TITLE : 過ぎゆく日暦
過ぎゆく日暦   松本清張
目次
ニューヨークの死体収容所。あるオランダ人。
まえがき/昭和五十六年一月二十二日(木)/一月二十三日(金)/一月二十七日(火)/二月三日(火)/二月四日(水)/二月五日(木)/二月六日(金)
民俗学の衰退。イランの拝火神殿趾《あと》。モーツァルトの「魔笛」。
昭和五十六年三月三日(火)/昭和四十八年四月十五日(日)/四月十六日(月)
一葉と緑雨。芥川《あくたがわ》と三島。中勘助とその嫂《あによめ》のこと。
昭和五十六年十一月十五日(日)
森鴎外の死とその創作欲の内側。
昭和五十六年十一月十五日(日)――承前
森鴎外《おうがい》と乃木《のぎ》将軍の死。白樺《しらかば》派のこと。
昭和六十一年六月七日(土)/六月十日(火)/六月十三日(金)/六月二十九日(日)/七月二十九日(火)/八月五日(火)/八月十八日(月)/八月十九日(火)/八月二十二日(金)/八月二十三日(土)/八月二十五日(月)/八月二十六日(火)
イギリス紀行
――ヨーロッパ巨石文化。ロンドン。シェトランド島。
昭和六十年九月二日(月)/九月五日(木)/九月六日(金)/九月十日(火)/九月十一日(水)/九月十二日(木)/九月十四日(土)/九月十五日(日)/九月十七日(火)/九月十八日(水)/九月十九日(木)/九月二十日(金)
イギリス紀行
――スティンネス巨石群。城壁遺跡。
九月二十日(金)――承前/九月二十一日(土)/九月二十二日(日)/九月二十三日(月)
イギリス紀行
――スコットランドの石塔。ヨークシャー婦女連続殺害事件。
九月二十三日(月)――承前
イギリス紀行
――「嵐が丘」を訪う。
九月二十三日(月)
ヨーロッパ巨石文化の展望。
九月二十四日(火)/九月二十五日(水)/九月二十六日(木)/九月二十七日(金)/昭和六十年五月二十九日(水)
運不運 わが小説
平成元年十月十五日於東京・小平市松明堂書店ホール
過ぎゆく日暦《カレンダー》
ニューヨークの死体収容所。あるオランダ人。
まえがき
日記を記《つ》けたことがなかったが、昭和五十五年からはじめた。「日々の出来事」よりも、ふと思い浮んだこと、読書で得たことの備忘のためである。いわば、ありあわせの紙片やチラシ広告の裏にメモを走り書きするのと同じである。
しかし、じぶんだけの心覚えなので、第三者にはなんのことだかわかりにくい。そこでこの抄録にあたり自注を付けた。☆印は自注。
書いているうちに「自注」が多くなるのは、仕方がない。
なお、昭和五十五年から五十七年までのものは「清張日記」(日本放送出版協会刊)にあるが、本稿は五十六年以降である。
昭和五十六年一月二十二日(木)
某出版社の依頼により、在ニューヨークの木村ハルナのアドレスを教える。
木村ハルナはマンハッタン方面の警察分署で日本人被疑者や証人らとの通訳をなす女性。先年自分がニューヨークに行ったとき彼女の世話でハーレムを巡回するパトカーに乗り、また死体収容所を参観もできた。
☆彼女は三十すぎの痩《や》せぎすのひと。警察方面の通訳では長いようだった。独身。履歴は聞いてない。
ニューヨークの死体収容所は「モルグ」とは標示してなく、リーガル・メディシン・ホスピタルの名称を掲げ、清潔な白亜の病院の外観。しかし、内部に入り、廊下を奥に進むと冷凍室の死体置場は映画で見る通り大形ロッカーの抽《ひ》き出し式の棺がいっぱい。ロッカーに入れきれない死体は暗い廊下の横にごろごろ寝かせてある。番人もいない。うっかりすると、死体と知らずにつまずきそうになる。これは映画には出てこない。屍体《したい》のほとんどは黒人かプエルトリコ人だった。
広々とした解剖室に入ると、ここは「流れ作業」である。およそ四十体くらいが一列にならんだ解剖台の上に仰向《あおむ》きになって執刀を受けている。その壮観(?)にたじろぐ。医員は三十名くらい。婦人の死体なし。
頭蓋骨《ずがいこつ》を開けられるばかりにされ、胸部にはY字形にメスを入れられた解剖準備のグループは左側、以下解剖手順どおりに右へ横列にならぶ。死体の頭蓋骨をこじ開けて取り出した脳髄を測定し、胸部のY字形を押し開いて内臓を両手でつかみ出すグループ。刺傷痕《ししようこん》や弾痕を検《しら》べるグループ。最後の右側の列が縫合、復元の作業である。
ずっと前に警視庁の大塚《おおつか》監察医務院を参観したことがあるが、あそこでは変死体を一体ずつ解剖する。ここのように四十体が流れ作業でいっぺんに処理されるのを見ると、強い異臭とともに気分が悪くなる。その内臓をラーメンのように両手ですくってつかみ出しているのが白衣の美人助手たちで、彼女ら見学者たちの蒼《あお》ざめた顔に笑っている。
そのうち、主任監察医らしいのが忙しそうな足どりで入ってきた。その日系の顔が知人に似ている。けだるげに下った眼蓋《まぶた》でこっちのほうを見て、あいつらは何だ、と部下に訊《き》き、返事を得て"Good"とうなずく。
聞けば、被害者のほとんどはゲイだという。ゲイの嫉妬《しつと》は男女のそれよりも激情型で、執念深いとのことだった。ピストルで撃ち合った兄弟の死体がある。ホモの愛人のとりあいだという。ほとんどがピストルで、刃物は少い。帰りに職員が「法医学図集」(Atlas of Legal Medicine by Tomio Watanabe with Michael M. Baden)をくれた。内容の原色写真は刺戟《しげき》が強すぎて、何回も披《ひら》く気がしない。
出版社は東京からニューヨークの木村ハルナさんに三回くらい電話したが、不通だったそうである。彼女はどうなったのだろうか。
一月二十三日(金)
いつかは柳田國男《やなぎたくにお》と折口信夫《おりくちしのぶ》とを書きたいと考え、かねてからその資料を集めたり、また両人をよく知る人々の話を聞いたりした。
左の「柳田・折口の対照表」はあくまでも自分の心覚え、当座のメモ。(別図)
一月二十七日(火)
福山敏男氏(京都大学名誉教授)来信。
「拝復 本月二十二日付の御奉書拝見しました。奈良時代の西域文化と日本との関係について強い関心を持たれて調査研究をお進めになっている御様子で、いつもながら感銘いたしております。御申越《おもうしこし》の順序によって私考を書いてみます。
(1)唐招提寺《とうしようだいじ》金堂の様式について
唐時代の様式を強く受けたものというのが建築史家の常識というところでしょう。長安慈恩寺大雁塔《だいがんとう》の一重めの平面中央、壁面に嵌《は》めこんである半円形の石に線刻された仏殿の様子と、わが唐招提寺金堂の姿や細部がよく似ております。そういう点が、この金堂を唐様式と見る根拠になっているわけです。中国出版の建築史の本では、唐様式の説明のところでは日本の唐招提寺金堂を図示してあるのをよく見ます。さて、この金堂に西域、特にイランの影響があるかどうか――こういう問題は、わたしたちは考えたことがありませんので、不意打ちをくらった感じで、即答できません。建築の軸部(柱とか梁《はり》、桁《けた》とかの骨組みの部分)ではやはり唐様式(プラス日本古来の技法)が基調になっているのでしょう。堂内の(仏像とか文様とかの)彩色画などの細部をとってこの問題は考えるべきものだろうと思います。そうすると『唐様式の絵画におけるイラン様式の影響』という大きなテーマになるわけです。シルクロード研究が盛行している今日ですからこのようなテーマの論文は書かれているだろうと思います。
(2)如宝《によほう》の伝記のこと
国史や仏教史の研究家で、特に如宝伝の研究論文を書いた人があるかどうか、小生の記憶にはありません。戦前に読んだ境野黄洋《さかいのこうよう》博士の『日本仏教史講話』に、たしか如宝のことが書いてあったと記憶しますが、そう長い文章ではなかったと思います。(今手もとに同書はありません。)『望月《もちづき》仏教大辞典』には『如宝』の項目はありませんね。例の『創作ノート』に収録して下さる小生の手紙のうち、昭和四十九年八月一日付の分を見ますと、やはりお求めによって『如宝』について諸資料を書いた部分があります。そのうちでは『七大寺年表』や『僧綱補任』の延暦《えんりやく》十六年の条に、
唐国胡国人、有大国風、能堪一大戒師、所業弥礼南無如意宝珠饒財宝仍取上下字、為名、故曰如宝
とあるのが異色というべきでしょう」
唐招提寺は安如宝の独力による建立《こんりゆう》である。だが、学者はあまりこれに触れず、ために世間へ鑑真《がんじん》の建立との誤解を与えた。これ学者が東大寺資料を偏重するあまりである。当時のアカデミーの主流東大寺に排斥され、蔑視《べつし》され、無視された揚州の唐僧鑑真と胡国《ここく》僧如宝の痛憤が唐招提寺(はじめ「唐提寺」)を独力で建立させた。
中国唐代の文献には鑑真の名は無し。
☆高弟法進《ほつしん》は師鑑真に背いて東大寺に残り、聖武《しようむ》帝没後、故新田部《にいたべ》親王の廃宅に遷《うつ》された鑑真および思託《したく》などの弟子らが、これを私立の寺とし、唐提寺と名づけた。東大寺側は鑑真を中傷すること甚《はなはだ》しく、ために思託は淡海《おうみの》三船《みふね》(「懐風藻《かいふうそう》」の撰者《せんじや》)に頼んで鑑真の東行記を撰してもらったが、淡海の「唐大和上東征伝《とうだいわじようとうせいでん》」における脚色は度が過ぎ、曲筆舞文に近い。早稲田大学教授安藤更生《あんどうこうせい》は東征伝を事実なりと信じて論文を書く。
安如宝は安国の人。
安国は安息国(漢書西域伝)で、ペルシアのこと。波斯人とも書く。波斯人が八世紀に奈良に居住していたことは聖武紀にも出ている。わたしはペルシア人安如宝の努力をテーマに小説を書こうとした。安如宝を安国(中央アジアのボハラ。タシケント付近)の人とする説があるが、安息国のペルシア系としたほうがよい。
二月三日(火)
オランダのライデン大学日本学科教授フレーク・ファン・フォッスの妻美弥子さん、午後一時に来訪。教授夫妻とは、ハーグの海岸保養地スケヘニンゲンのピーターズの料理店(中華と日本料理店)で会ってより約十年ぶり。美弥子さんは自分の「アムステルダム殺人事件」をオランダ語に訳して出版したのが好評につき、つづけて他も訳したしという。
「死の枝」「隠花の飾り」など短編集を渡す。彼女の話。
オランダ王室。現ユリアナ女王はまもなく引退。あとは長女(女ばかり四人)が女王をつぐ。新女王は「進歩派」。中国に行ったとき中国の政策に共鳴したという。その夫はドイツ人。
ユリアナ女王は、夫君がロッキード社より収賄《しゆうわい》した(田中角栄と同時期)ことに激怒し、一切の公職を辞せよ、と夫に迫った。夫は現在一切の公職についていない。女王があの人でなければといって婿《むこ》にした夫君はプレイボーイ。
先帝も女好き。ときどき、その「落しだね」というのがあらわれ、オランダ政府をあわてさせている。が、「天一坊」的な進展はない。
女王は自分のブスを意識して、若いときから公式の席に出たがらなかった。その「はにかみ屋」のために国民に絶大な人気があり、「かみさん」的な顔が主婦層にいっそう親近感をもたせているとのこと。
ヴァン・ピーターズのこと。
夢見るロマンチスト。もとはホテルのバンドにいたドラムマン。現在の妻(中国人)と恋愛していっしょになった。音楽家、文学者、学者などが大好きで、歓迎する。子供なし。
中国女性のピーターズ夫人は彼の好きなようにさせているようだが、しっかり者。ピーターズは、一時オランダ航空の機内食の工場を持っていたが(自分もピーターズに案内されたことがある)、それも売り払ってしまい、日本料理店も閉めた。彼は音楽家である自負が忘れられず、バンドを編成して自らドラム叩《たた》きになったが、六十近い年齢のため若い楽士の感覚には追い付けず、いまや置き去りにされたかっこう。
美弥子さんの話から、火が消えたような「遠東飯店」の奥で、顎髭《あごひげ》を撫《な》でながら背をかがめて座っている老いたピーターズの姿が眼《め》に浮ぶ。それでも店には、日本人のメイドがまだ一人居る由《よし》。美弥子さんは云《い》う。「ピーターズは人はいいが、小器用なためにあっちにもこっちにも手を出して、ひとつことに定着しない。近頃《ちかごろ》はノイローゼに陥っています。男も更年期には情操不安定になるものでしょうね」
☆ヴァン・ピーターズと会ったのは一九六四年四月、初めてヨーロッパへ行き、アムステルダムに寄ったとき。講談社の有木勉氏(第一編集局長。当時)が同行。
駐オランダ大使館の高瀬参事官(この人はインドのボンベイ総領事かなにかのときに死去した)が、「昨日、ハーグ北郊の海岸保養地スケヘニンゲンにも日本料理店が開店したから」と、案内された。それがピーターズの中国料理店「遠東飯店」の二階であった。日本から募集したというお座敷女中の若い女性が四人いた。料理はスキヤキとテンプラの二種。板前も東京から呼んだ。
その中の女中の一人は英語のみ。きいてみるとインドネシアからきて、母はインドネジアンだが父は日本の軍人。戦時中に両親は結ばれたらしいが、敗戦とともに父は引揚げで帰国。あとは消息不明。ただ、その姓と召集前の職業を母から聞かされただけという。
この娘さんが「瞼《まぶた》の父」に会いたがっているので、彼をさがしてくれとピーターズに頼まれ、「週刊新潮」の「告知欄」に出したことがある。そのいきさつは前に何かに書いたことがある。
お座敷女中の契約年限は二年間なので、二年ごとにピーターズはその募集に日本へきた。娘さんの両親は、土地の名が「スケベエ人間」(ロッテルダムに上陸する日本船員がスケヘニンゲンをおぼえやすいように「助平人間」と発音した。また、それでも現地では通じる)と聞いて、顔色を変えて断るとピーターズは苦笑していた。彼は日本にくるたびにわが家に寄るが、女中さんの斡旋《あつせん》はまもなく柳橋の「隆光亭」の主人に頼むようになった。オランダ航空の機内食の製造工場を持ち、そのほうが忙しくなったのだ。そのころが彼の絶頂期。
美弥子さんの主人のフォッス博士はライデン大学の教授で、「日本文化」部門。浮世絵の逸品多数。ほとんどが長崎出島の和蘭《オランダ》商館が蒐集《しゆうしゆう》したもの。例のシーボルトが日本国の国禁を冒して持出して帰国した伊能忠敬《いのうただたか》日本全国沿岸測量の写し図もここに保存されているという。
フォッス博士も日本関係の史料を買いに日本にきて神田神保町《かんだじんぼうちよう》あたりの古書店を漁《あさ》るので、神保町でもよく知られている。
博士の日本語は、ブッキッシュだが格調が高く、まるで明治人と話しているような気がした。
わたしはアムステルダムにはその後三度くらい行っているが、その二度目くらいはゴッホの作品を多く展示している国立森林公園内の美術館を訪れた。一度はその帰りに、車の運転手にたのんで農村地帯を通ってもらったが、平野の村落ではどこでも国旗を掲げ、女性も子供もみな晴衣《はれぎ》だった。ユリアナ女王の誕生日であった。美弥子さんの云うとおり女王陛下はたいへんな人気者らしい。
二月四日(水)
週刊文春の「十万分の一の偶然」の最終回を書く。夜、「芸術新潮」の「青木繁《あおきしげる》と坂本繁二郎《さかもとはんじろう》」の第三回のゲラなおし。
二月五日(木)
午前六時、家を出て羽田空港へ。同行はNHKの教育科学部斎藤陽一。福岡市で講演のため。午前七時半発全日空機。
板付空港着九時半。すぐに久留米の石橋美術館に向かう。館長岸田勉に面会。青木と坂本の画《え》をもう一度見る。青木の「海の幸」はやはり彼の最高作。だが、晩年の作「漁夫晩期」の無残なるを見る。坂本の展示作品少なし。石橋正二郎が買上げずという。炯眼《けいがん》というべし。
夕刻、全日空ホテルに帰る。夕食はふぐ料理。
席上に一女中あり。別府海岸通りで八十室ある旅館を経営せしも夫の死亡で廃業。大資本のホテル・旅館に圧倒され中小旅館は経営不能なりという。八十部屋の女主人が博多に来て料理店の女中をする境遇を想《おも》う。きびきびとした動作の中に自然の愛嬌《あいきよう》あり。
二月六日(金)
佐賀県神埼《かんざき》町の埜口《のぐち》サダがホテルに訪い来る。同人は家内の又《また》従姉妹《い と こ》。自分の出征中(朝鮮、三十四歳のとき)わが一家が疎開《そかい》して世話になりしもの。また小学校一年の長女淑子を教ゆ。
つづいて大分県安心院《あ じ む》町の一行八人、来訪。
☆アジムはアズミ(阿曇)の転化か。「安心院」は当て字。筑前《ちくぜん》国阿曇郷(和名抄。現在の福岡県宗像《むなかた》郡玄海町。宗像神社の北。潜水海女《あ ま》の発祥の地でもある)、渥美(三河)、安曇(信濃《しなの》)、安積(播磨《はりま》)、安津見(能登《のと》)、淳見(美濃《みの》)など、みな同地名の流布《るふ》と思わる。漁撈《ぎよろう》族が内陸に移り農耕族になったのが信州の安曇郡、豊後《ぶんご》の安心院などの地名になったのかもしれない。
戦前、宇佐方面から南へ山峡を通り、峠に達してその上から安心院盆地をはじめて俯瞰《ふかん》したときの印象は強かった。霞《かすみ》の下に広々とした平野が淡く浮んでいた。このへんは朝霧の多いところ。白い霧が海のように盆地にみなぎり、まわりの山が霧から黒々と突き出て縁のようにとりかこむ。古事記の神武東征記にある「足《あし》一柱《ひとつ》騰《あがりの》宮《みや》」とは、かかる場所を形容したのではないかと思った。
安心院盆地はもとは山湖で、地殻《ちかく》の変動によって北の一端が切れ、湖水が低地から海(周防《すおう》灘《なだ》)へ流れ出た。その水路のあとが駅館《やつかん》川である。水を失った湖は湿地帯になったであろう。
足一柱騰宮については「宮の一方を宇佐川の岸に立てかけ一方は流れの中に大きな柱を立てた」(本居宣長《もとおりのりなが》)、「階を経て昇る宮」(飯田武郷《いいだたけさと》)などの説があるが、この解釈では実体が浮ばない。
「足」は湿地帯に生えた「葦《あし》」の当て字であり、「騰」は古語でも「上り」に同じ。葦の原を上がったところにある宮(駐屯所《ちゆうとんじよ》)の意であろう。「一柱」は、宮の形容詞である。――わたしはそんな思案をしたことがあった。
民俗学の衰退。イランの拝火神殿趾《あと》。モーツァルトの「魔笛」。
昭和五十六年三月三日(火)
起床六時。「青木繁と坂本繁二郎」(芸術新潮)第4回の構想を考え、メモする。
高階秀爾《たかしなしゆうじ》著「近代日本美術史論」の「青木繁」は内容凡庸だが、これに坂本繁二郎をいれなかったのは一見識。
すこし前の日記だが、今回それを出す。メモ用紙に書いたのをテヘランで買った大判のノートに貼《は》り付けてある。どこかに仕舞いこんでいたのが、見つかった。わたしとしては忘れがたいものである。
――昭和四十八年四月、予定の朝日新聞連載小説の取材のためにイランに行った。朝日の学芸部では、人手不足だからひとりでイランをまわってくれと云う。交通不便なイランに行くのは初めてである。
帰りは、海外特派員がイスタンブールで待つからそこで合流しろと云う。かんじんのイランにはだれもついてこないで、トルコで合流したとてなんの益に立とうぞ。
だが、人手がないというなら仕方がなく、また、気ままな一人旅もよし、と思い定めた。
テヘランの駐イラン日本大使館に連絡してあって、深夜の到着に西村元彦一等書記官に出迎えられた。すぐにインター・コンチネンタル・ホテルに送りこまれた。
大使は有田圭輔《ありたけいすけ》氏だった。大使館の世話で、通訳兼ガイドとしてテヘラン大学建築科留学生佐藤修君の同行を得た。
佐藤君は某私大の建築学科に在学中のまま留学した。アラブ髭《ひげ》を蓄えた長身の人。温厚淳朴《じゆんぼく》な性格ということがテヘラン滞在中の交際でわかった。日本にはお母さん一人を残しているという。
四月十四日、テヘラン空港発のイラン航空国内機で砂漠《さばく》の町ヤズドにむかった。ヤズドにはゾロアスター教の本山ともいうべき神殿がある。
イランのゾロアスター教徒は、ペルシアがイスラム化されると、イスラム教徒の圧迫を受けて、その大部分はインドのボンベイに移った。ボンベイに鳥葬の施設をもつパーシイ教徒(ペルシア教徒)というのがそれである。だからイランのゾロアスター教徒は少数派となっている。その教徒もほとんどがヤズド付近に集まっている。
テヘランを出発するとすぐに翼下は砂漠となる。小さな湖が見えた。佐藤君はわたしの耳に口を寄せて云った。「あれは塩湖です。水が干上《ひあが》って、底なしの沼となっています。イラン政府はパリ留学中のイラン学生を巧言をもって帰国させ、かれらがテヘランに着くと直ちに投獄です。パリ留学中に反体制派になったからです。投獄された学生の尖鋭《せんえい》分子はヘリコプターに乗せ、塩湖に投げ落すのです。すべてシャーの命令です」。四十八年はもちろんホメイニ革命の前である。
佐藤君は丘陵にカナートの施設が見えるとカナートのしくみをその場で図を描いて説明した。砂漠の中に村落が見えるとその農村の性格を解説してくれた。
イランでは上流階級と下層の格差がひどい。中間層は少い。失業者数は正確にわからないがおびただしいという。
テヘラン。ここのヒルトン・ホテルの二十四時間会堂に集まる深夜族の男女は上流階級の子弟ばかりだ。
ヒルトン・ホテルにはバンドがある。ここは「大人」の社交場。夜は冷える。女はミンクや「白」のショールをかけて高級車で到着する。彫りの深い色の白い美人が多い。
外国人の男性――留学生、商社員などの在留人であろうと、旅行者のような滞在者であろうと、イランの若い女性と恋愛関係になる場合、女性は結婚が絶対条件として、それを確める。男性は女性の両親兄弟と誓約を交わさねばならない。もし男が変心したときは、莫大《ばくだい》な慰謝料を要求される。男がイランから本国に帰っても他の国へ移っても、慰謝料の要求はどこまでも追いかけてくる。「目には目を」の懲罰律法で、金が払えない者は長期の懲役。外国人のばあいは外交関係なみに駐在大使館を通じて抗議がなされる。そのトラブルは、やはり女に口説き上手のイタリア人が多い。イランでは、かりそめの恋は許されない。
もっとも、このばあいは対手《あいて》の身分や階級が女性の実家のそれと同等もしくはそれほど差違のないことを要する。あまりに隔たりがあると、女性ははじめから相手にしない。これは「誇り高きアーリア人」の自負だ、とテヘラン大学留学生は話して聞かせた。男女の交際もその階級に応じて限定される。
☆パーレビ国王(当時)の三度目の妃ファラ・ディバの実家は、イランでも有数の大地主である。前妃は子なきゆえに離婚さる。数ある妃の候補者のなかから当時パリの大学に留学中のファラをシャー・パーレビはえらんだ。プレイボーイの聞え高いシャーも、妃とするには女の実家の階級が無視できなかった。
それでもファラは農家育ち。ジャカルタから一時東京にきたデビにわたしが会ったとき、彼女曰《いわ》く「ファラもだいぶん王妃らしくなったわ」。デビは彼女とパリで知合いだった由《よし》。
シャーの前妃には現在パリで毎月五百万ドルの慰謝料が支払われているという。彼女はパリ社交界の花形になっている。その私行上のことはテヘランでは一切不問という。
ヤズドの神殿に詣《まい》り、「沈黙の塔《サイレンス・タワー》」(鳥葬の場)に登ったあたりは、他に書いたから略する。
ヤズドでは「最高級」の「ホテル・シールウス」(Cyrus)に泊った。実態は三ツ星以下である。ただ、狭い部屋の窓から見える饅頭形《まんじゆうがた》の民家屋根の密集を見たのは初めてのことで、印象的だった。民家の丸屋根はイランが発祥で、ここからトルコへ伝播《でんぱ》して、ビザンチン建築の円蓋《ドーム》になったのか、それともトルコからこっちへ伝わって民家の饅頭形屋根になったのか、佐藤君に聞くのを忘れた。
ヤズドからイスファハーンに行くにはカビール砂漠の西部を横断しなければならぬ。鉄道は通じてない。車だと半日がかりの走行だという。ホテルに注文して蒸溜水《じようりゆうすい》の瓶詰《びんづめ》を一ダースほど車のトランクに入れた。
運転手は自分の子を同乗させてくれと云う。扁桃腺炎《へんとうせんえん》で発熱しているがヤズドにはいい医者がいないからイスファハーンの病院で治療させたいというのである。五歳ばかりのその男児は父親の横の助手席に坐《すわ》り、苦しげに寝たり起きたりした。
以下、日記につづく。
昭和四十八年四月十五日(日)
ヤズドよりイスファハーンまで砂漠を通る。約五時間半。砂嵐《すなあらし》が走るのを見る。路傍の車の残骸《ざんがい》は砂嵐に巻きこまれて宙に舞い上り墜落破壊したのと、対向車と正面衝突したのとがある。対向車(トラック=ガソリン輸送車、砂利、物資運搬車など)はフルスピードでまったく危険だ。砂嵐のときは、黄色い霧の中に入ったようだと運転手は云う。竜巻《たつまき》がなんども向うの砂漠を横断して行くのを見る。こっちに向かってくるのがあれば、車の下にもぐりこまねばならないと眼《め》を皿のようにして砂漠の地平線上を見る。
黄色い土の家の村がある。黄粉《きなこ》をもぐしたような部落。それでもコカ・コーラの看板だけが現われていた。車を停《と》めて集落の中に入って見たかった。
ナイーンを通過す。イスファハーンに入る。
イスファハーンの病院に入院する子供は父親を慕い、われわれのホテルを捜しに父親がいなくなると声を上げて泣く。佐藤君がタカをくくってホテルの予約をしなかったのが裏目に出たのだ。佐藤君と運転手とがようやく見つけたのが「ホテル・ナクシェジャハーン」(Naghshe Jahan)。裏町の二級ホテルだが、駅の待合室に寝ないで助かった。夕方、運転手は子供を抱いて、ホテル・ナクシェジャハーンのロビーに料金をうけとりにくる。チップを余分に与える。
幼時の自分が扁桃腺炎のために母と小倉から乗合馬車で徳力というところの漢方医へ通った記憶が戻る。そのころ電車は北方というところまでで、それから先は乗合馬車だった。ツバを呑《の》みこんでも咽喉《の ど》が痛い自分を母は膝《ひざ》に抱きよせるようにして、可哀想《かわいそう》にのう、えらかろのう、と広島弁で絶えず云って背中をさすった。
四月十六日(月)
ホテルからイスファハーン郊外の拝火神殿趾へ行く。その途次、佐藤修の話を聞く。
○中部ケルマンの町にはゾロアスター教の学校がある。生徒の大部分はイスラム教徒。学校を経営しているのは、インドに住むゾロアスター教の教徒で、彼らは今でも祖国イランのゾロアスター教を守りつづけている信者たちを援助している。
○司祭は神殿でコステイと呼ばれる聖なる紐《ひも》を振る。仔羊《こひつじ》の毛をつむいだ七十二本の糸でつくられている。
○ゾロアスター教の儀式はインドのバラモン教と似通ったところが少なくない。それは彼らの祖先がともにアーリア人で、同じ宗教的遺産をうけついでいるからであろう。
○イランの中部の町ヤズドは、トルコからパキスタンへ抜けるキャラバンの道筋にあたる。ヤズドの人口は現在およそ十三万人。そのうち五千人がゾロアスター教徒で、イランでは最大のゾロアスター教徒の社会を作っている。信徒に工場主が多い。
○ゾロアスター教徒は、同じゾロアスター教徒同士でなければ結婚できない。古代ペルシアの時代には血族結婚が奨励されたが、現在ではこのような習慣は残っていない。
○辺鄙《へんぴ》な土地に行くと、死んだ人々に対する古い風習が残っている。人が死ぬと、三十年間、その命日には冥福《めいふく》を祈る式をあげる。これは祖先崇拝のあらわれだった。ゾロアスター教は、この世は「善」と「悪」との戦いであり、人が生きていく上の心がまえがきわめて重要である。その聖典は「アヴェスター」。太陽崇拝のマズダ教ともいい、火をも崇拝するので拝火教ともいう。土俗的な信仰を体系化したのがゾロアスター(ツァラトゥストラ)で、前六世紀ごろの人、イラン東部に住んでいたらしい。
○風葬。――霊魂不滅の思想が遺体を野ざらしにする風葬という一つの儀式を生んだ。ゾロアスター教によれば、人は死ぬと、その霊魂は三日間この世にとどまり、この後、魂は風に運ばれて、天国行と地獄行とを審判する「チンワットの橋」のたもとに行く。
空を飛ぶハゲワシ。
魂の抜けた肉体は無用の存在であり、「沈黙の塔」と呼ばれる場所で野ざらしにされる。葬式には限られた人だけがみな白衣をまとい、「沈黙の塔」までついて行く。(白い服装)
○遺体を火葬したり、埋葬したりしないのは、神聖な火や土を穢《けが》さないためである。遺体が「沈黙の塔」に置かれると、まもなくハゲワシの群が現われる。
○死んで四日目になると、死者の魂は「チンワットの橋」のたもとまで風に運ばれ、アフラ・マズダ神によって生前の行為を秤《はかり》にかけられる。悪なる魂は橋の下にひろがる地獄へ落され、善なる魂は橋の向こうの天国へ行く。
どちらにも行けない魂は、天国と地獄の間にあって最後の審判の日まで待たねばならない。
○世界は善神(アフラ・マズダ)と悪神(アーリマン)の長い期間の闘争だが、最後には善神が勝ち、地上は燃える火によって完全に清められる。この後、善の神の世界は永遠につづく。
☆イスファハーン郊外の拝火神殿は標高約一〇〇メートルの独立丘陵の上にある。急勾配《こうばい》で、しかも岩山である。肺活量のないわたしにはこういう山に登るのがきわめて苦手だが仕方がない。登山案内の少年につれられて佐藤君とともに上った。
十五、六歳ばかりのイラン少年はカモシカのように身軽にひょいひょいと登って行く。急傾斜なので、こっちは足を踏みはずすと断崖《だんがい》を転落しそうだ。ヨーロッパの婦人観光客などは脱いだ靴《くつ》を提げ、沓下《くつした》裸足《はだし》で岩角につかまりながら歩いている。
上の拝火神殿はササン朝のものだが、ほとんどイスラム教徒の手で破壊され、わずかな残欠しか見られない。遺趾《いし》というにはあまりに荒廃して原形の想像もできない。もっとも保存のよいもので、日乾《ひぼ》し煉瓦《れんが》を積んだ囲いの四隅《よすみ》が残っているだけである。
ホテルに帰ってから佐藤君はわたしのために復元図を描いてくれた。メモにスケッチていどだったが、さすがに建築学を専攻しているだけに、うまいものだと感歎《かんたん》した。(別図)
これで見ると、アケメネス朝王墓のならぶナクシ・ロスタンの西にある二つの拝火壇とは比較にならないほど大規模である。もっともナクシ・ロスタンのは、キュロス大王の都があったパサルガダの往還に面している「献灯籠《とうろう》」のようなもので、神殿はその丘を上ったところにあったのだろう。
アケメネス朝の拝火神殿は、アルタクセルクセス王墓の前にある石積みの方形建造物(カバーフ・サルタシュットという)であったらしい。これと同じものがキュロス大王の墓のそばにもある。
そのアケメネス朝の拝火神殿が、ササン朝になると、イスファハーンの丘陵上に見るような、山上の堂々たる神殿配置となっている。
イスファハーンでは前記のように二級(以下)の「ホテル・ナクシェジャハーン」に泊ったが、このイラン語は、佐藤君によれば、「世界の絵」という意味だそうである。名と実態と離れること甚《はなはだ》しい。
市の中心を流れる川の向こうには豪華なモザイク装飾で有名なホテル・シャー・アッバースがある。隊商の宿の面影《おもかげ》が裏庭に残っているというこのホテルに泊れなかったのは残念な思いがした。
某出版社の社長曰く。「世界各国の中で、もういちど泊りたいホテルを挙げるなら、シャー・アッバースですな」。革命前の談話である。
シラーズのペリセポリス、テヘラン郊外のアリの泉、メシェド街道沿いの拝火神殿趾と一週間ばかり佐藤君につきあってもらった。
このイラン取材をもとに朝日の連載小説「火の回路」(四十八年六月から一年間)を書いた。小説のヒロインはいちおうあるが、じっさいの主人公は「ゾロアスター教論」である。書評子は意をとり違えている。
☆ゾロアスター教は周知のようにアジア、ヨーロッパに強く影響を与えている。インド・ヨーロッパ語族のイランが発祥だからそのひろがりはひろい。「アヴェスター」とインドの聖典「ヴェーダ」とは共通している。名に転倒が見られるだけだ。光明の善神と暗黒の悪神との長い闘争の末に善神が勝利を収め、この世に永遠の光明が訪れる。だが、それは何万何千年の遠い未来、それまでは善悪二元論。
ゾロアスター教(拝火教)は中国に入り〓教《けんきよう》となり、密教では護摩、東大寺二月堂の修二会《しゆにえ》の松明《たいまつ》、鞍馬《くらま》の火祭り、民間行事のどんど焼きなどになる。
またゾ教の「チンワットの橋」の裁きは仏教に入って閻魔《えんま》大王の裁判、キリスト教の「最後の審判」に変化する。
だが、ゾ教の影響は十九世紀のヨーロッパにそのまま生きている。ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」をいうのではない。モーツァルトの「魔笛」のことを言ってみたい。
モーツァルトのオペラ曲「魔笛」も、そのテーマはゾロアスター教から採り入れたものと思う。
どのモーツァルト評伝を見ても、「魔笛」論を読んでも、そんなことはほとんどふれてない。ぜんぶフリーメイソンが主題だと述べてある。
周知のように「魔笛」の台本はウィーンの小さな劇場《こ や》主《ぬし》エマヌエル・シカネーダが最初に書いた。ゲーテはフリーメイソンだったので「魔笛」を高く評価し、これが改訂を考え、じっさいにその断篇が出版された。彼の義兄も改訂台本をつくって、じっさいにそれはワイマールで上演された。
シカネーダも、モーツァルトもフリーメイソンであった。
徳高き高僧の名は「ザラストロ」である。これはツァラトゥストラ(ゾロアスター)である。「夜の女王」は名はないがゾロアスター教の暗黒神アーリマン(太陽神アフラ・マズダと対立、抗争する)を連想させる。
「ザラストロ」の名が付けてあるのに音楽評論家は「魔笛」とゾロアスター教との関係には気がつかないでいる。もっとも、たった一字だけ出ている。「ゾロアスターがエジプトでイシス教の布教をやっているのも妙である」(「魔笛」。解説・石井宏《いしいひろし》)。他の類書も似たりよったりだ。触れていることにもならない。ジャック・シャイエ「魔笛―秘教オペラ」(高橋英郎・藤井康生《ふじいやすなり》訳)にはゾロアスター教とのかかわりが一行も出ていない。
「魔笛」では、ザラストロが王者の象徴として「太陽の輪」を持っている。ゾ教の主神アフラ・マズダは有翼太陽の輪の中に坐《ざ》している。
タミーノとパミーナが「火」と「水」の試練をうけるが、武者たちの兜《かぶと》の上にはローソクの火が燃えている。「火」は、ゾ教が拝火教といわれるように聖火である。まだほかにもあるが、長くなるので、このくらいにするが、最後に、鳥刺し男のパパゲーノである。初演にシカネーダ自身がつとめたというこの滑稽《こつけい》な役は観客を笑わせるが、たくさんの鳥をぶらさげているこの「鳥群」は「沈黙の塔《サイレンス・タワー》」(ゾロアスター教徒の死者のみが付される鳥葬の場)を象徴しているとしたら思い過ぎか。
ゾ教では光明神と暗黒神との長い長い闘争の末に前者が勝ち、この世にユートピア的な社会が訪れると説く。
それなら「魔笛」のザラストロと「夜の女王」との闘争を音楽評論家はどう見るか。
これは「男と女の争い」であり、それは結ばれることによって解決される、という。その難関を踏み越えるには男女とも一連の試練を受けねばならないが、叡知《えいち》の門をくぐるには、さきに入門した人々すなわちフリーメイソンの人たちの手助けが必要である。かくて楽園に入れば、ザラストロの前に夜の女王は敗北し消滅する。これが「魔笛」の骨子であるという。(J・シャイエ)
シカネーダはザルツブルクにいるころからモーツァルトと知り合ったが、彼は旅まわり一座のヴァイオリン弾きであり、二枚目役者であり、台本書きであり、劇場《こ や》主《ぬし》であり、多才多芸であった。当時ウィーンにはハンガリーなどスラヴ民族との交流があったがモンゴリアン系の混血もあって東方風俗も流れていた。「魔笛」第一幕に、日本の王子が大蛇《だいじや》に追われる話もヤマタノオロチとスサノオのことをまた聞きしたのかもしれない。行騰《むかばき》という異様な狩姿も同じである。
そんなぐあいだからイランのゾロアスター教のことをシカネーダが聞かぬはずはない。(ニーチェが「ツァラトゥストラはかく語りき」を書いたのは一八八三―八五年で、これは現在でももちろん著名である)。
シカネーダもモーツァルトも、「魔笛」のテーマについては一言も語らずして死んだ。台本の作者がほかに数人あっても、その「名を秘した作者」も語らぬ。かくて音楽評論家の「フリーメイソン」一色でまかり通っている。
J・シャイエの「魔笛」は登場人物のセリフを引用して男女の愛情が主題などと説いているが、そんなものはフリーメイソンの結社とはなんの関係もない。フリーメイソンはフィリップ美王の陰謀に絶滅された聖堂騎士団の規約を踏襲する一種の軍隊的組織で、多分に秘密性を持っていた。だから「魔笛」の神殿の場面がフリーメイソンの入信儀式の秘密を暴露したといってモーツァルトの暗殺説が言われる理由である。
これは「魔笛」が男女の愛情を主題にしているからゾロアスター教がテーマであるはずはないという反論が起るのを予想して、念のために書いておくのである。
とにかく、これほど「魔笛」にはゾロアスター教がテーマとなっているのに、もしくは強い影響下にあるのがはっきりしているのに、類書がそれに正面から言及しないのは不思議である。「モーツァルトとコンスタンツェ」フランシス・カー(横山一雄訳)、「モーツァルトとフリーメーソン」キャサリン・トムソン(湯川新・田口孝吉訳)、「モーツァルト『魔笛』」アッティラ・チャンバイ(畔上司《あぜがみつかさ》訳。名作オペラブックス)、「モーツァルトのいる部屋」井上太郎など、みなフリーメイソン主題説一色である。(「夜の女王」がフリーメイソンを弾圧したマリア・テレジアで、「ザラストロ」がゾ教を庇護《ひご》したイグナーツ・フォン・ボルンというすぐれた学者というモデル考があることもフリーメイソン「魔笛」の俗説を強くしているのではないか)。
音楽にはまったくの不案内なわたしだからあまり大きなことは言えないが、眼についただけでも「魔笛」とゾロアスター教との関連を書いたものがないのだから(あれば引用ぐらいしているにちがいない)、おそらく他にないであろう。
ウィーンは東方民族との融合点である。ドナウにかかる東側の橋に通じる通り《ストラツセ》をさして十九世紀前期の宰相メッテルニヒが、ここから先はマジャール人の国だと言ったのは有名、早くから東方民族の地帯であった。かれらがイランのゾロアスター教を信仰していたことは想像に難くない。
多才にしてアイデアに富むシカネーダが、これら東方民族からゾロアスター教の説話を聞き、これを「魔笛」のなかに組みこんだ。「つぎはぎだらけの脚本」だが、上演してみると大評判をとった。それはたぶんに東方のエキゾォティシズムと壮大なロマンティシズムがあったからである。フリーメイソンだけだったら、そのような人気を博さなかったろう。
一葉と緑雨。芥川《あくたがわ》と三島。中勘助とその嫂《あによめ》のこと。
昭和五十六年十一月十五日(日)
日ごろ古書店から送ってくる「目録」や「古本市目録」の中から旧《ふる》い「早稲田文学」「三田文学」「中央公論」「心」「不同調」「国文学」その他雑誌の「特輯《とくしゆう》号」を眼《め》につく限り買うようにしたが、こういう明治大正文学関係のものは愛好者が多いので容易に手に入らない。古本市のものは抽籤《ちゆうせん》だが、わたしはクジ運に弱いから、はずれることが多い。
入手したものは、筆者と題名ぐらいは日記につけておいたが、印象的なものは要点を書きとめておいた。
これをここにならべてみる。わたしなりの思い出や感想が湧《わ》く。
○「中央公論」明治四十年第二二巻一〇号「特輯・斎藤緑雨論」。馬場孤蝶《ばばこちよう》、塚原渋柿園《つかはらじゆうしえん》、後藤宙外、佐々醒雪《さつさせいせつ》、幸徳秋水、幸田露伴、戸川秋骨、上田万年《かずとし》、戸川残花。
幸徳の発言。
「(肺病よりも)貧乏が緑雨を殺した。樗牛《ちよぎう》さんもエラかつた、紅葉さんもエラかつた、子規さんもエラかつた、梁川《やながは》さんもエラかつた、死ぬまで寝床で書きつづけられた(注、彼らはみな肺結核で死す)。緑雨はそれすらできなかつた。三十七年の春寒く、北風身を切るやうな晩を、骸骨《がいこつ》のやうになつて咳《せ》き入りながら、本所の横網から有楽町(注、幸徳の週刊平民新聞社)まで、僅《わづ》かの小遣ひを相談に来たのも幾度であつたらう。彼は其《その》瞑目《めいもく》の二、三週間前まで、重体の病苦を忍んで米代を拵《こしら》へに歩いてゐたのだ」。(八六ページ)
☆昭和四十七年夏の暑い日、わたしは「正太夫《しようだゆう》の舌」という小説を書くために、麻布十番に近い三ノ橋に住んでいた和田芳恵《わだよしえ》さんに同行をたのんで両国駅前付近へ行った。
正直正太夫の斎藤緑雨が明治三十七年四月十三日午前九時、三十八歳で息を引き取ったのは本所横網町十七番地であった。
緑雨は同番地の「金沢タケ方に寄寓《きぐう》」と筑摩《ちくま》書房版「明治文学全集」の年譜にあるが、これだと、まるで独身の緑雨が世帯主金沢タケ方に下宿したようにみえる。正確な表現ではない。タケは鵠沼《くげぬま》の料理屋東屋《あずまや》の女中で、緑雨がそこに滞在中に関係が出来、小田原十字町に転居いらい、本所横網町まで緑雨と世帯をもった(江見水蔭《えみすいいん》「自己中心明治文壇史」。馬場孤蝶「春窓漫筆」)。しかし、緑雨は彼女との同棲《どうせい》を知人にいっさい隠し、手紙の住所もただ「本所」とのみ書いた。彼が肺患の重い身体《からだ》をひきずって自分で金策に歩いたのもそのためである。
金沢タケ方「寄寓」となっているのは、「同棲」をごまかしているからで、それを昭和女子大近代文学研究会の若いグループが素朴《そぼく》にうけとったのは無理からぬこととしても、同研究会資料を文学専門の筑摩書房がチェックもせずにそのまま使っているのは、後進の研究者に誤解のもととなろう。
馬場孤蝶、幸田露伴、幸徳秋水などのごく親しい友人は緑雨と金沢タケとの同棲を知っていたが、孤蝶以外は書いてない。「その人の身の上を見れば、年齢も既に三十八と云《い》ふのであるのに、妻もなく子もなく、一人寂しくこの世を送つて」と孤蝶が緑雨のことを書いているのは表面上の辻褄《つじつま》合せである。世帯をもった金沢タケは緑雨の死まで看《み》とり、その後、ひっそりと姿を消した。
横網町十七番地は、嘉永《かえい》期の江戸切絵図によると、川岸にのぞむ藤堂《とうどう》和泉《いずみの》守《かみ》の蔵屋敷があり、その前が町家になっている。明治四十一年の「風俗画報」付録「新撰《しんせん》東京名所図絵」の「横網町一丁目」は陸軍被服廠《ひふくしよう》、本所郵便局、総武・東武両線両国停車場などの施設に町内の大半がとられているが、長屋の一画だけは片隅《かたすみ》に小さく残っていた。
とはいってもその後の関東大震災で本所は壊滅。戦後はまた様相の一変で、「長屋ではあるけれども三間《ま》に台所付、三坪位は確かにあつたらうと思はれる立派な飛石の敷である。いづれかの隠居所といふやうな小綺麗《こぎれい》な陋屋《ろうをく》」(孤蝶「緑雨醒客《せいかく》」)を和田さんとわたしは探し当てるべくもなかった。炎天の下で歩きまわって、わたしの猿又《さるまた》は汗で太腿《ふともも》の上までめくり上り、和田さんも浴衣《ゆかた》の袖《そで》をたくり上げて扇を使い、今日はいやに暑いですな、と懐《ふところ》から何度もたたんだ手拭《てぬぐ》いをとり出した。
ようやく冷房のきく場所へ二人で逃げこんでほっとした。
話は、緑雨の借金のことになった。
和田さんは、借金の苦労ならぼくも骨身にしみていると前歯一本欠けた口を開け笑った。だが、和田さんの借金というのは、勤め先の新潮社より独立し、出版社を興して「日本小説」という小説雑誌を創刊し、二十号くらいで大赤字を出して倒産し、ために債鬼に追われた話である。「日本小説」は、坂口安吾《さかぐちあんご》「不連続殺人事件」など新鮮な内容で注目されていたが、しだいに経営が行きづまり廃刊した。
緑雨のばあいは肺患で仕事ができず生活費に窮しての借金である。体力がないために長篇が書けず、短篇ばかりである。それも批評や評論が多い。博識の戯作《げさく》趣味を生かし川柳的洒落《しやれ》を駆使して文章に凝るから遅筆である。その諷刺《ふうし》文学は「小説八宗」によって文壇に出た。鴎外《おうがい》、露伴との匿名《とくめい》合評の「三人冗語」はすこぶる好評であり、また文壇に権威があった。なれど、評文とか合評とかの稿料は安い。「筆は一本、箸《はし》は二本、衆寡《しゆうくわ》敵せず」は、稿料の安さと、肺患のため寡作の故《ゆえ》である。
鴎外、露伴は大家。緑雨の同情者ではあるが、仲間ではない。緑雨は、千駄木《せんだぎ》の鴎外のもとにもたびたび金を借りに行っている。緑雨に「鴎外漁史に与ふ」という小文があるが、観潮楼へ借金に行く道順を叙しているとみられないことはない。
森於菟《もりおと》の想《おも》い出がある。やや長いが緑雨の風〓《ふうぼう》を写しているので引く。
《もう一つは私がやや長じて新築された観潮楼(千駄木町二十一番地、団子坂上)に帰つた後である。長じたといつてもまだ五六歳だから其頃《そのころ》往来した幸田露伴や森田思軒は顔も覚えて居《を》らぬがひとり蓬頭垢面《ほうとうこうめん》の斎藤緑雨が私の記憶に止まつてゐる。それは比較的度多く訪れた外に特に私の印象を強くした事実があつたのである。或《ある》夕方玄関脇《わき》の薄暗い廊下で女中に案内せられて来る緑雨と会つた。バサバサした髪が長く額にかぶさつてゐる下に蒼黒《あをぐろ》い痩《や》せた顔の中から眼ばかり光らしてゐる外、珍らしく白い歯が見えたと思つたら彼は私の手に白い四角な物を押つけたのである。彼が何と云つたか覚えてゐないが子供に愛想を云ふやうな人ではないから一寸《ちよつと》脣《くちびる》を動かしかけただけなのだらう。くれたのは其頃の煙草《たばこ》のピンヘツトやオールドゴールドによくついてゐた画札で軍人や船や花や動物をかいてあるものである。五六寸の厚さはあつたからかなり多く集めたので私が父や叔父のを貰《もら》つて喜んでゐたのを見てふと思ひついたのであらうが緑雨としては珍らしい優しい逸話かも知れない。此《この》文学史上意味があるかも知れぬ紙札は彼の手垢《てあか》の為《ため》に縁がすつかり鼠色《ねずみいろ》にすれてゐたが、私はそれでも二三日持つて遊んでゐたのを祖母に見付けられて斎藤さんに貰つたと云つたら汚いからと取上げられたのを当時の私とは別の意味で今少しく残念に思つてゐるのである。然《しか》しそれについて、祖母を批難する気はないので彼女は貧窮の緑雨を侮蔑《ぶべつ》したのではなく私の為に結核菌の伝染を恐れたのであると信ずる。
余談ではあるが緑雨は当時かなり窮してゐて、度度父にわづか許《ばか》りの無心をしたらしい。父はかういふ人の申出はいやがらずに多少の合力をしたやうである。かかる時の緑雨はあの右肩下りの特有の字で纏綿《てんめん》たる情を長長と巻紙に認《したた》めるのが恰《あたか》も女郎の手紙のやうであつたさうだ。これをも祖母は皆破つて火にくべたので、後年になつて惜しい事をしたと嘆じてゐた。》(「解剖台に凭《よ》りて」)
鴎外のもとにも行ったくらいだから、露伴、逍遥《しようよう》、与謝野寛《よさのひろし》などの「同情者」へも合力を頼みに行ったであろう。孤蝶は親友のために何度か金策をしたにちがいない。孤蝶は土佐の自由民権理論家として知られた馬場辰猪《たつい》の弟で、一家の支柱辰猪がアメリカで死ぬと、孤蝶は英語教師などして苦労した。島崎藤村と知り合ってからは「文学界」の創刊にも参加した。
だが、医療費に追われ、凝り性の遅筆で無収入に近い状態の緑雨の場合は、いくら借金してもキリがない。
緑雨が幸徳秋水にあてた三十七年二月十五日付の手紙がある。世に知られてない珍しいものだ。封筒裏にも「本所 斎藤賢《さいとうまさる》」と書き、本所局の消印があるが、それも緑雨が死ぬ二ヵ月前に書かれたものである。周知のように幸徳と緑雨の仲は、黒岩涙香《くろいわるいこう》の「萬朝報《よろずちようほう》」社で机をならべて以来である。
「大逆事件」で投獄された幸徳がこの緑雨の手紙を獄中に持参していたが、刑死の直前に非戦論を支持する小泉策太郎(三申と号す。政党人)に渡した。小泉はこれを木村毅《きむらき》に与えた。わたしは木村氏から見せてもらい、これを書き写した。文面の内容は、「週刊平民新聞」の主張する非戦論が「悲惨」の一本調子であることを警《いまし》め、壮丁がいったん兵営に入って爼《まないた》の上に乗れば、家郷の父兄との「別離の悲しみ」は一変し、金鵄勲章《きんしくんしよう》を狙《ねら》うくらいの勇敢なる軍卒の心境となる、これを送り出した家郷の父兄もまた「別離の悲しみ」が変り、お国のお役に立つことを念願するようになる、身体検査で帰郷ともなれば、村のてまえ恥しい、家には入れぬなどと息子を脅す。かかる現実の状況を平民新聞が盲点として衝《つ》かないのはおかしいではないか、という意味である。
「斃《たふ》レテノチ已《や》ムナドヽイヒマスガ斃ルレバ已ムノハ当リ前デス コレハタヾ失敗者ガ美名ヲホシガツテノ文句ニ過ギマセン 欧州ノ事例ヲ今スグ日本ヘ持ツテ来テモダメデス 主義ノ為ナドハ第二段ノ事デス」
「全体今ノ社会主義者ハ皆貧乏デス 貧乏ダカラ信用ガアリマセン 勢力ガアリマセン 階級打破ハ結構デスガ 今ハマダ階級ガアルノデスカラ ヤハリ中流ドコロヲ目蒐《めが》ケテ地歩ヲ占メネバダメデス」
この部分的な引用だけでもわかるように、緑雨はやはり見るべきところは見ている。幸徳の浮き上った理論とは対蹠《たいせき》的だ。(その全文は「正太夫の舌」に収録)
緑雨は孤蝶とは親しかったが、それは孤蝶の江戸趣味=寄席《よ せ》趣味なところが気が合ったからで、彼の文才を認めたからではなかった。また、そのころの孤蝶は小説の筆を絶って翻訳に赴いていた。
緑雨は、樋口一葉《ひぐちいちよう》に弱かった。孤蝶の「春窓漫筆」によると、緑雨がいくぶんでも長く関係した女には一種の型があって、吉原《よしわら》の妓楼《ぎろう》の二人の女も、金沢タケ女も、小柄《こがら》な、鋭い顔の道具立ての、全体が引きしまったという感じのする女で、そういうのが緑雨好みの容姿であった、という。
一葉の肖像写真を見ると、細面《ほそおもて》で、眉《まゆ》と眦《まなじり》とがやや吊《つ》り上り、口もとをぎゅっと結び、いかにも「鋭い顔の道具立て」で、まさに「緑雨好みの容姿」である。
この点を一葉研究の和田芳恵氏にわたしが確めると、
「そういえば、たしかにそうですな」
と和田さんは長い顔をうなずかせて肯定した。
一葉の日記から見る。
一葉の家には、禿木《とくぼく》・秋骨・孤蝶など「文学界」の連中が常連として行っていた。一葉と「文学界」とを結びつけたのは三宅花圃《みやけかほ》であり、禿木は一葉の原稿係りであった。上田敏も行き、島崎藤村も孤蝶か禿木かに連れられて一葉をのぞきに行っている。川上眉山《かわかみびざん》はことに一葉に熱心であった。一葉の家の玄関には男下駄《おとこげた》がいっぱいだったと花圃が書いている。
本郷菊坂町の一葉の家は、泉鏡花が冷やかして評したように西欧文人の「サロン」というようなものではなく、別嬪《べつぴん》の小唄《こうた》の師匠のところに町内の若旦那《わかだんな》や若い衆が押しかけるようなものであった。緑雨は彼らを「やくざ文人ども」といい、君がためには「油虫」だといい、早く追い払わないと害が増す、と最初に出した手紙に書いている。
「正太夫のもとよりはじめて文の来たりしは一月(明治二十九年)の八日成《なり》し」と一葉は日記にそれを書いた。
「五月二十四日正太夫はじめて我家を訪ふ ものがたること多かり」
どのような話題だったか書いてない。
二十八日に正太夫が一葉の家の門まで来た。が、人が来ているらしいのを知って、また来ると云って帰った。翌二十九日、早速に正太夫はやって来た。一葉の近作「われから」について作者の意をたしかめるためだと彼は来訪の目的を云い、さらに、こんなことは作者に聞くまでもなく自己の見方で批評すべきだが我はまだ力足らずして眼識がしっかりしてないので心配だから、このように作家のもとを訪うことになったのだ、とも云った。――文壇の大家連を戯評で撫《な》で斬《ぎ》りしている自信家の正太夫の言葉とも思えないが、これは彼の言訳で、一葉を訪ねる口実だったろう。彼もまた玄関の男下駄の中に入ったのである。
「正太夫とし《〈年〉》は二十九 痩せ姿の面やうすご味を帯びて唯《ただ》口もとにいひ難き愛嬌《あいけう》あり 綿銘仙《めんめいせん》の縞《しま》がらこまかき袷《あは》せに木綿がすりの羽織はきたれど うらは定めし甲斐絹《かひぎぬ》なるべくや 声《こわ》びくなれどすみとほれるやうの細くすゞしきにて事理明白にものがたる」
痩身《そうしん》、面貌《めんよう》に凄味《すごみ》あり、愛嬌ある口もと、低いが澄み徹《とお》るような細い涼しい声で理路整然と明確に語る緑雨に対し、裏はさだめし甲斐絹と思われる羽織の観察と共に、一葉はこれまでじぶんに近づく他の若い文士どもとは違う印象を持った。果して、緑雨よりは五つ年下の「したたかな」この女流作家は、
(正太夫が斯道《しどう》熱心のあまりに文学のことについていろいろと話しにくるからには、何かことさら人目を忍んで隠れるように振舞うこともあるまいに、表むきの話のほかに何か下心を抱いているようでもある。そう思い当ると、世の中がようやく面白くなってきた。この男、敵としてもおもしろいが、味方につけるとなおさらに妙味がありそうである。眉山や禿木など気骨のない男にくらべて一段と格は上と見た)
と日記に感想をしるすのである。まさに緑雨は一葉に心底を見すかされたのである。年若き「姐御《あねご》」の、男を見る眼は肥えていた。……一方では通俗作家の半井桃水《なからいとうすい》を師と敬い、愛をささげる「普通の女」も同居している。
緑雨との虚々実々の渡り合いは一葉の日記に隠顕している。才能溢《あふ》れる一葉を見て緑雨が魂を奪われたのは想像に余りある。
匿名合評は雑誌「めさまし草」のまきの三(明治二十九年三月)から、まきの七まで毎号載った。そのなかから一葉の「たけくらべ」の項を出す。匿名は「頭取」「ひいき」「第二のひいき」の三人。どれが鴎外、露伴、緑雨かまったく判じがたい(佐藤春夫の言葉=鴎外全集」)
しかし、緑雨の推賞によって「たけくらべ」が文壇の注目を浴びたのは定説だから、左の「ひいき」の当人は緑雨とみてさしつかえなかろう。
「ひいき。此作者の作にいつもおろかなるは無けれど、取り分け此作は筆も美しく趣きも深く、少しは源の知れたる句、弊ある書きざまなども見えざるにはあらぬものゝ、全体の妙は我等が眼を眩《くら》ましめ心を酔はしめ、応接にだも暇《いとま》あらしめざるほどなれば、もとよりいさゝかの瑕疵《かし》などを挙げんとも思はしめず。」
「何ぞ其の美登利の可憐《かれん》にして而《しか》も作者が伝神の筆の至妙なるや。字減するを得ざれば乃《すなは》ち其蜜《みつ》を知る、蜜なるかな〓〓、字去つて意留まるといふものこれなるべし。……多くの批評家多くの小説家に、此あたりの文字五六字づゝ技倆《ぎりやう》上達の霊符として呑《の》ませたきものなり。」
まさに激賞を通り越して、魂まで惚《ほ》れこんだ弁である。
「第二のひいき」は、「兎《と》やいはん角いはんと思居たりしことも、その言葉こそ同じからね、先《ま》づ前席の人の無碍《むげ》自在なる弁才もて演《の》べ尽されたる心地すれば」と前置してやや冷静ながらも結局はその描写に讃辞《さんじ》を送っている。露伴であろうか。
二十九年十月、一葉の病状が悪化すると、緑雨は鴎外に頼んで青山胤通《あおやまたねみち》博士の診察を乞《こ》うた。十一月二十三日、数え年二十五歳で一葉は没した。緑雨は、禿木、眉山、秋骨らと樋口家の後事(葬式費用の支払い、借金の始末など)に骨を折り、博文館から出る「一葉全集」(一巻)の校訂に当った。また樋口家の依頼で「一葉日記」の出版を交渉するため、その日記を預かった。
三十七年四月十一日、こんどは緑雨自身が医師から絶望を宣告された。彼は孤蝶《こちよう》に来宅してもらい、預かっていた一葉の日記を樋口家へ返してくれるように頼んだ。
次いで、孤蝶に口述筆記させた有名な「僕本月本日を以《もつ》て目出度《めでたく》死去致候間《さうらふあひだ》此段広告仕《つかまつり》候也《なり》、緑雨斎藤賢」の稿は、十三日午前九時過ぎの永眠に先立つものであった。数え年三十八歳。この死亡広告は十四日に「萬朝報」に載った。本郷駒込東片町《こまごめひがしかたまち》の大圓寺《だいえんじ》に葬《ほうむ》る。露伴がつけた戒名は春暁院緑雨醒客。
短い生涯《しようがい》ながら一葉は全集七巻が出ていて今日まで盛名が旺《さか》んであり、下谷《したや》区龍泉寺《りゆうせんじ》町の旧居付近には「一葉記念館」まで出来ている。その一葉を世に出したといえる緑雨は、彼女より十三歳生を長く享《う》けたが、同じく肺患、同じく貧乏に苦しみながらも、たんに「戯作趣味の雅俗文体を交えたシニカルな特異な作家」として現代の「文学事典」の編纂者《へんさんしや》に片づけられている。緑雨にとって不当な評価というべきである。
○「探求」(五十号。昭和五十年十二月。佐古純一郎他)。
斎藤順二「芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》と三島由紀夫」は、「狂気の遺伝」の問題として、芥川は十一歳のときに狂死した実母からの遺伝による発狂の恐怖を感じていたが、三島は祖父にたいして一種の不安を感じていたのではないか、と推論する。
その文中に芥川の「遺伝・境遇・偶然、――我々の運命を司《つかさど》るものは畢竟《ひつきやう》この三者である。」(「侏儒《しゆじゆ》の言葉」)を引いて言う。
「持って生まれた狂気の〈遺伝〉に、複雑な家庭の事情による〈境遇〉が加わり、さらにそれが〈偶然〉の作用により助長されて人間の運命は決定されるという。これは芥川が、自らの運命観を適格に語った一文である。彼の歩んだ不毛な精神の荒野、その果てに待っていたものは〈発狂〉か〈死〉でしかなかったが、〈虚構〉の世界にすべてを賭《か》け、作品だけはいっそう美しく磨《みが》きあげられていった。この徹底した〈芸術至上主義〉の母胎となった気質的な〈ニヒリズム〉について、もはや多くを語る必要はあるまい。
一方、三島由紀夫の文学の原点について考える場合、三島自らも語っているように、祖母夏子の存在が大きな意味を持つと言われてきた。しかし、その反面、祖父定太郎についてはまったく軽視され、三島自身も語ることを意識的に避けてきたように思われる。」
「『仮面の告白』の中にたった一行『祖父の壮年時代の罪の形見』としか表現できなかった所に三島の本音が現われてはいないだろうか。少くとも三島は、祖父の問題をストレートに語ることはできなかった。まして小説の素材にすることなど思いもよらない。芥川の『南京《ナンキン》の基督《キリスト》』(注、南京での私娼《ししよう》の「梅毒」をテーマにしたもの)の解説に〈構え〉が感じられるのも、こういった特殊事情がかかわっているのではないか」
「祖父の壮年時代の罪の形見」とは、斎藤氏によれば、三島が小説の素材として忌避していたある病患だとの推察である。
「作家がその作品に自分以外の何物かを注ぎこむと自負しているのは、すべて最も錯誤的な幻覚に陥っているものであって、一切の小説は何らかの意味で作者の自叙伝である」とのアナトール・フランスの言葉を氏は引用し、「『仮面の告白』に至っては、それが最も赤裸々なかたちで語られていると見てよかろう。」と書いている。(三四―三五ページ)
斎藤のこの芥川・三島論の小論は、とくに後半に独自性がある。
☆芥川が親友宇野浩二《うのこうじ》の一時的な発狂を見て大きなショックを受けたのはよく知られた話だが、絶筆にもなった「歯車」では、半透明な歯車の幻視に追かけられて悩む。芥川は自分も今に発狂するのではないかとの極度の恐怖から自殺を願望したとの説が強い。
三島にはそのような幻覚が起ったという自記めいたものがない。彼の神経は芥川にくらべ「兇々《まがまが》しい」(三島の表現)くらい強靭《きようじん》であった。
○「文学」昭和九年十一月号「芥川龍之介研究」
「湖南の扇」内田百〓《うちだひやつけん》
《芥川君の書斎から、私がもう帰らうと思ふと、芥川も上野桜木町までお見舞に行くから、一緒に出ようと云《い》つて、私を待たして支度に降りて行つた。
行つていらつしやまし、はいちよと云ふ声声に、芥川は一一応《こた》へた。門まで行く間の途中から、芥川はまた引返して、奥さんの手に抱かれてゐる赤ちやんに、「はい、はい」と云つたりした。
何となく不思議な様な、しかし又当り前の事にも思はれた。暑い夏の日を浴びた庭土と、その上に点在した人の姿が私の記憶に残つてゐる。
門を出たら、塀際《へいぎは》に大きな犬がゐた。
坂道を降りて、道灌山《だうくわんやま》下の通をぶらぶらと歩いた。
「僕達の頭だつて、あぶないよ」
「容態はどんなのだ」
「何しろ奥さんが気の毒でね」》
「上野桜木町までお見舞」というのは、病中の宇野浩二のことである。宇野は慶応病院から退院し自宅療養中であった(昭和四年に再発してふたたび入院するまで)。
「僕達の頭だつて、あぶないよ」と云ったのは芥川である。このとき芥川は本屋に寄って自著の「湖南の扇」を買い、その場で硯《すずり》を求め「百〓先生恵存、龍之介」と署名して贈った。
これが百〓にたいしてのそれとない遺品で、それより二日後に自殺した。
☆芥川龍之介の自殺のじっさいの原因はわからない。よく引用される「ぼんやりした不安」の解釈をめぐって、勃興《ぼつこう》するプロレタリア文学への無力感、健康の衰え、家庭的憂悶《ゆうもん》(鉄道自殺を遂げた義兄の多額な借財の負担など)、創作力の枯渇《こかつ》そして発狂への恐れ等が挙げられている。真因は小穴隆一《おあなりゆういち》(画家)が知っているかもしれないが、小穴は謎《なぞ》のようなことしか云ってない。
だが、おもな原因はやはり筆の行き詰りであろう。芥川は晩年になって志賀直哉《しがなおや》には完全に脱帽し、「暗夜行路」を世界で一番恐ろしい本だと確信した。ここに芥川の悲劇の出発がある、と村松梢風《むらまつしようふう》は書く(「近代作家伝」)。
《志賀直哉がどれだけ秀《すぐ》れた作家であつても、芥川とは全然別傾向の作家であつて、而も第三者から見れば其の優劣は論じ難い。芥川は日本では類型のない作家である。文学に関する限りは世界的知識を具《そな》へてゐる筈《はず》の芥川が、ストリンドベルヒや、ドストエフスキーやトルストイに兜《かぶと》を脱いだと言ふなら納得も出来るが、志賀直哉を唯一《ゆいいつ》の強敵として、刀折れ矢尽き「志賀は恐ろしい。僕の仕事は今日以上進みはしない、生き恥を曝《さら》すより一日も早く死んで了《しま》ひたい」などと口走るに至つては、天才の末路むしろ憐《あはれ》むべきものがある。
これほど彼は文壇といふものに囚《とら》はれてゐたのだ。知識を世界に求めてゐるやうでも、実際の活動となると日本の文壇以外に対象はなかつた。彼は青年時代に夏目漱石《なつめそうせき》から「文壇を相手にしては駄目《だめ》だぞ」と言はれた言葉を憶《おぼ》えてゐて、自分より後進の者に向かつてはよく「君、文壇を相手にしちや駄目だよ」と言ひ〓〓したが、其の実夫子《ふうし》自身は、社会に百万の味方があつても、文壇の三人か五人の批評家を猛虎《まうこ》の如《ごと》く恐れた。》
文芸評論家ないし芥川研究家のいかなる「文学的な」気むずかしげな言葉よりも梢風のこの言が芥川の本質を衝《つ》いている。(今でも、批評家の顔だけを浮べて書いているような文壇作家がいないでもない)
社会の実生活経験を知らず、大学を出ると横須賀《よこすか》の海軍機関学校で短い英語教師生活を送っただけですぐに作家になった芥川の材料とは書籍の上だった。「今昔物語」や「宇治拾遺」、のちには切支丹《キリシタン》ものが加わった。アナトール・フランスふうな諧謔《かいぎやく》と諷刺《ふうし》と、そして博覧強記による機智《きち》ある逆説とをちりばめた。明治開化の世界も銅版画的な異国情緒である。(「開化の良人」「開化の殺人」を見よ)が、切支丹ものも、なんぞいえばオルガンチノが出てくるような手軽なロマンティシズムである。彼の異国ものは「支那」へと揺れ動く。といって露伴ほどの学殖はない。かくて遂《つい》に材料は刀折れ矢尽きた。
芥川の文章は彫心鏤骨《るこつ》、一行書くごとに呻吟《しんぎん》した。不眠症は昂《こう》じ、宿痾《しゆくあ》の痔疾《じしつ》はすすんで、さなきだに痩身《そうしん》が幽鬼のごとくになる。かくては志賀の、思ったとおりをそのまま書く作家(志賀がほとんど一ページごとに「愉快だった」「不愉快だった」という語を平気でくりかえすのをみよ。武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》も同様)に羨望《せんぼう》を感じるのである。「志賀は恐ろしい」と映ったのは、芥川の神経衰弱からである。
「文学」の同じ号「芥川龍之介研究」で、木下杢太郎《きのしたもくたろう》の筆。
《芥川君がなぜ死んだか少しも知らない。小穴隆一氏の謎のやうな懐想録で其の真相を掴《つか》むことの出来無いのは独り僕ばかりでは有るまい。然《しか》し僕も創作をしてゐた頃《ころ》には、時々馬の首を壁にぶつつけたやうに感ずることがあつた。十方塞《ふさが》りといふ感じである。自然科学の研究が行きづまつても決してこの重苦しい気分にはならぬ。文学の場合にはどうも屡〓《しばしば》この心境に到着するやうである。そしてともするとスユイシイドの思想が芽《めぐ》む。僕思ふに、文学的(プラス倫理的、宗教的)考察と、自然科学的考察との間には共通分子も有るが、不共通分子もかなり多いらしい。》
☆三島由紀夫は芥川よりははるかに早熟である。「花ざかりの森」が学習院在学中、十六歳のときの作。東大法学部を出てから九ヵ月間大蔵省につとめたあと作家生活に入ったのは芥川の横須賀海軍機関学校英語教師と似ている。
ここで芥川・三島論の余裕はないが、両者の違いから見たほうが早い。
三島には、芥川の漱石にあたる師はいない。また久米《くめ》、菊池といった親友はいない。年少から文壇に出たので文学仲間はなかった。学習院在学中、書いた原稿はすぐに川端康成《かわばたやすなり》のもとに持参し、預かって見てもらわねば安心できなかった(「盗賊」あとがき)。
しかし、それは学生のころで、才能は三島のほうがはるかに川端を凌《しの》いでいる。
文章の上で三島ははじめ芥川のそれを模倣していた。それに翻訳調の文体を入れたところに新鮮さがある。西欧的なエロスを投入したのも彼の創意である。芥川が「今昔物語」など平安朝の物語から直接に材を得たのに対し、三島は「能」からそれを得た。それは平安朝の物語のエッセンスを面白く立体的にドラマ化したものであり、時の権力者の見物に供された。三島はこの濾過《ろか》されたドラマから自己流に自在に「近代的」に再生産した。能にはもともと中世の男色的エロティシズムがある。
三島は、芥川が「書物」を捜索する代りに、新聞の社会面の記事的な出来事を素材とした。大学生金融業光クラブ事件、金閣寺放火事件、近江《おうみ》絹糸《けんし》ストライキ事件などだ。実生活経験をもたぬ三島が、敗戦後の犯罪世相から材をとったのは、「犯罪者への共感」からだと書く。ほんらい犯罪と芸術は類縁関係にあり、「罪と罰」「赤と黒」「異邦人」など、小説は多くの犯罪から恩顧を受けていると彼はいう。三島としては、この着眼しかあるまい。しかし、近江絹糸ストライキを扱った長篇小説「絹と明察」は、類型的な悪資本家と型どおりの組合活動家が出て赤旗を振り、組合員同志の恋愛ごとがはさまれたりする駄作である。このような世界は彼に苦手である。
三島のいわゆる「ギリシア的な様式美」は、短篇に特徴が発揮される。いや、短篇だけといってよい。長篇はその条件から外れる場合がある。
ギリシア的様式美というと、冷たい感触に聞えるが、三島の短篇にはみな血のある人間が活躍している。その心理描写の伏線は用意周到である。同じ皮肉な結果になっても、芥川の「作為の目立つ意外性」ではなく、いかにも人情の落ちを感じさせる。年少時の「花ざかりの森」「遠乗会」から「橋づくし」「女方」にいたるまでみなそうである。学生時代の長篇処女作というよりは習作の「盗賊」のごとき着想は、三島の全作品のアイデアの基底を早くも成していると思う。
三島はみるからに健康である。芥川のように、文壇の三人か五人の批評家などは恐れるどころか、歯牙《しが》にもかけないふうにみえる。そのかわり自著の売行きを気にしたそうである。期待どおりに部数が伸びないと、はっきりと失望をあらわす。すなわち世評を気にする。芥川とはすこし違うところである。
三島は職人刈りのような頭をし、背丈はあまり高くないが、がっちりとした身体《からだ》つきである。わたしは家族づれの三島氏と銀座の料理店「浜作」のカウンターで一度だけすれ違ったことがある。それが初対面で、また最後だったが、氏から出しなに短い挨拶《あいさつ》があった。芥川はいつも先に相手に頭をさげて後悔していたということだが、これも共通しているかどうか。
芥川は長篇を書かなかった。三島は書いた。佳作もあるが、失敗作がある。芥川は体力がないため長篇が書けなかったからでもあるが、また己の分《ぶん》を知っていた。
「豊饒《ほうじよう》の海」は、三島の死後に雑誌「新潮」に発表された大判大学ノート二十冊に書かれたという昭和三十九年秋から四十五年七月までの創作ノートを参照すると面白い。
この四部作の長篇小説については作者が第一巻「春の雪」末尾で「『豊饒の海』は『浜松中納言《ちゆうなごん》物語』を典拠とした転生の物語であり」と自注し、構成をこれに取っていることを云っている。
「浜松中納言物語」というのは、十一世紀半ばの成立で作者不詳。「源氏物語」の模倣に近い。浜松中納言を主人公として、日本と唐土にまたがる恋愛と天上と地上の事件が神秘的、夢幻的に交錯するが、仏教の転生説が主軸をなす。渡唐した中納言と唐后との恋愛交渉、帰朝するとうつくしい「姫君」に想《おも》いをよせ、その姫君が主上の仰《おお》せで他家へ降嫁《こうか》と決まるとその夜に通じ合う。こういったこの物語の原形は、「豊饒の海」の「少女、宮家と許婚。このときはじめて通じ合い、大問題」の構想に藉《か》りられている。ただ「唐土」が「タイ」に、「唐后」が「タイの王女」に変えられている。仏説の転生はそのままだが、黒子《ほくろ》は三島の創意である。
「ノート」には登場人物の一覧表が書かれている。
「二・二六蜂起《ほうき》直前、父(北一輝)が息子を救ふために、南国へ飛ばす。彼、罪の思ひに責められ熱帯潰瘍《くわいやう》になり死す。
第二部(神兵隊事件 訴訟記録)
戦争で死ぬまで(北一輝の息子)――熱帯。(美男が熱帯潰瘍で顔を失つて死ぬ)」
三島は登場人物の性格に北一輝を浮べたらしい。実作には登場させていない。その「美男が熱帯潰瘍で顔を失う」というのは、前作の「癩王《らいおう》のテラス」の揺曳《ようえい》である。北一輝に養子(中国革命家の遺児)はあったが、もちろんそんな事実はない。
「侯爵家《こうしやくけ》」のモデルを十四万坪の地所、三万坪屋敷の西郷従道《さいごうつぐみち》侯邸(目黒、品川に別荘)に求めて、そのスケッチは詳細をきわめる。これはべつに西郷侯でなくとも、伊藤博文公邸でも山県有朋《やまがたありとも》公邸でもよいが、西郷としたほうが老夫人どうしが話すとき東京者には外国語のように聞える鹿児島弁を用いる。嫁との会話にも単語に鹿児島弁がとび出してそこがユーモラスだからである。そのへんを知らぬ素直な者は某貴族的な名家に起った実際の事件にもとづいているように解釈する。
ノートは、「暁の寺」「天人五衰」と大きく分割され、それぞれが細分割される。それはプロットとステージからと成る。プロットは各人物の性格が書きこまれ、広範なステージはインド、タイに渉《わた》り(じっさいに三島はメコン川の中流ヴィエンチャンにも行っている)、国内では奈良、宇治、木津川取材紀行。「ラストシーンは円照寺」。その写生は克明。
これは精密な設計図である。ペンの機関車はこの堅固に敷設された線路の上を驀進《ばくしん》できるはずだ。
しかし、短篇ならともかく、長篇ともなるとそうはゆかない。精密なはずの設計にも見落しの狂いはある。機関車もレールの上を走るとはかぎらない。登場人物は生きものだ。小説は完結するまでは作者にとって未知の世界であり、実作は手さぐりの状態で進むのである。
「豊饒の海」は、三島の当初の意気込みにもかかわらず、失敗作であった。三島も途中からそれに気づいていたのではないだろうか。
芥川と三島との比較という視野のかぎりでは、芥川は三島の前にはあまりに小さすぎる。芥川の文学は後年になるほどしだいに羸痩《るいそう》し、才能は枯渇《こかつ》していった。それにくらべ三島由紀夫のそれは「兇々《まがまが》しい」までに逞《たくま》しかった。
三島は全集第二巻の自らの「解題」で、「盗賊」を書いた当時、じぶんはレイモン・ラディゲの向うを張りたいと思っていた、同じ年齢で、同じ量で、同じ質の作品でもって対抗したいと考えた、そして年齢に執着した、「その無惨《むざん》な結果は、今、私の目前にある」と書いている。ラディゲが代表作「ドルジェル伯の舞踏会」を完成して死んだのが二十歳であった。三島が「盗賊」を書いたのが大学生のときの同じ年ごろ。いかに彼が年少の天才作家の素質を自負していたかがわかる。
三島の没後に雑誌「新潮」にまとめて掲載された「小説とは何か」(未完)は、実作家の立場からの小説鑑賞法であって、三島流に修辞に拘泥《こうでい》しすぎるきらいはあっても(そこが三島的な「偏向」だが)、しきりと作例を出し、それもE・A・ポウや上田秋成、はては柳田國男の「遠野物語」の怪奇譚《かいきたん》にはディテールにリアリティがあるから迫真性があるのだという意味のことをいい、国枝史郎の「神州纐纈城《こうけつじよう》」の幻想神秘的描写は泉鏡花や谷崎潤一郎などよりは上だといい、現代フランス作家ジョルジュ・バタイユの「わが母」の精神的母子相姦《そうかん》の分析など読書範囲もひろく、説得力もあり、好個の「小説作法」になりつつあった。昭和二十三年六月に死んだ太宰治《だざいおさむ》を無視したのは、「仮想敵」にしたのかもしれない。三島が二十四年に「仮面の告白」で登場したので、太宰の死を落日、三島の登場を暁《あけ》の明星にたとえる人がある。
だが、「暁の寺」を書いたあとの小休止のところで「思えば少年時代から、私は決して来ない椿事《ちんじ》を待ちつづける少年であった。その消息は旧作の短篇『海と夕焼』に明らかである」と述べるその「決して来ない椿事」が待ちきれずに自らそれを作って早め、ラディゲの死の年齢よりも「無惨に」長く生き残りたくないとする一致の願望が、自余の「仮面の表出」となったとみるべきか。
○「改造・文芸」昭和二十三年三月第一号「横光利一追悼特集」
菊池寛「横光君について」
「自分は、横光君のことについて、あまり書くことを持つてゐない。他の雑誌に四、五枚書いたら、これでもう尽きてしまつたのである。だから、今書くことも、多くは重複になると思ふ。」「僕は横光君の作品は、あまり読んでゐない。初期の作品と『時計』位である。『紋章』あたりからは読んでゐないのである。然し、僕は横光君の作品が評判がいいと、嬉《うれ》しかつた。」「新感覚派などと呼ばれてゐるが、彼は特異な技巧を以《もつ》て、小説を書いた作家だと思ふ。」
☆小林秀雄、河上徹太郎、橋本英吉、石塚友二、多田裕計、八木義《やぎよしのり》、中里恒子《なかざとつねこ》、高浜虚子など書いているが、要は菊池寛のこの小文に横光論は尽きる。横光を見出《みいだ》し、推挽《すいばん》し、乾分《こぶん》の随一となしたる菊池寛自身が横光の作品をたいして認めてないこと斯《かく》の如《ごと》しだ。読まないのは、菊池のズボラとばかりはいえないのである。「文学の神様」の没落、また何をかいわんやである。それにしても寛の文学鑑識眼はいささかの誤りがない。
横光の「旅愁」についてはわたしに些少《さしよう》の想い出がある。内容のことではない。わたしは昭和十九年に三十四歳にして補充兵として召集され、朝鮮龍山《りゆうざん》部隊(いまの韓国ソウルの近郊)に一年ほどいた。ときに同じ班に学徒兵の幹部候補生が十人ばかり伍長《ごちよう》資格(まだ兵卒なみ)で寝起きしていたが、ある晩消灯後、ひそひそと「横光は黙々と『旅愁』を書いてるねえ」「うん、そうだねえ」などと娑婆《しやば》をなつかしむように話し合っているのが聞えた。「旅愁」はそのとき「文藝《ぶんげい》春秋」に連載中であったかと思う。明日は敗色濃い戦場へ発《た》つわが身を思い、そぞろ家郷を、父母を恋うていたのであろう。
○「心」昭和四十年七月号「中勘助追悼号」
安倍能成《あべよししげ》の「中勘助の死」は、「中は嫂《あによめ》との間の中傷風聞」にノイローゼになっていたと書く。
小堀杏奴《こぼりあんぬ》の「再会」。中勘助は嫂末子の死後に結婚した。その新妻を中勘助は杏奴に見せ「末子に似ているでしょう」と強く同感を求めた。杏奴は書く。
「三十年前、婚約者をつけまわしていた男を殺害して五ヵ年の刑期を果し、夏の間は北国の海辺デンマークのホテルの下男として働き、冬には村中の人々が残らず引揚げて行った後にただ一人、冬の海の咆哮《ほうこう》をききつつ暮すというエルリングの、何か秘密のあるらしい生活ほど、中さんに似つかわしいものはないような気がする。」
☆中勘助(明治十八年―昭和四十年)は安倍能成、小宮豊隆《こみやとよたか》らとともに夏目漱石門下。幼時より身体が弱く、そのため内気と「耽美狷介《たんびけんかい》」の性格を強め、師友ともあまり交わらず、信州野尻湖《のじりこ》中の島や僧坊で孤絶の生活を送った。父の死と、九大医科教授の兄の発狂で家庭が崩壊に瀕《ひん》した。嫂を助けるために結婚を断念、家計を助けるために創作の筆をとった。「銀の匙《さじ》」はその処女作。漱石の推薦で東京朝日新聞に連載された。作者の幼少時の回想に取材したもので、抒情《じよじよう》が澄明《ちようめい》な文体とともに読者を感動させた。いまも岩波文庫のロングセラーとなっている。
だが、山室静氏が解説するように「作中の兄との関係、美しい『姉様』との関係などの描き方は不十分で、後の作者の歩みを思い合わせると謎《なぞ》にみちている」(新潮社版「日本文学小辞典」=中勘助の項)
「後の作者の歩み」というのは、中は大正二年いらい痴呆《ちほう》化した兄と、嫂の末子とを引きとってその死まで三十二年間暮したことであり、ここから前記安倍の「中は嫂との間の中傷風聞」に云々《うんぬん》という言葉になる。はたしてそれがたんなる中傷風聞で終ったかどうか。ここで「銀の匙」から最後に近い一節を抜いても、美しい「姉様」の描写はこういう描写になっている。
「大きな丸髷《まるまげ》」「くつきりとした眉毛《まゆげ》」「まつ黒な瞳《ひとみ》が光つてゐた」「すこしうけ口な愛くるしいくちびるさへが海の底の冷たい珊瑚《さんご》をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつてきれいな歯があらはれたときに、すずしいほほゑみがいつさいを和らげ」「姉様が盆に水蜜《すいみつ》をのせて暇乞《いとまご》ひの挨拶《あいさつ》に来られた。『ごきげんよろしう。また京都のはうへおいでのこともございましたらどうぞ』私は庭へおりて花壇の腰掛けに腰をおろし海のはうへ海のはうへとめぐつてゆく星をながめてゐた。遠い波の音と、虫の音と、天と……のほかなにもない。ばあやが俥《くるま》をやとつてきた。姉様がしたくのすんだきれいななりであかりを返しに私の部屋へ小走りにゆかれるのがみえた」「俥のひびきが遠ざかつて門のしまる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた」(角川版「中勘助全集」)
精神病で脳神経が荒廃した兄と、それを看護する嫂とを引きとって中勘助は、一つ家に暮すことになった。嫂は彼が年少時から思慕をつづけてきた「美しい姉様」の末子である。兄は意識を弁ぜぬ。彼の次なる作「犬」や「提婆達多《でーばだつた》」のような愛欲煩悩《ぼんのう》地獄からの解脱《げだつ》に苦しむのは彼自身の心象風景であろう。
小説の筆を絶った中は、鳥の物語や隠棲《いんせい》生活の随筆などをぽつりぽつりと書き、短歌や俳句をつくる。みんな静かで、うつくしい。
小堀杏奴さんが引用した、デンマークのホテルの下男エルリングを主人公にした短篇というのは、彼女の父、森鴎外《おうがい》訳「冬の王」のことである。作者ハンス・ランドはほとんど無名に近い人だが、鴎外の名訳で好短篇としてわが国に知られる。五年の刑期の判決文を額に入れ、それを独居の木造小屋に掲げ、冬のあいだ、窓から北海の荒波をじっと見つめている男を、中勘助にこそ似つかわしいと杏奴さんが書いたのは、中にとって知己の言というべきであろう。
森鴎外の死とその創作欲の内側。
昭和五十六年十一月十五日(日)――承前
○「三田文学」大正十一年八月第十三巻第八号 鴎外先生追悼号。目次。
小島政二郎《こじままさじろう》、水上瀧太郎《みなかみたきたろう》、永井荷風、戸川秋骨、小泉信三、奥野信太郎、久保田万太郎《くぼたまんたろう》、小山内薫《おさないかおる》、三宅周太郎《みやけしゆうたろう》、井汲清治《いくみきよはる》、茅野蕭々《ちのしようしよう》、馬場孤蝶《ばばこちよう》などならぶ。荷風の「鴎外先生と観潮楼」は他に発表したものの再録。
戸川秋骨の「鴎外先生の追悼」。
――本石町の角から動坂行の電車に乗ったとき、混《こ》み合う車内で見かけた上品な老紳士が鴎外先生でもあるような、ないような、似ているけれど先生にしては大変な老人に見えたが、そのまま私は松住町で電車を降りた。だがあとで考えてみるとあの電車の老紳士はどうも先生のような気がする。私がはじめて先生に会ったのは明治三十年のころ斎藤緑雨君につれられて観潮楼に行ったときだが、それいらいあんまりお目にかかっていない。日ごろお会いしていれば電車で見かけた老紳士が鴎外先生かどうかはわかったのだが。気になるので、与謝野《よさの》さんにそれをたしかめてもらい、もしそれが先生であったらお詫《わび》をして下さるようと願っておいたが、不幸にしてそれがはたせないうちに先生は亡《な》くなられた。思うに、この老紳士はたしかに鴎外先生であったにちがいない。病気はその頃《ころ》から内部に力を逞《たくまし》くしていて、その風采《ふうさい》の上にも変化を与えていたのではないか。それが絶えず接近している人たちにはそうでもないだろうが、自分のように平素遠遠しくいるものには先生の容貌《ようぼう》が見違えるばかりに映ったのだろう。
こうした晩年の鴎外を、子の眼《め》から見た記述がある。
長男の森於菟《もりおと》「森鴎外の健康と死」(大雅新書判「父親としての森鴎外」所収)からの一節を引く。
《父の健康を周囲のものが心配した最初は陸軍を退いた大正五年五十五歳の時で、毎日の運動不足を気づかつたのであつた。その前年の末から大阪毎日新聞社に寄稿する事が時々あつたのを、この時から正式に社の客員に聘《へい》せられて大阪毎日、東京日日の両紙に連載される読み物を寄せる約束が成立した。「澀江抽斎《しぶえちうさい》」「伊沢蘭軒《らんけん》」「北条霞亭《かてい》」などの史伝であるが、その微細にわたる考証の文章は当時の読者を飽かしめ、しかも新聞社は一日の休載をも快く許さなかつたので、運動不足と精神過労の結果、父の形容に老衰が見えてきた。大正六年十一月末に帝室博物館総長兼図書頭《づしよのかみ》に任ぜられて毎日出勤(日記で見ても参館と参寮とが隔日である)するのと、つとめ先の仕事が好みに合ひ且《か》つ張合のあるものなのでまた元気を回復した。ことに毎年晩秋に正倉院曝凉《ばくりやう》のため奈良に赴き数日を過すのを楽しみとした。大正八年十一月頃から時々下肢《かし》に浮腫《ふしゆ》を見たといふが何によるか私はその原因を知らない。大正十一年一月十九日は満六十年の生誕日即《すなは》ち還暦といふので、縁起を気にする母は赤いチヤンチヤンコを着せようとした。さうしたつまらぬことにことさら異を樹《た》てないやうになつてゐた父は着ぶくれた綿入の上にそれを一着して祝膳につき、父母と弟妹とのほかに当時は廊下つづきながら別の棟に家庭をつくつてゐた私達夫婦も参列したが、父の非常に老《ふ》けて腰を曲げてゐるのが気になつた。その年の三月十四日には私が妹茉莉《まり》と共に欧州に向つて出発するので、父も東京駅まで送つてきてくれたが、その時も父の姿が一段と衰弱して顔も痩《や》せ身体《からだ》も小さく前かがみになつてゐるのが眼に残り、それが私の父を見た最後であつた。》
――森鴎外は大正十一年七月九日、駒込千駄木《こまごめせんだぎ》の自宅(観潮楼)で死去した。六十一歳であった。主治医額田晋《ぬかだすすむ》によって死因は萎縮腎《いしゆくじん》と発表された。萎縮腎もあったが、主因は実は肺結核であった。結核のほうは発表されずに終った。
額田からそのことを知らされていたのは鴎外の妹喜美子の夫小金井良精《こがねいよしきよ》(解剖学・人類学者)と、鴎外の四十年来の友人賀古鶴所《かこつるど》だけであった(額田博士はのちに賀古の縁戚《えんせき》の娘と結婚した)。
鴎外は六月末ごろから病状が悪化した。それまで彼は自分の身体を医師に絶対に診せたことがなかった。妻の〓《し》げ子が涙で顔をくしゃくしゃにして頼むので、ついに額田の来診を応諾したのである。額田は帝国大学医学部を出てから十年ばかりで、於菟とほとんど年齢が同じであった。鴎外の「委蛇録《いだろく》」の六月の条に「二十九日。木。第十五日。額田晋診予」に見えているのがその初見である。額田は鴎外の尿を検査した。鴎外は賀古への手紙の中で「僕ノ尿即チ妻ノ涙ニ候《さうらふ》」と書いた。
額田は、その尿には蛋白《たんぱく》円柱もあり、比重などすべて萎縮腎の徴候を歴然と認めたが、それよりも驚いたのは喀痰《かつたん》を顕微鏡で調べてみると結核菌がいっぱいで、まるでその純培養を見るようだったことであった。
鴎外はそのとき、これで君に皆わかったと思う。だが、このことだけは家族に云《い》ってくれるな、子供もまだ小さいからと額田に云った。そこで額田は二つある病気のうち腎臓を主にして診断書を書いたのである。――
額田はずっと後になって於菟に打明けて、
「真実を知つたのはぼくと賀古翁《をう》、それに鴎外さんの妹婿《いもうとむこ》小金井良精博士だけだと思ふ。もつとも奥さんに平生のことをきいた時、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鴎外さんが自分で庭の隅《すみ》へ行つて焼いてゐたといはれたから、奥さんは察してゐられるかもしれない」
と云った。
鴎外の死因は萎縮腎として新聞にも発表された。ベルリンに滞在中の於菟のもとに小金井良精から打った電文も「森林太郎腎臓病にて安らかに死す。帰るな」とローマ字綴《つづ》りであった。
その二年後に於菟は帰国した。
《母(〓げ子)に当時のことをきくと、なにごとにもあけすけに云ふ母は『パッパは萎縮腎で死んだなんてウソよ。ほんとは結核よ。あんたのお母さんからうつつたのよ。』
と云はれて、継母継子といふ悲しい関係でとかく素直に受け取らず黙殺した》
と於菟は当時を述懐している。
於菟の生母は名は登志子。海軍中将男爵《だんしやく》赤松則良《のりよし》(造船技術の権威)の長女であったが、於菟を生んでまもなく鴎外が「故《ゆえ》あって」離別した。登志子は他家へ再嫁《さいか》したが、一男一女をもうけたのち、結核で死んだ。〓げ子はそのことを於に云ったのである。
だが、これは〓げ子の邪推で、じっさいは鴎外の壮年時代から永くひそんでいた結核病巣が老年になって活動化したのであった。
鴎外の母は、「ああまた林《りん》(林太郎)がイヤな咳《せき》をする」とその咳を遠くで聞いては顔をしかめたという。鴎外の次弟篤次郎(三木竹二。演劇作家・評論家)も医者だったが、結核で早く死んでいる。
額田晋は書いている。
《御病勢は日一日と険悪に向ふばかりであつた。その時先生は私に向つて「そろ〓〓険悪になつて来たね」といはれたことがある。御自分では、もう生き延びようなどといふお考へは、少しもなかつたやうであつた。》
これは雑誌「新小説」臨時増刊大正十一年八月一日「文豪鴎外森林太郎」の追悼号に載っている。この時点ではもちろん肺結核のことに額田はふれていない。「新小説」は春陽堂の発行で、鴎外は小説はよくこの雑誌に発表しており、また「水沫《みなわ》集」など単行本もこの書肆《しよし》から出させている。
七月六日になって鴎外は死の床で賀古鶴所に遺言を筆受させた。
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩《わづら》ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何《い か》ナル官憲威力ト雖此《いへどもこれ》ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人《いはみのひと》森林太郎トシテ死セント欲ス宮内《くない》省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可《べか》ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一《ゆいいつ》ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人《なんぴと》ノ容喙《ようかい》ヲモ許サス
鴎外は官僚として出世欲や名誉欲が強かったといわれている。晩年の山県有朋《やまがたありとも》への異常なくらいの接近ぶりからみて、そういわれてもやむをえない。
それなのに死に臨み「一切の栄典を生死別るる瞬間に切り放ち、石見人森林太郎として死なんと欲」したのはなぜか。彼はこの期《ご》になって卒然として大悟したのだろうか。そうして「石見人」を強く意識したのは、郷里への愛情だけだろうか。
およそこれほどの大悟なり覚悟が前からできていれば、遺言は平生か小康なときに自ら紙を展《の》べ、自ら筆を執って書くべきであろう。鴎外の文章は和・漢文体の融合した一種の名文であり、文字は隷書体《れいしよたい》にして滋味がある。なんぞ手指動く能《あた》わざるの垂死を俟《ま》ちて賀古に口述筆記せしむる要あらんやである。しかも頭脳は最期まで明皙《めいせき》だった(森潤三郎「鴎外森林太郎」)。
死床の鴎外の心事を忖度《そんたく》することはわたしにはできない。だが、鴎外には何か迷いがあったのではないかと思う。その迷いのいかなるものであるかはわからない。
鴎外の迷い、それがなにものかはわからぬにしても、死に臨むまで引きずってきた迷いであったようである。ここに鴎外の「優柔不断」が見える。生死別るるときになってその苦しげな呼吸の下から吐いた「奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得ス」の烈《はげ》しい一句は、存外に深い意味をもっていると思う。
さて、ここに鴎外の死をめぐって近親者の文章がある。
○「浪曼古典」昭和九年七月四輯 森鴎外研究。小金井喜美子「兄君の最期」。
《毎年夏になりますと、景によつて情を思ふとか、いつもお兄様のことが思ひ出されます。
萎縮腎といふ病気は老年の人に段々来る病で、お亡くなりになる幾年前からそろそろ御太儀と見えまして、私の家へは大礼服で元日の午後に見える外お出《い》でになつた事はありません。
元旦《ぐわんたん》宮中拝賀の後、宮様方、それから芝の御親類で中食、旧藩主亀井《かめゐ》伯が其頃《そのころ》小石川にお住まひで、そこへ伺つての帰り道打止めだと云つてお寄りになるのでした。
「お屠蘇《とそ》などはおやめですね。」
「うん、うん。」
頷《うなづ》いて台の上の葉巻をお取りになります。
「女のお客様の為《ため》にお汁粉を用意して置きますが、いかがです。」「汁粉なら一杯。」
などとお食べになる事もありました。買つた本をお目にかけるとか、掛軸の石摺《いしずり》の読みにくいのなどを、よく教へて頂きました。
終りの年にはお顔色も悪く、いかにもお疲れの御様子が見えるので、
「お気分は。」「今日は大分略したよ。」「まあ、ここへなどお義理をなさらずにお帰りで御休息なされば宜《よろ》しいのに。」「又出難《でにく》いからな。」
玄関へお送りして帽を取つてあげながら、
「お服は重いでせう。」「うん、肩が凝るね。」
花やかな金モウル一面の礼装の後ろ姿を寂しい気持で眺《なが》めました。
たまたま伺つても、かけ違つてお目にかゝれず、一度小雨が降り出して傘《かさ》もなくいそいで帰る途中、大観音の前で行き逢《あ》ひました。肴《さかな》町で車からお下りになつたのでせう、蝙蝠《かうもり》傘《がさ》を深くさして、ゆつくりゆつくり歩いてお出でした。物を言ひ掛けるも御遠慮して「今お帰り」とばかり目礼しますと、笑顔をなすつたお積りでせうが、傘の影の為か、ひどくお顔色が悪いので、其儘《そのまま》行き過ぎてから、雨に濡《ぬ》れるのも忘れて、じつと見えなくなるまで佇《たたず》んで居《を》りました。段々御病気が進むのに力《つと》めてお出掛のやうでした。》
簡にしてよく叙景が泛《うか》ぶ。歌人だけに要所をおさえている。
その後彼女が千駄木の家へ行ったのは若葉のころだった。飛石づたいに庭から上ってくる兄の顔は、青葉のかげがうつったためかひとしおいたいたしく見えた。西洋に行っている子たち(於菟と長女の茉莉)のことなどすこし話した。ご自分の病気はお医者のご自分がよくご存じ。わたしなどがかれこれさし出て申すには及ばない。なにかのときに、己《おれ》はこのごろは頭だけで生きているような気がするよ、と云われた。
《(七月八日)前夜から案じられたまゝに昏睡《こんすい》状態がつづいて居てひどく蒸し暑い九日の朝、陛下から下されたお見舞品の置いてあるあちらの間には人影も見えますが、お枕元《まくらもと》には賀古さんとお医者、看護婦は脱脂綿を巻いた棒で折々咽喉《の ど》へからむ痰を取つて居りました。お兄様は目をつぶつてたゞ息をなすつて居らつしやるだけ。お姉様始め近親の者が少しあたりに控へ、私はお床の裾《すそ》の方に坐《すわ》つて居りました。窓掛を下した硝子《ガラス》戸《ど》を通す曇つた朝日の影は薄暗く、天井へ届くまで段を造つて積み上げた本棚《ほんだな》へ引いた黒いほど濃いカアテンの色、部屋の中は穴の底のやうで、皆息を呑《の》んで居りますので、とぎれとぎれのお兄様の息が間遠に聞えるばかりでした。そしていく時過ぎたでせう、つと賀古さんは顔を寄せて礼をなすつて、
「では安らかに行きたまへ。」
立つて部屋をお出になります。はつとした時、お医者は厳かに、
「御臨終でございます。」
謹んで申し渡されました。皆一様に礼をして言葉もなく、暫《しばら》くして顔を上げた時は誰の目からも留度《とめど》なく涙が流れて居りました。よく寝釈迦《ねしやか》と申しますけれど、まことに気高い安らかなお顔、其澄んだ静かなお心持ちのあらはれを、珍らしくも尊くも拝したのでございました。そこへお近くした方々のお暇乞《いとまごひ》が順々にありました。》
○季刊「文藝評論」第一冊昭和二十三年十一月刊 所載(好学社)
小堀杏奴《こぼりあんぬ》さんの「父の死とその前後」では、大要次のとおりに書かれている。
父鴎外が六十一で死んだとき、優れた美貌《びぼう》の持主である母とは二十歳近い年齢の相違があり、しかも後妻であったためにじつに恰好《かつこう》なお家騒動式な空想を描かせたものであった。当時、私は十四歳、弟(類)は十二歳であった。父も母も、父が紙に吐いて別にする痰の中にも若いころ煩って完全に治癒《ちゆ》していない肋膜《ろくまく》の菌が含まれていて、それを清浄な子供の肺に伝染するのをおそれて病床に近づけなかったのだが、その病床から子供らを遠ざけようとする行為が付き添いの看護婦などに誤解を与えたようだった。父が死んでから今年(注。昭和二十三年)で恰度《ちようど》二十六年になり、父の死後、(十四年後に)そのあとを追うまでの母にとって苦痛に満ちた十四年であった。私にとってもそれと同じことがいえる。ああこの十四年間にわたる暗い日々、どうして母や私達は、周囲の人々からあれほどまでに冷たくされねばならなかったのか。――
父の死。
《十四年間に亘《わた》る母の苦悩は、父がその死の原因になつた萎縮腎の為、昏睡状態に陥つた瞬間からはじまつたと云つてよい。その時母は既に意識を失つてゐる父の傍《そば》に唯《ただ》一人座つて泣きながら、思はず声に出して、『パッパあなたに今死なれたら、小さい子供を抱へて、私はとても生きてはゐられません。』と云つてかきくどいた。さうしたら思ひがけなく父が、かすかな声で、きれぎれに、
『おう……いき……なほる。』と呟《つぶや》くやうに言つたのである。母はあまりの思ひがけなさにはつと息をつめたが、それがたしかに、
『もう直《ぢ》きなほる。』と云ふ言葉である事を知ると、もう夢中で別室にゐた父の親友K(賀古)氏の許《もと》に馳《か》けつけ、
『Kさん喜んで下さい。パッパが今物を云ひました。もう直きなほると云つてゐます。』と叫ぶやうに云つた。するとK氏は、
『何を馬鹿《ばか》なッ。』と大声で一喝《いつかつ》し、
『病人はね、耳が一番最後迄《まで》残るものなんですよ。そんなくだらない事をして、よけいな神経を使はせるなんて。』となほも物凄《ものすご》い権まくで母を罵《ののし》られた。この時を境ひにしたやうに、母に対するK氏の態度は一変し、母の言ふ事などはてんで取上げず、何事にも、『まづ小金井夫人に御想《ママ》談して。』と云ふやうになつた。小金井夫人とは、父の実妹であり、東大解剖学名誉教授小金井良精夫人である。K氏は父の小説ヰタ・セクスアリスに古賀と云ふ名前で書かれてゐて、当時十五歳であつた父と知合ひ、父が六十一歳で没する迄、四十五年間の交友を続けた。K氏の叱責《しつせき》が友人の上を思ふあまりの結果であつたとしても、この突然の豹変《へうへん》ぶりが、母をどれ程驚かせたかを、私はたやすく想像する事が出来る。(略)》
《私はいつか人々の群れを離れて、一人父の書斎へはいつて行つた。そこには丈夫であつた日迄、彼が身につけてゐたあらゆる品々が纏《まと》めて置いてあるのだ。意外にも部屋には小金井の叔母(喜美子)と、その長男の二人が座つてゐた。手文庫の中には、父が普段持ち馴《な》れた革の大きな紙入れがあり、電車の回数券もその儘綺麗《きれい》に残つてゐた。父が何時《い つ》もねじを巻いてゐた、大きな懐中時計もある。私はそれ等の品物の一つ一つを取上げて、眺めては泣いてゐた。
『お母さんいいの? 杏奴ちやんがあんなに泣いて、体でも悪くするといけないね。』良一さんがさう云ふと、
『あ、さう可哀想《かはいさう》ね。それはさうとあれは如何《ど う》したらう? たしかあそこに置いてあつた筈《はず》だけど。』
叔母は全くうはのそらで、そわ〓〓しながら何か頻《しき》りに父の持物の中から、探出すのに余念がない。この場面は奇怪な夢のやうに、私の記憶の中に長く尾をひいてゐた。》
和歌に、古典文学の解説に、洗練された随筆に、閨秀《けいしゆう》歌人・作家の世評高い小金井喜美子(きみ子)も、幼かった杏奴氏の眼《め》から見ると、遺品《かたみ》を求めるに性急な「意地の悪い」叔母さんでしかないようである。
その裏には、〓げ子と喜美子という嫁・小姑《こじゆうと》との確執がある。それも世にいうとおりいっぺんのものではない。〓げ子は美貌だが単純、教養はさまでない。一方は鴎外の血を分けたと云われるほどの才媛《さいえん》、しかも〓げ子は感情の波高く、好悪《こうお》をすぐにあらわし、いうなれば下町型な女。喜美子とそりが合うわけがなかった。
そのうえに、〓げ子にとってまったく意外なことに、賀古鶴所《かこつるど》までが鴎外の死の直後、掌《てのひら》を返したように彼女とその一家に冷くなったことである。
賀古は一等軍医正で陸軍を退いてからは駿河台《するがだい》で耳鼻咽喉《いんこう》科病院を開き、その院長におさまった。妻を喪《うしな》ってからは独身で、鴎外生存中は親戚《しんせき》の家のように頻繁《ひんぱん》に森家を訪ね、好きな日本酒を巨躯《きよく》の体内に注ぎ込むのだった。毎年のクリスマスには子供たちにサンタクロースになってプレゼントし、いちばん幼い杏奴さんなどはことのほか可愛《かわい》がった。その賀古が鴎外の死を境にしてぴったりと寄りつかなくなり、クリスマスになってもサンタのおじさんはもはや森家に現われることがなくなった。夫の四十年来の親友、夫が死床で遺言状まで口述書記をたのんだ真の親友にこんな裏切り行為があろうとはと〓げ子は愕然《がくぜん》となり、憤慨し、悲嘆するのである。賀古にしてからそうである。他の親しかった人々もしだいに来るのが少くなり、〓げ子は見捨てられたような悲哀を感じた。
賀古鶴所の略歴。
彼は明治十四年東京大学医学部を卒業した。本科生三十人のうち陸軍軍医となった谷口謙が二番、森林太郎四番、後年鴎外と対立した小池正直は十番、江口襄十三番、賀古鶴所十四番(森潤三郎「鴎外森林太郎」)。
賀古は石黒忠悳《いしぐろただのり》陸軍軍医総監に睨《にら》まれて予備役となった。日露戦争が起ると引張り出され抜群の働きがあったという。がんらいが大男である。功三級をもらい、軍医監となって、また退役。
ドイツに留学していたころ、耳鼻咽喉科の講習を受けて、帰国してから赤十字病院でも自宅でも始めた。簡単な耳の本を持っていたが、これに自分の意見を加え、本にしたのが明治二十三、四年ごろに出した「耳科新書」である。訳語は鴎外がだいぶん手伝った。外耳と内耳の間を「間耳」と云《い》っていたのを「中耳」の語にしたのは鴎外である。
賀古と山県有朋との関係は彼が陸軍をやめてからで、その因縁はよくわからないが、山県は賀古を非常に信頼していた。賀古の和歌はおそく始めたにしてはできのいいほうである。山県の歌会「常磐《ときわ》会《かい》」の幹事に鴎外を引張りこみ山県公に近づけたのは賀古である。山県ははじめて鴎外の文藻《ぶんそう》を知った。
また、山県は鴎外訳述のクラウゼヴィッツの「戦論」のあるのを知って大いに感服した。しかし、この難解な本は鴎外がベルリンに陸軍一等軍医(中尉《ちゆうい》相当官)として留学中に、在ベルリンの早川大尉のために講じている(「独逸《ドイツ》日記」)。早川はのちの参謀次長田村怡與造《いよぞう》中将で、日露作戦はこの人が立案したといわれる。田村は開戦前に病没した。その後も鴎外は第十二師団軍医部長のとき、将校団のためにやはりクラウゼヴィッツの「戦論」を講じている(小倉日記)。
賀古は勉強はしなかったが、直観力は相当なものだった。鴎外とは性格が両極にあるからかえって心を許し合う仲となったのだろう。彼は鴎外の学問には心から敬服していた。とにかく賀古鶴所は妙な存在だった。その妻は石井菊次郎(元外相)夫人の姉にあたる。妻を失ってから家庭は淋《さび》しかった(中川恭次郎「賀古鶴所と森鴎外の交遊」=「伝記三ノ七」=筆者は賀古の元書生)。
賀古は賀古耳鼻咽喉科病院の院長だが、自分では患者の手術はおろか診療もせず、すべて若い副院長に任《ま》かせきりだった。患者が院長先生にぜひと頼んでも聞えぬふりをしていた。軍医も上級にすすむと管理職になるので、診療の実際から遠ざかってしまう。賀古は金沢の師団軍医部長に擬せられる前に予備役編入になったくらいの男だから、院長になっても実際の診療ができなかったのは無理もない。
鴎外も第十二師団軍医部長として小倉在任中、師団長井上光中将の子息が病気にかかり重態に陥ったので見舞に行くと、その息子から、森さん、どうかしてくださいよ、とせがまれたが、どうしようもなかった。軍医部長というとよほどの名医だと思われたのである。息子は死んだ。あんな辛《つら》い思いをしたことはなかったと於菟《おと》に述懐している。
その賀古のことだが、彼はもともと鴎外の妻としての〓げ子に好意を寄せていなかったようである。というのは、鴎外は日露戦争前には第一師団軍医部長に転じて東京に帰っていたが、戦争には奥保鞏《おくやすかた》の第二軍軍医部長として出征した。〓げ子はその前から姑《しゆうとめ》と衝突して千駄木《せんだぎ》の家を出て芝区明舟町の実家荒木博臣《ひろおみ》の家に戻ってしまった。その行為を青山胤通《たねみち》と賀古が憤慨し、そんな不埒《ふらち》な女は離縁せよと息まいたことがあったからだ。鴎外は二度も離婚するのは困るといってそれに従わなかったが、「美術品」(小倉から賀古宛《あて》の手紙)と書くくらいに美人の妻を得た満足があったからだ。
〓げ子にも言いぶんはある。小倉では水入らずの新婚生活だった。東京では姑のいる家とは別に住むことを鴎外に約束させたという。なのに東京に還《かえ》ってみると夫の祖母(清子)も母(峰子)も千駄木の家にいて、そこで同居となった。その姑は「わしは侍《さむらい》じゃ」(津和野藩医の妻)と威張り、夫鴎外はこの母に頭が上らぬ。給料袋はそっくり母に出す。姑はその中から嫁に小遣いを与え、一家の経済を握っている。〓げ子にすれば夫との約束が違う。彼が戦地に行っていても、実家に帰っているのは当然だと考える。
――ここに森家の「波風《なみかぜ》」がある。
森家の波風なり内紛を見るのが本稿の目的ではない。が、このことが鴎外の文学に関係があれば、その範囲の中で見てゆかねばならない。
森家の波風はすべて〓げ子を中心に起っている。
はじめは鴎外の母峰子との間で、嫁姑の確執である。鴎外の短篇「半日」に出てくる場面はほとんど事実に近いとみてよい。さればこそ〓げ子は死に際してこれを鴎外全集から削除することを強く主張し、これを杏奴に遺言した。岩波版第一期全集にはこれが入っていない。
姑が死んでからは、「生《な》さぬ仲」の於菟との間の渦《うず》がある。
しかし、これは世間一般の継母継子の感情だけでもない。〓げ子の好悪の感情は、その標準が「美か否《いな》か」にあるという単純なものだった。それはいつも彼女が己の美貌を自負しているところからきていると杏奴さんは書く。〓げ子は思ったことはなんでもこの場であけすけに云う。相手の感情をあまり顧慮しない。それに反し於菟は小さいときからおとなしく、口数が少い。内向型である。いけないのは於菟が「可愛くない顔だち」に生れていたことで、〓げ子の最も好むところでない。
渦の輪は親戚にひろがる。その対象の代表は鴎外の妹小金井喜美子である。これはなにもかも〓げ子と対極をなす。喜美子は幼いときから兄鴎外の愛をほしいままにしてきた。それが小金井夫人となって実家の森家に出入りしても、なんとなく驕慢《きようまん》な態度に出る。〓げ子にとって我慢ならない。喜美子は鴎外に教えられて、和歌、古典、随筆と往《ゆ》くとして可ならざるはなく、さすがに文豪鴎外の血を分けた才媛とか閨秀歌人・作家とかもてはやされている。教養及ばざることを自覚する〓げ子に反撥《はんぱつ》が起らないわけはない。一は上品な名流婦人、一は直情な下町型の女。小金井喜美子に対抗するには自己の美貌だ。両者のあいだは普通の嫁・小姑に輪をかけて憎悪に近いものがあったとみてよかろう。〓げ子のその気持が子供たちにも伝染して、喜美子は「意地悪叔母」になってしまう。
渦の輪はさらに外縁にひろがる。その代表が賀古鶴所である。賀古だけでなく、鴎外の友人・知人のほとんどがよりつかない。それは未亡人と娘だけの家にくる遠慮もあるし、用事もないからである。於菟は鴎外生存中に結婚して棟つづきの隣りに住んでいたが、父の没後は観潮楼を嗣《つ》ぐ。しかし、於菟の妻富貴子と〓げ子が衝突して、於菟夫婦は大宮のほうへさっさと引越してしまう。「わたしってどこへ行っても評判が悪いのね」と晩年の〓げ子は寂しそうに杏奴に云った。
家によりつかなかった賀古鶴所にも後日譚《ごじつたん》がある。十年ぐらい経《た》ってから或《あ》る集りに杏奴が出るとすっかり老いた賀古を見かけた。賀古は成人した彼女に気がつかないでいる。ちょっと挨拶《あいさつ》すると賀古はおどろき、また懐《なつか》しがって、そのうちにぜひ千駄木へ行きたいなどと云った。帰って母に話すと、賀古さんも年をとって気が弱くなったのねと〓げ子は云っていたが、賀古はやはり来なかった。その何年か後の一月一日に賀古は急死した。脳溢血《のういつけつ》であった。
賀古鶴所のことに立ち入りすぎたようだが、賀古は名前のわりにあまり履歴が知られていないので、後の鴎外関係研究者の参考のために書いておく。
小堀杏奴氏は「父の死とその前後」で「私は母を真に第三者的立場を以《も》つて、冷静に、公平に、批判したいと思ふ」と云っている。
《まづ何よりも母が優れた美貌《びばう》の持主であつたと云ふ事が、彼女の性格の上に、果てはその運命に迄、決定的な影響を与へたと云ふ事を書きたい。この稀《ま》れにみる美貌は、彼女に自負の念を与へ、その虚栄心を成長させた。母は単純で、正直な、珍しく美しい性格をもつてゐたが、一方に女らしい優しさ、つゝましやかな性質に欠けてゐた。幼い時に、露西亜《ロ シ ア》の皇后陛下になる事を望んだと云ふ逸話を持つ母は、(それも露西亜が地図の上で、非常な大国であつたからである)、その結婚の相手として、如何《い か》なる職業にもせよ、日本で一人と云ふやうな人を夫に持ちたいと思つたと私に話した事がある。母はなんでも立派なもの、美しいものが好きであつた。母が後によく、(於菟ちやんがもつときれうの好い子であつたら、よほど可愛さが違つたらうに。)と云つた……》
一方、於菟の「鴎外と女性」(「父親としての森鴎外」所収)。
《最初の結婚に破れてから再び家庭をつくる事については常に「考慮中」と逃げて、周囲のもの、特に祖母の絶えざる懇請を退けてゐた父に決心させた大きな魅力は、「鴎外の母」に記した如《ごと》く、この母がすぐれた美人であつた所にあつた事は疑ふべくもない。また父は反語的ではあるがその寡言《くわげん》と正直さをその美点とした。元来父は女の饒舌《ぜうぜつ》と欺瞞《ぎまん》とを最も憎んでゐたから。彼女は全く正直であつたが、その正直は生れたままの幼児の我儘《わがまま》を持つ事で、欲して遂げられぬ事のあるのを許さず、少くも若い頃《ころ》は世間在来《ありきた》りの習俗さへ気に入らねばつとめるといふ事をしなかつた。よく「私はうそだけはつけないから。」といつたが、それは文字通りの事実で表面をつくろふなどいふ事は考へも及ばなかつたのである。
母のすぐれて美しい人であつた事は祖母がその第一印象に「世の中にはこのやうな美しき人もあるものか。」と驚いたのでもわかり、親友の賀古鶴所が「倶利迦羅紋紋《くりからもんもん》の兄哥《あにい》が出刃庖丁《でばばうちやう》をさげて飛び込んでくるやうな妻君を持つのも亦《また》一興だらう」といひ、父自身小倉に行きついてから賀古に、「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」少々心配した所案外万事好都合で安心したと書き送つたのでも裏書される。丈はすらりとして肌《はだ》は浅黒く髪は豊かに顔立ちは凛々《りり》しく品が好いが愛嬌《あいきやう》は乏しく、現代的知性美と異るが明治上流の代表美、然《しか》し下町育ちとか聞くその母方の血を受けて意気な所があつた。》
再度、杏奴氏の「父の死とその前後」のつづきを引かせてもらう。
《……(男は年をとると立派になるよ。この頃の於菟ちやんは髭《ひげ》を生やしたので、口もとの欠点も隠れて、仲々立派になつた。子供の時もせめて、真章(元の長男)くらい可愛いと好かつたのだけど、いかにも醜い子でね。)と云つてゐた。この無邪気な言葉に、私はつひふきだしてしまひ、兄もかう云ふ子供のやうな母を知つたら、もつともつと母に対して人間的な同情を感じたらうにと思ふ。例へば母は無暗に疳癪《かんしやく》を起して、私を叱《しか》りとばした上、泣くとよけい怒つて、『ほんとにお前みたいに醜い女の子はありやあしない。きれうの好い子が、大きな眼に涙をいつぱい溜《た》めてゐるのはいいものだけど、ぶきれうのお前が泣いて、小さな目をよけい腫《は》れぼつたくしてゐると、なほ更ぶきれうになつて、見るのも厭《いや》になる。』などとづけづけ言ふのだ。自分でなりたくてなつたわけではない、生れつききれうの悪いものを、あんまりだと思つて、死ぬ程悲しく思つた事がよくあつた。こんな母が兄に対して、思ひやりのある、優しさを示した筈が無く、真実の子の私でさへ、継《まま》つ子《こ》ではないかしらとひがみたくなる程であつた。何時《い つ》であつたか、兄に向つて、『お前は頼朝《よりとも》みたいな男だ。あの秋田のずうずう女に騙《だま》されて、なんでも云ひなり放題になつてゐる。今に北条家に滅されたやうに、森家もひどい目に逢《あ》ふのだ。』と云ひ、大人しい兄もむつとして、『いくらなんでもあんまりです。私も富貴子にさうまでいいやうにされてはゐないつもりです。』と怒つてゐたのを聞いた事があつた。母の驚くべきこの単純な、その代りかげひなたと云ふものが全く無く、継子だから事をかまへていじめるとか、或ひは自分はいい顔をしてゐて、上手に人を使つて苦しめるとか、さういふ隠険さは少しも無かつた。併《しか》し現在の兄はどうだか、小さい時、新しい母として、どんなにか期待してゐたであらう母に、かう云ふ態度を示され、その上に祖母や、叔父叔母達によつて、母に対してゆがめられた見かたをさせられてゐた兄が、それを理解しないのも無理はないと思ふ。なんであつたか、母がやはりヒステリイを起し、兄の事を悪く云つたらしく、父が、『そんな事を云つて可哀想《かはいさう》に。於菟は新しいお母さんが来ると言つて、喜んで踊つてゐたのだ。』
と暗い顔をして云つてゐた事がある。又もう一つ、これは何より心に重い記憶で、それを書く事は辛いが、思ひきつて書く。或る日母は姉を連れて外出しようとして、帯を締めさせてゐたのだが、それは黒繻子《くろじゆす》と友禅の腹合せになつたもので、それを母は、『お前はきれうが悪いから、紅い方を出しては似合はない。』と云ふし、姉は若い娘の事とて、黒い方を出す事はひどく厭だつたらしい。どうしても言ふ事をきかなかつたので、母は例によつてひどく怒り、たうとう姉は声をあげて泣出した。たしか元祖母の部屋に使つてゐた二畳で、父と私も同じ部屋にゐてそれを見てゐた。それ迄《まで》黙つて苦い顔をしてゐた父は、この時いきなりひらてで母の頬《ほほ》をぴしりと音のする程ひどく叩《たた》いた。恐らく長い結婚生活を通じて、こんな事ははじめての経験であつたらう。何故《な ぜ》なら母はもう全くあつけにとられてしまつて、真蒼《まつさを》になつてぽかんとしてゐたし、私は子供心にもなんだか急にそんな事をした父が憎らしく、母が可哀想になつて、
『お母さん〓〓。』
と叫んでわあわあ泣いた事を覚えてゐる。》
於菟の書いたものによると、子供のころ新しい美しい母親に手を引いて町を歩いてもらえるかと期待していたのに、母はひとりでずんずん先に行ってしまって失望した憶《おぼ》えがあり、母はおよそ人の気持をしんしゃくしない、正直な人だと述べている。
そのような妻と母親の間、妻と先妻の子の間、あるいは妻と妹との間に立って鴎外は苦労する。
世の中のことに片づくということがあるものではない、自分のほうで変えてゆくようにしなくては、と云い聞かせる鴎外の言葉に納得する妻ではなかった。ある冬の夜、〓げ子が興奮して庭に出たまま立ちつくして動かぬので、鴎外も夜どおし起きて見まもっていたことがあった。
また妻の機嫌《きげん》の悪いときは、鴎外は小さい子供たちの世話まで自分でした。別棟に祖母と寝ている於菟が夜中に物音に眼《め》をさますと、向うの廊下の隅《すみ》で、「うんよしよし、さあしっこだよ」と云っている鴎外の声が聞えたりした。
――昭和二十八年ごろ、文京区曙《あけぼの》町のお宅に森於菟氏をわたし(松本)がはじめてお訪ねしたときである(初対面は氏がその二年前に小倉の座談会へ来られたとき)。氏は回想されて云われた。
「父が夜二階の書斎で書きものをしていると母が階段を上がってきて、なんだかんだといつまでも不平をならべるらしいのです。それを父はおとなしく聞いてやったうえ、なだめすかして階下へ連れて行きます。それから父は書斎にもどって仕事をつづけたと、ばあやが云っていました」
その「なんだかんだ」という内容はどういうことでしたかとわたしがきくと、
「わかりません。ばあやはそこまでしか云いませんでしたから」
と氏は笑っておられた。
あとで於菟氏の書いたものを読み、その「ばあや」とは森家に長く仕えていたおえいさんではないかと想像する。おえいさんは鴎外の小説「金毘羅《こんぴら》」ではおけいの名で出てくる。幼い兄妹《きようだい》が同時に病に罹《かか》り、奥さんの懸命な看病にもかかわらず、医者にも見放される重態となる。だが、おけいさんの金毘羅さまへの祈願で妹(茉莉がモデル)は奇蹟《きせき》的に助かり、兄(二男不律)は死ぬ。
〓げ子夫人の夜中の訴えによる不平とは、於菟のことか自分を敵視する森家の親戚《しんせき》たちのことか、あるいは鴎外の友人らのことかわからないが、被害妄想《もうそう》の妻の扱いに文豪もたいへんだと思った。
鴎外は停年で陸軍を退き、東京日日・大阪毎日新聞の客員となって「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」「伊沢蘭軒《らんけん》」「北条霞亭《かてい》」など一連の「史伝」ものの連載に筆を執った。読者の評判は芳《かんば》しからず、新聞社の幹部も困ったが、一日とて快くは休載を許さなかった。この執筆の心労で鴎外の健康は大いに害され、年齢《と し》をとった。
鴎外は書く。
「老は漸《やうや》く身に迫つて来る。
前途に希望の光が薄らぐと共に、自ら背後の影を顧みるは人の常情である。人は老いてレトロスペクチイフの境界に入る」(「なかじきり」大正六年九月「斯論」)
しかし大正六年秋に入って「自ら背後の影を顧みる」ようになったのも、老いが身に迫ったと感じたのも、だれにも秘している結核のようやく増進するのをおぼえたからであろう。
諸家は鴎外の史伝もの、とくに「澀江抽斎」を傑作だと賞讃《しようさん》する。彼の代表作だとたたえる。労作であることは認めよう。しかし、疲労困憊《こんぱい》した、痛々しい労作である。そのことは他の場で詳しく書いたからここではくりかえさぬ(雑誌「文藝春秋」昭和六十年五月号〜十二月号連載)。
「澀江抽斎」はたしかに読者に不評判であった。文芸評論家勝本清一郎は「わたしは東京日日・大阪毎日の読者ではないから倦《う》みはしない」などと書いたが、それはほんのひと握りの玄人《くろうと》筋だけであった。
その中で、変った見方をしているのが菊池寛。
《氏の歴史小説は、どんなに秀《すぐ》れてゐるにしろ、今後それ以上のものが出ないとも限らない。たゞ、「伊沢蘭軒」「澀江抽斎」その他の伝記物は、その史学的価値文芸的価値は別物として、確に大正文壇の珍物である。恐らく、あゝしたものは、今後幾年経つたつて、世の中に出ないだらう。丁度、森鴎外と云ふ文芸的人格(漢文学和文学欧文学の教養の不思議な組合せ、それに科学的な教養も添つてゐるが)が、今後再び得られないのと同じやうに。従つて、鴎外氏の趣味と学識に依《よ》つて、僥倖《げうかう》にも伝記を獲た蘭軒抽斎、寿阿弥、香以、藤吉郎の銘々は地下にて、鴎外さんを取りかこんで、感謝してゐることだらう。
これらの伝記物は、小説ではないけれども、一種の文学として、自分のやうなものには、趣味津々《しんしん》として尽きざるものがある。たゞ、白魚の頭を、一生研究してゐるやうな学問のための学問、伝記のための伝記の弊がないでもないが。》(前出「新小説」鴎外追悼号)
「白魚の頭を、一生研究してゐるやうな」というのはいかにも菊池流の云《い》いかたである。
大正六年十一月、鴎外は帝室博物館総長兼図書頭《ずしよのかみ》となって、新聞社とようやく縁が切れた。そのころ於菟《おと》は帝国大学医科学生としてドイツ語の卒業論文を父に見てもらうため帝室博物館に足を運んでいた。〓げ子には内緒だったのである。総長室の父は背広姿であり、曾《か》っての軍服姿を見つけている眼にはいかにも見すぼらしく、瘠《や》せこけ、老いが目立っていた。
数日後、近くに住む於菟の家の玄関をすこし開けて父が深刻な眼をのぞかせ手招きした。於菟がなにごとかと近づいてゆくと、「じつはお前の卒論があまりによくできたので、つい、うれしくなって日記につけたところ、お母さんにそれを見られたのだ。家の中が険悪だから、おまえはしばらく家にこないほうがよい」と云い捨ててあわただしく去った。その父のなんともいえない哀《かな》しそうな、痛々しい眼が忘れられないと於菟は書いている。
このような話ばかり拾うと、〓げ子はいかばかりか悪妻に見える。
しかし、以上森於菟・小堀杏奴《こぼりあんぬ》兄妹の書いたものだけを読みくらべてみても〓げ子はイプセンの「小さなアイヨルフ」に出てくる劇作家の妻に近い型のような気がする。ああいう女に、非妥協と強い感情性と独占欲を与えると、〓げ子像になるのではないかと思う。
独占欲とは夫に対してで、いやしくもこの領域を侵そうとするものは徹底的に排斥する。鴎外には女性関係はなかったから、その嫉妬《しつと》は鴎外の才能を分与されているといわれる実妹の喜美子にむけられる。生《な》さぬ仲の於菟にも、はては鴎外の愛読する書籍にさえも向けられる。つまり彼女は、自分一身に鴎外の愛情が惜しみなくふりそそがれることを求めたのである。
〓げ子が二十三歳で鴎外と結婚するまでのことは伝わっていない。が、鴎外と結ばれてからの〓げ子は、この夫を心から愛した。彼女にとってその夫はあまりに教養が高くて広すぎ、その懸隔は天地ほどだったが、夫は彼女を受け入れること海のごとく裕《ひろ》く、慈愛に満ちていた。この十八歳年上の夫に彼女は地球のように安心してよかった。鴎外は彼女の保護者であった。〓げ子のわが儘《まま》も我意も、夫への依存からであった。究極の「始末」は夫がつけてくれるという凭《よりかか》りからである。
なぜそうなったか。ものごとは最初《はじめ》に発する。すべては「初めありき」である。前にふれたように小倉時代は新婚の夫婦水入らずの生活であった。それは短くして終った。鴎外の第一師団軍医部長転任で東京に戻り、もとの本郷駒込千駄木《こまごめせんだぎ》二十一番地の家(観潮楼は明治二十五年に増築したもの)に戻った。そこで〓げ子は、夫の祖母と母に仕える。先妻登志子の長男於菟の世話もする。須臾《しゆゆ》にして〓げ子は、姑《しゆうとめ》峰子と険悪な仲になる。小倉の安国寺の禅僧玉水俊〓《たまみずしゆんこ》は出京中であったが、鴎外の困惑を見かねて両人の和解に努めたが、〓げ子は諾《き》かずして明舟町の実家に奔《はし》る。
そのうちに日露戦争で鴎外は出征した。残された〓げ子は、森家の会計を一手に握る千駄木の姑のもとへ月々の費用を頂きに使いの者をさしむける。彼女は「日蔭《ひかげ》の妻」であった(小堀杏奴「晩年の父」)。
こうした家庭生活の「当初の歪《ゆが》み」が、〓げ子の性格に影響を与えた。彼女はしだいに被害妄想的意識に捉《とら》われ、ヒステリックとなり、精神的に平衡感覚を失った女になり、そのぶん夫の鴎外に対して過剰に傾斜的となったようである。
鴎外は〓げ子に悩まされた。彼女からすれば、夫を困らすとか苛《いじ》めるとか虐待《ぎやくたい》するとかいう意識は毛頭なかった。だれよりも鴎外を愛していると信じた。その自負のために、夫にも周囲にも被害を与えていることに気がつかなかった。トルストイ夫人ソフィア・アンドレーエヴナの「悪妻」とは大いに違うのである。トルストイの妻も夫よりは十八歳年下であった。
鴎外は、そんな妻に悩まされながら、あれだけの大著述をしたものだとだれしもが驚歎《きようたん》する。岩波版「鴎外全集」著作篇三十三巻、翻訳篇十八巻という尨大《ぼうだい》な量である。しかも満五十五歳にして予備役編入になるまで陸軍軍医部の本務に精励しながらの著述である(帝室博物館総長兼図書頭はいわゆる「余暇」としていちおう別とする)。
これについて於菟の意見がある。
《「文豪鴎外は家庭的に不幸の人であつた。然しその人間苦の中にあれだけの仕事をなし遂げたのは驚嘆すべきである。」これが一通りの結論であるが、今筆を擱《お》くに当つて最後に私はもう一つ別の見方をしてみたい。それは事実に立脚しての考へ方であるが、鴎外が文学上著しい仕事をしたのに二つの時期がある。第一は「しがらみ草紙」「めさまし草」時代、作品から云へば「水沫《みなわ》集」時代ともいへよう。それは初めの妻との不和でいらだち健康まで損ねようとした時である。その後独身になつて落着いてから長い間、また小倉での快適な結婚生活の間には、勉強はしてゐるが殆《ほとん》ど文学上の創作の筆を絶つた。東京へ帰つてからその母の歿《ぼつ》するまで、最も家庭的に苦慮したと見える時代に続々と作品を発表してゐる。しかも心理的描写に徹した小説は皆この時代の産物である。母を喪《うしな》つてからの晩年には前のつづきの歴史小説から転じて、純粋に科学的な「史伝」にかくれてゐる。それには思想の推移もあり家庭以外の事情もあらうが、もし鴎外が一生を通じて少しも煩《わづら》はされぬ平和な家庭と典型的な賢夫人とを持つてゐたら、学者としての大著述は残したであらうが、より以上の文学的述作を残し得たかといへば必ずしもしかりとは考へられぬのではないか。》(「父親としての森鴎外」)
親を見ること子に如《し》かずとはこのことである。これほど鴎外の文学を、内と表から合せて的確に、しかも簡潔に指摘したものはない。
汗牛充棟ただならぬ鴎外論のほとんどは、この五百字の「感想」に及ばない、と思う。
わたしはここまで森於菟・小堀杏奴両氏の二つの著書から随意に文章を引いて森家の波風を瞥見《べつけん》してきた。鴎外の家庭的苦悩を想像した。
於菟の云う「最も家庭的に苦慮したと見える時代に(鴎外が)続々と作品を発表してゐる」のは、以上の著書と鴎外の年譜とをこくめいに比較してみるしかないが、だいたいにおいて承認されることであろう。
鴎外は、家庭的憂悶《ゆうもん》・苦痛を忘れるために、文芸著作に没頭したのだろうか。もちろんそれだけではない。旺盛《おうせい》な創作意欲とエネルギーを持っていたからだ。だが、その意欲をさらに押し上げ、没我の状態にまでさせたのは、家庭の苦痛からはなれようとした点にあるのは争えない。いいかえれば、妻に対する内心の忿怒《ふんぬ》、直接行動にあらわせない鬱積《うつせき》した憤激を、作品のエネルギーへ振りむけ転化させたのであろう。よって鴎外は絶えざる家庭の危機から脱れ得た。
それは緊張の連続であった。緊張の持続は創作に活力を与えた。彼はデェモンすら背負っているかのようにみえた。私小説の手法もとり入れて、自己観照を深めた。作品の上では、いうところの「材料」(鴎外の語彙《ごい》)の範囲も貪欲《どんよく》にひろげ、心理描写の鑿《のみ》で彫った。人はこの期を「豊熟の時代」と呼ぶ。そのほか、文壇活動も大家として華かであった。
「母を喪つてからの晩年」というのは、鴎外の母峰子が七十一歳で没した大正五年三月からで、この年四月鴎外は予備役となり陸軍を去っていることだ。
家庭的には、この年長男於菟が結婚した。長女茉莉《まり》が女学校二年生となった。次女杏奴が小学校に入った。翌年四月三男類が小学校に入学した。
鴎外の家庭は、この大正五年を境にして長いあいだの「騒動」が通過したのである。母の死、於菟の独立別居。幼かった子供たちは成長し、手がかからなくなった。鴎外は役所を罷《や》めた。〓げ子三十七歳、初老夫婦といっては釣合《つりあ》いがとれぬが、精神的に落着いた第二の人生といった家庭である。鴎外の短篇「ぢいさんばあさん」の伊織とるんの老境までには遠いけれど、静寂で平穏な心境に至ったのは同じである。
しかし、普通の家庭だと、それは至福である。が、作家にとってはそれは「敵」である。
はたして恐ろしいことが起った。鴎外から緊張が去ったのである。家庭的心痛が除かれ、安らぎを得た代償である。もはや創作にふりむけるべき忿怒、憤激の家庭的原因は消えてしまった。
精神的な弛緩《しかん》は、肉体の抵抗力をなくさせた。いままで日和見《ひよりみ》感染的な病菌のように様子をうかがっていた結核菌が抵抗力の弱まったのに乗じて病巣から出動してきた。三十年間の緊張のあとにきた弛緩の恐ろしさである。萎縮腎《いしゆくじん》よりも結核が命取りとなった。
鴎外は自覚している。だが、だれにもそれを云わない。武鑑を集める同趣味、同業の津軽藩医の抽斎、「若《も》し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖《そで》は横町の溝板《どぶいた》の上で摩《す》れ合つた筈《はず》」の澀江抽斎に親近感を覚え、その伝を記すことを思い立つ。ついに抽斎の遺子保《たもつ》さんを探し得て、「母の五百《い ほ》」(抽斎の妻)からの聞き書きを材料にして史伝「澀江抽斎」を作った。再度云う。しかしこれは鴎外の荒凉寂寞《こうりようせきばく》たる業績である。
作家はだれしも老境に入ると衰退期に入る。文豪でもこれから脱《のが》れることができない。「枯淡の境地」とは美辞にすぎない。鴎外もまたその例外でなく、於菟のいわゆる「家庭の苦慮」が去っただけではないのである。
森鴎外《おうがい》と乃木《のぎ》将軍の死。白樺《しらかば》派のこと。
昭和六十一年六月七日(土)
書庫を整理。一誠堂(神田の古書店)に売払うものを出す。同店より「日本随筆大成」一期・二期・三期分の六十四冊を買う。
「翁草《おきなぐさ》」に「当代奇覧抜粋」中、「細川の香木」あり、鴎外の小説「興津彌五《おきつやご》右衛《え》門《もん》」の材料である。これにより鴎外は擬古文の書簡体を作る。その手腕、流石《さすが》である。
初稿(「興津彌五右衛門の遺書」大正元年十月号「中央公論」)の方が素朴《そぼく》にして力強し。定稿は手を入れすぎ修飾多く、かえって力弱まる。
乃木殉死の報を聞いただけでは鴎外は斯《か》く匆々《そうそう》に筆(初稿)を執るまい。かならずや夫妻の死体状況を眼《め》に収めてのことであろう。
鴎外の「大正元年」日記。
《九月十三日(金)晴。轜車《じしや》に扈随《こずい》して宮城より青山に至る。午後八時宮城を発し十一時青山に至る。翌午前二時青山を出《い》でて帰る。途上乃木希典《まれすけ》の死を説くものあり。予半信半疑す。
九月十四日(土)陰。乃木の邸《やしき》を訪ふ。石黒忠悳《ただのり》の要求により鶴田次郎《つるたていじろう》、徳岡〓を乃木邸に遣《や》る。
九月十五日(日)雨。午後乃木の納棺式に〓《のぞ》む。
九月十六日(月)陰。C. Cagawaと称するもの松本楽器店員の肩書ある名刺を通じて乃木希典の歌を求む。拒絶す。
九月十八日(水)半晴。午後乃木大将希典の葬を送りて青山斎場に至る。興津彌五右衛門を艸《さう》して中央公論に寄す。》
乃木夫妻の死は明治天皇大葬当日の大正元年九月十三日。鴎外が乃木邸を単独で訪うたのは翌十四日である。時刻は記してない。これが鴎外の個人的な弔問だったのは、彼がいったん引きあげたあと、石黒忠悳(軍医総監)の命により、鶴田・徳岡の両軍医局員を公式の弔問に派遣したことでもわかる。
十四日に鴎外が単独に赤坂区新坂町五十五番地の乃木邸を訪れたとき、夫妻の自刃《じじん》遺体は二階八畳の間に現状のままで置かれてあった。廊下側の六畳の間には辞世の和歌を書いた色紙数枚が散乱していた。検死前である。
☆参考。岩田凡平警察医作製「乃木将軍夫妻死体検案書」
乃木邸の雇い人らは、なぜに鴎外を夫妻自刃の現場に容易に通したかというに、鴎外が乃木と昵懇《じつこん》の間がらであり、鴎外は新年の挨拶《あいさつ》まわりの際などにしばしば乃木邸に立ち寄り、稗飯《ひえめし》の振舞いにあずかっていたのを知っていたからである。乃木は毛利の支藩長州豊浦郡府中(俗に長府藩。五万石)の藩士の子に生れ、鴎外は長州と隣り合う石州津和野藩に生れた。そのような地理的近親感だけでなく、乃木は鴎外の学問に一種の尊敬を持っていた。
明治三十二年、鴎外が近衛《このえ》師団軍医部長から第十二師団軍医部長に左遷《させん》されて新橋駅から任地小倉へ出発するときのこと。数少ない見送り人の最後にあわただしくかけつけた小柄《こがら》な老将軍あり、すなわち乃木であった。鴎外はあわてて列車から下りてていねいに挨拶した。乃木は、まだ幼なかった長男於菟《おと》を胸のところまで抱き上げて鴎外を見送ったという(森於菟「森鴎外」)。
乃木はまた長男の勝典(南山の戦いで戦死)が独逸《ドイツ》の小説を読むのを心配し、その内容の可否を鴎外に手紙で問合せたりした。
鴎外は、乃木の自刃の現場を眼にしたからこそ、その余奮を駆って匆々の間に「興津彌五右衛門の遺書」を艸したのである。
六月十日(火)
「二醫官傳《いかんでん》」(雑誌「文藝春秋」連載)の中に「乃木将軍夫妻死体検案書」(昭和八年日本医師学会五月例会雨宮金三郎演説引用の警視庁警察医岩田凡平作製にかかわるもの)を付す。
六月十三日(金)
十時半、原宿オリンピア・クリニックの井上眼科医院へ行き、緑内障のコンピュータによる検査。悪化なし。神保町《じんぼうちよう》の三省堂へ行く。イギリス、フランス、スイス、イタリアの道路地図を買う。地下の食堂に入る。
わが卓に白髪の老紳士近づき、名刺を出す。「社史編集コンサルタント」の肩書、本多清の名あり。松戸市小金原に住む。福岡県松江《しようえ》町近くの生れと云う。松江町は福岡県が大分県に接する所。中津市に近し。
本多氏曰《いわ》く、内山昭なる人が築上郡岩屋村矢頭良一《やがしらりよういち》という明治時代の自動計算機発明家の小伝を書き、岩波新書「計算機歴史物語」に載すと。内山氏がそれを著わした動機は、松本の「或《あ》る『小倉日記』伝」を読み、さらに鴎外の「小倉日記」を披《ひら》き、明治三十四年二月二十二日の条に、矢頭良一が鴎外を訪問し、その発明せる自動計算機を示したとある記載を知るによると。
本多氏にかく教えられて、岩波新書の内山昭氏著「計算機歴史物語」を求めて読む。文中に文章あり。
《ところで私がこの最初の国産計算機と出合う機縁となったのは、じつは森鴎外の『小倉日記』なのである。
一九五二年に松本清張氏が『或る小倉日記伝』で芥川賞《あくたがわしよう》を受賞し、文壇にデビューした。当時、私もこの小説を読んだが、その後なんとなく鴎外の『小倉日記』そのものを読んでみたくなった。
鴎外は東大医学部卒業後、陸軍に入り、同期生の最優秀者として明治十七年(一八八四年)に、陸軍の衛生学医事調査のためドイツに四年間留学した。帰国後はさまざまな要職についたが、明治三十二年、時の軍医の実力者、石黒忠悳との折り合いが悪く、第十二師団の軍医部長として小倉に左遷されたのである。彼が『小倉日記』を書いたのはこの時代である。死後、日記は紛失したが、一九五一年になって鴎外の子息が、疎開先《そかいさき》の別荘から返った箪笥《たんす》のなかで発見する。松本清張氏の『或る小倉日記伝』はこの顛末《てんまつ》を物語として展開しているのだが、私は鴎外のこの日記を読んで、明治三十四年(一九〇一年)二月二十二日のところで、はたと目が止まったのである。
二十二日。雪。当国築上郡岩屋村の人矢頭良一というもの来訪す。自ら製する所の自動算盤《そろばん》を出して〓《しめ》し、且曰《かつい》う、曾て羽族飛行の理を窮《きわ》めて一書を作り、将《まさ》に人類蜚行の機械を製せんとす、唯々《ただただ》資力の乏しきを憾《うら》むのみと。矢頭の父を道一という。岩屋村長たり。
後日調査したところによると、福岡県築上郡岩屋村村長の長男である矢頭良一が「飛翔《ひしよう》原理」なる論文と、彼の発明になる手動式計算機の模型を携えて鴎外を訪ねた。一九〇三年に作製されたライト兄弟のフライヤー一号も飛ばなかったこの時代に、彼はタービン・エンジン付きの飛行船の製作を企画し、交通・軍事上の必要性を鴎外に進言したのである。
当時、空を飛ぶことなどは夢のように思われていたので、彼のこの考えの技術面を立証するために計算機の模型を持参して、それで評価を得るつもりであったと思われる。
子どもの頃《ころ》から計算機に興味を持っていた私は、日本アイ・ビー・エム社入社当時から計算機のルーツを調べていたが、どうしても矢頭良一発明の計算機を見きわめたかった。
その頃の私の記憶では、明治三十八年(一九〇五年)の日露戦争の際、佐世保で拿捕《だほ》したロシヤ軍艦からオッドナーの手動式計算機(一八七八年作製)が発見され、これがわが国が初めて入手した外国製計算機とされていた。
国産のものとしては、大正十二年(一九二三年)に作製された大本寅次郎の「虎印計算機(のちのタイガー計算機)」が最初とされていて、現在でも各種文献にはそう記されている。
この虎印計算機より二十数年も前に作製され、しかも鴎外も見たというこの“自動算盤”なるものは、いったいどのような姿をしているのか、どのような原理にもとづいて計算が行なわれるのか、私の好奇心はいやがうえにも高まったのである。》
六月二十九日(日)
大分空港に定時に着。竹田市近く出身の画家朝倉摂氏同道。午後三時、大分市内で平松守彦知事に会う。三時半講演。
終って出ると落合夫婦(故叔母チエの養嗣子《ようしし》)が待ちうけて立つ。事前に連絡したため。控室に呼び入れる。彼は今年限りで日鉄寮の世話役を停年となる。今秋息子が結婚す。
平松氏と同乗して竹田市に着く。曇天。史料館前で三十人ばかりの市民に歓迎さる。
館内で織部燈籠一基を見る。他の一基は、家老屋敷にありという。笠《かさ》広く、火袋、中台小さく、竿《さお》長く、基礎を地中に埋めこむ。竿の基底近くに長方形のくり込みあり、聖母像を彫刻す。「かくれ切支丹《キリシタン》」である。ふだんは植込みの叢《くさむら》で彫刻を隠す。
竹田の古田家の祖は、古田織部の家老だったが、織部が大坂役のとき秀頼《ひでより》方についたため自害を命ぜられた。一族は姓を変え中川家(中川瀬兵衛清秀の子孫)に仕え、主家と共に豊後《ぶんご》竹田に移る。その後ふたたび古田姓に復したという。
夜、旅館竹田茶寮に泊る。高所にあり。
午前二時に一度眼がさめ、六時に眠る。庭から見ると谷に町あり。対《むか》い側の山頂に高圧送電線の鉄塔を遠望す。川北電気小倉出張所の架線工事請負人中村組の架設せるがこれならんか。出張所の工事監督は「野崎」という。工事作業員に「松井」という若者あり。竹田は水郷、風景絶佳と云《い》える声、未《いま》だに耳底に残る。あじさいに雨そそぐ縁側の椅子《いす》にひとり凭る。茫々《ぼうぼう》半世紀の昔なり。
九時半出発、大野川に沿いて下る前に、市内の松本なる土地に行き、丘上の屹立《きつりつ》せる長大な立石を見る。郷土史家はこれをメンヒルという。雨激しくなる。
「七つ森古墳」(柄鏡《えかがみ》式の前方後円墳。前期)は雨中のために遠望。傘《かさ》さして男女の村民、学童の出迎人多数われら一行を待って歓待してくださる。テント内に遺跡出土品を陳列。主婦たちは手製の餅《もち》でもてなし。餅も人情もあたたかし。
朝地町へ行く。
このあたり明治十年の西郷軍と官軍との戦闘地。
日出《ひ じ》町在住の考古学者佐藤暁《あかつき》氏と途中から同車、話を聞く。同町川崎にある縄文《じようもん》時代早期の早水台《そうずだい》遺跡(別府湾に面す)の数次にわたる発掘調査には八幡一郎、賀川光夫、金関丈夫、芹沢長介氏らがあり、佐藤氏ははじめ助手、のち調査委員として参加す。
佐藤氏云う。
昭和二十五年ごろ、この地(川崎)の畑から多くの土器の破片出る。町内の佐藤悌《てい》医師は民俗学に趣味を持つ人、高校の教師などが土器破片を弥生《やよい》式と鑑定するに服さず、縄文時代でも古きほうと信じて、これを大分大学の考古学専攻の富来隆教授に報じた。早水台は学界の耳目を集む。佐藤医師はすなわち暁氏の父である。
東京湾における千葉県加曾利貝塚《かそりかいづか》の馬蹄型《ばていけい》をもって後藤和民氏の「ムキ身加工」説に佐藤氏は同意すると。豊前《ぶぜん》、豊後、日向《ひゆうが》に貝塚少し。それは後藤氏のいう「点在貝塚」である。ただし、八代湾には轟《とどろき》貝塚あり。遠州にはシジミ貝塚(浜松)あり。しかし東京湾ほど壮大かつ集団をなさず。リアス式海岸が直ちに大貝塚とはならず。
東京湾の貝塚は、製塩土器の出現と普及と共に消滅す。ムキ身は塩分の補給用に貯蔵したるなりとは後藤説なり。
大野郡朝地町神角寺の摩崖仏《まがいぶつ》を見る。仁王像と両脇侍《きようじ》。仁王は火炎を負わず。薄彫り、迫力に乏し。
神角寺の本堂が佳《よ》し。ひわだ葺《ぶ》き宝形屋根、三間四方、軒深く、屋根の流れは快く先端わずかに反《そ》る。両の柱は太く、重き屋根を支ゆ。正面半分上は蔀《しとみ》、下は出入口、左右の一間ずつは蔀にて閉す。建立《こんりゆう》は南北朝時代、大友氏による。他はことごとく荒廃し残れるはこの一宇のみ。どことなく富貴寺の面影《おもかげ》あり。門前の茶亭で昼食。「ミス・アサジ」嬢らのサービス。手製の餅。
犬飼町に至る。武者行列の甲冑《かつちゆう》姿と修験道の四人に歓迎さる。雨激しくなる。
戸次《へつぎ》川の橋に至る。以前は渡し場のありしところ。東の元舟着場は灌木《かんぼく》茂り、西の舟着場は小石河原となる。河原に破れた捨小舟一つ。竹中駅は西側で少しく上流になるという。
☆地図で確めると、昭和二十三年ごろに歩いたのは、小倉より日豊線で大分駅に降り、豊肥線に乗り換え竹中駅で下車、渡し舟で戸次川を横切っている。このとき「長曾我部信親《ちようそかべのぶちか》討死の地」の標柱を見た記憶がある。鴎外に琵琶歌《びわうた》「長曾我部信親」作詞がある。
それより沿道の農家を訪ねてサツマ芋を求めながら大野川東岸を歩き、犬飼・田原を通り、東に転じて、山間(都原・野津市間)を伝い、望月を経て臼杵《うすき》の宿に着いた。このときはじめて臼杵の石仏(平安時代の傑作)を見ている。配給米二合ぶん持参の追いこみ宿泊もさることながら、復員服(兵隊服)に古ゲートル巻き、古軍靴《ぐんか》を穿《は》き、農家に請《こ》うて得たサツマ芋詰めのリュックを背負う。犬飼より臼杵までの山峡四里の道は遠かった。
日出町の的山荘《てきざんそう》に入る。午後四時。雨やむ。
T大使のこと、堀米庸三《ほりごめようぞう》「ヨーロッパ歴史紀行」にあり。学者大使にして酒と爬虫類《はちゆうるい》とを頗《すこぶ》る愛す。のち駐チュニジア大使。
☆「的山荘」は、明治時代に繁栄せし馬上《ばじよう》金山の持主、成清《なりきよ》氏邸あと。往時の鉱山を描いた六曲絵屏風《えびようぶ》あり。馬上金山は現在の速見郡山香《やまが》町大字《おおあざ》立石、旧は近隣に四つの金山があった。
日出は慶長以来木下家の所領、二万五千石。旧城の石垣《いしがき》下の海中に清水湧《わ》き出《い》で、鰈《かれい》が群がる。「城下《しろした》がれい」とてその美味広く知らる。
天候険悪、全日空機は欠航。同行の画家朝倉摂さんは直ちに新幹線で帰京。
七月二十九日(火)
午後五時十五分、谷中《やなか》六丁目の感応寺へ行く。雨中、文藝春秋社の木俣正剛君が門前で待つ。カメラマンを同行。
本堂前で、渋江末男さんに会う。八十五歳。禿頭《とくとう》、小肥《こぶと》り、赤ら顔。足もとすこしく危ういが矍鑠《かくしやく》たり。鴎外の「澀江抽斎《しぶえちゆうさい》」(最終回)に、
《下渋谷の家は脩《をさむ》の子終吉さんを当主としてゐる。終吉は図案家で、大正三年に津田青楓《つだせいふう》さんの門人になつた。大正五年に二十八歳である。終吉には二人の弟がある。前年に明治薬学校の業を終へた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。此三人の生母福島氏おさださんは静岡にゐる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。》
とある。
忠三の子渋江東《あずま》さんも末男氏とともに来る。六十すぎ、半白、痩身《そうしん》、柔和な人である。「渋江生化学研究所代表取締役・豊島区池袋一丁目二十番地、住所は杉並区下井草四丁目八番十七号」と名刺にある。
ともに海保漁村の碑文を刻した澀江抽斎碑石前に立つ。刻字は年々うすれると末男さん言う。鴎外が抽斎伝で書いた先祖の四基は、振袖《ふりそで》火事に罹災《りさい》して神田《かんだ》より寺と共にここへ遷《うつ》したときすでに墓石は火を蒙《こうむ》ってぼろぼろになって滅す。鴎外がこれを記さなかったのは、碑面の刻字がわからなかったからだろうと末男さん言う。しかし鴎外は四基の戒名を写している。寺の過去帳に拠《よ》ったものか。他の列に五基あり。みな渋江家の先祖という。
鴎外の「澀江抽斎」には、抽斎の多くの子の名がまとめて書いてない。自分(松本)は「澀江抽斎」のページをあちこち繰って、次の名を拾った。
長男恒善《つねよし》(母は尾島氏定)、長女純《いと》(母は比良野氏威能)、次男優善《やすよし》、次女好《よし》、三男八三郎(以上母は岡西氏徳)、三女棠《とう》、四男幻香《げんこう》(胎児で死す)、四女陸《くが》、五女癸巳《きし》、六女水木《み き》、五男専六《せんろく》(脩)、六男翠暫《すいざん》、七男成善《しげよし》(保《たもつ》)、七女幸《さき》(以上母は山内氏五百)。
抽斎の後裔《こうえい》で今に存しているのは、抽斎の第七子の保と、第四女の陸であると「澀江抽斎」の終りに近い「その百十二」にある。
保は若いときに静岡で「渋江塾《じゆく》」を開いたり、浜松で校長になったり、東京で新聞記者として政治を論じたりした。しかし最も大いに精力を費したのは書肆《しよし》博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書は、通計約百五十部の多きに至った、とある。
《其書《そのしよ》は随時世人を啓発した功はあるにしても、概《おほむね》皆《みな》時尚《じしやう》を追ふ書估《しよこ》の誅求《ちうきう》に応じて筆を走らせたものである。保《たもつ》さんの精力は徒費《とひ》せられたと謂《い》はざることを得《え》ない。そして保《たもつ》さんは自らこれを知つてゐる。畢竟文士《ひつきやうぶんし》と書估《しよこ》との関係はミユチユアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになつてゐる。保《たもつ》さんは生物学上の亭主役《ていしゆやく》をしたのである。
保《たもつ》さんの作らむと欲する書は、今猶《いまなほ》計画として保《たもつ》さんの意中にある。曰《いは》く日本私刑史《にほんしけいし》、曰く支那刑法史《しなけいはふし》、曰く経子《けいし》一家言《かげん》、曰く周易《しうえき》一家言《かげん》、曰く読書五十年、この五部《ぶ》の書《しよ》が即《すなは》ち是《こ》れである。就中《なかんづく》読書五十年の如きは、啻《たゞ》に計画として存在するのみでは無い、其藁本《かうほん》が既に堆《たい》を成してゐる。これは一種《しゆ》のビブリオグラフイイで、保さんの博渉《はくせふ》の一面を窺《うかゞ》ふに足るものである。著者の志す所は厳君《げんくん》の経籍訪古志《けいせきはうこし》を廓大《くわくだい》して、古《いにしへ》より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあると謂《い》つても、或《あるい》は不可なることが無からう。保さんは果して能く其志《こゝろざし》を成すであらうか。世間は果して能く保さんをして其志を成さしむるであらうか。
保《たもつ》さんは今年《こんねん》大正五年に六十歳、妻佐野氏《つまさのうぢ》お松《まつ》さんは四十八歳、女乙女《ぢよおとめ》さんは十七歳である。》
渋江保は、要するに通俗小説家であった。筆の立つ、しかも速筆家であった。その題材は漢文の素養があって、広範囲にわたっていた。かんたんにいえば、なんでもこなせた。そのために博文館に重宝がられ、いわゆる「博文館作家」で終ったようである。
しかし、保はただ筆が立つだけではなかった。彼の教養は抽斎遺文や森枳園《きえん》などの著書を経た「読書五十年」の堆積《たいせき》もあった。
抽斎伝は、保が母の五百から聞いたことを書き綴《つづ》り、これを鴎外に提供したものである。鴎外はその字句を修正するのみで、ほとんどこれを「澀江抽斎」の上に再現した。以《も》って保の文章力をも知るべしであろう。
次に、鴎外の抽斎伝が筆に力を罩《こ》めたのは、抽斎子孫で現存する抽斎四女陸《くが》である。すなわち長唄《ながうた》の師匠杵屋《きねや》勝久のことである。当時彼女は本所に住んでいた。
「杵屋勝久之《の》霊渋江家先祖之精霊合葬」の墓碑がある。
杵屋勝久の祥月《しようつき》命日には杵屋勝派の面々はその墓前に集り、故人の人柄《ひとがら》を追慕するを例とすると末男さんは云った。
雨の中を神田のうなぎ屋の二階に至り夕食。末男さんの話を聞く。
かく抽斎子孫と対座して話を聴けば、身はあたかも保さんや杵屋勝久さんを前にするようである。
抽斎四女陸《くが》、杵屋勝久のことは鴎外「澀江抽斎」の「その百十二」から「その百十九」あたりまで詳しく書かれている。
その内容のあらましはこうである。
陸がはじめて長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋馬喰町《ばくろちよう》の二世杵屋勝三郎で馬場の鬼勝と称せられた名人である。陸が四歳のときだった。抽斎は陸をとくに可愛《かわい》がった。五百も声はよかったが、陸は母に似て幼いときから声がきれいだった。
陸は長じて両国橋詰で砂糖店《みせ》を開いたが、これは繁昌《はんじよう》のなかで閉じた。陸は師匠勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、鑑札を下付せられた。二十七歳のときで、明治六年のことである。
勝久の芸は予期以上に繁昌し、まだいくばくもないうちに弟子の数は八十人を超えた。藤堂、津軽、細川家など旧大名家の婦女らが彼女をひいきにした。
初代勝三郎は初代勝五郎の門弟である。勝五郎は家元杵屋六左衛門(天保と嘉永《かえい》のころの人と二代ある)のあとを嗣《つ》いだ和吉の門弟三世《ぜ》佐吉から別れて独立し、杵勝分派をなした。初代勝五郎――初代勝三郎――二世勝三郎――三世勝三郎となる。三世勝三郎の高弟に浅草森田町の勝四郎がいた。病のために気短かになっている師匠と勝四郎の間に隙《すき》が生じた。三世勝三郎は杵勝分派の前途を想《おも》うて、名取りの弟子たちに盟約書を徴しようとした。男の名取り弟子たちは勝四郎の実力に傾いていたので、盟約書を書くことを拒絶した。女名取り連中は、勝久が幹事だったので盟約書を受け入れた。こうして男女の弟子が二派に別れた。
勝久はこの事態をたいそう心配し、勝三郎に頼んで勝四郎との和解を試みた。勝三郎は「おばさんまでそんなことを云うか」といって涙を流して怒った。とりつく島はなかった。
三世勝三郎は鎌倉に病臥《びようが》していた。勝久の陸が五十七歳のときである。陸は二十三のとき、母の五百らにすすめられて津軽藩士と婚したが、ほどなく別離し、以来独身で通し、長唄の芸ごとのみに励んだのである。
かくて三世勝三郎は転地療養のために東京に出て、霊岸島から船に乗って房州に渡った。これが帰らぬ旅路となった。
勝三郎が没した後は、杵勝分派の団結を維持してゆくには、生前勝三郎に勘気を受けていた高足弟子勝四郎の復帰が必要であった。そこで勝久がまたもや奔走して勝四郎を苦心して迎え入れた。
勝四郎は初代の名を取って勝五郎と改め、男名取りの幹事となった。女名取りの幹事は勝久がつとめた。会の名は杵勝同窓会と称した。いま、浅草の杵屋勝東治さん(俳優勝新太郎さんのお父さん)は長唄三味線の名手だが、やはり杵勝分派の流れにあるようである。
いずれにしても「杵屋勝久」こと抽斎四女陸の墓前で渋江末男さんと東さんとに会い、話を聴けたのは鴎外が「澀江抽斎」の冒頭で、向島の寺で抽斎の墓碑探しをする因縁にも通じるように自分には感じられた。
八月五日(火)
鴎外の歴史小説。
鴎外の歴史小説の多くは徳川時代である。文芸評論家は、鴎外は封建制度の矛盾を小説の形で批判したという。しかし、明治の官僚支配も封建制度の引き継ぎとあまり違わないところがある。将軍家が天皇と代り、大老が元老(主として山県有朋《やまがたありとも》)となり、御用部屋が内閣と変った如《ごと》きである。
鴎外が徳川時代の武家階級の事件(栗山大膳《くりやまだいぜん》、大塩平八郎、堺《さかい》事件、細川家家臣の殉死)または市井《しせい》の出来事(高瀬舟、最後の一句など)をなるべく史実に即して書こうとすれば、自ら明治「封建」制度の批判にならざるを得ない。「お上《かみ》の事には間違はございますまいから」(最後の一句)を言わしめたのは、実は鴎外が師団軍医部長、陸軍省医務局長の地位(高級管理職として)にあって彼自らが下僚に対してなした裁断であった。
「鴎外日記」から。
《大正元年十二月十九日(木)陰。増師意見書を呈す。増師意見書を草す。田中義一(註。当時軍務局長。少将)が椿山《ちんざん》公の旨《むね》を承《う》けて文を求めたるなり。
十二月二十日(陰)泥濘《でいねい》。増師意見書を田中義一に交附す。
大正二年二月一日(土)晴、寒。報知の夕刊に早く予の宮内省に入るを報ず。
「虫干や甘んじてなる保守の人」(註。田中義一に与えたる色紙の句)》
午後六時、ハナエ・モリ・ビルの五階「オランジュリー」で森夫妻と会う。来日中の松本弘子さん(元モデル。在パリ)と娘のオリヴィエさん同席。
弘子さんの話。スイスの銀行から預金を出すときにサインをしたが、サインが違うと言われて拒否された。十年前のサイン。それ以後、同銀行には行っていない。銀行の支配人が出てきて、十年前のサインを示し、この通りに書けと言われたが、当時は走り書きしたものの、いまそれを「手本」にして書けと言われるとまるで偽筆するようで手が硬くなる。十何回書いても自然のサインとはならない。百ドル単位の預金だったからよかったものの、十万ドル、五十万ドル単位だったら手が痺《しび》れて動脈硬化を起すだろう。
八月十八日(月)
午後三時、九段下のグランド・パレスにて「週刊新潮」の山田彦弥編集長、堤部員と会う。
エイズは新「黒死病」。十五世紀に大流《はや》りしたペストとして捉《とら》える。最も発達せる文明世界(ハイテク時代)の人類が、最も原始的な風土病に発する「下等な」病原体《ウイルス》に根底から揺さぶられている。世界の人口の十分の三ぐらいが滅亡する。ペストでは三人に一人がかかって死んだ。戦争が中止される。否応《いやおう》なき一夫一婦主義。そのために抑圧された性の不満の爆発。暴動と無神論。医学への不信と、研究所、医科大学への群衆襲撃。
共産圏にエイズ発生の報告なし。その統計を知るために医者の共産圏潜入。(国際赤十字、パレ・デ・ナシオン)
☆右は「赤い氷河」――改題『赤い氷河期』――構想メモ。
○資料
【ワシントン三十日=朝日】エイズ(AIDS、後天性免疫不全症候群)が急速にまんえんしているのは、病原ウイルスが同じ種類のウイルスに比べて千倍も速く増殖する特殊な仕組みを備えているからであり、このままでは世界中で二千五百万人が死んだ一九一八年のインフルエンザ(スペインかぜ)以来の大流行になる恐れがあると、米ハーバード大のW・ハッセルティン博士が細胞学専門誌「セル」に発表した。
博士によると、エイズのウイルスは人体に感染すると、「トランス・アクチベーター」と呼ばれる酵素をつくる。この酵素はウイルスの増殖に必要な遺伝子の隣にある「エンハンサー」と呼ばれる遺伝子に結合し、増殖のための遺伝子の働きを異常に高め、あっという間に、からだ中に広がっていくという。
増殖のスピードが速いため、遺伝子を複製する時に間違いも生じやすい。その結果、ウイルスの表面にあるたんぱく質の性質がウイルスによってかなり変化している。ワクチンの開発は、この抗原たんぱく質が変化すると難しい。
しかし、異常増殖のカギを握る「トランス・アクチベーター」の発見によって、その働きを抑える薬の開発に道が開けたと、博士はいっている。
八月十九日(火)
鴎外の小説「空車《むなぐるま》」は「虚車」の言いかえなるを「諸橋《もろはし》大漢和辞典」で知る。
《此車《このくるま》だつていつも空虚《くうきよ》でないことは、言《げん》を須《ま》たない。わたくしは白山《はくさん》の通《とほり》で、此車《このくるま》が洋紙《やうし》を〓載《こんさい》して王子《わうじ》から来《く》るのに逢《あ》ふことがある。しかしさう云《い》ふ時《とき》には此車《このくるま》はわたくしの目にとまらない。
わたくしは此車が空車《むなぐるま》として行《ゆ》くに逢《あ》ふ毎《ごと》に、目迎《めむか》へてこれを送《おく》ることを禁《きん》じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚《くうきよ》であるが故《ゆゑ》に、人をして一層《そう》その大きさを覚《おぼ》えしむる。この大きい車が大道狭《だいだうせま》しと行く。これに繋《つな》いである馬は骨格が逞《たくま》しく、栄養が好《い》い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩《ゆる》やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背《せ》の直《すぐ》い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊《れい》ででもあるやうに、大股《おほまた》に行く。此男《このをとこ》は左顧右眄《さこいうへん》することをなさない。物に遇《あ》つて一歩を緩くすることをもなさず、一歩を急《きふ》にすることをもなさない。旁若無人《ばうじやくぶにん》と云ふ語は此男のために作られたかと疑《うたが》はれる。
此車《このくるま》に逢へば、徒歩の人も避《よ》ける。騎馬の人も避ける。貴人《きにん》の馬車も避ける。富豪の自動車も避《よ》ける。隊伍《たいご》をなした士卒《しそつ》も避ける。送葬《そうさう》の行列も避ける。此車の軌道を横《よこぎ》るに会へば、電車の車掌と雖《いへど》も、車を駐《とゞ》めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。
そして此車《このくるま》は一の空車《むなぐるま》に過ぎぬのである。……》(大正五年四月作)
この「空車」は王子方面より洋紙を満載してくる。王子製紙会社の印刷用紙である。すなわち当時全盛にむかいつつある「白樺《しらかば》派」をさしている。同人雑誌「白樺」の創刊は明治四十三年である。自然主義に抗したロマンティシズムの文学運動にして、白樺派ほどはなばなしいものはなかった。
白樺派の文学運動はすでに大きい。その隆盛の前には貴人の馬車、自動車、隊列、電車(すべての既成の文学)を停止させる。空車に積んだ荷の印刷用紙は白樺派が洛陽《らくよう》の紙価を高からしめたことの比喩《ひゆ》である。空車の馬の口取りをする(音頭取り)筋骨逞しい傍若無人な男は、武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》とその作品傾向を云いあらわしている。
「白樺」はいうまでもなく有島、武者小路、志賀直哉、木下利玄《きのしたりげん》、里見〓《さとみとん》、園池公致《そのいけきんゆき》ら学習院出が主になって創刊した。鴎外には白樺派を直接批評した文章はないが、明治四十五年四月二十四日の日記に、
《乃木《のぎ》大将希典《まれすけ》来て(略)白樺諸家の言論に注意すべきことを托《たく》す。》
とある。
乃木が学習院長になったのは明治四十年からだが、生家長府藩の武士道精神で、皇族、華族らの子弟教育にあたった。乃木にとっては学習院卒業生の中から白樺派の如き「不逞《ふてい》な輩《やから》」が出たのは寒心に堪えなかったにちがいない。
鴎外が乃木の感想を受けて直ちに「空車」を書いたとは思わないが、鴎外自身の白樺派批判であることはたしかである。その空車に何ら荷が積載されていないと結んでいるのは、白樺派の諸作品の軽薄さを皮肉っている。
さらに乃木希典の言といい、鴎外といい、その背後に山県有朋の影を感じないでもない。山県は皇室の藩屏《はんぺい》を最も憂《うれ》えた一人である。鴎外は椿山公(山県)に積極的に近づいていた。
一部文芸評論家は「空車」をもって鴎外の「自嘲《じちよう》」だと云っている。その追随者も見受ける。しかし、鴎外の作品が王子製紙の用紙を続々と印刷工場へ運びこむほど売れただろうか。鴎外の文学運動には傍若無人な馬の口取りがいただろうか。己の作品の前には何びとも慴伏《しようふく》すると思うほど鴎外は自惚《うぬぼ》れていたろうか。なにをもってこの作を「自嘲」というや。その妄《もう》を他に見ず。
鴎外の自嘲を云うなら、「虫干や甘んじてなる保守の人」の句を挙げるべきであろう。
八月二十二日(金)
木俣君は東大図書館へ行き「鴎外文庫」にある渋江保の三部作をマイクロ・フィルムから複写する。
これまでに閲覧せるもの昭和三十五年に一度、五十四年、五十六年に各一度ありたるのみという。
閲覧者の名は載せてない。
複写せる「抽斎歿後《ぼつご》」のうち「母の死」(五百《い ほ》の死)と、「抽斎年譜」のうち抽斎がはじめて江戸より藩主に従《つ》いて弘前《ひろさき》入りした部分、ならびに一戸務《いちのへつとむ》の「鴎外作澀江抽斎の資料」中に例として出された安政乙卯《きのとう》の地震の夜(渋江家乗)と十月二日地震の日(鴎外「澀江抽斎」)とを、急いでゲラにし、挿入《そうにゆう》し、原稿に加えることとする。この他に「抽斎の親戚《しんせき》並びに門人」あり。
実例を掲ぐるにあらざれば、一戸務氏の文章(前回の末尾)だけでは抽象的にして心細し。
☆鴎外の「澀江抽斎」は、抽斎の七男保の呈せる手記による。保は早くから父と死別したため、話は母の五百より聞いたものである。保が鴎外のために草したものが上記の「抽斎年譜」他二部である。
これらは未《いま》だ公刊されていない。
八月二十三日(土)
松本弘子さんと昼食。弘子はコリーヌ・ブレという小柄《こがら》なフランス婦人を同伴。パリ紙「リベラシオン」の特派員の由《よし》。
エイズを新しきペストの流行として捉えているのは、パリにもその見方があるとコリーヌ・ブレは云う。そのコラムが載った「リベラシオン」を一週間後に見つけて知らせるという。
もっとも下等な生物(エイズのウイルス、変質性、アフリカかカリブ海の風土病)がハイテク時代の最高の文明人類社会を食って行く皮肉な現象。――この着想はコリーヌも松本弘子も面白いという。
うらぶれた「吟遊詩人」的なシャンソン歌手を見るなら、モンパルナスの見すぼらしい酒場をのぞくに如《し》くはない。新宿裏のバアの如く、三軒ぐらいかけ持ちして、ギターを弾き、唄《うた》っている。
午後二時、木俣君はゲラを持参。鴎外文庫の渋江保の三資料「抽斎年譜」「親戚並びに門人」「抽斎歿後」の三部分(一部は一戸氏が「文学」昭和八年八月号に発表済のもの)を挿入してよかったと思う。木俣君曰《いわ》く、これでまた問題になる。
《取材メモ》
スイスにおける樹海「青木ヶ原」は、チューリッヒ湖より南(やや東寄り)シュビーツSchwyzという町にあり。ここはスイスという国名の由来(ドイツ語ではスイスはSchweizとなる)。そこから東へ少し行ったところにムオタタル渓谷《けいこく》という深山幽谷の地あり。その入口に同名のムオタタルという村がある。このあたりは山と湖と森林だけのところ。寒村が点々とある寂しいところ。このムオタタル渓谷(ムオタタル村から東より)にボートメレンバルトというスイス最大の森があり、(バルトはドイツ語で森の意)このボートメレンバルトは全体の広さ約千ヘクタール。そのうち二百ヘクタールは自然保護林となっており、いっさい人手が加わっておらず、まさに樹海そのもの。ここは立ち入り禁止だが、そうでなくとも、昼なお暗く、車はもちろん近づけず、ハイキングの連中も森林のふちぐらいまでがせいぜい。迷いこんだら出てくることができない。また近づくものもない。
ボートメレンバルトは海抜千四百メートルから千七百メートルぐらいで、植生はスギ、ヒノキ、カシ、ナラ、ブナなど。
八月二十五日(月)
疲労、休養とす。ビデオにとらせたNHK名作劇場のデュヴィヴィエの「旅路の果て」をはじめて見る。うだつのあがらぬ役者たちが老いて私設の無料養老院に入り、昔の舞台を夢見て大言壮語し、互いに中傷し、悪口して自分を慰める。色事師あり。ドービルの競馬で当てた金で贈った指輪を浮気相手の貴婦人が臨終に際して、人を介して送り返してくる。五千フランはする値打ちもの。さっそく養老院にいた浮気の元女優と焼け棒杭《ぼつくい》に火がつきそうなのを振ってモンテカルロに行く。モンテカルロの建物が実景で出てくる。
一時はルーレットで大いに儲《もう》けるが、お定まりの一文なし。海岸通りをボロのガラクタ馬車で駅へ行く。海岸通りのヤシの並木が出る。養老院が競売に付されるのが新聞に出て同情が集まり、寄付がなされ、一流役者による公演がある。フランボー役をやりたいために、楽屋で「大根役者」を殴り倒して代役として舞台に出た老優はセリフが一言もいえずに、楽屋に戻り、酒をあおったとたんに死ぬ。「役者は絶えず人目につくことが習性になっている」と養老院で反対運動を煽動《せんどう》して、院長に叱責《しつせき》されたときに言う。色事師も自殺。最後は墓場の告別式の場面。
「彼はかくれた名優だった――こんな弔辞は言えない。彼は大根だった。しかし、芝居を愛していた」。
レコードの「魔笛」を聞く。
霞《かすみ》ヶ浦《うら》の船頭のカモを呼ぶオトリの擬声と「魔笛」のパパゲーノの小鳥の呼び笛とを一致させること。(新連載の新聞小説構想メモ)
八月二十六日(火)
十一時、三鷹《みたか》の禅林寺へ行き、寺の裏側にある森鴎外墓に詣《まい》る。中央に一段と大きい碑石が「森林太郎墓」。賀古鶴所《かこつるど》への遺言「石見人」は刻してなし。隣の「〓げ墓」にも献花す。〓げ墓の文字は中村不折。小金井喜美子「墓参」に「並べてみると同じ人(中村不折)のとは誰にも思われぬ程違っているのが不思議です」とある。裏に「昭和十一年四月十八日没」とあり。
鴎外の右隣「森静男之墓」。落合直文筆。
その右隣。「森篤次郎之墓」鴎外筆。
森〓げ墓の左は幅広くとって、「森一家墓」。裏。右寄りに、行間を詰めて左の通り刻す。
森潤三郎 昭和十九年四月六日
米原シズ 昭和三十八年四月十六日
森於菟  昭和四十二年十二月二十一日 七十七歳
森富貴  昭和五十七年三月十八日 八十三歳
左側の三分の二は空白。
☆曙《あけぼの》町の森於菟氏宅に初めて訪問したのは昭和二十八年ごろ、新築後まもないと思われる新しい家で、於菟氏は縫紋の羽織で二階で会われる。案内されたのは富貴子夫人、すらりとして上背《うわぜい》のある色白の美しいひとという印象がある。
於菟夫婦が独りになった〓げ子さんと杏奴さんを残して観潮楼を出て行き、大宮の新居へ移る、その直接の動機は、富貴子さんが風呂釜《ふろがま》のカラ焚《だ》きをしたというので、姑《しゆうとめ》の〓げ子さんがいつもの調子でこっぴどく叱《しか》ったからだという。
於菟氏は静かな人、東邦大学へ通う電車の中で膝《ひざ》に謡本《うたいぼん》を開いている姿をよく見かけたと何かの本で読む。
墓碑によれば富貴子さんは於菟氏の死におくれること十五年、八十三歳の天寿を完《まつと》うす。
正午ごろ、禅林寺を辞す。終始、墓地に人の気配なし。
深大寺《じんだいじ》へ行き、門前の石段下右角の蕎麦屋《そばや》に入る。自分の顔、憶《おぼ》えあり。二階座敷で山菜のてんぷら、虹《にじ》マスの塩焼、ソバを食す。跡とり娘が主婦、母を呼ぶ。五年前の思い出話。
多磨《たま》霊園に両親の墓参に行く。樋川石材店の主婦老ゆ。花、線香、香水桶《おけ》を提げ、両親の墓に供える。この日、暑さ未だ去らず。この墓地も人影少し。両親の墓域狭小。よき場所あらば移し参らせむ。
イギリス紀行――ヨーロッパ巨石文化。ロンドン。シェトランド島。
昭和六十年九月二日(月)
午後六時。三菱《みつびし》ファイナンス(スイス)社長だった蔵多正温氏に会う。いま三菱銀行本店国際本部国際金融部副部長。
リヒテンシュタインのホテル"Real"のコックは日本人。すでに二十年くらい居る。言葉はドイツ語。日本語はたどたどしく、日本での出身地わからず。彼にホテル客の内情を聞けば興味深かろうと蔵多氏言う。このホテルは王宮のある断崖《だんがい》下。リヒテンシュタイン公は代々名画のコレクター。特定の人以外は公開せずと。
☆一九八二年十月、小説の取材(「聖獣配列」=「週刊新潮」連載)でチューリッヒの個人銀行(その秘密番号口座を取材に)を歴訪したとき、蔵多社長と安達宣治スイス第一勧業銀行総支配人(現本店国際本部副本部長)とに世話になる。
九月五日(木)
夜七時、奈良国立文化財研究所の佐原真氏電話し来《きた》る。北海道士別市の講演会の題名の件。山陰中央新報社の講演は来年三月にする。岩波書店より出る「考古学講座」の推薦文の件は、佐原氏出張中につき連絡が遅れたとのこと。
夜九時半ごろ、岩波「考古学講座」の主任より電話がある。「図書」の連載は終ったが、編集長から挨拶《あいさつ》の電話なく、手紙もこず、来宅もなしと言えば、主任はそれは何かの手違いでしょうと詫《わ》び、いずれ佐原氏と外国より帰られたときに推薦文の件もあり、お伺いするという。
☆「図書」は岩波書店のPR誌。十回の連載のほとんどが岩波出版物の「批判」に終始した。編集長の不快は想《おも》うべきものがある。しかし、約束の十回を守り、中断を云《い》ってこなかったのはさすがに岩波の襟度《きんど》である。
九月六日(金)
奈良県桜井市(大福遺跡)の方形周溝墓《しゆうこうぼ》と見られる遺構から銅鐸《どうたく》一個出土したと新聞報ず。銅鐸は長さ約四十五センチ、鈕《ちゆう》の高さ十二・五センチ、底部の短径は十六センチ、長径は二十五センチ程度。「これまで墓からは銅鐸が見つかった例がない」と橿原《かしはら》考古学研究所の話(読売新聞、九月六日付)。
岩波「図書」の自分の連載に「銅鐸は祭器か」の題で、墳墓とみられる跡から銅鐸が出土した例を挙げた森本六爾《もりもとろくじ》説をふり返るべきだと書いておいた。
弥生《やよい》時代の銅鐸が古墳時代に入ると一斉《いつせい》に地下に姿を消したことは謎《なぞ》とされているが、理由の推測に左の説がある。
〓新しい政治集団勢力が弥生末期の銅鐸圏内に侵入したため、在来の勢力集団は宝器である銅鐸を地下に隠した。そのままその存在が忘れられてしまい、天智《てんち》天皇のとき近江《おうみ》の大津京で銅鐸が地下から出土したときは、すでにその用途がわからなくなっていた。
〓銅鐸は地下の穀霊に供献するために埋納された。古墳時代に入るとこの祭儀が廃《すた》れ、地下の銅鐸の存在は人々の記憶から消えた。
〓銅鐸圏に侵入した新しい勢力は鏡を信仰の象徴とした。銅鐸が鏡に代置されたのである。
右の〓について。――地下に銅鐸を「埋納」するやりかたがいかにも手軽であり、ぞんざいである。たとえば滋賀県の小篠原《こじのはら》では大・中・小の銅鐸を突込んで重ねて(入れ子という方法)埋めていた。神戸市桜ヶ丘で発見された銅鐸にも入れ子があった。神聖な宝器なら、一個ずつ、ていねいに埋納すべきなのに、これではまるでバケツ扱いである。(小篠原の古道具屋では出土の銅鐸をそれとは知らずに古いバケツとして売りに出していた)
「埋納」説にしても、〓の敵に奪われないための「隠匿《いんとく》説」にしても、もっと深い地下に銅鐸を埋めなければならないはずなのに、地表面からわずか二十センチばかり穴を掘って入れ、土をかぶせた程度だ。
その埋めた場所は例外なく集落に近い丘陵、それも人々の視野から反対側になっている。もしこの宝器を敵の手に渡したくないためだったら、あまりに不用心にすぎる。
銅鐸は他の同伴物がなく単独に埋められているので、「地下穀霊への供献」という三品彰英《みしなあきひで》の民俗学的解釈がある。考古学者はこの三品説を援用している。だが、森本六爾が挙げた奈良県御所《ご せ》市名柄《ながら》では銅鐸が多鈕細文鏡と同伴して出土しているし、島根県八束《やつか》郡志谷奥《したにおく》では銅鐸二個と銅剣六本とが組み合せになっている。斐川《ひかわ》町荒神谷にいたっては銅鐸六個と銅矛十六本、銅剣三五八本が共に埋まっていた。こうなると、もはや銅鐸は「穀霊へ供献のための埋納」とはいえず、隠匿ともいえない。
小林行雄は早い時期に造られた銅剣・銅矛・銅戈《どうか》をスクラップにしてそれを材料に銅鐸を鋳造したと云っているが、小林推定説もその後の銅鐸新発見によって揺れる。
右の三つの説のうち説得力があると思えるのは〓である。すなわち弥生時代の銅鐸を信仰する種族が、古墳時代に入ると鏡を信仰する種族に権力がとってかわられたという説。
しかし、それならば、なぜ銅鐸を地下に隠匿する必要があろうか。鏡も銅を材料とする。小林説を逆手にとるようだが、大きな銅鐸を鋳潰《いつぶ》して、その材料で小さな鏡を多数製作すればよいではないか。銅鐸も末期になると三遠式の巨大なものが現われる。これを部族の統合によると云われているが、それなら「銅鐸族」は新権力の「鏡族」に服属の証明としてすすんで銅鐸を供出しそうなものである。だが、銅鐸は地中に埋没したままである。割った鏡の破片をきれいに磨《みが》いたものが出土するが、これは鏡の不足によるものである。
銅鐸が地下に埋められている理由を、考古学者は三品説の「農耕儀礼」という民俗学的見解だけに頼ってきている。考古学者の間には、他に適当な理由が見あたらないから、都合がいいからなどという声があるようだが、科学的な考古学者として独自な見解はないものだろうか。
九月十日(火)
「週刊新潮」の「聖獣配列」で徹夜。翌朝六時に出来る。これで完結。百回に達す。二年間とは長し。
○小説の構想を考える。
最も下等な生物(エイズ)に最も進歩せる生物(人間)が敗北して行く。十五世紀の黒死病。このテーマにはリアリティが必要。医学と研究実態の調査。
全体小説にすると、「主人公」の個性がうすれる。しかし「全体」としなければ捉《とら》えきれない。
第二案は、以上のことを構想する「小説家」を出す。彼による「理念の展開」とその行動。
ジュネーブの国際赤十字、西ドイツ、コペンハーゲン(若者の議論好き、パブ)、カリブ海のハイチ。共産圏への接近(スパイの疑いをうける)、さらには「感染予防」。エイズ恐怖に、強制された「一夫一婦制」。抑圧された性の不満の爆発。若者と麻薬。無神論が世界にひろがる。エイズの治療法もワクチンも絶望。この世の涯《はて》。
調査協力者を二人にするか。対立になる。
九月十一日(水)
「二醫官傳《いかんでん》」。すでに加筆したものにさらに加筆する。「古書通信」所載の「渋江保著作目録」(大田編)を加える。
九月十二日(木)
光文社の出版局佐藤隆三・足立俊二郎両君夜八時ごろ来宅。「フェーマス・トライアルズ」(日本評論社)の翻訳者古賀正義氏(弁護士)に会い、他の材料を求む。それまでに時日がかかったと二人とも連絡の不十分を詫ぶ。古賀氏曰《いわ》く「蠅取《はえと》り紙を買う男」は松本の好みならんと。蠅取り紙に含まれた砒素《ひそ》を抽出して人を毒殺したもの。買った男の証跡は不十分。被疑者は他人の証言で起訴され、早い時期に死刑執行さる。無実の罪の疑い。
☆「外国犯罪実話」の企画。
自分は若いころ「中央公論」に連載中の牧逸馬《まきいつま》の「浴槽《よくそう》の花嫁」「切裂きジャック」などの世界犯罪実話を愛読した。当時の中央公論社長嶋中《しまなか》雄作は、ロンドン滞在の牧(長谷川海太郎)夫妻にいくらでも資料を買えと送金をつづけた。牧はロンドンじゅうの古本屋から犯罪ものを買い漁《あさ》った。
十年前、長谷川未亡人は養嗣子《ようしし》と共に鎌倉から来宅され、故牧逸馬氏の蔵書を全部自分に譲られた。――自分は若いときに受けた牧逸馬作品の印象が忘れられないでいる。
右の古賀氏の「蠅取り紙を買う男」の話は、アイデアは面白いが、砒素はやはり十九世紀的で古い。砒素はその毒物反応が顕著で、犯人が割れやすく、曾《か》って「愚人の毒」との別称があった。わが国でも明治時代には石見国大森銀山から売り出された「猫《ねこ》らず」が毒殺に使用された。これも鉱物性砒素。
この日午後二時、日本放送出版協会道川文夫、田中美穂両君来宅。オーストリアのコースに魅力ありという。よって自分はデュセルドルフ行を変更して、こちらに合流してはどうかとすすめる。道川君意欲をみせる。直ちに読売文化部の藤村氏にその場で電話す。
この予定変更で帰国が二日間延長。佐原氏の同行が可能や否《いな》や不明となる。
九月十四日(土)
午前三時に起きて、「二・二六事件」(三冊本)「まえがき」の最終手入れ。
九月十五日(日)
午前九時、ロンドンへ出発。
☆日本放送出版協会は、イギリス、フランスの「巨石文化」を見る旅。
北海道には小樽《おたる》の北海岸忍路《オシヨロ》の三笠山から西の余市《よいち》近くまで、いわゆる縄文《じようもん》時代晩期のストーンサークルが点在している。自分はそれらをあらかた見ている。記号のような壁画で知られたフゴッペ(小樽の手宮洞窟《どうくつ》の「神代文字」と同系統)に近い地鎮山には早春に行ったが、まだ残雪が深く、列石の頭が少し出ているだけであった。有島武郎が開放した農場に近い音江《おとえ》のストーンサークルは、丘上の畑の中で、雨上りの赤土のぬかるみを歩いて登り、靴《くつ》もズボンも泥《どろ》だらけになった。ここからは羊蹄山《ようていざん》が遠望できた。
ストーンサークルはほとんどが墓だといわれているが、発掘しても人骨が出てこないのがある。縄文時代に墓場の形骸《けいがい》化したものともいわれ、祭祀《さいし》場説がそこから生れる。秋田県の大湯は代表的な祭祀施設の例だ。ここは規模の壮大なわりに立石《たていし》は低い。
環状列石とか石籬《せきり》とか呼ばれて石をならべた施設は、東北地方から西は神奈川県までのようである。東名高速道路が通っている神奈川県大井の丘陵上にある第一生命保険本社の域内には環状列石の美事なのが保存されている。分布はだいたい列島の脊梁《せきりよう》たる山地に沿い、付子《ぶす》(トリカブト)が野生する地域に限定されているようである。付子は毒矢用だが、ストーンサークルと関係があるかどうかはわからない。三上次男「古代北東アジア史研究」には魏志《ぎし》にある〓婁《ゆうろう》が原アジア人であろうとし、この民族は毒矢を使うので、北海道のアイヌとの関連を示唆《しさ》している。
環状列石を熱心に調べていた考古学者は駒井和愛《こまいかずちか》氏で、シベリア地方の環状列石は突厥《とつけつ》(チュルク。前後二世紀近くトルコ族が東北アジアで覇《は》をたてた)がつくった墓である。その列石の数は、墓の被葬者が戦闘で殺した敵の数に同じだとある(『周書』『隋書《ずいしよ》』『北史』の「突厥伝」=駒井「日本の巨石記念物」による)。
北海道は沿海州と一衣帯水だからシベリア大陸の環状列石の影響があってもふしぎではない。だが、日本のには人骨が出ないのがある。駒井氏の関係書では「日本の巨石文化」よりは「考古小記」に収められた「日本の巨石記念物」が短くてまとまっている。
ヨーロッパのストーンサークルは英国スコットランド沖のオークニイ島、またはイングランド南部のソールズベリ市北郊のエイバリーや、ウエストケニットなどが知られている。フランスでは中西部で大西洋海岸のカルナック地方が有名。
ストーンサークルは北はバルト海沿岸、南はイベリア半島の大西洋沿岸、南インド(ブラフマギリ)そして地中海はミケナイ、クレタに沿ってカルナックに延びている。新石器時代だが金属時代にもかかる。
こんどの計画では、オークニイ島からスコットランドのエディンバラに戻り、バスでイングランドの東側地帯を南下、ロンドンを経てソールズベリへ行き、次にフランスの中西部のナントに飛んでカルナック地方をまわる。これで巨石遺跡の旅を終り、あとは空路ニースへ。読売の文化部と合流して南仏、東部スイスで新聞新連載の取材をする予定。
成田発一三・〇〇。JAL四四三便。モスクワ経由ロンドン行。同行は奈良国立文化財研究所の佐原真氏に、道川文夫、田中美穂の両君。
曇。自分は年寄りの扱いでファーストクラスにしてもらう。階上席だが、禁煙。
煙草《たばこ》を喫《す》うため階段を降りて、スチュワーデス席に坐《すわ》る。彼女たちは勤務中のため三座席とも空いている。横の座席に持参の資料綴《つづ》りを三冊置いて、少しずつ読む。
昼食の報《し》らせに、資料を隣席の枕《まくら》の上に置き、階上に上り昼食。終って階下の前の席に戻れば、隣の二座席に半白の男と中年の男とが坐る。そこに置いた枕は片隅《かたすみ》に抛《ほう》りやられ、資料のタイプ綴り三冊は床上に投げ出され、その一冊は綴りが解けて紙が散乱している。二人の男は、それがタイプ印刷のためにスチュワーデスの持つ業務用書類と間違えたらしい。
自分は黙って床にしゃがみこみ、散らかった資料を拾い集める。二人は初めて気がつき、中年の男が、あ、わたしがやります、と云ったが、自分のかたづけのほうが早く済む。二人は、済みませんとも云わず、煙草を喫《の》みながら仕事の話をつづけていた。半白頭が上役とみえた。
こんな場合、こっちは腕を拱《こまね》き、対手《あいて》に資料を拾い集めさせ、泰然としているのが至当。と、後になって歯ぎしりするのはいつものことである。
階上席に戻ると、向うから声をかけらる。五十すぎの人。「イランのラシトに居た深田です」と云われて思い出した。まさに奇遇である。
☆ラシト(Rasht)はイランの北、カスピ海の南岸にある都市。人口約十五万。生糸《きいと》、綿紡、マッチ、ガラスの手工業がある。また南カスピ海産キャビアの缶詰《かんづめ》工場は有名。ここに東芝電気工場があり、現地法人で「パース東芝」という。深田氏が社長であった。パース東芝工場は電球を主に生産するが、電熱器では「お焦《こ》げ」専用の電気釜《がま》を開発した。イラン人は「お焦げ」がお好きと工場を訪問したとき深田社長から説明を受けたことがある。
イランに行ったのは一九七八年九月で、エルブルズ山脈を北へ越えたギラン州ルードバール郡ハリメジヤンでの「東京大学イラク・イラン遺跡学術調査隊」の発掘現場を見学するためであった。同行はNHKドキュメント班の水谷慶一プロデューサーと吉野兼司カメラマン組ならびに日本放送出版協会の道川文夫スタッフだった。発掘調査隊には松谷敏雄、田辺勝美、杉山二郎の学者諸氏がいた。前年までは深井晋司東大教授が隊長で来ていたとのこと。
ハリメジヤン遺跡にしてもラメザミン遺跡にしても(どちらもパルテア時代からササン朝時代)、土壙墓《どこうぼ》にはマウンドがなく、その所在を探すには、長い鉄棒を地下に突き立てて手ごたえをたしかめるほかはない。土が軟かければ竪穴《たてあな》の地下墓である。その先に石がふれると完全に墳墓を突きとめたことになる。
この土壙墓の断面は長靴形となっていて、踵《かかと》にあたる部分から横に折れ曲った靴先に副葬品が納めてある。
わが国の宮崎県西都原《さいとばる》などにある地下横穴式墳墓(古墳時代後期)は上に円丘が築かれているが、ハリメジヤンの土壙墓は上が平面で草地となっている。
調査隊の発掘期待の一つはササン朝の切子《きりこ》ガラス碗《わん》を得るにあったが、一年間連続して現地で発掘しても一個も発見できなかった。
しかるに村民たちは、正倉院や伝安閑天皇陵出土のような切子玻璃《はり》碗をやすやすと掘り出すのである(盗掘)。
このへんの村民たちはガラス碗が副葬されている墓地の所在《ありか》を心得ていて、いわゆるツボを知っているらしい。彼らは正倉院にあるような逸品を盗掘してはテヘランの骨董屋《こつとうや》へ売りに行く。ガラス碗はシルクロードや正倉院のロマンティックなイメージに結ばれて日本人が好むので、骨董屋はすぐに買ってくれる。ただし足もとを見られているから値は叩《たた》かれる。
こうした盗掘はだれでもやれるわけではなく、ガラス碗の埋蔵場所の秘密を知っている者でないとできない。盗掘は複数の人間でないとできないから、そういう連中が一部落をなしている。その部落は当然に他の部落よりは裕福な生活をしている。案内人にその「盗掘部落」をさりげなく見せてもらったが、高床式の新しい立派な家屋で、他の村の古びた、じめじめした家とは格段の差であった。
しかし、切子ガラス碗の盗掘はすでに尽きてしまい、学術調査隊の発掘以前に無くなっているともいわれている。
調査隊は週に一回、山を降りてラシトの「パース東芝」へ連絡に行く。ここには調査隊員宛《あ》てにきた日本からの郵便物が預けられてある。それを受けとると同時に隊員が日本へ出す郵便物を托《たく》する。東芝ではそれらをラシト郵便局に出し、ラシト局はテヘランから航空便で日本へ送る。「パース東芝」は調査隊のための「中継郵便局」であった。また隊員は工場の寮で入浴して、一週間ぶんのアカを落し、また、キャンプ生活に必要な買物を街でする。
自分はハリメジヤンのキャンプ(小学校校舎)でゴマ豆腐の冷奴《ひややつこ》と、冷し素麺《そうめん》の馳走《ちそう》になった。
「パース東芝」の深田社長には日本婦人の秘書が一人付いていた。主人はこの前まで近くの村の村長をつとめていたという。
四十歳ぐらいのその主人なる人に自分は会った。切子ガラス碗の亀甲形《きつこうがた》が底部を基礎に「七」の数で構成されていること、「七」は古代ペルシアの聖数であることを彼から聞かされた。
旧約聖書には「七」数字がやたらと出てくる。古代遊牧民のあいだに「七」が聖数となったのは、北斗七星からだろうか。広漠《こうばく》とした暗夜の草原で方向指標となるのは、北極星と大熊座《おおくまざ》の七星しかない。
古代中国では早くから「三・五・七」の陽数(奇数)を尚《たつと》んだ。陽数の中心は「七」であろう。古代中国の遊牧民族は西方と通じるものがある。宗教的な「犠牲」ではとくにそうである。
深田元パース東芝社長に、その後の秘書夫妻の様子を訊《き》こうとしたが、隣りに人もあって、複雑な話なので遠慮し、座に戻り、当時の旅を回想した。
モスクワ空港着七時十五分(現地時間)。
日航職員の案内でファーストクラスの待合室に入る。途中、ロビーにならぶ売店はシャッターがおりている。待合室にはテレビ一台。大きいばかりで、色悪し。音楽はクラシック。ソ連人のサーヴィス嬢は公務員顔で、ニコリともしない。コーヒー・紅茶などのサーヴィスはなし。
日航職員によれば、ロビーの売店は「棚《たな》おろし」のため今日で三日間閉店の由《よし》。トランジットの日本人旅客の群は所在なさそうに椅子《いす》に黙々と坐り、斎場の弔問者のようである。
☆モスクワの空港の売店がその日偶然に「棚おろし」で閉店していたことで思い出すのは、「ロッキード事件」で田中角栄被告側の弁護団が、当時の英国大使館裏で五億円現金入りのダンボール箱の授受の事実無根を証明しようとして、その傍証に現場近くの洋菓子店「村上開進堂」の営業中を持ち出したところ、同店は当日休店していたことが分って、かえってヤブヘビとなり、弁護団側は狼狽《ろうばい》してこれを取り下げたことである。モスクワ空港店の「棚おろし」の件は、或《あ》る事件の「アリバイ崩し」として何かに使えるかもしれない。
――ロンドン、ヒースロウ空港に十五日十九時五十分(現地時間)着。日航のヨーロッパ支配人中里氏が出迎え。バッゲージの受取りなど世話する。日曜日なのに、中里氏はとくに出勤、われわれの世話が終ると匆々《そうそう》に帰る。気の毒だった。
インター・コンチネンタル・ホテルに入る。ミツイ・マシナリィ・デパートメントの町田マネージャーが出迎え。長身、四十くらいの人。いままでアフリカのコンゴーあたりを勤務してきたと云う。ロンドンにきて三年になるという。ハイヤーの運転手に「バッグ・レディ」(Bag lady)のことを訊く。運転手は、一年来彼女の姿を見かけないという。「バッグ・レディ」の一語だけで通ずるほど、この物乞《ものご》い女はロンドンのこの界隈《かいわい》では名物婆《ばあ》さん。本名はわからず。
彼女も今は年寄りすぎて、チャーリングクロス駅付近の救世軍の施設にでも行って聞けばわかるかもしれないと運転手はいう。
ホテルに落ちついたあと、付近を一巡する。日曜日の夜なので、カーズン通りの灯《ひ》は少なく、人通りなく、街娼《がいしよう》も立たず。寂し。
明後日は午前九時半に通訳の女性(ミツイの町田マネージャーの紹介)と車がくる予定。女性の名はマーガリッタ・スプリンゲット。
まず、数年前に連載された「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」紙の「迷宮入り事件」もののうち、「パブの女従業員殺人事件」の実地を見ることにする。
☆当時、朝日新聞ロンドン総局長の浅井泰範さんが「面白そうな連載だ」といって自分に送ってくれたもの。この新聞はロンドンの大衆紙。
被害者はグロリア・マリアンヌ・ブースという若い女性。一九七一年六月十三日夜にその事件は発生した。彼女の裸死体は四肢《しし》が切断され、公道横の「運動場」に置かれてあった。夜ふけに行方不明になった翌十四日早朝、新聞配達の少年が発見した。
場所は、ロンドンのウエスト・エンド・ロードである。十三日日曜日の晩、グロリア・ブースは「ホワイト・ハウス」でグラスを洗い終えたあと、店主の許可を得て友だちに電話をした。電話は通じなかった。そのとき店主が家まで車で送ろうかといったが、彼女は断っている。車で迎えにくる人があるからと云って。
勤務が終り、店を出た彼女は、十一時五十分にウエスト・エンド・ロードの二つの公衆電話のうちの一つを使って、「ヴァイキング」(ロック音楽を演奏する騒がしいパブ)のバーテンをしている男友だち、ヒュー・アレンに電話した。アレンが受話器をとると「ヒューなの?」とブースは呼びかけた。だが、そこで彼女の声は切れた。
公衆電話から彼女が掛けている目撃者はあったが、その直後に起ったであろう異変に、その目撃者はいなかった。
これが新聞記事。
九月十七日(火)
朝九時半、通訳のマーガリッタ・スプリンゲット(Margarita Springett)さん来る。母は日本人、父は英人。大学を東京で済ませた。言葉は日本人と変らず。アメリカ訛《なまり》あり。美人。小柄《こがら》。愛称「リタ」という。
ホテルのロビーでロンドンの地図を按《あん》じ、パキスタン人の運転手と相談してオックスフォードA40号線に向かう。西へ向うこと三十分。しだいに郊外風景となる。半円形出窓の家多し。出窓はbay windowという。
大きな、低い煙突が屋根の中央に三つぐらい並んでいる。冬は寒いらしい。木骨式(チューダー様式)建物と張出し窓との組合せの家多し。陸橋を渡り、道を左にとる。オックスフォードA40号線。トラックがほとんど。四十分走ってロータリイに出る。曲り角の中央に木立。その前にパブ「ホワイト・ハウス」の看板。四角な二階建の家。
道路を左へ曲る。家少なく草地や畑がひろがる。車の往来多いオックスフォードA40号線に沿ってはいても深夜は寂しいところ。女一人の歩行は危険。ブースは公衆電話で「ヴァイキング」のバーテンに「ヒューなの?」と一語発しただけで何者かに口を塞《ふさ》がれ、車に押しこめられ、拉致《らち》されたらしい。
パブ「ホワイト・ハウス」から「ヴァイキング」の店までは約一キロ半だった。「ヴァイキング」の店に入ってみる。木造建て。荒削りの梁《はり》、柱、板壁、天井は簀《す》の子《こ》。山小屋の感じの安普請《やすぶしん》。カウンターの飲み場、床は一段と低く、テーブル席は窓際《まどぎわ》になっている。ゲーム器械を方々に置き、ロック音楽を絶えず流す。居合せた客は若者三人、カウンターに凭《よ》りかかっている。酒瓶、壁の棚に賑《にぎや》かにならび、うす暗い中にどぎつい赤、青の色つき照明が光る。サーヴィスには尻《しり》の大きい三十女。カウンターの中にバーテンの姿はなかった。グロリア・ブースの恋人はこのカウンターの中でシェーカーを振っていたのだった。
その店の道路を隔てた前がバス停。赤い二階建バスが一分間だけ停《とま》る。バス停の左側路地奥に「運動場」の青草が見える。車を路地に乗り入れる。中は広い。左の区画側には木立ならぶ。低い台地が草茫々《ぼうぼう》の「運動場」である。「運動場」の出入口と、「ヴァイキング」の出入口とは真正面に相対している。運動場の出入口はもう一つあるが、グロリア・マリアンヌ・ブースの衣類や下着は木立の下に散乱していた。(現場検証の新聞写真による)
このオックスフォードA40号線をさらに西へ進む。「空軍基地」の掲示板。生籬《いけがき》を高くして、車窓から中が見えない。
帰りにパブ「ホワイト・ハウス」に寄る。入口二つ。右はブルーカラー族(労働者むき)、左はホワイトカラー族の高級むきで、ここには絨毯《じゆうたん》を敷く。酒の値段も高い。中央が酒瓶がならぶカウンター。中年のバーテンと年増《としま》のおかみさんとがカウンターの中に居る。
客は年寄りが多い。二坪ばかりのところにテーブルを五つ六つならべてあるが、年配客はそのまわりに腰かけてグラスを手にしゃべり合っている。ホワイトカラー族でも上級者とは見えない。
リタさん曰《いわ》く、「パブはこの何もない郊外では唯一《ゆいいつ》の社交場です。『ヴァイキング』は若者むきに、『ホワイト・ハウス』は中年以上の客むきになっているようです。ここで村の衆は夜ごとに集まって酒を飲み、饒舌《おしやべり》を交すのがなによりの娯楽です」。かれらの話題は女。口論、仲直りをくりかえす。喧嘩《けんか》のもとは店の女の浮気。近くの空軍兵士が仲間といっしょにこの店で「遊ぶ権利」を傍若無人に行使する。土地の常連には不快。
パブ「ホワイト・ハウス」の従業員グロリア・マリアンヌ・ブースを殺害した犯人は、空軍基地の兵士だと住民は信じている。憲兵隊はいちおう捜査はしたが、早々と打ち切った。
同様に「兵士の殺人犯罪」の疑いがある事件は、ストラトフォード・アポン・エーボンの「婦女殺し」でも起っている。シェイクスピアの柩《ひつぎ》が安置されていることで著名な寺院の共同墓地にその若い女の殺人死体は棄《す》てられてあった。ここの近くにも陸軍兵舎がある。これも迷宮入り。この事件を報じた新聞の小見出しがしゃれている。全部シェイクスピア劇の台辞《せりふ》から抜いてあった。
帰途、ミセス・リタは自分をハロッズ近くの「スコッチ屋」の"Lomond"に案内し、明日のシェトランド島行に備えさせる。防寒用のセーター一着、カシミヤのマフラー二着、帽子一つを購《あがな》う。ダンヒル本店のような感じの老舗《しにせ》で、近ごろ日本からの観光団体客の買物客多しという。悠々《ゆうゆう》たる店員は落ちつき払い、手間どること甚《はなはだ》しい。
帰りに朝日新聞ヨーロッパ総局に寄る。和田総局長に初めて会う。「白骨《スケルトン》外交官の家」の所在地を聞いたが、分らず。次の二十五日に自分が再び寄るまでに調べておくと和田氏云《い》う。
☆「白骨外交官」事件。――東京で「アサヒ・イヴニング・ニュース」で読んだ。英国外務省を停年で退職し、ひきつづき「顧問」として勤めていたペルグライン氏は、ある日の朝、いつものように外務省に行くと家人に云って家を出たが、外務省には行かず、そのまま行方不明となった。それから八ヵ月ほど経《た》って、氏が常にひとりで読書や書きものなどして過す屋根裏部屋(atticという。英国の住宅には多い)で白骨化した氏の死体を家人が発見した。白骨はイスにかけていた。
氏がいつ外出から帰ったのか家人は知っていなかった。近所の人々も氏がわが家に戻る姿を目撃していない。自殺か他殺かわからない。スコットランドヤードは捜査に動いたが、真相は不明だった。
ペルグライン氏は外務省では中近東の情報担当官だった。中近東が英国の利害にとっていつも複雑な政情であるのは、「アラビアのロレンス」でも知られる。氏は、その方面のスパイの親玉だったようである。
元外交官の死が他殺とすれば、原因は現役時代からのスパイ合戦にあるのではないかと想像される。げんに氏は外務省顧問であった。この事件は邦字紙に一つとして報道されてなかった。
夜八時からチャーリングクロス駅近くのレストラン「シャーロック・ホームズの家」へ行く。二階のコーナーにホームズの擬書斎を作り、ホームズの蝋人形《ろうにんぎよう》を置く。
以下はノートを入れたトランクをホテルに預けたままシェトランド島へ出発したため、あり合せのメモに書き継ぐ。シェトランド島のラーウィック(Lerwick)(主島で第一の都市)のThistle Hotel123号室でこれを書く。
九月十八日(水)
午前五時から出発準備。トランクとボストンバッグとはともに機内積込み。シェトランド行の旅客機が狭いために持込みはカメラバッグのみ。六時、ミニバスで出発。
新しい同行者。
Alan Saville(グラスゴーにあるスコットランド博物館の考古学室学芸員)
Gina Lee Barnes(通訳。ケンブリッジ大学極東考古学講義補助員)
見なれぬ所を通る。丘陵《ヒ ル》地帯を走る。ガトウィック空港に着く。ヒースロウ空港よりは田舎。日本人客を一人も見かけず。エディンバラ行はほとんど満席。スチュワーデスは中年婦人一人。エディンバラ空港で機内休息四十分間。前の席に移る。乗務員、新聞紙の束を積み込んで座席にロープで縛る。乗務員の一人は黒髭《くろひげ》茫々としてカストロに酷似する。アバーディーン空港着十一時五十分。
アバーディーンの地名には想出《おもいで》がある。ここはスコットランドの東海岸、北海の漁港。バルト海、シェトランド諸島、オークニイ諸島との貿易港。人口十九万。総合大学もある。ゴルフ発祥の地セントアンドリュースの北方である。曾《か》って自分が小説「セントアンドリュース殺人事件」を書いたとき、付近の鉄道駅を取材し、アバーディーンのすぐ南ダンディーに至ったことがある。
午後零時二十分離陸。スコットランドの北端インバネス空港に臨時着陸。定期便少なく、乗客を収容するためという。すぐ海上に出て雲に入る。四十分にしてオークニイ島のカークウォル空港に着く。小さな空港。主島は上空から見ても三宅島くらい。機内待機三十分。出発二時十分。シェトランドの主島にあるサムバーグ(Sumburgh)空港には二時五十分着陸。ロンドンのガトウィックからは八時間を要した。
ミニバスでラーウィックへ向かう。革ジャンパーの運転手を青年かと思いきや若き女性であった。風景は頗《すこぶ》る佳《よ》く、たえず海岸に沿うて走る。一方は丘陵、一方は海に落下する断崖《だんがい》である。道は屈折をくりかえす。丘陵上にNATO軍無線施設のパラボラアンテナが見える。この島は海から吹きつける強風のため樹木育たず、見渡すかぎり立木が一木もない。草と灌木《かんぼく》のみ。耕地少なく、羊、牛、仔馬《こうま》の牧場を見る。自分は睡魔に勝てず美女運転手の腕に凭りかかりそうになっては同行者に肘《ひじ》をつつかれる。四十分くらいにして首邑《しゆゆう》ラーウィックのホテルに着く。外観二階建て。表看板に"THISTLE HOTEL"(「あざみ」ホテル)とある。
バスを降りたとたんに寒気が肌《はだ》を刺した。ホテルの中も冷気迫る。フロントより自分の123号室に行くまで階段を五、六回は上下する。いちいち廊下の仕切りドアを開閉し、右に行き、左に折れ、迷路さながらの通路である。継ぎ足しだらけの木造建築。継ぎ足しは年々避暑客が増えたからであろう。
わが部屋はツゥイン・ベッド。窓外は直接荒海に面す。食堂に行こうとして長廊下を歩き、仕切りのドアを開けると眼前が忽然《こつぜん》と海岸になる。方向を間違えること二度三度、迷いに迷った末、ようやくフロント前のロビーに達した。
レストランはこの首邑で一流という。オーダーを聞くボーイはスマートな姿、メイドは半袖《はんそで》シャツの薄着。スリップの白い紐《ひも》が透けて見える。こちらはロンドンのスコッチ・ハウスでリタさん見立ての防寒着をつけてもまだ凍えるように寒い。もとよりスチームなし。土地の人の気候馴《な》れはふしぎである。
九月十九日(木)
午前八時半、道川、田中君が部屋に来て、日本より持参の即席味噌汁《みそしる》、コンブの佃煮《つくだに》、米飯で朝食を受ける。自分は今朝はヤールショフJarlshofの遺跡には行くが、モウサ・ブロッホ行は疲労するので同行しないことにする。島内を一巡する予定を立てる。リタさんは自分に随行するという。
九時、昨日の運転手のミニバスにて出発。遺跡はサムバーグ空港近くの海浜にある。晴天だが寒風烈《はげ》しく海から吹く。住居趾《あと》遺跡は新石器時代。
☆ヤールショフの住居趾遺跡(新石器時代)は、シェトランド主島の最南端となっている。ヤールショフの名は、「海賊」の北方の名だとサー・ウォルター・スコットがその小説で書いているそうだが、これはあきらかに間違いで、この住居趾はすでに三千年以上も経っている。
海ぎわの岩場についた小径《こみち》を歩む。突き当りに低い鉄製の柴折戸《しおりど》のような小さな鉄柵《てつさく》の門があり、番人はいない。門はキッシング・ゲートといって、日本の回り木戸式で、一度に一人しか通れない回転式。
「青銅器時代」の集落趾がある。自然石(海浜の転石)をわずかに加工して作ったこの集落は、円形を主体にして、円の中に住居を作っている。集落はその歯車形(wheel)の連続である(別掲平面図参照)。面白いのは人間ひとりが入れる穴があって、リタさんがその中に入ってみる。穴の底は他の穴の底に通じる地下廊下になっているという。
ヤールショフは新石器時代のみならず、その後もひきつづき海を渡って人が移り住んだ。住居趾にはその時代区分がはっきりでているという。
特徴的なのは、来島したヴァイキングの築いた屏風《びようぶ》のような石の城壁である。これは旧石器時代の住居趾を守るように囲い、海にむかって高くそびえている。スコットがこの話を聞いて「海賊」の島と間違えたのかもしれない。
モウサに渡った一行の話を聞く。
☆モウサ・ブロッホ(Broch of Mousa)は空港とラーウィックのほぼ中間の東側の小さな島の岩礁《がんしよう》上に立つ。もとは陸つづきだったが、陥没して本島から離れた。
モウサにあるブロッホ(この語だけで石積みの円筒形防衛砦《とりで》を意味する)は筒形の石積み。塔は高さ十メートル余。壁の厚さ四メートルないし二メートル。壁の内部は各階にルームや階段《ステア》があり、塔の上にも出られる。建設当時は、住民がローマ人の奴隷《どれい》狩りに備えての防備で、塔上が見張り台であった。塔内の中央地面の広場は人々の集合場所とも騎馬をつないだところとも想像されている。ローマ人による奴隷狩りの時期が終っても、次の敵襲に備えた。
しかし、この塔《ブロツホ》の壁の中にだけ集落の人々が住んでいたわけではない。集落は別にあったはずだ。この石の塔はあくまでも見張り台が主体であって、壁の中に住む人々は交替で詰める監視兵であったろう。というのが自分の推測である。
付近に集落趾があるかと訊《き》けば、いまのところ無しとのこと。発見がないために住居趾がないとはいえず。住居趾は海底にあるだろうと自分がいえば、アラン・サヴィルは、あなたと同じ説を唱える考古学者がいると云う。
アランはまたモウサ・ブロッホと同じ遺構がスコットランドの各地に五百以上もあるとて、本を見てその地名を抜き自分に渡す。アランはその大多数は破壊され、未《いま》だその報告書も、写真も、実測図も見たことがないといった。
ヤールショフ遺跡についても、アランは「大陸の影響を受けつつ、土地の住民が独自に構築した」という。
ここの遺跡にある粉挽《こなひ》きの石(まるい海底石)はアイルランドのダブリンに近い山中の修道院ニューグレンジで見たのと似ていた。同修道院の石造りの高塔も見張り台である。ヨーロッパの修道院の聖塔は新教徒軍の来襲に備えての城塞《じようさい》望楼である。
島の第二の都市スカラウェイ(Scalloway)のローレンス・J・スミス店へ行き、シェトランド産羊毛の手織りのセーターを買う。いわゆる「船乗り用」という毛深い厚着用。毛は油をはじくので船員が好む。値段は高い。しかし、リタさんはロンドンの半値だと云う。
以下はエディンバラのGeorge Hotelで書き継ぐ。メモは走り書き。ロンドンより荷物が到着し、ノート再び手にしたため。
午後二時に個人タクシーの運転手来る。栗色《くりいろ》の断髪麗人。ローナ(Lorna)という。ローナ(ファースト・ネーム)名はシェトランドでは多いという。自分らをつれて観光ルートを往《い》く。空港のSumburghを北上するのがA970号線、主島の幹線道路である。ラーウィックに達し、西に折れて971号線に接す。971号線は本島の西に張り出していて、半円の形。
970号線を東へ下りる。斜面のゴロゴロ道。白壁の民家ならぶ。草ふき屋根の家一軒。中に入ると木小屋、炉ばたの家。漁業兼猟師の家。観光用。
シェトランドは入江や湾に沿って部落がある。相互の交通は船。陸地に家が少ないのはそのため。舗装道路のハイウエイが完成するまでは島内は昔ながらの悪道路であった。産業はもちろん羊の毛織物が主体。
971号線に入る。草原地帯。羊多し。丘は海にむかってゆるやかな斜面で傾斜する。家見えず。ところどころで五、六軒がかたまる部落に会う。人は出ていない。子供も出ず。
美女運転手は語る。白夜《びやくや》は、暗くなる間が午後十一時から午前一時までの二時間。あとは太陽がピンク、またはスミレ色にて空にとどまる。地上はうす明り。それが須臾《しゆゆ》にして朝の眩《まぶ》しい光となる。
冬は長し。されどメキシコ湾流のため氷点下に下ること少なく、烈風のために雪は積もらず。停電はしばしばなり。停電の夜多き年は出産率高し、と笑う。ローナ運転手は二十七歳という。自ら独身と称す。シェトランド生れ。未だ島を出たことなし。
シェトランドの青年はエディンバラやロンドンにて教育をうけ、あるいは都会で職業に就く。而して忽《たちま》ちしてシェトランドに還《かえ》る。女性もまた同じ。シェトランドには職業(とくに北海油田の開発により)があり、生活費安く、治安よし。夜間、女ひとり外出するも懸念《けねん》なし。結婚も土地者同志。
ローナは本島の東北端なるVidlinという寒村にわれらを連れ行く。丘上に淡褐色《たんかつしよく》の建物あり。中央に主館を置き、均整な両翼を持つ小建築。窓枠《まどわく》を朱色にしたのが唯一《ゆいいつ》の彩《いろど》りである。丘の頂上にあるのを見ればさながら中世の荘園主の館《やかた》のようである。ルナ・ハウス(Luna House)という。中に入り「食堂」に坐《すわ》る。テーブルは一〇ばかり、清潔である。花多く飾る。ローナ曰く、老婆《ろうば》が独りここを管理し、料理から部屋の掃除、庭園の手入れ、みな然《しか》り。
須叟にして老婆、出来たてのケーキ(三角頭のパンケーキ)を持って現わる。六十五、六歳とみる。腰曲りたるも上品な容貌《かおだち》。パンケーキはあたたかくて美味、コーヒーまた芳香高し。老婆はパンフレットを与える。
《此処《こ こ》は第二次世界大戦中、ナチ・ドイツに占領されたノルウエイ抵抗運動の司令部にして、かつ連合軍の輸送部隊たる『シェトランド・バス』の司令所なりと》
「バス」とは輸送船のこと。岬《みさき》はノルウエイと海を隔てて指呼の間にある。窓から外を眺《なが》めると、この館が海の監視所と輸送船の司令所とを兼ねていたというのにうなずく。
だが、老婆は当時のレジスタンス運動とは関係なく、ここには二十年間働く。その履歴は詳《つまび》らかでない。ローナは老婆とともに二階にわれらを案内す。「グリーンの間」。緑色で統一したサロンである。上は格天井《ごうてんじよう》風で優雅。
これは中二階である。上の階段途中にまた小花壇がある。ゼラニウムの花。イギリスには多い花だが、荒涼としたシェトランド島では貴重な潤《うるお》いである。寝室は普通のツゥイン・ベッド。窓から東側の入江を俯瞰《ふかん》する。海上は遥《はる》かにノルウエイと対するが、彼《か》の地の山影は見えない。この部屋は曾ってのノルウエイ・ナチ・レジスタンス援助部隊の「司令室」という。
帰りに館内で白い上着をきた中年の男に遇《あ》う。チップ受取らず。パン焼きの職人らしい。老婆ふたたび現わる。「心付け」を渡せば素直に受けとり、厚く礼を述ぶ。帰途、車中よりふり返れば、階下のカーテンを細めに開け、老婆いつまでも手を振る。
六時半に「あざみ」ホテルに帰る。港を見に行く。埠頭《ふとう》に貨物船密集。ほとんどがアバーディーン間の往復である。七時に近くの町の中華料理店へ行く。やきそばを食べる。出るとき防寒帽を忘れる。ロンドンのスコッチ・ハウスで買ったもの。
九月二十日(金)
午前二時に起きてメモをつける。五時半に出発準備。六時、ホテル前からバスに乗る。まだ夜である。サムバーグ空港着七時前。八時出発。オークニイ島に向かう。
オークニイ(Orkney)のカークウォル(Kirkwall)空港着九時前。カークウォルは、見るからにイギリス的な街。樹木多く、緑色繁茂し、緑野ひろがる。シェトランド島とは別世界である。すでにスコットランド本土といってもよし。
運転手(シェトランドとは違って、こちらはむくつけき中年男)に云《い》わせると、オークニイの島民は民族意識が旺盛《おうせい》で、独立精神に富む。ノルウエイ、デンマークと交易して、スコットランド政府にも英国《イングランド》政府にも依存せず。シェトランド島民とは昔から相容《い》れず。シェトランド人は利己主義者にして、我欲《がよく》すこぶる強しと。「隣人不和」の極と見ゆ。
強風吹きすさび、寒し。
イギリス紀行――スティンネス巨石群。城壁遺跡。
九月二十日(金)――承前
オークニイ主島は、地図で見ると烏賊《い か》が斜めに泳ぐ形をしている。その頭の下と脚の付け根に当るところが主邑《しゆゆう》のカークウォルである。空港もここにある。この町には古い寺院《カテドラル》があって観光名所になっているようだ。
烏賊の頭は北方で西へ折れ曲り南に垂れ下がって、ハーレイ入江をつくっている。入江の南周辺にはスティンネスの巨石群ブロッドガー・ヘンジの環状列石と、少しはなれてメーズ・ホウの横穴式石室円墳がある。そうして海岸にはガーネス・ブロッホの新石器時代(青銅器時代)の石造り住居趾《あと》がある。
われわれはアラン・サヴィル(グラスゴーのスコットランド博物館考古学室学芸員)の案内に従い、タクシーに分乗してスティンネスに向かった。カークウォルから西へ走ること三十分ばかり、右手に巨大な白っぽい立石《たていし》が四個ならぶのを見た。すばらしく高く、約六メートルはある。
石の前で車を徐行させる。
持参のBlue Guide, "Scotland Benn"には「見張り石《ウオツチ・ストーン》」とある。この先に環状列石があるので、そこへ行く人を見張って立っているかのようである。石灰岩が風化して黝《くろず》み、表面がぼろぼろになっているように見える。上部は不揃《ふぞろ》いで斜めになっている。
この立石を独立したメンヒルかと思えばそうではない。メンヒルなら四個が隊列のようにならぶことはない(フランスのカルナックの例)。はたせるかなガイドブックは云《い》う。
《カーボン測定ではBC二三〇〇年である。現在立っている四個の石はあきらかに他の環状列石の残りである。サークルの直径は約三十メートルであった。まわりの溝《デイツチ》は潰《つぶ》されているが、その切り口で構造が判明している。石は平面で板状である。列石の中のもっともらしく磨滅《まめつ》して見えるドルメンふうな建造物は、一九〇六年に期待せずして『復活』(Restoration)したものである。》
自分はあわてて四個の立石の間をのぞいたが、その奥にはドルメンらしいものは眼《め》に映らなかった。車が先を急いでいるため見のがしたのかもしれない。
あとで「Shetland and Orkney in Archeological Journey」を見ると、それにはテーブル形のドルメンがスケッチふうに挿入《そうにゆう》されてあった。説明にいう。
《スティンネス・サークルの溝《デイツチ》は今もあきらかに眼にすることができるが、立石はわずか四つである。その四つの石は直径約百フィートの円周の上に不規則な間隔で直立し、それぞれ十七フィート、十五・五フィート、六フィートの高さがある。それと、若干のヤードを隔てた場所に孤立した印象的な一個の巨石があることをつけ加えておく必要がある。それは十八・五フィートの高さもあり、一般に見張り石《ウオツチ・ストーン》として知られている。
一九〇六年に、「奇瑞《きずい》」が、このスティンネスの列石の中に落ちた。》
これはテーブル形のドルメンが「復活」されたことを皮肉って云っているのだ。事実は当時の建設省の役人が考古学者の誤った指導のもとにそのドルメンを復原したということだった。
しかし、この本の記述もおかしなところがある。もしそのドルメンがまったくの架空物だったら、スコットランド当局なりオークニイ当局は一九〇六年以来八十数年間も恥さらしをつづけたことになる。また、これからも撤去の様子はないようだったら、未来永劫《えいごう》に当局は内外の知識人の嘲笑《ちようしよう》を受け、屈辱に耐えなければならないことになる。かといって、ドルメンが観光客の魅力になっているわけでもないのだ。
ディッチの跡ははっきりと見られるという。円周の直径は百フィートと測られている。現在、不規則な間隔で立っている四本の巨石の高さは、イングランド南部のエイバリーやストーンヘンジの砂岩でできた列石のそれを凌《しの》いでいる。
・ウォッチ・ストーンの高さ。約六メートル。
・エイバリー列石の高さ。二メートル。
・ストーンヘンジの列石の高さ(〓石《まぐさいし》を除く)。約五・五メートル。
その直径百フィートの円周の上の一部にならんだ四つの石は、以前にあった環状列石の残りと思われるが、その周濠《しゆうごう》跡も認められている。
してみればはるか以前に列石の中央にドルメンの残骸《ざんがい》があったことがあり、その記憶が一九〇六年にはまだ人々には尾を曳《ひ》いて残っていたのではないだろうか。
エイバリーには二つの環状列石の中央にそれぞれ「神殿《ミラクル》」と呼ばれる墓がある。
この本にもオークニイには、イングランド中南部のウェセックス文化の影響が入っているのが見られるとしている。
カスピ海沿いのイラン西北部からカフカズの東南部にわたるタリシュ地方に、大きな塊石でつくられ、上に大きな平石を天井板としてのせたドルメン形式の墳墓が群在し、それらにはしばしばストーンサークルをともなう。前二〇〇〇年紀後半と推定されるドルメン文化のにない手が、前一〇〇〇年ごろイラン北部に進出してきたことを示唆《しさ》するものであろうといわれている。(平凡社版「世界考古学大系」第十一巻「タリシュのドルメン文化」)
同書に掲載された図版を見ると、スティンネスの「見張り石」すなわち失われたテーブル形ドルメンとそれを囲むストーンサークルに似ている。
「ドルメン文化のにない手」がどのような民族かは、これでははっきりしないが、イランの環状列石をもつドルメンから出土するのは青銅器や鉄の利器類、金、銀、青銅などの装身具類、青銅、黒石などの動物形品、ガラス、ファイアンス、メノウなどの玉類などでルリスターンのそれに一致している。しかし、それらの文物がアケメネス・ペルシアの地方色は受けていても、環状列石をともなうドルメンという墓制はもっと西のほうから来ている。
☆「同大系」の各巻によると、原始巨石墓群の分布は、スウェーデン南端からデンマーク・西ドイツ北部・オランダ・フランスのブルターニュとノルマンディー・イギリス本島南部およびウェールズ・スコットランド・ポルトガルに集中する。分布の拡《ひろ》がりはさらに、フランス・スペイン海岸部・イタリア半島部・モロッコ・チュニジア・アルジェリアから地中海沿岸部に及んでいるが、とくにフランスでは全土を蔽《おお》っている。
世界のドルメンは、オークニイ、ソールズベリを含めたヨーロッパ圏がBC三〇世紀―同二〇世紀であり、インドのマイソール州ブラフマギリの巨石文化は、BC三世紀であり、朝鮮はAD二世紀とされている。
これはドルメン文化がスコットランド・イングランド南部・フランスから地中海沿岸のミケナイを通り、インドより東アジアへと時計の針とは逆回りしていることを示している。
北朝鮮のテーブル形ドルメンに対し、南朝鮮のドルメンは一個の大きな石塊を地上に置いて数個の石で支える碁盤形の支石墓である。穴の中には箱式棺や竪穴《たてあな》式石室をつくり、また甕棺《かめかん》を土に埋めたりしている。支石墓は福岡県の糸島半島(魏志倭人伝《ぎしわじんでん》の伊都《いと》国に比定されている前原町の北)に集中しているが、長崎県にもひろがっている。稀《まれ》には北九州にもある。
四十年ぐらい前に八幡《やはた》市(現在北九州市)高槻《たかつき》の民家の庭に大きな支石墓があって、支石墓というのをはじめて見たことがある。
それを見に行く手引きとなったのは昭和十三、四年ごろ三笠《みかさ》書房から出た、いまでいうポケット判型で、紺色布装幀《そうてい》の、しゃれた本だった。樋口清之《ひぐちきよゆき》氏の考古学の入門書だった。たしか川崎庸之《かわさきつねゆき》氏もそのシリーズの中に入っていたと思う。戦争に突入する前だったと思う。
もう一つその高槻へ行ったのは、小学校同級生に高尾一というのが住んでいたからで、高槻から丈の高い高尾がくるとひやかしたものだ。高槻は出土品の高坏《たかつき》からきているのかもしれない。年をとると子供のころが想《おも》い出されてならない。
――さて、ハーレイ入江《いりえ》(Loch of Harray)が切れた部分は道路でつながっている。そこをあっというまに通りすぎると、すぐにブロッドガーの環状列石(Ring of Brodgar Henge)に到達する。いうところのストーンサークルである。
北海道の小樽《おたる》の西北海岸や音江、秋田県の大湯のものしか見たことがない自分はこれに圧倒された。域内の広さは二・五エーカー、立石は平均四メートルとそれほど高くない。
現在残っているのは二十七個だが、そのうち十六個は確実にオリジナルとみられている。湮滅《いんめつ》したスティンネスの環状列石とともに一対《いつつい》をなしたと思われる。
台地は土盛りがなされ、周囲にディッチがあり、その幅十メートル、深さ一メートル、入口が二つある。列石に近づくと、その色は白く、厚い板のように扁平《へんぺい》である。風化が激しい。
考古学案内書には材質のことがまったく出ていない。帰国後に地質学者に写真を見せると、たぶん石灰岩の節理ではないだろうかとのことだった。海底の石灰岩が地上に出て、氷河の圧力をうけて削られ、節理を生じる。そういえばシェトランドには氷河でできた山湖が多かった。
列石は風化と石の薄さで剥離《はくり》がすすみ、割れ目が生じていた。割れ目にはコンクリートを詰めこんで裂けるのを防いでいる。
スコットランド北端の離島オークニイも厚い氷河の下に長い間あったのだろう。
大分県宇佐郡安心院《あ じ む》町では、国道沿いに玄武岩の節理を利用して観光用に「ストーンサークル」を作っていた。すぐ近くの山の断崖《だんがい》に玄武岩の節理が露出しているのだ。オークニイ島の環状列石に立って、はるかに豊後安心院に思いをはせた。
ブッカン環状列石(Ring of Bookan)は入江を抱きこむ岬《みさき》の西にある。しかし時間がないのと、湾から吹きつける寒風に辛抱ができず、メーズ・ホウへ車をまわした。
遠望すると可愛《かわい》らしい円墳に見えるメーズ・ホウ(Maes Howe)の円形石塚《いしづか》は曠野《こうや》のまっただなかにぽつんとある。車を降りた地点からはまったく遠い。途中遮《さえぎ》るものとては何もない。運転手の助言で、一同はそこにある原始的な共同トイレに駈《か》けこんだ。
周濠のふちに達するには、感じとしておよそ七百メートルも牧草地の中を歩かなければならない。濠から石塚の入口にはさらに感覚的に二百メートルの歩行である。じっさいはそれほどの距離ではないが、一筋の小径《こみち》があたかも廃祠《はいし》の参道のように従《つ》いたのを辿《たど》りつつ曠野の烈《はげ》しい冷風に身体《からだ》を曲げていると足が萎《な》えた。
ようやくのことに墓道の入口に達した。見上げると小さかった丘は意外に高い。ここでまず測量計数をさきに出すと、石塚の直径は約四十メートル、高さ約八メートル、周濠の直径は百メートルを超し、幅十五メートルである。墓道(日本でいう羨道《せんどう》)の長さは十二メートルであるが、ぜんぶが一個の巨大な石(石灰岩)を積んで構築されている。
突き当りの主室(日本でいう玄室)は四方に突出した方形で、この主室から三つの小側室が鍵《かぎ》の手に派生している。「特殊構造」といわれているらしい。東地中海沿岸、スペインの諸島に見られるという。
主室の壁は細長い煉瓦状《れんがじよう》の割石を積み上げたもので、じつに整然としている。正面の下方近くに五十センチ四方の空間があけてあり、「壁龕《へきがん》」と名づけられている。
天井は上が持送り式に細まっているが、天井石は失われている。ヴァイキングによって副葬品の財宝がことごとく盗掘され、天井石も破壊されたと番人は云った。悪事はなんでもヴァイキングのせいにされているらしい。
アラン・サヴィルは、アイルランドのニューグレンジの石室墓を見たかと自分に聞いた。ニューグレンジでは石造りの修道院や円形十字架のアイルランド式墓標の共同墓地には行ったことがあるが、そこの石室墓は知らないと答えると、ニューグレンジとこのメーズ・ホウの石室墓は共通性があるとレクチュアをはじめた。ニューグレンジの王墓には持送りに井桁《いげた》に積み上げた天井が遺《のこ》っていると云う。ここももとはそうであったという。
シェトランドのサムバーグを出た旅客機がカークウォル空港に着いたのは午後二時半、スコットランド東海岸のアバーディーンには三時十分に着陸した。往路と同じく機内で休憩。
しかし、往路との違いは、このアバーディーンからの貨物船、漁船がシェトランドのラーウィック港の埠頭《ふとう》に横づけされた光景や、美女のタクシー運転手、ルナ・ハウスの老婦人などの残影である。再びあの北海の離れ島を訪《おとな》うことはない。
アバーディーンでは一時間半もトランジットで待たされ、エディンバラ空港着は六時五十分となる。ジョージ・ホテルに入る。伝統的とあったが、古風で佳。
もっともシェトランド島主邑の「あざみ」ホテルにくらべると、どこへ行ってもホテルらしく感じる。しかし、あの迷路の廊下をもつ木造宿屋はこれからしだいになつかしくなるだろう。
エディンバラ城の前は銀座通りで、ショッピングセンター。老舗《しにせ》ばかりの堂々たる店舗がならび、ブティックは一軒もなし。
「スコッチ・ローモンド」の店で僅《わず》かな買い物をして隣のコーヒー店でやすみ、「銀座通り」をぶらつく。古城側は公園。森林、道の並木ともに落葉を見る。
公園側の道路ばたにサー・ウォルター・スコットの銅像あり。卿《きよう》は小亭風の中の古典的な肘《ひじ》かけ椅子《いす》に悠然《ゆうぜん》と坐《ざ》す。
ウォルター・スコットというても、若い日本人の観光客でその名を知る者は少なかろう。まして明治時代から翻訳が出て有名になったその作「湖上の美人」や、ロビンフッドが活躍する「アイヴァンホー」の名を知る者はさらに少なかろう。
大正のころ、ロンドンに留学した若き日の文芸評論家木村毅《きむらき》は、その旺盛《おうせい》な探究心から「湖上の美人」の舞台なるスコットランドはカトリン湖までわざわざ出かけて行った。いまの人はカトリン湖には行かないで、怪獣が出没するネス湖へキャンプに出かける。
九月二十一日(土)
エディンバラ市内をマイクロバスで離れたのが午後三時。かく遅くなったのは、一九六八年に「週刊朝日」編集部の森本哲郎・船山克(カメラマン)両氏とセントアンドリュースの帰り、ここに寄り、丘上に立ち、エディンバラ城を指呼の間に眺望《ちようぼう》した景が忘れられず、その場所を再び求めて徘徊《はいかい》するのに時間をとった。傭《やと》ったバスの運転手はロンドンからで、エディンバラ市内は不案内の様子。四十すぎだが、苦味走った顔をして、肩幅広く、濁《だ》み声《ごえ》である。
一丘に上ればエディンバラ城は遥《はる》かな遠望である。別の丘陵に登ればさらに遠く、しかも側面である。通行人に問うても教えることはまちまちである。東京の人情と変りない。エディンバラは坂道の多い街。丘の下通りを何度も往復してその閑静な雰囲気《ふんいき》だけは味わった。
旧《ふる》そうな寺院に寄ったり、昼食をとったりして時間を食った。
東海岸沿いのA1号線をニューカッスルへ向う。天候悪く、黒雲垂れて、沖はかすんでいる。海が見えたり見えなかったりする風景は山陰の海岸に似ている。
とうとう山の中に入った。登り坂がつづく。村落は少い。白い変電所が目立つ。深山の如《ごと》き感じ。これでもA1号線か。
日本にも国道にして杣道《そまみち》の如きものがある。信州伊那《いな》は高遠《たかとお》から南に至る国道256号線がそれである。この国道は笹藪《ささやぶ》が道に伸び、懸崖に沿っている。いまにも絶えなんとして続く。
ようやく峠に達した。軽レストランがある。団体用の大型バスが駐車していた。われわれも小型バスを降りた。あたりには家がなかった。そこが一軒だけであった。「峠の茶屋」である。
アメリカ人の先客がテーブルやカウンターの前に夫婦で二十組ばかり。別室のテーブルに初老の日本人夫婦が椅子にかけて黙って紅茶を飲んでいた。われわれはその日本人夫婦ともアメリカ人グループとも離れた場所でコーヒーを飲みケーキをとったあと、峠の茶屋を先に出た。
「あの日本人のご夫婦は日系アメリカ人ではありません。また、あの団体のメンバーでもありません」
ジン・リー・バーンズさんは達者な日本語で自分に云《い》った。
「アメリカの某大学の教授です。わたしはどこかでお見かけしたような気がします」
ドクター・バーンズはアメリカの或《あ》る大学で東洋考古学の博士号を獲得している。しかし、自分は正直なところ、彼女の考古学についてはその片言隻句《せつく》から推して、満腔《まんこう》の敬意を留保するものである。
それはともかく、アメリカ人観光団バスはロンドンより北上し、泊りを重ね、昨夜はニューカッスルに泊し、これよりエディンバラへ向うらしかった。
ニューカッスル着六時半。ゴスフォース・パーク・ホテル。
ホテルはかなり優雅。夕食はヴァイキング料理。
佐原真氏、明日のリーズ行について考古学上の予備知識を自分に与えて云う。すなわち付近の小村にローマ時代の防砦《ぼうさい》の遺跡がある。漢の万里の長城には及ぶべくもないが、せっかくリーズを通りがかったことゆえ、このまま見のがすには惜しいと。自分は答える。佐原先生の指示ならば。
九月二十二日(日)
午前十時、ホテルを出発。
雨、熄《や》まず。昨日より激し。
A1号線は森林へ。
運転手のドナルドは、しばしばバスを停《と》め道路地図を拡《ひろ》げて見入る。ロンドン市内は掌中の如くだが、南スコットランドやイングランド北部にはいささか手を焼き居《お》れり。そのときグラスゴーの考古学者サヴィルが手助けにもと座席からドナルドの横に進み、地図の方に跼《かが》んだ際、運転手がたくし上げたシャツの腕の端から何やらしれぬ渦巻《うずま》き模様の刺青《いれずみ》が露《あらわ》れた。ドライヴァはあわててそれを隠そうともせぬ。
考古学者ばかりか一同の顔色が颯《さつ》と変った。
そういえば、この運転手、容貌《ようぼう》はヤクザがかっていて、どこか中年期のジャン・ギャバンに似ている。このドナルドも四十ぐらいとは思ったが、ロード・マップを見るときの眼《め》を遠見にしている格好は、どうやら老眼が出ているようで、六十を出ているのかもしれぬ。六十なら若く見えるが。戯《たわむ》れに書く。
(彼は第二次大戦の勇士なりしや、それとも龍動《ろんどん》は名にし負う東端街《イースト・エンド》の破落戸《ごろつき》なりや、そは麺麭屋街《ベーカー・ストリート》に住む探偵《たんてい》の名判断を依頼すべし。)
道川氏、自分の席に来て云う。
ロンドンの某航空会社支店からエディンバラのジョージ・ホテルに電話が入り、ロンドンとソールズベリ間の航空便を扱っていた代理店が倒産したため、某航空会社はその責任を認め、ロンドン=ソールズベリの往復マイクロバスの運賃を負担する。なお、ロンドンを離れる最後の二十七日は航空会社のT支店長が自分と昼食を共にしたいと希望されている由《よし》。いろんなことがあるものなり。その日は先約があるので、ご好意だけを感謝する旨《むね》を伝えるように道川氏に云う。
雨降る中をローマ時代の城壁遺跡へ向かう。A69号線。遺跡は、地図にはニューカッスルの西より万里の長城の如く延びて「Hadrian's wall」(ハドリアヌスの城壁)として出ず。いわゆるHill地帯を往く。マイクロバスの高低の一本道を走るや波切りの如し。
佐原氏、突然、声を発し原語で歌う。バスの動揺、自然とリズムになりて絶妙。そのテノールに一同拍手。終って聞くにドイツ民謡とか。氏のドイツ語は本場仕込み。その歌唱力を絶讃《ぜつさん》のあまり、思わず道を間違えたりと自分は言う。雨強く降り、四辺模糊《もこ》として森林のみ影濃し。ターナーの水彩画といわんよりは水墨画なり。道に水溢《あふ》れて車輪は飛沫《しぶき》を噴き上げ、川はことごとく増水す。昏《くら》きこと夕刻と変わらず。小村ありて町なし。人見えず。ようやくにして小公園らしきところに着く。ここより城壁跡ある丘陵までは遠く、徒歩以外になし。強雨に車から一歩も出られず。雨やどりと冷雨に耐えられずしてコーヒーショップを探して回る。農家のみにて茶亭発見できず。
遂《つい》に丘陵の反対側に出る。案内所の小屋あり。パンフレット、絵葉書、スライドなどを売る。飲みものはなし。老番人がひとり居る。雨脚衰えず。屋内に入れぬため寒冷いわんかたなし。防塁の丘上への登攀《とうはん》を諦《あきら》めてリタさんと共にバスの中に引返す。バス内は煖《あたたか》し。人心地つく。ドナルドは塩辛声《しおからごえ》を出して笑う。もとの場所に戻ったとき、残塁の一部を土堤に見る。あたかも福岡県大野城跡の石塁の如し。英蘭土のハドリアンズ・ウォルの石垣《いしがき》は朝鮮式山城のそれに似るか。
佐原、アラン・サヴィル、ジン・バーンズ、道川、田中諸氏、強風雨の中をズブ濡《ぬ》れで丘上を降りてくる。
☆ハドリアンズ・ウォル(ハドリアヌスの城壁)
ローマ皇帝ハドリアヌス(在位一一七―三八)はトラヤヌス皇帝の死後、軍隊の支持を受けて即位した。彼は帝国内を巡遊して実情を把握《はあく》し、治安の確保に努め、対外的には防禦《ぼうぎよ》政策をとり、東はユーフラテス川を境としてパルティアと和し、西は占領地のブリタニア(イングランド)の北部、スコットランドとの境に東西一一〇キロにわたる石の要塞《ようさい》長城を築いた。
要塞は岸から岸へと、ウォールスエンドからタイン川線上のニューカッスルをとおりボウンズ・オン・ソルウエイと延び、ローマ時代のブリテンの不朽なる遺跡といわれる。紀元一二二年にブリテンを訪れたハドリアヌスはトラヤヌス皇帝(在位九八―一一七)の時代に築かれ、現在ではストーンゲートとして知られている、カーライルからニューボローの沿道の北の境界線(当時は石で囲まれていた)をさらに強化することを決めた。ストーンゲートの北方数キロにわたるハドリアヌスの拡張された新しい要塞は六つの主要箇所からなる。北方に延びた巨大な溝《みぞ》と石の壁が一番の主要部を成し、要塞、長城、長城守備隊のためにもうけられた頑強《がんきよう》な小塔、および、現在ヴァルムと呼ばれている、軍城を示すような土塁が壁の南側に沿って構築されている。道は壁のどちら側かに位置し、要塞と長城はカンブリア沿岸まで達し、より守備範囲を広げるために境界外にも(例えば、ビューカッスル)要塞が設けられていた。一連の壁が主に攻撃のためであったか、あるいは、防禦のためであったかは資料が少ないため明らかではない。
最も有名な要塞はハウスステッズであり、ローマ時代はヴェルコヴィシウム(丘陵地)で知られ、軍司令部、司令官宅、穀倉群、兵舎群、病院、そしてローマ時代の車の跡が見られる出入り口がいまだに残されている。ハウスステッズの外側には巨大なヴィクス、市民の集落跡とおもわれるものが残されている。最近、サウスシールズで、おそらくある連隊の司令官のものであった贅沢《ぜいたく》な住居跡が発見された。カーライルでは針と共に木製の裁縫道具もみつかっている。
その重要なハウスステッズにわれわれは寄ったのだが、前記のように佐原、アラン、ジーナ(ジン・バーンズをちぢめての名)、道川、田中の諸氏だけ嵐《あらし》を衝《つ》いて城塞に登った。
リーズ駅前にてリタさんはバスから降りる。電車でロンドンに帰るには二時間くらいの由。Trusehouse Forte Houseに入る。一級ホテル。通された部屋はツゥインでも、バス、トイレ無し。道川氏、フロントに抗議するも美女の受付係は旅行社の申込みに従っているの一点張りにて部屋替えに応ぜず。マネージャーが出ても、他の部屋は満室とて応ぜず。結局シングルにて今夜は過ごすことにす。
六時半、光文社の佐藤、足立両君が訪ね来る。ヨークシャー・クリッバー事件の取材の話を大体聞く。通訳はロンドン在住の日本婦人の由。
☆ヨークシャー・クリッバー事件
一九八〇年にヨークシャーを中心にランカスター州にかけて起きた売春婦を含めた婦女暴行殺害事件。犯人は不明だった。その手口が一八八八年にロンドンのイースト・エンドで起きた「ジャック・ザ・リッパー」事件に似ているので「ヨークシャー・リッパー」事件とも呼ばれた。自分が最初に耳にしたのは拙宅にときどきくるバーミンガム生れのピーター・ブリンガム君からだった。事件当時は日本の新聞にはあまり出ていなかった。
八時から土地の中華料理店「東方酒楼」へ行く。総勢八名。料理は殊《こと》のほかうまし。赤坂あたりに店を出しても一流店として繁盛すべし。主人は半ば禿頭《とくとう》の丸顔、小肥《こぶと》り。この夜も英国人男女で満員。日本人の中年客が近づき刺を通ず。リーズ市にて日本活字の印刷所を経営し、二十年間になるという。家族同伴。再度当市に来られたしと自分にすすめる。
リーズLeeds
ヨークシャーのほぼ中央。ウエストイングランドの中心都市。人口七十・五万。ウーステッド生産の九〇パーセントを占める。高級品の多いブラッドフォードとは相対的に一般大衆向きの毛織物が多い。ほかに機械、航空機部品、皮革製品、陶器、印刷などの工業も発達している。
ガイドブックには右のように書いてあるが、街の中心通りにならぶ店舗はなんとなく田舎くさく、垢《あか》ぬけがしていない。しかし、車で五分も街の外に出ると、丘の上といい、斜面といい、谷底のような線路ぎわといい工場が密集している。
リーズを小さな町だと思い、日本字の印刷所で経営が成り立つのだろうかと心配していた自分は、この工場街を眺《なが》め、ガイドブックに「印刷」が産業の一つになっているのを見て安心した。字母はどうするのですかときいたら、東京から航空便で頻繁《ひんぱん》にとり寄せますと云っていた。
九月二十三日(月)
朝八時、部屋に佐原氏来る。シェトランドの筒形状遺構(ブロッホ)について、スコットランドに同類が多数あるをアランが云った点を自分は聞く。佐原氏は、それはスコットランドのみならずオークニイ島にも五十を数え、スコットランドには百を数えるという。ただし、それらは基底部のみを遺《のこ》し、しかも周辺に後代の住居が建つ。シェトランド島のはひとり原初の形が遺れるために貴重という。基底部のみにてシェトランド島と同じきものと推定し得るならば、もう少し有名ならざるべからず。しかるに日本の考古学者の多くがこれをよく知らざる理由如何《いかん》と問う。
イギリス紀行――スコットランドの石塔。ヨークシャー婦女連続殺害事件。
九月二十三日(月)――承前
☆シェトランド島やオークニイ主島あるいはスコットランドの沿海部に多いブロッホ(Broch)のことでは、例のスコットランド考古学案内に一応こう出ている。
石造防塁建築の発展は、南イングランドの移住者が到着した紀元前一世紀初頭のヘブリディーズの時代にみられる。これらの建築はそれまでにみられたものよりかなり高い空洞《くうどう》の防壁を含み、それらは塔をおりなすまでになった。この種の砦《とりで》は考古学者たちの間では「ブロッホ」(上代北欧人の言語で「砦に囲まれたところ」を意味する)として知られている。おそらくスカイ島からヘブリディーズへと派生し、オークニイ島に広がるまでには壁は既に高い強固なものになっていた。その普及は必ずしも人のひろがり方と一致しない。というのもブロッホの住民の物質文化は、発掘された地域ごとに異質なものだからである。それらはもともと、来ては去っていった「開拓者」の影響のもとに、鉄器時代の原住民がつくりあげていったものであろう。
ヘブリディーズとはスコットランド西部の諸島の総称で、大小の島の数は約五〇〇といわれている。紀元前一世紀のころ、南イングランドの移住者がここに来たころは、石造防塁建築が発達していたヘブリディーズ文化なるものが存在していたという。
だが、青銅器時代から何の目的でスコットランド、シェトランド、オークニイにブロッホがかくも多く建設されたかは説明されていない。
既出のローマ人の奴隷《どれい》狩りを防ぐための砦だとすれば、五〇〇基以上という数はあまりにも多すぎるし、密集しすぎている。ローマ人の奴隷狩り程度なら、ローマ兵も大軍隊で来襲したのではなかろうし、たとえそれに近いとしても、石造防塁はもっと作戦上組織的に配置されていなければならない。その遺跡分布を見ると集落本位となっている。だから隣近所がみな防塁をもって集まっている。外敵に備えるよりも、内敵に備えている。部族共同的な大ブロッホではないのである。つまりムラ単位の防塁である。「国々に男王有りて相攻伐す」という「魏志倭人伝《ぎしわじんでん》」の文句さえ浮んでくる。青銅器時代のスコットランドは「蘇国大いに乱れ」ていたのかもしれない。「ブロッホ住民の物質文化は、発掘された地域ごとに異質なもの」というのも、そのことを傍証していると思う。
青銅器時代から鉄器時代にかけてスコットランドとの共通性がよく云《い》われるアイルランドにブロッホの遺跡はまったくない。今年(一九八九年)六月に、自分はダブリンのトリニティ・カレッジ(ダブリンの東大といわれている)のテリー・ハリイ教授(歴史学)に会ったが、教授は、スコットランドのブロッホのことは聞いているが、アイルランドには皆無であると云っていた。ブロッホの地域性をますます感じさせる。
午前十時よりホテルを出て、光文社の佐藤・足立両氏と一緒になる。リッパー事件の現場回りをする。通訳の山崎順子さん(ロンドンの旅行社)同行。先着の両君の取材に不充分の憾がある。
☆ヨークシャー・リッパー事件。
ケイリー町の被害者は普通の主婦で、三十四歳の離婚者、殺害方法は残忍であった。この町はリーズ市の西北約五〇キロ、北ヨークシャー州境に近い。
第二次の発生は翌八月の十五日、場所はリーズ市の西約四〇キロのハリファックス市。被害者は四十六歳の清掃婦だった。三児の母。
第三次はリーズ市内で、十月三十日に発生した。被害者は二十八歳の売春婦。夫があった。四児を持つ母でもある。殺害の手口は同じ。
全事件を通じて、死体は畑か空地または森林の中に遺棄してあった。
第四次は十一月二十日、州を西へ越えたランカシャー州のプレストン市に起きる。犠牲者は二十六歳の売春婦。夫あり。三児の母。
犯人挙らず、年を越えて、七六年となる。
第五次は一月二十一日、リーズ市で起る。四十二歳の主婦が殺害さる。三児の母。
第六次。ふたたびリーズ市内。五月九日のこと。襲われたのは二十歳の若い主婦。一児の母。が、これはさいわいに難を脱《のが》れた。
七六年はこの二件で終り、七七年に入る。
第七次。二月七日、リーズ市。犠牲者は二十八歳の主婦。二児の母。
第八次。四月二十三日、リーズ市。被害者は三十三歳の売春婦。亭主持ち。三児の母。
第九次。またもやリーズ市。可哀想《かわいそう》な犠牲者は十五歳の少女。
第十次。こんどはブラッドフォード市。四十二歳の主婦。危ないところで難を脱る。
第十一次。十月一日、被害者は二十歳の主婦。二児の母。――場所は英国切っての工業・商業都市マンチェスター市。
第十二次。十二月十四日、あと十日でクリスマス・イヴというとき、ふたたびリーズ市で発生した。二十五歳の主婦。二児の母。降誕祭が近づいているせいか、神の御恵みにより難を脱れる。
この年、犯人は前年の僅《わず》か二件という「不振」を挽回《ばんかい》するかのように、あるいは西ヨークシャー、ランカシャー両州警察をあざ笑うかのように、未遂を含めて六件も襲撃している。
七八年に入った。「警察の威信にかけても」と捜査当局は新年に当って解決を声明したが、そのかいはなかった。
第十三次。一月二十一日、ブラッドフォード市に起る。犠牲者は二十二歳の主婦。二児の母。
第十四次。一月三十一日、ハダースフィールド市に発生。犠牲者は十八歳の未婚女性。ハダースフィールドはリーズ市の西南約五〇キロ。
第十五次。五月十六日、またもやマンチェスター市に発生。被害者は四十一歳の主婦。二児の母。
その年はこの三件。七九年に入る。
第十六次。四月五日、ハリファックス市に発生。犠牲者は十九歳の未婚女性。
第十七次。九月二日、またしてもブラッドフォード市に起る。犠牲者は二十歳の未婚女性。
この年は二件で昏《く》れる。八〇年に入る。
第十八次。八月十八日、リーズ市の南ドーズブリー町にて発生。被害者は四十七歳の主婦。
第十九次。リーズ市で。九月。襲われたのは三十四歳の主婦。難を脱る。
第二十次。十一月五日、またもハダースフィールド市。十六歳の若い主婦。一児の母。難を脱る。
第二十一次。十一月十七日、リーズ市。被害者は二十歳の女性。殺害手口はこれまでと同じだった。
――以上が八一年一月現在の西ヨークシャー州警察当局の発表で、その時点で犯人は逮捕にいたっていない。
一八八八年の夏に起きたロンドンの「ジャック・ザ・リッパー」事件を〓とし、「ヨークシャー・リッパー」事件を〓とし、その比較。――
〓の犯人はイースト・エンド地区だけに限定し、その街頭に立つ売春婦のみを襲撃して、普通の婦人には手出ししなかった。性行為はせず、被害者の咽喉《の ど》を刺し、その鋭利な刃もので性器を「美事に」切り裂いて子宮などの臓器を抉《えぐ》り出して持ち去った。犯人はメスを使うことに熟練した外科医か、軍医ではないかと噂《うわさ》された。連続犯行は短期間に終った。しかし、その間、真犯人からと思われる赤字による犯行の予告が通信社に手紙(一説にハガキ)で送りつけられ、事実その挑戦状《ちようせんじよう》的な予告どおりに犯行が発生した。ぜんぶで八件ともいい四件ともいい、はっきりしていない。
〓の犯人は西ヨークシャー州を主舞台として行動範囲が広汎《こうはん》で、襲撃対象も種々であり、件数も二十一件の多きに上る。リーズ市を中心にしているので、犯人はリーズ市付近に住む人間ではないかとも推定されたが、不明。前半期間は売春婦三人が含まれているのでロンドンのジャック・ザ・リッパーの模倣かと思われた。しかし、あとになるほど対象が一般の主婦に向けられ、年齢も若くなり、十代の未婚女性が犠牲になっている。手口は淫虐《いんぎやく》だが、〓の犯人に比して程度が下劣で「知性」が見られない。〓の犯人がインテリ階級と思われたのに対し、〓のそれは下層階級に属していることを推測させた。六年間(一九八〇年十一月十七日現在)にわたる長期の連続犯行は前代未聞である。
ロンドン警視庁《スコツトランド・ヤード》の大捜査にもかかわらず〓の事件の犯人が逮捕できなかったのは、時の総理大臣が警視総監に密《ひそ》かに命じて捜査を中止せしめたのではないかとの評が当時からあった。理由は、犯人は「超法規的な存在」、たとえば英王室関係者ではないかという噂であった。この道聴塗説は百年以上経《た》った今日でも英国では未《いま》だ消えない。三年前にも犯人が現場から立ち去った方向に某王族の邸宅が所在し、その王族はマゾヒズムの性格の持主であったなどと小説的な考証をした本が出た。
日本ではこの事件を牧逸馬《まきいつま》が「女肉を料理する男」の題名で書いている(昭和四年十月号からはじまった「中央公論」の「世界怪奇実話」シリーズの第一作)。牧はその作で、犯人は《色情倒錯狂でかつ癲癇《てんかん》性激怒の発作を共有する者》との権威ある精神科医の推定を紹介しているが、加害者の計画的な犯行からみて、いくら権威者の言葉でもこれは納得できないとして、牧は、犯行の動機をイースト・エンドという貧民窟《ひんみんくつ》で辻君《つじぎみ》を買った男が悪質の性病を染《うつ》されて、その復讐《ふくしゆう》に売春婦を虐殺したとの一般の見方に立っている。
〓のヨークシャー・リッパー事件は、犠牲者に夜の女が三人きりなので、〓の右の仮説は成立しない。しかも、犯行の行動半径があまりに拡大し過ぎている。とはいえ、ヨークシャー・リッパーがロンドン・イースト・エンドのジャック・ザ・リッパー事件から年代を経て刺戟《しげき》と影響をうけたであろうことはたしかである。
〓のこの事件がいかに衝動的な影響を世界に与えたかは、その後も似たような事件がアメリカその他に起っていることでもわかる。ただ、ロンドンの「切り裂き魔」ほど喧伝《けんでん》されなかった。
○取材の点検。
犯人に襲われたが、生き残りの婦人がある。なぜに彼女またはその家族に取材しなかったか。また襲われたが、難を脱れた若い女性がある。そのショックで精神異常を来《きた》したという。その家族について話を聞くべきだろう。また某女は人妻である。子あり、中級住宅地のアパートに住む。毎夜、品のよくないパブに出かけ、客漁《あさ》りをする。彼女は四十一歳、営業用の厚化粧をしていた。しかし、昼間はその地域の環境にふさわしい地味な夫人で、子供の教育に熱心なママでもあった。「ヨークシャー・リッパー」の噂に近隣の人々とともに彼女も脅えていたと捜査員の聞込み話がある。彼女の元アパート家主について取材すべきであろう。ヒューマンドキュメントで構成してみよう。六年間もリーズ付近や隣州の都市を恐怖に陥《おとしい》れたのだから、新聞記者の取材先の話よりも、退職刑事の追憶談が余裕があって面白いかもしれぬ。主観と客観性は弁別すればよい。
リーズよりA62号線に乗り西南行し、マーフィールドでA629号線に替り、北上してHaworthの村へ向かう。「嵐《あらし》が丘」のブロンテの家を見るため。途中のクイーンズベリーの町は典雅。だがこの地のヘイリイの一軒のパブは昼間からヌード・ショウをやっていた。
一軒のレストランで昼食。炉端式。「五本の旗」が屋号。
焚木《たきぎ》燃ゆるマントルピースの上には真鍮《しんちゆう》細工の容《い》れ物《もの》をならべ、ほの暗き中に金色に光る。ここまで来たからにはランカシャー州境の峠に往きたいと、ふと思った。一昨年自分はランカシャー州ブラックバーン市西郊の「ホートン城」の城主なる旧貴族に招かれてその客となった。そのついでに西ヨークシャー州境まで行った。途中、アコリントンという工業地を通り、チェスタートンという村を通過する。G・K・チェスタートンはこの村の出身かと想像したりした。いずれも丘陵のうねりの中にある町村で、坂道の上り下りが激しい。そのとき州境に立った。その場所をなつかしんで、州境はここから近かろうと伴《つ》れに話していると、隣りの卓でそれを聞いた若い女性が、貴下の云うその道はアップ・ダウン激しく相当な難路ですわ、という。快活げな娘である。州境越えはあきらめる。
ホワースの村へ行く道は上り勾配《こうばい》がつづく。やがて右手に豁然《かつぜん》と谷底の原野が展《ひら》き、丘陵の連なるを見る。原野には村落が散在している。家は丘の麓《ふもと》に白く点在。折から黒い雲塊は空の半分を覆《おお》い、原野を明暗二つに分け、「嵐が丘」の舞台さながらの荒野らしくある。展望台前に諸車駐屯《ちゆうとん》。人々は手をかざして「荒野」を眺《なが》め入る。
イギリス紀行――「嵐が丘」を訪う。
九月二十三日(月)
ホワースの町に入った。駐車場は崖《がけ》の下である。この町はまだ村といったほうがよく、一本の坂道以外は農家の集落である。その一本道を登ると、途中で右へ直角に折れる。道幅は狭くなり、急となる。五〇メートルも登った突き当りにある古風な石煉瓦《れんが》造りの建物が、ブロンテ牧師館である。
崖下の駐車場からつづく登り坂の道路の両側には「ブロンテ」尽しの派手な土産物店が軒をつらね、色とりどりの看板を掲げて競っている。絵葉書、姉妹の肖像画、十九世紀の高原《ムーア》風景の銅版画、ブロンテ・バッジ、羊皮の栞《しおり》、マッチ函《ばこ》、キャンディの包装などいずれもBRONTEかWuthering Heightsの文字のないものはない。観光客は列をなしてぞろぞろと歩いているが、ほとんど若い者である。とくに女が多いというのではない。
赤煉瓦屋根の土産物店が(ブティック、軽食店も)華美なだけに、牧師館は十八世紀ごろの標本然として孤立している。あるいは古色蒼然《そうぜん》たる威厳を放っている。
《ホーアスは一条《すぢ》の坂道の左右にポツ〓〓家なみのある村であつたが、今日は工場が多くなつて当時の面影《おもかげ》は一変してゐる。当時は未だ汽車が開通してゐなかつたので、シヤロット等は汽車に乗るためにはホーアスから四哩《マイル》の道をキースリまで出なければならなかつた。教会は村のはての一番高いところにある。シヤロットの父は英国国教に属するこの教会の牧師を四十一年間勤めた。シヤロット等が住んでゐた教会附属の牧師館はその後増築され、シヤロット等が葬《はうむ》られた教会は改築されたが、ブロンティをしのんでその遺蹟《ゐせき》を訪ふ人々にとつてはなつかしいところである。
牧師館の表の窓から見えるものは教会と墓地、うらの窓から見えるものは今も昔に変らぬ見渡す限りの高原《ムーア》である。ところどころ岩石の露出せる間にヘザラといふ赤い花をつけた矮小《わいせう》の灌木《くわんぼく》の一面に生えた荒漠《くわうばく》たる高原である。ところどころ谷があり細流がある。この高原の中で教会から二哩半のところにある滝が、今ブロンティ滝と呼ばれてゐる。》(田部隆次・「世界文学講座英吉利《イギリス》文学篇上」新潮社、昭和七年刊)
牧師館はいまブロンテ家のミューディアムになっている。ここに入るには五〇ペンスの入場料を払わねばならない。受付で各室の見取図を呉《く》れる。現物は失ったが、そのときの自分の写しがある。
二階建て。階上・階下とも四室である。
階上は寝室である。四室のうち、坂道に向かった左側の寝室がブランウエル伯母の使ったものだが、その死後、シャーロットが使用した。
このエリザベス・ブランウエルとは、パトリック・ブロンテの亡妻マリアの姉にあたる。マリアの死(癌《がん》)は一家がホワースの牧師館に移った翌年の一八二一年であった。ブランウエルは妹の看病に牧師館にきたのだが、いらい遺児たちの世話をする羽目になった。牧師ブロンテは再婚の意志があって、以前交際した婦人たちに手紙を出したがいい返事は得られず、いらい寡夫《やもめ》暮しを通す。六人の子のうち上の二人は栄養不良で早く死に、シャーロット、パトリック・ブランウエル(男)、エミリ、アンが成育した。
ブランウエル伯母はシャーロットがブリュッセルのエジェ塾《じゆく》に入っているとき病気をし、そのためシャーロットは一度ホワースに帰郷している。伯母の死はシャーロットが再びブリュッセルに戻り、エジェと「別れて」からで、以来、彼女は父と妹二人の世話をした。弟パトリック・ブランウエルは手のつけようのない性格破綻者《はたんしや》で、家を出ていた。「ブランウエルの部屋と呼ばれる室」というのが彼の使っていた寝室である。
その隣室の「Tabitha's room」というのは、ブロンテ家で三十年近く勤めた女中Tabitha Aykroydの元の部屋である。タビサは、ブロンテ家の人々からタビー(Tabby)と呼ばれ、親しまれていた。シャーロット姉妹の子供時代に、さまざまな不思議な話をして彼女たちを楽しませたのもタビーであった。シャーロットたちの小説に登場する人物の中にも彼女のイメージが投影されているという。(石塚虎雄《いしづかとらお》・「ブロンテ姉妹論」篠崎書林)
エミリが死を迎えた場所はどこだったろうか。
一八四八年十二月十九日のこと、エミリは二階の寝室から弱々しげに降りてきて、いつものとおり居間の椅子《いす》に坐《すわ》り、今日は医者にみてもらおうと云《い》った。日ごろ病人扱いされるのを嫌《いや》がる彼女だったが、はじめてそう口に出した。医師を待つあいだ、シャーロットとアンはエミリを寝室につれて行こうとした。エミリは、いやよ、と云って立ち上ったとたん床に倒れ、そのまま息が絶えた。午後二時であった。……
階上ホールにはブロンテ姉妹の衣類、茶碗《ちやわん》、日用品、文具、書籍、出版物、書簡類などが整理された陳列ケースごとにならんでいた。
その中に、カラ(Currer)とエリス(Ellis)とアクトン(Acton)の男名前で共著による自費出版の「詩集」が「二部売れました」というロンドンの出版社からの通知書が飾ってあった。匿名《とくめい》は、それぞれシャーロット、エミリ、アンである。三姉妹の詩集が二部しか売れなかった事実は「英文学史に残る」といわれている。
この自費出版で姉妹は出版社から五十ギニアを要求された。出版はシャーロットがブリュッセルのエジェ塾を引きあげた翌々年の一八四六年の春であった。シャーロットはこのころエジェへの煩悶《はんもん》に苦しみながらも、また「詩集」売行の失敗にもめげず、妹らとともにこんどは小説を書き、これを世に問いたいと決心していた。
そこで「詩集」のときの匿名と同じくシャーロットはカラの名で小説「教授」を、エミリはエリスの名で「嵐が丘」を、アンはアクトンの名で「アグネス・グレイ」を書いた。これらの原稿はシャーロットがまとめてロンドンのあちこちの出版社に送った。しかし、拒絶につぐ拒絶だった。シャーロットの「教授」は一年の間に六度送り返された。「嵐が丘」と「アグネス・グレイ」とは一八四七年に入って、ある社で採用するという報《し》らせがきたが、姉妹がいくら待っても本にはならなかった。(阿部知二《あべともじ》・「ブロンテ姉妹」研究社)
さて、階下入口のすぐ右横がブロンテ牧師の書斎である。主人の書斎は普通奥まった部屋にあるものだが、妻を喪《うしな》ってから独身生活の長いパトリック・ブロンテは、出入口に陣取って三人娘の行動を見張っていたかのようである。この父親は娘たちに冷厳な存在として多くのブロンテ姉妹の評伝に書かれている。
食堂の奥隣は「貯蔵室」だが、「あとでニコルズ氏の書斎となった」とある。ニコルズ氏とはブロンテ家と同じアイルランド生れのアーサー・ニコルズのことで、一八四五年に牧師補としてホワースにきて、のち、三十八歳になったシャーロットと結婚する。しかし、シャーロットはこの結婚後数ヵ月で死んだ。
四四年のころ、シャーロットはブリュッセルのエジェ塾の文学教授エジェに抱いた思慕がエジェ夫人の嫉妬《しつと》を買い、エジェもシャーロットに冷くなり、彼女は失望して帰郷する。しかしエジェに対する恋情は募るばかりで、そのため苦しんでいた。
エミリもシャーロットと共にエジェ塾に入っていたが望郷の念に駆られて途中退塾し、ブリュッセルからホワースに帰った。このときエジェがエミリに文学的な天分のひらめきを認めて退《や》めるのを惜んだと評伝にある。
評伝といえば、シャーロットのエジェに対する思慕の訴えが彼女の手紙にあまりに強いことから、そこに恋愛の存在を評伝家はたいてい認めている。その恋愛はエジェのほうで結果的にとり合わない形に終ったから、彼女の失恋また片想《かたおも》いということになっている。
しかし、それにしてもシャーロットの文面の異常な熱情から推して、両人の間には深い関係のあったことを想像する説もある。
彼女がエジェにあてた手紙がいくつか遺《のこ》っている。かなり長いが、阿部知二氏の「ブロンテ姉妹」から引く。
《これに対してエジエの方からは、きわめて時たまにしか返事はこなかった。遺ってはおらないが、内容も一通りのものだったであろう。それは彼自身がシャーロットに対してもった感情がただ一通り好意というものに過ぎなかったからか、あるいは夫人の心持などを憚《はば》かったからか、おそらく二つとも幾分ずつの真実であったろう。シャーロットは、十月に送った手紙では、六ケ月もエジエからの手紙を待ちわびた、ということを悲しげに書いている。彼からもらった本――ベルナルダン・ド・サン・ピエールの作品やパスカルの「冥想録《めいそうろく》」を製本しながら思出を愛惜しているともいっている。しかし、苦悩は日とともに強いものになって行った。一八四五年の一月の手紙の中には「昼も夜も、私には安息も平和もございません。眠ったとしても、私を悩ますのは苦しい夢、その中に先生は、いつも厳しく、いつも重々しく、いつも私に対して怒りながら、あらわれます」「もし私の先生が、私への友情をすべてお捨てになるとすれば、私は完全に望をうしないます。もし少しばかり――ほんの少しばかり恵んで下さいますならば、私の心は満たされ――幸福になります。私は生きつづけ仕事しつづける理由をもつでしょう」「おそらく私の先生はおっしゃるのでしょう。『シャーロット嬢よ、ぼくは君にはこれっぽちの興味ももたない。君はぼくという『家』の中に住むものではない。ぼくは君を忘れてしまった』」――このようにいっている。
こういう訴えにもエジエは冷静であったのであろう。彼女は、十一月十八日に最後の諦《あきら》めの手紙を書いた。そこで彼女は、彼を忘れようと努めており、傷心と焦燥をおさえることはできなかったと書いている。
「……来る日も来る日も御《お》手紙を待ち、そして来る日も来る日も絶望が私をおそろしい悲しみに投げこみます。先生の御手蹟《しゆせき》を見、御教を読むという甘美なよろこびは、うつろな幻のように私からすり抜けます。そして熱病が私に取りつき、私は食慾《しよくよく》も睡眠もうしない、――ただ歎《なげ》くばかりでございます」そしてこの最後の手紙は「さよなら、懐《なつか》しい先生――神が特別の御心をもって先生を護《まも》られ、特別の御恵を先生に垂れられますように」という言葉で終っている。
シャーロットのエジエへの思慕は、ブロンテ姉妹たちの生涯《しようがい》の中での稀《まれ》な情熱の事件であるばかりでなく、後の彼女の作品を染色するものとして注目を引く。もっとも、彼女のこのような手紙の中の言葉をもって、ただちにこれを世の男女の間の「色恋沙汰《ざた》」と解することは不可である。しかし、これをただ、単なる精神的な敬愛渇望《かつぼう》を純粋な心がひたむきに表現する時に、このような恋愛感情とも誤解されるようなものになったのだとするのはさらに不可であろう。彼女の作品にのこされた痕跡《こんせき》だけから見ても、ここに恋愛の感情があったと見るのが妥当である。
――なお、初期の評伝作者ギャスケル夫人などが、この情熱については気づかないかに書いているのは、調査の不十分という原因もあったというよりは、当時の社会の道徳感情も顧慮しての慎み深さということからであった。
引用したようなシャーロットからエジエにあてた四つの手紙が世に出た事情にも、興味をひくところがある。――エジエ家の子女が語ったところによると、エジエはシャーロットからきた手紙は破って紙屑箱《かみくずばこ》に捨て、それを夫人が拾い上げ糊《のり》でつぎ合わせて宝石箱にしまっておいたのであり、それを夫人の死後エジエが発見して、また捨て、――しかし、今度は彼の娘が拾い上げて保存し、父の死後に大英博物館に一九一三年に寄贈した、ということになるのである。このことはエジエ夫人の側に、夫とシャーロットとの交際について異常の関心が存在していたということを明示する。――しかし、この説明にはどこか不備なところがある。というのは、シャーロットの死のすぐ後、つまりこれらの手紙が書かれてから十年あまり後、ギャスケル夫人がブラッセルズにエジエ夫妻を訪れて談話をきいた時に、エジエはこれらを彼女に見せているのである。彼女は糊でつぎはぎされた手紙を見たのであろうか。それともそのころはまだエジエの手にあったのであろうか。話に矛盾はある。ギャスケル夫人は、何かしらただならぬものを感じ、それでシャーロットとエジエとの愛情の問題について深く立入ることを恐れ、あるいは慎しんだのであろうか。――なお、エジエがシャーロットに送った手紙は、シャーロットか、後に彼女の夫となったニコルズかのいずれかが、破棄したものと察しられている。》
以上、端的にいえば、エジェとシャーロットとのあいだに師弟の間を越えた男女関係があったかどうかという疑問である。塾長として全生徒を掌握しているエジェ夫人が夫とシャーロットの仲に抱いている嫉妬と彼女を排斥する態度、それと察したシャーロットが一度はホワースに帰るけれど、悩みに堪えきれず、ふたたびブリュッセルのエジェ塾に舞い戻る。彼女はときに二十六歳の女ざかりであった。エジェは夫人の手前をはばかってか、彼女にさらに冷くなっている。そこで、こんどこそシャーロットは死ぬ思いで彼との「別れ」を決心してホワースに帰ったのである。
シャーロットからの手紙をエジェがかたっぱしから破り捨てたのを、夫人が次々と紙屑箱から拾い上げて宝石箱にしまったことなどドラマティックな状況などからして、エジェとシャーロットとは肉体的交渉があったとみるのが普通であろう。
エジェはフランス文学の古典から近代文学に通じ、その知識と洗練された感覚は、同塾の他の凡庸な教師三人の比でなく、はじめからエジェはシャーロットを魅了したというが、彼のほうでも、ヨークシャーの村娘ながら、他の騒々しいばかりでとりえのない生徒たちのなかで、才能あるシャーロットの輝ける眼《め》で一心に見つめられては心が動揺せざるを得なかったろう。
初期の評伝作家ギャスケル夫人などがエジェとシャーロットとの情熱については気づかぬふりをして書いているのが道徳的感情の顧慮だとすれば、それは逆に両人の男女関係を推定しているからだとも思われる。
また、エジェからシャーロットあての手紙が一枚も遺っていないのは、シャーロットか、または後に彼女の夫となったニコルズかが破棄したものと察しられているが、してみれば、シャーロットの恋文は、嫉妬深い相手の女房のお蔭《かげ》で糊づけでつぎはぎされた状態で大英博物館に遺ることとはなったのである。
エジェがどのくらいのフランス文学者であったかはしらない。しかし、世界文学史の中で彼の名が出るのは彼自身の業績によってではなく、シャーロット・ブロンテの伝記の関係からである。
この関係は、ちょっと明治文学の樋口一葉と半井桃水《なからいとうすい》の関係に似ている。
知られているように一葉の小説上の師は東京朝日新聞小説記者をしていた桃水で、それまで一葉は中島歌子の萩《はぎ》の舎《や》に入門して和歌に励んでいた。同門の田辺龍子《たつこ》(号花圃《かほ》。三宅雪嶺《みやけせつれい》夫人)が小説「藪《やぶ》の鶯《うぐいす》」(明治二十一年)を刊行したのに刺激されて小説を書くようになったのだが、このとき桃水が小説の書き方を彼女に指導した。
当時、一葉は本郷菊坂町で一戸を持ち、母と妹とを抱え、針仕事や洗濯《せんたく》ものなどを引受けて生計をささえていた。一葉の場合にくらべるとシャーロット・ブロンテはずっとめぐまれている。父親が白内障で盲目に近い状態となったので、シャーロットは一家の生計のために三姉妹を教師にして牧師館に塾を開くことを計画した。案内書を刷って配布したが荒涼たるホワース村に応募してくる生徒は一人もなかった。だが、さしあたって生活に困るようなことはなかった。家事の面倒をみていたブランウエル伯母が死んでその遺産も入っていた。ただ、一家の悩みのタネはシャーロットの弟で、エミリの兄にあたるパトリック・ブランウエルの放埒《ほうらつ》無軌道な存在であった。アンは末妹で、まだ若かった。そんなことでシャーロットは母親代りであり、支柱であった。
エジェとシャーロットの愛情の関係が推測の域を出ないのに比し、一葉と桃水のそれは歴然としている。両人の交際は萩の舎で問題化し、ために一葉は桃水と絶交したが、それは表むきで、一葉研究家でもある和田芳恵《わだよしえ》によれば、一葉の絶交とは名ばかりで、桃水とのつきあいは晩年まで絶えなかった。一葉の日記は桃水との恋愛日記でもある。桃水は小説家樋口一葉を育てた恩人だが、いつも影の存在だった。
しかし、一葉の作品には半井桃水の片鱗《へんりん》も出てこない。
彼女と桃水との交渉はその日記に書き尽されて、作品の上に結像する余地も余裕もなかったのかもしれない。また、あまりになまなましいということもあったであろう。もし天が彼女に生を享《う》けさせるにあと二十年余であったなら、桃水らしき人物を登場させたかもしれないという想像も起るが、その可能性は少いとみるべきであろう。一葉は作品に自己を直接出さぬ作家であり、幸田露伴、斎藤緑雨の系統である。
シャーロットの「ジェイン・エア」は半ば自伝的小説といわれる。というのは前半までが彼女の経験を反映してリアリティをもつが、後半になるとにわかに浪曼派の「造られた話」となっているからである。
《しかし、ジェイン・エアの生涯には、シャーロット自身の影が、強く反映しているという意見も、当然に一方では有力である。(略)――このようにして、彼女の実生活と小説の叙述とは正しく重なり合っているとする。それが最後に、ソーンフィールドにふたたび帰って愛人ロチェスタと結びつくというシャーロット自身の「願望の達成」によって終幕となっているというのである。》(阿部・前掲書)
あれほどシャーロットが熱情を燃やしたエジェがロチェスタならば、シャーロットの分身ジェイン・エアとロチェスタとの交渉をもっと深く掘り下げて書かねばならない。ロチェスタ夫人の介在とその嫉妬、三者の葛藤《かつとう》、ロチェスタの逸走とジェインの死のような懊悩《おうのう》、そういったものを描いてこそ人間の個性が浮び上るのであり、近代小説の先駆たり得るのだが、それをただ抒情《じよじよう》に流している。ジェインがロチェスタのもとに帰って結ばれるのが大団円とは、尾崎紅葉でも翻案すまい。(紅葉はじめ硯友社《けんゆうしや》の文士たちはひところ主としてイギリス小説から翻案していた。)しかし、いくら十九世紀の小説とはいえ「ジェイン・エア」にはあまりに「偶然」が多すぎる。これが世界文学中の傑作の一つといわれるだけに(ラフカディオ・ハーンも賞讃《しようさん》)よくわからない。
《サムスンの文学史は、「『ジェイン・エア』は最初の近代小説であり、見栄《みば》えもせぬ有りふれた女の生涯を、はじめてロマンスを以《もつ》て包んだのである。反抗して立ち、自由に感じ、感ずるままに表白する自由な女性の声が、はじめて明瞭《めいりよう》に近代文学の中に、はるかなホワース牧師館からひびいたのである」といっている。》(阿部・前掲書)
はるかなホワース牧師館から!
「傑作」といわれる鍵《かぎ》はここにあるかもしれない。ヨークシャーの荒涼とした高原《ムーア》。そこに黴《かび》のようにとりついた寒村。都会人にとっては、あるいは大陸の人々にとってはこの「田舎色」が異国情緒にも似てこよなくロマンティックに映ったのであろう。田舎色を地方色とかローカルカラーとかに解する傾向があるが、ほんらいの意味から外れる。そこには都会との対比から、「自然」「素朴《そぼく》」「後進性」「非文明」「原始性」などといった概念が持たれ、それがかえって煩瑣《はんさ》な人間関係に病んだ都会の人には僻遠荒蕪《へきえんこうぶ》の地へのロマンティックな憧憬となる。
シャーロットの「ジェイン・エア」よりもヨークシャー高原の田舎色を濃厚に出したのが、エミリの「嵐《あらし》が丘」(Wuthering Heights)である。
《ワザリング・ハイツとはヒイスクリフ君の屋敷の名だ。ワザリングとはこの地方では意味のある形容詞で、空が荒れることであるが、この屋敷の位置は嵐に吹きさらしになるのである。この高台では年じゅう身も引き緊まるようなすがすがしい風通しに相違ない。高台に吹きあたる北風の強さは、家のはしにある数本のいじけたもみの木がはなはだしく傾いていることからも思いやられる。やせこけたいばらも日光の恵みを請《こ》うかのように、枝という枝をみな同じ方向に伸ばしていた。家はさいわい建築師の先見で堅固に建てられていた。狭い窓は厚い壁の奥深くはめこめられ、家の四隅《すみ》は張り出した大きな石で固められていた。
敷居をまたぐ前に、玄関の正面ことに大戸の周囲にむやみと彫《ほ》りつけた異様な彫刻を見て、ぼくは感嘆してしばらく立ちどまった。大戸の真上には、あちこち欠け落ちた無数のわし頭にライオン胴体の怪獣やら、裸体の子供などを刻んだあいだに、「一五〇〇年」という年号と、「ヘアトン・アンショオ」という名前とが認められた。》(大和《やまと》資雄《やすお》訳・筑摩書房「世界文学大系」28)
これが冒頭部分。都会人のロックウッドが田舎屋敷に家を借りて、その家主を訪れた場面である。
アラン・ポーの「アッシャー家の没落」では、アメリカから国外に一歩も出たことのないポーがヨークシャーの荒野を想像して描いたといわれている。
日本では明治の末にフランスの自然主義派が文壇に入り、島崎藤村が「破戒」で信州地方を出し、正宗白鳥《まさむねはくちよう》が岡山県の瀬戸内海沿岸地方を鮮明に描いて反響を呼び、田山花袋は自然主義派の確立を提唱し、いらい「地方」が舞台になる傾向となり、田舎の方言がそのまま会話に使われた。しかし、それよりずっと早く、一葉の「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」(以上明治二十八年)は吉原《よしわら》に隣した下谷竜泉寺《したやりゆうせんじ》町を描いたが、この界隈《かいわい》は小説の背景として異色である。もちろん小説の成功はその舞台が「田舎」というだけではないが、効果はある。
日本では自然主義の変型のような独特な私小説が発達し、いっさいの物語性も虚構性も排除したから、自己の告白体が中心となり、そのため題材が狭小となり、しだいに衰退の道を辿《たど》るようになった。そのようなストイックなほど私小説の立場に立つ人は、「嵐が丘」のような怪奇な復讐《ふくしゆう》、畸形《きけい》的な性格の人物、荒野を彷徨《ほうこう》する亡霊といった筋立ては、われらには縁のない作り話としてあまり感服しないかもしれない。
それはなにも現代の私小説作家あるいはその系統の批評家のみではない。すでに一八四六年にエミリがエリスの匿名で「嵐が丘」を書き、この原稿を姉のシャーロットがアンの小説原稿とともにロンドンの出版社に送ったが、「ジェイン・エア」はベストセラーになったものの、「嵐が丘」はエミリの死(一八四八)の前年まで日の目を見なかった。どの出版社もおそらく「荒唐無稽《むけい》にすぎる、ひどい作り話だ、話のつじつまがぜんぜん合っていない、作者の存在の反映がまったくない」といったような感想で、原稿は埃《ほこり》をかぶったままほうっておかれたのであろう。ただしこっちのほうは「筋」のある物語文学全盛の十九世紀の出版社の話。
「嵐が丘」は、はじめは形式的には粗雑なものとされ、内容的には野蛮で陰惨邪悪なものと見られた。しかし十九世紀の末に傑《すぐ》れた詩人であり批評家スウィンバンがその価値を認識したことから人々の注目を浴び、今世紀に入ると「ジェイン・エア」よりも深いものと考えられるに至り、やがてあらゆる讃辞がこれに集り、孤独裡《り》に夭死《ようし》した彼女の生活への異常な関心を伴いながらその創造の過程を神秘化するような傾向まで出てきたという。(阿部・前掲書)
発表当時は低く評価され、無視された作品が時を経てから知己により発見され、高い評価を受けて今に残る例はある。「嵐が丘」とともに引合いに出されるのが、すこしあとの一八五一年にアメリカで出たメルヴィルの「白鯨」である。やはりアメリカのE・A・ポーも死後でないと名声が出なかった。彼は陋巷《ろうこう》で窮死した。画家だが、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの場合のような極端な例もある。作家が生存する時代の凡百の批評家には見る眼が無いということになる。また、作者の死後、たった一人の「すぐれた批評家」の言が出ると、たちまち雪崩《なだれ》現象が評壇に起るというのも、どういうことだろうか。「後世に俟《ま》つ」というのも、あながち虚《むな》しい壮語や、はかない期待とのみはいえないのである。
エミリ・ブロンテは一八一八年に生れ、四八年十二月に死んだから三十歳であった。肺病。兄のパトリック・ブランウエルはその三ヵ月前の九月に死んでいる。やはり肺患らしい。妹のアンもエミリの死の翌年に転地先で肺病で死亡、最後に残ったシャーロットもニコルズと結婚した五四年夏の翌年三月に肺結核で死んだ。父親のパトリック・ブロンテはひとり牧師館に生きながらえ、一八六一年に死んだ。八十四歳の長寿であった。空気の澄明《ちようめい》な、人口の少い、高原に育った三人の娘たちがそろいもそろって肺患で若死にするとはふしぎだが、ホワース村のある高原は冬が長く、冷気がきびしく、寒風吹きすさぶ。風邪をこじらせて発熱がつづいても村にはいい医者がいない。
三人姉妹とも父親の云《い》いつけで村の娘たちと遊ぶということもなく、リーズの町に出て歩きまわるということもない。寒々とした荒野の眺《なが》めは高台の教会の窓や牧師館の窓からのものである。
シャーロットだけはブリュッセルのエジェ塾《じゆく》に前後二年半あまりいたせいか、妹二人よりは六年ほど長生きしている。エミリは十八歳のとき、ハリファックスの学校の女教師となったが、六ヵ月後にはホワースに帰る。彼女は二十四歳のときシャーロットといっしょにブリュッセルに遊学したものの、ブランウエル伯母の死を機にすぐに帰郷した。いらい、ホワースを離れず、家事いっさいを見た。姉シャーロットがエジェに傷心をうけて牧師館に戻ったのはその二年後である。
胸を病む文学的女性はたいてい浪曼的傾向をもつという。樋口一葉もその例外ではない。しかし、エミリと一葉とはあらゆる点で違っている。一葉は陋巷に住む人々の人情機微を写し、その哀歓を繊細に描き出した。彼女には多くの仲間があり、知人があった。萩の舎で和歌の人々と交り、小説を書いては半井桃水という隠れた師を持ち、馬場孤蝶《こちよう》、平田禿木《とくぼく》、島崎藤村らの「文学界」同人を知り、とくに孤蝶と晩年の斎藤緑雨との交際には彼女の文学的精進に益するものがあった。もっとも一葉からすると正太夫(緑雨)以外はあまり認めていなかった(一葉日記)。
ホワースのエミリ・ブロンテにはそういう「文学仲間」は一人もいなかった。文通する友だちもいなかった。ブリュッセルから姉よりも先にホワースに逃げ帰ったのも、都会よりは生れ故郷の荒野の自然が心に安らぎを与えたからである。そこに彼女の天性の詩人であるのを見ることができよう。「嵐が丘」は全篇が詩であり、その強烈な詩が、あとで述べる小説の欠点を圧している。
エミリは、ホフマンの幻想的小説を好んで読んだという。が、ホフマンの本から「嵐が丘」は生れない。妖霊《ようれい》的な要素はブロンテ一家の出身地アイルランドに伝わる民話である。この民話には妖怪が出るのが多い。
エミリは家事に従う一方、ひそかに「嵐が丘」を書いていた。父はもとより姉のシャーロットにも妹のアンにもその原稿を見せなかった。ただ兄のパトリック・ブランウエルにだけは見せたという説がある。いや、それ以上に、この作品にはブランウエルの「協力」があったという説さえのこっている。
シャーロットの一つ下、エミリより一つ上のパトリック・ブランウエルとはどんな青年か。
彼は幼少のころ「神童」のほまれが高く、才智《さいち》に長《た》け、父の愛を一身に受けた。さなきだに娘ばかり三人の中の一人息子である。甘たれに育った。文学的素養も多少はあり、音楽も解した。容貌《ようぼう》体格は父に似て立派であった。村や近在の女の子にもてた。彼は酒におぼれ自堕落になっていった。
彼が二十四歳のころ、妹のアンとともにソープグリーンというところのロビンスン家の家庭教師に迎え入れられた。ブランウエルははじめのうちはまじめに勤めていたが、そのうちに、自分はそこの夫人と愛し合っているのだという感情をもつようになった。ロビンスン氏は老いた頑固《がんこ》な人物だったが、夫人より十七も年上だった。ブランウエルはこの夫人にのぼせ上った。夫人もいくらか火遊びめいた心持をもって彼に接したと見られている。ブランウエルの心はたちまち燃えてしまい、自分が彼女を愛しているよりもさらにはげしく夫人は自分を愛してくれていると思いこみ、その情熱をつつみ隠そうともしなかった。激怒した夫ロビンスンは彼を解雇し、家に寄りつくことを禁じた。したがって、信頼されていたアンとしても、兄とともに身を引くほかはなかった。これは一八四五年の夏のことであった。
ブランウエルは、家に帰ってはたちまち酒精《アルコール》中毒症にたちもどり、その上に家の金を持出して阿片《アヘン》をひそかに買って飲んだ。時として憂鬱《ゆううつ》の底に沈み、また異常に興奮し、気が狂ったように暴れた。夜半にピストルをうち鳴らしたり、自殺の真似《まね》をしたりした。友人たちに自分の恋のことをしゃべり散らしもした。このような狂態が姉妹を悲しませた。
《アンは絶望的になった。シャーロットは、悲しんだばかりでなく、怒りもし、また弟を軽蔑《けいべつ》し嫌悪《けんお》した。それは彼女が道徳的に偏狭《へんきよう》だったからであるとばかりはいえない。幼い時から弟妹をみちびいて生活のたたかいをしてきた彼女としては、かつて大きな望みをかけていた「神童」ブランウェルのこのありさまを見て、大きな打撃を受けたとしてふしぎではない。しかし、エミリはいささか異っていた。もちろん、深い悲しみをもっていたのではあろうが、この時にも沈着であって、ブランウェルに対する態度は変らなかった。それは、いちめんにおいては彼女が強い自我をもち、つねにそれに拠《よ》りながら生きていたことからくるところの、外界の人事からの超絶の姿勢というべきものからくるのであり、それは彼女の詩に含まれた精神にもうかがうことができる。しかしそれと同時に、「嵐が丘」における人間の本能への深い洞察《どうさつ》にも見るように、ブランウェル錯乱に対しても博大な理解と同情とをひそかに持っていたのであったかも知れない。そしてもしそこまで考えるとすれば、彼の、その乱れた情熱が、「嵐が丘」に、数千倍強化されて結晶し、また普遍化されて投影していると思うことができるのではなかろうか。
――事のついでに、この恋愛(?)の後の成行をここで記しておくことにする。――翌一八四六年にロビンスン氏が亡《な》くなった。ブランウェルは、邪魔ものが去ったからいよいよ愛する人と結ばれる時がきたと思った。しかし夫人の方では彼を近づける様子は見せなかった。それをブランウェルは、ロビンスン家の周囲のものが彼女の意志に反して意地悪くも妨害しているのだと妄想《もうそう》し、夫人は悩み悶《もだ》えているものと思いこみ、いよいよ悲嘆し、いよいよ夫人を恋するのであった。しかし夫人としては、――前にもいったように、はじめはいく分はブランウェルを誘惑したのであったとしても、今の彼の狂態を見ては、彼に親しむ心などにはなれなかった。また感情自体もすでに冷却してしまっていたのであろう。その上に、夫ロビンスンの遺書は、もし妻がブランウェルと結婚するならば絶対に遺産はあたえぬといっており、それは夫人に対して大きな、――というよりは決定的な重圧であった。また彼女は虚栄の強い女でもあった。ブランウェルのことなどを忘れたかのようにロンドンに出てゆき、社交界に入り、やがて一八四八年にサー・ジョージ・スコットというやもめの紳士と結婚した。》(阿部・前掲書)
「嵐が丘」に出てくる冷酷無残、非人道極まる荒野の復讐の鬼ヒースクリフの原型は、エミリが兄ブランウエルの性行を藉《か》りたものと多くの評伝家は指摘している。
小説の主人公ヒースクリフは両親を知らない孤児である。かれは少年のころ嵐が丘のアーンショウ家の当主に拾われてきて養育された。同家には一男一女がいる。妹のキャサリンはヒースクリフと仲よしになるが、兄ヒンドリは彼が嫌《きら》いだ。約三年後、兄がどこかの大学に遊学した留守に父が死ぬ。そこで兄は嫁を連れて帰り、ヒンドリが屋敷の当主となり、ヒースクリフを雇い人の身分に落して酷使する。キャサリンはヒースクリフに同情して彼を庇《かば》う。
近くの土地にもう一軒裕福な暮しの家族がある。リントン家で、当主は教養ある紳士。息子と娘とがいる。息子エドガーは好男子で態度は優雅。彼はキャサリンに惚《ほ》れて求婚し、彼女はこれをうけ入れる決心になる。
キャサリンはヒースクリフに好意以上の感情をもっているが、結婚する意志はない。「意地悪なお兄様がヒイスクリフをあんなに下品にさえしなかったら、私はエドガーと結婚するなんて考えなかったのに。今ヒイスクリフと結婚すれば、私は品が下がるでしょう。だから私がどんなに彼を愛しているか彼に知らせずにおきましょう」とキャサリンは乳母に話す。それを偶然もの蔭《かげ》で立ち聞きしたヒースクリフは、黙って家を出て行く。(九章)
それから三年経《た》ってヒースクリフが突然帰ってくる。彼は金持になり、教養ある紳士になっていた(どこで、どんな仕事をしてそんなふうになったか説明はない)。しかし、エドガーと夫婦になったキャサリンと、ひいてはリントン家とアーンショウ家に対する残忍な復讐の計画を肚《はら》に抱き、それを徐々に(約三十年のあいだに)、かつ、正確に実行してゆく。
荒筋をさらに削り、ヒースクリフの「復讐」の「動機」だけをかく要約した。
その動機とは、要するに想《おも》う女が、他の男と結婚したという点にある。世上、ざらに転がっている話である。キャサリンは心にヒースクリフを愛している(彼に愛されていることも知っている)が、それを彼に知らせてはいけない、下品な彼と結婚すれば私の品が下がる、とまで乳母に云って、彼女はヒースクリフに愛情は持っているが、行動に出すほど積極的ではなかったのだ。
しかし、ヒースクリフが家出した嵐の晩、彼の帰りを待って雨の中を戸外で深夜までたたずむキャサリンの姿にいたって、俄然《がぜん》局面は変り、筆は冴《さ》える。
《まったく夏にしてはひどい暗い晩でした。雲は今にも雷が鳴り出しそうでしたし、今に雨が降り出せば世話なしに戻って来ましょうから、みんなもう寝たほうがいいでしょうと私(乳母のネリイ)は申しました。しかし何と言ってもキャサリンは落着きません。門から戸口までしじゅう行ったり来たりそわそわしてちっともじっとしていませんでしたが、しまいには道路に近い塀《へい》の片隅《かたすみ》にじっともたれたまま、私がいくら言ってもきかずに、雷が鳴り出し大粒の雨が降りかかるのに、ときどきヒイスクリフを呼んでは耳をすまし、それから声を出して泣くのでした。その激しい泣き方はヘアトンも、どんな赤ん坊も、かなわないくらいでした。
真夜中ごろ、私どもがまだ寝ずにいますと、嵐がひどい勢いで丘を鳴らしながらやって来ました。暴風は吹き、雷は鳴り、そのどちらかが家の隅の樹《き》を裂き、大きな枝が屋根に落ちて東の煙出しの一部を叩《たた》き落し、煤《すす》やら石かけやらが音を立てて台所の炉に落ちて来ました。私どもは家の真中に雷が落ちたと思いました。ジョウゼフはひざまずいて神様に祈り、族長ノアとロトとの故事のごとく、不信仰な者は雷に打たしめ給《たも》うとも正しき者は救い給えと祈り願うのでした。私もこの一家に神の審判がくだったと思いました。ちょうどヨナはアンショオ様に相当すると考えて、あのお方がまだ生きてるかどうか確かめるために、その部屋の戸の引手を廻《まわ》してみますと、例の暴言で答える声が確かに聞えますので、ジョウゼフは自分のような聖者と主人のような罪人とを明らかに区別し給えと、前よりいっそうやかましくわめき立てました。しかし二十分ほどたつと雷鳴は私どもみんなを少しも傷つけずに過ぎ去りました。ただキャシイは幾ら家にはいるように言ってもきかず、ボンネットも被《かぶ》らずショールも着ずに外に立っていたので、髪の毛と言わず着物と言わず、水の浸み込める限り濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になったのでした。キャシイははいってきて長い腰掛の上に横たわり、びしょ濡れのままで、腰掛の背のほうにそむけた顔を手で蔽《おお》いました。》(九章)
ヒースクリフが居なくなってからキャサリンははじめて彼を心から愛していたことに気づく。それを暗黒の中に吹きすさぶ嵐の描写で表現している。ホワースの牧師館に生れ、二十七、八年間も館《やかた》の窓から荒地の高原を眺め、あるいは愛犬を連れて大股《おおまた》に荒野を散策しているだけに、さすがに四季の移り変り、天候の特徴などエミリの観察は詩情の眼《め》をとおしてゆき届いている。
Wutheringとはエミリの造語で、強い風や雨が荒野を渡るとき林や灌木《かんぼく》の騒ぐざわめく音を形容したのだという。こういう曠野《こうや》は日本では北海道にあったが、今は少くなったろう。富士の裾野《すその》の西湖《さいこ》のあたりにひろがる青木ヶ原で、風雨の日に高所に立つと、この樹海は雲の下に波のように揺れ動き、咆哮《ほうこう》を立てる。
エミリは、それよりももっと広い高原《ムーア》を渡り過ぎる嵐の音響を四季を通じて見てきた。Wuthering Heightsを「嵐が丘」としたのが英文学者斎藤勇《さいとうたけし》で、いらいこの名訳が定着した。
物語は乳母が、都会から来た借家人ロックウッドに聞かせる体裁だから、キャサリンの心理は直接には描出されていない。彼女の心理描写は背景描写を通してである。
こうした手法はポーの「アッシャー家の没落」と共通している。ポーのこの短篇では、「私」がアッシャー家の当主から聞く話になっている。生きながら葬《ほうむ》られた当主の妹の亡霊が出るのは嵐の夜であり、その朽ち果てた古い屋敷は、すさまじい雷雨の嵐の中で崩壊する。ポーのは「嵐が丘」より数年前の一八三九年ごろと思われる(アメリカの雑誌に発表)。
エミリ・ブロンテは交際する友人もなく、未婚で、おそらく処女のままに一生を終った。人生経験なきエミリに、どうしてヒースクリフのような個性的な、いきいきした男性を創造し得たかという疑問が以前から起っている。それは十九世紀の浪曼小説、たとえば「バイロンのページから生れたのでは決してない」というのが定評であり、またホフマンの怪奇小説の影響の可能性を認めても、そこからヒースクリフが生れるのでもない。
評伝家たちの意見の一致するところでは、ヒースクリフの性格づくりは、さきにもいうとおり、エミリの兄ブランウエルのそれを拉《らつ》し来たったのであろうとする。ブランウエルがロビンスン夫人に閉め出されてからの酒精《アルコール》中毒症、阿片喫《す》い、躁鬱症《そううつしよう》、ピストル騒ぎなどの狂態が、復讐《ふくしゆう》の鬼となったヒースクリフの極悪無残、サディズム、執念深さを創造するのに寄与しているという。
ただ、サマセット・モームだけは、そのモデルを父親のブロンテ牧師だと推測している(「世界の十大小説」)。
だが、やはりブランウエル説が有力である。じじつブランウエルは飲み友だちに、「嵐が丘」の初めの部分はおれが書いたと吹聴《ふいちよう》し、また彼にはそれだけの文才もあったが、この話は信用されていない。
エミリがヒースクリフの性格をあれほど鮮かに描くからには、ブランウエルの性質や行動をたんに観察するだけではなく、この兄にたいして理解と深い愛情があったのだろうという説がある。
「嵐が丘」の中で、乳母ネリイが借家人ロックウッドに語ったキャサリンの次の言葉は注目してよい。
「……私が彼(ヒースクリフ)を愛するのは彼が綺麗《きれい》だの何のというためではなしに、私以上に私自身だからなの。私たちの魂が何からできていたにせよ私のとあの人のとは同じものです」
「彼が私以上に私自身」というのは肉親の兄妹ということになる。阿部知二氏は書く。
《現代の作家チャールズ・モーガンは、逆にブランウェルの寄与を無視しがたいとする。彼も指摘するように、シャーロットが、何らかの意図があってか、エミリの内的生活の痕跡《こんせき》を隠そうとするかのように、彼女の手紙類を破棄した形跡もあり、正確には判じ得ないのではあるが、エミリが、堕落したブランウェルに対してかなりの理解と愛情とを持ちつづけたということはしばしば推測され、それゆえに、彼女とブランウェルとの間に何らかの程度の内的交渉があったということを、否定する根拠もないのである。やはり前にもいったように、ブランウェルの生活自体が、エミリにだけでなくシャーロットとアンとにも、――多くの場合に悪い意味においてであったにもせよ――さまざまの印象衝撃をあたえ、さらにまた、ある程度の才能の持主であった彼の思念や情感が、有形無形の何らかの影響を、何らかの程度に三人の製作にも投げかけ、「嵐が丘」にも多かれ少なかれそれがあったということは、認めなければならない。》
この意見は、どこまでがモーガンのものなのか阿部氏のそれなのか判然としないが、ある種の暗示を与える字句である。しかし、これ以上に深入りすることはやめよう。
そのほか、エミリがハリファックスの女教師のとき恋人があったというモームの推説や、同性愛説などがあったが、いずれも確証はない。
構成の上からすれば、都会人ロックウッドが高原の旧リントン家屋敷を借りに行き、そこを管理するアーンショウ家の老乳母ネリイから亡《な》きキャサリンの追憶話を聞きはじめるのが発端であり、そのときはヒースクリフが両家の土地財産を奪いとって、わが天下であった。これが一八〇一年のこと。翌二年にロックウッドがその屋敷に再訪すると、ヒースクリフはすでに精神錯乱のなかで死亡したことを聞かされる。つまり、物語の首部と結尾とが環《わ》の両端で結ばれていて、環の大部分は過去約四〇年間(?)の話になっている。
導入部が物語の末尾部分に接着しているという構成は、短篇ではまま見られるが、長篇では稀有《けう》である。そこにこの小説の特徴がある。
しかし、全体が終始してロックウッドがネリイから聞く話となっているから、そこに第三者の談話としてリアリティはあるが、ヒースクリフやキャサリンの直接的な心理描写がないため、読者はそれを想像しながらも、隔靴掻痒《かつかそうよう》のもどかしさをどうすることもできない。作者はそのへんを考慮してか、キャサリンの古い聖書とか蔵書の余白に書きこみされた彼女の手記を出したり(二章)、キャサリンの妹でヒースクリフと結婚したイザベラの手紙(十三章)および彼女の話(十七章)を挿入《そうにゆう》したりしている。
しかし、主体が第三者の話という間接描写になっているので、もどかしさをおぼえることには変りはない。
首部が末尾であって、その間の話は過去にさかのぼるというのは短篇では単純に整理されるが、長篇では時制が上下して筋が混乱することがある。「嵐が丘」にもその欠点がある。またキャサリンの娘がキャサリンというのも紛わしい。べつの名にすべきだった。
作者が全知全能の神のごとき立場に立って、登場人物のそれぞれについて心理の過程を追う直接描写が効果的か、語り手によって主人公の像を浮き上らせる間接描写がより効果的かは、いちがいにはいえない。周囲の複数の人々による千差万別の見方で主人公に逼《せま》るという「証言」的な手法もあるが、それにリアリティはあっても、人間は結局わからない、という永遠の疑問に終る(芥川龍之介「藪《やぶ》の中」)。
また主人公の妻の「証言」から、その夫の二重性格的な変化を描出する手法もある(谷崎潤一郎「友田と松永の話」)。「証言」的手法の極端なのが新聞記事のみの構成である(佐藤春夫「維納《ウイーン》殺人事件」)。だが、谷崎のはアラン・ポーの「ウィリアム・ウィルスン」に、佐藤のは同じくポーの「マリー・ロージェ事件」にその先鞭《せんべん》がある。
いずれにしても、こうした間接描写は、作者が俯瞰《ふかん》的な立場から登場人物のそれぞれの心理に立ち入り、これを解剖してゆくところから生じる非現実性が避けられて、安全で、モームも云《い》っているように「手なれた作家ならだれでもやること」ではある。
だが、「嵐が丘」の場合、「語り」の中にイザベラの長々しい手紙や彼女の打あけ話がはさまったりして、かならずしも完全な構成とはいえない。
サマセット・モームは、この構成のぎこちなさは、はじめて書いた小説だから無理はない、と云っている。
しかし、彼が、
《『嵐が丘』は他のどのような書物にも比較することができない。もし比較するとすれば、エル・グレコの偉大な絵の一つで、雷雲が厚く空を蔽うている、陰気で荒れ果てた風景の中で、丈の高い、痩《や》せ衰えた人物が数名、いずれも姿勢をねじまげ、不気味な感情の虜《とりこ》となって息を殺しているところを描いた絵が一つあるだけである。稲妻が一筋、鉛色をした空を走っているのが、場面に不可思議な恐ろしさを与えている絵が一つあるだけである。》(西川正身訳)
と書いているのは、その強烈な詩情である。
ところで、ヒースクリフの復讐とは、想う女が他の男と結婚したからか。それゆえに彼女の実家や婚家一家を全滅しようと企てたのか。それだけだとあまりに単純で、復讐も度《ど》が過ぎる。仕返しの原因はもう一つある。むしろこのほうが重要である。
それは彼が拾われてやさしく育てられたアーンショウ家の当主の死後、跡取りのヒンドリからうけるかずかずの虐待《ぎやくたい》である。使用人の身に落されたヒースクリフは、その屈辱を忍び、けっして抵抗しない。しかし彼がヒンドリから受けた「七度」の虐待の「七十倍」にも似た復讐を考えるところに力点がある(「七度の七十倍」は聖書の句。「嵐が丘」二章)。
つまり、いわれなき差別、虐待された者の怒りが「嵐が丘」のもう一つの主題となっていると思う。それは表立ってあからさまに出ていないから、どの評伝家もこの点には言及していない。
それはブロンテ一家がアイルランド人であることと無縁ではない。中世以来、アイルランドの歴史は英国による侵略と土地収奪である。十二世紀からイギリス王家はこの島の征服をおこない、エリザベス女王以来歴代王朝はアイルランド民衆の反抗を弾圧して大量の土地を没収した。その土地はイギリスの貴族、商人、地主のものとなった。とくにクロンウエルは、一六四九年にアイルランドの人口を半減させたといわれるほどの征服戦争を遂行し、さらにこの島の半分以上を没収した。
アイルランドは土地の八〇パーセント以上をイギリス人の不在地主によって占められ、多額の小作料を取られ、工業の発展をおさえられ、貧乏はその極に達した。農民はジャガイモを常食とし、泥《どろ》づくりの家に住み、樹木も燃料に使えなかった。民衆は自由を求めて何回となくイギリスに反抗したが、そのつどイギリスに弾圧され、大きな犠牲を払った。
近代に入ると、アイルランドでは一八四五年から三年間大飢饉《ききん》がつづき、四六年のイギリスの穀物法の廃止によって牧畜業の発展、土地の大経営の集中、地代の高騰《こうとう》(いずれもイギリス人による)によって多数の農民が耕作権をとりあげられ、多数の農民が海外へ移住した。
ブロンテ姉妹の父パトリック・ブロンテがアイルランドのダウン州を出てからホワースに落ちついたのは一八〇六年英国国教の僧職についてから、十四年後であった(その前はエセックスで勤めていたという)。彼は農家の十人の子の、長男として生れたというから、イギリスに抑圧され、ジャガイモを常食とする貧乏農民の、しかも子沢山の頭《かしら》息子なのに、ケンブリッジ大学の聖ジョン・カレッジを出たという。それがいかなる次第かわからない。
アイルランドの貧窮農民の子が、イギリスで社会的地位を得るには聖職者になるのがてっとり早い。他は閉め出されて、召使か下級労働者になるしかないが、僧職だといちおうの社会的地位につける。この点、日本の中世や近世社会と似ている。パトリック・ブロンテの父親が非常な無理をして息子の学費の都合をつけ、またパトリック自身も刻苦勉学して聖ジョン・カレッジを卒業したのは、ひたすら社会的地位を望んだからであろう。牧師補としてホワースの教会にきて、のちシャーロットと結婚したアーサー・ニコルズもアイルランド生れである。
しかし、いい教区はすべてイギリス人牧師が占有し、アイルランド出身の牧師の赴任先はほとんど僻地《へきち》の教会だった。その幸運を神に感謝してか、アイルランド人パトリック・ブロンテはべつにイギリスに反感も抵抗も感じなかったらしい。スコットランドに隣合う北国《きたぐに》の寒村の牧師として、妻が六児を遺《のこ》して死んだ不幸を除けば、安穏に暮していた。
アイルランドが大飢饉で、つづいて耕作権をイギリス人にとりあげられた農民が海外移住続出という一八四五年はシャーロットがブリュッセルからホワースに引きあげたが、エジェへの思慕で懊悩《おうのう》しているときであり、四六年は三姉妹が匿名《とくめい》で詩集を自費出版し、シャーロットは「ジェイン・エア」の執筆にかかり、またエミリは「嵐が丘」に、アンは「アグネス・グレイ」にそれぞれ手をつけていたときであった。四七年は、七月に「ジェイン・エア」が出版され、初版は六週間で売りつくすという大好評で、それに動かされた出版社は眠っている原稿の「嵐が丘」と「アグネス・グレイ」を十二月に同時に出版した。
こうしてみると、ホワースの牧師館の人々は、故国アイルランドの窮乏とはまるきり関係なく、春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》たる空気のなかにあったように見える。
イギリスの資本主義はアイルランドの収奪によってさらに発達した。華麗なヴィクトリア王朝の浪曼派文学全盛の蔭《かげ》にはこうしたアイルランド人の悲惨があった。
アイルランド人はイギリスの被征服民として、あるいは植民地の住民としてイギリスからあらゆる点で社会的な格差をつけられた。彼らは教育を与えられず、牛馬のように農耕に従わせられるか、イギリスに渡っても低い賃金の職業にしかつけなかった。反抗すれば牢獄《ろうごく》入りであり、一揆《いつき》を起せば反乱罪として処刑が待っていた。アイリッシュといえば、イギリス人にとって長いあいだ差別による蔑視《べつし》の対象だった。
エミリは祖国の人々のこうした抑圧された悲惨な姿を、姉や妹よりも多く感じていたろう。彼女が読んだのはバイロン、ホフマン、スコット、シラーなどの小説だけではなく、イギリスの歴史もあったであろう。また同じ年に起ったアイルランドの大飢饉や農民の大移住も、せまい海峡一つ向うの島のできごとだから当然にホワースにすぐ伝わってくる。
「嵐が丘」の初めのほうで、少年のヒースクリフが同じ年ごろのヒンドリ・アーンショウに口から血が出るほど殴られてもけっして手出しはしない話が出てくる。ヒンドリが当主となると彼はヒースクリフを奴隷《どれい》的に扱い、ちょっとしたことで云いがかりをつけ、たちまち「荒療治」するのが常だった。ヒースクリフは、当主の彼からどんな暴力的な制裁を受けようと、じっと我慢している。
この姿は、モデルといわれるエミリの兄ブランウエルには絶対に無いものだ。主人から差別され、こき使われ、打たれても蹴倒《けたお》されても、手出しできずに耐えている姿こそ長いあいだイギリスに抑圧されたアイルランド民衆を写している。エミリがそれを作品の上で意図して書いたかどうかはわからないにしても、意識の中にはあったろう。
エミリは口かずが少く、姉とも妹ともあまり話をすることもなく、孤独を好み、黙々と台所に立っていた。しかし、しんは強く、頑固《がんこ》であった。その頑固なことは、彼女が息をひきとる直前まで病人扱いにされるのを拒んだということでもわかる。
エミリは、邦訳された詩の断片を読んでみても、詩人である。「嵐が丘」が小説として構成に欠陥があろうと、これは強烈で美しい詩である。その「強烈さ」は抑圧されたアイルランド人の血が迸《ほとばし》り出たものではないか。ヒースクリフが復讐《ふくしゆう》としてアーンショウ、リントン両家の土地を次々と所有してゆくありさまは、イギリス人によって失われた土地を回復したいアイルランド民衆の願望を象徴しているように思われる。
その点、シャーロットははるかに恋愛文学的である。彼女はエミリがヒースクリフのような人物を創造したのは正しいとは思わない、と云い、またエミリを「異教徒、交霊家、神秘家」などとしてとり扱っているという(中村佐喜子・「嵐が丘」解説・旺文社文庫)。「異教徒」が何を意味するかわからないが、エミリにくらべて常識的なシャーロットには妹が理解できなかったろう。
しかし、そのシャーロットも晩年近くに「シャーリイ」という作品を書いている。これはイギリスの産業革命により織機を導入しようとする工場主と、それに反対する織工との対立抗争を描いたもので舞台は地もとのヨークシャーになっていて、時代は五〇年前にさかのぼる。シャーロットはその中で、ヒロインに亡き妹エミリをモデルにしたといわれるが、そうだとすれば、シャーロットがこの「社会小説」を書くことにめざめたのは、彼女がエミリの内部にあったものにおそまきながら気づき、それに教えられたということができるかもしれない。
「嵐が丘」を十九世紀浪曼派の恋愛小説とのみ文芸批評家や評伝家が解しているのは一面に過ぎよう。
ヨーロッパ巨石文化の展望。
九月二十四日(火)
Fytieldという小村はオックスフォードの近く。昔ながらの地主家がならぶ感じ。人の姿なし。この地方の村におよそ人影を見かけず。森閑として家がならぶのみ。ここも森林が多し。カシ、モミ、栗《くり》、楡《にれ》の類《たぐい》はあるがオークは少ない。近年、虫害で枯れつつあるという。黒ブドウの小粒なる実がなる。運転手のドナルドは自分の求める標本にと小枝を折って集めてくれる。彼はリーズでもCOLLINS GEM GUIDESの"TREES"を買い求め呉《く》れたり。
パブで小憩。隣はガソリンスタンド。トラックの三分の一くらいが寄っていく。パブを去るとき、裏口より三十くらいの女、さかんに笑顔でドナルドに手を振る。ついでに走り寄ってきてカードを渡す。街娼婦《がいしようふ》である。ドナルド、あざ笑う。ヨークシャー・リッパー事件の被害者を連想する。イーストエンドに住む入墨者のドナルドは、人殺し以外の悪事はなんでもやったと豪語する。
A420号線で、エイバリーに至る。途中、スウィンドン(Swindon)の町を通過。
ストーンサークルは台地上にあり。この石は近くのマールボロ(Marlborough)の町付近から出《い》でて、ここに運ぶ。
石質は第三紀層の砂岩(近くのサーセン山地)という。これをストーンヘンジまで運ぶ。
エイバリーのストーンサークルは、巨石というにあらず、オークニイ島の環状列石ほどにも高くもなし。高させいぜい二メートルばかり。加工はせず、ほとんど自然石のまま。ditchは浅し。四つのブリッジを持ち十字形の「アヴェニュー」(大通り)に連結している。長さ七〇〇メートルに及ぶ。幅は列石の一部残りて推定さる。この列石の五箇所の根もとから人骨出る。アヴェニューの先端に円形構造に復元でき得る柱穴あり、もとは何らかの建築物があるものと推定さる。
そこで、この柱穴を「神殿」(サンクチュアリィ)と呼び、アヴェニューを「参道」と見て、ストーンサークルを「聖域」として「宗教」施設説が行われている。されど、それがいかなる宗教かは考古学者は立入らずと云《い》う。
ソールズベリの「ローズ・アンド・クラウン」ホテルに泊まる。ソールズベリ寺院の尖塔《せんとう》を見るは三年前、朝日新聞ヨーロッパ総局の浅井泰範さんと来て以来である。そのとき泊まったホテルを眼《め》で探したが分からず。
ドナルドも「ローズ・アンド・クラウン」がわからず、通行人にたびたび道を訊《き》く。夕方の雲、斑《まだら》に残照を縁どる。旅先の行き暮れたる風景は寂し。
このホテルは旧《ふる》くて格式があるとジーナさんが云う。
九月二十五日(水)
朝七時半にホテルを出発する。
ストーンヘンジ(ストーンヘンジについては後述)より北へ向かい、ウエスト・ケネット・ロング・バロウを見に行く。昨日参観を割いた所なり。車は路上に駐車。それより先は畔道《あぜみち》を五〇〇メートルばかり徒歩。上り勾配《こうばい》。あたりは一望のゆるやかな畑。途中、木戸あり。またいで通る。動物の通過を遮《さえぎ》るためなり。それよりまた歩く。
長い塚《ロング・バロウ》の封土の長さ一〇〇メートルに及ぶ。しかし石室部分は突端部分のみ。盗掘者は錯覚して一〇〇メートルの長さのマウンドの各所を掘るという。青銅器時代という。
ミニバスの待つ道路に到着す。近くのSilbury Hillは車で周りを見ただけ。
秀麗な形の円墳なり。イギリスの高塚《たかづか》はいつごろ発生したるや。
夕刻にロンドンに帰る。
エディンバラ→ソールズベリ→ロンドンの総行程三五〇〇キロ。運転手ドナルドも始めての経験という。
九月二十六日(木)
スケルトン外交官事件のペルグラインの家を見に行く。中流(ミドル・アッパー級)階級の住宅街。ペルグラインの家のみ数日前にとり壊さる。奇妙。隣接の家はペルグラインの家と同型。Lumber roomを見上げる。外を見るに、きわめて狭し。赤煉瓦《あかれんが》建て。すでに五十年経《た》つ。
チェルシー街へ行く。某学校の守衛数人が何者かに呼び出された留守に大薬缶《やかん》に入れられた砒素《ひそ》を知らずに外から戻って飲み、次々と倒れた(死に至らず)。帝銀事件のような実話によりその学校前にて撮影。キングズ通りのアンティーク街を通り、その店奥の二階にある「咬《か》む」というコーヒーハウスに入る。マダムは四十すぎのギリシャ型の類の美人。色白く頸《くび》長き美人。メイドは南ア系の褐色《かつしよく》で髪に黄色き布《リボン》を垂る。この店は入口の左右に古着屋がならぶ。階下には版画屋がひしめく。ロンドンの旧き銅版画の複製などが多い。手洗いのある裏庭は、煉瓦塀《べい》(崩れかかっている)の向うにチェルシー街のわびしい裏を見せ、塀際《へいぎわ》に立木ならび、立木の下に草花がある。手洗いには鉄階段を降りる。トイレは小屋の中、清潔ならず。
ストラトフォード・アポン・エーボンの西二〇キロのところにある古城ウォーウィック(Warwick)に行く。クロムウエル軍に敗北せるも、徹底抗戦をしなかったため社稷《しやしよく》を存す。城内一巡。拷問《ごうもん》の室あり。図録によれば城主の居間に家宝等あるが、公開はされず。武具等を陳列。塔は巨大、城域広し。
三時半、ストラトフォード・アポン・エーボンに入る。二十数年ぶりの再訪問。シェイクスピア生家の隣は記念展示館。これが建ったのはシェイクスピア生誕四百年記念祝典で、偶然にもその日、自分は来合わせてエーボン卿《きよう》(イーデン元外相・首相)の祝辞するを群衆の中に居て眺《なが》めたことがある。
帰途、オックスフォード大学の前を通り、イーデンを後継者に指名したウインストン・チャーチルの生家(広大なる館《やかた》)の前を通過、ロンドンに帰る。チャーチルは「ドルイド教団」のメンバーだったとの風聞。インター・コンチネンタル・ホテル着六時。昨日も今日も天気はインディアン・サマーである。人々初夏の姿で歩く。
九月二十七日(金)
朝十時半、ケンブリッジに向う。この日も晴。ケンブリッジまでは九〇キロ。
午後一時、市内の指定レストラン前に行く。表に白鳥の看板あり。ジーナさんが待つ。
テーブルに、G・ダニエル博士夫妻、アラン・サヴィル、佐原氏着く。通訳リタさん。昼食。ダニエル博士は七十歳。年齢よりは老《ふ》けて見える。やや肥満。白髪《しらが》多く、赭顔《あからがお》、夫人はでっぷりとした落付き型。夫妻とも素気なし。あとで聞けば、博士は「恐妻型」なりと。リタさんの才気煥発《かんぱつ》の通訳の前にはジーナさんもたどたどし。自分が日本語で発言中、博士が隣のアランと私語するはやや不愉快だった。
博士はフランスに旅行し、次にイタリアに行くというはみな遊び。悠々《ゆうゆう》自適、ケンブリッジの教授を退官し、イギリス考古学界の一方のボス(会長等の名誉職)。アラン・サヴィルによればダニエルの知識はすでに古く、同席の観察者によれば対談中女房が退屈するのを慴《おそ》ると。
ダニエルは、その著「メガリス」(巨石墓)の中で述ぶ。メガリスの発生は東地中海であり、それはミノス人によって行われ、彼らが交易によってエーゲ海からスペイン、ポルトガル、(ひいてはアイルランド、イギリス主島、オークニイ島、シェトランド島、南下してフランスのカルナック海岸)にこの風習を運んだ。ミノス人のあとにフェニキア人がつづき、そのあとをギリシャ人がつづいた。
《私たちが知る古代史最初の航海者はミノス人であるが、彼らは地中海文化においてギリシャ人やフェニキア人に先んじていた。西欧の集葬墓建造の多様で複雑な発達に点火した火の粉の最初が、東方から中部および西部地中海へのミノス人やエーゲ人の到来であったことはほぼ確実である》
ダニエルはこの自説による「旧説」をかんたんに崩した。その理由はカーボン測定値である。ヨーロッパの考古学者のカーボン測定値に対する信頼度は異常なほどの高さにある。たとえ「C」の表示に小文字《スモール》を使用して疑問の存在をあらわすといえども、絶対に近い信頼をその数字に置く限り、「存疑」の表示は意味をなさず。
ダニエルがまたメガリスの起源をミノス人の東地中海よりアイルランドのニューグレンジに転換したのは、まったくカーボン測定の結果である。ニューグレンジの土地(遺跡)に含まれている有機物のカーボン測定の比較結果は、ギリシャのクレタ島のミノア遺跡よりも古代に属するのではないか、と自分が質問すると、それが唯一《ゆいいつ》の理由だと博士は答える。
しからばアイルランド人、もしくはニューグレンジ人はいかなる「交易」を持ち、「航海」路をひろげたかと自分が訊くと博士に解答なし。
《いっぽう石室をもたない巨石建造物のほとんどは、墓ではなくて『神殿』、慎重な言い方をすれば居住や埋葬を目的としない祭祀《さいし》的ないし聖所的遺跡である》
エイバリーでは環状列石からも「テンプル」跡からも人骨は出なかったが、サークル外の参道(アヴェニュー)の孔列には五体の人骨が発掘された。もしこれが築造当時のものとすれば、アヴェニューもサークル全体の一つであるから、「神殿」でも「聖所」でもなく、半ば墓所の性格となる。しかし、ダニエル博士は、その判定は困難と答える。
《また『神殿』と通常呼ばれている地中海のマルタ島やゴゾー島(マルタ島の北隣の小島)の巨大建造物が実際は墓であるのか聖所であるのかについて問題がないというのも正しくない。要は、埋葬用石室と巨石聖所とを区別するのが有益》という。
リタさんによる通訳を挿《はさ》んでの三時間の対談は短かった。せめて食事無し、茶だけの対談にすべし。ダニエル夫人を席から除外すべきものを。
メガリスが地中海、北海(スカンジナビヤ、オランダ、英国のスコットランド)、大西洋(アイルランド、フランスのカルナック地方)にかけて海岸に分布せるは、アイルランドのニューグレンジよりの伝播《でんぱ》なり。それより内陸深くに入らざるは当時の人口稀少《きしよう》による。いまの巨石遺跡ある場所も当時は海岸であった。その後、沖積地の発達で内陸寄りとなる。
《巨石墓建造者が探していた物資の一つは金属だったと考えるが、その点では彼らを探鉱者とみなしたベリーとエリオット・スミスは正しかった。彼らの集落がアルメニア、アイルランド、アングルシー、ブルターニュ南部に営まれた理由はたしかにここにある、と考えるヨーロッパの先史学者もいる》
ダニエル博士夫妻とレストランで別れる。リタさんの思いつきで、前の青空市場の花屋にジーナさんに贈呈する花を買いに行く。よき花なし。三ポンドくらいで一かかえする花揃《そろ》う。レストランで待つジーナさんに、一同の謝意として贈呈する。ジーナさん泪《なみだ》ぐみ、ハンカチで拭《ふ》く。
なお、ダニエル博士は探偵《たんてい》小説を構想していると佐原氏云《い》う。聞くに、ロンドン在住の双生児の兄がアメリカに渡って犯罪をなし、顔も声も瓜《うり》二つの弟がその間にロンドンに居て、兄になりすましアリバイをつくるという筋らしい。
それは最も陳腐にして拙劣なアリバイ小説なり、博士の名誉のために執筆を延期せられたしと佐原氏に伝言を托《たく》す。
右の「神殿」また「聖所」についてどのような「宗教」があるかと考えるとき、ケルト人の信仰が浮ばないだろうか。
古代ケルト人の宗教は、体系づけられるほどにはわかっていない。それは現在ケルト人の子孫がいちばん濃厚に遺《のこ》っているアイルランドと英国のスコットランド、ウエールズ地方の神話を採集した結果である程度その輪廓《りんかく》を描くことができる。だが、それも百科辞典の一ページ以上の知識を出ることはない。
ケルト人は文字を持たず、伝承はすべて口伝で継承された。記憶だけの伝承は、ヨーロッパ各地でケルト人の混血が行われるにしたがって、その体質までまったく違ったものに変化した。カエサルの『ガリア戦記』にはケルト人は金髪、碧眼《へきがん》の人種として描かれているが、いまのケルト系の人々は黒い髪と茶色い眼である。彼らの神話もその漂泊によってそれぞれの地方の神話が混入し、その純粋性は求め得られなくなっている。
ケルト人は前三〇〇〇年に起原をもち、前二〇〇〇年ごろには高度な文化を持っていたことが知られている。かれらは共同の文化、共同の言語、共同の生産に従い、共同の戦闘組織力を持っていたといわれている。
かれらの本拠はオーストリアの中部で、ザルツブルクの南東の湖岸で岩塩の鉱山を持ち、この塩を求めてくる近隣諸域と交易した。しかし、ギリシャやローマの文化の外にあったので、アルプスの向う側にいる野蛮人(化外の民族)だといわれた。彼らのひろがりは、ユーゴースラヴィア、チェコスロヴァキア、ポーランドの西部、ドイツ南部、スイス、フランスなどの遺跡に見られる。
ハルシュタット文化は青銅器時代終末期から鉄器時代の初めだが、それをうけついだ次のラ・テーヌ文化は鉄器時代の〓期で、やはりケルト人の文化が濃厚だとされている。
かれらは鉄製の武器、黄金製の装身具、鉄製の戦車を持って戦力にすぐれていたことが発掘品などから知られているが、その大きな特徴は死者を火葬にすることと、墓所を高塚にすることとである。
――ケルト系の伝承によると、死者は別の世界へ永遠に去ったのではなく、長い人生行路の中で大休止をとっているだけだという考えがある。その休息が済むと、かれらはふたたび活動し、現世界の中に戻ってくるか、または隣の別荘地のような楽園で暮している、と信じられている。その楽園はときに海の底であったりする。ケルト人の子孫の分布の濃いアイルランドの神話にはそういうのがある。
ケルト系の民族は前も云うとおりアイルランド、スコットランド、ウエールズに多いが、アイルランドの南部にはケルト語系のゲール語が民族語として話され、英語では理解されにくい。
これをアイルランドでは長いあいだイングランドに対する抵抗の武器にしてきたほどである。アイルランド共和国と対《むか》い合うウエールズでも民族語が話され標準英語を拒否してきた。
ローマ軍によって蹴散《けち》らされたケルト人はヨーロッパのいたるところを漂泊して諸所に定着した。ヨーロッパの地名でケルト語に因縁のあるものはどれだけあるかしれないし、その風習にもケルトの欠片《かけら》がはめこまれているという。ヨーロッパはケルト人がつくったといってもよいと極言する学者すらある。かれらはアメリカにも渡っている(アイルランド人のボストン移住)。
――ウエールズの南に隣り合うソールズベリ平野には、多数の巨石建造物が蝟集《いしゆう》している。その中のエイバリーとストーンヘンジに自分たちは行ったわけだが、一般の日本人旅行者はストーンヘンジには気楽に出かけても、エイバリーのストーンサークルまではめったに行かない。また一般書もエイバリーのことは載せていない。
ストーンサークルの広さでは前二三〇〇年紀建造というエイバリーは、おそらくヨーロッパ随一であろう。前にもふれたが、ここに角度を変えてもう一度書く。
サークルの土堤の内側にならべられた列石の円周の中は約二エーカー、直径二・四キロメートル、列石の数は約一二〇個と推定されている。遺っているオリジナルの石が少いからだ。
これを外周にして、中に二つの小形のストーンサークルが南北にならんでいる。これもサークルの列石がほとんど失われている。
二つのサークルの中心には「神殿」と呼ばれる石があるだけである。竪穴《たてあな》式の墓室ではない。外周の大サークルは二つの小サークルを避けて四方に道がつけられ、そのうち二つの交通路は長く延びていて両側に二列の石がならんでいる。「参道」という名で呼ばれているが、人骨がはじめてこの「参道」のわきから発掘された。
このエイバリーのストーンサークルの建設者を前二〇〇〇年紀のケルト人にしてもそれほど見当違いではあるまい。自分はそう思う。
エイバリーから南三キロのところにストーンヘンジがある。エイバリーよりすこし後に建造された。
ストーンヘンジに現存する円形の石造建造物(三重のストーンサークルになっている)のほかに、〓期のサークルと外堤との間にまた三重の環状の孔《あな》の列が遺存している。この孔列によって、曾《か》って同じような環状列石がめぐらされていたであろうと考えられている。そうなるとストーンヘンジの遺構はもっともっと巨大なものであったろう。
それよりもわれらの興味をひくのは、その孔列の一部に火葬骨が埋葬されていたことである。
いわゆるストーンサークルが「聖所」なのか「墓所」なのかは学界でも長いあいだ問題になっていたが、孔列の一部に火葬骨が埋納されていることで「墓所」であることが、少くとも墓の性格が濃厚であることが示された。
ストーンヘンジには、もう一つ有名になっている性格がある。それはサークルから東北方にあたってあるヒールストーンとよばれる立石《たていし》が、ストーンサークルの中心点とともに天体観測の機構になっていることである。「すなわち夏至《げし》の太陽がヒールストンを通って環石群中央の祭壇石を照射したものと考えた。この年代についても、今日の太陽の照射方向とこの主軸との差から天文学的に逆算して、前1840±200年という数字が出ており、これは近年放射性炭素測定法によって出された前1848±275年という数値ともほぼ一致している点が注目されている」(平凡社版「世界大百科事典」=樋口隆康《ひぐちたかやす》)となる。
ところが、これを夏至の観測だけにとどめないで、月食・日食まで予知したとする説が一部で強く主張されている。
夏至の太陽の観測ならともかく、食《しよく》の観測となると精密な天文学的知識が必要となってくる。現代の考古学者や天文学者の多くは、この考えにバカげたことだと反対した。前二〇〇〇年紀の人間にそんな知恵があろうはずはないというのである。以前は、ストーンヘンジは古代ケルト人の信仰するドルイド教のような宗教の神殿だと思われていたものだった。
フレッド・ホイル(元ケンブリッジ大学教授)はストーンヘンジを日食・月食を予知する設備だったと主張する第一人者だった。彼は一般向に書いたその著「ストーンヘンジ―天文学と考古学」(荒井喬《あらいたかし》訳)で理論を述べているが、訳者荒井氏の「あとがき」を見る。
月の交点(天球上における太陽と月の軌道が交わる二点)は一八・六一年で天球を一めぐりし、この周期が食の予知にとって重要な意味をもつ。この周期の三倍(18.61×3=55.83)がオーブリー穴の数五六に近いことからホーキンズはストーンヘンジが食を予知する装置だったとする説に導かれたのである。しかし、五六個のオーブリー穴が五六年周期を数えるためのものだったとするホーキンズの解釈は説得力に欠ける。周期を数えるためだけであれば、大がかりなオーブリー・サークルを築造する必要は必ずしもないからである。ホイルは、この周期の存在を前提とすることなく、ストーンヘンジでどのように食の予知がなされたかを具体的手順にもとづいて解説している(第5章)。
ホーキンズの解釈とは逆に、ホイルは、食周期が知られるにおよんだがためにストーンヘンジはいわば無用の長物と化し、したがって人類のこの偉業が歴史の記録に形をとどめなかったのではないかと指摘している。
ストーンヘンジの巨大な石造建築物は無用の長物!
日食・月食の予知のためだったらもっと簡単な設備で済むのに、ストーンヘンジの壮大な円形石組みはまったくこけ威《おど》しな装置になる。
四トンも五トンもある石を何十本も遠くから山越え野越えて、入江を渡って人力で運んできて機具一つ使わずにサークルに組み立てた知恵と労力は、まったくナンセンスなことになる。
だが前二〇〇〇年紀の建設者は、そんなことはまるきり無知で、〓期・〓期・〓期とサークルの増設工事をつづけたのだろうか。
ストーンヘンジの遺構はどうみても独立した宗教的な殿堂である。それが「神殿」か「墓所」かの判定は困難だが、その判定材料は人骨の有無にあるとダニエルは云った。
彼はエイバリーのストーンサークル内や「神殿」には人骨はなかったが、域外の参道の列石の下に人骨があったから大きな意味でエイバリーは墓所だと判定した。
ストーンヘンジの孔所には火葬骨があった。してみれば、この壮大な神殿は墓所であったのだ。火葬の風習を持つ民族。――ストーンヘンジが夏至の太陽を観測する場所という説が出る以前に、ここが古代ケルト人の信仰する「ドルイド教」的な神殿だったという説があったのを想起したい。前二〇〇〇年というのもケルト人がここへ移住した頃《ころ》と一致しよう。
信仰の場所だからこそ、建設者はここに重い石材を想像もつかぬ方法で、北方の山地から人海作戦で運搬してきたのだ。あらゆる労苦で巨石群を地上に立て、サークルをつくり、上に横石をさしわたした。すべて信仰の力である。
ヒールストーンと後世で名づけられた立石をサークルの外に置いてそこから昇る日の出を拝んだのは太陽崇拝からであろう。
それがのちにサークルの中心にある「拝壇」の石と結んで夏至の観測説に偶然にも重なって、ほんらいの「墓所」の観念が忘れられてしまったのであろう。
だが、この巨石建造物をケルト人の古代宗教ドルイド信仰による聖所と見るなら、無用の長物どころか、天体観測所を兼ねた空前絶後の素晴しい「神殿」ということになる。
ケルト人は古代ヨーロッパの中部と西部に住んでいたが、その起原はよくわからないながらも前二千年紀にはいまのオーストリア地方を中心にケルト人世界が形成されたらしい。紀元前一世紀ごろケルト人の居住地の大部分はローマ人に占領され、その後もゲルマン人の圧迫を受け、僻地《へきち》へ移動させられた。紀元前八世紀ごろのケルト人はマルヌ川の上流とライン川の上流との間に住み、墳墓は高塚《たかづか》をきずき、火葬式にした。初期鉄器時代になると岩塩の塩坑山を開発し、近隣各地域とはこの塩の交易で経済と文化が栄えた。
ドルイド教の司祭階級は民衆階級に対して絶大な権力をもち、あらゆる精神文化を担《にな》い、青少年の教育者であり、公共生活の指導者であった。その宗教行事は人身御供《ひとみごくう》を含み、また政治秘密結社の中心になる危険があるので、ローマ人はこれを禁じた。キリスト教時代に入ると、この中に魔法使を見て弾圧した。(百科事典)
だが、ケルト民話やその神話は素朴《そぼく》なもので、日本の浦島伝説を思わせるものがある。
ドルイドのことははっきりしないが、どの原始宗教とも同じく多神教である。ドルイドとは「司祭であり、予言者、裁判官、妖術者《ようじゆつしや》として絶大な権威を持ち、魂の『輪廻《りんね》』を信じ、植物とくに寄生《やどり》木《ぎ》に対して神秘的な畏敬《いけい》を抱いて、毎年一回、森林の中で催される大集会の際、ドルイドの長が黄金の鉤鎌でそれを植える習慣があった」という歌劇「ノルマ」の解説もある。
ケルト人が、ストーンヘンジやエイバリーなど巨石建造物の建設者とは考えられない。巨石遺構は北欧のジーランド島からスコットランドのオークニイ島、イングランドの西南部にあるソールズベリ平原、ならびにアイルランドにかけて散在しているので、巨石文化の担い手は紀元前二〇〇〇年ごろに海辺や川沿いに住む人々であったろう。それを後来のケルト人(かれらは先住者としだいに混血した)がかれらの宗教施設として利用できるものは利用したと思われる。著名な英国の考古学者ゴードン・チャイルドは、そのようなケルト人を「巨石聖徒」と、その著『ヨーロッパ社会の先史』のなかでよんでいる。(グリン・ダニエル『メガリス』。近藤義郎《こんどうよしろう》・中山俊紀《なかやまとしき》訳)
フレッド・ホイルは、こうした食の予知設備が急に完成した形でここに現われたとは思われず、その前に準備段階ともいえる設備がヨーロッパのどこかにあるはずだが、そこを探すとなれば広域に過ぎて発見は容易でないと述べる。
今年(一九八九年)の六月、自分はアイルランドのダブリンに近いニューグレンジの石積塚を訪れた。スコットランドの離島オークニイのメーズ・ホウの円墳とよく比較されるこの巨大な石積塚の正面入口の約一メートル半上には矩形《くけい》の窓が開いており、外光が採り入れられるようになっている。
その外光は、墓道の中(両側は一枚石の列石で、人がひとりやっと通れるくらいの幅)を通り、奥室に達したとき、そこの祭壇石の上を照射するようになっている。真暗な墓道の中と奥室に射《さ》しこむ一条の光はまるで舞台の照明のようで神秘的であった。祭壇から入口上の窓を結ぶ光線は冬至の観測だとダブリンの考古学者は説明した。
しかし、ニューグレンジはストーンヘンジよりは建造の時代が下るのではないかと思われ、そうだとすればフレッド・ホイルの参考にはならないだろう。
ニューグレンジの石積塚の列石にはみごとな渦巻文《うずまきもん》がびっしりと彫刻されている。ここには、オークニイ島のメーズ・ホウでは破壊された穹窿《きゆうりゆう》形の持送り式天井が遺《のこ》っている。そこにも渦巻文がある。正面入口の前にもある。
(こうした渦巻文の浮彫りは、中西部フランスのカルナック地方モルビアン湾上に浮ぶ小島カヴリニスの石積塚の墓道と玄室で見たのと同じである。)
フレッド・ホイルの「突然完成した形で現われる前に、準備段階がどこかにあるはずだ」という言葉に関連してだが、日本でとつぜんに完成した形で出現したものに前方後円墳がある。
その発達に形の変遷《へんせん》はあっても、設計図にもとづいて土盛りの工事をしたことは確かである。その基本は左右対称である。変化といえば前方部の形と、高度だけである。
専門家は所要の材料(土砂・木材の量)、作業員の人数、所要日数などを計算するが、だれが「方眼紙」にコンパスで描き、カラス口を引いたかに想《おも》い到《いた》らない。しかも、一つとして、準備段階の作品、やり損いの作品が見つかっていないのである。
丘尾切断説などはヒントではあって、創造ではない。
昭和六十年五月二十九日(水)
十八時四十分羽田空港発熊本行。
県下の装飾古墳めぐり。天草島近くの長砂連《ながざれ》古墳(直弧文)まで行く。
先日(五月二十七日)死去した原田大六氏の追悼記事を朝日新聞西部本社はやらぬ由《よし》。読売もいまのところその様子見えず。西日本新聞はこれまでの関係上特集するかもしれぬとのこと。
原田氏の考古学の唯一《ゆいいつ》の師は九州大学医学部病理学の教授の中山平次郎(一八七一―一九六一)で、中山は病理学者だが九州北部の弥生《やよい》時代の土器や遺跡の研究をつづけ、その研究論文の発表は二百篇の多きに達した。しかし、中山は病理学者というハンディキャップから専門分野から正統派の考古学者としての扱いは受けられなかった。
原田大六は中山史学を受けつぐと云《い》っていたが、それは師の孤立した立場を継承することでもあった。郷里の糸島中学を出たにすぎない彼は、九大の考古学教室の人々に「敵愾心《てきがいしん》」を燃やした。町工場に通い、旋盤工や製図工をしながら考古学を勉強した。小林行雄氏が伝世の古鏡に「手ずれ」があると書いたのを、それは「湯冷え」だと批判し、小林氏を沈黙せしめたのも工員の経験からである。破砕された出土鏡の復元図が巧みだったのも製図工だったからである。
魏志倭人伝《ぎしわじんでん》の伊都《いと》国の跡といわれる前原町三雲遺跡に近い平原の鑓溝《やりみぞ》遺跡をほとんど独力で発掘したのは原田氏最大の功績である。
この遺跡からは直径四六・五センチの巨大な〓《ぼう》製内行花文鏡を得た。内行花文の周囲を同心円文がとりまいてひろがるだけの単純なものだが、原田氏はこの「日本一の大鏡」を「伊勢神宮の八咫《やた》の鏡」との関連で考えている。
原田氏は自宅の庭に収蔵庫を新築し、これらの発掘品を収めた。巷間《こうかん》伝えるところによると、県教委や町教委が公共物であるとの理由で発掘品の引渡しを要求にくると、原田氏は仁王立ちとなり、目の前で日本一の大鏡を粉々にうち砕いてやると両手に持って構えたという。
《わたしは、かつて、福岡県沖ノ島祭祀《さいし》遺跡から出土した鏡を調べたときに、鏡の寸法を記録するのに考古学ではその径を測定するだけでこと足れりとしているが、これは鏡の実感にほど遠いことを指摘した。なぜならば、径一〇センチの鏡と径二七センチの鏡は、径の差だけならば三倍にもならぬが、重量にすれば一一五グラムに対して一キロ五三五グラムであって、約十三倍にもなるからである。銅は高価な金属だったのであるから重量で見なければならぬと注意をうながしておいた。》(「実在した神話」)
自分はこれを読み、なるほど、と思った。ちょっと人が気づかないことである。なお「沖の島」の調査団に原田氏は昭和三十二年八月、三十三年八月と二回参加し、調査報告書に執筆している。
原田大六は九大はいうにおよばず、東大系、京大系の「官学」の学者らとはだれとも妥協しなかった。というよりは、これらの学者たちのほとんどが原田氏を黙殺したから、彼のほうから咬《か》みついたといったほうが当っていよう。
例えば井上光貞《いのうえみつさだ》(当時東大教授=古代史)には「二百のウソがある」と発表した。上田正昭(京大教授=同上)には「三百のウソがある」と書いた。その筆のとばっちりでこっちまで巻き添えを受け「松本清張には五百のウソがある」と攻撃した。
しかし、原田氏は根は気の小さい人だと思う。
原田大六は、装飾壁画に、舟に鳥を乗せた図があるが、あれは大海で舟が航路を見失って漂流したとき、鳥を放つと鳥は陸地をめざして飛ぶから一種の方向探知機だと書いた(「磐井《いわい》の反乱」)。その考えは卓見だと感心した。
しかし、装飾古墳に多い蕨手《わらびで》文様(筑前王塚など)を時化《し け》の波頭と解釈したのはどうかと思う。
原田氏は容貌魁偉《ようぼうかいい》、短躯方箱《たんくほうしよう》の如《ごと》き体格であった。わたしは、この「伊都国王」を二回ほど訪問したことがあるが、根は底ぬけに気のいい人だった。孤立無援、狷介不羈《けんかいふき》なる原田氏にも門下生が居て、氏の六十歳時に「原田大六先生還暦記念論文集」が編まれたのは、慶賀に堪えなかった。
運不運 わが小説
息子の本屋の主催でここに参りまして、どうも変なぐあいです。いつもご愛顧いただいてありがとうございます。
ならべられてあるのは、わたしのこれまでの仕事の展示ですが、まことに貧弱で恥しい次第でございます。
わたしは、元来、小説家になるつもりはございませんでした。偶然のことからこの道に入ったのであります。昭和二十四、五年ごろのこと、ふとしたことから、当時、朝日新聞西部本社、九州小倉にございますが、社内の資料調査室に備えられた冨山房《ふざんぼう》の百科辞典で調べることがあってその項目を見ておりますと、その対ページに西郷札というのが出ておりました。これはサイゴウフダではなく、サイゴウサツと読みます。
それは、明治十年、西郷隆盛の薩摩《さつま》軍が政府軍に敗れて、熊本城の包囲を解いて、日向《ひゆうが》(宮崎県)に走り、延岡にひとまず再挙の根拠地を置いた。ところが薩摩軍は物資を調達するのに軍票をつくった。一円札、五円札、十円札を発行した。それは、西郷軍のお札であるから世に西郷札という、との説明でありました。そのときはそのまま読み捨てに終ったのです。
ところが、それから半年ばかりしまして、「週刊朝日」が「百万人の小説」という懸賞小説を募集しました。当選作が三十万円、次席が二十万円で二人、三席が十万円で三人でした。当時としては破格な懸賞金でした。わたしはこれに応募してみたんです。まあ、小説というものを若いころ、二十二、三歳のころに仲間といっしょに同人雑誌をつくって三作ぐらい書いたが、それっきりやめてしまった。その後は、日本は大変な時代に入り、戦争になったりして、そういう文学志望とは縁を切りました。
で、この懸賞小説募集ですが、前に読んだ百科辞典の西郷札のことが頭に浮かびました。西郷札の解説記事にはその続きがありまして、土地の宮崎県の人々は、西南戦争の終ったあと西郷札という不換紙幣によって物資を西郷軍により徴発されたのであるから、明治政府に西郷札の買い上げ要求の請願運動をした。けれども、明治政府は、賊軍が発行した軍票であるから一切の補償を断わった。ために宮崎地方は倒産者が続出したという説明があります。
わたしはそれを見て、これは戦後の風潮とどこか似ていると思いました。ヤミ屋が横行し、ヤミで儲《もう》けた奴《やつ》が投機屋になる。投機屋は政治家と結託する。その見込み投機によって大儲けする者もいれば、見込み違いで一夜にして倒れる者もいる。そういう風潮と似ていると思った。そこで、わたしは『西郷札』という題で、勤めから帰りまして、書いて応募したのであります。それは三席のビリに入りました。二席には南條範夫《なんじようのりお》、五味川純平君が入っています。
そういうことがきっかけで、幸いに、ビリの入選ではありましたけれども活字になりました。もしそれが活字にならなかった場合は、わたしの運はなかったと思います。
それというのも冨山房の百科辞典を見たおかげです。冨山房の百科辞典というのは古書店にもいまはあまり見かけない。装幀《そうてい》がきれいでした。新聞社の資料調査室というのは編集局のためにあるのであって、業務局のためではない。だから広告部のわたしがそれを閲覧に行くと係の人にあまりいい顔をされなかったものです。わたしは東京に出てからその冨山房の百科辞典を記念に買い、いまでも所蔵しています。
活字になったから、それが読者の目に触れて、そして、例えば、大佛《おさらぎ》次郎《じろう》さんとか、吉川英治さんとか長谷川伸さんとかいう人たちから賛辞の手紙をもらったのであります。
大佛さんのは、自分はいろいろな懸賞小説の選考委員をしているけれども、なかなかこれほどのものはないという文面でした。その言葉に激励されたのです。
では、そんな傑作(?)がなぜ一等にならなかったかというと、締切日が過ぎて応募したからです。なんでも十日ぐらい過ぎていたように思います。今から原稿を送りたいが受け付けてくれるかと、朝日西部本社の便箋《びんせん》で書いて問い合せたんです。これで松本という応募者は社内の人間だとわかって、社内のヤツを当選作にしては外部の聞えが悪いという配慮からビリにしてしまったということです。そのかわり、原稿が面白いから「週刊朝日別冊」に載せてやろうということになった。そのときの編集長は高山毅《つよし》さんという人です。この人の名前は忘れられません。挿絵《さしえ》は、大家の原稿なみに岩田専太郎さんでした。後年、岩専さんとどこかで会ったとき、あの小説は面白かったよといってくれました。岩専さんは挿絵を描《か》く上でいろいろ小説を原稿で読ませられているので、面白くない小説は画《え》を描く気がしないと云っていました。
当時、わたしは小説を本気に書くつもりはなかった。懸賞のお金が欲しかったんです。当時、戦後の混乱で、社の給料だけではとってもやっていけない。わたしには家族が両親とともに六人居《お》りました。つまり、暮らすための幾らかの手段として懸賞金が欲しかった。まことに志の低い話です。
それから、さらに懸賞小説はないかと西部劇にある懸賞金狙《ねら》いみたいな気持でしたが、そううまい話はない。すると、当時、「三田文学」の編集長を林髞《はやしたかし》、ペンネームを木々高太郎さんがやっておられた。九州には火野葦平《ひのあしへい》さんがおられて「九州文学」をやっていたけれども、わたしは「九州文学」の人たちとはあんまりなじみがなかったものですから、直接、木々さんに小倉から手紙を出して、そして「三田文学」に縁ができた。初めは『火の記憶』というのを載せてもらった。つづいてアトを送れというので『或《あ》る「小倉日記」伝』を送り、載せてもらいました。これは誤植で作者の名前が情張になっていた。上京したとき編集の熊谷さんという女性は申しわけないと謝りました。しかし誤植で縁起がよかったのかもしれません。
☆昭和二十八年の暮にわたしは朝日新聞東京本社業務局広告部勤務となって出京した。目黒区祐天寺《ゆうてんじ》の木々高太郎氏の宅をしばしば訪問するようになり、木々氏はどういうつもりか、わたしを「三田文学」の編集委員にされた。ほかに和田芳恵さんが「任命」された。和田さんも慶応とは縁もゆかりもない。そのころ「三田文学」を長くみてこられた佐藤春夫氏と木々氏とのあいだが険悪であった。原因はいまもってはっきりわからないが、どうやら「三田文学」の編集方針が木々先生の独断専行の傾向にあるというのを佐藤氏が憤られたらしい。そういえば和田さんとわたしの編集委員は木々氏の「独断専行」といえそうである。
なお、右に名の出てくる編集部の熊谷さんは佐藤氏の小説『日照雨《そ ば え》』の女性ではない。
編集委員の下に編集実行委員(という名だったと思うが、はっきり憶《おぼ》えていない)が四人置かれていた。山川方夫《やまかわまさお》、田久保英夫《たくぼひでお》、江藤淳《えとうじゆん》、林峻一郎《はやししゆんいちろう》の諸氏で、いずれも慶応出の若手だった。この四人の顔が揃《そろ》ったところをわたしは見たことはないが、山川さんに何かの機会に遇《あ》ったとき、立話で「すごいストリーテラーがあらわれましたな」とわたしのことを云った。山川さんは惜しいことに交通事故で若くして亡《な》くなられたが、山川さんの遺作を読むと、この人こそストリーテラー的な要素があったと思う。
この四人の編集実行委員(?)は木々氏の指名と思うが、その眼力の違《たが》わなかったことは現在の声名が証明している。木々氏の子息林峻一郎さんは、慶応医科の出身だけに精神科医としてチリに勤務され、帰国されて北里医科大学の教授になられたが、好随筆や立派な訳書がある。「小説はいつでも書ける。まず名医になってから」と木々氏と若き峻一郎さんとを囲む小さな集りで、辰野隆《たつのゆたか》氏が述べられた言葉がわたしの耳に残っている。
ついでに書くと、木々氏と佐藤春夫氏との間はそんなふうに穏やかでなかったが、わたしはこだわらずに文京区関口台町の坂を上って佐藤先生のお宅の中国風の門をくぐり三度くらいだか訪問した。先生はいつも大きな煖炉《だんろ》の前に大きな身体《からだ》をガウンに包み胡坐《あぐら》をかいてすわっておられた。昭和三十年一月元旦《がんたん》にお訪ねすると、去年の秋、阿蘇《あそ》山に登ったが、阿蘇山は富士山や浅間山のような単純な形の火山ではない、阿蘇山と同じに佐藤文学も複成火山だからな、難解だよ、凡庸な批評家の理解するところでない、と厚い眼蓋《まぶた》を垂れて云われた。
この元日の朝の訪問には先生もいささか面喰《めんくら》われたらしい。千代子夫人はいそいで屠蘇《とそ》の盃《さかずき》を出された。また、別の日、わたしは先生の作では『美しい町』が好きです、と云うと、あれを賞《ほ》めてくれたのは、きみと息子だけだと云って莞爾《かんじ》とされた。
元旦の訪問でもわかるように、わたしは九州から出てきたばかりのイナカ者であった。まだ芥川賞《あくたがわしよう》にならない前に、「三田文学」に前記の『火の記憶』が載った号に和田芳恵さんの『暗い血』が掲載されていた。それを読んで、こんなうまい小説を書く人が中央に居る以上、自分などはとうていダメだとすっかり自信喪失したものだ。
西部本社調査部に安田満さんという知り合いの人がいて、東京本社に研修に行くというので、その人にたのんで和田さんに東京での『火の記憶』の反響を聞いてもらうことにした。安田さんは四週間の研修を終って小倉に帰社した。和田芳恵さんはたいへん親切な人だね、じつに、こまめにいろいろな人に聞いてくれたね、また文壇の交際の広いのにはびっくりしたね、と報告してくれた。
『或る「小倉日記」伝』は、最初は直木賞委員会にかけられました。そのころは直木賞委員会と芥川賞委員会は別の日に開かれていた、今は同じ日ですけど。直木賞委員会では、委員の永井龍男《ながいたつお》さんが、この候補作は芥川賞委員会にかけたらどうかということで、数日後に芥川賞委員会にそれが回された。
もし今のように、直木賞委員会と芥川賞委員会が同日の晩に開かれたならば、わたしの運はなかったでしょう。
二日後に開かれた芥川賞選考委員会に私の『或る「小倉日記」伝』がかけられた。それを選考委員の坂口安吾《さかぐちあんご》さんが読んで、「これは、伝記物であるから静かな落ちついた筆であるけれども、まるで犯人を追う探偵《たんてい》のごとき追跡力のある文章である」と選後評で褒《ほ》めてくれました。その発言で芥川賞に決まったようです。ほかの選考委員の方々もそれに賛成してくれたんでしょうけれども、もし坂口さんが積極的に推薦してくれなかったならばどうなったかわからない。
☆芥川賞をもらったとき、わたしは東京転勤を広告部長に希望した。部長は業務局長に話し、業務局長は文芸がわかりそうな編集局長に相談した。編集局長は「あいつの『或る「小倉日記」伝』は一読した。あれは探訪記事と同じで、足で書いた小説だ。東京に行って小説を書いても本人が苦労するばかりだから、いまのままでよかろう」と答えたという。『或る「小倉日記」伝』の田上耕作は実名だが、彼が集めたという鴎外《おうがい》の小倉時代の行動記録は何も残っていない。あれは全部わたしの創作である。と、そんなことを云い立ててもはじまらないから黙っていた。そのかわり辞表を出すから、東京の広告代理店に紹介してもらえないだろうかという相談に切りかえた。そうまで云うなら、と業務局長も広告部長も折れてくれた。
しかし、組織は員数制である。西部本社の広告部から一人減るとなると、その補充がなければならない。その補充ができない限りわたしの転勤は実現不可能である。さいわい東京本社広告部員で、九州に郷里のある人が西部本社に転勤の意志をもっていた。かくて受賞後約二年間の遅れはあったが、東京転勤が実現した。東京本社から西部本社へ移りたい人が居た。――ここにもわたしに運が働いた。
東京本社広告部にきてみると、わたしの職場は本社前の大通りを隔てた真向いの小路《こうじ》を入った別館(いま朝日広告社になっている)であった。ある日、その窓から対面を見ると、料理屋の玄関前に「武田繁太郎《たけだしげたろう》君芥川賞候補記念祝賀会」という立看板があった。武田さんは、たしか生野《いくの》銀山の挙兵を題材にして芥川賞候補になったが、前評判にもかかわらず惜しくも賞を逸したように思う。
わたしはこの立看板を見て芥川賞の「偉力」を眼前にまざまざと知った。「候補」になってすらも友人、知人らが料理屋に集まって「祝賀会」を開いてくれるのである。
もちろん、わたしたちが受賞したころは華々しい祝賀会は何一つなく、それが華麗な行事となったのは周知のように石原慎太郎さんの受賞以後です。
だから武田さんの「候補祝賀会」は一に武田さんの交遊の広さによるのであろう。
東京に、ぽっと出たわたしは友人なく、編集者の知人もきわめて少く、寂しい思いをした。
そのなかで和田芳恵さんとは懇意にした。和田さんは新潮社の編集者として経歴がかなり長かったが、それよりも武田麟太郎《りんたろう》に私淑して、タケリンの話をよく聞かされた。樋口一葉《ひぐちいちよう》のことを調べだしたのはだいぶんあとからである。
和田さんは麻布の三ノ橋近くに住み、その家は坂道の途中にあり、家の前には植木がいっぱいだった。狭い家に大きな秋田犬を飼っていて、これが訪問者を威嚇《いかく》して座敷に寝そべっていた。わたしが一時玄関先に秋田犬を飼ったのは和田さんの影響。秋田犬は暑気に弱く、夏になるとだらしがなかった。
夏といえば、その炎天の日、和田さんと本所横網町の斎藤緑雨の旧宅跡をいっしょに尋ね歩いたことがある。汗が下着までびっしょりと濡《ぬ》らした。和田さんは面倒がらずに最後までつき合ってくれた。おかげで小説『正太夫の舌』ができた。正直正太夫(緑雨)は一葉の『たけくらべ』を「三人冗語」(鴎外、露伴、緑雨の合評)で激賞し、それを機に一葉は文壇や世間の注目を浴びた。以後も緑雨は一葉に手紙を出し、たびたび訪問しているから、一葉研究家の和田さんとしても、この真夏の日のつきあいはそれほど不愉快でもなかったであろう。その長身、痩躯《そうく》、瀟洒《しようしや》とした歩きかたが今でも浮ぶ。
『或る「小倉日記」伝』というのは、小倉に在住している地方の身体障害者である郷土史家の苦労を書いたものです。森鴎外は、明治三十二年から三十四年の春まで第十二師団軍医部長として小倉に在住したとき日記をつけていますが、その日記の行方が不明になった。岩波書店で第一回の鴎外全集を編むときに、「小倉日記」だけが掲載されなかった。そこで、その田上耕作という郷土史家は、鴎外の生存中につき合っていた関係者の間を丹念に回って聞き書きし、それを編集し、本にしようとしたのです。しかしその後、「小倉日記」は偶然なことから鴎外の遺族の家から発見された。実物が出てくれば、田上の又聞き辛苦は一文の価値もなくなります。
なぜあとから「小倉日記」が出てきたかと申しますと、鴎外の一番末っ子に類《るい》さんという人がいる。鴎外の子には女が二人、男が三人いた。先妻登志子の長男於菟《おと》と後妻〓げ子の次子類。その上の男の子は赤ん坊のとき死にました。そのへんは鴎外の小説『金毘羅《こんぴら》』に書かれています。
〓げ子は鴎外の死後、鴎外の日記類を全部、銀行の貸金庫に入れていたんです。ところが、その後、だれかがその銀行の貸金庫から「小倉日記」だけを持ち出したんです。これは〓げ子未亡人しかいないと思う。貸金庫の合いカギは未亡人本人と銀行の係員としか持っていないのですから。ところが、〓げ子未亡人はとり出した「小倉日記」を家で読んだあと、新聞紙に包んで、ガラクタものを入れる箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の中に入れおさめて、そのうちに銀行へ返すつもりでいたところ、そのまま忘れてしまった。
銀行の貸金庫から「小倉日記」だけを取り出して家に持ち帰ったのは、〓げ子未亡人以外にはないだろう。わたしがそう推測するのは、小倉は〓げ子さんが鴎外と結婚して、鴎外の東京転勤までの三ヵ月間ですが水入らずの生活をした土地だからです。これは新婚生活といってもよかった。鴎外の祖母にあたる大姑《おおじゆうと》(清子)姑(峰子)も居らず、小姑(鴎外の妹小金井喜美子)も来なかった。先妻の子、於菟の面倒を見ることもなかった。小倉時代は、〓げ子さんにとってなつかしい回想です。
〓げ子さんに小倉を舞台にした『波瀾《はらん》』という小説があります。「鴎外全集・翻訳篇」の「月報」に採録されています。『波瀾』には鴎外の筆が入っているが、とにかくこれを見てもいかに彼女が小倉をなつかしんでいたかがわかります。〓げ子さんは、いったんは日記類を銀行の貸金庫に入れたものの、老後の想出《おもいで》に「小倉日記」だけをそこから取り出したものと思えます。
〓げ子未亡人は家族にはそのことを言わないままに亡くなられた。というのがわたしの推測であります。
箪笥は類さんが譲り受けました。それはガラクタばかり入れてあるから、類さんは抽出の中の新聞包みを開けもしないでいた。類さんが転居するにつれて、その古箪笥も共にあちこち移動した。けれども中の古新聞包みは開けなかったのです。
そのために岩波書店で昭和十七年に「鴎外全集」を出すとき、「小倉日記」を収録しようとして、ずいぶんこれを探した。鴎外の末弟森潤三郎、於菟、平野万里(於菟の乳兄弟)、木下杢太郎《きのしたもくたろう》、佐藤春夫などの編集委員がその捜索に百方手を尽したが、遂《つい》に分らずじまいでした。豈《あに》はからんや目と鼻の先の末子類さん宅に存在しようとは。だから第一回の「鴎外全集」には「小倉日記」が脱《ぬ》けています。ところが、類さんが新築した家に移るについて、初めて古箪笥から出した古新聞包みを開けてそれが「小倉日記」と知ってびっくりした。関係者はその知らせで急遽《きゆうきよ》集った。発見の詳しい顛末《てんまつ》はこういう次第のようです。
ここが運命の岐《わか》れるところです。もし「小倉日記」の存在がはじめから明瞭《めいりよう》だったら、前述の田上耕作の苦労はなかったわけです。したがって、わたしは『或る「小倉日記」伝』を書けなかった。したがって芥川賞ももらえなかった。と、こういう段々の順序になります。まことに人間には運と不運とがまつわりついているようです。
わたしの初めに書いた小説はみんな歴史物であります。歴史物の中に、『腹中の敵』というのがある。この『腹中の敵』というのは、木下藤吉郎秀吉の先輩、織田信長《おだのぶなが》の宿将である柴田勝家《しばたかついえ》と並び称された丹羽長秀《にわながひで》のことであります。柴田勝家が信長の死後、天下をとる勢いにあった秀吉に積極的な行動で対抗したのに対し、長秀は、隠忍自重して後輩の秀吉に従った。そして、柴田勝家が滅亡後、彼が在城した越前北《えちぜんきた》ノ庄《しよう》、今の福井市ですが、その北ノ庄で秀吉から七十万石を与えられた。七十万石といえば大々名です。しかし、長秀の心は穏やかでない。行動派の柴田勝家は、秀吉に武力で挑戦《ちようせん》して自滅したけれども、長秀は勝家に与《くみ》せず、賤《しず》ヶ岳《たけ》合戦では秀吉軍に兵糧《ひようろう》を入れるなどして秀吉に加勢しております。
しかし、長秀は後輩の秀吉に対してどれだけ怒りを持っていたかしれない。その点は勝家と同じです。ただ勝家は直情径行型で感情がすぐに行動に直結する。長秀は隠忍自重、じっと我慢するタイプです。それだけに鬱憤《うつぷん》が内攻する。憤りが陰に籠《こも》る。ノイローゼにかかりやすい。後輩に追い抜かれた先輩二人の、それぞれの性格がこのへんによく出ていると思います。
長秀が賤ヶ岳で勝家に味方しないで秀吉に手伝ったのは、先見の明があるようですが、じつは長秀の屈折した心理からだと思います。詳しく言うと時間がかかりますから略しますけれども、長秀が北ノ庄で患《わずら》い、瀕死《ひんし》の床にあるとき、見舞にきた関白豊臣秀吉の使者に対して布団《ふとん》の上にあぐらをかいて応対しています。使者は秀吉の代理ですから秀吉と同じです。秀吉はかつての部下ではあるけれども、今は彼の主君であり、関白です。長秀の態度は主に対して無礼きわまります。だが、彼は故意《わ ざ》とそうした態度をとったのです。長秀の今生最後の抵抗です。
長秀は現在で言う胆石にかかっていました。自分を苦しめるのは何であれ、すべてわが敵であるというんで、小刀で腹を割き、異形の石を取り出して、刀で粉々に切り刻んで天正十三年に相果《あいは》てた、というのが記録です。けれども、その胆石の形が猿面冠者《さるめんかじや》に似ているというのはわたしの創作であります。それほど長秀は秀吉を心の中で憎んでいたという表現です。
坂口安吾に『二流の人』という歴史小説がある。これは、黒田官兵衛孝高《かんべえよしたか》のことです。黒田官兵衛は、戦国時代末期にその知謀は人に優れ、決して二流の人ではない。ですが、常に秀吉に牽制《けんせい》され、秀吉の生存中は参謀として半生を過し、遂に二流の人で終わっています。これも運・不運によるのであります。人間はどれほど知恵があっても、才能はあっても、チャンス、つまり運に左右されることが大きいようであります。
二・二六事件は、昭和十一年二月二十六日の早朝、永田町霞《かすみ》ヶ関《せき》一帯を占拠する歩兵一連隊、三連隊の青年将校が、千五百名の新兵をもって営門から出動し、三日間にわたり政治を麻痺《まひ》させました。この事件の首謀者は、栗原《くりはら》とか、安藤とか野中とかいう中隊長クラスだと考えられているけれども、ほんとうの中心人物は磯部浅一《いそべあさいち》です。彼は、士官学校事件で陸軍を除籍された一等主計であります。
二・二六事件の原因には直接動機と間接動機とがあります。後者を遠因といってもよろしいです。その遠因を詳しく言うと長くなりますが、簡単に申しますれば、当時の軍隊は、陸軍大学を出ていなければエリートになれなかった。陸大出は軍服にその徽章《きしよう》をつける。それが小判形で、天保銭《てんぽうせん》に似ていたから、陸大出の連中を天保銭組とよんだ。天保銭組はすなわち陸軍のエリート組で、ほとんどが参謀本部か陸軍省入りをする。士官学校どまりでは、地方部隊、つまり、歩兵一連隊も歩兵三連隊もそうでありますが、中隊長、大隊長どまりであります。この天保銭組との差別感が青年将校たちに行き渡っている。この反撥《はんぱつ》が二・二六事件の間接の理由です。これはあんまり人に知られていない。
この差別感が根底にあって、磯部の組み立てた作戦を中心に中隊長連中が動いた。しかし、悲しいかな、軍隊を除籍された磯部は部下の兵隊を持たないんです。もし彼に一中隊でもいたら、事件はあのような収束の仕方ではなく、違った方向へ走ったと思います。事はもっと重大な局面になったと思う。磯部の「獄中遺書」を読んでも彼の執念ぶりがわかります。
そのことは、関ヶ原の例でも言えると思う。関ヶ原では、石田三成が徳川家康という大物を相手にして、朝の八時から夕方の四時ごろまで戦い続けた。だいたい昔の戦闘は三時間ぐらいでケリがついたものです。ところが、関ヶ原合戦は午前八時ごろからはじまって十二時になってもまだ勝敗がつかない。その前に家康は対上杉の野州小山《おやま》から引き返し、東海道を悠々《ゆうゆう》と上って美濃大垣《みのおおがき》に到着している。ところが、東軍は、加藤、福島、細川勢などの先遣隊が既に押し寄せていて、家康の金扇の馬印が、大垣を発して関ヶ原の桃配《ももくばり》山に立っていると聞いただけで、西軍の諸将は胴体に震えがきた。
しかも、西軍は、秀頼《ひでより》は幼いとしても、総軍司令官の毛利輝元は、まだ大坂城から出てこないのです。そして、松尾山の小早川秀秋《こばやかわひであき》は、東西どっちにつくかまだわからない。日和見《ひよりみ》のようですが、実は東軍に内通している。そういう内通者が西軍には多かった。その中で三成はよく善戦したと思います。
しかも、企業組織で言えば、三成はせいぜい秀吉社長の秘書室長程度なんです。家康は五大老の筆頭です。前田利家《まえだとしいえ》、毛利輝元、宇喜多秀家《うきたひでいえ》、小早川隆景《たかかげ》の五大老は、今の株式会社でいえば常務取締役なんです。常務と秘書室長とは地位がまるで違う。秘書室長は、社長の言うことを重役どもに伝えるんですが、石田三成秘書室長は、小才が効いて、頭がよくて、機転が効く。だからみんなに憎まれる。あれは社長の命令を取り次いでいるのか、秘書室長の石田が言ってるのか、どっちだかわけわからん、あいつは虎《とら》の威を借りる狐《きつね》だと、かねてから憎まれている。それだから、同じ西軍でも人心をつかんでいない。だから、指揮官の三成は苦労して、自分で馬に乗って味方の各陣地をかけ回らなければならない。各陣地に三成の部下が行っても、三成が自身でやってこい、なんて威張っている。これじゃ指揮統制は取れない。
関ヶ原ではなかなか勝敗が見えず、時間ばかりが経《た》つ。家康は焦燥しているときの癖で、爪《つめ》をかんでいらいらしている。伜《せがれ》の秀忠《ひでただ》軍は、中山道《なかせんどう》から来るけれども、途中で真田昌幸《さなだまさゆき》・幸村《ゆきむら》父子にさえぎられて未到着。かくてようやく午後になって秀秋が松尾山をおりてくる。それに備えていた三成の親友大谷刑部吉継《おおたにぎようぶよしつぐ》が防ぐが、少人数だからどうしようもない。吉継は戦死する。四時ごろになって、遂に東軍勝利の大勢が決しました。
磯部と三成、これはよく似ているんです。これもまた、人生の運というよりも、歴史は繰り返すと思う。人間性であります。
わたしの初期の短篇についてのみ申します。昭和三十年に『赤い籤《くじ》』というのを書いております。
わたしは十九年に衛生兵として召集され、南朝鮮の沿岸防衛部隊に編入され、師団軍医部付で全羅北道《ぜんらほくどう》の某地に駐屯《ちゆうとん》しました。ここは北の群山《クンサン》と南の木浦《モツポ》とを通じる鉄道の沿線で、光州のすこし北です。そこで敗戦となった。アメリカ軍の将校団がソウルから来て日本兵の武装解除と武器、弾薬の受領に近いうちにくるという情報が司令部に入りました。この町にも相当な数の日本人がおります。敗戦で、日本人住民は「居留民」に一変します。その居留民団長が毎日司令部にきて幹部将校と相談をしている。将校曰《いわ》く、米軍将校がこの町にくれば夜の接待に日本人の女性を出さねばならないと。これは彼らが中国や東南アジアの占領地で行なってきた自分らの経験からの発想のようです。
しかし、娘さんを提供するわけにはゆかないから人妻を出そう。これは在留日本人ぜんたいの安全のために、忍びがたきを忍んでもらうしかない。米軍将校は十数人くらいだろうから、婦人もその数でいい。こちらからだれかれと指名するわけにはゆかないから、「籤引き」にしたらどうだろうか。紙ヨリの先に赤い印がついていたのを「当り」としよう。司令部の幹部将校は居留民団長にそう説得している。
じつは彼ら将校たちがそういう人身御供《ひとみごくう》を出して米軍将校のご機嫌《きげん》をとり、戦犯を免《まぬか》れたいからです。敗戦直後ですから混乱して戦々兢々《きようきよう》としている。部隊長の中将は絞首刑を覚悟していたようです。
司令部は土地の農業学校を接収していたので、そんな密談も、教室のような部屋にいるわれわれ兵隊には筒抜けです。わたしはそれを聞いてモーパッサンの小説『脂肪の塊』を思い出しました。『脂肪の塊』は、プロシア軍占領下に足どめされた乗合馬車が、乗り合せた一人の娼婦《しようふ》がプロシア兵に身を任《ま》かせる犠牲行為で、通行を許される。しかし、彼女のおかげで助かった乗合いのフランス中流階級人らは、難を脱《のが》れると彼女を軽蔑《けいべつ》する話です。
さいわいにも司令部の幹部将校らの気のまわしかたも居留民団長の心配も杞憂《きゆう》に終りましたが、一騒動をヒントに『赤い籤』を書いたのです。
わたしは、ときたま伊豆方面に出かけます。JR線三島駅前から湯ヶ島方面への国道136号線を行くと、左に折れると狩野川沿いに出る。それを左折しないで直行すると、すぐ右手の丘に「大仁《おおひと》金山」の大きな横看板が目につく。これは徳川家康のころに大久保長安《ながやす》が開発した金山です。
長安はもと甲州の金春《こんぱる》流の能役者で武田家に仕え大蔵《おおくら》十兵衛といいました。かれは武田家滅亡後、近国を流浪《るろう》して、伊豆の三島宿《じゆく》に泊った。同宿の旅人の話を聞くともなく聞いていると、この近くの大仁村の山の頂上からは夜になると、ときどき黄色の煙のようなものが立ってなんともふしぎだと云《い》っていた。十兵衛は、それはきっと山の地下に金銀の鉱脈があって、その金精が地表に吹き出しているのだろうと察しました。
家康が武田の遺臣を家臣として収容したとき、十兵衛も猿楽役者として家康に仕えました。あるとき家康が天下を統一したために金庫が底をついた、ああ金《きん》が欲しい、と家臣たちに洩《も》らしたのを聞いた十兵衛は、皆が居なくなったあと、家康の前にふたたび出て、大仁の山を掘らせてみてください、しかじかの次第で、あそこには金鉱がありますと云った。家康は大いにおどろき、且《かつ》は喜んで、十兵衛、そのほうは今日かぎり猿楽はやめろ、明日からは鉱山《か な》掘り専門になれと命じました。甲州は信玄のころから鉱山開発技術が発達していて、才智《さいち》に富んだ能役者大蔵十兵衛も見聞でその知識があったのです。
果せるかな大仁の山を試掘すると金の鉱脈につきあたった。家康はよろこび、十兵衛は小田原藩主大久保忠隣《ただちか》の養子格とし、名も大久保石見守《いわみのかみ》長安と改めさせ、石見銀山の奉行《ぶぎよう》にしたところ、それまで産出量の少かった石見の産銀がたいへんに増えました。歴史上ではこの話が逆になって、大仁金山の発見が後になっているが、これはどうもおかしい。彼が大仁の試掘に成功したから家康の命で近くの相模小田原藩主の養子格となり、石見銀山開発に赴いたといったほうが筋が通る。でなければ、いきなり石見銀山奉行にするわけはない。次いで彼は佐渡金山奉行となり、これまた産金量が激増します。佐渡、石見、伊豆の諸鉱山の金銀量を併《あ》わせて幕府の府庫の豊かさはこのころが最高であり、絶頂期です。伊豆では西海岸の戸田《へた》付近や奥伊豆の諸金山を開発しています。だから長安の権勢は大したもの。そのために最後は、不正があったとか、キリシタンに通じていたとかの罪に問われ、死後でも、その死体は墓から出されて処刑、家族も厳罰、武州八王子の知行地や家財全部没収です。つまり家康や幕府は長安を利用するだけ利用しておいて、彼が死ねば、あとは用なしの廃棄物です。技能者は一代かぎりなのです。この大久保長安を題材にしたのが、わたしの『山師』です。
技能者といえば、『特技』という短篇もそのテーマです。
細川忠興《ただおき》の家臣に稲富伊賀守祐直《すけなお》という者がいました。鉄砲射撃の名人で、稲富流の開祖です。通称稲富伊賀といった。関ヶ原役後、大坂役の起る前、豊臣秀頼方は関東方に味方する諸大名大坂屋敷の家族を人質にしようとした。細川邸にも人数が押し寄せてきた。塀《へい》の上には稲富伊賀が銃を構えている。諸藩の家臣も彼に鉄砲を習った者は多い。伊賀が塀の上に頑張《がんば》っているかぎりは寄手《よせて》も細川邸に近づくことができない。そこで寄手の面々は口々に叫んだ。これ、伊賀殿、ここで落命されるよりは貴殿の稲富流砲術をさらにさらに各藩にひろめなさるほうがわが国のためになるのではござるまいか、と。この勧告に伊賀はころりと参り、塀の外に――刑務所の塀ではありません、細川屋敷の塀の外に飛び降りて、遁走《とんそう》しました。
一方、細川屋敷では伊賀に逃げられ、防ぎもこれまでと覚悟し、忠興夫人お玉、キリシタン信者で洗礼名ガラシヤ夫人は屋敷に火を放って自殺します。
これを江戸に在って聞いた忠興は憤《おこ》るまいことか、もともと激情型ですから伊賀に対して怒り心頭に発し、今後、稲富伊賀を召抱えた大名に対しては細川家は藩を賭《と》して戦うでござろうと檄文《げきぶん》を回しました。諸大名、恐れて伊賀を雇傭《こよう》するものがない。
その稲富伊賀を救って召抱えたのが家康です。ただし家臣としてではなく鉄砲の術を伝えさせるためです。忠興も対手《あいて》が家康では文句が云えない。伊賀も剃髪《ていはつ》して、一夢と号しました。
家康は大御所と称されて駿府《すんぷ》に隠居したが、勉学心は旺盛《おうせい》で、儒学、漢学、和歌、馬術、弓術をそれぞれ専門家に習っている。「生涯《しようがい》学習」という言葉があるが家康はそのハシリかもしれませんね。鉄砲もその一つです。趣味の鷹《たか》狩りは運動のためでしょう。しかし、稲富伊賀からすれば、鉄砲という特技があるために、東西両陣営に重宝がられるが、これでは国籍がないのと同じ感じがしたでしょう。ちょうど半導体とかコンピューターとかのようなハイテクの先端技術者が東西両側に歓迎されるようなものです。
以上の逆が大久保彦左衛門忠教《ただたか》の場合です。大久保彦左衛門といえば「我は十六歳の初陣《ういじん》に神君(家康)の御供にて鳶《とび》の巣文字山で一番槍《やり》……」などと自慢しますが、これは講談で云うこと。彦左衛門の話はすべて講釈師がおもしろおかしく作りあげたものです。
彼は三河国の生れ、天正四年遠江《とおとうみ》国乾《いぬい》の戦に兄忠世《ただよ》に従って参加、いらい高天神の戦、信濃《しなの》国小諸《こもろ》岩尾城の戦、上田城の攻略などつねに忠世に属して軍功が多かったのです。忠世の子忠隣の代になると彦左衛門は彼を後見したが、その忠隣は相模国小田原城主のとき改易となり、彦左衛門を落胆させました。彦左衛門は三河額田《ぬかた》郡で千石を給され、大坂役の冬の陣、夏の陣には家康に供奉《ぐぶ》して鎗奉行《やりぶぎよう》となり、寛永九年には旗奉行に転じて千石を加増され、合計二千石となりました。
これが彦左衛門の経歴ですが、彼の書いたものに「三河物語」という大久保家に伝わる門外不出の文書があります。これは彦左衛門の遺書です。
彦左衛門は松平広忠、家康(徳川)、秀忠、家光の四代に仕えた三河譜代の臣です。「三河物語」には、たとえ「母や子供を牛裂きにされ、伜を八串《やくし》に刺され」ようとも主のために忠節を尽してきた三河譜代の家来の精神を、己の経歴に代表させて述べたものです。
家康の時、領国三河の土呂《とろ》、針崎《はりさき》一帯に一向宗の一揆《いつき》が起り、主従関係の恩義よりも宗門の信仰が大事として家康に叛《そむ》く譜代の家来も少くなかった(のち家康の謀臣となった本多正信もその一人)が、大久保一族はもちろん家康のもとにとどまりました。
小牧の合戦のあと、宿将石川数正が家康の浜松城を脱出して秀吉のもとへ奔《はし》ったとき、彦左衛門は兄忠世と信州小諸城に在って信濃経略に当っていましたが、彼は兄とその一党を急ぎ三河に帰国させ、当時十九歳の弱輩の身で、敵中に一人踏みとどまった、と「三河物語」の中で自慢します。
また、大坂夏の陣のとき、旗奉行の保坂金右衛門があわてふためいて一時は持場から退却した。そのことがのちに二条城で家康により審問されたが、旗奉行の近くにいた鎗奉行の彦左衛門の証言を家康が求めたところ、彼は御旗は現場に毅然《きぜん》として終始立っていたと云い張った。家康はなんとかして彦左の口を割らせようと彼の前に杖《つえ》を立て、腰の物に手をかけたりしたが、彼は、たとえ御成敗なされようとも、なんとて御旗が逃げるのを見たと申されましょうや、たとえ御旗が逃げたとしても、それを逃げずにいたと云うてこそ主家に疵《きず》をつけぬが譜代の者の心得である、各々《おのおの》歴々とした御取立之《の》衆は当座(現在)の主のご機嫌《きげん》をとって、以来(将来)の主のためを考えてない、斯《か》くはっきりと申したからとて打首にされるなら某《それがし》は本望でござる、と云い切った。
この「各々歴々とした御取立之衆」とは、彦左衛門は名を出していないが、彼の脳裡《のうり》にあるのは、本多忠勝、酒井忠次、榊原康政《さかきばらやすまさ》など三河譜代から取り立てられて大名になった連中だったでしょう。本多は伊勢桑名で十万石、酒井は三河国吉田で二万石(家光の代に若狭《わかさ》国小浜で十二万石)、榊原は上野《こうずけ》国館林《たてばやし》で十万石を領しています。
「三河物語」はこのように譜代の者の精神を説いていますが、一面からみれば家光の代になって世は泰平となり、戦国時代用の家来は不要となり、幕府に用いられるのはもっぱら行政面に手腕をもつ能吏なのです。彦左衛門のような戦闘武士は、もはや廃物になってしまったのです。二千石の知行所を持つのは旗本でも大身《たいしん》の下《げ》(五千石以上を大身とよんだ)クラスですが、もちろん万石以上の大名にははるかに及ばない。「三河物語」に、自負と同時に彦左衛門の「廃《すた》れもの」としての愚痴がみえるのはそのためです。げんに酒井、本多は子孫に能吏を出して老中などになった者もあるが、榊原家はそうでもない。
わたしの小説『三河物語』(のち『廃物』と改題)は、そのような「大久保彦左衛門の立場」を書いたものです。
ところが、これを発表した翌月号の文芸誌の合評会(作家二人に批評家一人だったと思う)を読みますと、わたしの『三河物語』にふれて、これは松本が原稿料が安いのを訴えているのだなどと、つまらんことを話しています。歴史を知らぬ人たちというほかはない。
ここで話を変えまして、わたしが東京へ転勤になった当時のことに戻りたいと思います。小倉を単身で出発したのが、昭和二十八年十二月二十一日です。四十四回目の誕生日でした。これまで小倉駅にはずいぶん社の栄転の人々を見送ったが、見送られるのは初めてです。ただし、わたしのばあいは栄転でもなんでもない。昇給はゼロです。こっちから志望したのだからやむをえないわけです。
翌二十二日の朝は京都に下車して宇治へ行き、小倉にある辻利商店の紹介状を持って茶の卸商辻利兵衛商店に行きました。ここで徳川幕府への献上茶のことを聞くつもりでしたが、出てきた番頭さんの話は要領を得ませんでした。宇治の献上茶は、二家の上林家が交替でつとめたから辻利はそれから外れていたせいかもしれません。
献上の八十八夜の茶は茶壺《ちやつぼ》に詰めて中山道《なかせんどう》を通過する。いわゆるお茶壺道中です。茶壺に遇《あ》ったら大名でも駕籠《か ご》の引戸を開けて敬礼しなければならない。諸人は路傍に平伏です。それをよいことにして茶壺を担《かつ》ぐ人足どもはずいぶん横暴なことをしたものです。数個の茶壺は甲州の都留《つる》郡谷村《やむら》の氷穴、富士山麓《さんろく》の鍾乳洞《しようにゆうどう》のような洞穴の中は気温が変らないからこの氷穴の中に格納して、必要なだけを江戸城内に運ぶ。これを題材に小説を書きたかったのです。あとで書きましたけれど。
そのころの日記がまだ残っています。必要なところを抜きます。
●十二月三十日。
信州上諏訪《かみすわ》に向う。夜八時着。旅館「山の家」に泊る。
●三十一日。
富士見高原に郷土史家細川隼人《はやと》氏を訪う。松平忠輝(徳川家康の六男)の高島城(諏訪湖畔の城)流謫《るたく》時代の話を聞くため。忠輝は容貌《ようぼう》怪異、家康は嬰児《えいじ》のときの彼を見て「捨てよ」と命ぜしほどなり。
寒気頗《すこぶ》る厳し。雪に眩《まば》ゆき八ヶ岳、穂高、槍《やり》、鋸《のこぎり》の諸岳を望む。白樺《しらかば》林を初めて見る。
宿に帰る。「山の家」は考古学者藤森栄一氏夫人の経営なり。藤森氏来《きた》りて、師の森本六爾《ろくじ》のことは明日話すという。氏に酒一升を贈る。森本六爾のこと、ならびに藤森氏への紹介は樋口清之氏(国学院大学教授)の紹介による。
●二十九年一月一日。
この年の元旦《がんたん》を信州上諏訪の旅舎にて迎えるとは思わざりき。原稿を書く。夜、藤森氏を部屋に招ず。同席に天文学者の五味一明氏あり。本職は理髪師なり。藤森氏、弥生《やよい》文化の基礎をつくりし森本六爾を大いに語る。
「東京考古学会」を設けし森本に三人の門下生あり。小林行雄(京大助手。退官直前に教授)、杉原壮介(明大教授)、藤森栄一(諏訪考古学研究所長)。藤森氏、席上で官学の腐敗を難ず。
●二月十四日。
伊豆の東海岸今井浜温泉に泊り、湯ヶ島を経て修善寺に向う。途中、天城《あまぎ》山中で、木炭車バスがエンジンの過熱のため故障を起し、女子車掌が山の一軒家にバケツを持って水もらいに行く。バスの立ち往生は二時間。この間、附近の山中を逍遥《しようよう》す。
●三月四日。
東京会館の「菊池寛・久米正雄追悼会」へ行く。席上、山本有三氏、両故人に対する現今のジャーナリズムの酷薄を罵《ののし》り、真に流涕《りゆうてい》して哭《な》く。
●十六日。
夜、ステーションホテルで川崎長太郎出版記念会。久保田万太郎、上林暁《かんばやしあかつき》、尾崎一雄、中山義秀、伊藤整、白洲正子《しらすまさこ》、田村泰次郎、井上靖ら諸氏の顔あり。席上でのスピーチに久保万氏は川崎氏に向い、抹香町《まつこうちよう》ものもいい加減にしなさい、と主賓をたしなむ。川崎氏苦笑。氏は、いわゆる抹香町ものでこのところ流行作家の感あれどお色気のマンネリにて感心せず。すでに「私小説」にあらず。
●二十三日。
北鎌倉の東慶寺へ行く。松ヶ岡の縁切寺。境内に西田幾多郎《きたろう》の墓あり。先般、西田哲学の信者の一学生、墓前にて服毒自殺すという。帰りに鎌倉駅前の店にてバーナード・リーチ考案という民芸品風の卵焼きを買う。
以上の日記による結果をわたしの作品から申しますと、信州の藤森さんとの話は『断碑』に、越後《えちご》高田藩主だったが改易となり、諏訪湖畔の城に流された松平忠輝のことは『湖畔の人』に書きました。醜い、かわいげのない顔で生れたのが忠輝の不運です。天城山中の木炭車バス故障による散策はのちに『天城越え』という作品になっております。
また、東京会館での「菊池寛・久米正雄追悼会」の散会後、ホテルの玄関前からタクシーに乗って走り去る黒い洋装の一婦人の後姿を見かけました。横にいた和田芳恵氏に、あれはだれだと訊《き》くと深尾須磨子《ふかおすまこ》さんだとの答えです。ああ、あの人が深尾さんかと、わたしは車の赤い尾灯をしばらく見送りました。深尾須磨子のフランス風な、機智《きち》に富んだ詩をわたしは小倉で愛読していたものです。やっぱり東京だ、活字の名前ではなく、生きた著者に遇えるものだとつくづく感じたことでした。
(平成元年十月十五日、東京・小平市の松明堂書店本店で行われた特別講演会の速記録に作者が加筆、再構成したものです。)
この作品は平成二年四月新潮社より刊行され、平成五年四月新潮文庫版が刊行された。
Shincho Online Books for T-Time
過ぎゆく日暦
発行  2002年12月6日
著者  松本 清張
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861240-X C0893
(C)Nao Matsumoto 1990, Coded in Japan