εに誓って
森 博嗣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山吹早月《やまぶきさつき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西之園|萌絵《もえ》
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〈帯〉
ジャックされた高速バスに
山吹と加部谷が!!
仕掛けられた爆弾、〈ε〉の名を持つ謎の団体……!?
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〈カバー〉
森ミステリィ、驚嘆の美技
そう、生と死の狭間が美しい。
その境界だけが、
朝日や夕日のように特別に輝く。
山吹早月《やまぶきさつき》と加部谷恵美《かべやめぐみ》が乗車していた東京発中部国際空港行きの高速バスがジャックされた。犯人グループは、都市部に爆弾を仕掛けたという声明を出していた。乗客名簿には〈|ε《イプシロン》に誓って〉という名前の謎の団体客が。〈|φ《ファイ》は壊れたね〉から続く不可思議な事件の連鎖を解く鍵を西之園萌絵《にしのそのもえ》らは見出《みいだ》すことができるのか? 最高潮Gシリーズ第4弾!
覗いているよ、あそこから。
ずっと隠れて見張っているね。
出てこない死に神のファンクション。
ハートと振り子のオークション。
「買いましょう、ベラスケス」
「どうぞご自由に、ファン・アイク」
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ε《イプシロン》に誓って
[#地から1字上げ]森 博嗣
[#地から1字上げ]講談社ノベルス
[#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS
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目次
プロローグ
第1章 悲しみの始まり
第2章 悲しみの連なり
第3章 悲しみの広がり
第4章 悲しみの高まり
第5章 悲しみの静まり
エピローグ
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[#中央揃え]Swearing on solemn ε
[#中央揃え]by
[#中央揃え]MORI Hiroshi
[#中央揃え]2006
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登場人物
柴田《しばた》 久美《くみ》…………大学生
矢野《やの》 繁良《しげよし》…………大学生
榛沢《はんざわ》 通雄《みちお》…………フリータ
倉持《くらもち》 晴香《はるか》…………OL
大泉《おおいずみ》 芳朗《よしろう》…………会社員
市川《いちかわ》 昌夫《まさお》…………バスの運転手
三井《みつい》 賢太郎《けんたろう》………市川の同僚
黒田《くろだ》………………係長
玉城《たまき》………………依頼主
赤柳《あかやなぎ》 初朗《はつろう》…………探偵
加部谷《かべや》 恵美《めぐみ》………C大学2年生
海月《くらげ》 及介《きゅうすけ》…………C大学2年生
山吹《やまぶき》 早月《さつき》…………C大学大学院M1
西之園《にしのその》 萌絵《もえ》………N大学大学院D2
国枝《くにえだ》 桃子《ももこ》…………C大学助教授
犀川《さいかわ》 創平《そうへい》…………N大学助教授
佐々木睦子《ささきむつこ》………西之園萌絵の叔母
諏訪野《すわの》……………西之園家の執事
近藤《こんどう》………………愛知県警刑事
鵜飼《うかい》………………愛知県警刑事
沓掛《くつかけ》………………警視庁警部
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ゴーヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。
[#地付き](SIDDHARTHA / Hermann Hesse)
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プロローグ
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神々も、我やなんじと同様に創造された、時間に従属する、はかない形体ではなかったか。そうだとすれば、神々にいけにえをささげるのは、良いこと、正しいこと、意味のある最高の行為だったろうか。
[#ここで字下げ終わり]
加部谷恵美《かべやめぐみ》は雪の中を走っていた。爪先《つまさき》が既に死んでいるのではないかと思えるほど感覚がない。アルペン競技をしているか、そのためのトレーニングをしている、という想像をしても効果はほとんどなかった。ただ、躰は暖かい。同じ自分の躰なのに、どうして不均質なのだろう。こんなふうに自分はいつも苦境に立たされる傾向にあるのは、この不完全さ、不均質さのためか。けれども、そこは屈強な精神力で乗り越えるのだ、と駄洒落《だじゃれ》を思いついて、思わず白い息をもらした。情けない。
ポケットから携帯電話を取り出して時間を見た。駄目だ、もう間に合わないかもしれない。かもしれない、ではない、確実に間に合わない。
まだまだ時間があると思って、近くの有名な公園まで歩いていったのが間違いだった。ガイドブックに、そこのオブジェの写真が載っていたのだ。是非とも自分の目で確かめようと思った。こういうのに弱い彼女である。目に焼き付けたうえで、さらにデジカメに映像を収めないと気が済まない。そういう欲が出る。データ所有欲というのだろうか。
だが、既に雪がちらついていた。やめておけば良かったのだ。最大の敗因は、そのときに見た自分の腕時計が止まっていたこと。気づいたときには、「えぇ、こんなときに止まるか!」と叫びたくなった。途中にあった安売りの店で買いものもしてしまったし。そのショッピングバッグを両手に持っていたから走りにくいし。
今は、駅まで戻る途中。まだコインロッカに荷物が預けてある。それを取りにいってから、バスターミナルへ急いでも……、駄目だ、絶望だ。どう見積もっても十分はかかるだろう。彼女の携帯が示している時刻は、バスの出発の一分まえだった。泣きたくなってきた。
しかたがない、もう諦めよう。
電話をかけなくては……。
山吹早月《やまぶきさつき》の携帯をコールした。どうやって謝ろうか、頭の中が麻婆豆腐みたいになっていた。
「あ、加部谷さん、今、どこ?」のんびりとした山吹の声が聞こえてくる。
「山吹さん、ごめんなさい。もう大失敗なんですよぅ。ここまでは一所懸命走ってきたんですけど、もう駄目です、とってもじゃないですが、間に合いません。ごめんなさい」
「だから、今、どこ?」
「駅のビルにもうすぐ入るところです。今から、コインロッカへ行かなくちゃいけないし、ああぁ、東京ばななも買いたかったなぁ、一緒に食べたかったなぁ」
「あ、東京ばななね、いいね。買ってきて。僕も買おうと思ってて、忘れちゃった」
「すみません。優しいですね。あれ、もしかして次のバスが? あの、もしかしてもしかしてあるんですか? ありませんよねぇ。やっぱり、電車ですか? 夜行があるんじゃなかったでしたっけ?」
「あのさ、雪で遅れているみたいなんだよ」
「え?」
「大丈夫、三十分くらい遅れるって」
「は……、あれ、何が?」
「バスが」
「あ、そうなんですかぁ。はあぁ、なんだ、良かったぁ」思わず深呼吸。長い間、空気を吸っていなかったような気もする。「ああ、そうなんだ、助かったぁ、良かったぁ、私が頑張ったのを、神様は見ていたんだ。ホント、良かったぁ」
「そうじゃなかったら、僕の方から電話かけてるよ」
「私、山吹さんも遅れてるんじゃないかって、淡い期待を抱いていたんですけどぉ」
「うん、実は、はは、そうなんだ。僕もたった今来たところでさ。間に合わないと思ってた。でも、電話くらいしてくれたら良かったのに」
「電話する暇もなく、必死で走ってたんですよぅ。もう、今もですね、息が上がってしまって、ものが言えないくらいなんです」
「ふうん」
「あ、疑っていませんか?」
「とにかく、東京ばなな買ってきて」
「そっちの方が大事なんですね」
「じゃあ、バスの待合い室で待っているから。切符はまだ買っていないからね」
「はあい、あと十五分で行けると思います」
「え、そんなにかかるの?」
「ちょっと、本屋さんとか寄りたいなあって」
「そういうのがいけないんじゃないかな。加部谷さん、懲《こ》りてないじゃない」
「だってぇ、バスの中で退屈じゃないですか」
「うん、まあ……、とにかく、気をつけて。万が一君が来なくても、僕はこのバスに乗るからね」
「はい……、どうせ、そうだろうとは思ってました」
「じゃあ、頑張って」
電話が切れた。
深呼吸をしてから、彼女はまた走りだした。
*
山吹早月は待合い室のベンチに座っている。
彼もここへ来たばかりだった。バスの発車時刻とほぼ同時、もしかしたら、一分くらい遅れているかも、と考えて、とにかく猛烈にダッシュして、最後のエスカレータも駆け上がってきた。
幸い、バスがそこにまだいた。前面の行き先を確かめてみたが間違いなかった。ほっとしてから、周囲を探した。加部谷恵美の姿は見当たらない。バスの中へステップを二段だけ上がって車内を見た。乗客十数人の中に加部谷の顔はない。運転手に事情をきこうと思ったが、運転席には誰もいなかった。乗っている客も寝ている人が多く、尋ねにくい。もう一度車外に出て、待合い室へ行くことにした。運転手がいないのだから、すぐに出発はしないだろう。なにかの事情で遅れているらしい。
すると、制服の男が待合い室から出てきた。紙切れを持っている。山吹とすれ違い、バスの方へ行った。もしかして、運転手か、と思って彼は振り返った。男は、バスの入口の横に、その紙切れをテープで貼り付けている。山吹の位置からも、その文字が読めた。〈雪のため、出発が三十分ほど遅れます〉とあった。
それを見ていたら、男が振り返り、山吹をじろりと睨みつけた。恐そうな顔だ。山吹はそちらから目を逸《そ》らし、待合い室の中へ入った。こちらには誰もいない。切符売り場の中にも人影は見えなかった。さっきの男が、切符も売っているのかもしれない。運転手はどこへ行ったのだろう。もしかして、雪のために運転手の到着が遅れている、ということかもしれないな、と考えた。
とにかく、加部谷恵美に連絡を取って、それから切符を買おう、と決めた。
ちょうどそこへ加部谷から電話がかかってきた。案の定、彼女も遅れていることが判明した。良かった、文句を言われることもなくて。バスが遅れたこともラッキィである。
さきほど、バスに張り紙をした男は、今は切符売り場の中にいる。やはりそこが持ち場のようだ。ときどき、山吹の方を見ている。早く切符を買え、とでも言いたそうだ。しかし、万が一、加部谷が発車までに来られない事態もありえる。バスはこれが最終だから、そのときはバス以外の交通手段に切り換えなくてはいけない。だから、まだ切符を買うわけにはいかなかった。
走ってきたせいか、躰は暑いくらいだった。待合い室の暖房が効き過ぎているせいもある。そこで、一度外へ出て、販売機でジュースでも買おうと考えた。一応、バスに運転手が乗っていないことをもう一度確かめてから、前方五十メートルほどのところに見える自動販売機のコーナを目指して歩いた。
隣のバス乗り場は標示ライトが消えている。今日はもうバスの運行がない、ということだろう。見える範囲には、ライトがついている乗り場はなかった。この時刻で、もう全部最終なのか、と彼は思う。
ジュースはやめて、缶コーヒーの温かいものを選ぶ。その場で開けて飲んだ。バスの周辺で目立った動きは今のところない。
コーヒーを喉に流し込みながら、振動する携帯電話をポケットから取り出した。
「はい、山吹です」
「ごめんなさい、西之園《にしのその》です」
「あ、こんにちは、じゃなくて、こんばんは」彼はその場で頭を下げた。
「いえ、海月《くらげ》君が、そちらにいるでしょう? ちょっと代わってもらえない?」
「え? あ、いえ、あの……」
「あれ? いないの? さっき、彼、こちらへ来てね、研究室にあった雑誌を貸したの。それが、タイミング悪くって、国枝《くにえだ》先生もそれが見たいっておっしゃって、それで、それを明日でいいから、すぐに返してもらいたいって……、それだけなんだけれど。彼、今から、山吹君の下宿へ行くって言ってたよ」
「いえ、あのぉ、僕、実は今、東京にいるんですよ」
「東京?」
「ええ、それで、僕の下宿を、海月が使っているだけなんです」
「あぁ、なんだ。そういうことぉ。君の下宿って、電話ないよね?」
「ありません。管理人さんに電話はできますけど、ちょっともう遅いですね」
「うーん、そうか。しかたがないわ。電話持ってなくてもいいから、メールが届く回路とか、頭に埋め込んでおいてほしいなぁ」
「は?」
「いえいえ、単なる希望として」
「はあ……」
「東京って、何をしに?」
「いえ、まあ、いろいろ」
「誰かと一緒?」
「いえ、一人ですよ」
「あ、そぉう……、でも、恵美ちゃんもね、たしかディズニーランドへ行くって言ってたよぅ」
「あ、へえ。そうですか」
「ふうん、そう……」
「あの、今からバスに乗って、もう帰ります」
「そうか、明日、ゼミだもんね」
「ええ、大丈夫です。間に合います」
「あ、そぉう、へえ……」
「すみません、じゃあ」
「はいはい。じゃあ、明日また」
電話が切れた。山吹は溜息をつく。
海月に文句の一つも言いたくなったが、彼には責任がないし、しかも、彼は電話を持っていないのだから、今すぐ文句を言うことは物理的に不可能だ。おそらく今頃、夕食も終え、風呂にも入り、きっと本を読んでいるだろう。彼が、山吹の部屋を使うのは、主として風呂がただで使える、というメリットがあるためである。
東京へ遊びにくることは、研究室のメンバには話していなかった。ゼミにはなにもなかった顔で出席しようと目論《もくろ》んでいたのに、こんなことでばれてしまうとは予想外である。こうなった以上、東京ばななは食べるわけにはいかない。お土産にしなくては……、と彼は舌打ちしながら考えた。
*
柴田久美《しばたくみ》はエスカレータに乗っていた。バスがもういないことを彼女の心の一部は期待していた。
雪のために道が渋滞して、タクシーが遅れたのだ。もしかして、これが神様の意志だったかもしれない。そう思おうとしている心の一部もある。時計は既に発車時刻を三分過ぎていた。
上階が近づいてきたとき、彼女は運を試すつもりで、一度目を閉じた。
神様……、お導き下さい。
エスカレータのステップが水平になり、同時に冷たい外気を感じた。彼女は目を開けた。そして、そこに停車したバスを見た。
時計を確かめた。自分の時計が遅れていたのかもしれない。どこかに正確な時計はないだろうか。見渡すと、ガラスの中、待合い室の壁に大きな時計があった。間違いではない。明らかに発車時刻を過ぎている。彼女は小さく溜息をもらした。
バスの窓を見上げる。乗っている人はあまり多くはないようだ。三人くらいが、こちらを見ていた。三人とも、若い男のようだった。
どうしよう……。
バスの入口のところに張り紙を見つける。そうか、雪で発車が遅れているのだ。駄目だ……。やっぱり駄目だ。こういう運命。これが私の運命だったのだ。
そこに立ち、唇を噛んだ。
このバスに乗ったら、もうお終いだ。
もう帰れない。きっと、もう……。
どうしよう。
でも、決断してきたのではないか。
これ以外に道はない。ずっと考えて、こうするしかない、と決めたことだ。誰かに命令されたのではない。自分の意志で決めたことだ。ずっと、人から言われるままに生きてきたけれど、今度だけは、自分の決断で行動しよう、そう考えたことだ。もう引き返せない。
*
矢野繁良《やのしげよし》は、既にバスのシートに座っている。左側の席だったので、発車まえの乗り場の様子をそれとなく眺めていた。時刻のせいなのか、人は少ない。バスターミナルは閑散としている。風が痛いくらい冷たかった。だから、すぐに切符を買って乗り込んだのだ。
車内の人数は思ったよりも少ない。雪のせいで、来られなくなった人がいるかもしれない、と考えた。そうやって機会を逃していくのだ、可哀相に、とも思う。
緑のダフルコートの少女が、エスカレータを上がってくるのが見えた。彼女はこちらを見ている。このバスに乗るのだろうか。近づいてくる。バスを見上げて、こちらへ視線を向けたので、彼は外を見るのをやめた。
車内もそれほど暖かくはない。エンジンがまだかかっていなかった。ヘッドフォンをして、音楽をずっと聴いていたので、外の音は一切聞こえない。いつもそうだ。雑音は聞きたくない。
早く発車しないかな。
発車すれば、もう運命は変えられない。
ポケットから携帯電話を取り出し、届いていたメールをもう一度確認した。電源を切ってしまっても良いか。迷いはないのだから。
メールの最後の一文をもう一度だけ読む。
イプシロンに誓って。
彼は目を瞑《つぶ》って、自身の短い未来すべてを願った。
いつもの自分の世界に集中しよう。もちろん簡単なことだ。音楽さえあれば、どこでも、いつでも、それは展開する。ここだけが、彼の居場所であって、ここにしか幸せは存在しない。けれども、それもそろそろ終焉《しゅうえん》だ。終わりにしなければならない。何故ならば、この基本システムとなっている自分の肉体の劣化が既に取り返しのつかないところまで進行しているからだ。今のうちに、精神も肉体も健全である今のうちに、自分の意志で幕を引かなくてはならない。それが責任というもの。それが尊厳というもの。
次に目を開けたのは、エンジンの始動による振動を感じたからだった。運転手が乗り込んだようだ。
彼は静かに息を吐いた。躰が細かく震えるような感覚があった。さあ、いよいよだ。
ドアが閉まり、バスは発車する。
彼は離れていく乗り場の風景を振り返った。
急カーブを曲がるたびにタイヤが鳴った。スロープを下りていく。屋外へ出たところで信号待ちになった。
看板の照明の中を、雪が舞うのが見える。
*
このバスの本来の運転手は、市川昌夫《いちかわまさお》という男だった。バスの発車時刻の一時間まえまでに停車場に出勤する規則だった。彼は、さらにその一時間まえに寮の一室で目を覚ました。
着替えを終えて、部屋の外にある洗面所まで行き、歯を磨いた。ところが、部屋に戻った彼は、その場で死亡した。それが発見され、警察が現場に駆けつけたのは、バスが発車したあとのことだった。
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第1章 悲しみの始まり
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この夢がさめてぱっとはね起きると、彼は深い悲しみに包まれているのを感じた。価値もなく、意味もなく、生活を送ってきたように思われた。生命のあるもの、何か値打ちのあるもの、保存に値するものは、何ひとつ彼の掌中に残っていなかった。岸べの難破者のように、ひとり空虚に彼は立っていた。
[#ここで字下げ終わり]
1
山吹早月は、バスの一番後ろのシートに座っている。彼の隣、右の窓際に加部谷恵美が座っていた。山吹の左側には、二人の荷物が置かれている。といっても、加部谷の荷物が多い。それでも、二人の間には、人間が一人ゆったりと座れるくらいのスペースがあいていた。これが二人の関係を象徴する距離だといえる。
加部谷恵美は、山吹と同じ大学、同じ学科の後輩である。山吹は大学院生で、加部谷は学部生。しかし、数々の経緯があって、加部谷は山吹の研究室に顔を出すようになった。顔見知りよりは多少は親しい関係かもしれない。山吹のアパートの部屋へ加部谷が来たこともあるし、また、山吹の実家へも彼女は来たことがある。情報をこれだけの言葉にすると、決定的に親しいような印象になるが、実はそんなふうではけっしてない。二人だけでいるようなことは極めて珍しいし、ましてこんな遠くまで来て、こんな夜遅く、二人でいる状況も初めてのことだった。したがって、若干の緊張感を伴っても良さそうな条件ではある、と自分では予測していたのだが、しかし、どういうわけか大して緊張することもなく、普通だった。緊張しないことをどう評価したものか、と考えても良かったけれど、それも面倒なくらい普通、つまり、普段と変わりなかった。
東京へは二人一緒に来たわけではない。お互いに別の目的で、たまたま上京することがわかったのは、数日まえのことだった。話してみると、帰りの日が同じである。それならば、せっかくなので一緒に帰ろう、ということで話が自然にまとまった。加部谷はもともと新幹線の予定だったところを、山吹に合わせてバスに変更した、というわけである。
バスは既に市街地を走っている。開いている店はもう少なく、車もタクシーが多かった。雪はまだ降っている。歩道はうっすらと白くなっているものの、道路は真っ黒に濡れているだけだ。どうして、発車がこんなに遅れたのか、今ひとつわからなかった。あるいは、この先で通行止めなどがあるのだろうか。それとも、様子を見るために発車を遅らせただけだろうか。
なんとか、順調に走って、予定どおり到着してもらいたいものだ。しかし、明日の国枝研究室のゼミのことを考えると、大雪のため遅れて、時刻どおりに到着できなかったせいでゼミを欠席する、という状況も、まんざら悪くはないな、と少し思った。研究の進捗が芳《かんば》しくないのに、東京へ遊びにいっていたことが、西之園|萌絵《もえ》を通じてばれてしまったかもしれない。そうなれば、国枝助教授に睨まれ、嫌みの一つも言われるにちがいないからだ。
加部谷は、前屈みになって、携帯電話でメールを打っているようだ。バスは比較的空いているが、シートの左右どちらもが空席という場所はなさそうだ。二十人くらいは乗っているだろうか。那古野《なごの》に到着するまでの途中で客が乗り込んでくることは滅多《めった》にないので、シートで横になって眠ることもできそうな状況だった。
「東京ばなな食べますか?」加部谷が躰を傾け、顔を接近させて囁《ささや》いた。「あっちの袋ですけれど」
「それがさ、西之園さんにばれちゃったんだ、東京へ来ていること」山吹は小声で言う。
「あ、私は言いましたから」
「だよね。それ、言われた」
「あらら……。でも、どうして?」
「だから、お土産を持っていかないとさ。明日、ゼミだから」
「あ、なんだ、そんなことですか」加部谷は微笑んだ。
「そんなことって?」
「国枝研究室へのお土産なら、ちゃんと別に買ってありますよ」
「東京ばなな?」
「ええ。じゃあ、それ、二人のお土産ってことにしてもいいですから」
「あ、それもねえ、なんか誤解を生みそうな気がするなあ」自分でしゃべりながら、どんな種類の誤解なのか遅れて想像した。それ自体が誤解である。
「おお、そうか。そうですね」加部谷は口を尖《とが》らせる。「うーん、でしたら、こうしてはいかがですか? 私が買った東京ばななを、山吹さんがお買いあげになって、ご自分のお土産にする」
「ちゃっかりしてるね、でも、それは助かる」
「ま、それでも、誤解は同じだと思いますけどね」
「そうかな」
「いいじゃないですか。誤解されても。やましいことはありませんから」
「やましいことね」
「どういうことをしたら、やましいんでしょうね」
「うん、よくわからない」
「ああ、なんかどきどきしてきた。してきません?」
「いや」山吹は首を横に一度動かす。
「山吹さんって、ホント、鈍感ですよね、そういうとこ」
「うん、そうかも」
「心配になってきますよ。えっとぉ、そうそう、そっちのバッグです」
加部谷の荷物の一つから、包装された箱を見つけ出す。
「その小さい方です。大きい方は二千円です」
山吹は、小さい方の箱を引っ張り出して、封を開けた。しかし、食べたいのは一つ、食べられるのはせいぜい二つである。加部谷が手を出したので、彼女にも一つ渡した。
「これは私の奢《おご》りということで、けっこうですよ」
山吹はポケットから財布を取り出し、千円札を二枚、彼女に手渡した。
「消費税は?」
「いえ、大丈夫です」加部谷は、小さなバッグの中の財布にお札を仕舞っている。「それより、バスに乗るとき……」彼女は山吹に顔を近づけ、片手を口に添えて内緒話をする。「なんか、睨まれませんでした? お前たち、こんなに遅れてきて、のうのうとバスに乗るつもりかって感じでしたよね」
「うん」
「私たちのせいでバスが遅れたと思ってるんじゃありません?」
「そんなことはないと思うけど」
加部谷の顔が離れた。彼女は、東京ばななを食べ始めていた。山吹もそれを口に入れる。お茶があったら良いのに、と少し思った。
バスは相変わらず走ったり、信号で停まったり、を繰り返していた。まだ市街地である。そろそろ高速道路に入るのではなかったか、と山吹は思う。この路線のバスに乗るのはもう三回目のことだった。
2
柴田久美は、後ろから二列めの右側のシートに座っていた。シートの背が高いので、前後はほとんど見えない。比較的、空いているようだ。じっと、冷たいガラスに頭を寄せて、外の景色を、そして、ガラスの外側の表面に当たって溶けながらすべり落ちる水滴を眺めていた。
バスのエンジンは、気持ちが悪いくらい不規則に振動した。座っている位置が悪いのだろうか。このさき大丈夫かしら、ちゃんと最後まで我慢ができるだろうか、と少し心配になった。子供のときから、彼女は乗りもの酔いをする方だ。大人になってからは滅多になかったものの、こんなに長時間バスに乗るような機会はなかったはず。
左側の一つ前のシートに若い男が一人で座っていた。その彼がときどき彼女の方を覗き見る。だから、それを無視するつもりで、ガラスに張りつくようにして、そちらへは背を向けていた。でも、誰しも気になるのが普通かもしれない。
こんなに近い位置に他人がいるなんて……、
自分以外の生命、思考力を持った頭脳が、
存在するなんて……、
その不思議さを、その不安さを感じないなんて変だ。
けれども、そんな奇跡的な状況を、彼女は都会で学んだのだ。毎日の満員電車で、躰が触れ合うのにみんな黙って耐えている。いったいどうしてこんな状況になったのだろう。どうやって自分の感覚を封鎖しているのだろう。
変じゃないか。
おかしい、みんなおかしいのだ。
半分死んでいるとしか思えない。
そうだ、目が死んでいる。みんなもう人間の目じゃない。
人形みたいだ。魚類の目みたいだ。
やめてほしい。そんな目で私を見ないでほしい。近づかないでほしい。どうか、誰も私に触りませんように、と毎日神様にお願いしているのだ。
人間なんて、全部自動販売機になってしまえば良いのに。
それが彼女の理想。街は全部機械になってほしい。人の声なんて聞きたくない。人の顔なんて見たくない。笑ったり、泣いたり、あんなに形を変える顔が、気持ち悪い。いい加減にしてほしい。みんな死んじまえ。できることなら、そうしたいところだけれど、でも、それよりも、自分だけが消えてしまう方がずっと簡単だ。そう、それが一番綺麗だよね、と思う。
彼女の背後、一番後ろのシートに若い男女のカップルがいた。彼女がバスに乗り込んだ、すぐあとに乗ってきたから、顔もちらりと見た。女の方は高校生か中学生みたいだった。今も、ひそひそ話をしているようだ。ときどき、くすくす笑う声も聞こえてくる。いつもなら、腹を立てるところだけれど、でも、今日は許してやろう。このバスに乗れば、誰だってハイになるというものだ。
3
矢野繁良は、後ろから三番めの左側のシートだった。斜め後ろに、緑のダフルコートの少女が座っている。彼が目を瞑って、別の世界に行っているうちに、彼女はそこに乗り込んだようだ。もちろん、少女というのは、彼の主観的な表現であって、もしかしたら、彼よりも歳上かもしれない。人間ではないかもしれない。しかし、そういった現実はとりあえず、今の彼には影響しないだろう。それが現実であることにも、価値はほとんどない。
どうでも良いことなのに、それでも、その少女の姿形が多少気になった。それは、何故だろう。わからない。どんなふうに座っているのかを観察することは大切なことだと思えた。理由はわからない。もうずっと昔に、それに価値があったように思う。
たとえば、自分は絵を描いていた。高校生のときの彼は、自分の絵の才能を心から信じていた。実は今でも信じている。ただ、それを自分の躰が信じない。それが問題だ。手が離反している。才能をアウトプットすることを、自分の躰が拒否しているのだ。それは、もちろん彼自身の責任である。ずっと甘やかしてきたからだ。自分の躰なんて、どうにでもなるものだと高をくくっていたのだ。けれど、全然そうではなかった。こんなにも躰が支配的な力を持っているとは予想もできなかった。躰が成長するにつれて、そして、肥大化すればするほど、後戻りができないことを思い知り、愕然としたのである。
そうか、情けないものだな、生命とは。
たった一つきりの肉体に偶然にも支配され、
この危ういシステムの中でしか生きられないのだ。
大人になれば、もう最後、どうにもならない。誰にもなれない、もう自分はこの肉体で決まり、この形からは抜け出せないのだ。
当然であるが、抜け出す方法は一つだけ残されている。
それはリセット。
もう一度、最初からやり直すしかない。
少々気づくのが遅すぎた感はある。それに気づかせないように、誤魔化されたまま育てられたせいもある。
そうなんだ、大丈夫、大丈夫、願いは必ず叶う、と教えられて大きくなった。それがだんだん、嘘だとわかっただけのこと。そして、すっかり理解できた頃には、もう死んだも同然の大人が一人出来上がっている、というわけだ。
ああ、なんとも気持ち悪い。
考えたくもない。
だが、彼女ならば、そんな悩みもないのではないだろうか。もう一度、振り返って斜め後ろを確認する。もう眠っているようだ。顔は見えなかった。
そのとき、彼女の頭上に、小さなエンジェルが飛んでいるように思えた。ガラスに映った光の反射か。しかし、やはりなにかの啓示だろう。おそらくは、彼女なりに、悩みがあるのだ。それくらいの個人差はある。認めなくてはいけない。
自分の気が高ぶっていることが今さらながら認識できた。とても眠れるような状況ではない。それも当然だろう。そして、この貴重な時間をせいぜい楽しまなくては……。
彼は、再び目を閉じ、自分の世界へ戻っていった。
こんな往復もいずれなくなるはず。
4
警察に通報したのは、三井賢太郎《みついけんたろう》という男で、市川昌夫の同僚だった。三井もまたバスの運転手である。三井の部屋は同じ寮の市川の隣であったが、個人的に市川とつき合いがあったわけではない。
三井はこの日、昼間の勤めを終えて、夕方に寮に戻ってきた。食事をしたあと、共同の風呂に入り、自室に戻って過ごした。
隣の市川が、今日は夜間の担当だということは、事務室にある勤務表を見ていたので、もちろん知っていたし、事務室で、市川が、その夜勤の仕事について指示を受けているのも聞いていた。中部国際空港まで高速を走る路線だ。三井も何度か経験がある。夜間は手当がつくので、嫌な仕事ではない。前後に休養の時間が取れるのも悪くない。できれば、市川に代わってもらいたいくらいだった。だが、気安く頼めるほど親しくはない。
三井は、ときどき時計を見て、そろそろ隣の部屋で市川が起きる頃ではないか、と考えていた。寮のこのフロアは、三井と市川の部屋以外は空室だった。特に便利でもなく、また綺麗でもない。住人はどんどん減っていた。それに、今夜は事務室にも誰もいないようだった。とても静かだ。
また時計を見て、もうそろそろ起きなければいけない時刻だ、と思ったとき、三井は、隣の部屋からと思われる、もの音を聞いた。
なにかが爆発するような音がしたので、すぐに部屋を飛び出し見にいった、するとドアが開いており、部屋の中に市川が倒れているのを発見した、と三井は電話で警察に話した。彼自身が、警察に自分の携帯電話を使って通報したのである。
警官が現場に直行し、市川昌夫の死亡が確認された。銃で撃たれたものと思われる跡が胸部にあった。現場周辺では、銃は発見されていない。
のちの調べで、別のフロアにいて、銃声らしい音を聞いた者が二名いたものの、そのほかには特に不審な音を聞かなかったので、音の原因を調べに部屋から出ていったりはしなかったことがわかった。警察が駆けつけるまで、三井以外に誰も市川が殺されたことを知らなかった。
そして、不可思議なことに、発見者である当の三井賢太郎の姿がどこにも見つからなかった。
知らせが会社へ届いたのは、警察が死体を確認した数十分後のことだった。ただちに、担当の黒田《くろだ》係長が電話で呼び出された。彼はもちろん勤務時間外で、繁華街で食事中だった。市川昌夫が殺されたことで、会社は緊急の対応を取る必要がある。すぐに本社へ出向くように、と黒田は指示された。
電話が切れたあと、市川が夜間バスの運転業務につくはずだったことを黒田は思い出した。時計を見ると、既に発車の時刻を一時間近く過ぎていた。
彼は、すぐに三井賢太郎の携帯電話を呼び出した。
「もしもし、三井君か? あ、私だ、黒田だ」
「はい」相手の声がどうにか聞こえてきた。
「おい、えらいことになったんだ。市川君がな、死んだんだ。たった今、本社から連絡があってな……」
「はい、知っております」
「あ、そうか……、早いな、情報が」
「自分が警察に電話をしました」
「あ、なんだ、そうだったのか。まあ、詳しいことは、のちのち、その、聞くとしてだな、あの、市川君が今夜担当だった夜間バスなんだが、どうなっているかと思ってな……」
「あ、はい、わかっております。私が今、代理で勤務しております」
「お、なんだ、ああ、良かった、そうかそうか。すまん。助かったよ。え、もしかして、運転中なのか?」
「はい」
「そうかそうか、それはすまん。じゃあ、気をつけて……。あとで、また連絡してくれ」
「はい」
その後、別の部署から、黒田に電話がかかり、三井賢太郎の連絡先を教えろ、という内容だった。黒田は、三井の携帯電話の番号を教えたものの、三井は現在、自分の指示により市川の代理で運転業務についているので電話をかけてはいけない、と話した。
この情報が、警察にもたらされた。通報から一時間以上が経過していたので、殺人現場には多くの人間が集まっていた。そのリーダともいえる刑事は事情を聞いて、こう呟《つぶや》いた。
「まったく、どういう了見なんだ? 発見者を、すぐに代理で出すなんて」
しかし、そのバスがどこを走っているかを、その刑事は確認しなかった。どうせすぐに戻ってくるだろう、と考えたからだ。この情報を本署へ早く連絡していれば、事件はもう少し違った結果になっていたかもしれない。
5
加部谷恵美は、山吹早月と一緒に東京ばななを食べたあと、小声でおしゃべりをしていたが、それほど会話は弾まなかった。同じ建築学科なので、加部谷は製図のことで山吹に相談をしたが、彼はいつものとおりぶっきらぼうに、「まあ、好きにすればいいんじゃない」と答えるだけだった。山吹という男は、普段もこんな感じだ。それでも、この頃は少し慣れてきた。別に人を突き放しているわけでもなく、また冷たい性格でもない。もしかしたら、淡々とした口調や、あまり変化しない表情のせいかもしれない。それから、いつもは山吹と一緒にもう一人、海月|及介《きゅうすけ》という男がいて、彼はまた五重くらい輪を掛けて無口でぶっきらぼうだった。その彼がいるときには、山吹も比較的優しく親切な先輩に見えるのだ。今は、その海月がいないために、本来の山吹が正しく見えているだけかもしれない。
加部谷には、一つ話したいことがあった。彼女は大学の近くに下宿をする決心を固めていた。もうすぐ三年生なので、最後の二年間は、一人暮らしにチャレンジしてみよう、と考えたのだ。実はもう部屋も決めてあった。以前に、この件で山吹に相談したことがあったが、それほど積極的に賛成はしてもらえなかった。だからそのまま、話しそびれていたのだ。引越をするのは、もう少しさきになるけれど、できればいろいろと手伝ってもらいたい。アドバイスもしてもらいたい。特に、大学院のことでは真剣に悩んでいた。近頃では三年生のうちに就職活動が始まるらしい。となると、進学するべきかどうかを、もうそろそろ決めなくてはいけないことになる。しかし、まだ建築の専門分野の授業は始まったばかりといって良い。なんだか四年間って短いな、というのが彼女の今の気持ちだった。
バスは、さきほど料金所を通過し、今は高速道路を走っている。右の車線を、他の車が追い抜いていく。意外にゆっくりと走っているな、という印象だった。この時刻は大型のトレーラが多い。電車よりは事故の確率は高いだろうか、と彼女はぼんやりと考えた。
左を見ると、山吹は本を読んでいる。手元に明かりが届くようにさきほどライトを調節していた。文庫本だったが、カバーがあるため表紙は見えない。どんな本かはわからなかった。覗くのも失礼だし、話しかけるのも気が引ける。特に、電車に比べると車内が薄暗く、また、ほかの席の話し声がほとんど聞こえない。乗客はみんな眠っているのだろうか。話をしづらい雰囲気だった。
「山吹さんって、修士を終わったら、どうされるんですか?」加部谷はできるだけ声を落として話した。
「え?」彼は顔を上げてこちらを見る。話しかけられたことが意外だ、といった顔に見えた。どうしてそんなことを今きくのか、と言いたそうな顔にも見えた。彼女の思い過ごしだろうか。「うん、まだ、はっきりとは決めてないよ」
「でも、就職するならば、もう決めないと駄目なんじゃありませんか?」
「そうかな……。うん、上にあがっていきたい気持ちはあるけれど、それだけの力が自分にあるかどうかだね」
「試験が難しいんですか?」
「いや全然。試験なんか簡単だよ。特に博士課程の試験は、ほとんど形式的なものだから」
「そうなんですか」
「指導教官が進学を認めてくれたら、もう受かったみたいなものだね」
「国枝先生が認めてくれないってことがあるんですね?」
「いや、うちの大学とは限らないよ」
「え?」
「うちの大学の院で上がるかどうか、わからない」
「というと、あ、N大ですか?」
「うん、まあ、近いところでは、そうかな」
「犀川《さいかわ》先生の研究室ですね? そうか、そういう手があるのかぁ。だったら、西之園さんの本当の後輩にもなれるわけですもんね」
「そういう考えはなかったけど」
「そうかそうかぁ……、私も、それを目差そうかな。あぁ、でも、私が進学する頃には、もう、西之園さん、いませんねぇ」
「先生がいないかもしれない」
「え?」
「先生だって、転勤があるから」
「そっかぁ。そういう場合って、指導を受ける学生も一緒に転校するんですか?」
「いや、転校はしないけれど、でも、指導は続けて受けることが多いね、遠く離れていても」
「山吹さんは、国枝先生から離れて、寂しくないですか?」
「寂しいっていうのは、ちょっと違うんじゃない?」
「うーん」
「テーマによるよ。研究のテーマに」
「ああ、そうか、まず、テーマがあるわけですね、そうですよね。全然、そんなこと考えてなかった」
「先生や友達とつき合うために、大学院にいるわけじゃないからね」
「うわぁ、重いですねぇ、そのお言葉」
「いや、普通のことだと思うけど」
そこで、会話が途切れた。山吹が本に視線を戻す。
「何を読んでいるんですか?」ここで会話を終わらせたくない、と思って加部谷は尋ねた。
「うん、ミステリィ」今度は顔を上げずに山吹が答える。あまり話をしたくない感じだ。
しかし、加部谷は、数時間まえに思いついた話をどうしてもしゃべりたくなった。
「今日、私、ミッキーに会ってきたんですよ」
「え?」山吹が顔を上げて、加部谷を見た。「ああ、そう」話はわかった、といった頷き。確実に一パーセントは軽蔑が含まれているように思われた。
「世界に、ミッキーは一人しかいないんですよ」
「一匹だろう?」
「ええ、つまりですね、アメリカや中国や、どこにでも出現していますけれど、絶対に同時には現れないんです。もちろん、日本でも二匹が別の場所で同時刻にみんなの前に姿を現すことはありません」
「へえ、なんで?」
「だから、一匹しかいないからですよ」
「ふうん、そう……、それは良かったね」
「それで、私考えたんですけど、ミッキーの着ぐるみで、銀行強盗とか、なにかの犯罪をしますよね。そういうとき、実は、ディズニーランドのパレードに出演していたんだって、アリバイが成立するんじゃないかって」
山吹は、しばらく加部谷を見据えていたが、三秒後には、黙って視線を本に戻してしまった。
「あ、あ、山吹さん」加部谷は手を伸ばして、山吹の肩に触れた。「駄目ですか? こういうの」
「駄目」山吹は下を向いたままひと言。
やっぱり駄目だったか……。彼女は思わず顔をしかめた。話す相手が間違っていた。西之園萌絵だったら、もっと楽しい会話になったはずだ。山吹を相手にミッキーの話なんかするんじゃなかった。困ったな。どうやって挽回しようか……、と加部谷が必死に考えていたそのとき、突然、バスの前の方から男の声が聞こえてきた。
「皆さん、大変申し訳ありません。皆さんにとっては残念なことかもしれませんが、どうしてもお伝えする必要がありますので、少々お時間をいただきたいと思います」
加部谷は腰を浮かせて、シート越しに前を覗き見た。
マイクで話しているのではない。バスの一番前の方だ。帽子を被《かぶ》った男が立っていた。顔はよくわからない。大きな白いマスクをしていたからだ。野球帽を被り、メガネもかけている。両胸と両腕にポケットのある作業服みたいな上着を着ていた。
「どうか冷静なご判断をお願いいたします。実は、このバスは私が乗っ取らせていただきました。武器はこれです」
彼は片手を上げたみたいだった。薄暗いからよくわからない。
「え、何?」加部谷は横の山吹を見た。
山吹は口の前で人差し指を一本立てる。静かにしろ、というジェスチャだ。彼は、前をじっと見たまま、真剣な表情だった。
「この武器の効果を万が一疑っていらっしゃる方には、もちろん、いつでも威力をお見せすることができます。ただし、申し上げたいのは、できるかぎり穏便《おんびん》にことを運びたい、という私の希望です。一応、皆さんは、人質として世間には周知されることになるはずです。はい、そういう手筈《てはず》になっております。申し訳ありません。ただ、私は皆さんに危害を加えようというつもりは毛頭ありません。ですから、どうか慌てず、冷静に対処していただきたいのです。落ち着いて行動していただきたいと思います。なんでしたら、こんな時刻ですので、ずっと朝まで眠っているのも、よろしいのではないでしょうか。起きていろなどと無理なことは要求しません。ゆっくりなさっていただいてかまいません。お持ちの携帯電話の使用もけっこうでございます。ただですね、急に席を立ったりしないように。あるいは、私の方へ、つまりバスの前の方へ来ることはご遠慮下さい。私といたしましても、自分の身を守るためにある程度の防衛をしなければなりません。そういった危険は避けていただきたいのです。敵意がない場合は、シートに座ったままで、静かにしていて下さい。どうかよろしくお願いいたします」
バスは走り続けていた。その走行音が急に大きくなったような気がした。男が話し終わると、それくらい車内の静寂さが際立った。
加部谷は恐くなった。シートに腰掛けていれば、前は見えない。山吹はしかし、通路側に顔を出して、じっと前を見ていた。馬鹿丁寧な言葉を使う男が、冗談でそんなことを言いだしたのか、それとも言葉の意味のとおりの内容を素直に伝えようとしているのか、それを見極めようとしているのだろう。もちろん、加部谷にもその疑問はあった。しかし、ちょっと聞いただけで冗談ではないことがわかった。そして、気持ちが悪くなった。
銃のようなものを持っている。その点が一番気になった。バスの乗客は黙っている。誰もその男に話しかけようとはしなかった。それは賢明なことだ、と彼女には思えた。
すると、また男がしゃべりだした。
「ご理解をいただいたようで感謝いたします。皆さんには、特にご迷惑をおかけすることはないと考えておりますし、そうなることを私も願っています。ただ、このバスは予定どおりには運行いたしません。明日、那古野に到着するとは思いますが、途中のバス停には一切停車いたしません。サービスエリアに停まることもありません。申し訳ありませんが、どうかご理解下さい。危険を避けるためです。ご辛抱いただければ、と思います。それから、もう一つ申し上げたいことがございます。私は、個人で行動しているのではありません。これは組織的なプロジェクトです。私は、ただ、このバスの運行をコントロールする任務で、ここにいるだけです。私の任務の遂行に支障のある人物を自己判断で抹殺することは、あらかじめ許可を得ておりますが、それは人質としての機能を維持するためのことであって、皆さんに個人的な感情を抱いているわけではございません。その点をどうかご理解下さい。よろしくお願いいたします」
6
犯行声明らしきものがテレビ局と新聞社にファックスで送りつけられた。差出人名はなかった。内容は以下のようなものだった。
一、
[#ここから3字下げ]
東京発中部国際空港行きの高速バスをジャックした。武装した我々の組織の者が何人か乗っている。人質に危害を加えることは目的ではないが、人質の健康と生命を保証するつもりはない。
[#ここで字下げ終わり]
二、
[#ここから3字下げ]
都市部に爆弾が既に設置された。バスに外部から攻撃が仕掛けられた場合には、遠隔操作によってこれを爆破する。この操作は、バスの中からも、あるいはそれ以外からも可能である。
[#ここで字下げ終わり]
三、
[#ここから3字下げ]
我々の目的は、我々の指向する真の秩序の回復にある。この目的のためにはある程度の破壊と犠牲はやむをえないものと考えている。詳しい目的は当該組織に既に通知している。ただし単純な交換を目的とした行為ではない。
[#ここで字下げ終わり]
四、
[#ここから3字下げ]
マスコミは、我々の行動を広く国民に報じる義務がある。
[#ここで字下げ終わり]
マスコミ各社は、夜中に慌ただしく緊急会議を開いた。最初に警察に連絡を取り、情報提供をしたところ、警察は既に事件のことを把握していた。対処をしている段階であり、マスコミの冷静な対処を希望している、との返答だった。これにより、マスコミ各社は、事件の実況を行う方針を固めた。テレビで第一報が流れたのは午前一時を回った時刻で、多くの番組が中断され、臨時ニュースに切り換えられた。
7
テレビが報じるよりも十分ほどまえ。西之園萌絵は、自宅の一室でコンピュータに向かっていた。デスクの上に置いた携帯電話が振動したので、そちらへ手を伸ばすと、加部谷恵美から届いたメールだった。こんな時刻に珍しいな、と思い、すぐにそれを読んだ。
バスジャック。今乗っているバス。ピストルを持った男が一人。メールはできます。
という短い内容だった。三度文字を読み直した。最初は、映画か小説の話だろうかと思った。とにかくよくわからないので、すぐに返信した。
何の話? 大丈夫?
すると、すぐにまた加部谷からメールが届いた。
本当です。私たち人質。山吹さんもいます。人質の数は二十人くらい。バスは高速道路を走っています。犯人は若い男で一人です。仲間がいるかもしれません。警察に知らせて下さい。
びっくりして、西之園はすぐに警察に電話をかけた。普通に一一〇番に電話をかけて事情を説明した。その電話はすぐに終わってしまった。調べて対処をします、という返答だった。
彼女は愛知県警の一部とは、比較的親密な関係にある。時刻が時刻なので少々迷ったものの、まずは知り合いの近藤《こんどう》刑事の携帯電話にかけてみることにした。
「はい、もしもし近藤です。お世話になっております」
「西之園です。こんばんは」
「あ、はい、どうも、ご無沙汰しておりますです」
「バスジャックがあったんです。今、警察に通報はしました」
「ああ、はいはい、それでしたら、既に把握しています。大丈夫ですよ」
「そのバスに、恵美ちゃん……、あの、加部谷さんと、それから山吹君が乗っているんです」
「え? 本当ですか?」
「加部谷さんの携帯からメールが届いて、それで知ったんです」
「ああ、なるほど」
「どんな状況なのですか?」
「いえ、こちらも、あまり詳しくはわかっていません。ただ、犯行声明があったみたいで、武器を持った人間がバスを占拠しているらしい、と」
「ピストルを持っていて、それらしい人間は、一人だと知らせてきましたけど」
「わかりました。ちょっと、こちらも、担当のところへ行ってきます。すぐまたご連絡しますから」
「よろしくお願いします」
電話を切ってから、すぐにメールを加部谷に打った。
警察には知らせました。警察は既に知っているようです。メールをしていても大丈夫なのですか? 怪我人はいませんか?
西之園は携帯電話を持って部屋を出る。食堂へ行き、明かりをつけた。そこにある電話で、記憶している数字を素早く打った。自分の携帯電話は使わない方が良い、と考えたからだ。
「はい、もしもし」眠そうな声が聞こえてきた。
「先生、私です」
「だろうね」
「もう寝ていましたか?」
「うん。やることがないし」
電話の相手、犀川|創平《そうへい》は東京へ出張中である。彼はホテルにいる。やることがない、というのは、おそらく自分のパソコンが手もとにない、という意味だろう。
「加部谷さんと山吹君が乗っているバスが、乗っ取りに遭って、大変なんです」
「乗っ取り?」
「バスジャックです」
「へえ、今?」犀川の声も真剣味を帯びてきた。
「加部谷さんからメールが来ました。連絡は取れるんですけれど。でも、武器を持った人が乗っているらしくて。警察にはすぐに連絡しました。既に把握しているようでしたけれど」
「バスは走っているの?」
「ええ、たぶん」
「飛行機に乗りたいんだろうな」
「ああ、国外へ出ようというつもりですね」
「災難だね」
「あ、ちょっと待って下さいね」
加部谷からメールが届いた。
怪我人はいません。犯人自身が携帯電話を使っても良いって言ったんです。もの凄《すご》く丁寧な言葉遣いなので気持ち悪いです。
その内容を電話で犀川に読み上げる。これまでのやりとりも話した。その会話をしながら、西之園は加部谷への次のメールを指で打った。
逆らわないように。山吹君にもそう伝えて。大丈夫、大人しくしているしかないと思います。話がしたかったら、いつでも電話をして下さい。
「携帯を使っても良いって?」犀川が呟いている。「自分の犯行を、できるだけ公にしたいわけだ」
「そうみたいですね。警察も知っていましたし、もしかしたら、もうマスコミにも知らせたのかもしれませんね。ちょっと待って下さい」
電話を持ったまま、廊下へ出て、リビングへ移動。そちらにテレビがあるからだ。
「テレビを見てみます」
「ああ、やっているよ」犀川は既にテレビをつけたらしい。「こういうとき、家が広いと時間がかかるね」
螺旋《らせん》階段を上がっていくとき、廊下に諏訪野《すわの》が顔を出した。西之園家の執事である。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
「あ、ちょっと事件なの。大丈夫。諏訪野は寝ていなさい」
「はあ……」諏訪野は訝《いぶか》しげに頷いた。しかし、いつも訝しげな顔なのである。
リビングに入ってソファに座り、テーブルの上のリモコンのボタンを押した。壁際のプラズマ・ディスプレイが少し遅れて明るくなった。
8
「既に、警察およびマスコミ各社に対して、我々のプロジェクトについては通知されています」前方の通路に立っているマスクの男が言った。「皆さんには、直接は関係のないことですが、時間にも余裕があることですし、また、黙っているよりは情報を認知している方が安心できるものと思いますので、簡単に状況をご説明申し上げます」
バスは高速道路としては比較的ゆっくりとした速度を維持して走っていた。他の車がどんどん右から追い抜いていく。加部谷は右側の窓から、それらを眺めていた。もちろん、飛び降りたりすることは不可能だ。そんなことをしたら、ただでは済まないだろう。
「我々の思想的な事情をここでお話しするつもりはありません。また、我々が要求している内容も、この場では無意味なことです。我々は、人質である皆さんに対して要求しているわけではありません。ですから、それらのことについてではなく、現在のこの条件と申しますか、我々がこのリスクに対して設定した防御策に関してのみ、簡単に説明をさせていただきます。まず、このバスの中には、私が持っている銃のほかにも、武器がございます。無線操作によって作動する爆弾がその主たるものです。これらは、私が身につけている送信機によって爆発させることができます。また、車外からであっても、我々の組織の者によって作動させることが可能です。しかし、どうか安心して下さい。信頼性の高いメカニズムですので、誤動作をすることはありえません。また、私がむやみに、たとえば威嚇《いかく》のために、それを用いることはいたしません。それは明らかに無駄なことです。ただ、そんなものがあるなんて、この目で実際に確認をしなければ信じられない、という方がいらっしゃったら、遠慮なくおっしゃって下さい。爆発の威力をどこかでお見せいたしましょう。そのようなデモ用のサブセットも持参しております」
加部谷は隣にいる山吹の手に触れた。前を見ていた彼がこちらを向く。彼女は顔をしかめて、現在の不快さを彼に無言で訴えた。もちろん、言葉にすればどんな表現になるのか、自分でも想像がつかない。「困ったことになりましたね」「恐いです」「大丈夫でしょうか?」そんなところではないだろうか。どれも的確とはいえないし、どれも効果があるとは思えない。
それでも、山吹は黙って頷いた。じっと目が合った。頼もしく思えた。彼はもともとはシートの中央付近に座っていたのだが、今は加部谷の方へ近づいている。それは、通路の前方に立っている犯人から直接見えない位置に隠れよう、という意図だ。当然の行動だとは思う。彼女にしてみても、山吹が少しでも近くにいてくれることはありがたかった。たとえば、前のあの男が、通路を歩いて、こちらへ来たときには、もう山吹の躰にしがみつくしかないだろう。そちら側に山吹がいてくれることが、現在のところの彼女の冷静さをぎりぎり支えているといっても良かった。
山吹は携帯電話でメールなどは打っていなかった。ただじっと犯人の方を見据えている。油断をしないように、という感じだった。彼が見張っていてくれるからこそ、加部谷は多少は安心してメールを打つことができた。
「このバス以外にも、複数の箇所に爆弾を仕掛けました。それも皆さんには無関係なことですが、もし爆発するようなことがあれば、大変大きな被害が出ます。それを爆破させるための指示も、無線でここから送れるようになっています。つまり、そちらは場所がどこなのかわからない、見えない人質だと理解していただければよろしいでしょう。さて、もう一つ、つけ加えておきたいことがあります。今、このバスに、私以外にも我々の組織の人間が乗っている可能性がある、ということです。これだけのことを私一人で遂行するのは、誰が見ても不自然だと思われるでしょう。当然、その人間は、私同様に武器を持っているはずです。しかしながら、それが誰なのかを明かすことはできません。ただ、ご注意いただきたいのは、そういった条件も充分に考慮されて、慎重な行動を取っていただきたい、ということです。どうかよろしくお願いいたします」
実は、その点については加部谷も考えていた。西之園にメールを打ったときに、犯人は一人だ、と書いたものの、はたしてそう言い切れるだろうか、と不安を抱いたからだ。乗客の中に、第二の犯人が紛《まぎ》れ込んでいることは否定できない。犯人がそのことを口にするとは思わなかったけれど、無駄な抵抗を抑止する効果はあるだろう。誰なのかわからない方が、抵抗しにくいことは事実だ。言葉遣いも丁寧だが、たしかに馬鹿ではない。考えて行動していることはまちがいなかった。
「現在のところでは、明日の朝に中部国際空港に到着し、すべてが完了する、というのが最も望まれているケースですが、残念ながら、場合によっては多少時間がかかるかもしれません。バスは予定よりも遅いスピードで走っております。途中でサービスエリアなどに停まることは考えておりませんが、どうしても外に出たい、たとえば煙草を吸いたいとかですね、そういう方はおっしゃって下さい。特別に停めることもできます。一人でバスを降りていただくことになりますが、簡単な爆弾を身につけていただくことになります。戻ってこられない場合には危険が及ぶことになります。こうする以外に方法がございませんので、どうかご理解、ご協力をお願いしたいと思います。席を移動されたり、トイレに行かれるのも自由です。ただ、前の方へ、つまり私に近づくようなことは避けて下さい。実を申しますと、少々恐がりな人間ですので、あとさき考えずに発砲してしまうかもしれません。以上のところで、なにか質問はありますでしょうか? 質問のある方は、遠慮なく……」
加部谷は腰を浮かせて、前の方を窺った。マスクの男がこちらを見ていたので、すぐに顔を引っ込めた。誰も、手を挙げたりしなかったようだ。質問はなかった。それはそうだろう。とても、そんな精神状態ではない。
バスの走行音だけが絶え間なく響いている。さきほどから話をしている者は一人もいない。小声で電話をかけている人がいたかもしれないが、走行音に掻き消されたのか、まったく聞こえてこなかった。
9
西之園萌絵は自宅を出て、愛知県警本部へ向かった。夜の道路は空いていたため、二十分足らずで到着した。途中で一度、加部谷からメールが届いたので、車を停めてそれに応えた。今のところは特に状況の変化はなさそうだ。大丈夫だから、頑張って、という言葉を送る以外に思いつかなかった。こういった事件が最後はどのような決着を見るのか、と西之園は想像を巡らしたけれど、もちろん良い結果ばかりではない、どうしても最悪のシナリオを思い描いてしまう。加部谷恵美の笑顔を思い浮かべるだけで、目頭が熱くなった。こんなことではいけない、なにか自分にできることはないだろうか、と必死に考える。
車内にいる人質と連絡が取れるということは、つまり、犯人に関する情報を警察側が得られるので、この点で多少は有利になるだろうか。そう考えたので、情報交換のために直接警察へ出向くことにしたのだ。
駐車場へ車を入れ、受付で事情を説明したあと、捜査一課のフロアまでエレベータで一気に上がった。通路に近藤が立っていた。彼女のことを待っていたようだ。
「どうもどうも、夜分にわざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「どんな感じですか?」彼女は尋ねる。
「いえ、あれから、特に進展はないようですね」
「バスがどこを走っているかは、もう確認されたのですか?」
「ええ、しているようです」
「捜査本部は?」
「あ、いえ、こちらにはありません。それは、東京の方です」
「でも、那古野に向かっているのでしょう?」
「ええ、もちろん、こちらにも打診はあったようです。でも、まだ、具体的には動いていませんね」
「なんだ……、悠長な話ですね」
「まあ、とにかく、こちらへどうぞ」
小さな会議室のドアを近藤が開ける。西之園はその中に入った。頭を冷やせと言われたように、空気が冷たい。彼女はまだコートを着たままだった。
「なにか温かいものを飲まれますか?」近藤が尋ねる。
「いえ、おかまいなく。それよりも、加部谷さんとメールで連絡が取れること、話してもらえましたか? 警察は車内の情報をどの程度把握しているのですか? 情報が必要なのでは?」
「もちろん話しました。緊急の場合に連絡が取れるよう、待機していてほしい、と言われました」
「私が? ここで?」
「いえ、西之園さんの携帯電話をお預かりしても良いですし、あるいは、加部谷さんの許可を得て、直接こちらから彼女の携帯に連絡する手もあります」
「ええ、それは、そうですね」西之園は溜息をついて、椅子に腰掛けた。「ああ、やっぱり、私、気が動転しているんだわ。ごめんなさい、そうか、加部谷さんのほかにも乗客がいて、既に車内の情報を警察は把握しているのですね?」
「そうだと思います。やっぱり、コーヒーをお持ちしましょう」
「あ、はい、それじゃあ、お言葉に甘えて……」西之園は頷いた。「ありがとうございます」
近藤が部屋から出ていった。西之園はもう一度深呼吸をする。気が動転するという状態がどんなものなのか、まだ充分に理解していない。少なくとも、普段よりも思考範囲が狭くなる、そんな状況のことだろう。
落ち着いて……。
しかし、焦っても、落ち着いても、自分の力が及ぶような問題ではない。どう考えてもそうだ、と思う。
ドアが開いて、現れたのは近藤ではなく、その先輩に当たる鵜飼《うかい》警部補だった。
「こんばんは、お久しぶりです」鵜飼が頭を下げる。「今回はとんだことで、ご心配でしょう」
「よろしくお願いします」西之園は立ち上がって頭を下げた。「バスに乗っている一人は加部谷さんです、あの……」
「ええ、はい、聞きました」鵜飼は口を歪《ゆが》ませて頷いた。「まあ、しかし、慌ててもしかたがありません。もちろん、警察は素早く、そして適切に対応しています。できることはしております。どうかご安心下さい」
「ええ、そうですね、あぁ……」また、溜息がもれる。「なんか、気が気じゃない。どうしたらいいのか」
「加部谷さんのご家族には、連絡をされましたか?」
「あ、いえ……。だって、きっと加部谷さん自身が、メールを書いているんじゃあ……」
「そうでしょうか」
「あ、そうですね。家に内緒で東京へ行っている可能性だってありますね」
「わかりました。あとで確認をしておきます」
近藤が両手にカップを持って部屋に入ってきた。彼は鵜飼を見て驚いたようだ。
「あ、気が利くな」鵜飼が二つのカップを受け取り、テーブルに置いた。
「えっと、僕の分だったんですけど……」近藤が苦笑して椅子に座る。
「あ、それじゃあ、私のを……」西之園がカップの方へ手を伸ばす。
「いえいえいえいえ、とんでもありません」近藤が高い声で言った。「召し上がって下さい。ここはひとつ、ぐっと熱いコーヒーでも飲んで、気を落ち着けてもらわないと」
「お前な、言っていることの意味がわからないぞ」鵜飼が横目で睨んだ。その厳《いか》つい顔を西之園の方へ向けると、一瞬で笑顔に変わる。「実はですね、そのバスジャックとは別なのか、それとも関連があるのか、まだわからないのですが、東京でバスの運転手が射殺される、という事件があったようなんです。私も三十分ほどまえに聞いたばかりでして……」
10
柴田久美は、躰を硬くして、前かがみの姿勢でシートに腰掛けていた。
変な男がバスの前の方で話を始めた。とても鬱陶《うっとう》しい。学校の先生みたいな嫌な話し方だ。このバスを乗っ取って、みんなのことを人質だと言っている。そういう決めつけ方ができるなんて、単純だな、と思った。
とにかく、頭が普通に働いていないのは確かなので、相手にしない方が安全だろう。そう、できれば関わりたくない。近づきたくない。こちらへ来ないでほしい。
爆弾? そんなもの、持っているなら、早く爆発させてみせろよ。口先でどうのこうの言っている場合じゃないだろう。
そんなふうに思って、腹が立ったけれど、しかし、頭が疲れているせいかもしれない。もう夜中なのだ。いつもは起きている時間だけれど、家を出て、沢山歩いたし、運動をしたせいで肉体疲労なのだ。
眠くなってきた。寝ても大丈夫だろうか。
寝ているうちに、バスごと爆発させてくれたら良いのに。
そうやってお願いしてみようかしら。
11
矢野繁良は、肘掛けに頭をのせるほど低く躰を斜めにして座っていた。だから、バスの前の方はまるで見えなかった。しかも目を瞑っている。もう後ろを振り返ることもやめてしまった。
前の方から聞こえてくる男の声も、耳に入らない。ヘッドフォンで音楽を聴いているからだ。初めのうち少しだけ言葉を聞いてみたけれど、思ったとおり自分には関係のないことだった。だから途中から完全に遮断してしまった。
それは、彼が子供の頃に築き上げたシステムだった。
周囲を遮断することで、平静が得られることを学んだからだ。人間というのは、結局のところは、顔と声なのだ。目を見開いて相手を威嚇する顔と、がみがみと同じ言葉を繰り出す声。この二つの作用が、目を瞑って、耳を塞《ふさ》ぎさえすれば排除できる。
目を開けていても見ないことができるし、ヘッドフォンがなくても声もちゃんと聞こえないようにできた。そういう安定したシステムを彼は頼りにしている。これができるようになって、どれほど自分が安定しただろう。
押しつけてくるもの、つまり圧力を伴う情報さえ排除すれば良い。必要なものは自分から取りにいけば良いのだ。向こうから入ってこようとするものに、ろくなものはない。
ほんのときどき、バスが走る振動と、窓の外で後方へ流れる光を感じた。それが現実。自分は、走るバスに乗っている。どうしてこんなことになったのか、こんな道を選んだのか、少しくらい振り返ってみても良いかもしれない。
子供のときのことを、思い出してみた。
そこには、彼の母親がいた。それと同じ人物は今でもいる。しかし、昔の彼女ではもうない。何が変化したのだろう。人は歳をとると、誰でも変化する。たいていは鈍感になり、無関心になり、投げやりになり、そして諦めやすくなる。結局は、残りの人生が短くなることを悲観しているせいだ。そんなところだろう。逆にいえば、若い頃には、いつまでも生きられると信じている。そちらの方がむしろ馬鹿馬鹿しい。
そうか……、
だから、昔のあの母親はおかしかったのだな。あれが不自然な状態だったのだ。なにかに取り憑かれていた、といっても良いだろう。彼女の身辺に、当時何があったのか。そんなことを考えた。
このバスに乗ることは、もちろん母親には話していない。家を出るときも黙って出てきた。夜中にぶらりと出かけることはよくあることだ。たいていはコンビニへ行って、漫画を立ち読みして、ちょっとだけ買いものをして戻ってくるだけ。買ったものは、公園でブランコに乗りながら消化してしまう。家に持ち帰ったことはない。家の彼の部屋にあるゴミ箱はとても綺麗だ。母親が毎日掃除をしてくれるからだ。そこにゴミを入れないようにしているのは、親孝行のつもりである。同様に、彼女の耳に、ゴミのような今の自分の現状を伝える言葉を入れることもない。
パソコンのハードディスクもちゃんと消去してきた。フォーマットをし直しているときは、さすがに涙が流れた。自分がこれまでに描いた絵が、そこに綺麗なままあったのだ。そこにあったすべては、完全に自分だけのものだった。
それが消えていくのだ。
時間が失われていくのだ。
涙が流れるなんて、近頃あまり経験したことがなかった。けれど、乗り越えなければならないだろう。いつかはこうなる、とずっと考えていたはず。このまま歳を重ねていくよりは、ずっと被害が少ないというもの。なんという社会的な考え方だろうか。
彼の頭を振動させる音楽、そのメロディ、その歌詞に、少しだけ耳を傾ける。すると、途端にそれらが解釈され、彼の中で展開する。躰が小刻みに振動して。
幸せじゃないか。
そうだ、自分は、自由。
これからも、ずっと……。
12
榛沢通雄《はんざわみちお》と倉持晴香《くらもちはるか》はバスの左側のシートに並んで座っていた。窓に近い方が榛沢だった。その彼に躰を寄せ、倉持がもたれかかっている。
「誰なの? あの人、運転手さん?」倉持が小声できいた。
「話をしている人のこと?」
「うん」
「運転手じゃないよ、こちらを見て立っていたじゃないか。運転手は、運転席から離れられないよ」
「へえ、そうなの。道、真っ直ぐなのに?」
「し、静かにしていた方がいいよ」榛沢はそう言って、彼の胸にあった倉持の手に触れた。
間近に彼女の顔があった。こういった場合、唇を寄せるくらいのことをしても良いのだろうか。しかし、こんな状況下で、そんな不謹慎なことをすべきではない、きっとそうだ、と思い直して、震えるように、ゆっくりと意識的な呼吸を一度した。
「ねえ、状況がわかっている?」耳もとで倉持が囁く。「私たちって、どうせ死んじゃうんだよ」
彼は無言で小さく頷いた。
「死んじゃうんだったらさぁ、もうなにも恐くないよね?」
「うん」今度は声が出た。彼は努力して倉持の方へ顔を向けた。「もともと、別に恐いものなんて、なかったけど」
「そう? じゃあさ、拳銃突きつけられてても、その前に飛び出していける?」
「目的があれば」
「ふっ」倉持は息をもらした。「いっつも、あんたって、そうだよね。まあ、死ぬまで変わらないってやつ?」
彼女は、さらに体重をかけてきた。顔を榛沢の胸に押しつけるように。
少々窮屈になった。身動きが取れない。しかたがないので、彼女の頭の上に片手をのせ、髪を撫《な》でるように動かした。こんなことをするのは生まれて初めてのことだ。目的はわからない。なんとなく、そうしてほしい、と彼女が思っているかもしれない、という想像だった。そんな根拠のない想像だけで行動するなんて、どうかしているけれど、これもそれも、すべて今のこのバスの異常な状況によるものだろうか。
彼女が少し顔を上げる。そして、横を向く。なにかを探しているような仕草だった。躰を離し、起き上がる。シートの隙間から、後ろを覗いている。
「後ろだね」倉持が小声で言った。
「何が?」榛沢はきく。
「煩《うるさ》いじゃん、しゃかしゃかって……」
「そう?」
「うん、聞こえない? 後ろの人のヘッドフォンだよ」
「いや、あまり聞こえない」
「私、ああいうの聞こえちゃう方だから」
「そうみたいだね」
「言ってやろうかしら」
「我慢した方が良いよ。そんなに大きな音じゃない」
「うん、まあ……、我慢できないほどじゃないけれど」
「こんなときに、言い出せる話題じゃないし」榛沢はそう言って、自分でも少し可笑《おか》しくなって微笑んだ。
「こんなときに……、ああ、そうね」彼女も少し笑ったようだ。
急に外が明るくなった。
榛沢は窓の外を見る。
上の方だった。凄く眩《まぶ》しいライトが動いている。
低い振動音も聞こえた。ロータの音だ。
「ヘリコプタだ」榛沢は言った。
ほかのシートでも人が動く音がした。左側の窓をみんなも見ようとしているのか。
「ヘリコプタって?」倉持がきいた。「何だったっけ?」
「近くを飛んでいるんだよ」
「ああ、プロペラ回して飛ぶ、あれか」
「このバスを照らして、撮影しているんだ」
「どうして? あ、もしか警察が来たってこと?」
「どうかな。テレビとかかもしれないし」
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第2章 悲しみの連なり
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ああ、だれもこの道を示さなかった。だれも、父も、師も、賢者も、神聖ないけにえの歌も、この道を知らなかった! 彼らは、バラモンとその聖典は、なんでも知っていた。なんでも知っており、いっさいのことのために心を労していた。いっさいのことより以上のために心を労していた。世界の創造、ことばや食物や呼吸の発生、五官の秩序、神々のわざなど――無限に多くのことを彼らは知っていた。――しかし、そういういっさいを知ることに価値があったろうか。もしも一つのもの、唯一のもの、最も重要なもの、ただ一つ重要なものを知らないとしたら。
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1
西之園萌絵は、愛知県警本部の建物の一室でテレビを見ていた。二十インチほどの古いタイプのテレビが、会議室のコーナのキャビネットの上にのっていた。したがって、椅子に座っていると、見上げなければならない。テレビをこのように見上げる機会は、普段の生活ではほとんどない。しかも、画面の色が薄くて、天井の照明を反射しているようにも思えた。一度、席を移動したけれど効果はなかった。この備品はもう償却して、新しいものを買えば良いのに。一台買って寄付をしようかしら、と考えたほどだった。
鵜飼は既に部屋にはいない。帰ったのではなく、このバスジャック関連で緊急会議が開かれる、とのことだった。近藤は、幾度か部屋を出ていっては、また戻ってきた。新しい情報はなにもない。殺された運転手についても、その後の情報はなかった。現在バスを運転しているのは、代理の人間らしい、との想像だけである。バスジャック犯との関係はないのか、との疑問が当然生じるところであるが、今のところ一切が不明だった。
加部谷恵美とのメールのやりとりは、インターバルが長くなりつつあった。ついさきほどは、メールで確かめてから、西之園の方から電話をかけてみた。
「もしもし、恵美ちゃん?」
「はい」囁くような加部谷の声だった。
「大丈夫?」
「はい」
「私、今、県警の本部にいるの。まだ、動きはないみたいだけれど、たぶん、これからなんでしょうね。そちら、危険なことはない? 脅《おど》かされたりは?」
「いいえ」
「うん、とにかく、頑張ってね。そちらのバッテリィが心配だから、もう切るけれど、いつでも、すぐに電話に出られるようにしておくから」
「はい、ありがとうございます」
「落ち着いて。冷静に。いい?」
「はい」
といった短い会話だった。加部谷の短い返答からも、さすがに緊迫した空気が伝わってきた。電話を切ったあと、目を瞑って西之園は深呼吸をした。なにもしてやれないことが本当にもどかしい。膝の上で片手の拳を強く握り締めたものの、それでどこかを叩くわけにもいかない。思わず小さく舌打ち。そのときには、部屋には彼女一人だった。テレビを見上げると、さきほどから同じ映像が何度も流れている。バスが高速道路を走るシーンだ。マスコミが夜にヘリコプタを飛ばして、撮影したものである。見たところ、左側の車線を走行している。ほかのどの車よりも遅い。かなりの距離があり、車内はまったく見えない。
警察の車が近くまで行っているのだろうか。このあと、サービスエリアに停まる可能性があるかもしれない。
犯人はどのような要求をしているのだろう。どこに対して要求しているのか。警察だろうか。それとも政府だろうか。政治的な要求か、それとも単に現金だろうか。加部谷のメールによれば、犯人はインテリっぽい感じだという。切羽詰まって及んだ犯行、といったイメージからは遠い。
気になるのは、バスの運転手が射殺された殺人事件の方である。凶器は発見されていないらしい。ということは、この事件の犯人はピストルを持っている。バスジャック犯も、ピストルらしきものを持っているようだ。また、本当かどうかはわからないが、爆弾も持っている、と話している。しかも、それを無線で起爆させることができるという。遠隔操作ができる爆弾というのは、個人や素人《しろうと》では、少々発想しにくい武器ではないだろうか。そういったものを、バスの乗っ取りに用いるという発想が、である。やはり、どうしてもなんらかのテロ行為を連想させる。つまりは、政治的な目的を持った組織の行動。しかし、今のところ、そちら方面の詳しい情報は一切ない。
近藤が部屋に入ってきた。
「今、鵜飼さんから、聞いたんですけどね……」椅子に座らず、テーブルに片手をつき、立ったままで彼は話した。「どうやら、犯人グループの一人が、既に拘束されているらしいんですよ」
「は?」西之園は数回瞬いた。意味がよくわからない。「どこで?」
「さあ、詳しいことはわかりません。自首をしてきたんでしょうかね」
「それじゃあ、実行犯は、本来ならもう一人多かったってことですか?」
「そういうことでしょうね」
「どうして、一人だけ?」
「うーん、どうも公安の管轄になるようです。今のところかなり情報が規制されている感じがします」
「それは、人質がいるから……」
「ええ、もちろん、それは最優先です。ただですね、その拘束された犯人の一人から、爆弾に関する情報が得られたので、その対処を急いでいる、というのが現状のようです」
「ああ、なるほど、それは、少し明るい情報ですね」
「はい、こちらも、科学班の緊急出動になりそうです。まあ、とにかく、個人が衝動的に起こした事件ではありません。むしろ、その方が人質は安全だと考えて良いと思います」
「そんなこと……」西之園は立ち上がった。しかし、口から出る言葉を噛みしめて、溜息をついた。「いえ、すみません」
「ええ、いや、こちらも、申し訳ありません。単なる統計的な傾向を申し上げたかっただけです。もちろん、油断はできません」
「どこかでバスが停車したら、犯人を狙撃するしかないのでは?」
「そういったことも視野に入れて、もちろん対策が検討されていると思いますよ。だけど、爆弾のボタンを押される危険性がありますからね」
もちろん、その返答は西之園も予想していた。ただ、言葉にすれば少しは自分の気がすむか、と思っただけのことだった。きっと、ねばり強い交渉を行う、それがベストだろう。それが正攻法だ。頭ではわかっているものの、どうしても冷静になれない自分がいる。
もし、自分があのバスに乗っていたら、どうだろう。
黙ってじっとしていられるだろうか。
犯人に話しかけ、説得しようとしただろうか。
若いときの彼女だったら、そうしたかもしれない。そんな気が少しだけした。しかし、やはり、それはベストではない。
たぶん……。
わからないけれど。
彼女はまた溜息をついた。
2
赤柳初朗《あかやなぎはつろう》は、山吹早月のアパートの前でタクシーを降りた。真夜中である。あたりは静まり返り、空気は凍るように冷たい。
ここへ来たのは、山吹に会うためではなかった。彼が例のバスに乗っていることを赤柳は承知していた。
山吹の不運を知るよりも三十分ほどまえに、東京の友人から電話がかかってきた。彼は公安の内部にいる人間で、赤柳の古くからの知り合いだった。
赤柳が暇を見つけては調査を進めている宗教団体に関する情報がもたらされた。この種のものではよくあることだが、確定情報ではない、それらしい、という程度のものである。ただ、今回の新しいキーワードは〈|ε《イプシロン》に誓って〉らしく、これは今までのものと非常に類似していた。ネット上でそれらしい動きが見つかった、との説明だったが、どうやらリークがあったらしい。内部告発なのか、それとも反対勢力からのものか、いずれにしても情報提供が警察に対してなされた、ということである。
赤柳は、少しまえから、この不思議な一連の動きを追っている。しかし、これといって進展はない。普通、少し調べれば、だいたいのイメージは掴めるものだが、どうにも掴みどころがない。関連する多くは、組織の名前すらない。それが、逆に共通する特徴なのだ。ただ、ネットで大勢を集めている、そうした若者に影響を与えている何者かがいる、ということは事実らしい。それらのほんの一部が、ときどき漏れ出るために観察される。その一端を偶然にも赤柳が身近で見つけてしまった、というわけだ。
ところが、その電話のすぐあとに、再び同じ相手から電話がかかってきた。少々慌てた様子で、とにかくテレビを見ろ、と言う。
臨時ニュースが流れていて、夜の高速道路を走るバスの映像が、複数のチャンネルで流れていた。バスジャックがあったらしい。
「これが、どうかしたんですか?」
「うん、つまりその、俺もびっくりしたんだが、その〈ε〉ご一行が、そのバスに乗っているらしいんだ」
「どういうことですか?」赤柳は尋ねた。
「わからんよ、そう聞いたんだ、たった今ね」
「ご一行って聞いたんですか?」
「そう、グループと聞いた。えっと、バスの運転手が殺されているらしい。今まだ、確かなことは言えないが、とにかく、そのバスを運転する予定だった奴が殺されて、別の運転手が乗っているってことだ。最初は、代理で運転しているんだと理解していたら、どうやらそうじゃない。自分で勝手に出ていったんだ」
「え? なんですか、つまり、そいつが殺したかもしれないってことですか?」
「そうそう、その線が強い。少なくとも関連はあるだろう。だから、そいつの部屋を捜索した。これはオフレコだぞ。殺人現場のすぐ隣だったし、鍵がかかっていなかったんだ。それで、パソコンを発見した。そのパソコンの蓋を開けてみたら、画面にεの文字がでかでかとあった、というわけだ」
「全然わかりませんよ、その説明では」
「うん、まあ、わかる奴は誰もいない。しかし、とにかくそういった連中ばかりがバスに乗っているってことだ」
「え? じゃあ、バスジャック犯は?」
「わからん。同じグループで、つまり、狂言なのか、それとも、そいつは、反対勢力なのか……」
「へえ……」赤柳は思わず息をもらした。「そうだとしたら、けっこう凄いことになっていますね。悲惨なことにならなきゃ良いけど」
「まあ、今のところは、そんなところだよ。起きて、テレビを見ていた方がいい」
「あ、はい、どうもありがとうございます」
言われたとおり、テレビをずっと見ていた。バスジャックに関する報道は内容的には限られていた。乗客として誰が乗っているのか、まだ全然わかっていない、犯人が何を要求しているのかも不明だ、とテレビは報じている。映像は、バスが発車したターミナルに立つレポータと、ヘリコプタから撮影したと思われる走るバスの映像、さらに、警察の短い記者会見の一部だけを繰り返し流していた。
そうしているとき、インターフォンが鳴った。こんな時刻に誰だろう、と思って玄関へ行き、ドアを開けてみると、隣の住人、舟元繁樹《ふなもとしげき》だった。ジャージの上下で、髪が濡れている。風呂上がりのようだった。外は相当に空気が冷たかったが、舟元は軽装である。
「赤柳さん、夜分にすみません。明かりがついていたから、まだ起きてましたよね。あのぉ、テレビ、見てました?」
「あ、うん、バスジャックの」赤柳は頷く。
「今、俺、山吹にメールしたんすよ。したら、びっくりですよ。あいつ、あのバスに乗ってるんです」
「え? 本当に? でも、東京でしょう?」
「東京から、こちらへ戻ってこようとしてたみたいですね」
「へえ、そりゃあ、大変だ。彼、一人?」
「あ、いえ、友達と二人だって」
「あ、じゃあ、海月君だ」
「いえ、違います。えっとね、あの子ですよ、女の子」
「ああ、もしかして、加部谷さん?」
「そうそうそうそう。海月は、今、山吹のアパートにいるはずだって、ええ、それも山吹がメールで書いてきました」
「そう、ふうん、そうか……、しかし、なんとも、うん、どうしようもないよなあ」
「なんかアドバイスとかありませんか? メール書いておきますけど」
「いや、そんなものないよ。あまり、そんなメールなんかしない方がいいんじゃないかな」
「そうですよね」そう言ったあと、舟元はくしゃみをした。
「あ、寒いから……」
「じゃあ、これで。テレビ、朝までやるみたいすね」
舟元は隣へ帰っていった。赤柳は、とりあえず、山吹の携帯にメールを送ることにした。
舟元君から今聞いた。落ち着いて。頑張って。なにかしてほしいことがあったら遠慮なく言ってくれ。
すると、山吹からすぐに返信メールが届いた。
そういうわけなんです。今のところ元気です。加部谷さんも。頼みたいことがあります。海月に知らせたいのです。僕のアパートにいますが、朝、約束の時刻には行けそうにないからです。彼は電話を持っていません。
たぶん、アパートの管理人にでも電話をすれば良い、という程度のつもりだったのだろう。その番号を山吹は知らないのか、それとも、電話がかけられるような状況ではない、ということか。山吹は、明日の朝になってから、連絡をしてくれれば良い、と考えていただろう。しかし、赤柳は今すぐに海月に知らせてやりたくなった。
山吹早月のアパートに海月及介がいるならば、二人で話ができる良い機会ではないか。海月とは一度じっくりと話をしてみたかったのだ。もちろん、バスジャックのことではない。|τ《タウ》やεに絡んだ、この掴みどころのない、名付けることもできない不思議な一連の出来事についてである。
そういうわけで、タクシーで山吹のアパートへやってきた。歩いてくるには少し離れているが、車ならばすぐの距離だ。
インターフォンを押して待っていると、ドアが少しだけ開いて、予想どおり、海月及介の無表情な顔が現れた。
「こんばんは」赤柳は微笑みながら頭を下げる。
「こんばんは」海月が応えた。
「山吹君は留守だよね。彼からメールで指示されて、海月君に伝えにきたんだ」
「何をですか?」
「テレビ、見ていなかった?」
「ええ、見ていません」
「もしかして、寝てた?」
「いいえ、まだ」
「あの、入っていいかな、ちょっと寒くて」
「ええ」海月はドアのチェーンを外した。「僕の家じゃありませんけれど」
玄関の中に入って、ドアを閉める。靴を脱ぐまえに、赤柳は話した。
「実はね、山吹君が乗った高速バスが乗っ取りに遭って、今、それをテレビでやっているよ」
海月は目を細めて、僅かに顔を傾けた。赤柳の目をじっと見据えている。
「その車中から、僕のところにメールが届いたんだ。で、明日、ここへ時間どおりには戻ってこられないから、それを海月君に伝えてくれって」
「それでいらっしゃったのですか?」海月が無表情できいた。
「いや、山吹君は、明日の朝にでも、電話かなにかで連絡をつけてほしい、くらいのつもりで書いてきたんだと思うけれど。その、たとえば、ここのアパートの管理人さんとかに」
「別に、朝になれば、彼が帰ってきても、こなくても、僕は出ていくつもりでした。彼が伝えたいと言ったのは、本当ですか?」
「本当だよ、メール見せてあげようか」赤柳はポケットから携帯電話を取り出した。
「いえ、疑っているわけではありません」海月が片手を前に出して広げる。「何だろう。早く僕に知らせたい理由があった、というわけですね」
「うーん、そうかな、よくわからんけれど」
「なにか、考えてほしいことがある、ということかな」
「ん? 考えてほしいこと? まあ、とにかく、疑問点があったら、彼に直接メールをすれば良い。これ、貸してあげるから」
山吹は携帯電話を赤柳に手渡し、靴を脱いで奥へ入っていった。
若い男性の部屋にしては珍しく、非常に片づいて綺麗な部屋だった。テレビはついていない。音楽もかかっていなかった。小さなソファがあって、その前に置かれた低いテーブルに、湯飲みが一つ。その横に文庫本が一冊あった。海月及介が今まで何をしていたのかを示すアイテムはそれ以外になかった。
3
犀川創平はホテルの狭い一室でテレビを見ていた。暖房が効いているので暖かい。彼はホテルの部屋が好きだ。このなにもない空間には、何故か不思議な自由があるように思える。それはつまり、誰も邪魔をしない、というシールドにも似たイメージのためだろう。
そのシールドが効かない唯一の穴から西之園萌絵が電話をかけてきた。バスジャックのことを知り、その後は、テレビの報道をぼんやりと眺めている。情報的には新しいことは得られなかった。乗っているのがどんな人たちなのか、どうしてわからないのだろう、という小さな不思議に多少引っかかるだけだった。
西之園萌絵から電話がかかってきた。
「あ、先生、まだ起きています?」
「テレビを見ているよ」
「あの、今、私、警察にいるんですけれど、鵜飼さんがですね。ちょっとだけ代わってほしいって」
「何を?」
「電話をですよ。良いですか?」
「うん」
しばらく待つ。
「こんばんは、ご無沙汰しております。鵜飼でございます」
「ええ、鵜飼さんだと思っていましたよ。僕が誰だか、わかりますね?」
「あの、犀川先生、一つお願いがありまして、実はですね、警視庁の沓掛《くつかけ》という者がですね、是非、その、犀川先生と話がしたいと言ってきまして、ええ、連絡が取れないかと」
「はあ……、取れるんじゃないでしょうか」
「いえ、ですから、その、急いでいるわけなんです」
「というと、今すぐにですか?」
「そうです。この電話の番号を知らせてもよろしいでしょうか? それとも、犀川先生の方から電話をかけていただくか、ということになりますが……」
「電話番号、教えてもらってかまいませんよ。でも、何の話ですか?」
「それは、ちょっと私にもわかりかねます。沓掛というのは、私も一度だけ会ったことがありますが、警視庁の警部です」
「何だろうなあ」
「では、向こうにすぐ伝えますので、折り返し、そちらに電話があると思います。よろしくお願いいたします」
「わかりました」
電話を切ろうか、と迷っているうちに、西之園の声が聞こえてくる。
「あ、先生、そういうことですので、よろしくお願いします」
「え、何を?」
「あとで私にちゃんと教えて下さい、ということです」
「何を?」
「ですから、沓掛警部とのお話の内容ですよ」
「それは、約束できないよ」
「では、またのちほど……」
電話が切れた。煙草に火をつけて、しばらく待った。結局、電話がかかってきたのは十分ほどしてからのことで、その煙草を吸い終わったあとだった。
「もしもし、犀川先生でいらっしゃいますか? 私、警視庁の沓掛と申します」
「あ、はい、どうも、犀川です」
「愛知県警の鵜飼警部補から紹介があったと思いますが、私は、国家公安委員会の下で動いております。実は、以前より、真賀田四季《まがたしき》と、彼女の活動組織について捜査をしておりまして、ですから、犀川先生のことは、よく存じ上げております。一度、お目にかかってお話を伺いたいと考えておりました」
「あ、そうなんですか、それはどうも」
「いえ、こんな夜分に、本当に申し訳ありません。先生、今は、東京にいらっしゃるそうですね」
「はい、竹橋《たけばし》のホテルにおりますが」
「あ、それでは、そちらへ伺った方がよろしいですね。いかがいたしましょう?」
「電話ではできない話があるのですか?」
「あ、いえ、ご挨拶がお電話では失礼かと思いましたし、また、その、大変申し上げにくいのですが、電話というものを、それほど信用しておりませんものですから」
「ああ、なるほど」
「いえ、緊急の用件は、それほど機密を要するものではありません。今、テレビをご覧になっていらっしゃいますか?」
「ええ、バスジャックですね」犀川は、テレビのリモコンをもう一方の手に持っていた。音は消してあった。「これが、何か?」
「実は、そのバスジャック犯のグループの一人を、事前に拘束しました」
「事前にというのは、バスジャックよりもまえに、ということですか?」
「そうです。発生の数時間まえでした。しかし、複数の箇所に爆弾を仕掛けたということでしたので、残念ながら、決定的な手を打つことができず、未然に防ぐまでに至りませんでした。ただ、爆弾の設置箇所に関しては、ある程度は既に把握しております。現在、判明しているものについては処理を急いでいるところです」
「当然ながら、そちらがさきというわけですね」
「はい、なにしろ、一箇所は発電所でした。もちろん、敷地内というだけで、重要な部位ではありませんでしたが……、しかし、完全に組織されたテロだということは明らかです」
「犯人は、そちらに要求を提示しているのですか?」
「はい、公表はできませんが、その要求にどこまで応じるのかが、状況によっての駆け引きになります。当然ながら、人質の安全確保が第一ですが」
「無線で起爆させることができる、と聞きましたが、本当ですか?」
「わかりませんが、それだけの技術は充分に持っているものと想像できます」
「でも、無線で届く距離なんて知れています。つまり、携帯電話ですね?」
「はい、おっしゃるとおりです。どうして、そうお考えになりましたか?」
「いえ、僕は電子工学が専門ではありませんので、それくらいしか思いつかなかっただけです。だって、高速道路にはトンネルがありますから、普通の電波では常に使用できるわけではありません。携帯電話ならば、そういった箇所にはブースタが設置されていると想像したんですけど」
「はい、おっしゃるとおりです」
「それに、人質たちに、携帯を使って連絡をしても良い、と言っているそうじゃないですか。実は、僕の知り合いがバスに乗っているみたいなんです」
「ああ……、そうでしたか、それは、あの、どうも、なんと申し上げて良いのか……」
「いえ、僕にできることはありませんからね、見守るしかないです。ただ、人質に携帯電話を使わせることは、この種の犯人の行動としては、多少変わっていますよね」
「ええ、普通は、内部の情報が漏れないように努力するでしょうね。その方がいろいろな面で有利だと考えるはずです」
「おそらく、人質に携帯を使わせることで、電波のモニタをしているのではないでしょうか。トンネルなどのブースタを切られることを恐れているのでしょう」
「ああ、なるほど……。そういう手がありますね」
「え、ブースタですか?」
「検討してみます。ありがとうございます」
「長いトンネルだったら、さらに打つ手があるのではありませんか?」
「はい、そうですね。そう思います。至急対策を立てます。どうもありがとうございました。あの、また改めて、ご挨拶を兼ねまして、お目にかかりたいと思いますが」
「ちょっと待って下さい。何故、バスジャックの話を僕にされたのですか? まだ、肝心のところをお聞きしていません」
「それは、犀川先生、もうお気づきのことと思いますが」
「そのテロが、真賀田四季と関連がある、ということですか?」
「拘束された者が、最近、アメリカから帰国した男なのですが、おそらくその組織にいたと考えられます」
「そう本人が言いましたか?」
「いいえ」
「ほかに根拠は? まだありますね?」
「バスに乗り込んだ大多数が、那古野に向かっているわけですが、これは、ある旅行社が扱っている団体客です。行き先は台湾のようです。ところが、そのグループ名が、〈εに誓って〉というものなのです」
「イプシロン? ギリシャ文字の?」
「そうです。ネット上のあるサイトで集まった人たちで、こちらは、まだ個別には把握できておりません。集団自殺ではないか、との情報もあります。そのグループに一時的に加わっていた、という人間からのリーク情報ですが」
「その人たちがバスに乗って、飛行場へ?」
「もともと、終点は中部国際空港です」
「ふうん、よくわからないなあ」犀川は溜息をついた。思考も息継ぎをする。
「おそらく、バスジャック犯も、飛行機に乗ることを要求するでしょう。人質と一緒に」
「今はしていないのですか?」
「まだしておりません」
「最後は国外へ出る以外には、ちょっと考えられませんからね。もしかして、人質も仲間で、台湾以外のところへ行きたいのかもしれませんね。いえ、仲間といえなくても、国外脱出に協力的である、という意味ですが」
「そうなんです。はい、ご明察、感服いたしました。さすがにお噂どおりの……」
「いえいえ、そんな話で時間を使わないで下さい」
「当局も、先生が今おっしゃったことを予測しております。もちろん、そういった可能性も鑑《かんが》みて、対処をしております」
「そうですか、それならば、言うこともなかった」犀川は言った。「では、時間も惜しいでしょうから、仕事に戻って下さい。真賀田博士との関連が、もしもっと明確になったら、教えて下さい。メールでけっこうです。あ、いや、メールは危ないかもしれませんね」
「はい、そちらへ直接参ります。またよろしくお願いします」
電話を切ってから、犀川はまた煙草を取り出して火をつけた。深く煙を吸い込んで、吐き出した。いろいろなケースが同時に頭の中で組み立てられた。まるで、絵本の違うページを同時に眺めるように。
しかし、今すべきことはなにも見つからない。
多くの場合、思考が導く結論を吟味したあとには、必ずこの台詞《せりふ》を聞くことになる。
たしかにそのとおりだ、しかし、今すべきこと、今できることは、なにもない。
4
加部谷恵美は、数分だけ眠った。意識を失った、という方が近いだろう。緊張のあまり疲労し、思考が停止して、朦朧《もうろう》となったのかもしれない。バスは依然ゆっくりと走っている。ずっとその振動が彼女の躰を包み込んでいた。肉体的な苦痛はない。目を閉じれば、すべてを忘れられるような気もする。目を覚ましたときに、これが夢だったら、と願わずにはいられない。けれども、目を開けるその一瞬まえに、現実の暗さ、重さ、辛さが、展開する。
バスは一度も停まっていない。ときどき、マスクの男が話をする。相変わらず丁寧な口調で、どうか協力をお願いします、申し訳ありません、といった言葉を繰り返している。しかし、その手に彼は銃を持っているのだ。それを持ち上げ天井に向けていることが多い。もしも、その手が少し下がって、水平に向けられたらどうしよう。こちらに銃口が向いたら、と思うだけで躰が震えてしまう。
質問があるか、なにか要求はないか、という問いかけにも、乗客は何一つ答えなかった。みんなとても大人しい。話をする声も滅多に聞こえない。よくはわからないけれど、ほとんどのシートは、二人掛けのところに一人しかいないはず。つまり、一人でバスに乗った客がほとんどなのだ。話をするとすれば、電話だろう。
加部谷と山吹は最後尾のシートなので、危険な人物からは最も離れている。今までのところ、犯人は一度も後ろへは来ていない。バスの一定の走行音もあって、二人はひそひそ話が充分にできる状況だった。短い言葉のやりとりで、どちらかがなにかを言えば、もう一人は頷く、といったコミュニケーションである。緊張しているためか、会話が続かない。
彼女も山吹も、携帯電話でメールを書いた。また、電話で話をすることもあった。これは、ほかのシートの客もおそらく同じである。声を潜《ひそ》め、誰かと話をしている者は多いはず。ただ、内容が聞き取れるほどの声は聞こえてこなかった。
「赤柳さんが、僕のアパートに行ったみたい」山吹が言った。
「え、どうしてです?」加部谷は尋ねた。時計を見る。もちろん真夜中である。
「海月に連絡する方法がそれしかないから」山吹は少し笑おうとした。いつもはもう少し爽やかな笑顔なのだが。「そういうつもりで言ったんじゃないけど」
「海月君、何をしているんですか? 山吹さんの部屋で」
「たぶん、本を読んでいると思う」
「彼らしいですね」
「海月がここにいたら、なにか良い解決方法を思いついてくれるかな」
「解決方法?」
「いや、わからない。たとえば、あの人と話をして、説得することくらいかな」
「そんなの、余計危険ですよ」
「うん。だけど、なんか、ほかの人たちもさ」山吹は顔を加部谷に寄せて、ますます小声になった。「大人しいよね。どういう人が乗っているんだろう」
「あ、たぶん、同人誌即売会でもあったんじゃないですか?」
「え?」山吹は目を見開いた。驚いたという顔だ。「どうして、そんなこと、知ってるの?」
「え? いえ、知りませんよ。何ですか? あったんですか? 私、冗談で言ったんですけど」
「うん、実はあった。でも、僕は行ってないよ」
「誰も、山吹さんが行ったなんて言ってないじゃないですか。行ったんですか?」
「行ってない。ていうか……、別にさ、行っても良いと思うんだけれど」
「ええ、私もそう思いますよ。行ったんですか?」
「行ってないってば。うーん、ああ……」山吹は顔をしかめ、溜息をついた。「もしかしたら、殺されるかもしれないから、この際ってことで、正直に言うけれど、実は、僕にはね……」彼がますます顔を近づけてくる。
「何ですか?」加部谷は彼の視線を受け止めようとしたが、どういうわけか、自然に顔が五センチほど後退してしまった。
「姉貴がいるんだよ」山吹がもの凄い真面目な顔で言った。
「え、ええ、知っていますよ、お会いしたことがありますから」
「彼女がさ、好きなんだ」
「は?」一瞬、違う意味に取ってしまった。
「だから、同人誌を」
「へえ……、あ、そうなんですか」
「でも、島にいるから、そんなものは買えないわけ」
「え、どうしてですか? 買えるんじゃないですか? ネットで注文すれば」
「いやいや、そんな簡単なものじゃないんだよ。何がどこから届いたか、すぐに島中に噂が広がってしまう」
「まさか」
「最初は、そうやって買っていたんだけれど、どこからか、姉貴の秘密が漏れてね、それでもう、届けてもらうことができなくなっちゃったんだ。なにしろ、結婚まえの娘だからね」
「おいくつですか?」
「僕よりは上だよ」
「あぁ、そうですか、それは想像ができましたけど。そんな大人なんですから、なにをしても、自由じゃないですか」
「とにかく、そういうわけで、弟に金を渡して、ときどき、その、買ってこいって命令するようになったわけ」
「え? もしかして、山吹さんに?」
「弟は僕しかいないよ」
「そ、そうですか、重いお話ですね」
「ヘビィだよね」山吹はまた溜息をついた。「実は、今も、東京で買った姉貴の本が、あっちの紙袋に十冊くらい入っている」山吹は左のシートを指さした。
「買うの、恥ずかしいんじゃあ」
「いや、姉貴が電話でもう注文していて、弟が取りにいくって、ちゃんと連絡済みなんだ」
「そうやっておいて、本当は自分で読んでいるとか」
「え?」山吹は加部谷を睨みつける。
「冗談ですよ」
「僕は見ていない。同人誌即売会にも行っていない。秋葉原で買ったんだ。もう、どれだけ恥ずかしい思いをしたことか。それだけ、死ぬまえに言いたかった。加部谷さんに聞いてもらえて、少しは肩の荷が下りたよ」
「いやぁ、その、そんな肩の荷、下ろさないでくださいよう。私なら、別に、なんとも思っていませんから、大丈夫ですよ」
「女性が読む同人誌だよ」
「そりゃまあ、そうでしょうね、お姉様、女性でいらしたようですから」
山吹は躰を向こう側へ傾斜させ、バスの前の方を窺った。今は静かだ。犯人は一番前の席に座っているのだろうか。運転手とときどき話をしているようでもある。なにかの指図をしているのかもしれない。
山吹はまた加部谷の方へ顔を寄せてきた。
「もしだよ、万が一、最悪の場合、みんな殺されてしまうとか、バスが爆破されるとか、そういうことになったら、姉貴の同人誌だけど、たぶん、加部谷さんのものだって、判断されると思うんだ」
「ああ、そうかも……、え?」加部谷は声を上げたその口を両手で慌てて覆った。息を止めているうちに顔が熱くなってくる。
「ごめんね」山吹が顔の前で片手を立て、小声で言った。
「待って下さいね」加部谷は呼吸を再開した。「どんな本ですか? 見せて下さいよ」
「いや、とても見せられない」
「私、大人です」
「とにかく、もう諦めよう」
「そんなぁ」加部谷は周りを見回した。「あ、そうだ。窓を少し開けて、一冊ずつ外に捨てましょうか?」
山吹は後ろを振り返った。そして、すぐに目を大きく見開く。加部谷も後ろを向く。今までも何度か後方を見ていた。ただ、高速道路を走っている自動車のヘッドライトが見えるだけだった。今はその中に、赤い点滅が混じっているのだ。しかも、すぐ後ろの車だった。
山吹はバスの前を見てもう一度確認し、頭を引っ込めてから、加部谷に囁いた。
「警察だね」
「そうみたいですね」
「少しは、希望があるかな」
「でも、同人誌は捨てられなくなりましたね」加部谷は言った。「こうなったら、少しずつ破いて、細かくして捨てるしかありませんよ」
「それだと、万が一助かったときには、姉貴に弁償しないといけないよ。お金を預かってきたんだ。凄く高かったんだから」
「どうして、こんなときに、私たちこんな話をしているんですか?」加部谷は泣きたくなってきた。「もう、どっちだっていいじゃないですか」
「ごめんごめん、いや、そんなつもりで言ったんじゃないよ。加部谷さんが少しは元気になるかなって」
「なんか、もの凄く混乱しました」
「大丈夫、落ち着いて。僕がついているから」
「頼もしいのか、頼りないのか、複雑な人ですよね、山吹さんって」
5
西之園萌絵は、国枝助教授の自宅へ電話をかける決意をした。朝になるまで待とう、と最初は考えていたのだが、やはり早い方が良いだろう、というのが多少冷静になっての判断だった。
「はい」電話に出た声は明らかに国枝|桃子《ももこ》だった。
「もしもし、先生、夜分にどうもすみません、西之園です」
「うん、どうしたの?」
「実は、バスジャックがあったんです。ご存じですか?」
「いいえ。バスジャック?」
「今も、テレビの臨時番組でやっています。そのバスに、山吹君と加部谷さんが乗っているんです」
「乗客として?」
「え? ええ、もちろん」
「そう……、わかった。知らせてくれてありがとう」
「なにもできませんけれど」
「そうだね」
「えっと、あの、それだけです」
「テレビ、見てみる」
「お願いします」
西之園は電話を切って、テーブルの上に置いた。テレビはずっとつけっぱなしになっているが、新しい情報は流れてこない。新しいといえば、ある局が撮影に成功したもので、車でバスを追い抜きながら撮った映像があるだけだった。それが幾度も繰り返し放映されていた。しかし、残念ながら車内は暗くてよく見えなかった。
スタジオでは、憶測をもとに妄想を膨《ふく》らませている。そんな妄想に対して専門家がコメントしているにすぎない。バスの乗客が誰なのかについても、まだマスコミは把握していなかった。バス会社は当然ながら把握していない。ただ、乗客のほとんどは携帯電話を持っているはずであり、外部とコミュニケーションを取っているだろう。その情報がマスコミに流れないのは、当事者たちが、知らせていないからだ。
犯人、あるいはその組織が、政治的な要求をしていて、交渉が秘密裏に行われているのかもしれない。だが、まったく情報は漏れてこない。小康状態といえるだろう。このさき、突発的な展開がないことを祈るしかない。
カップにコーヒーが半分以上残っていて、もう冷たくなっていた。帰った方が良いだろうか、ここにいてもしかたがない、と西之園は考え始めていた。バスは普通の速度より相当遅いスピードで走行しているため、那古野に近づくにはまだ時間がかかりそうだ、ということだった。
ドアが開いて、近藤が顔を出した。
「ちょっと、出かけてきますので、申し訳ありませんが」
「え、どちらへ? この事件の関連ですか?」
「そうです」
「バスを出迎えるのですか?」
「いえ、違いますよ。あの、えっと……」
「どちらへ?」
「よくわからないんですけど、東京からの指示で、こちらの旅行社なのか、個人なのか、とにかく仲間の住所がわかったみたいなんです」
「私、行っちゃ駄目ですか?」西之園は立ち上がった。
「駄目ですよ、そんな……」近藤が苦笑いする。「あの、じゃあ、またあとで」
「あ、ちょっと待って下さい」西之園は、テーブルを回って、ドアの方へ急ぐ。
通路へ出ると、ちょうど鵜飼も奥からやってくるところだった。
「科学班は、人員が揃っていますか?」西之園は早口で一気に言う。「コンピュータに詳しい人、いますか? たぶん、ネットで連絡をしていたのでは? お役に立てると思いますよ。邪魔はしません」
鵜飼は大きく息を吸った。「車から出ない、という条件ならば」
「わかりました」西之園は頷く。
ここにいるよりはずっと良い、と彼女は思った。
6
赤柳初朗は、山吹の部屋でテレビを見ている。ソファに座っていた。なかなか快適な部屋である。壁際の床に海月及介が座っている。彼は本を読んでいた。大変なことになったね、といった表現を何度か口にしたものの、海月は黙ったまま言葉を返さない。たしかにそれは彼なりの合理性だろう。言語で事態を評価したところで、なんの解決にもならないのだから。
「話は、少し違うかもしれないけれど、このところ、インターネットで少しずつ広がっている変な運動について調べているんだよ」赤柳は話した。テーブルには、さきほど勝手にティーバッグで淹《い》れた紅茶のカップがある。「どうも、ネットで若者を取り込んで、布教活動みたいなことをしている集団がある。うん、確かに、一種の宗教だと思えるんだけれど、ただ不思議なのは、名前がない。何をしているのか、その実態がとても曖昧《あいまい》なんだ」
海月は本から顔を上げて、赤柳を見た。しかし、黙っていた。
「最初のきっかけは、ほら、あの|θ《シータ》の事件のときだ。あのときも、ネットのサイトが問題になったよね。θが遊んでくれる、というサイトだった。もうあそこは今はない。しかし、形を変えて、あるいは、もしかしたらほかのメディアでも、同様のことが行われているかもしれない。たぶん行われているだろう。このまえは、ラジオで|τ《タウ》がタイトルになった連続ドラマが流れていた。スポンサは不明だ。ネットにもそれに関連した掲示板があったらしい。その痕跡だけはある。見たという目撃者もいる。そういうのをいろいろと調べていくうちに、とにかく共通していることは、抽象的であること。掴み所がない。名前がないのが、その最たるものだね。何をしているのか、というのも一定ではない。マークもない。ただし、ちょっと調べてみれば、明らかに同じ活動だと感じられる。何だろう? やはり、同じ集団が、ある目的のために、少しずつ人々を扇動しているような印象だ。いや、集めているのか、コントロールしようとしているのか、わからないけれど……。こうして、言葉で説明するのがとても難しい。難しいからこそ、なかなか人々の噂や、話題に上らないという特徴を備えている。まるで、そのためにこんな抽象的な皮を被っているのではないか、と思えるほどだね。わかるかな」
「おっしゃっていることは、理解できます」海月は頷いた。
「もしも、これがなにか目的を持ったもので、つまり一つのことを目差して行われている行為だとすれば、頭の良いやり方、というか、今までになかったタイプではないだろうか、と僕は感じたよ。うん、素晴らしく新しい。具体的に掴めない、という基本特性がだ。情報化社会の盲点をついているといえる。記号化への反逆と呼んでも良いだろうね」
「そうやって、呼ぶことが、既に本質から逸れています」海月が言った。
「そうか……」赤柳は少し驚いた。「そうだな、たしかに。うん、やはり、現代人というのは、とにかく言葉に置き換えようとしてしまう。それが何であるかを見極めることは、今では言葉で表現することに限りなく近い、というわけだから」
「宗教だとしたら、目的は、つまりは力を集めることでは?」海月は表情を変えない。しかし、静かにこちらを見つめている眼光は鋭かった。
「力というのは、何だい?」赤柳は尋ねた。「金か?」
「力とは、つまりは社会や人を動かすものです」海月は答える。「金であるときも、人の数であるときも、あるいはメッセージであるときもあります」
「うん」赤柳は頷いた。「では、そうやって人や社会を動かすのは、いったい何のためだろう?」
「さあ」海月は一度だけ首を横にふった。「欲求がどんなものであるかによるのでは?」
「ある一人の天才がいて、その人物が自分の考えるとおりに歴史を動かそうとしている。それが、その人物にとっての理想の形なのかもしれない」
「宗教というのは、ほとんどが、そのメカニズムです」
「やはり、支配欲というやつかな」赤柳は溜息をつく。「僕にはよくわからんが」
「でも、赤柳さんは、それを調べている。それも、知りたいという欲求ではありませんか? 好奇心は支配欲と類似していると思います」
「え? そうかなあ……」赤柳は少し驚いた。「僕は、別に人を支配したいとは思わない。誰もが自由でいられる方が良いと考えている」
「そうであれば、誰が何をしようと、放置しておけば良いことでは?」
「いや、何をしているのか、知りたいだけだよ」
「知るという行為は、情報を自分のものにする。それは明らかに、ある種の支配です」
「ああ、まあ、そう言われてみれば、たしかにそうかもしれない」赤柳は微笑んだ。実際に面白いと思ったからだ。「海月君は、どう思う? この一連の運動について」
「わかりません。僕はなにも把握していない」
「それは、僕だって同じだ。把握ができないようにデザインされているとしか思えない」
「今、この話題を持ち出された理由は何ですか?」海月は質問した。
「うん」赤柳は小さく舌打ちした。「そうなんだ、そこなんだよ。実はね、今のこのバスジャック事件にも、こいつが絡んでいるんだ。ああ、面倒くさいなあ……、なにか良い呼び名はないだろうか。こいつとか、一連のとか、面倒くさいなあ」
「どこから、その情報を?」海月がきいた。表情は変わらない。真っ直ぐにこちらを見つめている。
赤柳は少し考えた。すべてを話すことは、この若者にとっても不利益になるだろう。
しかし、この種の問題を扱う頭脳として、この男ほど適した人間もいないのではないか、という希望を以前から赤柳は海月及介に対して抱いていた。同時に、あの西之園萌絵という人物にも、それが当てはまる。こういった勘が、赤柳には働くのだった。
「東京の警察の関係者に、古い知り合いがいるんだ」赤柳は正直に答えた。
「情報が早いですね」
「早い? うん、まあ、早いといえば早いが」
「こんな時刻に突然発生した事件だというのに、すぐに知人に連絡をした、というのは、少々不自然ではありませんか?」海月が淡々とした口調で言った。
「うん、まあ、それはそうかもしれないが、テレビで生中継していることだし、今すぐ連絡してやろうって、考えたんじゃないかな」
「そんな暇があったのですね」
「いや、当事者じゃないからだよ」
「いいえ、当事者でなければ、そんな情報は知りえない、と僕は思いますけれど」
「ん? そうかな」言葉を濁し、赤柳はテレビを見た。
サービスエリアに設置されたカメラが、本線の道路を走り過ぎるバスを捉えた映像が流れていた。ただし、前半はヘッドライトの輝きしか見えない。後半は赤いテールライトだけだ。ほんの一瞬だけ、バスの側面が映るものの、こちらからライトを当てているためなのか、窓ガラスが光り、バスの車内はほとんど確認できなかった。僅かに一瞬だけ、数人が窓際に顔を覗かせていたように見える。もちろん、犯人らしき人影も映っていなかった。犯人もシートに腰掛けているのだろう。
海月との会話は中断した。しかし、彼が指摘したことは的確だった。赤柳に情報を提供した男は、公安のメンバである。したがって、当事者だ。もし、現在進行中のバスジャックが、彼らの管轄である組織によるテロの一環だとしたら、そして、それが発生してまだ数時間のことだとしたら、那古野にいる古い友人に夜中にわざわざ電話をかけるような悠長な事態であるはずがない。たしかにそのとおりだ。話を聞いたときには、情報を得られた、という嬉しさのあまり、そこまで考えが及ばなかった。
その後、知り合いがバスに乗っているとわかって、熱が急速に冷め、身近で具体的な事態に変わった。そして、ここに頭脳明晰な若者が一人いる。彼に情報を与えれば、なんらかのアウトプットがあるのではないか、との予感を持ったが、その賭けは正しかったようだ。まずは小さな成果があった。
何故、情報が自分にもたらされたのか。あるいは、何故、こんな余裕が東京の関係者にあるのか。その疑問を持っただけでも、ここへ来た甲斐はあったというものである。
7
加部谷恵美は、また少し眠った。五分くらいではなかったか、と自分では思う。躰を起こしてから驚いたのだが、山吹の肩に彼女の頭が当たっていた。もたれかかって眠ってしまった格好である。
「あ、すみません」思わず口から出た。でもとても小さな声だったので、山吹には届かなかったかもしれない。
額に片手を当て、もう一度目を瞑った。バスの振動が、もう彼女の鼓動や脈動と完全に一体化してしまっているみたいだ、そんな感覚がある。目を開けて、腰を浮かせて、そっとバスの前の方を覗いてみた。変わりはない。前方には高速道路の黄色っぽいライトが並んでいて、近いものが、つぎつぎに襲いかかってくる。車内の照明は落とされ、走行音を除外すれば静かだ。立っている者は一人もいない。今は犯人の男がどこにいるのかもわからなかった。一番前の席の右だろうか、それとも左だろうか。運転手のすぐ後ろの席のように思えた。後方をそれほど気にしていないように見える。ということは、やはり仲間がもう一人乗客の中に紛れているのだろう。だから、あんなに落ち着いていられるのだ。
バスは高速道路に入ってから、既に三時間ほどノンストップで走り続けている。マスクの男は幾度か、乗客に尋ねた。サービスエリアに停まる必要があるか、と。しかし、誰もまだ手を挙げてはいない。気分が悪くなったという者も、あるいは、取り乱したり、泣きだしたり、喚《わめ》いたりする者もいない。表面的には普段の運行時と同じではないだろうか。まるで、グループがバス旅行をしていて、あの男が添乗員みたいな雰囲気である。
なんだか、少しだけだが、違和感を抱いた。この状況が酷く不自然な気がしてきた。今までは考えもしなかったことだ。なにしろ、自分が乗っているバスが、銃を持った男に乗っ取られるなんて事態に遭遇したのは生まれて初めてのことだし、また、こういった状況を経験した人間の話を聞いたこともない。
ドラマや小説や漫画ならば、ハイジャックなどを扱ったものがある。見たこともあったと思う。そういった場合、乗客はパニックに陥る。どれもそう描かれていた。犯人ももっと緊張していて、今にも銃の引き金をひきそうな危ない状態だ。唾を飛ばして喚き散らし、泣き叫んで逃げまどう、すべてそんなふうに描かれていたはず。けれども、現実はそうではない。はたして、これが現実、普通の現実だろうか。
「なんか……、静かですよね」加部谷は山吹に囁いた。
山吹は僅かに顔を彼女の方へ向けて、口を結んで小さく頷いた。
「思うんですけど、なんか、少し変じゃありませんか?」
「どういうふうに?」
「わかりませんけれど、これって、本当でしょうか?」
「本当? バスジャックが?」
「嘘みたいに思えてきた。私が変なのかな。私たち、今、極限状態ですか?」
「さあ……、でもまだ、そこまで理性を失っているってことはないよ。加部谷さんもしっかりしているし」
「どうして、誰も騒がないんでしょうか?」
「僕たちだって、騒いでないよ」山吹は顔を寄せてくる。「幸い、そういう冷静な判断をする人間が乗り合わせていたってことじゃないかな」
「まあ、たしかに、騒ぐ理由がありませんしね」
「今のところ、銃を目の前に突きつけられて、殺すぞって、直接脅されたわけでもないしね。そこが、なかなか理知的なというか、上手にやっていると思う。職業的な乗っ取り犯みたいな、手慣れた感じだよね」
「そうそう、ビジネスマンふうですよね」
「たぶんさ、金に困って、切羽詰まって及んだ犯行じゃないってことかな。組織的に動いている、ちゃんと訓練をしている、練習をしてきた、そういう感じじゃない? だから、こちらも慌てないで、我慢をしていれば、大丈夫だよ、きっと」
「きれたりしないと、良いですけどね」
「どんな交渉をしているかによるね。でもたぶん、このあと、飛行機に乗るんだと思う」
「西之園さんも、そんなことをメールで言ってました」
「僕たちも、そのまま連れて行かれるかもしれない」
「え、ああ……、そうかぁ」加部谷は顔をしかめた。「飛行機って、どうしよう、私、駄目かも」
「どうして?」
「なんか、恐いですよう、飛行機は」
「うん、加部谷さんは、解放されるかもしれないよ。女子だから」
「数人いましたよね? 女性」
「いや、覚えていないけれど」
加部谷は、前のシートの背を指さした。「前に一人。あと、途中に一人いました。乗るときに、目が合ったんです」
「前の人、一人だよね?」
「ええ、連れはいなかったと思います。カップルはほとんどいなかったと思いますよ」
「この手のバスって、もともとさ、乗ったらすぐに眠ってしまう人が多いからね、それで、今のところは静かなんじゃないかなあ」
「警察はたぶん、バスを降りて、飛行機に乗るときがチャンスだと考えているでしょうね」
「そうかな。バスが停まらないと、なにもできないのは確か」
「やっぱり、気分が悪いって言って、一度でも停めてもらった方が良いですか? なにかの足しになるなら、私やりますけど」
「爆弾つけられるんだよ。駄目だよ、そんな危険なこと。誤動作するかもしれないし」
「ですよねぇ。私も、ええ、ちょっと、それを考えると……。そんなのはご免ですからね。爆弾が躰で爆発するなんて……。まだ、銃で撃たれて死んだ方がましかも」
「このまま朝まで走って、やっぱり、空港へ行ってからだと思うな、勝負は」
「もし、それまでに交渉が成立していたら、人質は全員解放されますか?」
「いや、飛行機に何人かは連れていくと思うな。僕が犯人なら、絶対そうする」
「誰を?」
「そんなことわからないよ」
「私、指名されたらどうしよう……。仮病とか使えませんよね」
「仮病?」
「ですから、えっと、ほら、何時間か経ったら、薬を飲まなくちゃいけないとか」
「ああ、わかった、それ、僕が言ってあげるよ」
「ありがとうございます」本当に涙が出そうになった。「でも、山吹さんを見捨てるわけにはいきませんよ、私だって」
「とにかく、生きて帰ることができたら、ラッキィだね」山吹の口調は意外にドライだった。
不思議な人だな、と加部谷は思った。
8
柴田久美は、バッグの中からウサギのぬいぐるみを取り出し、それを両手に抱え、背中を丸めて蹲《うずくま》っていた。もう、自分は生きていないのではないか、と幾度か考えた。けれど、呼吸を止めてみると苦しくなる。こういうとき、すっと眠るように死なせてくれれば良いのに、そういう薬があれば良いのに、と思った。
そのウサギのぬいぐるみは、彼女がまだ幼稚園のときに、祖母が近所で開催されたフリーマーケットで買ってくれたものだ。母の実家へ行っていたのだから、たぶん、夏休みだっただろう。六百八十円だった。そのときに既に中古品だったので、もうかなり古い。すっかり汚れてしまっている。すり切れて、尻尾もなくなってしまった。
服を作って、着せてある。名前は、くうちゃん。それは、彼女が小さいときに自分のことをみんながそう呼んでいたからだろう。とても大事にしている。いつも一緒だった。くうちゃんと一緒ならば、なにも恐いことはない。くうちゃんは、本当は魔法の国の王子様で、彼女のことを守ってくれるのだ。
母は、今その実家へ戻っている。もう会えない。両親が離婚したのは十年もまえのことだ。彼女は父に引き取られた。今は、その父とも滅多に会わない。別に、どちらとも会いたいとは思わなかった。できれば、誰にも会わずに、一人だけで生きたい。
一番望んでいる世界とは、核戦争になって生きもののほとんどが死滅して、地下深くでほんの一部の人間だけが生き残っている、そんな社会だ。あるいは、宇宙に浮かぶスペース・コロニィのような場所。それとも、カプセルの中。ずっと眠ったままで、夢を見ているだけでも良い。
もしかしたら、死んだらそんなふうかもしれない。
神様には、ずっと一人になれることをお願いしてきた。彼女の神様というのは、魔法の国にいる。つまり、くうちゃんの神様と同じだった。
自分もぬいぐるみになれないだろうか、と考えたこともある。ぬいぐるみの振りをして、誰かにずっと抱かれているのだ。ずっと部屋の片隅に投げ出されたまま。ただじっとしていれば良い。とても純粋で美しい生き方ではないだろうか。
今夜の雪は久しぶりに綺麗だったけれど、それは、雪がなにも考えず、欲望も持たずに、ただ地面に向かって落ちて、解けるだけの運命だからだ。それに比べて、人間はどうしてこんなに醜いことばかり考えるのだろう。他人を陥《おとしい》れ、虐《いじ》め、貶《おと》しめて、そんなふうにしても笑っていられるなんて、本当に醜い生きものだ。自分が人間の一人だと思うだけでぞっとしてしまう。
ぬいぐるみに生まれたかった。ぬいぐるみだったら、虐められない。ただ汚れて、捨てられるだけだ。虐められ、悪口を言われても、生きていなくてはいけない人間の方が苦しい。
早くバスを爆破すれば良いのに。
「くうちゃんの魔法で、私たちだけは魔法の国へ行こうね」
9
矢野繁良は、音楽を聴いている。それ以外には、なにも彼の世界には存在しなかった。バスに乗っていることも、もう無関係だ。あるいは、この現実、この世界にいる自分の肉体も、もう無関係だ。
それは既に僕ではない。
抜け殻だ。
流れるメロディの景色。それは、明るい南国のジャングルの中を抜けていく列車のようだった。ぎざぎざの長い葉が、垂れ下がっている樹の下を、彼を乗せた小さなトロッコ列車が走る。急カーブで登り坂だった。前の方で機関車が苦しそうに車輪を軋《きし》ませているのがときどき見える。しかし、風景はどこまでも穏やかで、見上げるとときどき枝を渡る動物が見えた。
彼の向かい側のシートには、籠《かご》いっぱいの果実を抱えた少女が座っていた。顔が黒いけれど、白い歯で笑う。彼を見て笑ったのだ。それは、彼がいつも描く絵の中の少女そのものだった。
彼も微笑み返す。楽しい。何故なら、もうすぐ楽園なのだ。この列車は楽園へ向かって上っている。
この少女も、今まで笑ったことがなかっただろう。やっと今、笑えるようになったのだ。彼も同じ。少しだけ、楽しさを思い出した。ずっとそんなもの、自分にはもう残っていない、と感じていたのに。
純粋さを保ったまま、生きていこうとしていた。
どちらかを捨てるべきだったのだ。
そんな簡単なことが、なかなかわからなかった。どうしてだろう。たぶん、死ぬことがとても悪いことだ、不吉なことだ、間違ったことだ、と洗脳されていたから。そうにちがいない。
考えてみれば、なにも悪いことではない。ただ、少しだけ周囲に迷惑がかかる、という点だけが、僅かに気になっていた。死んだら、自分の躰を自分でゴミに出すわけにはいかないからだ。
海や山で遭難しても、大勢が捜索するだろう。そうなると、もう事故で死ぬか、それとも殺されるか、他人任せになってしまう。それも、おかしな話ではないか。どうして、自殺をもっと自然にさせてくれるシステムが社会にないのだろう。本当に不思議だ。
たぶん、生きていたい奴らは、虐める相手がいなくなることを恐れているのだろう。つまりは、逃げ出せないように檻に入れられているようなものだった。
自分は幸運だ。そのことに気づいたからだ。
良い音楽を聴いたせいかもしれない。
メッセージを受けたのだ。
もっと純粋な存在から、導かれた。だから、自分の命を捧げようと思っている。自分以外のものに、自分の命を捧げられるなんて、こんな幸せがほかにあるだろうか?
こんな美しい意志がほかにあるだろうか?
人間の歴史の中で古くからあった最も美しい精神だ。神を崇拝する心、生《い》け贄《にえ》を捧げる心、人間としてなしえる最も美しいものではないか。
必ず、この美しさを手に入れよう。
もうすぐだ。
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第3章 悲しみの広がり
[#ここから5字下げ]
自分の変化について彼はながいあいだ考え、喜びのために歌っている小鳥に耳をすました。この鳥は彼の心の中で死んでいなかったのか。彼の死を感じなかったのか。いや、何かほかのものが彼の中で死んだ。もう久しく死ぬことを切望していた何かが死んだ。それは、彼がかつて焼けるようなざんげ苦行のころ殺してしまおうと思ったものではなかったか。それは、彼の自我ではなかったか。彼があんなにながい年月相手にして戦った、小さい臆病な高慢な自我ではなかったか。くり返し彼を打ち負かしたが、殺されても殺されてもまた現われて、喜びを制止し、恐怖を感じた自我ではなかったか。
[#ここで字下げ終わり]
1
警察は事件第一報から一時間後に公式のコメントを発表していた。それは以下のような内容だった。バスジャック犯は、衝動的な個人の犯行ではなく、組織的なテロ行為を遂行しようとする一員に過ぎない。警察は現在、総力をもって事件解決のため、あらゆる方面から処理、捜査、交渉を行っている。乗客の安全が第一優先であり、慎重な上にも慎重な対処を要するものと考えている。乗客の方々には、落ち着いた対応を取るよう、お願い申し上げたい。
もちろん、これをマスコミが報道した。すなわち、バスの乗客にも伝わったはずである。バスには通常のテレビは装備されていなかったが、ラジオを聴いている乗客はいたかもしれない。また、ほとんどの乗客は携帯電話を持っているはずなので、家族や友人を通して、メッセージは伝わっているのではないか、と臨時番組でスタジオのコメンテータは憶測を話した。
夜はまだ明けていない。日の出の時刻までは三時間ほどあった。
赤柳初朗は、ソファに座ってテレビを見ていたが、進展はまったくなく、少々退屈していた。しかし、バスに乗っている山吹早月や加部谷恵美のことを思うと、そんな気持ちさえ後ろめたい。少なくとも、眠くなるようなことはなかった。
赤柳は、ときどき海月及介の方へ目を向け、その無口な青年を観察した。いつもならばもう寝ている時間か、とさきほど尋ねたら、そうですね、という返事だった。すると、彼が今夜はまだ起きている理由として、やはり友人がバスジャックに巻き込まれたからだと想像するのは簡単であるが、しかしテレビを見ることもなく、また、赤柳の携帯を借りてメールを一度だけ打ったようだが、特に山吹と情報交換をしたわけでもなさそうだった。返してもらった携帯電話を確認したところ、海月が山吹に送ったメールの文面は、
赤柳さんから今聞いた。 海月
というシンプルなものだった。これに対して、バスの山吹から海月へのリプラィは、
テレビをビデオに録っておいて。あと、紅茶がレンジの箱の中にあるから飲んで良いよ。
というものだった。いたって平和である。赤柳は、感動すら覚えた。
海月に語ったことで、自分の頭の中では、イメージがほぼ固まりつつあった。今回の事件は、まず、なんらかの誘導によって集められた乗客たちがバスに多く乗っている。おそらくは、ネットを使った勧誘だっただろう。赤柳自身はこれを宗教活動だと今のところは認識しているけれど、あるいは違うかもしれない。宗教活動というものの従来の定義や、システムとしての従来の機能を逸脱している可能性は高い。
さて、では、バスジャックを実行しているのは、いったい誰なのか。ネットで若者たちを集めた同じ組織の一員だろうか。それとも、それに反対する勢力、あるいはまったく無関係な別の組織だろうか。無関係だとすれば、偶然にしては出来すぎている気は少しする。しかし、反対勢力が彼らを人質に取ったとしたら、要求はどこに対してなされるのか。警察ではなく、その宗教活動の組織に?
ああ、わからない。考えるにも、データが曖昧すぎる。
「わからないなあ」言葉が漏れた。
海月が視線を上げる。
「動機が、わからないんだ」しかたなく、赤柳は言葉を続けた。「何をしようとしているのかも、わからない」
「バスジャックのことですか?」海月が尋ねた。
「うん、それももちろんある。いや、それよりも、さっき話した、その名前のない謎の活動の方だね」
「わかりませんけれど……」海月は言った。「コントロールしようとしている。それを試している。それだけでは?」
「何のために?」
「さあ、何でしょうか」
「大きな金が動いているはずなのに、表に出てこない」
「そうなんですか?」
「ああ、もちろんすべて想像の域ではあるけれど。でも、かつてあった宗教団体がそっくり消えていたり、資産が行方不明になったりしているのは事実だ。まあ、すべて国外へ流れているとは思うけれど」
「誰かが調べているでしょう」
「そうかもしれない」赤柳は頷いた。「CIAあたりか?」
「小さな犯罪でも動機のわからないものは沢山あります。大きな戦争でも、それは同じことです」海月は話した。「テロだって、突き詰めていけば、動機なんてわからない。ただ、正義を装った言葉として解釈されているだけです」
「恨み辛みがあった、というものが多いと思うが……」
「そう捉えられているだけです。どうしてやったんだ、ときかれれば、むしゃくしゃしたとか、頭に来ていたとか、なんとなくその場で思いついたことを話す。それが動機というものになった。まったくの幻想ですよ」
「今回の場合は、山吹君や加部谷さんが恨まれたとは思えない。これは、偶然巻き込まれただけだろうね」
「たぶん」海月は頷いた。「しかし、社会を恨んでいる、日本という国家を恨んでいる、人間のすべてを恨んでいる、幸せな状態を恨んでいる、自分以外のものすべてを恨んでいる……。なんだって言えます。言葉にすれば、どんなものも理由にできる。そうすれば、どんなに不可思議なものではあっても、社会はとりあえずは納得してくれる。少なくとも、動機という空欄を埋めて、ファイルを片付けることができるというわけです」
「うん、わからないでもないけどね、それはかなり、極論ではないかな?」
「では、犯罪が起こって、その犯人が捕まったとき、どうして動機を尋ねるのでしょうか? 動機が正しければ、その犯罪が許されますか?」
「少なくとも、まず正当な理由があるものならば、裁判で罪が軽くなる可能性はあるんじゃないかな。どうしようもなくて犯行に及んだ、ということであれば、それなりに酌量《しゃくりょう》されることにもなる」
「酌量することで、社会は何を得られますか?」海月がすぐにきいた。
「うん、そうだね……、人に対する優しさかな」
「しかし、たとえば、殺された被害者の家族は、その分だけ、憎しみが増すでしょう」
「そういうことはある」赤柳は頷いた。「たしかに、それはある。たとえば、犯人が未成年だったとか、心神喪失状態だったとか、そういった場合にえてして起こりえる問題だ」
「動機を明らかにすることで、あるいは、動機を分析することで、社会はその犯罪を未然に防ぐことができるでしょうか?」
「それも、ある程度の効果は期待できる、あるいは、可能じゃないかな。不平等があるならば、それを正して、そういった不満が起こらないような社会を作れば、犯罪を減らすことができる」
「そういった犯罪ならば、既に減っています」海月は言った。「今はただ、大衆は犯人の動機を知って、同情したり、あるいは怒りを新たにしたり、呆れたり、そんな反応の感情を抱きたい、ただそれだけのことです。そうじゃないと、どう反応すれば良いのかがわからない。反応ができないものは収まりが悪い、というだけなのです。結局は、収納の問題で、レッテルを貼ろうとしているだけです」
「うーん、まあ、そういった面はあるかもしれない」赤柳は頷いた。「これだけ、ニュースがショーになってしまうと、その場かぎりであっても、とりあえずの落としどころを用意する必要があるってことだね。実際には、裁判があって、ずっと長い期間かけて取り調べや検査、診断が必要だ。でも、とにかくまずは言葉による一応の結論を欲しがる、というわけだ」
「そのとおりです」海月は頷いた。「テロや戦争においても、それはまったく同じです。人は、言葉で解釈し、その言葉で怒りを覚える。こうして怒りを煽《あお》り、人を動かして、戦いを始める。あるいは、自分さえも、その言葉に酔ってしまう」
「そういうふうに、君は考えているんだ」赤柳は微笑んだ。「冷めているね」
「冷めている、というのも、解釈ですよ」海月は無表情で言い返した。「それで納得したい、というのであれば、けっこうです」
赤柳はくすっと笑い、しかし、またテレビの映像へ視線を戻した。山吹からしばらくメールが来なくなった。変化はないだろうか。励ましのメールでも送ってやろうか、と考えたものの、それもまた言葉だけのことなのだな、と思えてしまった。ただ、それでも、なにもないよりはましではないか。ここで見守っている他人がいるのだ、と教えてやる価値は、きっと多少はあるだろう。
2
西之園萌絵は、警察の車の後部座席に座っていた。運転席には警官が一人。車は、一方通行の裏道に駐まっている。右手にはコンクリートの壁。左には幅の狭い道路の向こう側に駐車場、そしてさらに奥に四階建ての鉄筋コンクリートの建物。マンションのようだ。六台の車でここへ来た。うち、パトカーが二台。彼女が乗っているのはその一台である。もう一台は、駐車場の中へ入っていって見えなくなった。したがって、直接は回転燈は見えない。ただ、あたりのいたるところで、赤い光が蠢《うごめ》いている。既に、前方の道路には数名の野次馬たちが集まっていた。
道路に立っている制服の警官が二人。こちら側の出入りを見張っているのか、それとも通行人に指示をしようとしているのか。さらに警察の車が遅れて到着し、駐車場に入ろうとしている。警官の一人が誘導する。特殊科学班の車のようだった。やはり、爆発物を警戒してのことだろうか。その可能性がある、という判断はしているはず。
鵜飼たちは、数分まえに建物に入っていった。今のところ、争いがあった様子はない。八人だったはず。まだ、一人も出てこなかった。
彼女は、携帯電話で加部谷恵美にメールを送った。
今、警察の人たちと一緒に、あるマンションに来ています。バスに乗った人を集めた旅行社がここの住所だったそうです。でも、まだわかりません。爆弾があるかもしれないので、私は中に入れてもらえません。
携帯電話を閉じ、しばらく外を眺めていると、数人の係員が出入りをし始めた。野次馬はさらに増えて、今は二十人くらいいる。また、後ろを見ると、いつの間にか、赤い回転燈がさらに数を増していた。パトカー以外にも車が数台到着したようだ。道路を制服の警官が駆け寄ってきて、前方で話をしているのも見えた。
そうしているうちに、加部谷からメールが返ってきた。
バスの乗客は異様に大人しいです。今のところ異常なし。犯人もときどき、今のところ異常はありません、ご安心下さい、と言います。もうすぐ朝ですね。那古野が近づいてくると、どきどきします。西之園さんに会いたいです。みんなに会いたいです。
携帯電話を仕舞い、窓の外を見る。近藤刑事がこちらへ駆け寄ってくるところだった。彼はドアを開けて、西之園に言った。
「申し訳ありません。西之園さん、ちょっと来ていただきたいのですけれど、よろしいですか? 爆弾の危険はないようです。ただ、万が一ということがあります。もちろん、ご遠慮いただいても……」
西之園はすぐに車から出た。
「行きます」
「ヘルメットを被ってもらった方が良いかもしれません」
「いりませんよ、そんなの」早足で歩きながら、彼女は言った。「踏み込んだのですか? 誰かいました?」
「ええ、若い男が一人だけです。そいつがいるってことは、爆発の心配はないでしょう」
「こんなところに仕掛けないでしょう。何ですか? コンピュータですか?」
「ああ、ええ、まもなく専門の者が来る手筈にはなっているのですけれど、でも、少しでも早い方が良いかと思いまして」
建物に入り、エレベータではなく、二人は階段を駆け上がった。三階のようだ。通路へ出ると、開けたままのドアの前に警官が一人立っていた。近藤は機敏にその中へ入っていく。西之園も続いた。
旅行社だと聞いていたが、それらしい表札はなかった。室内も普通の住宅の間取りだ。ただ、リビングにパソコンが三台、ラックに入って並んでいた。大きなテーブルには散らかった雑誌や新聞など、それにカップラーメンの空容器が、割り箸もそのままで残っている。一つしかない。食べ終わったばかりのようだ。
警官が大勢いたが、窓際の鵜飼のすぐ横に、警察関係者ではないとわかる小柄な男が立っていた。ここの住人だろう。カップラーメンを食べたのも彼にちがいない。
階段を上がってくるときに、近藤から言われたのは、パソコンに関して参考人に質問をするが、返答に不審な点があったら教えてくれ、ということだった。
そのとおり、近藤は窓際の男に質問を始めた。
「バスに乗っている人の名簿はありますか?」
「ツアーの名簿ならあります」男は答える。「その全員がバスに乗っているかどうかは、私にはわかりません。そっちのパソコンです」
「これですか?」
男は頷いた。
「そのリストを見られるように、口で言って下さい。私が操作をします」近藤が言った。「どうすれば、いいですか?」
「その、右のウィンドウで、その左の、ええ、上から、えっと、三つ目の……」
近藤はパソコンラックの前に腰掛けて、マウスを動かす。西之園がその後ろに立って肩越しに覗き込んだ。
「そうです、それをクリックして……」男は協力的に見えた。「ええ、そうです、それで出ます」
近藤の前のディスプレイに新しいウィンドウが開き、そこにリストが現れた。
「この、〈εに誓って〉というのは?」近藤がリストの一番上の文字を読んだ。
「知りません、そういう名前の団体さんなんですけど」男が答える。「アニメかなんかじゃないんですか?」
「何人いる?」鵜飼もパソコンに近づいてきた。
「さあ、二十人はいなかったと思いますけど」男が答える。
近藤が鵜飼の顔を窺った。鵜飼は顎を一度上げる。近藤にリストで数を確認しろ、という目つきだった。近藤は画面に指を当て、それを下へずらしながら数える。
「十八人ですね」
西之園も小さな文字を読んだ。あいうえおの順ではない。おそらく登録順だろう。一番上が、矢野繁良、その下が、柴田久美、次が、榛沢通雄……、ざっと下までスキャンをしたが、彼女が心当たりのある名前はなかった。
「バスに乗っているのは、この十八人全員か?」鵜飼が振り返って男にきいた。
「だから、それは知りません。ただ、全員から入金がありました、というだけです。料金はいただいています」
「では、出欠は飛行機に乗るまえにチェックをするつもりだったのですか?」近藤が尋ねた。
「それは、私の仕事ではありません」男は答えてから、溜息をついた。初めて不満そうな表情を覗かせた。「とにかく、私は依頼されただけで……」
「客から金を集めて、それで、どうした?」鵜飼が続けてきいた。
「こちらの経費を差し引かせてもらって、あとは依頼主に送りましたよ。銀行振込です」
「その証拠は提出できますか?」近藤が尋ねる。
「できると思います。私は、ただ、本当に頼まれただけなんです。中間手続きを委託されただけで、もちろん手数料はいただいていますが、私が企画したものでもないし、それに、飛行機の手配も私はしていません。あの、全面的になんでも協力をしますから、もう、勘弁してもらえませんか」
「勘弁もなにも、今現在、進行中ですからね、急いでいるんですよ」鵜飼が言った。「その依頼主について、もっと情報はありませんか?」
「メールと、銀行口座だけです」
「すぐに出して下さい」
「パソコンに触って良ければ……」男が前に進み出る。
「証拠隠滅をしないように」
「しませんよ」
近藤が横に退き、男が座った。西之園はさらに注意を集中する。男はメールのウィンドウを手前に出して、メニューからメールボックスを選択した。彼は、そのリストの中から、一つのメールを選び出してクリックする。
「ここにあります」
画面に表示されたのは、メールの内容で、銀行の振込先が記されていた。メールアドレスもある。
近藤が顔を近づけ、手帳にそれを書き写す。デジタルのものをアナログにする行為が西之園にはまどろこしかった。
「とにかく、私はなにも知りません」男は椅子から立ち上がり、鵜飼を訴えるように見て言った。
「しかし、バスの切符を団体で買ったんだろう?」長身の鵜飼は見下ろすように男を睨みつける。仁王像のようだった。
もともと、その線からここが突き止められたようだ。
「はい、バスは私が予約しましたよ。それも、ええ、そうするようにって、メールで指示がありましたから」
「誰から?」
「ですから、同じ依頼主からです」
「電話で話したことは?」
「いいえ、一度も。すべてメールですね」
「このメールは証拠として提出していただけますか?」近藤が尋ねる。
「ええ、もちろん」
「依頼主の名前は?」
「そこにあります、一番下です」男は画面を指さした。
既にそれを西之園は見ていた。
振込先の銀行口座の名義は、〈イプシロン・プロジェクト〉だった。また、メールの一番最後にシグニチャがあり、メールの差出人の名は、〈イプシロン・プロジェクト、担当・玉城〉とある。メールのアドレスも、〈tamaki〉で始まっている。しかし、このほかに、住所や電話番号などは書かれていなかった。
3
加部谷恵美はバスの窓の外側を流れていく川のような風景をぼんやりと眺めていた。窓の金具が頭の横にときどき当たる。それでも、躰をコーナへ寄せて、息を殺すようにして、つまりエネルギィを節約し、体力を温存するようなモードを維持していた。
きっとこのさきで、必死になって逃げたり、窓から飛び出したり、あるいは思いっ切り突進したり、無我夢中で襲いかかったり、そんなことがあるかもしれない。とにかく想像ができるいろいろなアクションが、彼女の頭の中に断続的に現れる。そのために少しでも体力を溜めておこう、と考えていた。最後は自分の身は自分で守るしかない。むざむざと殺されるなんて馬鹿げている。先制攻撃を仕掛けた方が有利なのではないだろうか。特に、自分は女だから。女が襲ってくるとは、相手も想像していないだろう。その油断をつく手があるのではないか、と考える。
けれど、そうはいっても、具体的にどうするのか、というところへ思考が及ぶと、どれも恐ろしいほど危険だとしか評価できない。銃を向けられる場面を想像するだけで躰が竦《すく》んでしまう。それに、爆弾の話をしていたではないか。たとえ、飛びついて運良く銃を奪ったところで、自爆をするようなことがあったら、自分はもちろん、ここにいる全員が傷つくことになるだろう。それくらいの覚悟は、向こうだってしているはず。さらに、どこかにセットされた爆弾もある。リモコンはどこに持っているのだろう。ポケットだろうか。そのボタンを押されたら……。そう考えると、とても自分一人が逃げ出すためだけに無謀な行動には出られない。
隣の山吹は腕組みをしてシートにもたれかかっていた。寝ているわけではない。ときどき、躰を向こう側に倒して、通路へ顔を出し、バスの前方を確かめている。
バスジャックをしたマスクの男は、しばらくなにも話していない。たまに立ち上がって、後方を確認しているようだった。しかし、後ろまでやってきたことはない。それはそうだろう。一番前にいるかぎり、彼の背後にはバスの運転手しかいない。通路の後ろへ来れば、乗客の何人かが背後に回る。そういった危険なエリアには入ってこない、その方が彼にとって安全なのだ。
西之園からのメールによれば、このバスに乗っている者の多くは、〈εに誓って〉という団体客らしい。そのことについては、山吹とも小声で話をした。もちろん二人とも、そんなキーワードに心当たりはなかった。けれども、これまでにも、雰囲気が類似した文字列があったことは確か。
たとえば、〈|φ《ファイ》は壊れたね〉だ。これが最初だった。このときは、特にこの言葉に意味があるとは思わなかった。そして、二つめは〈θ〉だ。そういえば、〈θは遊んでくれた〉というフレーズがメールにあったらしい。たしか、そう、そんな感じだった。そして、ついこのまえは、〈τになるまで待って〉というラジオドラマである。まるで関係がないもののようで、しかし明らかに同じ系列だといえる。同じ人間が、あるいは同じ団体が、それらを発しているのではないか。
「でも、どうして、いつもいつも私たちの身近でこんなことが起こるんですか?」
「私たちって?」山吹が尋ねる。声を押し殺しているから、いつもよりも余計に冷静な印象だった。
「ですから、山吹さんと、私です」指を動かしながら話す。
「ほかに、西之園さんとかもいるよ」
「今回なんか、東京ですよ。たまたま私たちが東京へ来たときに、こんなことになるなんて、これって偶然ですか?」
「偶然じゃなかったら、何? 僕たちが狙われているってこと」
「うーん、そうじゃないと良いですけど」
「だからね、これはたぶん、氷山の一角というか、ほんの一部なんだよ。僕たちが偶然にもそのうちの幾つかに気づいた。沢山あるうちの四つが、名前のつけ方が似通っていたから」
「だけど、わざと気づかせるために、ギリシャ文字を使っているのじゃありませんか?」
「それはわからない。ほかのシリーズもあるかもしれないし、それに、似通った名前にするのは、利用者に対する便宜っていうか、ようするに、コマーシャル的な意味合いかもしれない。うーん、なんていうか、同じものが沢山あるんだって、安心させるみたいな」
「よくわかりませんけど」
「いや、言っている僕もよくわからないよ。まあ、とにかくね、僕たちのほかにも、気づいた人がいるかもしれない。でも、気づいたって、なんにもならないよね。どうしようもない。結局、無視して、そのまま放っておく。それしかないってことだと思うよ」
「無視できない人がいて、その人たちが集まるのかもしれませんね。一種の力を感じたりして、不思議な力を」
「そういうのもあるかもね。このまえの超能力者のことを考えているんだね?」
「それもあります。宗教って、結局そうじゃないですか。奇跡を見せる、みたいな……」
「仄《ほの》めかすか」
「そうそう」
「ただ、どうもね、目的というか、向かっている先が、あまりにも暗い感じだよね。なんかさ、死に向かっているような」
「そうですよねぇ……」加部谷はこれまでの事件を頭に思い浮かべた。「あ、もしかしたら、知らないところで、もう大勢の命が失われているかもしれませんね」
「そうか、つまりこれって、宗教とは反対だね。宗教は人の命を救うものだけれど、これはどうも、安らかに死ねる、みたいな教えなんじゃないかな。だとしたら、アンチだよ」
「アンチ宗教?」
「うん、救うという意味が反対だったりして」
「そういうのも、過去に例があったんじゃありませんか? 踊りながらみんなで自殺してしまうとか」
「知らないよ、そんなの。ある?」
「なんか、どこかで聞いたことがある気がします。ネズミが集団で暴走して海の中に入ってしまうとか」
「人間じゃあ、ちょっとありえないんじゃない?」
「昔の貧しい社会では、もう生きていくこと自体が苦しすぎて、念仏を唱えながら死んでいくとか……、あったんじゃないですか?」
「あるかなあ。たとえば、修行僧が一人、命を捧げるというのはわりとあったと思うんだけど。いや、やっぱり、宗教っていうのは基本的に人命を救っていたんじゃないかな」
「でも、そもそも極楽や天国へ行けるっていう教えじゃないですか」
「そう、苦しくても最後にはそこへ行けるから、もう少し我慢して生きなさいってことだよね」
「変ですよね、楽しいところがあるのなら、すぐに行きたくなるのが人情なのに」
「いや、でも、自殺を禁じている宗教は多いと思うな。つまり、神様から与えられたものを、人間が自ら捨ててはいけない、それは神の意志に反する、ということなんじゃない?」
「なるほどぉ……、ちょっと、じいんときますね」加部谷は胸に手を当てた。「こういうときだからかなぁ。重く受け止めたいと思います」
「ああ……」山吹も溜息をついた。「そうだね、現実だよね、これが」
「大丈夫ですか?」加部谷は山吹の顔を覗き込んだ。
「大丈夫大丈夫」山吹は微笑んだ。
自分以上に、山吹はプレッシャを感じているかもしれない、と加部谷は気づいた。後輩の女子と一緒にいるのだ。責任を意識し、一人でいる場合よりも行動が制限されることになるだろう。今まで彼女はそこまで考えなかった。
夜明けと那古野が、少しずつ、しかし確実に近づいてくる。
4
榛沢通雄は眠っていなかった。
彼の肩に、倉持晴香の頭がある。その重みが彼の躰を圧迫しているが、でも、できるだけ動かないようにしていた。こんなに我慢できる自分が、今はとても誇らしい。誇らしいなんて、本当に珍しい感覚だった。意外に捨てたものでもない。彼女だから優しくできるのか、それとも、今のこの状況だから可能なのか、それはわからなかった。
本当のことをいえば、自分は優しい人間だと思っている。子供のときには、よく周囲からもそう言われたはず。涙脆《なみだもろ》いという意味だったかもしれないが。
自分以外のもののことを可哀相だと思うときがよくある。そういったものに彼の感情は弱い。ドラマを見ても、動物を見ても、小さな子供を見ても、すぐに涙が出そうになる。可哀相なのだ。このままでは、きっと死んでしまうだろう、と考えるだけでもう駄目だ。思考が停止してしまって、その場を抜け出し、自分はなにも知らなかったことにしたい。逃避したい。泣かないようにしたい。つまりは、強くなるためには、逃げるしかなかったのだ。はたして、それが強くなる、ということだったのか。
そんなふうに自分のことを振り返ると、また涙が出そうになる。めそめそするな、と小さい頃に大人から何度言われただろう。もちろん、今ではもう、涙が出るまえに感情を遮断することができる。表情は硬くなり、思考を止めるのだ。心を凍りついたように閉ざす。すると、自分の姿を背後から眺めるように、今というこのシーンが、漫画の一コマ、ゲームの一場面のように見えてくる。そうすれば、もう大丈夫。すべてが馬鹿馬鹿しい。生きることなんて軽いものだ、と思えてくる。
さらには、自然数を一つずつ吟味する。約数を求めていく。空間に並べた数字を、置き換え、整理し、光らせ、そして消していく。この頃は少し計算が遅くなった。小さい頃の方が速かったように思う。頭脳が鈍ったせいだろう。そろそろもう、自分の耐用年数も終わっている、ということか。
流れる窓の景色。といっても、真夜中なので、遠くには小さな白い光が点在しているだけ。近くには、黒い路肩と白いガードレールの対比。そのガードレールが、ぶるぶると振動し、上下にうねる。火星の都市の間を結ぶ弾丸列車みたいだった。
「まだ?」倉持晴香が小声で言った。
でも顔を上げたわけではない。寝言だろうか。
榛沢はもう一度、彼女の髪を撫でようと思った。片手を持ち上げた。しかし、何故かもう、さきほどのように無意識にはできなかった。一度意識をしてしまうと、手が動かなくなる。しばらく考えてから、諦めた。そんなことをして、彼女はどう感じるだろうか、それが心配だったし、また、いずれにしても、自分の行為が偽善に思えた。
そうだ……。
動物を可哀相だと思っても、それを助けようとはしなかった。いつも行動はできない。偽善だ、と思えてしまうからだ。その一匹を助けたところで、すべての可哀相な動物を救うことはできない。偶然出会ったものにだけ影響を与えても、歴史はほとんど変わらない。だから、自分の周囲の手の届くところだけに影響を与えて満足している連中には、非常に腹が立つのだった。
みんなそうだ。勝手に思い込んでいるだけだ。目先で勝手なことをすれば、逆にその反動で必ずどこかに歪《ひず》みが生じる。そんなこと、考えてもいない。良いことをしているのだと、これ見よがしにしているスタンドプレィばかり。政治家やタレントの笑顔と同じだ。誰も見ていないところでは、そんな顔は絶対にしていない。
とにかく、自分だけは汚れたくない。汚くなるまえに、ここから立ち去りたい。なにもかも縁を切ってしまいたい。このゴミのような偽善が集まった世界から。
ただ、そんな汚い絶望の世界で、最後に巡り逢ったのが、この倉持晴香だった。皮肉といえば皮肉。
そう、一人で旅立とうと思っていたのに。
もう一人、同じ考えの人間がいた、というだけのことなのに。
同じ道をたまたま歩いていただけなのに。
彼女とは、ネットで知り合った。εのサイトではない。それ以前に、ある掲示板で不思議な書き込みを目にしたのだ。きっと頭がおかしいのだろう、と思った。そういう連中ばかりだから。それで、からかうつもりでメールを書いてやった。たまたま気分が良かったときだったのか、それとも気分が悪かったときだったのか、どちらかだったのだろう。最高に変な夜だったのだ。酔っていたわけではなく、そう、なにかを放出したい、つまりアウトプットしたい、ゴミ箱を空にしてしまいたい、そんな、すっかりいかれた夜だったのだ。
ところが、返ってきたメールのリプラィはとても丁寧なものだった。少しびっくりした。こいつはコミュニケーションに飢えているんじゃないかって思ったくらい。でも、誠実だった。とにかく、自分のことを開けっぴろげに飾らずに書いてあった。捨て身だと感じた。会社勤めだとも書いてあった。でも、一番最後には、たぶん近いうちに自殺するつもりです、とあった。
榛沢はすぐにまたメールを書いた。最初のメールで失礼なことをいろいろ書いたので、それを素直に謝った。それから、彼女が榛沢のことを女性だと思っているようなので、自分が男であること、今はフリータをしていること。これも正直に書いた。できるだけ誠実に、否、正確に書き記した。
どういうわけでそんなことをしたのか、今でもよくわからない。しかし、きっとこれが、運命と呼ばれている現象の作用ではないか、と少しだけ思った。酔っていたのかも知れない。アルコールではなく、自分の体内で自然発生したものに。
初めて会ったときには、普通の人だな、という印象だった。彼女も同じようなことを言ったように思う。それから、会うたびに、どうやって自殺しようか、という話を二人はした。合計で五回会っている。そう、今回が五回目。
まるで、旅行のプランを練るみたいに、いろいろな計画、つまり、死ぬ方法について話し合った。一番の案は、雪山へ行く、というものだった。でも、どうやってそこまで行くかが問題だ。二人ともスキーをしたこともなかったから。
案外、この数ヵ月は楽しかったかもしれない。否、間違いなく、これまでの自分の人生の中では最上だった。充実していたにちがいない。なにしろ、目的が明確だった。そして、自分以外の人間をこんなに身近に感じたことも、過去には一度もなかったことだった。
5
矢野繁良も眠っていなかった。
ヘッドフォンを外している。耳が痛くなったからだ。そして、すぐ前のシートに座っているカップルが気になった。何故かというと、少しまえまではささやき声が聞こえたのに、今はもう静かになってしまった。シートの隙間や、窓ガラスに映っている様子から、女の方が男に躰を寄せているのがわかる。信じられない。こんな状態のときに、そんな真似ができるなんて、いったいどういうつもりだろうか。
斜め後ろの女も眠っているようだ。まったく安気なものである。
人間というのは、死を恐れているようで、実のところは、諦めが早い。これは動物すべてについていえることではないだろうか。躰の仕組みからして、そういったふうにできているのだろう。どうせいつかは死んでしまうのだ、という気持ちを常に持っているからかもしれない。
死ぬことがそんなに恐いのは、間違いなく錯覚だろう。社会がそう教えただけなのだ。眠ることに対しては抵抗がないように、意識を失うことにも抵抗しない。むしろ気持ちが良いものと感じられる。
数々の宗教においても、死は例外なく栄光に満ちている。天使が迎えにくるではないか。神の御許《みもと》へ行けると教えるではないか。それなのに、どういうわけか、生に執着しようとする。生きているうちに自分の周囲に掻き集められた物質への愛着のせいなのか、それとも、失われるかもしれない自身のメモリィを惜しんでいるのか、はたまた、他人とのコミュニケーションの断絶による沈黙を恐れているのだろうか。
自分が死ぬことについては恐くない、と矢野は考えている。それは確かなことだ。つい最近までは少しだけ恐れていたが、その主な理由は、一度しか試せない、という点だった。それも、今はもう確信している。ものごとはどんなものでも、元には戻らない。それが生きてきて学んだことだ。大人は子供には戻れない。それと同じ。いわば、毎日小さく死んでいるようなものなのだ。
不思議なのは、他人の生命を奪おうとする行為である。なにかの反動だろうか。どんな不満があったにせよ、自分一人が死ねば済むことではないか。何故逃げ出さない? 自分以外のものを消し去っても、その程度のことで、不満は解消されないだろうし、どのみち、以前よりもさらに大きな不満となって跳ね返ってくることになる。
たぶん、他人を支配することが人の力だと信じているのだ。すなわち、人の命を左右する力だ。社会では殺人を非難しているけれど、しかし、政治だって、教育だって、そして経済だって、結局は他人を支配しようとする欲求ではないか。すべて同じものだ。金にものを言わせるのも、理屈を捏《こ》ねて説得しようとするのも、情に訴えるのも、全部殺人と同じだ。そうまでして、他人を支配したいと考えることは、やはりそうすることで、自分に力があると信じたいのだろう。そんなことを証明してどうなるというのか。
矢野は溜息をつく。
ああ、とにかくすべてが醜い。
人は子供のときに思い描く世界を何故実現できないのだろう。欲望に支配されて、こんなに汚くなってしまった。工場の煤煙《ばいえん》で空気が汚れるみたいに、大人の欲望で社会がどんどん汚染されていく。
潔《いさぎよ》く消えてしまうのが、最も純粋な生き方ではあるけれど、しかし、ほんの少しだけでも、この綺麗さをどこかに刻めないものか、という気持ちは兼ねてよりあった。それは、彼が絵を描くことが好きだったせいかもしれない。
おそらくは、今、その刻み方を探しているのだ、と自分のことを分析している。そして、その刻まれた信号が、未来の理想的な人間社会できっと評価されるだろう。矢野はそんな未来を信じている。
6
柴田久美は震えていた。寒いからではない。むしろ、彼女は汗をかいている。躰は暑いくらいだった。
ようやく、このバスがもうどこにも停まらない、このまま死の谷めがけて突き進んでいくのだ、ということが理解できた。知らない男がバスの前に立って、授業みたいに話していたのは、つまりそういうことだったのだ。
社会見学に行ったときみたいだな、とそのときはイメージしていたけれど、行き先はとても恐ろしいところ。それでも、ある程度は覚悟をしてきたこと。今さら騒ぎ立てるほどのことではない。
ただ、どうしようもなく寂しくなったのは、たぶん、このバスという空間のせいだ、と彼女は思い至った。
筒形の細長い容器の中に、みんな大人しく乗っている。それぞれが窓の外を眺めているけれど、真っ暗な夜の風景一つしかない。同じものを見ているのに、別々のことを感じる。だから、もう自分一人が乗っているのと同じ。銀河鉄道みたいに。ここまで来たら、自分の部屋へは戻れない。
きっと、もう、戻れない。
これから先は、未知の闇が待っているだろう。
くうちゃんの世界へ行けると思っていたけれど、もしかしたら、違うところかもしれない。何故なら、くうちゃんがなにも言わないからだ。そんなに楽しいところへ行けるならば、隠さずに教えてくれるはず。優しい子なのだから。もったいぶったりはしないはず。優しいくうちゃんが隠しているのは、やっぱり死の谷へ向かっているからなのか。
でも、きっといつかは、助けてもらえるだろう。それまでは、石になったつもりで待つしかない。心も石になってしまえば、もう感じることもない。そうだ、それでいい……。
でも、今はまだ石じゃないから、
どうしても涙が出てしまう。
何故だろう?
悲しいことがあるのだろうか?
わからない。
泣くのは、誰かに甘えているせいだ、と言われた。誰に言われたのだっけ。あれは、バイト先の先輩だった。少し好きだった人だ。けれど、もちろん私のことなんか見ていない。全然見ていなかった。ああ、どうして、今そんなことを思い出すのだろう。
バイト先で喧嘩をしたのだ。いや、喧嘩ではない。ただ、バイト料をもらうとき、文句をぐだぐだと言われたから、それを突き返して飛び出してきた。あんな勇気が自分にあったのか、と驚いてしまった。心臓がいつまでもいつまでも、どきどきして、家に帰り着くまで頭の中は真っ白だった。だけど、夜になったら、泣けてきたのだ。馬鹿だな、金だけは持って帰ってこいよって、そう思ったら泣けてきた。情けないよ、本当に、本当に、汚いよ、本当に、本当に……。
ああ、結局、ここにはいられない。自分はこの世界にはいられない、ということだ。それがわかった。わからない振りをしばらくしてみたけれど、駄目だった。頭が悪いせいかと思ったけれど、違っていた。どう考えても、おかしいのは、この世の仕組みの方なのだ。
そう、たとえば、本を読んでみると、良いことが書いてあったりする。だから、わかっている人はいるんだ。でも、私の周りには、そんなのが全然ない。どうしてだろうか? 甘えているからではないと思う。ちゃんと、一人で生きてきたのだ。誰にも助けてもらわずに、生きてきたけれど、ただ、もう疲れた。嫌になった。なにも楽しいことがないのだから。
私が死んだら、みんなどう思うかな?
母親も父親も、どう思うかな?
別になんとも思わないだろう。
私だって、知っている人が死んでもなんとも思わない。ああ、いなくなったんだ、って思うだけ。明日になれば忘れてしまう。
私だって、私が死んでもなんとも思わないだろうな。明日になれば、全部忘れてしまって、私が生きてきた跡も全部消えてしまって、綺麗になっていくんだろうな。世の中、もっと綺麗にならなくちゃ。
くうちゃんが可哀相だな。
くうちゃんは、どうなるんだろう。
誰も拾ってくれない。このままゴミになってしまうね。でも、くうちゃんは本当はここにはいない。
大丈夫だよね?
7
加部谷恵美は、窓に顔を寄せて外を眺めている。右側の車線の前方が見える。追い越し車線を車がほとんど通らなくなった。もしかして、規制されているのだろうか。後方を振り返ると、赤い回転燈が連なっていた。
夜明けまであと一時間くらいになった。今、どのあたりを走っているのだろう。
すぐ前のシートの女性の頭が見える。やはり窓のガラスにもたれかかっている。疲れて眠っているのだろうか。通路側から少しでも遠いところにいたい、という心理かもしれない。
そのとき、なにかが下に落ちた。
音はしなかった。加部谷はシートの隙間を覗き込んだ。最初は毛糸の帽子かと思った。腕を伸ばして拾い上げてみると、それはウサギのぬいぐるみだ。ずいぶん汚れていた。古いもののようだ。前の女性が眠ってしまい、その手から滑り落ちたのだろう。
山吹の方を見たが、彼もシートにもたれて目を瞑っていた。バスの中は静かだ。ずっと走行音だけ、エンジン音だけが、一定のノイズで流れ続けている。最初からそうだが、照明は落とされていて、薄暗い。なにもなければ、今頃全員がぐっすりと眠っている時刻。
加部谷は腰を少し浮かせて、バスの前の方を確かめた。シートが並んでいるだけで、人の姿は見えない。こちらを見ている者は一人もいない。バスの前方には、ハイウェイのライトが見える。そして、ずっと先にもやはり点滅する赤いライトが小さく見えた。バスのヘッドライトが照らし出すものは、路面とガードレールくらい。緑の標示板が遠くから迫ってきたけれど、文字が読めるまえに死角に消えた。
加部谷は腰を下ろす。そして、決意をして、窓とシートの隙間から、前のシートの女性の肩を指で軽く叩いた。
一度目は反応がない。もう一度。
すると、顔がガラスから離れ、やがて後ろを振り返った。
「これを拾いました」顔を近づけて、加部谷はウサギを差し出した。
「あ、ありがとう」掠《かす》れたような声で彼女が言った。
「可愛いですね」加部谷は笑った。
しかし、相手の表情は見えなかったし、向こうも加部谷の顔を見たわけではない。加部谷はもう一度、頭を上げて、バスの前方を確かめた。大丈夫そうだ。
携帯電話を取り出し、そこにメッセージを書き込む、その画面を前の彼女に見せようと考えたのだ。しかし、それよりもなにかに字を書いた方が早い。
東京ばななの包装紙がすぐ前のラックに入れてあった。それから、ペンは……、と探す。山吹が胸のポケットに三色ボールペンを差していたはず。彼はコートを膝に乗せ、胸の前に抱え込んでいた。後ろにもたれているので、それが取れそうだった。起こすのも悪いと思い、そっと手を伸ばして、ポケットを探す。すぐに手応えで発見。幸い、山吹は目を覚まさなかった。
テーブルを出して、その上で包装紙を綺麗に折り直して正方形にする。そこに文字を書いた。バスが揺れているので、多少書きにくかった。
はじめまして。私は加部谷恵美といいます。
那古野に住んでいます。
その子のお名前を教えて下さい。
小さいときから一緒だったのでしょう?
ボールペンを紙の端に挟み、包装紙を窓の方から前のシートへ差し出した。数秒遅れて、それを彼女が受け取ってくれた。
急に目が覚めてきて、加部谷は深呼吸をする。
大丈夫、これからが勝負だ。バスの窓から飛び出すときには、みんなで協力をしなければならないだろう、と考える。高速道路を抜ければ、どこかでは絶対に停まるはず。抜け出すチャンスがあるにちがいない。
しかし、爆弾は?
まだ交渉は終わっていないのだろうか。飛行機に乗るのは、どうも気が進まない。そちらの方が危ない気がする。
どこかで微かな音。隣の山吹だ。加部谷は、山吹の腕を軽く指で押した。彼が目を開けてこちらを見た。
「メールじゃないですか」
「あ、ありがとう」
「ボールペン、借りましたよ」
「ボールペン?」山吹は、携帯電話をポケットから取り出しながらきいた。
「誰からです?」
「えっと、海月だね」画面を見ながら、山吹が言った。
「え? 海月君……? どうして? 携帯持ってないでしょう?」
「赤柳さんの携帯を借りてるんだ」
「なんて書いてきました? 興味ある。見せて下さいよ」
「うん」山吹は、そのまま携帯電話の画面を加部谷の方へ向けてくれた。
一番近い乗客は? 海月
「何です? これ」加部谷は眉を顰《ひそ》める。「足りないですよ、説明とか、親切さとか」
「前の彼女だね」山吹は躰を起こし、顔を少し上げて、車内の様子を窺った。
「今、文通中なんですよ」加部谷は前のシートを指さして言った。
「え? 何? 意味わかんないよ」
8
赤柳初朗は、海月及介が携帯電話でメールを打つのを肩越しに覗いていた。山吹早月宛に、「一番近い乗客は?」という短い文章を送信したところだ。海月らしい短いフレーズではあるが、何をききたいのか、目的がよくわからない。
「どうして、そんなことをきくの?」赤柳はすぐに尋ねた。
「近くの乗客の誰かと話をしていないか、と思ったので」海月が平然と答えた。
「話をしていたら、どうなの?」質問を続ける。
「その、εのグループがどんなものなのか、少しはわかるのでは、と」
「何が目的なのかってきくわけか。うん、しかし、そんなに簡単に話すかな」
「わかりません」
「警察も、おそらくは、この動きを既につきとめていると思うんだ。まあ、被害者といっても良いと思うけれど、引っかかった連中をいくら調べ上げても、大本《おおもと》のことはわからないんじゃないかな。そんなへまはやらないよ」
「どうしてですか?」海月がきいた。
「うん、どうしてかな……」赤柳は少し笑った。「なんだか、そんな馬鹿じゃない、と僕は思い込んでいるみたいだね」
「しかし、明らかにこれは、つきとめてほしい、そういった宣伝行為に近いものだと理解できますが」
「宣伝行為?」赤柳は少し驚いた。「なるほどね、そういうふうには考えなかったな。誰に対しての宣伝?」
「それは、スポンサですよ」
「スポンサ?」
「ええ、資金を提供してくれるところです」
「それは、つまりどこなのかな? 企業かい? それともどこかの国?」
「わかりません」海月は首を一度だけふった。
携帯電話がメロディを鳴らす。山吹からメールが返ってきたのだ。
「早いなあ」赤柳は素直な感想を口にした。
電話を手に持っているのは、海月である。赤柳が見えるように、画面をこちらへ向けてくれた。赤柳は顔を近づけ、小さな画面の文字を読む。意外に長い文章だった。途中で海月がスクロールしてくれた。
すぐ前列のシートに若い女性が一人。今、加部谷さんが文通ごっこをしようとしている。横も斜め前もいないから、ほかに話ができそうな人はいない。なにかききたいことが?
「よくあんな短い質問で意味が通じたね」赤柳は言う。
海月はそれには答えず、またメールを打ち始めた。この文面を赤柳に見せてくれた。
イプシロンの意味を尋ねてくれ。 海月
「ああ、単刀直入だね。まあ、きいてみる価値はあるかな」赤柳は鼻から息をもらす。しかし、内心、海月のシンプルな手法には少なからず感心していた。
「たぶん答は出ない、とは予想できますけれど」海月はメールを送信してから、呟くように言った。
9
西之園萌絵は、パトカーの後部座席に座っていた。まだ、例のマンションの前だ。進展はない。鵜飼がさきほどやってきて、十五分ほどしたら自分は署に戻るので、そのときにご一緒しましょう、と彼女に言った。近藤はずっとあの部屋にいるようだった。少しまえに科学班の専門家が到着したため、西之園の出番はなくなった。部屋の中をぐるりと観察し、マンションの敷地内も歩いてきた。特になにもない。あるはずもない。
落ち着かなかった。なにをどうすれば自分が落ち着くのか、それがわからないのだ。
パトカーに戻って、少しだけ目を閉じていた。躰が疲れているのがわかった。少しでも眠れたら良いのに、と思う。エンジンがかかっていたので、車内は暖房が充分に効いている。けれど、眠ることはやはり無理だった。もう一度寒い中へ出ていき、近辺の一ブロックを一周ぐるりと歩くことにした。こんな時刻に散歩をするなんて、自分もよほど不審な人物だな、と考えながら。
表通りの方には、野次馬がけっこうな人数いた。しかし、細い路地は暗く寂しく、少し恐いくらいの雰囲気だった。そちらから、マンションの反対側へ回り、また表通りへ出た。商店が並んでいるものの、もちろん例外なくシャッタが下りている。看板の照明も消えているものがほとんど。道路はときどきタクシーが通り過ぎる程度だった。刺すように冷たい風が吹いて、方々でフラッタのような音が鳴っている。
コートの襟《えり》を立て、空を見上げると、星空はクリアで動かない。自動販売機の前が少し明るかった。誰もいない。ガードレールに腰掛け、西之園は携帯電話を取り出した。バッテリィはまだ大丈夫。それを確認してから、犀川のナンバをコールした。
「はい」眠そうな彼の声。
「あ、私です。寝ていました?」
「うん。明日の仕事があるからね」
「ごめんなさい、会議ですか?」
「そう」
「お気の毒ですね」
「そう」
「バスがこちらへ近づいてきています。これから、警察が出迎えるのだと思いますけれど。たぶん、空港まで走って、問題はそこからですね」
「既に飛行機を用意しているのかな?」
「そんな話は聞いていませんけれど」
「時間を稼《かせ》いで長引かせるんじゃないかな。爆弾の処理がもう終わっていれば、話は別だが」
「公安の人は、どんな感じでしたか?」
「いや、わからない。電話で話しただけだし」
「恵美ちゃんが無事だったら、どんな要求だって受け入れれば良いと思えますけれど、これって、エゴですね」
「できるだけ、怪我人や死人が出ない方が良いね」
「ええ……」
「君、どこにいるの?」
「えっとぉ、北区です。警察と一緒なんです。ご安心下さい」
「休んだ方が良くないかな。長期戦になるかもしれないよ」
「そう思われますか?」
「いや、思わないけれど」
「人質を解放してくれるとしたら、それは、犯人が投降するケースしかありませんよね」
「警察が突入するか」
「嫌だなあ、なんか、ぞっとします。バスに爆弾があったら、どうするんでしょう」
「考えても、しかたがないよ」
「すみません。あ、あの、起こしてしまって申し訳ありませんでした。でも、先生の声が聞けて、少し落ち着いたわ」
「声を録音しておけば」
「あのぉ……、そういうのが、ひと言余分だと思うんですよ」
「ほら、元気が出た」
「もう……」西之園は溜息をついた。「ああ、どうもすみません。ありがとうございました。お仕事頑張って下さいね」
「え、どうして?」
電話を切った。
マンションの前まで戻ると、鵜飼がパトカーの横に立っていた。
「あ、すみません。お待ちになりました?」
「いえいえ、たった今来たところです。それじゃあ、行きましょうか」
「なにか進展がありましたか?」
「いえ、特には」鵜飼は首をふった。「でも、爆弾の処理は進んでいるみたいです」
「どこの?」
「どこかは聞いていません。でも、仕掛けた場所はすべてわかっているみたいですよ」
「そうなんですか」
「仲間割れじゃないでしょうか」
「だとしたら、あとは、バスに踏み込むことになるのですね?」
「その指示は、東京から来ます。もちろん、その態勢は整えておかないといけません。もう、空港に何百人も行ってますよ」
車の後部座席に西之園が乗り、鵜飼は助手席に座った。
「さて、そろそろ勝負ですよ」彼が振り返っていった。
「よろしくお願いします」西之園は頭を下げた。
10
加部谷恵美が前のシートへ送った包装紙は、五分ほどして戻ってきた。ボールペンも挟んであった。書かれている文字は、加部谷が書いたものよりもずっと小さかった。
くうちゃんを助けてくれてありがとうございます。
この子とはいつも一緒です。
私は柴田久美といいます。
千葉に一人で住んでいます。
バスがこんなことになってしまって大変ですけれど、
でも、きっと神様が助けてくれるでしょう。
山吹もそれを黙って読んだ。そして、携帯電話を加部谷に見せた。海月及介からのメールである。彼女はそれを読んでから、柴田に対する手紙を書き始めた。
大丈夫。もう少しの我慢だと思います。
周りはパトカーがいっぱいだし。
あの人もきっと無茶はしないと思う。
ところで、イプシロンって何ですか?
もしご存じだったら、教えて下さい。
書いてはみたものの、加部谷はその文面が今一つ気に入らなかった。しかし、消して書き直すこともできないので、そのまま前のシートへ渡してしまった。
「知りませんよ」加部谷は山吹に耳打ちした。「きいても良いものかどうか……」
山吹は無言で頷く。
「意味ないかもしれないし」彼女は囁いた。
山吹がもう一度頷いた。
彼は、躰を通路側へ倒し、バスの前の様子を窺った。すぐに、こちらへ戻ってきた。
「今、立っている」彼は言った。「周囲の様子を見ていた」
加部谷も腰を少しだけ浮かせて、前を見る。
一番前のシートの背を掴んで、マスクの男が通路に立っていた。首を竦めているような格好だったが、それは、窓からバスの横や後ろを見ているためだ。パトカーの赤い回転燈を気にしているのだろうか。片手は下げている。ポケットに突っ込んでいるようにも見える。その手に銃が握られているかどうかはわからなかった。
すぐに頭を引っ込める。もしも、彼が通路をこちらへやってきて、もっと近い位置に立ったら、恐怖は確実に大きくなるだろう。今のところは離れている。幾つかのシートで自分の躰も隠れている。そんなもので銃の弾が防げるものかどうかはわからないけれど、しかし、少なくともなにもないところで対面しているのとは比較にならないだろう。バスの乗客が皆大人しいのは、この条件のせいかもしれない。
乗っ取り事件は、これまでにニュースで幾つか見たことがある。ずいぶん過去のものが多いけれど、飛行機、バス、そして船だった。犯人が外部から狙撃されたり、あるいは機動隊が一気に突入して取り押さえるといった衝撃の映像として流されたものだ。また、建物を占拠し、人質を取って立て籠もった例も知っている。大勢の死者を出した惨劇もあった。
それらを見たときに思い描いた内部の様子は、もっとパニック状態に近いものだったはず。だが、今、自分の目の前にある現実は、自分自身も含めて、それとは明らかに異なっている。
加部谷は中学生のときに、偶然にも死体を発見したことがある。近所のある倉庫の中でのことだ。西之園萌絵と二人だった。そのときは、びっくりして悲鳴を上げた。でも、そんなに取り乱したわけではない。すぐに家まで走って、それを知らせにいった。今でもよく覚えている。
つい最近、なんの因果か知らないけれど、また、死体を見た。殺人事件の現場に居合わせたのだ。ところが、そこでも悲鳴を上げた人はいなかった。人が死んでいる、と認識して、どうすれば良いか、その対処を考えた。もちろん、けっして平静ではいられなかったとは思う。それでも、自分が考えていたパニック状態とは違うものだった。
このバスではまだ誰も殺されていない。銃は一発も発射されていない。とはいっても、命を落とすかもしれないという危機的な状況ではある。それなのに、誰も騒いでいない。だからというわけではないが、加部谷自身も、比較的落ち着いていられる。山吹と普通どおり会話ができる。冗談も言えるほどだ。
一つには、この乗っ取りが、単なる脅しや茶番ではなく、政治的要求を伴った組織的な犯行だと客観的に知ることができた点がある。乗客は携帯電話を持っていて、外部と連絡が取れる状態だ。もしこれがなければ、周囲を走るパトカーの赤いライトを見るまでは、精神的にも孤立してしまうし、また、脅している男が本気なのかも疑ってしまうだろう。それを確かめようと、危ない行動に出る乗客がいてもおかしくない。つまり、ここが従来の乗っ取り事件との最大の相違点だろう。人質に外部との連絡の自由を与えることは、過去に例がないはずだ。
もしかして、携帯を使うことを許容したのは犯人の計算ではなかったか。その方が乗客が落ち着く。自分たちの状況を客観的かつ正確に把握できるだろう。その方が、ことが運びやすい。
しかし、これは現実だ。
夢ではない。
物語ではない。
分析している場合ではない。
なんとかしなければならないのだ。今のところチャンスはないものの、しかし、待つしかない。バスが停まらなければ、外に出ることもできないし、また、通路を歩いていくことは、標的になるようなものだ。
前のシートの窓際に、柴田久美が顔を覗かせた。紙切れを差し出している。加部谷はそれを受け取った。
彼女からの手紙だ。さっそくそれを読んだ。山吹も顔を近づけ覗き込んでくる。小さな文字が沢山書かれていた。
イプシロンは、あるサイトにいる絶対的な存在と、
私たちの関係のことです。
誤解しないで下さい。宗教ではありません。
私は、その関係のイベントに参加するために、
このバスに乗りました。
でも、まだよくはわかりません。
本当のことを言うと、私はもう帰らないつもり。
つまり、死んでもいいと思っています。
死んだ方が楽だと思っています。
加部谷さんたちも、イプシロンのために来たのですか?
違いますよね?
でも、だったら、どうして知っているの?
そちらにいる彼氏から聞いたのですか?
こんなことを書いてごめんなさい。
手紙をくれてありがとう。
とても嬉しいです。
11
赤柳初朗と海月及介はテーブルに移って、そこでラーメンを食べた。カップラーメンである。赤柳が近くのコンビニまで行き、買ってきたものだ。お湯は電気ポットにあった。
山吹から、海月のメールに対する返信が届いた。車中、彼らの前のシートにいる若い女性は、名前を柴田久美という。イプシロンについて彼女に尋ねたところ、やはりインターネットのサイトで、ある存在とユーザの関係のことをその名で呼ぶのだ、という答だったらしい。
これは、赤柳が想像したとおりだった。以前にも同様のケースがあったからだ。ただ、だからといって、それが具体的に何を意味するのかまではわからない。否、わからないというよりも、もともと具体的なイメージを掴めないように作られているのだろう。
また、加部谷恵美はどうやら西之園萌絵とメールでやりとりをしているらしく、この柴田という女性の名が、警察が入手した乗客名簿のリストにあった、ということを山吹がメールで書いてきた。それがラーメンを食べているときに入ってきた最新情報だった。
「ということは、警察はもうほとんど把握しているってわけだね」赤柳は箸を振りながら、海月を相手に話す。しかし、大部分は自分のために言葉にしているのだった。「僕のところへ連絡が来たのも、なんだか余裕があったのも、バスジャックの実行グループの一人が、警察に拘束されていたからだったんだ。爆弾の設置場所もたぶん吐いたってことかな」
「教えるものですか?」海月がひと言。
「うん、不本意に捕まった奴ならば口は簡単に割らないと思うけれど、自分から出向いていったのかもしれない。それだったら、話すつもりで出ていったわけだ。つまり、仲間割れだ。恐くなって、自分だけは罪を免《まぬが》れようと……」
「それならば、ありえますね」
「で、わざわざ尋ねてみて、返ってきた答を聞いて、どう思ったわけ?」
「いえ、確認できただけです」
「何を?」
「バスに乗り込むまでの状況」
「え、どういうこと?」赤柳は首を傾げた。「乗り込むまで?」
「あ、そうか……、それは忘れていた」海月が小さく口を開けて壁を見た。彼にしては珍しい表情だった。なにかに気づいた、という顔だ。
「どうしたの?」麺を箸で引き上げながら赤柳は尋ねる。
「すみません、もう一度、携帯を貸してもらえませんか」
「ああ、もちろん」
赤柳はテーブルの上に置いてあった携帯電話を彼の方へ滑らせた。
12
もうすぐ夜明けだ。
加部谷はまた、紙に手紙を書いて、前のシートへ送った。今回は、隣の山吹のことを書いた。
私の隣は、同じ大学の先輩で山吹さんといいます。
全然彼氏なんかではありません。
誤解は嬉しいですけれど、そんなふうではないのでした。
私は、ディズニーランドに一人で遊びにいってきました。
一人ですからね。ちょっと珍しい子だったかも。
山吹さんは、どこへ行ったのか知りませんが、
いやらしい本を買ったみたいですよ。
たまたまバスに一緒に乗ることになっただけ。
あ、お腹空いていませんか?
といっても、東京ばななしかありませんけれど、
食べますか?
こんなときだから、喉に通らないかもしれませんが、
そこをぐっと通してみたら、元気が出るかもですよ!
隣の山吹が携帯のメールを読んでいるようだったので、そちらへ躰を寄せる。彼は加部谷に見えるように画面をこちらへ向けてくれた。
バスのどこに座っている? バスに乗ったのは、発車の何分まえだった? 前のシートの女は、いつ乗った? 海月
「馬鹿じゃないですか、海月君って」加部谷は囁いた。
「うん、よくそう思うことはあるけれど、馬鹿じゃないんだよね」山吹は、真面目で当たり前で面白くもなんともない返答をしたあと、メールの返事を打ち始めた。
加部谷は、山吹の向こう側まで手を伸ばし、紙袋を掴んだ。そして、箱に残っている東京ばななを一つ取り出した。姿勢を戻し、彼女は、窓とシートの隙間からそれを前に差し出した。
「柴田さん、これ」小声で言う。
「ありがとう」彼女の白い手がそれを掴む。
柴田の指が、加部谷の指に一瞬だけ触れた。
「あ、なんか、ぴんと来た」加部谷は言った。
「え、何?」シートに顔を寄せている柴田がきく。
「静電気かな?」
「静電気?」
「もう一度、手を触っていい?」加部谷は尋ねた。
柴田が手を出す。左手だ。
加部谷はそれを握った。
とても冷たい手だった。
「大丈夫だよ」加部谷は言う。「元気出して」
「ありがとう」か細い声だった。
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第4章 悲しみの高まり
[#ここから5字下げ]
いったいどこからお前はこの楽しさを得たのか、と彼は自分の心にたずねた。自分にあんなに快感を与えてくれたながい熟睡から来たのか。それとも、自分が発したオームということばから来たのか。それとも、自分がのがれたこと、自分の脱出が遂行されたこと、自分がついにまた自由になり、幼児のように青空の下に立っているということから来たのか。
[#ここで字下げ終わり]
1
まだ、太陽は出ていない。しかし、うっすらと空が白《しら》んできた。もう夜ではない。さきほど、湖らしきものが見えた。そして、今は山を登っているようだ。前にも後ろにも、パトカーが併走しているのがはっきりと確認できる。後方では、パトカーが完全にブロックしているため、バスを追い越していく車はもういない。
「やっぱり、危険だからでしょうか?」振り返ったあと、加部谷は囁いた。「バスが爆発するかもしれないから?」
「うーん、どうかな」山吹も後ろを見る。眩しさに目を細めていた。少し疲れが窺える表情だった。
前の席の柴田久美との文通も四往復ほどで終わった。彼女が眠ってしまったからだ。横から紙を差し出しても受け取らないので、そっと立ち上がって上から覗いてみたら、ウサギのくうちゃんを抱きかかえて眠っていた。だから、そのままそっとしておくことにした。眠っているうちは、少なくともすべてを忘れていられるだろう。安らかというものだ。
山吹は通路側へ顔を出して、前を見た。彼が元の姿勢に戻るのを待って、加部谷は尋ねた。
「どうですか? 様子は」
「入口のステップのところに座っている。運転手となにか話をしているみたいだった」山吹は小さな声で言った。「銃を持っているかどうかは見えない。若いと思っていたけれど、けっこう年輩者かもしれない。頭の毛が見えたから」
「白髪ですか?」
「混じっている感じ。全然凶暴そうには見えないけれど、あんな感じなのかな。痩せているし、屈強な兵士ふうでもないね」
「でも、プロかも」
「何の?」
「テロの」
「うん、まあ、わからないけれど」
「仲間がいるって言ってましたけど」
「そう、もしかして、運転手なんじゃないかな」
「あ、そうか、それはいえてますね」
「うん、運転手が一番クリティカルだからね」
「クリティカル?」
「つまり、乗っている全員の命を預かっているわけでしょう。いつだって、ハンドル一つで全員殺すことだってできる。爆弾を持っているのと同じだよね」
「恐いこと言わないで下さいよ」
「ごめんごめん。だけどさ、犯人からしたら、運転手が味方だったら、こんなに有利になる条件はないってこと」
「そうですね、立っているとき、突然、急ブレーキとか踏まれたら、危ないですものね」
「ゆっくり走っていたでしょう。これも作戦だったのかも」
「何の作戦です?」
「いや、わからないけど、うーん、まあ、時間稼ぎか」
「高速を出たり、到着したりしたら、停まらなきゃいけないから、それを恐れているわけですね」
「そうだと思う」山吹が頷いた。「停まったら、警察に突入される恐れがあるよ。催涙ガスとか撃ち込まれたり」
「催涙ガスって?」加部谷は首を傾げる。聞いたことのある言葉だが、具体的にどんなものかは知らない。「どうなるんです? 毒ガスじゃないでしょう? 気を失うわけでもないでしょうし」
「目が痛くなるんじゃないかな」
「ハンカチとか出しておいた方が良いですね」
「あ、僕、ハンカチ持ってないや」
2
大泉芳朗《おおいずみよしろう》は、バスの右側最前列のシートに座っていた。この日のために体調を整えてきたし、昨日は昼間はずっと眠っていたから、眠くなるようなことはないだろう、と踏んでいたが、今も、ついうとうととしてしまった。こんな状況下において人間は眠れるものなのだな、と自分でも感心したほどだ。
彼は会社員である。現在の会社に勤めてちょうど十年になる。出世はしなかったものの、仕事には誠実だったと自分では評価している。ただ、休みが多いことに対して上司からときどき嫌みを言われる。もしかしたら、それで査定が悪くなっているのかもしれない。もちろん正規の休暇を取っているだけで、文句を言われる筋合いではないのだが。
今回も、今年の分の休暇をほとんど使った。二週間まえから会社へは行っていない。休暇申請をしたときの、係長の驚いた顔が今でも思い出せる。あれは傑作だった。思わず、携帯電話で写真を撮りたい、と発想したくらいだ。最後の記念に、本当に撮らせてもらえば良かったのだ。
ただ、もうこの会社に戻ることはない、とは言えなかった。これは、やはり言うわけにはいかない。どうせ、あとでわかることだけれど……。
会社では嫌な思いは数々あったものの、平均すれば、自分にしては上出来だったのではないか、と大泉は分析する。当初はすぐにも辞めてしまうだろうと予想したのに、十年も続いたのだから。その原因はもちろん、給料だ。仕事の良いところとは、すなわちその一点である。会社は彼にとって、とにかく金だ。金以外のなにものでもない。
嫌なことはしだいに大きくなった。そのわりには給料が上がらない。だから、会社から借金をした。可能なかぎりを借りている。返済はできるだけ長期で設定してもらった。今、縁を切ってしまうのが、一番の得策だろう。退職金など、もちろんもらえる道理がない。
会社の金をもう少しでも動かせる部署にいたら、話は違っていたかもしれない。残念ながら、僅かな経費を誤魔化すことくらいしかできなかった。
フロントガラス越しに風景を眺めながら、そんな仮定上の過去について少しだけ考えた。考えてもしかたがない、といえばそのとおり。金には縁のない人生だったが、悔いはそれほどない。欲しいものは、金では買えないものなのだから。
彼のすぐ前の低く下がった席に運転手がいる。透明のプラスティックで仕切られていたので、彼と話をするためには、少々通路側に顔を出さなければならなかった。
もうこれまでにも、何度か言葉を交わしている。運転手は名前を三井というらしい。最初、プレートにある写真が、どうも本人とは似ていないように思えたので、きいてみたのだ。それが会話の始まりだった。
「そこのプレートにある運転手さんの写真、違う人じゃないですか?」
「ああ、ええ、そうなんです。急に来られなくなったので、私は代理です」
「なんだ、それじゃあ、市川さんじゃないんですね」
「ええ、私は三井といいます。すみません。急なことだったので、ネームプレートを入れ替えるのを忘れていました」
「大丈夫なんですか? 夜中走るわけでしょう? 急に言われて、交代できるものなのかな」
「慣れていますから」
「眠くなったりしないわけですか?」
「そうですね、ガムを噛んだり、いろいろ工夫をします」
そのほかには、この頃の最新型のバスのこと、高速道路の工事のこと、大型トレーラの運転のこと、そんな話をした。運転手は前を見たままで、一度もこちらを振り返らなかった。その点が少々不思議な行動だ、と大泉には感じられた。話してみれば、普通に会話をするけれど、この男はどこか普通ではない雰囲気を漂わせている。上辺《うわべ》だけは愛想の良い言葉を返すが、表情はまったく変わらない。まるで声だけが演じられているような。バスを運転するみたいに自分の躰も運転しているかのような。そんな感じがするのである。
空が明るくなってきた。遠くの山々のアウトラインが鮮明になりつつある。現実の世界にこの道が通っているのだな、とやっと信じられるようになった。暗闇の間は、ネズミが回す車輪のようなものがあって、同じ場所でただ車体だけを揺らしているのではないか、と錯覚できたからだ。
「予定どおり走っていますか?」大泉は尋ねた。
「いえ、遅れ気味ですね、いつもより、ゆっくり走っていますから」
「いや、ゆっくりでいいんですよ。時間はたっぷりあります。早く着きすぎても、退屈するだけでしょう」
そうは言ったものの、退屈という言葉が、とても受け入れがたい、自分には遠く無縁のものに感じられて、刺々《とげとげ》しかった。
「もともと、二時間は遅れても大丈夫なようになっているんですけどね」運転手は抑揚のない口調で言った。「まあ、そんなに遅れることは、道路が通行止めにでもならないかぎり、まずないですね」
大泉は、携帯電話を取り出して、画面を見た。時刻を確かめ、それからメールが届いていないかもチェックした。今は、未読のメールはなかった。
運転手が片手を上げて、前方を指さした。上の方らしい。大泉は頭を下げて、そちらを見る。
ヘリコプタだった。こちらへ近づいてくる。あっという間に横へ行ってしまい、見えなくなった。
3
榛沢通雄は、ヘリコプタの音で目を覚ました。
窓に頭を寄せたまま眠っていた。いつの間にか空が明るくなっていて、思わず目を細める。振り返ると、後方にヘリコプタが見えた。傾いている。旋回しているようだ。
そうか、もう朝か。
急に緊張が彼の躰を包む。ぶるっと震えるような感覚。隣で小さく口を開けたまま寝ている倉持晴香の顔を見た。
別に一緒に来なくても良かったのに、と思う。
自分一人で来れば良かったのだ。
自分はどうしようもないけれど、
彼女なら、まだなんとかなるような気がする。
そうじゃない。本当は自分がなんとかしてやらなければならないのだ。男なのだから。そう、よく世間で言われている台詞。それを聞くと、すべてが嫌になってしまうのだが。
山が迫っている。白く雪が残っている斜面があった。雪山に登っていきたい。そんな真っ白な場所で、静かに眠りたい、と思ったことがある。
緊張はたちまち緩み。
吐く息が長く続く。
目的か……。
そうだな、死ぬための目的を探していたのかもしれない。
たとえば、愛する人がいて、その人が突然死んでしまったら、自分には死ぬ目的がある、と思えるだろうか。
生きることが嫌になった、というのは、
死ぬための目的として、不充分だろうか。
また理屈を捏ねている、と誰かに言われそうな気がした。
彼はまた隣の倉持を眺める。彼女には、もう四回言われた。数えているのだ。ただ、彼女の場合は、なにを何回言われても腹が立たない。それは、最初から死を前提とした期限付きのつき合いだったためだろう。
そもそも人間って、誰だって期限付きなのに。
永遠に生きる奴も、永遠につき合う友人も、いないのに。
優しさというものが、どういうものなのか、最近までわからなかった。それは、つまり、どうせ将来はないのだから、今を大切にしよう、という気持ちのことだ。
それがわかった。
それがわかっても、死んでしまうわけだから、
わかった頭脳も停止して、
わからないものに戻るのだ。
変な話である。
榛沢は窓の外をぼんやりと眺めながら、口もとを緩めた。
笑っている自分を意識した。
久しぶりに。
4
倉持晴香は目を覚ました。
目を開けると、自分の躰は通路の側に傾いていて、バスの前方が見えた。フロントガラスの向こうに、ずっと道が延びている。
その手前に、男の姿があった。シートの肘掛けに腰掛けて、通路で脚を組んでいる。
顔がこちらを向いていた。
目が合ったかもしれない。
彼女はすぐに目を閉じた。
寝ている振りをしよう。動かない方が良い。気に障《さわ》ったりしなかっただろうか。
子供のときを思い出した。寝ている振りをしていたのだ、いつも。母親が怒るから。客が来ると、寝るように言われた。部屋から出ていくと叩かれた。布団に倒され、寝ないとまた叩くと脅された。だから、必死で寝た振りをする。
寝ていれば、叱られない。
お願いだから、叩かないで。
今でも、布団に入ると、目を瞑ってじっとしている。きっと死んだら、もう誰も怒らない。もう叩かれることもないだろう、と子供のときには考えた。けれど、寝たままで死ぬには、どうしたら良いだろう? 息を止めれば良いのだろうか。やってみたけれど、無理だった。寝ていられなくなる。苦しくなって、泣きそうになる。泣いたら、叱られる。叩かれる。
目を瞑ったままゆっくりと横を向いた。そして、薄目を開けてみる。榛沢通雄の横顔のシルエット。窓の外の景色は溶けたみたいに流れている。宇宙を飛んでいるわけではない。朝になったのだ。
眠っているうちに、死んでいたら良かったのに。
目を覚ましたら、隣に乗っているのが、狐の顔をした人だったら、笑ってしまったかも。死んだら、きっとなにも恐くないのだ。叩かれても痛くないし、怒鳴り声も聞こえない。とても静かで、楽しさだけで心が温かくなる。きっとそうだと思う。
けれども、榛沢のことだけは、少し残念かもしれない。せっかく知り合えたのに、もうすぐ別れなくてはいけないなんて。あと少しだけ、彼のことを知ってからでも良かったのではないか。でも、どうしたらそんなことができただろうか。無理だ。できない、できない。そんなことはできない。きっと怒るだろう。きっと叱られるだろう。笑っている顔だって、いつ怒るかわからないのだ。
好きだといって近づいてくる男は、最後は絶対に怒りだす。いつだってそう。お前のことを考えているんだ、と言って怒るのだ。手を振り上げて脅すのだ。
だから、
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、って、そればかりを繰り返した。謝って、謝って、謝って、泣いて謝って、許してくれってお願いをした。怒らないで、叩かないで、ごめんなさい、いつもこうなってしまう。わかっているんだけれど、でも、駄目だ、どうしても怒らせてしまう。
だから、
やっぱり死ぬしかないんだなって、思うんだけれど、ただ、死んでも、やっぱり怒られるかしら。ああ、どうしようもないなあ、本当に。
私が死んだら、みんなも一緒に死んでしまえばいいんだ。そうすれば、誰も怒らない。誰も叩かない。
生きているからいけないんだ。
みんながみんな、眠っている夜が一番好きだった。
宇宙みたいで。死滅した宇宙みたいで。
いつかは、そうなるのだって、先生が言っていたっけ。理科の先生だけは、優しかったな。怒らなかったから。少しだけ好きだった。
なにもかもが、止まってしまって、それが宇宙の最後。
生きものが生きているのって、つまり高いところから転がって、低いところへ行くようなもの、その途中なんだ。
いつかは行き着いてしまって、
止まるんだよ。
みんな止まってしまうんだよ。
死んでしまえば、
涙も出ない。
そういうことなんだ。
感じなくなる。
自分が惨めだとか、悲しいとか、寂しいとか、
感じなくなれるんだ。
早くそのスイッチを切らなくちゃ。
5
高速道路を走るそのバスを、上空のヘリコプタのカメラが捉えていた。それは、那古野近郊の空港から離陸したもので、もちろんテレビ局がチャータしたものだった。
もう一機、同じ空港から、新聞社のヘリコプタも飛び立っていて、お互いに連絡を取り合いながら、高速道路に沿って東へ向かった。既に、サービスエリアや料金所にはカメラやレポータが配置されていたし、バスがどの位置を走っているのかも、夜のうちから把握していた。バスは、高速道路にしては極端に遅い六十キロほどの速度で走行を続けていた。遅くする理由は、おそらく到着するまでの時間を計算しているためだろう、と予測されていた。
警察は一時間ほどまえに二回目の記者会見を東京で行った。これによれば、現在、怪我人はいない模様。バスジャック犯は冷静な行動を取っている。警察は、爆弾の捜索に全力を挙げるとともに、犯人グループとの交渉を続けている。今後の見通しについては、現時点ではなんとも言えない。人質の安全確保が第一優先であり、すべての情報が公開できないのはそのためである。といった内容だった。
赤柳初朗と海月及介は、山吹早月のアパートにまだいた。二人とも一睡もしていない。テレビは二時間ほど放送を中断し、テロップだけを流し続けていたが、特別番組を再開し、最初の映像が、上空から撮影したバスの様子だった。その映像から、バスの前後には既にパトカーが併走していることがわかった。レポータはそのことを繰り返している。
赤柳はテーブルの椅子に座ってテレビを見ていた。海月は今はソファに腰掛け、文庫本を読んでいる。
海月が車中の山吹とメール交換をして、二人の前のシートに座っている柴田久美という女性の名前を知らせてきたが、その彼女が、イプシロンについて語った内容も、メールでもたらされた。そのとき、赤柳はこう言った。
「ほら、またまた関係だよ。シータのときと同じだ。同じところがやっている。僕が睨んでいるところが、今回も関わっていることは間違いない。ただ……、目的が何なのかがわからない。何のメリットがあるんだろう」
しかし、海月は無言で、一度だけ僅かに首を捻《ひね》っただけ、あるいは、顎を横へ動かした、それとも、口の形を少し変えた、否、もしかしたら、それらすべては赤柳が勝手に感じただけのことだったかもしれない。
メールの内容だけを読むと、海月はソファの方へ戻って、また本を読み始めた。
「不思議だとは思わないかい?」赤柳は問いかけた。
「どうして、赤柳さんはそれにそこまで興味を持ったのですか? よくある普通の宗教団体にはないものがある、と感じた理由は何ですか?」海月から逆に質問されてしまった。
「うん、それは何度も自問したことだよ。一番の理由は、真賀田四季の関与にある。真賀田四季という人物を知っていれば、否、知っているなんてことは、烏滸《おこ》がましくていえないだろうけれど、とにかく、彼女が関わっているならば、自然に興味はわく」
「関与しているという証拠は、かなり曖昧では?」
「そうでもない。関係があったとされている人物が、関わっていることは確かなんだからね」
「真賀田四季のことならば、西之園さんが詳しいと思います」海月は言った。「相談しましたか?」
「そう、そうなんだよね。あぁ……、そうか、西之園さん、連絡してみようか。もう朝だから、良いかな」赤柳は時計を見ながら呟いた。「どう思う?」
「いえ、どうも」海月の素《そ》っ気《け》ない返事である。
朝といっても、まだ早い。普通に電話をかけられる時間帯ではなかった。だが、こんな事件が起こっているのだから、緊急の事態ではある。加部谷とメールでやりとりをしているだろうし、当然起きているはずだ。
まず、山吹早月にメールを書いて、西之園に連絡を取りたいので、電話番号を教えてほしい、と頼んだ。五分ほどテレビを眺めていたら、電話がかかってきた。山吹かと思ったら、そうではない。
「もしもし、赤柳です」
「おはようございます。西之園ですが」綺麗な発音で彼女の声が聞こえた。
「あ、ああ、どうも、西之園さん、ありがとうございます。大変なことになりましたね」
「なにか、情報があるのですか?」
「いえいえ、申し訳ない。そういった緊急のことではございません」赤柳は頭を下げた。見られたのではないかと、横目で海月を捉える。しかし、ソファの彼は相変わらず本を読んでいた。「私も、東京の警察にいる友人から、最初に事件の知らせを受けました。そのときは、山吹君や加部谷さんのことは知らなかったのです。そのうち、山吹君本人から知らせを受けまして、はい、とにかく、なにもできませんが、二人の無事を祈るばかりです」
「ええ、本当に……」西之園が言った。
「あのぉ、今、私は山吹君のアパートに来ておりまして、海月君と二人でテレビを見ております」
「そうらしいですね」
「あ、いえ、正確には、見ているのは私一人です、海月君は本を読んでいます」
「で、ご用件は何でしょうか?」
「情報交換をしませんか?」
「どんな情報をお持ちなのですか? こちらは、特に情報を持っていませんけれど」
「いえ、私も確固たるものは持っておりません。ただ、イプシロンという関係……、それを求めた人たちがバスに乗っているようだ、ということを……」
「ええ、そのことは把握しています。その名称の団体としてバスの予約料金を支払っていたのです」
「東京の警察が、犯人グループの一人を拘束していることは?」
「どうして、それをご存じなのですか?」西之園はすぐにきき返してきた。その反応の素早さに、赤柳は驚いた。
「ですから、警察に友人がいるのです」
「なるほど、あちらこちらから漏れているってことですね」
「今は、どちらにいらっしゃいますか? 電話ではなんですので、そちらに伺いましょう。少しだけお時間をいただけませんか?」
「今は自宅にはおりません。何のお話ですか?」
「真賀田四季のことについてです」
「ああ……」西之園は言葉を切った。「あまり話せるようなことはないと思いますけれど」
「今回の事件との関わりについてです」
「なにもわかりません」
「そうですか……」赤柳は引き下がろうと思った。「いえ、特に急ぐような話ではないのです。今は、もちろん、バスジャックのことでご心配だと思います。お話をしても、彼らを救うことはできませんし。どうも、その、変な話を持ち出したりして、本当に申し訳ありませんでした。また、そうですね、いつか、日を改めまして……」
「私、今から、C大の方へ行きますので、あと一時間後くらいですけれど、まだそちらにいらっしゃるのなら、寄りましょうか?」
「え、本当ですか。それは、嬉しい。ありがとうございます」
「ごめんなさい、突《つ》っ慳貪《けんどん》な口調に聞こえたかもしれませんけれど、ちょっと疲れているので」
「いえいえ、当然だと思います。あのぉ、どうか、無理をなさらないように……」
「ええ、お気遣い、ありがとうございます」
「お気をつけて」
赤柳は電話を切ってから、海月に言った。
「西之園さんが、ここへ来るって」
「え?」海月は珍しく顔を上げ、こちらを向いた。
6
犀川創平はノックの音で目を覚ました。
空間は暗い。自分がどこにいるのかを思い出すのに一秒かかった。まず、時計を見る。アラームを設定しておいた時刻よりも二時間も早かった。ノックをした人間は部屋を間違えている可能性が高い。その確率は六十パーセントくらいか。しかし、またノックがあって、今度は声が聞こえた。
「犀川先生、早朝に申し訳ありません。さきほど電話をいたしました沓掛でございます」
「クツカケ?」名前の響きを思い出した。「はあい」とりあえず、返事をする。
犀川はベッドから出た。ドアまで行く。チェーンをかけたままドアを開けて、外を覗く。スーツ姿の男が一人立っていた。
「大変申し訳ありません。五分ほどでけっこうです。お時間をいただきたいのですが」
「服を着るので、待って下さい」
「はい」男はお辞儀をした。
四十代だろうか。長身でメガネをかけていた。銀行員のようなさっぱりとした風貌である。もちろん、見たことのない顔だった。
犀川は部屋に戻って、着替えをした。一分半くらいだったのではないか。すぐにドアを開けに戻る。
「部屋は狭いですから、下のロビィへ行きましょうか?」犀川は言う。
「そうですね、では」
犀川はキーと煙草を取りに戻った。携帯電話も、ポケットに入れる。寝ている間に届いたメールはなかった。
通路へ出て、沓掛のあとを歩く。エレベータに乗るときも、二人は無言だった。
早朝である。ロビィに人の姿はない。フロントのカウンタに一人だけ、ホテルの人間が立っていた。
待合いスペースのソファに、犀川は腰掛けようとしたが、沓掛が名刺を差し出したので、もう一度立ち上がって受け取った。
「すみません、名刺は鞄《かばん》の中なので」犀川は上を指さして言う。
「いえ、けっこうです」
ソファに座った。思わず溜息。欠伸《あくび》かもしれない。頭がまだ半分も回っていなかった。
「煙草を吸っても良いですか?」犀川はきいた。
「ええ、もちろんです」沓掛が微笑みながら頷く。
「うまくいっているようですね」犀川はそう言ってから、煙草をくわえ、ライタで火をつけた。
朝の最初の煙は、一瞬で躰を少し軽くしてくれる。煙を吐き出した頃には、頭の中が幾分クリアになっていた。すべては錯覚であるが、役に立つ錯覚だ。
「どうして、そう思われるのですか?」沓掛はジェントルな口調だった。
きかれるまで、自分がなにを言ったか、もう忘れていた。なるほど、頭の切れそうな人物だ、と犀川は認識した。
「こんなところへ、わざわざいらっしゃるのですから」犀川は少し笑おうと思った。だが、思ったほど愉快さは前面に出なかったようだ。やはり躰がまだ半分眠っているせいだろう。
「仕掛けられた爆弾については、たぶん、処理ができたと考えております。もちろん、百パーセントとはいえませんが、今できることはもうありません。あとは、あのバスの中にあると思われる爆弾です」
「強行突破をすれば、爆破される危険があるでしょうね。自爆テロをするような組織ですか?」
「判断はできません。犯人は、どこに持っていると思われますか?」
「え? 僕にきいているのですか?」犀川は煙を吐いた。今度は本当に笑ったかもしれない。一瞬であっても。「そもそも、ほかの爆弾はどこに仕掛けられていましたか? どれくらいの規模のものだったのですか? やはり携帯電話を使っていましたか?」
「どう公開するかが決まっておりませんので、今は詳しくはお話しできませんが、いずれも都内でした。場所は全部で七箇所。それほど大きな規模の爆弾ではありません。ただしかし、もちろん、建物を破壊し、そうですね、頑強な遮蔽物がもしなければ半径五十メートルほどが、殺傷能力が及ぶ範囲内と想定されています」
「どれくらいの大きさのものですか?」
「そんなに大きくはありませんが、そうですね、持ち歩くとしたら、多少大きな鞄が必要です。ハンドバッグには入りません」
「それと同じくらいのものをバスに持ち込んだ可能性が高い、とお考えなのですね?」犀川は尋ねた。
「そのとおりです。あるいは、特別に大きくしたか、それとも小さくしたか」
「周囲にいる警官たちを巻き添えにしようと考えているならば、大きくするでしょう」
「持ち運びが不便ですが」
「すると、床下の荷物室にあると推理されている」
「私たちはそう見ています。断言はできませんが」
「どうやって、それを爆発させるか」犀川はまた煙を吐いた。
「どうするでしょう?」
「同じメカニズムを使うでしょうね。携帯電話で」
「やはり、そうでしょうか」
「いやあ、そんな、断言はできませんけどね」犀川は言う。「一つずつに番号が割り当てられているのでしょうか。それ以外のシステムでは、デジタルでなければ、別の送信機が必要になりますよね」
「我々も、そう考えています」沓掛は頷いた。
「で? 僕にそれを話すために来られたのでしょうか?」
「トンネル内のブースタを切りました。トンネルに入ったら、バスを停めます。そして、そこで犯人を取り押さえる。この作戦は危険ですか?」
「銃はトンネルの中でも使えますよ」
「しかし、空港では、もっと危険が大きくなる」
「そうかもしれません」
「私が、犀川先生におききしたかったのは、一点だけです。このテロ行為をプロデュースしたのが真賀田四季だとしたら、どこまですると思いますか?」
「真賀田博士がこんな馬鹿馬鹿しいことをするはずがありません」犀川は即答した。
「どこが馬鹿馬鹿しいですか?」
「すべて」
「では……」沓掛は顔の傾きを変え、目を細めた。「まったく関与していない、と見るべきですか?」
「それはわかりませんね。馬鹿馬鹿しいけれど、放任していることはありえるでしょう」
「放任?」
「好きなようにさせるという意味です」
「それはわかりますが、誰に?」
「さあ、そんなことは知りません。でも、子供がすることを放任する親は多い」
「なるほど……、子供ですか」
「たとえばの話ですよ」
「放任していたとしても、これだけはやってはいけない、といった注意をするものではありませんか? ここまでは我慢しようとか……。大勢を殺傷する可能性があるような爆発をさせるでしょうか?」
「どうかな」犀川は一瞬考えた。「理由があれば……。人の命と交換するだけの価値があれば、躊躇《ちゅうちょ》なくするでしょう」
「そんなに価値があるものがありますか?」
「沢山ありますね」犀川は頷いた。「客観的になりますが、人の命がそれほど高いものだとは、少なくとも僕は認識していません。事実、歴史を見ても、国家的判断を見ても、それは明らかです」
「先生、我々は突入するつもりです。爆弾は爆発しない、という方に賭けるわけです。この賭けに勝てる確率は、どれくらいでしょう?」
「データ不足です」
「いえ、先生の直感をおききしたい」
「五十五パーセント」犀川は即答した。「しかし、万が一、裏に真賀田博士がいて、この犯行計画の詳細を知っているならば、警察がトンネル内の電波を止めて、そこで突入してくることを予測しているでしょう。予測しているというのは、確率を高く見込んでいる、という意味ではありませんよ。そういう場合を想定している、ということです」
「つまり、その場合の手が打ってある、と?」
「もちろんです。それは、爆発させるかどうか、ではありません。そうなることによって、どんな結果になり、社会にどんな影響が及ぶのかを、想定している、という意味です」
「我々は、どうすれば良いでしょう?」
「そうですね」犀川は吸い殻入れで煙草を揉み消した。「あまり突飛《とっぴ》なことをしない方が得策でしょう。自然に行動することです」
「自然に……」
「そうすれば、真賀田博士が予想しているとおりに、ことは運びます。それに逆らうことはある意味で危険です。逆らうことは、自然法則に挑《いど》むようなものです」
「信じていらっしゃるのですね」
「え、何を?」
「真賀田四季という人物を」沓掛はメガネに指をやった。
「信じるという言葉の意味が、少々違うかもしれませんが、彼女の能力は絶対的なもので。僕が信じるか信じないかには無関係です」
「では、もう一つだけ」
「ずいぶん多いなあ」
「もし、犀川先生が、警察の指揮をとっていたら、どうしますか? 突入ですか? それとも犯人を国外へ逃がしますか?」
「狙撃させます」犀川は即答した。
沓掛は黙って犀川を見た。二秒間瞳が動かなかった。
「どこから?」彼はそのままの表情できいた。
「できるだけ近くから」犀川は答えた。
7
加部谷恵美は、西之園萌絵からのメールを読んだ。それによると、愛知県警は既に高速道路や空港に配備され、バスを待ちかまえているという。この情報のほかには、どんなことがあっても落ち着いて、危険なことをしないように、人のことを気にせず、自分の身の安全だけを考えるように、といった注意があり、さらに、今、西之園は警察とは別れ、山吹早月のアパートに向かっている、と書かれていた。
「西之園さん、山吹さんのアパートへ行くって」隣の彼に教えてやった。
「げ、マジで」
「場所を知っているんですね、西之園さん」
「あ、うん、二回くらい、車で送ってもらったことがあるから」
「ふうん」加部谷は口を尖らせる。「げっていうのは、何ですか?」
「え?」
「げって、言ったじゃないですか」
「うーん、まあ、あまり、自分の部屋を見せるなんて、気持ちの良いものじゃないから」
「海月君は?」
「ああ、まあ、あいつはね、なんとも思わないだろうから」
「あの、私も、山吹さんのとこ、行ったことありますよ」
「いや、えっと、まあ……、その場その場で、いろいろなしがらみがあってね」
「何言ってるんですか?」
「うーん、あの、そんなに怒らないで」
「いえ、私、別に怒ってませんけど」
「気が立っているように見えるよ。しかたがないけれどね。とにかく、リラックスして」
「西之園さん、何の用事でしょうね。赤柳さんと話があるのかな」
「それか……、海月とか」
「海月君が、用事になりますか?」加部谷は眉を顰めた。「だいたい、西之園さん、帰る方向じゃありませんよね」
「C大へ行くつもりなんじゃないかな」
「あ、ゼミがあるとか?」
「そう、ある」
「こんな事件があっても、ゼミやるんですか?」
「いやぁ、まだ、大した事件じゃないよ。このまま、バスを無事に降りられたら。普通じゃん。ちょっと遅れた、くらいで」
「よくそういうふうに考えられますね。ダメージ大きいと思いますよ」
「多少、寝不足かな」
「そんな問題じゃないですよ。絶対にカウンセリングとか、してもらわないと」
「精神的ショックで? そんなの受けた?」
「うーん、髪の毛が抜けるかも」
山吹は黙って、加部谷の頭を見た。
彼女は、道路の状況を見て、それから、運転席の方の様子を窺い、ついでに前のシートの柴田久美を上から覗き込んだ。彼女はまだ眠っている。山吹に視線を戻すと、自分の髪の毛を触っていた。
加部谷は携帯電話を聞き、西之園にメールを書いた。
こちら、今のところ異状なし。警察は空港で勝負をかけるつもりでしょうか? ところで、山吹さんの下宿に何をしにいくのですか? 山吹さんが「げ」って気にしてましたよ。
このメールを送信しようとした。だが、どういうわけかうまくいかなかった。
「あれぇ? 圏外かなあ」加部谷は呟く。
よく見ると、画面の表示もそうなっていた。
彼女は外の風景を眺める。山が迫っている。田畑や人家もなかった。
「近くにアンテナがないんじゃない?」山吹が言った。
8
西之園萌絵が、マンションの前で車を停めようとしたとき、前方から歩道をこちらへ走ってくるグレィのジャージ姿に目をとめた。彼女は車から出て、そちらへ歩いていった。
「先生、おはようございます」距離が五メートルほどになったところで西之園は頭を下げて挨拶をした。
国枝桃子はさらに近づき、二メートル手前で止まった。
「ジョギングですか?」西之園は尋ねる。
「ほかに何に見える?」国枝が無表情で言った。「早くない?」
「ええ、十分ほど」
「ここで待ってて、すぐに支度するから」
「ここで、ですか?」
「ここで」
国枝はマンションの方へ走り去った。今まで、玄関のドアの手前までならば行ったことが一度ある。しかし、部屋の中に入れてもらったことはない。国枝は既婚者なので、たぶん夫も同居しているはずである。
国枝桃子は、C大の助教授だ。山吹早月が、国枝研究室の院生、加部谷と海月は学部生である。西之園はN大の犀川研究室の院生で、博士課程に在籍しているが、研究テーマの関係で、C大の国枝研究室に週の半分以上顔を出している。院生室に彼女のデスクもあるくらいだ。もともと、国枝はN大の犀川研究室の助手だったのである。
車の中で待っていると、きっかり十分後に国枝がスーツ姿で現れた。ネクタイをしている。髪は短く、長身の国枝は、一見男性に見えるほどだ。
「こんなに早く出勤するなんて、入学試験くらいだよ」国枝が助手席に座りながら言った。無口な彼女がこれだけ話すのは、よほど機嫌が良いか、あるいはその反対かのいずれかである。
西之園は、愛知県警の鵜飼と別れたあと、自宅へ戻るよりもこのままC大の研究室へ向かうことに決めた。自宅へ戻っても諏訪野しかいない。加部谷や山吹を知っている人間が少しでも多いところへ行きたい、と考えたのだ。
しかし、こんな時刻である。大学にも研究室にも、人がいない可能性が高い。N大ならば誰かはいるだろう。しかし、私学のC大ではそんなことはありえない。
そんなとき、山吹のアパートにいる赤柳と電話で話をした。海月もそこにいるらしい。ではそこへ寄っていこう、と決心をする。そして、そのすぐあとに国枝に電話をかけた。自分の研究室の学生が人質になっているのだから、おそらく早めに出勤をするつもりではないか、と想像した。それならば、車で送っていこう、と考えたのだった。普段でも、帰りが遅くなったとき、国枝を送りながらC大から那古野へ帰ることはよくある。ただし、出勤時に国枝を乗せたことは一度もない。
「え、どうして? 別に大学へ早く行っても、関係ないんじゃない?」というのが、西之園提案に対する国枝桃子の最初の返事だった。
「それは、そうかもしれませんけれど。大学の事務からは連絡はないのですか?」
「今のところ」
「私は、これから山吹君のアパートに寄って、それからC大へ行きます」
「うーん、わかった、じゃあ、行く。どれくらいで、ここへ来られる?」
「あ、どれくらいでも……。すぐに行けば、二十分くらいですね」
「三十分後にしてもらえる?」
「はい、わかりました」
出かけるのに三十分が必要だということは、女性として理解できるところであったが、しかし、実際にはジョギングをしていた、というのがなんとも国枝らしい。もちろん、国枝は化粧などまったくしない。
「テレビでニュースは見られました?」西之園は車を走らせながらきいた。
「うん、バスが走っているところなら」
「裏でいろいろ動いているみたいですけれど、まったく教えてもらえません。どうなるんでしょう」西之園は溜息をついた。「とにかく、無事に解放してもらいたいです」
「貴女、寝ていないの?」
「ええ」
「大丈夫? 運転」
「ええ、大丈夫です。ご安心下さい」
「他人のことを心配するようになったんだ」国枝は少しだけ口調を変化させた。それは機嫌が良いときの兆候である。
「私のことですか? 心配じゃないですか。普通だと思いますよ」
「もちろん。でも、自分の生活を乱すほどのことではない」
「私、別に乱していません」
「あ、そう。なら良いけれど」
「でも、なんとかしてあげたいという気持ちは強いです。なにをしても良いというなら、銃を持って駆けつけます。犯人を狙撃するのだってできるかも」
「ああ、射撃、するって言ってたね」
「いえ、大した腕前ではありません。実用になるような」
「人間は撃てない?」
「たぶん、殺すような部位だったら、撃てません」西之園は目を回すような顔をする。「迷いがあったら、当たりませんよ。警察は、狙撃隊を配置していると思います。即死するようなところを狙わないと、狙撃する意味がないでしょうから……、ああ、でも、もし失敗したら……」
「ちゃんと、目を開けて、運転に集中してね」
「はい、大丈夫です」西之園は国枝の方へ笑顔を作って見せる。
「個人的な立場では、そんなに簡単に引き金はひけないと思うな。人が人を簡単に殺すときって、必ず、もっとなんていうのか、妄想的な力がバックに存在している」
「妄想的な力?」
「うん、つまり、神とか、国家とか、あるいは組織とか」
「そう……、そうですね」
「そういう力に、自分は後押しされている。それで自分が動いている。自分はその使徒なのだ、と解釈して、引き金をひく。だけど、けっしてそうではない。その妄想を作り上げたのも自分だし、すべては自分の責任なんだ。ただ、そうやって責任を自分の外側にあるものだと偽って、人を殺そうとする」
「何故、殺そうとするのでしょうか?」
「さあね……、でも、たぶんそれは、殺したいという気持ちがあるからだと思うな。破壊したい、むちゃくちゃにしたい、そういう感情が人間にはある。それがいけないことだ、という社会的観念が、こんなにも強固に作られたことが、裏返せば、その純粋感情の存在を証明していると思う。人間は理由があるから殺すんじゃない、殺すための理由を探すんだよ」
「ああ、嫌だ」西之園は首をふった。躰中が僅かな悪寒《おかん》に包まれるのを振り払いたかった。
「嫌なら、やめるけど」
「いえ、違います。先生のお話は、とても参考になります。いつでも、もっとお聞きしたいと思っています」
「別に、しっかり考えているわけじゃないから、あまり参考にしないでほしいな。ただね、貴女がこういう話を望んでいるのかなって、ときどき私は勘違いするみたい」
「自分でもよくわかりません。望んでいるのではないと思います。だって、とても気持ちが悪い。できれば、関わりたくはないです」
「普通だね」
「だけど、避けては通れない、って何故か思うんです。どうしてだろう? もう既に、そんなものに取り憑かれているのじゃないかしら。だから、少しでも認識して、もがきたい、気持ちが悪いけれど、もがくことで、多少は解き放たれるのかなっていう、そんな予感がするから……」
「難しいことを言うなあ、いつも」
「難しいですか? 私は、先生のお話の方が難しいと思います」
「貴女の場合、表現がね、うーん、難しいというよりは、突飛? あるいは文学的」
「そうかなあ、先生のおっしゃっていることの方が突飛ですよ」
「それはそうだよ。視点や解釈は、一般的ではない」
「犀川先生も同じですよね。犀川先生の影響で、そんなふうになられたのですか?」
「違う。犀川先生と私は全然違う。その差がわからない?」
「いえ、まだそのレベルには」
「そうか、それはショックだ」国枝はシートにもたれて顎を上げたようだった。
珍しいので、西之園はその国枝の顔を見て、少し吹き出した。
「こら、前を向け」国枝が言った。
9
佐々木睦子《ささきむつこ》は、自宅の食堂でテーブルに並んだ朝食を眺めた。今朝もとても食欲をそそる素晴らしい出来映えだ。これを用意したのは北林《きたばやし》という女性だが、食事時になると、佐々木は彼女の銅像を造ろうかと思うほど、このベテラン家政婦のことを誇らしく思うのである。
椅子に座って、まずコーヒーを一口味わったところへ、北林が近づいてきた。
「奥様、沢山メッセージが届いておりますよ」
「え、こんな朝から?」佐々木はメモ用紙の束を受け取った。「あの人は?」
「三十分ほどまえに、お出かけになられました」
「早いわね。何? ゲートボール? 年寄りじゃないんだから」
メモの一つを読む。
「あらら……、大変だわ」佐々木は椅子から立ち上がった。
コーヒーカップと大皿を両手で持ち、隣のリビングへ移動する。リモコンでテレビのスイッチをつけた。
「どうか、なさいましたか?」後ろから北林がきいた。
「いえいえ、なんでもありませんよ」佐々木は微笑んで振り返った。「バスジャックがあったんですって?」
「ええ、新聞にも……」北林は、食堂のテーブルの上にあった新聞を手にして、リビングへ入ってくる。「バスなんか乗っ取っても、外国へは行けませんでしょうに」
「それは、乗り換えるのよ、きっと」佐々木は言う。「バスだったら、武器を持っていても、乗れるでしょう?」
「ああ、なるほど、チェックがありませんから……。そうか、人質を取りやすいわけですね」
「そういうこと」
テレビの画面には、バスが高速道路を走るシーンがいきなり映し出された。
「まあ、まだまだこれからって感じね。兄に電話してやろうかしら」
「お忙しいのではないでしょうか」北林は眉を寄せ、困った顔を見せてから、食堂の方へ戻っていった。
佐々木睦子の兄、西之園|捷輔《しょうすけ》は、元愛知県警本部長である。現在は、別の職にあるが、もちろん警察関係であることには変わりない。
「そうだ、萌絵に電話してあげよう」佐々木はテーブルの上の電話を掴んで、姪の携帯電話を選んだ。
しばらく待つ。
「はい、私です、叔母様」
「バスジャックのテレビ、見てる?」
「見ていません。今、車に乗っていたんです。もう着きましたけれど」
「どこに?」
「それより、何ですか?」
「いえ、バスジャックよ」
「知っています。はあ……」溜息が大きく聞こえた。「今度、ゆっくり説明します。ご用件はそれだけですか?」
「何なの? テンション低いじゃない」
「切りますよ」
「ちょっと待ちなさい。どういうこと?」
「そのバスに、山吹君と加部谷さんが乗っているんですよ」
「え? 本当に?」
しばらく無言。
「わかった、ごめんなさい。知らなかったの」
「ええ。それで、私……、いえ、なにもできないんですけど、今は、山吹君のアパートに来ています、国枝先生も一緒です」
「まあ、そうなの。大変ね」
「大変なのは、あの二人ですよ。可哀相だわ」
「大丈夫よ。ええ、万全を期すように、言っておきます」
「誰に?」
「いいから、私に任せておきなさい」
「叔母様に何が任せられるんですか? でも、気休めでも、ありがとうございます」
「これから、朝ご飯なの。事件が解決したあとで、会いましょう」
「はい」
「じゃあね、ええ、大丈夫だから。無茶をしないように」
「そうですね」
電話を切る。知らないうちに、こちらのテーブルに朝食のセットは移動していた。北林が超能力を使ったらしい。
佐々木睦子は、テレビを見ながら、それを食べ始めた。
10
インターフォンが鳴ったので、赤柳初朗は玄関へ行き、ドアを開けた。
「おはようございます」西之園萌絵がお辞儀をした。
「どうもどうも」赤柳はさらにドアを開き、彼女を招き入れる。そして、もう一人外に立っている人物に気づいた。「あれ? 国枝先生じゃありませんか」
「ええ、そうですよ」国枝がむっとした顔のまま小さく頷いた。
「どうぞ、中へ」
「テレビで、なにか新しい情報、流れていますか?」
「いえ、なにも」
山吹早月の部屋にこれで四人が集合した。もちろん、人口密度はかなり高くなった。
「綺麗だなあ」西之園が部屋を見回して言った。「絶対、彼女がいるよ、これは」
「いえ、山吹君って、けっこう綺麗好きですからね」赤柳は言った。「温かいもの、コーヒーでも紅茶でも出せますけど」
「じゃあ、コーヒーを」西之園はソファに座った。すぐ近くの壁際に海月が立っている。「海月君、座ったら?」
国枝は西之園の隣に腰を下ろした。
ソファのやや斜め前方にテレビがある。報道の特別番組が映っている。スタジオのコメンテータの一人が話をしているところだった。
「誰? この人」西之園がきいた。
「テロに詳しい軍事評論家だそうです」海月が答えた。
「山吹君から、メール来ていない?」西之園は海月にきいた。しかし、途中で気がついたようだ。「そうか、君、携帯持っていないんだ」彼女はキッチンの方へ振り返って、赤柳を見た。
「この一時間くらいは来てません」赤柳はコーヒーメーカをセットしているところだった。「あまり、頻繁に送ってもいけないと思って、こちらからは送ってないんですよ。向こうから来たら、すぐ答えてますけど」
「寝てるんじゃない?」国枝が言った。
「寝てなんかいられませんよ」西之園が高い声で言った。「加部谷さんに最後に出したメールも、リプラィがないわ。それどころじゃないってことかしら」
「圏外じゃありませんか」赤柳が言った。「山の中を走っているとか」
西之園はテレビの画面へ視線を向ける。バスの上空から捉えた映像だった。確かに町中ではない。
「これ、録画でしょう?」国枝が横で言った。
11
大泉芳朗は、運転席のすぐ後ろのシートに座って、前方を見ている。上り坂のさきにトンネルがあった。
「まあ、ここまで来たんだから、覚悟を決めないと」彼は呟くように言った。その声は、運転している三井賢太郎には聞こえただろう。しかし、三井はこちらを見なかった。
大泉は、一度立ち上がった。そして、バスの後部を向く。シートに座っている面々を眺めた。こちらを凝視している顔、あるいは眠っている顔、真っ直ぐの顔、傾いている顔、まったくの無表情、心配そうな顔、いろいろだった。下を向いて頭しか見えない者もいた。
「別に、全員で最後まで行かなければならない、ということはありませんからね」大泉は全員に聞こえるように、大きな声で話した。「弱い者は助けなくてはいけない。それが人の情けというものです。もうこれ以上、このバスには乗っていられない、という方は遠慮なく手を挙げて下さい。トンネルの中で降ろしましょう。申し訳ありませんが、そこからは、歩いて帰ってもらうしかない。それくらいの努力はしてもらわないとね。少なくとも、生きるということは、そういうものだと思いますよ。いかがでしょうか?」
彼は笑みを浮かべ、顔を見回した。こんな優越感を味わうのは、本当に久しぶりのことだった。とても懐かしい感情がわき上がってくる。子供のときの学芸会の発表以来ではないだろうか。
12
矢野繁良は、その声で目を覚ました。
少しの時間ではあるが、眠っていたようだ。夢を見た。学校で机に向かって、テストの答案用紙の裏に絵を描いている夢だった。そんなことを実際にした覚えはない。しかし、しようと思ったことは何度もあった。
夢から覚めると、テストでなくて良かった、という思いと、そしてもっと大きな、それよりも現状はさらにどうしようもない、という認識が遅れて蘇る。
バスを降りる奴はいないか、と前の方で話しているようだった。どちらでも良いことだ。こんな場所ではなく、飛行機に乗る直前に、きっと尻込みする奴が出るだろう、とは予想していた。あんなことを言ったら、半分くらいはいるのではないか。否、そんなにいないか。人のことはわからない。こうと決めたら、人間って案外、軌道修正をしないものだ。最後まで諦めない、ということはあまりない。ずっと手前で諦めてしまうものだ。
それにしても、どうして、あの男はあんなに馬鹿丁寧な言葉を使うのだろう。余計にいやらしく聞こえる。つまり、丁寧だけならば許せるのだが、どことなく楽しそうな響きが混じっているのがいけない。何だろう、自分が注目されている、それが嬉しい、といった感情だろうか。だとしたら、酷く幼稚な心理ではないか。
いるよな、ああいう奴。
しかし、あんな奴が、バスに乗ってこんなことをする、というのが不思議な点だ。あの手合いは、普通もっと人に取り入って、節操もなくその場限りの対処で、ずる賢く生きていこうとするものだ。そう、目の前の快楽を求めていると思い込んでいるけれど、実は、目の前の苦辛《くしん》から逃れているだけのこと。ようするにただ、生きていたい、それだけが望みなのだ。
たぶん、演じているのだろう。ああいう人間の振りをしているのだ。彼の名誉のために、そう解釈しておこう。そう考えると、少し落ち着いて、口もとが緩んだ。
しかし、自分の決心を再度思い起こす。
どれだけ悩んだか。
一人で泣いたこともある。
しかし、
決めたことだ。
今さら、降りられるか。
13
榛沢通雄は、迷っていた。
それが正直な気持ちである。
引き返せるかもしれない、そんなチャンスがあるなんて、もちろん想定していなかった。自分の中でなにかが変化したように思える、でも、確かなことはわからない。
ただ、横にいる倉持晴香の存在。
彼女の体温が。
彼女の髪の香りが。
そういった自分以外のぬくもりを、彼はこれまで感じたことがなかったのだ。存在を認めたことさえなかった。自分の存在を消すことによって、世界のすべてが消えると彼は考えていたし、事実、それが目的でもあった。
だが、どうだろう?
たとえば、自分一人が消えても、彼女がここに残っていれば、自分が消えたことを知っている人間が一人まだ存在することになる。そういうことを、そんな未来を、考えたことなどなかった。思いもしないことだった。
そのことで、混乱している。
躰が震えるほどだった。
バスが振動しているせいではないはず。
榛沢は、左手を持ち上げた。それを自分で見る。自分の手をじっと観察した。指を。指を折り曲げてみる。奇妙な形をしているな、と思った。しかし、自分がコントロールできる形なのだ。
彼はその手を右の方へやる。躰を少し捻った。
右のシートでは、榛沢の肩に頭をつけて、倉持晴香が眠っていた。髪に隠れて顔は見えない。
彼の手は、下を向いている彼女の顔を、その頬を探す。
頬に触れ。
一瞬、びくっと震え。
自分の手が震えたのか、それとも彼女の頬が震えたのか。
あるいは、それは同じことなのか。
二人が存在するのではない、二人の関係が存在するだけだ。そう教えられたではないか。
彼女が顔を上げる。目を開けた。
瞳が揺れて、そして止まる。
驚いた顔。
しかし、その目がすぐに半分閉じる。
「大丈夫だと思うよ」彼は言った。
「え?」彼女は首を傾げる。
彼の手が、ずっと彼女の頬に触れていて。
その手が、彼女の震えを感じ取り。
「どうしたの?」
「わからない」
震えているのだ、彼女は。
そして、瞳が一度揺れたかと思うと、そこから涙がこぼれ。
白い頬を伝って。
彼の手に、彼女の涙が、染《し》み。
彼女はまだ震えている。
「恐い?」
「ううん」
彼女は首をふろうとして。でも、動かない。
止めなければ。
彼女の震えを止めなければ。
もう一方の手を、彼は、持ち上げる。
躰はさらに、彼女を正面に捉え。
彼女も、シートから頭を持ち上げ、彼の方へ。
彼の右手は、彼女の背中へ回り。
止めなければ。
大丈夫。この手で、止めてあげるから。
抱き寄せて。
彼女の顔が、彼の胸に、埋まり。
強く。
抱き締め。
強ければ。
抱き締めて。
怖がらなくてもいい。
だけど、まだ震えていた。
もしかして、震えているのは自分なのでは、と彼は思う。
もっと、抱き締めて。
彼女が息をもらし。
顔を上げ。
その唇へ、彼は顔を寄せ。
唇が触れて。
触れて。
そして、もう一度確かめて。
彼女の香りが。
生きている人間の香りが。
生きている人間の震えと。
じっと、しばらく、彼女の躰を抱き寄せていた。
強ければ。
強く。
怖がらなくてもいい。
「大丈夫だよ」彼は言った。
「ありがとう」彼女が応える。
その言葉は意外だった。
あまりにも意外で。
彼の目から、たちまち涙がこぼれ始め。
目が熱くなり。
躰が熱くなり。
14
矢野繁良は、また音楽を聴いていた。
流れる風景は、リズムにのっているようだった。朝を迎えるのは気持ちが良いものだ、と彼は感じた。滅多にないことだ。久しぶり。珍しい。懐かしい。いつも日の当たらない部屋で暮らしているから。太陽がどこにあったって、彼には関係がない。寒いか暖かいか、それだけの差。ところが、今は、沢山のものが太陽の光を反射して、方々で光っていた。
田舎の風景だ。どこかで見たことがあるような。アスファルトとか、コンクリートブロックとか、ペンキとか、看板とか、電線とか、標識とか、そういったものがない。彼のジャングルのアイテムだったものが、ここにはない。しばらく忘れていたけれど、こんな世界があることを思い出した。子供の頃は、たしかにこんなふうだったではないか。
戻れたら良いな、とは思うけれど、しかしそれは無理な話だ。自分の躰を見ればわかる。大きすぎる。重すぎる。もう、こんなに大きくて重くなってしまった。軽やかに跳びはねたときがあったのだ、と思い出したところで、それは単にそんな楽しい絵をイメージするだけのこと。自分のことではもうない。
だからこそ、もう一度生まれ変わってみよう、それならば早い方が良い、と考えたのだ。このさきのつまらない平坦な人生よりは、もう一度最初からやり直す方がずっと面白いはず。
音楽だってそうだ。若いとき、初めてのとき、聴いた曲は凄かったな。本当に感動した。躰の隅々まで揺さぶられるようだった。自分は楽器ができなかったけれど。
いても立ってもいられないくらい、凄かった。だから、その音楽を聴きながら絵を描いた。すると、絵にそのリズムが現れる。あんなにびっくりしたことはない。面白かったな。楽しかったな。もう二度と味わえないだろう。すっかり駄目になってしまったから。
自分の感性は既に枯渇した、と彼は感じている。望みはない。再生はない。あるとすれば、最後の力で、このどろどろとした腐敗の連鎖を断ち切ってしまうことのみ。
だんだん勇気がわいてきた。
力を。
願わくば、最後の力を。
手を握り締め、呟き、祈る。
きよし、ねがい、みたま、あおぎ、
すずし、うつくし、みてを、われに。
15
柴田久美は祈っていた。
両手を組み、力を込めて、目を閉じ、現れた暗闇も白く見えるほど、奥の奥へ深く沈むように、じっと動かずに、息を潜め、ただ自分の肉体だけが存在する感覚を、捉えようとしていた。
毛細血管のような模様が周囲に現れ、揺らめくように躍動し、次の瞬間には輝きが一瞬にしてそれらを消し去った。
どこだ?
ここはどこだ?
お前は誰だ?
低い声が聞こえた。
この国へ入ることを、どうかお許し下さい。ずっとずっと、私は信じてきました。私には、ここへ入る資格があります。
お前は誰だ?
引き戻される。一気に落ちるように躰が浮き上がり、地上へと放り投げられる。しかし、また気持ちを集中して、深く深く、潜っていく。もう一度、もう一度、辿り着かなくては、なんとしても。
しかし、
わからない。
迷いか。
そう……、
迷っているのだ。それがわかった。
呼吸。
ほら、空気を吸っているではないか。
どこだ?
ここはどこだ?
息を吐く。
躰の中に取り入れた空気を押し戻す。
すべて作りものだ。
すべてはりぼてだ。
本当のものは何一つない。
消えてしまえばいい。全部なくなってしまえ。
壊れてしまえ。すべて粉々に砕けてしまえ。
石になってしまえ、砂になって、吹き飛んでしまえ。
爆発。
爆発。
だけど、わからないことがある。
私は、どこにいる?
私は、誰だろう?
私は、どこから来たのか?
どこへ行くのか?
誰も教えてくれない。
「大丈夫だよ」
誰?
誰の声だ?
彼女は目を開け。バスの中。前のシートの背。自分の手。ガラス窓。膝。手には紙切れ。小さな文字。並んでいる。書かれている。窓へ顔を寄せ。後ろを覗き。
加部谷恵美の笑顔がそこにあった。
「起きた?」小声で彼女が囁いた。
柴田久美は小さく頷いた。
そう、起きたのだ、自分は。
どこから起きたのだろう?
どこへ起きたのだろう?
16
前のシートから、小さな呻《うめ》き声が聞こえたので、加部谷恵美は立ち上がって、柴田久美の様子を覗き見た。眠っている彼女は、顔を歪《ゆが》ませ、口を動かしていた。うなされていたのだろうか。
バスの前を見ると、マスクの男が立って、こちらを見ていた。目が合った。睨まれた。加部谷はすぐにシートに座る。しばらく鼓動が収まらなかった。大丈夫だっただろうか。
もう一度、見る勇気はなかった。
でも、窓とシートの隙間から手を差し入れて、指先で柴田の躰を探した。それを見つけて、軽く押す。
「大丈夫だよ」
隙間に顔を寄せて囁いた。
自分に言い聞かせているようなもの。
絶対に大丈夫。
こんなところで死んだりしない。
大丈夫。
みんな助かる。
深呼吸。
柴田が顔を覗かせた。不安そうな片目だけが、見えた。
加部谷は微笑み返す。
自然に、微笑むことができた。
大丈夫。
まだまだ生きている。
「起きた?」彼女は普通の口調で、柴田に尋ねた。
もう朝なんだから、起きなきゃ。
そろそろこのバスを降りなくちゃ。
もう、いいかげんに自由にして。
まだ、もう少し生きられるって思わせて。
小さく頷く柴田の顔。
「大丈夫だってば」もう一度言った。
理由もなにもない。根拠などない。
でも、言える。
言葉にはなる。
言葉にすれば、助かるような気がする。
一瞬で暗くなった。
風景が消える。
トンネルだ。
オレンジ色の淡い光に包まれて、身の回りのものが変な色。
なにか音がした。
爆発?
もっと軽い。ぽんという音だった。
それから、もっといろいろな音が沢山続いた。
最初、躰がびくっと震えて。
まず、隣の山吹を見た。
山吹は前を覗いていた。
その彼が、加部谷の方へ覆い被さってくる。
え?
どうしたの?
目の前が真っ暗になった。
山吹が、彼女に覆い被さったのだ。
重いよ。
どうしたの?
隙間から、見ると、
シートも、窓も、天井も、
だんだん薄れていく。
雲の中に入ったように。
え、爆発したの?
嘘だよね。
スローモーションだろうか。
私、もしかして、死ぬのかしら。
音も聞こえなくなって。
色も失われ、光も失われ。
暗闇の中へ沈んでいき。
匂いも消え。
感覚も遠ざかり。
すべてが薄れていく。
17
西之園萌絵と国枝桃子はソファに並んで座って、テレビの画面を見入っていた。ヘリコプタが上空からバスを追っている。生放送だ。見たことのあるレポータが機上から実況をしていた。これまでの映像よりもずっと鮮明だったが、それは明るくなったために、カメラのズームが可能になったせいなのか、あるいは、ヘリがより低い高度を飛べるようになったのか、いずれかだろうと思われた。
ときどき、バスの乗客が顔をこちらへ向ける場面もわかるようになった。しかし、顔が鮮明に見えるほどではない。西之園は食い入るように画面を見つめていたが、最後尾のシートに座っているはずの加部谷恵美を確認することはできなかった。
そのうち、バスはトンネルの中へ入ってしまった。ヘリが高度を上げたらしく、構図はみるみるロングになり、周辺の地形を映し出した。
あっという間に山を越え、カメラはトンネルの出口の道路を狙う。構図は少しずつ変わったが、ずっと同じ場所を映している。
まだ出てきません、という言葉を、レポータが繰り返した。
何度も繰り返した。
出てきません。
出てきません。
どうしたのでしょうか。
何かあったのでしょうか。
最初は、性急な台詞に聞こえた。言っている方も、そう自覚していたはずだ。しかし、本当にバスは出てこなかった。
レポータもしばらく沈黙してしまう。
どこかへ問い合わせたのか。もしかして手違いがあったのか。周囲で確認をしたようだ。そして再びしゃべり始める。
バスがトンネルに入って、既に三分ほど経過しています、距離から考えて、通常の速度であれば、一分もかからないはずです、トンネルの中でバスが停まったということでしょうか、今のところ不明です、とレポートした。
西之園は黙っていた。国枝も赤柳も、そして海月も黙っていた。事件を報道する番組は、初めて緊迫した場面を迎えたのである。
どうしたのでしょう。
何があったのでしょう。
レポータの口調は明らかに変わった。興奮している。それでも、映像は変わらない。トンネルの出口。道路を走り出てくる車はいたが、バスは出てこない。
中で停車したとしか考えられません。
パトカーがバスの近くを走っていましたので、もしかして、警察がバスを停めたのでしょうか。
レポータは憶測を話す。
この状態が三分ほど続いた。
地上のその近くには、あいにくテレビカメラがない。トンネルの中へ入っていって確かめろ、と視聴者の多くは思ったことだろう。西之園もそう思った。実に苛立たしい。
ところが、そのバスがようやく現れた。
出てきました!
レポータが絶叫する。
火だ。
窓から火を吹き上げていた。
煙が上がっている。
西之園は立ち上がった。
「何?」彼女は言葉を詰まらせる。
どうした?
バスが燃えています。
燃えている。
炎を吹き出しています!
あ!
危ない。
危ない!
バスは坂道を下っていく。
ガードレールにぶつかった。
その反動で、一度戻り。
もう一度、ガードレールに激突。
レポータが絶叫する。
危ない!
危ない!
あ!
バスは左へ大きく傾き。
なにかが飛び散った。
音は聞こえない。
道路から横に。
危ない!
あ、
あ、
レポータの言葉も途切れる。
バスは、横倒しになり、道路から落ちていく。
谷底へ。
急斜面で一回転し。
裏返しになり。
滑り落ちる。
そして林の中へ。
煙。
煙。
炎が上がる。
「恵美ちゃん」西之園が呟く。
国枝も立っていた。
西之園は国枝に抱きついた。
爆発した。
爆発しました。
バスは炎上しています。
道路から谷底へ落ちました。
大丈夫でしょうか。
大丈夫でしょうか。
どうしたのでしょう。
何があったのでしょう。
燃えています。
大変です。
すぐに救助に向かう必要があります。
最悪の結果となりました。
バスジャック犯が爆弾を爆破させた模様です。
大変です。
バスが落ちました。
燃えています。
レポータは何度も繰り返した。
18
トンネルの中の道路。端には水が溜まっていた。
水は黒く見えた。オイルかもしれない。
とても寒い。
二人は肩を寄せ合い、最初は立ち尽くしていた。
彼ら二人だけを降ろしたあと、バスは走り去った。
イプシロンの関係を信じた者たちのバスだ。
走りだすと、すぐに車内で炎が上がった。その輝きが見えた。トンネルの中が一瞬明るくなるほどだった。
二人は身震いする。自分たちが、その中にいたかもしれない。否、きっといたにちがいない。その手前で、僅か手前で、尻込みしたのだ。逃げ出したのだ。生きるために。
生きるため?
生きる?
何だろう?
わからない。
全然わからない。
でも、わからないから、
もう少し考えよう、
もう少し生きよう、と思ったのか。
二人で。
そう、二人で。
バスの窓が開いたみたいだ。
苦しくて、誰かが開けたのだろうか。
まだトンネルの中だった。
一気に赤くなった。
炎がますます大きくなって。
勢い良く煙も吹き出して。
もう車内は見えない。
煙と炎だけ。
そのまま。
まだ走っている。
バスは出口へ向かって走る。
走り去る。
二人から遠ざかった。
パトカーがサイレンを鳴らす。
その音が響いて。
バスは、輝きの中へ出ていった。
消えていった。
どうか……、
神様、彼らをお導き下さい。
どうか、彼らに幸を。
みんなに、幸を。
お願いです。
お願いです。
どうか……、
生きている者たちと同じだけの、幸を。
二人は泣いた。
声を上げて。
涙が止まらない。
熱い涙。
涙。
涙。
パトカーが二人の横に止まって。
赤い光が回っている。
警官が飛び出してきた。
「大丈夫ですか?」
もちろん、大丈夫。
ただ。
泣いているだけです。
泣いているだけなんです。
生きているから、泣いているんです。
もう泣きたくないから、死のうと思ったのに。
また、泣くことを選んでしまった。
だから、みんなの分も、涙が流れるのか。
どうか……、
もう、泣かなくて良いところへ、
お導き下さい。
神様。
お願いです。
「車に乗って下さい」警官が言った。
二人は、パトカーの後部座席に乗り込んだ。
溜息が震える。
呼吸が途切れるほど。
まだ、躰が泣いている。
でも、
二人は手を握り合ったままだった。
強く。
大丈夫。
強く、握って。
大丈夫だよ。
「名前を教えて下さい」警官がきいた。
「榛沢通雄」彼は答える。
「倉持晴香です」彼女は答えた。
「バスを降りたのは、二人だけですか?」警官は尋ねる。
「そうです」彼らは泣きながら頷いた。
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第5章 悲しみの静まり
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「私は知っていた」と彼は小声で言った。「おん身は森の中へはいるのであろう?」
「私は森の中へはいる。統一の中へはいる」とヴァズデーヴァは光を放ちながら言った。
[#ここで字下げ終わり]
1
犀川創平は、ホテルの部屋で寝直そうと思ってベッドに入った。しかし、とても眠れる予感はしない。そこで、窓際の椅子に腰掛け、煙草を一本だけ吸うことにした。カーテンを少しだけ開けて、窓の外の明るさを確かめてみた。天気は良さそうだ。しかし、すぐ目の前は別のビルの壁や窓。景色と呼べるようなものはなかった。
警察は既に行動しただろう。その結果はまだ聞いていない。連絡がないのは、予想どおりに展開したのか、あるいは、まったく予想外で連絡する余裕もないのか、いずれかだろう。
意図的にもたらされたごく限られた情報、警察の態度、テレビのレポートなどから、おおよその真相は理解できた。この事件で最も騙《だま》されたのは、犯人だろう。
トリック、という言葉も思いついた。それは、西之園萌絵がよく口にしていたフレーズだ。そう、彼女はどうしているだろうか。
時計を見た。朝になっても、連絡をしてこないが、寝ているのだろうか。
今日の仕事は会議。東京へ来るときは、いつも会議だ。まったく面白くもなんともない時間ではあるが、しかし大学にいないだけで、電話や事務書類からは一時的に解放される。だから、出張自体は、比較的クリエーティブな時間と評価できなくもない。電車に乗っているときも、ホテルで煙草を吸っているときも、思考は自由に動き回ることができるからだ。
肩叩きやマッサージの指圧が終わった直後のように、単なるデフォルト状態を解放的だと錯覚させるものは多い。それが目に見える自由というやつだ。
それでも、こういった静かな時間にじっと深い空間へ入っていくことは、貴重といえば貴重。無駄といえば無駄。このように評価できないことこそ、自由の特徴だろう。
その自由な深淵には必ずあの女性がいる。天才と呼ばれるあの人だ。目と唇だけが暗闇の中に浮かんでいて、犀川と話をしてくれる。そういったプログラムが、犀川の中に置き土産として残されたからだろう。
「どこにいるのですか?」犀川はきく。
「どこにもいません」
「何をしているのですか?」
「なにも」彼女は首をふったようだ。「思考以外は、ほとんど無です」
「他人に影響を与える効果はありますよ」
「他人が、私にとっては無です」
「それでは、死んでいるのと同じだ」
「そうね。それが正しい」
「どうも、まだ、僕にはわかりません」
「何が?」
「無の価値が」
「無も死も、有と生が作り出したもの。存在するものと、生きているものにのみ、その概念も、その価値も、一瞬だけ浮かび上がる。しかし、捉えることはできません。何故なら、存在するものは消えることができないから。生きたままでは死ねないからです。破壊し尽くして、消し去ろうとしても、残骸の量が増すだけ。呼吸を止めて、死に至る苦しさを想像するしかない。涙で恐れを測るしかない。なんという健気《けなげ》なことでしょうか。それでも、面白いわ」
「何が面白いのですか?」
「そこに垣間《かいま》見える精神のフラッタが、面白い」
「利用ができますか?」
「できます。そのとおり。再現すればモデルになり、それが新しいテクノロジィを生む。美しいわ」
「美しい?」
「そう、生と死の狭間《はざま》が美しい。その境界だけが、朝日や夕日のように特別に輝く」
「何故でしょうか?」
「わかりません」彼女は微笑んだ。「わからないから美しいのよ。生きてしまえば、ただの生きもの、死んでしまえば、ただの物体。でも、そのどちらでもないものがあるのです。それが作り出せる。私にはそれができる」
「ええ、貴女には、きっとできるでしょう。僕も見たいけれど、ちょっと間に合わない。無理でしょうね」
「さあ、どうかしら。それは、貴方の意志、貴方の決意の問題では? わかっている。貴方は知っている。ただ、本当にちっぽけなものを振り払えないでいる。何故かしら? それもわかっている。貴方は知っている」
彼女の青い瞳が瞬き、そして暗闇へ消えていった。赤い唇は、最後に、もう一度、「待っているわ」と動いた。
2
国枝桃子が大学へ出る必要があったため、西之園萌絵、赤柳初朗、海月及介も一緒にC大へ移動した。西之園が運転できない、と言いだしたため、赤柳は表通りへ出てタクシーを拾ってきた。
バスが炎上し、谷底へ転落してから、既に三十分が経過している。しかし、平和なこの街ではまだ道路が混み合う時刻には早かった。タクシーの助手席に赤柳が乗り込み、後部座席に三人が並んだ。西之園萌絵は窓際で顔にハンカチを当てている。国枝が反対側だったが、表情は険しい。しかし、彼女はいつもこんな顔ではある。この二人に挟まれて、海月及介もいつもどおり口をきかなかった。
研究室に到着すると、国枝は自室に入っていった。電話をかけている様子である。理事会や、他の教員と連絡を取っているのだろう。
手前の院生室には、大きなゼミ用テーブルの隅にテレビが置かれている。赤柳がスイッチを入れた。バスの事故現場で、救助活動が始まりつつあり、その様子が伝えられていた。まだまだ時間がかかりそうな雰囲気である。少なくとも生存者の確認を行うような段階ではない。下がどんな状況なのかもよくわからない。ヘリが降りられるような場所が近くになく、また、高速道路以外に、そこへ救助のための車両が接近することも難しい、とレポータが伝えていた。
西之園萌絵は、自分のデスクへ行き、椅子に座ると、机に俯《うつぶ》してしまった。声をかけにくい状況だ。赤柳と海月の二人は、この部屋が初めてではないものの、明らかに部外者である。赤柳は、どうしたものか、と少し困った。
「あ、あの、お茶でも淹れましょうか?」西之園に届く声できいてみた。
返事がない。海月及介の顔を見ると、彼は黙って立ち上がり、コンロに置かれていた薬缶《やかん》を掴むと、シンクでそれに水を入れ始めた。
「ごめんなさい」西之園が顔を上げる。それから、天井を見上げるようにして、息をもらす。「ああ……、まだ望みはあるんだから」
「そうですよ」赤柳は言った。
「乗っていない可能性もあります」薬缶をコンロへ運ぶ途中で海月が言った。
「え、どうして?」西之園がきく。
「確かな根拠はありません」海月はコンロの火をつけた。そして、振り返って言葉を続ける。「でも、長距離バスに、僕も何度か乗ったことがあるんですけど、一番後ろや、その一つ前の席って、たいてい誰か座っています」
沈黙。
西之園が首を傾げた。
「そんなことないだろう」赤柳は笑いながら話した。「しかし、君、何の話をしているわけ?」
「高速道路を走るから、ぶつかったときのことを想像して、前の方の席を嫌うのか。それとも、通路が狭いから、できるだけ奥から詰めよう、と考えるのか、とにかく、すぐに降りるわけでもない、満員になって降りるのが大変になるわけでもない、だから、自然に誰もが、奥へ行こうとする。車内で一見したとき、一番後ろのシートだけが、空いているのが見えるからかもしれません。もちろん、途中で空席を見つけて、座る人もいますけれど」
「加部谷さんと山吹君も、ほかに空席があったのに、一番後ろに座った。そこがほかよりも広かったからじゃないかしら」西之園が元気のない声で言った。「なにか、おかしい?」
「いえ、おかしくはありません。でも、彼ら二人は、バスに乗り込んだ最後の乗客だったようです」
「そうなの?」
「バスは、雪のためなのか、発車が遅れました。山吹たちと、あともう一人、柴田という名の女性が、あとからバスに乗ったんです。かなり遅れていたみたいです。三十分近くも。もし、予定どおりにバスが出ていたら、この三人は乗れなかったはずです」海月が淡々とした口調で話した。「マスコミは、そんなことは言わなかった。バスが遅れているとは、ひと言も報じられていない。何故か……。つまり、彼らは知らなかったのです、バスが遅れたことを」
「遅れたの?」西之園がさらに首を傾げる。「私もそれ、知らなかったわ」
「ええ、山吹君と電話で話したときに聞いたんですよ」赤柳が言った。
「だから……、何?」西之園が海月を見つめる。「何が言いたいの?」
「不自然だな、と少し思っただけです」海月は口を僅かに斜めにした。
「不自然?」
「特に、イプシロンと呼ばれている、よくわかりませんが、平均的ではない人たちが乗り込んだバスです。おそらく、ほとんどの乗客は一人だったでしょう。知り合いがいない二十人が乗っていれば、二人掛けのシートに二人が座ることはまずない。一人がそこに収まっていれば、別のシートを探します。そうなると、一番後ろが空いている状況は、確率的にも珍しい」
「だから?」
「それだけです」海月は答えた。
「わからない」西之園は首をふった。「意味がわからない。その確率的な珍しさが、どうだっていうの?」
「いえ、すみません」海月は謝った。「確固とした分析ではなくて、そういう可能性がある、というだけです。単なる、思いつきのきっかけです」
西之園は、小さく口を開けたまま、しばらく動かなかった。大きく目を見開き、数秒後には、天井を見上げ、つぎに壁を見た。もちろん、そこを観察しているわけではない。計算をしている様子だった。
「そうか……」彼女は小さく呟く。「運転手が殺されて、代理の人間が運転しているって言ってたわ」
「ええ」赤柳は思わず声を出してしまった。
「ああ、そうか」西之園が大きく頷く。「でも、えっと……」
「どうしたんです?」赤柳は尋ねた。
西之園はこちらを向き、テーブルまで近づいてきた。
「バス会社が気づいたときには、代理の運転手がもうバスを運転していたって……、そう聞きました」西之園が言った。「バスの発車が三十分も遅れたのなら、代理の確認ができたはずです。だって、その代理の運転手、事件の通報者で、重要な参考人なんですから」
「え、どの事件の?」
「バスの運転手殺し」
「それは、まだ報道されていませんね」赤柳は言う。
「どういうことかしら……。全然、そんなふうには考えていなかったわ」西之園が腕組みをする。
「そういえば、僕のところへ情報が来たのも、やけに早かったなあ」
「それは、ジャック犯の仲間が、警察に拘束されていたからです。だから爆弾の処理も、その情報に従って進めていた。最初から仲間割れして……」彼女は言葉を切った。
沈黙が二秒ほど。
「あ、そうか。なんてこと」西之園が声を上げた。「まさか、そんな……」
3
佐々木睦子は自宅のリビングでテレビを見ながら、短歌を作ろうとしていた。来週の週末に歌会がある。それの締切が今週末だった。
「どうして、私の周りにはこう、風情《ふぜい》のあることが少ないのかしら」お茶を運んできた、北林に佐々木は笑いながら言った。「川柳なら、いくらでもできるんですけれどね」
「向かいの川沿いの公園へ行かれたらいかがでしょうか」北林は微笑みながら言う。「山茶花《さざんか》がもう沢山。赤い花がこぼれるくらい咲いておりましたけれど」
「まあ、そう? 知らなかった。サザンカ? どんな字を書くの?」
「山のお茶の花、ですね」手のひらに文字を書きながら北林が答える。
「あらま、いいじゃない、いいじゃない。おあつらえ向き」佐々木は、ノートに、それを書き留める。「山茶花ねぇ、山茶花、山茶花。焚き火とかは、あ、でも、今はしませんね。うーん……。どうも、いつも面倒くさがってフィクションでいこうとするから、言葉が出てこないのよね。でも、ノンフィクションでいこうとすると、やっぱり風情に欠けるわけですよ。そう、わかっているのよ」彼女はにっこり微笑んだ。「ありがとう。大丈夫よ。自分で考えますから」
北林は頭を下げ、食堂の方へ戻っていった。
テーブルの上の携帯電話がメロディを奏でる。
「はい、もしもし」彼女はそれを耳に当てた。
「あ、睦子か、私だ」兄の声である。
「はい、どうでした?」
「無事に終わった。犯人は拘束された。爆発の報告も、今のところ受けていない」
「そう、良かったわね、上出来じゃありませんか」
「うん、しかし、お前に言われると、どうも、嬉しさが半減するような……」
「お疲れさまです。で、二人も、大丈夫なのね?」
「もちろんだ」
「ああ、良かった。萌絵に知らせますよ」
「そうしてくれ」
「テレビでは? いつ発表するの?」
「それは今から会議だよ」
「あらまあ、のんびり屋さんだこと。成功したときのことは、きっちりと考えておくものよ」
「失敗したときのことは考えていたんだが」
「そんなのは当たり前じゃないの」
「まあ、そういうわけだから」
「はいはい。わかりました。また今度、詳しく伺うわ」
「え、何をだ?」
「いろいろとね。根こそぎ葉こそぎ」
「根掘り葉掘りのことか」
「あ、そうだそうだ、お兄様ね、山茶花で、何を思い浮かべられます?」
「山茶花? ああ……、花か」
「花ですよ」
「いや……」
「なにか、連想しない?」
「なにも……、どんな花かもわからんよ」
「まぁ……」佐々木は溜息をもらす。「聞いた私が悪うございました。じゃあね」
電話を切った。続けて、姪の携帯電話をコールした。
「もしもし、萌絵?」
「あ、叔母様」
「大丈夫よ。今ね、二人とも無事だって連絡が入りました」
「二人ともって?」
「馬鹿じゃないの、貴女」
「えっと、加部谷さんと、山吹君?」
「そうですよ、当たり前でしょう。ほかの誰のことで、私が電話をするっていうの? そんな、思いもつかないこと言わないでもらえる?」
「どうして? どうして、それがわかったの?」
「そんなことは良いの。本人たちから聞けるでしょうよ」
「でも、バスが転落して炎上したんですよ。今、救助隊が谷へ降りていくところ」
「あ、そうそう、私も見ていますよ。音は消してあるけれど。あのね、山茶花で何を思い浮かべる?」
「は?」
「山茶花よ、サ・ザ・ン・カ」
沈黙。
「もしもし、萌絵?」
「はい」
「大丈夫? どうしたの?」
「叔母様こそ、大丈夫ですか?」
「ですからね。テレビの音を消して、短歌を詠もうとしているわけですよ。山茶花なのよ、それが」
「ああ、もう、信じられない」
「何が?」
「叔母様がです!」
「貴女、何を怒っているの? 良い知らせじゃないの。嬉しいでしょう? 私に任せておきなさいって、言ったでしょう?」
「ええ、あぁ……、いえ、それは、その、よくわかりませんけれど、感謝しています。あの、ごめんなさい、何がどうして、叔母様がそれを把握できたのですか?」
「良い質問ね」佐々木は口もとを緩めた。「ききたい?」
「ききたいから、きいているんじゃないですか」
「ほら、またいらいらしているわよ、貴女」
「もう……」
「ぷんぷんみたいね。あのね、別に大したことじゃないの。お兄様から聞いただけ」
「え、叔父様から? 警察はすべて把握しているってことですね?」
「そうですよ。最初から、すべてを掌握していました」
「では、警察がトリックを仕掛けたのですね?」
「トリック? それって手品のことじゃなくて?」
「それはマジックです」
「ペテンという意味でしたら、まあ、そうかもしれないわね、でも苦肉の策だったんじゃないかしら。評価されるかどうかは知りませんけれど」
「でも、バスが現に燃えて、死傷者が出ているはずです」
「そうね、そちらは誤算だったでしょう。うーん、何がどうなっているのか、私もまだ詳しくは聞いていないわ。ただ、宗教団体の会員のような人たちが乗っていたのでしょう?」
「はい」
「集団自殺なのね」
「集団自殺?」
「そう。それももちろん、警察は把握していたようですけれど、ただ、バスではなく、飛行機に乗って、海外へ行く、という計画だったらしいの。だから、それは引き留められない、と考えたのでしょうね、たぶん。その点では、その団体の方が一枚上手だったってこと。一枚上手でも、死んでしまったら身も蓋もありませんけれど」
「うーん、だいたいわかったわ」
「そりゃこれだけ説明しているんですもの、わからなくてどうするの? 赤ん坊だってわかりますよ」
「ああ、でも、本当に、二人とも無事なんですね?」
「ええ、それは大丈夫」
「良かったぁ、ああ、良かった」
「そのうち、連絡がありましょう」
「ええ……」
「じゃあ、切るわよ」
「はい、どうもありがとうございました」
「あ、やっぱり、山茶花じゃあ、なにも思い浮かばない? 駄目かしら……」
4
加部谷恵美と山吹早月は、救急車に乗せられていた。
もう一人、柴田久美も一緒だった。三人とも、横向きのシートに座っている。さきほどまでは、酸素を吸わされていたが、今は暖かい湿ったタオルを持っているだけだ。
怪我はしていない。ほんの少し目が痛い程度だった。催涙ガスのせいである。救急車は既に高速道路から出て、一般道を走っていた。知らない街だった。どこかの病院へ連れて行かれるのだろう。
いったい何が起こったのか、理解できない。否、起こったことはほぼ正確に覚えているが、そうなった理由が理解できない、という意味である。
トンネルに入ったときだった。
白い煙が車内に充満した。あっという間だった。それと同時に、バスは急停車し、前列シートの背に頭をぶつけそうになるほどだった。何人かの人間が立ち上がった。そして動いた。声を沢山聞いた。しかし、煙で見えない。
怒鳴り声。呻き声。衝突音。炸裂音。
ほんの十秒ほどのうちに、それらのすべてがミックスされ、最後にぱったりと止んだ。
だんだん、話声が聞き取れるようになる。
「やったか?」
「押さえろ」
「どこだ」
「そっちそっち」
何人もの男の声だった。
バスはエンジンを停止し、急に静かになる。
しばらくぶりの静寂に思えた。
パトカーのサイレンが一斉《いっせい》に鳴り響く。外の音だ。これまで聞こえなかっただけかもしれない。
目を開けていられなくなった。
煙が染みる。臭いも刺激のあるもので強烈だった。
「どうしたの?」ようやく、その言葉を口にすることができた。それは、多少は安全かと感じられたからだろう。
「わからない」山吹はすぐ近くにいる。
気がつくと、加部谷は山吹にしがみついていた。加部谷を覆うようにしていた山吹が、少しだけ体勢を戻した。彼の顔を、加部谷は見上げる。でも、目が痛くて、長くは見ていられなかった。
「外へ引き出せ」
「そっちだ。ドアを開けろ」
「おおい、外、こっちへ頼む」
「気をつけろよ」
まだ声は続いていた。叫んではいるけれど、しかし作業をしているような落ち着いた口調だった。
ドアが開く音がしたが、煙で前は見えない。窓を開けても良いだろうか、と考えた。
新鮮な空気がとにかく吸いたい。
なんとか窓を開けようと右へ移動。すると、前のシートから柴田の白い片手がこちらへ出ていた。咳《せ》き込んでいる彼女の顔が少し見える。
その手に触って、加部谷の右手が交代する。前の片方は柴田が、後ろは加部谷が担当。窓が持ち上がった。トンネルの中の空気。排気ガスの臭いがしたものの、それでも冷たくて新鮮だった。深呼吸をすることができた。
「大丈夫?」加部谷は柴田に声をかけた。
柴田は真っ赤な顔をしていたが頷いた。まだ咳をしている。
「出たぞ」
「よし、全員、退避!」
大きな声が前から聞こえる。
ヘルメットをかぶった大男が通路をこちらへ近づいてきた。加部谷は緊張する。しかし、あの男ではない。警官か。
「バスから降りて下さい」男は言った。「急いで」
「荷物は?」山吹が立ち上がってきいた。
「荷物はあとにして下さい。さあ、早く。爆発する危険があります」
加部谷も立ち上がる。前のシートの柴田も既に立っていた。
山吹は、通路に出たところで、加部谷をさきに通した。加部谷は柴田の手を握って、一緒に通路を前に進んだ。
警官の背中を追って、煙に霞んだ通路を前へ。
加部谷、柴田、そして山吹の順だった。
ステップのアルミニウムの模様。それを確かめながら下りた。
アスファルトの道路を進み、コンクリートのブロックを跨ぎ、側道をさらに歩く。急いで歩いた。一度振り返ったとき、バスはまだヘッドライトをつけたままだった。
大勢が道路に立っている。
パトカーの赤い光が煙を掻き混ぜているようだった。
もう少し行ったところで、救急車が待っていた。トンネルの出口から入ってきたようだった。消防車がさらにその先に何台も見えた。トンネルの出口が、カーブした先に見え始める。まだ数百メートルあるだろう。
三人は救急車に乗り込んだ。鼻に当てるプラスティックを渡される。チューブが繋がっている。酸素らしい。加部谷は吸ってみた。あまり違いはわからなかったが、とにかく信じて、深呼吸をしてみる。
「気分はどうですか?」救急隊員の男が車の外に立っていた。
「僕は大丈夫です」
「私も」加部谷は答える。そして横の柴田を見た。
「はい」柴田は頷く。目が充血し、涙を流していた。
「あの、ほかの乗客は?」加部谷は尋ねた。
救急隊員は振り返ってバスの方を見た。それから、こちらをもう一度向き、にっこりと微笑んだ。彼は乗り込んできて、ドアを閉める。
「ベルトをして下さい。できますか?」男は言う。そして前に向かって声をかける。「はい、後ろ完了しました」
サイレンが鳴り、救急車はすぐに走りだした。
あっという間にトンネルを抜け、明るい別世界へ飛び出していく。
「犯人は? 捕まったのですか?」口からマスクを離して、山吹が救急隊員に質問した。
「さあ……。たぶん、捕まったんじゃないですかね」
加部谷は山吹と顔を見合わせた。酸素マスクをしたままだった。
5
国枝研究室には、山吹以外の院生や留学生が集まっていた。
国枝助教授も、会議の開催がキャンセルされたため、今部屋へ戻ってきたところである。ゼミ用テーブルのコーナの椅子に深々と腰掛け、脚を組み、リラックスした様子だったが、西之園萌絵がテーブルにコーヒーカップを置くと、それに手を伸ばした。
西之園がその隣に座り直す。その次の椅子には赤柳初朗がいる。海月及介は、少し離れたデスクの椅子に納まっていた。そのデスクが山吹のものだったからだ。この四人のほかに、日本人の学生が二人、中国人が一人、韓国人が一人いる。
テレビでは、谷に転落したバスの乗客を救出する様子を生中継で流していた。二人の若い男性が助け出され、一人ずつ担架がヘリコプタへ引き上げられる作業が終わったところである。現在まで、死亡が確認されているのは一名だという。まだ二十人近い人間が乗っていたはずだ、とレポータは繰り返していた。
「イプシロンのことは、ひと言も出ませんね」西之園が赤柳に囁いた。
「知らないのでしょう、マスコミは」
「警察が隠しているということですか? うーん、どうかな。でも、黙っていたら、あとでなにを言われるか。今回の事故は、防げたはずだって」
「そうですね。このバスの転落事故は、まったくの想定外だったわけですからね」赤柳は言った。「こちらは、飛行機に乗り込むまえに、なにか理由をつけて保護する、という方針だったのでは?」
「あるいは、それをするかしないかで議論をしている最中だったか」西之園は言う。
「まあ、そんなところでしょう」赤柳も頷いた。
「何の話をしているの?」国枝がきいた。
「あ、いえ」西之園が、国枝の方へ笑顔を向けた。「あとで、すべて、丁寧にご説明します、先生」
「山吹君と加部谷さんが助かったっていうこと、テレビはまだ知らされていないわけ? 名前、言わないね。トンネルの中で降ろされたのでしょう?」
二名の男女がバスを降りたことは、マスコミも報じていた。
「えっとですね……」西之園は躰の向きを変えて、座り直した。「このバス……」彼女はテレビを指さした。「このバスに乗っていたうち、二人の人間がトンネルの中で降ろされて、警察に保護されています。それは事実です」
「それが、山吹君たちじゃなかったの?」
「いいえ、違います。このバスに乗り込んでいた人たちは、全員が、自殺をしようとしていたのです。よくはわかりませんが、言葉にすれば、つまり、集団自殺」
「うん、それはさっき言ってたね」国枝は頷いた。腕組みをしている。「犯人は、どうして、その二人だけを降ろしたの?」
「いえ、このバスには、犯人は乗っていません。犯人というのは、その、バスジャックの犯人のことですけれど。でも、運転手を殺した犯人は乗っていたと思います」
「は?」国枝は口を少し開けた。「貴女ね、もう少し、他人が理解できるように話せない?」
「すみません、なんか嬉しいのと、眠っていないのとで、ハイになっているのかしら、ぼうっとしているみたいですね」西之園は白い歯を見せる。「いいですか? 説明しますよぅ」
「しなさいよ」国枝はむっとする。
「まず、東京発中部国際空港行きの高速バスに、イプシロンという団体名の客が大勢乗ろうとしていました。このイプシロンというのは、ネットで募集された人たちで、お互いに面識はありませんでした。飛行機に乗って外国へ行き、そこで自殺をしよう、という団体だったみたいです。想像ですけれど」
「既に頭が痛くなりそう」国枝が言った。
「ところが、このバスが乗っ取りに遭う、という情報が警察にもたらされました。テロ組織が、政治的要求のために、バスジャックを計画し、都会の数ヵ所に爆弾を仕掛けたうえ、それを起爆させられる送信機を持った人間が、バスに乗りこんで、人質を取る、という計画です。おそらく、人質を連れたまま、飛行機に乗って国外脱出をするつもりだったのでしょう。この頃、飛行機はチェックが厳しいですから、空港に入るまえに人質を取ってしまおうと考えたわけです。空港行きのバスが狙われたのは、このためだと思います」
国枝は無言で頷いた。眼鏡を指で少しだけ持ち上げる。
「警察は、そのバスが出発する以前に、ジャック犯の情報を得ました。テロ組織の一員が拘束されて、計画について供述したからです。ですから、この計画を未然に防ごうという作戦が実施されたわけです。短い時間でしたので、爆弾の処理は間に合いません。犯人を取り押さえても、爆弾のスイッチを押されたら、処理をしている途中の警官にも被害が及びます。したがって、爆弾の処理をしていることを、しばらくの間は隠したかった。かといって、バスを計画どおり乗っ取らせては、人質を取られて、事態は悪化します。そこで、大がかりな囮《おとり》作戦を実施することになったわけです」
「囮作戦?」
「ええ、なんというか、ここが今回のトリックですね。トリックを仕掛けたのは、警察側だったのです」
「トリック?」国枝が片方の眉を僅かに持ち上げた。「いちいち、言葉がずれているような気がする」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。これこそ、正真正銘のトリックです。犯人が仕掛けるトリックなんてものは、現実にはほとんどありませんからね」西之園は話を続ける。「いいですか。どうしたのかというと、急遽《きゅうきょ》、もう一台、バスを用意したのです。本当のバスではなく、乗っ取りに遭うための囮のバスです」
「ああ、そういうことか」国枝が脚をほどき、頷いた。
「そうです。イプシロンの団体さんは、たぶん、別の発車場へ誘導して、こちらが正規のバスですが、そちらに乗せました。一方、バス停では、警官が乗客の振りをして乗り込んだ」
「わかった」国枝が片手を広げた。「もういいよ」
「駄目」西之園は首をふった。「まだ途中です。最後まで聞いて下さい。私が説明をしているのですよ、先生。ほら、みんな聞いているじゃありませんか」
「まったく……」国枝がまた腕組みをして、口を斜めにする。
「正規のバスの方は、時刻どおり出発しました。ただ、一つだけ、警察が想定していなかったトラブルが発生しました。そのバスの運転手が入れ替わっていたのです。可哀相に、これは、本当にとばっちりですね。バスの運転手は、殺されたそうです。殺した男は、その同僚でした。その彼が、このバスを運転したのです。私の想像ですが、おそらく、その犯人もイプシロンの一員だったのです。自分もこのバスに乗って、自殺をするつもりでいたのでしょう」
「最悪だな」国枝が呟くように言った。
「最悪です、本当に」西之園も顔をしかめた。「こちらのバスは、走り始めてすぐに、無関係な乗客を降ろしたそうです。高速道路に入るまえにです。警察はこれを把握していましたが、公表は遅らせることにしました。当然ながら、バスジャックの組織に情報が流れることを恐れたわけです。私が聞いた話では、バスの一番前に、このイプシロンのグループのリーダのような人物が乗っていて、その人が、このバスは楽園行きなので、死にたくない人間は、今のうちに降りて下さい、と丁寧に説明をしたらしいです。もちろん、不気味だし、怖がって、一般客は全員降りました。その後も、正規のバス停にも止まらず、走り続けたそうです。このことから、運転手もイプシロンの賛同者だったと、想像できます」
「マスコミのヘリが追いかけていたのは、そちらのバスだったわけですよ」赤柳が補足した。
「どうしてかというと、警察が用意した方の囮のバスは、発車が遅れたからです。三十分も遅れたそうです。東京は昨夜、雪が降って、道路が渋滞したそうです。しかし、この雪のために発車が遅れるということはありません。遅れた理由は簡単です。犯人がぎりぎりになるまで来なかった。それに、警察は少しでも時間を稼ぎたかった。都合良く雪が降ったので、それを理由にして遅らせることができる、と考えたわけです。発車を遅らせ、大勢が配備につく時間を稼いだのだと想像します」
「それに、山吹君たちが乗ったわけだ」国枝が言った。「そうか、乗り遅れたのか。自業自得と言えなくもないな」
「いえ、もし、時間どおり駆けつけていたら、もしかしたら、もう一方のバスへ誘導されていたかもしれません。警察の係員が、バス会社の人間の振りをして、たぶん、プラカードを持って、イプシロンの団体の方はあちらのバスです、と誘導をしたと思います。というか、犯人ではなさそうな人間を、そちらへ乗せた。できるかぎり人質を少なくしたかったからです。きっと、この人が犯人だ、というのは一目見て判断がついたでしょう。でも、取り押さえることはできません。その犯人は、そのままバスに乗せて、あとの乗客は、なんとか理由を言って、別のバスへ誘導する。そういう段取りでした。そして、そちらの正規のバスは、さきに出発させてしまったのです。運転手が入れ替わっていましたが、それは、警察も、また、発車場の関係者も、そのときは問題にもしていなかったわけです。ですから、この警察の囮作戦は成功して、一般客だけを違うバスに乗せたのですが、そのバスが発車したあとに、駆け込んできた乗客が三人いたらしいのです。そのうちの二人が、加部谷さんと山吹君だったわけです。もちろん、犯人が見ていますので、雪で遅れている、という振りをしている以上、その三人を乗せないわけにいかなかった。このバスは違います、などと説明すると、犯人は不審に思うでしょう。気づかれてしまう可能性があります。既に犯人はバスに乗っていて、発車を待っています。ほかの乗客は全員が警察官でした」
「その、もう一人の人は?」国枝が尋ねた。「その人は、イプシロンの人だったの?」
「そうだったみたいです」西之園は頷いた。「団体のリストに名前がある女性でした。遅刻してきたのです。結果的には、そのために助かったわけですけれど。警察は、この遅れて乗り込もうとしている一般客には困ったと思います。たぶん、前の方のシートをわざと占領し、荷物を置いたりして、彼らが最後尾へ行くように配慮することくらいしかできなかった。とにかく、爆弾処理が完全に終了するまでは、大人しくしているしかなかったわけです」
「バスにも、爆弾が仕掛けてある可能性があったのでしょう?」
「それも想定していたはずです」西之園は頷く。「一番可能性が高いのは犯人のトランクなどの荷物です。バスの下部に入れることになりますが、犯人が乗ったあと、他の客の荷物を入れるときに、隙を見て、バスの外に出したかもしれません。それから、イプシロンの団体の方に、テロ組織の人間が乗り込んでいる可能性だって、完全には否定できません。パトカーはそちらのバスも監視はしていたはずです」
「面倒なことになったものね」
「しかし、正規のバスが発車し、そのバスからは一般客が降ろされました。共犯者がこのバスに乗っているとしたら、バスが二台あって、別々に乗っていることになりますから、警察の作戦に当然気づくはずです。しかし、犯人にはそれらしい気配がない。だから、共犯者はいないだろう、というのが警察の考えだったと思います。もしかしたら、遅れて乗り込んできた山吹君が疑われたかもしれませんけれど、実行犯が遅れてくることはまずありえません。ですから、バスが走り始めた時点で、爆弾処理を終えることが最大のハードルでしたし、そしてまた、爆弾はそれですべてなのか、ということがその次の問題でした。ただ、数時間をかけて、すべての爆弾の処理が終わったところで、供述の信頼性も増したでしょうし、もう、できることは終わったわけですから、あとは、車中の実行犯一人を取り押さえるしか選択はありませんでした。警察は、爆弾の起爆コントロールが携帯電話によるものだと推測し、トンネルの中での作戦を決行したのです。携帯の電波は、山間地やトンネルなどでは、専用のブースタによって電波を受信できるようにしています。まず、これらの装置を一時的に止めて、携帯電話が使えないようにしました。少しでも危険を回避しようという配慮でした」
「成功だったの? どこかで爆発しなかった?」国枝がきいた。
「ええ、今のところ、被害はなかったみたいです」西之園は頷いた。
「こっちのバスが爆発したのは、どうして?」国枝はテレビを指さした。
「わかりませんが、あれは爆弾ではなかっただろうと思います」西之園は言った。「確実に死ねるように、ということで、灯油か、それともガソリンでしょうか、それを車内にまいて火をつけたのではないかと……。飛行機に乗るつもりでいたけれど、本当は、飛行機のチケットは取っていなかったようです。金だけは取って、騙した人間がいるのかもしれません。自殺をしようとしている人間からも金を巻き上げるなんて、やりきれない感じですけれど。あと、パトカーが近くにいたわけですから、空港まで行ったら、捕まってしまうのではないか、という不安があったのかもしれません。それならば、ここで死のうと……。バスの運転手も仲間ですから、バスごと自殺することが可能です。トンネルの中で一度停まって、これからこのバスで谷底へ落ちる、という説明があったのかもしれません。生存者が二名いますので、のちのち明らかになるのではないでしょうか。しかし、難しいですね、これがどう法律で解釈されるのか。少なくとも、死にたくないと思った人は降ろしたようです。そうなると、完全な殺人ではありませんよね」
「自殺するのなら、もっと人の迷惑にならないところでひっそりとやってほしいな」国枝が言った。
「電車に飛び込むよりは、無関係な一般人には迷惑がかかっていない、と見るべきでは?」
「あんな、救助する人だって大変じゃない、仕事とはいえさ」国枝はテレビを指さした。「そう思ってテレビを見ている人が多いと思うよ」
「平均的な意見だと思います」西之園は言った。
「たまには、普通のことを言わないとね」国枝は溜息をつく。「まあ、良かった。山吹君たちが無事で」
「そうですね」
「あの、先生」部屋の奥で院生の一人が手を挙げた。「今日のゼミは、どうするんですか?」
国枝はそちらを向いた。睨みつけるような視線である。
「あ、もちろん、やりますよね」院生は頭をかく。「はい、ちゃんと、準備はしてありますけど……」
[#改ページ]
エピローグ
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オームは弓、魂は矢、
梵は矢の的
断じて射あてよ。
[#ここで字下げ終わり]
加部谷恵美は、病院の待合い室のベンチに腰掛けている。山吹は少し離れたところで雑誌を読んでいた。携帯電話はなかった。うっかりバスのシートに忘れてきてしまったからだ。警察が届けてくれるとは聞いている。ただ、電話をかけることができた。家にも連絡をした。家族の声を聞いたときには、また涙が出た。
彼女のすぐ隣に、柴田久美が座っていた。手にはウサギのぬいぐるみが握られていた。くうちゃんは無事だった。柴田は俯き気味のまま、自分のことを断片的に語ってくれた。その話を聞くだけで、加部谷も涙が止まらないほどだった。
待合い室のテレビは、今は普通の番組に戻っている。バスの救出に関するニュースは、もう大衆の最大関心事ではなくなった、ということだろう。
あちらのバスに乗っていたら、私はきっと降りられなかった、と柴田は呟いた。きっと死んでいただろう、と。
「死にたかったの?」と尋ねると、
「わからない」と彼女は首をふった。
自殺って、こんなものかもしれないな、と加部谷は思った。
でも、わからない。理解することはできないだろう。自分は、少なくとも自殺しようと考えたことがない。たぶんない。辛いことがなかったからだろうか。それとも、辛いと思わない、鈍感さのおかげだろうか。これは、幸せなことだろうか。
たぶん、幸せだと思う。
そうじゃないかな、と思う。
「もう、絶対に死のうなんて考えちゃ駄目だよ」加部谷はそう声をかけるしかない。
だけど、死のうと考えることは、きっと自由なのだ。
それを考えられることは、人間の尊厳の一部。
考えても良い。
考えるべきなのだ。
そして、考えても死なないことに、価値があるのではないか。
結果として、死ななかったことに、価値があるのではないか。
そんな気がする。
今は、それが一応の、この場かぎりの、結論のように思えた。
考えるだけで、涙が出るのは、どうしてだろう。
生きている、という喜びではない。
死に直面した、という恐れでもない。
悲しみでもない。寂しさでもない。
どうして、涙が流れるのだろう。
だけど、
涙が流れることは、とても気持ちが良かった。
少しだけ、なにかが綺麗になるような気がするから。
流される。
小さな疑問、小さな欺瞞《ぎまん》、
小さな偽り、小さな誇り、
いろいろなものが涙で流されていく。
それが清々しい。
そんなふうに感じるのだった。
「とにかく、良かったじゃない。くうちゃんも、きっと喜んでいるよ」
喜んでいるのは、誰だろう?
自分?
それとも、自分を知っている誰か?
また会える、また、みんなに会える、という嬉しさ?
他人との関係が壊れていない、という確認の嬉しさ?
柴田久美の肩を抱いて、加部谷は何度も、良かったね、と繰り返した。
良かったのだろうか。
その疑問に、答はない。
きっとないだろう。
問題を先送りにすること、それが生きるということだ。
とにかく、今は死ななかった、それだけのことだ。
なのに、涙が出る。
変だな。
本当に不思議だ。
山吹が近づいてきた。
「ゼミ、やっているかなあ」彼は隣のベンチに腰掛けながら言った。それから、溜息をつき、呟くように言う。「あぁあ、やっぱり、叱られるかなあ」
「叱られませんよ、そんな」加部谷は吹き出した。
「え?」山吹がこちらを向く。
「国枝先生にでしょう? 怒るはずがないじゃないですか」
「違う違う」山吹も吹き出した。「姉貴だよ」
「え?」
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冒頭および作中各章の引用文は『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ著、高橋健二訳、新潮文庫)によりました。
[#ここで字下げ終わり]
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底本
講談社 KODANSHA NOVELS
ε《イプシロン》に誓《ちか》って
著者 森《もり》 博嗣《ひろし》
二〇〇六年五月九日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社講談社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26