雨にもまけず粗茶一服
松村栄子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)柄杓《ひしゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全然|儲《もう》かんない
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)空気を吸う[#「空気を吸う」に傍点]
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雨にもまけず粗茶一服
松村栄子
マガジンハウス
雨にもまけず粗茶一服・目次
一、 若様御出奔《わかさまごしゅっぽん》の段
二、 与話情京畳《よわなさけきょうだたみ》の段
三、 茶人変化《ちゃじんへんげ》の段
四、 |年 寄 衆 夢 跡《としよりどもがゆめのあと》の段
五、 友衛家茶杓箪笥《ともえけのちゃしゃくだんす》の段
六、 |漸 出 現 茶 杓《やっとあらわるちゃしゃく》の段
七、 |競 錦 茶 会《はでくらべにしきのちゃかい》の段
八、 |霧 中 恋 路 果《ゆくえもしらぬこいのみち》の段
九、 |和 尚 遺 名 筆《ぼうずがじょうずにじをかいた》の段
十、 |行 馬 殿 遠 大 計 画《イクマ・プライベート・プロジェクト》の段
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雨にもまけず粗茶一服
降ろしたすだれの向こうで蝉が鳴いている。庭の松の木に止まっているらしい。
建具は開け放たれ、畳にすだれ越しの柔らかな光が細い縞模様を描いている。同じ模様が、畳から這い上がるようにして、端近くに並んだ客たちの背中へと続いている。客は男性ばかり十名ほど、麻や絽《ろ》の和服姿が多い。
釜は最前からしゅんしゅんと音を立てている。その前で柄杓《ひしゃく》を構えた女性は、薄藤の一つ紋に紺の絽袴、肩のあたりに生真面目な緊張をたたえ、かすかな気合いとともに今、釜の蓋を開けた。やかましいほどの釜音は一瞬にして絶え、客たちはふと我に返る。頃合いと見て、亭主である家元が茶道口に姿を現す。
「今日はお暑い中をご足労いただきまして」
「ご足労と言われてもなぁ、まあ、十歩くらいのもんですわ」
正客《しょうきゃく》として上座にいるのはすぐ隣の寺の和尚なので、澄ました顔でそう答えると、席中に微笑の波紋が広がる。
亭主に促され、白い琥珀《こはく》菓子を盛った木皿が順に回されてゆく。聞かずとも氷を意匠したものだとはわかる。普通の茶人ならみな釜を上げて一息ついている季節である。しかも午後の一番気温の上がる時刻だ。
「わたしの場合は十歩でも、みなさんはそういうわけではないでしょう。この暑い中、茶を飲みにでかけてくるとは毎年のことながら酔狂な方々ですな」
無論、客たち自らもそう思っている。だが、今日は隅田川に花火の上がる日だ。晩には家元を連れ出して船遊びをすることになっている。茶会は家元からの前礼のようなものである。もちろん遠慮する者のほうが多いのだが。
「今日のお軸はなにやら難しそうで、何と書かれているのでしょうか」
和尚がのんびり茶を喫しているので他の客が尋ねる。
「先代のご住職があるとき書いて下さったものです」
暗に促すと、茶碗を置いた和尚が振り返る。〈維摩懶開口〉と書かれている。
「維摩《ゆいま》口を開くに懶《ものう》し……維摩という修行者がおりましてな、仏法の究極を問われたが億劫《おっくう》で答えなかったということですな」
そう言って向き直ると、自分の茶碗をひょいと手を伸ばしただけで点前の女性の脇へ返した。横着な和尚なのだ。
「で、どういう意味なんで?」
重ねて聞かれて和尚はにんまりする。
「わたしも、こう暑いと禅語なんぞをご説明するのはいささか億劫ですなぁ。この句はその後に〈|枝上 一蝉吟《しじょうにいっせんぎんず》〉と続きます。枝の上で蝉が鳴いている。ああ、ちょうど今のようにです。維摩は黙っているが、蝉が語っている。蝉の鳴き声もひとつの教えであるということでしょうな」
すると客たちは動きを止め、耳を澄ました。じいじいと鳴く蝉の声が前にも増して高くなり、真夏の茶室は説法で満たされていくようである。
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一、 若様御出奔《わかさまごしゅっぽん》の段
隅田川の花火のあった日だから七月の終わりだろう。どうしてあんなヘマをしたのだろうと遊馬《あすま》がずっと後悔していることには、その日、免許証を落としたのだ。こともあろうに家の中で。
朝、出がけにごそごそ荷物を確認しながら歩いたのが間違いだった。友人に返すレアもののCDのことを思い出し、リュックの中に手を突っ込んだまま階段を降りて玄関へ走った。その途中でどこからか落ちたらしい。まったく気づかなかった。拾ったのは弥一《やいち》だ。
弥一はまだまだ元気ではあるものの、遊馬の祖父より年上なくらいだから目はそうとう悪い。老眼鏡を懐から取り出して縁側の明るい場所へ行き、手にしたそれを近づけたり遠ざけたりしてようやく持ち主の各前を読みとると、「ほーお」と、ひとり声をあげた。
「遊馬ぼっちゃんも、いつの間にやら車の免許なんか持って。どうりであたしも歳をとるわけだ」
そのまま懐に入れてそのときは忘れていた。古い寺の隣にあるこの屋敷には、表の門から露地、三カ所に分かれた坪庭、そして敷地の隅の茶花園と樹木や草花が多く、そのすべてに水を撒くのはいまのところ弥一の務めで、これはかなり体力を必要とした。しかもその日は真夏だというのに酔狂な門弟たちがやってきてささやかながら茶会が持たれることになっており、そうのんびりもしていられなかった。
思い出したのは、茶会の後だ。水屋で片づけをしており、ふと懐中に手をやるとパスケースに手が触れた。
「あ、そういえば」
客のいなくなった茶室で床前に座っていたのは公子《きみこ》だ。鳥の子色の小千谷縮《おぢやちぢみ》に茄子《なす》紺《こん》の帯。後ろ姿の美しさに弥一は言いかけた言葉を途切れさせた。
公子は、古銅の鶴首に挿した槿《むくげ》を片づけようかこのままにしておこうか迷っているところだった。
「どうしました?」
振り向いて弥一を見る。朝拾ったまま忘れていましたと免許証を渡される。自分のものでもない、夫のでもない、息子の免許証だ。そんなものが存在することを公子は知らなかった。
免許は昨年の十一月に交付されたものらしい。遊馬は十月に十八歳になったのだから、誕生日を迎えるやいなや勇んで教習所に通ったのだろう。お金はどうしたのだろう。いや、ちがう、気にすべきはそのようなことではない。問題は、その頃、遊馬は大学受験の追い込みで、自動車教習所に通うゆとりなどなかったはずだということだ。彼は、塾の〈入試直前コース〉に参加していたのではなかったか。そして、にもかかわらず全敗した。
それに、この免許証の下に挟まっている高速道路のレシートはいったい何だろう。今年の二月十日? 公子は花をそのままにして立ち上がると、夫婦の寝室へ戻り卓上カレンダーをぱたぱためくった。息子の受験日には赤い丸印がついている。その日にもついている。京都の大学を受けに行ったはずの息子が、なぜ横浜のインターで高速を降りたりするのだろう。こめかみを押さえて考え込んでいるところへ、隅田川へ向かうために着替えを済ませた夫、秀馬《ほつま》が「なんだ?」と書斎から顔をのぞかせた。
「この、馬鹿者がーっ!」
古い屋敷全体が揺れるような大音声《だいおんじょう》だった。当主である秀馬は別段体格がよいわけではないのだが、さすがに幼い頃から武道で鍛えているだけあって、今、怒鳴ったときには二割方身体が膨らんだように見えた。顔は真っ赤である。このところ高血圧気味であり、怒鳴ったあと酸欠だろうか、ふらっとよろめき、七十歳になる隠居の風馬《かざま》に支えられる始末だった。
「まあ、落ち着きなさい」
「落ち着いてどうするんですか! なんだと、この野郎。受験勉強している振りをして教習所に通ってただぁ! 入試に行く振りをして、こともあろうに、コ、コ、コンサートに行っていただぁ! 馬鹿にするのもいい加減にしろっ! 五つも受けた大学全部落ちやがって、親がどれだけ世間に面目が立たない思いをしてるかわかってるのか。それでもだな、一番滅入っているのはおまえ自身だろうと母さんが言うから、腫れ物に触るように家中で気を遣ってるのが、おまえにはわからんのか。このスカタンが!」
眉間に皺を寄せてカレンダーを見つめているところを夫に見られたのだから、とっさに言い逃れることなど公子にはできなかった。自分でもまったく事情が飲み込めていなかったからなおさらだ。かくかくしかじかとわかったところまでを話すと、茶会の余韻もなんのその、秀馬はいきなり怒り出し、すぐさま遊馬を呼べと言い出した。携帯電話は持たせてあるので連絡できないことはないが、今晩は隅田川で秀馬を待っているひとびともいることだし、もうでかけたほうがよいのではないかと公子は取りなした。明日にでも落ち着いて本人の口から事情を聞くのがよい。
が、秀馬がでかけようと玄関へ向かったところへ、折も悪く今朝までは黒かった前髪を青く染めた遊馬が帰ってきたのだった。
「なんだ、その髪はっ!」
遊馬にしてみれば、全部真っ青にしてもよいところを、一応、親の順応性も考慮して一部のみにとどめたから変身と言っても地味なつもりだったのだが、なにしろタイミングが悪かった。靴を脱ぐのもそこそこに胸ぐらをつかまれて茶の間へ引きずり込まれ目を白黒させている。
「弥一! おまえがついていて、このありさまは何だ。遊馬のことはよろしく頼むと言ってあっただろう!」
「いや、誠に申し訳ありませんっ」
弥一は、畳に頭をこすりつけた。
「カンナ! おまえもだ。弥一はもう歳なんだから、おまえが助けて行馬《いくま》同様に気をつけてやってくれと、この正月にわたしは言ったな。言っただろう。聞いてなかったのか!」
「は、すみません」
カンナはもともと廊下にいたものを四、五歩後ずさって姿も見えない場所にひれ伏した。
「この家には、なんだって女子供と年寄りしかいないんだ。もう少し頼りがいのある男どもがいてくれれば、こう情けないことにはならんものを。まったくどいつもこいつも……」
秀馬は頭をかきむしる。花火だの船遊びだのはこの時点で忘れ去られた。
「いや、弥一もカンナもそれなりにだな……」
とばっちりを受けた弟子たちをかばおうと、風馬が口を開く。
「お父さんは黙っていてください。だいたいですね、息子のわたしが生真面目すぎるから、孫にはもう少し遊び心がほしいとか言ってですね、〈遊馬〉なんて名前をつけたのは誰なんですか。お父さんでしょう。こいつがこんなどうしようもない遊び馬になったのは、とどのつまりまったくあなたのせいなんですよ。わたしは反対だったんだ。わたしは反対だった……」
「あなた」
公子は呆れたように夫の二の腕をつかむ。
「誰のせいでもありませんよ。もしも責任があるとしたら、親のわたしたちにです」
その場にいた全員が、当事者の遊馬も含めて、そうだそのとおりだと深くうなずいた。もちろん形には出さず、心の中でだが。
仁王立ちしていた秀馬は、そんな全員をぐるりと見渡し、うむとひとつうなる。床の間の前に正座して大きく腕組みをする。遊馬のほうは、ただ嵐の通り過ぎるのを待つように、うつむいて立ちつくしている。反省しているとか、怯えているようには見えない。面倒臭そうに、足の親指をもぞもぞさせている。蒟蒻《こんにゃく》みたいな野郎だと秀馬は思った。
そもそも遊馬に京都の大学を薦めたのは、茶家の跡取りとして若いうちに一度は京の文化に触れておいたほうがいいと親の秀馬が思ったからだった。友衛《ともえ》家では〈坂東巴流《ばんどうともえりゅう》〉と称して武家のたしなみである弓道、剣道、茶道を伝えており、三つの道は同じところへ通ずると教えてはいるものの、現在では茶道が流派の重きをなしている。いくら奥義を学んでも、現実社会には弓を放ってよい場所も、剣を振り回して許されるところもないが、茶であればいつどこで点《た》てようと咎められることはない。ならば、今の時代には茶道を通して友衛家の精神を伝えていくしかないからだ。
ところで、茶の伝統というものはなんといっても上方《かみがた》に発していて、西にはいろいろと見るべきものも多い。いくら武家茶道だからといって、茶の道を行くには江戸ぶりだけでは通らない局面もある。そういうことは理屈でなく肌で感じたほうが身につけやすいだろうというのは、秀馬自身が苦労した経験から遊馬のために思うことだった。みっちり〈京都の茶〉を仕込まれてこいと言うわけではない。それではむしろ困る。が、もしも四年間大学で学問をするのであれば、教科書は東京でも京都でもそうは変わらないのだから、その間だけでも京都に暮らし、その〈空気〉を吸ってみることは家元後継者として無駄なことではない。
「空気を吸う[#「空気を吸う」に傍点]のがそんなに難しいとは思わなかった。精いっぱい努力して不合格というならともかく、試験をすっぽかして遊びほうけていたとはおそれいった。わかった。わたしは親としても家元としての責任においても、たった今決めた。そんなに行きたくないなら大学へは行かなくてもよろしい。予備校なんかやめて寺へ行け。性根から叩き直してもらいましょう。どこがいいか、そうだ、天鏡院《てんきょういん》がいい、比叡山だ。禅ではないが、あそこの柴門《さいもん》老師はたいへんに厳しい方で弟子が続かず人が足りないと聞いている。こんなでこすけ[#「でこすけ」に傍点]でもいないよりマシかもしれない。カンナ、料紙と硯《すずり》箱を用意してくれ。手紙を書く。その前に精進潔斎だ。弥一、庭に水《みず》垢離《ごり》の準備を」
赤かった顔はすでに血の気が引いて青ざめており、こんなときの秀馬は怒鳴っているときよりさらに危険だと家の者はみな知っている。彼らがこわごわ見守る中を、すっくと立ち上がって友衛家当主秀馬は座敷から出ていった。
弥一とカンナはよろよろと立ち上がる。公子は何とかなだめようと小さく呟きながら夫を追う。
「なんで謝んないの、馬鹿だなぁ」
弟の行馬が言う。まだ十二歳、小学生だ。
「謝る隙なんかあったかよ」
「そうだけど」
行馬は助けをもとめるように祖父を見た。こちらはどうも立ち去るタイミングを逸したらしい。
「まあ、おまえもずいぶん大胆なことをしたもんだなぁ。じいちゃんも今回ばかりは遊馬の味方はできん。悪く思うなよ。夏はいいがな、比叡の冬はつらそうだ、身体を大事にな。なんだなぁ、この家は今晩はメシ抜きなのかな。わしは腹が減っているんだが」
そんなことを言いながら台所のほうへと消えてしまった。先日近所の仲良しばあさんが死んでから少し惚《ぼ》けたのではないかと行馬は疑っている。
「あーあ」
遊馬はどさりと腰を落とすと座敷の中央に大の字になった。
「やってらんねー」
行馬はそのそばにぺたんと座り込み、「どうするの」と聞いた。
「どうもしねーよ」
「お寺に行くの?」
「行かねーよ」
「どうもしなかったらお寺に行くことになるんだよ。前から思ってたけど、もしかしてお兄ちゃんって馬鹿?」
「かもな。大学五個落ちたし」
投げやりに言って寝返りを打つ。
「でも、そのうち四つは試験受けなかったんでしょ。じゃあ、落ちたのはひとつじゃん」
「はいはい、よくできました」
そうなのだ。遊馬は京都の大学を受けるよう薦められ、いくらか抵抗したものの一応四校に願書を出した。滑り止めというか用心のために都内の学校もひとつは受けてよいという相談になったので、それ以上無駄な波風を立てることはないと思った。都内の大学にだけ[#「だけ」に傍点]受かればよいのだ。そうすれば、将来のためのどんな立派なもくろみがあったところで、親としては受かった大学に通わせるしか手がないはずだ。
ところが、入学試験というものを見くびった報いなのだろう、安全確実だった都内の大学からも合格通知は受け取れず、すべては一年後に仕切り直しということになっていた。
友衛家は〈武家茶道坂東巴流〉を継承しており、現在の家元〈友衛秀馬〉はその十代目である。
遡れば村上源氏の流れを引く家柄でもある。中世期に播磨の一郭を治めていた一族の傍流で、おそらく弓術を得意とした先祖が分家するにあたり、その道具のひとつである鞆《とも》の絵を象った巴《ともえ》印を家紋としたことから〈鞆絵殿〉とか〈友衛殿〉とか呼ばれるようになったものであろう。
京都にもうひとつ〈巴家〉という茶家があり、これも友衛家から出ている。
室町の頃、友衛の先祖のひとりが幼くして仏門に入り、京の寺で村田珠光《むらたしゅこう》から茶を学んだ。当時はまだ茶道において印可を与えるというようなことは行われていなかったが、ここを離れるとき、彼は珠光の名から〈朱〉の一字のみを乞い、〈朱善《しゅぜん》〉と称した。姓に〈巴〉の字を当てたのもこの頃らしい。この巴朱善が、今日京に伝わる〈宗家巴流〉の祖ということになる。
朱善は僧侶であったから実子はなく、その後代々養子をとって巴流の茶を伝えてきた。今でも屋敷の広大な敷地内には小さいながら山門などもあり、一応、ここは寺であることになっている。家元は住職だ。ほとんど形式的なものであり、江戸末あたりから家元は妻帯するようになり現行では実子相続制をとっている。
流祖朱善の頃から〈友衛家〉と〈巴家〉は茶道を通じてつかず離れず関係を保っていた。大なり小なり公に関わる家には茶頭《さどう》のような存在は必要だったからだ。
江戸中期の友衛家に仙之介という武芸全般にわたってよくする青年があった。惜しいかな時代はすでに戦国の世ではなく、腕を振るう場所はまったくなかった。嫡男でもなかったので無為の時間をもっぱら武術と茶の湯に費やしたらしい。やがて京へ出て巴流八代家元に可愛がられ、養子となって跡を継ぐことまで望まれたが、彼はその申し出を受けず、江戸へ下る許しを得たがった。
理由としては諸説あり、武芸に秀でたひとだっただけに僧門には入れなかったのであるとか、茶道の極意を得たからには次には剣と弓とを極めるべく武者修行の旅に出たのであるとか、江戸で仕官の道でも見つけるつもりだったのだろうなどと言う者もあるが、遺された目録『馬耳東風』を読み解くと、何のことはない、このひとは播州赤穂浪士の噂を聞きつけ、江戸で何か起こる、願わくばその一角に加わりたい、そうでなくとも事の次第を見届けたいと江戸へ急いだようである。つまりただの野次馬だ。この目録は、だからというわけでもないのだろうが門外不出になっており、内々のごく限られた者しか読むことはできない。
このとき、許しを得るなり喜び勇んで江戸へ馳せていった仙之介を見て、巴流八代は彼にいったんは与えた〈朱〉の字を取り消し、かわりに〈馬〉の字を与えることにした。追って数寄屋大工や庭師を江戸へやり、縁《ゆかり》の寺院近くに茶室を建てさせ、これを祝いとして贈る。その扁額《へんがく》には〈行空軒《こうくうけん》〉という文字があった。〈天馬空を行く〉、おまえは束縛もなく自由でよいなあというような気持ちだろうか。
これが〈坂東巴流〉の興りであり、爾来《じらい》、家元の友衛家では男子の名に〈馬〉の一字をつけるのが習いだ。初代〈仙馬〉に始まり、〈天馬〉〈洋馬〉〈篤馬〉……九代目は〈風馬〉、十代目〈秀馬〉、その息子たちは〈遊馬〉と〈行馬〉。遊馬はこの家を〈馬小屋〉と呼んでいる。
「あ、まだこんなところに」
襖《ふすま》が開いて、丸盆を持ったカンナが顔を出した。急いで作ったらしい握り飯と麦茶が載っている。盆が畳に置かれるなり遊馬は手を伸ばす。
「なんですか、寝ころんだままで。起きなさい」
大儀そうに遊馬は身体を起こした。カンナはひとつため息をつく。
「家元は本気ですよ。すっごい力で墨を摺っています。今は無理でしょうから、明日、早起きしてきちんとお詫びしてくださいね。あの手紙を出すように頼まれるのはカンナです。カンナはそう言われたら出さないわけにはいかないんですから、その前でないとお寺に手紙が行ってしまいます」
真面目に諭しているのに遊馬はただ食べるのに忙しい。
「遊《あす》ぼっちゃん、聞いてるんですか。お寺にお願いしたあとで、やっぱりやめますとは言えないんですよ」
わかったよとおざなりに遊馬は返事をした。カンナはぱんと畳を叩く。
「カンナも、最近の遊ぼっちゃんを見ているといらいらむずむずします。武家らしくもう少しシャキッとできないんでしょうか。だいたい、いたずらを叱られたとか、失敗を責められたとかなら庇いようもありますが、嘘をついたり騙したり、陰でこそこそ何かをしたり、そういうことはカンナも嫌いです。男らしくありません。卑怯です。カンナは情けない」
「だから、わかったってば……」
うるさそうに遊馬は言い、手で払いのけるしぐさをした。
「そういう態度なら、これはカンナが預かります」
見ると免許証を持っている。先ほどの騒ぎで秀馬が怒って投げつけたものが廊下まで滑っていったらしい。やれやれ。遊馬は食べかけたものを下へ置き、指先をなめてきれいにすると、仰向けた両手を額の前に掲げた。
「すみません。どうぞそれを返してください」
カンナは差し出された掌にぴしゃりと免許証を打ち付け立ち上がった。部屋から出しな振り向き、「謝るなら朝稽古の前にです」と念を押す。
閉まった襖の下のほうに袴の裾が挟まって残り、向こうからぴゅっと引かれて消えた。カンナは朝から晩までいつも袴姿だ。今日は妙に綺麗な袴だが普段は武道袴と区別のつかないようなものを穿いている。三十路《みそじ》に入って間もないのに恋愛や結婚にはまったく関心がないらしい。
聞いた話では、遊馬がまだ生まれる前のある日、友衛家の門前で甲高い声を張り上げている女の子がいた。隣の和尚が見つけ、何ごとかと尋ねたところ、本人は「たのもう、たのもう」と案内を乞うているところだった。祖父にあたる弥一を訪ねて来たらしいのだが、なぜそれが「たのもう」になるのかよくわからない。小さな女の子が脚を踏ん張って、頬を真っ赤にして……和尚はいまだにカンナを見るとそのときのありさまを思い出すらしく、くくくと笑う。
カンナはそのまま入門とあいなる。彼女以前、〈坂東巴流〉に女性の門弟はいなかった。さすがに女人禁制は時流に合うまいと、当時家元だった風馬が妻とともに女点前を考案している最中だった。歳は若いが、彼女こそ門弟の女性第一号ということになる。もっとも、カンナ自身は女点前には興味がなく、ひたすらみんな[#「みんな」に傍点]と同じことを教えてくれと言って泣いたらしい。今でも、公子を手伝って女子には女子の点前を教えたりもするが、自分では決してそれをしない。遊馬や行馬よりよほど男らしい所作なのだ。
「お兄ちゃん、カンナ、あれマジで怒ってるよ」
「見りゃわかるよ」
適当に受け流しているように見えて、遊馬は内心怖れていた。「今から道場へいらっしゃい!」などということになると、かなり痛い目を見ることは明らかだった。カンナはかなり強い。そして手加減しない。坂東巴流の剣はもっぱら実戦主体だ。もとが名家の剣術指南などではないから品位よりも勝つことのほうに重きを置く。特に前家元風馬の頃は、傍から剣道ではなく喧嘩道と揶揄されたほど荒っぽかった。彼女はその直弟子なのだ。
「やっぱり謝ったほうがいいんじゃないの」
最後に残ったひとつのお握りを見つめながら行馬が言う。遊馬も背中を丸めてそれを見ている。
「謝ってどうなる?」
「お寺に行かなくてすむ」
「それはそうかもしれないけれども……だな」
少し背を伸ばして腕組みをした。お父さんの真似だと行馬は思う。
「……寺には行かずにすんでも、やっぱり京都の大学に行くことになるんだろう。で、卒業した暁には弓だの剣だの茶だの、家を継ぐために脇目も振らず精進しますってことになる。そこまで言わないと、この場合収まらないんじゃないか? 嘘ついてごめんなさい、もうしませんで済めばいいけどさあ。それって、まずくない? 非常にまずい展開だと俺は思うね」
だから最初からまずい展開だと行馬は言っている。
「それで、ものは相談だけど、おまえ、この家、継ぐ気ない?」
行馬は左肩をちょっと引き、警戒感をあらわにする。
「何、言ってんの」
「長男だからって何も俺が継がなくてもいいわけよ。おまえのほうが適任だと思うよ。素直だし、真面目だし、頭もきっと俺よりいいだろう」
少しおだててみた。残っていた握り飯を取って、ほいと差し出してもみた。が、行馬は腕を後ろに回して受け取らない。
「あのね、ボク、カンナに言われてるんだ。そういう誘いにのって変なこと口走っちゃいけませんって。ボクは冗談のつもりでも、いろんなひとに伝わるうちに本気みたいになって御家騒動の種になるからだって。ボクはね、いつでもどこでも、一生お兄ちゃんのお手伝いをしていきますって答えてなきゃいけないんだってさ」
遊馬は呆気にとられて弟を見つめ、手にしたものを盆に戻した。
「御家騒動って、なんだよ、それ。時代錯誤なんだよ、あのひとは。そういうのは将軍とか大名とか昔の家の話だろう。俺とおまえが家元の座を争って喧嘩するかぁ? 京都の宗家のほうならともかく、うちなんか、誰もやりたがんないのよ。仙人みたいな飯喰って、天狗みたいな修行して、俺は牛若丸じゃないって。苦労したって全然|儲《もう》かんないし、こんな小さな流派じゃ家元ったって威張れるのは家の中だけだろ。ちょっと何かあるとどっかからじいさん連中がぞろぞろやってきて小言たれていくし、つまんないことでもいちいち京都までお伺い立てに行ったりとか。俺、京都に行くと、結局あいつらにへいこらしなけりゃいけなくなりそうでヤだね。なんか馬鹿にした感じだろ。坂東巴流? それなあに? ってなもんさ」
実際にそういうことがあった。
秀馬はそれまで警察学校で武道の教官を務めていたが、これを辞して五年前に坂東巴流の家元を引き継いだ。襲名披露の茶会には京都から宗家巴流家元が祝いを持って参じてくれたから、こちらからも京都まで返礼に行った。公子が前日になって体調を崩したので、秀馬は代わりに長男の遊馬を連れて行った。まだ中学生だった。向こうの巴家には子供が三人あり、姉妹にはさまれた息子が遊馬よりひとつ年上で、これがいかにも京都のぼんぼん風のなよっとした少年だった。
「坂東巴流ねぇ」と彼は言った。
「ちんまりしたはってええねぇ」
京都特有ののどかなイントネーションで、無論、馬鹿にされたのだろう。ムッとしたが、遊馬は黙ったままだった。言い返すような準備は何もなかったし、誰より遊馬自身が弱小流派であることに引け目を感じていたからだ。
何か言ってやればよかった。馬鹿にするなと殴ってやればよかった。いつか見返してやろうと敵意をたぎらせていたのに、それも永久にできないことになってしまった。とにかく京都というのは遊馬にとって験の悪い場所なのだ。
行馬は、ふうんという顔で兄を見ている。
「だから京都に行きたくないの?」
「まあな。それに、寺だの神社だの抹香くさいしさぁ。悪くはないよ、悪くは。舞妓ちゃんもいるし、食い物もうまいらしいよ。でもな、そういうのは、もっとじーさんになってから楽しめばいいと思わないか? 俺はまだ十代のこのときに東京でしておくことが山ほどあるんだ」
「どんな?」
「どんな……って、そりゃあ、いろいろだよ。おまえも俺の立場になって少しは考えてみろ。中学高校ってあんなガチガチの男子校に入れられて、中学のときは警官の息子が不祥事なんか起こしたら大変だからって、高校になったら今度は家元の息子が妙なことしたら困るからって、俺はいつだってじっと息をひそめておとなしくしてきたんだよ。このままじゃ、一生女の子にモテることもなく、茶筅《ちゃせん》振って暮らすはめになるんだぜ。ましてその前に寺の修行だなんて冗談じゃねーよ、まったく。マゾじゃないんだから」
思えば五年前のあのときだって、変に父親の立場に気を遣い、宗家巴流の御曹司に刃向かったらまずいだろうなどとさえ思わなければ、ひとつくらい歳上だろうとあんなひ弱な奴は軽くぶっ飛ばせた。そうはっきり認識したわけではなかったけれども、びくびくと縮こまっている自分に気づいたのはあのときだったかもしれない。家で悪さをしていたのは、言ってみればその反動のようなものだろう。
「女の子にモテたいから髪の毛青くしたの?」
「これは俺の再生の象徴だよ。これからは自分らしく生きることにしたんだ。黒々した髪七三に分けてあんこ喰っててもしょうがないだろ」
「ふうーん」と今度は声に出して行馬は疑わしそうに兄を見た。
「よくわかんないけど、ボクにはボクの人生設計があるし、遠大な計画もあるから、今さらアテにされても困るんだよね」
「そう……か。そういうことなら仕方ないか」
遊馬は両手を膝に当てて重たそうに立ち上がった。食器を片づけようとしていた行馬がその気配に顔を上げる。
「逃げる? 家出するんだよね?」
期待に目が輝いている。
なるほどたしかに遊馬は今それを考えていた。寺には行きたくない。小さかった頃、何か悪さをするとすぐに隣の寺に放り込まれた。とりわけ厳しくやってくれと和尚に親が頼むので、一日中座禅をさせられたり、寺中の雑巾掛けをやらされたりした。今度何かやったら隣ではなく比叡山だと、いつも言われていた。いつも言われていたから、ただの脅しだと思っていた。怒鳴られている最中でさえ、そこまでのことにはなるまいとタカをくくっていた。が、どうやら今度はほんとうに比叡山らしい。
「お兄ちゃんって軽薄な割には、決断が遅いと思うよ。ボク、最初っからこれは逃げるしかないって思ってたもん」
「嘘つけ、おまえは謝れって言ってたじゃないか」
「そうだけど、謝るつもりがないなら逃げるしかないよ。ほとぼりがさめるまで身を隠すんだ」
自分の部屋に戻った遊馬は、ベッドにどさりと腰を落とした。壁に買ったばかりのギターが立てかけてある。赤のストラトだ。
あのコンサートはよかった。大学入試なんかよりよほど価値があった。いくら反省しろと責められてもそれは無理というものだ。コンサートの日に試験など設定する大学が間違っている。
グループはブラジルのストリートチルドレンから成り上がって来た若者たちで、遊馬より年下のメンバーもいた。ちゃらちゃらしたメロディで売るのではなく、地球の底から湧いて出てくるような独特のリズムと迫力で聴衆を釘付けにしていた。
未来なんかどこにもない
引き裂いてむしりとって
割れた爪の間に作るんだ
彼らの言葉はわからなかったのに、そう歌われたときには全身に鳥肌が立った。そうだ、問題は〈生き方〉なんだ。爪を割って生きることなんだ。俺の生きる場所はとりすました茶室でも古ぼけた道場でもない。荒野だ! 荒れ果てた原野をひとりで突き進むのが俺には似合っている。
……とは思ったものの、それは真冬のことでまだ寒かったので、いったん家に帰るとそのままぬくぬくとしてしまったのだが、先日、一緒にコンサートに行った萩田《はぎた》から彼らのCDを借りて再び聴いたら興奮も甦り、そろそろ暖かくなったことだしバンドでも組んでちょっと派手に活動しよう、ついてはその地味な髪型をなんとかしろということになって、さっき遠慮がちに少しばかり髪を染めてきたところだった。
そうだよ、謝るとか謝らないとか、寺に行くとか行かないとか、そういう次元の問題じゃあないんだ。「よし!」とばかりに荷造りを始めたところへ弟が入ってきた。
「用意できた? ケータイ忘れないようにね。気分盛り上げようとかって窓から出ないほうがいいよ。あれ、映画で見るよりずっと難しいから。服汚れるし」
「……」
「あとさぁ、〈心配しないでください、捜さないでください〉って置き手紙すると、きっとお父さんとお母さん、ちょっとは安心するんじゃないかなぁ。〈人生の意味をひとりで考えたい〉とか書くともっといいと思う」
「なんだよ、おまえ、ずいぶん詳しいじゃん」
「ボク、いっぺんしたことあるから」
それは知らなかった。
「四年生のとき。なんか怖くなって夕方帰ってきちゃったから、誰もボクの書き置きに気がついてくれなかったけど」
遊馬はお気に入りのTシャツをリュックに詰めながら、へえと驚いてみせた。行馬は手を後ろに組んで柱にもたれている。
「何だってまた……」
兄とは違って聞き分けのよいこの弟は、隣の寺へ仕置きに出されたこともなかったはずだ。
「言ってもわかんないと思うけど。……お兄ちゃんはのんきでいいよね。ボク、カンナに聞いたことがあるんだけどね、うちの流派にしても京都の流派にしても最初に作ったのは次男とか三男とか、とにかく長男じゃないんだって。本家にいても用なしの息子が外に出て一から一生懸命作ったんだよ。だけど、そのあとを引き継ぐのは長男なんだ。いっつもそうだ。なんか不公平だよね」
「はあ? だっておまえ、継ぎたくないんだろ。さっきそう言ったじゃん。おまえが継いでくれたら、それでめでたしめでたしなんだよ」
行馬はため息をつく。
「そうかもね。でも、ボクはお兄ちゃんが何を言っても、それにのっちゃいけないんだ。カンナにボコボコにされちゃうから。気にしないでいいよ。これはボクの運命なんだ。ご先祖さまを見習って自分で切り開かなくちゃいけないんだ。ボク、家出したのはたったの八時間だったけど、〈人生の意味〉はそのときわかったから」
「ときどき思うけどさ」
遊馬はリュックの中身をぎゅうぎゅうと押した。
「なんか、おまえって小学生にしておくには惜しい奴だよな」
弟はさらに深くため息をつき、反動をつけて柱から背中をはがす。
「これ、ボクからのお餞別。いざというとき役に立つと思う」
箸箱をくるんだようなハンカチの包みを差し出した。
「準備できた? 出るなら花火の上がってるうちのほうがいいよ。少しくらい音立ててもわかんないから」
なるほど、たしかに開け放った窓の外では花火の上がるヒュルルという音がして、しばらくするとドーンと弾けた。秀馬の書斎からは実際に見えるはずだ。いつもの年なら秀馬は屋形船でいい気持ちになっており、残った家族は出前の寿司をとって書斎から花火を眺めている。それが梅干しか入っていない握り飯に格下げされたのだから不運としか言いようがない。せめて寿司を喰ってから出たかった。
とにもかくにも、こうして遊馬は別段足音を忍ばせることもなく、いつも遊びにでかけるのと同じようにギターとリュックを抱えて家を出た。他にあてもないので、萩田のマンションに転がり込んだ。高校時代のクラスメイトだ。
元はと言えば、両親の仕事の関係で昔ブラジルにいたことのある彼が、すごいバンドが日本に来ると騒いだせいで、遊馬は入試をさぼってまでコンサートにゆくことになったのだ。CDを貸してくれたのも一緒にバンドを組もうと誘ったのも彼である。頼ってきた遊馬を拒めるはずはない。彼のほうはすでに百パーセント髪の毛が金色だ。
萩田の両親は何度目かの海外赴任で去年の春から香港へ行っており、彼だけが吉祥寺に1DKの部屋を借りて暮らしている。朝早くから叩き起こされることもなく、寝ころんだまま物を食べても非難されることもなく、人生のレールを先々まで敷かれることもない、自由でおおらかなまことに羨ましい青春を謳歌している。おまけに大学は夏休みだ。
遊馬もここで人生始まって以来の自由を手に入れた。このふたりは正午近くにもそもそと起き出してカップラーメンやら牛丼やら母親たちの眉をひそめそうなものを食べ、好きな音楽をガンガン聴き、だらだら午後を過ごして夕方になるとギターやベースの練習をした。その自堕落さが遊馬にはたまらなく新鮮だった。
なにしろ友衛家の生活ときたら、夜の明ける頃には風馬や弥一が起き出して米を炊いたり釜の湯を沸かしたりしており、六時ともなると道場で秀馬とカンナが打ち合いを始め、七時頃から秀馬を筆頭に家族が身支度のできた順に朝食をとるその場所は茶室〈夕庵《せきあん》〉と決まっていた。脚のついた一人用の膳にお粥と焼き魚に総菜がひとつふたつ載っているという慎ましい献立で、育ち盛りの息子たちはたいてい出がけに台所で何かくすねずにはいられないわけだが、ひとつの儀式として習慣化している。しかもこのときにたいていはカンナが、時間にゆとりのあるときには遊馬や行馬が、稽古を兼ねて茶を点《た》てさせられた。毎日が朝茶事みたいなものだ。
夕食は七時。これは広間に全員が並んで向かい合う。この部屋にも卓はなく、朝と同じ膳に塗椀《ぬりわん》と皿が載る。ハンバーグだろうがステーキだろうが和食のように盛りつけられ、これを正座して箸で食べる。弥一やカンナも一緒であることをのぞけば、時代劇で見る武家の食事そのままだ。
よその家はもっと気楽なのだと知ったときにはかなり驚いた。母方の叔母の家に泊まったことがある。従弟《いとこ》たちはテレビを見ながら、がちゃがちゃと食事をしていた。そこで初めて、自分の家にはテレビがないということに気づいた。いや、ないことはないが、茶の間にはない。夕食を食べる広間、つまり遊馬が先だって秀馬に怒鳴られた部屋が友衛家の茶の間ということになってはいるが、テレビや卓どころか茶箪笥《ちゃだんす》ひとつない。あるのは床の間だけだ。
和室だらけの屋敷なので、フローリングやソファの生活にはいたく憧れる。叔母宅でカルチャーショックを受けたとき、さんざんごねてベッドだけは入れてもらったが、それも畳の上に載っている。そんなに板の間がよければ道場で寝ろと秀馬は一蹴《いっしゅう》した。
けだるいような自由の日々を二、三週間過ごした頃、旅行にでかけると萩田が言い出した。
一緒にバンドの練習をしている久美ちゃんという女の子がいる。ヴォーカルを担当する。帰省する友達について遊びに行くので車を出してくれないかと言っているらしい。萩田には父親の置いていったセダンがある。横浜のコンサートに行ったとき、遊馬が運転したのはその車だ。あのときはまだ無免許だった萩田も今では立派なドライバーだ。
「へぇ、いいじゃん。留守番してるよ。楽しんでこいよ」
いかんせん1DKの部屋に男ふたりで住むのは狭苦しい。居候《いそうろう》の身で文句は言えないが、しばらくひとりになれるなら、それはそれで快適に違いない。
「何言ってんだよ。おまえもだよ。京都までひとりで運転するのはつらいだろ」
「京都?」
「そう、帰省する友達ってのは翠《みどり》ちゃんっていう京女なんだ。可愛いぜ。向こうに着いたら一週間くらい泊めてくれるってさ。すごいだろ。ただで京都旅行ができる」
むろん、遊馬は気が進まない。京都は鬼門と心得ている。
「いや、俺はいいよ。遠慮しとく。第一、萩田、京都に行ったことないの? 真夏にわざわざでかけていくとこじゃないよ。〈脂照《あぶらで》り〉って言うらしい。むちゃくちゃ暑いんだ」
そうだ、あれも夏だった。五月に秀馬の襲名披露があり、その後毎週末記念の茶事を催し、一通り済んだところで京都へ挨拶にでかけた。公子が倒れたのは疲労のせいだったろう。全国的に猛暑で東京も暑かったが、京都駅に降り立ったときのあのじとっとした空気の重さには得も言われぬものがあった。
萩田は避暑にでもでかける気でいたから一瞬へぇと驚いたものの、すぐに切り返してきた。
「暑いのはここだって同じだろ。おまえがひとりで残ったって冷房代やら何やら金はかかるんだよ。一緒に来てくれればさ、ガソリン代も高速代も俺たち三人で割るから、おまえはいいから、運転だけときどき交替してくれよ」
こうなると打診ではなく命令に聞こえる。たしかに遊馬の財布は今からっぽだ。貯金はギターとアンプであらかたなくなり、わずかに残った分は美容院で使い果たした。毎月の小遣いは月初めにもらうと決まっているのに、浅はかにも家を出てきたのは月末だった。一文無しで萩田の部屋に転がり込み約三週間世話になった。それはそれで感謝すべきことだとわかってはいたけれども、恩に着せられれば面白くはない。
「冷房代くらい払うよ。よく考えたら飯代だってずっと出してもらってて悪かったよな」
「そういう意味じゃないって。ひがむなよ」
むすっとした遊馬を萩田はなだめ、その鷹揚《おうよう》さがかえって遊馬の癇にさわる
「いいよ。ちょっと俺、金作ってくる」
「作るって、どうやって」
遊馬は部屋の隅に放っておかれたリュックから小さな包みを引っ張り出し、萩田に手渡した。タータンチェックのハンカチにくるまれたそれをいぶかしげに開いて、萩田はきょとんとする。黒ずんだ細い竹筒だ。栓のような蓋がついているので開けてみると、中から細い竹べらが出てくる。
「そういえばさ、おまえんちってけっこう古い家だって誰かが言ってたけど、耳掻きまでこんな大事にしまい込むんだ?」
遊馬は学校で家のことを語ったことがない。茶道の家元だなどとは恥ずかしくて言えない。武道もやってますなどと言ったら、どんな目に遭うかわからない。ただ警官あがりの父親が厳格すぎて融通が利かないのだと、萩田にはそれくらいのことしか言っていない。〈友衛〉の姓はほんの一握りのひとびとにはぴんとくるものであっても、部外者にはちょっと珍しい名字のひとつにすぎない。それだけ坂東巴流の知名度は低い。
関東近圏に武家茶道坂東巴流の門弟約三千人。小学生か中学生の頃、社会科の授業中に計算してみたことがある。三千人がすべて都内にいたと考えて、東京都民の四千人にひとり、一都六県に分散していると考えると関東人の一万三千人にひとり、全国規模で見ると四万人にひとりが坂東巴流の門弟だ。彼らなら、もしかしたら家元の名前を知っているかもしれない。
茶道は習わずに武道のほうでのみ坂東巴流に属している者たちもいる。どれくらいかその数を遊馬は知らないけれども、剣道も弓道も全国規模の連盟の出す段位が公認となっているので、道場の主催者が坂東巴流だったとしても弟子にその意識があるかどうかは疑わしい。
萩田は無論、坂東巴流どころかどんな流派の茶道とも関わったことがない。先の曲がった細い竹の棒を見れば耳掻きを想像してもそれは当然というものだった。
「茶杓《ちゃしゃく》だよ。耳なんか掻いたら縁側の向こうまでぶっ飛ばされる」
「チャシャクねぇ。なんだかわかんないけど、きっとうっかり焚き火か何かに落としたんだな。焦げてるよ。こんなの、まだ使ってんのかよ」
「多分、百万円くらいにはなるはずだ」
とろんとした目で萩田は遊馬を見た。
「おまえ、熱でもあるんじゃないの。ご先祖さまから伝わればそりゃあ耳掻きだってお宝かもしれないけど、金とか銀とかじゃないよ。なんか汚い竹の燃えかすだよ。これが百万になるなら、俺、今から竹藪に行って火をつけてくるよ」
勝手に言わせておいた。わからない者にはわからないのだ。正直に言えば遊馬にもこの茶杓になぜそんな価値があるのかはわからないが、いつか稽古場に来ているおじさん連中が話していたのを小耳にはさんだところによれば、友衛家にある茶杓はどれもいいものばかりで、最低でも百万円は下らないとのことだった。そのときは、今の萩田と同様に驚いた。
茶杓ならいくらでも蔵にある。軽いし落としたくらいでは壊れない。これを持って行けと言った弟の慧眼に遊馬は感服した。
萩田のマンションから駅へ向かう途中に一軒手頃な道具屋があるのには以前から気づいていた。かなり大きな店構えで、ウィンドウには色絵の大きな壺など飾られている。百万円の茶杓だからあれくらいの店がよいだろうと見当をつけた。
場違いな格好をした少年が店に入ってくるのをいぶかしそうに見ていた主人は、茶杓を売りにきたと聞いてさらに怪しむ気配になった。
「おたくが、茶杓を?」
かまわず品物を見せた。
「うちは古道具屋じゃあないんでね、買い取りはしないんですよ」
そう予防線を張りながらも手にとってしげしげと筒を眺めた。途中で何度も眼鏡を持ち上げる。蓋を開けてそろりと茶杓を取り出し、これもまた矯《た》めつ眇《すが》めつする。奥へ持っていってなにやら古めかしい和綴じ本を開き読みふけったりもする。
「これ、おたくが削ったの?」
ようやくレジのところまで戻ってくると、そう聞いた。どういう意味か遊馬にはわからなかった。
「あなたが作ったのかという意味」
「ちがいます。もっと古いものです」
見ればわかるだろうにと、ちょっといらいらした。
「あ、そう……それは困ったなぁ」
「困る?」
「これ、本物だとすると大変だよ。徳川慶喜の作かもしれない」
それは知らなかった。それなら百万より高いだろうか。
「あのね、茶杓|箪笥《だんす》ってわかります? 茶杓を入れる箪笥だけど、近衛《このえ》家に伝わるものが有名でね、利休や織部のものから天皇の作ったものまで三十一本、名茶杓が入っている。これは今、京都にある。だいぶ格は下がるけど東京にも似たものがあって、たまたまこっちは友衛家という家にあるから友衛家の茶杓箪笥って呼ばれてる。公開してくれないから見たことないんだけどね、天皇の作はなかったはずだ。江戸時代からこっちの文人とか武人とか、そういうひとの作品が十九本だと本には書いてあるね。中に一本だけ将軍、というか元将軍だね、の作ったのがある。慶喜だ。これだと思うよ。同じ銘が入ってる。ほら、〈野分《のわき》〉、特徴も資料にあるのとそっくりだ。だけどね、あなた、友衛さんがそんな大事なものを売ったりしたら、こういう商売だから噂のひとつくらい聞こえてくると思うんだよ。そんな話聞いたことないし、本物ってこたない。こうまで似てるからには偽物ってことになるでしょう。よくできてるけどねぇ、仕覆《しふく》もないし、箱もない。三葉葵《みつばあおい》を刺繍したっていう筒袋がついてるはずなんだ。ほら、あのひとは男のくせにえらく刺繍が得意だったってんでしょ」
「本物ですって。だって友衛家って俺んちだから」
「はぁっ?」
まさかこの道具屋がそこまで知っているとは思わなかったが、そうなら話は早い。遊馬は免許証を出して見せた。〈友衛遊馬〉としっかり書かれている。写真もある。免許をとっておいてよかったと思った。
案の定、主人の態度はころりと変わり、いやいや友衛家のおぼっちゃんでしたか、ならば本物に違いない、疑って悪かったと即座に詫びた。
「わかりましたよ。何かご事情があって持ってこられたんだろう。今ここにはあまり現金がないんでね、とりあえず手付けってことで一万円だけお渡ししましょう。明日、もう一度いらしてください。用意しておきますから」
「いくらで買ってくれます?」
「百万でも二百万でもお好きなだけ」
主人はにっこり笑って茶杓を返してよこした。それを置いていけと言われたなら迷うところだが、返してくれたのだから今日のところは一万円でもいいだろう。領収書にサインして一万円札を受け取った。
「明日、午頃《ひるごろ》来ます」
主人はわざわざ戸口まで送り、お待ちしてますと言いながら深々とお辞儀した。しばらく行ってから振り返ったときにもまだそこにいてもう一度礼をした。ずいぶん丁寧なひとだと遊馬は恐縮した。
結果を聞いた萩田は心底驚いた顔をして、もう一度触らせてくれと茶杓をなでた。
「だけどおまえさぁ、百万でも二百万でもって、おおざっぱすぎない? 百万と二百万じゃえらい違いだよなぁ」
どっちでもいいと思った。二百万円なら万々歳だが百万円でもかまわない。十八歳の少年にとってはどちらでも似たような〈大金〉だ。その晩は遊馬の一万円で念願の寿司をとって食べた。
翌日、たかが十分弱の距離とはいえ大金を持ってひとりで歩くのは危険ではないかということになり、萩田が付き添って店へ向かった。
「昨夜《ゆうべ》あれから考えたんだけどさ」
玄関の鍵を閉めながら萩田が言う。
「もしかしたらそれ、二百万どころかもっと高いもんなんじゃないかな。一千万とかさぁ。だって、そうじゃなかったら百万でも二百万でもなんていい加減な答え方するか?」
昨日はこんな竹の切れっ端が百万かとそれだけでも疑わしそうにしていたのに萩田の認識は一晩でずいぶん変わった。
「袋と箱がちゃんと揃ってたら、もっと高いとは言ってた……」
「もう少し交渉の余地があるかもよ」
「そうだなぁ」
しかしいったんそれでいいと言ったものを、やっぱりもっと高く買えと言うのは男らしくないのではないか、〈武士に二言はない〉とも言うし、いやしかし、〈背に腹はかえられない〉とも言う、家宝を安値で売ったら先祖が化けて出るだろうか……などと悩む間もなく、店の前まで来てしまった。まあ、なりゆき次第だと決めて戸を開けた遊馬は、一歩踏み入れようとした脚をとっさに横へ引き、「逃げろ」と言うなり脱兎のごとく駆け出した。萩田は遊馬の背中と店の中を交互にきょろきょろして、わけもわからず慌てて友の後を追う。
「何だよ、どうしたんだよ」
一気にマンションの駐車場まで来て腰を折り、ハァハァ息をしながら萩田が聞く。急に走ったから脇腹が痛い。遊馬のほうは汗だくでしゃがみ込んでいる。身体はかーっと熱い。
「駄目だ。俺、京都に行く。連れてってくれ。今すぐ」
店の奥に主人と並んでちんまり座っていたのは弥一だった。目立たない場所にいたのだろうが、客が来るたびに首を伸ばして戸口を見た。遊馬が来たときもそうだった。しっかり目が合ってしまった。それまで青ざめていたのが、一瞬ふっと嬉しそうに目をゆるませた弥一の顔。それが頭から離れない。
考えてみれば、表通りに店を構えるまともな道具屋が、盗品とは言わないまでも明らかに不正な手段で持ち出されたものをそれと知って売り買いするわけはなかったのだ。そんなことが外に知れれば店の名に疵《きず》がつく。相手が家元ならば、内々に知らせて恩を売るほうが商売柄はるかに得策だ。
「俺は馬鹿だった」
部屋に戻った遊馬は両方の拳で自分の頭をがんがん叩いた。
「五万でも十万でも、昨日のうちに売っとくんだった。あんなとこで免許証まで見せるなんてどうかしてる。うちに連絡してくださいって言ってるようなもんだ。ああ、どうしてこう俺は考えなしなんだろう」
「まあ、そう自分を責めないで」
萩田は冷蔵庫から出したコーラをふたつのコップに注いだ。
「つまり、あの店にはおまえの家のひとが張ってたわけね。おまえをつかまえて連れ戻すために」
「そうだ、萩田。ここにいるとまずい。おまえが一緒だってこともばれた。おまえの名前もここの場所もたぶん知らないと思うけど、だけど、そういえば、昨日あの野郎、俺のこといつまでも見送ってたっけ。あれ、俺がどっちの方角に帰るか見てたんだよな。言っただろ、うちの親父は元警官なんだ。コネでも使って近所の交番に頼んだりしたら、こんなとこすぐにみつかっちまう。そうじゃなくても俺、もう駅までの道、歩けない」
リュックのポケットで携帯電話が鳴っていた。おそるおそる覗き込むと家の番号が表示されている。もちろん怖くて通話ボタンを押す気にはならないが、ふと気づいてみると、深夜にメールも一通入っていたらしい。〈ヤバイ。ニゲロ。行馬〉とあった。
「俺たち、昨夜何してたっけ」
「寿司喰って〈リッチマンの歌〉を作ってた。ジャカジャカジャカジャカ スカスカスカスカジャカスカジャカスカ アイアムアリッチマン!」
着信音など聞こえなかったはずだ。
それから二日間はじっと部屋に閉じこもっていて、三日目の朝、萩田の車にギターとベースを積んで出発した。
久美を拾ったところで遊馬はふたりに頼みごとをした。二日間考えた末の策だ。
「萩田も久美ちゃんも俺のことアスマとかアスマ君とか呼ぶだろ。あれ、ちょっとだけ変えてくれないかな。これからはアズマ君にしてほしいんだ。そしたら、普通の名字っぽく聞こえるだろ」
〈友衛〉という名字はけっこう目立つ。これから京都に行くのでは、〈巴〉と間違えられてなお目立つ。
「おお、家出人の自覚が出てきたね」
萩田は笑い、久美はなんだか面白そうだからいいよと請け合った。
代々木の女子寮前で翠という女の子を乗せた。音楽学校でエレクトーンを中心に勉強しているのだそうで、久美がバンドに誘っているところだ。
「こんにちは。よろしくー」
間延びした挨拶をしながら後部座席に乗り込んできた翠は、ふわりとカールした長い髪をおおざっぱに後ろにまとめ大きなクリップで留めていた。涼しそうな木綿のワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織っている。
「ミロリン、全然焼けてないね」
助手席から首をねじって久美が言う。こちらは肩に水着の跡が残るほどに日焼けしている。
「そうやねん。うち、日に焼けるとお祖母ちゃんに叱られんねん」
暑い暑いと手に持った麦わら帽子で顔を煽《あお》いでいる。
「色の白いのは七難隠すんやて。うち、美人やないし、色くらい白うしとかんとあかん言わはんねん。情けないわ」
「そんなことないじゃん、翠ちゃんかわいいよ」
バックミラーを覗きながら調子よく萩田が言うと、「クーミンの彼はやさしいなぁ」と、これまたぐわんぐわんとうねるようなリズムで呟いた。
「ミロリンって君のこと?」
隣から遊馬が話しかけたら、少しかしこまってみせた。
「はい、高田翠と申します。はじめましてー」
波打っている。
「あ、翠ちゃん、こいつ初めてだっけ。こいつは友衛……じゃなくって、アズマ君ね。字はなんだ、〈東〉か?」
最後は遊馬に確認した。
「どうせだから、バンドの中のニックネームそれにしようよ。ミロリンにクーミン、アズマに、俺はなんだろ、ハギリン?」
「怪物じゃないんだから」
「じゃあ、オハギ?」
「ややわぁ、ボタモチやんかー」
というような調子で、車内はきゃーぴーと軽く仲良しモードになるのだが、どうも遊馬だけは違和感から気持ちが取り残されてしまう。
「スタジオなあ、安いとこ、もう予約してあんねんけど、毎日午後二時間でええのん?」
「充分、充分。ミロリンのおかげでちょっとした夏期合宿だ。泊まりも大丈夫なんだよね」
「ふん。大丈夫やでー」
「三人も。一週間も?」
「あんなぁ、うちは狭い狭いうちやねんけどぉ、はす向かいにお祖母ちゃんが住んではんねん。二階の部屋は職人さん用にしてんのやけど、こないだ若いひとやめはったとこやし、そこ空いてんねんて。クーミンはうちの部屋に一緒に寝てもろて、男の子らはそっちにいてもろたらどないやて、お母ちゃん言うてはった」
「おお、それを聞いて安心した」
「職人さんって、ミロリンのうち、工場か何か?」
「うちぃ? うちは畳屋やん」
畳屋でも何でもかまわないがと遊馬は思った。
「あのさあ」
たまらず声に出してしまう。
「そのミロリンとかクーミンとか言うの、やめない? 気持ち悪いからさ」
「ええ、何でやのん?」
翠が眉を八の字にする。
「そうだよ、突然何だよ」
萩田が責める。
「気持ち悪いってずいぶんじゃない?」
久美は呆れている。
「そうやねぇ、そんなん言われたら、ちょっとショックかもしれへんねー」
さらに遊馬は胸をかきむしるしぐさをする。
「あんたさぁ、そのたらぁーたらぁーっとした喋り方なんとかなんないの? 俺、もうさっきからそのせいで酔っぱらいそうなんだよ」
翠は何を言われたのかわからない様子で、遊馬を見つめたまま身体をこわばらせた。
「おいおい、どうしたのよ。何、遊馬、機嫌悪いの? ごめんね、ミロリン。こいつ今ちょっと家族と揉めて追いつめられててさ、心にゆとりないみたい。今日も、実は俺が無理に付き合わせてて……。許してやって」
「そうじゃないだろ、俺のほうが頼んだんだろ。あそこにいるとヤバイから。ひとりでおとなぶるんじゃないよ」
変に庇われたことに遊馬はムッとした。
「そうなん? アズマ君、いやいや行くのん? ほんまは、うちとこ来たないんやー」
「別にあんたが嫌いなわけじゃないけど、正直言って京都は好きじゃない。あんたのせいじゃないのわかってるけど、周りの人間がみんなあんたみたいな喋り方してるの想像するだけで、なんかこのへんがムカムカするんだ」
ぐすっと翠は洟《はな》をすすった。
「そんなイケズ言われたん、うち生まれて初めてや……」
大粒の涙がついに落ちた。
「いい加減にしてよ」
久美が助手席から後ろに乗り出そうとするのを萩田の左腕が遮る。
「待て待て待て待て。今、パーキングに入るから、ちょっと待ってくれ」
日本平のパーキングエリアに入ると、遊馬は萩田に引きずられるようにして車の外へ出た。さらに駐車場の隅まで連れて行かれる。ふたりを強烈な日射しが照りつける。
「いったいどうしちゃったのよ。いくら何でもあれはないぜ。百パーセントおまえが悪いよ、初対面の女の子に言うこっちゃない」
遊馬はうんうんとうなずいた。
「でも、マジで気分悪いんだ。吐きそう……」
「嘘だろ、おい」
かがんだ遊馬の背を萩田はさする。
「おまえが車酔いしてどうすんだよ。高速道路で。俺の立場ないじゃん」
「あー、どうしたんだろ、俺。なんか隣であの子が喋るたんびに、ぐわんぐわん波に揺られるみたいな気がしてさ」
母ならこんなまどろこしい喋り方はしないのに、カンナなら三倍速だとそんなことばかり思っていた。
「とにかく謝れよ。好き嫌いはともかくとして、俺たち今から翠ちゃんちに世話になるんだからな。きっと飯だって喰わせてもらうんだから。スポンサーは大切にって、これ、バンドマンの基本よ」
というわけで、遊馬は車に戻ると萩田に後頭部を押し下げられて、翠にひどいことを言ってごめんなさいと詫びた。
「ちょうど時間だし、飯にでもする?」
萩田が提案すると涙をぬぐいながら翠が口を開く。
「うちな、お弁当作ってきてん」
「え、ほんとに?」
これはお愛想ではなく、本気で萩田は目を輝かせた。
「お金使うのもったいないし、冷蔵庫にいろいろ残しておけへんし、みんなの分も作ってん。でも、イヤやったら無理に食べてもらわんでもええねん……」
上目遣いで遊馬を見つつ、語尾は弱くなる。
「嬉しいよな?」
有無を言わさぬ語調で萩田が聞く。コクンと遊馬はうなずく。実際に弁当を広げると、「美味しいな?」とまた聞いた。遊馬もコクンと首を折る。そのしぐさが叱られた子供そのままだったから女の子たちも笑った。なんとか彼女らの機嫌も直ったように見えた。
几帳面《きちょうめん》に保冷バッグに収められた三角形のいなり寿司とセロリのきんぴら、そして卵焼き。実際、同じ歳の娘《こ》が作ったにしては、かなり美味しかった。この娘は、きっとこのために今朝ものすごく早起きをしたのだろうと思うと、遊馬もいささか後ろめたさを感じないでもなかった。
その後は京都のインターを降りるまでずっと遊馬が運転した。後部座席では女性二人が富士山が見えたと言っては騒ぎ、音楽談義に熱中してはしゃぎ、助手席の萩田はそれに相づちを打ちながら時々うとうとしていた。運転に集中していれば後ろの会話はあまり耳に入らず、それでなんとか京都まで遊馬は持ちこたえた。
「あれは?」
高速を降りたあたりで再び運転を替わった萩田が声を上げる。フロントガラスの向こうに甍《いらか》を重ねた塔が見える。大気が熱を帯びているせいか、その稜線は心なし柔らかい。
「弘法さんの五重の塔やわ」
「なんか、京都に来たって感じじゃん。気分が盛り上がってくるなあ」
「そうや、明日二十一日やんか。弘法さんの日ぃやわぁ」
弘法さんというのは東寺のことらしい。境内に毎月|市《いち》が立つ。
「市かあ、ああ、なんてエキゾチックな響き」
市ぐらい東京にだってある。朝顔市にほおずき市に酉《とり》の市……と遊馬が考えている間にこれまた巨大な西本願寺の前を通過した。
「寺ばっかりだよ」
助手席で小さく呟くと、隣から萩田の肘で小突かれた。
車は広々とした通りを北上している。
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二、 与話情京畳《よわなさけきょうだたみ》の段
「あんなぁ、蛸薬師《たこやくし》を左折してな」
「え、どこ?」
「蛸薬師」
「タコぉ?」
残りの三人は内心ぎょっとしたのだが、言われるままに道を折れ、しばらくしてここだと示されたのは、通りに面して両開きのガラス戸のある古風な家だ。蛸はいなかった。
「ちょっと待っとって。車のこと聞いてくるし」
翠は跳ねるように車を降り、すでに家の前に停まっているバンの陰をすり抜けて家の中へ消えた。一方通行の狭い道にもう一台停めるのはなるほど不可能だ。翠はすぐに戻り、後ろからブルーのワイシャツを着た青年がついてくる。
「荷物ここで降ろそ。車はこのひとが置きに行ってくれはる」
ご苦労はんどした、とにこにこしながらキーを受け取る青年は小柄で、ひとことで言えば今風のかわいらしい顔立ちをしている。少しバックした後切り返して道を曲がっていった車を目で追いながら、「弟?」と久美が聞いたのも無理はなかった。翠は胸の前でひらひらと掌《て》を振る。
「ちゃうちゃう。幼なじみやねん。なんや、お父ちゃんに用事あって来たはったらし。哲ちゃんは不動産屋さんなん。ネキに空き地ができたし、車しばらく置かせてもらえるようあんじょう言うたげる言わはってん。哲ちゃん、ああ見えてうちらより歳上やで」
通りはひっそりしている。ときおり通る車を身体を横に腕をひろげてかわしながら、萩田は昔懐かしい感じのするその家をしげしげと眺めている。〈高田畳店〉という古い看板が軒に隠れるように張りつけてある。夏の夕暮れの傾きかけた太陽が黄色とも朱色ともつかぬ光でその家を丸ごと包もうとしているところだった。
「あそこは何だろう? 蔵かな」
萩田は二階を指さした。木造の建物なのに、二階だけが白っぽい土壁で、しかも格子状になっている。
「ふん。納戸やね。〈むしこ窓〉言うらしいんよ。虫籠《むしかご》みたいやろ」
虫籠というよりは牢獄のようだと遊馬《あすま》は思ったけれども、先ほどのこともあるのでもう口には出さない。
やがて翠の母親が脇の小さな通用口から現れた。男の子ふたりの派手な髪を困ったもののように眺め、ようお越しやしたなと挨拶するなり開け放たれたガラス戸の中へ押しやったのは、近所の目から隠したいと思ったせいかもしれない。
入ってすぐが作業場で、隅では畳をくわえ込んだ機械がガシャンガシャンと音を立てている。付き添うように立っていた翠の父親は、白いタオルを頭に巻いて上半身はランニングシャツ一枚、挨拶は後でという合図だろうか半身で振り返り会釈だけをする。ぷんとイ草の匂いがした。
畳を載せる台やら、藁床《わらどこ》やら、巻いたゴザやらが並ぶその奥に座敷が一間あり、作業場との境にある引き違い戸の上に神棚があった。遊馬は下を通りしなパンパンと手を叩き、おやという表情でその一瞬だけ翠の両親が遊馬をみやった。
その晩は、鱧《はも》などふるまわれ賑やかに食事をした。
「なんや、けばけばしい髪の兄ちゃんらやな。最近は、音楽すんのにそんなんせんとあかんか」
その昔は自分もロックやパンクをよく聴いたという翠の父は、それでも萩田と遊馬の頭を見て呆れたように言い、萩田は相手が相手なので「はあ」とか「いや、その」とか答えに窮する振りをしている。
普段ははす向かいの家に住んでいるという翠の祖母も一緒におり、こちらはふたり並んだ髪を交互に眺めて、連獅子《れんじし》みたいやねえと笑った。
「それにしても翠ちゃん、帰ってくるの遅うおしたなぁ。お父ちゃんもお母ちゃんもまだかいなまだかいなて、えろう首を長《なご》うして待ってはったえ」
「そやそや。大学はとうに夏休みになってんのに何をしとったんや」
「そやかて特別レッスンやらサークルやらいろいろあんねん」
「お友達をご招待すんのやったら祇園さんのお祭でも見せたげたらよかったのに。もう大文字さんも過ぎてしもたえ。何にも見るもんないんとちゃいます?」
「ほんまに気ぃのきかん子ですわ」
家族に責められて翠はたじたじだ。明日は朝から東寺へ行くからと、あらかた食事を終えたところで強引に友人たちを立たせ、〈離れ〉と呼ばれているはす向かいの家へ案内する。
店のほうと比べれば小ぶりではあるものの、こちらも基本的に似た町家づくりで、左右の壁は両隣とつながっている。隣の玄関先には朝顔やアロエの鉢が並び、そんなところはどことなく東京の下町に似ていなくもない。
通りに面した引き戸を開けると奥へ向かってまっすぐに細い土間が延びていた。見上げればその上は屋根まで吹き抜けている。煤けた太い梁《はり》が何本かわたされており、その向こうに明かりとりの窓がある。部屋は土間に沿って和室ばかりが三つ縦に並んでいる。真ん中の三畳間の前に靴脱ぎ石が置かれ、そこから上がり込んだ正面に見える押入のような戸をがたごと開けると階段が現れた。
「面白いやろぉ」
隠し階段のようなそれは一足ごとにみしみしと鳴る。秘密めいていて不思議な気分だ。二階は四畳半が三部屋。一番奥の部屋に寝るよう、ふたりは言われた。
「お風呂は外やで。お祖母ちゃんは最後に入る言うてはったし、ふたり順番に入ってな。なんかあったらケータイ鳴らしよし」
翠と久美が去ると、風呂には萩田が先に入ることにして、その間、遊馬は下の三畳の上り口に腰掛け、ぼんやりと土間を眺めていた。
土間と言ってもただの土間というわけではなく、丸い敷石をあしらった三和木《たたき》になっている。水を撒いたのだろう、しっとりと濡れていて、ひとつひとつの石の色の違いが鮮やかに見える。うっすら緑がかった石があり、赤っぽい石もある。夜とはいえまだ暑い。水など撒いてもすぐに乾く。誰がいつ撒いたのだろう。そんなことを考えていると、東京の家の露地を思い出した。弥一がいつも水を撒いている。茂った木々の葉陰はそこだけいつもひんやりとして涼しかった。と、あの道具屋の奥で自分を見て一瞬嬉しそうに目元を緩めた弥一の顔が浮かんできて切なくなった。
翌日、東寺へ出かけたのはもう日も高くなってからだ。境内ばかりでなく寺の塀の外まで植木や小物の露店が溢れるように並んでいた。それでも盛夏のことでいつもよりは人出が少ないという。
萩田と久美は楽しそうにいつ果てるともなく店々をひやかしていたけれども、翠は差している日傘が人通りの邪魔になるので大師堂の前で待ち、暑さにまいった遊馬も途中から日陰をもとめて彼女に並んだ。
並んでも話すことなどない。気まずい沈黙が強い日射しにどろりと融ける。こんなとき、アイスクリームのひとつも奢れないのは男として情けないことだとぼんやり遊馬は思っていた。傍の木にとまっている油蝉がやかましく鳴いている。
「アイス食べはる?」
翠が聞いた。首を横に振ると、奢ってあげるよと言われ、なおさら頑固にいらないと言った。
「そう……」
翠はレモン色のシャーベットを買ってきて、遊馬の隣でぺろぺろと舐め始めた。美味そうだなと思ったら、ため息が出た。
「ちょっとは慣れはった?」
シャーベットの山を舐め終えて、緑が小さく首をひねる。
「何が?」
「うちらの言葉、好かんて言わはった。まだ慣れへん?」
遊馬はしばし考える。別に好きとか嫌いとか言った覚えはないが、慣れたかと聞かれればまだ慣れない。翠はそうかぁと呟いて、手の中に残ったコーンをサクサクと囓った。聞かなければよかったというように。
遊馬のほうがふと思いついて尋ねた。
「お祖母さん、お茶してない?」
翠はコーンも食べ終え、手についた粉を払う。
「お茶て、お抹茶のことぉ?」
「そう。茶道」
「したはるよ。先生《せんせ》したはる」
やはりそうだ。昨夜、冷蔵庫に麦茶があるから好きに飲んでよいとお祖母さんに言われ、風呂上がりにグラスを探していたら戸棚の中に割り蓋の平水指《ひらみずさし》があった。訳もなく、これはまずいという気がした。
「何流?」
「……巴流やけど。なんや、もしかしてアズマ君もお茶したはるのぉ?」
翠の声は少し弾む。
「まさか」
遊馬は強く首を横に振り、疑わしそうに翠が見つめるので、「お茶とか華とかあんな澄ましたものは大嫌いだ」と付け加えてしまった。
また気まずい一瞬が通り過ぎる。翠は、日陰にもかかわらず差し続けていた日傘をふと降ろして閉じた。
「あんなぁ、アズマ君の気持ち、うちにもわかるよぉ。なんでかて言うたら、うちらかて東京のひとの言葉聞いたらえらい乱暴やなぁ、いつもいつも何を怒ったはんねんて思うしなぁ。そやけどぉ、思うてもそうは言わへんやろ、普通。そんなん言うのんは知性の足りん野蛮人やろ」
そのあと北山の貸しスタジオに入ったものの、セッティングに時間がかかって実質あまり練習できなかった。翠に野蛮人だと言われ、その場では、あ、そう、と軽く流したものの遊馬は内心ずっとむかついていて、練習に身が入らなかった。次の日も次の日も同じことだ。
とりあえずみんなで一緒に演奏できる曲を何か持とうというので、萩田と久美の選んだ課題曲を東京にいたときからせっせと練習してはいたのに、遊馬のギターは遅い遅いキレがないと指摘されてばかりいた。どうしても指のうまく動かないメロディラインがありもたついていたら、貸してみろと萩田がギターを受け取り、こうだよと弾いてみせた音は誰が聴いても遊馬より上だった。
パートはジャンケンで決めてあった。遊馬が勝ってギターを取り、負けた萩田はベースでいいと言った。キャリアも技術も萩田のほうが上なのは互いにわかっていたけれども、そんなものは練習すれば克服できる。バンドとして考えたときには、遊馬のギターを自分が後ろで支えるほうがバランスもよいと萩田は判断したのだった。後から考えればその妙な物わかりのよさこそが失敗の種だった。
七日目の夕方、食事の後である。ちょっと散歩しないかと萩田に誘われ、妙だと思ったら、予定より一日早いが明日東京に帰ることにしたと一方的に告げられた。
「あまり長居しても翠ちゃんちに悪いしな。で、言いづらいんだけど、おまえは乗せていかないことにした」
何を言われているのか、遊馬はとっさには理解できなかった。
「久美ちゃんが言うんだよ。来るときみたいなドライブをまたおまえとするのは嫌なんだと。そうとう頭にきてるみたいなんだ。俺としては、おまえと彼女のどっちか選べって言われたら彼女を乗せてくしかないだろう?」
「だって運転は……」
「まあ、ふたりなら途中でどこかに泊まったっていいし」
「俺は邪魔者ってわけだ」
「……そうとってくれてもいいよ」
「あのさぁ、俺だって野暮なことは言いたくないけど、ひとを京都くんだりまで連れてきて、邪魔になったから、はい、さようなら、って。それはないんじゃないか。俺はどうするんだよ。一文無しだってのに」
「百万でも二百万でも売れる茶杓があるじゃないか」
「それは……。なら、練習は? 翠ちゃんはともかく俺たちは夏休みのうちにもう少しレベルアップしようって言ってたよな」
「うん、あれはもういい」
萩田は言いにくそうに、おまえはもういいのだと繰り返した。
「俺さ、正直言っておまえにはちょっとがっかりした。金のことなんか別にいい。お互いさまだから。ただ、ギターはもっと真面目にやってほしかった。今、うまくなくたっていい。なんかこう上を見て努力してほしいっていうか、熱いものを感じたいわけ。クラプトンやリッチーになれとは言わないけど、せめてジョージ・ハリスンくらいは目指してほしかったんだ」
久美にも翠にも意見は聞いてあり、遊馬のギターに見込みがないということではみな同感だった。たとえ名ギタリストだったとしても、性格的に一緒にはやっていけそうもないと女性たちは言ったそうだ。
むしこ窓というものを外から見たとき、牢屋のようだと遊馬は思った。だとすると、今、その格子の隙間から恨めしそうに外をうかがっている自分はまさに囚人そのものだ。道路に面したその部屋は天井の低い板張りの納戸で、冬の建具やら畳やらが仕舞われている間に遊馬は立っている。
昨夜、萩田に引導を渡されてから、結局ひとことも口をきかなかった。萩田のほうは気を遣ってあれこれ話しかけたのだが、遊馬は答えなかった。目が覚めても朝食に出て行く気になれない。おまえなんか出ていけと言われた後で、どうしてにこにこ食卓など囲めるだろう。
何をどう考えればよいのかわからず困惑するばかりの遊馬を残して、萩田と久美は東京へ出発するらしい。礼を言う久美の声や、気をつけてと見送る翠とその母の声が聞こえる。萩田がエンジンをかける。ためらう気配もなく発進する。あっという間にエンジン音は聞こえなくなった。
遊馬は窓を離れ、奥の間に戻って自分のリュックを見やる。
「家出もけっこう楽しかっただろ。そろそろ家に電話してみたら? 帰ってこいって親父さん言ってくれると思うぜ」
昨夜、黙り込んだ遊馬に向かって萩田はそう言った。そのときはむっつりやりすごしたが、こういう状況になってはやはりそれしかない。ぺたりと座り込み、リュックを引き寄せ、もそもそと携帯電話を取り出す。家に電話をすれば、多少怒鳴られたりはしても、きっと誰かが帰ってこいと言ってくれるだろう。茶杓はまだ手元にある。そう伝えたら、ほっとして新幹線代くらいは送ってくれるはずだ。格好悪くても、今はそれしかないのだと自分を納得させ、電話機を握りしめたところで気がついた。
京都に着いてから放ってあった電話はバッテリーが切れている。充電器はない。ああ、そうなんだと思った次の瞬間には体中の筋肉から力が抜け、遊馬は畳にごろんと横たわっていた。
もちろん冷静に考えれば公衆電話を探すとか高田家に電話を借りるとか、方法はまだいくらもあった。ただ、追いつめられてじたばたする惨めさに我慢がならなくなり、どれくらいだろう、自分にはかなり長く感じられたけれども、おそらく十分かそこらだろう、外でバタンッという音がするまで、遊馬はこの世界から逃避して、からっぽになっていた。
聞こえたのは自動車のドアの閉まる音だ。ああ、萩田たちが後悔して戻って来たにちがいない。今ならまだ許してやる。何とか重たい身体を引きずりあげ、這うようにして窓に寄った。
萩田の車ではない。〈高田畳店〉と右から左に書いてある白いバンだ。高田氏が運転席から降りて後ろへ回り、荷台の畳を引き出し始めた。あいかわらずの格好で、口笛を吹いている。若いアイドル歌手の歌だ。このひとは年齢はおそらく遊馬の父とさほど変わらないが、見た目も気持ちもずいぶん若い。最初に見たときには歳の離れたお兄さんかと思ったくらいだ。
五秒ほどそれを眺めると、遊馬は部屋のクーラーを止め、階段をぎしぎし鳴らして降りていった。
「手伝います」
おお、と高田は返事した。
バンから降ろした畳を六枚、作業台の上に重ねたところで、高田は奥に向かって茶をくれと怒鳴った。椅子に腰かけ煙草に火をつける。翠の母親がガラスのポットごと麦茶をもってきた。
「具合、ようならはったんですか」
遊馬を見てそう言うところをみると、どうやら彼は体調が悪くて朝食を抜いたことになっているらしい。車に同乗しなかったのもそのせいだと。
彼女はすぐに奥へ引っ込み、煙草を吸い終わった高田は畳から縁布《へりぬの》を剥がしにかかった。物差しで何やら寸法をとっていたかと思うと、大きな包丁を縁の下に滑らせ糸を切っていく。
「あの」
所在なく立っていた遊馬は勇を鼓して言ってみた。深呼吸をする。
「折り入ってお願いがあるんですが……」
高田はビクリと手を止め、「なんや」とドスのきいた声で遊馬を見上げた。手に握られた畳包丁が怖ろしげに光る。
「いえ、あの、その……、たいへんあつかましいとは思うんですが、ぼくをあと二、三日、お宅に置いてもらえないでしょうか」
包丁の先がポトンと畳の上に落ち、もとの作業に戻っていく。
「ああ、翠がそないに言うとった。もう少しいてもろてもええやろかて」
状況からして遊馬に好意を持っているとはとうてい思えない翠が両親にそう頼んでくれたのは同情心だろうか。
「それはええけどな」
縁が剥がれ、表《おもて》が剥がされる。
「あんた、うちの娘とどういう関係なんやろ」
「はい?」
「付き合《お》うてんのかという話や」
「まさか。そんな関係ではありません」
「ただの友達か?」
「いや、あの」
友達とさえ言えない気がした。ここへ来る車の中で知り合い、それからずっと激しく嫌われている。
「やっぱり違うんやろ」
「いえ、友達です。ただの友達です」
ふーんと高田は遊馬の顔を検分するように眺める。
「あんたがさっき頼みがある言わはったときな、わしが何思たかわかるか」
「わかりません」
「あんたが、翠を嫁にくれ言わはんのやないかと思たんや」
それはあまりに突飛な発想である。
「そやかて、さっきふたりは予定より早く帰ったやろ。ふたりは帰ってあんたと翠が残ったんやろ。誰かてあんたと翠に何かあると思うで」
「違いますっ」
「ほうか。ま、翠もそないに軽い娘には育ててへんけどな。けど、あんたは気があるんか。あの娘《こ》に」
「ありません」
「なんでや」
「好みじゃないので」
「あんたうちの娘にケチつけんのか」
いや、そうではなく……遊馬は頭が混乱してくる。
「翠さんは、ぼくにはちょっとおとなしすぎるというか、お上品すぎるというか、はい。もったいなすぎるので。ぼくは、こう、もっと威勢のいい娘《こ》が好きだったりするもので。すみません」
「なーにがお上品や。おとなしい娘《こ》ぉが親の止めるのも聞かんと東京くんだりまでひとりで行くか。音楽学校くらいなぁ、京都にかてぎょうさんあんのやで」
「はあ」
「たいした理由ものうて東京になんか行っとったら、遊んでる娘《こ》ぉや思われて、見合いの口ものうなってまうわなぁ。だからっちゅうてあんたにはやらへんで。ひとり娘やさかいな。卒業したら戻ってきて婿はんもらうて約束や。東京|者《もん》は論外やで。東男《あずまおとこ》のアズマはんにはやれへんねん」
「いりません」
「……そういうのも、あんた、なんや気ぃ悪いで」
最後の一枚の表が剥がされ、裸にされた床《とこ》の修復にかかる。言ってみれば畳の芯《しん》である。重い家具か何かでできた芯の凹《へこ》みに藁を埋め縫い止めて表面を平にする作業らしい。
一段落したところで昼食に呼ばれた。翠はいない。高校時代の友人のところへ遊びに行っているというのは、おそらく自分と顔を合わせたくないのだろうと遊馬は思った。
冷やしうどんをすすりながら正午のニュースを見る。連続ドラマを見る。それが終わると作業が再開する。やはり遊馬はぼんやりそばで畳職人の仕事を見ているほかに仕様がない。
修復した芯に、新しい畳表を張ってゆく。ゴザ状の表をのせ、短い縁《へり》に巨大なまち針をぶすぶすと刺す。表がずれないように押さえて幅の余分を大きな包丁ですーっと断つ。あっという間だ。
今度は機械にのせて、大きなミシンでガシャンガシャンと縁を縫う。縁布も縫う。想像していたイメージとずいぶん違う。畳というのは太い畳針で一針一針縫い、その一針ごとに肘を挺子《てこ》に強く糸を引っ張るのだと思っていた。実際にはずいぶん機械化されている。
「それやったら、あんた、なんであのふたりと一緒に帰らんかった」
やかましい機械に負けない声で高田は聞いた。
「夏休みの間、翠とふたりで遊ぼて魂胆やないのんか」
「全然ちがいます」
遊馬は大きく首を振る。
「なんというか、つまり、ぶちまけて言うと帰るところがないんです」
「ああ? どういうこっちゃ。親は?」
「勘当されました」
ほとんど怒鳴るようにしてそう答えた。家出よりは勘当のほうが多少聞こえがいいような気がしたのだ。実際、もう勘当されていてもおかしくはない。
高田はしばらく何も言わず畳と機械を見つめており、やがて元の台に畳をのせると、「なんでまた」と遊馬の顔を見た。
なぜだったろう。ああ、そうだ、寺へ行きたくなかったからだ。
「お寺はんの子か、あんた、坊《ぼん》さんなんのがいやで親に反抗したんやな」
一人合点し、機械が縫った縁布の角を留めていく手作業に移る。家は寺ではないけれども、まあ似たようなものだと遊馬は思った。
「ほしたら行こか」
巨大なかぎ針のようなもので畳を引っかけ持ち上げて高田が言う。
「どこへですか」
「納品や。手伝《てつと》うてや。運ぶくらいできるやろ」
遊馬がぼんやりしている間に、畳六枚の表替えは全部終わっていた。それを荷台に積んで二条城の先まで行く。古いアパートの外階段から二階へ一枚ずつ運び上げる。部屋のつくりは手前に板敷きの台所が三畳ほど、襖《ふすま》の向こうに六畳間。当たり前だが畳を剥がされて床板が見えている。持ってきた畳をここに並べるのだと思ったから、勝手に敷いたらそれではないと怒鳴られる。
「裏に印があるやろ。ああ、これや。これが窓際。こっちゃ側が奥やで」
どうやら畳はみな同じに見えて一枚一枚サイズが違うらしい。南北の向きも決まっている。
「当たり前や。この部屋はきっちり長方形に見えてそうやない。あちゃこちゃ微妙に歪んどる。新しい家かてそうやで。その家造った大工の程度は畳屋がいっち知っとるわ。そやけどぉ、どないに曲がった部屋やろうとぴっちり畳入れさしてもらうのんがわしらの仕事や。考えなしに同《おんな》し形の畳持ってきたらどもならんわい。見てみい。ガタガタの家やけど、一ミリも隙間なんぞないやろ。きっちり直してきたしな」
畳の角をとんとんと踏みつけながら言う。
なるほど言われてみれば壁際にも敷居との間にも隙間はなく、畳と畳はどこもきっちりした直線と直角で接している。ふと気づいて見ると、縁布のない短い辺同士が接する場所で二枚の畳はまるで続きの一枚であるかのようにその目も縁布の幅も揃っている。
「そのほうが気持ちええやろ。ま、学生さんにでも安う貸さはる部屋やし、誰もそないなとこまで見いひんけどな、だからゆうてええ加減してたら腕が荒れよるしな」
朝から作業をずっと見ていた後だったから、なんだか魔法のように思える。そんな繊細な仕事をしているふうにはまったく見えなかったのだ。
「そないに褒めんでもええて。京都の畳屋やったら誰でもこれくらいする。藁床《わらどこ》やのうてボード入りやし、ほんま言うたら角出すのは簡単なんや」
それでも遊馬が感心すると、この畳屋の親方は少し気持ちよさそうに台所の流し台にもたれて煙草を吸った。
「高田さん」
遊馬は敷かれたばかりの青々した畳に正座して親方を見上げた。
「なんや。弟子にしてくれ言うんやないやろな」
図星をさされた。高田畳店で働かせてもらえば住む場所にも食べるものにも困らないと思ったのだ。親方は笑った。
「あんたなぁ、そういうのんを〈安直〉言うんやで」
「そうでしょうか」
「畳屋になる気ぃあんのかいな。本気で畳職人になろ思てんのか」
「……」
「本気でそない思うのやったら教えたるで。いくらでも仕込んだる。けどちゃうやろ。ちょっと半日仕事見て自分にもできそやな思ただけや」
煙草をシンクの底で揉み消し、吸い殼を携帯用の灰皿に入れた。
「アズマはん、ほんまは何がしたいねん」
高田はこきこきと回した首をまっすぐに立てて尋ねた。
「何がって」
「坊《ぼん》さんの修行がいやで逃げてきたんはわかった。あんたは坊さんにはなりとうない。で、何になりたいんや? あんさんの志は何や」
「ココロザシ……ですか」
そういえば家を出るにあたって何か志めいたものがあったはずなのだが、遊馬はどうしても思い出せなかった。とりあえず昨日までは、萩田と一緒にバンドを頑張ろうと思っていた。そこに何かとっかかりがある気がしたのだ。萩田と別れたくらいでその道を捨てたつもりはないけれども、彼なしでは何をしていいのか見当がつかず、第一、今はそれどころでもない。
「たしかにうっとこは今、若いもんが抜けたとこやし、あんたが今日みたいにちょこちょこ手伝《てつと》うてくれはったらそれなりに助かることはある。今日は誰も住んでへん小《ち》っちゃい部屋で楽ちんやったけど、ひとさんが住んだはる家の表替えは箪笥動かしたりなんやらひとりではできひんこと多いねん。アズマはん、ちゃらちゃら青い髪しとるわりには、けっこう身体できてはるようやしな。そやけどなぁ、なんや暇つぶしみたいな腰掛け気分やったら、なんぼわしかて悪いけど相手してる暇ないねん。ひとさんにものを教えるゆうのんは大変なことやで。畳の張り方教えるより自分で張ったほうが早いねん。そやろ」
「はい」
「まあええわ。どうでもええけど、そないなとこ座っとったら汚れるでぇ」
遊馬は腰を浮かしてわっと叫んだ。ジーンズの膝から下が真っ白だ。
「イ泥や。イ草っちゅうもんは、最初にどぼんと泥につけてあんねん。そやないとすぐに色が褪《さ》めてしまうさかいな。乾くとそんなん白い粉になる。新しい畳は泥だらけっちゅうことや。そやなぁ、一度カラ拭きしとったろか。もしかしたら可愛《かわい》らしいお嬢さんが住まはんのかも知れへんしな」
放り投げられた雑巾で畳を拭くのは無論、遊馬である。親方は這いつくばる遊馬を見下ろしながらもう一本煙草に火をつけた。
再びバンに乗り込み家路につく。途中で不動産屋に寄った。ここの紹介で請け負った仕事だったので、作業完了したことを報告し鍵を返す。
「哲のいる店やねん。最初に会《お》うたやろ」
一週間前、萩田の車に駐車場を世話してくれた青年のことだ。
「おらんでよかった。やかましやっちゃ」
だが、やかましいから店にいなくてよかったと言われた青年は、しっかり高田畳店の前に立っていた。運転席からそれが見えると親方はおおげさにため息をつく。店の前に車を停めてもすぐに降りていこうとしない。と、青年のにこやかな笑顔が窓を覗き込む。
「ったく、しつこいやっちゃで」
勢いよくドアを開ける。青年はいったん飛び退《の》き、またすり寄ってくる。
「ご苦労さんどした、お帰りなさい」
「あんたにお帰りなさい言われる義理はないで。うちで油売ってんと早《は》よ帰りやぁ」
そう言われても嬉しそうに店の中までついてくる。
「そない言わんとぉ。真面目に考えてぇや」
「駄目駄目。うちは売らん。何度|言《ゆ》うたらわかんねん」
「貸すだけでもええ言うてますやん」
どうやら不動産屋の哲さんが、畳屋の家屋を売買したがっているということのようだ。親方は大きな畳包丁をこれ見よがしに研ぎ始めて威嚇するけれども、哲さんのほうはひるむ気配もない。
「こんなええ場所で、年季のいった町家や。ちょこっと直して売りに出さはったら、レストランでも居酒屋でもええ買い手つきますねん。隣近所もなんやかやお店にしはったらこの細い路地が石塀小路《いしべいこうじ》みたいな雰囲気のええ観光スポットになると思うんやけどなぁ。今が売り時ですて。町家ブームなんや。こんな古ぼけた家が金になるなんて今しかないで」
しゅっしゅっと、刃の砥石《といし》をこする音がする。
「何も儲けるために古い家に住んでんのやないわ。うちはこれで間に合《お》うてるだけや」
「そやろか、翠ちゃんはもっと天井の高い部屋がほしいわぁ言うたはったで」
「東京《トーキョ》へ出てった子に言う権利はない」
「新しいうち建てはったら戻って来はるかもしれまへんやん」
「どのみち卒業したら帰ってくる約束や」
「約束いうのんもアテにならんもんやで。ぼくというものがありながら、なんでまた遠くへ行ってもうたんやろ。東京のええとこの坊《ぼん》なんかにつかまって、もうあんな古くさいうちには帰りとうない言われたら、おっちゃんもぼくも泣かなあかん」
泣き真似をしながら、さりげなく遊馬のほうを見る。〈東京の坊〉というのは遊馬のことらしい。「はあ?」っと間抜け顔で遊馬は小首を傾《かし》げている。
「それになんやねぇ、おばちゃんも言うてはったけど仕送りかて馬鹿にならんのでっしゃろ。今日日《きょうび》、畳の注文なんてたかが知れてますやん。家賃収入のほうがよっぽど安定して儲かんのと違いますか」
「ごちゃごちゃひとのうちのことに口突っ込まんでくれるか。うちはな、三代前からずっとここで畳打ってんのや。いまさらどこへも行かへん」
「三代くらいで威張ったらあきまへんて。そんなん言うたら、うちかて平安朝の昔からいてますわ」
「そりゃあ、えらいこっちゃな。昔のお公家さんも今や土地転がしや」
「うわ、人聞きのわるいこと言わんといて。京都の街並みを守ってんのはぼくらなんやで。こっちの目ぇで美しい伝統と文化を守り、こっちの目ぇで近代産業の発展を手助けし、ぼくらのこの絶妙なバランス感覚が千年の都を支えてますのや。京都の不動産屋がみんな気ぃ抜いたら、金に飽かせてへんてこなもんぎょうさん建てられてえらいことになりますやん。うちかて、金額だけやのうて、この建物を気に入って大切にしてくれはるひとを選んで売るなり貸すなりしまっさかい、信用してまかせてもらえませんかぁ」
「えっらそなこと、ようぺらぺらと喋らはるわ。ついこないだ兄ちゃんの仕事手伝い始めたとことは思えへんな。ほんまに千年やってはるみたいや」
「才能です」
「アホぉ。口先ばかりではどもならん言うてんのや。あんなぁ、ここは〈畳屋町〉言うねん。名前ばっかしでうちの他にもう畳屋はない。言うたらうちが畳屋町最後の畳屋や。それが退《の》いてもうたら、ここはもう畳屋町やのうなってまう」
「おっちゃんがいなくなったくらいで町名は変わりまへんて。イタリア料理の店が一軒できたからって、〈ローマ〉や〈ミラノ〉になりますかいな、アホらし。畳屋さんやったら何もこんな便利のええとこに店構えんでもいくらでもやっていけますやんか。北山でも衣笠《きぬがさ》でも代わりに広うてええ物件紹介させてもらいますよって、どうやろなぁ。あっちの家と二軒まとめて売り払《はろ》うたら、先生《せんせ》も一緒に安心して住めるバリアフリーの立派な家が建ちまっせ。いくら目と鼻の先言うても、おばあちゃん先生ひとりであっちにいてはんのは何かと心配やありまへんか。階段も急でっしゃろ。上がり框《かまち》も高《たこ》うてつらそうやん。いつこけんとも限らへん」
「そないなことは、あんたに言われんでもうちできちんと心配する。そのうちまた若いもんがすぐ入ってくるし、今日からは、このアズマはんがあこでばあさんの面倒見てくれはんねん」
「ええっ?」と言ったのは遊馬と哲さんと同時だった。
「でも、さっきは弟子にしないって……」
「弟子になんかせえへんけど、しばらくあこにおったらええわ。そういや、ばあさんもあんたのこと、ちょこっと気に入ったはったわ。なんや、箸づかいがきれいやとか言うて。あとのふたりとはえろう違《ちご》うてな。哲も言うてるけど、ばあさんを夜中ひとりきりにしとくのは心配でないこともない。そやし、いつも用心棒がわりに若いもんあこに置いとくねん。アズマはんも、あこにおってな、戸締まりに用心したり、ちょっこちょこばあさんのこと手伝うてくれはったらそれでよろしわ」
遊馬は翠の祖母を思い浮かべた。七十歳になるやならずやといったあたりの細面の女性だ。目の前で息子夫婦や孫の友人たちががやがや騒いでいても、ひとり悠然と微笑んでいる。身体のほうはどこも悪そうではない。この暑い中、ほとんど毎日和服姿でどこかにでかけている。
「そういうこっちゃ。これで文句ないやろ」
親方がそう言うと、哲は両方の拳を額に当ててうめいた。
「なんでこないなんねん」
「ぺっらぺらわかったようなことほざいているからや。どうせ兄ちゃんの受け売りやろ。そやけどなぁ、アズマはん、給料は出えへんで。食べることくらい、自分でなんとかせなあかん。一人前になるゆうのは、そういうこっちゃ」
というようなことを言い合っているところへ、翠が帰ってきた。
「翠ちゃん、助けてぇな。ぼくおっちゃんにいじめられてんねん。何やねん、翠ちゃん、このおひとを婿さんにもらわはんの。そら、ないで。ぼくが来る言うてんのに。先着順やったらぼくの勝ちやで」
「アホ抜かせ。おまえなんぞ婿にしたら、家屋敷売り払われてしまうがな」
翠はいったい何の話かわからず、ぽかんと三人を見ている。軽く結い上げてある髪が湿っているのは、プールにでも行って来たからだろう。
当座の居場所が決まって安心したせいか、前夜ほとんど寝ていなかったこともあり、その晩遊馬はずいぶんぐっすりと眠った。夜半から雨が降り始め、古い家の屋根に雨音は案外強く響いた。ボツ、ボツボツボツと、雨粒は決して落ちてこないのに音だけが仰向けに寝た胸にいちいち刺さる。それが、わびしいとかさびしいとかではなく、不思議に愉快な夢を見せてくれた。冒険の途中、大木の陰で野宿しているような……そんな夢だった。
食べることくらいは自分でせよと翠の父は言ったけれども、少なくともその晩は冷しゃぶの食卓を共に囲ませてくれたし、祖母の志乃に至っては遊馬という居候《いそうろう》に向かって頭を下げ「お世話おかけいたします。ありがとう」というようなことを言うので、遊馬はどう返事をしてよいのかわからなかった。
たっぷり寝て起きた頃になって、そういえば肝心の戸締まりもせずに自分はぐうすか寝てしまったのだと気づいた。すでに階下では志乃が起きていて、みそ汁の匂いすら立ち上っている。
「すみません。ご飯は別だって言われてるのに」
朝食を勧められたので恐縮した。
「そない言わはっても、そこにお腹《なか》すかしたはる子ぉがおるのにひとりではよう食べませんわ」
志乃はふふふと笑う。今は翠がいるのでちょくちょく母屋でも食事をするが、基本的にはこちらでひとりで食べているらしい。そのほうが自分のペースで暮らせるから楽だと言う。
「なんとか食費を入れられるように頑張ります。少しだけ待ってください。どこかでアルバイトを見つけようと思ってるんです」
「そうやてねぇ。勘当されてきたゆうのんはほんまですの? 今どき珍しい話や。歌舞伎みたいや。坊さんになんのがお嫌どしたん?」
「はあ……」
「それでミュージシャンにならはりますの?」
「それは……ぼくには才能がないって翠さんも言うし」
「まあ、翠がそないなこと言いましたんか」
「直接じゃないけど、まあ、そんなようなことを」
志乃は、翠に言われるようではたしかに見込みはないかもしれないとけらけら笑う。ひとしきり笑ってから、遊馬の茶碗におかわりをよそう。
「お若いのやさかい、のんびり考えはったらよろしおすわなぁ。ここでは〈田舎の学問より京の昼寝〉言いましてな、田舎であくせく勉強するより京都でぶーらぶらしとったほうが見識が深まるゆうことですわ」
〈田舎〉というのはきっと東京のことなのだろうとは思ったけれども、このおばあさんに言われると不思議と怒りはわいてこない。というよりも、高田家のひとびとに対しては全面降伏も余儀ない状況なのだった。
とりあえず遊馬たちが来てから一週間掃除をしていない二階に掃除機をかけるように言われ、生まれて初めて掃除機というものを使った。なるほど志乃が階段を持って上がるには重いものだ。
「終わったらな、すみませんけど二階の納戸に信楽《しがらき》のお水指《みずさし》がありますし、箱から出してきとくれやす」
水指を抱えて降りると、水を入れておけと言う。遊馬は台所を見渡して水桶《みずおけ》を見つけると、柄杓《ひしゃく》でたっぷり水指を濡らして水を入れ、綺麗なタオルを外側にそっと当てた。
志乃は通りに面した四畳半にいて、遊馬が覗いたときには床《とこ》の前に正座し、伸び上がったりのけぞったりしながら掛けたばかりの軸を検分しているところだった。墨蹟《ぼくせき》にしては読みやすい字で右から左へ〈閑坐《かんざ》〉と書かれているのが遊馬にも読めた。
「今日はこっちにしましょ。これは直しといておくれやす」
使われなかった軸を遊馬に渡す。
「壊れたんですか」
「へ、いえいえ、二階の押入に箱が並んでますし、そこへね、直しとくれやす」
「……ああ」
勘違いに気づき、ほっとして渡された軸を箱にしまう。箱には〈清風一陣来《せいふういちじんきたる》〉と札がついている。こんな残暑の日にはこちらのほうがぴったりなのにと遊馬は思ったけれども、志乃はそれを選ばなかった。
言われたとおりの場所へしまって階下に戻ると、今度は軸の下に籠の花入《はないれ》を置き、庭の草花を挿している。どこでも同じようなことをしているのだなと、家の母の姿を思い出して少しおかしかった。
「お湯も沸いてきましたし、一服|点《た》てましょか。お菓子がまだ届かへんけど、何かあるやろ」
花台を片づけて志乃は立ち上がる。
「そんなこと言うても無駄やで、お祖母ちゃん」
紅殻《べんがら》格子の窓の外で声がし、すぐに玄関の戸ががらがらっと開く。
「アズマ君はお茶、大嫌いやねん。ご迷惑や」
翠が土間に立ったまま顔を覗かせている。
そんな言い方をしなくてもいいのにと、もともとそういう言い方をしたのは自分であることも忘れて遊馬は口元を歪ませた。その場にいづらくなり、ちょっとでかけてきますと言い残して二階からリュックを取ってくる。
が、炎天下、外へ出たところで行くあてはなく、いくらも歩かないうちに近所の寺の門をくぐって手水舎《ちょうずや》で水を飲んだ。数日前に地蔵盆とかいう祭があり赤い提灯がたくさん吊られていたのを見たが、今日はもう片づけられてしんと静まりかえっている。
日陰の手頃な石に腰を下ろし、さて、と考える。高田家のひとびとのおかげで住む場所と食べるものはしばらくなんとかなりそうだが、だとしても早急に現金が必要なことには変わりない。今のままではバスにも乗れない。働き口を見つけなければならないが、実を言えばアルバイトの経験がまったくないのだった。まして本名を隠したまま雇ってくれるところなどあるのかどうか、じっくり作戦を立てるためにも、今はとりあえず茶杓を売るしかないのだとリュックからそれを取り出して眺めてみる。
どうやらこの茶杓は立派すぎるらしい。うっかり本物だと証明すればたちまち出所がバレてしまう。といって由緒を示さねばただの竹切れになってしまう。知恵が浮かばず遊馬は途方に暮れる。
ふと足下に一メートルあまりの棒が転がっているのに気づいて拾い上げた。片手でぶんぶんと振ってみる。茶杓はリュックの上に置き、立ち上がって手水舎を背にした。改めて両手に棒を握りしめ、中段に構えてみる。やおら上段へと振りかぶり、無言で空を切る。今度は右足を引き八双《はっそう》から振り下ろす。われ知らず「やーっ」と声が漏れた。
そういえば家を出てからごろごろしてばかりいたので身体がなまっているのは感じていた。久しぶりにする素振りはここひと月余り凝り固まっていた筋肉と神経をほぐし解き放つようで心地よかった。興に乗って何度か繰り返したあと、視線の先に幹をくねらせた大木があるのに気づき、一気に飛び込んでいって打った。
これは、まずかった。棒と幹とがぶつかった刹那《せつな》、びーんと腕にしびれが走り、遊馬は棒を取り落として膝からくずおれた。何かがばらばらと上から降ってきて、よく見たら尖った松の葉にセミの抜け殻がまじっていたのでゾッとした。
「そんな乱暴をされては困ります」
尻をついたまま振り向くと、作務衣《さむえ》姿の男のひとが立っている。お坊さんだろう。
「松の木が泣いているではありませんか」
言いながら打たれた木の肌に掌を当てる。
「これも」
放り出された棒を拾い上げる。
「ただの棒ではありません。日陰に干しておいたのです。いずれ茶杓に削ろうと思って。大丈夫かしら」
大事そうに棒をさすりながら、手水舎の陰に戻した。傍らのリュックに茶杓の筒がのっているのを、身体を立てたまま不思議そうに見下ろす。背の高いひとなので、頭がずいぶん高いところにあり、首を垂れていると提灯のようだ。
何か言うだろうと遊馬は掌を地面につけたまま立ち上がりもせず待っているのに、同じ姿勢のまま何も言わない。声がしたのは別の方角からだ。
「……さん、何してまんのん?」
ざくざくと砂利を踏んで近づいてくるのは、和服姿にサングラスという奇妙な風体だ。お坊さんのほうに声をかけたのだろうが、脇に遊馬が尻をついているのを見ると、不審そうに「何してまんのん」と今度は声をひそめてこちらに聞いた。サングラスをずらしてみせた顔は哲さんだ。きょろきょろと二人を見比べてから、立っているお坊さんのかたわらへ寄る。
「お茶杓やないですか」
「はい」
「なんですか、あのひとがこちらさんから盗みでもしたんですか。それをエイヤッとやっつけはったとか」
「いえいえ」
「古そうやな。あんた、まさか先生《せんせ》とこから持ち出したんやないやろね」
失礼なことを言う。が、それで遊馬は少し合点した。
「哲さん、もしかしてお茶習ってるんですか」
「そやで」
サングラスを握ったまま気取ったしぐさで両手をうしろ衿《えり》にまわす。
「なんでまた」
「なんでとは何やねん。カッコええからに決まってるやないか」
「……?」
「失礼なやっちゃなぁ。草庵の茶室でひとり松風を聴く紅顔の美青年茶人、坊城哲哉《ぼうじょうてつや》二十三歳、違いのわかる男や、カッコええやないか」
どうも波長が合わない気がする。遊馬は砂を払って立ち上がった。
「拝見してもよろしいでしょうか」
ようやくお坊さんは言い、長い身体を折り曲げて座った。哲哉もその隣に並び、仕方がないので遊馬はふたりに向き合う形で地面に座る。
「細いお茶杓やね」
お坊さんがそっと筒から出すのを隣で哲哉も見ている。お坊さんはその細く小さな竹切れの端を両手でつまみ、ほおとひとつ声を漏らした。
「繊細ですね。樋《ひ》も浅いし、直腰《すぐこし》で、癖もない。取り立てて景色もないようなのに、どことなく味があります。この煤《すす》の具合でしょうか、追取《おっとり》の裏のこのはつり[#「はつり」に傍点]のせいかもしれません。こんなところをはつって[#「はつって」に傍点]ある茶杓は見たことがありません」
言われてみればたしかに柄のところにひっかいたような跡がある。単なる疵にしか遊馬には見えなかったが。
「何か銘がついとんの?」
哲哉が言うと、お坊さんは筒のほうをしげしげと眺めた。黒い上に墨で書かれているので読みづらい。だが、たしか東京の道具屋の主人は〈野分〉と言っていた。
「野分……、そう言われればそれ以外ないような気のしてくる銘ですね。いいお茶杓です」
何やらイメージするようにお坊さんは伏し目がちに黙り込む。野分には足りないかすかな風がくるんと巻いた哲哉の髪を揺らす。樟脳《しょうのう》とも線香ともつかぬ匂いがふたりの間から遊馬の鼻先へかすかに漂い、あらためて〈変な奴ら〉と遊馬は頭の中で呟いた。
お坊さんのほうは三十代くらいに見える。剃り上げた頭もそうだが、頬骨だけが高く頬そのものはぺこんとへこんだ顔も、全体にでこぼこして見える。僧侶だけあって修道的な顔立ちとも言える。
「大切なもんなんか?」
茶杓は哲哉の手に渡っている。
「大切というか、これ、なんとかお金に換えられないかと思ってて。どういうところに持っていったらいいかわからなくて。このあいだ行った東寺の市なんかどうかと思うんだけど」
「売りもんかいな。五千円くらいやったらぼく買《こ》うてやるよ」
遊馬は答える気をなくし、茶杓を取り返した。
「そんな慌てんかてええやんか。交渉ごとっちゅうのんはもっとじっくりするもんや。関東のひとはこれやしあかんわ。言い値はいくらやのん、言うてみい。もうちょっと出したってもええよ」
そうは言ったものの、遊馬が二百万円だと答えるとさすがの哲哉も呆気にとられ、何があっても動じなさそうなお坊さんまでちょっと驚いたように目を上げた。
「どなたさんの作?」
遊馬は首を横に振る。
「言えません。今は」
「あんなぁ、茶杓ゆうのんは、出来ばえも大事やけど誰が削ったかちゅうことのほうが百倍大事やねん。誰かわからへん、作者不詳で二百万円は図々しいやろ。アズマさんやったかいな、あんた、京都まで茶杓売りに来たんとちゃうやろね。夢みたいなこと考えんのはやめたほうがええで。アホらしい。はよ、先生《せんせ》とこ行かな」
哲哉は立ち上がり汚れてもいない尻や裾を軽く手で払った。
「もうお稽古ですか」
お坊さんが聞く。
「そやないねん。八月いっぱいはお休みやねんけど、先生もぼくもなんや手持ちぶさたやし、翠ちゃんも帰ったはるし、特別にちょっとお釜掛けてくれはんねん。お稽古のない水曜日はなんとかのない珈琲みたいにもの足りませんねん、ぼく。ほな、さいなら。あ、そや、そのひと、東京のひとですわ。なんやしらんけど翠ちゃんとこに居候しはんねんて。アズマさん言いますわ。ちょっと説教したったらよろしいで」
後ろ向きに歩きながらあわただしく遊馬を紹介し終わると、きびすを返して門から出て行った。
「アズマ……さん?」
ほんとうに説教を始められるのかと遊馬はたじろいだ。
「わたしは〈不穏《ふおん》〉です。穏やかでないの不穏。〈六角坊〉と呼ぶひともいます。頭が六角形だからだそうです」
目のあたりが少し動いたので笑ったのだろう。
「やっぱり、お茶をしてるんですか」
「はあ、まあ。少し教えております」
「京都って、一家にひとりお茶の先生がいるみたいだ」
「まさか。そんなことはありません」
「やっぱり巴流なんでしょ」
「ええ、よくご存じで。あなたもお茶をなさるんですね」
遊馬は、ぶるんぶるんと首を横に振った。
「変ですね。お茶もなさらないのに、茶杓を持っている……」
「だから、それは売ってお金にしたいんです。そうしないと生活できないんだ」
「なるほど」
不穏は、なるほどともう一度呟いて大きく頷く。
「わかりました。このお茶杓はわたしが預かりましょう」
「えっ」
遊馬は視界がいっぺんにきらきら輝き出すのを感じた。まるで雪の積もった朝のようだ。
「買ってくれるんですか!」
「いや、いや」
不穏は慌てて手を横に振り、そんなお金はうちの寺にはないのだと言い訳する。
「二百万で売れるなんて俺も思ってません。百万、いえ、そんなの無理ですよね。えっと、でも、最低でも十万くらいないと……」
「待ってください、落ち着いて」
両手で遊馬の気を押さえるしぐさをする。買ってくれるわけではないらしい。雪の朝はたちまちただの残暑に戻った。遊馬は柄杓で水を汲み、腰をかがめて頭にざっとかけた。
「先ほど、坊城さんがおっしゃったのは、言い方は乱暴ですが嘘ではないのです。誰が作り誰が極めたというような由緒こそが、茶杓にとって大事だというお話ですが。無名の方の削ったものは、さほど高価にはなりません。まして誰が削ったかわからないのではなおさらです」
顔に似合わぬ柔らかな声で、不穏はゆっくり丁寧に話す。遊馬は犬のように頭を振って髪の水気を切り、青い前髪を掻き上げた。
「茶杓というものは、ご存じかと思いますがお茶を掬うものです。もともとは中国製の銀や象牙の薬匙《やくじ》……つまり、薬用のスプーンを使っていたものが、それは輸入品でそうそう手に入るものでもありませんので、やがて和竹で作られるようになりました。村田珠光の頃と言われております。茶会のたびに亭主自らが削り、使い捨てるのが基本です。しかしながら、思い出深い茶会の記念にそれを所望したり、友愛や寵愛の証に贈ったりということがなされるようになり、今でもいにしえの茶匠たち手ずからの茶杓が伝来しております。わたくしの思いますに、今日《こんにち》、こうした古い茶杓をわざわざ探し出してきて使うということは〈茶の湯〉の伝統を慈しむ行為に他なりません」
なんだなんだ、やっぱり説教かと遊馬は逃げ腰になる。
「まあ、そんなにいやがらずにお聞きなさい。どこまで話しましたか……あ、そう、たとえば珠光や利休の削った茶杓を使うとしたら、それは使う者が彼らを深く敬っていることを語らずして示します。敬慕する先人を偲び、その徳に連客一同あやかろうという心持ちがそこにはあります。それゆえに作者の名前すなわちブランドに価値が生じるのです」
「はあ」
「もちろん、茶杓にはモノとしてまた別の側面もあります。うまく言えませんが、わたしはさきほどそれを見せていただいて、いいなぁと思いました。誰の作だろうとは聞かなくても事足りたのです。というより、お尋ねするのを忘れました。〈野分〉と聞いたときには頭の中をほんとうに風が通り過ぎました。それはブランドに頼らない、この茶杓そのものの〈力〉なのでしょう。芸術的価値とでも申しましょうか、アズマさんはそこのところを買ってほしいと願っているわけですね。たとえば二百万円で」
「そうです」
そうしてくれると遊馬にはたいへん都合がよい。徳川慶喜の作ですなどと言って、下手に疑われたり調べられたり、あげくの果てにまた家に連絡されたりすると困るのだ。
「ですが、こと茶杓に限って言えばそれは難しい。目利きであれば、茶杓の芸術的価値にもそれなりの値をつけるでしょうが、あくまでも先に名前があってのことです。名前がなければどれほど素晴らしかろうと竹工芸の限界を超えはしないでしょう」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「使うのです。アズマさんは、この茶杓の金銭的価値ばかり考えていて、これを実際に使いお茶を飲んだことはないのではありませんか? 実はそれこそが、何百万円にも引き替えられない本当の価値なのですよ。いいですか。茶杓というものは、お茶を掬うためにあるのです。売買するものでも金庫にしまうものでも陳列して眺めるものでもありません。茶席で初めて生きるものです。わたしがこれで美味しいお茶を飲ませてさしあげますから、来週、これを持って茶会の手伝いにいらっしゃい。そうしたら、お茶を掬うとはどういうことなのか少しはわかるようになるでしょう」
そんなものはわかりたくない。遊馬は胸の内で毒づいた。言うに事欠いてお茶を飲ませてやるとは何事だろう。茶など生まれたときから飲んでいる。坂東巴流では、家元の子供は〈緑の乳を飲んで育つ〉とさえ言われているのだ(嘘だが)。そんな世界からようやく逃げ出してきたところなのだ。
遊馬の表情をどう読んだのか、不穏は本堂まで彼を引っ張っていくと、山と積まれた供え物を物色し、二本一緒にくくられている酒瓶を出してきて熨斗《のし》紙を剥いだ。
「当座困るならこれをお持ちなさい。これなら簡単にお金に換えられるでしょう」
そんなものがどこで〈簡単にお金に換えられる〉というのだろう。どうせなら千円でも二千円でも現金でくれたほうがありがたいのに。
押しつけられた酒瓶を抱えてとぼとぼと寺の門に向かった。あの坊主のことは放っておいて、やはり質屋でも道具屋でも回ってみるべきだと思う。ついては、地図が必要だ。翠に頼むのは癪だから、親方か志乃に借りようか……などと考えていたから何度も鳴っていたらしいクラクションが自分を呼んでいると気づくのに少し遅れた。高田畳店の白いバンが門前に横付けされ、親方が窓から顔を出している。
「アズマはん、こないなとこにいてたんか。午前中は畳の引き取りやで。はよ乗ってや」
たしか弟子にはしないと断られたはずだ。
「うちのお母ちゃんがそないせい言うさかいな」
〈お母ちゃん〉というのは、この場合は翠の母親のことらしい。
雇うつもりも仕事を教えるつもりもないが、そうかといって何もしない若者を家に置いておけば、近所のひとは翠の何かかと思う。娘の評判に疵がつく。学生でもないから下宿人というのも不自然だ。この際、表向きは畳屋の仕事を習いに東京からツテを頼って来た少し出来の悪い男の子ということにしておこう。そういうことになった。
「誰かに聞かれたらアズマはんもそない言うてや」
そう言うからには、畳でも運んでいたほうがいいのだろう。
〈出来の悪い男の子〉というところは気になるが、たぶん髪の色のせいだ。まあ、いいさと遊馬は思った。誰かが自分を待っていてくれたというだけで今は救われた気持ちになる。ほんの二日前に仲間たちからおまえはいらないと宣告されたばかりなのだ。
助手席に乗り込んだ遊馬は、抱えていた酒瓶を「あの、これ」と差し出した。
「わしにか」
高田はアクセルを踏みながらちらりと脇を見る。
「若いのに気のつく坊《ぼん》やな」
そうではない。換金するより簡単だと思っただけだ。
「あのお寺のお坊さん、京都のひとじゃないんですか?」
「いや、あこの寺で生まれたで。不穏さんのことなら」
それにしては言葉が京都風ではなかったと思う。
「変人やね。あんたくらいの歳から十年くらいどこかに消えとったわ。チベットやらインドやらで修行しとったと先《せん》の和尚《おっ》さんは言うてはったけど、ほんまかどうかわからへん。五年くらい前にふらっと帰ってきはったな」
一方、志乃の茶室では翠が綿のワンピース姿で風炉《ふろ》の前に座っていた。中学生のときから他の弟子にまじって点前を習い始めたが、あまり真面目とは言えなかった。どちらかといえばお菓子に惹かれてやってきて、稽古中も飽きると奥の間でマンガを読んでいたりした。まして上京前からもう半年ほど一度も茶筅《ちゃせん》に触れていない。
「なんや、全然忘れてしもた。ぼろぼろやわぁ」
呟きながら柄杓に湯を汲む。
「無理もおへん。生まれて初めて遠いところでひとり暮らしや。慌ただしいおしたやろ。お点前なんか忘れて当然や」
悠長に志乃は慰め、かわいい孫の手元を眺めている。何年も稽古しているからといって誰もが点前を覚えるわけではない。〈習う〉と言いながら、ただくつろぎに来ている主婦やOLのほうが多い。勝ち気だったり几帳面だったりすると覚えは早いが、そのかわり融通がきかないこともあるし、逆に、点前はいい加減なのに心根だけは茶匠並みという傑物もいる。それぞれだ。それぞれだから面白いと思う。欠けているものは、いずれそのひとの中に求める心が生まれれば必ず補われる。明日かも知れないし、十年後かも知れないが、師匠だからといってむりやり他人の心を生み出すことはできない。自分にできるのは、ただ自分の精一杯を弟子の前で尽くして見せることだけだ。
「そやけど、ええお菓子選んで来はったな。偉いで」
「それでええのん? うちは、お花のお菓子がええと思たんやけど、お菓子屋のおばちゃんがこれにしときって言わはってん」
「そら、こっちのほうがええとお祖母ちゃんは思うわ。季節にぴったりやで。なんや、哲ちゃん来はったみたいやな。あいかわらず騒々しい子ぉや」
格子戸の外で哲哉の声がしている。翠の父に、アズマはんを見なかったかと聞かれて、へぇ見ましたと答えている。バンのエンジンが掛かりブルルンと音立てて出て行くのと玄関に「こんにちは」と歌うような声のするのが同時だった。
「先生、翠ちゃん、おはようさんどす。今日《こんにち》もよろしゅうお願いいたします」
扇を膝前に置いてお辞儀をする。
「よう来はった。はよお座り、ちょうどお茶が点《た》つところや」
志乃は自分の前にあった菓子鉢を哲哉のほうへよこした。
「今日はまた、えらい渋いお菓子ですね」
哲哉は懐紙にとった菓子を目の前に掲げてしげしげと眺めた。黒く素っ気ない直方体が粉を吹いたような菓子だ。無愛想である。
「はよ、食べてみい。〈葛焼き〉や。侘びてるやろぉ。夏も終わりの今頃にはよう似合うわなぁ。あこのお店は吉野の本葛|使《つこ》うてはるし、できたてやろ、贅沢なことやで」
哲哉は懐から黒文字を取り出すと、菓子に当ててすっと引いた。
葛はふるんと震え、ゼリーや寒天ほどの抵抗もなくあっさりと黒文字を受け入れる。冷やしてあるのかないのか、一口目の涼感と二口目のぬくもりが作為のない優しさで舌をくるんだ。
「お軸は〈閑坐〉ですか。静かに座りなさいゆうこっちゃね」
食べ終わって懐紙を畳みながら哲哉は床を見上げている。
「そやね。なんやアズマはん見てたらこれ掛けたくなりましたんや。若いおひとには若いなりに悩みもあるようやし、まずはここにお座りぃというほどの意味でな。そやけど、翠がイケズして追い出してしもた。あんた、東京行ってからえろうきつうなったなぁ。お祖母ちゃん、びっくりしたえ」
と、翠のほうへ顔を向けた。翠は点てたお茶を差し出したところだ。
「そやかて……」
茶碗を取り込んだ哲哉はのんびりお茶をすする風情で耳だけをぴんと立てている。
「アズマはんに音楽の才能がないとも言うたんやて? しょげたはったえ」
「言うてへんよぉ、そんなこと」
翠は当惑げに眉根を寄せた。
「久美ちゃんがバンドに入らへんかて言わはんのやけど、うち、アズマ君と一緒やったら気持ちようやっていけへん気ぃするて言うただけや」
「仲間はずれみたいなことしたらあかんやないか?」
「あかんってどっちがや。お祖母ちゃん、アズマ君がどんだけひどいこと、うちに言うたか知らんからそんなこと言わはんのや」
「どない言わはったん?」
「……よう言わん。とにかくうちのことも京都のこともお茶のこともアズマ君は好きやないねん。そうゆうことをずけずけとえげつない言葉で言わはった。うちはあんなひととはよう付き合わん」
志乃は腑に落ちない顔をする。翠が言うほど悪い子には見えないのだ。
「お父ちゃんやお祖母ちゃんの前では猫かぶってはんねん」
「そやろか。あの青い髪の毛にはわたしかてびっくりしたけど、よう見てたらきっちり仕込まれてはるようやで。お水指《みずさし》持ってきて言うたら、聞き返しもせんとすぐに持ってきはったし、お水はっておいてて頼んだら、信楽のお水指、とっぷり濡らして置いとかはったえ。あんなことお茶を知らんひとにはできひんやろ。翠かてまだ無理や」
「お寺さんやそうですから、見よう見まねってこともありませんか。周りにお茶してはるひとぎょうさんおって、それでかえってお茶が嫌いになるゆうのんもよう聞きますけど」
哲哉が茶碗を返しながら口をはさむと志乃は心当たりがあるようにうんうんとうなずく。が、翠はそこでまた手を止める。
「それかておかしいと思うねん。たしか久美ちゃんは、アズマ君のお父さんは警察官や言うてたんや。警察官とお坊さんいっぺんにしたはるなんておかしいやろ。お父ちゃんは、なんであんな簡単に信用しはんのやろ」
それは、翠の連れたきた友人だからだし、翠がもう少し置いてやってくれと頼んだからだ。だからなおさら翠の心は複雑だ。
「うち、アズマ君のこと、何にも知らへんねん。ほんまはな、ここに帰ってきた日ぃに初めて会《お》うてん。家がどこかも知らへん。もしかしておかしなひとやったらどないしよ。なんや見てても普通やないやろ、よう知らん家に居候してご飯食べて当たり前みたいにしてはる。久美ちゃんに聞いたんやけど、萩田君のとこでもそうやったらしいねん。久美ちゃん、呆れてはってん」
「お父ちゃんとお母ちゃんにそない言うたん?」
「今さら言われへん。言うたら、なんでそんなひと連れてきたって叱られるに決まってるやん。けど、なんかうち、面白うないわ。家族でもないのに息子みたいな顔してお父ちゃんと仕事したりお祖母ちゃんとご飯食べたり」
「なんや、やきもち焼いてんのか」
「違うてぇ。お父ちゃんもお祖母ちゃんもお人好しやし、アズマ君に利用されてんのやないやろかって心配なだけや。いつか恩を仇《あだ》で返されたりせえへんやろか。そしたらどないしよ。全部うちの責任や」
言っているうちにどんどん悲観的なほうへ翠の想像は流れていき、ひと点前終わる頃にはぐすぐすと洟をすすっている。
哲哉はそこで例の茶杓のことを思い出し、志乃にそのような茶杓を持っているか尋ねてみた。
「〈野分〉なぁ、うちにはそういう銘のお茶杓はあらしまへん」
「そうでっか。よかったぁ。ぼく、ちょっとだけ心配でしたん。ひょっとして先生《せんせ》とこから持ち出したんやないやろなて。疑《うたご》うて悪いことしたわ」
「そやけど、なんでお茶杓なんか持ち歩いてんのやろ」
「詳しく言いたがりませんねん。そのくせ、どこか売れるとこ知りまへんか言うてぼくに聞きますねん。どっかから盗んだゆうのではなかったら、お寺さんか警察官か知りまへんけど、出てくるときに家から持ち出してきはったんやな」
さすがに遊馬の言い値は口にする気にならなかった。それを言ったら遊馬の立場はいっそう悪くなるだろう。翠にこうまで嫌われているアズマ君であるならば、牽制するよりむしろ庇ってやりたくなる哲哉だった。
翠は踵だけを立ててぼんやり床のほうへ視線をやっている。そうして足のしびれが引くのを待っている。無理をしてうっかり立ち上がろうとすればひっくり返って、その方向によっては大やけどをしないとも限らない。中途半端な姿勢のまま茶杓の話を聞いていた。
「アズマ君、そのお茶杓が売れへんかったらお金が全然ないんやと思う。東京から来るときも、みんな萩田君が立て替えてはったし、お金使うとこ一度も見たことないわ。めっちゃ蒸し暑い日ぃにアイスクリームひとつ買えへんねん。うちかて、さすがに哀れやなと思たわ」
「それは、案外、大物かもしれへん。一銭も持たんと放浪するゆうのは誰にも真似のできることとちゃうやん」
翠はちろりと不満そうに哲哉を睨み、建水《けんすい》を持って立ち上がった。
「まあ、お父ちゃんにはお父ちゃんの考えがありますのやろ。〈|窮 鳥 懐《きゅうちょうふところ》に入れば猟師も殺さず〉て言うてな、困ってはるひとが頼ってきたらできるかぎり助けてあげるのがええとわたしも思うえ。行くところもなくお金もなかったら、悪い子ぉでなくても悪いことせんならんことになるかもしれへん。そないなことになったら気ぃ悪いしなぁ。他でもない翠の縁でうちに来たおひとやないか。悪いところがあんのやったら直してあげたらええでしょう」
志乃はとりなすように言い、翠も両親に言えずにいた愚痴をふたりに話せて幾分気が晴れたようではあった。
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三、 茶人変化《ちゃじんへんげ》の段
京都の夏は祇園祭で始まり五山の送り火で終わると言われている。もっとも暑気のほうは九月に入ってもそう簡単には去らない。大通りの歩道橋に上がるとあらゆる方角に山並みが見え、ここは盆地なのだとあらためて知らされる。真夏でさえ空の青さには何か気がかりでもあるかのような重さがあり、隙あらばそこを雲が覆い、風の路をふさぐ。じりじりと日射しに焙られていると、光さえねばついて感じられる。
それでも離れの一階には扇風機しかなく、志乃は茶室の格子から奥の庭まで抜ける空気の流れだけを頼りに終日過ごしている。ひとり二階でクーラーにあたりながらテレビを眺めているというわけにもゆかず、遊馬《あすま》は手伝いの声のかかる合間を縫ってはあちこち出歩くようになった。まず近所の地理を把握し、次第にテリトリーを広げていく。
萩田たちがいた頃、彼らに付き合って観光地を一通り巡りはしたものの、まさか京都にそのまま取り残されるとは思っていなかったから、おざなりに運転手を務めるだけで、あまり真剣に地理を覚えようとも思わなかった。東寺、清水寺、平安神宮、二条城、嵯峨嵐山、大原……そんなようなところだ。比叡山に行くと言われたときだけは、どうしてもついて行く気にならず、ひとりで町中をうろついていた。
あの日は悲惨だった。みんなは外で昼食をとるつもりでいたから弁当などはなく、遊馬はひとりになるのだからといって向こうから気を回してくれるならまだしもこちらから昼食代をせびることはさすがにしかねた。萩田の車を適当なところで降り、気を紛らそうとずんずん歩いていたら、しまいに帰り道がわからなくなった。寺や神社はそこここにあり、地下をうろうろすれば水飲み場やトイレはあってそれは困らなかったが、午後になるとさすがに空腹になってきた。とにかく帰らねばと炎天下ふらふら歩き、高田家の住所は覚えていなかったものの、そういえばタコがどうしたとかいう名の通りだったと思い出し、道行くひとをつかまえて「タコ…タコ…」と口ごもっているとなぜか相手はすぐに理解してくれた。教わった通りを西へ西へと歩いてどうにか見覚えのある界隈に着いたのだ。
それが地蔵盆の日だった。その狭い通りはどこまで行っても祭の装いで、あちこちに細長い提灯が並べて吊され、金魚だのヨーヨーだのを浮かべた盥《たらい》が道端に置かれていたり、白いテントの下でおとなたちが世間話をしていたりした。道をちょっと歩くと小さなお地蔵さまの祠《ほこら》があり、またちょっと歩くとある。派手な前掛けをされたり花で飾られたり、統一感とか脈絡というものはいっさいない不思議な景観だった。ときおり屋台で焼きそばなど作っているのを見ると、無意識に腹を掌《て》で押さえてしまう。いくら羨ましそうに見つめても青い髪のよそ者には勧めてもらえなかった。
ようやく近所の寺までたどりついたとき、ここも常とはちがって庭に幔幕《まんまく》が張られ、テントの下にはおもちゃかお菓子を入れたような紙袋が見張りもなく無防備に並べられていた。小さな男の子が、座り込んだ遊馬の隣で「まんまんちゃんあん」というようなことを呟いており、それが遊馬にはマンマがどうしたというように聞こえ、何か食べ物をくれるつもりなのかと顔をあげたときには我ながらかなり情けない思いがした。が、実際その乳臭い子は遊馬に饅頭をくれたのであり、その代償であるかのように青い前髪をにぎにぎして遊んだのだった。
その子が今も目の前にいる。
部屋の隅に木彫りの小さな仏像があるのを見つけて、また「まんまんちゃんあん」とお辞儀している。その頭を哲哉がなでて通り過ぎる。
「ナオちゃん、ええ子やなぁ。偉いでぇ」
「まんまんちゃんって何ですか」
遊馬は哲哉に聞いた。
「まんまんちゃん知らへんの? 神さま仏さまには手を合わしてまんまんちゃん言うやろ。言わへん?」
遊馬がゆっくり深く首を傾げるのを哲哉のほうがいぶかしむ。
「哲さんもそう言いながら拝むんですか」
「言うわけないやろ。子供だけや。おい、ナオ、このお兄ちゃん、まんまんちゃん知らへんのやて。教えてあげ」
子供はむふふと嬉しそうに笑ったが、どこかから夕飯だと呼ぶ女性の声がして、廊下をだだだと駆けていった。
「あ、アズマはん、あそこに茶巾《ちゃきん》が干してあるさかい、取ってきてや。盥もそのへんにあるはずや」
哲哉は今日も和服を着込んでいる。ご丁寧に袴までつけている。作務衣姿の不穏は遊馬の持ってきた茶杓《ちゃしゃく》を筒から出して何やら考え込むそぶりをしている。一週間ほどあちこち回ってみたがまだ売れずにいた。
「花はどなたでしたか」
「ぼくや。茶杓が〈野分〉やろ。薄《すすき》か思て探してきてんけど、合いすぎやろか。まだどこのも穂が出てへんし、けっこう大変やった。ぼく、お花、苦手ですわ。わからへん」
不穏は茶杓を置くとかたわらの茶入《ちゃいれ》を見た。和物の肩衝《かたつき》に仕覆《しふく》は擦り切れた緞子《どんす》を着せられている。茶室にはすでに風炉釜が据えられている。
「軸は何でしょうね」
「そうや、肝心のお軸が来んことにはわからへんなぁ」
哲哉はそう言ってぼんやり遊馬のほうに視線をやる。遊馬は茶巾を盥で絞り、そこに出ていた粉引《こひき》の茶碗に畳んで入れた。茶筅《ちゃせん》をその上にちょこんとのせたら、「まだそういうことはええねん」と哲哉に止められた。
「それにこんなでたらめしたらあかんで。茶筅が逆さまや」
おかしそうに笑いながら、遊馬が上向けて入れた茶筅を伏せてみせた。
「こうや。高田|先生《せんせ》はあんたはお茶したはるのやないかぁ言うてはったけど、見込み違いやな。こんな間違いはど素人でないとでけへんもんや」
不穏はふたりの間を行き来する茶碗を見て何か言いかけたが、その向こうに人影を見て口をつぐんだ。
「そんなことないわよ、うちでもお茶筅は上向けて置くわ」
ふたりはその声に振り向いた。
「へぇ、幸麿《ゆきまろ》さんとこ、そないしますの?」
哲哉は話の続きで自然に尋ねる。
「うちは仰向けで持ち出すのが普通。伏せて入れるのは、お点前を終えて下がるときと、お茶碗がよっぽど深いときね」
「そうなんや。気づかんかったわ。他流だといろいろいとちゃいますねんね」
「いや、坊城さん、巴流でも上のほうのお点前になりますと、そのように仕組むこともあります。天目《てんもく》茶碗とかですね」
「ほんまですかー。ああ、そうなんやー。知らんかったー」
遊馬を嗤《わら》ったつもりが墓穴を掘って、哲哉は大袈裟に頭を抱えてしゃがみ込む。
「それで?」と幸麿が聞く。
「おたくはどちらの御流儀?」
そのひとの身なりに気をとられていた遊馬は、はっと我に返る。
「あ、いや、でたらめしただけです。何も知らなくて」
「知らなくて……?」
言葉を吟味するように幸麿は繰り返し、茶碗の中の茶巾をつまみ上げた。遊馬は流派によってさほど違いがあるとは知らなかったが、その一見くしゃくしゃに見えなくもないたたみ方は、〈坂東千鳥〉と呼ばれるきわめて特徴あるものだ。
「あ、これ、今日のお軸ですねぇ」
立ち直りの早い哲哉が顔を上げると、目の前に幸麿の抱えた細長い風呂敷包みがあった。哲哉はそれを奪い、隣の茶室に持っていく。不穏も幸麿も後についてゆく。遊馬の目はこれ幸いと幸麿の後ろ姿を追った。それまでは、気にはなるもののじろじろ見てはいけないような気がして視線をさまよわせていた。
このひとの装いは日常から浮き立っている。歳は不穏と同じくらいに見える。中肉中背で顔立ちは面長。端正なやさしげな顔だ。それが肩ほどまである髪を後ろになでつけている。薄紫のゆったりした羽織状のものに深い緑色の袴が、まるで女性の晴れ着のように華やかで、のみならず、羽織の袖はだぶだぶと腕より長く振り袖状に巨大で、袖の付け根に紐飾りのようなものまでついている。
つまり、公家装束なのだ。
驚いているのは遊馬だけで、不穏も哲哉も気にするそぶりもない。ということは、このひとはいつもこのような格好をしているということか。
茶室では哲哉が包みを解いたところだ。出てきた桐箱の蓋を開け、保護紙をとると掛軸が出てくる。巻緒《まきお》を解く。畳に少しだけ広げて風帯《ふうたい》を伸ばしてから、床の垂撥《すいはつ》に掛けするすると下へ開いていった。
小面《こおもて》をつけた能装束の人物が簡素な細い線で描かれている。ひょろひょろとした文字が数行あり、余白に垣根と鳥居の図。
「野宮《ののみや》でしょうか」
不穏が呟く。小柴垣と黒い鳥居は嵯峨野野宮神社の象徴だ。
「さようにあらしゃります」
能に源氏物語をもとにした〈野宮〉という演目がある。この軸は、東国の能好きな藩主のために宝生《ほうしょう》流の家元が書き送った謡《うたい》のメモだという。
「ほら、藩主さまが一生懸命練習しはった跡がありますやろ。読みがな振ったり点を打ったり」
「すると、この女性は六条|御息所《みやすんどころ》ということになりますか……」
哲哉はしきりに首を傾げている。
「なんやわびしい雰囲気やし、やっぱり花まで薄《すすき》では淋しいかもわからへん」
いや、と不穏がさえぎる。
「それはかまわないでしょう。初座《しょざ》は御息所の絵、後座《ござ》は薄と秋草でよろしいのでは」
「相変わらず侘びてはんのやねぇ。お迎えの近い爺さまでもないんやし、そないに枯れてばかりいんともよろしいのとちがいます?」
幸麿の言葉に不穏はしばし考え込み、そのまま無言でどこかに消えた。
三人が残されて、なんとなく間がもたない気がしたとき、幸麿が遊馬に名を尋ねた。東京から来たアズマだと哲哉から聞くと、その青い髪が素敵ねと扇を口元に当てて微笑んだ。
「まろは今出川《いまでがわ》幸麿におじゃります。以後よろしゅう」
本気なのかふざけているのか遊馬には見当がつかない。歌舞伎の女形《おやま》でもない、オカマというのでもない、女装しているわけではない。狸に化かされているようで遊馬はむずがゆい。本名ですかと聞き返したら、また扇で口を隠し、ふふんと笑った。背筋がぞっとした。
「これでいかがでしょう」
不穏が桐箱を抱えて戻り、それを開けながらまだ中身も見えていないのに皆の意見を聞く。やがて中から出てきたのは古そうな黄瀬戸の水指《みずさし》だった。黄色は少しくすんで落ち着いているが、それでも他の道具と並べるともっとも華やいで見える。そこにひとつの焦点ができる。幸麿がうなずき、それで道具組みがだいたい決まった。
「今日はどういう茶会なんですか」
いったい誰が客で、いつどこから来るのか、遊馬は何も知らされていなかった。
「みんなお客やねん。ま、持ち寄り茶会やね。みんなであるもの持ってきてな、ああだこうだ言いながら組み合わせてみんねん」
何かひとつ核を決めておいてもよい。季節やテーマがあったらそれに合いそうなものを考えてみる。それぞれの意向がぴたりと合うこともあれば、重なりすぎて野暮ったくなることもある。嫌い合う道具が寄ったりすると、収まりの悪いことになる。
「たまぁにな、道具同士がうちらの予想を超えて響き合うこともあんねん。スパークするみたいにな。そんなときはほんまに興奮するわ」
なるほど、と遊馬は心の中で呟いた。彼らは能面の絵や古びた茶碗を見て興奮する質《たち》らしい。ならば遊馬の実家に集まってくるじいさんばあさんと同族というわけだ。そういうひとびととは訣別したという遊馬の意志を、運命のほうはどうも甘く見ているらしい。
さっき、畳の納品から戻ったところを、稽古後の哲哉に捕まって連れてこられた。茶杓はどうせまだ売れていないから貸すくらいかまわないが、なにも従順に自分までついて来なくてもよかったのだ。
「ここはね、〈庭玉軒《ていぎょくけん》〉の写しなのよ」
いったん外へ出て茶会の始まりを待つ間、聞かれもしないのに幸麿は解説を始めた。茶室は二畳|台目下座床《だいめげざどこ》、点前座の脇には中柱が立ち、陰に雲雀《ひばり》棚がある。〈台目畳〉とは普通の畳の四分の三ほどの長さのものを言い、〈二畳台目〉とは、したがって二・七五畳の意味になる。今からでも逃げ出せないかと隙をうかがっている遊馬は、はぁ、と気のない返事をする。
が、〈庭玉軒〉というのは大徳寺真珠庵に残る茶室だと説明されてみると、〈真珠庵〉の名には遊馬もかすかに聞き覚えがあった。坂東巴流を遡ると宗家巴流にいたり、宗家巴流をさらに遡ると村田珠光にたどり着く。真珠庵とは珠光の墓のある場所ではなかったろうか。
〈庭玉軒〉の際だった特徴は、茶室の外側に土間が付属していることにある。普通は茶室の軒下にある潜《くぐ》り戸が、土間の入口まで後退している。客は潜り戸を跨《また》いで土間に入り、そこで〈蹲《つくばい》〉と呼ばれる手水鉢《ちょうずばち》を使う。土間から茶室への入口は引き違いの障子戸だ。
庭から直接|潜《もぐ》り込むようにして茶室に入る小さな潜り戸を〈躙《にじ》り口〉と呼ぶが、三畳に満たないような小間でこれがないのはかなり珍しいことだ。
今、遊馬たちが入ろうとしている不穏の茶室には土間こそないが、代わりに本堂から続く廊下が茶室の外まで伸びて縁側になっており、茶室へはやはり障子戸を開けて入る。
「まろは躙り口は嫌い」
だからここは好きだと言いたいらしい。遊馬は頭をごしごし掻きながら、そうかよ、と声に出さずに返事した。
〈躙り口〉に対して、客が立ったまま通れる出入口を〈貴人口《きにんぐち》〉と言う。貴人というのは身分の高いひとびとのことだ。彼らはへりくだるような姿勢を強いる躙り口からではなく、貴人口から横柄に茶室へ通る。
公家装束の幸麿は当然のようにずかずかと立ったまま茶室に入る。哲哉は廊下側にいったん座り、ずずっと膝を引きずって敷居を越える。彼らがそれぞれの流儀で床を見たり釜を見たりしている間、遊馬は隅にぼーっと立っていた。幸麿の扮装もどうかと思うが、自分はTシャツにジーンズ、それもかなり汗くさくてこの場に似合わないことでは彼の上を行く。
狭い部屋に三人が並んだところへ奥から不穏が現れる。僧衣に着がえ絡子《らくす》を掛けている。今初めて会ったような挨拶をして軸の礼を言った。
能曲〈野宮〉のシテは〈源氏物語〉に出てくる六条御息所、ワキは野宮神社に詣でた旅の僧侶だ。御息所は後段、幽霊の姿で現れ、つらつらと生前の不幸を物語る。野宮とは、かつて彼女が源氏への想いを断ち切り娘とともに伊勢に下ろうと決心したときに仮の宿りとした神域であり、にもかかわらず忍んできた源氏を断り切れずにまた逢ってしまった因縁の場所でもある。
「野宮で源氏と御息所が最後に逢《お》うたんは、物語の中では九月七日やそうですわ。この幽霊は、せやし毎年毎年九月七日になると野宮に出ますのや。そう考えたら時期的にぴったりかしらと思いまして、それでまぁ、お持ちしてみたの。中廻《ちゅうまわ》しも一文字《いちもんじ》も、多分、古い能装束の裂地《きれじ》と思います」
なるほどと畏まっていた不穏が、先に軽い食事を出してくれると告げたので、遊馬はおおいにほっとした。実を言えば、すでに夕飯時なのに食いっぱぐれるのではないかと不安だった。
懐石は略式で、さほど時間も手間もかからなかった。あらかじめ膳に載っている小鉢もあって、なんだか実家の朝夕を遊馬に思い出させた。友衛家ではちょうどこんなふうに毎日食事をしていた。
こちらの膳には脚がなく、畳の高さに椀類が置かれるので慣れない遊馬には少々食べにくい。きっとこれが宗家巴流の様式なのだろう。宗家巴流と坂東巴流は、言ってみれば親子の関係なのに、作法や道具がいちいちこうまで違うとはこれまで知らなかった。
まあ、膳が少々高かろうと低かろうと、美味しいものを食べられるなら遊馬に文句はないので、誰が炊いたのか餅のようにやわらかな白飯や、ぴりりと辛い汁、秋を感じさせる旬の総菜を噛みしめていると、先ほどまでの不機嫌も和らいでくるのが自分でもわかった。思えば京都に来て以来、高田家の食事にしても外で食べる定食やうどんにしても、まずいというものには出会ったことがない。
空腹が満たされ、遊馬は少し落ち着いて周りを見る。小さな障子窓から暮れかけた弱い光のそそぐ狭い茶室に、派手な公家装束の幸麿と褪せたTシャツ姿の自分、童顔のくせに渋い袴姿の哲哉が並んで飯を食っている。そこへときおり墨染めの衣をまとった不穏がやってきて給仕をしていく。奇妙な光景だと思う。奇妙な光景の一部に自分もなっているのだと思うとむずむずする。
にもかかわらず、多分、幼い頃からの習い性で茶室の雰囲気に馴染みかけている自分も実はここにはいて、はじめから遊馬の脳には警告灯がちかちかしていた。食事がすんだからお先に失礼しますというわけにいかないことだけは知っていて、それゆえ身動きがとれない。
「六条御息所の前で飯喰うてるゆうのんも妙なもんですねぇ。このひと、生き霊になって恋敵を何人も取り殺したっちゅう怖い怖いひとですやろ」
哲哉がのんびり床の軸に目をやった。自慢ではないが、遊馬は〈源氏物語〉など読んだことも読もうと思ったこともない。〈忠臣蔵〉の話ならよく知っている。〈平家物語〉も義経のくだりはけっこう好きだ。が、〈源氏物語〉を読めとは友衛家では誰からも勧められなかった。基本的に硬派な家柄なのである。
「そうねぇ。でもこの方は本来、誰もが憧れる、それはそれは美しい気品に溢れたひとだったのよ」
幸麿が手にした盃をくいっとあけて答えた。
「綺麗で聡明で教養もある若き未亡人。男なんか、よりどりみどりやったと思うわ。そこらへんのお嬢さんらみたいに泣いたりわめいたり平気でできたらもっと楽やったかもしれへん。誇り高すぎたのが不幸なのよねえ」
幸麿は御息所に同情的なのだった。誰よりも理知的で〈恥〉というものに敏感だった御息所には己を外から眺められる客観的な視点があった。どこからもほころびの見えないスマートさを彼女は日々心がけていたのに、そこからもっとも遠い自分をもっとも見せたくない相手の前にさらけ出してしまった。自尊心のないひとにその苦しみはわからない。
「哀れやあらしゃりませんかぁ。あれがほしいとか、こうやないとイヤやとか、恥ずかしげもなくわがままな奥さんお嬢さん、ようけいてはりますけど、そういうひとは自分を恥ずかしいとはこれっぽっちも思わへん。かえってこのお方みたいなひとのほうが、無理して己を押し殺してどこかで鬼になってしまうのね。このとき源氏のほうは哲やんくらいの歳でしょう。御息所みたいなおとなの女のひとが安心して甘えられる相手やあらしません。何もわからず、ただ自分の魅力を見境なく振りまいてはる。若さの罪やと思うわ。でも、まあ、世の中そういうものやろね。悪気よりも無邪気のほうがずっとずっと怖ろしいものなのよ」
なにやら思いあたることでもあるかのように幸麿はひとり納得して盃を見つめている。
やがて不穏が釜を上げ炭を置く間、遊馬はくだんの軸に目をやっていた。細い筆でさらさらと書かれている文字が読みとれない。そう言うと、幸麿は一瞬肩を揺らし、突然それまでののらくらしたお姉《ねえ》言葉とは違う野太い声に節をつけた。
※[#歌記号、1-3-28]昔を思ふ花の袖 月にと返す気色かな
謡の一部だ。
「華やかだった昔を思い出して月下に舞ってみせましょう、というほどの意味やね。このあと序の舞になるわけ。ちょうどうまいこと切り取ってはるでしょう。藩主さんの落書きがなかったら画賛みたいや」
そう言って満足そうに微笑んだ。
「幸麿さんちはな、お道具屋さんなんや。幸麿さんは学校《がっこ》の先生《せんせ》してはるけどな。あんたも後でお茶杓のこと相談しはったらええかもな」
話がそれていくからだろう、不穏がコホンと咳ばらいをして三段重ねの縁高《ふちだか》を持ち出す。一段にひとつずつ菓子が納まっている。薄い求肥《ぎゅうひ》で羊羹をくるくると巻いてある。
「あら、〈砧《きぬた》〉やねぇ」
「はい、ちょっと作ってみました」
表情の少ない不穏が、嬉しそうに頬を赤らめたからにはよほど自信作なのだろう。この坊さん、菓子までつくるのかと遊馬は呆れた。
「晩秋の風情やわねぇ」
菓子を取り上げながら幸麿が呟く。
「〈嫉妬〉つながりかしらん、ステキ」
それは何のことだか遊馬にはさっぱりわからなかったが、いったん外に出たあと、再度席入りしたときに「こんどはこっちが嵯峨野やねんね」と哲哉が言った、その意味はさすがにわかる気がした。
軸はもう床からはずされて消えていた。替わりに薄の穂と二、三、秋草が土物の花入に挿されている。陽はいつしか暮れており、燭台の灯りが控えめに揺らいで室内を照らしている。黄瀬戸の水指までもが野の枯草色だ。さきほどまで絵の向こうに見ていた〈野宮〉の舞台が、反転して今ここにある。
あらかじめ袖壁の陰の棚に用意されていたのだろう。遊馬はそれに気づかなかったから、不穏が天目台にのせた茶碗を手にしたとき、それはあたかも宙から忽然と現れたように見えた。彼はそこに湯と茶を入れ、おもむろに立ち上がると床の間に供えた。見えない女性に向かって合掌する。
「ああ、そうなのね。そこまでは計算したわけやなかったけど、御息所がシテなら、不穏さんがワキの僧侶というわけなのね」
幸麿の言葉に不穏は少しだけ首を傾けにやりとした。どうやら不穏は能舞台に上がっているつもりらしい。
それからのひとときは歪んだ時空に浮いている気分だった。正直なところ、女性の嫉妬や悲しみなど遊馬にはわからない。が、この年長の男たちが彼女へ向けた、その優しさのようなものは伝わってくる。茫々たる野を歩き続けて泣きじゃくる童女に出会ったら誰でも手をさしのべたくなる、そんな優しさだ。怖い怖いと言っていた哲哉でさえ神妙な面持ちで遠くを見ている。茶を飲みながらそんなことを感じるのは奇妙だと思いながら、まんざら不愉快というわけでもない。ただ不思議だ。夢を見ているようだと思っているうちに、さぁっと野分が吹いてみんなさらっていった。
その晩は帰るともう志乃は寝ていたので、残ったからと持たされた菓子は翌朝渡した。
「高田先生にって不穏さんが言ってました」
志乃は包みをそっと開き、「まぁ、砧ですやん」と嬉しそうに呟く。不穏が作ったと聞いて目を丸くする。
「いやぁ、あのおひとはこないなことまでしますのんか。お上手やねぇ。後でいただきましょな」
そう言って小さな仏壇に供えた。鰺の干物をつつきながら、昨夜はどうだったか、お軸は、花は、茶入は……と根ほり葉ほり尋ねられて遊馬はうまく説明できずに閉口した。それでも志乃はどうにかイメージをつかんだらしい。
「そしたらお茶室の中は一足早う晩秋の風情やったわけやねぇ。それで〈砧〉やねんねぇ。なるほどなぁ」
〈砧〉とは何か。
「そやねぇ、昔は絹みたいな柔らかもんを着られるのは偉いひとだけやったでしょう。普通の貧しいひとたちの着ているのは粗末な固い着物やったそうですわ。そうゆうもんは洗うとばりばりに固《かと》うなるらしいんやな。それをとんとん叩いて柔らこうするのんが昔の女のひとの仕事だったそうですわ。その台のことやろか、打つ杵《きね》のことやろか、それを〈砧〉言いますねん。秋の夜長に里のほうからトントンと砧を打つ音が聞こえてくるのんは、せやからなんや淋しいような風情のもんでしょう」
たしか幸麿は嫉妬がどうのこうのと言った。
「〈嫉妬〉ですて……? ああ、それはもしかしたらお能の〈砧〉のことやろか。そういうお話がありますのや。遠くへ行った旦那さんがなかなか帰って来《き》いひんから、奥さんが淋しい淋しい恨めしいゆうて砧を打つ話ですわ。砧の音が遠くにいる旦那さんの夢に聞こえたらええなぁゆうてや。なんや、アズマはんは女子《おなご》の怖いとこばかり教わってきたんどすな。意地悪な兄さんたちや」
ほほほとおかしそうに笑う。
「はあ……〈源氏物語〉なんか読んだことないから全然わかんなくて。志乃さん、読んだことありますか」
おばあさんと呼ぶのはやめてほしい、〈志乃さん〉がよいと言ったのは本人だ。
「若い男の子にそない呼んでもろたらそれだけで若返りますわ」
そんなふうに笑うときの志乃は少しはにかんだようで遊馬が見てもかわいらしいと思う。
「そら、ありますえ」
ずいぶん昔のことで、今この家に本はない。
「そやけど、いつやったか、翠が漫画で読んでやったわ。あの子に聞いとおみ」
「翠ちゃんかぁ……」
その時点で源氏物語は諦めた。志乃はおかしそうに眺めている。
「アズマはんは女の子の扱いが得意やないみたいやね。それこそあの兄さんたちに教わらなあきませんえ」
朝食のあと、頼まれていた草取りを始めた。小さな庭だが、草は抜いても抜いても生えてくる。中には大事にしている茶花もあるから、遊馬は地面に這いつくばるようにして、これは抜いてもよいかといちいち尋ねなければならなかった。
志乃は縁側に座り何やら縫い物をしながら、ひょいと老眼鏡を上げて抜いておくれやすとか、それは抜いたらあきませんとか指図する。そのたびに「すみませんねぇ」と何度も何度も言う。そういえば家でも小学生の頃はよく弥一を手伝って草取りをした。弥一は歳をとっていくのに、自分はだんだん手伝いをしなくなったと思うと少しばかり胸が痛んだ。
今頃きっと弥一も草なんかむしっているんだろうな。想像しながらぼんやり宙を見上げていたら、そろそろお茶にしましょうと志乃が言った。この日は煎茶で不穏の作った〈砧〉を食べた。
縁側でおばあさんとお茶を飲んでいるというのはいかにものどかで、もしかしたら今自分には何の悩みもないのではないかという気がしてくる。たった今チクリと胸を痛めたことさえもう忘れて、わけもなく幸福感に浸ってしまう。
「アズマはん、今日は向こうは手伝わんでもよろしいのやろ。せやったら、すみませんけど、あとでちょっとお遣いに行ってきてもらえまへんやろか」
清水《きよみず》に住む友人の家へ品物を届けてほしいという。
「むかぁし、お師匠さんからいただいた香合ですのやけどな、貸してほしい言わはるし、持ってっておくれやす」
小さなものだが郵便では怖い。自分が行けば相手が気を遣って長引くから、遊馬をやるのがちょうどよい。
「それに、そのおうちは坂の上でバス停からはちょっとありますのや。そのちょっと[#「ちょっと」に傍点]がわたしにはこの頃しんどうおしてなぁ。自転車のほうがよければ使《つこ》うとくれやっしゃ」
このところ町中を歩き回っていて、せめて自転車があったらどんなに楽だろうと思っていたところだったから、遊馬は大喜びで母家の奥から自転車を引き出してきた。
まだ夏だと思っていたが、自転車で風を切ってみると、たしかに二週間前とは違う秋の気配がした。町中では修学旅行だろうか、制服姿の中学生が群れになって一枚の地図を覗き込んでいたりする。
「あの、すみません」
バス停の人混みに自転車を停めたとき、脇で声がした。
「祇園に行くには、このバスでいいんでしょうか」
そう聞かれて遊馬は一瞬うっとりと目を閉じてしまう。
「あの……」
ちょうどそこへバスが来た。
「そうだよ、それに乗ったらいい」
京都はやたらとバスの多い町で、路線図は複雑を極めている。ほんとうは遊馬はバスのことなど何も知らない。はっきり言えば、京都に来てまだ一度もバスに乗ったことはない。ただ、彼らの懐かしいイントネーションを聞いたとき、もう少しそれを聞いていたくて、それにもちろん彼らに少しはいい格好がしたくて、知ったふりで指さした。バスの側面には大きく〈祇園〉と書かれていたのだから、間違いということはないだろう。
たしかこんな気分を表した俳句だか短歌だかがあったなと思いながら、そのときは思い出せなかった。ようやく思い出したのは、遣いの帰り、鴨川べりに寝ころんでいたときだ。昼にかかるからと志乃がおにぎりを持たせてくれていた。
「夕方まで遊んできはったらよろしいわ」
そう言われたときには自分を嗤った。まるで幼児扱い。そのへんに放しておけばいつまででも遊んでいられるという年頃でもないのになと思う。何をするにも先立つものがいる。
往《い》きは五条大橋を渡ったから帰りは四条を通ろうと走ってきて、広々とした景色に惹かれ、そこで土手へ下りた。少ないながらも水の流れが目に涼しい。対岸には、料亭の軒から夏の間だけ出ているという〈床《ゆか》〉が並んでいる。いつか成り上がったらあそこで飯を食おうとそんなことを思いながら、ぬるい瓶の乳酸飲料を飲んだ。これは遣いに行った先でもらった。一杯水を飲ませてもらえないかと頼んだら、水と一緒に、こんなん飲まはりますか、と三本ほど渡された。
「牛乳屋さんが試供品やて置いてかはったもんですけど」
お駄賃というわけだ。それはよいが空き瓶はどうしたらよいのだろう、このへんに捨てていってよいのだろうか。というようなことを考えているときに、脈略もなくふと思い出した。
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
教室で読まされたときは、田舎者の気持ちなんかわかるかと思ったその歌の意味が、今しみじみと心に沁みる。上野駅で東北弁を聴いても感ずるところは何もないが、京都のバス停で聴く東京弁は、舐めたくなるほど懐かしく、いささか感傷的にさえなる。こんな気持ちになるのは、生活に不安があるせいかもしれない。衝動的に上京してはみたものの、その頃の啄木《たくぼく》にはまるきり金がなかったのだと国語の先生が言っていた。現実逃避の日々に詠まれた歌だ。まるで今の自分とそっくりだと思う。
なんとか茶杓をお金に換えようと、この一週間、道具屋筋を廻ってはみた。ほとんど相手にされなかった。だいたい遊馬の風体とよそ者言葉だけで敬遠される節があり、品物など見てくれようともしない。見てもまるで物乞いを相手にしているかのように千円とか二千円とか馬鹿にした値をつけるので、頭にきてこれは徳川慶喜の作なのだと言い放ってしまったこともある。すると道具屋のじいさんはなおさら見下した態度になり「そうでっかぁ、それやったら名古屋へでも持って行かはったほうが高《たこ》う売れまっせ」とすげなく言った。徳川家の威光に恐れ入る気配はさらさらない。
今思えば、東京の道具屋は明朗で率直だった。家に告げ口などしていやらしいとは思うが、徳川家にも友衛家にもひれ伏す態度だったではないか。
いい加減腹を立てながら入った店では、ひとの良さそうな店主が、それは素晴らしい茶杓だとさんざん褒めたあとで、しかし京都で徳川さんの茶杓は使いづらいかもしれない、紀州ならともかく水戸ではねぇ、それよりこれはどうですと、ガラスケースの中に置かれた茶杓を見せた。〈伝 宮本武蔵作〉と、今、筆ペンで書いたばかりの札をその脇に置くのを見て、すべてばかばかしくなった。
せっかく爽やかな気分でいたのにつまらないことを思い出してしまった。嫌なことは忘れようと頭を振った。
鴨川というのは奇妙な場所で、上から見下ろすと、こちらの岸もあちらの岸も、人影がふたつずつペアになって並んでいる。申し合わせたように等間隔なので、遊馬は、トントンツー、トントンツーと数えていった。カップルはみんな自分と同じ年頃に見える。きっと大学生なのだろう。お金の心配などせず恋人も手に入れ、皆、気儘な日々を過ごしている。羨ましいことだ。それにひきかえ自分は何をやっているのか。
そこでまたひとつ、こんなときにぴったりの歌があったのを思い出す。〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ……〉そんな歌だったが、あとが続かない。友がみな、友がみなえらく……、いや、そうではない、別に彼らなんか羨ましくはない。親に言われるままちゃんと試験会場に行っていれば、どこかひとつくらいには受かって、自分も今頃あの中のひとりだったはずだ。そんなものは羨ましくない。蹴飛ばしてやったから、今、こんなに自由に青空を眺めていられるのではないか。
とは言うものの、どうせ同じ京都の空を見るはめになるなら、おとなしく大学生になって小遣いをもらっていたほうが利口だったかもしれない。
金だよ、金。金、金。どうやら人間というものは、ただ生きていくだけでもお金がないとならないらしい。犬や猫より不自由である。茶杓は売れない。昨日、幸麿にも聞いてはみたが、手元に置いておきなさいとたしなめられただけだった。となれば働く以外に手はないわけだが……。
ため息を押し殺して目をあげたとき、橋の上を行き交う人波の中にひとり立ちつくす者がいるのを見た。托鉢《たくはつ》の僧だ。京都の町中を歩き回っていると、舞妓には会う、弁慶みたいな修験道のおじさんには会う、昨夜は平安貴族みたいな知人もできたから、托鉢僧くらいではもはや驚かない。遊馬は尻を払って立ち上がり、自転車を舗道へ上げると、しげしげとそのひとを眺めながらゆっくり前を通り過ぎた。編み笠をかぶっている。黒い僧衣をまとっている。そうしてただ立っている。
橋を渡り終わると、いきなり全速力で自転車を飛ばした。
「不穏さん、不穏さん」
境内に自転車を停めて、あちこち捜す。外にはいない。昨日の茶室のほうも覗いてみるがやはりいない。自宅部分の玄関を開け、不穏さんはいませんかと声を上げると、やっと不穏が現れた。
「どうしました」
「不穏さん、托鉢の道具、持ってませんか」
「托鉢? それは無論ございますよ」
「貸して下さい」
「はあ? なぜ」
「もちろん托鉢するんです」
「……」
この髪の青い少年が一夜にして宗教心に目覚めたのだろうとは、もちろん不穏も思わなかった。息を切らしている相手をしばらく無言で眺めたあとで、今すぐですかと怪訝そうに聞いた。
「大至急お願いします」
不穏はどこからか衣や脚絆を出してきて縁側に並べた。網代笠もあって、そうだよ、これこれと遊馬はにやつく。虫干しでもするかのようにそれらを広げて並べながら、不穏はふと顔を上げて、昨夜はいかがでしたかと聞く。
「お茶を掬《すく》う意味がわかりましたか」
「意味……はわかんないですけど、あの六条のなんとかっていう女のひとは嬉しかったんじゃないかな。だって、俺たちみたいないい男四人であのひとのために祈ったっていうか、供養したっていうか……ですよね?」
不穏は満足そうに、しかし少し照れる様子で俯いた。
「わたしはこう思うのです。お茶を〈掬う〉ということは〈救う〉に通じるのではないかと。もちろんおっしゃるとおり、昨夜は思いがけず女性《にょしょう》を愛執から救う形になりましたが、それだけではなく、連客の心も何がしかの形で解放し救えるものではないかと。少なくとも僧侶であるわたくしの茶はそのようなものであるべきだと。無論、まず最初に自分を救わねばなりませんが」
難しいことは遊馬にはわからない。どちらかと言えば、お茶をすればするほどひとは縛られるものだとこれまで感じていた。友衛家は茶道の家元というわりには敷地が狭いこともあって、門人たちが茶をする空間と、家族の生活空間が非常に近い。窓辺でぼんやりしていたりすると、よく稽古に来たひとたちの声が聞こえてくる。まあ、たいてい、ああしてはいけないとか、こうすべきだとか、そういう話だ。
友衛家の茶杓がよいものだと聞いたのも、やけに声の通るおじさんが、入門したての素人相手に茶杓の持ち方を講釈していたときだ。高価な茶杓なのだから、そんなふうにべたべた触ってはいけないと叱っていた。最低でも百万円、一番よいものは都心にマンションが買えるほどだと、おじさんは高らかに宣言していて、叱られた新人よりも遊馬のほうが驚いた。
だが遊馬も一応状況というものはわかるので、ここは素直にさも感じ入った様子で不穏の話に相づちを打った。俺も昨日みなさんとご一緒してみてちょっと思うところあって、托鉢をしようと思い立ったのもまるきりそれと関係がないわけではなく……。
「茶杓は地球を救うかどうか俺にはわかんないですけど、とりあえず、今は俺を救ってはくれないみたいなんで、だったら托鉢でもして自分を救ってみようかと……」
自分でも何を言っているのかわからなくなった。不穏もいささか心許《こころもと》なさそうに相手を観察していたが、まあ、いいでしょうとふんぎりをつけ、おもむろにバリカンを取り出しスイッチを入れた。
「な、何をするんですかっ」
遊馬は飛び退いて叫んだ。その反応があまりに激しかったので不穏のほうがむしろたじろいだ。
「何とは……、もちろん髪を落とすわけです。托鉢ですから」
「托鉢って坊主にしないとできないんですか」
「そんな、まさか、あなた、青い髪に笠をかぶるおつもりではないでしょう?」
「大丈夫ですって、髪、濡らしてかためときます。笠かぶってたら坊主かどうかなんてわかんないですよ。なるべく俯いてたらいいでしょ。あー、びっくりした」
どぎまぎしながら遊馬は言った。いくらなんでも坊主頭になる気はない。
「ひとにわかるとかわからないとか、そういう問題ではありません。托鉢というのは座禅と同じ修行の一環なのです。托鉢をするのは僧と決まっています。僧は剃髪すると決まっています」
「決まっているって、そんなこと誰が決めたんですか。お釈迦さまじゃないでしょう。第一、あのひとアフロじゃないですか」
「アフロ……? い、いえ、あれは、螺髪《らほつ》と言うのです」
「髪伸ばしてるお坊さんだって、俺、見たことあります」
「それは、おそらく浄土系の方でしょう。浄土宗、あるいは浄土真宗」
「なら、俺もそれにします。浄土真宗」
「真宗では托鉢はいたしません」
「……」
不穏は呆れてため息をついた。
「たしか、あなたはお寺のご子息と伺っていますが、御宗旨はどちらなのでしょう」
「宗派なんか何だっていいんです。仏の道はひとつでしょ。うちの祖父《じい》さんもそう言ってます」
そう言ったのは、実は隣の寺の和尚である。
「なるほど、それは正論です。しかし、価値観の違いやしきたりというものはあります。それらすべて無視してよいということであれば、そもそも僧侶の格好などせずとも、そのままの姿で道に立ってもよろしいわけです。で、得度はお済みなのでしょうか」
「トクドって何ですか」
不穏はじっと遊馬を見つめる。およそ寺に育った者の言葉とは思えない。
「……つまり、出家して僧籍を得るということですが」
「出家はしてないけど、家出してるから同じじゃないかな」
「それは困りました。托鉢には托鉢許可証というものが必要です。もちろん得度した上でです」
托鉢するのにいちいち許可証がいるとは知らなかった。しかし、いったい誰がそんなものを見せろと言うだろう。
「不穏さん、不穏さん、俺、今、無性に托鉢がしたいです。こんなこと思ったの生まれて初めてです。今を逃すと、きっと一生思わないです。証明書がどうとかってそういううざったい[#「うざったい」に傍点]こと言ってる場合じゃないと思うんだ。こういうことはノリが大切でしょ」
「いえ、修行は決してノリでするものではありません……」
「でも、でも……」
材料が尽きて遊馬は口ごもった。たかが托鉢するのにそんなしち面倒くさいことがあるとは思わなかった。ひとがせっかく修行してやろうと言ってるのに頭の固い坊主だ。
「ですが、まぁ、何がきっかけにならないともかぎりません。これであなたが仏の道に目覚め、僧侶として生きていく覚悟ができるなら、それはそれで意味のあることかもしれません」
遊馬は大きくうなずいた。寺の息子ということにしておいてよかった。
「では、そのTシャツとジーパンを脱いでください」
そうして並べた衣類の中から褌《ふんどし》を差し出した。
遊馬は差し出されたものをじっとにらみ、声に力を込めて、それはいりませんと答えた。
「そうおっしゃると思いましたが」
案外あっさりと不穏は引き下がり、遊馬はほっと力を抜く。
「不穏さん、褌なんかしてるんですか」
「無論、そうです。気持ちが引き締まってよいものです」
そんな歳でもなさそうなのに意外だった。
実を言えば、祖父の風馬《かざま》も褌を愛用しており、家にいた頃は物干しにたなびくそれを見るたび、遊馬は憂鬱になったのだった。父の秀馬《ほつま》も常用こそしないが、重要な儀式のあるときにはそれを締める。彼らの跡を継げばいずれ自分もそれを強いられるのだというのは、はっきり意識したのは今が初めてにしろ、あの家を出たい理由の百分の一くらいにはなる。
褌はどうにか免除され、赤いトランクスの上に短い襦袢を着た。〈しもふり〉というグレーの着物を羽織り、さらに黒い麻衣を重ね、巨大なよだれかけみたいな絡子《らくす》を首から提げた。手巾《しゅきん》という太い紐を複雑に結び、肝心の托鉢袋を下げると、だいぶそれらしくなってくる。白い脚絆をつけ、しまいに網代笠をかぶったら、自分でも俄然その気になってきた。
「まんまんちゃーん」
庭で遊んでいたナオちゃんが寄ってきて、遊馬の前で小さな手を合わせた。子供は正直である。一人前の雲水に見えるにちがいない。よしよし。
それから少し作法を教わった。立っているときは、首から下げた袋と紐のつなぎ目あたりを持っている。誰かが喜捨のために立ち止まったら合掌していただく。袋に下がっている垂れを両手で掲げ、そこにお金なり物なりを置いてもらう。そのまま合掌するとあら不思議、いただいた物は袋の中へ滑り落ちて行く。
「面白いですね」
「面白がるものではありません」
「ありがとうとか言わなくていいのかな」
「喜捨はひとびとにとって功徳を積む機会ですから、礼は言いません。言うとしたらあちらが言います。くれぐれも、托鉢は募金活動でも物乞いでもないことをお忘れにならないように。私語も厳禁です。無言で合掌するのみ」
それは楽でいいやと遊馬は思った。
ところが、歩き始めてまだいくらもたたないときだ。
慣れない草鞋《わらじ》を履いて下ばかり見ていた遊馬は、誰かが後をついてくる気配を感じて立ち止まった。二、三メートル後ろでその気配が固まる。不思議に思って振り返ろうとしたそのときに、二の腕をがしっとつかまれた。
「お願いします」と彼女は言った。
小柄な、ほんとうに小柄なおばさんだ。
「主人です」
驚いた遊馬が逃げ出さないよう腕を捕えたまま、もう片方の手で肩から提げたバッグの中をさぐる。そうして取り出したのが位牌だったから遊馬はおののいた。
「あ、あの……」
「お願いします」
だから、何を……。まさか。
自分の眉根が思い切り寄るのを感じた。
「どうぞお願いします。先月、突然に亡くなりました。一緒に京都旅行する約束だったによ。結婚してから初めて水入らずの旅行だったに」
おばさんは頭を低くして、遊馬の腕に押しつけた位牌に額をすりつけている。たしか不穏は托鉢で経を読むことはないと言った。ただ無言でいるのみと。しかし、このシチュエーションでいったいどうしたらよいのだろう。突き飛ばして逃げるというわけにはいかないだろう。
「すみません。俺、あの、まだ修行の身で、その……」
この町ならば日本中のどこよりも偉い坊さんがいっぱいいるだろう。何もこんないんちき坊主に頼まなくてもよさそうなものだ。が、おばさんは遊馬の言葉など聞いていなかった。顔も見ていない。ただ、墨染めの衣にすがるようにしがみついている。
「あのひとも旅行を楽しみにしとっただよぉ。魂になってもきっとここについてきとるだに」
遊馬は思わず顔を上げそうになった。霊魂ならとっくにこちらの正体を見破っているはずだ。
「お坊さんに会ったら供養をお願いしてやるからなぁって、さっき約束したところです。断られたら、主人は成仏できないかもしれません。田舎の坊さんは頼りなくてよぉ。どうか、お願いします。お願いします」
ただでさえこの衣装は暑いのが、腕に体温の高いものをぶらさげていっそう暑い。さらに彼女の汗と涙で、網代笠の中だけ湿度が増しているように感じられる。
多分、立派な高僧だったなら、彼女も道端でそんなことを頼むのはためらっただろう。いかにも若そうな僧侶に見えたからこそ、無茶を言ってみる気になった。遊馬は隙だらけだった。
困るのは、周りのひとびとがこの状況を遠巻きに眺めていることだ。遊馬は笠の下に隠れるように俯いているのではっきりとは見定められないが、さりげなく頭を回してみると、見える範囲にも立ち止まっている脚が何本か見える。
笠を脱いでみせて、ほぉら、坊主じゃありませんと言うのは簡単だが、そのあとどうやって取り繕えばよいのだろう。それこそ収まりのつかないことになる。なんとかここを切り抜けなければ。そうだ、もしかしたらこれが托鉢の第一ステージなのかもしれない。いよいよ試練の時がやってまいりました。絶体絶命のピンチ! どうする、遊馬! 続きはまた明日。
茶化してみても三十分のアニメ番組ではないのでCMには切り替わらないのだった。
ええい、ままよ。遊馬は居直った。
どうせ、お経など誰も正確に覚えてはいない。大声で読経せよと言われている場面でもない。小さな位牌に向かってぶつぶつそれらしいことを小声で唱えたら、このおばさんも野次馬たちも納得するにちがいない。遊馬は二の腕を握りしめているおばさんの掌に空いている自分の掌をそっと重ねてから、この状況で合掌はかなわないので片手だけを額の前に掲げた。
さて、お経というのはどんな調子のものだったろうか。去年は祖母の七回忌だった。その様子を思い出そうと目をつむる。いつも通り、隣の寺から和尚さんがやってきて南無南無……いや、そうではなかったような……。考え込んでいると、頭の奥底にあるどこか遠いところから線香の匂いが漂い出し、ナオちゃんにも似た細く幼い声が浮かび上がってきた。不思議に思って耳を澄ます。声変わりする前の自分の声が、そうと気づかぬうちに今の声とシンクロする。まかはんにゃーはーらーみーたーしんぎょーーーと、その声は言っていた。
「かんじーざいぼーさつぎょーじん、はんにゃーはーらーみーたーじー、しょーけんごーおんかいくー、どーいっさいくーやくしゃーりーしー……」
お仕置きに連れてこられた遊馬に、隣の和尚は説教はしなかった。ただ、雑巾がけをさせたり、座禅をさせたり、本を丸暗記させたりした。これを全部覚えたらおうちに帰れるぞ。そう言われたのは幼稚園か小学生の頃だ。まさかそんなものを覚えているとは自分でも思わなかった。
今でこそ大学に滑って馬鹿だ馬鹿だとののしられている遊馬だが、幼稚園の頃は、ウルトラマンに出てくる怪獣のすべてを暗記していたし、駅の名前も山手線のみならず丸ノ内線、東西線、銀座線、都営浅草線などなどほとんど全部言えた。そして、覚えたことも忘れていたくらい昔、たしかに一度、それをすらすらと唱えることができるようになったのだった。まだ生きていた祖母がえらいねと褒めてくれるので、家に帰ってからもいい気になって何度も何度も繰り返し、かえって風馬や秀馬をげんなりさせた。
般若心経だと知っていたわけではなかったし、和尚がかなをふったものを一生懸命覚えただけだから意味もわからない。音だけの記憶が、いったん始まればどこからともなく湧き出て声になる。それこそノリで唱えてしまう。最後のほうはだいぶあやしくなったのを、むりやり「ぎゃーてーぎゃーてー……」と締めくくった。
もっともらしく黙って一礼する。おばさんは泣きながらありがとうございましたありがとうございましたと汗ばむ額を遊馬に擦りつけ、またごそごそとバッグを探り、なんだかしわくちゃの千円札を取り出して握らせてくれた。袋の垂れに受けて云々の作法は忘れてしまった。
おばさんが去ると、急に腕が軽くなり、そのあたりに滞っていた空気が動き始めてにわかに涼しくなった。膝から力が抜け、遊馬はくずおれるようにしゃがみ込んだ。草鞋を直すふりをしながら虚脱感に身をまかせる。何だったんだろう……。
が、いくらもしないうちに虚脱感は達成感に、心地よい興奮へと変容し、やがて駆け出したいような気にさえなってきた。俺はやれる。この難関を乗り切ったからには絶対大丈夫だ、と脚に力を込めて立ち上がる。
このおばさんとの遭遇が遊馬を勢いづかせてしまったのは言うまでもない。
妙にハイテンションのまま、ずんずんと二条城のあたりまでやってくる。おさまりのよさそうな場所を見つけ、おもむろに立ち止まる。教わったとおり袋の紐を握り、顔を上げると坊主頭でないのがばれるから、じっと慎ましく下を見ている。見続けながら、さきほどの出来事を何度も反芻していた。
二条城の見物人は、ほとんどが大型バスに乗ってやってくる。ガイドに先導されているから、往きは「まあ、托鉢だわ」とか「雲水さんね」「やっぱり京都ねぇ」などと声高に話しているわりには誰も立ち止まらない。帰りはもう珍しくないのか素通りしてしまう。
一度だけ、写真を撮ってもいいですかと若い女の子に聞かれ、うなずいたもののボロが出てはまずいからカメラを向けられてもじっと俯いていた。
シャッター音のあと、ありがとうございましたと言って少し戸惑う気配があり、しかし彼女は何もくれずに行ってしまった。それはないだろうと思った。オレンジ色のミニスカートだった。サクランボの飾りのあるサンダルを履いていた。ワイヤーでできているみたいに華奢な、たぶんミュールとかいうやつだ。どんな顔だったかはわからない。とにかくこちらは深く笠をかぶって俯いているので、目の前に立たれても腰から下しか見えないのだ。
道行くひとは、だから、遊馬の半円形の視界を下半身だけで歩いている。
スカート花柄、ワンピースの白い裾、紺ズボン、茶ズボン、チェックのミニスカート……
下半身からそのひとの年齢を推定する。
おじさん、おばさん、ギャル、じいさん、じじばば、おばおば、おじおばばばあ、ボーイ、ボーイ、ボーイの塊、おねえさん、ガキ……おぉっと。
幼児だけは頭まで見えて、しかも興味深そうに笠の下からこちらを見上げてきたりするので、遊馬は慌てていっそう深く俯いた。油断できない。
そのうちに退屈してきて〈いい女〉探しを始めた。この限られた視界に自分を唸らせるような下半身美人は現れないものだろうか……
野郎、デブ、出っ尻、がりがり、ちょっと太め、象脚、鳥脚、垂れ尻、論外、論外、問題外……
見かけは敬虔な修行僧のくせに、およそ仏道修行とは程遠い境地に遊馬はいて、網代笠の下でぶつぶつと声にならないつぶやきをもらしていた。そのせいかどうか、いい女も見つからなければ喜捨も三百円だけだった。
三百円は中学生の女の子三人組がひとり百円ずつくれた。
はじめの女の子がどうやるのかなという感じで百円玉を差し出してきたので、作法通り合掌し、袋の垂れを広げた。こうかな? と彼女が硬貨をそこに置き、遊馬は再び合掌する。百円玉が袋の中へ滑り落ちていったのを、「見て見て、これ面白いよ。アケミもやってみな」という調子で友人たちも同じことをしたのだ。まるで、機械人形になった気分だった。
「チョコレートとかどうかな」
「やってみたら?」
というわけで、抹茶入りチョコ一箱も袋に収まった。
「じゃ、またねー」
女の子たちは、そう言って明るく去っていった。サリーちゃんのような脚しか見えなかったけれども、多分、手も振っていただろう。
夜、枕元に千円札と百円玉とチョコレートを置いて眺めながら、足の指の間に軟膏を塗った。膝をすりむいたと嘘を言って志乃に借りた。托鉢グッズは不穏の寺にすべて置いてきたから、ばれてはいない。
それからの数日間、高田家の手伝いの合間を縫っては托鉢にでかけた。
二日目は大宮駅の交差点に立った。ここでは一時間立っていても収穫がなく、狭い視界には退屈を紛らすほどの下半身も現れなかった。身動きもせずにじっと立っているというのはけっこう疲れることで、軽く屈伸運動をしていたら通りすがりの女のひとにくすりと笑われた。
そう頻繁に運動もできないから、疲れたら少し歩いて河岸《かし》を変えることにした。四条大宮から東へ移動して堀川通へ出る。ここの交差点は広々している。そのせいか、笠の下には何も現れない。きわめて退屈なのでときおりそろりと首を上げて周囲を見てしまう。そんなときに限ってこちらを注視しているひとがいて、慌ててまた下を向く。三十分もたなかった。
交差点を渡ってさらに烏丸《からすま》通まで行く。バス停にはひとがたくさん立っているから、その後ろ、ビルの前にそっとたたずんでみる。だいぶサマになってきたのが自分でもわかる。妙な力が抜けて風景に溶け込んでいる。溶け込みすぎて目立たないのか、誰も何もくれなかった。
こうしてみると、あの四条大橋の上というのがいかに托鉢に適した場所であるかがよくわかる。まず地元のひとがよく通る。彼らにとって雲水など珍しくもないから奇異な目では見られない。すると、彼らに紛れている観光客も、京都の風景の一部として雲水を見てくれる。指をさしたり、べたべた接してこようとはしない。
橋の上は視界が開けていてひとびとの心まで開放的になる。鴨川の眺めを目に焼き付けようと、観光客の足取りはゆったりしている。ああ、雲水さんだ、日頃の不徳の償いにお布施でもしようかな、お財布はどこに入れてあったかなと考えるくらいのゆとりがある。その気のあるひとは雲水の脇にちょっと立ち止まる。とはいえ人通りは多いので、その流れを遮るほど滞留することはない。考えれば考えるほど、理想的だ。
しかも、ここに立つ網代笠は目立つ。欄干を背にして立つと背後には何もない。京の都の象徴とも言える鴨川を背にひとりたたずむ若き僧侶……絵になる。決まっている。きっと托鉢をするひとにとって四条大橋とは、バンドマンにとっての武道館にも匹敵する輝かしき栄光のステージにちがいない。そうだ、一度托鉢を志したからにはいずれ四条大橋に立ってみなければならぬ。いつしか遊馬はそう決意した。
寺に戻り座敷で衣を畳んでいると、どこからともなく不穏が現れる。いまさら気づくのもなんだが、かなり暇な寺らしい。
茶室にはいつも釜がかかっており、たいてい一服|点《た》ててくれる。ほんとうは冷たいコーラか何かのほうがありがたいと思いつつ、喉が渇いているので大服《おおぶく》にしておかわりももらう。菓子はいつも手作りで、どうやらこれを食べさせるのがサービスの目的かと遊馬も気づいた。顔に似合わず不穏の趣味は和菓子作りなのである。
「いかがでしょう」
「美味《うま》いです」
「……それだけですか?」
「すんごく美味いっす」
そんな手応えのない問答のあと、不穏は諦めて、おもむろに今日はどうだったかと尋ねる。
「千百円でした」
「わたしはスリやかっぱらいの元締めではないのですよ。喜捨の額を訊いているのではありません。何か思うところはありましたか、ということです」
「ありました」
「ほぉ」
「ヘソ出しルックの子に限って腹がたるんでるのはなんでだろう。あれ、恥ずかしくないのかな。犯罪ですよね」
「……」
「脚のきれいな女の子はけっこういるのに、みんなガニ股なのはもったいないと思います」
「そういうことしか思わないのですか、托鉢をして」
「あ、あと、やっぱり托鉢にはお椀か何か持ったほうがわかりやすいんじゃないかと思うんだけど。その気があって近づいてくるのに、どこにお金を入れたらいいのかわからなくて通り過ぎちゃうひとが多いみたいです」
「それはそれでよいのです。托鉢は〈三輪空寂《さんりんくうじゃく》〉と申しまして、お布施をするひと、お布施を受けるひと、お布施されるもの、いずれにも執着しないことが前提です。たくさん集めることが目的ではないのですよ」
だが遊馬には金額が問題なのだ。
「工夫すればいいのに。それに、あの杖みたいなのはないんですか。振るとジャラジャラ音がするやつ。前に四条大橋に立ってたひとはそういうの持ってました」
「錫杖《しゃくじょう》は密教系の法具です。一種の武具ですから。禅宗では使いません」
「そっかー。あれ、カッコイイのになぁ」
「まあ、うちにもないことはありませんが」
「え、あるんですか!」
不穏はどうしようかなと一瞬迷ってから遊馬を納戸へ連れていった。
「これでしょう」
「これです、これ。なんだ、あるんじゃない」
「かつての修行の名残です」
不穏は若い頃、宗派にこだわらず修行をしようと名高い僧のいる寺へ行っては教えを乞うた。無論、そこで托鉢の行もした。
「そういえば、インドとかチベットとか行ってたって……」
「そのような場所へも行きましたね。仏教の源ですから。この錫杖は天鏡院にいた頃のものです」
「テンキョウイン?」
聞き覚えがあるような気がして遊馬は首を傾げた。
「もしかして比叡山の?」
「よくご存じですね」
「すごく厳しいっていう?」
「あそこで辛抱できた者はそのまま仙人になれると言われていますね、たしかに。わたしはなりませんでしたが」
ふふっと珍しくわかりやすく不穏は笑った。
週明けに来た台風が通り過ぎたあと、四条大橋にデビューを果たした遊馬の手には錫杖があった。いつものとおり着替えて寺を出る前に、不穏の目を盗んでこっそり持ち出した。杖のすぐそばに鉢もあったから持って出た。このほうが断然効果的だと思ったのだ。
台風の間にたまった畳屋の仕事もあって、でかけたのは昼近かった。四条大橋に着いたときにはすでに別の雲水が立っていたから、張り合って向かいに立つのもどうかと思い、通り過ぎて祇園の一郭にいったん落ち着いた。それでもなかなか実入りはよかった。鉢の中にチャリン、チャリンと落ちる小銭の音が小気味いい。ときどき飽きると、錫杖を揺すってジャラジャラと大きな音を立てた。あたりのひとがハッと振り返る。何より自分の意識がシャキッと目覚める。
今日は見よう見まねで自分で握ってみた形の悪いおにぎりを橋の下で食べた。かぶったままの笠の端を指で少し持ち上げてみると、葭《よし》や薄《すすき》が根元から折れたように横倒しになっているのがいかにも台風のあとの景色らしかった。〈野分〉というのはこういうのだろう。慶喜さんはこういう景色を表したくて、茶杓の裏に擦り傷みたいな刃跡を入れたのだろうか。ふうん、と思う。
ほどなく先ほどの雲水がいなくなったので、「うーっす!」と小さく掛け声をかけて立ち上がった。どことなく道場で試合に臨むときの緊張に似ている。相手にのまれては駄目なのだ。
橋の中央へやってきて、右向け右をする。足下を川風が通り過ぎていく。くすぐったいような嬉しいような。よし、今、俺は武道館のステージに立った。スポットライトは俺だけを照らしている。そんな感じだ。
気持ちがなりきっているからだろうか、ここでもお布施はけっこう集まった。当たり前のように百円玉を放り込んでくれるひとや、丁寧にお辞儀をしてそっと入れてくれるひとや、いろいろだ。相変わらず狭い視界にひとの足下ばかり眺めている。きっとどこかの道がぬかるんでいるのだろう。靴の汚れているひとが多い。近所のひとだろうか、突っかけサンダルも多い。とにかく通り過ぎる量が半端ではないので、ひとりひとり追いかけていると目が回る。
と、自分の足下にも似た黒い裾が視界の隅からゆっくり近づいてくる。どこかのお坊さんがバイクを引いて歩いているらしい。それが遊馬の正面にぴたりと止まり、「立ち去れ」とひとこと言った。遊馬はぎょっとした。
「愚か者めが」
それだけ言って、またバイクを引いていく。五〇tのスクーターさえ引くのが重そうな老爺だ。
バレたか……。遊馬は青ざめた。が、それ以上追及される気配はなく、お坊さんは橋を渡りきってそのまま見えなくなった。心臓がばくばく打っているのが自分でわかった。二、三分はものを考えられなかった。
しかしやがて落ち着いてきて、今日はもうかなり稼いだことだし帰ろうという気になった。あの坊主に言われなくてもぼちぼち潮時だと思っていたところだ。そう自分に言い訳をして、鉢の中身を托鉢袋に入れる。
歩いているうちにだんだん腹が立ってきた。愚か者とは何だ、愚か者とは。見ず知らずの人間に問答無用でそんな言葉を浴びせるとは失礼な坊主ではないか。
むしゃくしゃするので錫杖を掲げてジャラジャラと振った。ええい、邪魔だ、そこをどけ、という気合で振った。目の前に見えていた脚の群れがさっと脇へよける、いい気分だ。もう一度振った。
「なんやねん、そのジャラジャラゆうのは」
脇へよけずに立ち止まり向き直る脚があった。
「わしらに退《の》けぇ言うとんのか」
「やかましいやろー、あー?」
穴のあいたジーパンの脚と、冴えないジャージのふたり組だ。遊馬が俯いたまま黙っていると、無視されたと思ったのか胸ぐらをつかんでくる。その拍子に鉢が落ち、笠がずれた。
男たちは一瞬、あんぐりとする。坊主頭かと思いきや、現れたのは真っ青に染めた前髪だったからだ。
「なんやー、おまえ、ほんまに坊《ぼん》さんか?」
髪をつかんで頭を揺する。遊馬の顔は朱に染まる。
「偽物やでー。こいつ」
偽物や偽物やと嵩《かさ》に懸かって大声でわめく。
「どうゆう了見や」
それでも黙っていると、ぐいぐい身体を寄せてきて脇の店の壁に押しつけられた。さらにふっと足を払われてどすんと尻餅をつく。そこへ新たな蹴りの入ってくるのが見えた。冗談ではない。
遊馬は握りしめたままの杖を左手で支え、飛んでくる脚の付け根をすかさず突いた。相手はひっくり返る。無抵抗だと思っていた僧形が反撃したので驚いている。驚きがやがて怒りに変わり、もうひとりが本気で殴りかかってくる。その拳をさっと脇へ避け、杖を梃子《てこ》に立ち上がり、次の瞬間には間合いをとって相手正面で八双《はっそう》に構えていた。
坂東巴流は、剣道というより喧嘩道だと揶揄されるほど実戦本位なのだ。遊馬は家では常に軟弱者とののしられてはいるが、だからといって素人相手に腰が引けるわけもない。容赦なくその杖を相手の肩に振り下ろした。ジャランジャランとけたたましい音がして、ジャージ姿の男が倒れる。反対側に這いつくばっていたほうは、向き直った遊馬の構えを見ると、気合におののいて逃げていった。
「天誅やぁ」
小学生くらいの男の子がそばで叫んだ。
「カッコエエー」
ぱちぱちと手を叩く。見物人は他にも大勢いて、誰もが遊馬の立ち回りに見とれていたようだった。偽坊主だとののしる者はいない。中には何かの撮影現場かときょろきょろカメラを探す者もいる。はぁはぁと息を整えながら、遊馬は転がった笠を拾った。半分潰れている。
「どこの坊《ぼん》さんやろなぁ」
ささやきが耳に届く。ちょっとしたヒーローである。おかげで鬱憤も晴れたし気分は悪くない。もっとも、その人垣を掻き分けて近づく声が聞こえたときにはそんな昂揚もすぐにしぼんだ。
「ほらほら、どいてどいて、何してんにゃ」
ほんとうに自分は考えなしだと遊馬は悔やんだ。警察とだけは、絶対にかかわりあいになってはいけないと胆に銘じていたはずだったのに。
遊馬は茶室に座らせられている。いわゆるお仕置きというものだ。子供の頃から何も進歩していないと思う。我ながら情けないものがある。
交番では、〈東智衛《あずまともえ》〉と自分でもすぐに忘れそうなでたらめの名を記し、あとはこちらは被害者だ正当防衛だの一点張りで住所を聞かれても年齢を聞かれても答えるのを断固拒否した。たしかに周りで見ていたひとびともそう言っていたし、相手の青年も先に手を出したのは自分だと認め、彼は打撲傷を負ってはいたものの訴えるつもりもないというので事なきを得たのだが、僧侶を騙《かた》って金品を収得すれば詐欺罪にもなりかねないし、第一、君は未成年ではないのかと問いつめられてやむなく不穏の寺の名前だけを出した。
やがて不穏本人がやってきて、監督不行き届きの小言をもらった相手にただ静かに合掌して遊馬を寺へ連れ帰った。
「わたしもまだ未熟者ではあれ、これでもあなたの倍ほど生きておりますから、いろいろなことを見聞きしてきたつもりです。それでも、錫杖で大立ち回りをしたなどということは、武蔵坊弁慶の伝説を聞いて以来です。今度、清水寺へ行ったらご覧になるとよろしいですよ。弁慶のものだと言い伝えのある錫杖と鉄の下駄が置いてあります。あなたは錫杖で相手を突いたそうですが、もしもそれが根元ではなく先のほうでだったなら、今頃相手の方は亡くなっていたかもしれません。そのことの恐ろしさをまず考えてごらんなさい」
遊馬は、はいと素直に返事をして俯いた。それ以外にどうしようもない。不穏は、こほんとひとつ咳ばらいをした。
「ところで、これはいったい何ですか」
懐から竹の筒を取り出し、遊馬の前に置いた。
「茶杓の筒です」
〈野分〉の筒だ。
「なぜこのように重いのでしょう」
「えっと、それは……」
不穏はちらりと遊馬の表情を窺い、答えを待たずに栓を抜いた。傾けると、畳の上にちゃりんちゃりんと音を立てて百円玉がこぼれ落ちた。
「なぜ、茶杓の筒に百円玉が詰まっているのですか」
大立ち回りの一件ではさほどでもなかったのに、このあたりで不穏の声におしころしたようなすごみが加わってくる。
托鉢でもらうお金は小銭が多かった。お札《さつ》をくれたのは、後にも先にも道端でお経を求めたあのおばさんだけだ。お札も嬉しいが小銭の重みも捨てがたい。遊馬はそれらを百円玉に揃えてきて、毎晩畳の上に積み上げては数えていた。やがて小銭入れに納まらない量になったとき、目にとまったのがその筒だ。蓋を開け、中の茶杓を放り出してみると、外見はさほど太くないのに、皮が薄くて空洞は案外広かった。ただし、それは正円ではなく若干ひしゃげていて、口に百円玉をあてがってみても入らない。駄目かと目では他のものを探しながらカシャカシャロを叩いていたらある角度のところですぽっと中に入った。中へ落ちるとちゃんと横になるようだ。これはいいというわけで、百円硬貨を一まーい、二まーいと滑り落としていった。全財産をすっきり一本の筒に納め、托鉢袋に入れて持ち歩いた。交番で不穏を待つ間にも今日の収穫をそこにまとめていたから、ちょうど口のあたりまでいっぱいに詰まっている。当然、重い。
「ヌンチャクですかと警察で聞かれましたよ」
遊馬はふっと笑った。が、笑いごとではないらしいので、すぐに表情を消した。
「わたしは以前、茶杓とは先人への敬意を表すためのものだと言いませんでしたか? 茶杓そのものよりも作者や銘が尊重されることさえあると」
「はあ……」
「それを記されるのが筒なのですよっ。この筒こそが、あのお茶杓の由緒を保証するのです。そ、それにあなたは、あさましい金銭など詰め込んで……」
「でも、浄財です」
「浄財? よい言葉をご存知ですね。なるほど、そうですね。浄財にしなければ」
不穏は衣の裾に散らばった硬貨を集めるとそろりともちあげる。
「あ、あの、それ、俺の……」
「賽銭箱に入れます」
きっぱりと不穏は言う。
「そんなぁ。きったねー。俺が一週間、脚を棒にして集めたのに」
「喝《かーつ》っ!」
びくっと遊馬は肩をすくめた。そんな大きな声を出せるひとだとは思わなかった。
しばらくそこに座っていなさいと命じて不穏は茶室を出て行く。
涙が出た。
東京で百万円儲け損ねたときにもそんなことはなかったのに、今はくやしさに目が潤む。今日の分を合わせてもおそらく七千円に満たない額だろうが、決して楽をして稼いだわけではない。なんだかもっな[#「な」に「ママ」の注記]いなくて、まだ一銭も使えずにいた。半端の一円玉まで大切に筒に入れてあった。それをねこそぎ奪われて文句も言えないとは。
何が坊主だ。スリの元締めではないと言ったくせに、それ以上だ。ピンハネどころか儲け丸ごと持っていきやがった。クソっ!
目に前に残された空っぽの筒をつかみ、力任せに投げつけた。筒は畳で奇妙な跳ね方をして、壁際の鬼面風炉にぶつかりカーンと音を立てて落ちる。遊馬はそれをじっとにらみつけている。にらみつけて、にらみ飽きて、やがて猫のように身体を伸ばしてそれを拾った。はぁ、とため息をつく。
床を見ると、この前は野宮の軸のあった場所に今日は〈閑坐〉の墨蹟が掛かっている。同じ文字を最近どこかで見た。そうだ、半月ほど前に志乃が茶室に掛けていた。
どういう意味だろう。〈閑〉というのは〈暇〉ということだろう。〈小人閑居して不善をなす〉ということわざがあった。俺のことだな、と自分で嗤った。
しばらくして〈閑静〉の〈閑〉だと思いあたった。ならば〈静か〉という意味だろう。〈静かに座っておれ〉と、そういう意味か。たまたまここに掛かっていたのだろうか。それとも警察から呼ばれてでかける前に、不穏がわざわざ出してきて掛けたのか。いずれにしろ皮肉なくらいにぴったりだった。
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四、 |年 寄 衆 夢 跡《としよりどもがゆめのあと》の段
畳打ちの仕事はそう毎日あるというものでもなく、作業のない日、親方は材料の調達や新しい仕事の打ち合わせに出かけたり、あるいは通常の畳とは違う物を作っていたりする。今日、遊馬《あすま》が自転車を借りに行くと、ミニチュアのように小さな畳に縁《へり》を縫いつけているところだった。
「それ、何ですか。座布団?」
親方は「おお」と返事して、かわいいやろと言った。
「お雛さん用の畳や。毎年頼まれるさかい、時間のあるときに作っとくねん」
「派手ですね」
縁布がやけに華やかなものだったので、つい見入ってしまった。赤や青の縦縞に花菱紋様が並んでいる。
「繧繝縁《うんげんべり》ゆうてな、天皇さんの位にしか使われへん。畳も厚うしてな。うちらよりお人形さんのほうがよっぽどええ畳に座ってはる」
まったくだと思った。
「なんや、今日はギター弾きかいな」
遊馬はギターを背負っている。
「あ、いえ、ちょっと」
「こっちゃにも友達できたんか。若いもんはええなぁ」
通用門から奥へ行き自転車を引き出してくる。慣れたしぐさでまたがり、すっと漕ぎ出す。
京都に来てから三週間ほどになる。自転車のおかげで町中《まちなか》の地理はあらかた覚えた。親方はああ言うが、友人というようなものはまだできない。不穏《ふおん》の寺で会った三人が新たな知り合いと言えば言えるだろうが、友達とはあまり思いたくない。
一度、路上でギターを弾いている同じ年頃の少年と話した。新京極の六角広場にギターケースを広げ、大昔のフォークソングを歌っていた。ケースの中にはいくつか小銭が抛《ほう》り込まれており、遊馬もアコースティック・ギターならこういう小銭稼ぎもあったのだとそのとき思った。エレキ・ギターで、しかもアンプは家に置いてきたというのでは話にならない。
楽器屋のことは、彼に教わった。修学院のほうに親切なギター屋があるから行ってみればと。聞いてからずいぶん日が経っている。昨日、ようやくふんぎりがついた。狭い茶室に三時間も座らせられたら、たいていのことにふんぎりはつく。
自転車で行くにはかなり距離があった。ずっとだらだらと上り坂だ。北大路のあたりで道を尋ねたおじいさんは、肝心の道を教えてくれる前にやれどこから来たの、何しに行くのと、あれこれ詮索した上で、このあたりの標高は東寺の塔のてっぺんと同じくらいなのだと教えてくれた。聞いた途端、それまでなんともなかった太腿に急に疲れを感じた気がする。
帰り道は反対にすーっと下ってきた。心も幾分軽かった。もしかしたら淋しい分だけ軽かったのかもしれない。茫洋とした気分で高田家の前まで帰ってくると、こちらははっきりと不機嫌な顔をした翠《みどり》が、まるで待ちかまえていたように立っていた。
「それな、うちの自転車やねんわぁ。毎日毎日勝手に使わんといてほしいわ」
遊馬がまだ降りきらないうちからそう言ってハンドルを奪った。
「でも、志乃さんが使いなさいって……」
「せやから、おばあちゃんのやのうて、うちの[#「うちの」に傍点]やねん」
「……」
「おばあちゃんには使《つこ》うてもええて言うてあるけど、アズマ君にはひとこともそんなこと言うてへんやろぉ。こんなにサドル高くしてしもて」
翠はふんと顔をそむけ、自転車を通用口へと引いていく。遊馬は唖然としてそれを見ていたが、事態が飲み込めると慌てて走り寄り、翠の腕をぐいとつかんだ。驚いた翠は手を離し、ハンドルと前輪がぐるりと向きを変え、遊馬のほうに倒れかかる。
「何しはんねん」
「い、いや、あの……翠ちゃん、俺、翠ちゃんの自転車、勝手に使って悪かったと思う。それは謝るよ。でもさ、俺、この自転車貸してもらえるとものすごく助かるっていうか、貸してもらえないとすごく困るっていうか、その、だから、翠ちゃんの使わないときだけでいいから、これからも貸してもらえないかな。汚したりしないようにする。いつもぴかぴかに磨いておくって約束する。頼む。このとおり」
倒れてくる自転車のサドルを腰で支えたまま、遊馬は手を合わせて額につけた。翠は少し戸惑っている。別に自転車をどうしても貸したくないわけではない。ただ、わがもの顔で乗り回されるのが癪にさわるだけだ。
「……そんなに言わはんのやったら貸さんこともないけどぉ」
むすっとしたまま翠の語尾は曖昧になる。
「よかった! ありがとう」
遊馬は破顔し、ふと思い出して荷籠から白い箱を取り上げた。
「これ、おばさんと一緒に食べて。少しだけど、お礼」
「ケーキやないの」
「美味しいかどうかわかんないけど、女のひとが群がってたから人気あるのかなと思って」
「それは、ありがとう」
珍しいこともあるものだと翠は箱を目の前にぶら下げてみた。
「そやけど、アズマ君、お金どうしはったん。ここのケーキ高いやろ」
「うん、まあ」
遊馬は自転車を庭の奥に置くと、両手を尻ポケットに突っ込んで離れへ帰ろうとする。
「アズマ君?」
翠はケーキの箱を縁側に置き、怪訝そうに遊馬の背中に尋ねた。
「ギター、どうしはったん? 出かけるとき持ってはったやろ」
見てはいなかったが父親と遊馬の話す声は聞こえていた。
「うん、まあ」
「アズマ君?」
翠は心底驚いて、遊馬を追いかけた。
「もしかして、売らはったん? なんで? 俺の命だとか言うてはったのに。手に入れるのに苦労したって。有名になってもこの最初のギターだけは手放さないって……すごく音がいいって」
ミシミシと音を立てて遊馬は離れの階段を昇っていく。翠も追いかけて昇っていく。
「うちもそう思うよ。あれは、ええギターや。同じメーカーの同じギター買《こ》うてもあの同じ音は出えへんよ」
「いいんだ」
「何がええのん?」
「いいって言ったらいいんだよ!」
翠は、はっと口をつぐみ、ぺたんと畳に腰を落とした。
「あ、ごめん……でも、いいんだ」
遊馬はごろんと畳に仰向けになり、天井を見つめた。鬱陶しいことがあると、とりあえず大の字に横たわって天井なり空なり眺めるのは遊馬の癖だ。実のところ昨日だって、茶室にひとり残されてじっと座り続けていたかといえば、そんなことができるはずもなく、かなり長いこと畳に寝そべって、凝った作りの網代天井を見つめていた。そしてギターを売ろうと心に決めた。別に侍が刀を売るほど大変なことではないさと自分に言い訳した。
「アズマ君」
おそるおそる翠は声をかける。
「もうそろそろおうちに帰ったらどう? うち、来週には向こうに戻るし、一緒に帰らへん? 切符代足りひんかったら貸したげるし、久美ちゃんたちにも、うちから言うたげてもええよ」
遊馬はそっと上半身を起こし、かなり無理な笑顔をつくった。
「ありがと。でも、俺、もう少しここにいてみるよ。翠ちゃんにくっついて東京に帰ったら親方にそれ見ろって言われる。哲さんにも恨まれそうだしね。カレなんだろ、翠ちゃんの」
「ええーっ?」
翠は目を丸くした。
「いつも翠ちゃんのことばかり言ってるじゃん。ここにお婿さんに来たいって。めろめろって感じだったけど」
「哲ちゃんは、いつもあんなことばっかり言うてはんねん。どこまで本気か、うち、わからへん。きっと女の子みんなに調子のええこと言うてんにゃろ」
翠はあわててそう言った。
「それにな、こんな小《ちっ》さいときから知り合いやねん。うち、いっつもいじめられてたやんか。今頃になって猫なで声出さはっても、ちょっとやそっとであの恨みは消えへんわ。最近めっきりおやじ臭《くそ》うなってしもたし」
照れ隠しのつもりがかえって饒舌になるのを、遊馬は折り上げた膝に頬杖をついて眺めた。
「翠ちゃんってさぁ、けっこう可愛いよね」
翠の色白の顔がかーっと赤くなるのを見て、「そういうとこが」とけらけら笑った。
「んもー、アズマ君ったら、からかわんといてよ。そんなこと言うて話そらそ思ても、ごまかされへんよぉ」
さんざん笑ったあとで、遊馬は少し真面目な顔をした。
「翠ちゃん、俺さ、今でもすげえ中途半端なんだけど、これで家に戻ったりすると頭がおかしくなるほどもっと中途半端なことになると思うんだ。ほんとのこと言うと、自分が何やってんのか全然わかんなくて。俺、頭悪いからさ」
「うち、アズマ君ってわからへんわ……。アズマ君ちってほんまにお寺やのん?」
「うん、お寺ってのは親方……じゃなくて、翠ちゃんのお父さんの思い込みだけど、まあ、似たようなものかな。詳しく言えなくて悪いんだけど」
「お父さん、警察官やないのん?」
「昔はそうだった。ちょっと前まで。今は辞めて家の仕事してる」
「なんや、そうなんやぁ」
翠は少しほっとする。何の説明にもなってはいなかったにしろ、どうやら高田家のひとびとは彼に騙されているわけではなさそうだったからだ。
「翠ぃ、そこにいてんのやろ。今日はこっちでご飯食べてかへんか」
そんな声が廊下からかかり、すぐに階段のきしむ音がした。てっきり志乃が上がってきたのだと思いきや、踊り場からぬっと顔を出したのは哲哉だ。稽古道具を仕舞いにきたらしい。
「わぁ、びっくりした。哲ちゃん、なんでいはんのん?」
「なんでて、今日は水曜日やんか。昼からずっと下にいててんけど。翠ちゃん、今日はさぼりやなぁ。なんや窓から騒々しい声が聞こえてくるさかいお稽古に身が入らんかったわ」
「あ、しもた。うち、ケーキ、縁側に置きっぱなしや」
だだっと翠は下へ降りて行く。
翠との話は階下へ筒抜けだったのだろうか。哲哉は初めて見る場所でもないだろうに、わざとらしくあたりをきょろきょろ見回している。
「聞こえてへんよ。道端で喋ってはったとこだけや。自転車貸してもらえてよかったなぁ。そやけど、翠ちゃんも、もうひとつわからへん娘《こ》ぉや。さっきまであんたと仲悪かったはずやのに、もうここでけらけら楽しそうに笑《わろ》うてはる」
はぁとため息をつく。笑い声だけは聞こえたらしい。
「哲さんのこと話してたんですよ。小さい頃いじめられたって」
「ほんま? へぇ、ぼくのこと話してたんか。なんや、そうかぁ。そんならええねん。そやなぁ、あんたかて覚えあらへん? 小さい頃は、好きな子ぉほどかもたりイケズしたりするもんやろ」
「そうですか?」
「そうやねんて。それでは気持ちは伝わらへんと反省して率直路線に切り換えたんやけどなぁ、なんでわかってもらえへんのやろ」
「どこまで本気かわからないそうです」
哲哉は、額に拳を当ててうーんと唸る。
「まあな、まだ子供やし、男の〈誠〉ゆうもんがわからへんのやな。しゃあないわ」
哲ちゃんも一緒に食べてくかと声をかけられると、哲哉は待ってましたとばかりにはーいと返事をし、晩の膳は四人で囲んだ。
「翠ちゃんと一緒にご飯食べられるやなんてしあわせや、ぼく」
哲哉は焼き茄子をつまみ上げながら、相変わらずの口上である。哲哉と翠が掛け合い漫才のように喋っているから珍しく賑やかな食事だった。翠は先ほどのケーキを持ってきていた。ちょうど四つあったので食事が終わるとそれを食べようということになり、珈琲を淹れに台所に立った。待つ間、遊馬はもぞもぞと尻のポケットから銀行の袋を取り出す。
「あの、これ、飯代です。遅くなったんですけど」
片づいた卓袱台《ちゃぶだい》の上に置いて、ずずっと志乃のほうへ滑らせる。
「それ、ギターを売ったお金やねん」
覗き込んだ翠がそう言った。
「へぇ、大切なギターを売らはったのですか」
「茶杓売るよりええこっちゃ思うわ」
ギターはおよそ買ったときの三分の一、七万円で売れた。ケーキを買った残りが全額そこにある。
「江戸っ子やなぁ」
そんなにはもらえまいと志乃は躊躇した。翠が、自分のいる寮の食費は朝夕二食で月にいくらだと言い、ならばこちらは三食で同額にしましょうと志乃が言い、出したり返したりしばらくあった後、先月の半端と今月分ということでようやく志乃が三万円ばかりを押し戴くように受け取った。
「それにしても、持ってはるもの切り売りして暮らすのは大変ですやろ。アルバイトは見つからへんのですか。何かありそうなものやけど」
「そら、こんな髪しとったら難しいですわ。あんた、その髪、なんとかでけへんのか。髪さえ黒かったら、知り合いの喫茶店のおっちゃんにきいてみたげてもええし、幸麿《ゆきまろ》さんのお店かて店番くらいさせてくれはるかもしれへんけどな。そのままで客商売はちょっと無理やで」
遊馬は身元を偽っているという意識があって求人広告を見かけてもおいそれと応募できずにいるのだが、哲哉の言うことも当たってはいるのだろう。
「それはそうかもしれへんわねぇ」
「そんな髪の毛やったら、そやなぁ、ガソリンスタンドか、道路工事か、夜の商売か……限られてきますわ」
「なるほどなぁ。ガソリンスタンドや道路工事……いろんなお仕事がありますのやなぁ。わたしら子供のお小遣い稼ぎゆうたら新聞配達くらいしか思いつかしませんわ」
志乃は自分の世間知らずを笑って珈琲をすする。カップの向こうにケーキは手をつけず眺めるだけだ。
「新聞配達ですかぁ……」
哲哉は呟いてフォークを置く。
「それ、ええかもしれへん」
つかの間無言で食べかけのケーキを見つめてから、うんとうなずいた。新聞配達なら、接客業ではないから髪型や服装が問題になることはないだろう。むろん学歴や年齢も不問に近い。
「アズマはん、ぎょうさん借金かかえてはって月に何十万も何百万も稼がなあかんゆうわけやないのやろ。おっちゃんや先生《せんせ》のご好意に甘えて、月々二万かそこらの食費を稼げたらええわけや。いくら新聞屋さんでももう少しくれはるやろ。そしたら、お小遣いもできるし、どっか学校でも行って勉強かてできるかもしれへんで。あの、なんて言うたかなぁ、大宮通の新聞屋さん、たしか不穏さんとこの檀家さんですわ。聞いてもらわはったらどないやろ。高田さんちに住んではって不穏さんの保証つきやったら、新聞屋のおっちゃんも四の五の言わはらへんと思うねんけど」
「それは、ええなぁ。哲ちゃん、アズマさんより口がまわるのやさかい、一緒に行って頼んであげなさい」
珍しくはしゃいだ志乃に追い立てられ、哲哉に引きずられるようにして遊馬は離れを出た。
通りへ出ると、はす向かいの母屋では、翠の母親が作業場の戸口を閉めカーテンを引いているところだった。
「こんばんは。ようやっと朝晩涼しぃなってきましたな」
なるほど見かけによらず年寄り臭い挨拶を哲哉はする。
「哲ちゃんはこない遅うまでお稽古か。ほんまに感心するわな」
「ぼくのんは下手の横好きですわ。おばちゃん、アズマはんちょっとお借りします。このひとも高田さんちによう馴染んできはりましたね」
「まあ、えろう京都を気に入ってもろてねぇ」
おばさんはそう言って店の中へ引っ込んだ。
「いいひとたちですよね。おばさんも志乃さんも」
脳天気な遊馬の言葉に、哲哉は呆れ顔で振り向いた。
「あんたなぁ、あんなん言われてのんきに喜んだはったらあかんよぉ。あれはなぁ、このひとはずいぶん長いことうちにいはるなぁ、いつまでいてんのやろとゆう意味やで」
びっくりして遊馬は立ち止まる。
「止まらんと歩きぃな。ぼくのこともな、感心してんのやのうて呆れてはんのや。年寄りみたいにお茶にかまけて、おばあちゃん先生《せんせ》の人のいいのにつけ込んで夕食まで食べてきよる。あつかましいやっちゃと、まあ、そんなとこや」
「哲さん、それはちょっとひねくれすぎなんじゃ」
「ぼくが言うてんのや。間違いない」
では、遊馬が同居することになったとき、志乃がありがとうと礼を言ってくれた、その意味も考え直さねばならないだろうか。
「うーん、おばあちゃん先生はそないなことないと思うわ。ああ見えてわりと率直なひとや。せやからぼく、ここのお稽古場好きなんや。高田のおっちゃんもそのまんまのひとやな。高田家の血筋はそうなんやろ。翠ちゃんはおっちゃんとおばちゃんの合いの子やな」
「哲さんは」
「ぼくか。自分のことはようわからへんな。相手次第とちゃうやろか。アズマはん相手にソフトなこと言うても通じひん気ぃするしなぁ。ああ、せやからな、新聞屋のおっちゃんに会《お》うてみて、もしも考えときますわてなこと言われたら、お礼なんか言うたらあかんよ」
「なんて言うんですか」
「そないなこと言わんと、どうぞお願いします、てな、腰を低う、頭を低うして頼むんやで。考えとく言われたら、それはアカンゆうことやしね」
なんだか暗号みたいである。
「ま、都人《みやこびと》の高度に洗練された言い回しゆうことやね。ぼーっとしてたら田舎者やて笑われまっせ、アズマはん」
京都のひとは相手を田舎者よばわりするのがよほど好きなようだ。〈都会〉の観念がきっと遊馬とは違うのだろう。と言うよりも、そもそも〈都〉と〈都会〉は意味が違うらしいのだ。
「とにかく、あんたはこの話をものにせなあかん。そしてお給料もろて、おばちゃんに心からええ下宿人やて言われるよう努力せなあかんのや」
難しいものである。せっかくおばさんにと買ってきたケーキを自分で食べてしまったのは迂闊なことだった。
薄暗い境内では、ナオちゃんがひとり電動の怪獣相手に戦闘中だった。
「おい、ナオ、もうごはん食べたんか? お父ちゃん、いてるか?」
「うーとらびーむ」
胸の前で腕を十字に構えている。
「う、やられたぁ……やのうて、お父ちゃん呼んできてくれへん?」
「まんまんちゃん」
「あんたなぁ、一度褒めたら最近それしか言わんなぁ」
「お父ちゃん、まんまんちゃん。おじいちゃんにまんまんちゃん……あんっ」
「わけわからへん」
遊馬は、このとき初めてナオという男の子が不穏の息子であることに気づいた。
「もしかして奥さんもいるんですか?」
「いてるやないか。この間も会《お》うたやろぉ」
「そうだったのかぁ」
たしかにこの寺にはナオちゃんの母親とおぼしき女性がいるのは知っていた。遊馬は彼女を不穏の姉だろうか妹だろうか、あるいは親戚の誰かだろうかなどと推測したことはあっても、妻だとはついぞ思いつかなかった。僧侶の不穏は独身だと思い込んでいたからだ。
「不穏さんって堅物っぽくて、恋愛とか結婚とかそういうことには興味ないのかと思ってた」
「何言うてんのや。それでは寺が続かへんやないか。ここだけの話やけどなぁ……」
哲哉はあたりを見渡してから声をひそめる。
「不穏さん、あんな顔してはるけどな、昔はもてたらしいで。なんやしつこい女のひとに追いかけられて、これはもう自衛隊に入るか僧堂に入るかどっちゃかしかないゆうとこまで追いつめられはって、そいで僧堂に逃げ込んだゆう噂や。その物好きな女のひとがいいひんかったら六角坊不穏和尚は今頃存在せえへんかったかもしれへん。ああ、そうやったんか。今、気づいたけどな、不穏さん、あの六条御息所みたいにねちこい女のひとに同情気味やったの、そないな過去が影響しとるかもしれへんなぁ。うーん深いなぁ」
哲哉がひとり納得しているところへ不穏の妻は現れて、夫は通夜にでかけて留守だと告げた。
「ごめんなさいねぇ。正田さんのおじいさんが明け方息を引き取られたゆう電話がありましてね。今晩のうちにお通夜にしたいゆうことでばたばたと……」
「そうですかぁ。それやったらしゃあないなぁ」
哲哉は諦めて辞去すると、寺の門のあたりに座り込んでいたナオちゃんの頭を撫でた。
「わからんようでもわかっとんのやなぁ。ナオ。ほんまに、あんたのお父ちゃん、亡《の》うなったおじいちゃんにまんまんちゃんやったわ」
「シュワッチ」
ナオちゃんはウルトラマンのようにひとつ深くうなずくと、両手を上げて駆けていった。
「それにしても、珍しいことや。お葬式やなんて」
寺に通夜葬式は付き物だ。哲哉は妙なことを言う。
「このお寺さんの名前、アズマはん知ってはる?」
「長命寺」
「そうや。それでかどうか知らんけど、ここの檀家さんは誰も彼も長生きするゆうてじいさんばあさんの間ではけっこう有名やねん。誰も死なへんから坊さんは暇でなぁ、いつまでも死なんじいさんばあさん集めてお茶のお稽古してはるわ。お茶なんかしてはったら、ボケもこんし、身体にもええし、みんなますます元気になってしもて、余計死にはらへんのになぁ」
ぽかんと哲哉は暮れかけた空を見上げる。
翌日、仕方がないので遊馬はひとりでまた寺へ行った。葬儀を終えて帰ってきた不穏をつかまえ、新聞配達の件を相談してみる。そういうことなら今度の月曜にここへ来てみたらよいでしょうと不穏は言う。なんのことはない。その日は敬老の日で、檀家の長命な老人たちをもてなす会があるから手伝えということだ。
長命寺では、月に一度か二度、友引の日を選んで茶道塾が開かれる。友引の日には葬儀や法事の入ることが少ないからだ。稽古というのは名目で、檀家のひとびとが気楽に集い世間話をしていく。やってくるのはだいたいがのんびり日を暮らしている老人たちだから、敬老茶会を開こうにも会員はみなゲストばかりでスタッフになる若手がいない。
「新聞屋さんのおじいさんもいらっしゃいますから、ついでにお話をきいてみるとよいでしょう。よかったですね」
先日の一件など忘れたように不穏は澄まして言う。そう言われれば断ることもできないが、このひとと付き合っていると一生いいように使われるのではないかと遊馬が不安になったのも事実だ。稼ぎを奪われるのは、もうごめんだ。
話を聞いた志乃は、翠も手伝いにつけてくれた。
「ふうん、ええよ。でも、そやなぁ。うちは檀家さんやないのにお手伝いするんやから、お返しになんかもらわんとなぁ。アズマ君、お金持ちにならはったし、六甲にドライブでも連れてってもらおかなぁ」
ドライブはかまわないが、遊馬は躊躇しないでもない。
「それ、絶対、哲さんに悪いよ。俺、そんなことできない」
「別に哲ちゃんも一緒でもかまへんよ。お仕事休めへんと思うけど」
「哲さんが一緒だったら、俺は邪魔だろう。ふたりで行けばいいじゃないか」
「それはあかんわ」
翠の言うには、遊馬とはただの友達だからかまわないが、哲哉とふたりきりでドライブになど行けば、無言のうちに交際を承知したと誤解される。自分は面と向かって交際を申し込まれたことなどないのに、うやむやのうちにそんなことになってしまうのは気分が悪い。
あれほど目の前で毎日好きだ好きだと言われているのに、申し込まれたことなどないという女心はややこしすぎて遊馬にはよくわからなかった。
ともかく、敬老の日には志乃に着物を着せられて翠も長命寺へやってきた。小さな蜻蛉《とんぼ》柄の小紋に半幅帯を文庫に結んだその姿を見ると、不穏の妻が今日のお点前は彼女にお願いしてはどうかと言い出した。
「むつかしい顔した和尚《おっ》さんが点《た》てはるより、皆さんどんだけ喜びはるか」
「いや、そんな、うち、かなわんわ。お稽古もようしてへんし、無茶苦茶やねん」
「大丈夫やて。皆さんおしゃべりに夢中でお点前なんか見てへんしね。見てはっても細かいことに気づいたりしはらへん」
すると不穏も生真面目な顔で、時間はたっぷりあるから心配なら気のすむまで練習してくださいなどと言う。
ついに翠は観念し、それからずっと水屋で点前をさらっていた。必然的に準備は遊馬の役目になる。不穏の妻とともに広間の畳に雑巾をかけ、客の座る位置に毛氈《もうせん》を敷く。膝が悪くて正座できない客も多いからと椅子もいくつか運び込む。その頃には不穏も中へ入ってきて、風炉の灰を整え、炭を置き釜を掛けた。隣には塗の棚が据えられ祥瑞《しょんずい》の水指が置かれる。
床の軸は、何代か前の妙心寺管長が書いたという〈松無古今色《まつにここんのいろなく》 竹有上下節《たけにじょうげのふしあり》〉。
「松の色には古いも新しいもありません。が、竹にはおのずと上下の節があります。老人と若者に優劣はない。しかし、われわれは年長者を敬いつつ生きてゆきましょう、というほどの意味に今日は読んでみたいと思います」
不穏は言いながら、〈寿老人《じゅろうじん》〉と呼ばれる花入に萩の花や山茱萸《さんしゅゆ》の実、矢筈薄《やはずすすき》をあしらった。脇には亀甲型の香合を置く。
「すみませんが、お茶を薄器《うすき》に入れておいてください。その棗《なつめ》です」
その他二、三、用を言いつけると、茶会の前に本堂で法会《ほうえ》があるからと夫婦ともそちらへ消えてしまった。水屋に取り残されて遊馬は呆然とする。
「翠ちゃん、これ、どうすればいいの」
「ええ、何? うちに聞かんといてよ。今、頭真っ白やねん。お点前するなんて聞いてへんやん。アズマ君のせいや。もう、六甲は高《たこ》つくしね。覚悟しといてな。ああ、こんなことになるのやったら、この前きちんとお稽古しといたらよかった」
またぶつぶつ呟きながら宙を見つめて空点前に戻る。
「そんなに大変なんだ」
「当たり前やんっ」
遊馬は肩をすくめた。遊馬にとって茶の点前はそう特別な行為ではないので、翠の今の緊張がわからない。替わってやれるものなら替わってやりたいが、まあ、そういうわけにはいかないだろう。下手くそだなぁと思いながら、ぼんやりと翠のしぐさを見ている。
「何をぼーっと見てんねん。早う、お茶を漉《こ》しいな」
遊馬がきょとんとしていると、そこに濾し器があるだろうと指さす。小さな篩《ふるい》のようなものだ。抹茶をそれで篩ってから茶器に仕込むらしい。
「へぇ、そんなことするんだ」
「篩わんかったら、お茶がダマダマになってしまうやん。お点前すんの、うちなんやからね、しっかり篩っといてね」
それは下手だからだろうと思ったが、殺気立っている翠の表情を見れば逆らうべきでないことはたしかだった。
やがて法会とやらが終わったものとみえ、ぱたぱたと不穏が戻ってきて釜の煮えを確認し炭を継いだ。中年の女性がひとり、お手伝いしますと、台所で準備された火入《ひいれ》を持って現れ、遊馬のやり残した準備を引き受けてくれた。間もなくぞろぞろと老人たちが広間に入ってきた気配がする。
「焦らんでも大丈夫や。お茶は、お蕎麦を食べてもろうてからやし」
ああ、そうなのかと思う間もなく、蕎麦を運ぶのを手伝えと声がかかり、遊馬と翠は台所と広間を往復して客に出した。
ぴりぴりしていた翠も、蕎麦を運ぶたびに、やれ上等な着物だ愛らしいお嬢さんだと褒められ、次第に気をよくしていった。単衣《ひとえ》の小紋は祖母のお古だと聞くと、それだけで老人たちは翠をよい娘だと決めつける。
「なーんや、どこのお姫さんかと思ったら、高田さんとこのぉ」
「畳屋はんのか、大きなったなぁ」
さすがに近所なので顔見知りもいる。翠は、今しがた水屋で怒鳴っていたことなど忘れたようににっこりと愛想よく笑っている。
「いやあ、この坊《ぼん》の髪の毛は青いがな。外国人なんか?」
「どこの外国人が青い髪しとんねん。それは、青い目ぇやろ。このひとのんは青い毛ぇや」
遊馬が蕎麦をもっていくと梅干みたいに小さいおばあさんと隣のがらがら声のおじいさんが言い合った。
「なんで、そんなんしはったん?」
真面目な顔で老婆は心配してくれる。
「ミツさんかてアタマ紫に染めてるやないか。仲間やろぉ」
白髪をうっすら紫色に染めた老女が隅のほうでホホと笑っている。
「鞄屋のセッちゃんかて、黄色い縞々にしてはるえ。虎さんみたいになぁ」
たぶん、そのひとはメッシュを入れているのだろう。ともかくそんな雑然たる会なので、翠も緊張するのは馬鹿らしいとわかったらしく、その後の点前も気楽にこなした。不穏はその脇に後見として座っている。
「綺麗なお菓子やぁ。ほんのり桜色やけど菊の花でっしゃろねぇ」
菓子が運ばれると、必ず感嘆の声が漏れる。威厳をまとって座している不穏が思わず身じろぎする。無論、彼の手づくりだ。練りきりの菓子で、形はといえばただ丸いだけなのに、へらで押した幾本もの筋目が見事に菊の花弁をかたどって見える。
「〈着せ綿〉やろ。菊の花に、晩、綿をかぶらせておくんやなぁ、和尚《おっ》さん」
「はい、そのとおりです。翌朝、菊の露や香のしみこんだ綿で肌をぬぐうと若返ると言われておりますね。〈源氏物語〉にも光源氏と紫の上が毎年一緒に着せ綿を使ったと書かれています」
「そしたらこの上にのってるほわほわっとした白いのんが綿ですか」
「白菊には黄色の綿、赤い菊には白い綿、黄色の菊には赤い綿と決まってるそうですね」
「どないしてそんなんで若返りますのん?」
不穏は〈菊慈童〉の話を始める。菊の精を飲んで七百歳まで生きながらえたという、中国の伝説の美少年だ。
「わしらにまだまだ長生きせいという、ありがたいような迷惑なようなお心遣いやな」
わざと困った顔をしておじいさんが言い、広間はさんざめいた。
「いやいや、それだけやないみたいやで。なあ、和尚《おっ》さん、このお釜、阿弥陀堂釜ですやろ」
「ええ、そうです」
「ほら、見てみぃ。和尚さんはな、わしらに蕎麦やら着せ綿やら食べさして長生きせいゆうばかりやおへんのや。そろそろお迎えやなぁゆうひとのためには、きっちり阿弥陀さんも用意してくれてはりますんにゃ」
不穏はそこまでは意図していなかったのだが、言われてみればなるほどと思わないでもなく、妙に得心してうなずいている。
「三途《さんず》の川のあっちゃでもこっちゃでも、どうぞお好きにゆうこっちゃな」
お茶を点てながら、翠まで噴き出している。
「翠さん、お疲れでしょう。アズマさんに替わってもらっては」
不穏がそっとふたりに話しかける。客は十五、六人だろうか、ずっと点前座で翠が茶を点て続けていた。多分、まだもう一わたりお代わりの所望があるだろう。
「いやぁ、俺、ちょっと無理です」
「お茶にお湯を注いで茶筅を振るだけです。それくらいできるでしょう。作法などかまうことはありません。替わってさしあげなさい」
翠は普段たくさんの茶を点てるということに慣れていないので、なるほど掌をぶらぶらさせてつらそうである。仕方がないので傍へゆくと、助かったという表情で立ち上がり袱紗《ふくさ》をバトンタッチする。
「お茶碗すすいで拭いて、お茶点てたらええだけや。うち、お茶巾《ちゃきん》新しいの取ってくるわ」
ささやいて水屋へ引っ込んだ。そうこうする間にも、老人たちの会話は進んでいる。
「魚正さんもなぁ、好きで逝かはったんやろかなぁ」
魚正さんというのは、つい先日不穏が葬儀に呼ばれた家のおじいさんのことだ。長いこと三条通で魚屋を営んでいたが、十年ほど前に店を畳み、少し離れた場所に建てた家に長男一家と暮らしていた。まもなく八十歳に手が届くといった年齢だったが、この五月から体調を崩し、入退院を繰り返した末、五日前に息を引き取った。
「奥さんも残されてお寂しいでしょう。今日も誘うてみましたんですけど、さすがになぁ、まだ初七日も済んでへんし無理やした」
「あの奥さんは、もともとお茶嫌いどすがな。とゆうよりも、あの家はみんなお茶好かんのですわ。魚正のじいさん、よう嘆いてはりましたがな」
遊馬は茶筅を振りながら、聞くともなく聞いている。ふごふごしながらも、耳の遠い同士、大声で話しているから聞き損なうことはない。
どうやら、魚正のおじいさんというのは謙虚な性格のひとで、若い頃から茶の湯に憧れてはいたものの自分には敷居が高いように思って習うまでには至らなかった。店を畳んで時間ができたとき、ようやく老後の楽しみにお茶の稽古を始めようと思い立ち、それまでいつも茶事用の魚を買いに店へ来てくれていた先生の門を叩いた。ずっと憧れていた世界だったから、おじいさんはいきなりずぶずぶとこの世界にのめり込み、不穏が寺で友引の会を始めた頃にはいっぱしのお茶人として皆の尊敬を集めてもいた。ただ、家の中ではそういうわけにはいかなかった。
「そういえば、葬式の日ぃでしたかなぁ。魚正の息子さんに聞かれましたわ。どこぞにじいさんの茶道具を貸してあるゆうことはないやろか。もし、そんなん知ってはったら返してもらえるようあんじょう言うとくれやすてな」
「葬式の日ぃにか」
「そうどっせ、あんた。魚正さん亡《の》うなった次の日ぃにはもうそないな心配してはんのやなぁと、わしも思いましたわ」
「何も借りてへんやろ」
皆、首を横に振る。借りるも何も、ここに集まっているひとびとには、道具を借りてまで茶会を催そうというような気概はない。お茶会は、皆が集まって気楽に話をするための〈場〉にすぎない。碁会でも句会でもかまわないのだが、お茶が一番趣味や性格を問わず、努力しなくても間がもって楽なのだ。だから、月に一、二度、稽古という名目で友引の日に集まっても、自ら点前をしようというひとはごく限られている。菓子を食べ、お茶を飲み、ありがたい禅語の意味など教わってゆるゆると時間を過ごせれば、それでしあわせになれてしまうというようなひとばかりだ。
魚正のおじいさんはそうではなかった。やるからには本物を目指すタイプのひとだった。店の二階に寝起きしていたのが、それを畳み、長男一家と同居することになったとき、もちろん増築に必要な費用はおじいさんが負担した。それはよかったのだが、自分用に作った部屋というのが茶室仕様だったために一般の増築とは桁違いのお金がかかった。
さらに釜を買う、茶入《ちゃいれ》を買う、軸を買う、茶碗を買う……稽古用の安物では気がすまない。さんざん吟味して納得のいくものを手に入れる。茶人としては立派なことだ。が、家族としては迷惑なことだ。将来自分に遺されるべき財産が目の前でがらくたに形を変えていく忌々しい体験に、息子一家はおじいさんを何度もたしなめた。喧嘩もした。おじいさんは逆に、自分は若いときにとてもお茶などできなかったが、これだけ揃っていれば、孫たちはすぐにでも人並みにお茶ができると喜んでいた。
「ほんまにお茶好きなおひとやしたなぁ」
「一度お茶に呼んでいただいたことがございましたわ。まあ、お魚屋さんだけあって、お造りも何も美味しかったこと……」
「わしは、喜寿の祝いやゆうのんに呼ばれたわ。うん、そうや。行ったらな、お床に椿に似たような花と蘭の一種やろなぁ、そんなんがうまぁく挿してあってな、わし、木瓜《ぼけ》の花やろなぁと思たし聞いた。魚正さん、木瓜でっか。したらな、じいさん澄まして、木瓜と蘭ですと、こない言わはった。わかりまっか? ボケでっか? ボケとらんですっ」
おかしいのか悲しいのか涙を流しているひともいる。
「まだ、ちいとは棘もありますぅ言うてな……ほれ、木瓜の花には棘がありまっしゃろ、ひぃ」
「真面目なひとやと思うてましたけど」
「なかなかどうして、洒落のわかるお方で」
「ほんまに惜しいひとを亡くしたわ」
遊馬も一緒になって笑い、ふと我に返ると、道具を仕舞いつけて棗を畳の縁外《へりそと》へ出そうとしているところだった。見上げれば、翠も不穏も不思議そうに遊馬の手元を見つめている。
茶の湯の点前作法は傍《はた》から見るとかなり複雑怪奇に見えるものだが、その大部分は茶を点てる前の準備と、点てた後の片づけの段階だ。茶を点てること自体はいたって単純で、インスタント珈琲を淹れるのとほとんど違いはない。馬鹿でもできることだから、不穏は遊馬に任せた。
そこで遊馬は、翠の真似をしているふりで、茶碗を拭いては茶を点て、茶碗を拭いては茶を点て……ということを延々と繰り返していた。袱紗を反対側にぶら下げたのも、多少手つきが異なるのも素人のご愛敬に見えた。
が、老人たちの話が面白くてついそちらに気をとられているうちに、手元の動きに意識が届かなくなり、おそらく盛り上がっている話の邪魔にならないようにと小声で、しかし絶妙のタイミングで正客から仕舞いの合図が掛かったのだろう、遊馬は何も考えずに習い性でそのまま片づけの段階にまで進んでしまった。心得のない者ならここで戸惑うはずなのに、気がついたときには、柄杓《ひしゃく》と蓋置《ふたおき》が棚の上に坂東巴流で言うところの〈弓の荘《かざ》り〉に置かれていた。
「あ、ごめん。あとどうするんだろう」
慌ててとぼけてみせるが若干遅かった。
「え? ああ、替わるわなぁ……」
不審そうに小首を傾《かし》げて翠は点前座につき、その後を続けた。不穏は黙って宙を見つめている。
年寄りたちはひとしきり魚正の故人を偲んで気がすんだらしく、今日は実に楽しかったと礼を言って引き上げた。遊馬は新聞屋の隠居だという老夫妻に引き合わされ、ついでだから一緒に店へ来るかと誘われてついて行く。翠たちに何か点前のことを聞かれたらどうしようと思っていたところだったから助かった。
「あんさん、お茶点てるのはお上手ですなぁ」
門を出たところでおじいさんが言い、いやぁと遊馬は首の後ろを掻く。
「最初にいただいたのと二服目と同じお茶でしたんか? あんさんの点ててくれはったのんは、こう、すっきりした気持ちのええ味やったなぁ。男と女で違うんやろか。あのお嬢さんの前では言われへんかったけどな」
そういえば、家でも、遊馬は常に叱られてばかりいるわりには、不思議と点てたお茶の味はかなり美味《うま》いと褒められていた。
「遊馬ぼっちゃんのお茶は、ほんとうにいついただいても美味しくて命が延びますなぁ。きっとお茶の神さまがついているにちがいありません」
稽古から逃がさないためのおべんちゃらだとばかり思っていたが、もしかしたらほんとうに美味しかったのかもしれない。
「どちらの先生についてはりますの?」
誰にもついていないと答えたらかえって笑われた。
「それはありませんわ。あんさんはそうとうお茶してはるひとや。そんなんすぐわかります。しゃきっと背筋伸びててな、指の先までぴんとして、それでいてどこにも力が入ってへんのや。昨日や今日始めたひととは違うわ。なあ」
客はみんなおしゃべりに夢中だから誰も点前など見ていないと言ったのは誰だ? 見ないふりをして指の先まで見ているではないか。席中ではあれほど翠を褒めていたくせに今のこの言いぐさはなんだ? これだから茶人たちには気を許せない。
「ぼくも翠ちゃんの着物姿見たかったなぁ。言うてくれたら、ちょっと仕事抜けてお茶呼ばれに行ったのに」
哲哉は鼻歌まじりでハンドルを握っている。翠は助手席に座り、遊馬は後部座席で缶コーラを飲んでいる。
昨日、新聞屋の面談がうまくゆき雇ってもらえると決まった後、遊馬は報告がてら坊城不動産に赴いて、翠が今日ドライブしたがっていると伝えた。どうせ哲哉は仕事があるから無理だろうとは思ったけれども、抜け駆けしたように言われるのは心外だったからだ。
意外にも、今日、哲哉の仕事は休みだった。敬老の日に出勤していた代休だという。
「ええでぇ、九時に迎えに行く言うといて」
「九時だとちょっと……。親方の手伝いが終わってからでないと出られないんで」
「なんで? あんたも行くの? あんたはついて来んでええよ」
遊馬も一緒にという翠の意向を伝えるのがこれまた、自分でも理解していないだけに面倒だった。
「つまりはこういうことやろか。アズマさんは安全牌やけど、ぼくには危険な男の香を感じるとゆう……」
「きっとそうなんじゃないですか。哲さんはおとな[#「おとな」に傍点]だし」
付き合うと疲れるので適当に話を合わせて帰ってくる。どうしてもついていかないとだめかと念を押すと、翠は妙にもの柔らかな口調で答えた。
「そんなにいややったら別にええよぉ。そやけどアズマ君、さっきのお点前、上手やったなぁ。お茶のことなぁんにも知らんはずやのに不思議やわぁ。どういうことなのか、六甲の山の上で哲ちゃんにもじっくり意見聞いてみんとあかんなぁ」
そのあたりに遊馬の弱みがあることは勘づいているのだ。
彼女はもうすぐ東京へ戻る。戻れば萩田や久美に会うだろう。遅かれ早かれ遊馬の偽名はバレる。彼女の行動|如何《いかん》で遊馬はせっかく見つけた居場所をなくすことになりかねない。
そこまで考えて、遊馬はひとつため息をついた。
「わかりました」
わざと馬鹿丁寧に言ってみる。何事もお嬢様の御心のままに。
「アズマ君、ようやっと自分の立場ゆうもんがわかってきはりましたなぁ。ええことやと思いますわ。そうやねん。うちは、この家のお嬢様やねん。アズマ君は居候や。可哀想に寝るとこもないのんを、うちのお父ちゃんに拾われてん。そこんところを忘れたらあかんと思うわ。自転車はうちのやし」
この子も最初に会ったときには、頭のネジが一本抜けているのではないかと思うくらいおっとりして見えたものだが、地元に帰ってずいぶん印象が変わった。京女油断ならじと遊馬はいささかおののきの体《てい》だ。
名神高速を南下していくと、次第に空が明るくなってくるのは気のせいだろうか。別に京都が暗かったわけでもないのに、大阪へ、神戸へと近づくにつれて世界の明度が上がる。不思議そうに遊馬は窓の外を眺めている。
哲哉と翠は運転席と助手席で、東京へ帰る日の相談をしている。
「荷物多かったら駅まで送ってくでぇ」
「ありがとう。でも、きっとお父ちゃんが送ってくれはると思う」
「つれないなぁ。はぁ。そやけど、なんでまた、東京みたいなところがええんやろ」
「別にええことないよ。ただの社会見学やわ」
「社会なら京都にかてあるやん」
「あんなぁ、哲ちゃん、うち、別に東京に憧れてるわけやないねん。ただな、ちょっと疑問に思うことはある。うちの周りの子ぉはみんな京都を離れたことないひとばっかりや。哲ちゃんかてそうやろ。みんな、京都が一番や言わはる。どこへも行きとうないって。うちかて、特に京都が嫌とか、どこかへ行きたいとか思うわけやないよ。けどな、京都しか知らんと京都が一番や思うてるのんて、なんや世界が狭いんと違うやろか。いろんなとこ行って、いろんなもの見てから、京都がやっぱりええと思うのとは違うことやろ。うちはな、どうせ最後には京都に戻ってこんとあかんねん。畳屋継ぐかどうかはわからへんけど、お父ちゃんとお母ちゃんと、もしまだ元気やったらお祖母ちゃんの面倒もうちが見んとあかんやろ。せやから、どこか遠くへ行くとしたら今しかないねん。最初で最後のチャンスやねん。ほんまは東京やのうて、外国に留学したいくらいやねんわぁ」
思わず遊馬は後ろから口を出した。
「そういうふうにちゃんと親方に話したんだ?」
「そうやぁ。そしたら、まぁ、しぶしぶやったけど、ええやろゆうことになったんや」
「けっこうしっかりしとるやろ」
哲哉はバックミラーに映る遊馬に向かって苦笑する。
自分もそんなふうにきちんと説明できたら、父親の怒りをかうこともなかったのだと今さらながらに遊馬は思う。だが、残念ながら説明できるようなものが何もないのだ。
「それに、なんやかや言うても家を離れたら自由やわ。誰もうちのことなんか見てへんもん。家にいてたら、どこ歩いててもみんな知り合いやんか。昨日のお茶会かてそうや。なんか変なことしたらその日のうちに近所中の噂になる。アズマ君がうちにいてることかて、町内のひとみんな知ってはるみたいやで。あ、そや、アズマ君な、不穏さんのお寺で妙なことしてはるやろ。誰も知らん思たら大間違いやしね。うち、煙草屋のおばちゃんに聞かれて困ったわ。あの男の子は畳屋の修行だけやのうて坊《ぼん》さんの修行もしてはんのかて」
遊馬はぶっとコーラを噴き出し、哲哉は思わず顔をしかめた。
「車汚さんといてや」
「お寺さんの子ぉやし、そうちゃう? って適当に答えといたけどな」
「その話、親方もおばさんもみんな知ってるの?」
「どうやろぉ。うちは何も言うてへんよ。けど、お父ちゃんはよう煙草買いに行くしなぁ。微妙なとこやな。ふーん、やっぱりこれも内緒のことやねんね。アズマ君ゆうひとは秘密だらけやな」
いったい何の話だと哲哉が聞くので、何でもありませんと力を込めて遊馬は話を封じ込め、身を固くしてシートにもたれた。
「ふうん、ええわ。あとで不穏さんに聞いてみよ」
「そういえば、不穏さんて、怖そうなひとやと思てたけど、案外優しいひとやね。うち、昨日初めて喋った」
「翠ちゃんもぼくらのお茶会に来たらよかったんや。けっこう面白いで。なぁ、アズマはん」
力なく遊馬は相づちを打った。
車は名神高速から中国自動車道に入り、宝塚方面から六甲山へと向かう。残暑から秋冷へそしてまた残暑へと雨をはさんでいったり来たりしている下界とは異なり、山の上はすっかり秋色に染まりいささか肌寒いほどだった。いまだに半袖のTシャツ一枚でいる遊馬がくしゃみばかりしているのを見かねて、哲哉がトランクからカーディガンを出してくれる。
「言うとくけど、これは、翠ちゃんが寒かったら後ろからそっと肩に羽織らせてあげるための、とっておきのカーディガンやしね、汚したら弁償もんやで」
タグを見ればなるほど英国ブランドである。デートとはそのように算段するものなのかと遊馬は少し哲哉を見直した。
思えば、塾をさぼってまで自動車教習所に通ったりしたのも、大学生になったときに車を運転できるのとできないのとでは全然女の子のウケが違うと誰かに吹き込まれたからだったのに、運転免許はとれても肝心の大学に受からなかった。中高とずっと男子校で女の子と知り合う機会といえば塾しかなく、そこで知り合った女の子に「茶道? 茶道って、あの茶道? えぇぇぇ」と不気味なもののように後ずさりされ、二度と自分の出自は語るまいと決心したのが十四歳のときだ。以来、交際した女の子がいなかったわけではないが、友衛君は何が得意なのと聞かれて剣道とも弓道とも茶道とも答えることができず、何もできないでくの坊[#「でくの坊」に傍点]のように振る舞い、自宅に遊びに来いとは口が裂けても言えず、家族の話題もボロを出すまいと避けているうちに「友衛君って冷たい」などと言われ、決して冷たくないことを知らせるために抱き寄せようとすれば「いやらしいっ」と振り払われ、混乱して面倒くさくなりヤケになって、もうやめたと畳に大の字になる、ということを繰り返す哀れな青春の日々だった。
なるほど、いきなり抱き寄せるのではなく、さりげなく上着を羽織らせればよかったのだ。童顔に見えて、哲哉も歳上のことだけはある。
山頂に着いたのは午頃《ひるごろ》だ。翠のたっての希望で小洒落たホテルのレストランに入り、フレンチの軽いコースを食べた。車だからワインは飲まなかったものの、オードブルの素材とメインのソースについてまことしやかに哲哉はうんちくを語り、翠と遊馬を煙に巻く。ホテルを出て六甲ドライブウェイから奥再度《おくふたたび》ドライブウェイに入ると、ここはかの有名なライダーが練習にも使っていた険しいラインであると、くねくねハンドルを切りながら解説した。その途中に外人墓地のある公園があり、哲哉と翠は湖のような池でボートに乗る。計算し尽くされたデートコース、スマートなエスコートぶりだと遊馬には思えた。
そう、公園で茶籠《ちゃかご》が出てくるまでは。
ふたりがボートに乗っている間、さすがに遊馬は遠慮して畔でのんびり寝そべっていた。明日あたりからまた台風が近づいてくるという予報だったが、今日はまだすがすがしい風が吹いていて、日射しもほどよく心地よい。うとうとしているところへ戻ってきた哲哉の手にはひと抱えの荷物があった。
「ちょうどええ腹ごなしになったし、お茶にしましょうな」
レジャーシートを広げる。ポットを置く。用意周到に珈琲でも淹れてきてくれたのかと思えばそうではなく、小物入れに見えた巾着様のものは茶籠だった。
「お茶って、ほんとのお茶ですか」
「当たり前やぁ」
翠と遊馬は黙って顔を見合わせる。
まるでお菓子の袋をあける子供のように、哲哉は紐を解いてそっと中を覗き込み、大事そうにひとつひとつ茶器を取り出す。
袋にぶら下がっていた短い竹筒の蓋を開けると小さな茶筅が顔を出す。それを取り出す大事そうな手つきは、まるで相手が赤ん坊のかぐや姫ででもあるかのようだ。節を抜いてある茶筅の柄からは、これまた小さく折りたたまれた茶杓が滑り落ちる。片手で握り込んでしまえそうなほど小さな桑棗《くわなつめ》も、幼児用の飯碗《めしわん》ほどにも小さい茶碗も、それぞれ専用に仕立てられた袋を着せられており、すっぽり建水《けんすい》の中に納まっている。
可愛いやろ、可愛いやろと言いながら、にこにこして哲哉は出しては並べ、出しては並べ……。
「気持ちええなぁ」
先ほどホテルでもとめたクッキーをふたりに配る。
「清らかな自然の懐で一碗の茶を喫する。これぞ茶人の醍醐味やろぉ。森の緑が大きな床の間や。釜音の代わりに風が鳴っとる。お香がのうても言うに言われん樹々の香りがするやんか。〈秋光茶味清《しゅうこうさみきよし》〉って、こないだのお稽古のとき短冊が掛かっとったけど、こうゆうのを言うんとちゃうやろか。日本人に生まれてああよかったなあ……と、思わへん?」
平日だからさほど人が多いわけではない。かといって誰もいないわけでもない。シートの上で、若い男女が三人、珈琲とサンドイッチをほおばっているくらいなら誰も驚かない。しかし、正座をして抹茶碗を前に袱紗を捌《さば》き始めればさすがに目立つ。通りすがりのひとが何が始まるのだろうとじろじろ眺めてゆく。なぜか猪の子供まで寄ってくる。
「なぁ、哲ちゃん。何もここでお茶せんでもええんとちがう?」
他人の視線がよほど気になると見えて翠は言い、すると哲哉はにわかに眉を八の字にする。
「なんでぇな。湖畔の野点《のだて》が今日のコースのメインやのに」
「メインてねぇ。神戸までドライブ言うたら、普通、メインは〈異人館〉やろ。〈南京町〉に〈百万ドルの夜景〉やろ。なんで神戸でお茶せんとあかんねん」
「翠ちゃんなぁ、おばあちゃん先生《せんせ》の孫にしては悲しいこと言うなぁ。翠ちゃんは、おばあちゃんのお茶を継ごうゆう気ぃはないのんか。こないだかてお稽古さぼったはったし。高田志乃ゆうたら、先代のお家元の一番弟子やんか。わかっとんのかいな」
しゃかしゃかと茶筅を振り終わって哲哉が言うには、志乃は商家の出で、十歳の頃から茶の稽古を始めた。師匠は襲名前の先代家元だ。当時、先代はまだ二十歳《はたち》前で、彼にとっても志乃が初めての弟子らしい弟子だった。志乃は利発で気だてもよく、先代は妹のように可愛がり大切にしたという。
「先代のお家元は戦争になって急いで結婚しはったそうやけど、もしもそれが平和な時代でもっと悠長にお嫁はん選びができてたら、おばあちゃんかてそのうち年頃になって家元夫人に納まっとったかもしれへんねん。そしたら今頃、あのお屋敷の中でご隠居やでぇ」
「哲ちゃん、ほんまにそういう話好きやなぁ。いつかお祖母ちゃんに聞いたら、そんなことない言うて笑《わろ》うてはったで」
「そこがおばあちゃん先生の奥ゆかしいとこやねんか。今のお家元かて赤ん坊のとき、おばあちゃん先生に子守りされてはんねんで。つまりお家元も頭上がらん存在やねん。巴流|直門《じきもん》会で権力振るうててもおかしくない。ほら、あの大原のばあさんや、一閑堂のばあさんみたいにな」
〈大原のばあさん〉というのは、戦時中、物の不足した時代に家元へ米や野菜を貢いで恩を売った農家の娘だ。米で免状を買ったと陰口も聞かれるが、今は市中に稽古場も持って、その社中は全国に五百人は下らないという。
〈一閑堂のばあさん〉は、寺町の道具屋〈一閑堂〉の女主《おんなあるじ》で、今は息子が切り盛りしている店を後ろ盾に直門会で権勢を誇っている。
いずれも仕舞屋《しもたや》の四畳半茶室一間でひっそり巴流を教えている志乃とはえらいちがいだ。
「ほなら、なんでそうやないのん」
「翠ちゃんのお祖父ちゃんと大恋愛したからやろぉ」
志乃はその時代からすれば結婚が遅かったほうだ。戦争のせいで年頃の青年たちが少なかったせいもあるし、戦後のどさくさの中でも家元に稽古に通っているくらいだから、裕福でのんきな家でもあった。それが、あるとき家元出入りの畳職人と恋に落ちた。いくらのんきな家でもこれには猛反対だったが、志乃たちはほとんど駈け落ち同然に所帯を持ってしまった。畳屋のおかみになる決心をしたのだから、優雅に茶の湯の世界に浸っているわけにはいかない。それを機に、家元からは身をひいた。
「そんなんまでして結婚しはったのに、翠ちゃんのお祖父ちゃんは若死にしはって、おばあちゃん先生も苦労しはってんで。人に歴史ありや。まあな、浮いた話はともかくとして、先代のお茶の一番純粋なとこを受け継いでんのはおばあちゃん先生なんや。翠ちゃんはもうちょっとそのあたり誇りを持っておばあちゃんの元気なうちにお茶習わなぁ。東京みたいなとこでエレクトーン弾いてる場合とちゃうでぇ。明日は一緒にお稽古しよな」
哲哉はそう諭すと、両の掌にこぽっと茶碗を抱え込み自分で点てた茶をすすった。
「美味《うま》いわぁ。命が延びるわなぁ」
翠はもの言いたげにそんな哲哉を見ている。聞かなくても何を言いたいのか、遊馬にもわかる。
その後、翠の希望通り異人館を二つほど見学し、北野から元町界隈をぶらぶらしたあと南京町で夕飯を食べた。神戸大橋の途中で車を停めて夜景を眺め、湾岸線を走って帰ってくる。
「この道、ほんまは西行きのほうが夜景は綺麗なんや。今度はお目付け役なしであっち側を走ろな」
これほどはっきり口説かれていても、翠は面と向かって告白されたことなどないと言うのだろう。京都神戸間の道を、夜、西向きに走るということは、深夜のデートないしは泊まりがけを意味することに翠は気づいているのかいないのか、ぼんやりしたその反応が第三者的に見ると謎である。
神戸という町は横浜に似ている。車の免許を取ったからには、遊馬も横浜のデート・スポットについてはそれなりに研究した。そのとき思い描いていたのは、ちょうど今日のようなコースだった。男同士だから哲哉の努力や配慮や期待はわからないでもなく、というよりはむしろ手に取るようにわかり、翠の父親には夕方の畳運びを免除するかわりにふたりをきちんと見張っていろという意味のことも言われてはいたけれども、まさかそんな趣味はない。異人館を見ると言われれば車に残って番をし、ここからちょっと歩くと言われれば目的地に車を先回りさせてふたりを待った。
そんなひとりの時間に、公園で哲哉から聞いた志乃の話が脳裏をよぎる。年寄りを見ると大昔からずっと年取っていたようについ思ってしまいがちだが、もちろん誰にも若い頃はあったはずで、そのことを想像すると不思議だったり楽しかったりする以上に、なぜか神妙な心持ちになる。志乃の娘時代は魅力的だったにちがいない。遊馬の勘当を歌舞伎みたいだと笑ったくせに、自分のほうがむしろ劇的な人生ではないか。
すると、いつか友人宅へ届けてくれと言われた香合は、先代の家元からの拝領品だったわけだ。どんな香合だったのだろう。なんだか無性に気になる。
いや、たぶんほんとうに気になるのはそのことではない。今は亡き宗家巴流の先代が初めて自分自身の弟子をとったのは襲名前のまだ二十歳にもならない頃だったというそのことだ。遊馬は来月十九歳になる。今の自分と同じ頃に、そのひとにはもう弟子がいたことになる。数年後には結婚もした。すぐに父親になった。戦争にも行ったかもしれない。なんというシビアな日々だろう。自分に重ね合わせると鳥肌が立った。
それから二、三日して翠は東京へ戻った。遊馬は新聞配達の仕事を始めた。きちんとローテーションに組み入れられるのは来月からで、九月中は見習いのようなものだ。広告の折り込み作業を手伝ったり、都合で休んだ配達員の代わりをしながら、新聞の積み方や順路表の見方を教えてもらう。専用バイクを貸してもらえることになったが、しょっぱなから雨の日続きで、決して楽な仕事というわけではなかった。
土曜の午後、急に体調を崩したというひとの代役で夕刊を配っているときだった。家の前に停まっている車の脇を通り過ぎようとしたら運転席の窓が開いた。
「アズマ君やないの」
誰かと思ったら幸麿《ゆきまろ》だった。
「あなたのその髪、いいわね。どこでも遠くから見分けがついて」
ドアの窓に肘をついて幸麿は言った。遊馬はバイクにまたがったまま、目だけで車の中を覗き込もうとする。幸麿は今日も和服姿だが、どうやら色はともかく形は普通のアンサンブルのようだ。その視線の意味を誤解して、幸麿は「あ、これ?」と助手席に鎮座した桐箱を振り返った。
「今日は、うちの仕事なのよね」
「ここ、幸麿さんのうちなんですか」
「そんなわけないでしょ」
車の向こうの家の表札には〈正田〉とある。
「それにしても、あなた、新聞少年やったのねえ。えらい爽やかな青春してるやない」
幸麿はその家の前に停めた車の中で、何事か思案していたところだった。通りの向こうから現れた新聞配達のバイクをぼんやり眺めていたところ、その配達人はいちいち家々の表札と手元の資料を照らし合わせてから新聞を入れるのでなかなか近づいてこない。そのうち鬱陶しいのか、ヘルメットを首の後ろにはねのけた。見覚えのある青い髪が現れた。
「あなた、雨が降ったらどうしはるの? うちにゴアテックスのヤッケがあるけど、もし使うなら持ってくるわよ」
遊馬は一瞬驚き、すぐさま首振り人形のごとく、うんうんと大きくうなずいた。かろうじて神戸で買った長袖のシャツがあるだけで、ヤッケどころか自前の上着というものが何もないのだった。店で貸してくれる雨合羽は、誰が着たのかわからない上にやたらと目立つ黄色なので閉口していた。
配達が終わったら不穏の寺へ来いと幸麿は告げ、それでようやくきっかけをつかんだらしくイグニッション・キーを回した。赤いクーペだった。
もちろん急いで配達を終え、不穏の寺へ行った。すでに幸麿はいて、茶室前の縁側に腰かけているのが、まるで日舞の家元が雑誌のグラビア撮影をしているかのような風情だ。口さえ開かなければ、かなりハンサムではある。
「アズマ君、今日は何の日だかご存じ?」
そう聞かれて遊馬は幸麿から視線をはずす。休日ではないはずだ。敬老の日はこの間終わった。秋分の日はまだ先のはずである。
「もう、お彼岸の入りなんやて」
幸麿の隣にはおはぎを載せた小皿が置いてある。お彼岸には寺でいろいろ用事もあり、不穏はしばらく姿を現せないらしい。
「アズマ君、あそこにお湯が沸いてるでしょう。お茶をいただきましょうよ。これ食べて待ってなさいって言われても、ねぇ、むせてしまうやないの」
遊馬は「はぁ」と答えるだけで、では、ぼくが点てましょうとは言わない。幸麿はひとつため息をつき、自ら茶室へ入ってふたり分の茶を点ててくる。
「ねぇ、アズマ君。さっきあなたと会ったおうちね、つい十日くらい前におじいさんが亡くなったところなの。お茶の好きな方だったらしいのよ」
「そうか、〈魚正〉さんだ!」
「ああら、ご存じであらしゃる」
幸麿は驚いてもおっとりしている。
「そうなの、そうなの。なら、これはわかるかしら?」
幸麿は、今日、不穏の紹介でその家へ行った。魚正の遺族は亡くなったおじいさんの持ち物を早く処分したがっていて、正直で信頼のおける道具屋を知らないかと不穏に尋ね、〈古美術今出川〉が紹介された。この店の主人は幸麿の姉夫婦で、幸麿は一応役員に名を連ねているだけだが、茶道具ならおまえも詳しいだろうと言われてでかけてきた。
「外から見たら、普通の今風のおうちやったでしょう。とりたてて豪邸でもなく。でも、おじいさんのお部屋は素敵やったわ。お庭をつぶして増築してはるし、もうほとんど隙間もないのに、上手に露地を造ってはってねぇ、蹲《つくばい》と腰掛待合もあるの。ご自分でのこぎり挽いて作らはったそうよ」
うっとりした口調で幸麿は言う。
「すごい道具がいっぱいあったんですか」
幸麿は、そうねぇと小首を傾げた。どれくらいを〈すごい〉と言うかにもよるが、基本的に新物《あらもの》ばかりなので、骨董屋が目を剥く大物があったというわけではない。
「せやけど、見てると楽しいてねぇ」
風炉用の釜は一見ありふれた筒釜に見えて、目を凝らすと釜肌にうっすら網干《あぼし》紋が浮き彫りにされている。鐶付《かんつき》は小海老だ。炉用は〈塩屋釜〉で、これはくっきりと青海波《せいがいは》に貝の地紋、塩焼き小屋に見立てた鐶付から湯気が出るので有名だ。茶入《ちゃいれ》の箱を開けると、高取《たかとり》の肩衝《かたつき》に荒磯緞子《あらいそどんす》の仕覆《しふく》を添わせてあった。薄器は海松貝蒔絵《みるがいまきえ》の棗と漆の〈鮟鱇《あんこう》〉。花入は、青磁が首の左右に魚形の飾りのついている魚耳、竹は釣舟、籠は魚籠《びく》。
「それと、何やったかしら、そうそう、お茶碗は〈斗々屋《ととや》〉。これはなかなか時代物やね。継ぎだらけやったけど、山吹色の火色がええ景色やった。〈ととや〉ゆうのはもちろんお魚屋さんのことよ。〈片男波《かたおなみ》〉の写しも、よかったわね。まあ、一事が万事そんな具合。わかるかしら」
「……もしかして、〈魚〉つながり?」
「そうなのよぉ」
幸麿は嬉しそうに手を叩く。
「さりげなく、みんなお魚さんやったり海やったり川やったり。栄螺《さざえ》の蓋置や蛤香合は言うまでもあらしません。もちろん沖縄の金城さんのお茶碗も、もろお魚さんの絵ぇや。箱を開けるたびにそんなものが次から次へと出てくるわけ。ひとりでにやけてしもて、正田さんのご主人、変な顔してはったわ」
そして軸だ。書き手の名に心当たりはなく、表具もぞんざいではあったが、文字は〈漁人入得桃花洞《ぎょにんいりえたりとうかのどう》〉と読めた。漁師が桃源郷のようなところへ足を踏み入れたという意味だろう。
幸麿にはこれがおじいさんのたどり着いた境地に思えた。周りのひとびとの言うには、おじいさんはずっと長いこと、茶の湯とは魚屋風情とは関わりのない高尚なものだと思いこんでいた。それは呉服屋の旦那や良家の子女の世界であり、だみ声で客寄せをしているような自分には似合わないと。
が、集めた道具を見れば、彼が魚屋家業に誇りを持ち満足していたことがわかる。
「それではっと気づいたの。千利休といえば、お茶の世界では神様みたいに崇められているお方やけど、この方のおうちがたしか魚屋さんだったのよ。おじいさんは、あるときそのことに気がつかはったと思うわ。お茶を始めて気づいたのか、気づかはったからお茶を始めたのかわからへんけどね。いずれにしても、おじいさんにとってはものすごい発見やったはずやわ。そう思わなくて?」
「はあ」と遊馬はぼんやり返事をした。利休の名くらいは無論知っているが魚屋だったとは知らなかった。
「それはね、魚正さんのような魚屋さんとは違《ちご》たかもしれへんのよ。もっと大きなお店《たな》で、生のお魚は扱《あつこ》うてなかったぁ言うひともいはるわ。そやけどお魚屋さんには違いあらへんでしょう」
にこにこと幸麿は笑う。幸麿は、道具を見ているうちに面識もないこのおじいさんを好きになった。茶の湯がこのおじいさんにとってどれほど大切なものだったのかわかる気もした。
「そやけどねぇ、これは魚屋さんのおうちにあってこそ値打ちのある道具一式やと思うのよねぇ。ひとつひとつばらしてしもたら、もったいないと思わへん? 全部まとまってるから、おじいさんのお茶目な人柄が浮かび上がるわけやし。ほんまに売らはるんですかぁ、このまま置いとかはったほうがええのとちがいますかぁて、言うてみたんやけどね、息子さんはどうしても処分したいらしいわ。買《こ》うてくれへんのかて気色ばみはってね」
息子にしてみれば、道具屋などはみなヤクザと同じだ。人のよいおじいさんに調子のいいことを言って散財させたのはみな道具屋だ。信用などできないと頭から疑っているので、せめて不穏が保証できる店をと紹介を頼んだのである。
「それでね、息子さんの言わはるには、もっとええお道具があるはずやのに、それがどうしても見つからへんのですて。お茶の先生から聞かはったところによると、おじいさんの持ち物の中で一番値打ちのあるのは、それらしいの。茶入や言わはるから、わたし、息子さんの口を遮って言うてみたの。それはきっと〈大海《たいかい》〉ですやろねぇ。息子さん、目をこーんなに大きく開いて、わかりますか、なんでわかりますか、知ったはるんですかってしつこく聞かはったわ」
「〈大海〉って、こう大きくて平べったいやつ?」
「あら、よくご存じねぇ。そうなの。魚正コレクションの特徴は、無駄に同じ種類のものが重ならんことやわ。お茶入はもう肩衝があんのやし、もうひとつあるとしたら全然形の違うものでしょ。それで、おととさんがらみやゆうたら、〈鮟鱇〉か〈大海〉か……〈鮟鱇〉は薄器にあったもの。これはもう誰が考えても大海原しかあらしませんっ」
幸麿の興奮した口調に大波がざっぶーんと跳ねた気がした。
そのあるはずの茶入が、どこをどう捜しても見つからないのだと魚正の息子は言うのだった。誰か茶友が借りていったまま、おじいさんの死をいいことにくすねてしまったのではと疑っている。
「そこで問題におじゃります」
幸麿は急に口調を変えた。
「お茶入は誰にも貸したりしてしません。おじいさんのお茶室にあるはずや。けど、息子さんはこれを見つけられしません。何ゆえであらしゃります? お茶入はいずこに?」
「それは、たぶん、あそこではないでしょうか」
幸麿の背後から不穏の声がする。
「あら」と幸麿は振り向いた。不穏は茶室を覗き込んでいる。
「やはりそうかしら」
「ハイ。魚正さんが寝ついたのは五月頃でしたから」
ふたりだけでうなずき合っている。
「そうよね。だから、わたしも言うてみたのよ。お道具売り払ったりせんと、奥さんでもお孫さんでもお茶されてみたらいかがですか。そうしたらきっとええことあると思いますってね」
〈古美術今出川〉としては、茶入のありかを教え、それも一緒に引き取ったほうが商売にはなる。しかし死んだ持ち主の気持ちを知っていて幸麿にはそうはできなかった。
「さあ、新聞少年はわかったかしら?」
幸麿は遊馬を見る。
「わかりません」
「かわいげのない子ね。少しは考えなさいよ」
「すみません、俺、もう帰らないと。あの、ヤッケ……」
幸麿は遊馬の態度に少しむっとして、ヤッケはお預けだと言った。
「不穏さんに預けておきます。答えがわかったら取りにいらっしゃい。雨が降るまでに間に合うとええわね。ドイツ製よ。登山用に買《こ》うてまだ一度しか着てないの」
幸麿はこれみよがしにヤッケの肩をつまみ上げて広げた。遊馬の髪の色にも似た黒とウルトラマリンのツートンだ。無論、上下揃いである。
ケチな野郎だとは思ったが、仕方がないから遊馬も一応考える。夜、志乃が風呂に入っている間にこっそり茶室に座ってみた。床の間に掛かっている軸には明月なんとかと書かれてあり、なんとかの部分が激しく崩されていて遊馬には読みとれない。秋明菊が一輪その下にすっくと立っているが、その花の名も遊馬は知らない。隅に空の釜を載せた土風炉《どぶろ》が置かれている。釜を覗いてみる。裸の茶入なら入るだろうが桐箱に納まっていれば不可能だ。釜の下の土風炉は大きさ的には充分でも、何か入っていれば丸見えだ。
床の間の隣に半間の押入がある。何か隠してあるとすれば普通はそこだ。しかし、そんなところなら誰でも真っ先に捜すだろう。天井裏もしかり。魚正のおじいさんの茶室がどんな天井になっているのかわからない。天井裏が覗けるなら息子は覗いているだろう。天井がダメなら床下……。床下?
遊馬はやおら立ち上がって畳の縁をぐいと踏み、隣の畳を持ち上げた。畳下のバラ板がむき出しになる。その角が四、五十センチ角の正方形に区切られており、正方形部分の板をつまみ上げるとぽっかり穴が空いていた。夏場は本畳で塞いでしまうから存在を忘れがちだが、秋になればここに忽然と炉壇が現れ、中に灰と炭が置かれる。
なるほど、そうか、と遊馬は思った。お茶を知らないひとは気づかないが、お茶を知るひとなら誰でも真っ先に思いつく。そういう場所だ。誰かが炉の季節にそこでお茶を点てようとさえ思えば、茶入はそのひとの前におのずと姿を現す。
魚正のおじいさんは、その茶入を隠したかったわけではない。家族にこそ発見してもらいたかったのだ。
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五、 友衛家茶杓箪笥《ともえけのちゃしゃくだんす》の段
日曜日、高田家のひとびとは揃って墓参りに出かけ、帰ってくると家中の建具を入れ替えた。簾《すだれ》や葭戸《よしど》をはずして襖や障子戸を嵌《は》め、畳の上に敷かれていた籐筵《とむしろ》をはがす。夏の面影は半日であとかたもなく消え、家中がすっかり秋の装いになった。夜明けの時刻も少しずつ少しずつ遅くなる。
朝、志乃でさえまだ眠っている時刻に遊馬《あすま》は起き出し、大きな音を立てぬよう気遣いながら、この頃はいつも離れの三和土《たたき》に置いてある自転車を引き出して配達所まで漕いで行く。そこで専用のバイクに新聞を積み、担当区域まで走る。新人だし、若いし、丈夫そうだし、免許も持っているというので配達所から最も遠い区域を担当させられている。町中のことなので遠いと言ってもたいしたことはないが、一度に全部の新聞を積めない日もあり、そんなときは何度か店との間を往復する。
新聞の積み方にもいろいろあって、後部キャリアに平積みするひと、少しずつ丸めて束ねるひと、前籠に立てて入れるひと、さまざまだ。荷崩れせず、新聞が傷まず、すばやく引き抜けることが肝要である。ベテランにはそれぞれに一家言あるらしい。そんなことをあれこれ工夫したり、自分ひとりで所要時間の記録更新を目指していたりすると、単純作業に見えてけっこう楽しいことはある。
何と言っても、人気《ひとけ》のない早朝の道を走るのは気持ちがいい。その日一番のまっさらな空気を独り占めするような爽やかさがある。心なしか酸素の量まで多く感じられ、そしてそこには必ず匂いがついている。
まだ薄暗い道を走っていて、金木犀の香に包まれるのは不思議な気分だ。別に自分がロマンチストだとは思わないが、誰もいないのに強烈な匂いを差し向けられると、話しかけられているような気がする。この木には、この花には、何か伝えたいことがあるのではないかという気がしてくる。感じているのは匂いなのに、耳を傾けようとしていることに気づいておかしくなる。
お香の匂いの立ちこめる一郭もある。寺も墓もないのに、道に香気が漂っており、何だろうときょろきょろしたら、軒の上に古めかしい〈香舗〉の看板があった。そんな通りは、取り立てて変わった建物がなくとも、なんだか趣があるように感じられる。抹香臭いのも悪くはないかと、さすがの遊馬も少し素直になれる。朝とは不思議な時間帯だ。
萩田の部屋に居候していたときにはかなり自堕落な生活を楽しんだものだが、もともと朝の早い家で生まれ育ったので、早起き自体はさほどつらいと思わない。むしろ元気が増して、バイクを運転するだけでは物足りず、脚で走りたくなってしまう。実際、高層マンションは階段を駆け上がる。エレベーターがあってもわざとそうする。仕事というよりもロード・トレーニングのノリで走っている。
朝の道には、いろいろな落とし物もある。配達を始めて一週間くらいした頃、弦《つる》の切れた竹刀《しない》を拾った。あるマンションのゴミ置き場にあった。往きは何気なく通り過ぎたが、帰りにはそれを拾って前籠に立てて来た。畳屋の隅でそれをばらし、竹のささくれに鉋《かんな》をかけ、丈夫な糸をもらって弦にした。
朝刊配達の後、天神川の上流あたりでそれを振るうのが日課になった。なんのかの言っても、長年慣れ親しんだ習慣だから、一通り基本の型をさらうと心落ち着くものはあるのだった。
そうこうしているうちに十月になった。
「今日な、この畳納めたらもう一軒寄るとこあんねん。明日は天気が怪しいさかい、今日のうちに行っとくわ」
金曜日、夕刊配達の後、急いで帰ってバンに乗り込んだらそう言われた。ある私立高校の和室で、平日は生徒が使用するから週末の間に表替えを終えなければならない。これが二間続きの二十畳もある立派な広間だった。余計な物の何もない空間はそれだけで壮観だが、なるほど畳はかなり傷んでいる。
「十年か二十年替えてへんやろ、これは」
用務員のおじいさんは、そうかもしれないと笑った。
「考えても思い出されへんわ。前に畳替えしたのなんか」
「そやろぉ。べこべこやん」
「けど、掃除だけは生徒がしっかりしとるはずや。大掃除には畳上げてバンバンしよるし、よう雑巾もかけてはる」
それは親方も認めた。茶道部や華道部など、ここを使う部員たちが念入りに掃除するらしい。
「やっと予算ついたし、どうせやったら文化祭に間に合わせて綺麗な畳でお客さんをお迎えしたいとゆうことらしい」
なるほどと親方はうなずく。どうやらやる気が出てきたらしい。寸取機を取り出して、せっせと採寸をしていく。この機械はスイッチを入れると十字方向に赤いレーザー光線が飛び出すので、なんだかUFOのようだといつも遊馬は思う。
ふたりで畳の上を這いながら作業をしていると、入口のほうで「あの……」と、声がした。親方と遊馬が顔をあげる。
用務員はいつの間にか消えて、代わりに制服姿の女の子が立っている。
「あの、畳、はがすんですか」
本人は精一杯大きな声のつもりらしい。
「そうやでぇ。それがどないした」
親方の声はもっと大きくて、女の子は小さく一、二歩後ずさり、ためらいがちに「あの……」と遊馬のほうを見てしきりに首を傾げる。どうやら、こっちへ来いという合図らしい。遊馬が近寄ると、唇を噛みしめたままじっと遊馬を見つめ、「何?」と尋ねられてようやく口を開いた。
「あの、もしも、何か落ちてたら教えてくれませんか」
「何かって?」
「たとえば、その、指輪とかです」
遊馬はゆっくり顔を上げて正面を見た。段差があるので、まっすぐ前を見ると視線は女の子の頭の上を通過して向こうの壁に当たる。文化祭のポスターが貼られている。今年のテーマ〈時代に挑戦〉。なんじゃそりゃと思う。
「どうしても見つからなくて……。きっとどこか畳の隙間に挟まってるんだと思います」
たしかにあちこち畳と畳の間に隙間ができている。
「わかった。見つけたら拾っとく」
「あの……、それで……」
「何?」
「先生には内緒でお願いします」
遊馬は、ふっと笑う。
「じゃあ、どうやって知らせればいい?」
作業に入ると親方がにやついている。
「アズマはん、ああいう娘《こ》が好みなんか?」
「そういう話じゃありませんでした」
「何やった?」
「指輪が落ちてたら教えてほしいそうです。先生には内緒で」
かわいらしい話である。校則違反の指輪を彼女はしていた。礼法だか茶道だか、授業かクラブ活動かは知らないが、とにかくここへ来たときにハタと気づいてはずしたのが、慌てていてポケットに入らず畳に落ちたまま行方不明だ。みんなの手前、一生懸命捜すわけにもいかずそのままになってすでに数ヶ月。畳を剥がしてそれが見つかり、教師の手に渡ったら犯人探しが始まると怖れている。
「ふーん、指輪なぁ。してたら叱られんのか」
「そうなんじゃないですか」
「何ちゃんゆうの?」
「あ……」
「抜けとるなぁ。美人やったのに」
携帯電話の番号は聞いたのである。見つかったらどこへ知らせればいいのか尋ねたらあっさり教えてくれた。こんなに首尾よく女の子の電話番号を入手できたのは初めてだったから、クールな振りをしながら胸の内でガッツポーズをしていた。が、そのことに舞い上がって名前を聞くのは忘れたのだ。たしかに抜けている。
それでも連絡はなんとかついた。
指輪は最後の最後に畳の下のシートをまくったら出てきた。細い銀細工だ。路上で売っているような。帰って志乃に電話を借りた。
「あ、さっきの畳屋だけど、指輪、あったよ」
相手はいたく喜んで、畳を搬入する日に学校で受け取りたいと言う。日曜日だと告げても、大丈夫です、行きますと。
「校門のところにいます。正門やのうて、東門のほう。目立たないし。弓道場のあるとこです。よろしくお願いします」
なるほど行ってみると、大きな楠木のさしのべる枝葉に覆われるようにして弓道場があった。女子部員が練習をしている。しばらく眺めていたら、中からひとりが駆け寄ってきて、それが指輪の女の子だった。日曜でも大丈夫というのは、遊馬に会いにわざわざ出かけてくるという意味ではなかったらしい。
「これかな、指輪って」
「あー、そうですっ。よかったぁ。ありがとうございました」
文化祭の模擬店のチケットが何枚か渡される。
「文化祭ってさ、来たらここの弓道場も使わせてもらえるのかな」
「はい。部員の演武と、お子様弓道教室みたいなことすると思います」
お子様かぁ……と少しがっかりしながら未練がましく道場を覗き込んでいたら、小笠原流ですね、はい、そうです、というような会話が脇のほうから聞こえた。
「あ、ユキマロ先生」
「え、幸麿さん?」
女の子の視線をたどると、なるほどそこには幸麿がいて、そういえばいつか幸麿は学校の先生をしていると誰かから聞かされていた、ここの学校とは知らなかった、それにしてもこのひとは教室でもあんな絹の着物姿なのだろうか、生徒は指輪ひとつで叱られるのに教師は長髪でもいいのか、派手な和服でもいいのか、いったいどういう学校だろう、というような思いが一瞬にして脳裏を駆けめぐったのだが、それよりも彼の向こう側にいて説明を聞いているらしい女性が、道場の中にいる部員たちと似たような格好をしており、ということはつまり袴《はかま》姿で、なんだかカンナみたいだなぁとふとおかしくなって遊馬の頬はゆるみかけ、しかし、どうやら本物のカンナだとわかって一転引きつり、考えるのは後だ、気づかれぬうちに退散せねばと静かに踵《きびす》を返したところ、すぐそこに目を極大に見開いた行馬《いくま》がこちらをじっと見つめたまま固まっていた。
「お兄ちゃん!」
目が合うなり弾けるように行馬は叫んだ。おおっと! と遊馬はうろたえ、もう一度向きを変えて走り出した。振り向いたカンナが一瞬早く進路に脚を出し、躓いてひっくり返るかと思いきや、遊馬は身体ごと掬われて、気づいたときにはテレビドラマの強盗犯逮捕シーンさながらに取り抑えられていた。
淡水《うすみず》色の着物に紺鼠《こんねず》の羽織姿の幸麿と、茶のブレザーを着たおぼっちゃまスタイルの行馬と、まだ名前を知らない弓道着の女の子が、唖然とその様子を見つめている。
「なんや、どないした。アズマはん、大丈夫か」
異変に気づいて親方が走ってくる。
「アズマ? はん? いえ、この方は遊馬さまです」
「アスマ? さま?」
鸚鵡返しに親方は呟き、幸麿と行馬と名前を知らない女の子に続いて、このひともぽかんと口を開けた。
「桂木さん、あの男の子、親しいの?」
幸麿は客人たちの後ろ姿を眺めながら女子生徒に聞いた。
「畳屋さんです。〈桜の間〉と〈楓《かえで》の間〉の畳を替えに来てました」
「そうよねぇ。そう言えば、それ頼んだのわたしやわ」
学校の和室の畳を替えるというので、付き合いのある畳屋に連絡したところ、あいにく主人が腰を痛めていると言われた。そういえば哲哉の稽古場が畳屋だったと思い出し、電話したのは幸麿だ。
「畳を替えに来てうちの生徒をナンパしていくやなんて、油断も隙もあらへんわ。あなたも、くれぐれも軽はずみな行動は慎んでね」
「でも、先生。先生が連れてはったのは誰やったんですか」
「中等部の受験生。今日、向こうで学校説明会やって。終わったあとで剣道部と弓道部を見学したい言わはるから連れてきたのよね。中等には弓道部はあれへんから、こちらへね」
「それで、誰やったんですか」
「お茶の家元のご子息らしいわ。〈坂東巴流《ばんどうともえりゅう》〉ゆうて、東京のほうのね」
「そしたら、〈お兄ちゃん〉呼ばれてはったひともそうなんですね?」
うーんと幸麿は腕組みをして俯き、やがて顔を上げると、「やっぱり、あなたもそう思う?」と逆に聞いた。
「お兄ちゃん、驚いたなぁ。ぜーーったい、ここにはいないだろうって場所にいるんだもん。それだけはちょっと見直したな、ボク」
「だけは[#「だけは」に傍点]って何だよ。びっくりしたのはこっちのほうだよ。なんであんなとこにおまえとカンナがいるんだよ。わけわかんねーよ」
腰をさすりながら遊馬はぼやいた。逮捕の後は事情聴取というわけで、カンナは遊馬を引っ張ってホテルへ帰ると言い、親方がバンで送った。畳を降ろした後で空だったからだ。
話がややこしくなるので、カンナはロビーで親方から話を聞いている。遊馬は逃亡のおそれがあるというので部屋に行馬とともに閉じこめられている。この期に及んで逃げようとはさすがの遊馬も思わない。
「ボク、あそこの中学受けるんだ。どうせ京都の空気を吸うなら、早いほうがいいでしょ。ボクはお兄ちゃんみたいに東京でしなくちゃいけないこと、何にも思いつかなかったし」
だからといって中学生からひとり暮らしというわけにもいくまい。
「もしも受かったらこっちの巴さんちに下宿させてもらえることになったの。もちろん、試験には受かるつもり」
「なんでおまえはそう、いちいち俺に当てつけるようなことするんだよ。嫌みな奴だなぁ」
「当てつける? そんなことしてないよ。お兄ちゃん、自分は勝手にうち出てっちゃって、それでいいだろうけど、残されたほうは大変だったんだよ。お父さんは毎日機嫌悪いしさぁ、お母さんは心配ばっかりしてやせちゃうし、弥一《やいち》もカンナもしょんぼりしてるし、お弟子さんたちはひそひそ噂話ばっかりしてて。あんな薄気味悪いうちにボクだっていたくないよ。だからってボクまで家出するわけにいかないじゃない。親に心配かけないで出ていく方法ってこれしかないじゃない。嫌みって何だよ。みんなお兄ちゃんのせいだろ。お父さんたちだってね、最初はそんなに怒ってなかったんだ。〈人生の意味を考えたい〉っていう置き手紙読んで、まあ、そういう時期もあるだろうみたいに言ってたよ。ちょっとは期待してたみたいだよ。あいつもけっこう見どころがあるかもしれないって。道具屋さんから、お宅の息子さんお茶杓を売りに来たけど大丈夫かって電話がくるまではね」
「あの茶杓持っていけってよこしたのはおまえじゃないか」
「馬っ鹿じゃないの? ボクが茶杓を渡したのは、売っぱらうためじゃないよ。いざというときに、あれを持ってたら坂東巴流の嫡流だって証明になるからでしょ。家宝なんだよ。売っちゃったらダメに決まってるじゃない。それだけだって切腹ものなのに、お兄ちゃん欲をかくにもほどがあるっていうか、武蔵の茶杓まで持ち出すなんてサイテー。お父さん、絶対、あれで脳の血管一、二本切れたと思うよ。お祖父ちゃんなんかショックで倒れちゃったからね。あれからずっと寝たきりで、もういつ死んでもおかしくないと思う。言っておくけどお兄ちゃん勘当されてるよ。今、お父さんに見つかったら、きっと真剣持って飛んでくると思うな。賭けてもいい。木刀や袋竹刀《ふくろしない》じゃない。絶対、あれだよ、重要文化財に指定されてる〈祐定《すけさだ》〉ね。蔵に白鞘で飾ってあるやつ」
ここふた月溜めに溜めた鬱憤を行馬はぶちまけ、その勢いに遊馬はいささか気圧《けお》されていた。どうやら一段落したらしいと見て、おそるおそる口を開く。
「聞いていいか?」
「何」
「その武蔵野茶杓って何」
え? という顔で行馬は兄を見る。
「〈武蔵野〉じゃないよ、〈武蔵〉だよ。宮本武蔵、知らないの?」
「宮本武蔵くらい知ってるけど、何? うちに武蔵の茶杓なんかあるわけ?」
「……」
そういえば遊馬は、徳川慶喜の茶杓のことも知らなかった。茶杓箪笥の存在くらいはぼんやり聞いたことはあっても、有名茶杓が十何本という話は東京の道具屋に教えられて初めて知った。ついでに言えば、重要文化財の〈祐定〉とはいったい何のことやらまるきりわからない。
「お兄ちゃん、何年あそこの息子やってるんだよ。ボクなんかねぇ、十二年しか生きてないのに、毎日毎日カンナからガンガン詰め込まれて学校の勉強なんか頭に入る余地ないくらいなんだよ。しつこく聞かされて耳にタコができてるって。うちの茶杓箪笥に入ってる茶杓、知らないの? 宗家の八代香雲斎、細川幽斎、早見頓斎。松浦《まつら》の大膳、武蔵玄信、道安、掃部《かもん》、庸軒、宗偏、一瓢さん。燕庵剣翁、片桐石州、鉄舟、鉄斎、鉄幹、慶喜。当家の三馬、仙、天、洋。の一九本でしょ」
どうやら覚えやすいように韻を踏んで並んでいるらしく、行馬は節をつけて唱え、何が悲しいのか途中から涙声になり、お兄ちゃんは覚えさせられなかったのかと訴える。
幼い頃から、だいたい遊馬の教育は弥一に、行馬はカンナにゆだねられていた。実を言えば、弥一も遊馬に友衛家の歴史や名器の由来について教えようとしたことがなかったわけではないのだが、明日は勉強しましょうねなどと言われると決まって遊馬は姿をくらまし、それを叱られて隣の寺へ放り込まれたりなどばかりしていて、いっこうにはかどらない。しまいには風馬《かざま》や秀馬《ほつま》とも相談の上、机上の学習はなかば諦め、武家流の家元として門弟を束ねるには、なんといっても技量の修練が一義であろう、武道にせよ茶道にせよ、遊馬には頭脳よりもまず身体的訓練を課しておこう。技量が一流になればどれほど馬鹿であろうとおのずと人格も知識も向上するにちがいない。逆にどれほど物知りであっても、体現できなければ意味がない。ついては、知識面の伝授はサポート役の弟にしておこう。幸い弟のほうは、運動神経はあまりよくなさそうだが頭は悪くない。役割を分担しておけば諍いもなく、かえって坂東巴流は安泰である。ということになって、以来、遊馬の教育は実践主義、行馬のほうは教養主義なのである。
「俺は、あれだな、小学生の頃〈論語〉の素読ってやつで挫折したからな。あれ以来見放されたかもしれない。〈子|曰《のたま》わく……〉ってやつだよ」
「子曰わく、学びて時にこれを習う、亦《ま》た説《よろこ》ばしからずや」
「おお、それそれ。全然喜ばしくなくってさ」
ケタケタ笑う兄を、行馬はじっと恨みがましい目で睨んだ。
「……ボクってさぁ、お兄ちゃんの道具なんだよねぇ。お兄ちゃんの足りない〈頭〉を補う辞書だったりメモだったり秘書だったりするんだよね。お兄ちゃんが、あれ、どうだっけなぁってとぼけた顔で聞いたら、お家元、それはこれこれでございます、ってすぐに答えられるようになれってことなんだ。〈道具〉でしょ、それ」
そんなことを弟が感じているとは気づかなかった。なるほど、そういうのもなかなかつらいかもしれない。自分のほうが利口なのにバカ殿を立てなければならないとは。
「だけど、ものは考えようだよ。おまえはスイッチ押されたら知ってること喋ればいいんだよ、楽じゃないか。俺はなぁ、動かなきゃいけないんだよ。茶の点前とかな、剣の試合とかだけならまだいいぜ。その前にな、雑巾掛けだよ、乾布摩擦だよ、筋トレだよ、あと、なんだ、そうそう座禅とかな、習字とか、面倒だぜ。道具って言うならおまえは頭脳マシーンだ。俺は肉体マシーンだ。どっちが楽かって言えばやっぱり頭脳のほうじゃない? ホワイトカラーって言うんだろう。言っとくけど、坂東巴流の家元は完全に肉体労働者だから。だけどさ、俺だってまんざら馬鹿じゃないらしくって、自分でもびっくりしたけど〈般若心経〉全部覚えてるし、この間もふっと頭に石川啄木の歌なんか思い浮かんだりしてさ。自分で自分の溢れる教養に気づいてつい感心しちゃったね。しかし、まあ、おまえの言うこともわかるよ。道具ね。そのとおりだな。坂東巴流ってものを伝えるための道具だよな。うん、なんか、おまえの話を聞いてたら、俺もわかってきたぞ。要するに俺たちは道具であることに不満なんだ。そうだろう。そこには人間らしい〈意志〉ってもんがないんだ。〈自主性〉がない。ついでに言えば〈夢〉もない」
うんうんとうなずき遊馬は腕組みをした。何やら頭の霧が少し晴れたような気がする。
「で、話は戻るけど、武蔵の茶杓って何なんだ?」
行馬はそばにあったベッドにどさりと頭から倒れ込んだ。
がちゃんと鍵の開く音がして、カンナが入ってくる。こちらは行馬よりは落ち着いている。何はともあれ、と彼女は言った。
「なにはともあれ、お元気でようございました」
そう呟くなり、そっと抱きつかれたから遊馬はびっくりした。というよりも、どぎまぎした。胸のあたりにものすごく柔らかなものが触れたからだ。いつも巻いてるサラシはどうしたのだろう。
「カンナ、お兄ちゃんに〈武蔵の茶杓〉のこと教えてやってよ。それは何だって聞いてるよ」
カンナは腕の長さの分だけ遊馬から離れ、不思議そうな顔をする。
「お持ちですよね?」
「ないよ。そんなもん」
カンナの足下がふらりとゆらぐ。
「あ、あなたというひとは……」
「だから、何の話だって聞いてるんじゃないか」
「まさか、知らずに売り払ったのでは。あの茶杓は無銘で筒にも封印しか記されていません。さればこそ、六代|琢馬《たくま》様の入念なる箱書と由来書が添うているわけで、筒だけ持ち出して、いったいどれほどのひとに真価がわかるか心許ないものです。巷へ出せば批判もうるさかろうというので門外不出になっているのです」
友衛家の茶杓箪笥とは、七代|克馬《かつま》が家内にばらばらと増えた茶杓を整理してひとつの小箪笥にまとめたものだ。なぜ増えたかといえば、その一、二代前が坂東巴流にとって勃興期にあたるからだ。
当流の茶が友衛|仙馬《せんま》から始まったことには疑いの余地はないが、だからといって最初から流儀を名乗っていたわけではない。彼は師匠から贈られた茶室に寝起きしながら剣や弓の道場へ通って暮らしていた。寺子屋のまねごとをしたり、道場仲間の武士たちに茶を教えたりはしたものの、どこかに仕官したという記録はない。
赤穂浪士の討ち入りには間に合った。事件はまたたく間に江戸中の知るところとなり、彼も大衆のひとりとして興奮の渦に巻き込まれた。が、そのことに思いをめぐらすうちにおそらく彼は気づいたのだ。赤穂藩士たちの武士道と己の思い描く武士道は違う。前者は儒学的だが、仙馬のそれは禅的だ。武士とはおのれひとりだと仙馬は思う。おのれひとりの力量のみが頼りなのであり、ひたすらそれを磨くべきなのであり、忠義であるとか孝行であるとか、そのような〈関係性〉は二の次三の次、いやもし言い切ってよければ〈無〉だ。主《あるじ》に侍《はべ》る者が〈侍〉であるなら、そのようなものになりたくはなかった。幼い頃から武芸に励み、寺に入って禅も茶も学んだ。だが実社会において一族郎党を率いたこともなければ、誰かに付き従ったこともない仙馬によってたしなまれた茶であるから、今日〈武家茶道〉と呼んではいるが、いわゆる大名茶とはいささか趣を異にする。独座観念的な茶なのである。
仙馬は作法としての茶は教えても、その精神を弟子に伝えようとはしなかった。弟子の多くは家や藩あってこそ身の立つ若侍であり、仙馬の考えは見ようによっては危険思想である。精髄を教えないのだから師範も育たない。流儀を後世に残そうというような気持ちがそもそもなかった。武士もひとりなら茶人もひとりだ。だから、〈侍《さむらい》ではなく兵《つわもの》であれ。それを治むる武士《もののふ》であれ〉と教えられたのは、息子の天馬《てんま》だけである。こうして、とりたてて何流ということではなく、家の茶として仙馬の茶は細々と伝えられていった。それでは口を糊することもあたわないので、子孫の中にはどこぞの藩の江戸屋敷に出入りした者がなかったわけではないが、代々続く役職を得たような者はいない。
貧しい武家に細々と続いた茶の流れが、案外に必要とされ門人を増やしたのは、明治になって後だろう。一八七六年に廃刀令が出され、丸腰になった武士たちは精神的に大きく動揺した。反乱を起こして抵抗する者もあれば、途方に暮れて野をさまよう者あり、慣れぬ商売に手を出して有り金残らず失った者もある。そんな彼らに、刀がなくとも、主がなくとも、武士は武士であるという自尊心と慰めを与える要素が友衛家の茶にはあった。この頃から、友衛家の茶は、静かにゆっくりと家の外へと広がっていった。廃刀令と文明開化のあおりを受けて武家も茶家も軒並み衰えていったこの頃に、もともと零細だった坂東巴流はむしろ門人を増やしている。中にはかなり身分の高かったひともあり、友衛家の名物はほとんどこれらのひとびとから謝礼や挨拶代わりにもたらされたものだ。慶喜公もそのひとりでなかったとはいえない。
「慶喜公は弓の得意な方で、将軍職を退かれてからも晩年までずっとたしなんでいらしたそうです。六代琢馬様とはほとんど同年代ですから、弓を通して交流があったとしても不思議ではありません。家も近所ですし、何よりあの方こそ、武家とはなんぞやと深くお考えにならずにはいられない境遇だったでしょう」
なるほど、それでうちに〈野分《のわき》〉があるのだなと遊馬は納得した。
「武蔵の茶杓は、同じ頃、寺尾孫之丞の末裔からもたらされたものと聞いています。孫之丞は有名な〈五輪書〉を武蔵から託された人物ですね。〈五輪書〉は幕府に召し上げられてしまったのですが、この茶杓は、別の書状と一緒に贈られたものです。書状というのは、〈独行道〉、つまり〈ひとり行う道〉という内容のもので、これなどは友衛家の家訓によく馴染むものですから、琢馬様か克馬様が乞われたのかもしれません。あるいは寺尾家のほうから要請があったのか、とにかく明治十七年には武蔵生誕三百年を記念してささやかながら法要の茶会を行ったと記録にあります。もちろん、このお茶杓が使われて、そのまま寺尾家に帰らずこちらに留まったそうです」
「全然知らなかった……」
「風馬様は襲名披露のお茶会にこのお茶杓をお使いになったと聞いています。今でも毎年武蔵の命日になると、この茶杓を見たくて門人の方々が集まってらっしゃるじゃありませんか。五月十九日に」
ああ、そうだったのか。五月頃には立て続けに行事が行われていて、何が何やら遊馬にはわからない。たしかに少々|武張《ぶば》った雰囲気の茶会があって、端午の節句にしては少し遅いのが間抜けだなぁといつも思っていたのだった。
そう言うとカンナは肩を落として、自分の祖父ながら弥一の指導はかなり手抜きだったのではないかと今さらながらに思い、呆れるべきか謝るべきか戸惑うのだった。
「それで、その武蔵の茶杓も俺が持ってるって?」
「違うのですか?」
遊馬が家を出たあと、しばらくして道具屋から友衛家の茶杓を売りに来た者がいると連絡があった。それで蔵を探してみると、たしかに〈野分〉の箱には空の袋だけが入っていた。他は大丈夫かということになって調べてみたら、なんと武蔵の茶杓もなくなっていた。
遊馬と携帯電話でも連絡がつかなくなったとき、家の者たちは捜索願を出してはどうだろうかと秀馬に進言した。秀馬は、警察に届けを出すなら捜索願などではない、盗難届だ。跡継ぎだからといって、窃盗が許されてなるものかと息巻いた。今度は周りがそれを引き留めるのに苦労した。
「俺は、そんなもの知らないよ」
「ほんとうですか」
カンナは怖い顔で遊馬を睨む。
「こんな大事なことで嘘をつくようでは人間として終わりです。なくしたとか壊したとかじゃないんですか。大事なことです。ごまかして済む話ではありません」
「ほんとだよ。慶喜っちの茶杓なら売れなかったからまだ持ってる。だけど武蔵っちの茶杓なんて今の今までこの世にあることも知らなかったんだから、持ち出しようが……あれ?」
遊馬はぽーっとした顔で天井を見上げた。そういえば、どこかの古道具屋で、〈伝 宮本武蔵作〉という札を見たぞ。
それはどんな茶杓だったかとカンナが聞く。どんなと聞かれても、店の主人が筆ペンでささっといい加減に書いた札を見ただけで、嘘くさいと思ったからほとんど見ていない。
「なぜ、嘘だと思ったのです?」
遊馬は腕組みをして行馬の隣にどすんと座り直し、そこはベッドの上だったのでぐわんぐわんとしばらく上下に揺れながら思いをめぐらす。その茶杓はなんだかひどく華奢に見えた。自分が持っていた慶喜の茶杓も細みだったが、そういう細さではなかった。
「宮本武蔵っていったら、ごっついおっさんだろう。もしも茶杓を作ったとしたらもっと太くてがっしりしたやつなんじゃないかな」
別にそうあらためて考えたわけではなかったけれども、今、思い出してみればきっとそう感じていたのだ。
カンナはすっくと背を伸ばし、大股で部屋のドアへ向かう。
「何をぐずぐずしているんですか。行きます!」
「どこへ」
「そのお店へです。それこそ寺尾家伝来の武蔵の茶杓にちがいありません」
しかし、もう陽は暮れている。
「ボク、お腹すいたよぉ」
「行ぼっちゃんのお腹と武蔵の茶杓とどちらが大切だと思ってるんですか」
遊馬も行馬も当然自分たちの空腹のほうが大問題だと思うのだが、多分そうではないのだろう。のろのろとカンナの後ろに従った。
遊馬の記憶を頼りに古門前へタクシーを乗りつける。立ち並んだ骨董品屋|古裂《ふるぎれ》屋は、すでにほとんどがシャッターを降ろしている。背中を押されながら歩いてようやく探し当てた店も閉まっていた。それでもカンナは諦めず、そのシャッターを力まかせに叩く。ガシャガシャガシャと実に不愉快な音が静かな小路《こうじ》に鳴り響いた。
「やかましいがな、やめとくれやす」
たまりかねた主人が二階の窓から顔を出した。そうして入口を半分ばかり開けてもらい、踏み込んだ店の棚にすでにその茶杓はなかった。
「はい、はい、そういうお茶杓ありましたよ。並べて幾日もたたんうちに売れましたわ。誰に売ったかって、そないなことわかりません。現金で払うてくれはったし、聞きしません。値段ですか。そんなん、ほっといておくれやす。何ですか、あんさんら。盗品やったとか言うのとちゃいますやろね」
主人はカンナの袴姿を上へ下へじろじろ眺めながらそんなふうに答えた。カンナにいつもの覇気はない。
「いえ、その……茶会に使いたいと……思っただけで」
がくりと肩を落として店を出ようとする後ろで、行馬が、その茶杓はどこから仕入れたのかと尋ねた。ああ、そうだ、それこそが問題だとカンナも立ち止まり、振り返る。
「そうですなぁ。あれは横浜の店から来ましたな。一見《いちげん》の素人さんが持ち込みはったそうやし、向こうに聞いてもその前はわからしませんやろねぇ」
「盗まれたんだってはっきり言ったら、もっと詳しく調べてくれたんじゃないかなぁ」
ようやくありついた夕飯を前にして遊馬は呟いた。白川通の小鍋屋だ。
この通りはほんの百メートル余りの間に〈京都らしさ〉なるものをそっくり抱え込んでいる。路の傍を慎ましく白川が流れる、その対岸には時代がかった料亭の洗われた板塀、窓の桟、手すりが並び、枝垂《しだ》れる桜や柳の向こう、硝子戸の灯りの中に華やかな宴の場がかいま見える。川には小さな石橋がかかり、ここにひとりでも舞妓が立ってくれればそれだけで旅の目的は果たせそうな気のしている旅人の前へ、実際、路地からふっと舞妓が姿を現し、澄ました顔で通り過ぎていく。
だらりの帯を下げた舞妓たちとすれ違ったとき、遊馬と行馬はでれっとして彼女らに見とれ、彼女らのほうでは、袴姿のカンナに会釈し微笑んだ。
「いやぁ、お姉さん、凜々しおすなぁ」
そういえば、カンナは中学や高校の茶道部から頼まれて出稽古にも行く。男子より女子生徒に圧倒的に人気があるらしい。残念ながら今は舞妓の声など耳に入らず、行馬に手を引かれてようやく料理屋までたどりついた。腹ぺこの行馬が、ちゃっかり道具屋の主人に教わった店である。
「〈たいたん〉って何だろうね、お兄ちゃん。〈水菜とおあげのたいたん〉って何だろう」
お品書きを読みながら行馬が言う。
「〈てっぱい〉ってのもあるよ。〈おっぱい〉じゃないよ。〈おいもさん〉って、高級な芋なのかな。さん付けるくらいだもんね」
「頼んでみればいいじゃん。そういえばさぁ、おまえ、こっちじゃ蕎麦喰うのも大変なんだよ。この間、蕎麦屋に入ってさあ、〈きつね〉って頼んだらうどんが出てきて、蕎麦屋だから蕎麦だろうって思いこんだのがいけなかったかなってそれは黙って喰ったけど、そのあとうどん屋に入って今度は〈たぬき〉って頼んだら、おまえ、なんだかどろろんとした糊みたいな汁の中にうどんが埋まってて、そのとき、俺、おまえのこと思い出したよ。おまえ、赤ん坊の頃、喜んで喰ってただろう。ああいうの。離乳食だとか言って」
「そんなの覚えてるわけないじゃん。あのね、ボクらもさっき、おうどん屋さんでお昼食べたよ。お汁がさ……」
「盗まれたのでしょうか」
のんきな会話をカンナが遮る。無論、汁ではなく茶杓のことだ。
「そうに決まってるじゃん。俺は持ってないんだから」
「誰に盗まれたんでしょう」
「泥棒に決まってるじゃん」
「いつですか? 泥棒に入られたことなどありましたか?」
「それは、誰も気づかなかったんだ……」
だが、泥棒に入られた形跡などどこにもなかったのだ。いつも誰かしら留守番がいて、まったく無人になるということはあまりない家だ。防犯カメラをつけようというのは、まだ話だけで実際ついてはいないが、頻繁にパトロールの警官は回ってくる。
第一、空き巣狙いなら、せっかく侵入したのだから、もう少し何か金目の物を持っていくだろう。茶杓一本と言わず、箪笥ごと持ち上げても大した重さはないし、周りにはもう少しわかりやすい美術品だってないわけではない。
「武蔵の茶杓は貴重なものではありますが、世間にそれほど有名かといえばそうとも言えません。代々、友衛家の家元が極めているだけで、第三者的鑑定に出されたことがないからです」
「偽物なの?」
「そうではありません。寺尾家のひとびとも友衛家のひとびともおよそこの茶杓を目にした茶人は、それを疑いません。ただ、科学的な証拠とか文献的裏付けは乏しいというだけです。なまじ、本物と誰かに鑑定されても、それはそれで面倒ですし。友衛家の茶会で使うものですから友衛家の人間が知っていればそれでいいことです」
とすると、友衛家の蔵から、よりによってその一本だけを持ち出した人物は、友衛家の什物《じゅうもつ》に詳しい者ということになる。家族や親類、あるいは門人の誰かだ。
「内部的犯行だ!」
行馬の言葉に、しぃっとカンナは人差し指を立てる。
「身内を疑いたくはありませんが、盗まれたということになればそういうことも考えないわけにはいかなくなります。愉快なことではありません。内輪で揉めればみっともないことになり、坂東巴流の名に疵がつきます。もしかすると、わたしは少し早まったことをしたのかもしれません。さっきの道具屋で取り乱してしまったような……」
カンナは不安そうに俯いて考え込んだ。カンナひとりで判断できることではないが、かといって、近頃の家の様子からして、秀馬にことの次第を告げても、内部の犯人とはすなわち遊馬だと決めつけられるだけだ。
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元警官、現〈武家茶道坂東巴流〉家元友衛秀馬(四九歳)は、○月×日、当家に保管されていた日本刀を持ち出し、自らの長男に斬りつけ重傷を負わせたことから、銃刀法違反ならびに殺人未遂の容疑で本日起訴された。
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というようなことになると、流派はみっともないどころか存続の危機にさらされる。カンナはぶるっと身震いした。
「母さんにも言っちゃダメだよ。あのひと、なんだかんだ言って、父さんに内緒ごとできないんだから。弥一も祖父さんも」
もっとも、誰より内緒ごとが苦手なのはカンナそのひとなので、遊馬は念には念を入れて自分に会ったことは絶対秘密にしておけと釘を刺した。カンナは自信なさそうにため息をつく。
「努力してみます。とにかくお茶杓を見つけて家元の気を鎮めなければ……」
行馬の学校もあるのでふたりは今夜中に東京へ帰ると言う。タクシーでホテルへ戻り、荷物をまとめてチェックアウトする。遊馬もじゃあさよならとは言えず、駅までついて行く。
タクシーの窓から眺めていても、京都の夜はかなり暗い。繁華街にも高層ビルというものがないから、灯りの量におのずと限界がある。東京のとりどりに瞬くネオンに慣れた目には、もうすっかり町全体が店じまいしているように映る。
カンナはそれでもめざとく夜間営業しているショップを見つけ、「ちょっとそこで停めてください」と運転手に頼むと、ひとり車を降りて駆けていった。戻ってきて新しい携帯電話を遊馬に渡す。
「それを持っていてください。プリペイド式だそうです」
電池切れのまま部屋の隅に放ってある電話は、利用明細が実家へ行くから使いたくないと、さきほど料理屋で話していた。
「遊馬さまの汚名は必ず晴らしてみせます。いましばらくのご辛抱です」
ただでさえ時代劇がかったひとだが、別れ際のカンナはいっそうそれらしさを増していた。新幹線の窓の向こうでも生真面目な顔をしてホームの遊馬を見つめている。行馬のほうはぷわーっと大きなあくびをして、潤んだ目を指でこすっている。ピロピロピロピロとチャイムが響き渡り、やがて静かに車両の扉は閉じて、ふたりの姿も闇の向こうに滑り出ていった。
あたりが暗い中でそこだけぼおっと青く明るいホームに遊馬は残り、脱力してベンチに腰を落とした。やけに長い一日だった。動く気もせず、そのままそこで寝てしまいたいくらいだ。
ぼんやりしているところへ聞き慣れない電子音が鳴った。しばらく周囲を見回してから、カンナが買ってくれた携帯電話だと気がつく。メールが入っている。
〈がんばってください。かんな〉
行馬の電話から送信してきたらしい。
だいたいカンナは自分では携帯電話は嫌いだと言って持ち歩かないのである。メールなど打ったこともないはずだ。それを、今、揺れる〈のぞみ〉車両の座席で、眠たがる行馬から一文字一文字教わって、やっとそれだけを打ってきたのだろう。
短いメッセージが映し出された小さな画面を、バックライトが消えるまで遊馬はぼおっと見つめ続けていた。
どうしてかと聞かれるとはっきり説明できないが、遊馬はその晩、京都駅から畳屋町まで歩いて帰った。別にタクシー代が惜しかったというわけではない。少し前に、九月に数日配達した分の給料をもらったからタクシー代くらいならある。身体は疲れていて、すぐにでも帰って布団に潜り込みたい気分だった。にもかかわらず、とぼとぼと歩いて帰った。
もしかしたら、帰って高田家のひとびとに会うのが気ぶっせいだったのかもしれない。騙していたことになるのだから、きっと愉快には思っていないだろう。なにがしか謝らねばならない気がするけれども、どう言ったものか、頭が働かない。面倒だなぁと思っても、このまま姿をくらまし、家出先からさらに家出するというわけにもいかない。少しでも帰り着くのが遅くなればいいというかのようになるべくゆっくり歩いていたら、自転車で巡回中の警官が通りの向こうに見え、ああ、こんなところでまたしても職務質問などされたら厄介だと急に胸を張り足取りを早めた。一時間とたたないうちに高田家までたどりついてしまった。
母屋の奥からは灯りが漏れていた。離れのほうは暗い。志乃は床についたのだろう。遊馬は物音を立てないようにそっと鍵を開けて家に入り、二階へ上がった。階段はぎしぎし鳴ったから志乃は気づいたろうが上がってくる気配はない。そうとわかるとようやく安心して床を延べた。
疲れているのにあまり眠れなかった。
いったい誰が……、と考えてしまう。誰が、その武蔵の茶杓とやらを盗んだのだろう。自分ではない。行馬が持ち出したのは慶喜の茶杓だけだ。あの様子からしてカンナでもない。秀馬や公子でもない。ショックで寝込んでいるくらいだから風馬でもない。まさか弥一はそんなことはしないだろう。とすると門人の誰かか。いつも遊馬の部屋まで聞こえるほどの大声で、茶道具の値段について語っているおじさんだろうか。いや、盗まれたのがいつかはわからないが、遊馬が家を出た日にはたしか昼間に茶会があって、大勢客もあったはずだ。あんな暑い中をわざわざ茶を飲みに出てくるなんて普通ではない。他の目的があって来た者もいたのだろうか。
だいたい蔵とは言っても家の中にあり、防火対策で土壁になってはいるものの、ほとんど納戸のようなものだ。しっかりした鍵の付いた扉はあるが、いつも開いてるのではないだろうか。
子供は入ってはいけないと言われていた。そう言われると入りたくなるのが人情で、かくれんぼと称して棚の隅に隠れているのをみつかって、えらい剣幕で叱られたことがある。それで隣の寺へ放り込まれて以来、遊馬は覗いたこともない。少なくとも昔は子供が簡単に入れたくらい不用心だった。今でも行馬がやすやすと入れたのだからあまり変わっていないのだろう。
カンナの口ぶりでは、なくなったのは茶杓と筒だけらしい。遊馬が持っているのも慶喜の茶杓と筒だけだから、犯行の手口[#「犯行の手口」に傍点]は同じだ。しかし、いろいろなひとの話を聞いてみると、茶杓というものは箱や付属物が備わっていてこそ価値を持つというのは、遊馬が知らなかっただけでこの業界では常識のようだ。とすると、その箱を置いていった犯人は、やはり茶人ではないのだろうか。友衛家に出入りするのに茶人ではないというなら、剣道か弓道の師範ということになる。かなりの上段者であっても茶の湯のほうは勘弁してくれという猛者《もさ》もいないわけではない。
犯人が誰だったにしても、その茶杓では大して稼げなかったはずだ。その点だけは遊馬にも想像がつく。なにしろ経験者だ。
そんなことをあれこれ思いめぐらしているうちに窓の外は白み始め、ほとんど眠らないまま起き出して、今度は新聞配達所に向かった。配達している間、何度も睡魔に襲われ、今日ばかりはマンションの階段を駆け上がるというわけにもいかずにエレベーターに乗った。そしてふらふら戻ってくると、いつもはまだこの時間には閉ざされている畳屋の戸口がわざとらしく開け放たれて、中でごそごそ親方が道具の手入れをしていた。素通りはできない雰囲気である。
「おはようございます」
遊馬が入口に立って挨拶すると、顔も上げずに、ああ、おはようさん、と答えた。仕方なく近寄ってゆき、あの……と声をかける。
「何や?」
「えっと、つまり、その……」
「……」
「すみませんでしたっ!」
ぽきんと身体をふたつに折ると、その肩の後ろに親方の掌がのせられ、「今朝は、わしもばあさんとこで朝ご飯もらうわ」と言って引っ込んだ。
「あの太秦《うずまさ》のロケ帰りみたいな姉さんから話聞かされて、わし、たまげたわ」
親方はひじきをぽろぽろこぼしながらそう言った。
「わたしはそんな驚きませんよ。そら、まさかお家元とまでは思いませんでしたけど、お茶人さんのおうちやろうなとは思いましたえ。せやなかったらしいひんこと、なんや当たり前にしはるしな」
「はあ、すみません」
「あんた、家に帰らへんのか? まだここにいてるつもりか」
もういてはいけないのだろうか。せっかく安住の地を見つけたと思ったらもう追い出されるのか。遊馬は気弱そうに親方を見る。
「帰りたくないんです」
「なぜです?」と志乃が聞く。
「なぜって……」
「お茶、嫌いやからですか」
お茶の先生を前にして、はい、嫌いです、とは言いづらいが、たしかに好きだと思ったことは一度もない。幼いときから馴らされてきて、とりあえず点前だけなら一通りのことはできる。遊馬にとって茶の点前は歯磨きと同じ程度のもので、必要なら毎日だってできないことはない。ただ、歯ブラシにうんちくを傾ける気にはならないし、歯磨きに人生をかけようとも思えない。
茶碗はあれがいいとか茶杓はこれがいいとか言うようなことは、うがいコップはセラミックがいいとかステンレスがいいとか歯ブラシの先端は山切りカットに限るとか言うのと同じに思える。まして畳一畳は何歩で歩けとか縁は右足で越えろとか左足で越えろとか、物を置くのにもいちいち畳の目を数えたりするようなことは、歯は常に左上奥から磨き始めるべしとか、歯一本につきブラシは何回当てるべしとか言うこととどう違うのか。
友衛家の者も、不穏も哲哉も、誰もそのあたりのことに疑念を抱かないらしいが、外から見たら、そうとうへんちくりんな世界である。それが証拠に昔好きになった女の子は茶道と聞いただけで五メートルは後ずさりした。
もっと昔にはこういうこともあった。あれは小学校に入ってまもなくだ。坂東巴流では、家元継承者に限り、門弟とは逆の順序で点前を習得することになっており、遊馬はその日、台子《だいす》と呼ばれる大きな棚に皆具《かいぐ》を並べて稽古していた。遊びに来ていた従妹が座敷を覗いて「わー、アーちゃん、おままごとしてるー」と笑った。たしかに黒いテーブルに花模様の派手な食器を並べ、先に千鳥の飾りをつけた銅箸を持ってもたもた宙をさまよわせている様はそんなふうにも見えただろう。そのひとことはまだ柔らかかった遊馬の胸をぐさりと突き刺し、さすがにあのときは畳にひっくり返って、弥一が何を言おうと小一時間頑として動かなかったはずだ。案外深くトラウマになっている。男の子の美学に反するのだ。
家元になるには点前が出来るだけでは充分ではない。その先の、小難しいちまちました世界も通り過ぎなければならない。そしてさらに茶ばかり点てていればいいというものでもない。坂東巴流では剣術と弓術の師範免許も出している。普通の家元の三倍大変だ。そんな多角経営はやめたらよいと思うのだが、風馬や弥一に言わせれば、多角経営なのではなく、剣も弓も茶も同じものの別の形なのだそうだ。遊馬にはわけがわからない。どこが同じかと思う。
「アズマはん、もうよろしいわ」
家に帰りたくない理由をぐずぐずと述べる遊馬を親方が止めた。
「なあ、ここにいてたかったらいはったらええ。そのかわりと言うたらなんやけど、わしにあんさんのお茶飲ましてくれへんか」
「へ?」
「あんさんがお家元を継ごうと継ぐまいとわしにはどうでもええこっちゃ。せやけど、わし、一度ご馳走になってみたい。そんな資格ないやろか」
いや、親方は命の恩人とさえ呼べるひとだ。しろと言われれば畳運びだろうが肩揉みだろうが断れた義理ではないが……。
「お茶、飲みたいんですか?」
「そうや。あんさんの点前でいただきたい」
「なんで?」
「なんでってことないやろ。飲みたいんや」
「今ですか?」
「ああ、今でもええ」
「でも、仕事が……」
「土曜も日曜《にちよ》も働いたんや。今日くらい休んでもええやろ」
「でも、俺、こんな格好で」
「わしかてこんな格好や。なんや、坂東巴流いうとこでは衣装が大事なんか? 安もんのポロシャツ着てたらお茶飲ましてもらえへんのか」
「そういうわけじゃ……」
「そしたら炭に火ぃ熾《いこ》しましょな」
ひとり平然と朝餉を終えた志乃が自分の茶碗を片づけながら立ち上がった。
「お菓子、どないしましょ。しけたお干菓子しか残ってへんわ。お菓子屋さん、まだ開いてへんやろなぁ。なしでもええか」
そんなものはなくてもいいと親方は言ったのだが、遊馬は「探してきます」と呟いてふらりと土間へ下りた。
「不穏さん……」
長命寺へ行くと、不穏は朝のお勤めとやらで読経中だった。長いお経がいつまでも終わらないので、遊馬は境内で砂利を蹴っている。蹴りすぎて地面が露出してしまい、慌てて手で戻した。ようやく区切りがついて静かに経を閉じた不穏が振り返る。
「おや、お早いですね。昨夜、今出川さんからお電話がありましたよ。懲りずにまた大立ち回りをなさったとか」
ああ、幸麿のことをすっかり忘れていた。
「すみません。その話はまたあとで。あの、何か菓子が余ってないですか」
「こんな早くからお菓子が入りようですか」
「親方が急に茶を飲ませろって言い出して……」
困ったように遊馬は言う。いったい今から自分は何をしようというのか、よく理解できていない。
「昨日焼いた〈松風〉でよければ……」
「それでいいです」
皆まで言わせず遊馬は答え、不穏はひとつため息をつく。
「こう言ってはなんですが、ひとに物をもらうのに、それでいいとは失礼な言いようですよ」
朝からまたひとつ小言をもらった。
戻ると、茶室に釜がかけられていた。親方は準備ができるまで母屋にいるらしい。
「お軸、何にします?」
志乃が聞く。
「え、適当に……」
「適当……で、ええのですか?」
いや、適当でいいことはないだろう。しかし、わからないのだから仕方ない。そもそも禅語的境地には程遠いのである。ただ、親方に茶を飲んでもらうだけだ。
「そしたら〈喫茶去《きっさこ》〉やね」
志乃は言い、足が弱って階段がつらいと日頃こぼしていたのもなんのその、とんとんと二階へ上がり短冊をとって戻ってくる。
「〈まぁ、一服どうぞ〉いう意味ですわ。昔、瑞峯院の和尚《おっ》さんが書いてくれはったんや」
そんな都合のよい禅語があったとは。
「お花、何にします?」
花。花なんかなんだってよいと心の中では思うが、一応鋏を持たされて庭を見に行く。夏の間せっせと草取りをした庭に、気づくとまったく見覚えのない花が咲いている。いや、正直なところをいえば、なんとなく見たことはある気がする。
まだ幼くていくらか素直だった頃にはちまちまと茶花を植えた花壇に弥一とふたりで腰を落として、この花は何でしょうとクイズ式に花の名を覚えたりもした。いつしか草引きも手伝わなくなり、大の男が花の名前なんか知ってたって格好悪いだけだと思うようになって幾久しい。名を忘れられた花はどれもよそよそしい。わかるのはコスモスだけだ。そのコスモスを一輪切った。
「一輪だけや淋しいことおへんか」
遊馬の気持ちも何となく淋しいものなので、ちょうどよいと思った。二輪も三輪も足してわざとらしく賑やかにすることもない。すると志乃はその一輪を〈旅枕〉の花入にちょんと挿して床柱に掛けた。
「はあ、なんかええねぇ。若々しい。同じお床でも亭主によってがらりと変わりますのやなぁ」
へぇと背中を反らして床を見ている志乃の言葉はどうやらお世辞ではないらしい。遊馬は少しほっとして、お水指は、お茶碗は、茶器はと畳みかけるように聞かれるのにも一応首をひねってはみせた。志乃があげてくれる二、三の候補からそれこそ適当に選んで、どうにか即席のしつらえは完了し、湯の加減もよくなった。
母屋へ呼びに行く。と、おばさんまで一緒についてきた。
「なんや、すみませんねぇ。わたしまで呼んでもろて」
いつもはしていない化粧をして、どう対応してよいのかわからないという複雑な笑みを浮かべている。いや、ここしばらく稽古もしていないので点前もいい加減ですと頭を撫でたら、「何をおっしゃいますやら、ほっほっほー」とやけにテンションの高い声で笑った。
とにもかくにも、柿合《かきあわせ》の丸い菓子皿に四角く切った〈松風〉を盛り、席に持ち出した。やっぱり眠いと思って台所で一度顔を洗い、パンパンと頬を叩く。俺の茶を飲みたいだなんて奇特な奴らだ。まあ、そんなに言うなら飲ませてやるぜ。
襖の前に座る。三嶋の細水指を小脇に置き襖を開ける。白檀がほのかに香る室内にいつもとは違う緊張した面持ちの高田夫妻、そして興味深そうな顔をした志乃が並んでいる。遊馬は、軽く握った拳を膝の左右に付き、あらためて一礼した。
両手で水指を抱えて点前座に進み、腰を落として壁際に置く。夏とは異なり、志乃は風炉釜《ふろがま》を客寄りに据えている。
「遊馬ぼっちゃん、十月はお茶の暮れ月です。季節の終わり、一年の終わり、名残を惜しむ季節です。しばらくお別れになる風炉釜を今日は主役にしましょうな」
弥一のその言葉を何度聞いただろう。この月だけは、いつもは壁寄りにある釜が畳の中央に移動する。
水屋へ戻り、茶巾と茶筅を仕組んだ萩の茶碗を持ち出す。上には〈野分〉の茶杓を載せた。右手には梨地《なしじ》の中次《なかつぎ》を持っている。さらに柄杓蓋置《ひしゃくふたおき》と建水を持って出る。
道具一式を運び出して、釜正面に座る。柄杓と竹の蓋置をいったん左右に振り分け執弓《とりゆみ》の姿勢に構え、一呼吸置いて水指の前にまず蓋置を置く。カンと乾いた音をさせてその上に柄杓の合を打ち付け、柄を斜めに引いてぽとんと畳に落とす。おもむろに顔をねじり、遊馬は会釈した。
「どうぞお楽に。お菓子をお召し上がり下さい」
「おお」
親方は少し照れくさそうに受けて菓子皿に手をかける。
遊馬のほうは、建水の位置を定めてあらためて居住まいを正した。先だって長命寺で何碗か茶を点てるのを手伝ったが、こうして運び出しから点前するのは久しぶりだ。たしか家を出てくる数日前に、朝食の後、父の前で点てた。
「なあ、遊馬。台子のときはそれでもいいが、小間ではもう少し静かに動け。点前は見せ物ではないぞ。さりげなく無心に、だが真摯にだ。いちいち決めのポーズを取るのは、芝居の殺陣《たて》だ。本気の果たし合いにそんなものはあるまい。全神経を剣先の行方に集中し、同時に全方位を見よ。その上で美しいのが武士の美だ」
なんでもかんでも剣や弓にたとえるのは秀馬の悪い癖のように遊馬は思うが、とにかくそんなふうに派手な動きを諫められたことを思い出す。ふうとひとつ息を吐いて、茶碗と中次を膝前に取り込み、志乃から借りた袱紗《ふくさ》を腰から引き抜いた。軽くしごき、ひとつ小さく塵打ちする。ぽんっという小気味よい音がする。中次を拭き、茶杓を浄め、茶筅を茶碗からそっと取り出して畳に立てる。袱紗を畳みかえ、柄杓の柄を拭き抜き、そのまま左の膝頭に構える。空いた手で釜の蓋を開けた。煮え音が絶え、急に大路《おおじ》の車の音が耳につくようになる。だが、柄杓に汲まれた湯が茶碗に注がれる頃にはまた聞こえなくなる。茶筅の細い穂先を湯になじませ、湯を捨てて茶碗を拭き、茶巾を畳みかえ、茶を点てる……。
「この〈松風〉も不穏さんが焼かはったのですか。お上手やなぁ。なんで〈松風〉ゆうかあんたら知ってはるか。表には罌粟《けし》やら胡麻《ごま》やら振っても裏には何にもせんさかい裏がさびしいゆうて〈浦さびしい〉に掛けてますのや」
志乃は皆の緊張をほぐそうとそんなことを話したのかもしれない。が、親方は「ばあさん、少し黙っとき」と遮って、真面目な顔をして遊馬の点前を見つめ続けた。
三人それぞれがおかわりを所望して、遊馬も自服を勧められ自分で点てた茶を自ら喫していると、親方は足を崩して口を開く。
「なあ、アズマはん……やのおて、遊馬さんか。わし、わかったで。あんさんは、お茶、好きやで。そらな、お茶が好きゆうのんと、お家元を継ぐのとは話が別やとは思う。せやし、わしは何にも言わへん。あんたの人生や、納得いくまで考えたらええわ。自分をごまかしたらあかんもんな。けどな、好きなもんを嫌いやゆうのもごまかしてることやで。さっきあんた、お茶嫌いなんかて聞かれたら、うにゅうにゅ言ってはったけど、自分でわからんのやったらわしが教えたるわ。あんさんは、お茶、好きやで。それだけはたしかやわ。ごちそうさん、美味《うま》かったで」
親方はそれだけ言うと、まだ点前は終わっていないにもかかわらず席を立って母家へ帰ってしまった。おばさんもどうしようかなと迷うそぶりを見せてから、正直なところ足がつらかったらしく愛想笑いをして夫について出た。
志乃だけが残り、仕舞い付けをする遊馬を見ている。
「〈坂東巴流〉て名前だけは聞いたことありましたけど、お点前を拝見したのは初めてですわ。巴の八代からの分かれゆうても、えろう作法が違いますのやなぁ。袱紗は右側につけますのやなぁ。柄杓の柄《え》ぇまで浄めますのやなぁ。お茶巾の畳み方も違うし、使うたんびに畳み直しますのやなぁ。面白おすなぁ。あ、それが噂のお茶杓ですやろ。拝見させてな。お薄器《うすき》もな。お茶のはき方もちがいますのやろ」
中次と茶杓以外のすべてを台所へ持ち去り、点前座に戻って志乃に向かい合う。志乃はまだ中次の中を覗いている。
「へぇ、こないして掬いますのんか。はぁ、いろいろありますのやなぁ」
器の中の抹茶を右から掬うか左から掬うかといった程度の違いでしかないのだが、それだけのことに志乃は目をきらきらさせている。ようやく茶杓を手に取ったので、徳川慶喜の作だと告げると顔中の皺が伸びるほど驚いてみせ、根掘り葉掘り由来を尋ねる。つい最近まで遊馬も何も知らなかったが、東京の道具屋で聞いたうんちくや、昨夜カンナから教わったばかりの逸話をぼそぼそと喋る。
「ありがとうございました。ええお茶でしたわ。なんや昔を思い出してしもた」
志乃の言う昔とは宗家巴流先代のもとに通い始めた頃の話だろうか、哲哉の話はどこまで本当だったのだろうと思わないでもなかったけれども、昨日からの流れで疲労困憊していた遊馬は軽口を叩く気にもなれず、あらかた片づけを済ませると、昼食抜きでぐっすり寝入ってしまった。あまりに深く眠っていたので、客人に起こされる始末だった。
ものすごく深い眠りの底から引き揚げられたとき、目の前には夢のように美しい女のひとがいた。
「志乃さん、お出かけにならはって、もしもお二階のひとが起きんようやったら起こしてて頼まれたんです。下から何度もお声かけましたんですけど、お返事がないので上がってきました。ごめんなさいねぇ」
夢のように綺麗というよりも遊馬には夢の続きとしか思えなかった。なんだかよくわからない状況で時計だけを見て焦り、礼も言わずに慌てて夕刊配達に出かけた。
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六、 |漸 出 現 茶 杓《やっとあらわるちゃしゃく》の段
ここのところ畳屋はちょっと忙しい。
十一月になると、茶人たちは夏の間ふさがれていた炉を開ける。〈炉開き〉は彼らにとっては正月も同じで、これにタイミングを合わせて畳の表替えをという注文が何件か重なっている。さらに、不穏《ふおん》の紹介で畳替え八畳二間という仕事も入っていて、これも炉開きに間に合わせてほしいと言われている。畳替えというのは、表のゴザだけでなく芯から取り替える、つまり新畳を入れるのである。
どちらも間に合わせるのは簡単だが、十月は名残の時季で青々した畳は似合わないから、早めに敷き込んでおくというわけにはいかず、作業は十月と十一月の境目に集中する。
それでも親方はかなり機嫌がよい。なぜと言って、新畳の注文は、普段住居用に入れる普及品よりもかなり上等なものだからだ。不穏の師匠にあたる禅寺の茶室だ。
「見てみぃ。ホンマもんの備後表《びんごおもて》や。やっぱりコシがあるわなぁ。艶も違う。これが一年くらいしたら甘い黄金《こがね》色にやけて輝くんや」
ゴザを抱えて今にも頬ずりしそうである。
芯になる畳|床《どこ》も稲|藁《わら》の本床だそうだ。
「ササニシキの藁やで。裏は棕櫚《しゅろ》や。風格があるわなぁ。ちょっと座ったらすぐに足の痛《いと》うなるような畳とちゃうで。柔らこうて弾力があって、なによりぬくもりゆうもんがあるわ。今どきなかなか使うひといいひんもんなぁ。材料も少のなって、手に入れんのもえらいこっちゃけど。さあて」
文字通り腕まくりだ。もちろんこんな良い材料を機械にはかけない。磨き抜かれた道具を並べておもむろに畳の縁を縫い始める。裏から一針、表から一針、時折針の先に油をちょんちょんと付けながら、左手には何やら藁を数本持ち、こつこつと縫い上げていく。端までいくと、畳ごと裏返してその上に乗り、体重をかけて縫った糸目をきゅーきゅーっと引き絞っていく。
炉畳の鈎《かぎ》部分が特に気を遣う。正確に直角を出さないと、炉縁との間にみっともない隙間ができる。お茶人には目につく場所だ。一針の油断が命取りである。経験がモノを言う。
高田畳店の先代は、巴流の家元にも出入りする腕のいい職人だった。今の親方もできることなら茶室や有職《ゆうそく》畳専門の職人になりたかったが、先代は若死にして直接その技を学ぶことができなかった。一家の主がいなくなってさあ大変、息子が急遽《きゅうきょ》引き継いだ店を切り盛りするには、機械を入れて数をこなす仕事を受け入れないわけにはいかなかった。
「わしもなぁ、子供の頃から素直に畳屋になる思てたら、もっとお父ちゃんからいろいろ教われたんやけどなぁ。向こうが元気なうちはそないなことちいとも思わんかって、ちゃらちゃら遊んどったもんなぁ。あんさんらと同じや。わしらの頃はジミヘンやドアーズやったけどな」
それでも暇を見つけては〈匠〉と呼ばれる職人のもとへ通い、その技を教わったり盗んだりして、今ではかなりの腕前ではある。ただ、職人がひとりきりの店では急ぎの仕事はできない。今回は新畳をあらかじめ用意しておくゆとりがあるけれども、これが表替えだったら、八畳二間分を引き取ってきて二、三日で仕上げろと言われても手縫いでは無理な話だ。だから今回の仕事はたまらなく嬉しい。まるで終わるのが惜しいというようにことさら丁寧な仕事ぶりだ。数分後には声をかけても聞こえなくなる。
親方の仕事は申し分ない仕上がりで、敷き込まれた畳を見た住職はたいそう喜び、その茶室で催される月釜に招待してくれた。毎月同じ日に会員が持ち回りで席を持っているらしい。
「急がせてしもて悪うおましたな。今月は炉開きやし、わたしがお釜掛けさしてもらいますのや。ぜひ、いらっしゃい」
しかし親方は、仕事がたまっているからと言い訳してあっさり断ってしまった。
「すんませんな。わしは来られへんけど、この子よこしますわ。なんぞ不具合があったら、そのとき言うとくれやっしゃ」
寺を出てバンに乗り込むなり、遊馬《あすま》は文句を言う。
「勝手に決めないでくださいよ。なんで俺があそこの茶会に行かなきゃいけないんですか。親方が自分で行けばいいじゃないですか」
「わしは職人や。自分の作った畳に偉そうな顔して座るゆうわけにもいかへんやろ。ええやないか。家から立派な羽織袴送って来はったんやろ。ばあさん、言っとったで」
数日前にカンナから荷物が届いた。家に置いてある冬物衣類を内緒で少し送ってくれと頼んであった。秋も深まってきて、早朝の新聞配達が寒くて仕方ない。やけに手間取っているなと思ったら、ようやく届いた荷物はかなり大きく、中には着物だの袴だの扇だの懐紙だの、要らぬ物ばかり入っていた。肝心の普段着のほうは、母が買ってくれたものの遊馬は滅多に着ないボタンダウンのシャツとかアーガイルのベストとか。公子《きみこ》は首にはきちんと衿のついたシャツを、ズボンの中に裾を入れて着るのが男子の正当なスタイルだと思っている。遊馬がいつもTシャツ一枚でだらだらしているのは決して彼女の気に入るところではなく、一緒に出かけるときには絶対に許さない。そういう母の選んだ服だから、なんだかどこかの聞き分けのいいおぼっちゃんみたいなものばかりだ。まあ、ないよりいいというところである。
「着物なんか着ていきませんよ。その日は文化祭なんだ」
女の子からもらったチケットが免許証のケースに入っている。が、そう言ったあとで、あんなみっともない姿をさらしたのにおめおめと文化祭になど行けるはずがないと思い直した。
さらば名も知らぬ少女よ。感じのよい娘《こ》だったのに、出会った場所が悪かった。
結局、茶会には不穏も行くというので、遊馬も親方の顔を立てて同行する。
朝、迎えに行くと、出かけようとする不穏の裾にナオちゃんがまとわりついてぐずっていた。電動の怪獣が動かなくなったらしい。後ろから奥さんが駆けてきて新しい乾電池を渡し、不穏が入れ替えてやっている。こうしてみると、なんだか普通の家族だ。
「これで満足ですか。動くでしょう」
レッドキングがキヒーンと馬のいななきのような声を上げる。ナオちゃんはニカッと笑い、シュワッチと唇を尖らせて飛んでいった。不隠はしばらく息子の後ろ姿を眺め、やがて振り返る。
「寺の子が戦闘を遊びにしてよいものでしょうか」
「正義のためならいいんじゃないですか」
「しかし、正義とは何でしょう」
「そういうの、禅問答っていうんでしょ。不穏さん、嫌われますよ」
相手になりたくないので、遊馬はさっさとバンに乗り込んだ。親方が乗って行けと貸してくれたのだ。
待合にはすでに十数名の先客がいた。知り合いの多い不穏はところどころでぺたりと畳に座り込み丁寧にお辞儀をする。遊馬のことを聞かれると、近所の友人ですと答えた。遊馬は、不穏と一緒に挨拶するでもなく、そっぽを向くわけでもなく、中途半端に隣に座って冴えない表情をしていた。
「そうですかぁ」
そのひとはわかったようなわからないような顔をして曖昧に微笑んだ。友禅で描かれた菊水紋が膝の上に流れている。遊馬から見ると母親くらいの歳か。何かもうちょっと説明があるだろうという様子で遊馬に目をやり、視線を上から下へ移動させる。〈値踏み〉されている、そのことがはっきり遊馬にもわかる眺め方だ。
今日の遊馬は母親好みの行儀のいい出で立ちをしている。格子柄のコットンシャツに薄手のVネックセーターを重ね、ツィードのパンツを穿いている。ただ、青い前髪だけが不釣り合いだ。
遊馬の髪はだいぶ伸びて、先日床屋で短くしたら、染めた部分はすべて刈り落とされてしまった。もうバンドはやめたのだからそれでもかまわないが、鏡の中の自分は妙に心細げで、このまま帰ればみんな褒めてくれるだろうとはわかっても、褒められたらかえって居心地悪いだろう、おとなたちに手なずけられてしまうのは御免だとも思い、どうしますかと尋ねられて前と同じように染めて下さいと答えていた。だからこれまでのいつにも増して鮮やかに青い。
敬老茶会のおばあさんのように率直になぜ青いのかとは聞かず、満足のいく挨拶がなかったことに不満そうな表情を残して彼女は連れの待つ部屋の反対側へ去った。そこでは、志乃と同年配かと思われる婦人を二、三人が囲んで談笑していた。
「誰ですか、あいつら」
不穏はゆっくり目を上げる。
「一閑堂さんの御母堂と、ご挨拶いただいたのはご妻女ですね。それと社中の方々では」
「直門会でぶいぶい言わせてるって、あのひとのことかぁ」
「ぶいぶい?」
聞き返そうとした不穏の声は、席入りの案内で掻き消された。一閑堂グループは先ほどから大物ぶりをさりげなくアピールしており、周りもあのご婦人が正客をするであろうと安心している雰囲気だった。が、一閑堂〈母〉は少し怖い顔をして、そんなんできしませんと首を振る。
「和尚さんを差し置いて高いとこへは座れませんやろ」
歳ははるかに不穏のほうが若いのだが、僧衣の男性が一番上座につけば茶席の収まりはたしかによいのである。
「そうですかぁ」
残念そうに、一閑堂〈嫁〉はちらりと不穏を見やる。不穏は畳に手をついて言った。
「こちらのご住職はわたくしの師でありまして、弟子が高座にのぼるのもいかがかと思います。ここはぜひ先生にお願いしたく存じます」
一閑堂〈母〉は四の五の言ったが弟子たちに担がれて正客になった。師が正客につけば続いて嫁も弟子もずらりと上座に並ぶ。なかなか迫力ある一団である。残った客たちから気を遣われて、不穏と遊馬はその後に続いた。
床の軸は〈|開門 落葉 多《もんをひらけばらくようおおし》〉。ぽってりした瓢《ひさご》の花入に白い〈茶〉の花が入れてある。清楚な白椿にも似ている。いい風情である。
が、そうは思わないひともいるらしい。
「お茶の木をお茶席に入れたらあかんのとちがいますの? 〈茶〉が重なるゆうて」
「そうやねぇ。山茶花《さざんか》かて〈茶〉の字が重なるゆうだけで、あかんのやて教わったわ」
一閑堂の弟子ふたりが床の前に座り込んでひそひそと言い合っている。不穏と遊馬がその背中を所在なく見つめていると、いまさらのように「しーっ」と人差し指を口に当てた。不穏が住職の弟子だと思い出したらしい。
「あんたらいつまで拝見してんねん。後のひとのこと考え。ささっと拝見してさっと席につきなはれ」
もう席についた一閑堂〈母〉が弟子たちを叱る。それでようやく後ろも動き出した。
一座が揃うと、若い僧侶が一閑堂〈母〉の前に漆の八角|食籠《じきろう》を置いて下がる。点前座には色無地を着た年配の女性が進む。やがて席主の和尚も現れた。
「門を開けば落葉多し、襖を開けれは客多しですな」
「いやぁ、うちらが枯葉やいう意味やろか。失礼とちがう?」
またひそひそと言い合っている。
「どうぞ、どうぞ、ささ、お菓子を召し上がれ」
正客の一閑堂〈母〉が食籠の蓋を取る。中は亥子餅《いのこもち》だ。
「そやなぁ、炉開きの時季やもんなぁ」
「ああ、そう思たらあの花入は瓢《ふくべ》やね。口切《くちき》りやし、きっと織部のお茶碗が出てきますやろ。伊部《いんべ》はどれやろな」
「あの、建水ちがいますやろか」
あいかわらずささやき合っている。うるさい、と遊馬は顔をしかめた。
やがて食籠がまわされてきて、不穏が懐に手を入れ懐紙を出す。と、何かが紙の間からころげ落ち、食籠の縁にぶつかった。カンカンと乾いた音に、隣のお喋りもはっと止み、席中がシンと静まり返る。落ちた物はころころと席の中央へころがっていく。赤い乾電池が二本。出がけにナオちゃんの怪獣から抜いたものを懐に入れて忘れていたらしい。
「不穏和尚、いったいその電池は……」
不穏の額にうっすら汗がにじむ。これがかなり大きな失態であることは遊馬にもわかる。
「誠に申し訳ありませんっ。実は……」
不穏はかぱっと平伏した。
「師匠には隠しておりましたが……わたくしの正体はロボットでございます」
頭を下げたままじっと畏《かしこ》まっている。師匠の和尚のほうは、目を丸くして不穏を見ている。それからいきなり呵々《かか》と笑い出した。
「道理でいつまでたっても頭の堅い坊主だと思うたわ」
連客が安心してくすくす笑い出す。和尚はよっこらしょと立ち上がり、乾電池を拾って不穏の袂《たもと》に入れた。ぽんぽんと肩を叩く。
「これでまた動くやろ」
「ありがとうございます」
ぎーぎーと音がしそうなぎこちなさで不穏の頭が持ち上がり、ゆっくりと食籠に手をかけた。
翌日、不穏はもう一度その寺へ出かけていった。大事な道具に疵《きず》をつけた詫びを言うためだ。和尚はあのあと気を遣ってその食籠は大したものではないかのように振る舞っていたけれども、実は寺の開山当時から伝わる御物《ぎょぶつ》であることを弟子の不穏は知っている。
「なんや、座布団もらいにきはったんか。昨日は一本取られたわ」
不穏の顔を見ると和尚は言った。
「とんでもございません。あの食籠を修理させていただこうと思いまして、預かりにまいりました」
「あれはええねん。一閑堂さんが直しに出してくれはるよって。それより、あんさんに見せたいもんがあるわ。ちょっと、ちょっと」
和尚はおいでおいでをする。招かれた座敷には、昨日の食籠を傍らに置いて道具屋の主人が座っている。一閑堂、つまり昨日の茶会の正客の息子、次客の夫である。不穏が恐縮して食籠を預かりたいと申し出ると、そんなんできしませんとぶるぶる顔を横に振った。
「お茶会で物が壊れたら正客の責任ですさかい、必ずうちで預かって来なはれと母に言われて来ましたんや。どうか気にせんといてください」
正論なのかもしれないが、しかし、誰が集まるかわからない月釜でそれは当て嵌まらないだろう。まして成り行きとはいえ、不穏が頼んで正客になってもらった形だ。
「まあ、よろしいがな。それより、あんた、これ、どない見はる?」
和尚が割って入って不穏に茶入をひとつ渡す。どうやら食籠の修理は口実で、茶入の売り込みが一閑堂の目的だったらしい。不穏の手にのったのは、大ぶりの平茶入だ。
「これはまた見事な〈大海〉ですね。この肩の張りといい、古色を帯びた飴色といい、得も言われぬ風格がございます。それにこの蓋がことのほか見事です。博物館にあっても不思議ではないような」
茶入の蓋は象牙でできている。裏は金箔だ。平茶入は潰れた饅頭のような形をしているので、口も蓋も当然大きい。それだけで貴重だ。
象牙はまっさらで綺麗なものよりも、鬆《す》の入った疵もののほうを茶人は尊ぶ。虫の喰ったような模様に景色[#「景色」に傍点]を見るからだ。この茶入にのっている蓋には波のようにも遠山のようにも見える濃淡の染みがあった。全体は黄色く変色している。
「箱は……」
「箱はないねん」
「これだけのものに箱がないのですか。古瀬戸かと思いましたが」
ふん、とうなずいて和尚は桐箱を渡す。やけに綺麗で新しい。何も書かれていない。仕覆もしかり、萌葱《もえぎ》色の三雲屋緞子《みくもやどんす》の服を持っているが、今仕立て上がったばかりのように新しい。
「箱はどないにでもさしてもらいます。和尚《おっ》さんご自身に極めていただくのが一番や思て、いじらんでお持ちしましたけど、もしもご希望でしたらお家元に書き付けもろてきますし、何でしたら遠州でも不昧《ふまい》公でも探さしてもらいます……」
〈探す〉とはよく言ったものだ。そんなものはこの世に存在しないのだから、要するに捏造するのだろう。いささか呆れながら不穏が伝来を尋ねると、揉み手していた一閑堂がちょっと胸を反らした。
「名前は申せませんのですけど、さる大店《おおだな》のお茶室から出ました」
金沢の呉服店の蔵から出たと言うのである。
「先だってそこのご隠居が亡くなりまして。かなりな数寄者やって隠居してからはお茶三昧してはったお方です。ところが残されたお子さんたちはお茶嫌いですねん。ご隠居の集めはった道具、全部売り払うと言わはる。今日日《きょうび》呉服問屋も楽やおまへんし、現金になればありがたいわけです。けど、困ったことにご隠居さんが一番自慢にしてはった茶入だけが見つかれしません。それでわてが呼ばれまして。捜してくれ言わはりますから、捜しました。いえね、ほんまは捜すまでものうて、ご隠居さんは、死なはる前に、それを炉壇に隠さはったんですわ。それで風炉の時季をやり過ごさはった。で、死なはった。炉は永久にふさがれたままや。畳に隠れてそこに炉があることさえ忘れられてしもて。そやけど、お茶するひとなら誰でもすぐわかりますやん。あんまり簡単に見つかってはありがたみがのうなりまっさかい、わて、演技しました。トリュフを探す豚さんみたいに、畳をくんくん嗅いで廻りました。それで、ご主人、このあたりが臭いまっせ、ここ掘れワンワンってなもんですわ。えろう感激されましたな」
わははと一閑堂は笑う。和尚は、ほぉと身を乗り出して聞いている。豚がワンワンか。
「なんでも、わての前にも道具屋が来て捜さはったらしいんですが、見つけられへんかったそうですわ。よほど間抜けな道具屋か、お茶を知らんモグリですわな。一番の大物残して、他のものを一切合切引き取っていきよったらしい。ご苦労さんなことで」
不穏はじっと俯いて聞いている。どうやら幸麿の思いは魚正さんの家族に届かなかったらしい。京都三条の魚屋は金沢の呉服問屋に化け、その分、一閑堂の売値は仕入れ値の何倍にもなるのだろう。
が、不穏は何も言わない。和尚が気に入ったなら買えばよい。真実を告げれば一閑堂は少しは値を下げるかもしれないが、失礼しましたと言ってよそへ持っていってしまうかもしれない。そのときにはきっと、遠州の箱書きのついた古めかしい箱に入っているだろう。
この話は、持ち寄り茶会の相談に幸麿がやってきたとき話した。幸麿がモグリだと揶揄《やゆ》されたくだりは別だ。
「あら、そう。やっぱりねぇ。そういうことになるのやないかと迷いはしたのよねぇ、あのとき。それでどんなお茶入でした?」
不穏は見てきたままを話す。古瀬戸と見える立派な大海だったこと。来歴は不明だが博物館級であったこと。
「ふうん。それやったら、わたしよりも一閑堂さんのほうが正しいことしはったかもしれへんわね。それほどのものは、お寺さんででもなかったら使いこなせへんでしょう。お茶入は不穏さんのお師匠さんのとこ行かはって幸せかもしれへんわ。そやけど、うちの姉には黙っといてね。えらい剣幕で叱られるから」
縁側の柱にもたれて気が抜けたように空を見上げる。
もともと売り買いの世界が幸麿は苦手である。だから店を継がず教師になった。遊馬の〈野分〉の茶杓を見せられたときも、感ずるものがなかったわけではない。ただ、手放してはならないものだという直観のほうが勝った。そんなことばかり優先しているようでは道具屋は務まらないのである。
「あら、あそこに見えるのはお家元の若さまやあらしゃりませんか」
門から哲哉に引きずられるようにして遊馬が入ってくるのを見て、幸麿の顔にようやく笑みが戻った。
「連れてきましたでぇ」
哲哉は遊馬から離した手をぱんぱんと払う。
幸麿の勤め先での一件があってから、この三人を黙らせるのには苦労した。幸麿はその日のうちに不穏に電話をし、哲哉は稽古の折りに志乃から話を聞き、遊馬に会うといきなり抱きついてきてヘッド・ロックをかけた。
「あんたなぁ、お茶は知らへんとかわからへんとか、よう言うたな。許されへん」
そうして今日も当然のように打ち合わせに引きずってこられた。
「何の話してましたん? もう何か決まりましたん?」
「そうやないのよ。一閑堂さんの話をしてたの」
「あわ、あのおっちゃんですかー。えげつないひとやろー。貧乏人は相手にせえへんのやで。そのくせ、ええもんあるて聞いたらどんな困ってるひとからでも取り上げはる。ぼく、あのおっちゃんに作品根こそぎ持っていかれた陶芸家さん知ってます。ちんけな借金のカタに二束三文で持ってかれて、それなぁ、お店でいくらで売らはったか知ってますかー。それになぁ、なんや売れそうもないもん抱え込むと、ばあさんの社中に押しつけはるゆう話やで。あこの御社中、年に一度のバーゲンに必ず招待されて、なんやかや買わされはんねんて。〈一閑堂お得意様感謝祭〉ゆうらしねんけど、誰が誰に感謝すんのかわからへんて泣いてはるひとようけいてはるわ。お金ないとお稽古続かへんねんて。そやけど、あこの社中やめたらよその社中にはもう行かれへん。そんなん引き取ったら引き取った先生まで陰険にいじめられるらしいわ。お茶やめるしかあらへん。いやですやろー。ああいうひとがいはるから、お茶人は嫌らしい言われんのや。無欲で立派なお茶人かてぎょうさんおんのに迷惑なこっちゃ。せやけど、なんでかお家元には受けがええねんな。お家元の書かはったお軸やら削らはったお茶杓やら売りさばくのめちゃくちゃ上手いからそれでやろね。老舗のお道具屋さん押しのけて、今やbPやて。あこのお店通さんで巴流のもんは手に入らへんとまで言われてます。え、みなさん、どうしはったん?」
不穏も幸麿も遊馬も、哲哉の淀みない演説に半ば呆れてあんぐりしていた。
「ま、まあね、それくらい平気でできひんと、商売ゆうもんは立ちいかんのやけどね。それはそうと、今度のお茶会どないしましょう。うちの庭の紅葉がええ塩梅《あんばい》やと思うし、うちでせえしません?」
というわけで、次回は紅葉狩り茶会とあいなる。
「遊馬さま[#「さま」に傍点]も何かあったらお出しなさいよ。こないだのお茶杓もよかったけど、他にもええもん持ってはんのとちがいます?」
遊馬はそこで武蔵の茶杓のことを思い出し、やや迷ってから幸麿に捜せないだろうかと相談してみた。徳川家の次は宮本武蔵かと首を何度か横に振ってから、本物なのかと疑わしげに幸麿は聞く。
「カンナはそう言ってました」
「カンナってもしかしてあの〈巴御前〉? 怖ろしい女のひとよねぇ。苦手やわぁ。遊馬さま[#「さま」に傍点]には悪いけど」
向こうもそう言っていた。あの先生は実家が道具屋だから相談してみようかと料理屋で口にしたら、あんな気持ち悪いひとに頼ってはいけませんと諫《いさ》められたのだ。
「カンナは、ああいうなよっとしたひとは嫌いです」
なよっとはしていても、幸麿はまるきり無能というわけでもなく、数日後には連絡をよこした。
「悪い縁は続くのねぇ、どうやらあなたのお茶杓も噂の一閑堂さんに持っていかれたみたいよ」
開口一番そう言った。
「あなたが行かはった門前町の道具屋さんって風林堂さんでしょう。あそこはね、ほんまは武具が強いの。鎧兜《よろいかぶと》とか新撰組グッズとかね」
そういうマニアの中には、値段さえ手頃ならフェイクでも平気で買う客も多い。風林堂の主人は、その茶杓が本物だとは思っていなかった。だから茶人ではなく武蔵マニアにでも売ればよいと考えていた。
幸麿も風林堂とは知らない仲ではないので、それとなく聞いてみたところ、一閑堂の主人も月に一度ほどぶらりと寄って立ち話していくことがあるという。
「なんと同級生なんですって、風林堂さんと一閑堂さん。面白いわねぇ。風林堂さんは一閑堂さんが見えはったとき、相手はお茶道具の専門家やし、そのお茶杓のこと聞かはったって。一閑堂さんはにべもなくそんなもんあるわけないやろ、騙されたらあかんとかなんとか言わはったそうよ。けど、それからすぐに素人さんが買いに来はったゆうのは、一閑堂さんがよこしたのとちがうかしら」
しかし、それは奇妙だ。カンナは、遊馬のことこそ伏せてはいるが、武蔵の茶杓については道具屋から聞き込んだ話として知ったかぎりのことを秀馬《ほつま》に告げていた。秀馬はすぐに宗家巴流の氷心斎《ひょうしんさい》に協力を求めている。氷心斎に最も近い一閑堂が手に入れているならば、とっくの昔に見つかったと連絡があってよさそうなものだ。
「そら、隠してはんのやろ。すんなり出しては損やと思うてんのや。炉壇の蓋開けんのにも豚さんワンワンするようなひとやさかい」
というのは哲哉の意見だ。
「しらばっくれて値を吊り上げる魂胆やな。そのお茶杓、風林堂さんではいくらやったん?」
五万円かそこらだった。
「うひゃー、それいくらにすんのやろな。そっちのほうが見物やな」
「うち、貧乏なんです。あんまり高いこと言われたらきっと買い戻せない」
「なんぼ小さいかてお家元が貧乏なわけないやろ。けどまぁ、値はともかく、出してくれはるかどうかが問題や」
どこかの数寄者や田舎の富豪などのところへこっそり持っていかれるとコトだと幸麿も言っていた。
「どうしたらいいんだろう」
「それは動かぬ証拠ゆうもんを突きつけなあかんな」
「証拠って?」
「そやな。風林堂さんで実際にお茶杓買わはった人間を突き止めるこっちゃ。幸麿さんにそのひとの風体を聞いてもろて、一閑堂周辺を探るんや。めぼしい奴を見つけたら写真撮ってな、風林堂さんに面通ししてもらう。坊城探偵社の出番やな」
「いつ探偵になったんですか」
「今や。あるときは紅顔の美青年茶人、あるときは巨額のテナントを動かす辣腕ディーラー、そしてあるときは闇社会の悪を暴く正義の探偵、坊城哲哉二十三歳とは、ぼくのことや」
内ポケットから取り出したサングラスをかけて、にやりと哲哉は笑った。
「なんや、今出川の坊《ぼん》、あんさんもしつこいなぁ。あのお茶杓、そないにすごいもんやったんかいなぁ。こないだも女優さんが探しに来はってん」
幸麿、哲哉、遊馬と三人で風林堂へ出かけてきたのだった。
「女優?」
「ああ、あれはぜったい〈水戸黄門〉か藤沢周平のドラマもんに出てはるひとやわ。女剣士の役やな。間違いない」
このおじさん、カンナをじろじろ見ていたと思ったら、そんなことを考えていたのかと遊馬は呆れた。女優がすっぴんで町中を歩いているはずがないではないか。
「あれ……あんさんは……」
遊馬の青い髪を見て、その女優[#「女優」に傍点]と一緒にいた付き人か何かだと思い出したらしい。少しばかり気まずい顔をして、すぐに幸麿のほうへ向き直った。
「あのお茶杓|買《こ》うてかはったんは、知らんひとやったけど、まあよう覚えてはいますわ。この店にはあまり来いひんタイプのひとやったしな」
そのひとは五十年配の和服姿の女性だった。剣豪ファンの夫に頼まれて買いにきたと言い、自分はあまり興味がなさそうだった。
「それだけですか」
「それだけやな」
「めちゃくちゃ難儀やなぁ。この店には珍しいかしれへんけど、一閑堂周辺にはうじゃうじゃいてる手合いやんか」
「そやそや、そう言うたらな、〈三つ鱗《うろこ》〉の紋、背負ってはったわ。北条氏の家紋や。これはうちの専門やし間違いないわ。あの奥さん、北条家ゆかりの方かもしれへんな」
「そしたら〈北条〉さんゆう名前やろか」
「どうやろなぁ。女のひとらは女系の紋を継いでくことも多いさかいな、まずそういう苗字ではないと思うわ」
「何でお客さんの名前くらいちゃんと聞いとかへんねん」
哲哉は癇癪を起こし、不動産売買とは違うのだと幸麿に諭される。
「どうします? 一閑堂さんのお店張り込んで〈三つ鱗〉探します? それとも一閑堂ばあさんの社中に潜入して片端から背紋チェックしてきます? どれも何年もかかりそうやなぁ。せめて二十代の男性とか、五歳の女の子とかやったら、的も絞れんのに」
風林堂近くの甘味処で三人は頭を寄せている。幸麿はぜんざいを、哲哉は羊羹を、遊馬はみつ豆を食べている。見ようによってはかなり珍妙な三人組だ。
「あのー」
遊馬が口を開く。
「〈ミツウロコ〉って何ですか」
幸麿は懐から懐紙を取り出して、そこに三角形を三つ描いてみせる。
「この三角形が蛇の鱗なの。北条時政さんはあるとき弁天様にお詣りしてはって、〈蛇〉の化身から御神託を授かったの。〈蛇〉は弁天様のお使いやしね。そのとき落ちてた鱗を三枚、時政さんは拾って帰って家紋にしはった……と、このようなことでおじゃります」
隣のテーブルで女子高生がくすくすっと笑っている。幸麿はそちらに顔を向けてにっこりした。
遊馬はじっと懐紙を見つめている。手を伸ばして、それを自分のほうへ向ける。
「……この模様、お茶会で見たことあるなぁ」
「まあ、お茶の世界にはよくある意匠よね」
「そうじゃなくて、着物の背中にこの紋つけたおばさん。一閑堂のおばあさんと一緒に来てて、床の間の前に座り込んで花に文句つけてて、なかなかどかないから、俺たち、そのおばさんの背中の三角マーク見てるしかなくて……」
「つまらん」
哲哉が楊枝を菓子皿に放り投げる。やる気満々だったのに探偵の出番がなくなってしまった。
「大丈夫よぉ。きっと哲やんにしかできひん仕事はあるわよ」
三人はその足で長命寺へ赴き、不隠から師匠の和尚に電話をしてもらった。あの日、一閑堂のばあさんと一緒にいた婦人たちの名前を聞き出すためだ。それがわかると、哲哉が自宅を調べ上げてひそかに写真を撮った。探偵ごっこに気合が入り、三日で調査完了した。それを持って風林堂へ行くと、たしかにその中のひとりが茶杓を買いに来た女性だった。
その情報は遊馬からカンナへ、秀馬へ、そして氷心斎へと伝えられ、ほどなく、武蔵の茶杓は見つかった。氷心斎が一閑堂と話をつけてくれたとカンナが喜んで連絡してきた。
「……ええ、ほんとうにようございました。それはよかったのですが、お茶杓を引き取りに参らねばなりません。お礼も申し上げなければ。それを風馬《かざま》様がおひとりで行くとおっしゃられて」
「祖父さんが?」
「はい、やはりあのお茶杓には思い入れも一入《ひとしお》なのでしょうか、他の者には任せられない、わしが行くと」
祖父の風馬は武蔵の茶杓紛失がわかってからショックで寝込んだきりだった。にもかかわらず、発見の報を聞くと、それは本当か! と布団からむっくり起きあがり、秀馬になどまかせられない、自分がじきじきに京都へ出向き、本物かどうか検分してくると言い出した。カンナや弥一が付き添うと言っても、おまえたちは自分の仕事をしておれと一喝する。
「ふーん、で、いつ来るの」
「明日です」
「明日? だって、祖父さん昨日まで寝込んでたんだろう」
「そうなのです。だから心配なのです。ご自分では寝込む前のお身体と同じだと思ってらっしゃるのです。ですが、かれこれ二月半ほどずっと寝たままでした。いきなり京都までおひとりで行くなんて無茶です」
「止めろよ」
「止めましたよ。でもお聞き入れになりません。今、切符を買ったところです。朝九時すぎの〈のぞみ〉にお乗せしますので京都へは十一時二十三分に到着します。よろしくお願いします」
「え、よろしくって、何だよ、俺は関係ないだろう」
「そっと見守るだけでいいんです。遊《あす》ぼっちゃんだって、よもやお祖父さまが京都で行き倒れになればいいとは思われないでしょう? 九号車ですから見失わないようにしてくださいね」
風馬は、遊馬が家にいた頃からすでに惚けてきたのではないかと疑われていた上に、ここしばらくは日課の朝稽古もせず床に臥せっていたという。いきなりの遠出はカンナでなくとも不安である。よく秀馬や公子が許したものだと思いながら、午前十一時二十三分、京都駅十四番ホームに遊馬はいた。
ホームは人でごった返しており、とてもではないが向こうにこちらを探す気がないかぎり、風馬の姿を見つけることなどできそうもない。気がつけば、京都は秋の観光シーズン真っ直中である。
カンナに教えられた〈のぞみ〉がホームに滑り込んできた。遊馬は少し離れたところから九両目の二つの出口を交互に見やる。圧倒的に観光客が多い。バックパックを背負った若者たち、京都だからと和服を着込んで来た女性たち、みな、ホームに出ると立ち止まって左右を見る。そこにひとが滞留する。
対称的にアタッシェケースを下げたビジネスマンは一瞬方角を確認すると、あとは上も見ずにせかせか歩く。人混みを縫いながらやれやれという面持ちで下りのエスカレーターを目指す。と、歩調の違う老人の袖をアタッシェケースが引っかける。和服の老人がエスカレーターの列から弾き出されて階段の上でゆらりと揺れる。遊馬は飛び出していって、その肩を押さえた。
「……おお、遊馬じゃないか。いいところで会った」
風馬はさほど驚いたふうもなく、信玄袋を遊馬に持たせ、自分は両手で手摺りにつかまり階段を一歩一歩降りていく。もしかすると、俺が家出をしたことをこの祖父さんは知らないのではないか、それとも本当に惚けてしまって状況を把握できないのかもしれない。遊馬はそんなことを疑いながら、風馬をタクシーに乗せた。
「先に昼飯を食う」
と言うので、途中でうどんも食べさせた。
宗家巴流の家元は御所の近く今出川沿いにある。遊馬の実家である坂東巴流友衛家の敷地と比べれば優に三倍はあるだろう。茶室は大小合わせて十あり露地の奥行きも深い。最も由緒ある茶室は流祖朱善から三代ほどの間に建てただろうと言われている柿葺《こけらぶ》きの四畳半〈不識庵〉、その露地にある檜皮葺《ひわだぶ》きの中門もまた巴流の象徴として名高い。
今、風馬は表門を潜り、長い石畳を踏んで表玄関へと向かう。遊馬は門前で風馬を降ろすとそのままタクシーで高田家に戻った。午後は夕刊を配達せねばならない。
表門にはインターフォンがあるのだが、風馬はこれが嫌いだ。玄関まで歩いてきてから、そこに吊られている板木《ばんぎ》をカンカンと勢いよく叩いた。と、するりと音もなく廊下の角から若い男性が現れて、ぺたりと座り床に手をついた。
「これはこれは、坂東の大宗匠、ようお越しくださいました。遠路お疲れさまでございます」
「うむ、今日は突然のことで済まんかったなぁ。鶴《つる》さん、おいでか?」
巴流の当代家元は氷心斎|巴朱鶴《ともえしゅかく》という。〈氷心斎〉とは参禅の師から授かる斎号であり、〈朱鶴〉が茶名だ。〈朱〉の字は初代から受け継がれたものであり、〈鶴〉が当代固有の名ということになる。もちろん、だからといって家元を〈鶴さん〉と呼ぶのは風馬くらいのものだ。
小間《こま》に案内された。
「氷心斎は間もなく戻ります。お邪魔やなければ、一服差し上げとう存じますが」
「ああ、お願いしますよ。あなたはたしか……」
「鶴了《かくりょう》でございます」
「そう、そう。はい、はい。お願いします」
鶴了が点前をしながら風馬の話相手をする。床には〈雁一行《がんいっこう》〉の軸と竹花入に榛《はしばみ》と椿《つばき》が入れてある。菓子はこなしの〈山路〉が出ている。
「いつ見てもこちらさんのお点前はたおやかでよろしいな。うちのは武張ってていかん」
「お家元がそうおっしゃられては、御門人の皆様がお困りでしょう」
冗談だとわかっているので鶴了は曖昧にやり過ごす。三十歳前後だろうか、優しげな品のある青年なので、手元がいっそう柔らかく見える。伏し目がちに生真面目に茶を点てる。
「ここに来るのは、考えてみたらあのおぼっちゃんのご葬儀以来ですわ。どうですか、鶴さん、少しはお元気になられましたかな」
氷上を滑るかのごとき淀みなさがふと乱れ、鶴了は一瞬|面《おもて》を曇らせた。すばやくその色を消し「おかげさまで」と何とかそつなく答えはした。
この家の跡取り息子が十五歳の若さで亡くなったのはかれこれ四年ほど前だ。弟子の様子からしてまだこの家からその痛みは消えていない。今日はこの話には触れまいと風馬は思った。
そこへ氷心斎がやってくる。今日は東山の寺院で献茶の儀があり、今、急いで帰ってきたところだ。
「お待たせしてすんませんなぁ、ご老体にわざわざこない遠くまで来てもらわんでも、言うてくれはったらうちから届けさせましたのに。ほんま、申し訳ないことですわ。鶴了、あんな、鶴安《かくあん》を探してここに来るよう言うてんか。例の物持って来《き》いや言うたらわかるさかいな」
鶴了は手早く仕舞いつけて下がった。
「いい若者ですなぁ。うちにもあんな若者がひとりでもいてくれたらどれだけ助かるかわからん」
「はぁ、弟子としたら申し分ない子ぉや。大切にしてやりたい思てますんやけどな」
と、なにやら語尾を濁した。
「鶴安です」
襖の向こうで声がする。お入りという氷心斎の言葉にすすーっと襖が開く。先ほどの青年より少し年嵩かと思われる男性が頭を下げている。
「このひとが一閑堂はんとの間に入って何やかや交渉しはったんですわ」
「まずはご検分を」
鶴安が紫色の袱紗《ふくさ》にくるんだ茶杓筒を風馬の前に置き、そっと開いた。
「どないです? お捜しのものですやろか」
氷心斎が尋ねる。栓筒である。蓋はなくてピン状の栓を口先に刺し通してある。それを風馬はそっと抜く。筒を持ち上げ傾けると、するっと茶杓が現れる。掬い上げるように掌に載せて、風馬の肩から力が抜ける。
「間違いござらん」
筒に茶杓を戻し、一膝下がって畳に手を付く。
「いやはや、ほんとうにかたじけない。おかげさまで友衛風馬、一生の窮地を救われましたわ」
氷心斎は鶴安の顔を見て微笑んだ。
「そない大袈裟におっしゃらんと、頭上げておくれやす。それにしてもええお茶杓や。噂には聞いとりましたけど、見せてもろたのはこれが初めてです。ええもん隠してはりますなぁ」
「なんの、隠してなど……毎年、武蔵の命日には使うことになっとります。実を言えばわしの襲名披露の折もこれを使いました。こちらの御先代はご覧になっとりますわ。秀馬のときは、あれは何を使ったかな。幽斎でなかったでしたかな。理想としとるらしいので。月とすっぽんじゃが」
最後はわははと笑った。
氷心斎はあらためて手刀を切り、茶杓をつまみ上げた。
「これ見てたら、なんや、あの絵ぇ思い出しますなぁ。〈枯木鳴鵙図《こぼくめいげきず》〉いいましたかな、百舌《もず》が枯れ木に止まってる絵ぇや。武蔵が描いたと聞いとりますが」
「はいはい、あります」
「しなやかな追取《おっとり》といい、鋭い折撓《おりため》といい、なんやあの絵ぇの枯れ木にそっくりやおまへんか。そしてこの露の厳しいこと。触れたら切れそな気ぃしてきますわ。これ削らはったひとも、大事にしてきはったひとも、たしかに武芸者やなぁと思いましたわ。そやけど狂剣とはちがいますなぁ。ひたと世界を見つめる静かなまなざしが感じられて。珠光さんの言わはる〈冷え枯るる〉ゆうのんはもしかしたらこうゆうこっちゃないかて思わされましたわ。まったくええもん見さしてもらいました」
風馬は氷心斎の言葉にしばらく感じ入っていた。かつてこの茶杓を見て、まさに武士の背骨だと言い放った数寄者がいた。見る者によって、枯れ木にも刀にも背骨にも見える、それでいて目に見えない何かを誰の心にもしかと刻み込む。何の定めにもとらわれない奔放な荒削りの素人作だが、出来は稀有なものだと思っている。
「返していただくのにご苦労をかけましたろう。お礼はどのようにさしてもらったらよろしいですかな」
「そこですわ。鶴安、ちょっとご説明しいや」
「へぇ」と受けて鶴安が身を乗り出す。
はじめに友衛家から捜索を頼まれたとき、氷心斎は一閑堂にこれを一任した。が、一閑堂の主人は、へぇと返事しただけでまさか自分が持っているとは言わなかった。さらに友衛家から風林堂で購入した人物がわかったと知らせがあり、鶴安が直接本人に確認した。一閑堂に頼まれて買いに行っただけだと、彼女はあっさり答えた。さて、どうやって一閑堂に白状させようか、そのまま言えば角が立つと思いあぐねていたところ、おそらくもうバレていると悟ったのだろう、一閑堂が、見つかりました、と手柄顔で茶杓を持ってきた。
「灯台もと暗し、うちのばあさんのお弟子が買《こ》うとりました」
「ま、相手は道具屋さんですからな、算盤が大事なんは仕様がありまへん。追いつめて困らしても気ぃ悪いし、それはありがとう言うときました。買値がえろう高くついたようなこと言うて恩に着せまっさかい、まあ、あんまりえげつないこと言わはるようなら、お灸すえなあきまへんけどな。なんぼやみたいな生な話はわたしも好かんさかい、どやろ、わしがなんぞ一行物でも書かしてもらうさかいそれで納めへんか言いましたら、へぇそれでようございますと、まあ、こない言わはります」
「やや、ご迷惑おかけ致しますな。大いに助かりますわ」
「しかしですわ、わしの筆だけではどうやら武蔵はんのお茶杓には引き合わんらしい」
氷心斎は苦笑いする。
「どうせなら秀馬はんにも書いてほしい言わはる」
「ほお、ついでに秀馬も……」
「それだけやのうて」
「……?」
「御大にも頂戴したいと。この際、三幅対の軸として売りに出したいと。東西巴流の頭《かしら》を並べるゆうことですわ」
「生首並べられるようですな」
「まったくや。なんや面白うはないねんけど、現金でどうこう言われるよりかは、ええ話かもしれへんと思て。どないですやろ」
否も応もない。風馬と秀馬が何かを書いてそれで茶杓が戻るなら万々歳である。風馬は承知した。
氷心斎はひとつ安堵して、続きを鶴安に言わせようと目配せする。
「ありがとうございます。坂東さんがそれで承知してくれはりますとわたしの顔も立ちます。それで、ひとつご勘弁いただきたいのは、三幅のうち中尊をうちの家元ということに……」
つまり、三枚並べて飾る掛け軸の中央が氷心斎のもので、左右に風馬と秀馬の軸が添うという形だ。
「わたしは御大に中尊をお願いして若輩のわたしと秀馬はんが脇ゆうのがええと思いますのやけどな。道具屋はんの客筋がうちの門人ばかりやって、そのほうが売りやすい思わはるんですかなぁ……」
かまわないと風馬は答えた。たしかに宗家巴流の茶会に三幅対の軸が掛かっていたら、中央は自流の家元のほうが喜ばれるにちがいない。坂東巴流などは彼らにとっては屁[#「屁」に傍点]だ。まして自分のような老いぼれが彼らにとって何ほどの意味があろうか。少しばかり憮然とした風馬の顔色を氷心斎は素早く読み取り、なあ、御大と呼びかけた。
「道具屋にいいようにされただけではこちらも面白うないさかい、このついでにわたしらもそれぞれ三幅対の軸を作ってみたらどないですやろ。お江戸の巴流と京都の巴流、友衛家と巴家、おかげさまでこれまで仲良うやってこられました。明治の初めの大変なときもお互い助け合《お》うたからこそ、乗り切れたて聞いてます。その友好の証に記念の軸でも作って、これからも仲良うやりい言うて次代に残したったらどないやろ。お江戸に残さはる分はもちろん御大を中心にわたしら当代が脇をつとめさせてもろて。そやなぁ、〈三夕《さんせき》〉の歌でもええし、〈三光〉でもええ。あるいは〈守・破・離〉とかやな。一閑堂さんのほうには、まあ〈松竹梅〉でも渡しといたらよろし。そのほうが使いやすいゆうて喜ばはるやろ」
「いやあ、この際〈三猿〉のほうがいいのではないかな。この一件、互いに見ざる聞かざる言わざるじゃ」
「わはは、御大、それはきついですわ」
茶杓の善後策が決まると、氷心斎は少し早いがコレでもどうかと猪口をつまむ真似をする。風馬は嬉しそうにいいですなと答える。実に久しぶりの酒である。
「鶴さんとふたりきりで話したいこともありましてな」
「すぐ用意させますわ」
やがて別の座敷に案内されると、そこにはすでに酒膳が用意されていた。着替えた氷心斎ががたがたと自ら障子を開け放つ。秋色の庭が鮮やかな一幅の絵のようだ。その丹精の様子に風馬は感心する。
「聞こう聞こう思てましたんやけど、そないに大切なお茶杓がどないして京都まで流れてきましたんや。聞かんほうがええことやったら堪忍しておくれやっしゃ」
それこそまさに風馬がふたりきりで話したかったことである。
「ま、倅《せがれ》は言うとらんでしょうが、実は孫の遊馬が持ち出したことになってましてな」
「ほう」
「孫が蔵の茶杓箪笥から二本ほど持ち出して、売り払ったと」
「それはそれは」
「孫は勘当されて、今、家におらんのですわ」
「一大事や」
「まあ、それはいいのだが、本当のところ、孫の持ち出したのは一本だけでして、徳川さんの作ですわ」
「すると、その武蔵はんの茶杓は……」
「これは、わしが持ち出しました」
風馬はここで、くぅっと燗酒を飲み干した。
「お恥ずかしい話だが、うちのばあさんが亡くなって七年になります。けっこう淋しいもんですわ。特に、代を倅に譲って隠居暮らしになってからは、なんだか自分の存在が影のように薄くなっていくのがわかります」
「はぁ」
「それで、散歩などしてみます。考えてみたら、それまで忙しくて近所の公園へなど一度も行ったことがなかった。うちみたいな小さな流派で何がそれほど忙しいかと思われるだろうが、小さいだけに人手が足りんので、もうてんてこ舞いの毎日でしたわ。それが、急にふっと隙《ひま》になる。振り向いてもばあさんはいない。倅も嫁も張りつめた糸みたいに家元業にいそしんでおって、老人の心配などしておれない。自分も家元を継いだばかりの頃はそうだったから、その苦労はわかりますわ。それでもわしの場合は、弟もおったし、弥一という兄弟弟子が何くれとなく補佐してくれたので、どうにかやってこれたが、あの子はひとりっ子ですからな。頼れるのは嫁しかおりませんので、これは、なんというか、わしら夫婦がもう二、三人も子を成してやれなかった故のことで……」
「あの、御大。それで茶杓の話は……」
「ですからな、淋しい心の隙間に、するっとサヤカちゃんが滑り込んで来たわけですわ」
「サヤカちゃん?」
「はい。色白でねぇ、小柄で、目がくりんとして可愛らしい」
「お幾つなんで」
「さあて、わしより五つくらい若かったかのぉ」
話をかいつまむとこうである。
風馬は、近所のサヤカという名のばあさまに淡い恋心を抱いていた。サヤカばあさんのほうも、武家茶道坂東巴流の家元であった風馬を尊敬し、七十の手習いとでも言おうか、個人的に風馬から茶を習うようになった。
が、サヤカばあさんはけっこうモテた。はっきり言うとご近所のじいさんたちのアイドルだった。後から出てきて偉そうに茶など教えている風馬はけっこうやっかまれた。
あるとき、遠方から尋ねてくる幼なじみを自宅でもてなすとサヤカばあさんが嬉しそうに話すのを聞いて、酒屋のじいさんは酒を届けると言い、八百屋のじいさんは野菜を届けると言い、サラリーマンだったじいさんは届けるものがないので買い物を手伝うとはにかんで言った。風馬は、ちょっといい格好をしようと思って、門外不出の茶杓を貸してあげようと言った。
サヤカばあさんは感激し、借りた茶杓を毎晩抱きしめて寝た。抱きしめたまま、ある朝、起きなかった。
サヤカばあさんの死は、近所のじいさんたちにとって大きな痛手だった。風馬はまたしても生き甲斐を失い、しばらく呆然としていた。家族から惚けを疑われ始めたのはこの頃だ。茶杓のことなどすっかり忘れていた。思い出したのは遊馬が出奔して〈野分〉の茶杓騒動が起こったときだ。悲しんでいる場合ではない、武蔵の茶杓を蔵に戻しておかなければと、涙をぬぐって引き取りに行った。
風馬が、こんな形でこんな大きさでこんなものに入っていると説明すると、遺族はその茶杓をよく覚えていた。
「はい、おばあちゃん、それは大事そうに毎晩抱きしめて眠ってたんですよ」
「それは今どこに」
「あんまり大切そうに握ってましたから、棺桶に入れてあげました」
風馬はふらっとよろめいた。
「大丈夫ですか、おじいさん」
「か、棺桶は今どこに」
「どこにって、いやだわ、おじいさん。火葬場で燃えたじゃないですか。おじいさん、お骨《こつ》拾いに来てくれたじゃないですか」
サヤカばあさんの骨はもろかったらしく、箸でつまめる分などほとんどなかった。すべて灰みたいなものばかりだった。あの灰の中に、宮本武蔵の削った茶杓、寺尾家からの大事な大事な預かり物の燃えがらが混じっていたとは一生の不覚。その日から風馬は寝込んだ。
「ところが、燃えたとばかり思っていた茶杓が忽然と京都に現れたと! これが放っておけましょうや。布団蹴飛ばしてすっ飛んできました。まさか生きてこの茶杓に再び会えるとは……このご恩、友衛風馬、一生忘れませぬ」
氷心斎はいたく驚いてこの話を聞いていた。
「そしたら、なぜ、そのお茶杓は燃えへんかったんやろ。武蔵はんの霊が救わはったんやろか」
「鶴さん、そんな神がかったこと大のおとなが言ったらいけないよ。きっと酒屋のじいさんか八百屋のじいさんのやっかみですわ。サヤカちゃんが死んでもわしの茶杓抱いてるのが気に入らんかったにちがいない。そういえば通夜の日もあのじいさんたちはいつまでもいつまでも帰ろうとせんで、棺桶にしがみついてましたからな」
と、やはりいつまでも帰らなかったらしい風馬は言うのだった。
「なるほどなぁ。ようわかりました。災い転じて福となって、おめでとうさんです。ささ、一献」
「この話、するのは鶴さんだけです。他言無用でお願いしますよ」
「ほお、そうですか。わたしだけですか。秀馬はんも知らはらへんので?」
「倅には絶対聞かせられん。ただでさえ、家元を襲名してからのあれは態度がでかくて、親を親とも思わん傍若無人ぶりですわ。こんな話聞かせたが最後、わしの老後は真っ暗闇だ。絶対、耳に入れんでくださいよ」
「しかし、さきほどのお話やと、お孫さんがぬれぎぬ着せられてはりますのやろ。疑い晴らしてあげな気の毒やおへんか」
「いや、あいつは平気です。一本盗んだのは本当ですから、一本も二本も変わらないだろうと」
「言うてはりますのか」
「あ、いや、いや、わしは会っとりません。どこにいるやらわからんので。そうそう。きっとあの子ならそう言うだろう[#「だろう」に傍点]ということです」
実際、うどん屋で打ち合けたら遊馬は呆れた顔をしてそう答えたのだった。当分家に帰るつもりもないからそれはかまわないが、そのかわり自分に会ったことは内緒にするという約束だ。
「おじいちゃんの明るい老後のほうが自分のささやかな名誉より大切だと思ってくれるはずです」
「なかなか男気のあるお孫さんやなぁ」
「わし似ですわ」
満足そうに笑ったあとで、風馬ははたと気を取り直す。
「この恥ずかしい話をわざわざここまで来てお話しましたのは、わしが死んだときには、孫の名誉を回復してやってほしいからですわ。永久に泥棒扱いされてはさすがに可哀想だ。といって、そのときわしは証言できない。どうか、わしが死んだら、この話、倅にしてやってください。もうそんな長いことお待たせしないと思います」
お待たせしないと言った風馬は、その日、巴家の門を出たところで倒れた。遊馬が夕刊を配り終えて配達所に戻った頃、カンナがあわてふためいて電話してきた。きーきーぴーぴーと要領を得ないのだが、どうやら巴家で呼んでくれたタクシーに乗り込もうとするところで意識を失ったらしい。そのまま近所の病院に運ばれた。
「遊ぼっちゃん、何をしてらしたんですか。あれほどお願いしたのに。今から奥様がそちらへ向かいます。それまできちんとお世話してくださいねっ」
教えられた病院へ行くと、たしかに病室に〈友衛風馬〉の名札があった。巴家の誰かがついているということだったから、入るに入れず廊下でうろうろしていた。和服姿の男性が何度か病室を出たり入ったりして遊馬の前を通り過ぎる。どうやら彼ひとりで、他の人間はいないらしい。
「失礼ですけど、もしや坂東さんの若さんやありませんか」
何度目かにすれ違ったとき、そのひとは言った。遊馬は答えられずに黙って俯いた。
「ささ、そんなとこにいてんと、お祖父さんのおそばへどうぞ。よう眠ってはりますけどな」
遊馬のことはあれこれ聞かず、風馬を起こさないようにだろう、そのひとはささやくように事の次第と風馬の容態を語った。風馬はベッドの上で茶杓の筒をしっかり握りしめている。
「どないしても離さしませんのですわ。茶杓は〈茶人の刀〉や言いますけど、坂東のご隠居さん見てたらほんまにそやな思います」
遊馬は横たわる祖父の顔を見下ろした。何が刀だ、何が武家だ、言っていることとしていることが全然違うじゃないかと呆れはするが、ひとまず大事には至らなかったらしいことにほっとした。
「すみません、俺、これで帰ります。もうすぐ母が来ると思います。それで、あの、こんなこと言うと変に思うかもしれないけど、ちょっと事情があって、俺が来たこと、黙っててもらえませんか?」
いかにも穏やかで優しそうな青年は、何を頼まれたのかしばらく吟味するように遊馬の顔を見つめた。
「若さんはここに来ぃひんかった。わたしは誰にも会《お》うてない。そういうことですか」
遊馬はうんうんとうなずいた。
「そやけどほんまはお祖父さんが心配で駆けてきはった。汗だくになって」
そう言って微笑む。
「優しいおひとなんやね。うちの坊《ぼん》もそうでしたわ。年寄りを大事にするさかい、みなに可愛がられて。なんであないに早《はよ》う亡《の》うなってしまったんやろ……」
ため息をつく。
「ああ、すんません。独り言ですわ。若さんをお見かけしたのは、たしかまだうちの坊が元気やった頃やなぁと思い出してしもて。何年前やろ、お見えになりましたよね」
遊馬ができれば思い出したくないと思っている日のことだ。そういえば、あのとき、気詰まりに黙り込んだ宗家の息子と遊馬とを庭まで呼びにきたのはこのひとだったかもしれない。
「若さん、大きなりましたなぁ」
なんだかそれこそ祖父のようなまなざしで遊馬を見て、わかりましたよと人差し指を口の前に立てた。
[#改ページ]
七、 |競 錦 茶 会《はでくらべにしきのちゃかい》の段
帰って畳屋のほうへ顔を出し、仕事を手伝えなかったことを詫びた。あまりに慌てていたので連絡さえしていなかった。祖父が来たことや倒れたことなどを話すと、早くに父親を亡くしている親方はむしろ一緒になって心配してくれた。
挨拶して店を出ようとしたとき、はす向かいの離れの玄関が開き、若い女性の出てくるのが見えた。臙脂《えんじ》一色使いの型染め小紋に薄紅の羽織を重ねている。髪をふわりと結い上げ、すっきりしたうなじから顎へのラインが柔らかく美しい。畳屋の前を通りしな軽く会釈した。遊馬《あすま》はその姿が視界から消えるまでぽぉっとして眺めていた。
「遊馬はん、どないした。帰らへんのか」
「え?」
「もう夕飯やろ。いつまで突っ立ってんねん」
「今のひと、志乃さんのお弟子さんですか」
「奈彌子《なみこ》さんや。あんた、知らへんのか」
意外そうに親方は言う。遊馬は知らないわけではない。いつだったか、疲れて寝過ごし、夕刊配達に間に合わなくなりそうだったときに揺り起こしてくれたのはあのひとだったと思う。
「そうか……夢じゃなかったんだ」
離れに飛び込み、夕飯の支度をしている志乃に奈彌子さんとは何者か尋ねた。
「巴流のお嬢さんですわ。知らへんのですか。なんや、あちらも遊馬はんのことはあまり知らんようでしたなぁ」
遊馬は忙しく頭を整理する。
「志乃さん、まさか俺のこと、話したんじゃ……」
「あきまへんか」
遊馬はきびすを返し、走って女性を追いかけた。なんとか大通りに出る前につかまえると、あの、その、と口ごもり、何をどう言えばよいのかわからないが、とにかく自分のことはお父さんには言わないでくださいと拝んだ。なんだか口止めばかりしている日だ。それもこれも風馬《かざま》が倒れたりするからだ。
奈彌子というそのひとはどことなく生気のない表情で、それがまたたおやかな美しさを助長しているようでもあるのだが、「なぜです?」と京風のイントネーションで柔らかく尋ねた。遊馬が自分は家出中なのだと打ち明けると、少しだけ気力を持ち直した様子で「家出……」と呟く。
「坂東さんの若さんは家出中……。志乃さんは、京都にお勉強に来てはんのやと言うてはりました」
「いえ、ほんとうは家出です。勘当もされてます」
「勘当……。坂東さんの若さんは、勘当……」
「あの……、大丈夫ですか?」
奈彌子嬢は両手で握りしめたハンカチを口に当て、なぜか感極まったようにその場に泣き崩れてしまったから遊馬はたじろいだ。
遊馬よりはかなり歳上のはずだ。カンナより少し若いかというくらいだろう。だから〈おとな〉の女のひとだ。派手な印象はこれっぽちもないのに、完全無欠な和風美人だ。落としたら壊れそうな陶器の人形みたいだ。そんなひとに道端で泣かれたら男はどうすればいいのだろう。通りすがりのひとが物言いたげにじろじろ見ている。
「あの、奈彌子さん、ちょっと立って……」
遊馬は頼み込むようにして彼女を立たせ、とにかく一番近い避難所は長命寺だと判断し、そこまで連れて行った。門をくぐったところで箒《ほうき》を握った不穏《ふおん》を見つけ、そこでどっと力尽きた。
「巴さんのお嬢さんではありませんか」
奈彌子はハンカチで目を押さえながらこくんとうなずく。不穏はことさら何も聞かず、茶室の縁側に彼女を誘《いざな》い、少し休んでいくよう勧めた。
「少ししたら落ち着きますから大丈夫ですよ」
だから遊馬にはもう帰れと言う。自分が見つけた美女を横取りされたようで遊馬は不服である。
「あなたにあの方が救えますか?」
嫌みな坊さんだが、たしかに遊馬には何もできない。すでにもて余している。
「じゃ、俺、帰りますけど」
奈彌子は静かに腰を上げ、深々とお辞儀をする。
「そうだ、このあいだ、昼寝から起こしてくれてありがとうございました」
すると、奈彌子の頬がふっとゆるんだ。
「わたくし、最近、父とはあまり話しませんから、あなたのことも申しません」
それが用件だったのだから、とりあえず遊馬はほっとする。
しかし、立ち去る遊馬の背後で、不穏が「お嬢さん、今度の日曜はお暇ですか」と尋ねているのはいったいぜんたいどういうことなのか納得がいかなかった。
遊馬はすっかり忘れていたのだが、次の日曜というのは幸麿《ゆきまろ》邸の茶会だった。不穏は、このひとには少し気晴らしが必要だと感じて、その茶会へ奈彌子を誘ってみたのだった。
幸麿の家は、北白川のあたりにある。通りに面した小さなビルの一階が〈古美術今出川〉で、ビルと駐車場の間の細くて深い露地の奥が住居になっている。露地のいろは紅葉がすでに愛らしく色づいていた。その陰に往来から隠れるように小さな門がある。
哲哉は兄に文句を言われながらもこの日は仕事を休み、遊馬と不穏を車に乗せてきた。
からりと門を開けると緋袴《ひばかま》の少女が視界を横切った。
「手伝いはいらへんて、こういうことかいな」
哲哉は勝手知ったる他人の家という様子で、玄関へは向かわず、ぐるりと建物を巡って庭に出る。目の前の景観は遊馬を唖然とさせる。
庭は座敷から全体が見渡せるほどの広さだが、小さいながら池もあり回遊式に造られている。そこここに紅葉の木があり、それが今まさに燃えんばかりに紅《あか》い。その下を行きかう少女たちの出で立ちが、緋袴あり、水干《すいかん》あり、重そうに担いだ袿《うちぎ》ありと、色艶やかで絵巻物のようだ。
中でも今日の幸麿は、白い狩衣《かりぎぬ》に二藍《ふたあい》の指貫《さしぬき》をつけ、念の入ったことに頭に烏帽子《えぼし》までのせている。濡れ縁でしどけなく柱にもたれ、少女たちにあれこれ指図をしている。
「先生《せんせ》ってええですねぇ。生徒を自分の手足みたいに使えて」
「何言うてますの。わたしは今まであの娘《こ》たち全員の着付けをさせられて、もうくたくたなのよ」
「それ、問題やありませんか。男の先生が女の子の着替えを手伝うやなんて」
「そんな艶めかしいもんやあらしゃりませんわ。下着ゆうたかて、あの娘らから見たら上着かコートみたいなもんやし。きゃーきゃー騒いで大変な騒ぎやって。それより、哲やん、お軸は何を持って来てくれはりました?」
そう聞かれると、哲哉は困ったという顔をした。紅葉狩りの趣向だと聞いていたので〈紅葉舞晩風《こうようばんぷうにまう》〉という墨蹟を志乃から借りてきたのだが、来てみると幸麿たちは庭に野点《のだて》席をしつらえている。趣向どころか紅葉狩りそのものだ。
一行ものの軸を掛ける床《とこ》は座敷の奥にしかない。そこでは席から遠すぎる。それより何より、見れば目の前に紅葉が燃えている場所で、いまさら〈紅葉〉の文字を掲げるのは野暮な気もする。
「幸麿さん、野点やなんて言うてはりました? ぼく、聞いてなかった」
「ああ、そやね。朝、急に気が変わったのよ。外のほうが気持ちよさそうやなぁ思て。お天気もええ塩梅《あんばい》やし」
困ったなぁと哲哉が腕組みをしたところへ、奈彌子が到着した。薄蘇枋《うすずおう》の市松紋を銀鼠《ぎんねず》の帯で優しく着て、畳んだ道行《みちゆき》を腕に掛けている。どう言うのだろう、たしかに顔立ちも整っているのだが、それよりも、物腰やたたずまいにおいてあたりの空気を鞣《なめ》してしまうような柔らかさと、それでも一本筋の通った潔癖さを兼ね備えている。このひとと比べると、他の女性はみんな粗野に見えてしまう。
居合わせた男性四人はほぼ同じ気持ちで、しばらく言葉もなくその姿を眺めたのだ。
「遊馬君、知ってはります? この方が葵祭の斎王代を務めはったときには、一目そのお姿を垣間見んと京都中の若い男性が詰めかけたのよ」
「あ、ぼくも知ってます。失神したひともぎょうさんいてたて」
奈彌子は困ったように遊馬を見て、嘘ですよ、と微笑んだ。
かつて賀茂の斎院には斎王がいて神事を司っていた。今では民間から年にひとり選ばれる女性がその代理を務め、これを〈斎王代〉と呼ぶ。十二単をまとった華やかな姿で葵祭を初めとするさまざまな神事に奉仕する。
遊馬はぽーっとしたまま「俺も見たい……です」とうわごとのように呟いた。
「そうや、着てみはります? 学校の備品でよかったら一式ないこともないのよ」
「堪忍してください、もう七年も前の話です」
幸麿は本気で残念そうだ。奈彌子が衣装を着込んだりしたら、親王飾りのごとく横に並んで座るつもりだったにちがいない。
「それにしても、見事なお庭ですこと」
話をそらすように奈彌子は庭を振り返る。
「あの燃えるような紅も、あちらの黄色や緑のぼかしみたいなのんも、ほんまに綺麗や。お嬢さんたちのお召し物も雅びやかなこと。かいがいしく働いてはるのが、ほんまに錦を織ってはるようやなぁと、さっき入ってきたとき思いました」
「それやわ」
ぽんと幸麿が扇で膝を打つ。
経《たて》もなく緯《ぬき》も定めず娘子《おとめ》らが織る黄葉《もみじば》に霜な降りそね
万葉集である。大津皇子の歌だという。
「鮮やかな紅葉はまるで少女たちが気儘に色を織りなした錦のようや。一生懸命織ったのやし霜で落ちては困りますゆう意味やわ」
そう解説して、幸麿は店のほうへ何かを探しに行った。
奈彌子が向き直り、あらためて不穏と遊馬に先日の礼を言う。
「お恥ずかしいことでした」
「いえ、気にすることはありません。誰にもいろいろなことがございます。お立場上なかなか気を許せる場所も少ないのではありませんか。あのようなところでよろしければいつでお越しください」
「高田さんにもそうおっしゃっていただいて、お言葉に甘えてときどきお邪魔しております」
遊馬には相変わらず状況がわからない。
幸麿が白扇と硯《すずり》箱を持って戻る。さすがにそう都合よく歌の軸はなかったらしい。扇に歌を書いて、庭のどこかに掛けようと言う。誰が書くかが問題である。
「亭主のわたしが書くのもおかしな話やし、お坊さんの手ではなんや興がそがれるわねぇ」
と言って哲哉と遊馬は問題外らしく素通りして奈彌子にお願いできないかと扇を差し出す。
「いややわ、そんなんできしません。父に叱られます」
幸麿はのらりくらりしているようでなかなか押しが強い。そこを何とか、亭主を助けると思って書いてくれ、そう頼まれるととうとう奈彌子も折れて、絶対よそで使わないでくださいねと念を押しながら扇を受け取った。
文字を確認していざ筆を執れば、あとはさらさらと流れるように手が動く。家元の娘とはすごいものだなと、家元のできそこない息子は思うのだった。
「先生、支度できました」
緋袴の少女が言う。幸麿のすぐ脇に瓶掛《びんかけ》と大ぶりの茶箱が置かれている。
「そう。ほな、そろそろ」
幸麿はおもむろに立ち上がり、沓《くつ》を履いて庭へ降りる。客を案内しながら小川を渡り、適当な枝を見つけてそこに奈彌子が歌をしたためた扇を引掛ける。あたかも風に舞ってきた扇がたまたまそこに留まったかのようだ。
客たちは緋毛氈をかぶせた縁台に思い思いに腰かけ、幸麿が立ったまま少し腰をかがめ挨拶をする。
「皆さん、ようこそお越し下さいました。今日は、もうこの紅葉しかおもてなしできるものはあらしません。この娘《こ》らは高校でわたしが顧問をさしてもろてます〈時代装束研究会〉ゆうとこの子らで、お茶のことは何も知らしません。にわか仕込みで不調法なことやろと思いますし、お茶会やのうて紅葉狩りや思て許したってくださいね」
幸麿はそう言って、ぽくぽくと座敷のほうへ戻り、濡れ縁に上がって点前座についた。ぽろんと箏《こと》の音が秋の空に漂う。見れば幸麿の後方、開け放たれた座敷に袿姿の少女が座っており、扱いにくい袖を気にしながら腕を一杯に伸ばし箏の弦を押さえている。
「ひやぁ、ライブですかぁ。贅沢やなぁ」
「この間の文化祭のために、みんないろいろ練習したんです。お箏やとか笙《しょう》やとか踊りやとか……。えろう褒めてもろてみんな気分よかって、せっかく覚えたのにこれきりゆうのももったいないなぁ言うてたら、もういっぺん発表会やりましょて先生言わはって……」
それで都合のつく生徒が数人ここへ来ているのだと、三宝《さんぽう》に饅頭を盛って現れた巫女装束の少女がにこにこと嬉しそうに説明した。
盛られているのは不穏が作ってきた〈織部薯蕷《おりべじょうよ》〉だ。白い薯蕷饅頭の表面にほんのり緑をあしらい、焼き串を垂直に数本当てて木賊《とくさ》を、縦横に押して井桁を、さらに串の先で五弁と花心を突いて梅をかたどっている。
「紅葉が散ったあとの風景ですね」
問うともなく教えるともなく不穏は奈彌子に話しかけた。
「まあ、そうですの? 炉開きの頃によくいただくような気がしますけれど」
「そうですね。口切りや炉開きの頃、なぜか織部のものが好まれますね。花の絶えた季節にこの緑が嬉しいと言う方もいらっしゃいます。ですがこのお饅頭の地は白く殺風景です。寂しい露地に木賊だけがつんつんと突き立っており、しかしながら井戸の脇には早咲きの梅がほころびかけてもいる、茶庭の冬景色だと、いつでしたか師に教わったことがございます。かくも鮮やかな錦の下で冬を思うのも気の早い話ですが、しかし、冬将軍の足音はひとびとの耳に聞こえているのかもしれません」
奈彌子は懐紙にひとつ取り分けたそれを胸元に抱くようにしてとっくり眺めた。
「まあ、こんな小《ちっ》さい小《ちっ》さいお饅の中に季節の移ろいが丸ごと描かれてますのやね。そう思たら愛《いと》おしいなってきます。焼き串の跡もなんや香ばしいような温かいような気がして」
でたらめの模様としか見えなかったものが、実は風景画であると聞かされて、哲哉と遊馬はつまんだ饅頭をくるくる回し始めた。
「ところで、今ふと思いついたのですが、もしこの垂直の線を木賊ではなく竹だと見立てたらどうでしょう。緑は松、棒は竹、花は梅で〈松竹梅〉にもなりますね。おめでたいときにも似合いそうです。あ、いや、それでは井桁が余ってしまうでしょうか」
奈彌子は相変わらず饅頭に目を落としている。
「井桁て、松葉に見えんことありませんか。〈松葉菱〉に」
「なるほど! それはいい。それなら焼き印三つが綺麗に松竹梅で揃いますね。奈彌子さん、お手柄です」
不穏は大仰に感心し、奈彌子は、いや、どうしましょうと照れる。饅頭ひとつで騒がしいのが茶人というものだ。遊馬は大きな口を開けてぽんと丸ごと饅頭を放り込んだ。
そこへ突然、場違いな音が鳴り出した。遊馬は噎《む》せながら慌てて尻ポケットの携帯電話を抜き出し、庭の隅へ駆けていく。
「あぁぁ、最低の不作法や。お茶会にケータイ鳴らすやなんて。お箏の調べが台無しや」
哲哉は憤慨している。奈彌子は苦笑する。
「この頃多なりましたね。お茶席で電話が鳴り出すこと」
「法事の最中にもあります」
「こないだなんか、能楽堂でお能見てる最中に鳴ったんやでー。いっぺん死んでこい思たわ」
「そうゆうたら、家元行事の最中に鳴り出したこともありました。それがいつまでも止まんと、誰やてみんなえろう気を揉んではって、そしたら犯人は父やったんです。あとでわかったんやけど」
「え、お家元が?」
「そうなんです。それも自分で自分のや気づかんと怒ったはって。それこそいっぺん死んできたい言うて、あれ以来、ケータイ怖いで自分では持たはらへんのです。あ、このお話、内緒ですよ。ふふ」
哲哉に口止めなどしても絶対に無駄なのだが。
遊馬の電話はカンナからだった。祖父の身に何かあったかと一瞬身構える。
「遊《あす》ぼっちゃん、今、どこにいらっしゃるんですか」
「カンナは?」
「わたしは、高田さまのお宅からお電話しています」
風馬《かざま》の看病をしている公子と交代すべく、カンナは今朝から京都に来ていると言う。病院は完全看護だし、風馬も体力の回復を待つだけでさほど心配はないので、カンナは遊馬が世話になっている高田家に挨拶にやってきた。遊馬はいなかった。
「遊ぼっちゃんにお稽古をつけてさしあげようと竹刀も持ってきたんです。天気がよいのでどこか公園ででも」
「そんなことしたらめちゃくちゃ目立つと思うよ。それより、今、幸麿さんちで茶ぁ飲んでるから、来れば?」
そう言って場所を説明した。
戻ると、ちょうど奈彌子が台に載せた薄作りの平茶碗を受け取ったところだ。
「幸麿さんのとこは、何でもかんでも台に載せはんのです」
脚のついた茶托のようなものだ。脇から解説する哲哉にひとつうなずき、奈彌子は台を脇へ置いて茶碗を取り上げる。伏し目がちに茶をすすってから、しげしげと茶碗を掲げて見つめている。雲鶴の高麗青磁だ。
「わたしの好きなお茶碗、ご亭主はご存じやったのでしょうか」
うっすら青い地に白象眼で鶴が描かれている。自分はこの茶碗が一番好きなのだと呟いて、奈彌子は不思議そうに首を傾げる。
「普通、茶箱にこんなん仕込みますかぁ? ぼくやったら考えもつかんなぁ。さっき見てたら台まで箱から出てきましたで」
不穏には禾目天目《のぎめてんもく》の、哲哉には鹿背《かせ》の美しい朝日焼の茶碗が渡る。少女たちがいちいち幸麿のもとから小川を越えて運んでくるので時間がかかる。馴れない装束を身につけて、足下が不安なのだろう、そろりそろりと歩いてくる様がかえって厳かに見えた。ようやく遊馬の元に届いたのは天目形をした粟田焼だ。細かい貫入に時代がついて、しっとりとした卵色の肌に鮮やかな茶の緑が映えている。いかにも公家好みだ。
「ええ色ですねぇ。品があって」
奈彌子はうっとり遊馬の茶碗を眺めた後で浮き世を忘れるように頭上の紅葉を仰いだ。折しも赤ん坊の手よりもさらに小さな紅葉の葉が一枚、裏を見せ、表を見せて、落ちてくる。受け止めようと差し出した奈彌子の掌をするりとかわし、白天目の中に舞い降りた。
「あーっ」
遊馬が小さく声を上げる。奈彌子は息を止め、哲哉も、遊馬も、そして不穏も、しばし言葉もなく碗の中の鮮やかな色彩を見つめていた。
やがて箏《こと》の演奏が終わり、代わって水干姿の少女が今様を舞うという。座敷の奥で幸麿が少女の頭に烏帽子をかぶせている。剣を脇に差す。いわゆる白拍子の舞である。
長袴を引きずった少女が蝙蝠扇《かわほり》を差し出しながら座敷の中央に立った。陰のほうでラジカセのスイッチが押され、謡《うたい》が始まる。
「静御前もかくやというところですね」
不穏と奈彌子がゆったりとうなずき合った。
一仕事終えてやれやれという様子で幸麿が庭へ出てくるのと入れ違いに、奈彌子が立ち上がる。亭主にねぎらいの一服を点てるつもりらしい。
「幸麿さんだけずっこいわ。ぼくも奈彌子さんのお茶飲みたい!」
哲哉が駄々をこねているところへ、ごめんくださいとカンナがふたり現れた。遊馬は目をこすってもう一度見る。袴姿の女性がふたりだが、よく見ると前にいるのはいつか幸麿の学校で会った少女のようだ。
「桂木佐保《かつらぎさほ》です」
抱えた長い弓の袋が一緒にお辞儀した。
「入口がわからなくてうろうろしていたら、ちょうど桂木さんがやってらしたのです」
そう言うカンナは手に竹刀を二本持っている。なんとも武張ったふたり連れだ。
「練習が終わったらそのままの格好で来よしって先生言わはって」
訳もわからず佐保は来た。
「遊ぼっちゃん、カンナが送った着物はどうなさいました。お茶会に呼ばれてそんな格好では失礼じゃありませんか。皆さん、きちんとお着物を……」
と言いながらあたりを見回し、不穏や哲哉の僧衣や袴はともかく、幸麿の烏帽子を立てた狩衣《かりぎぬ》姿、女子高生たちの袿姿や巫女装束、折しも舞台で舞っている白拍子を目にしていささか混乱したように言葉を途切れさせた。
「な、変なひとたちだろう」
遊馬が同意を求めると、しかし首を左右に振っていいえと答えた。
「変だなどと……そんなことはございません。うちのお家元も行事の折には直垂《ひたたれ》姿でご奉仕なさいます。ただ、あまりに艶やかだったのでちょっと驚いただけです。……で、こちらの方は」
「あら、やだ。この間、学校でお目にかかったやあらしゃりませんか。今出川におじゃります」
幸麿が扇を鼻先に当てて微笑むと、カンナはぞくっと背筋を固くして、それでも何とか挨拶はした。
「あ、あの折は大変お騒がせいたしました。今出川先生……は、その、お公家さんなので?」
「あら、まさか。今どきお公家さんなどどこにもいてません。言うたら今の時代、こんな贅沢に暮らしてられるわたしらみんな貴族みたいなもんやあらしゃりませんか」
「はあ。わたしどもの家元は、この困難な時代、今こそ皆が武士たるべしと申しておりますが」
「そんな荒くれたことは似合いませんやろ。平和が一番。人間、遊び心を忘れたらあかんのとちがいますか」
「遊んでばかりいるのはどうでしょうか。それに、武士道は決して粗暴なものではありません。己を厳しゅうして人の本然たる姿を追い求めるのが武家茶道の本義と考えますが」
「カンナ、カンナ……」
遊馬はムキになるカンナの袖を引いて幸麿と反対側に座らせた。
「遊ぼっちゃんはこんなに長くこちらにいらして、坂東巴流の教えを皆様にご説明なさっていないのですか」
むっとした表情でカンナは言う。そんなことするわけないだろうと遊馬は思う。
「それより、こっちが不穏さんね。お坊さん」
「見ればわかります。お初にお目にかかります」
「こっちが哲さんね。不動産屋さん」
「初めまして。ほら、ごらんなさい。こちらの方だってこんなお若いのにきちんとお着物をお召しじゃありませんか。遊ぼっちゃんはなんでそんな格好なんです? 時間がなかったんですか。袴くらいひとりで穿けるでしょう」
「そうだけど……、目立つだろう、恥ずかしいだろう?」
「そんな格好でここにいらっしゃるほうがよほど目立ちますし恥ずかしいです」
たしかにこの場ではジーパン姿の遊馬ひとりが浮いている。だが、これが平常な世界の姿ではないだろう、ここのほうが異様だろう、今ここにいるひとびとは皆普通じゃないだろうと遊馬は必死で思おうとするが、いかんせん数で負けている。
「遊馬君、和服はそないに変なものやあらしゃりません。日本人の美意識を体現した世界に誇るべき衣装やわ。特別なものでもあらしません。洋服が普通や思てるほうが変や思いますわ」
幸麿がわざわざ首を伸ばして口をはさむ。
「幸麿さんな、高校の制服も袴にしたらええて毎年職員会議で提案してはんのやで」
「あら、おかしくて? 袴なんて卒業式だけに穿くもん違う思います。そちらのお姉さんみたいに日常に着てはったらええのんや」
「わたしあなたにお姉さん呼ばわりされる歳ではありません。わたしのほうが歳下だと思います」
「それはそうでしょうけど、そしたら何ですか、お嬢さんとでも呼んでほしいのかしら……」
どうもこのふたりは相性が悪いらしい。席を少し遠ざけたくらいではどうにもならない。遊馬は諦めて、隣の佐保のほうに身体を傾ける。
「幸麿さんって、学校でもいつも着物着てるの?」
饅頭を口に入れたところなので、佐保は黙ってうなずいた。
「あんな髪で?」
他人のことは言えないだろうというまなざしで遊馬の頭を見つめ、またうなずく。ようやく飲み込んで口を開いた。
「あの帽子みたいなの、ほんとはちょんまげ結わんと頭に留まらんそうです。顎紐かけるのは野暮なんやて言うてはります」
なるほど幸麿の頭にのっている烏帽子に紐はない。長い髪は今日はあの中に束ねられているらしい。
「着物の話になるとすぐ熱くならはる」
と佐保が言い終わらないうちに、幸麿は袴談義を始めている。
大正末期にセーラー服が登場するまで、女学生たちは袴をつけて往来を闊歩していた。華族女学院から始まったそれは海老茶色で、女学生たちは〈海老茶式部《えびちゃしきぶ》〉などと呼ばれた。対して紫色の袴を採用した跡見女学校の学生たちは〈紫衛門《むらさきえもん》〉とも〈すみれ女史〉とも。
「セーラー服にしたかて、上は英国海軍の珍奇なブラウスやけど、くるま襞《ひだ》のスカートは、あれはどう見ても袴の名残よね」
幸麿はいったい誰に向かって話しているのだろう。不穏も哲哉も生徒たちも聞き飽きた話で耳を傾けないし、遊馬に女子袴への関心があるはずもなく、となるとカンナに言っているとしか見えないのだが、当のカンナは化粧はしなくても袴だけにはこだわりがあって武道用、茶会用、普段着用と色とりどり揃えているくせに今はわざとらしく聞こえないふりで、ちょうど終わった白拍子の舞にぱちぱちと拍手をしている。江戸っ子のくせにかなりイケズである。
ようやく奈彌子嬢の手になるお茶が運ばれてきた。幸麿にと点てたものだが、客人からお先にとカンナのほうへ回される。先刻の雲鶴高麗茶碗だ。
「遊ぼっちゃん、あのお点前をなさっているのはどなたですか」
「巴奈彌子さんですわ。京の都の誇る大和撫子にあらしゃります」
聞かれたのは遊馬なのに、なぜか脇からすかさず幸麿が答える。〈大和撫子〉というあたりが当てつけと聞こえなくもない。なにやらあやしい雲行きに、哲哉が話題を変えようと気を遣う。
「そういえば、奈彌子さん、そのお茶碗がいっち好きやてさっき言うてはりましたよ」
言われて、何気なく皆の視線がカンナの手元に向いた。
「なぁなぁ、もしも値段のことはナシにして、何でも好きなお茶碗ひとつもらえるゆうことになったら、皆さん、何もらいたいと思います? 幸麿さんは聞かんでもわかりますわ。天目茶碗ですやろ。天目フェチやもんね」
幸麿は捻っていた身体を元に戻し、もちろんよとうなずいた。
「決まってるやないのぉ。建盞《けんさん》のあのすっきりしたフォルム、まるで細身の公達《きんだち》のように気品がありますやろ。一分の隙もない完璧な形やね」
両の掌を宙に差し出し、花のように開いて見せた。哲哉の思惑は的中し、幸麿の顔からたちまち険が消えてしまう。
「特に〈曜変《ようへん》〉やわ。〈稲葉天目〉。口にするだけでため息が出てしまうわ。外側は真っ黒やのに、中を覗き込んだら銀河の瞬き、光が七色に煌めいて魂を奪われそうになりますやんか。〈油滴《ゆてき》〉が雉《きじ》なら〈曜変〉は孔雀やと中国では呼ばはったってね。あれずっと見てたら完全にトリップしてしまうんとちがうかしら。直衣《のうし》でも身につけてあのお茶碗でお茶いただけたら、寿命が二、三十年減ったかてええ思うわ。哲やん、何でまた急にそないな罪なこと聞かはんのかしら。願ってもかなわん遠い夢やあらしゃりませんかぁ」
〈曜変天目〉とは、宋代の中国から日本に渡った天目茶碗のうち、予想外の紋様と色彩が華やかに現れたものを言う。厳密な意味で〈曜変〉と呼べるものは、〈稲葉天目〉をはじめとして現在国内に三点しかない。そのいずれもが国宝だ。中国には遺っていない。世界を見渡してもこの三点しかないと言われている。
幸麿の脳裏には極彩色の風景が展開しているらしく、うっとりとしたまなざしをさまよわせて、はぁと切なげなため息をつく。
「ふ、不穏さんは?」
「わたくしですか。そうですねぇ、わたくしはやはり〈黒楽〉でしょうか。艶のない、かせた、長次郎の〈大黒《おおぐろ》〉や光悦の〈雨雲〉など、もしも茶室で相対して座り続けていたらその中に輪廻の謎や宇宙生成の秘密がほの見えてくるのではないかという気がいたしますね。〈見性《けんしょう》〉の茶碗と呼べるのではないでしょうか」
こちらは両手を絡子《らくす》の陰に隠したまま、説法するような調子でそう答えた。
「なんですか、お茶碗ひとつに小難しいこと思いますんやね。ぼく、自分の言われんくなってしもた。カンナさんでしたっけ、お茶碗、何が好きです?」
カンナは巫女装束の少女に茶碗を返しながら生真面目に考え込み、やがて「さても……」と呟いた。
「さてもどうしはったん?」
「宗箇《そうこ》はんやね。哲やん、上田宗箇の〈さても〉のお茶碗のことやわ。そうですやろ?」
幸麿に念を押されて、今度は素直にカンナもうなずく。
「萩もけっこうですし織部も捨てがたいのですが、あれは赤楽になるのでしょうか、〈さても〉というお茶碗を拝見したときには、ひとりの武人の魂の形を見る思いがいたしました。大きくたくましく怖ろしいまでに厳しく鋭い形、それでいて手にすればそのたっぷりした見込みの深さに、何か大いなる懐に抱かれているような温かみも感じます。ひとこと赤とは言い切れない複雑な色合いも、見る角度によって燃えてくすぶる燠《おき》のようにも枯れ野を渡る風のようにも見えました。どれかひとつお茶碗を自分のものにできるのでしたら、わたしはあのお茶碗が欲しいと思います」
これまた遠い目をしてそう語る。
遊馬は茶碗に特に趣味はないので、どれかひとつくれると言われても別にほしいものなど思い浮かばない。むしろ、壊したら大変だ大事に扱えと恭しく人間にかしずかれているような茶碗はかなわない。要するにただの茶碗だろう。
「俺は、ごてごてしたのとかすぐに毀《こわ》れそうなのとかじゃなくて、普通の茶碗でいいです。ほら、うちにあるじゃない、飯茶碗の使い古しみたいの。黄ばんでるけど丈夫そうなやつ。あんなののほうが気楽でいいや。ね、カンナ」
カンナは疲れた表情で顔を巡らす。
「遊馬さま、それはもしや井戸茶碗のことでは」
「そう、そう、それ。井戸から出てきたみたいに小汚いんだけどさ。ちょっと欠けてるし」
「はっきり申し上げて、あれは友衛家のお茶碗の中では最も貴重なものです。祖父はそう申し上げませんでしたでしょうか」
「嘘ぉ、だって俺、あればっかり使ってるよ。稽古のとき」
いつだったか稽古に使うのに好きな茶碗を選べと弥一に言われ、遊馬がその茶碗を選んだら、弥一はにこにこ嬉しそうに「それでは、これでお稽古しましょう」と言ったのだった。以来、何度となく使っている。
「それは遊馬さまだから許されるのであって、わたしなど畏れ多くてとても稽古で使う気にはなりません」
「え、そうなの? みんな絵の描いてあるのとか綺麗な茶碗のほうが好きなんだと思ってた」
カンナは肩を落とし、意味もなく手で顔をさすっている。
「こう言うたら何やけど、猫に小判みたいな話やな」
「犬に論語、豚に真珠、牛に麝香《じゃこう》とも言うわね」
「遊馬さまは、豚や牛ではありませんっ」
「それもそうねぇ。哲やん、駄目やないの。この場合は〈馬の耳に念仏〉やあらしゃりませんか」
カンナはキッと頬を引きつらせて奥歯を噛みしめている。幸麿は満足そうに澄ましている。
「先生、皆さんもう一服召し上がりますかて、奈彌子さんが聞いてはります」
女の子が言うので点前座を見ると、様々な装束をつけた少女たちが奈彌子を囲み、何やら楽しそうに談笑している。いつの間にか佐保も同級生と一緒にそちらに加わっている。そうそう客にばかり茶を点てさせておくわけにもいかないと、幸麿は立ち上がった。
「わたしも奈彌子さまにご挨拶してまいります」
幸麿の後ろに充分間をとって、カンナも小川を渡っていく。
「遊馬はん、あのふたり、どうゆう関係やねん。なんであんなつんけんしてはんのやろ」
幸麿とカンナの後ろ姿を怪訝そうに哲哉が眺めている。
「いらいらするんじゃないかな。幸麿さんの喋り方聞いてると」
遊馬自身、はじめは京風のまったりしたイントネーションに馴染めなかった。まして幸麿の言葉は独特だ。カンナの神経を刺激しても不思議はない。決して愛嬌を振りまくタイプのひとではないが、あそこまで無愛想なカンナは初めて見た。
「それとも、あれかな。公家流と武家流だと反りが合わないのかも。なんか敵意むき出しって感じですよね、どっちも」
「遊馬はん、あのお茶杓で公武合体せな。慶喜さんのお作や言うてたやんか」
「公武合体……って、でもそれ、たしか失敗したんですよね」
遊馬も一応この夏までは受験生をしていた。慶喜は〈大政奉還〉をした将軍であることくらいは知っている。それはつまり、武家社会の終わりを意味するのではなかったか。
「ちょっとまずくないですか」
「わからへん。どっちもそない大物とちゃうから大丈夫やろ。どう見ても同類やけどなぁ、あれ」
なるほど言われてみればその通りだ。常に和服を着ているところも、時代を何百年も錯覚させるところも、茶の湯にとことんのめり込んでいるところもそっくりだ。ただ、向きが反対なのだ。
「はぁ。どうでもええけど、せっかく話題提供したのに、誰もぼくの好みは聞いてくれへん」
哲哉がすねると、傍らに立って紅葉を見上げていた不穏が、さっと袈裟《けさ》の袂《たとも》を翻して振り返り、掌を組み直して問いかける。
「そんなことはございません。坊城さんの意中のお茶碗はぜひ知りたいものです。どのようなものでしょうか」
「へへ、そうですかぁ? ぼくがいっち欲しい思てるお茶碗はやねぇ、乾山《けんざん》の銹絵《さびえ》やねん」
もう手に入れたかのように相好を崩して嬉しそうだ。結局、カンナも含めてみんな同類なのである。
「それはよろしいですねぇ。尾形乾山、わたしも好きです」
「そうですやろぉ。呉服屋さんの坊々《ぼんぼん》だけあって絵が上手いしなぁ。色遣いかてセンスええけど、ぼくは銹絵のほうが好きや。水墨画みたいに侘びてんのやけど、尖ってへんねん。かっちりはしてへんけど、だらしなくはないやろ。気取ってへんのに品はあんねん。そいで何描いても優しいやろ。優しいのに弱くはないねん。こんなん言うてたらどっちつかずで特徴ないみたいやけど、一目見たら誰かて乾山やわかる。ぼく、ほんまに好きですわ」
なるほどそうですねと不穏は頷く。
「それになぁ、あのひとの人柄も好きやねん。光琳さんの弟やろ。なんやいっつも兄ちゃんがいてて自分がいてるみたいな。仲良うしてはって、一歩引いてるみたいなとこありますやんか。そのへんのな、弟気質みたいなとこ、ぼくと乾山には分かり合えるものがある思いますねん」
哲哉が兄より一歩引いてるとは想像しがたいが、少なくとも自己認識ではそうなのらしい。行馬がここにいたら、きっとずいぶん気が合うだろう。
「それはそうと、ぼくら、もうお茶もらわれへんのやろか」
縁台に残っているのはもう男三人だけだ。濡れ縁のほうでは再び幸麿が点前座につき、座敷で笑いさざめている女性たちに茶をふるまっている。
「なんや幸麿さんだけ、ええなぁ。ハーレム状態や。光源氏みたいやありませんか」
「まあ、こうして遠くから眺めるのもなかなかよいものではありませんか。ちょうど紅葉の枝がフレームになって絵のようです」
「そうですかぁ」
立ち上がりかけた哲哉は不穏の言葉に座り直し、あらためて座敷のほうを見やった。
「それにしても、奈彌子さんてほんまに綺麗なひとやなぁ。あんだけ派手なもの着た若い娘《こ》らとおっても、ひとり浮き立ってはる。奈彌子さんがいはるだけで、ああ、巴流の門人でよかったぁ思いますわ。そんだけ近しいような気ぃするもんなぁ。巴流の誇りや。そやけど、だからゆうて巴流の犠牲にはなってほしくないなぁ。可哀想すぎる。複雑やなぁ、ぼく」
遊馬は不思議そうに哲哉を見る。犠牲? 可哀想? そういえば、彼女はこの間、なぜか往来で突然泣き出した。遊馬が勘当されていると言ったらうるうると涙を潤ませてしゃがみ込んでしまった。まさか同情したわけではないだろう。あれはいったい何だったのか。
「遊馬はん、知らへんの? 奈彌子姫悲しい恋の物語。京都のお茶人でこの話知らんかったらもぐりやで」
「坊城さん、ひとさまのつらい話をあまり広めてはお気の毒ですから、そのへんで」
勢い込んで話し出そうとする哲哉を不穏が止める。そこまで聞かされて途中でやめられたらかえって遊馬は気になるというものだ。
「そうやろか。けどな、不穏さん、さっきの話やと、奈彌子さんはおばあちゃん先生《せんせ》のとこにちょこちょこ来てはんのやろ。このひとが何も知らんと失礼なこと言うたりしたら、かえってあかんのとちゃいます? いや、それにしても、なんで奈彌子さんがおばあちゃん先生のとこに来はんのやろ。何の用事や? 先生、ぼくにはひとこともそんなこと言わはらへんかった。奈彌子さんのファンやて知ってはんのに。イケズやなぁ」
志乃が家元の家族と関係が深いことは、再度《ふたたび》山の上で哲哉自身が語っていた。仲がよいから遊びにくるのではないのだろうか。
「それはそやけどな、七十歳《しちじゅう》のばあさんと奈彌子さんといくら仲良しゆうたかて、会《お》うて何話すねん。あれー。ぼく、わかったで。いや、どないしよう。こんなこと知ってしもて」
いったい何なのだ。もったいぶらずに教えてくれと遊馬は焦《じ》れる。
「遊馬はん、奈彌子さん来てはったとき、ひとりやったんか? 他に誰ぞいてなかったか?」
「誰かって……」
「だからたとえば、巴流の内弟子さんとかな」
「はぁ?」
「男前の鶴了《かくりょう》さんとかや。ほら、こうすらーっと背が高《たこ》うて、優しい顔してはるひとや。知らへんかなぁ」
それは多分、病院で会ったひとだ。たしかそんなような名を名乗った。何より、すらーっと背が高くて優しい顔をしていた。
「そのひとなら、志乃さんちにいるわけないです。あのときは病院でうちの祖父さんに付き添ってくれてたんだから」
哲哉はじっと遊馬を見た。
「なるほど、そやったんか。それは泣きとうもなるわ。あんたの祖父さんも罪なひとやで」
たしかに祖父は罪作りだと遊馬は思う。武蔵の茶杓をなくしたくせに、しらばっくれて孫に罪を着せ、今はのうのうと病院のベッドで看護婦にかしずかれている。とんでもない奴である。
が、哲哉の言う罪とはその罪ではない。奈彌子と鶴了の逢瀬を邪魔した罪だ。
「奈彌子さんと鶴了さんはもう何年も前から恋人なんや。想像してみぃ、あの綺麗な奈彌子さんと男前の鶴了さん、ふたり並んだらお雛様とお内裏様みたいに出来すぎなカップルやろ」
それは、何というか、あり得べからざる美男美女といえるかもしれない。
「鶴了さんてな、ハンサムなだけやのうて、謙虚で真面目なひとやねん。まだ若いさかいに内弟子さんの中では一番下っ端やけどな、奈彌子さんと結婚しはったら、お家元を助けてバリバリ働いてくれそうやんか。誰も反対できひんし、お家元も認めてはって、いつ結婚しはんのやろて、みんなわくわくしとったわ。男のぼくらはちょっと残念なとこもあるけど、相手が鶴了さんでは太刀打ちできひんしなぁ。ところが、そこに晴天の霹靂《へきれき》ゆうやっちゃ」
巴家の総領息子|比呂希《ひろき》が交通事故で急死したのである。
その日のことは遊馬もよく覚えている。京都から連絡があり、密葬ということではあったが祖父と父があたふたと出かけていった。あのあとしばらくは親たちが遊馬に妙に優しかった。こんな息子でも死なれては困ると思ったのだろう。
遊馬自身は茫洋とした自分でもよくわからない気持ちだった。そもそも、彼が死んだという事実がいつまでたってもピンとこなかった。物心ついてから会ったのは一度だけで、なんだか悔しい思いをしたからいつか見返してやろうとあれこれ考えたことはあった。
というよりも、会ったのはたった一度なのに、しかも柳みたいになよなよした奴だと感じたのに、印象は強烈だったのだ。いつまでも頭から離れなかった。それが急にこの世から消えたという。世界の居心地が一気に悪くなったような、そんな感じだった。
比呂希の死は、宗家巴流に衝撃をもたらした。家元夫妻が悲しみに暮れたのは言うまでもなく、奈彌子と鶴了の将来を真っ暗にした。
なぜといって、跡継ぎである比呂希を失った巴家にもう男子はなく、姉の奈彌子とまだ年端もいかない妹がいるだけだ。次代の巴流は奈彌子の迎える婿に託すほかはない。
奈彌子と結婚するというのはそういうことだ。親族として側面から家元を支えるのとは訳がちがう。将来のbQとしてなら受け入れられた鶴了も、いざ次の家元にとなると器量不足である。
「どうして? 真面目でデキるひとなんでしょ」
「ひとことで言うたら格[#「格」に傍点]が足らん言うことやろな」
「格?」
「家の格や。鶴了さんの実家はたしか向日町《むこうまち》の花屋さんかなんかや。奈彌子さんはな、一時はやんごとなき筋からの話も来てるらしいて噂になったくらいのひとやで。洛外の花屋の息子ではもともと引き合わへんのやけど、そこは人柄もようてお家元の覚えもめでたかって、何より奈彌子さんがぞっこんやったさかい、家柄云々言うようなひとらも表だっては文句言われへんかったんや。でもな、〈家元〉ゆうことになったら、ちょっとそれは待ってほしい言うひとがさすがに出てきたわけや。ひとりが言い始めたら、あとは大合唱や。それまで我慢してはった分までわぁわぁ言わはる」
「……じゃあ、奈彌子さんはどっかの会ったこともない金持ちと結婚させられるんですか」
大昔のお姫様みたいな話である。
「それは、どうやろ。いくら家柄がようてもお金ぎょうさん持ったはっても、お茶できひんひとに家元は務まらへん。奈彌子さんかてええ歳やで。そのお相手となったら、そやなぁ、幸麿さんくらいの歳やん。そんなおとなんなって茶筅通しから稽古始めて、今度家元になりました、よろしく言うたかて誰がついていきますかいな」
では、どうするのだろう。家柄がよくて、巴の流儀をしっかり身につけている年頃の青年を探すのだろうか。そんな都合よく見つかるものだろうか。
「巴流やのうてもええねん。どこぞの流派の家元の坊々とかな、茶の湯は茶の湯やさかい、大筋は一緒や。最初は大変かもしれへんけど、一から習い始めるよりは遥かにええやろ。奈彌子さんみたいなひとの旦那さんになれんのやったらちょっとやそっとの苦労なんか何でもないやんか。誰でも喜んで来はると思うわ」
遊馬は一瞬、不埒な妄想にふけった。
「それ、ひょっとして俺でもいいってことですか?」
哲哉はぎょっとして目を剥《む》いた。
「何言うてんねん。あんたは家元継ぐの嫌で家出してきたんやろ」
「で、でも、奈彌子さんと結婚できるんだったら話は別です」
「奈彌子さんのほうが十歳《とお》も上やで」
「歳の差なんか問題じゃありません」
「駄目や、絶対にぼくが許さへんっ」
思わずムキになって哲哉の声に力が入る。
「何もよそさんから婿さんもらわんかて、巴流ん中にいっぱい候補者はいてる。そら、ぼくは……無理かもしれへんけど……お家元にはぎょうさん内弟子さんがいはるやろ。あれ、真面目やったら誰でもなれるゆうわけやないねんで。老分さんやらお寺さんやらの紹介と保証がないとあかん。けっこうみんなええとこの坊々やわ。あの家には、洛中のそれなりにええうちに生まれ育ったのに、お茶が好きやって、結婚もせんと一生お家元にお仕えしますみたいなひとらがぎょうさんいはんねん」
それはすごい。友衛家には弥一とカンナしかいないのに。
「その中でいっち下っ端の大した後ろ盾もない鶴了さんが家元になれんのやったら、自分のほうがよっぽど相応しいんちゃうか思てるひと、いてへんかったらそのほうが不思議やで。自分が家元になろうとまでは思わへんでも、これまで弟分や思てた若造がいきなり自分の上に来たら、そういうひとらは面白うないはずや、普通」
「別に面白くたって面白くなくたって、今の家元が決めたらそうなるんじゃ……」
「あんたとこはそないに簡単なんか」
いや、そんなことはない。普段は姿を見ないじいさん連中が大挙してやってくるとき、あの父が小さくなって、ひたすら御説ごもっともと冷や汗をかきながらおとなしくしている。彼らにそっぽを向かれたら、三百年続いた坂東巴流であろうともたちまち立ちゆかなくなるらしい。超ミニサイズの流派でさえそうなのだから、大所帯の宗家巴流なら事情はもっと複雑かもしれないとは思う。
「そうやろ。そらな、お家元がそう決めはったら誰も表立って批判はせえへんかもしれへん。そやけど、そんなんして無理にお家元になったかて、本人が一番やりづろうて苦労しはんのやないか。ぼくやったら、たちまち胃潰瘍になって胃ガンになってあちこち転移して死んでしまうわ」
哲哉に限ってそういうことにはならないのではないかと遊馬は思ったけれども、まあ、言わずにおいた。
そのようなわけで、宗家巴流のためにも鶴了本人のためにも、奈彌子との結婚は諦めたほうがよいのではないかというムードに家元周辺はなっている。とはいえ、いきなり掌を返すようなことは氷心斎にもできないので、なんとか鶴了のほうから身をひいてくれないかなという状況なのだそうだ。
「きっと、あの家の中ではふたりともゆっくり話したりできひんのや。家の外かて、京都の町中であのふたりでは目立ちすぎるしなぁ。そうや、それでおばあちゃん先生が気ぃ利かせはったんやな。おばあちゃん先生は、お家元に出入りすんのは遠慮しはってるけど、ぼくらにお点前教えんのにやっぱりお家元の情報は必要やゆうて、いつ頃からやろ、内弟子さんに出稽古頼んではんのは、ぼく知ってる。ちょこちょこお点前変更みたいなことあるしな。ひと月かふた月にいっぺんくらい来てはんのやないか。それ、きっと鶴了さんなんやな。でもって、出稽古は口実で、そんとき奈彌子はんが、志乃さん、こんにちは、言うてやってくる手はずや。おばあちゃん先生、大胆やなぁ。どない思う?」
遊馬は話についていくのがやっとで、どう思うかと聞かれても意見などない。ただ、最初に奈彌子に会ったとき、家に志乃はいなかった。遊馬を起こすためだけに奈彌子を留守番に置いたとは考えられないから、きっと寸前まで誰かが奈彌子と一緒にいたのだろう。
そしてこの間奈彌子が志乃の家から出てきたとき、彼女は寂しそうで悲しそうで、ついには往来で泣き出した。そのとき、鶴了は急に倒れた風馬に付き添って病院にいた。鶴了は、ほんとうはあの日、志乃のところへ来る予定だったのかもしれない。それが客人の急病でそれどころではなくなり、何かを憚《はばか》って連絡できなかったということはあり得る。鶴了のほうもなんだか切羽詰まった様子で、比呂希はなぜ死んでしまったのだろうと、言っても詮ないことを嘆いていた。
「つじつまが合うやろ。あんたのお祖父さん、そうとう罪やで。織姫さんと彦星さんの年に一度のデートを邪魔したようなもんや」
できるものなら家出でも駈け落ちでもしたいと思いながらそうはできずにいる奈彌子に向かって、遊馬はいともあっさりと、自分は家出中で勘当もされていると脳天気に語ったわけだ。ただでさえ鶴了のすっぽかしに動揺していた奈彌子が、我を失ってしまったのも無理はないのかもしれない。
ふーんと遊馬は目を上げて奈彌子たちのほうをみやった。今日の奈彌子はいくらか憂さを忘れて機嫌よさそうである。
「あー、あのひとら蹴鞠《けまり》かなんか始める気やで。ぼく、せんど喋って喉カラカラやのに。道具しまわれへんうちに、お茶、催促してくるわ。まったくお公家さんの茶には〈もてなしの心〉ゆうもんはないのんか。自分ばっかり女の子に囲まれて鼻の下伸ばしてからに。なぁ、不穏さんもそう思いませんか。不穏さん? 何してまんのん」
呼ばれて不穏が振り返る。
「赤とんぼです」
そっと池の端を指さした。
「不穏さん、まさかぼくが一生懸命このひとに事情説明している間、とんぼの目ぇ回そうとしてはったんやないやろね」
いや、と不穏は右手を隠す。人差し指だけ立っていた。
「ええ歳して信じられへん。お坊さんやのに。殺生せえへんかったら目ぇ回してもええんかいな」
ぶつくさ言いながら哲哉は立ち上がり、幸麿に茶を所望しに行った。なのに、なぜか瓶掛《びんかけ》を抱えて戻ってくる。中には炭が熾《いこ》っていて、当然熱い。
「信じられへん」
あてがっていた大きなタオルをはずしながら、哲哉は愚痴る。
「鞠が飛んでお茶碗割るとあかんさかい、こっちに持ってって自分で点てなはれやて。客を客と思うてへん。〈賓主歴然《ひんじゅれきねん》〉の心が大事やてぼく先生に教わったけどなぁ」
〈賓主歴然〉、主と客とはおのずと異なり互いを尊重し合うことが大切だという意味だ。
「まぁしかし、〈賓主互換〉〈無賓主〉の茶とも申しますから」
不穏がとりなす。
「何ですか、それ」
「主客いずれがいずれともなく融通《ゆうづう》無碍《むげ》に入れ替わることを言います。〈賓主歴然〉〈賓主互換〉、正反対の言葉ではありますが、いずれもよき茶会のありようですね」
「へーぇ。ぼく今度その言葉お軸で見かけたら、絶対今日のこと思い出しますわ。お客やのに熱い瓶掛担がされて。不穏さんもあこからお茶箱持ってきてくださいね。あんたは鉄瓶と建水な」
最後は遊馬に言い、自分ももう一度残りの道具を運んだ。それらを縁台の緋毛氈の上に並べ、しかし哲哉は言葉とはうらはらに嬉しそうである。
「このお茶箱、すごいと思いませんか。全面梨地や。光の海みたいや」
茶箱というよりは文箱の大きさにも見えるその表面は一面に金粉を沈ませて午後の光を鈍く跳ね返している。
「うわ、なんやこれ」
蓋を開けて哲哉はのけぞる。蓋の表はただの梨地なのに、その裏側には見事な蒔絵が施されている。雅楽器の図柄だ。笙、笛、琵琶、箏《そう》、鼓……立体感溢れる高蒔絵は細部まで緻密に描き込まれ、さまざまな色合いの華やかな螺鈿《らでん》を施されている。
哲哉はとっくりとそれを眺めた後で、やおら蓋を戻し、またそっと開ける。また閉じる。そっと開ける。
「何してるんですか」
「え、いや。オルゴールみたいやなぁと思て。こうな、蓋を持ち上げると音が聞こえてくるような気がすんねん」
「え、ほんとに?」
遊馬は思わず箱に顔を近づけて耳を澄ます。
「……あほやなぁ、聞こえるわけないやろ」
哲哉は照れくさそうに蓋を脇へ置き、そそくさと中味を取り出して茶を点て始めた。
蹴鞠とは言っても、庭にさほど広さはない上に誰もが初心者で、蹴っているというよりは転がしているといったほうが正しい光景だ。それでも女の子たちはきゃあきゃあと楽しそうではある。
さすがに奈彌子はその仲間には加わらないのだろう、小川を渡って遊馬たちのほうへ戻ってくる。
「あ、奈彌子さん、今、お茶点ちますさかい」
哲哉の声は裏返っている。
「ありがとう。もう充分にいただきました」
哲哉はがくりと肩を落とす。
「そうですかぁ。ぼく、奈彌子さんのお茶いただけなかった……」
「まあ、そやったんですか? そしたらもういっぺん、ここで点てましょな」
「やったー」
まるで母子か姉弟のようである。点前座を奈彌子に譲り、哲哉はぴたりと傍に張り付いた。
「〈無賓主〉のお茶ってええですねぇ」
「ほんまに。こんなに楽しくお点前したの何年ぶりですやろ。なんや大事なことずっと忘れてた気ぃがします」
「ぼくもお家元のお嬢さんのお点前でお茶いただけるなんて、もうこの先ないと思うし、今日は一生の思い出になります」
「ありがとう。けど、今日は巴流のことはナシにしましょ。お道具も見たことない他の御流儀のものやし、お点前も即席です」
ぶるるんと哲哉は首を横に振る。
「そやない。奈彌子さんのお点前は、どないにお道具が変わったかて奈彌子さんの、巴奈彌子さんのお点前や。ぼくらみんな誇りに思てます。ぼくらも一生懸命精進しまっさかい、奈彌子さんもつらいことがあっても巴流を見捨てんとくださいね」
奈彌子は茶筅の手を止め、少し目を潤ませ、しかし今日は泣き出さずに口の端を引き上げて精一杯の笑みをつくった。
「ありがとう。今日のお茶はほんまに心に沁みます」
〈ありがとう〉
京都のひとがそう口にするとき、語尾上がりのそのイントネーションは限りなく優しい。あんなに苦手だった京ことばのうねりを、遊馬はそうと気づかず子守歌のように心地よく聴いていた。
「きゃあ」
一陣の風が紅葉の梢《こずえ》を抜け、女の子たちが声を上げた。枝に掛けてあった扇がふわりと宙に舞う。幸麿が駆け寄るのも間に合わず、小川の水面《みなも》にぱしゃりと落ちた。
奈彌子がはっと胸に掌《て》を当てる。
「ああ、よかった」
と、微笑んでいる。
「これであの扇は正真正銘、今日限りのもんになりました。下手な字で偉そに歌なんか書いたて、父に叱られずに済みます」
幸麿は心底残念そうなのに奈彌子のほうは安堵して、池から扇を拾い上げようと苦心している幸麿たちを眺めている。扇の歌は水を含み、茶会の終わりを告げるように滲んで消えかけている。
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八、 |霧 中 恋 路 果《ゆくえもしらぬこいのみち》の段
退院した風馬《かざま》は念のため旅館で数日静養することになった。古くからの馴染みとやらで、京都中の宿泊施設が満杯のこんな時期に無理を聞いて部屋を用意してもらえるあたり、弱小でも由緒ある茶家のことだけはある。
「それにしても、武蔵の茶杓はいったいいつ誰が持ち出したのでしょう」
真相を知らないカンナは不審げにいつまでも首をひねっている。
「まあ、いいではないか、無事に戻ったんじゃ。めでたしめでたしだ。きっと今頃犯人も改心して、二度とこんなことはすまいと肝に銘じておるにちがいない。追いつめて恥をかかせるよりも黙ってやり過ごすほうがいいこともある。武士の情けじゃ」
と都合のいいことを風馬は言い、遊馬《あすま》は座卓の上の饅頭を割りながら、上目遣いにそんな祖父をちろりと睨んだ。
別に用事はないのだが、旅館の広々した浴場に惹かれて、畳屋の仕事が終わるとついこちらへ足が向いてしまう。槇《まき》の薫るゆったりした湯船の中では、身も心も溶けるようにくつろいで、些細なことなど、まあ、どうでもよくなってしまう。
「なんだなぁ、おまえも〈野分《のわき》〉の茶杓を持ってそろそろ戻ってもいいのではないかなぁ」
湯気の向こうで祖父が言う。ひとを泥棒にしたままでよくのんきにそういうことが言えるものだ。
「来年の受験はどうするつもりかと、公子《きみこ》さんがえらく心配しておったぞ」
今さら大学でもないだろう。夏からこっち、受験勉強はいっさいしていない。迷いがないといえば嘘になるが、考えても仕方ないので考えないことにした。
風呂を餌に遊馬を呼び寄せ、カンナはやたらと剣の稽古をつけたがる。用意周到に近くの道場を借りてあり、ひと汗流せばお風呂はもっと気持ちよくなりますよと言葉は優しげだが、遊馬の喉元に竹刀の先を突きつけて誘う。それで四日ばかりは付き合ってやった。
いよいよ東京へ帰るという日、風馬はカンナに持ってこさせた茶籠でさらさらと茶を点てた。まるで別れの盃のようだった。
「そうだ、おまえにこれをやろう」
点前が済むと籠ごと遊馬に差し出す。
「いいよ、また俺が盗んだことになるから」
「そう言うな」
竹を編み、高麗組みの艶《つや》やかな紐をかけた〈御所籠〉だ。中に古清水《こきよみず》の茶碗と嵯峨|棗《なつめ》が仕組まれている。
「茶杓はな、わしが削った」
御所籠に入れるにしてはいささか無骨なずんぐりした形《なり》だ。
「銘は〈天紙風筆《てんしふうひつ》〉じゃ。〈懐風藻〉という書物にな、〈天紙風筆書雲鶴《てんしふうひつうんかくをえがき》 山機霜杼織葉錦《さんきそうちょようきんをおらむ》〉とある。ここからとった。天という大きな紙に風の筆で自由に描けという意味だ。詩人の志を詠んだものだが、武人にも茶人にも通ずる心よ。わしからの餞《はなむけ》じゃ。もしかしたら生きてるうちにもう会えんかもしれんからの」
そんなことを言うひとに限って長生きするものではある。
御所籠を抱えて帰ると、珍しいことに畳屋の店先に幸麿《ゆきまろ》が座っていた。なにやら親方と話し込んでいる。遊馬を見つけてふたりは同時に言葉をかける。
「祖父さん、帰ったんか」
「カンナさんはご退散?」
一瞬何かが頭に引っかかったのだが、考える暇《いとま》を与えず幸麿が包みの中味を聞いた。
「まあ、まあ、まあ、まあ」
半分も聞かないうちに幸麿は遊馬の腕から包みを取り上げ、大事そうに抱えて他人の家にもかかわらず勝手に奥の座敷まで持っていく。錦の袋から籠を取り出す。籠に掛けられた紐を解き、おもむろに蓋を開ける。それぞれの茶器もまた丁寧に袋に納められているのをもどかしげにひとつ開けては、あらあらと呟き、これはこれはと声を弾ませる。
「それだったら、いざというとき金になりますか?」
「アホなこと言うもんやないわ。遊馬君、これは、そやねぇ、お花見の季節にでもお披露目のお茶会せなあかんわね。今度こそ、あなたがご亭主やね。御所の桜の下なんかええのとちがう? ああ、そうや、桂木《かつらぎ》さん呼ばな片手落ちかもしれへんわ。〈佐保姫〉ゆうたら春の女神やしね、忘れたらあきませんえ」
幸麿はひとり勝手に先走って花見の計画を立ててしまう。迷惑な話だが、佐保を呼べるならまんざら悪くもないという気もして、遊馬は逆らわずに聞いていた。
「先生《せんせ》、こっちはどないすんねん」
茶籠に夢中になっている幸麿の背中に親方が呼びかける。
「学校の畳、何かまずかったんですか」
それで幸麿がクレームをつけに来たのかと思ったらそうではなかった。
「お茶室よ、お茶室」
新しく作る茶室の畳を入れてほしいらしい。それにしては、親方は難しい顔でうーんと腕組みしている。その前にある図面のようなものを遊馬は覗き込む。何やら丸い絵が描かれている。
「これ、丸いけど……」
「そやねん、丸い部屋に畳敷けぇ言わはんねん」
「えーっ、そんなの無理じゃん」
ふたりは冷たい視線を遊馬に注ぐ。
「あ、いや、それは難しそう……ですね」
高等部の三年生に古い造り酒屋の息子がいる。昔使っていた仕込み桶を処分するが学校でいらないかという話があり、ならばそれを使って卒業記念の茶室を作ろうということになった。土地柄PTAには大工もいれば建具屋もいる。彼らが屋根を葺《ふ》いたり窓を開けたりしてくれるらしい。ただ、どういう具合か畳屋だけがいない。丸い部屋の畳となればかなり特殊な注文になるが、無尽蔵に予算があるわけでもないので、幸麿は高田畳店に相談に来た。
無論、親方がこの手の話を断るわけはないので、険しい表情をしながらすでに胸の内はワクワクしているのが見えるようではある。
不穏《ふおん》がその子を連れてきたのも同じ日だった。男の子の手を引いて店先に現れたから、ナオちゃんもちょっと見ない間にずいぶん大きくなったなぁと遊馬は一瞬驚いたのだが、まさかそんなはずはなく、行馬《いくま》より二つ三つ小さいくらいの見ず知らずの少年だった。遊馬を見るなり腕をまっすぐに伸ばして指をさす。何か言いたいらしい。
「実は、こちらのお子さんがあなたに剣を教えてほしいとおっしゃるのです」
「はぁ?」
遊馬はあらためて少年を見る。ひょろりと弱々しい体つきのくせに、緊張しているのか口をへの字に曲げてこわばっている。その頭を撫でながら不穏が言うには、今しがた出先から帰って来ると、この子が本堂で待ちかまえていた。
「こちらのお子さんは、いつでしたか町中であなたが暴れていた……と申しますか、闘っていた……と申しますか、そのときに現場に居合わせたのだそうで、以来、あのお兄さんに弟子入りすると固く心に決めており、実を申しますと、いつぞやも一度、交番からわたくしどもの寺の名をお聞きになって、お母様とご一緒にいらしたのですが、そのときはまさかあなたが武道のお家元の方とは存じませんでしたので、怪我でもさせては大変と、わたくしの一存でお断りいたしました。と、今日はおひとりで見えまして、どうしてもあなたに会わせてほしいとおっしゃいますので、まあ、お話だけでも聞いてあげていただけたらと」
これで秘密にしていた托鉢事件が親方にもバレてしまい、遊馬は冷や汗をかいた。警察にまで呼ばれたと聞いて、親方は呆れ果てる。
「ボク、お名前、何て言わはんの?」
幸麿がしゃがみ込んで尋ねる。
「伊織《いおり》と呼んでくれ」
男の子はそう答えて、幸麿を睨む。
「伊織って、宮本伊織?」
黙って頷く。すると遊馬は宮本武蔵なのか……。
「学校はどうしはったん?」
「いや、それがかれこれ一年ほど登校していないのだそうで、それでお母様も心配していたところ、珍しくご自分からこうしたいと言い出したので、これは意志を尊重してあげたいと思うに至られたそうなのです」
「面倒みてやりぃな」
親方は気安く言う。しかし、遊馬とてそうそう暇ではない。日の出前に起床して新聞を配達し、朝食をとり、親方と一緒に畳を引き取りに出かけ、帰って少し仮眠をとり、遅めの昼食のあとまた夕刊の配達に出かける。戻ると、今度は畳の敷き込みに出かけていく。夕飯を食べて風呂に入ったらそれだけでもう眠くなってしまう。
「それやったら心配せんでもええで。だいぶ遅うなったけど、年が明けたらまた若いもん来ることになったさかい。こっちゃの手伝いは放免や」
そう言われてしまうと断る理由も見当たらず、では年が明けたら曜日を決めて少し面倒をみるかということになったのだった。
暮れが近づいてくると、畳屋の忙しさも半端ではなくなる。知り合いの店から助っ人の職人も現れ、遊馬も日に何度となくバンを運転した。
そちらが一段落した頃、新聞屋のほうはまさに臨戦態勢に入り、元旦配達分の分厚い広告の束をパートのひとまで出てきてひたすら折り込み作業が続いた。機械も動いているのだが、新聞本紙の増刷も加わり、折り込んでも折り込んでもその束は減らず、折り込めば込むほど重くなり、しまいには腕がだるくなった。これを元旦に自分が配るのかと思うと気が遠くなり、真剣にてるてる坊主でも作ろうかと思った。雨や雪の中ではきっと途中で投げ捨てたくなるだろう。
翠《みどり》はクリスマスの終わった頃、帰省してきた。無論、電話で母親や哲哉から事の次第は聞いている。遊馬に会うと、自分をお嬢さま扱いさせた気まずさを隠していきなりまくしたてた。
「久美ちゃん、びっくりしてはったわ。萩田《はぎた》君も知らへんかったって。ショックやったみたいや。親友やのに何も知らんと」
「親友が俺をひとり置き去りにするかよ」
照れもあって、遊馬はぶっきらぼうになる。
「うちらな、ちょっと調べてアズマ君のおうち見に行ってん。萩田君が、練習の後、よーしこれから見に行くって言わはって」
「物好きな奴ら」
「大きなおうちやねぇ。〈友衛〉って立派な表札やったわ。じろじろ見てたら、着物着たひとがぎょうさん出て来はった。ほんまなんやーって、しばらくその話ばっかりしてたわ」
「どうせ悪口だろ。似合わないとか、なよっとして気持ち悪いとか」
「そんなことないわぁ。萩田君は、どうりでときどき爺臭いこと知ってると思ったぁって感心してはって、久美ちゃんは、あのわがままなとことおおざっぱなとこはおぼっちゃん育ちのせいやったんかて納得してはった」
そういうのを世間では悪口と言う。何はともあれ、ここでは茶道の家元の息子だからといっていきなり後ずさりされたり祭り上げられたりはしないらしい。そのことに遊馬はかなり救われた。
新聞の正月準備は三十日までにおおかた終わり、大晦日の朝刊を配達した後、ようやくフリーになった。元旦未明からの仕事に備えて休養をとっておけと言われ、朝食のあと、二階で布団に潜り込んだ。が、大晦日というのは空気そのものがせわしなく動いているのか落ち着かず、さらに枕元をバタバタと往来されて目が覚めてしまう。
「翠ちゃん、何してんの」
大掃除はたしか一昨日あたり、遊馬がいない間に翠も手伝って終わったはずだ。
「あ、うるさかったら堪忍な。お祖母ちゃんが除夜釜掛けはるし、仕度してんねん」
釜を掛け、茶を点てながら年を越すというのだ。ご苦労なことだと思いながらまた布団に潜り込む。そうしてごろごろしているうちに夜になり、今年一年もそろそろ終わろうとしている。振り返れば怒濤の半年だったなぁと蕎麦をすすっているところへ鶴了《かくりょう》がやってきた。
翠や哲哉はもちろん、志乃がよそで教えている弟子たちも、午後から夜にかけて三々五々今年最後のお茶を飲みに来ていた。「よいお年を」という挨拶も途絶え、哲哉とともに八坂神社へお詣りに行った翠も、縄に灯《とも》した〈おけら火〉をぶんぶん振り回しながら帰ってきた。その火を神棚の蝋燭《ろうそく》に灯し、今度は不穏のところでも釜を掛けているからとまたふたり揃ってそちらへ出かけた。
「もう誰も来《こ》ぉへんやろ。お仕舞いにしましょか」
いつもなら志乃はとっくにやすんでいる時刻だ。
「遊馬はんも明日は朝早いのやろ」
早いと言うよりも、今からではもう下手に眠らないほうがいいくらいだ。
「そしたら今年一年の仕舞いに、遊馬はんにお濃茶《こいちゃ》練りましょか? 目ぇ覚めるやろ」
志乃はそう言って仕度を始めた。遊馬は蕎麦をずずっとすすりあげ、そんなことまでしてもらわなくてもと断ろうとした、そこへがらがらと玄関の開く音がして鶴了が現れたのだ。
「遅うにすみません」
申し訳なさそうにためらいながら三和土《たたき》を進んでくる。
「いや、どうしはったん」
「へぇ、ちょっとご挨拶に。もっと早《はよ》う寄せてもらうつもりでしたんやけど、何やかや手間取ってこないな時間になってしもて。おやすみやったらこのまま帰ろう思てましたら、外からまだ灯りが見えまして何や話し声も聞こえましたさかい、どないしよう思たんですけど……」
和服に似合わぬ大きな鞄を提げている。
「来てもらうのは嬉しいことです。そやけど、お家元は元旦からお忙しいのと違いますのか」
心配そうに志乃は言い、何か説明しようとする鶴了をさえぎり、まずは上がれと茶室へ通した。
「ちょうどお濃茶でも練ろうと思てましたんや。こないな時刻やけど、鶴了はんもご一緒にどないです?」
「お相伴します」と鶴了は頭を下げ、疲れた顔のまま、短檠《たんけい》に小さな火の灯る茶室へとにじり入った。
何か大事な話なのだろう。おそらくよくない話だろう。仕度する志乃も物思わしげで、茶入に入れようとする茶が外へこぼれてばかりいる。
「俺、いないほうがいいですよね」
台所でそう言う遊馬の声が聞こえたようで、鶴了はまた入口までやってきて、若さんともお別れやさかいどうぞご一緒しておくれやすと言った。
お別れなのか……。志乃も遊馬もますます暗くなる。
「遊馬はん、お炭直せるか? 火が落ちかけてますやろ」
遊馬は点茶一辺倒で、炭も灰もまだ満足にはいじれない。
「わたしがしますわ」
鶴了は炭道具を受け取り、またしずしずと茶室に戻る、その後ろ姿がなんだか幽霊のようだと遊馬は思った。
点前よりも道具よりも炭は大事なのだからよく見ておきなさいと志乃に言われ、遊馬は炉をはさんで鶴了と向かい合い、その所作を眺めていた。
「なんやかや言うて、こないしてるときが一番安らぎますなぁ」
誰にともなく鶴了は呟き、燃え残りの炭を大事そうに火箸で集め、倒れているものを起こし、新しい炭を継いだ。白い尉《じょう》の下から紅い火が透けて輝き出すのをしばらくぼんやり見つめている。
「綺麗やなぁ」
思い出したように釜を戻した。
床には〈無事〉の墨蹟と白玉椿が飾られている。椿は夕方入れ直したものが、すでにほころびかけている。鶴了は炭道具を戻し、再び客に戻って、しみじみとそちらを眺めやる。〈無事〉という二文字が心に刺さる、そんな顔をしている。
やがて志乃は無言で茶を練り始め、ゆらめく灯火の中にしゅっしゅっと茶筅の音だけがかすかに聞こえる。怒っているような悲しんでいるような無心になりきれない音だ。
鶴了は、来年から札幌の道場に詰めるよう命じられたそうだ。もちろん奈彌子《なみこ》から遠ざけるためだろう。
「いつも年越しは家元でしてますし、来年からはそうそう帰ってこれへんやろし、今年くらいは実家で両親と一緒に正月を迎えたらどないやゆうお心遣いで、今日はもう帰ってよろしい言われまして。それでも十年暮らさしてもらいましたさかい、引き払うとなると荷物の整理やら引き継がんならんことやらありまして遅うなってしもて。辛気くさい話やし、年明けのおめでたいときより暮れのうちにしてしもたほうがええように思いまして。こない遅くに申し訳ないことです」
札幌とはまたずいぶん遠いところだ。何もこんな寒い時分に北の果てへ放り出さなくてもいいものをと志乃は哀れむ。
「いえいえ、ほんまやったらとうの昔にわたしのほうからお願いすべきやったと思います。こないに時間もろたのに、何ひとつ覚悟できひんかったんが我ながら情けのうて」
「鶴了さんが覚悟しはったかて、奈彌子さんが納得せえしませんでしたやろ」
「はい。お嬢さん残してひとり逃げるみたいなこともようしませんで。ま、そないなこと言うても、所詮は未練がましゅう自分に言い訳して先延ばしにしてただけですわ。見るに見かねてお家元が引導渡してくれはったんやと思います。このままではどうにもならんさかい。わたしらも巴流も」
「酷《むご》いことやわ」
志乃は続いて薄茶《うすちゃ》を点てる。しゃらしゃらとこちらの茶筅の音は人目もはばからず泣いている。
「奈彌子さんのことや。ふたりでどこぞに逃げましょくらい言わはったやろ。よう思いとどまりましたな」
志乃は炉縁の脇へそっと茶碗を置き、鶴了がいざり寄る。
「お家元にはせんどお世話になりました。坊《ぼん》を亡くして悄然としてはるところへお嬢さんまで取り上げてしもたら、恩知らずのひとでなしになりますさかい。お嬢さんのお気持ちはありがたいことですけど、それだけはしたらあかんでしょう」
「そやな、そやな」と志乃は涙ぐみ、名残惜しいから今夜はもうここへ泊まって行けと言って、冷めた風呂をもう一度沸かした。
「若さん、今日のわたしはそないにひどい顔してますやろか」
奥の間に鶴了を寝かせて襖を閉めようとしたらそう聞かれた。遊馬はとっさに意味がわからなかった。
「いや、高田さんがえろう引き留めてくれはりましたやろ。何でやろと、風呂の中で考えてましてん。名残惜しい言うてくれはったけど、ほんまは真夜中にこないな顔して帰ったら親が心配するやろと気遣《きづこ》うてくれはったんかもしれへん。今日帰るとは言うてへんし、そらびっくりするやろなぁ」
たしかに今夜の鶴了は憂いの貴公子といった風情で、遊馬でさえ不安なものを感じたくらいだから身内ならなおさらだろう。
「若さんはええなぁ、おうちを離れてこないなとこで自由にしてはって。こちらのおうちにいはんのやて奈彌子さんに聞いたときはびっくりしましたけどな。高田さんとは先《せん》からのお知り合いですか」
簡単に言えばバンド仲間が志乃の孫だったわけだ。鶴了はそれを聞いてため息を漏らす。
「バンドですか。洋楽ですね。ええですねぇ。わたしなんか、お茶以外のことなーんも知らんと、こないな歳まで過ごしてしもて、考えてみたら世間の狭いことですわ。この期に及んでもお茶の世界から出て行かれへん」
中の間からの明かりが部屋の隅を三角形に切り取っている。鶴了の布団は影の部分にあって、その声はぼそぼそと暗がりの中から聞こえてくる。遊馬はなんだかむずむずする。そんなに奈彌子が好きなら、駆け落ちでも何でもすればいいじゃないか、お茶の世界から閉め出されたら、新聞配達でも道路工事でも仕事などいくらでもある。人柄や能力を認めず、家の格がどうのと文句をつけるような馬鹿な奴らはこちらから見限ってやればいいのだ。
「俺、よくわかんないんですけど、お茶って何ですか。そんなにすごいもんですか」
自分の掛布団だけ引っ張ってきて身体をくるみ、閉めようとしていた襖の敷居に遊馬は座りこんだ。
「奈彌子さんの幸せより大事なもんですか」
鶴了のたじろぐ気配がする。
「……若さん、どないしはったん。お茶とは何かて、それは究極の問いゆうもんですわ」
言いながら仕方なく布団の上に身を起こした。
「俺、ガキの頃から点前を仕込まれて、できるのは点前だけです。お茶って点前することだと思ってました。でも、哲さんっていうひとは、お茶は〈もてなしの心〉だって言ってました。不穏さんっていうお坊さんは、何かひとを救うものなんだって言います。あと、幸麿さんっていうひとは、〈遊び〉だって。カンナは〈伝統〉とか〈修行〉とかばっかりやかましく言うし、うちに来てた門弟のおじさん連中は道具の話ばかりでかい声でしてたし……ほんとは何なんだろな。なんで茶ぁ飲むだけのことがそんなややこしいことになるんだか、ワケわかんないっす」
「若さん、ちゃらんぽらんしてはるようでも、考えてはんにゃ。ちょっと見直しましたわ」
鶴了は枕元に畳んであった羽織を広げて肩にかけた。
「そやなぁ、ずるい言い方に聞こえるかもしれへんのですけど、そういう問いにひとつの答えゆうのはないのんとちがいますやろか。数学とちがうさかい、正解はないとゆうか、無限にあるとゆうか、きっとどなたさんのおっしゃるのもほんまのことで、けどそれだけが唯一の答えでもない。十人いたら十通りのお茶があり、十年やってたらその時々のお茶がある。そういうことでっしゃろ」
「わかんないです」
すると鶴了はくすりと笑った。
「若さん、面白いおひとやねぇ。わたしがこない言うたら、たいがいのひとは、ああ、なるほど、その通りですなぁてうなずかはります。けど、若さんはそやない。わからへんて首を横に振らはる。責めてんのと違います。それも、大事なことですわ。今、わたしが言うたみたいなことで、わかった気になったら、それもあかんのやろね。若さんだけやのうて、わたしかて、まだそないなことわかってへんのです。わかるわけもない。わからん、わからんと思て、わかりたい、わかりたい思て、一生懸命毎日考え続けてたら、あるときふっとわかるゆうようなもんとちゃいますか。それでちょっとわかって嬉しい嬉しい思てたら、またいつの間にかわからんようになって、その繰り返しのような気ぃがしますわ。なんやお坊さんの〈悟り〉と一緒やな」
笑っている場合だろうか。
「俺、坊主じゃないから〈悟り〉なんかどうでもいいです。俺が聞いてるのはもっと簡単なことです。じゃあ、鶴了さんの、今の、お茶ってどういうのですか。奈彌子さんをほっぽって、尻尾まいて北海道まで逃げて行くのもお茶のためなんでしょ。奈彌子さんより、結婚より、大事なお茶って、何なんですか」
わからないから尋ねているだけなのだが、遊馬の言葉に向こうの闇はこわばっていく。
「若さんは厳しいお方やね。さすが武家流や」
その声には緊張があって、少し皮肉気にも聞こえた。鶴了は、しかし背をすぼめてしばらく無言で宙を見つめたあと、また静かな声音で続ける。
「若さん、〈和敬清寂《わけいせいじゃく》〉ゆう言葉聞いたことありますやろ。珠光さんが言わはって、利休さんが大事にしてはった茶の湯の規範ですわ。簡単に言うたら、仲良うすること、敬い合うこと、清浄であること、心静かにすることやろか。どれも大事なことやけど、この中で何が一番かぁと聞かれたら、若さんは何や思わはります?」
〈和〉〈敬〉〈清〉〈寂〉、どれがどうと言えないから四つ並んでいるのだと思う。強いていえば〈和〉か。一番最初にあるのだから。
「そやなぁ。それも大切なことです。けど、わたしが今、絶対忘れたらあかんて自分を戒めてますのんは〈敬〉の一字ですわ。これまでせんどお茶さしてもろてきましたけど、一番難しいのはそれやないですかね。入門したての頃は、どなたはん見ても立派やなぁ偉いなぁて無心に素直に敬うことできますけど、自分でも少ぉしモノがわかってくると、あれこれ言いたなって、その分よそさんのこと軽う見たりする心が起きますな。まして理不尽なことで自分を否定されたりすると、わたしかて人間ですからね、何言うてんのやと批難がましい心も正直生まれます。けど、それで逃げ出してしもたら、結局、珠光さんの教えを修めることができなかった落ちこぼれゆうことにしかならへん。わたしは、どないつらい目に合《お》うても〈敬〉の心を忘れんといたら、そない恥ずかしい人間にならんですむと思てます。家元や兄弟子さんらや、お茶の道そのものを敬う気持ちです。これを捨ててしもたら、わたしは今までの修行も何もかも、奈彌子さんと知り合《お》うたことさえ否定せなならん。お茶を始めんかったら、巴流に入門せえへんかったら、奈彌子さんと出会うことも好いてもらうこともなかったんやし。そうですやろ? わたしの敬う世界がそないせい言うんやったら、今はあっちへ行ってみよう思いますんや。北国のおひとらに巴流のお茶を知ってもらうよう一生懸命したら、少しはご恩返しになりますやろ」
そんな物わかりのいいことばかり言っていて大丈夫なのか、全然わからないぞと遊馬は思いつつ、しかしこのひとはかなり偉いひとだなとも心のどこかで感じはした。
「鶴了さん、いっそのこと、北海道なんかやめて東京に来たらどうかな。うちに来たら。宗家より小さくて物足りないかもしれないけど、ちょうど鶴了さんみたいな頼れるおとなの男のひとがいなくていつも親父は嘆いてるから、とっても喜ぶと思うんだけど」
「若さん、それは……」
「弟子で物足りなかったら、いっそのこと、坂東巴流の次の家元になるっていうのはどうかな。鶴了さんだったら安心して任せられると思うし。それで奈彌子さんよりもーっと美人な奥さんもらって宗家の奴らを見返してやろうよ。俺、それだったら一緒に帰って、親父と祖父さんを説得するよ」
「若さん」
鶴了の声が少し高くなる。
「若さん、わたしの言うたこと、ちぃとも理解してくれてへんのですな。わたしはお家元も誰も恨んだりしてません。仕返しだの見返すだの考えてしません。それは置いといても、なんでそないに軽々しゅう他人にお家元になれやなどと言わはんのですか。坂東巴流には友衛遊馬ゆう立派な跡継ぎがおるやないですか」
「家元んちに生まれたからって、家元に向いてるとは限らないし」
遊馬がぽろっとそう言うと、鶴了は少し驚いたように闇の中で目を上げた。
「うちの坊《ぼん》も似たようなこと言うてはりましたわ」
「あいつが? 何て?」
「へぇ。ちょっと調べたらすぐにわかりますのやけど、巴家は何も珠光さんの子孫やありません。初代の朱善さんは珠光さんの弟子にすぎませんし、そのあとも養子養子でここにも血のつながりみたいなものはありません。そやから、今、坊が巴家に生まれたゆうたかて、よくよく考えたらそれだけで家元を継ぐ資格にはならんはずや、自分でそない言うてはりましたな。それでやろね、あのひとはよう勉強しはりましたわ。生まれだけで家元になったとは言われたない言うて、遠慮せんとほんまの厳しいお茶を教えてくれて、先代の高弟やった爺やさんにみっちり仕込んでもろてました」
遊馬とはずいぶん心がけのちがう跡取りである。
「それでも、よう言わんひとはいてはりますな。みんながみんなほんまの坊を知ってはるわけやありませんし、憶測で無責任なこと言わはるひともいはる。そんなんが耳に入ると、さすがにまだ子供やもんね、傷つきますわ。なにしろ大所帯やって、お茶とは関係ないようなややこしいこともようけありますしな。せめてもうちいと小さな流派やったらよかったのになぁ。そしたら、あちこち気を遣わんとお茶のことだぁけしてられんのにて、こぼしたはりました」
するりと、遊馬の布団が肩から落ちる。
――ちんまりしたはってええねぇ
あれは、もしかしたら皮肉ではなかったのか。彼は本音を呟いたのに、遊馬のひがんだ心がそれを悟れなかったのだとしたら、悲しい誤解をしたものである。
「若さん、うちの坊のこと気に入らんかったんですか」
遊馬は布団を引っ張り上げてその中にくるまった。
「今思い出しましたけど、若さんがお帰りになったあと、怒らしてしもたて、ちょっとしょんぼりしてはりましたわ。子供同士でもいろいろありますのやろねぇ、言いたいことぽんぽん言い合える友達はいいひんかったようやし、若さんみたいなお友達、ほしかったんとちがうやろか」
俺だって……と遊馬は思う。中学でも高校でも、家のことは何ひとつ友人に語らなかった。友衛家のことを知っていそうな者とは距離を置いてなるべく付き合わなかった。面白おかしく遊んではいても、将来の不安や悩みを打ち明ける相手は学校にはいなかった。萩田でさえもだ。もしも宗家の息子とあのとき気が合って、少しでも真情を吐露することがあれば、物事はもう少し変わっていたかもしれない。やはり、あそこで殴っておけばよかった。
「言うても詮ないことやけど、比呂希《ひろき》はんは賢い坊でしたよ。小さい頃からちやほやされてはんのに、ちいとも奢ったとこがのうて周りがよく見えて思いやりもあって、こないに聡い子も世の中にはおんねんなぁて初めて会《お》うたときから思いました。あの坊のためなら一生身を粉にしてお仕えしたかったです」
午前二時になろうとする頃、遊馬は配達所へ向かった。いつもの何倍も分厚い束となった新聞を配りながら考えていた。もしかしたら、俺は、あいつに会うために京都まで来たのかな。そして、さっきようやく会えたのかな。
出がけに、じゃあお休みなさいと襖を閉めようとしたら、鶴了は布団に身を横たえ直して、若さんと呼びかけた。
「明けましておめでとうさんです」
春になると、行馬は公約通り中学に受かり、京都学院の生徒になった。巴家に寄宿し、幸麿の学校に通っている。そつのない性格なので、巴家のひとびとにも気に入られ学校に友達もできて万事うまくやっているらしい。
それでもまだ十三歳になるやならずでときどきは家族が恋しくもなるのだろう。用事もないのに放課後高田家にやってくるのはそのせいだと遊馬はにらんでいるのだが、行馬のほうは無論そんなことは認めない。
「帰ると眞由ちゃんがうるさくってさぁ」
眞由ちゃんというのは、巴家の末子、眞由子のことだ。まだ小学五年生である。おとなばかりで遊び相手のいない家に思いがけず行馬が現れたので、これ幸いとつきまとわれているらしい。
「おまえ、見かけによらず手が早いのね。もうその歳で彼女がいるわけだ」
「やめてよ、そういう冗談は。ボク、これでも気を遣ってるんだ。巴さんちのお嬢なんだから、うるさいからあっちへ行けなんて言えないでしょ。それに、眞由ちゃんだって、お兄さんが死んじゃって淋しいんだから、冷たくしたら可哀想なんだよ」
ふうんと遊馬は思う。眞由子が兄を亡くしたのは、五歳か六歳の頃という勘定になる。
「今度、連れてくれば」
「眞由ちゃん連れてきたら、お兄ちゃんのこと巴さんちで喋りまくるよ。それでもいいの?」
「おっと、それはまずいぞ」
「もうちょっと考えてからものを言わなきゃ駄目だよ、お兄ちゃん。だから、ここへ来るのはボクの隠密行動なんだ。まぁ、男には秘密のひとつやふたつあるもんさ」
「あ、そう」
遊馬は眉を掻いた。本当のところを言えば、行馬が眞由子を連れ歩きたくない理由は、この時期女子のほうが発育が盛んで、小柄な行馬と並んで遜色ないどころか、もしかしたら向こうのほうが年下にもかかわらず背が高いかもしれないからなのだが、遊馬がそこまで気づくはずもない。
「すっごくわがままだしね。みんなに甘やかされてんのね、世間をなめてると思うよ」
「あ、そう」
「少しボクが教育してあげないとね。部外者の義務だよね。巴さんにはお世話になってるんだし」
「あ、そう」
「あ、そう、あ、そう、って何だよ、お兄ちゃん、真面目に聞いてるの?」
「え、何か真面目な話なのか?」
行馬はむすっとして、親方の仕事を見学に畳屋へ行ってしまう。これが水曜日だったりすると、哲哉の隣に座って澄ましてお茶を飲んでいたりする。哲哉は哲哉で、行馬を見かけようものなら、その後の巴家の様子はどうか、奈彌子さんの結婚問題はどうなったのかと根ほり葉ほり聞き出そうとする。行馬は哲哉に放たれた密偵のようなものだ。それもかなり有能だったりするので始末に悪い。
「奈彌子さん、元気ないことないか? 鶴了さんから手紙は来てんのか?」
哲哉はわがことのように心を痛めている。手紙の有無まではわからないが、奈彌子が元気でないことだけはそばにいれば誰にでもわかる。鶴了が去ったばかりの頃は気を遣って静かにしていた周囲のひとびとも、この頃は水面下で縁談話を取りざたしている。
行馬が知ったところでは、一閑堂グループが強く推しているのは鶴安《かくあん》という氷心斎《ひょうしんさい》の側近だ。このひとは北山の地主の次男坊で、家元に入ってかれこれ十五年ほどになる。京都という難しい土地のことも宗家巴流の裏も表もよく知っている。いずれにしろそろそろ身を固めさせ独立させるべきひとではあった。
「でも、ボク、あのひとちょっと苦手だなぁ。すっごく優しいんだけどさぁ、なんかいつも手を揉み揉みしながら喋るんだよね。それで、お茶杓見つかってよかったですなぁって何遍も言うんだ。なんか恩に着せられてるみたいで、やな感じ」
「対抗馬はいいひんのか?」
「うーん、眞由ちゃんが言ってたけど、どっかのお坊さんの写真をお父さんたちが見てたって……」
「坊《ぼん》さん? どこのやろ」
やがてわかったところでは、このひとは名前を聞けば知らないひとはいない帯問屋の息子で、実家は寺ではないにもかかわらず、しかも長男であるにもかかわらず、思うところあって大学卒業後出家したという変わり種だ。今は三千院ゆかりの寺にいる。非常に聡明かつ清廉な人柄に人望が集まり、おそらく仏教界でもそれなりに出世はするであろう。親が巴流の直門だから、出家以前にはこのひとも茶の湯は仕込まれている。何があったか知らないが、そろそろ還俗《げんぞく》してもよいのではないか。こういうひとが巴流の長になれば、とかく金銭や権力がらみのごたごたで淀んだ印象のある茶道界に一陣の清涼な風が吹くであろう、というのが哲哉が〈大原のばあさん〉と呼ぶところの大先生のご意見らしい。
「ふーん、大原のばあさんは、一閑堂はんとお家元の癒着にご不満なんやな。ぼくはその坊さんに一票やな。先生《せんせ》はどない思わはります?」
「わたしはな、もうそのこと話題にするだけで心が痛みますわ。出家したいのは奈彌子さんのほうですやろ」
まったくだと遊馬は思う。いつかその話をしたら、カンナでさえひどく怒っていた。
「馬鹿馬鹿しい。それほど家柄が大切なら、奈彌子さんご自身をお家元になさればよろしいのです。家柄がどうとか男子でなければとか、時代遅れも甚だしいことです」
時代錯誤なことにかけては右に出る者のないカンナにこう言われては巴家も立つ瀬がない。友衛家の伝統、武家の誇りを守れといういつもの主張はどうなったのか。
「祖先を誇りに思うことと、ひとを蔑むことは違います。ひとは遡ればみんな類人猿の子孫です」
「おおっ」
開明的な意見に遊馬は感嘆し、しかしもしかしたら奈彌子嬢だけは系統が別かもしれないとも思うのだった。加えてよければ佐保も猿とは無縁ということにしてもらいたい。
あれは年が明けて早々だった。茶室にするための大桶が学校へ運び込まれたというので、とにかく現物を見ようとでかける親方についていった。中庭の隅にそれはあり、かぶせられていた青いシートを三人がかりで剥いだ。
「はーあ、でかいもんやねぇ」
新しく高田畳店に来たばかりの靖が言う。三十|石《こく》桶だ。高さ二メートルはあるだろうか、背伸びしても誰も中を覗くことはできない。
「ほんまやな。こないなとこに放り込まれたらひとりでは出られへん。倒して置いといたほうがええように思うけどな」
とは言え、今それをすることはできないので、用務員室から踏み台を借りてきて桶の外に置き、梯子を中へ降ろした。そうやって三人でごそごそしているのを、校舎のどこかから見かけたのだろう、ジャージ姿の佐保が走ってきた。
「カンナさん、今日はいいひんのですか」
目当てはカンナかとがっかりしたものの、靖がちらちら羨ましそうな視線をよこすので遊馬は少しばかりいい気になった。
「わたしも中に入ってみてええですか」
佐保は覗けるわけもないのに爪先立ちして首を伸ばしている。
「え、危ないよ」
大丈夫大丈夫と言いながら踏み台に乗り縁に手を掛ける。下から脚を持ち上げてやると、運動神経はよいのだろう、しなやかに身体をひねらせ内側へ降りていく。入れ替わりに親方が出てきたところで、遊馬は縁の上にまたがり、じゃあ、俺たち帰るから、と梯子を上げる振りをした。佐保は真っ青になって、いやや、と哀れな声をあげた。
「冗談だよ」
すぐに梯子を降ろしたものの、登ってきた佐保は目の縁だけが赤く、無事に外に出た後、その場にしゃがみ込んでしまった。よほど怖かったらしい。カンナのコピーみたいな娘だと思っていたのに拍子抜けした。
「あーあ、遊馬さん、女の子泣かしたー」
「そら大変や、責任とらな。きっちり面倒見てきいや」
シートを元に戻し、ふたりは梯子を抱えて行ってしまった。
思えば京女を泣かすのはこれが三度目である。翠も泣かした。奈彌子も泣かした。どんなことでも三度目ともなれば、いささか心にゆとりはできる。時間がたてば彼女らは落ち着くのだ。余計なことは言わなくてよいのだ。小さく丸めた背中を眺めながら自分にそう言い聞かせ、ふと思いついてパーカーを脱ぎ佐保の肩に掛けた。
「風邪ひくぜ」
と、ひとこと声をかけたあたりは自分でもなかなか決まったと思った。佐保はパーカーを振り払うこともせず、ありがとう、もうどうもない、とはにかんだ。小さい頃似たような目にあって、それを急に思い出したらしい。
それからしばらく何を話しただろう、教室へ帰りぎわ、今度の日曜は空いてますかと佐保のほうから聞いてきた。三十三間堂へ行きませんか。
「遊馬さんって、もう二十歳にならはりました?」
もしかしたら成人にしか許されないことのお誘いなのかとちょっとどきどきした。
そうして連れて行かれたのが、成人の日に行われる三十三間堂の大的《おおまと》大会だ。これほど華やかな射会を遊馬は見たことがない。何しろ綺麗に髪を結い上げ色とりどりの袴をつけた乙女らが、次々と現れては振袖をたくし上げて弓を引く。皆、今年成人式を迎える若者たちだ。無論、男性も相当数いるわけだが、なんと言っても華は絢爛豪華な振袖だろう。
「こないだ、遊馬さん、聞かはったでしょ。なんで弓道始めたんかて」
カメラマンの人混みから佐保をかばいつつ、そうだったかなと遊馬は首をひねった。佐保がそう言うなら、そんなようなことを尋ねたのだろう。
「子供の頃これ見て、わたしも二十歳になったらここで弓引きたいなぁ思たん。それで弓道始めたんです」
「へーぇ」
「遊馬さん、来年ですか? 成人式」
「そうかも」
「ええなぁ。出られますね。わたし見に来ますね」
無邪気に応援されてつべこべ言い訳できなかった。来年の成人式を自分は京都で迎えることになるのだろうかと考えたら、あらためて自分の宙ぶらりんな状況が意識された。
「あ、先輩や」
佐保は、弓を引き終えた一団の中に知り合いを見つけた。軽く紹介され、佐保と先輩とやらの男性が話す間、ちょっといいですかと彼の弓を借りた。これがいくら引いても引ききれなかった。聞いてみると、弦の張りは遊馬が半年前には引いていたのと変わらない。ほんのちょっと訓練を怠っただけでこうも衰えるものかと愕然とした。
「あのさ、桂木さん」
「佐保でええですよ」
「じゃあ、佐保ちゃん、どこか弓道場紹介してくれないかな。俺でも通えるような。できたら弓を貸してくれるとこがいいんだけど」
「ええですよ。誰かに聞いてみます」
「それで佐保ちゃん、あの指輪くれたの、今の彼だった?」
「指輪?」
「ほら、学校の和室の畳の隙間に……」
「ああ、あれ」
「大事なものだったんだろ。あの先輩からもらったの?」
「ええ?」
佐保は首を九十度くらい曲げ、もっと曲がらないかと試すように、ええ? ともう一度驚いて見せてから、違いますよーと頬を染めた。それが最初で、以来ときどき会うようになった。遊馬にも春はやってきたというところだろうか。
残念ながら、御所の桜の下で花見茶会をするという幸麿の案は実現しなかった。幸麿自身年度初めで忙しく、哲哉も引越シーズンに仕事を休むようならおまえはクビだと兄に脅され、不穏もなぜか法事が立て込んでいた。加えて行馬から連絡が入り、入学式に合わせて上洛する母がついでに桜も観たいと言っているからこの時期絶対観光地には姿を現すなと釘を刺された。
そんなわけで今年の桜はもっぱら天神川のほとりで伊織と名乗る根の暗そうな少年と一緒に眺めていた。
この子はどうやら姓は本当に宮本というらしい。宮本一郎が本名だが、あるとき選挙ポスターに同じ名前を見て以来、そう名乗ることをやめた。
「イケてなかった」というのが理由だ。
「イケてる政治家なんかいるわけないだろ」
遊馬は伊織に川沿いのランニング往復十本を命じる。武道の基礎はまず体力づくりである。この子は見るからに貧弱で、竹刀で叩いたら折れるのではないかと不安になる。竹刀を持ちたかったらまず走れと言った。しかし言われた半分も走ると、彼は戻ってきて遊馬のそばにへたり込む。
「もうあかん……」
「軟弱な奴……」
「師匠、それ、何? パチンコ?」
遊馬は先ほどから太いゴムのようなものを両手ではじいている。
「鳥殺したら叱られんねんで」
「そんなことしないよ。これは、ゴム弓。弓を引く稽古なの」
へぇと珍しそうに覗き込む顔を、危ないからと押し返した。ゴム弓は、秋口にカンナが送ってくれた段ボールの底から引っ張り出した。さすがに自分の弓を東京から内緒で取り寄せることはできないから、崩れかけている型をこれでなんとか思い出す。半年近いブランクのあと、三十三間堂でふと弓に触れたら無性に引きたくなって、弓懸《ゆがけ》は行馬に言って春に持ってこさせ、弓矢は佐保が紹介してくれた道場で借り、誰もいない時間帯にひっそりと練習している。
五月の連休には市内で佐保の引退試合があり、夕刊配達はなかったから、ぶらっと出かけて矢道の脇から観戦した。的を見据える佐保のきりりとした横顔には妙に心を動かされるものがあった。そういえば子供の頃、弥一が肌脱ぎして矢を射るその姿に素朴に感動したことを思い出したりした。
佐保は試合で好成績を収めることはできず、その日で高校における弓道部活動を終えた。明日からは受験勉強に没頭すると言う。東京の大学を受けたいと言う。
「なんでまた。京都でいいじゃん。東京なんて殺風景だよ」
「そうなん?」
「人混みばっかだし、排気ガスはすごいし、悪い男もいっぱいいる。大した理由もないのに東京なんかに行ったら、お見合いの口なくなるって、うちの親方言ってたよ」
「そうやろか。カンナさんの教えてはる大学の弓道部入りたいなぁ」
遊馬は気をくじかれた。佐保があげたのは、昨年遊馬が落第した大学だ。カンナは喜ぶだろう。佐保さんはよい、あの娘《こ》には見どころがありますと、向こうは向こうで褒めちぎっている。女性同士仲がよくてけっこうなことだ。
「ふられたんか」
振り向いたら伊織が見上げていた。この子は最近気がつくと遊馬のまわりをちょろちょろしている。学校に行かないのは困ったことではあるが、〈東京のほうでは有名な古武道の宗家〉が面倒を見てくれるというなら、そこへ通うことだけは許可しよう、というのが宮本家家族会議の結論だそうだ。勘違いも甚だしいと思うのに、何が原因か知らないながら、心傷ついた少年らしいので冷たくあしらうこともできかねる。
「ふられたんやろ。佐保さんは師匠を置いて東京へ行ってしまうねんな」
その指摘にも傷ついたが、佐保の返事のほうがもっとショックだった。
「そんなぁ。伊織君、勘違いやわ。わたしら、別に付き合《お》うてるわけやないしな」
そうだったのか。佐保はもう自分のものだと思っていたのは遊馬のひとり合点だったのか。たしかに、一月の寒い日、佐保の肩にパーカーを掛けることには成功したが、それから幾度となく一緒に出かけもしたが、「好きだ、付き合ってくれ」とはっきり言ったことはない。そんなことは言わずに済んだとばかり思っていたのに、どうやら佐保も翠と同じで、うやむやを許す気はないらしい。
もやもやと思いあぐねているうちに、そしたら、ここで、と佐保は手を振った。
「おまえも帰ったら? そろそろメシの時間だろ」
伊織は黙っている。
「どうした?」
「……ワシ、邪魔やったんか?」
そうに決まっているだろう、もっと早く気づけと、もちろん遊馬は思ったわけだが、実際には、少年の頭に手を置いて、気持ちとうらはらにそんなことないさと答えていた。伊織はほっと息を吐く。
「そうか。そしたらまた明日な」
くるりと背を向けて駆け出し、一筋向こうの電信柱の陰に母親を見つけて帰って行く。
この母親は、付き添うと言えば息子に拒絶されるので、さりげなく距離をおいて彼の跡をついてくる。伊織もそれはなかば許しているらしい。なので、遊馬の後ろを伊織が追いかけ、その後ろを伊織の母がついてくるというおかしなことになっており、遊馬はおちおち落ち着いてデートもできない。よくわからない母子だと思いながらふたりの後ろ姿を目で追った。
帰ると、ちょうど靖もバンで戻ったところだった。
「遊馬さん、親方が学校まで来てくれへんか言うてはりましたよ。あの桶のとこです」
「なんで?」
靖によると、昼過ぎに親方の作った畳が敷き込まれて、ようやく桶の茶室は完成を見た。ほとんどがPTAの職人によるボランティアだったから、本業の合間を縫って作業をしたり、あるいは若い者を勉強のためによこしたりで、話が持ち上がってから完成まで都合半年がかかった。無論、この茶室を学校に寄付した卒業生たちはすでにいない。大桶茶室一棟と書いた目録を残してこの三月に学校を去っている。
彼らは茶室を見ずに卒業したが、庵号だけは自分たちで決めていった。寄贈目録には、〈|○庵《えんなん》〉と記されていた。
「そのまんまやんかぁ。たしかに丸いわ、この茶室」
後日、校長の字を彫り込んだ扁額をかける儀式のようなものを幸麿は企画しているらしい。茶室開きはそのときに、おそらく茶道部を指導している先生が切り盛りすることになるだろう。その前にちょっと祝いの盃でもと、一杯飲み出したら止まらなくなった。昼過ぎから飲み始めてすでに夕方だ。
「仕込み桶やもんな。酒がのうては話になりませんわ」
「○庵やて。単純なおつむやで、わてらの孫はよ」
「なかなかええ風情や。こんなん初めてやさかいどないなるんか思いましたけどな」
「どないなるか思たんは、わしのほうやで、おっさん。いざ、畳作って持ってきてみたら、入口はひとつしかあらへんのやで。それがあの躙《にじ》り口なんやで。どないして畳入れんねん!」
それで急遽《きゅうきょ》、畳の搬入口を兼ねた掃き出し窓が工夫されることになり、今日まで完成が遅れたのだ。
「○庵やて。そのまんまや。なあ、丸い茶室や。ヒック」
「そうですな。ここは茶室や。酒ばっか飲んでんと茶ぁ飲まなあきませんな」
「そやそや。茶ぁ飲まなあかん。茶ぁ飲も、なぁ、誰ぞ茶ぁ点《た》ててぇな、ヒック」
と酔っぱらいが言い、では、と遊馬が呼ばれたのである。
志乃はしょうがないひとらやなと呆れながら、紅鉢《べにばち》、小釜、炭などを貸してくれた。こまこましたものを持っていくより、茶箱のほうがよくはないかと言うので、去年遊馬の祖父が置いていった御所籠も荷台に乗せられた。さらに志乃が急いで冷蔵庫から出してくれた総菜などを積んで遊馬は学校へ向かう。
来てみると、桶が逆さまに置かれていたのでまず驚いた。石の土台の上に大きな桶が持ち上げられている。その上に茅葺きの丸い屋根が掛かり、まるで巨大な茸のようだ。しばらく外からその景観を眺めたあと、ようやく躙り口を開ける。
「ああ、よう来た、よう来た。これがわしとこのお坊《ぼん》ちゃんやねん。ちいとお茶もできますし、この子に点てさせますわ。ええやろ」
親方が紹介すると、「ええ、ええ」と、もはやどうでもいいように職人たちが答えた。
中は決して広くはない。差し渡し約二メートル、半円形の畳二枚の上に、親方を含めて四人も男たちが座っていた。そこへさらに遊馬が潜り込む。閉所恐怖症のひとには絶対向かない。
「遊馬はん、このひとらに茶ぁ飲ましたって」
「はぁ」
「この茶室の初使いやで。内緒やけどな」
「○庵やて。もうちぃっと、何かひねれんもんかなぁ。ヒック」
「こんなことしてて大丈夫なんですか。学校に叱られませんか」
叱るも何も、用務員まで一緒になって赤い顔をしているのだった。
遊馬は言われるまま荷物を運び入れ、教えてくれるひともいないから用務員室で自己流に炭を熾し、紅鉢の崩れた灰の上に並べた。小釜をかけたものの湯はなかなか沸かず、待つ間に腹が減り、その辺に持ち込まれたものをむしゃむしゃと食べた。すでに外は暗い。
「付き合わしてしもて悪かったか」
「別にいいですよ。明日新聞休みだし」
「なんや、そうかぁ。明日は休みなんかぁ。ほな、あんたも飲みぃ。これは伏見のええ酒やで。この桶よこしたうちから送ってきた。用務員室に隠してあったんや」
未成年ですからと断る遊馬に、歳など関係ないと親方はコップを押しつける。
「自分の手ぇで稼いで食べてたら、十歳《とお》の子やっても成人や。酒くらい飲みぃな。祝いやねんから」
「そや、そや。うちの上の娘なんぞな、あんた十九歳《じゅうく》で嫁に行ってしもてんぞ。十九歳の娘に三三九度の酒なんぞ飲まして、わしはよっぽど警察に婿さん連れてってほしかったわ。犯罪や、犯罪やー」
と、用務員のおじさんはかなりできあがっている。
「あああ、呑んべえが……」
まだいくらか正気を保っているらしいおじさんが遊馬に笑いかける。
「あんさん、この桶、何の木でできてるか知ったはりますか」
杉かな? と遊馬は答えた。
「そうですわ。吉野杉や。吉野の杉でないとあかんらしい。木目が詰んどって水を漏らさん、木の香りが日本酒とえろう相性がええ。なんせ、吉野杉ゆうもんは今でこそ建材に使われとりますけど、もともとは樽桶専用やって。はなから樽や桶に都合良う丹精されてますんや。まっすぐな木目作るために間引きしたり枝打ちしたり、せんど世話してそれでもモノになるのは自分の代やないかもしれへん。すごいもんやなぁ。この杉も百年ものですやろ。百年生きて切り倒されて、桶になってからどんだけ酒を抱いてきたんやろ。窓くり抜いてたらな、ほんまに酒の匂いしてきましたで」
一升瓶を掲げて遊馬のコップに注ぐ。
「なんや、お湯沸いとんで。こりゃちょうどええわ。気ぃきくなぁ」
と、用務員のおじさんが徳利《とっくり》を釜の中に入れたので、遊馬はびっくりした。
「まあ、ええやないですか。壊れへん、壊れへん」
さあ、ぐっと行こと親方も脇から勧めるので、遊馬は言われるままコップを仰いだ。
「○庵やてー。単純やなぁ、うひひ」
何度も同じことを言っているおじいさんは、屋根を葺いた職人だ。
「あのひとは、ずーっと、丸い屋根や丸い屋根やてぶつぶつこぼしてはった。もしかしたら丸い茶室でいっち苦労しはったんは、あのひとかもしれへん。茅かて今どきええもんはなかなか手に入らんそうや。よそのお茶室用に仕入れて余ったんをうまいこと集めてな、せやからところどころ種類が違うそうなんやけど」
「おお、なんや降った雨がどう流れんのか頭ん中で計算するらしいで。えらい仕事やな。知らんかったわ。けどな、丸うていっちしんどかったんは、やっぱりあんさんやろ。あの躙り口」
遊馬もそう思った。なにしろ、戸が円周に沿って滑るように開くのだ。それだけでもすごいと思うが、よく考えると桶の側面には微妙に傾斜もある。それで上下張り出し具合の異なる鴨居《かもい》と敷居をまず作り、その間に曲面の戸板を滑らせている。隙間をふさぐ工夫も雨除けの小さな軒もついている。
「あれな、うちの若いのんがしましたんや。わたしはな、填め込み式か、開き戸でええ言いましたんや。趣味のものやし、予算もないし、無理せんでええて。せやけど、若いのんが面白がって、ぜひやらしてくれ言いよって。なんや、指物《さしもの》師になったような凝りようでしたわ。そらな、楽しい仕事して若いもんはええけどな、それに給料払うこっちの身は、あ痛たた……」
「ほんまやな。うちもお母《かん》にえろう嫌み言われたな」
「そうですやろねぇ。高田さんは、わたしらと違《ちご》てPTAやありませんのやろ」
「けどな、このひとの弟がここの新入生でんにゃ。せやし、準準準PTAくらいにはなりまっしゃろ」
とにかく、自分たちの子供や孫が世話になった学校だというだけで、赤字覚悟の仕事を引き受けた職人たちは、それぞれに上機嫌で満足感に酔いしれている。
「○庵やてぇ。あっさりしてええ名やなぁ。最高や……」
茅葺き職人もついに酔いつぶれた。
結局、準備だけさせられて遊馬はその晩、茶を点てることはなかった。それどころか、意外に美味しかった酒を飲み過ぎて早々に意識をなくしていた。
気がつくと、竹の格子窓の向こうが白んでおり、折り重なるように倒れた職人たちがやかましく鼾《いびき》をかいていた。紅鉢の炭はとうに燃え尽きて、釜の湯も冷めている。
遊馬はむっくり身体を起こし、桶底の天井を見上げ、あらためて男たちを見渡した。喉が渇き、冷めた湯を二、三杯コップで飲んで、しばらく考えてから、そっと釜を持ちあげて用務員室へ行った。新しい炭を熾し、新しい水を入れた釜をかける。持ってきた御所籠の紐を解いて、茶道具を取り出し並べた。昨夜よりは上手に炭を置いたらしく、やがて湯が沸き音を立て始めると、自分のためにまず一服点てた。
そのうちに職人たちも目を覚ますだろう。二日酔いには抹茶が効くと、嘘かほんとか以前祖父が言っていた。だからきっと目覚めの一服は喜ばれるにちがいない。
親方は物音に目を覚ましていた。薄目を開けて遊馬の様子を見ていた。暁の中の若者は、なんだか妙に茶人くさい顔をしているなとおかしくなって、笑い出さないように寝返りを打った。
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九、 |和 尚 遺 名 筆《ぼうずがじょうずにじをかいた》の段
雨の日の新聞配達はつらいものだ。ヘルメットで見通しが悪くなるし、バイクのタイヤは滑りやすい。濡らしてはならないからとビニールをかぶせた新聞はいつもと違って運びにくい。配達が終わると、身体の妙なところが凝っていたりする。それがここ二日、朝から晩までずっと降り続いている。気分まで湿ってくる。
夕刊をようやく配り終えて配達所から戻ると、ちょうど哲哉が稽古を早めに切り上げて帰るところだった。
「物件案内やねん。どないしても今日やないとあかんて言うお客さんがいはってな」
なるほど、稽古日にしては珍しくワイシャツにスラックスという装いである。このまま仕事に行くらしい。せっかくの休日なのにと冴えない顔でため息をつく。
「なぁ、そう言うたらぼくらのお茶会この頃どないなってんのやろ。全然、声かからへんなぁ。遊馬《あすま》はん、ちょっと不穏《ふおん》さんとこ行って聞いてきてえな」
自分で行けばよいではないかと思いながら遊馬は生返事をした。濡れたヤッケを脱ぐ手もだるく、何か言い返すのも億劫だ。
「不穏さんとこ行かはんのですか」
志乃が茶室から顔を出す。
「ちょうど水無月作ってみたとこですわ。持ってってあげ。いつももろてばかりで悪いしな」
「今すぐ行くわけじゃ……」
「早いほうがええて。固《かた》なってしまうし。待ってや。すぐ包むしな」
帰ったばかりでまたすぐ追い出された格好だ。やれやれと思いながら抵抗する気力もなく傘を広げた。
寺では何やら書斎に料紙を広げ、不穏が筆で熱心に書き物をしている。奥さんの言うには、雨で庭掃除もできないのでずっとそうしているらしい。
「それ、何ですか。写経?」
漢字が並んだものを書き写しているように見える。
「圜悟《えんご》です」
聞いてはみたものの興味があったわけでもなく、遊馬は目を外に泳がせた。窓に雨が流れている。その向こうにはただ厚い雲。不穏は筆を硯の上で整えながら聞く。
「外の音は何ですか」
音など何もしない。ただ雨の音ばかりだ。
「雨ですけど」
不穏はことりと筆を置く。
「鏡清《きょうしょう》僧に問う、門外これ何の声《おと》ぞ。僧云く、雨滴の声」
「はぁ?」
「あるとき鏡清という老師が若い僧に聞いた。外の音は何だ。若い僧は答えた、雨だれの音ですと」
不穏の指さす床の間に〈雨滴聲《うてきのおと》〉と書かれた軸が掛かっていた。遊馬は言う言葉が見つからない。いったいそれが何なんだ?
不穏はまた筆を取り直して作業に戻っている。
奥さんが遊馬の持ってきた水無月と一緒にお茶を出してくれた。その熱い煎茶に口をつけてぶるっと遊馬は身震いした。思ったより身体が冷えているらしい。そういえば少し熱っぽいか。
不穏のほうから紙が一枚滑ってくる。〈草裏漢〉と書いてある。
「何ですか」
「〈そうりのかん〉。まあ、ひよっこ野郎とでもいう意味です」
もう一枚くる。〈|明 珠 在 掌《みょうじゅたなごころにあり》〉。
「誰でも珠《たま》は持っているということです。磨かなければ意味がない」
さらに来る。〈臥龍《がりょう》〉。
「いずれ天に昇るときをじっと待っている龍」
遊馬はもぐもぐしながら紙を拾い上げる。
「不穏さん、何か俺に言いたいことでもあるんですか」
菓子を届けに来て説教をされたのではたまらない。
「いえ、そのようなつもりは……。では、これはいかがですか」
と不穏はもう一枚書いてよこした。〈日々是好日〉。
「これならご存じでしょう。にちにちこれこうにち。または、ひびこれこうじつ」
さすがにそれならどこかで見たことはある。
「毎日いい天気だ」
「いや、天気ばかりのことではないのです。もっと深い意味がございます」
「不穏さん、まさかその深い意味を今から説明するつもりじゃないですよね」
「え?」
「俺、志乃さんに言われて菓子持ってきただけですから。ちょっと頭も痛いし。悪いけど難しいこと聞く気分じゃないんです」
「いえ、わたしがお伝えしたかったのは、これらの言葉は皆〈碧巌録《へきがんろく》〉という書物が出典になっているということだけです。〈碧巌録〉、ご存じかと思いますが」
遊馬はもうひとつ水無月をくわえたまま、首を横に振った。
「俺、そういうこと覚えるのイヤで家を出てきたわけですよ。ご存じ[#「ご存じ」に傍点]かと思うけど」
「……そうでしたか。存じませんでした。〈碧巌録〉は百の公案に注釈を施した、まあ、禅僧にとっては教科書か参考書のようなものです」
「だから説明してくれなくていいんです」
「しかし、あなたが最初にお尋ねになったのですよ。それは何だと」
ああ、なるほど。そうだったのか。不穏はその〈碧巌録〉とやらを写しているわけだ。
「いえ、少し違います。〈碧巌録〉をまとめた方が圜悟《えんご》克勤《こくごん》禅師という方なのです。わたくしが写しているのはこの方の墨蹟ですが、〈碧巌録〉そのものというわけではありません」
圜悟克勤は、中国宋代の禅僧である。臨済義玄の弟子の弟子の弟子のそのまた弟子だ。圜悟の弟子の弟子の弟子の……弟子あたりが日本に臨済宗を伝えているから、本邦の禅林でも大変尊重されている高僧だ。
「今でこそ、お茶会に参りますとどこでも当たり前のように禅語の軸が掛かっておりますが、一番最初にあのようなものを掛けたのはどなたでしょう」
さあ、と遊馬は首を傾げた。
「珠光です。それまでは、だいたい茶席には絵を掛けたものです。珠光が初めて高僧の墨蹟を掛けました。それが、この圜悟なのです。珠光はこれを一休宗純から与えられたと言われています」
「一休って、あの一休さん?」
「そうです」
「えーっ、お茶の始まりって一休さんからだったんだ」
「そう言うこともできるでしょう」
「だから、お茶人ってみんなあんなにトンチが好きなんだ」
不穏はコホンと咳をした。
「いや、それは……。何でしたか、ああ、そう、圜悟墨蹟は一休禅師から珠光へ印可の証として与えられたのです。珠光の修行が実ったと認められたわけですね」
「珠光もトンチ博士になった」
「ご冗談は大概に。禅の修行に決まっているでしょう。よろしいですか、それまでの精進が認められて師から授かった大事な墨蹟です。書いたのは中国のいにしえの高僧です。これを床に掛けて点てるお茶とはどのようなものだったでしょうか。遊興の茶でしょうか」
それはやはり遊びではない心引き締まるお茶であろうなと遊馬でも思う。
「墨蹟とは本来そのような心持ちでこそ掛けるべきものなのですね。自分の修行がどのような法統をたどるものかを証明するものです。先人たちの背中を仰ぎ見ることであり、また時には正面から対峙するものでもあったでしょう。春だから〈一華開《いっかひらく》〉とか、夏だから〈雨滴聲〉とか、年中使える〈日々是好日〉とか、そのようなものではないのだと思うのですよ、本来は。このように禅の教えを茶席の床に持ち込んだ最初のひとが珠光であり、そこに掛かっていたのが圜悟の墨蹟だというわけです。圜悟の墨蹟は何点か日本に渡ってきておりますが、中でも珠光が一休からもらい受けたこの圜悟墨蹟こそ茶掛けの第一であると伝えられてきておりますね」
「それがこれ?」
「……と言われているわけですが……」
トーンがいささか落ちている。不穏が先ほどから写しているのは、とある展覧会の図録写真だ。それを拡大コピーしたものを手本のようにして書き写している。傍らには別のコピーもある。そっちは何かと尋ねると、それもまた圜悟だという。しかし、どう見ても違う筆跡だ。同じ人物の手になるとは思えない。
「で? なんだってまたそんなこと始めたんですか」
「ええ、今出川さんがちょっと面白いものを持ってきたので」
幸麿《ゆきまろ》のところに一週間ほど前、風林堂が電話をかけてきた。ちょっと見てほしいものがあるという。
風林堂の主人はその少し前に伊賀上野の民家へ買い付けに出かけた。家を建て直すので、わけのわからない骨董を処分したいという依頼だった。伊賀といえばなにしろ忍者の里であり、その家も名門藤林家と深い関わりがあるというので、ひょっとして忍術の秘伝書〈萬川集海《ばんせんしゅうかい》〉の古い写本ぐらい出てこないだろうかと期待して赴いた。その世界では知らぬ者はないほど有名な忍術の百科全書のようなものである。出てきたら買いたいという客がすでにいた。
実際には、忍者の里を観光資源として町を整備している行政ぐるみでめぼしい品はとっくの昔に蒐集され尽くしており、大きな発見はなかった。忍者仕様に刀身を黒く塗った短刀が一振り見つかったくらいだ。
風林堂の主人は頭の中に〈萬川集海〉を思い浮かべていたこともあり、刀剣類ばかりでなく書画にも気をつけていた。しかしそれも望み薄なことはすぐにわかった。この家の代々の当主はよほど書画に興味がなかったと見えて、保存状態はひどく、保管どころかゴミですと言わんばかりに放り出してあった。箱からして鼠に囓られたようなものばかりだから、仕事でなかったら誰も触ろうとは思わないだろう。以前、プロの手は入っているらしく、いくらか値の付きそうなものはその時点で持ち去られている。つまり、残っているのはゴミの中のゴミだった。
風林堂もそんなものはほしくなかったのだが、すっかり蔵を空にする気でいる先方の意向もあり、短剣一振りでは乗っていった車の荷台もがら空きだから、二束三文で一括引き受けてきた。こんなものを店に持ち帰ったら、虫を持って帰るようなものだなと思った。たとえ大家の真作だったとしても、こう汚くては誰が買うか。ちょっと埃をはらってがらくた市にでも持っていくしかあるまい。そんな代物ばかりだ。
暇なときにそれらを広げてざっと眺め、例によって筆ペンでラベルを書いた。一応誰々の何々と名はつけなければならない。そうしているうちに、一枚の掛軸に〈圜悟〉の名を見た。専門外とはいえ、圜悟の名を聞いたことくらいはある。しかし見たことはない。そんじょそこらに転がっているようなものではないはずだ。まして伊賀の里と圜悟では結びつくものが何もない。はてと首を傾げた。
いつもならこんな類のことは軽く一閑堂に尋ねてみるのだが、例の茶杓の一件で、一閑堂は風林堂を欺いた。一閑堂はわずかな元手でけっこうな品を手に入れたのに、いくら水を向けても知らんぷりで、一銭も風林堂にバックする気はないらしい。旧知の仲でそれはないだろうと憤慨しているところだから、話もしたくない。それで、代わりに幸麿を呼びつけた。
幸麿はその虫食いだらけの軸を眺め、うーんと唸り、「圜悟ねぇ」と呟いた。漢字ばかりが十五字くらいずつ七行あり、その最後に〈建炎元年四月二日圜悟禅師克勤書〉とあるのは、ところどころ欠けてはいるもののたしかにそう読める。印のようなものはない。
「どないや。売り物になりそうやろか」
「そうねぇ。風林堂さん、これは宝かゴミかどっちかやわ。箱書きも鼠に囓られて読まれへんし、紙も表具もぼろぼろやし、圜悟さんやなかったら衛生上燃やしたほうがええくらいのものよねぇ。誰かて筆と墨さえあったら〈圜悟〉て書くことはできんのやし、昔は写真もコピーもなかって本物と比べるゆうこともまあ無理でしょう。持ち主がそう信じはったら圜悟やのうても圜悟になるやろしねぇ」
「やっぱり屑か」
「伊賀忍者の頭領がこないなもん掛けてお茶を飲んではったゆうのもなんやしっくりきいひんわ。第一そないなお茶人やったら他にもええ御道具がたくさんあったはずよねぇ」
「それは一個もなかったらしいわ」
「信心深いご先祖さまとかは? 禅に入れ込んではったら、こないなお軸をありがたがって掛けてはったもしれへんけど」
「そこまではわからへん。忍者ゆうても武士やろ。武士やったら多かれ少なかれ座禅くらいしたと思うわ」
「一緒にあったものはどない? 紛い物ばかり?」
「わからへん。他はみんな絵やねん。鑑定してもろたら鑑定料だけで足が出るようなんばっかりや。字はこれだけや」
「そう……。別段趣味のない家にほんまもんの圜悟があるゆうのは不自然やけど、趣味のない家が圜悟の偽物つかまされるゆうのも、もっと変かしら。利休さんとか宗旦さんとかならまだしも誰がわざわざ圜悟さんみたいな面倒くさいもんの偽物作らはるやろ。わからへんわ。でも、万が一、これがほんまの圜悟さんやったら、百万や千万の単位やないわ。誰にも値ぇつけられへんと思うわ」
「ひぇ、ほんまかいな」
「期待したらあかんと思うけど、ちょっと預からしてもろてもええかしら」
こうして幸麿は虫食いだらけの軸を預かったわけだが、預かってもどうしたものか。まずは筆跡を見ようと思ったが、写真で見られる圜悟墨蹟は、おのおのまったく違う筆跡にも見えどれと比べたらいいのかわからない。所在のわかる圜悟の記録を調べようと古い茶書など繙《ひもと》いて一週間ほどああだこうだ悩んでみてから、不穏のところへ持ってきた。
「ちょっと見てほしいの」
不穏の前に破れそうな軸を広げる。
「ほお、圜悟禅師ですか」
「どう? 本物?」
「突然そう聞かれましても」
「あなたもそれなりに禅の修行は積まはったんでしょう。一目見て、徳のあるお坊さんの字かどうかくらい判断できないの?」
「どうなさいました。なにやら興奮してらっしゃるようにお見受けしますが」
幸麿はちょっと斜に構えて見せて、すぐに相好を崩し、見て見てと茶書を広げた。
「ほお、〈松屋名物集〉ですか」
松屋というのは奈良にあった漆屋である。代々当主が深く茶をたしなみ、利休、織部、遠州といった名だたる茶匠たちと交遊もあった。〈松屋名物集〉は松屋のものに限らず世に名高い名器の数々について、その所在伝来を記したものだ。
この筆頭に掲げられるのは村田珠光の所蔵品である。
「圜悟墨蹟があるでしょ。表具まで詳しく書いてあるわ。いい、読むわよ。中廻《ちゅうまわ》し、茶、平絹《へいけん》」
中廻しとは、掛軸にしたとき本紙を囲むように見える裂地《きれじ》のことだ。平絹とは平織りの絹のことだろう。
「こちらの中廻しも茶色ですね」
畳の上の軸を見て不穏が言う。
「上下、浅葱《あさぎ》、平絹」
上下とは天地のことで、軸の一番外側の裂地である。上部と下部同じものが使われる。
「だいぶ色が褪せておりますからはっきりとは……。まあ、浅葱色と言えば言えなくもないですか」
「一文字《いちもんじ》、風帯《ふうたい》、紫地印金」
一文字は、本紙の上下に添えた横長の細い裂地であり、風帯とは軸の上部からひらひらと下がっている二本の平たい紐のことだ。
「紫とも紺とも見えます。あるいは黒かも。金は載っていません」
「そないなもん、何百年もたってたら取れてしまうんとちがうかしら。それにね、ちょっとその右の風帯をめくってみて。そっとよ」
不穏が静かに風帯を持ち上げると、その裏にきらきらと金粉のようなものがついていた。おお、と思わず不穏も唸る。
「そしてね、最後が、露《つゆ》、紫」
露は風帯の先の小さな糸総《いとふさ》である。普通は白だが、本紙の作者が貴人であるときなどは紫も使われる。不穏はじーっと顔を近づけて風帯の先を見る。白くはない。たとえはじめは白かったとしてもこの保存状態で白いままであるはずがない。きっとそれは黄色か茶色に変色しているだろう。
「わかりません。白かったものが汚れたようにも見えますし、紫だったものが退色したようにも見えます」
ようやく頭を戻してぽつんと言った。
「奇遇ですね」
「奇遇? これが? 圜悟なのよ、珠光表具なのよ。ひょっとして、ひょっとして……」
「まあ、落ち着いて。たしか、珠光表具というのは一文字のないのが特長ではなかったでしょうか。それを省いたことによって侘び数寄の心が見事に表現されたと利休居士が絶賛されたとか」
珠光というひとは表具のセンスが抜群だったらしい。同じ書画でもどのように表装するかでそのイメージはがらりと変わる。きらびやかな裂地でするのか、侘びた裂地でするのか、どのような色柄を取り合わせるのか。荘厳な寺院や書院には威厳のある表具が似合うだろうが、珠光や利休の目指した侘び茶の草庵には枯れた表具が似合うだろう。
東山御殿に宋代の徐熈《じょき》という書家の描いた鷺の絵があった。これをもらった珠光は、その表装を直すときに一文字を省いた。その侘びた様子を後代の利休が絶賛したために、〈珠光表具〉とは素晴らしいものだということになった。
「でもね、珠光さんが一文字をはずしたのは鷺の絵が最初なのよ。圜悟の墨蹟もそうだったとは言えないと思うわ」
「そうですか……。しかし、珠光伝来の圜悟墨蹟はたしか東京のどこかの美術館にございましたよね。展覧会で見た覚えがあります」
「たしかにあるわ。でも、あれにも一文字はついているわ」
「誰かがあとからおつけになったのかもしれません」
幸麿はやや落胆する。
「不穏さんは、やっぱりこれは珠光の圜悟やないと言わはるのね」
「そうは申しません。今出川さんこそどうなのでしょう。古美術商の家に生まれ育ったあなたこそ、一目見て、これは珠光和尚の表装かどうかピンとこないのですか」
「イケズやわ。不穏さん」
「いやいや、申し訳ございません。……そういえば、珠光の圜悟については他にも何か書かれたものがあったように思います」
そう言って不穏は書架を探した。
「これだったでしょうか」
何やら和綴じの本を取り出してぱらぱらとめくる。ずいぶん長いことたってから、ありましたと幸麿を見た。
「ここです。伊勢屋が利休居士に相談したというくだりですね。圜悟の墨蹟が格安で売りに出ているから買いたいと思うがどうかと。利休は、あなたの豪勢な屋敷には似合わないからやめておきなさいと言っています。それでも伊勢屋はほしかったのですね。もう一度相談しています。そのときには伊勢屋はどうやら火事にあって少し粗末な造りの家に暮らしていたようです。今なら買ってもよいと利休はおっしゃったと。面白いですね。そしてこれは珠光が末期《まつご》に掛けた軸であるとおっしゃったと。ふむふむ、七くだり有るなりと。七くだり? 七行ということですか」
ふたりは広げた軸に今一度目を落とす。口はつぐんだままだ。わざわざ数えるまでもない。軸の文字は七行あった。
幸麿がおもむろに不穏を見た。不穏は逃げるように本へ目を戻し続きを読んだ。
「表具は、上下が浅葱の平絹で中廻しは茶色、一文字風帯は紫印金。先ほどの記述と同じです。引き写しかもしれません。紐のことまで書いてあります。掛緒《かけお》が切れかかっていたのを、利休はそのままにしておき、もう一本新たに通してそれで掛けなさいと言った。なので掛緒は二本付いているのだと」
幸麿は掛軸の紐を手でもてあそぶ。紐は一本しかなかったが、しかしおそろしく古い紐で、切れていた。
「じゃあ、このぼろっちい掛軸、本物なんですか。珠光が持ってたものだったわけ?」
「わかりません。今出川さんの帰られた後、さらに他の本など調べましたら、古田織部がその掛緒を新しいものに取り替えたという記述なども出てきまして、しかしよくよく見るとそれらすべての情報の出所が松屋なのでして、松屋がこの軸を所有した記録はないのですから、どこからどこまでが本当なのか、もはやわたくしには訳がわからないと申しますか……、手に余りますので、明日にでも真珠庵の御住持に教えを賜りにまいろうかと思っているところです。よろしければご一緒いたしませんか」
「え?」
「実を言うとちょっと荷物が多くひとりではどうしたものかと……」
さんざん講釈されたあげくに荷物持ちかとややげんなりした。
翌朝、新聞を配っている間はまだ小雨模様だったのが、配達を終え、昼寝をしている間にからりと上がった。いつもより早めに昼食を済ませて不穏のお供をしてでかける。本やコピーを束ねた風呂敷包みを持たされ、大通りでタクシーを拾おうと振り返ったところへ伊織が竹刀を担いで駆けてきた。雨の間は家でおとなしくしていたらしい。
「こいつ、どうしますか」
不穏は困った様子で少年を見る。この子を遊馬に紹介したのは自分だったのだから、知らんぷりもできない。
「広いお寺ですから、用事の済むまで外で遊んでいてもらえば大丈夫でしょう」
それでいいかと尋ねると伊織はうんとうなずいたので、では連れていこうということになった。
「大徳寺までお願いします!」
タクシーの車内を覗き込み、遊馬は風呂敷包みを座席の奥へ放り込む。
「そないに大声で言わんでも聞こえますがな、お客さん」
それはわかっているが、ひとつ向こうの電信柱まで聞こえれば伊織の母が安心する。
「そういえば、昨夜《ゆうべ》、哲さんから電話ありました。お茶会はしないのかって」
もともとそれを尋ねに不穏のところへ行ったのに、ひとことも聞かずに遊馬は帰ってしまったのだった。そうも言えないから、とりあえず次回の軸は圜悟らしいとだけ答えておいた。
「何やねん、それ」
〈碧巌録〉の作者だが知らないのかと聞き返したらむにゃむにゃとごまかして向こうから電話を切った。少し意地悪をした。
「そうですね。しばらくいたしておりませんね。今出川さんがお忙しいようで。休日の東京出張が多いようです。受験生の担任ともなると大変なのでしょうか。それに加えて、ここのところはこの圜悟に入れ込んでらっしゃいましたし。なかなかお茶会にまで気が回らないのかも知れません。それにつけてもよい結果になるとよいのですが……」
いささか緊張の面持ちで、不穏は真珠庵の入口にある松の梢をくぐり抜けた。
玄関先に風呂敷包みを置き、伊織を連れて外へ出ようとしたら、真珠庵の和尚はかまわないから一緒に入れと言ってくれた。
「饅頭でも進ぜましょう」
伊織は正直ににかっと笑い、三人ともに客間へ通された。
不穏は堅苦しいほどの態度で時間を割いてもらった礼を言い、掛軸を広げて見せた。どのように見いだされたかを説明し、自分が調べてわかったこととわからないこととを運んできた書物を繰りながら細かく話す。はじめは行儀よかった伊織も饅頭を食べてしまうとやがて退屈し始め、あくびをしたりもぞもぞと身体をくねらせたりする。遊馬がぴしっと二の腕あたりを叩くと一瞬だけ姿勢が直り、またくにゃくにゃとなる。
和尚は顔を上げた。
「坊《ぼん》は一休さんは知っといやすか」
伊織がうなずく。
「むこうにいやはりますわ。見といやす」
「ほんま? ほんまに一休さんいてんの?」
伊織は立ち上がり、襖に手を掛ける。不穏は慌てて注意した。
「走ってはいけませんよ。やたらなものに触ってもいけません」
「まあ、よろし、よろし。気遣いありませんやろ。庭に誰かいてるはずやし、わからんことあったら聞きなはいや」
遊馬もやれやれという様子で立ち上がり、伊織の後ろからついていく。書院のほうへ行くと、なるほど庭に作務衣《さむえ》姿の若者がいた。雨上がりの青々した苔の端にしゃがみ込んで何か作業をしている。
「一休さんどこ?」
と不躾に伊織が聞くのに、指で方角を示してにこりとした。
たたたっと小走りに濡れ縁を曲がり、しかし伊織はすぐにとぼとぼと戻ってくる。見つかりましたかと若者に聞かれ、じいさんやったと小声で答える。老体を写した古めかしい木像である。てっきり小坊主一休が現れると思っていた伊織の勘違いに気づいて作務衣が笑った。
「お髭《ひげ》の部分は本物の毛やそうです」
「ちょっと怖かったで」
「悪いことをすると怒られます」
「ふーん」
伊織は気が抜けたように座りこむ。目の前の庭は珠光の作庭との伝えもある〈七五三の庭〉だ。石が七個五個三個と配置されている。昔は比叡山を借景に望めたらしい。
伊織は再び探検に乗り出してはここへ戻り、三度歩き回ってまた戻り、そうしている間にようやく不穏からお呼びが掛かった。
「せっかくですから、珠光さんのお墓に参らせて頂きましょう」
和尚が案内してくれるという。
「真珠庵いう名ぁは、昔、中国の坊さんが修行しとったら雪が降りましてな。あばら屋根の隙間から寺の中へも吹き込んできて積もった。寒くてつろうおましたやろねぇ。けど、そこへ月が昇ってきましたらな、その雪が月明かりに真珠のように輝いたと、そないな故事にちなんで一休さんが名付けましたんや。厳しさと美しさと両方兼ね備えたええ名ですやろ」
和尚に引き連れられて三人は珠光の墓に合掌した。圜悟がどうなったのか、説明はなかった。
「お茶室は見せていただけましたか」
再び荷物を抱え、広い山内を抜けながら不穏が聞く。
「わし、見た。窓に虹が出た」
「虹が?」
書院から離れへと歩いて行ったところに〈庭玉軒〉というその茶室はあった。入ってもいいですかと尋ねたら、およそ茶室に関心のある人間には見えなかったのだろう、作務衣の若者は不安そうにそばまで付いてきてようやくふたりを入れてくれた。
客畳に座ってみる。以前幸麿が教えてくれたとおり、なるほど間取りは不穏の茶室と同じなのに、趣はずいぶん違う。障子の向こうが廊下ではなく壁で囲った土間だからだろう、真昼だというのに部屋の中はほんのり暗い。空気がひんやりしている。床には大きな横物の軸。竹筆で書かれた勢いのある字だ。妙に心惹かれるのに、いくら眺めていても読めない。
「師匠、虹やで」
伊織が点前座の色紙窓を指さしている。暗い部屋の中でそこだけが異界の扉のように明るい。白い障子に数本うっすらと赤や緑の美しい筋が浮いている。不思議に思ってそばに寄って見ても、紙に色がのっているわけではない。素っ気ない白い紙に光が勝手に描くものらしい。
「お天気のええときだけ、そないに綺麗な縞《しま》が出ますわ。なんでやろね」
作務衣の若者は珍しくもなさそうに言った。伊織は不思議そうにいつまでもそこから目を離さなかった。
「虹の窓ですか。よいものを見ましたね」
不穏は言いながら客待ちのタクシーに合図をする。それで? と遊馬は思う。それで軸はどうなったのだ。
「焦《じ》らさないで教えてくださいよ。どうだったんですか」
不穏は首を小さく横に振る。
「残念でした。今出川さんががっかりなさるでしょうね。どう申し上げたものか……」
幸麿は結果を聞きに今晩不穏のところへ来るらしい。きっとまた虚ろに宙を見上げたりするのだろうなと、その姿が目に浮かぶようだった。遊馬自身も今しがた一休像を見て少しばかり親近感を抱いたところだったから、いささか残念ではある。
「珠光伝来のものではなくとも、もしや圜悟の筆なのではと、わたしもやはり期待していたのでしょうね。顔に出たのか、御住持にずいぶん慰められてしまいました。修行が足りません」
はは、と不穏も気が抜けたように笑う。
三人で不穏の寺へ戻り、遊馬は伊織にナオちゃんの子守を命じて夕刊配達に出かけた。配達が終わったら稽古をつけてやることにした。
母親に買ってもらった子供用の竹刀を伊織は嬉しそうにいつも握りしめている。遊馬の流儀のものとはだいぶ違うのだが、ひとを打つわけではないからまぁいいことにした。稽古以外で誰かを打ったら破門だと一応言いつけてある。そう言われていても、同じ年頃には遊馬自身ずいぶんと弟を痛めつけた。そのたびにさんざん叱られ、隣の寺に放り込まれた。破門など何度されたかわからない。
昔自分が言われたのと同じことを偉そうに師匠面して言ってみる。伊織のほうは固い顔をして、うむとうなずいた。彼なりに何か〈道〉を学んでいる気ではいるらしい。
母親の姿が見えなくなっていたので、稽古の後、バス停まで送って行った。伊織をバスに乗せ、ぶらぶら帰ろうと歩き出したら、少し先の角に見慣れた赤いクーペが止まった。不穏のところへ来ると聞いてはいたが、それにしては中途半端なところに車を止める。と、助手席のドアが開いて臙脂《えんじ》色の袴が降りてきた。
「カンナ?」
遊馬は驚いて声をかけた。相手のほうはもっと驚いたらしくびくりとして、「あ、あ、あ、遊馬さま」とどもっている。
「え、なんでここにいるの? また来たの?」
「は、はい。行《いく》ぼっちゃんの授業参観で、奥様の名代《みょうだい》で……」
「ふーん」
と、遊馬は運転席を覗き込む。幸麿が澄ました顔で、ハンドルにもたれかかっている。
「遊馬君のところへ行かはるゆうし、ついでにお送りしたのよ」
「だったらもっと先まで送ってもらえばいいじゃん。俺んとこは寺のもっと向こうだよ」
振り返ってカンナに言った。
「それもそうですね」
と、にっこり笑った。こんなの見たことないぞというくらい嘘くさい笑顔だった。
車はすーっと去ってしまい、遊馬とカンナが取り残される。
「風馬《かざま》さまからこれを預かってまいりましたっ」
有名な菓子屋の袋を掲げてみせる。
「それはいいけど、幸麿さんってさあ、高等部の先生って言ってなかったっけ」
「はぁ」
「行馬の授業参観で偶然会ったりするのかなぁ」
「はぁ」
「カンナ、幸麿さんのこと苦手だったよね。ああいうなよっとしたひとは嫌いですって言ってたよね」
「そういうこともあったような……」
「そういうこともって……えぇぇぇっ」
嘘だろ、おい、と遊馬は思い、それ以上何も聞けなくなってしまった。
「遊ぼっちゃん、それよりも、もしかして熱があるのではありませんか。お顔が少し赤いような」
それは熱もぶり返すというものだ。くらーっと目眩がした。
幸麿は不穏からの話でふんぎりをつけ、それでも一日二日眺めてから風林堂へ軸を返した。
「そうかぁ。あんさんにもいろいろ世話かけてしもたな」
「そんなぁ。おかげでわたしも束の間夢を見せていただきました」
あれこれ調べている間はそれなりに楽しかったのも事実だ。
「ま、少し置いといてみるわ。どこぞの物好きが買わんとも限らん」
「あこぎなことしたらあきませんえ」
幸麿はそう言い残して去ったけれども、風林堂はこれを無駄にするつもりにはなれなかった。風呂敷に包んだまま帳場近くに置いておき、一閑堂がやってくると待ってましたとばかりに引っ張り出す。
「あんた、今出川の坊《ぼん》、知ったはるか」
「ああ、知ってる。幸夫やろ。自分では幸麿とかゆうてんねん。ぞっとせん男や」
「そーかー。その坊がな、この軸を売ってくれ言わはんにゃわ。五百万出す言うねん。どない思う?」
言いながら包みを解き、軸を広げて見せた。
「なんや、すさまじいもんやな」
「圜悟やねんけどな」
「エンゴって何や」
「よう知らん。なんでも一休さんから珠光さんがもろたいうありがたいお軸やねんて」
「ああ、あの圜悟かいな。あほくさ。それやったらどこやったかいな、東京の美術館にあるはずやで。こないなとこで虫に喰われてるわけないわ」
「そーかー。そしたら売ってまうかな」
「買いたい言うんやったら、向こうの気のかわらんうちにさっさと売ってもうたらええで。こないなもんに五百万てアホちゃうか。今出川のご隠居が息子に店任されへんかったのもようわかるわ。あこはな、婿さんが跡継がはったんや。正解やったな」
ずずっと湯飲みを吸い上げた。
「まあ、そのアホのボンチの言うにはな、東京の美術館にあんのは珠光さんの圜悟とは違うんやて。むかーしの記録に載ってんのと行数も表具も合わへんにゃて。そいでな、この軸はその記録とぴったりやねん。せやし、大発見や、これで論文書いてみるゆうて興奮してやった。それが仕上がった暁には、わしの名も出してくれはんのやて。第一発見者の風林堂主人て新聞に写真出るかもしれへんて。ほんまかいなと思たんやけどな」
冗談めかして風林堂は笑い、一閑堂も馬鹿馬鹿しいという表情を装いながら、それでもいささか気になりだした様子で示された資料に目をやった。読んでは目の前の軸と比べる。
「どこで見つけてきた」
「金沢の旧家の蔵やねんけどな」
「旧家がお宝をこないぞんざいに仕舞《しも》とくか?」
「ふん、それが大事にされすぎて蔵の中のもひとつわかりにくい場所に置いてあったんやな。それで忘れられてしもたんやないやろか。鼠だけが覚えてたみたいや」
練りに練った台本らしくその答えには淀みがない。一閑堂は、ふーんとだけ言って風林堂を後にしたが、自分の店に着くとすぐさま机の電話を引き寄せた。知り合いのとある大学の研究室にかけてみる。
「ああ、先生どすか。毎度おおきに、一閑堂でございます」
そうして尋ねた。東京にある珠光伝来の圜悟墨蹟とは本物なのか。〈松屋名物集〉に載っているのとだいぶ様子が違うようだがと。
「そら何とも言えませんわ。昔の記録ゆうのは茶会で見たのを家に帰ってから思い出して書いてはんのやろし、記憶違いかてたくさんあるやろ。それがいったんひと目に触れると今度は何度も何度も書き写されていきます。思い違いも写し違いもあるやろ。なんぞ思惑があってわざと違うこと書かへんかったとも限りませんしな。記録にあったかて、それだけを根拠にものは言えへん。出所の違ういくつかの記録を照らし合わせて初めてこれは間違いないゆうことになりますのや」
珠光についてはそもそもあまり確かな記録がないので語られていることはほとんどが伝説のようなものである。一休から圜悟をもらったということからしてその真偽は定かではない。利休たちの時代にはまことしやかにそう語られていたということがわかるばかりだ。茶人たちは伝説をありがたがっていればよいが、学者の立場ではそうもいかない。だから、まっとうな学者はこの問題には手を出さない。いささか危ないテーマなのだと、親切な学者は電話の向こうから噛んで含めるように説明した。
一閑堂はさらに問いかける。もし仮に、松屋の記録と同じ行数の同じ表具の圜悟が出てきたらどうなるだろうか。学者は少し考えた。
「それはまた話が違《ちご》てくるわね。現物が見つかれば、これは記録が真実やったゆうことになりますわ。この頃考古学が流行ってまっしゃろ。あんなんで土の中からひとつけったいなもんが現れると、わたしらの何百年かけた文献研究が一瞬でぶっ飛びますんや。怖ろしいもんですわ。圜悟かて、そないなもんが出てきたら、学界騒然となりますやろね。一閑堂さん、もしかしてそないなもん見つけはったんやないやろね。それやったら一番に知らせてもらわな」
「いえいえ、まだわからしませんのですけど、万が一そないなもんが出てきたら、なんぼくらいになりますのやろ」
「なんぼて何です、値段のことか? そういうことはわたしらにはわかりませんけど、値ぇなんぞつけられんのやろか。〈流れ圜悟〉て知ってますやろ。これも圜悟の墨蹟や。前半分しか残ってへんのやけど、この半端もんが〈国宝〉やさかいね。珠光伝来の圜悟となったら、どない安う見積もっても何千万、もしかすると億かもしれへん。わたしに言うてくれはったら、高《たこ》う買《こ》うてくれる美術館も紹介しますしね。よそへ持ってかはったらあきませんよ」
へぇ、と返事をして一閑堂は心を決めた。翌朝一番で風林堂へ行く。
「あんた、昨日の軸、今出川のあかんたれに売ってしもたか」
「まだや。あんさんの言わはるとおり、家の信用ないみたいやな。店の金は出えへんから、自分の金で買う言うて、分割にしてくれやて。しみたれた話やろ。そのうち一回目の支払いに来たら引き渡しゆう約束や」
「そしたら、あれ、わてに売らへんか」
「どないしはったん。ほんまもんやったんか?」
「そやないねんけど、今出川みたいな客で、もうちいと金離れのええひと心当たりあんねん。そっちへ売ったったらどないやろて思いついたんや」
「いくらで売らはんねん」
「わからへん。六百万くらいでどないやろ」
「うちからなんぼで買うねん」
「五百万やろ」
「あんさん、百万も儲けはんのか。見つけてきたのはわしやのに」
「あんたは五百万の儲けやんか。タダ同然やったんやろ」
「ま、そらそうやけど。車代もかかったし、一日仕事やってんぞ」
「ええやないか。即金で払うさかいどないや」
小さな包みをぽんとカウンターにのせた。綺麗な札束が五〆あった。風林堂は内心喝采を叫びたい気分だったがそれでもいくらか迷うそぶりを見せた。
「そらなぁ、月賦みたいな面倒なことより即金のほうがありがたいけどなぁ、一度売る言うた手前、今出川には何と言おう」
「一千万で買うゆう客があったとか言うたらどないや。どうせ口約束で売買契約みたいなもん書いてへんのやろ。あこやって実家は同業なんやさかい、それ以上つべこべ言わへんやろ」
そうやろかとさらに三十秒ほど悩んで見せてから、風林堂は札束を受け取った。
「わかった。ほんなら、あんさんに売るわ。昔なじみやもんな。義理を欠いたらあかんわ。その代わり、うまいこと売れへんかったから言うて返しに来るのはやめてや」
「あんたも、もしわしの儲けが百万以上になってもごちゃごちゃ言うたらあかんで」
一閑堂は何千万も儲けるつもりでいたから、念のためさりげなくそう付け加えた。同級生同士の売買は成立した。
その一閑堂が、ある日の放課後、ふいと幸麿の学校へやってきた。幸麿が授業を終えて職員室に戻るのを、ついたての陰のソファで待っていた。あまりに突然の珍しすぎる客なので、何の用件やらまったく想像がつかず幸麿は首を傾げた。お互い顔はよく知っていても直接言葉を交わしたことはこれまでなかったはずだ。とりあえず大海茶入のことが頭をよぎったから、「魚正さんのお茶入は、ええとこへ納めはってよかったですね」と挨拶代わりに微笑んでみた。相手は一瞬ぎょっとしてから、「なんのことですやろ」としらを切った。
「武蔵はんのお茶杓もええもんに化けはったそうで、一閑堂さんは道具屋の鑑やて、うちではよう噂してます」
さらにぎょぎょっとして、いぶかしげに幸麿を見る。なぜそんなことを知っているのだろう。もしや業界中の噂なのか。まさかそんなことはないはずだ。あの茶杓が外へ出たのは坂東巴流の不始末とかで、くれぐれもよそで喋るなと言われていた。
「その一閑堂さんが、わたしに何の用ですやろ」
一閑堂は気を取り直し、見てもらいたい軸があると言った。
「それやったらここよりも店のほうに言ってもろたほうがええんちがうかしら。義兄《あに》も姉も居てますから、お話聞かせてもらうと思いますけど」
「いや、これはあんさんやのうてはあかんのですわ。話すより早い。まずは見とくれやす」
そう言って広げたのが件の軸だ。
「圜悟やわ。なんでこれが一閑堂さんにありますのやろ」
「へえ。実は縁あってこのお軸が最近うちへ来ましたんですけど、もともとは風林堂さんにあったもんで、そのときには今出川|先生《せんせ》がご所望やったと聞きまして、それやったらどこよりも先に先生とこにお持ちせなあかんと思て持ってきました」
「はぁ」
「先生はこれで論文を書かはるおつもりやったんでしょう。それを脇からさらわれてしもたんやないですか? けど、うちに来たからには大丈夫でっせ。なんぼでも協力させてもらいますし」
「論文て何のことやろ……」
「珠光伝来圜悟墨蹟発見の論文ですやろ。それが発表されたら先生の評判も上がって一躍大学教授も夢やないですな」
ははっと愛想笑いをする。
「はぁ? わたしは好きで高校の教師やってんのですわ。別に大学の先生にはなりたないけど」
「そら、ここでは言いにくいですわな」
一閑堂は声をひそめて首をめぐらし、幸麿はなおさら困惑する。
「それに、わたしの専門は数学やし」
「え、数学?」
手にしていた教科書の表紙を叩いて見せた。
「そうです。数式で表される世界の美しい関係性について、日々青少年と語り合ってますの」
「そしたらお茶は? お公家さんみたいな衣装は」
「趣味に決まってるやないですか。息抜きはどこかでせんとねぇ。せやし、わたしがいきなり墨蹟の論文書いても誰か本気にしてくれはるやろか。いきなり業績にはならんのとちがいます?」
「数学……」
一閑堂はハンカチで首の後ろをごしごしと拭き、幸麿は扇子を開いてぱたぱたと仰いだ。仰ぎながら考えた。論文とは何のことだろう。この軸がなぜ一閑堂のもとにあるのだろう。
「論文の話は風林堂さんに聞かはったんですか」
「へぇ、まあ」
「それで風林堂さんからこのお軸買わはった」
「いや、いや、違います。わてが買《こ》うたときにはあんさんがほしがってはるとは知らへんかったのです。手付けも打たれてなかって。たまたまなんですわ。たまたまうちにこの軸が転がり込んできまして、風林堂さんとは昵懇《じっこん》やさかいあんさんのこと耳にしまして、こらえらいこっちゃ、あんさんに戻さなあかんと……」
「わたしに売りに来はったんや」
「まあ、そういうことですわ」
「わたし、そのお軸は買わしませんよ」
「どないしてです。大発見ですのやろ」
「そやかて、それは圜悟やあらしゃりません。〈建炎元年四月二日圜悟禅師克勤書〉と署名がありますやろ。これが違いますのや。圜悟さんが〈圜悟〉ゆう禅師号をもろたんは建炎二年やそうですわ。そやからそれ以前の墨蹟には〈仏果禅師〉と書いてあります。もしこれがほんまの圜悟さんやったら、〈圜悟〉とは書いてないはずやて、これは真珠庵の和尚《おっ》さんから教《おせ》てもろたことですけど」
一閑堂は、同じことを訪ねていった学者から聞かされたのだった。大儲けのアテがはずれ、慌てて元手だけでも回収せねばと幸麿のところへ持ってきたのである。
「ひゃ、一閑堂さん、それでおとなしく帰らはったんですか」
不穏の書斎である。哲哉が催促してようやく茶会の相談に寄り集まったはいいが、一閑堂の話になってなかなか本題に入れない。
「ま、大事にしはったらて言うといたわ。なんや顔色ようなかったけど」
「幸麿さん、数学の先生だったんだぁ。意外」
遊馬もてっきり古文か日本史の担当だと思っていた。
「意外性こそが男の魅力でしょ。基本よ、基本」
幸麿は澄まして扇を開く。なるほど、その意外性にカンナも取り込まれてしまったというわけなのか。行馬に探りをいれたら、なんと幸麿は東京の友衛家に現れていたことがわかった。
「家庭訪問だってさ。あの先生、変だよ。なんで担任でもない高等部の先生がボクにことわりもなくいきなり家庭訪問に来るわけ? お母さんが心配して、何をしでかしたんだって電話してきた」
それはもうひと月も前のことだと言う。
「で、何だったんだ?」
「知らないよ。お茶の話とかして帰ったらしいよ。ちょうど展覧会があるからってカンナを連れてっちゃったんだって。あのふたりはお付き合いしているのかしらって、お母さんに聞かれた。そんなこと聞かれたってボク知らないけど、そうなの?」
思い出すとまた熱が出そうで、遊馬は団扇《うちわ》をばたばた仰ぐ。
「せやけど、あとで考えたら一休さんの持ってはった時点で、すでに偽物やったゆう可能性かてないことはないのよね」
「一休さんが偽物書いたんじゃないんですか」
遊馬はヤケになって言った。
「坊《ぼん》さんがそないな悪事するかいな。無礼なこと言うたら罰《ばち》当たんで」
「でも、それじゃあ、このお坊さん何してるんですか」
と、遊馬は団扇で不穏の背中を指し示す。先ほどから話に加わらずひとり黙々と書き物をしている。幸麿がその手元を覗き込んだ。
「あら、〈流れ圜悟〉やないの」
何やら古めかしく黄ばんだ料紙にこれまた骨董めいた墨を摺って一字一字写経のごとく書き込んでいる、その手本にしているコピーは国宝〈流れ圜悟〉の本紙部分だ。前半部分しか現存していない。傍らにもう一枚あるのは、その後半が失われる以前に、僧侶の手で筆写されていたものらしい。つまり、後者を原稿に、前者の書体を真似て書けば、行方不明になっている〈流れ圜悟〉の後半が出現することになる。
「うわっ、なんちゃうことしてますねん」
「不穏さん、こないなことしたかて、前半の紙とつなげてみたらすぐにばれてしまうわよ」
「失礼なことを。わたしは何も贋作をしているのではありません。失われた物がもし存在したとしたらこのような感じだろうかとふとした興味から再現してみているまでです」
「ほなら、なんでわざわざそない古い紙に書かはりますの」
「ああ、あとで屏風にでもしてみたらひょっとして風情が出るのではないかと……」
「風情って、あなたねぇ、何百年先に長命寺の屏風から〈流れ圜悟〉の失われた後半が発見されたらどないするおつもり?」
「それは思い至りませんでした」
しれっとした顔で言う。幸麿も不穏も、おとなの男はみんな喰えない[#「喰えない」に傍点]と遊馬は思った。
[#改ページ]
十、 |行 馬 殿 遠 大 計 画《イクマ・プライベート・プロジェクト》の段
〈東男に京女〉が理想的な組み合わせだと聞いたことがある。すると〈東女に京男〉というのは最悪の組み合わせということにはならないだろうか。このところ、遊馬《あすま》はずっと幸麿《ゆきまろ》とカンナの不可解な恋愛について考えている。
「そんな変なことないと思うけど……」
バケツで雑巾を絞りながら佐保は言う。
「お似合いやん」
「そうかなぁ。なーんか、納得できないなぁ」
町の弓道場である。学校や仕事のある会員たちはたいてい夕方から稽古にやってくる。平日の昼間は誰もいない。佐保は試験休みだとかで見物にやってきて、ついでに稽古前の掃除を手伝っている。
「遊馬さんは、カンナさん取られるみたいでヤキモチ焼いてはんのやわ」
そうではない。そういうことではないと思う。もちろんカンナは姉のように大切なひとだから幸せになってほしい。しかし、あのような女性を幸せにできるのは、誰よりも強く逞しい無敵の武道家でしかあり得ないとずっと思い込んでいた。幸麿とカンナの取り合わせを思い描こうとすると、頭の中の世界像が歪んだまま固定されていつまでも焦点を結ばない。
「それより、先生《せんせ》と結婚しはったらカンナさんは京都に来はんのやろか。そっちのほうがわたしには問題なん。それやったら、わざわざ東京の大学受ける意味ないし……」
遊馬は抱えた巻藁を取り落としそうになっている。
「やっぱり、ヤキモチ焼いてはる」
佐保は笑う。
「違うって。そうじゃなくて」
言いながらようやく台に重い藁を載せた。ぱんぱんと手を払う。
「あのね、カンナがうちを出てったら、みんなが困るだろうと思うだけだよ。うちには内弟子みたいなの、カンナとその祖父さんしかいないんだ。そりゃあ、もういい歳なんだからさ、結婚してうちから出てっても仕方ないさ。でも、東京から出てっちゃったら、父さんも母さんも、うん、そうだよ、坂東巴流がすごく困るってことさ」
ムキになって説明するのを、佐保はきょとんと見ている。
「そんなにおうちのこと心配やのに、遊馬さん、なんで家出なんかしてはんの? 弓かてこんなに好きやのに。剣道もお茶も嫌いやなさそうやん。なんでやの?」
どうしてそういう話になるかなぁ、と遊馬は戸惑う。今はカンナの話ではなかったのか。
「お家元になるの、そんなに嫌なん?」
「ま、なんとなくね」
面倒くさくてそう言った。隅のほうでTシャツを脱ぎ捨て、ばさっと道衣を振るって羽織る。
「怖いん?」
「はあ?」
ジーパンを下ろしてぐしゃぐしゃと足で踏みつける。怖いって何だよ、怖いって。佐保は慌てて|※[#「土へん+朶」、第3水準1-15-42]《あずち》のほうへと目をそらした。
「お家元になるやなんて怖いやろなあ。わたしなんか、弓道部の部長しなさい言われただけで怖《こお》うて逃げてしもたし、遊馬さんもそうなんかなぁ」
たかだか高校弓道部の部長と流派一門の長を一緒に語るなよ。袴の紐を腰に廻しながらそう思い、でもひょっとしたら似たようなものだろうかとも思う。
「何、部長になるはずだったの、佐保ちゃん」
「先輩にはそう言われたんやけど」
もう大丈夫かなとそっと振り返る。遊馬は床に尻をついて足袋を穿いているところだった。
「わたしな、大会であんまりええ成績とったことないの。練習ではいつも一番やし選手にはなんのやけど、本番では全然駄目。実力が発揮できひんタイプやねん。自分でも嫌んなるくらい」
俺と逆だね、と言いながら遊馬は軽くストレッチを始めた。
「遊馬さん、本番でよく当たるほうなん?」
「そうね。当てただけじゃ、誰も褒めてくれないけど」
ふーんと感心したように佐保は相手を眺めた。
「それで?」
「あ、うん、そんなでもな、部活続けられたんは先輩の部長のおかげや思う。試合で負けて落ち込んでるとき、いつも、気にすることないしって慰めてくれはる。部長って偉いなぁ。自分かて試合せなあかんのに他の部員のことまで気ぃ遣《つこ》うてはる。わたしはとてもあんなことできひん。自分が泣かんよう気ぃ引き締めてんので精一杯や。ひとのことまで考えられへん。わたしなんかが部長になったら、みんなでめそめそするだけで、うちの弓道部、京都中の笑い者になってしまう。そう思たら怖うて引き受けられへんかった」
「いったい、どういう部だよ、それ」
呆れて首を傾げたついでにぐるっと回して起こした。
「仲良しクラブじゃないんだからさ」
「わたしも、この頃ちょっとそう思う。もしも部長がああいうとき、めちゃくちゃ怒ってくれはったら、わたし、もっと本気で悔しくなって、今度こそ頑張ろ、もう負けたらあかんゆう気持ちになって、なんかもう少し結果も違《ちご》たかもしれへん」
「ひとのせいにしたってしょうがないだろう」
「うん……そうやね……でもなぁ、カンナさんやったら、そういうとき、きちんと怒ってくれそうな気ぃすんのやけど、そんなことない?」
「きちんとって……もしかして叱られたいわけ?」
遊馬が顔をしかめると、ふんと佐保はうなずいた。
「そりゃあ、カンナなら容赦しないよ。気を抜いてると、ばしっと足払い喰らうよ」
「やっぱり!」
嬉しそうに微笑むからには、よほど叱られたことがないのだろう。勝手にしてくれと思う。一度体験したらすぐに懲りるさ。
「わたしに必要なんは、そういう厳しさやねん、きっと。幸麿|先生《せんせ》に聞いてみようかなぁ。先生の結婚問題はわたしの進路と大きな関係があります言うたら驚くやろね」
「変なやつ」
遊馬は弓を選んで左手に抱えると、矢を持たぬまま執弓《とりゆみ》の姿勢で中央に立った。佐保もそれきり口をつぐむ。
おもむろに足を踏み開く。手の内を整え、的を見定めて弓を構える。両肘を引き上げて打ち起こし、きりきりと弦を引く。めいっぱいまで引いて、また静かに戻す。素引きだけを何度も繰り返す。佐保は息を詰めて凝視していた。いつも見ている部員たちとは何か違う。矢は放たれていないのに、胸を射抜かれたようにどきどきする。
奈彌子《なみこ》が高田家の離れに飛び込んできたのは、町中にコンチキチンと鉦《かね》の鳴り始めた頃だった。
「志乃さん、眞由子が……、眞由子が……」
と、うろたえているので、志乃はてっきり眞由子までが事故にでも遭ったのかと肝を冷やした。
「眞由ちゃんがどうしはった」
「それが、眞由子が……」
「ちょっと落ち着きなはれ。今、お水持ってきますしな」
それから十分ほどして近くの公園にいた遊馬の携帯電話が鳴った。
「遊馬はん、すまんけどな、ちょっと急いでうちに帰ってこられへんか」
遊馬は伊織を走らせ、自分は自転車でその後ろについて戻ってくる。茶室に奈彌子の姿を見て束の間喜び、もしかしたらまた暗い話かもしれないとすぐに気を引き締めた。
志乃はちょろちょろしている伊織に小銭を持たせ、お客さんが来ているから何かお菓子を買ってくるようにと遣いに出し、茶室の戸を閉め切った。クーラーのない部屋で無茶なことだが、誰もそのことに不平は言わない。
「あのな、今日な、巴さんとこで寄り合いがあったそうや。つながりの深い職方さんやら老分さんやらが集まらはったんやて」
定期的な集まりではあるが、今回の話題はもっぱら奈彌子の縁談についてだった。奈彌子もうかうかしていると間もなく三十歳になる。彼女ひとりのことなら別にかまわないが、家元の相続に関わることなのでそう悠長には構えていられない。比呂希《ひろき》の死から四年以上がたった。鶴了《かくりょう》を札幌にやって半年になる。周囲としては奈彌子の気持ちに配慮して充分に時間はとった。そろそろ、覚悟を決めてもらわなければならない。
行馬が以前言っていたとおり、最も有力なのは内弟子の鶴安だ。一閑堂グループの工作が効を奏して、それが一番自然な形だろうという共通認識はできている。ただ、一閑堂自身は、主人もばあさんもこの会には呼ばれていない。どちらかというと、一閑堂のでしゃばりを快く思わないひとびとが多かった。鶴安にとりたてて非はないが、自分たちの代表として押し立てたくなる器量の持ち主かと聞かれれば、いまひとつ決め手にかける。一閑堂にいいように使われている気配も見える。
さりとて大原のばあさんが推薦している三千院あたりの僧侶では、なんだか立派すぎて先々どういうことになるのか予測がつかない。還俗させるというよりは改宗させることになるわけで、本人によほど意欲があるならともかく、どうもそういうわけでもないらしい。生涯不犯を誓っているそうで、無理矢理結婚させてこの代はいいとして次の世代は生まれるのかと勘ぐる向きもある。
そこで氷心斎の高弟にはまだこういうひともいるではないかとか、坊さんでよいのなら大徳寺から連れてくるのが筋だとか、あれこれ言い出す者も現れ、やはりもう少し話を煮詰めてから議題にすべきだったと世話役たちが後悔し始めたところへ、すすっと襖が開き、眞由子が現れた。
「入ったらあかん。向こうへ行っといなはい」
さすがにこの不作法に氷心斎も厳しい声を出した。今日は話題が話題だけに内弟子たちもその部屋からは遠ざけられていた、その隙を縫って眞由子は来たらしい。
「お父ちゃん、眞由子、言いたいことがあんねん」
「今はおとなの話をしている。あとで聞くさかい待っとき」
「いやや。今聞いてほしい」
「眞由子!」
奈彌子とはずいぶん歳の離れた妹、氷心斎にしてみれば熟年になって思いがけずぽろりと生まれた娘である。長女と長男はさすがに厳しく育てたが、三人目ともなるともはや親の根気も続かない。躾るより可愛がるほうが先に立って、甘やかすだけ甘やかしてしまった。気ばかり強くなってこのありさまだ。さりとて女の子に手をあげることもはばかられ、誰かに連れて行かせようと氷心斎が立ち上がったそのとき、反対に眞由子はぺたりと座り込み、畳に手をついた。
「一生のお願いや。お姉ちゃんは鶴了さんのお嫁さんにしたって」
子供の乱入に気をそがれていた老人たちが、一斉に眞由子を見た。
「やっぱり女の子やなぁ。姉さんのことが心配で、わざわざ言いにきたんやなぁ」
長老格の和尚が、少女のけなげさにほだされて笑った。青筋を立てていた氷心斎も少し救われた気持ちで眞由子のそばに膝をつく。
「眞由子、あんたの気持ちはわかった。けどな、これはおとなの話やさかい、子供が考えてもわからんこともあんねん。姉ちゃん思いに免じて、今日のところは許したるさかい、自分の部屋に帰って勉強してなはい」
が、眞由子は首を横に振るのだ。
「眞由子、いい加減にせんと怒るで」
それでも頑として動かない。
「眞由子!」
すると眞由子はキッと父親をにらみ返した。
「眞由子かて、わかる。お兄ちゃんが死んでしもたから、お姉ちゃんは鶴了さんと結婚できひんのやろ。お兄ちゃんの代わりがいいひんとみんなが困るからやろ。でもな、それやったら行《いく》ちゃんに代わってもろたらええやろ。それ言いに来てん」
「行ちゃんて、行馬《いくま》はんのことか」
眞由子はこくんと顎を落とす。
「眞由子ぉ、行馬はんはいくつや。中学入ったばっかりやろ。奈彌子はいくつや。もうすぐ二十九や。なんぼ行馬はんがでけた坊《ぼん》や言うたかて奈彌子の婿さんにはなれへんねん。わかるか?」
なんだか馬鹿馬鹿しくなって赤ん坊をあやすような口調になる。
「行ちゃんと結婚すんのはお姉ちゃんやない。うちや」
「何?」
「眞由子がおとなになったら行ちゃんと結婚してこの家継いだったらええのやろ」
幼い少女の結婚宣言に、居並ぶおとなたちはあんぐりと口を開けた。
「とまあ、そないなことがつい一時間ほど前にあったそうですわ」
奈彌子に代わって志乃が説明してくれた。
「はあ……」
遊馬はぽかんとしている。行馬は自分より六つ下だから、多分、今十三歳のはずだ。
「結婚を考える歳じゃないです」
ははっと虚ろに笑う。
「遊馬はん、今の話わからへんのですか。結婚やないねん。婚約ゆうことですやろ。な、そうやな?」
確認するように奈彌子を見ると、こちらはうんうんとうなずく。
「でも、いくらなんでも、そんな……」
「行馬さんも承知の上やと眞由子は言うたらしいんです」
「行馬が? 嘘でしょ。それに、そんなこと誰も本気にしないですよ、普通」
「そやろか。わたしはええ考えや思いましたえ」
奈彌子も言葉にはしないが珍しく頬に赤みがさして期待しているのがわかる。
「考えてみたら、何も今すぐ次のお家元が必要なわけやないのや。奈彌子さんがええ歳やさかい今探してるだけのことや。朱鶴《しゅかく》はんはまだまだこれからやし、時間はたんとあります。行馬はんかて、今からやったら修行の時間は充分すぎるほどや。ここで何度かお茶飲んではったけど、比呂希はんに負けへん賢い子ぉや。心根かて素直やしなあ。なんで誰も思いつかんかったんか不思議なくらいですわ」
心根が素直とはいったい誰のことかと遊馬は鼻白む。
「せやからなぁ、遊馬はん」
「はい」
「はいやのうて、行馬はん、呼んでみいひんか」
「え、ここにですか?」
「せや」
「呼んでどう……」
「せやから、これは眞由ちゃんひとりの思いつきなんか、それともほんまに行馬はんも同じ気持ちでいてんのか、兄さんの口から聞いてみてもらえまへんやろか。他人が問いつめてもな、言いにくいやろ。それによって奈彌子さんの安堵も違《ちご》うてきますのや」
「もしかして今ですか」
「そら、早いほうがええですわ。奈彌子さん、鶴了さんにはこのこと話したんか? 電話しはったん?」
奈彌子は首を横に振る。どう説明してよいかわからないし、もしかしたらぬか喜びに終わるかもしれない。だから電話はしていない。誰に何を話せばよいのかわからず、しかし話さずにはいられず、とにかく志乃のところへ飛び込んできたのだ。
遊馬はしぶしぶ行馬の携帯へ電話した。
「あ、お兄ちゃん? 何? ボク、今、すっごく忙しいの。話? じゃあ、明日行けたら行くよ」
行馬はなるほど取り込んでいる様子で素っ気なくそれだけ言って電話を切った。
翌日、学校帰りに行馬はやってきて、二階で大儀そうに鞄を下ろした。
「お兄ちゃん、どうでもいいけど、この子、なんでここにいるの」
部屋の隅に伊織が正座している。
「わかんない、俺にも」
「毎日、こうなの?」
「そう言えば、最近そうなんだ。気がつくと、そこにいる」
「学校は?」
「行きたくないらしい」
「何、キミ、いじめられたりするの?」
と伊織に向かって聞くけれども、伊織はむっつりして答えない。
「伊織、冷蔵庫にジュースあるから持って来いよ。おまえも飲んでいいから。氷入れんの忘れんなよ」
遊馬の命令にシュタッと立ち上がって階段を降りていく。
「けっこう便利だ」
「そういう問題じゃないんじゃないの? 大丈夫なの?」
「何が」
「何がって」
「あいつの親は、ここになら来てもいいって言ってるらしい。頼まれたんだ。面倒見てくれって……というよりだな、あいつのことはいいんだよ、おまえの話なんだよ、今日は」
それは察していたのだろう、行馬は居心地悪そうにもぞもぞした。
「わかってるよ、昨日、宗家のおじさんにも聞かれたから。眞由ちゃんのことでしょ」
「どういうことなの。ほんとの話なの。眞由ちゃんと婚約するって」
「婚約だなんて、なんか大袈裟だなぁ」
しかし、そういうことだろう。
「おまえ、いいの? そんなこと勝手に決められて」
「まあ、別にいいけど」
「わかってんの? 養子に行くってことだよ。でもって、宗家の、い、家元になるってことだよ?」
「どもらないでよ、わかってるよ。いいじゃない。お兄ちゃんだって言ってたでしょ。うちみたいな小さな流派の家元なんてつまらない、宗家みたいに大きければ別だけどって」
「そりゃそうだけど、それだけ大変なことだっていっぱいついてくるんだぜ」
「わかってるよ。でも、お兄ちゃん、大変でも大変じゃなくても、男にはしなくちゃならないことってのもあるんだよ。奈彌子姉さん、可哀想だと思わないの? 好きでもないひとと結婚してなりたくもない家元夫人になんかなって。ボク、あの家に行ってから、まだ一回もあのひとが笑うの見たことないんだ。ボクも眞由ちゃんもガキだから、何にもしてあげられなくて悔しかったんだよ。だけど、もしボクが将来あそこにお婿に行くって言えば、みんなハッピーなんだ。誰も不幸にならなくて済むんだよ。それって凄いじゃん。おじさんなんか、ほんとにほんとにいいのかって聞きながらボクのこと拝みそうだったよ」
「だけど、おまえ、眞由ちゃんってわがままお嬢なんだろ? 気が強くて自己中心的《ジコチュー》な娘《こ》だって言ってたじゃないか。そんな娘を嫁さんにしておまえの人生真っ暗闇じゃん」
遊馬は目の前に置かれたジュースをごくごくと飲み干した。行馬はコップを回して中の氷を眺めている。
「眞由ちゃんはさ、まだ子供なの。それだけだよ。ボクがしっかり教育してあげるから大丈夫」
「教育だぁ?」
「あのね、理想の女のひとと結婚したかったらさ、どうしたらいいか知ってる? 小さいときから自分で仕込むんだよ。それで自分好みのお嫁さんに育て上げるんだ。〈源氏物語〉読んだことないの、お兄ちゃん?」
「ねーよ、俺の知ってるのは六条のなんたらさんだけだ」
「そのひとじゃなくて、紫の上の話だよ。こんな小さいときから光源氏に育てられて、素晴らしい奥さんになったんだ」
「あのな、おまえが教養あるのはわかったよ。でもな、物語と現実はちがうわけよ。親だって自分の子供を思い通りには育てられないのが現実ってもんなの」
「お兄ちゃん見てるから、すっごくよくわかるよ」
「あのなぁ。俺のことはいいんだ。じゃあ聞くけどな、その紫さんも子供の頃は気の強いわがまま娘だったのか?」
「そうじゃないけど」
「それ見てみろ。たまたまそのひとはいい女になる素質を持ってたんだ。眞由ちゃんはそういうわけでもなさそうじゃん、おまえの話聞いてたら」
「そんなことないよ。眞由ちゃんはたしかに気が強くてときどき威張りん坊だったりするけど、ああいう娘《こ》のほうが根は素直だったりするもんさ。奈彌子姉さんみたいにおとなしいひとのほうが、お嫁さんにしたら案外怖いんだってよ。お兄ちゃん、シェイクスピア読んだことない? 〈じゃじゃ馬ならし〉って話だけど」
「だから、ねーって言ってるだろっ」
遊馬がコップを持ち上げたらそれはすでに空だった。行馬は澄まして自分のコップを兄に差し出す。
「そのひと美人なんか?」
脇で見ていた伊織がぼそっと呟いた。
「美人も何も、まだガキなの。ちょうどおまえと同い年くらい。そりゃあ、お姉さんはすんげぇ美人だけどな、妹も同じになるとはかぎらない。そうなんだよ、行馬。おまえ、こんな早々と嫁さんにするなんて決めちゃって、どうすんの、もしかしてめちゃくちゃ不細工な女になったら」
行馬は呆れた目をして兄を見る。
「お兄ちゃんってさぁ、うちにいたときから薄っぺらなひとだなと思ってたけど、今でも何にも変わってないのね。そういえば、佐保さんも美人だけど、そこしか見てないんじゃないの、大丈夫なの? いい? 大事なものは目に見えない[#「大事なものは目に見えない」に傍点]んだよ。〈星の王子さま〉、読んだことないの、お兄ちゃん?」
やかましい、おまえは図書館かと怒鳴って遊馬は大の字にひっくり返った。
兄がふてくされてしまい手持ち無沙汰になった行馬は、伊織に向かって歳上らしく助言する。
「学校には行ったほうがいいと思うよ。でないと、こういうひとになっちゃうからね」
ちらりと横目で兄を見る。
「師匠の悪口言うな」
「師匠……って、このひとのこと? 何で? お兄ちゃんに何教わるの?」
「師匠は強い。ちんぴらふたりに勝った」
「ふーん。でもこの前は女のひとに投げ飛ばされてたよ」
「嘘や」
「嘘じゃないよ、カンナってひとに聞いてごらん。佐保さんだって見てたはずさ」
伊織はぶすっと行馬を睨んだ。
「おまえさ……」
遊馬がむっくり起きあがる。
「いつだっけ、俺に言ったよな。小学四年生のときに家出して、人生の意味がわかったとか何とか。あれ、何だったんだ? おまえの〈人生の意味〉って何?」
行馬は向き直り、おとなっぽくあぐらをかいた。
「〈弟〉の運命に甘んじないってことだよ。自分の道は自分で切り開くってことさ」
「……」
遊馬は腕を組んで俯く。しばらくして顔をあげた。
「こうも言ったよな。遠大な計画があるから自分のことはアテにするなって。俺、あのとき自分のことで手一杯で聞き損なったけど、あの〈遠大な計画〉って何だったんだ?」
「それは……」
「おまえ、まさか四年生のときから着々と計画を立てて、眞由ちゃん目当てで巴さんちに潜り込んだわけじゃないだろうな」
「えーと」
「あいつが死んで、宗家が跡継ぎ問題で揉めてたの、知ってたわけじゃないだろうな」
「ボク、そろそろ帰ろうかな」
「ちょっと待て」
遊馬が顎で指図すると、伊織はすかさず階段へと続く襖を閉めきった。
「今度のこと、思いついたのは誰なんだ? 眞由ちゃんがおまえに頼んだのか? それともあっちの勝手な片思いにおまえが応えてやることにしたのか? 奈彌子さんが可哀想だからって、それ、おまえの本心か? まさか、全部おまえの遠大な〈宗家乗っ取り計画〉なんじゃないだろうな」
行馬は観念したらしく、へへっと笑った。
「よりによってお兄ちゃんにバレるなんて、ボク、びっくりだよ」
「行馬、おまえ……」
遊馬は弟の両肩に手を掛けて抱きしめんばかりに力を込めた。この弟は、頭がよすぎて目端が利きすぎて、今とんでもない悪の道に踏み込みかけているという気がした。兄としてこれほど弟のことが心配に思えたことはない。
「悪いこと言わないから、自首しろ。今ならまだ間に合う。ひとりで怖かったら俺も一緒に行って謝ってやるから。そんなに家元になりたかったらあのとき正直に言えばよかったじゃないか。カンナに何言われたって気にすることないんだ。あんなやつ、昨日と今日で全然言うこと違うんだから。俺は身をひくから、おまえが坂東巴流を引っ張っていってくれ」
行馬は兄の腕を突き放した。
「冗談じゃないよ。自分が面倒くさいからってボクに押しつけないでよ。うちの流派はお兄ちゃんが何とかしたらいいでしょ。ボクには宗家巴流のほうが似合ってるんだ」
「あ、そう。つまりおまえは、うちみたいな貧乏流派より、でかくて派手な宗家がいいってわけね。宗家の家元になって、兄である俺のことを見下したいってわけね。それで一発逆転だと思ってるわけね。なんて根性の腐った野郎なんだ」
「お兄ちゃんに言われたくないな。修行は面倒くさいとか贅沢できないからいやだとかお茶やってるなんて恥ずかしくてひとに言えないとか、それでうちほっぽらかして出てったひとが偉そうなこと言わないでよ。言っとくけど、ボクは誰にも迷惑かけてないよ。眞由ちゃんを幸せにするよ、奈彌子さんを笑わせてみせるよ、会ったことないけど鶴了さんってひともきっと札幌から帰ってこられるよ、宗家のおじさんが安心するよ、比呂希さんだって天国で喜んでくれると思うよ。ボクはね、それを自分の人生の意味にしようって言ってるんだよ。お兄ちゃんみたいに無責任じゃないよ。責任を背負おうとしてるんだよ。すごくおっきな責任だよ」
なるほどそれは巨大な責任に違いないので、言っているうちに行馬の肩は震え出した。本心を言えば怖いに決まっている。よその家に入ってこれまでとは違う流儀を一から勉強する。甘えられる親はいない、ののしり合える兄もいない。これまでは気楽な次男坊だったが、これからは誰もが宗家の跡取りとして自分を見る。一挙一動を評価される。失敗すればきっと陰険に嗤われる。もしかしたら放り出される可能性だってある。想像力がないわけではないから、考え出したらとめどなく不安になる。だけど、自分で決めたのだ。
その覚悟のほどは目の前の兄にも伝わった。遊馬の身体からすとんと力が抜け落ちる。
「こんなどでかいことひとりでやらかすなんて、おまえって、ほんと、小学生にしとくには惜しい奴だよな」
「心配しなくても、もう中学生だよ」
「ああ、そうか。でもなぁ、俺はなーんか心配だよ。おまえが言うといいことずくめみたいに聞こえるけどさ、こういうのって、理屈じゃないだろう。あれだよ、俺が聞きたいのは、要するに、おまえは眞由ちゃんにちゃんと惚れてんのかどうかってことだよ」
行馬は虚を衝かれて一瞬兄の目をまじまじと見た。それからふっと視線を反らして立ち上がる。
「そんなこと真面目に聞かないでよ、お兄ちゃん。照れるじゃないか」
「なあ、どう思う?」
行馬の去った部屋で遊馬は呟いた。何がだと伊織が聞き返す。
「人生は驚きの連続だよな」
「……」
「おまえも覚えておいたほうがいいと思うよ。力で勝ってもな、人間的に負けるってことはあるわけよ。六つも歳下の運動神経ゼロの弟にさ」
「今日は稽古せえへんのか」
「あのさ、状況を見てモノを言いなさいね。それに、俺、週に一回相手してやるって約束したけど、なんでおまえ毎日来るわけ?」
「行くとこないし」
くわーっと吠えて遊馬はまたひっくり返った。
行馬の気持ちが確認できて、宗家巴流はこの件を真剣に検討し始めた。山鉾《やまほこ》巡行のにぎわいが落ち着いた頃、東京に用事のあった氷心斎は、仕事を終えたその足で友衛家の門をくぐっている。ぎらぎらと夏らしい日射しの照りつける日だった。カンナと弥一が汗だくになって灰のあく抜きをしており、庭のあちこちにゴザが敷かれ、その上で大量の灰が乾かされていた。
「お忙しいとこにお邪魔してすんませんなぁ」
「とんでもない。愚息がお世話をかけておりまして、こちらからご挨拶に伺うべきところを恐縮です。さぞかしみなさんにご迷惑をかけておりましょうなぁ」
「いやいや、それどころか、ようでけた坊《ぼん》やてみんなえろう感心してますわ。家も賑やかになってありがたいことです」
と、氷心斎はひとしきり行馬を褒め上げてから本題に入った。
電話でおおよそのことは聞いていたものの、秀馬《ほつま》も公子もまだこの話を本気にしていない。氷心斎が直々に話しに来たのを見て、いったい全体京都はどうしてしまったのかと今あらためて驚いている。
「わたしたちにはどうしても冗談のようにしか思えないのですよ。いや、お家元が口にされるからには冗談ということはないのでしょうが、しかし行馬はなにぶんにもまだ子供です。お宅ではもしかしたら少しはよそ行きのおとなびた顔をしているのかもしれませんが、この間小学校を卒業したばかりでして。赤ん坊も同然です。あんな子供の思いつきに、宗家巴流の将来を託すなどというのはあまりに危なっかしい話で、親としてはとても本気で考えることができません」
「まあ、そうおっしゃるのは当然や。わたしらかて最初は突拍子もないこと思いつく子らやなぁと思いましてん。けど、その後、後援会のひとらともじっくり考えてみるとやな、考えれば考えるほどええことに思えてきましてな、そのうちにこれ以上ええ解決策はあり得んやろという結論になりましたんや。そらな、こう言うたら失礼やけど、もしも行馬はんがとんでもないあかんたれ[#「あかんたれ」に傍点]やったらわたしらかてこない真剣になりません。えろう素直で聡い子やさかい、みんな気に入ってますねん。あの坊《ぼん》やったらぜひうちにもらいたいなぁ言うてわたしをけしかけます」
秀馬と公子は揃って寂しそうな表情を浮かべる。女の子だったならいつかは嫁に出すとの心構えもあったかもしれないが、まさか男の子を他家に取られるとは思ってもみなかった。
「いや、これはすんません。〈もらう〉言うのんは言葉の綾ですわ。あくまでもおとなになってからの話です」
しかし、幼い子供たちが無邪気に将来の約束をするのはよくあることだ。
「わたくしも幼稚園の頃には、大好きないとこのお兄さんと結婚すると心に決めておりました」
公子がほほっと笑い、秀馬をどきりとさせた。
「でも、そのようなことを親は本気にいたしませんでしたし、自分でも今の今まで忘れておりました。そちらのお嬢さまも、今は行馬を気に入ってくださっていても、おとなになるまでにはもっと素敵な方に巡り合うこともございましょう。今からこんなお約束があっては、後々お嬢さまがお悩みになると思うのですけれど」
本当に心配なのは、相手の娘のことなどではない。そのときになってやっぱりいらないと放り出される息子のことだ。幼い恋愛はほのぼのと微笑ましくはあるが、結婚まで行き着くことなどあり得ない。大のおとながそんなものに振り回されてどうするのだと公子は思っている。
「いや、それがですな、眞由子は末娘で甘やかしたせいか、親の目から見ても気随な子に育ってしもたとこありますのやけど、どういうわけか行馬はんの言うことだけは素直に聞きますのや。この頃では、弟子たちも眞由子に言い聞かせたいことはみんなまず行馬はんに頼むようなとこありましてな、眞由子だけやのうて弟子たちまで行馬はんに心酔してますのや」
そんなわがままな娘なら、なおさらいつ心変わりするかわからないではないかと公子は思う。
「そやけど、奥さんの言わはることももっともですわ。そないなことないと思いますし、あったかてわたしが許しませんけど、万が一、いや万万が一、眞由子がどこぞの男はんと添いたい言い出して、どないにもならんようになってしもたとしても、巴流の看板は行馬はんにお譲りすると約束します。そのときは婿はんやのうてほんまの養子ゆうことにさしてもろて」
それ見ろ、やはり行馬を取り上げるのではないか。亡くした息子の代わりにするつもりなのだと、公子は思う。
「そのことは念書書かしてもらいますわ」
念書を持ち出して争ってまで宗家巴流などほしくはない。頼むならまだしも譲ってやるとは何事かと、公子は思うのだ。
「念書とは大袈裟な。お嬢さまのご縁談は、お嬢さまがお年頃になってからあらためてお考えになってはいかがでしょう。そのときにもまだ行馬がふさわしいと思ってくださるのでしたら、わたくしどもも真面目に考えさせていただきます」
それがおとなの判断というものだろう。
「もっともやなぁ。奥さんの言わはること、ほんまにもっともや思います。けどな、家元ゆうのんはクラス委員や生徒会長とは違います。成績がええから今日からあんたがやりなはれゆうわけにいきませんのや。それでは周りの気持ちが追いつかへん。襲名披露の日から急に家元にはなられへん。もっと以前から、じっくりゆっくり家元になります。秀馬はんかてそうですやろ。警察辞めはって突然家元業始めはったわけやない。先からの働きがあって初めてすんなり受け入れられたわけや。眞由子が成人するまでにはまだ十年あります。その間、跡継ぎが誰になるやわからんでは、門人達は落ち着きません。それやのうても、比呂希が亡《の》うなってからこっち、弟子たちの気持ちが乱れているように思えてわたしは不安ですのや。十年後に考え直したかて、行馬はんがええ思うに決まってます。それやったら行馬はんが心地ようすんなり巴流を引き継げるよう今から準備さしてもらえませんかなぁ」
氷心斎はあの手この手で説得しようとしたが、友衛夫妻はそう簡単には首を縦に振らなかった。
なるほど友衛家には息子がふたりいる。言い換えれば、たったのふたりである。遊馬の頼りなさを見るにつけ、もしかしたら次の代は役割を分担して、武道のほうは遊馬に、茶道のほうは行馬に継がせるというようなことも考えなければなるまいかと思っていた矢先に遊馬が出奔して、それさえ実現はおぼつかなくなった。この先坂東巴流がどうなるのか秀馬にも公子にも皆目見当がつかないこんな状況で、よその家の心配などしていられるはずもない。出来のいい跡継ぎなら自分たちこそどこかから探して連れてきたいくらいだ。
結局、この件はもう少し考えさせてくれと答えて秀馬は話を打ち切った。
「八百屋で茄子を買うのとは違うさかいな、そない簡単にはいきませんわな」
氷心斎は自室で扇子をぱたぱたとせわしなく煽いでいる。行馬はその前に正座している。
「この件は、あれやな、あんたの兄さんが鍵やな。秀馬はんははっきりとは言わはらへんけど、兄さん、今、家にいてへんのやろ。秋にお祖父さんが来はったとき、ちらりとそんな話聞きましたんや」
扇子をぱちんと閉じて腿を打つ。
「これは、宗家巴流一門を挙げて、あんたの兄さんを捜さなあきませんな」
「一門を挙げて?」
「まあ、全国に十万人ばかりのもんどす。すぐに見つかるやろ」
けほけほと行馬は咳き込んだ。
「足らんか? 海外にも数千人いてるけど、そやな、高飛びしてる可能性もありますわな」
高飛び……?
「兄さんが東京の巴流を引き受けへんかぎり、友衛さんは行馬はんを手放さへん。わたしら一門の未来がかかってんのや。みんなそれくらい働くやろ」
まいったなぁと行馬は肩をすぼませる。
「あの……そのことなんですけど」
「灯台もと暗しとはこのことやおへんか。びっくりしましたわ。奈彌子まで知ってたいうのやさかい、あんたらみんなひとが悪すぎますわ」
氷心斎は苦り切った表情で上がり框に腰かけている。歳の頃は五十代半ば、今や押しも押されもせぬ京都の名士ではあるが、赤ん坊の頃背に負われた志乃の前ではどことなく気分は子供のようになる。志乃が結婚して巴家に姿を見せなくなってからも、親に隠れてよく遊びに来た。あの頃はまだ志乃たち夫婦は今の畳屋の建物に住んでいた。
「ようこんなむさ苦しいとこへおいでやしたなぁ。そんなとこ腰かけてんと、上がっておくれやす」
早朝突然やってきた客が巴流の家元だったのだから、志乃もいささか驚いて、あたふたと湯を沸かしている。
「何もせんでええて。お茶は毎日浴びるほど飲んでんのやしね。そこの角に車待たせてあるし、すぐお暇《いとま》しますわ。なんせ今晩から出張で飛行機に乗らんならんさかい、そしたら五日ほど留守することになるし、どうでも今日のうちに確かめな思てな。志乃さんが座ってくれな、いくらわたしが急いでも話にならへん」
「はいはい」と笑いながら志乃はせっかちな家元に台所で点てたお茶を出した。
「ほんまなんか? ここに行馬はんの兄さんがいてるて」
「へぇ、今、上で寝てはりますわ」
「いや、もうこんな日も昇ってんのにまだ寝てますのか。居候の割にはのぶといひとやな」
「せやないねん。遊馬はんはな、毎日夜明け前から新聞配達してますんや。せやし、ちょっと寝たりない分、今が仮眠時間なんですわ」
「ほお、新聞配達。そら、感心な」
と、氷心斎は拍子抜けして呟いた。自分なりにあれこれ評判を聞いて回ったところでは、弟と違ってそうとう出来の悪い息子だということだった。幼い頃からとんでもない乱暴者で家の掛軸の大半は彼に破かれているとか、塾の月謝や大学の入学金をせしめて遊び歩いているとか、それでも足りなくなると蔵からひとつふたつと茶器を持ち出しているとか、髪を染めた危ない連中と付き合っていて麻薬にも手を出しているらしいとか、全部本当だったら病院か鑑別所にでも入れなければすまないところである。だが一方で、風馬《かざま》から聞かされた冤罪もひとつ知っているので、いったいほんとうはどのような子なのか自分の目で見ないことには判断がつきかね、朝一番で車を飛ばして来たのである。
「起こしてきましょか」
「あ、いや、それには及びませんが……どうなんやろ。志乃さんから見て、その遊馬はんとやらは坂東巴流を背負って立つ器量の持ち主やろか」
志乃はにこにこと笑って床の間に目をやった。中釘に〈旅枕〉の花入が掛かっている。
「その花入がお気に入りなんですわ。最初はコスモス一輪挿すのに冷や汗かいてましたけどな。さっき朝ご飯の用意してたら、新聞配達から帰ってきて、志乃さん朝顔が咲いてます言わはるさかい、入れとおみて言いましたらな、あの子が入れましたんや」
へぇ、と氷心斎はまじまじと床を見た。武骨な土色の花入から朝顔の蔓《つる》が薄紅の花をのせて垂れている。
「露も自分で打ったんやろか」
「そうですやろ。わたしは何もしてへんし」
「なかなかやりますな」
「そうでっしゃろ。あの子は理屈やのうて身体で覚えるタイプなんやね。そのことようわかったおひとが大事に仕込まはったんやと思いますわ。自分ではきっと何も知らんつもりやろけど、どっか奥のほうでけっこうわかってはんねん。言葉を知らん赤ん坊みたいなもんとちがいますか。そっとしといたら、そのうちわーわー喋り始めてやかましなるような気ぃしますえ」
「無理強いはあかんいうことですか」
「どないやろねぇ。自分が納得できひんことは絶対わかったて言わへんようなとこありますわねぇ。それでも、なんやかんや言いながらお友だちとようお茶してはりますわ。この頃は、剣道も弓道も始めたようやし。あれ、嫌いやないねんな。好きなんやけど何が好きか自分でわからんといらついてるみたいな感じやねぇ」
「家に帰ってくれるやろか」
「さあなぁ。きっかけ次第とちがいますか。親に頭下げる気ぃは今のとこなさそうやねぇ」
はぁ、とひとつ氷心斎はため息をつく。
「なんや、昔思い出しますなぁ」
「昔て?」
「前にも一度、こないな相談してたことありましたやろ。いつやったかなぁ、うちの比呂希がまだ小さかった頃や」
「ああ、あったなぁ。あんさん、うちの息子はものわかりがよすぎてちいとも子供らしないて文句言うたはったなぁ」
「そうですわ。やんちゃのひとつもせんと、ええ子すぎて物足らんような子やったのに……それが最後に絶対許されへん親不孝しよった。わからんもんですわ」
「ほんまやなぁ。けど、わたしはいまだに不思議で、ようわかりませんのや。交通事故や言われましてもなぁ、夜遊びするような子とちがうのになんであないな時間にふらふら出かけてはったんやろ。お葬式でのあんさんの挨拶でもようわからんかって、奈彌子さんに聞いたかて話すのえろうつらそうやし、鶴了さんはとても言葉にはできませんて黙り込んでしまわはる。聞いたらあかんことなんやなぁ思たから、もう聞かんとこと思てましたけどな」
氷心斎は、先ほどよりも一層深いため息をついて、ひとつ大きく身じろぎした。
「そうどしたんか。わたしにはもうそないなこと聞いてくれるひともおまへんわ。みなさん、気ぃ遣えるだけ遣《つこ》てくれはるさかいね、あの子の話になると、すぅっと話題を変えてしまわはる。まあ、聞いてください。志乃さんには比呂希も可愛がってもろたんやし」
階下の物音で目覚めた遊馬は布団の上でひとつ大きく伸びをした。掛けていたはずの薄掛け布団は遥か遠く部屋の隅に丸まっていた。暑い。とにかく暑いと思って水を飲みに降りて行くと、卓袱台《ちゃぶだい》に肘をついて志乃が放心していた。
「どうかしたんですか、誰か来てたんですか」
玄関を開け閉《た》てする音で目が覚めたのだ。
「へぇ、朱鶴はんが」
「誰ですか、それ」
「誰て、巴流のお家元やがな」
志乃は泣き笑いのような顔を上げる。
「嫌みでも言われたんですか。鶴了さんを匿った罪とか」
「何をアホなこと言うてますのや。あんさんのことで見えたんや」
「え、俺の?」
包囲網が狭まっていることは感じていたが、どうやら遂に見つかったらしい。遊馬はぺたりと志乃の脇に腰を落とした。
「うちの親、来るんですか……ここに?」
「東京にはまだ言わんとくて言うてはりましたよ。行馬はんがだいぶ脅かさはったらしい。そないなことしたら、お父さんは日本刀持って来る言わはったんやて。おかしな子やなぁ。朱鶴はんはな、遊馬はんが東京へ帰らへんと、行馬はんと眞由子ちゃんの約束もできひんし、あんさんの気持ちを聞きに来はりましたんや」
そんなこと聞かれても困るぞと遊馬は思った。
「でも、志乃さん、なんか……」
それだけにしては様子がおかしい。
「心配せんかて、わたしはどうもありません。ちょっとな、比呂希はんのこと考えてましたんや。亡《の》うなったときのこと、ずっと不思議やったさかい」
「交通事故じゃなかったんですか」
遊馬はずずっと志乃に詰め寄った。
「それはそうなんやけどな、時間がな。明け方やねん。あないな時間にどこで何してたんやろと思てな。いろいろ悪い噂するひともいてたけど、夜遊びして朝帰りするような子とは絶対に違《ちご》たんや」
「新聞配達してたんじゃないんですか」
志乃はくすりと笑って目頭を押さえた。
「遊馬はんは、ほんまにおもろいひとやなぁ。普通はな、お家元の子ぉは新聞配達せえへんのやで。きっと全国捜してみても、遊馬はんだけやて」
「そうか、はは」と遊馬も笑い、「ちょっと顔洗ってきます」と立ち上がった。「俺、その話、聞きたいです」
そうしてあらためて志乃の前に座ったとき、志乃が話し出したのは巴流の番頭さんのことだった。
「あのうちにな、先々代のときから働いてた爺やさんがいましたんや。わたしもそのひとのことはよう知ってます。宣《せん》さん言いましてな、お嫁さんももらわんと、よそに教場も構えんと、ずっと先代を助けてきはった律儀なおひとや。比呂希はんは、お茶のこと何もかもこの宣さんから教わったんやね」
弥一みたいなひとだなと遊馬は思った。
「宣さんは、わたしがあそこに通うてた頃、もうけっこうな歳やったし、比呂希はんが物心ついた頃には立派なおじいさんやったやろね、自分のこと〈じいや〉て呼ばせて比呂希はんを可愛がってはった。先代が亡《の》うなったあとは、文字通りお祖父さん代わりやったんやて。それでも、ほんまの家族やあらへんもんな、寄る年波には勝てんといよいよ足腰立たなくなると、宣さんは、お家元の家族に迷惑かけたない言うて、巴さんの家を出て行こうとしはった。出て行ったかて身寄りももうないやろし、皆で引き留めてんけど、長いことこの家に仕えてきたんやし最期くらい自由にさしてくれ言わはって、そない言われたら朱鶴はんも引き留められへんかったそうや」
宣さんがいよいよ去るとなったとき、比呂希はせめて別れの一服をこのひとのために点てようと思い立った。完璧な茶事など催せるわけもないが、教わった限りのことを精一杯心を込めて実践してみようと思った。
宣さんが、昔、庭玉軒での茶会を手伝ったときに「こないなお席で一客一亭のお茶いただいてみたいもんどすなぁ」と言った言葉を覚えていたから、真珠庵の和尚に手をついて茶室を借りた。「どないに高価なお茶杓より手作りが一番どっせ」と教わったから、竹籔で傷だらけになって竹を探し自分で削った。誰にも内緒で、たったひとりで準備をした。棗は、小さい頃一緒に桜を見に行った吉野の土産物屋で老人が買ってくれたものだったらしい。茶碗は、同じ頃、比呂希が誤って割ってしまいどうしても告白できずにいたのを老人が自分の不始末ということにして繕ってくれた絵志野を引っ張り出してきた。
宣さんにだけ日時を告げ、そうして当日の未明、こっそり家を抜け出して、北山のどこそこの湧き水はほんまに美味しいと老人の言っていた場所まで自転車で水を汲みに出かけた。茶会の水は夜明け前に汲むものだからだ。
事故はその帰りに起きた。そんな時刻に山道を走っている自動車は飲酒運転のせいで危なっかしくよろけており、避《よ》けようとした比呂希は重いポリタンクのせいでバランスを失った。
「お茶杓の筒には〈養老〉て書いてあったそうですわ。お床には、子供っぽい字で〈じいや、ありがとう〉て書いてあって、表具のつもりかしらん、模造紙やら千代紙やら貼り合わせて掛けてあったんやて。あの家には、それで家一軒買えるようなお茶杓かてお軸かてごろごろしてますのやで。けど、その衒《てら》いのない文字見たら、どないな含蓄ある禅語も吹っ飛んだて……」
このしつらいを見た宣さんは、自分は大事な大事な坊《ぼん》にいったい何を教えてしもたんやと無惨に泣き崩れ、誰もそれを慰めることはできなかった。家元夫妻も奈彌子ら姉妹も皆ショックでとてもひとのことどころではなかった。ふと気づいてあたりを見渡したとき、宣さんの姿はどこにもなかった。
「お家元に詫びの言葉もなし、別れの挨拶もなし、荷物は置きっぱなし、行くはずやった老人ホームにも何も言うてへん、それきりいまだに行方知れずやて。考えてみたら無理もないわな。誰に合わす顔もない、言える言葉もないとどこかで自分を責めてはんにゃろね。比呂希はんが亡《の》うなったんも酷《むご》いことやけど、あれほど立派なお茶人が、立派やったおかげで人生の最後にこない悲しい目に遭わんならんゆう不条理を考えてたらな、なんやわたしはぼーっとしてしもたんですわ」
その日、遊馬は夕刊を配っていてもどこか上の空で、あちこちで入れるポストを間違えた。苦情が来て夕方また呼び出され、謝りながら配り直して廻り、その帰りには何も積んでいないのにバイクごと滑って転んだ。なんだか比呂希にとりつかれているような気さえした。
夕飯を食べてもまだ落ち着かず、ちょっと出てきますと竹刀を持って出かけ、長命寺の境内で何度も何度も振り回した。エイとかヤーとかやかましいので、さすがに何事かと不穏が出てくる。
「不穏さん、何かこう叩くものないですか。素振りだけじゃ物足りなくて。巻藁みたいに手応えのあるもの、何かないかなぁ」
と、遊馬は何気なく視線の先の松の幹を見るが、あれはたしか一年前、ヤーッと打っていったら上からセミの抜け殻が降ってきた木だからさすがに同じ失敗は繰り返さない。
「何かを叩きたい気分なのですか」
叩いて叩いて叩きのめしたい気分である。こういうとき、東京の実家は便利でよかった。当たり前だが稽古道具は何でも揃っていた。いつ道場を使っても叱られることもなかった。
「何か嫌なことでもあったのでしょうか」
「嫌なことはないけど、わかんないことばっかりで気持ち悪いです」
「なるほど」
不穏は遊馬の額の汗や肘の擦り傷を眺め、自分ならそのようなとき、暴れるよりも座ることを考えると言った。
「いかがですか。ここはひとつ座禅をなさってみては。それでしたらいささかご協力はできます」
いつもなら冗談じゃないと言って逃げるところだが、今日の遊馬はそれはいいかも知れないと思ったのだった。本堂でもどこでも好きなところに座れと言われて茶室を選んだのは、少なくとも今日に限っては板の間より畳のほうがよいという理由だけではないだろう。何かそこに必要なものがある気がしたからだ。
「おや、お上手ではありませんか」
教えられなくとも正しい姿勢で遊馬は座る。お仕置きの座禅ならお手のものだ。
「一晩でも二晩でもいらしたらよいですよ。また後で見にまいります。余計なことは考えず無になることです」
不穏はそう言い残して奥へ引っ込んだが、遊馬はそこで実にいろいろなことを果てしなく考えた。今日の床には軸がない。こんなときこそ何かぴしっと一言で決めてほしいと思うのに、そこには何も掛かっておらず、ただ小さな籠に半夏生の葉と「どうしたの」とでも言いたげに捻花《ねじばな》がしなっているだけだ。
庭玉軒で見たのと同じ場所に窓がある。そこに虹を見たことを思い出した。比呂希が用意したという棗や茶碗が目に浮かぶ。馬鹿なヤツだと思う。志乃の言った〈不条理〉という言葉が頭に響く。〈じいや、ありがとう〉がぐるぐると渦巻く。水なんかのために命を落としてどうするのだ。水なんか、水なんか、と思い、いったいそれはどんな味のする水だったのだろうと思う。〈無〉になどなれるはずもない。結局一睡もしなかった。
翌朝、そうは言っても新聞屋へ行かねばならないから空気が白んでくると遊馬はようやく脚を崩して障子を開けた。黙って出ていこうとしたところへ、本堂のほうから不穏がやってくる。
「いかがでしたか。何かわかりましたか」
遊馬は首を横に振る。
「わかんないです」
縁側を降りて靴を履き、とんとんと片足ずつ爪先で地を叩く。
「でも、なんでわかんないのかは、わかった気がします」
伏し目がちに一礼して走り去るその背中を見送りながら、不隠は「ほお」と呟いた。
学校は夏休みに入り、行馬が帰省の挨拶に来る。
「お兄ちゃん、ボクと一緒に帰ったらどうかなぁ。今だったら、お父さんもお母さんもボクのことで頭いっぱいだから、どさくさに紛れて叱られずに済むんじゃないかなぁ。ボクも、そうしてくれるととっても助かるんだけど」
「都合のいいこと言うなよ。おまえがどんな華麗な人生を設計しても勝手だけど、俺のまで決めるこたないだろ」
「なんでそう意地を張るのかなぁ。ボクもカンナも、もうもたないよ。宗家のおじさんだっていつまでも黙っててくれないと思うし。ばれるの時間の問題だよ」
「おまえに心配してもらうことないから。ごちゃごちゃ言ってないでさっさと帰れ、帰れ」
行馬はわからずやの兄に頭を抱えたまま帰っていった。すると入れ違いに佐保が訪ねて来た。
「映画館の前で一時間も待ってん……」
「あ、ごめん、忘れてた」
学校が終わったら映画を観ようと遊馬のほうから誘ったのに、ばたばたしていてすっかり頭から抜け落ちていた。
「電話つながらへんし……」
「嘘、あ、気づかなかった」
携帯電話はプリペイド・カードの期限が切れていた。
佐保は疑わしげに首を傾げている。
「相談したいこと、あったのに」
「何? 何か困ってるの、佐保ちゃん」
部屋に上がるかと聞いたら首を横に振るので、仕方なくぶらぶらと歩き出した。佐保の悩みとは進路のことだ。東京の大学を受けようか京都の大学を受けようか迷っている。
「幸麿さんに聞くって言ってたじゃん。カンナが弓教えてる大学がいいんだろ」
「そうやけど……」
公園のベンチに腰かけて口ごもる。幸麿はさすがに生徒相手に自分のプライベートな問題を語りはしなかった。佐保にその気さえあれば、東京と京都に離れていてもカンナの指導を仰ぐことはできる。大学で学ぶのは弓だけではないのだから、もっと他に判断材料はあるだろう。
「それはそうだよな。幸麿さんは正しいと俺も思うぜ」
佐保は不満げだ。
「先生はええけど、遊馬さんは何か言うことないのん?」
「どうかなぁ。俺、自分じゃ大学行ったことないからなぁ。どっちがいいんだろうなぁ。うーん」
「そういうことやないーっ」
佐保の言いたいことはわかる。東京と京都に分かれていたら、お互い滅多に会うことはできない。遊馬もじき東京に戻るつもりだから向こうで待っていろとか、自分は帰るつもりはないからおまえも俺のそばにいろとか、そういう言葉が聞きたいのだろう。いつまでたっても「好きだ、付き合ってくれ」のひとことがないのだから、そうでも言わせなければ佐保の乙女心は行き場がない。
「佐保ちゃん、悪いけど、俺、ほんとにわかんないんだ。どこの大学受けたらいいかなんて。いい加減なこと言っても責任とれないし」
「責任て……何」
「なんて言うか、佐保ちゃんが来年東京に行ったからって俺もそのとき東京にいるかどうかわかんないし、でも、京都にいたからって、たぶんもうそんなに会えないんじゃないかと思うし」
「お別れみたいなこと言わはる……」
「〈お別れ〉なんかあるはずないじゃん。第一、俺たち付き合ってるわけじゃないんでしょ」
ははっと遊馬は空笑いしたが、佐保のほうは驚いてじわっと涙を潤ませる。
「これ、仕返しなん? いつか言ったこと、怒ってはんにゃね」
「いや、そうじゃないんだよね。俺、最近気がついたんだけど、今は女の子とどうこうしてる場合じゃないっていうか、もっと他にしなくちゃいけないことがあるっていうか。佐保ちゃんだって、今は受験勉強に集中しないといけないときでしょ。お互い、自分のこと一生懸命しようよ」
「わたしのこと、嫌いになったんや。それやったらそう言うたらええやん」
佐保は膝に顔を埋めてしまい、遊馬は頭をくしゃくしゃと掻きむしった。そうじゃなくて、そうじゃなくて、そうじゃなくて……。おそるおそる佐保の肩に手を掛けてそっと起こす。
「佐保ちゃん、こっち見て。俺さ、今、佐保ちゃんのこと猛烈に抱きしめたい気分なんだけど、事情があってそうできないの、わかってくれてるよね?」
「……」
「佐保ちゃんの三メートル後ろにあいつがいて、その十メートル後ろにお母さんがいるわけ。ふたりともさっきからじっと俺たちのこと見てるんだ」
佐保は、はっと後ろを振り返った。
「……だから口で言うけどさ、俺、佐保ちゃんのこと好きだから。好きだけど、まだそう言わないって決めたから」
「なんでやの?」
「俺、この先どういう人間になるかわかんないし、今はまだ自分で自分のこと佐保ちゃんにお薦めできないんだ。佐保ちゃんはとってもいい子だし、もっといい奴と出会うかもしれないし、だから俺のこと信じて待ってろとか、そんな気障なことは悪いけど言えない。でも、俺がもうちょっとまともな人間になって自信もできたら、そしたら佐保ちゃんのとこ行くから。そのとき、もし佐保ちゃんにもその気があったら付き合って。俺、頑張るからさ。佐保ちゃんもよく考えて、いい大学に入りなよ」
せめて笑顔を作ろうと力を抜いたとき、グキッと、いきなり遊馬の首は引っぱられ佐保の腕に絡め取られた。少女の肩越しにドングリみたいに目を見開いている伊織と、はっと視線をそらしたその母が見える。遊馬はついに観念、瞼を閉じた。
腰砕けになっている遊馬を置いて佐保は去った。遊馬は残された力を振り絞って腕を持ち上げ、くいくいっと手招きする。そばで石と化していた伊織が寄ってくる。
「おまえ、ちょっとここに正座しろ」
隣をとんとんと叩く。伊織は靴を脱いでベンチの上に畏まる。遊馬もなんとか体勢を立て直した。
「たぶん、おまえのお母さんも同じこと言うと思うけどな、おまえ、ここに来るのはもうやめろ」
「なんでや」
「必要なことは全部教えたからな。もう俺がおまえに教えることは何もない」
「嘘やろ、まだ何も教えてもうてへんやんか。走っただけやで」
ゴホンと遊馬は咳き払いする。
「……これ以上は、上級課程だ。習うにはそれなりの資格がいる」
「資格て何や」
「そうだな、まずは学校に行くことだ。いいか、学校なんてどこでも修羅場と決まってる。武者修行にはもってこいの場所なんだ。ブラジルの歌にもある。待ってたって未来なんかどこにもない。男なら、引き裂いてむしりとって割れた爪の間に作るんだ――ってな」
「何やねん、それ。みんなやっつけろゆうことか」
「違う。稽古以外で剣を振り回したら、おまえは破門だ」
「そしたらどないすんねん」
「しょうがない、おまえは俺の一番弟子だから、特別に坂東巴流の奥義を伝授しておいてやる。一度しか言わないからよく聞け。剣を極めた者は、もはや剣は使わない」
「どーゆーこと?」
「どんなに強くても剣を振り回しているうちは二流ってことだ。そんなことをしないで相手の剣を封じるのが、究極の剣士だ」
「なにもしなかったらぼこぼこにされるやろ」
「……おまえ、〈百獣の王〉って何だか知ってるか」
「ライオンやろ」
遊馬は人差し指を立てて横に揺らした。
「ライオンと象が一対一で鉢合わせしたら、道を譲るのはライオンのほうだ。なぜだ。ほんとうは象のほうが強いからだ。いいか、ほんとうに強い奴は強がったりしない。牙をむいて脅したりもしない。のんびり好きな道を歩いているだけなのに、誰もそいつに手出しはできない。そういう徳を、おまえは学校で身につけるんだ。それができたらもう一度坂東巴流の門を叩け。その頃には俺も戻っているだろう」
「師匠、どっか行くんか」
うむ、と遊馬は偉そうに腕組みをする。
「俺はこれから新たな修行の旅に出る。厳しい修行になるからおまえは連れて行けない。俺のいない間、おまえは無刀の剣士として学校へ乗り込み、象の徳をもって人心を掌握しろ」
「……?」
「つまり、みんなと仲良くやれってことだ」
遊馬が麻の着物をまとい、絽の袴をつけて、比叡山に登ったのはそれから間もなくのことだ。腰には〈武家茶道坂東巴流〉家元嫡男である証に〈野分《のわき》〉の茶杓を脇差しのごとく差していた。彼は、天鏡院とは名ばかりの荒んだ伽藍を目にすると一瞬臆したものの、すぐに気を取り直して脚を踏ん張り、あらん限りの声を張り上げた。
「たのもう! たのもう!」
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「あなた、今出川さんがお見えですよ。ちゃんとお座りになっていて下さい」
公子が座敷の入口から声を殺して呼びかける。
「あ、ああ。どうかな、曲がっているかな」
秀馬《ほつま》は先ほどから矢筈を手に、床の掛軸を直してばかりいる。
「そんなもの、どうでもいいんですよ。弥一さんはどこに行ったんです? お義父さまは? あら、やだ、肝心のカンナさんがいないじゃありませんか」
あたふたと皆を呼びに行く。幸麿はずっと玄関で待たされている。待たされながら、ときどき天を仰いだり地を見つめたりしている。やっぱり帰ろうかとふと魔が差したりもする。が、振り袖姿のカンナが羞じらいつつ迎えに出ると、諦めにも似た笑みを浮かべて覚悟を決めた。振り袖の下にはやはり今日も袴をつけて、カンナは三十路を過ぎてまるで卒業式の女子大生のようだ。
襖が開く。カンナの保護者が四人ずらりと並んでいる。やはり帰ろうかともう一度思った。色無地の公子を除き、男性三人は黒紋付きの羽織袴で威儀を正している。秀馬と風馬《かざま》は〈左三巴〉、弥一は〈丸に違鷹羽《ちがいたかのは》〉をそれぞれぼんぼんぼん……と五つずつつけている。柴《ふし》色の羽織に楓紋をひとつばかりつけてきた幸麿は、なんだかそれだけで負けた[#「負けた」に傍点]という気がする。やはり直衣《のうし》くらい着てくればよかった。そうしようとしたら、姉に「いい加減にしよし」と止められた。今日、幸麿は結婚の申し込みにやってきている。
ひとまずここはいざって入り、恭しく挨拶をした。立派な表具の掛軸が目についたので、吸い込まれるように床の前に座った。
「ええお軸ですね」
と呟きながら本紙をよく見ると、なにやらずいぶん変わった趣味のものだった。じわっと冷や汗が滲む。
「さすがにお目が高い。上の倅《せがれ》の筆でして。なかなかの出来映えなので、記念にちょっと表装させてみました」
なんでこんな席に息子の軸を掛けるのだと理解に苦しむものの、腕組みした秀馬がいかにも満足げに微笑んでいるからには、ここはどうあっても褒めねばなるまい。しかし、言葉が出てこない。
「そうですかぁ、遊馬《あすま》君の……」
「おや、今出川さんは行馬《いくま》だけでなく、遊馬もご存じなので?」
「あ、ええ、まぁ、ちょっと……」
ほほっと笑ってごまかす。
「さようでしたかっ。実は、その倅から手紙が届いたのです。おまえ、ちょっと持ってきなさい」
公子は呆れ顔だ。
「あなた、今出川さんは遊馬ではなくカンナさんのお話をなさりたいはずです」
「まあ、いいじゃないか。カンナと一緒になれば家族同然になる方だ。これからはカンナ同様に遊馬を助けて下さるに違いない。四の五の言わずに早く持ってきなさい」
やがて幸麿の手に、巻紙の書状が載せられる。よく言えば定家流、率直に言えば下手くそな筆で、こう書かれていた。
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一筆啓上 御父上御母上にはお変わりなくお過ごしのご様子祝着に存じ奉り候 小生このほど御父上の命に従い比叡山天鏡院に参籠仕り候 一年の遅参となりしことはお許しいただきたく候 今は柴門老師に教えを乞い己の本分と天命とを見定めんと励みおり候 来る正月老師のお許しあらば三十三間堂の射会に参じたく御父上の御上洛これあらば望外の喜びと存じ候 小生京にある間いささか詩文に長じ候えば御父上に一編献じ奉り候
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「で、その詩というのが、あの軸というわけです」
「はぁ。やはり将来お家元ともなられる方は、凡人には及びもつかない特異な感性をお持ちですよね」
苦し紛れに幸麿は答え、すると秀馬も風馬も弥一もカンナも公子までもが同調して高らかに笑い声を上げた。ひょっとすると、これが江戸好みのセンスというものなのかと幸麿の汗はますますひんやりと冷たく背中を湿らせた。
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雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫な茶杓をもち
釜ひとつあれば欲はなく
自慢もせず
いつも静かに茶筅を振っている
一日に粗茶一服と
干菓子と少しの饅頭を食べ
師の教えを
だって違うだろうと言わずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の蔭の
小さな萱ぶきの小間にいて
東に茶会あれば、
行って下足を取り
西にボテ箱運ぶ人あれば、
行ってその荷を負い
南に点前に緊張する人あれば、
行ってこわがらなくてもいいといい
北にイジメや嫌がらせがあれば、
つまらないからやめろといい
日照りのときは灰のアクを抜き
寒さの冬は籔で竹を伐り
みんなに変人と呼ばれ
疎まれても
おもねらず
ひとたび正客となれば趣向を盛り上げ
次客となれば聞き上手となり
詰めとなれば気がよく働き
亭主となれば命を賭して誠を尽くす
そういう茶人に
わたしは
なりたい
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本書は「京都新聞」二〇〇三年七月二十三日〜二〇〇四年二月十三日に「友衛家の茶杓ダンス♪」と題して連載された作品を改題のうえ加筆訂正したものです。
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松村栄子(まつむら・えいこ)
一九六一年静岡県生まれ。筑波大学第二学群比較文化学類卒業。九〇年に『僕はかぐや姫』で海燕新人文学賞、九二年に『至高聖所(アバトーン)』で芥川賞を受賞。主な著書に『あした、旅人の木の下で』『生誕』やファンタジー作品『紫の砂漠』『詩人の夢』、エッセイ集『あの空の色』『ひよっこ茶人の玉手箱』などがある。
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底本
マガジンハウス 単行本
雨《あめ》にもまけず粗茶一服《そちゃいっぷく》
著 者――松村栄子
二〇〇四年七月一五日  第一刷発行
発行者――石崎 孟
発行所――株式会社 マガジンハウス
[#地付き]2009年1月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・むすっとした遊馬を萩田はなだめ、その鷹揚《おうよう》さがかえって遊馬の癇にさわる(句読点なし)
・手伝《てつと》う
・――ちんまりしたはってええねぇ(文頭空白無し・句読点なし)
・なんだかもっないなくて、
修正
そうかぁ。あんさんにもいろいろ世話かけてしもたな」
「そうかぁ。あんさんにもいろいろ世話かけてしもたな」