目薬αで殺菌します
森 博嗣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)西之園萌絵《にしのそのもえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)反町|愛《あい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あの[#「あの」に丸傍点]
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[#挿絵(img/07_000.jpg)入る]
〈帯〉
劇物入りの目薬に刻まれた「α」の文字!!
繋がっていく事件! 加速するGシリーズ!!
〈カバー〉
純化される森ミステリィ
私の手は血に塗れていたけれど、
それは、生まれるときと同じく必然だった。
血を流さずに生まれるものはないのだから。
神戸で劇物の入った目薬が発見された。目薬の名には「|α《アルファ》」の文字が。その頃、那古野では加部谷《かべや》恵美《めぐみ》が変死体を発見する。死体が握り締めていたのは、やはり目薬「α」! 探偵・赤柳初朗《あかやなぎはつろう》は調査を始めるが、事件の背後には、またも謎の組織の影が……?「|φ《ファイ》」から続く一連の事件との繋がりは!? 進化するGシリーズ、第7弾!
おめめまんまるまっくろけ
あいてるあながまっくらけ
やみのなかではゆがんでる
まわりまわってぐるぐるり
ひかりひかってまっしろけ
きえてひかってまたきえて
[#改ページ]
目薬|α《アルファ》で殺菌します
森博嗣
講談社ノベルス KODANSHA NOVELS
[#ここから5字下げ]
カバーデザイン=坂野公一(|Welle《ヴェレ》 |design《デザイン》)
フォントディレクション=紺野慎一(凸版印刷)
ブックデザイン=熊谷博人・釜津典之
[#ここで字下げ終わり]
目次
プロローグ
第1章 さまざまちらほら
第2章 ときどきはらはら
第3章 つぎつぎまたもや
第4章 さらさらぜんぜん
エピローグ
[#中央揃え]Disinfectant α for the eyes
[#中央揃え]by
[#中央揃え]MORI Hiroshi
[#中央揃え]2008
[#改ページ]
登場人物
TTK製薬の人々
倉居《くらい》 三重子《みえこ》………………………………OL
宮本《みやもと》 佑子《ゆうこ》………………………………元OL
直里《すぐり》 浩文《ひろふみ》………………………元主任研究員
竹中《たけなか》 信次《しんじ》…………………………………課長
北沢《きたざわ》 賢太郎《けんたろう》………………………………部長
それ以外の人々
矢場《やば》 香瑠《かおる》………………………………運動家
東寺《とうじ》 昌子《まさこ》…………………………………大家
東寺《とうじ》 健夫《たけお》………………………………その夫
時田《ときた》 玲奈《れいな》…………………………エンジニア
島田《しまだ》 文子《あやこ》…………………………時田の友人
いつもの人々
赤柳《あかやなぎ》 初朗《はつろう》…………………………………探偵
加部谷《かべや》 恵美《めぐみ》……………………C大学3年生
雨宮《あめみや》 純《じゅん》…………………………C大学3年生
海月《くらげ》 及介《きゅうすけ》………………………C大学3年生
山吹《やまぶき》 早月《さつき》…………………………C大学M2
国枝《くにえだ》 桃子《ももこ》…………………………C大准教授
西之園《にしのその》 萌絵《もえ》………………………W大准教授
犀川《さいかわ》 創平《そうへい》…………………………N大准教授
近藤《こんどう》…………………………………………刑事
佐野《さの》…………………………………………刑事
[#改ページ]
ありとある町にも超えて、この町をばいちばんふかく御神が尊ばれるのも、雷《いかずち》に焼かれた母御と御一緒。それが現在、町じゅうの民ことごとくが恐ろしい禍《まがつみ》に取り憑かれるとき、潔《きよ》めの力をもつ御神のお出ましをこそ、パルナッソスの丘辺を越えてか、またはうしおの轟く、瀬戸を渡ってか。
[#地付き](ANTIGONE/Sophoclis)
[#改ページ]
プロローグ
[#ここから5字下げ]
撃ち返されて、地上に墜ちた、振り飛ばされて。
火を持ったまま、その武夫《もののふ》は、折からに物狂おしく
突き進んで、すさまじい憎しみの風の息吹に、
勢いはげしく押し寄せたもの。
[#ここで字下げ終わり]
矢場香瑠《やばかおる》を初めて見たのは、一年まえのことだ。私は当時就職して田舎から出てきたばかりで、会社へバスで通える場所にアパートを借り、一人暮らしを始めたところだった。そのアパートのすぐ横に、小さなログハウスが建っていて、彼女はそこに住んでいた。アパートは二階建てで、部屋は全部で十二あった。私の部屋は二階の一番端だ。玄関から出たとき、そのログハウスが目の前に見える。最初は変なものがあるな、と思った。その向こう側に大家さんの家と小さな畑があり、アパートもログハウスも全部、大家さんの大きな土地の中に建てられている。ログハウスも大家さんが趣味で建てたものだろう、と考えていた。かつては、土地の全部が広い畑か庭園だったのかもしれない。大家さんは歳をとって働けなくなったので、このアパートを建て、収入を得ることにしたのではないか。ただ、ログハウスは、人に貸すためのものとは思えない。矢場香瑠は、大家さんの親戚なのではないか、と私は最初想像した。というのも、彼女はとても貧乏で、いつもお金に困っていたからだ。もしログハウスが賃貸なら、私が借りている部屋よりも家賃は高いはずだ。彼女がそんな高額な家賃を支払えるとは、とても思えなかった。だから、きっと大家さんは無料で彼女に貸しているのだろう、と私は思った。ただ、大家さんと彼女は、どちらかというと、仲が悪いみたいだった。彼女は大家さんの悪口を平気で口にしたし、大家さんの方も、私と話しているとき、遠回しにではあるけれど、迷惑そうな顔でログハウスの方を眺めることがあった。大家さんと彼女が話をしているところを私は一度も見たことがない。
早朝に、私はジョギングを始めた。勤め始めて、自分の体力のなさに気づいたこともあるし、また、なにもしないと、躰がどんどん重くなってしまいそうな気がしたからだ。毎日の通勤では、満員の電車に乗るだけで、それほど距離を歩かない。田舎で生活していたときは、中学校も高校も遠かったから、私は毎日数キロの道のりを歩いて通っていた。だから、このままでは運動不足になるのでは、と心配になったのだ。ジョギングといっても、ほとんど散歩のようなものだった。走ろうとすると、すぐに息が切れてしまう。
矢場香瑠も、朝、ログハウスの前に出て体操をしていた。太極拳というのだろうか。私にはよくわからないが、空手の構えのようにも見えた。手を伸ばしたり、片足を上げたりしていた。幾度か、それを見かけたけれど、もちろん私は黙っていた。彼女は姿勢を変えずに、目だけをこちらへ向けた。どういうわけか、私は慌ててしまう。目を逸らし、階段を下りて、そのまま出かけていく。そんなことが三度ほどあった。そのときはまだ、彼女がログハウスに住んでいるとは知らなかった。アパートの住人なのか、それとも、その知り合いか、あるいは大家さんのところのお客なのか、と考えていた。
ただ、私は彼女に惹《ひ》かれた。
そのときは気づかなかったけれど。
初めから、そうだった、と思う。
最初に見たときは、私と同じくらいの年齢かと思った。でも、もう少し上のような気もする。顔立ちはしっかりとしている。髪は長い。ストレートで、綺麗に揃っている。背は、並べば私と同じくらいなのだけれど、ずっと引き締まっているから、長身に見えた。とにかく、すべての仕草が軽そうだった。しかし、細いというわけではない。心《しん》の通った力強さ。そう、彼女はとにかく強そうに見えた。そんな印象が躰中から滲《にじ》み出ているのだ。戦士のような鋭さが、彼女にはあった。
私が彼女と初めて話をした日、それは、今思い出してもびっくりするような、とんでもないトラブルがあった。それがきっかけだった。私にしてみれば、とても大きなショックで、もう思い出したくない。何度も忘れようとした。そして、彼女も私にそう言ってくれる。
「貴女《あなた》の問題ではない。どうして、自分の問題にしてしまおうとする?」香瑠は、冷たい口調でそう言うのだ。
「だって、あれは、私が原因で起こったわけだから」
「まさか……、本気でそう思っているわけじゃないよね?」
ふっと息を漏《も》らすようにして、そして遅れて、口が笑った格好になる。やがて白い前歯が覗《のぞ》き見える。それにつられて、私も笑ってしまうのだ。
最初、私は彼女の魅力は、すべてその笑顔にあると感じていたくらい。
きりっとした眉の印象、その表情にしばしば表れる攻撃的な、他者を黙らせるような威圧感からの反転、解放。
そこに現れる輝かしいもの。
適当な言葉が見つからないけれど、それは、きっと、そう、セクシィさに近いものだと思えた。彼女の躰全体から香り立つように発している魅惑的なもの。
あるとき私はそれに気づいてしまったのだ。そしてそれは、私にとっても、そしてもっと大勢の人たちにとっても、きっと危険なものにちがいない、と予感した。
薄曇りの空は、ぼんやりと薄いブルーと白。まるでエアブラシで描いたような斑《まだら》な背景。注目したら、神様の手抜き、に見えたかもしれない。
四人は川原の草原と、砂利ばかりの斜面の境目付近にシートを広げていた。向き合っているのは、男性が二人、女性が二人。しかも若い。何だろう、このシチュエーションは、と加部谷恵美《かべやめぐみ》は考えた。まるで、青春をスケッチしにきたようだ。その発想にぷっと吹き出してしまった。
「なんか、けっこう珍しいことしてますよね、私たち」
「うん、そうそう、そうだがね」隣に座っていた雨宮純《あめみやじゅん》がすぐに反応する。「私もさ、おんなじこと考えとった。不思議。なんかな、甘酸っぱい感覚っちゅうやつ?」
「味まではわからないけど」加部谷は笑う。
「色で言ったら、ピンクやん」
「色もわからないけど」
「何が珍しい? 何が不思議?」山吹早月《やまぶきさつき》がきいた。彼は腕を伸ばし、網の上に野菜を並べている。ヨットパーカを着ていたが、なんと、胸まであるエプロンをしている。服を汚さないためだ、と彼は言い訳をしたけれど、それを見たとき、加部谷の躰の八割くらいが凍ってしまったほどだ。もちろん、残りの二割は沸騰したのだが。
加部谷と雨宮は顔を見合った。既に何度か、自分たちの位置を確認し合っている。それから、もう一人の男を二人は見た。
海月及介《くらげきゅうすけ》は、シートの上にはいない。近くの石の上に腰掛けて本を読んでいるのだ。文庫本で、そんなに厚くはない。ここへきて、当然のように自然な仕草でジャンパのポケットから本を取り出した。そうだったね、川原って、読書をするためにきたんだよね、と教育テレビのお姉さんに言いくるめられる幼稚園児のように、妙に納得させられてしまった。
「バーベキューをしようって言い出したのは、加部谷さんだよ」山吹が言った。
「あ、ええ……、まあ、その、それはそうなんですけれどお」そのあと、長い溜息が漏れた。「今は力一杯、後悔中だったりして……」
「何を公開してるわけ?」雨宮がきいた。
「うーん、人生とか」
「引き籠《こ》もりでないかぎり、普通、公開しとるんじゃない?」
「はあ?」
「まあ、ええじゃんか」雨宮が加部谷の背中を叩く。「食べようぜ、ここは、気合いを入れてよう」
「うん、食べるけど、もちろん」加部谷は頷《うなず》く。
「歯車がずれている感じ?」山吹が言った。
「そうです、そうです、それです」加部谷は頷く。「さすが、山吹さん、お目が高い」
「あんたの歯車なんか、ずれっぱなしだがね」雨宮が笑う。
自分はけっこう明るい性格の人間だと自覚している加部谷だが、それでも雨宮純には及ばない。宇宙ロケットの発射台を見上げるような格差を感じるのだ。そのあまりの崇高さに、雨宮と一緒にいるだけで癒《いや》されるというか、救われることが少なくないのである。加部谷は、これを密かに、雨宮信教と呼んでいる。
今回、道具はすべて山吹のところにあった。どうして、バーベキューセットなんてものを彼が持っているのか理解に苦しむところだが、偶然それを見つけて、つい「バーベキューしましょうよ」と提案してしまったのである。
もちろん、そのときはもの凄く魅力的なイベントだと彼女は確信していた。計画も準備も楽しかったし、雨宮と二人で食材を買いにいったときもわくわくした。場所は、雨宮の家のすぐ近くに決まった。大きな川の堤防の内側だ。そして、いつものメンバである。もしかして、このいつものメンバが悪いのかもしれない。天気が急に曇ってきたのと同時に、加部谷の気持ちも萎《しぼ》んできた。なにも、こんなところで食べなくても、室内でするとか、あるいは、同じお金を出すなら、ファミレスへでも行った方が良くなかったか、という冷静な評価が突然、彼女を支配し始めたのだ。ただ、自分で言いだしたことだけに、ここは我慢をしなければならない。なんとか場を盛り上げなければ……。そう思えば思うほど、つまらなくなってくるから不思議だ。もはや、完全に冷めてしまった。
けれども、人生、これくらいの我慢は必要だ。
海月及介以外は。
「バーベキューって、ベジタリアンの人はどうするのかな?」加部谷は話題を思いついた。話が途切れると、息苦しくなる。
「しないんじゃない?」雨宮が素っ気なく言う。
「野菜を焼いて食べたらいいじゃん」山吹はついに肉の袋を取り出した。「さあて、そろそろ肉を焼くよ」
「おう、喰うぞ喰うぞぉ」雨宮が、箸を持った手を顔の前に立てて妙なポーズを取った。忍法のつもりだろうか。
「あのさ、海月君?」加部谷は読書家の彼を呼ぶ。「そろそろ、こっちへおいでになりませんこと」
海月は黙って立ち上がり、山吹の隣に腰を下ろした。こういう一つ一つの動作が、音もなく息の乱れもなく行われることが、彼の特徴の一つである。特徴はほかにも沢山あるが、どの特徴も彼を目立たせない方向性のものだった。目立たないことが彼のトータル・コンセプトかもしれない。
肉が焼ける香りで、ようやく多少は背筋が伸びてきた加部谷である。
「お肉を食べるときって、やっぱり牛さんが可哀相だなって、思わない?」加部谷は言う。
「思わん思わん」雨宮が首を振る。
「そう? うーん、まあ、私も、十回に一回くらいだけれど」
「そういう議論は、よくあるね。繰り返されている」山吹が冷静な口調で言う。
「山吹さんは、どう処理しているんですか?」加部谷は尋ねた。
「いや、どうも」山吹は首を傾げて、口を斜めにした。「肉は食べちゃいけないっていう理由は、僕には、そんなに説得力がないよ」
「だけど、人間の肉は食べちゃ駄目じゃないですか」
「おいおい、これから食べようってときにな」雨宮が横で声を上げる。「これは牛肉だでね、心配せんでも……」
「でも、臓器移植なんかは認められてますよね。死んだ人の一部を生きている人のために活かすことは、今のところ良いことだと認識されているわけじゃないですか。だったら、ねぇ?」加部谷は雨宮の顔を見た。
黙って、雨宮に睨《にら》み返される。
肉が焼けたので、最初の一枚を食べた。
「うわぁ、美味《おい》しい! やるじゃないですか。さすがですね」
「いや、誰のおかげでもないと思うよ」山吹が軽く言う。
「海月君、さあ、食べて食べて。もしかして、よぉく焼けないと食べられなかったりして?」
海月は黙って肉に箸を伸ばす。
「でもね、最初に牛を食べた人って、ちょっと問題じゃないですか? 牛は家畜だったわけでしょう?」加部谷は言った。
「最初に牛を食べた人は、死んだと思うよ」山吹が言う。
「え、どうして?」雨宮がびっくりして尋ねた。
「そんなに驚かなくても……」山吹が鼻から息を吐く。「だって、ずっと昔のことだからさ」
「え?」雨宮が首を捻っている。
「山吹さん、駄目ですよ、そういう意地悪をしちゃ」加部谷は言った。「食べようと思ったわけじゃなくて、えっと、ほら、火事になってしまって、牛舎が燃えちゃったんですね。そうしたら、なんだか良い匂いがしたとか……。あと、煙で燻《いぶ》されて、薫製もできたりとか」
「燃えたら、黒こげだろうが」雨宮が言う。「あのさ、違う話をしようぜ。頼むわぁ」
しゃべりながらも、つぎつぎと焼けた肉を四人は食べている。海月も黙々と食べた。野菜もようやく焼けてきたし、ソーセージも良い感じになっている。
「あ、お芋、もう食べられるみたい」加部谷はサツマイモに箸を突き刺してから言った。「おお、良いなあ、バーベキュー。うん、ちょっと見直してきたり」
「お酒がないっていうのが、多少もの足りないかな」雨宮が言う。「健全だけど」
「それは次回ということで」山吹が簡単に言う。
「美味しいなぁ」加部谷は満足の溜息をもらす。「ああ、気持ち良い。幸せかも。ね、ね、海月君、なんか言いなさいよ」
「ソイレント・グリーンっていう映画があった」海月が言った。
「え、何?」
「このまえ、ビデオをさ、海月と一緒に観たんだよ」山吹が話す。「昔の映画でね、なんか、あんまり盛り上がらなかったような……」
「どんな映画ですか?」加部谷はきく。
「いや、観てない人に話せないよ。いつか観るかもしれないから」山吹は首をふった。「えっと、ようするに、二十一世紀なのかな、未来が舞台でさ、人口増加で食糧難になっていて……」
「あ、だいたいわかりました」加部谷は頷く。彼女は海月の顔を見た。「へえ、それで、その映画のことで、何が言いたいわけ?」
「捕鯨についても、攻撃的な非難を受けている」海月が言った。
「ホゲイ? ああ、鯨《くじら》かぁ、そうだね、あれも、ちょっとよくわからないけど」
「牛か、鯨か、人間か」海月は言った。こちらを見ない。無表情な彼の顔を加部谷は観察している。
「いや、人間は、違うだろう」山吹が言った。
「なんか、麻痺してこん?」雨宮が加部谷に囁《ささや》いた。「このチームはな、うーん、いっつも変な問題意識を持っとる気がする。少なくとも、加部谷が原因ではないな」
「私じゃないよ、絶対に」加部谷は海月の方を目で示した。「たぶん……」
雨宮もそちらを見てから、うんうんと頷く。
その後も順調に肉も野菜も高温で酸化した。食肉がテーマの話はそれ以上の進展はなかったものの、そのあと、最近テレビでよく取り上げられている食品の安全性の話題になった。遠い異国で生産されているから、どんなものが混入していてもわからないのではないか、という不安は加部谷も抱いていたところだ。
「食品だけじゃないでね。いろんなものに危険が潜んどるし、そういうのをまた悪用する人間がいるんだがね」雨宮が言う。「ほら、あれ、昨日のニュースだったか、目薬のやつ、見た?」
「目薬?」加部谷はきいた。「知らない、それ」
「どんなの?」山吹も知らないようだ。
「どこだったかなぁ、関西の方だったと思うけど」雨宮が説明する。「あんね、目薬をさしたら、中身が塩酸だか硫酸だかの劇薬で、えらい騒ぎになったんですよ」
「誰がそんなもの入れたの?」加部谷は尋ねる。
「さあ、それは知らんわ」雨宮が首をふる。「まだ犯人は見つかってないんじゃない? 少なくともメーカは否定しとるわね。いちおう回収して調べとるみたいだけど、ほかにはそういう不良品はなかったって」
「ふうん……、目薬かぁ、それは、怖いなあ」加部谷はソーセージを箸に取りながら言った。「目薬って、中身を確かめないもんね」
「そうそう、匂いなんかも嗅がんしね」
「それさ、その目薬自体は、証拠品として検査をされたのかな?」山吹がきいた。「劇薬って何だったの? 目は大丈夫だったわけ?」
「いえ、詳しいことは知りません」雨宮が高い声で答える。先輩となると口調が変わるのである。「病院へ運ばれて治療中だって、言っていたような……」
「その被害者が狙われたのか……」山吹が話す。「それとも、薬局で売られているときに、既に劇薬が入っていたのか」
「あんな細い口から、入れられるかな、簡単に」雨宮は加部谷の顔を見ながら言った。「スポイトとか注射器とかでやるわけ? だけど、すぐに棚に戻しとかないかんでしょう? 無理だよねぇ、お店でそんなことするの」
「いや、そうじゃなくて、箱ごと置いたんだよ」山吹が言った。「その店で事前に一つ買っておいて、劇薬を入れたものを、またその店の棚に戻しておく」
「どうして、その店で買わなきゃいけないんです?」加部谷は質問した。
「値札とかで、区別がつくかもしれないからさ」山吹が簡単に答える。「まだ、みんな、食べられる?」
山吹は、海月に尋ねたようだった。海月は無言で頷く。山吹は新しい袋から肉を出し始める。
「なるほどなあ」雨宮が難しい顔で頷いた。「そうかぁ、そう考えると、わりと簡単にできそう。でも、怖いなあ」
「純ちゃん、目薬するの?」加部谷はきいてみた。
「いや、普段はしんよ、そんなもん」
「だったら、怖くないじゃん」
「そう、それがな、今、バイトで目薬さしとるんだがね」
「バイトで?」
「今度、詳しく話したげるわ」
「バイトでって……」加部谷は言葉を呑み込んだ。何だろう、目が疲れるような仕事っていうと、パソコンの画面を見続けるようなものだろうか……。
「でも、死角というか、盲点だったわぁ」雨宮はまだ真剣な表情である。「その手があったのか、というのか。な、そう思わん? なんか、犯罪っていうんは、次から次と、ようこんなもん考えるわって思うなあ。感心する」
「迷惑だよね」山吹が言う。
雨宮の感心のし方が、少々オーバな気もした。べつに、雨宮純に挑戦して行われた一連の犯罪とは思えないからだ。しかし、加部谷は黙っていた。新しい肉が網の上で良い感じに焼けていたからだ。
「なんとなく、この頃さ、わけのわからん事件が多いじゃん」雨宮が肉を取りながら言った。彼女はそれを口の中へ運ぶ。「おお、美味《うま》いわ、これ……」にっこり微笑《ほほえ》む。「ほんでな、もう相手は誰でもいいって、そういうのばっかだろ? 誰でもいいから殺したいとか……。誰でもいいって、何なの? そういうのってありかって、思わん? なんか、世も末という気がしいへん?」
「うーん、そのわりには、みんな安穏《あんのん》としているんじゃない?」加部谷は言う。「たとえば、私たちはどう? こんな美味しいものを食べているわけだし」
「わからんぞう、この肉にも劇薬が入っていて、あと数分後に、のたうち回っているかも」雨宮が低い声で言った。「若者四人が川原で死んでいた、みたいなことになったりして」
「なんの恨みもないのに、人を傷つけたり、殺したりっていうのは、防ぎようがないから怖いよね」山吹が淡々とした口調で話した。「恨みを買わないように生きている善人が、偶然で被害に遭うわけだから、そこが、世間にアピールするっていうか、大勢の同情を誘うわけだ。なんとなく、そういうエンタテインメントに思えてしまうくらいだね」
「エンタテインメントっていうのは……」加部谷が指摘する。
「言葉にするとどぎついかな」山吹は微笑んだ。
「その理屈って、恨みがあった場合は、ある程度は被害者本人にも責任があるから、しかたがないってことですか?」加部谷は尋ねた。「でもですね、恨みだって、勝手に妄想して大きくなる恨みだってありますよね。思いっきり勘違いで、勝手にきれたりする人って、いるじゃないですか」
「まあねぇ……」山吹は頷く。「とにかく、基本的に、犯罪を実行するっていうのは、本人は捨て身なんだよね。もし、本人が正常な判断をしているならば、だけれど……。ということは、捨てても良い人生だったわけだから、やっぱりもともと幸せな生活はしていない、ようするに自分の人生に不満があったわけだね。こういうのを防ごうと思ったら、できるだけみんなの生活が豊かになって、ちゃんと食べられるし、着られるし、不足なく寝られる、というような条件を整えるしかないと思うんだ。そういう整備された社会になるほど、動機のある犯罪は減少するはずだよね。ただ、そのかわりというか、そういった動機ではない犯罪が元から存在していて、そちらは社会が豊かになっても減らないわけだから、相対的に目立ってくる。つまりそれが、最近の傾向なんじゃないかな」
「ああ、なんか、説得力ありますね、さすがに」加部谷は感心する。「動機がない変な事件が起こるのは、社会が整備され、豊かになったからだっていう理屈ですね?」
「動機がないっていうのが、私、わからん」雨宮が言った。「面白いからとか、むしゃくしゃしたからとか、そういうのもいちおう動機なんじゃないですか」
「うん、そう言われてみればそうだけれど」山吹は海月を見てきいた。「海月、どう?」
「もういい」海月が言葉を発した。
「え?」加部谷は首を傾げる。「どうしたの?」
「いや、もう食べた」海月は皿と箸を地面に置いた。
「えっと、あの、そういうことじゃなくてぇ」
「動機があるかないか、動機が納得のいくものかいかないものか、というのは、単なる分析の手法の差にすぎない」海月が淡々と話した。「朝になると目が覚める。それは、どうしてなのか? もう寝るのが嫌になったのか? それとも太陽が見たかったのか? そんな分析するのと同じだ」
「難しいこというよね、いきなり」加部谷は微笑んだ。海月が口をきくだけで彼女は嬉しくなる。「じゃあさ、さっきのぉ、えっと、恨みや不満がある対象に向けられた犯罪と、そうじゃなくて、相手は誰でも良いっていう犯罪は、動機としては違いはない、ということになる?」
「両者の違いは、正当化しようとする意志の有無だ」海月は言う。
「正当化? 正当化しようとする意志?」加部谷は考える。「ああ、つまり、自分の行為を正当化できるかどうか、正当化するつもりがあるかどうかってことだよね。そうか、恨みがある場合は、いちおう、そのために殺したんだっていう理由があるわけね、自分としては、正当化できると考えているんだ。正義があると考えているんだ」
「でもさ、無差別殺人だって、なんらかの正当化がなされようとしていたのかもしれないだろ?」山吹が反論した。「社会の浄化のためだとか、注目を集めることで大事なメッセージが伝えられるとかさ」
「それも、分析の一手法だ」海月は頷いた。
沈黙。
「あれ? 話はもうお終い?」加部谷は海月に尋ねた。
彼は無言で頷き、そして立ち上がった。
「あ、私、まだ食べてるから」雨宮が囁いた。
[#改ページ]
第1章 さまざまちらほら
[#ここから5字下げ]
ああ、思慮のたりない心の過誤《あやまち》、頑《かたくな》な、死をもたらした過誤だった、――ああ、お前らは、同じ血を分けた殺害者《ころして》と殺された者をいま見るのだ。何という不吉を私の思慮が生んだか、ああ、息子よ、まだ若いのに、若死をしたお前、ああ、お前が死んだのも、この世を去ったのも、みな、お前ではない、私の思慮の浅はかからだ。
[#ここで字下げ終わり]
矢場香瑠がその男の顔を殴った瞬間を私は見ていた。そして、その映像は私の目に焼き付き、その後も、何度も繰り返し、鮮明に再生することができた。
そのとき、私はアスファルトの道路に尻餅をついていた。どうしてそんな姿勢になったのか、いったい何があったのか、と落ち着いて思い出せるようになったのは、ずっとあとになってからのことだった。
このときは、とにかく信じられないくらい心臓が大きく、痛いくらい鼓動して、自分の声が夢の中にいるように空虚な泡の音に変わった。力は抜けてしまい、ちっとも動けなかった。まるで水中にいるみたいに、音も動きも遅かった。
男はベージュの作業服みたいなものを着て、サンダルを履《は》いていた。この季節なのに靴下も履いていない。私に掴《つか》みかかろうとしたとき、その手が毛深いことを私は観察できた。変な声を発したけれど、言葉としては理解できなかった。私は後ろへ下がって、そのまま倒れたのだと思う。そこへ覆《おお》い被《かぶ》さるように男が私に近づいた。私は声を上げなければ、と考えたはず。でも、息が出ない。力が入らない。逃げることさえできなかった。抵抗したら、もっと酷いことになりそうな予感もあった。
ところが、男はつんのめるような姿勢になったあと、私の頭の上を飛び越えた。代わりに私の前に立っていたのが、矢場香瑠だったのだ。
私は咄嗟に横へ身を引いた。男が立ち上がったところへ、彼女は近づき、軽い感じで腕を突き出した。男は躰を折り曲げるようにして、もう一度後方へ倒れ込み、低い呻《うめ》き声を上げた。私は、人が人を殴るところを初めて見た。テレビのボクシングや、ドラマでなら見たことがあったけれど、実際に目の前でそんなシーンを目撃したことはなかったのだ。
男は驚いた顔というのか、苦しそうな、泣きそうな顔をしていた。目の焦点が定まらず、私を睨んだのか、彼女を見ているのか、どちらなのかわからなかった。それから、男は黙って立ち上がった。どうなるのか、と私は本当に怖かった。でも、そのまま彼は立ち去ったのだ。顔に片手を当てていた。走るわけでもなく、普通の速度で歩いていった。幾度かこちらを振り返った。彼の姿は、坂道を下り、池のある公園の林の中へ消えた。
「大丈夫?」それが彼女の初めての言葉だった。
「ありがとうございます」私は自分の力で立ち上がった。「あの、ええ、大丈夫です。なんともありません。警察を呼んだ方が良いでしょうか?」
「どうかな……。なんともないのなら、べつにいいんじゃない?」彼女は白い歯を見せて笑った。
「あの、東寺荘《とうじそう》の、えっと、ログハウスにいらっしゃる方ですよね?」私は思い切って話した。もちろん、私には最初から彼女だとわかっていたからだ。
「え、あれ? どうして知っているの?」
私はほんの少しだけ落胆した。何度か顔を合わせていたから、私は彼女のことをよく知っているつもりだった。でも、彼女は私には見覚えがなかったのだ。もちろん、印象に残らないのは、私がそういう人間だからで、彼女の責任ではない。原因は私にある。
話をしながら歩いた。彼女は公園でトレーニングをしてから帰る途中だったという。何のトレーニングかと尋ねると、それは内緒だと言う。子供のような笑顔で、そう言ったので、私まで笑えてしまった。たぶん、空手かボクシングか、そういった格闘技系なのだろう。男を撃退したときのパンチは、本当に自然に軽い感じで繰り出されたものだった。
あとになって、目に焼きついた映像を分析した結果だ。それは左手だった。曲げられた右腕がその次の出番を待っていた。むしろ、そちらが主力なのだ。しかし、男があっけなく倒れたために、彼女の右腕はしばらくの間、エネルギィを蓄えたままじっと待っていた。その拳が緩められ、エネルギィが解放されるのを、私は見ていた。その手に触れたいと思ったほどだった。私は、このとき、もう彼女の虜《とりこ》になっていたのかもしれない。素晴らしい人の形に見えた。女性として美しいというのを越えて、人間として美しいと感じられたのだ。
土曜日だったから、会社は休みだった。私は彼女にお礼がしたかったから、部屋へ招いてお茶を出した。ちょうど、実家から送られてきたフルーツケーキがあった。彼女は大袈裟に喜んで、それを三つも食べた。四つ出したうちの三つだった。私が一つを食べた。よほどフルーツケーキが好物なのだろう、と私は思った。でも、これもあとでわかったことだけれど、彼女はとても貧乏で、好きなものを充分に食べていなかったのだ。外見からはそんなことまではまったくわからない。着ているものも綺麗だし、お洒落なスニーカを履いていた。尋ねたら、それはもらったものだと答えた。
「私の生活って、うーん、友達の善意で成り立っているっていうか、うん、まあ、そんな感じね」と香瑠は笑いながら話す。「みんなに感謝する日々だよ、本当に」
化粧もほとんどしていない。化粧品なんて買えないのだろう。けれども、彼女は充分に魅力的だった。髪はロングのストレート。それを後ろで簡単に縛っていた。いつも同じ、黄色いリボンだった。
それから、私は一つの使命を自分に対して課すことになった。彼女が「善意」と言ったものだ。
私は、彼女にできるかぎりの援助をした。食べものや着るものを彼女のために買った。現金を渡したことも何度かある。こちらから渡すのは失礼に当たるのでは、と最初は控えていたのだが、なにかを買って持っていくたびに、彼女が自分で好きなものを選べる方がずっと良いだろう、と悩んだ。だから、彼女の方から、お金を貸してほしいと頼まれたときには、むしろ嬉しかった。返さなくて良いから、とはっきり言ったくらいだ。私は、彼女と関わりを持ちたかった。できるかぎり、彼女の生活に近づきたかった。私が彼女の役に立っている、少しでも彼女の生活を支えている、と思えることが幸せだった。
私には、ほんの少しの貯金があるだけだったけれど、給料を受け取る身分になっていたし、贅沢をするようなこともないから、月給の半分ほどで生活ができてしまうのだ。だから、彼女への援助もほとんど負担にはならなかった。勤め始めた当初は、しっかり貯金をして将来に備えようと考えていたのだけれど、そんな予定のない漠然とした将来よりも、私の前に現れた美しい友人の方が大切だと思えたし、その投資は、私の人生にとっても有意義だと思えた。そう、今までの自分の人生で、香瑠との関係は最も有意義な時間となった、と私は確信していた。
朝のジョギングは、彼女と一緒に出かけることにした。最初のうちは、彼女は私の護衛をするためだと言った。
「それくらいしかさ、私ができることってないからね」という香瑠の言葉が、私は泣きたいくらい嬉しかった。
私たちは池のある公園まで一緒に走る。そこのベンチで私が休憩をしている間も、彼女はストレッチを続けている。やはり、格闘技の型のようなものにも見えた。私が「それは空手?」と尋ねると、「うーん、何だろう」というのが彼女の答だった。つまり、習っているというものではなく、おそらく自己流なのだろう、と私は解釈した。お金がないのだから、習い事などできるはずがない。
それでも、香瑠はときどきは仕事をしているようだった。そんな話ができるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。きいてみると、工事のときの交通整理のバイトらしい。借りものだという紺色の制服を見せてくれたこともあった。ヘルメットを被って、排気ガスの中に一日立っている危険な仕事だ。どうしてそんな仕事を彼女がしなければならないのか? 私は尋ねたかったけれど、それを口にすることは彼女に失礼かもしれない、と思って黙っていた。
仕事がないとき、普段の香瑠は、何をしているのだろう。私は昼間は仕事に出かけてしまうのでわからない。休日の昼間には、早朝と夕方のトレーニング以外は、たいていログハウスの中にいる。いつ訪ねていっても、特になにをしているふうでもない。掃除や洗濯や料理といった家事をしているところは見たことがない。テレビはないし、音楽を鳴らすような電化製品もないのだ。彼女の部屋で書籍を見かけたこともない。新聞は、梱包に使うような古新聞があるだけで、読んでいるところを見たことはない。
そう、書き忘れていた。香瑠のログハウスに最初に入ったとき、まず感じたことは、部屋の香りだった。とても良い匂いがしたのだ。それは彼女の躰からもときどき感じられる。香水のようにはっきりとしたものではない。もっと軟らかく、微《かす》かなものだけれど、しかし、もちろん気のせいとか偶然とかではない。これも、あとになってわかったことだけれど、その香りは彼女自身が調合したものだという。あるとき、棚の中を見せてくれた。いろいろな形の小さなガラス瓶が沢山並んでいた。
「香水?」私は尋ねた。
「うん、まあね。エッセンスというか」
「アロマセラピィが趣味なの? ああ、だから、この部屋、いつも良い匂いがしているのね」
「まえにそういう仕事をしていたことがあって、そのときにもらってきたものばかり。一生分あるかもね」
「へえ、凄いなあ」
「なんか、今度、作っておいてあげようか?」
「え、私に?」私は思わず躰を弾《はず》ませてしまった。「嬉しい。あ、でも、私、その……、あまり、香りの強いものは苦手な方だから、大丈夫かな」
「うん、それはわかる。だいたい、その人の匂いとか、部屋の匂いとかで、わかるものだよ」
「香水が苦手だってことが?」
「そう。大丈夫、ちゃんと、合ったものが作れると思う。駄目だったら、また修正すれば良いだけのことだから」
「へえ、凄いなあ、そんなことができるのね。私の匂いとか、部屋の匂いって、えっと、そんなに感じられた?」
「うん、私って、鼻が良い人なんだ。犬並みっていうか」彼女は笑った。「だから、その仕事をしていたんだけれど……。でも、貴女も、鼻は良い方だね。だって、私の部屋の匂いに気づいたわけだから。普通、気づかない人が多いと思うよ、このレベルだとね。鼻が良いから、強い匂いが苦手になるんだよ。敏感だからさ」
「ああ、そうかも」
香瑠の部屋は、微かに良い香りがしている。食べものの匂いがしていたことはない。だから、キッチンで料理を作ったりはしていないことがわかった。それから、変な話だが、香瑠以外の人間の匂いもしたことがなかった。ここへは、きっと誰も訪ねてこないのではないか、と私は思った。少なくとも私は、そういう人物を見かけたことは一度もない。
赤柳初朗《あかやなぎはつろう》は、ケーキが入った箱のような白い壁に囲まれた会議室に案内され、制服の若い女性が運んできてくれたお茶を飲みながら、一人そこで待っていた。窓にはブラインドが下りている。立ち上がって隙間に指を入れて外を見ると、輝かしい緑の芝が広がる中庭があり、工場のような建物の平面的な壁が取り囲んでいた。窓が少なく、やはりケーキの箱を連想させた。ただし、バニラの香りではなく、ほんの微かに消毒薬の匂いがした。そんな気がする。もちろん、気のせいかもしれない。
茶色いソフトスーツを着た長身の男が現れた。髪はまだ豊かで、縁の細いメガネをかけている。五十代だろうか。自分よりは若いかもしれない、と赤柳は思った。
「あ、どうも、北沢《きたざわ》と申します」男はそう言いながら名刺を差し出した。
「赤柳です。よろしくお願いいたします」
簡単な自己紹介を終わり、さらに簡単な季節の話を二、三交わした。赤柳は、ここへ来るのは初めてで、電話で聞いた話では、昔の知り合いを通じて赤柳のことを知った、という。極秘の依頼であることはまちがいない。しかし、その昔の知り合いの話題は出なかった。北沢|賢太郎《けんたろう》はTTK製薬株式会社・営業部の部長という肩書きである。
「実は、当社の商品の一部が、最近話題になっていまして、ご存じだと思いますが、目薬です。異物が混入されていて、被害に遭われた方が一名出ています」
「神戸でしたね」
「幸い、処置が適切で、失明といった最悪の事態にはなりませんでしたので、ほっとしているところです。ただ今、全社を挙げて商品の回収と、調査を行っています」
「大変なことですね」赤柳は相槌を打った。しかし、いったい自分はどんな仕事を依頼されるのだろう、と考えていた。まさか、そんな大掛かりな調査ではあるまい。個人の探偵を呼びつけたのは、なにかもっとプライベートなものか、警察に関わられることを避けたいレベルの不確かなものか、あるいは、特定の個人には知られたくない類《たぐい》の情報収集行為か、そんなところだろう。
「既に、この件につきましては、大勢の人間が各方面から調べております。が、今のところ、異常がある商品はほかには発見されておりません。楽観的な見方かもしれませんが、おそらく、その一つだけを狙ったもので、製造過程や運搬過程ですり替えられたものではない、具体的には、商店の棚に並んだあと、一度それを買って、異物混入後にまたこっそり店の棚に戻しにきた、という可能性が有力です」
「あるいは、被害者が買ったあとに、すり替えたのか。その場合は、その人だけを狙った犯行になります」赤柳は言った。それが最も可能性が高いと普通は考えるだろう、と思ったからだ。
「そう、当然ながら、その可能性が一番に疑われました。警察もまずはその方向で調べたようです。しかし、どうも可能性が薄い、というのが結論のようです。問題の目薬を、被害者は店で買ったあと、ずっと自分のバッグに入れていたのです。半日の間、それを持ち歩いていました。入れ替えるような機会は、まず考えられないし、もちろん、そういった痕跡も見つかりませんでした。そうなりますと、その人を狙ったものではなく、劇物入りのものとすり替えて商品棚に置いたのです。この場合は、被害者は誰でも良い、つまり動機は、我が社に対して、なんらかの恨みを持った人間が、販売を妨害しようとしてやったことだ、ということになる。理由はまったくわかりませんが、まあ、そう考えるのが筋だと私も思います」
「なにか、お心当たりが?」
「いえ、とんでもない。まったく、そんな、なんというのか、恨みを持たれるようなことはありません。少なくとも、そんなトラブルというんですか、聞いたこともありません。社内でも調査をしましたけれど、該当するようなものはありませんでした。ただ、まあ、人間、なにをどう考えるかは、わかりませんので、誤解があったり、あるいは、逆恨みのようなことがですね、もちろん、絶対になかったとはいえないとは思いますが……。とにかく、困った問題です。現在までに、なんの情報も得られていません。こちらとしても、手の打ちようがありません。はっきりいって、目薬というのは、それほど管理されている商品ではないのです。ええ、つまり、お客様が自由に手に取れるような棚に置かれていることが多いわけです。もともとが危険性があるようなものではありませんからね。それに、使用するときも、中身をいちいち確かめるようなことがない。容器の口が小さいから、匂いも感じにくいでしょう。異物が混入されていても、それに気づくのは、点眼したあとになります」
「そうですね、わざわざ確かめてからさすなんてことは、ないでしょうね。そういう意味では、犯人はなかなか良いところに目をつけた、といえるわけですな」赤柳は自分のジョークが面白かったので、つい笑ってしまったが、相手は表情を崩さなかったので、すぐに笑いを噛み殺した。
「ここからは、完全なオフレコにしていただきたいのですが、実は、三日ほどまえになります、もう一つ、同じ目薬で、異物が入ったものが発見されました」
「え? でも……」
「これは公表されておりません。警察も知らないことです」
「どうしてですか?」
「それを見つけたのは、我が社の社員でして、その、しかも、製造後、一定量をサンプルとして社内に保存しているのですが、見つかったのは、そのうちの一つだったのです」
「それは、しかし、問題ではありませんか? えっと、内緒にしておくのは、その、まずいでしょう? 世間に知れたら、大変なことになりますよね」
「それについては、現在も、議論中です。両方の意見があります。公表すべきか、それとも、しばらく内密にするのか。一番避けるべきことは、社会の混乱です」
「まあ、私ごときが口出しするようなことではありませんが」赤柳は顔をしかめた。「しかし、この頃の傾向として、やはり、黙っていると、問題が大きくなりませんかね?」
「はい、それはもちろん承知しています。ですから、可能なかぎり各方面へ手を尽くそうとしているのです」北沢はそこで溜息をついた。今まで気づかなかったが、相当疲労している表情に見えてきた。たしかに、苦境に立たされていることはまちがいないようだ。「赤柳さんに、調査を依頼したいのも、当然ながら、その、つまり社内で発見されたという件についてです。いかがでしょうか? ご協力をいただけるでしょうか?」
「もう少し、具体的に、お願いします」赤柳は座り直した。
「その問題の目薬を発見したのは、直里《すぐり》という男でして、さきほどうちの社員だと申しましたけれど、正確には、今は違います。研究開発部の主任研究員でしたが、今年の三月に退職し、現在はC大の工学部の准教授に就いております」
「ああ、C大ですか。近いですね」
「ええ、これまでにも、C大とは共同研究を幾つか行ってきました。直里自身も、六年まえに、C大の大学院に社会人として入学し、一昨年に、博士号も授与されています。ようやく、社に戻って、こちらの仕事に本腰を入れてくれると思っていたら、この始末です」
「え? この始末というのは?」
「ああ……、申し訳ありません、その、少々口は悪くなりますが、つまり、引き抜かれてしまったわけですね。金を出して育て上げた生え抜きの研究員ですからね。社にとっては、正直、大いに痛手になります。もちろん、本人としては、大学の先生の方が良いのは当たり前のことかもしれませんし、社会的に見ても、あるいは将来的に見ても、この方が良かったという結果になるのかもしれませんが……」
「工学部、とおっしゃいましたね。医学部か、薬学部ではないのですね?」
「あ、ええ、そうです。薬そのものの研究ではなく、測定技術に関するテーマで博士号を取りましたから。専門は、化学工学の分野になります」
「はあ、そうですか、私にはよくわかりませんが」
「まあ、とにかく、その直里なんですが、まだ、こちらでの研究も継続している立場なのです。課題が残っているわけでして、あと数年は、大学とこちらと両方で研究を進めることになると思われます。我が社としても、急に彼に抜けられたのでは仕事に支障がありますから、そういう話になったわけです」
話は、その直里|浩文《ひろふみ》という人物のディテールになった。異物混入目薬の事件が、赤柳に対する調査依頼にどう関係するのか、よくわからないまま北沢の話を聞くことになった。どうも、この北沢という人物は話が回りくどい、と赤柳は感じていた。きちんとした情報を伝えよう、という親切さは感じるものの、要点が定まっていないのだ。おそらく、彼自身の中でも、何が重要で、何が無駄なものなのか、見定めがついていない状況なのだろう。時間的余裕がないのか、あるいはそもそも彼にその能力が不足しているのか、いずれかだろう。
「直里が自分で、その目薬を使おうとして、気づいたというのです」北沢は話を続ける。「もう少しで目に入れるところだったと話していました。そこで、そのサンプルの管理をしている人間にも事情を聞くことになりました。担当者の名前は倉居《くらい》といいます。工場のラインから抜き取って、そこに保管するのが倉居の役目です。それだけをしているわけではありません。簡単な仕事ですので……。それでですね、社内で簡単な調査をしたところ、まず、この二人、つまり直里と倉居以外には、目薬を入れ替えるチャンスのある人物はいないことがわかりました。生産ラインはほとんど機械化されていますし、工場各所のビデオ映像も残っていました。いちおう、すべて確認をしています。異常なものは発見できなかった、という意味です」
「あの、いいですか? その、直里さんは、どうしてサンプルを自分で使おうとなさったのですか?」
「いや、それが……、ええ、おっしゃるとおりです」
「使うことが役目だったのですか?」
「いえ、違います。よくわかりませんが、初めてのことではなくて、ときどき、使いたくなったら、彼女のところへ行って……」
「彼女というのは?」
「あ……、倉居のことです。倉居に新しいものを出してもらって、直里は、数滴使っていたというのです」
「なにかの実験だった、ということではないですか? 自分自身の目を使って」
「いえ、そうではなかった、と聞いております。そもそも、そんな実験、意味がありません。その……」北沢はそこで一度息を吐いた。じっと赤柳を見据えるようにしてから、視線を逸らし、壁を見た。迷っているのだろうか。決断が必要だったかのように、小さく頷き、そして視線を戻すと、話を再開した。「ここからが、その、微妙な問題というのか、若干、プライベートな領域になると思われるのですが、どうも、その、彼ら二人は恋愛関係にある、という噂があるわけでして……、いえ、その、本人たちはそれを否定しておりますが、周りの同僚数人が、そう証言したのです」
「ああ、なるほど……」
「ですから、直里が、サンプル室へよく行っていることは、大勢が知っていました。目薬を試すのもです。単に彼女に会いたいためだったのでは、と言う社員もおりまして……。これは、単なる憶測になりますが、以前は二人が一緒のところを見かけたが、この頃はそれがない。直里が大学へ行ったこともあって、機会が減っただけかもしれませんが、まあ、その、別れたのではないか、という話も耳にしました」
「ほう……、となると、その女性が、もしかして、個人的な恨みを持って、直里さんを狙って、その目薬を用意した可能性もある、と考えているわけですね?」
「そうです。おっしゃるとおりです」北沢は少し微笑んだ。自分でそれを言葉にしなくて助かった、という表情に見えた。「はっきり申しまして、そう考えております。ですから、簡単に、この件を公表できない、と考えたわけです。これは、世間を騒がせている事件とは、また別のものであって、社内における小さな、お恥ずかしいトラブルかもしれない。その可能性が高いわけですから、無闇に発表してしまい、ことを複雑にしたくない、という考えがあるわけです。ご理解いただけるでしょうか?」
「なるほどなるほど。で、その周辺を、私に探れ、ということですか?」
「ええ、お願いしたいのは、まさに、そこです」
「どちらをですか?」
「できれば、両方を」
「なるほど。しかし、直里さんの方がやったという可能性は低いのではありませんか? せっかく新しい職場に移ったばかりだし、そんな馬鹿な真似を自作自演でするとは、ちょっと考えられません。理由というか、動機がありえない」
「ええ、それはそうかもしれません。ただですね、可能性として、いちおう、二人を調べていただきたいのです。もちろん、社として個別に聴き取り調査はいたしました。本人たちは当然、なにも知らないと話しています」
「入っていたのは、どんな劇物だったのですか?」
「希硫酸でした。目には入らず、顔と手に、少し触れたそうですが、薄いものでしたので、被害はありませんでした」
「目には、入れなかった?」
「そうです」
「よく、その、直里さんは、気づきましたね?」
「彼は専門ですので。落ちてくる寸前に、液体を見て、気づいたと話しています。それで、すんでのところで目に入れずに済んだわけです」
「色でわかったのですか?」
「違います。いずれも無色透明ですから。ただ、粘性が全然違いますので、出てくるときに、形でわかります」
「へえ……、それは専門家じゃないと、ちょっと気づかないでしょうね。なるほど、粘性ですか……」赤柳は感心した。「目に入っていたら危険でしたか?」
「ええ、まあ、すぐに洗えば、大丈夫だったかもしれません。しかし、普通の方だったら、対処が遅れるでしょうし、そうなれば危ないと思います」
「希硫酸は、普通どこにでもあるものですね?」
「はい、そうですね。それほど危険な薬品ではありません。濃度が高いものでも、わりと簡単に買うことが可能です。工業用に市販されていますし」
加部谷恵美は、薄暗い道を歩いていた。時刻は五時少しまえだ。午後ではない。午前である。普段は自転車を利用することが多いのだが、先日チェーンが故障して、自転車屋に見てもらったところ、部品を取り寄せる必要があると言われた。現在は、その連絡待ちの状態だ。
東の空は既に白んでいる。空気は清々しいほど涼しい。天然クーラのようだ。Tシャツだけでは寒い。今は薄いカーディガンを重ねていた。
彼女は工学部の建築学科の三年生である。建築設計製図の課題の締切が迫っていた。年に数回こういうプレッシャの日が設定されているのだ。締切にはまだ一週間以上あったけれど、ほとんど毎日徹夜をして、大学の製図室で作業を続けている。そして、朝方にこうしてアパートへ戻ることになる。大学の近くにアパートを借りたのは昨年のことだけれど、それ以前は、そのまま製図室で仮眠してから授業に出ていた。自室に帰ってシャワーが浴びられるだけでも生活環境は改善された、と評価しなければならないだろう。
今日は、二時限に大事な講義があるので、五時間後には再び大学へ戻る必要がある。仮眠できるとしても三時間ほどだ。しかし、その三時間は至福のときになるだろう、という甘い予感が既にあった。気分は全然悪くない。こういう生活は、彼女が夢見ている、ある種のドラマとアートの一部を含んだライフスタイルと矛盾しない。なんというのか、ハングリィであることで、生きている実感を持てる稀少な体験ともいえる。初めて徹夜したときも、無性にわくわくしたものである。一般的には不規則な生活と片づけられるかもしれないけれど、むしろ自分にはこの「乱れ」が向いているかもしれない、と思うのだった。
石垣の間を通るコンクリートの階段を、彼女は軽い足取りで下りていった。ここは最近見つけた近道である。お寺の敷地だろうか、その中を抜けて、墓地の端からこの階段になる。暗い時刻にはあまり通りたくない場所だけれど、心理的なデメリットよりも物理的なメリットの方が優先されるくらいには、彼女は知性、あるいは科学的思考力を持っているし、平均的に見ても、わりと合理的な人間だった。
とても静かだったから、自分の足音が異様に大きく聞こえた。まだ鳥も鳴いていない時刻。車の音も、人の声も、もちろん聞こえない。左手の石垣の上からは、大きな樹の枝が張り出して、空を覆い隠していた。だから、余計に暗かった。足許が見えない、というほどではないものの、黒い小動物が潜んでいるかもしれない、と想像するのに充分な暗闇が、あちらにもこちらにも、無数にできていた。
もの音がした。
がさがさっという、なにかが動く音だった。右手からだと思われた。石垣の上だろうか。加部谷は足を止めて、そちらを見る、というよりは、耳を澄ませた。
また音がした。
音はすぐ近くに思えた。息を止めて、聴覚に集中した。しかし、音はそのあとは続かない。
静寂が闇の空間に波紋のように広がった。彼女は呼吸を再開し、階段をそっと一段下りた。違う角度から見てみよう、と思ったからだ。しかし、なにも見えない。
石垣の上には、小さな樹木が並んだ柵がある。竹が紐で結ばれた構造が、少し先へ行くとあるが、今いる付近では、樹の枝が張り出していた。隙間はほとんどない。人間は通れないように思えた。その柵の向こうは、墓地の続きだろうか、少なくとも、お寺の敷地のはず。
別の音が聞こえた。
階段の一番下に、人間が現れた。その近くには常夜灯が光っていたので、その姿がよく見えた。ジャージか、スウェットスーツか、上下とも同じ白っぽい服装の人物だった。ジョギングでもしているようだ。
突然、すぐ横からなにかが飛び出してきた。
「ひっ」彼女はびっくりして、首を竦《すく》めた。同時に、階段を駆け下りる。
目の前を黒いものが横切り、反対側の石垣へ飛びついた。
立ち止まっていた。後退しようとして、尻餅をつく。
バランスを崩し、咄嗟に手を出す。しかし、踏ん張った足が滑って、躰が仰向けのまま、ステップを二段ほど滑り下りた。最後は頭の後ろを打って止まった。
「あ、ててて」思わず声が漏れる。
そのままの角度で、左の石垣の上が見えた。
猫がこちらを見ていた。目が黄緑に見えた。躰の色は、たぶん灰色。大きな猫だ。野良猫ではない、飼い猫だろう。綺麗な毛並みに見えた。
「やるかな、突然、そういうこと」加部谷は猫に恨みの言葉を吐いた。
しかし、まだ起き上がれない。ゆっくりと頭を持ち上げたところ、目の前に、人間が立っていた。
こちらの方が驚いた。
一瞬で躰が収縮したように感じる。
さきほど、階段の下にいた人物。女性だった。駆け上がってきたのだろうか。足音に気づかなかった。なんという素早さだろう。
「大丈夫?」女が顔を近づけてきた。
「あ、はい。あの猫が……」加部谷は指をさした。起き上がろうとする。「急に飛び出してくるから」
「びっくりしちゃったんだね」
「ええ、私が」
「猫の方もだよ」
「そんなことはないですよ。猫はずっとまえから、私のことは認識していたはずです」
目を丸くして彼女が、加部谷をじっと見据えた。なにか変なことを言っただろうか、と加部谷は心配になった。
起き上がって自分の躰をチェックすると、まず、靴が片方脱げていた。自分の躰を動かしたり触ったりして点検した。幸い、骨折などはなさそうだが、しかし、方々が痛かった。頭は大したことがなさそうだが、いちおう、その見知らぬ女に見てもらった。
「暗くてよくわからない」それが診断結果だった。
両手は擦り傷。でも嘗《な》めたら、血の味がした。臑《すね》にも傷がある。こちらは打撲の方が酷いかもしれない。今日にかぎってスカートだったのだ。
「下の公園に水道があるから」女が言った。「歩ける?」
「大丈夫です」と言ったものの、足は相当痛い。どんどん痛みが増している感じがした。
靴を履いて、二人で階段を下りていく。そこで道路を横断した反対側が池のある公園だ。ここはいつも眺めて通るだけで、加部谷は一度も入ったことがなかった。
水飲み場があり、別に下向きの水道の蛇口もあった。水を出して、脚の傷口を洗った。ハンカチで拭くと、うっすらと血で赤くなった。思ったよりも出血しているみたいだ。刺激のせいか、ちくちくと痛みが走った。思わず顔をしかめてしまう。
「ついてないなあ」溜息混じりに彼女は言った。
「家は近い?」女がきいた。「私の家、すぐそこだから、来なさい。消毒と包帯、したげるから」
「いえ、いいですよ、そんな」
「急ぐ用事でもあるの?」
「いいえ、それはないですけれど……」
有無を言わさない感じで、連れていかれた。
公園からほんの百メートルほどの距離だった。二階建てのアパートの横にログハウスが建っていた。広い庭が広がり、右手の奥には古風な日本家屋が見える。アパートか、それとも奥の立派な屋敷か、どちらかだろう、と思っていたら、なんと真っ直ぐ進み、ログハウスへ女は入っていく。ステップを上がり、ドアを開けた。鍵もかかっていないようだった。
加部谷も中に入った。微かな香りがした。何だろう、と考える。果物か。しかし、見渡したかぎり、それらしいものは見当たらなかった。植物さえない。部屋にはものが少なく、壁と床、そしてテーブルと椅子、すべてが木製で、同じような色調だった。綺麗すぎるのではないか、特に自分の部屋と比べたら、と思った。生活感がない。すっきりしすぎている。
「そこに座って」女は言った。ほとんど命令するような口調にも聞こえる。
加部谷が座って待っていると、キッチンの方へ行き、引出を開けて、中からものを取り出した。女は両手にいっぱい治療用具を持って戻ってきた。消毒液、脱脂綿、ガーゼ、絆創膏《ばんそうこう》、そして包帯、小さなハサミ。それらが、ケースに入っていたのなら、そのケースを持ってきたはずだ。
黙って、手際の良い治療を受けた。
いろいろ質問したいこともあったけれど、加部谷は我慢して黙っていた。傷は脚が一番酷かった。そこはガーゼを絆創膏でとめて、その上に包帯を捲《ま》いた。手の傷は、バンドエイドで充分だった。打撲がほかにもありそうだったが、痛いなんて言おうものなら、服を脱げと言われそうな気がしたので、黙っていることにした。
「はい、まあ、こんなところだ」女が言った。
「どうもありがとうございます」加部谷は頭を下げた。「本当に、どうもすみませんでした」
「あと、一言だけ。こんな時間に、若い女の子が一人であんなところを歩くっていうの、感心しないな」
「はい、すみません」そういう自分だって若い女性ではないか、と加部谷は思ったのだが、これも口にせず。
「出かけるところだったの? 学校じゃないし」女は加部谷をじっと見た。
「いえ、帰るところです。あの、大学から」
「大学? 貴女、大学生なの?」
「はい、いちおう」
「あ、そう……」ふっと吹き出して女は笑った、白い歯が見える。つられて加部谷も微笑んでしまった。「中学生かと思ったよ。あ、ごめんごめん、傷つかないでね、えっと、つまり、若いなって意味なんだからさ」
「いえ、もう、慣れていますから」
加部谷恵美が、矢場香瑠と知り合ったのはこんな経緯からだった。だから、矢場の印象は、灰色の大きな猫とだぶる。どこか類似した印象があったのだろうか。具体的にどこというわけではない。しいていえば、そう、目だろうか。たしかに、彼女の目は暗闇で光る猫のようだった。
数時間後、加部谷は大学の講義室に辿り着いた。もちろん、歩いてまた大学へ出てきた。足が痛くて、普段よりも時間がかかってしまった。雨宮純を発見し、その横の席に座った。
「うわ、どうしたの?」加部谷を見て、雨宮が目を丸くする。
「え? なんか変?」
「うん、変」雨宮は頷いた。「むっちゃ青い顔しとるし。疲れ切っとるし。だらだら汗かいとるじゃんか」
「ちょっとね……、怪我をしちゃってさ」加部谷は脚を見せる。しかし、ジーパンだったので、包帯の部分は一部しか見えない。
「いっつぅ? 帰るときに?」
「そう」
「転んで?」
「まあね。もう、とにかく、歩いてくるのがやっとだった」
「休めよ、そんなの」
「単位落としたくないもん」
「まったく、もう、何しとったの? おっちょこちょいだでいかんわぁ」
「そうなのだなあ。本当に」彼女は溜息をついた。
「電話くれたらさ、迎えにいったげたのに」
「ありがとう。じゃあ、帰りは頼もうかな」
「うんうん、もちろん」
それから、怪我をした理由を詳しく説明した。
「猫? なあんだぁ」
「馬鹿みたいでしょう?」
「痴漢とかじゃなくって良かったじゃん」
「知らない人に助けてもらったんだよ。ジョギングしてたみたい。なんか、さっぱりして、格好良くってさ、その人。家が近くで、包帯も捲いてもらっちゃった。あ、だから、帰りに、なにか買って、お礼にいかなくちゃいけないのだ」
「そりゃ、高くついたな」
「そんな問題じゃなくてね」
「それが縁で、恋人に発展するっていう期待もあるけど」
「違う。男じゃない。女の人」
「なんだ、女か。格好良くってなんて言うから」
「見たら、納得すると思うよ」
「へえ……、いや、絶対せんと思う」
教授が部屋に入ってきて、講義が始まったので、おしゃべりはそこまでとなった。力学の講義である。加部谷は半分以上の時間、意識を失っていた。加部谷だけではない。隣の雨宮も気持ちの良さそうな寝息を立てていたし、周囲でも、起きている者よりも、眠っている者の方が多かった。さらに、製図室で眠っていて、この講義に来られなかった者も数名いるだろう。製図の課題の締切間際になると、いつもこうなってしまう。講義の途中で、「なんだ、もしかして、製図の締切が近いのか?」などと、教授も苦笑いしていたくらいだ。
気力が不足した学生のためか、講義は定刻の十分まえに終了した。加部谷と雨宮は生協の食堂へ向かった。海月及介も同じ教室にいたので、途中で合流した。
「海月君、製図は大丈夫? やってるの?」加部谷はきいた。
製図室で最近、海月及介をあまり見かけない。彼女はずっとそれが心配だった。もっとも、別の場所で作業を進めている可能性はある。海月の場合、そんな可能性が大いにありえた。講義にも顔を出さないことが多いのだが、試験で彼が不合格になったことは、加部谷が知るかぎりない。先生の口調からも、海月は成績は良いみたいだ。レポートなどで相談をすると、必ず的確に教えてもらえる。どうも、大学の講義が彼には簡単すぎるのではないか、という噂がクラスには流れている。ただ、誰も、それを確かめることはできない。
海月は年齢が加部谷よりも三つ上だ。それは大学に入るまえに三年のブランクがあるからだった。東大でも目指して浪人をしていたのだろうか、と想像したことはあるが、しかし、海月ならば目指した大学にどこでも合格してしまうのではないか、と思えてしかたがない。
食堂は混雑するまえで、楽にテーブルに着くことができた。加部谷はチャーハン・ランチ。海月はカレーライス。雨宮は、B定食にライス大盛りだった。雨宮は見かけは細いが、もの凄い大食らいなのである。
「なんか、君な、痛々しいわぁ。いつもより、可愛く見えるぞ」雨宮が食べながら言った。
「ありがとう」加部谷は素直に頷く。
「弱っとるっちゅうのは、案外、いけてるな。俺もいっぺん、弱ったろかな」
「あぁあ、まだ痛いよう、触ると」加部谷は顔をしかめる。
「無理はしたらかんて」
「両手ともさ、こんなふうでしょう? 製図が描けるかしら」
「俺っちがバイトしてる先生、薬屋さんだから、夕方、なんかもらってきたげるわ」雨宮が箸を振りながら言った。
「あ、あの目薬の?」
このまえ、その話は聞いたばかりである。雨宮純は、化学工学科のある研究室でバイトをしているのだ。雨宮はそれを、「目薬をさすバイト」と説明していた。人体実験かと思ったが、そうではないらしい。工学部なので、薬自体ではなく、目薬の容器の開発に関する研究なのだ。だから、薬ではなく水を使っているとのこと。目薬をさして、そのさし心地を試す、という実験だという。そんな簡単なバイトがあるのか、と感心した加部谷だった。
「まだ、やってるの?」加部谷は尋ねた。
「うーん、毎日、十分だけな。十個くらい試すんだがね、そういうのが何日も続くわけよ。ほんだで、帰りにそこ寄ってくからさ」
「ふうん」
「わりと、先生が格好ええでね」
「あらま」
「えっとえっと、赴任したばかりで、なんか、うーん、大学の先生っぽくないところが新鮮でええんだがね」
「具体的に具体的に。どういうふうに?」
「たとえばぁ、言葉遣いが丁寧というか」
「へえ……、それだけ?」
「いや、まあ、その、見た目も」
「見た目も?」
「まあまあというか」
「まあまあ?」
「そこそこより、ワンランク上というか」
ちらりと、海月の顔を加部谷は見た。彼はこちらを見ていなかった。カレーは既に皿にはない。
「わ、もう食べたの?」
海月は頷きもせず、すっと立ち上がると、トレィを持って、向こうへ歩いていってしまった。食堂の入口付近に人が多い。レジには行列ができている。そろそろ食堂も混み合いそうだ。
「何考えとるんだ、あいつ」雨宮が呟いた。
「海月君?」
「うん、気持ち悪いわぁ」
「そうかな……、私は気にならないけれど」
「ほう」顎を上げ、横目で雨宮がこちらへ視線を送った。「それは、また、あらまね」
「あらまね?」
「あらまだがね」
午後はラッキィなことに、建築史の講義が休講になった。製図の締切が迫っていることを配慮しての処置ではないか、という推測がクラスに広がった。たしかに、加部谷はこのおかげで製図室で作業を進めることができたが、ほとんどの学生は、別のところへ行ってしまったようだ。
夕方に、一度帰宅して、夜にまた出直してこよう、というのが、加部谷の予定だった。雨宮も同じだという。二人は一緒に製図室を出た。まず、化学工学科へ寄り道をする。雨宮が、バイトはすぐに終わると話した。
加部谷には初めての高層研究棟の一室。消毒薬の匂いが仄かに漂っている。エレベータを降りて通路を奥へ歩く。雨宮はドアを開けて、勝手に部屋に入っていった。窓際にパソコンや測定器が並んでいて、学生ふうの若者が三人いた。男が二人、女が一人、全員白衣を着ている。
「こんにちはぁ」雨宮はいつもよりも高い声で挨拶をした。それから、加部谷の方を振り向いて、「ちょっと待っててね」などと可愛らしい口調で言うのだ。普段だったら、「ちょっと待っとれよ」なのに、と加部谷は思う。
雨宮は衝立《ついたて》の向こうへ消えた。しかたなく、加部谷はドアのそばに立って待つことにする。小さな声が聞こえた。雨宮は男性と話をしているようだった。
「今日は、ここから……、そう、ここまで」
「わかりました」
といったやりとり。しばらくすると、白衣の男性が、衝立から出てきて、加部谷の前まで来た。そこで初めて顔を上げた。それまで、手に持っているバインダの紙を見ながら歩いてきたのだ。
「あれ?」少し驚いた様子。「誰ですか?」
「あ、あの、雨宮さんの……」
「ああ、妹さん?」
「違います。同級です」加部谷は首をふった。似ていないだろう全然、と思いっきり思う。
「ごめんなさい。えっと、あちらの椅子に、どうぞ」男性はそう言うと、ドアから出ていってしまった。
加部谷は部屋の中央へ進み、言われたとおり、椅子に座ることにした。沢山の機械の中で、何なのかわかるものといえば、パソコンだけだった。雑然と積まれた書籍やファイルは、必ずしも研究用のものばかりではない。普通のファッション雑誌なども混ざっていたからだ。
「見た?」衝立から雨宮が顔を出して言った。
「何を?」加部谷はきき返す。
「先生だがね」これは声にはならなかった。指でドアの方を示し、口が人形のように動いただけだったが、加部谷には言葉として通じた。
「今の人なの? 見たけど」これも声は出さず、ジェスチャと表情に言葉をのせて発信したものだ。
雨宮は、そこで顔を非対称に歪《ゆが》ませる技を見せた。これは、さすがに意味がわからなかった。「だろう?」なのか、それとも、「どうだった?」くらいが順当なところだが、表情だけから素直に受け取るイメージは、「してやったり」だろうか。
雨宮は顔を引っ込めた。何をしているのか、見たい気持ちもあったけれど、いちおう衝立があって、その向こうにいるのだから、それなりに理由があるのだろう、と想像して加部谷は自粛した。大人しくしていよう。
またドアが開いて、さきほどの男性が入ってきた。今度は顔をしっかりと見ることができた。三十代だろうか。メガネをかけていて、髪は多少長め。白衣の襟元にはピンクに近い色のネクタイが覗いていた。彼は、加部谷の方を一瞥《いちべつ》したものの無言、前を通り過ぎ、立ち止まって、衝立の中を覗いてから、その向こうの壁にあるドアを開け、隣の部屋に入っていった。そちらが准教授の個室だろう、と想像した。加部谷がよく訪ねていく、国枝桃子《くにえだももこ》准教授の研究室も同じような配置になっているからだ。
まあ、格好悪いというほどではない。
たしかに、まあまあだ。
その准教授の名前を加部谷は思い出せなかった。このまえ、雨宮から聞いたはずである。変わった名前だったことだけは覚えているのだが。
十分ほど退屈な時間を過ごした。することがないので、携帯を取り出して、山吹にメールを送ってみた。
ただ今、純ちゃんと化学工学科の研究室にいます。純ちゃんが目薬をさしているみたいです。報告終わり。
数分後、山吹からリプラィがあった。
そんな報告しなくていいよ。
冷たいなあ、と思う。せめて、最後に絵文字でも入れてくれたら和《なご》むのに。これと一字一句同じリプラィが、過去にも二回あった。たぶん、辞書の上位に登録されているから、〈そ〉だけで簡単に出せるだろう。
ドアが開いて、また准教授が出てきた。
「どうです?」衝立の中に話しかけている。
「はい、特に、変わりありません」雨宮が余所行《よそい》きの声だ。ディズニー映画に出演しているみたいな声である。
二、三言葉を交わしたが、代名詞が多く、加部谷には意味がわからなかった。准教授は加部谷の方へ出てきた。
「君は、どこの学科ですか?」いきなりジェントルな声で質問される。
「あの、雨宮さんと同じです。建築学科です」
「へえ……、女性が多いのかな、建築は」
「はい。化工も、多いですよね」加部谷は答える。「先生にも女性の方がいらっしゃいますし」
「目薬を使いますか?」また質問だ。
「あ、いえ、私は……」加部谷は小さく首をふる。
「変な事件があったから、しばらくやめた方が良いしね」
「あ、そうですね」
「あの製品は、僕がまえに勤めていたメーカのもので、今も会社で大騒ぎになっている。大打撃だと思いますよ」
「そうだったんですか」雨宮が衝立から出てきた。「先生、終わりました」
「あ、どうもお疲れさま」准教授が振り返る。
「硫酸とかが、目に落ちてきたら、怖いですよねぇ」雨宮が言った。「そういう恐怖があるだけで、目薬をささなくなってしまいますよね」
「うん、というか、今の点眼方法しかないのか、という問題になりそうな気がする」彼はそう言って視線を窓の方へ向けた。
なるほど、そういえばそうだ、と加部谷は思った。彼女の場合、目薬をさすときに目が開けていられない。もっと違うやり方を開発してもらいたいものである。
雨宮が鞄を持ち、二人で頭を下げてから、研究室を出た。加部谷は閉まったドアの横のネームプレートをもう一度見た。
「そうそう、直里先生だ。名前が思い出せなくて、ずっと考えていたの」
「どう? ねえ、どうどう?」
「何が?」
「何言っとるの、君は」
「純ちゃんこそ、何言っているのよ」
「見せてやったのにぃ、おぼこいやっちゃなあぁ」
「おぼこいって、何よ」
「お子さまってこと」
「あ、純ちゃんの妹だって言われちゃったよ、はは。まいったな」
「まあ、だいたい、世間一般、姉妹の場合はさ、お姉さんの方が美人だでな」
「えっとぉ……、それ、口答えできないわ、お姉さん怖いし、口悪いし」
「妹なんか、普通、ぼっこぼっこにされるしな」
「意味わかんないし」
外はまだ明るいが、西の空が綺麗なオレンジ色に染まっていた。
「足はどう?」雨宮がきいた。「あ! しまった」彼女はそこで立ち止まった。「忘れとったがねぇ、ああ、馬鹿馬鹿馬鹿」
「どうしたの?」
「あんたの薬をもらうんだったんじゃん」
「あ、そうか」
「忘れとったがねぇ」
「私も忘れてた。いいよ、もう、あんまり痛くないし」
「ごめんなぁ」
「でも、送ってね」
「はいはい」
赤柳は、北沢部長から仕事の依頼を受けたあと、同じ建物の別のフロアへ行き、倉居|三重子《みえこ》を呼び出してもらった。階段の近くにソファが置かれたコーナがあり、そこで待っていると、薄いブルーの制服を着た若い女性が現れた。メガネをかけ、大人しそうな感じに見えた。
「倉居三重子さんですか?」
「はい……、あの、何のご用件でしょうか?」
「ほんの少しだけ、お話を伺いたいのです。お時間は取らせませんので」赤柳は彼女に座るように片手で促した。
彼女は、赤柳の対面に腰を下ろした。二人の間には、天板がガラスの低いテーブルが置かれている。赤柳はまずは名刺を差し出した。
「実は、私はこのTTK製薬から雇われて調査をしている者です。赤柳と申します」
「探偵……」小さな声で、彼女は名刺の文字を読み、それから顔を上げた。目を丸くして、赤柳を凝視した。おどおどした仕草といい、まるで高校生のように子供っぽかった。
「いえ、そんなに大したものではありません」赤柳は片手を広げた。「えっと、倉居さんは、ここに入社されて、どれくらいですか?」
「まだ数カ月です。入社したばかりです」
「ああ、そうなんですね。えっと、でも、目薬のサンプルの管理をなさっていると伺いましたが」
「はい、それも、一カ月半ほどまえからです。急にやれと言われたものですから」
「誰から、やれと言われたのですか?」
「部長です」
「部長というのは?」
「北沢部長です」
「ああ、北沢さんですね。彼が、貴女の上司になるわけですか?」
「いえ、よくわかりませんけれど、はい、その、上司の上司、だと思います」
「貴女になるまえは、どなたがそこの管理をされていたのですか?」
「えっと……、宮本《みやもと》さんという方らしいのですが、私は知りません。退社されたのです。急に結婚をされたとかで……」
「なるほど、それで貴女に代わったわけですね。あの、どうして、こんな質問をしているのか、わかりますね?」
「はい、直里先生が見つけられた目薬の件でしょうか? その調査をされているのですか?」
「そうです。私の立場をご説明しておきましょう。この会社から依頼はされていますが、私は独立した個人の探偵です。ですから、私が貴女から得た情報は、すべて依頼主に報告されるわけではありません。問題解決に関係がないと思われる情報は、私から外へは出ません。秘密を保持することが私たちの職業上の絶対的な倫理なのです」
「そうですか……。あの、でも、私はなにも、その、知りません」彼女は首をふった。「このまえも、上の人から、いろいろ質問をされたのですが、本当になにも知らないんです。まだ入社したばかりだというのに、こんなことになってしまって、本当に困っています」
「ええ、お気持ちはよくわかります。不愉快な思いをされましたか?」
「不愉快? あ、いえ、そんなことは……」
「直里さんについて、あらぬことをきかれませんでしたか? それについて、どう思われましたか?」
倉居は、そこで目を見開き、次に黙って下を向いてしまった。
「すみません。大丈夫ですか?」赤柳は慌てて声をかける。
倉居は無言のまま一度頷いた。
「直里さんとは、何度か会われているわけですね?」
倉居は顔を上げて、首をふった。
「いえ、そういう意味ではありません。あの、つまり、サンプルを使うために、直里先生が何度かいらっしゃいました。ですから、そこで会った、という意味です」
「何度くらいですか?」
「それは、はい、もう五、六回は」
「一カ月半の間に五、六回ですね? けっこう多いですね。貴女が担当になる以前にも、彼はサンプルを使うために、来ていたのでしょうか?」
「知りませんが、たぶん、うーん、たぶん、そうだと思います。そんな感じでした。直里先生が、そうされるのは、私、その、つまり、研究の一環だと思っていましたから」
「違うのですか?」
「このまえ、お聞きした話では、そうではないそうです」
「それは誰から聞いたのですか? 直里さん、ご本人から?」
「いえ、違います。その、上の方たちです」
「北沢さんとか?」
「はい。単に、直里先生は、自分のために使われているだけだと伺いました」
「でも、それも研究の一環かもしれませんからね」赤柳は微笑んだ。「沢山のものを試してみたい、でも、わざわざ一度だけ使うために、お金を払って買うのも無駄ですからね。そういった研究をされているのかもしれません」
「そのとおりです。私も、きっとそうだと思っていました」彼女の表情が少し明るくなった。「いえ、今もそう思っています」
「貴女から見てですね、直里さんは、どんな方ですか? そのぉ、印象というのか……」
「頭の良い方だな、というのが第一印象です。あとは、とても優しい方だと思います」
「そうですか」
「そんな、わざわざ劇物を入れて騒ぎを自演するなんてことは……」
「ありえないと?」
「絶対にないと思います。だって……、そんなことをしても、なんの得にもならないではありませんか」
「そうですね、メリットはないですね」
「ですから、私は、今回のことを、早く公表すべきだと思います。世間で起こっているのと同じ犯罪なのですから、警察に捜査を任せるべきです」
「なるほど。そうですか。まあ、会社としても、その判断を早くしたい、ということだとは思います」
「是非、そういうふうに言って下さい。そうでないと、もしかしたら、直里先生が、マスコミに直接伝えられるかもしれません。そんなことになると、もしかして会社との関係が悪くなるんじゃないかと心配しています」
「直里さんが、そんな話をされていたのですか?」
「いえ……、それは、その、私の想像です」
「わかりました。私はまだ、彼には会っていないのです。今から会いにいきますから、そこのところはしっかりと伺っておきましょう」
倉居は口を結んで頷いた。どことなく、秘めた決意のようなものが感じられる表情だった。見かけよりは、しっかりとしているかもしれないな、と赤柳は感じた。
礼を言い、赤柳は立ち上がった。
「また、後日、お話を伺うことがあるかと思います」
「はい、あの、私も、その……」倉居は口籠もった。「実は、ご相談したいことがあります」
「え? 何でしょうか。今、聞きましょうか」
「いえ、ここでは話せません」
「あ、では、仕事が終わってから、もう一度、お会いしましょう」
「でも、その、少し遅くなってしまいます」
「いや、そんなの全然かまいませんよ、私の方は」
「よろしいでしょうか?」
「はいはい、いつでもけっこうですよ」
時間と場所を約束して、彼女と別れ、赤柳は階段を下りた。
どうも、この依頼は難しい、と強く感じた。たぶん、二日後くらいに、これ以上はわからない、という飽和状態に達するような予感がした。
警察の知り合いから、この事件について情報を仕入れる必要がある。そのために、携帯電話のリストを探しながら、建物を出た。
一時間後には、赤柳はC大学のキャンパスを歩いていた。もう日が暮れたと表現しても良い時刻であるが、ほとんどの行動に必要な明るさはまだ地上に残っていた。
警察からは、なんの情報も得られなかった。地元の事件ではないので、しかたがないだろう。神戸で異物が混入された目薬が発見された。それだけである。被害者の女性は、既に退院しているらしい。大事にはなっていない。単なる悪戯《いたずら》だったのかもしれない。現在のところ、同類の事件は発生していなかった。製造元としても、このまま世間から忘れ去られることを一番望んでいるだろう。自社内で発生した取るに足らないトラブルを公表する気にはなれない、と考えるのは当然だ。このまま何事もなく時間が過ぎれば、まちがいなくそうなるはず。
電話をかけておいたので、直里准教授は研究室で待っていた。到着したのも、約束の時刻ぴったりだった。
挨拶を交わしたあと、テーブルの両側で向き合って椅子に座った。しかし、話を始めようとしたときに、デスクの電話が鳴り、三分ほど待たされた。壁際に段ボール箱が十数個積まれていて、まだこちらへ赴任をして間もないこと、整理をする暇もない、そんな忙しさが伝わってくる光景だった。
「どうも、失礼いたしました」溜息をつきながら、直里は戻ってきた。「大学というのは、本当に忙しい職場なんですね。会社とは大違いですよ。誰も手伝ってくれる人間がいません。休日もないし、勤務時間なんてあってないようなものですから」
「お忙しいところをすみません」
「いえいえ、けっこうですよ。大事なことですからね」
「ええ、大事だと思います。TTK製薬にとって」赤柳は言った。
「そう、会社にとってですね」直里は頷いた。「世間では、まだそれほど認知されていません」
「単刀直入にお伺いします。お気を悪くされないようにお願い申し上げます」
「なんでもきいて下さい」
「倉居さんとは、どのようなご関係でしょうか?」
「ああ、彼女ですね……。うーんと、よく知っていますよ。でも、それだけです」
「会社以外で会われたことは?」
「一度もありません」
「お話をされたことは?」
「たとえば、社員食堂で一緒になったことさえありませんね。昼食くらい、一度誘ってみたいなと思ったことはありますが、きっと簡単に断られたでしょう。大人しい感じの新人です。ほとんど、話したことはありません。そう、世間話をしたことも、たぶんないですね」
「サンプルの目薬を使われている理由は?」
「向こうの研究室で仕事をしていて、目が疲れたときは、あそこへ行って、製品確認も兼ねて、自分で試す習慣なんです」直里は微笑み、肩を竦めるような仕草をみせた。「研究室とわりと近かったし、それに無料ですしね」
「そうしたら、異常のあるものが見つかった……?」
「ええ、危なかったですよ、実際」真剣な表情になり、彼は幾度か頷いた。「もう少しで目に入れるところでした。まず感じたのは、ちょっと量が少ないな、ということでした。未使用品ばかりがあるわけですから、変ですよね。それから、出てきた液の、その、形が違いました」
「形というのは?」
「容器の口から出てきて、下に向かって液体が膨《ふく》らみますね。その形状が粘性によって異なります」
「なるほど。それで異常を感じたわけですね?」
「ええ、それに、自社製品であんな事件があったあとですからね。普段でしたら、気づかなかったかもしれません」
「どこで、混入したものだとお考えでしょうか?」
「さあ……、それはわかりません。でも、やろうと思えば、誰でも可能ですよ」
「そうなんですか? 先生か、それとも、倉居さんの二人しか可能性がない、というような話を聞きましたが」
「そんなことはありません」直里は笑って首をふった。「間違ってやってしまう可能性はゼロですが、悪意があれば、誰にだって可能です」
「サンプルは棚に入っていて、その棚の鍵を倉居さんが持っているのでは?」
「そうです。しかし、そんな鍵、コピィを作ることなんて簡単じゃないですか」
「ああ、なるほど、そうですね」
「だいいち、僕が疑われる理由がわかりません」
「いえ、疑われているわけではないと思います」
「僕が目薬を使うときには、同じ部屋に、倉居さんがいるわけですから、その場で中身を入れ替えることはできません」
「目薬ごと交換した、という解釈なのでは?」
「だって、サンプルにはシールが貼られています。番号が入ったシールが……。あれは簡単には剥《は》がせないと思います」
「いえ、先生、一度こっそり持ち出して、その容器に入れて、次の機会に持ってくる、という意味ですよ」
「ああ、そうか。なるほど。すると、そんな手の込んだことを僕がしたといいたいわけですね。ポケットに入れて持っていって、それを手品みたいにすり替えてから、自分の目にさす振りをしたと?」
「あ、いえ、そのときは、本物だったかもしれません。そのあと、検査に回されるまえにすり替えれば良いわけですから」
「そうか……」直里はまた肩を竦めた。「そこまで聞くと、できないこともないかって、思ってしまいますね。だけど、動機がないでしょう?」
「おっしゃるとおりです。ただですね、神戸で見つかったものだって、はたして、理解できるような動機があったでしょうか?」
「あれは、つまり、TTKの株を下げようっていうことなんじゃないですか?」
「株を下げておいて、買うわけですか?」
「知りませんけれど。たとえば、ライバル会社の株が上がるのを見込んでいるとか」
「上がったんでしょうか?」
「いや、僕はそちら方面には、とんと関心がありませんので」直里はふっと息を吐き、椅子の背にもたれかかった。「いずれにしても、僕にできることは、会社の人間なら誰にでもできますよ。鍵なんかあってないようなものです。それに、そもそも、あそこへ来るまえから劇物入りだったかもしれない。製造過程ですり替えられた可能性だってあるわけです。いくら機械で自動化されているとはいえ、不可能ではありません」
「その場合、一つだけではない、ということにならないでしょうか?」
「そのとおりです。もちろん、まだ箱の中に入った出荷まえの状態かもしれない。回収されたものならば良いですけれど、どこかの倉庫に残っている可能性はありますね」
「危ないですね」
「そうですよ。だからこそ、これは早く公表すべきだ、というのが僕の意見です」
「そうですね。そのお考えには、私も賛同します」
「会社にそう意見してやって下さい」
「先生は、ご自身で、この情報をマスコミにリークされるおつもりがありますか?」
「考えないことはありませんけれど、ちょっとねぇ……、就職したばかりだし、大学にも迷惑がかかりますからね、考えてしまいますね、どうしたものかと。このところ、ずっと、それで悩んでいます」
「難しい判断ですね」
「ええ、本当に。誰だか知りませんけれど、やっかいなことをしてくれたものですよ、まったく」彼は早い溜息をつき、腕時計を見た。「あ、もうすぐ、学内の委員会があるんです。こんな時間から。申し訳ありません、もうよろしいですか? わからないことがあったら、質問してくれたら、なんでもお答えしますから。メールが一番良いですね」
「あ、あと一つだけ」
「何ですか?」
「さきほど、倉居さんと話をしたことはほとんどない、とおっしゃいました。ほとんど、と。言葉を一瞬そこで選ばれましたね。少しならば、お話になったことがある、ということだと理解しましたが、それはどんなお話だったのでしょうか?」
直里は少し驚いた顔になった。
「何ですか、職業的な勘、みたいなものですか?」彼はきき返した。「凄いですね。驚きました」
「なにかに当たりましたか?」赤柳は微笑んだ。
「うーん、ええ、実は一度だけ、彼女の方からです。折り入って相談があると、持ちかけられました。あそこへ目薬をさしにいったときのことです」
「相談? どんな?」
「これは、しかし……、ちょっと言えないなあ」
「秘密は厳守します。それに、私は、TTK製薬の人間ではありませんので」
「いや、僕が話すわけにいきませんよ、えっと、ようするに、抽象すると、上司との人間関係に関することでした。彼女から直接聞いてもらった方が良いと思います」
「わかりました。聞いてみましょう」赤柳は、倉居三重子が、なにか話したがっていることを思い浮かべた。
「もう一点。僕が言いたいのはですね、そういった上司とのトラブルめいたことがあったからこそ、こういった嫌がらせを、その、彼女がされているのではないか、ということなんです」
「え?」赤柳は驚き、頭をフル回転させて考えた。「ああ、つまり、倉居さんの上司が、彼女に対してなんらかの悪意を持っている、という意味ですか?」
「ええ、まあ、そういうことです」直里は頷いた。「そうでもなかったら、ちょっと考えられませんよ。僕と彼女だけが疑われて、こんな探偵さんの尋問を受けるなんて状況……。これは、明らかな嫌がらせです」
「いえ、私は、その……」
「僕の場合は、会社を辞めた人間ですから、まあ、ある意味しかたがないと思いますけれど、彼女は、まだ入社したばかりでしょう? うーん、ちょっと可哀相ですよね。きっと、辞めるんじゃないかな」
「ああ、辞職させようとしていると……」赤柳はうんうんと頷きながら、倉居三重子の様子を想像していた。そこまで思い詰めているようには、少なくとも見えなかったのだが。
加部谷恵美と雨宮純は、今夜の製図室での作業について、少々予定を変更することにした。一旦帰って、大学へ出直すよりも、二人でどこかで食事をして、すぐに大学へ戻る、というコースが最適だと判断され、すぐに採用された。怪我をしている加部谷を雨宮は気遣ってくれた。大雑把で男性的な性格の彼女だが、意外に優しいところがある、と加部谷は再評価しつつあった。
近くのファミレスで食事をしながらおしゃべりをしたあと、コンビニに寄って、お菓子の詰め合わせを購入した。これは、昨日のお礼として矢場香瑠のところへ届けるためだ。雨宮が運転する赤い軽自動車の助手席で、加部谷は道を案内した。既に辺りはすっかり暗くなっている。
ログハウスに白い明かりが灯っていた。在宅のようだ。
「ちょっと待っていてねぇ」雨宮にそう告げて、加部谷は車を降りた。
敷地の中に入り、ログハウスに近づいていく。左側に二階建てのアパートが建っていて、通路の照明が光っている。人の姿はないが、どの部屋にも住人はいるようだ。ゴミ箱や、ちょっとした様子でそれがわかった。
ログハウスの入口のステップを上がり、ドアをノックした。窓がすぐ横にあるから、そこから中が覗けるのだが、そんなはしたない真似はしない方が良いだろう。音が近づき、ドアがすぐに開いた。
「おやまあ」矢場香瑠が立っていた。目を丸くして、加部谷を見てすぐににっこりと微笑んだ。白い歯が見える彼女独特の笑顔である。
「どうも、あのぉ、今朝は、本当にお世話になりました。えっと」加部谷は早口で話した。「とりあえずなんですけれど、お礼を言いたくて」
「お礼なら、もう聞いたよ」
「いえ、あの、これを……」加部谷は手に持っていた箱を差し出した。
「何? これ」
「お菓子です」
「え、もらえるの?」
「はい。お気に召さないかもしれませんけれど」
「うわぁ、めっちゃくちゃ嬉しい!」矢場は声を上げて、躰を弾ませた。「お腹減っていたとこなのぉ」
「あ……、そ、そうですか」加部谷も少し驚いた。こんなに大袈裟に喜ばれるとは思ってもいなかったからだ。
「あ、じゃあさ、ちょっと、お茶を出すから、入って入って。一緒に食べよう」
「あ、いえ、あの、私、お友達が待っていて……」
「え?」矢場はドアから顔を出して、外を見た。「急いでいるの?」
「そんなに急いでいるわけではないですけれど、でも、これから大学に戻って、また課題をしなければならないんです」
「課題って、宿題のこと?」
「はい、ええ、そんな感じです」
「ふーん、凄いな大学生って」矢場は腕時計を見た。彼女は半袖の白いTシャツを着ていた。「私もトレーニングをしなくちゃいけないから、それじゃあね、二十分だけ、どう? お友達も呼んできなさいな」
「あ、じゃあ……」加部谷は頷く。
道に戻って、車の中の雨宮に状況を説明した。
「へえ、面倒だがや。ま、いっけどさあ……」というのが雨宮の返事だった。「こんなことになるんなら、俺がお菓子を選べば良かったんだ」
車を敷地の中に入れて駐めた。雨宮と二人でログハウスに入った。矢場は、奥のキッチンで薬缶を片手に持っていた。お湯を沸かすつもりらしい。
「どうぞ、あのぉ、おかまいなく」加部谷は声をかけた。「こちら、お友達の雨宮さんです」
「お邪魔しまーす。こんばんは」
「そこに座ってて……」
部屋は綺麗に片づいている。テーブルにも椅子にも、何一つ置かれていない。実に生活感のない空間で、まるでテレビのコマーシャルに出てくる住宅のようだった。
「なんか、綺麗」雨宮が小声で囁いた。「片づいてるし」
「ログハウスって、面白いね」加部谷は天井の構造を見上げて言った。いちおう建築が専門の二人である。ただ、大学の講義ではログハウスなんて習わない。「丸太を積み上げて壁になっているわけ? 大変だよね、作るのが」
そんなひそひそ話をしているうちに、矢場香瑠がトレィにカップをのせて運んできた。お湯はまだらしい。お菓子の箱を開けて、それをテーブルの上にそのまま置いた。
「どうもどうも」矢場は雨宮に言った。「あ、君は、もてるでしょう?」
「え、いきなりですか」雨宮が仰け反る。
「ええ、もてます、この子」加部谷は言った。「でも、ちょっと灰汁《あく》が強すぎて、すぐに挫折してしまうんですね。呼吸困難になるっていうか。たぶん、高山病みたいになるんだと思います」
「おいおい、何を詳細に説明しとるの」
「怪我はどう? うーん、もう大丈夫みたいだね」
「はい、もう全然オッケイです。本当に助かりました。お世話になりました。ありがとうございました」
「あそこの階段はね、ちょっと問題があるんだよね」矢場は言った。
「そういえば、ちょっと急ですよね」
「いや、そうじゃなくて……」
「暗いことですか?」
「それもあるけどね」
「じゃあ、何ですか?」
「うん、ほら、上にお墓があるでしょう? まあ、そういうのが、なんていうか、悪さをするんだよね」
「お墓が?」加部谷は首を捻る。「ワルサ?」
ワルサをする?
「あ、わかった。霊が取り憑いているんじゃないですか?」雨宮が余所行きの声で言った。なんか、彼女の絞り出すような無邪気な言い方が余計に怖かったので、加部谷はどきっとした。
「でも、私が転んだ理由は、猫ですしぃ」
「その猫だよ」雨宮が言う。「問題は」
「普通の猫だったけど」
「いんや」
「何? 未来から来たとか言うつもり?」
「その猫に、霊が取り憑いている」雨宮は言った。
意外にも、加部谷はちょっと怖くなった。その怖くなったという意外さが、一番ぞっとすることだった。こんなことで、怖くなるか? と思う怖さである。怖さを自家発電しているみたいな気持ちになった。
「もう、あそこ通るのやめよう」加部谷は呟く。
「うん、それが良いと思うな、私も」矢場が微笑みながら頷いた。「もう一人さ、あそこの近くで転んで怪我をした人、知っているからね。隣のアパートの人だけれど。なんていうか、大人しい子が狙われるんだね。精神が弱いからだと思う」
「大人しいか?」雨宮が耳もとで囁いた。
「あ、私、そうなんですね。どちらかというと、大人しい方だと思います」加部谷は頷いた。「それから、やっぱり、徹夜したあとで、弱っていたかもしれません」
「うん、気をつけてね。そういうときに、つけいられるんだから。魔が差すっていうでしょう?」
「魔が差す」加部谷は言葉を繰り返した。「ああ、なるほど」
「マガサス?」雨宮も囁いた。「ギリシャ神話か?」
「もしかして、ペガサス?」
「違うな、植物か」
「わかりません」
「アガパンサス」
「知らないよ」
小声でぼそぼそと話している間に、矢場がキッチンへお湯を取りにいき、戻ってきて、三人分のお茶を淹れた。紅茶である。
そのあとは、世間話になった。
大学でどんなことを学んでいるのか、という話が多かっただろうか。
最初の予定どおり、二十分でログハウスを辞去し、二人は車に乗って大学まで戻った。
雨宮の言葉では、矢場香瑠は、女性として格好が良い、ということだった。それは加部谷も同意見である。加部谷はずっと、西之園萌絵《にしのそのもえ》という先輩に憧れてきた人生だったが、その西之園にはないものが矢場にはある、と感じた。活動的というのか、開放的というのか、とにかくワイルドな印象である。
是非、また遊びにきてね、と言われたことも嬉しかった。ただ、矢場は携帯電話を持っていないという。ログハウスにも電話がなかった。したがって、連絡のしようがない。
「大丈夫、いつでも突然訪ねてきて。昼間はいないことがあるけれど、日が暮れたら、たいていここにいるから」矢場は、そう話していた。
C大の直里研究室を出たところで、赤柳の携帯が振動した。倉居三重子からだった。番号を知らせておいたからだ。
「すみません。今夜はお会いできなくなりました」
「そうですか。それは残念です。では、明日にでも……」
「ええ」元気のない声だ。
「何時頃だったら、よろしいでしょうか? たとえば、お昼休みにでも、少し出られませんか? 会社の近くのどこかで」
「はい……、でも、ちょっとわからないんです。仕事の都合で」
「では、また、夕方にでも、こちらから電話をかけましょうか?」
「そうですね。そうして下さい」
電話が切れた。会社の依頼で彼女のことを調べているのに、会社の仕事のために彼女に会えない、というのは困った問題だ、と赤柳は考えた。しかし、こればかりはしかたがない。新入社員だから、自分の思うように時間も取れない、ということもあるだろう。
すっかり日が落ちているが、キャンパスの建物の窓は例外なく明るかった。学生も教官もまだ残っている時刻のようだ。むしろ、これからが創造的な時間なのかもしれない。ふと、思い出して、建築学科の国枝研究室を訪ねることにした。
暗い通路を歩き、ドアの前まで来る。室内の明かりがドアの上の窓から漏れているので、誰かはいるようだ。誰がいるのかな、と一瞬だけ想像して、ドアをノックした。中から小さく男性の返事が聞こえた。
「こんばんは」赤柳はドアを開ける。
雑然とした室内は以前とあまり変わっていない。奥の窓際の席で山吹早月が立ち上がった。
「あれ、赤柳さん」
「どうも、お久しぶり。ちょっと、近くへ来たもので……、なんとなく寄ってみました」
「こちらへは、どうして?」山吹は部屋の手前まで出てきた。「なにかの調査ですか?」
「西之園さんは?」赤柳は尋ねた。一番会いたいのはもちろん彼女だったからだ。
「あ、西之園さんは、四月から東京ですよ。W大に就職されたんです」
「え、そうなんだ」
「たまに、こちらへ来ますけどね」
「ああ、それは寂しくなりましたね」
「残念でしたね」山吹は微笑んだ。「お茶でも出しましょうか?」
「あ、いやいや、おかまいなく」赤柳はしかし、ドアから離れ、テーブルの近くへ進む。「まあ、でも、出していただけるものを、拒むような強い意志でもありません」
「飲みます?」
「飲みますけれど」
「国枝先生なら、いらっしゃいますよ」山吹はそう言いながら、シンクへ移動した。「コーヒーで、良いですか?」
「はいはい、もちろん、なんでもけっこうです。手ぶらで来てすみません。次回は必ずなにか持ってきますよ。ああ、そうかぁ、西之園さん、いないのかあ」
「なにか相談事でもあったのですか?」
「いや、うーん、そんなわけでもないんだけれど、まあ、なんというか、彼女を見るだけで元気が出るというのか……」
「いやらしい表現に聞こえますね、それ」
「違います。全然違います」赤柳は笑った。「純粋な気持ちですよ」
隣のドアが開いて、国枝桃子准教授が顔を出した。赤柳は慌てて立ち上がった。
「あ、どうも、先生、お邪魔をしております」
国枝は無言で赤柳をじっと睨んだ。それから、山吹へ視線を向ける。
「私にも、コーヒー」そう言うと、国枝はすぐにドアを閉めた。
「うわぁ、一言もなかったですね」赤柳は椅子にどっと腰を下ろし、小声で囁いた。「嫌われているなあ」
また、ドアが開いた。
「こんばんは」国枝がにこりともせず言った。
「あ、あの、どうも、失礼いたしました」赤柳は立ち上がって頭を下げる。しかし、顔を上げたときには、既にドアは閉じられていた。
床に反転して落ちたピザのような重苦しい沈黙が数秒間停滞したが、赤柳はこれくらいで凹む性格ではない。この部屋は国枝研究室の院生室であるが、今は院生は山吹一人だけしかいなかった。彼は修士課程の二年生、いわゆるM2である。赤柳は過去の事件で彼と出会い、この研究室の面々とも知り合いになった。
山吹と世間話をしているうちにコーヒーメーカが音を立てた。コーヒーをカップに注ぐと、山吹は、まずそれを国枝の部屋へ運んでいった。戻ってくると、赤柳と自分の分のカップをテーブルに置いて、椅子に腰掛けた。
「で、今は、どんな調査なんですか?」脚を組んで山吹が尋ねた。
「目薬」赤柳は簡単に答える。カップを口へ運び、魅惑的な香りを楽しんでから、一口飲んだ。「ああ、美味いなあ」
「目薬って、まさか、神戸のあの事件?」山吹は一瞬驚いた目になったが、すぐに頷いた。「ああ、そうか、TTK製薬の本社が地元だから」
さすがに勘が良いな、と赤柳は感心しながら頷いた。
「え、それじゃあ、もしかして、メーカから直接、調査を依頼されているとかですか? だって、そういうのは、警察が調べているでしょう?」
「うーん、まあね、でも、いろいろ事情があるってこと」
「どうして、C大へ?」山吹はきいた。
「まあ、それも、その、いろいろあってね」
「あ、そうかそうか、そういえば、TTK製薬から先生がいらっしゃっていますね、工学部に」
「よく知っているね。違う学科なのに」
「加部谷さんの友達の雨宮さんが、そこの研究室でバイトをしているっていう話をしていたんですよ」
「雨宮さんって、ああ、あの子か。思い出した」赤柳は呟く。「そうか、加部谷さんにも、しばらく会っていないなあ」
「ま、彼女の方は、そんなに会いたいとは考えていないと思いますよ」山吹は話した。こういうことをずけずけと言うのが、この青年の特徴の一つである。
赤柳はコーヒーを黙って飲んだ。部屋の様子を観察したが、特に変わったものは見つからない。ただ、さきほどの直里の部屋に比べれば、はるかに散らかっていることは確かだ。考えてみたら、あの厳格な国枝准教授が、この院生室の無秩序さを許容していることは不思議である。
「その事件で、西之園さんに相談をしようと思われたんですか?」山吹がきいた。
「いや、全然、そんなことは」赤柳は首をふる。「特になにも不思議なことはないし、今のところ、そんなに大きなトラブルもないし」
「でも、調べているのでしょう?」
「まあ、探偵なんて、地道な仕事だからね。いつも、こんなもんだよ」
赤柳は苦笑した。自分で話していて、妙にしみじみとしてしまった。そういえば、西之園萌絵に相談した事件はもっと華々しかったな、と思い出したからだった。ずいぶん昔のことのように思えた。なんとも懐かしいではないか。
「そうかぁ……、東京へ行っちゃったのかぁ」また溜息が漏れた。「そりゃあ、なかなかもう会えないねぇ、一緒に写真くらい撮ってもらっておけば良かったかな」
「あの、赤柳さんが来たって、西之園さんにメールで伝えておきましょうか?」山吹が笑いながら言った。
今夜はこれから那古野《なごの》に戻って、県警本部を訪ねる予定だった。神戸の事件について、さらに情報を得るためだ。しかし、たぶん、新聞や週刊誌に書かれていること以外、実のある話はないだろう。ネットでも少し検索をしてみたが、これといったものには当たらなかった。もっと時間をかければ出てくるかもしれないが、しかし事件の真相に結びつくような情報ではないだろう。
「あ、そうだ」山吹が言った。「たぶん、偶然だとは思いますけれど、一つだけ、僕、気になることがあるんですよ」
「え、何?」
「問題の目薬の名前です」
「名前?」赤柳はポケットに手を突っ込んだ。TTK製薬のものが一箱ある。彼は目薬をたまに使う方だが、このメーカのものではなかった。その一箱は、TTK製薬で直接もらったサンプルだ。ついさきほど、駅前の薬局で念のためにきいてみたが、既に回収されたあとで店にはない、とのことだった。赤柳は、目薬の名称については気にしていなかったため、まったく記憶していなかった。
「アイセーブ」赤柳は箱のカタカナを読んだ。
「ええ」山吹は頷く。そして、腰を上げて、テーブル越しに手を伸ばし、赤柳が持っている箱を指でさす。「箱に、ほら、書いてあるでしょう?」
細かい文字に最初は焦点が合う。最近、どうも細かい文字が読みにくい。しかし、そうではないみたいだ。もう一度、大きな文字を見る。〈アイセーブ〉とある。その下に、〈アルファ〉という小さなカタカナが読めた。そして、もっと大きく、箱の大きさの半分ほどもある太い文字に気づいた。色が薄いため、単なる模様か、それとも、リボンの絵が描かれている、と思い込んでいたものだった。
それは、ギリシャ文字の〈α〉だ。
「ああ、|α《アルファ》か……」赤柳は呟いた。そして、山吹の顔を見た。
「ね?」彼は笑顔で頷く。
ギリシャ文字に関連した事件は、以前に幾つか連続して起こった。それらは、どうもネットが発信源らしい。赤柳はかなり足を踏み込んで調べてみたのだが、まったく手応えはなく、過去の宗教団体とか、天才科学者の噂、足跡、あるいは名残、それとも僅《わず》かな香りが残っているにすぎなかった。
「偶然ですか?」山吹が言った。
「ああ、そうか、αっていうのも、ギリシャ文字なんだ」気づいていたが、赤柳はわざと言葉にしてみた。
「一番めですよ。だから、アルファベットっていうわけです」
「次が、ベータ?」
「そうです」
これだけでも、ここへ来た甲斐があったな、と赤柳は思った。
しかし、翌朝には、もっと大きな展開が待ち受けていることを、このとき彼らはまだ知らない。
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第2章 ときどきはらはら
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間近なことも、末さきざきも、昔の世とて、みなこの掟に頼《よ》り従う、命《いのち》死ぬ人間の世に、勢い傲《おご》り栄えれば、かならずまた禍いを免れないもの。
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会社での仕事は、辛いとか楽しいとか感じるような余裕もないまま、数カ月が過ぎた。そのうち、困ったことが幾らかあったのだけれど、私は気にしていなかった。大人の社会というものは、この程度にはやりにくい部分もあるだろう、と自分なりに身構えていたからだ。しかし、もっと違った方向から、それは私を襲ってきたのだ。
研修のあと、私が配属された部署は、管理部の中の一つで、少人数のグループだった。工場の生産品や機器などの記録をすることが主な仕事だと説明を受けたが、私には全貌はわからない。課長は最初に、人間に関すること以外のあらゆる情報がここへ集まる、と私に教えてくれた。人間だけは人事部の管轄になるらしい。その竹中《たけなか》課長という四十代の上司について、私は仕事をすることになった。ほかには、男性が四人いる。女性は私だけだった。このグループに新入社員が来るのは久しぶりのことだ、と課長は話していた。
私のデスクには、ノートパソコンがのっていて、まずは書類のデータと、画面のリストが一致していることを確かめてくれ、と命じられた。それが初日の仕事だった。こんな簡単な作業で給料をもらっても良いのだろうか、と感じたほどだった。
数日後には、歓迎会という名称の飲み会が行われた。社の歓迎会は既に数回行われていたから、こちらが入社して最初だというわけでは全然ない。ただ、同じ部署の人間だけなので、課長を含めて男性が四人、そして私を入れて五人だけだ。女性が自分だけというのは初めてだったし、新入社員が自分だけというのも、初めてだった。場所は、会社の近くの居酒屋。私はアルコールが苦手だったから、こういった会は、いつも気が進まない。でも、飲まないわけにはいかず、この日は特に、歓迎の対象が私一人に集中していたこともあって、少々無理をしてしまった。
その店を出て、もう帰れると思ったら、違う店に向かうことになっていた。なんだか、既に決まっていたようだ。みんなでタクシーに乗り込み、移動した。私は気分が悪くなった。次の店に入った頃には、歩くのもやっとだった。ソファに座り、私は朦朧《もうろう》としていたと思う。みんなは、声を張り上げて歌をうたっていた。その音の大きさが、私の躰を押すように響いた。
もうアルコールはとても飲めなかった。私は水を飲んだ。冷たい水で、少しは頭がしっかりしてきた。トイレへ行き、そこで吐いた。こんな経験は初めてだった。びっくりしたし、恥ずかしかった。どうすれば良いのかわからなかった。
私が青い顔をしている、と誰かが言った。課長が、私をアパートまでタクシーで送ってくれることになった。ほかのみんなは、まだまだ、そこで飲み続けるようだ。
課長はタクシーの中で話し続けていた。三年まえに転勤してこの地へ来た。家族は関東にいて、単身赴任だ、と。オフィスにいるときよりも優しい口調だった。私はろくろく返事もできなかったけれど、上司にこんなお世話になってしまい、申し訳なく思っていた。気分はまだずいぶん悪かった。だから、溜息が何度も漏れた。とにかく早く家に帰りたかった。
時刻は何時頃だっただろうか。店を出たとき既に十二時を回っていたように思う。
外の景色のほとんどは真っ暗闇だった。車の中で、私はシートの背とドアにもたれかかっていた。道をきかれたけれど、上手く説明ができなかった。でも、タクシーにはナビが付いていたので、近くへは向かっているようだった。車が低速になったので、頭を上げて外を見たら、私のアパートのすぐ前だった。
「あ、ここです」私は言った。
タクシーは停まった。私はバッグを探す。足許に落ちていた。私の左手を、課長が握っていることに気づいて、私は驚いた。自分の手ではないような気がした。私はその手を引っ込めた。ちゃんと動いて良かった。
「どうも、あの、ありがとうございました。えっと、お金は……」私はきいた。
課長は、もう財布を出して、運転手に料金を支払っていた。ドアが開き、まず、課長がさきに下りた。手を差し伸べられ、彼の手にまた接触した。下を向いたまま、なんとか車から降りることができた。
「申し訳ありません」私は謝った。
課長はタクシーに乗り込むものだと私は思っていた。しかし、ドアは閉まり、タクシーは走り去ってしまった。
「え?」私はきいた。「あの……、ここから、どうされるのですか?」
「何が?」
「でも、タクシーが……」
「ああ、大丈夫だよ、いつでも電話で呼べるから。それよりも、倉居さん、大丈夫なの? 歩ける?」
「ええ、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
私たちは向き合って、暗い道路の脇に立っていた。たぶん、一番近い常夜灯が十メートルくらい離れている。歩いている人間なんて、もういないし、照明が漏れるような住宅の窓も近くにはなかった。
「どこ? このアパートなの?」課長がきいた。彼の顔もほとんど見えなかった。ただ、メガネのフレームが僅かに光って見えた。
「あの、もう、ここで、けっこうです」私はなんとか言葉にして伝えた。
私は道路を横断する。しかし、彼が一緒についてきた。言葉はもうなかった。
なにも言わない人間って怖いな、と思った。
足音だけだ。
どうして?
困った。
このままでは、あまり良い事態とはいえない。しかし、私は就職したばかりだし、彼は配属になったばかりの部署の上司なのだ。気分が悪いこともすっかり忘れて、私はこの事態をどう切り抜ければ良いのか、必死で考えた。頭は全然回らなかったけれど、とにかく、考えなければならない。
そもそも、今のこの事態になるまえに手が打てたはずだ。自分が油断をしていたせいで、こうなった。私は、泣きたくなるほど後悔した。
どんな言葉も思い浮かばなかった。
課長がなにか話したら、それにはしっかりと答えよう、きちんと否定しなければならない。と考えていた。こちらから言いだせば、どうしても失礼になってしまいそうに思えたからだ。
しばらく、そこで動かなかった。沈黙のままで。
「どうしたの?」課長が優しい口調できいてきた。
「いえ、大丈夫ですけど」私は答えた。
「寒くない?」
「はい。もう、あの……、一人で帰れますから」
「いや、送っていくよ。上司としての責任がある」
もう、なるようになれ、という気持ちがあったかもしれない。私はとうに傾いていたのだ。もしものときは、なんとかなるだろう。あまり心配をするような事態ではないかもしれない。そう思い直して、私は歩き始めた。
敷地の中に入った。アパートの階段の方へ向かった。けれど、私の願いも虚しく、課長は私のすぐ横を歩いて、ずっと付き添っているふうだ。途中で、私の肩を抱くようにして、躰を寄せてきた。道路から入ったところは、さらに暗い。真っ暗闇だった。アパートは通路の電灯も消えていた。そういう時刻なのだ。私たちが歩いてきた砂利を踏む音が耳に残り、今は自分の呼吸の音がしだいに大きく聞こえていた。
突然、躰を引き寄せられる。私は無言で抵抗した。彼から離れようとした。言葉はもうない。息遣いだけ。もう駄目だ、なにか言わなくては。悲鳴を上げるよりも、ちゃんと断らなければ、と考えた。
課長の顔が近づく。アルコール臭い。整髪料の匂いも混じっていた。
ドアが開く音。
「誰?」女の声が背後から聞こえた。
一瞬、課長の力が弱まった。
「三重子じゃない?」
気がつくと、私たちがいる場所が明るくなっている。ログハウスの入口から漏れた明かりだった。
「じゃあ、えっと、ここで……」課長は言った。既にこちらを向いていなかった。明るい方向を避けるようにして、彼は立ち去った。道路に出たところまで後ろ姿が見えた。右手の方角へ消えた。足音も聞こえなかった。
静けさが残る。
私は、まだ早い息をしていた。
「誰なの? あれ」矢場香瑠がきいた。彼女は私の近くまでやってきて、私の肩に触れた。「困ったもんだな。嫌がっているのに」
「どうして、嫌がっているって、わかった?」
「わかるよ、そりゃ」
「真っ暗だったのに?」
「こんなふうにしていなかった?」香瑠は、私の肩に手を回して、ぐっと躰を密着させた。
何故か私は抵抗しなかった。
彼女は高い声で笑いだした。
「静かにしないと」私は心配になって言った。「こんな時間に」
「それって、私が言われる方?」香瑠はまた笑った。
私は、すっかり気分が良くなっていた。
「ねえ、お茶でも飲まない?」香瑠が言う。
「同じことを言おうと思っていたところ」私は嬉しくなった。そして、くすくすと笑いだした。
香瑠が舌を鳴らす。
「駄目だよ、静かにしないと」
加部谷恵美と雨宮純は、暗い夜道を歩いていた。午前四時である。こんな時刻に歩いているのは、もちろん肝試しをしているからではない。大学の製図室から戻るところだった。雨宮は今日は車ではない。なんでも、彼女の兄が乗っていってしまったらしい。そのことについて、雨宮は真剣に怒っている様子だった。彼女の兄が何故、妹の車を使ったのか、という理由を尋ねたのだが、どうも要領を得ない。
「お兄さんって、族でしょう?」加部谷はきいた。以前に、ちらりと見かけたことがある。暴走族だというのは、雨宮自身の言葉だった。
「そうそう。私が兄貴の車で来たら良かったんだけどな、ちょっと目立ちすぎなんだよ、これが」
「ふうん。水玉模様とか? それとも、グッチ柄とか?」
「そんなら、絶対乗ってくるわ、私」
二人とも、製図はかなり進んで、少し余裕ができてきた。お腹が空いたので、加部谷のアパートでなにかを食べ、ついでにシャワーを浴びよう、という話が決まり、帰ることになったのだ。雨宮の家は、歩いて帰るにはかなり遠い。
回り道をするつもりだったが、例の墓場を抜ける道を歩くことになった。そこを雨宮が通りたいと言いだしたのである。
「えぇ、嘘、怖いよう」加部谷は声に力を込めて言った。「純ちゃん、泣くよ、きっと」
「馬鹿言え。そういう自分はどうなんだぁ? 転んで怪我をしたくせに、気をつけなかんのは、あんただろ」
「あれはね、霊魂が祟《たた》ったせいなの。私のせいじゃなくて」
「澄まして言うな。そっちの理由の方が凄いじゃんか」
「まあ、でも、一人で通るよりは、二人のときにじっくり見ておいた方が良いかもね。一度は見ておく価値はあると思うよ。なんかね、映画のセットみたいなところだから」
そんな会話をして、近道をすることになった。
天気は良い。丸い月が西の空の低いところにあった。そちらは、雲が見えるくらい明るい。ほかには星が沢山見えた。
県営住宅の近くを通り、暗い坂道を上っていく。
「丑《うし》三つ時だがね」雨宮が言う。
「そうなの?」
「いや、知らんけど。去年も、こういう肝試しをやらんかったっけ?」
「うーん、肝試しなのか、今のこれは」
「ほいでもさ、そこの竹藪の中に、海月君が立っとったら、怖いでぇ」
「うわぁ!」加部谷は声を上げた。
「ど、どうした?」
「いやぁ、それ、怖い、めっちゃくちゃ怖いじゃん」
「急に驚いたらいかんて、こっちまで怖くなってくるがや」
「海月君は、ちょっとなんか別の怖さだよね。山吹さんでも怖いけどね」
「国枝先生だったら?」
「うわぁ!」加部谷は声を上げる。「こわぁ」声が震えた。
「おいおい、怖がるなって」
「怖いよう、怖いよう。海月君とかだったら、まだ、話しかけられるじゃない? 国枝先生はそうはいかないもんね。それにね、ちょっと大きいわけ」
「大きいって?」
「だから、普通よりも少し大きめなの」
「どういうこと?」
「身長が、そうね、四メートルくらいあるわけ」
「国枝先生が?」
「そうそう」
「ほう……」
「怖いでしょう?」
「いや……」
「嘘、怖くない?」
「どうも、想像の域を超えたような気がするな」
「そうか……。それでね、頭の後ろでぼんやりと、なにか光っているわけ。えっと、仏様みたいに」
「ほう……」
「怖いでしょう?」
「拝《おが》みたくなるな、そりゃ」
「静けさが、怖いわぁ。ああ、なんか、ホント、想像しただけで、心が洗われるわね」
「それは、意味が違うような気がする」
「怖がると、心が洗われるじゃない」
「普段は怖くなくても、幽霊になると怖い人っていうのは、いるなあ」雨宮が言った。
「うん、私は、海月君はむしろ怖くないよ、幽霊になっても」
「さっき、怖がったくせに」
「幽霊じゃなくて、実物を想像しちゃったから」
「ああ……、わからんでもない」
「でも、実際には、怖くないよ。どんな状況でも理解し合えると思う」
「それは、惚気《のろけ》でしょうか?」
「違う違う。何だろう……」加部谷は考えながら話した。「なんか、裏と表がないじゃない? 彼って。裏と表がありそうな人の方が怖いわけよ、幽霊になった場合にね」
「山吹さんとか?」
「そう、山吹さんは、ちょっと怖いかも。でも、やっぱり実物の方が怖いんじゃないかな」
「海月君は、表がなくて、裏しかないんとちゃう?」雨宮はそう言って笑った。「どういうこっちゃねん」
「山吹さんは、そう、なんか、鞭を持ってて、びしびしってやりそうな感じ」
「あれ、そう?」雨宮は声のトーンを変える。「そんなふう? これは驚き。なんか、そんな兆候、あった?」
「ないけどぉ……、なんとなく、Sでしょう?」
「それはな、君が、まあ、そういう体質なんだって」
「私が何なの?」
「天然のMみたいな」
「そうかしら」加部谷は口を尖らせる。もっとも、暗いので、お互いに顔はほとんど見えない。「そんなつもり全然ないんだけれど。ちょっと心外ですねぇ」
いよいよ墓地の近くまできた。
「今夜は、火の玉とか飛んでないみたいだね」加部谷は言う。「一度見てみたいな、火の玉って」
「ハレー彗星みたいな感じなんかな?」
「さあ、ハレー彗星がどんな感じか知らないし」
二人の四本の足が出す音が聞こえるのみ。虫も鳴いていない。月明かりのおかげで、墓地全体を見渡すことができた。火の玉もハレー彗星も見えない。
「ほら、あのあたりに……」加部谷は指をさす。「四メートルくらいの国枝先生が立っていたら、怖いでしょう?」
「そりゃ、誰が立っとっても、怖いって」
「あ、赤柳さんが、怖いんじゃない?」加部谷は思いついた。「そうそう、あの人って、裏表がありそうでしょう? なんか、陰では別人格みたいな感じじゃない? こういうところで突然会ったりしたら、怖いわあ」
「よくわからんけど」
たしか、赤柳とは、そういうシチュエーションで出会った、と加部谷は思い出す。そのときのトラウマで、こんなふうに感じるのかもしれなかった。
お寺の門は閉まっている。その前を通り過ぎ、今度は階段を下ることになる。先日、転んで怪我をした階段だ。ずっと下まで長く真っ直ぐに続いている。しかし、現在は暗いため、想像で補わなければ、全体像にはならない。
「暗いなぁ、ホント」雨宮は少し心配そうな口調である。「こりゃ、いかんて、一人で歩いちゃあよう」
「でしょう? 猫で転ぶくらい、あるでしょう?」
「いや、ここを一人で歩くちゅうのが、全然もう普通じゃないって。むしろ、猫くらいで良かったじゃん」
「そうだよ。火の玉が出てきたかもしれないしね」
「いやいや、もっと怖いのは、人間だって」雨宮は言う。「襲われたりしたら、誰も助けに来んで。こんなところ、悲鳴を上げても、どこにも聞こえぇせんし」
「でもさ、こんな寂しいところで、誰かが通りかかるのを待ち伏せしているってのも、ありえないじゃない。一晩中誰も通らないかもしれないんだから。ね? というふうに考えれば、かえって安全な道なのかもって」
「そう考えて、通ったわけ?」
「うん」
「それって、はたして冷静な判断っていえるんかいな」
二人は階段を下りていった。まもなく、転んだ場所だ、と加部谷は考えていた。今回はもう転ばないように、と足許に注意をしていた。下を向いて歩いていても、暗いので踏み外したりする危険性は高い。
「この辺だったかな」加部谷はそう言ったところで、立ち止まった。
暗闇の中に、なにかが見えたからだ。
「こりゃ、猫が飛び出してきたら、また転ぶよな」雨宮が数歩下がったところで振り返った。「こら、どうした?」
「そこに、あるの、何?」加部谷は指さした。
しかし、彼女が指をさしていることさえ、雨宮には見えなかっただろう。
「そこって?」
「純ちゃんのすぐ下。なんか、ない?」
「もう! 怖いこと言ったらかんてぇ」
加部谷は気をつけて階段を数段下りた。
「嘘。なんかあるよ」
「え?」
雨宮も気がついたようだ。
逆に段を上がって、加部谷のところに抱きついてきた。
「嘘だろ?」
「ああ、ちょっとちょっと」加部谷は危うく後ろに倒れそうになった。躰は雨宮の方がずっと大きいのだ。「落ち着いて」
「何?」高い声で雨宮が言った。
加部谷はさらに階段を下がる。
あと五段ほどのところまで近づいた。
「何?」後ろでまた雨宮がきいた。
目を凝《こ》らしてみるけれど、よくわからない。黒い固まりに見える。最初は単なる影みたいに思えた。なにかの影で、そんなふうに見えるのだろうと。しかし、そうではない。明らかに膨らんでいる。
物体が階段に置かれているのだ。かなり大きなもの。
懐中電灯はないし、どう見ても、ぼんやりとしかわからない。しっかり見ようとするほど、焦点がずれて、空中に煙のような幻が現れるのだ。
加部谷は、バッグに手を突っ込み、手探りで携帯電話を探した。それを取り出して、目標物に向ける。カメラのシャッタを切った。一瞬、閃光が辺りに広がり、すぐに闇が戻った。
その残像の中に、倒れている人間の姿。
もう一度、写真を撮る。さらに近づいて見た。
白い顔が見えた。男性だ。
恐ろしい顔だった。
しかし、二人とも悲鳴を上げるようなことはなかった。それよりも、まずは身の危険を感じたし、さらには、異常事態だということが数秒遅れて理解できた。
「どうしたんだろう?」雨宮が耳の近くで言った。加部谷に躰を近づけているのだ。「酔っ払い?」
「あのぉ、大丈夫ですか?」加部谷は声をかける。
雨宮も携帯を出してフラッシュを光らせた。
「あ……、もしか、血じゃない?」雨宮が言った。
「そうかも」
「どうしよう?」
加部谷は思い切って、その男に接近した。
「大丈夫ですか?」もっと大きな声で呼んでみる。
男は動く気配がない。声も出さない。
「酔っ払って、転んだとか?」雨宮が囁くように言った。
「ちょっと、放っておけないよね?」加部谷は言う。「これって、そうだよね?」
「警察へ電話をしようか?」
「そうだね、できる?」
「ここの地名は?」
「さあ……」
「お寺の名前は?」
「えっとぉ……、知らない」
「まあ、いいや、とにかくかけてみる」
雨宮の顔がよく見えた。電話の画面を見ているから、その明かりが彼女を照らしたのだ。加部谷は、男の近くで跪《ひざまず》き、そっと、躰に触れた。背広のようなものを着ていた。俯《うつぶ》せに近い姿勢で、脚は数段下にある。頭だけを少し横に向けていた。血が見えたのは、顔の付近だった。肩の辺りを押して、話しかけたが反応はない。
もう一度、フラッシュを光らせた、加部谷は、男の手がある位置を確認し、そちらへ自分の手を伸ばした。そこに触れてみた。
コンクリートみたいに冷たかった。
「あ、あの、男の人が道に倒れているのを見つけたんですけれど」雨宮が電話で話をしている。「はい。えっと、わかりませんけれど、動かないんです。暗いところで、周りに誰もいません。あ、私は友達と二人ですけど……、ええ……」
「死んでるかも」加部谷は彼女に伝えた。
「嘘?」雨宮は頷いたようだ。「あの、今、お友達が見ているんですけれど、死んでいるかもしれないって言っています。え? わかりません。でも……。はい、そうです。お願いします。えっと、場所はですね……、私たち、C大から帰ってきたところで、だいたい南へ歩いて、十分くらいのところなんですけど。あの、お寺が山の上にあります。そこに、お墓もあって、そこから下っていく長い階段の途中です。そうです。階段に、男の人が倒れているんです」
上手に説明するな、と加部谷は感心して聞いていた。
深呼吸をしてから、またフラッシュを光らせて、あたりを確認した。男の顔はもう見ないことにした。自分が触れた手をもう一度だけ確かめた。手だって、顔と同じくらい怖く見えた。人間の手って、こんなに気持ち悪い形をしていたっけ、と思えた。
そして、男の手に半分隠れるようにして、小さな容器のようなものが光ったことに加部谷は気づいた。さらにもう一度フラッシュを近づけて光らせ、それが何かを確かめた。接着剤かと思われたが、どうやら目薬の容器のようだ。男がそれを片手に握っていたのだ。
そのとき、ほんの一瞬だけ、良い香りがした。目薬の匂いだろうか、と加部谷は思った。しかし、そこまで顔を近づけていたわけでもない。
気のせいかな、と思ったときには、もう香りは消えていた。
パトカーのサイレンが上の方で鳴っていて、だんだん近づいてきた。二人は階段を駆け上がっていき、墓地の前を走り抜けた。赤い回転灯を見たときは、本当にほっとした。
その後、もう一台、別のパトカーが到着した。
階段を警官と一緒に下りていき、場所を教える。二人は今度は、階段を一番下まで下りて、そこで待つことにした。
そのときはまだその場所も真っ暗だった。道路の反対側には、公園がある。常夜灯が幾つか見えたが、大きな樹が茂っているので、光は遠くへは届かない。
救急車は、彼女たちがいた階段の下に到着した。その後、パトカーがまた数台やってきた。近所の人なのか、野次馬も集まり始め、付近は俄然騒々しくなった。階段で倒れていた男性は担架に乗せられ、すぐに搬出されたが、既に呼吸も脈も停止した状態だ、と話す声が聞こえてきた。
「つまり、死んどったっちゅうことだわな、あれは」と雨宮は言った。「まあ、しかし、大概にしてもらいたいわ、ホントによう」
「たいがい?」加部谷は意味がよくわからなかった。
「あんな、あれは、どういうこと?」雨宮がきいた。
「何が?」
「階段を歩いとって、足を踏み外して、運悪く頭を打ってまって、そいで、亡くなったっちゅうこと?」
「さあ、どうかなぁ」加部谷が首を捻る。
「死ぬか? それくらいで」
「でもぉ、足許が真っ暗だしぃ」
「うーん、でもな、突然停電になったわけじゃないでね。あそこはずっと暗かったんだで、普通よりは余計に慎重になっとるはずだがね」
「何? 純ちゃんは、なにか考えがあるわけ?」
「まあ、私に言わせれば、これは、明らかに殺人やわな」
「へえ、どうして?」
「さっきな、刑事さんが、そう言っとらしたで」
「え! 本当?」
「地獄耳のお純と呼んで」
「それって、私に言わせれば、て言うかな?」
「教えてあげたんだがね」
「そうなんだぁ……。ひぃ、てことは、どうやって? 誰かに殴られたとか?」
「まあ、そんなとこだわな」
「傷とか、あったっけ?」
「血は出とったで」
「頭をがつんと?」
「わからん、ぶすっと刺されとったのかも」
「くう……、お金を取られたのかな? 私たちが来たとき、まだ、殺人犯が近くにいたとか?」
「いや、やっぱ、一人殺したら、たいていは一目散に逃げるわな」
「もし、あの男の人が通らなかったら、私たちが狙われていたかもだよ」
「うーん、そういうときは、我先に逃げるでね。恨んだらいかんよ」
「え? あ、そう……、それは、ちょっと、なんか……」
「おう、だから、恨んだらいかんて」
「違う違う。そういうんじゃなくて、えっと、お金目当ての強盗とかじゃなくって、もっとね、うーん、顔見知りによる怨恨じゃないかな」
「なんで?」
「だってさ、あんな暗いところで待ち伏せする? 相手が強そうかどうかもわからないでしょう?」
「何言っとるの。明るいところで見定めて、後をつけて来たんだがね」
「で、あの階段で襲ったわけ?」
「そうそう、人目につかない場所だでな」
「うーん。でも、隠れていて、突然襲うようなことは無理でしょう? 階段の真ん中だったしぃ、前からきても、後ろからきても、わかるしぃ」
「いや、わかるけどぉ、普通の人が来たと思うだけだでね。そう装《よそお》って、近くまできて、突然殴りかかったんだがね」
「そっかぁ。バットかなんかを持っていたのね」
「たぶんな。それも、暗かったらわからんし。音も声も、誰にも聞こえんだろ?」
「凶悪だね」
「うん、まあ、殺人っちゅうのは、全部だいたい凶悪だわな。殺したあとにお経を唱えても、凶悪は凶悪だろ?」
二人は公園の側へ道路を横断し、ガードレールに腰を預けていた。電信柱の常夜灯の下だったので、そこが明るかった。
既に東の空がほんのりと白み始めていた。警察が階段を封鎖したため、もう上へ戻ることはできなくなった。あとから来た捜査員が持ち込んだライトで照らされ、今は階段の部分も非常に明るく、全体が見通せる。二十人以上の警察関係者が来ているし、公園の柵の中には、野次馬が集まっていた。こんな時刻なのに、暇な人間が大勢いる、ということがわかった。
二人は、死体を発見したときの様子を、最初は制服の警官に説明した。そのあとやってきた私服の刑事にまた同じことを話した。既に名前も連絡先なども教えてあり、もういつ帰っても良い、という許可も三十分ほどまえにもらっていた。でも、もう少し見ていこう、ということでそこに残っている。野次馬たちよりも、現場に近い位置に彼女たちはいた。なんとなく、不思議な優越感みたいなものもあったかもしれない。
加部谷は、山吹早月にメールでこれを知らせた。
死体を発見しましたよ。
嘘ではありませんよう。
という短い報告だった。しかし、リプラィはない。さすがにこの時刻は寝ているのだろう。
さらに明るくなってから、加部谷と雨宮は現場を離れた。少し遠回りをして、コンビニに寄り、それから加部谷のアパートに辿り着いた。本来、シャワーを浴びて、少し眠ってから、大学へ出直す予定だったのだが、寝る時間はなくなった。しかし、目が冴えてしまい、まったく眠くはなかったので、逆に都合が良かった。二人は、シャワーを浴び、コンビニで買ってきたパンとサラダを食べた。
八時頃、ようやく山吹からメールが返ってきた。
それはそれは。
「みじか」加部谷は携帯の画面を見て呟いた。
眠そうな顔をしていた雨宮がこちらへ顔を近づけたので、そのメールを見せてやった。
「ま、そんなもんでしょ」無表情のまま雨宮も言う。
「そういえばぁ、目薬の話ってさ、私、したんだっけ?」加部谷は言う。
「目薬? 何、それ」
「倒れていた人がね、手に目薬だと思うけど、持っていたの」
「うっそぅ! 聞いとらん。見間違いだろ」
「いやあ……、でも、接着剤ってことはないでしょう?」
「目薬もないだろ」
「でもね、ほら……」
「え?」
「ほらほら」
「あ……」雨宮は口を開けた。「でも……」
「なんとなく、私たちというか、はっきりいって、純ちゃんだよね。この頃、目薬づいてない?」
「バイトのことか? そんだけじゃん。ほかになんにもあらせんで」
「劇物混入目薬の事件とかあったわけだしぃ」
「ほんじゃ何? あの人、あの階段で目薬をさそうとして、そこで目に劇薬が入って、倒れたって言いたいんか、君は」
「それはないと思う。あんな暗闇で、目薬はないよね。暗すぎ」
「だったら、使いもしないのに、手に持つものか? 目薬」
「そう……、そこが私も不思議に思ったところ」
「そんな重要な手掛かりを、警察に黙っとって……」
「だって、べつに私が言わなくても、見たら、わかることじゃない」
「ああ、まあ、そうか」
「本当は、触って手に取って確かめたかったけど、ぐっと我慢して、そのままにしておいたの。証拠品になるかもしれないでしょう?」
「当たり前じゃん。そんなもんに触りたくなるか?」
「でね、今、ふと思いついたんだけれどお、ようするに、被害者はですね、死ぬ間際にあれをポケットから掴み出したのではないか、と」
「ああ、ほうほう」雨宮は口を開けたまま、顎を上げた。「かあ、考えそうなことを考えるなぁ、君は」
「でしょう?」
「えっと、わかったわかった。わかったぞう。何だったっけ。メッセージだろ?」
「ダイイング・メッセージ」
「そうそうそうそう。それだ。つまり、犯人に関するなんらかの手掛かりを残そうとしたわけだ、目薬によって」雨宮は加部谷の方へ向かって指をさした。「鋭いな、君は。ミス・マーブルじゃん」
「マーブルじゃなくて、マープルでしょ」
「てことは、犯人は、目黒《めぐろ》さんとか、えっとぉ、それとも、薬剤師さん? 薬局の人とか?」
「そういうメッセージが残せたということは、つまり顔見知りの犯行ということになるよね」
「なるなる。そうか、そうだったのかぁ。これって、警察の人に教えてあげないかんのとちゃう?」
「これくらい、考えるよ、絶対に」
「そうかな、そこまで考えるかなあ……」
テレビを見ても、当然ながら、まだ事件のことはなにも報道されていない。加部谷と雨宮の二人は、また徒歩で大学へ向かった。途中、問題の場所を通りかかったけれど、相変わらず、警察の車両が何台も公園の道に駐車されていた。野次馬もいた。しかし、テレビのレポータらしき人はいない。期待していたのに、ちょっと拍子抜けである。
「ま、そんなに注目されとらんっちゅうことだね」雨宮は言った。「こんくらいでは来んてことか」
顔見知りの刑事がいたら、挨拶くらいしていこうと考えていたが、どうも近づきがたい雰囲気になっていたし、遠くから見た感じでは、知った顔は見つからなかった。
階段が通れないので、回り道をしなければならない。山の周囲を巡る道を歩き、大学に到着した。午前中に二つの講義がある。力学と演習だ。教室のシートに座った瞬間、もの凄く眠くなってしまった。
「駄目だ、寝ちゃいそう」加部谷は溜息をつく。
「やばい。同じく」雨宮も頷いた。
夢を見るように時間が過ぎ、午後は製図室で作業を進めた。午前中の効率的な睡眠が効いたのか、頭は冴えてきた。トイレに行ったとき、加部谷は通路で海月及介を発見した。ロビィの掲示板の前に立っていたのだ。向こうもこちらをちらりと見た。しかし、そのまま立ち去ろうとする。
「ちょっと、海月君!」声を上げて呼び止めて、駆け寄った。「ねえ、製図、大丈夫なの? やってる?」
「いや」海月は軽く答える。首をふるようなこともない。
「どうして? 留年するつもり?」
「そんなところかな」
「え? ちょっと、どういうことなの?」少し腹が立った。彼女は海月の手を引っ張って、建物から出た。掲示板の付近にいた何人かが、こちらを見ていたからだ。
駐車場の方へ移動した。そこで彼の手を離す。
「説明してよ」加部谷は言った。
「何を?」
「どうして、留年なんかするの?」
「そのうち話そうと思っていたことだけれど、来年は、別の大学へ行こうと思う」
「え?」加部谷は驚いた。「別のって、どこの大学?」
「まだ、受けていないから、わからない」
「どこを受けるの?」
「まだ、申し込んでいないから」
「どこを申し込むつもりなの? どこへ行きたいの? どうして、ここじゃいけないの?」
「いけないわけじゃない。ただ、違うところへ行こうかなって」
「なにか、不満があったわけ?」
「いや、そんなことはない」
「そう……。もしかして、遠く?」
「うん。この地方じゃない」
「東京? あ、もしかして、留学をするつもり?」
「まだ、しっかりとは決めていない」
「ふうん……。でも、だからって、今の課題をやらないっていうのは、理由にならないんじゃない? うーん、待てよ、そんなことないかな。わかんなくなっちゃった。あぁあ、なんか、びっくりして、私……。うん、どうして言ってくれなかったの?」
「先生には、もう相談してあって、製図は、しないことにしたんだ。時間が惜しいから」
「時間? 何をするための? あ、そうか、受験勉強?」
「そんなところかな」
「そう……」加部谷は溜息をついた。
「もう、いいかな」海月は無表情で言った。
「え? うん、べつに……、だけど、そんな大事なことを黙っているなんて、水くさいって思っちゃうよね」
「悪かった。話すつもりだったんだ」
「山吹さんは知っている?」
「知っている」
「あ、そう……。差がついた感じ」
「話す機会が多いだけだ」
「そう……」また溜息。「そうなんだ……」
「じゃあ」海月は僅かに片手を上げて、そのまま道路へ出る方向へ歩いていった。
彼女は海月をしばらく見送った。なんとも、擦り切れて、しわくちゃになったみたいな、寂しい気持ちになった。単なる寂しさとは違う気がする。これまでにあまり経験をしたことがない不思議な感情に思えた。寂しいとか悲しいというのとは、方向性が違っているのだ。何だろう。もっと、ぼんやりとしていて、掴みどころのない感じ? たとえるなら、夢を見たあとのような、なにか大事なものを忘れてしまって、それが思い出せないときに似ている。なくしてしまったものに気づくとき。そう喪失感だろうか。そんなことを考えながら、建物の中に戻った。
製図室の自分の机に座った。向かい側に雨宮がいる。彼女がこちらを見た。目が合う。
「どうした?」
「ん? うん。今ね、そこで海月君と会った」
「虐《いじ》められたか?」
「うん」素直に頷いてしまった。
「何?」雨宮は顔をしかめている。
加部谷は黙って手招きをした。雨宮が席を立って、こちらへ回ってきた。近くにいるクラスメートに聞こえないよう、小さな声で加部谷は話した。
「彼、大学を辞めるんだって」
「え? マジで? 本当?」
「来年からってことみたい。東京かどこか知らないけれど、別の大学へ行くんだって」
「あらま……、そう。へえ、そうくるか」雨宮は頷いた。「奴なら、まあ、やりそうな感じだが。ああ、それで、製図やっとらんわけか」
「うん。受験勉強してるんじゃない? 彼が受けたら、絶対合格だよね」
「だいたいな、うちみたいな田舎の大学にいたのが、そもそも解《げ》せんかったでな。あれは、絶対に山吹さんを追っかけてきたにきまっとるで、と思っとったけどぉ、ああ、そうか、つまりは、なにか喧嘩をしたんじゃあ? 破局ってことだ」
「山吹さんと海月君が?」
「ほいでさ、もう、こんなところにいてやるもんかって」
「ちょっとそれは、純ちゃんの妄想だと思うけど」
「うーん、妄想、すっごい妄想」
「私はね、どっちかっていうと、西之園さんがいなくなったせいかなって……」
「は? なんでぇ? まっさかぁ……。ね、ね、なんで? そんなことあり?」
「なんとなくね。海月君が西之園さんを見る目が、私を見るときの目とは、違うから」
「なんと、ここへきて、鋭いこと言うな」
「目は口の代わりにものを言うって」
「そうなん?」雨宮は眉を顰《ひそ》めた。「どんな目? 爛々《らんらん》としとった?」
「うーん」
「じゃあ、おいらを見るときは、どうだった?」
「え? さあ、見なかったんじゃない?」
「おいおい」
「とにかくねぇ、なぁんか、もうがっかりだよう。ああもう、今日、帰ろうかな……、泣きたくなってきた」
「まあまあ、そう気を落とさずに。あんな男、いくらでもいるからよう。な?」
「いないよ、あんな人間」
「ああ、まあ、そういわれてみれば、そうだな。おらんな、ちょっと」うんうんと雨宮は頷く。「でもな、あんた、そんなに惚れとったわけ? 見かけによらず」
「うーん、わからない。そうじゃないかも」
「だったら、ええがや、どうだって」
「うーん。どうだったんだろう」
「変な友達が転校するだけだがや」
「お友達だけどねぇ」
製図が一段落したところで、加部谷と雨宮は、久しぶりに国枝研究室を訪ねた。山吹がいる院生室である。西之園萌絵がいなくなってから、ここへ来る機会はあきらかに減っていた。もともと、ここへ来る理由は、西之園萌絵に会うためだったのだ。
「こんにちはぁ」ドアを開けて中に入った。
窓際の席に山吹がいて、彼女たちに応えて手を上げた。ほかにも、韓国人留学生が二人いて、加部谷に微笑んで軽く会釈をした。すっかりもう顔見知りである。
「どうしたの?」山吹がこちらへ出てくる。「製図で忙しいんじゃなかった?」
「ええ……、あの、海月君、最近ここへ来ます?」
「いや、来ないよ」
「山吹さん、彼に会っています?」
「えっと、一昨日、一緒に飯を食ったけど。どうして?」
「大学を辞めるつもりだって、聞きましたけど」加部谷は言う。
「ああ、その話か……」山吹は簡単に頷いた。「そうそう、そういうつもりみたいだね。だいぶまえから決めていたようだよ」
「なんか、聞いて、びっくりしちゃいました」
「あいつらしいって思ったけど」
「うーん、まあ、そうかな」
山吹がコーヒーを淹れてくれたので、加部谷と雨宮は大きなテーブルの椅子に座った。韓国人二人は、食事にいきます、と言って部屋から出ていった。壁の時計を見ると、時刻は四時である。
「そういえばさ、昨日、死体を発見したって」山吹が言った。「何だったの? あれは」
「あ、そうそうそう。忘れていました」
「忘れるかな」山吹が吹き出す。「変な冗談だね」
「冗談じゃありません。本当に死体が」
「見間違いだったの?」
「違います。警察が来て、大騒動です」
「人間の死体だったの?」
「当たり前じゃないですか」
「へえ……。でも、忘れていたんだ」
「いえ、我を忘れていたので……」
気を取り直して、その話を山吹に聞かせる。途中でコーヒーが出来上がり、二人はコーヒーカップに口をつけた。
山吹はカップを持ったまま自分の席へ行き、コンピュータのキーボードを叩く。しばらく、三人とも黙っていた。
「ああ、これかな」山吹が言った。「えっと……、他殺死体と断定し、捜査を続けている、か」
「被害者は誰か、わかったのですか?」
「うーん。ああ、竹中|信次《しんじ》さん、四十三歳」
「そうですか。あの近くに住んでいる人なのかなぁ」
「えっと、違うね。那古野市のって書いてあるから」
「仕事は?」
「会社員」
「死因は?」
「それは書いてないよ」
「発見者のことは?」
「なにも書いてないね」
「そうですか。がっかり」
「若い女性二名が発見したって、書くのが普通だよな」雨宮が小さな声で囁いた。
「書いてもらいたかった?」山吹はこちらへ戻ってくる。
「そういうわけじゃないですけどぉ」
ドアがノックされた。
「はあい、どうぞ」山吹が返事をする。
開いたドアから、赤柳初朗の顔が覗いた。
「おやおや、皆さん、またお揃いで」
「こんにちは。毎日大学へ来ているんですか?」山吹は言った。
「いえいえ、今日はですね、加部谷さん、貴女に会いにきたのです」赤柳は部屋に入り、ドアを閉めた。「それから、雨宮さんも。ちょうど良かった」
「私も? え、何です?」
「もちろん、殺人事件の件です」赤柳はにっこりと微笑んだ。手には白い箱を持っていた。「ほら、ケーキもありますよ。ま、それだけじゃないんですけどね」
「ケーキのほかに、何があるんですか?」加部谷は尋ねた。
既に、四人はケーキを一つずつ食べてしまった。まだ、箱の中に二つ残っている。赤柳としては、国枝桃子と海月及介の分を勘定に入れていたのかもしれない、と加部谷は勝手に考えた。
「ケーキのほかに? いえ、もうなにもありませんけど」赤柳は答える。
「あれ? さっき、ほかにもあるって、おっしゃいましたよ」
「ああ……、あれはですね。殺人事件のことだけじゃない、ほかにも話がある、という意味です」
「なんだぁ……」
赤柳は警察から事件に関する情報を聞いてきた、と説明した。発見者がC大の女子学生二人と聞き、名前を尋ねると、加部谷と雨宮だという。それで、こちらへ直行した、と自分が登場した理由を話した。
「そもそもですね。今回の事件のことに興味があったわけではないのです。私は、実は……」
「目薬ですよね」山吹が横から言った。
「そうなんです。目薬のことで調べていたわけです。αですよ」
「アルファ?」加部谷は首を傾げる。
「あ、そうそう、その目薬」雨宮が言った。
「TTK製薬のね」赤柳はにっこりと微笑んだ顔で頷く。「雨宮さん、直里先生のところでバイトをしているでしょう?」
「え、よくご存じですね」雨宮が目を丸くする。
「探偵ですからね」赤柳は少し顎を上げた。「私は、TTK製薬に依頼されて調査をしています。目薬の事件に関することです。それで、直里先生のところへも行き、話を伺ったりしていました。そしてもう一人、TTK製薬の社員の女性で、倉居さんという人がいて、彼女からも情報提供がありそうだったので、会う約束をしていたのです。しかし、残念ながら、向こうの都合でまだ会えません」
「あの事件は神戸なのに、こちらで調べているんですか?」加部谷は質問した。
「ええ、まあ、ちょっと目的が違うわけですね。主として社内の調査ということになります。内部調査ですよ」
「ふうん、よくわかりませんけど、怪しい人間が身内にいるかもっていうことですね?」加部谷はきいた。
「そこまでいかないけれど、まあ、そんな感じかな」赤柳は答える。「で、実は、その倉居さんの上司で、課長の竹中さんという人がいて、なんと、今朝、加部谷さんたちが発見されたのが、まさに、その竹中さんでした」
「え……、そうなんですか? あれ、それじゃあ、TTK製薬の方だったんですね。だから、目薬を持っていたのか」加部谷は雨宮の顔を見た。
「あの辺に住んでいたのですか?」雨宮が赤柳に尋ねた。
「いいえ、違います。彼の家は那古野の緑区で、南の方ですね。全然違います。会社とも自宅とも、方向が違います。ただ、倉居さんという女性は、あの現場から、ほんのすぐのところ、近くのアパートに住んでいます」
「えっと、どういうことですか?」加部谷は瞬きする。「じゃあ、どうして、あそこにいたんですか?」
「いえ、全然わかりません」赤柳は首をふった。「単に、そういった情報を把握している、というだけ。はい、そういうことです。考えるのは、まだこれから」
「今のところ、犯人はわからないのですか?」
「そうみたいですね」
「殴られたのですか?」加部谷は続けて質問する。
「そうです。頭を後ろから殴られて、その場に倒れたようです。倒れたあとにも、もう一発やられているようだと聞きました。とどめを刺したのでしょう。ちょっとしたいざこざとか、あるいは抵抗されてああなったのではない、ようするに、確実に殺すつもりだったということです」
「女性じゃあ、ちょっとそんなの、無理なんじゃあ」加部谷は顔をしかめた。
「そうかもしれません」赤柳は、加部谷をじっと見た。「まあ、しかし、客観的に見て、被害者はそれほど大男でもありません。武器があれば、誰でも可能だったかもしれない。ただ、確実に、失敗なく殺せるという見込みはさほど高くはないでしょうな、あの状況と方法では」
「あんな場所を歩いていたのが、不思議ですよね」加部谷は言う。「あんな時間に」
「私らも歩いとったじゃん」横で雨宮が小声で呟いた。
「加部谷さん、目薬のことをご存じだったんですね」赤柳が加部谷にきく。
「はい」
「暗かったのに、よく見つけましたね」
「ええ、なんとなく……」
「もはや普通の観察眼ではありませんよ、それは」赤柳は少し戯《おど》けた顔で言った。「さすが、美少女探偵」
「よく覚えていますね、つまらないことを」加部谷は嫌味を言ってやった。
「で、どう、思いましたか?」
「え、何がです?」
「変なものを持っていたわけですよね」
「変だと思いましたよ。だけど……、うーん」加部谷は首を傾げた。「べつに、それ以上は……」
「ダイイング・メッセージだって言っとったがね」雨宮が横から囁いた。
「え、どういう意味ですか?」赤柳が顔を五センチほど近づけた。「ダイイング・メッセージ?」
「いえ、あれは」加部谷は困った。「そんな大した考えもなくて……」
「ダイイング・メッセージかぁ」話を聞いていた山吹が呟いた。「なるほどね」
「え? 山吹さん、なにか、心当たりでもあるんですか?」加部谷は尋ねる。助けを求めた格好だ。
「ううん、全然」山吹は簡単に首を振った。「ポケットの中に携帯電話があって、それを取り出して助けを呼ぼうと思ったけれど、つい間違えて、たまたまポケットにあった目薬を掴んでしまった……、というだけなんじゃあ?」
「あ、それ、おおって感じ。意外に凄いですね」雨宮が目を丸くして頷いた。それから、加部谷の肩を叩いた。「そうだよ、犯人を指し示すものを残すんなら、電話をかけるとか、メールを出すとか、そっちの方がまともじゃんか」
「とても、そんな時間はなかったかもしれないでしょう? 急に意識が薄れそうな、苦しい感じだったかも」加部谷は言う。「うーん、でも、目薬を掴んでいても、メッセージになんかにはならないって、今まで考えていたけれど、あの人が製薬会社の人となると、話は違ってきますねぇ。目薬の銘柄で、誰かを示すことがあるのかも。関係者にしかわからないような関連として」
「ところで、それは、例のαの目薬だったんですか?」山吹が質問した。
「そうみたいですよ」赤柳は頷いた。「あとですね、たった今、電話で聞いたばかりの情報なんですが……、東京でも劇物入り目薬が見つかりました。若い女性が被害に遭ったそうです。入院したと聞きました。そろそろ、ニュースでやるでしょう。これから大騒ぎになりますな」
「うわぁ……、同じ人なのかなぁ」加部谷は目を細めた。「どうして、そんなことすんだろう?」
「あれじゃん、えっと、身代金じゃなくって、うーんと」雨宮が言う。「何ていうんだ?」
「ああ、つまり、会社を脅迫しよう、という?」赤柳がきいた。
「そうですそうです」雨宮が指を一本立てる。「やめて欲しかったら金を出せ、みたいな」
「そういう動きは、なかったんですか?」山吹が赤柳に尋ねた。
「さあね、私はそんな話は聞いていませんね。ないかもしれないし、あったかもしれないし」
「同じ人がやったんじゃないのかも」加部谷は言った。
「どうして、そう思うんです?」赤柳がきく。
「だって、神戸と東京じゃないですか」
「そんなの理由にならないよ」山吹が冷たい口調で言った。
「まあ、そうですね。仕事で移動している人間かもしれませんし」赤柳は言った。「否定する理由としては、ちょっと弱い」
「でも、αって、ギリシャ文字ですよ」加部谷は言う。
「だったら?」横から雨宮がきいた。
「つまり、あれよ。うーん、うまく言えないけれど、洗脳されたみたいな感じで、操られているのかもってこと。あ、つまり、大元《おおもと》は同じでも、やっている末端の人は別ってことかな」
「ああ、まえもその話しとったな、君」雨宮は頷く。通じたようだ。
「その可能性は、たしかに、ないとはいえない」赤柳は首を小さくふった。「既に警察も、その方面で警戒を強めている、たぶん」
「どちらにしても、あまり大事にならないと良いですね」山吹が言った。「まあ、幸い、目薬って、特にどうしても必要なものじゃないから、使わなければ良いってことになるかもしれないけれど」
「でも、作っている人は困りますよね」加部谷は言う。「商売あがったりじゃないですか」
「あがったり?」雨宮が言葉を繰り返した。
「さて、もう、私は……」赤柳は壁の時計を見ながら言う。「今日はこれで失礼しましょう。ここへ来たのは、直里先生に会うためだったんですが、生憎、急用で出かけられたとかで、いらっしゃらなかったもんですから……、それで、こちらへお邪魔をしたんですよ」
「嘘ですよね。だって、ケーキ」加部谷は指摘する。
「今から、東京へ行ってきます」赤柳は加部谷を睨みながら続ける。「向こうで情報を集めてこようと思います」
「どうやって集めるんですか?」山吹が質問した。
「それは、うーん、まあ、いろいろですな。伝手《つて》がありましてね、方々に……。あ、そうそう、被害者の竹中さんですが、携帯電話は目薬を持っていた手とは反対側のポケットの中でした」
「あれ、じゃあ、やっぱりその可能性を考えたんですね?」山吹は微笑んだ。「でも、ポケットを間違えたのかもしれない」
「ま、考えることは、誰でも同じってことですな。そう、確かな結論は簡単には導けない。有名な格言にもあるでしょう。ものごとはすべて簡単ではない。ノーワン・イズ・シンプル」
「聞いたことないですけど……」山吹は言った。
赤柳は部屋から出ていった。
「どうします? ケーキ」加部谷はきいた。
「え、何が?」山吹がこちらを向いた。
「あと、二つ残っていますよ。とりあえず、冷蔵庫に入れておく、なんて選択肢は問題外ですか?」
「うーん、そうだね、難しいところだね」
「いえいえ、こういうときはですね、男性だったら、君たちが食べなよって言うもんじゃないですか?」
「そんなに食べたら太るんじゃない?」
「う、何ですか、それ」加部谷は立ち上がった。「今ので切れました。もう絶対食べてやる、私」
突然ドアが開いて、国枝桃子が入ってきた。加部谷と雨宮を一瞥し、テーブルの横を通り過ぎ、自室のドアへ近づいた。
「あ、先生」山吹が呼び止めた。「ケーキがありますけど」
国枝は立ち止まった。振り返り、テーブルへ戻ってくる。そして、開いたままになっていたケーキの箱を見下ろした。
「私たちもういただきました」加部谷は言った。「先生も、どうぞ」
「コーヒー淹れましょうか?」山吹がきいた。
国枝は、片手を箱の中に入れ、ケーキを一つ摘み上げると、立ったままでそれを食べた。二口くらいでケーキは消えてしまった。
「もう一つあるけど」国枝は言った。
「あ、もし、良かったら……」山吹が言う。
「ありがとう」国枝はすぐに手を出して、もう一つもたちまち食べた。「コーヒーはいらない。すぐに次の会議があるから。助かった、エネルギィ不足だったとこ」
国枝は自室のドアの中に入っていく。
「相変わらず、ワイルド」雨宮が小声で囁いた。
「マラソンランナみたい」加部谷は感想を口にする。
一分もしないうちに、国枝はまた出てきた。違うファイルを手に持っていた。そして、黙ったまま視線も合わせず、また通路へ出ていった。
ドアが閉まったあと、しばらく沈黙が続いた。
「ケーキ、残念でした」山吹が微笑んだ。「なにか、言いたいことは?」
「一つ良いですか?」加部谷は軽く手を上げた。
「はい、加部谷さん、どうぞ」雨宮が言う。
「山吹さん、どうして先生には、太りますよって言わないんですか?」
愛知県警の近藤《こんどう》刑事は、新人の佐野《さの》を連れていた。
佐野は、捜査一課に今年配属になったばかりの女性で、近藤よりも六つ若い。鑑識課は女性の比率が高いが、自分の部署には今まで女性はいなかったので、彼女が来てからというもの、なんとなく空気が変わったような気がした。具体的には、室内で煙草を吸わないようになった。もともと規則としては禁じられていたのだが、ほとんど守られていなかったのである。だから、空気が変わったというのは、比喩的表現ではない。
現場の近くにある倉居三重子のアパートが目的地だった。倉居は、被害者である竹中信次の部下である。会社へ問い合わせたところ、今日は欠勤しているという。朝、具合が悪いので休ませてほしい、と電話で連絡をしてきたらしい。本事件はまだテレビでも報道されていない。彼女が事件に関与していないならば、竹中が殺されたことを知っている可能性は低い。もちろん、早朝からサイレンが鳴っていたのは聞こえていただろう。それくらい現場とは近い。また、既に大勢の警察官が、周辺を捜索している。アパートから外に出れば、事件が起こったことくらいはわかる。しかし、殺されたのが誰なのかまでは、わからないはずである。
道路にパトカーを停めた。運転していた警察官は車に残した。近藤と佐野は、アパートの壁に書かれている〈東寺荘〉という文字を確かめた。郵便受けを見にいき、それから、右手へ回って、鉄骨の階段へ近づいた。倉居の部屋は二階である。
まず、気づいたのは、同じ敷地内だろうか、すぐ隣にログハウスが建っていることだった。大きなものではない。平屋で、おそらく中は一部屋しかないだろう。窓の中から、人の顔が覗いていた。女性である。こちらを見たようだが、すぐに見えなくなった。
近藤たちは階段を上がり、倉居という表札があるドアの前に立った。ドアの郵便受けに朝刊が挟み込まれたままだった。
佐野は、近藤の顔を見た。彼が頷くと、彼女はインターフォンのボタンを押した。部屋の中でチャイムが鳴る音が聞こえた。
しばらく待ったが、もの音はしない。もう一度、佐野がチャイムを鳴らした。
反応がないので、近藤はドアをノックした。
それから、膝を折り、ドアのノブの高さに目を持ってくる。鍵がかかっていることは、隙間から僅かに覗き見えるバーで確かめられた。彼は再び立ち上がった。
「留守か……。病院にでも行ったか」そう言いながら、周囲を見渡した。「そこの家できいてみよう。たぶん、大家さんじゃないかな」
同じ敷地に古い民家がある。かなりの豪邸だった。
「ログハウスの人に尋ねてみましょうか」佐野が言った。
「あ、そうだね」
階段を下りて、ログハウスの入口のステップを上がった。また、窓の中で人が動くのが見え、近藤がドアをノックするまえに、それは開いた。
ジャージ姿の若い女性である。髪を頭の後ろで縛っていた。じっと睨むような目だった。
「こんにちは、愛知県警の者です」彼は手帳を見せる。「隣のアパートの倉居三重子さんをお訪ねしたのですが、お留守のようです。失礼ですが、倉居さんをご存じですか?」
「はい」彼女は頷く。「お友達です」
「どこへ行かれたのか、ご存じないでしょうか?」
「会社じゃあ」
「どちらにお勤めですか?」近藤は尋ねた。もちろん答は知っているが、この女性との関係を知りたかったからだ。
「さあ、どこの会社なのかは知りませんけど」
「最近、いつ会われましたか?」
「え? 彼女とですか……」女性は眉を寄せ、近藤の肩越しに遠くを見るような視線になった。近藤はそれにつられて、後ろを振り返ったが、ステップの途中に佐野が立っているだけだった。道路にはパトカーのボンネットだけが見えている。「見かけた、ということだったら、昨日の夜、見かけましたけど」
「夜、何時頃ですか?」
「何時頃だったかな。そんなこと覚えていませんよ」
「いえ、だいたいでけっこうです。十二時よりまえですか? それともあとですか?」
「十二時に近かったと思います」
「どこで、見かけられたのですか?」
「ここです。彼女が帰ってきたところです。私は家の中にいて、窓から見えました」
「ああ、音が聞こえたのですね? 砂利を踏む音とか」
「そんなの聞こえませんよ。でも、声がしたので……」
「声? 誰の声ですか? 倉居さんは、どなたかと一緒だったのですか?」
「そうです。男の人と一緒でした」
「どんな感じの?」
「暗いから、よく見えませんでした」
「若いか、年寄りか、わかりませんでしたか? ネクタイをしていましたか?」
「中年かな。たしか、黒っぽい背広だったと思います」
「倉居さんは、その男性と二人でここへ入ってきたわけですね?」
「そうです」
「話をしながら?」
「そうです」
「聞こえるような大きな声だったんですね?」
「ええ……」
「それで、階段を上がっていった。部屋に入ったところをご覧になりましたか?」
「いえ」
「では、階段を上がっていくところは?」
「いえ……、階段へは行かなかったから」
「え、じゃあ、どこへ行ったんですか?」
「そこで別れて、男の人は帰っていきました。だから、たぶん、送ってきてもらったんじゃないですか?」
「倉居さんは、部屋に入られたわけですね?」
「そうです」
「男性はどちらへ行きましたか?」
「そこまでは見ていません。見るのをやめてしまったので」
「声が聞こえたとき、話している内容もわかりましたか?」
「いいえ。そこまでは」
「笑っていたとか、楽しそうだったとか、それとも、言い争っていたとか、二人がどんな感じで話していたか、わかりませんでしたか?」
「うーん、べつに、普通でしたけどね」
「二人は、どれくらい離れていましたか? 寄り添って歩いていたのか、それとも、離れて歩いていたのか」
「離れていました」
「そうですか……」近藤は頷いた。
もう一度、アパートのドアを見たが、もちろん変化はない。ログハウスの窓の中からでは、角度的にそのドアは見えないかもしれない。ただ、道から敷地へ入ってくるところは、真正面になるので、観察しやすいことは確かである。
佐野が手帳を出して記録をしていた。ログハウスの女性に名前を尋ねると、矢場香瑠と答えた。電話番号を尋ねたが、電話はない、と返答した。協力について礼を言い、近藤たちはログハウスから離れた。
それから、奥の屋敷を訪ねた。表札には、〈東寺〉とある。年輩の女性が玄関に出てきて、そこで膝をついて応対した。名前は東寺|昌子《まさこ》、年齢は七十二歳だという。まだ、見た感じも非常に若々しく、話もしっかりとしていた。彼女の夫は入院をしているため、この屋敷で今は一人で暮らしている、と説明した。倉居三重子のことを質問すると、大人しくて良いお嬢さんですよ、と答える。TTK製薬に勤めていることも知っていた。
「何があったんですか?」ちょっとした沈黙の隙を突いて、東寺昌子の方からきいてきた。「朝から、サイレンが煩《うるさ》かったみたいですが、なにかの事故だったんですか?」
「ええ、そうです。すぐ近くですね」近藤は頷いた。「事故というよりは、事件ですが」
「どんな? どこであったの?」
「向こうの公園の上の、お寺へ上がっていく階段のところです。わかりますか?」
「あ、ええ、長い階段の」
「そうです。そこで男性が襲われて、倒れていました」
「あらま。どこの人?」
「この近辺の人ではありません」
「それが、倉居さんと、どんな関係があるんですか?」
「あ、いえ、関係があるというわけではありません。ただ、倉居さんと同じ会社に勤めていた方だったんですよ」
「ああ、そうなんですか」
「昨日の夜、なにか、音か、声か、お聞きになりませんでしたか?」
「夜ですか……、私、早くにもう寝てしまいますのでね」
「その時間以外でもけっこうです。普段と変わったようなことはありませんでしたか?」
「ええ、特に……、ちょっとわかりませんけれど」
「ログハウスの矢場さんが、夜遅く、倉居さんが帰ってきたところを見ていたそうです」
「ああ、そうなんですか」
「矢場さんは、あのログハウスを借りられているのですか?」
「ええ。主人が元気だった頃に、ああいいよ、みたいな感じで貸しちゃったんですよ。お家賃もなしでね」
「あ、じゃあ、ご主人のお知り合いなんですね」
「さあ、どうだか、知りませんけれど……」
近藤たちは、礼を言い、東寺家を出た。
倉居三重子が会社に出てきていないことは、矢場にも東寺にもまだ話さなかった。
結果だけを電話で報告し、そのあとは、近辺の聞き込みに回った。まだ、この時点では、倉居三重子は特別に重要な人物とは判断されていなかった。しかし、彼女を送ってきた男性が、もしかしたら殺された竹中信次だったのではないか、という話を近藤と佐野はした。
「会社の人間は、なんと言っているのかな」近藤は呟いた。その連絡はまだ受けていない。
「もし、倉居さんと一緒だったのが被害者だったとしたら、ここで、倉居さんと別れたあと、被害者はあの階段まで歩いていったことになります。何の目的であんな場所へ行ったのか、ちょっと説明がつきませんね」佐野が言った。「タクシーを拾うなら、あちらへは行かないはずです」
「倉居三重子と二人で行った、というのも変だね。ちょっと考えにくい。いちおう、別れたところを目撃されているし」
「タクシーで彼女を送ってきたとしたら、タクシーを待たせておいたでしょうから、それに乗って自宅へ帰るのが普通ではありませんか?」
「タクシーを待たせておかなかったかも」近藤は言う。
「どうしてですか? この辺り、タクシーはなかなか拾えないんじゃあ」
「いやあ、なんかね、女性を送り届けるときって、タクシーは待たせておかないんじゃないかなって」近藤は少し笑ってしまった。
「え、どうしてですか?」
「まあ、いちおう、車から降りるよね」
「ああ、なるほどぉ……」佐野は頷いた。意味がわかったようである。「近藤さん、そういうことになると、鋭いですね」
「そういうことって、どういうこと?」近藤は笑うのをやめて、佐野を睨んだ。
「となると、倉居さんを送ったあと、部屋へは入れてもらえなくて、しかたなく、一人で帰ろうとした。でも、うーん、やっぱり、タクシーを探しにいくなら、あんな方へは歩きませんよね。地理がわからなかった、ということですか? 向こうって、真っ暗ですよね。反対側の通りの方が明るいわけですから……」
「まあ、そうかな」
「誰かに会った、ということでしょうか」
「会っても、あんな場所へは行かないよ」
「そうですよね……」
赤柳初朗が新幹線に乗っているとき、胸ポケットの携帯電話が振動した。かけてきたのはTTK製薬の北沢賢太郎だった。今回の調査を依頼した人物である。返事をしながら、シートを立ち、赤柳はデッキまで移動した。
「警察が、倉居さんを探しているようなんです」北沢は言った。
「え、まだ見つからないのですか?」
「ええ、困ったことになりました。東京のこともあるし、いろいろ重なってしまって……、てんやわんやです。もうすぐ、社で記者会見もある」
「その、目薬の件と、昨夜の事件は、関連があるものと見られているのですか?」赤柳は周囲を気にして小声で言った。
「少なくとも、警察は関連づけていますね。なにしろ、竹中が目薬を持っていたんですから。今のところ、まだ、社内で見つかった件については、公表を見合わせるつもりでいます。その一件が最も倉居さんに近いわけですが、いくらなんでも、あまりにもまずいだろう、という判断になりました。これがどう出るのか、非常に不安ですけれどね」
「そうですか。私は今から、東京でちょっと情報を集めてきます。深夜には那古野に戻りますが、一度お会いした方が良いですか?」
「うん、そうですね。では、こちらへ戻ったら、一度電話を。今夜はずっと社におります」
「わかりました」
東京に到着し、まず、警察関係の人間を訪ねた。連絡を取り、警視庁のすぐ近くの喫茶店で待ち合わせた。鑑識課にいる古い友人だが、東京の目薬事件のことを調べているのは、彼の部署ではなかった。
「今は、大学へサンプルを持っていってるらしい」
「中身は、神戸と同じものが?」
「未確認だけれど、今回は、たぶん、殺虫剤じゃないかなって聞いたよ。公式の発表は明日以降になるね」
「ということは、違うってことだね?」
「まったく違う」
「被害者の様態は?」
「それも詳しくは知らない。まあ、失明するようなことはないよ。すぐに気づいて、自分で洗っているみたいだし、救急車を呼んだのも自分なんだ」
「目薬の銘柄は同じだったわけだよね?」
「うん。TTK製薬が目標というわけかな」
「何の目標? 単なる攻撃? それとも……、交渉目的かな?」
「知らない。そんな話は聞かないね、まだ」
「目薬は、買ったばかりだった?」
「そうらしい。だから、店にあったときに、もう異物が入っていた可能性が高い。特定の個人を狙ったものとは、考えにくいってことになる」
そんな程度の話だった。コーヒーを一杯だけ飲んで、彼は仕事に戻っていった。東京までわざわざ来なくても聞ける話であるが、一番知りたいのは、警察内部の雰囲気というか、認識の度合いである。まだ、それほど大きな事件、深刻な事態としては捉《とら》えられていないようだ、とわかった。
時刻は午後八時。もう一人会う人物がいる。そちらは今日が初対面だ。混雑した電車に乗り、JRの大きな駅に向かった。そこの改札口で会う約束である。
三カ月ほどまえに知り合った人物で、ある友人の紹介だった。女性だと聞いているが、年齢などは知らない。赤柳が彼女に依頼した仕事は、ネット上のあるグループに入会し、その内部を調べてもらう、というもの。自分でやっても良かったのだが、万が一知られた場合にまずいことになる。また、コンピュータ関連のことは、残念ながら詳しくはわからない。その点、彼女は本職なので、時間的な負担も少ないはずだ。
待ち合わせ場所へ五分まえに到着した。こちらの外見上の特徴は伝えてある。向こうから見つけてもらうしかない。人混みの中、目立つ位置を探して、赤柳は立った。
すぐに一人の女性が近づいてきた。白いレインコートのようなものを着ている。手提げの紙袋を持っていた。痩せているが、背は赤柳と同じくらい。おかっぱでメガネをかけている。二十代だろうか。
「赤柳さんですか?」
「あ、時田《ときた》さんですね。どうも、はじめまして。えっと、どうしますか? どこか……」赤柳は辺りを見回した。「そこのスタバに入りましょうか。あ、お食事の方が良いですか?」
「いえ、では、そこで」
喫茶店に入った。彼女は飲みものだけで良いと言う。赤柳は腹が空いていたので、パイとサンドイッチも注文した。テーブルは運良く一番奥のソファの席が空いたところで、そこに向かい合って座ることができた。
「いやあ、お若いですね。びっくりしました」
「どうしてですか?」にこりともせずに、時田はきいた。
「いや、なんとなく、三十代か四十代か、ええ、それくらいの方を想像していましたので」
「私、三十代ですけど」
「あ、あ、そうですか。これは、どうも失礼しました」
ようやく、注文品が揃ったらしく、カウンタから呼ばれたので、赤柳は彼女を制し、席を立った。トレィを持って席へ戻り、さきほどの失言が彼女の頭から消えていてくれることを祈った。赤柳はカップに口をつけたが、飲めたのは泡ばかりだった。
「いつも報告をしてもらっているので、今さら、おききすることもないのですが、でも、一度はお会いしておいた方が良いと思ったものですから」赤柳は話す。「まあ、とにかく、あの、無理をせず、片手間に調べてもらえれば、と思っています」
「最初は、べつに普通かなって、思いましたけれど、この頃、凄さがわかってきました」時田は話した。抑揚のない口調だった。「システムがかなり変わっています。コアに何を使っているのかわかりませんけれど、でも、よくできていますね」
「あれは何ですか? 宗教でしょうか?」
「わかりません。でも、会員は集まっています。バーチャルの街の中に教会があって、そこに集まる人が増えていますから、まあ、そういう演出をしている、ということかもしれませんけれど。ああ、その意味では宗教かな」
「リーダみたいな人がいるんですか?」
「います。でも、それは小さなリーダですね。会員の中で、そういう人が自然に出てくるわけです。小さなコミュニティを作って、その中で勝手な話をしているだけです。全体を仕切るようなリーダは見えません。教会に牧師さんがいますが、これは管理者というよりも、たぶん、プログラムです」
「プログラム?」
「ええ、コンピュータが相手をしているだけです。懺悔《ざんげ》とかができるようになっています。これは、まだ私は試していません」
「なにか危険を感じるようなものとか、そんな兆候とかは、ありませんか?」
「今のところはありません」時田はメガネに手をやった。「でも、見えない部分は本当に沢山ありますね。もう一歩踏み込まないと、見られないんです。そういった深い場所で何が話されているのか、何が見られるのか、まだわかりません」
「会員は日本人だけですか?」
「違います。日本は支部です。アジアでも各国にありますし、アメリカと、それからヨーロッパにもあります。どこが本部かはわかりませんが、支部間の行き来は自由です。使用する言語で分かれています」
「そうなんですね。そんな大きな規模なんだ。それにしては、マスコミも取り上げないし、誰も話題にしていないなあ。うーん」赤柳は唸る。「なにか、情報操作をしているのかな」
「いえ、そんなの普通ですよ。この手のものは沢山あります」
「そういうもんですか。あの、中では、実際にお金のやり取りなどはありますか?」
「あります。オークションやチャリティがあります。集金能力がどれくらいかはわかりませんが」
赤柳はパイを食べながら話を聞いていた。メールでときどき情報は得ていたが、今のところは、これといった問題も価値のある情報も見つかっていない。もともとは、ギリシャ文字絡みの一連の事件が発端である。それぞれ、ネット上でなんらかの動きが、本当に目立たない規模であった。サーバも見つかったが、すぐに閉鎖された。かつて存在した某宗教団体が母体ではないか、という疑いを持ったが、決定的な証拠はない。その団体が、ある天才と結びつきがあったという過去の事実はあるものの、現在いったい何が行われているのかは、想像もできない。単なる遊び、あるいはサービスだろうか、それとも、情報収集としての機能しかないのか。
「目薬αのことは、話題になっていますよ」時田は言った。
赤柳はカプチーノをまた飲んだ。彼女の方からその話を始めたことに驚き、同時に期待した。しかし、表情を変えないように努めた。
「目薬α?」カップをテーブルに戻し、惚《とぼ》けてみる。
「神戸であって、今度は東京であった事件です。劇物入り目薬の……」
「ああ、あれは、αなんですか?」
「そうです、目薬の名前にαがつきます。私も使っていました。でも、今はもう怖くて使えませんね。店頭から消えていると思いますけど」
「どんなふうに話題になっているんです?」
「わかりません。そこは、シークレットなので。宣言をしないと入れないエリアです」
「宣言というのは、具体的には?」
「口外しないという誓いを立てることですね」
「ああ、約束ですか」赤柳は頷き、じっと彼女を見た。「単なる」という言葉がもう少しで口から出るところだった。それくらいの誓いならば、簡単ではないか。中に入って調べてくれたら良いのに、という気持ちはたしかにあった。しかし、実際に口にすることは我慢した。少なくとも今はまずいだろう。
「メールが見張られるかもしれません。そうなると、口外したことがばれる可能性はあります。危険は冒せません」彼女は言った。「もちろん、そんな可能性は小さいとは思いますけど」
「こちらとしても、危ないことはしてもらっては困ります」
「良いことも沢山ありますよ。その街で得られた情報には、非常に役に立つものが沢山あります。私の仕事上だと、ちょっとしたツールが簡単に手に入ったり。あと、一つだけですが、仕事の依頼がありました」時田は初めてそこで微笑んだ。彼女が自然に「街」と言ったのが、つまりはネット上のバーチャルな場のことである。
「仕事の依頼? ああ、時田さんは、フリーなんですか?」
「そうです。まえはお給料をもらっていましたが、独立しました。その方が報酬が多いし、時間も自由になるので」
「なかなか、そういうことができる人は少ないのでは?」
「そうでもありません」
赤柳は頷いた。もう少し突っ込んだ話がしたいが、どう切り出そうか、と考えていた。天才の名前を口にするのが一番簡単に思えたが、どうも危険すぎるのでは、という心配が拭えなかった。それを意識させることで、彼女が危険になるのでは、という意味である。
「あ、そうだ」時田は話を続ける。「その街で出会った人で、同業者の人がいたんです。年齢も私と同じくらいなんですけど、その人が、かなり詳しいんですよね。その街に最初からいるって言っていましたし……。赤柳さん、その人に直接会われたら、いかがですか?」
「え? 時田さんは、直接会われたことがあるんですか?」
「ええ、先月初めて会って、もう三回会いました。すぐ近くで仕事をされているんです。六本木《ろっぽんぎ》ですけど」
「そうですか。男性ですか?」
「いえ、女性です。島田《しまだ》さんといいます」
「島田、何ですか?」
「えっとね、島田|文子《あやこ》さんです。アヤは、文章のブンという字です」
「島田文子さんですね、わかりました。でも、ちょっとまだ、私のことは話さないで下さいね」
「それはもちろんです。私がそんな調査目的で街に来ているなんて、知られたら面倒ですから」
「その島田さんは、どちらにお勤めですか? 連絡先がわかりますか?」
時田は携帯電話を出して、島田の勤め先の電話を教えてくれた。会社名は知らないという。
「もう、よろしいですか?」話が一段落したところで、時田は言った。二十分ほど話しただろうか。
「あ、ええ、もちろんです。私も新幹線に乗るので、そこまで一緒に行きましょう」
駅の改札の前で彼女と別れ、赤柳は階段を上がっていった。ちょうど電車が来たので、それに乗り、釣り革に掴まった。
東京では、会いたい人間が沢山いる。しかし、もう時間がない。帰りの新幹線ではビールを飲もうかどうしようか、と考えていた。
私は、香瑠をとても尊敬している。
気がついたときには、もう完全に虜になっていた。彼女の躰の形、そしてその動きをじっと見つめている。仕草の一つ一つが流れるように自然で、どこにも無駄がない。とても美しいと思う。私は初めて人間というものが美しいと思った。ずっと、それは醜いものだと私は考えていたのだ。
たぶん、自分が基準だったからだろう。私が一番知っている人間は自分だったし、考えていることがわかるのも自分だけだ。だから、その醜さ、嫌らしさ、愚かさばかりが目についた。目を背けたくなるようなものたちが、ずっと私に纏《まと》いつき、躰を締めつけるように圧迫していたのだ。
だって、私は人間の中にいるのだから。
社会というものも、この醜い人間たちの集まりなのである。自分が考えているように、他人もきっと考えているだろう、と予測ができる。そう予測するしかない。顔は笑っていても、腹の中では、誰もが相手を軽蔑している。近づいたら、今にも豹変して、野獣のように噛みついてくるのではないか。そんな偽りの笑顔ばかりだ。
信じられるものなんてなかった。なにしろ自分が信じられないのだから、他人を信用するなんてどだい無理な話なのだ。ただ、そんな嫌らしくて汚い社会でしか、人間は生きていけない。濁った場所にしか棲《す》めない生きものなのだ。それは、自分もそうだと思った。たとえ飾りだけの笑顔でも、その場は嬉しいと思える。本心がどうかなんて忘れてしまい、馬鹿な振る舞いをしていれば、その瞬間だけは楽しいと感じられる。そういうふうにして、みんな生きているのではないか。
頭の良い者は、騙し合っているし、頭の悪いものは、騙され合っている。どちらにしても、実際には存在しないものを見せ合って、そして、それが見える振りをするのだ。この繰り返し。本当に馬鹿馬鹿しい。
ときどき、それを思い出すと、死にたくなる。
どうして、生きているのか、という疑問に私はしっかりと答えられない。答えられないのに、こうして毎日生きていけるのは、単に人間の躰という生きものが、そういう仕組みにできているとしか思えない。考えなくても生きていけるように、理由がなくても生きていけるように、躰はできている。躰だけは動物や植物と同じなのだ。
でも、人間は躰ではない。この人間の形をした躰の中にいる存在なのだ。私もそうだ。少なくとも、そこは信じている。人間はここにいる。ただ、この躰から出られないだけなのだ。
騙すのと、騙されるのと、どちらが良いだろうか、という判断ばかりを繰り返して、私は生きてきた。
大人になって就職をし、親元を離れたことは、私にとっては幸いだった。あの息苦しさに、よく耐えられたと感心する。私は女だし、それに子供の頃の私は躰が弱くて、周りに迷惑をかけたから、たぶん、それらが私を我慢させた要因だと思う。そうでなかったら、もっと早く飛び出していただろう。
神様は、私を見ていてくれたにちがいない。香瑠に会わせてくれたのだ。もしかしたら、香瑠が神様なのではないか、と疑ったくらいだ。彼女の完璧さは、本当に神様でしかなしえないものだと私は思う。
あっという間に、私は香瑠に夢中になった。最初は、格好良いな、と感じた気持ち、そして、ちょっとした憧れだった感情が、どんどん大きくなり、支配的になった。いつも香瑠のことを考えるようになっていた。朝、彼女に会える。帰ってきても、彼女に会える。目が覚めると、今日も香瑠に会える、とまず頭に浮かぶ。それだけで元気が出る。生きることの価値を見出せるのだ。毎日が楽しくなった。
これは恋愛ではない。そういう気持ちでは全然ない。
生きる指針を、私は見つけたのだと思う。
私は香瑠のようになりたいと思った。
あんなふうに生きたいと望んだ。
私が香瑠のようになるには、どうしたら良いだろう?
まず考えたことは、躰を鍛えること。私は、自分の躰が嫌いだ。ずっとこんな場所にいることが嫌で嫌でしかたがなかった。乗り換えたい、とばかり考えていた。だから、躰を自分で鍛えるなんて発想したこともなかった。躰は、一方的に精神を圧迫する存在だとしか認識していなかったのだ。
私はその考えを香瑠に話した。
「駄目だな。それは違うね、全然間違っている」香瑠は首をふった。「心と体はね、同じものなの。心が体のどこかにあるんじゃない。脳にある、なんて考えているでしょう?」彼女は頭に指を当てた。
「脳で考えるんじゃないの?」
「全然違うな。そう思い込んでいるだけなんだよ」香瑠はにっこりと微笑む。白い歯がとても綺麗だ。「躰の全体で考えている。躰の隅々までね。単に、神経っていうもので、連絡を取り合っているだけのことで、脳はその信号の中継をしているだけなんだ。考えているのは、躰の細胞全部。つまり、心なんていうものがあるんじゃなくて、躰が心そのものであるわけ」
「うーん、そうなのかな」
「走ってみればわかるさ。どれだけ気持ちが良くなるか。そして元気が出る。おかしいでしょう? 疲れることをするのに元気が出るんだよ。やる気になるんだよ。躰を鍛えて、ほんの小さな動きでも、気持ちを込めて、考えに考えて、動くことだね。そうすることで、躰はもっと気持ちのままになるし、たぶん、心も綺麗になっていく。全体が生きている感じ。洗練される感じ。一体感みたいなものだね」
「なんか、それはわかるような気がする」私は頷いた。香瑠につき合って、朝の軽いジョギングをするようになって、それに似た感覚を実際に抱いていたからだ。
「たとえば、この社会を見てごらん。誰が考えている? 国会議事堂が考えている? それとも原子力発電所が考えている? 違うでしょう? 考えているのは一人一人の人間、みんなだ。誰もが全員考えているんだよ。これ、つまり躰の中の細胞と同じってこと。中にはぼんやりとして、あまり考えていない細胞もあるけれど、考えられるという意味では、みんな同じ、平等でしょう?」
「そうね。うん、わかるわかる」
「大勢の人間が考えて、そうしようと思ったら、社会は動く。悪い政治が行われていても、ちゃんとそれを倒して、もっと良い社会にしようとする」
「でも、戦争はあるけどね」私は言った。
「そう。そこなんだ。あれは、人と人が喧嘩をするのと同じだね。それから、一つの国の中で起こる戦争もある。同じ人間の中でも喧嘩はあるでしょう?」
「ある?」
「あるある。精神分裂症みたいなの、あるじゃない。あるとき考えがころっと変わって、人が変わったみたいになることだってあるじゃない。心を入れ替えた、なんて言うでしょう?」
「ああ、そうか、そういえば……」
「社会も、心を入れ替えなきゃならないときがあるな」香瑠は言った。「小さなショックが一時的にあるけれど、みんなが考えて、全体を正しい方向へ導くことが大切だね。それは、誰のためでもなくて、誰かがリードしているのでもない。政治も政治家も、脳のように、沢山の細胞たちが考えたことをちゃんと中継して、ネットワークを維持することに力を注ぐべきだね。自分たちが考えているなんて幻想を持ったら、それはもう独裁政治になっていくわけ。そういう間違いを何度も歴史は繰り返してきたでしょう? 脳で考えているなんて、ある意味で、とても危険な発想なんだな。そんな思い上がった脳は、取り替えた方が良いかもね」
「取り替えられないよ」私は言った。
「そう、人間の場合はね。今は無理かも。でも、どうかな、いつかできるかもしれないよ。それから、社会の場合はね、脳が死んで、入れ替わったら、新しい社会が生まれるわけでしょう? 政府が倒されても、そこに暮らす人たちはみんな生き続けているんだからさ。新しい社会を作っていった方が幸せだと思わない?」
「そうね、それはそうかも」
私はうっとりとして、香瑠の話を聞いていた。
香瑠はときどき、そんな社会の話をする。どういうつもりなのかはわからない。彼女が何を目指しているのかも、私にはよく理解できない。抽象的な言葉しか、彼女の口から出ないからだ。
それでも、香瑠は口ばかりの人間ではない。たぶん、私のために、深く立ち入らないように気を遣ってくれているのだ。私にはそれがよくわかっていた。
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第3章 つぎつぎまたもや
[#ここから5字下げ]
そいつをやった者は誰か知らんが、何のしるしも残さないんで、昼間の番の最初の男が来て見つけると、みんなたまげて途方にくれましたんです。だって死人がすっかり隠れ込んじまってるんで、別にお墓ん中へじゃありませんが、咎めを避《さ》けようってつもりか、細かい砂がかかってますんで。
[#ここで字下げ終わり]
TTK製薬の社員が殺された事件から一週間が経過した。この間に、劇物入りの目薬がさらに三箇所で発見された。ニュースで報道されているものは合計五件になる。最初が神戸、次が東京、あとの三件は、東京で二件、大阪で一件である。警察は、関連を調べているが、いずれも劇物(これはマスコミの呼称である)の種類が異なることから、同一犯ではない可能性が高いとの見方を強めている、と報じられていた。
当然ながら、殺人事件に関する報道はエスカレートし、世間を騒がせている目薬を扱う部門にいた人間が、ある殺人事件の被害者だったことに注目が集まった。ワイドショーでは、あらゆる憶測が根拠もなく飛び交う結果となり、直接的な表現は避けられていたものの、つまりは、社内でなんらかのトラブルがあって、それが引き金になって、製品に対する嫌がらせが行われているのではないか、そして、その結果として口を封じられたのが、竹中という男だったのではないか、と言わんばかりの映像とコメントが繰り返された。
幸いにして、問題の目薬を使おうとした被害者たちはいずれも、取り返しのつかない事態にはなっていない。入院をしたのは最初の二人だけで、あとの三人は、目に入れるまえに中身を調べていたのだ。マスコミは、自分たちの積極的な報道によって被害を未然に防ぐことができた、と視聴者に強調した。これこそがマスコミの使命である、という珍しくわかりやすいサンプルが、彼らの手に転がり込んだことは確かだった。
TTK製薬は製品の回収を行っていたが、それは、問題となっている製品以外の商品にも一部及んだ。目薬についていえば、他社の製品でも売上げは激減している、と報じられている。
殺人事件の一週間後に、愛知県警の近藤が、加部谷恵美を訪ねてきた。電話がかかり、大学の近くのファミレスで夕方に待ち合わせた。加部谷は雨宮と二人で出向き、近藤の方は、佐野という名の若い女性の刑事を伴っていた。
「わぁ、凄いですね。女の刑事さんなんて初めて見ました」加部谷は言った。「捜査一課ですよね?」
「そうです。でも、私が初めてではありません」佐野は答える。きりっとしていて、クールな感じに見えた。
「私なんかじゃなれませんよね? 身長が足りないかなぁ」
加部谷のこの疑問については答は返ってこなかった。格闘技を習った方が良いか、という質問もしたかったのだが、話題はすぐに事件のことへ移る。
近藤に話すのは初めてだったので、死体を発見したときの様子を、もう一度加部谷と雨宮は説明をした。そんなに多くの情報があったわけではない。なにしろ、真っ暗闇でほとんどなにも見えない状態だったのだ。
「音はどう? 変な音を聞かなかった? 誰かがまだそばにいた、ということはないかな?」近藤が尋ねた。
「うーん」加部谷は思い出す。「静かでしたからね。もし、近くで動いたり、走ったりしたら、絶対に気づいたと思います。石垣の上の方、柵の中でじっと隠れている、とかだったら、わからないけれど……」
「いつ頃、あの人は襲われたのですか?」雨宮が余所行きの声で質問した。
「加部谷さんたちが発見したのは、被害者が死亡して二時間ないし三時間後ではないか、と見ています」佐野が答えた。
「何で殴られたんですか?」加部谷も質問する。
「いえ、それはわかりません。現場には、凶器らしきものは残されておりませんでしたので」
「目薬は? あれは普通の目薬でしたか?」加部谷は質問を続ける。もちろん、被害者が手にしていたもののことだ。「なにか毒が入っていませんでしたか?」
「いえ、異常はありませんでした。被害者は、自社のものを日常使っていたようです」
「なんだぁ、じゃあ、ダイイング・メッセージじゃなかったんですね?」
「ああ……」佐野はここで笑顔になる。「そうですね」
「ダイイング・メッセージというのは、たとえば、どんな?」近藤が加部谷にきいた。
「この毒入りのサンプルが犯人を示す手掛かりだ、みたいなことが言いたかったのかなって思いましたけど」
「本件が、目薬の事件と関連があるかどうかは、まだわかりません」佐野が事務的な口調で話す。歯切れが良く、メガネの中の目もシャープな感じである。格好良いな、と加部谷は感じた。
「えっと、あ、そうだそうだ」加部谷は質問を思いついた。「殺された人の部下の女の人、どうでしたか? もう会われましたか?」
「え? 誰のことですか?」近藤は驚いた表情だった。
「うーんと、名前は……、あれ?」彼女は雨宮を見た。「純ちゃん、覚えてない?」
「は? 覚えとるわけないがね、そんなもん」雨宮が小声で答える。
「えっとですね、とにかく、部下の女性が重要なんじゃありませんか?」加部谷はきいてみた。
「加部谷さん、どうして、それをご存じなんですか?」近藤が身を乗り出して、きき返した。
「ありゃ、そうか……、えっと、これは、もしかしてもしかして、内緒だったっけ?」加部谷は赤柳のことを思い出した。
赤柳が、TTK製薬から頼まれて調査をしている。そのこと自体は話しても良いだろうか。でも、怪しい人物が社内にいて、その一人が社内の研究者で、もう一人が殺された人の部下の女性だ、という内容は、たぶん、秘密にしなければいけないような……。
「人が殺されたんだで、話した方がいいんじゃない?」雨宮が加部谷の耳もとで囁いた。
「ご存じのことがありましたら、できるだけ教えていただきたいと思います」佐野が言った。
近藤も佐野も、じっと加部谷を見つめた。圧力を感じる視線である。加部谷は決心をした。
「えっと、つまりある人が、TTK製薬の目薬のことで調査をしていたんです。その人から聞いたんですよ。えっと、殺された人の部下の女性がいるって」
「その部下の人が、どうしたんですか?」
「いえ、どうもしません。ただ単に調べているっていうことですね」
「なるほど。赤柳さんですか?」近藤はきいた。
「あ、えっと、ええ、その……、そうなんですけど。でも、うーん、いいのかな、私、しゃべっちゃって」
「大丈夫だと思います。そうか、では、赤柳さんから直接きいた方が良さそうですね。その話は、いつ聞いたんですか?」
「事件の翌日、というか、その日だったと思います」
「実は、その女性を、僕たちも訪ねたんですよ」近藤は話した。「これは、ここだけの話ですよ」
「あ、はい」加部谷は頷く。
「こんな話はほかではしません。加部谷さんたちは、ちょっと特別なので、教えてもらったお返しということで」近藤は微笑んだ。「殺人現場のすぐ近くに、その女性は住んでいます。あの日以来、行方不明なんです」
「え? そうなんですか」加部谷は驚いた。
「ですから、非常に心配しています。今のところは、まだ表に出ていませんけれど、そろそろ公表されるかもしれない」
雨宮が横から加部谷を押した。
「何? どうしたの?」
「直里先生のこと、話した方が良いよね?」雨宮が加部谷に小声できいた。
「どんなことですか?」佐野が顔を傾けた。
「あの、えっと、関係ないとは、思うんですけどぉ」雨宮が話す。「あの、直里先生という方が、うちの大学に、えっと、化学工学科にいらっしゃるんです。ご存じですか?」
「いえ、知りません」近藤が答えた。
「どう言ったら、いいかな?」雨宮が困った表情で加部谷の方へ顔を向けた。
「つまり、赤柳さんが、そのとき、調べているって言ってたのが、さっきの女の人と、もう一人、研究者で、それが直里先生だったんだよね」加部谷は言った。
「私、直里先生のところで、目薬の容器の研究なんですけど、実験のバイトをしているんです」雨宮が説明した。「それが、一昨日だったか、研究室へ行ったら、急に実験は中止になって、先生、どこかへ出張されるって言ってました」
「スグリって、どんな字を書くんですか?」近藤が尋ねた。
雨宮が、手に指で文字を書きながら説明する。
「そうか、そりゃ、ちょっと会ってこないといけないな」近藤は頷いた。「それと、赤柳さんにもね」
「赤柳さんって、どんな人ですか?」佐野が尋ねた。
「探偵さんです」加部谷が答えた。
近藤と佐野は、すぐにC大へ向かった。午後五時少しまえだったので、工学部の事務へ急ぎ、直里准教授のことを尋ねた。TTK製薬から本学へ転任した、と事務員は説明した。昨日から東京へ出張していて、まだ戻っていないはずだ、とのことだった。住所と連絡先をきいて、事務室を出た。
直里研究室の前まできたが、ドアは施錠され、照明も灯っていなかった。事務室で聞いた自宅の電話番号へもかけてみたが、留守番電話のメッセージが流れたので、近藤は無言で電話を切った。携帯電話を持っているはずだが、そちらの番号はわからない。自宅は留守かもしれないが、いちおう出向く必要があるだろう、と近藤は考えた。
「本当に出張でしょうか? ちょっとタイミングが良すぎませんか?」佐野が言った。「倉居三重子といい……」
事務に提出された出張届けの書類どおりならば、直里准教授は、明日からは出勤することになっている。ということは、今夜にも東京から戻る、ということになるか。近藤は時計を見た。もう少し時間をおいてから、直里の自宅を訪ねることにしよう。
駐車場の方へ戻る途中、建物の一階のピロティを通り抜けようとしていたとき、ガラス戸を開けて、顔見知りの三人が出てくるのが見えた。まず、白い服装で目立つのが西之園萌絵、そして、長身の国枝桃子、その後ろに山吹早月が続く。向こうも、近藤に気づいた。
「どうも、西之園さん、お久しぶりです。こちらにいらっしゃっていたのですね」
「ええ、出張です」西之園はにっこりと微笑んだ。
近藤は新人の佐野を紹介した。佐野は、西之園という名前を聞いただけで、背筋を伸ばして緊張している様子だ。
「何ですか? こんなところで」西之園からきかれる。
「ええ、実は、例の目薬の事件なんですよ」近藤は説明をした。「TTK製薬の関係者が殺されまして……。ご存じですよね?」
「いえ、知りません」西之園が笑顔のまま首を傾げる。
「私でも知っているのに」横に立っていた国枝が呟くように言った。
近藤は手短に西之園に説明をした。TTK製薬からC大へ転職した直里准教授に会うためにきたことも話した。
「そうそう、山吹さん」近藤は山吹に言った。彼は、二人の女性教員の後ろに立っていた。「赤柳さん、最近、会われましたか?」
「ええ、このまえ、来ましたよ」山吹は答える。
「この事件のことで、調べているそうですね」近藤は質問する。「加部谷さんから聞いたのです」
「ええ、でも、僕は詳しくは知りません。雨宮さんがバイトをしているから、話題になったんです」
「なんだか、適度に複雑そうですね」西之園が時計を見ながら言う。「ごめんなさい。もう私、東京へ戻らないといけないので」
「お忙しいところ申し訳ありませんでした」
気づかなかったが、ピロティを出た先に、タクシーが待っていた。西之園はそちらへ歩き、途中で一度振り返って、片手を広げて微笑んだ。
「国枝先生は、お見送りですか?」近藤は尋ねた。
「いいえ」無表情のまま答え、さっさと歩き始める。
「そんなわけないでしょう」山吹が近づいてきて小声で近藤に囁いた。「近藤さん、僕はけっこう暇ですけど、なんか、面白い話があったら聞かせて下さいよ。僕から、西之園さんにも話しておきますよ」
「それがねぇ、なんにもない。例の事件も、まったく進展していないし、関係者が失踪したまま見つからないし、あちこちで目薬の事件は起こるし……」
「ネットは調べましたか?」山吹がきいた。
「ネットって?」
「このまえ、赤柳さんにメールで頼まれて、一時間くらいかな、検索してみたんですよ」山吹が言う。「言っときますけど、僕が興味があるんじゃなくて、バイトですよ。たぶん、赤柳さん、僕みたいな人を沢山抱えていて、あちこちに作業を依頼しているんじゃないかな。赤柳さん本人は、パソコンなんかいじっている暇がないんでしょうね」
「何を検索したの?」近藤は尋ねた。
「αです」山吹は言う。
「アルファね……」近藤は頷いた。「なにか、見つかった?」
「まあ、沢山ぶつかるものはありますね。話題にはなっているみたいです。ただ、二次的なものというか、目薬の事件のことで発生したものが多いですね。発生源だと思われるようなものは見つかりませんでした。どこかが扇動しているようなことがあるとしたら、以前よりはずっと慎重になっているのか、ずっと上手になっているか」
「以前というのは?」近藤はきいた。
「たとえば、|θ《シータ》のときみたいに……」
「ああ、なるほど。もし、そういう存在があるとして、活動をしているとしたら、目的は何だと思う?」
「みんながそれを考えていると思いますよ。でも、たぶん、単に結集力みたいなものを試しているんじゃないかな」
「結集力?」
「えっと、海月が言っていたことなんですけどね。通電を観ているんだって」
「ツーデン? 見ている?」
「ええ、つまり、テスタみたいなものですね。どれくらい通じるものかを調べている。観測している、という意味です」
「どうして、そんなことを調べているのかな?」
「もっと本番というか、なにかに使おうとしているんじゃないですか?」
「何を?」
「それは、つまり、大勢の人間というか、大衆なのかな、それとも若者なのかな……。一種の、そういう装置なんですよ」
「装置?」
「そうです。あるいは、頭脳ですね」
「頭脳? 意味がわからないな」
「それも、海月が言っていたことなんで……。興味があったら、彼に聞いて下さい。話すかどうかは保証できませんけど」
「海月君は、どこに?」
「さあ……、今日は、会っていませんね」山吹は微笑んだ。
彼は一礼して、国枝が入っていった建物の方へ走り去った。
一時間後に、近藤は赤柳初朗と会うことができた。電話で連絡を取り、繁華街のカフェで待ち合わせた。赤柳に、「一人ですか?」ときかれたので、「一人だ」と答えた。だから、近藤は一人で店に入った。佐野には、車に乗ったまま少し離れたところで待っているように指示した。
店には既に赤柳がいて、やはり一人だった。半地下の店で、食事や酒は出さないようだ。こんな時刻なので、客も少ない。
「どうも、申し訳ないです。ご足労いただきまして」赤柳がシートから立ち上がって頭を下げた。
「どうも……。ええ、挨拶は抜きで……」近藤は微笑んでからすぐに腰を下ろした。
「どうですか? 目星はついているんですか?」赤柳が尋ねる。
「どれのことです?」
「殺人の方ですよ」
「いえ、駄目ですね。赤柳さん、どこまでご存じなのかな。加部谷さんに聞いたんですよ、この件で、いろいろ調べられているって」
「ええ、私もね、隠すつもりはありません。今日は、全部なんでもすべて手持ちの情報はご提供したいと思います。ただ、できましたら、そちらからも、少しはいただけると、ありがたいな、と思うわけでして」
「ええ、もちろん、それは……」
赤柳は、TTK製薬で調査の依頼を受けた話をした。内部で問題のある目薬が見つかり、それは現在は公表されていない。その関連で、倉居三重子と直里浩文の身辺を調査しようとしたが、倉居は最初の一日だけは会えたものの、そのあとの約束は変更になり、結局失踪してしまった。直里の方は、C大学で一度会っただけだ。目薬に劇物を入れたのが誰なのか、についてはまったくわからない。二人とも、目薬の事件とは関係がないのではないか、というのが、赤柳の個人的な印象だという。
「ただ、殺された竹中という人物は、その倉居三重子の上司になります。もちろん、直里も顔見知りだった人物です。竹中は、社内ではあまり評判が良くありません。部下も彼のことは良く言いませんね」
「そう、そうみたいですね。交友関係でも、小さなトラブルが多くて」近藤は話す。「単なる怨恨の線が、今のところ有力です」
「怨恨か……、でも、あそこで、待ち伏せして?」
「どこかでばったり会って、あそこへ導いたんじゃないかな」近藤は話す。「被害者はだいぶ飲んでいましたからね」
「死因、凶器、その他、手掛かりなどは?」
「後頭部を硬いもので殴られて、倒れたあとにも、また殴られたようです。加部谷さんが発見する二、三時間まえのことです。凶器は見つかっていません。全部持ち帰ったみたいですね。周辺からは出てきていません。これといって、目立った残留品もありませんね」
「そもそも、どうして、あそこにいたんですか?」
「飲み会があったんです。五人だったそうです。倉居三重子も一緒です。彼女が帰ったあと、すぐに竹中も店を出ていったとか。ですから、おそらく一緒に帰ったのではないかと」
「送ってきた、ということですね?」赤柳は言った。
「そうです。倉居の家が現場のすぐ近くです。タクシーを調べているんですが、系列ではまだ見つからなくて、個人タクシーだと、なかなか情報が伝わらないんですよ。こちらから当たらないとね。あるいは、もう面倒だから、わざわざ出てこないっていうかね」
「倉居さんが、いなくなったのは、いつからなんですか? その夜は帰ってきたのかな?」赤柳がきいた。
「それは、隣の人が目撃しています。その夜は帰ってきています。男が一緒だったということですが」
「それが、竹中さんですか?」
「そこまでは断定できません。でも、その可能性が高いですね。男は、倉居の家には入らず、帰っていったそうですから、竹中だとすると、そこまで送ってきた、ということですね」
「それはもう、竹中さんだと見てまちがいないのでは?」
「いえ、なにごとも、断定はできません」近藤は首をふった。
「竹中さんだとしたら、そのあと、お寺の階段を上がっていき、殺されたわけですね。もしかしたら、一緒に帰ってきた人がほかにもいたのかも」
「飲み会のほかの三人のメンバは、そのあと、二時間くらい、ずっと一緒なんですよ」
「それでは、誰かに会ったとか……。それとも、まったく関係のない殺しだったとか?」
「通り魔ということは、ちょっと考えにくいんですよね」近藤は言った。
それは、新聞にも書かれていることだった。被害者は財布や時計など、金目のものを身に着けたままだった。また、争ったような明確な痕跡もない。顔見知りの犯行との見方が強い。
「目薬を手に持っていたということですが」赤柳は言った。「あれ、警察はどう捉えているんですか?」
「いえ、まったく考えていません。単に、ポケットに手を突っ込んで、それがあったというだけでしょう。携帯電話を取り出したかったのかもしれないし。携帯は反対側のポケットでしたけど」
「そうか……」赤柳は溜息をついた。「難しそうですね。そういうわけで、私みたいな者にも会ってみよう、と思われたわけですな」
「まあ、そういうことです」近藤は頷いた。「ネットで、αのことを調べられているんでしょう? ちょっと、教えていただけませんか? そちらは、どこの依頼の調査でしょう? あ、いえ、もちろん、詳しくなくてもけっこうです。だいたいで……、その、赤柳さんがOKだと思われる範囲で」
「もちろん依頼主はいます。それは話せない。もうずっと調べているんですよ。えっと、最初は、そうじゃなかった。だって、一番初めは、|φ《ファイ》だった。ほら、私のマンションで起きた芸大生の事件です。あれが最初ですよね。当時は、そんなギリシャ文字の関連なんて、全然問題にならなかったけれど」
「そうでしたね」
「警察が認識したのは、|θ《シータ》のときでしょう?」
「そうです。あれは、たしかにネットが関わっていましたね。今でも捜査は続いていると思います。おそらく、公安に移っているんじゃないかな」
「公安ですか……」赤柳が顎を上げる。「少しは近づいているのかな?」
「さあ、どうでしょう。赤柳さんも、つまり、そちら関係なんですね?」
「知りたい人間は沢山いるってことですよ。知ることで利益を得る人間も多い。いったい何が起ころうとしているのかって」
「うーん、なにも起きない可能性だってありますよね」
「そうですね。とりあえず、最初に予感したような、危険な状態がたちまちやってくる、という気配はありませんね。もっとゆっくりと進行しているようです」
「ゆっくり?」
「そう、最近気づいたことなんですけど、この一連の陰謀の首謀者は、とんでもなく気が長い奴なんですな」赤柳はそこで笑った。「そういう非常にゆったりとした時間軸で考える必要がありそうだ、ということです」
「なにかの実験だと?」
「そうかもしれない。新たなネットワークというか、仕組みを作ろうとしている。しかし、実験というよりは、これは、これまで宗教と呼ばれていたものに一番近い、と私は感じます。ただ、異なる点は、とにかくゆっくりと、目に見えないほど、静かに、深く進行している、ということですね」
「そうでしょうか? 大いなる勘違いをしている、という可能性はありませんか?」近藤は自分で言った言葉が可笑《おか》しくて、少し笑ってしまった。「今回の目薬なんて、単なる悪戯でしょう? たしかに、社会を騒がせることはありますが、これで歴史が変わるわけでもない。あの文字の関連だって、そんなにたいそうなプロジェクトとは思えませんけど」
「たいそうに見えてしまったら、たちまち社会問題になりますからね」赤柳は小さく溜息をついた。
「どれくらいの人数が動くか、という実験だとしたら、これも、大した成果ではないですね。ごく少数です」
「いえ、人数ではありませんよ、目的は」
「では、何ですか?」
「才能というか、人材というか……」
「リクルートだということですか?」
「レスポンスを確かめているんじゃないかな」赤柳は言った。「それに、今、人数って言われましたけれど、それは、この一時の人数という意味ですよね。今現在の人数しか、我々は見ていません。でも、もっと長い時間刻みで捉えれば、人数はもっと多いわけです。ゆっくりと進行するのが特徴だ、というのはそういう意味なんですよ。私たちが持っている時計とは違うんです」
「どうして、赤柳さんは、それを思いつかれたんですか?」
「いえ、なんとなくです。私もそこそこ長く、首を突っ込んでいますからね」赤柳は一瞬だけ笑った。
赤柳と別れた近藤は、急にN大の犀川創平《さいかわそうへい》に会いたくなった。車に戻った彼は、それを佐野に話した。
「こんな時間に?」今から本部へ戻るつもりでいたのだろう、彼女は、少し驚いたようだった。
近藤は犀川に電話をして確かめた。
「はいはい、いますよ」という簡単な返事だった。
近藤は電話を切る。車を運転している佐野がちらりとこちらを見た。説明をしてほしい、という顔だ。
「つまり、赤柳さんは、真賀田四季《まがたしき》関係で調べているんだよ」近藤は話した。「だから、犀川先生に会いたいと思ったわけ」
「今回の殺人と、どう関係があるのですか?」
「直接はないと思う。どちらかというと、目薬事件の方だね」
「αだから?」
「まあ、根拠としては、そうかな」
佐野は、犀川の噂は知っていたが、会ったことがない。初めてだという。だから、簡単に説明をした。
「西之園さんがN大の学生だったときの、その指導教官が犀川先生で、国枝先生も、その講座の助手だったんだよ。今は、西之園さんと、えっと、結婚されているのかな」
「え?」佐野はこちらを向いた。「そうなんですか?」
「いや……、そこのところは、未確認。でも、そうなんじゃないかなぁ」
「そんな曖昧なんですか? 質問されたら良いじゃないですか」
「きけないんだよねぇ、それが」
「私がききましょうか?」
「いや、それは駄目だ。そんなこときいたら、臍《へそ》を曲げられるよ。もうなにもしゃべってもらえなくなると思う」
「そんな偏屈な人なんですか」
「そうでもないけれど……、うーん、ちょっと難しいかもっていうくらいかな。まあ、普通ではないね」
「お見かけしたことはありますよ。えっと、講演会ですけれど」
「あ、そうそう、一度、本部で話してもらったことがあったね」
「そんなふうには見えませんでしたけれど」
N大のキャンパスに到着し、ゲートで手続きをして、構内に車を入れた。駐車場では白い常夜灯の真下で車を降りた。あたりに人気はなく、しんと静まりかえっている。メインストリートの車の音も、ここまではほとんど届かない。建物の窓には煌々と白い照明が灯り、そのためか、見上げた夜空がぼんやりと霞んでいるように見えた。
ロビィに入り、暗い階段を上る。C大に比べると、建物は古くて汚い。通路はさらに暗く、トンネルのようだった。今度は犀川の部屋の前に立ち、息を吐いてから、ドアをノックした。中から返事が聞こえたので、二人は明るい部屋の中へ入っていく。
「どうも、先生、こんばんは」近藤は頭を下げた。「申し訳ありません。突然、しかも、こんな時間に……」
「いえ、べつにかまいませんよ」犀川は奥のデスクでパソコンの画面に向かっていた。
「手ぶらで来ちゃいました。このつぎは、きっとなにか、持ってまいります」
「そんな必要ありませんよ」ようやく犀川は立ち上がり、こちらへ出てくる。
ソファのところで、立ったまま向き合った。近藤は新人の佐野を犀川に紹介した。
「どうかよろしくお願いいたします」佐野は頭を下げる。「お目にかかれて大変光栄です」
「へえ。どうしてです?」犀川はきいた。
「え?」
「光栄っていう部分です」
「あ、いえ、それは、その、もう……、お噂をお聞きしておりますので」
「で、今日は何の事件ですか?」犀川は今度は近藤を見てきいた。「なにか、大事件、ありました? ニュースを見ていないから」
「大した事件ではありません」近藤は話し始める。
「あ、気にしないように」犀川はちらりと佐野を見て言った。
「えっと、C大の加部谷さんが、死体を発見されたんですが、TTK製薬の社員が殺されていた事件です」
「へえ。加部谷さんが」犀川はちらりと天井へ視線を送る。衛星通信でもしているような角度だ。加部谷という人物を思い出そうとしているように見えた。
「TTK製薬というのは、今、問題になっている目薬のメーカです」
「どんな問題です?」
「西之園さんから、お聞きになっていませんか?」
「西之園君は、東京ですよ」
「いえ、電話とかで……」
「聞いていません」
犀川がなにも知らないようなので、近藤は最初から説明をした。全国で起こっている目薬の事件、そして、殺人事件、さらには、赤柳という探偵が調べているネットでの動きなども。
話が一段落したところで、数秒間の沈黙となる。近藤は、犀川が煙草を取り出して火をつけるのを見守っていた。
「それで、近藤さんは、どうして、ここへ?」犀川が煙を吐いたあときいた。
「公安でも、真賀田四季の関係を追っているはずです。そのことで、犀川先生も、その、捜査に加わられているのでは?」
「いいえ」犀川は笑った。「僕の仕事ではありません」
「公安から、なにか言ってきませんでしたか?」
「うーん、どうだったかなぁ」犀川はまた煙を吐く。
「いえ……」近藤は片手を広げた。犀川の返事は、イエスという意味だとわかったからだ。「話せないことがあるかと思います。ただ、現実の社会での混乱は、我々が直面する問題です。小さいことかもしれませんが、積み重なると無視ができない結果になる可能性もあります。末端ではなく、もっと大元を辿って、できることなら、不穏なものは未然に防ぎたいわけです」
「近藤さん、ずいぶん、その……、えっと」
「何ですか?」
「しっかりしてきましたね。いや、失礼……」犀川は笑った。
「先生、恥ずかしいことおっしゃらないで下さいよ」近藤は横の佐野の顔を見たかったが我慢した。「えっと、つまりですね。具体的な情報を求めています。なんだか、ぼんやりとしたものばかりなんですね」
「ぼんやりとしているのは、情報ではなく、憶測だからでしょう?」
「ええ……、そのとおりです。それに部分の細かいことじゃなくて、もっと大きな概念というか、全体像が知りたいわけです。だって、ほんの小さなことしか、出てきませんよね。いったい、我々が見ているものは、何なんですか?」
「俯瞰して見たい、という意味ですか?」
「フカン? ああ、俯瞰ですね。そうですそうです。俯瞰がしたいわけです。全体像を見てみたいわけですよ」
「見られないと思いますよ」犀川は灰皿に手を伸ばした。
「もちろん、それは、意図的に見えないようにしている、ということですね?」
「そうです」
「でも、おかしいですよね。世間を混乱させることが目的だったら、もっと見えるようにすべきではありませんか? でなかったら、何が目的でしょうか?」
「わかりません」犀川は答えた。「ただ、混乱させようとしているのではない、と僕は思います」
「赤柳さんは、時間的にゆっくりとしている、それが、今までにない特徴だ、みたいなことを言っていましたが」
「卓見だ」犀川は即答した。
「先生も、そうお考えなのですか?」
「いえ、当然、そうなるわけです。僕たちの時間とは違う」
「誰の時間がですか? 真賀田四季の時間がですか?」
「簡単にいえば、そうです。真賀田四季という名前だけで、そのシンボルだけで、すべてを表現して良いならば、ですが」
「うーん。つまり何なのでしょう? これは、犯罪ですか? それとも研究ですか? 真賀田四季がやっていることですか? 何をしているのですか?」
「ですから、それはわかりません。もっと未来に、ああ、これがそうだったのか、とわかるような問題なんですよ」
「もっと未来に?」
「そこが、つまり、時間がゆっくりだ、という感覚になるのでしょうね。実際は、遅く進行しているわけではありません。それどころか、もの凄いスピードで進んでいるでしょう。しかし、どんな天才でも、時間を消費しなければならない対象があります」
「うーん」近藤は唸った。
「たとえば、どんなものですか?」佐野が質問した。「どんな対象が考えられますか?」
犀川は灰皿で煙草を揉み消していたが、そこで視線を上げて、佐野をじっと見据えた。
「たとえば、そう……」犀川は答えた。「人間とかね」
「人間?」
「ネズミで実験をすれば、短い時間で実証できる。しかし、人間が対象であれば、少なくとも世代は二十年。時間がかかるでしょう?」
「ああ……」佐野は口を開けたまま頷いた。
「何ですか? 人体実験みたいなことですか?」近藤は首を捻っていた。「それと、ネットでの活動と、どんなふうに結びつくわけですか? ああ、もしかして、宗教団体を作って、自殺希望者を集めたりしているのは、人体実験に使える人間を集めていると?」近藤は思いついたことを口にした。興奮して、つい早口になってしまった。
「違いますね」犀川は首をふった。「それだったら、もっと秘密にできるでしょう。人間なんて、いくらでも集められるはずです。彼女ならば」
「では、何ですか?」
「まあ、よくわかりませんが、僕がイメージできることといえば、彼女は、新しい生きものを作ろうとしているんじゃないか、ということですね」犀川は言った。
近藤と佐野は、黙って姿勢を正した。犀川の言葉に少なからず驚いたからだ。
犀川は煙草の箱を片手で触った。しかし、煙草を抜き取ることはしなかった。
「たぶん、勘違いされたと思いますが、フランケンシュタインみたいなものでは全然ない。それに、ロボットでもない。違うんですよ。生命を作るっていうのはですね。つまり、頭脳なんです。躰ではない。頭脳の仕組みを築こうとしているんですよ」
「頭脳の仕組み?」佐野は無声音に近い声で言葉を繰り返した。彼女は眉を顰め難しい顔をしている。横を向いた近藤と短い眼差しを交わしたが、お互いに、今のこの話が呑み込めない、という親近感があったかもしれない。
何の話だろう?
これは、SFなのか。近藤はそんな発想をしてしまった。イメージしたのは、実験室にあるガラスの容器。その中の液体に浮かんだ人間の脳。
「たぶん、まだ、違う連想をしていると思いますけれど」犀川は少し微笑んだ。「その頭脳というのは、とても大きなものなんですよ。部屋に入るようなものではなくてね。そして、沢山の人間や、沢山のコンピュータが、その一つの頭脳の中に含まれる。いえ、一つではないかもしれない。個数を数えることも無意味でしょうね。ネットワーク自体が頭脳なんです。人間の大きさも、そして人間の時間も、すべてスケールを超えている。そういう大きな生きものを作ろうとしているんですよ」
「ああ、なるほど……」近藤は少し安心した。「そういう意味ですか。びっくりしたぁ。それじゃあ、医学的な取り組みではなくて、やはり、情報工学なんですね?」
「そういった生命活動の一部の信号、つまり、末端神経の僅かな分泌みたいなものが、今の我々に見えているものです。逆にいえば、そんな変調をいくら吟味しても、その周辺で情報をいくら掻き集めても、全体で何が起こっているのか、その全体頭脳、全体生命体が、何を考え、どんな行動をしているのか、わかるわけがない。想像もできませんよ」
「でも、犀川先生は、それを想像されたわけでしょう?」
「わからないのはどうしてか、たぶんこの理由しかありえない、と考えただけです。違うかもしれないけれど、大きくは外れていないでしょう。真賀田博士に興味があるものといったら、もうそれくらいしかありません。あの人は、人間の躰でいえば、ガン細胞みたいなものです。ガン細胞によって、人類が進化をした、と考えているでしょう。あるいは、たった今、まさに地球上に最初の知的生命が生まれつつあるのだと、考えているでしょう。人類なんて、まだバクテリアにすぎない。これから生まれるものが、本当の知的生命体なのだと」
「ちょっと、その、壮大すぎて、気が遠くなりますが……」近藤は溜息をついた。
「逆に見れば、我々は矮小《わいしょう》ですね」犀川は言った。「そう考えれば、気も落ち着くでしょう?」
「落ち着きますか?」
「現在の個人は自由な行動の権利を持っているはずなのに、ほとんど考えもせず、ただ、社会に合わせて生きている。いうなれば、細胞に近い存在です。さて、抽象的な話でしたが、わかりましたか?」
「わかったような、わからないような。いったい、どう対処すれば良いでしょうか?」
「とりあえずは、実害のある部分の処理をすれば良いと思います。全体として、抵抗するようなものではない。僕は、むしろ協力がしたいくらいだ」
「真賀田博士の? ですか?」近藤は驚いて身を乗り出した。「いや、先生、それはちょっと……」
「まずいですか? 何故ですか?」犀川は近藤の方をじっと見返した。
「真賀田博士は、犯罪者です」
「うん」犀川は頷いた。「たとえば、戦争を仕掛けた日本やドイツは、犯罪国家でしたけれど、今では、誰も逮捕しようとしませんね。どうしてですか?」
「いえ、それは、ちゃんとその償《つぐな》いをしたからですよ」
「償いをしましたか? 誰がしましたか? 細胞ですか? 細胞のほんの一部は交代しました。それに、現在の日本人は誰も、自分が犯罪者だとは考えていません。ということは、細胞には責任はないのかな?」
「先生がおっしゃりたいのは」佐野が尋ねた。「もはや、真賀田博士は個人ではない、という意味でしょうか?」
「そういう解釈もできる、というだけです」犀川は頷いた。「僕がそう考えているということでもないし、また、そう主張するつもりもない。意見ではありません。それから、彼女はたしかに犯罪者ですが、彼女が殺したのは、すべて自分の内側にいる人間でした。彼女にとっては、自分の一部を殺したにすぎないのです。まったくの他人には手を出していません。そういう意味では、むしろ現在の方が、他人や社会に干渉しようとしている」
「どうして、そうなったのでしょうか?」佐野がきいた。
「二つあると思います。一つは、それが、つまり成長というものだからです。個人の内側から、外側へ視野が広がっていくことが成長という現象の最も顕著な観察傾向です。もう一つは、他者に干渉することで、自分への干渉を望んでいるのだと思います」
「干渉を望んでいる、というのは?」佐野が首を傾げる。
「まあ、俗っぽくいえば……、愛されたい」
「愛されたい?」佐野は息を吸い、唇を噛んだ。「誰に、ですか?」
「さあ……」犀川は小さく一度だけ首を横にふった。「誰にというよりも、人類そのものにかも。彼女から見れば、たぶん、人類全体で一人なのじゃないかな」
「全体で一人?」佐野が言葉を繰り返す。「ということは、地球には、えっと、二人しかいない、ということですか? 人類と、真賀田四季と」
「それに近い認識をしていると思いますね。当然、そうなるでしょう。たとえば、ちょっとした能力があれば、グループや会社や組織を、個人として認識する人はいます。同じことです。そう、警察という組織を、個人として見なしている場合だってある。能力がなくても、社会を恨んだりする人間だっている。あれも、社会を個人として見なしている例です。だからこそ、その個人の中に存在する細胞の幾つかを傷つける、という発想になる。誰でも良いから、何人か殺してしまう。人格を見ていない。そうすることで、社会という個人に気づいてもらいたい、社会にかまってほしいわけです」
「なるほど、そう聞きますと、目薬の事件なんかも、なんとなく理解できるような気がします」佐野は言った。「あれくらいだと、ちょっと抓《つね》ってみた、ちょっと悪戯をしてみた、くらいの感じなんでしょうか」
「あれも、真賀田博士がやっていることではありません」犀川は言った。「博士は、ただ、地面に豆を撒いて、そこに群がってくる鳩を観察しているだけです。鳩がどう動くのかを見ているのが楽しいのでしょう」
「公安から、最近、犀川先生に接触がありましたか?」近藤は事務的な質問をした。
「いいえ」犀川は首をふった。
次の一週間に、異物混入目薬がさらに二つ見つかった。いずれも消費者に被害はなく、自主的に回収されたものが関連の検査機関に送られ、その中から発見されたものだった。どちらも、東京都内の薬局に並んでいた商品だった。
既に、このαのパッケージの目薬は市場から姿を消した。TTK製薬もこの商品の販売を全面的に中止したと発表した。これは異例のことで、安全が確認され、対策を講じたうえで出荷を再開するという普通のプロセスではなかった。理由は明らかに、「α」という文字が狙われた、という暗黙の認識があったためである。メーカ側はそれを否定しているが、マスコミはその点を繰り返し指摘した。ただ、名前を変えた代替製品がいつ登場するのかは未定である、との報道だった。TTK製薬の売上げは二十パーセントも落ち込み、深刻な打撃を受けたことはまちがいない。
ただ、社会の関心は最初の頃に比べれば薄らいだ印象だった。実際に取り返しのつかない被害を誰も受けなかったことが大きい。また、殺人事件に関しては、偶然にも同じメーカの人間だっただけの話で、一連の目薬の事件と具体的なつながりがあるようには感じられない、というのが平均的な見方だった。
殺人事件の捜査は難航していた。行方不明の倉居三重子の足取りはまったく掴めていない。近藤はその後、何度か、彼女の実家へ足を運んだし、またアパートの大家である東寺昌子にも数回会った。誰に会っても、世間話しか聞けないような時間が流れた。
事件とは無関係かもしれないが、一つ出てきた話がある。東寺昌子の入院中の夫、東寺|健夫《たけお》は、地元で建設業を営んでいたのだが、以前に殺された神居静哉《かみいせいや》の館を建設した人物だった。神居静哉は、超能力者として有名な人物で、彼の屋敷は伽羅離館《がらりかん》と呼ばれ、県内の北端の山の上、森林の中に建てられた。自動車でも近づくことができない場所だったため、その建設には、資材をヘリコプタで搬入するなど、相当な困難を極めた。そんな話を夫人である東寺昌子が覚えていたのだ。
近藤は、伽羅離館の密室殺人事件のときのことを昨日のことのように覚えている。そこには、加部谷恵美たちがいたし、探偵の赤柳もいた。また、現場に到着して、僅か五分で事件を解決したのは、ほかでもない、犀川創平だった。
捜査上ではまったく問題視されなかったが、〈|τ《タウ》になるまで待って〉というラジオドラマの話が出ていた。神居の家人たちが、そのドラマを聴いていたし、殺された神居本人も、まさに殺されるときに、それをラジオで聴いていたらしい、というだけであるが、当時も既に、ギリシャ文字に関連する不気味な連鎖は意識されていた。赤柳は、当時から真賀田四季の動きを探っていた。神居のバックには、かつて那古野に存在した宗教団体が見え隠れし、その創始者は、まだ幼かった頃の真賀田四季に資金援助をしていた、という過去がある。
当然ながら、近藤は、東寺という建設業者のことを調べてみた。どんな経緯で、伽羅離館の建設を請け負ったのか、という点が少々気になったからだ。それはすぐに判明した。東寺健夫自身が、MNI(メタ・ナチュラル協会)という変わった名の宗教団体に関わっていた時期があった。信者だったのかどうかまではわからない。少なくとも、東寺昌子はその点を完全に否定している。彼女によれば、あくまでも、MNIに出入りし、仕事をもらっていただけだ、という。
この関連については、本部でも話題になった。しかし、今回の事件に限っては、少々関連が薄い、と考えざるをえない。赤柳はもしかして、それを知っているのだろうか、と近藤は想像したが、確かめる機会はなかった。
そのほかには、TTK製薬を辞めた宮本|佑子《ゆうこ》という人物に会ったことくらいだろうか。この女性は以前は竹中信次の部下だった。そして、倉居三重子とほとんど入れ替わるタイミングで、会社を辞めている。理由は結婚をするためだった、と彼女は語った。竹中という人物についてきいてみたものの、これといった情報は得られなかった。むしろ、C大へ転職した直里浩文について面白い話が聞けた。
直里は、サンプル室へときどきやってきて、そこに保管されている目薬を使った。その部屋の鍵は当時は宮本が持っていたので、彼が来ると、その部屋に入り、彼が使うところを見ていたのだ。そしてあるとき、変わったことを依頼された、という。
「えっと、何回かなぁ。たぶん、四、五回だったと思いますけど。最初は、ちょっとねぇ、やっぱり、びっくりしましたよ」彼女は笑いながらそう語った。
直里は、自分で目薬をさすのではなく、宮本にそれを頼んだ、というのだ。
「ちょっとさしてくれないかな」と目薬を渡された、と宮本は話した。
「さしてくれっていうのは、え? 誰の目にですか?」近藤は確認した。
「ですから、私が、直里さんの目にさすんです。そうしてくれ、と頼まれたんです」
「あ、なるほど。他人にさしてもらいたい、という意味ですね。それは、どうしてですか?」
「さあ、わかりませんよ、そんなこと。だけど、そんなに、その、ふざけていたわけではありませんよ。なんだか、真面目くさっていましたから。たぶん、研究だったんじゃないでしょうか」
「研究……、ですか」
「上を向かれているところへ、こう……」宮本は片手を持ち上げ、ジェスチャで示した。「こんなふうに、ええ……」
「そのあとは?」
「いえ、あ、どうもありがとう、とおっしゃって、それで終わりです」
「なんか、変なふうに感じましたか?」
「うーん、べつに、そんなことは……、ご自分で上手にできないのかとも思いましたけど、ええ、そんなことはありません。初めのうちは、ご自分でなさっていたのですから」
どういう理由でそんなことをさせたのか、直里にきいてみたいものだ、と近藤は思った。しかし、話を横で聞いていた佐野に、二人だけになったときに感想を尋ねてみると、
「べつに、普通のことじゃないですか?」と言うのだ。「人それぞれ、趣味はあると思いますから」
「そういうものかな」そう言われてみると、近藤もそんなふうに思えてきた。「まあねぇ……、日常的に目薬をさしていたわけで、人がさすところを下から見たかっただけかもしれないね」と言葉にしてみたものの、実は自分ではさっぱりわからなかった。
平日は出勤のまえと、帰ってきてから寝るまで、そして、休みの日にはほとんどすべての時間を、私は矢場香瑠と一緒に過ごすことになった。
「貴女もこちらで暮らせば良いのに」と香瑠は言ってくれた。
私が借りている部屋よりは、彼女のログハウスの方が広い。しかし、二人で暮らすには多少手狭だろう。もっと広いところへ引っ越して、そこで二人で共同生活ができたら素敵だ、と私は何度も考えた。でも、経済的な問題がある。私は今の家賃がほとんど限界だし、それに、香瑠はそのログハウスを無料で借りていて、彼女には家賃を負担するような経済力がない。共同生活にならない。私が彼女を養うことになる。それは到底不可能と思われた。
「大丈夫だってば、そのうちなんとかなるからさ」と香瑠は笑う。それが口癖なのだ。
私は、たぶん人よりも少し心配性なのだろう。すぐに未来のことで思い悩んでしまう。未来といっても、何年もさきのことではなく、明日、明後日、来週といった、すぐさきのこと。このままで良いのだろうか。私の人生は、という遠望ではなくて、もっと、生活という言葉が近い範囲のこと。毎日毎日、私は何をしているのだろう、とふと考えてしまうのだ。特に、布団に入って、もう寝なければならない、という時間にいつも考える。考えてしまって、なかなか眠れなくなるのだ。嫌なことばかりがつぎつぎと頭を巡って、涙が出てくることだってある。こんな冴えない人間、こんなどうしようもない女に、いったいどんな明るい未来があるというのだろうか。
けれども、少なくとも、香瑠と一緒にいる間は、私には希望が見えた。香瑠を見習って、こんなふうに活き活きとしていれば、自然にすべてが好転するような予感がするのだ。それは、具体的なものではなくて、「そのうちなんとかなる」という彼女の言葉どおりの感覚だったけれど、それでも、そんな気持ちでさえ、これまでの私には未体験のものだった。
「まずは気持ちだね」と香瑠は説明してくれた。「こうね、ぐっと背筋を伸ばして、躰を動かしてごらん。ね、筋肉をちゃんと使ってやるの。汗を流すの。そうすると、躰が軽くなるし、それによって、気持ちも軽くなる。弾むように歩いていれば、生き方も弾んでくるんだから」
「うん、そうね」私は彼女の言葉をうっとりと聞いている。香瑠の声は、聞いているだけで音楽のように心地良かった。だけど、それだけで満足していてはいけない、と私は気づく。「でも、気持ちだけで良いの? 行動をしなければ、解決しないことだってあると思うんだけれど……」
「そうだね」香瑠は頷いた。笑っていた口を閉じ、私をじっと見据える。「人生にも、そして人間の社会にも、常に必ず障害はある。私たちの前に立ちはだかっているもの、それは、山のようなものだね。乗り越えるしかない。眺めていたって、消えることはないんだから」
「乗り越えるの? 迂回していくのでは、駄目かな?」
「そんなの、いくら時間があっても無理だね」香瑠は首をふった。彼女がそう答えることは私にはわかっていた。「とにかく、前に進む。その行動を起こさないと。もし、乗り越えられないのなら、山を削って、道を造るしかない。トンネルを掘るしかない。いつかは山の向こう側へ行かなくちゃ。それが、自分の生き方だって思う。自分の使命だと信じる。そうでしょう? 何のために生きているの? 真っ直ぐに進みなさいよ」
「うーん、でも、どちらへ進んだら良いのかさえ、わからないし」
「そんなことない。わかっているはず。貴女が見ている方、そっちが前だよ。誰でも進みたい方向を見ているんだから」
「でも、そんなに上手くいかないわよ。うーん、いろいろ実際には問題があって、自分の力だって不足しているし、それに、だって、やっぱり、なんていうのか、今の社会も、そんなに生きやすくはなっていないんじゃない? 大勢の人たちが苦労をしている。困っている人たちも多いし。なんだか、弱い者、愚かな者は、我慢をして黙って働け、みたいな感じに思えるの。奴隷とまではいわないけれど、結局は時間やお金に縛られているわけでしょう? 自分の好きなことがなんでもできるなんて、とても思えない。そうじゃない? そういう人たちって、どうすれば良いと思う?」
「抵抗」香瑠は即答した。
「抵抗かぁ……」私はその言葉を繰り返した。
そのときは、抵抗って何だろう? と具体的には思い浮かばなかった。自分にできる抵抗なんて、せいぜい、嫌な仕事は、少し嫌な顔をして引き受ける、という程度のものだったからだ。
私は、ずっとこの香瑠の「抵抗」という言葉を持ち歩いた。ネックレスみたいにして、胸の前にその言葉をぶら下げていた。私にはまだ、その言葉を呑み込んで、自分の躰の一部として取り入れることができなかった。よくわからなかったからだ。けれども、大切に肌身離さず持っていることが、私を救ってくれるような気がした。お守りのような、魔除けのような効果がある、そう信じたのである。
香瑠は、ときどき車を運転する。その車はいろいろで、もちろん彼女のものではない。大家さんから借りることもある。大家さんのところには、旦那さんが使っていたという軽のトラックがあったけれど、ほとんど誰も使わない様子だった。旦那さんは病気でずっと入院されている。その人が香瑠にログハウスを貸したのだ。
ガソリンスタンドで車を借りてくることもあった。これも小さなトラックだった。家具を運ぶから、という理由で二時間くらい借りるみたいだ。でも、家具なんか運ばない。香瑠は私を呼びにきて、二人でドライブをする。もの凄くがたがたと揺れて、とても長くは乗っていたくない代物だった。
一度だけ、香瑠は普通の乗用車を借りてきた。誰から借りたのかは教えてくれなかった。とても高級そうな車だということが、私にもわかった。日曜日の午後だったと思う。私たちは、それで山の方へ入っていき、細い曲がりくねった道を上った。香瑠は、地図を持っていたので、ところかまわず走っていたわけではなくて、彼女なりに計画があったようだ。
私は黙って助手席に座っていた。というのも、そのときの私は具合がとても悪かったのだ。前日、ずいぶん泣いた。香瑠が心配して私の部屋まで訪ねてきたけれど、私は彼女に合わせる顔がないと思い、部屋に入れなかった。ドアの隙間から、香瑠の目だけが見えた。私の顔は見えなかったと思う。電気を消していたから室内は暗かった。躰の具合が悪い、たぶん風邪だと思う、と私は彼女に言った。いつもの声ではないことは、わかったと思う。
泣いていた理由は、自分でももうほとんどわからなかった。会社でちょっとしたことがあったのだけれど、そんなことは、単なるきっかけだった。泣くほど特別なことでもない。それよりも、いつもいつも、まったくどうしようもない自分に対して腹が立ったのだった。
でも、なんとか朝方には疲れて眠ることができた。起きたのは午後になってからで、起きたらすぐ、香瑠にドライブに誘われたのである。
私は、昨夜の涙を引きずったまま、黙って車に乗っていた。
渓谷の橋を渡り、脇道のようなところへ入ると、舗装されていない山道になった。それを今度は少し下っていく。鬱蒼《うっそう》と茂る森林。周囲は真っ直ぐに伸びる高い樹ばかりだった。人家などどこにもない。こんな人里離れた場所で、たとえば車が故障したら、どうするつもりだろう、と私は不安になったくらいだ。そっとポケットから電話を出して、電波が届くか確かめた。それは大丈夫だった。
「どこへ行くの?」私は我慢ができなくなって香瑠に尋ねた。
「たまにね、ここへ来るんだ」彼女は答えた。
道はやがて川原へ出たところで行き止まりになった。私たちは車から降りた。香瑠はデイパックを肩に掛けて、歩きだした。私は彼女についていく。
しばらく川原を進み、途中で岩の上を歩いた。少し上がって川から離れたところに、急な崖が目の前に立ち上がっている場所に出た。かなり高さがある。
「どうしたの? ここを上るつもり?」私は冗談で尋ねた。
「それは、もうやった」彼女は答える。「大したことなかったよ。一時間くらいで上まで行けちゃった」
私はもう一度そこを見上げた。上れるなんて信じられない。
「ここで待っていて」香瑠は言った。
彼女は左手の林の中へ入っていく。すぐに姿が見えなくなった。私は、とても不安になった。こんな場所に一人でいるなんて、初めてのことだった。
空を見上げると、翼を広げた大きな鳥が飛んでいるのが見えた。こちらを見ているのかもしれない。そういえば、こんな山奥なら、野生の動物がいるのではないか。猪とか猿とか、もし出てきたら、どうしよう。周囲を見回しながら、気が気ではなかった。バッグから電話を取り出した。すると、圏外なのだ。ますます不安になった。
「香瑠!」私は彼女を呼んでみた。
最初は小さな声で、幾度か。でも、そんな近くではないだろう。声が届かないことはわかっていた。
彼女が行った方へ、少し近づいてみた。でも、どこにもいない。道はもうなくて、どこを歩けば良いかさえわからなかった。
「香瑠!」私は叫んだ。今度は大きな声だったと思う。
「おーい」香瑠の声が返ってきた。
「まだぁ!」私は大声で尋ねる。まるで子供のようだ。
「待ってろぉ」
それからも、また五分以上待った。ようやく、香瑠の姿が見えて、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。ただ、歩き方が普通ではなく、横を向いたままというか、後ろを気にしながら、下を見ながら歩いていた。落としたものを探しているような、そんな感じだった。
近くまできて、それがわかった。細い紐のようなものを、彼女は引きずっている。違う、引っ張ってはいない。それを伸ばしながら、歩いてきたのだ。そして、私の前に来ると、デイパックを地面に下ろし、四角い重そうなものを取り出した。
「何なの、それ」
「バッテリィ」
「バッテリィ? 電池のこと?」
「そうそう。これがスイッチ」香瑠は、もう一つの装置をバッグから出した。
ポケットに突っ込んだ手が、ペンチを掴んでいた。紐のように見えたのは、電気のコードらしい。それをペンチで切り、ビニルを剥いた。そして、スイッチのネジに差し入れる。ポケットから今度はドライバを取り出し、そのネジを締めた。
私は、その作業を黙って眺めていた。コードを結んで、電気を流す。それで、どうなるというのか。
「できた」香瑠は上を向いて私を見た。そのとき、彼女は地面に足を広げて座り込んでいた。
「何ができたの?」私はきいた。
「花火だよ」香瑠は言う。「いくよ。準備はいい?」
「何の準備?」
「三、二、一」香瑠は、スイッチを捻った。
少し遅れて、地響きのような轟音。
悲鳴を上げる暇もない。
私は息を止めた。
音は響きわたり、やがて、林の中から、真っ白なものが凄いスピードで近づいてきた。煙だろうか、と私は思った。しかし、目を瞑ってしまう。細かい砂だろうか、ちりちりと当たるのがわかった。
音はしかし、たった一度だけ。
その次には、鳥の声が聞こえ、そして、見上げると、白煙が林の上に上がっていた。
「花火?」私はようやく口がきけた。
香瑠は笑いだした。最初はくすくすと、そのうち口を開けて大声で笑う。
私も不思議と可笑しくなった。
香瑠が笑っていることが可笑しい。
わざわざ、こんなことをするために、山奥まで来たの?
そう考えるだけで可笑しかった。
私は笑った。
でも、そのうち涙が溢《あふ》れて、口を押さえた。
嬉しかったのかもしれない。
わからない。
びっくりしたのかもしれない。
どうしてだろう?
砂埃で見えなかった風景が、すぐに元に戻った。なにも変わっていない。林も崖も、そのままだった。
「これがさ、たとえば、人が大勢いる街の中だったとして」香瑠が話した。「それでも、きっと同じなんだよな。何一つ変わらないんだ。ただ、大声で笑って、そしてお終い」
私は想像した。
街の中で?
変わらない?
そんなはずはない。みんなびっくりするだろう。
パニックになるにちがいない。
香瑠が言っていることは、私には理解できなかった。けれど、香瑠の言うことに間違いなんてありえないのだ。彼女はいつも正しい。深い思慮があって、行動しているはず。今だって、私を笑わせるために、これだけの演出をしてくれたのだし、そして、それは大成功だったではないか。
私の涙は、感動の涙だった。
それがようやくわかった。
悲しいから泣いているのではない。
香瑠の素晴らしさ、美しさが、私を感動させたのだ。とても嬉しかった。彼女についていこう。生きる価値が、彼女にはある、と私は確信した。
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第4章 さらさらぜんぜん
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おおい、火を吐く星の 舞群《まいむら》を統《す》べたもう君、小夜中《さよなか》の叫びの声を みそなわす御神《おんかみ》こそは、ゼウスが血筋の御息子、君よ、いざ、来降したまえ、テュイアスのニンフらを伴《とも》にしたがえ、夜どおしに、舞い狂い、宰領に立つ イアッコス神を祝《ほ》ぎまつるニンフとともに。
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提出した製図の課題に対する講評会も終わった夕方、雨宮純と生協の前で別れたあと、加部谷恵美は海月及介に会えそうな期待から、一人で図書館に入った。自分は課題を終えて、一安心。しかし、ずっと気がかりだったのは、海月が製図をしていなかったこと、そして本人の口から、この大学を辞めるつもりだ、という言葉を聞かされたことだった。
人間なんて不確定なものだ。気持ちなんて簡単に変わってしまうことだってある。けれど時間は取り戻せない。たとえば、今からもう製図の課題は提出できない。つまり、いくら海月の気持ちが変わっても、もう完全に手遅れになった。もちろん、彼が後悔なんてするとは思えない。どっしりと鈍い重さを感じるのは彼女の方だ。決定的になってしまったことで、やはり駄目押しをされたみたいに思えた。
特に、この頃はあまり海月と話をしなくなった。会っている時間も短い。西之園萌絵がいなくなったので、国枝研究室へも遊びにいきにくい。山吹早月もM2になって修士論文の研究で忙しそうだ。自分ももう三年生。専門の講義が多くなり、そろそろ進路を定める時期になっている。そういった諸々のことがじわじわと満ち潮のように押し寄せて、繋がっていた場所が島になって離れてしまったみたいに感じる。もともと、孤島のような海月という人物だが、自分からだけは橋が架かっている、と考えていた彼女だった。
予感は当たって、海月の姿を発見した。閲覧室の奥、ほぼいつもの場所だ。閉館時間が近いためか、部屋には数人の利用者しかいなかった。とても静かだ。加部谷は彼に近づき、隣の椅子を引いて座った。しばらく黙っていることにする。
海月は本を見たまま。けれど、五秒ほどして顔を上げ、加部谷を一瞥した。それから、さらに躰を起こし、振り返って壁の時計を見た。
「久しぶり」加部谷は挨拶をした。どれくらい久しぶりかというと、せいぜい数日である。
海月は立ち上がり、本を書棚へ返しにいくようだ。加部谷はしばらく待っていた。そこまでついて歩くわけにいかない。ほかのテーブルでも、立ち上がって帰る支度をしている者がいる。カウンタの中に図書の係員がいて、こちらをじっと見ていた。窓の外はまだ明るい。眩しい方角の窓はブラインドが下りていた。日が長い季節だ。
なんとも平和な空間だな、とふと思った。
自分たちには、どんな特権があって、こんな素晴らしく穏やかな環境にいられるのだろう。本が読みたくても読めない人たちは多いはずだ。それ以前に、生きていくこと自体が困難な状況がある。そういう報道をときどき聞く。聞くだけだ。どうすることもできない、と目を瞑《つむ》る。自分たちの周りに広がっているのは、そういう遠くのことに目を瞑るしかない静けさだ。
血の臭いはここまでは届かない。
煙も見えない。爆音も聞こえない。
そういう静けさなのだ。
こんな穏やかな静けさを夢見ている人たちがいるはずなのに。
海月が戻ってきたので、彼女は立ち上がり、彼と一緒に図書館を出た。ピロティを歩いているとき、食事をどうしようか、と海月に尋ねるつもりだった。そうすれば、生協の食堂へ行くこともできる。もちろん、まだ慌てて夕食を食べる時刻でもない。海月は帰るつもりだろうか。
いろいろ尋ねたいことがあったけれど、彼女は黙っていた。ときどき彼の横顔を見た。
キャンパスの緩やかな坂を下っていく。校門が見えてきた。
「どうした?」海月がきいてきた。
「嬉しい。ありがとう。きいてくれて」彼女は微笑んだ。その言葉は、素直な気持ちだった。
「大人しいな」
「うん、そうかもね。製図の講評会で疲れちゃったし」
海月は無言で頷いた。
「ちょっと、どこかで、話さない?」加部谷は提案した。このままでは、じゃあ、さようなら、となってしまう。彼女は自転車だし、海月は歩いて帰る。
広場の脇にあるコンクリートのベンチに腰掛けた。後ろから日が当たり、二人の長い影が、コンクリートの平面に崩れることなく描かれた。
座ったあと、彼女は何を話そうか考えた。
「事件の話か?」海月がきいた。
「あ、事件ね。そういえば……、あったねぇ。どうなったんだろう。解決はしていないみたいだけど。そうか、目薬も、あちこちで見つかったけれど、最近ないね、もう終息?」
「商品がなくなったからじゃないかな」
「そうかそうか……、そうだよね……」頭がぼうっとしてきた。彼女は自分の膝を見ていた。足を動かして前後に軽く振ってみる。どういうわけか、呼吸に抵抗を感じた。息苦しいというほどではないが、いつもより通り道が細くなった感じだ。躰がどこか不調なのだろうか。ものを考えられないのも、酸素が不足しているせいかもしれない、と思った。
「疲れているなら、帰って、寝た方がいい」海月が言う。
「違う、疲れているんじゃないよ。昨日は睡眠充分だもん。そうじゃなくてね、なんだろう、やっぱり、海月君に、私、言いたいことがあるんだよね」
「何だ?」
また、息が苦しくなった。心臓が動いているのがわかった。まちがいなく自分の心臓だ。目眩《めまい》がしそうな気がして、耳の後ろをぐっと押さえたくなる。
「いつ、行っちゃうの?」
「どこへ?」
「大学を辞めるって、言ったじゃない」
「ああ、まだ決まっていないよ。今年度はここにいる可能性が高い」
「可能性って……」彼女は顔を上げて、海月を睨みつけた。「可能性って……」
えっと、何が言いたかったんだっけ。
彼女はまた下を向いた。可能性という言葉に引っかかった。あまりにも無味乾燥すぎて、人を馬鹿にしているみたいに感じた。でも、よく考えたら普通だ。べつにおかしくない。刺々しいのは、いつもの海月及介と同じだ。違う。刺々しくもない。むしろ、いつもより、ずっと優しいではないか。
「進路の悩みか?」海月がきいた。
ほら、優しい。
変なの。きいてくれるなんて。
「うーん、それもあるけれど」加部谷は答えた。「あのさ、飲みにいこうよ、どこかへ」
「今から?」
「そうだよ。私が奢《おご》るから」
「奢ってもらう理由がない」
「うーん、じゃあね、そう、相談料として」
「いや、割り勘でいいよ」
「え? つき合ってくれるの?」
「ああ……」
「うわぁ」加部谷は立ち上がった。「二人だけだよ。山吹さん、呼ばないよ」
「山吹は関係ないだろう」
「そうそう、関係ない、関係ない」
加部谷は急に嬉しくなった。どうしてこんなに自分が喜ぶのか、という点で驚いたほどだ。
自転車は置いていくことにした。そちらへ戻る時間さえ惜しかったのだ。そのまま校門を出て、二人は並んで歩く。どこへ行くのかも決めていなかった。何を話そうか、ということも考えなかった。
クリアな光を横から浴びた風景が、信じられないくらい綺麗で、今までに一度も見たことがないような気がした。
時田|玲奈《れいな》の姉と名乗る人物から、赤柳初朗に電話がかかってきた。朝八時のことだった。
「妹が死にました」
「え?」赤柳はびっくりした。まだベッドにいたが、飛び起きた。「どうして?」
「あの、パソコンの一つに、附箋《ふせん》でメモがあって、赤柳さんに電話をして、そのパソコンを渡してほしい、と書いてあったのです。それで、お電話を差し上げました。取りにきていただけますか?」
「あ、あ、はい、わかりました。すぐにお伺いします。しかし……」
「どちらに、いらっしゃるのですか? 今日では無理ですか?」
「東京ですね?」
「品川《しながわ》の近くです」
「えっと」赤柳は時計を見て答える。「では、三時間後ならば」
急いで支度をして、家を飛び出した。四十分後には、新幹線のホームにいた。午前中には予定はなかったものの、午後には愛知県警の人間に会う約束があった。そこへは電話をかけて、約束の時間を変えてもらった。夜にはTTK製薬の北沢部長に会うことになっているが、これには戻ってこられるだろう。
時田玲奈の死亡を知らされたショックは大きかった。メモが残っていたというのは、遺書という意味だろうか。ならば、自殺したのだ。事故ではない。もし事故ならば、その説明の言葉が電話であったはず。赤柳は、時田と先週電話で話したばかりだった。まったくそんな雰囲気はなかった。明るい人間ではないけれど、しっかりしているし、仕事もできそうな感じだった。予想だにしなかったことだ。
電車のシートでは、パソコンを広げて、ネット上であちらこちらを検索した。しかし、集中できない。頭の片隅で、ずっと彼女のことを考えていた。
あるいは、もしかして、自分が頼んでいた仕事が原因ではないか、というシチュエーションにまで想像が及ぶ。どうしても、その考えに行き着く。それどころか、本当に自殺だろうか、とまで疑った。なにも情報がないことが苛立たしい。
そういえば、忘れていたことがある。
東京で時田と会ったとき、彼女は、島田文子という人物と知り合った、という話をしていた。その後、赤柳は島田について少しだけ調べてみた。ネットでも名前が多数ヒットするほど有名なプログラマで、かつてはゲーム会社の社員だった。調べたのは、そこまでだが、急にそのことが思い出された。赤柳は、東京の知人に、メールを送った。島田文子という人物に関して、なにか情報はないか、という内容である。
品川の駅に到着し、時間を確かめてから、聞いた番号へコールした。約束の時刻よりも十分早かった。しかし、すぐに電話が繋がり、改札口の前に立っていた長身の女性が近づいてきた。
「初めまして、赤柳です」挨拶をして名刺を差し出す。「あの、どこかでお茶でもいかがでしょうか?」
「いえ、けっこうです。すぐに戻りますので。あの、これを」彼女は紙バッグを差し出した。中を覗くと、ノートパソコンが入っている。「どう処分していただいてもけっこうです。ただし、妹の個人的なことを公表するようなことは困ります。それだけは、約束して下さい」
「はい、もちろんです」赤柳はそれを受け取った。「軽いですねこれ、最新型だ。私も、今、ここに一つ持っているのですが……」赤柳は背中を半分だけ彼女に向ける。
「これの倍くらい重いですよ」
彼女は不思議そうな顔を一瞬した。
バッグを背負っているわけではない。チョッキの背中に大きなポケットがあって、そこに入れて持ち歩いているのだ。見た目ではわからない。彼女にも伝わらなかったようだった。
「私にはわかりませんが、パソコンが好きな子でした。あの、妹が受けていたお仕事は、途中だったのでしょうか? ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「失礼ですが、自殺されたのですか?」赤柳は肝心なことを尋ねた。
「ええ」彼女は頷き、視線を遠くへ一度送った。
「ご自宅で? 申し訳ありません。その、不審な点はありませんでしたか? どんなふうだったのでしょうか? もしよろしければ……」
「いえ……」彼女は首をふったが、そこで片手を口に当て、顔をしかめた。
「申し訳ありません。おききするのは、その、事件性といいますか、そういった可能性があってはならないと思ったものですから。私は、探偵なのです」
「探偵? え、そうなんですか。コンピュータの関係のお仕事ではないのですか?」
「違います」
「では、妹も、なにか、その……、危険な仕事をしていたのでしょうか?」
「いえ、そんなことはありません」赤柳は否定した。それは本当だろうか、という自問が、針で刺される刺激に似ていた。「ただ、おききしたのは、職業柄、という意味です」
「自宅で、ええ、薬を飲んで、死んでいました。私は、電話を受けて、部屋へ行ったんです。私が見つけました」
「そうですか、ご本人から電話があったのですか……、では、まちがいありませんね。どんな理由だったのでしょう。お話を伺えませんか?」
「それが、全然」彼女は首をふった。「今から死ぬから、というだけです。今までありがとうねって」目頭を潤《うる》ませ、彼女はそこで息を震わせた。「それだけです。そんな、悩んでいるようなこともなかったし、むしろ、あの、なんだか、いつもよりさばさばとしていて、機嫌が良いみたいな声でしたから、私、冗談でしょう? って、最初は笑ったんですよ。部屋へ行くまでも、これは絶対になにかの悪戯に決まっている、どっきりを仕掛けて私を驚かせるつもりなんだって……、そう考えていたんですよ。バスルームで見つけたときも、まだ、生きていると思いました。目を開けてくれると思いました」
彼女は言葉に詰まり、下を向いてしまった。
沈黙。
赤柳もしばらく待った。
「そうですか。亡くなったのは、いつですか?」
「五日まえです。昨日が葬式でした」
「あの、改めて、御霊前へ、お伺いしたいと思います」赤柳は言った。
「いえ、その必要はありません。どうか、もう、このまま静かにさせて下さい。では、もう……」
彼女は頭を下げ、そして、改札の中へ歩いていった。こちらを振り返ることもなかった。
赤柳は、すぐに那古野に引き返すことにした。改札に入り、トイレに入ってから、ホームへの階段を下りた。パソコンが入ったバッグは、土産物でも入れる簡単な紙袋だった。歩きながら、彼女のパソコンに何度も触れた。すぐにも時田玲奈が残したものが見たかった。きっと重要ななにかがあったのだろう。
しかし、何故、自殺したのか。
それは、調査と関係があったのか。
ネット上に存在する謎の組織?
名前もない団体?
意図も規模もわからない。ただ明らかなのは、ギリシャ文字がシンボルとなるプロジェクトが、ときどき零《こぼ》れ落ちるように社会に現れる。そう、まさに零れ落ちるという感じなのだ。それが全体ではない。ほんの一部だろう。もっと人を操る大きな力を感じる。大勢が自殺している。大勢がコントロールされている。それは確かな事実なのに、実体はまったく見えない。見えないように演出されている点が、普通の宗教団体、あるいはテロ組織とはまったく異なる。逆なのだ。
携帯電話が振動した。エスカレータに乗っているときだった。右側を下っていたのだが、左へ寄って、携帯を開けた。知り合いからだった。
島田文子は、かつて真賀田研究所にいた。
短い文を読み、その三文字の固有名詞に驚いた。心臓の鼓動が速くなる。
そうか、そこへ繋がるとは……。
ホームへ電車が入ってくる。アナウンスが流れ、大勢の人間が動いた。気がつくと、赤柳の横に黒人が二人立っていて、なにかを話しかけてくる。
「え?」
きき返し、顔をそちらへ向ける。黒人の一人は、バッグへ手を入れ、小さな筒状のものを握っていた。何を尋ねられるのか、と赤柳は思った。
「すみません、何て書いてありますか?」外国人らしいアクセントで一人が言った。
その容器に書かれている文字のことだろうか。顔を近づける。
「これ、何?」赤柳はきいた。
「目薬です」相手は答える。
そのとき、目になにかが飛び込んできた。
赤柳は目を瞑った。
腰を落とし、その場に蹲《うずくま》る。
「大丈夫ですか?」声が聞こえた。
気がつくと、片手に持っているものがない。
手探りする。
目が開けられなかった。
「どうしたんですか?」
「どろぼうだ!」赤柳は叫ぶ。「誰か!」
電車のドアの音。アナウンス。ざわめき。大勢が移動する音。息遣い。コンプレッサの空気音。
掻《か》き消される。
空気が攪拌《かくはん》されている。
「すみません!」すぐそばで誰かが叫んでいた。女性の声だ。「この人が……」
赤柳は冷静だった。しかし、やはり目は開けられない。スプレィで吹きつけられたらしい。
とにかく、目を洗わなければ……。
しかし、もう遅いだろう。パソコンが入ったバッグを奪われた。手を離した意識さえなかった。ほんの一瞬の油断だった。
どこからつけられていたのだろう。
あの彼女の方は、大丈夫だろうか。そちらは祈るしかない。
電車のドアが閉まる音が聞こえた。モータが唸る低音。
「どうしました?」肩に触れられる。今度は男性の声だ。
「鞄を盗まれました。目が開けられない。なにかを吹きつけられたみたいで」赤柳は説明した。
「立てますか?」
「水で目を洗いたい」
「わかりました。こちらです」
駅員だろうか。彼に従って、目を瞑ったまま歩く。目が痛い。開けるなんてことはまったくできなかった。
やってくれたものだ。舌打ちを何度もした。溜息もついた。
だが、殺されなかっただけでも幸運か。これで、手を引け、というメッセージだろう。彼女のパソコンに何が入っているというのだ?
そんなにまでして防衛する価値があるもの?
さて、これから、どうしたものか。
もう、こちらのことは完全に知られてしまった、ということ。
一人で動くには、危険すぎる。
そうだ、慌ててポケットに手を入れた。携帯電話を取られたのではないか、と心配になったからだ。
良かった。電話はあった。
そこまで危険視はされていない、ということになる。そのポケットからハンカチを取り出し、目に当てる。目の痛みは多少和らいだ。涙が沢山出ているようだった。
小さな居酒屋のカウンタの一番奥。多少窮屈なテーブルに、加部谷と海月は向き合っていた。いつも前を通るが、一度も入ったことのない店だった。海月も初めてだと言った。ビールをグラスに注いで乾杯をした。製図の課題が終わったことに対してなのか、それとも海月の将来を祝してなのか、わからない。そういった言葉は口にしなかった。加部谷は一瞬だけ発想し、思い留まった。
「将来、どんなふうになっていくのか、もうとっくに決めているみたいだね」加部谷は話す。「そうでしょう? そんなふうに見える」
「いや、決めてないよ」海月は言った。
「でも、そういう人生設計があるから、それを目指して、大学も替わろうって考えたわけでしょう? 今のC大では、なにか不足か不具合があったわけでしょう?」
「そうでもない。決められないから、いろいろもっと沢山見てみよう、というだけだ」
「ああ、なるほどね。ねえ、仕送りは? 出してもらえるの?」
「うん」
「そう。私はさ、海月君は、研究者になるんじゃないかって思うけれど」
「どうして?」
「そんな感じだもんね。それ以外の仕事をしている姿がねぇ、どうしても想像できないし。山吹さんなんかは、なんでもできそうだけれど」
海月は無言で頷いた。
注文した料理が運ばれてきて、しばらく、黙ってそれを食べた。会話は弾まない。これは、二人のうち一人が海月及介である以上、避けられない状況といえる。
何を話せば良いだろう、と加部谷はいつも考える。考えさせられる。海月は、もしかして会話術の師匠で、こうして自分は鍛えられているのではないか。「さあ、どこからでも話しかけてきなさい」みたいに言われている気がするのだ。だが、どこにも攻め込む隙がない。
しかし、今日は黙っていよう、と考えた。徹底的に無口でいてやろう。本来の自分は、これくらい大人しいのだ。これまで、大いに気を遣って、なんとか場を盛り上げよう、と四苦八苦してきた加部谷恵美だった。その苦労は何だったのか。私のこの気持ちがわかる?
「このまえ話していた事件は?」海月が口をきいた。
「え?」加部谷はびっくりする。「ああ、あれね……、うん、べつに、なんともなっていないと思うよ。解決したなんてニュースはやってないし。近藤さんも来ないし……」
この件については、海月にほとんど話していなかったので、加部谷は一気にしゃべり始めた。話すことができる幸せを感じた。なにしろ、こちらから無理にふった話ではない。海月の方からきいてきたのだ。
雨宮がバイトをしている化工の先生、それに、TTK製薬の社員で失踪している女性の話。赤柳が、それを調べていることも。山吹から聞いた話も交えて、自分が知っていることをランダムに放出した。自分の中でも、それらはシーケンシャルに並んでいない。関連があるのかないのか、まったくわからないものばかりだった。
「死体を見つけた場所って、よく通るのか?」
「少し近道になるから、私はけっこう通ってた。お墓のすぐ近くだから、夜はちょっと通りにくいかも。もの凄く真っ暗になるし」
「夜に通ったこともあった?」
「あるある。夜というか、明け方というか、まだ暗い時間だけれど。そうそう、何日かまえに通ったとき、そこで転んじゃって。あ、猫が飛び出してきたの。もうびっくり。それで、あ、そうそう、通りかかった女の人に助けてもらって、えっと、包帯とかしてもらって……」
「近所の人?」
「そうだよ。うーん、あとでお礼にいった」
「いつ?」
「えっと、怪我をした翌日だったかな……」
「違う。怪我をしたのは、事件よりもまえ?」
「うん、そう。ちょっとまえ」
「その女の人は、何をしていた?」
「え?」
「そんな時間に、そこを通ったわけだ」
「通ったというか。階段の下にいたみたい。私の声が聞こえたから、上がってきたんじゃないかな。きゃっとか、ぎゃっとか、たぶん、声が出ちゃったから」
「その時間に、そこにいたのは?」
「たぶん、運動をしていたんだと思う。そんな格好だった」
「だったら、その日だけじゃないかもしれない」
「うん、それは、そうだね」
「どれくらい近い?」
「え? その人の家?」加部谷はきき返し、海月が頷くのを見てから考える。「歩いて、二、三分くらい? もう、すぐ近く。二百メートルか三百メートルくらいかな」
「事件のとき、その人は?」海月が尋ねる。
「え、どういうこと?」
「また会った?」
「ううん」加部谷は首をふった。
海月は小さく頷いた。彼はまた料理を食べ始める。話はそこで途切れた。
「そうか、そういえば、あんなに近くだったし、同じくらいの時間だったんだから、見にきていたかも。家にいたとしても、パトカーのサイレンとか、絶対に聞こえたはずだし」
「現場に来れば、加部谷たちを見つけただろう?」
「そう……、かな。雨宮ちゃんとおしゃべりしていたから……。でも、野次馬の人はいた。あちこちにいた。私たち、道路のところにいたから、絶対にみんなから見られていたと思う」
「寝ていて気づかなかった」
「うーん、そうかな」
「あるいは、留守だった」
「留守? あ、そうだね。どこかへ出かけていたのか。えっと、矢場さんっていう名前の人なんだけれど」加部谷は少し不安になった。「どうして? なにか気になるの?」
「いや」海月は一瞬だけ視線をこちらへ送ったが、すぐに視線を逸らせる。
また会話が途切れた。加部谷は、近藤に会ったら、この話をしよう、と考えた。
「ねえ、目薬は、どう思う? 目薬を持っていたこと」
「どうも……」海月は答える。
どうも思わない、話す価値はない、という意味のようだ。
「全国で悪戯があったよね。あれは?」
「べつに」
「ああいうことするのって、どうなのかな?」
海月は答えない。
どうも関心がないようだ。加部谷は考えた。
「どうせやるなら、もっと大きな迷惑がかかる、もっと危険なものをした方が効果的じゃない? 悪いことでも、それなりに目的があるはずなんだから、もっと頭を使って、テロリストならテロリストらしく、どーんと大きく出てこいよって、思わない?」
「加部谷は、そう思うのか?」
「そうね」彼女は頷いた。「どっちかっていえば、そう思う。あんな目薬に小細工なんかして、世間を騒がせるなんて、たぶん、もの凄い小心者なんじゃないかしら」
「警告はしたいが、無関係な人の命までは取りたくない、と考えているのかもしれない」
「警告って? ああ、つまり……、なにか訴えたいことがあるわけね。でも、そんな犯行声明なんてあった? 全然ないわけでしょう?」
海月は黙って頷いた。
「社会に不満があって、ああいうことをするのって、ほら、落書きとかと同じだよね。落書きは、人間の健康には関係がないから、危険は少ないけれど、でも、もしかしたら、被害の額としては、大きいのかも」
「目薬のメーカには、打撃が大きい」海月が言った。
「そうそう、TTK製薬は、その目薬を製造中止にしたんだよ」
「名前を変えて出すだけだろう」
「それは、そうかもね。何? そうさせるのが、犯人の目的?」
「さあ……」
「うーん、ちょっと考えられないよね。もしかして、メーカに脅しをかけて、もうお金とか、もらったのかも、陰では既に解決をしているとか? それだったら、犯人にしてみれば、やった甲斐があったってことになるけれど。お菓子に針を入れたりするじゃない。あれと同じやり方だね」
ビールがなくなった。二人でまだ一本だ。
「ビール、もっと飲む?」
「いや、もういいよ」
「もっと、でも、食べられるでしょう?」
「ああ」
「何がいい?」
「なんでもいいよ」
「加部谷が頼み役かぁ」彼女はメニュに手を伸ばした。
水で目を洗っただけで、ずいぶん楽になった。少しだけ目を開けて、周囲の明るさくらいなら見ることができた。その後、赤柳は病院へ連れていかれ、そこでまた洗浄をされた。警官がやってきて、病院のロビィの脇で数々の質問も受けた。相手の人相も話した。取られたものは、ノートパソコンだ、と説明した。もちろん、詳しいことは話していない。どんな機種なのか、と質問されたが、それは答えられなかった。友達からもらったものなので、と説明しておいた。警官は、同様の犯行が、首都圏で増えている、と話した。しかし、それはまた別件だろう、と赤柳は考える。あれは、物取りではない。確実にピンポイントで、時田のパソコンを奪いにきたのだ。
警官は外へ出ていった。パトカーはずっと駐車しているから、病院から離れるわけではなさそうだ。自分は護られているのだろうか。
病院の待合い室で、手持ち無沙汰になった赤柳は、電話をかけた。どうも液晶画面の文字がしっかりと読めなかったので、近くにいた看護師に見てもらいながら、相手の番号を選び出した。まず、島田文子のことを教えてくれた知り合いにかける。しかし、女性の声の留守番電話になっていた。ご用件をお話し下さい、と聞いたところで電話を切った。次に思いついたのは、西之園萌絵だった。以前と同じ携帯電話だろうか、と思いながら、これも看護師に確かめてもらってから、コールした。
「はい、西之園です」携帯を耳に当てると彼女の声が聞こえた。
「赤柳です。西之園さん、お久しぶりです」
「何ですか?」
「今、私、東京におりまして、そのぉ、ホームで強盗に襲われて、病院で治療を受けたところなんです」
「大丈夫ですか?」
「怪我は大したことありません。あの、おききしたいことがあって、電話をしました。西之園さん、島田文子という女性をご存じですか?」
一瞬だけ間があった。
「ええ、知っています」
赤柳は、ロビィの端へ移動し、囁くように小声で話した。
「私が依頼をして、ネットである組織のコミュニティに潜入していた人が自殺をしてしまったんです。突然でした。その人が、島田文子という女性とそのコミュニティで知り合って、何度か会った、と話していました。私は、死んだその人のお姉さんから、今日、パソコンを受け取りました。私に渡すように、というメモがあったそうなんです。そのパソコンを持って、那古野に帰ろうと思ったんですが、ホームで襲われて、そのパソコンを奪われてしまいました。相手は外国人の二人組でした」
「どちらの病院ですか?」西之園はきいた。
赤柳は看護師を呼び、病院の名前と場所を尋ねて、西之園に伝えた。
「近くですね。そちらへ行きます」
「あ、ありがとうございます。では、お待ちしています」
医者に呼ばれ、もう一度治療室へ入り、検査を受けた。今は目が見えるものの、ずっとぼやけているというか、滲んでいるというか、ピントが合わない感じで、このままでは一人で街を歩くことができない。しばらくすれば元に戻る、という説明を医師から受けた。
警官もやってきて、那古野に帰るか、誰か迎えにきてもらうことが可能か、と質問された。赤柳は、できればすぐに電車に乗って帰りたい、と答えた。もうすぐ友人が来る、とも話す。警官は赤柳の護衛を続けるつもりのようだ。そう命じられているのだろう。
待合い室に戻った。時刻は何時だろう。もう夕方近いはず。四時になっただろうか。周囲には既に大勢の人がいるが、これから、もっと増えるのではないか。
入口の自動ドアの音が聞こえ、白い服装の女性が近づいてくるのがわかった。
「赤柳さん」
「あ、どうも……」赤柳は立ち上がって、微笑んで見せた。
「良かった。お元気そうですね。怪我の具合は?」
「目なんです」指で自分の目を示す。「今も、ああ、残念ですが、麗《うるわ》しいお顔がよく見えません。変なものを、シュッと吹きつけられましてね」
「大変……、それは、災難でしたね」
「まだ、ぼんやりとしか見えないんです。医者は、そのうち治ると言ってくれましたが」
「これから、どうされるのですか? 那古野に戻られるの?」
「ええ、できれば、そうしようと思います」
「こちらに、どなたか、いらっしゃいますか? お友達とか」
「いやあ、それが、かけたんですけど、連絡がつかなくて」
「それでは、私がお送りしましょう」
「あ、いえ、そ、そんな、とんでもない。そんなつもりで電話をしたわけではありません、その、断じて、ええ、違います」赤柳は顔の前で手をふった。
その手が見えません、というジェスチャではない。手の動きはちゃんと見えた。
結局、二本めのビールも注文して、その半分を加部谷は飲んだ。こんなにアルコールを飲んだのは久しぶりで、自分の顔の皮膚がスポンジになったみたいに感じた。多孔質というのか、断熱材というのか、触ってみても、感覚が鈍い。表情が崩れているのではないか、と不安になったが、もちろん確かめようがない。
お腹もいっぱいになったので、店を出ることにした。お金を出そうとして、バッグをひっくり返し、細かいものがテーブルの下に散乱したので、それを拾い集めた。
「ああ、大変大変」彼女はようやく立ち上がる。立ち上がったときに目眩がして、躰がふらついた。脚が椅子に当たる。
「大丈夫か?」誰かがきいた。誰かって、海月に決まっているではないか、と自分に教えてやった。なんだか可笑しい。
レジでお金を払う。全部自分が出すつもりだったのに、折半になった。
「変じゃない? 私が奢る約束でしょう?」
「約束なんかしたか?」
「うーん、宣言はしたと思うけれど……」
店の外に出た。そうか、まだ大学のすぐ近くにいたのだ。ここからアパートまで歩いて帰らなければならない。
「あぁあ、そうか、歩くんだ、ここから」
「自転車は?」海月がきく。
「酔っ払い運転になるから、駄目なんだよぉ。危ないから」
「うん」
「海月君は、どちらへ?」
「いや、帰るけど……」
「そう……、じゃあね、どうもありがとう」加部谷は片手を上げて、それを振った。「あぁあ……」溜息が漏れる。「どこへでも、勝手に行きなさい。行くがいいわ。私のことなんか、結局どうだっていいのよね。そうでしょう?」急に可笑しくなって、加部谷は笑った。「まあまあ、そんなこと言わずに、うん、ちょっと、一緒に歩きましょうよ」
とりあえず、しばらくは同じ方角なので、二人は並んで歩いた。なにかしゃべらなければ、と彼女は考えたが、顔の奥までスポンジ化して、頭もスポンジに支配された感覚になっていた。風が頭の内部を通りすぎていくから、考えていることを空気にさらわれてしまうのだ。
「うーん、なんか、なんにも考えられなくなってきちゃった感じ」
「酔っ払ったんだよ」
「そうそう。わかってますよ。おかしいなぁ、何のために海月君と一緒だったんだっけ? 覚えていない?」
「さあ……」
「なんか言いたいことがあったわけよ。うーん、それを言わなければ、何のために、お金を使ったのかってことになるでしょう?」
「食べるためだろう」
「違う違う。食べるためなら、カップラーメンでも良いわけですよ。なにも、こんなぁ……、ああ、えっと、うーんと、なんか良いことがあったんだっけ?」
「製図が終わった」
「そっかぁ、製図だね、そうそう、製図が終わったの。雨宮ちゃんよりは、私の方が上手いと思うな、今回。なのにね、先生たち、なんか雨宮ちゃんには優しいんだよね。私って、何? 虐められやすいタイプ? なんかね、いちいち突っかかってくるんだからぁ。いいよなぁ、美人は。暖かく迎えられて……」
「それが言いたかったことか?」
「あれ? 違うな。今のは、駄目。聞かなかったことにして。酔っ払っているわ、私、やっぱり。駄目だ。心にもない愚痴を言ってしまったのだ。嘘だからね。心にもないことなのよ。全然、そんなこと考えたこともないんだからね」
「わかった」
「うーんと、海月君に関してなんだよね、やっぱりさ」加部谷は空を見上げながら歩いた。
しかし、電信柱の電線に目が行ってしまう。そちらへ、引き寄せられる感じがしたが、海月に肩がぶつかって、事なきを得た。
「何だ? 今の」彼女は呟いた。「そっちへ、私、行こうとした?」
「さあ……」
「引力みたいなの」
「へえ」
「変だなぁ」
道路を横断し、脇道へ入った。少し暗くなる。
「結局ね、海月君がね、なにも言わないから、なんだか、調子が狂ってしまうわけよ。いや、違うなぁ、うーん、そうじゃなくって、私が言いたいのはね、えっとぉ、今日は、もの凄く楽しかったってことなんだよ、うん、そうそう、それが言いたかったわけ。ありがとうね。一緒にいられる時間が、こんなに楽しいのに、もう限られているのよね、私たち……」
急に涙声になっていた。どうしたんだろう、と自分でも思った。
「どうせ、私のことなんかさ、うーんと、何だろう? ちょっと面倒くさい奴? それくらいにしか思ってないでしょうけれど、でも、私はさ、えっと、わりと、その……」
急に気持ちが悪くなった。息ができなくなりそうなくらい。加部谷は立ち止まり、地面を見た。
暗いアスファルトに、自分の白いスニーカ。
吐きそうだ。
膝を折って、屈み込んだ。
「大丈夫か?」海月が背中に触れる。
大丈夫じゃないよ。
くそう! どうして、言えないんだ?
言葉だけじゃないか。
言葉だけだからだよ。
こうなったら……、えっと、もう、どうにでもなれ。
頭の中で、竜巻みたいにごうごうと渦巻くものがあったが、それもまた片隅のスペシャル・コーナでしかない。大部分の加部谷は皆、シートに行儀良く着席し、静観していた。
なんとか、立ち上がった。
「もう、いいよ。ここで」彼女は言った。「海月君、ありがとう、じゃあね、バイバイ」
「送っていくよ」
「え? どうして?」
「危なそうだ」
「アブナソウ? え、私……」
送っていくって、どこへ?
そうか、そうか、私のアパートか。
「あ、嬉しい。じゃあ、やっぱり一緒に歩こうね。まだ、しばらく、一緒にいられるのか。限られた時間だもんね、大切にしましょうね」
「何、言ってるんだ?」
「駄目だ、なんか、泣けてくるよ。なんで? もうこの世も終わり? なんか、そんな気分。ああ、細菌兵器とかで、日本、攻撃されたりしてない? 躰が怠《だる》いよう。足がね、木偶《でく》の坊《ぼう》なんだよねぇ」
木偶の坊って、何だ?
またふらついた。海月が支えてくれた。
「うう、ああ……」溜息をつく。「気持ち悪いぞぅ。違う違う、海月君がじゃなくて、私がね。私が気持ち悪いのだ」
「どこかで休むか?」
「大丈夫、大丈夫。早く帰りたい。あ、近道していこう。そうそう、あそこを通ろうよ。えっと、ほらほら、墓場の階段だよ。あっちの方だから」
「殺人事件があったところか?」
「そうそう、そうだよ。ああ、なんか俄然元気が出てきた。ふう……、もう大丈夫かも。そうか、気の持ちようなんだね、目的を見失っていたのだな、私、今まで」
「何が目的なんだ?」
「うーんと、何だろう?」加部谷は考える。しかし、なにも思いつかなかった。「目薬じゃん。思い出した。目薬を持っていたんだよ、死んでる人が」
「聞いたよ」
「私は持ってない。ポケットなんかに、目薬って入れているもの?」
「習慣的に使う人なら」
「きっとさ、全国で見つかった目薬、あれは、全部、メーカの人が出荷まえに混ぜたものなんじゃない? 抜き取り検査をするときとかにすり替えて……。ね、できないことじゃないでしょう? 素人くさく見せかけて、殺虫剤とか、お酢とか、なんか、そこらへんにあるもので、それぞれ別々のものを入れておくわけよ。そうすれば、お店で交換された、と世間では考えるでしょう? でも、今まで、全然誰かがそんなことをした痕跡、見つかってないし、犯行声明だってないわけだし……」
「いつもより、頭が回っているな」
「私? そうでしょう? なんかね、急にアルコールが思考エネルギィに変換されちゃったみたい。美少女酩酊探偵。あ、これ、けっこういけるんじゃない? 語呂がいいよね。美少女酩酊探偵。略して、メーテル? はは……、メーテルはないよな。きっと、社内の二人が共謀してやっていたのね。そのうちの一人が殺された人で、だから、目薬のことで自分は殺されたのだって、それが言いたくて、瀕死の状態なのに、ポケットから目薬を取り出したわけだ」
「ダイイング・メッセージ」
「そうよ、それそれ、援護射撃ありがとう、海月君。そうなのだ、ダイイング・メッセージ。もの凄く順当でまともな考えじゃない?」
「そう考えるのが、一番自然だ」
「何? どうしちゃったの? なんか、私を喜ばせようとしているでしょう? 変だよ。調子が良すぎるよ」
「いや」
「素直に褒めてくれるなんて、変だよ」
「素直に考えた方が良いこともある」
墓地の横を通る道へ入ると、さらに暗くなった。ほとんど真っ暗闇に近い。加部谷は、海月と離れて歩いている。今はふらつかず、一人で歩けるようになっていた。
「ねえ、手をつながない?」加部谷は近づく。
「どうして?」
「怖いから」
加部谷の右手が海月の左手を掴まえた。心臓の鼓動が大きくなった。また気分が悪くなったら、どうしよう、という不安も大きくなった。歩きながら、海月に気づかれないよう、ゆっくりと深呼吸をする。
とりあえず、酸素だ。
落ち着いて落ち着いて。
「本当はね、ごめんね、言っちゃうけどぉ、海月君に遠くへ行ってほしくないんだよ」
「どうして?」
「うん、だって、会えなくなるじゃない」
「メールとかならできる」
「ケータイ持ってないじゃない」
「持つようになるかも」
「ありがとう。それは嬉しいけど、でも、もの凄く短いメールとか、なしだよ。ああ、とか、いや、とか、二文字だけでリプラィするのは、なしだよ」
下りになり、コンクリートの階段になった。
「ここ」加部谷は言った。「この、えっと十五メートルくらい先かな。真っ暗でしょう?」
「ああ」
「良かったでしょう? 手をつないでいて」
「いや」
「だからさ、そういう二文字返し、なんとかしてほしいのよね。いえ、今のは本心じゃないの。うん、二文字でも、嬉しいときはあるし、えっと、そうね、それで充分なのかも」
階段を下りていった。
「ここくらいだね」加部谷は立ち止まった。後ろを振り返った。「良かった、手をつないでいて。絶対、転ぶよね」
「気分は?」海月がきいた。
「え? 気分。ああ、うん、大丈夫。もう大丈夫。なんか、酔いも醒めてきたし」加部谷は言った。「ほら、いなくなった女の人、同じTTK製薬の」
「ああ」
「その人が犯人だよね、やっぱり」
「そうかな」
「思わない? 単純に考えて、素直に考えて」
「うん」
「もともとは、男の方が言い出したことだったのね。上司だから断れないと思ったの、最初は。愛人関係を迫られて。でも、もう、全部嫌になっちゃって、男を殺して、逃げた。ああ……」溜息が出る。「可哀相。殺さなくても良かったのにねぇ……、ちゃんと口で言えば良かったのに……。口で言ったのかな。言ってもきいてもらえなかったのかな。とにかく、こんなことで破滅するなんて、可哀相……」
「そうだな」
「海月君……、あのね」
「何?」
加部谷は海月に抱きついた。
じっと、そのまま、動かなかった。
わかるでしょう? 私の気持ち。
その言葉が思い浮かんだ。でも、言えない。自分でも、そんな卑怯な言葉は駄目だと思った。
「大丈夫か?」海月が囁いた。
大丈夫だよ、馬鹿。
「あのね……」
そのとき、サイレンが聞こえてきた。じっと耳を澄ませていたが、音は、だんだん近づいてくる。
「何だろう?」海月が言った。珍しい言葉だった。
「サイレン」加部谷は当たり前の返答をする。
ビ・サイレンと言いたかったのか。
洒落か? 思わず吹き出しそうになるところを必死に堪え、そして、その勢いを利用して、彼女は海月の顔に、自分の顔を近づけた。
もう、こうなったら実力行使しかない。言葉に頼っていては駄目だ。このチャンスを逃しては……。
赤柳は、西之園萌絵とともにタクシーで東京駅へ移動した。警官から同行すると言われたのだが、それは断った。もし、命を狙われるのなら、最初の機会で殺されていただろう。パソコンを奪われた以上、もう危険は小さい、というのが赤柳の判断だった。新幹線の切符を自販機で買った頃には、目はだいぶ良くなり、視力が弱い人は日頃からこんなふうなのかな、と体験できる程度には回復していた。小さな文字は読めないが、風景はだいたいわかるし、一人で歩いて電車に乗ることくらい簡単だろう。
改札を入る手前で、立ち話をした。
「島田さんとは、それほど面識があるわけではありません」西之園は言った。「彼女は、真賀田研究所にいて、私がそこへ行ったときに会ったのが最初です。その数年後にも、一度会いました。そのときは、ナノクラフトの社員でした。私の個人的な感想ですが、エンジニアタイプの人です」
「それは、宗教に入れ込むようなタイプではない、ということですか?」
「そうともいえます。しかし、わかりません」彼女は首をふった。「ただ、その方の自殺が、島田さんに関係がある、というふうには、ちょっと考えられませんけれど」
「うん、そうですね。まあ、最近の出来事が彼女を自殺に追い込んだのか、それとも、もともとなにか悩みがあったのか、そこのところもわかりません。ただですね、彼女が私に渡そうとしたデータを、何者かが奪いにきたことは事実です。それはつまり、そのコミュニティの秘密で、外部に漏らしたくないものがあった。彼女がスパイだと相手は気づいていた。私と接触することも知っていた。そして、暴力的な犯罪行為をしてまで、秘密漏洩を防ごうとした」
「念のために、ということかもしれませんよ」
「ああ、つまり、特に大事なデータではなかったかもしれない、と?」
「そうです」
「真賀田四季は、いったい何をしようとしているんですかね?」
「関わらない方が良い、というのが私の意見です」
「それは……、何のために?」
「ご自身のためにです。私も、自分のために、今は関わらないようにしています。それに、関わったところで、影響はないし、また、真賀田博士が、人類や地球に対して悪意を抱いている、ということは、たぶんありえません。ええ、私は、そう思えるようになりました」
「まえは、疑っていたのですね?」
「はい」
「どうして、見解が変わったのですか? 新しいデータが得られたのですか?」
「違います。気持ちの問題です」
「気持ち?」
「ええ、気持ちが変わりました」
「どうして、変わったのですか?」
「わかりません。自分の中の変化だと思います。そうですね……」西之園は溜息をついた。「ついていけない、という限界を感じただけかもしれないし、それとも、もしかしたら、なんらかの理解をしたのかもしれない」
「うーん、しかし、悪意がないかどうかは知りませんが、現に、大勢の命が失われているわけです。少なくとも、その責任はあるのでは? 直接暴力によって殺された人だっているのではありませんか?」
「彼女自身が手を下したわけではありません。彼女が殺したのは、すべて自分の血縁者です」
「ああ……、なるほど。うーん、よくわからないなあ。では、天才の周りにいる人間たちが悪い、ということですかね? 弟子たちの一部が、天才と比較すれば、一般人の命なんて無視できるほどの価値しかない、と考えている。そして、知らず知らずに、殺人者になっている、と?」
「そうかもしれません」
「どうすれば良いでしょう?」
「おそらく、どうすれば良いかがわかるのは、何十年もあと、もしかしたら、次の世紀かもしれません。だから、私たちに今できることは、記録を残すことだと思います。私たちの一生では、追えないレベルのイベントなのです」
「しかし、そんな記録だって、天才はきっと克明に残しているのでは?」
「頭の中にね。外には出てきません。外部に記録する者がいるでしょうか?」
「うーん」赤柳は唸り、そして舌打ちをした。「説得されそうだ。困ったなあ」
「たとえばですね。ナイフや銃弾が躰を貫けば、怪我をします。命を落とすこともあります。でも、もし、ナイフや銃弾が、もっとゆっくりで、何十年もかかってゆっくりと躰を通過したら、どうですか?」
「は?」赤柳は口を開けて、そのままの顔になる。
「目にはとても見えやすい。考える暇も充分にある。防ぐこともできそうな気がする。ところが一方では、放っておいても、怪我はしないでしょう。それは躰と同化し、きっとそのまま生き続けられる」
「気持ち悪い喩えですな、それは」
「ごめんなさい。それでは、躰ではなく、地面、あるいは地層でもけっこうです。一瞬で起これば地震として大きな被害が出る。何万年もかけて起これば、それよりも大きな変動なのに、誰も気づかない。そんな、ゆっくりとした外乱なのです」
「おっしゃりたいことは、わかります。しかし、どうして、そんなにゆっくりなんですか? 天才だったら、凡人よりも思考は早いはず。何故、そんな気の長い活動をするのでしょうか?」
「ええ、そこです。考えるべきは、その一点です。私も、そこが不思議で不思議でしかたなかった。だって、いくら天才でも、寿命は同じはず。だったら、なにをするにしても、普通よりも急がないと、自分のやりたいことは達成できないのではないか、そう考えますよね?」
「ええ、そう思います」
「ということは、たぶん、その時間や寿命については、なんらかの解決が既になされているのでしょう」
「え、解決って? 寿命をですか?」
「そうです」
「まさか」
「確かなことは、わかりません」西之園は首をふった。「ただ、それくらいは、たぶん……、あの人なら、簡単にやってのけるでしょう」西之園は、そこで少し微笑んだ。それから、視線を落とし、腕の時計を見た。「もう、そろそろ時間ですよ」
「あ、そうですか……」赤柳は頷いた。「では、また、いずれ改めまして、お伺いしたいと思います。どうもありがとうございました。お世話になりました」
切符を差し入れ、赤柳は自動改札を通った。電光掲示板を見上げたが、まだ目が霞んでよく見えなかった。
「十六番ホーム」後ろから西之園の声が聞こえる。
赤柳は振り返り、微笑んで手を振った。西之園の白い姿が、ぼんやりと見えた。
サイレンはすぐ近くで止まった。加部谷恵美と海月及介は、暗い階段を下りていく。そして、すぐに赤いライトが動いているのを見つけた。公園の向こう側である。
「あ、あの人の家かも」加部谷は言った。
「助けてくれた人?」海月がきく。
「そう、矢場さん」
近づくと、車道に車が三台停まっていた。一台はパトカーで、二台は黒いセダン。警官が二人道路に立っている。既に、近所の人だろう、幾人か見にきていた。事故があった、という様子ではない。加部谷たちはさらに近づいた。
やはり、矢場のログハウスの前だ。敷地の中に男が一人立っていて、電話をしているようだった。ログハウスの入口が開いている。照明が大量に漏れているその中にも、人がいるのが見えた。すぐ左手に二階建てのアパートがあるが、そちらの階段を下りてくる男性もいた。
「どうしたんですか?」加部谷は道路に立っている警官に尋ねた。「なにか、事故ですか?」
「いえ、お答えできませんが、大丈夫です。危険なことはありません」
「私の知り合いの家なんですけれど……」
「え?」
「矢場さんの家ですよね?」加部谷は言った。
警官は加部谷をじろりと見る。
「ちょっと、ここで待っていて下さい」警官は彼女にそう言うと、ログハウスの方へ走っていった。
さきほど電話をしていた男に警官は話しかけた。一度こちらを見た。加部谷のことで相談しているのだ。
「海月君、一緒にいてよ」加部谷は彼の手を掴んで引っ張った。自分でも大胆な行動だと自覚したが、これはちょっとした非常事態といえるだろう。彼の顔を見ると、海月は無言で頷いた。
道路の角に車が現れ、こちらへ近づいてくる。そのヘッドライトが眩しかった。加部谷の前を通りすぎたところで停まり、後部座席から、女性が出てくる。知った顔だ。車の向こう側からは、近藤刑事の丸い顔が現れた。
「あ、良かった。近藤さんだ」加部谷は溜息をつく。
「あれ、加部谷さん?」近藤がこちらを見た。「海月君も」
敷地内から警官が戻ってきた。
「あの、矢場さんは、どこに?」警官が加部谷を見て尋ねた。
「いえ、それは知りません。彼女、いないんですか?」
「ええ、探しています」
「やっぱり、いない?」近藤がきいた。
「はい」警官が、軽く敬礼をしながら頷く。
近藤は舌打ちをした。
「矢場さんがどうかしたのですか?」加部谷はきいた。
「ごめんね、ちょっと待ってて……」近藤は片手を広げてみせたあと、ログハウスの方へ行ってしまった。
一緒に来た佐野刑事も既にログハウスの中にいるのが見えた。しかたがないので、道路の反対側のガードレールまで後退し、そこに腰かけて待つことにした。公園の大木が覆い被さるように枝を伸ばしている。常夜灯にそれらの一部が照らし出されて、不思議な雰囲気だった。
「さっきは、ごめんなさい」加部谷は隣の海月に言った。
「何が?」
何がって、ことはないだろう、と加部谷は思った。彼女にしたら、思い切った行動に出たのだ。
しかし、たしかに、意味不明だと捉えられた可能性はある。
「ちょっと、酔っ払っていたと思う。でもねぇ、うんと、いえ、酔っ払ったからじゃなくて、気持ちは本当なんだよ」
「そう」海月は頷いた。
「海月君は、どう?」
「何が?」
「返事を聞かせて」
「返事? なにか、問われたかな」
「言葉では言っていないけどぉ」態度で示したではないか、と加部谷は思う。でも、そこまでは口にできなかった。
どうして察してくれないのか。
それとも、惚《とぼ》けられている?
遠くへ行かないでほしい、なんて言えない。そんな権利はないだろう。では、どうすれば良い?
貴方のことが好きです、なんて言えない。そんな権利、はたしてあるのだろうか。
だって、嫌われているかもしれないわけで、それを確かめもせず一方的に告白するのも躊躇《ためら》われる。
だから、曖昧にしかできない?
それも変だ。曖昧にしたのは、
自分に逃げ道を残しているだけではないのか?
自分を追い込みたくないだけではないのか?
違う。それも、少しはあるかもしれないけれど、追い込みたくないのは、自分ではなくて、彼の方だ。あまりにストレートに突きつけたりしたら、今の関係が完全に壊れてしまうだろう、という確かな予感がある。なにもなくなってしまうよりは、今のままの方がずっと良いのだ。不満なんてこれっぽっちもないのだ。ただ、将来についての不安、今手を打たなければいけないような不安があっただけ。
加部谷は、照明に照らされた無数の枝葉を見上げながら、そんなことを一巡り考えた。結論は出ない。溜息をゆっくり、静かについた。
駄目だ、このままか……。
でも、二度と、こんなチャンスはないかもしれない。
ようやく、海月を見る勇気を取り戻し、彼女は横を向いた。海月はポケットに両手を突っ込んで下を向いていたが、ごく自然にこちらへ視線を向けた。目が合った。
「どう考えるのも、どう行動するのも、個人の自由だけれど」海月が話した。歯切れの良いしゃべり方で、朗読するようだった。「加部谷は、僕には関わらない方がいい」
「え?」彼女はびっくりして、海月の言葉を頭の中で何度か繰り返した。「どういうこと?」
「言葉どおりだよ」海月は静かに言った。
これほど優しい響きの海月の声は、今まで聞いたことがなかった。加部谷の目が一気に熱くなった。
「関わらない方が良い?」彼女は頭の中でまだ反響を繰り返していた言葉をそのまま口にした。「今の、この状態のこと? これは、関わっているの?」
「いや、まだ大丈夫だ」
「まだ? 大丈夫? 何、それ……」
急に悲しくなってきた。
何だろう?
涙が滲み出る。訳がわからない。
「わからないよ」とにかく主張してみる。
泣いては駄目だ、と思う。
もう泣いている?
だから、息を吸って、自分の気持ちを急冷する。感情を空気で薄めた。現状を正確に把握しようとする努力に水を差した。逃げ出したい。できれば、目を瞑ってしまいたい。ここから立ち去りたい。帰ってベッドでゆっくりと泣きたい、と思った。
けれど、今ここにいる自分が惨《みじ》めになる。それだけは避けたかった。何故だ? どうしたって、充分に惨めなのに。
ゆっくりと溜息をつく。
そうか、ふられたんだな。
その簡単な言葉を思いついて、笑ってみようと思った。しかし、笑うと、ますます悲しくなりそうな予感がした。
風が感じられる。
頭上の枝が少しだけ動いた。
視線を逸らせている自分。
今、ここ、私、をすべて無視したい。
なにも考えないように、じっと黙っていた。逆に、頭はどんどん冴えてきて、自分の人生について考え始めた。近い将来、自分はどんなふうに生きれば良いのか、何を目指せば良いのか。どんな仕事をしているだろう。どこに住んでいるだろう。どんな人間が自分の前に現れるだろう。もしかして、ずっと一人で生きていくことになるのだろうか。恋人とか、家庭とか、そんなものには縁のない生き方だってあるはずだ。
そんなことを素早く考えた。高速に考えを巡らすことで、頭を冷却しようとしている、あるいは、麻痺させているようだった。ちょうど、力を入れ続けることで、手や足が痺れてくるように。
沈黙の時間は続く。
二人はどうしてここにいるのか?
ガードレールに腰かけたまま、同じような姿勢で動かなかった。前を見ている。二度と顔を見合うこともなかった。眼差しを交わすことはもうなかった。もう、そんなことはしてはいけないのだ。そのルールがたった今、議論の末に成立したみたいだった。時計を見ることもなかったし、周囲の状況も、もうどうだって良い、と加部谷には思えた。
見物人は増えているみたいだ。警察の車もさらに二台やってきたようだ。ログハウスの前には、関係者が何人も集まって、立ち話をしている。室内に入っていく人間も多い。何をしているのだろう。そんなことよりも、ここにいる若い男女二人の方が不思議だ。
いったい何をしているのか?
わからない。
なにもかも、わからない。
誰かが近づいてきた。
「加部谷さん」名前を呼ばれた。
相手の顔にようやくピントが合った。近藤刑事だった。道路を横断してくる。加部谷は、ガードレールから離れて、数歩前に出た位置に立った。
「矢場さんをご存じだったのですか?」質問される。
「はい」
「どんな関係ですか?」
「関係というか、偶然、えっと……」しっかりしなければ、と意識する。「怪我をしたとき、助けてもらって」
「何度も会われました?」
「いいえ、お礼にきたので、二回だけ」
「そうですか……。大丈夫ですか? なんか、元気がないようですが。もしかして、製図で徹夜ですか?」
「いえ……、あ、すみません」加部谷は微笑んだ。自分の顔が紙粘土でできているみたいに思えた。「お酒を飲んだから、なんかぼんやりしていました」
「もう、べつに、帰ってもらっても良いですよ」近藤は言う。
「何があったのですか?」それは、加部谷の横にいる男の声だった。珍しい。彼女はそちらへ振り向いた。そうか、海月及介がいたのだ。彼って、なかなかしゃべらないんだよね、と考えた。何故かしかし、彼の顔を見続けることができない。
「ええ、実は、矢場香瑠に対して令状が取れまして、踏み込んだんですよ。残念ながら、逃げられました。どうも、留守というのではない」
「令状って?」加部谷は首を傾げる。
「何の容疑ですか?」海月がきいた。
「管轄が違うのですが、危険物の所持ですね。爆発物か、あるいはそれを製造するための材料かもしれない。そういった活動をする危険な人物だ、という確かな情報があったようです。どんな組織の人間なのか、僕はまだ詳しく聞いていません。来ているのは、ほとんど、公安の連中です」
「危険な人物?」加部谷は考える。「あの、このまえの殺人事件とは、関係がないんですか?」
「そうですね。あのときの捜査で、矢場香瑠と一度会っています。話をしたんですよ。それに、このアパート」近藤が振り返って指をさした。「この二階の奥が、TTK製薬の倉居三重子がいた部屋です。彼女も失踪したままです。見つかっていません」
「ああ、そうだったんですか」
「近藤さん」道路を渡って、佐野が近づいてきた。「残っていたのは、バッテリィだけです。重くて、持っていくのを諦めたんでしょう」
「そうか」近藤が振り返って頷いた。彼はもう一度加部谷の方へ顔を向けて微笑んだ。「あ、じゃあ、気をつけて帰ってね。海月君、ちゃんと加部谷さんを送っていくんだよ」
「はい」海月が頷く。
近藤は佐野と一緒にまたログハウスの方へ行ってしまった。
「バッテリィって言ったね」加部谷は海月に囁く。
「ああ」
「何をするバッテリィ?」
「起爆させるためじゃないかな」
「爆弾を?」
「ああ」
「テロリストってこと?」
「さあ……」
「全然そんなふうには見えなかったよ。なんか、気さくな感じで、とても優しい人だったけれど」
「思想は、性格には無関係だ」
「うーん、ええ……、そうか」加部谷は頷く。彼女は空を見て、大きく息をした。星は見えない。「もう、帰ろう」
「ああ」
「一人で帰れるよ。もう、ここでいい。バイバイ」
「送っていくよ」
「いいよ。大丈夫だから」
加部谷は歩き出した。パトカーの横を通り、アスファルトの道を進んだ。しかし、すぐ横に海月が歩いている。足音もしない。忍者みたいに歩くのだ。
「いいってば」もう一度言った。
返事はない。
「近藤さんに言われたからでしょう?」聞いてみる。少し笑った声になった。
それについても、返事はなかった。
二人は夜の道を歩き続けた。星たちのように会話もなく。
香瑠がお茶を淹れていたとき、私は窓の外を眺めていた。
見えるものといえば、道路の電信柱の明かりくらいだった。しかし、その下に人影が動き、やがて、それがこちらへ向かって近づいてきた。アパートの住人の誰かだと思ったけれど、それは違っていた。あいつが戻ってきたのだ。
「あの人が来た」私は香瑠に告げた。
「え?」奥のキッチンにいた香瑠が振り返る。
「戻ってきたの」
「どうして?」
「わからない」
「しつこい奴だな」香瑠が窓の近くへ出てくる。
暗い場所に男が立っていた。こちらを見ているようだ。室内は明るいから、向こうからは私の顔が見えたはず。もう、顔を合わせたくない。
窓の外を覗いた香瑠は舌打ちをした。
足音が近づき、ドアがノックされる。
香瑠がドアへ行く。私はどうすれば良いのかわからなかった。
またノック。香瑠は私を一度見てから、ドアを開けた。
「何です?」香瑠が強い口調で言った。「帰ったら?」
「話がしたい」男は言う。
「何の話を?」
「どうして、そんなに俺を避けるんだ?」
「そんなの、こちらの自由でしょう? いいじゃないの。諦めなさいよ」
「ここまで来たんだ。駄目なら、最初からそう言えば良いじゃないか。ここまで誘っておいて駄目はないだろう?」
「誘った? 勝手に勘違いしただけ」
「何だとぉ」
「大きな声を出すな」香瑠が押し殺した声で言う。「近所迷惑だろ」
「とにかく、ちょっと話がしたい」
「帰って下さい」私は勇気を振り絞って言った。
「何だと思っているんだ? 部下だろう? 俺の部下だろう? どういう口のきき方だよ。おかしいじゃないか」男は笑いながら言った。
「まえから話は聞いているんだ」香瑠が言う。「いろいろ困ったことをしてくれるってね」
「何の話だ……」
「わかった。うーん、ちょっと、ここはまずいな」香瑠は、部屋の中へ戻ってきた。「もうさ、ちょっと面倒だけれど、いちおう、少し納得がいくまで話してやろう」彼女はキッチンの方へいき、上着を手にして、腕を通す。
その間、彼は戸口で待っていた。私を睨んで、恐ろしい形相だった。
こんな人と話し合う?
しかし、香瑠が私に近づき囁いた。
「さきに外に出ていくから、棚の道具箱の中にある、モンキィ・レンチを持ってきなさい。わかる? レンチだよ」
私は頷いた。
「近所迷惑になるから、そこの公園で話そう」香瑠は男の方へ行く。「彼女が着替えるから、外へ」
二人は出ていき、ドアが閉まった。
私は、棚へ走り、道具箱を探した。以前に一度、窓の金具を直すとき、これを借りたことがあった。香瑠は、沢山の道具を持っている。私の知らないものばかりだ。でも、モンキィ・レンチは知っていた。
大きくて重いレンチだ。自動車のタイヤを交換するときに使うのだろうか。とても重かった。私は、椅子の背にかかっていた香瑠のジャンパを借りることにして、それを着て、レンチを袖口に隠した。そして、急いでドアから出ていった。
二人は道路の近くで待っていた。
「あっちへ行って、話をしましょう」香瑠はそう言って歩きだす。「大声を出さないで」
「家の中でも良かったのに」男が言う。「なにも、こっちは、大声で喧嘩をするつもりなんてない」
「まあまあ、夜風に当たるのも、良い季節なんだし、いいじゃない、ほら綺麗でしょう?」香瑠は手を広げる。
彼女が見上げたので、私も空を見た。照明された樹々の枝が、鮮明に浮かび上がっていた。まったく動かない。写真のようだ。
「倉居さん、さっきは、ちょっと、僕も言いすぎた。売り言葉に買い言葉だったんだよ。申し訳ないと思っている。そんなつもりじゃなかった。うん、多少、その、酔っていることもあるし。そうじゃなくて、言いたかったのは、やっぱり、諦めきれないんだよ。君のことで頭がいっぱいで……」
男が話している言葉。
言葉、言葉、言葉。
その言葉たちが、木の枝の葉っぱみたいに思えた。
夜の中で、動かず、沢山集まって、静かに、じっとしている。光に照らされる無数のものたち。透けてしまうほど薄っぺらくて、すぐ散ってしまう存在。言葉、言葉、言葉、葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ。
沢山ある。沢山ありすぎる。
綺麗なものも、汚いものも。
正しいものも、間違っているものも。
美しいものも、醜いものも。
強いものも、弱いものも。
そんな無数の対比が、ものの姿をして、形をなして、まるで一つのもののように、存在を見せるのか。対比があるからこそ、エッジが見えるようになるのだ、と私は考えた。
対比がなければ、消えてしまうものたち。
対比がなければ、散ってしまうものたち。
香瑠は、何をしようとしているのだろう?
私は、それを既に理解していた。
私に見せることが、彼女の目的だ。
それが、彼女の意志なのだ。
そうして、私を、同志にしようと……。
私は、彼女に認められなければならない。
私は、勇気を持って、それを受け入れなければならない。
こうすることで、私は消えずにすむ。
こうすることで、私は散らずにすむ。
「俺、倉居さんに、一度ききたかったんだけれどさ、あの直里さんとは、どうだったの?」
「どういうことですか?」
「二人でやったんだろう? 目薬のことさ」
「何を言って……」
「わからないわけないじゃないか、俺が気づかないと思った? いや、でもね、誤解しないでほしい。とやかく言うつもりは全然ないんだ。警察にも黙っているよ。たださ、僕にも、なんらかのものがあっても良いと思ったんだ。わかるかな? つまり、ご褒美っていうかさ……」
「ご褒美?」
「あげたら?」香瑠が冷たく言った。
暗い階段を上り始めた。この上は墓場だ。天国でも地獄でもない。香瑠はどこへ行こうとしているんだろう?
そうじゃない。ほら、香瑠は立ち止まった。
ここ?
私を見ている。
暗いからわからないけれど、彼女の顔が見えるような気がした。
今ね?
ここね?
男は私の左手を取った。
「どうしたの?」いやらしい声を、私の耳へ入れようとした。
私の右手は、既にモンキィ・レンチを握っていた。
ほら、今だよ。
あげたら?
あげなくちゃ。
私は、右手を大きく振って、男の頭にそれを叩きつけた。
聞いたこともない音がして。
男の手は、私から離れた。
レンチは弾んだ。
呻き声。
私は、暗闇の、その醜いものへ、
もう一度、
レンチを、
ぶつけた。
もう一度。
そして、もう一度。
ここ?
ここだよね。
今?
今だよね。
あげた?
あげたら?
勇気を。
同志だ。
もう、同志だよ。
呻き声が止むまで。
もう一度。
ここ。
ここへ。
「そう……」香瑠が言った。「できるじゃない」
私は、呼吸をした。
息が苦しかったのだ。
酸素が必要だった。
もういい?
これでいい?
「こいつのために」
もういい?
「こいつのために」
これでいい?
「私は……」
もう大丈夫?
「人生をめちゃくちゃにされたんだ」
「もう、大丈夫だよ」落ち着いた声で香瑠は言った。「もう心配ないよ」
「ちゃんと、できた?」
「上出来だよ」
「自分だけで、本当に、できた……」
「そう、自分の力で解決しなきゃあ。ね? わかったでしょう? 私に頼っていないで、ちゃんと自分で考えて、自分で行動しなさい」
「わかった。どうもありがとう」
「間違っているものは正す。正しいことのためならば、どんな手を使っても良いの。それは神様が許してくれます。貴女は正しいことを信じる。そう、自分を信じる。そうでしょう? 何が間違っている?」
「いいえ、なにも間違っていない」
「そう。間違っているのは、大勢の男たちだ。みんな腐っている。もう、躰も心も腐りきっている。そんな奴らが、社会を牛耳っているから、こんな腐った国になったわけだ」
「そう、壊さなくちゃ」
「正しいものが正しいとわかる人は少なくなった。でも、少しずつでも、こうして潰していくしかないんだ」
「どうしよう。これ?」私はモンキィ・レンチを香瑠に見せた。
「持って帰る、キッチンで洗ってあげるから」
「私も洗って」
「わかった。貴女も洗ってあげる」
「ああ……」私は大きな溜息をついた。
「さあ、帰って、暖かい紅茶を飲もう。淹れ直しだね、もったいないけれど……」
そうか、こいつのために、香瑠の紅茶が台無しになったのだ。
急に、本当に、憎らしくなってきた。
そうだ、私は怒っているのだ。今まで、この感情を忘れていた。そんな焦燥感と同時に、私は、自分を取り戻したという清々しい気分になっていた。
私の手は血に塗れていたけれど、それは、生まれるときと同じく必然だった。血を流さずに生まれるものはないのだから。
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エピローグ
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さあ、来てくれ、来て。現われろ、さあ、この上ない仕合せを 私にもたらす運命《さだめ》の日、生《よ》の終りの日をもたらす無上の運命よ、来い、さあ来てくれ、この上に、明日《あす》の光を仰がずに すませるよう。
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「ほんで、何? 結局、どうなったわけ?」雨宮純がきいた。彼女は、ソフトクリームを嘗めている。「全然、わからんで、君の言っとること」
「どっちが? 海月君の方? それとも事件の方?」加部谷はききかえす。彼女は、ラーメンだった。
生協の食堂に二人はいる。午後一時半。昼の休み時間を過ぎているので、既に客は少ない。彼女たちは、午後の授業がないので時間をずらして食事にやってきたのだ。
「どっちもだがね」雨宮は答えた。「そんなことよりもよ、ラーメンはいかんで、あんた。それがいっちばん太るに」
「え? そうかなぁ。ソフトクリームだって……」
「私は、これがランチなんだが。ラーメンよりはカロリィ控えめだって、絶対にぃ」
「いいんだよ、もう太っても。どんどん太ってやる」
「うん、なんだわね、海月及介は、あんたには向かんと思うわぁ。私に言わせればよ。まあ、よぉく、そこまでやったのう、と褒めてつかわすわ、ホント」
「うん、私もそう思ったよ。つくづく、ふう」溜息が漏れる。「本当に健闘したでしょう?」
「したした。で、どこまでいった?」
「どこまでって?」
「あほか、君は……。遠足か?」
「遠足?」
「山吹さんだと思っとったけどなぁ」
「え?」加部谷は顔を上げる。「山吹さんが、何?」
「まあ、ええけどもぉ、どうだって……。ああ、しかし、ええのう、乙女ちっくでよう、夢があってよう、キティちゃんはさ。あ、あんたさ、サンリオに就職したら?」
「ねえ、直里先生のバイトは?」
「ああ、中止」雨宮は、既にコーンをかじっている。食べるのが早いのだ。「あぁあ……、それをきかれるとなあ、私もがっかり溜息だわさ」
「どうして?」
「素敵な先生に会えないから」
「え? 何なの、それ」
「まあ、お子ちゃまには、わからん世界なんだわな、きっと」
「へえ、そうなんだ。あらら、それは気づきませんでした。嘘、そんなふうだったっけ?」
「ほれほれ、周りが見えとらんかっただろ?」
「私の周りだったの?」
「まあまあまあ、ええじゃんか」雨宮は白い歯を見せつける顔をする。「ほんでも、事件は、結局どうなったん? 近藤さんにちゃんときいとかな、あんたも、しっかりしな」
「うーんとね、つまり、ようするに……、倉居さんっていう人がいてね」
「え? どこにぃ?」
「ああ、そうかそうか、純ちゃんと会ったでしょう? えっと、ほら、ログハウスに行ったじゃない。私が怪我をしたとき助けてくれた人」
「ああ、あの人のことか」
「そうそう。私には、矢場って名乗っていたんだけど」
「ヤバッテ?」
「だから、矢場さん」
「ああ、矢場か」
「あの人がね、TTK製薬の社員だったの」
「ほう……」
「変装して、別人になっていたんだって」
「ふうん……」
「凄いでしょう? 誰も気づかなかったの。周りの人たち。メガネを外して、鬘《かつら》被っただけで、わからないもん?」
「人間の顔って、しっかり見んでな」
「それで、直里先生とも知り合いだったの」
「何ぃ! ホントか、それ」
「そこでむきになるかな?」
「私の直里先生に、近づくなんて、プラチナ野郎だ」
「え? ふらちな、でしょう」
「とにかく、許せん。うーん、かくなるうえは……」
「なにかに取り憑かれている真似?」
「そうかぁ。そう来たかぁ」ソフトクリームを食べ尽くしてしまった雨宮は、片肘をつき、手に顎を載せている。「どう? ラーメン、美味いかい?」
「欲しいの?」
「もういらんかったら、食べてやってもええよ」
加部谷はまだ半分残っていたラーメンを雨宮の方へ押した。
「太るよ」
「私は、大丈夫。ちゃんと運動しとるでね」箸を持って、どんぶりを持ってラーメンのスープを飲む。「ああ、相変わらずの味だのう。安っぽい出汁《だし》だが、なにげに哀愁を誘うな」
「直里先生と、どこまでいったの?」
「馬鹿者、そういう話をするな」
「私には、さっき、きいたくせに」
「身分が違うわ、身分が」雨宮は、今度は残っていた麺を箸で集める。高貴なわりにはやっていることが貧乏くさい。「でもな、爆弾も隠し持っとったって、ニュースでやっとったがね。早く本人を見つけんと、ちょい怖いな」
「うん、そうだね。そういう怖い人って、けっこう社会に沢山隠れているのかも」
「あ、それ思うわぁ。よくも何事もなく、平和にみんな生きていられるよな。たまあに、ほんのちょっとした事件は起こるけど、全体をみたら、大きな争いとかもないし、街で殴り合いの喧嘩も滅多に見んし、見るからに気持ちが悪い人間も野放しになっとらんし、とりあえずは、そこそこ安全だもんな」
「ていうか、力の弱い子供とか女とか、うん、私たちって、やっぱ、守られているよね」
「いや、その過信が危険だがね。護身術くらい習った方がええで。あ、それよりか、若い女性には拳銃を持たせてくれたら、いいかも」
「それ、危ないと思う」
「なんで?」雨宮は天井へ視線を向ける。もう、ラーメンのどんぶりは空っぽになっていた。「若くて、そして、わりとそこそこだったら、拳銃が国から支給されるっちゅうのは、一理あると思うけどな」
「わりとそこそこだっていうのは、誰が判定するわけ?」
「それは、まあ、審査員がいるわけだ。だから、みんな、拳銃欲しさに、女を磨くわけだな」
「若くなくなったら、拳銃を返却するの?」
「そうそう。そりゃあ、なかなか辛いわな」
「ボーイフレンドに、拳銃をあげちゃったりしたら、困るでしょう?」
「その場合は、その女に全責任がある」
「うーん、欲しくないなあ、そんな責任とか、拳銃とか」
「よけいな心配せんでええから」
「うん」と頷いたあと、加部谷は考えた。「ちょっと、どういう意味、それ」
雨宮は声を上げて笑った。
赤柳初朗は、西之園萌絵にメールを書き始めた。事件のその後の進展を知らせるためだ。しかし、途中でメール自体が危険なのではないか、と気づいた。そこで、電話をかけることにする。電話だって、簡単に盗聴できるだろう。しかし、確率的な問題だ。そんなに重要機密を伝えるわけでもない、と自分を説得しつつ、コール音を聞いた。
「はい、西之園です」
「あ、赤柳でございます。今、ちょっとだけよろしいでしょうか?」
「はい、けっこうですよ」
「いえ、先日のお礼を申し上げたかったのです。本当に助かりました」
「目は、もう大丈夫ですか?」
「ええ、すっかり。全然もうなんともありませんです。むしろ、少し老眼が治って、まえよりよく見えるくらいです。はい。えっと、それから、愛知県警が、倉居三重子というテロリストを全国に指名手配しました。お聞き及びでしょうか?」
「いいえ、知りません」
「そうですか。例の目薬のTTK製薬に勤めていた女性です。まだ若いんですが」
「その人が、なにか?」
「おそらく、その、私が調べていたコミュニティにも属していたと思います。いや、もちろん、憶測です。もう調べることはやめました。時田さんが亡くなったので……、それに、西之園先生のご忠告も真摯《しんし》に受け止めておりますところでして」
「そう言っておけば、私が安心する、と思われたのでしょう? 本当は、まだ調べている。違いますか?」
「いえいえ、そんなことはありません」赤柳は笑った。
「でも、電話をかけてこられたのは、なにかわかったからですね? メールでは危険だと思われた」
「ええ、そうです。ひょんなところから、その、倉居三重子が、書いていた日記が見つかりまして、ええ、もちろん、ネット上のサーバに残っていたものなんですが……。実はこれ、警察が押収したものではありません。私が独自に入手しまして、先日、近藤さんにお渡ししました。捜査の参考になれば、と思いましてね、いえ、捜査の助けにはならないと感じましたが、でも、もし彼女が捕まれば、裁判で殺人に対する有力な証拠の一つにはなるかもしれません」
「日記ですか。肝心のことが書かれていました?」
「ええ、書かれています。殺人事件については、決定的なことが。ただ、面白いのは、架空の人物が一人出てくることです。彼女の近くに住んでいる女性なんです。実際にも、変装をして、別人になりすますことがあったようです。あの、その日記、お送りしますから、一度、読んでいただけないでしょうか」
「ええ、わかりました」
「できたら、犀川先生にも読んでいただきたいのです」
「それは、私はお約束できません。犀川先生に、直接お話しされてはいかがでしょうか?」
「わかりました、そういたします。もしかしたら、愛知県警から既に行っているかもしれませんが……、いや、それはないですね。たぶん、ええ、公安が乗り出していることもあって、県警の一課は若干引いている感じでしたから」
「赤柳さんは、どうやってそれを手に入れたのですか」
「ええ、大したことではありません。コミュニティの中では、限定的にですが、公開されていたブログだったんです」
「それじゃあ、ほかにも、潜入させている人がいるということですね?」
「はい」
「その方の安全は、確保されていますか?」
「万全を尽くしています」
「また自殺したりしないでしょうね」
「ああ、それは……、ご冗談ですか?」
「ごめんなさい、悪いジョークでした。いえ、冗談であってほしいのですけれど」
「はい、そのとおりです」
「やはり、やめないおつもりなのね」
「申し訳ありません」
「充分にお気をつけて」
「はい、ありがとうございます。あの、では、数日中にお送りいたします」
「わかりました」
「よろしくお願いいたします」
「失礼します」
赤柳は電話を切った。
自宅のリビングにいたが、周囲には段ボール箱が積まれている。もうすぐ引越屋が到着し、午後には新しい場所へ移ることになっていた。今、箱に入れていないのは、パソコンだけだった。それは、また背中のポケットに入れて、自分で持っていくつもりだ。姿勢が良くなる効果もあって、この携帯方法が気に入っている。
赤柳は、ポケットから目薬を取り出し、それを両目にさした。最初は病院でもらった洗浄用のものだったが、今は、TTK製薬の新製品を使っていた。
インターフォンが鳴った。
赤柳は少し緊張した。まず、パソコンを背中のポケットに入れる。忍者が刀を仕舞うときに似ている、と自分では想像しているが、傍からみたら、不格好な動作に見えるかもしれない。
ドアまで行き、覗きレンズから外を確認した。明るい色の制服を着た男が立っている。
「はいはい」ドアを開けた。
「SK運送のものです」
「はい、どうも……、よろしくお願いします」
玄関のドアを大きく開ける。
制服の男性がほかに三人いた。順々に部屋の中へ入っていく。
赤柳は玄関口に立って、作業を眺めることにした。背中には、大事なパソコンの感触がある。引越屋に任せたくはなかった。時田玲奈が残してくれた最新型のものだったからだ。
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冒頭および作中各章の引用文は『アンティゴネー』(ソポクレース作、呉茂一訳、岩波文庫)によりました。
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底本
講談社 KODANSHA NOVELS
|目薬 α 《めぐすりアルファ》で殺菌《さっきん》します
著者 森《もり》 博嗣《ひろし》
二〇〇八年九月四日  第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社講談社
[#地付き]2008年10月1日作成 hj
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修正
《→ 〈
》→ 〉
置き換え文字
繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26