出ていかれている、という可能性はないでしょうか?」
「出ていく? 家をですか?」
「ええ、三十三歳であれば、もう大人です。家にずっと隠れているというわけにもいかないのではないかと」
「いえ、出ていかないのではなく、兄は閉じ込められているのです。出ていけないのです」
「それは、どうしてですか? なにか理由があるのですか?」
「理由……」佐竹は、また口に片手を当てて、俯《うつむ》き気味になる。すぐ手前のテーブルの上を見つめているような視線。
通路側の扉が開いた。それまでまったく音がしなかったので、真鍋は驚いた。女が座っていて、お辞儀をしてから部屋に入ってくる。盆を持っていた。お茶のようだ。さきほど、玄関から案内をしてくれた中年の女性だった。テーブルまで近づき、湯飲みを三人の前に配する。最後にまたお辞儀をしてから、部屋を出ていくまで、一言もしゃべらなかった。音もなく、扉が閉じられる。
「どうぞ……」佐竹がすすめた。
真鍋はお茶を飲んだ。あまり熱くなく、上品な香りがした。しばらく沈黙が続く。
佐竹は兄が閉じ込められている理由を話さなかった。その質問を忘れてしまったのかもしれない。小川もきき直さなかった。
「あの、実際に、屋敷の中を捜したりは、されたのでしょうか?」それが小川の次の質問だった。
「どこを?」佐竹は小首を傾げる。不思議な表情だった。
「いえ、たとえば、その、母屋の地下を調べるようなことをされましたか?」
「私がですか?」眼を見開き、驚いた顔。そして、遅れて首をふった。「いいえ、とんでもない。そんなことはできません」
「できない、というのは?」
「許されないことです」
「許されない?」小川の声が少し低くなったように感じられた。
真鍋は隣の彼女の横顔を確かめた。目を細め、じっと佐竹を見据えるような小川令子の表情だった。こうしてみると、さすがに年相応の貫禄があるな、と真鍋は感じた。
「父が生きている間は、私も閉じ込められていたのです」
「どこにですか?」
「ここ」
「出られなかったのですか?」
「そうです。庭に出ることくらいはもちろんできましたが、門から外へ出たことはありません」
「でも、学校とかは……」
「ええ、よく覚えていないのですが、その頃は、毎日自動車で連れていかれました。そして、終わればまた迎えの自動車に乗って、ここへ戻ってくるだけです。友達と遊ぶことも許されなかったのです」
「今日は、出てこられたのですね?」真鍋は尋ねた。
「ええ……、でも、自動車で行きましたので、街を歩いたわけではありません」
「お父様がお亡くなりになったので、自由になった。では、もう、お兄様も、その地下室から出られるのでは?」小川がきいた。
「はい、そう思います」佐竹は頷いた。
「既に出られている、ということはないのでしょうか?」小川はそこで苦笑する。「いえ、すみません。根拠のない憶測です。でも、その、そんなに長い間、地下に籠もったままだなんて、とても常識的には考えられないので」
「たしかに、常識的ではないと思います」佐竹は上目遣いに、こちらを見た。「それは、この家すべてにいえることなのです」
「えっと、まず、どこから手をつけて良いものか……」小川は真鍋の方へ視線を向ける。
「この屋敷を捜せば良いだけなのでは」真鍋は思っていることを素直に口にした。そんなこと、すぐにもできることだ。「今からでも、捜しましょうか?」
「いえ、そんなに簡単にはいきません」佐竹は首をゆっくりと横にふった。「それが簡単にできるのならば、人に頼んだりはしていません」
それはそうだ、と真鍋も思う。どうも、依頼の理由、そして意図がまだ飲み込めない。
「母屋は、私の管轄ではないのです」
「捜すのに、許可がいる、ということですか?」小川が尋ねる。
「ええ、そうです。それに、もし私が出ていったら、許可は下りません。だから、私の依頼だということは絶対に話さないようにして下さい」
「ああ、なるほど。複雑なのですね」小川は息を吐いた。
家族で仲違《なかたが》いでもしているのだろうか、と真鍋は想像した。
「椙田さんは、母屋へ父のコレクションの鑑定にいらっしゃいました」佐竹は話した。
「ですから、その関係で出入りができるはずです。なんとか地下を探していただきたいのです」
小川は無言で頷いた。真鍋も、ようやく少し事情がわかってきた。つまり、同じ敷地の中でも、母屋はまるで他人の家というわけなのだろう。そこへ入ることができる人間に、兄がいないか調べてきてほしい、という依頼のようだ。
「母屋は、今はどなたの管轄なのでしょうか?」小川が質問をする。管轄という言葉は不自然に思えたが、佐竹が口にしたものなので、小川もそれを使ったのだろう。
「おそらく、母ではないかと」佐竹は答えた。
家族構成について尋ねた。死んだ父親が、佐竹|重藏《じゅうぞう》。年齢は七十二歳だった。死因は膵臓癌《すいぞうがん》である。その妻は、佐竹|絹子《きぬこ》。彼女は、十五年まえに重藏と結婚をした後妻で、千鶴たちの実の母ではない。
「本当のお母様は、どうなさったのですか?」
「入院をしていたのですが、私たちが、小学生のときだったでしょうか、病院を抜け出して、行方知れずになりました。消息はわかりません」
「生きておられるのですね?」
「わかりません」
「ほかに、こちらにお住まいなのは?」
「兄と私と妹の千春《ちはる》だけです。子供は三人だけです。絹子さんには子供はいません。それだけです。今は、ここに住んでいるのは四人です」
「ほかに、ご親族は、この屋敷内にはいらっしゃらないのですか?」
「おりません」
「四人でお住まいになるには、広すぎますね」小川は微笑んだ。「住み込みの方がいらっしゃいますよね?」
「はい」
「何人くらいでしょうか?」
「どうでしょう……、数えたことがないので」
「だいたいでけっこうです」
「私が使っているのは、三人だけです。妹も、たぶん、同じです。だから、六人。お母様のことはわかりません。でも、十人くらいはいるのじゃないかしら」
「えっと、十六人ですか、全部で」
「もっといます。二十人か三十人か。いろいろな仕事があって、切り盛りするのが大変なので」
「お父様がお亡くなりになって、事業の跡はどなたがお継ぎになられたのですか?」
「父の弟です。私の叔父になります」
「その方は、こちらには……」
「いえ、おりません。私は会ったこともありません」
そのあと、敷地内にどんな建物があるのか、だいたいの配置について話を聞いた。今いる場所は、門に向かって右手、つまり東側になる。こちらが佐竹千鶴の離れ。そして、ちょうど反対側、門の左手、すなわち西側には、双子の妹である佐竹千春の離れがあるという。双子とはいっても、滅多に会うことはなく、月に一度くらい電話をかけるだけだ、と佐竹は話した。
それは凄いですね、という言葉が喉《のど》まで上がってきたが、しかし、考えてみれば、真鍋は一年に一度くらいしか、実家に電話をかけない。もう二年ほど帰っていないのだ。ただ、彼の場合は数百キロも離れている。同じ敷地内にいるのに、しかも双子の姉妹だというのに会わないというのは、常識的ではない、少々不思議に思える。
また、敷地の正面の奥、つまり北側に母屋があって、そこが本家らしい。今は、佐竹絹子がそこに住んでいる、というのが千鶴の説明だった。
「お兄様の写真などはないのですね?」小川が尋ねた。
「ありません」佐竹は目を細めて首をふる。
「お会いしたときは、すべて地下にいらっしゃったのですね?」
「そうだと思います」
「お話をなさったことはありますか?」
「もちろん」
「お兄様は、どんな方ですか?」
「どんな……」また片手を口もとに当てる。そして、佐竹は微笑んだ。頬が赤く染まったように見えた。「それは、お優しい方です」
「どんな風貌ですか? 背丈とか、体格とか、髪型とか、なにか、特徴はありませんか?」
「私たちよりも、少し背が高くて、でも痩せています。髪は長い。色白で、誰でも見とれるほど美しいお姿です」
佐竹の視線はまた宙をさまよった。
沈黙が数秒間。
「あの……、会えば、わかるでしょうか?」小川は事務的な口調でさらに尋ねる。「つまり、私たちが会って、この人が鎮夫さんだとわかりますか? あ、たとえば、千鶴さんに似ていますか?」
「さあ、どうかしら。少なくとも、人からそう言われたことがないので……」
それはそうだろう。死んだことになっているのだ。
「誰かと、お兄様のお話をされますか? つまり、どなたか、お兄様が生きていることを知っている人がいますか?」
「妹は知っています。妹も、兄には会っているはずです。話したことはありませんが、たぶん……」
「今のお母様は?」
「あの方は、おそらくご存じないと思います」
「でも、母屋の地下室にお兄様がいらっしゃるのなら、気づかないなんてことがあるでしょうか?」
「わかりません」
「お母様に、直接、お兄様のことをおききになったことはありますか?」
「ありません」
「その質問を、私がお母様にしてもよろしいですか?」小川は尋ねる。
「え?」佐竹はまた小首を傾げた。
「お母様にお会いして、こちらに佐竹鎮夫様はいらっしゃいますか、とお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、でも、教えてくれるかどうか、わかりません」
「どうしてですか?」
「もし知っていれば、たぶん、佐竹家の恥だと考えているのではないかしら。だから、隠そうとするはずです」
「恥? どうしてでしょうか?」
「わかりません」佐竹は首をふった。
3
帰りも同じ女が門まで案内をしてくれた。池に架かる橋を三つ渡り、暗い小径を戻った。門の外に出ると、急にここは東京なんだな、と思い出した。時刻はまだ七時少しまえである。
「なにか食べよう」小川が言った。
「ええ、ぺこぺこですよぅ」真鍋は答える。
「何がいい?」
「なんでも」
とりあえず、表の道路まで出た。地下鉄の駅の方へ戻るのかと思ったら、小川は反対方向へ歩いていく。
「あれ、そっちですか?」
「こっちへ上ったら、四谷だよ」
「え、そうなんですか。よく地理がわかりませんね」
「どっちが近いともいえない距離だね」
「坂道、多いですね」
「そうそう、ポテンシャルは高いわけ。あそこのホテルのレストランが美味《おい》しいから、そこにしよう」
「え?」真鍋は驚いた。最高に上等な状況でも、居酒屋くらいしか想像していなかったからだ。「あ、僕、そんなにお金がないんですけど」
「いつもどうしてるの? ご飯は」
「うーん、だいたいは自炊です。お金があるときは、コンビニで弁当を買いますけど」
「自炊って、何を作るの?」
「ラーメンが多いですね」
「あ、そう……、今どき、そんな奴がいるんだ。びっくりした」
「いますよ、けっこう。僕の友達なんか、だいたい同じような生活レベルです」
「今日は奢ってあげるから」小川は目を三日月形にしてにっこりと微笑んだ。「そのかわり、出世したら、返してね」
「わあ、本当ですかぁ。ありがとうございます」
そうか、こういうところが、男に仕事をさせるコツなのだな、という気がして、真鍋は心の中で頷いた。
道路を横断して、ロータリィの横から緩やかな階段を上がっていく。よく名前を聞くホテルだった。ここにあったのか、と真鍋は思った。二重のドアを入り、広い吹き抜けのロビィを通り抜ける。外国人の団体がソファに座っているのが見えた。ホテルなんてほとんど入ったことがない真鍋なので、なにもかもが珍しい。
エレベータに乗って最上階へ一気に上がった。大理石のように光った通路を歩き、突き当たりがレストランの入口である。
黒い服装で気取った身のこなしをする男がテーブルへ案内してくれた。店の半分は一面のガラス張り。街の細かい明かりがずっと遠くまで広がっていた。
「凄いですね。高いんじゃないですか?」真鍋はきいた。
「さあ、百メートルはあると思うけれど」
「あ、そうですか」頷いたものの、ビルの高さを言ったのではない、料理の値段のことだ。
メニューが来たけれど、ほとんど意味がわからなかった。飲みものも尋ねられたが、コーヒーとかは最初からは飲まないようだ。小川がカクテルを頼んだので、お酒もあるらしい。真鍋はビールを注文した。料理については、コースの中の一つで、値段は八千円だった。良かった、何万円もするものだと想像していたので、これは意外に安かった。どうも、こんな場所で営業しているというだけで、とんでもない妄想が彼の中で育っていたようだ。
「ねえ、どう思う?」飲みものが運ばれてきて、それに口をつけたあと、小川令子がきいてきた。
もちろん、その話になることは予期していたし、真鍋も自分から、いつそれを切り出そうか、と思案していたところだ。
「お兄さんが、本当にいるのかってことでしょう?」彼はきき返した。ビールは細長いグラスに入ってきた。ちょっと癖のある味がしたが、もちろん不味《まず》くはない。
「いると思う?」小川がまたきいた。
「五分五分ですね」真鍋は答える。本当のことを言えば、八割方は、いない方に傾いていた。「いや、だって、変じゃないですか。どう考えたって」
「変? たとえば、どこらへんが?」小川はテーブルに肘をつき、手の上に顎をのせた格好。
「あの歳になるまで、ずっと捜さなかったことが」
「でも、それは父親が生きていて、恐かったからなんじゃない?」
「そもそも、今になって捜し出そうとしているのは、遺産の問題かもしれませんね」
「どういうこと?」
「むしろ、死んでいることを確認したいとか」
「でも、戸籍では生きていないって言ってたでしょう?」
「本当でしょうか?」
「それは調べてみる価値があるかもね」
「たとえば、話が全部本当だとして、地下の座敷牢にお兄さんが閉じ込められているとしたら、それって、それだけで犯罪行為ですよね」
「恥って言っていたよね、あれは、何だろう?」小川が別のことを尋ねた。
「ずいぶん、小さいときから閉じ込められていたことになりますから……、ああ、そうか、それで死んだことにしたんですね。つまり、本当は死んでほしかったのかもしれない。なにか、困った病気だったとか」
「病気が恥?」
「あるいは、健康な、つまり正常な子供ではなかったとか」
「そうかぁ、それは昔ならありそうな感じ。それで、死んだことにして、家の中に閉じ込めておいたというわけね。うん、ありそうじゃない」
「それでも、妹たちは何度か会ったわけですよね。そのときには、普通だったわけでしょう? 見た感じで異常だったら、千鶴さんの……、あの言葉、あんな表現にはならないと思います」
「美しいって言ってたね」
「まあ、欲目はあるにしても、ちょっと他人に話すには、常軌を逸した感じがします」
「あの人自身も、世間擦《せけんず》れしていないっていうか、最近ようやく外の世界を知ったのかもしれない。だったら、それくらいのことはあるかも」
「歳よりも、幼い感じですよね」
「あらあら、そう見えた?」
「いえ、客観的な判断だと思いますけれど」
「私が考えたのはね、ちょっと妄想的なんだけれど、今の新しい義母に対する抵抗なんじゃないかって」
「抵抗、ですか?」
「うん、父親が生きている間は、抵抗ができなかったけれど、その歯止めがなくなった。今が反撃するチャンスなんだと思う」
「それが、兄を捜すことと、どう関係するんですか?」
「兄なんかいてもいなくても良いわけ。母屋を家捜しさせれば、なにか都合の悪いものが出てくるはずだ。それを暴いてやろうという魂胆」
「凄いですね、そこまで考えますか、普通」
「地下に、若いツバメでも匿《かくま》っているかもしれないわ。うん、確かに、綺麗な子がいるのかも」
「ああ、なるほど。その佐竹夫人の?」真鍋は本当に感心した。「いやあ、凄いですね、想像力が」
最初の料理が運ばれてきた。白い大きな皿の上に、ほんのすこしの食べものがのっているだけだった。店員が料理の説明をしてから去っていった。話は中断し、真鍋はフォークでそれを口へ運ぶ。ほとんど一口だった。
「どう?」小川はフォークとナイフを手にしてきいた。
「何がですか?」
「料理」
「少ないですね」
小川は窓の方を向いてから、少し遅れて息を吐いた。真鍋もガラスを見る。彼女の笑った顔が映っていた。
「さて、どうするかな……」小川は呟く。「椙田さんに報告して、依頼を引き受けるかどうかを検討する、うん、彼はたぶん、引き受けるなって言うと思うわ」
「どうしてです?」
「面倒そうだから」
「面倒そうです、たしかに」
「でも、報酬はなかなかの額だったよね」
そうなのだ。佐竹千鶴が最後に提示した額は、引き受けるだけで無条件で五十万円。その後、一週間の調査に対して十万円。三週間で成果がなければ、そこでまた話し合う。時間が必要であれば、さらに継続をする。兄が見つかるか、あるいは、どこにいるのか明らかになれば、その時点で調査が成功した報酬として、五十万円を支払う。もちろん、必要な経費は請求してもらえば別途支払う、というものだった。こちらからは料金についてはなにも話していない。依頼者から一方的に提示された条件と金額であった。
「なかなかの額なんですね?」真鍋は言った。その金額を聞いたときには、探偵というのはそんなに儲《もう》かるものなのかと驚いたからだ。「疑問に思ったんですけど、引き受けておいて、なにもしなくても、八十万円はもらえる計算になりませんか?」
「うん、私も詳しくは知らないけれど、こんなうまい話は、そうそうないと思うよ。椙田さんだって、金額を聞いたら腰を上げるでしょう、きっと……」
「不思議だったことが一つあるんですけど」
「何?」
「どうして、僕たち、呼ばれたんでしょう?」
「どういうこと?」
「だって、今、聞いてきた話は、別にここで話さなくても、事務所に来たときに言ってくれたら良かったんじゃないかなって」
「何言ってるの。それは、頼りないバイトみたいな奴しかいなかったからじゃない。こんな若造に話して良いものかどうかわからなかった。そこへちゃんとした人間がわざわざ屋敷まで訪ねてきてくれた、というわけよ。商売っていうのはね、こういった相手の誠意というか、人間を見るものなの」
「ああ、なるほど……、そうか……」
テーブルに黒っぽい服装の男が近づいてきた。真鍋はてっきり、店員が次の料理を運んできたのだと思った。しかし、その男は黙って、真鍋の横に腰掛けた。
「こんにちは」男は小川を見て言った。
どう考えても、こんばんは、ではないか、と真鍋は思ったが、黙っていた。知らない人物だ。たぶん、小川令子の知り合いなのだろう。テーブルに両肘をのせ、前のめりに小川の方をじっと見つめている。白人のような彫りの深い横顔だった。年齢は三十代だろうか。
「誰、あなた」小川は顔をしかめた。そして、真鍋の方を見る。「君の知り合い?」
真鍋はぶるぶると首をふって示す。
「僕は、鷹知祐一朗《たかちゆういちろう》。名刺が欲しいですか?」大袈裟《おおげさ》な表情と手振りで、彼は小川と真鍋を交互に見た。
しばらく二人は黙った。真鍋は不気味《ぶきみ》に感じた。相手をしない方が良くはないか、と。しかし、ここは公園などの公共の場ではない。高級レストランの中なのだ。
「お店の人ですか?」小川がきいた。「私たち、大事な話をしているんです。邪魔をしないでもらいたいのですけれど」
男は上着のポケットから、銀色の名刺入れを取り出し、それを開けて、小川に、そして真鍋に名刺を差し出した。〈鷹知〉という文字を初めて真鍋は認識した。肩書きには〈探偵〉とあった。ほかには電話番号だけが書かれている。携帯電話のナンバだった。裏は真っ白。
「僕は探偵です」鷹知は微笑んだ。「もしかして、同業者ですか?」
「あの、何のご用ですか?」小川が溜息をついた。
「もう少しだけ待って下さい。僕は、佐竹千春さんに呼ばれて、さきほどまで、すぐそこの佐竹家を訪問しておりました。ある調査を依頼されたためです。僕は佐竹家とは親戚に当たりますので、この人ならば、と信頼を寄せられた結果かと思われます。さて、私が屋敷を出ようとしたとき、お二人がちょうど訪ねてこられた。東の庭園の方へ行かれたので、おそらくは千鶴さんを訪ねられたのでしょう。しかし、素振りから察して、お屋敷が初めてのようでした。また、千春さんから伺ったのですが、千鶴さんは今日の午後にどこかへ出かけられたそうです。運転手を通じて千春さんが知られた情報でした。千鶴さんが外出されるなんてことは、ここ数年なかったことだったので、興味を持たれた、というお話でした。以上のような観察から、僕は、千鶴さんを訪ねてきた二人に興味を持ちました。具体的には、どこかの大企業の社長秘書のような女性と、それから予備校生のような若者、とても同じ仕事をしているとは思えない、見た目にはちぐはぐなカップルです。こういったとき、どうしてももう一歩踏み込んで、実情を知りたい、見過ごしてはおけない、というのが僕の悪いところなんですね。と、そんなわけで、表の通りで、しばらく待つことにしたのです」
「私たちが出てきたあと、つけてきたのね?」小川が不愉快そうな顔できいた。
「つけただなんて、そんな悪いイメージのものではありません。ただ、お話を伺いたかった。もしも同業者ならば、情報を交換することで、お互いの労力を省くことができる、というメリットもあるのです」
「ああ、そうか」真鍋は頷いた。しかし、小川に睨みつけられたので、下を向いて表情で謝った。
「残念ですけれど、お話しするようなことはありません。お引き取り下さい」小川はそう言って僅かに顎を上げる。
「わかりました。どうも失礼しました。また、お会いすることがあるでしょう。僕に対して悪い印象を持たないようにお願いします。では、今夜はこれにて……」鷹知はあっさりと立ち上がり、一礼してからテーブルを離れていった。
二人は彼の姿が見えなくなるまで黙っていた。
「何なの、あれ」小川が舌打ちをした。「胡散《うさん》臭いし、鬱陶《うっとう》しいし、気持ち悪いし、ぺらぺらしゃべりやがって、頭に来るな」
「でも、悪い人じゃないかもしれませんよ」
「まあね、見た目は、なかなか格好良かった。うん、役者にしたいくらい。黙っていれば良いのよ、ああいうタイプは。出会いが最悪」彼女はまた振り返ってそちらを見た。
「帰るとき、気をつけないと。また尾行されるかも」
「佐竹千春さんも、探偵を呼ばれたんですね」真鍋は言った。「やっぱり、僕たちと同じことを依頼されたんでしょうか?」
「さあ、それはどうかな」
「ちょっと、情報交換くらい、した方が良かったんじゃないですか?」
「だめだめ。あのね、職業倫理っていうの、知ってる? そんな簡単に依頼人との関係をぺらぺらしゃべっちゃ駄目なの」
「でも、双子の姉妹じゃないですか。こうなったら、協力してことに当たった方が……」
「利害が一致しているかどうか、わからないでしょう?」
小川の一言で、なるほど、と真鍋は気づく。利害というのは、つまり、兄を捜してほしいという同一の調査依頼であったとしても、見つかって欲しい場合と、見つかって欲しくない場合がある、という意味だろうか。
次の料理が運ばれてきた。グリーンのスープだった。難しい話は一気に頭を離れ、全神経が舌に集中する真鍋であった。
4
料理はどれも初体験の素晴らしさだった。世の中にこんな食べものがあったのか、と真鍋は思った。口に合わないようなものは一つもなく、どれも素直に美味しかった。いつだったか、最初に酒を飲んだとき、こんな不味いものをどうしてみんな飲んでいるのか、と不思議に思った。だから、高級な料理もきっと癖があって、庶民の口には合わないものだろう、第一印象は芳《かんば》しくないのではないか、と想像していたのだが、まったくそんなことはなかった。実に驚きだ。ただし、自分であの金額を出してまで食べたいとは思わない、ということだけは確かだと思われた。
事務所へ戻ることはせず、真鍋は地下鉄と私鉄を乗り継いで自分の下宿へ戻った。小川令子とは途中の駅で別れた。
「つけられていないか、注意して帰らなきゃ」と彼女は話していた。鷹知のことで心配しているふうだった。
帰宅してから風呂に入り、そのあとパソコンでインターネット検索をしてみた。パソコンは、昨年卒業した先輩から譲り受けたものである。ネットの契約もそのときにしたものだった。
佐竹家のことについて、なにか情報が得られないか、と調べているうちに、それらしい記述を発見した。三十年以上まえの事件である。佐竹|信子《のぶこ》という女性が、実の息子を殺害した容疑で警察の取り調べを受けた。しかし、証拠不充分で不起訴になった。信子はその後、精神障害と認められ入院したが、現在は行方不明である。という内容が、言葉は違うものの幾つかのサイトに記述されていた。この信子という女性が千鶴や千春の実の母親のことだろう。そして、彼女が殺したかもしれない息子というのが、捜査を依頼された鎮夫なのか。
やはり、鎮夫は既にこの世に存在しないのではないか。千鶴はその後も鎮夫に会ったと話していたが、それこそが妄想ということもありえる。母親と同じ血を引く女性なので、もしかしたら同様の障害がある、という想像もついしてしまうところだ。しかし、あの憂いを含んだ美しい顔を思い出すと、それらすべてを否定したい、という自分も発見できる。なんとか力になれないものか、という方向へ思考が進むのだ。
それにしても、刺激の強い一日だった。夢を見そうな予感がした。しかし、摩擦のないパイプを通り抜けるように、あっという間に朝になった。
大学から呼び出しがかかっていたので、午前中は教務課へ出向いた。単位のことなどを説明されて、憂鬱になったけれど、大学を一歩出ると、天気も良く、すっかり忘れてしまえそうだった。そのまま自然に足が椙田の事務所へ向く。以前は、歩いていけるところにあったが、つい先日新しいビルへ引越をした。その引越も真鍋が手伝ったのである。
椙田泰男とは、バイト先で偶然に知り合った。その後、幾度か簡単な仕事を手伝うようになり、事務所にも出入りするようになった。それほど、椙田とは話したこともなく、また、会っている時間も長くはない。椙田はいつも忙しく、どこかへ出かけていくので、事務所にいることが少ないのだ。それで、どういった経緯だったか、自然に留守番をすることになった。真鍋が事務所にいることが多くなったわけである。
仕事は特になにもない。ただそこにいるだけだ。電話がかかってくることはまずない。あっても、椙田自身からということがほとんどで、子供でもできる留守番である。
なんとなく、椙田という人物と馬が合うような気がした、というのが、最も大きな要因ではないか。彼はあまり人のことを尋ねない。こちらも、プライベートなことを尋ねたことはない。ただ、ときどき話をすると、どことなく気持ちが高揚するのである。不思議だが、言葉の端々《はしばし》に、未知の世界というのか、冒険的な匂いのようなものを感じた。今までの真鍋の人生にはなかった香りだった。気のせいかもしれないけれど、今のところは、居心地も悪くないので、通い続けている。
最近になって、小川令子という女性が、椙田の秘書として事務所に顔を出すようになった。「秘書」というのは、椙田の表現で、彼女自身は「助手」と言っている。勤務時間が決まっているわけでもなさそうだ。合い鍵を持っている、というだけである。いつも必ずいるわけではない。そもそも、秘書を雇うほど椙田には金があるのか、あるいは、そんなにも仕事量があるのか、という疑問もあった。これについては、小川自身も首を捻《ひね》っていた。
「どうして、私を雇ったんだろうね」などと話していたからである。「冗談で雇ったのかなぁ」
秘書あるいは助手というのは、税務上のことで、実際には個人的な関係の人物なのだろう、と真鍋は最初は想像した。それが自然な観察である。ところが、小川の話を聞いているうちに、どうもそうではないらしい、と思えてきた。表向き、そう装っているだけだろう、と考えていたが、本当かもしれない、とこの頃では感じていた。この点については、未知である。
地下鉄の出口を上がり、表通りから一本はいる細い道。その奥に打ち放しの古いマンションがある。そこの三階が椙田の新しい事務所だった。
エレベータがあるが、真鍋はいつも階段を上がる。磨りガラスのドアから室内の白い明かりが漏れていた。誰かいるようだ。ドアを開けて、彼は中に入った。
突然、音楽が耳に飛び込んでくる。デスクには誰もいない。ソファには、小川令子。音楽のせいだろう、こちらには気づいていないようだった。
ドアを閉めたとき、ようやく彼女がこちらを向く。
「こんにちは」真鍋は頭を下げる。
小川は立ち上がって頷いたものの、腕組みをして、難しい顔をしている。
「どうしたんです?」
「うん、ちょっとねぇ、気になることがあって」
「佐竹さんのことですか?」
「え?」小川は目を大きくした。そして吹き出すように微笑んだ。「違う違う、サウンドよ。音が今ひとつなのよね」
「音? ああ、音楽ですか?」
「うん、駄目だなぁ、スピーカかしら。高音の伸びはまずまずなんだけれど、中低音の厚みがないのよね。薄っぺらな若造みたいな感じ、セクシィじゃないわ」
彼女は、昨日セットしたばかりのコンポのところへ行って、ボリュームを絞った。ジャズっぽい曲が流れていたが、それが小さくなる。
「椙田さんは?」真鍋は尋ねた。
「いないよ。ずっと会ってない」
「佐竹さんのこと、どうしますか?」
「まあ、そのうち、電話があるんじゃない?」
「え、佐竹さんからですか?」
「ううん、椙田さんから」
その後、雑誌を読んだりして時間を潰していたところ、電話が鳴った。時刻は午後一時半だった。
「はい……、あ、良かったぁ」小川が受話器を取って話す。「待っていたんですよ。ええ……、そうです、行ってきました。お兄さんを捜してほしいっていう依頼なんですけれど……」
電話は椙田からのようだ。小川が昨夜の話を説明している。佐竹千鶴のこと、屋敷のこと、それから、レストランで会った鷹知という名の探偵のことも話に出た。
「はい、ええ……、ご存じですか? うーん、なんか、胡散臭い感じでした。格好はまずまずなんですけれど」
それは、昨日も言っていた。いちいち格好良いと形容するのはいかがなものか。真鍋は引っかかったが、鷹知に対する小川の印象は、それが支配的だったのだろう。
「え、はい……、あ、いますよ。ちょっと代わります」小川が電話を真鍋のところへ持ってきた。
電話に出ろということらしい。真鍋はそれを受け取って、耳に当てる。
「代わりました」
「えっとね、僕のデスクの右の引出の一番上を開けて」椙田がいきなり指示をする。
「あ、はい、ちょっと待って下さい」真鍋は慌てて、椙田のデスクへ近づく。右の引出を開けた。「はい、開けました」
「二番目か三番目くらいに、緑っぽいファイルがあるだろ?」
「緑っぽいファイルですか……、えっと、エメラルド・グリーンのなら」
「それそれ」
「ああ、まあ、緑ですね、たしかに」
「色には拘《こだわ》らない方なんでね。その中に、リストがある。たぶん、後ろの方だ」
真鍋は書類を捲《めく》った。どれもA4サイズのもので、文章がプリントアウトされたもの、後半はスプレッドシートの出力らしい数字が並んでいるもの、そして写真がカラーコピィされたものなどもあった。写真はどれも絵画作品のようである。
「リストといえば全部リストですけど」
「最後の方だ」
「あ、これかな……、えっと、英語があって、それから、人の名前ですか、あと西暦みたいな数字」
「それそれ」
「はい、一枚ですね」
「そう。それ全部、佐竹家にある絵画作品のコレクション。今日、それを持っていって、全部の作品の写真をデジカメで撮ってきてくれ」
「え、僕がですか?」
「そう。小川さんも一緒に行くって言うだろう、きっと」
「はあ、そりゃ、言うでしょう」
「え? どうして?」
「いえ、椙田さんが言ったんじゃないですか」
「君がどうしてそんなふうに思うんだ?」
「いえ、なんとなく」
「昨夜何かあったのかな?」
「どういうことですか?」
「いやいや、まあいいや。自由にしてくれ」
「何をですか?」
「なんでもない。とにかく、電話は僕の方から一度かけておくよ。助手が写真を撮りにいくって。ようするに、そこにある作品について、調べるように依頼されているんだ。そのうち写真を撮らせてもらいにくるとは言ってある」
「写真って、どれくらいちゃんと撮れば良いですか?」
「いや、写っていればいい。カメラを固定して、フラッシュを使わずに撮る。それだけ」
「一枚につき一枚ですね? アップとかは?」
「いらない。全体の一枚でいい。どんな絵だったかわかればそれで充分」
「わかりました」
「佐竹家の母屋だ。北側の方にある部屋に案内されるから」
「はい。あ、そうか。地下室を見てこい、と?」
「いや、そんな簡単にはいかないだろう。でも、注意しておくと良いかもね」
「きいてきましょうか? 誰かに」
「うん、それとなくなら」
「それとなく」
「まかせるよ」
「それで、どうするんですか? 千鶴さんの依頼の方は」
「明日までに決める」
「何をですか?」
「依頼を引き受けるかどうかを」
「お金の話はまだ聞いていないでしょう? 条件が凄く良いんですよ」
「それは、あまり関係ない。調査が可能かどうかの方が問題だ」
「はい、まあ、そうでしょうけど」
「今晩も戻れないから、頼むよ」
「わかりました」
「じゃあ」
電話が切れた。
「引き受けるって?」横にいた小川がきいた。
「明日までに決めるって言ってました」
「明日までに? 明日までに何がわかるのかしら」
「さあ……」
「何、その書類はどうしろって?」
「えっと、これを持って、佐竹家へ今から行ってこいって」
「え? 凄いじゃない」
「絵の写真を撮りにいくんですよ。別の仕事です」
「違うよ、絶対。椙田さん、私たちのために機会を作ってくれたんだわ。よおし!」握り拳を顔の前に持ち上げて、小川が興奮した口調で言った。「こうなったら、なんとしても地下室を見てこなきゃ」
「いえ、そんなふうには言われませんでしたよ。あの、無理をしない方が良いと思います。機会があれば、ちょっと誰かにきいてみる、くらいの方が……」
「いいぞぉ、これでこそ探偵事務所だ。私は探偵の有能な助手、右腕なのだ。ここはいっぱつ、かましてやろうじゃないの」
「小川さん、あのぉ……」
そういうわけで、再び二人は都心の佐竹家へ向かうことになった。連日の訪問ではあったが、昨日は夜だったし、それに佐竹千鶴に呼ばれて出向いたかたちである。今日は、本丸、否、母屋へ入ることになるのだ。地下鉄から地上へ出て、坂道を上っていくと、小川ほどではないものの、真鍋もさすがに少々胸が高鳴った。
「なにか、うまい方法はないかしらね。地下室を調べる口実」
「口実ですか? うーん、ないと思いますけど」
「考えてないでしょ、君」
「まあ、そうかもしれません」
「たとえばね、絵を調べているうちに、この絵はこんな場所に置いておいては駄目です、もっと低温のところはありませんか、そうだ、ワインセラはどこですか? 地下室はありませんか? みたいな展開に持っていくのよ」
「それ、いいですね」真鍋は呆れて言った。「やって下さい」
「君が言いなさい」
「嫌ですよ、そんなわざとらしい台詞《せりふ》」
「何言ってるの、私よりは、君の方が、マニアックに見えるし、そう、専門家に見えるわけ。少々とんちんかんなことを言っても、おかしくないよ」
「意味がわかりません」
「うーん、なにかもっと良い口実はないかなぁ」
「地下室はどこですかって、きいたら良いじゃないですか」
「どうしてですかって、きかれるよ」
「先日お伺いしたときに、地下室にもまだ絵があると聞いたんですが、そちらは調べなくても良いでしょうか?」
「おお、ちょっと良いわね、それ。でも、地下室には、そんなものありませんって言われるだけじゃない?」
「だったら、地下室があることはわかるでしょう?」
「あら……」小川は目を丸くした。「意外に頭、回ってるのね」
「小川さんが、きいて下さい。僕は絶対噛んでしまって駄目ですから」
例の私道のような脇道へ入り、途中で二回角を曲がって、突き当たりに門が見えてきた。しかし、そこに黒っぽいスーツの男が立っていた。
「あ、あいつだ」小川が呟いた。
探偵の鷹知である。近づいていくと手に薔薇の花束を持っていた。
「こんにちは」鷹知はにっこりと微笑んだ。
「ホストみたい」小川はそう言ってから咳払いをする。「どうも、奇遇ですね。どちらへ?」
「いえ、たった今、インターフォンを押したところです」
「それはどうもありがとう」小川は微笑んだ。
鷹知もさらに微笑みを増す。
昨日はよく見えなかったが、門の造りは相当に古そうだった。両側の壁は最近塗り直したものだろうか、白さが新しい。
通用門が開いて、三人は中に招き入れられた。
老人といって良い年齢の男性だった。小川が用向きを説明すると、すぐに話が通じた。鷹知の方は黙っている。男について、三人は広い石畳の道を奥へと進む。途中でカーブをしながら、登り坂になる。そこで、脇にある階段を上った。広い場所に出たが、前方には大木が茂った森がある。そのさらに奥に、左右に伸びている塀らしいものが見えた。ここは敷地の中なのに、また塀があるのか、と真鍋は不思議に思った。
森の中を抜け、道はその塀の中央にある門へとつながっている。京都の二条城へ行ったときのことを真鍋は思い出していた。それは高校のときの遠足だった。
誰も口をきかず、まっすぐに歩いていく。一番前に佐竹家の男、その次に小川と鷹知が並んでいる。真鍋一人が少し遅れて、辺りを見回しながら歩いた。
門の中へ入ると、苔《こけ》に覆われた地面を左右に分けて、石が敷かれた小径が続いている。建物は黒い瓦屋根の平屋だった。
ようやく玄関か、と思える場所に行き着いた。もちろん、普通の家に比べれば何倍も広い。だが、思っていたほどではなかった。もしかしたら、ここは裏口かもしれないな、とようやく真鍋は気づいた。
ふと、どうして自分がこんなところへ来たのか、という不安が真鍋を襲った。一瞬だが、冷たい空気に触れたような気がしたのである。どこかから隙間風が漏れているのか、と足許の周辺を見回したほどだった。しかし、そういった現実の冷たさではない。表現が難しいけれど、これまでに感じたことのない、不思議な予感のようなものだった。
そもそも、ここに自分がいることの違和感、そんな言葉が相応《ふさわ》しいだろうか。しかしそれよりも、佐竹千鶴から聞いた不思議な物語の真相を知りたいという気持ちの方が勝っていたことも事実だった。
一人の人間がそんなに長期にわたって、家の中に閉じ込められている、などということがありえるだろうか。もし、そんな事実がないとしたら、逆に、千鶴の精神状態が疑われる。
けれども、目の前にあるもの、この古い屋敷の内部、擦り切れた木目、赤茶けて変色した壁、ここに漂っている空気、それらすべてのものたちが、妙に落ち着いている。ああ、そういえばそんなことがあったね、べつになにがあっても不思議ではないよ、といった諦めのような表情を見せているかのようだ。
こういう場所があるのだな、ずっと昔からここにあったのだな、と真鍋は思った。
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第2章 闇と血の消散
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けれどももっと適切に形容すると、彼の肉体はあらゆる人種の長所と美点ばかりから成り立った、最も複雑な混血児であると共に、最も完全な人間美の表象であると云うことが出来ます。彼は誰に対しても常にエキゾティックな魅力を有し、男の前でも女の前でも、擅《ほしいまま》に性的誘惑を試みて、彼等の心を蕩《とろ》かしてしまう資格があるのです。
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1
庭園を歩いていく。
母屋の近くにある小さな小屋へと続く道。
そこは、とても恐ろしい場所。
近づきたくない、そんな雰囲気が漂っている。子供の頃にはもっと恐かったはず。
周囲には竹林。一歩中に入ると、空はもう見えない。人が歩く幅だけの小径。いったい何本の竹があるのだろう。細い直線が何本も何本も重なり合って、ついには視界を遮ってしまう、まるで織物のように。
手には古いランプを持っていた。今はまだ火を灯してはいない。でも、これが必要。暗闇の中へ入っていくのだから。それを持ってきたのが、つまり決意。
そう、今日こそは……。
落ち葉が地面を覆い、無機質と同化しつつある。どんなにゆっくり慎重に歩いても、それらが音を立てる。その音が集まる。
鳥が羽ばたく音。大きく響いて。
息を殺して歩く。しだいに周囲から時間が消えていき。
この道を通ることで、過去へ戻っていくような錯覚。
小屋が見えてきた。苔と蔦《つた》が、死んでいるのか生きているのか、本来そこにあった人工物の形骸を留めるかのように。
石、土、木、すべてが腐っている。太陽の光が届かない場所。
扉は朽ちて傾き、開いたままになっていた。
「誰か」佐竹は小さな声で呼んだ。
まだ、五メートルほど離れていた。
戸の中は真っ暗。
どこまでも続く闇のように。
もの音。待っていると、恐ろしい顔が現れた。外を眩しそうに見る。目を細め、ほとんど瞑《つむ》っているような。そして、口からは歯が何本も覗いて。獣のような。縮れた鬚。灰色の髪は、植物のように顔のほとんどを覆っていた。しかし、生きている。そう、ずっとここにいる。生きているのだ。子供のときから、ずっとそうだった。
ようやく、その恐ろしい瞳が、こちらを捉えた。
「私です」
唸《うな》るような声。喉を鳴らすといった方が近い。そして、口が大きくなり、牙のような歯まで現れる。笑っているのだ。
「元気?」
獣のような顔が頷いた。
「お父様がお亡くなりになったの。知っている?」
獣が首を傾げる。けれど、少し遅れて頷いた。
「お父様が亡くなったのだから、もう、お前に命令をする人はいません。でも、私はお父様の娘なのですから、もし、この佐竹の家にお前が仕えるのならば、今度は私の言うことをきかなくてはならないわ。わかりますか?」
獣の口は小さくなった。しかし、すべての歯が隠れることはない。喉を鳴らす短い唸り声が聞こえた。
可哀相に。言葉が話せないなんて。それだけで、この男はどれだけ辛《つら》い思いをしたことだろう、と佐竹は思い出す。ずっと長い時間を、この暗い汚い小屋で過ごしてきたのだ。この近辺の庭の掃除をすることが彼の仕事。ときどき、姿を見かけるものの、誰も声をかけたりはしない。むしろ避けている。顔を合わせたくないのだ。こんな男がいたことさえ、忘れてしまいたい、できれば思い出したくない。みんながそう。嫌われている。
「私が言っていることが、わかりますか?」もう一度尋ねた。
男はまた喉を鳴らした。
近づく。
そして、手を差し伸べる。
彼の手が。
唸り声。
恐ろしい。
自分の手に触れた。
少し震えたかもしれない。それとも、彼が震えているのか。
髪を指で払い、その頬に触れ。
生きているのだ。
可哀相に。
「中に入ります。お前はここで見張りをしているのよ」
男は頷いた。
手を引っ込める。
「あとから、お姉様が来るわ。わかりますか?」
男は、首を捻った。
「千鶴さんが来ます。ここへ。だから、通してあげて」
2
小屋の中。中央に井戸のようなものがある。上に蓋《ふた》がされていた。男がそれを退《ど》けてくれる。彼女は、その穴の中へ梯子を下りていった。
闇。
明かりを灯す。
小さな視界。
闇が光とともに動く。
邪悪なものに満たされた空間。どこまでも、続いているような。
空気はいやらしく躰に纏《まと》いつき。
湿ったかび臭い微粒子が浮遊している。
見上げると、眩しいほどの四角。そこから下りてきたのだ。
あいつが覗き込んでいた。醜い男。
無意識のうちに、片手で口と鼻を覆っていた。
床は有機的な感触。土のような。それとも腐った木のような。
壁は石が積まれている。横も。後ろも。
自分の影。それとも、悪魔の影。
ゆっくりと進む。
息が聞こえる。自分の呼吸。
肺。喉。
闇の中へ進み。
いつまでも。
どこまでも。
永遠に続きそうな。
長い通路が先へ先へと導く。
息。
自分の足音。
恐ろしさはなかった。
どうしてだろう。わからない。
それよりも、期待?
それよりも、希望?
躰が覚えている快感。
心が忘れている快楽。
何だろう。
とにかく、欲しい。
願って、望んで、求めて。
嫌って、避けて、蔑《さげす》んで。
血?
血の臭いがする、と突然思いついた。
たぶん、自分の躰の中の血。
そうだ。赤い血。
その臭い。
赤い。
流れて……。
ああ、呪《のろ》わしい。なんという、醜さ。
死んでしまえば良いのに。
殺してしまえば良いのに。
生きているなんて、それだけで残酷。
醜い。
汚らわしい。
けれど……。
寒くはなかった。
むしろ、蒸し暑いくらい。
ねっとりとした欲望に満たされているせいだろうか。
ああ、呪わしい。
恥ずかしい。
それでも、進んでいく。
分かれ道があった。
細かい砂が落ちてくる。
新しい闇へ。
そちらへ進む。
通路はカーブしながらさらに奥へ。
もう引き返せない。
いつだって、そう、引き返せない。
汗をかいているようだ。
生きているのだな、自分は、と思う。
人形ではない。
人形に生まれてくれば、むしろ良かったのに。
ずっと、人形のように、いつまでも。
その方が、ずっと綺麗に。ずっと美しく。
濡れている壁。
すべてが汗を流しているよう。
溶け始めているのかもしれない。
どろどろと。
溶けていく。
液、液。
湿って、濡れて、流れて。
気体も固体も、どろどろと。
あらゆるものが付着し、粘着し、うねっている。
天井が低くなり、壁も迫り。
小さな戸が。
行き止まり。
そこが開く。
向こう側へ外れる。
明かりが漏れ出て。
その明かりの中で影が動く。
生きている。
ああ、会いたかった。
「待った?」
「さあ、入っておいで」
狭い入口から中に入る。
彼女は抱き締められる。
「ああ、お兄様」
「可愛い妹」
躰が締めつけられる。
熱い。
躰の内部から熱せられているような。
熱い息が上ってくる。
熱い。
どうか……。
「ご機嫌、麗《うるわ》しゅう」
「待っていた。ずっと」
「お元気でなによりです」
「この躰に触れたかった」
震えた。
どうか……。
「私もです。何度お兄様の夢を見たことか、何度……」
明かりは足許。
天井には影。
二人の。
ここは地獄。きっと。
もう、死んでしまったのだ、自分は。
ああ、どうか……。
地獄へ……。
暑い。
熱い。
血の臭い。
赤い。真っ赤な。
「お兄様……」
息ができないほど、暑い。
「お願いです、私を……」
そう……、
もう生きてはいられない。
「この私を殺して下さい」
熱い血を。
「殺して……、どうか……」
優しいその手で。
美しいその指で。
私の首を。
どうか……。
生きていてはいけないの。
生まれてはいけなかったの。
「どうか、お願いです」
兄の手が、彼女の首にかかった。
息。
止まる。
すべてが。
終わる。
ああ、嬉しい……。
愛している。
愛されている。
「ありがとうございます」
その声は、音にはならなかった。
暗闇は消えて、突然光で包まれ。
真っ白に。
眩しいほど。
ああ、良かった。
お兄様、ありがとう。
私の願いをきいてくれて。
ありがとう。
3
老人に案内され、真鍋瞬市と小川令子は通路を進んだ。玄関まで一緒だった鷹知祐一朗は、一人で通路を逆の方向へ歩いていった。佐竹の親戚に当たる、と昨夜話していたが、勝手を知った感じに見えた。
何度も通路を曲がり、案内された部屋は板の間で奥の窓際にデスクがあった。男が立ち上がって、二人を出迎える。五十代だろうか。髪が薄く極めて恰幅《かっぷく》が良い。上はワイシャツだが、よく前のボタンがしまったものだ、普通のサイズではないだろう、と真鍋は思った。バンドをしているが、役には立たない。ズボン吊りが肩にほとんどめり込んでいた。
「はい、どうも……」じろじろと小川を見る。「椙田さんのところの方ですね?」
「小川と申します。よろしくお願いいたします」
「兼本《かねもと》です」男は名乗った。
一瞬だけ真鍋の方へ視線を向けたので、彼も頭を下げた。名乗っても良かったのだが、相手は関心がなさそうだったし、きっと覚えてもらえないだろう、と考えた。案の定、たちまち視線は小川へ戻り、また長い時間をかけて彼女を観察した。
部屋にはクラシック音楽が流れていた。ピアノ協奏曲のようだ。小川はまずスピーカに目を留め、それから、キャビネットに載っている小型の機器を見つけたようだ。レコードではない。CDのプレイヤだった。兼本も振り返って彼女の視線を追う。
「300Bのシングルですね」小川は呟くように言った。
「え?」兼本がきょとんとした顔をこちらへ向ける。
「あの、絵はどちらでしょうか?」
「ああ、そうだそうだ、案内しますよ。こちらです」
兼本について、さらに奥へ通路を歩いた。方角はとうにわからなくなっている。ときどき庭が見えるものの、どれも違う場所のようだった。入り組んだ建物であることは確かだ。渡り廊下を渡ったところで、白い壁の建物へ行き着いた。蔵のようである。黒い重そうな扉に大きな錠前がかかっている。ズボンのポケットから、兼本は鍵を取り出した。五、六本の大きな鍵が束になっているものだった。彼はその中から一本を選んで錠前の穴に差し入れた。
「椙田さんのところには、もう長いの?」兼本がきいた。
「あ、ええ……」小川は答える。これは明らかに嘘であるが、たぶんわざとそう答えたのだろう。その方が信頼される、という計算にちがいない。
蔵とはいっても、かなり大きな建物である。入ってすぐ、梯子のように急な階段があって、二階へ上がれるようになっていた。
「そちらの奥に机があるから、作業に使ってもらってけっこうです。電気のコンセントは、ここ。ここにしかないから。もし必要なら延長コードを持ってくるけど」
「いえ、大丈夫です」
「写真を撮るんでしょう? 照明が必要なんじゃない?」
「デジカメですから、この明るさで、たぶん充分です」
「じゃあ、終わったら、さっきのところへ呼びにきて下さい」兼本は言った。「なにか、ご質問は?」
一瞬黙ってから、小川は真鍋の方を見る。
「えっと……、トイレはどちらですか」真鍋は尋ねた。
「あ、あっち」兼本がぶすっとした表情で指をさす。「あっちへ行って、突き当たりを左に入って、右側」
「ありがとうございます」
「あの……」小川が片手を少し持ち上げる。
「はい、何ですか?」兼本がばっと笑顔になる。
「この建物の図面のようなものはありませんか?」小川が質問をした。
「図面? どうして?」
「いえ、この建物自体が美術品として素晴らしいものだと思ったものですから、なにか資料があれば、後学のために拝見したいと思いまして」
「図面ねぇ……、さあ、そんなもの、あったかな」
「間取り図のようなものはありませんか?」
「ああ、あったな……、えっと、そうそう、見たことがある。でも、どこにあったかなぁ。あとで探してみますよ」
「いえ、いつでもけっこうです。急ぐようなことではありませんので。お手数をおかけして大変申し訳ありません」
「建築に興味があるの?」
「はい、少しだけですが」
「へえ、そう……、良かったら、また、写真でも撮りにきたら?」
「え、いいんですか?」
「いいよ、写真くらいなら。それをネットで公開とかされると困るけれど」
「とんでもない、そんなことはしません。個人的な趣味、というか研究みたいなものです」
「いつでも、連絡して下さい。あ、そうか、名刺を渡さなくちゃ」
「失礼しました。私も……」
兼本と小川はそこで名刺を交換して、お辞儀をした。既に蔵の中に入っていた真鍋は、手持ちぶさたで彼女を待っている。
「はい、それじゃあ、頑張ってね……」最後はやけに馴れ馴れしい口調でそう言って、兼本は通路を戻っていった。
溜息をつき、舌打ちしてから小川が蔵の中に入ってくる。
「凄い口実を思いつきましたね」真鍋は言った。
「まあ、相手を見て、臨機応変にね」
まず、絵がどこにあるのかだいたい確認した。多くは一階の奥の棚にある。箱に入った状態で立てて並べられていた。椙田のリストの順番とほぼ同じであることもわかった。最初の一つを箱から出して、一番明るそうなところに置く。三脚とカメラをセットし、反射光が入らない角度を探した。
「これで、いいんじゃないですか?」真鍋は言った。「あとは、撮っていけば良いだけですから、簡単ですよ」腕時計を見ると時刻は三時十五分まえである。「一枚撮るのに三分としても、二時間くらいで終わっちゃいますね」
「ゆっくりやろう」小川は言った。「夜までかけて……」
「どうしてですか?」
「チャンスがあるかもしれないでしょう?」
「何のチャンスが?」
「馬鹿ね、目的を見失っているよ。私たちの使命は、地下室を探ることじゃない」
「ああ、そうだったんですか」
忘れていたわけではないが、使命は絵の撮影だと真鍋は認識していた。それに地下室を探るよりも、もっとさきにやるべきことがあるだろう。たとえば、佐竹鎮夫について、誰かに尋ねるとか。
「さっきの人に、きいてみたら良かったですね。千鶴さんのお兄さんのことを」真鍋はそれとなく提案してみた。
「うん、そうなんだ」小川は唸った。「よぉし、なんとか、聞き出してくるわ」
「え?」
「君、写真、やってて。ちゃんとチェックをしながらするんだよ」
「あ、はい……」
小川はバッグから鏡を出して、自分の顔をチェックしている。それから、息を吐いて気合いを入れた様子。次に両手を拳にして、胸の横で前後に動かす体操をしてから、蔵を出ていった。
4
小川令子は蔵を出てから、まずトイレの方へ歩いた。通路の角を曲がった先で行き止まりだ。すぐに引き返して、今度は別の方角へ行ってみた。中庭が見える。反対側には襖が並んでいる。座敷があるようだ。手前の一つをそっと開けてみると、暗い畳の部屋があるだけだった。いったい何に使うのだ、こんな広い場所が余っているなんて経済的損失ではないか、と思った。たとえば、私なら、料亭にでも改造するとか、プロジェクトを提案するのに、とも考える。しかし、実際にそんなことをしたら、大きな損失をさらに産み出すだけだ、ということも想像が容易である。
その経路も行き止まりだったので、再び戻り、蔵の前を通って、別の経路へ。最初に兼本に案内されてきたときの通路である。しかし、途中に分かれ道があって、どちらへ進めば良いのか迷った。自分の勘を頼りに進む。ときどき脇道にわざと逸れて、先まで様子を見にいったが、どこにも階段らしきものはない。平屋なので二階がないのだ。地下へ下りる階段がありそうな場所、というのはどんなところだろうか。土間があるような場所か。それとも、部屋の中央にあるハッチを開けて、そこから穴の中へ下りていくような感じだろうか。
誰かにばったり会ったら、道に迷った振りをするつもりだったが、誰にも会わなかった。ドアを開けるのは憚《はばか》られたが、襖があれば、そっと開けてみた。音もなく少しだけ開けることができそうだったからだ。また、透明なガラスが填《は》め込まれたドアや引き戸からは、部屋の中を覗き込んだ。照明が灯っていないため、たいていは暗くてよく見えない。窓があるような部屋ならば良いが、通路でも、小さな照明によってなんとか支障なく歩ける程度の明るさしかないところがほとんどである。昔の建物というのはこんなものなのか、と小川は思った。
また別の通路へ入り、角を曲がったところで、男が目の前に立っていた。小川は驚いて立ち止まる。鷹知祐一朗だ。壁にもたれて腕組みをしている。
「どうしました?」鷹知はまったく動かない。目だけをこちらへ向けて、平坦な発音できいた。
「あの、兼本さんの部屋を探しているんです。迷ってしまって」
「あっち」彼は目で方角を示した。
「どうもありがとうございます」お礼をして、先へ進もうとした。
「ちょっとちょっと、お嬢さん」呼び止められた。
お嬢さんという言葉に少なからず抵抗を感じながら、小川は振り返る。
「はい?」
「お名前はなんと?」
「私、小川です。椙田事務所の……」
「小川さん、もしかして、昨夜おいでのときとは、肩書きが違いますか?」
「何のお話でしょうか?」彼女は急きょ防御モードを整えた。
「千鶴さんと会われて、何を依頼されたんですか? そのことで、こちらへいらっしゃったのでしょう?」
「いいえ、違います。あの、もう失礼してよろしいですか? 時間がありませんので……」
小川が歩こうとすると、後ろから腕を掴まれた。
「離して下さい」小川は鷹知を睨みつける。意外にも動きが俊敏なので驚いた。
「まあまあ、そんなに慌てずに」鷹知は手を離す。
「失礼な人ですね」
「情報交換をしませんか? その方がお互いの利益になると思うんですよ」
「貴方と交換するような情報は、持ち合わせておりません」
「家の中をうろうろしていたでしょう? なにかお探しではありませんか? 僕にきいたら、あっさりわかるかもしれませんよ」
「貴方はここで何をしているんですか?」
「佐竹夫人にアポをとって会いにきたんです。今ちょっと、ご用事らしくて、どこかへ行かれました。ここで待っているところです」
「こんなところでですか?」
「ええ、ここで休憩していました」
「佐竹夫人に、何のご用なのですか? 千春さんから、どんなご依頼を受けたのかしら」
「ですからね、そこのところを、ゆっくりとお話がしたいな、と昨夜から思っているわけですよ。どうしてそんなに我を張っているんですか? もっとドライにいきましょう。ビジネスライクにいきましょうよ」
「おっしゃりたいことは、わかりました。でも、私には判断ができません。上司に相談してみます」
「ああ、そりゃ、ビジネスライクすぎる」
「失礼」
小川は歩いた。後ろを振り向きたかったが我慢した。角を曲がり、また少し進んだところで、見たことのあるドアがあった。兼本がいた部屋である。逆から来ると、わかりにくいものだ。
ノックをする。返事がなかった。
ドアを少しだけ開けてみる。部屋はここでまちがいない。しかし、兼本はいないようだった。音楽も聞こえなかった。
しかたなく、ドアを閉めたとき、どこかから、女性の悲鳴が聞こえた。
小川は辺りを見回した。自分が歩いてきた方角だ。彼女はすぐに通路を引き返した。
鷹知祐一朗がいる場所まで戻る。彼はまだそこにいたが、こちらを向いていなかった。
「悲鳴が聞こえたわ」小川は言った。
「ああ」鷹知は背中を向けたまま頷いた。「たぶん、こちらだ」
「見にいかなくて、良いかしら?」
「わからない」さきほどとは打って変わり、心配そうな顔ではある。
「どちらから聞こえた?」
「こっち」
「行きましょう」
彼が示した方向へ小川は進む。しかし、角を曲がったところで通路は行き止まりだった。
「どこかしら?」
「たぶん、この座敷の中だ」鷹知が言う。
彼自身が襖を開けようとしないので、小川がそれを開けた。
二間続いた広い座敷である。誰もいない。欄間《らんま》が最初に目についた。照明が灯っているので暗くはない。誰もいないのに、照明が灯っていた。左手に並んでいる襖の一つが開いたままになっている。押入だろう、と小川は思った。しかし、そこだけが開いたままになっているのが不自然ではある。彼女は畳に足を踏み入れて、そこを見にいった。
押入の奥が広い。ずっと奥へ続いている。部屋というよりも幅の広い通路だ。一番奥まで七、八メートルはあった。途中から天井も高くなっていて、突き当たりの壁には高い位置に小さな明かり採りの格子窓が見えた。しかし、人の姿はない。
「あれは?」小川はそちらを見て呟いた。「何だろう? 井戸?」
格子窓の下、突き当たりの壁に近い位置に、木でできた台のような部分があった。よく見ると、台ではない。穴が開いているようだ。板が横に斜めに立てかけられている。それが蓋だったのではないか。井戸ではないかと考えたのはこのためだった。
鷹知の顔を見る。無言で首をふった。
小川は確かめるために奥へ進んだ。奥の天井が高いスペースは、壁の両側に棚が作られ、倉庫のようになっていた。黒く塗られた木製の箱が幾つか棚に収まっている。どれも古そうなものばかりだ。
問題の囲いの中を上から覗き込む。穴は床を貫通し、ずっと下まで続いているようだ。暗くてよく見えないが、下りていくための梯子がある。
「地下へ下りられるみたい」小川は冷静な口調を装って言った。けれど、少なからず興奮していたことはまちがいない。
そうか、階段ではなかったのだ。ここが問題の地下室にちがいない。千鶴の話は、ここまでは嘘ではなかった、と彼女は思った。
「誰かいますかぁ?」中へ向かって、小川は声をかける。
「来て!」という女のか細い声が下から返ってきた。
「佐竹夫人だ」鷹知が言った。
彼は急にやる気を出したように見えた。囲いの木を跨《また》ぎ、梯子に足をかけ、穴の中へ下りていく。彼の頭が床よりも下がってから、顔が上を向いた。
「大丈夫? 何があったの?」小川は尋ねた。
「よくわからない。暗くてなにも見えない」鷹知が答える。
「あ、私、ライトを持ってる」小川は思い出した。上着のポケットから小型のライトを取り出す。小さいが高性能なものだ。
「貸して」鷹知が梯子をまた上ってきた。
「待って、私も下りるから」
鷹知は再び下がっていく。小川も木枠に掴まって、梯子に足をかけた。そして、闇の中に下りていく。鷹知が言ったとおり、まったく周囲は見えない。なにもない空間、どこまでも広い空間にも思えた。
地面らしきところまで行き着き、そこに立った。もっとも、不整形な場所ではない。人工的な床がある。ライトを向けて、周囲を観察した。
意外に、広い部屋だ。
十メートルほどさきに誰かいる。蹲《うずくま》るように倒れていた。鷹知が近くへ行く。そこを照らしながら、遅れて小川も進む。
「大丈夫ですか?」鷹知が抱き起こしたのは、年輩の女性のようだった。おそらく佐竹夫人だろう。さきほど呼んだのも彼女にちがいない。目を開けている。気を失っているわけではない。しかし、口を僅かに開け、恐ろしい表情のまま、鷹知の腕に縋《すが》ろうとしている。藻掻《もが》いているかのようだ。がたがたと震えているのがわかるほどだった。
「どうしました?」鷹知がきく。
「鎮夫さんが……」夫人はそう答えた。
その名前を聞いただけで、小川の鼓動は加速した。
夫人のすぐ横に、割れた皿の破片があった。
「あ、そこ、危ない」近づきながら、小川は注意をする。
床を照らすと、蝋燭も落ちていた。夫人が皿に蝋燭をのせてここへ下りてきたのだろう。それを落としてしまった。火が消えて暗闇の中で動けなくなったのか。
それだけのこと?
鷹知が、その蝋燭を拾い上げ、ポケットから出したライタで火をつけた。空間全体が、ぼんやりと明るさを増した。
5
目が次第に慣れてくる。細長い部屋だった。両側の壁の間隔は五メートル程度。しかし、奥行き方向は非常に長い。下りてきた梯子の近くに壁があり、そこから十メートルほどの位置にいたが、その先へも、まだ闇が続いている。ライトをそちらへ向けると、奥に木の格子のようなものが見えた。そこまではさらに十メートル以上ある。
佐竹夫人は、息を何度も吐く。少し落ち着いたようにも見えた。怪我をしている様子はない。ただ、奥を指さすだけで、言葉にはならない、といった強《こわ》ばった表情だった。
小川はライトを向けて、奥へ進んだ。鷹知は蝋燭を夫人の近くの床に置いて、小川のあとについてきた。
格子に見えたのは、壁のように部屋を仕切っている太い角材だった。三十センチほどの間隔で、縦にも横にも均等に並んでいる。角材と角材の間に四角い隙間が開いている。十五センチ四方ほどの穴だ。
格子の向こう側には何があるのか。さらにその奥を覗こうとして、小川は近づいた。
ライトを隙間へ入れようとしたとき、そこから、突然なにかが飛び出してきた。
「きゃ!」思わず後退。足が縺《もつ》れて、倒れそうになったが、後ろの鷹知が彼女を受け止めてくれた。
飛び出してきたものは、白い人間の手。
光を向けると、赤く濡れているようだった。
血か?
立ちつくしたまま、呼吸を取り戻すまでに、十秒くらいかかった。
ちょっと、何なの、これは、という言葉が口の中で漏れる。
「おい、大丈夫?」鷹知が声をかけてくれた。
自分に言われたのだと小川は思ったけれど、そうではない、鷹知は飛び出した手のすぐ横の隙間から、中へ話しかけているのだった。
格子の角材は、つまり牢だ、と小川はようやく気づいた。冷静になってライトを当てて観察すると、左下の方に、錠前がかかっている部分が見つかる。蝶番《ちょうつがい》もあった。そこが扉のように開く仕組みになっているのだ。そのすぐ横には、格子が不規則な部分があって、高さは十五センチ、横幅は三十センチほどの細長い隙間が開いていた。そこを通して、ものを出し入れするのではないか。たとえば、食事を与えるときに。
小川は振り返った。蝋燭の明かりの近くで、佐竹夫人が蹲《うずくま》っている。怯《おび》えているように見えた。
もう一度、鷹知を見ると、中から出ている手を、彼の手が握っていた。
「大丈夫だね? どうして、そんなところにいるの?」鷹知がきいた。
小川はライトをもう一度隙間へ向ける。
「千春さんかな」鷹知が呟くように言った。「よくわからない。大丈夫そうだけれど、答えてはくれない」
急に手が消えて、どすんと倒れる音がした。
「おい、大丈夫か?」
隙間からライトを入れて、中を観察する。すぐ近くに人が倒れているのがわかった。しかし、それ以外はよくわからない。
「とにかく、そこを開けないと駄目だな」鷹知が言った。
「そこって、ここ?」小川はきいた。錠前のことらしい。
彼は、夫人の方へ戻っていった。
「あそこの鍵をお持ちですか?」
ぼんやりとした表情で、夫人が鷹知を見つめている。小川は屈《かが》み込み、錠前をライトで照らして観察する。それほど古いものではない。錆びてはいなかった。
鷹知が戻ってきた。手に鍵を持っている。夫人が所持していたらしい。彼はそれで錠前を開けた。
格子の戸を手前に引き開ける。低い位置で、高さは一メートルもない。小川は持っていたライトで入口を照らす。鷹知がさきに中へ。小川も手を下について、潜《くぐ》り抜《ぬ》けた。
ライトで照らし出された人物のところへ鷹知が駆け寄った。
「大丈夫?」小川はきく。
「うん、気を失っているようだけれど」
ライトを照らしたかぎり、大怪我をしている様子はない。
それを確かめてから、この部屋の中にあるものを見た。ライトを動かして、壁から壁、天井、そして床を。
奥にもう一人いる。
女だ。
壁際でこちらを向いて、人形のように足を投げ出して座っていた。白いドレスが、黒っぽいもので汚れている。それは血だった。首からも血が流れているようだ。
「大変……」小川は思わず息を飲んだ。近づくのも躊躇されるほどだった。「鷹知さん、こっち」
彼もすぐに気づいて、そちらへ歩み寄った。
「もしかして、千鶴さん?」小川は言った。
鷹知が、その血まみれの人間の横に屈み、腕に触れた。それから、首にも触れた。
「もっと近くで照らしてくれないか」
小川は近づく。血の臭いがしそうだった。これまで黒く見えていたものが、一瞬にして、真っ赤に照らし出される。
人形は微動だにしない。
首を斜めにし、口を少し開けていた。前歯が覗いている。おどけているような顔だが、目は真っ白だった。
「救急車を呼ぶ?」
「ああ、でも……」彼は舌打ちをした。「死んでいる。首を絞められたのかな。そのうえ、首筋を切られているみたいだ」
「死んでいるの? 本当に?」自分の声が高くなるのがわかった。「千鶴さんなの?」
「いや、わからない。どちらがどちらなのか」
そうか、格子のところで気を失っている方が千鶴かもしれないのだ。小川は二人を見比べた。顔は見えていない。しかし、たしかに体格や髪型は同じだった。
「ここに剃刀《かみそり》が落ちている」鷹知が言った。
小川はさらに近づいて、それを確かめた。剃刀は、死んでいる人物の垂れ下がった左手から、三十センチほどのところに落ちていた。床には血が流れている。壁にも血が飛び散っている。ようやく頭の中で整理がつく。状況がだいたい把握《はあく》できた。
「もしかしたら、自殺? 自分で切ったのかしら」小川はそう考えた。千鶴は左利きだっただろうか、と思い出す。しかし、利き手がわかるような場面は記憶にはなかった。真鍋ならわかるのではないか、と考える。真鍋は何をしているんだっけ。そうか、あそこで絵をデジカメに……、といった現実を、だんだん取り戻すことができた。
もう大丈夫だ。自分は探偵事務所に就職したのではないか、これくらいのことでびびっていては、椙田に合わせる顔がない。頑張らなければ。彼女は静かに深呼吸をして、できるかぎり感情を遮断し、頭を切り換えることにした。
「いや、だからね、首を絞められたって、言っているだろう」鷹知が立ち上がった。「聞いてなかった?」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「専門だから」
「専門って?」
「だから、探偵」
「ああ……」小川は頷いた。しかし、自分も探偵である。
もう一度、死んでいる女を見た。あまり長時間見つめていたくない。気分が悪くなりそうだった。
部屋には特になにもない。
血が飛び散り、そのあと、そこを歩いたり、擦《こす》ったりした跡が無数にあった。
ランプが一つ、床に落ちている。入って右手の奥のコーナだった。落としたのか、それとも、置いたあと倒したのか。ガラスは割れていなかった。火は倒れたときのショックで消えたのだろうか。
それから、白い陶器の食器が三つ、格子の入口付近に転がっていた。お盆も一つ。そこにも血の跡がある。血のついた手で触ったのだろうか。よく見ると、食べものが少しだけ残っていた。食べたあとのようだ。
小川は、自分の服に血が付着していることに気づき、すぐにもここを出たいと思った。鷹知も同じだろう。この部屋にはいれば、必ず血で汚れてしまう。
「とにかく、出よう。救急車と警察を呼ばないと」鷹知が言った。
小川がさきに格子の出口を潜り抜けた。鷹知は、格子の内側に倒れている千鶴あるいは千春を抱きかかえ、入口から外に出した。小川が外側でそれを手伝った。
「ああ……」小川が躰を起こしたとき、声が漏れ、目が開いた。
「大丈夫ですよ、もう」
「お兄様は?」目を見開いて、片手を口もとへ添える。
「千鶴さんですか?」小川はきいた。
ようやく、小川の方へ視線を向ける。
認識するのに、三秒ほどかかったようだ。
「はい。千鶴です。小川さん、でしたね? どうして、ここへ?」
「中にいるのは、千春さんですね?」小川はきいた。
鷹知が格子から出てきた。
「鷹知さん」千鶴は彼を見上げた。「千春が……、怪我をしているわ」
「救急車を呼びます」鷹知が答えた。
妹が怪我をしていることを、千鶴は知っているようだ。死んでいるとは言えなかった。
「立てますか?」小川は千鶴の手を取った。
「ええ、大丈夫」千鶴は立ち上がりながら、後ろを振り返る。
小川も振り返った。幸い、格子の中は暗く、なにも見えなかった。
梯子の方へ戻る。途中で、佐竹夫人を鷹知が抱えるようにして、立ち上がらせた。
「大丈夫です、上に出ましょう」
「なんてことを……」夫人の口から言葉が漏れる。千鶴の方を睨むように見据えていた。
小川がさきに梯子を上り、千鶴が上ってくる途中で、手を差し伸べた。佐竹夫人は、鷹知にすぐ下でガードされながら上がってきた。
「ありがとう」鷹知は、小川にライトを返した。
礼を言われるような状況だとは思えなかったので、びっくりしてしまった。
「ここか、あちらの座敷にいて下さい。すぐ誰かを呼んできます」鷹知はそう言って、ポケットから携帯電話を取り出しながら、座敷の方へ走り去った。
佐竹夫人の名が絹子だということを小川は思い出した。千鶴と血のつながった母ではない。二人はそれぞれ離れた位置に、腰を下ろした。立っているのが辛い、という様子である。お互いに言葉を交わすこともなかった。義理とはいえ母子ならば、もっと近くにいても良さそうなものだ、と小川は思った。だが、それらしいことを、昨夜、千鶴自身の口から聞いていたので、改めて納得する。
溜息が漏れる。
地下の空気は異様だった。
やっと、正常な空気が吸える。
そう、どうして自分はこんなところにいるのか。
そうか。死体を見たのだ。
病院でも、葬式でもないのに。
忘れようとしている自分がいることを発見した。恐ろしい。恐ろしいから、なにもなかったことにする。見なかったことにするのか。佐竹絹子と佐竹千鶴の関係について考えていた。そんなことを考えている場合ではないのに。
人が死んでいたのに。
自殺だと考えたが、鷹知がそれは違うと否定した。自信ありげだった。
しかし、自殺でないとすれば……、
事故とは考えられない。
他殺しかない?
今見てきた場所、あの現場は……、
そう、鍵がかかっていたのでは?
否、鍵は絹子が持っていた。
誰かが、千春を殺したということか?
あんな場所で?
千鶴か、絹子か、どちらかが殺した可能性だってある。
もう一度、フォーカスが目の前に座っている二人に合う。
殺人犯?
冗談じゃない、こんなところにいたくない。
どうして、こんな目に遭うのだろう。
だめだめ、落ち着いて落ち着いて落ち着いて。
何故か、あの暗い血の牢獄にいるときよりも、今の方が鼓動が速い。今の方が恐い。だんだん現実が認識されてきた、ということだろうか。
違う。
もう一人いたのだ。
それは……、
そう、鎮夫という人物。
あの牢に入れられていた男だ。
絹子は、鎮夫のために食事を運んだのではないか。
そうか!
鷹知はそれを知っていたのだ。通路のあの場所で、待っていた。絹子が戻ってくるのを待っていたのだ。だからこそ、悲鳴が聞こえたときに、彼はこちらから聞こえたと知っていた。
なんか変だったぞ。
もしかして、鷹知はなにもかも知っていたのではないか。
妙に落ち着いていたような気がする。
ああ、誰もかも怪しく思えてきた。
こんなところにいたくない。
真鍋を呼びにいこうか。頼りないけれど、いないよりはましだ。携帯電話で呼び出しても良いのだが、今はかけにくい。
戻るのが遅いと心配して、捜しにきてくれても良さそうなものなのに。いやいや、鈍そうだからなあ……。
また溜息が出た。
とりあえず、手が洗いたい、と小川は思った。
6
最初に現れたのは、知った顔の老人だった。あとからわかったことだが、佐竹家の執事で、倉田《くらた》という名の男である。さきほど、屋敷まで案内をしてくれたのも彼だった。
倉田の提案で、絹子と千鶴は座敷へ移動した。
ここで、小川はようやく手を洗いに部屋を出ることができた。トイレの場所を倉田からきいて、そこで時間をかけて手を洗った。
彼女が戻ると、兼本がやってきていた。どういうわけか、息を切らして汗をかいている様子だった。ハンカチで額を拭っている。慌てて走ってきたのだろうか。
そして、最後に鷹知と真鍋が二人で座敷に入ってきた。小川のいるところへ、真鍋が近づいてくる。
「えっと、よくわからないんですけど、何があったんですか?」真鍋が尋ねた。「まだ写真、半分くらいしか撮れていませんけれど」
「佐竹千春さんが、殺されたみたい」真鍋に顔を近づけて、小川は小声で囁いた。
真鍋が一瞬遅れて目を見開いた。口を一度開けたが、言葉は出てこないようだ。
「あそこの奥から、地下室へ下りられるようになっていて、そこに、牢があって、その中が、もうなんていうか、とにかく凄かった、血まみれ」
真鍋は佐竹絹子と千鶴の方へ視線を送った。続きの座敷に佐竹家の二人は座っている。近くに、倉田がいる。そして、今入ってきた鷹知も彼女らの近くへ腰を下ろした。小川と真鍋がいる位置からは五メートル以上離れている。倉田がときどき話しかける声は聞こえてくるものの、会話を交わしている様子はない。また、もう一人の兼本は、部屋の隅に一人少し離れて座っている。彼はこちらを見ていた。
何があったのかを、掻《か》い摘《つま》んで真鍋に説明した。沢山のものを見たように感じていたが、言葉にすると意外に少ない。梯子で地下へ下りて、そこに佐竹絹子が倒れていた。奥に牢があって、その中に佐竹千鶴と千春の姉妹がいた。錠前の鍵はかかっていて、その鍵は絹子が持っていた。錠を開けて牢の中に入ると、千春は奥の壁際で事切れていた。鷹知の説によれば、首を絞められ、そのあと首筋を切られて殺害されたものだという。剃刀が千春の近くに落ちていた。それが凶器らしい。
「どうして、二人はそんなところにいたんですか?」真鍋がきいた。
「うん、良い質問だと思うよ。あっちへ行って、きいてきたら?」
「え、嫌ですよ、そんなぁ」真鍋は眉を顰《ひそ》める。
「私、バッグを置いてきちゃったから、ちょっと取りにいってくるね」小川は立ち上がった。「ついでに、椙田さんにも連絡をしておく……」それから、もう一度、真鍋に顔を近づけ、耳もとで囁いた。「きいてきなさいよ。探偵の助手でしょう?」
小川は座敷を出た。通路へ出て、数歩歩くと、後ろで音がしたので、振り返った。別の襖が開いて、巨漢の兼本も座敷から出てきた。こちらを見て、片手を広げるので、待ってやる。息を切らしながら、近づいてきた。
「何ですか?」
「どこへいくの?」
「あ、えっと、あの蔵です。バッグを取りに」
「こういうときは、あまり一人で行動しない方が良いですよ」
「どうしてですか?」
「危険じゃないですか。一緒に行きましょう」
たしかに、迷わずに行き着けるか心配だったので、その点では助かった。
「大変なことになった」兼本はこぼした。
「ええ」
「しかし、嫌な予感はしていたんですよ」
「え、どんな?」
「いえいえ、なんとなくですけど。会長が亡くなられてからというもの、それまでなんとか収まっていたものが、なんだか、ばらばらになったというのか……」
「お嬢様たちと、奥様のご関係とかがですか?」小川は思い切ってきいてみた。
「いや、まあ、いろいろありまして」
「そうそう、鎮夫さんというのは?」
「え?」兼本は驚いた顔で一瞬立ち止まった。「誰から、それを?」
「それは言えません。でも、きいてはいけなかったかしら?」
「うーん」兼本は極端に顔をしかめる。「そうですね、その話はタブーです」
「タブー」小川は言葉を繰り返す。
「いや、しかし、あの場所であんなことがあったとなると、警察が来て、当然、調べるわけですから、うーん……」兼本は、ぶつぶつと言葉を飲み込む。立ち止まったままだった。歩くのに疲れたのかもしれない。
「地下の牢のことですね?」
「見たのですか?」
「見ましたよ。私と鷹知さんで、あそこへ下りていったのですから。兼本さんもあそこ、ご存じなのですか?」
「知りません。いえ……、そんな、見たことありません。話に聞いていただけです。え、しかし、本当に? 本当に入ったんですか?」目を丸くして、小川の方へ兼本は一歩近づく。
「ええ」彼女は思わず一歩後退した。
「じゃあ、鎮夫を見たんですか?」
「え?」
「彼が、千春さんを殺したんでしょう?」
「いえ……」小川は首をふった。「その、鎮夫さんは、いませんでした」
「え? いなかった? だって、牢の中を見たんでしょう?」
「ですから、その、そこに、千春さんが倒れていて、もう亡くなっている、と思います。もうすぐ、救急車が来て、なんとかしてくれるかもしれませんけれど」
「いなかった? どこへ行ったんです?」また一歩、兼本が接近する。
「さあ……、私にきかれても」
兼本は、通路の前後を見渡した。不安そうな表情だ。
「逃げ出したってことかな」
「あの、鎮夫さんというのは、どんな人なんですか?」小川は尋ねた。
「どんなって……、ああ、恐ろしい」兼本は言葉とともに息を吐いた。「とにかく、みんながいるところへ戻りましょう」
「いえ、私、バッグを取りに」
「ああ、そうか」兼本は舌打ちをしてから、歩きだす。
さきほどより早足になっていた。小川は彼についていく。渡り廊下の先に蔵の入口が見えてきた。彼女はその中に入り、壁際にある自分のバッグを手に取った。真鍋がセットしたデジカメがそのまま置かれている。絵が一枚箱から出たままになっていた。蔵の外で兼本は待っていたが、その絵だけは片づけることにした。
「ここ、鍵をかけなくて良かったですか?」蔵から出て小川はきいた。
「え?」
「いえ、高価な美術品なのでは?」
「ああ、ええ、そうですよ」兼本は頷いた。しかし、自分の腹の辺りを触ってから、顔を上げた。「駄目だ。鍵は、上着のポケットだ。えっと、上着はどこだったかな。座敷かな」
「いえ。さっき、いらっしゃったときには、もう着ていませんでしたよ」
「あぁ」兼本は額に片手を当てる。汗をかいている。「そうかそうか。とにかく、そこは閉めておいて下さい」
小川は蔵の入口の重い扉を閉めた。
二人は通路を引き返す。
微かにサイレンの音が聞こえた。兼本が通路の窓を開けて、それを確かめた。近い。音は一つではない。別の音色のサイレンも鳴っていた。
「来たみたいですね」小川は言う。
「もう、この家もお終いだ」兼本は汗を拭いながら呟いた。
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第3章 黙する紫の花
[#ここから5字下げ]
やがて魔術師は、その時まで玉座の前に跪いて、彫刻の群像の如く平伏していた奴隷の中から、一人の可憐な美女《たおやめ》を麾《さしまね》くと、彼の女は夢遊病者の如くよろよろとして魔術師の前に歩み出で、再び其処に畏まりながら、糸の弛《ゆる》んだ操つり人形のように、ぐたりと頭《こうべ》を項垂《うなだ》れました。
[#ここで字下げ終わり]
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地下室から、佐竹千春を運び出すのは大変な作業だった。救急隊員だけでなく、警官が何人も手伝った。アルミ製の担架にシートでぐるぐる巻きにされた塊《かたまり》が引き上げられ、そのまま座敷を横断し、通路へ搬出されていった。
広い座敷の半分に関係者が集まっている。押入から折り畳みのテーブルが幾つか出されて、座布団も並べられた。また、老女がお茶も運んできて、座っている者の前に湯飲みを置いていった。これから葬式でも始まりそうな雰囲気である。
真鍋は決死の覚悟で、佐竹絹子、佐竹千鶴にインタビューを試みた。絹子は、お前は誰なのだ、という目で真鍋を睨みつけた。千鶴は、呆然としたまま、ほとんど口をきいてくれない。ときどき、近くにいた鷹知が補足してくれたし、また、佐竹家の執事だという倉田という老人が、比較的丁寧に応対をしてくれたので、ある程度の情報は得られた。
救急隊員や警官が来てから、小川と二人通路に出て話をした。小川が椙田を電話で捕まえて、状況の説明をしたあとだった。
「椙田さん、何て言ってました?」真鍋はきいた。
「僕のことは言わないように」小川が言った。「面倒なことになっても、二人だけですべて処理しなさいって」
「冷たいですね」
「まあ、そういうクールな人なのね」小川は微笑みながら口を尖《とが》らせた。
「鎮夫さんが地下牢から逃げ出した、という話を、あっちでしていましたよ」
「うん、でも、牢には鍵がかかっていたんだから、あれを開けないかぎり、逃げられないと思う」
「絹子さんが、食事を運んでいたらしいです」
「ああ、あったあった。食器。いつ運んだものかな?」
「いえ、だから、食事を運ぶ時間だったんですよ」
「え、こんな時間に?」
「午後の三時頃と決まっているそうです。一日に一回」
「一回?」
「ええ」
「うわ、ダイエットしていたわけ?」
「運動しないし、一回で充分だったんじゃないですか」
「あまり、想像したくないわね」
「ええ、これ、ちょっと世間に知れ渡ったら、問題になるんじゃないですか。マスコミが嗅ぎつけたりしたら、大騒ぎになりますよ、きっと」
「それ以前に、法に触れるんじゃない? だいたい、戸籍はどうなるわけ? 生きているのに、死んだってことにしていたわけでしょう?」
「それは、まだわかりません」
「どこにいるんだろう?」
「とにかく、逃げて、えっと、どこかに隠れているわけですよ」
「ちょっと待って……」小川は辺りを見渡してから、真鍋の肩に触れた。「気持ち悪いわね。その鎮夫さん、どんな人なの?」
「知りませんよ、そんなこと。まあ、歳は、小川さんくらいなんじゃあ」
「二十歳くらい?」
「全然大丈夫じゃないですか、そんな冗談が言えるなんて」
「私から離れないように注意してね。突然襲われたりしたら困る」
「僕だって困りますよ」
「なんか、できないの?」小川が両手を拳にした。
「何がです?」
「だから、ボクシングとか、空手とか」
「剣玉なら得意ですけど」
小川が黙って、じっと真鍋を見据えた。絶句しているようだ。
「ヨーヨーも」
小川はまだ黙っている。
「食べもの、まだありましたか?」真鍋は尋ねた。
「え?」
「食器があったんでしょう?」
「ああ……、いえ、もうなかった」
「じゃあ、鎮夫さん、食べていったんですね?」
「ちょっと待ってね、どういう順番だったの?」
「何がですか?」
「絹子さんが食事を運んでいった。そこで絹子さんは、倒れて悲鳴を上げたんじゃないの?」
「ええ、そうです。牢の中から白い手が現れた。びっくりして中を覗いたら、女の顔が見えた。それで、恐くなって、逃げようとする途中で蝋燭を落としてしまった。真っ暗になって、どうすることもできなかったそうです。それで声を上げて呼んだのだそうです。でも、その間、牢の中では物音がしていて、誰かが動いていたって……。相当恐かったみたいですね」
「恐かったでしょうね、そりゃあ」
「そのとき、鎮夫さんが牢の中にいたことになりますね」
「どうして?」
「だって、絹子さんが持っていった食事を食べたわけですから」
「そんな真っ暗なところで食べたわけ?」
「いつも真っ暗なんじゃないですか」
「牢の戸は開けなかったのね?」
「ええ、それは鷹知さんが質問していましたけれど、そんなことはしていないって言ってましたよ」
「じゃあ、どうして鍵なんか持っていたの?」
「さあ……」
「食事を入れるところがあるのよ。格子が一本なくて、幅広く開いているところがね。そこから食器を出し入れするだけなら、鍵はいらないと思うんだけれど」
「なにかのときに、必要になるからじゃないですか?」
「たとえば?」
「うーん、食器をちゃんと戻してくれなかったりとか」
「そういうときには、あそこを開けて、絹子さんが牢の中へ入ったってこと?」
「ええ」
「もしそれができるのなら、そんなに危険な人物ではないってことになるわね」
「まあ、野獣を飼っていたわけではありませんからね」
「でも、人間扱いはされていないよ、あれは」
「トイレとかは、どうしているんです?」
「さあ……、そんなものなかったけど」
「臭いませんでした?」
「それどころじゃなかったもの」
「たぶん、地下水みたいなものが流れているんじゃあ」
「うーん、そうかな」
「鎮夫さんがいなかったのは、確かなんですね?」
「当たり前よ。見落とすわけないじゃん」
「床に下水のハッチがありませんでしたか?」
「気づかなかった。ないと思う」
「そこから出ていったんじゃないかな」
「下水の中を?」
「それとも、天井に引っついていたとか」
「は?」
「スパイダーマンみたいに」
「恐いこと言うわね、君。もうやめて」
「もし、牢にほかの出入口がなくて、それから、鍵がちゃんとかかっていたとしたら、絹子さんが開けて、そのときに鎮夫さんが出た、という可能性しかなくなりますけど」真鍋は淡々とした口調で話した。「そして、そうなると、絹子さんが鎮夫さんを逃がした、と考えるのが自然です。彼が梯子を上がって逃げていったあとで、悲鳴を上げて人を呼んだのです」
「どうして逃がしたの?」
「牢の中で、千春さんが死んでいるのを見たからではないでしょうか」
「千鶴さんもいたんだよ。そもそも、二人はどうやって、あそこに入ったわけ?」
「それについては、絹子さんは、まったくわからないそうです」
「千鶴さんは?」
「なにも話してくれないんですよ。なんか、ちょっと変でしたね。きいても、上《うわ》の空で、ときどき微笑んだりして、正気とは思えません」
「牢の鍵が、ほかにあるのかしら」
「さあ、どうでしょう」
日も暮れて、外は真っ暗になった。警察の人間がとにかく沢山いる。地下へ下りていった人間も二十人前後はいるのではないか。延長コードが引き入れられ、照明器具も運び込まれた。そんなに沢山の人間が入って、空気は大丈夫なのか、と真鍋は心配になった。
一方、座敷では、私服の刑事らしい男が、佐竹家の人々から話をきいている。小川のところにも、一度だけ来た。死体を発見した一人なので当然であるが、どうしてこの屋敷に来ていたのか、という質問の方に重点が置かれていたように思われる。十分もしないうちに終わってしまった。また、正式の事情聴取があるのだろう。
時刻は既に八時近い。
「お腹が減りましたね」真鍋はこぼした。「どうするのかなぁ。いつ帰れるんでしょうかね」
今は、座敷の端で、小川とテーブルに向き合って座っている。お茶をもう三杯は飲んだだろう。
「お菓子か、おまんじゅうが出ると良いですね」真鍋は振り返って、佐竹家の人々を見た。
「今頃、外は、たぶん大勢で捜索しているんだろうなあ」小川は別の話をする。
「広いですからね。あ、そういえば、絵の写真がまだ全部撮れていませんけれど……」
「ねえ、思うんだけど、あの探偵さんと協定を結んだ方が良いかもね」
小川は鷹知の方をちらりと見た。真鍋がそちらを向くと、鷹知は兼本と話し込んでいる様子だった。
「協定って?」
「向こうの方が私たちよりも情報を沢山持っているのは確か。だとしたら、彼と仲良くして、いろいろ聞き出した方が得じゃないかって」
「情報を聞き出したらって、べつにそんなに情報を集める必要はないんじゃないですか?」
小川は首を傾げる。
「だって、もう依頼は終わりでしょう?」真鍋は言った。
「どうして?」
「こんなことになったんですから、もうそんな、お兄さんを捜すどころじゃないですよ。人が死んでいるわけだし、もしかしたら、お兄さんが殺人犯かもしれないわけだし、警察がいっぱいいるわけだし……」
「まあねぇ」彼女は頷いた。「でも、実際、まだ見つかっていないわけでしょう?」
「後日、もう一度、千鶴さんと会って、ちゃんと話し合わないと駄目ですね。うん……、しかし、惜しい話でしたね、条件が良かったのに」
「変だよね。昨日は、私たちに兄を捜してくれって言ったのに、彼女、今日は、あそこにいた。知っていたの? 母屋へは行けない、家族には会えないみたいなこと言ってなかった?」
「なんか、心境の変化があったんでしょうか」
「自分で地下牢へ見にいけるんだったら、どうして私たちに依頼なんかしたわけ?」
「知りませんよ。でも、いざ依頼をしてみたら、やる気がわいて、自分でも一つ調べてみようって思ったのかも」
「牢の中にいたんだよ」
「変ですよね」
小川はまた鷹知を見た。真鍋もそちらを見る。鷹知は、佐竹千鶴のところにいる。二人だけで話をしているようだった。親族だと話していたが、いったいどんな関係なのだろう。
襖が開いて、エプロンをした女が三人入ってきた。一人は、さきほどお茶を持ってきた年輩の女性だ。両手に木の箱を持っている。それを床に置き、その中から重箱のようなものを取り出した。
「うわ、もしかして、弁当?」真鍋は座り直す。
そのとおりだった。テーブルの上にやがて、弁当と箸が運ばれてくる。それを配り終わると、部屋の隅でお茶の準備を始める。
「いやあ、凄いなあ、佐竹家は」真鍋は弁当の蓋を取って中を覗いた。幕の内弁当だ。
お茶も運ばれてきた。真鍋がそれを手に取ったとき、近くに気配を感じて振り向いた。
鷹知祐一朗が立っていた。彼は、膝をついて、小川に顔を近づける。
「ちょっと、小川さん、出ませんか?」鷹知が言った。
「え、どこへ?」小川が目を丸くする。
「外です。気になるところがあるので、調べてこようと思いまして。ただ、一人で行ったら怪しまれるから、できれば一緒に来ていただきたいんです」
「私で良ければ」小川は頷いた。「あ、真鍋君も一緒に」
「え?」真鍋は割り箸を持ったところだった。「弁当は?」
2
刑事の許可を得てから建物の外へ出た。空気が息苦しいから、三人で散歩をしてきたい、と鷹知が説明したところ、年輩の刑事がじろりと小川たちを睨み、敷地内からは出ないで下さいと言った。言葉は丁寧なのだが、目が鋭すぎる。あまり見たことがない、戦闘的な視線だった。
入ったときと同じ玄関から出る。三人とも、そこに靴があったからだ。そこは、やはりメインの玄関ではなく、通用口らしい。
鷹知は屋敷内の地理に詳しいようだった。母屋の近辺には、警察の関係者が大勢いるようで、方々でライトが灯っていた。しかし、捜査はまだこれからだろう。まずは、殺人現場、そしてその周辺の捜査が優先されているのではないか。屋外は明日、明るくなってから本格的に、といった計画にちがいない。
「鷹知さん、佐竹家とはどんな関係なんですか?」小川は尋ねた。
「僕の義理の姉が千鶴さんや千春さんと従兄弟《いとこ》になります。つまり、僕の義理の父が、佐竹絹子さんの義理の弟になります」
「義理ばかりですね」
「実際には血はつながっていません」
「でも、こちらへは、よく来られていたのでしょう?」小川がさらにきいた。
「ええ。なくなった佐竹会長に可愛がってもらっていたので」
「仕事でですか?」
「もちろん」
「でも、探偵でしょう?」
「ええ、ですから、いろいろ、あちこち調査をする仕事なんかを」
「お抱え探偵だったんですか?」
「まあ、そうですね。ここだけに限っていたわけではないけれど、滅多にほかの仕事なんてなかったか……、ええ。椙田さんのところは、景気が良さそうですね、助手が少なくとも二人もいるんだ」
「ええ、まあ……」小川は微笑む。「鷹知さんも、これから大変では? 佐竹重藏氏が亡くなられて……、どうされるんですか?」
「あまり考えていません。べつに、そんなに無理に仕事をしたいわけでもないし」
「そうなんですか」
「まあ、半分、その、道楽みたいなものだから」
「羨ましい」
道楽で仕事をしているとしたら、良い身分ではないか。
「あの林の中です」鷹知は前方を指さした。
しかし、暗くてよくわからない。庭の常夜灯はその近辺にはなかった。樹木が生い茂っていることしかわからない。
もう先へは進めないと思われたが、その林の中へ入っていく小径があった。一列にしか進めない細い道だ。小川はポケットからライトを取り出して、足許を照らすことにした。鷹知、小川、真鍋の順番で奥へと進む。
目の前に来るまで、まったく気づかないほど闇に同化していたが、小屋が林の中に現れた。
「ここか……」鷹知が呟いた。
「来たことがあるのでは?」
「いや、初めてです。さっき、千鶴さんから聞いたんですよ」
鷹知はさらに近づく。
彼の後ろから、小川は小屋をライトで照らした。周囲は雑草なのか、植物にすっかり取り囲まれている。窓の高さまではほとんど見えないほどだ。入口は右手に回ったところにあった。不気味な感じである。
「ここに、何が?」小声で小川は尋ねた。
「こんばんは」突然、鷹知が大きな声を出したので、小川はびっくりした。彼女が立ち止まると、後ろの真鍋がぶつかってきた。
え、誰かいるの?
こんなところに?
静まり返っている。物音は聞こえない。
「千鶴さんに言われて来ました」鷹知は入口の中へ語りかける。「僕は、千鶴さんの従兄弟の鷹知という者です」
また、静寂。
三人の誰かが動くと、足許で枯葉が音を立てる。それ以外には何一つ聞こえない。
静寂。
しかし、僅かな音がした。
長身の鷹知が頭を下げて、小屋の中を覗き込むように一歩前に。そして、もっとこちらへ来い、と照明係の小川に手招きをした。
小川は鷹知の横へ移動し、入口の中へライトを向ける。
驚いた。既にそこに人が立っていたのだ。
植物ではない、人間である。
顔はまったく見えない。髪に覆われているようだった。
「すみません」小川はライトを下へ向け、恐る恐るきいた。「ライトが眩しいですか? 消しましょうか?」
その人物は首を横にふった。話は通じるようだ。
「千鶴さんから聞いたんです。ここから、地下へ入ることができるのだと」鷹知が話した。「僕たちも、中に入りたいのです。お願いします」
なんとなく、頭を下げた方が良いという気がしたので、小川はお辞儀をした。
顔を上げると、その人物の姿がなかった。奥へ引っ込んだようだ。鷹知が中へ入っていく。小川と真鍋もそれに続いた。ライトを持っているのは小川だけだ。小屋の中は三畳ほどの広さしかなかった。奥に一段高い部分があり、それが寝床のようだった。中央にやはり少し持ち上がった台があった。その上に花があった。細長いガラス容器に花が活けられていたのだ。底の部分だけが金属製で、ガラスの途中が少し太くなっている。活けられているのは小さな花で、スミレだろうか。青か紫か。それを見て、急に溜息が出るほど小川はほっとした。獣ではない、花を飾るような人間なのだとわかったからである。
性別はよくわからない。しかし、鬚らしきものが生えているように見える。おそらく男性だろう。そんなに大柄ではない。背丈は小川とほとんど変わらない。着ているものが、ぼろぼろなので、体型もよくわからないが、太っているということはないだろう。年齢はまったく不詳。子供ではない。若いかもしれないし、もの凄い年寄りかもしれない。
その人物は、大切そうに両手でその花の瓶を持ち上げ、部屋の奥へ移動させた。それから、台の上にのっていた板を横にずらした。台に見えたのは、井戸のような囲いで、中に穴が開いていた。これまでになかった匂いが立ち込める。昔の匂いだ。すべてが古い、そんな匂いだった。
「ありがとう」鷹知は言った。
「ここから?」小川が呟く。
息づかいというのか、喉が少し唸るような声を、その人物は発した。頷いたようにも見える。言葉は話せないのだろうか。こちらの言っていることはわかるのだから、耳は聞こえているはずである。
「千鶴さんと千春さんも、ここを通ったんだね?」鷹知がきいた。
その言葉に小川は驚いた。目が暗闇に慣れてきて、すぐ横に立っている真鍋をちらりと見る。彼もこちらを向いた。
「デジカメを持ってくれば良かったですね」真鍋が囁いた。
「携帯を持っているから、大丈夫」小川は応える。
二人が小声で話し合っている間に、鷹知が穴の中へ足を入れた。こちら向きになり、梯子を下りていく。途中で小川は彼に自分のライトを手渡した。鷹知はさらに梯子を下りて、下の床に飛び降りたようだ。そんなに深くはなさそうである。
「大丈夫だよ、下りてきても」
「私たちもですか?」
「真鍋君だけでもいいよ」
小川は真鍋の背中を押した。
真鍋は囲いを跨ぎ、梯子に足をかけてから、小川を見上げた。
「小川さん、ここに残るんですか?」
「え?」
それから、周囲を見る。部屋の奥には、原始人みたいな人物が立っている。真鍋は穴の中に入っていき、すぐに見えなくなった。ここに一人で残るのも、あるいは真っ暗な林の道を帰るのも、どちらも選択したくなかった。
「私も入ります」彼女は決断する。
もう、こうなったら、どこまでも行ってやろうじゃないの、という言葉を口の中で唱えた。
3
地下に掘られたトンネルである。
人が通れるだけの広さしかない。天井も両側の壁も、手を伸ばせば容易に届く。実際に触ってみると、しっとりと湿っているようだ。少しずつ深く下っているような気がする。足許は、木製の床だろうか。微妙に撓《たわ》むような感触だった。
「何でしょう、これは」真鍋が言った。彼は小川の前を歩いている。「忍者屋敷みたいですね」
「いざというときのために、屋敷からこっそり抜け出せるように作ってあったんじゃない?」小川は自分の考えを述べる。「武家屋敷とかだと、そういうのがあるって聞いたことがあるわ。たいていは井戸とか、納屋なんかにつながっているんだけれど」
「方角としては、屋敷の方へ向かっていますよね」
「そうかな」小川は方角には自信がなかった。「ねえ、鷹知さん、これ、どこへつながっているんですか? さっきの地下牢へ行けるの? そんな扉みたいなもの、なかったけれど」
「行ってみればわかるよ」前で鷹知が言った。ドライな台詞だ、と小川は思う。「確かなのは、ずっと誰も通らなかったわけではないことだね」
「え、どうしてですか?」真鍋がきいた。
「綺麗すぎる」
「ねえ、さっきの、あの人は誰なの?」小川は気になっていたことを尋ねる。
「さあ、僕は知らない」という鷹知の返事だった。
かなり奥が深く、経路は長かった。ゆっくりと前進を続けるものの、どこまでも闇は続いている。ライトの光は弱く、遠くまでは見通せない。
「崩れてきたりしませんか? こんなところで生き埋めになったら、嫌だなあ」真鍋が呟く。
「私も嫌」小川は言った。しゃべっていないと不安になるので、つい口数が多くなるのかもしれない。「こんなのが仕事だったら、絶対に嫌」
「こういうの、『大脱走』っていうのにありましたよね」真鍋がのんきな口調で言った。
「君、古いの知っているわね」
「知ってます」
「オートバイでね、鉄条網を飛び越えるのでしょう」
「そうです。えっと……、誰でしたっけ、あれ」
「スティーブ……、スピルバーグ?」
「それは監督でしょう」
「マックィーンだよ」鷹知が前から言った。「よくそんな陽気な話題で盛り上がれるね」
「盛り上がってないですよ」
「そうよ、なんか話してないと恐いじゃないですか」
「クマが出てくるってことはないと思うよ」鷹知が言う。
誰も笑わなかった。
どれくらい歩いたか見当もつかない。しかし、途中に分かれ道はなかったはず。ただ、道なりに歩いてきただけなので、迷うことはない。帰り道も大丈夫だろう。
ついに変化があった。T字路にぶつかったのである。左右二手に道が分かれていた。
「どうしよう、こっちかな」鷹知が左の方へ入っていきながら言った。
真鍋もそのあとへ続く。小川は、右の道が気になった。しかし、暗いので先はよく見えない。
彼女が立ち止まっているうちに、左手へ行った二人の姿が見えなくなった。急に暗くなったからだ。
「どうしたの?」声をかけてみる。
「え?」奥から真鍋の声だ。「何です?」
微《かす》かに光が動いているのはわかった。
「どこにいるの?」
「駄目だ、こっちは行き止まりみたいだ」鷹知の声がする。そんなに遠くではない。
道がカーブしているようだ。そのため、こちらへ光が届かなくなったのである。
「そっちへいった方が良い?」小川はきいた。
「いや、戻る。そこで待ってて」鷹知の返事である。
眩しいライトが現れる。近づいてきたのは真鍋だった。真鍋がライトを持っている。その後ろに鷹知。
今度は小川がライトを手にして、逆方向の右手へ進むことになった。次に真鍋が続き、鷹知が一番後ろだ。通路が狭いので、必然的にこの順番になる。
「もうそろそろだと思うんだけれどな」後ろで鷹知の声。
「どうして、あそこは道が分かれていたんでしょうね」真鍋がきいた。
「昔はもう一つ経路があったのかな。建築の工事のときに潰されたのかもしれない」
「行き止まりは土でした? それとも壁ですか?」小川は進みながらきいた。
「土だけれど、崩れないように材木が斜めに支えられていた」
道は左手へカーブしている。
「こっちも駄目なんじゃないかな」小川は呟いた。
予感どおり、行き止まりになった。木造の壁が立ちはだかっている。左右にも上にも道はない。
「駄目ですか」真鍋が言った。「あ、その下んとこ、なんか開きそうじゃないですか。四角い枠がありません?」
小川は壁をライトで照らして屈み込んだ。
確かに小さな戸のように見える。蝶番などはない。きっちりと填《はま》っているのか。
「真鍋君、ちょっとライト持ってて」後ろにライトを手渡す。
彼女の斜め上から、真鍋がライトで照らす。
小川は、その四角の中央部分の木材を掴もうとした。
ところが、それが急に奥へ動いたのだ。
「わ!」びっくりして、手を引っ込める。
次に、目の前から、眩しい光が漏れ出てくる。
「ひぃ」悲鳴を上げそうになった。
肩が真鍋の脚にぶつかったようだ。
四角の穴の中に人間の顔が現れた。逆光でシルエットしかわからない。
4
「おい!」怒鳴るような太い声。
小川はまだ息ができない。
「誰だ?」
「お、小川です。そっちこそ誰ですか?」なんとか声を出す。
「警察だ。こら、動くな!」
「警察?」
「あ、だから、地下牢に通じたんですよ」すぐ横に真鍋の顔があった。横で彼も屈んでいる。
「誰だ? そっちは」
「あ、あの、鷹知です。庭から、ここへ通じる通路を発見しました」真鍋の向こうに鷹知の顔があった。「さっき、許可をいただいて、外に出た鷹知ですよ」
「ああ……」刑事がそちらを覗き込む。「え? 散歩じゃなかったのか」
「とにかく、そちらへ出ても良いですか?」鷹知がきいた。
「ああ、じゃあ」顔が奥へ引っ込んだ。
小川がまず、そこを潜り抜けた。ちょうど尻餅をついたあとだったので、脚をそのまま穴の中へ入れ、座った格好のままで、通り抜けることができた。
ライトアップされ、とても明るい。しかし、紛《まぎ》れもなく、あの地下牢だった。まるで、ピラミッドの中で遺跡を発掘しているような雰囲気である。牢の中には刑事のほかにも男が四人いた。格子の外側も明るく、よく見渡せる。そちらには、さらに大勢いるようだ。
真鍋と鷹知も入ってきた。真鍋は立ち上がって溜息をついた。
「うわぁ、凄い。ここが?」
「そう、まさにそこ。佐竹千春さんが死んでたの」小川は指をさして、初めて気づいた。「あ、そうか……」
千春がもたれていた壁が、今、三人が通り抜けてきた出入口だったのだ。
さきほどは血液が飛び散っていて、生々しかった。今は床にビニルのシートが敷かれているため、それほど抵抗がない。おそらく、作業をするために、検査のあと、シートでカバーしたのだろう。
「死体に隠れていたから、戸口が見えなかったんだ」小川は言った。
「え、それじゃあ、殺人犯は、ここから出ていったんじゃないんですね」真鍋がすぐに言った。
しばらく、沈黙。
小川は真鍋の顔を見る。
「そうか、あ、そうだね」彼女は、真鍋が言ったことをようやく理解できた。「頭いいじゃん、真鍋君」
そうか、死んだ千春をハッチの内側にもたれて座らせたあと、そのハッチからは出ていけないのだ。となると、彼女を殺した犯人は、別のところから逃走したことになる。
「いやいや……」刑事が顔を歪《ゆが》め、微笑みながら手を振った。「まあまあ、素人《しろうと》考えで判断されては困りますな」
「そうか、即死だったとは限らないわけですね?」思いついた、という顔で真鍋が口を開けた。
「そうそう。瀕死の状態で、そこに座り込んだのかもしれないわ」小川は言った。
「でも、それは血飛沫《ちしぶき》の飛び方を見たらわかるんじゃありませんか?」真鍋が突っ込む。
「僕が見たところでは……」顎に手をやって、鷹知が眉を顰めるオーバな表情で言った。「被害者はさきに首を絞められている。それで気を失った。そのあと首筋を切られた。刑事さん、そうじゃありませんか?」
「うーん、まあ、それは、これから慎重に、その、いろいろと、うん、各方面から調べていくことによって、その、なんというか、だんだんに、まあ、明らかになるでしょうな」刑事が答えた。口だけが笑っている。目は笑っていない。そんな分裂した表情に見えた。
刑事の指示で、ライトを持った係員が二人、そのハッチからトンネルの方へ出ていった。小川たちが辿《たど》ってきた経路を逆に進むことになるだろう。あの不気味な小屋へ出ることになる。人ごとながら心配である。なにかアドバイスをしてあげれば良かった、と小川は思った。
「とにかく、千鶴さんと千春さんは、あの小屋からトンネルを通って、ここまでやってきたんです」鷹知が説明した。「少なくとも、千鶴さんはそう話しています」
「そうか……」刑事が頷いた。「二人で一緒に来たのかな?」
「いえ、僕が聞いた話では、千鶴さんがここへ来たときには、もう、千春さんは血を流して倒れていたそうです」
「被害者の千春というのが、妹の方だね?」
「そうです」
「鎮夫という人物については?」刑事が尋ねた。「佐竹夫人も、その、お嬢さんも、名前しか口にしないようだが、いったい、どういうことなんです?」
「うーん、言っても良いのかな……」鷹知は小川の顔を見た。
刑事が小川へ視線を移し、彼女をじっと睨みつけた。
「あんたも、探偵社の人だったね?」
「いえ、その、私たちがここへ来たのは、美術品の鑑定を依頼されていたからです。蔵で絵画を調べておりました。たまたま、通路を通りかかったとき、鷹知さんと会って、そのとき悲鳴を聞いただけです」
「それは正確じゃない」鷹知が言った。「夫人の悲鳴が聞こえたときは、僕は一人だった」
「あ、そうか、私は兼本さんの部屋へ行っていたんだ」
「兼本さんというのは、あの太った会計士の人ですね? 部屋にいましたか?」
「いえ、いませんでした。それで、通路を戻ってきたら、鷹知さんがいて」
「悲鳴が聞こえたとき、何故すぐに見にいかなかったんです?」刑事が鷹知にきいた。
「きかれるだろうと思っていました」鷹知は微笑んだ。「夫人が、鎮夫さんに食事を持っていくから、ちょっと待っていてくれ。絶対に覗かないように、とおっしゃったんですよ。そう言われると、なにがあっても指示に従うというのが、倫理というものかなと……。しかし、小川さんが来たので、一緒に見にいく決心をしました」
「あそこの牢の鍵は、たしかにかかっていたかね?」刑事は格子の方を指さした。
「かかっていました」小川は頷いた。「鍵を開けたのは、鷹知さんです」
「鍵は、夫人が持っていたんですね?」刑事は鷹知を見る。
「そうです」鷹知は答える。「錠前はそれほど錆びてもいないし、古いものではありませんね。鍵を入れて、軽く回りました」
「どうして、夫人は鍵なんか持っていたのだと思う?」刑事は鷹知に顔を近づけ、上目遣いに彼を見上げた。頭一つ分、鷹知の方が背が高かったからだ。「食事を持ってきて、あそこから入れるだけだったら、鍵を使うようなことはないはずじゃあ」
その疑問は、小川たちも話し合ったものだ。
「いえ、どうしてでしょう」鷹知は首を一度だけ横にふった。
「どうも、よくわからんなあ」刑事が顔をしかめた。「そもそも、なんでこんな場所に人間がいたんだ? 鎮夫っていうのは、誰なんです?」
「少なくとも、佐竹家のご長男がずっと以前に亡くなっていて、その方の名前が鎮夫さんであることは、まちがいありません」鷹知が言った。「戸籍を調べられたら、わかると思いますよ」
「長男? 千鶴さんと千春さんの兄になるんですね?」
「そうです」
「いつ亡くなった?」
「いえ、よくは知りません。まだ小さかった頃だと聞きましたが」
「そうか……」刑事はまた顎を指で擦った。
真鍋が牢の隅の方で屈み込んでいた。
「おい、君、君、触らんで下さいよ」刑事は、彼の方を見て、声をかけた。「何をしてるんだね?」
「いえ、べつに」真鍋は立ち上がって、こちらを向いた。「ランプが転がっていますよね、ここに」
「そんなことはわかっとる」
部屋の隅だ。シートがそこだけ四角く切り取られていた。まだ、証拠品がそのままだからだろうか。
「ここ、照明がないじゃないですか」真鍋は言った。「暗かったわけですよね」
現在は、警察が持ち込んだライトが幾つも点灯している。牢の中にも中央にスタンドが立てられ、高い位置にライトが据えられていた。コードは、格子から外へ伸びている。
「ランプが一つしかない」真鍋が続けた。「千春さんと千鶴さんは、別々にここまで来たんでしょう? だったら、それぞれなんらかの明かりを持ってきたはずです。照明なしではとてもここまで来られませんから」
「何が言いたいんだね?」刑事がきいた。
「いえ、つまり、一つないから、誰かが持っていったんだなって」真鍋がこちらを向いた。
「そりゃあ、そうだろう。当たり前じゃないか」刑事が笑いながら言った。
「で、その持っていった人物は、自分のライトを持っていなかったわけですか?」真鍋は続ける。「となると、その人はどうやって、ここへ来たんでしょうか?」
「その人は来たんじゃなくて、最初からここにいたのよ」小川は言った。「真鍋君、ちょっと」手招きをして、彼を呼び寄せる。
真鍋が小川のところへやってきた。
「君ね、刑事さんに、あんまりつっこみ入れない方が良くない?」
「あ、そうですか」真鍋は驚いたという顔で頷いた。
「とにかく……」刑事が咳払いをした。「捜査の邪魔になるから、早く出ていってもらいたいのですが。ああ、うん、話はあとで、上で……」彼は指を上に向ける。「ゆっくりときかせてもらいますから」
5
梯子で上がった。ここで靴を脱ぎ、警察の人にもらったビニル袋に入れて、持ち歩くことになった。
「なんか、証拠品みたいですね」真鍋が言った。楽しそうな口調である。
「なんか、真鍋君、楽しそう」小川は言う。自分は少々疲れが出てきた。溜息をつく。もしかして、これが年齢差というものか、と思ってしまう。
「さあ、弁当を食べましょう」真鍋が嬉しそうに言った。
座敷に戻ったが、既に佐竹家の人間の姿はなかった。絹子は自分の部屋へ戻ったのだろうか。千鶴はあの離れへ帰ったのか。こんな場所で食事はできない、ということかもしれない。執事の倉田の姿も見えなかった。
会計士の兼本が一人お茶を飲んでいた。弁当はもう食べ終わったようだ。鷹知はその兼本の横へ行って座った。彼の弁当がそこに置かれているからだ。
「あ、なんだ、まだ食べてなかったの?」兼本が驚く。「それ、食べちゃったよ、俺」
「いえ、べつにかまいません」鷹知は笑いながら、腰を下ろす。
小川と真鍋は、さきほどと同じテーブルへ戻り、座布団に座った。真鍋は自分の弁当の蓋を開けてから、にっこりと微笑む。
「良かった、ちゃんとありました」彼は言った。「鷹知さん、可哀相だなぁ」
「けっこう、君って、理屈っぽいんだ」小川は冷めたお茶を一口だけ飲んだ。
「え、何がですか?」
「ハッチのこととか、ランプのこととかさ」
「そうかな、なんか理屈、言いました?」
「死体がもたれかかっていたから、殺人犯は、そのハッチからは出られないとか、あと、ランプを一つ持っていったのが、殺人犯だとか」話しているうちに、自分の言っていることが正しいのかどうか怪しくなってきた。「よくわからなくなっちゃった。もう一回言ってくれない?」
「うーん」真鍋は口をもぐもぐさせ、箸を振りながら話した。「べつに、これといって理屈でもなんでもないんですけど、死んだ千春さんが、ハッチにもたれかかっていた、ということは、もしそのハッチから外へ出ていった人間がいたとすると、少々不自然です」
「だけどね、あとから、千鶴さんも来たんだし……、そう、千鶴さんが来たときには、もう千春さんは倒れていたって言ってなかった?」
「そう、倒れていたんですよ」真鍋は言った。「小川さんが見たときには、千春さん、倒れていましたか?」
「え? ああ、えっと、座っていた。壁にもたれかかって、脚を投げ出して」
「それ、倒れていたって言いますか?」
「そうね、あれは、倒れていたんじゃない、座っていた、かな。でも、鷹知さんがそう言っただけで……」
「いえ、もし、そのとおり千鶴さんが言ったのなら、千鶴さんがあそこへ来たときには、千春さんは殺されたあとで、床に倒れていたんですよ。でも、まだ、犯人はそこにいた。だから、びっくりして、千鶴さんも気を失った」
「ああ、なるほどね」
「で、そのあと、犯人は、千春さんをあのハッチの位置に座らせたんです」
「どうして、そんなことをしたの?」
「たぶん、そのハッチから人が入れないように、蓋をしたんだと思います」
「ああ……」
「千春さんと、千鶴さんは、それぞれ暗闇で歩くためにランプを持っていたはずです。そのうち一つを持って、犯人はあそこから出ていったんです。だから、一つしかなかった」
「そうかそうか」小川は感心した。
真鍋は弁当をまた食べる。
「だから、ハッチの蓋をしたわけかぁ」状況を想像しながら小川は話す。「あっちから誰かが入ってきたら、困るからね……、あれ? でも、待って。ねえ、その人、殺人犯は、どこから出ていったわけ?」
「あのハッチ以外のところです」口をもぐもぐさせながら、不鮮明な声で真鍋が答えた。
「だから、どこ?」
「牢の入口ですよ」
「でも、鍵がかかっていたよ」
「もちろん、出ていくときは鍵がかかっていなかった」真鍋は言った。玉子焼きを口に入れた。「そのあとで、鍵をかけた。どうしても、そうなりますね」
「じゃあさ、絹子さんが持っていた鍵ってこと?」
「それはわかりません」
「あれ?」小川はまた首を傾げる。「ちょっと変じゃない?」
「何がです?」
「鎮夫さんは、ご飯をいつ食べたの?」
「千春さんを殺したあとでしょうね」真鍋は即答した。
「うわぁ、えぇ、そんなぁ……、じゃあ、あの血まみれの場所で食べたわけ?」
「もしそうじゃなかったら、佐竹夫人が食事を持っていって、それを食べる。そのあと、千春さんが奥から入ってきて、そこで殺される。そのあとさらに、千鶴さんが入ってきて、驚いて失神する。そして、ハッチのところに千春さんを座らせる。それから、牢の出口から外へ出る。つまり、これだけの間ずっと、佐竹夫人は牢の外で待っていたことになります」
「うーん」小川は唸った。「そうか、そうなるかぁ……」
「たぶん、そうじゃなくて、食事を持ってきて、あそこに置いたときに、牢の中の様子に気づいて、夫人は驚いた」
「びっくりして、慌てて逃げようとして、途中で蝋燭を落としたのね。それで、牢から少し離れた位置で蹲《うずくま》っていたのよ」
「殺人犯は、そこで食事をまずしたのです」真鍋は言った。
「そんな、人を殺したあとで、食事なんかするかしら?」
「一仕事したあとだから、お腹が空いていたのかもしれません」
「ひい……」小川は顔をしかめた。
「でも、僕たちだって、殺人現場を見てきたすぐあとに、食事をしているじゃないですか」
「私はしてないわよ」小川は言った。「なんか、ますます喉を通らない感じ」
「いらないなら、僕が食べますけど」
「駄目、鷹知さんにあげようかと……」
「ああ、そうか」真鍋は鷹知の方を見た。
小川もそちらへ顔を向ける。ちょうど、鷹知もこちらを見ていた。
小川は自分の弁当を指さして、鷹知に教えようとした。鷹知が立ち上がり、こちらへやってきた。
「何ですか?」
「あの、よろしかったら、お弁当……」小川は言う。
「いや、どうぞ、食べて下さい。僕はべつに」
「いえ、私、ダイエット中なので」
「ああ、そうなんですか。それじゃあ、もったいないから、いただこうかな」鷹知は小川の横に腰を下ろした。
自分の弁当をそちらへ移動させる。鷹知は蓋を開けて、すぐに食べ始めた。しばらく沈黙。真鍋は黙々と食べていて、今にも平らげそうな勢いである。
すると、鷹知と自分の湯飲みを両手に持って、兼本がこちらへ移動してきた。テーブルを回り、真鍋の横に腰を下ろす。
「いやあ、どうも」小川の方に向かって兼本が軽く頭を下げる。
「あの、外の庭の……、林の中の小屋、あそこに住んでいるんですか? あの人」小川は兼本にきいた。
「あ、ええ、鷹知さんから聞きました。あそこから、地下牢へトンネルが通じていたそうですね。全然知らなかった。もう、ここへ来て十年にもなるんですが」
「あの人は、誰ですか?」
「いや、知りません。人が住んでいることも知りませんでした。あんなところ、行かないですからね」
「僕も、千鶴さんからさっき初めて聞いたんですよ」鷹知が言った。「たぶん、夫人も知らなかったんじゃないかな」
「知らないと思いますよ」兼本が頷く。「奥様は、ほとんどこの家のことはご存じじゃない」
「でも、地下牢へ食事を毎日運ばれていたのでしょう?」小川はきく。
「それも、さっき鷹知さんから聞いたばかりです」
「鎮夫さんが地下にいるってことは、ご存じだったんですか?」
「いえいえ、噂は聞いたことがありましたけれど、知りませんよ、そんなこと、まさか本当だなんて」
「たぶん、夫人は会長と結婚されて、この家にきて、あそこへ食事を運ぶ役目になったのでしょうね」鷹知は話す。「それまでは、会長がされていたんじゃないかな。使用人に任せるわけにはいきませんよね」
「どうしてです?」小川はきいた。
「よほど信頼のできる人間でないかぎり、見られたら、あとあと困ったことになりそうです」
「そうそう」兼本も頷いた。「弱みを握られて、それで強請《ゆす》られたりね」
「ああ、美味しかった……」真鍋が両手を合わせている。「ごちそうさまでした」
「ねえ、さっき、真鍋君、話が途中だったんじゃない」小川は再び真鍋の方へ躰を向けた。「殺人犯が、牢の出口から出ていった、という話」
「何の話ですか?」鷹知がきいた。
「千春さんを殺した人物は、さっきの小屋へ出られるトンネルではなくて、牢の出口から出てきた」小川は指をさしながら説明した。「そこの梯子を上がって、こちらへ逃げてきた、というのが真鍋君の推理なんです。そうだよね?」
「たぶん、佐竹夫人が錠前を開けたんです」真鍋はお茶を飲んでから言った。「毎回、あそこを開けていたんじゃないかな」
「ご飯を食べたあと、出てきたのよね?」小川は真鍋に話を促す。
「ええ、千春さんか千鶴さんの、どちらかのランプを持って、牢から出てきます。佐竹夫人はびっくりして、その場に倒れている。その鍵を使って、牢の出入口の錠前をかけた。それから、鍵も夫人に返しておく。で、あそこの梯子を上がって逃げた。これが考えられる中では、一番可能性が高いと思いますけど」
「よくそういうことがすらすらと想像できるね、君」小川はまたも感心する。
「いや、それは、ちょっとありえない」鷹知が弁当を食べながら言った。「どうして、わざわざ牢の鍵を閉めたのかな?」
「あ、そうだ、そうだよ」小川は今度は鷹知に感心する。
「こちらから、出たのではない、という偽装じゃないでしょうか?」真鍋が答えた。
「その偽装がしたかったのなら、奥のハッチの方は、開けておくべきだったのでは?」鷹知がすぐに指摘した。「千春さんをあそこに座らせたことによって、そこからは出ていないことが示されてしまった。彼女さえあそこにいなかったら、警察も、奥の通路を疑っただろう」
「ええ、それは、そのとおりです」真鍋は落ち着いた表情で頷いた。
「それにね、こちらの座敷へ出てきたとして、通路をどこかへ行くにしても、あちらの方へしか経路がない」鷹知は指をさす。「そこには、実は僕がずっといたんだ。ここへ絹子さんが入っていったときから、ずっと僕は通路に立っていた。小川さんが知っているはずだ」
「ああ、そうだわ」小川は頷いた。「いたいた」
「まず、最初の疑問ですが……」真鍋は前髪を指で払った。「牢の奥のハッチには千春さんを座らせる。それから、牢の入口には鍵をかけておく。つまり、どちらへ出ていったのでもない、ということを犯人は偽装したかったのではないでしょうか」
「どちらにも出ていない?」小川が言う。「どういうこと?」
「つまり、千鶴さんが殺人犯だと偽装しているのです」真鍋は答えた。「閉じた空間の中に、死体が一人、生きている人間が一人、この状況では、生きている者が疑われるのは必然です」
「あ、そうかぁ」小川は溜息を漏らした。「凄い、凄いじゃん! 君って何者? えっと、専門は何だったっけ?」
「専門は美術です」真鍋は即答する。「もう少し詳しくいうと、映像関係なんですけど」
「あらら……」
「あんまり学校へ行ってないんで、ああ……」真鍋は溜息をついた。「嫌なことを思い出しちゃった」
「こらこら、そんな途中でへこたれるなよ」小川は手を伸ばす。「もう一個疑問があったでしょう?」
「そう。僕が通路にいたんだから、犯人はこちらへは出られない」鷹知がもう一度言った。
「それは簡単ですよ」真鍋は答える。そして、部屋の反対側を指さした。「押入が沢山あります。あそこのどこかに隠れたんです」
小川は振り返った。たしかに襖が並んでいる。彼女は、一瞬ぞっとした。そこにまだ恐ろしい人間が潜《ひそ》んでいるような気がしたからだ。
「そうか……」鷹知が頷いた。「僕たちが、中へ見にいっている間に逃げたっていうわけか」
「ええ、たぶん」真鍋は頷いた。
「おお……」口を小さく開けたままになる自分を認識する小川である。真鍋を見たまま、顔を上下にスウィングさせた。「なるほどなるほどぉ。探偵みたいじゃん」
「そうですか? こんなの普通ですよ」真鍋はまたお茶を飲む。
「あのぉ、質問があるんですけど」真鍋の横に座っていた兼本が片手を持ち上げた。「えっと、犯人は鎮夫さんなんですね?」
「そんなことはわかりません」真鍋は首をふる。「でも、あの牢の中にいた人物であることはまちがいないです。ほかのところから、あそこへ来たのだとしたら、自分でランプを持ってきたでしょうから、人のものを使う必要はない」
「うん、論理的だね」鷹知も頷いた。
「どうして、千春さんを殺したんですか?」兼本がきいた。「それから、どうして、千春さんと千鶴さんは、あんなところへ来たんですか?」
「動機はわかりません」真鍋は首をふった。「僕たちのあずかり知らぬ事情があるのでは?」
「あずかり知らぬ?」小川は思わず言葉を繰り返してしまった。
あまりにも古くさい言い回しではないか。本当にこいつは現役の大学生か、と疑わしく思えてきた。見たところは、たしかに若い。髪を伸ばしているし、高校生でも通るだろう。しかし、その実は……、仙人なのではないか。若者の皮を被った仙人、おお、そうそう、そんな感じだ。ぴったりだ。
「なにか、可笑《おか》しいですか?」真鍋がこちらを見て尋ねた。
「いえいえ、なんでもない」小川はますます微笑んでしまった。「千鶴さんが、あそこへ行った理由は、千鶴さんにきけばわかるんじゃない?」
「それは、僕もきいてみたんだけれど、教えてもらえなかったな」鷹知が言った。
6
刑事たちが地下から戻ってきた。そこで、また質問を受けた。一人ずつ部屋の隅まで呼ばれて、事情聴取である。刑事三人の前に一人で座るだけで緊張した。しかし、一人十分程度で簡単に終わってしまった。さきほど、殺人現場で話をした年輩の刑事がリーダ格のようだった。地下にいたときよりも、明らかに友好的で、言葉遣いも妙に優しく変化していた。事情聴取のためのスペシャル・モードだったのかもしれない。
「こちらには、絵の調査でいらっしゃっていたんですね?」
「はい、そうです」
「どこで作業をされていたのですか?」
「えっと、あちらになるのかな……」小川は指をさす。「奥の蔵です」
「あの、若い方と二人で?」
「はい」
さっきは、真鍋に怒鳴りつけていたのに、若い方、とは可笑しいではないか。
「鷹知さんとは、お知り合いなのですか?」
「いいえ」小川は首をふった。昨夜彼に会ったことを話すと、必然的に、昨夜もこの屋敷へ来たことを言わなければならない。そうなると、佐竹千鶴から依頼を受けたことに言及する結果となりかねない。どうしても必要となればしかたがないが、今のところは黙っていた方が賢明だろう。それだけは、真鍋とも確認し合ったことだった。
「外の通路の、あそこの角に、鷹知さんがいたんですね?」
「そうです」
「彼は、何をしていましたか?」
「いえ、立っていただけです。なにもしていません」
「立ち話をしたんですね?」
「ほんの少しです。私は通り過ぎて、兼本さんの部屋へ行きました。でも、彼は部屋にいなかったので、どうしようか、と思っていたときに、悲鳴が聞こえました」
「兼本さんには、どんなご用事だったのですか?」
「ちょっと、いろいろおききしたいことがあったので」
「どんなことをですか?」
「いえ、それは、その、絵のほかにも、美術品があると聞いていますので、ちょっと見せていただこうかなって……、写真の方は彼に任せて」
「お好きなんですか?」
「え、何がですか?」
「美術品です」
「ええ、まあ、そこそこに」小川は誤魔化《ごまか》して微笑んだ。
刑事もにっこりと微笑み返した。気持ち悪かったので、小川は笑うのをやめた。
「悲鳴が聞こえたから、こちらへ戻ってきた」刑事の視線はまた鋭さを増す。
「そうです。まだ、鷹知さんが、同じ場所にいました」
「悲鳴が聞こえてから、鷹知さんに会うまでの時間は?」
「どうでしょう、三十秒くらいかしら」
「どちらから悲鳴が聞こえたのですか?」
「わかりません。でも、こちらからだと思えたので、とりあえずそこまで戻ったんです」
「そうしたら?」
「鷹知さんが、たぶんこの中だって」
「彼は、悲鳴がどこから聞こえてきたのか、知っていたわけですね」
「あ、ええ、そんな感じでしたね」
「不思議に思いませんでしたか?」
「ちょっと思いました」
「どうして不思議に思ったんですか?」
「えっと、つまり、悲鳴がどこから聞こえたのか知っているなら、どうして、そちらへ見にいかないのかなって」
「そうですよね」
「ええ……。でも、あとで聞いたんですけど、佐竹夫人から、部屋には入るなって言われていたそうです」
「まあ、それは、鷹知さんに伺いましょう。それで、お二人で、ここの座敷へ入ってきた。あそこからですね?」刑事は指をさす。
「そうです」
「部屋はどんな状態でした?」
「いえ、なにも……。誰もいませんでした」
「ほかには?」
「奥の襖が一つ開いていました。そこのことです」小川は指をさす。「私は押入だと思いました。でも、奥へ通路みたいに続いていて」
「それで、あそこへ入っていったわけですね?」
「ええ、穴が開いていて、地下へ下りられるようになっていました」
「何だと思いましたか?」
「最初は井戸かと思いました」
「どちらがさきに下りましたか?」
「鷹知さんです」
「真っ暗じゃありませんでしたか?」
「真っ暗でした」
「よくそんな場所へ下りていく気になりましたね」
「ええ、でも、中から夫人が呼ぶ声が聞こえたから」
「でも、真っ暗でしょう?」
「あ、ライトがあったんです」
「どこに?」
「あの、私がライトを持っていたのです」
「持っていた?」
「はい」
「どこに?」
「えっと、上着のポケットに」
「見せていただけますか?」
小川はポケットからライトを取り出した。アルミ製で、先だけが少し太く、あとは直径が二センチほど、長さが十五センチもない、小さなものである。
「さっきも、これをお持ちだった」刑事がねばっとした目つきで小川を見つめて言った。トンネルを抜けて地下牢へ出たときのことだろう。「絵の調査をするのに、こんなものを持ってこられたわけですか?」
「べつに、これは、いつも持ち歩いているものなんです。夜道を歩いたりするときにも使えますし」
「夜道を歩く?」
「ええ……、一人で歩くと、恐いところとかありますでしょう?」
「うーん、しかしですな、鷹知さんにライトを手渡して、自分は上で待っている、というのが、まあ、常識的な行動ではないかと、私は思いましたが……、その点はいかがでしょうか?」
「そうですね、そっちの方が常識的だと思います」
「ご自分は常識的ではなかったと?」
「私は、一応、探偵社に勤めておりますので」
「もう、長いんですか?」
「いいえ、まだ、その、採用されたばかりです。でも、だからこそ、ここはなんとかしなければって、ええ、使命感を持ったわけです」小川は説明した。しかし、自分でもどうも嘘っぽく聞こえてしまうので、気が気ではない。
「では、あとは……、そうですね……」刑事は深呼吸をするように息を吐いた。「牢の中にいた佐竹千鶴さんですが、ご覧になったとき、どう思われましたか?」
「そうですね、いえ、まず、千鶴さんの方だけが見えたんです。それに、あそこが地下牢だなんて思っていません。変な場所だなとは思いましたけれど……、だから、どうしてこんな場所にいるのだろう、というくらいで」
「どんな想像をされましたか?」
「いえ、そんな余裕はまったくありません。ただ、なんとかしなければならないと思って、あそこを開けました」
「錠前を外したのですね」
「外したのは、鷹知さんです」
「鍵は?」
「彼が、佐竹夫人のところへ取りにいきました」
「それを、ご覧になっていましたか?」
「え、何をですか?」
「鷹知さんが、絹子さんから鍵を受け取られるところをです」
「いいえ、見ていません」
「わかりました」刑事は頷く。「それで、鍵を外した」
「ええ」
「鍵は本当にかかっていましたか?」
「ええ、たぶん」
「手で触って確かめましたか?」
「鍵がかかっているところをですか? いいえ、見ただけです」
「それでは、本当にかかっていたかどうかはわからないのでは?」
「でも、鷹知さんが開けました」
「わかりました。彼にきいてみましょう」刑事は小川をじっと見たまま頷いた。
ほかの二人の刑事は、さきほどから一言もしゃべらない。一人はメモを取っている。もう一人は、腕組みをして黙ったままだった。
「牢に入ったとき、ライトを持っていたのは、貴女でしたか?」
「えっと、たぶん」
「誰もいませんでしたか? 千鶴さん、千春さん以外にですが」
「いなかったと思います。千鶴さんが近くに倒れていて、奥に血まみれの千春さんが座っていました」
「千鶴さんと千春さんを見分けることができたのですか?」
「いえ」小川は首をふった。「そのときは、どちらがどちらなのかわかりませんでした」
「どちらかと、ご面識がありましたか?」
「いいえ」小川は首をふる。血圧が上昇しそうだ。
「では、誰だと思いましたか?」
「あ、でも、双子のお嬢様がいらっしゃるという話は聞いておりましたので、たぶん、その方だろうと」小川は、ここでも嘘をついた。一つのことを隠すだけで、これだけ返答が難しくなるものか、と内心考えながら。
「剃刀を見つけられたのは?」
「鷹知さんです」
「恐くありませんでしたか?」
「恐かったですよ」
「そうですよね」刑事は目を細めて頷いた。「そんな場所に、見ず知らずの男性と二人だけですものね」
「あ、ええ……」小川はもう一度意識的に頷く。
「しかも、人が死んでいるわけです。目の前にいる男が犯人なのでは、とは思いませんでしたか?」
「そうですね、なんというか、そんなことを考える余裕すらありませんでした」
たしかに考えなかった。それは何故か。昨夜、鷹知に会っていたからだろうか。それとも、なんとなく彼のことを信頼できる人間だと判断していたのだろうか。自分でも判然としなかった。
「あとは、二人を連れて、こちらへ上がってきた。それから、鷹知さんが警察を呼びにいった、そうですね?」
「そのとおりです」
「なにか、おっしゃりたいことがありますか?」
「えっと、いえ、特には」
「では、もう一つだけ」刑事は指を一本立てた。「さきほど、庭に出られて、トンネルを抜けてこられましたね。あれは、鷹知さんに誘われた、とおっしゃった」
「そうです」
「恐くありませんでしたか?」
「恐かったですよ。寿命が縮まるかと思いました」
「恐がりの方ですか?」
「いえ、そんなことはありませんけれど」
「いや、どうして一緒に行かれたのかな、と思いましてね」
「でも、真鍋君も一緒でしたから」
「彼は、失礼ですが、恋人ですか?」
「違いますよ」小川は呆れて、吹き出した。「私よりずっと若いんですよ」
「いや、そんなこと、関係ないでしょう」
「まあ、そうですけれど」
「では、もの凄く頼りになる後輩なのですね?」
「うーん、そんなに頼りになるというほどでも」
「よく、あんな場所へ行かれたな、と思うんですが」
「そうですね」小川は頷いた。正直、自分でもそう思う。
「暗いところとか、地下が、お好きだとか?」
「いいえ、全然」首を横にふりながら、少々不機嫌な表情をつくってみせた。
「わかりました。今日のところは、これでけっこうです」
「え、もう終わりですか? 帰っても良いのですか?」
「こちらにご住所と連絡先をお願いします」別の刑事がテーブルに出した書類を示しながら言った。
「明日も、ここへ来れば良いのですか?」
「いえ、来ていただいてもけっこうですが、お話が伺いたいときは、こちらからご連絡いたします」
「本当に、これだけ?」小川は少しがっかりした。今夜は徹夜で取り調べを受けることになる、と考えていたからだ。
「免許証をお持ちだったら、拝見したいのですが」
「いえ、免許は今は持っていません」
「ではけっこうです」
書類に住所と氏名を書き込んでいるうちに、今度は真鍋が呼ばれた。
そのあと、また元の席に戻って、小川は待った。
鷹知と兼本はもういなかった。座敷にいるのは、あとは警察の関係者ばかりだ。相変わらず、通路から奥への出入りは激しい。
時刻はもうすぐ九時である。
真鍋もすぐに解放され、二人で靴の袋を持って部屋を出た。
まず、兼本の部屋へ行く。彼は一人でデスクに向かって電話をかけていた。少し待っていたら、電話を終えてこちらへ出てくる。
「終わりましたか?」
「ええ、蔵の鍵をかけていただこうと」小川は言った。
「ああ、さきほどかけておきましたよ」兼本は言う。「開けましょうか?」
「私はいいけれど、真鍋君は?」
「僕も、自分の持ちものは全部持っています。資料とデジカメと三脚とか、そんなのが残っていますけど、また明日来て、続きをしますか?」
「どうしよう……」小川は考えた。
とりあえず、すべてを撤収するという判断をした。兼本に蔵の鍵を開けてもらい、カメラなども片づけた。真鍋はバッグを持って外に出る。
兼本は玄関まで送ってくれた。
庭でも大勢の警官の姿を見た。門は開いたままで、私道の先まで警察の車が駐車されている。警官に呼び止められたが、名乗ってから外へ出た。
「いやあ、凄い日だったねぇ」小川は溜息をついた。
「そうですね。探偵の助手をしましたね」真鍋が言う。声に元気が感じられた。
「若いって良いなぁ」小川はまた溜息をついた。真っ直ぐ帰って、シャワーを浴びて、十時間くらい眠りたかった。
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第4章 白き頬に赤き唇
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その山水を、一個の舞台装置として評価すれば、たしかに凄惨な、特有な場面になっていて、到底自然の風致などの、企及し難い或る物を掴んでいました。其処では一本の樹木の枝、一塊の石の姿まで、幽鬱な暗示を含み、深遠な観念を表わすように配置され、吾人はそれが樹木であり、石であることを忘れるまでに、慄然たる鬼気を感ずるのです。
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事件があった翌日、小川令子は午前十一時に目覚めた。昨夜はなかなか寝つけなく、音楽を聴いて四時頃まで起きていた。自宅では音楽を聴くことが彼女の唯一の趣味である。音楽を聴く、という行為が多少一般とは異なったレベルであることは事実だが、得られる効果としては、大きな違いはない。
事務所に電話を入れてみたが、誰も出なかった。警察は、なにかあったら電話をしてくる、と言っていた。書いた住所と電話は自宅と事務所のものだ。どうしようかと迷ったものの、一人でいるのは落ち着かない。近くの喫茶店で食事を済ませてから、結局椙田事務所に出勤することにした。事務所に到着してから気づいたのだが、先日セットしたオーディオ機器はまるで駄目だった。安物を買ったのがいけなかったのか。こんな音楽を聴いていてはフラストレーションが溜まる一方で不健康である。少なくともスピーカは替えなければ改善は無理だな、と考えていたところへ真鍋が入ってきた。時刻は午後一時になっていた。
どこが悪いのか、という試験の意味で聴いていた音楽を彼女は止めた。
「おはようございます」真鍋はいつものぼうっとした顔つきである。「音楽消さなくても良いですよ」
「いえ、良いの。こんなの聴かせられないわ」小川はCDを仕舞い、アンプのスイッチも切った。「どうしよう、今日も、佐竹さんのところへ行くべきかな?」
「うーん、警察の捜査の邪魔をしない方が良くないですか? 必要なら呼ばれるでしょうし」
「いえ、事件の方は、まあそうなんだけど……。私たちの仕事、つまり、佐竹千鶴さんから依頼された件はどうなるのかなって」
「そうですね、それは、千鶴さんに連絡を取った方が良いですね」
「電話かけてみようか?」小川は言った。「まだでも、昨日の今日でしょう? ちょっと抵抗感じるなあ」
「そうですねぇ。お葬式とかありますよね」
「そのまえに、お通夜があるし……」
電話のベルが鳴った。椙田のデスクの上にある。小川は、受話器を取った。
「はい……、お世話になっております」
「ああ、小川君」椙田の声だった。「もう、戻れたんだね」
「ええ、昨日の夜には、あっさり解放されました。ぐっすり眠ってから出勤したところです」
「その後、どう? なにかわかった?」
「いえ、特には……」小川は頭の中を整理して、何を話そうか考えた。
「まあ、詳しいことは、また会ったときにでも聞くとして……」椙田が言う。「実はね、急なんだけれど、これからちょっと海外へ出ることになって、しばらく、そこには戻れないから、二人でなんとかして下さい」
「え、どちらですか? あの、いつまでですか?」
「いや、まあ、それはプライベートということで」
「連絡ができないんですね? こちらからは」
「ときどき、可能だったら、そこへ電話をかけてみるけれど」
「困ったなあ。どうしましょう、えっと、つまり、佐竹千鶴さんの依頼なんですけれど」
「無理に受ける必要はないよ。お金のことなんか気にしないで。できることをする。それだけだ」
「はい、わかりました。あ、あとですね、お話しした鷹知という探偵なんですが、情報交換を申し込まれているんです、探偵どうしで。こういうことは、どうなんでしょうか?」
「信頼できそうな人間?」
「ええ、たぶん」
「胡散臭いって言ってたけど」
「ええ、最初は」
「ちょっと僕も仲間に聞いてみたんだけれど、なんか大金持ちの三男坊かなんかで、仕事なんかしなくても悠々と生活ができる奴だって」
「ああ、そうかもしれません。そんな感じはあります。佐竹重藏氏のお抱え探偵だったとか、言っていましたし」
「うん、まあ、現場の判断で。ある程度の情報交換は、必要かもしれないな。そういうことをするのが常識といえば常識かな」
「わかりました。でも、依頼を受けないのなら、もうすべて手を引いた方が良いですね?」
「絵の写真は撮っておいてもらわないと」
「あれは、締切があるのですか?」
「いや、特にない。事件のせいで遅れているって言い訳ができる。えっと、葬式には行っておいてくれ」
「はい」
「花とかはいい。僕の名前で、香典だけで」
「わかりました」
「いやぁ、良いなあ」椙田は笑った。
「何がですか?」
「部下が仕事をしてくれるっていうのは清々《すがすが》しいなあ」
「はい、なんとかいたします」
「じゃあね」
電話が切れた。
「椙田さん、今日も来られないんですか?」真鍋がきいた。彼は、湯沸かしポットの前で紅茶を淹れていた。
「高飛びするって」
「高跳び?」
「そう」
「どこでですか?」
「は?」
「高跳び? 陸上の?」
「高飛び知らないの? 君」
「知ってますよ。椙田さん、そんなことしてるんですか?」
溜息をついてから、高飛びの意味を真鍋に教えて、小川も自分の紅茶を淹れた。ティーバッグである。本当はコーヒーが好みなので、コーヒーメーカを買ってこようと考えていた。この事務所を自分にとって居心地の良い空間にするまでの道のりは、まだ遠いようだ。
「あぁあ、また、急に暇になりましたね」カップを持って椅子に腰掛けながら、真鍋が呟くように言った。「昨日が特別だったんですね」
「普通さ、こういうときは、レポートとかを書くわけ」
「レポートって?」
「だから、昨日何があったのか、ということを記録しておくの」
「へえ……」
「それが仕事というものでしょう?」
「そうなんですか。大変ですね」
「そうか、君はバイト料はもらっていないんだ」
「そうです、僕は単なるボランティアです。ときどき短期で雇われるフリーですね」
「私は、一応お給料をもらっている身ですからね、ちゃんと発展的にビジネスを考えないと。この事務所が繁盛して、発展してもらわないと困るわ」
「でも、長くは続きませんよ、どうせ」
「え、そうなの?」
「だって、ほとんど仕事なんかないんですから」
「探偵の仕事はそうでも、美術品関係の方は、けっこうあるんじゃない?」
「いえ、ないですよ」真鍋は首をふった。
「でも、椙田さん、忙しそうにしているじゃない。どうしてなの?」
「なんででしょうね」
「少なくとも、私を雇おうというくらいだから、それなりに儲かっているはずだよ」
「正直言って、僕、びっくりしましたよ。人が雇えるような余裕があるんだって。小川さん、本当に給料もらいました?」
「え、いえ……、まだ、だって月末じゃないから」
「怪しいもんですよ」
「嘘、困るよ、そんなの」
「給料が払えないから、椙田さん、高飛びしたんじゃないですか。あ、なにかの保証人とか頼まれませんでした?」
「いえ、そんなことは……。もう、やめてよ、不安になるじゃない」
「すみません」真鍋は目を大きくした。「あれ、本気にしたんですか? いや、大丈夫ですよ、椙田さんは信頼できる人です」
「ごめんなさい、私もね、ちょっと、うん、歳よね、いらいらしてしまって……、ああ」溜息をついて紅茶を口につけた。「一番の問題は、音なんだよ、うまく鳴らなかったこと」
「え、CDの音ですか? 壊れていたんですか?」
「いえ、そうじゃないけど、音がちょっとね、駄目なのよね。なんか、籠《こ》もっていて、ぼやっとしていて、弾まない感じで、抜けてこないし……」
ドアがノックされた。
「はあい、どうぞ」小川は声を高くして返事をする。
ドアが開いて、顔を覗かせたのは、長身の鷹知祐一朗だった。
「どうも、こんにちは」爽やかな顔である。
「あ、どうぞ」真鍋が言った。
中に入ってくると、鷹知はきょろきょろと部屋中を見回した。
「椙田さんは?」
「ええ、ちょっと、今日はここにはおりません」小川は答える。
「そうか、一度ご挨拶しようと思っていたんだけれど」
「あの、どうして、ここがわかったんですか?」小川はきいた。「まさか、尾行?」
「いいえ、違いますよ。でも、あまり正当な方法ではありませんので、それは謝ります。もし不愉快でしたら、即刻退散いたします」
「いえ、べつにけっこうです」小川は両手を広げた。「ちょうど、お話がしたいと思っていたんです」
「紅茶、淹れましょうか?」真鍋が言った。
「あ、おかまいなく」今度は鷹知が片手を広げた。
「お願い」小川は真鍋に囁いた。
客用のソファに、鷹知を招く。
「後学のために、おききしても良いですか?」小川は尋ねる。
「はい、何をですか?」ソファに腰を下ろした鷹知が顔を上げた。
「その正当ではない方法です」
「ああ……」鷹知は口を開けて微笑んだ。「警察の書類に住所を書かれたでしょう。あれを見ただけです。目がわりと良い方なので」
「え、じゃあ、自宅の住所も?」小川は眉を顰める。
「いえ、それはインプットしていません」鷹知は自分の頭の横に指を当てた。「ご心配なく」
「どういったご用でいらっしゃったのですか?」小川は尋ねる。
「どんなお話がしたいと思われたんですか?」鷹知もきき返した。
紅茶を淹れている真鍋がくすっと吹き出した。背中を向けているので、顔は見えない。
2
昨夜の十一時頃に時間を遡《さかのぼ》る。
鷹知祐一朗は、刑事二人を伴って、佐竹邸の庭を歩いていた。地下牢へ通じているトンネルの入口、あの小屋の住人は、六郎《ろくろう》という。執事の倉田から聞き出したことだった。今、その六郎の小屋へ向かっている。
佐竹千鶴が、小屋からトンネルへ入っていったことを警察に話したらしい。
「千鶴さんは、一人で入っていったと話しています」刑事は言った。「よく、あんなところへ一人で入ったものですな」
「ええ、そうですね」鷹知は相槌《あいづち》を打つ。
「おそらく、千春さんの方が、少し早く、そこへ入った。なにか、示し合わせていたような感じです」
「そう話していましたか?」鷹知は尋ねた。
「いえ。そこは話してはいただけないようで」刑事は首をふった。「しかし、まあ、そう見るのが順当なところかと」
「以前にも、そこからトンネルへ入っていったことがあったのでしょうか?」鷹知はきいた。
「それもわかりませんが、たぶん、そうでしょう。初めてとは思えない」
「地下牢の中にいた人物も、いつでもトンネルから抜け出して、外へ出られた、ということになりますね」鷹知は言う。「途中に鍵がかけられるような箇所がありましたか?」
「捜査中ですが、今のところ、それらしいものはない。おそらく、出入りは物理的に可能だったかと」
「やっぱりそうか。では、地下牢にずっといたわけではないのですね」鷹知は言った。
「そのことを、佐竹の家の人間が認識していたかどうか、ですよ」
「うーん、どうかな」
「少なくとも、お嬢さん二人は、トンネルのことを知っていたわけですから、考えつかないはずがない、というふうに思いますが」
「それも、直接おききになったんでしょう?」
「どうも、なんというのか、非常に……、その、非協力的だといわざるをえません。うん、その点については、警察としても、おお、残念に考えております。まるで、その、犯人など捕まえてほしくない、とでも要求されているかのようです」
「いえ、そんなことはありませんよ」鷹知は刑事に少しだけ近づき、声を落とした。「刑事さん、ちょっとよろしいですか、ここだけの話なのですが……」鷹知は辺りを見回した。
「ええ、何です?」刑事たちは立ち止まった。
「実は、僕、昨日、千春さんから呼ばれて、彼女と会いました。そこで、仕事を依頼されたのです」
「仕事?」
「僕は、探偵なんです」
「ああ、そうか……。どんな依頼だったんです?」
「父の死について疑問があるので調べてほしい、と。三ヵ月まえに亡くなった佐竹重藏氏のことです」
「死に疑問がある? しかし、病死だったのでは? 癌で亡くなったのですよね?」
「そうです。千春さんは、佐竹会長に非常に可愛がられていたようです。それから、佐竹夫人とは、その、あまり良好な関係ではなかった。それで、僕を通じて、夫人にその点についてきき質《ただ》してもらいたい、必要ならば調査をしてほしい、というつもりだったのです」
「なるほど、それで、今日、夫人に会われたわけですね?」
「そうです」
「どんな話でしたか?」
「いえ、なにも」鷹知は首をふった。「お伺いして、世間話をしました。さあではこれから込み入ったことを伺おうか、と思ったときに、夫人は席を立たれて、奥の座敷へ行かれたのです。僕は途中までついていきました。しかし、ここから先へは来ないでくれ、と言われたのです。だから、あそこで待っていた」
「夫人が何をするのかは、わかっていましたか?」
「もちろん。だって、食事を運んでいるのは見ればわかりますし、その、鎮夫さんのことは、以前から聞き及んでいますから。これは、佐竹家の者ならば、ほとんど全員知っていることです。ただ、食事を運んでいるのが夫人だということは、僕は初めて知りましたけど」
「食事は、誰が作られたものですか?」
「ああ、それは、江川《えがわ》という名の、家政婦さんです」
「ああ、あの婆さんか」
「江川さんが、夫人を呼びにきたのです。それで、僕たちの話が中断しました」
「うーん」刑事は唸った。
再び歩き始め、暗い林の中へ入っていった。しかし、奥の小屋の辺りには明るいライトが灯っていた。低いエンジンの音がずっと唸っている。警察が持ち込んだ発電機が稼働しているようだ。
建物の外に、その人物は立っていた。六郎である。言葉はしゃべらない、と執事の倉田から聞いていた。
「ああ、すまないが、もう少し、向こうへ」刑事は、その人物の背中を押して、ライトの近くまで誘導した。大人しく従って、六郎は歩いた。「はい、ここでいいです。ありがとう。えっと、ちょっと二、三尋ねたいことがあるんです。わかりますか?」
六郎は喉を低く鳴らす。頷いたように見えた。
「また、あとでゆっくりと、その、もっとちゃんとした場所で、質問をすることになりますが、うん、まずは簡単なことだけです。その、ええ、今日の夕方、ここから、トンネルへ下りていったのは、千春さんと、千鶴さんの二人、そうですね?」
六郎は頷いたように見えた。
「二人だけですか? ほかにはいませんでしたか?」
六郎は、辺りを見回し、鷹知の方へ視線を向けたあと、片手を持ち上げて彼を指さした。
「あ、そうか……」刑事は頭を掻いた。「いや、そのときは三人いたでしょう? 三人」指を三本立てて示す。「一人でここへ来た人は、ほかにいませんか?」
六郎は首をふった。否定したのは初めてだ。しかし、質問のし方が悪いので、どちらなのかよくわからない。
「えっと、千春さんと千鶴さんが入るまえに、誰か一人で入りましたか?」
六郎は首をふる。
「では、二人のあとには、誰か一人で入りましたか?」
六郎はまた首をふった。
「鷹知さんたち三人が入るまで、誰も出入りしなかった?」
六郎は頷く。
「ここから誰か出てきましたか?」鷹知が尋ねた。
六郎は首をふる。
「そもそも、いつも、このトンネルから出入りしている人がいませんか?」
六郎は首を傾げる。
「つまり、えっと、鎮夫さんを知っていますか?」
六郎は驚いた顔になった。そして、遅れて左右に首をふった。
「知らないんですか?」
六郎は首を振り続ける。
「尋ね方が悪いですよ」鷹知が横から言う。「鎮夫さんがここを通る?」
六郎は鷹知を見て、首をふった。
「いつもは、誰か通る?」鷹知はまた尋ねた。
六郎はまた首をふる。
「千春さんが、さきに入っていったんだね?」刑事が尋ねた。
六郎は、首を傾げて、それから、小さく頷いた。
「どれくらいしてから、千鶴さんが入っていったのかな?」
また六郎は首を傾げる。
「質問が難しいかな。時計がないのか……」
「この小屋には、誰が来る?」鷹知は尋ねた。「いつも来るのは誰? えっと、千鶴さん? 千春さん? 絹子さん?」
順番に名前を挙げていったが、六郎は首をふり続けた。
「君は、ここにずっといるのかね?」刑事が質問する。
六郎はまた首を傾げた。
「どこかへ行くことがある? 庭で仕事をするんでしょう?」鷹知はきいた。
六郎は頷いた。
「彼がここを離れたときなら、誰でも中に入れますね」鷹知は刑事に話す。「ただ、あそこの蓋を、梯子を下りながら閉じるのは、けっこう大変かもしれない」
「君は、食事とかは、どうしているんだね?」刑事は尋ねた。「どこで食べているんだ?」
六郎は首を傾げた。鷹知の方を見た。
「この小屋でご飯を食べるの?」鷹知はきいた。
六郎は頷く。
「ご飯をもらいにいく? 母屋へ?」鷹知は母屋の方角を指さした。
六郎は頷く。
「倉田さんか、江川さんにきいた方が良いのでは?」鷹知は刑事に言った。
鑑識が小屋の中で写真を撮っていた。トンネルの入口の蓋は開いている。刑事がそれを覗き込みながら、舌打ちをした。
「うーん、とにかく、奇怪だな」唸るように言う。
「地下牢から、誰かが逃げ出したとしても、こちらから出てきたとは考えにくいですよね」鷹知は自分の考えを述べた。
「死体が座っていた位置からいうと、そうなるね」刑事は頷いた。
3
鷹知は、刑事と一緒に六郎に対して質問をした話を小川たちにした。
「へえ……」真鍋は少し離れたデスクに座っていた。「でも、どれくらい信用できるでしょうね。たとえば、鎮夫さんは、頻繁にそのトンネルを抜けて小屋から出入りしていて、六郎さんとは友達だったかもしれない。それとも、主従関係がしっかりしているのかもしれない。友達や主人のことを庇《かば》って、彼が黙っている可能性だってありますよね」
「それは充分にありえるね」鷹知は頷いた。
「あの、じゃあ、鷹知さんは、やっぱり千春さんに依頼されて調査をしようとしていたんですね」小川は鷹知の対面の席にいた。今日は短いスカートだったので、膝を気にして多少横を向いて座っていた。
「依頼人が死んでしまったから、どうしたものか……」鷹知は言った。
「鎮夫さんのことは、千春さん、なにか言っていませんでしたか?」小川は尋ねる。
「いや、全然」鷹知は首をふった。「ところで、君たちの方は、どうなのかな?」
小川は真鍋をちらりと見てから、鷹知に頷いた。こちらも情報を提供する必要があるだろう。
「私たちは、千鶴さんから、調査の依頼を受けています」
「何の?」それまでソファにもたれていた鷹知がやや身を乗り出した。
「鎮夫さんについて、調べてほしいと」
「鎮夫さんの何を?」
「いえ、どこにいるのか、ということとか……、つまり捜し出してほしい、というような意味だと受け取りましたが」
「それはおかしい」鷹知は言った。「だって、彼女は知っていたはずだ。地下牢に鎮夫さんがいることをね」
「今となっては、ええ、そうですね」小川は認めざるをえない。
「それに、地下牢がどこにあるのかも知っていた」鷹知は言った。「あのトンネルを抜けて一人で入っていったのだから」
「ええ……」小川は頷く。
「となると、君たちに何を期待していたのかな?」鷹知は目を細めた。
「落ち着いたら、千鶴さんご本人に確かめるつもりではいます」小川は話した。「まだ、正式に依頼をお受けしてはいませんでした。ただ、偶然、絵の写真を撮る別の仕事で、あそこへ次の日に行くことになりましたので、地下室がどこにあるのか、くらいはわからないかな、と……」
「それで、うろうろしていたわけか」
「ええ、まあ、そんなところです」
「あのぉ……」デスクの真鍋が片手を軽く上げた。「ちょっと思ったんですけど、僕たちが千鶴さんに会った一昨日の夜には、まだ知らなかった、というだけかもしれませんよね。つまり、あのあと千春さんと会って、鎮夫さんがどこにいて、トンネルから入っていけば、地下牢へ行き着けると教えてもらったのかもしれません」
「千春さんからとは、限らないんじゃない?」小川が指摘する。
「ええ、もちろんそうです。でも、なんだか示し合わせて、あそこへ入っていった感じじゃありませんか。少し時間がずれていたようですけれど」
「そうね……、呼び出されたのかも」
「そう」真鍋は頷いた。「千春さんは、千鶴さんに見せたかったものがあったわけですね」
「しかし、鎮夫の存在は、あそこの家の者なら、たいていは知っているはずだし、食事を作っている人間がいるわけだから、自然に噂は流れるだろう」鷹知が言った。「それに、夫人が毎日どこへ食事を運んでいるのか、ということもだいたいはわかる。たとえば、部屋の掃除をすれば、どこに何があるかもたいていわかるものだよ」
「千鶴さんは、母屋には行けない、と話していました。佐竹夫人とはうまくいっていなかったみたいですね」小川は言った。
「うん、それは、千春さんの方も同じだ」鷹知が頷く。「やっぱり後妻だから、蟠《わだかま》りのようなものはあったのかもしれない」
「千春さんが、佐竹重藏氏の死について疑問を持っていたのも、そういった理由からなのですか?」小川は尋ねた。「死に疑問があるというのは、つまり、病死ではない、という意味なんですよね?」
「佐竹会長が入院していたのは、大きな病院なんだけれど、主治医は、佐竹夫人の血縁者だ」鷹知は答える。「一度、話を聞いてこようとは思っているけれど、千春さんが言いたかったのは、おそらく、癌ではなく、毒殺ではないか、というようなことだろうね」
「医者もぐるになって?」
「うん」鷹知は頷いた。「それは、ちょっとありえない。僕はそう思った。だけど、まあ、調べてみないとね。生前、会長とは何度もお会いしている。病室へも数回訪ねていった。会長自身は、まったくそんなお考えは持っていなかった。夫人のことをとても信頼されていた」
「でもそれは、騙《だま》されていただけかもしれないわ」
「うん、そうだ。でも、少なくとも、知らずに死んだんだから、不幸ではないね」鷹知は微笑んだ。
そのときの鷹知の笑顔が、小川にはちょっとしたショックだった。格好良いじゃないの、と思ってしまったのだ。危ない危ない、と自分に注意をする。
その後も十分ほど話をしたものの、憶測ばかりで、新しい情報はこれといってなかった。
話が一段落して、鷹知が腕時計を見た。もうそろそろ帰るつもりだろうか、と小川は思った。
「たとえばですけれど……」真鍋がまた突然話を始めた。「客観的に見て、千春さんが亡くなって、得をする人物は誰でしょうか?」
「え?」小川は少し驚いた。そういった方面はこれまで考えていなかったからだ。「えっと、誰かに、なにか恨みを買っていたとかってこと?」
「いえ、そうじゃなくて、まず考えられるのは、財産の相続じゃないですか?」真鍋は言った。「僕たちも、その関係で美術品を見にいってるんですから」
「あ、そうか……」小川は頷き、鷹知へ視線を戻した。「佐竹重藏氏の遺言は?」
「どうなのかな。今のところ聞いていない」鷹知は答えた。「会長の財産は、そうだね、小さく見積もっても、数百億になるんじゃないかな」
「ひええ、そんなに?」小川はEを発音する口の形をしてみせる。
「税金で半分取られて、あとの半分を夫人が、さらに残りを二人のお嬢さんが相続するのが、まあ、普通の考え方だと思うけれど」
「ということは、千春さんが亡くなれば、夫人と千鶴さんは、何十億円も得をしますね」真鍋が言った。
「一億円でももらえれば、一生安泰な額でしょう?」小川は言う。「そんなことで殺したりしないわよ」
「そういうもんですか?」真鍋は鷹知の方を見て言った。
「いや、一億円では全然心許ないよ。あれだけのものを維持するだけで大変だ。そもそも、資産のほとんどは現金であるわけではない。相続税を支払うために、コレクションを処分する方向で話が進んでいるんじゃないのかな。兼本さんが、そこらへんは一番詳しいと思うよ」
また、そこで話が途切れた。しばらく沈黙。
「さて、じゃあ、もうこれで」鷹知は立ち上がった。「なにか思いついたら、また連絡します。できたら、そちらからもよろしく」
「そうですね。でも、仕事として成立しない可能性が高くなってきましたから。これっきりかもしれませんよ」小川は言った。
「うん、そうだね、深入りしない方が良いかもしれない」
「鷹知さんも、もう手を引かれるんですか?」真鍋がきいた。
「うん、まあ、警察に任せておくのが一番だとは思う」
「あ、お葬式とかの日程は? まだ発表になっていませんよね」
「千春さんのご遺体が、警察から戻ってこないとね。多少さきになるんじゃないかな」
4
佐竹家の事件については、テレビでも新聞でも大きく取り上げられた。しかし、何者かによって次女の千春が殺害された、ということしか報道されなかった。殺人現場は佐竹邸の屋内であった、というだけである。警察が現在捜査を続けている、侵入者によるものなのかは、不明である。あるいはそれ以外に被害があったのかも、わかっていない、と伝えられた。どこからも、新たな情報はもたらされなかった。毎日、事務所で真鍋と話をするだけ。警察は一度だけ事務所に電話をかけてきた。例の刑事とは別の人間だった。簡単な確認のみで、ここへ電話をすれば連絡が取れるということを確かめただけのようでもあった。そのとき、なにか見つかりましたか、と尋ねたが、教えてもらえなかった。
通夜は、亡くなってから五日後になった。かなり遅い日程である。死体は冷凍保存されているんじゃないか、と真鍋が言ったが、それに近い状態であることはまちがいない。
夕方の六時からだった。真鍋と地下鉄の駅で待ち合わせた。
「あ、真鍋君、礼服あったの?」改札を出たところで、真鍋が待っていた。
「持っていませんよ。友達に借りたんです。だいたい、スーツを持っていませんからね」
「ネクタイも?」
「ええ、借りものです」
「ちょっと歪《ゆが》んでない?」
「いや、結び方がわからないから、適当ですよ」
小川は、その場で結び直してやった。改札から出てくる人間の何割かは黒い服装で、明らかに、佐竹家の通夜に向かっている。
地上に上がると、大通りにはタクシーが沢山駐車していた。光る赤い棒を持って交通整理をする男の姿も見える。
門を入ったところにテントが設けられ、案内所が作られていた。そこで記帳を済ませることもできるようだ。そのまま、人の流れに従って奥へ進む。母屋の玄関の手前の広場に、さらに大きなテントが設置され、そこが受付だった。まずは、この列に並んで記帳をした。椙田泰男の名前も書いておいた。このあと、玄関から家の中に入り、通路を少し歩いて、広間の手前の列に並んだ。奥に祭壇が作られ、僧侶がお経を読み上げていた。親族の黒い背中が並んでいる。
後ろにいた真鍋が肩に触れた。
「何?」彼女は振り返る。
「どうやるんですか?」真鍋が小声で囁く。
「え?」
知らないらしい。焼香《しょうこう》のし方を真鍋に教えた。
「誰も真剣に見てないから、大丈夫よ」とだけは言っておいた。
列の前に来るほど、祭壇に近づき、親族の顔も見えるようになった。絹子が最前列にいるのはわかったが、ほかは知らない顔ばかりだ。千鶴は見当たらなかった。
焼香を終えて、再び通路を玄関まで戻った。
「あの灰は何ですか?」
「灰?」
「壺に入っていたやつ」
「さあ……、気にしない方が良いと思う」
玄関の方へ歩く人の流れができている。
「え、もしかして、これで終わりなんですか?」真鍋が斜め後ろからきいた。
「そうだよ」
「あっけないですね。通夜っていうから、一晩かかるものかと思ってた」
「親しい人だけね」
靴を履いて、外に出た。玄関の脇に立っている兼本と目が合った。
「どうも、ご丁寧にありがとうございます」兼本が小川に近づいて頭を下げた。
「その後、なにかわかりましたか? テレビとかだと、なにも報道されていませんけれど」
「全然」兼本は首をふった。「まったく進展はないですね」
「鎮夫さんは、見つからないんですか?」
兼本は目を大きく見開いて、指を一本立てて口に当てた。そのことは口にするな、という意味らしいが、しかし、こちらだって知りたいのだ。
兼本は家の中に入っていった。
小川と真鍋は、門の方向へ歩く。知った顔はいない。鷹知も見当たらなかった。
ところが、門の十メートルほど手前で、彼女の前に男が歩み寄り、頭を下げた。
「小川様ですね?」
「あ、はい」
「私は立花《たちばな》と申します。はじめまして」
「あ、はい、はじめまして」
「ちょっとよろしいでしょうか?」
「え?」
立花と名乗った男は、五十代か六十代の痩せた紳士だった。黒いスーツを着ているが、それは今夜が通夜なので、誰も同じである。彼は、庭の脇へ入る小径に進んだ。小川はそちらへついていく。真鍋が後ろから来る。
しばらく進んだところで、立花が立ち止まった。
「お嬢様がお待ちでございます」
「え、千鶴さんですか?」
「はい。さきほど、ご焼香されているのをご覧になって、お話をなさりたいと……」
「あ、いらっしゃったのですか。お見かけしなかったので、お具合でも悪いのかと心配しておりました」
「あちらでございます」
「僕もいいですか?」真鍋がきいた。
「ご一緒にどうぞ」
最初にここへ来たときと同じ小径に出る。池に架かる橋を三つ渡り、離れに近づく。その玄関に、黒い着物姿の佐竹千鶴が立っていた。
二人を見ると軽くお辞儀をした。
「中へ」千鶴は言った。「立花、どうもありがとう」
男は一礼をする。立ち去る様子はなかったが、家の中へは入ってこなかった。玄関を上がり、通路を奥へ進んだ。左手に一段下がったスペースが見えてくる。千鶴はそこへ下りていった。ソファが窓際に並んでいて、照明された中庭が見えた。とても静かである。
「あちらは、よろしいのでしょうか?」小川は尋ねた。通夜の席にいなくても良いのか、というつもりできいた言葉である。
「お掛けになって」千鶴は言った。
小川と真鍋はそこに並んで腰掛ける。
「どうも、このたびは……」小川は改めて頭を下げた。
「ええ、私もまだ信じられません。夢を見ているようです。でも、あの日よりは、ずっと大丈夫、ようやく少しだけですけれど、落ち着いたかもしれません」
「本当に、なんと申し上げて良いのか……」
「それで、お話なのですけれど、あの、私のお願いは引き受けてもらえることになりましたか?」千鶴は首を傾《かし》げた。
黒い和服姿のためか、露出した部分の肌の白さが対照的で鮮明だった。色彩が集結した口の紅は妖艶で、ついつい視線が釘づけになる。
「しかし、お兄様は……」小川は言った。
「見つからないのです」千鶴は視線を落とす。「あの日、千春から、六郎の小屋へすぐに来てくれ、と電話がありました。そこに秘密の入口があるから、と」
「それで、あそこへ行かれたのですね?」
「そうです。とても恐ろしかった」
「一人であそこへ入られたのですか?」
「はい。六郎にきいたら、千春はもうさきに入っていったようでした。それで、恐る恐る……」
「ランプは持っていかれましたか?」真鍋が急に質問をした。
「はい、あの近辺はとても暗いので」
「どんなランプでしたか?」真鍋がさらにきいた。「地下牢に残されていたものですか? 火をつけるタイプのものだったと思いますけど」
「はい。夜、庭に出るときに、ときどき使っているものです。そのご質問は警察の方からも受けました。見せてもらったランプは私のものではありませんでした。あれは、千春が持ってきたものでしょう」
「とすると、なくなっていたのは、千鶴さんのランプですね?」
「兄が持っていったのでしょうか」千鶴は言った。
ここで沈黙が二十秒ほどあった。小川は困った。
「あの、でも、お兄様を捜すとしても、どこを捜せばよろしいでしょうか。警察が捜したかぎりでは、この屋敷の敷地内にはいらっしゃらないと……」
「ええ」千鶴は頷く。片手を口に持っていき、眉を顰める。悲しい表情に見えた。「それは、私にもわかりません」
「どうしよう……」小川は困って、隣の真鍋に囁いた。
「え?」真鍋も驚いた顔だ。自分にきかれるとは思っていなかったのだろう。「まあ、捜してみるだけ、捜してみても……」
「どこを捜すのよ」小川は真鍋を肩で押す。「考えてる?」
「うーん」真鍋がわざとらしい難しい顔をした。
「あの、もしかしたらですけれど……」千鶴は言った。「兄は私のところへ、戻ってくるかもしれません」
「え、どういうことですか?」小川はきく。
「あの日、本当は、私が殺されるはずだったんです。お兄様は、私と間違えて、千春を殺したんじゃないかしら」
「あ、そうか」真鍋が思いついたように質問をする。「そういえば、千鶴さんが、トンネルを抜けていったときには、あそこの、えっと、牢の中へ出るハッチは、もう開いていましたか? 地下牢の壁にある」
「開いておりました」
「中で、千春さんが倒れていたんですね?」
「ええ」千鶴は頷いた。口を押さえ、目が辛《つら》そうに細くなる。
「鎮夫さんを、見ましたか?」真鍋がさらにきいた。
沈黙。
千鶴は下を向いたまま、しばらく黙っていた。
「ここで聞いたことは、警察には言いません」小川はつけ加えた。「秘密は守ります」
千鶴は小さく頷く。
躰が震えているようだ。
しかし、大きく呼吸をしてから、顔を上げて、決心をしたように真鍋を見た。
「兄を見ました」千鶴は答える。「牢の中に、たしかに……。私に中へ入ってこいと、言いました。そして、これを見ろと、言いました」
「何をですか?」
「千春です」
小川は頷いた。凄い話だなと思った。壮絶だ。
沈黙。
千鶴の背後。ガラス越しに見える中庭。
その暗闇に、誰かが潜んでいるのではないか。
どこかから、こちらを覗いているのではないか。
そんな気がして、背中が一瞬寒くなる。
「お兄様は、どんな様子でしたか?」小川は質問する。
「上機嫌でした。あんな興奮した兄を見たことはありません。とても久しぶりでしたけれど、全然お変わりなく、若々しくて、そして、美しいお姿でした。兄は、千鶴の首を絞めて、気を失わせた、そのあとで剃刀で首を切ったのだ、と私に言いました」
「え? 千鶴さんの?」
「そうです。つまり、兄は、千春のことを私だと間違えていたのです。どうして間違えたのか、それはわかりません。以前でしたら、そんなことは絶対になかったと思います。ですけれど、何年も会っていませんでしたし、私たち、髪型も変わっておりましたから、見間違えたのでしょう。私は、恐ろしくて、躰が震えて、もうじっと黙っているしかできませんでした。兄は、妹の躰を引きずって、壁のところに座らせました。そう、私が入ってきた戸があるところです。蓋をしてから、そこに千春を座らせたんです。きちんと綺麗になるように、髪も一本一本直しておりました。けれども、私は、いつか兄が気づくだろう、と思いました。それは千鶴ではなく千春だと。そして、もしそれに気づいたならば、すぐにこの私を殺すだろう、と……。いえ、それとも、初めから二人とも殺す気なのではないか。そうにちがいない、ああして出口を塞《ふさ》いでしまったのも、きっと、そのおつもりなのだ、と思い至りました。ですから、もう躰は震えるばかり、恐くて恐くて、目も開けていられません、話をすることなんて、到底できませんでした」
「そのとき、ランプはどうされていましたか?」真鍋が尋ねた。
あまりにドライな質問だったので、小川は隣の彼を思わず睨みつけてしまった。今、そんなことをきくなよ、という視線である。真鍋も、それに気づいたのか、申し訳なさそうな顔で、小川に小さく頷いた。
「ランプ……」千鶴は下を向いたままである。「どうだったかしら。私が入るまえにも、あそこは明るかった。だから、千春が持ってきたランプが光っていたのだと思います。私もランプを持って入りました。ですから、兄が千春を座らせているときには、ランプは二つあったと思います。目も慣れていたのか、暗いとは思いませんでした。いえ、明るいくらい。血が沢山飛び散っておりましたし、私の服や手にも千春の血がつきました。まだ温かいような気がしました。とても綺麗な血でした。ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう、と思いました。警察の方にも申し上げたのですが、すべては、呪われたこの家のさだめ。兄のことをあのように扱ってきたことに対する神の裁きなのです。あんな場所に閉じ込められていれば、誰でも正常ではいられなくなるでしょう。あんなに優しかった兄が、実の妹を殺してしまうなんて……。でも、そうすることしか、選択はなかったんです。悪魔を育てていたんです、お父様もお母様も、みんなで……。もう、すべてお終い……、でも……」千鶴は顔を上げた。「私は、生きている。どうしてでしょう? どうして、生きていられるの?」
じっと、こちらを見据えられて、小川は困った。
どうしてって言われてもなあ、と彼女は思う。
困ったことになった。
千鶴も、もうどこか正常ではない。それは確かだ。
「何故、兄は、私を殺さなかったのでしょうか?」千鶴は続ける。「それが不思議です。私は、何のために残されたのか。兄に、それを尋ねれば良かった。あのときは、そんなことにまで頭は回りませんでした。とにかく、もう恐ろしくて、恐ろしくて、これから、自分は死ぬのだと、そればかり考えていました」
「そのあと、どうなったのですか?」真鍋がまた飄々《ひょうひょう》とした口調で尋ねた。どうも場の空気を読めない男である、と小川は思った。
「いえ、わかりません」千鶴は首をふった。「恐ろしさのあまり、気分が悪くなって、その場に倒れてしまったようです」
「鎮夫さんは、どこから出ていったのか、ご覧になっていませんでしたか?」
「いえ、気がついたときには、真っ暗でした。なにもかも、見えなくなって、音も聞こえなくて、私は、自分が死んだのだろうと思いました。全部が夢であってほしい。目が覚めたら、普通に朝が来てほしい、と願っておりました」
「お母様がいらっしゃったことは覚えていますか?」小川も質問をした。「鎮夫さんに食事を運ばれていたそうですが」
「いいえ」千鶴は首をふった。
「私と鷹知さんが、あそこへ行ったことは、覚えていらっしゃいますか?」
千鶴はまた無言で首を横にふった。
5
池の橋を渡って道を戻った。途中まで、立花が案内をしてくれた。彼は、以前に椙田事務所へ千鶴が来たときに、車を運転していった、と話した。
門から外に出る。通夜の帰りの人々の流れに自然に乗って、地下鉄の駅へ向かって歩いた。
「よくわからない話でしたね」真鍋が言った。「捜すっていったって、もう近くにはいないでしょう」
「そうじゃなくて、また戻ってくる。つまり、死んだのが千鶴さんではなく千春さんだと鎮夫さんが気づいて、千鶴さんを殺しに戻ってくる。それが言いたかったのよ」
「護衛をしろということですか? そんなの、僕たちじゃなくて、警察に言ってもらわないと……」
「そうだよね」小川は大きく頷いた。
そのとき、後ろから肩を叩かれる。
振り返ると、帽子を被った男が立っていた。
「どうも、こんばんは」
「あ、刑事さん」小川は驚いた。今の話を聞かれていたかもしれない、と思った。「尾行ですか?」
「いやいや、とんでもない。偶然です。通夜や葬式には、沢山張り込ませるのが普通なんですよ、まあ、その様子を見にきただけです。今から本庁へ戻るところでして……、あ、でも、もしよろしかったら、どこかで、お茶でもいかがですか?」
「はあ……」小川は真鍋を見た。彼は曇りのない笑顔で頷いた。奢ってもらえそうだ、という希望的笑顔である。「ええ、そうですね」小川は刑事に頷いた。
「じゃあ、あそこのホテルのラウンジへ」刑事が指をさした。
小川が尋ねると、刑事は鈴木《すずき》だと名乗った。一人である。普通、勤務中であれば二人で組んで行動をすることが多いと聞いている。オフタイムとも思えないが、正式のものではない、と理解して良いだろうか。
ラウンジは混んでいたが、幸運にも奥のテーブルが一つ空いていた。三人はそこに腰掛ける。全員がホットコーヒーを注文した。
「申し訳ないですが、お二人が、千鶴さんの離れの方へ入っていかれたことは、部下から報告を受けております」鈴木刑事は手ふきで顔を拭ってから言った。「えっと、運転手の立花さん、彼が案内していったそうですね。千鶴さんに会われたのですね?」
「それについては、お話しできません」小川は答えた。「申し訳ありません」
「ああ、いやいや、無理に聞き出そうなんて思っておりません。私どもは、殺人犯を見つけ出したいだけです。ほかの事情に立ち入るつもりはない」刑事は笑った。「しかし、どうでしょう。貴女方も、いろいろ知りたいことがあるのでは? 話せることはこちらもお話ししましょう。その代わりに、オフレコでけっこうです。録音も記録もしない、ざっくばらんに、うん、噂話として、聞かせてもらうだけでもいい。ええ、なにか、参考になるようなことがあるかもしれない、と思うんですよ」
「捜査の方はどうなんですか? 鎮夫さんの足取りは掴めましたか?」小川はきいた。
「少なくとも、屋敷内にはいない」刑事は首をふった。「隠れるような特別な場所があれば別ですが……」
「でも、あの地下牢のような秘密の場所が、まだあるかもしれないじゃないですか」真鍋が言った。
「うん、可能性がないとはいえない」刑事は微笑んだまま頷いた。「でも、捜せば見つかるものです。あの地下牢だって簡単に見つかったでしょう。それに、人間が何日も隠れていることは意外に難しいと思いますよ。まあ、順当に考えて、殺したあとは、すぐ外部へ逃走した、という可能性が高いかと」
「だけど、街中ですよね」真鍋は言った。「地下鉄で逃げたんですか? どこへ行っても、目立つんじゃないかなぁ。返り血を浴びていたかもしれないし。あ、そうだ、鎮夫さんは、どんな服装だったんでしょうか?」
「黒っぽいものを着ていた、としか証言は得られていません」鈴木は話した。
「千鶴さんの証言ですか?」小川はきいた。
「ええ、そうです」
「そのまま、電車には乗れないですよね?」真鍋が言う。
「そうですね」刑事は頷いた。「逃げたとしたら、徒歩か、車でしょうね」
「徒歩?」小川はガラスの外を見て想像した。「このあたり、そんな逃げられるような経路というか、場所がありますか?」
「まあ、ないとはいえません。うん、一応、周辺で捜索や聞き込みを続けておりますが、まあ、有力な手がかりは今のところない。まったく足取りは掴めておりません。まあ、ですから、おそらく車ではないかと」
「タクシーですか?」真鍋がきいた。
「タクシーならば、すぐに足がつくでしょう」
「だとしたら、誰かが手引きをしたんですね?」真鍋は言った。「だって、鎮夫さんが運転免許を持っているとは思えませんから」
「自分で運転するわけないじゃない」小川は、その発想には少し笑ってしまった。
「誰かが、彼を乗せていった、ということはありえます」刑事は頷いた。「そうなると、ちょっと見つからないでしょう。あのぉ、千鶴さんは、お兄さんのことについては、なにかおっしゃっていませんでしたか?」
「見つけてほしいと頼まれました」小川は話した。それだけは言っておいた方が良いだろう。自分たちの立場も、それで説明ができる、と考えたからだった。
「見つけてほしかったら、その、もう少し警察に協力してもらいたいものです」刑事は苦笑した。「本当に、血のつながった兄弟なんでしょうかね。ちょっと信じられませんがね、何十年もあんなところにいたというのだって……、ね?」
「警察は、どう見ているのですか? 殺人犯の目星はついているのですか?」小川は単刀直入に尋ねた。
「うん、まあ、ここだけの話にしていただきたいのですが……」刑事はテーブルに肘をつき、顔を近づけてきた。「おそらくは、内部の者の犯行でしょう。それはまずまちがいない。それから、犯人は男です。千春さんの首を絞めて、それで気を失わせたあと、首筋を切った。傷は深いが、しかし、一ヵ所しかありません。抵抗した跡がないので、気を失っていたことはまちがいない。死因は出血多量によるショック死。相当な勢いで血が飛び散ったはずです」
「男だと、どうしてわかるんですか?」真鍋が尋ねた。
刑事は、そのままの姿勢で瞳だけを機敏に動かし、視線の先を修正した。真鍋をじっと睨みつける。そして、目を細めると、僅かに口もとを緩めたように見えた。
「それは確かです」刑事は言った。「被害者の体内に精液が残っていた」
「え?」小川は驚いて声を上げてしまった。
刑事がまた小川へ視線を戻す。じっと見据えられた。鉛の鉾《ほこ》で突かれたような重い視線だった。刑事は黙ってゆっくりと頷く。
「本当ですか?」なんとか呼吸を取り戻して、小川は尋ねた。
「他言しないように」刑事は低い声で言った。「こちらも、できれば情報が欲しい。事務所の椙田さんにお願いをした方が良いですか?」
「あ、いえ、今ちょっと国外におります」小川は説明する。「この件に関しては、私が全権を任されています。あの、できるだけ協力をしたいと思いますけれど……」
「絹子さんか、もしくは、千鶴さんが、誰かを匿《かくま》っている、と私は見ているのですが」
「匿っている? 鎮夫さんをですか?」
「そうです」刑事は頷いた。
「でも、屋敷の中は、捜索をされたのではありませんか?」
「いや、つまり手引きをした、という意味です。実際に今あそこにいるわけではない。車に乗せて、どこかへ連れ出した」
「誰か人に命じたというわけですね?」
「そう……、しかし、なかなか簡単には口を割りそうにないですね、うん、とにかく、佐竹家の人間は、この事件を解決したくない。このまま放っておいてほしい。警察は早く諦めて手を引けば良いのだ、と考えている。まあ、そんなふうですよ、これはまちがいない」
「犯人が捕まっても、なんの得にもならないからですね」真鍋が言った。「むしろ、家に不利益になるような事実が明るみに出る」
「そうそう、それだ」刑事が真鍋に指をさす。「そのとおり」
「うーん、でも、もしそうならば、私たちに調査を依頼することと矛盾していませんか?」小川は考えながら話した。「もう兄の調査は必要ない、これで終わりにしたい、と言いえば、私たちは手を引くしかありませんでした」
「僕は、そのへんが、佐竹夫人と千鶴さんで、微妙に違っている点だと思います」真鍋が言った。「刑事さんがおっしゃっているのは、主に佐竹夫人のことでしょう?」
「ああ、うん、そうですね」刑事は頷いた。「すると、千鶴さんの方は、そうでもない、と見るべきかな」
「少なくとも、鎮夫さんがどこにいるのか捜してほしい、そのために私たちを雇おうとしているんです」小川は話した。「私には、千鶴さんは本心でそれを願っているんだ、というふうに見えましたけれど」
「遺産については、なにか聞いておられませんか?」刑事が尋ねた。
「いいえ、まったく。私たち、もともとはコレクションの鑑定をする仕事で来ていました」
「凄い資産なんでしょう?」
「さあ、全体のことはよく知りません」
「でも、借金も多かったとも聞いています。まあ、そういうもんでしょうな、金持ちというのは。金を遊ばせておくようなことはしないもんです」
そういった話は、少なくとも聞いていなかった。小川は、実はそちらの方面の方がむしろ専門なのだ。今までのキャリアが活かせる。美術品鑑定も、そして探偵も、彼女には初体験の分野だった。
「で、これから、どうされるんです?」刑事が尋ねる。
「これからって、今からですか?」
「いえいえ、調査ですよ。どんなふうに調べられるのかな、と思いまして……」
「それは、帰って、椙田とも相談して決めます。まだ引き受けるともなんとも……」
「手を引かれた方が良いかもしれませんね」刑事は前歯が見えるほど微笑んだ。
6
二人はコンビニで弁当を買ってから、事務所へ戻った。
「ああ、なんかどっと疲れたわぁ」小川はソファに腰を下ろした。
「どうします?」真鍋がきいた。お湯を沸かしているようだ。弁当のためにお茶を淹れるつもりだろう。
「さあて、どうしようかな……」ソファの背にもたれ、小川は天井を仰ぎ見た。「まずは、椙田さんに相談した方が良い、でも、連絡はこちらからは取れない。ああ、電話がかかってこないかしら」
「かかってきても、たぶん、任せるよってことになると思いますよ」
「断っちゃおうか?」小川は躰を起こして、真鍋の方を振り返った。「面倒だよね」
「そうですね、その方が楽ではありますね」
「どうせ、私たち、雇われの身なんだし」
「僕は雇われてもいません」
「そうだよね、つき合わせて、ごめんなさい」小川は微笑んだ。「あぁあ、私もねぇ、これが初仕事だと思って、精一杯張り切っていたわけよ。うーん、しかし、このままでは、良いところは見せられないかもしれないわね、なんか、どんどん面倒なことになりそう」
「面倒なことには、もうなっていますよね」真鍋が普通の表情で言った。
「君ね、そういうこと、普通にさらっと言うでしょう? なんか、将来、それで人間関係を破壊しながら、ブルドーザみたいに進んでいく気がするなあ」
「そうですか、いやぁ、そんなつもりは全然ないんですけど。客観的なことを言ったつもりなんですけど」
「ほらほらぁ、全然、フォローになってないじゃない」
真鍋がお茶の入った湯飲みをテーブルへ運んできた。そこで向かい合って、二人は弁当を食べた。
「とりあえず、僕たちには、鎮夫さんを捜し出すような能力はないと思いますよ。なんの心当たりもないし、ツテもないでしょう?」
「ないない」
「じゃあ、素直に断った方が良くないですか?」
「うーん、そうだよね」小川は頷いた。「そうするかぁ……、なんか、千鶴さんに申し訳ない気がするけれど……。あ、そうだ、鷹知さんに代わってもらうっていう手は、どうかな?」
「あ、そう、それはいいかもですね」
「よしよし、明日くらい、彼に頼んでみよう」
「いや、でも、そのまえにまず、千鶴さんにちゃんと連絡をした方が良いですよ。勝手に人に依頼を回したりするのは、駄目なんじゃあ」
「いえいえ、そんなことない、それはありだと思う。つまり、下請けに出すわけよ。依頼されたのは、あくまでも椙田事務所であってね……」
「ああ、なるほどぉ」
「ほっほっほ」
「やっぱり、僕なんかとは年季が違いますね。そんなこと考えもしなかった。そうかぁ、それだったら、報酬の一部をピンハネすることができるわけですね」
「ピンハネ?」
「ええ、当然、そうなるでしょう?」
「いえ、なんか気に入らない表現だけれど、それは、これまで話を聞いたり、いろいろ悩んだりしたわけだからさ、私たちだって、幾らかのものはもらっても良いんじゃない?」
「いえ、いけないなんて言ってませんよ」真鍋は食べながら、首をふった。
「いや、でも、やっぱり倫理的に、抵抗があるわね。うん、駄目だ、もっと誠意をもってことに当たらねば」
「当たらねば」真鍋が言葉を繰り返した。
「何?」
「いえ、なんでもないです。当たらねば」
「何よ」
「なんでもないですよ」
しばらく沈黙。
「当たらねば」また真鍋が言った。そして、くすっと吹き出す。
「何が可笑しいの?」
「当たらねば」
[#改ページ]
第5章 香しき思慕の末
[#ここから5字下げ]
「どうですか皆さん、……誰方《どなた》か犠牲者になる方はありませんか。」と、魔術師は前よりも一層勝ち誇った態度を示して、身辺に飛び交う二匹の蝶を追いやりながら、舞台の上を往ったり来たりしているのです。
[#ここで字下げ終わり]
1
佐竹千春の葬儀から一週間が過ぎた。テレビでも、ほとんど報じられることがなくなった。
小川令子と真鍋瞬市は、その後、佐竹家へは一度も足を踏み入れていない。警察からは、鈴木刑事が二回電話をかけてきたが、供述の不鮮明な点の確認と、思い出したことはないか、という程度のものだった。
佐竹千鶴からも連絡はない。椙田からも連絡はない。小川は、事務所でまともな音楽が聴けるように、スピーカを交換し、一日かけて、その置き場所を決めた。これらはもちろん自腹である。一応の満足が得られたのちは、ソファに深々と腰掛けて、雑誌を読んでいた。電話が鳴れば立ち上がって取りにいくだけだ。滅多にそんなことはない。こんな暇な仕事はちょっとないな、と自分でも感心した。まえの仕事の忙しさが異常だったので、きっと神様が調節してくれたのだろう、と思った。
真鍋は急に事務所に現れなくなった。一度携帯に電話をかけたところ、大学が試験中だという。
「あらら、何? 本当に大学生やっていたんだ」小川は茶化した。
「ええ、まあ、また留年は確実なんですけれど、でも、万が一、間違いで取れる単位があったら儲けものですから」
「勉強とかしてないの?」
「ええ、全然」
「うーん、今度、ちゃんと話してあげるけど、駄目だよ、いい加減なことをしていちゃ。一生、そういう人生になるからね」
「いえ、まあ、そのうちなんとかするとは思います」
などと人ごとのように話していた。
ときどき、佐竹家のことも考えたものの、すぐに頭がぼんやりとしてしまう。何一つ行動には移していない。千鶴にも連絡を取っていなかった。向こうも葬儀のあとで慌ただしいのではないか、という遠慮もある。
そんな無為な時間を過ごしていた午後、事務所に鷹知祐一朗が訪ねてきた。革のジャケットにジーンズというファッションで、これまでと多少イメージが違っていた。
「あれ、真鍋君は?」ドアを開けて、鷹知はきいた。
「お休みです」
「いいですか? 入って」
「どうぞ」
ソファで向かい合い、話し合った。鷹知の方も、その後佐竹家には行っていない、進展はない、とのことだった。
「ちょっと、別件の調査で時間を取られていたんで」鷹知は言った。
「お忙しいんですね」
「いや、たまたまです」
千春の遺体から精液が検出されたという鈴木刑事からの話を、小川は思い切って彼に話した。しかし、鷹知はそれを既に知っていた。
「いや、僕も鈴木さんから聞きました。だから、血液型もわかっているし、DNAを調べれば、犯人は簡単に特定できるでしょう」鷹知は言った。「もう、本人を見つけさえすれば、事件は一挙に解決に向かうはずです」
「動機は?」
「さあ、そこまでは想像できません。なにか表には現れないような事情があったのかもしれない。そもそも、鎮夫さんと呼ばれている男は、佐竹家の長男ではない、という可能性も大いにあります」
「というと?」
「いえ、ただの男です」
「ただの男?」小川は首を傾げる。しかし、すぐにその意味するところがわかった。「ああ、雇われていた、ということですか?」
「うん、あの場所は、昔は確かに地下牢だったかもしれない。それが、たとえばの話ですけれど、今は、単なるレクリエーションの場だったとか」
「その表現は、ちょっとどうかと思いますよ」小川は苦笑した。「でもそうか、そういわれてみると、たしかに、佐竹夫人があそこの鍵を持っていた理由もわかりますね。食事を与えるというのは、表向きのことだったと?」
「そう、それに、その男は毎日、外部から通《かよ》っていたのかもしれない。門ではなくて、どこかから、塀を乗り越えたりして、出入りしていたのかもしれない。それくらいできるところが、きっとあるはずだ」
「通っていたということは、六郎さんの小屋のトンネルを、いつも通り抜けていたことになりますね?」
「そう。それであの日は、どういう理由か知らないけれど、千春さんと千鶴さんもあそこへやってきた。もしかしたら、その男は、彼女たちのどちらかと一緒に来たのかもしれない。六郎さんは、鎮夫さんのことは見ないようにしているんだ。だから話さなかった」
「そこで、なんらかのトラブルがあって、そのまま鎮夫さんは、いつものとおり帰っていった、というわけ?」
「うん、自分で車を運転して逃げたのかもしれない。返り血を浴びていても、自分の車ならば、誰にも見られずに帰れただろうし」
「それが、千鶴さんが見た鎮夫さんというわけか」小川は頷いた。「綺麗な人だって、彼女、言っていたけれど。若い人なのかも」
「千鶴さんは、自分のお兄さんだと信じていたんだろう」
「そうなると、絹子さんに話をきいてみたくならない?」
「無理だと思う。絶対に話さないよ。警察も、たぶん僕と同じことを考えているんじゃないかな」
「嫌な話……」小川は溜息をついた。「あまり想像したくないなあ」
「どちらにしても、美しい話ではない。人が殺されたんだから」
「真鍋君がいたら、なにか質問したんじゃないかな」小川は、ちょっと想像してみた。「あ、そうだ。彼のことを考えたら、不思議と思いついちゃった。ほら、ランプが一つなくなっていたでしょう?」
「うん」
「もし、その鎮夫さんが外部から来ていたのだとしたら、自分のランプを持っていたはずでしょう? 現場から人のものを持っていったりしなかったんじゃない?」
「たぶん、懐中電灯くらいは持っていただろうね」
「どうして、一つなくなっていたのかな」
「さあ、何だろう……。たとえば、自分にとって不都合なものがあったとか」
「いえ、だって、精液を残していったんでしょう? あ、指紋は?」
「さあ、それは、警察からはなにも公表されていない。指紋も残っていたんじゃないかな」
「刑事さんは、佐竹家の内部の人間が怪しいって、言っていたのよ。指紋が残っていたのなら、照合したらすぐにわかってしまうんじゃない?」
「そうだね」
「ということは、指紋は残っていても、それが誰のものかわからない。前科のある人のものでもなかった、ということ」
「照合には、けっこう時間がかかると思う」
「DNAも時間がかかるんじゃない?」
「うーん、まあ、いろいろ地道に進んではいるんだろうけれど。近所の聞き込みとかもね」
「塀を乗り越えて、出入りできるようなところがある? 佐竹家の敷地の周囲って、全部塀で囲われているの?」
「いや、そうでもない。下の道へ石垣を飛び降りれば出られるところもある。でも、ロープかなにかないと危ないかな、上るのは無理だね」
「ああ、でもロープがあればできるんだ」
というような会話を三十分ほどしただろうか。実《み》のある話ではないな、としゃべりながら感じた。鷹知は帰るときに、小川にこうきいた。
「で、どうするんです? 調査の依頼は、断った?」
「まだ」小川は首をふった。「一度、落ち着いたら行こうとは思っているんだけれど、どうもね、腰が重くて……。鷹知さんに、代わってもらおうか、なんて話も出たくらい」
「いや、僕は無理だ。たぶん力にはなれない、つまり、椙田事務所の力にはなれない、という意味だよ。これは調べてわかるような代物ではない」
「千鶴さんの力にはなれるんじゃない? 鷹知さんなら」
「どうかな……、僕はほとんど、彼女とは面識がないんだ」
「千春さんとはあったの?」
「いや、千春さんとも、同じ。僕があそこで知っていたのは、主に佐竹会長だけ。佐竹夫人のこともほとんど知らない」
「でも、千春さんに依頼されたのでしょう?」
「千春さんは、僕と佐竹会長の関係を知っていたから、それで依頼が来ただけだよ」
「そう……」小川は溜息をついた。「じゃあ、そうね、正式に断りにいった方が良いかな」
「もし会うのが億劫《おっくう》ならば、伝えておこうか?」
「千鶴さんに?」
「そう、それくらいなら、僕でもできる」
「あ、お願いしようかな」
「わかった」
「今度、じゃあ、なにかお礼をするわ」
「お礼?」
「えっと、お食事くらい」
「僕に?」
「ええ」
「君が」
「そうよ」
「あそう、それは、また……、なんというのか、わりと新鮮な感覚だね。じゃあ、楽しみにしているよ」
鷹知はドアを開けて出ていった。
小川は、何が新鮮なんだろう、としばらく考えた。
2
真鍋が事務所に戻ってきたので、一緒に佐竹家へ絵の写真を撮りにいく段取りをした。電話をかけ、兼本につないでもらい、都合をきいたところ、今日でも良い、とのことだったので、さっさと片づけてしまおう、と小川は判断した。
午後三時頃に、佐竹家に到着。事件があった日から既に二週間が経過していた。警察官が門の外に二人立っていたものの、中に入ると、以前と変わりはない。すっかり平常に戻っているように見えた。
東の離れが気になったものの、案内の人間について、真っ直ぐに母屋の方へ向かった。そして、通夜のときに上がった玄関ではなく、事件の日と同じく、もう一つの通用口から二人は屋敷の中へ入った。ひっそりと静まり返っている。二週間まえとまったく同じ雰囲気だった。今日もまた、悲鳴が聞こえ、誰かが殺されそうな予感がする。
兼本の部屋では、クラシックが流れていた。交響曲だ。
「こんにちは、お久しぶり」兼本が腹を揺らしながら出てきた。「どうです、調子は?」
「え、何の調子ですか?」小川はきき返してしまった。
それから、三人で通路を奥へ進み、絵が保管されている蔵まで来る。錠前の鍵を外すと、兼本は戻っていった。
中に入り、二週間まえの作業の続きを始める。たぶん、一時間くらいで終わるのではないか、というのが真鍋の予測だった。
セットや調整がなんなく進み、あとはルーチンワークになったので、おしゃべりをしながら単純な作業を繰り返す。小川は、真鍋がいなかったときに鷹知が来たことを思い出しながら話した。
「そうそう、真鍋君のことを思い出しただけで、なんだか、理屈っぽくなれたのね。えっと、外から通っている人間だったら、ランプが一つなくなっているのが変だって」小川はそこでくすっと笑った。自分が久しぶりに機嫌が良いことがわかった。「こういうのって、探偵向き?」
「僕、あのときはそう言いましたけど、でも、あとで気づいたんです。べつに、ランプを使うために持っていったとはかぎらないって」真鍋はそう言って、カメラのシャッタを押した。「はい、いいです」
小川は立て掛けてあった絵を持ち上げる。真鍋は次の絵の箱を棚に取りにいった。もう流れ作業になっていた。
「どういうこと? 使わないのに持っていったってこと?」箱の紐を結んでから、小川は尋ねた。
「理由はわかりませんけれど、ランプとして使いたかったからではなくて、ほかの理由で持ち去ったという可能性です」真鍋は絵の箱を運びながら話した。「大きく分けて、二つの理由が考えられます。一つは、その場にあっては困るから、もう一つの理由は、自分のものにしたいから」
「ランプを? うーん、その場にあっては困るって、何が困るわけ?」
「たとえば、消せないような証拠がそこに残っている、というような場合ですね」
「ああ、指紋とかね」
「今回は、そんなこと、ほとんど気にしていなかったふうに見受けられますね。だって、精液とか……」
「そうそう、つまり、計画的な犯行ではなかったんじゃない?」
「さあ、それはどうか知りませんけれど、指紋くらいなら、拭き取れば良いわけだし、わざわざ持っていく意味がないように考えられます。ということは、やはり二つめの可能性が高い、といえるんじゃないかと」
「それを持ち帰りたかったってことね。うん、それは、なんかありそう」
「千鶴さんが持っていったランプが、犯人には好みのものだったんですよ」
「まあ、人を殺したあとに食事もしている奴だからね。あ、これいいな、くらいの感じで持ち去ったとしても、全然不自然ではないか」小川は頷いた。「なるほど、すると、これによって、君の推理には、どんな変化があるの?」
「えっと、もともとは、ランプの光が必要だった、と考えていました。すると、その人物は、来たときにはランプを持っていなかった。この状況は大きく分けると、二つの可能性があります」
「おお、また二つ?」
「一つは、その人物が最初から地下牢にいた。だから、自分のランプがなかった、という可能性。もう一つは、来るときには、誰かと一緒にやってきた、という可能性です」
「あ、そうか。一緒にね……、一緒、一緒、つまり、千春さんか、千鶴さんと一緒に来たというわけね」
「あるいは佐竹夫人です」
「あ、そうか、絹子さん……、その三人だ」
「しかし、千鶴さんは、自分が行ったときには、既に千春さんが殺害されていた、鎮夫さんがそこにいた、と話していますから、これらを信じれば、千鶴さんではない。また、佐竹夫人の場合は、通路までは鷹知さんと一緒だったので、ちょっと考えにくいですが、しかし、座敷の中に鎮夫さんを待たせていた可能性はないとはいえません。でも、ちょっと時間的に厳しいですね。絹子さんと一緒に入っていって、それから、千春さんを殺して、というのは……」
「ほう……、そうね。うん、君と話していると、なんだかいろいろ考えられるようになるわね。面白い、そうかぁ」小川はまた感心する。真鍋のこの才能はなかなかのものではないか、と彼女は確信しつつあった。なにか良い方向へ活かせないものだろうか、とも思う。「真鍋君さ、探偵になったら?」
「は?」真鍋は顔を上げて、目をしょぼつかせる。
「いえいえ、気にしないで」小川はひとまず否定した。探偵なんて職業は、いつもこんな仕事ばかりではない。若者の未来を無責任に限定してはいけないぞ、と思い直したのだ。彼の専門は、えっと、とにかく、美大生なのだ。
「ところがです、ランプとして使わなかった、という方向へ考えていくと、今までの仮説は根底から覆されるわけです」真鍋はまた下を向いてカメラの画面を覗き込んだ。「撮りますよ、小川さん、手をどけて下さい」
「あ、ごめんごめん」彼女は額を掴んだままだった手を離した。
真鍋はデジカメのシャッタを押す。そして、書類のリストにサインペンでチェックを入れた。
「地下牢の中に最初からいた、というのも、現実的にどうかなって感じます。実際にトンネルがあるわけですから、ずっとそこにいたとはどうも考えにくいでしょう? あの日は最初からいたのかもしれませんけれど、普段トンネルを通って出入りをしているのならば、やはり自分で使うライトを持っていたはずです。だいいち、地下でもライトが必要なことがあったと思います。もし、目が見えるのなら、ですけれど」
「目は見えたんじゃない? 見えなかったら、殺したり、逃げたりとか、難しいと思うよ」
「まあ、百パーセント断言はできませんけれどね。少なくとも、目が見えなかったら、千鶴さんのランプが、自分の欲しいタイプのものだって気づかなかったでしょう」
「あ、そうだね。そうなると、えっと……、どんな可能性が残っているわけ?」
「一つだけ残っていたのは、千春さんと一緒に入ってきた、という可能性ですね」真鍋は言った。「仮に鎮夫さんだとしますけれど、その人は千春さんと二人で、あのトンネルから入ってきたんです」
「そうか、二人は恋人同士だったのね」小川は言った。しかし、そう思いついた理由は言葉にしなかった。「あ、でも、六郎さんが見ていたんじゃない?」
「彼はその人物を庇《かば》って、嘘をついている。嘘をついているというよりも、黙っている、といった方が良いかな」
「出ていくときは、牢の出口の方、だよね?」
「佐竹夫人が、牢の鍵を開けてしまったんです。中が暗かったから、わからなかった。いつもそうしているように、開けてしまった。それで、鎮夫さんはそこから出ていった。もちろん、鍵もかけていったんです。そしてそのとき、千鶴さんのランプを持っていった」
「そうか……」小川は大きく頷いた。
「ところが、ランプを持っていった理由は、単に欲しかっただけだ、というふうに考えると、鎮夫さんは自分のライトを持って入ってきても良いわけですから、べつに誰かと一緒である必要も全然ないし、また、いつ入ってきても良いことになります。今までの仮説はまったく元の木阿弥《もくあみ》ですね」
「あ、そう……、あ、今までのは、全部駄目なわけ?」
「そうですね」
「なんだ、いろいろイメージしちゃったじゃないの」
「単なる妄想だと思って下さい」真鍋は表情を変えずに言った。
「面白いなあ」小川は思っていたことを素直に口にする。
「面白いですか? そうかな」
「いえ、君が面白いってこと。そういうの、考える人なんだ、日頃から?」
「うーん、そうですね。あれこれ、考えちゃいますね」
「考えすぎだと思う。そういうので悶々として、眠れなかったりするでしょ」
「眠れないってことはないですけど……」
「あとね、千鶴さんが、小さいときから、ずっと見てきたお兄さんっていうのは、誰だったんだろう?」
「うーん、それは考えていませんでした」
「もしかしてね、たとえば、本当の鎮夫さんは亡くなったかもしれないけれど、誰かを育てていたのかも」
「育てていた?」
「ええ、小さいときからね」
「地下牢でですか?」
「うん、なんか、ちょっとロマンティックでしょう?」
「ロマンティック?」真鍋がまた顔を上げた。「いや、どちらかというと、グロテスクだと思います」
「ああ、そうか、そう感じるわけね」小川は頷いた。「まあ、そう言われてみると、そうかもしれないけれど、でも、それが実は、どこかの王子様だったりするわけよ」
「へえ、小川さんも、面白い人ですね」
「え?」
「そういうのを悶々と考えて、眠れなくなるタイプですか?」
「あ、そうかもね。でも、知らないうちに寝ているのね。けっこう夢を見ちゃう方」
「結婚したことないんですか?」
「え? ないわよ」
「ヘえ……」
「何よ、へえって。そういうのね、尋ねたらいけないんだよ、訴えられたりするんだから」
「王子様っていうのは、日本にはいないんじゃないですか」
「言葉のあやでしょう、だから、良家の御曹司《おんぞうし》とか」
「鷹知さんみたいな?」
「え? ああ……、あまり、具体的に考えたことはないからなあ。そんな、いきなり具体例を示されると、ちょっと引いてしまいますねぇ」
「駄目ですか?」
「何の話? もっと違う話をしてなかった?」
「男を地下牢で飼っていたという話でした」
「言い方がえげつないよ、まあそうね、そういう世界もありかなって思っただけ。いえいえ、私がありだというんじゃなくてね、佐竹家くらいだったら、それくらいありかもって」
3
一時間ほどで撮影作業は終わり、真鍋が後片づけをしている間に、小川は兼本を呼びにいくことにした。外はまだ明るさが残っている。これは事件があったときと同じ状況だな、と彼女は思い出した。ただ、通路の途中に鷹知はいなかったし、兼本も部屋にいた。
「すみません、終わりましたので、鍵をお願いします」小川は戸口で言った。
「はいはい」奥で兼本が立ち上がった。
クラシックの音楽が鳴っていたが、兼本はそれを止めてから出てきた。
「そういえば、このまえ、小川さん、アンプのことを言っていましたね、真空管の名前を」
「ああ、ええ」
「詳しいみたいですね」
「ええ、ほんの少しですけれど」
「女性には珍しくないですか? 僕もそんなにマニアではないんですが、佐竹会長の手解きを受けましてね」
「あ、そうなんですか」
「レコードや、それにアンプ類、スピーカなど、素晴らしいものをお持ちでしたよ」
「ああ、凄い。それって、どこにあるんですか?」
「あ、目の色が変わりましたね」
「ええ、本当のことを言うと、もうそちら方面は無条件に反応してしまうんです」
「レコードですか? それとも、オーディオ?」
「私の場合は、アンプです。真空管の」小川は言った。その言葉を口にするだけで、頬が赤くなるのではないかと心配になるほどハートが熱くなる。
「あ、じゃあ、一度また、見にいらっしゃったらどうですか?」
「来ます来ます。嬉しい、お願いします」
そんな話をしながら、通路を蔵の方へ戻った。ちょうど、真鍋がバッグを持って蔵から出てくるところへ到着した。
「どうも、お疲れさま」錠前に鍵をかけてから、兼本は言った。「そういえば、椙田さんは? 最近、来ないですね」
「いえ、実際にレポートを作るのは椙田です。私たちにはできません」
「よろしく言っておいて下さい」兼本は微笑んだ。「もっとも、ちょっと事情が変わってきたから、どうなるかわかりませんけれど」
「え、というと?」
「財産ですよ。もともとは分与することで話が進んでいましたが、相続人のお一人が亡くなられましたからね。売りに出されるコレクションについても、必然的に再検討を迫られます。ちょっと、どうなるのか、今はわかりません」
「売らなくても良くなるかも、という方向ですか?」
「わかりませんが、そうですね、絹子夫人から見ると、千春さんへ行く分がなくなったわけですから、コレクションを慌てて売らなくても、ということになるやもしれません。これは、想像ですよ。まだ、実際にそんな話になっているわけではありません。ただ、椙田さんには、このまえ売る方向でお話をしてしまいましたから、もしかして、もうどこか買い手を探して、内々に話を持っていかれているかもしれないと、少し心配していました」
「あ、わかりました。では、伝えておきます」小川は頷いた。
「どこかへ行かれているとか?」
「そうなんです。ちょっと海外へ」
「どちらへ」
「さあ、どこでしょう」
兼本は呆れたという顔で微笑んだ。
彼が玄関まで見送ってくれた。そこで兼本とは別れ、小川と真鍋は二人だけで門の方へ歩いていった。日は暮れようとしている。空の半分がピンク、もう半分が紫色。シルクスクリーンのボスタのような色彩だった。
「もう、これで、ここへは来ないかもね」小川は呟いた。
「そうですね」真鍋も頷く。
「警察、どうなのかな、ちゃんと捜査しているのかしら」
「そりゃあ、しているんじゃないですか。だけど、解決しない事件って、けっこう多いですから」
「迷宮入り」
「時効が成立したりとか」
「犯人が捕まっても、そのあと何十年も裁判で争っているような事件もあるし」小川は言う。「本当に解決したっていうものって、どれくらいの割合なんだろう?」
「そもそも、そのまえに、警察沙汰にならないものがあるんじゃないですか? 事件自体が発覚していないっていう。そういうのが、完全犯罪ですよね」
「殺したことも発覚しないってこと?」
「そうです」
「恐ろしいなあ、それは……。どこかで人知れず、人が消えていたりするわけだ」小川は考えた。
「これだけ沢山人間がいると、大変ですよね」
「それは、ちょっと大まかすぎると思うよ」
「生まれたことが、ちゃんと届けられなかったら、いなくなっても、わからないじゃないですか」
「ああ、そういう意味ね」
「ないとはいえませんよね」
「鎮夫さんだって、もともとどうして死んだのかしら?」
ちょうど常夜灯のスイッチが入り、辺りが明るくなった。光度を感知して自動的に点灯する仕組みだろうか。その明かりの下、小径の片隅に花が咲いていた。紫色の小さな花がずっと続いている。この道は何度か通ったはずだが、その花に気づいたのは初めてだった。最近咲いたものか、それとも、これまではそんな余裕がなかったのか。余裕がなかったのは確かだ、と小川は自分のことを顧みた。
「なんか、凄く綺麗じゃない?」小川は言う。「これって、何ていう花?」
「いえ、植物には疎《うと》いんです、僕。菊っぽいですね」
「菊ってことはないでしょう。ああ、帰りに花でも買っていこうかしら。最近、部屋に花なんて飾ったことないなあ」
「これって、六郎さんの小屋にあった花ですね」
「え? あ、そうか、そう、あったね、そういえば……」では、以前にも咲いていたのだ、と小川は思った。
真鍋が立ち止まった。
彼は空を見上げている。
小川も立ち止まって、そのグラデーションのかかった色を眺めた。本当に、自然のものとは思えない劇的な色彩だった。
ああ、と息を吐く。
なんだか、今日は少し良い感じだ。
美味しいものでも食べよう。
とっておきの真空管があるから、箱から出して、差し替えてみようかな。何を聴こうかしら、などと考える。
「小川さん、ちょっといいですか?」真鍋が囁いた。
「何?」
「六郎さんの小屋へ寄っていきましょう」
「え、今から? どうして?」
「ちょっと気になることを、思いついてしまって」
「何、何? 話してよ」
「いや、勘違いかもしれないしなあ……、うん、ちょっと、まあとにかく、行きましょう」
4
小径に逸れて、遠くの屋敷や庭園を見ながら二人は歩いた。見渡した範囲には人の姿はない。母屋の屋根が一部覗いていたが、それもやがて樹木に遮られて見えなくなった。また、反対方向には千鶴がいる離れがあるはずだが、そちらの建物はまったく見えない。一つだけ常夜灯が灯っていた。しかし、それも遠ざかる方向で、だんだん辺りは暗くなっていく。
真鍋がどんどん先へ進んでいくのを、あとから追うかたちで小川は歩いていた。
「ねえ、大丈夫? ゲートを開けてもらっているのよ、早く出た方が良くない?」
ゲートのロックを母屋で操作できるのである。
「内側からは出られるようになっていますよ」真鍋は簡単に言った。
「出られるかもしれないけれど、ロックを外しちゃうでしょう? 迷惑なんじゃない?」
「インターフォンで知らせておけば良いですよ」
「まあ、それはそうだけれど」
竹林の中に入り、ますます暗くなった。空が見えない。小川はポケットからライトを取り出して、スイッチをつけた。少々バッテリィが弱っているようだ。先日の事件のときに大活躍したライトである。
しんと静まり返っていた。
真鍋が立ち止まる。
小屋まであと五メートルほど。
「何? どうしたの?」
「そうか……」前を向いたまま、彼は呟いた。
「何が、そうかなの?」
「よし……」真鍋はまた歩き始めた。
何がよしなんだ、と思いながら、小川はしかたなく彼についていく。小屋の入口の方へ回り、真鍋は中を覗き込んだ。後ろから小川がライトを照らす。
「こんばんは」真鍋は声をかけながら、中へ入っていった。
小川も続く。
小屋の中でライトの明かりが動き回る。誰もいなかった。
トンネルへ梯子で下りる場所が口を開けている。蓋が横にずり落ちたように置かれていた。中は真の暗闇だった。
「いませんね」真鍋が呟く。
「もしかして、地下かな」小川はその穴の中にライトを入れる。しかし、ほんの周囲だけしか見えない。
「ちょっと、ライトを貸して下さい」真鍋が手を出した。
小川はそれを彼に手渡す。
真鍋は壁際へ行き、膝を折った。それから、また立ち上がり、ポケットに片手を突っ込んだ。
「駄目だ……、えっと、ハンカチありませんか?」
「あるけど、何?」
「ティッシュでもいいです」
小川はバッグからティッシュを取り出した。真鍋はそれを受け取ると、再び背中を向けて屈み込んだ。
「何をしているの?」
「これです」真鍋は振り返り、躰を少し退けて、彼女にそれを見せた。
床の隅に転がっているのは、ガラスの筒のようなものだった。底が真鍮で作られている。
「あ、それって、このまえ、花が活けてあった……」
「これ、ランプですよ」真鍋は言った。「笠がどこかにあるんじゃないかな」
「ああ、本当だ」
レトロな感じの品だった。真鍮の台の部分は燃料を入れるタンクにもなっている。ガラスの中で炎が燃えるランプだが、そこに水を入れて、六郎は花瓶として使っていたのだ。
真鍋は、ティッシュを使って、慎重な手つきでそれを持ち上げた。ライトを当て、角度を変えて観察している。
「あ、ここ……、この丸いの見えますか?」
「うん、黒い染みのこと?」
「ええ、ほら、こちらにもある。こちらの側にだけ、えっと、四ヵ所もあります」
「それが、どうかしたの?」
「これ、血ですよ。血が飛び散ったんだ」
「え?」小川はようやくそこで気づいた。「どういうこと? それじゃあ、これが千鶴さんのランプ?」
「たぶん」真鍋は頷いた。
「えっと、これを持ってきたのは、六郎さんってこと?」
「そうなりますね」
「うーんと、だとすると、えっと、どうなるのかな」
「今考えています」真鍋は言った。「六郎さんに、尋ねてみたいですね。どうして、これを持ってきたのか」
「持ってきた? 彼が地下牢へ入っていった、ということ?」
「ちょっと待って下さい」真鍋は腕組みをしている。
「ねえねえ、どうして、ここが開いていたんだろう。蓋も、なんだか乱暴に退けた感じじゃない?」
「そうですね、ランプも落ちていたみたいだし」
「慌てて、中に入っていったってことかな?」
「行ってみましょうか?」真鍋が言った。
「どこへ?」
「どこへって、この中ですよ」
「嘘、本気?」
「こうなったら、知りたいじゃないですか」
「いや、私は、あんまり、その……」
「小川さん、探偵の助手でしょう?」
「うーん、まあ……」
「僕より歳上なんだし」
「何を言い出すの。そんなの関係ないでしょう。君、男でしょう? 私は女です」
「そういうときだけ、性差別ですか?」
「これは、差別じゃなくて……、えっと、もういい、わかった。行こうじゃないの。べつに殺されるわけじゃなし」
「暗いだけですよ」
「ライトのバッテリィが少し心配だけれど」
「大丈夫ですよ」
真鍋がさきに梯子を下りていった。
「大丈夫?」
小川は、途中で彼にライトを手渡す。そして、自分も木枠を跨ぎ、梯子を下りた。
「誰かいますか?」真鍋が少し大きな声を出した。
返答はない。彼は奥へライトを向けた。ただ、ずっと道が続いているだけだ。光は近くしか照らさない。奥は闇の中だった。
「地下牢まで行って、戻ってきましょう」真鍋は言った。
「どうして?」
「六郎さんがいるはずです」
「え? じゃあ、ここで待っていた方が良くない?」
「どんなライトを持っているのか、見たいし」
真鍋はライトを持って先へ進んでいく。彼と一緒に行かないと、暗闇に取り残されてしまうわけで、離れないように進む以外に選択はなかった。だいたい、ここへ入ってきたのも、同じ理由だ。あんな不気味な小屋で一人で待っていられるわけがない。
しかし、小川は、六郎が外のどこかへ出かけているものだと認識していた。だから、トンネルの中にいる、という真鍋の言葉には少々驚いた。何のためにトンネルの中にいるのだろう?
空気はひんやりと動かない。
湿っているように感じる。
周囲がよく見えないのがむしろ幸いだった。ときどき、肩や腕が壁に触れたりするので、身を竦《すく》める。天井が低い位置では、髪を擦ったりするので、頭を下げる。まえに一度通った道だ。先がどうなっているのかわかっている。それだけが、救いだった。
「やっぱり、やめておくべきだったわ」小川は呟いた。「これは、まずいと思う。こんなことをする権利は、私たちにはないと思うの」
「そうですね」真鍋は簡単に肯定した。
「じゃあさ、引き返そうよう。もういいじゃない。あとで、ゆっくり話を聞いてあげるから。あ、そうだ、ご飯を奢ってあげようか?」
「え?」真鍋が急に立ち止まった。
小川は彼にぶつかる。
「わ!」真鍋が尻餅をついた。
「ちょっと」小川も高い声を上げる。
真鍋がライトを落としたので、周囲が見えなくなった。
転がってきたライトを、小川が拾い上げる。
「危ないじゃないの、急に立ち止まって」
「もうちょっと離れて歩いて下さいよ」
「ライトが一つなんだから、しかたがないでしょう」
ライトが急に消えた。
「あれ……、どうしたの? ちょっと頼むわよ、ホント」小川はライトを振った。なんとかまた光る。「ああ、良かった。接触不良? ねえ、どうしたの、なんで、立ち止まったの?」
「いえ、奢ってくれるって言ったから」
「奢ったげる奢ったげる。もう、なんでも奢ったげるよ。頼むから、私を極限状態にしないで」
「あ、じゃあ、あのレストランへ行きませんか?」
「どこよ」
「向かいのホテルの……」
「ああ、あそこか。もっと美味しい、ほかのところへ連れていったげるから」
「わ、嬉しいな」真鍋の声が明るくなった。
「こんなところでする話かしら」
「じゃあ、さっさと片づけましょう」
「え、行くの?」
「お腹空いてきましたよね」真鍋はまた先へ進む。今度は後ろの小川がライトを持って前を照らした。「やっぱり、六郎さんも、お腹が空いていると思うんです」
「何を言っているの?」
「佐竹夫人が運んでいた食事ですよ。毎日、あれを食べていたのは、六郎さんだったんです」
「え……、じゃあ、六郎さんが、つまり鎮夫さんってこと?」
真鍋は答えなかった。
小川の頭の中では、六郎の姿や顔が、いろいろなシーンに代入されて再構築された。しかし、どうもぴんと来ない。六郎はいくつだろう? 歳をとりすぎているのではないか。それに、千鶴は、美しい、と兄のことを語っていた。少なくとも、小川がイメージする鎮夫は、そちらに近いのである。先入観、あるいは妄想とはいえ、今の真鍋の言葉は、簡単には受け入れがたかった。
このまえ通ったときには、もの凄く長いと感じたが、意外に早くT字路まで辿り着いた。少しは慣れたということか。真鍋は迷わず右へ行く。地下牢へ通じる入口がそちらにあるからだ。
地下牢へ入るハッチの前まで来た。真鍋がそこに跪《ひざまず》く、ハッチは半分開いていた。取り外されて、向こう側で壁に立て掛けてあるようだ。小川は彼にライトを手渡した。真鍋は光を中に入れて、覗いている。
「いませんねぇ」彼は呟いた。「変だなあ」
「まあ、そういうこともあるよ」
「一度ここへ入ったけれど、また出ていった。そのときに、あの蓋をする余裕がなかった、ということかなぁ」ぶつぶつと呟いている。「うーん、しょうがないですね。戻りましょうか」
「ここから中に入ったら、家宅侵入になるんじゃない?」
「時間を取らせてしまって、すみませんでした」真鍋は立ち上がって頭を下げた。
「いや、時間だけの問題じゃないよ」小川は笑った。
そのまま、後退する。今度は小川が先に歩き、真鍋が後ろから足許を照らしている。
T字路まで戻った。
揺れる灯りの先に、変なものが一瞬だけ見える。
息を止めて、彼女は立ち止まる。
後ろから、押されて、前につんのめった。
「あ、ごめんなさい」真鍋が謝る。
地面に手をつき、小川は前をもう一度見た。
しかし、真鍋が照らしているのは、彼女自身で、自分の周囲しか明るくない。
「あっち」小川は指をさした。「ライトを」
明かりが動く。
再び照らし出されたものは、五メートルほど先に倒れている人間だった。
真鍋が彼女を跨いで、前に出る。
彼女もすぐに立ち上がり、真鍋の腕に掴まって続いた。
近づく。
三メートル。
「誰?」自分の声が震えている。
二メートル。
動かない。
顔がこちらへ向いていた。
悲鳴を上げるところだった。
口を開けた、恐ろしい顔が、光の中心に。
「六郎さんだ」真鍋は言った。
彼は、小川にライトを手渡す。
「どうしたの?」
真鍋は、六郎の横に跪《ひざまず》き、彼を起こそうとした。
「大丈夫ですか?」
「どうしたの? 何があったの?」
低い呻き声。
「ああ、良かった、生きている。どうしたんだろう。血ですよね」
「ああ、そうかも」
髪を払うと、額に血が流れている。
「頭に怪我をしているのかな、ちょっと暗くて見えませんね」
「医者へ連れていかないと」小川は言う。「どうしよう、二人で運ぶ?」
「動かさない方が良いかもしれない」真鍋は言った。「まず連絡をしましょう」
「そうね」小川はバッグから携帯を取り出した。「駄目、やっぱり圏外。外に出ないと」
「僕が行ってきましょうか?」真鍋が言った。
「え? 私は……」
「ここで待っていますか?」
「ちょちょちょ、待ってよ。ライトは? いえいえ、ライトの問題じゃないわ」
「うん、じゃあ、二人で……」
「あぁ!」小川は悲鳴を上げた。
真鍋の背後に、もう一人人間がいたからだ。暗闇から現れた人物は、持っていたものを振り下ろした。
鈍い音が響く。
小川は、咄嗟《とっさ》の抵抗で、手に持っていたライトをそちらへ投げた。
真っ暗になる。
ライトが転がる音だけが響く。
残像。
小川の悲鳴で驚いた真鍋の顔。
彼は、その場に蹲《うずくま》る。
一撃を受けて倒れたのだ。
小川は、横へ這い出た。
トンネルの出口の方へ。
逃げなければ。
立ち上がり、手探りで。
後ろから、追ってくる息遣い。
駄目だ、このままでは。
「誰か!」大声で叫んだ。
思いっきり悲鳴を上げる。
しかし、聞こえるはずがない。
むしろ、相手に自分の位置を知らせてしまうだけ。
とにかく前進をする、前に両手を出して。
何度も転びそうになった。
壁や地面に手をつき。
自分の息、足音。
そして、後ろから迫る音。
誰だ?
わからない。
でも、白い腕が見えた。
ライトが眩しかったのだろうか。
白い手を翳《かざ》した。
鎮夫か?
鎮夫が戻ってきたのか。
棒のようなものを持っていた。
真鍋は大丈夫だろうか。頭に当たっていたら、大変だ。
六郎もあれで鎮夫にやられたのだ。
正気じゃない。
「誰か! 助けて!」大声で叫ぶ。
無駄とはわかっていても。
誰かが近くにいるかもしれない。
神様、お願い。
トンネルの出口から、外まで声が届きますように。
後ろを振り返る。
見えない。
闇の中。音だけが近づいてくる。
そう、向こうだって見えないのだ。
思い切って、奇襲をするか。
体当たりした方がチャンスがあるかもしれない。
そう思いついた。
このまま出口へ辿り着いても、たぶん捕まってしまう。
梯子のところはここよりも明るい。こちらの姿が見えるだろう。
まだ、先にはなにもない。
後ろも前も、真っ暗闇。
自分の躰も手も見えない。
手探りで進んでいる。
走ることはできない。歩くよりは速い程度。
なんとかしなければ……。
電話は?
バッグの中に戻したっけ?
そうか、上着のポケットだ。
わからない。落としたかもしれない。
いや、駄目だ、電波が届かないだろう。
そもそも、電話をかけているような暇はない。
ディスプレィが光るし、立ち止まったら、終わりだ。
「来ないで!」後ろへ向かって大声で叫んだ。
慌てるな、なんとかしないと……。
落ち着いて。
なにか方法はないだろうか。
背中に誰かが触った。
前に走り逃げる。
追いつかれている。
「お願い、来ないで!」
壁に躰が当たり、同時に足が滑った。
前に手をつく。
そこへ、後ろから、飛びつかれた。
息。
唸り声。
圧迫。
抵抗した。
しかし、首に手が。
「お願い、やめて」小川は言った。
もう駄目だ。
抵抗するのをやめる。
上を向いて、彼女は地面に倒れている。
相手の体重で胸が苦しい。肩に膝があるのか。とても痛い。完全に押さえつけられている状態。
「鎮夫さんなの?」小川は言った。
「お前は誰だ?」少年のような若い声だった。
「誰にも言わないわ。お願い、私を殺しても、なんの得もないでしょう?」
「殺すしかない。見られた」
「見ていないってば、本当」
「殺してやる」
「お願い。どうして、こんなことをするの?」
「首を絞めて、切ってやろう、赤い血が、温かいぞ」
首の手に、力がかかる。
躰を捻って抵抗した。
脚を蹴り上げる。
しかし……。
苦しい。
息が。
駄目だ。
もう……、
もう、終わりか。
苦しい。
光。
光が見えた。
明るい。
眩しい。
もう天国だろうか。
突然、力が弱まった。
大きな音がした。
影が動く。
拘束がなくなって、息を。
躰を捻り、下を向いた。
喉が痛い。息を繰り返す。
「ああ……」声が出た。
生きているのか。
ああ、暑い。
汗が額から目に入る。
息を繰り返す。
良かった。
とにかく、生きている?
「大丈夫か?」低い声。
明かりが動いている。
顔を持ち上げる。
眩しい。
手に力を入れて、なんとか躰を起こした。
「真鍋君は?」低い声がきいた。
「奥」小川は答えた。「怪我をしている」
「大丈夫ですよ」真鍋の声が聞こえた。
小川は振り返った。
小さなライトが近づいてきた。
強力なライトが奥へ向く。
眩しそうに目を細める真鍋の顔。
「ああ……」深呼吸をする。「えっと……」
何があったのか。
ライトを持っているのは、鷹知祐一朗だった。
真鍋がさらに近づいてくる。
「小川さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ。ああ、もう……、死ぬかと思った。ホントに、もう駄目だと思った」
「怪我は?」
「わからない」
彼女の脚の近くに、木の棒が転がっていた。太さも長さも木刀と同じくらいである。
「これか……」真鍋が拾い上げた。「まともに食らっていたら、ただじゃすまなかったなあ」
鷹知の後ろに、白い服装の人物が蹲《うずくま》っている。
気を失っているのだろうか。動かない。
「どうしたの? 死んだの?」小川は立ち上がって、そちらを見て囁いた。
鷹知がライトをそこへ向ける。
地面に頬をつけた顔を、乱れた黒髪が隠していた。
「壁に頭をぶつけたようだ」鷹知が言った。「死んではいない」
「どういうこと? この人が?」
小川に襲いかかった人物がそこに倒れている。鎮夫だと思っていた。華奢《きゃしゃ》な肢体と色白の腕、そして細い指の手。
「誰なの?」小川は言った。
近づいて、髪を払う勇気はない。
今にも目を覚まし、また襲いかかってきそうな気がした。
「千鶴さんですよ」小川のすぐ横で、真鍋が言った。
小川も気づく。そう、そのとおりだ。
「どうして? 彼女が?」
「とにかく、誰かを呼んでくる」鷹知が言った。
「いえ、私が呼んでくる」小川は一歩進み出る。「こんなところにいたくない、早く外の空気が吸いたい」
「ああ、じゃあ、気をつけて……」
「一緒に行きましょうか?」真鍋が小川の肩に触れた。
「あ、そうね……」彼女は嬉しかった。
「僕はここで、見張っている」鷹知がライトを千鶴へ向けて言った。
消えそうなライトを頼りに、二人はトンネルの出口へ向かった。もう三十メートルほどしかなかった。梯子を上り、小屋から外へ出る。夜空はこんなに明るいものだったのか、と感動的だった。
5
さきに警察へ電話をかけ、そのあと佐竹家にも電話で連絡をした。あっという間に、数人が六郎の小屋の周辺に集まった。救急車のサイレンも聞こえる。十五分後には、トンネルの中で倒れていた千鶴も、そして奥の六郎も運び出された。
鷹知が小川たちのところへやってきた。明るい場所へ移動するため、竹林の中を歩き、門に近い場所へ出たが、やがてそこも警官たちの通り道になってしまい、三人はさらに南へ移動した。
池が見え、ずっと奥に橋が架かっているのが見えた。千鶴の離れへ行くときに通った橋だ。
鷹知は、佐竹夫人を訪ねてきたらしい。母屋で兼本に会い、小川と真鍋がたった今帰ったところだ、と聞いた。ところが、地下鉄の駅からここまでの道筋で小川たちに会わなかった。そこで、小川の携帯電話にかけてみたがつながらない。なんとなく思いついて、念のために小屋を見にきた、と話した。
「凄い勘ですね」真鍋が言った。
「六郎さんには、僕もききたいことがあった」鷹知は話した。「食事を食べたのは、六郎さんなんじゃないだろうかって思いついたから」
「あ、それ、真鍋君と同じ」小川は真鍋を見た。
まだ、詳しい説明を真鍋はしていない。
「小屋の近くまで来たら、もの音が聞こえる。穴の中からだ。なんだか争っているような感じだったから……」
「ライトを持っていたんですね」
「うん、小川さんに倣《なら》ってね。探偵として、これくらい持っているべきだろうって。新しいのを買ってきた」
鷹知はライトを見せた。
「あ、格好いい」真鍋が声を高くする。「これ、僕も欲しかったんだけど、すっごく高いでしょう?」
「良かったら、あげようか?」鷹知が真鍋にそれを差し出した。
「え、いいんですか?」
「ああ」
「本当ですか?」
「今日は、それくらいの報酬は、もらっても良いと思う」
「うわぁ、ラッキィ」真鍋はそのライトを手に取った。「夕食も奢ってもらえるしなあ」
「あ、そうそう、よく覚えていたね」小川は感心した。
「めちゃくちゃついてるなあ、今日は」
「私は、そんなについてなかったかも」小川は溜息をつく。
地下のT字路を左へ入った場所に、六郎は頭から血を流して倒れていた。おそらく一緒に歩いているところを、後ろから殴られたのだろう。そして、その直後に小川と真鍋がやってきた。ライトに気づき、六郎を殴った人物は奥へ隠れたのだ。その経緯を、小川は鷹知に説明した。
「小川さんが、もの凄い悲鳴を上げたんですよ」真鍋は面白そうに言った。「びっくりしました。あんなにびっくりしたことは、僕の人生でも五本の指に入ります」
「ほかの四つを聞かせてね、今度」小川はせいぜい皮肉を言ってやるしかない。
「まあ、でも、それで助かったんですよ」真鍋は言った。「咄嗟に屈んだから、木刀が逸れて」
「肩に当たったの?」
「いえ、触れた程度だったかも」真鍋は自分の肩に手をやった。「こう、後ろから振り下ろしたでしょう」彼は、身振りでそのときのことを再現した。「僕の肩よりも、木刀の先が壁に当たる方が一瞬早かったわけですね」
「がんって音がしたから、私は真鍋君の頭が割れたんだと思ったわよ」
「なんか、石にでも当たったんじゃないですか。でも、相手もそう思ったかもしれません、頭に当たったって。むしろ、そのあと、倒れている上を踏まれた方が痛かった。思わず声を出しちゃうところでしたよ」
「どうして、早く助けにきてくれなかったのよ」
「小川さん、ライトを落としたでしょう?」
「ああ、そうそう、ぶつけてやったつもり」
「近くに転がったのが、見えたんですけど、ショックでライトは消えてしまって。それを捜していたんです、手探りで」
「悲鳴が聞こえなかった?」
「ええ、まだ生きてるなって」
「ああ、そういう奴なのね、君って」
「いえ、急いで来たつもりです。鷹知さんが来てくれなかったら、僕がきっとヒーロになっていましたよ」
「間に合わなかったと思う」小川は言った。「ああ、ホント、もう駄目だと思ったんだから」
男が一人近づいてきた。常夜灯の光の中に入り、にっこり微笑んだ。鈴木刑事の顔だとわかる。
「こんばんは」
「お疲れさまです」鷹知が挨拶をする。
「早いですね、刑事さん」真鍋が言った。
「ええ、近くにいたんで。小川さん、大丈夫ですか?」
「はい、なんとか」
「まだ、ちょっとごたごたしているんですが、お話を伺ってもよろしいですか?」
「ええ」小川は頷く。
だいたい、何があったのかを、小川が説明をした。トンネルの中で起こった一大スペクタクルである。
「ああ、そういうことか……、ちょっと失礼」鈴木は、そう言い残すと、走り去ってしまった。
「あれ、行っちゃいましたね」真鍋はくすっと吹き出した。「六郎さんが犯人だと思っていたんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
「いや、ちゃんと説明したつもりだけれど」鷹知は言った。
「私も電話で伝えたつもりだったけれど」
五分ほどすると、また鈴木刑事が戻ってきた。今度は、もう一人私服の男が一緒だった。
「そもそも、どうして、あそこへ行かれたのでしょうか?」鈴木が小川に尋ねた。
「それは、私にはわかりません。真鍋君にきいて下さい」
刑事たちの視線はシンクロナイズして真鍋へ移った。
「ランプがなくなっていたことを考えていて……」真鍋は瞬きをしてから淡々と話した。「最初は、ランプとして使うつもりで持っていったのだと思ったんですけれど、でも、そうじゃない可能性を思いついて、それで、六郎さんのことを連想した、というか……、もしかして、ただ単に、あのランプが欲しかったんじゃないかって、つまり、千鶴さんの持ちものだからなのか、それとも、あのランプが純粋に欲しいと思ったのか、そんなふうに考えたんです。で、あの日、小屋の中に花が活けてあったのを思い出して、そうそう、そこで花を見たからなんですけど、で、花は見たけれど、花がさしてあった花瓶は何だったか、と考えて、それがランプだと気づいたんです」
「では、あのとき、六郎さんはトンネルに入って、地下牢へ行ったことになりますね。そして、そこにあったランプを持ち帰ったと?」
「そうです」真鍋は頷いた。
「どうして、彼はそんなことを?」
「鎮夫さんのために作られた食事を毎日一回、あそこへ食べにいっていたんですよ。自分のランプを持っていたのか、それとも、もうすっかり慣れていて、暗いところを歩けたのか、それはわかりませんけれど」
「食事をね……。ということは、千春さんが入口に座らされるまえ、ということになる」刑事が指摘した。
「そうなりますね」真鍋は簡単に頷く。「だって、地下牢の中にあったランプを持ってきたんですから、中に入ったことは事実です」
「そうなると、六郎さんには、千春さんをあそこに座らせることはできない。ちがいますか?」刑事が言った。
「できません」真鍋は即答する。「六郎さんが座らせたんじゃありませんよ」
「え、では、誰が?」刑事がきいた。
「千鶴さんしかいません」真鍋は答える。「物理的に考えて、それしか可能性がありません。地下牢には鍵がかかっていたわけですから。ほかには誰もいなかった」
「いや、待って下さい」刑事が片手を広げて前に出す。「しかし、千春さんが入っていき、そのあと千鶴さんが入っていった。誰もいない? 千春さんは一人で待っていたのですか? そこへ千鶴さんが来て、彼女が殺した? いや、それはありえない。その、実は、千春さんは男と会っていたのです。その証拠が残っていることは、ご存じでしたよね?」
「そう、僕も、それは……」鷹知が横から言った。
「矛盾していることは、おわかりでしょう」刑事が言った。「さきに誰かが、やはりいたことになる。六郎さんは、その男を見ているはずだ」
「いいえ。違います」真鍋は前髪を払った。「えっと、小屋にあるランプを調べて下さい。奥の壁際に落ちています。さっき、ティッシュで一度持ち上げてしまいましたけれど、その、そこに血痕が残っています。四つくらい、丸い血の跡でした。たぶん、血が飛び散ったときに、あのランプについたものです」
刑事は、もう一人に目配せをする。若い刑事は頷いて、走り去った。さっそく、小屋の方へ確認にいったようだ。
「その血痕が、どうかしたのですか?」刑事が尋ねた。
「千鶴さんのランプです」真鍋は言った。「それはまちがいないのかな……、えっと、つまり、地下牢に残っていた方が、千春さんのものだったことは、確かですか?」
「まちがいありません。指紋なども一致している」刑事が答えた。「千鶴さんの証言とも一致します」
「血痕が丸いんです。それは、血で汚れた手で触れたりして付着したものではなくて、飛んできた血が当たった跡です。ということは、そのランプは、千春さんが殺されたときに、あの地下牢に既にあったことになります」真鍋は言った。「こうなると、千鶴さんが証言していることは、矛盾するんです。あそこに行ったとき、もう千春さんは倒れていた、と千鶴さんは言いましたけれど、それではランプにあの血痕はつかない。そうではなく、トンネルにさきに入っていったのは千鶴さんだった。たぶん、六郎さんには、見分けがつかないだろう、と考えていたんだと思います。もしかしたら、自分は千春だと名乗ったかもしれない。あとから、千鶴が来るから、ここへ入れてあげて、と頼んだかもしれない。そして、地下牢で妹を待っていた。あとから来る千春さんを殺すために待っていたのです」
「いや、ちょっと、それはね……」刑事は笑った。「事実とは、一致しないんですよ。うん、まあ、面白い推論ではあるけれどね」
「千鶴さんが、男でもですか?」真鍋が言った。
笑っていた刑事が口を開けたまま止まり、ゆっくりと笑みが消えていった。
小川は既にそれに気づいていた。首を絞められているとき、彼女の躰に千鶴の躰が押しつけられているとき、それがわかった。もしかして、そうなのか、と。
「本当か?」刑事がきいた。彼は振り返った。しかし、部下の刑事は今はいない。まだ戻ってきていなかった。
「本当かどうかは、わかりません」真鍋は言った。「でも、そう考えることはできます。千鶴さんは、あのトンネルを何度か通っていた。佐竹夫人が会っていたのは、千鶴さんだったかもしれない」
「だから、夫人は鍵を持っていたの?」小川は呟いた。
「六郎さんは、もちろんそれを知っていた」真鍋は続ける。「でも、千鶴さんを慕《した》っていたのでしょうか。ランプを持ち帰ったことが、その証拠です」
「え、どういうこと?」小川はきいた。「そうか、千鶴さんの持ちものが欲しかったのね?」
「違いますよ」真鍋は首をふった。「たしかに、ランプを捨てられなかったのは、そうかもしれない。それから、血を拭って消すことをしなかったのも、千春さんの思い出として、残しておこうと考えたのかもしれない。ランプ、笠の部分がなかったでしょう? たぶん、もっと血で汚れていたと思います。それだけは、見つからないように、どこかに埋めてしまったんでしょうか。でも、下の部分は花瓶にして飾っておいたのです。特に、トンネルの入口の蓋の上に置いてありました。まるで、お供えものみたいに……」
若い刑事が走って戻ってきた。彼はビニル袋に入ったランプを鈴木に見せた。血痕も確認されたようだ。
「いや、よくわからないな」刑事が口を出した。「ランプを持ち帰ったことが、何の証拠なんだね?」
「六郎さんには、千鶴さんと千春さんの見分けがついたんです。さきに入っていったのが千鶴さんだとわかっていた。でも、千鶴さんが自分は千春だと嘘をついたこと、それから、あとから地下牢へ行って、そこに千春さんが倒れているのを見て、事情がわかったんです」
「六郎は食事のために入ったんだね? その時間だったから」刑事がきいた。
「そうです。それは、千鶴さんの計算だったでしょう。佐竹夫人が来ることも、計算のうちだったはずです」
「わからない」小川は首をふった。
「六郎さんは、ランプについた血で、千鶴さんがさきに入ったという嘘がばれてしまうと考えたんです」真鍋は言った。「そのために、ランプを持ち帰ったんですよ」
「え……」小川は驚いた。そして、躰が痺《しび》れる感覚を味わった。何だろう、ぞっとしたのである。「そうなの……」
「証拠隠滅か」刑事が唸るように呟いた。
「一方、千鶴さんは、六郎さんが出ていったあと、彼に容疑がかかることを避けるため、千春さんの死体を移動させて、あの出口のところに座らせたんです。そうすれば、トンネルではなく、地下牢の出口から犯人が逃走したことになるからです」
「絹子さんが鍵を開けなかったのね?」小川は思い至った。「いつもならば、鍵を開けてくれるのに?」
「そうです」真鍋は頷く。「六郎さんが来るよりも、佐竹夫人が食事を持ってくる方が早かったはずです。夫人は食事を牢の中へ入れたあと、いつもと違う雰囲気に気づいてしまった。驚いて、離れていった。蝋燭も落ちて火が消えてしまった。そこへ六郎さんが来たわけです。六郎さんはいつものとおりご飯を食べて、トンネルの方へ出ていった。千鶴さんは、六郎さんがいなくなったら、地下牢の鍵を開けるつもりでした。夫人を呼んで、鍵を開けさせようと考えていました。千鶴さんが偽装したかった犯人の逃走経路は、そちらなのです。それに、夫人と千鶴さんは、いつもは、鍵を開けて会っていたのです。きっと、千春さんを殺すことは、夫人も知っていたでしょう。夫人と千鶴さんの双方の利益になることだった。もう少し時間があれば、すべてうまくいったはずだった。ところが、夫人は恐ろしさのあまり悲鳴を上げてしまった。そして、そこへ鷹知さんと小川さんが来てしまった。上から声をかけられ、誰かが近くへ来ていることがわかった。夫人は、もう諦めて、声に応えた。もしかしたら、夫人は、千鶴さんも排除しようと考えたのかもしれません」
「そうか、なるほどね」小川は頷いた。「計画が不完全だったから、よけいに不思議なことになってしまったのね」
「でも、鍵を持っている人物だったら、出入りはできるわけですから、そちらの経路が重要視されることになる、千鶴さんは、そう考えていたはずです」
「そう考えていましたよ。今の今まで」刑事が言った。「しかし、そうなると、鎮夫という人物は、いったい……」
真鍋は首を捻った。それ以上は自分にはわからない、ということのようだ。
鷹知は腕組みをして、じっと立っていた。黙っている。
刑事たちは、またすぐに戻ってきます、と言い残して立ち去った。今の真鍋の話を確認するためだろう。特に、病院へ運ばれた千鶴に対する指示が必要だったにちがいない。
「ああ、もしかしたら……」真鍋は小声で言った。「小さいときから、亡くなった鎮夫さんの代わりをしていたのかもしれませんね」
「代わり?」
「ええ、代役です。そういうのをしている自分を、またもう一人の自分が見ているわけですね。そうすれば、兄を見た、という記憶になるのかなって」
「鏡を見ていたんじゃない?」小川は想像して言った。「なんか、考えただけで奇怪」
「千春さんから見れば、千鶴さんは姉でもあったし、兄でもあったわけです」
「可哀相。なんにしても、殺さなくても……」
「夫人と千鶴さんの関係は、なんとなく、わからないでもない」鷹知が言った。「千春さんだけが、まともだったんじゃないかな」
「ああ、なんか寒くなってきたわ」
「そうですね、もう、レストランに行きましょうよ」真鍋が躰を弾ませた。
「あ、でも、刑事さんが戻ってくるかも」小川は言った。
「言っておきましょうか、僕から」鷹知が言った。
「あ、そういえば、ちゃんとまだ、お礼を言っていませんでした」小川は鷹知の方を向いてお辞儀をした。「どうもありがとうございました。助かりました。命の恩人です。ご恩は一生忘れません」
「へえ……」鷹知は笑った。「案外、古風なんですね、小川さん」
「見た感じよりも、歳上なんですよ」真鍋が言った。
「何ですって?」小川は振り返って、彼を睨んだ。「何て言った? よく聞こえなかったけど」
「いえ……、あれ、おかしいな、褒めたつもりだったんですけど」真鍋は目を丸くする。
「褒めてない。全然褒めてない」
「すいません。失言でした。謝ります」真鍋は頭を下げた。「この失敗は一生忘れません」
「今ので、チャラになった感じがする」小川は言った。「私、鷹知さんにお食事を奢りたいなあ」
「そんなあ……、今まで何のために頑張ってきたんですか、僕は」
「え? 何のために頑張ってきたの?」
[#改ページ]
エピローグ
[#ここから5字下げ]
そうして、私を目がけて驀然と走り寄ったかと思うと、いきなり自分の頭の角を、私の角にしっかりと絡み着かせ、二つの首は飛んでも跳ねても離れなくなってしまいました。
[#ここで字下げ終わり]
小川令子は、事務所の鍵を開けようとした。ところが、鍵がかかっていない。まさか、こんなに早く真鍋が来ているのだろうか、と思ってドアを開けたら、デスクに男が座っていた。一瞬、それが誰かわからなかったくらいだった。
「あ、おはよう」椙田がこちらを向いて微笑んだ。
「ああ……、びっくりした。おはようございます。すみません。いつ戻られたんですか?」彼女はドアを閉めて、自分のデスクでバッグを下ろした。
「昨日の夜。飛行機の中でぐっすり寝過ぎて、早起きになっちゃった」椙田はおどけて言った。髪が長くなり、少し日焼けしているようだった。「寒いな、こちらは」
「どちらへ行かれていたんですか?」
「いろいろなところ」
事件のだいたいのことは、一週間ほどまえに電話がかかってきたとき、既に伝えてあった。
「その後、なにか発表があった?」椙田はきいた。
「いいえ、全然」小川は首をふった。「刑事さんに、一度電話をかけてみましょうか?」
「教えてくれないと思うな。意外に、ガードが堅いみたいだね」
「千鶴さんの性別とか」
「微妙な問題があって、議論はしているだろう。まあ、興味本位で、ちょっと調べてみようか?」
「調べられるんですか?」
「警察内部の人間にきけば、わかるとは思う。だけど、知ったところでなんの得にもならないし、一銭にもならないことで、借りを作るのも面白くないな」
「そうですね。ああ……」小川は溜息をついた。「なんか、知ってしまったばっかりに、釈然としませんね」
「そんなものだね、なにごとも」
椙田の秘書あるいは助手になっての初仕事は、一見非常にうまくことが運んだように思われた。なにしろ、事件を解決したのは、真鍋と小川たちだといっても過言ではない。しかし、時間が経ち冷静になるほど、結果的に椙田探偵事務所としては、まったく仕事にならなかった、ということに気づいた。ただ働き、無料奉仕だったことになる。汚れて使えなくなった服もあったし、クリーニング代はかかったし、また精神的にも肉体的にも消耗したわりに、得られたものは一つもない。経費として計上する相手もいないのだ。
なんとか、もっとうまく立ち回る方法はなかっただろうか、とあとになって、あれこれ考えてみた。佐竹夫人に会って信頼を得ておけば、今後のことで多少なりともメリットがあったかもしれない。会計士の兼本とも、もっと親しく話をしておけば良かった。そうだ、オーディオを見せてくれるという話があったではないか。あれはどうなったのだろう。
相変わらず仕事はない。こんなことで、この椙田事務所は大丈夫なのか。真っ先に首になるのは自分にちがいない、と考えるほど暗くなってしまう。
けれども、椙田の顔を見て、そんな不安は吹き飛んだ。彼は新聞を広げて読んでいたが、つぎつぎ、関係のない話をして、最後は笑い飛ばす。真鍋に比べれば、椙田は太陽のように明るい。不景気なんて、まったく気にしていない様子である。
彼女が持ち込んだオーディオセットについても、褒めてもらえた。今度、自分のCDを持ってくる、と話した。
「真鍋は持ってこない?」椙田がきいた。
「ええ、真鍋君、CD持っていないんですって」
「暗いなあ、あいつは」
「そうですね、どちらかといえば……」小川もそれは認める。「でも、驚きました。あんなに、あれこれ考えられるなんて」
「何を?」
「いえ、事件のとき、ああでもないこうでもないって、理屈を捏《こ》ねるんですよ。えっと、何て言ったかなぁ、仮説? そうそう、あと、可能性とか、そういうタームですね。大きく分けて二つの可能性がある、なんて言い出すから、びっくりしました」
「理屈っぽいところは、たしかにある。しかし、そうやって言葉で話しながら考えをまとめるタイプなんじゃないか。ようするに頭のバッファが足りない証拠だ。まあ、簡単にいえば、頭が悪いんじゃないのかな」
「悪くはないと思いますよ」
※
午後は真鍋が事務所に現れたので、彼に留守番を頼み、小川は椙田と一緒に出かけることになった。目的地は大学の図書館である。先日写真を撮った絵画について、作者の履歴などのデータの資料を探してコピィを撮ってくる、という用件だった。今後は小川が一人で行くことになるが、今日は最初なので、椙田が同行しよう、と言った。優しい上司である。
「真鍋の大学へ行ったことがあるけれど、美大のくせに、全然資料が揃っていない。ようするに、こういったものは、卒業生の寄付によるものが大部分なんだな。だから、古い大学で、金持ちの学生が多くて、卒業生ができるだけ沢山死んでいる、というのが好条件というわけ」
「はあ、そうなんですか。それで、ここへ?」
「うん、ま、たまたま、ここにあるだけかもしれない。だいたい、絵の価値には無関係なんだ、そんな作者の履歴なんてものはね。人間の価値だってそうだろう? 履歴ではない。今現在の能力がすべてだ」
図書館の中に入った。そこの係員とは、椙田は顔見知りのようだった。
「今度うちへ来た助手です。小川さん。僕の代わりに来るかもしれないから、そのときは、よろしく……」と、小川のことを紹介してくれた。
図書係の女性は、四十代のお洒落《しゃれ》な女性である。椙田の顔を見て、優しい顔で微笑んだあと、小川を一瞥《いちべつ》したが、そのときの目つきが妙に怖ろしかった。
「おお、恐いですよぅ」と口の中で囁きながら、書棚の奥へ入っていく。
「そう、だいたいここから、あちらの壁のあたりまでが、関連の書籍だね。英語ならばなんとかなるけれど、ドイツ語やフランス語のものも多い。辞書を使って、なんとかしてね」
「はい」
「小川さんは、第二外国語は、何だったの?」
「私はフランス語です」
「ああ、それはちょうど良いね」
「全然駄目です。まったく頭に残っていません」
「いやいや、それでも、基礎があるだけで、ずいぶん違うよ」
それから、手分けをして資料を探し、コピィを撮るために、本に附箋《ふせん》を貼ってテーブルに積み上げた。結局、十二冊にわたり、この作業に四十分ほどかかった。本が重いことも大変だが、どれもかび臭いのには実に閉口した。くしゃみが何度か出た。これは健康に悪そうである。次回来るときはマスクを持ってこよう、と小川は考えた。
重い本を手分けして抱え、事務所のコピィ機があるところまで運んだ。ここで、コピィを撮っているときに、図書館に若い女性が一人入ってきた。
「すみません」小川の顔を見て、彼女が言った。「あのぉ、カードの登録をお願いしたいのですけれど」
カウンタの中に立っていたので、小川のことを係員と間違えたようだ。
「あ、私、違うんです。ちょっと待って下さい」小川は、事務室を見回した。コピィを撮っていた椙田の姿がない。たった今ここにいたはずなのに、と不思議に思ったが、パーティションの奥へ見にいくと、そこに椙田が隠れるようにして待っていた。
「どうしたんですか?」
「いいから」椙田は首をぶるぶるとふる。
係員の女性は窓際でお茶を淹れていた。
「すみません、あの、お願いします」
「あ、はいはい」
彼女がカウンタへ出ていった。小川は再び椙田のところへ行く。しかし、相変わらず目で、あっちへ行け、という無言のサインである。よくわからない。
しかたなく、コピィ機へ戻って、一人で作業を続けた。
さきほどの女性は、申込書に記入をしてから、お願いします、と微笑んで立ち去った。ちらり、とこちらを見たので、小川と一瞬だけ目があった。ちょっと目立つ風貌の美人である。もしかして、椙田の知り合いだろうか。
椙田がようやくパーティションから出てきた。
「今の人、もしかして……」椙田は小川の前を通りすぎ、カウンタへ出ていく。係員の女性の横に立った。「あ、やっぱり、そうか」
「椙田さん、西之園《にしのその》先生と、お知り合いなんですか?」係員は椙田を見上げた。
「いや、知り合いじゃない。でも、まあ、彼女、有名だから」椙田は言った。
「そうみたいですね。お綺麗ですよね。私も噂は聞いていたんですけど、やっと図書館に来ることができたって、おっしゃっていましたよ。お忙しいみたいでしたね」
「え、彼女、ここの大学へ?」椙田が尋ねる。
「そうですよ、まだ赴任されて、一ヵ月にもなりませんけど」
「ああ、そう……」
椙田が茫然とした顔で戻ってきた。
「どうしたんですか?」小川はきいた。
「いや、なんでもない」
「変ですよ」
「何が?」
「いえ、なんとなく、行動が……、どうして、隠れていたんですか?」
「あのね。とにかく……、もう帰ろう」
「まだ、コピィが残っています」
「ああ、そうか、うん、それを済ませてから、帰ろう」
「ええ、そのつもりです」小川は少し吹き出した。
なにか事情があるのだな、とは思った。しかし、椙田くらいの男ならば、それくらいの事情はあっても不思議ではない。どことなく、神秘的な部分が大きく、深く、そして危険な香りがする、そんな鍾乳洞のような男なのである。最初に会ったときから、小川はそれを感じていた。逆に、そこがこの男の魅力でもある。それは確かだ。いつもは落ち着いているし、明るく冗談が多いのだが、それは、おそらく作られた人格だろう。たった今、ほんの少し、いつもとは違う表情を見せてくれた。小川にはそれが少し嬉しかったのである。ああ、良かった、この人にも苦手なものがあるのだな、と思った。
コピィを撮り終わり、図書館を出てからも、椙田は辺りを見回し、警戒している表情だった。それがまたなんとも微笑ましい。
駅まで歩き、電車に乗った。時間帯が良かったのか、二人並んで座ることができた。
「もう、あの大学へは僕は行かない。これからは、君が行ってくれ」椙田が言った。
「はい、そのつもりです」彼女はお淑《しと》やかな声を作って答える。
「あと、椙田事務所という名前を、今日から変える。えっと、SYアートにしよう」
「エスワイアートですか? 頭文字ですね?」
「どう思う?」
「今風で良いと思います」
「SYリサーチでもいい」
「あ、それも良いですね」
「どっちが良い?」
「両方を使い分けてはいかがですか」
「なるほど……。では、名刺を二種類作ろう。帰ったら、手配してくれ」
「わかりました。でも、急ですね」
「椙田という名前を使わないことにする」
「え?」
「危険だ」
「どうしてですか?」
「いや、君は、べつに、考えなくていい」
「はあ……」
深刻に悩んでいる顔だった。こんな真剣な表情の椙田を見られるなんて、なんて今日はついているのだろう、と小川は思った。
電車が駅に停車し、隣に赤ちゃんを抱いた女性が座った。小川のすぐ横で小さな顔がこちらをじっと見つめている。不思議そうな目だった。手を伸ばそうとしている。
「可愛い……」微笑まずにはいられない。思わず片手を上げて、反応してしまった。
「あ、すいません」母親が頭を下げる。
「ばあ」口を開けて、顔を変えてやる。
赤ちゃんは、少し遅れて、けけっと笑った。
「あ、笑った笑った……」こちらまで笑えてくる。「ばあ、いないいない、ばあ」
※
真鍋瞬市は一人で音楽を聴いていた。小川が持ってきたCDである。ジャンルとしては、たぶんジャズだろう。新しいのか、古いのかもよくわからない。いちおうケースを眺めてみたものの、どれが題名で、どれが演奏者かもわからなかった。
ノックの音。返事をすると、鷹知祐一朗がドアを開けた。
「お、懐かしいナンバだね」そう言いながら部屋に入ってくる。「小川さんは?」
「あ、ええ、ちょっと椙田さんと出かけています」
「椙田さん、戻ってこられたの? 一度、挨拶をしなきゃ」
真鍋は立ち上がって、お茶を淹れるためにシンクの方へ近づいた。
「あ、いいよ、おかまいなく。ちょっと近くへ来たから、寄っただけ」鷹知が言った。彼は小川がセットしたスピーカとアンプを眺めていた。CDのケースを手に取って裏を見た。「小川さんって、このまえ亡くなった一柳《いちやなぎ》さんの秘書だったんだってね」
「あ、いえ、僕は詳しいことは知りません。社長秘書だったとは聞いていますけど」
「パーティで一度だけ見かけたことがある。そう、オーディオの趣味で有名な方だった。彼女、その影響なんだ」
「へえ、そうだったんですね」
「どうして、ここの助手になったの? 椙田さんとは、どんな関係なのかな?」
「いえ、知りません。はっきりいって想像を絶します」
鷹知は鼻から息をもらした。可笑しかったようだ。
「そうそう……、佐竹家の地下牢だけれど、ほら、あのトンネル、分岐点があっただろう?」鷹知は話す。「T字路になっていて、地下牢と反対の方へ行ったら行き止まりだった」
「あ、ええ」
「あそこの壁を壊してみたら、やっぱりもう一つ地下牢が見つかったんだ」
「へえ……、凄いですね」
「人間の骨が二体も見つかったって」
「ひえぇ……、凄い。いつのものですか?」
「さあ、わからない。まあ、戦前か、それとも、もっとまえかな」
「誰のものかも、わからないわけですか?」
「うん。財宝とかも出てきたら、ピラミッド並なんだけれどね」鷹知は笑いながら話した。
「もしかして、その調査を、鷹知さん、依頼されたんですか?」
「そんなの、依頼されても、調べようがないよ」
「でも、鷹知さんなら、血縁者なんですから、いろいろ伝手《つて》があるんじゃないですか?」
「なんだったら、椙田さんのところで引き受けたら? 警察は、すぐに手を引くと思う」
「依頼主はいるんですか?」
「まあ、そこは問題だね。兼本さんは、けっこう興味を示している。ちょっと調べたら、それで本が書けるんじゃないかって言っていたから」
「今回の事件だけで書けるんじゃないですか?」真鍋は言った。
「うーん、ちょっと難しいかな」鷹知は首をふった。「よくわからないことが多すぎる。時間が経っていて古いことならば、平気で公開できるだろうけれど、今現在のことになると、内情はなかなか表には出てこないものだ。それに、本に書いたりしたら、親族から訴えられるよ。みんなが死ぬまで待たないと」
「そういうものなんですねぇ」
真鍋は窓際へ行き、ブラインドの隙間から外を眺めた。空は灰色で曇っている。ぼんやりと霞んでいる感じだった。
音楽がちょうど終わった。鷹知は、ほかのCDを手に取って、次の選曲をしようとしているようだ。
「ジャンルがばらばらだね」彼は言った。
「やっぱり、お茶を出しますよ、僕も飲みたくなったから」
「あ、じゃあ、いただこう」
真鍋は部屋を横断した。鷹知が新しいCDをケースから出した。
「暇なんですか?」ポットを手に取りながら、真鍋は尋ねた。
「まあ、これが普通だね。君はまだわからないかもしれないけれど、探偵なんて仕事は、だいたい、こんなもんだよ」
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冒頭および作中各章の引用文は『人魚の嘆き・魔術師』(谷崎潤一郎著、中公文庫)によりました。
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底本
講談社 KODANSHA NOVELS
イナイ×イナイ
著者 森《もり》 博嗣《ひろし》
二〇〇七年五月九日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社講談社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
|※《みは》る ※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]「目+爭」、第3水準1-88-85
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71