聖エルザクルセイダーズ外伝 修羅の少女
松枝蔵人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)梢《こずえ》
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(例)伊勢|一機《かずき 》
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(例)[#ここから目次]
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[#ここから目次]
聖エルザクルセイダーズ外伝 修羅の少女
もくじ
1 嵐《あらし》の余波
2 碧空《あおぞら》のかげり
3 深夜の侵入者《しんにゅうしゃ》
4 祭りの広場の孤独《こ どく》
5 阿修羅《あ しゅら 》の復活
6 礼子奮戦
7 『若』の陰謀《いんぼう》
8 伊勢の論理
9 もうひとりの侵入者
10 だれも知らない解決
 あとがき
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[#ここで目次終わり]
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1 嵐《あらし》の余波
ケヤキの高い梢《こずえ》をキラキラゆらして、秋の風が空からすべるように吹きおろしてくる。建物の壁《かべ》に映えたその樹々の影をくっきりとくまどっている陽光がまぶしい。
広い学園の構内は、落ち葉が一面におおいつくしているが、枯れ葉の時期ではない。紅葉の時期にはまだだいぶ間がある。
昨夜は台風のもたらした激《はげ》しい嵐だった。
明けて今日は十月の三日。
夜来《や らい》の雨に洗われていっそう青さがきわだった樹々の下で、ザッザッと落ち葉をかく音がする。体操着姿《たいそうぎすがた》の少女たちが、校舎の間をぬう通路のレンガ路に落ちた葉を清掃しているのだ。 ふつう、学園の掃除《そうじ 》風景といえば、放課後の寄り道の相談や人気タレントのうわさ話に夢中になって肝心《かんじん》の手のほうはお留守《るす》になりがちだったり、すくなくとも強制された不快さが無意識のうちにも表情に出ていたりするものだが、彼女たちはちょっとちがっていた。私語する者はなく、動作はきびきびしており、どこか真剣さのようなものさえ感じられるのだ。どう見ても、喜々として清掃作業にうちこんでいるといった風情《ふ ぜい》なのである。
少女たちは、吹き出る汗を気持ちよさそうにぬぐったりするときに、まわりの仲間や校舎にときおりチラッと視線をはしらせる。その瞳には、明るい、満足そうな光が、例外なくひらめいている。
その光は、このひと月ほどの間に、生徒たちの中にロウソクの炎がポッポッとともるようにあちこちで見られるようになり、呼応しあうように周囲にしだいにひろがっていったものであった。
ひと月前――
それは、聖《セント》エルザを驚愕《きょうがく》と恐怖《きょうふ》におとしこんだ、あのいまわしい学園乗っ取り事件が、やっとのことで終結した時期と一致する。
学園は、その後すぐさま復興に着手した。
伝統と格式を世にうたわれた名門校の復活をめざすのではなく、まったく新しい理想の学園を建設するための、一からの再出発であった。
しかも、その担《にな》い手《て》は、教師や理事会といった大人たちではなく、生徒自身なのである。
『生徒の、生徒による、生徒のための学園』
新学園長に選出された白雪和子《しらゆきかずこ 》が提案したその標語は、生徒の完全自治による学園再建を明確にうたっていた。
そこに盛られた精神が、生徒たちにどれはど意識化され、理解されているか――この時期にはまだ、そういった具体的な成果を問えるような段階にいたってはいない。
ただ、生徒たちひとりひとりが、それまで学校とはこういうものだと思いこんでいたものとはどこかちがったものを、学園生活の中にすこしずつ発見していっていることは事実であった。
掃除というような、ごく日常的な、単純な作業にさえ、奇妙で、新鮮で、心を不思議に浮き立たせるようなものを見いだしているのも、大きな視点から見ればその一例である。
自分の大切な場所を、仲間といっしょに、心をこめてみがきあげるよろこび――とでもいうことなのだろうか。だれもそんなふうに説明しようとはしないけれども、しかしあえてそうする必要もなかったのである。少女たちは、ただ、無性に掃除が楽しく、汗を流すのが快くて、おしゃべりすることも忘れ、その仕事に没頭《ぼっとう》していたのだから――。
そこに、ふらりとひとりの制服の男子生徒が通りかかった。
「ご苦労なことだな。どうせ、あとひと月もすれば、ここいら一面、掃《は》ききれないくらいに枯れ葉がつもっちまうんだぜ、織倉《おりくら》」
男は、肩にかついだ木刀をクルクルまわしながら、皮肉っぽい笑みを口の端《は》に浮かべた。
「あら、伊勢《いせ》さん――!」
少女たちの中から、明るい元気な声が返った。織倉美保《おりくらみ ほ 》である。声をかけたのは、居合の名人、伊勢|一機《かずき 》であった。
「えるざ≠フおまえが、掃除なんかしてていいのか? 白雪は、授業にほとんど出られないくらい忙しくしているそうじゃないか」
えるざ≠ニは、聖エルザ学園を開校した者たちをふくむ隠れキリシタンの統合の象徴《しょうちょう》である。聖エルザの復興も、現代のえるざ≠ニわかった織倉美保を中心にしておこなわれることが、生徒たちの間で暗黙《あんもく》のうちに合意されていた。
「ええ。でも、姫は、わたしはそういう実務みたいなことにかかわらなくていいって言うんです。えるざ≠セってことをとくべつ意識せずに、わたしらしく自然にふるまえばいいって。けど、何をやったらいいのかよくわからなくって、とりあえずクラスの人たちに呼びかけてこんなことを……」
ミホは、戸惑いと恥じらいの入り混じった表情でつぶやいた。
「なるはど、それで率先して落ち葉の掃除か……いや、おまえらしいよ。そうして一心不乱にやってるのが、いかにもおまえらしい」
「それ、皮肉ですか?」
ミホは、一六|歳《さい》になったばかりの少女らしい初初《ういうい》しさの同居する不満の表情をつくった。
「皮肉なもんか。新・風紀規則の反対運動だって、おまえのそういうひたむきさが生徒の気持ちを揺《ゆ》り動かしたんだ。掃除みたいな何げないことでも、おまえがやろうと思い立ったことならまちがいはないんだろうさ。きっと、それはそれで聖エルザの役に立っているんだ。自信をもてよ」
それは、お世辞でも外交辞令でもなかった。少女たちの顔が、若さというだけではない充実した輝きにみちているのを、伊勢は、彼一流の冷めた眼《め》で見てとっていたのである。
伊勢がポンと肩をたたくと、ミホは顔を赤らめながらも、コクンと素直にうなずいた。
「そういえは、たしか、滝沢礼子《たきざわれいこ 》はおまえと同じクラスだったよな。あいつはどこだい?」
滝沢の名を耳にすると、ミホの表情がたちまち曇《くも》り、うつむいてしまった。
「礼子さんは、姫の家に引っ越しては来たんだけど、学園にはなかなか出ようとしなくて……」
着実に復興の道をあゆみだした聖エルザにあって、心優しいミホにとってもっとも気がかりなのが、どうしてもいま一歩打ち解けてくれない滝沢礼子のことであった。
「らしいな。そう思って白雪の家に行ってみたんだが、姿がなかった」
「ええ。今日はやっと連れてきたんですけど、ちょっと目をはなしたらいつのまにかどこかへ……伊勢さん、礼子さんに何かご用なんですか?」
「ああ、ちょっと、な。――ま、学園の中にいるのなら探しようもあるだろうさ。じゃ、せいぜいがんばりな」
伊勢は、現れたときと同じ、彼らしいひょうひょうとした歩きっぷりでミホたちのもとを離れた。
織倉美保は、どこか不安げな様子でその後ろ姿をしばらく見守っていたが、クラスメートに声をかけられ、ハッと目が覚《さ》めたようににこやかな表情にもどると、落ち葉かきの輪の中にもどっていった。
学園の一角――といっても、ここは、学園の中をなんのためらいもなく歩きまわってその日常にひたりきっている者には、わざわざ足を運ぶ用事もなく、そんなところがあったことさえしばしば忘れ去っているような場所である。
一般の生徒がけっして思いもつかないその視点から、授業に聞き入る者たちの横顔が行儀《ぎょうぎ》よくならんだ窓や、かわいた音をひびかせてバレーボールの白球が舞《ま》っているグラウンドを見つめている、一対の孤独《こ どく》な眼《め》があった。
平穏《へいおん》そのものといった、なんのへんてつもない学園の点景の上をぼんやりとあてもなくさまよったあと、その眼は、中庭で落ち葉の清掃をしている女生徒たちの姿をとらえた。
彼女たちが喜々として作業に熱中していることがわかると、その人物は不快げに眉根《まゆね 》をよせた。そこに繰《く》り広げられている光景が、このところの聖エルザ学園の変化をはっきりと象徴するものに思えたからだった。
学園は、その全体でもって、何かにむかって確実に変わりつつあった。その進み方はまことにゆっくりとしたものであったが、その人物にほ、とりわけ鮮明《せんめい》に感じられていた。
なぜならば、その人物は、かたくななまでにその変化の波に乗ろうとはせず、一か所にとどまって、じっと潮流の進んでいくのを見守っていたからである。
その人物が不快をあらわにしたのほ、変化を嫌っているとか、その方向が気にくわないとか、そういうはっきりした理由からではなかった。ひとところにとどまって巨大な流れにあらがおうとする者にとって、波は高く荒々しく見える。取り残されるということは、その余波をまともにかぶることであった。こまかいしぶきはいとわしく、波の圧迫は苦痛に感じられる――と、そういうことである。
そして、ときおり波間からかいま見る学園は、そのたびに着実にその人物から遠ざかっていく。にもかかわらず、その人物にとって、『乗る』のを拒《こば》むことだけが、取り得る唯一《ゆいいつ》の態度であったのである。
しかし、とどまっているその場所には、愛着どころか、もはや理由も主張もない。そこにはかつて、その人物が生き、行動するすべての原理がそろっていたが、今となっては、すがるべき何物も残っていず、立っていることさえあやうい場所なのであった。
そんなところに、どうして自分は固執《こ しつ》しているのか――そう思わないではない。
だが、その人物は動けなかった。
悲しみや、さみしさや、嘆《なげ》きや涙《なみだ》に身をまかせてしせえは、波が自然に先に行った者たちのほうへおし流してくれるかもしれず、彼らのほうでも漂流者《ひょうりゅうしゃ》に気づいて手をさしのべてくれるかもしれなかった。
それでも、そうするにしては、その人物の抱《かか》えている感情は複雑でありすぎた。つなぎとめている鎖《くさり》はとうに錆《さ》びきっているのに、過去に引きずっていた足かせの重さの記憶《き おく》が、今もその人物を解き放ってくれないのだった。
一五歳――過去にしばられるにしては、その人物は悲しいほど若かった。
その人物の名は、滝沢礼子といった――。
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2 碧空《あおぞら》のかげり
(織倉のような素直すぎる性格では、滝沢の行方《ゆ く え》など見当はつくまいな。こういうことは、蛇《じゃ》の道はへビというものだ……)
すねた者の行方は、似たような変わり者でなければわからないということなのだろうか。さして熱心に歩きまわったわけでもなかったのに、伊勢はほどなく滝沢礼子の居場所を探し当てた。
滝沢は、ひと気のない特別教室|棟《とう》の屋上にいた。出口からは死角になって見えない貯水タンクの上でジッとひざをかかえ、落ち葉の掃除《そうじ 》に余念のないミホたちのほうを見つめているようだった。
「まったく、ここは不思議な学園だな」
伊勢が声をかけると、滝沢の小さな肩がピクリとわずかに動いたが、そのまま、無視するように黙《だま》りこくっている。
伊勢は首をちょっとすくめ、横にすわって眼下の校舎を見下ろした。
都心の学校としてはずいぶん緑が多く、その中に埋まるようにして何棟かの古い木造の洋館建ての校舎がひっそりと並んでいる。
ほんのひと月前、学園の敷地《しきち 》内を舞台《ぶ たい》に未曾有《みぞう》の大抗争《だいこうそう》が展開されたなどということは、手を打てばポーンとこだまが響《ひび》きそうなはどに静まりかえった、すがすがしい雨上がりの空気のただようたたずまいからは、想像することさえむずかしい。
ドーム型の屋根のまん中がいびつな形にくぼんだ体育館が横手にあり、特別教室棟のわきに本来なら背の高いケヤキさえ見下ろしているはずの礼拝堂の鐘楼《しょうろう》が半分|崩《くず》れ落ち、そのせいでむこうの都心のビル群がすけて見えている。そうしたわずかな騒動《そうどう》の名残《なご》りをのぞけば、平和でのどかな、いかにも学園らしい風景である。
「それは、どういう意味……?」
滝沢礼子が、ポツリとつぶやいた。
伊勢が聖エルザを不思議な学園だと言ったことに対する質問だった。
「うむ。ぼくにそう感じられるだけなのかもしれないがな。ガキのころから、学校なんてものは、じっと耐えるしかない、殺伐《さつばつ》としたところのはずだったんだ。なのに、ここに来てからは、おもしろいことにつぎつぎでっくわす」
「でも、それはひと月前までの話でしょ。水谷《みずたに》が言ってたわ。あなたは、騒動に巻きこまれることが生きがいの男なんだって。……それとも、新しい騒動の火種でも見つけたの?」
伊勢は苦笑した。
「でもないさ。まあ、聖エルザもまだまだあぶなっかしいことは事実だがな。しかし、用心棒がわりってことじゃなくても、こういう学校ならぼくの居場所もありそうだ――って気がする。学園を追われたぼくらがこもっていた伊豆《いず》の山中でのことは、聞いているかい?」
「少しくらいならね、水谷から」
滝沢は、気のない声で答えた。
伊勢は、なつかしそうに眼《め》を細めた。
「あそこでの生活は、妙に充実していた。戦闘訓練《せんとうくんれん》と勉強のごっちゃになった共同生活。なぜだか、それが今でもつづいているような気分なんだ。何がいちばん大切ってわけじゃなく、だれがいちばん偉《えら》いわけでもなく、どこで、だれと、何をしていたっていい。楽しい。充実している。――あの生活がそのままこの聖エルザに移ってきて、さらに一般の生徒たちの間にも広まりつつあるんだ。おまえもここで見ていただろ。下にいる織倉たちは、喜々として落ち葉かきをしていた。むずむずして、みんな何かをやらずにはいられないんだよな」
「だったら、どうしてわたしのところへ来たの。わたしといても無駄《むだ》よ。そんなおめでたい気分にはなれっこないわ」
滝沢は、とりつく島もない口調で決めつけた。
「そうアッサリとはねつけられるとなァ……」
「何か用事があるんでしょ。はっきりおっしゃったらどう?」
「うん、まあ……」
伊勢は、いかにも言いにくそうな表情で頭を愛用の木刀でゴリゴリかいていたが、いじいじと悩《なや》むなんて自分の性に合わんとばかり、すぐにポイと投げ出すようにして打ち明けた。
「実は、水谷にあることを頼《たの》まれた」
「何を?」
「おまえに、気を配っていてくれ、と」
「わたしを、見張ってろということなの?」
「かもしれないな」
「わたしが、発作的に馬鹿《ばか》なことをやらかしたりしないようにってわけね……」
滝沢は、わざとのようにあからさまな言い方をした。その声には、自虐的《じぎゃくてき》で投げやりな響きがあった。
伊勢は、滝沢の不幸な生まれや数奇な生い立ちについては、もちろん承知している。
それをいうなら、滝沢のことは、聖エルザの一連の事件の中でもっとも衝撃的《しょうげきてき》な事実として、生徒たちにも広く知れわたっている。
白雪和子が事件の総括《そうかつ》報告をおこなった際に、滝沢礼子は自分の異母姉妹であり、白雪家の複雑な家庭事情が彼女を今回の恐《おそ》ろしい行動に駆《か》り立てた原因であると、はっきりと説明したからである。
滝沢礼子は、『若』――姉小路征司郎《あねこうじ せいし ろう》の陰謀にいちばん深く加担していた人物である。その行動の裏にあった深刻な事情が理解されなければ、聖エルザに復帰することは不可能だった。
もちろん、真実を隠《かく》したまま滝沢を学園から去らせるという方法もあっただろう。どちらがよりよい選択《せんたく》であったかは、学園自体のこれからの運命同様、まだだれにも判断をくだすことはできない。
ともかく、滝沢が湘南《しょうなん》の宇奈月《う な づき》医院から水谷とともにもどってきたときには、彼女が学園にとどまることに関する大きな障害《しょうがい》は取りのぞかれていた。
あとは滝沢自身の問題であった。白雪たちとのわだかまりを捨て、周囲の好奇のまなざしに耐《た》え、聖エルザにとけこんでいけるかどうかという――
(チェッ。まずいもちかけ方だったかな……)
伊勢は心の中で舌打ちした。
彼が悔やんだのは、水谷に頼まれたのをあっさり白状してしまったことではない。聖エルザがすばらしいところだというようなことを、うっかり最初に話題にしてしまったことである。
今の聖エルザにあふれている活気の一部が、確実に、学園を襲《おそ》った脅威《きょうい》がのぞかれた喜びと平和を謳歌《おうか 》しようという気分に占められていることは事実だ。
素直にそこに入っていけというのは、滝沢には無理な注文というものだろう。
気まずい沈黙《ちんもく》がしばらくつづいたあと、滝沢は、はじめて伊勢のほうにむき直ると、ズバリと切りこむようにたずねた。
「水谷は、なぜあなたにそんなことを頼んだの?」
不意の問いに、伊勢は戸惑《と まど》った。
どうして水谷が自分をその役に選んだか――などとは、思ってもみなかったのだ。単純に、旧友のよしみからだろうくらいの考えしかなかった。
伊勢にすれば、万が一『若』が反撃《はんげき》してくるような場合にそなえて警戒《けいかい》をおこたらないようにしようと、個人的に、しかも漠然《ばくぜん》と考えていただけで、これといった具体的な役目についているわけでもなかったから、水谷の申し出をすぐその場で気軽に引き受けたのだった。
(なぜ、ぼくなのか……か)
しかし、滝沢はそういう意味でたずねたのではなかったらしい。
「あの人が、わたしのことを他人に頼むなんて……」
少女の瞳《ひとみ》が、妖《あや》しい微光《び こう》をたたえて伊勢をにらんだ。その光は、まるで伊勢の体をつらぬいて、彼の背後に水谷の姿を見すえているかのような、強烈《きょうれつ》な鋭《するど》さをもっていた。
「水谷までが……」
滝沢のつぶやきにこめられた語気の強さに、伊勢はギクリと身をひきしめた。
台風一過の澄《す》みわたった空が、滝沢礼子の周囲で突然かげりをおびはじめたように思われた。晴天という意味を失い、ただの紺碧《こんぺき》の板と化し、さらにどす黒く変容していく……。
伊勢は、背筋に冷たいものがつたうのを感じた。
そのかげりの中で、滝沢のふたつの瞳だけが、異様な熱気をおびた光を放っていた。それは、伊勢の体を焼きつくすだけではたりず、その背後の水谷の姿さえも漂白し、底知れぬ空白を傲然《ごうぜん》と見下ろしていたのだ。
その光が、スウッとかげろうのような筋をひいて上昇した。
「見張られるなんて、まっぴらよ。もうわたしにつきまとわないでちょうだい!」
立ち上がった滝沢礼子は、伊勢にむかって宣言するように言い放った。そしてクルリと枯れ葉色のスカートがひるがえったと思うと、滝沢の体は虚空《こ くう》にむかってためらいもなく跳躍《ちょうやく》していた。
「滝沢っ!」
とっさにさしのべた伊勢の手は、むなしく空をつかんだ。
――と、つぎの瞬間、レンガ敷きの屋上を駆け去っていく小刻《こ きざ》みな足音が聞こえた。
伊勢はホーッとため息をつき、そのままバッタリと大の字に貯水タンクの上に寝ころんだ。
抜けるような青空が眼にしみる。ついいましがたの怪異が伊勢の錯覚《さっかく》以外のなにものでもなかったことを見せつけるような、みごとな秋晴れである。
だが、滝沢が放った暗く強烈なオーラがまちがいなく本物であったことは、伊勢自身がいちばんよく承知していた。
「ここにも、不思議なものがもうひとつあったんだな……」
伊勢は、いかにも興味深いものを目撃《もくげき》したとでもいうように、口の端に不敵な笑《え》みを浮かべてつぶやいた。
正直なところ、伊勢は、もっと別の滝沢を想像していたのだった。あれほどの大騒動の一方の主役を演じたとはいえ、たかが一五歳の少女である。新しい環境に素直にとけこんでいけずに、おどおど迷っているか、すねているか――そんなところだろうと思っていたのだ。
そうではなかった。
滝沢礼子は、その内部にまだ不定形の大きなものをかかえていたのだった。暗く、ドロドロした、強烈なものだ。それをどうすることもできずに、ひとりもがき苦しんでいる。
それが、聖《セント》エルザとかけ離れた、無縁なものであれば、いっそのこと楽だっただろう。関係ないとあきらめることができただろう。
だが、今の聖エルザは、以前にもまして生徒たちに対してその存在感をまし、生きて動いている。滝沢のそういう暗い情念のようなものさえ、再建のためにおしつぶそうとするどころか、許容し、そのうねりの中にのみこんでいこうとしている。
滝沢は、そうされることをこばんでいるのだ。
しかし、拒否《きょひ 》の意志を表明するわけにはいかない。理由を言おうとすれば、その瞬間に聖エルザとの関わりを認めてしまうことになるからだ。
そうなれば、取りうる手段はあとひとつしかない。被害者意識にみちた投げやりな理由をでっちあげて、その中にもぐりこんでかたくなに黙りこんでしまうことである。
(水谷は、そのゆがんだ理由――つまり、しかたなく聖エルザにいてやっているんだという口実になることをさけようとしたんだろうか……?)
伊勢は、滝沢のことを頼んできた水谷の心中を想像した。
たしかに、水谷の存在だけを聖エルザとの唯一《ゆいいつ》のきずなだと滝沢が決めてしまえば、今のまま、形だけの消極的な態度で、彼女は聖エルザとかかわりつづけていくことになるだろう。
水谷がそれでいいと思うはずはなかった。
「ぼくに、何かの役割を果たせというのだろうか、水谷は……」
伊勢は、何か新しい興味をかきたてられでもしたのか、ムックリと貯水タンクの上に上半身を起こした。
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3 深夜の侵入者《しんにゅうしゃ》
その夜のことである。
芝白金台《しばしろかねだい》――
邸宅《ていたく》と呼ぶにふさわしい高級住宅が、ゆるく傾斜《けいしゃ》した林の中に点在している。都心に隣接《りんせつ》しているというのに、バリヤーを張りめぐらせたかのように森閑《しんかん》とした一角である。
見上げれば、イルミネーションで装飾された東京タワーが間近くそびえ、そのむこうには羽田《はねだ 》を発着する夜間飛行のジェットの灯火がチカチカ点滅《てんめつ》しながら通過していく。
交通量の多い表通りから、寺院の参道のようなひっそりとしたたたずまいの私道がつづいている。道の両側はきれいに刈りそろえられた植え込みである。
つまり、一軒の家のためにだけつけられた道なのだ。しかも、ゆったりとくねりながら丘をのぼっていく。ようやく門に達すると、すでに都会の喧噪《けんそう》ははるかかなたのものになっている。
その夜ここをおとずれた人間は、しかし、すべてこの正規の道すじをたどらなかった。しかも、道とはとうていいえない他人の邸宅の庭の芝や、神社の背後につらなる森の湿った下生《したば 》えを踏《ふ》み、外車が数台も並んだガレージ横の雨だれ道や、生《い》け垣《がき》と生け垣の境目のわずかな隙間《すきま 》などを、たくみに、すばやく、音もなくぬってやって来た。
そして、彼らは、いかにも通いなれたふうの、小憎《こ にく》らしいほど余裕《よ ゆう》のある態度で、影のように丘の上のひときわ豪壮《ごうそう》な邸宅の中に吸いこまれていった。
彼らがひとりとして通過しなかった門には、常夜灯《じょうやとう》に照らし出されて、『姉小路』と表札の文字がボーッと浮かび上がっていた。
この家の主人夫婦ほ、息子《むすこ 》がこの春に有名進学校から聖《セント》エルザ学園に自分の意志で勝手に転校して以来、長い間ここを留守《るす》にしている。
理由はさだかではないが、その息子が聖エルザにかかわってから起こった一連の改革や騒動にどうやら関係があるらしい。理事長をつとめる家柄としては、その間できるだけ表面に出ず、責任を前もって回避するためであったのかもしれない。
もともと家族のきずなが弱かったのでもあろう。それを機会に息子に家をまかせたような形で、母親は長い海外旅行や別荘暮らしをつづけ、父親は都心のどこかのホテルにスイートルームを借り切って住居にあてているという噂《うわさ》で、両親ともそのままいっこうにもどる気配がない。
そして、息子は――
寒々《さむざむ》しい三階の自室で、ジッと闇を見つめていた。端正《たんせい》な顔の輪郭《りんかく》をヒゲがうっすらとくまどっている。髪ものばしっぱなしで、クシを入れていないボサボサの前髪が冷たい炎のような光を宿す眼の上に遠慮《えんりょ》なくかかっていたが、それをかきあげようともしない。彼がうずくまっているベッドのカバーは何日分ものしわがより、たたんで背もたれの代わりにしている高級な羽毛布団《う もうぶ と ん》は体の形にへこんだまま元にもどらなくなっている。
そうやって何を考えているのか、はたの者にはまったくわからなかった。あの聖エルザ学園を支配する壮大なもくろみが崩壊《ほうかい》したあと、どす黒く表情をかげらせて帰宅し、そのまま自室に閉じこもってしまって、以来ほとんどだれとも顔を合わせようとしない。
姉小路邸は、その年若い主人ともども、時の流れにうち捨てられたように、いつもひっそりと静まりかえっていた。
しかし、活動がまったく絶えてしまったわけではない。ひそかに出入りをくり返す怪《あや》しい人影がその証拠《しょうこ》である。主人が復活するのを当然のこととして、腹心の部下たちがその日にそなえて情報の収集に駆けまわり、着々と準備をすすめているのだった。
年若い主人は、使用人以外の者が家の中をうろついていることを承知していたが、まるで無関心なようであった。それでも部下たちの活動がつづけられていたのは、主人の人を人とも思わないような超然《ちょうぜん》とした態度は以前からのものであって、さしてめずらしくはなかったからである。
部下のほうも主人の気にさわらぬよう細心の注意をはらっており、けっして主人の前に姿をあらわそうとしなかった。
ところが、この晩の真夜中過ぎ、ほぼひと月ぶりにその不文律の禁が破られた。
「おめざめで……」
主人の視線の正面に立たぬ思慮深《し りょぶか》さを示して、闇の中にさらに黒々とした影がむくむくとわいた。
しかし、ベッドの上の主人は、その配慮《はいりょ》に応《こた》えて視線を影のほうにむけ直すことさえわずらわしそうであった。
「用はないぞ」
「わかっております。……ですが、気散しにでもなれは、と思いまして」
「何かあったのか? 柴田《しばた 》」
「いえ、これから起こるのでございます」
その声が横の窓のほうへ移動した。毛織りの重いカーテンのすそが割れ、青い月光が窓枠《まどわく》からこぼれ落ちた。チンと掛《か》け金《がね》があがり、細めに押し開かれた窓が主人をさそう。
「侵入者か……」
そこで、はじめて主人の興味が動いた。
その人影も、先に入ったいくつかと同じく、裏の寺の孟宗竹《もうそうちく》の林を抜け、隣家《りんか 》の塀《へい》をよじのぼった。姉小路邸のレンガ塀のうちで唯一《ゆいいつ》ガラス片が埋めこまれていない秘密の箇所に正確に手をかけ、ヒラリと庭園の端《はし》におり立った。
おそらく、夕刻から竹林のどこかに息をひそめ、辛抱《しんぼう》強く先客たちのやり方を観察していたのだろう。身のこなしに無駄《むだ》がなく、無用なためらいは皆無《かいむ 》といってよかった。
しかし、侵入はどこからか感知されていた。
人影が入りこんだ場所は、きれいに刈りこまれたツツジの陰であった。そこからのびる植え込みの一方は、南側のサンルームに面した芝生《しばふ 》とプールをぐるりと取り囲んでいる。もう一方は東側にのび、和風庭園のうっそうたる木々の繁《しげ》みにつらなっていく。
人影は、迷わず東側に移動していった。
姿を隠すなら、木立にまぎれるのは当然の選択である。だが、すでに発見されている場合、身動きのとりにくい分だけ不利になる。みずから窮地《きゅうち》に追いこむようなものだった。
(囲まれている……)
影がそのことに気づいたのは、築山《つきやま》をめぐる細道にさしかかったときであった。
とっさに体をふせ、すぐさま四つんばいで場所をうつす。攻撃《こうげき》目標をそらすためである。
繁みに逃げこむことはしない。枝がこすれたり落ち葉を踏んだりすれば、音をたてずにはすまないからだ。
影が移動したのは、細道の上だった。さいわいなことに、前夜の台風で道に散った木の葉がたっぷりと湿気《しっけ 》をふくみ、音を吸収してくれた。
慎重に進んでいくにつれ、やがて闇が切れ、高いケヤキの梢《こずえ》が道に影を投げかけた。庭園の表側、つまり建物に近いほうに出たのである。包囲網《ほうい もう》は逃亡を妨害する形に組まれていたから、あわてて塀のほうへもどろうとすれば、たちまちつかまっていたことだろう。
影は、とっさに包囲|陣形《じんけい》を読んでいたし、移動しながら人数も把握《は あく》しおえていた。
(追っ手は三人。では、もうひとりいるな……)
包囲のつめ方、速さ、間合い、すべてが整然としている。三人は、侵入者をひょうたん形の池のくびれた部分に追いこもうとしているのだった。とすれば、あと一名の位置もおのずから割り出せる。
くびれの部分に石橋がかかっており、横に石の燈籠《とうろう》が置かれている。
人影はスクッと立ちあがり、いきなりその橋めがけて走りだした。
その結果、いちばんあわてたのは燈籠の陰《かげ》に潜《ひそ》んでいた四番めの男だった。侵入者が石橋にさしかかったところを横あいから襲う手はずであったが、敵は意表をついて、なんと、まっすぐ石燈籠に急迫してきたのだ。
ガッ――
侵入者は、石燈籠にとりつくと、その勢いのまま全力で燈籠を押しはじめた。
潜んでいた男は、何が起こったのか信じられないまま、とび出す呼吸を逸《いっ》した。
そこに重い圧迫感が襲いかかった。
男はかたむく燈籠をかかえるようなぶざまな格好で、派手な水しぶきをあげて背後の池に倒れこんだ。
鯉《こい》が驚いて水面から跳躍《ちょうやく》し、大きな波が囲いの石を越えて土の上まであふれる。
獲物が予想外にはやくワナの中心に動いたために、追っ手の三人の包囲のフォーメーションがくずれた。一刻もはやく駆けつけようとするあまり、敵の位置を知るさまたげになる不用意な高い物音までたててしまった。
「やつはどこだ!」
池のほとりにたどり着いたとき、三人とも侵入者の姿を見失っていた。
「た、助けてくれ……」
石の重しを抱いたまま池に落ちた男が、苦しげにもがいているが、それにかかずらっているひまはなかった。
「屋敷《や しき》内に踏みこまれてはことだ。手分けして出入口をかためるんだ」
すでに獲物をとらえるどころではなく、防御《ぼうぎょ》の態勢に入らなければならなくなっていた。
「おう――」
「わかった!」
三人が散ろうとしかけたとき、屋敷の中から鋭い声がそれを制した。
「待て、馬鹿者ども」
雨戸を押し開いて濡《ぬ》れ縁《えん》に立ったのは、このところ絶えて姿を見せることのなかった若い主人だった。
「『若』……!?」
警備の三人は、驚きの表情でそちらをふり返った。
「何をしている。その哀れなやつをさっさと引き上げてやれ」
「しかし、侵入者が――」
「くどい」
『若』に一喝され、男たちはあわてて池にはまった男を助け上げた。
「波はたてるわ、泥は巻きあげるわ……鯉どもはさぞ迷惑《めいわく》だったことだろうよ」
『若』は池を見下ろしながら、のんびりとそんなことを口にした。
部下たちは、当惑のおももちで立ちつくしている。
やがて波はおさまり、鯉もはねなくなった。
『若』は、満月に近い月が池に映るさまを食い入るように見つめたまま動かない。
ポチャッと小さな水音がして、鏡のような水面にゆっくりと波の輪がひろがった。
「そこだ、柴田!」
いきなり『若』が池の一角に指をつきつけた。
『若』の横にひかえていた背の曲がった男が、その瞬間を待ちかまえていたように音もなく池の縁《ふち》の石を蹴《け》り、宙高く跳躍した。
と、そのつま先が水面に突き刺《さ》さろうとした寸前、ザバッと水が割れたと思うと、そこからニュッと一本の手がのびて柴田の足首をとらえた。
警備の三人は、柴田が体勢を崩して池に落下するまで待ちはしなかった。サッと岸辺に散開して、水中に潜んだ者の退路を断った。
侵入者は、柴田の攻撃をかわしはしたものの、それ以上の抵抗《ていこう》は、騒ぎにまぎれて水中に潜んだことが『若』に見破られたとわかった瞬間に、あっさりとあきらめていたようだった。額にかかったずぶ濡れの髪をかきあげる手つきには、ふてぶてしいまでの余裕《よ ゆう》がただよっている。
「ほう、おまえは……」
対峙《たいじ 》した『若』の眼が思わずまるく見開かれ、うれしげな笑みまでが浮かんだ。それは、聖《セント》エルザでの敗北以来、彼が久々に見せた笑顔であった。
池からあがった侵入者は、臆《おく》するふうもなく、両腕《りょううで》を『若』の部下たちにとられるにまかせ、落ち着いた足取りで屋敷の中にひったてられていった。
近隣《きんりん》の邸宅《ていたく》でこの一連の出来事に気づいたものは皆無《かいむ 》だったが、実は、ただひとりだけ目撃者があった。
その人物は、いつ忍《しの》びこんできたものか、ニレの樹上に身を隠し、一部始終を黙然《もくぜん》と見守っていたのであった――。
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4 祭りの広場の孤独《こ どく》
翌日、聖エルザは、一週間後の体育祭にむけて、全校いっせいに準備に入った。
伝統校のことだから、実施《じっし 》される競技もマスゲームも毎年決まりきったものだったが、今年は男子が入学したこともあって大幅《おおはば》に変更《へんこう》される。それもふくめて、いっさいを生徒たち自身の手で準備し、実施することになったのである。
中等部と高等部が入り混じった実行委貞会がいくつも作られ、新しい種目の立案やら、プログラムの編成、飾りつけや用具の調達といったことを一からすべて協議しながら行う。例年業者にまかせていた応援席《おうえんせき》の足場組みや入場ゲートの製作などの力仕事は男子生徒が引き受け、自力の開催《かいさい》にむけて意気込みはいやがうえにも高まった。
そして、さらに画期的なことは、それらの作業と授業の区別がとりはらわれたことだ。この期間は授業のかわりに、生徒は毎日自分のやった準備作業のレポートを書くだけでいいことになったのである。しかも、それは、手際《て ぎわ》や出来のよさを競うためでなく、その活動を各自の成果として記録に残すことが目的なのだ。
こうして、聖エルザのこれからの一週間は、その準備作業にも学園の復活と新生を祝う意味のこめられた、かつてない盛大《せいだい》な体育祭一色に塗《ぬ》りつぶされることになるのである。
校舎のあらゆる場所から元気のいいかけ声や工具をふるう音があがり、澄みわたった青空に反響《はんきょう》しながらのぼっていく。
華《はな》やいだ気分がいっぺんに充満した学園の中を、滝沢礼子は、人目をさけるようにして歩いていた。
彼女のまわりだけは、冷えびえとした霜《しも》のおりるような空気がとりまいている。
いつもの居場所の屋上もチアリーダーの応援練習に占領され、ひとりきりになれる場所を探しているのだった。
箱詰めにされたような授業風景を哀《あわ》れみに似た感情で眺《なが》めおろしている分には、自分を超然《ちょうぜん》とした高みにおくこともできたが、教室からあふれ出して活《い》きいきと動きまわる生徒たちをじかに目にすると、そのまぶしさに思わずこちらから顔をふせてしまう。
(きのう、落ち葉の掃《は》き掃除《そうじ 》をしていた織倉さんたちもそうだった。伊勢さんが話していた伊豆の山中の共同生活というのは、やっぱりこんな活気にみちていたんだろうか……?)
これが夢《ゆめ》なら、眼をそらせば消えてしまうだろうが、どちらをむいても祝祭を思わせる光景がくりひろげられている。それも、現実から遊離《ゆうり 》した祝祭ではない。現実を積極的に祝祭に変えてしまおうというしたたかさがそこにはあった。
滝沢はフーッと長いため息をつき、それでようやく自分の存在をたしかめる。自分という存在のほうが虚構《きょこう》なのではないかという疑いを、やっとのことでふりすてる。
(姉さんは、こんなわたしさえ許容しようとする。悲惨《ひ さん》がることはないと言う。……でも、そう言われるはうが、よっぽどみじめったらしい)
悲惨がってなどいない。すねているのでもない。
心の底の暗闇には、はっきりといらだたしげにうごめくものがあった。出口を求めてうねり狂っているのだ。
それは、理由も方向もない、自分そのものと言っていいパワー≠セった。
今のそれには、怨念《おんねん》だとか、憎《にく》しみだとか、復讐心《ふくしゅうしん》とかいった錆《さ》びた色はついていない。
……いや、だからこそ、そのパワーが恐ろしかった。それを解放したら最後、自分がどう変わってしまうか、こわくてたまらなかった。
だから、こうやって胸をおさえ、必死にとじこめておこうとしているのだ。爆発《ばくはつ》しないように、燃え上がってしまわないように……。
あちらこちらと歩きまわったすえに、いつの間にか礼拝堂の前に来ていた。
滝沢がダイナマイトで爆破《ばくは 》したときのまま、崩《くず》れた鐘楼《しょうろう》の瓦礫《が れき》が山となり、露出《ろしゅつ》した部分にはビニールテントが張られているだけだ。
以前は犯人とされた白雪たちの罪状を見せつけるためにわざと放置されていたのであったが、その白雪たちが主導権をにぎった今、こんどは学園の再建に忙しくて、片づけや修理になかなか手がまわらないのである。
その、廃墟《はいきょ》を思わせるうち捨てられた姿とあたりの静寂《せいじゃく》に、奇妙ななつかしさと共感がこみあげてきて、滝沢はしばし呆然《ぼうぜん》と見入っていた。
(入ってみようか……)
テントをはぐり、吹きこんだ雨と土ぼこりでまだら模様に汚れた床におり立った。
そのとき――
いきなり何者かに背後から抱きすくめられた。
口をふさがれ、悲鳴をあげることも阻止《そし》された。
滝沢の脳裏《のうり 》を、危機をつげるきな臭《くさ》いような感覚がチリチリと疾《はし》り抜ける。
一瞬にして、体が目覚めた。久しく忘れていた闘争《とうそう》に駆り立てる血の熱さが、カッと全身によみがえってくる――。
意識する前に、体が勝手に反応して動いた。
「イヤッ!」
肩ごしに首を巻いてきた手をひねりざま、のしかかってくる体を背中全体ではねあげていた。
ドサッ――
技は小気味よくきまり、襲撃者《しゅうげきしゃ》は床の泥《どろ》にまみれて転がった。
「いてててて……」
襲撃者が後頭部をさすりながら起きあがった。
滝沢は用心深く身がまえ、うす闇の中で正面にむき直ったその顔を注視した。
「伊勢さん!?」
「ふう……強烈な投げだったな」
「そっちこそ、何を――」
いきりたつ滝沢を、伊勢はシッと指を口に当てて制止した。
「いいから、こっちへ来い」
伊勢は、滝沢の手を引っぱり、強引にラセン階段の陰《かげ》に連れこんだ。
「あれを見ろ――」
質問を発するいとまもあたえず、伊勢はおし殺した声でささやいた。
指で示したのは、滝沢が入りこんできたテントの合わせ目の方向だった。
そこに、見知らぬ男の顔がヌッとのぞいた。
「おまえを、ずっとつけて来たやつだ」
「まさか……」
「ああいうやつにぼくらが会っているところを見られてはまずいと思ってな、それで、ぼくは、わざわざこんな場所に潜《ひそ》んでおまえの来るのを待っていたというわけさ」
男は、暗がりに目がなれるまでジッとしていたが、やがて滝沢の姿が見えないのを知ると、それ以上深入りして危険をおかすのをさけるつもりか、静かにテントの端《はし》を元にもどして立ち去った。
「何者なの?」
「もちろん、『若』――姉小路征司郎の手の者さ」
「姉小路の……」
滝沢の表情が凍《こお》りついた。
「はみ出し者はおまえだけじゃない。『若』の部下だった者でも、学園に残りたいという希望があれば、白雪は罪を追及せずにゆるしたんだ。たしかに、だれとだれが『若』の部下なのか、いちいち取り調べるわけにもいかないからな。そんなことをすれば、学園じゅうが猜疑心《さいぎ しん》にとりつかれてしまうだろう。理想主義的な寛大《かんだい》さと見せて、実はそれを見越しての大胆《だいたん》な措置《そち》だったんだ。まったくたいした女だぜ、白雪は。だから、まだスパイがうろうろしてたって何の不思議もないのさ」
滝沢は、白雪に対する伊勢の称賛は無視したが、『若』の手の者が活動しているという話には、はげしく胸がざわめいた。
「じゃ、姉小路の陰謀《いんぼう》がまた復活する可能性があると……」
「可能性どころじゃない。今日じゅうにも新しい動きがあるはずだ」
「どういうこと? あなたは何か知っているの」
滝沢の眼に、おびえのようなものがひらめいた。
伊勢がうなずいた。
「昨夜《ゆ う べ》、ぼくは『若』の屋敷に忍びこんだ」
「…………」
「そこで、ある光景を目撃したんだ。ぼくのほかにもうひとり侵入者があって、そいつは発見されてしまった。なかなか豪快《ごうかい》な闘いっぷりだったが、最後には『若』の手にかかってつかまってしまったというわけさ」
「それは、まさか……!?」
「そう。おまえのことをまかせるなんて言い草が気になったんで、もしやと思い立ってぼくもあんなところに忍びこんでみたんだ。案の定、つかまったのは水谷だった――」
滝沢は大きく息をのんだ。
伊勢はつづけて言った。
「水谷は『若』の動きを探ろうとしていたんだろうな。今日あいつは欠席している。姉小路邸に監禁《かんきん》されているんだろう。『若』のことだ、水谷を人質にして交換条件を出してくることは確実だ」
「どんな条件?」
「黄金の聖母像が地下に眠っていることは、ぼくらクルセイダーズをはじめ、おまえたちなどまだ少数の関係者しか知らない秘密だ。おそらく、あれをひそかに自分に発掘《はっくつ》させろという要求だろうな……」
「姉さん……いえ、白雪和子がそれを突っぱねたとしたら?」
「水谷の件は、要求をもち出すきっかけであり、最後の切り札でもあるのさ。今が『若』にとって願ってもないチャンスなのは、体育祭にむけてのこのお祭り騒ぎだ」
「じゃ、この騒ぎにつけこんで……」
「ああ。事故に見せかけて少しずつケガ人を出せば、一般の生徒に怪しまれはすまい。もちろん、白雪の元へはその犯行声明がつぎつぎ届くだろうがな。水谷をおさえられていては、どこかでついに折れないわけにいかなくなるさ」
「そのこと、白雪には知らせたの?」
「いいや、まだだ」
伊勢は、そう言ってニヤリと笑った。
「どうして――」
「知らせずにすむ、という方法もある」
伊勢は、謎《なぞ》めかした言い方をした。
滝沢は、いぶかしげに眉根《まゆね 》をよせた。
「要は、水谷を取り返せばいいのさ」
滝沢の口から、アッと小さな叫びがもれた。
「そう。水谷がつかまったなんて事実は、なかったことにすればいい。白雪たちが知らなければ、脅迫《きょうはく》のしようもあるまい」
「じゃ、わたしたちだけで……」
「それも、今すぐにだ。『若』の手下どもは、さっきのやつをはじめ、まだほとんど聖《セント》エルザに残っている生徒なんだ。それも昨夜確認した。あいつらが姉小路邸にもどる前に……行くか、滝沢?」
伊勢は、いつもと同じ、まるで他人事《ひ と ごと》でも話すような、軽い、皮肉っぽい声と調子でたずねた。
滝沢礼子は、返事をするかわりに、両手をにぎりしめてスクッと立ち上がった――。
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5 阿修羅《あ しゅら 》の復活
滝沢礼子は、なにくわぬ顔で礼拝堂を出ると、伊勢に教えられた追跡をまく二、三のコツを忠実に実行して聖《セント》エルザを抜け出した。
その脱出の途中まで、たしかに尾行されている気配があった。伊勢の言ったことがウソでないことがわかるとともに、つけられていることが滝沢を緊張させ、久々の戦いにむけて心構えする手助けにもなった。
高い塀を乗り越えて外の道路におり立ったとき、滝沢には、以前と同じ、近づく者にはだれであろうと容赦《ようしゃ》なくツメを立てる、狡猾《こうかつ》で危険なメス猫の雰囲気《ふんい き 》がよみがえっていた。
迷いが完全にふっ切れたといえば、ウソになるだろう。滝沢が水谷さえ遠ざけてひとり殻《から》の中にとじこもったようになっていたことは事実だが、だからといって、水谷が彼女を他人《ひと》まかせにして、黙《だま》ってひとりだけで危険な探索に出かけたことが気にくわなかった。
かつてなら、自分から遠ざかろうとする気配が見えた瞬間に、その相手を心の中でこっちから切り捨ててしまったものであった。
自分を見捨てていこうとする水谷を、どうして助けに行かなければならないのか――と不満げにつぶやくものが心の中にある。だが、その一方で――
(それも、わたしのわがままだろうか……)
そんな内省がわき起こってくることもふくめて、滝沢は、以前と変わりつつある自分を感じはじめていた。
(なんて気弱になってしまったの!)
心の中で、滝沢は自分を叱咤《しった 》した。
戦い、そして勝つ――
(そう、ただそれだけのことなんだわ。水谷には、たしかに恩がある。でも、だからってわけじゃない。ましてや、聖エルザや白雪のためなんかにやるんでもない。これは戦い――そう、ただひたすらに残酷《ざんこく》な戦いでしかないんだ。勝つこと、敵をたたきのめすこと、それがすべてなのよ!)
無心になろうとして、滝沢は、聖エルザを出てからもわざとタクシーをひろわず、地下鉄をいくつも乗り継いでいった。
長い地下通路を足音高く走り抜け、押しのけるように人波をかき分け、閉じる間際《ま ぎわ》のドアにすべりこみ、逆方向の出口の階段を駆けのぼっては、地下のビルをまわりこんでまたうす暗い地下へとおりていった。
そうやって都心の地下|迷宮《めいきゅう》を駆け抜けていくにつれ、滝沢は、しだいに無心の、無色透明《むしょくとうめい》な疾風《しっぷう》となり、劫火《ごうか 》を体内に燃《も》え盛《さか》らせた闘争神《とうそうしん》――阿修羅《あ しゅら 》のまがまがしい相貌《そうぼう》へと変じていった。
「覚悟《かくご 》はできているかい?」
目的地の白金で、落ち合う場所に決めてあった庭園美術館の広大な庭にたたずむ滝沢の背後から、伊勢がいつもの気軽な調子で声をかけてきた。
「ええ。もちろんよ――」
ふり返ってキッパリと答えた滝沢の抜けるような白い顔には、迷いのかけらすら残っていなかった。
「ふむ……おまえもなかなかのものだな」
滝沢が音もなく塀からとびおり、油断なく身をかがめてすばやく周囲に警戒《けいかい》の視線を走らせると、伊勢がそのあざやかな身のこなしと気配りに感心して目をまるくした。
「自分のひどい出生の秘密を知ったときから、空手を習ったわ。ケンカばかりしていて、自分のほうからいつも孤立《こ りつ》していたし、孤児院では何度となく脱走したものよ。これくらいのことは、自然に身についてしまっていたわ」
気負いもなく平然と言い放つ滝沢に、伊勢はあらためて満足そうな笑みを浮かべた。
「なるほど。こいつは、いよいよおもしろくなりそうだ……」
ふたりの前には、プールをそなえた芝生《しばふ 》の庭があり、横にさらに、それに倍する広さのうっそうとした繁《しげ》みをひかえた日本庭園がある。屋敷は、そのむこうになかば隠れるようにして建つ洋館であった。
昭和初期に旧|華族《か ぞく》の別邸として建造されたものを、戦後に新興企業家《しんこうきぎょうか 》として急速にのしあがった姉小路家が大金で買い取ったものである。
和風の家屋とちがい、古いコンクリートの洋館建ては、うららかな秋の陽光の下にあってもうす暗いかげりをおび、ひんやりとした濃《こ》い影を庭のほうに引いていた。光にみちた白昼だからこそ、よけいにその旧時代の優雅《ゆうが 》な造形がいかめしく、無気味なものに映ってくる。そのうえ、中に野望の主が潜むことを知る者には、そこはまさに、おぞましい伏魔殿《ふくま でん》以外の何物でもなかった。
「あんな造りのうえに、広さもかなりのものだ。水谷の閉じ込められている場所の見当はつけにくいし、『若』をくわえた敵が何人いるかも不明だ。せめて、間取りだけでも探ってからでないと、侵入するのはむずかしいぞ……」
伊勢は、屋敷をにらみつけながらつぶやいた。
「水谷は、どこで、どういうふうにつかまったの?」
滝沢が、いきなり質問した。
「それは……あの繁みに入ったところで外側から包囲されたんだ。屋敷のほうに逃げるしかなくなって、日本庭園の池に追いつめられてつかまってしまったんだが……それがどうかしたのか?」
「あらかじめ庭に見張りを潜ませておいたんでもなければ、水谷がそうやすやすと包囲されるはずがないわ」
「…………」
「だけど、姉小路征司郎は、そんなに厳重《げんじゅう》に警戒《けいかい》しなければ安心して眠れないような男じゃない。それに、今の聖《セント》エルザは再建にせいいっぱいで、彼があなたたちの報復《ほうふく》を過剰《かじょう》に恐れるような情況ではないのだから」
「たしかにそうだが……」
「つまり、見張りを立てていたはずはないのよ。あの水谷が気がつかないうちに囲まれていたんだとしたら、この塀を乗り越えた瞬間から、敵に侵入を察知されていたってことよ」
「そ、それじゃ――!?」
伊勢は、ギョッとして滝沢をふり返った。
「そう。カメラか何かが隠してあるのよ。わたしたちが忍びこんだことも、きっともうかぎつけられているにちがいないわ」
滝沢は、さしたる動揺《どうよう》の色も見せず、冷静に分析《ぶんせき》してみせた。
伊勢は、そんな滝沢をまじまじと見つめ、いく分あせりの感じられる声で言った。
「では、どうするんだ?」
「こそこそ逃げ隠れしていても無駄だってことね。正々堂々と乗りこむまでよ――」
そう言うと、滝沢は、ツツジの枝を無造作《む ぞうさ 》にかきわけて立ち上がった。
「滝沢――!」
伊勢の声が追いすがる。
「相手だって、馬鹿じゃないわ。まっ昼間から、人に見られる恐《おそ》れのある庭で襲ってはこないでしょう。じゃ、行くわよ」
滝沢は、制服の上着をゆっくりと脱《ぬ》ぎながら、ためらいのない足取りで芝生の上を屋敷にむかって歩きだした。
伊勢は、滝沢のあまりの大胆さに舌を巻き、追いかけることも忘れて、呆然《ぼうぜん》とその後ろ姿を見送っていた。
そのとき、一陣《いちじん》の突風が巻き起こって樹木をいっせいにザワッと鳴らし、滝沢が頭上に投げ上げたあざやかな枯れ葉色のブレザーをヒラヒラと宙に舞い踊らせた――。
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6 礼子奮戦
滝沢礼子は、プールの正面にある近年増築したらしいサンルームに歩みよった。
そこだけが、庭からすっかり中が見通せる部屋だったからである。
使用人らしい中年のエプロン姿の女性が、掃除機《そうじ き 》をかけているところだった。ソファのカバーがていねいにまくってあって北欧製らしい豪華《ごうか 》な革張りの地がのぞいており、片づける途中らしく盆《ぼん》の上に集められた空のコーヒーカップも一目で高級なものであることがわかる。
その光景だけを見れば、落ち着いたたたずまいの、平穏《へいおん》な上流家庭の日常といった風情《ふ ぜい》である。
滝沢は、無言でサッシの戸を開け、土足のままスルリとサンルームに踏みこんだ。
いきなり家の中に出現した見知らぬ少女に気がついて、中年の女性がポカンとあきれたような顔でふり返った。
「あ、あなたは、ど、ど、ど……」
『どなたか』とか『どこから入ってきたのか』とでもたずねようとしたのだろうが、後のことばがつづかなかった。
その様子からして、滝沢たちの侵入のことは知らされていないらしい。
しかし、滝沢は、盆の上の食べかけのサンドイッチが残った皿とコーヒーカップの数を目ざとく見てとっでいた。
つい今しがたまで、三人の人間がここで軽食をとっていたのだ。しかも、かなりあわててそれを中断して出ていったにちがいない。
「わたしは、滝沢礼子と申します。ついひと月前まで、こちらの征司郎さんの婚約者だった者です。姉小路さんに、おりいってお話ししたいことがあって参りましたの。どうぞ、お取り次ぎ願います――」
ていねいに口上を述べながら、同時に滝沢は奇妙なことをはじめていた。
古伊万里《こいまり》の壷にあふれかえるほどぜいたくに活《い》けてある白い胡蝶蘭《こちょうらん》をまとめて床に投げ捨て、その壷の重さをはかるように持ち上げてみたり、かと思うと、サイドボードのフルーツを盛り上げたバスケットの中を手探りしたりしている。
金縛《かなしば》りにあったように立ちすくんでそれを呆然《ぼうぜん》と見守っている女性の胸元に、滝沢は、手にした果物ナイフをいきなり突きつけた。
「姉小路に用があると言ってるのがわからないの。さっさと呼ばないと、ケガをするわよ!」
ガラリと一変した口調でおどされ、中年の女性はみるみる青ざめた。
「キャアーッ! た、助けてェーっ!」
掃除機のホースを放り出し、廊下《ろうか 》につづくドアのほうへあわてふためいて駆けだした。
滝沢は、それ以上のすばやさで行動した。古伊万里の壷をかかえ上げ、女性のあとを追ったのだ。
中年の女性は、必死のおももちでドアを開けてとび出した。
外の廊下には、ガクランの男がふたり、ドアの両側をかためて待ちかまえていた。
ところが、使用人の女性がよろめきながら出てきたきり、滝沢がいっこうにとび出してこない。
ガクランの一方が、不審《ふ しん》に思ってサンルームをのぞきこんだ。
「あの女、どこへ消え――」
男は、最後まで言い終えることができなかった。
滝沢は、ドアのわきのサイドボードにとび上がって待ち伏せていたのだ。
ガッシャーン――
うっかり首を出した男は、頭上から古伊万里の重い壷をまともにたたきつけられ、一瞬のうちに気絶してしまった。
滝沢は、入口の敷居《しきい 》に倒れた男を踏み越えると同時に、半開きのドアに思いっきり体当たりした。
ガツン――
いきおいよく開いたドアが、鈍い音をたてて途中で障害物に突き当たった。
案の定、その陰に潜んでいたもうひとりのガクランの男に、もろにぶつかったのだ。ぶ厚いチーク材の扉で顔面を強打された男は、鼻血を糸のように空中に引いて後方にふっ飛んだ。
滝沢は、あわてて起き上がろうとする男の顔に、スッと果物ナイフを差しのばした。
「ヒェッ」
男は、あごをせいいっぱい引いてナイフの切っ先から逃れようとする。
しかし、滝沢の追撃《ついげき》は容赦《ようしゃ》なかった。
ドクドク血をしたたらせている男の鼻づらにピタリと狙《ねら》いをつけたまま、前進をやめようとしないのだ。
男は、仰向《あおむ 》けにされたカエルのようなぶざまな格好で、両手両足をバタつかせて、みがきあげられた市松《いちまつ》模様の大理石の廊下の床を必死に後ずさる。
「言いなさい。姉小路征司郎は、どこ? 水谷をどこに監禁《かんきん》しているの!」
滝沢礼子の小さい体から、凄絶《せいぜつ》とでも表現するほかないはげしい気迫がほとばしっている。
「アアウ、アウ、アウ……」
男の声は、うわずってことばにならない。立ち上がって逃げようとしないのも、腰が抜けてしまったためらしい。
と――
吹き抜けの天窓からのぼんやりとした光で明るんでいた廊下に、滝沢と男の上だけ急にうす暗いかげりが落ちた。
(――!)
滝沢は、とっさに足元の男をとび越え、前方に身を投げた。
「グエエエッ」
胸がむかつくような気味悪い声が、滝沢のすぐ後ろからあがった。
すばやく体を起こしてふり返った滝沢の眼にとびこんできたのは、血のまじった泡《あわ》を吹き、白眼をむきだして悶絶《もんぜつ》しているさっきの男のあわれな姿だった。
エビのように体を丸くひきつらせた男の腹には、くるぶしまで埋まるほど深く、人間の足が突き刺さっていた。
新たな襲撃者《しゅうげきしゃ》は、吹き抜けの途中にせり出した二階のバルコニーから、そのつま先に全体量を乗せてとびおりてきたのだ。
滝沢があそこでよけていなければ、その足は彼女の後頭部を直撃していたにちがいない。
滝沢の背筋《せすじ 》が、本人の意思とは関係なく、ブルッとひとつ大きくふるえた。
あやうくやられかけた恐怖のため、というばかりではなかった。
滝沢は、その襲撃者に見覚えがあった。
柴田――
聖《セント》エルザで姉小路征司郎がたくらんだ陰謀のすべてにおいて、彼の手足となってもっとも残虐《ざんぎゃく》で卑劣《ひ れつ》な役割を演じた、『若』の黒子とも分身ともいうべき第一の腹心なのである。
やむなく『若』と手を結んでいた一時期、何度か滝沢は、このうす気味悪い男がどこからともなく幽霊《ゆうれい》のように『若』のかたわらに出現するのを見たことがある。
そのたびに、高校生とはとても思えないその奇怪《き かい》な容貌《ようぼう》と、猿のようなねじくれた体つき、一瞬後には何をやらかすかわからない奇妙にすばやい身のこなしなど、そのすべてに対して言い表しがたい恐怖とたまらない嫌悪《けんお 》を感じたのだった。
柴田は、祈りの格好からてのひらを上下にずらしたような奇妙な構えをして、ニタリと無気味に笑った。
片足が部下の腹にめりこんだままなのに、もう一方の足はやはり中空にあり、その不安定な姿勢にもかかわらず全身がピタリと静止している。
うわさに聞く、双極拳《そうきょくけん》の型のひとつにちがいない。(なんてうす気味悪いの……)
滝沢は、吐《は》き気にも似た嫌悪感が突きあげるのを感じた。
だが、柴田のとっている姿勢には、一分の隙《すき》もない。鋭利な刃物にも等しい武器と化しているのだ。そして、その残虐な戦闘機械は、ほかならぬ滝沢自身を切りきざもうと狙っているのである。
双極拳――
それは、外道拳《げ どうけん》と並び称される隠れ古武道の奇怪な一流派である。
水谷から、「これは伝聞だが――」とことわりつきで教えてもらったことだが、双極拳の術者は、かならずふたり一組で修行《しゅぎょう》にあたり、秘術をみがき合うのだという。その間、数年にわたって生活のいっさいを共にし、箸《はし》の上げ下ろしから呼吸のテンポにいたるまで、すべて同時に行うという徹底《てってい》ぶりなのだそうだ。
そして、さらに奇怪なことには、ふたりの術老の役割は陰《いん》≠ニ陽《よう》≠ニに画然と分けられており、陽≠ヘあくまでも攻撃に徹《てっ》し、陰≠ヘ守りに徹して修行する。免許を得た者は、それぞれ陽の座∞陰の座≠ニ呼ばれ、個別に戦っても恐るべき力を発揮するのだという……。
ケケッ――!
怪鳥のような声をあげて、ようやく柴田は悶絶《もんぜつ》した部下の腹の上からおりた。
「礼子さま、おひさしゅうございます……」
聞き慣れていなければ、馬鹿にされているのではないかと思えるほどの卑屈《ひ くつ》さで、柴田は曲がった背をさらに低くかがめて挨拶《あいさつ》した。
「そんな呼び方はやめてちょうだい。わたしは、もう姉小路征司郎の婚約者では――いいえ、おぞましい共犯者ではないのよ」
「はう……では、『若』のいいなずけでも、お仲間でもない者が、お屋敷にこのような乱暴な訪問のしかたをして、そのまま無事で帰れると思っているのかな?」
この男のばかていねいさが疑いなく本物であるのと同様に、脅迫《きょうはく》のセリフにこめられた迫力も本物であった。
滝沢は、スーッと腹の底が冷たくなるような恐怖心をおぼえた。
「無事で、帰るわ……姉小路と会い、水谷を取り返したうえでね」
その声は、まるで文章を棒読みしているように力がなかった。
「『若』と会うためには、それなりの手続きというものが必要だぞ」
「そんなまだるっこしいことをする気も、しているひまも、残念ながらわたしにはないのよ」
「なに、手間はとらせん。『若』の前に出たとき、土下座《どげざ》しやすいように、ちょっとばかりおまえの体の形を調節してやるだけの話だからな」
『若』と会うためには、どうしてもこの男と戦わざるをえない――ということなのだ。
「……そういうことなの」
滝沢は、唇《くちびる》をかみしめて、強いられたようなぎこちなさで身構えた。
ほかの部下たちのように、奇襲《きしゅう》がきく相手ではない。果物ナイフをにぎっていることが、唯一《ゆいいつ》有利といえばいえたが、それだってどれだけ役に立つか心もとなかった。
柴田が一歩踏み出すと、滝沢はその気合いにおされて思わず一歩後ずさってしまった。
水谷なら、へたに頼ってしまうような武器なら捨ててしまえ、と言うだろう。素手《すで》で、自分の全身全霊《ぜんしんぜんれい》をこめて戦え、と。
だが、滝沢は、もうナイフが手から離れなかった。
正面に突き出したナイフの陰に隠れ、やっとそれで防衛線《ぼうえいせん》を保っているという気持ちをささえているだけであり、体はもはや消え入らんばかりに萎縮《いしゅく》してしまっていた。
「煮《に》えたな……」
パニックにおちいる寸前の滝沢の状態を、奇妙な、しかし的確な表現で言い当てると、柴田はうすい唇をニーッと横に引いて笑い、それと同時にものすごい蹴りを放った。
そんな低い姿勢で、どうやってそれだけすばやく体を回転できたのかと思うほど、奇妙な角度からの目にもとまらないまわし蹴りだった。
ビュン――
カミソリでそぎ落とすようなあざやかさで、滝沢の果物ナイフは一瞬にして手の中から消えていた。
「キャアアアアアアア――」
滝沢の口から、堰《せき》を切ったように恐怖の叫びがほとばしり、広い洋館の壁という壁に、いんいんと虚《むな》しいこだまを響《ひび》きわたらせていった――。
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7 『若』の陰謀《いんぼう》
滝沢礼子は、体全体が金縛《かなしば》りにあったように硬直《こうちょく》してしまい、狭《せば》まってゆがんだ視界の中で、それ以上にいびつな体型の男が、奇妙な踊りをおどっているさまを、呆然《ぼうぜん》として無感動に見つめていた。
男は、滝沢のほうにゆっくりと近づこうとしていたが、彼女には、それが遠い、こっけいな、ほんのちっぽけな像にしか見えなかった。
今にもおどりかかってこようとしているようだが、いっこうに実感がわかず、恐怖感もない。したがって逃げようという気にもならなかった。
男の体がフワッと跳躍した。
が、そのとき――
男が、急に肩をおさえてもんどりうった。床にころがり、苦しみ、のたうっているようだ……。
(いったい、何が起こったの?)
ふと兆《きざ》したその興味がきっかけになり、滝沢の硬直がしだいに解けていった。
アールデコ風の大胆な市松模様の床の上に、背の曲がった男が肩をおさえて苦しんでおり、そのむこう、開け放たれたサンルームのドアのほうから、聖《セント》エルザの枯れ葉色の制服をラフに着こんだ長髪《ちょうはつ》の男が、廊下《ろうか 》をゆっくりとこちらへ歩いてくるところだった。
その男は、倒れている男の横にころがった木刀を無造作《む ぞうさ 》にひろいあげた。
「伊勢さん――!」
滝沢は、やっとそれだけの声をしぼり出した。
「あぶないところだったな。まあ、最後になってようやくぼくの出番があってよかったよ」
伊勢のいつもながらの平然とした声を聞いて、滝沢はようやくこの事態がのみこめた。
柴田が硬直した滝沢に襲《おそ》いかかろうとした寸前、伊勢が愛用の木刀を投げつけて、柴田を倒してくれたのだ。
「あ、ありがとう」
滝沢が素直に頭を下げると、伊勢は、照れくさがっているのとはちょっとちがった複雑な表情をして、木刀の先で頭をかいた。
「いや。おまえから礼を言われると、ちょいとこまるんだが……」
伊勢は、そこまで言うと、ツツと吹き抜けのほうをふり仰《あお》いだ。
「おい、これくらいでもう十分だろう」
だれにむかって呼びかけたのか、伊勢の声に応《こた》えるように、柴田がとびおりてきた場所とむかい合わせになった、ちょうど滝沢の頭上のバルコニーで、重そうなカーテンがゆらりと揺れた。
「姉小路……!?」
背後を見上げた滝沢が、思わずつぶやいた。
カーテンの陰から姿を現した人物は、『若』――姉小路征司郎であった。
「礼子さん。あなたの勇姿《ゆうし 》をはじめて拝見させてもらったよ。みごとな戦いっぷりだったね。元気そうでなによりだ――」
『若』は、そう言いながらバルコニーをめぐり、絨毯敷《じゅうたんじ 》きの幅《はば》の広い階段をゆったりとした足取りでおりてきた。
「伊勢君、ご苦労だったね。柴田、おまえはさがって打ち身の手当てでもしろ」
柴田は、苦痛をこらえながら立ち上がり、『若』と滝沢にむかって一礼すると、何も言わずに廊下のむこうへと姿を消した。
「伊勢さん、説明してちょうだい。これはいったいどういうことなの?」
滝沢は、当惑《とうわく》して問いつめた。
「ぼくの口からは、ちょっと……姉小路さん、あんたが話してやってくれ」
伊勢はそう言うと、滝沢のそばを離れ、姉小路と滝沢に等距離《とうきょり 》を保つような位置にさがった。
「つまり、こういうことなんだよ、礼子さん――」
『若』は、得意そうな表情で語りだした。
「伊勢君は、偶然《ぐうぜん》に白雪たちのグループに加わって、われわれと戦いはしたが、白雪の理想や聖エルザのためになどというたわごとに動かされたわけではなかったのだ。彼はかしこい。平和な学園で退屈しているくらいなら、ぼくのほうに力を貸して、波乱を巻き起こすぼうがよほどおもしろいと判断したというわけなのさ」
「じゃ、水谷がつかまったというのは……」
滝沢の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そう。あれは、あなたをここに誘い出すための、ちょっとした方便にすぎなかったのだよ。その点はご容赦《ようしゃ》願いたい」
『若』は、唇の端にいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
一瞬、滝沢はクラクラと強烈な目まいに襲われたが、唇をきつくかみしめて、倒れそうになるのを必死にこらえた。
「そ、そんなウソをついてまで、どうしてこのわたしを……!?」
「礼子さん。部下の報告や伊勢君から聞いた話では、あなたは、白雪の支配する今の聖エルザにとけこめずにいるそうじゃないか。さっき見せてもらったように、伊勢君同様、あなたも戦いの中でこそはつらつと生きられる人だ。しかも、ぼくにとって白雪は永遠の敵。あなただって、血を分けた姉妹とはいえ、境遇《きょうぐう》から何から、あなたが奪《うば》われたものをすべてあの女が享受《きょうじゅ》していると言っても過言ではあるまい。あの女、そして、クルセイダーズと名乗る連中を倒すことこそ、あなたの本来の生き方というものだ。こんなぼくとあなたが手をにぎるのは、やはり当然のことなんだよ。わかってくれるね?」
『若』は、熱っぽいまなざしで滝沢を見つめ、ひと息でそこまでまくしたてた。
「変わりましたのね、あなたも――」
滝沢は、『若』の顔をまっすぐ見返してポツリと言った。
「え……」
『若』は、勢いをさえぎられて、当惑の表情を浮かべた。
「あなたも、あれからお変わりになったと言ったんです。あなたとわたしに共通項があるとしたら、それは、あの騒動ですべてを失ったということですわ。今さらわたしを手に入れても、あのときの、他人をすべて踏《ふ》みにじっていくほどのあなたの熱い野望はもどってきはしません」
滝沢は、静かに、きっぱりと言い切った。
「な、なにを言う! ぼくは……」
「いいえ。わたしに、さっきあんな戦いをさせて、それをこっそり見物なさっていたことが、なによりの証拠《しょうこ》です。あなたは、わたしに必死の戦いをしむけて復活させてくださろうとしたようですが、それは反対ですわ。あなたはおそらく、わたしや、伊勢さんや、そして部下の柴田たちが、あなたの意のままに血を流し、必死に戦うのを高みから見下ろすことで、それでやっと自分の力をたしかめようとなさっていたのよ。――でも、そんなことは虚《むな》しくありませんこと? 聖エルザ全体をあやつろうとまでなさったあなたが、ずいぶん小さくなっておしまいになったわ」
その声からは、軽蔑《けいべつ》するような響きは伝わってこなかった。自分と同類の者を発見し、そこに映った自分の姿を淡々として見つめているような、気負いのないさめた語調であった。
滝沢のことばを最後まで黙って聞き終えた『若』の顔は、唇まで蒼白《そうはく》になっていた。
眼は、そこにない、どこか暗くかげった場所をジッと凝視《ぎょうし》していた。
しばらく沈黙が支配したあと、『若』は顔を仰向《あおむ 》けてホウッと大きな息をついた。
「礼子さん……たしかに、あなたの言う通りだったかもしれないな。聖エルザで敗れて以来、ぼくはふさぎの虫にとりつかれて、自室に閉じこもりっぱなしだった。なにやらよくわからない、経験したこともない胸苦しさを抱きかかえたまま、闇にまぎれるようにして暮らしてきた。そこにとびこんできたのが伊勢君だった。彼の話を聞くにつれ、あなたに無性に会いたくなったのだ」
それを言う『若』の表情には、真実を吐露《とろ》する者の誠実さがあった。
「なのに、こんな卑劣《ひ れつ》な計略を弄《ろう》さなければ、まともに会えなかったというのね」
それは滝沢の皮肉ではなく、あわれみのことばだった。
「そう。だが、どうか誤解しないでもらいたい。あなたは――滝沢礼子という女は、ぼくの計略の中に落ちても、相変わらずまぶしいほどの輝きを放ってくれるのだ。ぼくも、あの事件の直後は、あまっちょろい恋愛などに憂《う》き身《み》をやつしたものだと後悔《こうかい》したが、それはちがう。あなたは、ぼくが今でもなお恋い焦がれるはどに手に入れたくてたまらない聖エルザと、まったく同じだけの重さでぼくには大切なのだよ!――おお、そうなんだ。たとえ卑劣と軽蔑されようが、尊大となじられようが、そういうあなたこそがぼくには愛《いと》しいのだ!!」
『若』は、言いつのるにつれてふたたび熱く激してきた。そして、滝沢の肩をむんずととらえ、宣告するように言い放った。
「いいか、ぼくは、あなたを閉じこめてでも聖エルザに帰しはしないぞ。あなたを手に入れることこそ、ぼくの復活のカギであり……そう、聖エルザにふたたび宣戦布告することなのだ!!」
が、しかし――
滝沢礼子は、『若』に倍する力をこめて肩をつかんだ手をふりはらった。
「では、わたしも言わせてもらうわ」
滝沢は、唇をギリギリとかみしめて、しぼり出すように言った。それは、もはやあわれみも同情も感じる余地のなくなった相手に対する最後通告であった。
「今日、ここへわたしが来たのも、やっぱり自分を取り返したかったからなのよ。水谷を救うという理由はあったけれど、わたしを突き動かした本当の動機は、やっぱりあなたに会うことだったんだわ。……会って、そして、あなたを倒すこと。卑劣な、尊大なあなたを、この手で徹底的《てっていてき》にたたきのめすことだったのよ――!!」
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8 伊勢の論理
姉小路征司郎の両眼が、メラメラと燃えあがるように輝きわたった。
「おお、なんということだ! 礼子さん、あなたは今、卑劣な、尊大な、と言ったね。それこそが、ぼくにとっては最大、最高の賛辞なのだよ。そうあることこそが、ぼくの力であるのだよ。ハッハッハッハッハ!」
『若』は、般若《はんにゃ》の面のように眼と口をクワッとばかりに開いて無気味に哄笑《こうしょう》した。
「伊勢君、さあ、礼子さんをつかまえたまえ。彼女が、ここへ殴《なぐ》りこみに来る相棒《あいぼう》として信頼しきっていた、ほかならぬきみの手でな。彼女は、ぼくの徹底した卑劣さがお好みなのだ。どうか、その望みをかなえてあげてくれたまえ!」
滝沢は、それを聞くとススッとすばやく後ずさり、『若』と伊勢の両方に対して油断なく身構えた。
「つかまるもんですか。今日がだめなら、明日。明日がだめなら、あさって……。あなたをつけ狙って、かならず倒してみせるわ」
息巻く滝沢を、『若』はあざ笑うかのように見下ろした。
「よし。そこまで言うのなら、ぼく自身の手でとらえてやろうじゃないか……」
「望むところよ――」
「フフフ……だが、さっきの柴田の恐ろしさ、もう忘れたわけではなかろうな?」
それを聞くと、滝沢の体がビクンと反応した。
「やつは、双極拳《そうきょくけん》の陰の座≠サして、このぼくは陽の座≠セ。やつの、ヌメヌメとからみついてくるようなうす気味悪い技も恐ろしいものだが、しょせんは守りに徹《てっ》することから生まれた、相手の戦闘力を奪《うば》うためのものだ。攻撃に徹する陽の座≠フ技の激しさ、残酷《ざんこく》さ……はたして、どれだけもちこたえられるかな?」
『若』は、最高級の服地で仕立てたスーツの上着を無造作にわきに投げ捨てると、ゆっくりと腕まくりしはじめた。
が――
その『若』の目の前に、木刀の切っ先がスウッと突き出された。
「伊勢君、これは何のまねだね?」
『若』が、伊勢の無礼な態度にムッと顔をしかめた。
伊勢は、その切っ先を中心にゆっくりと回転するようにして、滝沢のほうに体を寄せていった。
「ぼくは、こっちに加勢させてもらうよ」
「なんだと――!?」
「伊勢さん……」
滝沢も、不可解なおももちで伊勢の顔を見上げた。
「言ったはずだぜ。おれは、戦いの場が好きなだけなんだ。聖《セント》エルザに忠誠をちかってるんでないのと同様に、あんたの部下になったおぼえもない」
「それでは、おまえもぼくと戦いたくなったっていうのかね?」
「ああ。それはずっと前からね、双極拳にはよだれが出るほど興味があったさ。だが、これは、そういうことじゃないんだ。ポリシーってもののないぼくにも、ただひとつ譲《ゆず》れない点があってね」
「それは、何だというのだ」
「男と男の約束――ってやつさ。水谷は、ぼくを親友とみこんで滝沢のことを頼んだんだ。滝沢に危険がおよぶようなら、ほっとくわけにはいかないんだよ」
「おかしな理屈だな。なら、どうして自分から申し出てまで、ぼくのところへ礼子さんを連れてくるようなまねをしたんだ? さっきだって、彼女はさんざんあぶない目にあっていたのに、それでもおまえは、物陰に隠れてニヤニヤしながら見ていたじゃないか」
伊勢は、説明するのがいかにもかったるそうに、顔をしかめた。
「そう……もしかすると、よけいなことだったのかもしれないんだがな。ぼくはぼくなりに、水谷が滝沢をぼくに託《たく》した意味を考えてみたんだよ。『滝沢を元気づけてくれ』――勝手な解釈だが、おれはそういうことだと思った。平穏の中で自分をもてあましているなら、傷ついてでも戦ってみればいいし、聖エルザにいるのがうまくないなら、あんたについたほうがいいのかもしれない――これが結論だったってわけさ」
「……なるほど。連れてきてみて、彼女がぼくのそばにいたくないとなれば、また聖エルザに連れもどすってことか……。じつに都合のいい、勝手な理屈だな。そんなことが、ここではもちろんのこと、聖エルザでも通用すると思っているのかね?」
「通用するかしないか、そんなことは、ぼくにはどうでもいいんだ。滝沢が、これを聞いて怒るんなら、それもかまわない。――だが、滝沢の身だけは、本人がいやだって言っても守り通すぜ」
伊勢は、奇怪きわまりない身勝手な論理を、それにいかにもふさわしい、飄々《ひょうひょう》とした語り口で語り終えたのだった。
滝沢も、双極拳の陽の座≠ナある『若』と対峙《たいじ 》していることを数瞬忘れ、伊勢の横顔をまじまじと見つめていた。
「ま、そういうわけだよ。――滝沢、はっきり言って、この、姉小路征司郎って男は、おまえがまっ正面から行ってかなうような相手じゃない。だが、ぼくが助太刀《すけだ ち 》すれば、おまえがなんとか互角に戦えるところまではバランスをとれるだろう。おまえがどうしてもやりたいなら、そして、それで少しは気が晴れるんなら、やってもいいんだぜ。どうする?」
伊勢の問いかけに、滝沢はニッコリと笑った。
「あなたの話を聞いていたら、なんだかすっかり毒気《どくけ 》を抜かれてしまったみたい。ほんとうなら、あなたにも怒りを感じなければならないはずなんだけどね。今日のところは引きあげることにしましょう、聖エルザへ――」
伊勢も、ホッとしたように相好《そうごう》をくずした。
「帰ってくれるか。それならおれも、なんとか水谷に合わせる顔があるよ。この姉小路とは、こんなややこしい駆け引きの場じゃなく、正々堂々、一対一で決着をつけたいしな。……それじゃ、あばよ、姉小路」
伊勢は、守るように滝沢の肩を抱き、もう一方の手で木刀を『若』にむけて構えて、ソロソロとサンルームのほうへ歩きだした。
「待て――」
『若』が、去っていこうとしているふたりに呼びかけた。
「あきらめが悪いぜ。見逃《み のが》してもらえることを感謝するつもりなら、ぼくは心の中で言ってもらっても聞こえるんだ。だから、黙ってしばらくそこを動かないでいてくれよな」
伊勢の軽口に、『若』は、怒るどころか高らかな笑い声をあげた。
「ハハハハハ……残念ながら、おまえたちが見逃してくれるつもりでも、ぼくはそれほど寛大《かんだい》じゃないのでね。帰すわけにはいかないんだよ」
そう言うと、いきなり『若』は、屋敷じゅうに響きわたるほどの大声で叫んだ。
「さあ、みんな、出てこい。大切な客をもてなしてやるのだ――!」
そのとたん、階段ホールの前後左右のドアがつぎつぎと開いていった。
そして、ドアの陰から、ガクラン姿の屈強な男たちがひとりずつ現れ、伊勢と滝沢の前後を取り囲んだ。サンルームのほうから出てきた者もふくめて、見知らぬ五人の男が顔をそろえた。
「聖《セント》エルザから寝返ろうとする者を、そんなにやすやすとぼくが信用すると思っていたのかね。それなりの用心はちゃんとしていたのさ。紹介しよう。ぼくの新しい部下たちだ。聖エルザへの進攻を再開するつもりで、ちょうどそろえたばかりの腕自慢《うでじ まん》たちだ。こんなに早く役に立ってくれるとは、思ってもみなかったがな……」
「なんてこった……」
伊勢は、滝沢を背後にかばったまま、廊下の一方の壁《かべ》を背にして、ジリジリと追いつめられていった――。
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9 もうひとりの侵入者
「すまないな、滝沢。ちょっと面倒なことになりそうだ。おまえだけ、先に逃がすわけにもいかないらしい。戦ってくれるか?」
さすがの伊勢も、圧倒的な不利を痛感して、楽観的なことばを吐《は》けなかった。
「ここに乗りこむと決めたときから、大変なことになるだろうと覚悟はできているわ。展開が、思いもかけなかった方向へそれてしまっただけ。困難さは同じよ――」
滝沢も、心がすわった。
「かかれ! どちらも逃がすなっ!」
『若』の鋭い声が、初陣《ういじん》の意気に燃える男たちをけしかけた。
「行くぞ、滝沢――」
「ええ!」
伊勢は、その瞬間、だれも予想だにしなかった奇襲《きしゅう》に出た。
背中合わせに立っている滝沢の体を、いきなりドンと突き飛ばしたのだ。
「キャッ」
滝沢が思わず前につんのめり、正面の男の胸にぶつかっていった。
最高潮に高まった敵味方双方の緊張によって形成されていた包囲の輪は、その意外な動きにつられた格好で、一瞬全体がゆらめいた。
そこが伊勢のつけめだった。
ヒュン、ヒュン――
腰だめに構えた木刀が、抜く手も見せずに一閃《いっせん》、二閃した。
いや、眼ではとらえられなかった。
空気を切り裂く弓矢の唸《うな》りに似た音で、かろうじてそれとわかっただけである。
もちろん、避ける余裕などだれにもありはしなかった。だいいち、その切っ先がどこを狙って走ったのかもわからなかったのだ。
ハッとして思わず身を引いたときには、木刀はふたたび伊勢の左腰にピタリともどっていた。
「ギャアアアアッ!」
滝沢の体を受け止めた男が、突然頭をおさえてのけぞった。
「グエエ……」
伊勢の背後に迫っていた男は、股間《こ かん》をおさえてうずくまった。口から、泡《あわ》とともに苦しげなうめき声が大理石の床にこぼれる。
「よし、ふたり片づいた。残るは三人……」
伊勢は、ピッと剣先を返して前に突き出した。
男たちの顔に一様におびえの影が走り、気迫におされて一歩ずつ後退する。
彼らを牽制《けんせい》しながら、伊勢は滝沢をすばやく助け起こし、背後にかばう。
「何をしているか。相手は、長い棒切れを振りまわさなければまともに戦えないんだぞ。間をあけるな。一挙におし包め!」
『若』のじれったげな叱咤《しった 》の声がとぶ。
しかし、男たちは、足が床に吸いつけられたように動かない。
「そうそう。動かないほうが身のためだぜ。ぼくの居合抜きは、演武の型を見せるだけのふぬけた居合じゃない。もともと居合っていうのは、平生の屋内や往来での急変に対応するために完成されていったものなんだ。刀をふり回す剣術とはちがって、二歩も間があれば十分だ。へたに近づくと仲間の二の舞いになっちまうぜ……」
伊勢は、からかうように切っ先をちらつかせ、ゆっくりと廊下を移動していく。
余裕の笑みを浮かべてはいるが、眼は笑っていない。もはや奇襲はきかないだろうし、敵の背後には、なんといっても最強の敵『若』がひかえているのだ。
伊勢の意図は、正面玄関までできるだけ近づき、ころあいを見はからって囲みを突破し、門にむかって一気につっ走ることだった。障害の多い広い庭を横切るより、そのほうがずっと距離も短く、確実な脱出経路のはずである。
殺気にみちた沈黙の一群が、にらみ合ったままジリジリと移動していく。
だが、控えの間らしい扉の前まで達したとき、『若』が男たちの背後をスーッと音もなく移動して玄関ホールへの退路を断った。
伊勢の計略は、『若』に見透かされていたのだ。
(どうする……)
伊勢もさすがに迷った。
流れが停滞《ていたい》すれば、包囲の輪が否応《いやおう》なく縮まる。
相手との間が一定以下になることは、居合にとって致命的《ち めいてき》と言っていい。
(もう、この手しかないな)
決断すると、すばやく背後の扉のノブをまわし、滝沢をその中に突きとばした。伊勢もそれにつづいてとびこみ、急いで扉を閉ざす。
「滝沢、ここで徹底抗戦だ――」
戸口をふり返って身構える。
狭い入口からはひとりずつしか入れない。それなら、一対一の戦いにもちこめる。
もちろん、別の入口があるかもしれず、窓を破ってなだれこまれたら最後だ。窮地にあることには変わりない。いや、もっと悪いかもしれない。
が、それでも変化は生じる。敵があせって隙《すき》でも見せれば、つけこむことも可能だ。
(来い!)
あらためて伊勢が闘志をみなぎらせたとき、異変は思わぬ方向で起こった。
「きゃっ」
背後の滝沢が小さな悲鳴をあげた。
「ワナに落ちたな……」
聞き苦しいおし殺したような声――。
「柴田か!?」
カーテンを閉めきったうす暗い部屋のむこうに滝沢を後ろ手にとらえた奇怪《き かい》な男の姿があった。
伊勢は、『若』の意図が伊勢たちをこの部屋に追いこむことにあったことを瞬時にさとった。
「く、くそっ」
柴田はたくみに滝沢を盾にして、伊勢に踏みこむ余地をあたえない。
と、背後で扉が蹴破《け やぶ》られ、『若』を先頭に男たちがなだれこんできた。
「これまでだ――!」
伊勢は叫び、捨て身で『若』に突進した。
ブォン――
閉めきられたままよどんでいた空気をないで、木刀がひらめく。
が、『若』はとっさに頭を低めていた。
「ギェッ」
悲鳴をあげたのは、つづいてとびこんできた男のほうだった。
部下を犠牲《ぎ せい》にして自分の身をかばっただけではなかった。『若』は、したたかにも、木刀が部下に当たってそこに止まった瞬間を見すまして、伊勢の手元を鋭く蹴り上げたのだ。
「あっ」
木刀は伊勢の手を離れ、むなしく宙を飛んであらぬ方向に落ちた。
「観念せいっ!」
ものすごい気合いとともに、『若』の第二撃が伊勢の側頭部めがけてとんだ。
伊勢は鼻先でかろうじてそれをかわしたが、それは『若』のフェイントにすぎなかった。蹴った右足で一歩深く踏みこんだ『若』は、それを支点にクルッと体を回転させると、その勢いのまま左足のかかとを伊勢の肩口にたたきこんだ。
伊勢の体は、浮き上がって横の壁まですっ飛ばされた。
「ぼくをだまそうなどと、よくも思いついたものだな。その返礼は、たっぷりしてやるぞ!」
満面に残虐《ざんぎゃく》な笑みを浮かべて、『若』は、壁からずり落ちた伊勢に歩みよった。
だが、伊勢の肋骨をへし折ってやろうとつま先を後ろに引いたところで、突然横から割りこんだ部下が伊勢の体を突きとばした。
「じゃまするなっ!」
『若』は、途中になったその蹴りを躊躇《ちゅうちょ》なく部下にむけて放った。
ガッ――
中腰の男が、ひじで『若』のつま先を受け止め、そのまま足首をとらえてグイッとひねった。
「うぬっ」
頭では当惑していても、『若』の体はすでに相手を敵と認知していた。男の手の動きに逆らわず、それ以上の速さで体を回転させると、あっさり足を引き抜いた。
体勢をたて直すやいなや、必殺の気をこめた拳《こぶし》を突き出した。
が、男のすばやい後退はそれ以上だった。
「ぬ……」
『若』の顔に、みるみる真剣なものが復活した。
「のがすかっ――」
眼を血走らせ、『若』は猛烈な勢いで追いすがっていく。
ビキッ――
壁紙の下の板が、『若』の蹴りをまともに受けて悲鳴をあげる。
が、男のほうは、けっして声を出さない。
(本当か……)
『若』は感嘆していた。
男にくらわせた蹴りも突きも、五発や六発ではきかない。中には、致命傷となってもおかしくない衝撃をあたえたものもあったはずだ。
ふたりの戦いの激しさに、伊勢も滝沢も、壁際にさがったまま声も出ない。柴田やほかの部下も同じだ。手出しすることなど思いもよらず、呆然《ぼうぜん》と見守っている。
めまぐるしいまでのみごとな『若』の連続攻撃と、それをほとんど正確に読みきって受け流し、あるいは受けても平然とつぎをかわす男の動きが、家具も何もないガランとした部屋の中央で、ようやくひとつのサイクルを閉じた。
双極拳の陽の座≠称する『若』は、あれだけ攻め一方に徹しながら、呼吸の乱れも見せない。
正体不明の巨漢にしても、うかがい知れぬタフさを示して隙のない構えをまったく崩《くず》さない。
「白雪にやとわれたのか……これほどの腕はおしい。二重スパイにならないか。それなら許してやってもいいぞ。どうだ――?」
『若』は、伊勢と滝沢のことはどうでもいいとばかり、すでに新しく出現した相手にむかって大きく興味を動かしていた。
「おまえの部下は、廊下で気を失っている」
『若』の申し出をさらりと受け流すように、落ち着きはらった低い声で、男は言った。
「なにっ! すると……」
『若』がうめく。
とたんに、部下のふりをよそおっていた男の巨体が、グンとまたさらにひと回り巨大化したように思われた。背丈も、肩幅も、それまでとまるでちがっている。
「カーテンを――」
『若』が鋭く命ずる。
サーッとカーテンが引き開けられ、午後の陽光が一瞬にしてうす闇を駆逐《く ちく》した。
「おまえは……」
その筋肉のかたまりのような巨体を、見ちがえるはずがなかった。
かなりの長身の『若』でさえも、頭ひとつ上から見下ろされているようだ。また、そう感じさせずにはおかない迫力が、その無表情の顔とたくましい体から、風格のようなものさえともなって漂《ただよ》い出していたのだ。
グシャグシャになった髪の間からその男を見上げた滝沢が、最初にその男の名を呼んだ。
「み、水谷っ――!?」
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   10 だれも知らない解決
水谷は、滝沢の呼びかけに動かされた様子もなく、『若』とにらみ合ったまま動こうとしない。
水谷を見知らぬはずの新参《しんざん》の部下たちでさえ、『若』を守るという第一義の役割にもかかわらず、水谷の突然の出現とその存在感に気圧《けお》されて、金縛りにかかったように一歩も動けない。
「姉小路……」
「ふふ……おまえまで現れるとはな。みごとなスーパーマンぶりじゃないか、え?」
『若』は、唇をわずかにゆがめたものの、さすがに動じるような様子を見せない。
「話はすべて承知している。伊勢と滝沢を解放してもらいたい」
水谷は、低いが、それだけ十分に重みのある声で言った。
「それは、虫のいい申し出だな。ここは、ぼくの本拠地《ほんきょち 》だ。こちらは、人質がふたりもいる。ぼく自身、まだおまえに敗れたわけじゃない。もちろん、新しい部下たちにも加勢させるさ。この情況では、いくらスーパーマンを気取ってみても、おまえの正体は、せいぜい飛んで火に入る夏の虫≠チてところじゃないのか?」
『若』は、完全に余裕の表情を取りもどして、水谷をからかった。
水谷は、それに平然として答えた。
「ここのだだっ広い庭と、門の前に、聖《セント》エルザの空手部をはじめ、腕におぼえのある者たちが伏せている。おれがとびこんで一〇分したら、いっせいに突入する手はずになっている」
「おどかしても無駄《むだ》だぞ。ぼくの腕時計の警報は、そんな異常事態を伝えてくれていないんでね」
「赤外線探知機、防犯カメラ、それに原始的な鳴子《なるこ 》まで、すべて処理してある」
「なに――!?」
『若』は、あわててチェック用のスイッチを入れた。
しかし、腕時計からは、機能がストップしているしるしのツーツーツーという反復音が聞こえてきただけだった。
「だ、だが、いったい、この作戦がどうしておまえたちにもれたんだ――」
『若』は、顔をくやしげに紅潮させて問いかけ、ハッとして伊勢のはうをふり返った。
しかし、伊勢は、『若』以上の驚《おどろ》きを表して水谷を見上げていた。
「最初から知っている。おれは、おまえたちの警戒網《けいかいもう》をくぐって、何度もここに潜入してきていたのだからな」
「ま、まさか……」
「ウソだと思うなら、昨夜のことを話してやろう。
伊勢は、おまえの部下たちと同じ経路を通ってここに入りこみ、あっさりと警戒網にひっかかった。
伊勢は林から日本庭園にむかって逃げ、石燈籠ごと部下を池に突き落とし、その混乱にまぎれて池に潜んだ。それを見破ったのは、やはりおまえだったな、姉小路――」
今や、『若』は、ただただ呆然としてその話に聞き入っていた。
水谷は、つづけて言った。
「それが伊勢だとわかったのは、池からあがったときだ。おれも驚いた。この屋敷を見張るために、滝沢のことをあいつにまかせたばかりだったからな。だが、それがあいつ一流のとんでもないたくらみだと気がついたのは、今朝、あいつが平然と学園に現れたときではない。まさに昨夜、あの侵入者が伊勢だとわかった瞬間のことだ」
「水谷。あんまり知ったかぶりをすると、ぼくにだっていいかげんうさん臭《くさ》くなってくるぜ」
そう言ったのほ、床の上にすわりこんで負傷箇所をおさえている伊勢だった。
「そうかな。おれは、おまえが愛用の木刀を手放したのを見たことがないぞ。敵地に侵入するというのに、おまえが手ぶらだったことが、最初からおまえがつかまるつもりだったことの、なによりの証拠《しょうこ》になるのじゃないか?」
水谷にズバリと見抜かれ、伊勢はチェッと小さく舌打ちした。
「姉小路よ。これだけ聞けば十分だろう。伊勢が何かたくらんでここへ潜入した――おまえと結びついたらしい――おれは伊勢に滝沢のことをまかせたばかりだった――こう筋道をたどれば、答えは自然に出てくる」
「みごとなものだ。まいった、脱帽《だつぼう》するよ。推理小説の謎解《なぞと 》きはな。――が、しかし、おまえたちを解放するとは言ってないぞ。家宅侵入罪という、いささかアンフェアーな手もある。『生徒の、生徒による、生徒のための学園』とかいう改革に乗り出した今の聖エルザに、汚名《お めい》をきるのはいちばんさけたいところではないのかな?」
水谷は、それでも動揺《どうよう》の色を見せなかった。
「姉小路……そうなれば、おまえが聖エルザでやったことのすべても、おそらく明るみに出ることになるぞ。それでもいいのか?」
「…………」
『若』は、無言で水谷を憎々《にくにく》しげに見つめた。
「それに……おまえには、まだ本気で聖エルザにいどみかかってくるだけの力はないのじゃないのか? へたな思いつきやきっかけにとびついては、おまえの本当の力を発揮する前に、取り返しのつかない失敗をおかすことにならないのか?……よけいなことかもしれんが、今のおまえでは、おれたちには勝てん。毎晩忍びこんでみての、おれの直感にすぎないのだがな……」
『若』は、その水谷のことばが終わると、いきなりクルッときびすを返して入口のほうへむかった。
「水谷……伊勢と滝沢を連れて、出ていけ。今回は負けだ。……いや、ぼくは、たった今、ひと月前の戦いがぼくの大敗だったことをさとったよ。こんな小さな戦いにも負けるようではな……」
そう言い残すと、『若』は、残った者たちにまったく顔をむけることなく、立ち去っていった。
大理石の床を踏む足音だけが、カツーン、カツーンと冷たい反響音となって返ってきた――。
一分後、水谷、滝沢、伊勢の三人は、おずおずと彼らを見上げる老執事《ろうしつじ 》に見送られ、立派な構えの正門から堂々と姉小路邸を後にした。
「水谷よ。空手部の連中はどこなんだ?」
坂の途中でキョロキョロとあたりを見まわして、伊勢が問いかけた。
「何の話だ?」
「ウ、ウソだったのか――!?」
「ウソではないさ。すくなくとも、姉小路には同じことだったはずだ」
「どういう意味?」
滝沢が、水谷を見上げて不思議そうな顔をした。
「あいつの最後のことばさ。自分の陰謀全体が失敗だったとわかれば、細部がどうだろうと関係ない。ただ……」
「ただ……どうしたの?」
「あいつはあれで、再起へのスタートについたのだ。いつか、かならず、あいつは聖エルザに何かを仕掛《しか》けてくるだろう。その日は、そう遠くないにちがいない……」
「この事件はどうなるの?」
「聖エルザでは、おれたち三人しか知らない出来事だ。おそらく、これですべて終わりだ。……だが、おまえはどうなのだ、滝沢?」
「え――」
「最初から、事件の起こることを知りながら、おれが最後までとび出していかなかったのは、おまえにふっ切れてほしかったからなんだ……」
「あ……」
滝沢は、驚いてその場に立ちどまった。
両側を歩いていたふたりの長身の男たちが、二、三歩行き過ぎてふり返った。
「そうだったのね。わたし、いつの間にかすっかり自分のことを忘れていたわ」
クスリと小さく笑ってそう言うと、滝沢は、真顔に返って水谷を正面から見つめた。
「正直言って、わたし、あなたを救い出すことにも、姉小路の陰謀をたたきつぶすことにも、どことなくふっ切れない、ためらいみたいなものを感じていたの」
伊勢が、不思議そうに眉をつり上げた。
「ぼくには、そうは見えなかったがな。ひとりで屋敷に乗りこんでいったおまえの後ろ姿には、たしかに鬼気《きき》せまるものがあったよ。それが、姉小路に対する怨念《おんねん》や、水谷を救いたいって望みでないとしたら、いったい何だというんだい?」
「聖エルザで、わたしを無性にいらだたせていたもの、それを――きっとそれを捨てにきたのよ」
「いらだたせていたものだって……?」
「ええ。わたしは、自分の中に、自分でもどうしようもなく燃えさかる力を感じていたの。――でも、それは、聖エルザではけっして受け入れられないものだったわ」
水谷が言った。
「それは、受け入れてもらうという性質のものではなかったのさ。姉小路征司郎にしても、あいつなりの奇妙な感性でそれを愛すると公言していたが、あいつが受け入れてくれる、というのとはまたちがう……」
滝沢は、大きくうなずき返した。
「ええ。きっとそのとおりよ。それは、正面から何かにぶつかって、返ってくる手応えを感じて、わたしの全身でたしかめなければならなかったんだわ。それが――」
「この戦いでそれができた、って言うんだな」
伊勢が、めずらしく皮肉っぽくない笑みで滝沢にほほ笑みかけた。
滝沢も、かすかな笑みを浮かべながら、しかし、首をはっきりと横に振った。
「ちがうの。……これが、自分だ。自分なんだって、そうわかったの。でも、こうならなければ、こんな事件が起きてくれなければ、きっとわからなかったんだと思うの」
「そうか‥…」
伊勢がうなずいて、同意を求めるように水谷のほうへ顔をむけた。
水谷は、納得した表情をつくると、そのまま先にむかって歩きだそうとした。
「待って、水谷――」
「なんだ?」
「わたしには、もうひとつわかったことがあるわ。こんなわたしを、わたしのままで、わたしであるからこそ受け入れてくれようとしている人たちがいるってこと。あなた方、そう……」
そこでことばを切って、滝沢は高台のむこうに広がる東京の街をはるかに見つめた。その方角には、聖エルザがあるはずだった。
「みんなが……」
その最後の小さなつぶやきは、伊勢と水谷にはひときわはっきりと聞こえたのだった――。
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あ と が き
久々の『聖《セント》エルザ』をお届けします。でも、今回はチクリンもオトシマエも姫もコックリさんも出演していません。かろうじて、ミホが代表してチラッと顔を見せているだけです。
実は、「カセットブックだって、まさかこんな形で『聖エルザ』をやるほどの冒険《ぼうけん》はできないだろう。フッフッフ」という、無謀《む ぼう》きわまりない挑戦的態度によって、この物語は発想されたのです。
しかし、作者ならずとも、ここで主役や準主役をつとめてくれている出演者たちには、一度は脚光《きゃっこう》を浴びさせたい、ズームアップされた表情や演技を見てみたい、という思いをいだいていらっしゃった方が多いのではないでしようか?
この取り合わせなら、さぞ派手《はで》なバトルゃ陰険《いんけん》なかけひきを見せてくれるだろうな、とうすうす想像してはいたのですが、実際書きはじめてみると、彼らは驚《おどろ》くほどの役者ぶりを発揮して、作者があらかじめ用意したストーリーさえ変更させるほど活躍してくれました。後半なんか、はっきり言ってほとんど彼らのアドリブ合戦でしたからね。予定のものよりよくなったのはもちろんです。
これは『聖エルザ』の新しい可能性を示してくれているのかもしれません。仮に裏・聖エルザ≠ニか呼んでいたのですが、ちゃんと前の続編しているし、外伝というより、こりゃもしかすると……って雰囲気《ふんい き 》もありますね。『聖エルザ』は、やはりまだまだ永遠に不滅《ふ めつ》のようです。
〈松枝蔵人《まつがえくろうど》〉
●略歴=一九五五年、新潟生まれ。蟹座のO型。早稲田大学露文科卒。代表作『聖エルザクルセイダーズ』『パンゲア』。発想はロックのリズム。文章の視覚化を意識したハイパー映像派。