えむえむっ!4
松野秋鳴
第一話 BでLな変愛模様
『朝〜、朝だよ〜、お姉ちゃんのパンツを食べて学校に行くよ〜』
枕元から聞こえるそんな音に、俺――砂戸太郎《さどたろう》は目を覚ました。
頭を動かし、枕元にある見慣れない目覚まし時計に視線を向ける。
『朝〜、朝だよ〜、お姉ちゃんのパンツを食べて学校に行くよ〜』
目覚まし時計のスピーカーから流れ続ける、聞き慣れた声。
『朝〜、朝だよ〜、お姉ちゃんのパンツを食べて――』
「パンツなんか食べるかああああああああああああああああああっ!」
俺は目覚まし時計を両手で掴み、力いっぱいの怒鳴り声をぶつけた。
「お姉ちゃんのパンツ食べてから学校に行く!? なんだその歪んだ食生活! つーかこの目覚まし時計はいったい――」
「それはね、お姉ちゃんからのラブリープレゼントだよー」
「ぬおっ!?」
突然の声に思わず声を上げる。
当然のように俺のベッドの中にいる小柄な女性。うつ伏せで、ちょっと上半身を起こした格好でにこにこしているその女性は、俺の姉貴である砂戸静香だった。
「あ、姉貴っ! また俺のベッドに忍び込みやがって!」
超絶的かつ変態的なほどにブラコンである姉貴はいつもいつも俺のベッドに忍び込んでくるのだ。ほんと、頼むからもうやめてください。頼むから。
「てゆーか、この怪しげなメッセージを垂れ流す目覚まし時計はなんなんだ!?」
「うふっ。録音したメッセージをアラームにできる目覚まし時計だよ。それでわたしの声を録音したの。これを太郎ちゃんにプレゼントします! もらってください!」
「いらねえよこんな目覚まし! それにこのメッセージはなんだよ!? お姉ちゃんのパンツ食べてから学校に行くってどういうこと!?」
「愛する人のパンツなら食べてみたい……わたしたちの愛情もそろそろそんな領域にたどり着いてもいい頃じゃないかな?」
「そんな変態領域には永久にたどり着きませんから! いいか、俺はいまからすごく当たり前のことを言うぞ!? パンツは、食べられませんっ!」
「大丈夫、太郎ちゃんなら食べられるよ」
「食べられねえよ! なにその『わたし信じてるから……』みたいなまなざしは! そんな目で見つめられてもパンツは食べませんから!」
「熱いお湯にさっと通して食べたらおいしいと思うよ」
「しゃぶしゃぶみたいに!? パンツをしゃぶしゃぶみたいに!?」
「お野菜を包んで食べるの」
「わお、健康的っ! ――ってバカか! なんでパンツで野菜を包んで食べなきゃならねえんだ! パンツさんはそんなことのために生まれてきたわけじゃないからね!」
「そっか……しゃぶしゃぶにすると、お姉ちゃんの成分がお湯に逃げてしまうから嫌なんだね。じゃあ天ぷらにすればいいよー。お姉ちゃんの成分を天ぷらの衣の中にぎゅっと閉じこめることができるから」
「だから食べねえって言ってるだろうが! とゆーかお姉ちゃんの成分ってなんだよ!?」
「それはね、具体的に言うと――」
「言うな! 具体的に言うな! なんかよくわかんねえけどすげえ怖いから!」
俺は慌てて姉貴の言葉を遮った。
「あとね、こんなメッセージもあるんだよー」
言いながら姉貴は目覚まし時計を操作する。
するとスピーカーからこんな声が――
『はあんっ! うふぅ! あ、あんっ! うう……た、たた、太郎ちゃん、き、きもちいいよぉ……はあ、はあ、はあ……んん、あっ、ううううう! ああ、あああくぅ! いい、いいよ、太郎ちゃん、そのままお姉ちゃんのな――』
「ノオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッッッ!」
俺は目覚まし時計を床に叩きつけた。
「な、なに入れてんの!? なにを入れてんだよあんたはっ!」
「なにを入れてるって、それは……妄想で太郎ちゃんの――」
「なんのメッセージを入れてるんだって意味だからねっ!? 他意はないからね!?」
なぜか顔を赤らめている姉貴にそんな怒鳴り声を浴びせる。
「えへっ。さすがにこのメッセージを録音するのは恥ずかしかったよぉー。でも太郎ちゃんの喜ぶ顔を想像してがんばりましたっ! だからご褒美をくださいとりゃあああっ!」
「ぬおっ!?」
姉貴は突進するような勢いでこちらに飛び込んでくる。細い両腕で俺の頭をぎゅーっと抱えるようにして、ふにふにやわらかい胸を俺の顔面に押しつけてきて――
「ふ、ふごぉ!? ふごおお、おおおおおっ!」
「あああ、太郎ちゃんの熱い吐息がわたしのおっぱいに……この吐息だけで想像妊娠しちゃいそうだよぉ……」
「ぬぐぐぐぐ……は、離れろコラアアアアアアアアアアッ!」
「きゃうっ!?」
姉貴の体をベッドの外に投げ飛ばす。
「うえーん! 太郎ちゃんに投げ捨てられたよぉ! ひどいよぉ!」
「うるせえ! ひどいのはおまえの頭の中だ!」
俺はこめかみをピクピク震わせながら、
「とにかくもう俺の部屋から出て行け! 朝の用意をしなきゃならねえんだよ!」
「いやん。太郎ちゃん、いけずだよ〜」
姉貴を廊下に追い出し、急いで朝の支度をする。いつまでもあのバカ姉貴に付き合っていたら学校に遅刻してしまう。
制服に着替えた俺は階段を下りてダイニングに向かった。
「あっ、おはようございます、太郎さん」
キッチンから顔を出した女性がふんわりした笑みを浮かべる。
「おはよう、母さん」
穏やかな顔立ちをしたその女性は、俺の母親である砂戸智子だった。
「すぐに朝ごはんの用意しますねー。座って待っててください」
「ああ」
ダイニングにあるテーブルに着く。朝から何度も怒鳴り声を上げたせいか微妙に喉が痛かった。
やれやれ、本当にあの姉貴は……
「まったく……パンツを食べてから学校に行く? なんちゅーメッセージだよ……」
うんざりとつぶやき、ため息をつく。
そのときキッチンにいる母さんの肩がぴくりと震えたような気がした。
母さんはぱたぱたと俺のところに駆け寄ってくると、
「えっと……太郎さん」
「ん? なんだよ?」
母さんはちょっともじもじしながら、
「太郎さんは……パンツを食べたいんですか……?」
「ばぶっ!? な、なに言ってんだよ母さん! 正気ですか!?」
「え……だって太郎さん、さっき言ってたじゃないですか――パンツを食べてから学校に行きたい、とかなんとか……」
「そんなこと言ってねえよ!」
どうやら母さんはさっき俺がつぶやいた声を聞き間違えてしまったらしい。つーか普通そんな聞き間違いしないだろ! 常識的に考えれば誰でもわかることですよ!
母さんは申し訳なさそうに、
「ごめんなさい、太郎さん。朝ごはんにパンツを出すことはできないんです」
「んなことはわかってるよ! とゆーか出されても困るし――」
「だって……私、いまパンツをはいてませんから……」
「……ほえ?」
俺は突発性の頭痛に耐えながら、
「パ……パンツはいてない?」
「はいっ。太郎さんに喜んでもらおうと思いまして、今日はノーパンで参上しましたっ」
母さんは両手を頬に当て、照れた顔をする。
「…………」
俺は脳みそ破裂寸前だった。
母さんは腰をかがめるようにしながら、俺をじっと見つめ、
「太郎さん……私がパンツはいてないことを知って、興奮、しちゃいました……?」
「ア、アホかああああああああああっ!」
俺は力いっぱい怒鳴った。
「た、太郎さん、そんなに怒らないでくださいよぉ。それほどまでパンツが食べたかったんですか? じゃあ明日の朝は私の脱ぎたてパンツを――」
「てめえそんなことしたら親子の縁を切るぞこの野郎っ!」
俺はめまいを覚えながら、
「もういいっ! 今日は朝飯はいらん! 学校に行ってきます!」
と叫んだあと、玄関のほうに向かった。
「太郎さん、行ってらっしゃ〜い」
ノーパン母さんの声を後ろに聞きながら、俺は玄関のドアを開けた。
十月のはじめ。二学期が開始されてから一ヶ月以上経つ。
放課後になると、俺はいつものように第二ボランティア部の部室に向かった。
部室の扉を開けると――
そこにいるのは美少女天使だった。
亜麻色の長い髪に、芸術的に整った二重の瞳。陶器のように白い肌。小さな桜色の唇。外見だけは究極的なパーフェクト美少女。
彼女は、第二ボランティア部の部長である石動《いするぎ》美緒先輩だった。
椅子に座り、机に頬杖をつく石動先輩。その瞳が不意に揺れ、部室の入り口に立つ俺の姿を捉える。
その瞬間――俺の背筋がぶるぶると震えた。
きゅっと唇を引き結び、鋭い目つきで俺を見つめている。その視線の悪魔的な圧力に、特殊な属性を獲得している俺の肉体が反応しているのだった。
「あ、あう……」
思わず無意味なうめき声が漏れる。
なんというか……石動先輩はすごく不機嫌そうだった。
普段から愛想というものは皆無で、基本的に俺には冷たく当たっているのだが、今日はそんなレベルではなかった。小柄な体から噴出するイライラが視認できそうだった。
「ブタロウ。なんでそんなところに突っ立ってるのよ。目障りだからさっさと部室に入りなさい」
「え……あ、はい」
俺はうなずき、おずおずと部室に足を踏み入れる。
先輩はむすっとした顔を俺から逸らし、睨むように虚空を見つめる。
「せ、先輩」
「あ? なに?」
「えっと……」
俺は少し躊躇ったあと、言った。
「ど、どうしたんですか? なんかすっげえ機嫌が悪そうなんですけど……」
「…………」
先輩は虚空を見つめながら、
「――三人よ」
そう言った。
「は? 三人って……なにがですか?」
「葉山と、嵐子と、あんた」
先輩はさらに目つきを鋭くし、
「今年度になってから第二ボランティア部に願いごとの依頼をしてきたのは、この三人だけなのよ。たった三人。しかも、その中でちゃんと願いを叶えることができたのは葉山の一件だけ。嵐子の男性恐怖症を治したいという願いと、あんたのドM体質を治したいという願いは、まだ叶えることができてないし……」
と、つぶやくように言う。
「もう十月だっていうのに、願いの依頼に来たのは三人。願いを叶えることができたのは一人だけ。去年の今頃はもうちょっと繁盛してたのに……」
「…………」
「あたしは神様なのに……神様なんだから、みんなの願いを叶えなきゃいけないのに……」
石動先輩は自分のことを神様なんだときっぱり宣言していた。自称神様。本気で言ってるのかどうかは俺には判断できないが、ちょっとアレな感じです。
そう――うっかり忘れてしまいそうになるが、この第二ボランティア部は桜守高校の生徒たちの願いごとを叶えるというのが活動目的な部活だった。
だが、いまやこの部活に願いごとをしようと考える生徒はほぼ皆無で、その原因は第二ボランティア部の部長である石動先輩のあまりにもメチャクチャな――
「なんで願いごとの依頼が来ないのか、ずっと考えてたんだけど……」
言うと、先輩はゆっくりと首を巡らし、俺を見上げた。というか睨みつけた。
「それもこれも全部、あんたのせいのような気がしてきたわ……」
「はひっ!?」
突然の飛び火にびっくりしながら、
「お、俺のせいって、なんで……」
「あんたのドM体質があまりにもキモいから、みんな部室に近づきたくないのよ」
「な、なにを言ってるんですか!? 俺のドM体質のことを知ってるのはこの第二ボランティア部にかかわってる人たちだけ――」
「うるさい。あんたのキモさがオーラとなって部室からしみ出てるんだわ。だからみんな願いごとをしに来ないのよ。絶対にそうよ」
先輩は俺の襟元を握りながら悪魔のような眼光で睨みつけてくる。そして首が捻《ねじ》れてすんごく痛い。こ、こんなことをされると、ボクちゃんは……
「い、痛いよぉ……はあ、はあ、はあ……」
「……なに息を荒げてるのよ。本当にキモいブタ野郎ね、あんたって。最初は冗談のつもりだったけど、本当にぜんぶあんたのせいのような気がしてきたわ……これはもうおしおきの必要アリね……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! それはあまりにも言いがかりです! ここに願いごとの依頼が来ないのは俺のせいじゃないですよ!」
「じゃあ誰のせいなのよ?」
「それは……石動先輩の……」
「ああ?」
先輩の眼光が鋭さを増す。が、ここで引けばひどいおしおきが待ってるような気がしたので、俺は食い下がった。珍しく食い下がった。
「せ、先輩がいつもメチャクチャな方法で願いごとを叶えようとするから、だから誰も来なくなったんですよ! 第二ボランティア部に願いごとをしても、願いが叶うどころか死ぬほどひどい目に遭うって、みんなそう思ってるから……」
「…………」
無言の睨み。
それは――もはや人間の目つきではなかった。
「う、うう……はあ、はあ、はあ……」
遅まきながら気づく。やばい。とんでもないことを言ってしまった。このままではマジで殺されてしまう。マジで。
「あ、ああ……せ、せせ先輩! さっき言ったのはただの冗談で……」
いまさらこんなことを言っても無意味だ。そう思ったのだが――
「……ふんっ」
先輩は俺の襟元から手を離すと、ぷいっと俺から目を逸らした。
あ、あれ? 殴らないのですか? 土下座させないんですか?
石動先輩はむすっとした顔で両腕を組むと、
「とにかく――このままではダメなのよ!」
と、言い放った。
「待ってるだけじゃダメなの。だからあたしはいい方法を考えたわ!」
「い、いい方法?」
「ブタロウ! 十日後にはなにがある?」
「十日後といえば……」
俺は少し考え、
「あ、桜守祭ですか?」
「そうよっ! 桜守祭よ!」
ふん、と鼻息も荒く先輩は告げる。
十日後、桜守高校の学園祭である桜守祭が開催されるのである。その準備のため生徒たちは忙しい毎日を送っていた。
「桜守の生徒だけでなく、他校の生徒や近くの住民までやって来る桜守祭! そこで第二ボランティア部の存在をアピールするのよ!」
「アピールって……いったいどうやって……」
俺が尋ねると、先輩は自信満々な様子で言った。
「それはもう考えてあるわっ!」
にこっと不敵な笑みを浮かべ、
「それは――ツンデレ喫茶よ!」
と、言い放った。
「ツ、ツンデレ喫茶?」
「そうよっ! いま流行りのツンデレ美少女をウエイトレスにしたツンデレ喫茶! 第二ボランティア部の出し物はそれにするの! そうすればお客がいっぱい入ってきて、みんなに第二ボランティア部の存在を知ってもらうことができるってわけ! どう、いい考えでしょ?」
「は、はあ……」
なんかよくわからなかったが、怒られるのが嫌だったのでとりあえずうなずいておく。
と――
「話は聞かせてもらった」
そんな声とともに部室の扉が開いた。
そこに立っていたのは、保健医の鬼瓦みちる先生だった。
長い髪を首の後ろで結った長身の女性。私服の上に白衣を着込み、常に気怠げな無表情を浮かべているが、その内面はかなりカオスで困った人だった。
みちる先生は石動先輩を見つめると、
「ツンデレ喫茶か。それはいいアイデアだな。うむ、じつにいい」
「うんっ! あたしもそう思う!」
「ではいいアイデアを思いついたご褒美に頭を撫で撫でしてあげよう」
言って、みちる先生は石動先壁の頭を優しく撫でた。先輩は気持ちよさそうに目を細めていた。
こういう表情をしているときの先輩は……ほんと、ドキッとするほどかわいいのである。
みちる先生に少し遅れ――一人の女子が部室に入ってくる。
ショートカット気味の髪に、ぱっちりとした大きな瞳が印象的な美少女だった。ミルクのような白い肌に、薄い桜色の唇。とてもかわいらしい女の子だ。
彼女の名前は結野嵐子《ゆうのあらしこ》。
結野は第二ボランティア部の部員であり、俺のクラスメイトでもあった。
先輩は結野に向かって、
「嵐子っ!」
「え? あ、はい」
「ツンデレ喫茶をするのよ! アピールのために!」
「ツンデレ喫茶? アピール?」
小首をかしげる結野。それも無理のないことだった。先輩、あまりに言葉が足りていません。
「嵐子。美緒はこう言いたいのだ――」
と、みちる先生が補足説明をする。第二ボランティア部を桜守祭でアピールすることにしたこと。その方法としてなぜかツンデレ喫茶をチョイスしたこと。
「というわけで!」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、先輩はやる気に満ちた表情で、
「桜守祭に向けて――ツンデレ喫茶の練習をするわよっ!」
と、大声で言い放った。
そして――本番に向けてツンデレ喫茶の予行練習をすることになった。俺を客の役にして、先輩と結野がウエイトレスをするらしい。
俺は机の一つに着いている。先輩と結野はみちる先生によって奥の部屋に連れて行かれた。ツンデレ喫茶をするならぴったりの衣装があるとかなんとかで。
「みちる先生、また先輩と結野にコスプレさせる気だな……」
みちる先生はかわいらしい服を着た美少女の写真を撮るのが趣味で、そのためには犯罪まがいのことも平気でやるというわりと頭のおかしい人だった。彼女はいつか警察のお世話になるだろうと俺はけっこうリアルにそう思っている。
「――お待たせしたな」
言いながら、みちる先生が部屋から出てくる。そして先輩と結野も。
「おお……」
二人の姿を見て、思わず感嘆の声が漏れる。
白いブラウスに、オレンジ色のスカート。スカートと同色の、後ろにリボンのついたかわいらしいエプロンをつけている。――見事な美少女ウエイトレスでした。
「うむ、二人とも素晴らしい……とても素晴らしい……」
微妙にうっとりした顔をしながら、みちる先生がつぶやく。
「衣装も決まったことだし……じゃあ、ツンデレ喫茶開始よ!」
そう言ったあと、先輩はお盆の上に水の入ったコップとおしぼりを載せて俺のいるほうに近づいてきた。自分はいったいどうすればいいんだろう、そんな気配を漂わせている結野も、とりあえず先輩の後ろについてとことこ歩いてくる。
先輩は俺の前まで来ると、流れるような動作で、当然のことのように――
コップの水を俺の顔面にぶちまけた。
「げなっぷうっっ!?」
先輩は間髪入れず、熱々のおしぼりを俺の顔面に投げる。
「あ、あちちいい!? ああああちちっちちっちいい! はあ、はあ、はあ……」
ドMの快感に一瞬我を忘れそうになる。が、なんとかそれを押しとどめた俺は、
「せ、先輩っ! いきなりなにをするんですかっ!?」
「うるせえ! そのきったねえクソ顔面を水で洗いやがれってことよ!」
「な、なんてことを言うんです!? 俺は客ですよ!? お客様は神様なんですよ!?」
「なに言ってんの! 神様はこのあたしよっ!」
「どうでもいいところに食いつかないでくださいっ! 俺が言いたいのは、なぜお客様にこんな横暴をしちゃうのかってことです!」
先輩はふんっと鼻を鳴らすと、
「ブタロウ、あんたはなんにもわかってない……萌えというものをまったく理解していないわ。切ないほどに」
「え?」
「これがツンデレ喫茶の『ツン』の部分。つまりサービスのうちなのよ」
「ツン? サービス?」
「その通り!」
「…………」
いや、いくらなんでもやりすぎだろう。いきなり客の顔面にコップの水をぶちまけ熱々のおしぼりを投げつけるなんて……そんなツンデレというか接客はあり得ない。
俺があんぐりしていると、
「お客様、メニューでございます」
先輩は何事もなかったかのようにメニューを手渡してきた。どうやら練習を続行するつもりのようだ。
俺は釈然としないまま、そのメニューに目を通した。
そこに書かれていたのは――
砂糖水 二千円
美緒さまのニーソックス 三万円
美緒さまの髪の毛 五万円
美緒さまの素足で股間を踏み踏み 客全員でオークション
「……ほなぶうっ!? な、なんじゃこのメニューは!?」
「このメニューはみちる姉が考えてくれたのよ。とりあえず、みたいな感じで」
「あ、あの人は……」
ジト目でみちる先生を見やると、みちる先生はなぜか力強くうなずいて見せた。そのうなずきの意味がまったくわかりません。
「ご注文は砂糖水でよろしいですね? では、いますぐお持ちしますのでおとなしく待ってろよこの絶望的クズ人間が」
「…………」
奥の部屋のほうに向かう先輩の後ろ姿を見つめながら、俺はため息をついた。
「え、えっと……」
そんな声を上げたのは、ずっと先輩の隣にいた結野だった。
「わたし、どうすればいいのかな?」
小首をかしげ、ちょっと困ったような笑みを浮かべながら、訊いてくる。
「……べつに、なにもしなくていいんじゃねえか?」
「そう……かな? じゃあ、とりあえず美緒さんのやることを見てるね」
「ああ」
「でも……」
結野は自分の着ているウエイトレスさんの格好を見下ろしながら、
「この衣装、なんだかすごくかわいい。わたし、気に入っちゃった」
えへへ、と笑う。
「ねえ、タローはどう思う?」
「え……? あ、ああ、かわいいと思う、けど……」
言うと、結野はほんのり頬を赤く染めながら、うれしそうに笑みを広げた。
俺はそんな結野の姿からすっと目を逸らす。微妙に顔が熱くなっていた。
なんだか心臓がドキドキしている。
最近こんなことがよくあるのだ。結野と話していると、ふいに顔が熱くなって鼓動が速くなり、結野の顔をまともに見られなくなるときが。
なんなんだろう、これは……
「――お待たせしました」
いつの間にか石動先輩が戻ってきていた。お盆の上にコップが載せてある。
先輩はそのコップを手に取ると、これまた当然のことのようにコップの水を俺の顔面にぶちまけた。
「にょばあ――っ!? ま、またかよおっ!」
さらにコップに入っていたのは砂糖水じゃなくて――塩水。しかもかなり濃度の高い塩水だった。
「ふがあっ!? い、いたいっ!? め、目とか鼻の粘膜とかがすんごくいたいっ! な、ななな、なんで砂糖水じゃなくて塩水を――」
「母なる大海に還りやがれって意味だよこのうんこ野郎っ!」
「ま、まったく意味がわかりませんっ!」
あああ、なんてことをするんだよぉ……はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……
「せ、先輩っ! いい加減にしてくださいよ! ちゃんと注文の品を持ってきてくださいっ!」
「わかったわよ」
言って、先輩は再び奥の部屋のほうに歩いていく。
そして、
「お待たせしましたド変態。今度こそ間違いなく砂糖水です」
お盆を手に戻ってきた先輩。
そのお盆の上には……なにやら平べったい容器が載っている。
どこかで見たことのある形。そう、あれだ。犬とか猫とかの餌を入れる容器。その容器に水が入っていた。
石動先輩はその容器を机の上――じゃなくて。
自分の足もと、床の上に置きました。
先輩は傲慢に細い顎を上げると、
「砂糖水を持ってきてあげたわよ。さあ、お飲みなさい」
「…………」
「四つん這いになって、犬っころのように、砂糖水を飲みなさい。さあ早く!」
そんな……四つん這いなんて……
「早くしなさい! さっさとしないと保健所に送るわよ!」
「送っても保健所の人が困るだけだと……はあ、はあ、はあ、はあ……」
ダメだって……こんなのダメだって……
意志に反して体が前のめりになっていく。先輩の足もとに置かれた容器。俺は四つん這いになって、そこに注がれている水を舌でぺろぺろと――
「うおおおおっ!? あ、あぶねえっ!」
ドMの快感に我を忘れて無様な痴態を晒すところだった。ギリギリで自分を取り戻した俺は、がばっと立ち上がり、
「せ、せせ先輩! さすがにこれはやりすぎです! 人権問題に発展しちゃいますよ!」
あまりにもひどすぎるので俺は本気で怒鳴った。
いくらなんでもやりすぎだ。人を犬みたいに扱うなんて、そんなの気持ちよ――ひどすぎる。
もう先輩の悪ふざけに付き合う気にはなれなかった。俺は椅子から立ち上がろうと――
「……ごめんなさい」
立ち上がろうとしたとき、そんな声が聞こえた。
「え?」
俺はびっくりして先輩の顔を見る。
いま『ごめんなさい』と言ったのは……先輩ですか?
石動先輩は伏し目がちで、とても落ち込んだ表情をしている。いまにも両目から涙をこぼしそうな雰囲気だった。
俺は激しく困惑した。
先輩は気弱そうに俺の瞳を見つめ、
「あたし、ちょっと調子に乗りすぎたみたい……ほんとうにごめんね」
言うと、先輩はポケットからハンカチを取り出した。
「こんなに濡れちゃって……」
「へ? えっと……」
俺のほうに体を寄せてきた先輩は、左手を俺の右肩に置き、右手に持ったハンカチで水に濡れたままだった俺の顔や首筋や胸元を優しく拭いてくれた。
「あ、あの……せんぱい……?」
目の前に石動先輩の申し訳なさそうな顔。
先輩は俺の両足のあいだ、股間のすぐ前に立ち、密着するような感じで顔を拭いてくれている。先輩の体からはなんだかいい匂いがして……俺はちょっとくらくらした。
先輩はそっとハンカチを離し、目を伏せると、
「あたしって子供だな……だって、大好きな人をついイジメちゃうんだもん」
「ほへ?」
「素直じゃなくて、自分の気持ちをどう伝えればいいのかわからなくて、ついついひどいことをしちゃうの……ほんと、あたしってバカだ……」
ハンカチを持った右手を口元に当てるようにして、そんなことを言った。
「…………」
えっと……
もしかして、いま先輩は『デレ』モードに入ってるのか?
ツンデレ喫茶の『ツン』が終了し、『デレ』の部分に移行したってわけですか?
先輩は顔を上げると、
「怒った?」
「え? い、いや……」
「あたしのこと……嫌いになった?」
潤んだような目で俺を見つめてくる。不覚にもドキッとしてしまった。
「そんなことは……ないですけど……」
「ほんと?」
「は、はい」
「ほんとにほんと?」
俺はうなずく。
「じゃあ、ほんとに怒ってないなら……ぎゅっとしてください」
「へ?」
「怒ってないなら、その証拠に、あたしをぎゅっとしてください」
言うと、先輩はちょっと小首をかしげるようにして、ゆっくりと両手を広げる。
「ぎゅっとしてって……そ、それはどういう……」
「ぎゅっと抱きしめてください」
「だ、抱きしめてって……」
先輩は砂糖菓子のような甘い笑みを浮かべながら、
「お願い――ぎゅっとして」
「ごふっ!」
なぜかうめき声が漏れた。
あまりにもかわいすぎる笑顔だった。その笑顔を見つめていると、なんだか体が勝手に前に……両腕が先輩のほうに……
そのとき――
「ダ、ダダダダダダダ――」
近くで大声が炸裂した。
「ダメエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ――――ッッッ!」
声を発したのは結野だった。
結野は俺と先輩のあいだに割って入ると、
「そ、そそそそそんなのは、ぜったいにダメですうっ!」
叫びながら、右手と左手で俺と先輩の体をぐいっと引き離した。
「ゆ、結野?」
「ぎゅっとするとか、そんなのは――ふぇ?」
結野は大きな瞳をさらに大きくしながら、自分の右手を見つめた。
結野の右手は俺の胸の辺りに触れている。
それを見た俺もぎょっとする。
結野の手が俺の体に触れている……こ、これはやばい……
「あ、ああああ、あう……」
カタカタと震え出す結野の体。
そして。
「イ――――――」
部室を震わすほどの悲鳴が響き渡った。
「イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッッッ!」
「げべっぽお――っ!?」
悲鳴と同時に突貫してきた結野の拳が俺の顔面を打ち抜いた。それはそれは見事なコークスクリューパンチでございました。男性恐怖症である結野は自分の体に触れた男性を反射的に殴ってしまうのですげぼぉおおっ!
「こ、ここここわいよぉ! 男の子こわいよおっ! ふえ――んっ!」
「がはああ――っ!」
拳のラッシュのあとトドメのアッパー――俺の体は天高く舞い上がり、背中から床に激突した。
「あ……」
ハッと我に返った結野は慌てて俺に駆け寄ろうとする。
「タ、タロー!? ああああ、わたしまたタローを……」
「ぐふ……ぐふふふふ……」
「タロー?」
俺は――
「ヒョオオオオオオオオオオオオオオ――――――――――――ッッッ!」
「――っ!?」
ぴょんとバネ仕掛けのように立ち上がり、両手を広げて舞い上がった。
「ハイヨオッ! ハイハイヨオオッ! ベベロンロオオオオオオ――ッッ!」
もはや我慢は限界を超えた! ドMの変態であるオレッチは! もう気持ちよすぎてイヤッホウな気分だぜい! もうイマがよければそれでイイんだぜい!
俺は両手を前に出しながら微妙にリズムに乗ったクネクネした動きで、
「ヘイYO! オレのドMは宇宙一キモいんだYO! 変態業界最前線なんだYO! つーわけでオレはYOUにもっと痛めつけて欲しいんだメーン! だからもっとオレの体にその拳を叩き込んで叩き込んで叩き込んではあはあはあはあ――」
激しく息を荒げながら結野に近づいていく。
結野の表情が恐怖に歪む。
俺はもうドMの悦楽にわけがわからなくなって、そして――
「テメェなにラップ調でよがってやがんだキモすぎんだよこのブタラッパーがあああ!」
「ごばるぐっっ!?」
石動先輩の強烈なラリアットが俺の首の骨を破壊するような勢いでめりこみ、俺は派手に吹っ飛んだ。
後ろにあったロッカーに後頭部をぶつけたあと、尻を高く上げた前のめりの格好で倒れ込む。
「うげげ……き、き、きもちいいにょろ〜……」
床の上で悶絶する俺を、先輩は冷たい目で見下ろしながら、
「やれやれ、こんなんじゃあツンデレ喫茶の予行練習にならないじゃない。まったくこのアホ変態は……」
「お、俺のせいなんでしゅかla……?」
「ん? でも……待てよ。よく考えてみたら、第二ボランティア部の願いごとを叶えるってコンセプトとツンデレ喫茶ってまったく関係ないわね。そんなんで客がいっぱい来てもあんまり第二ボランティア部のアピールにはならないかも……」
「いまごろそんなこと言わないでくだしゃい……」
「やっぱりツンデレ喫茶はやめにするわっ! もっと第二ボランティア部の活動内容に関係あるようなアピール方法じゃないと意味ないし!」
「…………」
「じゃあ、新しいアピール方法は明日までに考えとくから――」
先輩がそこまで言ったとき。
唐突に――部室の扉が開いた。
皆の視線が一斉にそちらに向く。
扉を開けたのは、長い髪をツインテールにした細身の少女だった。
「あ……間宮さん」
彼女は、結野の親友である間宮由美さんだった。俺の親友、葉山辰吉《はやまたつきち》の元彼女でもある。
間宮さんは扉に手をかけたまま、険しい……というか、なんか疲れが蓄積したような表情をしていた。顔を上げ、部室の中に視線を巡らせる。
「げっ!? ま、間宮っ!」
先輩が身構える――よりも一瞬早く。
滑るような足取りで先輩に近接した間宮さんは、慣れた動きで先輩の体を近くにあった机の上へ仰向けに押さえつけた。
「ちょ――あっ……」
「うふふ……今日の美緒さんもかわいい。すっごくかわいい」
「うわ、ああっ! ら、らめ……」
「かわいい、ほんとに超かわいい……」
間宮さんは熱に浮かされたような表情で言うと、気持ち悪いほど素早く動く右手と左手で先輩の体をまさぐるようにマッサージしていく。
丸い肩を何度も撫で「ああ、んふぅ……」、肋骨をなぞるように指を走らせ「はっ、はっ、んんん……」、おなかを優しく揉み「うううっ! くぅ……!」、太ももや足首を往復するように指を這わせる「ら、らめぇ……もういやぁ……」。そんな二人の様子を、みちる先生はデジタルカメラで激写していた。
間宮さんは間宮流マッサージ術という怪しげなマッサージ術の使い手であった。そのマッサージを喰らった人間はあまりの気持ちよさで骨抜きになり、満足に動くこともできなくなってしまう。そして、間宮さんはかわいい女の子にマッサージすることを至上の幸福とする少女だった。
先輩の体から両手を放す間宮さん。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
先輩は机の上に仰向けになったまま荒い呼吸を繰り返していた。とろんとした瞳、赤く上気した頬、小さな唇からは涎《よだれ》の筋まで垂れている。
間宮さんはそんな先輩の姿を満足そうな顔で見下ろしていた。扉を開けたときとは大違い、いまの間宮さんは艶々とスッキリした顔をしている。
「ふぅ。堪能させてもらったわ」
余は大変満足じゃ、みたいな感じで言うと、間宮さんは先輩に背を向けて
「ちょ、ちょちょちょちょっとっ! ま、ままま待ちなさいよっ!」
扉のほうに向かおうとした間宮さんを、机から降りた先輩が激しい声で呼び止める。ふらふらで立つことができないのか、先輩はぺたんと女の子座りのような格好をしていた。
先輩は微妙に涙目になりながら、
「あ、あああ、あんたねぇ! なんで、いつもいつもいつも突然部室にやってきてはあたしにマッサージしやがるのよっ! いい加減にしないと殺すわよっ!」
そう――いまの光景はもう俺たちには見慣れたものだった。
間宮さんは何日かごとに部室にやってくると、石動先輩に怪しげなマッサージを施し、そして自分だけ満足そうな顔をして部室を出て行くのだった。
「そ、そうよ由美っ! いい加減にしなさいっ! 美緒さんに迷惑かけちゃダメよ!」
ぐっ、と両拳を握り、結野が間宮さんを叱る。
だが間宮さんは、
「ああんっ! 怒った顔の嵐子もかわいいっ! しかもなによその愛くるしい格好は! 萌えっ!」
「ちょ――こ、こらっ!」
今度は結野に抱きついた。ぎゅーっと抱きついた。
「ごめんね嵐子。あたしが美緒さんとばっかりイチャイチャしちゃったから拗ねちゃったのよね。お詫びの印に、美緒さん以上に念入りなマッサージを……」
「や、やや、やめてったらっ! タ、タローが見てるのに……」
「タロー?」
急に間宮さんの目つきが冷たくなる。
間宮さんは床に倒れる俺を見下ろすと、
「ああ、砂戸くん。あなたもいたの。そんなところで転がってるからゴミだと思ったわ」
「…………」
間宮さんはドMの変態人間である俺のことをあまりよく思ってないらしかった。なので、いつもあんな冷たい視線で……はあ、はあ、はあ……
ようやく立ち上がることができた先輩が間宮さんに詰め寄り、
「いい!? これが最後通告よっ! 今度こんなことをやったら――」
「ごめんなさいね、美緒さん。でもこればっかりはしょうがないのよ」
「し、しょうがないってどういうことよ!?」
先輩が噛みつきそうな勢いで叫ぶ。
間宮さんは小さくため息をつき、言った。
「桜守高校に転校して来て驚いたわ……だって、この学校にはわたし好みの美少女がすごく多いんですもの。わたしのクラスにもわたしが所属する料理部にも」
間宮さんは二学期からこの桜守高校に転校して来たのだ。
それは元彼氏である辰吉のハートを再び射止めるためであった。だから、彼女は転校してきてから辰吉に猛烈アタックを続けている。料理部に入ったのも、そこに辰吉が所属していたからだ。が、いまのところそのアタックは実を結んでいなかった。
「だからなによ? ……つーか、そんなにあんた好みの美少女が多いんなら、あたしじゃなくてそいつらにマッサージすればいいでしょうが」
「わたしだってできればそうしたいわよ」
言って、間宮さんはかぶりを振る。
「でもね……わたしが前に通っていた女子校でこんなことがあったのよ」
間宮さんは遠くを見るようにしながら、
「前に通っていた女子校にも美少女が多くてね、わたしはめぼしい美少女に手当たり次第にマッサージしちゃったのよ。それも、何度も何度も。そんなことをしてたら、いつの間にか何十人という女子たちが妄執的なほどわたしに懐いてきて……」
ふっ、とどこか厭世的な笑みを浮かべる。
「あれは、天国……いえ、地獄というべきなのかしら……」
……間宮さんの女子校時代にいったいなにがあったのだろう。
「あのときと同じ轍は踏まないように、この学校ではむやみにマッサージはしないようにしようって心に決めたのよ。……でもね、それだとすんごいストレスがたまっちゃって。だから、それを美緒さんの体で発散しているわけなのよ。本当、美緒さんがいなかったら、わたしはストレスのたまりすぎで頭がおかしくなってたかもしれないわ」
「あんたはすでに頭がおかしいわっ! つーか、あたしだってこの学校の生徒なんだからむやみにマッサージするんじゃないわよっ!」
「美緒さんには転校する前からマッサージをしてしまったんだし、いまさら我慢してもしょうがないでしょう? それに……美緒さんはあまりにもかわいすぎるから、どうにもこうにも我慢が……ああ、そんなこと言ってたら、また……」
「こ、こらっ! ハァハァ言いながら近づいてくるんじゃないっ! マジ殺すわよっ!」
先輩は怒鳴りながら間宮さんの体を押し返す。
「もうさっさと出て行きやがれ! そして二度とくんな!」
「そんなつれないこと言わないでよ……じゃあ、またね」
「二度とくんなって言ってるでしょうが! 今度来たら絶対殺すから!」
間宮さんを部室から追い出したあとも、先輩はまだ不機嫌そうな顔をしていた。
「ああ、イラつく……本当にイラつくわっ!」
「ぐ、ぐええ!? せ、せせ先輩! 俺に八つ当たりしないで……はあ、はあ……」
先翠はイライラしながら床に倒れる俺の背中を踏んづけた。ああああ、そんなことをされるとまたオレのドMが……はあ、はあ、はあ……
「とにかくっ!」
先輩は気を取り直すように叫んだ。
「この美緒さまが明日までに素晴らしいアピール方法を考えとくから! みんな、明日の部活は絶対に休まず出なさいよ!」
次の日。放課後の教室。
教壇に立つ長い髪を三つ編みにした少女が、椅子に座るクラスメイトたちを見つめながら、
「桜守祭まであと十日を切っています」
と、凛とした声で言った。黒縁メガネのブリッジを人差し指でくいっと上げる。
彼女は、俺たちのクラス委員長である綾瀬川霧乃さんだった。
「私たちのクラスの出し物は演劇。脚本はクラスメイトの舞原さんが書いてくれたオリジナルストーリー。そこまでは完璧に決まっています」
俺はちらりと前のほうの席に座る舞原さんのほうに目を向けた。
小柄で物静かな雰囲気の女子――舞原さんは作家を目指していて、それはクラスでは周知の事実だった。そして、どうせ演劇をやるなら舞原さんにオリジナルストーリーを書いてもらおうということになったのである。
「……ですが」
委員長はふうと息を吐き、
「残念ながら配役のほうがまだ決まっていません」
一瞬だけ眉を逆立てる。
「できればクジ引きや他者の推薦などで配役を決めたくはありませんでした。主役クラスの配役は本当にやる気のある人にやってもらわないと完璧な演劇を完成させることは難しいと思ったからです。あなたたちの自主性に期待し、誰かが立候補してくれるのをずっと待っていましたが……これ以上配役決めを先延ばしにすることはできません。というわけで、いまから配役決めのクジ引きを行います」
クラス委員長であり桜守祭実行委員も兼任している綾瀬川さんは、できるならやる気のある人に立候補して欲しいと考え、いまのいままで配役決めを引っ張っていたのだが……結局、主役クラスの配役に立候補する人間はいなかった。
日に日にイライラしていく委員長を見るのは怖かったのだが、やっぱりみんな人前で演技をするのは恥ずかしいようだ。もちろん俺も含めて。
「――フンフン! フンフンフン!」
教壇の横でそんな声を上げているのは、俺たちの残念なクラス担任であり筋肉至上主義者の中山先生だ。
中山先生はこのロングホームルームの間中、ずっとスクワットをしていた。彼がこういう時間に筋肉を鍛えようとするのはもはやこのクラスでは日常の風景だったので誰も彼もスルーしている。
そして、クジが用意される。
教壇の上に置かれた四角い箱。その中にクジが入っていた。配役の名前が書いてあるクジを引いた人が、その配役を演じることになるのだ。配役が決まったあと、クジから外れた人たちで小道具や大道具などの配役以外の係を決めていくようだった。
「――では、みんな順番にクジを引いてください」
委員長が告げる。
窓際のほうの席から順に引いていくことになり、クラスメイトが順番に立ち上がって教壇に向かう。
「よし、いくか……」
俺の前の席に座る金髪で小柄な男子――俺の親友である辰吉が、緊張した面持ちで立ち上がる。辰吉は一見不良っぽい外見をしているが、中身は超がつくほどの優等生。そして、女装趣味という変態的な趣味を持っている奴でもあった。
教壇の前に立ち、クジを引いた辰吉は、
「……ぬぉ」
小さくうめいたあと、その場でしばらく固まっていた。
「辰吉、おまえなにを引いたんだ?」
席に戻ってきた辰吉に尋ねる。
すると、辰吉は絶望的な表情で、
「……準主役」
「え?」
「俺が引いたのは……準主役の青年の役だ……」
うわあ、それはそれはご愁傷様……
「まあ、気を落とすなよ。それに、やりがいのある役じゃねえか」
「おまえ、他人事だと思いやがって……ちくしょう最悪だ……」
辰吉の次は、とうとう俺の番である。
俺は教壇に向かった。
クジの箱の前に立つ。
「……ふう」
一つ深呼吸。
俺は箱の中に手を伸ばした。
外れろ、外れろ外れろ外れろ……
そう祈りながら、俺はクジを一つ選び――思い切って箱から手を抜いた。
クジは四角く折りたたまれている。俺はゆっくりとクジを開いた。
広げたクジには――
なんと、配役の名前が書いてあった。
「ぐ、ぐわあ……っ!」
体がよろめく。
「俺も配役かよ……」
まさか配役をやる羽目になるとは……
「はあ……」
ため息をつきながら、自分の机に戻る。
椅子に座り、渡されていた脚本を見直す。まさか配役をやるとは思っていなかったので脚本を読み込んではいなかったのだ。
俺の役柄は、主人公である貴族の少女に仕える使用人のようだった。
「まあ、辰吉よりはマシか……」
辰吉は崩れ落ちるように机に突っ伏していた。かわいそうに……
外れを引いてよっしゃーと歓喜の声を上げる者。配役に決まってしまい悲壮感を漂わせる者。明暗がはっきりとわかれている。
が、主役を引き当てた奴はまだいないようだった。
「次は私ですね」
委員長だった。
まっすぐに背筋を伸ばし、クジを引く。
クジを開く――そのとき、委員長が少しだけ顔をしかめたように見えた。
「…………」
委員長は確認するようにクジの中身をまじまじ見つめたあと、ぽつりと、
「主役を……引いてしまいました」
主役である貴族の少女は、委員長に決まってしまった。
配役決めが終わったあと、大道具や衣装係など配役以外の担当も決められる。
俺と辰吉は残念ながら配役に決まってしまった。ちなみに、結野と間宮さんは小道具係になったようだ。ううむ、うらやましい。
それぞれの係の代表が選出され、委員長を交えてこれからの段取りについての簡単な話し合いが行われた。
「では、時間がありませんので、さっそくおのおのの仕事に取りかかってください。配役の人たちは本読みをはじめますのでこっちに」
委員長であり桜守祭実行委員であり――さらにクジ引きで主役の少女に選ばれてしまつた委員長が、クラスメイト全員に向かって言った。公正なクジの結果とはいえ、そのあまりにもな激務を背負う彼女には気の毒に思ってしまう。
配役に選ばれた俺たちは本読みをするため一ヶ所に集まり、適当な椅子に腰を下ろした。
これから本読みが行われる。
脚本を手に持ちながらそれぞれが自分の配役のセリフを言い、最後まで脚本を読んでいくのだ。演出を担当することになっている舞原さんも俺たちのそばに座っていた。
――ちなみに、劇の内容を簡単に言うとこんな感じである。
時代は中世ヨーロッパ。主人公である貴族の少女は傲慢でわがままな性格で、地位と権力を盾にして平民や使用人にひどい仕打ちを繰り返していた。だが、ある日、街で暴漢に襲われそうになった少女を平民の青年が救う。二人は恋に落ち、それがきっかけで少女はこれまでの自分の行いを悔いるようになる。
二人は順調に愛を育んでいくが、身分の差を気にした少女の父親の陰謀によって青年は事故に遭い、記憶を失ってしまう。少女は記憶を失った青年のもとに何度も会いに行き、二人の思い出の品などを見せて記憶を取り戻そうとするが、何年経っても彼の記憶は戻らなかった。
そんなある日、ベッドでうたた寝をしていた青年の横で少女が何気なく鼻歌をうたう。それは二人が愛し合っていたとき少女が一度だけうたったことのある鼻歌だった。それを聴いた瞬間、青年の記憶は蘇り、二人はかつての愛を取り戻すのだった。
その主人公の少女役が委員長。
恋人の青年役が辰吉。
俺は少女に仕える使用人役だ。
「では……はじめましょう」
委員長が言った。
「まずは私のセリフからですね」
主役の少女のセリフから本読みがはじまる。
俺がおもに登場するのは物語の前半、傲慢な少女にひどい仕打ちをされる場面がメインだった。
役者たちのセリフとともにストーリーが進んでいく。
もうすぐ俺が登場するシーンだ。俺はやや緊張しながら生唾を呑み込んだ。
少女と使用人が会話する場面。
貴族の少女――委員長は、俺を睨みつけるようにしながら。
心の底から侮蔑するような声で、言った。
「使用人。あなたって本当にクソでクズみたいな人間ね。あまりにも汚くて気持ち悪すぎるから世界と私のために死んでくれない? 汚物に顔面を突っ込んで溺死してくれない?」
委員長は道端のゴミでも眺めているような視線を俺に向けている。
それは、あまりにも迫真の演技だった。
「…………」
俺は思わず呼吸を止めてしまう。変な間が生まれる。
「あ……わ、わりい!」
言ったあと、俺は慌てて自分のセリフを読んだ。
「す、すみませんお嬢様……」
「カスのくせに気安く声をかけるんじゃないわよ。というかウジ虫より三段階くらい下の生き物のくせに人間の言葉を喋るんじゃないわよ。ふん、ムカつくからいつもの遊技をすることにするわ」
「いつもの遊技とは……?」
「小汚いあなたを鞭で叩きまくるという遊技に決まってるでしょう? あなたは記憶力までゴミのようね」
「そ、それは遊技というよりただの拷問のような気が……」
「無様な社会の底辺のくせにうるさいわ。あなたの声を聞くだけでなぜか吐き気がするからもう喋らないでくれる? ああ、苛々する。あなたの気持ち悪い声に比べたらゴキブリの羽音のほうがまだ心地いいわね」
「…………」
「さて、今日は日が暮れるまで鞭で叩きまくる予定だから死なないようにがんばりなさい。あ、無理ならべつに死んでもいいわよ。あなたなんかが死んでも誰も悲しまないでしょうし。むしろみんな喜ぶかしら。お祭り騒ぎになるかしら」
「…………」
ただの本読みにもかかわらず、委員長の演技は過激すぎた。本気で俺をどうしようもないゴミ使用人と思っているような感じだった。
そんなふうに言われちゃうと、ドMの俺は――
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
き、気持ちよくなってしまうじゃないか。
「お、おい、太郎」
「はあ、はあ、はあ……む、鞭で叩かれたい……」
「太郎! しっかりしろ!」
「ぬおっ!?」
辰吉に思いっきり足を踏まれ、
「あ……」
俺はなんとか我に返った。
顔を上げると――
役者のみなさんが、きょとんとした顔で俺を見つめていた。
「砂戸くん、どうかしましたか?」
委員長が言う。
「次も砂戸くんのセリフですよ? 早く続きを読んでください」
少し苛々した様子だった。
「あ、ああ……」
俺は冷や汗をかきながら次のセリフを読む。
――それから、少女が使用人にひどい暴言を吐くシーンはなぜか三回もあった。
暴言は回を重ねるごとにひどくなっていき、そして……
「はあ、はあ、はあ……」
ドMの俺はそのたびに興奮してしまった。
ようやく本読みが終了し――
「た、太郎、大丈夫か……?」
「やばい……こいつはやばい……」
俺は肩で息をしながら言った。
ただの本読みでさえこの状態。しかも劇中には軽くとはいえ実際に鞭で殴られるシーンまで存在するのだ。
そんなことをあの委員長にあの演技でやられてしまったら……俺はドMに我を忘れて身悶えてしまうこと確実。これはかなりの危機だった。
俺は椅子から立ち上がり、
「い、委員長!」
「なんです?」
「あ、あの、ちょっと脚本のことで話があるんだ」
「言ってください」
「えっと……少女と使用人のシーンがあるだろ? あそこさ、もうちょっとソフトにやらないか?」
委員長は眉をひそめ、
「ソフトとはどういう意味です?」
「だから……少女の暴言をもうちょっと優しい感じに。あと、できれば鞭で叩くシーンはなしの方向で」
「どうしてですか?」
「そ、それは……なんとゆーか……」
俺は必死に言い訳を絞り出した。
「さ、桜守祭にはいろんな人がやってくるだろ? その中には小さな子供だっているはずだ。そんな子供たちにあんな暴言や暴力のシーンを見せるのはどうかと……ま、舞原さんはどう思う?」
脚本を書いた舞原さんに尋ねてみる。
舞原さんはいつものどこか無機質に見える顔で、こくりと小さくうなずく。
「……役者さんの意見はできるだけ採用したい。だから――」
「ダメです」
会話に割り込んできたのは、委員長だった。
「このシーンは少女のすさんだ心を表すために絶対必要です。このシーンがあるからこそ、青年と出会ってからの少女の心の変化が際だつのです。そういう脚本家の意図を、砂戸くんはどうしてわからないんですか?」
「……委員長。わたしはべつに――」
「このシーンはこのままでいきます。――ほかに、なにか脚本についての意見や疑問などがある人はいますか?」
委員長は有無を言わさず、俺の意見をぶった切った。
く……な、ならば最後の手段だ。
「じゃ、じゃあ!」
俺は大声で言う。
「じゃあ、配役を替えてくれ! 俺、準主役をやります!」
かなり苦肉の策だったが、ドMに我を忘れるよりはマシだ。
俺は隣に座る辰吉に顔を向け、
「辰吉、俺と役を替わってくれ! いいよな!?」
「え? あ、ああ、それはむしろこっちからお願いしたいくらいだけど――」
だが。
「認めません」
委員長はぴしゃりと言い放った。
「クジで公平に決めた結果です。いまさら配役の変更など認めません」
「で、でも、辰吉も了承して――」
「関係ありません。配役はこのままでいきます。絶対に」
ぎん、と睨むように見つめてくる委員長。
もはやなにを言っても無駄――その視線は雄弁にそう語っていた。
「あ、あう……」
俺はうめくことしかできなかった。
演劇の練習や準備が終わったあと、俺と結野は部室に向かった。
「遅いわよ二人とも! なにやってたのっ!?」
部室にやってきた俺たちを見るなり、石動先輩はそんな声を上げた。その後ろにはみちる先生が立っている。
「まあいいわ。とにかくあたしの話を聞きなさい」
先輩は薄い胸を張るようにして、言う。
「昨日あたしは言ったわよね。今日までに第二ボランティア部のアピール方法を考えておくって。その公約通り、あたしは考えたわ!」
先輩はにやりと自信ありげな笑みを見せると、
「それは――桜守祭のトラブルシューターよっ!」
「トラブルシューター?」
と、結野が首をかしげながら尋ねる。
「そうよっ!」
先輩は力強くうなずく。
「桜守祭は桜守高校の生徒と外来の客たちでこったがえす大規模なお祭りっ! お祭りにはトラブルが付きものでしょ!? だから、その桜守祭で起こったトラブルをあたしたち第二ボランティア部で解決するのよ!」
先輩はキラキラした目で、ぐっと右拳を握る。
「トラブルを解決してもらった人たちはあたしたち第二ボランティア部にすごく感謝する。その評判が口コミでどんどん広がり……第二ボランティア部は願いごとの依頼に来る生徒たちでごった返すことになる! ああ、それは栄華の時代!」
「あの……でも、トラブルってどんな……」
「それは桜守祭当日にならないとわからないわよ。でも大丈夫! どんなトラブルだって見事に解決してみせるわっ!」
叫ぶように言ったあと、
「ところで……」
先輩はジト目で俺のほうを見やる。
「このブタ野郎はいったいどうしたのよ? 部室にやってくるなり隅のほうで三角座りなんかしちゃって。ノイローゼなの? 微妙にムカつくから反射的に殴ってしまうところだったわ」
「えっと……じ、じつは……」
俺の代わりに結野が説明してくれる。
「じつはタロー、クラスでやる演劇で配役に選ばれちゃって。クジ引きで」
「クジ引きで配役? 主役にでも選ばれたの?」
「いえ、劇の重要度でいったら真ん中ぐらいの配役なんですけど……」
「なんだ、主役じゃないんだ。それなのにこんなヘコんでるわけなの? 軟弱なブタ精神ね」
呆れたような口調で言う先輩。
俺はようやく立ち上がり、ゆらりと先輩に向き直ると、
「むしろ……主役のほうがよかったんですよ……」
悲壮感の滲む声で言った。
「これはピンチなんです……未曾有の大ピンチなんです……」
「は? あんたなに言ってんの?」
「俺のやる役は……やばい役なんですよ……」
――俺は泣きそうになりながら、先輩に事の次第を説明した。
先輩は腕を組みながら、
「なるほど……そういうことだったのね」
「はい。このままだと……俺は下手をすれば明日の演技練習の最中にドMを目覚めさせちまってどうしようもない痴態を演じてしまうかもしれないんです……」
明日から行われる練習には実際に鞭で叩かれるシーンもあるのだ。
俺は絶望的な表情で肩を落とす。
そんな俺に、先輩はどこか明るい声で、
「でもブタロウ、心配しなくてもいいわ」
と、言った。
「え?」
「明日の練習には鞭で叩かれるシーンがある。あんたはそのシーンでドM体質をおさえこむ自信がない。このままではクラスメイトたちにドMのことがバレてしまう。それで悩んでいるのよね?」
「そ、そうですけど……」
「だったら――」
先輩はにっと不敵な笑みを見せ、
「あんたのドM体質を明日までに治せばいいだけじゃない」
「…………」
まあ、確かにその通りだけど……
「忘れたの、ブタロウ? あんたはこのあたしにドM体質を治してほしいとお願いした。そうよね?」
「は、はあ、まあ……」
「だったらなにも心配ないじゃない! 全部このあたしに任せればいいのよ!」
「…………」
ええーっと……
「つまり、先輩が俺のドM体質を治してくれるって言うんですか? 明日までに」
「そうよっ! あんたのドM体質、このあたしが見事に治してあげるわ!」
先輩は自信満々な様子で言い放った。
この人は……これまで繰り返した数多《あまた》の失敗のことを覚えていないのだろうか。
「あ? なによその顔は? このあたしが信じられないの?」
「い、いや、えっと……」
正直、まったく信じられません。
「大丈夫よ! あたしには秘策があるわ!」
「ひ、秘策?」
「ええ。あんたのドM体質を治すためのとっておきの秘策。いままでずっとあたためていたそれを、いまこそ解き放つわっ!」
「美緒。その秘策とはなんだ?」
と、みちる先生が尋ねる。
先輩は薄い胸を張ると、
「それは……催眠術よ!」
と、叫ぶように言った。
俺はぽかんとした顔で、
「さ、催眠術?」
「その通り!」
「…………」
催眠術って……あの催眠術?
「ちょっと前にテレビで観たのよ。催眠術にかかった人の体が棒のように硬くなったり、催眠術師の合図で踊り出したりするのを。その人は催眠術師の意のままに操られていたわ。そのときあたしは閃いたのよ! これを利用すればあんたの気持ち悪すぎるドM体質を治すことができるかもしれないって!」
ちょっと前にテレビでって……さっきはずっとあたためていたとか言ってませんでしたか?
「と、いうわけで――」
先輩はずいっと俺に近づいてくる。
「いまからあんたに催眠術を施すわ。ブタロウ、そこの椅子に座りなさい」
「え……あ、あの、催眠術ってやっぱり先輩がやるんですか?」
「もちろんそうよ」
「でも、催眠術って相当な訓練が必要な気が……」
「問題ないわ! あたしの辞書に不可能の文字はないのよ!」
この人の根拠のまるでない自信はいったいどこから湧いてくるのだろう。
そして――
俺は先輩の指示通り、椅子に腰掛けた。
目の前には真剣な顔をした先輩が立っている。手にはみちる先生から借りたネックレスを持っていた。
やれやれ……よりによって催眠術とは。
そんな陳腐でアホみたいな方法でドM体質が治るわけがない。そう思っているのだが、それを言うと先輩が烈火のごとく怒り出すのは確実なのでなにも言えないのである。
「ブタロウ。準備はいい?」
「はあ……もうどうにでもしてください」
投げやりな感じで言うと、
「てめえなんだその態度はやる気あんのかコラアッ!」
「げぶるばっ!?」
先輩の強烈な平手打ちが俺の頬を直撃した。
「これは全部あんたのためにやってることなのよ! それなのにその投げやりな態度はいったいなに!? 真面目にやらないと肋骨を十八本ほどへし折るわよ!」
俺は若干気持ちよくなりながら、
「はあ、はあ、はあ……しゅ、しゅみません……」
「まったく、このブタ顔面が」
先輩は苛ついた様子で言ったあと、俺の目の前にネックレスを掲げた。
「いい、ブタロウ。いまからあたしがこのネックレスを左右に揺らすから、それを目で追うのよ。わかった?」
「は、はい。了解しました」
「よし。では……はじめるわよ」
先輩はゆっくりとネックレスの先端を左右に揺らす。
俺は内心馬鹿馬鹿しく思いながらも、先輩の指図通りネックレスの動きを目で追った。適当にやっていることがバレるとまた殴られちゃうので、とりあえずは先輩の言うとおりにしなければならない。
「あんたはだんだん眠くなる〜。眠くなる〜」
まったく……こんな素人催眠術でドM体質が治るわけがないのに……
「眠くなる〜異様なほどに眠くなる〜」
アホらしい。こんなことで眠くなるわけ……
眠く……なる、わけ……
あ、あれ?
どうしたのだろう。
なんだかすげえ瞼が重い。
それに、なんか頭もとろーんとなってきて……ええーっと……
「眠くな……あれ? ブタロウ?」
石動先輩の声。
「おおーい。……あんた、本当に寝ちゃったの?」
俺は完全に瞼を閉じていた。意識もふわふわしていて、なんだか夢見心地な感じ。先輩の声だけが耳に届いてくる。
「ちょっとあんた、ふざけてるんじゃないわよね……?」
少し困惑しているような口調だった。
「ほんとに寝ちゃった……えっと、じゃあ、とりあえず予行練習ということで……」
少しのあいだ考えたあと、先輩はこう言った。
「あんたはいまから、なにを喋っても語尾が『ムッチャボイン』になる……語尾が『ムッチャボイン』になる……」
語尾がムッチャボインってなんだよ……
そんなこと言うわけないじゃねえか……
「あたしがあんたの肩を叩いたら、あんたは目を覚まします」
言って、先輩は俺の肩を軽く叩いた。
その瞬間――俺の意識は一瞬で覚醒する。
瞼を開ける。
石動先輩が俺の顔を覗き込んでいた。その後ろには結野やみちる先生の顔もある。
先輩は様子をうかがうように、
「ブタロウ……調子はどう?」
そんなことを尋ねてきた。
俺は先輩の顔を見つめながら、
「調子って……まあ、普通ですけどムッチャボイン」
言ったあと――すぐさま自分の手で自分の口をふさぐ。
え……? い、いま俺はなにを……
「い、いま俺はなにを言ったんだムッチャボイン? ――だからムッチャボインってなんだよムッチャボイン!」
「…………」
先輩たちはどこか唖然としたような顔で俺を見つめている。
「ブ、ブタロウ! もう一度! もう一度やるわよ!」
先輩は再びネックレスを俺の目の前にかざす。
「あなたはだんだん眠くなる〜。眠くなる〜」
瞼が下がると同時、俺の意識はすぐさま深いところに沈んでいった。
「は、早い。さっきよりも眠るのが早くなってるわ……」
先輩のびっくりした声。
「ええっと……じゃあ、あたしが手を打ち鳴らしたら、あんたは陽気な外国人になって狂ったように踊りまくる……陽気な外国人になって狂ったように踊りまくる……」
ははは、なにを言ってるんだよ先輩は。
そんなこと絶対にするわけないじゃないか。絶対に。
先輩が俺の肩を叩く。俺は目を覚ました。
「なんか……すっげえ頭が重い気がする……」
俺は頭を抱えながら言う。
「先輩、催眠術なんかでドMが治るわけないからもうやめましょうよ」
とにかくもう椅子に座り続けていることもないだろうと思い、俺は立ち上がった。
石動先輩がパンッと両手を打ち鳴らした。
すると、
「――オウ! ワタシ、スゴクタノシイデース!」
俺は、両手両足をシャカシャカ揺らしながらぐりんぐりんと頭を回転させた。
「アハ、アハハハハハ! タノシスギテ、オシッコ、モレソウデース! YAH!」
叫びながら、その場でバク宙――を失敗して床に激突する。
「げぶっ!?」
脳天に超絶的なダメージを喰らった俺は、そのショックで我に返った。
「え……お、俺はいったいなにを……」
「これは間違いない……もう間違いないわ……」
先輩は全身を震わせ、興奮した様子で、
「ブタロウ、あんたは――」
びしっと人差し指を俺に突きつけ、告げる。
「催眠術にすんごくかかりやすい体質だったのよっ!」
「えええええええっ!?」
俺が……催眠術にすんごくかかりやすい体質……?
「まさか適当に考えた催眠術がこんなに効果的だったなんて……」
先輩は両手をわななかせながら、
「い、いける! こいつはいけるわ! この催眠術であんたのドM体質を治すことができる!」
「ま、まさかそんな……」
こんなアホみたいなことで……
「ああ、今日は記念日になるわよ……あんたにとっても、あたしにとっても……」
両手を胸の前で組み、夢見るような表情でつぶやく先輩。
「では――いまからあんたのドMを治してやるわ! 完全に!」
俺を椅子に座らせた先輩は、どこか神妙な面持ちでネックレスを俺の眼前にかざす。
「ブタロウ……このネックレスをよく見なさい」
「は、はい」
俺は緊張しながらうなずいた。
本当に……
本当に俺のドM体質が治るのだろうか。
もし本当に治ったら、それはとても素晴らしいことだ。
ゆっくりと左右に揺れるネックレス。
俺の瞳はその動きを追う。
「あなたはだんだん眠くなる〜。眠くなる〜」
先輩の声が俺の鼓膜に染みこんでくる。
重くなった瞼が視界をふさぎ、俺の意識は暗く静かな精神の奥底へと沈んでいく。
「いいですか〜」
先篭の声。
「あなたは女性から罵られたり冷たくされたり殴られたりしても、気持ちよくなったりはしません。決して気持ちよくなったりはしません。あなたはドMではありません」
その声は俺の意識に染みこんでいく。
「あたしがあなたの肩を叩くと、あなたは目を覚まします。目覚めたあなたはいままでのようなドM人間ではありません……ドMは完全に治っています……」
ドMは完全に治っている……
完全に治っている……
「それでは――目を覚ましてください」
言って、先輩は俺の肩を優しく叩いた。
「…………」
俺はゆっくりと瞼を開けた。
先輩、結野、みちる先生の三人がとても真剣な表情で俺の顔を見つめている。
「ブタロウ……ど、どんな感じ?」
「え? どんな感じかと言われましても……」
「なんか生まれ変わったような気がしない?」
「ええっと……」
俺は自分の体を見下ろしてみる。
変わった感じは……あまりなかった。
「美緒。彼のドM体質が治っているか早く確かめたほうがいいのではないか?」
「そうね、みちる姉。じゃあ……」
先輩は俺に向き直り、
「じゃあ、いまからあんたのドMが治ってるかどうか確かめてみるわ」
「へ?」
先輩は右腕を大きく後ろに振り上げる。
「ちょ、ちょっとせんぱ――」
「くらえやああっ!」
「ごぱぶ――っ!?」
高速で向かってきた先輩の拳が俺の左頬にめり込み、俺の体は椅子を倒しながら背後に吹っ飛んでいった。
床に転がった俺は、
「い、い、い、い、いいいい――」
両手で左頬をおさえながら上半身を上げ、
「いてえええええええええええええええええええええ――――――っっ!」
と叫んだ。
「い、いてえ! すげえいてえっ! せ、先輩! いきなり殴りつけるなんてひどいじゃないですか!」
激しい痛みに顔を歪める。
「くそ、マジでいてえよ……泣きそうだ……」
そんな俺を――先輩たち三人は呆然とした表情で見下ろしていた。
ん? みんななんでそんな顔してるんだ?
「ブ、ブブブ、ブタロウ……」
先輩は細い顎を震わせながら、
「あ、あ、あんた、気持ちよくなってないの……?」
「え?」
気持ちよく……?
「あ……」
あ……ああああーっ!?
「き、気持ちよくなってない! まったく気持ちよくなってないっ!」
「ほ、ほんとに?」
「本当です! 一ミリも気持ちよくありません! 完全に苦痛しかありません!」
「タ、タロー、本当なの……?」
「ああ!」
「砂戸太郎。間違いはないのか?」
「間違いありません!」
きっぱり言うと。
先輩、結野、みちる先生は顔を見合わせ、そして――
「や、や、やったあ――――――――――――っっ!」
バンザイしながら叫んだ。
「ドMが治ったわっ! ブタロウのドMが治ったのよ!」
「美緒さん、やりましたねっ!」
「美緒、いい仕事をしたな」
やんややんやと喜ぶ三人。
「俺のドMが……」
呆然とつぶやく。
「ドMが……治った……」
治ったんだ。
ドM体質が治ったんだ。
「う、うううう……うれしい……」
長かった。今日まで本当に長かった。
いろんな苦労をした。哀しみを味わった。
でも、そんなアレコレも全部……今日という日の喜びを噛みしめるためにあったんだ……きっとそうなんだ……
「生まれてきて……よかった……」
俺は涙を流しながらつぶやいた。
「ブタロウ!」
石動先輩が俺のところに駆け寄ってくる。
がしっと両手で俺の手を握りしめ、満面の笑顔を俺に向けて、
「治ったのよ! ドMが治ったのよ!」
「はい! 治りました! これもぜんぶ先輩のおかげです!」
「そう、あたしのおかげなのよ! 死ぬほど感謝しなさいよブタ野郎!」
「うわ、ブタ野郎って言われてもまったく気持ちよくならないです!」
「そりゃそうよ! だってあんたはもう真人間なんだから!」
先輩は俺の両手をぶんぶん上下に振りながら言ってくる。こんな上機嫌な先輩を見るのははじめてかもしれない。
俺の手を握りながらにこにこと無邪気な笑顔を浮かべる先輩。
その綺麗で愛くるしい笑顔を見つめていると、なんだか胸がドキドキしてきた。
そして、感極まった俺は――
「せ、先輩っ!」
石動先輩にがばっと抱きついた。
「ひ、ひィやっ!?」
先輩の体をぎゅっと抱きしめる。強く抱きしめる。
「ちょ……ブ、ブタロ――」
「先輩! かわいいです先輩っ!」
「え――」
力を込め、ぎゅっと密着する。
ふんわりやわらかい先輩の体。左手を背中のほうに回し、右手で頭を撫で、いい匂いのする髪の毛に鼻先を沈める。先輩は俺の腕の中で顔を真っ赤にしていた。
ああ、先輩かわいいかわいいかわいい……はあ、はあ、はあ……
「せ、せせ先輩! せんぱいせんぱいせんぱい!」
もう我慢できなかった。
本能のままに体を動かす。俺は自分の顔面を――
石動先輩の胸にうずめた。
「――っ!?」
「あ、あああ、ちっちゃいけど充分やわらかいよぉ……はあ、はあ、はあ……」
顔面をぐりぐりと先輩の胸に押しつける。至福の時だった。
「な、なななな、なななななななななななな――」
頭上から先輩の声が――
「なにしてやがんだこらあ――――っっっ!」
「がうっぱあああ――――っっっ!」
史上最高ではないかというほどの威力の蹴りが、幸せにふやけていた俺の顔面に炸裂した。
「て、ててててて、てめえ、いったいどういうつもりだりゅわあぁ――っ! そしてちっちゃいとか言うなあっ!」
完全にブチ切れている先輩は、どこからともなく取り出した金属バットを大きく振り上げていた。
「美緒、少し落ち着け。彼も喜びのあまり一瞬だけ我を忘れてしまったのだろう」
マジで殺人を犯しかねない雰囲気の先輩を、みちる先生がなだめる。
そのとき俺は――
「はあ、はあ、はあ……」
みちる先生の形のいいお尻を凝視していた。
はあ、はあ、はあ……み、みちる先生……
「だから美緒も今日だけは彼をゆるして――ぬおっ」
みちる先生がひかえめなうめき声を上げる。
それは、俺がみちる先生の下半身に抱きつき、そのお尻に自分の頬をこすりつけていたからだった。
「あ、ああああ、なんてやわらかいお尻なんだよぉ……はあ、はあ、はあ……」
「てめえゴラァ――ッ!?」
「ごめぶうっ!」
先輩が金属バットの先端で俺の喉を激しく突いた。恐ろしい衝撃に、俺は机や椅子をなぎ倒しながら背後に吹っ飛ぶ。
みちる先生はいつもの無表情で俺のほうを振り向き、
「むぅ。知らなかったよ。君が私のお尻にそれほど興味を抱いているとは」
「き、ききき貴様、みちる姉にまで――」
「ち、違うんです! 違うんですよこれは!」
俺は恐怖に震えながら訴える。
お、おかしい。なんかおかしいんだ。体が勝手に……
「タ、タロー……」
と、震える声で言ったのは結野だった。
結野は顔を青くしながら俺を見つめていた。
「ど、どういうことなの……もしかして、タローは美緒さんやみちる先生のことが好きなんじゃあ……」
「ち、違う! そういうことじゃないんだ!」
「じゃあ、どうして……」
「そ、それは……それは……」
そんなことよりも――
結野ってけっこう胸が大きいよな。
「ゆ、ゆうの……はあ、はあ、はあ……」
「ほへ?」
息を荒げる俺を、結野は怪訝そうに見つめる。
あ、あの胸に触りたい……
でも、結野の体に触ると殴られてしまう……ど、どうしたら……
そのとき、俺は床に転がるホッチキスを見つけた。さっき机や椅子を倒したときどこかから落ちたのだろう。
――名案を思いついた。
俺はそのホッチキスを拾い、
「ゆ、ゆうの……お、おお願いがあるんだ……」
じりじりと結野に近づいていく。
「た、たのむから……このホッチキスで、おまえのおっぱいを挟ませてくれ……」
「……え?」
俺はホッチキスをカチカチ鳴らしながら結野の目の前まで歩み寄り、
「お、おっぱいを……ふ、ふにふにと、挟ませ――」
「おまえなに言ってやがるそこまで墜ちたかブタああああ――っ!」
「ぬおべんばっふうっ!」
先輩の放ったフルスイングの金属バットが俺の顔面にジャストミートし、俺はきりもみ回転しながら壁に激突した。死ぬほど痛かった。
「げ、げふ……」
「はあ、はあ、はあ……このクズ野郎、いったいどういうつもりなのよ……」
「ち、違うんですよ先輩……俺はただ、女性の体を見るとムラムラ興奮して我慢ができなくなってしまうだけなんです。それだけなんですよ」
「おまえ真面目な顔でなに言ってやがるっ!」
「ごぶっ!」
飛んできた金属バットが俺の眉間にぶち当たる。
「美緒」
と、みちる先生が先輩のほうを見る。
「どうもおかしくないか?」
「な、なにがよ?」
「以前の彼は確かにドMの変態ではあったが、その体質によって我を忘れているとき以外はわりとまともな人格の持ち主だったはずだ。少なくともいまのように女性の体に向かって本能のまま突進していくような人間ではなかった」
「まあ……それはそうだったと思うけど……」
「これは私の予想なのだが」
みちる先生は両腕を組み右手を顎に当てながら、
「いまの砂戸太郎の破廉恥な行動は、催眠術でドM体質を治したことによる副作用ではないのか?」
「え?」
「催眠術によって無理矢理にドM体質を抑え込んだ結果、精神がバランスを崩し、ドMとは違う歪みが発現してしまった。私にはそう思えるんだ」
「そ、そんな……でも、あり得るかも……」
先輩は難しい顔で考え込む。
俺も、いまのみちる先生の考えは正しいと思った。
女性の体を見ていると、自分でも制御できないほどに興奮が高まってしまう。こんなことはいままでなかった。明らかに異常だった。
それに、この我を忘れるほどの興奮状態は、ドM体質が目覚めてしまったときと少し似ている気がした。
「くっ……か、仮にそうだったとしても問題ないわ!」
先輩は表情を歪ませながら叫ぶ。
「もう一度! もう一度催眠術をやればいいのよ! 催眠術で女体を目にしたときの過度な興奮を抑え込めばいい! そうすればいいのよ!」
そして。
俺は再び椅子に座らされた。
先輩の揺らすネックレスによって催眠状態に導かれる。
「あんたは、女性の体を見ても我を忘れるほど興奮しません……興奮しません……」
目を覚ますと――
さっきまでとは少し気分が変わっていた。
「ブ、ブタロウ……どうなの?」
先輩が心配そうな、そして少し警戒したような様子で俺を見つめている。
「えっと……」
俺は先輩の体をまじまじと見つめる。みちる先生や結野の体も。
過度な興奮は……やってこなかった。
や、やった! 今度こそ俺は真人間になったんだ!
俺は立ち上がり、
「大丈夫です! さっきみたいな興奮状態にはなりません! 俺は今度こそ真人間に生まれ変わりました!」
「ほ、ほんと? ほんとに生まれ変わったの?」
「ええ、間違いありません!」
言いながら、俺はズボンのベルトに手をかけた。
先輩は首をかしげながら、
「ブタロウ……? どうしてズボンのベルトを外してるの?」
「どうしてって……」
俺は当たり前のように言った。
「全裸になるために決まってるじゃないですか」
「……え?」
先輩たちの表情が硬化する。
「な、なんで全裸になるのよ?」
なんで全裸になるのか? 先輩はどうしてそんなことを尋ねるのだろう。
それはもちろん全裸を人に見られるのが気持ちいいからに決まってるじゃないか。
俺はきょとんとした顔で、
「むしろ逆に訊きますけど、どうして服を着なければならないんですか?」
「ふむ、異常性欲の次は露出癖というわけか」
「も、もう一度よ! 今度こそ絶対に――」
再び催眠術。
「ベランダに干してある女性の下着は盗んでもいいという法律ができればいいのに」
「今度は下着収集癖か」
「もう一度よ!」
再び催眠術。
「女性は三歳から十歳ぐらいのあいだが一番かわいらしいですよね」
「今度はロリータコンプレックスか」
「も、もう一度よ!」
再び催眠術。
「満員電車に乗って幼女のお尻を触りたいです」
「今度は痴漢魔か。微妙にロリータコンプレックスも混ざっているようだが」
「もう一度! 今度こそ!」
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
先輩は肩で息をしていた。顔もやつれて見える。肉体的な疲労というより、精神的な疲労が色濃く表れているようだった。
椅子に座る俺は――
「げひょひょひょひょ! あ、あひぃやあ! うひひ、ひひひひ! だっふんだあぃ! ぎゃへろひろはろへろ! へろろろいい!」
壊れた笑みを浮かべながら、ただただ奇声を発していた。
「今度は……もうなにがどうなっているのかわからないな」
みちる先生が俺を観察しながら告げる。どこか哀れむような表情を浮かべていた。
「ああ……タローがどんどん破綻していく……」
結野が顔を真っ青にしながらつぶやいた。
「ダメだわ……何度やっても変態的な歪みが発生してしまう……」
先輩は悔しそうにうめいた。
「美緒さん、やっぱり催眠術って方法は諦めたほうが……」
「も、もう一度! もう一度だけチャレンジするわ! これでダメだったら諦めるから!」
先輩はネックレスを揺らす。
俺は催眠状態に誘導される。
「あんたは真人間になる……真人間になる……」
先輩の手が俺の肩に触れ――俺は目を覚ました。
「ブタロウ……」
石動先輩は危険物を眺めるような感じで俺を見つめていた。
「こ、今度はどんな感じなの?」
「えっと……」
なんとなく立ち上がり、なんとなく自分の体を見下ろす。
「どうでしょう……自分ではよくわかりませんが……」
「ふむ。一見したところ普通だな」
「そうね……でも、まだわからないわよ」
「タ、タロー、大丈夫?」
三人が慎重な様子で俺を見つめる。
「もしかして、一周回ってまたドMに戻ったとかじゃあ……」
言って、先輩は俺の左頬を指でつねった。
「い、いたい! いたいですよ先輩!」
「よかった。ドMではないようね」
「あー……いたかった」
つぶやきながら、俺は制服のポケットから携帯電話を取り出す。辰吉の番号にかける。
「もしもし、辰吉か?」
『太郎、なんか用か?』
「悪いけど、いますぐ第二ボランティア部の部室に来てくれ」
『はあ? なんでだよ?』
「いいから。いますぐだぞ」
そう告げて、俺は携帯電話を切った。
顔を上げると、先輩たち三人がきょとんとした顔で俺を見つめていた。
「ブタロウ……いま葉山の奴に電話したの?」
「え? はい、そうですけど。ここに来てもらうために」
「な、なんで?」
「なんでって……」
「なんでいきなり葉山を呼び出すの?」
「…………」
そういえば……なんで俺は辰吉を呼び出したのだろう。よくわからない。ほとんど無意識の行動だった。
しばらくして、部室の扉が開く。
「太郎、言われたとおり部室に来たけど、いったいなんなんだ?」
扉に手をかけ、そこに立っていたのは!辰吉だった。
髪を金色に染めた、整った顔立ちをした男子。俺の親友。
「た、辰吉……」
彼の姿を見た途端、心臓の鼓動がおかしな具合に跳ねた。
ドキドキドキドキ――と鼓動が加速していく。体温が急激に上がる。
「た、太郎? どうしたんだ、なんか顔が赤いけど……」
辰吉の声を聞くだけで、ぷるぷると体が震える。喜びに打ち震える。
「辰吉……はあ、はあ、はあ……」
尋常じゃないくらいに――愛しさが溢れてくる。
「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……」
沸騰した気持ちに体を支配された俺は――
「た、たたたたたた、たつきちい――っっ!」
「ぬおうっ!?」
突進するような勢いで辰吉に抱きついた。
そのまま辰吉を床に押し倒す。
「な、なんだ!? いったいなんなんだ!?」
「た、たたたつたつ辰吉っ! す、好きだ――おまえが好きなんだっ!」
と、俺は自分の気持ちを力いっぱい叫んだ。
辰吉はぎょっとした顔で、
「はあ!? た、太郎、おまえなにを言って――」
「好きなんだよ! どうしようもないくらい愛してるんだよ! はあ、はあ、はあ……」
「お、落ち着け! ちょっと落ち着け!」
「辰吉! お願いだからキスさせてくれ!」
「ぶばあっ!? キ、キキキ、キスだとお!? そんなの嫌に決まってるじゃねえか!」
「じゃあ、おまえのパンツを食べさせてくれ!」
「おまえなに言ってんだ!? 正気に戻れ!」
辰吉が好きすぎる。超好きすぎる。抱いて欲しい。いや、むしろ俺が抱きたい。
もうこいつを全裸にしてしまおう。そう思った俺は辰吉のズボンのベルトを――
「貴様はいったいなにをやってやがるんだああ――――っ!」
「ごもっぷ――――っっ!」
石動先輩に蹴り飛ばされた俺は床をごろごろと転がった。ロッカーに脇腹を激突させて止まる。
「ぐ、ぐおお……い、痛すぎて呼吸ができない……」
床に倒れたままうめく。
「どうやら……今度は男色家のようだな」
「だ、男色家!? つまりホモってこと!?」
「ボ、ボーイズラブ……」
みちる先生、石動先輩、結野の三人が続けて言う。
「だ、男色家……?」
つまり男が好きな男ってことである。
そうか、だから俺は辰吉に電話を……どうしても辰吉に会いたくて……
「あ、あの、これはどういうことなんすか!? 説明してほしいんすけど!」
困惑した様子の辰吉に、みちる先生がこれまでの経緯を教えてあげていた。
「催眠術でドMを治療……その結果、太郎はホモに……」
なんか青ざめた顔で辰吉は言う。そんな辰吉も素敵だった。
「あ、ああ……たつきち……」
俺はつぶやきながら立ち上がる。息を荒げながら辰吉を見つめる。
「ヒィ――!」
辰吉は悲鳴のような声を上げる。
俺は辰吉に抱きつくため、じりじりと距離を埋める。
そのとき。
「そ、そうだ!」
辰吉はなにかを閃いた顔をした。
「太郎がホモになっちまったんなら……」
つぶやいたあと、辰吉はダッシュで奥の部屋に向かった。
「辰吉? どうして奥の部屋に……そ、そうか!」
辰吉の奴、俺と二人っきりで甘い時間を過ごしたくて……だから奥の部屋に……
「た、辰吉、俺を誘ってるのか……はあ、はあ、はあ……」
望むところだった。
俺は興奮しながら奥の部屋に突っ込もうと――
「――オーホッホッホッホッホッホッ!」
突っ込もうとしたとき、そんな高笑いが聞こえてきた。
そして、右手を口元に当てながら部屋を出てきたのは、
「オーホッホッホッホッホッ! 史上最強、国士無双の貴族少女、颯爽と登場ですわ!」
艶やかな黒髪を長く伸ばした、涼しげな目元の少女――のような少年。
女装した辰吉だった。
俺は唖然としながら女装辰吉を見つめる。なんでこいつは女装を……
女装辰吉は優雅に長い髪を掻き上げると、
「ふんっ。あなたが男色家に成り下がってしまったのでしたら、この姿にメタモルフォーゼすればいいだけのことですわ! いまのわたくしはどこからどう見ても可憐で愛らしい完璧美少女! 男色家のあなたが欲情する余地などこれっぽっちもありませんことよ! オーホッホッホッホッホッ! オーホッホッホッホッホッホッ!」
「…………」
俺は女装辰吉をじっと見つめる。
女装しても……本質的な性別が変わるわけではない。
「これはこれで……アリかな……」
「え?」
高笑いをしていた辰吉が固まる。
「女装した辰吉でも俺は好きだあ――っっ!」
「ひ、ひょええ――っ!?」
俺は辰吉に抱きつき、再び床に押し倒した。
「た、辰吉! たつきちたつきちたつきち!」
「なにをしますの!? 小汚い庶民が、貴族であるわたくしに――」
「好きだあ! すっげえ好きだあ! だ、だからいいだろう!?」
「あ……い、いけませんわ! お願いですからスカートをまくし上げないで――」
床の上でもつれ合う俺と辰吉。
先輩はそんな俺たちを見下ろしながら、
「ああ……今度もダメだったわ……」
沈痛な表情で頭を抱えていた。
「美緒、どうするつもりだ? 彼をこのまま放っておくのか?」
「そうね……」
先輩は少し考えたあと、
「しょうがない……かなり気持ち悪いけど、桜守祭が終わるまではこれでいきましょう」
「えええええええ!?」
と、驚いた声を上げたのは結野だった。
「これでいきましょうって……美緒さん本気ですか!?」
「ええ、そうよ」
先輩はうなずき、
「とりあえずドM体質はやばいわけなんだから、いまはホモで我慢するの。催眠術は……やっぱりドM体質治療法としては不完全だったけど、ホモのままだったら劇の練習中にドM体質が目覚めることはあり得ないんだし」
「そうかもしれませんけど……」
結野は呆然とつぶやく。
「好きだよぉ、辰吉好きだよぉ……」
「こ、こんなクズ平民にわたくしの高貴な体が蹂躙され……あ、ああ……」
部室にいる先輩たちは、とてもかわいそうな生き物を見るような目で俺たちを見下ろしていた。
部活の時間が終わり、帰宅する。
家で夕食を食べ風呂に入ったあと、ベッドの上で横向きになる。
「はあ……」
俺は自分の部屋でくつろいでいた。
切ないため息。
脳裏に浮かぶのは辰吉の顔だった。
「あいつ、今頃なにしてるんだろ……」
俺はもともとドM体質だった。
それを催眠術で強引に治した結果、男なのに男が好きな状態になってしまった。だからこの辰吉を好きだという気持ちは本物ではない。男は大勢いるのに辰吉を好きな相手として選んだのも、辰吉が一番の親友でいっしょに過ごした時間も長かったからというそれだけの理由だろう。
理屈ではそうわかっているのだが……理屈だけではこの体に送る愛のパッションを抑え込むことはできなかった。
「ああ……辰吉に会いたいよお会いたいよお……」
ベッドの上で転がりながらつぶやく。
「あ、そうだ!」
俺はベッドから降り、学習机の引き出しを開けた。中をごそごそ漁る。
「確かここに……あった!」
見つけたのは一枚の写真。
それは中学校の修学旅行のときの写真だった。俺と辰吉が並んで写っている写真だ。
「あああああ……辰吉かっこいいよぉ、好きだよぉ……」
写真の中の辰吉を眺めながらうっとりとつぶやく。
辰吉の顔を眺めていると胸がドキドキしてくる。ああ、なんて素敵なんだ。小柄なところも金髪なところも頭がいいところも料理が上手なところもぜんぶ好きだ。
「た、たたた、辰吉……愛してる……」
そう言ったとき、俺は背後に人の気配を感じた。
弾かれたように振り向く。と、そこには――
「……タ、タタタタ、タロロタロ――タタタロウちゃん……」
姉貴が立っていました。
「ぬおおおおおおおっ!? あ、姉貴! いつの間に!」
姉貴は顔面にびっしり汗を浮かべ、全身をガクガク震わせながら、
「そ、そそそそれ、辰吉くんの写真、だよね……? い、いいいま、愛してるって……」
辰吉は何度も俺の家に遊びに来たことがあるので、姉貴も当然辰吉のことは知っているのだ。
「ももも、もしかシテ、たろうちゃんはタツきちくんのコトを……」
「ち、違うんだよ姉貴! これは……」
あまりに焦ってしまったせいで、俺は床に尻餅をついてしまった。
そのとき、俺は自分を射抜く視線を感じた。
「……ん?」
横を向く。
ベッドの下だった。そこに。
ギラギラと輝く――二つの眼球があった。
「のへえええええええええええええええええええええええ――!?」
「た、たたたたた、たろう、さん……」
ベッドの下からのっそり這いだしてきたのは、お化け――ではなく母さんだった。
「か、かかか母さん!? なんでそんなところに……」
「太郎さんがお風呂に入っているあいだに隠れていたんです。真夜中になったら寝込みを襲おうと思って。そ、そそそそんなことより! たた、太郎さん、さっきのセリフはどどどどどどどういうことでりゅあうるああああ!?」
「か、母さん! ちょっと落ち着け!」
「お、おおお、落ち着いてりゅれりゅわけあらへらでぢゅあああっ!」
母さんは盛大に舌を噛みながら叫んでいる。口の中は大変なことになっているはずだ。
俺ば胸の前で両手をばたばた振りながら、
「違うんだ! マジで違うんだ! 俺はべつに辰吉のことなんか――」
「ほ、本当なんだね!? 本当に違うんだね!?」
「真実を述べてください太郎さん!」
姉貴と母さんが血走った目で俺を見つめてくる。
「ううう……」
辰吉のことなんかなんとも思っていない――こう言うのは簡単だ。
だが、俺の心が……辰吉を愛する俺の心が、その言葉を言うことをゆるさなかった。
「た、太郎ちゃん? どうしてそんな申し訳なさそうな顔をするの?」
「そしてどうして私たちから目を逸らすんですか?」
「姉貴、母さん、すまない。俺は……俺は……」
俺は真実を告げた。
「辰吉のことを……愛してるんだ」
「ぬげえええええええええええええええええええええええええ――――!?」
「げぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――!?」
二人は口から泡を吹きながらズデーンと真後ろに倒れた。
「ぬおおおおおお!? 姉貴、母さん、しっかりしろ!」
「そ、そそそ、そんな……太郎ちゃんが辰吉くんを……そんなのあり得へんがな……考えられへんでおまんがな……」
「タ、タタタ、タロウサンガ、タツキチッピットパポ、ポッポポルンガ……」
「ちょ、ちょっと!? 二人とも大丈夫かっ!? ……あ、あれ? なんか二人とも呼吸が止ま――おいいいいいいいいいいいっ! マジでしっかりしろおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
俺は泣きそうになりながら叫んだ。
翌日の朝。
「じゃ、じゃあ……学校に行ってきます」
俺はダイニングのテーブルに座る姉貴と母さんに向けて言った。
二人は――
「…………」
「…………」
口を半開きにしたまま、虚空を見つめていた。
昨日、俺が辰吉を愛していることを伝えてから、二人はずっとこんな感じだった。魂の抜けた廃人のようになってしまったのである。
「あ、朝ごはん、よかったら食べてくれよ……」
母さんは朝ごはんを作ることさえしなかったので、俺がトーストを焼いて二人の前に置いてあげた。が、二人はそれに目を向けることさえしない。
「そ、それじゃあ……」
いたたまれなくなった俺は、二人から目を逸らし玄関に向かった。
――教室に入ると、すでに辰吉が自分の席に座っていた。
俺はドキドキしながら辰吉に近づく。
「た、辰吉……お、おお、おはよう」
「た、太郎!」
辰吉は椅子から立ち上がり、どこか怯えたような様子で俺を見つめる。
「そ、そんなに見つめないでくれよ……照れるじゃないか……」
顔を赤くしながら言うと、辰吉は、
「やっぱり……まだホモのままなんだな……」
残念そうにつぶやいた。
俺は、
「ああ……憂い顔の辰吉もなんかカッコいい……」
そんな辰吉のお顔にうっとり見とれていた。
そして、放課後になり――
演劇の準備が本格的にはじまった。
机と椅子をすべて後ろに固められた教室。前のほうのスペースには演劇に出る役者たちがいる。
教室の隅のほうには衣装係や小道具係の生徒たちが集まってなにかを作っており、廊下では大道具係が演劇の背景を作っていた。開け放たれた扉や廊下側の窓から大道具係が忙しそうに働いている様子が見える。
俺たち役者は教室を舞台に見立て、演技の練習をする。
みんなまだセリフを覚えきれていないから、台本を持ちながらの稽古だった。
が、主役である委員長だけはもう自分のセリフをすべて暗記していた。一番セリフの量が多い役なのに、さすがと言うしかない。
「では、頭からやってみましょう」
と、委員長。
「ふう……」
俺は緊張した面持ちで息を吐く。
問題のシーンは、劇がはじまってすぐにあるのだ。
「太郎、大丈夫か?」
そんなふうに声をかけてくれたのは――
「あ……た、たた辰吉……」
「……もじもじした動きをするなよ、気持ち悪いから」
辰吉は警戒するように一歩下がりながら言う。
ああ、やっぱり辰吉は素敵だなあ……愛しすぎる……
「辰吉……この劇がうまくいったら、俺と結婚してくれないか?」
「なんでだよ。きっぱりと嫌だ」
そんなふうに二人で喋っていると、
「砂戸くん」
委員長の静かだが鋭い声が飛んできた。
「あなたの出番はもうすぐなんですから、ちゃんと準備をしておいてください」
「え……あ、ああ」
「一人気が抜けた人間がいると、全体の士気が下がります。しっかりしてください」
「わ、わかった……」
「……ふん」
委員長は不機嫌そうに俺から顔を背ける。
「なあ、前から思ってたんだけど」
隣にいる辰吉がこっそり耳打ちしてくる。
「委員長って、なんだかおまえにだけ冷たくないか?」
「ああ……俺もそう思ってたんだ……」
そう――どういうわけか、以前から委員長は俺に冷たく当たってくるのだ。
入学した当初はそんなことなかったような気がするが、いつの間にか冷たく接してくるようになった。気のせいだと思うようにしていたのだが、辰吉もそう感じたということは気のせいではないのだろう。
「俺、委員長に嫌われてるのかな……」
だが、俺と委員長はそんな頻繁に話すような間柄ではない。好かれることがないのは確実なのだが、嫌われるような出来事があったような気もしないのである。それほどの接点がないのである。
「砂戸くん」
「お、おう」
委員長に呼ばれ、前に出る。貴族の少女と使用人のシーンの練習である。
「がんばれよ、太郎」
と、辰吉が言ってくれる。俺は立ち止まり、辰吉のほうを振り返った。
「た、辰吉……あ、あああ、ありがと……」
「顔を真っ赤にしながら言うな。気持ち悪いから」
台本を片手に、委員長の前に立つ。
委員長がメガネをくいっと上げたあと、侮蔑のこもった声で言った。
「使用人。あなたって本当にクソでクズみたいな人間ね。あまりにも汚くて気持ち悪すぎるから世界と私のために死んでくれない? 汚物に顔面を突っ込んで溺死してくれない?」
「す、すみませんお嬢様……」
「カスのくせに気安く声をかけるんじゃないわよ。というかウジ虫より三段階くらい下の生き物のくせに人間の言葉を喋るんじゃないわよ。ふん、ムカつくからいつもの遊技をすることにするわ」
「いつもの遊技とは……?」
「小汚いあなたを鞭で叩きまくるという遊技に決まってるでしょう? あなたは記憶力までゴミのようね」
「そ、それは遊技というよりただの拷問のような気が……」
「無様な社会の底辺のくせにうるさいわ。あなたの声を聞くだけでなぜか吐き気がするからもう喋らないでくれる? ああ、苛々する。あなたの気持ち悪い声に比べたらゴキブリの羽音のほうがまだ心地いいわね」
「…………」
「さて、今日は日が暮れるまで鞭で叩きまくる予定だから死なないようにがんばりなさい。あ、無理ならべつに死んでもいいわよ。あなたなんかが死んでも誰も悲しまないでしょうし。むしろみんな喜ぶかしら。お祭り騒ぎになるかしら」
言ったあと、委員長は実際に鞭を構えた。どこで用意したのか、しっかりした作りのかなり本格的な鞭だった。
「あ、あの……委員長、本当にそれで殴るのか……?」
「委員長って誰のこと? このクサレ使用人はご主人様の顔も判別できないほどアホだというのね。そんなアホにはこの鞭でおしおきですどりゃあっ!」
「ぬごっぶ――っ!?」
委員長の振るった鞭が俺の背中にヒットした。叫び声が出るほど痛かった。
「ちょ……いいんちょ――」
「おりゃあ! はいやああ! そりゃあああ!」
「ぎゃひい――っ!」
鞭の連打が俺の体を打ち付ける。
「ちくしょう! なんで、なんでてめえみたいな奴が……この、このお!」
「いでえっ! すっげえいでえよう!」
「い、委員長! やりすぎだって!」
なぜか我を忘れている様子の委員長を背後から羽交い締めで止めたのは、俺のアイドル辰吉だった。
「あ……」
辰吉の言葉で我に返った委員長は、バツの悪そうな顔をして言う。
「……す、すみません。少し演技に熱が入りすぎてしまいました」
それから役者たちに向かって、
「少し休憩を入れることにしましょう。みなさん、そのあいだ休んでください」
と告げて、足早に教室から出て行った。
「……太郎、大丈夫か?」
「た、辰吉っ!」
「うおっ!?」
俺は辰吉の胸の中に飛び込んだ。
「痛かった……すげえ痛かったよぉ!」
「わ、わかったから離れろ! みんな見てるだろうが!」
辰吉は強引に俺の体を引き剥がした。見られたっていいじゃないか。俺たちの愛を見せつけてやればいいじゃないか。
「……ちょっと、あなた」
不機嫌そうな声が俺に突き刺さる。
いつの間にか、近くに問宮さんが立っていた。
間宮さんは腰に両手を当てながら、悪魔のような瞳で俺を睨みつけている。
「わたしの辰吉くんから早く離れなさい……この変態野郎が」
こめかみと口元がピクピク痙攣している。かなりご立腹の様子だった。
なるほど。辰吉に片思いしている間宮さんは、俺と辰吉のラブラブな様子に嫉妬しているのだろう。
俺は間宮さんを睨み返しながら、
「間宮さん、俺たちに嫉妬しないでくれよ。ちょっとみっともないぞ?」
「は、はあ? 嫉妬? ……あなたなにを言ってるのよ? なんでわたしが嫉妬なんかしなくちゃいけないの?」
間宮さんの体から闘気が膨れあがる。
辰吉が慌てた様子で、
「ゆ、由美! じつは太郎の奴は催眠術で……」
「ええ、そのことは嵐子から聞いて知ってるわ。でも……やっぱりムカつくもんはムカつくのよね……」
「辰吉! あの人なんか怖い!」
「ぬおう!? だからいちいち抱きつくなって!」
俺が辰吉にしがみついた瞬間、間宮さんの頭からブチッとなにかが千切れる音がした。
「ど、どうやら一度死なないとわからないみたいね……」
間宮さんは両手の指をゴキゴキ鳴らしながら、
「間宮流マッサージには気持ちいいだけじゃなくて痛いマッサージもあるのよ……そっちのほうを堪能させてあげる……」
「ふん、上等だ……」
俺の辰吉に片思いし、ちょっかいを出してくるアバズレのメスブタ。こいつには前々から苛々していたのだ。
「お、おい、二人とも……」
俺と間宮さんの視線が交差する。
「でやああああああああああああああ――――っ!」
「うおおおおおおおおおおおおおおお――――っ!」
雄叫びとともに両者の肉体が近接する。
そして――
「げ、げふ……」
俺は二秒で負け、床に沈んだ。
「ふん、ひ弱な変態のくせにあんまり調子に乗らないでくれる?」
「た、太郎……大丈夫か? なんか変な感じに体が捻れてるけど……」
「辰吉くん、こんな奴ほうっておいてわたしとあっちに行きましょう」
自分の腕を辰吉の腕に絡めた問宮さんは、強引に辰吉を教室の外に連れ出していく。
「く、くそ……げはっ……」
俺は、その光景を地べたから見つめることしかできなかった。
「悔しい……すげえ悔しい。俺の辰吉が……」
ようやく立ち上がることのできた俺は、泣きそうな勢いでつぶやいた。
と――
「タロー、タロー」
「ん?」
声のほうに顔を向ける。
教室の戸から半分ほど体を覗かせている結野が、俺を呼んでいた。
結野は左手で俺を手招きしながら、
「タロー。ちょっとこっちに来なさい」
「え……? あ、はい」
どうしたのだろう。結野は少しだけ怒っているように見えた。
廊下に出る。大道具係も休憩に入ったのか、廊下にはあまりひと気はなかった。小道具係の間宮さんや結野も仕事をしていないようだから、たぶんみんな配役の休憩に合わせて休みを入れたのだろう。
「えっと……結野、なんか用か?」
結野はむーっとなんか不機嫌そうな感じで俺を見上げている。
それから、右手を俺のほうに差し出してくる。
そこには紙コップが握られていた。中にはジュースが入っているようだった。
きょとんとする俺に向かって、結野は、
「れ、練習で喉かわいたでしょ?」
「へ?」
「こ、これあげる。タローのために買ってきたの」
「それは……どうも……」
なんか唐突な展開だったが、確かに喉は渇いていたのでありがたくそれを受け取る。
ジュースを一口飲み、
「うん、うまい。ありがとな、結野」
「ううん、気にしなくていいの。だってわたしは女の子だから。女の子は優しいからこういう気遣いが自然にできちゃうの」
「……あ、ああ、そう」
「お、女の子は男の子より優しいしかわいいしやわらかいし……だ、だから、男の子は自分に持ってないものを持っている女の子に恋をするのが自然なの。それが自然の摂理なの」
「……?」
ええーっと……結野はいきなりなにを言い出すんだ?
結野は上目遣いで俺を見つめると、少し声を震わせながら、
「……わ、わたしも、喉、かわいたな」
「え?」
「タ、タローの持ってるジュース、ちょうだい。わたしも飲みたいから」
「あ、ああ」
言われたとおり、ジュースの入った紙コップを手渡す。結野の体に触れないように注意しながら。
結野は紙コップを両手で持ち、ジュースの表面をじっと見つめていた。そのままの体勢で固まる。結野は耳たぶまで真っ赤になっていた。
結野は意を決したような表情を浮かべると、薄い唇を紙コップに触れさせ、こくんっと少しだけジュースを飲んだ。白い喉がわずかに動く。
紙コップから唇を離した結野の顔は、ちょっと心配になるほど赤くなっていた。
「結野……大丈夫か?」
「な、なにが?」
「いや……なんとなく……」
「そんなことより――」
結野は赤い顔のまま俺を見上げ、
「い、いまの一連のやりとりで、タローはドキドキしましたか……?」
「へ? ドキドキって……」
ちょっと意味がわからなかったので、俺は正直に答えた。
「特にドキドキとかはしなかったけど……」
すると結野は、
「……………………………………………………………………」
なぜかヘコんでいた。
「ゆ、結野、どうしたんだ? なんか体からブルーなオーラが散布されていますが……」
「なんでもない……だいじょうぶ……」
まったく大丈夫じゃなさそうな様子でつぶやく。
が、結野は気を取り直したように顔を上げると、
「タローに……質問があるの」
「質問? どんな質問だ?」
「え、えっとね……ええーっと……」
結野は決死の表情で、
「タローは……」
言った。
「タローは……わたしと葉山くん、どっちのほうが好き……?」
「え……?」
結野はじっと俺の顔を見つめている。かなり真剣な目をしていた。
「どっちが好きって……」
そんなの、決まってるじゃないか。
「もちろん辰吉のほうが好きだけど」
「…………」
「いや、結野のことが嫌いなわけじゃないけど、やっぱり辰吉と比べちまったら……だって俺はあいつを愛してるんだし」
「…………」
「ほんと、辰吉って奴はすげえ素敵なんだ。もう辰吉の全部が好きで、愛おしくて、あああああもう結婚したいよぉ……」
「…………」
「結野? どうしたんだ? なんか体が震えてるけど」
「タローの……」
「へ?」
「タローのバアァアッアアカァアアアアア――――――ッッッ!」
「ほぎゃあああああああああああああああ――――――っっっ!?」
結野の超速ストレートが顔面を貫き、俺は廊下をごろごろと転がった。
「ふええええ……ふええええええええええんっ! こんなのだったらドMのほうがマシだったよおおおおおっ!」
結野は泣きながら廊下を走り去っていく。
頭を下にした変な体勢で倒れる俺は、激痛とめまいに苦しみながら、
「が、がは……な、なんで俺は殴られたんだ……? げふっ」
つぶやいたあと、失神した。
俺がドMの変態から男色家にジョブチェンジして十日近くが経ち――
ついに、桜守祭が開催された。
俺たちのクラスの演劇があるのは一日目。
出番間近になり、クラスのみんなで演劇で使う大道具やら小道具やらを体育館のステージの袖に運び込む。配役の皆はもう舞台衣装に着替えていた。
いまステージでは別のクラスの演劇が行われている。
この次が俺たちのクラスだった。
舞台の袖よりもさらに手前の小さなスペース。そこに次の劇をやる俺たちのクラスの役者たちは集まっていた。大道具や小道具係などこの狭いスペースに入りきらない人員は体育館へと続く扉の外で待機しているはずだった。衣装を着ていて目立つ役者たちだけがこのスペースにいるのである。
使用人の衣装――ベージュのシャツに黒いパンツという格好に身を包んでいる俺は、
「うわあ、緊張する……」
と、一人つぶやいた。
体育館にはかなりの数の観客が入っていた。あんな大勢の前で演技をするなんてもちろんはじめてのこと。俺はかなり緊張していた。少し手が震えている。
「こ、こういうときは緊張しないおまじない……手のひらに『辰吉』の文字を書いてそれを呑み込む……」
「なに気持ち悪いことを言ってるんだよ、おまえは」
「た、辰吉!?」
いつの間にか隣に辰吉が立っていた。
俺は焦りながら手で髪を整える。
「……だから、その恋する乙女みたいな仕草はやめてくれ。寒気がする」
辰吉はどこかげんなりした様子でつぶやいた。
準主役である辰吉は、俺なんかより立派な衣装に身を包んでいた。設定が平民なのでそれほど派手な格好ではないのだが、ところどころ刺繍の施された白いシャツに細身のパンツという衣装はイケてる辰吉が着るとすごくイケていた。
「辰吉……ほんと、おまえはイケてるメンズだよな……」
「しみじみとなにを言ってやがるんだよ」
ため息をつく辰吉。ああ、そのため息をビニール袋に保管して持って帰りたい……
辰吉はふと思い出したように、
「そういえば、おまえんとこの家族は桜守祭に来たりするのか? 静香さんとお母さん」
俺は首を横に振る。
「いや、来ないと思う。だって二人には桜守祭があることを教えてないから」
「え? なんで?」
「劇でへぽい演技してるところなんて見られたくなかったし、それに……」
それに、あの姉貴と母さんが学校に来るといろいろ大変なことになりそうなので嫌だつたのだ。だから桜守祭のことは黙っておくことにしたのである。
まあ、廃人状態のいまの二人なら、たとえ桜守祭のことを伝えたとしても学校に来ることはできなかったかもしれないが。
――そのとき、ひときわ盛大な拍手が観客席のほうから聞こえてきた。
「……どうやら前のクラスが終わったようだな」
「あ、ああ」
うなずき、生唾を呑み込む。
クラス全員でステージの袖のほうへ移動する。緞帳《どんちょう》が下りていることを確認し、大道具係を中心に急いでステージに背景やらを設置していく。
舞台の準備が整ったあと、
「みんな、集まってください」
と、委員長が言った。主役であり貴族役である委員長の衣装は出演者の中でも群を抜いて華やかだった。華やかだが必要以上に派手ではなく、しかし優雅さと上品さを充分に表した衣装。主役級の役者たちの衣装は衣装係を担当するクラスメイトたちの手作りだというが、これは見事な仕事だと言わざるを得ない。
委員長の声に従い、全員が一ヶ所に集まる。
「……いよいよ、本番です」
委員長が少し緊張した声で言った。
「悔いの残らないように、精一杯やりましょう。大丈夫、練習通りの力が出せれば、素晴らしい演劇になるはずです」
それから、クラス全員で円陣を組む。
「気合い入れていきましょう!」「おうっ!」という掛け声を響かせたあと、大きな円陣は解かれた。クラスの皆が所定の位置に散っていく。
最初のシーンは主役である委員長の一人語りからはじまる。委員長は背筋を伸ばした凛とした姿勢でステージに向かっていった。
そして、緞帳が上がる。
光と拍手がステージになだれ込み――俺たちの演劇ははじまった。
「このクソ使用人が! 死ね、死になさい!」
「ぎょはあ! お嬢様おゆるしを!」
ステージの上で委員長の鞭が跳ねる。
もんどり打って倒れる使用人の俺。
貴族の少女役である委員長は、鞭をぎゅっと握りしめながら、
「つまらない人生……本当につまらない人生だわ……」
と、哀しげにつぶやく。
舞台が暗転し――俺は急いでステージの袖に戻った。
「うう、痛いよぉ……」
でも、これで俺の出番はぜんぶ終わった。
「ふう……なんとか失敗せずに終えることができたな……」
それにしても全身が痛い。
本番の委員長はかなり気合いが入っているようで、その鞭の威力はすごかった。服の下にミミズ腫れができてるかもしれない。
「でも……催眠術でドM体質を治しておいてよかったよな。ドMのままこんなのを喰らっていたら絶対に我を忘れて暴走していたはずだ……」
その代わり男が好きな人間になってしまったのだが……でも、男好きになったおかげで辰吉のことを愛することができたのでよしとするか。えへっ。
俺はステージで演技をする辰吉の姿を食い入るように見つめる。
「ああ、辰吉は本当にカッコいいよぉ……どうにかしたいよぉ……」
そして、演劇は進んでいく。
気がつくと――劇はもうクライマックスのシーンだった。
少女の鼻歌によって記憶を取り戻した平民の青年。
その優しい笑顔を見つめながら涙を流す貴族の少女。
二人はお互い世界で一番の宝物を眺めるような目をしている。
そのとき俺は、
「ぐ、ぐぬうううううう! ぐぬぬぬぬぬぬおおおおおおおおお……」
ステージの袖にある柱に両指を食い込ませながら、ぎりぎりと奥歯を噛みしめていた。
「た、たたたたつきち……お、おおおおれのたつきち……」
狂ってしまいそうだった。
嫉妬で狂ってしまいそうだった。
ちくしょう……お、俺もあんなふうに辰吉に見つめられたい……
「タ、タロー? どうしたの? 大丈夫?」
いつの間にかそばに来ていた結野の言葉も耳に入らない。
「うぬぬぬぬ……わ、わたしの辰吉くんなのに……」
少し離れた場所で、間宮さんが俺と同じような感じで奥歯を噛みしめていた。いまだけは彼女に共感することができた。
だが、あんなシーンはまだ序の口。
これから……
もっとも最悪なシーンが待っている。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ……」
俺は肩で息をしていた。
ステージの上。スポットライトを浴びる辰吉と委員長は、慈愛に満ちた穏やかな表情で見つめ合っている。
永遠の愛を誓い合った頃に戻った二人は、互いの両手を広げ――
ひしっ、と抱きしめ合った。
「……………………………………………………………………こぶっ!?」
精神的な衝撃には備えていたのに、ダメージはそれを凌駕した。
「あ、ああ……おおお、おう……」
柱を握った指から折れるような音が鳴る。
「うううう……あ、あうううう……」
眼窩《がんか》から眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開く。
――お互いの背中に手を回し、二人は体を密着させている。
本番だからだろうか、二人の演技にはいつもより感情が込められているように見えた。
「がが……ぎぎ、ぎぎぎぎ……ぐ、ぐわぶ……」
そう、いまの二人はまるで……まるで……
本物の、恋人どうしのようだった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!」
そう考えた瞬間――
俺の中で、なにかが壊れた。
「う……うおおおおおお……うおおおおおおおおおおおおおおお――――――っっっ!」
咆吼《ほうこう》が大気を震わせる。
我を忘れた俺は――まだ劇中にもかかわらず、猛然とステージに突進していった。
「た、太郎!?」
「砂戸くん!?」
ステージにいる辰吉と委員長がぎょっとした顔を俺に向ける。
「うおおおおお! 辰吉好きだあああああああ!」
愛のダイブ。
俺はぎゅーっと辰吉の体に抱きついた。
「――っ!? お、おい太郎! おまえこんなときに……」
「好きだあ! どうしようもなく好きなんだあ! ふえ――――ん!」
「な、なに泣いてんだよおまえは!? いいから袖に戻れっ!」
きょとんとする観客たち。
だがそんなのは関係なかった。
「た、たつきち! たつきちたつきちたつきち! はあ、はあ、はあ……」
「砂戸くん、いったいなにをしてるんです!? さっさと袖に戻ってください!」
「うるせえっ! お澄ましメガネは黙ってろ!」
「な……」
そのときだった――
舞台の袖から一つの人影が飛び出した。
人影が俺に接近し、そして。
「間宮流マッサージ術奥義――鳳翼点衝《ほうよくてんしょう》――っ!」
「ぎゃああああああああああああああああああ!?」
人影――間宮さんは両手を翼のように翻したあと、両手の人差し指で俺の全身を何度も何度も何度も突いた。その両手の速度は残像も見えないほど速かった。
「ぐ……げ、げふ……!」
悦楽と苦痛が同時に俺の体を襲う。
俺は、ばたんとその場に倒れ込んだ。
間宮さんは激しい憎悪に表情を歪めながら、
「こっの変態野郎が……汚い体でわたしの辰吉くんに触れるんじゃないわよ……」
「ま、間宮さん!? あなたまで……」
委員長の悲鳴のような声が響く。間宮さんはそちらに顔を向け、
「大丈夫よ、委員長。すぐにこのゴミを袖のほうに捨てるから」
俺は――
「ふ……ふおおおおおおおおお――――っ!」
雄叫びを上げながら立ち上がった。
「な――!?」
間宮さんの表情が驚愕に歪む。
「そ、そんな……奥義・鳳翼点衝を喰らって立ち上がるなんて……」
「ふふふ……た、辰吉への熱い想いが俺を強くしたのさ……」
全身に充満するラブパワー。いまの俺は間宮さんごときに負けはしない。
「ふん……」
間宮さんは不敵な笑みを浮かべ、スッと腰を落とす。
「しぶとい変態ね。でも、次は確実に仕留めてあげるわ」
「仕留められるのはどちらかな?」
間宮さんを睨みながら、拳を構える。
そして。
俺たちは互いにステージを蹴り、拳を振り上げ――
「ふ、二人ともやめろおおおおお――――っっ!」
衝突しようとした俺たちのあいだに、辰吉が割って入った。
「えっ!?」
「辰吉くん!?」
二人の拳は止まらない。
「がぶううっ!?」
俺と間宮さんの拳は――辰吉の顔面を見事に打ち抜いていた。
「げ、げふ……」
昏倒し、ステージに倒れる辰吉。
「た、辰吉!」
「な、なんてこと……」
俺たちは呆然と辰吉を見下ろす。
「ち、ち、ちくしょう!」
俺は悲しみに耐えながら間宮さんの懐に入った。
「――っ!? し、しまった!」
と、間宮さんの焦った声。
俺は間宮さんの右手を取りながら鋭く腰を回転させ、
「愛の……愛の、一本背負いいいいいっ!」
「きゃあああああああああああっ!」
彼女の体を観客席に放り投げた。
「――げぶっ!」
間宮さんの上半身が観客の中にめり込む。スカートが重力に従ってはらりと落ちる。
俺はパンツ丸出しの姿を見つめながら、
「……勝った」
と、静かにつぶやいた。
「って、そんなことより――」
俺は慌てて辰吉のそばに近づいた。その頬を撫でながら、
「ああ、辰吉かわいそうに……あのマッサージ女のせいで……」
泣きそうな声でつぶやく。
「でも……」
気絶する辰吉も――カッコいいよな。
キ、キスしたいくらいに、カッコいい……
「た、辰吉……はあ、はあ、はあ……」
そのときだった――
「ひょげえええええええええええ――――っっ!?」
俺の首に、なにか黒くて細いものが巻き付いた。
「ぐ、ぐえ……」
「……いい加減にしやがれよ」
ドスのきいた低い声でそう言ったのは――
俺たちのクラス委員長だった。
委員長はいつの間にか手にしていた鞭を振るい、俺の首に巻き付けたのだ。
「わ、私の完璧な演劇をメチャクチャにしやがって……こ、こ、このクソガキが……」
尋常じゃないほどの狂気を瞳に宿しながら、委員長は俺を睨みつけている。
「ほんと、てめえって奴は、私を何度も絶望させやがって……」
「あ、ああ……ああああ……」
「てめえなんて――」
鞭が俺の首から離れ、ひゅるるると委員長の元へ戻っていく。そして。
「てめえなんて、死んだほうだりゅああえいあやひいりゅあいやああ――――っっ!」
意味不明な叫びとともに――引き裂くような鞭の乱舞が俺の肉体に襲いかかった。
「にょおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――っっ!?」
劇中の鞭とは大違い、完全に本気な鞭さばきだった。
「あ、あああ、あああああああ、あふぅ……」
四方八方から襲いかかってくる黒い鞭。
鞭になぶられ無様なダンスを踊る俺。
「ああ、ああああ……はあ、はあ、はあ……」
肉体を蝕むそのあり得ないほどの激痛が、
「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……」
俺の心の奥底にあった錠前を、
「はあはあはあはあはあはあハアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
――破壊した。
「…………………………………………………………………………………………!」
長いあいだ閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いていく。
開け放たれた、その扉の向こうには――
とても優しい光が広がっていた。
……あ、ああ……なんだこの慈愛に満ちたあたたかい光は……
――やあ。久しぶりだね。
光の中に誰かが立っている。逆光のせいでその顔を判別することはできない。
――ずっと暗い場所に閉じこめられて、苦しかったよ。
――でも、もう一度君に出会うことができて本当にうれしい。
き、君は……?
――僕は君だ。もう一人の君自身だ。
もう一人の、俺……?
――そうだよ。僕の名前は……
光の中にいた人物が俺のほうに近づいてくる。
その人物が、俺に向かって手を伸ばす。
俺も、その人物に向かって手を伸ばす。
二人の手のひらが――重なる。
その瞬間。
切ないほどの歓喜が俺の意識を震わせた。
アアアア……アアアアア、アアアア……アアアアアアアアアア――――ッ!
圧倒的な光が世界を埋め尽くし、そして……
精神の最奥に潜っていた俺の意識が――
現実世界に帰還した。
「あ、ああああ……」
思い出したよ……
ぜんぶ、思い出した……
思わず天を仰ぐ。
「俺は……」
俺は、涙を流しながら、言った。
「俺は……マゾヒストだったんだ……」
ようやく俺は……本当の自分と再会することができたのだ。
「……?」
委員長は怪訝そうな顔で俺のほうを見つめている。
俺は委員長を見据える。
圧倒的な無敵感が俺を支配していた。
いまなら、誰にも負ける気がしない。
というか、そもそも勝負する必要もないのである。
「はあ、はあ、はあ……」
自然と呼吸が荒くなっていく。
「はあ、はあ、はひ、はひ、はひぃ、ふゅはう、はへぁ、ひひい、げへへ……」
拘束具を解かれたマゾヒズムという名の魔人が俺のすべてを支配する。
そして、俺は快楽の雄叫びを上げた。
「うひょおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――っっっ!」
「――っ!?」
本来の変態性を取り戻したボクちんは、
「い……いいんちょ……」
気持ち悪い笑みを浮かべながら、鞭を持つ委員長のほうに飛び込んでいった。
「い、いいんちょうさまぁ! いや女王さまあああ! そのすっごい鞭で俺の汚物ボディをもっともっともっともっと痛めつけてはあはあはあはあはあ――」
「な、ななななななな――!?」
委員長はかなり困惑しながら再び鞭を振るった。
悦楽の打撃が俺の体に刻まれる。
「おうううううう! きっもちいいぜよおおおおおおおおおおおっ!」
背後に吹っ飛んでいく俺の体。
が、俺はすぐに立ち上がり、もう一度委員長に向かっていく。
「ひいっ! 砂戸くん、いったいなんのつもりで――」
「にょぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「くっ!」
委員長は突進する俺をかわし、ステージの中央に移動する。
俺はまた委員長に向かっていく。笑いながら向かっていく。
ずっと恐怖と困惑の表情を浮かべていた委員長だったが、
「……っ!」
ふいになにかに気づいたような顔をした。
そして、
「お望み通り鞭を浴びせてあげるわよこのブタ使用人があああああああ――――っ!」
叫びながら鞭をしならせた。
「えいびょぼあああぶうううううううううううううう――――っ!」
鞭の連打を浴びた俺は、すごい勢いで背後に吹っ飛んでいった。
「あ、あひぃひぃ……き、ききき、きもちよしゅぎるるるるるる……」
ばたん、とステージに倒れ込む。
あまりに気持ちよすぎてもう動けなかった。
あああああ……い、いいんちょの鞭は最強だあ……
ぴくぴくと無様に震える。
と、そのとき――
「あ……」
俺は、自分を見つめる無数の瞳に気づいた。
「…………」
っ!」
そう、いまは演劇の途中。
そして、ここはステージの上だった。
「あ、ああ、ああああ……」
お、俺は……
こんな大勢の観客の前で、ドMに我を忘れちまったのか……?
「そ、そそ、そんな……そんなあ……」
もう……俺の人生はおしまいだ……
俺が絶望に青くなっていると――
「なんてことなの……」
委員長の、芝居がかった声。
顔を上げる。委員長は俺を見下ろしながら、
「かつて私の住んでいた屋敷に仕えていた使用人が……わたしの恋人を殺しに来るだなんて……」
え……?
委員長は沈痛な表情を浮かべながら、
「さっきのあなたを見て気づいたわ。あなたは、私に鞭で殴られることにアブノーマルな悦楽を感じていたのね。そして、あなたがそんな悦楽を感じていたのは……私に対する歪んだ愛情があったからこそ……」
「…………」
えっと……
もしかして委員長は、この状態からなんとか劇を収拾させようとしているのか?
そ、それはさすがに無理があるのでは……
「だからこそ、あなたは私の恋人を殺すことにした。その思惑通り」
委員長は気絶する辰吉のほうを見つめ、
「あの人は……死んでしまった」
辰吉、死んだことになっちゃった。
「私はまた一人ぼっち……」
つぶやいたあと、委員長は天を見上げるようにして、
「でも、大丈夫よ。私は大丈夫。だって……」
委員長は寂しげだがどこか清々しい笑顔を浮かべ、言った。
「私の愛するあの人は……私の心の中でずっと生き続けるのだから……」
「…………」
観客は、ずっと唖然とした顔をしている。
決めのポーズのまま固まる委員長の体からは『これでおしまいだから観客どもさっさと拍手をよこしなさい』みたいな気配が発散されている。
委員長のあまりに堂々とした立ち振る舞いに――
「え……も、もしかして、いまのはぜんぶ演劇の予定のうちだったのか……?」
とか言い出す観客が現れた。
ざわざわと観客席が波打つ。
「でも、途中まで普通だったのになんで最後にあんな不自然なカタルシスを……」
「観客の予想を上回る結末にしたかったとか……」
「上回るというか斜め上をぶっ飛んでいったみたいだったけど……」
「でも、無難なハッピーエンドよりはおもしろかったかも……やっぱり最初からこういう構成だったのかしら……」
「それに、使用人のあの子……鞭で叩かれながらすんごい気持ちよさそうな顔してたわ。あんな変態が普通いるわけないもんね」
……すみません。普通に存在しています。
驚くことに――
観客たちは、俺の暴走や間宮さんの乱入などを演劇のストーリーのうちなんだと解釈してくれているようだった。委員長の狙い通りに。
そして。
ぱちぱちぱちぱち、と一つ拍手が生まれる。
「あ……」
拍手をしているのは、観客席の前のほうに座っていた美少女。
それは、石動先輩だった。
その隣にはみちる先生も座っている。みちる先生は、先輩が拍手しているのを見ると自分もぱちぱちと手を叩きはじめた。
あの二人……俺たちの劇を見に来てくれていたんだな……
石動先輩とみちる先生を中心に拍手の輪は広がっていき
やがては、観客席全体が拍手に包まれた。
「えっと……ほんとすみませんでした……」
緞帳が下がったあとのステージの袖。
俺はクラスメイト全員に向かって頭を下げていた。
「死ねと言われれば死にます……本当に申し訳ありませんでした……」
自分は極度の上がり症で、自分の出番が終わったあとも緊張が収まらず、やがて頭が真っ白になって気がつくとステージに飛び出してしまっていた――俺はクラスメイトにそういうふうに説明した。
本当のことを言うことは……どうしてもできないのである。
自分のせいで劇がメチャクチャになってしまったことを詫びなければならないと思い、こうして頭を下げているのだが――
「いいっていいって、気にすんなよ」
クラスメイトの誰かが笑いながら言う。
「まあ最後はメチャクチャだったけど、なんとか無事に終えることができたんだし」
「無事じゃねえだろ。まあ、もう終わったことなんだからべつにいいや。それに、なんかおもしろかったし」
「……脚本とは違ったけど、おもしろかった」
「そうそう。だから砂戸くんもそんなにあやまらなくていいよっ。ふあぁー、やっと終わったぁ!」
クラスメイトは気のいい奴らばかりで、俺のことを簡単にゆるしてくれた。
「みんな……ありがと」
なんかちょっと泣きそうになってしまった。
「わたしはなんか納得いかないわ……」
「俺もだ……」
緞帳が下がったあと意識を取り戻した間宮さんと辰吉が続けて言う。
クラスメイトの輪がほぐれ、後片付けに入る。
「い、委員長……」
俺は両腕を組み不機嫌そうな顔をしている委員長に声をかけた。彼女にはもう一度あやまらなければならないと思ったからだ。
「ほ、本当に悪かった……ちょっと気が動転しちまって……」
「…………」
じろり、と委員長は俺を睨みつける。
「う、うう……」
こんなときでさえ背筋がぷるぷる震える自分が心底嫌だった。
委員長はため息をついたあと、言った。
「最後の機転は見事だったと思います」
「……え?」
「鞭で叩かれたあと気持ち悪く笑いながら私に向かってきたところです。アブノーマルな使用人を見事に演じきっていました。鞭で殴られることに喜びを感じてしまう使用人が、その喜びを与えてくれた少女を想うあまり青年を襲おうとした――あのとき、あなたの中にはそんなストーリーができあがっていたのでしょう? そのことに気づくことができたおかげで、なんとか劇を収拾することができました」
「え、えっと……」
俺は目を泳がせながらつぶやく。
「じ、じつはそうだったんだ。よ、よよ、よく気づいたな」
もちろん俺の中にそんなストーリーができていたはずもなく、ただ俺はドMの悦楽に我を忘れていただけなのだが、委員長はかなりいいように解釈してくれたようだ。
ここはそれに乗っかることにしよう。本当のことは絶対に言えないんだし。
けど、よかった……そういうふうに解釈してくれたってことは、彼女に俺のドM体質のことがバレていないということだ。クラスメイトたちも気づいてないようだし、これで変態野郎と迫害される危機はなくなったようである。
それと……勘違いとはいえ、委員長が俺のことを見事だと褒めてくれたのは意外だった。意外だし、うれしかった。
委員長の仏頂面を見つめる。
もしかすると、委員長に嫌われていると感じていたのは勘違いだったのかもしれない。ただ、少しの誤解があっただけで。いまの俺はなんとなくそう思うことが――
「ですが……」
委員長は双眸《そうぼう》を鋭く細めながら、告げた。
「私はあなたのことをゆるしません。絶対に」
その瞳には――はっきりとした憎悪が宿っていた。
「…………」
「それでは」
言い捨て、委員長は大股で俺のもとから去っていった。
「あ、あう……」
俺は委員長の背中を見つめながら、うめき声を上げた。
と――
「タ、タロー……」
おずおずと声をかけてきたのは、結野だった。
「あ、結野……」
結野は俺の目の前に立つと、じーっと俺を見上げ、
「タロー。もしかして……ドM体質に戻っちゃったの?」
俺はため息をついたあと、うなずいた。
「ああ、そうらしい……委員長に鞭で殴られたショックで、ドM体質に戻っちまった」
「じゃ、じゃあ……」
結野は上目遣いで、
「タローは……もう、葉山くんのことが好きじゃないの……?」
「辰吉のこと?」
そうだ、催眠術で男好きになっていた俺は、辰吉に惚れていたんだった。
「いま考えるとすげえ不思議な気分だ。なんで俺は辰吉なんかに惚れていたんだろう……」
催眠術が解けたいまとなっては、マジであり得ない話だった。
「そっか……」
結野はそっとつぶやく。
「よかった……」
「え? よかったってなにが?」
「う、ううん! なんでもない!」
結野はぶんぶんと首を横に振った。
「あーあ、またドMの変態に逆戻りか……やれやれだ……」
「そうだね。でも……」
結野は大きな瞳で俺を見つめ、
「わ、わたしは……た、太郎がずっとドMだったとしても、す――」
「す?」
「す、すすす……」
「す、すすす?」
「す、すすすす――素晴らしいと思う」
「なんで?」
まったく素晴らしくないと思うが。
結野は意味不明なことを言ったあと、顔を真っ赤にしながら、
「えへへ……」
と、なぜかうれしそうな笑顔を浮かべた。
第二話 MFCの華麗なる陰謀
桜守祭二日目の朝。目を覚ました俺が制服に着替えていると――
「太郎ちゃぁあんっ!」
「ぬおっ!?」
ドアから入ってきた姉貴が、飛びつくようにして俺に抱きついてきた。
「えへへー」
姉貴は上機嫌に笑いながら、俺の胸にぐりぐり顔をこすりつけてくる。
「な、なんだよ姉貴! なんか用なのか!?」
「ううん、用はないよー。でも、太郎ちゃんがいつもの太郎ちゃんであるということが、とってもうれしいだけなんだよっ! そのうれしい気持ちをスキンシップで表してみましたっ! うひょ!」
「うひょってなんだ! つーか朝からうっとおしいことをするなっ! 離れなさい!」
俺は姉貴をベッドの上に投げ捨てた。
「にははっ」
ベッドに投げ捨てられても、姉貴は機嫌よさそうな笑顔を浮かべている。
――昨日ホモ状態から元に戻った俺は、辰吉を愛していると言ったのは催眠術の影響なんだと説明した。遊びのつもりの催眠術が予想以上に効いてしまったんだと。本当は遊びではないのだが、ドMのことに触れるわけにはいかないのでそんな説明になってしまったのである。
その説明を聞いた姉貴と母さんは、廃人状態を脱し、歓喜の声を上げた。俺が辰吉好き好きボーイズラブ野郎じゃなかったことがすごくうれしかったらしい。どうやらそのうれしい気持ちが今日もまだ続いているようなのだ。
「やれやれ……」
またいつもの騒がしい姉貴に戻ってしまった。まあ、あの怖い廃人状態よりちょっとはマシかもしれないが。
「あれ?」
姉貴はベッドの上に座りながら、小首をかしげる。
「太郎ちゃん、今日は日曜日なのになんで制服を着てるのかな? うっかりさん?」
「そんなわけねえだろ。今日は学園祭だから学校に行ってくるんだよ。だから制服を――」
「学園祭……?」
姉貴の両目が大きく見開かれる。あ……し、しまった……
「ええっ!? きょ、今日は太郎ちゃんの学校で学園祭があるの!?」
「が、学園祭ですって!? 太郎さん、どうしてそんな大事なことをいままで黙っていたんですかっ!?」
「うおおおうっ!?」
いつの間にか――姉貴の隣に母さんが立っていた。
「か、母さん!? えっ、さっきまで確かにいなかったはずなのに、どういうこと!?」
「太郎さんの学校で学園祭が行われるという情報をキャッチしたなら、テレポーテーションぐらい普通にできます!」
「普通にできちゃダメだろっ! そんな異能力持ってたら政府の秘密機関に拉致されちゃうよ!?」
「太郎ちゃん、そんなことどうでもいいから――」
「え、いまのどうでもいいところ!? だって身内が空間を跳躍したんですよ!?」
「学園祭! ほんとに学園祭があるの!?」
「あるんですか、太郎さん!?」
二人は顔を並べ、むーっと俺を見上げてくる。
俺はややたじろぎながら、
「あ……あるよ。昨日と今日の二日間だけど……」
「昨日も!? 昨日もやってたの!?」
「き、昨日の学園祭ではどんなことをしたんですか!?」
「どんなことって……ああ、クラス演劇をやったな。俺も役者として出たんだけど――」
「ええええええっ!? た、太郎ちゃんが役者デビュー!?」
「そ、そそそそれはもう終わってしまったんですか!?」
「あ、ああ、昨日だけだ。もうやらねえ」
「そんな……もう見れないんだ……」
「残念です……」
しゅん、と肩を落とす姉貴と母さん。
落ち込む二人の様子を見ていると、ちょっとかわいそうな感じだった。
姉貴は、はふう、とため息をつき、
「太郎ちゃんが役者かぁ……いったいどんなふうだったのかな……」
「太郎さんぐらいのイケメンなら、まず間違いなく主役ですよね……」
「当たり前だよ。主役じゃなきゃおかしいよ」
……いえ、鞭でしばかれる薄汚れた使用人の役でした。最後にはドM設定まで付加されちゃいました。
「主役の太郎さんは……雑誌にもよく取り上げられるようなイケメン青年実業家。年商数兆円の会社を経営していたんです……」
「でも、その利益をすべてボランティア団体に寄付して芸能界に転身、しかもいきなりハリウッドデビュー。そして余裕でアカデミー賞を取っちゃうんだよ」
「そのあと、適当に書いてみた小説が全世界で大ヒット。太郎さんはノーベル文学賞を獲得してしまいます」
「そして、遊びではじめたサッカーが異様に上手くて、サッカー日本代表に選ばれちゃうの。太郎ちゃんの活躍で日本はワールドカップ初優勝……」
「ひょんなことから宇宙パイロットに選ばれて火星に……」
「なんだかんだで合衆国大統領に……」
「死神のノートを拾って犯罪者を粛正……」
「美少女だらけのクラスで魔法先生に……」
「クリ○ンを殺された怒りでスーパー太郎ちゃんに……」
……こ、こいつらはなにを言ってるんだ?
「でもね……すべてを手に入れた太郎ちゃんは、一つだけ自分が持っていないものがあることに気づくんだよ……」
と、姉貴はどこかうっとりした様子でつぶやく。
「それは、自分が心から愛することのできる女性。太郎ちゃんはずっとそんな人に出会うことができなかった。でも……やっと、その人が太郎ちゃんの前に現れる。その人の名前は砂戸――」
「砂戸智子。それが、太郎さんが愛した女性の名前でした」
「ち、ちがうよっ!」
姉貴は母さんに向かって怒鳴った。
「砂戸静香! わたしのことに決まってるよ!」
「いいえ、違います! メインヒロインはこの私! そこはゆずれませんよ!」
「だったら、どっちがメインヒロインにふさわしいか勝負だよ!」
「望むところです!」
「あ、あの……二人とも、もう劇は終わってるんですよ? つーかそもそもそんなアホみたいな内容の劇でもないし……」
なぜかヒートアップしちゃった姉貴と母さんは激しく睨み合い、
「じゃあ、まずは発声練習勝負だよっ! 発声だけで窓ガラスを割ったほうが勝ちでいいね!?」
「了解です! じゃあ――アエイウエオアオオオオオオオオオオ――――――ッッッ!」
「カケキクケコカコオオオオオオオオオオオオオオ――――――――ッッッ!」
二人の超絶発声が――大気を激震させた。
俺は両手で耳をおさえながら悶絶し、
「ぬ、ぬぎゃあああああああああああっっっ!? な、なんじゃこの音量|人間業《にんげんわざ》じゃねえぞぎょええええええっ! ああああ、窓がぜんぶ割れて――うおおおおお!? 窓の外を歩いていた若い女性と飼い犬が泡を吹いて失神してるうううう――ふ、二人とももうやめてくれええええええっ!」
と、魂の絶叫を放った。
家を出て最寄り駅から電車に揺られること十五分。桜守駅で降り、そこから十分ほど歩いたところに桜守高校はある。
校門を抜けると、いつもとは雰囲気の違う校内。開場直後なのでまだあまり人はいないが、そこここに溢れるお祭りの気配に、なんとなく気分が高揚する感じだった。
校舎に向かうスロープを歩いていると、
「――ブタロウ!」
という、聞き慣れた声に呼び止められた。
部室棟のほうからこちらに向かってくるその美少女は、言うまでもなく石動美緒先輩でございました。
石動先輩は腰に両手を当て、むーっと不機嫌そうに顔を歪めている。なぜか右腕に『解決』と書かれた腕章をつけていた。
「遅いわよブタロウ! なにやってたのっ!?」
「お、遅いって……べつに遅くないと思いますけど……」
「あたしが遅いって言ってんだから遅いのよ!」
「そんな理不尽な……」
まあ理不尽なのはいまにはじまったことではないけど。
「あんた――もしかして忘れてんじゃない?」
言って、先輩はずいっと端整な顔を近づけてくる。
「な、なにをですか?」
「トラブルシューター! 桜守祭のトラブルシューターよ!」
「トラブルシューター……?」
「第二ボランティア部のアピールのために桜守祭のトラブルシューターをやる! あたしは確かにそう言ったわよ!?」
そういえば、そんなことを言っていたような気が……
クラス演劇のほうに集中しすぎてそんなのはすっかり忘れていた。
「まさか……本当に忘れてたの?」
先輩の瞳に険呑な光が宿る。俺は慌てて、
「い、いえ、もちろん覚えてますよ、はい」
忘れてるなんて言ったらどんな目に遭わされるかわからない。
先輩はじーっと疑わしそうに俺を見つめていたが、
「まあいいわ。とにかく行くわよ!」
「へ? 行くってどこに……」
「あんたはほんとにアホね」
先輩は侮蔑の表情を浮かべると、
「校内のパトロールに決まってるでしょ?」
「パトロール?」
「そうよ。トラブルを解決するためにはまずトラブルを見つけないといけないわ。そのトラブルを見つけるために校内をパトロールするのよ。こんなの論理的に考えたらすぐにわかることでしょうが!」
「す、すみません……」
「昨日はあんたたちがクラス演劇で忙しそうだったからなにも言わなかったけど、今日はそうはいかないわよ! ちゃんと第二ボランティア部のために働いてもらうから! ほら、さっさと来なさい!」
言って、先輩は俺の耳を引っ張る。
「い、いて、いてて! 先輩、そんなに強く耳を引っ張ると……はあ、はあ、はあ……」
微妙に息を荒げている俺を、先輩は怪訝な瞳で見上げる。
「そっか……あんた、またドMに戻っちゃったのよね」
「ええ、昨日の演劇中に……」
「やれやれ……」
先輩は盛大なため息をつくと、
「ドMの治療は結局振り出しに戻ったわけか。まあいいわ。あたしがまたいい方法を考えてあげる」
……そのいい方法で、俺はまたひどい目に遭うのだろう。たぶん。
先輩は俺を校舎のほうに連れて行く。
「あ、あの……パトロールするのは俺たちだけですか? 結野やみちる先生は……」
「嵐子はまだ登校してないのよ。来たら合流してもらうことにするわ。みちる姉は、なんか保健室で仮装写真館とかいう出し物をやってるから今日は忙しいんだって」
言いながら、ずいずいと歩いていく先輩。下駄箱で上履きに履き替え、校舎に入る。
「あの……どこに向かってるんですか?」
俺と先輩が歩いているのは、第二校舎の三階の廊下だった。
第一校舎には職員室や保健室、生徒たちのクラス教室があり、第二校舎にあるのはおもに美術室や化学室などの特別教室だった。第一校舎と第二校舎はどこの階も渡り廊下でつながっており、上空から見ると『H』の文字の形になっている。この二つがよく俺たちがお世話になっている校舎だ。少し離れた場所にある第三校舎には食堂や多目的ホールなどがあった。
「――ここね」
先輩がとある扉の前で足を止める。
顔を上げる。扉の上には『生徒会室』と書いてあった。
「生徒会室? 先輩、どうしてこんなところに……?」
「それはもちろん、トラブルの火種を見つけるためよ」
「トラブルの火種?」
「そうよ。桜守祭は生徒主導で行う行事だから、桜守祭に関する情報はすべて生徒会に集まってくるはず。その中に、なにかトラブルになりそうな情報があるかもしれないでしょ? それを教えてもらって解決するのよ」
「トラブルになりそうな情報って……たとえばどんなですか?」
「そうね。たとえば、いますぐ桜守祭を中止しないと学校を爆撃するぞ、みたいな脅迫状とか」
「そんなのは絶対にないと――いえ、なんでもありません」
先輩の目が怖かったのでなにも言わないでおく。
「よし、じゃあ乗り込むわよ」
「え? 乗り込むって……」
先輩は勢いよく生徒会室の扉を開け、
「たのもぉ――っ!」
道場破りみたいな感じで叫んだ。
生徒会室の中にいた何人かの生徒たちが、きょとんとした顔をこちらに向けてくる。
先輩は偉そうに薄い胸を張ると、
「あたしは第二ボランティア部の部長・石動美緒さまよ! 桜守祭で第二ボランティア部をアピールするためにトラブルを探してるんだけど、なんかない!?」
と、事情を知らない人が聞いても絶対にちんぷんかんぷんな説明をした。
生徒たち――生徒会の役員たちだろう――は、困惑した顔を見合わせていた。うん、それが普通の反応です。
先輩は首をかしげ、
「あれ? なんか意図が伝わってないみたい」
「当たり前ですよ。あれで伝わったら逆に不思議です」
「理解力の乏しい奴らね。そんなんでよく生徒会役員が務まるものだわ」
「乏しいのは先輩の説明力だと思います」
「……おまえさっきからケンカ売ってんの?」
「ごめんなさいごめんなさい! はあ、はあ、はあ……」
先輩にぎゅっと首を掴まれ、俺は少し気持ちよくなってしまった。
「あ、あの……」
おとなしそうな感じの女子生徒がおずおずと話しかけてくる。
「なにか生徒会にご用でしょうか?」
「だから、トラブルを探してるのよっ!」
「ト、トラブル?」
「そうよ! なんか困ったことが起きてないかって訊いてんの!」
「困ったこと? えっと……小学生の弟がいまちょっと熱を出していて……」
「そんなこと知るかああああっ! 病院にでも連れていきやがれええっ!」
「ひ、ひいいいいい! す、すすすみませんっ!」
女子生徒が涙ぐみながら叫ぶ。かわいそうに……
先輩は役員たちを見回し、
「なんかないの!? いますぐ桜守祭を中止しないと校舎に毒ガスをまき散らすみたいな脅迫状が届いたとか!」
だから、そんなのは絶対にありません。
黙り込む生徒会役員。どんどん不機嫌になっていく先輩。
と、そのとき。
「――なにか騒がしいみたいだけど、どうかしたのかな?」
背後からそんな声が聞こえた。
振り向くと、そこには長身の女子生徒が立っていた。
艶のある黒髪をショートカットにした、端整で理知的な顔立ちをした女子。
あ……この人は……
先輩は怪訝な表情をしながら、
「あんた誰よ?」
「私は片桐志帆《かたぎりしほ》。この学校の生徒会長をやっている」
そう、彼女は桜守高校の生徒会長なのだ。
片桐さんは先輩を見つめながら、
「あなたは……石動美緒さんだね?」
「なんであたしのこと知ってんの?」
「同学年なんだから知っていてもおかしくないだろう? それに、あなたはいろいろと有名な方なんだし」
言って、片桐さんは穏やかにほほ笑む。
なんというか……とても落ち着いた人だなと思った。
十代の幼さや未熟さをまったく感じさせない、静かな水面《みなも》のような雰囲気。俺と一つしか年が変わらないというのが信じられなかった。
「ふうん。まあ、そんなことはどうでもいいわ」
先羅は両腕を組みながら、片桐さんを見上げる。
俺はぼんやりと二人を見つめた。……先輩と片桐さんが同い年というのは、なんか不思議だった。大人な雰囲気の片桐さんと、子供がそのまま大きくなったような石動先輩。まるで真逆だ。気持ちいいくらい対極だ。
「あんた生徒会長なのよね? だったら、なんかトラブルの情報とか持ってないの? あったら教えなさい。第二ボランティア部の部長であり神様であるこのあたしが見事に解決してあげるから」
「神様……」
片桐さんは囁くようにその言葉を口にしたあと、石動先輩を見つめ、
「石動さんは……神様なのかい?」
「そうよ。そんなの当たり前のことじゃない」
「そうか。神様か……」
片桐さんは遠くを見るようにしてつぶやいた。
「そんなことより、トラブルの情報はないのかって訊いてんのよ」
「トラブル、ね……」
片桐さんは少し考える素振りを見せたあと、
「じつは、ないこともない」
「え?」
「こういうものがあるんだけど」
言って、片桐さんが先輩に渡したのは、一枚のルーズリーフだった。
そこには――
『今日、一人の生徒が血祭りに上げられるだろう。大いなる罪を償うために』
真っ赤な文字でそんなことが書いてあった。
「……なに、これ?」
「ついさっき生徒会宛に届いたものだ。誰が届けたのかは見当も付かないけど」
先輩は食い入るようにその文面を見つめている。やがて、
「これよ……」
「へ?」
「これよ! こういうのを待ってたのよ!」
先輩は満面の笑顔で言った。
「これこそ極上のトラブル! このあたしにもってこいの事件だわ!」
「事件って……」
そんなルーズリーフに適当に書いたようなもの、ただのイタズラに決まってると思いますけど。ほぼ確実に。
先輩はぐっと握り拳を作り、
「よし! じゃあさっそく犯人を探しに行くわよ!」
「え、ええ?」
「ぐずぐずするんじゃないわよ! こんなことをしてるあいだに善良な生徒が血祭りにされるかもしれないのよ!」
「いや、たぶんされないと……」
俺の言葉などまったく聞いていない。先輩は無駄に意気込みながら生徒会室の扉に向かって歩いていった。
ため息をつきながら先輩のあとを追おうとしたとき――ふと気づいた。
片桐さんが、静かな表情で先輩の背中を見つめていることに。
顔立ちが整っているせいだろうか……その無に近い表情を、俺は少しだけ怖いと感じた。
「で、犯人捜しって……いったいなにをするつもりなんですか?」
廊下を歩きながら、先輩に尋ねる。
「そうね……」
先輩は少し考えてから、
「とりあえず校内のパトロールをするわ! そして怪しい人物がいないか、もしくは犯人の手がかりがどこかにないか調べていくの! まずは出し物や人の多い第一校舎からはじめるわよ!」
俺と先輩は渡り廊下から第一校舎に向かった。
クラスや部活の出し物があまりない第二校舎とは違い、第一校舎は多くの人で賑わっていた。桜守の生徒のほかに、他校の生徒や子供を連れた家族など外来の客たちもたくさんいる。
「怪しい奴はいないか……怪しい奴……」
石動先輩は鋭い目つきできょろきょろと周りを見回している。
と、その視線がぴたりと止まった。
「先輩? 誰か怪しそうな人でも見つけたんですか? もしくは犯人の手がかりとか」
見たところ、そんな露骨に怪しげな雰囲気を漂わせている人間はいないようなのだが。
先輩の視線を追ってみる。
その先にあるのは、桜守の生徒がやっているクレープ屋さんだった。
教室の廊下側の窓を全開にして、そこを接客カウンターのようにして注文を受けている。
小さな子供が親に買ってもらったクレープをおいしそうにほおばっていた。
「…………」
無言でそれを見つめていた先輩は、
「……まずは、腹ごしらえが必要ね」
言って、おもむろにポケットから財布を取り出した。
ピンク色のがま口だった。いまどきの女子高生ががま口……と、俺はどうでもいいところで微妙に戦慄していた。
先輩はがま口をぱちりと開け、中をじっと見つめる。
「し、しまった……いま財布の中には五十七円しか入ってないことを忘れてたわ……」
先輩はしばらく固まっていたが、やがて、
「――ブタロウ」
「はい? なんですか?」
先輩は俺を見上げながら、クレープ屋のほうを指さし、
「あんた、あたしにあのクレープをオゴりなさい」
「は、はあ!? なんで……」
「日頃お世話になってるお礼にそれぐらいはしなさいよっ! おら、さっさと買いにいきやがれ!」
「そ、そんな……」
なんて理不尽な人なんだ。
結局――
俺は先輩に逆らうことができず、クレープを買うことになってしまった。
「やれやれ……」
先輩と自分のぶん、二つを注文する。先輩のはオーソドックスなクリーム、俺が頼んだのはチョコクリームだった。
「……はい、買ってきましたよ」
言って、先輩にクレープを手渡す。
「おおっ。クレープだわ」
当たり前です。クレープを買ってきたんだから。
クレープ屋の前を離れ、ゆっくりと廊下を歩き出す俺と先輩。
先輩は両手でクレープを持ち、はむっと一口食べた。
「うわあ……お、おいしい……」
ほわぁ、と先輩の顔が幸せそうにとろける。
はむっ、はむっ、とすごい勢いで先輩は小さなお口にクレープを入れる。そんなにがっつかなくても……
先輩はあっという間にクレープを食べきってしまった。俺はまだ三口ぐらいしか食べていない。
ふと気がつくと、
「…………」
先輩が俺のクレープをじーっと見つめていた。かなり真剣な目で。
そして、
「隙ありっ!」
「うおっ!?」
先輩が唐突に顔を近づけ、俺の手に持っていたクレープをはむりと齧《かじ》った。
「うむ……チョコもおいしいわ」
「な、なにをするんですか! 意地汚いですよ!」
「う、うるさいわね! あんたが隙だらけなのがいけないんでしょ!」
「誰だってクレープ食べてるときは隙だらけになりますよ!」
俺はため息をつき、
「そんなに欲しいならあげますけど。俺の食べさしでよければ」
「ほんと!? やったっ!」
先輩は素早い動きで俺からクレープを奪い取った。
「ううう……おいひぃ……」
クレープを口いっぱいにほおばりながらつぶやく。
まったく、この人は本当に子供みたいなんだから……
しばらく歩くと、
「ん? なんだかいい匂いが……あっ」
と、先輩が声を上げた。俺はすごく嫌な予感がした。
先輩の視線の先には、たこ焼き屋の模擬店をやっている教室があった。
「ねえ、ブタロウ」
「な、なんですか?」
「たこ焼きって……人間の生み出した文化の極みよね……」
「そんなことはないと思います……」
結局、たこ焼きもオゴることになってしまった。
「たこたこたこやき、たっこやき〜♪ うまいぞまるいぞたっこやき〜♪」
謎のたこ焼きソングを歌いながら、先輩はおいしそうにたこ焼きを食べている。
「あれ? タロー、あんたはたこ焼き買ってないの?」
「ええ。俺はべつに食べたくなかったんで」
「た、たこ焼きを食べたくなかった……? あんた、正気なの?」
「完全に正気ですけど」
「し、信じられない……」
「そこまで戦慄することですか?」
先輩はたこ焼きを刺した爪楊枝を持ったまま、むーっと俺を見上げ、
「あんたのお金であたしだけ食べてると、なんか罪悪感を感じるわね。一方的に搾取しているみたいで」
「気にしないでください」
もういろいろと諦めていますから。
「いや、そんなのあたしの気が済まないわ! というわけでたこ焼きをどうぞ!」
「むごおおおおおっ!? せ、先輩、いきなりたこ焼きを口の中に突っ込まないでごほっ」
「食え! いいから食いなさい!」
「ぐおおおおおおおお! かみ砕くと中がすごい熱い……はあ、はあ、はあ……」
ドMの興奮がやってくる前に、なんとかたこ焼きを嚥下する。
先輩は小首をかしげるようにしてほほ笑むと、
「たこ焼き、おいしかったでしょ?」
「は、はい……」
正直、味なんてまったくわからなかったが、こう言わないと同じことを繰り返されそうなのでうなずいておく。
「でしょー! やっぱり文化の極みよねー」
にこにことうれしそうに笑う先輩。
俺はそっとため息をつく。やれやれだ……
そのとき、
「ハッ!? あれは――」
たこ焼きを食べていた先輩の表情が急に鋭くなった。
「先輩?」
先輩は厳しい視線で前方を見つめている。
どうしたのだろうと思い、俺は先輩の視線を追った。
と――
廊下の前方から、見覚えのある人物が歩いてくるのを見つけた。
あ、あれは……
茶色く染めた髪に端整な顔立ちをしたスタイル抜群の男性。
その人物は俺の姿を見ると、男の俺でもどきりとするような笑顔を浮かべ、
「やあ、砂戸くんじゃないか」
「て、店長!?」
彼は、俺がアルバイトしているコンビニの店長――道明寺《どうみょうじ》さんだった。
「店長、どうしてここに……?」
「ちょっと前に偶然この学校で学園祭があることを知ってね、懐かしくなったから足を運んでみようと思ったんだよ」
「懐かしくなった?」
「そうか、砂戸くんには言ってなかったかな。じつは僕、この桜守高校の卒業生なんだよ」
「え? そうだったんですか?」
「うん。君の先輩だ」
言って、店長は笑みを広げる。
「ブタロウ、ブタロウ」
先輩は俺の服の袖を引っ張り、こっそり耳打ちしてくる。
「この人はなんなの? あんたの知り合い?」
「あ、はい。俺がバイトしてるコンビニの店長なんです」
「ふうん……」
先輩は一瞬だけ店長のほうに視線を向ける。そして、
「……怪しいわね」
「は?」
「この人、すごく怪しいわ。生徒会室に変な手紙を出したのはこの人かも……」
「ちょ、ちょっと待ってください! なにを根拠に怪しいとか言うんですか!」
「根拠って……あんた、わからないの?」
「ごめんなさい。本当はすごくわかります」
店長は――
なぜか、人の身長ほどもある巨大な抱き枕をかかえていたのだ。
その抱き枕には……美少女の全身イラストが描かれてあった。
「あ、あの店長……それは……」
「ん? これかい?」
店長は得意げに、
「これは、イスズちんの等身大抱き枕だよ」
言ってから、爽やかな笑みを浮かべた。
「僕の恋人であるイスズちんに、僕の母校を見せてあげたかったから連れてきたのさ」
「ず、ずっとその抱き枕を持ったまま学校まで来たんですか? 家から?」
「そうだけど、それがどうかしたのかい?」
「…………」
この人は、なんて強者《つわもの》なのだろう。
「あ、怪しい……怪しすぎる……」
先輩はぶつぶつつぶやいている。俺は慌てて、
「せ、先輩。この人は大丈夫です。確かに怪しげな部分があることは否定しませんけど、それ以外の部分はわりとまともな人ですから」
「そう、なの? ……まあいいわ。とりあえず保留にしておいてあげる」
俺は安堵の息をついた。
店長は抱き枕に向かって、
「イスズちん、僕の学校に来れてうれしいかい?『うん、わたしとってもうれしいよ。がぉ』。そうか、それはよかった。イスズちんが喜んでくれて僕もうれしいよ。イスズちんはどこか行きたいところはあるのかな?『恐竜のぬいぐるみが展示してあるところとかに行きたいな。がぉ』。恐竜のぬいぐるみかぁ……それはさすがにないかもしれないぁ。あはは……」
……店長は腹話術のような技を使って一人で二次元美少女と会話していた。ここまで来るともうオタクとかいう次元を超えてしまっているような気がしないでもない。
「じゃあ砂戸くん、僕はイスズちんとのデートの途中だからもう行くよ。――さあイスズちん、行こうか。『うん、デート再開だね。がぉ』。ふふふ、イスズちんは本当にかわいいなぁ……」
店長は笑顔で抱き枕に話しかけながら、幸せそうに俺たちから離れていった。完全に心が病んでる人に見えた。
「……ブタロウ。あの人、本当に怪しくないの?」
「……たぶん、大丈夫です。絶対とは言えませんが」
――第一校舎を順番に回ってみたが、怪しい人物などまったくいなかった。犯人の手がかりももちろん見つかっていない。
一階の廊下を歩きながら、先輩は、
「なにも収穫はなかったわね」
「そうですね……」
まあ、あるはずもないんだけど。だってたぶんイタズラだから。
「第一校舎は空振りか……じゃあ、次はどこを……」
先輩は少し考え、
「そうね……では、次は第三校舎を捜索することにするわっ!」
「え……でも、第三校舎には出し物とかまったくないから、誰もいないと思いますけど……」
「だからこそよ! 誰もいないんだから、凶悪犯が隠れるにはうってつけの場所だわ! 犯人はそこでターゲットを血祭りに上げる機会をうかがっているかもしれない!」
「は、はあ……」
ずんずんと歩いていく先輩に先導され、俺たちは第三校舎にたどり着いた。
「臭う、臭うわ……ここにはなにかがあるはず……」
先輩はぶつぶつつぶやきながら第三校舎に足を踏み入れる。
と――
一階にある、ある空き教室を通り過ぎようとしたときだった。
「せ、先輩!」
「え? ――な、なんと!?」
空き教室の中で――
一人の女子生徒が、ロープで縛られて床に転がされていた。口には猿ぐつわまでされている。こ、これは大変だ。
俺たちは慌てて女子生徒に駆け寄り、ロープと猿ぐつわを外した。
ふわふわの髪を長く伸ばした小柄な少女だった。両目がぱっちりとしていて、かなりかわらしい顔立ちをしている。
「ちょっとあんた! いったいなにがあったの!? 誰にやられたのよ!?」
「え、えっと……」
女子は床にぺたんと腰を下ろしている。おずおずと先輩を見上げ、
「わ、わたし……ここでミスコンでやる予定だった自己アピールの練習してたんですけど……そしたら、急に後ろから襲われたんです……アッという間にロープでぐるぐる巻きにされて、口に猿ぐつわをされて……」
「そ、それで犯人はどんな奴だったの!?」
「幼い感じに見える……女の子でした」
「女の子!? それは確かなの!?」
「は、はい。その子はわたしを動けなくしたあと、わたしの生徒手帳をじろじろと眺めて、それからどこかに逃げていっちゃいました……」
「生徒手帳をじろじろ眺めて? ほかにはなにもされなかったの?」
「ええ、特には……」
そのとき、俺は床に生徒手帳が落ちていることに気づいた。この生徒手帳は彼女のものだろう。畑中愛子《はたなかあいこ》――それが彼女の名前のようだった。
「縛っただけで逃げていった……? それは奇妙ね。犯人の目的はなんだったのかしら?」
「……あとでちゃんとロープをほどいてあげるからね、とも言ってました。あんまり怖い感じはしなかったけど……」
と、彼女――畑中さんも困惑した感じでつぶやく。
「ますます奇妙ね……」
第三校舎の前で畑中さんと別れる。どうやら畑中さんはミスコンに出場することは諦めたようだった。いまから会場に向かっても出場時間に間に合うかわからないし、自己アピールの練習もできなかったからと。畑中さんは絶対に優勝候補の一人だろうに、ちょっともったいない気がした。
畑中さんと別れた俺と先輩は、いきなり遭遇した怪しげな事件のことを考えながら歩いていた。
「ううむ、さっきの女子をロープで縛った犯人の目的はいったいなんだったのかしら……生徒会室に犯行予告を出した犯人と同一人物なの……?」
先輩はかなり真剣に悩んでいる様子だった。でも、女の子をロープで縛るというのはマジで犯罪臭のする行為だ。それをしたのが女の子だったというところが気になるが。
そのとき、第三校舎のそばを歩いていた俺たちの前を、数人の男子生徒が駆け足で通り過ぎていった。彼らはとても慌てた様子で「早くしないとはじまっちまうぞ」「ああ、急ごう」とか話していた。
先輩は、じっと彼らの背中を見つめていた。
「あの焦りよう……なにかしら? なんか怪しいわね」
「え、どこが?」
「もしかして、また新たな事件が……ブタロウ! 奴らを追うわよ!」
言って、先輩は駆けだした。
「ちょ……ちょっと待ってくださいよっ!」
俺は慌てて先輩のあとを追った。
男子生徒が向かった先――
そこは、校庭の端に造られた特設ステージだった。
観客がぎっしりと立ち並ぶその中に、俺と先輩は立っている。
視線を前に向けると、
『第十四回ミス桜守高校コンテスト』
という大きな文字がステージに掲げられているのが見えた。その下には巨大なスクリーンがあり、ステージの上には司会役の男子が立っている。
「ここは……ミスコン会場のようですね」
「そうみたいね……」
先輩は撫然とした表情で、
「でも――ミスコンといえば、桜守祭で一番のイベントといっても過言ではないわ。犯人がもし目立ちたがり屋で自分の犯行を誇示したくなるようなタイプなら、このミスコン会場を惨劇の舞台に選ぶという可能性もある。それに、さっき縛られていた女の子も最初はミスコンに出るつもりだったんだし、なにか関連があるかもしれない。というわけで、しばらく見物していきましょう」
「は、はあ……」
司会役の男子が、ミスコン審査についての説明を行っていた。これから出場者の女子が一人ずつ自己アピールし、そのあと観客の投票で優勝者を決めるようだった。
なお、ミスコン優勝者の女子には賞品として日帰りの温泉旅行がプレゼントされる。
そして特典として、その温泉旅行に桜守の生徒なら誰でも誘っていいという権利が与えられるらしい。優勝した女子に指名された生徒は、そのお誘いを決して断ることができないというルールもあった。
つまり、もしミスコンに優勝することができたら、優勝者は意中の生徒と確実に旅行に行くことができるということである。それを狙って出場する女子も少なくないみたいだった。
先輩は口をへの字にしながら辺りに視線を這わせている。不審な動きをする人間がいないか捜しているのだろう。
俺はふと訊きたくなって、
「あの……先輩はミスコンに出場したりはしないんですか?」
「ミスコン?」
すると、先輩は露骨な仏頂面を浮かべ、
「ミスコンなんかもう絶対出ないわよ。去年で懲りたわ」
「え……去年は出たんですか?」
ちょっと意外だった。
「そうよ。なんか、ミスコンのスタッフが出てくれって土下座するような勢いで頼んできたから、仕方なくね。あたしが出ないミスコンは真のミスコンじゃないとか言って」
「それで、結果は……」
「自己アピールもしないでずっと突っ立ってただけなのに、いつの間にか優勝してたわ」
……まあ、それも当たり前か。先輩は外見だけならスーパーアイドル級なのだ。
「じゃあ、温泉旅行をゲットしたんですよね? いったい誰を誘ったんですか?」
少しだけ、それが気になった。
「みちる姉よ」
「え……? でも、みちる先生は生徒じゃないのに……」
「いいでしょ、べつに。誰と行こうがあたしの勝手よ」
ふん、と鼻を鳴らす。
「ほんと、ミスコンなんてうんざりだわ……優勝したらアホみたいな数の男子があたしに告白してきて。あ、たまに女子もいたわね。全員殴り倒すのはマジでめんどくさかったわよ」
「なんで殴り倒すんですか……」
普通に断ってあげてください。
「生徒以外にも、いまはもうどっかに飛ばされた男の教師が文通してくださいとか言ってきたり、頬を赤らめた女子中学生にサインを求められたり、カメラを持ったもっさりしたおっさんに校門で待ち伏せされたり……本当に散々だったわよ」
「そ、それは大変ですね……」
そんなことを話していると――
「――オーホッホッホッホッホッ!」
という高笑いが、ミスコンのステージのほうから聞こえてきた。
えっ? こ、この声はまさか……俺は慌ててステージに目を向ける。
ステージに立っているその人物の姿を見た俺は、
「ごはああっ!?」
驚きのあまり、口からなにかを吐き出した。
司会役の男子がマイクに向かって、
『では、エントリーナンバー一番のあなた、自己アピールをどうぞ!』
その女子――いや男子は、右手を口元に当て、
「エントリーナンバー一番――タツミ・アントワネット十六世、ここに見参ですわっ! オーホッホッホッホッホッ!」
そこにいるのは、俺の親友である葉山辰吉だった。辰吉が女装した姿だ。
「な、なななんであいつミスコンなんかに……お、男のくせに……」
「アホだわ。あのキモ変態は間違いなくアホだわ」
女装辰吉――なんかタツミ・アントワネット十六世とか名乗ってたけど――は、優雅に長い髪を掻き上げると、一段高い場所から観客を見下ろし、
「ウルトラ貴族であるこのわたくしが下賎な大衆の催し物であるミスコンなどに出場した理由はただ一つ! この桜守高校で最も美しい存在はわたくしであるという当たり前の事実を下々の劣等種であるあなたたちに教えてあげるためですわ! さあ愚民ども、このわたくしの法悦的ともいえるほどの美貌を全身全霊で崇めなさい! そして脱糞するほど力いっぱい賛辞の言葉を捧げるのですわよ! オーホッホッホッホッホッ!」
『あ、あの……そろそろ自己アピールのほうを……』
「汚れた凡民のくせにこのわたくしに指図するつもりかしら? あなた、ギロチンという名の処刑道具はご存じ?」
言って、司会役の男子にずいっと顔を近づける。
『え、えっと……でも、早くしてもらわないと……』
女装辰吉は傲慢に鼻を鳴らすと、偉そうに胸を張り、
「仕方ありませんわね。では――わたくしが用意してきたものを持ってきなさい」
『は、はい!』
司会役の男子がステージの下から運んできたのは、普通の机だった。
その机の上には、まな板と包丁、そしてキャベツ一玉が乗っている。
辰吉は包丁を手に取ると、
「では、わたくしの自己アピール――キャベツの千切りをはじめますわ!」
『あ……は、はい。どうぞ』
「そりゃああああああああああああああああああああああああああ!」
辰吉は雄叫びを上げると――すごい速さでキャベツの千切りをはじめた。
おおー、と観客たちがひかえめな感嘆を漏らす。
包丁を持つ右手の動きが見えないほどの速さ。さすが料理部、辰吉のキャベツの千切りはすごかった。確かにすごかった。でも……
観客たちが、
「す、すごい。すごいけど……地味だ……」
「すごい速さだわ……地味だけど……」
「あの包丁さばき、ただ者ではないぞ……しかし地味だな……」
「貴族なのに……すごい地味だ……」
「とゆーか、貴族はキャベツの千切りなんてしないだろ……」
「この包丁さばきをご覧なさい! 庶民には決して真似できないでしょう!? オーホッホッホッホッホッ! オーホッホッホッホッホッホッ!」
辰吉は悦に入《い》った顔でキャベツの千切りを続けている。
石動先輩は両腕を組みながら、
「……ねえ、あいつって本当に頭いいの? なんかバカにしか見えないんだけど」
同感だった。
俺と先輩が呆れていると――
「つ……ついに見つけたわっ!」
そんな声を上げながら、一人の女子生徒が観客席からステージの上に乱入してきた。
髪を後ろでまとめた、かわいらしい顔立ちの女子だった。あと……この距離でもはっきりとわかるほど胸の大きな子です。
辰吉はその女子を見ると、ぎょっとした顔をした。
「あ、あなたは――」
「やっと……やっと会えた……この感動はプライスレスだわ……」
女子はうるうる瞳を潤ませながら、辰吉のほうに近づいていく。
辰吉は、たらりと頬に汗を流すと、
「ちょ――ちょっとわたくし、用事を思い出してしまいましたわ! というわけで、これで失敬っ!」
「あ……ま、待ってよぉ! せっかく会えたのにぃ!」
脱兎のごとく逃げ出す辰吉。それを追いかける胸の大きな少女。二人はアッという間にミスコン会場から姿を消した。
「あの無駄に巨乳女は、花片《はなひら》……」
「先輩? あの女子のこと知ってるんですか?」
「……知らない。あたしにあんなアホな知り合いはいないわ」
と、先輩はつまらなそうに言った。
『ええーっと……とりあえず、エントリーナンバー一番の方は棄権ということで、次にいってみましょう!』
と、司会役の男子が声を上げる。
『では、エントリーナンバー二番の方、どうぞ!』
「はいっ!」
ステージの裏でスタンバイしていたミスコン候補の女子が、呼びかけに応じてステージの上にあがってくる。
「エントリーナンバー二番、畑中愛子だよお〜! みんな、よろしくねっ!」
言って、その女子はにぱっと笑顔。
その女子は桜守の制服を着て、頭には猫耳、お尻にはシッポをつけている。
観客席の男性たちが「おおおお!」と声を上げる。「かわいい!」「萌え!」とかいう言葉も飛び交っていた。
俺は――
「が……う……あ……」
あまりのショックに、耳と鼻の穴から煙を出していた。
いまミスコンのステージに立っている女子。
それは――間違いなく俺の姉貴、砂戸静香でございました。
な、なんで姉貴が! 桜守のミスコンに! 出てるのですか!? ホワイ!?
そのとき俺は――ハッと気づいた。
「あいつ……さっき、自分のことを畑中愛子って名乗ってたよな……」
畑中愛子。その名前には覚えがある。
それは、第三校舎の空き教室で会った女子の名前だ。ロープで縛られ猿ぐつわをされていた、あの女子の。
「ま、まさか、姉貴の奴……」
そうだ、そうに違いない。
今朝、俺の高校で学園祭があることを知った姉貴は、当然のように学校に訪れた。校内に貼ってあるポスターやらを見てミスコンのことを知った姉貴は、なんとかミスコンに出たいと思っていた。そのとき、偶然にもミスコンの自己アピールの練習をしている女子の姿を見つけた。そして姉貴は、その女子になりすましてミスコンに出ようと考えた……そこまでしてミスコンに出たかった理由はもちろん――
「ミスコンに参加しようと思った理由は、優勝して大好きな人といっしょに温泉旅行に行くためだよっ! 愛する人のため、わたしはがんばるからね!」
ミスコンの優勝特典をゲットするためだ。
「じゃあ、いまから自己アピールをはじめるよっ! ミュージックスタート!」
姉貴がそう言うと、ステージに軽快な音楽が流れ出した。
姉貴はマイクを右手に持ち、かわいらしい振り付けと声で歌をうたう。ぴょん、と小さく飛び跳ねたときスカートがめくり上がりそうになって――会場のボルテージが急激に上がった。
いつの間にかミスコン会場は一体に……なんか、アイドルのコンサートのような雰囲気。
男性客は皆、「オウ! オウ!」と雄叫びを上げながら拳を振り上げていた。
すごい盛り上がり……これはマジで優勝してしまうかも、俺がそう思ったとき。
唐突に――流れていた音楽が止まった。
そして。
「みなさん――騙されてはいけませんっ!」
そんな大声が、ステージに響き渡った。
「彼女は畑中愛子ではありませんっ! ニセモノです!」
ざわつく観客たち。
姉貴は焦った表情できょろきょろ辺りに視線を向けている。
こ、この声は……まさか……
聞き覚えのある声に俺がゲロを吐きそうになっていると。
ミスコン会場に設置されている巨大なスクリーン。そこにデカデカと、誰かの学生証が映し出された。
それはどうやら大学の学生証のようだった。
その学生証には……姉貴の顔写真がはっきりと貼ってあった。
「彼女はこんなちっこい子ですが、れっきとした大学生なのです! つまり桜守の生徒ではない! というわけで、当然ミス桜守コンテストに出る資格はないわけです! これは完全なる不正! ミスコン実行委員の方々、早急な対処をお願いします!」
「な……あ、あのババァ! 姿が見えないと思っていたら、わたしの行動をずっと監視してたんだね! そして最後の最後でわたしを貶《おとし》めて――」
「ふふふ、そうですよ、静香さん。残念ですが今回は私の勝ちです」
「く……え、ええ? ちょっと、なんでわたしの両腕を掴んでるの? はい? 不正が発覚したので強制退場? そ、そんなのひどいよおおおおおおおっ!」
「あははははは! 静香さん、さようなら!」
ミスコン実行委員に連行され、姉貴はミスコン会場から去っていった。
唐突な展開に、ざわめきがおさまらない観客席。
「――ニセモノは消えました」
と、聞き覚えのある声が言った。
「そして――」
ステージの裏から躍り出てくる人影。
制服を着た彼女は、満面の笑みを観客たちに向け、
「私が――本物の畑中愛子ですっ!」
と、はっきり言い切った。
小首をかしげるようにして、ダブルピースを観客に送る。
その瞬間。
しん、と観客席は静まった。
「じゃあ、これから自己アピールを……あ、あれ?」
笑顔のまま固まる制服姿の彼女――というか、俺の身内。
ミスコン実行委員たちが無言で彼女に近づくと、ずるずるとステージの下に引っ張っていった。
「え? ちょ、ちょっと――わ、私はニセモノじゃないですよ! ほ、本物の畑中愛子、ぴちぴちの女子高生なんです……ほ、ほんとなのに……ええええ、なんでですかあああああっ!」
糸を引くような絶叫がミスコン会場に響き渡った。
先輩はぽかんとした顔で、
「ねえ、あのオバサンなんなの? なんか自分のこと女子高生とか言ってたけど……正気なのかしら?」
「いやあ、確実に正気ではないでしょう。ははは……」
母さん……
母さんが女子高生という設定は、さすがに無理があります……
――それからもしばらくミスコンを見物していたのだが、「もう飽きた」という先輩の一言で違う場所に行くことになった。
「ううむ……犯人はいったいどこに……」
いくつかの出し物が並ぶ中庭を歩きながら、先輩はつぶやく。
「……ん?」
石動先輩が急に立ち止まる。
その視線の先にあるのは、中庭に置かれたお化け屋敷の看板だった。
「……お化け屋敷?」
「ああ、それって三年生全員が合同で制作したっていう出し物ですよね。第二体育館で催されている巨大お化け屋敷。今回の桜守祭の目玉と言われてるやつです」
「お化け屋敷っていうぐらいだから、中は薄暗くなっているはずよね。そして、誰かの悲鳴が聞こえても、それはお化けに驚いたからだと思われる……」
先輩は俺のほうに顔を向け、
「ブタロウ! お化け屋敷に急ぐわよ! 犯人は……お化け屋敷を惨劇の舞台に選ぶかもしれない!」
「はあ、そうですか……」
と、いうわけで――俺と先輩はお化け屋敷が催されている第二体育館に向かった。
第二体育館は、演劇などが上演されている体育館より少し狭いが、それでもかなりのスペースがある場所だった。その第二体育館全体を、パーテーションで区切って迷路のようにしている。迷路といってもお化け屋敷なので分岐などはなく一本道なのだが。その道の至るところに入場客を驚かせる仕掛けが施されているらしい。
第二体育館にたどり着く。良心的なことにお化け屋敷は無料だった。
「よし、ブタロウ。行くわよ」
「は、はい」
外の光を遮断しているらしく、中はやはり薄暗かった。まあ明るいお化け屋敷なんて怖くもなんともないので暗くしているのは当たり前だろうが。
お化け屋敷の通路を進む。通路は二メートルほどの幅で、パーテーションで区切って造った壁にはおどろおどろしい装飾がなされていた。床にはビニールが敷き詰められているようだ。
「な、なんか、わりと本格的ですね……」
「そうね」
きょろきょろしながら歩いていると、突然――
「ぬおおうっ!?」
通路の両側の壁から、無数の人間の手が飛び出してきた。
「ひ、ひいいい――――っっ!」
「……あんた、わりとへたれなのね」
「だ、だって! だってだって! こ、こここ怖くないですか!? いきなり手が……人間の手が飛び出してきたんですよ!?」
わしゃわしゃと蠢《うごめ》く無数の手。それを見ているだけでもかなり怖い。
「ふん、このぐらい余裕だわ。あたしを誰だと思ってるのよ」
言葉の通り、先輩は余裕の表情だった。壁から飛び出している手と握手なんかしたりしている。さすがだ。
「さっさと前に進むわよ」
「は、はい」
おどおどしながら進む。
「ほんとに臆病者ね、あんたって。ああ、情けない」
と、先輩は盛大なため息をつく。
しばらく歩くと、前方の壁に大きな棺桶が立てかけてあった。
「あれ……中になにかいますよね、絶対」
「まあ、そうでしょうね」
ううう、怖い……
先輩はずんずんと前に進んでいく。俺はおずおずとそのあとを追う。
棺桶のそばにたどり着くと――予想通り、その蓋が開いた。
「ぎゃあああ……あ、あれ?」
中から出てきたのは……なんというか、ファンシーなお化けだった。
三毛猫をモチーフにしたお化けのようで、猫の顔をデフォルメした大きな作り物の頭をかぶり、両手には肉球の目立つぬいぐるみみたいな猫の手グローブをはめている。一応顔に縫いあとのようなものがあり、口から赤いものを垂らしてお化けっぽさを演出している気になっているようだが、まったく怖くない。
「先輩、こいつはなんなんでしょうね。なんか怖いというより愛らしい……へっ?」
石動先輩は――
なぜか、顔を青くしながらあとずさっていた。
「せ、先輩?」
どうしたのだろう、先輩の両膝は小刻みに震えているように見える。しかも、先輩の瞳はまるで泣き出す寸前みたいにうるうる揺らめいていた……な、なんで?
先輩は震える声で、ぽつりと、
「ね……ねこ……」
「はい?」
「ねこ……ねこっ! ねこねこねこっ! うわぁあぁああぁあんっ!」
先輩は悲鳴のような声を上げると、プルプル震えながらその場にしゃがみ込んでしまった。両膝に顔をくっつけ、両手で頭を抱えながら、ぎゅっと強く目をつぶっている。
「ねこっ! ね、ねここわいっ! こ、こここ、こわいっ! ぎゃああああっ!」
「こ、こわいって……あ……」
そうだ、思い出した。
先輩は……猫が大の苦手だったのだ。
「いや、でも、猫って……あんなのでも怖いんですか?」
猫の被り物をかぶっているだけで、本物の猫じゃないのに。
異様なほど怖がる先輩に、ファンシー猫お化けが近づいていく。
「い、いやああああっ! あ、あっち――あっちに行ってよぉ! お願いだから、あっちに……う、うぇ、ぐす……」
あ、本格的に泣きはじめた。
「お、おい、もういいだろ! おまえは巣に帰れ!」
俺は猫お化けを追い立てる。猫お化けは渋々な様子で棺桶の中に戻っていった。
俺は先輩のそばに近づき、
「先輩! もう大丈夫ですよ! 猫お化けはいなくなりました!」
言うと
「う、うわぁああぁぁあああんんっっ!」
「――っ!?」
先輩は泣き叫びながら、俺の胸に飛び込んできた。
両腕を俺のおなか辺りに回し、ぎゅーっと抱きついてくる。
「ちょ――せ、先輩?」
「う、ううう……ねここわい、こわすぎるぅ……」
先輩の両肩はカタカタ震えている。この人、マジで猫が怖いんだな……
「先輩、ほんとにもう大丈夫ですから。はい、深呼吸してください」
「すー……はー……すー……はー……」
「ちょっとは落ち着きましたか?」
「……うん」
先輩は子供のようにうなずくと、ゆっくり俺から離れた。でも、まだ目尻に涙のあとが残っている。こんな様子の先輩を見られるのは貴重なことかもしれない。
「じゃあ、先に進みましょう。たぶん、もう猫お化けは出てきませんから」
「…………」
先輩は無言でうなずく。
俺が先に進もうとしたとき――
「ブ……ブタロウ!」
先輩が切羽詰まったような声を上げる。
「はい? なんですか?」
先輩は俺から顔を逸らし、囁くように、
「……手、つないであげるわ」
「へ?」
「あ、あんたは臆病者でお化け屋敷が怖くて仕方ないみたいだから、あたしが手をつないでやるって言ってんのよっ!」
「え……あ、いや、べつにそんなことしてくれなくても大丈夫ですけど……」
言うと、
「あう……」
先輩は、ちょっとうろたえたような表情を浮かべた。
それから、なんか泣きそうな顔で俺を睨んでくる。
「あ……」
もしかして、先輩はさっきの猫お化けのせいでこのお化け屋敷が怖くなってしまったのだろうか。だから、心細くなって手をつなごうと……
俺は先輩に気づかれないようにため息をつくと、
「先輩、やっぱり手をつないでください」
「えっ!?」
「先輩の言うとおり、俺はすごく臆病者ですから。だから先輩が手をつないでてくれると安心します」
すると、先輩は露骨にうれしそうな顔をして、
「しょ、しょうがないわねっ! じゃあ、あたしが手をつないであげるわっ!」
「はい、お願いします」
やれやれ、この人は本当に世話が焼ける……
先輩が右手を俺のほうに向けてくる。
そして――俺は先輩の小さくてやわらかい手を優しく握った。
「…………」
なんだろう……なんか、いきなり顔が熱くなった。
手をつなぎながら、並んで通路を前に進む。
「…………」
「なによブタロウ。急に黙り込んじゃって」
「い、いえ……なんでも……」
「変な奴ね」
それから、しばらく歩くと――
「あ……先輩、あそこがゴールみたいですよ」
前方にゴールという文字が見える。あそこが出口に間違いないはず。
と――
そのとき、背後に気配を感じた。
「……え?」
恐る恐る振り返ると、そこにいたのは――
「ひ、ひぎゃああああああああ――――っっ!?」
恨めしそうな顔をした、若い女性のお化けだった。
「ひいいっ! お、おたすけえぇ――っ!」
俺は先輩の手を放し、その場で尻餅をついた。のっそりとそこに立つ女性のお化けからは、なんだかすごい負の気配が漂っていて、かなり恐ろしかったのです。
「あれ?」
そのお化けを見た先輩が、ちょっとびっくりした顔で、
「なんで嵐子がここにいるの?」
「……へ?」
俺はぽかんとしながら、改めてその女性の顔を凝視する。
そこに立っていたのはお化けなどではなく、確かに……結野だった。
だが、どうしてだろう。俺たちを見つめる結野は、なんか全身からどんよりした暗いオーラを発散しているのだ。そのオーラのせいでお化けと間違ってしまった。
結野はどんよりしたまま、
「前方に、タローと美緒さんらしき後ろ姿を見つけたから……走って追いかけてきたんです……」
と、低い声で言った。
「ちょっと嵐子、急に走り出して――あれ?」
後ろから駆け寄ってきたのは、間宮さんだった。
「美緒さんと砂戸くんじゃない。あなたたち、こんなところでなにをしてるの?」
首をかしげる間宮さん。
「あたしたちは、とある脅迫犯人を捜してるのよ」
先輩は、生徒会室に犯行予告を出した犯人を捜していることなどを二人に伝えた。
「それって、ただのイタズラなんじゃあ……」
間宮さんはぽつりと言った。
結野のほうは――
「へえ、ずっと二人っきりで犯人捜しを……そうですか……」
ジト目でつぶやいていた。
……なんでだろう、いまの結野はちょっと怖いです。
「そうだ。嵐子、どうして電話してくれなかったの? みんなでトラブルシューターをするから学校に着いたら電話してって昨日言ったのに」
なんで結野にはそう伝えてあるのに、俺にはなにも伝えてくれなかったのだろう。まあ、俺だけないがしろにされるのは今日にはじまったことではないが。
「……何度も電話しました。美緒さんにもタローにも」
結野は暗く沈んだ顔で、
「でも……二人とも出てくれなかったんです……」
「え、そうなの? そっか……じゃあ、犯人捜しに夢中になってたから気づかなかったのね。マナーモードにしてたし」
「たぶん俺もそうだ」
「ふうん……そんな夢中になるほど楽しかったんだ……そうなんだ……」
……結野さん? 本当にどうしたのですか?
「それよりも、砂戸くん」
間宮さんが俺のほうに顔を向け、
「辰吉くんがどこに行ったか知らない? せっかくいっしょに回ろうと思ってたのに、どこにもいないのよ。電話にも出てくれないし」
「……さあ。知らないな」
本当は知っている。奴はミスコンに出ていたのだ。女装して。
でもそれを言うことはできないので、なにも知らないことにした。辰吉は女装のことを間宮さんには秘密にしているのである。
「そう……辰吉くんが見つからなかったから、嵐子といっしょに回ってたんだけど。嵐子もなんか一人ぼっちみたいだったし。ほんとはいっしょに回りたい人がいたみたいだったけどね……」
言って、なにやら意味ありげな視線を俺に向けてくる。俺は首をかしげた。
「……さっき」
と、つぶやくように言ったのは結野だった。
「さっき……タローと美緒さん、手をつないでたように見えた……」
「えっ!? そうなの?」
間宮さんが妙にうれしそうな感じで言ってくる。
「ち、違うんだ! あれは……」
「あれは、ブタロウがなんかすごく怖がってたから、仕方なく手をつないでやったのよ」
先輩は撫然とした様子で告げる。えええ、先輩、それはひどいんじゃ……
間宮さんはにやにやしながら俺と先輩を見つめ、
「へえ、手をつないでお化け屋敷をねえ……なんだかそれって、恋人どうしみたい」
「はあ!? あんたなに言ってんのよっ!」
と――
「う、ううう……」
どうしたのだろう。結野の全身がぷるぷる震えている。
そして。
「う、うう、うわああああああああん――――っっ!」
結野は急に――泣いた。
「えええっ!? ゆ、結野!?」
「タローのアホっ! バカっ! オタンコナスっ! うわああああんっ!」
泣き叫びながら、結野はお化け屋敷を逆走していった。
「ちょ――嵐子! ま、待ってよっ!」
間宮さんが結野を追いかけていく。
取り残された俺と先輩は――
「結野……いったいどうしたんでしょうか?」
「さあ……」
二人で首をかしげるしかなかった。
お化け屋敷の捜索が空振りに終わったあと、石動先輩は、
「こうなったら……ローラー作戦しかないわっ!」
校内のあらゆる場所とあらゆる出し物をすべて回って犯人の手がかりを探すという無茶な作戦を提案し、実行した。もちろん俺を引き連れて。
メイド喫茶、巫女喫茶、漫画喫茶、校庭を利用したバッティングセンター、吹奏楽部の公演、茶道部のお茶会、お笑い研究会のコント、美術部や書道部の展示、などなど……
「ブタロウ、次はあれよ!」
「は、はいっ!」
「今度はあっち! ブタロウ、早く来なさい!」
「せ、先輩、ちょっと待ってください……」
お化け屋敷を出てから約四時間後――もうすぐ祭りも終わりという頃。
俺と先輩は、へとへとになっていた。
食堂の裏口を出たところにある長いベンチに並んで腰を下ろしながら、
「……さすがに、ちょっと疲れたわね……」
「……ええ。ちょっとどころじゃありませんけど……」
と、そんなことをつぶやく。
桜守祭の喧噪から離れた、少し寂しい場所。俺たちはそんな静かな場所で体を休めていた。ざわめきの中にいるのが耐えられないほど疲れていたのである。
ここにいるのは俺と先輩だけ。ほかには誰もいない。
「結局、なーんにも手がかりは見つからなかったわね……」
「やっぱり、ただのイタズラだったんですよ……」
「……かもしれないわね」
撫然とした感じで、言う。
「トラブルを解決して第二ボランティア部をアピールしたかったのに……なんにもできなかったわね……」
はあ、とため息。
「でも、まあ……」
先輩は両目を細めた無邪気な笑顔を俺に向け、
「――楽しかったから、よしとするわ」
と、満足そうに言った。
俺はその笑顔を見て――ちょっとだけ、ドキッとしてしまった。
「というわけで、ブタロウ。ジュース買ってきなさい」
「……は?」
なにが、というわけ、なんだろう。
「喉かわいたからジュース買ってきなさい。これは命令よ」
「…………」
この人はなんて理不尽でワガママなんだろう。
「……はいはい、わかりました」
ちょうど俺も飲みたかったところだし、まあいいか。
重い腰を苦労して持ち上げ、少し離れた場所にある自動販売機のほうに歩いていく。
先輩はベンチにもたれかかったまま、なんだかウトウトしているようだった。あんなところで寝たら風邪を引くかもしれない。眠気を覚ますため、先輩の飲み物はコーヒーにしようと決めた。
自動販売機の前に立ち、硬貨を入れようとしたとき。
背後に、人の気配を感じた。
振り向くと、そこにいたのは――メガネをかけた三つ編みの女子。
「……委員長?」
俺たちのクラス委員長、綾瀬川霧乃さんだった。
俺は少し驚きながら、
「委員長……こんなひと気のないところでなにやってるんだ?」
「砂戸くん」
委員長は真剣な様子で俺を見つめながら、
「あなたに……大事な話があるんです」
「大事な話?」
「はい」
うなずいてから、ちらりと先輩がいるベンチのほうに目を向ける。
「……ここだと砂戸くんの連れの方に話を聞かれる可能性がありますから、こちらに来てください」
言って、委員長は裏口から食堂に入っていく。
「あ、ああ」
委員長のあとを追い、食堂に足を踏み入れる。
誰もいない食堂で委員長と向き合い、
「それで、大事な話って……?」
委員長は少しうつむき加減で、
「……顔を見合わせながら言うのは恥ずかしいので……砂戸くん、すみませんが後ろを向いてくれませんか?」
「え? 後ろを?」
「はい。すみません」
「まあ、別にいいけど……」
俺は委員長に背を向けた。
「これでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
言うと――
委員長は俺の背後に近づき、俺の両肩に手を置いた。鼓動がどきりと大きく跳ねる。
「……委員長?」
委員長は俺の耳に唇を寄せ、囁くように、
「……砂戸くん。大事な話というのは――」
その瞬間――
「――っ!?」
俺のロ元に、嗅ぎ慣れない匂いを放つ布きれが押しつけられた。
そして。
俺の意識は、断絶した。
「…………ん……」
暗い場所から、意識が浮上する。
「……ぐ……い、いったいなにが……?」
俺はくらくらする頭を軽く振ったあと、顔を上げた。
目の前には――
桜守高校の制服に身を包んだ、大勢の生徒たちが立っていた。
「……え?」
ひょっとこ、フランケンシュタイン、大仏、パンダ、有名アニメのキャラクター……
頭に様々な被り物をした、大勢の生徒たちが立っていた。
ぜんぶで二十人くらいだろうか。制服から見て、ほとんどが男子生徒のようだが、何人かは女子生徒も混じっている。
状況が把握できないまま体を動かそうと――動けない。
「えっ!? な、なんだこれ!?」
自分の体を見下ろしながら叫ぶ。
胴体にロープが巻かれていた。ロープは後ろで固定されていて、俺はあぐらの体勢でそこに……どうやら拘束されているようだった。
「…………」
困惑しながら辺りを見回す。
頭上には空。四方には高いフェンス。ここは屋上だった。俺はぐるぐると体にロープを巻かれ、屋上にある鉄製のポールに縛り付けられている。そして、身動きのとれない俺を二十人ほどの被り物をした生徒たちが無言で見下ろしているのだ。
「えっと……」
あまりにわけがわからなすぎて、どういうリアクションをすればいいのか判別できない。怒ればいいのだろうか。怖がればいいのだろうか。謝ればいいのだろうか。とにかく、目の前にいる生徒たちに声をかけようと――
そのとき。
生徒たちの群れの中から、一人の女子生徒が俺の前に進み出た。
一人だけ被り物をしていない、その女子生徒は――
「い……委員長?」
困惑しながらつぶやく。
委員長は、冷たい無表情で俺を見下ろし、
「ここでは……委員長ではありません」
と言った。
「え?」
「いまの私は、MFCの会長としてここに立っています」
「……MFC? 会長?」
「はい。ここにいる皆はMFCの同志たち。そして、私は彼らの代表なのです」
「…………」
意味不明だった。
「あ、あの……MFCってのは……」
「MFCとは……」
委員長は微妙に胸を反らしながら、
「美緒さまファンクラブ――その略称ですっ!」
大声で言い放った。
「…………」
俺はぽかんとしながら、
「み、美緒さまファンクラブ?」
「その通りです」
なぜか誇らしげな表情だった。
「あ、あの……それはどういう集団なのでしょうか?」
なんかいろいろと怖かったので敬語になってしまった。
「石動美緒さまを尊敬し、崇拝し、そして陰ながら支えていく集団です。それがMFC。その初代会長が、クラブ創始者である私なのです」
「そ、創始者……?」
「ええ」
俺はたらりと頬に汗を流しながら、
「えっと……それで、MFCさんは具体的にはどんな活動をしてらっしゃるのですか?」
「活動内容は多岐にわたりますが、基本的には……」
委員長はまじめな顔をして、
「みんなで美緒さまの同人誌を描いたり、美緒さまをたたえるポエムを発表し合ったり、美緒さまの美しさをテーマにした座談会を開いたり、美緒さま運動会や美緒さまミュージカルを開催したりしています。定期的に」
「…………」
「もちろんそれだけではなく、美緒さまを陰から支えるという仕事もちゃんと行っています。美緒さまの悪口を言った生徒を拉致しておしおきしたり、美緒さまのお姿を盗み撮りして学内で販売していた生徒を拉致しておしおきしたり、美緒さまをストーキングしようとした生徒を拉致しておしおきしたり、そういうことを」
「ら、拉致ってばかりですね……」
俺はいろんな意味で恐怖を覚えながらつぶやいた。
MFC。美緒さまファンクラブ。その会長が委員長。
よくわからないが……
ここにいる奴らは全員、石動先輩の熱狂的なファンである――ということだろうか。
先輩は超絶的なほどの美少女なのだし、学内にファンクラブが存在するのもあり得ない話ではない。そのクラブの会長が、クールで真面目でそういうものにまったく興味がなさそうな委員長だったというところも……まあ、すごく意外ではあるがこれもあり得ない話ではない。なんで同性の委員長が、とかいう疑問も少しあるが、先輩の美しさには性別を超越するようななにかがあるのもわかるので、そこもまあ理解しよう。
だが――一つだけ、まったくわからないことがある。
「あの……俺、いまロープで縛られてるんだけど」
「そうですね」
「これって……もしかして、委員長たちの仕業なのか?」
「その通りです」
委員長はメガネをくいっと上げ、言った。
「そ、その通りって……」
「砂戸くんは気づかなかったでしょうが、私たちMFCの会員はずっとあなたと美緒さまの姿をマークしていました。そして、あなたがひと気のない場所で一人になる機会をずっと待っていたのです。その隙ができたのは、あなたがジュースを買うために自動販売機に向かったとき。私は美緒さまから離れたあなたを食堂に連れ込むと、あなたにクロロホルムを嗅がせ、この屋上に拉致したのです」
クロロホルムって……いったいどこでそんなものを手に入れたのですか?
俺は愕然としながら、
「な、なんで俺を……」
「それは……」
委員長は静かに告げる。
「それは……確かめるため、です」
「た、確かめるため? なにを?」
俺が尋ねた、そのときだった。
屋上の重い鉄製の扉が――バンッと豪快な音を立てて開いた。
俺や委員長、MFCの会員たちの視線が一斉に扉のほうを向く。
左手を扉にかけ、息を荒げながらそこに立っていたのは、
「せ……先輩?」
――石動先輩だった。
先輩の登場に、会員たちがざわめく。「み、美緒さまだ……」「美緒さま……」「み、みみ、みおたまぁ……」なんか興奮してハァハァ言ってる奴も少なくない。
「ど、どうして先輩がここに……」
「私たちが呼び出したんです」
委員長が言った。えっ、と俺は委員長を見上げる。
「あなたが目を覚ますと同時に、会員の一人があなたの携帯電話を使って美緒さまをここに呼び出したんです。砂戸太郎を拉致した、返して欲しかったら屋上に一人で来い、そんなメッセージを告げて」
「な、なんでそんなことを……」
「ブタロウ! 無事なの!?」
先輩は鋭い視線をこちらに飛ばしながら、尖った声で言う。
「あんたたち、ブタロウを拉致してどうするつもりなのよっ! 目的はなに!?」
「美緒さま……」
委員長は先輩に向きやり、
「はじめまして。私はMFC――美緒さまファンクラブの会長、綾瀬川霧乃です」
「は? 美緒さまファンクラブ?」
先輩はきょとんとした顔で言う。どうやら先輩もMFCの存在は知らなかったようだ。
「あんたは確か、昨日の演劇のときブタロウを鞭でビシバシ叩いてた……とゆーか、美緒さまファンクラブってなによ!?」
「私たちMFCは石動美緒さまを尊敬し、崇拝し、陰ながら支えていく集団です」
「……へ?」
先輩は一瞬ぽかんとしてから、
「な……なに言ってやがんのよ!? そんなの頼んだ覚えはないわっ!」
「ええ。私たちは誰に頼まれて集まったわけでもありません。私たちは、美緒さまへの深い愛情――それを道しるべに集まった、殉教者の集団です」
「き、気持ち悪いこと言ってんじゃないわよ! 頭にウジ虫でも湧いてんじゃないの!?」
「その罵声すら……心地いい」
「……え? ただの変態集団?」
先輩は完全に引いていた。
「そ、そんなことより、あんたたちはどうしてブタロウを拉致したのよ! いったいなにをするつもり!?」
「落ち着いてください、美緒さま。私たちはあなたたちに危害を加える気はありません。ただ――確かめたいことがあるだけです」
「確かめたいこと……? なにを確かめたいのよ?」
「それをいまからお伝えします。どうぞこちらにいらしてください」
「…………」
先輩はしばらく委員長を見つめたあと――
ゆっくりとした足取りで、こちらに向かってきた。
途中にいるMFCの会員たちをぎろりと睨みつけながら歩いてくる。睨まれた会員たちは、「あふぅ」と気持ちよさそうな声を上げていた。本当にただの変態集団かもしれない。
先輩が、委員長の目の前に立つ。
「さ、さすがの私も……緊張で少し震えています。こんな近くに美緒さまが……」
委員長は小さな声でつぶやいたあと、顔を上げ、
「確かめたいこと。それは……」
一つ息を吐いてから、俺のほうに視線を向けた。
「――砂戸くん」
「え? あ、はい」
「あなたが第二ボランティア部に入部してから、もう五ヶ月ほど経ちますよね?」
「あ、ああ……そのぐらいかな」
俺がそう告げると、
「これまで……美緒さまのおそばにいようと願った男子は大勢いました」
静かに、そんなことを言った。
「ですが、その誰もが長く美緒さまと一緒にいることはできませんでした。それは美緒さまが彼らを拒絶したり、または美緒さまの……少々行きすぎた行動に耐えられず体を壊すか精神を壊すかして自ら離れていったためです」
体はわかるが精神まで……
「でも、砂戸くんはずっと美緒さまのおそばに居続けることができている。これはとても希有な……いえ、希有どころか美緒さまが高校に入学してからはじめてのケースです」
「入学してからって……な、なんで一年生の委員長がそんなことを知って――」
「クラブは存在していませんでしたが美緒さまの熱狂的支持者はいまの二年生にも三年生にも大勢います。彼らから聞いた情報です」
委員長はメガネをくいっと上げ、
「――私たちはこのケースにおののきました。そして当然のことながら激しく嫉妬しました。どうして彼だけが美緒さまのおそばに仕えることをゆるされているのでしょう。あまりにも謎でした」
いや、俺が先輩の近くにいさせられているのは、先輩が俺のドM治療にこだわっているからという理由なんですが。それを言うことはできないけど。
「しかも、私たちは驚愕の新情報まで入手しました。それは――美緒さまとあなたが放課後にデートらしきものをしていたところを目撃したという情報です」
「デ、デートって……あ……」
もしかして――それはドMを愛の力で治そうという作戦のときの……
「……覚えがあるのですね?」
「い、いや、あの……」
委員長は冷静な顔を保とうとしていたが、頬が少しひくついていた。
そして、委員長の背後に立つ集団――MFCの会員たちは、全身から激しい殺意を滲ませながらじっと俺を睨みつけている。そ、その中には女子もいるのでドMである俺はちょっとやばいことに……はあ、はあ、はあ……
「そういうことをすべて吟味した結果……私たちは一つの推論にたどり着きました」
「ひ、一つの推論?」
「そうです。あなたが美緒さまのおそばに居続けることができる理由、それは……」
委員長はもう完全に俺を睨みつけながら、
「それは……そ、それは、あなたと美緒さまが……」
血を吐くような勢いで、
「恋人どうし――だからです」
と、告げた。
「ええっ!? こ、恋人!?」
「だ、黙って聞いてればあんたなに言い出すの!?」
俺と先輩が同時に声を上げる。
「あたしとブタロウが恋人どうし!? ふざけんじゃないわよ! なんであたしがこんな奴と――」
「私たちも信じたくはありません。ですが、この考えが一番しっくり来るのです。残念ながら」
本当に残念そうなため息をつく委員長。
「だ、だからそれは間違いだって言ってるでしょうが! 本人であるあたしが言ってんのよっ!?」
「それは……本当でしょうか? それとも、ただの照れ隠しですか?」
「照れ隠し!? そんなわけあるか!」
委員長は先輩の顔をじっと見つめたあと、
「私たちが確かめたいことというのは――それなのです」
「はあ!?」
「美緒さまと砂戸くんは恋人どうしなのか。そうでないのか。真実はどちらなのかを、私たちは知りたい。それを確かめるため……今日はやや強引な手段で二人をここに連れ出してしまいました。申し訳ありません」
「…………」
俺はあんぐり口を開けてしまった。
「そ、そんなくだらないことで……俺はいまロープに縛り付けられているのか……?」
「私たちにとっては、くだらないことではありません」
そう言う委員長のまなざしは真剣そのものだった。
「……もし仮に」
俺は気になったので尋ねてみた。
「俺と先輩が恋人どうしだったら……おまえらはどうするつもりなんだよ?」
「そのときは――」
委員長の表情が一瞬だけ哀しげに歪む。
「その、ときは……」
つぶやくように言ったあと、委員長は天を仰いだ。
「…………」
そのまましばらく動きを止める。
そして――
「私がはじめて美緒さまの姿を拝見したのは、ちょうど一年前……」
と、まるで関係ないように聞こえる話をしはじめた。
「私が中学三年生のときです。たまたま通りかかった高校の学園祭に、何気なく足を踏み入れました。それがこの桜守高校だったんです。そして、そのミスコン会場で――石動美緒さまを見ました……」
一年前のミスコンって……確か先輩が優勝した……
「完璧……完璧でした。美緒さまは完璧に美しかった。私はそのとき、はじめて完璧な存在に出会うことができたのです……」
うっとりした様子でつぶやく。
「美緒さまに強い憧れを抱いた私は、桜守高校に進学することを決めました。……入学してすぐ、私はこのMFCを立ち上げました。それから半年、同志はこんなにも増え、MFCは立派な組織に成長しました」
「…………」
「今日は特別な日。私が美緒さまに出会った特別な日。MFCを創立するきっかけとなった特別な日。だからこそ――MFCを解散させるなら、この日しかないと思ったのです」
「え……か、解散?」
「はい」
と、委員長はうなずく。
「一年前のミスコン……そこで見た美緒さまは誰よりも美しく、完璧だった。でも、それ故に誰よりも深い孤独を抱えているように見えました。孤高で、寂しげに見えました」
深い孤独? 孤高で寂しげ? ……なんか先輩にはまるで似合わないキーワードだなあと思った。
「そんな美緒さまだからこそ、私は尊敬し、崇拝し……そして、陰ながらでも支えたいと思ったんです。私のような凡人がおそばに仕えることなんてできないとはわかっていましたが、でも、それならせめて陰ながらでも支えることができればと。ですが……」
委員長は俺を見つめ、
「ですが、もしも美緒さまにあなたという恋人がいるのなら……あなたという支えがいるのなら、私たちMFCはもう不要なんです。だから、美緒さまと砂戸くんが恋人どうしであるという確信を得ることができたら……私たちは解散します。それが私たちMFCの総意です」
「…………」
俺はぽかんとしながら委員長を見上げていた。
なんとゆーか……こいつらの思想が理解できないというか、アホみたいに極端な考えに唖然としているというか……
「……私たちだって、解散などしたくはありません」
委員長はつぶやくように言う。
「というか……信じたくありません。美緒さまに彼氏がいるなんて……」
「…………」
「砂戸くん――同じクラスにいるあなたが、美緒さまの恋人かもしれないということに気づいてからの私の苦悩が想像できるでしょうか? 美緒さまの愛した人なのだから、ファンクラブの会長として私も彼のことを認めなければならない。頭ではそう思っているのですが、感情がそれについていきませんでした。……教室であなたの姿を見つけるたび、憎悪に近いほどの嫉妬心が沸き上がってくるのを止められませんでした。あなたと会話するたび、殺意に似た感情が沸き上がってくるのを止められませんでした。どうしても、止められませんでした……」
俺は愕然としていた。
俺が、委員長に嫌われているような気がした理由。
それが、こんな理由だったなんて、想像もできなかった……
「教えてください、砂戸くん。あなたは美緒さまの恋人なんですか? それとも――」
そのとき。
「そんなに知りたいなら……本当のことを教えてあげるわ」
先輩が、言った。
先輩は委員長の目をしっかり見据えると、
「あんたらの予想通り……あたしとブタロウは恋人どうしなのよっ!」
「えええええええええええっ!?」
という声を上げたのは、俺だった。
「ちょ、ちょっと先輩! いったいなにを――」
「どう、これで満足!? だったらこのMFCとかいう気持ち悪い集団をさっさと解散しなさいよっ!」
先輩は、委員長を激しく睨みつけながら言った。
「…………」
あまりにショックだったのか、しばらくフリーズしていた委員長は、
「……まだです」
メガネをくいっと上げ、言った。
「そんな言葉だけでは確証を得ることはできません。二人が本当に恋人どうしというのなら、その証拠を見せてください。そうでなければ私たちは納得できません」
「証拠って……なにを見せればいいのよ?」
「――キスしてください」
「は?」
「ここで、砂戸くんとキスしてください」
「はああっ!? キ、キス!?」
「そうです。恋人どうしならできるはずです」
「そ、そんなのできるわけないじゃないっ!」
と、怒鳴り声を上げる先輩。
「では、MFCは解散しません」
「ぐ……」
先輩はぎりっと奥歯を噛みしめた。
両拳を握りしめ、無言で委員長を睨みつける。
が、やがて――
「……わかったわよ」
ぽつりと、そう言った。
「キスぐらい、してやろうじゃないの」
「な――」
俺は絶句する。
せ、先輩……マジで言ってるんですか?
「……ほ、本気ですか?」
煽った委員長も微妙に焦った顔をしていた。
「当たり前じゃない。恋人なんだから、キスぐらい朝飯前よ」
言って。
先輩は、じっと俺を見据えた。
俺のすぐそばに近づき、俺の左肩に手を置き――
「せ、せせ、先輩! ば、馬鹿なことはやめてください!」
「……しょうがないじゃない」
先輩は、俺だけに聞こえるような小さな声で、
「こうでもしないと、こいつら解散しないって言うし……」
「で、でも……というか、そんな無理に解散させなくても……」
別に、MFCが存在していたからといって害になるわけでもない。
だが、先輩は、
「……嫌なのよ」
眉をしかめ、告げた。
「なんか、嫌なの。こいつら、気持ち悪いの。美緒さま美緒さまって……尊敬とか崇拝とか、誰が頼んだっていうのよ。ふざけんじゃないわよ」
と、心の底から憎々しげに言う。
「……先輩?」
俺はそんな先輩の態度に少し疑問を覚えた。
自分のことを神様だと宣言している石動先輩。そんな先輩にとって、自分を本物の神様のように崇めてくれるMFCの会員たちの存在は、どちらかといえばうれしいものではないのだろうか。それなのに……
「……尊敬とか崇拝とか、あたしはそんなものいらないのに……ただ、神様としてみんなの願いを……」
それなのに、どうして先輩はこんなつらそうな表情を浮かべているのだろうか……
「だから……あんたとのキスで、こいつらが解散するんなら……」
囁くように言ったあと、先輩はゆっくりと俺に顔を近づけてくる。
先輩の可憐な唇が、俺の唇に接近する。甘い吐息を鼻先に感じ――俺の鼓動が壊れるほどに加速し――二つの唇が触れあうまでほんの数センチという距離で――
「…………」
先輩は、ぴたりと動きを止めた。
そのままの距離で停止する。
やがて。
「そういえば……」
ぽつりと、先輩は言葉を落とした。俺の唇のすぐ前で。
「前に……怒られたことが、あったっけ……」
そうつぶやくと――
先輩は、静かに俺から顔を離した。そして。
「……やっぱり、キスは、できない」
委員長のほうは見ないまま、そう告げた。
ハッと全身の緊張を解いた委員長は、少しだけうれしそうに、
「そ……そうですか、やはり砂戸くんなんかとキスするのは嫌なんですね。じゃあ二人が恋人どうしという私たちの考えは間違って――」
「嫌とか、そんなんじゃない」
「え?」
「前に……前にね、キスしたことがあったの。こいつと」
それは――ドMの治療という名目で先輩とデートしたときの話。
デートの最後、先董は治療のため、俺にキスをした……
「そんときにね、こいつに怒られたのよ。好きでもない相手とキスなんかするんじゃねえって。……あたしみたいな美少女とキスできたのに、こいつは喜びもせず、あたしを怒ったのよ……」
そう、確かにそんなことがあった……
「あたし、なんでこいつがそんなに怒ってるのかよくわからなかったけど……でも、そのときどういうわけか、『ああ、すごく悪いことしちゃったな』って思ったの。心の底から思ったの」
「…………」
「だから、キスはできない。いまみたいな気持ちで……キスはできない……」
「先輩……」
俺は呆然と先輩を見上げる。
なんか――うれしかった。
あのときの俺の言葉は、ちゃんと先輩の心に届いていたんだ……そう思うと、なんだか鼻の奥がつーんっとなるほど、うれしかった。自分でも意外だったけど。
委員長は――
「…………」
固まっていた。
いや、委員長だけではない。後ろにいるMFCの会員たちも、絶望的な表情を浮かべながらその場で硬化していた。いったいどうしたのだろう。
「み、美緒さま……」
委員長が震える声を上げる。
「い、いまの話は本当ですか?」
「へ? 本当だけど、それがどうしたっていうのよ」
「じゃ……じゃあ……」
委員長は両目を泳がせながら、
「美緒さまは、砂戸くんと、キスしたことがある……ということですか……?」
「あ……」
と、俺は思わず声を上げる。
「えっと……」
先輩は微妙に恥ずかしそうな顔をして、指先で頬をぽりぽり掻きながら、
「まあ……そうなんだけど……」
その言葉に――
委員長の後ろにいたMFCの会員の何人かが、「げぶうっ!」と口から泡を吹きながら倒れた。どうやらあまりのショックに失神してしまったらしい。
委員長はぷるぷる全身を震わせながら、それでもなんとか平静を装い、
「……なるほど」
くいっとメガネを上げた。
「美緒さまと砂戸くんは恋人どうしではない。でも……それに近しいほど、お互い大切な存在である。そういうことなのでしょう」
なんか、勝手に納得していた。
そして。
委員長は大きく息をついてから、
「……わかりました」
苦痛の滲む声で告げた。
「やはり……MFCは解散することにします」
えっ、と驚きの顔を向ける俺と先輩。MFCの会員たちのあいだにざわめきが走る。
その場にいる皆の視線を集めながら、委員長は、
「いまの二人を見て私は確信しました。美緒さまにとって、砂戸くんはとても大切で重要な存在であると。支えになり得るような存在であると。陰ながら見守ることしかできなかった私たちとは違い、砂戸くんなら直接的な意味で美緒さまをたすけることができる。ときには、美緒さまの間違いを正すこともできる。だからこそ、美緒さまは砂戸くんをそばに置いているのです。だから……」
目を閉じ――なにかを吹っ切るように、
「だから、MFCは今日で解散します。私たちの役目は……終わりました」
と、告げた。
すると、委員長の後ろにいた会員たちが「うわああああんっ!」とその場に泣き崩れた。
号泣の合唱が屋上に響き渡る。
委員長はそんな会員たちを優しげな顔で眺め、言う。
「みなさん……いままでありがとうございました。みなさんのおかげで、私はとても楽しかったです。MFCを創立して、本当によかった……」
会員たちが「会長!」「こちらこそありがとうございました!」「本当に楽しかったです!」と声を上げながら委員長のもとに集まる。委員長は少し涙目になっていた。
「ええーっと……こ、ここは感動するところなのかしら?」
「さあ……」
先輩と俺は続けて言った。
それから。
委員長にうながされ、MFCの会員たちはぞろぞろと屋上から出ていった。屋上の扉のところで、委員長は会員の一人一人と固い握手を交わしていた。
俺は安堵の息を吐く。この意味不明な騒ぎもやっと終わってくれるのか……
と――
「……ん?」
俺は首をかしげる。
一人のMFC会員が、扉のほうに向かわず、屋上に居残っていた。
カエルのお面をかぶった、女子生徒。扉のそばにいる委員長を除けば、屋上に残っている会員は彼女だけだった。彼女はじっと俺たちのほうに顔を向けている。
それに気づいた委員長が、怪訝な顔をしながら女子生徒に近づいていく。
女子生徒の肩に手を置き、
「あなた、なにをしているのですか? もうここにいても――」
言葉の途中で、女子生徒がくるりと委員長のほうに体を向ける。
その瞬間、
「あ……ぐ……?」
委員長は苦しそうな呻き声を上げた。
俺は目を見開く。委員長が呻き声を上げた理由――それは女子生徒の右拳が委員長の腹部に突き刺さったからだった。
「な、なにを……う……」
委員長は苦痛の表情を浮かべながら両膝を落とし、屋上のコンクリートの上に倒れこんでしまった。どうやら気絶してしまったようだ。
女子生徒はうつ伏せで倒れる委員長を見下ろし、
「やれやれ……」
つぶやくように言った。
「なにかと利用できるかと思ってクラブに入ったというのに……こんな呆気なく解散してしまうとは。使えないね、まったく」
女子生徒は、ぽかんとする俺と先輩のほうに向き直り。
顔を覆っていたカエルのお面を、ゆっくりと外した。
その下にある整った顔立ちには――見覚えがあった。
「あ、あんたは……」
俺は呆然とつぶやく。
「生徒会長の……片桐さん?」
そこに立っているのは、
生徒会長である片桐志帆さんに間違いなかった。
「か、片桐さんも……MFCの会員だったんですか?」
「ああ、そうだよ」
と、片桐さんは穏やかな笑みを浮かべながら言う。
MFCの会員ってことは片桐さんも石動先輩のファン……で、でも、どうして委員長を殴ったりなんか……それに、さっき利用できるとかどうとか言ってた気が……
俺は激しく混乱していた。展開に脳みそがついていってない。
片桐さんはどこか冗談めかした感じで、
「私もMFCの会員。美緒さまのことが大好きなのさ。だから……美緒さまと親しくしている砂戸くんの存在が憎くてたまらない」
「え……?」
片桐さんは親愛的とさえ言えるほどの微笑を浮かべながら、告げた。
「というわけで――砂戸太郎くん、あなたをここで血祭りに上げることにするよ」
俺はぎょっとしながら、
「ち、血祭り!?」
「そう。あの犯行予告の通りにね」
その言葉を聞いた先輩は、ハッとした顔をして、
「犯行予告って……ま、まさか! 生徒会室に届けられた犯行予告は……」
「そう。私が書いたものだよ」
と、片桐さんは言った。
「私が生徒会室に入ろうとしたら、中から美緒さまの声が聞こえてきた。なにかトラブルを探していると。だから、私が犯行予告を書いてあげたんだよ」
「な、なんでそんなことしたのよっ!?」
「美緒さまの望みは叶えてあげたかったし……それに、血祭りにされる予定の生徒がすぐ近くにいることも気づかず、犯人が自ら書いた犯行予告に踊らされて学校内を歩き回る美緒さまは、なんだかかわいいと思ったから」
言って、片桐さんはくすくすと楽しそうに笑った。
俺はその様子に違和感を覚えた。
なんか……片桐さんは『違う』と思ったのだ。
委員長や後ろにいるMFCの会員たちとは、どこか気配が違う。石動先輩を見つめているときの雰囲気やまなざしが、ほかの会員たちとはまるで違っている。彼女はいつもほほ笑みを浮かべているのだが、そこに石動先輩に対しての親愛の情を感じることはどうしてもできなかった。
「ふ、ふざけんじゃないわよっ!」
石動先輩が、噛みつきそうな勢いで叫ぶ。
「ふざけているわけではないよ。それに、その犯行予告はべつにイタズラでもなんでもない。犯行予告の通り、これから砂戸くんが血祭りに上げられる。この私の手で」
片桐さんはそんな恐ろしいことを言っあと――
ゆっくりとした足取りで俺に近づいてくる。
「馬鹿なことぬかしてんじゃないわ!」
先輩は瞳に激しい怒りを宿しながら、
「そんなこと――させるわけないでしょうがっ!」
片桐さんに向かっていった。
右拳を振り上げる。問答無用で殴り倒すつもりのようだった。
俺はそのとき、どちらかというと片桐さんのほうを心配していた。先輩の拳の威力はこの俺が誰よりもよく知っているから。
だが――
「……へ? んきゃぁああぁあっ!」
片桐さんに右拳を放った先輩は――次の瞬間、綺麗に空中を舞っていた。
そして、先輩はコンクリートの地面に背中から落ちる。鈍い音が辺りに響いた。
「せ、先輩!」
「い――つう……な、なによいまの……」
先輩は背中をさすりながら立ち上がる。よかった、大怪我はしていないようだ。
片桐さんはほほ笑みを保ったまま、
「いまのは、合気道というやつだよ」
「あ、合気道?」
「そう。ちょっとした特技さ」
「――あら、そうですかっ!」
言いながら、先輩は再び片桐さんに向かっていく。
そして……また綺麗に投げられてしまった。
「ふんぎゃっ! こ、このぉ――ぎゃうっ!」
「何度やっても結果は同じだと思うよ?」
「うっさい――げぶっ! うおりゃあ――ごばふっ!」
びたーんっと地面に激突する先輩の体。ああ、見てるだけで痛い……
片桐さんは倒れる先輩を見下ろしながら、
「やれやれ……あなたもしつこい人だな」
「だ……黙れ……」
先輩はふらふらしながら立ち上がる。あの超人的な先輩が満身創痍に……いつでも猪突猛進な先輩と片桐さんの合気道はかなり相性が悪いように思えた。
片桐さんは先輩を観察するように眺めながら、言う。
「そこまでボロボロになっても戦意を失っていない……なるほど、美緒さまは砂戸くんが血祭りに上げられるのがそんなに嫌なんだね」
「あ……当たり前よ! こんな奴でも、一応あたしんとこの部員なんだから!」
片桐さんは余裕の笑みを浮かべながら、
「だったら、交換条件を提示しよう」
「交換条件?」
「そう。その条件を呑んでくれたら、砂戸くんを無事に解放してあげる」
「それは……なんなのよ?」
「とても簡単なことだよ」
片桐さんは先輩を見つめ、どこか愉快そうな感じで、
「――第二ボランティア部を廃部にして欲しい。それだけ」
「な……」
石動先輩は一瞬絶句し、
「なに言ってんのよ! そんな条件呑めるわけないじゃない!」
「どうしてだい?」
「どうしてって……あ、当たり前のことでしょうが! 第二ボランティア部はみんなの願いごとを叶えるためにある場所で、だから――」
「美緒さま」
それは、聞き分けのない子供を優しく諭すような声だった。
「――そんなこと、誰も望んでいないよ」
「え……?」
「私は知っている。もうかなり長いあいだ、第二ボランティア部に願いごとの依頼が来ていないことを。それがなぜだかわかるかい? それはね、第二ボランティア部に――美緒さまに願いごとをしても無駄だということが、みんなにはわかってるから。美緒さまはいつもメチャクチャな方法で願いごとを叶えようとして、なにも解決してくれないどころか状況を悪化させることしかしない。暇つぶしの悪ふざけとしか思えない。だから、誰も第二ボランティア部を訪れようとはしない。……それは美緒さま自身も薄々気づいていたことじゃないのかい?」
「…………」
石動先輩は両拳をぎゅっと握りしめ、殺意を込めた瞳を片桐さんに向けている。
片桐さんは穏やかな瞳で先輩を見つめながら、
「美緒さま。あなたは本当に美しい。神様が特別に創ってくれたような、完璧な容姿をしている。――でも、それだけなんだよ。誰もがあなたの容姿に魅了される。神秘を感じる。だけど、中身は空っぽ。外見だけの、空っぽの神様。そんなあなたが他人の願いを叶えようとしても無駄なんだ。ううん、無駄などころか……それは悲惨な不幸を呼び込むだけ」
その言葉に――先輩の体がびくりと震えた。
愕然とした顔を、片桐さんに向ける。
「あなたには誰の願いも叶えることはできない。誰も救うことはできない。そんなことは……ずいぶん前からわかっていたことだろう?」
「…………」
「私は知っている。あなたが空っぽの神様であることを。――私は、ずっと前から、知っているんだ……」
そう告げる片桐さんの表情に、一瞬だけ哀しさが滲んだように見えたのは……俺の錯覚だったのだろうか。
先輩の全身は小刻みに震えている。
顔は真っ青で、もう片桐さんを睨みつけることもできない。
声を出すことすらもできず、その場でうつむき続けている。
そんな先輩に向かって、片桐さんはさらに言葉を重ねる。聖母のような穏やかな表情で、尖った言葉を先輩の心に突き刺す。
「――美緒さま。無力で滑稽でかわいそうな美緒さま。でも大丈夫。そんなあなたを私たちは愛してあげる。不幸を生み出すことしかできないあなたを、神様のように崇めてあげる。だから、第二ボランティア部なんてものに固執するのはもうやめなさい。第二ボランティア部を廃部にして、あなたはまた独りぼっちに戻りなさい。それがみんなのため、そしてあなたのためでもあるんだよ」
「……あ……あ、あたしは……」
先輩は、泣きそうな声でつぶやく。
「あ、あたしは……みんなの願いを……叶えて、あげ……」
「いい加減にしなさい。わからないのなら、はっきりと教えてあげよう」
片桐さんの瞳が、先輩を見据える。
「あなたは――神様じゃない」
「――――!」
「あなたは神様じゃない。だから誰の願いも叶えられない。叶えようとしても、その誰かを不幸にするだけ。それだけしかできない。あなたは無力なんだ。無意味なんだ。無様で無能で滑稽で愚かなんだ。そんなあなたがいくらがんばっても無――」
そこで。
片桐さんの言葉が、唐突に途切れた。
「…………」
不自然なタイミングで割り込んできた静寂。
片桐さんがふいに沈黙した理由。それは――
彼女の顔面に、上履きの底が張り付いたからだった。
「…………」
張り付いたというより、ぶつかったという表現のほうが正しいだろうか。片桐さんの顔面を覆っていた上履きは重力に従ってすぐに落下していく。
上履きはコンクリートの上に落ち――たんっ、という乾いた音を辺りに響かせた。
「え……?」
呆然と声を上げたのは、石動先輩だった。
片桐さんは――
無言でスカートのポケットからハンカチを取り出し、さきほどまで上履きの底と接していた口元をぬぐった。
いまだ余裕の表情を崩さずにいる片桐さんは、
「……なにをするんだい、砂戸くん」
と、俺を見下ろしながら言った。
彼女の顔面に向かった上履き。
それは、俺の右足に履かれていたものだった。
「ロープで縛られてて、満足に動けないから……」
俺は片桐さんを鋭く見上げながら、
「あんたを黙らせるには、靴でも飛ばすしかないと思ったんだよ。幸い、両足は縛られていなかったし」
と、告げる。
片桐さんはあくまで穏やかに、
「ひどいことをするね。女の子の顔に靴をぶつけるなんて」
「――うるせぇ!」
無意識のうちに体が前に出る。
手首を縛り付けているロープが深く食い込み、激しい痛みが走るが、そんなのはどうでもよかった。
俺は奥歯を強く噛みしめ、炎のような怒りを瞳に宿しながら。
片桐さんを睨みつける。
「……確かに先輩は、いつもメチャクチャなことばっかりやってる。それで人に迷惑をかけるときだってある。たくさんある」
石動先輩は――
横暴で、傲慢で、横柄で、尊大で、無謀で、不遜で、凶暴で、破天荒で、暴力的で、加虐的で、高飛車で、居丈高で、自分勝手で、ワガママで、唯我独尊で、独りよがりで、思いこみが激しくて、やっぱりメチャクチャな人だけど……
「でも……先輩は、一生懸命なんだ。いつも本気で一生懸命なんだ」
メチャクチャなだけの人だったら、それだけの人だったら、俺は五ヶ月以上も第二ボランティア部に在籍したりしていない。
「本気で……誰かの願いを叶えたいと思ってるんだよ……」
たとえ結果が伴わなくても。
皆に疎《うと》まれるようなことがあっても。
その気持ちのまっすぐさだけは、本当だと思うから。
だから俺は、先輩のすべてを否定するような――先輩の持っているものすべてを壊そうとするような片桐さんの言葉を、どうしてもゆるすことができなかった。
「――先輩っ!」
俺は大声で叫ぶ。
先輩の肩がびくりと震えた。
「先輩! こんなクソみたいな奴の交換条件なんか呑まないでくださいっ! 大丈夫です、俺はこんな奴らに血祭りに上げられるほどひ弱な体はしていません! 俺の体がすげえ頑丈なことは、石動先輩が一番よく知ってるはずです!」
「…………太郎……」
「それに、先輩は俺の願いごともまだ叶えてくれてないじゃないですかっ! 俺だけじゃなくて、結野の願いごともです! そんな中途半端なまま第二ボランティア部を廃部にするんですか!? 先輩っ!」
「…………」
石動先輩はただその場に立ちつくし、俺を見つめている。
そして。
先輩の、その暗く沈んでいた双眸に――
「………………誰が……」
いつもの、凶暴で凶悪な光が宿る。
「…………誰が、廃部にするなんて言ったのよ……」
小さな体から噴出する、高濃度の殺意。
「おい……ブタロウ」
「……え? あ、はい」
「黙って聞いてれば……」
先輩の殺意は――なぜか、俺のほうに向けられていた。
「あんた、さっきから誰に向かって意見してやがんのよ。ああん?」
「…………」
ええええ……な、なんでぇ……?
「こ、この流れ、なんかおかしくないですか……はあ、はあ、はあ……」
先輩の強烈な殺気に、俺の体は反応してしまっていた。
「変態のブタ小僧のくせに、このあたしに意見するなんて百億年早いのよ」
言って。
先輩は、俺の頭をくしゃっと一撫でした。
「……ありがと」
「え?」
吐息のような囁きを残したあと。
石動先輩は、片桐さんに向き直った。
「……ふんっ」
傲慢そうに顎を上げ、じろりと片桐さんを睨みつける。
「交換条件――とか言ってたわね」
吐き捨てるように、告げる。
「そんなもん、却下に決まってるじゃない。アホじゃないの?」
先輩の鋭い視線を、片桐さんは穏やかに受け止めながら、
「じゃあ、予告通り砂戸くんを血祭りに上げることにしようか」
「絶対に――させないわっ!」
言いながら、先輩は片桐さんに突進する。
結果は……さっきまでと同じ。先輩はまた投げ飛ばされてしまった。
「せ、先輩っ!」
「うう……」
打ち所が悪かったのだろうか、先輩は地面に伏せたまま立ち上がれないでいる。
そんな先輩の姿を見つめたあと、
「――さて」
片桐さんは、俺のほうに顔を向けた。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「お待たせしたね、砂戸くん」
待ってません。まったく待ってません。
片桐さんは俺の目の前に立つと、
「予告通り……あなたを血祭りに上げることにするよ」
と、告げた。
「ち、ちち、血祭り……」
「まずは……どうしようかな。できるだけ苦痛を長く味わってもらいたいし……」
つぶやくと、片桐さんは俺の真横に立った。
「じゃあ、とりあえず腕の関節をキメることにしよう。できるだけ痛く……」
言って、片桐さんは俺の肘あたりに両腕を絡ませた。
「あ、あうう……はあ、はあ、はあ……」
「ん? なんだか呼吸が速いね。そんなに怖いのかい?」
……違う。そうではない。
「じゃあ――はじめるよ」
「ぬおおおおおおおおううううっ!?」
片桐さんは捻るようにして俺の腕関節をキメてくる。
こ、こんなことをされちゃうとオイラは……変態のオイラは……
「どうかな? とても痛いだろう?」
「おおうっ……おおイエス……はあ、はあ、はあ……」
「……?」
「あはぁん……ウォウ……はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……」
「……砂戸くん?」
変態のオイラは――き、ききき、きもちよくなっちゃいましゅううううっっ!
「ケキョオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッッ!」
「――!?」
燃え上がるような悦楽に我を忘れた俺は、両足の裏をパンパン高速で打ち鳴らし、いろんな意味でギリギリな笑顔を浮かべながら、屋上に奇声を響かせた。
「うん、アレだねェ! 生徒会長というやつはアレだね! 生徒たちの頂点に君臨するお人だね! そ、そそそそんな位の高いお方にデスね! 腕の関節をキメられちゃうとデスね! 変態ゴミ虫であるボクちんはもうきもちよくなりすぎて脳みそ的なものがクレイジーな感じでマイッチングぐらぁうあああぁぷあ――――っっっ! よし、死のう!」
「え? ええ? えええ?」
片桐さんは困惑した表情を浮かべながら俺の腕を放す。いつも穏やかな笑みをたたえていた彼女がそんな顔をするのを見るのははじめてだった。だが、そんなことはどうでもいいのです。
俺はくわっと片桐さんを睨みつけ――ただし壊れた笑顔で
「ちょ、ちょっとおおお! なに放してんれすかぁ! も、もっと、もっともっと痛くしてくれないとダメでしょうがああっ!」
「さ、砂戸くん、あなたはなにを言って……」
「砂戸くんじゃねえ! 俺の名前は薄汚れたブタ野郎っ! そんなの基本れすよぉ!」
「…………」
なにかの許容量を超えたのか、片桐さんはフリーズしてしまった。
そのとき――
いつの間にか立ち上がっていた石動先輩が、片桐さんに向かって駆けた。
ハッと我に返る片桐さん。が、そのときにはすでに先輩の両手が彼女の制服の襟を掴んでいた。
ぎらり、と先輩の瞳が鋭く輝く。そして。
「ちょいやああああああああああああああああ――――――っっっ!」
「――っ!」
先輩は、力いっぱい片桐さんの体を放り投げた。
放物線を描きながら高く舞い上がる片桐さんの体。三メートルぐらいは上がっている。
その高さから――片桐さんはコンクリートの地面に墜落した。
ドギャアアア、と凶悪な音が響き渡る。
「はあ、はあ、はあ……」
先輩は肩で息をしながら、
「か、勝ったわ……」
俺は――
「あ、あひい……」
まだ身悶えていた。
勝利を確信し、にやりと笑みを浮かべる石動先輩。だが
「――!?」
片桐さんが、すくっと立ち上がる。
受け身を上手く取ったのだろう、見た感じ、片桐さんに怪我はないようだった。この人もとんでもなくすげえな……
「く……」
先輩の表情が歪む。
「……なるほど」
片桐さんは俺を見据え、
「あえて道化を演じることによって、私に隙を作ったというわけだね。彼女が攻撃するための隙を。……砂戸くんはなかなかの策士のようだ」
……なんか、片桐さんは勝手にいいように解釈してくれていた。演劇のときの委員長といい、すごくたすかります。
先輩は激しく片桐さんを睨みつけている。片桐さんもそれを見返している。
が、やがて――
「……ふう」
片桐さんは息を吐き、力を抜いた笑みを浮かべた。
「砂戸くんの機転に免じて、今日のところは退散することにするよ。美緒さまに挨拶することができたことだし、まあ充分かな」
言って、片桐さんはすぐ背後にあった屋上の扉を開ける。
「美緒さま、砂戸くん……それじゃあ、また……」
「ちょ――ま、待ちなさいよ! まだ決着が……」
片桐さんが扉の向こうに消える。
「……ちっ……」
先輩は、あえて追いかけるようなことはしなかった。
「……ちょっと待ってなさい。いまロープをほどいてあげるから」
「あ、はい」
結び目が固くて苦労したようだが、なんとかロープをほどくことに成功した。
「ふぁあ……やっと解放された……」
立ち上がり、大きく息をつく。ああ、自由って素晴らしい。
と――
「……ん……」
気絶して地面に倒れていた委員長が、目を覚ました。
「あ……私は……」
ぼんやりしながら、立ち上がる。
「私は確か……片桐さんに殴られて……」
「そう。気絶してずっと寝てたのよ」
と、先輩が言う。
委員長は少し目を見開き、
「み……美緒さま……」
「まったく……」
先輩は両腕を組み、
「もとはといえば、あんたがMFCとかいうアホみたいな集団を作ったからいけないのよ。そんで意味不明なトラブルに巻き込まれて……心の底から反省しなさいっ!」
「は、はい! すみませんでした!」
先輩に怒られている委員長は、なぜかちょっぴりうれしそうだった。
「ふんっ」
先輩は傲慢に鼻を鳴らすと、
「ブタロウ。もうこんなところに用はないんだから、さっさと外に出るわよ」
「わ、わかりました」
俺と先輩は並んで屋上の扉に向かう。
そのとき。
「あ、あのっ!」
後ろで、委員長が声を上げた。
先輩は振り向き、
「あ? なによ、まだなんかあんの?」
「え、えっと……」
委員長はとても緊張した様子で、
「一つだけ……美緒さまに言いたいと思っていたことがあるんですが……」
「なに?」
先輩は委員長に近づく。委員長はふるふる顎を震わせながら先輩を見つめ、
「え、演劇のとき……」
「は?」
委員長は意を決するようにがばっと顔を上げ、
「私たちのクラス演劇のとき……拍手をくださってありがとうございました」
と、告げた。
「あのときは……うれしかったです。本当に、うれしかった……」
先輩は一瞬きょとんとしたあと、ちょっと照れた感じで、
「べ、べつに、お礼を言われるほどのことはしてないわよ」
言って、くるっと委員長に背を向けた。
「ブタロウ! 行くわよ!」
「あ……はい」
のしのしと歩く先輩の後ろ姿を、委員長は頬を赤く染めながら見つめていた。
俺と先輩が校舎から出ると――
「あ……もう、後夜祭がはじまってますね」
校庭の真ん中に、巨大なキャンプファイヤー。
その炎を中心に、大勢の生徒たちが集まっていた。
「桜守祭も、もう終わりですね……」
当たり前のことを、ぼんやりとつぶやく。
「……先輩?」
どうしたのだろう。キャンプファイヤーの炎を見つめながら、石動先輩は少しだけ寂しそうな顔をしているように見えた。なんかちょっと落ち込んでいるような感じだ。
その表情を見ていると……なぜか俺は、片桐さんと相対しているときの先輩の姿を思い出した。
片桐さんの言葉を浴びせられていたときの先輩は、顔を真っ青にして、いまにも泣き出しそうで……なんだか、らしくなかった。
それと――生徒会長の片桐志帆さん。
先輩のファンクラブに所属しておきながら、先輩にまったく親愛の情を示さない生徒。
彼女はいったいなんだったんだろうか。
『私は知っている。あなたが空っぽの神様であることを。――私は、ずっと前から、知っているんだ……』
ふいに、そんな彼女の言葉が耳によみがえった。
「…………」
俺は先輩の小さな顔を見下ろし、
「あの、先輩……大丈夫ですか?」
「はあ? なにがよ?」
「えっと……先輩、なんかヘコんでるように見えたから――」
「ああん?」
先輩は急に眼光を鋭くし、俺の顔面を鷲掴みにした。
「なんで、あたしが、ヘコまなきゃならないのよ? よくわかんないけどムカつくわね」
「ぬおおおおっ!? い、いたいいいいい……はあ、はあ、はあ……」
と――
「……二人とも、すごく仲よさそう……」
急に近くから声が聞こえた。俺と先輩はぎょっとしてそちらに顔を向ける。
そこにいたのは――超ジト目の結野さんでした。
「ゆ、結野!? いつの問に……」
「タローと美緒さんがいっしょにいるのを見つけたから……」
低い声でつぶやく。
「……二人は、ずっといっしょにいたんだよね……こんな時間までずっと……」
結野は相変わらず様子がおかしかった。
「ずっと、いっしょ……」
ガクガクブルブル全身を震わせながら、
「わ、わたし……わたしだって……」
なんだか錯乱気味のご様子で――
「わたしだって――タローと手をつないでいろいろ回りたかったんだもんっ!」
そう叫ぶと、ぎゅっと俺の右手を握ってきた。えええっ!? いったいなにを!?
「あ……」
結野は呆然とした様子で、しっかりつながれた自分の手と俺の手を見つめる。
そして。
「イ、イヤアアアアアアアアア――ッ! さ、さささ触らないでぇえぇええ――っ!」
「触ってきたのはそちらのほうでごうばるはぁああぁ――っっ!?」
結野の鉄拳が顔面にめり込み、俺は背後に吹っ飛んだ。
「ブ、ブタロウ!?」
先輩がちょっと焦った顔で俺を見る。
俺は――
生徒が大勢いる後夜祭の最中にもかかわらず、
「うひゃぁああぁああっ! ギザキモチユスでごじゃりますうううううう――っ!」
ドMの悦楽に我を忘れ、壊れた笑みを浮かべながらがばっと立ち上がり――
「おらああぁああぁあああーっ!」
「げぶすっ!」
先輩に蹴り倒され、再び地面に転がった。
先輩は俺に覆い被さるようにしながら、
「あんた、こんなところでなにドMを目覚めさせてやがんのよっ!?」
「あひぃ! あひいいいっ!」
「く……このままだとみんなにドMのことがバレちゃうわ! こうなったらしょうがない! 何発がぶん殴ってこいつを気絶させるしかないわね! 嵐子も手伝って! この変態をぶん殴るのよ!」
「ふええええん! なんだかよくわからないけどわかりましたソリャアアッ!」
「おらぁ! この変態が! さっさと気絶しなさい!」
「ぐえぶっ! がぶあっ! ……えへえへ、あへあへへ!」
美少女二人に鉄拳を浴びせられながら――俺は至福の涙を流す。
ああ……俺はいま、すげえ幸せだ……
あとがき
どうも、松野秋鳴《まつのあきなり》です。『えむえむっ!』もいつの間にか4巻。ここまで続けてこられたのもすべて読者さまのおかげでございます。ありがとう、ありがとうございます。
今回もドMな変態主人公・砂戸太郎くんが悲しいほどに気持ち悪いですが、生温かい目で見守ってくださるとうれしいです。よろしくお願いします!
関係ないですが、ちょっと前にはじめて一人でカラオケに行ってきました。
受け付けで店員さんに「こいつ一人でカラオケに来るなんて寂しい奴だな、うぷぷ」みたいな目で見られたら、反射的に「あ、あとでトモダチが来るんです。ウ、ウソじゃないですよ」と言ってしまっていたかもしれませんが、店員さんは普通に応対してくれました。いまの時代、一人でカラオケに来る人間は珍しくないようです。
僕は絶望的なほどにリズム感がなくて、伴奏と歌が合わなくなることがよくあるのですが、カラオケルームの中で一人で歌っているとその対処法を見つけることができました。
それは、音楽に乗ってクネクネ踊りながら歌うことです。そういうふうにして歌うと、いい感じに歌えることを発見しました。自分的にはわりとうれしい発見です。
でも、その対処法には欠点があります。クネクネ踊っているときの僕は尋常じゃないほどキモいのでほかの人がいるときには恥ずかしくて踊ることができないのです。鏡に映った自分の踊りを見たときは人生ベストスリーに入るくらいドン引きしました。確実にマジックポイントを吸い取れるだろうというような不可思議な踊りだったのです。
でも一人でカラオケというのはかなり爽快でした。機会があればぜひお試しください。
謝辞でございます。
今回も超すんばらしいイラストを描いてくださったQP:flapperの小原《おはら》トメ太《た》様とさくら小春《こはる》様、ありがとうございました。ピンナップのウエイトレス美緒さま&嵐子さんがかわいすぎて吐血しそうです。担当のS様、編集長のM様、いつもお世話になっております。毎度のことながら迷惑をかけてばかりですみません。装丁を担当してくださった松井様、校正様、営業の皆様方、ありがとうございました。
最後はもちろん読者様に! ありがとうございました!
それでは、次巻でお会いできればうれしいです。
二〇〇八年 一月 松野秋鳴
2008年2月29日 初版第一刷発行
2008/10/23 作成 ルビは一部のみ