刀之津診療所の怪
森 博嗣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)白刀島《はくとじま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西之園|萌絵《もえ》
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〈帯〉
美女の幽霊、病気の子供、黒ずくめの謎の男……。
怪事件に西之園萌絵が迫る!!
森ミステリィの煌めき、至福の九編収録。
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〈カバー〉
詩情溢れる、森ミステリィ
刀之津診療所の怪(Mysteries of Katanotsu clinic)
西之園萌絵が叔母らと訪れた白刀島《はくとじま》の診療所をめぐる怪しい噂に迫る。
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刀之津《かたのつ》診療所の怪
Mysteries of Katanotsu clinic
[#地から1字上げ]森 博嗣
[#地から1字上げ]講談社ノベルス レタス・フライより
[#地から1字上げ]KODANSHA NOVELS
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1
白刀島《はくとじま》が見えてきた。三月にしては暖かい。旅客用の小型船は船首を持ち上げながら走っている。エンジンは唸《うな》り、船体も軋《きし》んでいたが、海は静かだった。そう感じるのは、山吹早月《やまぶきさつき》がこの船に慣れているせいもある。隣に座っている加部谷恵美《かべやめぐみ》は、ときどき眉を寄せて不安そうな表情を見せた。長時間船に乗るのは初めてだ、と彼女は話していたのだ。同じ大学の同じ学科で、山吹よりも三年下の後輩に当たる。
彼女と二人だけならば比較的新鮮味があったかもしれない。残念ながら、もう一人いる。山吹の友人で、海月及介《くらげきゅうすけ》という変わった名前の男だ。中学生のとき、白刀島に一年間だけ住んでいたことがあり、そのとき山吹と同級生だった。当時のクラスには、男子は山吹と海月の二人しかいなかったので、平均的なニュアンスの同級生よりは多少内容が濃い。なにしろ二人しかいないのだから選択の余地がない。気が合う合わないといった評価も比較対象がないため無意味となる。海月は、現在は加部谷と同級だ。どこかで三年もロスしている計算になる。浪人をしたのか、というとそうでもなく、受験は一度しかしていない、と彼は言う。このあたりの真偽のほど、詳しい事情は彼が語らないのでわからない。いずれにしても、三年も後輩の加部谷恵美と知り合えたのは、海月のおかげなので、彼の三年間の空白に関しては、山吹はとりあえずは感謝しなければならない立場だった。
小さな港が近づいてきた。奥は石垣、海に突き出た先はコンクリートで防波堤《ぼうはてい》が作られている。漁船らしき小さな船が何艘か見えたが、多くはない。陸の建物はこの港の周辺に集まっているようだった。舗装された道路や白いガードレールもある。しかし、見上げれば、バックは黒っぽい岩と植物の緑の二色。高い位置にある人工物といえば、小さく見える白いアンテナ塔くらいしかない。
白刀島は人口二百人足らずの小さな島で、静岡県に属する。天候が良ければ、伊豆半島の幾つかの港から約一時間で渡ることができた。しかし、定期船は一日に一便しかない。気候は温暖で、台風や地震を除けば、一年中|穏《おだ》やかである。ただし、溶岩質の地盤や斜面地が多いため農作には適さない。
山吹早月はこの島の出身で、彼の実家は島で唯一の旅館だった。将来の展望は、どう見積もっても寂しいものである。彼はこの旅館の跡を取るつもりはなかった。そのことは、既に両親も了解済みだ。現在は、彼の五歳上の姉が旅館の手伝いをしている。
春休みで、友人三人がこの島へやってくることになった。加部谷恵美と海月及介と、そしてもう一人は研究室の先輩、西之園萌絵《にしのそのもえ》である。彼女が来ることが、山吹にとっては、正直なところ一番嬉しい。
「西之園さん、本当に来るかなあ」山吹は桟橋に立って呟《つぶや》いた。
「心配だったら、電話してみたらどうですか?」加部谷が言う。彼女はデイパックを片方の肩に掛けていた。
「いや、だって、番号知らないから」
「へえ? そうなんですか」
「西之園さんのケータイにかけられるなんていったら、もうそれだけで相当なセレブだよ」
夕方に現地集合、と西之園萌絵は言っていた。現地というのは、この島のことだ。現在はまだ午後二時。定期便は一本だが、他の島へ行く船に乗って、ここへ寄ってもらうことができるので、まだ夕方までに何便かチャンスはある。
船から最後に降りてきた海月が、無言で近づいてきた。
「懐かしいだろう? 及介」山吹はきいた。
「変わってない」海月は島の方を見渡してから、無表情で言った。
「そうなんだよねぇ、全然変わらない。いる人間がずうっと同じだもんな」
「観光客とかは?」加部谷がきいてくる。
「まあそうね……、一週間に一組くらい。夏はわりと多いけれど、冬なんて誰も来ないよ。温泉とかないし」
「温泉ないんですかぁ?」
「お風呂があるよ。ガスで沸《わ》かせば同じじゃん。ほら、温泉の素みたいなの混ぜて濁《にご》らせたら、香りも同じだし」
「え? 山吹旅館、そんなことしてるんですか?」
「いや、うちでしてるわけじゃないよ。僕が自分のアパートでしてるってこと」
「うわぉ、そっちの方が重い」
「重い? 何、重いって」
「重いですよお、若い男性が入浴剤っていうのは、ちょっと」
「そうかな」
「ヘビィですよぉ」
「みかんの皮とか、浮かべたりしない?」
加部谷は眉を寄せて困った表情になった。
すれ違う人たちが皆、山吹に笑顔を見せる。声をかけてくる者も多い。
「凄い、みんな知り合いなんですね」加部谷が笑いながら言った。
「まあね」
都会育ちの彼女には、この感覚はわからないかもしれない。二人が並んで歩き、五メートルほど後をぶらぶらと海月がついてくる。これでは、山吹屋の倅《せがれ》がガールフレンドを連れて帰ってきた、という噂が一夜にして島中に流れることは必至である。しかし、それくらい別にかまわない。この種の経験は数限りなく積んできた山吹だったので、この程度では動じない。
小さな橋を渡って、川沿いに上っていくと、木造二階建ての一際《ひときわ》大きな建物の前に出た。
「うわぁ、ここですか?」加部谷が声を上げる。「凄い凄い。予想外の立派さだあ」
「変わってない」後ろで海月が呟いた。
玄関を入り、広い土間に立つ。奥の廊下で座布団を何枚も抱え込んでいる寛奈《かんな》が顔をこちらへ向け、ぱっと明るい表情になる。
「早月ちゃん、おかえり」座布団を置いて、彼女が玄関へ出てきた。そこに正座して頭を下げる。「いらっしゃいませ。姉の寛奈でございます」
「こんにちは、お世話になります。加部谷と申します」
「よろしくお願いします。あぁ、そっちは、及ちゃんじゃないのぉ!」寛奈が声を上げる。「うわぁ、オットコマエにならしてぇ。いやぁ、びっくりやん」
「どうも、お久しぶりです」海月が低い声でぼそぼそと言い、頭を五センチほど下げた。お前は高倉健《たかくらけん》か、と山吹は思う。
「さあさあ、どうぞぉ、お上がりになって下さいね。はい、はい。お昼は?」
「食べてきたよ」山吹は答える。
「じゃあ、お饅頭と、お茶でも……」
「いいよ、お客じゃないんだから」
「何を言うの。お客様ですよ」
姉から部屋を聞いて、山吹は二人を二階へ案内した。海が見える一番上等な部屋である。つまり、他に客がいないということを示唆《しさ》していた。
「うっわぁ、凄い」加部谷は部屋の広さに驚いている。「良いのかなぁ、こんなのって」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮はできないかもしれないですけれど、掃除とか、皿洗いとか、なんかお手伝いしましょうか?」
「全然忙しくないんだから、仕事なんてないよ」
「お姉様、寛奈さんって言うんですね? 山吹さんにそっくりですよね」
「言わないでほしいな、そういうの」
「つまり、十月生まれなんですね?」
「あ、そうそう。大工道具の鉋《かんな》じゃないよ」
山吹は五月生まれだ。安易な山吹家の命名方法である。
二人は窓際に立ち、海を眺めた。振り返ると、テーブルの端に海月が既に座っていた。
「さあ、じゃあ、お饅頭をいただいたら、さっそく探検ですね」
「探検?」
「そうですよう、探検ですよ。なんか、スポットはありませんか?」
「スポットって?」
「ここは、曰《いわ》くつきの場所だとか、この場所には霊が宿っているとか。だって、西之園さんが来るまでに、一つくらいは押さえておかないと」
「押さえておくって、意味がわからないけど」
「やっぱり、その、先駆けておくというか、軽く抜け駆けしておくというか、チャレンジのフロンティアっていうか」
「そういうのって……」山吹もテーブルに戻って腰を下ろす。欠伸《あくび》をしている海月にきいてみる。「この島にあったっけ?」
「診療所」海月が短く答える。
「ああ、そうだね、そういえば……」山吹は思い出した。
2
ヘリコプタの機内に、佐々木睦子《ささきむつこ》と西之園萌絵が並んで座っている。叔母と姪というのが二人の関係だ。佐々木はピンクのコート。西之園は黒のジャンパ。非常に対照的だった。もう二十分ほど飛んでいるので、まもなく到着である。
「心配だわ」佐々木が言った。
「何がです?」西之園が尋ねる。
「諏訪野《すわの》ですよ」
「え? 大丈夫ですよ、もう良くなったって」
諏訪野が先週から風邪をひいて休んでいた。
「いや、そうじゃなくて、彼がいないというこの状況が」
「ああ」西之園は頷《うなず》いた。「大丈夫、任せておいて。食事は私が作りますから」
「変な考えは起こさないでね」佐々木が睨《にら》みつける。「私が作ります。貴女はなにもしちゃ駄目」
「どうしてですか?」
「食べられるものも食べられなくなりますからね」
「叔母様、それ、喧嘩《けんか》売ってるんですか?」
「かっとしないでね。冷静に」佐々木は片手を上げる。「よおく考えてごらんなさい。貴女と私、どっちが料理が得意?」
「叔母様です」
「でしょう?」
「でも、もの凄い低レベルの比較だと思いますけど」
「まあ、そうね。当たらずといえども遠からず」佐々木は頷いた。「なんとかしなくちゃね」
「そんなたいそうな。大丈夫ですよ、二三日のことなんですから。缶詰を食べていたって凌《しの》げます」
「嵐とかになって、何日も帰れなくなるかもよ。貴女、堪《た》えられますか? ご馳走抜きで」
「このシーズンに台風なんか来ません」
「地震とか」
「ああ、それは、なかなか興味があるところです」西之園は頷いた。「叔母様の別荘。築何年でしたっけ?」
「えっと、私が買ったときに、既に十五年でしたから、もう二十年以上ね」
「危ないかも」
「そうなの?」
「そうだ、それよりも、旅館に泊まったら、どうかしら?」
「旅館なんかありませんよ。ほとんど無人島なのよ」
「いえいえ、私の後輩が、その旅館の息子なんですから」
「あらまあ。どこにそんなものがあったかしら」
もともと、白刀島のことは、山吹早月から聞いていたので、一度行ってみたいとは思っていた。それを諏訪野に話したところ、その同じ島に睦子叔母が別荘を持っている、という。では、その別荘を借りて、休暇を楽しもう、と考えたのだが、残念ながら生クリームのごとく考えが甘かった。第一に、最も一緒に来て欲しかった犀川創平《さいかわそうへい》は学会の急な委員会のため休めなくなった(もっとも、最初から彼は行く気がなかったので、本当のところはわからない)。第二に、別荘の所有者である叔母が、「久しぶりに私も行こう」なんて言いだしたのである。さらに追い打ちをかけるように、執事の諏訪野が病気で来られなくなってしまった。これでは、毎晩のディナも絶望である。こういう状況を、ご破算というのか、元の木阿弥《もくあみ》というのか、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》というのか。いずれにしても、最悪の経緯で目的を完全に見失った小旅行になってしまった。がしかし、ここまで来たら、来た分の元は取りたい。なんとか楽しみを見つけて貪欲《どんよく》に摂取したい、と西之園は考えていた。
ヘリコプタが旋回を始めた。傾いた機体の低い側の窓から、島が間近に見えた。
「夜の食事だけを旅館で、という手はあるわね」佐々木が言った。
「絶対それが無難だと思うわ」西之園は同意する。
「そうよね。あ、なんか、急に嬉しくなってきたわ。美味《おい》しいものが食べられそうな予感」
「私も」西之園も頷く。「降りたら、さっそく電話してみますね」
「そうしましょう」
午後四時にヘリコプタは着陸した。島でも最も高い位置にヘリポートがあり、佐々木睦子の別荘のすぐ近く、元のオーナが作らせた施設だった。
別荘の管理は島の人間に任せてあり、事前に電話をして、整備や掃除を依頼してあった。佐々木と西之園が鞄《かばん》を持って建物の方へ歩いていくと、道の端にバイクを駐め、男が一人待っていた。後方でヘリが飛び立ち、あっという間に上昇していく。
「どうも、お疲れさまです。佐々木様」男がにこやかな顔で帽子を取って頭を下げた。「おんや、今日はまた……、お嬢様とご一緒ですか?」
「姪です」
「よく似ていらっしゃって、なあ」
「え? 似てます?」西之園はきいた。
「はい、鍵です」男は佐々木に差し出した。「エアコンも大丈夫です。車も大丈夫です。プロパンも点検しておきましたです。ごゆっくりなさって下さい」
「いつもどうもありがとう」佐々木が余所《よそ》行きの声で言った。
二人は玄関の鍵を開けて建物の中に入った。二階建てのログハウスである。西之園はバッグからケータイを取り出した。
「ちょっと、さきに電話を……」
「どうぞどうぞどうぞ」煙草に火をつけながら、佐々木が目を回して言った。「どうせ私なんか、どこにもかけるところがありませんよ」
大学の犀川の部屋をコールしたが、誰も出ない。十五回のベルで西之園は諦めた。いつも低確率のチャレンジなのだ。
「あ、そうそう」リビングへ戻り、ソファの上でバッグのファスナを開ける。「ちゃんと調べてきたんですよ、せっかくだから」
「何を?」煙を吐いて佐々木が首を傾げた。
「この島で、なにか面白いことがないかって。過去の未解決の事件とか、それとも、代々伝わる不思議な出来事の話とか」
「聞いたことないわよ、そんなの」
「叔母様、この島の人と、どれくらい交流があるんですか?」
「全然」佐々木は首をふった。「あの管理人の鈴川《すずかわ》さんだけね」
「それじゃあ、聞こえてきませんよ。もっと、こちらから踏み込まないと」
「そんな、踏み込みたくありませんからね。もっと、のんびりしていたいの、私は。あぁあ、まずお風呂に入ろうっと」
「煙草を吸ったままで?」
「そうそう、乗馬ができますよ。する?」
「うーん、今日はいいわ。あ、それよりも、旅館に電話しないと」
「ああ、そうね。お願……」そこで佐々木はくしゃみを二回繰り返した。
「大丈夫?」
「やだ、もしかして、諏訪野からうつされたかしら」佐々木は灰皿で煙草を揉み消した。
「叔母様も、お風邪を召されるんですね」
「なんてこと言うの? 貴女、それはちょっと酷いんじゃありませんか?」
「でも、諏訪野が風邪をひいたとき、あんな年寄りでもまだ風邪をひくのねっておっしゃったの、叔母様ですよ」
「まあ、私が年寄りだって言いたいの?」
「私よりは年寄りでしょう?」
「ああもう、酷い姪だわ」佐々木はティッシュを鼻に当てて言った。「ああ言えばこう言う」
「とにかく、温かいお茶を淹《い》れましょう」西之園は立ち上がった。「ゆっくりなさってて下さい」
「あれ、なにか話が途中じゃなかった?」佐々木は首を傾げる。
3
紅茶を飲んだあと、佐々木は少し休むといって二階へ上がっていった。西之園は何度か大学へ電話をかけ、ようやく犀川を掴《つか》まえることができた。
「あ、先生、無事につきましたよ」
「僕は、今から出かけるところ」
「お気をつけて」
「諏訪野さん、大丈夫?」
「いえ、諏訪野はやめたんです、来るの」
「あそう。じゃあ、けっこう大変なんじゃない? どうするの? 料理とか」
「あのぉ……」西之園は短い息を吐く。「大丈夫ですよ。私がいますから」
「ふうん」
「何ですか? ふうんって」
「漢字変換するまえ」
一・四五秒ほど考えた。
「じゃあ、切るよ」
「寂しいわ、先生がいなくて」
電話が切れた。
「もう」西之園は呟く。いつも犀川との電話のあとは、「もう」が出てしまう。ビールを飲んだあとに「あぁ」と言うのと同じくらい高確率である。
次に、旅館に電話をかけようと思ったが、まだ時間があるので、ドライブがてら出かけようと考え直す。そろそろ山吹や加部谷たちも到着しているだろう。
叔母に行き先を告げ、彼女は車のキーを手に外へ出た。裏庭に駐車されていたのは、軽の4WDである。西之園はそれに乗り込みエンジンをかけた。彼女が今まで経験したことのないライトなエンジン音だった。まるで芝刈り機みたいだが、芝刈り機よりは多少|籠《こ》もっている。
敷地内の砂利道を通り、山を下りる道に出たが、しばらくは舗装されていない。左右に車が揺れて面白かった。数百メートル下ると、農家らしき古い家が一軒、もう少し下ると、小さな集落があった。谷川も流れている。鉄橋を渡ったところから、道が舗装されていた。少しだけスピードを上げて、快調に下っていく。やがて海が見え、下に町が見えてきた。谷の反対側にはグラウンドもある。センタラインやガードレールが付随し、道路らしくなってきた頃には、既に周囲に民家が建ち並んでいた。
港が見えたので、あそこまで下りていって、誰かに尋ねて旅館の場所を教えてもらおう、と考える。島には一軒しかないのだから、間違うことはないだろう。
坂の途中でヘアピン・カーブを曲がると、道を上ってくる三人の若者の姿が目の前にあった。西之園は急ブレーキを踏む。先頭を歩いていたのは加部谷恵美である。
「西之園さんだ!」彼女が高い声を上げて、車の横に駆け寄ってくる。
「どうやって私はここへ来たのでしょう?」西之園はウィンドウを下げて言った。「一、昨日の船で既に到着していた。二、自家用ヨット。三、私は西之園萌絵ではない」
「ヘリコプタが見えましたよ」加部谷は白い歯を見せる。
「なんだ」西之園は溜息をついた。
「じゃあ、やっぱりそうだったんですね。凄い凄い。自家用ヘリですか?」
「違う違う」西之園は首をふった。西之園家には確かに自家用ヘリがあるが、今回は三島《みしま》でチャータしたものである。「あ、山吹君さ」
「はいはい」山吹が近づいてくる。
「実は、お願いがあるの。夕食をね、貴方のところでいただこうと思うの。できる? その、今日は営業しているのかってこと」
「大丈夫だと思いますよ」山吹は頷いた。「そんな大ご馳走は出せませんけれど。でも、どうしてですか?」
「うん、ちょっと、諏訪野が故障中で」
「スワノ?」
「彼は?」西之園はもう一人離れている男を見た。
「あ、彼が噂の海月君です」山吹は微笑んだ。「及介、こちらが西之園さん」
ガードレールの近くに立っていた海月及介が無表情のまま頭を軽く下げた。
「おお、ホントだぁ」西之園は思わず呟いた。「渋いなあ」
「西之園さん、どこへ行くんですか?」加部谷がきいた。
「えっと、山吹旅館。でも、今のでもう用は足りちゃった。君たちは?」
「探検です」加部谷が答える。「いろいろと、仕入れたお話もあります。ご一緒にいかがですか?」
「いいわね」西之園は微笑んだ。「車で行ける?」
「道くらいありますよ、いくら田舎でも」山吹が言う。
「じゃあ、みんな乗って」
助手席に山吹が乗り、後部座席に加部谷と海月が座った。西之園は車を切り返し、山吹のナビゲーションで坂道を戻る。集落の近くを通り抜け、さらに坂道を上っていく。段々畑を横に見ながら、今度は森林の中へ。そこを過ぎると、少し土地が開け、展望が良くなる。右は山、左は海。民家も何軒かあったが、いずれも見るからに古い。道は狭く、曲がりくねっていた。
「あ、あそこです」山吹が指をさす。
木造の小さな建物が地面に埋まるように建っていた。板壁の白いペンキが剥《は》げかけている。窓枠も白い。
「百葉箱みたい」加部谷が言った。
室内は暗くてまったく見えなかった。周囲は低い垣根。玄関の手前に庭があるが、黒い無骨なタイプの自転車が一台置かれていた。看板などは見当たらなかった。
「これが診療所?」西之園は車を停めて尋ねる。「表札とかないね」
「表札ってのは、ここじゃあ、ほとんど必要ありませんからね」山吹が言う。
「ホント、いかにも出そうな感じですね」加部谷が呟いた。
「え?」西之園は振り返った。「出るって?」
「幽霊」加部谷が答える。「女の幽霊が出るんですよ」
「ちょっと違うんじゃない?」西之園は言う。「私が調べたのは、妖怪なのか、ご先祖様なのか、子供が祟《たた》りにあって、病気になったっていう話だけれど」
「そうじゃなくて、ここへ毎月訪ねてくる謎の男のことじゃないですか?」山吹が言った。「僕は姉貴から聞いたんですけど」
「着物の美女が出るって……」加部谷が身を乗り出す。「おかしいな、話がばらばらですね」
「まあ、あとで整理しましょう」西之園は頷いた。「とにかく、ちょっと見てこよう」彼女は車のドアを開けた。
4
加部谷は車から降りて、診療所の建物に近づいた。静まり返っていて、中に誰かいるようには見えない。
「今日はお休み?」
「お休みとか、ないんだよ」山吹が答える。「先生がいないときはね、自転車がない。それが目印」
「あの自転車が営業中のサインなんだ」西之園も頷いた。
四人は垣根越しに診療所を眺めながら歩く。周囲は空き地。裏は傾斜した土地で、森が迫っていた。手前に小さな菜園と、ビニルハウスが見える。崩れそうな小屋もある。隣の土地に足を踏み入れ、診療所の側面を観察したが、特になにもない。静かだ。
「明るいときに見ても、迫力ないかも」加部谷は呟く。
深夜、建物に入って、暗闇の中、蜘蛛の巣を払いながら進んだら、わりと面白いかもしれない。しかし、人が住んでいるのだから、勝手なことはできない。残念である。
大きな樹が彼らの近くに立っていたので、見上げると枝を無数に伸ばしていた。高さは優に十五メートルはあるだろう。
「その樹だよ」後ろで山吹が言った。
「え?」加部谷は振り返る。
「そこで、昔、看護婦さんが首を吊ったんだ」
「あ、それ……」西之園が言った。「知ってる」
「へえ、この樹でねぇ」もう一度加部谷は見上げる。しかし、特に恐くはない。予想外に刺激がないのが、多少つまらない。拍子抜けである。「うーん、なんかもっと、おどろおどろしい場所を期待してきたんだけどなあ。お札《ふだ》とかも張ってないですね」
「それは、期待が悪いね」山吹が素《そ》っ気《け》なく言った。
裏手に近いところまで来たが、そこは診療所の敷地内なので、勝手に入ることはできない。遠回りするには森の中へ入らねばならないし、かなりの絶壁を上がる必要があった。
そのとき、扉を開け閉めする音が聞こえた。建物の陰になって見えないが、誰かが出てきたようだった。やがて、自転車に乗った白衣の男の後ろ姿が現れ、道の方へ出ていった。自転車が大きいせいかもしれないが、小柄な男に見えた。ハンドルの前に黒い鞄を掛けている。どんどん、坂道を下っていき、すぐに見えなくなってしまった。
「なんだ、普通の人ですね」加部谷が言う。「もっと、少林寺の禅僧みたいな人を想像していたのに。ここに一人で住んでいるのですか?」
「そうだよ」山吹が答える。
建物の大きさからして、二人以上住むには狭いだろう。診察室のスペースが半分だとして、台所や風呂を除いたら、きっと寝る部屋が一つだけ、という建築面積である。
「今のうちに、中を見る?」加部谷は言う。
「駄目だよ、そんなこと。勝手に入ったら」山吹が笑った。
「でも、知らずに訪ねてきたっていうのなら、扉くらい開けてもいいんじゃないですか? 鍵を掛けていかなかったみたいだし」そう言いながら、既に加部谷と西之園は歩きだしていた。
道へ一旦戻り、正面の門から庭に入る。自転車があった場所だ。玄関は磨《す》りガラスの引き戸で、近づくと、確かに【刀之津《かたのつ》診療所】という小さな白い文字があった。
「あ」横を歩いていた西之園が指をさした。
戸の上のところに落書きなのか、白い文字が書かれている。チョークのようだ。横書きで、六文字。〈刀のつPQR〉と読める。
「PQR?」加部谷は首を捻《ひね》る。「何の略ですか?」
「さあ」西之園も首を捻る。「パーフェクト・クエイクプルーフ・ルーム? えっと、プロヴィンス・オブ・ケベック・ロイアルティ? うーん、プライベート・クワドラレテラル・ロードハウス」
「あの、はい、もう考えなくていいですから」加部谷は両手を広げた。
「どうして、〈刀〉だけが漢字で、〈の〉と〈つ〉がひらがななんだろう?」西之園が首を傾げる。
「ごめんくださーい」加部谷は声を出し、同時に戸を開けた。
仄《ほの》かに消毒臭のする暖かい空気が彼女たちを出迎える。革靴が一つあった。男ものである。あとはサンダルが一つ。一段上がったところにビニルのソファとストーブが置かれていて、奥には、磨りガラスの衝立《ついたて》、ガラスの棚などが見える。衝立の向こう側が診察室のようだった。誰もいない。左は、襖《ふすま》が開いたままで、畳の部屋が覗き見えたが、中は暗かった。人気《ひとけ》はない。
「こんにちは。誰かいませんかぁ?」
やはり留守のようだ。加部谷の隣に西之園が立った。彼女も診療所の中へ真剣な眼差しを向けている。目が輝いているというのだろうか。
「誰かいたら、風邪薬をもらおうと思ったけれど」西之園が呟く。
「え、具合悪いんですか?」
「私じゃなくて、叔母様が、ちょっと」
男性二人は庭先で待っていた。こういう度胸は女性特有のものかもしれない。加部谷たちは玄関の扉を閉めて、彼らのところへ戻った。
「何? 幽霊が中で寝てた?」山吹が可笑《おか》しそうにきいた。
「つまらないですね」彼を無視して、加部谷は西之園に言う。
「ここが、島で一番怪しいスポットだとしたら、もう天然に明るい島ってことになるな」西之園は真面目な顔で言った。「ああ、お腹が空いた」
「あ、私たち、もの凄く美味しいお饅頭を食べてきたんですよ」加部谷は言う。
「へえ」西之園はゆっくりと山吹に視線を移動する。
「はいはい、西之園さんにも、もちろん出しますよ。自家製なんです」
「いえ、お饅頭にはあまり興味はないの」西之園は素っ気なく言う。「でも、そうね、山吹旅館は見てみたい。古い建物なんでしょう?」
5
四人は山吹旅館へ戻った。海が見える広い座敷でテーブルを囲んでお茶を飲む。また同じ饅頭が出た。加部谷はどうしようか迷ったが、もうすぐ夕食だし、我慢することにする。風呂上がりくらいに食べる手もある、と密《ひそ》かに予定を立てた。時刻は五時半。窓の外はまだまだ明るい。
「ちょっと、整理してみましょう」という加部谷の呼びかけで、刀之津診療所にまつわる噂話を、みんなが順序立てて話す。
「私が調べたのはね……」西之園萌絵が、脱いだ上着のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、それを広げて見せた。どこかのサイトの画面をハードコピィしたもののようだった。「たぶん、この島の誰かが書いたものだと思うけれど……」
「この島でインターネットをやっているのは、うちの姉貴と、姉貴の友達の栗城《くりき》さんくらいじゃないかな」
「わからないじゃないですか」加部谷は言った。「こっそり誰かやっているかも」
「うーん、そういうのは、この島では難しいよ」山吹が笑いながら答える。「パソコンを買っただけで、噂が広がって、みんなが見にきたりするからね」
西之園の説明によれば、診療所の中を覗き見していた子供が病気になった、という内容のもので、つい最近の出来事らしい。固有名詞は出ていない。山吹もそんな話は聞いていないという。もっとも、今は島の住民ではないので、あとで、彼の姉に尋ねてみることになった。
「つまり、子供が、診療所の中にいるなにかを見てしまった」西之園は話す。話しながら、男子二人を睨みつけるように見る視線が鋭い。「そのため、診療所に住み着いている怨霊《おんりょう》の祟りで、病気になってしまった。学校を長期欠席するはめになったらしいの。なんでも、医者に診《み》てもらっても悪くなるばかり。病気の原因もよくわからないって」
「病気になったら、余計診療所に通わなくちゃいけないわけだから、それはつまり、怨霊が子供を呼び寄せたってことになるのかな」山吹が湯飲みを持ったまま言った。
「学校を休むくらいだと、あそこまで行けないんじゃないですか?」加部谷は言った。「往診に来てもらうとか」
「そうかそうか」山吹が頷く。「それで、ますます怨霊が怒りだしたと」
「ストレスが溜《た》まるから?」西之園がきいた。
「怨霊がストレス溜めるっていうのも変ですね」山吹が首を捻った。
「ストレス自体が怨霊なんじゃないですか?」加部谷が言う。
「まあまあ、ちょっと待って」西之園が片手を広げてみせる。「私が、ネットで読んだ内容はここまで。ところで、診療所にはそもそも、その手の言い伝えがあるわけ? さっき、首を吊ったとかなんとか……」
「はいはい」待ってましたとばかりに、山吹が、尾を振る犬のように姿勢を正した。「僕の生まれるよりずっとまえで、戦後すぐの頃だったそうですけれど。やっぱり、その頃から、ここの診療所には、静岡から医師が赴任してきていたらしくて、そのとき、島には戦争で旦那さんを亡くした未亡人の若い看護婦がいて、つまり診療所に来た新しい先生について仕事をしていたんです。で、一所懸命働いていたんですが、そのうち、まあ変な噂も立つ。それは本当かどうかわからない。ところが、そうこうするうちに、その看護婦さんの夫が、実はまだ生きていて、ロシアの病院にいるということがわかったんです。手紙が来たんですね。でも、家族の誰かからなのか、それとも友達の誰かからなのか、とにかく、看護婦さんと診療所の医師の不倫のことを、ロシアの夫は既に知っていて、そのことを手紙に書いてきたそうなんです。自分は怪我をしているが、この怪我が治っても、日本へは帰らない方が君のためかもしれないって」
「うじうじした性格」加部谷は思っていたことが思わず口に出る。
「その手紙を読んで、落胆した看護婦さんが、あの診療所の樹で首を吊ったってわけ」
「どうして、自分の家でやらなかったの? やっぱりお医者さんとできていたから、その当てつけだったってこと?」加部谷は尋ねる。
「あらら、恵美ちゃんも大人になったわねぇ」西之園が笑う。
「違うと思う」山吹は首をふった。「単に、家には、首を吊るような適当な場所がなかったというか、それに家族も大勢いるわけだしね。つまりは、みんなから白い目で見られて、自分の潔白を主張して死んだってことかな」
「明らかに逆効果だと思う」加部谷は言う。
「それが、怨霊なの?」西之園がきいた。
「いえ、それよりもまたずっと昔なんですけれど、あの診療所の裏庭の辺《あた》りは、病気で亡くなった人専用の墓地だったそうなんですよ」山吹は話す。「よく知りませんけれど、変な病気で亡くなると、普通とは違う場所に埋めたんですね。やっぱり衛生的な問題だったのか、それとも、診療所が、死体を調べるから、そのためだったのか」
「あ、でも、それは怨霊、出そうですね」加部谷は言った。「ねえ、海月君、聞いてる?」
「聞いてる」壁にもたれかかって目を瞑《つむ》っていた海月及介が目を開けて頷いた。
「なんかの修行中?」加部谷はきく。歳は上だが、海月は彼女と同じ学年である。「それとも、風邪ひいてるとか? 大丈夫?」
「いたって」海月は口もとを僅《わず》かに緩《ゆる》めた。
「それでは、次は加部谷が話します」彼女は片手を挙げる。「私も、インターネットで検索したんですよ。それで、掲示板への書き込みで見つけたんです。刀之津診療所に女の幽霊が出る、という話で、その目撃者の友人という人の書き込みでした」
「そういうのって、だいたい作り話だよね」山吹が言った。
「でも、固有名詞が出てくるわけだし、こんな孤島の誰も知らない場所っていうのも変わってますよね。でっち上げるならば、普通もっとメジャなところを狙うんじゃありませんか?」
「うーん、まあ、そうかな」山吹は肩を竦《すく》める。「少なくとも、噂くらいで聞いた元ネタがあったんだろうね」
「書き込みによれば、夜な夜な診療所に、着物姿の美女が現れるというのです。それが村でも噂になって、何人も目撃者がいるって。美女は建物の中にいることが多いそうですが、外にも出てくるとか」
「そんな噂、聞かないなあ。最近のことかもしれないから、あとで姉貴にきいてみよう」
「さっきの怨霊とは、ちょっと違うみたいね」西之園が言った。「白衣を着ているならわかるけれど、着物? あんな苦しいものを幽霊になってまで着たいと思うかしら? 自分一人では着られないでしょう?」
「それは、ちょっと非論理的では?」山吹が指摘する。
「幽霊って、そもそも非論理的じゃないですか」加部谷は言った。
「うーん、とにかく、面白くはなってきたね。僕もまだ話してないことがあるし、それに……」山吹が微笑んだ。「うちの姉さんは島一番の情報通だから、きっとなにか知っていると思うよ。これさ、このまま夕食の話題にぴったりじゃない?」
「そうか」西之園が時計を見ながら言う。「もう、こんな時間。えっと、この話題、中断してくれる? 私、叔母様を迎えに戻るから。もしかして、来られないかもしれないけれど」彼女は立ち上がり、廊下の方へ歩いたが、途中で立ち止まって、振り返った。「私がいないところで、このテーマに関する話をしないこと。よろしくて?」
「お蝶夫人みたい」加部谷は笑った。
「誰? オチョゥフ人?」西之園は首を傾げる。「どこかの宇宙人?」
6
日が暮れようとしている。ブルーからピンクへグラデーションがかかった空が大きい。西之園萌絵は別荘に戻って、二階の寝室のドアをノックした。叔母の返事が聞こえたので、ドアを開けると、彼女はまだベッドの上だった。
「ただ今戻りました。叔母様、いかがですか?」
「うーん、どうかしら」佐々木は少し頭を上げる。「ああ、よく寝た。夕食はどうするんでしたっけ?」
「旅館でいただくことにしましたけれど、でも、叔母様、大丈夫ですか? なんでしたら、私、早く帰ってきてお粥《かゆ》でも作りましょうか」
「うわぁ!」佐々木は目を大きく開ける。「今ので一気に目が覚めたわ」
佐々木はベッドから足を下ろして立ち上がった。
「ちょっとふわふわするけれど、大丈夫みたい」
「単に、疲れが出たのでは?」
「そうかしら」
「それじゃあ、ご馳走をいただきにいきますか?」
「あぁあ」佐々木は欠伸をする。「でも、良いの? 貴女のお友達ばかりなんでしょう? 私が行くと、場が白けない?」
「それはないと思います」
「何故?」
「いえ、別に」
「やっぱり留守番していようかしら」
「実は、島の診療所に幽霊が出るっていう話で盛り上がっているんですよ。子供が見ただけで病気になったり、着物を着ていたりするんです」
「何の話ですか?」
「診療所も実際に見てきましたよ。まだまだ不思議なことがあるって言ってましたから、続きは夕食のときにって」
「それが、貴女がさっき言いだそうとした話ね?」
「ええまあ……、でも、のちほど結果をご報告いたしますから、ごゆっくりなさっていた方が良いかも」
「行きます」佐々木は躰を弾ませた。「ご馳走も食べたいし」
「そうですか……、それじゃあ、ご一緒しましょう」西之園も微笑む。「私も、きっとその方が健康的だと思いますよ」
「健康的か、そうね」
「美容にも良いし」
「そうそう。ときどき、貴女と気が合うことがあるわね」
「珍しいですよね」
7
山吹旅館の客間で五人はご馳走にありついた。基本的には鍋ものだったが、さすがに新鮮な海産物が多く、話が弾むどころか、黙々と食事をする、という予想外の展開になった。しかし、しばらくすると、満腹感とともにアルコールも回ってくる。しだいに賑《にぎ》やかになってきた。
「ちょっとちょっと」佐々木がにこにこしながら話す。「そこの君、えっとぉ、海月君だっけ? そうそう、海月君よ、貴方さっきからさぁ、一言もしゃべってないわよ。食べてばっかり。なにか面白いこと言いなさい」
「いえ、特に、なにも」通常の苦笑いの六分の一模型のような薄い表情で海月は答える。「皆さんの話は聞いています」
「むっつりなんとかって、言われるでしょう?」
「いいえ」
「まあ、本当に手応えのない。まさにクラゲね」
「良いのよ、男はしゃべらない方が」西之園は溜息をつく。「ああ、美味しい。久しぶりに飲んでる感じ、私」
「カナダの首都みたいな顔してるわよ」佐々木が言う。
「え?」西之園が眉を顰《ひそ》め、首を傾げる。
「トロントしてる」佐々木はそう言うと、吹き出して大笑いした。
「オタワじゃなかった? カナダの首都」西之園は顔を寄せて、加部谷に囁《ささや》いた。「ああ、恥ずかしい」
「ねえ、西之園さん、そろそろ、刀之津診療所の話をしませんか?」加部谷は言った。
彼女も少し眠くなっていたので、深呼吸をする。
「あ、じゃあ、姉さん呼んでくる」山吹が立ち上がった。「ついでに、ビールもらってこようか?」
「もう私は飲めない」加部谷は言う。
「及介が飲むよな」山吹は、海月を見て言った。
「私も、まだ飲めるけれど」西之園が澄ました顔で言う。「でも、車の運転があるわね。うーん、複雑。もし酔い潰れたら、ここに泊まるからね」
山吹が廊下へ出ていった。階段を下りていく音が聞こえる。
「ああ、私もなんだか、ぼうっとしてきたわ。飲み過ぎたかしら?」佐々木が言った。
ほんのりと頬を染めている。
「そう、叔母様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。美味しいものをいただいて、元気が出ましたし、こうして若い方たちといると、若返るわね。普段のおつき合いが、もう棺桶に片足突っ込んだ方々ばかりですからね」
「静かですねぇ」窓の方を見て、加部谷は言った。「本当は、このぐらいの時間に、診療所を訪ねてみたかった」
「そういうのが好きなの? 恵美ちゃん」西之園がきく。
「ええ」彼女は頷く。「やっぱり、西之園さんと死体を発見したときの、あのスリルが忘れられないのかも」
「トラウマっていうのよ、それ」佐々木が言った。
横で西之園が首を左右に短周期で振っている。
山吹が戻ってきた。そのあとに続いて、エプロン姿の山吹寛奈が現れた。お盆にビールをのせている。
「どうも、失礼をいたします」テーブルの前に座ってお辞儀をする。「佐々木様、西之園様、弟がお世話になっております。姉の寛奈でございます。このたびは、遠いところをようこそお越し下さいました。当方をご利用いただいて、本当にありがとうございます」
「あらあら、貴女、私、会ったことがあるわ」佐々木が声を上げる。「いつだったか、港で、お魚を譲っていただいて。私のことご存じだったの?」
「あ、はい、もちろん」寛奈は頷いた。「島では、佐々木様のことを知らない者はおりません」
「どうも、はじめまして」西之園も頭を下げる。「急に押し掛けて申し訳ありませんでした」
「いえいえ、そんな、とんでもない」
「ね、そういった話は、もうそれくらいにして」山吹早月がビールの栓を抜きながら言った。「姉さん、診療所の話をしてあげてよ」
「えっと、何から話せば良い?」寛奈はエプロンを外している。
「電話で僕に教えてくれた、あれ」
「えっと、どっち? 嘉納《かのう》さんの話? それとも、訪ねてくる男のこと?」
「両方」山吹は答える。
「はいはい」寛奈はテーブルに寄り、座り直した。顎を引き、一度目を瞑る。「その、祟りで病気になったというのは、元村長のお孫さんで、小学校三年生の男の子です。お母さんが、私の同級生のお姉さんになります。また別のところから聞いた話なんですが……」彼女は、五人の顔を順番に見た。「漁師をしている嘉納さんというお爺さんが、その、診療所の垣根から、中を覗いている男の子を見たことがあって、そのとき、道の反対側の、つまり、男の子の背後になるんですが、森があります、そこに白い服装の女が立っていたっていうんです。で、嘉納さんが目を向けたら、すっと消えてしまって、たちまち見えなくなったってことなんですけど」
「その男の子っていうのが、病気になった子なんですか?」加部谷は尋ねる。
「そうなんです。興田勉《おきたつとむ》君っていうんですが」寛奈は答える。「嘉納さんは、診療所の怨霊が森に出ていったって、そう話してます」
「興田君は、診療所の中にいると思って覗いていたら、逆にその後ろから幽霊に見られていたというわけですね?」西之園が言った。
「そうなんです」寛奈は真面目な顔で頷いた。「あと、もっと凄い話があって、これはその嘉納さんから聞いた話なんですが……。あの人、診療所の前が、家へ帰る通り道なんですね。えっと、やっぱり、深夜に診療所の前を通りかかったら、垣根の中の庭先に、振り袖を着た女がいて、その、なんていうのか、躰が浮いているみたいに、ふわふわ動いていたんですって」
「うわぁ」加部谷は思わず声を上げた。「それ、今まででベスト。診療所に着物姿の美女の幽霊が出る、という話は、それだったのかも」
「まだまだ話の途中です」寛奈はじっと加部谷を見据える。少しだけ背筋が寒くなった。「そのとき、嘉納さん、だいぶ酔われていたんでしょうね、その女に目をとめて、不思議に思った。いったい誰だろう? こんな夜更けに何をしているのか。そう考えて、診療所の門から中へ入っていったんです。すると、幽霊の女も、嘉納さんの前まですっとやってきて、じっと彼を睨みつける。話によれば、赤い着物だったとか。なかなかの美人だそうですよ。で、嘉納さん、お前はどこのもんじゃ、と質《ただ》したわけです。酔っ払いですから、恐いもの知らずというか。すると、嘉納さんの前で女はさっと両手を振った。すると、突然、地面からなにかが飛び出してきた!」
「ひぃ!」加部谷は腰を上げる。「何? ゾンビ?」
「モグラじゃない?」テーブルの端にいた海月が一言。
全員が海月及介を見た。約五秒間の沈黙。
「なにかわからない」寛奈は話を再開した。「その飛び出してきたものが、嘉納さんの鼻先をかすめて、かぶっていた帽子に激突。帽子は吹っ飛び、嘉納さんも、後ろに倒れてしまった。もう、途端に酔いも覚め、一気に恐くなって、一目散に逃げ帰った、というわけなんです」
「その近辺には、誰か、その着物を着そうな若い女性はいないの?」佐々木がおっとりとした口調で尋ねた。
「そうなんですよ」寛奈が大きく頷いた。「近所どころか、こんな狭い島ですからね、嘉納さんが顔を知らない娘なんていません。それどころか、そんな時刻に振り袖を着ているなんて、おかしいじゃありませんか」
「しかし、酔っ払いの言うことだからね」山吹が言う。自分でグラスにビールを注いでから、腰を浮かせた。「あ、西之園さん、どうぞ」
「ありがとう。車で帰らなきゃいけないから、これで最後にするわ」西之園がグラスを持って差し出した。
「取り締まりなんて、ありませんよ」山吹が笑う。
「あの、その興田君のお母さんという方は、綺麗な人ですか?」加部谷がきいた。
「そう、ですね……」寛奈は少しだけ首を捻る。「私には、なんというのか、そういう評価は難しいですけど、まあ、その、ええ、すらっとした大人しそうな感じの……」
「男の子の病気っていうのは、本当なんですね?」西之園が尋ねる。
「ああ、それは確かです。けっこうそれが長いんですよ、半年くらい、うーん、もっとかな。その、ずっとじゃなくて、ときどき悪くなるっていうか、それで、ずいぶん学校を休んだようです」
「どんな病気なんですか?」加部谷はきいた。
「お腹が痛いって、聞きましたけれど。けっこう苦しいみたいで」
「ふうん。やっぱり祟りの話は本当なんですね」西之園が感心したように小さく何度も頷いた。
「姉さん、もう一つの話は?」山吹が言う。
「はいはい」寛奈は恐い顔のまま頷く。「嘉納さんの話はこれで終わりですが、もう一つ、最近起こっている不思議なことが」
「僕はそれが一番不思議だと思う」山吹が言った。「だって、今までのは、どれも嘘っぽいっていうか、だいたい、見ていた人が一人だったりするしね。だけど、白い刀の男の話は、島の大勢が目撃している事実だからね」
「え、どんな話ですか?」加部谷は尋ねた。
8
「一年ほどまえからなんですが……」寛奈は押し殺した声で話を始めた。「変な男が、島にやってくるようになったんです。私、最初のときから気づいていました。あら、何をしに来たんだろう? 観光客か、それとも誰かの知り合いかって」
「どんな感じの人なの?」山吹が尋ねる。
「うーん、背はまあまあ高い方かな。すらっとしている。黒いスーツで、サングラスをかけているから、顔はよくわからないんですけど、でも、髪型は若いわね」
「何が変なんですか?」加部谷が尋ねた。
「だいたい、一ヵ月に一度くらいの割合で来るんです。それで、一泊して、次の日には船で帰っていく。そう、たいてい土曜日に来ます。で、どこに泊まっているのか、というと、これが、跡をつけた人がいるんですよ」
「診療所ですか?」西之園がきいた。
「そうなんです。それが怪しい」
「でも、お医者様の息子さんかもしれないのでは?」西之園は微笑んだ。「あ、そもそも、おいくつくらいの方ですか? お医者様は」
「五十くらいかな」寛奈は答えた。「いや、もう少し若いかもしれません。見た感じは、若く見えますね」
「今日、自転車に乗っているところを、後ろ姿だけですけれど、拝見しました」
「なかなかハンサムですよ」寛奈は言う。「とにかくですね。その黒ずくめの男なんですが、変なものを持ってくるんです」
「変なもの?」加部谷は言葉を繰り返した。
「手提げの大きな鞄から、長ーいものが飛び出していて、白くて、薄っぺらくて、なんというのか、刀みたいな」
「いつも、それを持ってくるんですか?」加部谷が尋ねる。
「そう、そうなんです」寛奈は指を一本立てて頷いた。「それはもう例外なく、いつも必ず、その白い刀みたいなものを持ってくるんです。何なのかわかりません。港で会った人が、それ何ですかってきいたら、いえ別にって、教えてくれなかったそうです」
「カバーに入っていますか?」西之園がきいた。
「え?」
「その白い長いものは、なにかに覆われているのですか?」
「うーん、どうかな、私は二回見ましたけれど、つるつるしていて、いえ、カバーとかは被っていません」
「一本ですか?」
「あ、違います。えっと、長いのが二本です」
「何だろう? スポーツの道具っぽいですね」西之園が首を傾げる。「そのつるつるの白いもの自体がプラスティックのカバーで、その中に、たとえば、ホッケーのスティックが入っているとか」
「そうそう、まさにそんな感じですけど、でも、真っ直ぐですよ」寛奈は言う。
「ホッケーなんて、この島でするところないですよ」山吹が言う。
「アーチェリィかな」西之園が言った。「きっと、なにかの道具ですね」
「話はまだあるんです」寛奈がそこで深呼吸するように息を吸った。「よく噂にはなっていたし、やっぱり、島の者も気になり始めて、その男の跡をこっそりつけた人がいて、えっと、これは中学生の串田《くしだ》君って子なんですけど、ええ、診療所へ男が入っていくのを突き止めたのも、彼なんです」
「すると、その道具を使うところも見たんですね?」加部谷は期待の質問をする。
「そうなんです」山吹寛奈は頷き、上目遣いに加部谷を見据える。またテンションが上がってきた感じだ。「串田君の粘り強い追跡の甲斐あって。ついに、彼はそれを見たんです」
そう言うと、寛奈は少し黙った。他のみんなは待つしかない。
「夕方、診療所から男が出てきたのです。しかも、その白い刀を持って」
「刀なんですか?」加部谷はきいた。
「手提げ鞄を持って、男は山の方へどんどん上っていきます。もう日が暮れようとしているんですよ。しかも、風は冷たく、そんな散歩をするような気候ではありません。串田君、少し離れて、男について行ったんです」
「なんというか……」佐々木睦子が呟く。「この島の人って、好奇心旺盛なのね」
「男は山道を上っていって、ついに道から外れて、原っぱを横断し、岩場の方へ向かいました」寛奈は続ける。
「岩場って?」加部谷は山吹を見る。
「うん、海が見下ろせる絶壁があるんだ。そこが元々の白刀坊《はくとぼう》という場所で、昔、落ち武者っていうのか、戦《いくさ》に敗れた僧兵が、この島へ逃げ込んだんだけれど、追っ手が船でやってくるのを見て、その岩壁から飛び降りて自殺をしたんだ。飛び降りるまえに、地面に刀を突き刺した。それが、追っ手の船から白く光って見えた、という伝説が残っているんだよ」
「うわぁ、凄い。なんか、本格的じゃないですか」加部谷は言った。
「伝説っていうのは、だいたい本格的なんじゃないかな」山吹が冷静な口調で言う。
「まあ、本格的の定義にもよるけれどね」西之園が素っ気なく口を挟んだ。
「草原で、冬は草も低い。辺りに隠れる場所はそれほどありません」寛奈がじっと加部谷を見据えて話す。迫力があった。「しかたなく、百メートルほど離れたところの樹に隠れて見ていたら、男はなにやら、跪《ひざまず》いて準備をしている。おそらく、刀を抜いて、精神統一をしていたのでしょう。ようやく、その長い長い刀を両手で持ち上げ、左右水平にしたまま天を仰いだそうです」
「ちょっと待って下さい」西之園が片手を広げる。「刀は二本だったのでは?」
「いえ、それがいつの間にか、長い長い、三メートルも四メートルもあろうかという、一本の刀になっていたのです」
「水平にしたまま、両手で持ち上げるって……」西之園は両手を挙げて身振りで示す。「刀っていうのは、端を持っているわけだから、両手を使うということは、片方の手は刃の部分に当てることになりますね」
「そうなんです」寛奈は頷く。
「その子がそう言ったのですか?」西之園が追及する。「えっと、串田君」
「はい、私が直に問い質しましたから間違いありません。串田君のお母さんは、うちに出入りしている八百屋の女将《おかみ》さんですから」
信頼性の理由にはなっていない、と加部谷は思ったが黙っている。
「そこで、剣の舞でも踊ったの?」佐々木が尋ねた。アルコールのせいか眠そうな表情であるが、にこやかで楽しそうだった。
「それが驚きなんですよ」目を見開き、寛奈は身を乗り出す。加部谷そして西之園を見る。「何をしたと思います? なんと、その長い長い刀を、海に向かって投げたんです」
「え、捨てちゃったんですか?」加部谷はすぐに尋ねた。
「そうなんです」寛奈は頷いた。「そのあとも、じっと、男はそこに立っている。もう日が暮れようとしているんですよ。だんだん串田君も恐くなってきて、ついに、その場を逃げ出して帰ってきてしまいました。ところが……」
「続きがあるんだ」西之園が呟いた。
「その次の日です」寛奈は話す。「一日一本の便で、帰っていくその男の姿を見かけたら、ちゃんと持っているじゃありませんか」
「何を?」加部谷は尋ねる。
「だから、刀ですよ。白い刀。来たときと同じものを持って、大切そうに鞄を抱えて船に乗り込んでいったんです。これはもう大勢が見ています」
「ああ、つまり、海に投げ込んだのに、なくなっていない、ということですね」西之園が言う。「紐でも付いていて、あとで引き上げたってことかな」
「わかりません」寛奈は難しい表情のまま首を左右にふった。「ただ、この夕方の様子、実は他にも目撃者がいたんです。それは、海に出ていた芳郎《よしろう》という若者なんですが……」
「どうして、その人だけ名前なんですか?」加部谷が尋ねる。
「え?」寛奈はびっくりした表情で仰《の》け反《ぞ》った。「いえ……、その」
「姉さんのいい人だからだよ」山吹が吹き出した。
「何? いい人って」加部谷は驚愕して、躰が弾んだ。「江戸時代?」
「若者ったって、もう三十だろう?」山吹は姉に言った。
「まだ二十九です」寛奈が弟を睨みつける。
「海からその彼が、投げ込んだ白い刀を見ていたの?」西之園が尋ねた。
「そうなんですよ。距離はありますが、彼、目は抜群にいいんです。とっても信頼できる情報だと思います。その白い刀、どうなったと思います?」
「海に落ちたんじゃないの?」佐々木がきいた。
「あ、ところで、下は海なんですか?」加部谷は尋ねる。
「岩壁の下は海じゃありません。海まではまだ、二百メートルくらいありますね。少し下から傾斜地で松林です」
「それじゃあ、刀はそこに落ちただけで、あとから、拾いにいったのですね?」西之園は微笑む。
「いいえ、それが、芳郎が言うには、刀は、斜めに真っ直ぐ海の方へ向かって飛んできたそうです」
「思いっきり投げたとか?」西之園が言う。
「いえいえ、人間の力ではとうてい無理ですよ、そんな」寛奈は首をふった。「しかも、その刀は、海の近くまでくると、突然、浮かび上がって、天に昇っていった、というんです」
「まさかあ」西之園が声を高める。
「本当ですよ。だからこそ、また崖の上に戻ってきて、男は、その刀を手にすることができたんです」
「つまり、どういうことなんです?」加部谷は尋ねる。「それが、診療所の幽霊とどう関係しているんですか?」
「私の考えでは、おそらく……」寛奈が言う。「そもそも、白刀坊の刀に宿った怨霊が、その麓の診療所に女の姿で現れていたのです。診療所の裏に埋葬された女の死体を使っているのでしょう。白刀坊で死んだ僧兵は、もともとはお姫様の護衛をしていたそうですから。えっと、誰だったっけ?」
「北条《ほうじょう》なんとか」山吹が言う。
「まあ、いいでしょう」寛奈は人工的に微笑んだ。「そういうわけで、島へやってくる男は、その霊を鎮《しず》めようとしているのだと思います。縁《ゆかり》ある名刀を海へ投げ込むことによって、怨霊を成仏《じょうぶつ》させようとしている。でも、なかなかそれが簡単にはいかない。投げた刀は、霊力によって跳ね返され、戻ってきてしまう」
「診療所の先生が、そのお祓《はら》い師みたいな人を雇ったっていうわけだよね」山吹がつけ加えた。「姉さんの説は……」
「島の者は、だいたい同じ考えだよ」寛奈は言う。「あの男も、悪い人間には見えませんからね。穏やかな顔で、ええ、なかなかのハンサムなのです」
「顔で決めてるじゃん」山吹が笑った。「ハンサムだったらいい者《もん》」
「ハンサムって……」加部谷は小声で呟く。「大正時代?」
「他には?」西之園は話を促《うなが》した。
「いえ、だいたい知っていることは話しました」寛奈は溜息をついた。「ああ、良かった聞いてもらえて。私、悶々《もんもん》としていたんですよ」
「だからって、僕に電話するのやめてね」山吹が言う。
「だって、この島では最大級の事件なんですから」
「うーん」西之園が天井を見ながら片目を細くした。「しかし、実害があったのは、最初の男の子の病気くらいですね。ほかには、特に被害らしいものもないし、事件とはいえないような」
「ちょっと加部谷が整理します」彼女は片手を挙げて言った。「一、まず、元村長の孫になる男の子が、診療所の幽霊を見たために病気になった。二、診療所には、着物姿の幽霊が出る。これって、目撃者は?」加部谷は寛奈を見る。
「あ、それは、もう何人も」寛奈が答えた。
「何人くらいですか?」
「えっと五人くらい」
なんだ、五人か、と思いながら、加部谷は続ける。
「三、男の子が診療所を覗いている現場を、お爺さんが目撃している。そのとき、森の中に立っている白い女がいた。四、そのお爺さんが別の日に、診療所の庭にいた振り袖の女に出会って、妖術みたいなもので脅《おど》された。五、診療所には定期的に黒い服装の男が泊まりにくる。彼は白くて長い刀を持ってくる。六、その彼が、崖から白い刀を投げるところを二人の人間が目撃しているが、しかし、刀はなくなっていないようだ」加部谷はそこで、西之園を見た。「こんなところですか?」
「そうだね」西之園は頷く。
「こら、海月君、聞いてる?」テーブルの端で頬杖をついている彼に向かって加部谷は言った。
「聞いているよ」海月は答える。
「じゃあ、なんか意見は?」
「ない」彼は首をふる。
「どう思う? 不思議だと思わない?」
「別に」
「うーん、盛り上がらないなあ」加部谷は両手を横腹に当てる。「どうしてくれようか?」
「やっぱり、山吹君が言ったみたいに……」西之園が冷静な口調で発言した。「ほとんど、個人の目撃情報で、しかも、酔っていたり、暗かったり、遠かったりの悪条件だから、今一つ信憑性《しんぴょうせい》に欠けるっていうのか。面白かったけれど、つまりは、単にいろいろな見間違いを、想像で膨《ふく》らませただけのような気がしますね」
「そうね」佐々木が頷いた。「一番不思議なのは、振り袖の女だけれど、それも、酔ったお爺さんが見たまったくの夢だった、というとこらへんが、落ち着くところかしら」
「だけど、白い刀を持った男は、実際に診療所へ泊まりにきているんですよ」
「それは、アーチェリィが趣味の人で、診療所の先生のお友達」西之園が言う。「崖の上で、こうして」彼女は両手を挙げて弓を引く動作をした。「弓構えの練習をしていたってことなんじゃあ」
「そうか、白い刀は弓だったんですね」加部谷は言う。「でも、その弓を海に向かって投げたというのは?」
「男の子の見間違い」西之園は答える。
「いえ、芳郎さんが見ていますから」寛奈が言った。
「それはね、きっとカモメかなにかと見間違えたんじゃないかしら」西之園は言った。
「ああ、やっぱり」寛奈は頷いた。「それ、実は、芳郎さん自身がそう言っていました」
「でしょう?」西之園も頷く。「そうなると、もうなにも謎はないってことになります」
「うーん」加部谷は腕組みをした。「いよいよ尻窄《しりすぼ》みですよねぇ」
「ああ、でも面白かったわよ」佐々木が微笑んだ。「萌絵、もうそろそろお暇《いとま》しましょうか? あまりお邪魔をしても……」
「あ、そうですね」西之園は時計を見た。
加部谷も腕時計を見る。まだ九時まえだった。
「あの、お風呂はいかがですか?」山吹寛奈が急に軟らかい口調で言った。「お上がりになっていかれたらよろしゅうございますよ」
9
湯気に霞んだ男湯。
山吹は湯船に浸《つ》かると、大きな溜息をついた。
「面白かった?」山吹は友人に尋ねる。
「うん」手ぬぐいを頭にのせ、無表情のまま、海月は答える。「診療所で尋ねれば、すべて解決する問題だ」
「ああ、白い刀の男のことをね」山吹は頷く。「そうだよなあ、診療所の先生は、事情を知っているはずだ。なんで誰もきかないんだろう。やっぱり、島の人間は引っ込み思案なんだよね。医者は街から来た偉い人っていう感覚があるから」
「その先生が、大きな人形を持っているとか」海月が言った。
「ああ、なるほど、そうか、振り袖の人形? おひな様のでかいやつ?」
「そう」
「そういうのが、趣味なんだ」山吹は頷いた。
「それも、きけばわかる」海月はそう言うと、口を斜めにした。
一方の女湯。
佐々木睦子、西之園萌絵、それに加部谷恵美が湯に浸かっている。
「ああ、来て良かったぁ」加部谷が溜息をつく。「面白かったですね、診療所の話」
「私、診療所の先生に会ってこよう」西之園は言う。「それで、全部解決するわ」
「さすがに行動派ですね」
「何? 行動派って」
「いえ、犀川先生が思考派で、西之園さんが行動派かなって」
「それって、私が馬鹿みたい」
「いえ、そんな……」
「そうやって、ちょっとしたことにでも、かちんと来る」佐々木がゆっくりと話した。
「貴女も歳をとったわねぇ」
「やめて下さいよ、もう、最近そのお話ばっかり」
「かっかしないで」佐々木は笑った。「あぁ、気持ちが良いわね。ホント、のんびりできて最高。恵美さん、どっちなの?」
「え? 何がですか?」
「山吹君? それとも海月君?」
「いえ、そんな……」一瞬顔がお湯の中に沈んでしまった。「全然そんなふうじゃありませんから」
「まあまあ、可愛いわねえ」佐々木は笑う。「うん、どちらも見所はありますよ、ええ。大丈夫」
「叔母様、お酒がだいぶ回っていますよ」西之園が言う。
「西之園さん、あとで、診療所へ私も一緒に行って良いですか?」加部谷は言った。
「言うと思った」西之園は頷いた。
「え、今から? こんな時間に?」佐々木が顔を歪《ゆが》ませる。
「だって……」西之園が言う。
「だって、このままじゃあ、寝られませんよねぇ」加部谷は言った。
10
男性陣は湯上がりで飲み直すと話していた。加部谷は、佐々木睦子の別荘を見せてもらう、もしかしたら泊まってくるかもしれない、と山吹たちに言い残して、西之園や佐々木と一緒に山吹旅館を出た。もともと、自分の両親には、西之園萌絵と一緒に旅行する、と説明して出てきたので、現実が嘘に歩み寄った形ではあった。
しかし、出かける話を山吹たちにしたとき、海月は当然にしても、山吹さえも全然残念そうな顔を見せなかったことは、加部谷には多少心外だった。自分はそれほど重要視されていない、と認識せざるをえない。
ただ、それよりも、これから待ち受けているアドベンチャの方がはるかに魅力的なことは確かだ。風呂上がりの解放感は、急速に心地良い緊張感へスイッチした。
湯冷めをしないように、ということで、まず佐々木睦子を別荘まで送り届ける。それから、西之園と加部谷の二人で、診療所まで向かった。いずれも五分とかからない距離である。
「こういうときに、女って有利ですよね」加部谷は言った。
「え、どうして?」運転しながら西之園がきく。
「だって、こんな時間に突然訪ねていくなんて、男だったら警戒されるし、喧嘩になりそうじゃないですか」
「そうかなあ」西之園は微笑む。
「特に、四十代、五十代の男性って、基本的に若い女性に好意的ですからね」加部谷は言う。「これを利用しない手はないっていうか」
「凄いこと言うなあ、君」
「私、思うんですけど……」加部谷は自分の考えを話すことにした。「えっと、男の子の病気は、診療所の先生が原因じゃないかなって」
「うん、それ、私も考えた」西之園は頷く。「興田君のお母さんに会いたくて、医者がわざと子供を病気にしているって言いたいんでしょう?」
「そうですそうです。うわぁ、同じ考えですね!」加部谷は嬉しくなって躰を揺すった。「たとえば、具合が悪くなるような薬を渡しておいて、それを飲んでお腹が痛くなったら、自分が呼ばれるわけですよ。動機は、そのお母さんに会いにいきたいっていう、つまり、スケベ親父ですね」
「スケベオヤジ」西之園は言葉を繰り返した。「ふうん、なかなか斬新《ざんしん》な言葉だね」
「言いません?」
「言わないけど」西之園はこちらを向いた。
「でも、ちょっと不思議なのは、もし間違った薬を渡したら、一ヵ月経たないうちに、すぐに具合が悪くなってしまう」
「沢山の錠剤のうち、一つだけ毒性のあるものを混ぜておけば、確率的に、何日かあとになるんじゃない?」
「でも、こんなに続くと、なんか気づかれそうな感じもしますけれど」
「だいたい、会いにいったって、なにもできないわけだし、動機としては、ちょっと弱いんじゃないかな、その線は」
「会いたいだけ、見たいだけ、っていうのは、動機になりませんか?」
「そうでもないけれど、でも、わざわざ子供に毒を飲ませなくても、ほかの理由をつけて、普通に会えるんじゃない?」
そんな話をしているうちに診療所の前まで来た。辺りはとても暗い。建物にはほんのり明かりが灯っている。エンジンを止めると静かになった。加部谷は時計を見る。十時十五分まえだった。
「さあて、行くよ」西之園が横目でこちらを見た。
「どきどきしてきた」加部谷は言う。でも、このスリルは心地良い。特に憧れの西之園萌絵と一緒に味わうスリルは格別である。
車から降りて、暗い中庭へ入っていく。幸い、振り袖の女は立っていなかった。加部谷は後ろを振り返る。真っ暗な森が道の反対側にあるが、もちろん、白い女も見当たらない。長い刀を持った男の姿もなかった。
西之園萌絵が玄関の前に立って、引き戸をノックした。ガラス戸なので、がたがたと音がする。ノックには相応しくない戸である。
「ごめんくださーい」彼女は大きな声を出す。インタフォンがないので、こうするしかない。
「はーい」という声が聞こえた。
西之園が引き戸を開ける。室内には煙ったような濁った明かりが灯っていた。待合室の奥、衝立の向こうから男が顔を出す。
「はい? どうかしました?」彼はこちらへ出てきた。「あれ、この島の人じゃないですね」
髪の短い小柄な中年の男で、ベージュのカーディガンに、下はジーンズだった。加部谷が想像していたよりも、ずっと若く見えたし、それになかなかの好印象である。人妻を見たいために、子供に毒を飲ませるような嫌らしい男にはちょっと見えない。
「こんばんは」西之園は頭を下げる。「私は、西之園といいます。こちらは、後輩の加部谷さんです。私たちは……」
「ああ、西之園さんっていうと、もしかして、上の別荘の?」
「あ、はい」
「一度、港の近くでお見かけしたのは、じゃあ、君のお母様かな?」
「いいえ、私の叔母です。でも、叔母の姓は西之園ではなくて、佐々木といいます。あの、どこで、西之園ってお聞きになったのでしょうか?」
「あ、いや、それよりも、何? どうしたの? 誰か具合でも悪い?」
「いいえ、そうじゃないのです。あの……、こんな夜分に本当に申し訳ありません。ほんの十分くらいでけっこうですから、先生に是非お話を伺わせていただきたいと思いまして」
「僕に? 何の話を?」
「はい、その、幾つか、この診療所にまつわることで、不思議な噂を聞いたものですから、これはもう先生に直接……」
「ああ、なるほど」彼は頷く。「どうぞ、上がって。お茶を淹れましょう」
11
診療所の待合室のビニルのソファに西之園と加部谷は座った。医師は木製の丸い椅子を持ってきて、彼女たちの前に腰掛けた。低いテーブルに湯飲みが並び、彼はゆっくりとした手つきでお茶を注いだ。
「お客さんっていうのは珍しいんだよね。患者さんなら来るけれど、こうしておしゃべりをしにくる人っていないから」彼は微笑んだ。「なんなのかな、みんな、ここのことを敬遠しているっていうのか、恐れているっていうのか、そんな感じだね」
「具体的に、なにか不思議な現象を目撃したりは、されていませんか?」加部谷は尋ねる。「あの、幽霊が出たりとか、その、オカルトみたいな」
「全然」医師は首をふる。「そういうの、好きなんだけれど、出ないね」
「あの、どうか気を悪くなさらないで聞いていただきたいのですが」西之園が姿勢を正し、膝の上で両手を重ねる。こういう上品な仕草は、是非自分も身につけたいものだ、と加部谷は思った。「私たちは、今日こちらへ来たばかりですし、友人や、旅館の方から聞いただけの話なのですが、この診療所に関係することで、いろいろ不思議なことが起きている、少なくとも、島の人たちはそう感じているようです。ですから、思い切って、先生にそれを全部お話しして、もし、なにか心当たりのあることでしたら、差し出がましいとは思いますけれど、それはそれでお互いの誤解をなくすことができて有益かと考えたのです」
「うん、いいね」医師は頷く。「そういう積極性は好きだなあ」
西之園萌絵は、流れるような口調で、これまでの情報を要約して述べた。非常に整理されている。話は二分もかからなかったが、ほぼ旅館で話し合ったことは網羅《もうら》されていた。自分が話していたら三倍は時間がかかったと加部谷は思った。
一、男の子の謎の病気。
二、診療所内の着物姿の女幽霊。
三、診療所の前の森に立っていた白い女。
四、お爺さんを脅した振り袖の女。
五、診療所へ定期的にやってくる長身の男。
六、その男が崖から投げた白い刀。
話を聞いている間、医師は脚を組み、片手を顎《あご》に当てて、じっと西之園を見据えていたが、その表情には変化はなかった。ときどき、加部谷を一瞥《いちべつ》する視線には、優しさやインテリジェンスが感じられる。
「こんなところです」西之園はその言葉で締めくくった。「いかがですか?」
「面白いね」ようやく彼は微笑んだ。
「根も葉もない言い掛かりかもしれませんけれど、一応すべて、この診療所がキーになっていると思います」西之園がつけ加えた。
「いや、根も葉もない、ということは全然ないよ」彼は首をふる。「実のところ、今の話、すべてに心当たりがあります」
「え?」加部谷は身を乗り出した。
「本当ですか?」西之園もきき直す。
「うん」医師は頷いた。「もちろん、プライベートなことだから、全部は話したくないけれど、一つだけ、医師として弁明しておきたい点がある。君たちを信じて話すことだから、他言しないように注意してほしい。いいね?」
西之園と加部谷は頷いた。
「興田君の病気なんだけれど、一番最初は、インフルエンザだった。熱があって、お腹も下っていたかな。とにかく、初診ではその処置をした。ところがそのとき、一緒に来たお母さんが、私も診て欲しいとおっしゃるので診察をした。彼女にはこれといって異状はなかった。ちょっと目眩《めまい》がする、あるいは肩が凝る、という症状くらいだった。しかし、便秘気味で、薬がほしいと言われたので、それを出した」医師はそこで、ポケットに手を入れる。「吸ってもいいかな?」
西之園と加部谷は頷く。彼は煙草を取り出し、安物のライタで火をつける。煙を吹き出すと、話を再開した。
「一ヵ月くらいしたとき、また、興田君とお母さんがやってきた。今度は、お腹が痛いと言う。聞いたところ、便も下っていて、食中《しょくあた》りではないか、と僕は考えた。まあ、酷くはないので、胃腸関係の緩やかな薬を与えた。ところが、また一ヵ月ほどして、二人がやってきて、同じような症状を訴える。このときも、同じ処置をした。特に問題があるとは思えなかったし、興田君自身も、そんなに酷い状態ではなかった。元気もあったからね。ところが、また一ヵ月後に来て、さらにまた一ヵ月後にも来た。五回目だ。さすがに、変だと思ったよ」
「やっぱり祟りじゃないかと?」加部谷は尋ねる。
「いや、違う」医師は煙を吐き、微笑んで首をふった。「おそらく、なんらかのストレスによる精神的なものだろうと考えた。しかし、診た感じ、興田君はそんなに神経が細そうな子供には見えなかった。どちらかというと、お母さんの方が神経質そうな感じだ」医師はそこで言葉を切った。「さて、このあとの話は、なるべく客観的に話すつもりだけれど、僕自身の主観がどうしても入るだろうから、その点は差し引いて判断してもらってかまわない。えっと、実は、診療所に来るごとに、お母さんも診察した。彼女が、どうしても自分も診てほしいと訴えるからだ。しかし、いつ診ても、悪いところはなかった。顔色も良いし、病人には見えない。聴診器を当てて、診てあげただけで、もちろん処置はなにもしていない。ただ、言いにくいのだけれど、彼女、その、びっくりするような下着を着てくるんだよ。真っ赤なのとかね……、まあ、そんなことは個人の自由だし、趣味の問題だから、とやかく言うことじゃない。でも、医者に診察してもらう人間の行動としては、僕の経験した範囲では非常に珍しいといえる」彼は溜息をつくように煙を吐いた。「その五回目のときだったけれど、彼女は、また便秘薬が欲しいと言った。そこで、僕は、もしかして、という可能性を思いついてしまったんだ」
「そうか、お母さんが、便秘薬を子供に飲ませているのではないか、と思われたのですね?」西之園が早口で言った。
「そう」医師は頷く。「頭が切れるね、君」
「え、どうして? 自分の子供に、そんな……」加部谷は呟く。
「つまり、興田君のお母さんの方が、先生に会いたかった、ということですね?」西之園は言う。
「ああ」加部谷は頷いた。なるほど、と思う。
「わからない」医師は首をふった。「ただ、お母さんのために渡している便秘の薬は、塩類系の緩下剤《かんげざい》だった。それをもし子供に飲ませれば、おそらく確実に下痢になる。渡したのは八錠だった。薬を渡してから、二人がここへ来たのは四回。一度に二錠飲ませたかもしれない。ちょうど、薬がなくなったから、また欲しいと言ってきた、と考えられないこともない」医師は煙草の灰をテーブルの灰皿に落とした。「そこで、万が一のことを考えて、少し大人しい薬を渡した。膨張性というんだけれど、若干穏やかな薬だね。すると、一週間後に、今度は電話があって、家まで往診に来てくれと言う。行ってみると、やはり興田君がお腹が痛くて苦しんでいた。ちょうど、彼のお父さんが出張でいなかった。家にはほかにお母さんしかいない」
「うわぁ……」加部谷は片手を口に当てる。
「やっぱり、僕もね、彼女の様子がおかしいと思えたので、先週渡した便秘の薬を見せてくれ、と頼んだ。そうしたら、もう全部飲んでしまったって言うんだ。八錠もあったのに。一週間にだよ。これは間違いない、と判断した。それで、家の外へ出てから、単刀直入に彼女に話してみた。子供に下剤を飲ませたのかって」
「認めたのですか?」西之園がきいた。
「うん」医師は頷いた。「涙を流して謝るんだ。とにかく、少し落ち着かせる必要があると思って、実家の人を呼んできてもらい、それとなく事情を話した。お母さんの方にストレスがある、しばらく、みんなで面倒を見るようにってね」
「それからは?」加部谷は尋ねた。
「もうどれくらいになるかな。三ヵ月くらい? うん、なにもない。興田君はいたって元気だよ。お母さんの方も、もう大丈夫みたいだね」
「それが真相だったんですね」加部谷は大きく頷く。「あ、でも、じゃあ、興田君が診療所を覗いているところを目撃されたのは?」
「それはね、きっとお母さんがさせたんだと思うな」医師は灰皿で煙草を揉み消した。「この診療所にお化けが出るっていう話は、僕が来たときから聞いていたし、最初のときも興田君自身が話していた。きっと、ここへ来たかったから、お母さんがそう吹き込んだんじゃないかな。その、森に立っていた人っていうのが、興田君のお母さんだと思うね。彼女、いつも白っぽい服装だから」
「ああ、そっか。それを、えっと誰だっけ、漁師のお爺さんが見たんですね」加部谷は短い溜息をつく。
「嘉納さん」西之園が小声で言った。
「嘉納さんね、そうそう」医師は吹き出した。「酔っぱらいのお爺さん。よくここの前を通るんだよね。一度、絡《から》まれたことがあって……」
「へえ、妖術で追っ払ったとか?」西之園が言った。
医師は笑う。加部谷も笑った。西之園が言った妖術という言葉が可笑しかったからだ。
いずれにしても、一と三の謎は解けた。六つのうちの二つである。
「ここへやってくる背の高い黒い服を着た人っていうのは、どなたなんですか?」加部谷は質問する。
「僕の身内」医師は答える。
しばらく、黙って待ったが、彼はそれ以上話そうとしない。言いたくないような顔つきだ。これ以上あまり追及することは失礼か、と加部谷は考える。
「毎回、白い長いものを持っていらっしゃるそうですけれど、差し障りなければ、それが何なのか伺えないでしょうか?」西之園が優しい口調できいた。
そうか、そういうふうに言えば良いのか、と加部谷は思う。もっと大人にならなくては。
「あれはね、グライダだよ」微笑みながら彼は話した。「ラジコンのグライダ。あの人の趣味なんだ」
「グライダって、飛行機ですか? 模型飛行機?」
「そうそう。それを、風が吹きつける崖っぷちで飛ばして遊ぶんだ。大きいよ、左右の翼を繋《つな》げると、スパンが四メートル近くあるかな」
「そうか、グライダの翼って、細長いから、刀みたいですよね。主翼が白くて、胴体は?」
「えっと、胴体はない。主翼だけの、ちょっと変わった形のやつなんだけれど、そういうのが好きみたいで」
「無尾翼機ですね。ホルテンみたいな」西之園が言う。
「あ、君、詳しいね」
「無線でコントロールして、自由に飛ばせるんですね?」加部谷は尋ねる。
「そう」医師は頷いた。「風のコンディションさえ良ければ、ずっと浮かんでいられるって」
「そうかそうか」加部谷は思わず膝《ひざ》を打つ。
「さあて、もういいかな?」医師は腰を浮かせようとする。壁に掛かっている時計を見た。まもなく十時である。「ちょっと僕ね、見たい番組があるんだ。悪いけれど……」
「あ、すみません。どうも、お邪魔をしてしまいました」西之園が立ち上がった。「あの、先生、もう一つだけ、お願いがあるのですけれど」
「え、何?」
「叔母が風邪気味なのです。できたら、お薬をいただけないでしょうか?」
「かなり悪い?」
「いえ、全然軽いです。さっき、一緒にお風呂に入ったくらい。今はもう寝ていると思います」
「ああ、それじゃあ、薬はいらないよ」医師は首をふった。「むやみに飲まない方が良い。もし悪くなったら、明日、いらっしゃい。ちゃんと診察しましょう」
「そうですね、わかりました」
「どうもありがとうございました」加部谷も立ち上がって頭を下げた。
玄関を出て、西之園と加部谷は車まで並んで歩いた。外は冷たく、そして暗い。
「誰なんでしょう? 息子さんかな」加部谷は小声で言う。診療所へやってくる黒い長身の人物のことだ。
「さあ、あまり言いたくないみたいだったね」西之園は言った。「でも、怪しい人ではなさそう。だって、グライダを飛ばしにきているわけだから」
「そうですよねぇ。となるとぉ、五と六も、既に解明されたことになるから、もう残りは、二と四。つまり、診療所の中に出る幽霊と、庭先でお爺さんを脅かした幽霊、どっちも着物の女ですけれど、これって、きっと、見た人の思い込みっていうか……」
「それとも、人形じゃないかしら」西之園はそう言うと、車のドアを開けた。
加部谷も助手席に乗り込む。
「さてと、どちらへ帰る?」西之園がきいた。
「あ、あの、もちろん山吹旅館へ」加部谷は答える。
「まだまだ、あの二人、飲んでると思うな」西之園は言った。エンジンがかかる。「私もつき合いたいところだけれど、叔母様も心配だし、また明日ね」
「明日は、船で釣りをしようって言ってました」
「へえ、面白そう」
ヘッドライトが点灯すると、道の先の森林の一部が浮かび上がった。どこにも怪しい人影はない。
「なんか、釈然としませんよね」加部谷は呟く。
「まあ、こんなものでしょう」西之園は微笑んだ。「現実っていうのは、常に釈然としないものかも。あぁ、これって、犀川先生入ってるなあ……」
加部谷は笑う。
「あ、あの落書きの意味をきくの、忘れていましたね」
「あ、そう……。〈刀のつPQR〉」
「そうPQR。何でしょう?」
「なんの意味もなかったりして……」
暗闇の中に光を拡散させ、車は動き始めた。
12
翌朝八時、西之園は気持ち良く目覚めた。しかし、ベッドからは出ないで、すぐに犀川に電話をかけた。
「はあい」眠そうな声が聞こえる。
「おはようございます。先生、朝ですよ」
「こっちはまだ夜だよ」
「どこにいるんですか?」
「あ、何?」
「あのね、いろいろありまして、ちょっとお話ししても良いですか?」
「既にしていると思うけれど」
「もう起きていました?」
「今起きた」
西之園は、昨日からの話を要約し約二分で説明した。自分でも早口だと思えたが、情報量を減らすよりは、伝達速度を上げる方が少なくとも親切というものである。犀川はなにも言わなかったが、ちゃんと聞いてくれているはずだ。
「いかがですか?」一気に話し終えたあと、彼女はきいた。
「もう解決しているんじゃないの?」
「まあ、しているともいえますけれど。あ、でも、診療所の前に書いてある、あの落書きはわからない。えっと、〈刀のつPQR〉」
「え?」
「ですから、漢字の〈刀〉という字、あと、ひらがなで〈の〉と〈つ〉です。そのあとは、アルファベットのPQR」
「大文字?」
「はい」
「ふうん」
「ふうんっていうのは? 西之園君、朝からそんな話をするなんてどうかしているよ、という意味ですか?」
「いや、君はもともとどうかしているから、そんなふうに考えたことは一度もないよ。叔母さんは、それを見て、なんて言った?」
「え? 叔母様? いえ、叔母様は見ていませんから」
「あそう」
「何ですか? あそうっていうのは」
「九州の火山」
「だんだん目が覚めてきましたね。今日は、東京へ出張の日ですよね?」
「そうそう。そろそろ着替えて、出かけなくちゃ。じゃあね」
「あ、ちょっと待って」西之園は慌てる。「なにか一言だけ、コメントは?」
「何に対して?」
「刀之津診療所の謎についてです」
「うん、僕は、もう全部わかったよ。でも、君にはわからない」
「え? どういうことですか?」
「君は知らないことだから、無理もない」
「え、本当にわかったんですか? 何がわかったんですか?」
「全部。さあ、じゃあもう切るよ」
「あ、先生!」
「叔母さんによろしく。PQR」
「え?」
電話が切れた。
「何なのぉ」西之園はベッドで起きあがって叫んだ。「もう」
着替えをして、一階へ下りていくと、香ばしい匂いがする。キッチンに佐々木睦子の姿があった。
「おはようございます。いかがですか? お加減は」
「うん、大丈夫そうね」佐々木は横目で西之園を見る。「よく眠れたし」
フライパンで玉子を炒《いた》めていた。コーヒーメーカのガラスが曇っている。
「昨日、あれから、どうだった? 診療所の先生に会えたの?」皿にスクランブルエッグを落としながら、佐々木はきいた。
西之園は冷蔵庫を開けて、ドアの内側にあったミルクを手に取った。
「ええ、もの凄い画期的な進展がありましたよ」
「それはまた珍しい」佐々木が微笑む。「どんなふうに?」
二人で朝食の用意をしながら、西之園は昨夜診療所で医師から聞いた話を叔母に説明した。子供に薬を飲ませた母親、そして、ラジコンのグライダのこと。その二つがキーである。これで、不可解そうに見えた現象が簡単に解決する。
「ふうん」コーヒーカップを持ちながら佐々木が頷く。「なんだ、それだけのこと」
「まあ、現実って、そんなものですよね。脈絡もなく、もともと突飛《とっぴ》で、ばらついているし」西之園はまだコーヒーが飲めないので、トーストにマーガリンを塗っている。「無関係のものを無理に結びつけて、物語を作ろうとするのが、人間の想像力」
「だけど、着物姿の女とかは、解決していないんじゃない?」佐々木は首を傾げる。
「それは単に見間違いだったのかも」
「脅かされたお爺さんも、酔い過ぎだったってこと?」
「ええ」
「現実的ね」佐々木は小さく頷く。「化けの皮、剥《は》げてしまって、夜が明ける」
「川柳ですか?」
「厚化粧、剥げないうちに、午前様」佐々木はにこにこ顔である。
「ご機嫌ですね」
「私はいつでもご機嫌ですよ」
「あ、そうだ、叔母様、PQRって、何だと思います?」
「ピーキューアール?」
「ええ、アルファベットのPQRです。全部大文字で」
「並んでいるわね」
「ほかには?」
「うーん、三つとも非対称」佐々木は答える。
西之園は少し驚いた。
「へえ、珍しいことをおっしゃいましたね」彼女は微笑んだ。「叔母様にそんな視点があるなんて、正直少し意外です」
「見くびらないでね。西之園は、ローマ字だと、すべて点対称ですよ」
「あ、そうそう、そうなんです」西之園は頷く。「うわぁ、凄い。まだまだ、叔母様も、奥が深いじゃありませんか」
「何? 年寄りをからかってるんですか」佐々木は鼻から息をもらした。
「今日は、私、午前中からちょっと出かけて、よろしいですか? 後輩たちと船に乗るかもしれません」
「私は一日大人しくしているわ」佐々木は言った。「お昼寝でもしていよっと……、あぁあ」彼女は両手を挙げて欠伸をする。
「叔母様、お食事中にそんなことしたら……」西之園は言いかける。
「諏訪野に叱られる、でしょう?」佐々木が微笑んだ。
13
十一時頃、佐々木睦子は別荘を出て、散歩に出かけた。いつもは、草原の方へ向かう習慣だったが、今日は坂道を村の方へ下りていくことにした。もちろん、港の近くまで行くには片道で四十分以上かかる。上ってくるときは、タクシーが必要だが、残念ながらこの島にはタクシーが存在しない。姪に電話をかけて、拾ってもらうしかないだろう。体調によっては、途中で引き返すつもりで歩いていた。
森林の中を抜けていくと道が分かれている。いつもとは違う道を選んだ。そちらはこれまで一度も通ったことがない。人間というのは、ときどき、こうして未知の領域へなにげなく足を踏み入れることを好む。この性状は他の動物には滅多に見られないものであり、これこそが人類の主たる特性といえるものだろう。
さらに道を下っていく。ようやく、民家の屋根が下に見えてきた。躰は軽く、いくらでも歩けそうな気がした。
老人が歩いてくる。すれ違う手前で、彼女は軽く頭を下げた。向こうもにっこりと笑って帽子を取ったので、彼女は立ち止まって、道を尋ねることにした。
「診療所というのは、この近くですか?」
「ああ、すぐそこだでな」老人は後ろを振り返って指をさした。
佐々木はさらに歩いた。道は何度も左右にカーブして方向を変え、どんどん低いところへ向かっている。
それらしい建物が見えてきた。垣根に囲われ、玄関の前に自転車があった。看板はないので、彼女は庭の中に入り、玄関へ近づいた。チョークで書いた文字が読めた。姪が話していたものだ。
〈PQR〉も非対称だが、〈刀のつ〉も同じく非対称だ。
「なんだ、そういうこと」彼女は小さく呟いた。
突然、がらがらと音を立ててガラス戸がスライドする。目の前に同年輩の男が立っていた。診療所の医師だろう。白衣を着ている。
「こんにちは、どうもすみません」佐々木は頭を下げる。「ここに書いてある文字が気になって、眺めていましたの」
「僕が書いたんですよ」男が微笑んだ。「意味がわかりましたか?」
「ええ」彼女は頷く。「〈刀のつ〉というのは、横を向いていますけれど、FとGとJですね?」
男は面白さを堪《こら》えるような表情で頷いた。
「アルファベットの大文字の中で、線対称でも点対称でもない、非対称なものは、F、G、J、P、Q、Rの六文字です。それが書いてある」
「そうです」
「でも、何故それを、ここに?」
「貴女がいつか読むかもしれない、と思ったから」彼は言った。
彼女はそこで気がついた。
「ああ、そうかぁ」自分の顔に笑みが広がるのがわかった。「では、グライダを飛ばしにくる人って、あの方だったのね? そう、背の高いボーイッシュな感じだったわ。どうして、この島で一緒に住まないの?」
「彼女は仕事があるんですよ」男は答える。
「振り袖を着ていたのは、貴方だったわけ?」
「ええ、まあ」男は笑う。
「土から飛び出して、お爺さんの帽子を飛ばしたのは?」
「それは、僕の足です」片膝を折って軽く持ち上げ、男は吹き出した。「ちょっと、巫山戯《ふざけ》すぎたかな」
「そうか、少林寺かなにかね?」
「さあ、とにかく、中へどうぞ」彼は手招きした。「懐かしいなあ。お茶でも淹れましょう。フランソワ」
初出
刀之津診療所の怪 メフィスト'04年5月号
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底本
講談社 KODANSHA NOVELS
レタス・フライ
著者 森《もり》 博嗣《ひろし》
二〇〇六年一月十一日 第一刷発行
発行者――野間佐和子
発行所――株式会社講談社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90