τになるまで待って
森 博嗣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)伽羅離館《がらりかん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西之園|萌絵《もえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)必然的に[#「必然的に」に傍点]
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〈帯〉
超能力者の洋館での惨劇!
森ミステリィが館モノに!?
嵐の山荘≠ナ起こる密室殺人=I
[#改ページ]
〈カバー〉
清新なる論理、森ミステリィ
惨劇は、人知れず最初の小さな亀裂を生じさせる。
森林の中に佇立する〈伽羅離館《がらりかん》〉。超能力者$_居静哉《かみいせいや》の別荘であるこの洋館を、7名の人物が訪れた。雷鳴、閉ざされた扉、つながらない電話、晩餐の後に起きる密室殺人。被害者が殺される直前に聴いていたラジオドラマは『|τ《タウ》になるまで待って』。ミステリー≠ノ森ミステリィが挑む、絶好調Gシリーズ第3弾!
かつてここに通っていた生命があって、
どこまでも深く、いつまでも遠く、
すべてが持続するものだと信じていた。
「そう信じたまま死んでしまったのね?」
「死んでしまったら、すべてそのままだ」
「でも、朽ちて、消えていくでしょう?」
「それは別のものが生きているせいだよ」
[#改ページ]
τ《タウ》になるまで待って
[#地から1字上げ]森 博嗣
[#地から1字上げ]講談社ノベルス
[#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS
[#改ページ]
目次
プロローグ
第1章 不可逆の入口
第2章 不連続の晩餐
第3章 不可能な隔絶
第4章 不自然な事象
第5章 不明瞭な退路
エピローグ
[#改ページ]
[#中央揃え]Please stay until τ
[#中央揃え]by
[#中央揃え]MORI Hiroshi
[#中央揃え]2005
[#改ページ]
登場人物
神居《かみい》 静哉《せいや》…………超能力者
木俣《きまた》 裕次《ゆうじ》…………MNIの元事務長
富沢《とみさわ》 健太《けんた》…………新聞記者
鈴本《すずもと》 倫子《のりこ》…………カメラマン
登田《とだ》 昭一《しょういち》…………不動産業者
山下《やました》 美枝《みえ》…………信者
平井《ひらい》 綾《あや》……………信者
赤柳《あかやなぎ》 初朗《はつろう》…………探偵
加部谷《かべや》 恵美《めぐみ》………C大学2年生
海月《くらげ》 及介《きゅうすけ》…………C大学2年生
山吹《やまぶき》 早月《さつき》…………C大学大学院M1
西之園《にしのその》 萌絵《もえ》………N大学大学院D2
国枝《くにえだ》 桃子《ももこ》…………C大学助教授
犀川《さいかわ》 創平《そうへい》…………N大学助教授
佐々木睦子《ささきむつこ》………西之園萌絵の叔母
諏訪野《すわの》……………西之園家の執事
近藤《こんどう》………………愛知県警刑事
鵜飼《うかい》………………愛知県警刑事
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_008.png)入る]
次にファイノメナ〔現象《フェノメーネ》(複数)〕とは、明るみにあるものの、あるいは光のもとにもたらされうるものの総体、換言すれば、ギリシア人が時おり単純にタ・オンタ(存在するもの)と同一視したものの総体です。いまや存在するものは、さまざまの仕方で、かれへの接近の仕方に応じて、自分から自分を示すことができるのです。さらに存在するものは、かれ自身でない[#「ない」に丸傍点]ところのものとしてみずからを示す、という可能性すら成立するのです。
[#地付き](SEIN UND ZEIT / Martin Heidegger)
[#改ページ]
プロローグ
[#ここから5字下げ]
こうして物体は、自分の総体の延長を保持しながら、しかも、しばしば異った次元に向って全延長の配分を変えることができて、したがって一であり同一事物でありながら種々の形態をなしてみずからを呈示するのです。
[#ここで字下げ終わり]
山吹早月《やまぶきさつき》と加部谷恵美《かべやめぐみ》、そして海月及介《くらげきゅうすけ》の三人は、森の中の小径《こみち》を歩いていた。聞こえるのは、乾燥した落ち葉を踏みつける音。まるで大急ぎでサラダを食べているような音。それでも樹木は新しい葉を茂らせていたため見通しは悪い。見渡す限りに森林が広がっていることだけは確かである。寿命を終えた植物にさらに取りつく植物、道の左右にはそんな連鎖が堆積して、地面がどこにあるのかさえわからないため、おいそれとは踏み込む気にはなれなかった。進める道の幅は狭く、二人並んで歩くことは難しい。結果として、口数が少なくなる。おしゃべりの加部谷でさえ、途中からほとんど口をきかなくなっていた。
山吹が先を歩き、その後ろに加部谷、そして最後が海月の順である。山吹はときどき振り返って二人に話しかけたが、言葉を返すのは彼女だけで、海月はほとんどものを言わなかった。加部谷も海月に話しかけていたが、同様である。会話のブラックホールのような存在といえよう。海月に対しては、返事を期待する気持ちからか、つい疑問形になってしまう。したがって、珍しく返事がもらえたとしても、単に「ああ」か「いや」といった短い音だけになるのである。そんなやり取りが後ろから聞こえてくると、思わず振り返ってしまう。躰《からだ》を捻《ひね》って歩く必要があるため、エネルギィを余計に消耗していると感じて、山吹はだんだん不機嫌になりつつあった。
実は、三人だけではない。彼らの前方十メートルほど離れたところを赤柳初朗《あかやなぎはつろう》が歩いていた。山吹たちは、赤柳についてきただけである。目的地がどこで、そこはどんな場所なのか、三人は正確に知らされていない。「古い家でね、ちょっとした調べものをしなくてはいけない。時間が限られているから、人手が必要なんだ」というのがバイトの内容説明だった。
赤柳の職業は探偵である。探偵というのは、あまり身近な名詞ではない。少なくとも、山吹のこれまでの人生においてはそうだった。例外として、幼い子供が「僕は探偵だ」と言う場合があるくらいで、赤柳と知り合う以前には、そんな仕事をしている大人に出会ったことは一度もなかった。山吹は離島の出身だったが、おそらく島には探偵など一人もいなかったにちがいない。小説やドラマあるいは漫画に登場する探偵ならば、もちろん知っている。だから、それがこうして自分と同じ時代、同じ地域に存在していたことに、最初は小さな感動を覚えたほどである。
しかしだからといって、興味があった、というほどではない。加部谷恵美は、探偵という属性に、おそらく本人の勘違いだとは思うが、特別な感情を抱いているようだった。日頃からその方面の話を持ち出すことが多い。おそらく、フィクションの中の探偵に対する子供の頃からの憧れがあったためだろう、と推察できる。けれど、山吹の場合には、そういった憧れさえ持った覚えがない。それは、探偵が、特殊能力を持ったヒーロたちと同様に非現実であり、自分の人生と重ねることが可能な存在だとはどうしても考えられなかったからだ。変身してマスクを被って派手なオートバイに跨《またが》るところまではぎりぎり許容できるものの、この世のものとは思えない動物に素手で向かっていく無謀さは、明らかに人間離れしている。
加部谷にしても、将来自分が探偵になりたいと真剣に考えているわけではきっとないだろう。その点は、やはり、男子と女子の社会へのアプローチの違いではないか、と彼は考えたこともある。
先を歩いていた赤柳が立ち止まって、山吹たちを待っていた。
「もうすぐだから」にこにこと髭面に笑みを浮かべながら赤柳が言った。
「本当にこの道しかないんですか?」山吹は尋ねる。
「うん、そう聞いたけれどね」そう言って頷《うなず》くと、赤柳はまた歩き始めた。
「すっごいですよね」加部谷が高い声で言う。少なからず息が上がっている様子だった。「こんなところに、人が住んでいるなんて、郵便屋さんとか、いい迷惑じゃないですか」
「今どき、自動車で行けない場所って、あるかなあ」山吹は溜息をつきながら言った。
「あるよ。南極とか」赤柳が前を向いたまま言う。
「でも、愛知県内でしょう? ここ」加部谷がまた早い息を吐く。
「だいたい、その建物、どうやって建設したんです? この道を、建築資材を担いで運んだんですか?」
「あ、そうそうそう」山吹のすぐ横で加部谷が声を弾ませた。
「さあね」赤柳は振り返る。「昭和基地とか、それから、富士山の頂上にだって天文台があるよ」
そういう特殊な場所へ自分たちは向かっているのか、と山吹は思った。振り返って、海月を確かめる。変化なく無表情のまま、ポケットに両手を突っ込んで歩いていた。彼の場合、どこにいても同じだ。周囲の環境に影響を受けにくい人格としては、おそらく右に出る者がないだろう。
時刻は午後四時。バイトは一泊の予定である。寝る間もなく作業があるのか、それとも少しは休めるのか、そのあたりも多少心配ではあった。
このバイトは、山吹の友人、舟元《ふなもと》から回ってきた話である。舟元は、赤柳探偵と同じマンションの隣に住んでいる。最初は、舟元に誘われ、二人だけでバイトをするつもりだった。夜を徹する作業とはいえ、力仕事ではなく比較的割の良いバイトらしい。ところが、三日ほどまえに舟元の実家で不幸があって、彼がどうしても来られなくなってしまった。それで、親友の海月及介にお願いをした、という経緯である。もともと、山吹自身は定期的なバイトをしていない。親からの仕送りで暮らしている。これは海月も同様で、彼がバイトをしているところを見かけたことはない。ただ、週末のことでもあるし、ちょうど大学もそれほど忙しくない時期だったので、自分も引き受けたし、また、海月も誘いやすかった。
海月は、山吹と同じ歳だが、大学での学年は三年も下で、まだ学部の二年生だ。後輩の加部谷恵美と同学年になる。学部の試験期間が終了したところで、これからしばらく大学へ出ていくこともないだろう。この男は、ときどき一週間ほど行方知れずになることがある。どこかへ一人で旅行に出かけているようだ。だから、今回もまたいなくなるものだと予想していたが、バイトの話を持ちかけたら、意外にもあっさりと乗ってきた。
さらに、赤柳から、もっと人数が集まらないか、と言われたときには、もう一人、加部谷の顔が思い浮かんだ。やはり、探偵の手伝い、という響きだけで、彼女を連想したのだが、いくらなんでも夜通しのバイトに女性の加部谷を誘うわけにもいかない。そう考えて彼女には話さなかった。この方面に関しては、山吹は自分が相当に保守的だと自覚している。ところが、昨日になって、この情報が漏れてしまい、急遽《きゅうきょ》予定を変更、結局は彼女も参加することになったのである。
昨日の午後、加部谷から電話がかかってきた。
「あ、はい」山吹はボタンを押して電話を耳に当てる。自宅で料理を作っているときだった。
「もしもし、山吹さん、どこにいるんですか?」加部谷の高い声がつんつんと尖《とが》って聞こえてきた。
「家だよ。料理中」
「へえ、いいなあ。海月君も一緒でしょう?」
「あ、うん……、そうだけど」
「あ、やっぱり! ディナですか? 少し早くないですか? もの凄《すご》いご馳走を作ってるとか?」
「えっと、何? 用事は」話が長くなりそうな嫌な予感がしたので、山吹はひとまずコンロの火を止めた。
「今ですね、研究室に来たとこなんですよ。ケーキ買ってきたのにぃ。もの凄い残念じゃないですか、これ。ああ、こんな残念って、もう人生でもありえないですよね。あのお、海月君って、何してるんでしょうか? まあ、読書でしょうね」
「うん、そうだよ」
「それくらいしか思いつきません、はい。このところ見かけなかったので、ほんのちょっぴり心配してたんですよ。そう言っておいて下さいね、彼に。加部谷の愛をそろそろ受け入れたらどうかって、親友からアドバイスしてやってくれませんか?」
「それ、本気? だったら、言ってやるけど」
「え? ホントに? あらら……、どうしようかなぁ」
「用事は?」
「いえ、そのぉ……、うーん、せっかくの週末ですから、山吹さんや海月君と、お茶しながら、楽しいおしゃべりがしたいなあって、思っただけです」
「うん、残念だったね」
「ですよね……、しょぼーん」
「じゃあまた、今度」
「あ、待って下さい! 誘ってくれないんですか?」
「え?」
「でもなあ、ちょっと遅いですよね、今からだと」
「そうだね」
「うわ、防火シャッタみたい。遮断!」
「え?」
「明日は? 明日はどうですか?」
「土曜日だよ」
「知ってますよう、それくらい」
「明日はね、駄目。バイトなんだ」
「へえ、珍しいじゃないですか」
「うん、まあね」
「じゃあ、海月君にアポを取ろうかなぁ」
「あぁ、えっと……、海月もバイトだよ」
「え? 彼が?」
「同じバイトをするんだ」
「ぐは!」
「何、ぐはって」
「うーん、じゃあ、日曜日! 明後日は?」
「いや、駄目。日曜日もバイト」
「えぇ!」
「じゃあ、明日の夜は?」
「いや、ずっと続けてバイトなんだ」
「夜通しでですか?」
「そう、夜通しで」
「一緒に?」
「ああ」
「うっそ!」
「ちょっといつ終わるともしれないバイトでさ」
「それが、海月君もなんですか? どうして、二人なんですか?」
「いや、別に二人じゃなくても、三人でも……」
「三人でもって! きえぇ!」
「きええ?」
「いいなあ、男って」
「どういう意味?」
「どんなバイトなんでしょうか? あ、きいて良かったかな、どきどき」
「それもね、まだよくわかんないんだよね。超能力者の屋敷で、えっと、いろいろ調べものをするらしいんだ。パソコンとか持ち込んで、データ入力とか……」
「は? 超能力者って言いませんでした?」
「言ったよ」
「へえ……」
「そこでね、うーん、古い本とかを読んで、古来伝わる悪魔の呪文を解読するんじゃないかな」
「うわぁ、いいなあ! 最高じゃないですか」
「そうかな」
「そんなバイトあるわけないじゃないですか! 酷《ひど》いなあ。騙《だま》されませんからね」
「いや、悪魔のっていうのは冗談だけれど、でも、本当だって。赤柳探偵の助手なんだから」
「嘘! ホントに?」
「ま、そういうわけだから……」
「どうして、私を誘ってくれなかったんですか? 水くさいじゃないですか」
「いや……」
「もう、焼け食いで、このケーキ一人で全部食べちゃいますからね。太ってやろう、もう、こうなったら糖尿病になってやる」
「それよりさ、西之園《にしのその》さんは? 遊んでもらったら?」
「うわぁ、何ですか、その突き放した言い方。ところがどっこい、西之園さんもいないんですう。はあぁ……、つまらないわぁ。孤独な週末だわぁ。一人で全部食べたら、私、ホント死ぬかもしれませんよね」
「それくらいでは、死なないと思うよ」
「冷たいなあぁ」
「友達いないの? ほかに」
「はぁ……」元気なさそうに、加部谷は溜息で空気の摩擦音を響かせた。「ええ、すみません、ご心配をおかけしましたです。もしかしたら、ひょっとして、そちらへ絶望に打ちひしがれた少女がぶらりと伺うかもしれませんから、そのときは人間愛で暖かく迎えてあげて下さいまし」
「え、どうして? 今から?」
「いけませんか?」
「いや、どうして……。困ったな」
「なんで困るんですか? 率直に言って下さい。女は邪魔だ、とか。でもケーキだけはあっても良いな、とか」
「うーん、ケーキはいらないよ。これから食事だしね。それに、飯は二人分しか作ってないしなあ」
「私はケーキを食べてから行きますので、ご心配には及びません! いいじゃないですか、それくらい」
「うーん、困ったなあ」
「ううう、ホントありえないくらい冷たいですよね、山吹さんって……」
その夜に、加部谷は山吹の下宿にやってきた。今思えば、なにもかもが彼女の思うとおりになった、ということである。
後ろを歩いている加部谷と海月を振り返って見る。加部谷は少々疲れている様子だが、微笑んだ。海月は顔も上げなかった。おそらく、加部谷は海月と一緒にいたいのだろう、と山吹は想像している。バイトはこの二人に任せて、自分は引き下がるべきだったか、とも発想した。しかし、その状況には、数多くの不安が伴う。不安? 何故だろう?
※
森を抜ける同じ小径を、数十分まえに別の三人が通っていた。先頭は年輩の男性で恰幅《かっぷく》が良い。ハンカチで額の汗を拭《ぬぐ》いながら歩いている。ときどき振り返って、後ろの二人を気にしていた。彼は登田《とだ》という名の不動産屋で、目的地への案内役だった。その後に続くのが、富沢《とみさわ》という名の三十代の男。長身、長髪で少し色のついた派手なメガネをかけている。彼は新聞社の社会部に勤める記者であり、もちろん仕事のために目的地へ向かっているのだが、ファッションはサラリーマンには見えない。その彼のすぐ後ろを、大きな鞄《かばん》を肩から掛けた痩せた女性が歩いている。名は鈴本《すずもと》。彼女はフリーのカメラマン。飾り気のない服装も短い髪も、いずれもボーイッシュ。三人の内で一番重い荷物を持っていたにもかかわらず、きょろきょろとあたりを見回す余裕の表情だった。
三人は最寄りの駅で待ち合わせた。登田が運転する四輪駆動車で県道を走り、途中から舗装されていない脇道に入った。行き止まりは砂利が敷かれた駐車場。そこで車を乗り捨てた。この駐車場が既に、目的地である屋敷の敷地内だ、と登田は説明した。そこからは、徒歩以外にアクセスできないという。距離は三キロ弱だが、上り坂で蛇行した小径は、優に一時間はかかる、と事前に聞いていたので、富沢は、歩きやすい靴を選んできたつもりである。たしかに、そのとおりだった。腕時計を見て時間を確かめたところ、歩き始めてから五十分以上が経過していたが、まだそれらしい建物は見えてこない。前後左右、四方は見渡す限り林立する樹木。空もときどきしか覗かない。ひんやりとして空気がじっと停滞し、今が朝なのか昼なのか夕方なのか判然としない。時間さえも拒んだ隔絶感を抱かせる場所だった。
「大丈夫ですか?」富沢は後ろを振り返って鈴本を見た。「荷物、重いんでしょう? 持ちましょうか?」
「いえ、大丈夫です」彼女は明るく答え、微笑んだ。白い前歯が見える。「慣れてますから」
「鈴本さんは、何を撮るのが専門なんですか?」富沢は尋ねる。彼女とは今日が初対面だった。
「なんでも撮りますよ」
「風景? 人物?」
「どちらかというと、人物が多いですね。あと、最近はペットとかも」
「ああ、ペットね」
彼がそう呟《つぶや》いたとき、あまりにもタイミング良く、犬の鳴き声が前方から聞こえてきた。大型犬らしい太い声で、一匹ではなさそうだった。どうやら、目的地が近いことを示している。
「犬がいるんですか?」富沢は前を向いてきく。
「ええ、大きなのが二匹いますね」登田が振り返った。「なんていう種類か、聞いたんですけど、忘れてしまいました。猟犬だそうです」
「わんちゃんの写真とかも撮るんですか?」後ろの鈴本がきいてきた。
「いや、ちょっとね、まだその、しっかり決めてないんですよ」富沢は振り返って説明した。「僕自身、どうもまだ、どこにポイントを置こうかなっていうところでしてね、すみません。着いたら、雰囲気を見て、きっちり決めますから……。まあ、時間はあるから、余裕で構えてて下さい」
鈴本はにっこり笑って頷いた。色白の小さな顔に、水色の野球帽を被っている。化粧をしているようには見えない。しかし、できたら、もう少しゆっくりと話ができたら良いな、と富沢は思った。
※
昨日のC大。加部谷恵美は、研究室にいた留学生の李と一緒にケーキを食べることにした。それでもまだ、箱の中には二つケーキが残っている。いつもは山吹が淹《い》れてくれるコーヒーの代わりに、今日は李が紅茶をティーバッグで作ってくれた。彼は日本語が僅《わず》かに不自由なので、あまり濃い話はできない。こうしているうちに、西之園|萌絵《もえ》が来てくれないだろうか、というのが加部谷の期待であった。
通路を足音が近づいてきた。しかし、その歩調は、西之園とは少し違っているようだ。ノックもなくドアが開き、現れたのは国枝桃子《くにえだももこ》助教授だった。
「あ、先生、こんにちは」慌てて立ち上がり、加部谷はお辞儀をした。
国枝は軽く頷き、こちらを二秒ほど睨んだ。その視線がテーブルの上へ移る。ケーキを食べている李の顔を見て、次に再び加部谷へ戻る。
「あの、ケーキがあります」加部谷は言った。そう言わざるをえない状況というか、全身に強力な圧力を感じたからである。「いかがですか?」
「いくつあるの?」国枝が尋ねた。
意外な質問だった。加部谷は一瞬息を止める。もしかして、国枝先生、お腹《なか》が空《す》いているのだろうか、と考える。
「あと、二つ、ですけど……」
「二つとも、もらって良い?」まったく表情を変えず、真面目な顔で国枝は尋ねた。
「あ、ええ……、もちろん」加部谷は即答する。「私たち、もう食べましたから」
そもそも、彼女はこの国枝研究室のメンバではない。山吹や西之園を訪ねて、頻繁に出入りしているだけのことで、基本的には部外者だ。その引け目があるからこそ、ケーキを買ってきたのだし、そのケーキを研究室の長である国枝助教授に献上することは、不本意でも不自然ではない。けれど、買ったのは自分なのだし、あと一つくらいは私のものだ、という期待があったことは否定できない。だが、葛藤《かっとう》のレベルの根本的な低さに彼女はしだいに気がつき始めた。
国枝は、黙って隣の部屋へ入っていった。そちらが教官室である。ケーキはのちほど食べる、ということらしい。ファイルを持っていたから、それを片づけにいったのだろう。
とにかく、テーブルの上をもう少し片づけ、新しい皿にケーキを取り出すことにした。一つの皿に二つのせるべきだろうか、と考えたが、どことなく下品だ。果てしなくはしたない感じがした。ケーキを食べ終わった李は、にこにこしながら自分のデスクへ戻っていった。国枝が帰ってきたので、遊んでいる姿を見せられない、ということかもしれない。
ドアがノックされた。加部谷は少しびっくりする。ノックをするのは、この部屋の住人ではない。お客である。返事をしようかどうしようか、と迷っていたら、ドアが開いた。
メガネの顔がそこにあった。髪がぼさぼさ。白いシャツにジーンズの男が部屋の中に入ってくる。
「犀川《さいかわ》先生!」加部谷は直立する。もう少しで敬礼しそうになった。
「やあ……」彼は片手を少しだけ持ち上げて、ストップ、に似たジェスチャをした。もちろん、加部谷は前進したわけではないので、ストップの意ではないことは確実である。
「こんにちは」彼女は頭を下げる。ここはとっておきの上品さを披露しなければ、と意識し、四十五度を目標に屈伸した。「私、あの、加部谷です」
「うん。こんにちは」犀川は部屋の奥を見ながら言った。
「覚えていらっしゃいますか?」ちょっと心配になったので加部谷はきいてみることにした。単なる一学生だと認識されている可能性がある。
「え?」彼がこちらを向いた。「何を?」
「いえ、私のことです」自分の鼻に指を当てる。
「ああ、もちろん」ぼんやりとした表情のまま、犀川は頷いた。
「わぁ、嬉しい……」両手を合わせて、躰を弾ませる。
「名前、なんていったっけ……」
膝を崩して、その場に倒れようかと思ったが、そういうリアクションを大らかに受け止めてくれる相手ではないかもしれない。
「ですから、加部谷です」
「いや、えっと、下の名前」
「あ、はい、恵美です」
「ああ、そうそう」小さく頷くものの、表情はほとんど変わらない。
彼女の後ろのドアが開いて、教官室から国枝が出てきた。
「犀川先生、ケーキがありますよ」国枝が言った。「李君、コーヒー淹れられない?」
「はい」コンピュータに向かっていた李が立ち上がった。「大丈夫ですね」
「ケーキはどちらでも良いけれど、コーヒーは飲みたい」犀川が言う。
「あの、私が持ってきたケーキなんですよ」加部谷は言った。そう言ってしまってから、犀川の言葉を遅れて認識して、タイミングのまずさに気づいた。
李がコーヒーメーカにフィルタをセットしている。国枝はテーブルの椅子に腰掛け、ケーキの一つを自分の前へ引き寄せた。そちらが好みなのだろう。こういうときは、客にどちらが好きかって尋ねるのが普通ではないか、と加部谷は思った。
「君は、食べたの?」犀川も椅子に腰掛け、ポケットから煙草を取り出す。
「あ、はい。いただきました」加部谷は答える。彼女はまだ立っていた。
「もう一つ食べたくない?」犀川は、煙草に火をつけ、煙を吐いてから視線を上げて彼女を見た。
「いえ、あのぉ、どうぞ、先生、召し上がって下さい」わりと上品に言えた感じである。
「私が食べましょうか?」国枝が言った。もう、自分の分は平らげていた。
「うーん」犀川は煙の深呼吸。「板挟み」
幾つか言葉を交わし、今夜、C大の会議室で学会の中部支部の委員会が開かれるらしい、とわかる。夜なのに大変ですね、ときいたところ、週末か夜でもないと全員のスケジュールが合わないからしかたがない、との返答。李の淹れたコーヒーができあがったので、加部谷がカップをテーブルに並べた。そのあと、彼女もあいている椅子に座ることにした。李は少し離れた自分のデスクへ戻ってしまったので、テーブルには犀川と国枝と加部谷の三人である。非常にプレッシャを感じた。
問題の最後のケーキは、結局、国枝と加部谷で半分ずつ食べることになった。犀川は甘いものが嫌いなのだろうか、と彼女は考えた。
「西之園さんは、ご一緒じゃなかったのですか?」なにか話さなくては、と思い、加部谷はきいてみる。
「彼女、今日はまだ来てない?」国枝が言った。
「ええ、私は会っていません」加部谷は犀川の顔をちらりと見ながら答える。彼は横を向いてしまった。彼女は国枝に向かって話す。「山吹君は、さっき電話したら、家で海月君と一緒でした。これから二人だけで料理を作ってパーティみたいですよ。良いのですか? 彼、ちゃんと研究していますか?」
「うん」国枝は簡単に頷く。それ以上の言葉は出てこなかった。
「えっと、明日はバイトだって言ってました。超能力者の館で文献探しとかなんとか」
国枝は黙ったまま表情一つ変えない。犀川も相変わらず黙って煙草を吸っている。会話がまったく続かなかった。普通、超能力者という単語を持ち出せば、少しくらいは食いついてくるものではないか。この人たちは、やっぱり普通じゃないな、と加部谷は思う。
しかたなく、静かに追加の半分のケーキを味わうことにした。
沈黙が続いたが、彼女はちらちらと犀川を窺っていた。窓の方を見つめている視線だ。一方の国枝は、テーブルに片肘をつき、顎《あご》をのせた姿勢で、壁をじっと眺めていた。どうしようか、もう帰った方が良いだろうか、しかし、それをどのように切り出せば良いのか、難しい局面である、などと軽い困惑に頭痛が始まりそうな気配を加部谷は感じる。
しかし、煙草を吸い終わった犀川がすっと立ち上がった。
「じゃあ」犀川は国枝と加部谷を一瞬ずつ見た。
「あ、あの、どうもありがとうございました」加部谷は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「え?」犀川が再び彼女を見据える。ほんの少し目を細めていた。「半分のケーキのこと?」
「いえ……」何だろう、と必死に頭を回したが、答が思い浮かばない。
「では、のちほど」国枝が無表情で言った。座ったままである。まるで心が籠《こ》もっていない感じだったが、しかし、そんな挨拶めいた言葉を国枝が口にすること自体が異例中の異例である。
犀川が部屋から出ていったあと、国枝も立ち上がって、横目で加部谷を一瞬だけ見てから、教官室へ入っていく。
加部谷は再び椅子に腰掛けた。溜息がもれ、緊張から解き放たれたためか、全身の力が抜けるような、急に重量を支えるような、そんな感じがした。
「ああ、明日からダイエットしよっと」独り言を呟く。
デスクの李がこちらに顔を向けてにっこりと微笑んだ。それに気づいて、加部谷はまた溜息をつく。
「チョーノーリョクって何ですか?」李がきいてくる。
「ああ、えっとですね、うーん、何でしょう」頭が回らないので、自分でもちょっと苛立《いらだ》たしい。「たとえば、テレパシィとか、テレポートとか、そういうやつです」
「ああ」李は頷く。「どうもありがとうございます」
「いえいえ……。今の説明でわかりました?」
※
土曜日の午後。西之園萌絵は、自宅のリビングで紅茶を楽しんでいた。一人で飲んでいたのではない。一人のときは圧倒的にコーヒーの方が多い彼女である。今日は、叔母の佐々木睦子《ささきむつこ》が訪れていた。叔母が来ると話が長くなるのが通例なので、できれば遠慮したいところであったが、しかし、相手は姪との世間話を主目的でやってくるのだから、基本的に解決することは困難といえる。事前に電話があって、お互いの時間が取れる土曜日の午後に、と約束したイベントだった。名づけるならば、ティータイム・サタデーアフターヌーン・スペシャル。
窓からは白い光。テーブル・クロスが真新しい。諏訪野《すわの》が気を利かせて取り替えたもののようだ。残念ながら、いつから替わったのか、彼女は覚えていない。カップは、一年に一度使うか使わないか、という高価なものだった。テーブルの向こう側、背もたれの高い椅子に睦子叔母は腰掛け、両手でカップを持って、こちらを向いて微笑んだ。横から光が当たり、なかなかに神々《こうごう》しい、と西之園は思った。
「叔母様、最近、ますますお綺麗になられましたね」
叔母は、カップをテーブルに戻し、それから片手で口を隠してから笑った。「ほっほっほ。何でしょう? そんな唐突なお世辞って聞いたことがないわね」
「いえ、客観的な評価をしたつもりですよ」
「そうかしら」叔母は首を傾げ、左右へ視線を向ける。「貴女のその素直さって、お兄様にそっくり。まあ、誰でも歳をとるほど、本当の美しさがわかるようになるものですけれど」
「ダイエットされたでしょう?」
「何を言うんですか」彼女はむっとして口を尖らせる。「そういう不自然な小細工じゃないの。こう……、なんていうのかしら、内から自然に滲《にじ》み出るっていうのか……」
「もしかして、化粧品を変えられた? あ、どこか新しいエステとか?」
「そういう決めつけた言われ方をすると、絶対に教えたくなくなるわね」
「別に教えてほしいなんて言ってませんよ、私。そうですか、ふうん……、でも、率直に申し上げて、なかなか素敵だと思いますよ。そのお歳になっても、そうやってきちんとしているっていうのは……」
「貴女って、いちいち言葉に刺《とげ》があるの」
「いえ、客観的に……」
「やっぱり、家族の愛情が注《そそ》がれなかったことがいけなかったのかしら」
「そう、充分に四十代に見えます」
「まあ……」叔母はテーブルに両手をつく。「私ね、これでも、三十八歳で通ってるのよ」
「え、どこを通っているの?」
「ちらほらと、いろいろなところをですよ」
「それって、詐称で訴えられません?」
「なんてことを……」
「また、新しい教室とかでしょう?」
「もういいわ。うんざり。そんなの、それなりに、新しいサークルができてしまうのよね、私の周りに。まあ、そうね、貴女の言うことも一理あるわ。立候補したら危ないでしょうね」
「そうですよ、詐称ですよ。だいたい、三十八はいくらなんでも……」
また目をぐるりと回してから、睦子叔母はカップを持ち上げて口につける。それから、こちらをじっと見据え、意味ありげににっこりと微笑んだ。
「教えてほしい?」
「え、何をです?」
「だから、美しさを保つ秘術よ」
「いえ、別に……」西之園は叔母の顔を見て、少し考えた。「秘術? 秘訣でしょう?」
「うーん、どちらかしら」
「術なんですか?」
「貴女もね、今のうちから始めた方が良くってよぅ」
「ほら、やっぱり、なにかしているんじゃありませんか」
「超能力教室っていうのがあってね」
「は?」
「そこで、奥様方を集めて、まあ、ちょっとしたマジックっていうのかしら、気の利いた隠し芸を教えてくれるの」
「あ、なんだ」彼女は吹き出した。「マジックとは、また、珍しいジャンルですね」
「そのね、講師の先生。あれは、いくつくらいかしら」指を顎に当てて、叔母は天井を見上げた。「二十九歳ってところだと思うわ」
「その方がどうかしたんですか?」
「ええ、ちょっとしたおつき合いを」
「え? 誰がです?」
「私に決まってるじゃありませんか」
「えぇ!」
「ようするに、そういうことなのよ。秘術っていうのは」
「ちょっと、叔母様、おつき合いって何です?」
「まあ、貴女にはまだわからないかもしれないわね」
「いいですけど、別に……。あの、だから、それがどうしたんですか?」
「そういうのが、若さを保つ秘術」
「あそうですか」
「コツを聞きたい?」
「馬鹿馬鹿しい!」
「そうなの。とっても馬鹿馬鹿しいものなのよ」睦子叔母はほほほと笑った。「だけどね、その馬鹿馬鹿しさこそが、貴女に欠けているものだと思うの。そうそう、犀川先生にも欠けているわね。似た者どうし、二人とも欠けているから、こむつかしい状況に陥《おちい》るんですよ」
「ちょっと待って下さい。どうして、そういう話になるんですか? 別にこむつかしい状況になんかなっていません」
「そんなことないわ。破天荒に幸せですか?」
「破天荒? 意味がわからない」
「駄目でしょう? なんか冷めてるのよね、貴女たちって」
「そりゃ、いつまでも熱々ってわけにはいきませんよ」西之園は余裕で少し微笑んでみせた。少々無理がある演技だったが。「あの、お茶のおかわりは、いかがですか?」
彼女は立ち上がって、キッチンへ行こうとする。そこに諏訪野がタイミング良く現れた。
「あ、叔母様にお茶のおかわりを」
「かしこまりました。ただ今」諏訪野はお辞儀をして、奥へ引き返していく。
部屋から逃げ出す理由がなくなってしまった。しかたなく、西之園はテーブルの席まで戻る。話の方向をなんとか変えなければ、と頭をフル回転させた。
「そこ、超能力教室っていう名前なんですか?」座りながら彼女は尋ねる。
「そうよ」叔母はにっこりと頷いた。
「ふうん」西之園は天井へ視線を向ける。「そういえば、犀川先生とも昨日、そのお話をしたばかり」
「そういうお話しかできないんじゃなくって? 貴女方」
「流行《はや》っているじゃありません? また、超能力が」
「誰も、非科学的なことを信じているわけではありませんよ。でもときどき、おや? あれはどうやっているのかしら? って一瞬でも首を傾げさせることができたら、それはもう立派な超能力ってことでしょう? 普通の能力を超えているんですから。常識的ではないから、変だな、不思議だなって思う。そんな盲点を突いてくるのね」
「叔母様、なにか手品ができるようになりました?」
「ええ、もちろん」目を丸くして叔母は頷いた。「あの人に見せて、驚かせているの」
「私にも見せて下さいよ」
「今度ね。でも、貴女は駄目よね。騙されようっていう優しさがそもそもないもの」
「ああ、それはそうかも」西之園は頷いた。「見破っちゃいますよね、絶対に」
「そういう人の前ではやりたくないわ」
「可愛らしいことをおっしゃいますこと」西之園は吹き出した。
※
惨劇は、人知れず最初の小さな亀裂を生じさせる。そして、誰も気づかぬうちに四方へその先端を伸ばす。既に不可逆。破滅が目に見える頃には、もう最終段階。ぱんと弾け飛ぶように、一気に周囲へ拡散し、形を消すことで露わになる。
のちになって振り返り、これをくい止めるためにはどこで何をすれば良かったのか、
といくら悔恨したところで、次も最初の小さな徴候を見出すことはできない。
森林の中に建つ洋館は、神居静哉《かみいせいや》の別荘で、〈伽羅離館《がらりかん》〉と呼ばれていた。この土曜日に幾人かの来訪者があったため、その入口のドアが開けられ、ゲストは招き入れられた。しかし、二度とそのドアが開くことはなかったのである。
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第1章 不可逆の入口
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さてどのような点に着目して、形式的な現象概念は形式を脱して現象学的な現象概念に転化せずにいられなく、またどうして後者が通俗的なそれと区別されるのでしょうか。現象学が「見させる」ものは、何ですか。優れた意味で「現象」と名づけられるところのものは、何ですか。本質上必然的に[#「必然的に」に傍点]、はっきりした[#「はっきりした」に傍点]呈示の主題は何ですか。
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1
その建物は少し変わっていた。山吹たち三人は建築学が専門である。特に、山吹は大学院生であり、海月や加部谷より三年長くこの分野の教育を受けている。もう素人《しろうと》ではない。ただし、現在の山吹は、個々の建築の意匠や計画というよりは、集落や都市の形成に関する歴史が研究対象だった。したがって、今目の前にある風変わりな建築物について、「変わっているな」という以上に特別な印象を持ったわけではない。加部谷と海月との間でも、ちらりと視線を交わした程度。建物に関するアカデミックな会話はなかった。加部谷は目を丸くしていたので、驚いて絶句していたのかもしれないが、他人の家の敷地内で、はしゃいだ奇声を上げるわけにもいかない。それくらいの分別はあるようだ。海月は普段からほとんど口をきかない男なので、驚いて絶句した状態というもの自体がレンジ外である。
伽羅離館というらしい。どちらかといえば、古風なデザインだ。基礎部はコンクリート、壁には煉瓦が張られている。少なくとも正面から眺めたかぎりでは。二階建てで凹凸はなく、屋根を除けば直方体に近い形状に見えた。煉瓦の壁の半分ほどは蔦《つた》の葉に覆われている。一見して、最も変わっているという印象を受けるのは、窓が極端に少ないせいである。つまり、壁ばかりが目立つ。人が住むための建築物なのか、あるいは、もっと別の目的で作られた構造物なのか、判断ができないほどだった。しかし、よく見ると、蔦に隠れた部分に窓が見つかる。普通の窓よりはかなり面積が小さく、しかも、黒い格子が取り付けられていた。その奥にガラスがあるようだ。窪んだ部分が陰になり、暗くてよくわからない。
玄関ポーチも一風変わっていた。庇《ひさし》らしい出っ張りもなく、小さなドアがあるだけで、これだけの規模の建物にしては、あまりにあっけない入口といえる。これは裏口ではないか、と山吹は最初思った。しかし、森林を抜け、芝の広がった庭園の石貼りのアプローチは、この入口の前まで続いていた。こちらが南面になる。特に、建物の正面では、石貼りの小径は円形のサークルになり、中央に小さな噴水まで作られている。裏口にしては、これらが不釣り合いといえよう。また、建物に沿って幅が一メートルほどの水路が作られているようだった。もちろん、具体的な目的のある水路ではないだろう。その両側にも草が立ち、生い茂っている。入口へ近づき、玄関の手前の平たい大きな石の上に立ったとき、左右を見て初めてその水路の存在に気づく。家の周囲をぐるりと巡っているのか、両側とも真っ直ぐに行った先で建物の側へ直角に折れ曲がっている様子だった。玄関前の石が、つまりこの水路に架かっている橋ということになる。
さきほどから、犬がずっと吼《ほ》え続けている。声は近いが、しかし、姿は見えない。建物の中ではなく、裏手にいるのだろうか。
インターフォンなどはなく、ドアの手前に紐がぶら下がっていた。見上げると、カップくらいの大きさのベルへつながっている。それを引いたのは、赤柳初朗だった。予想外に大きな音で、それが鳴った。すると、犬が鳴きやんだ。
「インターフォンを押せって言っていたのね」加部谷が小声で言った。
「インターフォンが鳴るまでのバックアップってことなんじゃないかな」山吹は応える。「役目をわきまえているね」
「どう? 変なところだろう?」赤柳はベルの紐をまだ持っていた。
「赤柳さん、もう何度かここへ?」山吹は尋ねる。
「いや、まえに一度だけ……」赤柳は周囲を見渡した。「そのときは、夕立が酷くってね、帰るのが大変だったよ。ずぶ濡れ、どろんこ」
山吹は空を見た。太陽は視界にはない。明るいものの、灰色の空である。雨が降るという予報は聞いていなかったが、降りそうな空模様にも見えた。
待っても反応がないので、赤柳がまたベルの紐を引き、今度は続けて鳴らした。
「なんか、ちょっとびっくりしちゃいました」加部谷が囁《ささや》くような声で言った。彼女らしくない抑制された発声に思えた。建物の雰囲気のことだろうか。
山吹から二メートルほど後方に海月及介が黙って立っている。彼はまだ建物の壁を見上げていた。じっと観察しているようだ。蔦の葉を数えているとしか思えない集中のし方だったが、これも、日頃からの彼の習性なので特別ではない。犬の声を入力すると、犬の気持ちがわかるというおもちゃが売り出されたとき、加部谷恵美がこう言ったことを山吹は思い出した。
「そんなのよりも、海月君の気持ちがわかるマシンが欲しくないですか?」
まったく、そのとおりである。海月が考えていることが、少しでも事前にわかれば、もう少し世の中が改善されるような予感がするのである。何故なら、海月が話すときというのは、彼自身が、「しかたがない」と判断した、もうどうしようもない最終段階であり、また、その話の内容とは常に、非常に有用だと山吹には思える情報であることが多かったからである。もう少し早くそれを言ってくれよ、という感想をいつも持ってしまうのだ。
小さなもの音が聞こえたあと、玄関のドアが外側へ開いた。小太りのスーツの男が一人立っていた。
「こんにちは」赤柳が頭を下げる。「赤柳と申します。木俣《きまた》様にご許可をいただいて、こちらで……」
「あのぉ」男が片手を広げた。彼は山吹たち三人の方をじろりと見ながら言った。「私、ここの者ではないのです。私もたった今、ここへ来たばかりでして……」
「あ、そうでしたか」赤柳は頭を掻く動作。
「いくら、ベルを鳴らしても、誰も出てこないので、ドアを開けてみたら、開いてたんです。それで、勝手に中へ入ったんですけどね」男は話す。「誰もいないのか、どうなのか……。あまり奥まで入るわけにもいかなくて、どうしようかと……」
赤柳は振り返って、山吹たちを見た。
「とにかく、中にお入りになった方が……」スーツの男が言う。「開けっ放しだと、虫が入りそうですし」
赤柳に続いて、山吹、加部谷そして海月が玄関の中へ入った。室内は少し温度が低い。ドアを閉めると、もう外の明るさを忘れてしまう。吹き抜けで天井の高いホールには窓はなく、壁の高い位置にある明かりは、薄暗いといっても良いほど控えめだった。
さらに二人の人間がそこにいた。長身の男と痩せた女である。ホールの一番奥に階段があって、二階の通路の手摺《てすり》が見える。ホールの左右の壁には、重そうな木の扉が一つずつ。壁、天井、床などの装飾はシンプルではない。しかし、豪華でもない。古そうでも、また新しそうでもない。ただどの部位も、この場所に長く存在している安定感を漂わせ、雰囲気に馴染《なじ》んでいた。もしも、もっと明るい光がここへ入ると、すべてが作りものに見えてしまうかもしれない。山吹はそんな気がした。
女は階段の途中で腰を落とし、大きなカメラを構え、レンズを上へ向けていた。レンズの先には、柱の上、天井に近いところに白い彫刻の天使像があった。それを撮っているのだろう。もう一人の男性は、ホールの右の奥で、古風なデザインの椅子に腰掛けて脚を組んでいた。右手にペンを持ち、大きめの手帳のようなものになにかを書き込んでいる途中のようだった。もちろん、二人とも新来の四人に興味がある様子である。
玄関を開けてくれたのは登田という男で、彼が赤柳と自己紹介をし合った。他の二人は新聞社の記者とカメラマンで、この伽羅離館へ取材にきたらしい。赤柳は、文献の調査のためにやってきたことを説明した。山吹たち三人は「助手」と紹介された。
その後五分ほど時間が経過したものの、七人の来訪者以外、誰も現れない。普通ならば、電話をかけるところだが、この伽羅離館には電話がない、と赤柳が教えてくれる。記者の富沢も、携帯で電話をかけているが、なかなかつながらない様子である。「圏外ですかね」などと呟いていた。赤柳は、取材許可を得た木俣という人物には今は連絡がつかない、と山吹に話した。
十分ほど経過しても誰も現れなかった。山吹も確かめたが、ホールにある左右二つのドアはいずれも鍵がかかっているのか、開けることができない。
階段を上って二階へ上がる手が残されているが、他人の家なので、その決断がつかない、という状況だった。時刻はまもなく四時半になろうとしている。
「しかたがない、二階を見てこようか」椅子に座っている新聞記者の男が言った。
しかし、このとき、その二階の通路に一人の女性が音もなく現れた。
2
「あ、どうも、すみません、勝手に中に入りまして」登田が彼女を見上げて言った。「どなたもいらっしゃらないようなので、どうしたものかと、困っていたところです」
女はじっとこちらを見下ろしたが、表情を変えない。重苦しい沈黙が数秒間。やがて、彼女は階段をゆっくりと下りてきた。黒いワンピース。黒髪も長い。年齢は三十代だろうか。青白いとも思える顔で、唇も肌の色に近い。
階段の途中にいたカメラマンの鈴本が引き下がり、また、椅子に腰かけていた富沢も立ち上がった。
ホールの中央に立つと、女はようやく軽く頭を下げた。そこにいた山吹たちも改めてお辞儀をした。少なくとも、挨拶が交わせただけで最悪ではない。多少の不安は解消されたかもしれない。
「私は山下《やました》と申します」彼女は顔を上げて、無表情のまま力の籠もらない口調で言った。「神居様にお仕えする者です」
おつかえする、という単語を理解するのに、山吹はタイムラグがあった。それに、神居様というのが、誰なのかわからない。最初は、神様、をなまって発音したと思えたくらいだった。
「ただ今、ご用意をいたしますので、こちらで少々お待ち下さい」
彼女は、玄関から見て左側のドアへ歩み寄り、いつの間にか手にしていた鍵を、ドアの鍵穴へ差し入れた。今どき珍しい真鍮製の大きな鍵のようだった。金属音とともに鍵は回転する。山下と名乗った女性は、そのドアを開け、中へ一人入っていった。ドアが閉まり、ホールには再び七人が残される。
赤柳がこちらを見て、口を尖らせたので、山吹は彼のところへ近づいた。
「変な人でしたね」無声音で彼は伝える。
赤柳は小さく首をふった。否定したわけではなく、そんなことを口にしてはいけない、とでも言いたいのだろう。
「神居様っていうのは、誰ですか?」山吹は尋ねる。
「ここの主だよ」囁くように赤柳が答えた。「あとで、詳しく話すから……」今は、そんなこときくな、余計なことはしゃべるな、とでも言わんばかりに、眉を持ち上げている。
「今の彼女、撮りたかったなあ」奥で鈴本が可笑《おか》しそうに言った。彼女はカメラを両手に持ったまま階段の手前に立っていた。「メイドさんってことですか?」
山吹が彼女を見ると、視線がぶつかった。鈴本はにっこり微笑んだ。他の者は口をきかない。さすがの加部谷も緊張しているようだ。無口な海月はまだ玄関のドアの近くに立っている。帽子掛けに変身しようとしている、と思われてもしかたがないほど動かない。もう少し暗かったら、幽霊に間違われるだろう。
それから、また五分ほど時間が流れた。赤柳と登田が幾度か短い会話をしただけで、そのほかの者は口をきかなかった。鈴本がカメラのシャッタを数回切ったくらい。それ以外にはどこからも、もの音は聞こえてこない。
やがて、注目のドアが静かに開いて、山下の白い顔が再び現れた。
「どうぞ」彼女はさらにドアを引いて言った。
その部屋も、玄関ホールと同様に薄暗い。正方形に近い平面で、かなり広い。建物外観の記憶と合わせると、この部屋が建物の南西の角に位置していることになる。すなわち、二面が外壁だ。向かって左側の壁に一つだけ小さな窓があった。一メートル四方もないだろう。しかも、色のついたガラスが填《は》め込まれ、光の透過量は多くない。明かり採りとしての機能はほとんどないといって良かった。
そこは、応接間だろうと予想していたが、どちらかというと食堂あるいは会議室に近い雰囲気の部屋だった。部屋の中央に巨大なテーブルがあって、その両側に椅子が並んでいる。いずれにも五脚。合わせて十人がゆったりと座ることができる。壁には、絵画も写真もない。キャビネットなどの家具もなかったが、壁際には、椅子が何脚か並べられている。天井のほぼ中央、テーブルの上に吊り下がった金属とガラスで作られた時代がかった大きな照明器具が、この部屋の中では最も装飾的だった。存在感があるわりには明るくない。
「お茶をご用意しますので、こちらにお掛けになってお待ち下さい」山下がそう言って軽く頭を下げた。にこりとも笑わないので、歓迎されているという印象を山吹はまったく受けなかった。
部屋の右手奥に、ドアのない出入口があった。山下は、そこから出ていった。
登田が左の真ん中の椅子に腰掛ける。一番奥に記者の富沢が、また、カメラマンの鈴本は一番左手前の椅子に、それぞれ一つずつ空席を挟んで席についた。
赤柳は携帯で電話をかけようとしていたが、やはりつながらない様子だった。諦めて彼も席につく。右側の奥から二つめの席だった。その手前に山吹が、次が加部谷、そして一番端に海月が腰掛ける。こちら側には四人が並んだ。
山吹の正面には登田が座っている。壁の左の方に一つだけある窓から、外はまだ明るいことが辛うじてわかる。模様のついた分厚《ぶあつ》いガラスが填め込まれ、普通のステンドグラスよりは、大まかな色分けで空間を分割していた。どうやって、その窓を開けるのだろう、と山吹は考えた。見たところ、金具らしいものはなく、妥当な方法を想像できなかった。もしかしたら、開かない窓なのかもしれない。外側には鋼製の格子があったことを彼は思い出した。
「変わった家ですね」加部谷が言った。みんなが黙っていたので、多少は場を和《なご》ませよう、と考えたのかもしれないが、いつもの明るい調子では全然ない。まだ緊張しているのだろう。
「うん、暗いよね」鈴本が頷いた。「照明が大変だ、こりゃ」彼女は、振り返って窓を眺める。写真撮影のことだろう。「どうしてこんなに窓が小さいのかな。こっちって、南ですよね」
その方向感覚は間違っていない、と山吹は思う。
「神居さんは、いないのかもしれない」富沢が独り言のように呟いた。天井にぶら下がった照明器具を見ている。誰に向かって言ったというわけでもなさそうだった。
「神居さんに会うために来られたのですか?」赤柳が尋ねた。
富沢は視線を戻し、小さく頷いた。そして、すぐに隣の登田を見る。富沢は一度溜息をついてから、赤柳をじろりと見据えた。「そちらは、どこに頼まれて来たんですか? 新聞ですか、雑誌ですか?」
「え?」赤柳は大袈裟《おおげさ》に首を傾げる。「いえ……、私は探偵です。依頼者が誰なのかは職業柄明かせませんが、その人個人の疑問を解決しようとしているだけです。取材などではありません」
「へえ」富沢はわざとらしく口を斜めにして微笑んだ。「でも、神居さんに会いにこられたわけでしょう?」
「いえ、違いますよ」赤柳は首をふった。「私は、少々昔のことを調べていまして、その関係でこちらへ行き着いたのです。この伽羅離館にその資料がある、と聞きましたので、正式に許可をもらってまいりました」
「誰に許可を?」富沢記者が素早いタイミングで質問した。
「あまり、その、なんでも話すわけにはいきませんが」赤柳は、そう言って一度息を吐いたが、口もとを緩め、じろりと富沢を見据えた。「木俣という人物です。ご存じでしょう?」
「ああ、なるほど」富沢は目を細めた。「そちら方面でしたか」
「ええ、そちら方面です」笑顔のまま赤柳は頷く。
山吹には何の話なのかよくわからない。そもそも、この館の主だという超能力者の神居という人物についても、情報はほとんどない。神居はテレビなどで有名というわけでもない。加部谷や海月も知らないと話していた。当の赤柳もまだ詳しい説明をしてくれない。
「新聞で、どのような記事を書かれるのですか?」今度は赤柳が尋ねた。
「まあ、記事になるかどうかも、まだわかりませんけれどね」富沢が口を尖らせて答える。
「でも、カメラマンを連れてくるっていうのは、もうそういった段階なのではありませんか?」赤柳は鈴本の方へ視線を一度向けて言った。
「こんなところですからね、簡単に何度も来られそうもないので、この機会にと思いましてね」富沢はそう言って肩を竦《すく》めた。気障《きざ》な仕草に見えた。
山吹は、隣の加部谷をちらりと見る。なにか言いたげに、彼女はじっと山吹を見返した。全然話がわからない、説明してほしい、という顔のようだが、しかし、山吹にも確固たる情報はない。
そのあと、沈黙、あるいは短い会話が繰り返されたものの、まるで、赤柳と富沢の二人が腹の探り合いをしているかのような雰囲気だった。
そうしているうちに、赤柳の背後の出入口から、女性が二人静かに現れた。一人はさきほどの山下だった。両手で銀色のポットを持っている。彼女のあとから入ってきたのは、カップをのせたトレィを持った若い女性で、痩せた体格といい、長い黒髪といい山下によく似た雰囲気だった。服装も同じく黒いワンピースだが、山下のものよりはスカートが短かった。二人は、テーブルの端で紅茶をカップに注ぎ入れ、それをゲストたちの前まで一つずつ運んだ。その作業中、二人とも口をきかなかった。
「神居さんには、何時頃、お会いできますか?」富沢が、山下が近くに来たときに尋ねた。
「ただ今、神居様は瞑想中でございますので、もうしばらくお待ちいただく必要がございます」山下は抑揚のない口調で即答した。まるで、あらかじめ録音されたような台詞《せりふ》だった。
紅茶をすべて配り終わったところで、二人の女性は並んで立ち、頭を軽く下げた。
「あ、あの……」赤柳が片手を軽く持ち上げる。「私たちは、こちらの図書室の資料を拝見するためにまいりました。できるだけ時間を有効に使いたいので、お茶をいただいたら、すぐに作業を始めたいのですが……」
「はい」山下は小さく頷く。「ご自由になさっていただいてけっこうでございます」
「あの、図書室は、どちらですか?」赤柳がきく。
「二階です。さきほどのホールから階段を上がっていただき、左手でございます。のちほど、ご案内いたします」
「よろしくお願いします」
「すみません」テーブルの端の最も遠い位置に座っていた鈴本が発言した。「写真を撮らせてもらっても良いでしょうか? 撮影してはいけないものがあれば、教えていただきたいのですが」
「はい」山下がそちらへ躰を向ける。「私どもを含め、ここにいる者の姿を写さないようにお願いいたします。また、撮影した写真を公表する場合には、すべて事前に神居様の許可をお取りいただくことになっております」
「はい、わかりました」鈴本は富沢の顔を見ながら頷いた。
二人の女性が奥の出口から姿を消す。山吹は隣の加部谷を見た。口を横方向に引っ張ろうと頬の筋肉を試している彼女の顔だった。その向こう側の海月は、なにも試していない。相変わらずの顔である。
「凄い暗いですね、ここの人たち」加部谷が山吹の耳もとに顔を近づけて囁いた。「どこかの誰かさんみたいな人って、意外といるんですね。びっくりしちゃいました。もしかして、ここ、海月君の実家とか……」そう言ってから、彼女は笑いを噛み殺すために呼吸を止め、顔を紅潮させていた。山吹は、大して面白いとは感じなかったし、同じテーブルに見ず知らずの人間もいることなので、表情を変えず黙っていた。大人しくしている方が無難である。
紅茶を飲んでいる間に、赤柳は、対面の三人と名刺を交換した。山吹たちも、C大の建築学科の学生だと自己紹介をした。もらった三枚の名刺を赤柳がテーブルの上に並べたので、山吹はそれを見せてもらった。登田不動産の登田|昭一《しょういち》、T新聞・社会部・記者の富沢|健太《けんた》、カメラマンの鈴本|倫子《のりこ》の三人である。
「C大ですか。すぐこの山の向こう側になりますね」登田が言った。「この山を抜ける道がありましてね、それを走ったら、近いですよ」
「近いって、どれくらいですか?」山吹はきいた。
「うーん、まあ、車で三、四十分です。ただ、途中で川を横断しますので、普通の車ではちょっと無理かもしれません」
それは充分に遠いと山吹は思った。一応、ここはぎりぎり愛知県内だ、と来る途中に赤柳が話していた。つまり、愛知県と岐阜県の県境に近い。C大自体が、県の北部にあるので、直線距離にすればそんなに離れてはいないだろう。ここへ来るときは、赤柳が借りたというレンタカーで国道を走り、一度岐阜県へ入ってから山を登った。C大からは二時間近くかかっている。しかも、車を降りたあと一時間も歩かなければならなかったのだから、けっして近いとはいえない。
外の様子はさっぱりわからないが、まだ明るいことは確かである。時刻はそろそろ五時になろうとしていた。
3
紅茶を楽しむような余裕もなく、赤柳は立ち上がって部屋の奥の出入口から外を覗きにいった。しかし、誰もいなかったらしく、戻ってくると、今度は玄関ホールへ出るドアを開けにいった。
「あ、こちらでしたか」ドアの外に向かって赤柳は言った。ホールに山下がいたのだろう。ということは、奥の通路から、そちらへ回れるようになっていることになる。
「じゃあ、始めよう」赤柳は部屋の中の学生たちを見てから、自分はそのままドアの外へ出ていった。
山吹たち三人は立ち上がり、バッグを持ってそちらへ急ぐ。バイトになると、普段よりも動作が俊敏になるから不思議である。ホールで赤柳が待っていた。奥の階段の手前に山下が一人立っている。図書室は二階だ。山下、赤柳に続いて三人も階段を上った。
二階の廊下から玄関ホールを見下ろす。初めは暗いと思ったが、もう目が慣れたのだろうか、今はそれほど照度が不足しているとは感じなかった。二階の廊下は、ホールを迂回する形で折れ曲がっているものの、残りは左右、つまり東西に延びている。山下のあとについて、通路を左手、すなわち西へ進んだ。折れ曲がった先は、突き当たりまで真っ直ぐ。そこが建物の端になるようだが、窓はない。壁の高い位置にある照明が光っているだけだった。もうすっかり夜だと錯覚してしまいそうである。
通路の左側にはドアが三つ。右側にはほぼ中央に一つだけあった。
「こちらのお部屋をご自由にお使いいただいてけっこうでございます」左側を手で示して、山下が言った。三つあるドアのことらしい。「図書室は、こちらです」彼女は反対の右のドアを示した。「こちらが鍵です」
山下が差し出した大きな鍵を赤柳が受け取った。山下は軽く頭を下げると、山吹たちの横を通り、階段の方へ戻っていった。一階へ下りていくようだ。
まず、左のドアを開けてみる。そちらは鍵はかかっていなかった。
「うわぁ」加部谷が後ろから覗き込んで声を上げた。「凄いじゃないですか。ホテルみたい」
彼女の表現のとおり、宿泊のための部屋のようだ。ベッドが二つ壁際に並んでいた。突き当たりの壁に小さな窓があるが、ここもやはり、着色された波板ガラスが填め込まれているため、外の風景は見えない。入口の近くにドアが二つあり、クロゼットとバスルームだった。
「凄い凄い! これは思ってもみない展開ですよね」加部谷がベッドに腰掛け、クッションを確かめながら言う。
通路に一旦出て、他の二つの部屋も確かめてみた。まったく同じ造りの居室だった。
「ナイスですよ、これは」嬉しそうに加部谷が言う。「だけど、四人ですよね、どこかの部屋が二人になりませんか? うーん、えっと、どうなるのかなあ。どうなるのかなあ」
「ゆっくり寝てる暇ないんじゃない」山吹は言った。
「そういうこと」図書室のドアの前に立っている赤柳がにやりと笑った。「さあ、とにかく、すぐに作業を始めよう」
赤柳が鍵を開けて、図書室のドアを押し開けた。
最初は照明が灯っていなかったが、ドアの横の壁にあるスイッチを赤柳が発見した。天井からぶら下がった何本もの蛍光灯が点滅したあと光を発した。かなり広い部屋だとわかった。壁はすべて書棚のようだ。中央にも木製の書棚が立ち並んでいる。部屋の中に足を踏み入れた四人を、黴《かび》臭い空気が出迎えた。
「うわぁ。こりゃまた超ど級じゃないですか」加部谷が口を押さえながら言った。「マスク持ってくれば良かった。くしゃみが出そう」
「凄い量ですね」山吹はあたりを見回して呟いた。
「まあ、とにかく、パソコンとかコピィの用意をして下さい」赤柳は言った。既に書棚の近くへ寄って、文字を読もうとしていた。「あ、コンセント、ある?」
「ここにあります」山吹は、部屋の奥の小さなデスクの横でそれを見つける。「この机で、入力をしましょう」
「海月君、こういう場所って好きでしょう?」加部谷が言った。
海月は答えない。山吹が見ると、赤柳同様、海月も書棚に並んだ本の背に注目している様子だった。
「ちょっと、加部谷さん、手伝って」山吹は、バッグからケーブル類を取り出しながら呼んだ。
「はあい」彼女が近づいてくる。「さあさあ、バイトバイト……、でも、あれ? 何をするんでしたっけ? まだなにも説明を聞いてないんですけどぉ、私」
「まあ、とにかくね……」にこにこ顔で赤柳も近づいてきた。「手当たり次第、ここにあるもの、本でもファイルでも、すべてを取り出して、一ページずつ見る。何が書いてあるのかをざっと読んで、確認する。そして、関係がありそうなものは、コピィを撮る。スキャンして、パソコンのハードディスクに集録。そして、それが、どの本の何ページなのか、記録する。という手順で作業を進める。一人が入力する人、あとは全員が読む人」
加部谷が片手を顔の前に出した。
「関係がありそうなって、どんな関係なんですか?」彼女の質問は順当なところだろう。
「うん」赤柳は大きく頷く。「それには、少しだけ説明をしなければならない。キーワードとしては、MNI、佐織宗尊《さおりむねたか》、それから真賀田四季《まがたしき》」
「え?」加部谷が高い声を出す。
「MNIというのは、かつて存在したメタナチュラル協会という変な名前の宗教団体で、そこで総志《そうし》と呼ばれていたリーダ、つまり教祖が佐織宗尊だ」
「あのぉ、真賀田四季って、えっと、あの真賀田四季ですか?」加部谷がきいた。
微笑んだままの顔の赤柳が無言で頷く。
「メタ……、メタ、何でしたっけ?」加部谷がきいた。
「メタナチュラル協会」
「メタって?」彼女は山吹の顔を見る。
「うーん、超えているっていう意味かな」山吹は海月を見た。
「そう。ギリシャ語だ」海月が頷く。
「化学物質でも、使わない?」山吹はきく。「メタノールとか、メタキシレンとか」
「ベンゼン環の一位と三位に置換基があるもの」海月が答えた。
「ベンゼンカン? 何、それ」加部谷が顔をしかめる。「海月君って、バケ学取ってた?」
「いや」海月が一言。
「とにかく、誰からとはいえないけれど、調査依頼があって、そのMNIのことについて調べているんだ」赤柳が言った。「佐織宗尊は、とっくの昔に亡くなっていて、そのあとMNIは自然消滅している。当時のその協会の関係者で、木俣という男がいるんだけれど、彼が、ここの超能力者の後見人っていうか、まあ、黒幕的な存在らしい。まだそれほど知れ渡ってはいないけれど、方々で、人を集めているってことは確かだね」
「人を集めているって、つまり、宗教団体って意味ですか?」山吹が尋ねた。
「まあ、そうだね、信者を集める、それはつまり……」赤柳は天井を見上げる。「金を集めるってことだ。いつの世も、それは同じ。どんな商売でも同じだ。ビジネスなんだから、それが悪いとは言わない。少し騙すか、大きく騙すかって違いくらいしかないからね」
「うーんと、でもでも、それと、真賀田四季がどうつながるんですか?」加部谷が尋ねる。
「君たちは、真賀田四季のこと、どれくらい知ってるの?」赤柳が尋ね返した。
「名前だけなら」山吹は答えた。
「真賀田四季といえば、ずっとまえに姿を消して行方不明の天才科学者……、それくらいかな」加部谷が言った。「私は、西之園さんから聞いたんですけど……。西之園さん、真賀田四季と会ったことがあるって言ってましたよ」
「うん、そう……。そうらしいね」赤柳が頷いた。
「あれ、どうして知ってるんです?」加部谷が首を傾げる。
「さあ、そんな話をしている場合ではない」赤柳は手を軽く叩いた。「とにかく、作業を始めてみよう。やっていくうちに、もっと効率の良い方法を思いつくかもしれない。なんでも良いから、意見があったら、いつでも言って下さい」
4
鈴本倫子は、カメラを持って玄関から外に出た。曇天だが西からの日差しが今はとても眩《まぶ》しい。明るいうちに建物の写真を撮っておこうと思いついたのである。
さきほどの部屋で、富沢と登田は話をしている。主の神居がまだ姿を現さないので、記事のネタになるような情報はないか、富沢が登田にあれこれ質問をしていた。登田は、この近辺の土地を管理している。それが今回、案内役として選ばれた理由のようだ。日当は支払われているので、取材が終わるまではつき合わなければならない。富沢は、彼からこの館が建てられたときの話を聞こうとしていた。十数年まえの建設工事の話が始まったところで、鈴本は部屋から出てきてしまった。玄関ホールには誰もいなかった。二階では、探偵とバイトの学生たちが調べものをしているはず。その様子を見にいこうか、とも考えたが、煙草を吸いたかったこともあって、さきに外へ出た。
建物の正面の写真を三枚ほど撮ったところで、ポシェットから煙草を取り出し、火をつけた。
周囲は森林で、この近辺は比較的平たい。ここよりも高い場所は近くに見当たらない。山の頂上付近を切り開いて整地したのだろう。建物の周辺は人工的な庭園で、その周囲には塀もなく、大きな針葉樹の森に囲まれている。もちろん、見渡すかぎり人工物はない。鉄塔もアンテナもない。電信柱もなかった。
「あれ? 電気って、どうしているのかな」鈴本は独り言を呟いた。
地中に電線が埋められているのだろうか、それとも、どこかに発電機があるのだろうか、と彼女は考えた。
携帯が振動したので、胸のポケットから取り出す。メールが届いていた。明日の夜に会う友人からのものだった。リプライはあと回しにして電話を仕舞う。こんな山奥でも携帯の電波が届くのだ、と妙に感心して、もう一度周囲を見渡した。風もなく、静かである。鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。犬はどうしたのだろうか。
煙草をくわえたまま館の左手、西側へ回って、また建物にレンズを向けた。伽羅離館は、横から見てもほとんど同じだった。平面的な煉瓦の壁に蔦が這っている。西側には窓がほとんどない。一階の北寄りに小さな正方形の窓がぽつんと一つだけだ。鉄格子の奥のガラスが透明ではなさそうだった。全体的に凹凸がないためコントラストがつかない。これでは絵にならないな、と鈴本は考えた。
さらに歩いているうちに館の北側になる。西面も同じだったが、建物の周囲に幅一メートルほどの水路が巡っている。低い庭木で、その外側が囲われているため、かなり近づかないとそれは見えない。堀のような感じにも思える。
もの音がしたので振り返ると、少し離れたところに檻《おり》があり、その中に二匹の大型犬がいた。どちらも白と黒の二色で毛が短い。猟犬だろうか。こちらを見て忙しく動いているが、吼えたりはしなかった。来るときは鳴き声を聞いたが、敷地の中に入れば、屋敷の客として認識されるのかもしれない。近づいていって、レンズを向けたかったが、吼えられたりすると面倒なので、のちほど許可を得てからにしようと思う。とりあえず、遠くからズームで一枚だけ撮った。
伽羅離館の北の壁にはほぼ中央にドアがあった。正面と同様に、短い石橋が架かっていた。裏口のようだ。正面の玄関もこれと同じくらいの規模だったので、表も裏も変わりがない。ただ、北面には窓が一つもない。蔦の葉が少ないこともあって、壁の煉瓦が広く見える。のっぺりとした単純性が、異様な雰囲気だ。人が住む家には見えない。倉庫みたいだった。
東側へ回ると、今はそこが日陰になって、少し涼しかった。相変わらず建物に変化はなく、窓は一階に一つだけしかない。少し下がって、こちらから明るい西の空をバックに、逆光でシルエットを撮るか、というアイデアも思い浮かんだが、ファインダを覗いて、方々へレンズを向けたものの、どうもピンと来るものがなく、一度もシャッタを切れなかった。
そのまま、再び正面まで戻ってくる。そこでようやく、口にくわえていた煙草を指に挟んで、深呼吸をするように大量の煙を一気に吐いた。すると、玄関のドアが開き、加部谷恵美が一人で出てきた。大学生と聞いていたが、小柄で顔立ちが幼い。彼女は、こちらを見ると、にっこりと微笑みながら近づいてきた。
「どうしたの?」鈴本は尋ねた。
「電話をかけに出てきたんです。なんか、中だとうまく電波がつながらないみたいで」
「ああ、そういえばね」鈴本は頷いた。富沢がつながらないとこぼしていたことを思い出した。
「もしかして、圏外かな」携帯のディスプレィを見て、加部谷が呟いた。
「そんなことないよ。さっき、メールが来たもん」鈴本は言う。
「あ、良かった。なんとかなるかな」加部谷が言う。「それじゃあ、建物の壁が普通よりも分厚いってことでしょうか」
そう言いながら、加部谷は電話のボタンを幾つか押し、それを耳に当てた。
「あ、もしもし、加部谷ですぅ」彼女はアニメの主人公のような声で話を始めた。
鈴本は、彼女から離れるために、今度は森の小径の方へ、館から離れる方向へ歩くことにした。
5
西之園萌絵は、N大の研究室のデスクでパソコンのディスプレィを睨んでいた。部屋には他に留学生が二人いる。
着信のメロディが鳴ったので、マウスを掴んでいた左手をそちらへ伸ばした。
「あ、もしもし、加部谷ですぅ」聞き慣れた声が聞こえてきた。「ただ今、森の中からお伝えしています」
「はいはい。恵美ちゃん、バイトなのね。森って、そんな山奥なの?」
「そうなんです。ありえないくらい人里離れたもう信じられないところですよ。少しまえに到着して、作業を開始したばかりなんですけどお。西之園さんにご報告するためにって、外へ出てきちゃいました。家の中だと電話がつながらなかったから。あ、だから、そちらからかけてもらっても、きっと出られないと思いますので、えっと、ご心配には及びませんから、はい。大丈夫です。ちゃんとベッドが使える部屋もあって、山吹さんや海月君は、これっぽっちも加部谷には関心がないみたいですし」
「あ、わかった。お母さんから電話がかかってくるんだ」
「さすが西之園さん。オメガ・イズ・ハイ」
「電話がつながらないと、お母さんは、私のところへかけられる可能性が高いと」
「はい、すこぶるお察しのとおりです」
「なんて言えば良いわけ?」
「実験中だと」
「実験ねぇ……。無理があるなあ、設定に」
「文献調査でもけっこうです。それは掛け値なし、そのままですから」
「しかたがないなあ」
「あ、それで、ちょっと気になったんですけどお、うーん、えっと、いや、これはまた今度にしますね。すぐに戻って仕事をしなくちゃいけませんから」
「はいはい。頑張って」
「西之園さんも、頑張って下さいね」
「え、何を?」
6
加部谷恵美は、携帯電話をポケットに仕舞い、カメラマンの鈴本の方へ歩いていく。
鈴本は、低い茂みに向けてカメラを近づけていた。接写で虫でも撮影しているのだろうか。
「凄いカメラですね」とりあえず、道具を褒《ほ》めるのが無難だろうと考えて、後ろから声をかけた。
「凄くないよ」カメラを構えたままの姿勢で、顔も上げずに鈴本が答える。
「デジカメですか?」
「うん、そう」
「レンズがむちゃくちゃ大きいですよね」
「そうかな」
ようやく、鈴本はシャッタを切った。しかし、まだこちらを見ようとしない。
「超能力者が小さくなって、葉っぱの上にいるとか?」加部谷は鈴本の近くにしゃがみ込んだ。
「さあ、どうかな」しばらく息を止めてから、彼女はまたシャッタを切る。「超能力者って、虫に化《ば》けられるわけ?」
「だったら、本当に凄い能力ですけど」加部谷は少し考える。「だけど、虫に化けることができても、別になにか有利なことってないですよね。自分以外の人間に化けられる方が、ずっと使えます」
「そうだね」頷きもしないで、鈴本が簡単に返事をした。
「ここに住んでる神居さん? その人は、どんな能力があるんです? テレビに出てるんですか?」
「知らない」鈴本は答える。「テレビには出ていないと思うよ。本人の顔写真は撮れないらしいから。私はあまり興味がないなあ。写真が撮れるものにしか興味がない人だから」
「宙に浮かんだりするのかなぁ」加部谷は考える。「まあ、一番ありそうなのは、占いか、予言ですよね。未来を予知するとかの。それとも、どこかに死体が埋めてあるとか……」
他にも、他人の心が読めるとか、と話そうと思ったとき、突然、人の気配がしたので、加部谷はびっくりした。その直後、
「こんにちは」と後ろから声をかけられた。
鈴本が顔を上げる。彼女の驚いた顔を見てから、加部谷は立ち上がり、後ろを振り返った。
白いスーツを着た男性が一人、そこに立っていた。
否、男性だと認識したのは、彼のその響くような声のためだった。それに反して、見た感じは男性的ではない。ほっそりとした、華奢《きゃしゃ》な人物が一人、すっと立っているのだ。茶色の髪は長く、肩まで届いている。顔は化粧でもしているのか、異様に白い。手には白い手袋。靴も白い。
年齢は二十代だと思われる。切れ長の目が印象的で、微笑んでいるように見えた。中性的な顔立ちは、普段あまり見ることのない造形だった。しいていえば、マネキン人形に近い。舞台に立っていたら、映《は》える風貌だろう。ショーの司会者か、それとも、マジシャンか。
あまりに、特別な雰囲気だったので、加部谷はしばらく口がきけなかった。それは鈴本も同じだったかもしれない。沈黙が十秒ほど続いた。
まず不思議だったのは、彼がどこから現れたのか、という点である。加部谷たちは、伽羅離館の玄関が見える位置にいる。庭木を見ていたわけだが、玄関から人が出てきたら、気づかないはずはない。もし建物の中から現れたのだとすれば、玄関以外の出入口から出てきたことになる。ずいぶんまえに家を出て、どこかへ散歩にでも出かけていたのだろうか。あるいは、この人物はたった今ここへ到着した、という可能性もある。いずれにしても、足音を忍ばせてそっと二人の背後に近づいたのだ。散歩にしても、森の小径を一時間歩いてきたにしても、もう少し息が上がるなり、汗をかくなりするのではないか。白い靴もほとんど汚れていない。山道を長時間歩いてきた痕跡はまったくなかった。そうだ、犬も吼えていない。
「もうすぐ雨が降ります。家の中に入った方が良い」彼の口が動いて、その言葉が発音された。加部谷はその唇の動きを見ていた。どうして、その口の形が気になるのか、自分でも不思議だったが。
「こんにちは」横にいた鈴本が頭を下げて言った。
加部谷も慌ててお辞儀をする。
「嵐になるかもしれない。大雨、そして雷も」彼は加部谷たちを見据えたまま続ける。
空を見ようと思ったけれど、彼から目を逸《そ》らすことができない。不思議な拘束力を持った視線を加部谷は感じる。
誰だろう?
「はじめまして、私は、加部谷といいます」もう一度、彼女は頭を下げる。落ち着いて落ち着いて、と自分に言い聞かせながら。
「鈴本です。あの、写真を撮るために、T新聞の富沢さんと一緒に来ました。神居静哉様の取材で……」
「ええ」彼は眼を一度閉じて頷いた。「私が神居です」
「え?」鈴本は目を見開いた。「あ、どうもあの、失礼しました」彼女はまた頭を下げる。
「さあ、本当に嵐になりますよ。中へ入りましょう」神居が言う。言葉をゆっくりと発音する。少々芝居がかったしゃべり方であるが、しかし声はとても響く。そこに立っている少年のような人物から出た声だとは、なかなか認識できないほどギャップがあった。
三人は玄関まで戻る。鈴本がドアのところへ歩み寄り、それを開けた。さあ、どうぞ、という素振りで館の主を招き入れた。
「どうもありがとう」神居は姿勢の良い歩き方で、石の小橋を渡り、玄関の中へ入っていく。そのあとに続いて鈴本が入る。加部谷が最後になった。
彼女は、ドアを閉めるとき、空を見上げた。西の方は眩しい。
ここへ来るまえに、ネットで天気予報をちゃんと調べてきた加部谷である。
嵐なんか来るわけがないのに、と心の中で呟いた。
玄関ホールに立つ白いスーツの後ろ姿を見て、少しだけ落ち着くことができた。
あの優しそうな声、それにちょっと綺麗な風貌。けっこう大勢の人たちがころっと騙されるってわけだ、と彼女は考えた。きっと、ちょっとした仕掛けのマジックを見せて、超能力だと信じ込ませる。そうやって、信者を集めるのだ。きっとそうにちがいない。そう思って眺めると、なにもかもが胡散《うさん》臭い。この館だって虚仮威《こけおど》しに見えた。
そして、自分の冷静さに、ちょっとだけ嬉しくなる。やはり日頃、西之園萌絵や海月及介などという、スーパ・キャラクタに接しているおかげで免疫ができているのだろうな。思わず鼻から息がもれた。
このとき閉めた玄関のドアから、加部谷たちは二度と出ることがなかったのである。
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第2章 不連続の晩餐
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それは明らかに、まず大抵はまさに自分を示さない[#「ない」に傍点]ものであり、またまず大抵は自分を示しているものと反対に隠されて[#「隠されて」に傍点]いるが、同時にまず大抵は自分を示しているものに本質的に属している或るものであって、その意味や根拠をなしているようなものです。
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1
加部谷恵美が二階の図書室へ戻ると、部屋で一つだけあるデスクに陣取っている山吹早月がこちらをじろりと睨んだ。彼女は、ドアを閉め、黙ってそちらへ近づく。途中で本棚の間に立っている赤柳初朗と、部屋の隅で梯子の下に座り込んでいる海月及介の姿を確認した。特に、海月の方はこの部屋に住み着いた妖精みたいに、この埃《ほこり》っぽい沈んだ背景にしっくりと溶け込んでいたので、三秒ほど見とれてしまったほどだった。
デスクではパソコンにスキャナなどの周辺機器がケーブルで接続され、明るいディスプレィが山吹の顔の側面を照らしていた。順調に作業が始まったようである。山吹の視線は、加部谷だけがサボっている、とでも言いたげであったけれど、それは彼女の思い過ごしかもしれない。彼の視線はいつもやや攻撃的な感じがするのだ。話し方も仕草も問題なくジェントルなのに、目つきだけが鋭い。そんなふうに感じてしまうのは自分だけだろうか、と加部谷はときどき考える。
「神居さんっていう人に会いましたよ」山吹のすぐ横まで歩み寄り、加部谷は土産話を披露《ひろう》した。話すべきコンテンツがあってラッキィだった、とつくづく思った。
「え、どこで?」意外にも、声は本棚の方から聞こえてくる。赤柳が顔を覗かせた。「凄い美少年だったでしょう」
「うーん、どうかなぁ」加部谷は唸《うな》る。「美少年ってふうには思いませんでしたけど、まあ、そうですね、美形といえば美形、スマートで、さらっとすっきり、爽《さわ》やかさつるつるって感じでしょうかね」
「話をした?」山吹がきいてきた。
「ええ」加部谷はデスクに両手をついて山吹の方へ顔を向ける。「もう、なんていうのか、声がダンディ。そこはちょっとポイントですよ。あ、もうすぐ嵐になるって言ってました」
「嵐?」山吹が片目を細める。「へえ、そりゃ大胆だなあ。せいぜい、来ても夕立くらいじゃない?」
「うん、私もそう思いましたけど。だけど、あんな感じの人だったら、ころっといっちゃう女の子いるかも」
「あ、そう、そんな感じ?」赤柳がきいた。
「ええ、そんな感じです」
「僕みたいな?」赤柳が笑って自分の鼻に指を向ける。
「だいぶ違いますね、それは」
「加部谷さん、ころっていかなかったの?」山吹がきいた。
「うーん、あまり」彼女は首をふる。「免疫ができているからだと思います、海月君で」
「どういう意味?」
「あれ?」
加部谷は自分の発言について分析をしたが、どうもよくわからなかった。海月及介はわりと端正な顔立ちではあるが、しかし、ステージに映えるようなアイドル系では全然ない。それよりも、山吹の方がどちらかというと子供っぽい顔立ちだ、と加部谷は思っている。そういうつもりの言葉ではなかった。言いたかったのは、キャラクタに動じない、という免疫である。
会話はそこで終わった。海月が古いファイルを持ってきた。それをデスクに置き、山吹がパソコンのマウスを動かした。
「とにかく、仕事をします」加部谷は言った。「私は、どこを見たら良いですか?」
「どこでも」赤柳が言った。「とりあえず、ざっと眺めて、どこか棚を決めて始めて下さい。同じ装丁で製本されているものは、ほとんど雑誌ですね。向こう側の棚はMNI関係の発行物で、そっちはちょっと大変だし、海月君にお願いしたから、そうだな、加部谷さんは、関係がなさそうな向こうの方から見ていってもらおうか」赤柳は指で示した。「あ、それからね、日本語じゃないものがけっこう混ざっているから、そういうのは、英語とかなら辞書を調べて、タイトルくらいを確認して下さい。そこに辞書があります」
デスクの上に電子辞書が置かれていた。それが自分の分らしい。加部谷はそれを手にして、棚の間を奥へ向かった。
それにしても、もう少し明るかったら良いのに、と彼女は思う。この図書室には窓が一つもない。おそらく、紫外線による書籍の劣化を防ぐためだろう。ちゃんと換気がされているだろうか、と壁の高い位置、そして天井を見回した。それらしいものが、天井近くの壁際に見つかった。こちらは北側。建物の裏に面した壁になるだろうか。
棚の一番下の列から始めることに決めて、彼女は床に座り込んだ。薄い雑誌をまとめて、ハードカバーが付けられたものだ。マジック関係の雑誌のようだった。写真が多くとても面白そうだったけれど、あまりじっくりと読んでいる暇はない。適当にページを捲《めく》っていく。これはわりと楽しい時間かも、と今夜のことを想像する。しかし、ここにある本を四人で全部調べることができるだろうか。
そのとき、大きなもの音がした。
飛行機かな、と思って加部谷は思わず天井を見上げた。ごろごろと、低く鳴り続く。もしかして、雷だろうか?
「雷ですか?」彼女は口にした。ほかのメンバの姿は書棚の陰になって見えない。
「かもね」山吹の声。
「じゃあ、神居さんの天気予報、当たりかも」
「天気を予想するくらいじゃあ、超能力とはいえないよ、現代じゃあ」山吹の冷静な口調が聞こえてきた。
外へ出て天気を確かめてきたかったが、仕事を始めたばかりなので、加部谷は我慢することにした。
2
一階の西側の部屋では、大きなテーブルに二人の男が座っていた。カメラマンの鈴本は壁際に立ってこれを見ている。テーブルの片側の中央には神居静哉、反対側は正面でノートを広げて質問をしている富沢である。不動産屋の登田は、ついさきほどまでテーブルの一番端で退屈そうに横向きに腰掛け、時計を気にしていたが、ついに、富沢のところへ背中を丸めた格好で近づくと、こう言った。
「あの、私は一度帰らせてもらっても良いでしょうか? 特に、することがなければですが……」
「ああ、そうですね」言われて初めて気づいた、という顔で富沢が頷いた。「また、迎えにきてもらえますか? 電話をしますよ」
「はい、何時でもかまいません。明日でもけっこうです。すいませんね」登田は頭を掻いて苦笑した。助かった、という顔である。
「傘をお持ちですか?」神居がきいた。
「え? 傘?」
「もうすぐ酷い雨になります。お持ちでなければ、山下に用意させましょう」
「へえ、雨ですか……」登田は眉を顰《ひそ》めた。「はあ、では、お願いします」
すると、僅か五秒後くらいに、山下が玄関ホール側のドアを開けて現れた。驚いたことに、黒い雨傘を持っていた。話を盗み聞きしていたとしか思えないタイミングの良さである。
ドアが開けられたままだったため、登田が玄関から出ていくところを、鈴本は見送った。山下という女は、玄関ホールの反対側のドアへ姿を消した。そちらの部屋は、まだ一度も鈴本は入っていない。
鈴本がドアを閉めた。インタビューは再開され、テーブルの周囲を鈴本はカメラを持って歩く。しかし、神居自身を撮影してはいけないという条件なので、なかなかこれといった構図が見つからない。せめて、神居の後ろ姿、あるいは手だけでも良い、躰の一部ならばどうか、とも尋ねたのだが、それも不可だと言われてしまった。しかたなく、テーブルの端から、天井を見上げたショットや、テーブルの上の照明器具、あるいは、富沢が広げているノート。そこに彼が書き込むときのシャープペンシルなどを撮影した。いずれも、わざわざここまで来て撮るほどの写真ではない。こんなことで良いのだろうか、と少々不安になったものの、しかしこれ以上に何ができるだろう。
鈴本は二人の会話を聞きながら、自分の仕事に頭を悩めていたわけだが、質問とそれに対する返答には、思わず吹き出してしまいそうな場面が幾度かあって、一度などは、神居だけでなく、富沢にも睨みつけられてしまった。気をつけなければならない、と思うと、今度は逆に話の内容に気を取られて、どうも撮影に集中できない。たとえば、こんなやり取りがあった。
「神居さんのお弟子さんには、若い女性が多いと伺いましたが」富沢がきいた。
「男性よりは、女性の方が多いですね」
「これは、他社の記者から聞いたのですが、美女揃いだとか」
「誰ですか、そういうことを言うのは」神居は表情を崩さず、ゆっくりとした口調でものを言う。それがまた妙に可笑《おか》しい。
「いえいえ、友達です。どうも失礼しました。こちらには、お弟子さんは何人かいらっしゃるのですか?」
「この伽羅離館で、私の身の回りの世話をしてくれるのは、あの山下さんと平井《ひらい》さんの二人だけです」神居は言った。「あの二人は、富沢さんの基準では、美女ですか?」
「あ、えっと……、そうですね。もちろんです」
「わかりました」
何の話をしているのだ、と鈴本は思った。苦労をしてこんな山奥まで来たのに、実に内容のない取材ではないか。そもそも、この神居という男、それほどの人物なのだろうか。超能力というのは、いったいどんなものなのか。見せてもらいたいものである。気を許すと、その言葉が口から出てしまいそうだし、また、そうでなくても、軽微な嫌悪感が顔に現れそうな鈴本だった。
「しかし、こういうことは言えると思います」神居が椅子にもたれて姿勢を変える。レンズを無意識に向けたくなったが、鈴本は我慢した。「つまり、一般的に感受性の強い人が、この種のセンスにも長《た》けている。また、感受性の強い人ほど、統計的に美しい」
美しい? 耳を疑ったが、神居がこちらを見ていたので、鈴本は慌てて無関心を装った。
「ああ、そうかもしれませんね」富沢が話を合わせている。「そのセンスに長けているというのは、言い換えれば、神居さんに近い、という意味でしょうか?」
「そのとおりです。同調できる、同調しやすい、ということですね。一種の共鳴現象なんですよ。波動が重なって、エネルギィが増幅されます。超能力と呼ばれるものの多くは、一人の人間が持っているものではありません。二人以上の、複数の人間の間に現れる現象なのです」
「なるほど……」ノートにペンを走らせながら、富沢はうんうんと頷いた。「ああ、今のはいいですね、使えそうです。人間と人間の間にあるもの、それが超能力ですか」
「ですから本当は、超関係、あるいは、超交渉と呼んでも良いと思います」
馬鹿馬鹿しい、と鈴本は思った。この場にいることが恥ずかしいくらいだ。
そのとき、窓が一瞬だけ明るくなったような気がした。それと同時に、室内の照明がふっと一度だけ暗くなった。彼女は、神居の後ろに立っていて、テーブルの向こう側に富沢を見ている。彼の斜め後方に窓があった。外の景色は見えないが、部屋が薄暗いため、外の明るさがガラス越しにどうにかわかる。そのガラスを見つめていると、また一瞬、明るく輝いた。
雷?
そのあと、雷鳴が聞こえた。それほど衝撃的な音ではなく、ごろごろと長く続く。
そのあと、さらにもう一度光った。今度も照明が暗くなった。そして、やはり数秒遅れて大きな雷鳴が響いた。
「あ、本当に夕立みたいですね」富沢が窓を振り返って言った。
彼が、こちらを向くまで待ってから、鈴本は片手を軽く挙げた。
「あの、ちょっとよろしいでしょうか?」富沢の視線を確認してから、鈴本は続ける。「ここは、だいたい撮りましたので、他の部屋で写真を撮らせてもらいたいのですけど……」
「どうぞ、どこでもご自由に」神居が答えた。「ただし、人物を写さないようにお願いします」
「山下さんと平井さんでしたね。あのお二人のほかには、いらっしゃらないのですか?」
「いません」神居は頷いた。
鈴本は、玄関ホールへ出た。玄関の外を見てみたい、という気持ちが強かった。神居が雨が降ると予言したからである。急な夕立が本当だとしたら、傘を持っているとはいえ、十分ほどまえに出ていった登田には災難である。
鈴本は玄関のドアを開けようとした。ところが、それが開かなかった。ドアノブは回るのだが、ドアがびくとも動かない。鍵がかかっているようだ。登田が出ていったあと、山下が施錠したのだろうか。しかし、そんな素振りは見えなかった。ドアには近づかず、向こうの部屋へ入っていった。あのあと、また鍵をかけに戻ってきたのだろうか。一見した感じでは、ドアに鍵らしい装置、たとえば、レバーなどは見当たらなかった。
「変だなぁ」思わず言葉がもれる。
諦めて、ホールの中央へ戻り、上階を見上げる。それから、右手のドアをノックしてみた。しばらく待ったが反応がないので、ドアノブに手をかける。回転しない。こちらは明らかにロックされている。つまり、山下という女が入っていったあと、内側から鍵をかけたのだろう。こうなると、一階には、さきほどまでいた会議室以外に行き場所がない。会議室の奥から、さらに通路があったから、一階の北側にまだ部屋があることは想像できるが、玄関ホールからそちらへは直接行けないようだ。インタビューが行われている部屋へ戻るのは気が引けたので、彼女は階段を上って二階へ行くことにした。二階は初めてだが、少なくとも、あの探偵の一行がいるはずだ。図書室で調べものをする、と話していた。
二階の通路まで上がった。左右対称に折れ曲がった通路が吹き抜けのホールを半分囲んでいる。ここで四枚写真を撮った。左右の奥へ延びる通路は、どちらも同じように、ドアが並んでいた。突き当たりにはいずれも窓はなく、一階以上に薄暗かった。
たしか、山下が左だと言っていたことを思い出し、そちらへ歩く。一番近いドアをノックしてみた。玄関ホールが一部見下ろせるぎりぎりの位置にある唯一のドアである。返事がないので、思い切って開けてみる。部屋は真っ暗。奥に窓が一つ。通路の明かりが入り、二つのベッド、そしてテーブルやキャビネットなどの家具が幾つか認識できた。もちろん、誰もいない。客室のようである。
それにしても、薄気味悪い家だ。しかし、鈴本はこういった雰囲気が嫌いではない。これがテーマパークにあるお化け屋敷ならば楽しい、と感じたくらいだった。
玄関ホールを横から見下ろした構図だと、階段が入って絵になりそうだったので、レンズを向け、三箇所くらいから撮影をした。
そのとき、通路の照明が暗くなり、大きな雷鳴が轟《とどろ》いた。今までで一番大きい。家が揺れたのではないか、と思えるほどだった。もう雨が降りだしているのかもしれない。しかし、雨音はまったく聞こえなかった。外にいる犬たちのことを彼女は思い出した。
ドアが開く音がする。階段に近い位置に戻っていたので、見えなかった。誰かが走る足音、そちらへ彼女も歩く。通路の曲がり角で、ぶつかりそうになった。
「うわぁ!」後ろに飛び退いて少女が大声を出したので、鈴本もびっくりした。
「驚かさないでよ」彼女は笑って言った。
「今、雷が鳴ったでしょう?」加部谷恵美が目を丸くして言った。「聞こえました?」
「うん、もちろん」
「予言どおり、嵐になったのかなって……」加部谷はようやく少し微笑んだ。「外を見ました?」
「いえ」
「雨が降ってるのかなあ。どれくらいの嵐かなあ」
「私もね、確かめてみようと思ったんだけど、玄関に鍵がかかってて、開かないのよ」
「あの女の人に頼むしかないですね」
「加部谷さん、どこにいたの?」
「あそこ」加部谷は振り返って通路の先、右側にあるドアを指差した。右にはその一つしかドアがない。「図書室なんですけど、窓が一つもないんですよ」
「窓があっても、開かないみたいだし」鈴本は一階の会議室を思い浮べて言った。「なんか、もの凄く閉鎖的な家だよね、ここって」
「そうそう、こっちの部屋になら、窓がありますけど、開くかなあ」加部谷は通路を奥へ進む。彼女が示した左側には三つのドアが並んでいた。
鈴本も従った。真ん中のドアを開けて、加部谷は中へ入る。慣れた様子で照明をつけた。
「ここ入っても良いの?」鈴本は尋ねた。
「私たちが使って良い部屋なんです。きっと、あっち側にも、同じような客室があって」彼女はホールの方向を指差した。「そこが鈴本さんたちが泊まる部屋なんじゃないですか」
「え、私たち、泊まる予定なんてないよ。取材が終わったら、帰るつもりだから」
「え、夜にですか?」
「夜ったって、そんな、まだ夕方だよ」
「でも、暗くなってから、あの森の道を歩くなんて、ちょっと恐くないですか?」
部屋の突き当たりの壁にある窓まで来た。加部谷が顔を近づけて窓の周囲を調べ始める。
「駄目ですね。填め殺しみたい」
そのとき、その窓が光った。
「ひい!」加部谷が耳に両手を当てる。
そのあと、雷鳴が轟く。どすんという衝撃的な音だった。
「うわあ、今のは近いですよねぇ。恐いよう」
「あ、やっぱり雨みたい」鈴本は窓を見て言った。
色つきの波板ガラスであるが、向こう側を水が伝っているのがわかった。ときどき、水が素早く流れ落ちる。
「でも、外の音がほとんど聞こえませんね」加部谷が言った。「壁が分厚いんだろうなあ。こういうのは、断熱性に優れているから、冬は暖かくて夏は涼しいって、習いましたよ。窓が小さいのも、そういう意図でデザインされているんでしょうね、きっと」
「防音が完璧でも、あれだけの音がするってことは、外にいたら、もっと大音響だったってことだよね」鈴本は言う。「うーん、凄いな」
「雷がですか?」
「違う違う、あの神居さんって人のこと。お天気をばっちり言い当てたじゃん」
「まあ、それくらいは、超能力ってわけでもないですよ。地元の人なら、けっこう、なんかの徴候でわかったりするもんじゃないですか」
「でもさ、夕立になるなんて、全然予報なかったでしょう?」
「局地的なのかな」加部谷は首を傾げる。
「あっちの部屋で調べものをしているの?」
「そうですよ」
「ちょっと、撮影させてもらって良いかな?」
「さあ、どうでしょう。赤柳さんにきいてみますけど」
「あの探偵のおじさん、こう言っちゃなんだけど、妙に変な感じの人だよね」
「ええ、そうですね、私もそう思います」
「最初に見たとき、あれって思ったもん。近づかない方が良いかなって、本能的にさ……」鈴本はそこで笑ってしまう。
「はいはい、ええ。私もそうでした。でもですね、うん、つき合ってみると、わりとまともな人なんですよ」
「あそう」
二人は話をしながら部屋を出て、通路を横断し、反対側のドアを開けて図書室へ入った。
3
「雨、降ってましたよ」加部谷はデスクの山吹に報告した。
「そう……」顔を上げて山吹は頷く。そして、ようやく一緒に入ってきたもう一人の人物に気がついたようだ。
「あの、赤柳さん?」加部谷は棚の間を覗き込んだ。
「はいはい」
「鈴本さんが、ここの写真を撮っても良いかって」
「それは、神居さんにきいてもらわないと」赤柳はちらりとこちらを見て答える。
「神居さんの許可はもらっています」鈴本が進み出て言った。大きなレンズのカメラを両手で持っている。
「だったら、なにも問題ないですよ」赤柳は微笑んだ。「僕は、いくら撮ってもらってもかまいません」
「ありがとうございます」鈴本が軽く頭を下げた。
「でも、顔がはっきりわかるような写真は使わないでしょう?」
「ええ、それは大丈夫です」彼女はすぐにきょろきょろと目標を探し始める。
「どれくらい降っていた?」山吹が加部谷にきいた。
「いえ、外に出てちゃんと確かめたわけじゃなくて……」加部谷は答える。「向こうの部屋の窓に、雨が当たっているのが見えたんです。雷も光ってたし」
「玄関のドアが開かないんですよ」カメラを書棚へ向けた姿勢のまま鈴本が言った。
「いやぁ、なんか大雨になって、土砂崩れとかあって、唯一一本だけあった道が閉ざされてしまうんですよね」加部谷が言った。
「唯一なら普通一本だよ」山吹が顔を上げずに言う。
「それでそれで、帰れない状況になってしまって……」加部谷は気にせず続ける。「そういう中で、晩餐《ばんさん》のときに、誰かが、おえっとか言って突然立ち上がって、こう、喉を押さえたままばったりとその場に倒れるんですよ」彼女は自分の首に片手を当てる。それから、山吹を見ると、彼はノートパソコンの横に広げたファイルを読んでいた。「あの、山吹さん、聞いてます?」
「聞きたくないけど、聞こえてくる。どうしたら良いだろう、この雑音は」
「はい、わかりました」加部谷は舌を鳴らしてから黙った。「すみません」
とりあえず、作業場所へ戻って、また黴臭い本を引き出し、床に広げた。気持ちの切換えは早い方だ。彼女が担当しているところは、関係のありそうなものは少ない。単にページを捲って、その運動によって空気中に放出される黴の菌を吸引しているような気がする。呼吸を止め、なるべく横を向いて息をする方が良いだろうか、と考える。
「神居さんに超能力を見せてもらいましたか?」赤柳の声だ。鈴本にきいているのだろう。
「いえ、まだです」彼女の声。少し笑っているような楽しそうな発声だった。さきほど、赤柳のことを散々に表現していた鈴本である。
加部谷は、床に座り込み、前屈みになって本を捲っている。それはマジックの雑誌だった。写真が面白い。しかし、関係のありそうな本ではまったくない。何を探しているのかを忘れてしまいそうだった。始めてから、その本がまだ二冊めである。一晩かかっても、目の前の書棚に入っている本を全部読めるとは思えない。それに、全ページを丹念に捲っていっても、何事もなく終わりそうな予感がした。
急に、海月のことが気になった。どこにいるのだろう。しゃべらないので、同じ部屋にいることさえ忘れてしまう。
立ち上がって、少し歩いてみる。最初にいた壁際、同じ位置に、同じような姿勢で胡坐《あぐら》をかいて座っていた。ただし、周囲に何十冊も本が積まれていて、山が五つほどできている。加部谷はそちらへ静かに歩み寄った。ちょうど、山吹や赤柳からは見えない場所だった。
「どう? 調子は」彼女は小声で尋ねる。
顔を上げずに海月は小さく頷いた。何を肯定しているのか不明である。しかし、顔を上げて睨みつけられるよりはましかもしれない。
覗き込むと、彼が広げているのは、英語で書かれた文献だった。写真はなく、化学記号らしい図がある。論文だろうか。
「難しそうね、こっちは……」加部谷はさらに顔を近づける。
「暗い」海月が一言。
「あ、あ、ごめんなさい」加部谷は慌てて身を引いた。彼女の頭で彼の手許が陰になったのだ。「それって、ベンゼン環じゃない?」彼女は海月が広げているページの図を指差した。
「フェニル」海月は呟くように答えた。
「フェニル。そっか、フェニルね」彼女は何度か頷いた。しかし、何のことなのかさっぱりわからなかった。「化学、得意なの?」
「いや」
さっき、ベンゼンの話をしたはず。あれは何からつながった話だったっけ、と彼女は考える。駄目だ、思い出せない。それよりも空腹を感じた。時計を見ると、六時に近い。
「ご飯って、どうなるんだろう?」加部谷は小声で呟いた。「もしかして、ご馳走してもらえたりして?」
一応、簡単な食料は持ってきている。来る途中にコンビニで調達したもので、よほど空腹にならないかぎり、美味《おい》しいとは感じない類《たぐい》のものが多い。それでも、それらをそろそろ食べても良いかもしれない、できたら熱いお茶かコーヒーがあるとベターだ、などと加部谷は想像した。
「晩餐になると、誰かが倒れるんじゃないの?」すぐ近くに鈴本が立っていた。「そのあとは?」
「あとはですね、警察を呼ぶんですけど、土砂崩れで現場には辿り着けないわけですね。そのうち、きゃあって、夜中に悲鳴が聞こえて、二人めの犠牲者が出て……、朝になると、人形が倒れていたり、双子の姉妹が出てきたりします。まあ、そういう感じでしょうか」
「きゃあなんて悲鳴を上げるのは、今のところ、加部谷さんくらいだよ」遠くで山吹が言った。
「しっかり聞いてるじゃないですか、山吹さん」加部谷は言い返す。
ノックの音。誰も返事をしなかったが、ドアが開けられ、平井という女が立っていた。若い方、スカートが短い方の女性である。黒いワンピースはさきほどと同じだが、白いエプロンが加わっていた。コスプレをしているのか、というのが加部谷の印象だった。
静かに図書室の中に入ってくると、彼女は赤柳を見つけ、そちらを向いて姿勢良く立った。職員室へ呼び出された生徒のようである。
「お食事の用意が整いつつあります。一階へおいで下さいませ」平井が言った。甘えたような幼い口調だった。自分がそう感じるくらいだから筋金《すじがね》入りだな、と加部谷は評価する。ラジオの交通情報にうってつけの声である。
「食堂っていうのは、さっきの部屋のことですか?」赤柳が尋ねた。
「いいえ、その反対側です」平井は答える。彼女は両手を前で重ねてお辞儀をした。「それでは、どうかよろしくお願いいたします」
彼女が部屋から出ていくまで、息を止めていた加部谷である。ドアが閉まってさらに数秒間我慢をしてから、山吹のところへ駆け寄った。
顔を緊張させて山吹に近づくと、上目遣《うわめづか》いに山吹もこちらを見る。笑いを堪えているのは明らかだった。
「けっこう、山吹さん、ツボだったでしょう?」
「まさか」彼は鼻をふんと鳴らした。「そういう趣味はないよ」
「そうかなぁ」
「さあてと……」赤柳が本棚の間から現れた。「なんか、全然|捗《はかど》っている気がしないけれど……。まあ、とにかく腹は減ったし。予期せぬことだけど、ちゃんと食事にありつけそうだね」
「ラッキィですよね」山吹が言った。言葉の勢いが良い。結局、食べることにしか興味がないのだろうか、と加部谷は多少不満に思うのだった。
4
階段を下り、玄関ホールの左のドアを開けて入った。会議室の反対側になる初めての部屋だ。広さは会議室とほぼ同じ。奥行きの方がやや長い長方形の間取りで、右の壁は小さな窓が一つだけ。左にはドアのない通路らしきアクセスが二箇所あった。部屋の奥の壁際にテーブルが置かれている。会議室にあったような大きなものではなく、普通の家庭にもありそうなサイズのテーブルで、手前と奥の両端が半円形だった。その一番奥の席に既に神居静哉が座っている。左右の長辺に椅子が三つずつ並んでいて、左側の奥、つまり、神居のすぐ隣の席に記者の富沢が着いていた。
テーブルの左に、山下の姿があった。ワゴンの上でグラスの準備をしている。彼女もやはり白いエプロンをかけていた。若い平井の姿はない。左の通路がキッチンへ通じているのだろう。
鈴本がテーブルの左中央の席を選んだ。富沢の隣になる。右側に並んだ空いた椅子が三つ。その一番奥の神居に近い場所に赤柳が行く。そのあと、加部谷と視線を交わしたあと、山吹が二つめの椅子に座る。あとは、左右の端の席が残ったわけだが、加部谷は山吹の隣に座ることにした。必然的に、海月が鈴本の隣になった。
赤柳は神居に名刺を差し出し挨拶をした。学生たちも順番に紹介されたので、頭を下げた。もっとも、加部谷は既に庭で挨拶を済ませている。
床には幾何学模様のモダンな絨毯《じゅうたん》が敷かれている。壁には絵画が数点飾られ、コーナには大きな観葉植物の鉢が置かれている。そのそばに白い天使像もあった。土台も含めて高さは一メートル半くらいか。天使自体は、人間の半分ほどのサイズだ。窓の近くの壁際には古風なデザインの椅子や小さなテーブルもあった。いずれも、細くて湾曲したデザインの脚で、高いところのものを取るための踏み台にはなりそうにない。天井からは、動物を捕る罠《わな》とも思えるような照明器具が鎖でぶら下がり、細かいライトが沢山光っていた。部屋の雰囲気は会議室とはまるで違っていたが、充分な照度が確保されているとは思えない点が共通している。それでも、今までの部屋の中では一番明るいのでは、と加部谷は思った。目が慣れてしまったせいかもしれない。
メイド・ファッションの平井が左の通路から現れて、テーブルにナプキンやフォークなどを並べ始める。加部谷は楽しくなって、椅子からぶら下がっている足を前後に動かしていたのだが、隣の山吹がちらりとテーブルの下へ視線を送り、そのあと彼女を一瞥したので、微笑んで足の運動はひとまず止めた。いずれにしても、これは大学に入って以来一番心躍るシチュエーションではないか、と彼女は考えた。
目の前には、海月及介が姿勢良く座っていて、涅槃《ねはん》の目でテーブルの上を見つめていた。瞑想しているのかもしれない。もう少し、自分を取り巻く環境に興味を示してもらいたいものだ。特に、近くに可愛らしい女性がいて、いつも彼を盗み見ていることを知っているだろうか。そんな作文のような文章が頭に思い浮かんだので、ますます顔がにやけてしまいそうだった。誤魔化《ごまか》すために一度目を丸くして、深呼吸をするという無意味な仕草で処理した。
主の神居を観察することは、相当に度胸が必要だった。なにしろ、そちらを見ると、必ず彼もこちらを見るのである。視線がぶつかる、するともう耐えられない。じっと見据えられることは限りなく危険な気がした。なにしろ、尋常の顔ではない。人間離れしているといっても過言ではないだろう。美しいとか、綺麗だとか、魅力的だとか、そしてそれにときめくとか、そういった感情はまったくわかない。もっと超越している。むしろ、違和感、それとも軽い恐怖、あるいは気持ちの悪さの方が勝っているのでは、と加部谷は自己分析した。だから、神居をちらりと見ては、すぐに山吹の横顔や海月の俯《うつむ》き気味の顔を見て密かに安心するのだった。
オードブルの大きな皿には、小さな盛りつけが五箇所。最初の一口から加部谷は取り憑かれてしまった。
「めちゃくちゃ美味しいですね」隣の山吹に彼女は囁く。
次にスープ。ポタージュだった。これも、あまりの美味しさに、もう話などしている場合でない、という気分にさせられた。グラスにはワインが注《そそ》がれていたのだが、加部谷は最初の一口だけにして、あとは飲まないように決意した。食事のあと、頭脳労働に復帰しなければならないからである。それは、山吹や海月も同じように考えているだろう、彼らのグラスもあまり減っていない。一方、赤柳はかなり飲んでいる。既に幾度か、平井がボトルを持って近づきグラスに注ぎ入れた。大丈夫なのか、と加部谷は心配になるほどだ。
神居は最初からまったく飲んでいない。彼の前にはワインのグラスさえなかった。アルコールは超能力とは相性が悪いのだろうか。富沢と鈴本は、そこそこに飲んでいるようだ。特に鈴本はほんのり頬を赤らめている。彼女も楽しそうに会話に加わっていた。
雷の音はしばらく聞こえない。もう外の天気は回復しただろうか。天気予報では、雨マークは出ていなかった。おそらく局地的な通り雨だったものと思われる。壁の時計が七時を示していた。まだそんな時刻か、と加部谷は思った。
山下がワゴンを押して、通路から現れた。加部谷の座っている席は、その通路から出てくるところがいち早く見える。きっと、あの通路は奥で、ホールの反対側の会議室へもつながっているだろう。彼女は建物の平面図を思い描いた。食堂にはもう一つ、右手に通路が延びる窪みがある。そちらは行き止まりのようだ。ドアがあるので、プライベートな部屋だろうか。大学の授業で、建築製図に日々頭を悩めている彼女なので、知らない建物の中に入ると、その全体計画を想像する癖がついているのである。
「さきほど、超能力というのは、人と人との関係において存在する概念だとおっしゃいましたが……」富沢が話している。久しぶりに超能力という単語が聞こえたので、加部谷はそちらに耳を傾けた。「となると、個人としての超能力者というのは、どのように定義されるものなのでしょうか?」
「他人との同調に長けている人間のことです」神居が即答した。
「ああ、つまり、共鳴をしやすい、というわけですね。共鳴するために、なにかその、周波数を合わせるようなことをするわけですか?」
「そのとおりです」
「それは、どうやって予感されるものなんですか?」
「耳が聞く音、目が見る光、それらと同じです。音の高さをどうやって予感しますか? そうではなく、聞けば、どちらが高いか低いか、直感できますよね。それと同様に、感じることができれば、あとは経験の蓄積です」
「子供の頃から、それができたのですね?」
「もちろんです。むしろ、私はみんなもできるものだ、普通のことだと思っていました。自分だけがしていることだとは、まったく想像もしなかった」神居はそう言って微笑んだ。また加部谷の方へ視線を向ける。どうも威圧されてしまう。彼女は慌てて目を逸らした。
「一人でいるときには、能力を確認することはできません」神居はゆっくりとした口調で話した。「子供のときは、数々の能力を誰もが持っています。自覚はできますが、しかし、他人から見れば、単なる一人遊びの領域を出ないものです。相手が関心を示さないことで自分を修正し、また大人に指摘されて、共通する最低限の感覚しか持ってはいけない、ということを子供は学ぶのです。それによって、自らの能力を封じ込める」
山下と平井が二人でメインディッシュを並べ始める。シチューの中になにかが入っている、そんな感じの料理だった。良い香りがした。早く食べたいと思ったけれど、神居が話をしているし、みんながそれに聞き入っていたので、一番にフォークを手に取るのも憚《はばか》られた。こんな正式なフルコースが食べられるとは想像もしていなかったので、加部谷は少なからず緊張している。山吹と短いひそひそ話をした以外には、ほとんどしゃべっていない。こういう場面では、いつも西之園萌絵を思い浮かべ、自分が西之園になったつもりで行動することにしている。そうすれば、自然にお淑《しと》やかになるし、なんとなく物怖《ものお》じせずに上流社会にとけ込めるような錯覚が持てるからだ。
みんなが食べ始めたので、加部谷もスプーンでまず一口。
「駄目、美味しすぎますね」彼女は隣の山吹に囁いた。
「うん」彼も一口食べてから素直に頷いた。「加部谷さん、来て良かったね」
「そうですよう」彼女は深く頷いた。「でも、毎日こんな食事をしていたら、太りますよね」
「一つ、率直な感想を言わせていただきますが……」富沢は神居に話しかけている。「こちらでお話を伺っていて、まだ、なにも超能力についての証拠といいますか、実現象を拝見していません。いえ、普通、そういったものを、これ見よがしに披露するものではありませんか。こうして取材が来るのだったら、用意万端で待っている。それがマジシャンです。しかし、神居さんにはそれがない。そういった様子がまったくない。私は逆に、このあたりにリアリティを感じました」
「ええ、別に、無理に信じていただく必要はないのです。信じてもらっても、私にはなんの得にもなりませんからね。テレビに出て、占いだの、予言だの、予知だの、そういったことを宣伝する輩《やから》は、間違いなく似非《えせ》です。本当に正しい手法を知っている者ならば、どうして宣伝する必要があるでしょうか? 黙っていても、自然に評判は広がりますし、偶然にも体験できた人は、きっと人生を修正せざるをえなくなるでしょう。テレビを消してしまえば、はいそれで終わり、というような見せものではないのです。そうではありませんか?」
また、神居と目が合ってしまった。今度は数秒間、顔を見つめ合った気がして、加部谷の鼓動は少し速くなった。もっともな意見だと思ったので、つい話に聞き入ってしまったのだ。
「そもそも、大勢の人間に対して一度に体験させることはできません。そこが既に間違った認識です。あくまでも、人と人の関係、一対一の人間の間に生じる現象だからです」
「しかし、沢山の方を集めて、講習会のようなものを開かれていますよね?」富沢が尋ねる。「そういったときも、一人ずつ、全員に対して行うのですか?」
「いえ、そうではありませんが、私ともう一人の間に生じる現象が、あるときは強くて、他の者にも明らかな形で体験できることはありますね。それができる人というのは限られていますが……」神居は言った。加部谷が彼を見ると、また視線がぶつかってしまった。「たとえば、ここにいる方の中では、彼女だけが、それが可能です」
「え? 私ですか?」加部谷は自分の鼻先に人差し指を当てる。「私に、その、そういう能力があるってことですか?」
「そうです」神居は簡単に頷いた。「貴女は、異界のものを引き寄せる力をお持ちだ。つまり、その近くにいる、ということでしょう」
「い、異界、ですか?」どう反応して良いものか、加部谷は考えた。とりあえず、顔は微笑みを絶やさないように努力する。
「アナザ・ワールドです」神居は曇りのない笑顔で頷いた。「体験してみますか?」
「そりゃ、えっと、もし体験できたら、きっと信じると思います」加部谷は正直に言った。誰だって、自分で見たものを疑ったりしないだろう。「でも、行ったっきり、帰ってこられない、なんていうのは、困りますので」
「加部谷さん、それはもう信じている状態だよ」横で山吹が囁いた。非常に妥当なアドバイスだと彼女も思った。
「そうか、矛盾していますね。あの、あまり恐い目に遭うのは苦手で、だけど、スリルくらいなら大好きです」
「貴女が、そういったセンスに優れているのは、小さい頃に、目の前で悲劇を見たからではないでしょうか」神居が言う。
「え……」予想外の展開で、加部谷は言葉に詰まった。
気がつくと、テーブルの全員が彼女に注目していた。それに、神居のすぐ横に立っていた山下まで、加部谷を見据えている。
「悲劇……、ですか」加部谷は一度小さく深呼吸をした。「悲劇といえるかどうかわかりませんけれど、殺された死体を間近に見たことはあります。突然、目の前に現れて、もの凄くびっくりして、しばらく、何度もそれを夢で見ました」
「殺された死体って?」山吹がきいた。
「うーん、また今度」加部谷はどうにか微笑み返す。既に自分のペースを取り戻しつつあった。しかし、相変わらず上座の神居は、彼女にレーザ光線のような視線を向けている。トータルすると相当な量を照射された気がしてならない。
加部谷は視線を逸らして、テーブルの向かい側に座っている海月を見た。珍しく彼も視線を上げて、加部谷を見つめた。こちらの視線の方がずいぶん優しい、と彼女は感じた。理由は判然としないが、美形カリスマというキャラクタがいけないのではないか、と想像する。とにかく苦手なことは確か。
その後、会話が途切れ、加部谷も料理の消化に専念することにした。どうなるのだろう、という期待と不安はあまりなかった。きっと、どうにもならないのではないか、という予測の方が強い。
「木俣さんは、こちらへはよくいらっしゃるのですか?」赤柳が別の質問をしたので、加部谷は内心ほっとした。
「いえ、彼はここへ来たことはありません」神居は首をふった。「木俣さん、この頃、躰を悪くしましてね、しばらく休んでいますよ」
木俣というのは、MNIという宗教団体の幹部だった男だ。その彼の紹介で、赤柳はここの図書を調べる許可を得た、と話していた。詳しい説明はなかったものの、木俣なる人物が、神居を長とする組織でも、重要な役割を果たしていることはまちがいない。つまり、これも一種の宗教団体、ということだろうか。
「真賀田四季という人物をご存じですか?」赤柳が尋ねた。
「ええ、もちろん」神居は頷く。微笑んでいた表情が僅かに曇ったように見えた。「どうしてですか?」
「はい、実は、MNIの総志だった佐織宗尊氏のことを調べているのです」
「ああ、なるほど。それで……」
「なにかご存じのことがありますか?」
「いえ、なにも」神居は首をふった。「もう、ずいぶん昔のことではありませんか。佐織宗尊については、私は木俣さんから昔話を聞いただけのことです。彼が、真賀田四季のバックアップをしていたことですか? 調べていらっしゃるのは」
「ええ、そんなところです」
「赤柳さん、本でも書かれるんですか?」記者の富沢が上目遣いに赤柳を見て尋ねた。
「私が書くわけではありませんよ」赤柳は笑って答える。
そうか、赤柳探偵は、誰かに依頼されてこの調査をしているのだ。その依頼主についてはもちろんまったく説明はなかった。きいても教えてくれないだろう、と加部谷は考える。
メインの皿が片づけられ、デザートはアイスクリームだった。加部谷は幸せを感じたものの、どうもさきほど神居が言った、アナザ・ワールドが気になってしかたがない。
「すみません、あの……」コーヒーを一口飲んだところで彼女は決心した。「この際ですから、やっぱり、体験させてもらえないでしょうか」
神居の笑顔がこちらを向き、遅れて頷いた。そしてそのあとは目を細め、顎を少し持ち上げて、彼女を見据えた。心を読まれている気がして、加部谷は落ち着かない。山吹の顔を見て、その向こうの赤柳の顔も窺った。バイトなのに、そんなことをしている暇はないよ、と言われそうだった。
「そうだよ、やってみなくちゃ」意外にも、赤柳はそう言った。
「言うと思った」隣で山吹がくすっと吹き出した。
5
「では、心静かに、この世のものの存在、そして過去の記憶、未来の予感、すべてを忘れましょう。気にしない、できれば見ない、聞かない、外部との関係を絶とう、と考えて下さい」神居が言った。
ゆっくりと響く声。
加部谷は頷いた。しかし、目は閉じられても耳を塞《ふさ》ぐことはできない。音は聞こえるのではないか、と思った。そんなふうに考えているうちは、きっと駄目なのではないか。たぶん失敗するぞ、と予感した。いけない、未来の予測をしてはいけないのか。困ったな、もしうまくいかなかったら私のせいになるのだろうか、とも心配する。
加部谷は立っている。神居は、彼女のすぐ後ろにいるはず。テーブルの近くだった。他の五人は、椅子に座ったまま。もう、テーブルの上には、コーヒーカップしかのっていなかった。山下と平井の二人は振り返ってこちらを向いている。
神居が横に立った。加部谷の頭の後ろに片手を伸ばしている。触っているわけではない。もう一方の左手は、加部谷の顔の前、胸、そして腹部の前を上下にゆっくりと動いている。これも触れているわけではない。十センチほど離れている。それなのに、どうもこそばゆい。気持ちの良いものではなかった。そんな沈黙の時間が一分ほど続いた。
困ったことになったぞ、と彼女は思う。しかし、もうなるようになるしかない。
「何をするのですか?」加部谷は我慢ができなくなって、小声できいてみた。できるだけ優しく、謙虚な気持ちを声に込めたつもりだった。しかし、彼女のその声で神居の片手がぴたりと止まった。横目で怖々《こわごわ》彼を見ると、じっと恐い顔で加部谷を睨みつけているのだ。俺の言うことをきけ、と言っているような顔に見えた。最悪だなあ、と彼女は心の中で思った。もう完全に後悔していた。こういうのに、自分は一番適していない人間なのだ。見かけと違って、平均よりもずっと論理的な人間、クールな感情の持ち主なのだ、と思う。しかし、もう取り返しがつかない。なりゆきだ。我慢するしかないだろう。
「大丈夫、なんの心配もない」優しい声で神居は答える。彼の吐息が感じられるほど顔が近くにあった。「今から、そこの奥の部屋へ入ります。私が瞑想に使っている特別な部屋です。異界に最も近いロケーションなのです。そして、その世界がどんなものなのか、体験してもらいましょう。もちろん、すぐに戻ってこられますからご安心を。ただし、注意が一つ。取り乱してはいけません。大声を上げたり、感情を露わにしないように。常に静かに、気持ちを落ち着けて、外界と自分の関係をできるだけ曖昧《あいまい》なものとして想像して下さい。そうです、まるで、マシュマロのクッションに取り囲まれているような、ふわっとした感じですよ」
マシュマロのクッション? 駄目だ、それはとんでもなく可笑《おか》しい。加部谷は笑わないように必死で堪える。
「部屋のドアを見て下さい。あそこです」神居が言った。彼の視線の先を追い、加部谷は振り返った。後方に通路が延びている。突き当たりにドアが一つあった。そこは食堂からかなり引っ込んだ位置になるためか、薄暗かった。
「良いですか。あのドアの中へ、貴女はこれから入ります。一つだけルールがあります。後ろ向きに歩いて下さい。こちらを向いたまま、ゆっくりと、後ろへ下がりましょう。大丈夫ですよ、私が誘導しますから」
「どうして後ろ向きなんですか?」
「前を向いて入ったのでは、あそこは普通の部屋です。異界への入口はすなわち出口。進んでいる方向へけっして顔を向けてはいけません」
意味が全然わからない。
「さあ、聞かないように。そして、見ないように。外部への気持ちを遮断して下さい」そう言うと、神居は手の上下運動を再開した。
加部谷はもう目を瞑っていようか、と思った。そうしないと、見てしまう。特に、彼の広げた左手を間近に見てしまう。
「よろしい、では、入りましょう」
軽く肩に触れられた。躰の向きを微調整し、通路の方へ完全に背を向ける。神居は、彼女の後ろに回ったのでまったく姿が見えなくなった。
「はい、下がって下さい」神居の声。
加部谷はゆっくりとバックする。テーブルの五人がこちらを見ていた。赤柳が一番見やすいほぼ正面になる。山吹もそのままの姿勢。こちら向きに座っている、富沢、鈴本、そして海月は振り返らなければならない。海月は一番遠く、通路に入ったら死角になりそうだった。
さらに後ろに下がって、通路の壁が両側に来る。僅かに暗くなって、両手で両腕を抱え込んだ。なんとなく、寒気がする。光も足りないし、それに、空気が湿っている気がした。煙っていないだろうか。でも、誰も煙草など吸っていない。足許が急に寒くなってきた。もしかして、ドライアイスとか? などと想像する。壁の角に遮られて、海月の顔は見えなくなった。しかし、彼はそのまま顔を覗かせない。普通、こんなときって、席を立ってでも見たくなるものではないか、と妙に腹が立つ。
さらに後退。
彼女の肩には軽く神居が触れていた。彼の誘導で後ろに下がっている。その彼がドアを開けたようだった。みんながまだこちらを見ている。ドアを引いて、神居が彼女の横に立ったようだ。
「意識を集中して。周囲を感じないように。遮断します。なにも考えない方が良い。意識をしない。ぼうっとしている。リラックスして。自分の躰のことだけを考える。ほら、手はどこにありますか。指はどんな形をしていますか。唇はどんなふうですか。そして、自分の躰の中へ、自分の内側へ、意識を集中させましょう。口の中へ、目の中へ。頭の中へ。心臓の鼓動を聞きなさい。血液の脈動を感じなさい。呼吸をするために、肺が膨《ふく》らみ、そして萎《しぼ》みます。それを想像して下さい」
実際に、加部谷はそれを考えようとした。無理だとは思ったけれど、しかしそうすることで、確かに周囲は気にならなくなる。精神を統一しろという意味だろう。部屋の中へ入った。室内は照明が灯っていないようだった。
「いよいよです」神居は顔を近づけ、耳もとで囁いた。
左の耳だ。そこに彼の顔がある。息が感じられる。体温が感じられる。
困った。これは、ちょっと辛《つら》いぞ、と加部谷は思う。
変なことにならなければ良いが。叫んだりしないように気をつけなければ。
これはショーなのだ。見せもの。マジックなのだ。だから、楽しまなければ。騙された方が良いのだ。
ゆっくりと気づかれないように息を吐いた。少しは落ち着いたかもしれない。けれども相変わらず、神居の手が、加部谷の背中へ回り、反対側の肩に触れていた。それがとても気になる。
神居がドアを閉めるために、彼女の前に出た。正面から彼女の顔を覗き込むように顔を一度近づけた。加部谷は目を細め、それを見ないようにした。そうか、遮断しなければ、と思う。
彼がドアを閉めた。暗くなる。完全に閉まった。軽い金属音が鳴る。真っ暗だ。
黙って立っている。再び、神居が彼女の躰に触れる。左の腕のところだ。しかし、なにも見えない。
「大丈夫ですよ」神居の声が近い。「ゆっくりと、向きを変えましょう。もう部屋の中ですから、後ろ向きでなくてもけっこうです」
神居が、彼女の背中にも手を回す。これって良いのかしら、などと余計なことを考えてしまう。
「すぐ後ろにカーテンがありますからね、気をつけて。ちょっと待って下さい。そうそう、そちらを向いて」
左へ回るように手で指示をされたので、加部谷は向きを変える。神居は彼女の背後に回り、両肩に手をのせた。
「そう、ゆっくりと。なにも聞こえませんね?」
彼女は頷いた。でも、彼の声は聞こえる。
「大丈夫、ものを言っても良いですよ。もう私にしか聞こえません。ここには、貴女と私の二人だけしかいません」
暗くて平衡感覚がおぼつかない。彼女は少しよろめいた。それを神居が支えてくれる。彼女の後頭部が、彼にぶつかったようだ。後ろから抱きかかえられるような格好になったので、慌てて姿勢を整える。
「はい、大丈夫ですよ。落ち着いて」
「どうすれば良いですか?」話をしても良いと言われたので、声を出した。なるべく小さな囁き声で。
「手を前に伸ばして、カーテンを確かめて下さい」
加部谷は片手を前に出す。なにも触れない。
「もう少し前かな」
恐いので両手を前に出して、一歩だけ前進。すると、手に布らしいものが触れた。
「ありました」
「切れ目が少し左にあると思います。そこから入りましょう」
いつのまにか、神居の手は離れていた。それに、自分の手が周囲の物体に触れている状況がこんなに落ち着けるものだということもわかった。なにも触れずに立っていられるのは、それは目が周囲を見ているから、周囲と自分の関係を認識しているからなのだ。目を瞑ってしまったら、片足で長時間立っていられない、というのも試したことがあった。加部谷はそれを思い出す。カーテンを手探りして進むと、神居が言ったとおり、左の方でカーテンの切れ目を見つけることができた。
「入って良いですか?」
「どうぞ」
手探りをしながら、加部谷は前に進む。顔にカーテンが触れる。さらに入ると、右手にぼんやりと浮かんでいるものが見えた。赤と青と、それから白っぽいものだった。さらに進んでそちらを見る。四角い。かなり大きいことがわかった。
「あ、窓ですね」加部谷はようやくそれに気づいた。
右手の壁に、窓があるのだろう、波板ガラスを透過した弱い光。まだ外が明るいのか、それとも月が出ているのか、あるいは、庭園の人工照明だろうか。そんな僅かな明かりが、厚いガラスを通して入ってくるのだ、と加部谷は思った。なんだ、全然異界なんかではない。単なる照明が消えた暗い部屋ではないか。
「部屋の真ん中に椅子がありますから、そこに座りましょう」神居が言った。
どこにあるのかよくわからない。見えるのは窓だけである。しかし、さらに手探りをして進む。低い位置を気にして、両手を前に出した。すぐに、椅子らしきものを発見する。
「ありました」
「気をつけて座って下さい」
手探りして確かめた。背もたれがある、固い椅子だ。木製だろう。どっしりとした感じで、動かない。彼女は方向を変えて、座面を確かめながらそこに腰掛けた。
三色の光る四角は、今は彼女の左に浮かんでいる。
そのとき、空気が動いた。
これには加部谷もびっくりした。風が顔に当たったのだ。しかし、一瞬だけだった。そして、その次には、左にあった光が遮られた。また少しびっくりした。しかしそれは、神居がそちらに立ったのだと気がつく。今の風は、彼がカーテンを通ったときの空気の動きが感じられたのだろうか。
神居がすぐ横にいる。どこも躰は触れていないのに、存在感がますます強くなった。もしかしたら、自分の前と後ろに手を広げて翳《かざ》しているのではないだろうか。目の前十センチくらいを彼の手が動いているのではないだろうか、そんなふうに想像すると、躰が固くなり、自然に力が入ってしまう。
「とても意識している。お互いに」神居が言った。そのとおりだ、と加部谷も思った。「大丈夫、大切なことは信頼です。お互いの存在を許す。それが大事なことです。息をして。ゆっくりと。今まで貴女の内側にあったものが、今は外側になる。周囲にあるものは、実は貴女の内側です。そして、貴女の外側にあったものが、貴女の内側に仕舞われる。裏返しになった。そう、表と裏が反対になった。わかりますね?」
わからない。そんなこと言われても無理というものだ。
「ここは、もう異界なんですか?」加部谷は尋ねた。
「わかりません」意外にも弱気な返答である。
少し拍子抜けして、彼女は息を吸った。目が慣れてきたが、しかし、部屋の全体像はほとんどわからない。窓の周辺と、神居の躰のほんの一部だけがなんとか確認できる程度だ。
「少なくとも今、貴女と私はここにいます。それは、確かですね?」
「はい」加部谷は頷いた。それくらい確かなことってないのではないか、と思う。
「では、もうしばらく、深く気を静め、冷静さを保って下さい。感情の起伏を抑える。大声を出さない。暴れ回らない。いいですね?」
「はい」
「残りの五人にも、こちらの部屋に入ってもらいます」
「え、そうなんですか?」
「彼ら五人は、私たち二人と、どんな関係にあるでしょうか?」
「え?」質問の意味がわからなかった。
しかし、そのまま、神居は沈黙した。
6
山吹早月は、加部谷恵美が後ろ向きになってドアの中へ入るところを見ていた。その部屋の中は暗かった。しかも、黒いカーテンがドアを入ってすぐのところにあるようで、その奥はまったく見えなかった。神居がずっと彼女に囁きかけていた。さすがの加部谷も緊張している様子で、それが新鮮で面白かった。隣の赤柳も楽しそうに眺めている。鈴本も椅子から腰を浮かせ、覗き込んでいた。それに比べて、その左隣に座っている海月及介は、もう興味を失ったのか、まったく関係のない別の方向を眺めていた。協力的でない観客が少なくともここに一人いることになる。
ドアが閉まったので、もうなにも見るべきものはなくなってしまった。このあと何が起こるのか、それはあとで加部谷から聞く以外にないだろう。
「火の玉でも見せられるんでしょうか」鈴本が言った。彼女はあまり愉快そうな顔ではなかった。火の玉とは古い、と山吹は思う。
「帰ってきたら、今までの加部谷さんとは別人格になっていたりしてね」赤柳がジョークを言った。なかなか面白い発想だ。
「少しでも、おしゃべりが直ると良いですね」山吹は言った。「それと、もう少し落ち着いてほしいのと、あと、皮肉を言うのをやめてほしいのと」
「これも、やっぱり撮っちゃ駄目なんでしょうね」鈴本が残念そうに言う。「さっきの彼女の表情なんか、実に良かったけどなあ」
「記事になるといいけど」富沢が呟いた。
「コーヒーのお代わりはいかがでしょうか?」ポットを手にした山下が言った。彼女は海月の席の後方に立っていた。奥のキッチンから出てきたところである。
「じゃあ、僕、いただきます」赤柳が片手を少し上げる。「えっと、ショーはこれでもう終わりなんですか?」赤柳が彼女に尋ねた。
「いえ、まもなく、神居様が皆様を呼ばれると思います」山下は俯き気味のまま静かな口調で答えた。
彼女はテーブルを回り、赤柳のカップに新しいコーヒーを注いだ。富沢は腕時計を見ていた。記事を書くために、時間を気にしているのかもしれない。神居と加部谷の二人が部屋に入って、そろそろ一分くらいだろうか、と思われたとき、どこからともなく、神居の声が聞こえてきた。
「皆さん、それでは、どうか心静かに。そして、私たちがいる部屋へ、入ってきて下さい。どなたでもけっこうですし、また、何人でもかまいません。ご興味のある方はお願いいたします」
山吹は部屋を見回した。どこかにスピーカがあるようだ。しかも一箇所ではない。話している途中で、声の主が部屋の中を移動するように感じた。音源が実際に動いているのではなく、おそらく、複数のスピーカを使って、その音量のバランスを変化させているのだろう。ステレオ録音などで同様の効果が使われることがある。
テーブルの者たちは顔を見合わせた。赤柳はカップを口につけたところだった。山下もすぐ横に立っていた。富沢と鈴本は振り返って通路の奥のドアを見た。海月は無表情のまま、山吹を見据えていた。なにか言いたそうだ。
「何?」山吹は親友に小声できいた。
「僕はここにいる」海月が言った。「一人は残らないと観察能力が低下する」
「じゃあ、ちょっと、見てきましょうか」富沢が立ち上がる。
鈴本も立ち上がった。続けて、赤柳、そして山吹も席を立つ。山下が案内してくれるのか、と一瞬だけ富沢と赤柳は立ち止まった。しかし、彼女は片手を出して、どうぞ、という仕草をしただけで自分は動かない。富沢は赤柳と顔を見合わせ、結局、赤柳がさきに通路の奥へ入っていった。富沢が次に、そして山吹、最後が鈴本になった。
通路の中へ四人も入ったため、ますます暗く感じられた。行き止まりのドアを、赤柳が開ける。
「入りますよ」彼は小声でそう言うと、中に入った。
「ありゃりゃ、真っ暗だ。このカーテンの奥ですか?」赤柳が言う。「暗いなあ」
富沢も部屋に入った。山吹は戸口に立って待つ。手前に引かれたドアを彼が右手で支えている。通路には、左右にドアがあった。収納スペースだろうか。通路の天井も見上げたが、なにも異状はない。前の二人が部屋の奥へ入っていったので、山吹も足を踏み入れた。
まず、入って一メートルほどのところにカーテンが垂れ下がっていて、その奥のスペースを遮断していた。遮光が目的だろうか、黒いカーテンに見えた。やや左手にカーテンの切れ目があったので、そこから富沢が入っていく、後ろを振り返り、捲ったカーテンを山吹に示す。山吹がそれを引き継ぎ、さらに前進。闇の中に、赤柳と富沢がいる、ということはわかるが、他にはほとんどなにも見えない。
しかし、カーテンをくぐり抜けると、右手の壁に窓があることがわかった。ほんの僅かな光が透過してる。波板ガラスの赤や青が綺麗に浮かび上がっていた。山吹の後ろの鈴本もカーテンの内側に入ろうとしている。その影でますます周囲は暗くなった。だが、通路へのドアは開けられたままだったので、そこから光が入ってくる。だんだん目が慣れ、部屋の大きさもわかった。家具としては、奥に机らしきものがある。また棚のようなものが壁際にあった。赤柳がほぼ部屋の中央に立っていて、彼のすぐそばに椅子があるようだった。
「ここに椅子があるんだよ、気をつけて」赤柳が言った。「なるほど、二人は消えたってわけか」探偵は冷静な口調である。
「どこかに出入口があるってことですか?」富沢が口にする。誰もが抱いた当然の感想だろう。
「では、山下さん、ドアを閉めて下さい」神居の声がまたどこからともなく聞こえてきた。すぐそばにいるように感じられる。部屋の中のどこかに隠れているのだろうか、と山吹は思った。
振り返ると、鈴本がカーテンを持ったまま立っていて、光を中に入れていた。その隙間から、戸口の山下の姿が見えた。彼女も部屋の中に入り、そしてドアを引いた。それとともに暗くなる。ドアが閉まると、本当になにも見えなくなった。窓だけが空間に浮かんでいるのだが、その手前に富沢が立っているため、四角の半分ほどが隠れていた。
「ここに、私はいます」神居が言った。「もちろん、加部谷さんもいます。部屋の真ん中にある椅子に今、彼女は腰掛けています。そうですね?」
「はい、そうです。えっと、あのぉ、どうしたんですか? みんな、どうして来ないんですか?」
「いえ、もう皆さん来ていますよ、この同じ部屋に」神居の声。また、移動しているみたいだ。左から右へ、そしてその逆へ。
「え、どういうことですか? 山吹さんは?」彼女が尋ねた。声はとても近い。
「僕はここにいるよ」山吹は闇に向かって答える。
「え、どこ?」
「慌ててはいけません。心が乱れると、時空が乱れます。お互いに話ができなくなりますよ」神居が言った。
暗闇の中。静寂。
このマジックのために部屋が作られているのだから、どんな仕掛けがあっても不思議ではない、と山吹は考えた。おそらく、加部谷はもっと奥にある部屋へでも連れていかれたのだろう。
「山下さん、ライトをつけて下さい」神居が言った。
蛍光灯が瞬き、一瞬で明るくなる。
部屋の全体が見えるようになる。部屋の中央に赤柳と富沢が二人。山吹のすぐ後ろに鈴本。さらに、カーテンを捲って、山下が現れた。ドアの近くに照明のスイッチがあったのだろう。
書斎のようなごく普通の部屋だった。右に窓がある。奥の壁には書棚が二つ。その前にデスク。さらにその手前、部屋の中央に椅子が一つだけぽつんと置かれている。今、その背もたれに赤柳が片手をのせていた。
「加部谷さん、どこにいるの?」赤柳が小声で尋ねた。
「えっと、部屋の真ん中の椅子に座ってるんですけど」加部谷が答える。声はするが姿は見えない。
「へえ、こりゃ、凄いな」富沢が笑いながら言った。どうして、笑っているのかは不明であるが、ときどき、得体の知れないものに出会うと笑ってしまう人がいるようだ、と山吹は思った。
とりあえず、簡単に部屋の周囲を確認することにした。といっても、大きな部屋ではない。壁際を見て回っただけで、たちまち確認できた。この部屋には、ドア以外には出入口はなさそうだった。本当にないのかどうか、それは判断できない。巧妙に隠された出入口があって、そこから加部谷たち二人は別のところへ出ていったのだろう。きっと、加部谷は神居に言いくるめられて、この超能力マジックに協力をしているのだ。そんな解釈が最も妥当に思われた。
「あれぇ、おかしいなあ、みんな、どこへ入ったんですか? 別の部屋じゃありません?」加部谷が高い声で言った。冷静な口調ではあったが、しかしいつもよりも早口で、苛立《いらだ》っている様子が伝わってくる。
「そっちは、二人しかいないわけ?」山吹はきいた。
「ええ、そうです」加部谷が答える。「暗いから、確かなことはいえませんけれど」
「暗い?」赤柳が言った。
「そうです」神居静哉が答える。「そちらの光は異界までは届きません。だからこそ、見えないのです。よろしい、では、こちらも明るくしましょう」
しばらくタイムラグがあった。
「あ!」加部谷の小さな叫び声。
「どうしたの?」山吹が尋ねる。少し楽しくなってきた。
「えっと、はい、今、明かりがつきました。だけど、特にこれといって報告するようなことはありませんねぇ、うーん、デスクがあって、本棚があって、あと、窓がありますけど」
「あるよ、こっちにも」
「うーん、よく似た部屋ってことなのかな」加部谷が言う。女子とはいえ、さすがに理系の学生、そんな簡単に降参するつもりはないようだ。
「デスクの上にペンがありますね」神居が言った。誰か、それを指で動かしていただけないでしょうか」
富沢がデスクに一番近かった。彼が振り返って横へ移動する。確かにデスクの上にサインペンが二本あった。赤と黒だ。
「どちらのペンですか?」富沢は、片手をそちらへ伸ばしながら尋ねる。
「どちらでも」神居が答えた。
富沢が黒いペンの方を指で動かす。
「あ!」加部谷の叫び声。
富沢は手を引っ込めた。こちらの部屋では、何が起こったのかわからない。
「動きました。黒い方のサインペンだけ」加部谷はやや興奮した声である。
富沢はもう一度手を出して、今度は赤いサインペンを転がすように動かす。
「ああ、凄い、なんで! どうして?」加部谷の高い声。「えっと、ちょっと、あの、どうなってるんです、これ!」
「加部谷さん」神居の声が優しく語りかける。「落ち着いて。心を静かに。同調が乱れます」
「あ、あ、すみません。はい、大丈夫です」
「では、もうこれくらいにしておきましょう。私たちはそちらへ戻ります。そちらの空間に人が存在していては危険ですので、皆さんはそこから退室して下さい」
山下がドアを開けるのが、鈴本が捲っているカーテンの間から見えた。山吹はそちらへ向かう。通路の向こうに明るい食堂が見えている。海月の姿は見えない。まだテーブルに座ったままなのだろう。一人になったら、こちらの様子を窺いにくるのが常識的な行動だと思うが、彼にはそういった普通の感覚がないことを、山吹はよく理解していた。
「ちょっと待って下さい」神居の声が言う。
鈴本も山吹もドアの手前で立ち止まった。
「さきほどの、加部谷さんの乱気のせいか、少しずれたようです。こちらがさきに戻りますので、皆さんは、その部屋の中でしばらくお待ち下さい」
「すみません、すみません」加部谷の小さな声が聞こえた。
山下が再びドアを閉め、山吹たちは部屋の奥へ後退する。
「何ですか、ランキって?」鈴本が囁くように尋ねた。
「さあ、乱気流の乱気じゃないですか」山吹は適当に答える。「気が乱れているって意味ですよね。加部谷さんなら、普段から乱れていますけどね」
「聞こえてますよ、山吹さん」加部谷の声が低くなった。
7
「では、神経をもう一度集中させて下さい」神居は加部谷に近づき、両手を広げて顔の前に差し出した。
「はい」彼女は頷いて姿勢を正す。「早くあっちへ帰りたいです」
「では、立ち上がって」
加部谷は椅子から立ち上がった。
「反対を向いて」
「え、こっちですか?」
加部谷は出入口のあるカーテンの方を向いていたが、回れ右をして、デスクや書棚の壁を見た。さきほど、誰もいないのに動いたサインペンが二本、まだデスクの上に転がっていた。また動くかしら、と彼女はそれを見つめる。どんな仕掛けで動いたのだろう。記念にサインペンが一本欲しいって、言ってみようか。いや、あまり出しゃばった真似はしない方が無難だ。誰だったか友人が、加部谷恵美を一言で表現する言葉は、出しゃばりだ、と言ったことがある。思い出した、高校のときのホームルームのゲームだった。それ以来、ずっと自覚しているのだけれど、どうも直っているとは思えない。
「これって、気持ちを乱して、戻るのに失敗したら、どうなっちゃうんですか?」どうしても質問してみたくて、ついにきいてしまった。
「別の場所に戻ることになります。空間の位相がずれるためです。下手をすると、全然違うところへ迷い出て、もう二度と同じ世界には戻れなくなるでしょう」
「私だけじゃなくて、神居さんもですか?」
「そうです」
「すみません、私のせいで……」加部谷は頭を下げた。どうも信じられないが、しかし相手を怒らせてはいけない、と思った。
「一度、異界に同行した女性が興奮して悲鳴を上げてしまったことがありました。そのときは、部屋のドアが消えてしまって、戻ったのは良いのですが、部屋から出られなくなったんですよ」
「え? それで、どうしたんですか?」
「建築業者を呼んで、壁を取り壊してもらいました」
「へえ……、ハンマとかで?」
「そうです」
「大変ですね」
「さあ、落ち着いて。気を静めて下さい。できれば、目を閉じていた方が良いかもしれません」
加部谷は言われたとおり目を瞑った。しかし、まったく閉じてしまうと恐いから、薄目を開けて、すぐ前の椅子を見ていた。彼女が今まで座っていた椅子である。
「まず、だんだん暗くなります」神居が言った。
そのとおり、すっと三秒ほどで暗くなった。照明が消えたのだろう。再びなにも見えなくなる。
「大丈夫ですか?」近くで神居の囁き声。「肩に手をのせますよ」
「はい」
神居の手が、加部谷の両肩に軽く触れた。これも、さきほどと同じだ。
「では、ゆっくりと呼吸をして。雑念を振り払って。なにも考えない。思い出さない。感じない。ただ、自分の内側にあるものだけを意識して。はい、少しずつ、少しずつ、後ろに下がりましょう」
言われるとおりにした。もう、そろそろこんな芝居はやめてほしい、と彼女は望んでいた。今にも自分が暴れ出しそうな、そんな映像ばかりが思い浮かぶのである。何故だろう、そんなに攻撃的な人間ではないはずなのに。
カーテンらしきものが頭の後ろに触った。ようやく出入口の近くまで来たのだ。
しかし、そのときだった。踵《かかと》になにかが引っかかり、彼女は後ろに倒れ込む。神居が支えようとしたが、彼の手をすり抜け、加部谷は床に尻餅をついてしまった。後頭部が彼の脚に当たったかもしれない。それともドアか。かなり派手な音がした。
「あれ、何の音?」という声が聞こえた。すぐそばである。山吹の声だ。
このときになって急に恐怖が彼女を襲った。躰に悪寒《おかん》が走る。
もしかして、これって……、本当に、本当に、異界なのだろうか。山吹と同じ空間にいるのに、声だけが聞こえて、触れることも、見ることもできない、お互いがお互いの分子の隙間に存在するような、入れ違いになった別世界。そんなところに自分はいるのだろうか。マジックのように見せかけて、実は本当に超能力が存在するのかもしれない。むしろ、マジックだと思わせておいた方が安全だからだ。そういった一瞬の発想が、とても恐ろしかった。
「大丈夫ですか?」神居の手が、加部谷の頭に触った。
彼女は手をそちらへ差し伸べる。彼の手が、それを掴んだ。
「すみません」彼女はなんとか立ち上がった。自由なもう一方の手を前に出して、周囲を確かめようとした。すぐ近くにカーテンの感触を発見する。
「大丈夫、もう少しで戻れますよ。OK。はい、気を静めて。落ち着きましたか?」
「大丈夫です」
「では、ドアを開けますよ」
「後ろ向きになった方が良いですね?」
「そうです」
加部谷はカーテンの方を向く。ドアが開く音を背後で聞いた。しかし、不思議なことに、光は差し込まなかった。
「はい、今、ドアを開けました。では、ゆっくりと後ろへ歩きましょう。そうです。こちらです」
肩に触れている手が、彼女を誘導してくれる。加部谷は少しずつ足をずらすような速度で後退した。だが、まだなにも見えない。ドアも見えない。真っ暗闇だった。通路に出たはずなのに、どうしてこんなに真っ暗なのだろう?
「ここは? まだ異界ですか?」
「いえ、大丈夫、もう戻っていますよ」
「どうして、暗いのですか?」
「水位が違うと水が流れますね。それと同じように、明るさが違うと、光が流れる。光はとても強いエネルギィなので、流出すると危険なのです。ですから、同じ明るさに両方を合わせる必要がある。そのために一番簡単なのは、真っ暗にすることです」
なるほど、なかなか理にかなった説明ではないか、と加部谷は感心する。
だいぶ歩いた。三メートルくらい後退したのではないか。もう通路から食堂へ出てきたはず。
「はい、ここに椅子があります。わかりますか? もう後ろ向きでなくても大丈夫です」
「あ、はい、これですね」加部谷は手探りで椅子を確認した。
「そこに座って下さい」
躰の向きを変え、言われるとおりに腰掛ける。
「はい、OKです。すべて終わりました。もう大丈夫です。深呼吸をして下さい」
加部谷は溜息をついた。
次の瞬間、照明が灯った。
眩しい。
しかし、目を細めて、自分のいる場所を確認する。
目の前には、テーブル。そこに、コーヒーカップが並んでいる。加部谷は長いテーブルの端、短辺の席についていた。左右の両側に三つずつ椅子があって、右の一番遠くの席に、海月及介が座っていた。片肘をつき、その手にやや斜めに顔をのせていた。こちらを向いている。
「海月君」思わず、加部谷は両手を口の前で合わせた。「ずっと待っていたの?」
「ああ」彼は頷いた。口を少しだけ斜めにしたので、笑ったように見えた。
「凄かったんだよ」彼女は話す。そして、後ろを振り返った。
そこに、白い神居静哉が立っていた。彼女を見て、無言で頷く。微笑んでいた。自信に満ちた笑みだった。
次に右方向から音が聞こえた。そちらを見ると、通路の奥のドアが開いた。開けたのは山下で、彼女が部屋の外に出て、ドアを支えた。そこから、鈴本、山吹が出てくる。加部谷の顔を見て、山吹は白い歯を見せて笑った。ああ、なんて素敵な笑顔、と加部谷は不覚にも思ってしまった。やっぱり、こっちの世界の方が私には向いているな、という言葉を、声にしないで二度頭の中で繰り返した。
続けて、赤柳と富沢も出てくる。
加部谷は立ち上がった。
「そこの部屋を見ても良いですか?」彼女は神居に尋ねた。
「ええ、でも、もう今は、普通の部屋ですよ」両手を後ろに回し、彼は立っていた。
出てきた赤柳たちとすれ違い、加部谷は通路を奥へ進んだ。山下がドアを開けたまま待っていてくれた。
部屋の中は暗い。黒いカーテンに遮られている。
「電気をつけてあげて」神居の声が後ろから届く。
山下が、室内に一歩だけ入り、ドアの内側の壁へ手を伸ばす。室内が明るくなった。
加部谷は奥へ進み、カーテンを捲る。
そこは、彼女がさきほどまでいた部屋とまったく同じだった。窓、椅子、デスク、書棚。黒と赤のサインペンがデスクの上にあったので、そこまで行き、手に取って調べてみた。変わったことはなにもない、普通のサインペンだった。
溜息をつき、彼女は引き返す。食堂のテーブルの席に全員が既に戻っていた。加部谷もテーブルを迂回《うかい》し、自分の席につく。暗闇から生還したとき、彼女が座った椅子は、元のとおり今は神居静哉が座っていた。
「ああ……」椅子の背にもたれかかり、彼女は溜息をついた。「不思議」
「どこに行っていたの?」隣の山吹が尋ねた。
そんな質問にもすぐには答えたくないほど、疲れてしまって、躰が痺れているような、そんな感覚が全身にじわじわと浸透していく。不思議な体感だった。
「どこへ行っていたんだろう……、私」
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第3章 不可能な隔絶
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存在の意味への問いが、出され[#「出され」に傍点]ねばなりません。この問いが、ひとつの或いは唯一の[#「唯一の」に傍点]基礎的な問いであるならば、このような問いは、それにふさわしい見とおしを必要とします。それで、存在への問いが、ひとつの優れた[#「優れた」に傍点]問いであることを見やすくするために、そもそも問いには何が属するのか、が簡潔に説明されねばなりません。
[#ここで字下げ終わり]
1
赤柳と三人の学生たちはその後、コーヒーをもう一度味わったのち、食堂を辞退し、二階の図書室へ戻った。時刻は九時になっていた。
「さあ、今から十二時間を目標にがんばりましょうか」赤柳が言った。「食事をして眠くなったところかもしれないけれど、加部谷さんは異界帰りですから、目もばっちり覚めていることでしょう」
「いえ、それがなんだか眠いんですよ、変ですね」加部谷は顔をしかめた。「もし眠っていたら、愛の鞭《むち》で叱ってやって下さい」
山吹も海月も黙って持ち場についた。赤柳ももう姿が見えなくなっていて返答はない。しかたなく、加部谷は自分の担当の棚のところへ行こうとした。
「あの部屋を突き抜けて、奥の部屋へ入っていったんでしょう?」山吹が突然きいてきた。
「え?」
「ほら、奥の壁の書棚があったところ、あそこのどこかが、自動で引き戸みたいに開くようになっていて、加部谷さん、部屋を通り抜けて、奥へ行ったんだよ」
「そうかなぁ」立ち止まって加部谷は首を捻る。「だとしたら、この屋敷の奥行きが、あそこだけ少し長くなりませんか?」
「うーんと、そうかな」今度は山吹が首を捻った。「えっと、食堂が四|間《けん》で、通路が二間くらい? あと部屋が二間半くらいだよね。うーん、そうだね」山吹は天井を見た。この図書室の奥行きを目測しているのだろう。
「でしょう? 私だって、一応建築学科の端くれですからね」加部谷は言った。「絶対にあの部屋でしたよ。だって、窓もちゃんと一つだけあって、椅子のすぐ横でした。だいいち、奥へ入っていったら、デスクにぶつかるじゃないですか」
「うーん。おかしいなあ。どういう仕掛けかなあ……」山吹が舌打ちをする。かなり悩んでいる様子ではある。こういう状況の彼を加部谷はあまり見たことがない。珍しいと思った。難問に立ち向かう男ってほのかに良いな、と彼女は内心考えた。別に男に限らないか、とも思い直す。
「別のところにいたのは確かですよね。あ、あの、声が聞こえたのは、マイクとスピーカですか? できます? なんか、すぐ近くにいるみたいに聞こえましたけど」
「マイクとスピーカをそれぞれ複数置いたら、できるよ」
「だけど、どこにもスピーカなんてなかったでしょう?」
「どこにだって隠せるよ。絨毯とか、壁とか、デスクとか。どんな形にでもなるし」
「じゃあ、まあ、それは可能だとして……」加部谷はさらに考える。「うーん、いやあ、私は絶対にあの部屋にいたと思いますよ。ええ、だから、間違えているのは、山吹さんたちの方じゃないのかなぁ」
「こっちは四人もいたんだからね」山吹は言う。「それにさ、最後僕たちが部屋から出てきたとき、加部谷さんも見ていたじゃない。ちゃんとあの部屋から出てきたでしょう?」
「私だってそうですよ」
「でも、真っ暗だったんじゃない?」
「うーん、あ、そうだそうだ、海月君がいたんだ。海月君?」加部谷は彼のいる方へ歩いた。やはり同じ場所に座り込んでいる彼をすぐに見つける。「君って、あのときずっとあそこに座っていたの?」
「ああ」海月は下を向いたまま答えた。
「山吹さんたちが入っていったあと、海月君、一人だけ?」
「ああ」
「でも、部屋が暗くなっていたじゃない。あれは、どうして?」
「加部谷が出てくる少しまえに急に照明が消えた」単調な口調で話すと、海月はそこでようやく顔を上げた。「気づかなかったけれど、たぶん、もう一人いた女がスイッチを切ったんだろう」
「ああ、平井さんね。山下さんは、山吹さんたちと一緒にあの部屋に入っていたから」加部谷は片手を額に当てる。「うーん、わからないよう。えっとぉ、私が出てきたときは、見えなかった?」
「ああ」
「だよね……。音とかは? どっちから来たか、くらいはわかったでしょう?」
「ああ」
「うーん。あ、そうそう、奥の部屋にいる人たちの声は聞こえなかった?」
「ああ」
「うーん」加部谷は舌打ちする。「参考にならないなあ。なんか、悔しいけど、もうこうなったら、超能力かぁ、あれはって思うしかないのかも」
「いや」海月は初めて首をふった。
「あ、うん、そう、そうだよ。私も信じてるわけじゃないけどぉ、うーん、でもでも、おかしいでしょう?」
「そうかな」海月はそう言うと、また下を向いてしまう。英文の書類を綴じたファイルを読んでいる途中のようだった。
「不思議なままによくしておけるね」加部谷は言う。
「ああ」
「ちぇ……、しょうがないなあ」
「加部谷は、ほかに不思議がないのか?」下を向いたまま、海月が言った。
「えっと……」彼の質問を理解するのに、二秒ほどかかった。言い返すタイミングを逸してしまった。疲れているのかもしれない、と彼女は自己分析した。
2
赤柳たち四人が出ていったあと、食堂では、神居、富沢、そして鈴本の三人がまだ話を続けていた。話題は、神居がこれまでに見せた奇跡の数々についてだったが、しかし彼自身は、あくまでもそれを、自分と被験者の二人の同調によるものだ、と語った。この「被験者」という表現は神居自身が使ったものだが、鈴本には、限りなく「信者」に近いニュアンスに聞こえた。
「私の妹が、一度、そういった霊との交信を体験したことがあるんです」鈴本は小さな決断をして話した。
神居が彼女の方へ視線を向ける。今までになく、鋭い眼光を鈴本は感じた。単なるカメラマンだと思っていた女が、意外にも興味を持ちそうな対象だった、と気づいたのかもしれない、と彼女は考えた。
「霊というのは、間違った認識ですよ。同じ現象に対して違った解釈をしている、という意味ですが」神居が言った。「死んだ人間は単なる物質であって、そこには既に精神活動がありません。脳が働いていない状態では脳波は生じない。まして、何年もまえに消滅した精神の活動が現象として観察される道理がありません」
「すると、幽霊なんていうものも、神居さんは否定されるのですね?」富沢がきく。
「主観的な精神反応の個人的解釈に立ち入るつもりはありませんので、否定するというのは、言葉として少し違うと思います。たとえば、子供が人形や縫いぐるみに名前をつけて呼ぶ、ということを否定するのか、というのと同じ問題です。忌み嫌うべきものでもありません。むしろ、多くの場合は微笑ましいとさえ思いますね」
「たとえば、呪い殺すとか、怨念のために不具合が生じるとか、そういったことも、実際には起こらない、とお考えでしょうか?」
「簡単にいえば、ありえないです」神居が頷いた。「それから、方角や、あるいは生まれ年などによる占いの類も、まったく意味がありません。そういったものは、もっと別の次元で生じている物理現象を、間違った角度から不充分に観察して生じた誤解です」
「しかし、神居さんはまだ若い。失礼ですが、今のその境地にどのようにして達したのか、という点が素直な疑問として、私にはあります。おそらく、世間にも、新しいものを受け入れようとする場合、同じような意識があると思います。そこに至る経過のようなものの説明が必要だと思いますが」
「おっしゃることはもっともだと思います。ただしかし、たとえば、アインシュタインは数年で相対性理論に至りました。それまでは何世紀にもわたって、天体の観察から得られた情報は間違って解釈されていたのです。もっと昔には、天体の運行はすべて神によってなされていると信じられていました。その解釈が最も単純で、誰にでも理解しやすいものだったからです。しかし、数学や物理学が進歩し、また観察手法も発達しました。情報も蓄積されました。これらを総合して、あるときたった一人の人間の頭脳が真実に気づいたのです。これは、いかがですか? 別に不自然なことではありませんね。いずれは、多くの者が気づく、ただそれだけのことです」
「うーん、なるほど……」富沢はまたノートを広げてメモを取っていた。「ところで、今頃になってなんなんですが、神居さんが到達したその理論というのは、名前はないのですか?」
「ええ、ありません。特に名づけていません」
「神居さんが被験者とともに体感することができる、その能力も、名称はないのでしょうか?」
「ええ、まだ正式に名づけていません」
「超能力、という表現は適切ではない、と思えてきましたが、これについてはいかがですか?」
「適切ではないと思いますが、それ以外に、一言で一般の方の興味を引くことは困難ですし、また、これこそが真の超能力であるかもしれませんので、今のところあえて否定してません」
「ああ、そうか、真の超能力ですか……、それはなかなか良い表現ですね」と富沢はノートにペンを走らせる。
鈴本は携帯電話を取り出して、ディスプレィに表示されている時刻を見た。九時二十四分だった。いつ頃ここを引き上げることになるだろう。十時頃にはと予想していたのだが。
今のところ、大した仕事をしていない気もする。もちろん、写真はもう百枚以上撮ったので、これだけでも使えないということはないだろう。ディスプレィの指示によれば、電話の電波が一番弱い状態になっていた。かかりにくいのは、やはりこの建物のせいだろう、と彼女は思い出す。
「ちょっと、電話をかけてきます」彼女は立ち上がった。
富沢がちらりとこちらを見て頷いたのを確認して、鈴本は食堂から出た。
玄関ホールに立つ。二階を見た。探偵たちの作業は捗っているだろうか。彼らはここで夜を徹するつもりなのだ。ご苦労なことだ、と最初は思ったが、加部谷が見せてくれた客室は、予想外に綺麗で、ペンションの一室のようだった。あれならば、泊まっても悪くはないな、と彼女は少し考える。富沢の取材が長引きそうならば、夜遅く無理にあの山道を歩いて帰るよりは、朝まで待った方が良いかもしれない。そうだ、外は雨が降っている。ぬかるんだ暗い道なんて、できれば避けたいところである。
玄関のドアを確認したが、やはり開かなかった。ノブは回転するがドア自体が動かない。力を入れて押し引きしても、がたつきさえしなかった。
山下か平井を探すしかない。彼女たちにドアを開けてもらおう。会議室のドアを開けてみる。照明が灯っていたが、誰もいない。テーブルに椅子がきちんと整列している。綺麗に片づけられているようだ。二階へ行っても、図書室があるだけで、おそらくこの家の者たちはいないだろう。山下や平井は、建物一階の北側にいるはずである。さきほどの食堂にも、そしてこの会議室にも、北側へアクセスする通路があって、彼女たち二人は何度かそこを行き来していたからだ。
誰もいない会議室に、鈴本は一人入った。部屋の奥の右手にある通路へ向かう。そこから覗いてみると、左右に通路が延びていた。左はすぐに行き止まり、右は、数メートルさきで左へ折れている。近くにドアはない。通路を右手へ進み、折れ曲がって左を向く。すぐ右にドアがあったが、左にも大きなドアがあった。そちらは、珍しくガラス窓のあるドアだったので、中を覗いてみることにする。小さな照明が灯っているだけで薄暗い部屋だ。しかし、その奥はもう少し明るく、キッチンらしいことがわかった。手前の部屋には作業テーブルや貯蔵のための棚がある。ドアを開けて、中を覗いてみたが、人気はなかった。
「誰かいませんか?」声をかけてみたものの、反応はない。
通路はまた右へ折れ曲がっている。今度は左にドアが四つ並んでいた。どれも窓のない木製のドアで、見覚えがあった。その先で通路はまた右へ折れ曲がっているが、そちらが食堂へ通じているのだ。一番向こうのドアを入ったところがトイレで、一度そこを使ったから覚えていた。食堂では、神居と富沢がまだ話をしているだろうか。しかし、声は聞こえてこなかった。
山下たちがいるのは、この手前の三つのドアのどれか、ということになりそうだ。
最初のドアを軽くノックしてみた。小さな声が聞こえ、やがてそれが開く。顔を出したのは若い平井の方だった。黒いワンピース姿だったが、もうエプロンはしていなかった。
「すみません、あの、玄関のドアが開かないのですけど」
「は?」平井は首を傾げる。
「ドアに、鍵がかかっているんじゃないでしょうか?」
「いいえ」彼女は首をふった。「そんなはずは……」
「でも、開きませんよ。あの、携帯電話を使いたいのです。この家の中だと電波が届かないみたいなので」
「はい、では、こちらに裏口が……」平井は部屋から出てくる。
通路を進み、トイレの手前のドアを平井は開ける。そこは、両側に棚がある収納スペースのようだったが、その突き当たりにドアが見えた。窓はなく、外は見えない。平井がドアまで歩み寄り、それを開けようとした。
「あれ?」彼女は小声で呟いた。開かないようだ。「どうしたのかしら」
「鍵がかかっているのでは?」
「いえ、鍵というものは、ありません」平井が答える。
「え? 鍵がないの?」
「ええ、そうです」真剣な表情で彼女は頷いた。
「えっと、用心が悪くない?」鈴本は尋ねる。「夜も開けっ放しなんですか?」
「え、いえ、えっと、これが……」平井はドアの高い位置を指差した。「ここと、ここに、この木の棒を差し入れるんです」
「ああ、なんだ、閂《かんぬき》か……」鈴本は上を見上げて納得した。ドアの高い位置とそのすぐ横の壁に、コの字形の金具が三つ並んでいた。さらに、そのすぐ横の棚に、短い角材が置かれている。それをコの字の金具の中へ差し入れて鍵をかけるという仕組みだ。しかし、今それは差し入れられていない。
「どうして開かないわけ?」鈴本は、ドアの周囲を観察しながら言った。
「わかりません。どうしてでしょう?」
「雨が降って、木が膨張したとか?」鈴本は言う。「こういうの、よくなるんですか?」
「いいえ、そんなことありません」
二人は通路を戻り、会議室を通り抜ける。そして玄関ホールへ戻った。玄関のドアにも、高い位置に同じコの字形の金具があった。また、すぐ横の壁の窪みに、閂の棒材が置かれていた。こちらも、閂が働いているわけではない。平井が試しても、ドアはびくとも動かなかった。
「出られないってことになるのかな」鈴本は呟いた。「この家って、窓にも格子がありますよね?」
平井は腕時計を見た。
「申し訳ありません。今から、ラジオを聴かなければならないのです」
「は? あ、そうですか……」鈴本は驚いた。ドアが開かないという非常事態に、ラジオを聴くとはまた悠長な話である。「えっと、でも、ドアは……」
「ちょっと待っていただけませんか? 十五分で終わります」
「十五分ですか」鈴本は思わず顔をしかめてしまった。
3
鈴本が出ていったあと、食堂には、神居と富沢の二人だけになった。
「どうでしょう、さっきの女の子は、神居さんの能力を信じたでしょうか?」富沢が尋ねた。
「それは、彼女の自由です。誰もが、自分に最適な解釈を採用します。これはなにかのまやかしだ、単なるマジックだ、と彼女が思えば、それもまた今の彼女には必要なことなのです。しかし、いつか真実に気づくかもしれない。ずっと心の隅に残ることでしょうし、いずれまた将来、偶然にも同じ体験をするかもしれません」
「その種の能力がある人間と出会えば、ということですか?」
「そのとおりです。あるいは、自分からこの真実を受け入れ、もう一度体験したいと強く願えば、さらに可能性は大きくなりますね」
神居は時計を見た。富沢も自分の時計を見る。九時半だった。
「ずいぶん遅くなってしまいました。そろそろ……」富沢は言いかける。
「いえ、いつまでいらっしゃっても、こちらはかまいません。泊まっていかれてもけっこうですよ。二階に客室が幾つかあります。もともとそういう目的の施設なのです、ここは。しかし……」神居が立ち上がる。「私は十五分ほど用事がありますので、申し訳ない、一旦失礼します。九時四十五分から、お話を再開しましょう」
「あ、はい。わかりました」富沢はもう一度時計を見て頷いた。「恐れ入ります」
神居は通路の奥へ歩き、突き当たりのドアを開けて部屋の中へ消えた。さきほど、富沢たちも中に入った問題の部屋である。
富沢は椅子から立ち上がり、両手を真っ直ぐ上に伸ばして深呼吸をした。少し頭が痛かった。疲れた、というよりも、アルコールが少々足らない状況のような気がする。中途半端に飲んだのがまずかったのだろう。
小さなノックの音が聞こえてきた。振り返ったが、近くではない。トイレへ行く通路の方からだろうか。そのあと、女の話し声がした。なにを話しているのかまでは聞き取れない。平井か山下だろう。
二階にいる探偵グループがどんな様子か見物にいくか、とも考えたが、しかし、邪魔をしない方が良い、と思い直す。どうも面倒になって、また椅子に腰掛けた。首を回して、溜息をつく。
少し突っ込んだ質問を幾つかしたい。まだきいていないことがある。彼はノートの前の方へ捲って、それを確認した。
それから、また時計を見る。あと三十分間インタビューをしたら、十時十五分になる。それから帰るとなると、車に乗れるのは、十一時半頃か。街まで戻ったらもう深夜である。まあ、それからだって、どこかで飲むことくらいは可能だろう。ここに泊まるよりははるかに良いのではないか、そんなシナリオを考えた。つまり、鈴本にそう話せば良い、という想像である。彼女は誘ったらのってくるだろうか。
神居がいないうちに、このさきのことを考えておこう、と彼は思った。しかし、テーブルに肘をつき、顎を手にのせると、瞼《まぶた》がとても重かった。
4
山吹は図書室の向かい側にある客室のトイレを使ったあと、通路を横断して作業に戻るところだった。ホールの吹き抜けの方を見ると、階段を上がってくる鈴本の後ろ姿が見えた。何をしているのだろう、と思ったものの、気にせず、図書室の中に入った。
赤柳が少しまえからラジオを取り出して、音楽を流していた。バックグラウンドミュージックがあった方が仕事場の環境として良い、というのが赤柳の主張で、そのためにわざわざ持ってきたのである。その主張自体は悪くないと思うけれど、自分の好きな曲をヘッドフォンで聴いた方が、ずっと良い環境ではないか、と山吹は思った。もちろん、雇われた身であるので、そんな些末《さまつ》なことで文句を言うわけにはいかない。
「加部谷さん、起きてる?」部屋に入り、山吹は言った。
「一応」弱々しい声で加部谷が答える。「あぁあ、私もちょっと気分転換してこようかな」
「もう?」デスクの椅子に座って、山吹は言った。
「山吹さん、どこの部屋のトイレを使いました?」加部谷が立ち上がって、部屋から出ていこうとする。
「真ん中」
「私は、じゃあ、左の部屋にしますね。赤柳さんは、右の部屋を使って下さいよ」
「はいはい」右手の奥から赤柳が答える。「仕切り屋さん」
加部谷が出ていった。
「富沢さんたちは、帰るつもりなのかな」山吹は言う。誰に話しかけたわけでもなかったが、しかし答えるのは赤柳しかいない。
「泊まっていくんじゃない」赤柳が簡単に言った。
「鈴本さんが、二階へ上がってきてましたから、向こう側の客室を使うのかも」山吹は言う。
「向こう側って、客室なの?」赤柳がきいた。
「たぶん」山吹は答える。「食堂や会議室の規模から考えて、客室がこちらの三つだけということはないと思いますよ。建築計画的に見ても」
「なるほど、専門なんだね」赤柳が言う。
海月が姿を現し、黙ってドアの方へ歩いていく。
「おい、真ん中の部屋を使えよ」山吹は声をかける。
海月が一度振り返って、こちらを見たが、頷きもしないで出ていった。
「どんな感じ?」赤柳が棚の間から出てきて、山吹の横に立った。
「この作業はだいたいルーチンワークになりました。簡単です。僕も、半分は読む作業をした方が良さそうですね」
「そうしてもらえると助かるね」にっこりと微笑む赤柳。「ところで、ちょっと変なことをきくけれど、まあ、気にしないでもらいたいんだ。言いたくなかったら、言わなくてもいいし」
「はい」赤柳探偵の視線を受け止める。
「西之園さんのことなんだけれどね」
「ああ、はい」
「真賀田四季についてなにか彼女から聞いたことはないかい?」赤柳が尋ねた。
「いえ、聞いたことないですね」
「うん、そうか」赤柳は頷く。「彼女は、あるみたいだったけれど」加部谷恵美のことらしい。
「加部谷さんは、西之園さんとずっとまえから知り合いなんですよ。僕は、ゼミ配属になってからですから、まだ一年ちょっとです、西之園さんとは。普段から、そんなに話をするわけでもありませんし」
ドアが開き、海月が戻ってきた。
「わかった、どうもありがとう」赤柳は片手を軽く持ち上げパーの形を見せると、海月とすれ違い、ドアから出ていった。トイレに行くのか、それとも、加部谷からきき出そう、というつもりだろうか、と山吹は考える。
「どう? 調子は」山吹は海月にきいた。
「何の?」
「うーん、何のかな」山吹はくすっと笑う。「加部谷さんと鉢合わせにならなかった?」
「彼女なら、階段の方で、カメラマンの女と話していた」海月の姿は既に見えない。持ち場に戻ったようだ。
このあと、赤柳が部屋に戻ってきた。加部谷がおしゃべりをしていたので、諦めて戻ってきたのか、単なるトイレだったのかは不明。黙って作業を再開したようだ。
加部谷が戻ってきたのは五分後くらいだった。
「あの、えっと……」山吹のところへ真っ直ぐに彼女は来た。「今、鈴本さんから聞いて、それで、私も実際に確かめてきたんですよ、玄関のドアなんですけど」
「玄関のドア?」山吹は彼女を見る。
「開かないんです」
「そりゃ、夜だから、鍵をかけたんじゃないの?」
「いえ、違います。そんなふうじゃなくて……」加部谷は難しい顔で頬を膨らませた。「なんていうか、ドアがひっついちゃってるみたいな」
これには山吹も吹き出した。
「笑いごとじゃありませんよ。で、うーんと、こっちの北側に裏口があって、そこも見てきたんですよ、鈴本さんと一緒に。そこのドアも開かないんです。まったく同じような感じで。どちらも、鍵はかけてないんですよ。閂の棒があって、それは填っていませんでしたから」
「どうして、外に出ないといけないわけ?」
「それは、鈴本さんなんですけど、電話をかけるために外に出たかったんです」
「ああ……」山吹は頷いた。「山下さんか、平井さんにきいてみたらいいんじゃない?」
「それも、鈴本さんがきいたらしいんですけど、なんか、えっと、今からラジオを聴く時間だからって、部屋に入っちゃったんですって」
「ラジオ?」
「ええ」
「で、鈴本さんは、どうしたわけ?」
「さあ……」加部谷は首を傾げた。「とりあえず、下の、食堂へ戻ったみたいですけど」
「ふうん」
音楽でジャズっぽい曲が流れていたが、がさがさと雑音が連続して入り、それと呼応するかのように、天井の照明が暗くなった。
「あれ、また雷かな」赤柳が言った。
それを聞いて、加部谷が両手で耳を塞いだが、しかし雷鳴は聞こえてこなかった。
「そうか、外は嵐かもですね」彼女は言った。「ドアが開かないってことになっちゃうともう、鈴本さんたちも、明日の朝まで我慢するしかないってことですね」
「いや、事情は知らないけど、そういう問題じゃないように思えるね」山吹は言う。
「出ていってほしくない理由があるのかな」赤柳がこちらへ出てきた。「特殊な鍵がかかる仕組みになっているかもしれない」
「そうですよね、私もそう考えました」
赤柳はラジオを手にしていた。煙草の箱くらいの大きさのもので、かなりレトロなデザインのラジオである。また、雑音が入り、照明が一瞬暗くなる。
「雷っていうのは、電波障害になるんですね」加部谷が言った。
「まあ、あれは一種の放電だからね」赤柳が言う。
別に、一種ではなく放電そのものではないか、と山吹は思ったが黙っていた。年寄りの言うことに逆らわない方が賢明というものだろう。
「ラジオを聴くって?」赤柳が言う。「どこの局かなあ」
「今のFMですか?」山吹はきいた。
「そう……」赤柳はラジオのダイアルを指で回した。大きな雑音が鳴る。ときどき一瞬だけ放送らしき声も入った。「たぶん、AMだろうね。うーん、インターネットができたら良いのに」
「この家、光ファイバとか、来てませんよね」山吹は言った。
赤柳が次々に選局して音楽やトークを流したが、そんな一瞬では何の番組かもわからない。このあたりがテレビと違う点だ、と山吹は再認識する。
ドアがやや激しくノックされて、返事を待たずに開いた。鈴本である。
「ちょっと、下へ来てもらえませんか」彼女は赤柳の顔を見つけて言った。
「どうしました?」探偵が尋ねる。
「いや、わからないんですけど、呻《うめ》き声みたいなのが聞こえて……、なんかあったんじゃないかって、とにかく、富沢さんが赤柳さんを呼んでこいって……」
5
赤柳と鈴本に続いて、山吹も図書室を出た。加部谷ももちろん一緒だった。海月はついてこなかった。仕事に専念したいようである。
ホールの階段を下り、食堂へ入る。テーブルの奥に富沢が一人立っていた。他には誰もいない。
「どうしました?」赤柳がきいた。
「あっちの部屋です」富沢は左へ指を向ける。
奥まったところにある例の部屋だ。
「そこへ入っていって、もう十分くらいになるかな」時計を見ながら富沢は言った。このとき山吹も自分の時計を見た。九時四十二分だった。「用事があるからって、部屋へ神居さんが入っていって、しばらくしたら、その、なんか大きな音がして、ものが倒れるような……、それから、呻き声みたいなのも聞こえてきたんで、変だなと思って、そこのドアまで行って、大丈夫ですかって、ノックをしてみたんですけどね、返事がないんですよ。ドアも鍵がかかっているみたいで、開かないし」
赤柳が、通路の奥へ入り、ドアを確かめた。やはり開けられないようだ。
「山下さんと平井さんを呼んだんですが、どこにいるのか、来てくれないし」富沢は言う。
「たぶん、向こうの部屋だと思いますよ」鈴本が指を差す。手前の通路を示しているようだ。そちらがキッチンなどへ通じている。「平井さんはラジオを聴かなきゃって言ってましたけど」
「鈴本さんが戻ってきたんで、そういえば、赤柳さんは探偵だから、ご専門だろうって思い至ったわけです」
「何の専門です?」赤柳がドアを諦めて、戻ってきた。「山下さんを呼んでくるしかないですね」
鈴本が頷いて、もう一つの出口から通路へ入っていった。
「もしかしたら、具合でも悪いのかもしれない。発作みたいなもので、倒れたとか……」富沢は言った。
「そんな声だったんですか?」赤柳がきいた。
「わかりません」富沢は首をふる。彼はまた時計を見た。「もっとも、十五分待ってくれ、と言われたから、もう少し待った方が良いかもしれない。あと一分くらいですね」
鈴本が戻ってきた。
「すぐに来てくれます」彼女が報告する。「もうすぐラジオが終わるからって言われました。何でしょう? そんなに重要な番組なんですかね、山下さんまで……」
しばらくすると、山下が食堂に現れた。彼女は、みんなの顔を見回す。少し遅れて、平井も現れた。二人とも、さきほどと同じ黒のワンピースである。
「神居さんが、部屋に入られたきり、出てこないんです」富沢が言った。「もの音と呻き声が聞こえたから、心配しているんですけど」
「今日は、大切なラジオ放送があるので、それを聴かれているのだと思います」山下が答える。「もうしばらくお待ち下さい。私たちもそれを聴いておりました。たった今、終わったところです」
「何の放送ですか?」赤柳が尋ねた。
「いえ、ただのラジオドラマです」山下が目を伏せる。
「ラジオドラマ?」小声で赤柳が繰り返す。
しばらく沈黙があった。一分ほど経過したかもしれない。山吹は、その間、山下と平井の二人を観察していた。じっと立ったまま、こちらを見ようとしない。変わった人間だな、と彼は改めて感じた。鈴本は壁にもたれかかって腕組みをしていたが、途中でテーブルに置いてあった自分のカメラを手に取った。赤柳と富沢の二人は、神居が入っていったという通路の入口付近に立ち、ときどき奥を窺っていた。山吹と加部谷は、テーブルのこちら側にいる。彼らのところからも、通路の奥のドアがぎりぎり見えた。
「やっぱり出てこられない」富沢が時計を見て言った。「もう時間を過ぎている」
「鍵は?」赤柳は山下の方を見て言った。「鍵が開けられませんか?」
「いいえ、外からは無理です」山下は答える。「中で神居様が鍵をかけられたとしたら、開けることはできません」
「困ったなあ」赤柳がほんの少しおどけた口調で言った。「電話もないんですよね? 部屋の中へ連絡を取る手段はありませんか?」
「わかりませんが」山下が無表情のまま首をふった。困った顔をしているようには見えなかった。「無理だと思います」
「ドアを壊すか、それとも……」赤柳が言う。「そうか、窓があったから、外から見てみるか」
「色のガラスが填め込んであって、見えませんよ」加部谷が発言した。「だいいち、外へ出るドアが二つとも開かないんだから、まず、そっちのドアを壊さなきゃ」
そのあと、さらに三分ほど待ったものの、神居静哉は現れなかった。この間に、赤柳と富沢は、山下と一緒に、玄関と裏口のドアを確かめてきたようだ。
「あれは、おかしい。どうなっているんだ?」戻ってくると、赤柳は言った。
痺れを切らした様子で、赤柳は通路の突き当たりまで行き、ドアを激しくノックした。だがやはり反応はなかった。
「さて、どうしたものかな」赤柳は早い溜息をつく。「やはり、万が一のことがある」
「そうですね。あの、声は……、普通じゃなかった」富沢が眉を顰めて言った。
「どっちのドアが壊しやすいか、といえば、ここのドアだろうね。玄関と裏口のドアは鋼鉄製だ。ちょっとやそっとで壊せる代物じゃない」
「でも、蝶番《ちょうつがい》が外せませんか?」山吹は言った。
「それも見てきたが、ドアが閉まっている状態では無理だ」赤柳は首をふる。「山下さん、なにか使えそうな道具はありませんか?」
「えっと……」山下は首を傾げ、隣に立っている平井と顔を見合わせる。
「大きなハンマか、それとも釘抜きのようなもの、ないですか?」
「ちょっと待って下さい」山吹はきいた。「鉄格子のない窓はありませんか? 窓から出られる場所さえあれば……」
「出られても、どうせあの部屋へは入れないよ。あそこの窓は鉄格子があった」鈴本が言った。「一階の窓は全部あったと思う」
「二階の窓には鉄格子はありません」山下が小声で言った。
「それじゃあ、ガラスの窓枠を外して、そこから出て、神居さんの部屋の窓を、外から壊せば……」山吹は言う。
「鉄格子は?」赤柳がきいた。
「中を見ることはできます。様子がわかれば……」
「そんな手間のかかることをやるより、このドアを壊した方が早い。発作で倒れているかもしれないんだから」
「もし、そうだとしても、救急車を呼べる場所じゃありませんよ」山吹は言った。
「あの、ドアを壊す道具を、探してきます」山下がようやく少し困った顔になっていた。
「あ、お願いします」赤柳が頷く。それから、テーブルの方へ歩いてくる。「まあ、ちょっと頭を冷やそうか。山吹君の言ったとおりだ、慌ててもしかたがない。医者がいるわけではないし」
「私は看護婦です」平井が言った。
「へえ、そうなんですか」富沢が驚いた顔で、彼女を見た。「神居さん、そういった病気は?」
「いえ、ございません。まったく」平井は首をふった。山下よりは、彼女の方が表情がやや豊かかもしれない。落ち着かない心配そうな顔に見えた。
「加部谷さん、どうしたの? 大人しいね」山吹は隣に立っている彼女の方へ顔を向ける。
「ええ」加部谷は小さく頷いた。「私も道具を探しにいってきます。電動工具があると良いですね。チェーンソーとか」
「それは、ちょっと違うなあ」山吹は微笑んだ。
加部谷も通路の方へ出ていった。
休止状態になったので、山吹は一人で玄関のドアを見にいくことにした。
6
山吹が玄関のドアを確かめていたとき、海月及介が階段を下りてきた。
「駄目だ、ドアが開かない」山吹は友人に言う。「どうなっているんだろう」
海月は黙ってドアの前に立ち、隙間を観察していた。山吹は、奥の部屋に神居が入ったまま出てこない、呻き声を富沢が聞いた、という話を彼にした。海月はその間も背中を向け、じっとドアを見つめているだけだった。
「裏のドアも見てこよう」山吹は言う。
二人は食堂へ戻った。赤柳と富沢の二人が立っている。鈴本は奥の通路への出入口付近でカメラを構えていた。平井の姿はない。
山吹は手前の出入口から通路を進んだ。突き当たりのドアがトイレ、その左のドアが開いていた。中を覗くと、山下と平井が奥に、そして戸口に加部谷が立っていた。
「適当な道具がないみたい」加部谷が振り返って言った。「あ、海月君、登場? 口から火を噴いて、ドアを突き破ってよ」
意味のわからないことを、この非常時によく言えるな、と山吹は感心した。彼女の横を抜けて、山吹と海月は裏口のドアを調べにいく。
「同じだ」山吹は言う。「玄関とまったく同じドアだね」
「鋼鉄製ですよね、それって」後ろで加部谷の声。
「どうやったら、こんなふうにできるかな」山吹は呟く。
「簡単だ、隙間に楔《くさび》を打ち込めばいい」海月が答えた。
「外から?」
「玄関もここも、ドアは外側に開く。楔は外側から打つ必要がある」
「誰が何のためにそんなことをしたわけ?」
海月は無言である。
「閉じ込められたってことか」山吹は鼻から息をもらした。
「違う方法もある」海月が淡々と言った。「隙間を作って、そこにボルトのようなものをねじ込む。つまり、ジャッキみたいに、ドア自体を無理に傾けて、捩《ねじ》れさせてしまう」
「外から?」
「いや、内側からでもできる」
「見たところ、そんなものないけれど」
「うん」
「駄目じゃん」山吹は腕組みをした。「とにかく、これは簡単に開きそうにないなあ。壊すのも大変だと思う。重いものをぶつければ、楔ならば振動で外れる可能性があるかもね。でも、ドアが余計にこじてしまうんじゃないかな」
「ありました。これは、どうでしょうか?」山下が言った。山吹が振り返ると、彼女は小さな金槌を一本持っていた。棚の中の道具箱から見つけ出したようだ。
「そんなのじゃあ、ちょっと無理ですよ」山吹は言う。「ないよりはましですけれど」
「ジグソーとかないですか」加部谷がこちらへ近づいてくる。
「ジグソーって、どんなものですか?」山下がきき返した。
「電動のノコギリです」
「そんなものはありません」山下が無表情で首をふった。
「釘抜きは?」山吹はきく。
「釘抜きって、これですか?」山下が、同じ道具箱から、黒くて長い道具を掴み出した。
「そうそう、それです。それと金槌で、なんとかなるかもしれません」山吹は言う。
「ノコギリならば、小さいのがありますけど」山下が、また道具を取り出した。刃の部分の長さが三十センチくらいのものだった。
「あ、それも使えるかもしれませんね」
それらの道具を持って、全員で食堂へ戻った。
さっそく、神居の部屋のドアを壊す作業にかかった。赤柳は、その手のことは自分は駄目だと言う。富沢も首をふったので、山吹がやることになった。最初は、金槌で叩きながら釘抜きの先をドアの隙間へ押し込み、その引っかかりをテコにしてドアをこじ開けようとした。だが、ドア自体は木製でも、意外に重くしっかりしたもので、釘抜きを何度か差し入れても、角が少しめくれるくらい、傷がつく程度だった。このドアは引いて開けるもので、赤柳が指摘したとおり、蝶番は部屋の内側になる。したがって、閉まった状態ではそれも取り外せない。
「無理ですね。ドア自体に穴をあけるしかないかな」山吹は釘抜きをドアに当てた。
「これで、少しずつですけど……」
「小さな穴があけば、ノコギリを入れて、大きくできるんじゃない?」加部谷が言った。言うは易しいが、そんなに簡単なものではないだろう。
「鑿《のみ》はなかったですか?」山吹は言う。
「ノミって?」加部谷がきいた。
「あ、わかります。探してきます」鈴本が後ろで言う。「山下さん、一緒に行きましょう」
「大きめのマイナスのドライバでも良いです」山吹は叫んだ。
二人はまたあそこへ探しにいったようだ。山吹は、釘抜きの先をドアの一番薄そうな凹んだ部分に当て、その釘抜きの反対の端を金槌で叩いた。耳障りな大きな音がするが、近所から苦情が出る心配はない。
「鍵の位置の近くに穴をあけた方がいいよ」赤柳からアドバイスがあった。
「あ、そうか」山吹は手を止めて振り返る。「そうですね」
「えっと、もう少し上です」平井が近くに来た。「このあたりだったと思いますけど」
位置を変えて、もう一度やり直し。金槌をぶつけると、ドアの木に釘抜きの先が僅かにめり込む。表面の塗装はすぐに傷だらけになったが、しかし、簡単に削れそうにはない。こんな調子ではどれくらい時間がかかるだろう、と山吹は溜息をついた。
「替わろうか」海月が前に出てきたので、彼に道具を手渡して、山吹は後ろへ下がった。
しばらくすると、ドライバを持って鈴本が戻ってきた。残念ながら鑿はなかったようだ。ドライバを鑿のように使い、金槌で叩きながらドアを削るように壊していく。ほんの少し能率が上がったかもしれない。
山吹と海月が何度か交替し、最後は山吹がドアに穴を貫通させた。内側の表面の木が、向こう側に剥がれるように折れた。小さな穴があいたので、中を覗いてみたが、カーテンが邪魔をしてその奥は見えない。少なくとも照明は灯っているようだった。
海月とバトンタッチをして、さらにその穴を大きくする作業にかかる。細長く穴を大きくしたところに、ノコギリの先を入れて、木を切り進む。今度はそこをドライバで削って広げていく。
汗が吹き出してきた。時計を見ると、十時十分。始めてから二十分ほど経過している。
穴がかなり大きくなったので、手を入れようとしたが、まだ、手探りをするほど奥へは入れられない。
「私がやりましょうか?」加部谷が言った。
「いやまだ、無理じゃないかな」それでも、山吹は場所をあける。
「どんな鍵ですか?」赤柳がきいた。
「あの、金具の閂です」平井が答える。
加部谷が手を穴の中へ突っ込んだ。彼女の場合は、腕まで完全に入れることができた。
「下? こっちですか?」平井の顔を見て、加部谷は姿勢を変え、もう一度腕を入れ直した。「あ、あったあった。これだ、ありましたよ。うーん、届くんだけど、ちょっと固くて動きません。いてて……」
「ドアを少し押すか引くかしてみたら」山吹は彼女の近くでドアを押した。
「あ、動いた!」加部谷が言う。「うーん、指の先で、力が入らない。こっちかな?」
「もう少し穴を大きくするよ」山吹が提案する。
「大丈夫、もう少しです」
加部谷は片目を瞑って苦しそうな顔をしていた。山吹と海月が近くに立ち、後方で赤柳たちが注目している。
小さな音が部屋の中から聞こえた。
「外れたぁ」加部谷が溜息混じりで言う。彼女はゆっくりと穴から腕を抜いた。「おお、大成功」
加部谷がドアを引いた。山吹は一歩後ろへ下がる。
「神居さん?」加部谷が部屋の中に声をかけながら入っていく。
黒いカーテンを捲った。
彼女が立ち止まる。山吹は前に出て、部屋の様子を見た。
「ちょっと、平井さん」彼は振り返って呼ぶ。
そのあと、みんなが部屋の中に足を踏み入れた。平井が奥のデスクへ走る。赤柳、富沢、鈴本も見ていた。戸口に立っている海月が一番後ろになった。彼だけが表情を変えなかった。
加部谷は口に手を当てている。誰もものを言わなかった。言ったかもしれないが聞こえなかった。
部屋は、さきほど見たときとほとんど変わりない。しかし、椅子は移動している。デスクの上にあったペンが床に落ちていた。
静まりかえった空間。
神居静哉はデスクの右横で仰向けになって倒れていた。顔には髪がかかり、口が開いている。目は白かった。
動かない。顔色が異常だった。
一目で、普通の状態ではないことがわかった。だから、看護婦の平井を呼んだのだ。本人に声をかけても無駄だということは、見た感じで明らかだった。
平井が胸を何度か押した。赤柳が進み出て、彼女の横に跪《ひざまず》き、その作業を代わった。
沈黙が続いた。
山吹は、部屋を見回した。窓も異状はない。書棚もそのまま。天井も床も壁も、変わった様子はない。カーテンをくぐって、ドアまで戻る。ドアをもう一度確かめたかったからだ。そこに海月が立っていた。彼は、ドアの閂の部分を指差した。
山吹はそこを観察する。開いているドアの方の金具も見る。壊れているわけではない。加部谷が腕を入れてスライドさせて解除したものだ。どこにも、異状はなかった。
海月の顔を見ると、彼も山吹を見据えていた。山吹は無言で頷いた。
もう一度、部屋の中へ戻る。中央に富沢、鈴本、山下が立っている。デスクの横、神居の傍らに平井と赤柳。その赤柳が溜息をついて立ち上がった。平井はまだ跪いたままだが、もう、神居には触れていなかった。
「駄目だ」赤柳がこちらを向いて首をふった。「亡くなっている。救急車を呼ぶべきだが、時間的に絶望だ。警察には連絡が取れるかな? 山下さん、ここには電話がないんですよね?」
「ありません」山下が答える。
「インターネットも?」
「いいえ」山下は首をふる。「なにもありません。携帯電話も、使っておりません」
「携帯は、外に出ないと使えません」鈴本が言った。
「そうか」赤柳が舌打ちをする。
「どうして、亡くなったんですか?」加部谷が尋ねた。口もとに両手を当てたままだった。
「うん」赤柳は頷き、振り返って倒れている神居を見下ろした。それから、こちらを向き、今度は視線を天井へ向け、溜息をついた。「それが、不思議なんだが……」
「何が?」富沢が小声できく。「心臓発作じゃないんですか?」
「いや」赤柳は首をふった。「そうじゃありません。首を絞められている。ロープが首に巻きついています。それに頭に外傷らしいものもある」
「え?」何人かが声に出した。
「たぶん、殴られて、それから首を絞められたのか、あるいは、首を絞められて、倒れたときに頭を打ったのか」
「もしかしたら」富沢は天井を見回す。「自殺、ということでは?」
「さあ、どうかな」赤柳が首を捻った。
「でも……」加部谷が小声で言う。しかし、あとの言葉は聞こえなかった。なにか言いたげに山吹の顔を見た。たぶん、室の状況から他殺のはずはない、と言いたかったのだろう。
赤柳が時計を見たので、山吹も時刻を確認した。十時十三分だった。
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第4章 不自然な事象
[#ここから5字下げ]
物理学[#「物理学」に傍点]での相対性理論は、自然そのものの独自の連関を、その連関が「それ自体で」成り立っているままの形で、とりあげようとする傾向から生じています。自然そのものに分け入るさまざまの条件の理論として、物理学は、すべての相対性の規定を通じて、運動法則の不変を確証することに努め、こうして同時に物理学に優先的に与えられた事象領域の構造への問い、すなわち物質の問題に直面します。
[#ここで字下げ終わり]
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多少の議論になったが、死体は動かさない方が良い、という結論になった。ドアを壊したときの破片もそのまま、掃除をしないことに決めた。その部屋から全員が出て、食堂のテーブルに着く。食事のときと各自同じ席である。山下と平井は、少し離れた壁際の椅子に腰掛け下を向いていた。泣いているようだった。テーブルの上座の椅子だけが今は空席である。
「まず、警察への連絡が第一優先です」赤柳が言った。「となると、玄関か裏のドアか、あるいは窓を壊すしかありませんね」
窓の近くに寄って電話をすれば、電波が届くのではないか、という意見もあったが、試してみたところ上手くいかないことがわかった。
「窓の方が壊すのは楽でしょうけれど、格子のない窓は二階にしかない」富沢が発言する。「となると、窓から顔だけ出して、電話をすることになりますね」
「そこまでしなくても」山吹が言った。「ガラスを割って、アンテナのコードだけを外に出せば、なんとかなるかもしれませんよ」
「なるほど。それは試してみる価値があるな」赤柳が頷く。
「コードが必要ですけど」山吹は言った。「えっと、どこかの電源コードを切れば良いか……、道具はハサミがあれば、なんとかなります」
「持ってきます」山下が立ち上がり、通路の方へ歩いていく。
「では、まずそれを試してみよう」赤柳が言う。「その間に、ドアか窓を壊す算段をしよう」
「あの部屋を、ちゃんと調べてみる必要がありませんか?」加部谷が言った。「だって、他殺なんですよね?」
「調べるというのは?」赤柳がきいた。
「たとえば、秘密の出入口とかがあるかもしれません。神居さんを殺した人が、そこから逃げたとしたら、また、戻ってくるときも、そこからになります」
「戻ってくる?」鈴本が顔をしかめて言った。「どうして戻ってくるわけ?」
「そうだ」時計を見ながら富沢が言った。「登田さんが、迎えにくるはずだ。もう近くまで来ているかもしれない。電話がつながらないから、変だと思ったかも」
「電話があるまで、車から出ないんじゃないでしょうか」鈴本が言う。「こちらからの連絡を待っている状況かもしれません」
「うーん」富沢は唸る。
山下がハサミを持って現れた。それから、コードも手にしていた。端にコンセントのタップが付いた延長コードだった。話がちゃんと通じていることに、山吹は多少安心した。
「金槌を使います」山吹は立ち上がる。「えっと、二階の部屋の窓のガラスを一つ割りますけど、いいですね?」
山下が無言で頷いた。金槌はさきほど使ったものがテーブルの上にまだあった。
山吹は海月と二人で部屋を出た。ホールの階段を上がっていると、遅れて加部谷が飛び出してくる。
「いいことを思いつきましたよ」追いついてきた彼女が言った。「西之園さんに電話をするんです」
「どうして?」
「その方が、警察にちゃんと伝わると思います」
「ああ」山吹は返事をしたものの、充分に意味がわからなかった。「とにかく、まず実験だね」
図書室の向かい側の客室のうち中央の部屋に入った。山吹はコードをハサミで切り、ビニルを剥いて中の導線を出す作業にかかる。海月は山吹の携帯電話を調べている。アンテナをどう接続するかが課題だ。途中で、加部谷が持っている携帯電話も検討対象になった。
「大変なことになりましたね」加部谷は一人離れてベッドに腰掛けていた。「凄いなあ、本当に殺されたんですよ。本ものの殺人事件ですよ。超能力者なのに、殺されちゃったんですね」
「犯人は異界へ逃げたのかも」山吹は冗談を言った。
「うん、そうかも」加部谷は真面目に受け取ったようだった。彼女は自分で異界体験をしたので、もしかしたら信じているのかもしれない。
「加部谷の携帯の方が簡単だ」海月が低い声で言った。「アンテナのここをハサミで剥けば、金属部が出る」
「わぁい、じゃあ、私が西之園さんにかけます。なんて言おうかしら、どきどきしてきた」
「非常事態でハイになっているんじゃない?」山吹は顔を上げて加部谷を見た。事実、そうだろう、と思ったからだ。
「ええ、そうかも」彼女は急に神妙な顔で頷いた。「すみません」
「謝ることじゃないよ」山吹は微笑んだ。
「良かった、山吹さんたちと一緒で」
その複数形は、誰を含んでいるのだろう、と山吹は一瞬考えた。
2
西之園萌絵は、自宅のリビングで犀川|創平《そうへい》と一緒だった。たった今、ここへ帰ってきたところである。二人とも夕食をまだ済ませていない。キッチンで諏訪野がその支度を始めていた。
犀川はソファに腰掛けて煙草を吸っている。テーブルの上で広げたノートパソコンに、身を乗り出すような姿勢で見入っていた。そのディスプレィのこちら側に西之園がいる。パソコンがもう少し右か左に寄っていたら邪魔にならないのに、と彼女は考えていた。
今日の午後は、叔母と久しぶりに会って話をした。また、夕方には研究室に戻り、さらに、国際会議のために来日したイギリス人の研究者を空港まで送り届けてきた。ところが、飛行機の出発が一時間以上も遅れ、ロビィで話をして時間を潰した。向こうは夫妻、こちらは犀川と西之園の合計四人である。食事をしなかったのは、彼らは飛行機で食事が出るためだ。いろいろと気を使って疲れてしまい、そのあと、車を運転して直接、つまり犀川と二人で食事をする絶好の機会を見送って、戻ってきてしまったのである。
犀川はメールを読んでいるようなので、邪魔をしないように黙っていたが、三分ほど経過したところで、ようやく彼が目を上げて、彼女の方を見た。
「どうしたの?」彼の方から口をきいた。我慢した甲斐があったというものだ。
「ちょっと疲れましたね」西之園は言う。「なんか、お食事もしたくないくらい」
「もう、休んで良いよ」
「先生は?」
「少しまだ、いろいろ……」と言いながら、視線をディスプレィへ戻す。彼のメガネの反射で、ディスプレィ上のウィンドウが切り替わったことがわかった。
「あぁあ……」彼女は溜息をついた。「シャワーを浴びてこようかな、さきに」
犀川は黙ってキーボードを数回叩いた。
「ジェームズ・ボンドに似ていますよね、コーネル博士」西之園は突然思いついて話した。今日案内したイギリス人のことである。
「どのボンド?」下を向いたまま犀川は言った。
「いえ、別に、どなたでも良いのですけれど」西之園はそこで少し可笑しくなって吹き出した。
「そうだね」犀川が頷く。余計に可笑しい、と西之園は思った。
「機嫌が良さそうだね」
「機嫌? ええ、良いですよ。躰は少々疲れていますけれど、気分は最高。今日は幾度か刺激がありましたしね。奥様も、お若いですよね」
「五十五歳くらいだね」
「そういう意味じゃなくて、気持ちがってことです。睦子叔母様みたいでした」
「スパイ映画とかで、よくさ、ドアの鍵をピストルで撃ち抜くシーンがあるよね」ディスプレィを見たまま、犀川は話した。「鍵を壊して、そのあと、足でドアを蹴り開けるんだ」
「あ、ありますね。日本のドラマでもありますよ」
「あれが不思議だ」犀川はまた一瞬だけ視線を上げる。「ピストルの弾が、鍵穴を通っったりしたら、部品が変形して、二度と鍵が開かなくなるんじゃないかな」
「あれは鍵穴目がけて撃っているのではなくて、ドアの隙間の、えっと、鍵の閂《かんぬき》が通っているところを破壊しているのだと理解していましたけれど」
「だったら、隙間をよく覗いて、どこにあるか調べるべきだ」
「それは、ええ、そうですね」西之園は笑いを堪えて、真面目な顔で頷いた。しかし、犀川は既にこちらを見ていない。
「離れていろ、って言って、ドアから一歩下がって撃っている。あれは鍵穴を通しているんだと思うなあ」
「どっちでも良いじゃありませんか」
「うん」
戸口に諏訪野が現れた。西之園と目を合わせ、軽く頭を下げる。食事の支度が整ったようだ。
「さあ、では、食べましょう」西之園は立ち上がる。
「あれ、もう気が変わった?」犀川が言った。
そのとき、振動音に気づく。西之園はソファに座り直し、バッグから携帯電話を取り出した。ディスプレィを見ると、加部谷恵美からだ。時刻は十時半である。
「はい」彼女は電話を耳に当てる。「恵美ちゃん、お母さんからは、電話はなかったと思うわ」
「西之園さん、大変なんです。殺人事件なんです。あの、警察を呼んでもらいたいんですけど、えっと、ここがどこか、わかりますか?」
「どうしたの、殺人事件って?」西之園は電話を耳に押し当てる。「バイトじゃなかったの?」
「そうです。バイト先の伽羅離館というところで、神居静哉さんという人が殺されて、それで、私たち今、家の外に出られないんです。ドアが開かなくなってしまって。中は電話の電波が届かないから、今、二階の窓ガラスを割って、そこからアンテナだけ出してかけてるんですよ。山吹さんと海月君が一緒です。あ、赤柳探偵もいます」
「そこの住所は?」
「住所ですか……、えっと、わかりません」
「最寄りの駅は?」
「えっと、何だったっけ、うーん。あ、今、山吹さんが住所をききにいってくれます」
「殺されたって言ったけれど、誰に? 犯人はわかっているの?」
「わかりません。密室だったんですよ。鍵がかかっていて、ドアを壊してみたら、中で死んでいて。えっと、その、窓も開かないし、鉄格子がありますし」
「殺され方は?」
「赤柳さんは、殴られてから首を絞められたんじゃないかって言ってました」
「安全なの? 大丈夫?」
「わかりませんけれど、でも、横に海月君ならいます」
「どうして、家から出られないわけ?」
「わかりません。とにかく、ドアが全部開かなくなってしまって……。大雨で、木が膨張したのかもって」
「大雨? 雨なんか降ったの?」
「雷とか、凄かったじゃないですか」
「雷? こちらはそんなことなかったけれど」
「あ、山吹さんが戻ってきました。えっと、はい、西之園さん、住所を言いますね……」
「はい」西之園は頭の中のノートを広げた。
3
加部谷恵美は住所を伝えたあと、一旦、電話を切った。
「警察には連絡してもらえます」彼女は山吹と海月に伝える。
「赤柳さんに伝えてくるよ」山吹がドアの方へ歩く。「加部谷さんは、ここにいた方が良いね。電話がかかってくるかもしれない」
山吹が出ていき、海月と二人だけになった。急に静かになる。
「西之園さんに密室のことをちゃんと説明しないと……」加部谷は独り言のように話した。しかし、横目で海月を見る。彼も加部谷の方を向いていた。珍しいことだ。「他殺ってことは、確かなのかなぁ」
「そこが一番疑うべきポイントだ」海月が言った。
加部谷は頷く、同感である。
「困ったなあ、警察が来たら、私、あのことを話さないといけないでしょう? ほら、異界へ行って戻ってきたこと。どう思う?」
「どうも」海月は一度だけ首を横にふった。「僕は見ていない」
「そうそう、海月君さ、どうして見にこなかったの? 一人であそこに残っていたじゃない。なんか考えとか、あったわけ?」
「いや」
「あそこに、ずっといたんだよね?」
「ああ」
「なにか変わったことなかった?」
「あった」
「え? 何?」
「テーブルの位置を変えるからって言われて、それを手伝った」
「は? 誰が言ったの? 平井さん?」
「そう」海月は頷いた。
「テーブル? あの、食堂の大きな?」
「そう」
「なんで? 移動なんてしてたっけ?」
「少しだ。奥へ向かって、四十センチくらい」
「ずらしたわけ?」加部谷は首を捻る。「へえ。え? なんでだろう。理由は?」
「長く同じ場所だと、床に痕がつくからだって言っていた」
「ああ、ああ、なるほど。それだけ?」
「ああ」
「なぁんだ……、関係ないじゃん、そんなの」
「そうでもない」海月は口もとを僅かに緩める。
「あ、笑った! 笑ったでしょう」
「いや」
「笑ったよ。何なの? どういうこと?」
「今は、そんなことを話している場合ではない」
「あららぁ」加部谷は口を尖らせる。「ツバメ返し?」
「違う、明らかに」
「だよね。まあ、いいや」加部谷は携帯を見た。「そろそろ、西之園さんにかけても良いかな……。やっぱり、密室といえば、西之園さんだよね」
「どうして?」海月が真面目な顔でこちらを見つめてきいた。
「西之園さんのことになると、海月君、なんでそんなに真剣になるわけ? なんか気になるの?」
海月は視線を逸らし、僅かに口を開けて考えているような顔。気に障ったのか、それとも意外だったからだろうか。
「どうしたの? ちゃんともの言いなさいよ」
「いや、特に、西之園さんを特別に扱った覚えはない」
「ふうーん、よく言うわぁ。あそう。気づいてないのね。絶対に嘘。もうね、目がらんらんだよ。いやんなっちゃうくらい」
「そんなことはないと思う。それは、加部谷がなにか特別な感情を持っていることが原因なのでは?」
「え? 私のせい?」
「目がらんらんだという指摘は、君の主観に基づいた観察事項だ」
「うん、それはまあ、ちょっと誇張よ、誇張。言い過ぎました。らんらんってほどではないけど、きらりんって感じは絶対だよ」
「きらりん?」
「なんなの、つっかかるじゃない」
「つっかかっているつもりはない」
「でもほら、いつもと違うでしょう? もっと、海月君、クールじゃん。加部谷がなに言っても、ああとか、いやとか、そんだけでしょう? それが、西之園さんの話題になると、あれこれ自らきいてきたりするわけだ」
「確かに、不確定なことが多いから、質問をする結果にはなる」
「なあんちゃって、何それ、不確定? 西之園さんが? そうかなあ、違うでしょう? 綺麗だからでしょう? 綺麗じゃなかったら、不確定だってほっとけって。そうでしょう? ありえないよ、もう」
「落ち着けよ、加部谷」
「え? 落ち着いてるよ、私」
「いや、興奮している。死体を見たのだから、しかたがないとは思うけれど」
「死体見るの初めてじゃないもん。殺された人を見たのも、初めてじゃない」そう話しているうちに、何故か涙が出てきた。
「わかった」海月は片手を広げた。「悪かった」
「違うって」彼女は目を擦った。「ああ……。ちょっと……、だって、可哀相かなって思ったの。神居さんがね。うーん、一応、一緒に異界へ行った仲でしょう?」
「ああ」
加部谷は溜息をついた。まだ目を擦っていた。海月の顔を見て、なんとか微笑んでみる。
山吹が戻ってきた。
「下は、何をしてました?」加部谷は明るい声を出してきいた。
「なにも」山吹は首をふる。「外に出るなら、二階の窓を壊す以外にないだろうって話になってたけど、でも、今のところ、無理に外に出てもしかたがないんじゃないかな」
「そうですよね。だけど、中にいるのも、全然安心できませんよ。なるべく三人一緒にいましょうね」
「あれから、西之園さんと電話した?」
「いえ、まだこれからです」
加部谷は携帯のボタンを押して、西之園萌絵をもう一度コールした。
「あ、もう、連絡は済みましたか?」加部谷は話す。
「ええ、大丈夫よ、すぐに警察がそちらへ向かうから。でも、建物の中に入れないってこと?」
「そうです。ドアを壊さないと入れないかもしれません。二階の窓が一番壊すのが簡単です」
「一階には窓はないの?」
「全部鉄格子があるんですよ」
「凄いところだね。大丈夫? みんな元気?」
「ええ、大丈夫です。今、二階の部屋に私たち三人がいて、電話の係です」
「ほかの人は一階の殺人現場にいるのね? なにも触らない方が良いと思う。ただ、被害者がまだ生きているってことはない?」
「看護婦さんがいるんです」
「そう、死んでいるのは確かなの?」
「赤柳さんが、もう駄目だって」
「他殺だって言ったのも、赤柳さんなのね?」
「密室の状況を説明しても良いですか?」
「あ、ええ。だけど、携帯のバッテリィを消耗しない方が良いわね。充電器を持っている?」
「いいえ、持っていません。そうか、そうですね」
「とりあえず、そこで、じっとしている。あまりあちこち歩き回らないこと。すぐに警察が来ます。落ち着いて、待っているのが良いわ」
「はい」
「ちょっと、山吹君に代わってほしいの」
「あ、はい」加部谷は山吹を手招きする。彼女の携帯電話にはアンテナのコードがつながっているので、それを差し出すわけにいかなかったからだ。
山吹に窓際の場所を譲って、加部谷はベッドに腰掛けた。
「はい、代わりました。山吹です……。はい……、ええ、そうです……。はい……、だと思います。大丈夫です。はい……。わかりました。はい。失礼します」
山吹は携帯を窓枠に置いて戻ってきた。
「何の話だったんです?」加部谷は尋ねた。
「いや、別に」
「えぇえ」不満の声を少しおどけて出してみた。「わざわざ、ご指名でしたよ」
「まあ、いろいろと」山吹は微笑んだが、多少緊張している様子だった。
「えぇえ」もう一度試す。
しかし、その後は沈黙の幕が下りた。約一分ほど。
「警察が電話をかけてきますよね」加部谷は考えていることを口にした。「いつ頃、来るでしょうね」
「すぐに来るんじゃないかな」山吹が言う。
「でも、あそこから歩いてきたら、それだけで一時間以上かかりますし、もし来ても、ドアを壊さないといけないわけだし」
「心配しなくても、なんとかしてくれるよ」
「外がもの凄い嵐で、土砂崩れとかがあったりしたら、もっと遅れますよね」
「今は、雨は降っていないみたいだ」山吹は言った。
アンテナのコードを外に出すため、金槌でガラスを割ったとき、外の様子が初めてわかった。ただ、街ではない。屋外はほとんど真っ暗。背景の森よりも空の方が若干明るい程度だった。
「西之園さんが、駆けつけてくれたら、私、泣いちゃうかもですけどね」
「まさか」山吹が鼻で笑った。「来ないよ」
「ああ、でも本当に、吹雪の山荘になってきたじゃないですか」
「なんで? 吹雪?」山吹が言う。
加部谷は自分の頭の中にあるイメージを大切にするため、しばらく会話を諦めることにした。
4
西之園家のダイニング。犀川創平と西之園萌絵がテーブルに向き合っていた。皿が幾つか並べられ、犀川はスプーンを片手に、スープを飲んでいる。西之園は、携帯電話でさきほどからずっと話をしている。警察にかけ、加部谷恵美と話し、また警察にかける。それでも不足を感じ、一箇所は諏訪野に電話をするように指示をした。グラスに注《つ》がれたワインを飲んだだけで、まだ料理には手をつけていない。
「わかりました。また連絡して下さい」彼女は電話を切る。「ふう、大変……、ごめんなさい、先生、お食事中に」
「僕の食事というよりは、君の食事だよ」犀川は言った。「諏訪野さんが君のために作ったんだ」
「ええ、いただきます」彼女は微笑んだ。「冷めた方が私向きなの」そうは言ったものの、実は諏訪野は最初から、適温にして持ってきてくれる。犀川の前に出たスープとは温度が違うはずだ。
「神居静哉っていう人は有名人?」犀川がきいた。
「いえ、私は知りませんでした。あ、そうだ、叔母様にかけなくちゃ」
「さきにスープを飲んだら?」
「お行儀が悪くて申し訳ありません」彼女はスプーンでスープを一口飲みながら、もう片方の手で携帯電話を操作していた。それを耳に当ててから、キッチンの方へ顔を向ける。「良かった、諏訪野に見られていると思ったわ。あ、もしもし、萌絵です」
「はい、こんばんは。もうベッドの中ですよ」
「こんばんは、夜分にどうもすみません」
「何? 貴女、犀川先生と一緒じゃなかった?」
「ええ、そうです。今、少し遅いお食事中です」
「そんなときに電話するなんて、どういうつもり?」
「違います、あの、叔母様、ちょっとおききしたいことがあったものですから」
「明日にしなさい」
「いえ、急ぎの、その、重要なことなんです」
「わかった、いいわ」
「あの、神居静哉っていう人を、ご存じですか?」
「ええ、知っていますよ。ほら、話したでしょう? 今通っている教室の先生の、そのまた先生」
「ああ、やっぱり……」
「何なの? そんなことをきくために電話してきたの? 駄目じゃないですか、犀川先生にもっとサービスしなくちゃ」
「いえ、その神居っていう人が殺されたんですよ」
「え? いつ?」
「今、警察が現場に向かっています」
「ちょっと待って、本当なの?」
「確認は取れていませんけれど、一応、信頼できる情報です」
「そう……、それは、困ったわね。お葬式に行かなくちゃ。月曜日か、火曜日ね。ああ、この忙しいときに……。あなた、神居静哉が死んだんですって、え? 知らないの?」
「叔母様」
「あ、ごめんなさい。うちの人が横にいるの」
「すみません。本当に……」
「ありがとう。知らせてくれて。助かったわ。じゃあね……」
「叔母様、ちょっと、あの」
「何なの?」
「神居静哉というのは、どういう人物なのですか?」
「え? 難しいことが知りたいのね、こんな時間に。説明するのも大変よ。私、ベッドで寝ているんですよ」
「ごめんなさい、叔母様、なんとか、簡単に。もちろん、あとでネットで調べますから、それ以外の情報を」
「うーん、私も噂でしか知らないんだけれど、昔、この地方にあったちょっとした宗教団体のね、その残党みたいな連中がいて、そこがその彼を祭り上げたんですよ。もともとは、どこかでショーをしていたんじゃなかったかな。芸人よね。まだ、若いと思うわ。三十くらい。でも、けっこうなカリスマですよ。信者は多い。県内に住んでいるとは聞いていました。えっと、でも、ボスではないの。トップの一人は木俣という男です。彼は関西にいるはず。その男が神居静哉を拾ったのね」
「ああ、とても客観的なデータですね。凄い」
「当たり前ですよ」
「でも、そこの教室に、叔母様、通っていらっしゃるのでしょう?」
「そんなことは話が違います。全然別よ」
「ああ、良かった」
「はい、もう良いかしら? もっと詳しいことが知りたかったら、明日にでも、データを送らせましょうか?」
「はい、是非お願いします」
「それじゃあ、お休みなさい。犀川先生によろしく。がんばってね」
「え、何をです?」
電話が切れた。同時に、犀川と目が合う。無言。
西之園は、スープを飲むことにした。
「あのぉ……」決心をして犀川に話す。彼がこちらを向くまで待った。「今から、ちょっと出かけませんか?」
「そう言うと思っていた。場所は?」犀川はまったく表情を変えない。
「いえ、もうちょっと冷静になった方が良いわね」彼女は溜息をつく。「まずは、警察からの連絡を待ちましょう。そう、慌てて行くこともない」
「そうだね」犀川は微笑んだ。「諏訪野さんの料理を食べることが、現在の君の重要課題だと思う」
5
十一時になっても、事態に変化はなかった。警察はまだ来ない。電話が三回かかってきた。二回は西之園萌絵から、あとの一回は、愛知県警の近藤《こんどう》刑事からだった。現在そちらへ向かっている、必要なものがあるか、どんな状況なのか、もう少し待っていてくれ、などの台詞を聞いた。
平井が、加部谷たち三人のために紅茶を持ってきてくれた。お礼を言っても彼女は黙って頷いただけで、一言も話さなかった。ショックを受けているのだろうか、と彼女が出ていったあとで、山吹が言った。
「取り乱していないだけでも、凄いんじゃないですか」加部谷は言う。「だって、ここに三人だけで住んでいたんですよ。男が一人、女が二人ですよ」
「だから何?」山吹がきいた。
「え? だって、そりゃ、教祖様だし、えっと……」彼女はいろいろ考えを巡らせた。「そりゃあやっぱり、並大抵の関係じゃあなかったと思うんですよ。いや、並大抵の関係だった方が、ショックが大きいのかな」
ときどき、一階へは山吹が出向いて、下にいる赤柳たちの様子を窺ってきていた。情報交換もしている。しかし、電話がかからなくなって既に二十分。膠着《こうちゃく》状態といえる。
「まあ、今のここだって、男が二人、女が一人ですからね」
「だから何?」山吹は冷静な声だ。
「並大抵の関係ではない、と思われてもしかたがないかもしれませんよ」
「密室については、加部谷さんは、どんな意見?」
「あ、話題を逸らしましたね」
「もし、隠された出入口がない、としたら」
「それは無理ですよう」加部谷は首をふった。「しょうがないですね。ではちょっと、仮定を整理しましょうか……。まず、神居さんは首を絞められて殺された。それから、部屋にはあのドア以外に出入口はない。あと、神居さんには非科学的な能力はなかった。という三つの仮定がもし全部正しい、ということになると、これは、明らかに現実と矛盾していますよね」
「ということは、その三つの仮定のうち、一つは間違っている、ということだね」山吹は言った。
「そうです」加部谷は頷いた。「一番疑わしいのは、本当に他殺なのか、ということじゃないですか?」
「うん。しかし、死んでいたのは事実だよ。あれが演技ってことはない。見たでしょう?」山吹は海月を見て言った。海月は小さく頷いたようだ。
「心臓発作で倒れたんだとしたら、もうなにも矛盾はありませんよね」加部谷は言う。「自分で鍵をかけて、あそこで亡くなったんです」
「それだと、赤柳さんが勘違いしているってことになるね。首に痕があったって言っていた。頭にも傷があるって」
「発作で倒れたときに、机の角にでもぶつけたんじゃないでしょうか。ありえませんか?」加部谷は首を傾げる仕草。「つまらないですね、この結論は。神居さんには申し訳ないですけど」
「死んだ人に対して、申し訳をする必要はないと思うよ」山吹は紅茶のカップを口につける。「とにかく、その結論は保留しておこう。警察が来てちゃんと調べたらわかることだしね。じゃあ、病気による突然の死ではない、と考えると……、たとえば、自殺があるね」
「自殺ですか……。ああ、つまり、超能力のカリスマとして、最後は他殺に見せかけて死のうと考えたんですね。異界の魔力に倒れた、みたいな」
「うーん、そういうことではないと思うけれど……。首を吊ったということは考えられないかなあ」
「ロープが切れちゃったんですか?」
「そう。首つりに成功したあとでロープが切れて、それであそこに落ちた」
「どこに引っかけたんですか? 天井にそんなところなかったですよ」
「うん、そうだね」山吹は頷く。「まあ、一つの可能性として」
「自殺したんだとしたら、確実に死ぬために、ドアに鍵をかけた、という理由はそれらしいですね」
「そうそう。しかし、死ぬ人間が、ロープが自動的に切れたり、痕が残らないように工夫するとは思えないから、偶然ああなった、ということになってしまう」
「無理があると思います、やっぱり。ねえ? 海月君」
海月が頷く。
「ほら」加部谷は少し嬉しくなって微笑んだ。「やっぱり、自殺はありえない感じです。直前に、私を異界へ連れていってくれたんですからね。だいいち、こんな山奥に住んでいたら、自殺なんていつでも人知れずできるじゃないですか。わざわざ、大勢が訪ねてきたときに、これ見よがしに自殺するなんて……」
「そうだね」山吹も頷いた。「となると、三つのうちの最初の仮定は、もうこれで抜けはないんじゃないかな。発作による死亡という場合を一つ保留にしているだけだね。二つめの仮定は、えっと、あの部屋にドア以外のアクセス経路がない、というのだけれど、これも、間違っている可能性は高い」
「そうですね。なんらかの仕掛けがある部屋だということは、異界マジックが行われたことからも、まず間違いありませんからね」加部谷は言った。「あ、海月君ね、さっき、あんなの簡単だ、みたいなこと言ったよね」
「言ってない。その解釈に大きな間違いはないけれど」海月が答えた。「しかし、殺人事件とは無関係だ」
「え? よくわからない。どういうこと?」
「議論を発散させるつもりはない」海月は言う。
「うーん、ひねくれ者の小唄って言わない? 小腹を立てている場合ではないか。まあ、いいや」加部谷は諦めて山吹へ視線を戻す。「何笑ってるんですか?」
「いや、別に……」
「うーんと、何の話でしたっけ?」
「アクセス経路」山吹が答える。まだ笑顔だった。「ただね、ドア以外って言ったけれど、あのドアこそ、犯人が通った経路だった、という可能性もあるよ」
「そのとおり」海月が小声で言った。
「びっくりした。山吹さんの味方? なんか気分悪くなってきちゃいましたよ。犯人があのドアを通ったのだとしたら、二つの矛盾が生じます。まず、あのドアから出たら、食堂にいた富沢さんか鈴本さんが気づいたはずだということ。そしてもう一つは、鍵が内側でかかっていた、という点です。はい、どうぞ」加部谷は山吹の方に片手を差し出して返答を促した。
「鈴本さんは、僕たちのところへ来ていた。その間は、食堂には富沢さんだけだ。テーブルの左側の席に座っていたら、問題のドアは振り向かないかぎり視界に入らない。あるいは、富沢さん自身がドアから出てきた張本人かもしれない」
「富沢さんが殺人犯だっていうんですか?」
「仮定としてね。それとも、他の誰かが犯人であって、富沢さんはそれを見て見ぬ振りをした」
「共犯者だと?」
「そうそう。いろいろな可能性がある」
「でも、ドアの鍵は?」加部谷はきいた。
「それも、いろいろあるよ」
「あります?」
「うん、たとえばね」山吹が難しい顔で視線を宙へ向けた。「一番簡単なのは、鍵は実はかかっていなかった、とか」
「かかっていました」加部谷がしっかりと発音した。
「それを、確かめたのは、加部谷さん一人だけだ」
「うわぉ……」加部谷は胸に片手を当てた。「どっきぃん。そうかぁ、私が犯人? えっと、そんな機会ってありましたっけ?」
「何度か、一人で出ていったじゃない」
「おお……」
「富沢さんがうとうとしている隙に、彼の後ろを忍び足で通ったんだ」
「私、忍び足って駄目なんですよ。もう、ばたんばたん足音させちゃう方だから」
「それで、異界の恨みを晴らしたんだね」山吹は指を差した。
「あの、何でしょうか? 異界の恨みって」
「そんなの現世の者には想像もできないよ」
「ありえないくらいいやらしくないですか?」
「うん、表現として間違っていないよ」
「ちょっと待って下さいね」加部谷は考える。「あ、ドアに鍵がかかっていなかったなら、そもそもどうして、開かなかったんですか? みんなで凄い苦労したじゃないですか」
「鍵がかかっているものだと思い込んでいただけだった。ドアのどこかにちょっとしたものをねじ込んで、開かないようにしていたんだね。それを、あのとき、手を突っ込んでいる加部谷さんが外したんだ」
「あ、そうか、こっちの手でね」加部谷はあのときの姿勢を思い出しながら言った。「ありえますね、そうか、やっぱ私が犯人かぁ」
「富沢さんとの共犯という可能性も高い」
「おお、そうきましたか。返す言葉を見失って三千里ですね。五里無我夢中みたいな感じ」
「次へ行こう」山吹は冷静な口調だった。「加部谷さんが犯人でない場合でも、鍵をドアの外側から操作する方法があるかもしれない。ちょっと思いつかないけれど……」
「あの鍵の棒をスライドさせる仕掛けがあったわけですね。ラジコンで動かすとか」加部谷は言った。「でも、理由は何ですか? 密室にして、自殺に見せかけるため?」
「そうだね。完全な密室状態を作り出せば、自殺だということになる。でも、赤柳さんがすぐに見抜いてしまって、それは犯人の誤算だった」
「そうか、みんながいるときにやったのは、目撃者を逆に利用しようとしたわけですね。となると、怪しいのは、この家の人たち、山下さんか平井さん?」
「鍵にラジコンのサーボモータを仕込めるくらいだから、その可能性は高いね」
「あ、じゃあ、今頃、ラジコンの装置を処分してしまっているかも。証拠隠滅ですね」加部谷は腰を浮かせた。「見てきましょうか、一階へ……」
「大丈夫だよ。取り除いたところで、この家のどこかにはある。隠したって見つかるよ」
「燃やすとか、細かくするとか、完全に処理したかもしれませんよ」
「仮定の話だよ、これは」山吹は首をふった。「そんなに慌てない方が良いと思うな」
「凄いですね、山吹さん。はあ、ちょっと感心しちゃいました」
「まあまあ」山吹は片手を持ち上げる。「君よりは三年も余分に生きているんだから」
「そういうところが年寄り臭いですよ」
「言うかな……」山吹はこちらを睨んで、舌打ちをする。
「海月君と同じ歳には見えません」加部谷は微笑んだ。「これ、悪い意味じゃありませんよ。しっかりしてそうだっていう」
「年寄りっていう言葉には、好意が感じられないと思うなあ」
「あとですね、ラジコンなんて使ったら、あとあと見つかったりしたとき面倒ですから、たとえば、簡単に糸なんかを使う手があるかもしれません」
「それも一括して保留にしよう」山吹は言った。「鍵を外側から操作した、というグループだね。ほかは、えっと……、ドアを通ったという仮定には、これ以外にはちょっと可能性はなさそうだね」
「ええ。そうだとすると、ドア以外に隠れた経路がある、ということになりますよね」
「出入りをしたんじゃなくて、部屋のどこかに人が隠れているっていうのは?」山吹が言った。
「あ、そうか、まだあの部屋の中に犯人がいるっていうことですか。デスクとか書棚とか? だけど、いなくなっている人がいませんね」
「最初からもう一人いたんだよ」山吹が言った。
「それだったら、山下さんと平井さんがすぐ気づきますよね」
「もちろん気づいている」
「なるほど。そうか、それはあるかもしれませんけど、でも、警察が来たら、たちまち事件は解決じゃないですか。めちゃくちゃつまらないですね」
「まあね」山吹は微笑んだ。「それに、わざわざ隠れている理由を、ちょっと思いつかないし」
「では、ドア以外の秘密の経路の検討に移りましょうか」加部谷は言った。「一番ありそうなのって、山吹さんも言ってた書棚ががぁって開く仕掛けですね。本のどれかを、こう手前に引くと、それでスイッチが入って、地下洞窟の秘密基地へ下りていく滑り台があるんです」
「滑り台なの?」
「そうですよ。急いで下りていくには滑り台にかぎりますからね。消防署みたいなもんですよ」
「上がってくるとき大変だよ」
「それは別ルートです、もちろん。どこかにエレベータがあるんだと思います」
「あそこの部屋って、壁はさ、右も奥も、建物の外壁だよね。右は窓があるし……。奥だったら建物から突き出てしまうって、加部谷さん、さっき言ったでしょう?」
「実際に外に出て確かめてみないと」
「秘密が壁にあるとしたら、入って左側の壁だと思うな。建築計画的にいえばね」
「あ、そうですね。あの左には、トイレとの間に、まだ空間が残っていますね」
「あとは、天井が怪しいと思うな」
「床はどうですか?」加部谷は言う。「デスクを横にずらしたら、穴があって、階段が続いているんです」
「滑り台じゃなくて?」
「デスクをずらすには、書棚のどれかの本を引くんです」
「床に秘密経路があるとすると、地下室、あるいは基礎部を通って、別の部屋へ通じているかもしれない。天井だとすると、二階の部屋へ通じている可能性が高いね。あっち側」山吹は指を差した。「図書室と同じくらいの面積が、二階にあるよね。神居さんのプライベートな空間という可能性が高い」
「建築計画的に」加部谷が言った。
「そう」山吹は頷く。「それで、その秘密を知っている人間が、そこを通って逃走した、というわけだね」
「それって、やっぱり山下さんか平井さんが犯人だということですね?」
「そうとも限らないよ」
「うーん。でも、警察が部屋を丹念に調べたら、わかっちゃいますよね。そうなると、それを知っていた人間ということで、的が絞られる結果になって、状況証拠ですけど、一気に不利になる感じがします」
「そういった、何故そうしたのか、という理由に立ち入ると、最初から数々の可能性が否定されてしまうことになるんじゃないかな」山吹が言う。「そうじゃなくて、物理的にどんな方法が現実にありうるのか、をまず問うべきだよ。理由というのは人間の気持ちの問題であって、そんな心理まで考慮していたら、結局は論理に曖昧性を持ち込むだけで、目標が霞んじゃうと思う」
「凄いこと言いますね、山吹さん」加部谷は素直に感心した。
「これに似たことを国枝先生から言われたことがあるんだ。研究でね。つまり、自分が既に持っている常識が、新しい可能性を知らないうちに排除してしまうことがあるって」
「うーん、深いじゃないですか。そっかぁ……、動機なんか考えるなってことですね」
「いや、そうは言っていないけど」
「さてと……、特別な経路についても、だいたい可能性は出尽くした感じがします。こうなると、三つめの最後の仮定へいよいよ突入ってことになりますね」
「うん、そうだね」山吹は頷いた。「そいつは、ちょっともうSFなんじゃないかって思うけれど……。海月はどう? 今までのところで抜けはないかな?」
「ある」海月が答えた。
「やっだ、海月君」加部谷が手を叩いた。「おちゃめなんだから」
「あの窓を使う方法が、可能性として挙がっていない」海月が指摘した。
「窓? だって、鉄格子があるから……」加部谷が言いかける。
「あそこを通るとは言っていない」海月が言った。「波板ガラスが填った窓枠ごと外すことはできそうだ。それを内側へ外せば、鉄格子だけになる。犯人は外にいて、鉄格子越しに被害者を殺すことができる」
「おお!」加部谷は声を上げた。「凄い! そうか、その手があったか。さすがじゃん、やったね。そっか、首を絞めたわけね、外から。ああ、うんうん。でも、うーん、できないこともないこともない、気がしてもおかしくはない、かもしれない、みたいな感じ? そうなると、犯人は家の外にいたわけだから、今頃遠くへ逃げてしまっているんだ。あ、待って、窓枠はどうするの? どうやって填め直すわけ?」
「たとえば、紐を付けておいて、内側に下ろしておく。それを引き上げて、引き込んで、填める」海月が淡々と答える。
「おお、できそう。そっかぁ……」
「犯人は、密室を作ろうとしたわけ?」山吹が言った。「あ、そうか、違う違う。ドアの鍵はかけてほしくなかったわけか。ドアが施錠されていなければ、殺人犯は家の中にいる、という方向へ捜査が向くから、犯人の苦労が報われるわけだ」
「でもでも、外にいる人が格子の間からロープを入れたとして、ここにちょっと首を入れてくれませんかって頼むわけにもいかないでしょう? どうやって首を絞める状況に持っていくわけ? ありえないんじゃないですか、やっぱり」
「可能性の一つとして」海月が言った。
「まあぁ」加部谷は目を丸くし、それからにっこりと微笑んだ。「海月君が議論に参加してくれた、というだけで加部谷は無上の喜びを感じます。嬉しいぞって……。で、もういい? 終わり?」
「ああ」
「さあ、よろしいですか? いよいよ、では、三つめの仮定が間違っていたという可能性を検討しましょう」
「それは検討するだけ無駄じゃないかな」山吹が言った。
「なにをおっしゃるんですか」加部谷が口を尖らせた。「ここは、超能力者神居静哉の伽羅離館なんですよ。しかも、彼が美少女に異界体験をさせたすぐあとに、自ら殺されたんですよ」
「ちょっと、なんかさ、急に自己嫌悪になってきたよ」山吹が言う。「こんな不謹慎な議論をしていて、後ろめたくなってきたなあ」
「え、美少女がいけませんでした?」
「いや、そうじゃなくてさ、真面目な話」
「私、けっこう真面目なんですけど」
「美少女が真面目なの?」
「ほら、やっぱりそこが問題なんじゃないですか」
「違う違う。うーん、まあ、いいか」山吹は溜息をついた。「よし、警察が来るまでの時間潰しだ」
「自分に言い聞かせましたね。自己解釈で乗り切ろうと」
「加部谷さん、今夜は特にハイだね」
「そうですよ、警察が到着したときには、美少女探偵が事件を解決しているんです」
「拘るなあ」
「じゃあ、いきますよ。えっと、超能力というものを、超自然現象だと理解すると、問題が発散してしまうと私は思うんです。あれをマジックの能力と解釈してはいかがでしょう?」
「それだと、つまり、二つめの、隠れたアクセス経路があるっていうのと同じ結果になるんじゃないかな」
「いえいえ、もっと凄いのがありますよう」
「え、どんな?」
「聞いたらびっくり、腰を抜かしますよ」
「抜かさないと思う」
「たとえばですね……、とか言いながら、いきなり一番凄い推理をしゃべっちゃいますけど、神居静哉は、実は人形だったんです」
「へえ」
「あれ? 反応鈍いですね。あまりの驚きに感情を失った、とか?」
「人形だったんだ、彼は」
「ちょっと、ほら、美男子すぎじゃないですか。そう思いませんでした?」
「いや、正直一回も」
「神居静哉は、実はずっと異界にいるんですよ。そしてそこから、あの自分そっくりな人形を操っていたのです」
「へえ……。あの死体もじゃあ、人形なの?」
「いえ、あれは、異界から帰ってきた神居静哉本人です」
「どっちでもいいけど」
「週刊誌とかワイドショーだったら、ありですよね」
「そうかなぁ。それよりも、天井から糸で操っていたマリオネットだったっていう方が面白いと思うけど」
「そんな、無理ですよ。天井に糸なんかが通る溝がありません」
「それより、異界の方がずっとありえないんじゃん」
「うーん、そこを突っ込まれると、若干弱いですけど」加部谷は頷いた。「あとですね。まだありますよう。実はたった今思いついたんですけど」
「だいたい、思いついた瞬間にしゃべってるよね」
「聞いたら、腰抜かしますよ」
「腰って抜けたことないから」
「あの部屋がですね、実は、エレベータになっているんです」
「ああ、それは面白いね」山吹は口を少し開けた。「そうか、それが異界か……。建築計画的にも、ありだね。あそこの二階が機械室になっていて」
「でしょう? エレベータのボタンには〈異〉って書いてあるんです」
「い?」
「そうです。私と神居さんが入った部屋と、あとで山吹さんたちが入った部屋は、上下になっていて、そのときそのときで、ゆっくり上下移動して、あのドアのところへ入れ替わりで来ていたわけです」
山吹はくすくすと笑いだした。
「あまりのショックに笑ってしまうでしょう?」加部谷も笑いながら言った。「これって、もしかして、解決じゃありません? 美少女探偵、真実を看破! って」
「窓とかも、ちゃんと一致するわけ?」
「そりゃあそうですよ。凄いでしょう? あ、それからですね、あのデスクのペンが動いたのは、えっと、磁石ですね。あれはデスクに磁石が仕組んであって、誰かがコントロールしていたんです」
「そんなことよりも、殺人犯はどこへ行ったの?」山吹は尋ねた。
「えっと、そうか……」加部谷は天井を見上げる。目が大きくなった。「わかった。実は、神居静哉さんは二人いるんですよ。デビッド・カッパーフィールドみたいに双子なんです」
「え! デビッド・カッパーフィールドって双子なの?」
「変なところで驚かないで下さいよ。きまってるじゃないですか。そんなのは、カリスマになる最低限の条件ですよ。だから、あそこで死んでいた神居さんは、最初から、あそこに倒れていたんです。私たちと話をして、部屋に入っていった神居さんは、もう一つの部屋でまだ生きているのです」
「凄いなあ、加部谷さん」山吹は笑いを堪えて言った。「だけどね、ずっとあそこに倒れていたのなら、そのまえの異界ショーのときには、どうしていなかったの?」
「えっと、そうか……、じゃあ、あのあとで、殺されたことになりますね」
「誰が殺したの?」
「それは、もう一人の神居さんです」
「兄弟喧嘩?」
「まあ、そうですね」加部谷は簡単に頷いた。「うーんと、二階へ上がって、そこに二人の秘密の部屋があって、そこで喧嘩をして、つい殴って首を絞めてしまったわけですよ。で、あの部屋に戻して、そっと一階へ下ろしておいた。もう神居静哉は死んだ、と思わせるためです」
「じゃあ、二階のすぐ向こうの部屋に、殺人者の神居さんが、今も隠れていることになるね」
「恐いですね。二人でこのか弱い加部谷を守って下さいよ」
「まあ、できるだけのことはするけど」笑いながら、山吹が言った。
「どうです、どこか駄目なところありますか、この仮説」
「部屋が上下に動いたら、わかると思うな。加部谷さんが入ったあと、エレベータが上がるか下がるかしたことになるでしょう? 気づかなかったの?」
「ああ、えっとぉ……、中で一度、転んだりしたんですよ。ふらっとして……。そうか、あのとき動いたんだ。わかった! やっぱりこれが正解ですよ」
「いや、違うと思うな」山吹は冷静である。
「どうしてですか?」
「そんなの、部屋を見たらわかる」山吹は言った。「部屋がまるごとエレベータになっていたら、ドアのところで、不連続になっている必要があるからね。つながっていない部分があるはずでしょう? そんなものなかった」
「よく調べてみないと」
「うん、まあいいや。ちゃんと調べることになるよ、これから警察が」
6
警察が到着したのは、十二時を回った頃だった。つまり、日曜日の未明になる。人数は三人で、歩いてきたらしい。建物の前まで来たところで、加部谷の携帯に電話がかかり、その後、その二階の窓越しに話ができるようになった。しかし、玄関も裏口も調べてみたがドアを開けることはできない、と彼らは言う。応援を要請しているので、しばらく待ってほしい、とのことだった。
赤柳、富沢、鈴本も、二階の部屋へやってきたので、人口密度が増した。
赤柳が一階の北東の角にある部屋が、殺人があった場所だと説明をしたため、警官たちがそちらへ回って外から見てきたらしい。
「特に外側に異状は見受けられませんね」警官の声がする。
「窓を見たのですか?」赤柳が窓に向かって大声で話している。
「そうです。鉄格子が填っていますし、そこから出入りしたとは考えられません」
そんなやりとりがあった。それから、赤柳が警官の相手をしている間に、加部谷は、もう一度現場の部屋を見にいく決心をした。赤柳にそう話すと、部屋の中に入らない、なにも触らない、という注意を受けた。
山吹と海月に一緒に来てくれるようお願いをして、三人で部屋を出たが、鈴本もカメラを持ってついてきた。
食堂には平井が一人だけ残っていた。
「山下さんは?」鈴本が尋ねる。
「はい、あの、奥におります」平井が通路を一度振り返って答えた。キッチンか、あるいは、倉庫だろうか。
加部谷は食堂の奥へ進み、奥まった場所にある問題のドアの数メートル前に立った。ドアはしっかりとは閉まっていない。穴があいて無惨な状況のまま。床には木片が散乱している。部屋の中の照明は灯っているだろうか。ドアの隙間からは、カーテンが邪魔をして、神居が倒れている付近はまったく見えなかった。これは幸いだったかもしれない。もしかしたら今頃、神居の死体は消えているのではないか、と彼女は一瞬想像した。異界へ戻っていった、という妄想である。
山吹と顔を見合わせ、奥へ進む。ドアの隙間から部屋の中に入る。照明は灯っていた。戸口からはまだ、奥は見えない。山吹が加部谷の横をすり抜け、部屋の中に一歩足を踏み入れると、簡単にカーテンを捲って中を覗き込んだ。
「あ、入っちゃいけないって……」加部谷が注意する。
「このカーテンの中に入らないでっていう意味なんじゃない」山吹は平然と答えた。
神居の死体は、さきほどとまったく同じ状況だった。まだ、そこにある。やっぱり、本当に一人の人間が亡くなったのだ、と改めて感じた。一度死んだ人間は、もう二度と動かない。どんな生きものであっても例外なくこの性質が現れる。そんな当たり前のことが、今さら妙に不思議に思えるのだった。
それにしても、こうして殺人現場に戻ってきて、自分の知的欲求を満たそうとしているなんて、なんという余裕だろう。すぐ近くまで警官が来た、という安心感からかもしれない。あるいは逆に、警察が家の中に入ったら、もう自分たちに主導権はない、という判断だったかもしれない。
「ほら、駄目でしょう?」山吹が出入口開口部の断面を指で示して言った。
エレベータになっているならば、ここで縁が切れていなくてはいけない。やはり、彼女の最有力仮定は否定せざるをえない。部屋全体がエレベータになっている可能性はない。
「そうですね」加部谷も認めた。「一番有力な推論だったのになあ」
「え、推論って何の話?」鈴本が後ろから尋ねた。
加部谷は、彼女にエレベータの話を簡単に説明した。
「そんなんだったら、凄いよね」鈴本は苦笑いをした。「わざわざ、超能力を見せるために、それを作ったって考えたわけだ」
密室の捜索は諦め、食堂のテーブルに腰掛けて三人はおしゃべりをした。鈴本は二階へ戻っていったし、もう平井の姿もなかった。奥からときどきもの音が聞こえたので、山下か平井のどちらかが、キッチンで作業をしているのだろう、と加部谷は思った。
「ところで、資料調査は、もういいんでしょうか?」加部谷はきいた。気にはなっていたが、今まで口にしなかった事項である。
「うん、そうだよね。バイト料はもらえるのかな」山吹が言った。「しかし、戻って作業をするわけにもいかないだろうし」
大きなもの音が、玄関ホールの方から聞こえてきた。少し遅れて再び鈴本が現れた。彼女はずっとカメラを持っている。
「玄関のドアを壊そうとしているけど、駄目っぽいね」鈴本が言った。「なんかやっぱり、壁と一体化していて、びくとも動かないって言ってるよ。どうなっているのかな」
「接着剤で固めたとかでしょうか?」山吹が話した。「隙間に流し込めば、開かなくできる」
「しかし、誰が何の目的でそんなことを?」鈴本が言う。「夕方には、もう開かなかったんだよ。そのまえは、えっと、ああ、そうそう、加部谷さんが出てきたとき、あのときは開いたよね」
「神居さんが現れたときですね」加部谷は言う。「あのときって、彼は裏口から出てきたんでしょうか。だとしたら、裏口もちゃんと開いたはずです」
「登田さんが帰っていったのも、そのあとだから……」鈴本は話した。「出ていくところ、私、見てたけど、ちゃんとドアが開いた、あのときは」
「考えられる目的といえば……」山吹が言う。「まあ、僕たちをここに閉じ込めようとした、ということくらいかなあ」
玄関の方から断続的な衝撃音が続いている。四人は、そちらを見にいくことにした。
ホールには誰もいなかった。二階の部屋に、赤柳と富沢がいるのだろう。警察と話ができるのは、そこだけである。
玄関のドアがいろいろな音を中に伝えてくるが、見たところ変化は何一つなかった。
「ちゃんと状況を話したのに、道具を持ってこないってのは、いけませんよね」加部谷が言った。
「まずは、現場に駆けつける、という方が優先なんだと思うよ」山吹が弁護した。
「だって、現場に駆けつけてないじゃないですか、まだ」加部谷はドアを眺めながら、溜息をついた。
赤柳が階段を下りてきた。二階には手摺越しに富沢が立って、こちらを見下ろしている。
「どうもね、ドアの周囲をセメントみたいなもので固められているらしいんだ」赤柳が言った。警察から聞いたドアの状況報告らしい。
7
午前一時に、後続部隊が到着した。何人なのか正確にはわからないが、二十人ほどいるように加部谷には思えた。警察は、ドアを破壊することを諦め、一階の会議室の窓を突破口として選んだ。室内にいる者には凄まじい音しか聞こえなかったが、グラインダらしき電動ツールで鉄格子を削って切断しているようだった。火花が散っているのが、波板ガラス越しに見えた。その作業はものの十分ほどで終わり、次にガラスを割って、それから、窓枠を取り外した。
この窓は、七十センチ四方ほどの大きさだった。大人が通り抜けることは難しくないものの、大柄の人間にはいささか窮屈な出入口といえる。外側には臨時のステップが作られていたし、部屋の中にもアルミのステップが置かれた。すぐに、奥の現場へ警官たちが向かい、食堂への立入も禁止されてしまった。
そんな状況になって三十分ほど経過した頃、加部谷たちは窓から出てみた。既に鈴本が外にいて、写真を撮っていた。
「中の捜査状況は撮影禁止だって」鈴本は不満そうな顔で加部谷に言った。
屋外にも照明が設置され、建物の方々を照らし出している。まず、玄関のドアがどうなっているのかが見たかった。警官が作業をしているので近づけないが、ドアの周囲がセメントで固められているのははっきりとわかった。
警官たちがかけあう声が方々から聞こえてくる。また、裏手だろう、犬がときどき吼えていた。
電気はどうしているのか、と加部谷は不思議に思った。普通ならば、自動車にバッテリィか発電機が載っているだろう。しかし、あの山道をそんな重い荷物を持って歩いてきたとは考えられない。鉄格子を切断したグラインダは、バッテリィ駆動のものだったのだろうと思っていた。しかし、ライトスタンドにはコードがあり、その先を辿っていくと、建物の外側にコンセントがあった。防水型の下向きのタイプだ。庭の草を刈ったりするときに使用するものだろう。加部谷がそれを眺めていたら、横に山吹が立っていた。
「コンセントがあるから、電動工具が使えたわけだね」彼は言った。
「そうですね。セメントを混ぜるミキサのことを考えているんですか?」
「まあね」山吹は頷いた。「でも、ミキサはけっこう重量級だからなあ。山道を押して往復するなんて全然無理だよ。もしかして、どこか、そのへんに捨ててあるのかな」
「えっと、ちょっとわからないんですけど……」加部谷は頭に両手を当てるジェスチャ。「二つのドアをセメントで固めてしまった人と、神居さんを殺した人は、同じ人ですか?」
「わからない」
「だって、ドアを固めたのは外側だし、神居さんは内側でしょう?」
「そう」山吹は頷いた。
「ドアを固めたあと、家の中に入ることはできませんよね」
「うーん、つまり、二人いるってことになるのかな」
「そうなりますよね」
海月が少し離れたところに一人ぽつんと立っていた。腕組みをしている。鈴本が彼に話しかけていた。何の話をしているのか気になったので、加部谷がそちらへ行こうとしていたとき、庭園の入口のところに、四人ほどの男たちが現れた。そういえば、犬の声が大きくなっていたように思う。つまり、今到着したところのようだ。こちらへ近づいてくる。警察の増員だろう。
「あ、近藤さんだ」加部谷は気づいた。知り合いの刑事の顔だった。
「やあやあ、どうも、加部谷さん、山吹君、こんばんは、お疲れさまです。あ、それから、海月君も」満面の笑顔で近藤は彼女の前まで来る。丸いメガネで、シャツとズボン、上着なしネクタイなしといった中途半端な格好だった。「それにしても、凄いところですね。迷わずに来られただけで、もう嬉しくて……」
一緒に来たほかの三人は、開いている窓のところで係員と話を始めていた。
「で、どんな感じですか?」近藤がきいた。
「さあ、わかりません」加部谷は首をふる。「でも、とにかく、密室ですよ」
「だそうですね。だいたいは連絡を受けております」
「一番、私たちが知りたいのは、本当に他殺なのかってことです」
「はあ、なるほど。それは良い着眼ですね」
「教えて下さいよう、近藤さん」加部谷は顔の前で両手を合わせた。
「いや、まだちゃんとしたことはわかっていないんじゃないかな」建物の方を眺めて近藤が言う。
新来の三人が窓から入っていった。
「あそこからしか、入れないんですか?」近藤がきく。
「そうなんです」
「うーん、それだけで、充分にミステリィですね」近藤が言った。「さあて、では、僕もちょっと見てきますので。また、あとでよろしく」
「よろしくお願いします」加部谷はお辞儀をした。
近藤は立ち去った。
「勝手に帰らないようにって、言わないね」山吹が呟いた。
「帰れませんよ、こんなところから」
「なんか、このところ、変な巡り合わせっていうか、運命が捩《ねじ》れている感じがするんだけれど」山吹は言った。「これって、誰のせいかな?」
「それは、まちがいなく、山吹さんですよ」
「やっぱし?」
「私は、初めてですからね」
「あ、でもさ、ずいぶんまえに、殺人事件に遭遇したことがあるって」
「あ、そうか」加部谷は言った。「まあでも、危ない目に遭ったわけではありませんし、今のところ、セーフですよね」
「うーん、不幸中の幸いって言って良いのかな」
海月がこちらへ歩いてきた。
「鈴本さんと、何の話をしていたの?」加部谷はきいた。
「いや、別に……」
「ナンパされたとか?」
海月が横目で黙って加部谷を睨んだ。
「ちょっと、裏口を見てきません?」加部谷は提案する。
三人は建物の裏手に回った。途中で東側を通ったが、建物の東面には窓は一つしかない。それが殺人現場に通じる可能性がある唯一の窓である。既に警察の係員が二人、ライトで照らされた窓を調べていた。加部谷も三メートルほどまで近づいて、それを見た。鉄格子があって、とてもここから出入りはできそうにない。内側には木製の窓枠で填め殺しの波板ガラスである。
「どんな感じですか?」加部谷は係員に尋ねたが、睨まれただけで返事はなかった。
そのまま離れて、建物の北側に回った。犬の声が近くなる。吼えるというよりも、もっと高い声だ。主人を呼んでいるのだろうか。二匹の大型犬が、落ち着かない様子で檻の中を動き回っているのが見えた。
「感じ悪いですね」彼女は小声で山吹に言う。
「え? 犬が?」
「いえ、さっきの人です」窓のところにいた係員のことだ。
「ああ、向こうもそう思っているかも」山吹が言った。
「え、どうしてです?」
「美少女探偵を知らないから」山吹はそう言って、自分でぷっと吹き出した。
まあまあの可笑しさだったが、笑うのが癪《しゃく》だったので、加部谷は我慢した。
建物の北側にも係員がいて、裏口の近辺で作業をしていた。こちらをじろじろと見る。勝手に歩き回ってもらっては困る、ということだろうか。しかし、特になにも注意されなかった。少し離れた進路をとって、三人は西の方角へ歩きながら様子を眺めた。裏口のドアも隙間をセメントで固められているようだ。それから、北側の壁には換気口らしいものが幾つかあった。雨除けのためのフードが取り付けられている。しかしそれ以外に、この壁には窓が一つもない。
「本当に窓が少ない建物ですね」加部谷は言う。
「基準法に通らないんじゃないかな。違法建築かも」山吹が言った。
「そもそも、こんなところに家を建てて良いのかっていうのが気になりますよね」
「住居ではない、ということかもね」
「観測所、とかですか?」
アカデミックな話はそこで途切れた。建物の西側へ回ってきたが、こちらは一階に窓が一つある。キッチンの窓だ。警察の人間の姿はない。
ふと見上げると、空には星が無数に広がっていた。小学生のときに、絵の具をつけた歯ブラシを金網に擦りつけるアートをやらされたことがあるが、あんな感じだ。黒地に白の点々。蕁麻疹《じんましん》よりも凄い。瞬いているように見えないのは、空気が綺麗だからだろうか。それから、満月に近い月が高い位置にあった。これ以上に明るい夜空は望めない、という状態だろう。
「あれ?」加部谷は立ち止まり、屈み込んで地面を指で触った。「そういえば、地面、濡れていませんね。夕方に相当降ってたはずなのに」
「もう六時間以上経っているよ」山吹が言う。
「でも、全然眠くなりませんね」加部谷は立ち上がり、あくびをした。
8
ドアは無理に壊さない方針に決まったようだった。それ自体が重要な証拠となるという判断だろう。山吹たちが、再び窓から会議室に入ると、大きなテーブルに、関係者全員が座っていた。といっても、赤柳、富沢、鈴本の三人だけで、つまり外来者である。山下と平井は警官に呼ばれて、捜査の協力をしているらしい。警察の人間は会議室をときどき通り過ぎるだけで、この部屋に常駐はしていなかった。だから、見張られているわけではない。部屋から出るな、といった指示をされたわけでもなかった。
まだ、正式な事情聴取は受けていない。富沢は、テーブルに肘をついてうたた寝をしている。鈴本は黙ってカメラをいじっていた。デジカメなので、写した映像を確認しているのだろうか。赤柳は何度か時計を見ている。目的の文献の調査ができない、とこぼしていたので、少し苛立っているのかもしれない。もっとも、顔にはそんな困った様子は表れていなかった。
山吹が様子を見に玄関ホールへ出たところ、階段を近藤刑事が一人で下りてきた。他には誰もいない。この機会に質問をしよう、と彼は思った。
「二階のそちら側には何があるんですか?」山吹は右の方向を示しながらきいた。「南側は客室ですね?」
「あ、そう、こっち側ね」近藤は頷いた。「反対側は、神居さんのプライベートな部屋らしいです」
「なにか、見つかりましたか?」
「いや、うーん、特に異状はなかったようだけれど」
「もし必要なら、この建物の図面を作りましょうか?」山吹は思いついて提案した。
「え? そんなの、簡単にできますか?」
「ラフなスケッチだったら、三十分もあれば描けますよ。僕たち、建築学科ですから」
「ああ、そうか、そうでしたね。西之園さんの後輩なんだ、皆さん」
「いえ、どちらかというと、後輩というよりは、教え子に近いです。彼女、ほとんど先生ですよ。僕たちから見たら」
「へえ、そうなんですか」近藤が口を窄《すぼ》める。
食堂の方から、別の刑事が現れた。近藤よりも年輩で、白髪の痩せた男である。
「あかんな、こりゃ」というのが、その男の呟きだった。彼は、会議室へ入っていった。「人数が全然足りんで」
「協力しますよ」山吹は近藤に小声で言う。
「それじゃあ、図面は頼みます。でも、バイト料は出ないよ」
「ええ、もちろん。その代わり、家の中を見て回ります。僕たち三人、手分けをしてやりますけれど、良いですか?」
「警察がいるところは、きいてから入ってね。邪魔をしないように。ものに不用意に触らないこと。あ、そうか、手袋を貸そう。向こうの現場以外は、大丈夫だと思うけどなあ」
「民間人に協力させたって怒られませんか?」
「このロケーションじゃあ、しかたがないよね、人手不足だから」
「わかりました、じゃあ、すぐ始めます」
山吹は会議室に戻った。
テーブルの一番奥の端に、加部谷と海月が向かいあって座っていた。
「ここの平面図を描くことになった」
「え?」加部谷が目を丸くする。
「グラフ用紙があると良いけれど、そんなものなさそうだから、フリーハンドで、寸法は目測」
「屋敷全体ですか?」加部谷は立ち上がった。「うわぁい、面白そう」
「手分けをしよう。二階の西を加部谷さん、東を海月。僕は一階を西側から調べる」
「なんだぁ、私が一番つまらない場所じゃないですか」
「紙は……」山吹は考える。山下を見つけて、きくしかない。
「上にあるよ」話を聞いていた赤柳が指を差した。「鞄の中に方眼紙がある」
「あ、それは助かります」山吹は微笑む。
さっそく二階へそれを取りにいく。加部谷と海月もついてきた。近藤からの注意事項は、歩きながら二人に伝えた。
方眼紙を見つけて、一人二枚ずつ配る。描くスケールと、どんな範囲までを書き込むかも簡単に決めた。サインペンは、黒と青と赤が一本ずつだったので、色を統一することはできなかった。
さっそく仕事にかかる。
山吹は玄関ホールと会議室を描き、次に、会議室からキッチンの方へ回る通路へ出た。途中で、平井に会ったので、事情を話してキッチンの中と、平井、山下の部屋の中を見せてもらった。キッチンには換気扇も窓もあるが、二人の部屋は換気扇だけで窓がない。それから、裏口に通じている倉庫らしき部屋、トイレ、その手前から入る倉庫、その他、小さな収納スペースなどを調べた。もう一つ、通路の突き当たり付近にドアがあったので、平井に聞いたところ、そこは神居氏が使っている部屋で、見せることはできない、と言われた。そこで、彼女に中の様子をきいて、図面に書き込んだ。この部屋には、向こう側にもう一つドアがあって、通り抜けができる。そちらは、殺人現場となった部屋の手前の通路へ出られるドアだ。
その通路から、食堂へ出ていくと、近藤刑事をはじめ、数人の捜査員がいて、それぞれに作業をしていた。近藤以外の者は、紺色の制服だった。鑑識課だろうか。
死体を搬出することが簡単にできない。現在、その方法を検討中とのことだった。
食堂は会議室と同じ面積である。窓が一つだけある点も同じだ。近藤に話しかけようと思ったけれど、他の係員と話をしているところだったので、その間に、図面にテーブルの位置を大まかに書き込んだ。部屋が広いため、図面が殺風景に思えたからだ。ようやく、近藤がこちらを見て近づいてきた。
「こんなふうで、大丈夫ですか?」山吹は、彼に図面を見せる。
「やあ、充分充分」近藤は微笑んだ。「助かりますよ」
「向こうの部屋を見せてもらっても良いですか?」山吹は、殺人現場の方を指差す。
「ええ、戸口から覗くだけにして下さいよ」
「寸法的なことを確認するだけです」
近藤について、山吹はそちらの通路の奥へ行き、その部屋を覗き込んだ。ドアは開けた状態で、閉まらないように木片で固定されていた。その木片というのは、山吹たちがドアに穴をあけるときに生じたものだった。
室内はカーテンが取り去られている。したがって中までよく見渡せた。三人の捜査員が室内で作業中だ。死体はまだそのままの位置にあったものの、シートが被せられている。山吹は、ドアや窓の位置関係を目に焼きつける。
「え、もういいの?」ドアから離れようとする山吹に近藤が言った。
「ここは、開きませんね?」食堂の方を向いて右側のドアを指差す。
「いや、開くよ。さっき見せてもらいましたが、なにもないです。書棚とデスクくらい」近藤はそう言いながら、ドアを引き開けた。照明も彼がつけてくれた。
それは、さきほど平井が、見るのは駄目だと話していた、神居のプライベートな部屋である。良いのか、と山吹は思ったが、この際だから、知らない振りをして中を覗いた。通り抜けて向こうの通路に出られるドアが見えた。デスクと書棚が左手にある。非常に片づいている印象だった。
「はい、けっこうです」山吹は頷いた。図面に描き加えるものはなにもない。
「早いね。すぐに頭に入っちゃうわけ?」近藤が尋ねる。
「いえ、建築って、だいたい寸法の単位が決まっているんです。目測で図面を描いても、そんなに狂いませんよ」
「へえ」
「こちらは?」山吹は、通路の反対左側にあるドアを示す。
「そこも開くよ」近藤が答えた。
開けてみると、クロゼットらしいスペースだった。ハンガにかかった洋服は、ほとんどビニルカバーに包まれている。ダンボール箱も沢山積まれている。窓はない。奥行きなどを確認して、彼はドアを閉めた。
カメラを持った係員が通路に入ってきた。入れ違いで、山吹と近藤は食堂へ出る。テーブルの上にシートが掛けられ、さきほどまでなかったものが沢山のっていた。アルミのボックスは蓋が開き、ビニル袋やプラスティックケースが沢山並んでいるのが見えた。小型の掃除機らしいものもある。山下が部屋の隅で、刑事二人と立ち話をしていた。彼女は口を手で押さえ、憔悴した表情に見えた。疲れているのかもしれない。
「近藤さん、ちょっとだけ良いですか?」山吹は意を決して質問することにした。
「何です?」現場の方へ目を向けたまま、近藤はこちらへ一歩近づいた。
「絞殺されたっていうのは、間違いないですか?」
近藤は周囲を見てから、黙って山吹を玄関ホールへ連れ出した。
「うーん、まだその、検査中だからね」今度は階段の上を見上げながら近藤は言った。「しかしまあ、殺されたことは間違いないと思う。事故とか病気とかじゃない」
「やっぱりそうなんですね。だとすると、部屋の状況が納得がいきませんけれど」
「その点に関しては、正式に話を皆さんから伺わないとね」近藤は指でメガネを直す。「ちょっと聞いたところでは、ドアに鍵がかかっていた、ということですけど……、それは、どうにも信じがたいってとこかな」
「いえ、でも、ドアを壊さないと、入れなかったんですよ」
「うーん、だけど、ちょっとしたものが隙間に噛んでしまって、開かなかったってこともありえるでしょう? 鍵がかかっているって、皆さん勘違いしたとか。よくあることなんですよ」
「いえ、加部谷さんが、閂を外したんです、ドアの内側の」
「閂は調べました。ええ、あれが、ちゃんと閉まっていたかどうかは、手探りしただけじゃあ、わからないかもしれませんよ」
「いや、そんなことは……」
「まあ、おいおい」
「それよりも、あの部屋、天井とか床とかに、抜け道はないですか?」
「抜け道?」
「ええ、だって、神居さんの仕事柄、そういう仕掛けを作っておくことは、ありそうじゃないですか」
「どうして、仕事と関係があるんです?」
「加部谷さんが、異界へ連れていかれた話は、お聞きになりましたか?」
「いや、え? どこへ連れていかれたって?」
「異界」
「いかい?」
「アナザ・ワールドです」
「ああ、異界。へえ、いつですか?」近藤はやや顔をしかめた。面倒な話になったな、という表情に見えた。
「夕食が終わって、すぐです」
山吹は加部谷と神居がさきに部屋に入り、あとからみんなで部屋の中を見にいった、という説明をした。
「へえ、あの部屋で、ですか?」近藤は興味を示したようだ。
「そうです。でも、そこには加部谷さんも神居さんも、いませんでした」
「どうして?」
「さあ……、異界へ行ったからじゃないでしょうか」
「はぁ?」
「いや、ですから、そういうマジックなんだと解釈していますけれど」
「ああ」近藤は頷く。「そうか、そういうのが、超能力ってことなんですね。はあ、なるほど。これは、ちょっと詳しく話をきく必要がありそうですね」
「ええ、当事者の加部谷さんにまずきいてもらった方が良いです。あの、でも、そのまえに……」
「何ですか?」
「やっぱり、気になるんです。あの殺人現場に、そういった秘密の経路がない、ということは確かでしょうか?」
「わかりました。もう一度、入念にチェックをさせます」近藤はそう言うと、食堂のドアを開けて中へ入っていった。
二階の通路に、加部谷恵美が姿を見せた。
「できましたよう」彼女は方眼紙を片手に持っている。「超簡単ですものね」
「窓は描いた?」
「描きましたよ。ベッドも、バスタブも描きましたよ」
「そこまでしなくても良いよ。海月は?」
加部谷は顔を上げて、吹き抜けの反対側を見た。海月がいるはずの二階の東側だ。
「まだやってるんですかね。のろまですね、海月君」加部谷は微笑んだが、もう一度顔を上げる。二階の通路を見たようだった。「あ、来た来た」
加部谷は吹き抜け中央の通路まで行き、海月を待った。ホールの一階から、山吹がそれを見上げている。
ところが、海月はいっこうに現れない。加部谷はさらに通路を右へ進み、折れ曲がった先まで入っていく。
「どうしたの?」山吹はきく。
「海月君が、あっちのドアから顔を出して、また、いなくなっちゃいました」
「北側のドア?」
「ええ。ちょっと見てきます」
加部谷の姿は見えなくなった。しかし、しばらくして彼女の声だけが聞こえてきた。
「わ! 何、これ」
9
建物の二階東側の通路には、右にドアが三つ、左には一つ。つまり西側とまったく対称だった。加部谷恵美は、左側のドアへ歩み寄り、そこを開けた。
「わ! 何、これ」思わず声を上げる。
広くて明るい部屋だった。これまでのどの部屋よりも明るい。しかも、どの部屋にもなかった雰囲気だ。
図書室と同じ広さだが、周囲の壁が白く、まったく違う印象である。一番の特徴は、機械類が異様に多いということ。スチールの棚が壁に並び、そこに数々の装置が収まっている。コード類も目立ち、とにかくメカニカルなもので部屋が充満していた。低いワゴンにのっている装置もあれば、床に直に置かれた装置に別の装置が幾つも積み上げられているところもある。この他、右の壁に大きなスクリーンがあって、その正面、部屋の中央部に映写機が設置されていた。左手には照明器具に囲まれた一段高いステージ。さらに、その奥に、ガラスで区切られた別のもう一室がある。その中に海月及介が立っているのが見えた。
「この部屋、何をするところ?」加部谷はあっけにとられて呟いた。
「おお、凄いなあ」すぐ背後で声がしたので、加部谷は驚いて振り返る。
山吹早月が部屋に入ってきた。
「AV関係のものが多そうだね」驚いた表情で部屋を見回している。
左の部屋から海月が出てきた。
「そっちは、何がある?」山吹がきく。
「よくはわからないが、ビデオの編集をする器具みたいだ」海月が答える。「モニタもコンピュータも数セツトある」
「神居さんって、この手のものが趣味だったってこと?」加部谷はそう言ったものの、何をどうする趣味なのか、具体的には想像もできなかった。
「あ、ホントだ、凄いね……」戸口に近藤刑事が現れた。彼も、周囲を見回している。初めてこの部屋に入ったのだろうか。
「超能力のカリスマにしては、少しイメージが違いますよね」山吹が話す。「もっと、悪魔の書とか、タロットカードとか、蝋燭とか、そんなイメージでしたけれど」
「一階の部屋はまだそんな感じですよね」加部谷は言う。「ここは、人には見せない部屋だったんじゃないですか?」
「ええ、鍵がかかっていたんですよ」近藤は説明した。「山下さんにお願いして、開けてもらったんです。もう、ざっとは、調べたと思いますが、事件には関係がなさそうです」
「あ、でも……」加部谷は思いついた。「異界へ行ったとき、声が聞こえましたよね、お互いに。あれなんかやっぱり、マイクとスピーカを使ったテクニックだったわけですから」
「あそうそう、その話を伺おうと思っていました」近藤はにっこりと微笑んだ。「加部谷さんが異界へ行かれたっていう、その件なんですが……」
「ええ、もう充分に覚悟ができています」加部谷は口を一文字に結んで頷いた。
一階の会議室へ戻って、赤柳、富沢、鈴本たちを交え、加部谷の体験談が語られた。近藤のほかにもう一人、年輩の刑事も話を聞いていたが、一度も口を挟むことはなかった。
山吹は、話に加わりながらも、テーブルに向かって製図をしていた。三人のラフスケッチを合わせて、建物の平面図を起こしているのだ。彼の横に海月が座っていて、ときどき、山吹とこそこそとしゃべっている。少し離れていたのと、自分が主として話をしているため、加部谷には二人の内緒話が聞こえなかった。異界体験の物語は二分もしないうちに語り尽くされた。言葉にすると、自分でも信じられない部分が多い。
「私自身は、絶対になにかマジック的なトリックがあると思うんですけど、でも、とにかく、気を失っていたわけじゃありませんから、いくら暗かったとはいっても、そんな、違う場所へ行っていたなんてありえないと思います。だからむしろ、あのときは、皆さんが全員で、私をかつごうとしているんだと考えたくらいです」
「私たちは、その逆ですよ」赤柳が発言した。「絶対に、加部谷さんと神居さんの間になんらかの交渉があって、二人で、みんなが驚く様子をどこかから覗いているのだと思いました」
富沢は、自分の書いたメモを見ながら溜息をついた。彼の場合は、もしかしたら神居の能力を本気で信じていたのだろうか、と加部谷は想像する。インタビューのときの質問が、いくら社交辞令とはいえ、少々つっこみが足りないものだったからだ。
鈴本は椅子の背にもたれ腕組みをしたまま目を閉じていた。眠っているのではないと思われるが、しかし、既に深夜である。疲れが表れてもおかしくはない。
「わかりました」近藤は頷いた。「参考になります。今のところ、事件とはあまり関係がなさそうにも思えますが、しかし、密室のからくりは、そのあたりにヒントがあるかもしれませんね。さて、すみません。やらなければならないことがありますので、一旦、失礼します」近藤は立ち上がった。
「あの、近藤さん、事情聴取は、まだなのでしょうか?」加部谷はきいた。いつもより上品な声の出し方を試してみた。
「いえ、そうですね。正式なものは、もう少しあとになると思います。あ、お休みになっていただいても、かまいませんよ。お部屋は二階ですか?」
「いえ、寝るつもりはありませんけれど」加部谷は山吹たちの方を見た。
「図面、できました」山吹が立ち上がって、方眼紙を近藤に見せにいく。
「お、いいですね。どうもありがとう」近藤はそれを受け取り、もう一人の刑事と一緒にホールの方へ出ていった。
加部谷は時計を見る。午前二時半を過ぎていた。思わずまたあくびが出る。目を瞑ってみると、白い星雲のようなものがぐるぐる回った宇宙が見えた。疲れていることは確かなようだ。
近藤が、「あまり関係なさそう」と言ったことが多少気に障っていた。関係ないだろうか。しかし、密室を解くためのヒントにはなる、とも言っていた。ようするに、警察というのは、どのようにして密室が成立したのか、といった点には興味がないのかもしれない。犯人が誰なのか、ということが最重要であって、犯人さえ捕まえられれば、どうやったのかと当人に問い質せば良い、といったアプローチなのだろう。そうなると、神居静哉を殺す動機を持っていた人間を疑って、そちらから攻めていくことになるはずだ。
「そうか、動機か……」彼女は自然に口にした。山吹に聞こえたようだ。こちらを振り返った。
「動機って?」彼がきいた。
「殺すってことは、動機があるわけですよね」彼女は考えながら話す。そう、今まで全然考えていなかったテーマである。「恨みがあったから殺したってことだから……」
「うん。まあ、恨みがなくても、邪魔だから殺すとか、それとも、弾みで殺してしまったとか、殺されるまえに殺したとか、各種ケースがあることとは思うけれど」山吹は小声で話した。同じテーブルの一方で赤柳と富沢が話をしていたので気を使ったようだ。そちらの話は、新聞の記事がいかにして作られるか、という話題だった。
「だから、警察は私たちにあまり興味を示さないんですね」加部谷は言った。「つまり、今日たまたま偶然、バイトでひょっこり来ていただけの三人組ですから」
「ひょっこりなんて言う?」山吹が吹き出した。
「あぁあ、眠くなってきちゃいました」笑われたのでどっと疲れが出た感じがした。彼女は、話をしている赤柳たちを見る。鈴本は椅子にもたれて目を瞑っていた。本当に寝ているのかもしれない。「他の三人の人も、神居さんとは縁もゆかりもなさそうじゃないですか」
「うーん」山吹もそちらをちらりと見る。「でもそうなると、あの二人のどっちかになる」
「そもそも、山下さんと平井さんって、神居さんとどういった関係なんでしょうね?」
「きいてみたら?」山吹が簡単に言った。
「わかりました。きいてきます」加部谷は立ち上がる。
「冗談だってば」山吹が慌てて手を伸ばして、彼女を止めようとした。「やめときなよ」
「そうですね」にっこりと微笑んで加部谷は椅子に座り直した。「少なくとも、単なる雇いの家政婦さんじゃありませんよね」
「ああ、彼女たちはね……」富沢がこちらの話をきいて、答えてくれた。「神居さんのファンというか、信者といって良いと思う。それらしいことを、本人たちから聞いた」
「信者……」加部谷は言葉を繰り返した。「それにしては、神居さんが亡くなっても、取り乱したりされなかったですよね」
「うん」富沢は頷いた。「それは、機会があれば、是非二人に尋ねてみたい点だが……」
そこまで話したとき、富沢が急に話をやめて、部屋の奥を見た。加部谷が振り返ると、平井が通路口に立っていた。
「お茶をお持ちいたしましょうか?」彼女は無表情で言った。
「ありがとうございます。できれば、お願いいたします」赤柳が明るく答える。
平井は一礼して、また通路へ消えた。
「なんていうか……」加部谷はテーブルに身を乗り出し、山吹に近づいて囁いた。「愛人っていうような関係ではありませんね」
「どうして?」山吹がすぐにきく。
「愛人だったら、泣くでしょう」加部谷は言う。「お茶なんか出してられませんよ」
「いや、まあ、愛人でも、いろいろな愛人のタイプがいると思うから」
「いろいろな愛人のタイプ? なんか、いやらしさがほとばしっていません?」
「平井さんは、看護婦として、ここに雇われているんじゃないのかな」山吹が言った。
「自分で看護婦だって言ったでしょう。あの人がそういうことを主張したのは珍しかったからね」
「看護婦が必要だったってことですか」
「いや、なにかあったときに、多少とも医療行為ができる人がいたら、助かるから」
「そういえば、登田さんはどうしたのかな」富沢が急に言った。「もう諦めて帰ってしまったかな、電話しなかったから」
「あそこの駐車場まで来たら、警察がいるでしょうから、こちらへ来るどころではないと思いますね」赤柳が言った。駐車場というのは、山道を一時間歩く手前の地点のことである。「あの登田さんというのは、どういう人なんです?」
「いや、僕たちも、ここへの案内をお願いしただけで、よくは知りません」富沢が答える。「彼は、この館へ何度か来ているみたいでしたね。そう話していました」
「もしかして、どこかに近道があるんじゃないでしょうか」赤柳が尋ねた。「地元の者だけが知っているような」
平井がトレィにお茶をのせて部屋に入ってきた。会話は途切れ、静かになったテーブルに、彼女はそれを一つずつ置いていく。
「平井さん、ここへ来る道って、あれしかないんですか? もっと、街へ出られる近道がないのかと思ったんですが」赤柳がきいた。
「いえ、存じません」彼女はそう言ってから、軽く頭を下げ、また通路へ消えた。
「うーん、ヒューマノイドみたいな人ですね」加部谷がまた山吹に囁いた。「山吹さん、一つ欲しかったりして」
「何の話?」山吹が片目を細める。
「いえ、なんでもありません。でも、さっき、妙に平井さんのことを庇《かば》ったりしてたから……」
その後、さらに一時間ほどが平坦に流れた。
会議室にいると、警官たちの動きが一番よくわかる。加部谷たちに対しては、一人ずつの事情聴取のようなものはなかった。明るくなれば、もっと大勢の警官たちがやってくる。それから正式の捜査が始まるのではないか、と山吹は予測した。殺人事件だと断定されれば、捜査員の数はこんな程度ではない、と彼は話した。
加部谷はテーブルに伏せてうとうととしてしまい、次に目を覚ましたときには、山吹の姿がなかった。海月はさきほどと同じ椅子に座っているが、どこから持ってきたのか、新聞を読んでいた。
赤柳はいたが、富沢と鈴本はいなかった。二階の客室へ上がって休んだのかもしれない。時刻は四時に近かった。そろそろ空が明るくなっているだろう。
「山吹さんは?」彼女は海月に尋ねた。
「外」海月が答える。
「その新聞、どうしたの?」
「警察の人からもらった」
昨日の夕刊らしい。もちろん、ここの事件のことが報じられているはずもない。
「頭、冴えてるか?」海月がきいた。
「え? どうして?」加部谷はきき返す。
海月は、彼女の方を上目遣いに見据えた。笑っているのか、怒っているのか、よくわからない彼のいつもの顔である。
「大丈夫だと思うけど」加部谷はつけ加えた。
海月は、読んでいた新聞を閉じて、それをテーブルの上に置く。そして、加部谷の方へそれを滑らせた。表を向いていたのはテレビの番組表が載っている紙面である。
「何? 新聞がどうかしたの?」
「ラジオ、九時三十分」海月が言った。
「ラジオ、九時三十分」言葉をそのまま繰り返したが、意味がわからない。海月の顔を窺うと、まだこちらを見ている。試されているような気がして落ち着かない。しかし、彼女の頭脳はようやくそこで気がついた。
「あ、そうか! ラジオ。ああ、九時半」
番組表を探す。九時半からどんな放送があったのか。昨夜、山下と平井がラジオを聴くために部屋に籠もった、それはどんな番組のためだったのか。ニュースらしいもの。スポーツの中継、それから、音楽番組。加部谷は時刻の部分から、指を横にスライドさせて探していった。
「たしか、ラジオドラマだって言ってたよね、山下さん」
それは嘘かもしれない、と彼女は考えていた。しかし、幾つか文字を読んだあと、ラジオドラマの記号がその時刻に見つかった。終了時間も九時四十五分で一致している。タイトルが書かれていた。彼女はそれを読む。
「七になるまで待って……」加部谷は顔を上げた。それだけしか書かれていなかった。十五分の番組なのでスペースがない。「これじゃないよね?」
「七か?」
「え?」加部谷は紙面に視線を落とす。「ナナでしょう? シチ?」
「よく見てみろよ」
再度その文字にフォーカスを合わせる。
「あ、ホント、七じゃないじゃん。これって、えっと、タウ?」顔を上げて、海月を見た。
「たぶん」海月の簡単な返事。
もう一度見ると、最後のところに最終回のマークもあった。ということは、何回か連続した放送だったのだ。
「|τ《タウ》ってさ、普通の人は読めないんじゃない?」
「加部谷が読めた」
「あらま」彼女は顎を上げた。「ずいぶんじゃございませんこと」
「読める奴が読めれば良い、というスタンスなんだろう」
「τになるまで待って」加部谷はそのタイトルを繰り返した。「τになるまで待って、ね……。ふうん、で、何? これがどうかした?」
「どうも」海月は首をふった。
「最終回だから、もう聴けないね」
「ああ」
「そうか、神居さんも、これを聴くために部屋に入ったのかしら。時間が同じ」
「そう」
「うーん、でも、何なのよ、全然わからない」
海月は無言で、もうこちらを向いていなかった。横向きに座り直し、天井を見上げる。それから、振り返って窓を見た。その窓から、山吹が顔を覗かせていた。
「空がさ、すっごい綺麗だよ」山吹は笑顔で言った。「見にきなよ」
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第5章 不明瞭な退路
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しかし認識することは、まずもって世界と主観の「交通《コムメルキウム》」を創る[#「創る」に傍点]のでもなく、また交通が、世界の主観への働きかけから生ずる[#「生ずる」に傍点]のでもないのです。認識は、世界・内・存在に基づけられた現存在の様相です。それゆえ世界・内・存在は、根本構えとして、まえもって[#「まえもって」に傍点]の解釈を求めるのです。
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犀川創平は、ほんの一瞬目を瞑《つむ》っただけ、というタイムスリップに近い睡眠を味わった。闇の空間、無の宇宙、真空の集合、しかし、塵《ちり》ともいえる微小な存在がエネルギィを伝えて、波と皺《しわ》を作る。そんな夢を見たような気がした。いうまでもなく、いつも気がするだけなのだ、すべて。
目が覚めたというよりは、この世に引きずり出された感覚で、それはマジックテープの拡大図のような、昆虫の触角のメカニズムに類似したフックのイメージだった。ピータパンが片足の船長と戦ったときに、それに似た錨《いかり》を見た気がする。いつも、気がするだけである。
目を開けると、そこに西之園萌絵の顔があった。月よりも大きい。月よりも近距離である。彼女の顔の運動は、遠ざかる方向だった。接触したのはマイナス時間後の将来と予測できる。
「あ、起きましたね」彼女の口が動いてそう言った。
「起こされた」彼は口を動かしたが、発声が追いつかず、声にはならなかった。
窓がうっすらと明るい。天気が悪い日なのか、それともまだ夜明けまえなのか。メガネをかけていなかったので、時間を自力で知るすべはない。
「どうもすみません。私も、全然眠れてないんですけれど、でも、あぁ……」彼女は両手を挙げて背伸びをしたようだった。次は横に手を伸ばしてCを作るつもりかと予想したが、そうではなかった。
もう一度目を瞑った。プールサイドでクリームソーダを飲んでいたら、ペンギンが泳いでいるのが見えた。速いな、なかなか、と感心する。
「先生!」彼女の声でまた目を覚ます。「起きて下さい。お願いです」
日曜日だろう。彼女がこんなところにいるのは、否、自分がこんなところにいるのは、きっと日曜日にちがいない。そうでもないか、それは昔のことだったか。それとも、未来のことだったか。
しかし目をまた瞑る。
今度は、躰が浮き上がった。引っぱられたようだ。目を開けると、再び西之園萌絵の顔が近くにあった。目が怒っている。一・十二・十三の直角三角形を思い出した。二乗してピタゴラスの定理を試す。
「お願いですから、起きて下さい」
「ああ、わかった」声で返事をした。まだテレパシィが通じるほどの仲ではない。
ベッドから起き上がった。少しふらついたが、二足歩行ロボットよりは機敏に対応できたと思う。まず、頭を掻いた。次に、顔を天井へ向け、首の後ろの筋肉を収縮させる。深呼吸。
「はい、メガネ」彼女が手渡してくれる。それをかけた。ようやく、現実が歪《ひず》みなく見える、という幻想を手に入れた。
「何時?」
「気にしないで下さい」
「え、どうして?」
「時間を気にしていては、できないことがあります」
「時間を気にしていないとできないことの方が、やや多いと思うな」
「あ、起きましたねぇ」彼女は嬉しそうだ。
「まだ、八割がた寝ているのかもしれない」
「はい、シャツ」
幼稚園児か、と思ったものの、言い返さず。黙って服を着た。その間に、消防士になった夢を見た。起きていても、ときどき夢を見る犀川である。
途中で、彼女は部屋から出ていってしまったので、寝直そうかという強い誘惑がわき起こったが、もう服を着てしまったことだし、これくらいの妥協とこれくらいの信頼を、天秤にかけるほど、生きていることは小事だと感じた。彼も部屋を出た。
顔を洗ってから、ダイニングへ入ると、テーブルの向こう側に西之園が一人で座っていた。パンが焼ける香りがする。
「あれ、諏訪野さんは?」
「気にしないで下さい」
「あそう……、気になるなあ」と言いながら、彼女の対面の椅子に座った。
テーブルにカップ。既にコーヒーが入っていた。
「はい、トーストを食べて」
皿にのったトーストが彼の前に。
「あれ、焦げているね」
「ええ、ちょっと手違いで。気にしないで下さい。バターは塗りました」
「どうして焦げてるの?」
「二回めは、余熱があるんですね」
「知らなかったの?」
「二回連続で焼いたことなんて、私の人生に一度もなかったから」
「ふうん」
「トースタが二つあれば良かったんだわ」
焦げたトーストを食べたが、半分ほどで諦めた。そもそも、朝食の習慣がこの頃の彼にはない。コーヒーに望みをかけたけれど、これがまったく熱くない。完全に冷めていた。
「もしかして、西之園君が淹れたの?」
「ええ」
「あそう」
「コーヒーでしょう?」
「コーヒーだと思う」
「さあ、私、支度をしてきますから、先生もお願いしますよ。では五分後に」
「え? どこかへ出かけるの?」
「屋上へ行きましょう」
「わけのわからないことを言うね」
「綺麗ですよ」
「何が?」
「空が」
その五分間は煙草を吸うことに費やした。煙草とライタと灰皿のセットがテーブルに置いてあったからだ。吸えという以外にどんな意味があるだろう。コーヒーも一応半分ほどは飲めた。電子レンジで温め直したかったが、そうまでしても、どうせ最高の状態にはならないことは明らかだった。立ち上がることが億劫だったので、まだ正確な時刻を把握していない。時計はベッドサイドに置いたはず。この部屋には、見える範囲には時計がない。時計が見えない範囲が存在するというだけで、信じられないことだ。家が広すぎるのか、時計が少なすぎるのか、あるいはその両方か、のいずれかだろう。
数分後、彼女と二人で屋上へ出た。地上百メートル以上の高さがあるため、周囲に見えるものは遠景のみ。
日は既に空にある。そちらが東だとしたら、上ったところだ。
「いつもの空じゃないか」犀川は呟いた。
けれど、西の空を振り返ったとき、日常的ではないものが近づいてくるのが見えた。
2
五時頃、加部谷たち三人は簡単な事情聴取を受けた。場所は会議室である。一人ずつ順番だったが、三人ともテーブルについたままだったので、人の話も聞こえる状態だった。嘘をついた場合にその矛盾点を突く、といった目的で一人ずつ別室で行うものだとばかり考えていたが、そうでもないようだ。容疑者として認識されていないためだろうか。加部谷はその点が多少拍子抜けで、残念だった。
話はすぐに終わってしまった。やはり言葉で説明すると、関係がありそうな情報がほとんどない、ということが話している本人が一番よく理解できる。事件の直前にあった加部谷の異界体験の方が記憶量としては多いのだが、まったく余分な情報ともいえる。そもそも、神居が最後にあの部屋へ入っていったときには、三人とも赤柳と一緒に二階の図書室にいた。鈴本と会って、話をしたことくらいが例外である。もう一つの焦点は、ドアを壊したときのこと。腕を突っ込んで鍵をスライドさせて外したときの様子などを、なるべく主観を交えないよう注意して説明した。
鑑識による作業が続いている。富沢と鈴本はずっと二階らしい。山下と平井の姿は見かけなくなった。自室で休んでいるのだろうか。赤柳は元気で、さきほど窓から外へ出ていったところだった。その窓からは、屋外の光が入る。天気が良さそうだということが明るさからわかった。
峠を越えたのか、もう眠くない。躰が少し重い感じがしたものの、頭は比較的すっきりとしている。
警察とのやり取りが終わったので、加部谷はまた外に出ることにした。提案してみると、山吹も頷く。海月は頷かなかったが、立ち上がったので一緒に来るつもりのようだ。
窓から一人ずつ外へ出た。警官たちの姿が近くに数人。建物の南には、一段低いところに広く平たい庭園が広がっていることがわかった。遠目には芝のように見えたが、野生の草原かもしれない。
「そうそう、ここって、ゴミはどうしているんでしょう?」加部谷は気になっていたことを口にした。
「燃やしてるんじゃない」山吹は庭園にあった大きな石の上に立って周囲を見回している。「焼却炉とかが、どこかにないかな」
「燃えないゴミはどうするんですか?」
「燃えないゴミって、たいていもの凄く燃えやすいよね」山吹は言う。
「あの山道をゴミ袋を持って歩くってことはないですよね」
「そんなことしないよ」
「超能力でゴミを消してしまえるなんてのだったら、凄いですよね」
「異界へ転送するんだね。異界も堪ったもんじゃない」
「だけどある意味、画期的ですよね。少なくとも、トランプや花やステッキが消えるよりは、役に立つじゃないですか」
「酵素で分解できるから、別に超能力ってわけでもないよ。光をエネルギィに変えたりとか、普通に百円ショップで売っているものでも、かなり超能力だと思うなあ」山吹はまだ空を眺めていた。
海月はその近くで別の石に腰掛けている。膝に肘をついて、考える人の真似をしているようだった。加部谷はそちらへ近づいた。
「海月君、朝から考えてるじゃない」
「いつも考えているつもりだけど」
「面白い! いぇい」彼女は親指を立てる。「ねえねえ、もしかして、密室の謎がもう解けてたりしない? 黙っているけど、ホントはわかってるんでしょう? 人から尋ねられないかぎり自分からは話さないっていうスタンス、むっつりなんとかって、そのうち言われるから」
「いや」海月は短く首をふった。「わからない」
「あそう。でも、なんか言ってなかった? 異界のトリックは簡単だって」
「加部谷が言ったんだ」海月は加部谷を睨む。
「でも、否定しなかったよ」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり簡単だと思っているんでしょう?」
「そちらはね」
「そちらって?」
「マジックの方。しかし、殺人とは無関係だ」
「わからないじゃない、そんなの……。ねえ、教えて教えて。もういいでしょう? 今がチャンスだと思うよ、私。そのうち、だって、山吹さんとか私とか、気がついちゃって、なあんだってことになると、価値半減だよう」
「あれはつまり、問題のあの部屋をいくら観察しても、わからないことなんだ」海月は面倒くさそうな顔で話した。「僕は、あのとき一人で食堂に残っていた。だからわかった。当事者にならなかったから気がついた。それだけだ」
「本当に、君のその推理が正解?」
「あとから、ちゃんとその証拠も確かめてきた」
「え、確かめたぁ? 何、え、じゃあ、もう解決なの? 単なる海月君の思い込み、もとい、導き出した最良の解答ってだけじゃないわけ? いつもと違うじゃん、言ってることが」
「ああ、たまたま確かめられたから、これは事実だ」海月は口を斜めにした。「しかし、繰り返すが、事件には関係がない」
「うーん、そうなのか。しっかし、こうなると、もう少し考えたくなっちゃったりしそうな気もすることに、やぶさかでないぞ。どうしよう? あと一時間くらい猶予をもらおうかしら。おぉって、思いつけるような答?」
「さあね」
「しかし、異界ショーのトリックが、密室殺人に利用されている、あるいはヒントになっている、ということはないかい?」突然話に加わってきたのは赤柳だった。加部谷の後ろの茂った樹の陰から彼は登場した。
「びっくりした、何をしていたんですか?」加部谷は尋ねる。「忍者みたい」
「光栄ですな」赤柳が笑った。「僕らの世代は小さいときに、みんな忍者に憧れていたものです」
「いくら憧れていたからって、普通、そういうふうにはなりませんよ」
「この仕事を選んだのも、忍者に憧れてのことです」赤柳は言った。「で、お話しの続きを、是非とも拝聴したいものです、海月君」
海月は少し笑ったような表情を一瞬だけ浮かべたが、口を開けることはなかった。黙って、赤柳に二秒、その後加部谷に一秒ほど視線を注ぐと、今度は地面を見つめ、また思考の使徒と化したような安定体勢に戻ってしまった。
「駄目ですよ、出てきたら」加部谷は赤柳の肩を軽く叩いた。「私だから話してくれるかなっていう場面だったんですよ。赤柳さんがいたら、シャイな彼ですから、また沈黙しちゃうじゃないですか」
「沈黙の彼氏」赤柳がにこにこ顔で言う。意味がわからないので、加部谷は呆気にとられた。
気を取り直して、少し離れたところにいる山吹を見る。相変わらず、姿勢良く石の上に立っていた。横顔しか見えないが、目を眩しそうに細めている。話はぎりぎり聞こえている距離のはず。両手を左右水平に真っ直ぐに伸ばしたら、ちょっと危ない感じになるが、やってほしいな、とも加部谷は勝手に想像する。
「あ、ヘリコプタ!」その山吹が叫んだ。
加部谷もそちらを見る。南の方角からこちらへ近づいてくる。ときどき朝日を反射して光った。
「もうマスコミが嗅ぎつけたんですね」加部谷は言った。「上空から撮影されるかもしれないから、早く隠れなきゃ」
近くの大きめの樹の下に逃げ込むことを彼女は考えた。既に赤柳がそちらへ移動している。山吹はまだ石の上だ。自由の女神のように一番目立つだろう。
「あれは、消防署のヘリだ。死体の搬出のために来たんだよ」山吹は額の前に片手を翳して眺めている。「あ、やっぱり、ドルフィンとかっていう機種じゃなかったかな。あれの写真がついた下敷きをもらったことがある」
「下敷き?」加部谷は上を見ながら呟いた。「え? ということは、ここへ着陸するってことですか?」
「じゃないかな。それとも、ロープで引き上げるとか」
「へえ、それは見ものですね」加部谷は両手を合わせる。躰に力が入った。
地上にも目を向けると、警察の係員が伽羅離館の窓から数人飛び出してきた。走っている者もいる。空を見上げて両手を振っている者もいる。ヘリコプタは建物の上を過ぎたところでゆっくりと旋回に入り、バンクをしたまま北から西へ周回している。ロータ音がぱたぱたと響いた。
「あ、降りるね」山吹が指をさした。
南側の庭園のようだ。そこで係員が二名、旗を持って誘導している。
「もともと、あそこヘリポートだったんだ」山吹が言う。「そうか、そういうことか」
機首を持ち上げ、上空でホバリングしてから、斜め前方にゆっくりと降下し始めた。山吹が石から飛び下り、そちらへ歩きだす。加部谷や海月も後に続いた。
赤と白で塗り分けられた機体が南庭園の中央部にランディングした。地上に降りてくると意外に大きい。ロータの回転が遅くなりつつある。建物の窓から近藤刑事も出てきた。こんなに大勢で出迎えるものか、と加部谷は不思議に思った。
機体サイドのドアが開き、最初に降りてきたのは、白いジャンパの男だった。大きな鞄を持っている。近藤が駆け寄って、彼に頭を下げた。どういう人物なのかはわからない。加部谷たちは、そこよりも高い位置から、離れてそれらを眺めている。もうエンジン音はほとんど消え、ロータも勢いを失っている。次に、機体の中から女性が降りてくる。白いスラックスにピンクのブラウス。そして、彼女はヘリから降りると、黒い傘を広げた。
「あれ?」加部谷は目を凝らす。
山吹も海月も気づいたようだ。
次に、白いシャツにジーンズの男性が降りてきた。寝癖なのか、後頭部の頭の毛が立っている。
「わ!」加部谷は目を見開いた。しかし、続く言葉はない。
その二人は、近藤と一緒にこちらへ上がってきた。
「おはよう、山吹君、海月君、恵美ちゃん」西之園萌絵が、パラソルを少し傾けて微笑んだ。「君たち、徹夜?」
「あ、はい」加部谷は頷く。いつの間にか気をつけの姿勢だった。
犀川創平が西之園の斜め後ろに立った。
「おはようございます」山吹が頭を下げる。加部谷と海月もお辞儀をした。
犀川は軽く頭を下げてから、片手を広げた。少し笑った顔。しかし、メガネの中には眠そうな目。毛が立っていることには気づいていないようだ。
「どうして、西之園さんが、いえ……、どうして犀川先生が、いらっしゃったんですか?」加部谷は尋ねた。
「私は自由意志で」西之園が答える。
「もしかして、自家用ヘリですか?」
「いえ、ちょうどね、ヘリを飛ばすって聞いたものだから、うちへ寄ってもらったの」
「寄ってもらった」後ろで山吹が囁きエコーの役を演じている。
良いのだろうか、そんなことをして、と加部谷は思った。
「犀川先生は……」と言いながら、西之園は後ろを振り返った。
彼女のパラソルを避けてから、犀川は顔をしかめ、溜息をついた。
「酔いました?」西之園が小声で尋ねる。
「最低だ」彼は頷いた。
「あ、それじゃあ、帰りは森の中を歩きましょう、先生」西之園が嬉しそうに言う。
「ピクニックなんて、初めてじゃありませんか?」
「あのぉ。申し訳ありません」先で待っていた近藤が言った。「是非、現場をご覧になって、ご意見をいただいたのちに、ピクニックなど、楽しまれては、と思いますが……」
西之園は微笑みながら上品に頷いた。真似のできない仕草である。犀川も歩きだしたが、加部谷の横を通り過ぎるとき、「騙されたなあ」という呟きが聞こえてきた。
3
まず玄関の前で一行は立ち止まった。セメントで周囲が固められたドア。鑑識が近くで作業をしていたが、西之園と犀川が近づくと後ろへ下がった。少し離れたところで、山吹や加部谷たちもこれを眺めている。
「ご専門ですよね」近藤が犀川を見て言った。
「ご専門? 何がですか?」
「いえ、建築がです」
「ああ」
「ドアをセメントで固めたらしい、ということはわかりますが、いったい、どうしてこんなことをしたのか……」近藤は問題提起をした。
「開けてほしくなかったからでしょうね」犀川は簡単に答える。
「このセメント、もう壊しても良いのですか?」西之園が尋ねた。「はつったら、取れるんじゃないかしら」
「ええ、これからそれをする予定です」近藤は頷く。
「手前に開くドアですからね」犀川は言う。「セメントが硬化するまえに、中から開けられたら水の泡ってことになる。つまり、そうならないように、手が打ってあったはずです。おそらく、このあたりかな」犀川はドア中央の左の端で指を動かし、範囲を示す。「力学的に見て」
「このあたりに、何が?」近藤がきいた。
「さあ、わかりません」
犀川は建物を見上げた。西之園も彼を見てから上を向いた。
「あのパイプ」犀川が指を差す。「スプリンクラみたいだ」
「スプリンクラ? あ、本当ですね」西之園は言った。「屋外なのに?」
「蔦《つた》を這わせるために、つまり植物に水を与えるために、設置されることはあるよ」
「ああ、そうなんですか」西之園が頷く。
「あ、あれが、事件に、なにか関係があるんでしょうか?」近藤が犀川の方へ顔を寄せてきいた。
「えっと……」犀川は左右を見る。「どこから入るんですか?」
「あ、あちらです。そこの窓から中へ入っていただくしかありません」
「平面図はありませんか?」犀川はきいた。
「あ、ありますあります」近藤はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。「これ、彼らが作ったんですよ」
後ろにいる山吹たちの方を、近藤が示し、犀川と西之園が振り返った。
犀川と西之園は図面を広げて十秒ほどそれを見ていた。犀川は顔を上げ、建物の外壁をまた見上げる。西之園も上を見た。
「あそこの窓を壊して、恵美ちゃんが電話をかけてきたのね」
「この建物の意図として、一番明確なのは何だと思う?」犀川が西之園にきいた。
「意図、ですか? よくわかりませんが、外界の拒絶ではないでしょうか」
「うん。僕は、監獄を連想したよ」
「ああ、そうですね。現に、みんな出られなかったそうですし」
「こういうのって、火災時などは、大変なことになりますね」近藤が言った。
「いや、それは火災に対する対策が万全ならば大した問題ではありません」犀川は答える。
「でも、地震とかあっても、外に飛び出せませんよ」
「地震への対策もしてありますね。これは免震構造です」
「免震?」近藤がきいた。
「ええ、建物の基礎を、地面から独立させて、クッションのゾーンを作る構法です。この水が流れている部分で、縁が切れている。建物は地震で壊れることはありませんから、外に出ない方が安全です」
「はあ……」近藤は頷いた。「しかし、事件との関連は……」
「ありません」犀川が断言した。
「先生、向こうをさきに見ましょうか」西之園が右手を示した。東の方角である。「現場の部屋の窓があります」
「そうです、あっちですね、ご案内します」近藤が前に出た。「検死官の先生がいらっしゃったばかりなので、正式な診断はこれからになりますが、誰が見ても、あれは頸部を絞められた状態です。首にロープを巻きつけて背後から絞めたんですよ。そのまえに、頭を一発殴っていますね。たぶん、スパナかそんな金属のものだと思います」
「現場に残っていたのですか?」西之園は歩きながら尋ねた。
「いえ、ロープは残っていますが、殴ったものは見当たりません。そういうことからも、他殺は明らかです」
「でも、ドアが内側で閉まっていたのも……」西之園はそう言うと振り返り、数メートル後ろを歩いていた加部谷を見た。
「絶対に確かです」加部谷は力を込めて発声した。
「もしそうだとすると、大変、難しいことになりますね」近藤は眉を顰めて言った。「ドアにも、これといった仕掛けはありませんし、また、部屋のどこにも、抜け道はありません。人が隠れられるような場所もない。それを、ええ、もちろん、今から見ていただこうと思っていますが、窓にも……」
東面の窓のところまで一行は来た。加部谷たちも、少し離れて同行している。
庭木の内側に水路があって、そこから壁が立ち上がっている。犀川はその庭木の手前から窓をしげしげと眺めた。
「鉄格子の間隔は十センチです」近藤が説明する。「猫くらいしか通れません」
「この奥の窓枠は、外せそうですね」犀川が言った。「こちら側に木ネジがある」
「ね、ほらほら」加部谷は山吹に囁いた。「その可能性、私たちも検討しましたよね」
すぐにそこは終了。続いて、建物の北側へ回った。裏口では足を止めることもなく、
一瞬の確認だけ。そして、西側まで回ったところで犀川が立ち止まった。
「ああ、そうか……」彼はそう言うと、近藤を見た。
「何ですか?」
「煙草を吸っても良いですか、ここは」
「あ、ええ、いいと思います」近藤は頷く。「たぶん」
「灰皿は持っています」犀川は僅かに微笑んだ。そして、ポケットから煙草の箱を取り出し、一本を抜き取った。「ヘリコプタで気分が悪くなったので忘れていた。そうだ、朝起きてから、これが最初の一本だ」
「違います。お食事のあと、吸われました」西之園が言った。
加部谷が山吹の耳に顔を近づける。
「犀川先生、西之園さんと朝ご飯一緒だったんだ」彼女は囁いた。
「いちいち解説しないでよ」山吹が囁き返す。
犀川は火をつけてから、最初の煙を吐き出した。それから、加部谷をじっと見た。
「昨日、電話で雷のことを話していたね、加部谷さん」犀川がきいた。
「あ、はい……、えっと、そうでしたっけ?」加部谷は西之園に助けを求める視線。
「そうだよ、こちらは雨が降って、雷も鳴ったって」西之園は、加部谷と犀川の間で視線を往復させた。
「そうそう、そうでした。言いましたね、私。あれ、でも、あのときも、犀川先生がお近くにいらっしゃったんですか?」
「那古野では降りませんでしたよね」西之園は近藤を見た。「雷も全然。だって、夕焼けも綺麗だったし、星空が見えましたから」
「神居さんが、もうすぐ嵐になるって、予言したんですよ。そうしたら、そのとおりになったんです」
「誰か、実際に雷を見た?」犀川がきいた。
「音だけです」山吹が答える。「外には出られないし、窓は開きません」
「あ、でも、夕方のときは、ほら、窓が光っていましたよ」加部谷は思い出して言った。「ですから、光だけは見たというか……。そうだ、窓が雨で濡れていたし」
「ラジオにも雑音が入っていました」山吹がつけ加える。「雷があったことは事実です」
「たとえば、停電にはならなかった?」犀川が尋ねた。
「いえ……、あ、でも、電気がふっと一瞬暗くなって」加部谷は懸命に答える。「えっと、電圧が低下したときみたいな」
「ああ、なるほど」犀川は頷いた。「わかりました」
「何がわかったんですか?」西之園がきく。
「いや、密室は解けた。つまり、僕の仕事は終わった。この煙草を吸い終わったら帰ろう」
4
「あ、あの、犀川先生」近藤が犀川の前に出た。「わかったというのは、あのその、なんですか、つまり、事件のことですか? 解決っておっしゃったように、私には聞こえましたが」
「ええ。でも、誰が何のためにやったのかは知りませんよ。ただ、どうやって部屋から逃げたのかなら、説明できる。簡単ですから、今しましょうか?」
「ちょっと待って下さい」西之園が犀川の前に両手を広げた。「早すぎます、先生、殺人現場を見ましょう」
「別に……。君、見てきたら」犀川は煙を吐いた。
「駄目ですよ、ちゃんといろいろな可能性を考えて、慎重に判断をしないと……」彼女は近藤の方を見た。「あの、犀川先生は、朝がちょっと苦手でいらっしゃるんです」
「ええ、はい、存じています」
「特に、今朝は、私が無理に起こして、騙して引っ張り出してきましたので、ヘリコプタの中では、相当にご機嫌斜めだったんですよ」
「今も」犀川がつけ加える。
「ええ、犀川先生」近藤が手を擦って言った。「まずは、中で一服されてはいかがでしょうか。お茶の用意をしていますので」
「いいですよ、そんな……」
「先生、もう少しもったいぶって下さいよ」西之園が早口で言った。「どこの世界に、現場も見ないでいきなり解決編、なんて探偵がいますか」
「名探偵なら、すぐ解決するんじゃないの?」犀川は無表情で煙を吐いた。「ああ、眠くなってきたなあ」
「名探偵ほど、なかなか推理を口にしないものですよね」西之園が加部谷の方へ視線を送る。
「あ、でも、海月君も、もうわかっているみたいなんですよ」加部谷は思い切って言った。
西之園が海月へ視線を移す。
「いえ」海月が首をふった。「加部谷さんの誤解です。わかったと言ったのは、神居さんが亡くなるまえに見せてくれたマジックのネタです。密室に関しては、僕にはわかりませんでした。ただ、たった今、犀川先生がおっしゃったことで、理解しましたけれど」
「え、わかったの?」加部谷は海月の前に詰め寄った。「マジで?」
「とにかく、こんなところではなんですから、中へ入って、えっと、会議室でお話を伺うことにいたしましょう」近藤が苦笑しながら言った。
「面倒だなあ」犀川が呟く。「窓からでしょう?」
「すぐ帰るって、どうやって帰るの?」西之園が犀川に小声で話しかけていた。「車はないんですよ。ヘリコプタは、死体を載せないといけませんし。もう一度お迎えがくるまでは、しばらくここにいるしかないと思います」
「歩いて帰るんじゃなかったの?」
「え? 本気ですか。私、そういう靴を履いてこなかったから。うーん、困ったわ」
加部谷は山吹と顔を見合わせた。
近藤刑事は既に建物の南側まで歩いていき、こちらへ向かって手招きしていた。
5
会議室にコーヒーが用意されていたが、山下と平井の姿はなく、警察の係員がそれを運んできた。富沢と鈴本は、まだ二階だろうか、姿は見えない。
テーブルについたのは、片側に、近藤、犀川、西之園、そして反対側に、赤柳、山吹、加部谷、海月の合計七人である。犀川に初対面の赤柳と海月を、西之園が紹介した。この他に、刑事があと二人、係員が二人、部屋の隅でいずれも難しい顔をして立っていた。
五分ほどまえ、窓から死体を載せた担架を運び出す作業が行われた。そのときには、一行は会議室ではなく、食堂にいた。そして、殺人現場の部屋へも立ち入った。犀川がそこに立っていた時間は三十秒くらいだった。西之園があとから出てきて、首を傾げていた。
「私はわからない」彼女は加部谷に小声で言った。「えっと、恵美ちゃんが消えてしまったトリック? そちらも、わからない」
「わかりませんよ、私も」加部谷は言う。「どうして、犀川先生と海月君にはわかるんでしょう。そっちの方が頭が変だと思いますよ」
「もう少し待ってくれないとね」西之園は不満そうな顔だ。「少しくらい考える時間を与えてほしいわよ、本当に」
「西之園さんの家にヘリコプタが寄ったんですか? えっと、もしかして、屋上へ?」
加部谷は尋ねた。
「ええ、ヘリポートがあるの」
「ヘリポートがある」山吹が、またエコーの役をした。
「犀川先生は、西之園さんの家にいらっしゃったのですか?」加部谷はもう一つ尋ねた。
ところが、これには返答がなかった。会議室へ移動することになり、西之園はそのまま歩きだしてしまったからだ。
「うーん、残念」加部谷は呟いた。
「しかし、わからんなあ」山吹が口にした。「外から見てわかるものかなあ……」
「鉄格子の隙間から、首を絞めたっていう、あれに近いんじゃないでしょうか」加部谷は大まかに予想していた。
会議室に戻って、ようやく全員が落ち着いた。犀川はまた煙草に火をつけた。おそらく今日三本めだろう。
ヘリコプタが飛び立つ音が聞こえた。それから、玄関のドアでセメント部分を取り除く作業が始まったようだ。甲高い衝撃音が聞こえてきた。
近藤は舌打ちして立ち上がり、窓へ行く。彼はそこから顔を出した。
「ごめん、十分だけ待ってくれない? ちょっと重要な会議があるんで、悪いね」
近藤が犀川に微笑みかけながら、席に戻った。
「十分もかかりませんよ」犀川は煙草を吸っている。
「あ、では、さきに、海月君から、神居さんのマジックの仕掛けを解説してもらう、というのはいかがでしょう?」西之園が提案した。彼女は口を結んで、海月を見た。
「はい」海月は頷いた。「簡単です。五分もかかりません」
加部谷は隣の海月の横顔を見る。彼はいつもの無表情。本当に変化のない顔であるが、少しだけ、ほんの微かに、緊張しているように感じられた。もしかして、西之園に直接指名されたからではないのか、と勘繰ってしまった。
「あの部屋に入る手前の、左側に、ドアがあります」海月は話した。近藤がさっそく平面図を取り出して広げた。「加部谷さんは、あの左側の部屋へ入ったんです」
「え? まさか」加部谷は首をふった。「それはない」
「いや、だって……」赤柳も言う。「ドアを開けて二人が入るのを、みんな見ていたんですよ」
「僕は見ていません」海月は口もとを僅かに緩めた。「見ていることで、勘違いが起こることもあります。もちろん、その勘違いをさせるための仕掛けがあるだろう、と考えました」
「仕掛けって?」加部谷が隣で囁く。「そんなのあった?」
「皆さんは、神居さんが死んでいた部屋ばかりに注目していました。あの部屋に仕掛けがあるだろうと考えた。でも、そうではありません。手前の左の部屋に、すべての仕掛けがある。あそこのドアは、普通のドアで、奥のドアとも、とても似ています。通路側へ開くドアです。しかし、平面図を見て気がつくと思いますが、奥のドアと干渉します。両方が同時に開くと、ドアどうしがぶつかってしまう。普通、そういったことは避けるはずです。やむをえないときもありますが、ここの場合は、いくらでも手が打てたはず。左のドアの位置も、もっと手前にある方が建築計画的に自然です」
「それは、図面を描いているとき、たしかに変だなって、思った」山吹が呟く。
「でも、ドアに仕掛けなんてあった?」加部谷は首を捻る。
「ドアに仕掛けはない」海月が答えた。「ドアではなくて、ドアがある壁に仕掛けがあった」
「壁?」誰かが呟いた。
「通路に面している壁自体が、ドアのように九十度手前に回転するようになっています。ドアを含めて、壁がそっくり大きなドアとして機能する。ドアの少し左を見れば切れ目があります」
「ちょっと見てこよう」赤柳が立ち上がった。
「あ、すみません」近藤が手を広げた。「少しあとにしてもらえませんか。死体を搬出して、今、部屋の再検査をしていますので」
「その動く壁を九十度引くと、通路の突き当たりの手前に、新たな壁がもう一枚出現します。そこには同じようにドアがある」海月は言った。「そのドアの中へ、二人は入っていっただけです」
「ああ……、なるほど」山吹は頷いた。「通路の奥行きが一メートルくらい短くなったはずだけれど、気づかなかったわけか」
「入ったところにカーテンがあったでしょう?」加部谷は言う。「ということは、カーテンで、本当のドアを隠してあったわけ? 開けたとき、外からわからないように。でも、私、あそこで方角を九十度も間違えた気はしないけどなあ」
「まず、後ろ向きに歩かされたことが、方向感覚を失わせるためだった」海月は指摘する。「あるいは、神居さんは、加部谷を暗がりで導くとき、わざとぶつかったりして、方角を変えたはずだ」
「あ、そういえばね、入るとき、あそこで一度ふらついたし、そうそう、出るときは、転んじゃった、なんかに躓《つまず》いて」
「それが、用意された効果なんだ。肩に触れている手で押したかもしれない。躓くようなものが置かれていたかもしれない。とにかく、立ち上がったとき、あるいは、姿勢を戻したとき、進路を変えるように神居さんが誘導した。それだけ」
「私が入ったあと……」加部谷は想像する。「その回転壁を元に戻したはずでしょう? 皆さん、ちゃんと見ていなかったんですか?」
「いや、ずっと見ていたつもりだったが」赤柳が首を傾げる。
「山下さんがキッチンの方の通路から現れたとき、僕の後ろに彼女がいましたけれど、皆さんの視線が、こちらへ向きました」海月が語る。「あのときにタイミングを合わせて、壁を元へ戻したと思います」
「ああ、コーヒーのお代わりをききにきたね」赤柳が目を見開いた。
「左の部屋にもカーテンがあって、私がその中へ入ったあとで、壁を戻したんですね」加部谷は頭の中で記憶を再生していた。そういえば、僅かな風を感じたことを思い出す。「それから、照明をつけました。あ、待って下さい。窓は? 窓があったわ」
「加部谷が見たのは偽物の窓だ」海月が言う。「壁に掛けられたダミィ。うっすらと照明が灯って、僅かに光るように作られていただろう」
「机とか書棚も、同じでしたよ」
「それは、そういうふうに用意された部屋だから」海月は加部谷を見た。「あの部屋は、もう一つドアがあって、通り抜けできる。そういったものは移動できる書棚で隠されていたはずだ」
「それって、あとで、山下さんたちが元どおりに戻したってこと?」加部谷はきいた。
「そう」海月は頷く。「さっきの壁を戻すタイミングも、山下さんが協力をしている。明らかに、彼女はマジックのアシスタントだった。当然ながら、マジックに使われた部屋も片づけて、デスクや書棚の位置を変え、あとで不自然に思われないようにしただろう」
「それ、でも、神居さんが亡くなったあとでしょう?」西之園がきいた。「うーん、でも、するかもね。亡くなっても、マジックのネタをばらすことは、名誉に関わるから」
「ああ、そうですね」加部谷もそれで少し納得した。「えっと、出てくるときは私がさきだから、壁をまた出したわけか。部屋の電気を消していたし」
「なるほどなあ」赤柳が何度も頷いて感心している。「あの二つの部屋に、マイクとスピーカが仕掛けてあって、お互いの声が聞こえるようにできているんだね。ここへ来たお客に、それを体験させて、信者に取り込もうっていうわけか」
「でも、気づかれたりしないかな」山吹が発言した。「特に通路の奥行きが短くなるわけだから……」
「普通の人は気づかないでしょう」西之園が言う。「部屋の平面図を描こうと思って眺めないかぎり」
「あとでテーブルをずらしたのは、そのためだ」海月が山吹に向かって話した。「ちょうど、加部谷か山吹が座っていたあたりが、通路の一番奥が見える限界に近い。人間は距離はしっかり把握できないが、見えるものが見えなくなる、といった顕著な変化があっては気づかれてしまう。だから、最初は、手前に壁があったときに見える位置、終わったときには、奥のドアが見える位置に、テーブルをずらす」
「それを平井さんが担当していたのね」加部谷は頷いた。「海月君が残っていたから、やりにくかったでしょうね」
「普通、残る奴はいないからなあ」山吹がくすっと吹き出す。
「これで、僕の説明はすべて終わりです」海月は西之園、そして犀川を見て言った。
「今、反省しているのですが、実は、僕自身が、このマジックの仕掛けに囚われていました。そのせいで、密室の謎を素直に考えることができなかった。犀川先生が指摘されて、ようやく思い至りました」
「思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる」犀川が煙草を消しながら言った。「まっさらで素直に考えることは、けっこう難しい。重要なことは、立ち入らないことだ。海月君が真理を見抜いたのも、その視点によるところが大きい」
「びっくりしました」西之園が目を丸くする。「そういうことをおっしゃるのって、先生、久しぶりですね。学生向けですか?」
「僕が言いたいのはね、あまりこういった方面に僕は立ち入りたくない、という願望。それだけ」
6
「さて、しかたがない。話しましょうか」犀川は隣の西之園を一瞥してから始めた。「まず、僕の解釈を言ってしまうと、たったの一言で終わってしまうので、ちょっとそのまえに、何故、皆さんがそれに気づかなかったのかという点を、軽く考察してみたいと思います。それは、今、海月君が話したとおり、神居さんの異界トリックの存在があったからです。僕は、たった今、そんなことがあったのか、と知りました。皆さんのこのハンディは大きいでしょう」
「海月君は、でも、それは無関係だと言っていたよね?」加部谷が小声で言った。
「そう、手前の部屋のドアが回転しても、問題の密室の状態を説明することはできない、と考えた。しかし、既に知ってしまったそのトリックに、やはり彼自身も囚われていた。僕だって、それを見ていたり、知ったりすれば、真実に到達するのに余計な時間を取られたと思います」
西之園萌絵が、大きな瞳を横に向け、犀川を観察していた。その顔があまりにも幸せそうに見えたので、加部谷はたびたび盗み見ていた。
「さあ、もう一分は使ってしまった」犀川は時計を見る。「外の工事を早く始めてもらった方が良いので急ぎましょう。そもそも、最初にあのドアを見たときピンときました。セメントで固めてあるけれど、それはカモフラージュではないか。セメントは圧縮には耐えるけれど、引っ張られた場合の強度は低い。硬化が早いものは、ものの数十分で実用強度に達するけれど、しかし、隙間に練り込む作業の時間もあるわけだから、そんなに硬化が早いものは使えなかったはず。となると、内側の人間がドアを開けたとき、どうなるか。そのための手を事前に打つのが普通です。一瞬で固めてしまうならば、瞬間接着剤があるけれど、衝撃に弱いうえ、あれは鋼製のドアだ。となると、考えられる接合方法は……」犀川は隣の彼女を見た。
「あ、溶接?」西之園は口を小さく開けた。
「そう。溶接ならば、一瞬で終わる。二点くらいをちょんちょんとやって終わり。接触部がない場合は、小さな鉄の板を当てて、それを溶接すれば良い」犀川は片手を差し出して、手のひらを天井へ向けた。「さて、溶接機はどれくらいの大きさか。バッテリィ式のものならば機械は小さいけれど、バッテリィ自体がけっこう大きくて重い。コンセントが使えるならば、百ボルトで稼働する家庭用の溶接機が便利です。最近はどこでも買える。重さは、そうですね、十キロくらいかな。大きさはこんなもの」彼は両手で三十センチくらいの幅を示した。「溶接をすると、紫外線が出て、光ります。でも、誰も見ていない。簡単ですね」
「あ、それじゃあ、鈴本さんが会議室で見た稲妻って、溶接の光だったのですか?」加部谷がきいた。
「それはわからない。その確認は後回しで良い」犀川は即答した。「ドアを開かないようにしたのは、もちろん、中の人間に出てきてもらっては困るからです。それは、そのあと、神居さんを殺す計画があったからでしょう。時間になると、あの部屋へ侵入して、そこへやってきた神居さんを殺した。その時刻にあの部屋へ来ることを知っていたのか、約束をしていたのか、それはわかりません。以上のように、犯人は屋外にいた。したがって、あの部屋へは窓から侵入した。状況から、それ以外に方法はない。鉄の格子を切断し、窓枠はそっくり外した。中に入り、やってきた彼を殺したあとは、同じ窓から外へ出た。出てから窓枠を填め直し、同じ径の鋼棒を溶接する。あとは、ペンキを塗った。終わり」犀川は時計を見た。「あと二分三十秒」
「溶接した?」近藤が腰を浮かせた。すぐにでも現物を見にいきたい、という気持ちだろう。「そんな簡単なものなんですか?」
「簡単だから、ここまで広く普及したんでしょうね」犀川は言った。「時間という意味なら、一瞬です」
「最近溶接したものかどうか、見たらわかりますか?」近藤が尋ねる。
「専門外です。しかし、難しいでしょうね。塗装だって難しい。条件によっては、数時間で錆びますし、半年も錆びない場合だってある。まあでも、同条件の他のものと比較すれば、大まかな推定は可能でしょう。あ、そうそう。溶接といっても、設備がいらない簡易な電気溶接だったはずです。放電を利用して加熱します。ですから雷と同じで、ラジオに雑音が入るし、あと、大量の電流が流れますから、電圧降下があってもおかしくない。照明が薄暗くなったりするでしょうね」
「そうか、あのときですね」山吹が言った。「外で溶接していたんだ」
「でも、雨が降っていたのは?」加部谷が目を細める。「二階の窓が濡れていたんですけれど」
「それは、スプリンクラだろうね」犀川が答えた。
「え、あ、じゃあ、雨も雷も、なかったってことですか?」加部谷は眉を顰め、口を尖らせ、おまけに首を傾げた。難しい顔をこれ以上に演出することはできない。「つまり、あの予言自体が、神居さんのパフォーマンスだったってことかしら」
「まあ、そこらへんは、警察が調べればわかる」犀川は簡単に言った。「そのパフォーマンスを利用した可能性は高い。さて、そろそろ時間です。お開きにしましょう」
「ちょちょちょっと待って下さい」近藤が立ち上がり、片手を犀川の方へ伸ばした。「先生! えっと、なんですか、つまり、犯人は、家の外から侵入して、家の外に逃走した、ということですか?」
「ええ」犀川は頷く。
「しかし、どうして密室にしたんですか? 家にいる人間に疑いをかけるならば、あの部屋のドア、鍵を外しておくべきだったんじゃあ……」近藤は質問した。
「違いますよ。単に、邪魔をされたくなかったから、ドアの鍵をそのままにしておいたか、あるいは自分でかけたか、というだけのことです。それに、逃走に必要な時間を稼ぐために、窓の格子も溶接した。出入口と同様にね。おかげで、電話をかけることもままならなかった。予定どおり機能したんじゃないですか?」
「そうか、徒歩で一時間もかかるわけだから、それだけの時間、確保しないと、通報されて警察が来ちゃうわけですね」加部谷は頷いた。
「あの、じゃあ、その、誰なんですか? 犯人は」近藤は顎を引いて犀川を見つめる。
「知りませんよ、そんなこと」犀川は簡単に言った。「それを調べるのが警察の仕事だと、僕は理解していますが、違うでしょうか?」
「あ、いえ……」近藤はますます顎を引き、上目遣いになった。「そのとおり、ごもっともですけど……」
7
三十分後に再びヘリコプタが着陸した。さきほどとは別の機体だった。何人かの人間が降りてきて、入れ替わりで犀川と西之園がそれに搭乗して帰っていった。
警察の人数は、いつの間にか倍増している。そのほとんどが、建物の外にいた。外部の人間による犯行の可能性が高くなったためだろう。
近藤は、赤柳や富沢たちに、いつ帰っても良い、駐車場まで警官が同行する、と伝えにきた。そこで、赤柳と富沢が話し合い、お昼前にはここを出ることに決めた。山吹たちは二階の図書室へ行き、コンピュータなどの後片づけをした。資料調査を続行することは無理だった。理由ははっきりわからないが、このことで、赤柳はとても落胆していた。
「おそらく、木俣氏と神居氏の関係が、事件に影響しているという見方なんじゃないかな」赤柳は山吹たちに語った。「それとも、警察が既にこの組織に目をつけている可能性もある。今回の事件を切っ掛けに、証拠を押さえようというつもりかもしれない」
三人のバイト料に関しては、半額を支払う、という提案を赤柳の方からしてきた。まだ仕事をほとんどしていないのだから、これは予想外の好条件といえるものだった。
「そんなの悪いですよ」山吹は赤柳に言った。
「まあ、こういうことがあるのが、この仕事なんだ」赤柳は苦笑した。「うまくいかないケースの方がずっと多い」
赤柳と学生三人、それに富沢と鈴本を入れて六人、さらに制服の警察官が二人加わって、八人で山道を戻ることになった。
途中で、富沢は何度か電話をかけていた。もちろん、相手は新聞社だろう。言葉の端々からそれが窺えた。
案内役だった不動産屋の登田には連絡が今もつかない。この点は警察も注目しているらしい。というのも、建物の外部にいた人物となれば真っさきに思い浮かぶのが彼だったからだ。伽羅離館の修繕や、庭の手入れを行うときは、いつも登田が業者を連れてきて、一緒に作業もしていた、と山下や平井が証言したらしい。このことは、鉄格子を切断し、また溶接や塗装をした、という犯人像を連想させる。連絡がつかないとなれば、当然ながら、非常に有力な参考人の一人として警察は彼の行方を追うことになるはずである。
「困ったなあ、どうやって記事を書いたら良いものか、途方にくれるよ」富沢が溜息混じりで言った。
「こんなことなら、盗み撮りでも良いから、人物の写真を撮っておくべきでしたね」鈴本は悔しがる。「もの凄いスクープだったのに」
「いやいや、誰が撮ったかわかってしまうから、クレームが来たときに困る」富沢は首をふった。「駄目だ。記事も同じだよ。簡単には書けない。しばらく、書かせてもらえないだろうな。それよりも、身辺を気をつけないと」
そういうものなのか、と加部谷は思った。ジャーナリズムというのは、真実を伝えるものだ、とよく謳《うた》われているけれど、そう謳われていること自体が、真実を伝えることの難しさを示している証拠かもしれない。もしも、神居が死なないで、普通にインタビューを受けた結果から記事を起こしても、そこにどれだけの真実が含まれただろうか。
加部谷は山吹と話しながら歩いた。そのすぐ後ろに海月が黙ってついてくる。赤柳は数メートル前を歩いていたし、富沢と鈴本はさらに先で、警官たちに近い。
「ちょっと考えたんですけどぉ……」加部谷は話す。「神居さんが、雨が降ると予言して、スプリンクラを使って、あと、ライトや音響で嵐みたいな演出をしたとすると、あのドアを開かないようにしたのは、やっぱり登田さんで、それはつまり、神居さんから頼まれて、登田さんがやっていた、ということになりませんか?」
「そうそう」山吹は頷く。「外に出て確かめられたら、雨が降っていないことがばれてしまうからね。つまり、ドアを開かないようにする、という指令を登田さんは受けていた。だからこそ、ドアが開かない事態になっても、山下さんたちは、そんなに大事として取り上げなかった。そうなることを知っていたから」
「でも、溶接するとまでは考えていなかったわけでしょう?」
「もちろん」山吹は頷く。「ドアの隙間に、三角の楔《くさび》を外から打ち込めば、ドアくらい簡単に開かなくできる。そうするつもりで、それはあとで取り外す手筈だったんじゃないかな」
「じゃあ、それを逆手に取って、登田さんがあれをやったってことですね?」
「うーん、そこまで断定はできない。登田さんはそれをして、帰ってしまったかもしれない。そのあと犯人が、溶接してセメントを塗り込んだのかも。たとえば、極端な話、登田さんは殺されたかもしれないよ」
「ああ、そうですね……、それは凄いですね」加部谷は顔をしかめた。「組織に抹殺されたってことですか? 恐いなあ」彼女は周囲の森を見渡した。
「山下さん、平井さんが、どこまで知っているか、だけど」山吹は言った。「でも、もしバックに強力なものがあるとすると、彼女たちは、なにも知らないで通すんじゃないかな」
「あ、そういえば、あの部屋も、なんだか神居さんとは結びつかない設備でしたもんね」加部谷は言った。「秘密基地みたいで」
「え、どこのこと?」赤柳が歩きながら振り返った。
「二階の、えっと、右手へ行った、北側の部屋です」加部谷は答える。「図書室の東隣になるんですけど」
「何があったの?」赤柳がきいた。
「えっと、凄いメカニックでいっぱいでした」
「メカニック?」
「コンピュータとか」加部谷は思い出す。「ビデオ関係のものが多くて、スタジオみたいでしたね」
「写真撮ってない?」赤柳がきいた。
「え、写真ですか? ああ、携帯で……」加部谷は、その手があったか、と思った。全然そんな発想はなかった。「いえ、私、一枚も写真なんか撮ってないです」
「それは、残念だったなあ」赤柳が唸った。
「どうしてですか?」
「いやぁ、もしかして、と思っていたんだ。あそこは、神居静哉だけのために作られたものではない。明らかに、あれは宿泊施設だ」
「ああ、それは、そうですね」加部谷は頷く。山吹も興味を示したようで、赤柳を見つめていた。
「たとえば、組織の人間が、来ていたかもしれない。木俣氏なんかは、きっと何度も来ていただろう」
「ヘリコプタを使って来るんですね?」
「もちろん、そうだ。しかし、僕が疑っているのは、もっと別の人物だよ」赤柳はそう言うと空を見上げる。
ヘリコプタのロータ音が近づいてくる。警察のヘリだろうか。音は大きくなり、しばらくして今度は低くなって、遠ざかっていった。騒音が去っても、赤柳は続きを話さなかった。
「別の人物って誰ですか?」加部谷は尋ねた。
「以前に、彼女は三河湾の島に研究所を持っていた。そこはね、窓が一つもない建物だったらしい」赤柳は前を向いたまま話した。「そういう閉鎖的な環境が好きなのかもしれないね」
「真賀田四季」加部谷は小声で囁く。
ようやくわかった。そうか、今回の資料調査も、彼女の名前がキーワードだったではないか。
「衛星通信か」赤柳は空を見上げて言った。「そうか、ここを拠点にしていたのかもしれない。ビデオで自分の映像を撮って、ネットで送っていたんだ」
「そういうことをしていたんですか?」加部谷は尋ねる。
「今でもしているかもしれない」赤柳が呟いた。
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エピローグ
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岸につながれてあるボートは、それ自身が在ることにおいて、それでもって〔対岸に〕渡ろうとする知人を指示していて、しかしまたそれが「見慣れない〔他人の〕ボート」のばあいでもやはり他人を指しています。
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月曜日の夕方、C大の国枝研究室に、加部谷恵美と海月及介がやってきた。いつものように図書館で海月を見つけ、加部谷が引っ張ってきた結果である。山吹早月はコーヒーを淹れてから、それとなく国枝助教授を呼びにいった。もちろん具体的には「コーヒーが淹りましたけど」と言っただけである。
デスクの国枝は無言で頷いただけ。山吹は引き返してきて、加部谷とのおしゃべりを再開した。
「赤柳さんから電話があったけれど、ラジオの番組、あれ、どんなものだったか、局へ問い合わせても、駄目だったって。教えられないって言われたらしい」
「録音が残っているんじゃないですか?」加部谷がきいた。
「うん、警察が押さえているんじゃないかな」
「MNIの信者向けの放送だったんでしょうか?」
「スポンサを調べていけば、わかりそうなものだけれど」
「へえ、何だったんでしょう? τになるまでって」
「このまえは、θだったし、そのまえはφだったじゃん」
「海月君、なんか意見ない?」加部谷が突然、海月に振った。
「いや」海月は横目で加部谷の視線を受け止める。「意味があるとは思えない」
「でもでも、すべては、謎の組織の活動っていうか、そういうのが見えてきそうな感じしない?」
「いや」
「まあ、暗号ってことはないわけだから」山吹が言う。「誰かが誰かに向けたメッセージというよりは、単に、たとえば、プロジェクトの名称とか……」
「どうして、暗号じゃないんです?」
「暗号なんか発信する意味がないよ」
「だけど、プロジェクトだったら、α、βって順番に来ませんか?」
「順番だったのかもしれないよ。たまたま、僕たちの前に現れたのが、この三つってだけで」
「英語にすると、φがPhで、θがThで、τはTですね」加部谷は天井を見ながら言った。「これをつなげると……」
「子音ばかりで読めないよ」
「ですからぁ、母音を適当に補って読むんです。海月君、君が頼り」
「そんな単語はない」海月が答えた。
「ないって即答できるなんて凄くない? そう、考えてるんだ。じゃあね、PhとThとTが、なにかそれぞれの略語だとか」
「あ、化学記号とか?」山吹は言った。「Phって何だっけ?」
「ペーハー」加部谷が叫んだ。「酸性アルカリ性の!」
「Phはフェニル基」海月が一言。
「あ、ベンゼンか」山吹が言う。
「ベンゼン? あれれ、いつかどっかで、それ出てきましたね」
「Thはトリウム、Tはトリチウム」海月が言った。「いずれも放射性」
「生き字引!」加部谷が指を差す。
国枝が自分のカップを持って隣の教官室から出てきた。ドアを開けて、加部谷と海月を確認したものの、なにも言わず、コーヒーメーカまで直行した。
「昨日の朝は、びっくりしたよね、西之園さんが犀川先生を連れてきたんだから」山吹は、加部谷に話しかけた。もちろん、これは国枝に向かって発した言葉である。
「え、犀川先生が?」国枝はコーヒーをカップに注ぎながら尋ねた。
「そうなんですよ。ヘリコプタでさっそうと登場されたんですよ」加部谷が高い声で言う。援護射撃である。「それでもって、どうでしょう、ものの五分後には、もう謎は全面解決」
「へえ……。何の謎が?」国枝は振り返り、立ったままカップに口をつけた。
「もちろん、殺人事件、それも前代未聞の密室殺人です」加部谷が嬉しそうに言う。「私たち、たまたまそこに居合わせたんです。陸の孤島ともいえる秘境中の秘境。車では近づけなくて……、もう、壮絶だったんですからぁ。今、その一部始終を三人で振り返っているところなのです」
国枝はテーブルの椅子を引いた。
加部谷が山吹へ意味ありげな視線を送ってきた。
「今日って西之園さん、来ないね」国枝は言った。
「ええ、たぶん、警察じゃないでしょうか」加部谷が言う。「昨日の今日ですから」
「そう……」国枝はコーヒーを飲む。
「先生、話しましょうか?」山吹は尋ねた。タイミングを計ったのだが、もしかしてまだ早かっただろうか、という心配も半分。
「うーん、そうだな」国枝は壁の時計を見た。「じゃあ、ちょっとだけ聞こうか」
※
佐々木睦子はスカートを気にしながらタクシーを降りて、葬儀場のロビィへ入っていった。案内看板を見ようとしたが、その前に大男が立っているため、一番肝心の会場が読めなかった。
「あ、お待ちしておりました」彼が頭を下げて近づいてきた。愛知県警の鵜飼《うかい》警部補である。黒いスーツを着込んでいたが、少し小さめで窮屈そうだった。
「ボディガードを頼んだ覚えはありませんよ」佐々木はそれでも社交的な微笑みをつくってゆっくりとお辞儀をした。こういった動作は彼女の場合、感情とは切り離され、全自動になっていることはいうまでもない。
「いえ、そのボディガードで参りました」鵜飼は笑わなかった。
「え、誰の?」
「ですから、佐々木様の」
「あら、私? 身に覚えがないわ」
「諸事情がありまして」
「全然心当たりなし」彼女は微笑んだ。「どうしてかしら。でも、ありがとう。自分でも気をつけますわ」
「西之園さんは、ご一緒ではありませんか?」
「誰のこと? 萌絵ですか?」
「はい、そうです」
「来ませんよ」
「そうですか」鵜飼は少し安心した顔である。「では、問題ないと思います」
「どうして、萌絵が来るの? 私は、教室のお友達とご一緒しただけで……」彼女はロビィの奥を眺めた。ソファから立ち上がって、手を振っている二人の女性を発見した。「あ、いたいた。もう、いいかしら?」
「もちろんです」
「えっと、一つ教えて。萌絵が、どうして神居静哉と関係があるのですか?」
「いえ、別にありません」鵜飼は首をふった。「ただ、バックにはMNI、そして、真賀田四季が関わっています」
「それは知っていますよ。でも、あの子がここへ来るなんて、どうして考えたの?」
「いろいろと余計な心配をするのが、我々の悪い癖でして」
「ふうん、良いのよ、そういう悪い癖は大切になさってね」彼女は片手を持ち上げる。「じゃあ」
鵜飼と別れ、佐々木はロビィを真っ直ぐに進む。友人たちのところへ近づいた。
「あら、佐々木様、素敵なドレスですこと」一人が満面の笑みで出迎える。「お葬式にはもったいないくらい」
「ええ、もったいないと思いますわ」佐々木は頷いた。「ですけれど、あとで、お茶くらいどこかで飲むことになりますでしょう?」
「あ、そういえば、私、さっき変な男から声をかけられちゃったの……」もう一人の友人がきょろきょろ見回しながら言った。「私をね、佐々木様と間違えたみたいなの。でも、嬉しかったわぁ。だって……。あ、ほら、あの人よ」
佐々木はそちらへゆっくりと視線を向けた。受付カウンタの側にグレィのスーツ姿を見つける。髭面が、こちらを見ていた。目が合ったので、向こうはお辞儀をした。しかし、佐々木はその顔に覚えはない。
「誰かしら」彼女は呟いた。「ちょっと話してきます」
友人たちから離れ、佐々木はそちらへ歩いていく。向こうも、こちらへ出てきた。ロビィの太い柱の横で二人は立ち止まった。
「佐々木睦子様ですね」帽子を取り、深々と頭を下げた。「私は、赤柳と申します。是非お見知り置きいただきたいと思いまして……」ポケットから名刺を取り出した。
佐々木はそれを受け取り、メガネを持ち上げて文字を読んだ。「赤柳……、ウイロウさん?」
「赤柳ハツロウと申します」
「偽名ね」
「いえ、とんでもありません」
「探偵なんていう人は、たいてい偽名だと思っていましたけれど」
「滅相もない」
「そうかしら?」彼女は目の前の人物をじっと観察した。靴から上へ、顔、頭まで。「で、何のご用ですか?」
「率直に申し上げますが、私は、真賀田四季について調査をしています。一昨日、神居静哉さんのところへも、資料を調べるために出向いておりました。それが偶然にも、こんなことになってしまいまして、とても残念です。あ、そこにもいらっしゃいましたが、西之園萌絵様にも、何度かお会いしております」
「まあ、萌絵が、あそこへ行ったんですか? それ、聞いてないわね」
「犀川様もご一緒でした」
「あらまあ」
「たちまち事件の謎を看破されまして、まさにお噂どおりと申しますか、評判に違わぬ方でございまして、私も感服いたしました」
「そうですか。どうしてまた、そこでそんな調査をなさっていたのですか?」
「はい、最初は依頼でしたが、既に今は、半分以上が、その、自分の興味といいますか……」
「どんな、ご興味かしら」
「はい、つまり、真賀田四季が何をしているのか、ということです」
「危ないわね」
「は?」
「お気をつけになった方がよろしくてよ」佐々木は微笑んだ。「悪いことは言いません。とても、個人の力で立ち向かえる相手ではありません。姪にも、それはいつも言い聞かせておりますのよ」
「はあ、しかし、どうこうしたいというわけではありません。ただ、知りたいのです」
「別の方向へ向けられたらいかがでしょうか?」
「はあ……」
「もう、よろしいかしら?」
「あ、はい、失礼しました。どうもありがとうございます。機会がありましたら、どうかまたよろしくお願いいたします」
「一つきいて良いかしら?」彼女は、探偵が頷くのを待ってから言った。「どうして、そんな格好をなさっているの?」
「いえ、私も葬儀に参列をするつもりで」
「そうではなくて、その髭」
「は?」
「年季は入っているようですけれど、私の目は誤魔化せませんよ」
赤柳は小さく口を開けたまま、自分の髭に手をやった。じっと佐々木を見据えている。
「では、ごめんあそばせ」彼女は微笑み、軽く頭を下げた。
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冒頭および作中各章の引用文は『存在と時間』(ハイデガー著、桑木務訳 岩波文庫)によりました。
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底本
講談社 KODANSHA NOVELS
τ《タウ》になるまで待《ま》って
著者 森《もり》 博嗣《ひろし》
二〇〇五年九月五日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社講談社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71