えむえむっ!2
松野秋鳴
第一話 そんなこんなでカップルバカップル
ピピピピピピピピピ……
「ふ……んん……」
枕元に手を伸ばし、目覚まし時計のボタンを叩くように押す。
「うぬぬ……もう朝かよ……」
俺――砂戸太郎《さどたろう》は、盛大なあくびをしながら上半身を起こす。変だな、なんだかいつも以上に眠気が体内にくすぶってる感じがする。
寝ぼけ眼《まなこ》を手の甲でこすったあと、ベッドの横に目を向ける。そこに誰もいないことを確認すると、部屋の中に視線を巡らせる。
「ふう……今日は姉貴も母さんも俺の部屋に忍び込んでないようだな」
超がつくほどのブラコンである姉貴と、超がつくほどの子煩悩である母さんは、ことあるごとに俺のベッドに忍び込んでくるのだ。二人の俺に対しての溺愛ぶりは、もはやブラコンとか子煩悩とかいうレベルを超越しているような気がしないでもないが、そこを突き詰めていくとちょっと怖いのでやめておく。
安堵の息を吐きながら、目覚まし時計を見やると――
「えっ?」
時刻は、六時ちょっと過ぎ。
「ちょ……なんでこんな早い時間に目覚まし時計が鳴りやがったんだ!?」
目覚まし時計に抗議の声をぶつける。が、目覚ましがセットされている時間は確かに六時だった。
「なんでだよ……もしかして、目覚ましをセットする時間を間違えたのか?」
そんなはずはないと思うんだけどなぁ、と独りごちる。
「まあいいや。時間があるなら二度寝を……」
と、そのとき――
ジリリリリリリリリリリリリリリ! と強烈な音が部屋に響いた。
「げぶっ! い、いったいなんの音だ!?」
横になろうとした体を立て直し、ベッドを降りる。
「ああもううっせ! ったく、どこからの音なんだよ!」
音を頼りに、その発生源を探す。すると。
「これか……?」
ゴミ箱の一番下、そこに隠すようにして見慣れない目覚まし時計が置いてあった。
「な、なぜこんなところに目覚まし時計が……?」
ミステリーな状況に困惑しながら、けたたましい音を鳴らす目覚まし時計を止める。
「やれやれ、もう二度寝をする気も起きねえな……しゃあない、シャワーでも浴びるか」
俺は頭をがしがし掻きながら、一階に下りた。
「母さんはまだ起きてないのか……あっ、そういえば……」
そういえば、昨日母さんは申し訳なさそうに言っていた。締め切りが近いのでたぶん徹夜になるから、明日はもしかしたら朝に起きられないかもしれないと。母さんは翻訳の仕事をしているので、そういうことがたまにあるのだ。
「じゃあ、いまは仕事が終わって眠ってるぐらいかな……」
そんなことをつぶやきながら、風呂場に向かう。
服を脱ぎ裸になると、風呂場のドアを開けた。
「ん? 湯が張ってあるぞ?」
もしかしたら、徹夜明けの母さんが一眠りする前に風呂に入ったのかもしれない。
「せっかくだから、俺も湯につかることにするか」
熱い湯に体を沈め、ふぅーっと息を吐く。朝風呂ってのは気持ちいいもんだな。
「それにしても、今朝のあの目覚まし時計はなんだったんだろうか……?」
突然――
ばあんっ! と派手な音を立てて風呂場のドアが開いた。
「な……」
「ふふふ……太郎ちゃん、わたしの策略に見事に引っかかっちゃったね……」
言って、にやりと口元を歪めるのは、俺の姉貴である砂戸静香《さどしずか》だった。
鎖骨あたりまで伸ばしたさらさらの綺麗な髪に、あどけない顔立ちをした女性。身長が一四九センチしかない姉貴はよく小学生や中学生に間違えられたりするが、れっきとした女子大生である。
その姉貴はいま――素っ裸にバスタオル一枚巻いただけという姿で俺の前にいた。
「な、な、な、ななななんでここにいるんだ姉貴! しかもそんな格好で!」
「それはもちろん、太郎ちゃんといっしょにお風呂に入るためだよっ!」
ぐっと握り拳を作り、宣言する。
「なにをアホなこと言ってやがるっ! さっさと出ていきやがれ!」
「やだっ! 太郎ちゃんといっしょにお風呂するんだもんっ! そのためにわざわざ目覚まし時計に細工したんだもんっ!」
「あれは姉貴の仕業だったのかっ!?」
「そうだよ! 目覚ましの時間を一時間早くして太郎ちゃんに早起きしてもらったの! ひょんなことから早起きした太郎ちゃんは九十パーセント以上の確率でシャワーを浴びる――これはわたしが作成した太郎ちゃんノートVol.5にもちゃんと記されてるんだよっ!」
「なんだよその謎のノートは!? しかもVol.5ってけっこういってんなっ!」
「というわけで――いっしょにお風呂ぉ!」
「というわけってどういうことだっ! こ、こらっ!」
姉貴が浴槽の中にダイブしてくる。もうこれはやばい! ほんとやばいから!
俺は空中で姉貴の脇の下をがしっと掴み、そのダイブをなんとか阻止した。そして、姉貴の体を風呂場の床の上に優しく投げ捨てる。
「むむぅ〜。やるね、太郎ちゃん! でも、わたしは諦めないよっ!」
「頼むから諦めてくれっ! つーかバスタオルが剥がれ落ちそうだぞっ!」
「べつにいいもんっ!」
「こっちがよくねえっ!」
姉貴が体を起こしたそのとき――
「なにをやってるのですか、静香さん!?」
そんな怒号が風呂場に響き渡った。
風呂場の入り口に立ち大声を放ったのは、肩ぐらいまでの髪を後ろで一つに結んだ女性――俺の母親の砂戸智子《さどともこ》だった。
「えっ!? お、お母さん!? どうして……」
姉貴はぎくりとした顔で母さんを見る。
「静香さん! これはどういうことですか!」
いつも穏やかな母さんが、いまは激怒していた。母さんはぷるぷる震えながら姉貴を指さし、
「太郎さんが入ってるお風呂場に侵入する……これは、LOVEタロウ条約第九条に違反する行為だったはずですっ!」
「う、ううう……」
「あの……LOVEタロウ条約って、なに?」
「私と静香さんとのあいだで結ばれた条約です! 太郎さんを取り合う上での最低限のルールを定めた条約! 静香さん、あなたはその条約にちゃんと署名したはずですよ!」
「なんだよその歴史上もっともアホらしい条約は!?」
「ちなみに、第一条はお互いの食事に毒は盛らない、第二条はお互いの寝首を……」
「そんな基本的なことからですか!?」
「う、うううう……ごめんなさい……」
姉貴は床の上にへたりと座り込み、しゅんと体を小さくする。
「お母さんが仕事で徹夜するって聞いて、それでいまの時間ぐらいだったら仕事終わりのお母さんはぐっすり眠っちゃってるだろうから、太郎ちゃんが入ってるお風呂場に侵入してもバレないんじゃないかと……」
「それで……目覚まし時計に細工して俺を早起きさせたのか……」
姉貴はこくりとうなずく。
「まったく……」
やれやれ、と俺はため息をつく。
「わざわざゴミ箱の中にもう一つ目覚まし時計を隠して、俺の二度寝を防ぐみたいなことまでやりやがって……無駄に用意周到というかなんというか……」
「えっ?」
姉貴がびっくりした顔で俺を見る。
「太郎ちゃん、わたし、そんなことしてないよ? わたしは太郎ちゃんがいつも使ってる目覚まし時計に細工しただけ。ゴミ箱のやつは知らないよ」
「へ?」
じゃあ、もう一つの目覚まし時計は誰が……
怪訝な顔を見合わせていた俺と姉貴の視線が、風呂場の入り口に立つ母さんのほうに向けられる。二人とも見事なジト目になっていた。
「さっきからちょっと気になってたんだけど……」
姉貴は低い声で言う。
「……お母さんってば、どうして裸にバスタオル一枚っていう格好なの?」
そう、母さんも姉貴と同じく裸体にバスタオルという姿だったのだ。
「え……?」
母さんがぎくりと体を震わせる。
「もしかして……太郎ちゃんの部屋にもう一つの目覚ましをセットしたのは……お母さん?」
「や、や、そそそそれは……」
母さんは露骨にうろたえ、両手を胸の前でばたばた交差させながら、
「そ、それは違いますよ! た、たとえば締め切りで徹夜するという話は静香さんを油断させるための嘘で、真の目的は早起きしてシャワーを浴びている太郎さんのお風呂場に忍び込むことだったとか……そんなことは絶対にありませんからっ!」
……うわぁ、この人ぜんぶ喋っちゃったよ。
「そ、そんな卑怯な策略を張り巡らせていたなんて……お母さんひどいよっ! アバズレだよっ!」
アバズレって……姉貴、じつの親にそれはないんじゃないですか? あと、自分のしでかしたことについては忘却の彼方ですか?
「……ごめんなさい」
母さんはしゅんと体を小さくする。ちょっと涙目になっていた。
姉貴は盛大なため息をついてから、母さんと顔を見合わせる。
「これはもう……しょうがないよね」
「そうですね……しょうがないですね」
顔を見合わせた二人は――なぜか怪しいほほ笑みを浮かべていた。
「こうなったら、今日は特例ということにして……」
「ええ、特例ということにして……無礼講ということにして……」
姉貴と母さんの目がキラリと光る。そして――
「太郎ちゃああぁあんっっっ!」
「今日は三人で一緒にお風呂しましょおおおおおおっっ!」
「するわけねえだろっ!」
飛びかかってきた姉貴と母さんの頭をはたき、俺は力いっぱい怒鳴った。
私立|桜守《さくらもり》高校。それが俺の通う学校の名前だった。
今日は六月七日。入学してからすでに二ヶ月ほど経つ。なんとか高校生活にも慣れた俺は、学園生活をエンジョイ――することはあまりできていなかった。残念ながら。
授業が終わり、放課後。俺はとある部室の扉の前でため息をついていた。
その部室の扉の上に記載されている文字は――第二ボランティア部。
第二ボランティア部とは、桜守高校に通う生徒たちの願いごとを叶えてあげる部活である。あと、悩みごとや懺悔を聞いてあげたりもする。俺はこの第二ボランティア部の部員であった。
「……強制的に入部させられたんだけどな」
陰鬱につぶやいてから、目の前の扉を――忌まわしき第二ボランティア部の扉を、ゆっくりと開けた。
十畳ほどの広さの部屋だった。壁にはロッカーがあり、ところどころに机や椅子が置いてある。部員数と釣り合っていない立派な部室だ。さらにここには奥にもう一つ部屋があり、そこは六畳ほどの畳敷きの部屋となっていた。
「……あれ? 誰もいない?」
きょろきょろと辺りに視線を巡らせる。部室は無人だった。
「まだ誰も来てないのか……?」
つぶやいた、そのとき――
奥の部屋から、人影が現れる。
宝石を封じ込めたような二重《ふたえ》の整った瞳に、それを彩る長い睫毛《まつげ》。透き通るような白い肌、愛らしく麗しい小さな唇。亜麻色の細い髪がふわりと肩を覆っている。その容姿は端麗の一言に尽きる。規格外の美しさを備えた、外見だけならば誰がどう見ても完全無欠の超絶美少女。
彼女は――二年生であり第二ボランティア部の部長である、石動美緒《いするぎみお》先輩だった。
石動先輩は、自分を見つめる俺の存在に気づくと、天使のようなほほ笑みを浮かべ、
「あら、ブタロウ。今日もしょっぱい顔してるわね。とゆーか基本的にしょっぱい顔してるわね。内面のキモさが外見に反映されてるからかしら?」
「…………」
俺は呆然と先輩を見つめる。先輩の毒舌に呆れたからではない。
「先輩、あの……その格好はなんなんですか?」
石動先輩はなぜか制服ではなく迷彩服を着ていた。そして、その手には一メートルほどある巨大なハリセンを握っている。
先輩は、ふんっと鼻を鳴らし、
「あたしは先輩じゃないわ。上官であります」
「……は?」
上官? なに言ってるんだ、この人は?
「せ、先輩、なにを言ってるんですか? まったく意味が……」
「貴様、四等兵の分際で上官になんという口をきいているのだ! 軍法会議ものだぞ!」
と、俺を睨みつける。ギンッと細められた両の瞳に、俺の体が少し震える。
「先輩、それはなんの遊びですか? 説明してくれないと理解不能なんですけど。とりあえず基本的なルールだけでも……」
「上官と……」
「先輩?」
ぶわりと黒いオーラを放った石動先輩は、巨大ハリセンの柄をバットを握るように両手でしっかり持ち、そして――
「上官と――呼ばんかこのバカチンがあああぁ!」
「げぼっはぶぁ――――っっっ!?」
音速でフルスイングされたハリセンが俺の顔面にめり込み、俺は派手な叫び声を上げながら背後に吹っ飛んだ。それはそれはとても強烈な打撃でございました。
机や椅子をなぎ倒しながら床に倒れた俺は……
「うひゃぁああっ! うひゃっひゃはあぁあぁ――――っっ!」
この醜い肉体に降臨してくださった神懸かり的な悦楽に我を忘れ、哀れな変態の素顔をさらしながら、魂の声を張り上げた。
「ハ、ハハハリセンで殴られるなんて、そんなの生まれてはじめてだよおぁ! はあ、はあ、はあ、す、すっごい珍味っ! そんな珍味的な気持ちよさに拙者はもう限界を突破でござるるるるるっ! だ、だだだから、はあはあはあははあ、も、もっと小生にその快楽を与えてくださ――」
「キモい顔で近づくんじゃねーわよこの変態風雲児がっ!」
「げげぶう――っ!」
暴走しながら先輩に近づこうとした俺の顔面に、再び巨大ハリセンが衝突する。カウンター気味に入ったその一撃に、俺はなすすべもなく吹っ飛んだ。背中から壁に激突した俺は、床にへたりと尻餅をつく。
「こおの、ドMの変態野郎が……」
破滅的な笑みを浮かべる俺のそばに、石動先輩が立つ。
そうなのだ。
俺という男は、身内以外の女性に罵られたり冷たくされたり殴られたりすると気持ちよくなってしまうという、ドMの変態野郎なのだ。ああ……我ながら、なんて残念な生き物なのだろう……
先輩はかぶりを振り、
「あんたのドM体質を治す……それはとても困難な道だわ。だけど、神様であるあたしに不可能はないっ! 絶対にっ!」
自称神様というちょっとアレな感じの石動先輩。いまから一ヶ月ほど前、俺は自分のドM体質を治してくださいと第二ボランティア部に――この石動先輩にお願いしにきたのだ。その日から俺の運命は坂道を転げるかのごとく……
石動先輩は両腕を組み、高圧的に言い放つ。
「よく聞きなさいよ、変態アレルゲンっ! いまからあんたには、この美緒様の考え出した軍隊訓練を受けてもらうわ!」
「軍隊訓練……?」
「そうよっ!」
言って、石動先輩はえっへんと胸を張る。かなり薄い胸を。
「これは――あたしが昨日思いついた、あんたのドM体質を治す方法なのよっ!」
「……ふぇ?」
「軍人っ! 私情に流されることなく、一時の快楽に惑わされることなく、確実に任務を遂行する戦士! それは強靱な肉体と鋼鉄の意志を併せ持つ男の理想像よ!」
「…………」
「つまり! 軍人の訓練をあんたに施すことによって、女性に罵られたり冷たくされたり殴られたりしても動じない強靱な精神を身につけさせるのよっ! そしてあんたが真の軍人となったとき、あんたは自分のドM体質を克服してるというわけ!」
そう言い放つ石動先輩は、とても得意げな顔をしていた。
「…………」
あまりのアホらしさに、声が出ない。
「ん? どしたのよ? あまりに素晴らしい案だったから感動して言葉を失ってる?」
「……い、いや、ええーっと」
素直な感想を言えばひどい目に遭うのは経験上知っているので、なにも言えない。
「じゃ、じゃあそんな格好をしてるのも、軍隊訓練だからとか……」
「こ、これは……」
ううー、と唇を尖らせながら、石動先輩は自分の姿を見下ろす。
「みちる姉がどうしても着ろって……軍隊訓練をするなら、この服装をするのは世界の常識なんだって……」
……いったいどこの世界の常識なのだろうか。
「と、とにかくっ! 今日のあたしは石動先輩ではないっ! 石動上官であります!」
腰に両手を当て、はっきりとした声で告げる。
「では、さっそく訓練を開始するであります! ブタロウ五等兵!」
あっ、いつの間にか階級が一つ落ちてる。
「返事をせんかぁ! このウジ虫がっ!」
「は、はいっ!」
びしっと直立し、大声を上げる。ウジ虫って……いいよね。
「まずは番号!」
「いちっ!」
「よし! では引き続き訓練に入るであります! まず体操服に着替えるでありまひゃうっ!?」
言葉の途中、石動先輩は両手で口元を押さえた。そのまま黙り込む。
「……せ、先輩?」
「…………」
なるほど、言い慣れていない軍人口調のせいで、舌を噛んじゃったんだな。
先輩は口元を押さえたまま、ちょっと涙目で俺を見上げてくる。えっ、舌を噛んだのは俺のせいじゃないのに、なんでそんな恨めしそうな顔を?
「――ブタロウ! これから訓練をするんだから、さっさと体操服に着替えなさいっ! ちんたらやってんじゃないわよっ!」
どうやら軍人口調はあっさり放棄したようだ。
「た、体操服って……」
「あん? 持ってないの?」
「いや、持ってはいるんですけど、わざわざ体操服に着替えるんですか?」
「そうよ。これからあんたには過酷な軍隊訓練を受けてもらうんだから、そんな格好じゃ問題外なのよ。おら、さっさと着替えやがれ!」
「き、着替えるって、ここでですか? 先輩の目の前で? それはちょっと……どっかほかの……」
「……ブタロウ、あたしはさっさと着替えろとおっしゃってるのよ?」
先輩の冷徹な視線が俺を射抜く。ぞくぞくと背骨に沿って震えが走る。
「わ、わかりました……」
俺は鞄から体操服を取り出した。もしまだ拒絶するようであれば、今度は言葉だけでは済まされない――俺にはそれが痛いほどわかっていた。
俺はおずおずと制服を脱ぎ、トランクス一枚の姿になった。ちらりと視線を動かすと、むすっとした顔の石動先輩が黙って俺を見つめている。とろとろするんじゃねえよ変態、とその瞳がおっしゃっていた。
俺は屈辱と恥ずかしさに顔を赤くしながら――そして若干息を荒くしながら――急いで体操服に着替えた。
「うん、これで準備オッケーねっ」
先輩は弾んだ声で言って、にこっと笑顔を浮かべる。忌々しいことに、その笑顔はとても美しくかわいらしいのであった。
「ブタロウ。ぼさっと突っ立ってるんじゃねーわよ。さっさと外に出なさい」
「え? 訓練って外でやるんですか?」
「そうよ」
俺と石動先輩は部室の扉を開け、外に出る。
校門から校舎へ続く桜並木のスロープと部室棟のあいだには、土でできたわずかばかりのスペースがある。そのスペースはスロープと部室棟に沿って細く延びており、部室棟が途切れたところから裾を大きく広げて運動場のほうにつながっていた。
「さて、まずは基本からね。基本とは、ほふく前進よ」
「ほふく前進……?」
「そうよ。おら、ブタロウ。さっさと地べたに這いつくばりなさい」
「え? じ、地べたに?」
「あんた、ほふく前進はわかるわよね? ほふく前進って立ったままできるものだったかしら? できるものならやってみてください」
「い、いえ……」
「じゃあ早く這いつくばりなさいよ。地面という世界の底辺に、その汚い腹をこすりつけるようにして這いつくばりなさい」
「…………」
俺は仕方なく、地面に腹ばいになった。そう、仕方なくだ。先輩にひどい目に遭わされるのが嫌だから仕方なく腹ばいになっているのであって決してこの屈辱的な体勢を強いられることによって反社会的な快感を感じているわけでは……はあ、はあ、はあ……
「うむ、素直でよろしい」
満足そうに言うと、石動先輩はとてとて歩いて部室から離れていった。二十メートルほど離れると、そこから俺に向かって、
「ブタロウ! とりあえずほふく前進でここまで来なさいっ! わかってると思うけど、できるだけ早くよっ! もしちんたらやってたら……一生ほふく前進しかできない体になる可能性があるわよ……」
「は、はいっ!」
腹ばいになった俺は、両腕と両足の力で地面を前に進む。ほふく前進なんてやったのは生まれてはじめてだったが、これってけっこうつらい。
顔を上げると、石動先輩が両腕を組みながら俺を待っていた。のろのろと進む俺の様子にご立腹なのか、端整な顔が不機嫌そうに歪められている。
「…………」
相変わらずの傲慢な様子で、苛立たしげに両目を細め、先輩は俺を見下ろしている。地べたに這いつくばる俺を見下している。
「はあ、はあ、はあ……」
俺は地面を這って進む。ゴールは石動先輩の足もと。あそこに辿りつけば……
『い、石動先輩! ほふく前進で先輩の足もとまで辿りつきましたよ!』
『ふん、よくやったわねブタロウ。ご褒美に、その醜い顔面をこの美緒様の靴の裏でぐりぐりしてあげるわ』
『マジっすか!? マジっすかあああ!?』
『ええマジよ。ほら、ぐりぐりぐりぐり……』
『あああああああっ! し、至福の瞬間だにゃああああああああっっっ!』
――脳みその中で妄想が増殖していく。止まらない。止められない。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
俺は激しく息を荒げながら、手足をしゃこしゃこ動かして前進していった。ゴ、ゴールは先輩の足もと……あそこに辿りついたら、きっと……
「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあはあはあはあ……」
しゃこしゃこしゃこしゃこしゃこしゃこしゃこしゃこしゃこ――
「ひっ――!?」
素晴らしい速度で足もとまで到達した俺を見て、先輩は悲鳴のような声を上げた。一瞬の怯えのあと、すぐ顔を激怒に歪ませ――ハリセンを天高く振り上げる。
「な、なによそのしゃこしゃこしたキモい動きはっ!? てめえは虫か!? 変態虫かっ!?」
「げふっ! げふげふげふっ! あ、あああああ……」
容赦ないハリセンの連打が俺の全身に浴びせかけられる。ああああ、早く来いと言うからがんばったのに……でも、これはこれで……うへ、うへへへへ……
「まったく、なによいまの人間離れした動きは……ああ、なあるほどねぇ……」
石動先輩はにやりと妖艶な笑みを浮かべ、腹ばいになる俺の目の前にしゃがみ込む。首の角度をもう少し工夫すれば、パンツが見えてしまいそうだ。でも見てしまうとたぶん来世への旅路が待っているので見ないようにする。
「ねえ、あんたってばもしかして、汚い腹を地面にこすりつけながらあたしの足もとに辿りつくというシチュエーションに興奮してたの?」
「う、うう……」
くそお、最近の先輩は妙に鋭い。
「あはっ、図星みたいね。もう、この子ったら……」
穏やかな笑みを浮かべながら、先輩は俺のおでこにびしびしと強烈なデコピンをする。
「あう! あうあうっ!」
「あらあら、この美緒様の指先に、あんたの体から出てる変態分泌物が付着しちゃったじやない。もしあんたの変態性が清く正しく生きてるあたしに感染しちゃったらどう責任取るつもりなのよ」
「あうあう! あうあうあう! はあ、はあ、はあ……」
「なあに、その極楽に昇っていきそうな顔は? ほんっと気持ち悪いわね、あんた。もうあまりに不憫すぎて言葉も出ないわよ、このド変態のブタ野郎が」
心の底から軽蔑したという声音《こわね》で言うと、先輩はすくっと立ち上がった。
「ブタロウ。このあたしを気味悪がらせた罰として、腕立て伏せを命じるわ」
「え……う、腕立て伏せですか?」
「そうよ。腕立て二十回。ほら、さっさとしなさい」
「…………」
ここで逆らってもいいことはないので、俺は素直に腕立て伏せをすることにした。ああ、なんか最近の俺って反骨精神がなくなってきてる気がする……だが、腕立て二十回ぐらいならまだマシなほうだ。ここで下手に逆らったら二十回が二千回になる恐れもある。
俺は心の中で回数を数えながら、その場でゆっくりと腕立て伏せをした。
一回……二回……三回……
「ふむ。ただの腕立てじゃあ、ぬるいわね」
石動先輩は言うと――
「ぐ、ぐぇ!?」
腕立ての途中だった俺の背中に、どしんっと腰を下ろした。
「せ、せ、先輩……」
「ウェイト代わりに乗っかってあげる。まあ、あたしみたいな体重の軽い美少女が乗っかってもあんまり意味がないかもしれないけど」
「い、いや、充分重い……」
「あ? なにか言った?」
「いえ、なんでも……」
仕方なく、俺は先輩を背中に乗せたまま腕立て伏せをする。
石動先輩は背中をまたぐようにして俺の上に乗っかっている。というか、背中に感じるふにっとしたやわらかい感触が、なんとも……
「なに硬直してるのよブタロウ。さっさとしなさい」
「は、はい……」
まったく、人の気も知らないで――と、わけのわからないことを心の中でつぶやきながら、俺は腕立て伏せを再開する。が、やはり人間一人分というウェイトはかなりきつい。俺は両腕をぶるぶる震わせながら、ゆっくりと慎重に体を沈めていく。四回……五回……六回……七回……
「ぐ……ぐぬぉ……はあ、はあ……」
ダメ、もう限界。七回目の腕立てを終え、ぴんっと両腕を伸ばした状態で、俺は荒い呼吸を繰り返す。この両腕のぶるぶる具合からすれば、次はもう無理だった。俺は仕方なく両膝を地面につけてしばし休息をとる。
「こらブタロウ! なに休んでやがるのよっ!」
「そ、そんなこと言ったって……」
もう無理ですよと抗議の声を上げようとした瞬間――俺は気づいてしまった。
いまの俺の状態。両手と両膝を地面についた四つんばいの体勢と、そんな俺の背中の上に美少女が乗っているというこの構図……こ、ここここれは……お、お、お馬さん……
「はあ、はあ、はあ……」
俺はさっきまでとは違う意味で呼吸を荒くしていた。
「ブタロウ! このあたしの命令に逆らうっていうの!?」
先輩はそんな声を上げながら、持っていたハリセンで俺のケツをびしびしと叩いた。
「………………っっっ!」
「えっ? ちょ、ちょっと……」
俺は腕立て伏せを再開――せずに、先輩を背中に乗せたままとことこ前に進みはじめた。馬のように、進みはじめた。
「こ、こらっ! 誰が前に進めって言ったのよっ! 腕立てをしなさいっ!」
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
「うわっ……まさかこいつ……」
先輩の低く冷たい声が聞こえる。だがそんなことはどうでもいい。俺はえへらえへらと怪しい笑みを浮かべながら、部室の前を四つんばいで歩いた。
「このくされド変態っ! さっさと止ま……えっ?」
先輩の驚いたような声と、顔を上げる気配。いったいどうしたのだろうと、俺はわずかに残っていた理性の力で顔を上げる。
見ると――
下校しようとした生徒や部室から出てきた生徒たちが、俺と石動先輩のほうに見開いた目を向けているのであった。部室棟の前で馬のように四つんばいになる俺と、その上に乗る迷彩服の石動先輩を。
「…………」
「…………」
俺はぴたりと動きを止める。先輩も硬直してなにも言わない。
数人の生徒たちが、好奇の視線や怪訝な視線を俺たちに向けている。つまり俺は、みんなが見ている前で、お馬さんの……お、おおおお馬さんの真似を……
「はあ、はあ、はあ……」
「ちょ、ちょっと、ブタロウ?」
「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあははははは……ハアアアアアアアアッ!」
俺は先輩が背中に乗っていることも忘れ、がばっとその場で立ち上がった。先輩が「きゃっ!」と妙にかわいらしい声を上げながら地面に落ちる。
もう無理だったダメだったお馬さんを見られちゃったんだもんそりゃあキツいぜ耐えられないぜ限界だぜ俺はくわっと目を見開きマゾヒズム的快感に我を忘――
「こおおおおのドヘンタイがあああああああああああっ!」
「――ばふぁっぶっっ!?」
マゾヒズム的快感に我を忘れながら俺を見つめている生徒たちの足もとにすがりつく――より一瞬早く、石動先輩の閃光のような跳び膝蹴りが顔面にめり込み、俺の体はすごい勢いで背後に吹っ飛んでいった。
背後にはちょうど開きっぱなしだった部室の入り口があり、吹っ飛んだ俺はそのまま部室の床に転がった。ロッカーの角に頭をぶつけ、朦朧としていた意識がさらにやばいことになる。
「び……びるげいちゅ……」
「まったく……」
いつの間にか俺のそばに立っていた石動先輩が、はあとため息をつく。部室の扉は閉められていた。
「感謝しなさい。あんたあのままだったら、ほかの生徒たちにドMのことがバレちゃってたわよ」
言って、ふんっと鼻を鳴らす。
「え……じゃあ、先輩は俺をたすけるために俺を蹴ってくださったのれすかぁ?」
まだマゾヒズム的快感が抜けきっておらず、ろれつが回らない。
「そうよ。当たり前じゃない」
「そ、そうなんれすか……てっきり、俺が立ち上がって地面に落とされたことに怒っての行動だと思ってましたよぉ……」
「え? そ、そんなことないわよ、うん」
なぜか先輩は俺から目を逸らす。
と――
なんとか自分を取り戻した俺が床から立ち上がったとほぼ同時、奥にある畳敷きの部屋から、クラスメイトである結野嵐子《ゆうのあらしこ》と保健医の鬼瓦《おにがわら》みちる先生が出てきた。
「え? ええ?」
俺は驚きに目を見開きながら、奥の部屋から出てきた結野の姿を見つめていた。
結野は俺の姿に気づくと「あ……」と小さな声を上げ、恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
指通りのよさそうなさらりとした短めな髪。細い眉に、ぱっちりとした大きな瞳が印象的な女の子だった。間近で見てもつるりと綺麗な白い肌、桜色の薄い唇。きゅっと締まったウエストに、けっこうボリュームのあるバスト。やっぱり結野はかわいいと思う。誰が見ても彼女のことを美少女と認定するだろう。
その結野はいま、見慣れない格好をしている。いや、世間的に見慣れないというわけではないのだが、少なくとも学校内では見慣れない格好だ。
見る人に清楚で清潔な印象を与える、白いワンピースタイプの衣服。そして頭に乗せられた白い帽子――ナースキャップ。
そう、結野はなぜかナース服を着ているのだった。
俺はあんぐりしながら結野の姿を見つめていた。な、なぜにナース服なんかを……
「ゆ、結野、その格好は……」
「えっ? ええーっとね、それは……」
結野は軽く握った右手で口元を隠すようにしながら、顔を赤くした。もともと色の白い女の子なので、顔が赤くなったりとかの変化は顕著に出てしまう。
「美緒が、君のドM体質を治すために軍隊訓練をすると言っていたのでな」
と言ったのは、結野の隣に立つみちる先生だった。
長い髪を首の後ろ辺りで結った長身の女性で、スレンダーな体を白衣で包んだ美女であるのだが、その表情と口調にはあまり抑揚というものがない。基本的に無表情でいろんな意味で変わっているというか壊れてる人であった。
ちなみに、みちる先生の趣味は服を作ることとかわいい服を着た美少女の写真を撮ること。かわいい服の中にはコスプレも含まれている。
「軍隊訓練には負傷がつきもの。負傷を癒すにはナースが必要。というわけで、嵐子にはナースの格好をしてもらったのだ」
みちる先生は淡々とアホなことを告げる。
俺は開いた口がふさがらなかった。こ、この人、石動先輩に迷彩服を着させるだけでは飽きたらず、結野にまでナースのコスプレなんかを……
「ゆ、結野、ええっとさ……」
俺はあまりに結野が不憫になって、声をかけた。どうせ結野のことだ、本当はすごく嫌だったのにみちる先生の強引さに負けてこんな格好をしてしまったに決まっている。
「嫌だったら、嫌って言ったほうがいいぞ。そんな格好、したくなかったら……」
「砂戸太郎、君は失礼な人間だな。それではまるで、私が嵐子に無理矢理そんな格好をさせたみたいではないか」
「いや、だってそうなんでしょ? そうじゃなかったら結野がこんなこと……」
「さすがの私も強要はしないよ。確かに私はかわいらしい嵐子のナース姿を見たかったので、ナース服を着ることを強く勧めはしたが、強要まではしていない」
「……本当ですか?」
「なんだ、その疑いに満ちたまなざしは」
「ほ、本当なの……」
か細い声で言ったのは、結野だった。
「みちる先生にナース服を着てみないかって言われたときは、すっごく驚いたけど……でも、ナース服なら着てみてもいいかなあって……」
「そう。だからさっきまで奥の部屋で着付けをしていたんだよ。ついでに写真も撮らせてもらったのだが」
みちる先生は微妙に満足そうな表情を浮かべている。というか着付けってなんだよ。
「それは……マジなのか?」
俺は驚きの目を結野に向ける。結野は顔を真っ赤にしながらうつむき、
「う、うん……前からね、美緒さんがいろんな服を着てるのを見てて、ちょっとうらやましいなあって思ってたの。だから、みちる先生にナース服を着てみないかって言われたとき、ほんとはちょっとうれしかった」
言って、結野は赤い顔のままほほ笑む。
「あんまり変な格好なのは嫌だけど、ナースって職業にはちょっと憧れもあったし……で、でも、わたしは美緒さんみたいに綺麗じゃないから……やっぱり、変だよね?」
と、上目遣いで尋ねてくる。
「い、いや、べつに変じゃない……けど」
「そ、そう? じゃあ……に、似合うかな?」
結野は少し両手を広げるようにして、訊いてくる。
「…………」
俺は改めて結野の姿を見やった。上から下まで、結野のナース姿を見つめる。
「……う、うん、似合ってると、思う……」
というか、すごくかわいいと思う。
結野はひかえめにだがうれしそうにほほ笑み、俺のほうを見つめている。俺は結野の姿から目を逸らした。なんか、変に顔が熱い。
結野は首にかけていた聴診器を右手に持ち、
「じゃあ、診察しちゃいますよ……と、とか言っちゃって」
そんなことを言って、照れ笑いを浮かべる。結野が冗談を言うなんて珍しい。ほんとにナースのコスプレがうれしいんだな。
「ねえ、ブタロウ……」
石動先輩の声だった。顔を向ける。
迷彩服の先輩は上目遣いで、両手を軽く広げ、
「どう? 似合うかな?」
「はい、似合ってると思いますよ。ある意味で」
攻撃的な先輩に、迷彩服という格好はぴったりのような気がした。
「……ちょっとあんた、あまりに嵐子のときと態度が違いすぎない?」
「い、いえ、そんなことは……」
サバイバルナイフのような鋭い目つきで睨んでくる先輩から、俺は顔を逸らす。
「でも……嵐子ナースはほんとにかわいいわね。かわいいっ!」
「ちょ、ちょっと美緒さん! 抱きつかないでくださいよう!」
石動先輩が飛びつくようにしてぎゅっと結野に抱きつく。結野は顔を赤くしながらあたふたしていた。なんとゆーか、美少女どうしがじゃれ合ってる姿ってのは、絵になるよな。
あたふたと体を揺らす結野が――ナースキャップを床に落とす。
結野は「あ……」と声を上げ、床に落ちたナースキャップを拾おうとする。が、すでに俺もそのナースキャップを拾うために右手を伸ばしていた。
二人で同時にナースキャップに触れる。そのとき、俺と結野の指先がほんの少しだけ触れ合った。結野はびっくりした顔を俺に向ける。
あ、やばい――そう思ったときには、もう手遅れだった。
結野の体がカクカクと小刻みに震え出す。
顔色が真っ青になり、そして、悲鳴のような声が――
「い――――」
部室に響き渡った。
「いやあぁああぁああぁあぁ――――――――っっ!」
「げぼぉ――っ!?」
逃げようとしたが時すでに遅し――結野の放ったフルスイングの右拳が俺の顔面に突き刺さった。
「こ、こわいっ! こわいこわいこわいこわいよおおおおおお――っ!」
さらに一歩踏み込んだ結野は左拳で俺のみぞおちを叩き「げぶうっ!」、見事なアッパーカットで俺の顎を跳ね上げた「こぶぁあああっ!」。俺の体は宙に浮き上がり――そして、そのまま床に沈んだ。
男性恐怖症の結野は、過去のつらい出来事の影響もあってか、男性の体に触れるとその男性を無意識のうちに殴ってしまうという習性があった。俺はその習性のおかげで何度も気持ちいい体験……いや、痛めつけられてきたのだ。
「………………あっ」
一瞬後、我に返った結野が、
「タ、タロー! ご、ごめんなさい! わたしまた――」
と結野があやまってる途中、俺はがばっと両手両足を跳ね上げ、その場でブリッジをした。そしてぐりゅんと上半身を前方に倒して立ち上がると――
「フ、フフフフ……フィヤアァアアアアッ! フィヤアァアアアアアアアアアアッッ!」
ケダモノの咆吼《ほうこう》を上げた。
「――!?」
「ナ、ナナナナナースに! 本来なら患者の傷を癒すために存在するナース様に痛めつけられるというこの矛盾にっ! このパラドックスにっ! ぼ、ぼぼぼ僕ちんはもう、はあ、はあ、はあ、僕ちんはもおおおおおおおおおおおっ!」
「ひっ――!」
「ぼぼぼ僕ちんは――げぼあああああぁっ!」
怯えるナース様に血走った目を向ける俺の顔面に――強烈なハリセンが突き刺さった。
「貴様ぁ!」
石動先輩が叫びながら俺の体に流星のようなハリセンを叩き込む。
「貴様、軍人のくせになんだその痴態はぁっ! 戦場では冷静さを失った奴から先に死んでいくでありますぞぉ!」
「あ! ああああああああ! も、も、もっとおおおおお! じょうおうさまぁ! は、はりせんさまぁ!」
それは、日常的な変態風景だった。
「やれやれ……この方法もダメみたいね」
机の上に座る石動先輩は、盛大なため息をつく。
「付け焼き刃の軍隊訓練ぐらいじゃ、あんたの変態体質は治らないみたい。ほんっと、この変態には困ったものね」
俺は椅子に座りながら、そんな先輩のつぶやきを聞いている。
「はあああああああ……」
深く深く、ため息をつく。そして頭を抱える。
またやってしまった……マゾヒズム的な快感に我を忘れ、どうしようもない痴態を演じてしまったのだ。
ドMな悦楽を感じたあとは、いつもこうだった。鬼のような自責の念があとからあとから押し寄せてきて、泣きたくなってしまうのだ。ほんと……俺って奴は、どうしようもない変態野郎でございます……
「ちょっと。なにヘコんでるのよ、あんた」
「ヘコみたくもなりますよ……」
ああああ、俺は一生こんなままなのだろうか……
石動先輩は頭を抱える俺から目を離すと、腕組みをし、
「軍隊訓練は失敗に終わったから……じゃあ、もう一つの方法を試してみようかしら」
と言って、眉根を寄せる。
「でも、こっちのほうはあんまり自信がないのよね……軍隊訓練とは違って。まあいいや。やるだけやってみるか」
先輩は床の上に降り立った。そして俺のいるほうに近づき――
「ブタロウ」
「なんですか?」
「あたしと付き合いなさい」
「…………」
えっ? 先輩はいまなんて言ったんだ?
「付き合いなさいって……どういう意味ですか?」
本気で意味がわからなかった。まさか恋人になろうって意味ではないはずだし。
「だから、恋人として付き合おうって言ってるのよ」
「…………」
思考停止。
「えっ!?」と声を上げて椅子から立ち上がったのは、結野だった。
「み、美緒さん、それってどういう……」
妙にあたふたした様子で、結野は先輩に尋ねる。
「どういうって、言葉の通りだけど」
「こ、こここ言葉の通りって……」
なんだか困ったような顔で、結野は先輩と俺を交互に見つめている。
石動先輩は言う。
「ドラマとか漫画とかではよくあるでしょ? コンプレックスや難題を抱えた主人公が、恋人の支えによってそれらを克服したり解決したりするみたいな話が。つまり、愛の力によってあんたの変態体質を治そうってことなのよ!」
「あ、愛の力……?」
俺は呆然と言葉を落とす。
「そうよ。だから、発狂しそうなほど嫌だけど、あたしがあんたの彼女になってあげる。まあ、あくまで治療のための擬似的な恋人だけど。恋人関係を続けるうちに、あんたはあたしのことを愛するようになるわ。そのあと、あたしがあんたに『愛するあたしのためにドM体質を治して! お願い!』とか潤んだ目で言ったら、大いなる愛の奇跡によってあんたのドMが治ってしまう――という寸法よ」
「あ、愛の力でドMを治すなんて……そんなことできるわけないじゃないですか! メチャクチャですよ!」
あまりに馬鹿馬鹿しい話だった。大いなる愛の奇跡って……そんな都合のいいこと起こるはずありませんから。
「うっさいわね、このブタ野郎……でも、まあそう思うのも当然よね」
言って、先輩は小さなため息。あれ、今回はいつもと違って強気で押してこないな。
「あたしもね、正直この方法はちょっとどうかなーって思ってるのよ。愛の力とかよくわかんないもので、あんたの超絶変態体質が改善されるとは思えないし。それに、あたしの心理的な抵抗も大きいしね。擬似的でもあんたの恋人になるなんて……考えただけでも吐き気がするし膝から崩れ落ちそうだわ」
先輩は気持ち悪そうな顔でうえっ、と舌を出す。あの、俺のほうの心理的な抵抗は考慮してくれないんですか?
「あーあ、やっぱこれもダメかぁ。じゃあ、またほかの方法を……」
「いや、それは案外いい方法ではないか?」
と言ったのは――基本的に無表情のみちる先生だった。
「愛の力でドM体質を治す……私はとてもいい方法だと思うぞ。そんな素晴らしい方法を思いつくなんて、美緒は頭がいいな」
言って、みちる先生は石動先輩の頭を優しく撫でる。
「ちょ、ちょっと、みちる先生……」
その露骨なお世辞はなんなんですか? そんなことで先輩が騙されるわけ――
「え? そ、そうかな? ……そうよね! じつは、あたしもこの方法は素晴らしいと思っていたのよ!」
「…………」
うわぁ。あっさり騙されてやがる。
「ああ。その方法なら、砂戸太郎のドM体質もきっと治るはずだ」
「うんっ! というわけでブタロウ! あたしとあんたは今日から恋人どうしよっ!」
びしっと俺に人差し指を向け、先輩は言い放つ。
「ちょ……ちょっと待ってくださいよっ! そんな馬鹿馬鹿しい方法でドM体質が治るわけないでしょうが! それに、愛の力って具体的にどんな……」
「具体的な方法については、私に任せてくれないか」
「えっ?」
と、俺はみちる先生のほうを見る。みちる先生はいつもの気怠げな無表情のまま、
「とりあえず、まずはデートだな。デートによって二人の心と体の距離を近づけ、愛を芽生えさせるのだ。そのデートプランについても私が考えよう。決行は明後日の土曜日にするか。その日までに私が完璧なデートプランを組み立てておくよ」
ええっと……なんで今回に限って、みちる先生はそんなにやる気なんですか?
「オッケー! じゃあ、みちる姉、デートプランのことは任せたわよ」
「了解だ」
ああ、俺の意見は無視されて勝手に話が進んでいく……
俺はどこか諦めたような顔で、盛り上がる先輩とみちる先生の様子を見つめていた。そこから少し離れた場所で、結野がなぜか不安そうな顔をしていた。
部活が終わり、俺はとぼとぼと下校路を歩いている。
一メートルほど距離を開けた隣には、結野がいた。
俺と結野は、部活終わりには一応一緒に帰ることにしていた。
一緒に帰るようになったきっかけは五月の中間テストだったのだが、それが終わってからも俺たちは肩を並べて下校している。俺と結野が同じ電車を使い同じ駅で降りているからということもあるが、一番の理由はこの下校の時間がお互い異性に慣れるためのリハビリの一環のようなものであるという認識があるからだった。
男性恐怖症の結野と、ドM体質によって女性に近づくことにわずかな恐怖感がある俺、そんな俺たちに必要なのは異性に対しての慣れだと言ったのは、石動先輩だった。
最初の頃はぎくしゃくしていて、結野も露骨に俺のことを怖がったり嫌がったりしていたのだが、いろいろあっていまの俺と結野の関係は悪くないものになっていた。少なくとも、隣を歩くことにはお互い慣れているはずだ。……まあ、いつも二人ともほとんど無口で、下校時に会話が弾んだという記憶はあんまりないのだが。
それでも、以前には感じていた露骨に拒絶する気配はしなくなったと思う。だから、結野も俺と帰ることをそんなに嫌がってはいないと思っていたのだが……
俺はちらりと隣にいる結野を見る。
結野は俺の視線に気づくと、顔をこちらに向け、
「――なによ?」
「いや……べつに」
俺は慌てて顔を逸らす。結野もあえて言葉を重ねず、ぷいっと顔を前に向ける。
なぜか、今日の結野は少し機嫌が悪いようだった。
雰囲気がぎすぎすしているというか、言葉の一つ一つに微妙にトゲがあるというか、露骨にではないが、わたしは不機嫌なんですよというオーラを全身から放っている。
俺は少しだけ首をかしげた。いったいどうしたのだろうか。ナース服を着たときとかは、あんなに上機嫌な様子だったのに。
桜守駅で電車に乗り、十五分ほど揺られると、俺たちの降りる駅にたどり着く。今日は車両の中にあまり人がいなかったせいか、結野も安心したような顔で電車に乗っていた。男性恐怖症の結野は、電車の中など密閉した空間で男性と一緒にいるという状況に強い恐怖を感じるのだ。
駅を出たところで、俺と結野の帰り道は別々になる。俺が結野に「じゃあな」と声をかけようとしたその間際――ぽつり、と手の甲に落ちる一粒の水滴。
頭上を仰ぎ見ると、そこには黒々とした雨雲が広がっている。ぽつり、ぽつり、と水滴が地面をまだらに染めはじめ、そして次の瞬間、点から線になった雨が容赦なく景色を濡らしていった。
「うわ……マジかよ」
俺と結野は慌てて駅の中に戻り、雨をしのぐ。
傘は持っていない。反射的に鞄の中をあさるが、折りたたみ傘も入ってはいなかった。まあ入れた覚えがないのだから当たり前だけど。
俺は隣にいる結野を見る。結野も困った顔で頭上を眺めていた。
「結野、おまえも傘持ってないのか?」
「え? う、うん。持ってくるの忘れちゃってた。梅雨なんだから急に雨が降ることだってあるのに……うっかりしてたな」
と、小さなため息。
「でも、朝の天気予報だと今日は降らないって言ってたのになあ……」
あどけない顔を空に向けながら、結野はつぶやく。
確かにその通りだった。朝にやってた天気予報では、この辺りの地域の降水確率はゼロパーセント――とまではいかずとも十パーセントぐらいだったはずだ。だから俺も傘なんていらないと思ったのだ。降っても小雨程度だろうと楽観していたのだが……がっつり降ってやがる。
「もしかして、タローも?」
「ああ」
「そう……」
結野はポケットからハンカチを取り出し、濡れてしまった髪や肩を拭いていた。俺は何気なくそれを眺める。
ちらりとこちらを見た結野は、ハンカチを俺のほうに差し出しながら、
「……あんたも使う?」
「え? お、おう、じゃあ……」
俺はハンカチを受け取り、自分の髪を拭いた。「ありがとな」と言いながらハンカチを返すと、結野は無言でそれを受け取る。
駅の中でしばらく待ってみたが、雨脚は強くなる一方で、これはすぐにはやみそうもない。俺たちと同じように傘を持っていない人たちの何人かが、雨の中を濡れながら走り去っていく。
俺の家は駅のすぐそばにあるので、濡れるのを覚悟で走って帰ることができなくもないが、それだと結野をここに置き去りにしてしまう。それはちょっとかっこ悪い気がした。
俺は少し勇気を出しながら、結野に、
「ここで立ってるのもあれだから、どっか店に入って雨宿りしないか?」
「えっ?」
びっくりした顔で、結野は俺を見る。
結野は不機嫌な感じだったので、断られるかもしれないと思ったのだが――
「う、うん……いいよ」
顎が首にめり込むぐらいの勢いでうつむきながら、ぼそっと言う。俺はホッと安堵の息を吐いた。
駅のすぐ近くにある喫茶店に入る。テーブルに向かい合って座り二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
「…………」
「…………」
なんだか、いつも以上に会話が弾まない。気まずくて窒息しそうだった。
俺は必死に頭の中をあさり、なにかいい話題がないものかと――
「……ねえ」
小さな声。見ると、結野がこちらに顔を向けていた。
「ん? な、なんだ?」
俺は結野がやっと言葉を発してくれたことに安堵しながら、訊き返す。
結野は顔をうつむかせ、俺から視線を逸らしながら、
「本当に……美緒さんと付き合うの?」
と、そんなことを尋ねてきた。
「は?」
俺はそんなことを訊かれるとは思っていなかったので、面食らってしまった。
「あ、ああ……たぶんな。擬似的な恋人どうしなんて迷惑以外のなにものでもないんだけど、先輩とみちる先生が妙に乗り気だし……」
そんな方法でドMが治るとは思えないが、あの二人に逆らう力も度胸も俺にはない。
「……じゃあ、擬似的じゃなかったら、迷惑じゃないんだ……」
「へ? い、いや、まったくそーゆーことではないんだが……」
なにを言ってるんだ、こいつは?
結野は少しむすっとした顔で、ストローに小さな唇をつけた。なんだかすごくまずいアイスコーヒーを飲んでるみたいに見える。
「美緒さんって……すっごく綺麗だよね。女のわたしでもドキッとしちゃうくらい」
独り言のように、結野は言う。
「あ、ああ……まあ外見だけは、超一流だと――」
「タローは、美緒さんを見てドキッとしたこととかあるの?」
言って、結野はじーっと俺のほうを見つめてくる。
「えっ? ええーっと……」
俺はしばし考える。そのあいだも、結野はじーっと俺を見つめている。
「まあ……ないこともないけど……」
あれだけの美少女なのだし、俺も男の子なのだし、それはまあ……
「ふうん、あるんだ……」
つぶやくと、結野はまたまずそうにコーヒーを飲んだ。なんだ? なんなんだ?
「…………」
「…………」
またもや気まずい沈黙。結野はどこか不機嫌そうな、不安そうな顔で、雨に煙る窓の外の景色を見つめている。いったいなんなんですか? 俺、なにかしましたか?
結野は窓のほうに顔を向けたまま、
「ね、ねえ……愛の力ってことは、相手は美緒さんじゃなくてもいいんだよね? だったらもし……」
「え? なんて言ったんだ?」
そのつぶやきはあまりに小さな声だったので、ちゃんと聞き取ることができなかった。
すると結野は、ハッと我に返ったような顔をし――
「う、ううん! な、なんでもないっ!」
顔を真っ赤にしながら、首をぶんぶん横に振った。
「ほ、ほんとになんでもないんだからっ! なにも言ってないんだからっ!」
「…………ああ、そう」
もう、ほんとにわけがわかりません。
翌日の昼休み。
俺は教室の椅子に座りながら、トイレに行った葉山辰吉《はやまたつきち》をぼけーっと待っていた。俺の机の上には辰吉の弁当と、俺が今朝コンビニで買ってきたパンが置いてある。
基本的に俺の昼食は弁当ではなく、パンや学食だった。それは別に母さんが弁当を作るのを嫌がるとかでなく、むしろその逆で、母さんと姉貴が俺の弁当をどちらが作るかで毎朝ケンカしてしまうからだった。そんなアホらしい闘争に煩わされるのが嫌なので、弁当は持ってこないことにしているのだ。
ちなみに辰吉はいつも弁当。しかも毎朝自分で作っているらしい。まあ奴は料理好きで料理部なんてところに入ってるくらいだから、自分の弁当を作るのはむしろ楽しいぐらいなのかもしれないが……俺には絶対真似できない。
俺のぼけーっとした視線の先には、四時間目の授業で使った教科書やノートを片付けている結野の姿があった。
昨日、突然の雨から避難するために喫茶店に入ってから約三十分後。やっと雨脚の弱まった頃を見計らって、俺たちはそれぞれの家路についた。
なんか、昨日の結野は急に不機嫌になったり挙動不審になったりと様子がおかしかったので、一緒にいる俺はずっと首をかしげる羽目となってしまった。あれはいったいなんだったのだろうか。
そんなことを考えながら結野を眺めていると――ふいに二人の女子生徒が結野に近づき、話しかけた。
女子がなにやら手に用紙のようなものを持っていることからすると、どうやらなにかクラスに関する用事であるらしい。
女子生徒は結野と一言二言話すと、その用事は終わったらしく、てくてくこちらのほうに歩いてきた。
二人が俺の前を通るとき、こんな話し声が聞こえた。
「ねえねえ、結野さんってさ、最近感じよくなってきたよね?」
「あっ、あんたもそー思った? うんうん、前はさ、なんかいっつも不機嫌そうというか話しかけても迷惑そうな感じで、なんなのこの子ー、とか思ってたんだけど、最近は表情とかやわらかくなった感じ」
「そうそう、さっきはちょっとほほ笑んでくれたし……その顔がすっげーかわいいんだもんっ! うわっやべ、抱きしめたいとか思っちゃったっ!」
「あんたはほんとに百合趣味だよねー」
女子二人が俺の前を通り過ぎたあと、俺は再び結野のほうに視線を向けた。
確かに、最近の結野は四月や五月の前半の頃とかに比べて表情や態度がやわらかくなったように見える。それに気づいているのは俺だけかと思ったが、どうやらクラスの女子たちもその変化は感じ取っているらしく、結野に話しかけているときの表情が少し前とは全然ちがうものになっていた。
そういう光景を見つけると、なんだか俺は自分のことのようにうれしくなってしまう。結野がそんなふうに変化しているのは、たぶん石動先輩やみちる先生のおかげなんだと思うけど。
と――結野と俺の視線が出会う。
やばい、ずっと結野を見てることに気づかれちまった、俺は内心あたふたする。べつにあたふたする必要はないのかもしれないが、なんとなくあたふたしてしまう。
俺の視線に気づいた結野は、椅子から立ち上がった。そして顔をうつむかせたまま、俺のほうにとてとて歩いてくる。
結野が俺の目の前で立ち止まった。
「ゆ、結野? なんか俺に用か?」
「う、うん」
結野は顔はうつむかせたまま、視線だけをこちらに向け、
「美緒さんから伝言……美緒さんとみちる先生は明日のデートプランを練ることに忙しいから、今日の部活は休みにするって。タローに伝えといてくれって頼まれたから……」
「あ、ああ、そうなのか……というか、石動先輩も? 昨日はみちる先生に任せるみたいなこと言ってたっぽいけど……」
「なんかね、みちる先生の考えたデートには美緒さんの協力が必要みたいだから、その打ち合わせもしなくちゃいけないんだって」
「ふうん……そっか」
「うん……あ、あと……」
「まだなんかあるのか?」
「き、昨日は……ごめんね」
「へ?」
「わたし、ちょっと感じ悪くて……」
「い、いや、べつに気にしてないけど……」
そう言うと、結野はほんの少しだけほほ笑みを浮かべたあと、俺のところから離れていった。そしてそのまま教室を出て行く。
昼休みになると、結野はいつも保健室に向かうらしい。そこで石動先輩やみちる先生と一緒に昼ごはんを食べているようだった。
「というか……結野が教室で話しかけてきたのは、いまのがはじめてだったな」
俺のほうから結野に話しかけることはたまにあるが、結野が教室で俺に話しかけてきたのは、今日がはじめてだった。石動先輩から伝言を頼まれたから仕方なくだとは思うが……なんとなく、ちょっとうれしかったりする。
「なにをにやにやしてるんだ、太郎」
「うぉ!?」
横から急に話しかけられて、俺は椅子から落ちそうになった。
「た、辰吉! 驚かせるんじゃねえよっ!」
「いや……ただ普通に声をかけただけだけど。なんか理不尽な叱責だな」
と、眉をしかめるのは、クラスメイトであり中学校からの親友でもある葉山辰吉だった。
身長百六十センチに満たないという男子にしては小柄な体躯。短めの髪を目に眩しいほどの金色に染め、制服をだらしなく着崩したいかにも不良チックな格好をした奴であるが、こいつは外見以外は品行方正で成績も学年トップクラスという超優等生であった。
だが、こいつには不良外見の超優等生という表の顔のほかに、変態的な裏の顔があった。
それは――女装趣味。
初恋のお姉さんの影響で女装をはじめ、それがだんだん心地良い人間になってしまったということらしい。それだけでも充分にアレなのだが、最近は女装すると頭のおかしい別人格が出現するようになってしまったというカオスな感じの辰吉だった。人のことはまったく言えないのだが、こいつの将来は大丈夫なのかと思ってしまう。
「まあいいや。それよりメシにしようぜ」
「おう」
と、俺はうなずく。
俺はパンをもぐもぐ食べ、辰吉はちゃんと「いただきます」してから弁当の蓋を開ける。
「そういえばさ――」
弁当を食べながら、辰吉は言う。
「結野ってさ、最近はちょっと雰囲気がやわらかくなったよな」
「えっ?」
辰吉から結野の話題が出るとは思ってなかったので、俺はちょっと面食らった。
「なんか表情とかがさ……それに、前より話しかけやすくなったし」
「ええっ? は、話したりしてるのか? おまえと結野が?」
「ああ。選択科目の美術の授業のときな、俺と結野ってけっこう席が近いんだよ。それで、ちょこちょこ喋ったりしてる」
選択科目は俺が書道、辰吉が美術を取っている。最初は一緒の授業を選択しようと言っていたのだが、俺は美術がすげえ苦手で辰吉は書道があまり好きではないという食い違いから、じゃあ選択科目は別にするかという流れになったのだ。そして、結野は美術を選択していた。
「ふうん……そうなのか。ちょこちょこ喋ってるのか……」
「ああ。俺はあっちの趣味の影響でメイクとか服とか女子の好きそうな話題には事欠かないし、それに由美のこととか共通点もあって……」
「そっか、間宮さんは結野の親友だったよな……」
間宮由美さんというのは、中学生のころ辰吉と恋人として付き合っていた女の子のことだった。間宮さんの転校が原因で交際は自然消滅してしまったらしいが、その由美さんというのは結野の昔からの親友なのだ。
「へえ、そうなのか……」
結野は辰吉とも喋ったりしてるのか。なんか、結野は俺以外の男子とはあんまり話さないと勝手に思いこんでいたので、意外だった。
「おいおい、太郎」
辰吉がにやにやしながら言ってくる。
「なんだよ、そのブルーな顔は? おまえもしかして、いまの話を聞いてちょっとヤキモチ焼いてるんじゃねえの? それとも身勝手な独占欲?」
「な――そんなんじゃねえっ!」
「あらあら、ムキになるところがますます怪しいですよ奥様」
「う、うるせえよっ!」
ふんっと顔を逸らし、がしがしパンをかじる。
そんな俺たちのそばを、弁当箱を持ったクラスメイトの女子が通り過ぎようとした。
そのとき――
「……うぎっ!?」
通り過ぎようとした女子が、俺の爪先を思いっきり踏んづけた。
「あっ……ご、ごめんなさいっ!」
クラスメイトの女子――確か深見《ふかみ》さんという名前だった――が、申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
普段の俺なら「いや、足を横に投げ出してた俺が悪いから」と軽く笑いながら言っていたはずだ――相手が男子だったならば。
だが、いま俺の足を踏んだのは、女の子だった。
「い、いたい……つまさきがいたいよお、はあ、はあ、はあ……」
爪先から肉体の中枢に忍び込んでくるマゾヒズムという名の悪魔。俺の精神は次第に興奮状態となり、体がぷるぷる震えはじめる……ああああ、爪先だけじゃなくてもっといろんなところを踏んづけてほしい……はあ、はあ、はあ……
「あ、あの……砂戸くん? どうしたの? ごめんね、そんなに痛かった?」
深見さんは申し訳なさそうな、それでいてどこか怪訝そうな表情で、俺の顔をじっと見つめている。そ、そんなに見つめないでくれ……どうしようもない変態である俺を、そんなに見つめないで……というかもっと冷淡な目で……いやそうじゃなくて……
や、やばい。このままでは……
「――なあ、深見」
「えっ?」
横から深見さんに声をかけたのは、辰吉だった。深見さんの視線が俺から辰吉に移る。
辰吉は右手でそっと深見さんの頬に触れ、
「おまえってさ、綺麗な顔してるよな?」
「……は、はひゃ!? ええっ!? ちょ、ちょっと葉山くん、いきなりなにを――」
「いや、べつに、思ったままのことを言っただけだって。おまえ、すげえかわいい」
「…………」
辰吉に頬を触れられている深見さんは、顔を真っ赤にしてテンパっていた。
「あ、あう! や、や、や、なにを言うのよ葉山くん! そ、そそそんなこと言うなら葉山くんのほうがよっほど綺麗な顔を……って、わたしってばなに言ってんのよ、ほんとにもう……」
つぶやきながら、深見さんはぱたぱたと早足で俺たちから離れていく。辰吉はそんな深見さんの背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
「まったく……注意しろよな、太郎」
やれやれ、とため息をつく辰吉。ようやく興奮状態から脱した俺は、
「た、辰吉……いまのはもしかして、俺のドMをごまかすために……」
「当たり前だろうが。そうじゃなきゃあんなことするわけないだろ」
「わ、わりぃな……」
「いいって、べつに」
言って、辰吉はにっと笑う。でも……いくら俺をたすけるためとはいえ、ああいうことがわりと自然にできてしまうってのはすげえな。俺には絶対に真似できない。
それから、放課後になり――
俺は家路についた。
自宅にたどり着く。今日はコンビニのアルバイトがあるからその前にちょっと腹になんか入れとくか、部活も休みになって時間に余裕もあることだし……とか思いながら、玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
「あっ、太郎さん。おかえりなさい」
と明るい声で言ったのは、母さんだった。
母さんはちょうど階段を上がろうとしていたところだった。その手には小さな鍋を乗せたお盆を持っている。
「ん? それなに?」
「これですか? これはお粥です」
「お粥?」
「はい。静香さんが風邪を引いてしまったらしくって……それで、食欲がなくて朝からなにも食べてないみたいですから、お粥を作って持っていってあげるところなんですよ」
「え……姉貴、風邪引いたのか?」
「ええ。昨日の夕方、急に雨が降ってきたでしょう? そのとき静香さんは傘を持っていなかったらしくって、けっこう濡れてしまったみたいなんです。たぶんそれが原因だと思うんですけど……」
「だ、大丈夫なのかよ?」
「ちょっと熱があるみたいですけど……まあ、少し安静にしていれば大丈夫だと思います」
「そ、そっか……」
ホッと安堵の息を吐く。そういえば、今朝の姉貴は俺のベッドに忍び込むこともせず、妙におとなしかった気がする。それは風邪を引いていたせいだったのか。
俺と母さんは縦に並んで階段を上がる。
「そのお粥、俺が姉貴に持っていこうか? どんな様子か心配だし」
姉貴の部屋の前で、言う。
「いえいえ。それは私が」
母さんはほほ笑みながら、
「太郎さんにまで風邪がうつったら大変ですから」
「いや、でも……それだと、母さんにうつる可能性だってあるわけだろ?」
「私はいいんですよ」
「な、なんで?」
「だって、私はお母さんですから」
母さんはやわらかく笑いながら、言った。
「子供の看病はお母さんの仕事ですよ。だから太郎さんはなにも心配しないでください」
「そっか……」
母さんはにこっと笑みを見せると、姉貴の部屋に入っていった。
俺はいまの母さんの言葉に、不覚にも少しだけ感動してしまった。いつもはちょっとアレな感じの母さんだけど、それでもちゃんとした母親なんだよな。
自分の部屋に戻ろうとしたとき――姉貴の部屋から、こんな声が聞こえてきた。
「うぇーんっ! なんで太郎ちゃんじゃなくてお母さんなのぉ――っ! わたしは太郎ちゃんに看病してもらいたいんだよぉおおおっ! だろうぢゃ――――んっ!」
「ワガママ言わないでください、静香さん。あなた、自分が風邪を引いてることにかこつけて、太郎さんにおでことおでこで熱をはかってもらったり、太郎さんがふーふーしてくれたお粥を食べさせてもらったりしようと企んでいたんでしょう? ふふふ、バレバレですよ……そんなこと、この私が絶対にさせませんから……絶対に……」
「びぇ――――んっ! お母さんは鬼畜だよっ! 最低のクズ野郎だよっ!」
「うふふふふふふっ! なんとでも言ってくださいっ! 私は太郎さんと結ばれるためなら鬼にも悪魔にもなりましょうっ!」
……いまの会話は、聞かなかったことにしよう。
午後九時の少し前。俺はコンビニのカウンターに立っていた。
隣にはこのコンビニの店長――道明寺《どうみょうじ》さんが立っている。
少し目にかかるぐらいの髪を茶色に染めた、すげえかっこいい男の人だ。背も高くてスタイルも抜群で、見た目は一流ホストみたいに見える。
「ごめんね、砂戸くん。今月のシフトちょっといじっちゃって」
「え? いや、べつにいーっすよ。木曜が金曜になっただけだし」
店長はにこりとほほ笑み、「ありがとう」と穏やかに言う。男の俺でもドキリとしてしまいそうな、魅力的な笑顔だった。
ふと――俺は何気なく時計に目をやった。時計の針はちょうど午後九時を指している。
俺は、反射的に窓の外に視線を向けていた。
「……最近、シホリちゃん見ないねぇ」
その視線を察したのか、店長が話しかけてきた。
シホリ――というのは、店長が辰吉の女装した姿を見てつけた名前だった。なんか、女装辰吉の姿が、店長の好きな美少女アニメに出てくるシホリという名前のキャラクターに似ていたので、そう名付けたのだという。
「え、ええ……そうですね……」
もちろん店長は、そのシホリが俺の親友の女装した姿だということは知らない。そして、俺がそのシホリに恋心を抱いてしまっていたことも。
いま思い出しても……あれは最悪の初恋だった……
「まあ、そんなことより、砂戸くんよ」
「は、はい? なんですか?」
「委員長って……神だよね」
「は?」
言ってる意味がわからなかった。委員長は神じゃなくて委員長だと思うけど……
店長は端整な顔をふにゃりととろけさせながら、
「最近僕が夢中になってる美少女ゲームに出てくる女の子でさ、主人公と同じクラスに……あっ、主人公の名前は僕の名前に設定したから、そのゲームの主人公というのは僕ということにしてもらってもまったく語弊はないんだけど……」
いや、語弊ありまくると思いますけど。むしろ語弊しかないと思いますけど。
「その同じクラスにいる委員長のアイカちゃんが……もう、すごくいい子なんだよ……」
「は、はぁ……」
「でもそれはね、ただアイカちゃんが魅力的な少女というだけではなく、委員長という役職に付随されるイメージによって――」
それから、委員長という属性についての店長独自の持論とこだわりが延々と――たぶん三十分を超えていた――続けられた。それが終わった頃、俺はその場から一歩も動いていないのになぜか肩で息をしていた。
「――どうだい? これで、いかに委員長が神に近い存在かということが君にもわかっただろう?」
「は、はい……どうもありがとうございました」
そう、この店長はホストみたいなかっこいい外見をしていながら、魂の芯の芯まで生粋のオタクだった。
「ああ……アイカちゃん……僕は君のためなら片方の腎臓を売ってもかまわない……」
「あ、あの、店長……ちょっと訊きたいことがあるんですが」
夢見るような表情を浮かべている店長に向かって言う。
「巫女さんのこと? それともメイド?」
「いえ、なんでそこで巫女さんやメイドが出てくるのか意味不明ですが、まったく違います」
俺はさりげなくため息をついてから、
「店長って、デートとかしたことありますか?」
「そりゃあるさ。昨日だってアイカちゃんと図書室デートを……」
「いや、二次元の話じゃなくて三次元の話です」
「三次元か……まあ、あるかな」
どこか遠くを見るようなまなざしで、店長は言う。
「というか、十代や二十代の前半の頃は、三次元の女としかデートしたことなかったよ。でもね……いろいろあって、最終的には三次元よりも二次元の美少女のほうが素晴らしいという当たり前のことにやっと気づいたのさ」
『いろいろあって』の部分の内容が微妙に気になったが、それはまた別の機会に訊くことにして――
「じつは……俺、明日デートすることになってて……」
「へえ。それは彼女と?」
「いや、なんというか……それはちょっとよくわからないんですが……」
ドM体質を治すための擬似的な彼女です、みたいなことはさすがに説明できない。
「ああ、援助交際か」
「違いますっ!」
「じゃあ店外デート?」
「よく意味がわかりませんがきっと違いますっ!」
なにを言い出すんだ、この人は。
「と、とにかくですね、なんというか、人生の先輩である店長に、デートのコツというか心得というか、そんなものがあれば教えてほしいと……」
明日は石動先輩とのデートが行われる土曜日。いまだ先輩やみちる先生から待ち合わせ場所やデートプランなどの具体的な連絡は来ていないが、あの二人ならきっと実行するだろう。
それに備えて店長にちょっとアドバイスを……みたいなことをふと思ったのだ。無理矢理に設定されたわけのわからないデートなど迷惑以外のなにものでもないのだが、それでも俺はデートというイベントにちょっと緊張していた。
明日はきっとひどいことになる、下手したら人生に絶望するほど最悪なことが起こるかもしれない、心からそう思っているのは間違いないのだが……それでも俺はデートというその単語になにかしらのトキメキを感じてしまっている……のかもしれない。
「砂戸くん……」
「えっ?」
店長はとてもかわいそうな生き物を見るような目で、
「僕からのアドバイスは一つだけだよ……三次元の女など早く卒業して、君も二次元の女性を愛するようになりなさい」
「…………」
「君はまだ知らないんだ、三次元の女の限界と、二次元の美少女の持つ無限の可能性に。二次元の女性を愛せない君は、人生の半分は損しているんだよ?」
「……店長に訊いた俺がバカでした」
俺は深く深くため息をついた。
土曜日の朝、七時に起きた俺が部屋を出ると――
「げっほっ! げっほっ! うええっほおっっ!」
「…………」
「がほっ! ご、ごはっっ! が、がはああっ!」
……なにやら、姉貴の部屋から咳が聞こえる。いや、それはもう咳のレベルを超えているような気がしないでもないが……なんか咳というよりは、ぼこぼこにやられている格闘漫画のキャラを連想させる。
それに、妙に音が外に漏れてくるなあと思ったら――姉貴の部屋のドアが少しだけ開いていた。
「ご、ごふっっ! ぐ、ぐげえ! ずばっふあっ!」
「…………」
「ば、ばはあああっ! ぐ、ぐえひっ! う、うぇ……しくしくしくしく……」
なんか、泣き声まで混ざりはじめた。
「無視するのはさすがにあれかな……」
つぶやき、姉貴の部屋のドアを大きく開ける。
「おおーい、姉貴。なんかすげえ咳とか泣き声とか聞こえるけど、大丈夫か?」
「え……た、太郎ちゃん?」
姉貴は、鼻の辺りまで布団をかぶってベッドに横になっていた。
「なんか、風邪ひいてるとか聞いたけど……調子はどうなんだ?」
「うん……はっきり言って、昨日よりひどくなってるかも……」
と、姉貴は弱々しい声で言う。
「もしかして……太郎ちゃん、わたしのことが心配になってわざわざ様子を見にきてくれたの? 大好きな許嫁であるわたしのことが心配になって……」
「まあ、そうだな……後半のセリフは意味不明だけど」
「う、うれしいな……」
姉貴は布団をちょっと下げ、ほわんと笑みを浮かべる。
「なんか顔色良さそうだけど……」
「え? そ、そんなことないよ? ……げはぁ! ご、ごはあ!」
姉貴は激しい咳をしてから、
「なんかね、まだ熱があるみたいなんだよ……」
「体温計は? 下から持ってこようか?」
「う、ううん……風の噂によると、体温計はいま壊れちゃってるみたいで……だから、どのくらい熱があるのかわからないから不安なの……ああ、頭が熱いよぉ……」
「ふうん……どれどれ」
俺は姉貴の額に手を置いた。姉貴の体がびくんっと震える。
「あれ? 熱はないみたいだけど……」
「えへ、えへへ……太郎ちゃんのお手々……狙い通りだよぉ……」
「姉貴? なんか言った?」
「えっ!? そ、そうかな? おかしいな、さっきまで四十度を軽くオーバーしてるくらいの熱が出てたと思うんだけど……げっほ、げっほ……」
と、姉貴は俺から目を逸らす。
「それよりもね……太郎ちゃんにちょっとお願いがあるの」
「ん? なんだよ?」
「わたしね、昨日は風邪でお風呂に入れなかったの……だから、なんか体が気持ち悪くって……」
「ああ、そうなのか」
「だからね……も、もしよかったら、太郎ちゃんに、お湯で濡らしたタオルで体を拭いてもらえないかなぁって……」
と、姉貴は布団の中でもじもじしながら言う。
「え? でもよ……」
「お願い……太郎ちゃん。お姉ちゃんからの一生のお願い……」
うりゅ、と潤んだ瞳で俺を見上げてくる姉貴。
「……姉貴って、本当に風邪ひいてるんだよな?」
「え……太郎ちゃん、わたしが嘘ついてるって言うの? ひ、ひどいよ……」
悲しそうにつぶやき、姉貴はがばっと頭から布団をかぶる。
「い、いや……悪い。そうだよな、病人にそんなこと言っちゃダメだよな」
俺はふうとため息をつき、
「わかった。濡れタオルで体を拭くぐらい、やってやるよ」
「えっ!?」
姉貴は布団を跳ね上げ、熱っぽい瞳で俺を見つめる。
「ほ、ほ、ほほほほんとに……?」
「ああ。じゃあ、いまからお湯とタオルを……」
「大丈夫だよ! それはここにあるからっ!」
姉貴は立ち上がり、ベッドの陰に隠すように置いてあったバケツを持ってくる。それにはちゃんとあたたかいお湯が入っていて、縁《ふち》にタオルも掛けてあった。
「…………」
「さ、さ、太郎ちゃん! は、はははは早く……」
俺はなんか釈然としない気分のまま、バケツの湯にタオルをつけ、軽く絞る。姉貴はなぜかはあはあと息を荒げていた。
「姉貴、準備できたから、後ろ向いてパジャマの上着を脱いでくれよ」
「い、いいのっ!? 脱いでいいの!?」
「脱いでくれないと拭けないじゃねえか。ほら、さっさとしてくれよ。俺だって時間ないんだから」
「う、うんっ! うんうんうんっっ!」
姉貴は首がもげる勢いで何度もうなずき、
「で、で、では……お、おおおおねがい、しまひゅ……」
ベッドの上にぺたりと座った姉貴は、顔を真っ赤にしながら上着を脱ぐ。
「おう」
俺はうなずき、姉貴の背後に座った。背中に垂れていた細い髪を、首の辺りで二つに分けて体の前のほうに落とす。
小さくて真っ白な姉貴の背中を、濡れたタオルで優しく拭いてあげる。一拭きごとに姉貴は「おはぁ」とか「はうわぁ」とか奇妙な声を漏らす。
「あ、あああああああ、じ、じ、じんせいさいりょうのひだよう……」
「姉貴、タオル熱くないか?」
「だ、だいじょうぶだよ……う、ううう……うれしすぎて、なみだが……」
そのときだった――どがああんっ! と強烈な音をたててドアが開いたのは。
「――っ!?」
部屋の入り口に立っていたのは――
全身から真っ赤なオーラを放つ母さんだった。
「か、母さん!?」
「ふ、ふ、ふふふ不穏な気配を感じて、き、来てみれば……」
母さんは震える声で言う。
「し、しししし静香さんっ! な、な、なにをやっちゃってるんですかっ!?」
「えへっ。太郎ちゃんに体を拭いてもらってたんだよぉ」
「ごばあああぁ――っ!」
母さんは口からなにかを吐き出し、床に倒れ込んだ。
「え!? か、母さん!?」
「静香さん……やってくれましたね……」
涙を流しながら、暗いつぶやきを放ちながら、母さんはゆっくりと立ち上がる。
「静香さんの風邪は、昨日一日ですっかりよくなったはずですよ……熱だって平熱に戻っていたはずです……それなのに、なぜそんなことをしてもらう必要があるのですか?」
「ええっ?」
俺は驚き、姉貴のほうにぐりんと顔を向けた。姉貴は「てへっ」と笑っている。その表情はとても病人のものには見えなかった。
「だ、だ、騙された……」
「太郎ちゃんありがと! すごく気持ちよかったよぉ! 幸せだったよぉ!」
姉貴はにぱっと満面の笑みを見せる。ありがとじゃねえよ……
「し、静香さん……さすがの私も、これはゆるすことができません……決して、ゆるすことが、できないんですよ……」
魔物のような声でつぶやくと、母さんは背中に手を回した。再び両手を前に出したとき……そこにはヌンチャクが握られていた。
「――ってなんでヌンチャク!?」
「ひ、卑怯にも太郎さんを騙し、体を濡れタオルで拭いてもらうなどと夢のようなことをしてもらうなんて……静香さん、この制裁はちゃんと受けてもらいますよ……」
母さんはヌンチャクを構える。
「ふん……望むところだよ……」
上着を身につけた姉貴は不敵に言うと、ベッドの下に手を入れた。そこから――トンファーを取り出す。
「トンファー!? なぜ女子大生のベッドの下にトンファーが!?」
それぞれ武器を持った母さんと姉貴が対峙する。え? え? なにこれ?
「いつか……こういう日が来るんじゃないかと思っていました……」
「うん……わたしもだよ……」
部屋の空気が緊迫していく。なんなの? これってなんなの?
「かあああああくごおおおおおおおおおおおおっ!」
「ひぃやああああああああぁああああああああっ!」
裂帛《れっぱく》の気合いとともに二人は間合いを詰め、お互いの武器を相手の体に叩き込む。
「うおぉおおおいっ!? 二人ともなにやってんだっ!? なにやってんだよっ!?」
何度か互いの武器を打ち合い防ぎ合ったあと、二人はいったん間合いを取る。その攻防は完全に本気だった。しかもかなりのハイレベルで、止めようと思っても止められるものではない。
母さんと姉貴は呼吸を整えながら、睨み合う。
「さすがですね、静香さん……」
「お母さんも、やっぱり強いよ……」
じりっ、と二人の足裏がカーペットの上を滑る。無意味な緊迫感が高まっていく。
「最後に……一つだけ訊いてもいいですか?」
「なに?」
「もし、違う出会い方をしていたなら……私たちは、友達になれましたか?」
「そうかも……しれないね……」
「な、なに言ってんの!? あんたらは親子だからっ! 親子だからねっ!」
にっと男前な笑みを浮かべる母さんと姉貴。そして――バトルが再開される。
「うおりゃあああああああああああああああああああああああ――――っっっ!」
「はやあああああああああああああああああああああああああ――――っっっ!」
「ひ、ひいいいいいいいいっ! も、も、もうやめてくれええええ――っ!」
俺は戦闘状態の母さんと姉貴から逃げ出すようにして学校に向かった。もうダメ、俺の力ではあのバトルを止めることはできない……無事に片が付いたことを神に祈ります。
今日は土曜日――授業は昼までで終わりだ。
放課後になると、俺は辰吉に声をかけた。
「辰吉。今日、メシどうする?」
午後の授業のない土曜日も、俺は辰吉と昼食をとることにしていた。土曜日は辰吉も弁当は持ってこずに、俺と一緒に学食に行ったり外に食べに行ったりする。
だが、辰吉は――
「悪い、太郎。今日は用事があって、早く帰らなきゃならないんだ」
「え……そうなのかよ」
「ああ。ちょっとその用事の準備に時間がかかりそうで……だから、今日は先に帰らせてもらうぜ」
辰吉は鞄を肩に担ぐようにして持つ。
「じゃあな、太郎」
言って、辰吉はなぜかにやりと笑みを見せた。
俺は教室にぽつんと残される。
「やれやれ……しゃあない、一人で学食でも行くかな……」
と、つぶやいたときだった。
バイブレーション設定にしていた携帯電話が、短く震えた。
ポケットから取り出し、画面に目を向けると――
「……石動先輩からのメールだ」
そしてその内容は……デートを開始するから校門の前で待ってなさい。
「やっぱり、本当にやるんだな……」
うんざりとつぶやく。
「つーか、いつもいつも、なんで先輩の言うとおりにしなきゃならないんだよっ! そうだ、今日こそあの先輩に逆らって……」
――俺の脳裏に、金属バットを持った先輩の姿が浮かんだ。
「……命は大切にしないとな、うん……一人に一つだけの命なんだから……」
俺はしょうがなく、校門に向かうことにした。
校門を出た辺りで、きょろきょろと左右に視線を投げる。先輩はいないようだった。まあ、メールの内容が『校門の前で待ってる』じゃなくて『校門の前で待ってなさい』だったので、遅れてくるのは前提のようだが……人を呼び出したんだから、せめて自分が先に来て待ってろよと思う。面と向かっては絶対に言えないけど。
校門に背中をあずけ、先輩を待っていると――頭上には、なにやら黒々とした空模様。
「もしかすると、降ってくるかもしれねえな……」
そんなことをつぶやきながら、待つ。
さらに待つ。
……もう三十分以上も待っている。
「お、おせえ……」
あまりに遅すぎる。しょうがないので、俺は先輩に電話しようと携帯電話を取り出した。
その画面に目を向けていると――
たたたっ、と誰かが校舎までのスロープのほうからこちらに駆け寄ってくる気配が。その気配は校門を抜け、俺の目の前で立ち止まった。顔を上げる。
「ごめんね……待った?」
と、申し訳なさそうに言ったのは――石動先輩だった。
「え……」
先輩は制服姿ではなかった。ピンク色を基調としたかわいらしいワンピースを着て、両手で四角いバスケットを持ちながら、俺のほうを見上げている。
「ええーっと、まあ……けっこう待ったような気がします……」
そう俺が言うと――
「ああ?」
石動先輩は急に視線を鋭くし、俺の襟元をねじり上げた。
「ぐ、ぐえ……く、首が……」
「そこは『ううん、俺もいま来たところだよ』って言うのが基本でしょうが。けっこう待っただあ? さもしいこと言ってんじゃねーわよ、このクソブタが」
……なんでしょうか、この理不尽な仕打ちは……はあ、はあ、はあ……
「ちっ。まあいいわ」
憎々しげに言って、先輩は俺の襟元から手を離す。
「も、もうゆるしてくださるのれすかぁ……あとちょっとだけ……」
「あん? なにか言った?」
「い、いえ……」
や、やばいっ! 出会い頭でいきなりやばいっ! 俺は慌てて呼吸を整えた。
「じゃあ、いまからデートを開始するわよ……はあ……」
「しょ、しょっぱなからため息ですか?」
「しょうがないわね。これもあんたのドM体質を治したいっていう願いを叶えてあげるためだもんね……じゃあ、行くわよ」
「い、行くってどこにですか?」
「それはあたしに任せなさい。大丈夫、デートのプランはしっかり頭に入ってるから。……ほんっと、デートプランを覚え込むのとその予行演習で昨日はほとんど徹夜だったんだから……ああ、しんど……」
ため息混じりで言ってから、先輩はすっと右手をこちらに掲げる。
「え? お、お手ですか?」
「……なんでよ。アホじゃないの?」
ジト目で言ってから、
「手、つなぐの」
「……は?」
「だから、あたしとあんたが手をつなぐのよ。ほら、さっさと左手だしなさい」
「……ええーっと、なぜ……」
「みちる姉《ねえ》の言いつけなのよ。デート中はできるだけ手をつないで歩きなさいって。だから、早くしろ」
「……は、はい」
俺はおずおずと左手を伸ばし、先輩の白くて小さな手のひらに、いかにも無骨に見える自分の手のひらを重ねた。すると、先輩がきゅっと軽く俺の手を握ってくる。
……一瞬で顔が熱くなった。心拍が露骨に速くなる。
「…………」
「じゃあ、行くわよ」
先輩に手を引かれ、俺たちは校門を離れていく。
校門の前には横に大きな道路が走っている。先輩は右方向――俺がいつも使う桜守駅のほうとは逆の方向に歩きはじめた。こちらにはあまり行く機会がないので、先になにがあるのかよく知らない。
……なんか、急に緊張してきた。先輩に手を引かれるようにして歩きながら、俺はそんなことを思った。
小さくてやわらかい先輩の手のひらは妙に熱い気がしたが、それはもしかしたら俺の体自体が熱くなっていたせいかもしれない。
道路の脇にある遊歩道を二人で歩く。そして――
「まずはここね」
そう言った先輩の視線の先には、広い公園があった。
「こ、公園ですか?」
「そうよ」
公園の門をくぐり、中に入る。
滑り台に砂場、鉄棒やシーソーなどの遊具が公園内には散らばっている。
砂場では三歳ぐらいの女の子とその母親らしき女性が笑顔で砂遊びをしていた。
滑り台では五歳ぐらいの男の子が三人、仲良さそうに遊んでいる。
石動先輩はふいに足を止め――そんな公園内の様子をぼんやり眺めていた。
「先輩? どうかしたんですか?」
「え? ううん、なんでもないわよ」
言って、先輩は再び足を進める。
「さて、と……じゃあこの辺で」
綺麗な花壇が並ぶ近くで先輩は立ち止まり、持っていたバスケットを開いた。中から取りだした四角いシートをそこに広げる。
「ここでお昼ごはんにしましょう」
「え? 昼ごはんですか?」
「そうよ。まだ食べてないでしょ? まあ、もう食べてたとしてもそんなの関係なく食べてもらうけど。胃壁が破れても食べてもらうけど」
「は、はあ、昼はまだですけど……ここでなにを食べるんですか?」
先輩に倣ってシートに腰を下ろしながら、尋ねる。
「これに決まってるじゃない」
先輩は持っていたバスケットから、いくつかの四角い容器を取り出す。その容器を開けると、中には――
「サンドイッチですか?」
「そう。サンドイッチ」
そのサンドイッチはどうやら手作りのようだったが……
「これってもしかして、みちる先生が作ったんですか?」
「違うわよ。あたしが作ったの」
石動先輩はえっへんと胸を張る。
「……え? せ、先輩が?」
「うん。まあ、みちる姉に作り方を教えてもらいながらだけどね」
石動先輩が料理を……なんか信じられない。
と、そのとき――俺は気づいた。先輩の左手の指に、包帯や絆創膏が貼ってあることに。もしかして、その傷は……
「せ、先輩、もしかしてその指の傷はサンドイッチを作るときに……」
もしかしたら先輩は、本当は料理が大の苦手なのに、今日のデートのために無理してがんばって料理を作ってくれたのかもしれない。だからこんなに手が傷だらけに……
「ああ、これ……」
先輩は自分の左手を見て、
「これは別に怪我したわけじゃないわよ」
「……へ?」
「なんかね、みちる姉に言われたの。こーゆー怪我した感じの手を見せて、自分で昼ごはん作ったとか言ったら、一緒にいる男の子は『ああ、この子は本当は料理が大の苦手なのに、俺のために無理してがんばって料理を作ってくれたんだな、だからこんなに手が傷だらけなんだな』とか思ってじぃーんと感動しちゃうんだって」
あはは、と先輩は笑いながら、
「さすがにそれはないわよ、いつの時代のラブコメだっつーの、って笑ったんだけどね、まあみちる姉の言いつけだから一応やってみたんだけど……さすがにアホらしいからヤメヤメっ!」
と、先輩は左手の包帯や絆創膏をとっぱらう。
「…………」
まあ、普通、サンドイッチ作るだけであんな傷だらけになる人はいないよな、うん……俺は騙されてない……騙されてないぞ……
「なに呆然としてんのよ? それより、さっさと食べなさい」
「は、はい……」
俺はサンドイッチを一つ手に取り、はむっと口に入れた。
「あ……うまい」
具は普通にレタスとハムだったが、普通にうまい。
「サンドイッチなんて誰が作ってもある程度はおいしいわよ」
つまらなそうに言って、先輩は小さな口にサンドイッチを放り込む。
「あ……そうだ、忘れてた」
「なんですか?」
「はい、これ。みちる姉から」
と、先輩は二枚の封筒を俺に渡す。
「なんですか、これ?」
「中身はあたしも知らないわ。でも、まだ中は見ちゃダメだって」
「…………」
そのとき、俺の携帯電話がぶるぶると震えた。
みちる先生からの着信だった。このタイミングでってことは、デートに関連することなのだろう。
「はい、砂戸ですけど……」
『デートは順調に進んでいるようだな』
と、電話の向こうでみちる先生が言う。
「はあ、まあ……」
『これから、デートに関する基本的なルールを説明する』
「き、基本的なルール?」
なにそれ?
『君はこれから、美緒のエスコートに従って彼女とデートをしてもらう。デートの途中、いくつかの選択肢が君の前に提示されるだろう。そのどちらを選んだかによって、美緒の君に対する好感度が変化する。好感度のアップダウン幅については、私が美緒の表情を見て判断する。もし好感度が下がりすぎてしまうと、バッドエンド扱いのゲームオーバーとなり――』
「ちょ……それはいったい……」
『ゲームオーバーとなり、私が美緒にこう指示する。デートは失敗に終わったので、公衆の面前で砂戸太郎の顔面を思いっきり蹴り上げろ、と』
「な――そ、そんなことしたら……」
ドMの変態である俺は、公衆の面前で石動先輩の足もとにすがりつき……
「や、やばいことになっちゃうじゃないですかっ!」
バッドエンドどころか社会的にデッドエンドになってしまう。
『それぐらいの緊迫感がなければデートは成功しない。大丈夫だ、普通に美緒の好感度が上がるような選択肢を選べば、簡単にはバッドエンドにはならない』
「選択肢とかバッドエンドとか、さっきからいったいなにを言ってるんですか!? な、なんで普通のデートでそんなこと……」
『デートに不慣れな君たちのことだからな、デートコースやデート時の行動をある程度マニュアル化しておいたほうが、スムーズにことが進むと思っての私の配慮だよ。ただ指定されたデートコースを回るだけでは、二人の距離は容易に縮まらないだろうし、なにより楽しくないだろう?』
「…………」
いや、普通のデートがいいです。普通のデートにしてください。頼むから。
そういえば……みちる先生はいま『私が美緒の表情を見て判断する』と言ったが、それってみちる先生がどこかで俺たちを見てるってことなのか……?
俺は携帯電話を持ったまま、きょろきょろと辺りを見回した。
公園の門の陰だった。そこに、みちる先生がいた。
門の陰にしゃがみ込み、頭だけを出してこちらの様子をうかがっている。なぜかサングラスをかけていた。
視線に気づいたみちる先生は、俺に向けて握り拳を突き出し、ぐっと親指を立てた。……その親指の意味がまったくわかりません。
『あと、その封筒についてだが……』
俺は手元の封筒に目を落とす。さっき先輩から渡された二枚の封筒に。
『それはみちるプランだ』
「みちるプラン?」
『そう。その封筒は私が指定する場所で開けてもらう。中にはいろいろ指示が書いてあるので、その指示に従って行動するように。もし指示に逆らったりすれば、大幅に好感度が下がってしまうので注意したほうがいい。選択肢の内容はすべて美緒も知っていて了承していることだが、その封筒の中に書かれている内容は美緒もまったく知らない。その場で美緒といっしょに確認してくれ』
「…………」
『基本的なルールはそれくらいだ。では、ハッピーエンドを目指してがんばってくれたまえ。健闘を祈る』
言って、みちる先生は電話を切った。
「…………」
ダメだ、あの人は頭がおかしい。
「――ねえ、ブタロウ」
いつの間にか先輩がシートから出て立ち上がっていた。
「こっち来て、こっち」
「ああ……はい」
精神に重い疲れを感じながら、俺は立ち上がった。
先輩はわずかに体をかがめ、花壇の花を眺めている。俺はその隣に立った。
石動先輩は優しいほほ笑みで花壇の花を見つめながら、
「わあ……とっても綺麗なお花さんだね……」
「…………」
違和感ありまくりのセリフだった。セリフだけではなく、その口調もなんだか芝居がかっていて嘘くさい。
と――そのとき、俺の携帯電話がぶるぶると短く震える。
俺はポケットから携帯電話を取り出し、その画面を見つめた。メールの着信。発信者はみちる先生。
メールを開く。
『一、こんな花なんかより、美緒さんのほうがよっぽど綺麗だよ。
二、そんなことより、少子化問題について話し合おう。』
「…………」
なるほど……これが選択肢か……
「わあ……とっても綺麗なお花さんだね……」
と、先輩がたぶんみちる先生に仕込まれたであろうセリフを繰り返す。
……つーか、正解は明らかに『一』だろう。
俺は仕方なく、そこに書いてあるセリフを言った。
「……こ、こんな花なんかより、美緒さんのほうがよっぽど綺麗だよ」
なんかすげえアホらしくて、泣きたくなる。
「えっ?」
先輩はびっくりした顔――もちろん演技――で俺を見上げ、
「そ、そんなことないよ……でも、うれしいなぁ……」
両手を胸の前で重ね、「えへへ」とやんわりした笑みを浮かべる。
言うかっ! この先輩がそんなこと言うかっ!
俺が胡散臭げな顔で先輩を見下ろしていると、
「ああ? なによ?」
先輩がじろりと睨みつけてくる。
「いえ、べつに……」
どうでもいいですけど、お願いだからキャラは統一してください。選択肢部分だけそんな乙女チックなことされても違和感があります。
「あっ、ブタロウ。ソフトクリームが売ってるわよ」
「えっ?」
いつの間にか、公園内にソフトクリームの屋台が出ていた。先輩はそちらに向けてパタパタと駆けていく。俺は仕方なく先輩を追った。
「って……」
その屋台の中に立っているのは――間違いなくみちる先生だった。
さっき見たときと同じくなぜかサングラスをかけ、そしてエプロンにほっかむりと無意味にしか思えない変装をしているが、確実にみちる先生だ。いったいいつの間に……というかこの屋台はどういう経路で……
「ヘイ、イラッシャイ」
屋台の中のみちる先生が言った。
「ソフトクリーム、ツメタクテオイシイヨ」
どうでもいいけど、なんで言葉がカタコトなんだろうか……
「ブタロウ、ソフトクリーム買いなさいよ。あっ、一つでいいから」
……これはもう、絶対に買えということなんだろうな。
「ソフトクリーム一つください」
「ハイ、センゴヒャクエンデス」
……高すぎるだろ。
だがしょうがない。俺は千五百円払った。
みちる先生から法外な値段のソフトクリームを受け取る。
と――
ソフトクリームを持つ俺の右手を、石動先輩が両手で包み込むようにして持ち、それを自分のほうに引き寄せる。
「え……」
先輩は――小さな口を精一杯おおきく開き、ソフトクリームの頭をぱくっと食べた。
両手を俺の手に重ねたまま、上目遣いで俺を見ると、
「味見してあげたわよ。……あっ、けっこうおいしい」
言って、唇についたクリームを舌の先でぺろっと舐める。
「ほら、あんたもどうぞ」
「え? ……あ、はい」
ああそうか、これもみちる先生の考えたことか……
俺はおずおずとソフトクリームに口をつける。……べつに、ドギマギなんてしてないぞ。顔だって赤くなってないはずだ、きっと。
そのとき、携帯が短く震えた。
メールの着信だ。もちろん相手はみちる先生。内容は――
『美緒の頬にソフトクリームがついている。
それを見た砂戸太郎は――
一、さりげなくハンカチで美緒の頬を拭ってあげる。
二、さりげなく自分の舌で美緒の頬についたクリームを舐め取ってあげる。』
「ぶっ――!」
な、なんだよ、この『二』の選択肢は! こんなことできるわけないだろうがっ! というかさりげなくって不可能だろっ!
確かに、石動先輩の唇のすぐ横にはクリームがついている。だけど……
「砂戸太郎よ」
みちる先生がこっそり俺を手招きする。俺は屋台に体を寄せ、
「な、なんですか?」
「この選択肢は、美緒の頬にクリームがついてるのを見て突発的に考えたものだ。だから、美緒自身もこの選択肢のことは知らない」
「え……し、知らないって……」
「ちなみに、好感度が上がるのは『二』のほうだ」
「無理ですよ!」
「じゃあ『一』を選ぶのだな。まあこれはサービス選択肢なので、どちらを選んでも好感度は上がることになっている。上がり幅は『二』のほうがかなり大きいが」
「だから無理ですって……」
「ちなみに、どちらも選ばないという選択はなしだ。それはバッドエンド直行だから」
「…………」
俺はため息をついてから、仕方なく石動先輩に近づく。
「ちょっと。なにをこそこそ話してたのよ?」
「い、いえ……」
ええい、しょうがない。とりあえず『二』よりはだいぶマシだ。『二』を選んでしまったらみちる先生的には好感度大幅アップなのだろうが、現実問題としてはたぶん先輩に蹴り殺されてしまうだろう。そんなリアルデッドエンドは嫌すぎる。
つーか……よく考えたらハンカチなんて持ってないぞ。俺は絶対ないとわかっていながら、ポケットの中をまさぐった。もしかしたらティッシュぐらいは……
「あれ? ……ある」
ポケットの中には見慣れないハンカチが入っていた。なぜ?
「ハンカチぐらいは常に持ち歩いておいたほうがいいぞ」
みちる先生が無表情で言う。
……なるほど、あなたの仕業ですか。まったく、いい仕事しますね。
「せ、先輩」
「ん?」
と、先輩が俺を見上げる。俺はさりげなく――は無理なのでせめて震えないようにして、ハンカチを持った右手を先輩の頬にそっと触れさせた。
「な――ちょ、ちょっと……」
「クリームがついてますよ。とってあげます」
優しく優しく、先輩の頬を拭う。一度では取りきれなかったので、もう一度。
文句を言おうと口を開きかけた先輩だったが、諦めたように唇を結んだ。されるがまま、黙ってその場に突っ立っている。先輩は微妙に顔を赤くしているようだった。
「はい、とれましたよ」
言って、俺はハンカチをしまう。
「……べつに、言ってくれれば自分でとったわよ」
先輩はふんっと鼻を鳴らし、俺から目を逸らす。……ええ、本当にその通りだと思います。
「ジャア、ワタシハモウイクヨ」
みちる先生は、屋台を公園の入り口のほうに移動させながら、
「ガンバッテヨー。オウエンシテルヨー」
……だから、なんでカタコトなんだよっ!
みちる先生は砂場で遊ぶ親子や滑り台で遊んでいる男の子たちにソフトクリームを配り歩きながら公園を出て行った。……俺からは千五百円も取ったのに。
みちる先生を見送ってから、
「じゃあブタロウ、次に進むわよ。もう公園のイベントは終わったから」
「え? は、はあ、わかりました」
俺と先輩は公園の入り口に向かう。
「そういえば、置きっぱなしにしてるシートとかバスケットとかはあのままでいいんですか?」
「あれはあとでみちる姉が回収するから大丈夫よ。ああー、身軽になったからちょっと楽だわー。あんたの鞄もあそこに置いときなさいよ」
「は、はあ……」
公園を出て、再び遊歩道を歩く。
最初の取り決め通り、俺たちはまた手をつないでいた。
普段は来ることがない、見慣れない町並みに何気なく目を向ける。住宅街を通り過ぎると、大きな総合病院、薬局、パン屋、デパート、ゲームセンターなどなど……へえ、こっちにもけっこういろいろあるんだな。
歩きながら――ちらりと先輩の横顔を盗み見る。
光をまぶしたような綺麗な亜麻色の髪。すらっと通った鼻筋に、淡く色を帯びる小さな唇。長い睫毛に彩られた端整な瞳は、もはや芸術的とさえ言える。……本当に、同じ人間かと思うほど、なんか反則じゃねーのと思うほど、綺麗な顔立ちをしてらっしゃる。
そのとき、ふと気づく。先輩の頬がうっすらと上気し、赤くなっていることに。
もしかして……先輩も俺と同じように、このデートにちょっと緊張したりしてるのだろうか? なんか信じられないが、先輩も一応は女の子なんだし……でも、やっぱり信じられない。
公園から数分歩くと、色レンガを敷き詰めたオシャレな感じの商店街に出た。
「へえ……こんなところ、あったんだ……」
「ほら、いくわよブタロウ」
どうやらこの商店街もデートプランに含まれているようだ。
様々な店が並ぶ商店街を、手をつないだ俺と先輩が歩いていく。
と――
「オーホッホッホッホッ! オーホッホッホッホッホッ!」
急に、どこかで聞いたことがあるような高笑いが商店街に響き渡った。
こ、こ、この声は……まさか……
ぎょっとして立ち止まる俺と石動先輩。すると、商店街の脇道から
「――っ!」
黒髪ロングの美少女が現れた。
端整な顔立ちに、涼しげな目元。外見だけならばどこかのご令嬢にも見えるような、清楚で上品そうな少女だった。あくまで外見だけは。
が、その正体はどこかのご令嬢でもなければ、それ以前に少女でもない。
「た、辰吉! おまえこんなところでなにしてやがるっ!」
彼女、いや彼は――俺の親友の辰吉だった。女装趣味をお持ちの葉山辰吉である。
昔の貴族が着るような派手な衣装に身を包んだ女装辰吉は、白い手袋のはめられた右手を口元に当て、高笑いをした。
「オーホッホッホッホッホッ! あらあら、いかにも育ちの悪そうなお顔の方々がいらっしゃるかと思えば、庶民一号と庶民二号ではございませんこと?」
辰吉は女装すると、なぜか貴族みたいな第二人格が現れてしまう。このときの辰吉は、普段の辰吉とはまったく違ってすごく迷惑な奴になってしまうのだ。
それに……
俺はこそっと隣の石動先輩の顔を盗み見た。……うわ、すげえ不機嫌そうな顔。
そう、先輩と女装辰吉はとても相性が悪いのであった。
でも、本当になんでこんなところに辰吉が……
そのとき、俺の携帯電話が短く震えた。メール着信だ。
『いま君の目の前にいる葉山辰吉は、美緒から君を奪おうとする刺客だ。君は、これから美緒と葉山辰吉のどちらかをデートの相手に選ばなければならない。なお、どちらを選んだとしてもそのままデートは続行してもらう』
刺客って……なんじゃそりゃ……
それに、そのままデートを続行してもらうっていっても、こいつは男だろうがっ!
「……あたしからブタロウを奪おうとする刺客が現れるってことはみちる姉から聞いてたけど……まさか、このオカマ野郎だとは思わなかったわ……」
「そこのあなた。いまのオカマ野郎というのは、誰のことでして?」
「あんた以外に誰がいるのよ、このクレイジーな変態野郎が。あんたはおとなしく変態星にでも帰ってろ、ボケ」
「あらあら、なんて汚い言葉をお使いになられるのかしら。そのような言葉をお使いになってよく口が腐らないものだと感心いたしますわよ。それとも、あなたの胸の小ささがそうさせるのかしら? オーホッホッホッホッホッ!」
「なんで胸の小ささと言葉遣いがリンクするのよっ! 脳みそ壊れてんのか!」
石動先輩と辰吉は、額がぶつかるほどの距離で睨み合っている。商店街に似つかわしくない濃度の殺気が辺りに充満していた。
「まあ、そのようなことより……」
言って、辰吉は俺のほうを見る。そこに浮かぶほほ笑みに、俺は少し困惑してしまう。
相変わらず男には見えないほど綺麗な外見をしてやがる。
ふっと先輩から離れた辰吉は――俺の腕に自分の腕を絡ませた。ぎゅっと体を密着させてくる。
「ぶっ!? な、なにしやがるっ!」
「ふふ……そんなに恥ずかしがらなくてもよろしくてよ。今日だけは、身分の差を気にしなくてもいいですわ。さあ、このわたくしとデートをしましょう」
「ハァ!? 気にしてるのは身分の差じゃなくて性別の差だっー」
「ちょっとなにしやがるのよキモ変態っ! 今日ブタロウとデートするのは、この美緒様なのよっ!」
「あなたでは荷が重すぎますわよ。胸の荷は軽すぎますけど。あらあら、うまいことを言ってしまいましたわ。ちょっとした貴族ギャグかしら?」
「てめえは頭の荷が軽すぎるのよっ! 男のあんたなんかにブタロウのデート相手ができるわけないでしょうが!」
「ふふんっ。では、勝負いたしましょうか?」
「あ?」
「どちらがデート相手にふさわしいか、勝負しようと言ってるのですわ」
辰吉は不敵に言うと、左手にはめていた手袋を外し――それを先輩の顔面に投げつけた。
「へ、へびゃ!?」
鼻の辺りに手袋を喰らった先輩が変な声を上げる。
「決闘を申し込みますわ。もしあなたにそれを受ける勇気が――おぶっ!?」
すぐさま手袋を拾った先輩は、それを辰吉の目の辺りに投げ返す。
石動先輩は顔をひくひくさせながら、
「じょ、上等じゃない……このファッキン変態野郎……」
「サ、サファイヤよりも美しいわたくしの顔によくも……許し難い凡民ですわね……」
空間が悲鳴を上げそうなほどの殺気をまき散らしながら、二人は睨み合っている。
それにしても、あの石動先輩にこんな態度を取れるのは女装辰吉ぐらいだろうな。そこだけは少し感心してしまう。ただの命知らずのような気もするけど……
「勝負の種目はもう決めてありますわ! ――こっちにいらっしゃいっ!」
「覚悟しやがれ、このオカマ野郎っ!」
そして、辰吉は近くにある店舗の中に入っていく。先輩もそれを追っていった。
「……俺も行かなきゃダメなんだろうな、やっぱり……」
ここで帰ってしまいたいという欲求をなんとか我慢しつつ、俺は二人のあとを追った。
店の中には――
メイド服、ナース服、巫女服、セーラー服、バニーガール、スクール水着などなど……
そんな服がぎっしりと並んでいた。
「な、な、な、ここは……?」
「ここは、みちる姉の行きつけのコスプレショップよ」
と、石動先輩が言ってくる。
「え、コスプレショップ? みちる先生行きつけの?」
「そうよ。――で、こんなところでどんな勝負をするってーのよ?」
「オーホッホッホッホッホッ! ここで行う勝負は一つですわっ! ずばり、コスプレ対決ですのよ!」
「コ、コスプレ対決?」
俺は呆然とつぶやく。
「そうですわっ! ここでわたくしと凡民であるあなたがそれぞれ衣装を選び、そしてここにいる庶民――砂戸太郎に、どちらの姿が好みであるか判断していただくのですわ! そしてその勝者が、このあとのデート権を獲得できるということですのよ!」
……なんじゃ、その勝負。
まあ、みちる先生の考えそうな勝負だけど。
「ここにある服はどれを着てもよろしくてよ。ちなみに今日この店は定休日ですので、下々《しもじも》の一般客が邪魔することもないですわ」
「定休日……でも、俺たちはいいのかよ……」
「ふんっ。ここの店長とみちる姉は友達だからね、お願いして定休日に店を借りたんでしょ。ちっ――不本意な勝負だけど、あんたみたいな奴に負けるのは嫌だから、受けて立ってやるわよっ!」
「オーホッホッホッホッホッ! 愚民にしてはいい度胸ですわね! ですが、その蛮勇があなたのプライドを粉々にしてしまいますわよっ!」
「うるせえ! 覚悟しやがりなさいっ!」
「衣装を選ぶ制限時間は十分間。では――スタートですわっ!」
その号令と同時、先輩と辰吉は左右に散らばり、ハンガーに並んだ衣装を鬼気迫る表情で物色しはじめた。
「もう勝手にして……」
俺はため息をつき、近くにあった椅子に腰を下ろした。
十分後――衣装を選び終えた二人は、睨み合いながら試着室に入っていった。
判定員の俺は、二つ並んだ試着室の前に立っている。
先輩と辰吉は、試着室のカーテンの隙間から頭だけを出し、
「おい女装変態、準備はできたの?」
「オーホッホッホッホッホッ! 万全でございますわ!」
「じゃあ、せえーので一緒に出るわよ!」
「わかりましたわ!」
「せえーの――」
そして、二人が飛び出すようにして試着室から出てくる。
辰吉が着ているのは――白を基調としたメイド服だった。
さらには、黒縁の伊達メガネをかけたりしている。メガネっ娘のメイドさんだった。
メイド辰吉は右手を口元に当て、俺のほうを見る。
「オーホッホッホッホッホッ! 男性の心を揺り動かすものはなにか……それはギャップですわっ! 普段は天上よりも高い地位におわす超貴族のわたくしが、メイド服という使用人のコスチュームに身を包むっ! この究極のギャップにきっとあなたは萌え萌えパラダイスっ!」
「…………」
「これでわたくしの勝利は確実ですわっ! オーホッホッホッホッホッ!」
あくまで外見だけで判断するならば――
メイド辰吉は、確かにかわいらしかった。
べつにギャップを感じてというわけではないが、純粋に似合っている。ほんの一瞬、目の前にいるのが男だということを忘れてしまったぐらいだ。
「ふんっ、甘いわねっ!」
そう叫んだのは、石動先輩だった。
えっへんと薄い胸を張る先輩は――婦人警官の格好をしていた。
「ギャップ……メイド……オプションのメガネ……確かに、普通の男子ならばそれで陥落できたかもしれないわ。でも、ここにいるのは変態ブタロウなのよっ!」
先輩はにっと笑みを浮かべ、
「ブタロウはドMの変態野郎……つまり、ブタロウを陥落させるためには下からの奉仕ではなく上からの見下しが有効なのよっ! それには、この婦人警官という姿が一番なんだわっ! 警察という巨大な国家権力の一部である婦人警官……その姿に変態ブタロウは身悶えてしまうこと間違いなしっ! これはもう勝ったも同然ね!」
「…………」
石動先輩の自分勝手で失礼な理論はどうでもよかったが――婦人警官の格好をしている石動先輩は、すごくかわいかった。
まあこの先輩だったらなにを着てもかわいく見えるだろうが……いや、それにしても、あのスカートのスリットはちょっとやばいというかなんというか……
似合いすぎている二人の格好に困惑する俺の前で、先輩と辰吉は再び睨み合っている。
「ただコスチュームだけで勝者を選ばせるのは芸がないですわ……というわけで、いまからアピールタイムを設けるのはいかがかしら? この格好ならではのアピールで、そこにいる庶民を喜ばせる。そのあとに、どちらが勝者かを選ばせるのですわ」
「あんたにしてはいいアイデアね……わかったわ。じゃあ、制限時間は五分ということでどう?」
なにやら勝手に話が進行しているようだ。
「では、まずわたくしからアピールしますわよ?」
「ふん、まあいいわ。どうせ勝つのはあたしだし」
そして――
なぜか俺は、店の外で待たされることになった。
なにやらアピールの準備があるから外で待っていろと言われたのだ。俺はドアに背中をあずけ、ぼーっと待っている。いったい俺はなにをやってるんだろう……
俺が人生のむなしさについて考えていると、内側からドアがノックされた。準備が整った合図だった。
「やれやれ……」
ため息をつき、ドアを開けた。すると――
「――お帰りなさいませ、ご主人様っ!」
ドアのすぐ近くにいたメイド辰吉が、満面の笑みで言った。
「え……ご、ご主人様って、俺のことか?」
辰吉は深々とおじぎをしてから、
「さあどうぞ、こちらへ」
明るい声で言い、俺を店の中に招き入れる。メガネの奥の瞳が優しく弧を描いていた。
「は、はあ……」
俺は困惑しながら店内に足を踏み入れた。
試着室の前に、さっきまでなかったテーブルと椅子が置かれている。俺は辰吉に案内され、そのテーブルに近づいていった。
店内の壁の隅のほうに、石動先輩が背中をあずけて立っていた。不機嫌そうな顔でこちらの様子をうかがっている。
辰吉は丁寧に椅子の背を引き、
「どうかお座りになってください、ご主人様」
「え……あ、はい……」
言うと、辰吉はにこっと笑顔を広げる。その綺麗な笑顔に思わず「う……」と声を上げてしまった。俺はちょっとだけドギマギしながら、椅子に腰を下ろす。
「少し待っててくださいね。すぐにコーヒーをお持ちしますから」
ぺこりと頭を下げてから、辰吉は試着室の近くにあるスタッフ控え室の扉を開け、中に入っていく。俺はその背中をぼんやり見つめた。
「…………」
いつもの高飛車で傲慢な様子とは大違い。完全にメイドになりきっている。また新たな人格が生まれちゃったのでは……と心配になるくらいだった。
控え室から出てきた辰吉は、コーヒーカップを乗せた盆を持っていた。
「お待たせしました、ご主人様」
言って、こちらに歩いてくる途中――
「あ……!」
辰吉は、段差もなにもないところで急に転んだ。カップはプラスティック製だったらしく割れなかったようだが、カップの中に入っていたコーヒーが床に飛び散った。
辰吉は顔を真っ青にして、
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫ですかご主人様っ!」
「え? あ、ああ」
幸い、コーヒーは俺のところまで飛び散っていない。というか、さっきの転び方は明らかに作為的な感じがしたのだが……
辰吉は正座をするようにして床に座り込み、しゅんと肩を落とす。
「ごめんなさい……わたくし、本当にドジっ子で……いっつも失敗ばかりで……ご主人様に迷惑をかけてばかりで……」
辰吉は俺を見つめる。
「でも……わたくし、ご主人様のお役に立ちたいんです。だから……」
「…………」
辰吉は座ったまま俺の目の前まで近づき、
「こんなわたくしですけど……これからも、ご主人様のおそばに置いてくれますか?」
潤んだ視線で、俺を見上げてくる。
清楚で清純な外見をしたメイドさんが、世界で一番大切なものを見つめるような目で、俺をまっすぐ見上げている。
「……ご主人様が、大好きなんです」
言って、辰吉はさりげなく自分の手を俺の手に重ねる。
「わたくし、ご主人様のためだったら、なんでもできますよ……?」
「…………」
こいつは女装した男なのだ。ただの男なのだ。
だというのに……な、なぜ俺の心拍はちょっと速くなっているんだ? 顔がちょっとだけ赤くなったりしてるんだ? お、おいおい、これはどういう……
「はい――そこまでっ! もう五分経ったわよ!」
と、大声で叫んだのは石動先輩だった。苛ついた様子でのしのしこちらに歩いてくる。
「交代よ、オカマ野郎」
「ふん……まあいいですわ、アピールは充分にできたことですし」
そう言って立ち上がる辰吉は、もういつもの高飛車貴族だった。……それをちょっと残念だと思ってる自分を発見して、俺は激しく焦った。
「じゃあ、今度はあたしの番だから。準備するからちょっと外に出てなさい」
「あ……は、はい」
俺は慌てて外に出た。外に出て頭を冷やしたい気分だったのでちょうどよかった。
先輩からの合図があり、再び店内に足を踏み入れると――
「ん? な、なんか暗い……」
店内は、照明が落とされていて少し薄暗かった。
そして。
試着室の前に置いてあるテーブル。その近くに石動先輩が立っている。婦人警官の格好をした石動先輩が。
先輩はとても厳しい顔で俺を見つめながら、
「……ブタロウ容疑者、こっちにいらっしゃい」
「え……よ、容疑者?」
テーブルの上には、ちょっとデザインが古い感じのスタンドライトが置いてあった。ライトの放つ光がテーブルの上に丸い円を描いている。俺は先輩に指示されるまま、椅子に腰を下ろした。
先輩はすっと机の上に座る。スリットから覗く白い太ももに、俺は思わず生唾を呑みこんだ。さらに足を組んだりするんだから、ほんとにもう……
ドギマギする俺を、先輩は汚物を眺めるような目で見下ろしてくる。
「いまから、取り調べを行うわ」
「と、取り調べって……なんで俺が取り調べなんか……」
「口答えするんじゃねーわよ、この変質者がっ!」
先輩は大声を上げながら、手のひらで机をばんっと叩く。俺の体がびくんと震えた。
鼻の先が触れ合うぐらいまで顔を近づけ、ぎろりとした視線を俺に向ける。
「まったく……ほんと、やってくれたわね……」
「な、なにをですか?」
「とぼけるんじゃないわよっ!」
叫ぶように言うと、先輩はスタンドライトを俺の目の前に突きつける。
「ぬ、ぬおおおおっ!? め、目があああああ――っっ!」
「道行く小学生の女の子に土下座し、顔面を踏んづけてくださいと頼み込むという町で噂の変質者……その犯人があんただってことは、もうわかってるのよ!」
「――」
微妙にリアリティーを付加させようとする設定がなんだか嫌だった。
「あんたのせいで何十人もの女の子がトラウマを抱えるようになってしまったわ……貴様のような社会のゴミには黙秘権も弁護士を呼ぶ権利もないっ! よって判決は死刑よ!」
な、なぜ婦人警官が判決を……
「そ、そんな……はあ、はあ、はあ……」
石動先輩は本物の変質者を見るような目で俺を見下ろしている。そんな目で見られると、俺は……俺は……
先輩は懐から手錠を取り出すと、
「とりあえず手錠をはめるわ」
「なぜっ!?」
「なんとなくよ」
そう言うと、先輩は俺の両手に手錠をはめた。
「あ、あああああ……ぼ、僕ちんの両手に手錠が……はあ、はあ、はあ……」
まるで犯罪者のように……変質者のように……はあ、はあ、はあ……
「せ、先輩っ! も、もうやばいですからこの手錠を外してくださいっ! こ、このままだと、なんだか自分が自分でなくなっちゃいそうな……」
「……あんた、そんなのしょっちゅうじゃない」
そこで――店の照明が点灯する。
「そこまでですわっ! もう五分経ちましてよ!」
言いながら、辰吉が近づいてくる。
「ちっ。しゃあないわね」
つぶやくと、先輩は俺の手錠を外してくれた。
ああ、ほんとに気持ちよ……やばかったぜ。もう少しでドMが目覚めるところだった。
「では……」
辰吉は俺を見つめ、
「さきほどのアピールタイムも考慮に入れ、どちらをデート相手に選ぶかを決めていただきますわよ」
「ブタロウ、どっちを選ぶのよ?」
二人が同時に俺を睨みつけてくる。
「ええーっと……」
辰吉と石動先輩、二人の姿を交互に見やる。
メイド辰吉は確かにかわいらしい。俺好みの美少女である。……だが、本当に残念ながらこいつは男であって俺の親友でもあるのだ。
だから、やっぱり……
俺は石動先輩のほうに顔を向け、
「やっぱりここは、いする――」
言おうとした、その瞬間。
ぐいっと腕が引っ張られる。メイド辰吉に。い、いったいなんなんだ?
「親愛の、証《あかし》ですわ……」
囁くように言った辰吉は。
少し背伸びをして、俺の唇に自分の唇を――
「な、な、なななななにやってんのよ貴様はあああああああ――――っっ!」
「ざなっぶぁ――っ!?」
唇を重ねる寸前、先輩のドロップキックが側頭部に炸裂し、辰吉は叫び声を上げながら倒れた。伊達メガネが床に落ちる。
「あ、あなた、いきなりなにをなさるの?」
「それはこっちのセリフよっ!」
顔を真っ赤にした先輩は、
「い、い、いま、あんたは、ブタロウに、キ、キキキキスを、しようと……」
「そうですわよ」
「そ、そうですわよって……ま、まさかっ!」
先輩は弾かれたように俺のほうを見て、
「あ、あんたたちって……もうすでにキスとかしちゃってる間柄なの!? BでLな感じなのっ!?」
「違いますよっ!」
俺はたまらず叫んだ。
「た、たたたた辰吉っ! お、おまえ……」
怒鳴り声を上げるが、床から立ち上がった辰吉は俺を無視して先輩を見やり、
「うふふ……あなた、キスぐらいでなにを驚いてらっしゃるの?」
「な、な、なにをって――」
先輩は一瞬うろたえ、困惑した表情を浮かべる。
「愛する者どうしなら、キスぐらいするのは当然でしょう? もしかしてあなたは、キスをする覚悟もないくせに、この方のドM体質を愛の力で治すなんて世迷い言をおっしゃっていたのかしら?」
「え……? そ、それは……」
「ふふんっ。そんな中途半端な覚悟でわたくしと争うなんて、片腹痛いですわよ! というわけで、この勝負はわたくしの勝ちですわ! オーホッホッホッホッホッ!」
「ふざけんじゃないわよっ! あんた、ブタロウがあたしの名前を呼ぼうとしたから、強引にキスして勝負をうやむやに――」
「じゃあ、あなたはこの方とキスできまして?」
「そ、それは……」
「やはり勝負はわたくしの勝ちですわねっ! オーホッホッホッホッホッ!」
「だから、なんでそうなるのよっ! 頭おかしいんじゃないのっ!?」
「あらあら、そんなに怒ってばかりですと、また胸が小さくなりますわよ」
「なんで胸の話が出てくんのよ!?」
「それ以上小さくなってしまったら、もはやおっぱいではなくただの胸筋ですわね! オーホッホッホッホッホッ!」
「…………」
「それだとブラジャーを買う必要もなく、貧乏な庶民には経済的で――ばばべっろっ!?」
喋ってる途中、辰吉は先輩に顔面を殴られ背後に吹っ飛んだ。ぐしゃり、という感じで床に叩きつけられる。
「う、うふふふふふ……」
先輩は不気味な笑みを浮かべながら、床に倒れる辰吉を見下ろしている。
「そうよ……最初からこうすればよかったんだわ……こうすれば……」
陰鬱につぶやくと。
先輩は近くにあった椅子の背を持ち、それを天高く振り上げた。
「こうすれば……よかったのよ……」
「ちょ、ちょっと……そ、それはシャレになりませんわよ!」
辰吉は怯えた顔で先輩を見上げている。俺は合掌した。
「死ね」
先輩は短く言うと――
振り上げていた椅子を辰吉に叩きつけた。
「ぎ、ぎゃああああああああああああああああああ――――っっっ!」
貴族らしからぬ叫び声が店内に響き渡った。
先輩が婦人警官の服を着替えるのを待ってから、コスプレショップを出る。瀕死の辰吉は店の中に放置してきた。
俺と先輩は再び商店街を並んで歩く。
「先輩……さっきは本当にたすかりましたよ」
俺は心の底から先輩に感謝していた。
「あのとき先輩が辰吉をとめてくれなければ……俺のファーストキスの相手は辰吉になってしまうところでした……」
「べつにいいんじゃないの? 変態どうしでお似合いよ?」
「まったくよくないですよっ! ファーストキスが男なんて……」
ファーストラブに続いてファーストキスまで男とかだったら、もはや俺はそっちの道に進むしかないって感じである。
「ふうん。やっぱそういうの嫌なんだ」
「当たり前ですよ。ファーストキスは好きな人としたいってのは、誰でも思うことです」
「なんか変態のくせに乙女チックな考えしてるわね」
「変態は関係ないです」
本当は変態の部分を否定したいのだが、そこは残念ながらできない。
「ファーストキスは好きな人と、か……」
石動先輩はなにやら考え込んでいるようだった。
しばらく歩くと、先輩は顔を上げ、
「ブタロウ。今度はあれよ」
先輩が指さしたのは――商店街の先にある、観覧車だった。
「へえ……こんなところに観覧車があるんですね……」
「そうよ、まああんまり大きなものじゃないんだけどね。ほら、いくわよ」
先輩に手を引かれ、早足で商店街を抜ける。
係の人に金を払い、俺と先輩は観覧車に乗り込む。向かい合って椅子に座ると、扉が閉まり、観覧車はゆっくりと空を昇っていく。
「観覧車に乗るなんて久しぶりですよ。ガキの頃以来かな……」
「あたしは今日がはじめてよ」
「え? はじめてなんですか?」
「そう。悪い?」
「い、いえ……悪くはないですけど……」
そのとき、携帯にメール着信が。
『みちるプラン@を開く』
みちるプラン?
「ああ、この封筒か……」
公園で先輩から受け取った封筒をポケットから取り出す。よく見ると、端っこのほうに小さく番号が書いてあった。@というのは、この封筒か……
「なに? その封筒、開けるの?」
「ええ、いまみちる先生から開けろという指示が……」
言いながら、俺は封筒を開いた。中にはカードが入っており、そこにメッセージが書かれている。俺はそれを黙読して……
「な――そ、そんなこと……」
「どうしたのよ? あたしにも見せなさい」
石動先輩が、俺の手の中にあったカードを掠めとっていく。
「なになに……『観覧車の中で、砂戸太郎は美緒に膝枕をしてあげてください。その体勢のまま、お互いの好きなところを交互に言い合ってください』だと……? みちる姉ってば……」
先輩は顔をしかめる。
「観覧車の中でイベントがあるってことは聞いてたけど……まさかこんな内容だったなんて……」
はあ、とため息。
「でも、指示なら仕方ないか……」
「えっ? ちょ……先輩?」
石動先輩はすっと椅子から立ち上がり、向かいにいる俺のほうに近づく。そして、俺と目を合わさないようにして隣に座った。
「え、ええーっと……本気ですか? 本気でするんですか?」
「そうよ。なに? 嫌なの?」
「嫌とかそんな問題じゃあ……」
「ふんっ。あたしだって嫌だけど仕方なく我慢してあげるのよ。感謝しなさいよね、ブタロウ。……ええっと、ブタロウがあたしにってことは、あたしがブタロウの太ももの上に横になるのか……ううん、狭くて寝にくいわね……」
「せ、先輩……」
「つーか、膝枕って普通は女の子のほうがするもんじゃないの? まあべつにいいけど……ブタロウ、もうちょっとあっちにいきなさいよ」
うろたえる俺をよそに、先輩はもぞもぞと体を横にしていく。
そして――とすっ、と太ももの上に軽い感触。
石動先輩の小さな頭が、俺の太ももの上に乗っかっていた。
「…………」
体を丸めるように横になった先輩は、顔を向こう側にした体勢で、俺の太ももの上に頭を乗せている。さらりと長い亜麻色の髪が太ももと椅子に散り、先輩の体からはミルクのような甘い匂いが……
俺は緊張のあまり、ロボットのように硬化していた。もう思考がぐるぐるで、なにも考えられない。
「ええーっと、確かこの体勢のまま……」
と、先輩がつぶやいている。
普段の傲慢な態度や威圧感で錯覚してしまいがちだが、先輩はどちらかといえば小柄な女の子だった。身長は結野や辰吉よりも低いし、体重だってかなり軽いだろう。華奢な肩のラインが、呼吸に合わせて微かに上下している。
本当に無意識だった――勝手に動いた左手が、先輩の髪を優しく撫でる。
「ちょ、ちょっと……なにすんのよ?」
「えっ!? い、いや、あの……す、すみませんっ!」
こ、こんなことするつもりはなかったのに、手が勝手に……
「ふんっ」
ギラリとした視線を俺に投げつけたあと、先輩はまた向こう側に顔を向ける。口元はむすっと不機嫌そうに曲がっていたが、その顔は赤くなっていた。
「このまま、お互いの好きなところを言い合うんだったわよね?」
「は、はい……そう書いてありましたけど……」
先輩がもぞりと顔や体を動かすたびに、その動きが俺の太ももに伝わって、なんだか脳内の配線がぐちゃぐちゃになる感じ。もう観覧車の窓をぶち破って空に逃げ出したいほど恥ずかしい。
「じゃあ、あんたからね。あんたから言いなさい」
「え……俺から、ですか?」
「そうよ。ほら、さっさとしなさいよ」
前方に顔を向けたまま、先輩が言う。
「は、はい。ええーっとですね……」
先輩が自分からこんなことをしているのに、ここで俺が『恥ずかしくて無理です』なんてことを言ったら、俺はきっと先輩に殺されてしまう。
相手の好きなところを――これは、けっこう難題である。
「じゃ、じゃあ……ええっと……」
俺は真下にある先輩の顔を見つめながら――いや、やっぱり先輩の顔を見ないようにしながら……
「か、顔が、かわいいところが、好きです……」
言ったあと、体温が急激に上がる。
先輩のことは綺麗でかわいいと思っていた。容姿だけは人類トップクラスだとも思っていた。でも、それを面と向かって言ったのははじめてで……なんかやばいくらいに照れてしまう。身悶えそうになるくらい、照れてしまう。
言われた先輩は、一瞬だけぴくんと体を震わせた。そして、俺の太ももに少し顔を埋めるような感じで、もぞもぞと頭を回転させる。……その動きはやめてください。
「つ、次は先輩ですよ?」
「わ……わかってるわよ」
「じゃあ、言ってくださいよ」
「…………」
「先輩?」
「あんたの……好きなところ……」
むむーっと眉間に力を込める石動先輩。その頬には一筋の汗が光っていた。
「好きなところ? ええーっと……」
「……早く言ってください。観覧車が下についてしまいますよ?」
「好きな……ところ……」
「…………」
「好きなところ……なんて……」
「…………」
先輩は散々悩んだあと、つぶやくような声で言った。
「……ドMの変態で、気持ち悪いところ……」
「それはむしろ嫌いなところですよね?」
「み、右利きなところ……」
「たいていの人はそうですし、そもそもそれを好きなところと言うのは無理があります」
「ト、トイレはちゃんと指定の場所でするところ……」
「先輩は俺をなんだと思ってるんですか?」
「…………」
「せ、先輩……まさか、なにも思いつかないんですか?」
「ええーっと……」
先輩は指で頬をぽりぽりとかきながら、
「こ、今度……ってのはダメ?」
「そ、そんな……俺はちゃんと言ったのに……」
つーか今度って……きっとその『今度』は永久にやってこないのだろう。
「う、うっさいわね! なにも思いつかないんだからしょうがないでしょうがっ! というか、なにも長所がないあんたが悪いのよっ! 変態だけが取り柄のブタ野郎が!」
うわぁ……すんごい逆ギレだよう……
そんなこんなで――
観覧車は下に辿りついてしまった。
結局、先輩は俺の好きなところを言うことができなかった。
「……はあ」
「なによ、そのため息は?」
「ため息ぐらいつかせてくださいよ……」
と、そのときだった――
ざっ、と俺たちの前に立ちふさがる人影。それは……
「え……ゆ、結野?」
そこに立っていたのは、結野だった。
袴を着て、髪型はポニーテールにしている。額にはなぜか『必勝』と書かれたハチマキを巻いていた。結野は胸の前で両拳を握りしめ、なんか必要以上に真剣な目で俺たちのほうを見つめている。
でも、なんで結野がここに……まさか……
メールの着信が入る。見る。
『最後の刺客、結野嵐子の登場だ。最大の強敵の出現に、はたして美緒はどう立ち向かうのだろうか。そして、砂戸太郎はいったいどちらの女の子を選ぶのだろうか。エンディングはもうすぐ。彼らの未来はどこに辿りつくのだろう……?』
「……やっぱり、結野もみちる先生が用意した刺客だったのか……」
どうでもいいけど、なんで今回のメールだけこんな煽り口調なのだろうか。
「嵐子……まさか、あんたまで出てくるとは思わなかったわ……」
「美緒さん……」
きゅっ、と唇を引き締め、結野は石動先輩を見る。そして、すごく必死な様子で、
「タ、タ、タローとデートするのは……わたしですっ!」
と、はっきり宣言した。
「それは譲れないわ……だってあたしには、こいつの変態体質を治療するという役目があるんだから」
「い、いいえ、譲ってもらいます」
「じゃあ、勝負するしかないようね」
「は、はい……」
こくりとうなずく結野。……なんか、演技には見えないほどの緊迫感が伝わってくる。
「で……勝負の内容は?」
「しょ、勝負の内容は……」
言って、結野は睨むようにして俺を見つめてくる。ん? なんだよ?
そのとき――再び携帯電話が短く震える。メールの内容は……
『みちるプランAを開く』
「この場面で……?」
俺は封筒を開いた。
「ええーっと……『砂戸太郎を争って勝負をすることになった美緒と嵐子。その勝負の内容を、あなたが決めてください。二人の自分への愛情が確認できるような、そんな勝負の内容を』って……あなたが決めてって、俺がか!?」
先輩と結野がじっと俺を見つめてくる。
「…………」
じーっと、見つめてくる。
「早く決めなさいよ、ブタロウ」
「そ、そうよ。早く決めて」
「そんなこと言われても……」
二人の視線が痛い。早く勝負の内容を決めなければ……
「じゃ、じゃあ……ええっと……」
焦る俺のすぐ横を、小学生ぐらいの子供たちが駆けていく。それが視界に入った俺は反射的に――
「か、かけっこ――徒競走とかは、どうかな……?」
そう言った瞬間――
結野から恨めしそうな視線が注がれる。まるで泣き出す寸前のような顔をしていた。
いったいどうしたの――あっ!
俺は、体育の授業のときに見かけた結野の姿を思い出した。
確かあれは、百メートル走をしていたとき。お世辞にも綺麗とは言えないようなフォームで走っていた結野は、隣の走者にかなりの差を開けられていて……
「い、いや、あの……」
慌てて違う勝負を考えようとするが、いい案が思いつかない。先輩と結野が互角に勝負できそうな種目といえば……ううーんっと……ボ、ボクシング? いやそれはダメだろ!
「……徒競走ね。わかったわ」
と、石動先輩が言う。あまり運動が得意そうでない結野とは違って、先輩は女の子とは思えないほどの身体能力を保持する天然のアスリート。それはこれまでの様々な経験から……硬球で狙撃……木刀での強襲……金属バットでの殺人未遂……などから、容易に判断できる。というか、ついでに思い出したくない記憶が溢れてきてブルーになる。
先輩はさぞ得意げな顔をしているだろうと思っていたが。
意外や意外、なんだか弱ったような困ったような表情を浮かべているように見える。
「……?」
もしかして、先輩も走るのはあまり得意ではないのだろうか?
結局――勝負は徒競走に決まってしまった。
話し合いの結果、コースは商店街を往復ということに。距離は三百メートルちょいぐらいだろう。
商店街の端に二人が立つ。結野は最後まで恨めしそうな顔をしていた。
「じゃあ……」
スタートの合図をすることになった俺が、右手をまっすぐ上にあげる。
「よーい……スタート!」
声を上げると同時、腕を真横に振り下ろした。
「嵐子! 勝負よっ!」
「ぜ、絶対に負けませんっ!」
一睨みを交差させてから、二人は地を蹴って疾走する。
速攻で差がついてしまうかも――という俺の予想は裏切られ、結野はけっこう善戦していた。二人は一進一退のデッドヒートを演じている。いや、結野が善戦してるというか、先輩が遅いのか……?
折り返しを過ぎ――なんと、結野が先輩の前に出る。リードを広げる。
先輩は真っ赤な顔で必死の形相をしていた。手加減してるようには見えない。
やっぱり、先輩も走るのは苦手だったのか……?
もうレースは終盤。先輩に反撃の余力は残されていないように見える。このまま結野の勝利で決着がつく――と思いきや。
「ひっ――!?」
結野の悲鳴のような声。ゴール地点間近にあった喫茶店のドアから客が出てきた――男性の客が。まるで、結野の進路を塞ぐように。
俺はぎょっとする。や、やばいっ! もし結野が男性とぶつかったりしたならば、結野はその男性に向かって破壊力抜群の鉄拳を……だ、大事件になってしまう!
思わず結野のほうに向かって駆け出しそうになる。だが、絶対に間に合わない距離。
二人の体がぶつかりそうになった、そのとき――
どこからともなく飛んできた女物の靴が、その男性の顔面にめり込み、男性は「ふごっ!?」と呻《うめ》き声を上げながら後ろによろめいた。
結野は必死な表情で身をよじる。二人の体がぎりぎりですれ違う。接触は――ない。俺と結野は同じタイミングで安堵の息をついた。
男性が後ろによろめいてくれたおかげで、結野は男性との衝突を紙一重で回避することができたようだ。そして、男性の顔面に靴をぶつけたのは――
石動先輩だった。
サッカーのシュートのような感じで靴を飛ばし、男性の顔面に見事なゴールを決めたのだ。
「み、美緒さん、ありが……」
立ち止まり、お礼を言おうとした結野の横を――ぎらりと瞳を光らせた石動先輩が駆け抜けていく。
「え……み、美緒さんっ!?」
「嵐子っ! 油断したわねっ!」
そう――レースはまだ続いているのだ。
「くっ……!」
慌てて追いかける結野。だが、もう時すでに遅し。
ゴール地点を先に駆け抜けたのは、石動先輩だった。
「はあ、はあ、はあ、はあ……あー疲れた……」
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
レースを終えた二人は両膝に手をつき、激しく肩で息をしていた。俺はそのあいだに、靴をぶつけられた男性に平謝りしていた。
「あ、あたしの勝ちね、嵐子」
「う……でも、さっきのは――」
「運も実力のうちよっ! べつにあたしがズルしたわけじゃないんだから、この勝負は誰がなんと言っても有効なのよっ!」
腕を組み、自信満々に言い放つ。
まあ先輩の言ってることは間違ってるわけじゃないけど……
「ううう……」
結野はしょぼんと肩を落としていた。
「ゆ、結野、あのさ……」
どうやら落ち込んでいるらしい結野を慰めようと、俺は結野のいるほうに近づいていく。
というか、こんなことでそんな落ち込まなくてもいいと思うけど……
「タ、タロー……わたし、負けちゃった……」
俺に気づいた結野が、迷子になった子供のような顔で俺を見上げてくる。
と――
全力で走ったせいで脚が疲労していたのか、結野の足首がふにゃりとして、体が傾く。
そして、結野の額がぼすんと俺の肩あたりにぶつかった。
「い、いい――いいい――――」
閃光が走った――としか思えないほどの神速の右拳が俺の頬を歪ませた。
「い、い、いいいいいいやあぁああああぁあああああああ――っ!」
「ろくべいばああっっ!?」
「こ、こわい! こわい、こわい、こわいいいいっ!」
間髪入れずに踏み込んできた結野は、
「こ、こ、こここここわいよぉおおおぉおぉおおお――――っっっ!」
体全体を伸び上がらせるような破壊力抜群のアッパーカットで、俺の顎を跳ね上げた。
「……っっっ!」
宙高く舞い上がった俺の体が、鈍い音とともに地面に叩きつけられる。
「ふぇ――――んっ! もういやだよお――――っっ!」
そう叫ぶと、結野は脱兎のごとく逃げ出していった。
「はあ、はあ、はあ……しゅ、しゅごいよお……しゅごいはかいりょくだよお……もっともっと……おかわりをぷりーずだぴょん……うへ、うへへへへへ……」
「どうやら完全勝利のようね」
先輩は得意げに言った。
携帯電話の時計を見ると、もう午後四時を過ぎている。
「というか先輩……」
俺はうんざりとつぶやいた。
「このデート……いつまで続くんですか?」
「もうすぐ終わるわよ」
つんっ、とした感じで先輩が言う。
「もうすぐって……」
「うっさいブタ野郎。もうすぐだって言ってんでしょ? そのブタ耳は機能してないの?」
商店街から外れ、俺たちは脇道を歩いている。
「……さて、確かこの辺りで決行する予定だったわね……」
先輩がぶつぶつとつぶやいている。なにを決行するんだ?
そして、突然だった。
石動先輩は急に――
「げ、げはああああ――っっ!」
石動先輩は急に血を吐いた。
「えっ!?」
「ごほっ! ごほっっ!」
先輩は赤く染まった手のひらを見つめ、
「ごめんね……ブタロウ」
ふっ、と厭世《えんせい》的な笑みを浮かべる。
「じつはあたし、とある病に冒されていて、余命数日という身なの……」
「…………」
超急展開だった。
「だけど、ブタロウとデートしたかったから、黙って病院を抜け出して……」
「……え、ええーっと、それって明らかに血のりですよね……」
訝しげな顔で見つめていると――携帯電話が短く震えた。
俺は携帯を取りだし、メールを開く。
『美緒が余命幾ばくもないという衝撃の事実を知った砂戸太郎は――
一、美緒に「俺と結婚してください」と言う。
二、美緒に「病院に戻りましょう」と言う。(バッドエンド)』
「…………」
バッドエンドって書いちゃってるし……
「……はいはい、わかりましたよ」
もうやけくそだ。
「石動先輩……」
「えっ?」
先輩が俺の顔を見上げてくる。
「俺と……結婚してください……」
ああ、俺の人生初プロポーズは石動先輩に捧げる羽目となってしまった……その言葉を聞いた先輩は、声を震わせる――演技をしながら、
「ほ、ほんとに……? ほんとに、あたしでいいの?」
「ううーん……」
「あたしでいいの?」
先輩はほほ笑みながら俺の首を鷲づかみにする。
「は、はい……先輩じゃないとダメなんです……」
「本当に……うれしい……」
先輩はつぶやくように言うと、胸の前で両手を重ね、感極まったように瞼を閉じる。言うまでもなくこれも演技です。
メールに着信――
『砂戸太郎は美緒に――
一、いまから結婚式を挙げよう! と言う。
二、(それ以外のセリフはバッドエンド)』
「…………」
なんか選択肢が雑になってきたな。もうどうにでもなれ。
「先輩……いまから結婚式を挙げましょう」
「え……?」
先輩は驚いたような顔で俺を見つめたあと、
「……はい」
と、ひかえめにだがうれしそうにうなずいた。
すると――急に視界がふさがった。
「えっ!?」
どうやら何者かに背後から大きな布袋かなにかを被せられたらしい。
「ちょ……ちょっと……」
その何者かは、布袋を被せられ困惑する俺をそのまま肩に担ぎ、どこかへ走っていく。
「ええっ!? い、いったい誰……そ、それよりどこへ……」
俺は何者かの肩の上で暴れるが、その抵抗も無意味。やがて――
どさっ、と乱暴に下ろされる。
俺は布袋を被ったまま、倒れている。そして。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
この異常なシチュエーションに若干興奮していた。
と――
ばさっ、と布袋がはぎ取られる。
急に視界を覆った光に、俺は顔をしかめる。目の前にいるのは……
「み、みちる先生?」
「ああ」
言って、みちる先生はサングラスを顔から外す。
「お、俺を担ぎ上げたのはみちる先生だったんですか!? ど、どうして……」
「最終イベントが発動したのでな。君を最後の舞台に案内したのだ」
「さ、最後の舞台?」
俺はそこではじめて、自分がいる場所を見渡した。
そこは――教会だった。
小さな教会の、教壇のような場所の前に俺は座り込んでいる。
「さきほど君が美緒と話していた場所からすぐ脇に入ったところにある、小さな教会だ。ここで、君は美緒と結婚式を挙げる。それが今日のデートの最後を飾るイベントだ。このために、わざわざこの教会を貸し切ったのだ」
「デートの範疇を超えてます……」
「ジューンブライドなので縁起もいいぞ」
「アホですか……」
「この結婚式でお互いの愛を誓い、そしてラストは熱い抱擁を交わす。デートはそれで終了だ」
「ぶっ――あ、熱い抱擁って……」
「物足りないのか?」
「違いますよっ! 逆ですっ! 抱擁ってつまり抱きしめ合うってことで、そんな……」
「ふむ。君は変態のくせになかなかウブな少年のようだな」
「変態は関係ないでしょうが……」
はあ、とため息をつき、
「そもそも……みちる先生は本気で思ってるんですか? 愛の力で俺のドM体質が治るなんて、そんなこと……」
「いや、そんなことで君のドM体質は治らないだろう」
「……は?」
俺はぽかんとした顔でみちる先生を見る。
「そ、そんな……じゃあ、なんでこんな綿密なデートを……わざわざ石動先輩を焚きつけてまで……」
なにを考えてるんだ、この人は?
「うむ……」
みちる先生は一つうなずき、
「白状するとだな……このデートは、君のためではなく、美緒のために行ったのだよ。もちろん美緒はそんなことに気づいていないが」
「え……?」
俺のドM体質を治すためじゃなく、先輩のために……?
「それは、どういう……」
「おっと。そろそろ用意をすませた美緒がやってくる頃だな」
言って、俺の前にしゃがみ込んでいたみちる先生が立ち上がる。
「あとはエンディングのみ。人の目があれば気が散るだろうから、私はここで退散して部室で待ってることにするよ。じゃあ、美緒のことを頼んだ」
「ちょ――ちょっと、みちる先生……」
困惑する俺に背を向け、みちる先生は教壇のような台の脇にあるドアを抜けていく。
「あ……」
あっという間にみちる先生は姿を消し、残ったのは俺一人。
「俺のためじゃなく、先輩のためって……」
つぶやきながら、立ち上がる。
そのときだった。
座席に挟まれた通路の先、外へと続くのだろう正面の大きな扉が、ゆっくりと開いていく。そして、その扉の向こうには――石動先輩が立っていた。
その身に纏うのは……純白のウエディングドレス。
「…………」
まぶしいほど映える、白のドレス。それに身を包んだ先輩が、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。一歩一歩、俺のほうに……
礼拝堂を彩る優しい照明が、白いドレスを着た先輩に淡い光をまぶしている。それは、とても幻想的な光景だった。
先輩は、俺の目の前ですっと歩みを止める。
ウエディングドレス姿の石動先輩は……目眩《めまい》がするほど美しかった。
口を半開きにしながら、馬鹿みたいにその姿に見とれる。こんなに美しいものがこの世にあっていいのかと、そんなことさえ思った。
「……なによ? この格好、変なの?」
呆然と立ちつくす俺を訝《いぶか》った先輩が、半眼でそんなことを言ってくる。その言葉でハッと我に返った俺は、ぶんぶんと左右に首を振り、
「い、いえ……ええーっと、すごく綺麗だなって思って……」
つい、本音が口を出てしまった。
先輩はにやりと唇を歪め、俺に体を寄せる。俺の鼓動が大きく跳ね上がった。
「ふむふむ、どうやら今日のデートの成果は確実に出てるようね」
得意そうに言って、先輩は人差し指をそっと俺の胸に触れさせる。にまにま笑いながら俺を見上げ、
「――あんた、あたしのこと好きになったんでしょ?」
と、そんなことを言ってきた。
「え!? い、いや、それとこれとは別問題というか……」
「隠さなくていーのよ、それが今回のデートの目的なんだから。よしよし……」
先輩はすっと俺から離れ――ようとしたところで、その体が一瞬ふらつく。
「先輩?」
「っと……やっぱ、ドレスなんか着慣れてないから変な感じだわ。スカートが長くて動きにくいし……」
先輩は再び俺に向き合うと、
「じゃあ……最後の詰めに入るとしましょう」
「さ、最後の詰め?」
「そう――この詰めによってあんたは完璧にあたしのことが好きになる。愛さえ芽生えてしまえば、ドMの治療は簡単だわ。大いなる愛の力であんたのドM体質なんてすぐに治っちゃうわよ、きっと」
「…………」
最後の詰めというのは……みちる先生の言っていた『熱い抱擁』のことだろう。
俺はあたふたしながら、
「で、でも、先輩……いくらなんでも、抱擁なんて……」
「抱擁? ああ、みちる姉はそれで締めるみたいなことを言ってたわね……でも、抱擁は取りやめることにするわ」
「そ、そうですか……」
なんだ、やっぱり先輩も抱擁なんて嫌だったんだな……まあ、そりゃそうか。俺みたいな奴とそんなこと……
「抱擁なんかじゃ生ぬるくて、愛なんて生まれないでしょ?」
先輩は俺を見上げ、言う。
「だから――最後は、キスで終わるのよ」
「……へ?」
「結婚式なんだし、抱擁よりキスのほうが自然だわ」
「…………」
ええーっと、いまこの人はなんて言ったんですか?
確か、キスとか……キス? 俺と先輩が……?
混乱する俺を無視し、先輩は俺の左肩に自分の右手を乗せる。それだけで俺の全身は硬直してしまう。先輩は俺に体を近づけ――
「ちょ、ちょ……せ、先輩っ! まさか本気じゃないですよねっ!?」
「うっさいわね。男のくせにぎゃーぎゃー言うんじゃないわよ。さっさと目を閉じなさい」
「で、でも……」
「早く、目を閉じろって、言ってんのよ」
先輩は殺気のこもった目で俺を見上げてくる。とてもキス寸前の表情には見えなかった。
「…………」
俺は仕方なく、目を閉じる。
……つーか、よく考えたら先輩もさすがに本当にキスとかはしないだろう。たぶん、結婚式ってイベントの最後にふさわしいのはキスだからという理由で、キスするフリをするだけなのだ。
やれやれ……そういうことか……
でも、これでようやく悪ふざけ満載だった今日のデートが終わるんだな……
「ブタロウ、もうちょっと顔を下に向けなさいよ。届かないでしょうが」
「はいはい」
投げやりに言ったあと、目をつぶったまま少し顔をうつむかせる。
先輩の香りが近づき、そして……
唇に――やわらかい感触。
甘く、少し湿ったような、未知の感触が唇に優しく触れて……全身が意志に関係なくぴくりと怯えたように震え、脳みそが痺れてなにも考えられなくなるような……
え……こ、これって……?
困惑しながら瞼を開けると――そこには、全体が把握できないほど近接した先輩の顔が。爪先で立ち、俺の胸に自分の体を触れさせ、自分の唇を俺の唇にしっかりと押しつけていた。先輩の微かな鼻息が、俺の頬をいたずらっぽく撫でていく。
「…………」
頭が真っ白になった。
無意識に動いた両手が、先輩の肩を掴む。先輩の体がぴくんと震える。
このまま先輩の体をぎゅっと抱きしめたい。もっと深いキスをして、そして――
――そんな思考を、微かに残っていた理性が霧散させる。
俺は……渾身の力を振り絞り、先輩の体を引きはがした。
先輩の肩に両手を置いたまま、顔をうつむかせる。ギッと奥歯を強く噛みしめる。
「……ブタロウ?」
「どうして、ですか?」
「え?」
「どうして、俺なんかとキスしたんですか?」
「それは……あんたのドM体質を治すために……」
先輩は俺の様子を訝しがりながら、つぶやくように言う。
「あの女装変態も言ってたじゃない……愛する者どうしなら、キスぐらいするのは当然だって。キスする覚悟もない癖に、あんたのドM体質を治すことなんてできないって……だから……」
先輩は、本気でそう言っているようだった。
「あたしは神様だから……あんたの願いを……」
ただ、俺の体質を改善するために、キスを……
「……先輩はこういうことに慣れてるんですか? キスなんて……誰とでも挨拶みたいに……」
「そ、そんなことあるわけないでしょ! あたしだって、キスなんかするの、はじめてだったんだから……」
「……っ!」
なぜか――
無性に腹が立った。
「ふざけないでください……」
「え?」
「ふざけんなって――言ったんだよ!」
顔を上げ、先輩を睨みつける。
「こんなことで……本当に好きでもない相手と、キスなんかするんじゃねえよ!」
「ちょ……なにを怒ってんのよ、あんた……」
石動先輩は困惑した表情で俺を見上げている。
そう――いったいなにを怒ってるのだろうか。
こんな美少女とキスできることなんて、俺の人生には二度とないことなのかもしれない。これは俺にとって極上の幸運であるはずなのだ。感謝することはあれど、怒ることなどもってのほか。それなのに……
どうして、こんな泣きそうになるぐらい腹が立っているのだろう。
「ブタロウ……」
どこか不安そうな顔で、先輩はつぶやく。
「あたしはただ、あんたの……」
「もう……いいです」
これ以上、先輩の顔を直視することはできそうにない。
俺は先輩に背を向け、早足で教会の扉に向かう。
「あ……」
呆然とその場に突っ立っていた先輩が、
「ちょっと……待ちなさいよ!」
言って、俺のほうに駆け出してくる気配が背後からする。
だが、俺はもう教会の扉まで辿りついている。扉を開けて外に出たら、全力で走ってここを離れるつもりだった。
扉に手をかけ、力を込め――
後ろから、ばんっという大きな音が聞こえた。微かに床が振動する。
なんの音だ? 俺は反射的に振り返っていた。
石動先輩が――床に倒れ込んでいる。
白いウエディングドレス姿の先輩が、うつぶせの格好で、床に倒れ込んでいた。
「……なんですか? それもなにかのイベントですか?」
苛ついた口調でそう言う。
「…………」
「……先輩?」
少し怪訝に思った俺は、倒れる先輩に近づいていった。
「……?」
傍らに膝をつき、何度か声をかけても反応がない。俺は先輩の肩を抱きかかえ、体をこちら向きに起こした。
「……え?」
先輩は――顔を真っ赤にし、苦悶の表情を浮かべていた。
眉間にしわを寄せ両目をぎゅっとつむり、額には汗の粒が無数に浮かび、その呼吸は鋭く速い。そして――先輩の肩を抱いている俺の左手には、ぎょっとするほどの熱が伝わってくる。
俺は慌てて先輩の額に右手を置いた。
「な……? す、すごい熱……」
尋常じゃない熱さだった。たぶん四十度近い……いや、もしかしたら、もっと……
「せ、先輩っ!?」
「ん……」
ようやく声に反応した先輩が、苦しそうに薄目を開ける。
「す、すごい熱ですよ!? い、いったいこれは……」
「ああ……バレちゃったか……」
と、先輩は無理矢理に笑みを浮かべる。
「二日前からね……ちょっと風邪ひいちゃってて……学校から帰る途中に、急に土砂降りの雨が降ってきて……傘持ってなかったから、全身ずぶ濡れに、なって……」
二日前――俺と結野が駅を出ようとしたときに降ってきたあの雨か。天気予報が珍しく大外れして、確かそのとき外を歩いていた姉貴も風邪を引いた、あの雨……
「風邪って……そんな状態で、今日のデートの準備をしたりしてたんですか? なんて馬鹿なことを……」
先輩は、今日のデートのためにほとんど徹夜したと言っていた。そんな無理をしたら風邪だって悪化するに決まってるのに……
その瞬間――怒濤のように今日の記憶がよみがえってくる。
――最初に手をつないだとき、先輩の手が妙に熱いと思ったのは俺の錯覚じゃなくて。
――デートの最中、先輩の顔がいつも赤かったのは、照れや恥ずかしさからじゃなくて。
――結野との競走のとき、先輩が妙に遅かったのは走るのが苦手だったわけじゃなくて。
それは、風邪を引いて熱があったから……
そう思ったとき、俺の背筋がぞっと寒くなった。先輩はこんな状態で、商店街の三百メートルを全力疾走したのか……? 俺が、あんな勝負を考えたばっかりに……
「……みちる姉には、なんとか隠し通したんだけど……」
「どうして……どうしてこんな無茶をしたんですかっ!」
「あんたの……ドM体質を……治してあげたかった、から……」
はあはあと苦しげな呼吸を繰り返しながら、先輩は言う。俺は顔を歪ませ、
「デートなんて……べつに違う日に変更してもよかったじゃないですかっ! それなのに、こんな体で……」
「みちる姉が、珍しく乗り気だったし……みんなも、時間を空けて協力してくれたし、教会の貸し切りの予約とかも……終わっちゃってたから……」
「――先輩は、馬鹿ですよ」
「う、うっさいわね……なんで、あんたなんかに……」
言ってる途中、苦しそうにぎゅっと目をつむる。
くそっ……腹が立つ。今日一日ずっと先輩と一緒にいたのに、先輩がこんな状態だったことに気づけなかった自分に腹が立つ。ずっと手をつないでて、膝枕までしたのに……いくらデートで緊張してたからって、どうして先輩の熱に気づけなかったのか。
「う……んん……」
――そうだ、こんなことしてる場合じゃない。早く病院に……い、いや、とりあえずみちる先生を電話で呼び出して……
携帯電話を取り出したところで――先輩の苦しそうな顔が目に入る。
「…………」
こんな状態なのだから、みちる先生をここに呼びつけたとしても、結局は病院に運び込んだほうがいいという結論になるだろう。どうせそうなるなら、みちる先生をここに呼ぶまでの時間が惜しい。
じゃあ先に呼ぶのは救急車のほう――そ、そうだ、確か今日のデートの途中、総合病院を見かけた。あの場所ならば、住所もよくわからないこの教会に救急車を呼ぶより、走ったほうが早く着く。
決心は早かった――俺は、ウエディングドレス姿の先輩を抱き上げた。
「え……? ちょっと……」
「すぐに病院に連れて行きますから、少しだけ我慢してください」
俺はお姫さまだっこの形で先輩を抱きかかえながら、肩と背中で教会の重い扉を開け、外に出た。
一刻も早く、先輩を病院に……ただ、それだけしか考えられなかった。
驚くほど軽く、そして熱い先輩の体を抱きかかえながら、走る。
教会を離れ、商店街に突入する。道行く人々が驚いた顔で俺のほうを見ていたが、そんなことはどうでもいい。俺は渾身の力で地を蹴った。
人を抱えた状態での短距離走のような全力疾走。肺や心臓、全身の筋肉はすぐに悲鳴を上げる。そんなことは関係ない。俺は全速力で走る。
走る。
走る。
走る――
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
肺病に冒されているかのような呼吸を繰り返しながら、俺は走った。
商店街を抜け、もうすぐ病院にたどり着くというところで――
ぽつり、と頬に一粒の感触。え……?
思わず天を見上げる。そこには黒々とした雲が広がっていた。
そして――容赦のない雨粒が、俺たちの体に降り注ぐ。
「おい……嘘だろ……」
雨粒がウエディングドレスを濡らしていく。
「待って……待ってくれよ!」
もう少しだけ――お願いだから……
「ち、ちくしょう……」
俺は、少しでも先輩に雨が当たらないようにと、体を前屈みにして先輩の体に覆い被さるような体勢をとった。でも、もうすでに俺と先輩の体はびしょ濡れで……冷たい雨が、満身創痍の先輩をさらに追いつめる。
やっぱり、救急車を呼ぶべきだったのだろうか。俺が素直に救急車を呼んでおけば、先輩は雨に濡れずにすんだのだ。俺のせいで、先輩は……
「先輩……ごめんなさい……」
「……太郎?」
いままで目をつぶっていた先輩が、ゆっくりと目を開ける。
「あんた……どうして、泣いてるの……?」
先輩が、弱々しい声で言う。
「ああ……雨が降ってるだけか……」
「先輩、もう少しで病院につきますから。あとちょっとだけがんばってください」
「太郎……」
先輩は速い呼吸を繰り返しながら、ぼんやりした目を俺に向け、
「ごめん、ね……」
「えっ?」
「勝手に、キスなんか、しちゃって……」
「…………」
「あんたが怒るのも、無理ないわよね……相手が、あたしなんか、じゃ……」
違う――そういうことで、怒ったんじゃない……
「先輩……今日はえらく殊勝じゃないですか……」
こみ上げてくるものに耐えながら、あえて明るく言う。
「らしくないですよ。そんな先輩、気持ち悪いです……」
「……気持ち悪いって、なによ……人がせっかく……」
つぶやくように言った先輩は、ふらっと右手を振り上げた。
そして、その右手で俺の頬を叩く。
いや、それは叩くというより――ただ、触れるだけのようなビンタだった。
「先輩……なんですか、それ? そんなビンタじゃ、ぜんぜん気持ちよくなれないじゃないですか。もっと、いつもみたいに、思いっきりやってくださいよ……」
先輩は微かに唇を歪め、
「……この……へん、たい……」
と、囁くように言った。
「やっぱり……あんたは、あたしが……」
それきり、先輩は黙り込む。
あまり喋らせるのも体によくないと思い、俺も黙って足を進める。道路に溜まった水を跳ね上げながら、走る。「大丈夫だから」「もう少しだから」と、そんな言葉を馬鹿みたいに繰り返しながら。
視界に総合病院の姿が現れる。もう少し、もう少しだ……
と――
「…………………………………………………………き、です……」
雨音の隙間を縫うようにして――先輩の微かな声が俺の耳に届く。
「……え? なんて言ったんですか、先輩」
俺は耳を先輩の口元に寄せる。
「……人のために……一生懸命になれる……」
先輩の、うわごとのような声――
弱った体で、懸命に、言葉を紡ぐ。
「……人のために、一生懸命になれるところが、好き、です……」
「…………」
淡く、優しいほほ笑みが、俺を見つめている。
『観覧車の中で、砂戸太郎は美緒に膝枕をしてあげてください。その体勢のまま、お互いの好きなところを交互に言い合ってください』
それは――観覧車で言えなかった、言ってくれなかった、言葉……
先輩は、力尽きたように目をつぶる。
「先輩……」
俺は先輩の小さな体をぎゅっと抱きしめる。強く、ぎゅっと抱きしめる。
「本当に……らしくないですよ……」
総合病院の扉が目の前に迫り――
俺は、肩から激突するようにしてその扉を開けた。
ホールにいた人々が、ぎょっとした顔で俺のほうを見る。
看護師の一人が、こちらに近づいてくる。俺はその人に向かって――
「せ、先輩が……先輩が、すごい熱なんです! 先輩が……」
やっと病院にたどり着いた安心感のせいだろう。
情けないことに、俺はぐしゃぐしゃと泣いてしまっていた。
それから――
石動先輩が病室のベッドで治療を受けているあいだ、俺はみちる先生に電話し、先輩を病院に運んだ経緯を説明した。
一時は肺炎の疑いもあったが――どうやら大丈夫のようだった。相変わらず高い熱があって目が離せない状態だが、少なくとも命には別状がないようだ。
『そうか……すまなかったな、砂戸太郎。いろいろと迷惑をかけた』
言ってから、電話の向こうのみちる先生は小さく舌打ちをする。
『普段は思ってることがすぐ顔に出るのに……こんなときだけは、なんでもないフリをするのがうまくなる奴なんだよ、あの子は……』
先輩の様子に気づけなかった自分に腹を立てている――そんな様子だった。
『私もすぐ病院に向かうよ。そのあいだ、美緒を頼む』
「ええ……あの、みちる先生……」
『ん? なんだ?』
「みちる先生は言いましたよね、今日のデートは俺のためじゃなく先輩のために計画したって……あれはどういう……」
『…………』
みちる先生は少しの沈黙を挟んだあと、
『あの子はな……子供の頃、あまり友達と遊ぶことができなかったんだ』
「えっ?」
『だからあの子は、同じくらいの年代の子と遊ぶのが少し下手なんだ。そういうのを……今日のデートでちょっとでも克服してくれればと、そんなことを思ったんだよ』
「それって……」
『あまり詳しくは聞かないでくれ。いまは、な……』
みちる先生は質問を重ねようとした俺の言葉を止める。
そして、みちる先生は電話を切った。
デート翌日の日曜日。
先輩の風邪がうつったのかどうかはわからないが――俺は見事に風邪を引いてしまっていた。
ベッドで横になる俺の傍らには、心配そうな顔の姉貴と母さんがいる。
「びぇ――――んっ! た、太郎ちゃあぁああんっ! だ、だだだだ大丈夫!? 太郎ちゃんになにかあったら、わたし、わたひぃ……」
「……大丈夫だって。軽い風邪だから」
「た、た、た、たろ、たろろ、たたろ、うさん、だ、だい、だだだだい、だいじょ、じょ……ぶぇええええんっ!」
「か、母さん、大丈夫だからそんな洪水みたいに泣かないでくれ……」
「でも、心配だよ……」
「ええ、心配です……」
「このまま太郎ちゃんの風邪が悪化して……」
「もしも太郎さんが帰らぬ人になったりしたら……」
姉貴と母さんは真っ青な顔を見合わせる。ガクガクと顔面は左右に揺れ、そして――
「い、いやだよぉ! そんなことになったらわたしも死ぬよぉ! 妻として後を追うよぉおお――っっ! ふぇ――――んっ!」
「わ、わ、わわわ私だって生きていけませんっ! 太郎さんのいない世界に未練なんて……太郎さ――――んっ! う、うえぇ――――んっ!」
「そんな簡単に死ぬかっ! 死なねえから、ちょっと落ち着け!」
「うわ――――んっ! わたし、太郎ちゃんの病気が早く治るように全国のお寺や神社を順番に回ってお百度参りしてくる〜っ! 全裸でお百度参りしてくる〜っ!」
「うぇえ――――んっ! わた、私は、全国を回ってブラ○クジャック的な外科医の天才を捜してきますぅ〜っ! いくら法外な手術費がかかったって、太郎さんの命には代えられませんっ! びぃ――――んっ!」
「あ、姉貴っ、お百度参りなんかしなくてもすぐに治るからっ! つーかなんで全裸でやる必要があるんだよっ!? 捕まっちゃうよっ!? か、母さん、そんな漫画的な外科医はどこにもいやしないからっ! つーかなんで手術の必要がっ!? 俺の病気はただの風邪だから! 風邪だからね!」
「びぃやあ――――んっ! 太郎ちゃ――――んっ!」
「ふぃいえ――――んっ! 太郎さぁ――――んっ!」
姉貴と母さんはわんわん泣きながら、俺のベッドの横でひしっと抱き合った。
俺はぐったりとしながら、つぶやく。
「こ、こんな状態じゃ、治る気がしねえ……」
そのとき、枕元に置いてあった携帯電話が短く震える。メールの着信だ。
届いたのは、結野からのメールだった。
『風邪、だいじょうぶ?』
なんとなく口元がゆるむ。
そんな俺の様子を、姉貴と母さんが抱き合いながらじーっと見つめていた。俺は慌てて携帯をしまう。これ以上二人に暴発されたら……俺は、ほんとに帰らぬ人になっちゃいそうです……
結局俺は、月曜日と火曜日を風邪で休んだ。
べつに学校に行くぐらいは支障がないほど回復していたのだが、姉貴と母さんが「無理はいけませんっ!」と俺の登校をゆるしてくれなかった。だから、しょうがなく俺は学校を休む羽目となってしまったのだ。
そして、水曜日――
「太郎ちゃん、ほんとにだいじょうぶなのぉ……」
「太郎さん、つらくなったらすぐに早退してくださいね……」
「だ、大丈夫だって。じゃあ、行ってくるから」
心配そうな姉貴と母さんに見送られ、家を出る。
「やれやれ、風邪なんか滅多に引かないんだけど……これからは毎日うがいと手洗いをしっかりして、絶対に風邪は引かないようにしよう……」
風邪のたびに姉貴と母さんがあんな状態になるのは、ちょっと勘弁してほしい。あんな不安そうにされると、逆にこっちが心配になっちまうよ……
「……ほんと、大丈夫だから」
ドアの隙間から顔を縦に並べて覗いている姉貴と母さんに言い、家の中に追い返す。
門戸を開け、玄関を出ると――
「え……?」
玄関のそばにある電柱に体をあずけ、むすっとした顔をしてるのは……
「い、石動先輩!?」
俺は慌てて先輩に駆け寄る。
「せ、先輩……なんでこんなところに……か、体は大丈夫なんですか?」
先輩は一瞬だけ俺の顔を見上げると、ぷいっと顔を背け、
「ふんっ……三日も休めば、風邪ぐらい治るわよ」
「…………」
いや、先輩は肺炎寸前で、ただの風邪じゃあ……
「そんなことより、あんただって二日も学校休みやがって……」
睨みつけるように俺を見る。久しぶりに見ると、破壊力抜群の眼光だ。
「あんたは第二ボランティア部の部員であたしの奴隷みたいなもんなのに、なに勝手に部活を休んだりしちゃってるのよ。あたしの許可もなく」
「はあ……す、すみません」
なぜか反射的にあやまってしまう。
「まあ……いいわ」
ふっと表情をゆるめ、
「そんなことより、あんたに言っとくことがあるのよ」
「な、なんですか?」
「好き」
「……は?」
「あたし、あんたのことが好き」
見たこともないような穏やかな顔で、先輩は俺を見つめる。
「…………」
呆然とする俺に、先輩が近づく。上目遣いで見ながら、
「ねえ……目をつぶりなさいよ」
「へ? ちょ、ちょっと……」
「命令よ。目を、閉じなさい……」
囁くような声で、そんなことを言われる。
「…………」
まるで呪いにでもかかったように――俺の瞼が下りていく。
逆らうことができない。どうしても、逆らうことができない。
先輩の香りが近づき、そして――
「……ぶぶべっひあっ!?」
なにかとんでもなく硬いものがとんでもない勢いで俺の顔面にめり込み、俺は悶絶しながら背後に吹っ飛んだ。
「ご、ごばあっほひやぁああおおう――――っっっ!」
激しく尻餅をつきながら顔を上げると――拳を振り抜いた格好の、石動先輩がいる。
冷淡な視線が、俺を見下ろしている。
な、殴られた……先輩に、殴られた……
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
俺は――
「はあはあはあはあはあはあ……うひゃあぁっはああぁああ――――――っっっ!」
俺は両手をバンザイするように上げながら、どたどた先輩のほうに駆け寄っていく。
「は、ははははらしょぉおおおおぉおお――っ! み、みみみ美緒じょうおうたまぁ! すんばらしい一撃でしたばあぁああぁ――――っ! も、もっと、もっともっともっと、その神のような一撃を汚らしい僕ちんの体にぶち込んで!」
「キモすぎるのよこのド変態がぁ――――っっっ!」
「げびぃいいいいいっ! ありがとうございましたぁ――――っっっ!」
再び極上の鉄拳をいただき、俺は地面に倒れ込む。
「うへへ、うへへへへへ……」
俺はピクピク痙攣しながら、破滅的な笑みを浮かべている。
「はあ……」
先輩は大きくため息をつき、
「愛の力でドMが治ってるか試したのに……まったく治ってないじゃない」
やれやれ、と首を横に振る。
「やっぱり……愛の力ってのは無理があったわね。つーか愛の力ってなんなの? 意味不明だし」
い、いまさらそれを言いますか……
というか、俺たちはまだデートで愛を芽生えさせる段階までしか進んでなくて、愛の力によるドMの治療はこれからのはず……たぶん、そんな細かいことはもう忘れちまってるんだろうな、この先輩は。
つーか愛も芽生えてませんし! うん、ほんとまったく芽生えてないから……
「しょうがない……次の方法を考えるしかないか……」
言ってから、先輩は俺を指さし、
「よく聞きなさいよ、ブタロウっ! あんたのキモいドM体質は、絶対にあたしが治してやるから、これからは風邪ごときで休まずちゃんと部活に出るのよっ! 学校は休んでもいいけど部活には出てきなさいっ!」
「そ、そんなメチャクチャな……」
「ああ?」
「すみませんすみません……わかりました……」
「それでよしっ!」
先輩は満足そうにうなずくと、悔しいほど魅力的な笑顔を浮かべながら、
「ほんっと、どうしようもないわね、このブタ野郎はっ!」
「…………」
俺は地面に尻餅をつきながら、その笑顔を見つめる。
本当に……俺はドMのブタ野郎だと思う。
傲慢で高飛車で自分勝手でメチャクチャないつも通りの先輩の姿を見て――
なんだか、うれしくなってしまっているのだから。
第二話 騒乱だらけのマイホーム
金曜日の放課後。
教室から出た俺は、第二ボランティア部の部室に向かうために階段を下りた。
一年生の教室がある三階から階段を下り、二階に差しかかったところで――
「あ……」
第二ボランティア部の部長である、石動美緒《いするぎみお》先輩にばったり出会った。
亜麻色の髪を長く伸ばした、信じられないくらいに綺麗な容姿をした少女である。だがその内面は信じられないくらいに非常識な少女でもあった。
「ああ、ブタロウじゃない」
「ど、どうも……」
先輩は俺の顔をじーっと見つめたあと、こんなことを訊いてきた。
「……亀甲縛りって、最初に誰が考えたのかしらね?」
「は? い、いきなりなにを言い出すんですか?」
「いや、あんたの顔を見てたらさ、急にそんな単語が思い浮かんできて……」
「なんで俺の顔から亀甲縛りを連想するんですかっ!?」
「え? ほんとにわかんない?」
先輩は心から不思議そうな顔で尋ねてくる。俺は「う……」とうろたえて、
「い、いえ……わからないわけではないのですが……」
「それは、あなたがドMの変態様だから」
「わざわざ言わなくてもいいですっ!」
「そして、あんたの体にはいまもロープのあとが残ってるから」
「ないですよそんなものはっ!」
「え、ないの?」
「まったくありませんっ! つーか、そんな本気でびっくりした顔しないでください!」
この先輩は俺をなんだと思ってやがるんだ……って、変態と思ってるのか。
「ブタロウ。あんたは、これから部活に行くところ?」
「は、はい……先輩もこれからですか?」
訊くと、先輩は見事な仏頂面を浮かべ、
「……あたし、今日は用事があって遅れるのよ」
「そうなんですか? ちなみに、用事って……」
先輩は俺から顔を背け、とても小さな声で、
「……居残り勉強」
「え?」
「今日あった数学の抜き打ちテストであまりにもひどい点数をとったから、先生が居残り勉強を命じるとか言って……」
はあ、とため息。
「マジで最悪だわ……なにが居残り勉強よ……あたしは小学生かってーの……」
先輩はイライラした様子でつぶやく。
「数学なんてこの世から消滅すればいいのよ……ちくしょうめ……」
「い、居残り勉強ですか……それは災難ですね……」
「そうよ。最悪だわ。……下手したら、今日は部活に出られないかもしれない。なんか、先生が課題をクリアするまで絶対に帰さないとか言ってたし……」
「そうなんですか……もし先輩まで部活に出れなくなったら、今日は俺一人になっちゃいますよ」
「なんでよ? ……ああ、そうか、嵐子《あらしこ》は今日学校を休んでるのよね」
「はい。そうなんです」
今日、結野《ゆうの》は体調不良で学校を休んでいるのだ。
きっと石動先輩には結野から『今日は学校を休む』という内容の電話なりメールなりが送られていたのだろう。俺にだってメールが来たくらいなんだから。
「結野もいないし、先輩も部活に出られるかわからない……ということで、今日は部活を休みにしてはどうですか?」
俺一人だけ部室にぽつんといてもしょうがない。我ながらナイスな提案だと思った。
「そうね、それはナイスな提案だわっ」
石動先輩はにこっと笑顔で、
「――なんて言うとでも思ったの、このブタ野郎が」
一転、鬼の不機嫌顔を浮かべた先輩は、俺の襟元をねじり上げる。
「ぐ、ぐえ……」
「まったく、サボることだけは必死なのねこの変態天才児は。あんたみたいなのがいるから、日本の未来は不安だらけなのよ。年金問題……団塊の世代の一斉退職……軌道を失った若者による犯罪の増加……」
先輩の魔眼がギラギラした光を放っている。う、うわぁ、すんごい眼力だよお……完全に軌道を失った若者の目をしてるよお……
「今日、もし誰かが第二ボランティア部に願いごとを頼みに来たら、いったいどうするつもりなのよ? 誰もいなかったら、その人の話を聞く奴がいなくなるでしょうが」
「で、でも、願いごとの依頼者なんて最近まった――ぐべぇ!」
「マジックを見せてあげましょうか? 一瞬にしてあんたの喉が破壊されます」
「そ、それのどこがまじがふげぇ――っ!」
ああああ、喉が潰れ……はあ、はあ、はあ……
「せ、先輩っ! こ、このままじゃあ俺はやばいですっ! 学校の廊下で俺の変態性が暴発してしまいますよっ!」
「そうね。でも、これはあんたの自業自得だし」
「すみませんでしたぁ! も、もう二度と休みにしようなんて言いませんから、どうかゆるしてくださいましぃいいぃい――っっ!」
「ふんっ、わかればいいのよ、このド変態が」
つまらなそうに言って、先輩は俺の襟元を離す。
「げほっ、げほっ……ああ、やばかった……」
まったく、この先輩は本当にメチャクチャなんだから……というか、前のデートのときはデートプランを練ることに忙しいとか言って平気で部活を休みにしたのに、なんで俺が提案したときは……
そんなことを考えていると――思い出さなくてもいい記憶までよみがえってきた。
「…………」
石動先輩はむすっと頬をふくらませ、両腕を組んでいる。これからの補習のことを考えて憂鬱になっているような様子だった。
「とにかく」
短く言うと、先輩はぐっと俺に顔を近づけてきた。鼻が触れ合いそうな至近距離。目の前に先輩の端整な顔があり、整った二重《ふたえ》の瞳がぱちぱちと何度かまばたきをする。
「あたしは補習があるからもう行くけど……あんたはしっかり部活に出なさいよ」
「…………」
「これは命令よ。わかった?」
先輩の甘い吐息が、俺の鼻孔を微かにくすぐった。
意志とは関係なく鼓動が速まり、顔に熱が溜まっていく。
――脳裏に、ウエディングドレス姿の石動先輩が現れる。
先輩の唇が次第に近づき、そして……
「あんた……人の話ちゃんと聞いてるの?」
「えっ!? あ、はいっ! も、もちろんっ!」
俺はガクガクと首を縦に振る。お、俺はいったいなにを考えて……
「ふん……変な奴。まあいいわ」
先輩は長い髪をかき上げると、さっと身を翻した。顔だけをこちらに向けると、
「もう一度言うけど、部活には絶対に出なさい。もし勝手に帰ったりしたら……二度と現世には帰ってこれなくなるわよ」
そんな怖い捨て台詞を吐いたあと、先輩はのしのしと教室のほうに歩いていった。
「はあ……」
俺は深いため息をついた。いろんな意味が込められたため息だった。
部室の扉を開ける。中には誰もいない。
俺は近くにあった椅子に腰をかけた。
「……なんもやることねえな」
鞄の中に入っていたマンガ雑誌を取り出し、暇つぶしに読む。
と――
「……では、約束通り写真を撮らせてもらおうか」
「は、はい……わかりました……」
奥の部屋から、なにやら話し声が聞こえてきた。えっ? 奥に誰かいるのか?
一人はみちる先生のようだった。もう一人は……誰だ?
なんか丁寧な話し方をする女の子だが、俺はその声になんだか聞き覚えがあるような気がした。どこで聞いた声だっただろうか? もしかしたら、クラスメイトの女子かもしれない。
つーか……写真を撮らせてもらう?
「それでは……まず、畳にぺたんという感じで座ってくれ。そして上目遣いでレンズを見る」
「こ、こうですか……?」
「うむ、そうだ。君はなかなか筋がいい。……じゃあ次は四つんばいになってくれ。そして媚びるような表情を浮かべながらレンズを見るんだ」
「はい……」
どうやらみちる先生は奥で写真撮影をやっているようだ。……まったく、あの人は。
だが、みちる先生が石動先輩や結野以外を被写体に選ぶのは珍しい気がした。モデルをやってるのはいったい誰なんだろう。
「まあいいか……どうでも」
俺は奥の声を無視してマンガ雑誌に意識を戻すことにした。
「では、次はこの猫耳を頭につけてくれ」
「ね、猫耳!?」
「そうだ。嫌なのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……わ、わかりました」
「おお、素晴らしく似合っているじゃないか。まるで生まれたときから頭に猫耳が生えていたかのごとき違和感のなさ。よし、ではそのまま両手を軽く握って猫のポーズだ」
「は、はい……」
「素晴らしい。ブラボー。ハラショー」
……猫耳ってなんだよ。
「では、次はこのスクール水着を着てくれ」
「えっ!? ス、スクール水着!? そ、それは……」
「君という素材にスクール水着を組み合わせることによって、君の萌え値は無限大に到達する。理論的に。だから、早く着替えてくれ」
「な、なんの理論なんですか……そんな格好、恥ずかしくてできません……」
「そうか……まあ私も鬼ではない。では、妥協案として私とお医者さんごっこをすることにしよう。そしてその過程を写真に収めるということでどうだ? まずは血圧を測るのでショーツを脱ぎなさい」
「な、なんで血圧でショーツを……完全にドクターハラスメントですっ!」
「それもできないと言うのか。ならば、君が学校に無断で忍び込んだことを校長に伝えることにするが、かまわないな? いや、それとも警察か……」
「そんな……」
「それが嫌なら……これ以上は言わなくてもわかるな?」
「う、うう……」
――って、あんたどんだけ鬼なんだよっ!
詳しい状況はわからないけど、完全に脅迫じゃねえかっ!
こんなんじゃ雑誌に集中できるわけがない。俺は立ち上がり、みちる先生にひとこと言ってやろうと――
「こ、こんなのもう我慢できませんっ! し、失礼しますっ!」
そんな切羽詰まった声を上げ、部屋から少女が飛び出してくる。前を見る余裕がなかったのか、うつむき加減で走ってきた少女は俺の胸にどしんとぶつかった。
「あ……」
少女が小さな声とともに顔を上げる。
さらりとした細い髪を鎖骨の辺りまで伸ばした、あどけない顔立ちの少女だった。
その顔を見た瞬間、俺は――
「げ、げぶううううっ!?」
「た……太郎ちゃん?」
俺にぶつかってきた少女――それは、俺の姉である砂戸静香《さどしずか》だった。
「あ、あ、あ、姉貴っ!? ど、ど、どどどどうして……」
姉貴は、なぜか桜守《さくらもり》高校の制服を着ていた。だがその制服はサイズが合っていなくて、かなりぶかぶかだった。そして頭には猫耳――これは外し忘れただけだろうが。
姉貴は俺の顔を見つめると、ぶわっと目に涙をため、
「ふ、ふえぇ――――んっ! た、たたた太郎ちゃあああんっ!」
ぎゅっと俺の首に抱きついてくる。
「怖かった……とっても怖かったよおっ! ふぃえええええええんっ!」
叫ぶように言ったあと、自分のあとから部屋を出てきたみちる先生を指さし、
「た、太郎ちゃん! この人なんなのっ!? 猫耳とかスクール水着とかお医者さんごっことか、完全にクレイジーだよ! なんでこんな変人が学校に勤めてるの!? 学校よりも刑務所のほうがお似合いだよっ!」
「君はなかなか失礼なことを言うな。こんなまじめな人間に向かって」
「そ、それは確かに俺も姉貴と同意見だけど……それよりも、なんで姉貴がうちの学校にいるんだ!? しかも、その制服はなんだよ!?」
「え……?」
姉貴はぎくりとした顔をして、俺から一歩離れる。
「え、ええーっと、それは……」
さらに一歩後退する。姉貴は俺から目を逸らしながら、
「じ、じつはね……太郎ちゃんって学校ではどんなふうなのかなーってことが気になって……それで桜守高校を卒業した友達から制服を借りて、忍び込んでみたというか……」
「し、忍び込んだだと!?」
「そして、私が校内を歩いていた彼女を見つけた。彼女が部外者だということはすぐにわかったよ、なぜなら私は桜守に通う美少女の顔と名前はすべて記憶しているからな」
みちる先生は無表情で言ったあと「だが、まさか砂戸太郎の姉だとは思わなかったな……」と、一人つぶやいていた。
「学校での俺が気になったって……ふ、ふざけんなっ! そんなことで学校に忍び込むなんて、なに考えてやがんだっ!」
「わたしが考えてるのは太郎ちゃんのことだけだよー。えへっ」
「馬鹿かっ!」
怒鳴ると、姉貴はさらにもう一歩後退する。
「ご、ごめんね、太郎ちゃん。怒ってるよね? すごく怒ってるよね? じゃあ、そういうわけで――さよならっ!」
「えっ!? お、おいコラっ! 待ちやがれっ!」
脱兎のごとく逃げ出した姉貴を追いかけ、部室を出る。
どっちに逃げたんだ? きょろきょろ辺りに視線を向ける。校門のほうへ逃げていく姉貴の後ろ姿が見えた。猫耳をつけたまま逃げる姉貴の姿が。
校門の外まで全力でダッシュするが――すでに姉貴の姿はどこにも見えない。
「く、くそっ! 逃げ足だけは速えなっ!」
まあいい。家に帰ったら、死ぬほど説教してやる。
と、そのとき――背後から凶悪な気配を感じた。
「……っ!」
こめかみに伝わる汗。下手なことをすれば瞬殺されてしまうと本能が訴えている。
な、なんだ? いま俺の背後にはスティー○ン・セガールでも立っているのか……?
恐る恐る振り返ると。
後ろには……いつの間にか石動先輩が立っていた。
「せ、先輩っ!?」
「せっかく、課題を神速で終わらせてあげたのに……このブタ野郎は……」
先輩は地獄の底から響いてくるような声で、
「あたし、言ったわよね? もし勝手に帰ったりしたら……二度と現世には帰ってこれなくなるって……」
「えっ!? ちょ、ちょっと先輩! なにを勘違いしてるんですか!? 俺は別に帰ろうなんてこれっぽっちも思ってないですよ!」
「じゃあ、どうして校門の外にいるのかしら?」
「そ、それは、学校にいた姉貴を帰らせるために……」
「へえ、あんたの姉貴ってこの学校の生徒なの?」
「い、いえ、姉貴は大学生ですけど……」
「なんで大学生の姉貴がうちの高校にいるのかしら? ブタロウ、嘘はもっと上手くつかないと、死ぬわよ?」
し、死ぬんですか……?
「とにかく……あんたには、おしおきが必要のようね……」
「あ、あああああ……」
先輩の体から膨れあがる圧倒的な殺気。
「あああああ……ち、違うんですよ先輩……姉貴が、制服で、猫耳で……」
「姉貴が制服で猫耳? それってあんたの脳内お姉ちゃん? ……ほんとキモいわね。キモすぎるわね」
「ち、ちが……はあ、はあ、はあ……」
「ブタロウ、最後の慈悲として、おしおきは人目につかない部室で行ってあげるわ。どう、あたしってば優しいでしょ?」
まったく優しくない声で言うと、先輩は強烈な視線で俺を見上げてくる。
「は……はい、とっても優しいですう……」
「じゃあ、さっさと部室に戻りましょう。楽しい部活の時間になりそうね、ブタロウ」
にっと肉食動物の笑みを見せた先輩は、勢いよく身を翻した。そして。
「とっりあえず〜雑草を食わせるぅ〜♪ 土下座をさあせなーがらぁ〜♪」
そんなオリジナルソングを楽しそうに歌いながら、部室のほうに歩いていく。
俺は、売られていく仔牛のような心境で先輩のあとをついていった。
「はあ、はあ、はあ……」
だが仔牛というよりブタ野郎である俺は『おしおき』というフレーズに若干ドキドキもしていたのだった……
日曜日――言わずとしれた休日である。
なにも予定のない俺は、ベッドの上でごろごろしていた。
時計を見やると、時刻はすでに午後四時を過ぎている。
「あーあ、せっかくの日曜なのに、ごろごろしてるだけだったなぁ……」
まあ、たまにはこんなのも悪くないか。
ごろんと寝返りを打ったそのとき、部屋のドアがこんこんとノックされた。
この家でノックを聞くなんて珍しい。なんか逆に不気味だ。そんなことを思っていると、ドアがひかえめに開き、そこから姉貴が顔を出した。
「へへ……太郎ちゃん」
姉貴は少し開いたドアにもたれるような感じで、
「あの……太郎ちゃん、いまヒマ?」
「ああ、まあな」
「じゃあ、久しぶりに将棋でもやらない? い、嫌かな?」
「将棋か……」
そういえば、姉貴と将棋を指すのは久しぶりだな。
姉貴はおずおずとどこか遠慮がちな様子でこちらを見つめている。部屋にも入ってこようとしない。もしかすると、おととい学校に忍び込んだことでかなり怒ったから、それを気にしているのかもしれない。
「…………」
俺はちょっと迷ったあと、
「……いいぜ、久しぶりにやるか」
「え、ホント?」
姉貴の顔がぱっと輝く。
「うれしいよー。じゃあ太郎ちゃん、わたしの部屋に来て来てー」
「おう」
ベッドから立ち上がり、部屋を出る。
姉貴はにぱっと花が咲くような笑顔を浮かべながら、子供のような小さな両手で俺の右手を握り、「こっちだよー」と軽く引っ張ってくる。
階段の前を通るとき、姉貴はちらりと一階のほうに顔を向けた。
その視線を追うと、階段の下に母さんが立っていた。母さんは神妙な顔で小さくうなずいている。
「……?」
なんだ、いまのアイコンタクトっぽいのは? 訝《いぶか》しく思ったが、まあ訊くほどのことでもないかと思い、なにも言わなかった。俺は姉貴に手を引かれ、姉貴の部屋に足を踏み入れた。
「太郎ちゃん、いらっしゃいませ〜」
「はいはい、お邪魔します」
姉貴の部屋。俺たちは将棋盤を挟んで向かい合った。
「じゃあ、いつも通り飛車角桂香抜きで」
「うん」
これくらいのハンデがないと勝負にならない。もちろんハンデをもらうのは俺のほう。
中学高校と将棋部に所属し部長まで務めた姉貴は、べらぼうに将棋が強かった。高校の将棋界では美少女棋士として有名だった――と本人が言っているが、その真相は定かではない。
「じゃあはじめるか」
「うんっ」
姉貴はすっと背筋を伸ばし、正座をしている。なんだか雰囲気が落ち着き、表情も引き締まった感じ。将棋を指すときの姉貴はいつもこんなふうだ。俺はこういうときの真剣な姉貴の姿を見るのが嫌いじゃなかった。
俺の視線に気づいた姉貴は、ぽっと顔を赤くして、
「もう……太郎ちゃんたら。そんな真剣な目で見つめられたら、わたし照れちゃうよー」
「…………」
姉貴は両手を頬に当て、照れくさそうに身をよじらせている。台無しだった。
「……そういえばさ」
将棋の途中、俺は姉貴に声をかける。
「昨日の夜……姉貴と母さんはなにしてたんだ?」
「えっ?」
姉貴がびっくりした顔を上げる。
「いや、な……昨日の真夜中にさ、トイレに行こうと思って一階に下りたら……」
昨日の夜――ダイニングのほうからなにやら話し声がするなあと思い、俺は何気なく覗いてみた。
ダイニングには姉貴と母さんがいた。
テーブルの上には料理の乗っていない皿が何枚か置かれている。姉貴と母さんは横に並んでテーブルにつき、そして……その向かいにある二つの椅子には、なぜか大きなクマのぬいぐるみとブタのぬいぐるみが並べて置いてあったのだ。
姉貴と母さんは、なにやらぬいぐるみに話しかけているようだった。
ときおり、ぎこちない笑顔を浮かべながら「あはは」と笑い声を上げたりしていた。なにも乗ってない皿に手を向けて「どうぞ」とか「いっぱい食べてね」とか言ったりしていた。さらには、二匹のぬいぐるみに向かって「二人はもう付き合ってるの?」とか尋ねたりもしていた。
しばらく眺めていると、椅子に座る姉貴の体がぶるぶると震えはじめた。
そして姉貴は「ふおおおおおおおおっ! も、もう我慢できないよおお――っっ!」とか叫びながら椅子から立ち上がると、向かいに座っていたブタのぬいぐるみの首根っこをむんずとつかみ上げ「き、貴様あ! 貴様なんぞおおおおっ!」、それを思いっきりオーバースローで床にたたきつけた。
それを見た母さんは「し、静香さんっ! 落ち着いてくださいっ! いまからそんな調子だと、本番は確実に失敗しますよっ!」とか言いながら、床にたたきつけられたブタのぬいぐるみに強烈な蹴りを何度も喰らわせていた。完全にセリフと行動が相反していた。
すぐに我に返った様子の二人は「ハッ!? わ、わたしはなにを……」「わ、私も、いつの間にか蹴りが……」、ぬいぐるみを元の椅子に座らせ、自分たちも椅子に座り直すと「もう一度最初からです、静香さん!」「う、うんっ!」、再びぎこちない笑顔を浮かべながらぬいぐるみとの会話をはじめたのだった。
……正直、それはかなり奇怪な光景だった。
眺めているだけで脳機能の一部がどうにかなっちゃいそうなほど、歪で不可解な光景だった。
「た、太郎ちゃん――あれを見てたの!?」
「ああ……あれは、いったいなんの儀式だったんだ?」
声をかけようかどうか迷ったのだが、あまりの異様な雰囲気に声を発することができず、忍び足で自分の部屋に戻ったのだ。
「え、ええーっと、あれは……」
姉貴はだらだらと顔面から汗を流しながら、
「あ……あれは、ただのおままごとだよっ」
「おままごとって……姉貴たちいくつだよ。それに、あれはおままごとみたいな楽しい感じじゃなかったような気が……」
あのときの二人は、顔は笑っていたのになぜか全身から必要以上の緊迫感が放出されていた。あんな楽しくなさそうなおままごとは嫌すぎる。
「あ、ああ、あれはね……さ、砂戸家の暗部なの。だから、それ以上は訊かないで……」
「砂戸家の暗部……」
意味不明だったが、聞くのも怖いのでそれ以上はつっこまないことにした。
――将棋は珍しくいい勝負だった。いつもは、ほとんど一方的に俺が負けてしまうのに。
一局終え、自分の部屋に戻ったときにはもう六時近く。
けっこう時間かかったな。姉貴、もしかして今日は調子が悪かったのかもしれない。
……まあ、結局負けたのは俺のほうなんだけど。
夕食の時間までもうすぐ。俺はベッドに横になり、ゆっくりしようと――
そのとき、ベッドの上に置いてあった携帯電話が短い着信音を鳴らす。
俺は携帯を手に取った。メールの着信……結野からだった。
『来たけど』
メールには、それだけの文字が書いてあった。
俺は首をかしげ、
「は? 来たけどって……どういうことだ?」
来たということは、結野はどこかに向かったということだろう。そしてそこに到着した。
だが、なぜそんなことを俺に報告するのだろうか?
「もしかして……メールを送る相手を間違えたのか?」
結野が、石動先輩やみちる先生とかとどこかで待ち合わせをしていて、その到着の報告を送ったとか……
「まあいいや。電話して確かめれば、全部はっきりすることだし」
つぶやき、結野の携帯に電話をかけようとして――ふと、思い至る。
まさかな……と思いながら俺は立ち上がり、窓のそばに寄った。
窓からは家の玄関が見える。そこには――
「えっ? ゆ、結野?」
玄関の前には、結野が立っていた。
グリーンのカーディガンに、下は水玉模様のスカート。茶色のブーツを履いていた。結野はどこか居心地悪そうにそわそわしながら、俺の家を見上げたり、自分の服をじっと見下ろしたり、手鏡を取り出して自分の前髪とにらめっこしたりしている。
「来たって……そういうことなのか?」
さっきのは間違いメールではなく、俺に向けたメールだったのか?
「で、でも、なんで結野が俺の家に……」
俺は微妙にあたふたしながら、昨日までの学校生活を回想し、結野が俺の家に来るに値する正当な理由を探したが……いや、なにも思いつかないです。
とにかく、あのまま結野を放ったらかしにはできない。
俺は急いで部屋を飛び出した。
ドアを開け玄関に出ると、結野は慌てて手鏡をしまった。門戸を開け、結野の目の前まで近づく。
「え、ええーっと、結野……?」
なにを言えばいいのかわからず、困惑していると――
「ちゃ、ちゃんと来たから……」
うつむきながら、結野は一生懸命な感じで言う。
「美緒さんとオセロする約束してたんだけど……それをドタキャンしてまで、ちゃんと来たんだよ……だから……」
なぜかその表情は必死で、切羽詰まってる感じがした。結野は俺を見上げると、
「だから……自殺なんて、しないでよ……」
と、微妙に瞳を潤ませながら言った。
「へ……?」
「わたしにできることがあれば、いくらでも協力するから、だから……」
「…………」
自殺? 誰が自殺するんですか?
これはもしかして結野的ジョーク? いや、そんな雰囲気でもないし。
「あ、あのさ、結野……悪いが、まったく話が読めないんだけど。つーか自殺って……俺が自殺するのか? なんで?」
「え? だ、だって……」
結野はぽかんとした顔で、
「あんたがさっき、そんなメールを送ってきたんじゃない。『今日は俺の家に夕食を食べに来てくれ。もし来てくれなかったら自殺する』って、そう書かれたメールを。わざわざこの家の場所を記した地図まで添付して……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 俺はそんなメール送ってねえぞ!」
言うと、結野は目を丸くして、
「でも、メールはタローの携帯電話から発信されてたよ?」
「は? マ、マジか?」
結野は携帯電話の受信メールボックスを開き、俺に見せてくれる。
確かにそこには、いま結野が言った内容のメールが送られてきていた。しかも、発信は間違いなく俺の携帯からされている。
だが、俺はそんなメールを結野に送った覚えはない。絶対にない。
俺は愕然としながら、
「ど、ど、どういうことなんだ……?」
「ほんとにタローが送ってきたんじゃないの?」
「ああ……」
そのときだった。
背後のドアが開く音がした。俺はぎょっとしながら振り返った。
「げげっ!?」
そこには――姉貴と母さんがいた。
「…………」
「…………」
二人は、門戸の外に立つ結野をじーっと見つめている。無表情でじーっと。
「あ、姉貴……母さん……」
姉貴と母さんは無表情のまま、のしのしとこちらに歩いてくる。その両目は完全に結野をロックオンしていた。
「ちょ、ちょ……姉貴っ! 母さん! こ、この人は、ただの新聞勧誘……」
やばい。超がつくほどのブラコンである姉貴と、超がつくほどの子煩悩である母さん。
そして、なにかの間違いとはいえ俺の家まで来てしまったクラスメイトの女子である結野。こ、これは、ただごとではないなにかが起こりそうな……
二人は俺を押しのけるようにして、結野の眼前に立つ。
「あ、あの……」
結野は緊張した顔をしながら、二人に軽く頭を下げ、
「タロ……砂戸くんのクラスメイトの、結野嵐子といいます。は、はじめまして……」
と、挨拶をした。俺は戦慄で背中が震えた。
五月の終わり、俺と結野は二人で動物園に行った。その日の夜、俺は結野にメールを送り、結野からも返事が来た。そして、運が悪いことにそのメールを姉貴と母さんに見つかってしまったのだ。
「や、やべえ……」
姉貴と母さんがメールの送信者である結野の名前を忘れてるはずがない……これは恐ろしい騒ぎになるかもしれないと思いながら、俺は二人の顔を見た。
だが――
「そうですか、太郎さんのクラスメイトなんですか。はじめまして、私は太郎さんの母親の智子といいます」
「わたしは太郎ちゃんの姉の静香です。よろしくね、結野さん」
と、二人はとても丁寧な挨拶を返した。え……?
俺は激しく困惑しながら二人を見ていた。い、いったいどうしちまったんだ? もしかして、結野のこと忘れてるのか? いや忘れてるにしたって、クラスメイトの女子が俺のところに訪ねてきたなんてことを知った二人が、こんな平静な態度を……
「結野さんはどうしてうちへ? 太郎さんになにかご用でも……あ、すみません、こんなところで立ち話なんかさせてしまって。どうぞ、家の中に入ってください」
えっ!?
「うん、そうだよ。……あ、もしよかったら、うちで夕ごはんを食べてもらったらどうかな? 結野さんが迷惑でなければだけど」
ええっ!?
「それはいい考えですね、静香さん。……結野さん、もう夕食は済みましたか?」
「い、いえ……まだですけど……」
「じゃあ、うちで食べていってください。太郎さんのクラスメイトなんですから、おもてなしをさせてほしいんです。迷惑ですか?」
「そ、そんな……迷惑だなんて……」
「じゃあ決まりだね。さ、結野さん。どうぞどうぞ」
姉貴と母さんは穏やかな様子で結野を見つめている。
「じゃ、じゃあ……」
少しの逡巡のあと、
「お言葉に、甘えます……」
結野はそう言った。
「…………」
俺は顎が外れそうなほどあんぐりしながら、いま目の前で起こった一連の出来事を眺めていた。
あ、姉貴も母さんもいったいどうしてしまったんだ? もしかして俺はパラレルワールドに迷い込んでしまったのか?
二人に案内されて家の中に入っていく結野の背中を、俺は呆然としながら見つめていた。
ダイニングにある食事用のテーブルにつきながら、結野はなんかそわそわしていた。うつむいたり、辺りをきょろきょろ眺めたり、ちょっと挙動不審な感じ。
「な、なんか……緊張する……」
ぽつりと、そんなことをつぶやいたりしている。
俺だって緊張するよ。見慣れたリビングの風景に、いつもはいるはずのない結野がいる。それだけで、どうして俺の胸はこんなドキドキしてしまうのだろう。
「わ、わたし、ほんとに夕ごはんをごちそうになっていいの?」
「姉貴と母さんがそうしていけって勧めたんだから、いいに決まってるだろ」
「でも、もし社交辞令とかだったら……断ったほうがよかったのかもとか思っちゃって……」
「大丈夫だって。この際だから、遠慮なく食べていってくれ」
「う、うん……」
それにしても――結野にメールを送ったのは誰なのだろうか?
メールは確かに俺の携帯電話から送られている。だが、部屋にある携帯をチェックしてみても、そんなメールの送信履歴はなかった。これはいったいどういうことなんだ?
「ね、ねえ、わたし、なにか手伝ったりしなくて大丈夫かな……?」
キッチンのほうを眺めながら、結野が不安そうに言ってくる。
俺は軽く笑いながら、
「結野はお客様なんだから、くつろいでてくれよ。手伝いは俺がしてくるから」
と、立ち上がる。俺にできることといえば料理が盛られた皿をテーブルまで運んでくるぐらいだが、それでもいないよりはマシだろう。
「あ……なんかごめんね」
「いいって」
俺はキッチンに向かって歩いていった。さて、料理のでき具合はどんな感じだろうか。
キッチンに入ると――
「……うまくいきましたね、静香さん」
「……うん。フェイズ1は予定通り完了だよ」
「では、引き続きフェイズ2に……」
姉貴と母さんが顔を近づけてなにやらぼそぼそ喋っていた。
二人はキッチンに入ってきた俺に気づくと、一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。が、すぐに笑顔を作り、
「た、太郎さん、どうしたんですか?」
「いや……なんか手伝えることないかなって思って……」
「じゃ、じゃあ太郎ちゃん、こっちの料理をテーブルに運んでほしいな」
「おう、わかった」
と、俺は盛りつけの終わった皿を持つ。
それにしても……さっき二人はなんのことを話していたのだろうか。
母さんと姉貴の手によって料理はできあがっていき、俺はそれをテーブルの上まで運んだ。そして――すべての料理の配膳が終わる。
一口ステーキにからあげ、クリームシチュー、鮭のムニエル、フルーツの盛り合わせになぜかホールケーキまで……
「…………」
な、なんなんだ、この必要以上に豪華な料理は。もしかして今日は誰かの誕生日とか記念日……いや、俺の記憶が確かならば、そんなことはないはずなんだが……
「す、すごい料理……ねえ、タローの家の夕食っていつもこんな感じなの?」
「いや……いつもこんなんじゃないけど……」
俺と結野が並んで座り、向かいに母さんと姉貴が座っている。二人は愛想のいい笑顔を結野に向け、
「さあ、結野さん。いっぱい召し上がってくださいね」
「そうだよ、いっぱいいっぱい食べてねー」
「は、はい、じゃあ……いただきます」
結野は言って、手近にあった料理に箸をつける。
「あ……す、すごくおいしいっ」
結野はびっくりした顔でつぶやく。姉貴と母さんに顔を向け、
「あ、あの……とってもおいしいです」
と、お世辞ではない様子で言う。
「そうですか? ありがとうございます。うれしいです」
「結野さんの口にあってよかったよ。あ、これもおいしいから食べてみてね」
「は、はい……」
姉貴が取り分けた料理を、結野ははむっと口に入れる。ぱっと顔が輝き、
「うわぁ……ほんとにおいしいなぁ……」
「結野さんはお料理とかするんですか?」
「えっ? い、いえ、ぜんぜんできなくて……だから、こんなおいしい料理が作れるなんてすごくうらやましいです」
「このくらいの料理だったら、結野さんだってすぐに作れるようになりますよ」
「うん、お母さんの言う通りだよ。あっ、そうだ、もしよかったら今度わたしたちといっしょに作ってみるってのはどうかな?」
「それはいい考えですね。なんだか楽しそうですし」
「は、はい……じゃあ、ぜひ……」
のどかで平和的な会話がテーブルの上を行き交っている。
もともと普段の母さんはおしとやかな良識人。姉貴も穏やかで気さくな優等生タイプの人間で、中高生のときはよくクラス委員長を任されたりもしていた。
だというのに、俺のことが絡むと二人の性格……というかテンションは一変する。ハイテンションを超えたアホテンションとなり、超迷惑で非常識な人間へと変貌してしまうのだ。
だが、いまの二人はどういうわけか……
「結野さんは、太郎さんと同じクラスなんですよね?」
食事の途中、母さんが結野にそんなことを尋ねる。
「え? あ、はい……」
「そういえば、太郎ちゃんって最近部活をはじめたみたいなんだけど、結野さんもなにか部活に入ったりしてるの?」
「は、はい……ええーっと、砂戸くんと同じ部活に……」
「――ぶっ!」
俺は飲んでいた麦茶を吐きそうになった。
ゆ、結野……そんな情報を二人に与えちゃったら、暴走を……
だが、母さんはどこまでも穏やかな様子で、
「へえ、そうなんですか。クラスも同じで部活も同じ。じゃあ結野さん、学校にいる時間はほとんど太郎さんといっしょにいるということですね?」
「い、いえ、そういうわけじゃ……」
結野はうつむき加減で、
「クラスと部活が同じで、あとはいつもいっしょに下校してるぐらいで……」
「げぶぁああっ!?」
俺は今度こそ麦茶を吐き出してしまった。
地雷だ。結野は特大の地雷を踏んづけちまったのであります。
いっしょに下校……その事実を知った二人はきっと激怒してしまう。もはや平穏な食事会は終わりを告げ、ハリケーンのような騒ぎに……
「へえ、二人はいっしょに下校してるんですか」
と、母さんは普通の口調で言った。ええ……?
姉貴と母さんは、平然とした様子でほほ笑んでいる。しかも――
「いつもいっしょに帰ってるなんて、まるで恋人どうしみたいだね。もしかして、二人はもう付き合ったりしてるの?」
「え……そ、そんな……」
姉貴の言葉に、結野は顔を真っ赤にしながらうつむく。
「そんな……ま、まだ、付き合ったりとかは……」
「まだ――ってことは、いずれはそうなりたいって思ったりしてるのかな?」
「えっ!? そ、そそそそそーゆーことじゃ……」
「うふふ。結野さんみたいなかわいい女の子が太郎さんの恋人になってくれるなら、私も親として安心しますけど」
「…………」
二人のからかい半分みたいな言葉に、結野は首筋まで真っ赤になっていた。
俺は――
「…………」
真っ青になっていた。
この常識的なやりとりは、いったいなんですか?
これは夢か? ぜんぶ夢の中の出来事なのか? そうとしか考えられない……だってあの姉貴と母さんが……
三人の穏やかな会話。俺はその光景をぷるぷるしながら眺める。あまりの違和感に時空が歪んで見えるほどだった。
が、そのとき。
俺は、一つの仮定に到達した。
「まさか……いや、もしかして……」
もしかして――姉貴と母さんは……
やっと、目が覚めたのではないか?
息子や弟に非常識というかむしろ非合法な感じの愛情を注ぐことに対しての異常性を認識し、それを反省し、二人は生まれ変わったのではないのか?
そうだ……そうに違いない。
いま目の前に現れている光景がその証拠じゃないか。姉貴と母さんは、ある意味で俺から卒業していったのだ。きっとそうなのだ。
「そっか……そうだったのか……」
それを少し寂しい――とはまったく思わなかった。というか死ぬほどうれしかった。ああ、やっと俺たちはまともな家族になれたんだな……
「ううう……どうしてだろう、悲しくないのに涙が出ちゃうよ……」
泣くなよ太郎……こんなおめでたい日に、涙は似合わないぜ……
こみ上げてくるものを必死に我慢し、俺はほほ笑みを浮かべた。
――食事が終わり、食器がテーブルから片付けられる。母さんはキッチンで使い終わった食器を洗っていた。姉貴は、友達から電話がかかってきたので一旦部屋に戻っているらしい。
「あーもう、おなかいっぱい……」
片手でおなかをおさえながら、結野が言う。俺はその様子をぼんやりと眺めていた。
俺の視線に気づくと、結野はハッとしたような顔をし、
「……わたしのこと、よく食べる奴だなあって思った?」
「へ? いや、べつに……」
「きょ、今日は、ごはんがおいしかったから……いつもは、こんないっぱい食べたりしないのよ。ほ、ほんとなんだから」
結野は少し顔を赤くし、慌てた様子で言う。
「そ、それに、せっかく作ってくれたんだから、残しちゃ悪いと思って……」
「べつにそんなことは思ってねえよ。むしろ結野はちょっと痩せ気味なんだから、もっと食べたほうがいいんじゃねえかって思ってるぐらいなんだから」
「え……わたし、痩せ気味に見える?」
「ああ、まあな。どっちかと言えば痩せてるほうだと思うぞ」
「そっか……そう見えてるんだ……」
結野はつぶやくように言うと、なにやら上機嫌そうなほほ笑みを浮かべる。
「おう、そう見えてるぜ。おまえは痩せてるしスタイルもいいよ。ははは……」
結野は、俺の顔を眺めて少し首をかしげる。
「……タロー?」
「ん?」
「あの……なんで、さっきからそんな菩薩様みたいな優しい笑みを浮かべてるの?」
「え? 俺ってそんな顔してるか? はは、まいったな……」
無理もない。こんな穏やかな気持ちになったのは生まれてはじめてかもしれないのだから。
「俺はいま、生きとし生けるものすべてに対してお礼を言いたい気分なのさ。ああ、生きてるって素晴らしいなぁ……家族って素晴らしいなぁ……」
「へ?」
結野は訝《いぶか》しげな顔をして、
「よくわからないけど……あっ、そうだ、わたし後片付けのお手伝いしてくるね。ごちそうになったんだから、それぐらいはしなくちゃ」
言って、結野は立ち上がる。
「おお、ありがとう結野……そしてありがとう世界……僕たちはみんなつながってるんだね……一人じゃないんだね……」
結野はちょっと気味悪そうにしながらキッチンに向かっていった。変な宗教に目覚めてしまった人を見るような目だった。
そんな結野の視線に――
「さ、さらにありがとう……はあ、はあ、はあ……」
俺は棚からぼた餅的な快感を感じてしまっていた。
後片付けが終わり、すぐに帰ったほうがいいのかどうか迷ってる感じだった結野に、姉貴と母さんはこんなことを言ってくれました。
『ごはんのあとすぐ動くのもつらいでしょうし、よかったら少しくつろいでいってください。私たちといっしょだと気を遣うかもしれませんから、太郎さんの部屋でゆっくりしてくださいな』
『そうだよ。それに、わたしたちはお邪魔かもしれないしねー』
結野は照れていたが、俺はもう感無量だった。
女の子と二人っきりで部屋で過ごすことを、自分たちから提案する。これは二人が俺から卒業したことの証のように思えた。
間違いない、もう間違いないのだ。
「俺は……今日という日を一生忘れないだろう……」
俺はふるふると震えながらつぶやいた。隣では結野が首をかしげていた。
結野を二階に続く階段のところまで案内する。
と、そこで、お茶でも用意したほうがいいんじゃないかと思った俺は、結野に「ちょっとここで待っててくれ」と言ってからキッチンのほうに引き返した。
キッチンにはまだ姉貴と母さんが残っていた。
「ひゅー、ひゅー、ひゅー、ひゅー……」
「ぜぇー、ぜぇー、ぜぇー、ぜぇー……」
二人はキッチンの流しに片手を置き、なぜか激しく肩で息をしていた。修羅のような顔をし、流しに置いてないほうの手で自分の胸を鷲づかみにしながら、
「シ、シミュレーションを何度も繰り返したのに……やはり実戦は違いますね……」
「う、うん。前もって知っていた情報とはいえ、魂が持っていかれそうだったよ……」
「ですが、結野嵐子のあの態度……やはりこれは、予定通りフェイズ3に移行する必要があるようですね……静香さん、ぬかりはありませんか?」
「うん、バッチリだよ……これまでは軽いジャブ程度、本番はこれからなんだから……」
二人はなにか会話をしているようだが、その声は小さく聞き取りにくかったのでなにを言っているのかわからなかった。
「あの……二人ともなんかつらそうだけど、どうしたんだ? 大丈夫か?」
おずおずと声をかけると、二人はすごい勢いでこちらに振り返った。
俺の姿を認めた瞬間、その表情がぎょっと強ばる。
「た、太郎さん!? い、いい、いえ、大丈夫ですよ。し、静香さんがラマーズ法を教えてほしいとか言ってきたから、ちょっと教えてただけで……」
「そ、そそそそうだよ、将来のために教わってたの! ヒッ、ヒッ、フーっ! ヒッ、ヒッ、フーっ!」
言って、二人はあははと笑う。
「そっか……それならいいんだけど」
紅茶を入れ、結野のところに戻る。
「お待たせ」
「あ……うん」
俺が先に階段を上り、後ろに結野が続く。
微妙に距離を開け、お互いの体が触れないように注意する。男性恐怖症の結野は、男性の体に触れると無意識のうちにその男性を殴ってしまうという習性があるのだ。
階段を上がりながら、ふと思う。それにしても……まさか女の子を自分の部屋に入れる日が来るなんて思わなかったな。でも、よかった。部屋はちょっと前に片付けをして、いまはわりと綺麗な状態なのだ。
「ここが俺の部屋だ。さ、入ってくれ」
片手で紅茶の乗った盆を持ち、ドアを開ける
「な、な、ななななんじゃこりゃあああああああああああああ――――っっ!?」
俺は思わず絶叫してしまっていた。
わりと綺麗な状態だと思っていた俺の部屋は――あり得ないぐらいに散らかっていた。
床にはゴミや雑誌や衣服が散乱し、ひどい様子。タンスはすべて開けっ放し、ベッドの上には漫画本が平積みされているように置かれ、ゲーム機やテレビなどのコードはぐちゃぐちゃにからまりなぜか部屋の真ん中に放置されていた。どういうわけかテレビまで傾いてる始末……
びっくりしすぎて紅茶の乗った盆を落としてしまうところだった。呆然とする俺の後ろでは、結野がぽかんと口を開けている。
「い、いや、これはなんというか、その……」
慌てて結野に説明を試みるが、自分でも理解不能なことを他人に説明できるはずがない。俺は二の句が継げなくなり、口をぱくぱくさせるだけだった。
これはやばい。きっと結野は、嫌悪感丸出しの顔で俺を――
俺は恐る恐る結野の顔を見つめた。
結野は大きく深呼吸すると、「よしっ」と気合いを入れるように一声つぶやき、思い切った感じで俺の部屋に足を踏み入れた。
結野は部屋の中でしばらくじっとしている。汚い部屋に驚いてる……という様子には見えなかった。
やがて、部屋の中をゆっくり見回すと、
「もう……なによ、この部屋は」
言って、結野は『しょうがないなぁ』というような感じの苦笑を浮かべる。
「こんな部屋じゃ、ゆっくりなんてできないじゃない。とりあえず二人で手分けしてちょっと片付けようよ」
そう俺に告げると、結野はてきぱきとした様子で散らかった部屋を整理していった。
「料理はできないんだけどね……掃除とかだったらちょっと得意なの」
床に散乱していた雑誌を拾い上げ、投げ出されていたTシャツを綺麗にたたみ、ゴミを拾って一つにまとめる。とても手際のよい作業だった。
「小さな子供じゃないんだから、自分の部屋くらいちゃんとしなさいよね」
そんなふうに注意してくるが、その言葉はどこかあたたかい響きを感じさせる。もしかすると結野って、けっこう母性本能が強いタイプの女性なのかもしれない。
部屋を整理していく結野の姿を、俺はぼんやりと眺めていた。
女の子が俺の部屋を片付けてくれている……なんか、照れくささとうれしさが入り交じったような、不思議な感じがした。
「……って、俺も手伝わないと」
俺は紅茶の乗った盆を適当なところに置くと、まず床に落ちてるゴミを重点的に片付けていくことにした。
ゴミをあらかた片付け、ふと結野のほうを見やると――
「ん?」
結野はなぜか顔を天井のほうに向けていた。その表情は微妙に青ざめている。いったいどうしたんだ? 結野の視線を追っかけると……
「げぶううううううううう――っっ!?」
俺は目玉が飛び出そうになった。
天井には――なぜか、マッチョなボディビルダーのポスターが貼ってあったのだ。
大きなマッチョのポスターが……三枚も。小麦色の肌、岩のような筋肉、そしてキラリと輝く白い歯……三人のマッチョ戦士たちが高いところから俺たちを見下ろしている。
「な、な、ななななんだありゃあ!?」
あんなポスター持ってないし貼った覚えもないぞっ! なぜあんなものが天井に……
「タ、タロー、あんた……」
結野はカクカク震えながら、俺のほうを見ると、
「あんたって……もしかして、ゲイの人なの?」
「違うッ!」
俺はマッハのスピードで否定した。
結野は引きつった笑みを浮かべ、
「あ……そ、そうよね、あんなポスターだけでゲイとか決めつけるのは間違ってるよね。ただ、筋肉に妄執的な憧れがあるだけかもしれないし……」
「そんな憧れは持ってませんから! 担任の中山《なかやま》じゃねえんだし!」
俺たちのクラス担任である中山先生は身長一八五センチのすげえ筋肉質な体をした体育教師で、筋肉が世界を平和にすると本気で信じている筋肉至上主義者だ。
「と、とりあえず気にせず片付けを続けることにする……あんまり上は見ないようにしながら……」
結野は自分に言い聞かせる感じでそんなことをつぶやいたあと、手に持っていた衣服を軽くこちらに掲げ、
「ねえ、この脱ぎっぱなしにしてあった服とかはどこに片付ければいいの? ここにあるクローゼットの中でいい?」
「え? ああ、その中にあるハンガーにかけといてくれればたすかる」
「ん。わかった」
「なんか悪いな」
結野は片腕に衣服を掛けるようにしたまま、もう一方の手でクローゼットの扉を開ける。
その瞬間――
「え……?」
ガラガラガラガラッ! とクローゼットの中から大量の『なにか』が落ちてきた。
それを間近で見た結野は、
「ひ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい――――――っっっ!?」
と、けたたましい悲鳴を上げた。
クローゼットの中から雪崩のように落ちてきたもの……それは、大量の『腕』だった。
肘の辺りで切り離された、真っ白なマネキンの腕。それが何十本もクローゼットの中から落ちてきたのだ。ガラガラガラと、落ちてきたのだ。
「――って、マネキンの腕だとおおおおおおおおお――っ!?」
俺は、あまりに驚愕してしまって顎が外れそうだった。
クローゼットの下に溜まる白い腕。よく見るとなぜか左腕ばかり。しかも、腕の一つ一つに油性ペンで『サオリ』とか『カホ』とかいう名前が書いてあった。あまりにシュールで異常な光景だった。
「…………」
「…………」
嫌な沈黙が部屋を支配した。
結野はガクガクブルブル震えながら、真っ青な顔を俺に向ける。
「タ、タ、タタタ、タロー、こ、ここ、こここれは……?」
完全に性的倒錯者を見る目をしていた。
「な、なな、なんで、こんなものを集めてるの……?」
「し――知らんっ! お、おおお、俺はそんなもの集めた覚えはねえっ!」
「こ、こ、こういう趣味をお持ちなの……?」
「こういう趣味ってどういう趣味だっ!? ちゃんと話を聞いてくれっ! ちゃんと……は、はなしを……はあ、はあ、はあ……」
結野の怯えた視線にちょっとだけドM体質が反応してしまっていた。というかいまの状況で息を荒げるのはやばすぎるっ! なんとか我慢しないと……はあ、はあ……
「ほ、本当に違うんだっ! これはなにかの間違いで……」
「そっか……うん、大丈夫よ……わたしは大丈夫だから……」
なにが大丈夫なのかはわからないが、結野はぶつぶつとそう繰り返していた。
マッチョなポスターといい、マネキンの腕といい、いったいどうなってるんだ? 俺の部屋はどうなってしまったというのだ?
激しく混乱する俺の視界に、なにかキラリと光るものが一瞬だけ映った。
「……?」
光を放ったのは、ベッドの下だった。なにやら嫌な予感を感じながら、土下座をするような格好でベッドの下を覗き込む。
「…………」
斧が、あった。
木こりが使うような大きな斧が、ベッドの下に隠すようにして置いてある。
「タロー? どうしたの?」
「いやべつに」
俺はその斧を素早く奥に押し込んだあと、作り笑いをしながら立ち上がった。顔は笑っていたが、背中には嫌な汗が伝っている。
本当に、俺の部屋はどうなってしまったんだ……?
俺たちは微妙にぎくしゃくしながら、部屋の片付けを続けた。
――ようやく部屋の整理が一段落ついた頃、俺たちはやっと床に腰を下ろすことができた。部屋にあった一番綺麗な座布団を結野に勧める。
「悪かったな、結野……いろいろと」
「い、いいわよ、べつに」
それにしても……なぜ、部屋があんなことになってしまっていたのだろうか。謎だ。ミステリーだ。
一番有力なのはボルターガイスト……そんなことを考えながら紅茶を一口飲む。紅茶はすっかり冷めてしまっていた。これは入れ直したほうがいいかな。
と――
俺の向かいに座り、紅茶のカップを手に持つ結野の顔が、なんだかすごく強ばっていることに気づいた。姉貴や母さんといっしょだった夕食のときよりも緊張しているように見える。
あっ……と、俺は気づく。
「ゆ、結野、ごめん」
「え?」
結野はきょとんとした顔を向けてくる。
「俺と二人きりなんて……おまえはつらいよな。気づけなくて、悪い」
そう――結野は男性恐怖症なのだ。
そんな結野にとって、部屋で男と二人きりなんて状況は、とてもつらいだろう。結野はいまもしかすると、男性恐怖症の原因となった過去の出来事を思い出して苦しい気持ちになっていたのかもしれない。
いま思えば、結野が部屋に入る前にしていた深呼吸や気合いの言葉も、男の部屋に入る恐怖心をごまかすためだったのだ……それでも、結野は勧められるまま、俺の部屋に足を踏み入れてくれた。それはきっと、俺に気を遣って……
「…………」
自然と顔がうつむいていく。
本当に迂闊だった。配慮が足りなかった。
「と、とりあえず下に戻るか。姉貴と母さんといっしょだったら、おまえだって……」
「タロー……」
結野はしばらく俺の顔を見つめたあと、ゆっくりと首を横に振った。
「ありがと……でも、大丈夫だよ」
「え? け、けど……」
「ほんとはね、ちょっとだけ怖かったりもしたけど……でも、もう大丈夫だから」
言って、やわらかな笑みをまっすぐ俺に向けてくる。
「タローだから……大丈夫」
「…………」
――思わず、呼吸が止まった。
顔、熱いし。心臓ドキドキしてるし。
「タロー? どうしたの?」
「……お、おまえさ……あんま、男と二人っきりのときに、いまみたいなセリフは言わないほうがいいぞ……」
「え? なんで?」
と、結野は首をかしげる。まったく……こいつは少し天然なのか?
ドキドキするしなんか恥ずかしいので結野の顔から目を逸らしたいのだが、なぜかそれができない。そして結野も、俺のほうをじっと見つめている。その顔はみるみる赤くなっていく。俺の鼓動も加速していく。それでも、お互いの視線を逸らさない。潤んだような結野の大きな瞳が、まっすぐに俺を見つめている。俺はなんか変な感じに沸点を超えそうで――
そのときだった――
床が振動するほどの轟音を放ちながら、部屋のドアが開いたのは。
「な……」
俺と結野は驚いた顔をドアのほうに向ける。
そこに立っていたのは――姉貴と母さん。
二人はわなわなと体を震わせながら、血走った目をこちらに向けている。ついさっきまでの穏やかな表情とはまったく違う、狂気に近い気配を全身から漂わせていた。
「し、しし静香さん、どうやらフェイズ3も失敗に終わったようですね……」
「そ、そそそうだね、これはもうフェイズ4に移行するしか道は残ってないよ……というか、このまま傍観してたらこっちの頭がおかしくなっちゃうよ……」
「まったくもって同感です……なんですか、いまのいい感じの雰囲気は……ピンク色の空気は……」
「ほ、ほんとだよ……あのまま放っておいたらキスでもしかねん勢いだったよ……もしそんなことになっちゃったら……これ以上はR指定で口にはできないよ……」
ふしゅー、ふしゅー、と蒸気を吐き出すような呼吸を繰り返しながら、姉貴と母さんはこちらを睨むように見ている。俺と結野は呆気にとられ、身動きすることも思考を働かせることもできなかった。
「と、いうわけで……フェイズ4、解禁っ!」
「了解だよっ!」
二人は叫ぶように言うと、だだだっと部屋に入ってきた。お、おい……これはいったいどういう……つーかフェイズ4って……
「結野さんっ!」
「は、はいっ!」
急に名前を呼ばれた結野の背筋がしゃんと伸びる。
「結野さんはクラスも部活も下校時も太郎さんといっしょ……でもですねっ! いっしょにいる時間だったら、私たちのほうが遥かに上なんですよっ!」
母さんはそんな声を上げると、腕に抱えていた分厚いアルバムを結野の目の前に置いた。
分厚いアルバム……七冊を。
そのアルバムには見覚えがあった。そ、それは……
「結野さんっ! これはですね、太郎さんの写真を収めたアルバムなんですよっ!」
「この中には、わたしたちと太郎ちゃんとの思い出がいっぱいつまってるんだよっ!」
「ちょ……お、おいっ! 急に部屋に入ってきたと思ったら、なんでそんなもんを持ってくるんだよっ! とりあえずいろいろ説明を――」
叫ぶが、完全に無視。母さんと姉貴は結野の両脇に陣取り、アルバムを開ける。
「ほら、これを見てください! これは生まれたばかりの太郎さんなんですよっ! 私の胸に抱かれながら安らかに眠ってる姿は、とっても愛くるしいですよね!?」
「は、はい……確かにかわいいです……」
「ぬぐわあああぁ!? か、母さん! 恥ずかしいからそんな写真を結野に見せないでくれよっ!」
それは病院での写真だった。
産着に包まれた俺が、母さんの胸の中に抱かれている。母さんはとても幸せそうな顔をしながら、小さな俺に慈愛のこもったまなざしを向けていた。
「生まれたばかりの太郎さんはこう言いました……僕は智子さんに会うために生まれてきたんだよ、アイラブユー……」
「言ってねえよっ! つーか喋れねえしっ!」
「ほら結野さん、こっちの写真も見て見てーっ!」
姉貴が指さしたのは、公園で俺と姉貴が並んで写ってる写真だった。
二人で手をつなぎ、笑顔でびしっとピースサイン。姉貴は頭の上のほうで髪を二つに縛っていた。この頃はまだ姉貴のほうが俺より背が高い。
「わたしが八歳くらいで、太郎ちゃんが四歳くらいのときかな。このときの太郎ちゃんもすんごくかわいかったんだよぉ! ほっぺなんかぷにぷにしてたのっ!」
「は、はあ……確かにかわいいですけど……」
「だーかーらーっ! 恥ずかしいからやめてくれえええ――っ!」
「この頃の太郎ちゃんってね、近所の頭の悪そうな子供たちにちょっといじめられてたんだよー。それを見つけたわたしがね、その子供たちを追い払ってあげたの。そしたら太郎ちゃん、すっごくわたしに感謝してくれて……大人になったら結婚しようって約束してくれたの……あのときの太郎ちゃんの言葉、いまでも忘れられないよ……」
「そんなことは言ってねえっ! 俺がそのとき言ったのは、いじめっ子たちをもうゆるしてやってくれってことだけだっ! 俺がいじめられてるのを目撃して怒り狂った姉貴は、いじめっ子たちを全員半殺しにしたんじゃねえかっ! あのときの修羅のような姉貴が忘れられねえよ!」
お、おい、なんだよ二人のこの暴走っぷりは……二人は俺から卒業したんじゃなかったのか? だから今日は人生最良の日で……俺たちはやっと普通の家族になれたわけで……
それなのに……あああああああ……
姉貴と母さんはうっとりした顔で写真を眺めている。
「ほんっと、太郎さんは私のことを愛してるんだから……」
「ほんっと、太郎ちゃんはわたしのことが大好きなんだよ……」
「そして私も太郎さんを愛してますから、これは完全無欠の相思相愛なんです……」
「そしてわたしも太郎ちゃんのことが心から大好きで、これはもう夫婦になるしかないというか……」
甘くつぶやいた母さんと姉貴は――
ゆっくりと横を向いて、お互いの視線を交差させた。
「静香さん、さっきからなにやら妄想じみたことをおっしゃってるようですけど……」
「お母さん、その言葉、そっくりそのまま二千倍にして返すよ……」
「言っときますけど、太郎さんが生まれてきて最初に触れた女の人は私なんですよ。つまり、私と太郎さんは結ばれる運命にあるということです」
「メチャクチャな論理の飛躍だよ。むしろ頭がおかしいよ。というか、お母さんはどうして気づかないの? 太郎ちゃんがわたしに向ける恋のまなざしに」
「それこそが妄想ですよ。静香さん、そろそろ目を覚ましたほうがいいですよ……」
「お母さんこそ、いい年なんだからそろそろ現実に目を向けるべきだよ……」
なにやら不穏な気配を漂わせながら、姉貴と母さんは睨み合う。結野は背後を見上げ、おろおろとしている感じだった。俺はもう……思考が追いつかなくて、廃人寸前な感じだった。
しばらく睨み合っていた二人だったが、やがてハッと我に返り、
「し、静香さんっ! 私たちはなにをやってるんですか!? 今日だけは、休戦協定を結んだはずですよ!」
「そ、そうだったねっ! お互いの目的を遂行するために、今日だけは手を組むはずだったよね……そのためにいろいろ準備もしたんだし」
「その通りです。フェイズ4ですよ、静香さんっ!」
「うんっ! フェイズ4を続行するよっ!」
意味不明な言葉を叫んだあと、
「――あっ、そうだ! 結野さんにいいものを見せてあげます!」
母さんは、どこからともなく四角い金庫を持ってきた。
暗証番号を入力し、金庫を開ける。ずいぶんと物々しい感じだけど、いったい中にはなにが……
「ほら、結野さん見てくださいっ!」
母さんが金庫から取り出したのは古びた長方形の紙で、そこには油性ペンで『肩たたき券』と書かれてあった。
「これは、太郎さんが幼稚園児のときに私にくれたものなんですよ! 母の日のプレゼントなんです!」
母さんはひしっとその古びた肩たたき券を胸に抱きしめ、
「太郎さんは『お母さん、いつもありがとうっ!』って言いながらこれを私にくれたんです……あのときは、うれしすぎて涙が止まりませんでした……」
「そ、そんなもんまだ持ってやがったのかよっ! しかもわざわざそんな金庫の中にしまってっ!」
「そ、そんなのだったら、わたしだってあるんだよっ!」
姉貴は叫ぶように言ったあと、どこからともなく豪勢な箱を持ってきた。
そしてその箱の中から、ちゃちな感じのネックレスを取り出す。
「これは、わたしの十五歳の誕生日のときに太郎ちゃんがプレゼントしてくれたものなんだよっ! そのときまだ小学生だった太郎ちゃんが、少ししかないお小遣いを全部使って買ってくれたのっ!」
「ぬ、ぬおおおっ! 姉貴もなに張り合ってやがるんだあああ――っ!」
姉貴はネックレスを愛おしそうに眺めながら、
「確かにこのネックレスはそんなに高価なものじゃないよ……でも、わたしにとってこのネックレスは、何十億円もする宝石なんかよりもずっと価値のあるものなんだよ……わたし、太郎ちゃんとの結婚式ではこのネックレスをしようって心に決めてるの……」
「結婚式なんか挙げねえっ! つーか無理だからっ! 法律的に無理だからっ!」
結野は混乱を通り越して青い顔をしている。というか、少し引いてるような……
「ほ、ほほう、静香さん、なかなかのものを持っているじゃありませんか……」
「お母さんこそ……わたしも肩たたき券なんてレアモノは持ってないよ……」
母さんと姉貴は微妙に悔しそうな顔をしながら、お互いのプレゼントを見つめている。
「で、ですが、こっちのほうがすごいんですよっ!」
叫びながら母さんが金庫から取り出したのは――
なにやらA4サイズの紙が数枚……そこにはすげえ下手くそな二頭身キャラが描かれていて……ま、まさかそれは……
「これは、太郎さんが小学生のとき密かに描いていたギャグマンガ『丸ハゲ丸の奇妙な冒険』ですっ! シュールなギャグ満載の大傑作なんですよっ!」
「ひぎゃあああああああああ――っっ! な、ななななななんでそんなもんがまだこの世に残ってやがるんだあああああああっ!?」
「台形の形をした顔面を持つ貧乏な小学生と同級生たちとの奇妙な日常を描いた痛烈ギャグマンガですっ! しかも最後は夢オチという斬新な結末っ! もし太郎さんがずっと漫画を描き続けていれば、いまごろジャ○プの看板作家となっていたことでしょうっ!」
「なれるわけねえだろっ! つーかなんですかこれは拷問ですかもう勘弁してくださいいいいいいいい――――――っっっ!」
「くっ……そ、それは確かにすごいよ。でも、こっちにだって切り札はあるんだよっ!」
と、姉貴が叫びながら取り出したのは――
なにやら裸の女性が表紙を飾っている、薄い雑誌……というか、それって……
「これは、太郎ちゃんが中学生のときにはじめて買ったエッチな本だよっ!」
「げぼおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――っっっ!」
「太郎ちゃんがゲーム雑誌のあいだに挟んでこっそり捨てようとしていたところを、わたしが見つけて確保したんだよっ! 愛ゆえにっ!」
「愛ゆえにってなんだよつーか頭おかしいだろほんっとマジでやめてくださいああああああダメだって中を開いて見せないでお願いでがばでいいいいいい――――っっ! ふおおおおいっ! ふおおおおおおおおおいっっ!」
俺はあまりの恥ずかしさに頭を抱えて狂ったように暴れて――と、そこでハッと気づく。
おそるおそる、結野のほうを見やる。
結野は――湯気が出そうなほど顔面を真っ赤にしてうつむいていた。
「あああ……ああああああ……あああああああああああ――――っっっ!」
俺はもう精神崩壊寸前ですっ! つーか夢オチにしてっ! こんな現実なんていらないから夢オチにしてにゃああああああああああああああっ!
「静香さんっ! さっきからなんなんですかっ!? なんで私と張り合おうとしてるんです!?」
「それはこっちのセリフだよっ! お母さんの対抗心は結野さんにじゃなくてこっちに向けられてたから、わたしは仕方なく応戦しただけなんだよっ!」
母さんと姉貴は額を接触させる勢いで睨み合っている。「フェイズ4です……」「フェイズ4だよ……」「フェイズ4……」「フェイズ4……なんか……」「フェイズ4なんか……もう知らないです」「フェイズ4なんか……クソ喰らえだよ」変にあったまっていた部屋の空気が二人の殺気と同調してピリピリと意味不明な感じに緊迫していく。
「やはり……先に決着をつけなければいけないのは、あなたのほうのようです……」
「わたしもいま気づいたよ……結野さんよりも先に排除しなくてはならない敵がいたことに……」
そして――母さんはどこからともなくヌンチャクを取り出した。
姉貴の両手にも、いつの間にかトンファーが握られている。
「あ、あれ? いつの間にヌンチャクとトンファーが……ええええええっ!? ヌンチャクとトンファー!?」
結野がびっくりした声で言う。俺はもうこれぐらいでは驚きません。
「――って二人ともなにやってんだよっ!? きょ、今日は結野がいるんだから穏便に……」
「そうですね……じゃあ穏便にいきましょうか、静香さん……」
「うん、そうだね……穏便にいこうよ……」
「では、交互に殴り合って先に倒れたほうが負けということで……もちろん防御は禁止です……」
「それはいいね……すごく穏便だよ……」
「それはどこの世界の穏便ですかっ!? とゆーか穏便の意味をわかってますか!?」
「じゃあ、先攻は私ということで……」
「いやいや、先攻はわたしだよ……」
「ああああああああまったく聞いちゃいねえ――っ!」
俺はぐしゃぐしゃと頭をかきむしりながら叫んだ。
結野はおろおろしながら母さんと姉貴を見つめている。
結野に血みどろの惨劇を見せるわけにはいかない。ここは俺がなんとかしなければ……でもどうやって……
「ぬ、ぬごおおおおおおおおおおおおお――っっ!」
もうヤケクソだった。
だだだっと二人に駆け寄った俺は――
「俺は――二人とも大好きだああああああああああああ――――っっっ!」
そう叫びながら、がしっと二人を抱きしめた。
「愛してるっ! 姉貴も母さんもすげえ愛してますっ! だからもうそんな無意味な争いはやめてくれえええええ――っ!」
叫んだ瞬間に後悔した。こんなことで二人が静まるわけは……
だが。
「太郎さん……」
「太郎ちゃん……」
母さんと姉貴はにへっと笑顔を浮かべ、
「私も……太郎さんのことが大好きです……」
「わたしも太郎ちゃんが大好きだよぉ……」
二人は武装を解除し、うっとりした様子で俺に抱きついてきた。
「…………」
……ああ、よかった。二人が馬鹿で。
ホッとしながら結野のほうを見ると――
結野は目を丸くし、ぽか―――――――――――ん、とした顔で俺たちを見つめていた。
姉貴と母さんがとろけてるあいだに、俺は結野を連れて玄関に出た。
すでに日は落ち、夜空には星が瞬いている。大きな月が地上を見下ろしていた。
「いや……なんというか……」
ドアと門戸のあいだに、俺と結野は向かい合って立っている。
「す、すまん……なんかメチャクチャになっちまって……」
「ほんと……メチャクチャだった……」
結野はまだ唖然としていた。
「ヌンチャクとか……トンファーとか……」
「…………」
はい、返す言葉もございません……
結野には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。怒られてもしょうがないと思っていた。
だが――
「ほんと……メチャクチャ……」
結野は軽く握った右手を口元に当て、くすくすと笑いはじめる。
笑顔のまま、ちらっと俺のほうに顔を向けると、
「ねえ……タローのアルバムって、七冊もあるの?」
「え? あ、ああ、ガキの頃はなんか分刻みな感じで写真を撮られてて……」
「肩たたき券とか、何年も前の誕生日プレゼントとか……そんなのをあんな大事そうに保管しちゃってて……お、おかしい……」
結野はくすくすと笑い続けている。
「でも――」
笑顔の残滓《ざんし》を顔に貼りつけたまま、結野は俺をまっすぐ見やった。
「なんか……うらやましい」
「え?」
結野は腰の後ろで手を組み、遠くを見つめるような感じで、つぶやく。
「……入ってすぐにわかった。タローの家って、あったかいなあって」
「あったかい……?」
「うん。雰囲気がね、あったかいなあって。なんかさ、家族がいつもいっしょに生活してるような……そんな気配がしたの……」
遠く、届かない月に視線を向けるようにして、結野は言葉を落とす。
ほほ笑んでいるというのに、どこか憂いを感じさせる横顔。
そのとき――俺は思い出した。
結野の両親は、結野が幼い頃に離婚したこと。結野は父親と暮らすことになったが、その父親も結野が中学に上がった頃から家に寄りつかなくなったこと。結野は広い二戸建ての家に、ほとんど一人で暮らしているということ……
「…………」
家族――
毎日のように同じ場所で暮らして。
毎日のように同じものを口にして。
病気になれば、心配してくれる人がそばにいて。
「ただいま」と言えば、「おかえり」と言ってくれる人がいて。
それは、俺にとって当たり前のこと。当たり前の日常。
でも、結野にとっては……
「ねえ、タロー」
「ん?」
「わたしね……一つ、夢があるの」
結野はうつむき、小さな声で言う。
「わ、笑わないで聞いてくれる?」
「ああ、笑わない」
「ぜ、絶対に笑わないでね! 絶対だからっ! 約束よ!」
「ああ」
「わたしね……」
ゆっくりと、大事な言葉をほどく。
「大人になったら……大好きな人と結婚して、あったかい家庭を作りたい」
言ったあと、結野はすぐに顔を赤くした。
照れ隠しなのか、ばたばたと胸の前で両手を振り、
「や、やっぱり変だよねっ! だ、男性恐怖症ですぐに男の人を殴っちゃうわたしが、そんなこと言うなんて……」
結野はおずおずと上目遣いをすると、
「や、やっぱり、おかしい……?」
「おかしくないよ」
俺は本心から言った。
「ぜんぜんおかしくない。これっぽっちもおかしくない」
おかしいなんて、思うはずがない。
「…………」
一瞬ぽかんとした結野は
首筋まで真っ赤にして、うつむいた。
そして。
「あ、ありがと……」
と、囁くような声を落とす。
「このことを言ったのは……タローがはじめて」
「え? そ、そうなのか?」
「うん。美緒さんにもみちる先生にも、由美にも言ってないの……だ、だから、これは二人だけの秘密ね」
照れたような笑顔で俺を見上げながら、結野は言う。俺も微妙に顔を赤くしながら「お、おう」とうなずいた。二人だけの秘密か……なんかちょっと恥ずかしいな。
でも――
俺は、結野にその夢を叶えてほしいと思った。
心から、そう思った。
「がんばれよ……」
つぶやき、手を伸ばす。
俺は結野の肩をぽんっと軽く叩いた。俺なりのエールのつもりだった。
その瞬間――空気が凍った。
「…………」
「…………」
俺のこめかみから一筋の汗が流れる。
結野のこめかみから一筋の汗が流れる。
し、しまったあああああっ! お、お、おおお俺はなんてことを……
結野の全身がガクガクブルブルと震えはじめる。両目が激しく泳ぐ。
「す、すまん結野っ! ちょっとうっかり――」
そのときだった。
背後にあったドアが開き、そこから姉貴と母さんが出てきた。
「――げっ!」
二人は申し訳なさそうな顔をしながら俺たちに近づき――その途中で目を丸くした。なぜなら、結野が大きく腕を振り上げ、俺に殴りかかって……
「ゆ、ゆゆゆ結野っ!」
や、やばいっ! 結野に殴られた俺は、ドMの快感に我を忘れて変態的な痴態をさらしてしまう! 家族の目の前でそんな姿を……あ、あまりにも最悪すぎる……
結野の拳が目前に迫る。すでに避けることができないタイミング。
ああああ……終わった……しかも、完璧な自業自得……
だが――
「……え?」
結野の拳は、俺の鼻のすぐ前で止まっていた。
「…………」
結野はその体勢のまま、ぶるぶると激しく全身を震わせている。下唇を強く噛みしめ、目に涙を浮かべながら、必死になにかを堰き止めていた。
「ゆ、結野……」
おまえ、ドアから姉貴と母さんが出てきたことに気づいて、それで……
「――だ、から、タローだから、だいじょ、うぶ……タロー、だから……」
結野……
「ゆ、結野さんっ!?」
顔を青くした姉貴と母さんが、俺と結野のあいだに立ちふさがる。
「ゆ、結野さんっ! あなたが怒るのも無理ありませんが、それは太郎さんのせいじゃありませんよっ!」
「そ、そうだよっ! 悪いのは、ぜんぶわたしたちなんだから! 殴るならわたしたちにしてっ!」
二人は両手を広げて俺の前に立ち、ぎゅっと目をつぶって歯を食いしばった。本当に殴られるつもりのようだった。
「あ、姉貴! 母さん! 違うんだよ! さっきのは……そ、そう、ちょっとしたシャドーボクシングだったんだ!」
我ながらかなり苦しい言い訳だと思った。
「じ、じつは結野はボクシングを習ってて、それをちょっと披露してもらってただけなんだ! な、そうだよな結野!」
「え? う、うん……じつはそうなんです」
なんとか恐怖状態を抜け出したらしい結野が、汗だくの顔でうなずく。
「そ、そうだったんですか? 結野さんはボクシングを……」
「そうだったんだね……太郎ちゃんを殴ろうとしてたんじゃなくて、よかったよー」
わりと簡単に騙されてくれたようだ。俺と結野は視線を交わらせ、ほっと安堵の息をついた。
母さんと姉貴は、しゅんとした顔で結野の前に立つ。
「ですが、結野さん……さっきは本当にごめんなさい……」
「なんかメチャクチャになっちゃって……反省してるよ……」
どうやら姉貴と母さんは、部屋での『二人とも大好き』という俺の言葉でいろんなうやむやをリセットできたらしい。なんだかぎすぎすした雰囲気が消え去っていた。
「い、いえ、そんな……」
と、結野は胸の前で片手を振る。そして――
「あの……今日は、どうもありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
母さんと姉貴は「え……?」とつぶやき、ぱちくりした目で結野を見ていた。
「ごはん、とってもおいしかったし……それに、なんだか楽しかったです。久しぶりに一家団欒の雰囲気が味わえて……」
頭を上げた結野は、はにかむような笑顔を浮かべていた。
「そ、それで、あの……も、もし、迷惑でなければですけど……」
うつむき、顔を真っ赤にした結野は、ごにょごにょとつぶやくようにして、
「ま、また呼んでもらえたら、うれしいです……」
と、そんなことを言った。
予想外の言葉にびっくりした様子の母さんは、
「え……あ、はい。結野さんさえよければ、また来てください」
反射的な感じでそんな言葉を返していた。
すると――
結野は顔をばっと上げ、心からうれしそうな笑顔を浮かべた。真っ赤な顔のまま、両目を細めるようにして、まぶしいほど満面の笑みを。
「…………」
「…………」
姉貴と母さんはしばらく呆然としていたが、やがて――
二人の両目がうりゅ、と潤む。
「ふ、ふぇええええぇえええんっ! ゆ、結野さん、とってもいい子だよぉ!」
「ほ、ほんとにそうです! あんなことをした私たちをゆるしてくれるなんて……」
「わたし、罪悪感で胸が潰れそうだよぉ!」
「私もですよぉ! ほんとにごめんなさああああああいっ!」
姉貴と母さんは――結野の体を両側からがしっと強く抱きしめ、わんわん泣きはじめた。
「え? え? ええっ? あ、あの……」
結野は大きく目を見開き、ぱちぱちと何度もまばたきを繰り返しながら、自分の体に抱きつく姉貴と母さんを交互に眺めていた。
結野は首をかしげ、頭上にクエスチョンマークをたくさん浮かばせながら俺を見上げてくる。
どうやら二人は、あんなメチャクチャなことをしでかした自分たちをゆるし、なおかつ「また呼んでほしい」みたいなことを言ってくれた結野の心意気に感動してしまったらしい。
「やれやれ、ほんとに……」
つぶやき、俺は苦笑する。
そのとき――号泣する母さんのポケットからなにかが落ちた。
それは、四つに折りたたまれた紙だった。
「母さん、なんか落ちたけど……」
体をかがめ、それを拾う。文字が書いてあるほうを内側にして折りたたんであったのだが、いくつかの文字がうっすらと透けて見えた。その中に……『太郎』や『結野嵐子』という文字が……
「…………」
猛烈に嫌な予感がした俺は、無言でその紙を開いた。
そこに書かれていたのは――
『太郎さんを魔女の手から救え作戦・概要(機密文書)』
○桜守高校侵入作戦の過程と結果
太郎さんの携帯電話を定期的にチェック。結野嵐子とのメールのやりとりから、太郎さんと彼女が同じクラスであり同じ部活であることが判明。要警戒。そして、たまに石動美緒という名前の女性からのメールも。太郎さんにかなりきついメールを送っている。親密度の裏返しか? こちらも要警戒。
金曜日。結野嵐子のことを調査するため、静香さんが桜守高校に侵入。一年生への聞き込みによって、結野嵐子がかなりの美少女であることが判明。そして、太郎さんと彼女がいっしょに下校している姿を何度か見たことがあるという証言も。さらに警戒を高める必要あり。
結野嵐子についてのさらに詳しい情報、そして石動美緒という名の女子についての情報を得ようとした静香さんだったが、校舎の中で鬼瓦《おにがわら》みちると名乗る保健医に遭遇し、動きを封じられる。その後、太郎さんにも見つかってしまい、学校での調査は終了を余儀なくされる。
結局、結野嵐子本人に接触することはできなかった。だが、太郎さんと結野嵐子がただのクラスメイト以上の関係であるという可能性は強まった。早急に詳しい状況を把握する必要あり。よって、最後の手段を講じる。結野嵐子をこちらのホームグラウンドに呼び込み、太郎さんとの関係性を直接調査することに。
○夕食時の作戦
「フェイズ1」日曜日。太郎さんが静香さんと将棋を指している隙に、私が太郎さんの部屋に置いてある携帯電話を操作し、メールで結野嵐子を夕食に招く。メールが送信されたことを確認したあと、念のためそのときのメールは削除しておく。砂戸家に現れた結野嵐子を、さりげなく家の中に招き入れる。そして、おそらくは太郎さんとの現状認識の齟齬によって混乱している結野嵐子を、静香さんと協力して確実に夕食に誘う。引き続き、フェイズ2に移行。
「フェイズ2」豪勢な料理で結野嵐子を油断させつつ、食欲を促進させて体を太らせるというジャブを放つ。結野嵐子の容姿や性格をさりげなくチェックしつつ、太郎さんとの関係性を調査する。それによって結野嵐子が太郎さんに少しでも好意らしきものを抱いていると判断したならば、フェイズ3に移行。
※前日、ぬいぐるみを太郎さんと結野嵐子に見立てたシミュレーションを行うことによって、夕食時に平静な態度を保てるように訓練し、結野嵐子や太郎さんに自分たちの計画を悟られないようにする。
「フェイズ3」これまでの受動的な作戦ではなく、能動的な作戦に移行。結野嵐子が太郎さんに嫌悪感を抱くようにしむける。夕食の後片付けのとき、さりげなくキッチンを離れた静香さんが太郎さんの部屋に忍び込み、部屋内をメチャクチャに散らかす。さらに、天井にボディビルダーのポスターを貼る。クローゼットに大量のマネキンの腕を隠しておく。ベッドの下に斧を置いておく。タンスの中に血まみれの特攻服を入れておく。机の引き出しに妄想的なポエムが書かれたノートを隠しておく。これらのいくつかを結野嵐子が見つけることによって、彼女が太郎さんに嫌悪感を抱くように操作する。その様子を、私と静香さんがドアの隙間から覗き見る。もし、この作戦でも二人の関係性が悪化しない様子ならば、最終段階フェイズ4に移行する。
「フェイズ4」できればフェイズ3までで決着をつけたい。だが、結野嵐子が想定していたよりも強敵であった場合、この最後の作戦を遂行する。私たちがどれだけ太郎さんを愛しているかを結野嵐子に見せつけ、彼女に太郎さんのことを諦めさせる作戦。これまでの隠密性を破棄することになるが、仕方がない。太郎さんへの愛を見せつける方法は私と静香さんがそれぞれ考えておく。ここでは二人の協力関係が大切。静香さんと協力して目標を遂行する。この最後の作戦によって、結野嵐子は確実に太郎さんのことを諦めるであろう。
我ながら完璧な作戦である。
文章 砂戸智子
「ほほう……なるほど、そういうことだったのか……」
紙を持つ両手がぶるぶる震えている。いや、両手だけじゃなく全身が。
「罪悪感で胸が潰れそうって、そういうことですか……おかしいと思ってたんだよ……つーか、心のどっかで二人の仕業じゃないかと疑ってた気がするな……で、でも、さすがにここまでしないだろうとか思っちまって……ははは、甘かったよ……」
姉貴と母さんが俺のほうを見て――ぎょっとした表情を浮かべる。
「た、た、たたたたた太郎さん、そ、そ、それは……」
「わ、わ、わたしたちの秘密の計画書だよ……」
あああああ、怒りで血管が切れそうだ……
「た、たた、太郎さん……ええーっとですね……ええーっと……」
「た、太郎ちゃん、すごい顔してるよ……とても言葉では言い表せない表情だよ……」
二人は顔を真っ青にし、全身をぶるぶると震わせていた。
「え? あ、あの……みなさん、どうしたんですか?」
結野は困惑した様子で、俺たち三人に視線を向けている。が、いまこの場に、結野の言葉に応えることができるほど心の余裕がある者はいなかった。
「……ほ、ほ、ほんま、いくらなんでもこれはあかんやろ……ど、どどどどう考えてもやりすぎやろ……こ、こりゃあいくらワイでももう我慢でけへんわ……」
「ひ、ひぃ――太郎さんが、なぜか関西弁を……」
「そ、それだけ怒りが大きいってことだよ……あわわわわ……」
姉貴と母さんは顔を見合わせ、
「これはもう……あれしかないですね……」
「うん、あれしかないよ……」
「三十六計……!」
「逃げるが勝ち……!」
言ったあと、二人はぴゅーつと逃げ出していった。
「ま、ままままま待てやコラアアアアアアアアアアア――――ッッ!」
俺はすぐさま二人を追いかけた。ぽかんとした顔の結野をその場に残して。
「びぇ――――んっ! 太郎さんごめんなさあああああい――っ!」
「うぇ――――んっ! もう二度としないからゆるしてよおおおお――っ!」
「ええから止まらんかいっ! ほんま地の果てまで追っかけてやるさかいにっ!」
「なんだか凶悪な借金取りに追い立てられてる気分ですうううぅ!」
「ある意味借金取りより怖いよおおおおおおおっ!」
二人は曲がり角を右に曲がる。少し遅れて俺もその角を曲がった。
と――
「え……?」
そこに、なぜかみちる先生がいた。そして――
「ひ、ひいぃいいいっ!? な、なんですかあなたは!? 放してくださいっ!」
「う、うわああああっ!? こ、こ、この人、桜守高校の変人保健医だよっ!」
みちる先生は、母さんと姉貴の腰辺りを両腕で抱えるようにして動きを封じていた。宙に浮いた二人の足がばたばた暴れている。
「み、みちる先生、どうして……」
「ふむ。じつはついさっき、君のお姉さんに猫耳を貸したままだということをふと思い出してな。それで、思い立ったら吉日ということで、猫耳を返してもらうために君の家を訪ねようとしていたのだよ」
みちる先生はいつもの無表情で言う。
「というか……本当はそれを口実にして、君のお姉さんにもう一度写真を撮らせてくれと頼もうとしていたんだが。そんなとき、お姉さんが猛烈な勢いでこっちに走って来るではないか。で、私は反射的にお姉さんを確保したというわけだ。ついでに隣を走っていた綺麗な女性も」
「ナイスです、みちる先生」
ぐっと親指を立てる。
「こちらの女性は……もしかして、君の母上様か」
「はい。一応」
「ふむ……私はあまり年上は好みではないが、彼女のような若くて綺麗な年上は珍しいな。一度、写真撮影をしてみたいものだ」
そのとき、俺はいいことを思いついた。
「いいですよ、みちる先生」
「なにがいいのだ?」
「写真撮影です。存分にやっちゃってください。二人まとめて」
「え――っ!?」
「太郎ちゃん!?」
みちる先生はぴくりと眉を動かしたあと、
「……いいのか?」
「ええ、かまいません。猫耳でもスクール水着でもなんでも着せちゃってください。ついでにお医者さんごっこをしてもいいです」
みちる先生は「え……?」と短くつぶやいたあと、
「……スクール水着にメガネもいいのか?」
「はい、もちろん」
「……裸にエプロンというのは?」
「大丈夫です」
「……裸に猫耳というのは?」
「それはほとんど裸のような気がしますが、今回に限りオッケーです」
みちる先生は微妙に目を輝かせている。珍しい表情だった。
「砂戸太郎……いまの君は、とても素敵だ」
「ありがとうございます。じゃあ、撮影会はうちでやりましょう。ほんと、どんな恥ずかしい格好でもいいですから。むしろ恥ずかしい格好のほうがいいですから。とりあえず逃げ出さないようにロープとかで縛りましょう」
「砂戸太郎……いまの君は本当に素敵だ。惚れそうだ」
「た、たたたた太郎さん!? 身内を売るんですかっ!?」
「売るどころか無償で差し出してるよっ! た、太郎ちゃん、お願いだから思い直してよおおおーっ! ゆるしてよおおお――っ」
「いや、ゆるさねえ……今回の俺は、本当に怒ってるんだからな」
俺は両腕を組み、
「みちる先生に死ぬほど恥ずかしい写真を撮ってもらって……海よりも深く反省しろ」
と、言い放った。
母さんと姉貴の顔が一瞬で青ざめる。そして。
「び、びやああああ――――――――――――――んっっ!」
「ふ、ふぃええええ――――――――――――――んっっ!」
二人の魂の絶叫が、夜空に響き渡った。
次の日。月曜日。
「ふ……んん……」
目が覚める。枕元の時計に目をやると、時間は六時四十分。
「ふぁ……まだこんな時間か……もうちょっとゆっくりできるな……」
二度寝しようかと思ったそのとき――なんだか腹の辺りがあったかいことに気づく。
まさかと思い、俺は布団を跳ね上げた。
おなかに姉貴がくっついていた。
電柱にとまる蝉のように、体を密着させている。
「あ、姉貴っ! また俺のベッドに忍び込みやがって――」
「太郎ちゃん……今日はゆるしてよぉ……」
姉貴は弱々しい顔で俺を見上げ、
「なんかね……体の調子が悪いの。昨日の夜から悪寒が止まらないというか……」
言って、姉貴は微かに体を震わせる。
「悪寒が止まらない?」
俺は首をかしげ、
「どうしたんだよ。もしかして、昨日みちる先生に写真を撮られたときに体調でも崩したのか?」
「みちる先生? 写真?」
姉貴はきょとんとした顔を俺に向け、
「それってなんのことかな? まったく記憶にないんだけど」
「…………」
俺の頬に一筋の汗が伝った。
「み、みちるとか……写真とか……なんのことやら……なんの……」
姉貴の体がぷるぷると震えはじめる。その震えは次第に大きくなっていく。
「み、みみみちる……ししししゃしん……ねこみみでくつしたで……」
つぶやきながら――
姉貴はぶわっと涙を流した。
「ふぃ、ふぃえええん……ひっぐ、ひっぐ……」
「あ、姉貴っ!?」
「た、太郎ちゃあん……なにも思い出せないけど、なんだかとっても悲しいよぉ……大切ななにかをなくしちゃった気分だよぉ……」
姉貴は泣き顔を俺の胸にこすりつける。どうやらあまりに大きな精神的ショックのせいで記憶が封印されてしまったらしい。
「…………」
いくら激怒していたとはいえ、みちる先生に預けたのはちょっとやりすぎだったかもしれない。あの先生は本当に壊れてる人だから。
少しだけ申し訳ない気持ちになった俺は、ベッドに横になったまま姉貴を抱きしめてあげた。泣いている子供をあやすような感じで、背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。姉貴は小さな手で俺のパジャマをきゅっと握り、俺の胸に顔をうずめている。
しばらくそうしていると、姉貴はもぞもぞと顔を上げ――
「……太郎ちゃん」
「ん?」
「……キスまでならいい?」
「…………」
俺は無言で姉貴の体を引きはがした。「あー! もうちょっとーっ!」と再び体をひっつけてくる姉貴を乱暴に振り払う。
俺は上半身を起こすと、
「とりあえず……朝だし、もう起きるか」
「太郎ちゃん、わたしおなかすいたよー」
「じゃあ下に朝飯たべにいくか」
「うんっ」
姉貴はにぱっと笑顔でうなずいた。
ベッドから下りた俺の背中に、姉貴がぴょんと飛び乗ってくる。
「こ、こらっ! 姉貴っ!」
「えへへー。太郎ちゃんタクシーだよー」
「…………」
いつもなら力ずくで引きはがしてるところだが、今日だけはゆるしてやるか。
俺は姉貴を背中にひっつけたまま、階段を下りる。姉貴はほんとに軽いので背中に乗っていてもほとんど気にならなかった。
いつもより少し起きる時間が早かったので、今日はゆっくりと朝ごはんが食べられそうだ。そんなことを思いながら、一階に下りた。
と――
ダイニングと続きになっているリビング。そこにある姿見の前に母さんが立っている。
「げ、げぶうううううっ!?」
俺は思わず叫び声を上げた。その声にハッとした母さんがこちらを振り返る。
「あ……た、太郎さん」
「母さん! その格好はなんだよっ!」
姿見の前に立つ母さんは――なぜか、桜守高校の制服を着ていた。後ろで姉貴が「あっ、あれはわたしが借りた制服だよー」と言っていた。
母さんは少し困った顔をして、
「太郎さんが起きてくる前に試着してみようと思ったんですが……み、見つかっちゃいましたね」
「な、なんで母さんがうちの高校の制服を着てやがるんだよっ!」
「それは……」
母さんは指先で頬をぽりぽりと掻き、
「嵐子さんがどんな子なのかということは、昨日の食事会でよくわかったのですが……もう一人、石動美緒という名前の女子のことがまだ気になってまして……」
「ま、まさか……」
「それで、今度は私が学校に忍び込んでみようかなって思いまして……」
な、なにを言ってやがるんだ……
「この制服……静香さんにはぶかぶかだったみたいですけど、私にはほら、ぴったりです。これはもう太郎さんの学校に忍び込みなさいという神の啓示に違いありません」
頬に片手を当て、母さんはほほ笑んでいる。
すると、俺の背中に乗っている姉貴が、右手を大きく振り上げながら、
「そんな重要な任務、お母さんだけには任せておけないよっ! わたしも行くっ!」
「あら、そうですか? じゃあもう一着制服を調達しないと……」
「…………」
目眩がした。卒倒しそうだった。
こ、こいつら……まったく懲りてねえ……
第三話 花片未依《はなひらみい》の復讐レシピ
「あの……花片先輩、なんの用っすか?」
と、目の前にいる料理部の後輩――葉山辰吉《はやまたつきち》くんが言った。
「わざわざ、日曜日に家庭科室まで呼び出して……」
「葉山くん……」
わたし、花片未依は、同じくらいの身長である葉山くんを見つめ、
「これ……葉山くんに……」
言って、手に持っていたシュークリームを葉山くんのほうに掲げる。
「シュークリーム……っすか?」
「うん。わたしが作ったの」
「え? 花片先輩が?」
「そう。これを葉山くんに食べて欲しくて、家庭科室に呼び出したの。ごめんね……でも、ほかの人に見られるのは嫌だから……」
わたしはもじもじしながら、
「ねえ、食べてくれる?」
「ええーっと……まあ、せっかく作ってくれたんだし」
葉山くんはシュークリームを受け取り、それをはむっと食べた。その瞬間
「ぬ、ぬぐおおおおおおっ!? な、なんじゃっじゃあああ――――っっ!?」
葉山くんは悶絶しながら、家庭科室の床をゴロゴロ転がった。
「はぶっ! はぶっっ! はぶっううううっ――っ!」
土下座するみたいな格好で床にごんごんと額をぶつけたあと、カエルのような動きで水道の蛇口にとりつき、それを全開にしてがぶがぶと浴びるように水を飲み込む。
わたしはその様子を冷静な面持ちで眺めながら、
「ふむ……このくらいじゃ、まだぬるいわね。失敗しちゃった」
「は、花片先輩っ!?」
葉山くんはぜーぜー肩で息をしながらわたしに近づき、
「な、な、なんなんすかこのシュークリームはっ!? まずいとかそんな次元を遥かに超越してましたよ!? い、いったい中にはなにが……」
「中にはね、ええーっと……タバスコとか、お酢とか、昆布でとっただし汁とか、鷹の爪とか、砂鉄とか……」
「砂鉄!? なんで食えないものが入ってるんすか!?」
「大丈夫、八割方は食べられるものだから」
「残り二割はなんなんすかっ! 砂鉄以外のタバスコとか鷹の爪とかってチョイスもおかしいですし! シュークリームなのにクリーム成分がまったくないじゃないですかっ!」
「ふふん。これはね、ただのシュークリームじゃないのよ」
「た、ただのシュークリームじゃない……?」
「そうよ。これは、復讐のために作られたシュークリーム……名付けて、フクシュークリームなのよっ!」
「うわあ……びっくりするぐらいに寒いネーミングっすね……」
「このフクシュークリームの実験台になってもらうために、あなたをここに呼び出したの」
「じ、実験台っ!?」
「そうよ。強烈な素材をいろいろ混ぜ合わせてみたけど、それにフクシュークリームの名にふさわしいほどの威力があるかどうかは食べてみないとわからないでしょ? だから葉山くんに食べてもらって、そのリアクションで威力を計測しようと思ったんだけど……」
わたしはむむーっと難しい顔で両腕を組み、
「さっきのじゃダメね。せめて自分の名前が思い出せなくなるほどの記憶障害が起きつつ全裸で木の樹液を舐め続けることが己の人生の目的だと錯覚するぐらいじゃないと……」
「そんな哀れな生命体を生み出すような食べ物を作ろうとしないでくださいっ!」
「もう……そんなに怒んないでよ。わかったわ。じゃあ、これでゆるしてくれる?」
わたしは調理台の上に置いてあった自分の鞄を開け、それを逆さまにした。
ドバドバドバドバッ! と鞄の中身が床に落ちる。それは
札束だった。
百万円の束が、床の上に小さな山を作っている。
わたしはその一束をひょいっと持ち上げ、
「百万円あげるから、フクシュークリームの実験台になって」
「な、な、な……」
「なに? 足りないの? じゃあ――」
「そうじゃないっすよっ!」
葉山くんは大声で怒鳴り、
「またそうやって金の力でなんでも解決しようとしてっ! そんなことしちゃダメって何度も何度も言ったじゃないですか!」
「うるさいなあ。なんでダメなのよ。だって、この世で一番偉いのはお金なのよ?」
わたしが不満そうに言うと、葉山くんの表情が苦虫を噛み潰したように歪む。
「それに、花片コンツェルンの一人娘であるわたしにとっては、このくらいはした金みたいなものなんだから。遠慮しなくてもいいのに」
札束を葉山くんの鼻先に突きつける。
「この世のすべてはお金を中心に回ってるの。お金で買えないものなんてなにもないんだから。愛も友情も地位も名誉もぜーんぶお金で買えちゃうのよ」
「そんなことはありませんっ!」
叫び、葉山くんはさらに説教を重ねてくる。お金にばかり頼るのはよくないやらお金で買えないものにこそ価値があるやらプライスレスやら年下のくせにガミガミと偉そうに言ってくる。
「……もういい。わかったわよ」
わたしはぷくっと頬をふくらませながら、
「じゃあ、実験台はほかの人にやってもらうことにする。一千万ぐらい払えば、きっと誰かやってくれるわ」
部活などで学校にいる人に頼んでみようと思い、家庭科室を出ていこうとしたわたしを、葉山くんは「ちょっと待ったああああっ!」と呼び止める。
「だからそれがダメって言ってんでしょうがっ! 先輩俺の話聞いてました!?」
わたしは「だって……」と唇を尖らせ、言う。
「それじゃあ、フクシュークリームが完成しないんだもん……復讐するんだもん……」
葉山くんはため息をついてから、
「先輩……さっきから復讐復讐って言ってますけど、いったい誰に復讐するつもりなんですか? そんな怪しげなお菓子兵器まで作って……」
「それはもちろん……」
わたしは呪詛のこもった声で、その名前を口にする。
「あの、石動美緒《いするぎみお》のクソ野郎に決まってるじゃない……」
「えっ!? い、石動先輩に!?」
「葉山くんも石動のことは知ってるの?」
「へ? え、ええ、まあ……あの人はいろいろと有名な人だし……」
と、葉山くんはもごもご言ってから、
「そういえば……前に俺が第二ボランティア部のことを花片先輩に尋ねたとき、先輩はあそこに願いごとをしにいって死ぬほどひどい目に遭ったんだみたいなことを言ってたけど……もしかして、それが原因っすか?」
「その通りよ……あいつから受けた屈辱、絶対に忘れないわ……」
わたしはぐっと右拳を握りながら、葉山くんのほうに目を向け、
「あなたには特別に教えてあげるね。そう、あれは、桜が散った頃のことだったわ……」
遠くを見るような感じで、わたしは言う。
「わたしが石動の存在を知ったのは、二年生になってからなの。二年生に進級して石動と隣どうしのクラスになって……わたしははじめて石動の姿を見た。びっくりした。あんなに綺麗な人、いままで見たことなかったから。……わたしはお金持ちだからお嬢様の知り合いとかいっぱいいるんだけど、セレブの彼女たちよりも石動のほうが遥かに綺麗だったの。わたし、そんな石動に憧れちゃってね……それで、友達になりたいなあって思ったから、勇気を振り絞って第二ボランティア部にお願いしにいったのよ。で、わたしは、石動にアタッシュケースをプレゼントしたの。中に一億円が入ったアタッシュケースを」
「…………」
「この一億円で、わたしの友達になってくださいってお願いしたわ。それじゃあさ、石動の奴、意味不明なことに急に怒り出して『金で友達が作れるかっ!』って、アタッシュケースをわたしに投げ返してきたのよ」
「おお……め、珍しく石動先輩が正論を……」
「正論? なんで?」
わたしはきょとんとした顔で葉山くんを見つめる。
「友達って、お金で作るもんでしょ? わたしはずっとそうしてきたけど」
「…………」
葉山くんはなぜかすごく複雑そうな表情を浮かべていた。なんでだろう?
「まあいいや。……でさ、一億円で足りないなら二億円でどうって言ったら、石動はさらに逆上して『おまえにお金の大切さを思い知らせてやるっ!』って言って……」
そのあとのことを思い出すだけで、体が怒りで震えてくる。
「い、一日中……園児服喫茶で働かされたの……」
「園児服喫茶っ!? そんなのあるんすかっ!?」
「そうよ……なんか、保健医の鬼瓦《おにがわら》みちる先生の行きつけのお店みたいで……わたしはそこで馬車馬のごとく働かされたのよ……セ、セレブのわたしが、お金持ちのわたしが、一般人相手に園児服姿で接客をさせられて……馴れ馴れしくわけわかんないアニメの話とかしてきやがって……園児なのにおっぱい大きいねとかセクハラ発言しやがって……」
わたしは思わず頭を抱えた。
「そんで、園児服喫茶で一日働いた労働報酬が四千円! 四千円って!? 冗談でしょ四億円の間違いでしょつーか千円札なんか久しぶりに見たわよって文句を言うわたしに石動のクソ野郎は『これで、いかにお金を稼ぐことが大変かわかったでしょ? あっ、ちなみに迷惑料として給料の半分はもらっといたから』とかセレブのわたしに向かってあんたは何様だようきいいいいいいいい――っ!」
「せ、先輩っ! 大丈夫っすか!?」
「はあ、はあ、はあ……だ、大丈夫よ……ごめんね、ちょっと興奮しちゃって……」
大きく息を吸って深呼吸をする。すーはー、すーはー。よし、落ち着いた。
「そんな事情があったんすね……まあ、どっちもどっちのような気もするけど……」
「絶対にゆるさない……こ、この恨み、はらさでおくべきか……」
わたしは怨嗟の声を吐き出した。
「と、いうわけだから――葉山くん、快くフクシュークリームの実験台になってね」
「きっぱりお断りします」
「……じゃあやっぱり、ほかの人にお金を払って――」
「だからそれはダメですって!」
「だったら……どうしろっていうのよう……」
わたしは瞳をうるうるさせながら葉山くんを見つめた。実験台がいないとフクシュークリームが完成しない。フクシュークリームが完成しないと復讐ができない。そんなの……嫌だもん。わたしは石動に復讐するんだもん。
わたしは葉山くんをじっと見つめる。じーっと見つめる。潤んだ目で見つめる。
やがて――葉山くんは深々とため息をついたあと、非常に嫌そうな声で言った。
「……わかりました。俺が実験台になります……フクシュークリームの……」
「えっ!?」
わたしはびっくりした顔で葉山くんを見つめ、
「いくらでっ!?」
「……お金はいりません。タダでいいっす。だから、ほかの人に金を払うのとかはやめてくださいよ」
「タダって……ほんとに?」
「ええ……」
「葉山くんっ!」
わたしは思わず葉山くんに抱きついていた。
「ありがとっ! だから葉山くんって好きっ! たぶん社会人になっても年収一千万を超えることは永久にないだろうけど、それでも好きっ!」
「ちょ、ちょっと先輩っ! いきなり抱きつかないでくださいっ!」
「タダで実験台になってくれるなんて、ほんとに優しい。でも……そんなんじゃ、葉山くんになにも得がないよ? それなのに……」
そのとき、ある予想が脳裏に閃き、わたしはハッとなった。葉山くんから離れ、
「もしかして……葉山くん、わたしのこと、好きなの?」
「はあ!? なんでそうなるんすか!?」
「照れなくてもいーのよ。あらあら、そうだったんだ……」
さすがのわたしも少し顔が赤くなってしまう。葉山くんは男の子とは思えないほど綺麗な顔をしているし、頭だっていいし……
「でもね、やっぱりわたし、葉山くんとは付き合えないかも……なんとゆーか、価値観が違いすぎるって感じかな? だってわたしセレブだし、葉山くんはただの一般人だし……」
わたしは顔をうつむかせながら、申し訳なさそうにして、
「好きになってくれたのはうれしいんだけど……ごめんなさいっ!」
「わけのわからないことを言って勝手に俺をフラないでくださいよっ! 俺はべつに先輩のことが好きとかそんなんじゃなくて――」
「ほんとにごめん……でも、それだと申し訳ないから、胸だけ触らせてあげよっか?」
「な、なに言ってるんすかっ!?」
「葉山くんだったら、それぐらいはゆるしてあげていいかも……でも、その先はダメ。もしそれ以上のことをしたら、お金の力であなたの家族を路頭に迷わせるから」
「さりげなく怖いことを言わないでください……」
「わたしの胸ってけっこう大きいでしょ? これもお金の力で大きくしたの」
「マジっすか!?」
「……それは冗談よ。なにちょっと信じちゃってるの?」
ずいっと葉山くんに一歩近づき、
「じゃあ……触ってみる?」
「触りません!」
「そうなんだ。つまんないなあ」
言ってから、葉山くんににこっと笑いかけ、
「まあいいわ。それじゃあ、フクシュークリームの実験台になってもらうからね!」
そして一時間後――
「え……えろいむえっしゃいむえろいむえっしゃいむ……ぱられるぱられるれろれろれろ……えへへ……」
床に倒れる葉山くんは破滅した笑みを浮かべながら、なにやら謎の呪文を唱えている。
「ふふふ……ついに完成したわ、フクシュークリームが……」
わたしは興奮にふるふると震えながら、葉山くんの人間性を粉々に破壊した魔のシュークリームをうっとり眺める。
「こ、こいつを石動の奴に食わせれば……」
石動はいまそこで倒れてる葉山くんみたいに……くくく、それは見物だわ。
わたしは濁った目をしている葉山くんの傍らに膝をつき、
「葉山くんのおかげでフクシュークリームは無事に完成したわ。本当に感謝してる。お金の力であなたのお父さんを中小企業の社長にしてあげてもいいと思ってるくらいよ……」
「ごこうりん……してくだっしゅ……へるぷう……」
「うんうん、あなたも喜んでくれてるのね」
わたしは廃人寸前な感じの葉山くんの手をぎゅっと握りしめる。
「暇つぶしで入った料理部で、まさかあなたのような素晴らしい人に巡り会えるとは思わなかった……葉山くん、あなたとの出会いはプライスレスよ……」
わたしは立ち上がり、鼻歌をうたいながら上機嫌でフクシュークリームを箱に詰めた。
箱に詰め終わり、石動のいる第二ボランティア部の部室に向かおうとしたところで――
「は、はなひら……せんぱい……」
いつの間にか立ち上がっていた葉山くんが、わたしのほうにふらふら近づいてくる。
「あの……本当に、石動先輩にそのシュークリームを食べさせるつもりっすか?」
「当たり前じゃない。そのために、わたしもあなたもがんばったんでしょ?」
「でもですね、その……フクシュークリームでしたっけ? それを食わせれば確かに石動先輩はひどい目に遭うと思いますけど、そのあと怒り狂った石動先輩にさらにひどい目に遭わされそうというか比喩ではなく殺されそうな気がするんですが……」
「だからこそ、葉山くんに協力してもらって完璧なフクシュークリームを完成させたんじゃないっ」
わたしはえっへんと胸を張り、
「確かに、中途半端な攻撃じゃあ反撃されてこっちが殺されるわ。でも、この完全体フクシュークリームを一口食べたらあら不思議っ! ばたりと床に倒れた石動は壊れた笑みを浮かべながら謎の呪文を唱えることだけしかできない不憫な生命体へと変化してしまうのよ! さっきの葉山くんみたいに! そのあいだに逃げれば大丈夫でしょ!」
「そんなうまくいきますかね、あの石動先輩相手に……それに、そのフクシュークリームって手渡しするんですよね?」
「そうよ。いまから渡しにいくの。今日メガネをかけてきたのだって、変装のためだもん。四月に友達になってってお願いしたときはメガネかけてなかったから、わたしだとはバレないわ」
「バレない……かなあ? それに、石動先輩が見ず知らずの人からもらったシュークリームを素直に食べてくれるかもわかんないし……」
「大丈夫! あいつアホそうだから『あなたのファンなんです! よかったらコレ食べてください!』とか言ったら簡単に食べちゃうわよ! だってアホそうだから! もしそれでも食べてくれなかったら、お金を払って食べてもらうわ!」
「それはやめといたほうがいいっす……また園児服喫茶とかで働かされちゃいますから」
「フクシュークリームを食べた石動はどんな顔をするのかしら……楽しみだわ……」
にこにこしながら言う。葉山くんはため息をついてから、
「でも、珍しいっすね。花片先輩がお金の力に頼らずに自力でなにかやろうとするなんて。たとえそれが復讐とかでも」
「そうね……お金の力で復讐するのは確かに簡単だわ……でも、それじゃあわたしの怒りはおさまらないのよっ! あいつには、わたしが直接、裁きの鉄槌を下したいのっ!」
そうよ。あいつへの復讐を他人の手にゆだねるなんてことはできない。この復讐心こそプライスレス。
「じゃあ、わたし、そろそろ行くわ」
フクシュークリームの入った箱をしっかり持ち、言った。葉山くんを見つめ、
「このフクシュークリームが完成したのは、あなたのおかげ……ほんとにありがとね、葉山くん。感謝してる」
「……そりゃどうも」
「お礼に一千万円ぐらいあげたいんだけど……それは嫌なんでしょ?」
「そうっす。お金であれこれするのはやめてください。頼むから」
「わかった。じゃあ……」
わたしはすっと葉山くんに近づき――
その頬に、ちゅっとキスをした。
「――っ!?」
「えへへ……お礼だよ」
うわあ、さすがに恥ずかしいとゆーか、心臓ドキドキしちゃうとゆーか……
「じゃあ行ってくるねーっ!」
呆然とする葉山くんに別れを告げ、わたしは赤い顔のまま家庭科室を出た。
第二ボランティア部の部室。わたしはその扉の前に立っていた。
ごくりと生唾を呑み込んでから、部室の扉をゆっくりと開ける。
「……あれ? 誰もいないわ」
おかしいなあ。石動の奴はたいてい日曜日も部活に出てるらしいって誰かが言ってたのに……わたしはむすっとしてしまう。
あっ、でも、机の上に鞄がある。じゃあ石動はやっぱりきてるんだ。
わたしは部室の中に足を踏み入れた。ここであいつが帰ってくるのを待とうかと考えていると、奥の部屋から微かに人の気配がすることに気づいた。
「もしかして、奥にいるのかな?」
わたしは奥の部屋にこっそり顔を覗かせた。
部屋では――石動が寝ていた。
横向けの格好で、赤ちゃんのように体を丸めながら、「くー……」と穏やかな寝息を立てている。体にかけられていたであろうタオルケットは横にはねのけられていた。
「……寝てやがるの?」
わたしは部屋の入り口で靴を脱ぎ、畳敷きの部屋にそっと足を乗せる。
石動の傍らに腰を下ろすが、彼女が目を覚ます気配はない。完全に熟睡している。
わたしはしばらく、石動の寝顔を眺めていた。
小さな桜色の唇があどけなく開けられ、そこから漏れる寝息のリズムに合わせて華奢な肩がゆっくりと上下している。同性として文句を言いたくなるほどの真っ白で綺麗な肌に、伏せられた長い睫毛。やわらかそうな亜麻色の髪が、彼女の頬を覆っている。
「…………」
ほんっと……悔しいけど、すごく綺麗な人。
学校で石動をはじめて見たとき、不覚にもこう思ってしまった。ああ……あの美しさは、お金じゃ買えないなあ……プライスレスだなあ……
だからこそ、友達になりたかったのに――ちくしょう。
「でも、胸の大きさだったら断然わたしの勝ちなんだからっ! この貧乳っ子め!」
そう言った瞬間、眠っている石動の眉がぴくりと動いたような気がした。
「お、起きた……? いや、まだ眠ってるみたいね……」
指先で白い頬をツンツンつつくと、石動は「ふにぃ……」とか言いながらごろりと寝返りを打った。仰向けの格好で幸せそうな寝顔を見せている。自分の薄い胸をぽりぽりと掻いたりしていた。
「な、なんて無防備な姿なの……隙だらけよ……」
無意識のうちに、箱の中のフクシュークリームに手が伸びる。これを石動のあどけない唇にぶち込んでやりたいという思いに支配される。でも、それはダメ。だって寝ているあいだに口に押し込んでも吐き出しちゃうだけだろうし。せっかく作ったフクシュークリームなんだから、ちゃんと食べてもらわないと……
じゃあ、とりあえず寝ている石動を起こして、それから……
と。
「も……もががっ!? もがもがもがっ!?」
なんかもがもが聞こえる。このもがもがはなに?
ふと気がつくと――
わたしはいつの間にか右手でフクシュークリームをむんずと掴み、それを石動の口元に押しつけていたのだった。えええっ!?
「し、しまったっ! つい無意識のうちに……」
「ふ、ふがあっ!? ふがふがふがあっ!?」
「でも……あはっ! こ、これ楽しいっ! すごい楽しいっ! この楽しさはプライスレスだわっ! あはははははははっ!」
「ほ、ほがほがほがあっ!?」
寝起きの石動はなにが起こったかわからない様子で、少し涙目になりながら手足をバタバタさせている。わたしはそんな石動の可憐な唇にフクシュークリームをぐりぐりと押しつけた。うわあ、すんごい楽しいーっ! わたし、いま復讐してるわ! ちゃんと復讐してるのよっ!
だが――
「う……うぬあああああああ――――っっ!」
「ひあっ!?」
突然立ち上がった石動に、わたしは壁まで吹っ飛ばされる。
「――――まず。うぇ」
乱暴に口を拭った石動は、ふらふら体を揺らしながら、
「……嵐子《あらしこ》が急用で部室に来れなくなったとか言うから、仕方なく昼寝してたのに……」
と、低い声で言う。
「……嵐子とオセロやる約束してて……ルール知らないって言ったら教えてくれるって……すごく楽しみにしてたのに……でも来ないからふて寝して……」
まだちょっと寝ぼけているのか、石動はわけのわからないことをつぶやいている。
だが、わたしの姿を視界に捉えた途端――ぼんやりしていた目の焦点がしっかり合う。
石動はギロリとわたしを睨みつけ、
「あんた……いきなりなにすんのよ?」
「い、いや、ええーっと……」
わたしは壁に張り付きながら、ガクガクと震えていた。
「あたし、すんごく寝起き悪いってこと、知ってるわよね?」
「し、知らないけど……」
「じゃあいま教えてあげる……その体に直接……」
石動は呪うような声でつぶやくと、壁に立てかけられていた金属バットを手にした。ど、どうしてこんなところに金属バットが!?
「ちょ、ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってっ!」
わたしは慌てながら、常にポケットの中に入っている百万円の束を取り出し、
「こ、このお金でゆるしてくれない? た、足りなかったら、もっと……」
言うと、石動は半眼でわたしの顔を凝視し、
「あんた……よく見ると、花片未依じゃない……」
「えっ!? な、なんでわかったの!?」
「ポケットの中に百万円はいってる女子高生なんて、あんた以外にいるわけないでしょうが……」
「そ、そうなの? 最近の女子高生はそんな感じなの?」
「このあたしが、せっかくお金の大切さを教えてあげたのに……怒り倍増だわ……」
言葉の通り、石動の体から噴き上がる暗黒オーラの濃度が二倍になる。
このままじゃ殺される。わたしは靴を履く余裕もないまま、畳敷きの部屋を出る。
「待てええええええええええええ――っっ!」
後ろから追いかけてきた石動は、「死ねえええ――っ!」とか叫びながらカケラの容赦もなく金属バットをフルスイングした。
「ひい――っ!」
わたしは身を低くし、その殺人的な攻撃をなんとか避けた。バットはわたしが持っていた百万円の束を直撃し、その衝撃で束の帯封が切れ、百枚の一万円札が部室に乱舞する。
「逃がすかああああああああああ――っ!」
背後からの強襲。わたしは前方にダイブして命を拾う。
「ちょ、ちょっとあんたっ! シャレになってないわよ!」
「だまれぇええええ――っ!」
「い、言っとくけど、わたしはあの花片コンツェルンの一人娘なのよっ! 世界でも有数のお金持ちなのよ! せ、政財界にも精通してるし、あんたみたいな小娘を社会的に抹殺することなんか簡単なわけで、だから――」
「うらああああああああああ――――っっ!」
「ひぎゃああっ!」
金属バットがロッカーの扉にめり込む。わたしは四つんばいになって逃げる。だが、血走った目をした石動に退路をふさがれる。わたしはへたりと床に腰を下ろし、目の前に立つ狂人を泣きそうな顔で見上げる。
辺りには一万円札がたくさん落ちている。でも、こんな薄っぺらいものでは石動の金属バットを防ぐことなどできやしない。
「かあくごおおおおおお――――っっ!」と、石動が金属バットを天高く振り上げる。
その瞬間、わたしの脳裏をこれまでの人生の出来事が猛スピードで駆け抜けていった。
これってもしかして、あの有名な死の間際に見るとかってやつ? 走馬燈のようにホニャラララってやつ? ということは……ああ、わたし、ここで死んじゃうんだ……
浮かんでは消えていく思い出の数々。親しい人たちの姿。お父様とお母様、屋敷にいる執事やメイドたち、そしてたくさんの友達……あ、あれ?
どういうことだろう、脳裏に浮かぶみんなの姿はなんだかぼんやりとしていて……その顔をちゃんと思い浮かべることができなかった。わたしの記憶の中にいるはずのたくさんの人々は、姿をぼやけさせたまま意識の彼方に消えていく。そして最後に現れたのは――
なぜか葉山くんの顔だった。
どういうわけか、葉山くんの顔だけは、ちゃんと像を結ぶことができた。
わたしにガミガミ説教しているときの、むむーっと眉根を寄せてちょっと怒った顔をしている葉山くん。そんな彼に向けて、わたしは語りかける。
葉山くん……わたし、お金があればなんでもできると思ってたけど、それは間違いだったのかもしれない……あなたの言う通りだったのかもしれない……
葉山くんは、ずっとそれを教えてくれていたのにね……
ごめんね、葉山くん――ごめんなさい……
金属バットが振り下ろされる。わたしはぎゅっと目をつぶった。
そのとき――ふわりとした浮遊感がわたしを包んだ。
「え……?」
驚いて目を開ける。誰かがわたしをお姫さまだっこし、わたしの体を持ち上げていた。
その人はわたしを抱き上げたまま軽やかにジャンプし、金属バットを振り下ろした格好の石動から距離をとる。もしかして葉山くん? いや……違う。
――それは、びっくりするぐらいに綺麗な少女だった。
しっとりした長い黒髪に、涼しげで気品のある目元。端整で優雅な外見をした、凛々しい感じのする美少女。その少女が、石動の金属バット攻撃からわたしを救ってくれたのだ。
「誰かと思えば……」
石動が金属バットを構えながらこちらに振り向く。
「忌々しいオカマ変態じゃない……なんであんたがこんなところにいるのよ?」
えっ、石動はいまなんて言ったの? 声が小さくてよく聞こえなかったけど、なんとか変態って言ったような……
黒髪の少女はわたしを床に下ろすと、右手を口元に当て、
「オーホッホッホッホッホッ! 相変わらずあなたはガラが悪く、そして切ないほどに貧乳ですわね! そんな残念なお胸でよく人前に立てるものだと感心いたしますわ!」
「……とりあえず、二人とも殺す」
石動は低い声でつぶやくと、再び金属バットを構えた。
震えるわたしの耳元に、黒髪の少女がそっと唇を近づける。
「わたくしが合図をしたら……」
「えっ?」
黒髪の少女はわたしの後ろ襟を掴み――思いっきりわたしの体を前方に突き出した。
「えええええっ!?」
バランスを崩して四つんばいになる。目の前には禍々しい殺気を放つ石動の姿が……
「いまですわっ!」
合図――
わたしは石動のスカートの裾を両手で掴むと、渾身の力でそれを真上に跳ね上げた。
「――っ!?」
石動の眩しいほど白い太ももが露わになり、その上にある白いショーツも……
石動は左手でスカートを押さえ「な、なにしやがるのよっ!」と怒鳴り声を上げながら、右手に持った金属バットを振りかぶり――目を白黒させた。
大きく開かれた石動の口の中に、小さな『なにか』が飛来したのだ。
反射的に口を閉じた石動は、次の瞬間――
「………………っっっ!? げ、げ、げぼおおおおお――っ!?」
口から泡を吹いて後ろ向きに倒れた。
わたしは「へ……?」と間抜けな声を上げながら、目の前で悶絶する石動の姿を見つめる。石動は美少女のくせにぴくぴく体を痙攣させながら、なにやら意味不明な言葉をつぶやいていた。こ、これはどういうこと……?
「ふふん。うまくいきましたわね」
得意げにつぶやく少女の右手には――ピンポン球くらいの大きさのシュークリームが握られていた。
「そ、それは……?」
「これは、あなたのフクシュークリームですわ」
「は……?」
「このプチシュークリームの中には、あなたがあの貧乳庶民に食べさせようとしたフクシュークリームの中身が入ってるのですわ。それを口の中に投げつけたのでしてよ」
「フ、フクシュークリームの中身が……?」
そ、そうか……だから石動は悶絶して……
わたしはぽかんとした顔で目の前の美少女を見つめる。
「と、というか……あなたはいったい誰なの? どうしてわたしをたすけてくれたの?」
「わたくしは葉山辰吉に頼まれて、あなたをたすけに来たのですわ」
「え……葉山くんに?」
「そうですわ。まあ、わたくしもあのツルペタ凡民には言葉では言い表せないほどの恨みがありますし、ちょうどいいと思ったのですわよ。だから、あなたのフクシュークリームを使って奴をこらしめてあげたのですわ! オーホッホッホッホッホッ!」
なんだかよくわからないけど――
「あ、ありがとう……あなたのおかげで命拾いしたわ……」
わたしはぶはあと安堵の息を吐いた。そして、胸元から小切手を取り出し、
「これ、お礼の小切手よ。金額のところは空白にしておいたから、好きな金額を書き込んでいいわ」
「そんなものはいりませんわ」
「え……?」
わたしは呆然としながら、
「ど、どうして? お金ほしくないの? そんなわけないよね……だって、お金はこの世で一番偉くて……偉く、て……」
黒髪の少女は静かにわたしを見つめていた。
「確かに、お金というのは世の中で一番強大な力ですわ。お金によって幸福を得られることも、幸福を失うこともある。お金は人を美しくもするし、人を醜くもする。でも……お金にかしずいて、お金に支配されるだけの人生なんて、つまらないとは思わなくて?」
「…………」
「世の中に存在するほとんどのものはお金で手に入れることができますわ。ですが、この世の中には、お金では決して手に入れることができないものというのも少しは残っているらしいですわよ。その『少し』をどれだけ手に入れることができるか……人生の価値とはそういうところに在るのではなくて?」
言って、少女は優しいほほ笑みを浮かべる。そのほほ笑みは、わたしの知っている誰かに似ているような気がした。
「それに、あなたは一つ大きな間違いをしていますわ。この世で一番偉いのはお金――ではなく……」
少女はふふんっと鼻で笑ったあと、
「この世で一番偉いのは――わたくしですわよっ!」
右手を口元に当て、高らかに宣言した。
「世界一の超貴族であるわたくしより偉いものなどこの世にはありませんわっ! そのことをよく覚えておいたほうがよろしくてよ! オーホッホッホッホッホッ!」
「…………」
なんかいろいろ台無しな感じがして、わたしは呆然と少女を見つめていた。
そのときだった――
「ふふふふふふふふふ……」
声がした。とても恐ろしい声が。
いつの間にか――石動が立ち上がっていた。
「ほ、ほんと、やってくれたわね……あんたたち……」
石動の体には鬼神が乗り移っていた。わたしと黒髪の少女はガクガク震えながら、
「あ、あわわわわわ……」
「お、思ったより復活が早いですわね……さすが凶悪貧乳野蛮人、普通の人間とは体のデキが違うようですわ……」
石動は――ゆっくりと金属バットを持ち上げる。にやり、と唇が不穏な形に歪んだ。
「ねえ……いいこと教えてあげましょうか? この世で一番偉いのは、お金でもそこのキモ変態でもなく、この石動美緒様なのよ。それを……これから証明してあげるわ……」
魔の気配が部室を覆い尽くす。わたしはもう八割方泣いていた。
「あなたっ!」
「は、はいっ!」
黒髪の少女に鋭く呼ばれ、わたしはびくっとなりながら返事をした。
「わたくしがあの貧乳悪魔を食い止めているあいだに、あなたはお逃げなさい」
「え……で、でも……」
「いいからお行きなさいっ!」
少女は男前な背中をこちらに見せながら、
「二人いっしょに死ぬことはありませんわ……死ぬのは、わたくし一人で充分ですわよ」
「…………」
「さあお行きなさい。決して振り返らずに」
黒髪の少女は顔だけをこちらに向け、にっとほほ笑む。
わたしはそのほほ笑みを見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
そして少女は「うおおおおお……ですわああああっ!」と、魂の声を張り上げながら鬼神・石動に立ち向かっていく。
わたしは涙を拭き、くるりと少女に背を向ける。
そして背後からは――鈍い炸裂音と断末魔の悲鳴が聞こえてきたのだった……
翌日――月曜日の放課後。わたしは料理部が活動している家庭科室に向かった。
「あら、葉山くん」
「ああ……花片先輩。ちわっす」
「どうしたの? なんか顔中痣だらけだけど……」
「い、いやあ、ちょっと家で転んじゃって……」
「家で転んだだけでそんなんなっちゃうんだ。一般人の家って不憫なのね」
言うと、葉山くんは苦笑いを浮かべた。
「そうだ、葉山くん。昨日のことだけど……」
葉山くんはぎくりとした顔をした。
「…………」
わたしはいろいろ葉山くんに尋ねたかった。葉山くんに頼まれてわたしをたすけにきたと言ったあの黒髪の少女のことを。名前はなんというのか。もしこの学校の生徒ならどの学年でどのクラスなのか。どこに住んでいるのか。普段のわたしなら、どんな大金を払ってでもそれを聞き出そうとしていたはずだ。
だけど――
「やっぱり、いいや」
わたしは笑いながらつぶやく。
「きっと……また会えるよね」
なんとなく、そんな気がした。そう信じたかった。
「ねえ、葉山くん……」
首をかしげる葉山くんに、わたしはほほ笑みながら言った。
「わたし……本当のプライスレス、見つけちゃったかも」
あとがき
「おもしろいあとがきを書いてください」と担当Sさんに言われました。「おもしろいあとがきなんてそう簡単に書けるわけねえだろこのメガネフェチが!」と叫びたいのを社会人的な自制心でぐっと我慢しております。どうも、松野秋鳴《まつのあきなり》です。僕はポニーテールが好きです。本当は「SMクラブに通うことが趣味です。冗談です」と書こうとしましたが、なんか冗談に思われないような気がしてやめました。
というわけで、『えむえむっ!』の2巻でございます。今回もドMな変態主人公・砂戸太郎くんが変態的に身悶えております。プライスレスな悦楽に悶絶しております。美緒様や嵐子さん、お姉ちゃんやお母さんとかもいい感じにやっちゃってます。相変わらず変態キャラ大集合ですが、いまのところP○Aからの苦情とかはきていません。ホッとしております。……担当さん、苦情きてないですよね?
こんな作品ですが、作者は精魂込めて書いているのでよろしくお願いします。
それではこれから馴染みの女王様に会いに行ってきます。冗談です。
謝辞を。
担当のS様、編集長のM様、今回もいろいろありがとうございました。迷惑ばかりかけてすみません。
挿絵を担当してくださったQP:flapperの小原《おはら》トメ太《た》様とさくら小春《こはる》様、問答無用に素晴らしいイラストをどうもありがとうございました。今回の表紙にはイラスト神が宿っております。
装丁を担当してくださった松井様、校正様、営業の皆様、そしてこの本の販売に関わってくださったすべての人にお礼を言いたいです。ありがとうございました。
最後は、読者様であるあなたに。ありがとうございました。読者様のおかげで松野は動いております。たぶん本当です。
それでは、次巻でお会いできればうれしいです。
二〇〇七年 四月 松野秋鳴
2007年5月31日 初版第一刷発行
2008/10/23 作成 ルビは一部のみ