ジョークのたのしみ
松田道弘
[#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)]
もくじ
*[#「*」はゴシック体] まえがき――ジョークの効用
A[#「A」はゴシック体] Alien(エイリアンからみると)
B[#「B」はゴシック体] Bridge(死がふたりを引きはなすまで)
C[#「C」はゴシック体] Catch(ジョークの団体さん)
D[#「D」はゴシック体] Dog(シャギー・ドッグ・ストーリー)
E[#「E」はゴシック体] Elephant(エレファント・ジョーク)
F[#「F」はゴシック体] Fly in my soup(ジョークにハエが)
G[#「G」はゴシック体] Game(勝てば技術、負ければツキのなさ)
H[#「H」はゴシック体] Hollywood(ザッツ・エンタテイナー)
I[#「I」はゴシック体] Intermission(ジョークのオチを推理する)
J[#「J」はゴシック体] Joke(はじめてのジョーク)
K[#「K」はゴシック体] Knock、knock(ノック・ノック――アメリカのだじゃれジョーク)
L[#「L」はゴシック体] Logic(奇妙なロジック・弁護士ジョーク)
M[#「M」はゴシック体] Mistake(とりちがえギャグ)
N[#「N」はゴシック体] Notice(へんてこなはりがみ)
O[#「O」はゴシック体] Optimist(オプティミスト対ペシミスト)
P[#「P」はゴシック体] Pun(ジョークのパンテオン)
Q[#「Q」はゴシック体] Quicker than the eye(手先の早業)
R[#「R」はゴシック体] Riddle(なぞなぞなあに)
S[#「S」はゴシック体] Scotland(しまつの極意)
T[#「T」はゴシック体] Translation(珍訳もドッサリ!)
U[#「U」はゴシック体] Underground(政治ジョーク)
V[#「V」はゴシック体] Victim(学校じゃ教えてくれない)
W[#「W」はゴシック体] Word、word、word(ことばあそび、言葉あそび、ことば遊び)
X[#「X」はゴシック体] Cross(クロス・ジョーク)
Y[#「Y」はゴシック体] Young(愚問愚答のかずかずに)
Z[#「Z」はゴシック体] Zoo(アニマル・ジョーク)
*[#「*」はゴシック体] あとがき――ジョークとともに長生きを
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ジョークのたのしみ
[#地付き]さし絵・南 伸坊
[#地付き](挿絵省略)
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*[#「*」はゴシック体] まえがき――ジョークの効用
「ジョークを百いうと、百人の敵をつくる」
これは『トリストラム・シャンディー』など風変りな小説を書いた英国の奇才ロレンス・スターンの名言です。
ユーモアは百薬の長とか、笑いは社交に欠かせない潤滑油などと、笑いの効用を説く人たちに冷水をあびせる言葉です。ただしスターンの言葉も文字通り受けとるわけにはいきません。ほんとうは「相手に波長のあわないジョークをいうと」という注が必要でしょう。
アメリカ人はジョークが大好きです。レーガン大統領は狙撃されて病院に運ばれたとき、医師団にむかって「きみたちは共和党員だろうな」とジョークをとばし、また手術が終ったあとでは、「ハリウッドでこんなに注目されていたら、やめるんじゃなかったのに」といってまわりの人たちを笑わせたそうです。あまり人気のなかったフォード大統領でさえ「私はフォードで、リンカーンではありません」といった言葉で大衆にサービスしようとしました。高級車リンカーンに対する大衆車フォードを、自分の名前と、かの偉大なる大統領の名前とにひっかけたものです。アメリカではジョーク・ブックは、ひまつぶしのための娯楽読み物ではなく、実用書といった感じさえします。生活必需品といってもいいのではないかと思われます。
アメリカには子ども向きのジョーク・ブックもたくさんあって、あるとき "Jokes and More Jokes" というペーパー・バックを読んでいたら、最初のページは、ハウ・トゥ・テル・ア・ジョークという文章ではじまっていました。ジョークをしゃべるときに、やってはならないことが、たとえばノン・ストップ・ナンシーとか、ロング・ジョーク・ウィリーといったふうに、しゃべる人物のタイプに分けて六つの注意書きでのせられているのです。
まず、ノン・ストップ・タイプ――何十種もの小ばなしを知っていて、それを次から次へと全部いわないと気がすまないタイプ。
つぎがロング・ジョーク・タイプ――このロングは悪いほうの wrong です。悪趣味なジョークが好きで、ジョークをいうときのタイミングがいつもわるい人です。あるいはわざと人のいやがるジョークをいって相手にイヤな顔をさせるのをたのしみにするタイプ。
ラーフィング・ジョーク・タイプ――自分のジョークに自分で笑ってしまうタイプ。
つぎのタイプはうろおぼえのジョークをいう人。フォーゲットフル・タイプ――ちゃんと正しく覚えていないから、サゲ(パンチライン)をまちがえたりして、うけない。
ワン・ジョーク・タイプ――新しい顔さえみれば同じジョークをいわないではおれない。ほかの人がそのジョークを何度きいていてもおかまいなし。
これらを要約すると、
[#1字下げ]@ジョークも事前の練習が必要。しゃべる前に、ちゃんといえるかどうかたしかめること。
[#1字下げ]Aなるべく短く、スマートに。
[#1字下げ]Bつぎからつぎへと、とどまるところなしにジョークを連発しないこと。
[#1字下げ]Cジョークが人を傷つける場合があることを十分知っておくこと。
[#1字下げ]Dいくつかのジョークを知っておくこと。得意のジョークがあっても、いつもそればかりいわないこと。
[#1字下げ]E笑わずにいう練習をすること。
ジョークのいましめをもうひとつ。ジョークで説明しましょう。
ある男が観光船のスチュワードからこんななぞなぞを教わります。
「私の両親に赤ちゃんができました。でもその人は私の兄弟でも姉妹でもありません。その人はだれでしょう?」
観光客はわからない、と降参しました。スチュワードが答を教えてやります。
「それは私ですよ」
観光客はひどくこのなぞなぞが気にいったので、国に帰ってから友人に出題します。
「ぼくの両親に赤ちゃんができたんだ。でもその人はぼくの兄弟でも姉妹でもない。その人はいったいだれだろう?」
友人がわからない、といったとき、その男が得意そうにいいます。
「答は船のスチュワードだ」
下手に覚えたジョークはこんな危険を招くことがあります。
ジョークはある種の劇薬と同じで、使用法をあやまるとたいへん危険です。
覚えたばかりの奇術を人にやってみたくてたまらないように、自分がおかしいと思ったジョークもつい他人に話してやりたくなるものです。ところが「これは傑作なんだ」といきおいこんで話してきかせたジョークに対して、まるでお義理のようにあいまいでうつろなジャパニーズ・スマイルがかえってくるだけ、というケースがどれだけ多いことでしょうか。
ジョークはだれにも喜ばれる、と考えるところにおとしあながあります。タネのみえた下手な奇術が相手の軽蔑を買うだけのように、相手の好みにあわせそこなったジョークのみじめさはちょっと表現に窮します。
おしまいになぞなぞをひとつ……
問[#「問」はゴシック体] ジョークがジョークでないのはいつか?
答[#「答」はゴシック体] ほとんどのとき。
ジョークというのはリップ・サービスなのですが、あたりはずれの差が極端です。サービスがサービスにならないときが多いことを、このなぞなぞも表現しようとしているのでしょう。
アメリカのレーガン大統領はふだんからジョーク好きな性格で、いささかサービスしすぎるわるいくせがあるのが欠点のようです。スタッフへのサービスのつもりで口にしたマイク・テストでの悪ふざけが、世界中にニュースとして流されるといったタイミングのわるいケースも生じるのです。
ジョークがジョークでなくなるとき、それがほとんどのケースだというなぞなぞ(ジョーク)は、いつの時代、どこの国でもほぼ正解になると覚悟しておいたほうがよさそうです。
この本は最初「ひとりで笑う本」というタイトルを用意していました。コンピュータ・ウォー・ゲームとひとりで遊ぶように、ジョークというある意味では、危険なおもちゃをひとりこっそりたのしんでもらったほうがいいのではないかと考えたからです。
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A[#「A」はゴシック体] Alien(エイリアンからみると)
子どものころにきいたなぞなぞ(パズル)にこんなのがありました。
アフリカにライオン狩りに出かけた探険家がとつぜんライオンに出あった。さあどうする、とたずねられ、鉄砲《ガン》があるだろうというと、そのときたまたま鉄砲が故障していたのだ、さあどうする、とたたみかけられ、わからないと降参するほかありませんでした。ライオン用のオリに自分が入ってしまえばいいのだというのがその答でした。いまだったらそんな大きなオリを自分ひとりで運んでいたのだろうかとか、いろいろと疑問のでてくるところでしょうが、用具の使用目的を逆転させる(つまりライオンをつかまえて入れるためのオリに自分が入る)という、アイディアの新鮮さにショックをうけたのを今でもよく覚えています。これがはじめて知ったあべこべの発想かもしれません。これがジョークの世界になると――
*あるとき、たまたま鉄砲をもっていなかったハンターが、ライオンと出あってしまいました。野生の動物とぶつかったときは、ぜったいに野獣の目から、目をそらしてはいけないという鉄則に従って、ハンターはじっとライオンの目をみつめつづけました。
しばらくするとライオンが前脚をそろえ、ていねいにおじぎをしました。ハンターもわけがわからないままに同じようにおじぎを返しました。するとライオンがいいました。
「あなたは何をしてるのか知りませんが、私は食前の感謝のおいのりをしているのですよ」
ライオンからみた人間の姿という見方は、エイリアン(異星人)からみた人類という奇抜なSF的発想にもつながっていきます。
SFの魅力は私たちの視野を日常的な思考枠から解放して、未知のニューワールドへ案内してくれることでしょう。SFがときにセンス・オブ・ワンダーとよばれるゆえんもここにあります。
SFでとりわけ効果を発揮するのはあべこべの発想による視点の転換です。
身体にうろこがあって脚が何本もあるエイリアンの目で、地球という小惑星に住む人類という生物をながめたときは、たった二本の脚しかもたず、皮膚には一枚のうろこもついていないおぞましい怪物なのだという、あべこべの発想によるSF短篇をはじめてよんだときのおどろきを忘れることができません。
また、私たち人類は自分たちの力で今日の文明を築きあげたと思いこんでいますが、ほんとうは地球外の知的生物の家畜であって、地球という実験室の中で飼育され、観察されているのだという人類家畜説というテーマにはじめてぶつかったときも、その自由奔放な発想にひどく感心したことがあります。
エイリアンを扱ったジョークでひところ流行したのは、空とぶ円盤にのって地球にやってきたエイリアンが、地球にあるありふれた品物や機械を自分たちの仲間だとかんちがいして話しかけるというパターンです。
有名なのは、宇宙人がガソリン・スタンドを訪れて、ガソリン・ポンプにむかって、おごそかに「代表者リーダーにあわせていただきたい」と宣言するというものです。
おそらくもとは一コママンガのキャプションだったのでしょう。マンガのキャプションがあとでジョークとして定着するというのもじつによくあるケースです。
もうひとつ類例を。
*宇宙人がガス・ステーションの前を通りかかりました。彼はポンプに近づいていいます。
「みっともないまねはやめるんだ。耳に指をつっこむなんて」
こんな例もあります。
*パーキング・メーターにむかって、
「何というぶしょうなやつだ。じっとしたままで食事をさせてもらうとは」
エイリアンを主人公にしたジョークの狙いは、外宇宙からの訪問者の、まるで価値観のちがった思考パターンの奇抜さにあるのですが、その非日常的な飛躍性についていけない人たちに、口あたりのいいインスタント・エイリアンを提供するのが、一連のよっぱらいジョークです。
*アメリカのバーのはなしです。よっぱらいが、相棒に話しかけています。
「あの部屋のすみにいる赤いドレスを着た女と、青いドレスを着た女に手を出すのはよせよ。青いほうは、何をいってもひとことも返事をしないし、赤いほうは、ちょっとさわっただけで、とんでもない悲鳴をあげるからな」
考えオチといったほうがいいかもしれません。
考えオチというのは、最後のオチがひとひねりしてあって、聞き手(または読み手)に、瞬間的ななぞときを要求するような、ワン・クッションをおいた結末のサゲのことです。
ジョークの作者は、青いほうが電話機で、赤いほうが火災報知機だということをわからせたいのです。よっぱらいの目からみれば、日常性の中にとんでもない解釈が生じることを利用しています。さらには子どもの視点、動物の視点をかりて「ちがった見方」のふしぎさ、おかしさをきわだたせようとします。
*天井で二匹のハエが会話をしています。
「ねえ、人間というのは、奇妙な動物だと思わないか?」
「どうして?」
「だって大金を払って、こんな立派な天井をこしらえても、散歩さえしないじゃないか」
*二匹の犬が街でパーキング・メーターが並んでいるのをみつけて、一匹がいいます。
「おい、みろよ。有料トイレができてるようだぜ」
*二匹のネズミの立話です。
「教授とはうまくいっているかい」
「もちろん、私はいまじゃあの男を自由にあやつることができるんだ。私がベルを鳴らすたんびに、教授がエサをもってきてくれるのさ」
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B[#「B」はゴシック体] Bridge(死がふたりを引きはなすまで)
「神の結びたもうたもの、支配人が引きはなした」
これはあるとき、夫人と並んで劇場の座席をとることのできなかったバーナード・ショウが、劇場の支配人にあてたイヤミな手紙の文面です。「死がふたりを引きはなすまで」というのは、結婚式のときの牧師のきまり文句です。ショウ夫妻がとなりあわせの座席を獲得できたのはもちろんです。
いくら神聖なカップルでも、ときにはテーブルのひとつでもふたりの間において、はなればなれにしておくほうがよいこともあります。
たとえばブリッジです。
ブリッジといっても、日本で広く行われているセブン・ブリッジ(これはじつはラミーというゲーム)ではありません。十三枚ずつ手札を持って、向いあったふたりがパートナー同士となってプレイする、正式にはコントラクト・ブリッジと呼ぶカード・ゲームのことです。夫婦が組になって、招待した夫婦とブリッジ・テーブルを囲むというのは、外国の小説や映画でよくみかけるシーンです。
ブリッジでは勝利の喜びを分ちあうのもパートナー同士なら、敗戦の屈辱を分ちあうのもパートナー同士です。勝ち戦より、負け戦のほうが多いチームでは、どうしたって内輪もめがはじまります。
ゲームが終ったあとで、あのときあなたがあのカードを出したばっかりに、相手にコントラクトをつくらせてしまったんじゃないか、というふうに、過去にさかのぼって相手のプレイ・ミスを責めあう論争が延々とつづくものです。これをポストモーテム(死体検証)ということがあります。
ブリッジに関するジョークは、ブリッジというゲームのルールと作戦にかなりくわしくないとおもしろくないのが多く、ブリッジになじみのない日本ではまったくお手あげです。
たとえば、パートナーのエースをトランプする(切札で切る)といったプレイが、どんなに愚かしくも腹立たしいプレイかは、ゲームをやったことのない人にはそのおかしみが伝えにくいのです。
口のわるいサマセット・モームにいわせると、「そのカードを出さなければならない理由と同じくらい出してはいけない理由もあるらしかった」ということになります。
もともとあそびのためのブリッジが、往々にして夫婦げんかのもとになるというのが、このゲームの困ったところです。ブリッジのゲームのあとの口論から夫人が夫を射殺したという実際の出来事が、武器の国アメリカにはあります。いくらかっとなっても簡単に手出しができないように、神の結びたもうたふたりの間を四角なテーブルがへだてているのは、それなりに意味のあることのように思われてきます。
*母親と娘の会話です。
「けんかには最低ふたりが要るわね」
「四人は要るわよ、おかあさん、ブリッジをするんだったらね」
あなたが日本人なら、麻雀をふたりずつのパートナーに分けて対抗試合をやりたいなどとはけっして思わないでしょう。しかしこの発想が外国人のゲームに対するきわめてノーマルな考え方なのです。それほど外国のゲームではパートナーシップを尊重します。
『エリヤ随筆』の中で、チャールズ・ラムは、バッツル夫人の口を借りて、つぎのようにパートナーシップ・ゲームの利点をのべたてます。
ゲームは所詮仮装した戦争であるが、チェスのようにふたりが闘争本能をむきだしにして勝敗を争うのは吾人の美意識に反する。しかしホイスト(ブリッジの前身、やはりパートナーシップのゲーム)のように、チーム同士の対抗であれば、敵愾心もうすめられ、戦争も礼儀正しいスポーツとなる。
ひとりがひとりに負けるよりふたりがふたりに負けるほうが気が楽になるというのですが、このあたりが、ゲームを真剣勝負とみなし、個人プレイの大好きな日本人にもっともいやがられるところでしょう。相手に負ける屈辱より自分のヘマをわがパートナーに弁解するほうがよほど苦痛だという人が多いのです。
*ブリッジの名人といわれていた男がいました。彼は自分の腕に絶対の自信をもっていたので、ドジなパートナーのプレイにはがまんができませんでした。
あるパーティで、へまなパートナーとくまされたこの男は悪戦苦闘を強いられました。そのようすをみていたひとりの夫人が調子はいかがと声をかけました。
「まあまあというところじゃないでしょうか」その男がこたえました。「敵が三人もいるにしてはね」
アメリカのある短篇の中で、殺人容疑の被告を訪れた弁護人が、うっかりこんな縁起のわるいジョークをいうところがでてきます。
「とにかくがんばりましょう。死がふたりを分つまで」もっとも相手も笑いながら結婚式場のきまり文句で応じます。「私はあなたを弁護人といたします」
どこかわが国の常識では律しがたいジョークの国アメリカのユーモア・センスと同じように、わたしたちの体質に生理的になじまないのが、パイプを共同使用するようなパートナーシップという連帯感なのかもしれません。
麻雀と同じでメンバーが四人そろわないとゲームが成立しないのが、このゲームの泣きどころです。
サマセット・モームの『三人のふとった女』という短篇は、保養地でダイエット中のブリッジ好きの三人の女性が「あとひとり」のメンバーを求めて涙ぐましい苦労を重ねる皮肉なはなしです。
これがジョークになると――
*医者のところに電話がかかってきます。
ブリッジのメンバーがひとりたりないので大いそぎできてほしいというのです。
「わかりました。すぐにうかがいます」
電話のそばにいた夫人が、きょうは私たちの結婚記念日なのに、それほど大事な用件なのか、と問いただします。
「申しわけない。緊急事態なんだ。何しろもうすでに医者が三人も首をそろえているんだから」
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C[#「C」はゴシック体] Catch(ジョークの団体さん)
「電線に三羽のスズメがとまっていて、ハンターが三羽に命中させたのに、一羽だけが落ちてこなかった。なぜだろう」
これが日本中をある時期スズメ・ジョークともいうべき「ナンセンス・クイズ」にまきこんだ一連のなぞなぞのトップ・バッターでした(答・そのスズメに根性があったからだ)。相手が何とこたえようと、ああいえばこうと解答をはぐらかすような意地わるなぞなぞは、外国にもたくさんあって、キャッチ(Catch)あるいはクイブル(Quibble)とよばれることもあります。
たとえば、
問題その一、「ゾウがこっちへやってくるのをみたとき、フランスのドゴール大統領は何といったか」(答・ドゴールはフランス語でゾウがこっちへやってくる、といった)。
問題その二、「このときゾウはドゴールをみて何といったか」(答・何にも。ゾウはフランス語がしゃべれない)。
といったぐあいです。
スズメ・ジョークはそのあと、たとえば「電線に三羽のスズメがいて、ハンターが三羽ともうちおとした。二羽はすぐ落ちてきたが、のこりの一羽だけはゆっくりと落ちていった。なぜか?」といった数知れぬ同タイプのバリエーションがつぎつぎとつくられ、いまだに人気があります(答・その一羽だけが目立ちたがりだったから)。
「カモメのジョナサン」が大当りした一九七〇年代のはじめに大流行したカモメのミナサンという一連のだじゃれジョークを思い出してみましょう。「カモメが群をなしてとんでいる。先頭のカモメは旗をもっている。これらのカモメを何という?」(答・カモメの団体サン)。
スズメにしろ、カモメにしろ、この手のジョークの特徴は、ひとつだけとりだして相手に話してもあまり効果がないことです。ひとつひとつはくだらないジョークでも、それがつみかさねられ、くりかえされることで、酒が酒をよぶのに似たふしぎな相乗効果が生じるのです。あべこべにいうと団体でないとおもしろくないジョークというのもあるのです。
もはやセミクラシックとなったカモメのジョークとスズメ・ジョークをひとまとめにして収録しておきましょう。
問[#「問」はゴシック体] カモメが百羽います。一羽をカモメのジョナサンといいます。のこりのカモメを何と呼ぶでしょう。
答[#「答」はゴシック体] カモメのみなさん。
問[#「問」はゴシック体] カモメのジョナサンには二羽の兄カモメがいるそうです。それぞれ何という名前でしょう。
答[#「答」はゴシック体] カモメのジョナイチ、カモメのジョナニ。
問[#「問」はゴシック体] カモメの中で、同じところをぐるぐるまわってばかりいるカモメがいます。何という名前でしょう。
答[#「答」はゴシック体] カモメのおまわりさん。
問[#「問」はゴシック体] カモメのジョナサンによく似たカモメが一羽とんでいます。このカモメを何と呼ぶでしょう。
答[#「答」はゴシック体] カモメのソックリさん。
問[#「問」はゴシック体] 上にもとべず、下にもとべず、まっすぐ、地上と平行にしかとべないカモメを何というでしょう。
答[#「答」はゴシック体] カモメの水平サン(水兵サン)。
問[#「問」はゴシック体] カモメの中で、一羽だけフワフワとおりてくるカモメがいます。このカモメの名は?
答[#「答」はゴシック体] カモメのラッカサン(落下傘)。
問[#「問」はゴシック体] 五羽のカモメのうち、一羽だけ帰るところがありませんでした。このカモメの名前を何という?
答[#「答」はゴシック体] ヤモメのジョナサン。
問[#「問」はゴシック体] カモメが数百羽、大阪へむかってとんでいます。これらのカモメを何とよぶでしょう?
答[#「答」はゴシック体] カモメがギョウサン。
問[#「問」はゴシック体] スズメが一羽、電線にとまっています。ハンターが撃とうとすると、発砲の前に落ちてきました。なぜでしょう。
答[#「答」はゴシック体] そのときがちょうど寿命でした。
問[#「問」はゴシック体] スズメが三羽、電線にとまっていました。ハンターは、みごと三羽とも命中させたのですが、一羽も落ちてきません。なぜでしょうか。スズメに根性《ガツツ》があったのではありませんよ。
答[#「答」はゴシック体] 弾丸に根性《ガツツ》がなかった。
問[#「問」はゴシック体] ハンターがスズメを鉄砲で撃ちました。みごとに命中したのですが、スズメは落ちてきませんでした。スズメに根性があったのでも、弾丸に根性がなかったのでもありませんよ。
答[#「答」はゴシック体] スズメは地面の上にいたのです。
問[#「問」はゴシック体] 電線にスズメが一羽とまっていました。十メートル離れたところから、一メートルしか飛ばない弾丸で撃ったら、なぜかスズメに命中しました。なぜでしょう。
答[#「答」はゴシック体] 銃身が九メートルあったのです。
問[#「問」はゴシック体] 同じ問題。銃身が九メートルあったのではありません。
答[#「答」はゴシック体] 弾丸が九メートルあったのです。
問[#「問」はゴシック体] 同じ問題。銃身が九メートルあったのでも、弾丸が九メートルあったのでもありません。
答[#「答」はゴシック体] 腕の長さが九メートルありました。
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D[#「D」はゴシック体] Dog(シャギー・ドッグ・ストーリー)
シャギー・ドッグ・ストーリー(shaggy dog story)という言葉があります。アメリカのスラングのようです。直訳すれば「毛むくじゃらの犬のはなし」ですが、ある種のジョークのタイプを意味しています。
シャギー・ドッグ・ストーリーの定義は人によってまちまちです。
あるジョーク・ブックでは、人間の言葉をしゃべったり、人間と同じように行動をする動物が登場するはなしと単純にわりきって分類しています。
また、かなり長ったらしく、語り手はひとりでおもしろがってしゃべっているが、聞き手がうんざりするような、ポイントレス(意味のあるようなないような)なジョークだという説もあります。
フレドリック・ブラウンの短篇集に『ザ・シャギー・ドッグ・アンド・アザー・マーダーズ』(一九六三)というのがあります。日本訳題は『復讐の女神』(創元推理文庫)。
この中に「シャギー・ドッグ・マーダーズ」という短篇があって、うんちくを傾けるのが大好きな主人公に、元祖シャギー・ドッグ・ストーリーだとされているジョークを語らせています。どんなはなしかというと――
*ニューヨークに住むある男が白い大きな毛むくじゃらの犬を拾いました。その男は新聞でそんな犬を拾ってとどけてくれた人に五百ポンドをあげますという広告をみかけます。あて先はロンドンになっているので、その男は犬をかかえて、ロンドンの広告主の住所をさがしあてます。ドアをノックすると無愛想なイギリス人がでてきます。「あなたが広告を出した方ですね」ときくと、「ああ」と冷たくいいます。「でもそんなに毛むくじゃらの犬じゃないよ」といってぴしゃっとドアをしめてしまいます。
これでおしまいなのですが、最後の「そんなに毛むくじゃらの犬じゃないよ」というオチをきいても、いったいどこがおもしろいのか、ポイントのつかみにくいジョークです。
J・C・ファーナスというアメリカの作家は、「シャギー・ドッグ・ストーリー」というエッセイの中で、ブラウンの引用したむく犬のジョークは、マックス・イーストマンが『笑いの喜び』という著書の中でナンセンスの一例として紹介しているものだとその出典を明らかにしています(『ユーモア・スケッチ傑作展〔3〕』早川書房)。
このタイプのジョークをきかされたときの何人かの人々の反応を、ファーナスはいろいろと描写してみせます。ある人たちは(せいぜいふたりくらいは)わけがわからないままに、一応儀礼的なうつろな笑い声をたて、もうふたりくらい、たぶん若い女性は「でもどこがおもしろいのかわからない」と率直な意見をのべ、たいていの中年男はそっぽをむくだろうが、あるタイプの人たちは転げまわっておかしがる――と。
ファーナスはさらにシャギー・ドッグ・ストーリーのポイントレス(オチがない)という点についてつぎのように書いています。
「この種の小咄は独得のポイントを持っている。それがなんであるかは不可解だが、適当なユーモア感覚の持ち主に出あったとき、それが抱腹絶倒の笑いで迎えられる事実は、ある種のへそ曲がりな意味がそこに存在するというなによりの証拠である」(浅倉久志訳)。
ファーナスの紹介しているシャギー・ドッグ・ストーリーはつぎのようなものです。
*ある男が馬を買いに出かけて、すばらしい馬をみつけました。しかもその値段が信じられないほど安いのです。そこで男は売り主にこの馬にはどんな欠点があるのかと問いただします。売り主がいうには、
「この馬にはどうしてもなおせない悪いくせがひとつだけある。この馬はグレープフルーツをみつけるとなぜかその上にすわりたがるんだ」
男はそのくらいの欠点はがまんしようと考えて、その馬を買って帰ります。その馬にのって小川をわたっているとき、川のまん中でとつぜん馬がべったりとすわって、てこでも動かなくなります。男は馬からおりてそのへんをさがしまわりますが、グレープフルーツはみあたりません。仕方なく川を歩いてもどり、売り主に文句をいいます。
売り主がいいます。「申しわけない。もうひとつ言いわすれていたよ。あの馬は魚の上にもすわりたがるんだ」
オチのあいまいな小ばなしがあまりお気に召さない方のために、明快なオチのついたシャギー・ドッグ・ストーリーをひとつ紹介しましょう。
*映画館でアリが映画をみていました。
映画がはじまったとき、ゾウが入ってきてアリの前の席にすわりました。
しばらくしてアリは席を立って、ゾウの前の席に移り、うしろを向いていいました。
「ね、前にだれかがすわるとよくみえないでしょ」
シャギー・ドッグ・ストーリーをもうひとつ。
*一匹のゴリラが酒場へ入ってきてストゥールに腰かけるのをみて、カウンターマンはびっくりします。
「レモネードはあるかい」とゴリラがききます。
「ちょ、ちょっとお待ちください」
「大きいグラスのほうがいいな」とゴリラがいいます。
「少々お待ちを」
カウンターマンは、店の奥のボスのところへすっとんでいきます。
「ボス! ゴリラがきて、レモネードをくれといってるんですが」
「だしてやれ、だが一杯三十ドルだというんだぞ」
カウンターマンはひきかえしてきて、ゴリラにレモネードをついでやります。ゴリラはひと口でのんでしまいます。
カウンターマンがおそるおそるいいます。
「三十ドルいただきます」
ゴリラはじっと彼の顔をみていましたが、だまって三十ドルを財布から出してカウンターにおき、出ていこうとします。
カウンターマンは思わず、
「あ、……このへんにゴリラさんはたくさんおられるのですか」
「こんな値段じゃ、あんまりみかけることもないだろうよ」
*万年最下位にあえいでいる弱小球団がありました。ある日一頭のウマが訪ねてきて、チームに入れてくれといいます。監督はびっくりしますが、「悪いわけもなかろう」と採用します。
ウマは先発投手になり、三回を全員三振にうちとりました。三回の裏、ラスト・バッターのウマははじめて打席に立ち、相手方のピッチャーの第一球をセンター後方にかっとばします。ボールはあと何センチというところで、フェンスにあたってはねかえり、センターはボールを内野へ返送しました。ショートがこのボールをファンブルし、さらに一塁に悪送球しましたが、カバーしたセカンドが一塁に送り、まだ一塁に到着してなかったウマはアウトになりました。ダッグアウトに帰ってきたウマを監督がどなりつけます。「お前みたいに足ののろい奴をみたことがない!」
「もし、足がはやかったら」ウマがこたえます。「とっくにダービーに出ていますよ」
*こんなオチもあります。
バッターのウマがロング・ヒット・コースに打球をとばすところまでは同じです。
しかしウマは全然走ろうとしません。たまりかねた監督が「走れ! 走れ」とどなりますが、ウマは平然とこういいます。
「ベースをまわるウマなんてきいたこともない」
こんなふうに、ひとつのシチュエーションがつぎからつぎへと別種のジョークを生みだしていくところにおもしろさがあります。
*非常にかしこい犬がいました。飼主はその犬を大学にやることにしました。クリスマスの休暇でその犬が帰ってきたとき、犬は歴史や経済学は受講しなかったけれども、外国語は十分にマスターしたといいます。
「じゃ何か外国語でしゃべってごらん」
「ニャーオ」と犬がいいました。
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E[#「E」はゴシック体] Elephant(エレファント・ジョーク)
問[#「問」はゴシック体] カモメとスズメが仲よく空をとんでいます。おどろいたことに、そのあとからカメがとんでいくではありませんか。カメはどうしてとんでいるのでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] つきあいでとんでいるのです。
これはスズメ・ジョークがさかんだった一九七〇年代に日本でつくられたなぞなぞだと思われますが、こういったタイプのナンセンス・ジョークは、アメリカだったら、さしずめエレファント・ジョークとよばれるところでしょう。このなぞなぞでも、カメをゾウにかえたとしたら、たちまちエレファント・ジョークがひとつできあがります。
ジョークとなぞなぞの区別はつけにくく、エレファント・ジョークというのは、いってみれば、「ナポレオンはなぜ青いズボンつりをしていたか?」「答、ズボンつりをしていないと、ズボンがずりおちてしまうから」といったタイプと同じいじわるなぞなぞなのです。
解答者のまじめな(あたり前の)答を予想してそれをはぐらかし、ああいえばこういうといった意地のわるいなぞかけですが、エレファント・ジョークは従来のなぞなぞをさらにシュールといってもいいほどエスカレートさせた論理の飛躍性と、そのナンセンスの度合をたのしむジョークといってもいいでしょう。
たとえばこんな問題です。
「三匹のゾウがピンクのスウェット・シャツを着こんで、街を歩いてくるのをみたとき、どんなことがわかるでしょう」
欧米では酔っぱらいにはピンクのゾウがみえるとよくいわれています。
ですからこの問題も、何がわかるかときかれて、たとえば自分が酔っぱらっていることがわかるといった平凡な答をすると、残念でした、三匹とも同じチームだということがわかるのです、といったぐあいに肩すかしをくわされるのです。
エレファント・ジョークはいってみれば、出題者と解答者との間のバトル・オブ・ウィットなのですから、答はひとつとはかぎりません。極端なことをいえば、答は何だっていいのです。その答にウィットがありさえすれば。
シュールなギャグというと反射的に連想するのが、ナンセンスのアインシュタインとよばれたグルーチョ・マルクスのセリフです。
「けだもの組合」(原題 Animal Crackers)というマルクス兄弟(チコ、ゼッポ、ハーポ、グルーチョ)の出演した映画の中で、グルーチョ・マルクスが、いいかげんなアフリカ冒険談で、社交界の連中をけむにまくときの有名なセリフがあります。
One morning I shot the elephant in my pajamas.
これは、パジャマ姿のままで、ゾウを撃ったという意味と、パジャマの中にいたゾウというふたつの意味にかけたしゃれです。
このセリフは、そのあと「どうしてそんなところにゾウが入りこんだのかわかりませんが」とつづくのです。
「けだもの組合」はシュールなギャグの宝庫です。
この映画の中で、グルーチョとチコの兄弟が盗まれた絵をどうやってみつけるか、と議論するシーンのセリフは、とりわけつむじまがりのインテリや哲学者に喜ばれてしばしば引用されます。
「もしこの家の人間がだれも盗んでいないとしたら?」
「じゃ、となりの家へ行く」
「それはいい考えだ。だがとなりに家がなかったら?」
「そのときはもちろん、もう一軒たてなくちゃならん」
マルクス兄弟も顔負けのシュールなエレファント・ジョークをいくつか紹介しましょう。
問[#「問」はゴシック体] ゾウがあなたのベッドに入っていることがどうしてわかるか?
答[#「答」はゴシック体] Eのイニシャルのついたパジャマを着ているから。
問[#「問」はゴシック体] どうしてゾウはバレエを習おうとしないのか?
答[#「答」はゴシック体] 彼らのレオタードが身体に合わなくなってしまったから。
問[#「問」はゴシック体] ゾウはどうして灰色でしわだらけなのか?
答[#「答」はゴシック体] アイロンをかけられないから。
問[#「問」はゴシック体] ネズミ色で黄色くて、黄色くてネズミ色で、……ネズミ色で黄色のものは?
答[#「答」はゴシック体] ヒナギクをくわえて丘をころがりおちているゾウ。
「南極にいる動物で、ハナが長く、キバがつき出していて、灰色で耳が大きい動物はなんだ?」
「わからない」
「まいごになったゾウ」
「ゾウはどうして白いサンダルをはくのか?」
「わからない、教えて」
「砂にめりこまない用心のため」
問[#「問」はゴシック体] ダチョウはどうして砂をつつくのか?
答[#「答」はゴシック体] 白いサンダルをはいてないゾウをさがすため。
問[#「問」はゴシック体] ゾウがスニーカーをはいて、木から木へとびうつるのはなぜでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] 近所めいわくな音をたてないため。
問[#「問」はゴシック体] ゾウが垣根にすわるのはどんなとき?
答[#「答」はゴシック体] 新しい垣根を注文しなくてはならないとき。
問[#「問」はゴシック体] ゾウはどうしてヒッチハイクをしないのか?
答[#「答」はゴシック体] 親指を立てることができないから。
問[#「問」はゴシック体] ゾウはどこでみつかりますか。
答[#「答」はゴシック体] ゾウのような大きな動物は、めったに失くすことはありません。
問[#「問」はゴシック体] 五匹のゾウをどうやってフォルクスワーゲンにつめこむことができるでしょう。
答[#「答」はゴシック体] 二匹は前の座席に、三匹は後の座席に。
問[#「問」はゴシック体] それでは、四匹のカンガルーをフォルクスワーゲンにつめこむには?
答[#「答」はゴシック体] ゾウを出せばよろしい。
問[#「問」はゴシック体] ゾウはどうしてラッパを吹くのか?
答[#「答」はゴシック体] バイオリンのひき方がわからないから。
問[#「問」はゴシック体] ゾウの石像をつくるには?
答[#「答」はゴシック体] 石をあつめてきて、ゾウに似てないのを全部すててしまいます。
問[#「問」はゴシック体] ゾウはエンパイヤ・ステートビルより高くとびあがることができるでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] できます。エンパイヤ・ステートビルはとびあがれないから。
*ある男が町のまん中で、指を鳴らしています。
「何してるんだ?」
「ゾウを追っぱらってるんだよ」
「ゾウなんてどこにもいないじゃないか」
「だろう? 効き目はこの通りさ」
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F[#「F」はゴシック体] Fly in my soup(ジョークにハエが)
映画「サイレント・ムービー」(一九七六)は、ハリウッドの斜陽映画会社が、起死回生の手段として、大スターをあつめてサイレント映画をつくり、社運を挽回しようとするスラプスティック・コメディで、「新サイコ」などをつくったメル・ブルックスが監督主演しています。登場人物のセリフをわざと古めかしいスポークン・タイトル(字幕)にして、全篇でただひとことのセリフが、パントマイムのマルセル・マルソオの「ノー!」というセリフだという、人をくったこり方にしてはいるのですが、ギャグがどうにもあかぬけしません。
この映画でたったひとつおかしかったのは、ラスト近くのカー・チェイス・シーンで、三人の主人公の乗った車が、殺虫剤の宣伝カーとぶつかるところで、宣伝カーの屋根につんであった巨大なハエの模型がすっとんで、レストランで食事中の男のテーブルの上にドン! と着地するシーンでした。すかさず Waiter, there's a fly in my soup.「ウェイター、スープの中にハエがいるぞ」という字幕が出て客席をわかせます。
巨大なハエのモデルが、スープ皿の上にのっかるというギャグは、それだけでも独立した笑いをよぶことができますが、じつはもうひとひねりしてあるのです。スープの中のハエというのは、いってみれば、ジョークの古典的パターンのひとつなのです。
「ウェイター、スープの中にハエがいるぞ」という客のセリフ(これはいつもきまっている)に対して、ウェイターが口答えする、その千差万別の応答がパターン化して、あきもせずつくられつづけているのです。その結果、たいていのジョーク集に必ずハエが入ることになります。
「ウェイター、スープにハエが入ってるぞ」
「いいじゃありませんか、そんな小さなハエの飲む分量はしれてますよ」
「私はきらいな人に会ったことがない」というのは、アメリカの映画スター、ウィル・ロジャースの言葉です。あるとき、彼がホテルのダイニング・ルームで食事中、スープの中でハエがおぼれかけているのをみつけて、コック長にいいました。
「こんどぼくのスープにハエを入れるときは、泳ぎ方をマスターさせとくか、背中に救命具をつけといてほしいね」
「ウェイター、アイスクリームにハエが入っているよ」
「こらしめのために、凍死させておやりなさい」
「ウェイター、このハエはスープの中でいったい何をしているのかね」
「私にはバック・ストロークをしているようにみえますが」
「ウェイター、スープの中にハエがいるぞ、これはいったい何の意味だね」
「私はウェイターでしてね。占い師じゃありません」
「ウェイター、スープにハエが入ってるぞ」
「グリーン・ピースを入れましょうか。ウォーター・ポロがごらんになれますよ」
「ウェイター、スープにハエが入ってるぞ」
「ご心配なく。パンの中のクモがたべてくれますから」
「ウェイター、私のスープにハエが五匹も泳いでいるじゃないか」
「私はスポーツのことはまるでわかりませんが、ひょっとするとリレーをやっているのではないでしょうか」
「ウェイター、スープの中にハエがいるぞ」
「それっぽっちの値段で何をごらんになりたいとおっしゃるのです。スターウォーズですか?」
「ウェイター、スープの中に小さなハエが入っているぞ」
「もっと大きいのとおとりかえいたしましょうか」
ウェイターとお客というカップルは、マンガの主人公トム・キャットが、ジェリー・マウスを追いかけるように、いつはてるともない「レストラン・ウォーズ」を展開します。「レストラン・ウォーズ」の中から古典的な戦闘場面をいくつかみていただきましょう。
「ウェイター、おれに石みたいにコチコチのタマゴと冷たいベーコン、それに黒こげになったトースト、うすくてぬるいコーヒーをもってきてくれ」
「当店ではそのようなご注文は……」
「どうしてできない? きのうはたしかにそんなメニューだったぞ」
「ウェイター、この皿はぬれたままだぞ」
「それがスープでございます」
「このチキンは何だ、骨と皮しかついてないじゃないか」
「羽根をご入用とは存じませんでした」
「マッシュルームはやめとこう。先週そいつであやうく食中毒をおこすところだったからな」
「やっぱりそうでございましたか。どうやら私はコックとの賭けに勝つことができたようです」
「ウェイター、このスープはいったい何だね。私は豆スープを注文したのに、これはまるで石けんみたいな味がするじゃないか」
「私のミスで申しわけありません。さしあげたのはトマト・スープでした。豆スープでしたらガソリンの味がするはずでございますから」
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G[#「G」はゴシック体] Game(勝てば技術、負ければツキのなさ)
貝がらを耳におしあてて海の響きをなつかしむ人がいるように、幼年時代の遊びの記憶にかぎりない郷愁を抱きつづける人がたくさんいます。自分たちの子どもの頃の遊びはよかった、それにくらべて今の子どもたちのおもちゃの貧しさはどうだろう、これでは豊饒の中の貧困そのものではないか、という嘆き節がくりかえされます。一九八〇年頃から流行しはじめたウォッチ・ゲームや、うすぐらいゲーム・センターで金属的な電子音のテレビ・ゲームに熱中する子どもたちの姿をみてあわれと思う人たちは、子どもの頃親がよみあげてくれたカルタとりに夢中になった過ぎし日の思い出を大切にしたがります。しかしウォッチ・ゲームも百人一首も、どちらも反射神経が主役のゲームだという点ではまるで同じです。ブルートーのパンチをかわして、オリーブの投げる品物をキャッチするポパイをあやつるウォッチ・ゲームも、きまり字をきいたとたん、下《しも》の句の札をはねとばす百人一首も、反射神経のはやさを競うアクション・ゲームであるという共通点においては変りがありません。
日本ではどういうわけかアクション・ゲームが喜ばれ、おもちゃ屋でよく売れるゲームにはこのタイプが圧倒的に多いようです。アクション・ゲームは、しかし、ゲームという小宇宙のごくわずかなスペースを占めているにすぎません。わが国では遊びを遊びとして純粋にたのしむことへの後めたい罪悪感があるためでしょうか、遊びの基礎知識がひどく貧しいのに、遊びの精神理論に人気があります。ゲームのことをよく知らない人たちは、アクション・ゲーム以外にも魅力のあるゲームがいくらでも存在しうることがなかなか理解しにくいようです。また知っていると思っていても、じつは根本的なところでひどい誤解をしていることがよくあります。たとえばポーカーです。
一九八二年の秋、ポーカー賭博機にからむ警察官の汚職が社会問題になって、ポーカーという言葉が、かつてのK・ハマダ事件のときのバカラと同じようにマスコミの世界をにぎわせたため、ポーカーは日本でその悪名をさらに高めたかの感があります。新聞記事によると問題のポーカー賭博機は、もともとゲーム用のコインを入れて遊ぶだけだったのをだれかが千円札を直接入れられるような賭博機械に勝手に改造したのだそうです。ポーカー賭博機はお金を入れてボタンを押し、うまくカードの組合せができあがると、賭け金が何倍かになってかえってくるという、まるで宝くじのような単純な(それだけに刺激的な)メカニックになっています。実際のポーカーゲームもこの機械の機械的配当と似たりよったりだと思っている人が少なくないようです。つまり良い手をつくることが即ゲームの目的だとかんちがいしているのです。ポーカーほど日本で誤解されているゲームもめずらしい。
ポーカー・プレーヤーは思いきってチップを投げ出して勝負にでるとき、This'll separate the men from the boy.(子どもと大人のちがうところをみせてやろう、ぐらいの意味)というきまり文句を口にします。日本流にいえば麻雀で「男ならやってみな」とかけ声をかけて、危険牌を放り出す、といったところでしょうか。
こんなところからも、ポーカーはつき[#「つき」に傍点]だけがものをいう荒っぽいイチかバチかのバクチだ、というイメージがつくられていくのでしょう。
しかしポーカーのエキスパートたちは口をそろえて、ポーカーは技術のゲームであり、ひと晩じゅう悪い手を配りつづけられても勝つことができる唯一のゲームだと力説します。ちょうど碁や将棋のように偶然の要素の入りこむ余地のないゲーム・オブ・スキルだというのです。悪い手がつづいてどうして勝つことができるのかというと、それはブラフという戦術があるからです。
ブラフは日本では機械的に「はったり」と訳されていますが、簡単にいえば、弱い手を強い手のようにみせかけ、どんどんチップをせりあげていって相手を威嚇し、ゲームからおろしてしまう戦術のことです。このへんが「はったり」といわれるゆえんですが、ブラフはみやぶられるとそれまでで、大きな損害をこうむりますから、その使い方が非常に難しいのです。そこで相手から手の内を読まれないために「ポーカー・フェイス」が必要になってくるのです。
そこでこんなジョークも生れてきます。
*ある男が賭博場で、奇妙なシーンをみかけておどろきました。数人の男がポーカー・テーブルをかこんでいるのですが、一匹の犬がまじってゲームをやっているのです。
「その犬は本当にカードがわかるのかい」
「ああ、わかることはわかるんだが、たいしてうまいプレーヤーじゃないね」ひとりの男がこたえます。
「何しろこいつはいい手がくると、いつもシッポをふってしまうくせがあるんでね」
このジョークの犬のような正直なプレーヤーは、ポーカーではぜったいに大勝できません。ポーカーでハンド(持ち札)をかくすのは、手《ハンド》でなくて顔だ、というジョークもこのあたりのいきさつを物語っています。手が良ければ大喜びで大きく賭けるといったやり方を、相手に読まれてしまったのでは、カードは表向きにテーブルに並べられているのと大差はありません。ブラフの効果は弱い手で相手にはったりをかけることにあると思われがちですが、じつはブラフは相手の情報をかく乱するところに本来の目的があります。弱い手を強い手にみせかけるだけでなく、強い手を弱い手のようにみせかけて相手を挑発するという逆ブラフとでも名づけるべきテクニックこそ最大最強の勝利へのカギなのだという「かけひきの理論」が理解されにくいのも仕方のないことでしょう。
ポーカーの醍醐味はこのように数人のプレーヤーを相手にする心理的かけひきにあります。言葉をかえていえば、お互いにだましだまされるのを楽しむゲームがポーカーなのです。
ここ数年のコンピュータ技術の進歩はめざましく、つぎつぎと各種のゲームがコンピュータ・プログラムにくみこまれていきます。しかしいくらコンピュータが進歩しても、機械と心理的かけひきをすることは望めません。機械にだってできないことがあるのです。機械はシッポをふることができないのです。
「将棋の殿様」という落語があります。
下手なくせに将棋の大好きな殿様がいて、退屈しのぎに家来に将棋の相手をさせるのですが、自分のほうの形勢がわるくなると、殿様の飛車は、味方の駒をとびこして敵陣に入りこんで竜に成ったりするのです。この殿様の自分勝手なハウス・ルール(あるグループの間だけで通用する特別のルール)を、家来たちは「おとびこし」とよんでおそれおののくのですが、だれもあえて意見しようとはしません。そこへ家老がやってきて、殿様をさんざんこらしめるというはなしです。
ゲームは勝ったり負けたりするからこそおもしろいのです。たえず相手に都合のよいようにルールが変更された上に、負けたときは鉄扇で頭を打たれるというのでは、まるで使い古されたジョーク「表がでればぼくの勝ち、裏がでればきみの負け」と変りません。
つぎは自分勝手につくりあげたルールにひどく忠実な男のはなしです。
*ある男がクラブにその日はひどくおくれてやってきました。
「きょうは、ここへくるのをよそうかどうしようかとコインを投げてきめたんだ」
「それにしちゃひまがかかったな」
「ああ、十五回もコインを投げなくちゃならなかったからね」
アメリカのギャンブルを扱ったジョーク集によくでてくるハウス・ルールのはなしです。
*西部の町で数人の男がポーカーをやっています。よそ者がひとり混っていましたが、その晩はつきにつきまくっていました。ショウダウン(手札を公開すること)のとき、彼はフォア・カードをひろげて「さあこの賭け金はおれのものだな」といって賭け金に手をのばしかけました。
そのとき相手から声がかかりました。「ちょっと、待ちな、悪いけど、おれの手はワイルド・タイガーだぞ」
よそ者はびっくりしました。
「何だ、そのワイルド・タイガーってのは?」
「お前はここのハウス・ルールを知らないとみえるな。あの壁のはり紙がみえないのか」
はり紙には「ワイルド・タイガーは、エースのフォア・カードに勝つ」と書いてあります。
その男はまもなくワイルド・タイガーをつくりました。
「みろ、こんどはおれがワイルド・タイガーだぞ」
「お前さんはどうもここのルールがのみこめていないようだな。壁のはり紙をよくよんでみろ」よくみるとはり紙には「ワイルド・タイガーは一晩に一回かぎり」
*ふたりのギャンブラーが賭けをしています。ひとりがいいます。
「おれが自分の右の眼をかんでみせるといったらいくら賭ける?」
「そんなことができるものか。百ドル賭けたっていいぞ」
「そうかい、じゃ賭けは成立だな」
その男は、右の義眼をはずして、口に入れてみせます。
「どうだ。もう五百ドルだしたら、もうひとつの目もかんでみせるぜ」
「もうひとつの目というと、お前の左の眼だな」
「そうだ」
「五百ドル賭けるぜ」
男は入れ歯をはずして、左の眼をかんでみせました。
*ある有名な賭博師の葬式におおぜいの仲間が参列しました。
牧師のきまり文句がつづいています。
「彼は死んだのではありません、ただ眠っているだけです」
そのとき、参列者の中から声があって、
「おれは奴が起き上ってこないほうに千ドル賭けるぜ」
ギャンブルにつきものなのがイカサマです。西部劇のポーカーの場面では、イカサマ師がこっそりと袖の中からかくしてあったエースを引き出して手札に加えるところがよくでてきます。
そこで生まれてくるのが、「エースのファイブ・カード」というジョークです。一組のカードにはエースは四枚しかなく、うっかり五枚目のエースを引き出したとたんにイカサマがばれてしまう、というシチュエーションです。
*「あの男はどうして死んでしまったのだ?」
「ポーカーをしていてね、ファイブ・エースができてしまったのさ」
こうしてこのイカサマ師の墓石には、
*五枚のエースを操った男
いま天国でハープを操る
という墓碑銘がきざみこまれるというわけです。
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H[#「H」はゴシック体] Hollywood(ザッツ・エンタテイナー)
*ヘリコプターから湖に落ちる役をやることになっているスタントマンが、その仕事に対して二万ドルを要求します。助監督がこたえます、「ふつうこの仕事は三千ドルが相場なんだが。いったいきみはスタントマンをやったことがあるのかね」
「いいえ、一度もありません。だからこそ二万ドルほしいんです。何でもやり方がわからないとやりにくいものですからね」
スタントマンという熟練業には、こんな無責任なシロウトはあぶなくって使えたものではありません。
アメリカ映画「スタントマン」(一九八〇)は警官に追われているベトナム帰りの若者が、映画のロケ隊に逃げこみ、身の軽さを買われて、事故死したスタントマンの身代りをつとめるというはなしです。
この若者を採用するのが、ピーター・オトゥール扮するエキセントリックな映画監督で、「高さ一メートルしかないつくりもののキングコングを、映画史に残るヒーローに仕立てあげたのは映画の魔術だ」という意味の怪気焔を熱っぽく語りかけます。
ベトナムの戦火をくぐりぬけてきた若者なら、危険なスタントマンも簡単につとまるだろうというじつに安易な発想はふしぎとしかいいようがありません。
とほうもないことを考えだすハリウッドのプロデューサー・ジョークをもうひとつ。
*ふたりの映画プロデューサーが大がかりな戦争映画の戦闘シーンについて討論しています。一方は五千人、反対側には四千人のエキストラが必要なのです。
「そいつはすごい。しかし撃ちあいが終ったあと、私たちは九千人のエキストラに日当を支払わなければならないよ。それを計算に入れたのかい」
「簡単さ」もうひとりが答えます。「最後の戦闘シーンでは実弾を使うんだ」
スタニスラフスキー・システムや、アクターズ・スタジオで演劇論を学んだ俳優たちのきまり文句のひとつに、「このシーンはどんな気持で演じたらよいのでしょうか」というのがあります。これがジョークとなると――
*怪獣のぬいぐるみに入っていた男が監督にきいています。
「この場面ではどんな気持でぶっこわせばいいでしょうか」
ファンタジー映画「ダーククリスタル」は、素顔の俳優がひとりも登場せず、精巧な人形が信じられないなめらかな動きをみせてくれます。「メーキング・オブ・ダーククリスタル」という製作の裏ばなしをたねあかししたフィルムをみると、日本でいうぬいぐるみ方式を一部採用しながら、人形の動かしかたの発想がまるでちがっているのに感心させられます。首の部分はマペット方式(手ぶくろ人形)で手で動かし、目玉はリモコンで動かすというふうに機械仕掛の部分と、人間が入って動かす部分がうまく組みあわされているのです。いってみればエレキ文楽とでも名づけるのでしょうか。技巧のすべてを結集してふしぎの世界を実現しています。
「ダーククリスタル」のようなファンタジー映画では、製作スタッフの全エネルギーが、スペシャル・イフェクトに費やされてしまうため、ストーリーの展開がどうしてもおろそかになってしまいます。
スリラーの巨匠とうたわれたアルフレッド・ヒッチコックは、このへんのかねあいを誰よりもよく知りつくしていた映画つくりの職人でした。
彼はつねづね映画に大切なのはイモーションであって、映画のプロットは単純であればあるほどいいのだと主張していました。たとえば敵国のスパイに追われる主人公がどんな種類の機密にまきこまれたかといったことはどうでもよい、極言すれば動機などエンプティであるほどよいのだというのです。彼はこれをマクガフィンと名づけていました。マクガフィンの由来について、ヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーとの有名な対談で、つぎのジョークをもちだし、トリュフォーをひどく感心させました。
*列車の中のふたりの男の会話です。
ひとりがたずねます。
「棚の上の荷物は何だい」
もうひとりがこたえます。
「あれはマクガフィンさ」
「何だ、それは?」
「スコットランドの高原でライオンを罠にかける仕掛だよ」
「でもスコットランドにライオンなんていないぜ」
「じゃあれはマクガフィンじゃないんだ」
要するにマクガフィンは無意味なこと、何でもないことの意味なのです。
ヒッチコックは、あるとき俳優は家畜だといって顰蹙《ひんしゆく》を買ったことがあります。のちにインタビュアーのひとりがそのことをただしました。すると彼は「わたしは俳優が家畜だなどといった覚えはない」と否定しました。「わたしはただ、俳優は家畜のように扱うべきだといっただけだ」
ジョーク好きのハリウッドではこのあとをうけてちゃんと別のジョークができあがっています。
問[#「問」はゴシック体] ヒッチコックは、俳優は家畜だといったが、その言葉が正しいことがどうしてわかるか。
答[#「答」はゴシック体] ビバリー・ヒルズの俳優の家の前の青々とした芝生をみるとわかる。
ショウ・ビジネスと切りはなせない職業がエージェント(プロダクション)です。
法律事務所に奇妙な依頼人が訪ねてくるというのが、E・S・ガードナーの弁護士ペリー・メイスンシリーズのおきまりの発端でしたが、ショウ・ビジネスのエージェント事務所にも、「奇抜でなければ生きていけない」芸人たちがつぎつぎと訪れてきます。
*エージェント事務所に今日もひとりの男が訪れます。
「きみは何ができる」
「鳥のまねができます」
「鳥のまねだって? そんなものだれだってやってるじゃないか。お話にならんね。はい、つぎの人」
すると、男は開いた窓からとび出し、空を飛んでいきました。
このジョークにはつぎのようなバリエーションもあります。
つまり、「鳥のまねができます」という男に、「じゃやってみな」とマネージャー。
男はみごと空中をとんでみせます。
そこでマネージャーがいいます。
「ほかに何ができる?」
鳥のようにとべる芸があれば、それ以上いったい何を望むのだといいたくなるでしょうが、「ほかに何ができる?」というのは職業的なマネージャーのきまり文句のひとつです。
落語の「居酒屋」に「これは口ぐせでございます」というセリフがありますが、習慣となってしまった口ぐせはおそろしい。
*ふたりの男が無人島に流れつきました。映画のプロデューサーと、シナリオ・ライターです。
プロデューサーがビンにつめて救けを求める手紙を書くことをライターに命令します。
ライターが手紙を書いてプロデューサーにみせます。「救けを求む。われわれは無人島に流れついた」
プロデューサーはそれをよんで、「迫力がない、書き直せ」
ライターは何度も書き直しますが、そのたびに相手がケチをつけます。最後にやっとOKを出したプロデューサーがこういいます。
「わたしはもうすこしで、ほかのシナリオ・ライターをよびにやるところだったぞ」
*エージェントのところにひとりの芸人がやってきます。その芸人は大きなトランクと小さなトランクをひとつずつさげています。
彼は小さなトランクからレンガをとりだし、頭にたたきつけてまっぷたつに割ります。
「すばらしい」とエージェント。
「それで大きなトランクには何が入ってるんだね」
「頭痛薬です」
*ハリウッドの有名なエージェントに一人の男が一匹の小犬を小わきにかかえてやってきます。
「百万ドルをかせげるチャンスだぜ。まあいちど、この犬の芸をみてくれよ。この犬はサミー・デイビス・ジュニアの物真似ができるんだぜ」
「そんなことは信じられんな」
男が小さなアイ・パッチをとりだすと、小犬がそれをつけてみごとにサミーの物真似を演じてみせます。
「こいつはおどろいた。百万ドルはたしかにわれわれのものだ」
そのときドアが開いて、大きな犬が入ってきて、物もいわずに小犬の首ねっこをつかまえて走っていってしまいます。
「いったいぜんたい、何だあの犬は?」
「小犬の母親でしてね」男がこたえます。「子どもを芸能界に入れたくないんだそうです」
(「子どもはドクターにしたいんだそうです」というオチもあります)
腹話術は英語でベントリロキズムといいますが、日本でいう鳥や虫のなきまねのような芸もそのなかに含まれています。そこでこんなジョークも生れます。
*「みなさん、私になきまねのできない動物の名を言われた方に賞金をさしあげます」
見物からいじのわるい声がかかります。
「オイルサージンをやってくれ」
ハリウッド・ジョークのひとつです。
*ある有名な映画監督が、天国につきました。
天国の役人が彼を迎えていいます。
「ここで映画をつくる気はないかね」
「私は生きている間にたくさん映画をとったので、すこし休みたいのですが」
「きみはここで映画をつくることのメリットがよくわかっておらんようだな。きみはシェークスピアをシナリオ・ライターに使うことも、ミケランジェロにセットをつくらせることも、サラ・ベルナールに主演させることもできるのだよ」
映画監督は心を動かされました。
「オーライ、やってみましょう」
「それはよかった」と役人がいいます。そこで彼は監督の耳に口をよせてそっとささやきます。
「ここだけの話だが、ひとつだけ条件があるんだ。神様がある若い娘《こ》にとりわけ目をかけていてね、その娘《こ》を使ってほしいんだ」
映画の都ハリウッドは、同時にジョークの都ハリウッドといってもいいかもしれません。「ハムレット」に「ワーズ、ワーズ、ワーズ」というセリフがありますが、魔法の国ハリウッドの合言葉は「ジョーク、ジョーク、ジョーク」ではないかとさえ思えてくるほどです。
とりわけ、人々の羨望の的であるブルジョア階級が住む山の手のビバリー・ヒルズは、ジョークのサカナにされることも多い。TVで大活躍のタレントがアメリカで仕込んできたといって教えてくれたジョークがあります。
*ビバリー・ヒルズに住むある映画プロデューサーが、妻と夕食の約束をしていましたが、時間になっても妻が現われません。彼は自宅のダイヤルをまわし、メイドをよびだします。
「家内を出してくれ」
「申しわけありませんが、おくさまは電話に出られません」
「大事な用があるんだ、早く出してくれ」
「おくさまはいま手がはなせないのです」
「かまわん、どうしても話がしたいんだ」
「申しわけございません。おくさまはいま若い男とごいっしょなんです」
「何だって!」怒りにもえた男が重大決意をします。
「いいか、よくきくんだ、ホールの戸棚にピストルがある。それでふたりを撃つんだ。いうとおりにしないとわたしが家に帰ってからおまえを撃ち殺すぞ。電話は切らずに待ってるからな。もどってきて報告するんだ、早くやれ!」まもなく二発の銃声がきこえ、メイドがもどってきます。
「やりました。だんなさま」
「よし、じゃそのピストルをプールに投げこんでおけ」
「プールですって? 家にはプールなんかありませんよ」
「なに? じゃ電話番号をまちがえたんだ」
ビバリー・ヒルズでは、どこの家でも同じようなことが行われているというシニカルな考えオチです。
[#改ページ]
I[#「I」はゴシック体] Intermission(ジョークのオチを推理する)
同じようなことを考えつく人はいるもので、あるとき私はジョークのオチを伏せて〇〇で消しておき、結末を読者に推理させるという、ジョークを推理するパズルというのを発表したことがあります。ところがあるアメリカのパズル雑誌をみていたら、まったく同じアイディアで、しかも同じジョークが同じ形でとりあげられていたのにはびっくりしました。
ホームズが天国で行方不明になったアダムとイブをどうやってみつけたかというジョークです。
[#地付き](答・二人にはヘソがなかった)
[#ここで字下げ終わり]
ここではもうひとつ別のジョークを紹介します。結末の〇〇の部分を推理してください。
*イエス・キリストは、いつものように天国を散歩していました。そのとき彼は、ひとりの老人、白いひげをはやしてやせこけた老人をみかけました。その老人は憂いに沈んだ表情で街角にすわっているのです。
つぎの週も、またつぎの週も。キリストはその老人をみかけて気がかりになり、老人に近よって声をかけました。
「おじいさん、ここは天国ですよ。太陽は輝き、食物も音楽もあります。いったいどうしてそうふさいでいるのですか」
老人は口を開きました。「私は地上で大工をしていました。私はたったひとりの最愛の息子を、若くして失くしてしまいました。私はここで何とかして息子をみつけたいものだと思っています」
キリストの目から涙があふれました。
「お父さん」
老人も涙を流してとびあがりました。そしてすすり泣きながら……「〇〇〇〇!」
ここで老人が何といったか考えてみてください。はじめてこのジョークをよんだとき、意外性のある発見に、ジョーク王国アメリカの偉大さをあらためて感じました。
老人は叫びました。「ピノキオ」と。
たいていの人が、大工の息子ときいたとたん、にやりとしてオチがわかったと思ってしまうのです。
とんでもない思いちがいを、読者がかってにつくりあげるようにしむけるのはミステリ作家や奇術師だけの専売芸でなく、ジョーク作者のテクニックでもあるのです。
同じような形式で、オチを伏せていくつかのジョークを紹介します。これらのジョークのオチを推理してください。
*ある男が死にました。その男は天国でも地獄でも好きなほうを選ぶ権利が与えられました。その男は慎重な性格でしたから、事前に両方を見学しておきたいと考え、旅行願いを出して許可されました。
まず天国を見学しにいくと、まるで図書館のように、大ぜいの人が静かに聖書をよんだり、瞑想にふけったりしています。こんどは、地獄を見学すると、地獄はまるで歓楽街で、シャンパンと女と踊りの乱痴気さわぎです。
その男は地獄へ行くことにきめました。地獄へつくと、鬼があらわれて、その男を鉄の鎖でしばりあげます。これじゃ話がちがうじゃないかと抗議する男に鬼がいいます。
「この前おまえが来たときは〇〇〇〇でやってきただろう」
[#地付き](答・観光ビザ)
[#ここで字下げ終わり]
*その未亡人は、降霊術の席で、なくなった夫をよびだしてもらいました。
「あなた、いましあわせにくらしている?」と婦人がききました。
「わたしはしあわせだよ」と夫の声がこたえます。
「この世にいたときよりもしあわせ?」
「お前といたときよりずっとしあわせだよ」
「天国にいる気分はどう?」
「天国だって? どうして私が〇〇にいると思うんだ?」
[#地付き](答・天国)
[#ここで字下げ終わり]
*ある男がバーに入っていくと、そこにはバーテンのほかは、一匹の犬と、一匹の猫がいるだけです。
男が飲みものを注文すると、とつぜん犬が立ち上って、「じゃ、あばよ」といって出ていきます。
「いまのをきいたかい」男がびっくりしてバーテンダーにいいます。「あの犬はしゃべったぜ」
「あわてなさんな、犬はしゃべっちゃいませんぜ」
「しかし、たしかに犬がしゃべったのをこの耳できいたよ」
「それはお客さんがそうと思っているだけです。犬がしゃべることなんてできるものですか。しゃべっていたのはあっちのいたずら猫ですよ。あいつは〇〇〇ができるんです」
[#地付き](答・腹話術)
[#ここで字下げ終わり]
*むかし、あるところに果物の大好きな王様がいて、だれでも自分のところへほんとうにめずらしい果物を持参したものには、ほうびをとらせるとおふれを出しました。世界中の国から、めずらしい果物が王様のところにとどきましたが、王様はどれも気に入りませんでした。
ある日、ひとりの男がみつぎものをもってやってきました。王様は一口ためしてみて、これはすばらしい、これはいったい何だ、とききました。「ほしぶどうでございます」とその男がこたえました。
「おまえにほうびをやる。これから毎日持ってくるように」
それから一年間、その男は毎朝ほしぶどうを持参しましたが、ある朝ほしぶどうをもたずにやってきました。
「何だこれは」
「これは桃でございます」
「ほしぶどうはどうしてもってこなかった」
「私の〇〇〇が死にました」
[#地付き](答・うさぎ)
[#ここで字下げ終わり]
*ある月曜日の朝、牧師が休日を利用してゴルフをやりに出かけました。
牧師はそこで顔なじみのクラブの男といっしょにコースをまわることになりました。
牧師はかなりいい腕をしていましたが、相手の男は下手な上に、その日はまるでツイていませんでした。短いパットもきめることができず、そのたびに「畜生、ミスった!(Damn Missed!)」とののしり声をあげるのでした。
牧師はこのばちあたりな言葉を何度かじっとがまんしていましたが、とうとう注意を与えました。しかしまるで効き目がありません。つぎのホールでも相手は「畜生、ミスった!」と大声で叫ぶのでした。
牧師は何度目かの注意を与えました。
「そんな言葉をこんど口にしたらきっと神様が怒って、雷であなたはうち殺されますよ」
つぎのホールで慎重に男はボールを狙いましたが、またしてもボールはホールの二センチ手前でとまり、男は「畜生、ミスった!」と呪いの声をあげました。
そのとき、天から雷鳴がとどろき、空からすさまじい稲妻がふってきました。そしてひとりの男がばったりとたおれました。
[#ここから10字下げ]
(答・そして……ばったりとたおれたのは牧師でした。このとき天上で声があり、「畜生、ミスった!」)
[#ここで字下げ終わり]
*ひとりの男が、図体は大きいが、ひどくぶかっこうな犬をつれてバーに入ってきました。
バーの主人もいかにもどう猛なつらがまえのボクサーを飼っていました。
ふたりは自分の犬のじまんをしているうちに、どちらの犬が強いか闘わせてみようじゃないかというおきまりの口論になりました。
二匹の犬の闘いはあっというまにボクサーの惨敗となってケリがつきました。
「いったいそんな犬をどこで手に入れた?」
とバーの主人がききます。
「アフリカさ。私はこいつの〇〇〇〇としっぽを切っただけだ」
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(答・〇〇〇〇には、たてがみを入れてください)その男がつれてきたのはライオンだったのです。
[#ここで字下げ終わり]
人を笑わせるためには、手段を選ばないというのが、よくもわるくもアメリカ的マキャベリズムだと思われます。
[#改ページ]
J[#「J」はゴシック体] Joke(はじめてのジョーク)
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[#1字下げ]*はじめてのジョーク[#「はじめてのジョーク」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
*ふたりの男が列車の中でジョークを話しあっています。彼らは自分たちの知っているジョークに番号をつけ、おたがいに番号だけをよびあうことにしました。ひとりが番号をいうと、相手が笑ったり、ときには笑わなかったりします。そばできいていた乗客が質問します。
「あなたがたは五二番で、とりわけおかしそうにお笑いになりましたね。いったいどんなジョークなのかきかせてくれませんか」
「あれですか、あれはふたりともはじめてきくジョークだったのです」
ちょっとひねってあるのでわかりにくいかもしれませんが、おちついてみれば、話し手と聞き手がどちらも知らないジョークなどありえないというところがおかしいのだということに気づくでしょう。
アメリカ人はイギリス人のカンのわるさをこう表現します。「イギリス人にジョークをいうと三度笑う。最初は話したとき。これはお義理で笑う。二度目は意味を説明してやったとき。三度目は何日かたって、そのジョークのほんとうの意味がやっとわかったとき」
ではアメリカ人はどうなのでしょうか。イギリス人はこんなふうにいいます。「アメリカ人はジョークをきいても全然笑わない。なぜならすべてのジョークを全部暗記しているから」
*ある男が郊外をドライブ中、農夫が脚を折った馬を射殺しようとしているところに出あいました。男は殺した馬を自分のアパートまで運んでくれと農夫に交渉します。農夫が馬を運んでくると男はバスタブに入れてくれといいます。農夫が理由をきくと、男がいいます。「今夜、おれの友達が遊びにくるんだ。その友達はおれがどんなジョークを言っても知ってる、知ってる、ととりあわないんだ。今夜あの男がやってきて、バスルームを貸してくれといって入っていったら、きっと馬がバスタブに入ってるぜといいながらおったまげてとび出してくるにちがいない。そのときおれはあいつに言ってやるつもりなんだ。知ってる、知ってる、と」
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[#1字下げ]*良いニュースと悪いニュース[#「良いニュースと悪いニュース」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
ジョークにはいくつかのパターンがあります。「良いニュースと悪いニュースがあります。どちらをさきにききたいですか」というのもそのひとつです。
「いいニュースとわるいニュースがある」
「いいニュースからきかせてくれ」
「ヒットラーが死んだそうだ」
「で、わるいニュースというのは?」
「それが誤報だったのさ」
ヒットラーのところには、その時の独裁者の名前を適宜代入することができるようになっています。これがロシア・ジョークの本ではスターリンになっていました。
エージェント[#「エージェント」はゴシック体] いいニュースとわるいニュースがあるよ。
シナリオ・ライター[#「シナリオ・ライター」はゴシック体] いいニュースからきかせてください。
エージェント[#「エージェント」はゴシック体] パラマウントが、きみの脚本をひどくよろこんでね。完全にくらいついたよ(absolutely ate it up)。
シナリオ・ライター[#「シナリオ・ライター」はゴシック体] そりゃすばらしい。で、わるいニュースというのは。
エージェント[#「エージェント」はゴシック体] パラマウントというのはわたしの犬なんだ。
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[#1字下げ]*シャラップ・アンド……[#「シャラップ・アンド……」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
女性のスカートの長さに流行があるように、ジョークの長さにもさまざまの変化があります。シャギー・ドッグ・ストーリーのように、延々と聞き手をひっぱっていくタイプのジョークもあれば、つぎのようなショート・ジョークもあります。
マゾヒスト[#「マゾヒスト」はゴシック体] なぐってくれない?
サディスト[#「サディスト」はゴシック体] いやだ!
マゾヒストの要求を拒否するのが、サディストのサディストたるゆえんであるという状況をひとことで説明した、ただこれだけです。英語だと "Beat me" "No"。
まるでスパルタ人のラコニック・アンサー(簡潔で極端に無駄を省いた返事)をきくようです。
これはアメリカのコメディアンが得意にしているくすぐりです。
「子供の頃、私の家は貧しかったので、番犬なんかとても飼えなかった。夜中にあやしい物音がすると、自分たちで犬の鳴きまねをしなければならなかった」
これを短く表現したのがつぎのジョーク。
*「パパ、犬を飼ってよ」
「だまってほえろ!」(Shut up and keep barking!)
シャラップ・アンド……というのもジョークのパターンとして定着しつつあります。いくつも読まないとおもしろさが伝わってきません。
*「パパ、オーストラリアなんか行きたくないよ」
「だまって掘るんだ」
シャラップ・アンド・ジョークには、簡潔な表現で極限状況を推理させるぶきみさがあります。
*「あら、それうちの赤ちゃんじゃないわ」
「だまれ、こっちの乳母車のほうが上等だろ」
*「このダイヤすてきじゃない」
「だまって走れ! おまわりに追いつかれるぞ」
*「ママ、飛行機には化粧室がないからいやだっていったでしょう」
「だまってリップ・コード(パラシュートのツナ)をひっぱるのよ」
*「パパ、ばくちってなに?」
「だまって配れ!」
*「ママ、人狼ってなに?」
「だまって顔の毛にブラシをあてるのよ」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
[#1字下げ]*三つの願い[#「三つの願い」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
見ずしらずのみすぼらしい老婆に親切にしてやると、その老婆が魔法つかいであることがわかり、「何でもお前の好きな望みをいうがよい。三つまではその願いをかなえてやるぞ」というのは、どこの国にもあるおとぎばなしのパターンです。
たとえばこんなはなしです。夫婦が魔法つかいに三つの願いごとをかなえてやろうといわれて、大口論、くたびれた妻がついうっかり「ソーセージがたべたい」と口にしたとたん、目の前にソーセージが現われます。かっとなった夫が「こんなソーセージなんかお前のはな[#「はな」に傍点]にくっついてしまえ」というと、たちまちソーセージは妻のはな[#「はな」に傍点]にくっついてはなれなくなります。三番目の願いは、妻のはな[#「はな」に傍点]からソーセージをとりのけることについやさざるをえないという結論になります。ジョークがそのままおとぎばなしに転化したようなはなしです。
ジョークの世界でも三つの願いはいろんな形で登場します。
*三人の男が無人島に流れつき、何カ月も生活をともにしていました。
ある日、ひとりの男が海岸で魔法のランプを拾いました。ランプをこするとランプの精があらわれて、ひとりにひとつずつお前たちの願いをかなえてやろうといいます。
最初の男は、ただちに故郷に帰りたい、といいました。そのとたん、その男の姿はみえなくなります。
二番目の男はお酒のいっぱいある国へ行きたいといいます。その男も、あっというまに姿がみえなくなります。
三番目の男にランプの精が、お前の望みは何だとききます。
「そうだな、あのふたりがいなくなると、ここは淋しくなってしまう。あのふたりを島によびもどしてくれないか」
三つの願いごとはたいていの場合皮肉な結果に終るのがふつうで、怪談に使われて最高の効果を発揮しているのがジェイコブズの『猿の手』という短篇でしょう。
願いごとはたしかに実現するのですが、それが非常に不吉な形、たとえば何ポンドかのお金がほしいなというと、家族のひとりが事故にあって見舞金がちょうどその額だけ入ってくるというふうに実現するので、こわさがいっそう強調されるのです。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
[#1字下げ]*シック・ジョーク[#「シック・ジョーク」はゴシック体]
[#ここで字下げ終わり]
日本ではブラック・ジョークとよばれている一連のシニカルなジョークは、アメリカやイギリスではシック(sick)・ジョークあるいはダーティ・ジョークとよばれることが多いようです。シック・ジョークの流行も最近のジョークの特徴のひとつです。
シック・ジョークの流行は子どものジョーク・ブックにまで及んでいます。つぎのようなジョークは、むかしだったら、まずフォー・アダルト・オンリーだったと思われます。どれも子どものジョーク・ブックに入っていました。
*女の子が泣きじゃくっています。
「パパが子猫を溺れさせてしまった」
母親がなぐさめます。
「そんなに泣くんじゃないよ、さあ、きげんをなおしなさい」
「だって、パパは私にやらせてくれると約束したんだもの」
*父親と息子の対話です。
「あんな小さい子どもをレールの上におきざりにしてきたというのか」
「だいじょうぶ、ちゃんと時刻表をわたしておいたから」
*父親が小さい息子を机の上に立たせていいました。
「坊や、そこからとんでごらん。パパがうけとめてやるよ」
父親が腕をのばしたので、子どもがジャンプします。そのとき父親はさっと横にとびのいたので、子どもは頭から床におちました。
「これもみな教育のためだ」と父親がいいます。「けっして誰も信用するんじゃないぞ。たとえおまえの父親でもな」
[#改ページ]
K[#「K」はゴシック体] Knock、knock(ノック・ノック――アメリカのだじゃれジョーク)
だじゃれ、地口のことを英語で pun といいます。だじゃれを用いたジョークは、笑いの中でも程度の低いもの(lowest form of wit)とする考え方は、日本にも外国にもあります。にもかかわらずだじゃれジョークの数は圧倒的に多いのです。
アメリカやイギリスのだじゃれがあまり日本に紹介されないのは、ひとことでいえば翻訳が面倒(あるいは不可能)だからです。
典型的なアメリカのだじゃれジョークのパターンのひとつに、ノック・ノック(Knock Knock)というのがあります。
まず例題からごらんください。
"Knock, knock."
"Who's there?"
"Ira."
"Ira who?"
"Ira member mama."
直訳すると、
「ノック・ノック(トン、トン、ドアをあけてくださいな)」
「どなた」
「アイラです」
「どちらのアイラさん?」
「アイ・リメンバー・ママ」(ここのところが翻訳不可能)
何だ、これは。私がはじめてノック・ノック・ジョークにぶつかったときはとまどいました。いったいどこがおもしろいのか。ひとことでいうと、最後の一行がかならずだじゃれのオチになっているのです(もちろん例外もあります。あとで紹介します)。この例でいうと、Ira member mama. が、I remember mama.(『ママの想い出』小説・映画の題名)と、発音がよく似ているところにひっかけた、ただそれだけのだじゃれジョークなのです。とりえはばかばかしさだけです。
ノック・ノック・ジョークは、フォーマットがきまっています。ひとり(ジョークの出題者・語り手)がまず「ノック・ノック」といいます。聞き手はそれを聞いただけで、ははん、これはまた、例のノック・ノック・ジョークだなということがわかるので、ただちに "Who's there?"(そこにいるのはだれ? 歩哨や見張番のきまり文句)と応じます。余談ですが、これから先はジョークだよ、と語り手が態度を明確にしてくれるノック・ノックは、聞き手には非常に便利です。アメリカ人にまじって生活している日本人が、会話の中でジョークがでてくるときがいちばん困る、ひどく気疲れするとこぼしているのをきいたことがあります。つまりお義理で笑うとしても、どこで笑っていいのかオチのタイミングがつかめないからです。ノック・ノックはその点気楽です。聞き手が「どなた」とかけあいに応じたあと、語り手はそこで Ira とか、Alison とか人名をいいます。聞き手はもういちど "Ira who?"(アイラさんといっても、どちらのアイラさん?)と聞きかえします。そこで語り手がオチをつけるという明快なしくみになっています。
江戸時代に流行した日本のなぞかけによく似ています。
こんな奇妙なかけあいジョークのパターンがどうして生れたかというと、これはアメリカの禁酒法時代の文化遺産だそうです。当時アメリカには無数のもぐり酒場があり、これらの秘密営業のバーにもぐりこむためには、入口のドアをノックして、「ジョージの紹介でやってきた」というふうに、合言葉を言って身分証明をしなければ、ドアをあけて中に入れてもらえません。このシチュエーションをふまえたジョークがノック・ノックというわけです。
もうすこし例題を。
"Knock, knock."
"Who's there?"
"Sam and Janet."
"Sam and Janet who?"
"Sam and Janet evening, you will meet a stranger."
「ノック・ノック」
「どなた?」
「サムとジャネットです」
「どちらのサムとジャネットさん?」
Some enchanted evening, you will meet a stranger.
おわかりですね。有名なミュージカル『南太平洋』の「魅惑の宵」の歌詞です。サム・アンド・ジャネットが、Some enchanted と発音が似ているところにひっかけただじゃれです。日本人にはまるでクイズです。
ノック・ノックの日本語版をつくろうと思えばつくれます。ジョーク好きのヤングに案外うけるかもしれません。たとえば――
「ノック・ノック」
「どなた?」
「イノキ(猪木)です」
「どちらのイノキさん?」
「イノキ(命)短し、恋せよ乙女(と唄い出す)」
ノック・ノックの変種をひとつ。
「ノック・ノック」
「どなた?」
「エーボンです」
「どちらのエーボンさん?」
「エーボン・レディです(エーボン化粧品の家庭訪問のセールス・ウーマン)。おたくのドアベルはこわれていますよ」
ノック・ノックのだじゃれジョークかと思っていると、意外な人物を登場させて、聞き手の足をすくうという、いじわるなひっかけジョークで、ノック・ノックをふまえた別種のジョークといえるでしょう。ジョークがジョークを生んでいくのです。
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L[#「L」はゴシック体] Logic(奇妙なロジック・弁護士ジョーク)
*朝の五時です。バーの主人の自宅に、よっぱらいが電話をかけてきます。
「店は何時にあくのかね」
「いま何時だと思っているんだ。昼になるまでだれも入れんぞ」
「だれが入りたいといった」
よっぱらいがわめきます。「おれは出たいんだ」
奇妙なロジックを売りものにする「宿屋のパラドックス」とよばれる古典的なパズルがあります。
*十人の旅人があるとき宿屋にとまろうとしました。ところが宿屋にはあいにく九つしか空き部屋がありませんでした。
宿屋の主人がそこで一計を案じました。
主人は最初の客にこういいます。
「スミスさん、あなたはここでしばらくお待ちになってください。あとでお部屋にご案内しますから」
主人は二番目の客を最初の部屋に入れ、
三番目の客を二番目の部屋に入れ、
四番目の客を三番目の部屋に入れ、
五番目の客を四番目の部屋に入れ、
六番目の客を五番目の部屋に入れ、
七番目の客を六番目の部屋に入れ、
八番目の客を七番目の部屋に入れ、
九番目の客を八番目の部屋に入れたあと、スミス氏のところへもどってきていいます。
「どうか九番目の部屋にお入りください」
このはなしのどこがおかしいのか、論理的に指摘できますか?
[#ここから10字下げ]
(答・スミス氏はこのコトバのトリックの中で、一番目と、十番目の一人二役をつとめさせられている)
[#ここで字下げ終わり]
ミステリ作家や奇術師の至芸は、まるでパズルの宿屋の主人のように読者や観客を誘導して、演者に都合のいい観覧席にすわらせ、奇妙な視点からの奇妙な論理を相手に抵抗なくうけいれさせるテクニックにあります。弁護士のディプロマシー(権謀術数)もこれに似ています。
*「あなたはこれまでに反対尋問を受けたことがありますか?」
「はい、裁判長。私は結婚している男ですよ」
アメリカ映画「評決」(一九八二)は、ポール・ニューマンが落ちぶれた弁護士役で、抑制のきいた(ききすぎた)大芝居をみせてくれます。法廷闘争で完敗した弁護士が、陪審員にヒューマニズムと、デモクラシーをうたいあげた大演説をぶちあげて勝利をかちとるというので評判になった映画ですが、映画をみているあいだ、このきびしい法廷闘争に対する準備も対策もいっさいやらない、楽天的で、およそ人を疑うということを知らない無邪気な男が、かつて優秀な弁護士であったという説明がどうしても信じられなくて困りました。
医者・弁護士・精神分析医など高収入の職業は、やっかみもあるせいでしょうか、ジョークの主人公に選ばれることが多いのです。
*盗みの現行犯でつかまった男が裁判にかけられることになったとき、その男は町で一番の腕利きの弁護士をつけてくれとたのみます。
あきれかえった検事がいいます。
「おまえは現行犯だから助かりようがないぞ。町で最高の弁護士をつけたとしても、その弁護士がいったいどんな弁護をするのか知りたいものだ」
「私も知りたいと思っているのですよ」
*ある男がテレビ修理店へ盗みに入り、テレビのセットを両手にもって、戸口に立ったとき、警官の不審尋問にあい、現行犯で逮捕されます。この言いのがれようもない状況下で、辣腕の悪徳弁護士が展開するトリッキーな戦術がみものです。弁護士はまず盗みに入った男に、テレビは自分が盗んだのではなく、盗まれかけておきざりにされたのを、店に返してやろうとしたところをつかまったのだ、と無罪を主張させます。男がその時に抗弁しなかったのは、前科があるのでいってもむだだと思ったからだというわけです。
つぎに男を逮捕した警官が証言します。その男は両手にテレビを持ってドアから出てくるところであり、こちらを向いて立ちすくんでいたと。
ここで弁護士は、この警官に、ちょっとした実験を手伝ってもらいたいと申し出ます。弁護士は法廷に二台のテレビをもちこませ、仕切りのドアを自分でおさえながら、警官にとなりの部屋にテレビをもどしてくれないかと何気なくたのみます。警官がテレビを両手にもって、となりの部屋へ行きかけると、スプリング式のドアが閉まってしまいます。しかたなく警官が両手でテレビをもったまま、背中でドアを押そうとしたとたん、弁護士が「そのまま」と声をかけ、その姿を指さしながら大声で叫びます。
「裁判長、あの男は出るところでしょうか? それとも入るところでしょうか?」
男はドートマンダー、作者はおなじみのドナルド・E・ウェストレイク、作品は『悪党たちのジャムセッション』(角川文庫)です。
フランス小咄集にこれとそっくりの状況のジョークがありました。
*夜中です。ふたりの男が二階の窓にある鉢植を盗もうとしています。
ひとりがはしごをよじのぼったところへ警官があらわれて、何をしているのかとききます。
下の男がとっさにこたえます。
「この家の二階に友だちが住んでいるので、鉢植を窓に並べて驚かせてやろうと思うのです」
警官はききいれません。
下の男が上の男によびかけます。
「仕方がない。せっかくだけど、みんなうちに持って帰るとしよう」
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M[#「M」はゴシック体] Mistake(とりちがえギャグ)
*場所はホテル。登場人物は老婦人とベル・ボーイです。老婦人がベル・ボーイを相手にまくしたてています。
「私はこの部屋が気にいりませんよ。私はこんな部屋に金を払うつもりはありません。部屋は小さいし、ベッドさえおいてないじゃありませんか。もし私がものを知らないと思ってばかにしているのなら……」
「まあ、おくさんおちついてください。あなたの部屋はここじゃありません。ここはエレベーターです」
こういうギャグはわかりやすい。
ギャグやジョークでもっとも使用頻度が高いのが、この手の「とりちがえジョーク」でしょう。
*その男が飛行機にのるのは、これがはじめてでした。エンジンが始動してうなりはじめると、彼はしっかりと目をつぶり、座席の手すりをかたくにぎって百まで数をかぞえてから、目をあけて窓の外をみました。
「おお、人があんなに小さくみえる」と彼はとなりの席の婦人に声をかけました。「まるでアリみたいにみえるじゃありませんか」
「あれはアリですよ。飛行機はまだとんでいません」
こんなことは現実に「アリえないはなし」ですが、ジョークとなると成立します。
「うどんやさん」
「へえ、うどんをあげますか」
「あつくしてください」
「かしこまりました……へい、おまちどおさま」
「いかほど」
「十銭で」
「うどんやさん」
「へえ」
「おまえさんもかぜをおひきかえ」
これは落語「うどんや」(「かぜうどん」という別名もあります)のサゲの部分です。落語の速記本を活字で読んでも、うどんやとおかみさんのやりとりの、どこがおかしいのか、どうしておまえさんもかぜをひいているのかい、というのがサゲになるのか、よくわからないかもしれません。このサゲも演者が高座ではなしているのを耳できくか、レコードか録音テープできけばたちどころにわかります。うどんやは声をひそめて客とやりとりしているのです。客(おかみさん)は、かぜをひいているので声がかすれていて小声になっており、うどんやはうどんやで、相手が小声でよぶのは家(店)の人にないしょで夜食の注文をしているのだと思いこんで、自分も気をきかせて声をひそめて応対するのを、さらに客がうどんやもかぜをひいているのかとかんちがいする、そんな二重のとりちがえのおかしさを狙ったサゲなのです。
こんどは耳できかないとよくわからないという英語のジョークをひとつ。
「ふたりの警官が強盗を追いかけてドラッグ・ストアに入っていくのをみたよ」
「つかまえたのかい」
「いや強盗はハカリにのって体重をはかったよ。(He stepped on a set of scales and get a weight.)」
活字を追ってよんでいくと、強盗がハカリにのった、で何のことかよくわからず、どこがしゃれになっているのかと思います。でも声を出して読んでみるか、だれかに話してきかせてもらうとよくわかります。get a weight(体重をはかる)がゲッタウェイ(逃げる)と発音がよく似ていることにひっかけてあるのです。
こんどはあべこべに、活字の上でしか成立しないジョークの例をあげてみます。
*小さな女の子が電話に出ています。
"Hello! is Boo there?"
"Boo who?"
"Don't cry, little girl. Sorry wrong number."
まず Boo who というのは何か? これは泣き声(Boo hoo)なのです。これはアメリカ人の学生に教えてもらいました。
小さな女の子が電話に出て、相手が「もしもし、ブーさんのお宅ですか?」ときいたのに対して、女の子が「どちらのブーさん?」(Boo who?)とききかえしたのを、読者(あるいは聴き手)に泣き声と思わせて、「泣くんじゃないよ、おじょうちゃん。ごめんよ、番号ちがいだった」となるわけです。
似たようなジョークをもうひとつ。
* Sam's mother heard that old Mrs. Jones was ailing.
"Sam" she said, "run across the street and ask how old Mrs. Jones is."
"Sure" said Sam.
A few minutes later Sam came back and said, "Mrs. Jones told me it's none of your business how old she is."
サムの母親はジョーンズ老夫人のぐあいがわるいということをききつけました。彼女は「サム、通りをひとっぱしりして、ジョーンズ老夫人にどうかしたのかと聞いておいで」といいました。数分後サムがかえってきていうには、「ジョーンズさんはぼくに私がいくつだろうとあんたがたの知ったことじゃないといったよ」
母親が「ジョーンズばあさんはどこがわるいのかきいてこい、ask how old Mrs. Jones is.」といったのを、サム少年が、「ジョーンズさんはいくつか、きいてこい、how old Mrs. Jones is.」とききちがえたのです。文章はへんなところで切ると、まるでちがう意味を生ずることがあります。
使い古された日本のジョークですが――
*東京にいる息子が金に困って国許へ電報を打ちました。「カネオクレタノム」と。
父親からの返電は「タレガクレタ ノムナ」
説明は要らないと思いますが、「金送れ、頼む」が「金を呉れた、飲む」とうけとられたために生じた誤解です。
これが英語版だと――
*劇場の中で、妻がエレクトリック・サイン(掲示燈)を指さして夫にいいます。
「今夜の主演スターの名前がでているわ。ノズモ・キング(Nosmo King)というのね」
「あれはね、ノー・スモーキング NO SMOKING と書いてあるんだ」
同音異義語や多義語は日本語にも英語にもたくさんあります。
しゃれはひとつの言葉(または発音)にふたつ(またはそれ以上)のちがった意味があること、そのふたつの意味がしばしばまちがってうけとられることから生ずる混乱のおかしさを、意識的につくりあげる言葉あそびといえるでしょう。
映画にもなってたいそう評判のよかったジョン・アービングの「ガープの世界」の原作には、ガープの幼い息子のウォルトが、アンダートウ undertow(引き波)に気をつけろ、といわれたのを under toad(toad はヒキガエルの意味)とまちがえて、波の下にひそんでいて人をのみこんでおぼれさせ、海のむこうにひっぱっていこうとする不気味な怪物を想像しながらこわごわ波の下をさがす場面がでてきます。
子どもたちは言葉を覚えていくうちに、ひとつの言葉がおもいがけないちがった意味に解釈されることを知って非常におもしろがります。
「かえりてみればこはいかに」というのは童謡「浦島太郎」の歌詞ですが、ガープの息子ウォルトのおもいちがいのように、浦島太郎がもといた村に帰ってみると、おそろしいカニがいた、と解釈している日本の子どももいるはずです。
このようにして子どもたちのこういったとりちがえのシチュエーションを利用した、子どもジョーク、スクール・ジョークが、ジョークのパターンの一分野として数限りなく量産されることになるのです。
*母親が子どもにたずねています。
「スミス夫人のパーティで、帰るときちゃんとお礼のごあいさつをしましたか?」
「しなかったよ、ママ。だって私の前にいた女の子が帰るときお礼をいったら、スミス夫人は "Don't mention it." といったもの」
Don't mention it は、どういたしまして、というていねい語ですが、その意味がわからない小さな子どもは文字通り、「お礼をいわないで」と受けとったのです。
「私たちの家の犬は家族同様だよ。Our dog is just like one of the family.」
「だれと似ているの?」
家族の一員同様が、家族のひとりとよく似ているともとれるのです。
*小さな男の子が電話にでています。
「ママもパパもお家にいないよ」
「だれがいるの?」
「マイ・シスター」
「じゃきみのシスターを出してくれる?」
「ちょっと待ってね。(しばらくして)ごめんね! 電話に出られないの」
「どうして?」
「あの子をクリッブ(ベビーサークル)から出せないの」
英語でよむとおかしいのですが、残念なことに翻訳すると、シスターをうまく訳せないのでたちまちタネがバレてしまいます。
*セールスマンが、家の前であそんでいる小さな女の子に声をかけます。
「おかあさんは家にいらっしゃる?」
「ええ、家にいるわ」
セールスマンは、その家のドアを何度もたたくのですが返事がありません。
「おかあさんは家にいるっていわなかった?」
「でもここは私の家じゃないもの」
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N[#「N」はゴシック体] Notice(へんてこなはりがみ)
関西の私鉄のある駅にこんなはり紙がありました。
*「千円札は自動販売機でお求めください」
このはりがみは古い古いジョークを想いだします。
*「十セントを入れると、おくさんがでてくる自動販売機を発明して大もうけをした男の話を知ってるかい」
「もっと大もうけをした男の話を知ってるよ。その男はおくさんを入れると十セントがでてくる機械を発明したんだ」
たとえ文法的にはまちがっていなくても、立て札や看板が、前後の文章の関係で、奇妙な表現になってしまうことがあります。
あるペット・ショップのウィンドウに、
「ブルドッグの小犬。いうことをよくきき、室内で飼えます。何でもたべます。とくに子どもが大好き(Especially fond of children)です」
「特に子どもが大好き」の意味が、「喜んで子どもをたべます」の意味にもとれてしまうのです。
*手袋を専門にするクリーニング店のサイン(看板)です。
WE CLEAN YOUR DIRTY KIDS.
すんなりよめば、「あなたのよごれた手袋(キッド)を洗います」が、「あなたのきたない子ども(キッド)を洗ってあげます」の意味になってしまいます。
*イギリスのある食料品店の看板。
「女王陛下のためのソーセージ」
むかいのライバルの店のはり紙です。
「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン」
すこし説明が必要でしょうか。女王陛下に献上といばっている店を、あんな店のソーセージを召しあがってもいいのかしらん、というキツいジョーク。
猛犬に注意―― Beware of the dog というのはよくみかける立て札ですが、ある屋敷の立て札が Beware of the cat になっています。「猛猫にご注意? こんなばかみたいな立て札はみたこともない」と毒づいている通りがかりのふたりの男、その頭上の樹の枝に、巨大な牡牛ほどもある怪猫が……という構図。古いチャールズ・アダムズのマンガです。
こんどはイギリスの古いジョーク。
*イングランド人と、アイルランド人と、スコットランド人が、同じ町の、同じ通りに三軒の洋服店を開きました。それぞれが腕によりをかけてこしらえたコマーシャルです。
「百年の伝統を誇る店」とイングランド人。
「最新流行のスタイルの店」とアイルランド人。
あいだにはさまったスコットランド人の看板は「正面入口」とただひとこと。
しまり屋で有名なスコットランド人はその表現も簡潔そのものです。
*お金なしでしあわせにくらす法。ただし本の代価は十ドル。
*一週間で四キロやせます、という広告の本。
「四冊ください」
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O[#「O」はゴシック体] Optimist(オプティミスト対ペシミスト)
*おかあさん、結婚式のときどうして女の人は白いドレスを着るの?
それはね、女の人の人生でいちばん美しいときだから。
じゃ男の人はなぜ黒い服を着るの?
フランス映画「去年マリエンバートで」の中の一シーンです。
庭園のテラスにある男と女の彫像をみあげて、ふたりの男女が会話をしています。
男は彫像の若い女が、もうすこし前へ進もうとするのを、前方に何か危険をみてとった彫像の男がおしとどめているところだ、といいはるのに対して、女の見方はちがいます。彼女は彫像の女が何かすばらしいものをみつけて、それを手でさし示しているところだとこたえます。
同じ彫像が、それをみる人の見方によって、危険を予感しているところとも、希望にみちあふれているところとも受けとれる、といったいわば解釈のミステリアスな二重性を、ミステリ作家や奇術師だけでなく、ジョークの作者も最大限に利用します。
*ある母親の娘じまんです。
「娘の相手は、申し分のない婿でしてね、娘を朝おそくまで寝かせておいてくれますし、美容院には毎日欠かさず行かせた上に、料理までさせようとしませんの。毎晩レストランに行こうというのですよ」
「それはそれは」と隣のおくさんがいいます。「ところで、あなたの息子さんはどんな女の方とごいっしょですの?」
たちまち母親のぼやきがはじまります。
「息子の嫁は、怠けものでしてね。朝はおそくまで起きようとしませんし、毎日美容院へ出かけるわ、その上料理をしようという気もないのですよ。だから息子は三度三度外食しなければなりませんの」
「もてなす側はもう[#「もう」に傍点]半分、招かれた側はまだ[#「まだ」に傍点]半分」というコメントが洋酒会社のコマーシャルに使われていました。立場によって考え方がまるでちがってくることを、じつにたくみに簡潔に表現しています。ジョークの世界では、この表現は、ペシミストとオプティミストの定義に使われています。もうグラスの半分がからになってしまった(half empty)と考えるのがペシミスト、まだ半分残っている(half full)と考えるのがオプティミスト(楽天家)の考え方だというわけです。
*むかしむかしのおはなしです。
ある国で、国王がひとりの囚人に死刑をいいわたしました。その囚人は、もし一年間、死刑の執行を猶予していただけるなら、王様の馬に空をとばせてごらんにいれましょう、といいました。
王はそれはおもしろい、と一年間の猶予を認めました。
釈放された囚人に対して友人のひとりがたずねます。
「きみはたしかに一年間の猶予を獲得したけれど、結局どうしようもない運命をたった一年ひきのばしただけじゃないのかい」
「いやそうとは限らんさ。四対一で私が有利だと思っているよ。まず第一に一年の間に国王が死ぬかもしれん。つぎに私が死ぬかもしれん。第三に馬が死ぬかもしれん。そして四つめに、ひょっとすると、馬が空をとぶことができるかもしれないじゃないか」
*ペシミストとはつねに真実を告げる人のことである。
*ペシミストとは、ドーナツの穴にだけ注目する人である。
*ペシミストとは、ズボンつりをした上で、さらにベルトもしめるような人である。
*オプティミストとは、郵便小包に「至急」と書くような人である。
*オプティミストとは、妻を待っている間、車のモーターをかけっぱなしにしておくような人である。
*ペシミストとは、情報過多のオプティミストである。
*オプティミストとは、妻に皿洗いの手伝いを頼もうとする男である。
*オプティミストとは、結婚したいと思っている男。
ペシミストとは結婚したオプティミスト。
ペシミストとオプティミストのちがいはどこにあるのでしょうか、というなぞなぞにもなります。
*ペシミストとは、駐車スペースが狭いので自分の車をわりこませることができないのではないかと心配する女性。
オプティミストとは、彼女がそれを実行しないだろうと考える男性。
というふうにこたえることもできるわけです。
この例のようにジョークとなぞなぞは親せき関係にあり、あるときはジョークはそのままなぞなぞになり、あるときはその逆が可能になります。
*こんなジョークがありました。
「ラルフ・ネイダーがどういおうと、車に関するもっとも安全な装置は、警官の姿をうつしてくれるバック・ミラーだ」
このジョークも、表現をかえて「これまでにつくられた車の最高のセーフティ・ディバイスは何か知ってるかい?」というふうになぞなぞとしても提出できるわけです。
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P[#「P」はゴシック体] Pun(ジョークのパンテオン)
"PUN-ishment" という Pun(だじゃれ)をあつめたペーパーバックのジョーク集があります。だじゃれをきかされるのは懲罰にひとしい、の意味でしょうか。著者は、ハーヴェイ・C・ゴードン(Harvey C. Gordon)、サブタイトルがついていて、The art of punning or how to lose friend and agonize people.(だじゃれをいう技法、いかにして友を失い、人々を悩ませるか)。いうまでもなくカーネギーの名著『人を動かす』の原タイトル "How to win friends and influence people." をもじったものです。
pun というのは、いわゆるだじゃれです。もうすこしくわしくいうなら、発音が似通っているが、ちがった意味をもつ言葉を利用するコトバの遊び(play on words)です。
実例でいきましょう。この本にはこんなジョークが入っていました。
* When I was in Florida, I saw a sea gull land on a harbor buoy. It was clearly a case of buoy meets gull.
フロリダにいたとき、私はカモメが港のブイにとまっているのをみたことがある。これぞまさしく「ボーイ・ミーツ・ガール」の典型例であろう。
buoy meets gull(文字通りブイがカモメに出あった)が、boy meets girl(若者《ボーイ》が恋人《ガール》に出あう)と発音が似ていることにひっかけた、ただそれだけのおかしみが狙いです。
「向いのひさしにブリぶらさげて、これがほんとのひさしぶり」という都々逸《どどいつ》を思いだします。
boy meets girl というのは、映画の都ハリウッドの慣用句で、たいていの映画のシナリオは、主人公の男がヒロインに出あってロマンスがうまれるのが主題になっているところから、月並みなプロット、おきまりの古くさい物語のはこびを指すこともあるようです。
だじゃれを連発する人は、外国でもあまり歓迎されず、「微笑のかわりに、しかめ面で迎えられることが多い」のだそうです。つぎの判じ物(なぞなぞ)のようなジョークは、子どもを対象にしたアメリカのジョーク集にあったものです。
"When Mississippi lent Missouri her New Jersey, what did Delaware?"
"I don't know, Alaska."
翻訳不可能ですが、直訳すると「ミシシッピーがミズーリに、彼女のニュージャージーを貸したとき、デラウェアはどうしたか?」とアメリカの州づくしになっているのですが、これはひとまず、いちどつぎのように読みかえてみないと意味が通じないでしょう。
"When Miss Issippi lent Miss Ouri her new jersey, what did Dela wear?"
つまり「ミス・イシッピが、ミス・オウリーに、彼女の新しいジャージーを貸したとき、デラは何を着ていたか?」となるわけです。
そこで "I don't know, I'll ask her." わかんないな、彼女にきいてみよう(アラスカ Alaska が I'll ask her と発音が似ているところにひっかけたシャレ)というわけです。ああ、しんど。
これはジョークというよりなぞなぞといったほうがいい性格をもった言葉のあそびです。英語のなぞなぞ(riddle とか conundrum という)には、ジョークとしても、言葉のなぞ遊びとしても通用するものがあります。
例をひとつあげてみましょう。
* A duck, a frog, and a skunk wanted to go to the movies.
The admission charge was a dollar. Which one couldn't afford it?
ある日アヒルとカエルとスカンクが、映画をみにいきました。入場料は一ドルでした。一匹だけ入場料を払えなかった動物がいます。それはどれでしょう。
ここまでが問題で、つぎが解答です。
The skunk. The duck has a bill, and the frog had a greenback, but the skunk only had a scent. And it was a bad one.
スカンクだけが入れませんでした。アヒルは bill(くちばしとお札《さつ》の両方の意味がある)を持っていましたし、カエルは greenback(緑色の背中の意味と、アメリカの紙幣は裏面が緑色なのでこう呼ぶ)を持っていました。スカンクは scent(scentにおい≠ニ貨幣のセント "cent" の発音が同じであることにひっかけてある。入場料は一ドルなのに、一セントしか持っていなかったスカンクが入れなかったというわけ)しかもっていませんでした。しかも、スカンクのそれは bad one(悪臭・不良貨の両方の意味)だったというオチがつけられているのです。これはパズルの本にも、ジョークの本にものせられていました。
最後にお国づくしのだじゃれをもうひとつ。
* Waiter "Hawaii mister, you must be Hungary?"
Customer "Yes Siam. But I can't Rumania here for long. Venice dinner being served?"
Hawaii(ハワイ)を How are you、Hungary(ハンガリー)を hungry、Siam(シャム)を I am、Rumania(ルーマニア)を remain、Venice(ベニス)を when is と読みかえてください。訳は要りませんね?
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Q[#「Q」はゴシック体] Quicker than the eye(手先の早業)
*母親ウサギが子ウサギの質問ぜめにあっていました。
子ウサギ[#「子ウサギ」はゴシック体] ぼくどこから生れたの?
母親ウサギ[#「母親ウサギ」はゴシック体] 手品師の帽子からよ。
*子どもがはな[#「はな」に傍点]をまっ赤にはらして帰ってきます。
「またけんかしたのかい」
「ちがうよ。きょう学校へ奇術師がやってきて、ぼくのはなから十セントをとりだしたの。あとで、みんながもっと出てくるにちがいない、といってぼくのはなをひっぱたいたんだ」
奇術師がきまってうける質問のひとつに、「あなたのように手先が器用であれば、ポーカーや麻雀でイカサマをやるなど思いのままでしょうね」というのがあります。どこへいっても同じことを何度もくり返してきかれることほど、うんざりすることはありません。
アメリカのSF界の大御所アイザック・アシモフは、「あなたは空とぶ円盤の存在を信じますか」というおきまりの質問に対してこんなふうに逆襲しています。
「いいえ、私はそんなものを信じていません。子どものためにおとぎばなしを書く童話作家は、ウサギが人間の言葉をほんとうにしゃべるとは考えていないでしょう」
一九六〇年代の映画館の深夜興行のスクリーンでは、藤純子の演ずるお竜さんが、観客の熱っぽい視線を一身にあつめていました。
「ばってんが、いかさまはいけんとよ」これはシリーズ第三作「花札勝負」の中で緋牡丹のお竜の名をかたる、お時という女賭博師から屏風札《びようぶふだ》(一枚の花札が真中からふたつに折れて別の札に変わるように細工されたイカサマ札)をとりあげて焼きすてながら、彼女を改心させるときの泣かせ文句です。
女優藤純子が、実生活でも手本引きの達人だとは誰も考えないでしょう。彼女がスクリーンの上で女賭博師緋牡丹のお竜という虚構の人物の役を演じているのと同じように、奇術師は、奇術師の役をたくみに演じている俳優にすぎません。もっともこれは十九世紀のフランスの大奇術師ロベール・ウーダンの名言ですが。
奇術が観客に与える印象は強烈です。観客が奇術師の役と実力を混同するのもむりはないのかもしれません。「マジック・ボーイ」というアメリカ映画は、脱出奇術の名人なら、金庫やぶりも簡単にできるだろうという奇妙な発想でつくられています。奇術というのは日常性の中に虚構の世界をつくりあげる遊びだということがなぜか理解されにくいのです。
奇術師ならイカサマも簡単だろうというおきまりの質問に対して、質問には質問をというアシモフのやり方をまねるなら、つぎのように反問することもできます。「あなたは百メートルを十秒で走ることのできる人に、『あなたが八百屋の店先でリンゴをかっぱらって逃げたら、だれも追いつくことはできないでしょうね』といった質問をしますか」
アマチュア奇術家の不幸は、その観客がほとんどアマチュア奇術家であることです。ここに大きなおとしあながあります。
コレクターが印刷ミスの切手といった欠陥商品を珍重するように、マニアの、マニアによる、マニアのための作品(あるいは発想)が喜ばれることが多くなります。効果よりその|やり方《メソツド》に心を奪われてしまうからです。
ミステリの世界でも似たようなことがよくおこります。
もっともあやしそうな人物が、やはり犯人だったというようなへん[#「へん」に傍点]なアイディアにマニア同士が感心しあうようになってしまいます。
TVのコマーシャル・フィルムですっかりおなじみになった怪人オースン・ウェルズが、ベテランのアマチュア奇術家であることは案外知られていません。
あるとき、ウェルズがカード当ての奇術を野外で演じたとき、客の選んだカードの名前を空中に煙で描いてみせたことがあります。この趣向のために彼は飛行機と操縦士をやとっていたのです。人をおどろかせようとすれば、とかく手間ヒマ、金がかかるものです。
テレフォン・カード・トリックという古くからあるメンタル・マジックがあります。観客の誰かひとり(もちろんあらかじめ打合せしてあるサクラではありません)に、一組五十二枚のトランプの中から一枚、好きなカードをいってもらいます。これはまったくの自由選択です。
つぎに演者はある電話番号を示し、この電話番号の向うに私の助手がいてカードの名前をあてるといいます。観客のひとり(誰でもいい)がそのダイヤルをまわします。電話に出た人物(助手)がみごとにさっき選ばれたカードの名前を言いあてます。
いちばんやさしい解決法《タネアカシ》。
たった[#「たった」に傍点]五十二人の知人(助手)を用意するだけで簡単にできます。
『ユダヤ・ジョーク集』(実業之日本社)にこんなジョークがのせられていました。
*アイザックという奇術師は、たいへん利口なポンピーというオウムを飼っていました。
ポンピーとの共演はうまくいき、興行はいつも大成功でした。
奇術師とくらすうちにポンピーはますますかしこくなり、いまでは同じ奇術を二回みればたちまちタネがわかるようになってしまいました。そのうちにポンピーは悪いいたずらを覚えたのです。アイザックが奇術をやっている途中に、大声でその奇術の種あかしをしてしまうのです。これにはアイザックもすっかり頭をかかえこんでしまいました。
あるときアイザックとポンピーは船旅の途中、大嵐に出あいました。とうとう船はまっぷたつにわれ、みるみるうちに沈みはじめました。
嵐がすぎ、海面はうそのように静かになりました。運よく助かったアイザックとオウムは救命ボートの上で顔を見合せます。
奇妙なのはあんなにおしゃべりのポンピーが、ひとことも物を言わなくなってしまったことです。
陽が落ち、月がでてもポンピーは黙りこくったまま大きな丸い目をじっと相棒にそそぐだけです。たまりかねたアイザックがいいます。
「ポンピー、お願いだから何か言っておくれ! 嵐のショックでものがいえなくなったのかい?」
するとようやくポンピーが口を開きます。
「どこへ船を消してしまったのか、どう考えてもまだわからないんだ」
奇術はタネを知れば知るほど、奇妙なところに感心するようになるものです。奇術師のおくさんの悲劇は、例外なくオウムのポンピーになってしまうことです。彼女の遠い祖先がアダムをだまして知恵の実をたべさせた報いかもしれません。
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R[#「R」はゴシック体] Riddle(なぞなぞなあに)
*いじのわるい父親が息子になぞなぞを出題しています。
「壁にかかっていてね、ミドリ色で、ぬれていて、キーッと鳴くもの、何だ?」
息子はさんざ考えたあとで降参します。
「わかんない、こたえはなに?」
「教えてやろう、ニシンのくんせい[#「くんせい」に傍点]だ」
「ニシンのくんせいだって。ニシンは壁になんかかかってないよ」
「じゃかけたらいいじゃないか」
「ニシンはミドリ色じゃないよ」
「じゃミドリ色にぬるんだね」
「くんせいのニシンのいったいどこがぬれているの」
「いまミドリ色にぬったばかりだろ。きっとまだかわいてないよ」
「そんなことをいったって」と息子がとうとうおこりだします。
「ニシンがキーッと鳴くなんてきいたこともないや」
「それはね」父親がニヤリとしていいます。「ちょっとひねってみただけさ」
*わたしたちは四つ子の兄弟
まいにちかけっこしているが
どうしてもおたがいに
追いつけない
[#地付き](ルーマニアのなぞ、『なぞなぞの本』福音館刊)
[#ここで字下げ終わり]
なぞなぞは言葉あそびのひとつです。世界でもっとも古いなぞなぞのひとつに有名なスフィンクスの謎がありますが、ここにあげたようななぞなぞ(考えものといってもいい)は世界中にあったものと思われます。
[#地付き](答・車輪)
[#ここで字下げ終わり]
『世界なぞなぞ大事典』(大修館書店)という大著には、古代ギリシャ・ローマ時代のなぞなぞから、東アフリカやチベットのなぞなぞまで、文字通り世界のなぞなぞが集められています。
身のまわりにある品物が問題に選ばれることが多く、たとえばギリシャのなぞなぞにこんなのがあります。
まわりは海、
そのまんなかに一匹の蛇。
蛇は海を食べ
また海は蛇を食べる。
こたえはランプです。これがインドのなぞなぞではつぎのようになります。
不思議な珍しいひとつの動物、
湖の土手に座っている。
光るくちばしで世界を見、
しっぽで水を飲んでいる。
これが日本になると、「上は大火事、下は大水」という表現になります。
なぞなぞは口から口へと伝えられる口承文芸のひとつで、イギリスの伝統的な童謡集『マザー・グース』にも、ハンプティ・ダンプティの謎をはじめ、いくつかのなぞうたが入っています。
活字が発明されて、最初にベストセラーになったのは、なぞなぞの本だったといわれています。
なぞなぞの本が印刷されて、大衆の間で非常な人気のあったことは、たとえばシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』の中に、つぎのようなセリフがあることをみてもよくわかります。
スレンダー[#「スレンダー」はゴシック体] おい、「なぞの書《ほん》」を持ってるか?
シンプル[#「シンプル」はゴシック体] 「なぞの書《ほん》」? (第一幕第一場 坪内逍遙訳)
いくつかの英語のなぞなぞを十九世紀末のイギリスの遊びの本からひろってみます。
ネコだけが持っていて、他の動物がもっていないものは何でしょうか。
これは古い問題で、答は子猫です。
骨も肉もないのに、四本の指と親指があるものは?
お化けではありません。これも古い問題ですが、いい問題だと思います。答は手袋。
問[#「問」はゴシック体] 水さしのどちら側にハンドル(とって)がありますか?
答[#「答」はゴシック体] アウトサイド(外側。左または右とこたえるとひっかかる)。
問[#「問」はゴシック体] もし、あなたのおじさんの姉妹が、あなたのおばさんでないとしたら、その人とはどんな間がらですか。
答[#「答」はゴシック体] あなたの母親です。
問[#「問」はゴシック体] 私をうまく使えば私はだれにでもなります。私の背中をひっかいたら、私はだれでもなくなります。
答[#「答」はゴシック体] 鏡。
英語のなぞなぞにはだじゃれを使ったものがとくに多い。一例をあげます。
*三人の男が湖のまんなかにボートを浮かべて魚つりをしていました。
ひとりがタバコ(シガレット)をとりだし、あとのふたりにもすすめました。しかし彼らはだれもマッチもライターも持っていないことに気がつきました。ボートを動かして岸へも近づけず、もちろん他のボートにも近よらないで、タバコに火をつけるのにはどうしたらいいか、という問題です。
[#ここから10字下げ]
(答・ひとりの男がシガレットを海に投げこむのです。That made the boat a cigarette lighter.)
[#ここで字下げ終わり]
ボートがシガレット一本分だけ軽くなる、の意味と、ボートがシガレット・ライターになる、とをかけあわせただじゃれパズルです。
*バナナの皮から何がとれる。
スリッパー(Slippers)。
*ピサの斜塔はなぜ傾いた(lean)か。
何にもたべないから(lean をやせるの意に解した)。
英語のなぞなぞを新旧とりまぜて紹介します。
問[#「問」はゴシック体] おしゃべり好きのご婦人たちが、いちばんおしゃべりをしない月は何月でしょう。
答[#「答」はゴシック体] 二月(日数がいちばん少ない月だから)。
問[#「問」はゴシック体] サルをつかまえるのにはどうしたらいいでしょうか?
答[#「答」はゴシック体] 木にさかさまにぶらさがって、バナナのような音を立てる。
(落語にも、梅の木に仮装してウグイスをつかまえる、というよく似た発想があります)
問[#「問」はゴシック体] のどをいためたキリンよりまだ悲惨なことがあるでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] あしにしもやけができたムカデ。
問[#「問」はゴシック体] あしにしもやけができたムカデよりまだひどいことがあるでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] 歯痛をおこしたワニ。
問[#「問」はゴシック体] 歯痛をおこしたワニよりもっとひどいことがあるでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] 花粉症にかかったゾウ。
問[#「問」はゴシック体] 半分に割ったチーズにもっともよく似ているものは?
答[#「答」はゴシック体] もう半分のチーズ。
問[#「問」はゴシック体] ぜったいに「イエス」とこたえられない質問は?
答[#「答」はゴシック体] あなたは眠っていますか?
問[#「問」はゴシック体] 目と目の間隔がいちばんせまい魚は?
答[#「答」はゴシック体] いちばん小さい魚。
問[#「問」はゴシック体] すみっこにじっとしていて、世界中を旅行するものは?
答[#「答」はゴシック体] 郵便切手。
問[#「問」はゴシック体] その男は五メートルもあるはしごから落ちたのにケガもしませんでした。なぜでしょうか。
答[#「答」はゴシック体] はしごの一段目から落ちたのです。
問[#「問」はゴシック体] ベンチからペンキをとりのぞくいちばんいいやり方は?
答[#「答」はゴシック体] ペンキがかわく前にベンチの上にすわるのです。
問[#「問」はゴシック体] アルファベットには何文字がありますか?
答[#「答」はゴシック体] 十一文字。T-H-E A-L-P-H-A-B-E-T.
問[#「問」はゴシック体] 青くて、緑色で、黄色で、茶色で、黒くて、灰色のものは?
答[#「答」はゴシック体] クレヨンの箱。
問[#「問」はゴシック体] 世界中のだれもがもっているのに、アダムとイブだけがもてなかったものは?
答[#「答」はゴシック体] 両親。
問[#「問」はゴシック体] いちばん短い月は何月?
答[#「答」はゴシック体] 五月。MAYの三文字、「スリー・レター・ワーズ」だから。
問[#「問」はゴシック体] 白い小石を紅海に投げこむとどうなるでしょう?
答[#「答」はゴシック体] ぬれます。
問[#「問」はゴシック体] テーブルの上でカットされる(切られる)が、食べられないものは?
答[#「答」はゴシック体] トランプ。
問[#「問」はゴシック体] 人が目をさましたとき、最初にすることは何でしょう?
答[#「答」はゴシック体] 目を開くこと。
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S[#「S」はゴシック体] Scotland(しまつの極意)
「しまつの極意」という落語があります。
金づかいのあらい男がけちんぼうになって、お金をためる秘訣を習いにいくはなしです。先生はその男を木にのぼらせ、細い枝に両手でつかまってぶらさがれと命じます。先生はさらに、片手をはなし、指を一本ずつ開いていくように命じます。最後の二本になったとき、たまりかねた男が叫びます。「でも、この指をはずしたら落ちてしまいます」「それを(と親指と人差し指で輪をつくってみせ)はなさんのが、しまつの極意じゃ」というのがサゲになっています。
アメリカやイギリスのジョークの世界で、けちという美徳を代表するのは、スコットランド人ということになっています。ここでもむかしからの慣例にならって、スコットランドの方には申しわけないのですが、しばらくしまつの極意・西洋版の主役をつとめていただくことにしましょう。
*レストランでユダヤ人とアイルランド人と、スコットランド人が、食事をしていました。
食事が終って、スコットランド人が「ここの勘定はぼくが持とう」というのをきいたとき、アイルランド人は自分の耳が信じられませんでした。
翌日の新聞記事の見出しです。
「スコットランド人、ユダヤ人の腹話術師をレストランで射殺」
これは一種の考えオチです。ユダヤ人の腹話術師がいたずら心をおこして、他人の分まで勘定を払うはずのないスコットランド人の声音を使ったのだという謎ときができないと、このジョークはすぐには笑えません。スコットランド・ジョークの古典的作品をいくつか紹介します。
*飛行機ができたばかりのころです。スコットランド人の夫妻が、サーカスの飛行機見物にでかけました。客をのせて街の上をひとまわりするだけで、五ドルもするときいて、ふたりはあいた口がふさがらないようすでした。
パイロットがこのふたりのケチな夫妻をみて、おもしろ半分にこんな賭けをもち出しました。
「もしおふたりが、飛行中にひとこともものをいわなかったら、飛行機代はただにしてあげますよ、いっときますが、私の運転はかなり乱暴ですよ」
ふたりはこの賭けをうけて、三人は空中にとび立ちました。じっさいその飛行はパイロットがいったとおり宙返りはする、きりもみはやるというひどいものでした。
やっと地上についたとき、パイロットがいいます。「あなたがたのかちだ。あなたがたはひとこともいわなかった」
「いや」とスコットランド人、「私はあやうく声を出すところでしたよ。私の妻がふりおとされたときには」
このはなしには、「こわいのは、出費を思えばいくらでもがまんできたさ。でも女房が空中に放りだされたとき、思わず歓声をあげそうになるのをこらえるのはたいへんだった」という別のオチもあります。
*「おとうさん、おとうさん」と子どもが叫びながら家へかけこんできます。
「きょう学校の帰りに、ぼく、バスのあとについて走ってきたの。バス代を節約しちゃった」
「何というむだづかいをする奴だ、おまえは」と父親が怒ります。
「どうしてタクシーのあとについて走ってこない」
*スコットランド人の投書です。「スコットランド人に関するくだらないジョークをのせるのをやめろ。さもないとおまえの会社の新聞を借りて読むのをやめにする」
[#改ページ]
T[#「T」はゴシック体] Translation(珍訳もドッサリ!)
Full care cowards to become middle note.
フル、ケア、カウァズ、トゥ、ビカム、ミドル、ノート。いったい何のことだろうと、この文章を翻訳してくれと生徒につきつけられた英語の教師が、頭をかかえます。
これは生徒のクラシカルないたずらのひとつです。
漱石の『吾輩は猫である』に、迷亭氏と独仙氏が、あやしげな烏鷺《うろ》を戦わせながらたがいに駄洒落を応酬するシーンに、つぎのような会話が入っています。
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か――」
長い間何にも気づかずにいたのですが、最近の文庫本で、これは「ずうずうしいぜ、おい」の音をふざけて英語化したもの、という親切な注が入っていて、なんだそんなシャレだったのか、と十何年も前にみた奇術のタネあかしをされたような気分になりました。
冒頭の奇妙な英文は、片仮名の日本文字の方を二、三べん音読[#「音読」に傍点]すれば、その意おのずから通じてニヤリとされることでしょう(「古池やかわずとびこむ水の音」をふざけて英語化したもの)。
『吾輩は猫である』には、番茶を英語で何というかときかれて、サベジ・チー savagetea だと訳してみせた苦沙弥《くしやみ》先生が、寒月君との対話で、生徒にコロンブスという人名を日本語に翻訳してくれとせまられ弱りはてた話をしています。
「先生何とおっしゃいました?」
「ええ? なあに好いかげんなことを言って訳してやった」
「それでも訳すことは訳したんですか、こりゃえらい」
翻訳者は原文の意味がわからないからと原文のまま放置したり、ブランクにしておくことが許されないのですから、つらい商売にちがいありません。
ある翻訳書をよんでいたとき、「スペードのエースは乱暴なんです」という文章にぶつかってびっくりしたことがあります。サマセット・モームが、ノエル・カワードからトランプのひとり遊びを習う場面でこんな言葉がとび出してきます。
「トランプが二組いるんです。さて、ルールはですね、スペードのエースは乱暴なんです。ハートの三とクラブの八もそうなんです」
これはワイルド・カード wild card をそのままわけもわからないままに翻訳したのでしょう。ワイルド・カード(単にワイルドともいう)というのは、ゲームの用語で、「どのカードの代用もすることができるカード」の意味なのです。
ときには翻訳そのものでなく、訳者の注にふしぎな解釈がつけられていて面くらうこともあります。
ある本に「その男はC・W・フィールドを彷彿とさせる中年ぶとりの男」という表現があって、訳注として(一八一九―九二。アメリカの金融家。海底ケーブル建設者。一八六六年に、ニューヨーク、ロンドン間の海底ケーブル敷設に成功した)とあります。海底ケーブルを敷設したというみたこともきいたこともない男が、どうして中年男のイメージになりうるのか、誰でも首をひねります。これはおそらく、因業な肥満体の中年男を演じて評判のよかったアメリカの有名な喜劇俳優W・C・フィールドのまちがいでしょう。
W・C・フィールドは、日本では「かぼちゃ大将」というネームをちょうだいしています。
「私はいまだかつて好きな子どもと犬にあったことがない」という彼の言葉があります。
こんな英文のパズルがあります。
[#1字下げ] A LAMICED PUZZLE
If you made a business transaction with the Noelomis in the land of Acirema, what would a semid net gain amount to?
答 Rallod, enough for anyone!
この問題はいくつかの単語のスペルをわざとさかさまにつづったもので、lamiced は decimal(十進法)、noelomis は simoleon(ドルの俗語)、Acirema はもちろん America、semid は dimes(十セント)、そして rallod は dollar(ドル)です。
これはここにあげた原文を、そっくりそのまま掲載しないかぎり翻訳不可能な問題です。ところが、この問題を意訳・翻案した勇気ある翻訳者の文章にはおどろきました。
「モモンガー・パズル
かりにアキレタ国のワカラン族と交易するとしたら、ナンジャ・モンジャの純益はどれくらいにのぼるだろう?」
そして答が「木の葉でもドッサリ!」なのだそうです。
苦沙弥先生のコロンブスの日本訳以来の快挙といえましょう。
一見えたいが知れぬと思われても、
説明されれば何ということのない私。
答は「なぞなぞ」です。(『世界なぞなぞ大事典』大修館書店)
ジョークもなぞなぞもきいてみれば何ということはないのですが、それまではまさしくミステリアスそのものです。
注釈がないとよくわからない、なぞなぞやジョークをいくつか紹介します。
問[#「問」はゴシック体] なぜゾウはロバとたたかうのか?
答[#「答」はゴシック体] 選挙の年だから。
これはアメリカの共和党のシンボルがゾウで、民主党のシンボルがロバだということを知らないと、何のことだかわかりません。
これは英語のだじゃれなぞなぞです。
問[#「問」はゴシック体] デーモン(悪魔)は、なぜグール(食人鬼)とうまくやっていけるのか?
英語で書くと、Why do demons and ghouls get along so well?
答[#「答」はゴシック体] ダイヤモンド(|demons《デーモン》)は、ガール(|ghoul《グール》)の最良の友だから。
Because demons are a ghoul's best friend.
英語の答。ダイヤモンドとデーモン、ガールとグールが発音が似ていることにひっかけただじゃれなぞです。
*よっぱらいジョークのひとつですが……。
場所はワシントン。
ふたりのよっぱらいがワシントン記念碑の下にいます。
ひとりが、その下でマッチをすります。
もうひとりがいいます。
「こいつを地上から発射することはできないよ」
ワシントン・モニュメントをロケットに見立てたジョークですが、それがどんな形のものか知ってないとまったくおもしろくありません。
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U[#「U」はゴシック体] Underground(政治ジョーク)
*西欧諸国のおとぎばなしは、「むかしむかしあるところに」というきまり文句ではじまり、ロシアのおとぎばなしは、「やがていつかは」というきまり文句ではじまる。
ポリティカル(政治)・ジョークのひとつです。
フロイトは、ジョークは人間の攻撃的、あるいは性的な感情や不安が、偽装され抑圧されたあそびの精神と結びついて表現されるものだといっています。
ポリティカル・ジョークは、ユーモアのもつ毒性が、デフォルメされた先鋭的な形で表現されたケースといってもいいでしょう。技巧的で遊戯的な笑いより、刺激的でシニカルな攻撃性に笑いの重点がおかれるのがその特徴です。
ヒットラーのナチ政権下のドイツでは、「フリュールステルヴィツ」とよばれ、またスターリン独裁下のソビエトでは、「アニクドート」とよばれて、人々の口から口へとひそかにささやかれつづけたといわれています。
*ナチ政権下のジョークの一例です。
兄弟殺しとは何か?
ヘルマン・ゲーリングが豚を殺すことである。
では自殺とは?
このジョークを世間でしゃべること。
こんな攻撃的なジョークが好きだという人もいるでしょうが、あまりにもストレートでなまなましくて、笑う気になれない人もいるでしょう。
『スターリン・ジョーク』(平井吉夫編・河出書房新社)から、典型的と思われる風刺ジョークをひろってみます。
*はだかのしりでハリネズミの上にすわることができるだろうか。
できる。その場合三つの状況が考えられる。
第一に、しりがきみのものでない場合。
第二に、ハリネズミが体を剃っている場合。
第三に、スターリンが命令する場合。
*強制収容所にて。
「なんで、ここにいるんだい?」
「一九三九年に同志ポポフの悪口をいったからさ。で、きみは?」
「ぼくは一九四三年に同志ポポフをほめたからだよ」
ふたりはもうひとりの囚人に問いかけた。
「きみは?」
「私はポポフだ」
これらのいってみればアンダーグラウンド・ポリティカル・ジョークは、独裁国の人民の間で、権力に対する抵抗の手段としてうまれるとよくいわれています。ただ気をつけないといけないのは、これらのジョークが、ぜんぶその国でつくられたものではなく、生年月日不明、国籍不明のものもかなりいりまじっているので、ジョークからその生産国の国民性を云々するのはかなり危険を伴うということです。
中には独裁国の社会的状況の不自由さを、外からからかったジョークが、自由主義国の中でつくられていくという例も多いのではないかと思われます。
暗殺されたケネディ大統領が好んで口にしたというので有名になったジョークがあります。
*あるソビエト人が、フルシチョフはばかだ、と叫んで秘密警察につかまり、二十年と三カ月の禁固刑を宣告されました。党の書記長を侮辱した罪で三カ月、国家の重要機密をもらしたという罪で二十年。
形こそすこしずつちがっていますが、たいていのジョーク・ブックに採用されている有名なジョークに、何でも自分たちの国がはじめたと主張したがるソ連の高官が、アダムとイブは共産主義者だったと主張するはなしがあります。『ユダヤ・ジョーク集』(実業之日本社)ではこんなふうになっています。
*ケネディ大統領がフルシチョフに、最初の人類アダムとイブは、パラダイスにいたんだから共産主義者だと認めよ、といわれ、どう答えていいかわからないので、イスラエルの首相に相談します。
「大統領閣下、それだったら、アダムとイブが共産主義者だったということを認めたらよいでしょう。まずアダムとイブは着るものがなかった。そしてどこかへ行こうと思っても行くところがなかった。食物といえばリンゴしかなく、そのくせ自分たちはパラダイスにいると確信していた。だからまちがいなく共産主義社会に住んでいたのでしょう」
「ほんとうの幸福とは」ソビエト人が話しています。「夜中の三時にドアがたたきこわされて、そこに秘密警察のメンバーが立っていて、イワン・イワーノイッチ、お前を逮捕するといわれたとき、『イワン・イワーノイッチはとなりです』と答ができるときだ」
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W[#「W」はゴシック体] Word、word、word(ことばあそび、言葉あそび、ことば遊び)
五代目古今亭志ん生の噺のまくらは、レコードで何度きいても絶品です。
「ええ、傾城《けいせい》の恋はまことの恋ならで、金もってこいが本当のコイなり、なんてんで、……こういうなァ、あんまり学校じゃ教《おせ》えてくれない」
近ごろは日本でもコン・ゲームという言葉がよく使われるようになりました。
コン・ゲーム(信用詐欺)というのは、もちろんコンフィデンス・ゲーム(confidence game)をつづめたものです。アメリカのモーラーという著者の『アメリカン・コンフィデンス・マン』(一九七四)という本のグロサリー(用語集)では、コン・ゲームはつぎのように定義されています。
「犠牲者に不正な手段の金もうけであることを承知させた上で、大金を投資させ、すっかりまきあげてしまう、といったタイプの詐欺(swindle)を総称する」
コン・ゲームを一躍日本で有名にしたのが、ビッグ・コン・マンを主人公にしたアメリカ映画「スティング」でしょう。Sting というのは先の用語集によると、犠牲者(これをマークという)の金をまきあげること、となっています。
映画「スティング」は、相棒をギャングのボスに殺された若いコン・マンが、相棒の旧友の助けを借りて、ボスを競馬詐欺にひきこみ、みごとに仇をうつという話です。そのやり口は、電報局に仲間がいてレースの結果を伝えるのを、ほんの数分間だけ遅らせることができるとカモに信じこませ、もぐりのノミ屋(これも仲間)に大金をつぎこませるという手で、この方法をワイヤー(wire)といいます。志ん生ではありませんが、あんまり学校じゃ教えてくれない言葉です。
これは日本のなぞなぞです。
問[#「問」はゴシック体] うそつきという木にとまる鳥は何というでしょう?
答[#「答」はゴシック体] サギ。
韜晦趣味の巨匠レン・デイトンが、三人のコン・マン(もっともそのうちの一人は女性ですが)を主人公にした『笑うカモには』(沢川進訳・早川書房)の冒頭に、大胆で奇抜な詐欺師のこんなエピソードを用意しています。
「一九二五年、チェコのある貴族が、フランス郵政省の用箋を用い、またの名をエッフェル塔と呼ぶ七千トンの金属の入札を屑鉄商《スクラツプ》たちに対して通知した。かれは早々にパリを去ったが、あまりに見事な成功をおさめたため、一カ月後に戻ってきて、もう一度エッフェル塔を売り払った」
このコン・マン小説の三人組の首領格であり講釈好きなサイラスによると、コン・ゲーム道の要諦は、犠牲者を催眠状態にしておくことだそうです。
サイラスは詐欺師を柔術家にたとえます。柔術家が相手の力とスピードを利用して相手を倒すように、コン・マンは相手《カモ》の貪欲さというエネルギーを逆用するのだ、と力説します。犠牲者を催眠状態にしておいても、相手の貪欲な本能だけは目ざめさせておかなければならないというのです。
*腕のいいにせ金づくりがいました。彼は自分でもほれぼれするような完璧な百ドル札をつくりあげたのですが、使いはじめるとすぐにつかまってしまいました。プライドをひどく傷つけられたこの男は、捜査官に、彼が見本にした百ドルと、彼のつくった札とを並べて、どこに違いがあるか指摘できるかと迫りました。
捜査官がきのどくそうに、「ちがいはまったくないがね、きみが見本にしたのはにせ札なんだ」
脱出奇術王とよばれたアメリカのハリー・フーディーニは何冊かの本を著していますが、そのひとつに『不正を働く正しいやり方』("The right way to do wrong")(一九〇二)という人目をひかずにはいない奇妙なタイトルの本があって、詐欺師や悪党たちのさまざまの奇計、トリックを紹介しています。
フーディーニはこの本を書いた目的をふたつあげています。ひとつは「知は力なり」と古くからいわれているように、不正なやり方を知っておくことが、不正に対する最良の防衛手段になるというおきまりのいいわけです。
もうひとつは、この種のテーマが読み物としておもしろいからだと、いやにあっさり白状しています。自分が被害者になるのはいやだが、他人がだまされるのを知るのはおもしろいという、だれにも共通の心理に働きかけたものといえましょう。
フーディーニがもっとも巧妙な宝石泥棒としてあげているのは、つぎの例です。白昼堂々と宝石店に入っていって、相手の目の前で高価なダイヤを盗んでみせる方法です。
宝石屋に高価なドレスを着たいかにも金のありそうな若い女性があらわれ、ダイヤをあれこれみせてくれと注文します。そこへもうひとりやはり身なりのいい女性が近づいてきてダイヤに関心を示します。突然いちばん高価なダイヤがみえなくなります。店員は警備員を呼び、ふたりの女性客は厳重な身体検査をうけますが、ダイヤはどこにもかくされていません。ふたりの女性は釈放されますが、ダイヤはもどってきません。
彼らのやり方は大胆で、そしてシンプルです。ひとりの女性客がひそかにチューインガムの中にダイヤをおしこみ、カウンターの裏側におしつけ、くっつけます。それをヤジ馬に化けたもうひとりの仲間がこっそりと回収するというチームプレーです。
アメリカの短篇小説の名手ヘンリー・スレッサーのコメディ・タッチの怪盗ルビイ・マーチスン・シリーズのひとつに、同じ手口でチューインガムを使って宝石屋から指輪を失敬するはなしがでてきます。
フーディーニはぐるのだましの古典的な例として、バイオリンを使った古い詐欺の手口を紹介しています。
バイオリンをかかえたひとりの若い男が、街の道具屋で買物をしますが、すこしお金が足りません。金を都合してくるあいだ、バイオリンをあずかっていてくれと若い男が頼み、主人が承知します。
しばらくすると恰幅のいい紳士が入ってきて、店にあるさっきのバイオリンをみつけ、「これはストラディバリウスのバイオリンじゃないか」と叫びます。そしてこれを三百ドルで売ってくれないかといいます。もちろん主人は拒絶します。紳士は、それじゃその男がバイオリンを手離すようであれば、ぜひ私にゆずってくれといって、五ドルの手付金を主人におしつけて帰っていきます。
まもなく若い男がもどってきます。欲にかられた主人が、このバイオリンを売る気はないかと若い男にもちかけ、さんざんやりとりがあったあとで、最終的に百五十ドルでバイオリンは主人の手に渡ります。主人は、右から左へ百五十ドルがもうかったとうきうきして紳士を待ちますが、なぜか紳士は姿をみせません。もちろん若い男と紳士は仲間《グル》で、バイオリンは一ドルそこそこの品物です。
ペテン師は大きな利益のために、まず小さいことで信用を得ておくという古いローマの言葉がありますが、紳士風の男が手付においていった少額の投資が、大きなだましのための巧みな伏線と信用手形をかねているのです。
うまくいった詐欺の実話は、それ自体が一種のジョークといってもよく、このバイオリン詐欺もあるジョーク・ブックに、ほとんどこのままの形で収められているのを読んだことがあります。
おしまいに通信詐欺の傑作のひとつ。
*南京虫を完全に退治する方法を一ドルで教えるという新聞広告。一ドルを送るとカードが一枚送られてきて説明文が印刷されています。「南京虫をつかまえて、足をひろげ、親指と人さし指で注意深くおさえなさい。カナヅチで力いっぱいたたくこと。南京虫は完全に退治されます」
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X[#「X」はゴシック体] Cross(クロス・ジョーク)
アメリカで、「タクシーを呼んでください(Call me a taxi.)」と頼んだときに、「オーケー、あんたはタクシーだ(OK, you are taxi.)」などとふざけられると、これが冗談だとわからないとめんくらってしまいます。
「私にタクシーを呼んでください」が「私をタクシーと呼んでください」の意味にもとれるところをあげあしとりした言葉あそびなのですが……
このあとに、でもあんたはタクシーというよりはトラックに似ているよ、と漫才のようにあとひとおしするジョークもありました。
日本でいえば「何か用か」ときかれて、「九日十日」とこたえるような陳腐なジョークとおなじです(「何か用か」を七日八日と解したしゃれ)。
英語でもまったくよく似た表現があります。
"Can February march?"
"No, but April may."
「二月は行進できるだろうか?」
「四月だったらできるかもしれないな」
二月、三月、四月、五月が会話の中にうまくおりこまれています。
こんどは他愛ない子どもの言葉あそびから。
*「私に『あなたはウサギさんですか?』ときいてください」
「あなたはウサギさんですか」
「はい、そうです。じゃこんどは、『あなたはゾウさんですか』ときいてください」
「あなたはゾウさんですか」
「いいえ、おばかさん。私はさっきウサギだといったばかりでしょう」
これも子どもがよくやるコトバのあそびです。
*「むかしむかし、二匹のロバが牧場にいました。一匹の名前をピート、もう一匹の名前をリピートといいました。ある日、ピートがいなくなりました。のこったロバの名前は?」
ここで相手(話のきき手)が「リピート(repeat)」とこたえると、
「むかしむかし、二匹のロバが牧場にいました。一匹の名前をピート……」
ともういちどはじめからくりかえすのです。
おわかりですか。
「リピート」というこたえが、「もういっぺんくりかえして」の意味にもとれることを利用しています。
*「私を一カ月覚えていられるかい?」
「もちろん」
「一年間でも?」
「あたりまえだよ」
「二年間でも?」
「イエス」
「三年間でも?」
「もちろんさ」
「ノック・ノック」
「どなた?」
「そら、もう私のことを忘れてしまったじゃないか」
ノック・ノック遊びを逆用した言葉あそびです。
子どもたちの言葉あそびも、大人たちのバアやスタンドでの座興に使われることがしばしばあります。こんな問題がとけるかいとか、こんなことができるかい、といって難問を出し、相手がこたえられなかったときやできなかったときは、つぎの一杯をできなかったほうがおごるといった形式のおあそびで、バアベットといわれています。一杯のかわりに小銭が賭けられることももちろんあります。
「おれはきみがここにいないということを証明してみせるよ」
「そんなことができるものか」
「やってみせよう。いまきみはニューヨークにいるかい」
「いや」
「じゃシカゴにいるかい」
「いや」
「じゃロスにいるかい」
「ノー」
「もし、きみがニューヨークにもシカゴにもロスにもいないとしたら、どこかほかの場所(someplace else)にいるにちがいない。そうだろう。いいね。もし、きみがどこかほかの場所にいるとしたら、きみはここにいるわけがないのだ」
一本とられました。
しかし相手もさるもの、かんたんに賭け金を支払いません。
このジョークには、まだつづきがつけられていることがあります。
負けたはずの男がものもいわずに賭け金をとりこんでしまうのです。おどろいた相手が、
「おれが勝ったのに、どうしておれの金をとるんだ」
「そんなことはしていないよ」
「いや、たしかにとった!」
「いいかい、きみはおれがここにいないことを証明した。おれがどこか他の場所にいるとしたら、おれがここにいるはずがない。そうだったな。そしておれがここにいないとしたら、どうしておれはきみの金をとれるんだ」
「英語で too はどう発音しますか?」
「|too《ツウー》[tu:]だろう」
「じゃ two は?」
「それも[tu:]」
「それでは週の二番目の日をどう発音します?」
「それは Tuesday で toosday じゃないよ」
「え? 私は Monday というんだと思っていたけど」
たいていの人がひっかかってしまいます。
問[#「問」はゴシック体] かしこい人はどんなことをするか知ってる?
答[#「答」はゴシック体] 知らない。
きみは知らないだろうと思った。
とからかうのです。
もうひとつ、
問[#「問」はゴシック体] Qが五つだといくつ?
答[#「答」はゴシック体] ファイブ・キューかい?
問[#「問」はゴシック体] じゃQが十だといくつ?
答[#「答」はゴシック体] テン・キュー(ten Q)。
問[#「問」はゴシック体] You are welcome.(どういたしまして)。
(サンキューとテンキューの発音が似ていることを利用して、相手のサンキューに対し、ていねい語の「どういたしまして」で答える)。
[#改ページ]
X[#「X」はゴシック体] Cross(クロス・ジョーク)
*アメリカの女性観光客が、ギリシャを訪問し、車を借りて廃墟を見物にでかけました。巨大な石の柱がたおれている場所で、記念撮影をしようと思った彼女が仲間にたのみこんでいます。
「車をうつさないようにしてね。でないと主人は、きっと私がこの柱をこわしたと思うでしょうから」
このはなしのように、それひとつだけではおもしろくも何ともないものが、別のものと並ぶと奇妙な連想や解釈を生んで、おかしみが生じるというケースがよくあります。ジョークの作者は、とんでもない異質のくみあわせをみのがしません。
*少女ドロシーが、愛犬トトと、カカシ、おくびょうなライオン、ブリキの人形といっしょに、黄色いレンガの道を歩いていると、向うから若き日のニコライ・レーニンがやってくるのに出あいました。
「ハイ」とドロシーがにこやかに声をかけます。
「わたしたちといっしょに魔法つかいに会いに行かない?」
「わたしは魔法つかいに会いに行こうとは思わん」とげとげしくレーニンがいいます。「わたしは魔法つかいになるつもりだから」
「オズの魔法使い」の架空の登場人物と、プロレタリア革命という世紀の魔法(奇蹟)を実現させた実在の人物との組合せの妙味があります。
アメリカ映画「レッズ」(一九八一)の中で、ウォレン・ビーティ扮する主人公の新聞記者ジョン・リードが、恋人である女性記者(ダイアン・キートン)とともに、十月革命直前のモスクワへ向う列車の中で、同席の相客からジョーク攻めにあうところがでてきます。相客のジョークに笑いころげるダイアン・キートン。そこでウォレン・ビーティがおかえしに話してきかせて、ひとりで大笑いするのがつぎのジョークです(相手のふたりはきょとんとしています)。
*ひとりの小男が仕事をさがして森の伐採小屋にやってきました。監督は、テストのためにあの木を切ってみろと小男にいいつけます。
小男はたったひとりで大木をきりたおします。びっくりした監督がききます。
「きみはいままでどこで働いていたんだい」
「サハラ・フォレストですよ」
「サハラの森だって? サハラ砂漠ならきいたことがあるが……」
「いまじゃそう呼んでるようですね」
一種の考えオチです。映画では、「私が全部木をきりたおしたので、サハラ・フォレストは、今ではサハラ砂漠になっていますよ」と説明過剰のセリフがつけ加えられていました。これは比較的新しいジョークのようで、時代考証をすれば「世界をゆるがせた十日間」の時代にとても存在していたとは思われませんが、とほうもないとりあわせの意外さで聞き手におどろきを与える秀作です。
学者たちの奇妙な研究は、むかしからジョークの世界にとりこまれ、いつのまにかクロス・ジョークともいうべきひとつのパターンが開拓されました。クロス(cross)というのは、異種交配のことで、ある品種を別の品種とかけあわせることです。
あるとき、アメリカのユニークなマンガ作家、テックス・アベリーの「楽しい農園」(原題 Farm of tomorrow ―明日の農園)という短篇をテレビでみて、そのギャグ・アイディアのほとんどが、クロス・ジョークであるのに気づきました。
*ウシとビーバーをクロスすれば、ビーバーのうちわのようなシッポで、ハエたたきのできるウシができあがる。
*バナナとガチョウをクロスして、バナナのように簡単に羽根のむけるガチョウをつくる(ガチョウの情なさそうな表情がみものです)。
*トナカイとコウノトリをクロスさせて、ツノの生えたコウノトリができると、赤ん坊をツノにひっかけることができるので大量輸送が可能になります。
*キリンとサラブレッドをクロスさせると、ダービーのとき、首の差でいつも一着はまちがいなしです。
*メンヨウとダックスフントをクロスして、胴長の羊をつくり、羊毛の大量増収をはかる。
こんどはアメリカのジョーク集からひろってみましょう。
*カンガルーとミンクをクロスさせると、ポケットつきの毛皮のコートができあがる。
*メンドリとフクロウをクロスさせて、昼はタマゴをうませ、夜はネズミとりをさせる。
*伝書バトとキツツキをクロスさせる。手紙を運んできたときに、ドアをノックしてくれるから。
*では、なぞなぞです。カントリー・シンガーと、ゴルフのプロをクロスさせると何が生れる? 答・エディ・アーノルド・パーマー(エディ・アーノルドはカントリー・シンガー)。
*ワニとバラをクロスさせたらどうなるでしょう?
何ができるかしらんが、そいつのにおいをかぐのはやめとくよ。
クロス・ジョークのタネはつきません。
皮肉屋のマーク・トゥエンはいいました。
「もし人間と猫をクロスして、新しい動物をつくるとしたら、人間は進化するだろうが、猫には退化となるだろう」
[#改ページ]
Y[#「Y」はゴシック体] Young(愚問愚答のかずかずに)
Silly questions, silly answers(愚問愚答)というのもジョークのパターンのひとつです。英語のジョーク・ブックから、珍問答をあつめてみました。
先生[#「先生」はゴシック体] トーマス・ジェファソンが独立宣言に署名したのはどこでしょうか。
生徒[#「生徒」はゴシック体] 宣言書のおしまいのところです。
場所をわざととりちがえてみせます。これはキャッチにも使われます。
先生[#「先生」はゴシック体] ネルソンが戦死したのは、どの戦いでしたか?
生徒[#「生徒」はゴシック体] 彼の最後の戦いです。
先生[#「先生」はゴシック体] どうして自分の国の言葉を母国語(mother tongue)というのでしょうか?
生徒[#「生徒」はゴシック体] 父親はそれを使うチャンスがなかったからです。
先生[#「先生」はゴシック体] キャット・ファミリー(ネコ科)の動物の名前を四つあげなさい。
生徒[#「生徒」はゴシック体] おとうさん猫、おかあさん猫、そして子猫が二匹です。
先生[#「先生」はゴシック体] (電話で)お子さんはかぜで、きょうはおやすみだとおっしゃるのですね。あなたはどなたですか。
声[#「声」はゴシック体] ぼくのおとうさんです。
先生[#「先生」はゴシック体] 一八〇九年という年は何で有名ですか?
生徒[#「生徒」はゴシック体] アブラハム・リンカーンが生れた年です。
先生[#「先生」はゴシック体] よろしい。では一八一二年の歴史的出来事は?
生徒[#「生徒」はゴシック体] リンカーンの三歳の誕生日です。
生徒[#「生徒」はゴシック体] 先生、ぼくがやらなかったのに罰をうけるということがありますか?
先生[#「先生」はゴシック体] そんなことはありません。
生徒[#「生徒」はゴシック体] よかった。ぼくは宿題をやってきませんでした。
子ども[#「子ども」はゴシック体] パパ、動物たちは冬になるたびに毛皮をとりかえるんだってね。
父親[#「父親」はゴシック体] シーッ。そんなはなしはおかあさんのきいてないところでたのむ。
子ども[#「子ども」はゴシック体] パパ、人間の獣性って、何のこと?
父親[#「父親」はゴシック体] おかあさんの新しい帽子の上にすわってごらん、すぐにわかるよ。
先生[#「先生」はゴシック体] 水の分子式は何ですか?
生徒[#「生徒」はゴシック体] H-I-J-K-L-M-N-Oです。
先生[#「先生」はゴシック体] だれがそんなことを教えた?
生徒[#「生徒」はゴシック体] 先生です。先生はエッチ・トゥ・オー H to O(|H《エイチ》から|O《オー》まで)といわれました。
先生[#「先生」はゴシック体] ワシントンの父親は、ジョージが桜の木をきりたおしたとき、なぜ許してやったのでしょう?
生徒[#「生徒」はゴシック体] 少年がまだ手におの[#「おの」に傍点]をもっていたからです。
[#改ページ]
Z[#「Z」はゴシック体] Zoo(アニマル・ジョーク)
ウォルト・ディズニーのマンガをみていると、ミッキーマウスはネズミという哺乳動物の特性を完全に喪失して、まるでミッキーのお面をかぶった人間の子どものような人格を与えられています。子猫を行水させたり、鉄砲をもってクマ狩りに出かけたりします。動物を人格化することで、デフォルメした人間性を砂糖でくるんだアーモンドのように口あたりをよくし、同時に風刺性をもたせることができるので、ジョークの世界でもアニマル・ジョークは非常に人気があります。
いくつかのアニマル・ジョークを紹介します。
*ある男が友人を訪問して話しこんでいるとき、一匹の犬が入ってきて、新聞があいていたらみせてほしい、といいます。
「おやおや、きみの犬は新聞が読めるのかい」
「だまされてはいけないよ。あの犬はマンガ欄しか読まないんだ」
*ライオン狩りに出かけたある男が、もうひとりの仲間のジョンと賭けをしました。
「ぼくが一時間以内にライオンを仕とめてくるのに百ドル賭けよう」
一時間後、テントにのこっていたジョンは、ライオンがテントの中に入ってきて口をきいたので死ぬほどおどろきました。
「きみがジョンかね」
「そうですが」
「百ドルを遺産としてうけとれ、と友だちからことづかってきたよ」
*ある男が長い刑期を独房ですごしていました。
ある日、男は一匹のアリをみつけました。男はまもなくアリと友達になりました。そして、アリが科学者のいうように高い知能をそなえていることを知りました。男はマッチ棒をつかって、ちょうどサーカスの芸人がやるようにアリを調教しはじめました。一年たつとアリはマッチ棒をとびこえ、二年後には宙がえりができ、三年後には二本の脚で立って歩けるようになりました。
五年後、アリは男の口笛にあわせてダンスができるようにさえなりました。
ある日、刑期が終り、男は釈放され自由の身になりました。このアリさえいたら、金もうけは思いのままでしょう。男はアリを大事にポケットに入れて、まず祝杯をレストランであげることにしました。酒を注文し、ポケットからアリをとりだして、テーブル・クロスの上にのせ、そっとウェイターをよびました。
「給仕さん、このアリをよくごらん」
ウェイターは、「あれあれ、これは申しわけございません」というなり、ぴしゃりと平手でアリをたたきつぶしてしまいました。
*二匹のカメが喫茶店へ入りソーダ水をのもうとおもいました。
二匹が店に入ったとたん、雨がふりだしました。
大きなカメが小さなカメにいいました。
「家へ帰って傘をとっておいでよ」
「いいとも」と小さなカメがこたえます。
「だけど、ぼくの分のソーダ水をのまないと約束してくれるかい」
二年たちました。
大きなカメが考えました。「あいつはきっともう帰ってこないと思う。だったらもうこのソーダ水をのんでもいいだろう」
大きなカメがもうひとつのグラスに手をのばしかけたとたん、戸口《ドア》のところから声がかかりました。
「きみがぼくのソーダ水に手をつけたから、家へ傘をとりに帰るのはやめだよ」
*ある男が野原を散歩していました。
すると片っぽうにハナを高くあげた一匹の子ゾウが、野原にじっと腰をおろしているのに出あいました。
もうすこし歩いていくと、もう一匹の子ゾウが同じようにすわってじっとしているではありませんか。
ふしぎに思って男が子ゾウにたずねます。
「きみたち、いったい何をしているの?」
子ゾウがこたえます。
「ボクたち、ブックエンドごっこをしているの」
[#改ページ]
*[#「*」はゴシック体] あとがき――ジョークとともに長生きを
つぎのジョークのオチを推理してください。
*ラスベガスはどこのホテルも満員だったので、私は横になるために〇〇〇〇〇を訪ねなければならなかった。
[#地付き](答・精神分析医)
[#ここで字下げ終わり]
ジョーク大国アメリカでは、「一行《ワンライナー》ジョーク辞典」といったタイトルの、ごく短いジョークをあつめた本が何冊も刊行されていて、ここに紹介したラスベガスのジョークもそのひとつですが、日本での受けようは、さあ、どうでしょうか。
精神分析医を訪ねてベッドに横になりながら、分析医の診断をあおぐという図は、アメリカではありふれた風景でしょうが、日本ではまだまだなじみのうすいシチュエーションだからです。
これがさらにつぎのように飛躍したナンセンス・ジョークにエスカレートすると、笑う人の数はさらに限られてくるでしょう。
問[#「問」はゴシック体] ゾウが精神分析医にかかったら、医者はいくら請求するでしょうか?
答[#「答」はゴシック体] コンサルト料が三十五ドル。寝いすの修理代が三百ドル。
寝いすの修理代というところにばかばかしいおかしさがあるのですが、こればっかりは、相手にむりに笑ってくれというわけにはいきません。
日本のサラリーマンだったら、エレファント・ジョークの大好きな上役(下役でも同じでしょうが)などあまり持ちたいとは思わないでしょう。それこそ「花粉症のゾウよりまだ悲惨なものは?」と一七五ページのなぞなぞのつづきができあがってしまいます。答、「花粉症のゾウのジョークをきかされるサラリーマン」というふうに。
毎年クリスマス・シーズンになると、渡り鳥の群が移住するように、なぜか日本の洋書専門店に、ジョーク・ブックが大量に渡来します。私が英語のジョーク・ブックをまとめて買いこんだのが一九八二年の暮でした。それ以後チェーン・スモーキングのようにジョーク・ブックを買いこみ、まるでジョーク漬けといってもいい状態がおよそ半年ほど続きました。ミステリやパズルの世界に、あまり新鮮味が感じられなくなっていたときだったので、アメリカン・ジョークという未知の世界のたちまちとりこ[#「とりこ」に傍点]になってしまったのです。
外国のジョークというとエロティックなフランス小咄だと思いこんでいる人も少なくないようです。しかしジョークの世界は、なぞなぞのようなパズルもあれば、だじゃれのような言葉あそびもあり、ナンセンス・ジョークもあれば、からい風刺ジョークもあるといったカオス的世界です。この本では、どちらかといえば、アメリカン・ジョークを中心に、人工的な非日常の世界を技巧的につくりだしたジョークをあつめてみました。
アメリカン・ジョークのたのしみをあげてみると――
@まず、なぞときのたのしみがあります。
辞書を引きながら、解読していくのも、案外たのしいものです。いってみれば、英語のジョークはそれ自体が一種のショート・パズルといってもいいのですから。パズルと同じで、ある日ふと、長い間考えてわからなかったジョークのオチが解読できたときの爽快さは格別です。
Aつぎにジョークのさまざまなバリエーションと演出がたのしめることです。
ジョークのパターンを数多く知ると、このジョークはあのジョークの変形じゃないかとか、あのジョークをうまく改良したものだとか、ジョークの作者の演出をたのしむことができるようになります。
この本の「G・ゲーム」のところで紹介したポーカーをする犬のジョーク(六九ページ)と、おしまいに紹介した新聞をよむ犬のジョーク(二二八ページ)は、まったく同じパターンのジョークのそれぞれがバリエーションです。
この犬が映画をみることになると、こんなふうになります。
*コメディ映画を上映している映画館で、犬をつれた男がいます。その犬はギャグ・シーンのたびに大声で笑うのです。
となりの席の観客が、犬をつれた男に声をかけます。
「あなたの犬にはおどろかされますね」
「私もですよ」と男がこたえます。「あの犬は本を読むのはきらいなんですが」
形(演出)をすこし変えられると、同じパターンのジョークが、まるでちがったようにふえるというたのしみは、奇術をみるときと同じです。
Bおしまいに、ひょっとすると人に話してきかせて、うけることがあるかもしれないという希望もあるではありませんか。
松田道弘(まつだ・みちひろ)
一九三六年、京都に生まれる。同志社大学を卒業。ラジオ関西勤務を経て、ミステリー、マジックの研究と著述に専念する。著書に『とりっくものがたり』『ジョークのたのしみ』『松田道弘あそびの本』全6巻(共に筑摩書房)など。
本作品は一九八四年一二月、筑摩書房より「ちくまぶっくす56」として刊行され、一九八八年八月、ちくま文庫に収録された。