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松本清張
空 の 城
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空《くう》 の 城《しろ》
第一章
1
絢爛《けんらん》たる船旅は片道二泊三日であった。ニューヨーク港をはなれたのが一九七三年十月七日午後八時だった。
英国キュナード・ラインが誇る世界一の豪華客船クイーンエリザベス二世号である。六万六千八百五十一総トン、全長約三百メートル、幅三十二メートル、キールからマストの頂上までの高さが六十二メートルに達する。甲板は十二層から成り、社交室・劇場・レストラン・ダンスフロア・酒場・競技場・商店街などの公室にあてた上部二層をのぞくと船室の総数は千二百十。
八時半にはまだニューヨークの灯の堆積が黒い海を水平に截《き》った上に乗っていた。船は港外に出ると大西洋を北東に針路をとった。豪華客船としてはめったにない方向に進んでいる。このまま行くと、グリーンランドに突き当りそうである。
およそ千人の船客は全部招待客であった。彼らが向かいつつあるのはプロビンシャル・リファイニング・カンパニー(Provincial Refining Company Limited=PRC=州立製油所操業担当会社)という設立して間もない製油所《リフアイナリー》の開所式である。PRCは中東の原油を輸入して精製して市場に出すという世界のどこにもある製油所だが、これはカナダのニューファンドランド州政府が設立したもので、カナダ連邦国家の州立会社ゆえに「クラウン・カンパニー」と誇らしげに言う。
ニューファンドランド州は、カナダが大西洋にせり出した端にぶらさがっている不等辺三角形の島である。約十一万平方キロ、島の中央部は北緯四九度、西経五五度に位置する。
カナダ本土のラブラドールとはベル・アイル海峡で隔てられ、西側はセント・ローレンス湾、南と東側は大西洋に面し、東側、大西洋の荒波に洗われる海岸線は出入りが多く、小島が多い。グリーンランドにも近く、北大西洋の寒流の関係もあって、島は亜寒帯の針葉樹に蔽《おお》われ、岩質の地がひろがっている。この地域にはムース大鹿や黒クマが棲息している。雁、カモの類、ウサギ、キツネなど野生の動物も多い。世界でも有数の北大西洋の漁場に近い。日本から持ってきたガイド・ブックにはそんなことが書いてある。
招待客の一人、江坂産業株式会社の社長河井武則はこれを読んで、いまこの身が、活字から幻影で泛《うか》び上がってくる荒涼としたその島に、現代の神話的豪華客船で乗りつけていると思うと、すぐには船室のベッドに入れるものではなかった。他の船客もそうにちがいない。自然の風景が凄涼《せいりよう》としていればいるほど、人はそこに原始の荒涼に憧憬《しようけい》するロマンティックな空想をはてしなくつくりあげるものである。
千人の船客たちの眠れぬ昂奮を鎮めるように招待者側は九時半になるとダンスフロアでパーティを催した。主催はニューヨークのビジネス街でも目ぬき通りパークアベニュー五〇番地に本社をもつサッシン・ナチュラル・リソーシズ(Sassin Natural Resources=SNR)の社長アルバート・サッシンであった。PRCはニューファンドランド州政府の設立ではあるが、その管理運営は州からサッシンが百パーセント出資している子会社ニューファンドランド・リファイニング・カンパニー(New Foundland Refining Co.=NRC)に委任されていたためである。招待状にも発送者は州首相ジェームス・B・バルチモアとアルバート・サッシンの連名となっていた。招待状の硬質な紙の上部には、馴鹿《となかい》と獅子《しし》の楯とをあしらったニューファンドランド州の紋章と、海豹《あざらし》が矩形《くけい》の枠の中にうずくまっているSNRの社章とが、組み合せの意匠で浮き出ていた。
クイーンエリザベス二世号をニューヨーク・ニューファンドランド間往復に要する一週間借り切ったのはサッシンのほうである。費用は百万ドルを軽く超すと思われた。アルバート・サッシンはその名が示すようにレバノン系アメリカ人である。
江坂産業社長河井武則の一等船室は第一デッキの中ほどに位置していた。これはアッパーデッキの下二層目にあたる。想像以上に贅沢な客室をあてがわれた六十歳の河井は、当初から満足の浴槽の中に浸りきっていた。社では木材畑のみを歩いてきた彼は、外国にも数度出張していたが、どこの国の一流ホテルの客室でもこれよりははるかに見劣りがした。
げんに河井は数日前からニューヨークのホテル・ピエールに滞在し、そこで一昨日は江坂アメリカ社長兼江坂産業米州総支配人交替の披露レセプションを催し、在ニューヨークのおもだった取引先関係の人々──邦銀支店、総合商社、日本領事館、各国の商社幹部、それに日本の著名な芸術家まで招待したものだった。
昨日は、江坂アメリカの社員を三番街九五番地角のアトランティック・ビル十六階の本社会議室に集め、今回社がNRCの代理店となり、原油の供給元であり、メジャー(国際石油資本)の一つでもある英国のブリティッシュ・ペトロリアム(British Petroleum=BP)とも取引契約を結ぶことの近いのを正式に告げ、これによって総合商社としての江坂産業が石油部門での後進性から脱却することができ、今後は他の総合商社に追いつけ追い越せの主義で進むのだと鼓舞した。その経過報告のなかで彼は、この契約が成就《じようじゆ》したのは、江坂アメリカ社長で、こんどの異動により本社の原燃料・鉱産担当常務取締役に昇格した上杉二郎の努力に負うところが大きいと、傍に侍立している自分よりは一つ年上の当の上杉の賞讃を忘れなかった。もちろん江坂アメリカは江坂産業の系列会社でアメリカの出先法人である。
一昨日の総支配人交替披露パーティも江坂産業としては金をかけたものだったが、このクイーンエリザベス二世号のセレモニーにくらべると、その規模と豪華さは、天地の相違などという陳腐な形容ではとうてい現実感が浮き上がってこないのである。実際、河井社長もそのことがよく判っていて、副社長の米沢孝夫と共に日本を出発したときからのお目当ては、自社のパーティなどよりも世界一豪華客船上のSNRの招宴に臨むことにあった。そのため、河井も米沢も生れてはじめてタキシードを新調して持参におよんだくらいだった。
いま、河井はそのタキシードを大型トランクから出して着がえをおわり、磨きあげられた鏡の前に立った。見違えるほど立派な姿で、胸に勲二等の旭日重光章をさげてもいいくらいであった。白髪の出てきた頭髪へ入念に櫛《くし》を入れたが、顔つきは、少々のっぺりとはしているが上品なほうである。パーティ会場へ行く時間は逼《せま》っていた。
ほかには米沢副社長と上杉常務の二人である。いや、もう一人居た。本社の開発本部美術課長岸田直介である。これは江坂アメリカ社長兼米州総支配人となった安田茂が、着任|匆々《そうそう》ということで招待を辞退したため、折からニューヨークに来ていた岸田が河井の推薦でこの幸運にあずかったのだった。本社の課長ていどの者が役員の代理になれたのも、「美術課」という一般総合商社にはない特殊性格からである。河井社長が岸田をにわかに出席者に入れ、上杉からサッシン側の諒解をとらせたのは事実上、社主に直属している美術課長の存在を無視できなかったからである。たぶん岸田美術課長は三層くらい下の四デッキあたりの船室に入れられているにちがいなかった。
用意が終り、己《おの》が晴れ姿の鏡にもようやく倦いた河井社長は上杉二郎がいまに案内にくるだろうとドアの音を待っていたが、いつまで経ってもノックは鳴らなかった。
ほんらいなら、下役の上杉がとっくに社長の案内に来なければならない。NRCの代理店契約に働いたのはおもに上杉であり、いわば上杉のプランに乗って社長・副社長がこの船上パーティに出向いてきたようなものである。なのに、会場の誘導に彼があらわれないのは不都合だし、不便でもあった。
上杉二郎はハワイ生れで、地方の高商卒業後、神戸の外資系会社に勤め、昭和十八年に江坂産業に入社した。すぐバンコック支店に配属されたのも、普通のアメリカ人|以上《ヽヽ》に米語を話したからである。知的な諧謔《かいぎやく》も駆使するし、下卑《げび》た洒落《しやれ》も自在である。当初、支店では便宜な英語使いとして珍重したのだった。
その英語屋の便利さは現在まで本社からニューヨークに出張してくる役員たちにとって変りなかった。アメリカ人とのこみいった商談にはかならず上杉二郎を必要とした。単なる通訳ではなく、彼自身もまたその商談の重要な参与者であった。
けれどもタキシード姿の河井社長がさしあたっていま彼に求めているのは練達な通訳であった。河井は英語がよく出来るとはいえず、したがってこのような晴れの集会にひとりで出席する勇気はなかった。そこでは洗練された会話が待ちうけ、たちまち彼をとりまいてくるにちがいない。NRCと特約した江坂産業のことは、その製油所完成披露セレモニーに赴く船の上では格別の話題になっているだろうし、その社長の顔が現れたとなればさまざまな人々から話しかけられるにきまっていた。この饗宴の重要な招待客の一人であるのを彼は自ら意識していた。
サッシン側があらかじめ配布した案内状によると、招待客の中には、大戦中の英首相ウインストン・チャーチルの孫でウインストン・S・チャーチル議員、英国新聞協会会長・大英芸術協会前議長で銀行家でもあるアーノルド・グッドマン卿、ニューファンドランド・ラブラドール両州の首相ジェームス・B・バルチモア氏、カナダ政府の地域開発相・貿易相でカナダ放送協会の会長であるドン・C・ジャミソン氏、シカゴ銀行の頭取であり世界的な財界指導者の一人であるゲイロード・フリーマン氏などが含まれている。
これは有名人のほんの一部で、著名人があまりに多すぎて案内状の狭いスペースには載せきれないだけのことだった。イギリスのBPの代表もアラブの石油関係の代表もきていた。彼らの多くは夫人同伴であった。クイーンエリザベス二世号の出航のぎりぎりまで、こうした乗船客のトランクが蟻《あり》の群のように延々たる行列で積荷されているのを河井はデッキから見て知っていた。
パーティにあまり遅くなると、目立たない客ならともかく、NRCの代理店・BPの特約店である江坂産業の社長なら準主役の一人といってよく、世界的な名士たちにも主催者側に対しても失礼にあたる。といって今すぐ単独で会場に出むく気力はなかった。何を話しかけられても眩《まぶ》しそうな眼つきで棒になる自分を想像した。
日本側では在ニューヨーク総領事と栄光商船の役員二人が招待されてきていた。栄光商船とは、BPが供給するアラビア原油をニューファンドランドへ運ぶタンカーの用船契約をしていた。そのほかに中東石油ニューヨーク事務所長の蔵内良夫や宇美幸商事アメリカ社長の根津和久も招かれている。こんどのNRCとの契約から脱落しているこの競争会社の幹部の姿を船中で見たとき、河井はいささか意外に思ったものだった。が、ともかく、そういった日本人注視の中でもぶざまな姿を見せたくない。はじめてきたタキシードの晴れ姿だけに惨めになる。
上杉二郎は何をやっているのだろうか。
痺《しび》れを切らして河井武則は通路へ出るドアを押した。部厚い鋼板のような扉である。やわらかく美麗な化粧を施してあるが、船舶特有の頑丈さがその下地にあった。この船上のあらゆる部分がそうだった。客室通路も靴の踵《かかと》が沈むくらい深いベージュ色の絨緞《じゆうたん》が敷き詰められてある。
すぐ上層のクォーター・デッキの後部にあるクイーンズ・ルームがパーティ会場だとは知っていた。案内状は船室の机の上にあらかじめ置かれてあり、船内の略図も添えられてあった。この略図が精密な回線路のようにこみいりすぎていていちどきには頭の中に入らない。それを片手に階段を探しに歩いた。通路は、両側の客室の列と長い天井と床とを前方の一点に集中して、遠近画法の見本のようだった。手がかりがない。
日本の本社はもとより他の関連会社の中だったらこんな迷い子の格好で、きょろきょろと足を運ぶことは絶対にない。勝手が分っているというのではなく、秘書や社員らが付き添うからである。が、仮りにも社長の身分なのに、という慨歎の気持は河井に少しも起らなかった。自分より偉い連中がこの船にはうようよといるからである。げんにタキシードと真白なイブニングドレスが何組となく通路を一つ方向に歩いていた。ほとんどが年配者で、白髪も珍しくなかった。が、どんなに年をとっていても外人は体格がいいので壮年の姿をしている。透きとおった赧《あか》ら顔は、白髪にも亜麻色の髪にもふさわしい。背丈が低く、瘠《や》せて黄色い河井は、人々の間を眼を落して歩いた。数分前まで鏡の自画像に満足したのとは大違いであった。広いようでも狭い船内の通路のことで大の紳士や大のレディたちの間に揉まれているようなぐあいだった。定刻がすぎてそれらの組も急ぎ脚だったからよけいだが、その流れにしぜんに従《つ》いてゆけばよかった。
後部クォーター・デッキの階段を昇ってすぐに劇場のような正面があった。荘重な四つの扉に着くまでには四つの幅広い階段があり、カーペットも壁も深い紺色に統一されてあって、それが左右高い手摺《てす》りの純白と対照させていた。扉両側の壁には大きな額縁《がくぶち》が懸かっていて、一方のそれにはカナダ首相の半身像をリリーフにした楕円形の銅製品がまるで大きな記念|銅貨《コイン》のようで、それが深縹《こきはなだ》色のマットに嵌《は》めこんであり、反対側のそれにはカナダ国旗と同じ形の銅製浮彫りがあって、そのまん中に楓《かえで》の葉が掌《てのひら》をひろげていた。
開け放たれた扉の入口から足を踏み入れると、片側に二人のタキシード紳士がホストとして佇立《ちよりつ》していた。手前のは額のひろい五十年配の男で、鼈甲縁《べつこうぶち》の眼鏡をかけた機敏な顔つきだった。どこの企業家かと思われた。その奥隣りは灰色がかった黒髪の縮れ毛で、くぼんだ眼窩《がんか》と鷲鼻《わしばな》をもち、唇のうすい、頬の削《そ》げた、やや猫背の六十前後の紳士だった。この男には河井も前に会っていた。げんにいま、瞬間、互いに眼もとの微笑を交換した。NRCの会長アルバート・サッシンだった。
河井が鼈甲縁眼鏡の紳士がさし出した手を握ると、サッシンは顔をふりむけ、こちらはニューファンドランド州首相のジェームス・バルチモア氏だと紹《ひ》き合わせた。企業家と思っていたのは大違いだった。まごついていると、こちらは日本のエサカのプレジデント・ミスター・カワイであるとサッシンは首相に言った。ようこそお眼にかかれて欣快です、とバルチモア氏はその機敏げな顔を柔らげた。河井は、光栄です、という単純な英語に吃《ども》った。彼は鎮まらぬ気持の中で一歩を移してサッシンの前に立った。自分では親しみをこめたつもりの固い握手をした。サッシンは薄い眉を上げ、鷲鼻の両わきに深い溝の皺をつくり、やや受け口のうすい唇をわずかに開いて、お会いできるのを愉しみにしていました、と低い声で言った。窪んだ眼蓋《まぶた》の上には陰影《かげ》があり、眼の下には半円形の眼袋があり、それが鋭い光を湛《たた》えた切れ長な眼とともにひどく魅力的であった。しかし、人によっては陰険な印象にうけとるかもしれなかった。
が、河井にはその印象を十分に深める余裕がなかった。お招きをいただいてありがとうございます、いつもお世話になっとります、という通常の英語がこの荘重な場では舌が硬直した。代理店契約に関連した短い挨拶もしたかった。こういうときこそ上杉二郎が居てくれたらと思うが、その姿は見当らなかった。それでも彼のその焦燥は短かった。というのは、サッシンもバルチモア首相も次の男女客を迎えてそれへ闊達《かつたつ》に話しはじめたからである。河井を黙殺したカメラマンたちも、中東からきたアラブ人の金持の一組には閃光《せんこう》を当てた。
2
パーティ会場は間接照明ばかりでこの土地の夏のように白夜の明りだった。彼はそこでボーイからハイボールのグラスをもらった。広いホールの片側には緋色《ひいろ》の服の楽団がならんで静かな音楽を演奏していた。管楽器はぼんやりとした明りの中に鋭い金色をときどき放った。それにもまして紋白蝶のような婦人たちがつけた頸飾りや腕飾りのダイヤがほうぼうで星屑《ほしくず》のように蒼白く燦《きらめ》いた。まん中のホールで踊っているのが五十人くらい、まわりのテーブルに着いたり佇《たたず》んだりしているのがその倍くらいだった。ほとんどが夫人同伴だから華やかなものであった。
河井はあたりを見回し、上杉二郎と米沢副社長の姿をさがしたが、この賑やかな群れでは皆目わからなかった。踊っている組の中にいるわけはないので、そっとテーブルのほうへ近づいたが、そこでも見当らず、手に手にグラスを持って立ち、また静かに移動し交流している群の中でも発見することができなかった。
このとき、卵形の顔をした肩幅のせまい日本人のタキシード姿が、肥ったアメリカ人と話しながら前を通りかかった。その日本人は河井と視線が合うと伴《つ》れに断わって彼の前へにこやかに進んできた。ニューヨーク総領事の梅本だった。
「今晩は、大使」
河井は救われたように頭をさげた。
こっちへ出張してからの面識で、在ニューヨーク邦人商社員の間で梅本総領事は「大使」と呼ばれていた。
「やあ。社長さん。一昨日はご馳走になりました」
江坂アメリカ社長、米州総支配人の交替披露パーティに招かれた挨拶を総領事はまず言った。
「いえいえ、大使もご多忙のところを手前どものパーティにご臨席いただいて、どうお礼を申し上げてよいかわかりません」
河井は深々と腰を折った。
「今夜はまた盛会ですね。実は、ぼくもこのクイーンエリザベス号に乗せてもらうのは初めてです。話には聞いていたが、聞きしにまさる豪華船ですな」
総領事は河井の傍にならび、まわりに眼を遣っていた。ダンスの群はふくらみ、静かだが音楽は調子を出していた。河井も日本人の総領事を話相手に得てからは気持が軽くなり、いくらかうきうきしてきた。
「まったくどぎもをぬかれました。カナダ政府やアメリカ企業家のやることは桁《けた》が違いますな。この世界一豪華客船を一週間も買い切ってのパーティですからね。恐れ入りました」
河井が言ったのは、一昨日の自社のパーティに比較しての卑下があったが、卑屈は実際の気持だった。
「おめでとう」
総領事は急に河井の手を握った。河井もすぐにその意味がわかって、
「ありがとうございます。おかげさまです。江坂アメリカもこれからますます大使のお世話になると思いますが、なにぶんともよろしくおねがいします」
と、頭をさげてその手をかたく握った。
「NRCとの提携で江坂産業もいよいよ石油部門を拡大されるわけで、これからの発展が見ものですね。先発の総合商社の石油部門の扱いに肩をならべられるのも近いうちでしょう」
梅本総領事は手のグラスを持ちかえて言った。
「さようでございますな、こんどの私どもの契約は、BPがNRCに供給する原油を独占的に継続して扱うものでして、ほかの総合商社が自社開発の原油を第三国のマーケットに売りこむのとは少し違います。概算でいえば、油だけで半期で約百三十億円の売上げを見こんでいます」
「半期で百三十億円?」
おとなしそうな総領事はおどろきを見せた。
「そりゃア、たいしたものですね。そうなると大手商社の中でも抜群の三国間貿易の伸びになるんじゃないですか?」
「大使。この契約による半期百三十億円は、まだ内輪に見つもっております」
河井は、乗船の際に見かけた中東石油や宇美幸商事の関係者の姿を眼に泛べていた。
ニューヨークには日本の大手総合商社の出先現地法人がほとんど揃っているが、このクイーンエリザベス二世号のSNRセレモニーに招かれている他社といえば宇美幸商事しかなかった。根津和久もこの人ごみの客のどこかにまじっているはずである。
「おたくでは先年、チリのサンタクララ鉄鉱山開発のプロジェクトをおつくりになった。あれも成功しているそうですが、すると、こんどはそれにつづく海外の大型プロジェクト第二号というわけですね」
総領事はその話題に深入りを示した。
「ありがとうございます。おかげさまでチリはうまくゆきました。じつは、わたしはそのチリへ出張する途次にこの祝典へ参加するためニューヨークに副社長といっしょに来ましたので」
「おお、そうでしたか」
「いえ、チリの出張はつけたしのようなもんです。こっちのほうが江坂産業にとっては重要ですわ」
「そりゃそうでしょう。大飛躍の門出ですからね」
「どうもありがとうございます」
「しかし、なんですね、石橋を叩いても渡らぬと言われているほど手がたい商売で鳴らしてきたおたくが、石油国際競争に割って入られたのだから、確実に急伸されるのは眼に見えていますよ。そういってはなんだが、大手各社の牙城《がじよう》に逼《せま》る日もそう遠くないでしょう」
「とんでもない話です。それは、いつのことやら……。こっちが伸びれば、向うさまはこっちの二倍も三倍も伸びるのですから、こら、いつまで経っても先輩商社に水をあけられっ放しですわ」
河井はグラスを持ちかえて頬を掻いた。そうして手を男の腕に預けて前をにこやかに練り歩いてくる横幅のひろい貴婦人を見ると一歩退って言葉をついだ。
「大使もご承知と思いますけど、わが社は先代の江坂徳右衛門が八幡製鉄所の指定商から出発して、玉川製紙の販売店になって人絹用パルプの一手販売を扱い、アメリカの工作機械会社の総代理店契約を獲得しました。鉄、パルプ・木材、工作機械の三つを柱にこれまで営業をやってきましたけど、これだけじゃ将来心細うおましてな。そりゃあ、半期ペースで一兆円の商売させてもらうとこまでくるにはきましたわな。しかし、このままじゃ永久に十大総合商社のシリについとかんといきません。これをなんとか打開せなあかんおもうて、NRCの代理店契約を獲得しました」
「NRCが製油所をつくったニューファンドランド島のプラセンシア湾にあるカンバイチャンスは北緯五〇度近いところだが、不凍港の上に、大型タンカーの入港できる水深があるそうですね?」
「ええ。水深が二十五・四メートルということです。なんやしらん辺鄙《へんぴ》なとこやそうですな。町らしいものは何ものうて、淋しい漁村が一つあるだけだそうです。ただメリットはその湾に水深があるということだけだすわ」
「ぼくは去年の夏に休暇をとってニューファンドランドの半島の東端にある州都のセント・ジョーンズから西端のポート・オー・バスクスまでトランス・カナダ・ハイウェイ、ま、日本でいえばさしずめ国道一号線といった道路ですが、それへ乗ってドライブし、島を横断したことがあります。その道路は涯《はて》しない針葉樹林のまっただなかについているんです。都会らしいのはセント・ジョーンズだけでね、ほかにガンダーとかコーナー・ブルックとかの田舎町が二つあります。あとは漁村が散在している程度です。工業らしいものといえばコーナー・ブルックにパルプ工場があるくらいですよ。ニューファンドランド島の広さは日本の四国の約六倍くらいでしょうかね。車で走っていると、道路傍の森に黒クマ、ムース大鹿、キツネなどが歩いているのが見えるんです」
総領事はグラスを舐《な》め、無駄話をした。
「それはよいご旅行をなさいました」
「許可をもらって狩猟をしたり、川でマス・サケを釣ったりして遊ぶには愉しいところですがね。住むところとしては淋しすぎますな。断崖のリアス式の海岸で、こみいった出入りの湾や岬が多いです。水深のあるプラセンシア湾もその一つで、これは半島の南側です。セント・ジョーンズから西北へ車で二時間半ばかり行ったところですが、半島では南北の幅がせばまっている地形で、北がコンセプション湾です」
じつのところ、河井はPRCの製油所が建ったカンバイチャンスのありかを地図の上で調べたのだが、いくら探してもその Come By Chance の地名が見つからなかった。で、「大使」の話に耳を傾け、だいたいの見当をつけるようにした。
「しかし、不凍港で、大型タンカーが入れる水深のプラセンシア湾を製油所の建設地として眼をつけたのは、やはり地元の州政府ですね。よそではちょっと気がつかないでしょう」
「それは州政府だけじゃなさそうですな。ウチの上杉常務の話だと、ニューファンドランド州政府の前の首相ジョージ・ウッドハウス氏の誘致計画が挫折しかかっていたとき、アルバート・サッシン氏がその話を聞きこみ、免税ならと条件を出しました。サッシン氏は以前からカンバイチャンスに注目していたんだそうです。それで州政府もその気になったんだということですわ」
「アルバート・サッシン氏は炯眼《けいがん》な企業家ですね。さすが古代フェニキア商人で名だたるレバノン系だけはありますね」
あいにくと河井武則には古代地中海に海上交易で君臨したフェニキアの商人についての知識がなかった。彼の生合点《なまがてん》を見てとった総領事は話題を変えた。
「ところで、カンバイチャンスに出来た製油所では、生産量はどのくらいですか?」
「とりあえず日産十万バーレルです」
「わたしは石油のことには疎《うと》いのですが、日産十万バーレルというのは大きな生産量ですか?」
「いや」
河井はちょっとうつむいた。
「日産十万バーレルはかならずしも大きな生産量じゃないんです。水準からすれば、どっちかというと小さなほうでしょうな」
一バーレルは百五十九リットルである。日本にある製油所でも日産十万バーレルはまあ普通のほうであった。河井が眼を伏せたのはそれを知っていたからだが、しかし、と彼は昂然《こうぜん》と総領事に顔を上げた。
「それはNRCの第一次の計画生産量でして、第二次の工場拡張では同じカナダのノヴァ・スコシア州で日産二十万バーレル、第三次にはさらに三十万バーレルの生産ができる計画です」
「ノヴァ・スコシア州? それはニューファンドランド州の南西海上に突き出した半島ですよ。州都はハリファックス。空港がある。ニューヨークとセント・ジョーンズの中間にあたります。ああ、それで分りました。ぼくはこの船が明日ハリファックスに入港するのを航路途上の寄港とばかり思っていましたが、なるほど、その近くのカンソー海峡につづいて製油所が建造されるんですか」
「そうなんです。明日はそのハリファックスの製油所建設予定地でサッシン氏による説明会があるそうです」
「このクイーンエリザベス号のセレモニーも二重の祝典の意味があるわけですね。そうすると、NRCのそのノヴァ・スコシア製油所の石油もやはりおたくで扱われるということになるんですか」
「NRCの代理店という契約ですからな、そうなると思います」
「そうすると、カンバイチャンスのを合せると莫大な石油の扱い高になるじゃありませんか」
「まだ先のことだすさかいな、どないな商売になるか、まだわかりませんです」
河井はともすると人前で言う標準語が生地の関西言葉になった。
「いやいや、石橋を叩いても渡らない、という堅実さで知られている江坂産業さんのことです。かならずうまくゆきますよ」
「石橋も渡らんことには商売が伸びません」
河井は笑って、
「PRCにメリットがあるとわたしらが思いましたのんは、ハイドフリックスがカナダで最大の装置となっていることです」
と言った。
「何ですか、ハイドフリックスというのは」
「脱硫分解装置。ガソリンなどの高給燃料油を製造する装置です。いちばん高い値段で売れる油で、これがPRC施設の中心になっとります。製油所としては後発だけに、最新の技術の粋を集めているわけです」
「なるほどね。そうすると、ノヴァ・スコシア州に建設される製油所も、そのハイドフリックスが重点的になるわけですね」
「ますます、そういうことになりましょう。高い値段の油を効率的に製造するんですから、これからの石油商売にはよろしと思います」
「お話をうかがって、たいへんなものだと思います。さすがは江坂産業さんです」
総領事は感服していった。
「つい、調子に乗って、えらそうなことを大使に申し上げましたけど、じつのところ石油のほうは江坂もズブの素人同様ですねん。そりゃあ、石油部というのは、前から社にあるにはあります。しかし、それは名ばかりのようなもんで、ぼちぼちの扱いですわ。これから総合商社間の競争に生き残ってゆくには、これじゃあかんと思いましてな。なんとかせにゃならんと思うとりましたところに、ええあんばいにNRCとの契約ができました。これからは江坂も石油のことを真剣に勉強せにゃなりません」
「このセレモニーは江坂産業発展のためでもあるようですね」
総領事はグラスを眼の高さに持っていった。
「ありがとうございます」
「しかし、そういうNRCに眼をつけられたのは、どうして素人どころじゃありませんよ。なかなかの炯眼じゃありませんか」
「そら、ウチの上杉二郎です。一昨日パーティでもご披露しましたように、この前まで江坂アメリカの米州総支配人で、こんど本社の原燃料・鉱産業務担当の常務にしました上杉の着眼と、それにつづく努力ですよ。ウチは、去年、NRCと栄光商船との間のタンカーの用船契約を仲介しましたが、これも上杉の計画で、こんどのBPとNRCとの原油供給取引の代理店にウチがなったのも、その発展です」
「上杉さんにはぼくは何度もお眼にかかっていますが、おどろくほど英語のうまい方ですね。ハワイ生れとうかがっていたが、失礼ながら二世のかたでもあんなに巧みな英語を話される方はおられません」
「大使からそう賞めていただくと上杉も光栄です」
「それに、なかなかのやり手ですな。アメリカの邦人商社のあいだでも、たいへんな評判ですよ。多士済々の江坂さんの中でも、上杉さんはホープじゃないですか」
「多士済々といわれますと汗顔の至りですが、ウチも上杉ほどの切れ者があと三、四人もおると心強うおますけど。社主も上杉の才幹は買っておられます」
「社主の江坂要造さんですね。江坂社主は社の業務関係には、あまり干渉なさらないそうですね?」
「ええ、わたしらに一切|合財《がつさい》任せてくれています」
そう話したとき、社長河井の頭には、この船に乗り合せている岸田直介の姿が影のようによぎった。
「ですけれども」
河井は顔を伏せグラスのハイボールにちょっと口をつけると眼を総領事の顔に戻した。
「社主は、わたしらのすることのカンどころはちゃアんと抑えてはりますよ。知らん顔してはるようですけど。そりゃあ、怕《こわ》いようなお方です」
「業務にはいっさい口出しされないで、大所高所から見ておられる。度量の大きい、偉いお方ですね。いま、江坂産業の全社員数はどれくらいですか」
「海外勤務者を含めて三千七百人はおります」
「そういう大組織の商社にふさわしい社主ですね」
「ええ。そりゃあ、立派なお方です。われわれはみんな心服しとります。あの社主をいただいとるわれわれは仕合せだとおもてます」
社長はわるびれもせず言った。
通りかかったボーイの銀盆から総領事は新しいグラスをとった。
河井は、相手がグラスを口に近づけるとき心もち眉を寄せたのをみると、その一見物憂げな表情から、ふいと思いついたように唐突に質問が唇から出た。
「大使。この船にくる前に、社のテレビニュースで聞いたのですけど、今日の午後一時半ごろ、エジプト軍はスエズ運河を越え、シリア軍はゴラン高原を進んで、同時にイスラエル軍を攻撃したというてました。また本格的な中東戦争になりそうですか」
「ぼくも総領事館を出るときに、そのニュースは聞きました。攻撃がはじまったばかりで、いまのところ、なんとも見とおしがわかりません」
総領事は実際に眉をひそめた。
「戦闘が本格的になると第四次中東戦争ですね。六年前の一九六七年六月の第三次中東戦争では、エジプト軍の攻撃にイスラエル軍は空軍などを大量に出動させて地上軍といっしょに反撃して、六日間でエジプト軍に勝利しています。こんども、あないな六日戦争のような結果になりますやろか」
「さあ。戦争のことはわれわれにはなんともいえませんね。それに攻撃がはじまったばかりで、まだ詳しい情報が入っていませんから」
総領事は慎重に答えた。
「けど、こうして大使が船に乗っておられるくらいですから、たいしたことにはならないという予想ですかね」
「中東のことは、ニューヨーク総領事館の所管とは違いますから。間接的な関係はワシントンの大使館ですよ。だから、ぼくは予定どおりこのクイーンエリザベス号のセレモニーのご招待に出席したわけです」
梅本総領事は、口をすぼめて微笑をうかべた。
アラブ連合国《エジプト》やシリアなどアラブ諸国にたいしてはソ連が応援している。イスラエルにはアメリカが肩入れしている。第一次から第三次までの中東戦争の形がそうだった。第四次中東戦争に発展すれば、やはり同じパターンで二大国の軍事援助戦となろう。今日の戦闘の前から、すでに戦争の不可避をしきりと外電が伝えていた。河井はそれが胸にあった。
六年前の第三次中東戦争では、イスラエルに対し、アラブ諸国の足なみが揃わなかった。こんどはシリア軍がエジプトと時計を合せたようにイスラエル軍を攻撃したという。このテレビニュースが河井には気になっていたのである。
六年前の戦争では、アメリカとイギリスとがイスラエルに加担しているとして、イラクは油送管を停止し、アルジェリアは全米英の石油施設の国家管理をおこない、クエートは米英への石油輸出を禁止し、イラン、イラク、サウジアラビアも対米英石油禁輸を断行した。アラブ産油国は六月四日にバグダッドで産油国会議を開き、アラブに敵対する国への石油禁輸を決定して、それを実行に移したのだ。第一次・第二次の中東戦争の際の足なみの乱れにくらべると、見ちがえるほどの団結だった。
そのあと、エジプトもイスラエルも国連の停戦勧告決議をうけ入れて停戦し、スエズ運河の閉鎖以外、アラブ産油国は禁輸を解いた。日本の原油輸入価格もそれほど上がらなかった。それに日本はアラブ敵対国ではなかった。河井にはそういうことも頭にある。江坂産業の微々たる石油部でも、当時は他の大手総合商社ほどではむろんないが、一時は原油の値上りを心配したものだった。
こんどのエジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃はどのように発展するだろうか。この前の「六日戦争」のようにイスラエル軍の一方的な勝利ですぐに終るのか、そこまでもゆかないで局地戦でおさまるのか。
だが、河井の見た梅本総領事の様子はのんびりしているくらいに落ちつき払っている。総領事にもまた「六日戦争」の印象が強くて、たいしたことにはならない、と判断しているようにみえる。もし、攻撃がはじまったばかりとはいえ、見通しに重大な予想をもっていたら、これはワシントンの大使館の仕事で、ニューヨーク総領事館は関係がありませんなどといって、セレモニー出席を取り消しもせず、ここにはやってこないだろう。眼前の総領事が外交官らしいポーカーフェースを装っているとは思えなかった。
以上は河井の瞬時の思案であった。
総領事は、ちょっとその河井の顔に見入るような眼つきをしたが、折から知人のアメリカ紳士が通りかかったので、失礼、と河井に会釈《えしやく》してはなれた。それでようやく総領事との長い話は終った。ひと区切りついた楽団の演奏に踊りの群から拍手が高く鳴った。
3
河井は長話に少し疲れをおぼえたが、ふたたび外国人の群の中に孤立すると、緊張がもどってきた。新しく曲がはじまり、前面にひろがった踊りの波動は高潮にかけのぼっていた。が、身のこなしは典雅で、男も女もやさしくほほえんでいた。河井が客をつれてときどき行く「キタ」のキャバレーダンスとは大きな違いで、これがほんものの社交舞踏会かと感じ入った。片方にならべられた十数列のイスは人々で埋まり、その周囲にはまた胸の白いタキシードと純白のドレスの群が佇み、談笑の渦がほうぼうにあった。給仕が銀盆を捧げて敏捷に群の間を渡り歩いていた。
上杉二郎も副社長の米沢孝夫も現れなかった。千人からの人混みでは向うでもこっちの発見が容易でないかもしれない。上杉はアメリカ人やカナダ人などとの社交的な話の交歓に忙しいとしても、米沢はどうしたのだろう、と河井はかえって彼を心配した。米沢の船室はどこにあるのか分らず、向うでもこっちのことが同様だろうから、彼はどこをさまよい歩いているか、さもなければ小動物のようにひとつところにじっと身をすくめて動かないでいるかであろう。
「社長」
横合いから日本語が聞えたので河井はふりむいた。背の低い、がらがらに瘠せた、髪の毛のうすい五十男が笑顔をむけていた。
開発本部美術課長の岸田直介だった。彼だけは普通の背広でいた。古美術品の買付けの用事でニューヨークに来たところを新任の江坂アメリカ社長のかわりに急にこの船に乗せられたのでタキシードを調達する間がなかった。身代り招待は河井が上杉にそうとり計らわせたのだが、一介の課長をそのように優遇し、上杉もそれに同意してNRC側に交渉したのは、河井も上杉も岸田が社主の使命で来ていることに気を兼ねたのだった。タキシード姿の多いなかで、岸田の背広服はその貧弱さの点で目立った。
「うわア、こら、えらい盛会でんなア」
眼がまるく、頬桁が張って、鼻が低く、額に皺《しわ》が寄っていて猿を思わせる岸田は、その眼をいよいよまるくしていた。
「日本では経験できんな」
河井社長は眼前の華美な光景を、急に鷹揚《おうよう》に見渡して課長に言った。
「そら、そうでんがな。絶対にできしまへん。ぼくはまだ夢心地だすわ。有名な世界一のクイーンエリザベス二世号に乗って航海し、こんな豪華なパーティに出席できるなどとは夢にもおもてへんでしたさかいな。冥利《みようり》に尽きます。社長。これも社長のおかげだす」
「いや、芦屋のお屋敷に君が行ったときに報告してもらおうとおもうてな。そりゃあ、ぼくらも報告はするけど、君の口からも見たままを社主にお話ししたほうがええ」
「そうでんなあ。ぼくからもこの盛大な様子を詳しゅう申し上げるつもりだす。社主もよろこびはりまっせ」
岸田はまるい眼を拡大して周辺の状況を見回した。
「社長。この船は製油所のでけたニューファンドランドのカンバイチャンスにまっすぐに向かうんでっしゃろか」
「いや、明日はハリファックスに寄港する。カンバイチャンスに行く途中や。そこでもNRCが大きな製油所をつくる計画があるんで、その説明会がある」
「セレモニーずくめでんな。こないな世界一の豪華客船を一週間も借りきって毎晩パーティを開くんやったら、さぞ金のかかることでっしゃろな」
「百万ドルは下らんやろな」
「百万ドルいうと、三億円でっか。うわ、こら、えらいこっちゃ。ニューファンドランド州ちゅうのんはよっぽど財政が豊かな州でんな」
岸田直介の素朴な疑問は、実体を衝いていた。漁業とわずかなパルプ工業しかない貧弱なこの州、過去何度か財政危機に陥り、自治領からイギリス直属領に逆もどりしたこともあるニューファンドランド州、近年は島の内部に銅・鉄・亜鉛などが発見され、鉱業も興《おこ》りつつあるがまだ言うに足りないもので、だからこそ中東の原油を買って精製する製油所を造った。が、それも日産わずかに十万バーレルというではないか。それなのにその製油所建設披露に世界一豪華客船を一週間も借り切って千人の客を招待する費用に百万ドルもかける。どう考えても不均衡であった。
しかし、NRCと代理店契約を結んだ河井のような当事者には、さきほど総領事にも言ったように、カンバイチャンス製油所将来の増産とノヴァ・スコシア州での製油所新設計画が頭の中をいっぱいに占めていて、当面の不釣合な交際費の支出もNRCの将来の繁栄を含めての宣伝投資と考えられていた。
河井とてもそれらの増産計画の内容を上杉二郎に一応|訊《たず》ねてはみている。上杉の返事は、ニューファンドランド州としてはカンバイチャンスの製油所が利益を相応に出した段階で増資をして工場拡張を行なう、ノヴァ・スコシア州の製油所建設もそう遠くない、などの具体的なものだった。
上杉による説明が河井社長に──河井だけでなく江坂産業幹部連中に現実感を持たせたのは、それがニューファンドランド州政府設立によるクラウン・カンパニー(官営)であることだった。「官営」に対する信頼意識は、江坂産業のばあい特に強かった。その創業が明治期の八幡製鉄所という官営に依存し、それによって発展した社業であったからである。
しかし、いま東京にいる本社幹部たちよりも河井社長自身にサッシンへの信頼感を強めさせているのは、この豪華船での祝典であった。圧倒されるくらい華美な雰囲気は、臨場感をまったくもたない東京がわかるはずもなかった。
河井は、この披露宴の費用が三億円もかかると聞き驚歎する岸田美術課長の声を耳にすると、その思考はサッシンを離れ、内容的には関係のない「金額の問題」に転換した。
「ところで、君がこうしていてもオークションのほうは大丈夫か」
河井が訊くと、
「そら、大事おまへん。万事はスミス・アンド・グラベル商会の支配人に任せておりますよってに。あそこが引きうけてくれたら間違いおまへんわ」
と、開発本部美術課長はひとりで頤《あご》を深く引いた。
「こんどの品ものは何んや?」
「永楽《えいらく》の皿だす。茘枝《れいし》の文様の染付でちょっと変った図柄だす。明《みん》の景徳鎮窯《けいとくちんよう》だすわ。それと、明初の赤絵柳営図壺だす」
「落札の見込み値はどれくらいや」
「そら、わかりまへん。けど、どっちゃも十万ドルを下回っては落ちまへんやろな」
「二つで二十万ドル。うむ、六千万円か」
河井は渋面をつくった。
「それで落ちるかどうか。これは秘中の秘だすが、社主はそれに二割くらいの上積みは仕方ないやろというてはります。スミス・アンド・グラベル商会でも、それなら大丈夫やいうて太鼓判を捺《お》してくれました」
岸田は、内緒話のように河井の耳もとにささやいたが、その声は楽団の音響とまわりの談笑の渦の中でようやく聞きとれた。
「岸田君。その二つの壺は両方とも落さなあかんのかいな?」
「へえ。社主はご執心やさかいな。こんどのオークションのカタログを見やはって、どないしても二つとも落してこいという厳命だすよってになア。社長、ぐあい悪うおますか」
「いや、そんなこともないがなア」
河井は口を濁した。
古陶磁を主体としたコレクションは現在まで一千点近くに上っている。重美の指定を受けたものでも十数点があり、北宋の青磁波濤文鉢(汝窯《じよよう》)、同黒釉鉄斑文鉢(定窯)、同白磁牡丹文瓶、南宋の赤絵花鳥文碗、同青磁下蕪|花生《はないけ》(南宋官窯)、同曜変天目茶碗(建窯)、元の青花飛鳳唐草文鉢(景徳鎮窯)、明・嘉靖《かせい》の染付牡丹文大皿、明・嘉靖の五彩鳥獣文壺などがそれであった・これらには旧大名家や旧財閥の家に伝来したものが少なくない。
高名な陶磁器評論家であり、自身でも陶芸家である大川不二夫氏は曾《かつ》て書いたことがある。
≪江坂コレクションは江坂産業の元会長の江坂要造氏が中心となって集められたもので、江坂要造氏は古陶磁の蒐集家としても有名だが、それ以上にわが国音楽界のかくれたパトロンとしてつくされた功績は大きい。
江坂さんは音楽への造詣も深いが、やきものにも静かな深い目をもたれ、氏の純粋で透徹した目で選ばれたやきものにはすばらしいものがある≫
江坂コレクションで特にすぐれているのは朝鮮のやきもので、高麗《こうらい》のものでも、李朝のものでも類を絶する名品がいろいろとある。
李朝のものは、染付柳枝文壺、辰砂《しんさ》染付飛燕文壺、辰砂染付竹林群虎文水滴、三島手梅花文壺などをはじめ李朝のこれという逸品はほとんど江坂コレクションにあつまっていた。
高麗の逸品はそのほかに、高麗青磁鴨、同青磁陽刻双竜文四方香炉、同青磁獅子文水注、同青磁辰砂葡萄唐草文水注、同|象嵌《ぞうがん》青磁鴛鴦文瓶、同白磁窓絵牡丹蝶文瓶などがあった。
江坂要造が陶磁に興味をもった出発は李朝の白磁に魅せられてからというが、会長時代から社主時代の現在にいたるまで江坂商事という名で江坂産業の支払いで買った金の総額は十数億円に上っている。いまの会長の大橋恵治郎が社長になった昭和三十二年のずっと以前、その二代前の社長のころからはじまっていて、江坂要造がイギリス遊学時代にロンドン支店長として特別につき合った仲の大橋恵治郎にしてからが、文句のつけられない社費の支出であった。
他人との交際には人見知りが激しく、社交性が尠《すくな》いというよりもアナグマが穴にこもっているような要造も、創案者の継嗣として社ではわがままなオーナーであった。
大橋恵治郎が社長時代に、要造会長の個人的な巨額な趣味を社費で賄《まかな》うのに対して遠慮がちに苦情を言うと、要造は揃えた膝の上にきちんと置いた両手の指先を解いたり組んだりして、前こごみの姿勢でこう説き聞かせるのであった。
大橋さん。あんたらはそないなことを言いはるけど、いまのあいだにいまの値段で買うておかへんと、もうすぐこの値では買えまへんで。なにも浪費やおまへん。品物はちゃんと残ります。三倍も五倍も十倍もの値になって社に残ります。してみると、確実で利のええ投資や。それも品物をわてが個人用に仕舞いこんだいうなら、そら、社費からの支出も公私混同やろ。けど、そうやおまへん。品物は社の所有物だす。社の財産だす。江坂が世界一の古美術品を揃えて持ってるいうたら、江坂産業の信用にもなり宣伝にもなりますがな。値上りで財産価格がふえるうえに、こら無形のプラスアルファでんがな。
大橋社長もそれ以上には突込めなかった。要造の言うことは理路が整っているようで矛盾だらけであった。第一、江坂産業は十大総合商社のうち最下位の成績であった。これから上位に食いこむべく伸びるためには、回転資金はいくらあっても足りるということがない。それを何千何百万円ずつ骨董に取られるのではたまったものではない。骨董蒐集は要造個人の趣味であって常務会の意志ではない。あつめた骨董は社の所有物というが、現品のうち相当数が芦屋市の要造の家に行っている。また、それらの古美術品を社の金融抵当にすることは絶対に許されない。将来の値上りを期待するといっても、それでは社は死蔵品をしきりと買い込まされているようなものである。
それは江坂産業が直接に支払うといった形式をとっていない。江坂産業が九〇パーセントの株式を持っている資本金六億円の江坂商事という子会社を社主の骨董品購入に当らせている。江坂商事は不動産売買と損害保険の代理店業務を本業にして、十年前の昭和三十八年に設立された。そのころから社主の高価な買いものを表面に出さないために「地下道」に利用することが社主の側近幹部によって案出されていた。
要造は営業はもとより社の運営にたいしてはほとんどといっていいほど干渉しない。そのかわり人事権をかたく握っている。持株が二パーセントにも満たない社主なのに百パーセントの人事権を掌握しているのは稀有《けう》である。世間ではその神話めいた奇蹟に驚歎し、その秘密は何だろうと訝《いぶか》って穿鑿《せんさく》するものがある。現に株式会社の通常方則にはないからである。
会長であろうと社主であろうと、江坂要造のこの実体には変りなかった。大橋恵治郎が社長を辞めさせられて有名無実の会長におしこめられたのも、要造が人事権を確保するためであった。次の社長の浜島幹男も短かった。これは社長に人事権を持たせてほしいと要造に要請したからである。正論だが、要造には通らなかった。
浜島幹男は社長になったとき、江坂産業の近代化を考え、社内機構を刷新した。
営業部門と非営業部門とに大別した。営業部門は、鉄鋼第一本部・同第二本部、鉄鋼輸出本部、原燃料本部、非鉄金属本部、機械第一本部・同第二本部、農水産本部・化学品本部・繊維貿易本部、内地繊維本部、パルプ・紙本部、木材・建材本部、住宅事業本部である。その各本部の下に部・課があるが、六部十五課というのはざらで、なかには木材・建材本部のように十四部二十七課という大世帯もある。
総合商社は生産工場一つ持たず、すべて社員がアタッシェ・ケース一つさげてとび回ったり電話一本で商談が成立する種類のものである。商談ではいろんな分野にわたるので、それを明確に分類してタテ割り制度にしたものだ。鉄鋼・機械・木材のように大世帯なものは江坂産業がほんらい扱ってきたもので、「商権」的な性格が強い。
非営業部門は、開発本部、業務本部、資源開発室、人事・総務本部、監査本部、管理本部、財務本部の六本部一室にまとめた。
営業・非営業部門の上部が社長・会長で、その上に社主がいる。社長の「内閣」が常務会である。
一見近代的にみえるこの機構もまったく完全とはいえないが、ともかく浜島の社内の近代機構をめざす発想ではあった。かれが社主の独占している人事権を社長に持たせるべきだといったのはその発想からいっても当然だった。浜島の「近代化」は大橋会長が社長時代に試みた住倉商事合併の構想につながるものがある。
ただ、開発本部に「美術課」があるのはだれが見ても奇妙である。これは社主要造が「古美術品買い」をこの機構の中に入れて制度化したもので、これを浜島が容れたのは社主への妥協であった。それでも浜島は要造から社長の座を逐《お》われた。
そういうことだから、ましてや河井現社長は要造社主に文句一つ言えなかった。社主から古美街商への支払い命令がくれば、どのような高価な買物でも黙って江坂商事から回ってくる同社の経理伝票に承認の判を捺さなければならない。常務会で江坂商事の支払い関係の検討はあるにはあっても、社主の買物に関する限り、形式的なものでしかなかった。
河井が、ニューヨークの競り売りに出た古陶磁を二つとも落さんとあかんのかいな、と岸田にいま思わず呟いたのは、四十万ドル以上の社費の支出を苦にしたからであり、岸田が、社長、ぐあい悪うおますか、と取りようによっては意地悪に問い返したのは、社主の代理で買いものに来ているという使命感的な意識、他人からすると虎の威をかるていに見られないこともなかった。その反撃とも感じさせる反問に河井社長が口ごもり言葉を濁したのも、岸田の背後に人事権を握る社主の影が、現在の華麗な招宴情景をいちめんの壁にして、そこに|ものの怪《ヽヽヽけ》のように顕われていたからである。
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岸田直介は開発本部美術課長にすぎず、社長からすると本部長を経由するか、担当役員を介するかしなければ対話のできるポジションではなかった。それが、まるで対等に近い口の利きかたをするのは、外国領海の船上という孤独な条件を考慮するにしても、やはり河井は虎の威を感じる。社長としても一矢を酬《むく》いないでは気が済まなかった。
その気持には相手が背の低い、風采の上がらない小男という肉体的な条件等がたぶんに加勢していた。岸田直介じたいは実直な男で、その身体つきと同じように小心翼々としてひたすらお家《いえ》と呼ぶ社主大事に、律義《りちぎ》につとめている三太夫であった。美術課長のもう一つの主たる任務は社主のコレクションの保存管理を専らにするにあり、その居るところは社よりも芦屋の社主邸が大半であった。開発本部に所属する美術課員十一名は、いずれも骨董品の保存扱いには馴れたものばかりで、その方の専従であった。
「岸田君。君、帰りの旅客機ではもうファーストクラスの座席を二つ予約してあるだろうな?」
河井は微笑もうかべないで訊いた。うすら笑いを見せると相手に揶揄《やゆ》と気づかれる。
「へえ。もう、その手配はしてます」
岸田は任務の抜かりなさを自信ありげな表情に示した。
「そやろな。君のことだから。毎度馴れとるし、手落ちはないとぼくらも安心してるよ」
「おおきに」
「やっぱり、あれかい、品物の入った箱を相変らず機内の天井から丈夫なナイロンロープで宙吊りにし、下もロープで座席に結びつけて固定するのでっか?」
「そうだすねん。その方法がいちばんでっさかいな。飛行機が揺れたかて、箱は宙吊りやよってに、ぶらぶらんと左右に揺れるだけで、ほかの硬いものにぶつかる気遣いはおまへん。前には箱を膝の上に抱えとりましたけど、ぼくが傾くと箱もいっしょに傾くさかい、座席の角にぶっつけそうで心配で心配で、夜かて睡れへんだした。そこで、なんぞええ方法はないもんかおもうて、ぼくが考え出したのんが、いまの宙吊り法ですわ。搭乗のチーフパーサーかてスチュアデスかて、日本の航空会社やさかい協力してくれはりましてな」
岸田は自慢そうに言った。そういう正直さが彼にはあった。
買った古美術品を飛行機の動揺による不覚の破損から守るためには、天井から垂らして座席に結んだナイロンロープの途中に結束して宙吊りの状態にするほかはない。まわりがどのように回転しようが絶えず安定位置を保つ古代中国の指南車を思い出すような仕掛けであった。そのためにはファーストクラスを二席ぶん確保しておかねばならない。一席はその箱の施設のために、一席は「捧持者」のためにである。
「それでも、ひどい乱気流に機が揉まれたとき、宙吊りの箱が大揺れに揺れて機内の硬い施設の角にぶっつかるとか、ナイロンロープが切れたりするとか、そんな心配が起らんか」
「そら、起りますわ。買物を無事にお家にお届けするまでは、ぼくの全意識、全神経はそれに集中してます。万一、ガチャンといてしもたら、何千何百万円がふいになりますがな。それをおもたら身も心も細る思いで、神経衰弱になりますわ」
「君のように輸送に馴れた者でもか」
「なんぼ経験を積んだかて、こればかりは毎回が初めと同じだす。万全を期したつもりでも、人間のやることやさかい、どこにどないな手落ちがないともかぎりまへん。あとは神仏におすがりするよりほかおまへん」
「それで、君は飛行機に乗ってるあいだじゅう、南無阿弥陀仏を口に唱えとるのんか」
社内のたぶんに嘲笑をまじえた風聞では、古美術品の買物を捧持して帰国するときの岸田は、機内食もろくにとらず、念仏を呟きどおしだ、ということだった。
「そうだす。まさか口では南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とは言いまへんけど、心の中では念じてます。ぼくの先祖は摂津《せつつ》高槻《たかつき》の藩士で、墓は高野山におます。それで、高野山のほうを向いて、というたら国際線の飛行機の中では日本の方角ということになりまっけど、まあ気持だけは高野山のほうをむいて拝んどります」
しんから律義な岸田には河井の皮肉も揶揄も通じないようにみえた。
だが、河井はそれを引っこめた。これ以上、ひやかしを露《あら》わにすると、いかに岸田でもそれに気づくかもしれない。気がつけば社主に、河井社長がこないなことを言うてはりましたぜ、と告げ口するかもしれなかった。社主要造は、ある種の昆虫の分泌液のような粘膜に皮膚を蔽われていた。危険であった。
そこで、河井はにわかに質問を変えた。
「たくさんある古美術品の管理もえらいこっちゃろな。野津さんや赤鶴さんなどのとこにある殷・周の青銅器や書画と違うて、ほとんどが器《うつわ》や皿や茶碗などの割れもんやからな」
「へえ。そら、そうだす。社長の社員管理も気骨が折れると思いまっけど、壊れやすい陶磁の管理はどないな気苦労かわかりまへんで。いちばん怕《こわ》いのは地震だすわ」
「そら、そうやな。ぐらっと揺らいだら棚のものが落ちるさかいな」
「そういう場合に備えて、厳重に荷造りして仕舞っとりますけど、それでも不安だすわ。いったん不安やおもたら、その不安が際限なくひろがりましてね。家に寝ていたかて、それを思うと睡られしまへん。そやけど、社長、やっぱり社主は偉うおまんな。あの方は、凡人やおまへんで」
「そりゃ、偉いのにきまってるがな」
「いえ、ぼくが言うのんは、そういう意味やおまへん。えらい霊感をもってはります。地震をちゃんと予知してはりますわ」
「地震の予知をか」
「ほんまでっせ。そういうのんが、ぼくの知ってるだけでも二回ありました。一度は芦屋から夜中にぼくの自宅へ電話がかかりましてな。出ると社主じきじきのお声でんがな。岸田、明日の午前中に地震があるさかい、おまえ、収蔵庫へこれから行って、荷崩れせんようにあんじょう処置するように、と言やはりました。ぼくは半信半疑で宮田君、小山君、島田君らの主任たちに招集をかけ、本社の収蔵庫とお家のお蔵とに駆けつけ、四人で明けがたまでかかって箱を柱などに結縛しましてん。そしたら、午前九時十二分に地震きましたな。震度三です」
「ほう」
「あと一回は昼間だしたが、お屋敷に居たとき社主に呼ばれ、岸田、二、三日うちに地震があるさかいに、明日まで箱の手当てをあんじょうしといてや、と言われました。そしたら、その三日後に震度二の地震がきました。社主はえらいインスピレーションもってはるなア、とぼくはつくづく思いました」
「………」
「こわいおかたや」
燐光のような神秘性が江坂要造にはあるかもしれなかった。会議や宴会の席ではきまって末席に坐り、影のように黙々として皆の発言をうつむいて膝の上でメモしている姿は、つい話に熱中している者を途中で気づかせ慄然とさせるのである。それが隠微な人事掌握にもつながっていた。
蒐集する古美術品について江坂要造は専門学者や美術評論家や博物館の技官などといったむきにはいっさい相談もせず鑑定も依頼しなかった。すべては彼自身の審美眼ないしは直観によった。それに狂いの少ないのは、現在のコレクションのなかに国宝や重美に指定された逸品の多いことで証される。これもまたふしぎな霊感といえる。
古陶磁の蒐集にかけては世界一を彼はひそかに自負する様子が見えた。それでいて、その蒐集品を公開することを彼は好まなかった。鑑定家も入れず、公開もしないのだから、そのコレクションは秘密の碧箔《へきはく》に遮断されていた。過去二回、ある新聞社からの依頼でようやくその一部を公開展示しただけであった。そのことは、かえって残余の底知れぬ深さと厚い層とを専門家たちに揣摩臆測《しまおくそく》させた。
収蔵庫は、江坂要造が会長の早い時期に本社の附属建築物として地下に建設させた。耐震・耐火で、これだけは一流建築家に設計させた。収蔵庫そのものが堅牢な金庫であった。盗賊がこれを破壊するのは至難の業である。夜も昼も本社の警備員がこの地下収蔵庫を警邏《けいら》巡回の重点とした。
芦屋のお屋敷にも、それよりはずっと小規模だが、収蔵庫があった。邸内の奥深い離れにある土蔵造りだった。これは江坂要造が、必要のつど本社収蔵庫の中のものを取り寄せて、しばらく手もとに置いておくあいだの保管用であった。おのが蒐集品をひとりで愉しむ社主は、本社収蔵庫と自邸の蔵との出し入れや往復が頻繁であった。
要造会長が脱税問題を起してから社主となり、当時の大橋社長が会長となって現在にいたっているが、浜島前社長が相談役に退かされたときである。浜島幹男は、新社長の河井に椅子を明け渡すとき、こっそりとこんなことを言った。
骨董品の出入りが激しゅうてな、本社収蔵庫の在庫品目数がようわからんのや。社主が芦屋に持ってゆきはる品目については、そのつど借用証をもらっておくようにと岸田に言うてあるけど、それがどうも杜撰《ずさん》でな。近ごろでは何がどっちゃへおさまっとるのやら、わけがわからんようになってる。古美術品は社主が買いはったんやけど、あんたも知ってはるように別会社江坂商事の社費でみんな支払われとるのんやから、社の所有物や。什器《じゆうき》とおんなじや。その出納は帳簿にきちんとつけとくように監督しておきなはれ。
浜島前社長の言の裏には、暗に社主が骨董物をいつのまにか私物化する、悪い言葉でいえば、個人所有にとりこむのを警戒し防止してほしいというのがほのめかされていた。
浜島が社長を追われたのは、人事権引渡しの要請のためだが、一つには社主にたいし古美術品の購入額の枠を決めたことが命とりになったと河井はひそかに判断していた。
河井にどうして浜島の言うことを実践でき得ようか。それこそは不可知、不可触の霊域であった。
──このように社主への想いや骨董品の話に耽っていると、身は世界一贅沢な北大西洋の船旅をしているというエキゾチシズムも、河井の眼前に展開する国際的な華やいだ情景も、六甲山の見える芦屋の巷《ちまた》にすべて埋没し消えてしまうのであった。
副社長の米沢孝夫がこのとき現れなかったら、河井社長の切ない幻滅はもっと続いたかもしれない。米沢は、両の鬢《びん》だけに黒々とした長い髪毛を残し、額から頭の頂上にかけては艶々とした同じ皮がひろがっていた。幅の大きな顔に、眉の端が下がり、細い睡たげな眼をし、鼻がちんまりとして収まり、おちょぼ唇《ぐち》をしている彼は、その肥った図体と共に、いかにもお人好しの印象をその形象から与えた。
「やあ、河井君。さっきから君をさがしてたんやけど、どないしても見つからなんだが、こんなところに居たのんかいな。おお、岸田君もいっしょか」
人まえでは社長とか河井さんとか言うときもあるが、内輪の社員たちの前では河井君と呼びつけていた。それというのが米沢は河井武則よりは一つ年長の六十一歳であり、したがって入社も一年先輩という序列のようなものもあるにはあったが、もっと大きな意味は米沢が江坂要造の側近派の大番頭であるという事実だった。これを態度に抑制するどころか、かえって無邪気に顕示するところがその善良さであった。
彼は、要造側近派が社内の鉄部門を支配するために金属資源開発本部長に送りこまれて今日に至った。社長になれなかったのは、それではあまりに露骨すぎるというので側近派が遠慮し、いくらか距離を置いている技術屋の河井をひとまず社長に据えた。そういうことで米沢は損をしているが、河井が社長になったとき、あれは暫定的な社長だから、と社主が米沢の前に聞えよがしに呟いたとかで、それを真《ま》にうけた米沢は不平も見せず、おおらかに順番を待っている、という社内の風評であった。
「米沢君。ぼくも君をさがしていたが、これだけ芋の子を洗うような混み合いようじゃ見つけるのはお手上げやがな。今までどこに居ったんだ?」
河井は、社歴が一年先輩というよりもこの側近派には一目を置いていた。
「ぼくの船室はここから三つ下の階の船尾に近いほうや」
大阪生れどうしとなると、言葉も地の大阪弁が多くなった。
「ほう、そうか。ぼくはまた君の客室はどこやろなアと思うとったが、交換手にきいても早口の英語やさかいにな、さっぱり要領を得んがな」
このクォーター・デッキから三つ下層というと河井の船室からは二つ下層の第三デッキであった。それも船尾に近いと知って河井はなんとなく優越感をもった。外国ではプレジデントとバイス・プレジデントとでは待遇に格段の差をつけると聞いていた。
してみると、この岸田などは吃水線に近い五層デッキのせせこましい船室であるらしい。
「ぼくは、上杉君がこのパーティのはじまる時間に迎えに来てくれると思って待っていたんだが、かれも忙しとみえて現れなんだ。そんで、通路をあっちゃこっちゃ迷って、ようやくこの会場にたどりついたんやが、そこでも日本人は一人も居やせん。おててをとり合った仲のええ外人さん客のカップルばかりでな。さすがにちょっと心細かったな」
米沢も同じ思いをさせられたのだと河井は知った。
いままで横で黙っていた岸田直介が突如として口を出した。
「上杉はんなら、甲板上の特別客室に居やはりまっせ」
河井も米沢も声が出なかった。特別客室は、ボート・デッキのもう一つ上の最上甲板の中央部にあって、前部の真白いマストと船尾の白と黒の二色に染め分けられた梯形の煙突との間に、濃緑色の屋根をもってマンションのように独立していた。
「あそこはペント・ハウスいうてバルコニーつきのデラックスな部屋だっせ。ウインストン・チャーチルの孫も、アーノルド・グッドマン卿も、ニューファンドランド州政府のバルチモア首相も入ってはる。それからサッシンはんの事務所も、その特別客室に置いてあるそうだすわ」
「岸田君、それを君はだれから聞いたんや?」
米沢が胡散《うさん》気な表情で問うた。
「そら、上杉はんでんが」
「なに、上杉君が。君は上杉君とどこで遇《あ》ったのか」
河井はおどろいてきいた。長い話をしたのに、岸田はいまのいままで、こちらが探し求めている上杉二郎にこの船上で会ったとは一度も言わなかった。
「こっちゃへくるときだす。サッシンはんといっしょに歩いてはりましたが、ぼくがこの船に乗せてもろた礼を上杉はんにいうと、上杉はんは自分は特別客室でサッシンはんの事務所とは対《むか》い合せの部屋に居るいうてはりました。そのときチャーチルの孫やグッドマン卿の部屋もそこやと教えられました。特別客室は右舷と左舷とにおますけど、上杉はんの部屋はそのどっちゃにあるのか聞くのを忘れましたけど。……あれ、社長も副社長もまだこの船の中では上杉はんに遇われてへんのだすか?」
河井も米沢も答えを与えないで渋面をつくっていた。
岸田が新任の江坂アメリカ社長の安田茂に代ってこのクイーンエリザベス二世号に乗れたのは河井の「温情」から出たにしても、サッシンにそういって乗船をはからったのは上杉だから岸田がその上杉に礼を言うのは間違ってはいない。間違ってはいないが、上杉にそう命じたのは河井であるから、その命令関係に岸田が立ち入って直接に上杉に礼を述べたのは、少々出すぎた行為といわねばならない。そこにも社主の使命でこのニューヨークに来ているという岸田の無邪気なひけらかしが見えていて河井には不快であった。
が、それよりも肩に埃がかかってくるように不愉快なのは、上杉二郎がサッシンと談笑しながら歩いているという時間があるのに、自社の社長にも副社長にもなんら配慮を見せないことであった。サッシンはさきほどまではこの会場の入口にホストとして佇立《ちよりつ》し客を迎えていたが、察するところ客が終って上杉と連れ立ち会場のあちこちを挨拶に徘徊《はいかい》しているのであろう。
苛立《いらだ》たしい不快のもう一つは、実際はそれが最大の理由だったが、社長や副社長をさし措《お》いて上杉が特別客室におさまっていることである。これも無神経すぎはしないか。
もっとも上杉二郎は、今度のNRC代理店契約完了にまで漕ぎつけた手柄者であり、それもサッシンと親密な間柄の故にできたことであるから、サッシンが名目上の社長・副社長よりも当事者であり親しい仲の彼をチャーチルの孫などと同じくペント・ハウスなる特別客室に待遇した心情も理解できぬではなかった。
しかしまた、その特別客室の対い合せにホスト役のサッシンが入っているのであれば、上杉は彼と往来し、それがひいては今後NRCと江坂アメリカ社の関係を円滑にし、かつ、有利にすすめてゆくことになろう。
このように冷静に考えると河井も上杉に対して寛容な気持が生れないでもなかった。が、彼の振舞いは社の秩序からしてやはり河井の衿持《きようじ》を傷つけるものがあった。
河井は、いまの会長の大橋恵治郎が社長だったころ、後に尽した上杉二郎の忠勤ぶりについての社内風聞を聞かないでもない。たとえば大橋社長が視察にニューヨークにくると、当時の上杉米州総支配人がまっさきにしたことは、ホテルの部屋に社長を先導するや否や上衣を脱ぎシャツをまくって隣の浴室に入り、湯加減を調節して、社長、お湯の支度ができました、との報告だった。その温度は快適な人肌であったという。
上杉二郎は社長大橋恵治郎に大いに認められ、江坂アメリカ社長兼米州総支配人として二十年の長きにわたって駐在した。みんなは上杉君に見習え、と大阪の大橋社長は社員たちに言っていたくらいである。上杉がその最大の支持者である大橋に、風聞どおりの──社内のルーマアはとかく拡大されて伝えられがちだが、その程度の奉仕をしたところでふしぎではない。
じっさい、もう一つの噂は──それも社員間にありがちな人事異動についての予想だが、大橋恵治郎が社主の忿《いか》りにふれて七年前に社長を辞めさせられ、浜島があとを襲ったとき、上杉二郎も本社によび返され、閑職に左遷させられるのではないかとの風聞が流れた。それは最強力の保護者を失い、上杉二郎の将来は無いものとの観測に立っていた。しかし、浜島の社長は短命に終った。あとが河井である。
河井武則が社主の決定で社長になれたのは、一つには彼と大橋とが前から反《そ》りが合わなかったことと、二つには河井がチリーあたりの材木買いで相当な利益を上げてきた実績をともかく買われたのである。それと、江坂産業の社内を見わたしても浜島を急にクビにしたあとそれに代る人材がない。副社長の米沢孝夫は「忠勤者」で、社長候補にはしているが、人が好いだけで、経営手腕には乏しい。急場の起用には適さない。そこで専務だった河井をにわかに社長にした。河井からすると、思ってもみなかった地位に立たされたのである。
河井が大橋と合わないのは、大橋に残っている「大番頭」意識であった。社業のすべてを一手に掌握して専断するやりかただった。昔は三井合名の池田|成彬《しげあき》や鈴木商店の金子直吉といった大番頭がいた。大橋にはそういう意識が強い。
先代の江坂徳右衛門に早くより見こまれて社業を任されるようになった大橋は、とかく現社主の要造を軽視する風がある。それは放蕩癖のある要造が先代によって半ば追放のかたちでイギリスへ音楽修業に遣らされたとき、大橋はロンドン支店長として要造のお付合いをしながらも、支店の社費を引出しては遊ぶ要造の浪費癖を逐一にわたって徳右衛門に報告したときにはじまる。準禁治産者にもなりかねない不肖の息子のころから要造を知っている大橋からすると、しぜんと社主になっても要造を見おろす眼つきになる。
要造と大橋とはふしぎな関係であった。要造は大橋を悪《にく》みながらも結局は彼に依存していた。石橋をたたいても渡らないという江坂産業の社風である先代の方針は大橋が継承した。銀行筋からの信頼は大橋に集中していた。このような「大番頭」の大橋に要造は反撥しながら倚《よ》った。
しかし、大橋もまた内心要造を軽蔑しながら社主として立てた。要造の長所は、人事権を放さない点を別にすれば、社の経営に口を出さないことにあった。これは経営を任されている社長にはまったくありがたい寛容で、他の企業には稀有である。人事権のことはなるべく要造の意向を尊重するようにみせかけて、自分の思いどおりに仕向ければよいと考えていた。それが大橋の大きな錯覚で、自分自身が社主の人事権発動によって罷免されることになる。しかし、それまでは要造と大橋とは互いに反目し、しばしば衝突しながらも、相互に利用し合っているために仲直りするという長年の夫婦仲のようなところがあった。
河井武則には、そうした大橋恵治郎が野心的な男にみえてならなかった。しかも大橋はその番頭的な経営の独裁によって大橋閥を形成している。これが一方の要造側近派と対立していた。
けれども河井にはファミリーの無人格な側近的忠勤ぶりもうとましかった。が、大橋派の狡猾《こうかつ》な商売人どもよりも、単純なだけにファミリーのほうがまだ若干は|まし《ヽヽ》だと思っていた。その考えをもつ彼が、反大橋という点で、ファミリーにいくらか引き寄せられたといえる。
大橋恵治郎の社長詰腹とは、住倉商事と江坂産業との合併話をひそかにすすめていたのを社主の要造が知り、要造は大橋を越権行為ないし背信行為と見て激怒したことによる。大橋の考えは、要造に握られている江坂産業の前近代的な性格の改革、とくにファミリー派閥消滅のために住倉商事との合併を、その主要銀行である住倉銀行を通じて交渉していたのだった。要造は側近の鍋井専務の通報でそれを知り、ただちに大橋自身を住倉銀行頭取八田恭三郎のもとに遣って断わらせた。要造はそういう皮肉なやりかたが好きだった。
大橋の後任に要造は浜島幹男をすえた。浜島は社長に就任すると、大橋前社長の助言もあって、社長に全面的な人事権を持たせることと、同時に、社主の骨董買いなどに流れてゆく社費の無制限な公私混同の是正を要造に求めた。浜島はすぐに社長を退任させられ、相談役に堕《おと》された。浜島の二つの要望は、要造の急所に短刀を突きつけたようなものだった。あとが河井である。
上杉二郎についていえば、河井が社長になって四年目に、彼は原燃料・鉱産業務担当専任の常務として江坂アメリカから東京本社に二十年ぶりに呼び返されることになった。これには上杉の私行上の乱れを耳にした要造社主のかねての意向がたぶんに反映している。その辞令はこの一カ月前の九月一日付で発令されている。しかし、上杉はおりから江坂アメリカとNRCの代理店契約に努力中であったので、河井は上杉を辞令どおりの身分でニューヨークにとどめておいた。
河井としてはNRC代理店契約が完了しない前に上杉を発令通りに呼び返したくなかった。上杉はずっと前から江坂アメリカ社長のまま本社の常務になっていた。今度の業務担当専任常務は一見栄転にうつるが、それは帰国させるためにイロをつけたにすぎない。それだけに契約調印の華々しさを上杉にさせてやりたかった。もし、上杉を九月一日に帰国させてしまえば、あとは上杉と仲の悪い後任の安田茂・江坂アメリカ社長が調印することになる。それではせっかくここまで契約に漕ぎつけるために努力した上杉が気の毒であった。
上杉は大橋現会長が眼をかけた男だ。いわば上杉は大橋の子分である。彼が江坂アメリカ社長兼米州総支配人となり、次いでその身分のまま江坂産業の常務にまでなれたのも大橋の陰に陽にの推挽《すいばん》があってのことだ。その大橋会長と河井社長とはソリが合わない。これも社内周知のことである。だから社長になってから河井が上杉に冷たくあたると、あれは反大橋派だからという報復のように人はとる。これが当の河井には困るのだった。大橋は嫌いだが、上杉に何の科《とが》があろうか。その在米勤務中の功績はむしろ積極的に認めるべきである。
河井の反大橋派意識は、かえってそれに拘束されて、逆に上杉をかばうような立場にさせた。自分は筋を通す人間だ、という自負も河井にあった。
しかし、そのもう一枚底にある本音は、子会社の江坂アメリカがNRCの代理店契約をすることによってそれが社長として自己の業績につながるという功利主義であった。
江坂産業が十大総合商社の最下位から脱出して上昇するには、石油部門の営業を拡大するほかはない。その好機がイギリスの大手メジャー(石油資本)のBPと提携しているニューファンドランド州立会社PRCの共同体NRCの代理店になることだった。
州立会社PRCはカンバイチャンスに日産十万バーレルの製油所を新設した。ここにBPがアラビアの原油を供給する。PRCは精油の操業の管理会社なのだが、アルバート・サッシンのNRCはそのPRCの精油を販売するようにPRCからその経営管理も委任されていた。したがってNRCとBPとは早くから直接取引契約ができているのだが、そこへ喰いこんでNRC代理店契約を強引に成功させたのが当時の江坂アメリカ社長上杉二郎であった。
はじめはNRCのために日本の栄光商船から大型タンカーの用船を斡旋《あつせん》した。そのときサッシンの希望によってNRCに千五百万ドルの担保づき融資もおこなっている。が、たんなる用船の手数料だけでなく、石油そのものの代理店業務を獲得したのである。上杉の説明によると、日産十万バーレルの精油業務を取扱うことから、一バーレルあたり二セントの手数料により年間収益は七十二万ドル(二億千六百万円)に上る見込みであった。ただ、江坂アメリカはNRCの代理店でも精油の販売にはタッチせず、BPからの原油の購入支払いと、その原油代をNRCからとり立てるというだけに絞られた。これも単純で、石油販売の煩わしさがなかった。
さらに上杉二郎の説明では、NRCはニューファンドランドの製油所に近接して日産三十万バーレルの製油所を建設する計画であり、ノヴァ・スコシア州の製油所建設計画とともに、もしそれがひきつづき江坂アメリカの代理店契約になれば、取扱高はますます増大するというのである。
江坂産業が念願とする石油部門の飛躍がNRC代理店契約から開かれるのは確実であった。これは社長としての河井の業績になる。もしかすると、暫定的な意味の社長だったのがそのまま固着して安定したものとなり、長期政権も考えられそうだった。
それには上杉二郎をひきつづきNRC業務の担当にしなければならなかった。対NRCといっても、じっさいはNRCの親会社であるサッシン・ナチュラル・リソーシズ(SNR)の会長アルバート・サッシンとの関係であった。上杉はサッシンと親密である。NRC代理店契約もむろん上杉がサッシンと交渉した結果ようやく成功したのである。今後もサッシンとはひきつづき友好関係を保って折衝をつづける必要がある。新製油所建設計画があるからにはなおさらのことだった。そのためには上杉二郎を代えることができない。余人をもって彼に代えるのは不可能であった。
それだけではない、NRC代理店契約をとるためにはサッシン側の言いぶんを上杉二郎はほとんど全面的にうけ入れていた。なにぶんにもBPとPRC=NRCとのあいだにはすでに一九七〇年(昭和四十五年)四月に原油供給の長期契約サインがなされていて、直接取引が完成していた。そこへ代理店として第三者たる江坂が割りこむのである。こちらが不利な条件を忍ぶのはやむを得なかった。それを呑んだ上杉を河井はバックアップしたのだった。その「不利な条件」には社の常務会にも言えない内緒の部分があった。それを承認したのだから、河井は上杉とある意味で「連帯者」の立場にあった。これではよけいに余人を上杉に代えることができないではないか。
しかし、困ったことがある。それは社主の江坂要造が上杉の江坂アメリカ社長兼米州総支配人を解いて帰国させよと河井に逼《せま》っているのだった。表向きには二十年間の滞米が長すぎるというのである。裏には要造社主とその子明太郎専務両人の上杉にたいする不信感があるのだが、少なくとも表面の主張にたいする反対の理由がない。NRC契約の経緯を社主に述べても、上杉に社主は不信感をもっているのだから、かえって逆効果となる。悪くすると社内の反対勢力がそれを楯にとって代理店契約まで潰しにかかるかもしれなかった。また、それを楯にとられても仕方がないほど、それはNRCに対して軟弱とも見える契約であり、とくにそれは「補助契約書」に明記されてある。けれども、これは社主や常務会には絶対に見せられないものだった。
河井は困窮して、社主要造の要求どおりこの九月一日付で上杉二郎を江坂産業の常務として呼び返し、東京本社在勤とした。そのかわり上杉を原燃料・鉱産業務担当にし、継続してNRC業務を見るということにした。こうすればサッシンとの折衝は従前どおり上杉が当ることになる。社主もそこまでは容喙《ようかい》しなかった。要造父子にしてみれば、上杉をアメリカから引き揚げさせればよかったのである。そのために現場業務を担当する江坂アメリカ社長兼米州総支配人はNRC業務に関するかぎり浮き上がった存在になるけれど、これもまた止むを得なかった。
そのようなことで、九月二十日に行なわれたNRC代理店の本契約書にも秘匿の補助契約書にも、すでに一日付で江坂アメリカ社長ではなくなった上杉が、名分上、江坂アメリカ社長と江坂産業代表取締役の資格でサインをしている。なぜに江坂アメリカ社長のほかに、江坂産業代表取締役の資格によるもう一通の契約書が必要だったかというに、それも上杉を本社の担当とする線に沿ったことによるのだが、とにかく上杉に名誉あるサインペンを握らせたのは、代理店契約に漕ぎつけた彼のこれまでの苦労に酬いたという意味のほかに、以上の含みがあった。
──上杉二郎が入社したのは、昭和十八年の秋であった。江坂商会を江坂産業と社名を改めた年である。彼はハワイ生れの日系二世で親戚の養子となって日本に戻り、地方の高商を卒業した十年後であった。敗戦の三年目、江坂産業も「過度経済力集中排除法」(二十二年十二月十八日公布)の指定を受けた。当時の社長はいまは物故しているが、常務が大橋恵治郎であった。このため大橋を部長とする渉外部が社内に特設され、この指定解除を目的にGHQへの工作を行なうことになった。
江坂産業は敗戦と共に海外に持っていた六十一の支店・出張所と六つの直接生産会社のすべてを失った。その上、資本金の三倍という戦時補償特別税を課せられたため、創業いらい四十年にわたってこしらえあげた資産は脆《もろ》いガラスのように粉々に潰れた。その前の二十一年には会社経理応急処置法による特別経理会社に指定されて企業再建整備法にもとづく再建案の審査をうけ、それをどうにか切り抜けると、こんどの二十三年の「過度経済力集中排除法」の追い打ちであった。この審査の結果次第では、会社は分割されるか、他の商社と合併しなければならぬ。
特設の渉外部には大橋部長の下に五、六人の部員がいたが、上杉二郎は英語力を買われてそのスタッフに入っていた。指定解除をとりつけるために大橋はGHQによい政治家や官僚に運動してもらったが、部員の上杉二郎の働きは目立った。GHQは、数十項目にわたる質問書を突きつけ、翌日に回答を迫るという厳しい審査を行なった。このときGHQに提出する文書を上杉がほとんど徹夜で英語に翻訳してタイプを打った。英文タイプライターのキイを熟練のピアニストのような速度で叩けるのは上杉しかいなかった。指定解除に成功したとき、大橋はその功の分量を上杉二郎の働きに多く配分した。
ニューヨーク支店が再開されると、大橋は上杉二郎を配置した。その英語の自在なのを買ったからである。江坂アメリカ会社の登記が終った二十八年六月に東山伍一というのが責任者として赴任し、上杉はその下の副社長席付という責任者代理のようなかたちであった。社員はほか一人を加えて三人だった。爾来《じらい》二十年間、上杉は江坂アメリカに定着し、そこの社長兼米州総支配人をも兼ねた。在米のまま取締役にえらばれ、ついで常務にもなった。彼の努力もあるが終始大橋の支持による。
しかし、もう一度いうと、ここ数年来の上杉二郎に対する社主要造の信頼は薄らぎつつあった。仕事は出来るが、彼は秘密主義で、チームワークを拒否していること、ならびに私生活に翳《かげ》りがつきまとっているということにあった。前者は部下などの不満であり、後者はそれより発した密告である。
そのうえもっと悪いことに、要造の息子の明太郎専務が新婚旅行を兼ねて海外支店を視察してまわってきたとき、上杉が江坂アメリカ社長秘書をしているアメリカ娘を愛人にしているという噂を聞きこんだ。これも支店社員らの密告によるらしい。上杉は妻子を長いこと日本に置いていた。
上杉二郎が江坂アメリカ社長から本社の原燃料・鉱産部門担当常務となって日本によび返されるようになったのは、一つにはニューヨーク在勤が長すぎるという理由もあったが、その裏は彼の醜聞が社主父子の耳に入ったのが原因だった。
そこへ当の上杉の手で提起されたのがイギリスの大手メジャーBPとNRCとの原油取引に江坂産業が代理店として介入する契約問題である。石油部門に貧弱な総合商社江坂産業は、河井社長が率先し、ほとんど全社をあげて、この上杉二郎のすすめる代理店契約を支持した。社主父子の上杉個人に対する感情とは別にされた「社の将来の発展のため」であった。
昭和三十六年に、ニューファンドランド州の鉄鉱石の輸入計画を上杉の手で江坂産業が交渉して以来、州政府首相ジョージ・ウッドハウスと彼とが識り合いの仲であり、さらに首相の紹介でNRCの構想推進者アルバート・サッシンと親しくなった彼を抜きにしてはこの契約が考えられないからだった。
当の上杉二郎も原燃料・鉱産業務担当専任で本社に呼び戻される理由と自分の立場をよく知っているのだろう。だから彼はNRCの代理店契約に最後の意欲を燃え上がらせていた。すでに六十一歳であった。社主父子から冷視されている立場をこの契約成功に賭けて一挙に挽回しようとしたように河井社長には思われた。事実、NRCの代理店契約は彼を主役にする以外になかったではないか。
「あれ、あそこに上杉はんがいやはりまっせ」
とつぜん岸田直介美術課長が河井のそばで叫んだ。
指先の方向に、人々の間をかきわけるようにして、鷲鼻《わしばな》の下のうすい唇に笑みをたたえて客たちに愛嬌をふりまいて歩くアルバート・サッシンとつれだち、半白だが豊かな髪をせまい額の上にもりあげ、六十代初期の男性としては魅力的といえそうな若々しい微笑を切れ長な眼と締まった口もとに含む上杉二郎があった。そのタキシード姿も瀟洒《しようしや》で、日本人離れがしていた。
5
翌朝、クイーンエリザベス二世号はノヴァ・スコシア州の首都ハリファックスの港に入った。空は晴れ渡り、海はその色をうつして濃密な群青《ぐんじよう》を湛えていた。真白いカナダ海軍の駆逐艦が右舷により添って護衛し、空軍のヘリコプターが飛び、港外に出迎えた消防艇数隻が魔術師の掌上にある噴水のように放水を十メートルも上げていた。女王号も檣頭《しようとう》に赤い楓《かえで》の国旗と、紺地に白の海獣を染め抜いたNRC社旗と、王冠の楯を原住民が支える複雑な図柄のノヴァ・スコシア州の紋章の旗を掲げて、この歓迎に敬意を表した。
埠頭《ふとう》に着いてタラップが降ろされると、この世界一豪華巨船を一目でも見学しようとする市民や村民たちが群れていた。タラップをいちばんに昇って行ったのはノヴァ・スコシア州政府首相のジェラルド・リーガンと、州の幹部や財界人だった。それにつづいて土地の新聞記者やカメラマンが駆け上り、NRC会長サッシンを囲み、グッドマン卿やフリーマンなどの著名な銀行家に押しよせた。が、イギリスの戦時宰相の孫というだけで三十三歳のウインストン・S・チャーチルは人気者であった。彼らの談話を記者たちが手早く手帖に走り書きする一方、テレビのライトや映画カメラの蒼白い光が交錯した。映画の撮影はNRCの側で傭《やと》ったものである。
サッシンは、アメリカやイギリスの銀行家などおもだった客を先導して下船すると、州政府さしまわしの車数台で百キロもはなれた土地に案内した。そこは南の湾に面した雑草の原野であった。空気が冷たかったので、サッシンは黒の鍔広《つばひろ》のソフトに濃いサングラスをかけ、襟巻をし、厚い冬コートを着こんでいた。従う客たちも毛糸編みのジャケツや革ジャンパーの上に外套を無造作に羽織るという粗野《ラフ》な格好だった。サッシンは草地に置かれた机の上に地図と新設予定の製油所《リフアイナリー》の設計図とを拡げ、そこらにあった標示杭を臨時の定規にして図上に線を引きながら説明した。このノヴァ・スコシア州にNRCの製油所が建設されれば、日産二十万バーレルは見込まれると彼は確言した。寒い風が地図や設計図の端をめくるので、人々はそれを手で押えねばならなかった。この日産二十万バーレルの製油所建設計画にも江坂アメリカは提携の意欲があった。
クイーンエリザベス二世号は、その日の、昏《く》れるに早い夕方、ハリファックス港を歓送裡に抜錨《ばつびよう》した。さらに針路を北北東にとった。
クォーター・デッキの、やはり濃紺色を主調にしたコロンビア・レストランも、ボート・デッキの前部にあるクイーンズ・グリルも満席で、この夕食からふえてくるタラ・ニシン・サケなどの北海料理を運ぶのに給仕らは目まぐるしく往き交った。どのルームも晩春のような温度が通っていて、昨夜とは衣裳を違えた夫人たちは美容室で仕上げた髪をたゆたわせ、宝石が燦《きら》めく肌をうっすらと汗ばませて、料理といっしょに口を動かし、今日のハリファックス見物について夫らを交えて互いに語り合った。スコットランド兵そっくりのスカート姿でバッグパイプを吹奏する音楽隊に歓迎されたことや、先住移民のアカディア人たちをはじめて見たこと、かれらがフランス語しかしゃべらないことを印象深げに話し、すこし文学的な女性は、民族離散と恋人の死の再会とを長詩に織りなしたロングフェロウの「エヴァンジェリン」について感傷をこめて語った。
おそい食事が終ると、ボート・デッキを吹き抜けにした二階造りの、六百人から収容できる劇場で映画がはじまった。映画に興味を示さなかったり飽いたりした客は、クイーンズ・ルームのうしろにある貴族趣味のナイトクラブ「ハイドアウェイ」に集まり、酒好きの連中はもっと小さなダブル・ダウン・バーに流れた。
「なにもかもうまくいってますね」
バーで上杉二郎は眉をあげて河井武則と米沢孝夫とグラスを傾けながら言った。その顔は誇らしげで喜色に満ちていた。
「予想外の盛大さや」
米沢孝夫が、お人好しの定評どおりに、あけっぴろげの驚歎を丸い顔にあらわした。彼は、この船上の経験が永遠の土産話になるといい、
「社主にお話ししたら、どないおよろこびになるかしれん」
とも言い添えた。
「チャーチルの孫やグッドマン卿やファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ頭取フリーマン氏などをはじめアメリカ、イギリス、カナダの財界のお歴々をよくここまで集めたものだ。サッシン氏はたいした顔だね」
河井社長は上杉に言った。じつのところ、昨夜のパーティでのわだかまりが彼の気持の隅にまだ残っていないでもなかったが、社の発展という名分と、上杉の努力を認めるという「公平意識」とが河井の前面に押し出されていた。
「ぼくは、昨夕からずっとサッシンさんといっしょでしたが、彼自身はこのような大成功でも、それほどよろこんではいなかったね。当然だという表情でした。しかし、彼の顔でこれだけの名士をあつめてのセレモニーだから、その演出はたいしたものです」
上杉は言った。
上杉は河井よりは年齢が一歳上であった。彼は前には河井に馴々しい言葉で話しかけていたものだが、河井が社長になると、言葉遣いがすこし改まった。とくに他の社員たちの前では叮嚀であった。上杉にはそういう行儀があった。
「君がサッシン氏と識り合うようになったのは、小さな新聞記事が偶然に眼にとまったのがきっかけだったからね」
米沢が感慨深げに上杉に肥った身体をむけた。
「正確には、ウッドハウスさんからです。ぼくが新聞記事を見て、すぐにとんで行って会ったのはセント・ジョーンズの州政府庁の首相執務室ですからね」
上杉は部分訂正した。二重瞼《ふたえまぶた》の眼を細くすると、そこに複雑な翳《かげ》りが出て、相手に魅力を感じさせた。
「そのニューヨーク・タイムズの記事というのは、前にもお話ししたように、共和党のニクソン氏に近い政商サッシン氏がオーナーであるSNRは、カナダのニューファンドランド州政府と合弁方式で日産十万バーレルの製油所をつくり、ニューヨークのケネディ空港に離着陸するジェット旅客機の燃料として売りこむなどして、アメリカ東海岸の石油市場の争奪戦に一枚加わることになった、という内容のものでした。そこでぼくはすぐにセント・ジョーンズに飛んでウッドハウス首相と会う気になったんです。首相とぼくとはニューファンドランドの鉄鉱石の日本輸入を江坂産業の手でやりたいと十年前に提案していらいの親しい間柄ですからね。鉄鉱石の輸入つまりカナディアン・ジャベリンとの提携は陽の目を見ませんでしたが、しかし、ウッドハウスさんとの友情には変りなかったです。そこで、ウッドハウスさんに会って、新聞記事の事実を確認すると、そのとおりだという。イギリスの石油資本ブリティッシュ・ペトロリアムつまりBPがアラビア原油の販売権をもっているのでこれと提携して、アラビアから安い原油を運ばせニューファンドランドで製油する計画だというんです」
──それには製油所の立地条件が非常によい。アメリカの東海岸は環境問題がきびしくなって、現在以上に製油所の新設は困難だが、ニューファンドランドは過疎地帯だからそのような環境問題はなく、将来、製油所はいくらでも拡張できる。ニューファンドランドのカンバイチャンスはこの地方唯一の不凍港である。そこに州立のPRCなる製油所をつくる。カンバイチャンスがあるプラセンシア湾からニューヨークまでは一千マイルしかなく、アメリカ東海岸に近く、輸送は短時間であり、したがってタンカーの輸送費も低い。
ニューファンドランドにはこれという工業がなく、農漁村ばかりで、したがって労働者の賃金が安い。州政府との合弁だから税制措置の優遇がある。以上のように、いかなる点をとってみても、アメリカ東海岸やカナダ東部におけるマーケットへの売込競争は有利である。
ウッドハウス首相はそのように上杉に話した。
「ぼくは、BPと、NRCないし州立のPRCとの取引にわが社が入って代理店契約をすることはできないかと首相に言ってみたんです。すると首相は、それならSNR社長サッシン氏に会えといって紹介の労をとってくれました。紹介状も書いてくれたし、ぼくの知らないうちにニューヨークにも電話をかけてくれたんじゃないかと思いますね。そこで、ぼくはニューヨークに戻り、パークアベニュー五〇番地のビルの十五階・十六階の全フロアを占めているSNRの本社へ行きましたよ。一九六七年の暮で、クリスマスが近い日でした。まず、出入口わきにサッシンさんが持っている会社の名前が数多くずらりと掲《かか》げてあったので、これはよほど活動的な企業家だと思いました。ぼくの江坂アメリカ社長の肩書の名刺を受付の秘書嬢に出すと、すぐに大きな応接間に通されました。その窓からは、古風で小さなセントラル駅を抱えこむようにして高いパンナム航空ビルが見えました。サッシンさんはすぐにぼくに会ってくれました。顔つきはさっきごらんになったとおりです。だれもが彼から精悍《せいかん》な印象をうけます。で、さっそくウッドハウス首相の紹介状をさし出して、江坂アメリカをNRCの代理店にしてもらえないかと言うと、サッシンさんは日本のエサカという会社の名は知らんといって横をむくんです。それはそうでしょう、ウチには当時石油部門があったとはいえ、小さな商売で、ほかの総合商社にくらべると問題にもならず、サッシンが知らんというのも無理はないです」
副社長の米沢が大きな声で笑った。彼はそのままの声で、
「サッシンはエサカの名前は知らなんだけど、日本のタンカーのことはよく知っていたんだね」
と、上杉の話を進行させるように言った。
「そうなんです。日本の造船と海運は世界に鳴りひびいていますからね。そこでサッシンさんは、石油取引の代理店のことはそっちのけで、石油を運ぶタンカーの用船のことなら頼んでもいいというんです。頭の回転の速い男だと思いました。ウチは前から栄光商船とは輸入木材を運ぶ用船契約を結んでいますからね。それがぼくの胸にあったものだから、それはお安いことだ、大型タンカーならいつでも配船の御用立てをすると言ったら、サッシンさん、その用船契約からまずゆこうと、急にそれへ乗ってきました」
「君からのその報告は、まず国際テレックスで本社に来て、あとの詳しいことは君の手紙でぼくも内容を見たがな」
酒が好きで、グラスを重ねたせいもあって米沢が陽気な声を出した。
「そこでやな、栄光商船の西川専務とは、ウチの木材運搬船の長期取引の実績があるさかい、この河井君もぼくも懇意な間がらじゃ。このときは東京支店の担当者の手で栄光商船と交渉がおこなわれた。当時、栄光商船は日の出の勢いやから、きびしいことを言いよった。ところがNRCはVLCC(二〇万トン以上の大型タンカー=Very Large Crude Carrier)二隻のうち、一隻をデマイス・チャーターとするのを条件として出した。つまり裸用船《ベア・チヤーター》するとともに裸用船料に上乗せして船を長期ローン方式で使用者側が買いとるのを条件にしたいいうて、希望してきた。栄光商船ではそれでは困るという。あの交渉は一年近くかかった。東京支店からはなんとかしてくれえと本社に言うてくる。そこで、河井君とぼくは西川専務に会って、NRCの言うとおりにデマイス・チャーター方式にしてほしいというて何度も話したが、日ごろの仲は仲、商売は商売や言うて、西川専務はどうしても承知せん。なあ、河井君、そうやったなア?」
河井は苦笑してうなずいた。
「その最終回答をもらうまでには、たしかに一年かかりました」上杉は言った。「ニクソンが大統領に就任したのが一九六九年の一月で、そのすぐあとに、ぼくはふたたびパークアベニューのSNR本社にサッシンさんを訪ねましたから。サッシンさんは自分が応援したニクソンが大統領になったので、だいぶんご機嫌でしたが、デマイス・チャーターの拒否を伝えると、イスからすっくと立ち上がり、両手をひろげ、その条件が呑めないようでは、話はなかったことにしよう、と、とたんにおかんむりになりました」
上杉はグラスに唇を寄せ、おだやかに笑った。
「ウチとの話が流れたため、サッシン氏は、ほうぼうに用船の話をもちかけたんだな」
河井が言った。それを上杉二郎がまた引きとった。
「そうなんです。その情報が、ニッポン・ライン(日本商船)に流れたんです。情報源は、それまでカフジ原油の売りこみを図ってサッシンさんに接近していたアラビア石油と、ニューヨークのタンカーブローカーのロング・クイーン・アンド・マッカラム社の双方です。が、サッシンさんはカフジ原油には品質に問題があるために冷淡だったんです。そこで、ニッポン・ラインがサッシンさんとの契約交渉にのり出して、一九七一年の暮に定期用船《タイム・チヤーター》契約の合意に達した。VLCC二隻、契約期間三年、定期用船料として月(D/W)トン当り三・五五ドルという内容のものでした」
一九七二年(昭和四十七年)一月、NRCとニッポン・ラインとは用船の仮契約をおこなった。しかし、あとになってからNライン(ニッポン・ライン)は用船料に関して|銀行 保証《バンク・ギヤランテイ》をとつぜん要求した。サッシン側はNRCが業務運営管理を委任されているPRCは純然たるクラウン・カンパニーであることを理由にNライン側の申出を拒否した。ためにNラインとの仮契約は二月になって破棄された。Nラインがこの段階でNRC側に銀行保証を要求したのは、危険の回避のようであった。
「Nラインとの用船仮契約がお流れになったと聞いたものですから、ぼくはサッシンさんにもういちど接触をはじめました」
上杉二郎は少し身を引いて言った。
「前にウチでもあのようなことから用船契約が不調に終った。それでもサッシンさんとはどこかのパーティなどで顔を合せると立ち話ぐらいはしましたよ。ぼくについでがあったら社に寄ってくれ、と言ったりしました。いつも外国を飛び回っている忙しい人だけど、電話で都合をきいて、一、二度パークアベニューの本社にサッシンさんを訪ねて雑談をしたりしました。まあ、そういうことがよかったんですな。Nラインとの仮契約がご破算になった一カ月後の三月に、ふたたび栄光商船との用船契約の話をすると、サッシンさんもNラインとのこともあった直後だし、ぼくともかなり心安くなってもいたので、積極的に応じてくれました。こんどはデマイス・チャーターじゃなくて、普通の用船契約でいいと彼はいうんです。そこでVLCC二隻を三・五〇ドルで三年間、という契約合意がNRCと栄光商船の間にできた。そうして八月にはNRCと栄光とは江坂アメリカを仲介にして、三年契約を十年間に延長し、VLCC三隻とし、二・四〇ドルで定期用船《タイム・チヤーター》することを正式に契約する運びとなったのです。その契約に当って、サッシンさんはNRCに千五百万ドルの融資を江坂アメリカがするのが一つの条件だというんです。これは仕方がないと思いました。あとの石油代理店契約のためにはね。ぼくはNラインの見方とは違って、サッシンさんの着想と実力とを買っていて、これはきっと大物になると思ったから、彼を信用していましたよ。小さなリスクをいちいち考えていては、こうした国際的な商売は何もできませんからね」
「そら、そうや」
酔いの回った米沢副社長が首を大きく何度も振って相槌《あいづち》を打った。
「……そういうことやから、あとの石油代理店契約もでけたんや」
「ぼくとしても用船契約を石油代理店契約の呼び水にしたかったのです。そのためにはサッシンさんの要求する千五百万ドルの担保付融資にも江坂アメリカは応じなければいけないと考え、大阪の本社にその契約に関する稟議書《りんぎしよ》を送り、常務会の検討をねがいました」
「その常務会が大揉めだったんでなア」
米沢が高笑いした。
「……この河井君などは先頭に立って、江坂明太郎専務や鍋井専務の強硬な反対に立ちむかったもんや。あのときは、すさまじかったなア」
「その常務会の話はぼくもニューヨークにいて伝え聞いています」
「鍋井君などは、NRCの便宜をはかって用船契約をしてやったのに、なんでこっちゃがサッシン氏に千五百万ドルも融資せなあかんのや、これが栄光商船に融資するのんやったら、用船料の前払いの意味もあってそれなりに筋が通るんやが、サッシン氏にするのは話があべこべやと言うとった」
「なにしろサッシンさんはニューファンドランド州政府とNRCという大きな事業を手がけていたので、資金がいくらあっても足りなかったのです。鍋井専務の言いぶんは分りますが、それはいわゆる融通の利かないスジ論であって、こういう特殊な、臨機応変の措置には間に合いません。江坂産業がほんとうに石油部門を本格的に開設して名実ともに十大総合商社の中堅といわれるようになるには、こんどのNRC代理店契約を江坂アメリカがするのが絶好の機会です。なんとしてでもこのチャンスをのがしてはならない、これをのがしたら江坂のため二度と幸運がめぐってくるかどうかわからない。その代理店契約に漕ぎつけるためにも、前段階の用船契約で、設備資金の一部千五百万ドルの融資はむしろ小事だと思いました」
上杉二郎は昂奮をおさえるように言葉を切って、唾をのみこんだあとでつづけた。
「その千五百万ドルも、NRCから取る約束手形の半額は栄光商船の保証があるんですからね。つまりウチと栄光商船と半々でNRCに融資しているのですから、スジは通っていますよ。その点、鍋井専務の非難は当りません。それに用船料の一・五パーセントを手数料として栄光商船が江坂アメリカに支払う。原油一バーレルあたり二セントの口銭です。それは安いかもしれないが、こちらから代理店になるのを頼んだのだから、多少安いのは仕方がありません。しかし、そういう眠り口銭がきちんと入る。いい商売になるんです。これを断わっていたら、今日のNRC代理店契約もなかったのです」
「そのとき、明太郎専務も鍋井君もそれがわからなんだ。明太郎君なんか、ずいぶん激しい言葉でNRCのためにする栄光商船との用船契約に反対していたなア。河井君、あのときの明太郎はんはだいぶん感情的になっていたやないか」
米沢が河井をふり向いた。
河井は重苦しげな表情をしていたが、米沢に言われて上杉の顔に眼をまっすぐにむけた。
「それはな、ぼくが常務会で明太郎専務や鍋井専務とやり合ったのんは、ぼくが君に特別肩入れして、君に手柄をたてさせてやりたいようにかれらが誤解していたからだ。ぼくは江坂産業のためだけを思ってるだけやで。特別な個人をひいきにしてやせん。この交渉は上杉君しかおらんと思うさかいに稟議書を承認しようと言うただけや」
「どうも」
上杉は身体を動かして謝意を表した。
「そやけどな、上杉君。明太郎専務がそこまで感情的になったのんは、べつな理由があったんや。はっきり言うと、明太郎はんは君という男が嫌いなんや。君がもひとつ信用でけんというとった」
河井は思い切ったように言った。上杉が、はっとなったように眼をあげたが、すぐにその眼を伏せた。
「理由を言わんとわかりにくいやろうから、言いにくいことを言うけどな。明太郎はんが新婚旅行をかねて、こっちの店に回って来やはったとき、だれかが君の私行上の不明朗なことを耳に入れたらしい。明太郎はんは、あのとおりボンボン育ちの上に変にスジを通したがるところがある。えらいお祖父さんやお父さんをもってはる人にありがちな独立的な自己顕示欲や。そういう明太郎はん自身も矛盾をいっぱい持ってはる人やけどな。まあそないなことで、誰ぞから聞いた君の私行上の話を真《ま》にうけてはったんや」
「それは、ぼくの不徳のいたすところです。釈明したい誤解はいっぱいあるが、このさい弁明はやめます」
上杉はかたちを改め、タキシードの両膝の上に手をぴたりと置いて頭をさげた。繊細な表情がこのときは硬直していた。
「鍋井君は側近派のナンバーワン役員を自任してる男やからな。お茶坊主やから、御曹子《おんぞうし》の明太郎はんについたまでや。次の代の社長か社主になる人やさかいにな」
深酔になった米沢は頭を振り振り言い出した。
「その明太郎はんも鍋井君も、こんどのNRCの代理店契約に常務会で反対しなかったのは、こら、ふしぎやろ。君が信用でけへんなら、その信用でけん君がおもになってやった代理店契約にどうして反対せなんだろう? こんどの契約は前の用船契約とは問題ならんくらいにことは重大やないか。そのわけはこうやで。聞いたかしらんが、明太郎はんは、サンフランシスコの支店を根城にして、勝手にひとりでとほうもない新規事業をはじめてな、西部の過疎地帯の海岸地に海のディズニーランドをつくるいうて、広い土地の買い占めなどやって大金を費《つか》いはった。それもな、明太郎はんの学校友だちの悪い男にだまされてのことや。そんな大失敗をやらはったあとやさかいに、常務会に出やはっても、明太郎はんはそのあと始末のほうに気もそぞろで、口がよう開かなんだ。その代理店契約に反対する元気もなかったのや」
「明太郎さんがシスコで何をやられようとしたか、それはぼくも詳しく聞いています」
「そやな。君は米州総支配人やったからな」
「米州総支配人でも、明太郎専務のされることは、ぼくの権限外でした」
「そらそうや。もう次の社主気どりのわがまま者やさかいな。おおっぴらには言えんが、あの人の威張りかたと金づかいの荒いのにはみんな困ってる。社主も内心手を焼いてはる」
ファミリー派でも鍋井専務と一、二を争う米沢副社長は言ったが、とつぜん口もとを歪《ゆが》めてにやにや笑いを浮べた。
「その鍋井君が常務会でNRCの代理店契約に反対せんやったのは、こりゃまた別な、おもろいわけがあるんや」
河井が酔って言い出す米沢の肘《ひじ》をつついてとめようとした。
「なに、言ってもかめへん。社内では知れわたってることや」
米沢は面白そうにつづけた。
「具体的な内容はさしひかえるけど、とにかく芦屋のお宅で、社主のご家族、ご親戚だけの行事があってな。うちうちの集りや。鍋井君は社主に呼ばれもせんのに、そこへのこのこと顔を出した。なにしろ側近第一号を自任してる人やさかい、自分もうちうちの人間やおもて忠勤をはげみにまかり出たんやな。社主が、鍋井、呼びもせんのに何でここへ来た、と叱りはった。鍋井君はそれであっさり帰ればいいものを、こんどは別間に行って坐っているんやな。社主がそれを見つけはって、鍋井、おまえはまだそないなとこに居たか、すぐに消えろ、とものすごい語気で憤りはった。鍋井君はすっ飛んで帰ったが、それいらい鍋井君に対する社主のご勘気はただならぬものがあってな。お茶坊主ぶりも度がすぎると失敗《しくじ》るわな。自業自得とはいえ、鍋井君すっかり悄気《しよげ》こんでいた。そんな際の常務会やさかい、彼も何も発言でけへんやった。ぼくも見てたけど、鍋井君は蒼い顔をしてたな。まあ、そういうことで、明太郎はんも鍋井君も常務会で君から送付されてきたNRC代理店契約の契約書を読んでも一言の異見も出んやった。そのためにこの成功になったんやから、なにが幸いするかわからんな」
側近派の上位者の失敗を米沢は嗤《わら》い、
「ついでに言わせてもらうと、社主に対する鍋井君の哀訴歎願は、泪《なみだ》ぐましいエピソードがあるんやで」
と言いかけた。
「米沢君。もういい加減にしたらどうか」
河井社長は、米沢の酔った饒舌《じようぜつ》を苦い顔で制止した。
「なに、ここまで言うたんや、ついでに言うたるわ。そんなことで、鍋井君は社主の怒りを解くため長い長い巻き紙に詫び状を書いた。鍋井君としては必死の思いで認《したた》めたんやろ。まるで義経の腰越状《こしごえじよう》のような愁訴や。鍋井君のその長い詫び状を芦屋のお宅に来る人来る人に見せてはったぜ。ぼくも見せてもろた。鍋井がこないな手紙を寄越したいうて、笑いながらにな。ぼくは社主のあまりな辛辣《しんらつ》に、ぞっとしたけどな」
社主の無気味な眼がそこから光っているようで、河井も夜風を受けたようにかすかな身震いをおぼえた。
彼はそれを払いのけるように、視線を上杉だけに当てて言った。
「社主はな、江坂産業がメジャーと直接商売できんとすると、サッシン氏と提携するよりほか仕方がない、君の稟議書も読みはって、この契約は承認してやんなはれと言やはった。社主は、あれで、ようわかってはるで」
「ありがとう。それに、ぼくの手で契約書のサインをさせてもらってどんなにうれしいかわかりません」
上杉二郎は突然イスから立ち上がると、両手をテーブルにひろげて置き、肘を曲げて社長としての河井に深々と頭を垂れたが、あとの言葉は涙が咽喉に流れこんだように声がおかしくなっていた。
まわりの客たちも、歩きまわるボーイらも、このテーブルの様子をびっくりしたように見ていた。
「上杉君。そんなふうにされると困るなア。君に契約書のサインをしてもらうのは、これまでの君の努力からして当然やからな」
河井が困って、小さな声で制した。
だが、河井と上杉二郎が一瞬に交わした別な表情には米沢も気がつかなかった。
「とにかく」
河井が、散会を宣するように言った。
「明日の午前中にはこの船もいよいよカンバイチャンスに入る。明日のセレモニーのハイライトを愉しみにして、ここはそろそろおひらきにしようか」
昨日はじまった中東戦争の話はついに出なかった。その後の推移はわからないが、たいしたことはないのであろう。船内を見渡しても、眼につくかぎり、明るい顔と談笑の渦だけがあった。アラブ人たちもべつだん険しい表情はしていなかった。江坂産業の三人は、社内人事問題の陰々滅々たる部分を胸にしまって、バーを出た。
6
ニューファンドランドの、こぢんまりとしたプラセンシア湾が船首に近づいてきたとき、千人の招待船客たちは、一面の針葉樹林の中に、蜃気楼《しんきろう》のようにそびえたつ大工場に、眼を疑う心地で見入った。
この日は朝から曇っていて、昨日のハリファックス港の天候とはうって変っていた。空にはどんよりとした重い雲が垂れこめ、その灰色の濃淡のまだら模様も寒々としていて、ある部分は雪を持っているようであり、十月上旬とはいってもすでに北の冬を示していた。
暗鬱な雲の下のこととて、遠望する大小無数の白い高櫓や煙突は、光りこそしなかったが、灰色を背景にくっきりと浮き出ていた。工場の層々としたビルのような白い建物もいくつかに分散して連結し、さらに手前には円形の白いタンクが数列をなして群がり寄り添ってならんでいた。天空を突き刺した三十メートルはあると目測される軍艦の司令塔のような先端には赤と白の国旗と冴えた青色の社旗とが翻り、他の建物にも赤い三角旗の連なりがまつわりついていて、これらも鼠色の雲のひろがりの下だけに色彩効果にいうところはなかった。
こちらの巨船のメインマストも国旗とSNR社旗とニューファンドランド州の紋章とを染めぬいた旗を掲げ、さらに後部の梯形煙突の横にはユニオンジャックをなびかせ、この二カ所を結ぶ万国旗の連鎖という満艦飾をもって陸地に応えた。
すでにこの湾に入る前、東方のセント・ジョーンズの截《き》り立った断崖上から祝砲が海上を轟かしていた。そこにはいまでも侵入軍を砲撃した旧い砦《とりで》のあとがあるはずである。祝砲の前ぶれはカンバイチャンスの世界一豪華客船の歓迎を一時間前からもりあげていたが、空を低空飛行する海軍哨戒機からも巨船の入港が間近いことの合図が送られていた。
製油所のすぐ前に特設された専用の桟橋にむけて巨船は近づいて行った。湾を抱えこんだ東西両側の山々もこの巨船の高さには及ばないように見えた。山塊と密生した樹林の丘陵以外には何もない中に、工場と客船との巨大な人工物が対決し、距離を縮めていった。
数隻のタッグボートが女王号の横腹に小姓のように群がって桟橋へむけて押しつけていった。女王は、ゆったりと威厳ある微笑みを湛《たた》えて、ついに桟橋にみごとに密着した。吃水線下九・七五メートルの巨船が連絡船のように接岸したのである。自然港の水深二十五・四メートルは受け入れに悠々たるものであった。
埠頭に集まった八千人の群衆は歓呼の声をあげた。その数はハリファックスの場合の八倍にも達していた。この人々はニューファンドランド州はもとより、ラブラドール州、ケベック州の東部からこの日の見物のためにやってきていた。ニューファンドランドの主要道路は東端のセント・ジョーンズと西端のポート・オー・バスタスとを結ぶ一本のトランス・カナディアン・ハイウェイしかない。そのほぼ中間に位置するカンバイチャンスにくる両方面はニューヨーク市内なみに車の渋滞混雑だった。このハイウェイは、ゆるやかな起伏をくりかえす針葉樹ばかりの山林の中に多くの坂や低い峠をもっていた。ところどころ雲の流れを写す沼沢に出遇うのみで、町から町の間の、およそ三百キロずつのあいだ、人家を見ることはほとんどない。両側の針葉樹林の壁が長くつづきすぎて、車に乗っている者は眼の遣りばに困る。ときたま野生の大鹿やキツネやウサギなどを見かけるのがわずかに単調を破る。
その退屈なハイウェイが車で充満したのだから、クイーンエリザベス二世号の魅力はたいそうなものだった。だが、土地の人々をカンバイチャンスに吸引したもう一つの要素には、州の政界をさんざん揉ませ、二億ドルもの金を注ぎこんだ州立の製油所の完成した姿を見ようという好奇心もたぶんにあった。
そのことではニューファンドランド州の地方新聞が、つい二、三日前に解説記事を掲げていて、それが人々に過去の政争を思い出させたことだった。記事のあらましはこうである。
≪ニューファンドランド州ならびにラブラドール州の前首相ウッドハウス氏は在任当時、ニューファンドランド州が過疎地帯であるため、ここに日産二十万バーレル級の製油所を五カ所くらい誘致して大きなコンビナートを形成し、それによって州の繁栄を図ろうと考えた。その手はじめがカンバイチャンスをえらんだ製油所誘致計画であった。
ウッドハウス首相は、カナダにあるメジャー系の石油会社を誘致しようとしたが成功しなかった。このとき非メジャー系のSNRの社長アルバート・サッシン氏がその話を聞いたといってニューヨークからセント・ジョーンズにやってきた。誘致にゆきづまっていた首相はSNRが製油所をつくってくれるならとこれを歓迎した。が、サッシン氏は、カリブ海諸島では製油所に税金がかからないことを挙げて、免税なら話に乗ってもいいといった。
ウッドハウス氏は民間企業だと当然にカナダ連邦税をかけなければならないので、頭をひねったあげくに、連邦税が免除されるクラウン・コーポレーション(州立会社方式)を着想した。サッシン氏がそれに同意したのは、この建設分担のために彼が他からあつめた借金が彼によって返済がすんだとき、現金一千ドルで製油所を譲渡するという密約が二人の間にできたからである。
サッシン氏のNRCと契約を結ぶために閣僚委員会がつくられた。委員会は、事業に要する資金を約二億ドルと見積もった(内訳は、製油所建設費一億五千五百万ドル、調査費五百万ドル、運転資金一千万ドル、港湾など付属施設二千三百万ドルは連邦政府の補助金を要請)。一九六八年五月、ニューファンドランド州議会は、カンバイチャンスの製油所を州立会社方式にすることに関する法律を承認した。
事業資金のうち、サッシン氏の投資額は一千万ドルである。それ以外の約一億九千万ドルはサッシン氏が各方面からの融資をとりつけた。そのおもなものは、ECGD(英国輸出信用保証局)が第一抵当権付きで一億三千万ドル、ニューファンドランド州政府が第二抵当権付きで三千万ドルで、そのほかアメリカではファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC)と、フランクリン・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの二銀行からの融資があった。
このようにしてウッドハウス首相とサッシン氏との計画が順調にすべり出したと思われたときに、カナダ政府は連郵税免除の特典のとり消しを通告し、補助金の一部も削るといってきた。この州立会社は最初から私企業に売却する予定でつくられたというのがその理由だった。ウッドハウス首相は、カナダとアメリカ東部に強力なマーケットをもつメジャーが連邦政府を動かしてわれわれの計画を妨害しようとしたのだ、と憤りを語った。
さらに州の政争がウッドハウス首相を追い落すことになった。かれの反対派が首相とサッシン氏との秘密協定を暴露したのがそのきっかけである。その協定は、将来NRC=PRCで生産される石油製品の二七・八パーセント、販売利益の五・一パーセントをサッシン氏に提供するのを保証しているというもので、このような協定では、二、三年後にサッシン氏は自分の投資分一千万ドルをとり戻すことになる、と述べ、サッシン氏の会社にたいする州の融資にも反対した。
NRCの製油所建設問題は一種の醜聞として政治問題化し、このためウッドハウス首相の政敵ジェームス・バルチモア氏は、一九七一年秋の選挙で、サッシン氏のようないかがわしい企業家とかかわりをもってはいけない、と宣伝してまわった。ウッドハウス氏は敗れて、翌年一月、バルチモアが首相の座についた。ウッドハウス氏はニューファンドランド州の政界から消えた。
ところが、サッシン氏は新首相のバルチモア氏に接近して、バルチモア首相もまた百八十度の転回でサッシン氏の製油所建設計画を支持するようになった。サッシン氏のようないかがわしい企業家とかかわりをもってはいけない、と選挙中にしきりに宣伝していた言葉をきれいに忘れたかのごとき言動であった。新首相をしてこのように一転させたサッシン氏は、よほど政商的手腕をもつ、魅力あるプロモーターのようである。その証拠は、カンバイチャンスのさむざむとした漁村の海岸に巨大な製油所が建ち、数日後の開所式にはチャーチル氏をはじめイギリス・アメリカの著名な銀行家、財界人、石油関係者、ジャーナリストおよそ千人を引具してサッシン氏が世界一の豪華巨船クイーンエリザベス二世号を借り切って乗りこんでくる事実があらわしている≫
……見物に集まった八千人の人々のなかには、おそらくこの新聞解説記事のとおりの記憶があったと思われる。世界一の豪華客船や、荒野に出現したとほうもなく大きな製油所を一目見たいという興味の裏には、こうした政争的因縁への感慨もあったようである。
しかし、巨船にいる千人の乗客たちにはそのような深刻な知識はほとんどなかったから、各層のデッキに立ち、予想以上に寂寥《せきりよう》とした四囲の風景に息を呑み、それだけに製油工場の立派さに信じがたい視線を吸着させ、さらには埠頭に整列した緋の制服の儀仗兵やそのうしろに蝟集《いしゆう》した民衆に対して早くも手を振ったりするのであった。
出迎えのニューファンドランド州政府の高級役人や、NRC、PRC、SNRなど石油会社の幹部が居ならぶ列の間を、まずタラップをニューファンドランド州首相が先導して降り、そのあとに乗客中の看板男ウインストン・チャーチルの孫、カナダ貿易商、英国新聞協会会長兼銀行家、シカゴ銀行の頭取、さらにはもろもろの副頭取とか副社長とか副会長とかの連中夫妻組がつづいたあと、今日のホスト役アルバート・サッシンがそれら重要な客グループのしんがりをつとめて降りた。ひと間隔を開けて、他の招待客千人近くの男女が、これはもう延々と蟻《あり》のごとくに巨船の腹を匍《は》い降りてくるのだった。
製油所用地は、プラセンシア湾の海岸から反対側の北海岸にいたる半島のもっとも狭いくびれの大部分にわたっていた。トランス・カナディアン・ハイウェイを横断して南北三千エーカーのうち、見上げるような製油設備類は三百五十エーカーを占めていた。
それは複合体工場だったので、埠頭からハイウェイ方向にむけて構内を横切る幅広い幹線道路が一本ついていた。その幹線道路の埠頭側入口には紅いテープが張られ、その前に式典場がしつらえられてあった。ほんとうはここが工場の裏門にあたるのだが、巨船と相対し照応するためと、一千人の船客の便利と八千人の見物人の足場を考慮したのだった。合せて九千人の群衆は白布に蔽われた階段式の演壇の前に集まった。
ニューファンドランド州時間午後零時半に、ハーナム州議員が開所式をはじめるために演壇に立ったときですら、トランス・カナディアン・ハイウェイは東西側数十マイルにわたって車が渋滞していた。テレビ・新聞の報道関係者は演壇の直下に群らがり寄っていた。緋色の儀仗隊が国歌を吹奏し、ロイヤル・カナディアンの着飾った美女たちが喝采を博した。頭上をカナダ空軍の飛行機が編隊で低空を旋回往復して祝意を表した。
ニューファンドランド州のロバート・シーボン師による祈りが終ると、グッドマン卿による来賓の紹介があった。
連邦地域経済開発局長ドナルド・ジャミスンによる祝賀スピーチが皮切りで、ウインストン・チャーチル議員の祝辞があり、ついでNRCの代表サッシンの登場となった。
サッシンは新製油所の機能についてこのように演説した。
「この近代的な製油工場は、市場の需要にこたえることのできる柔軟性《フレキシビリテイ》をもち、原油を多種類の良質な石油に精製することが可能である。精製工場は、どんなに硫黄分の多い原油を持ちこんでも各種の質の良い製品がえられるように設計されている。たとえば、ガソリン、灯油、航空ジェット燃料、ディーゼル燃料、家庭用および工業用燃料油、アスファルトなどである。
操業は連日二十四時間行なわれ、一連の精製過程で、各種のプロセスを経ていく。これらのプロセスは、蒸溜、脱硫、石油溜分の改質などで、これらによって現代のエンジンが必要とする高品質の燃料油が得られるように設計されている。この脱硫プロセスの中で日産二百トンの硫黄が回収され、それらの回収硫黄は品位の高い副産物として市販されるのである。
さまざまな市場の需要に合せるために、とくに生産量の大きな家庭用燃料油、ジェット燃料油、ガソリンの生産量を上げるため、能力の大きな水素化精製装置を設置した。この水素化精製装置は重質油をさきに述べたような軽質油に変えてくれる。また、水素製造装置は、水素化精製装置で大量に消費される水素をつくりだすために必要なのである。
すべての石油精製は、一つの|計 器 室《コントロール・ルーム》によって制御されている。建物は強化コンクリート製で防爆構造になっている。熟練したオペレーターによって常に監視されているうえ、全設備の操業状態は常時コンピューターでモニターされている。
超長期の原油供給契約により原油はたえまない供給を確約するものである。日産十万バーレルの精製により種々の製品、たとえばガソリン、軽油(グレード2)、ディーゼル燃料油、低硫黄燃料油(グレード4、5、6)、船舶用C重油、ナフサ・ジェット・タービン燃料油、灯油、液化石油ガス、アスファルトなどが得られるのである。
カンバイチャンスへの資材輸送はひじょうに大きな努力を要し、三百五十エーカーもの用地のなかで、主な陸揚げ地点の建設に、まず埋め立てからはじめた。また、一方、英国のN・クラフト社が現地に機材を送るそのずっと前に、技術者や製図工たちは多くの時間を費して建設計画を練り、青写真を作った。それは新鋭製油所の建設に使われる何千何百もの大小の機材を調達するためだったのである。そして現地に機材が運びこまれる前に、建設請負会社は五十七万五千平方ヤード以上もの沼地を埋め立て、百万立方ヤードの土や岩を掘削したのであった。かくて五万五千トン以上もの機材が現地に運ばれたが、そのなかには五十万フィートにおよぶ鋼管が含まれていた。
六基の原油貯蔵タンクには三百六十万バーレルの原油を貯蔵することができ、これの建設には一万八千四百七十六トンの鋼材を必要とした。このタンクは直径二百六十フィートで、高さは六十四フィートあり、それぞれのタンクには六十万バーレルもの原油を貯蔵することができる。これらはアメリカ北部のなかで最大の原油貯蔵タンクとなった。さらに五十六の中間製品タンクや製品タンクがあり、それぞれは三万九千九百バーレルないし二十五万三千八百バーレルの石油製品類を擁することができる。
製油所の建設にあたり、建設請負業者は一万七千八百立方ヤードものコンクリート打設工事、千二百トンの鋼材を使ったパイプラック工事、一万トン以上もの熔接鋼管製スプールと、七百二十五トンもの特殊鋼管製スプールで組み立てた配管工事、四十八万八千フィートの地上配管工事、八万七千フィートの埋設配管工事を行なった。これらの配管工事は仮に一本の線につないだとすると百九マイルの長さになる。……」
大きな白バラを胸に飾ったアルバート・サッシンは、その少ない灰色がかった黒髪を額の上に乱す北海の寒風にいくらか顔をしかめてはいたが、なかなか元気に、かつ雄弁にしゃべった。折から濃い灰色の雲の切れ間から洩れた力の弱い太陽の光線が壇上の彼のまわりに落ちてきたので、彼の姿は石灰光《ライム・ライト》を当てたように白く浮き上がった。演壇の両側にはお歴々が居ならび、サッシンの自らかなでる製油所讃歌に聞き入っていた。
上杉二郎は聴衆の後方に入っていた。船の招待客の婦人たちはアストラカンのコートにミンクの襟巻をし、あるいは色彩ゆたかな首巻をまきつけていた。上杉は外套もつけず、濃紺地に赤の格子縞《チエツク》の入った背広だけで立っていた。河井社長や米沢副社長らとわざと離れていたのは、かれらの横にいると演説の内容をいちいち通訳してくれとせがんで煩わしいからでもあるが、ようやくのことに開所式にまで漕ぎつけたこの盛大な情景をひとりで眼に収め、ひとりでもの想いに浸りたかったのである。
エサカなんて会社は聞いたこともない、とサッシンから吐き出すように言われたのが、ウッドハウス前首相の紹介状をもってパークアベニュー五〇番地のSNR本社で彼にはじめて会ったときのことだった。あと二カ月でその満六年目がこようとしている。あのときの挫折感が忘れられないだけに、いま、開所式の進行のうしろに群らがり立っている複合体工場の偉容が現実と知りつつも幻のようであった。
彼は自分をここまで駆りたててきたものを吟味した。
江坂産業に入社した当時からこれまで蔭で言われつづけたものに「英語つかい」とか「英語屋」があった。これほど人格を無視した蔑称はなかった。江坂産業がGHQから過度経済力集中排除法の指定をうけ、数十項目にわたる質問書に翌日回答しなければならないとき、渉外部のつくった回答原文をアメリカ人に馴染みのいい言葉に翻訳し、指が腫《は》れるほど徹夜でタイプを叩いた。指定解除になってもそれは渉外部作製の回答文がよかったからとされ、彼の才能はただの通訳作業としか写らなかった。あの男は二世だからね、正規な、教養ある英文ではないが、平俗な米語にはさすが馴れたものだ、その点、調法で便利だ、というのがせいぜいの彼への評価であった。
ハワイ生れの二世といわれることに彼はどれだけ被差別感を受けたかしれない。「二世」には日本人扱いにしてくれない語感がある。ということは江坂の普通社員からも差別されているのである。日ごろは目立たないが、何かのときにはそれを思い知らされる。
それを変えてくれたのがいまの大橋会長だった。大橋は当時GHQ対策の渉外部長だった。この人が自分の才能を認めてくれた。江坂産業ニューヨーク支店が再開されたときも、この人がまっさきにそこへ赴任させてくれた。上役に一人でも自分を認めてくれる者があると心強く、自信がでてくるものだ。「二世」といわれ、「英語屋」といわれる卑屈感もうすらいだ。むしろこれを武器に、人には真似のできない働きをしてやろうと思った。そうなると、いままで自分でも気がつかなかった才能が開いてくる感じで、面白いように仕事ができた。二十年間、江坂アメリカのために、つまりは江坂産業のために働いてきた。大橋が要造社主と衝突して社長から会長にまつりあげられたのは無念だったが、以前ほどの力のないその大橋が陰になり日向《ひなた》になりしてはるかに自分を応援してくれた。
自分は社主父子から睨まれるようになってからよけいに何か大きなことをしてやれと思うようになった。あの父子はおそろしく嫉妬心が強い。女関係で噂の多い社主は、他人の情事にたいしてはひどく神経を尖らせる。かれの愛好する骨董品と同じで、他人が自分よりもいい物を持っていると憎悪する。自分のものは人に見せたがらない。よい品ものが売りに出されると、どのような金銭的犠牲を払っても手に入れたがるし、その嫉妬の心理が共通している。一人息子の明太郎は自己顕示欲が強く、実力がないくせに独自の仕事をしたがる。それもなるべく人の眼をそばだたせるような派手なものにとりつく。サンフランシスコの支店を根城に、「海のディズニーランド」のようなばかげた施設をつくろうとして失敗したのもその例である。それだけに社員の仕事に自己の上に出るものがあると強烈なジェラシーを抱く。NRCと栄光商船の用船契約に常務会で猛然と反対したのもそのためである。
だが、いま、眼の前に展開している風景を見るがよい。これはだれもが疑うことのできない事実である。巨大な工場は、アルバート・サッシンの言うドラマティックな数字によって構築されている。まぎれもないその現実は、鉄鋼そのものが象徴しているように名状しがたい重量感をもち、それを支えて網の目のような基礎が地底に根を張り、眼に見えないひろがりをもっている。寒帯の森林と冷たい海のほかには一物もない僻地《へきち》に、日産十万バーレルを精製する鉄の城が最新設備を鎧着《よろいぎ》して絢爛《けんらん》と天空に聳《そび》え立っているのだ。
アルバート・サッシンと、ニューファンドランド州前首相ウッドハウスとの夢の実現だが、それはそのままに自分の夢の現出だ、と上杉二郎は思った。
社長の河井武則は人物が小粒である。河井の取柄は律義《りちぎ》で、「建て前を重んじる」ところにある。反大橋派でありながら、この前のタンカー用船契約でも、こんどのNRC代理店契約でも河井は終始自分を支持してくれた。建て前の男の面目躍如としているが、一皮むけばそれも社長としての自己の功績になるからである。しかし、そのようなことから社主も河井の説得に折れた。だが、その要造の気持に立ち入ってみれば、と上杉はまた考える。
江坂要造は金銭欲と物欲の深い人だ。NRC代理店契約で石油部門が拡大発展すると、その利益は社主の利益である。要造はその欲する古美術品をいやがうえにも購買することができる。あの人は東洋の陶磁の蒐集にかけてはどうやら世界一を志望しているらしい。これもまた江坂要造の尽きせぬ夢想であり、その実現への欲がNRC代理店契約に賛成させたということなのだ。いくら彼がこの自分をきらいでも、その欲望の前に屈伏したのだ。──
上杉二郎はそんな思案に耽っているうち、昂奮もてつだって、知らないうちに製油所の構内はずれの海浜に身を運んでいた。そこは海際からすこし高くなっていたが、岩質の地面は矮小《わいしよう》な灌木が歪んで匍っているだけで、すぐうしろの黝《あおぐろ》い針葉樹の密生した奥にも枯れ凋《しぼ》んだ下草は少なかった。
──上述に加えて、NRCの代理店として江坂アメリカはPRCへ供給される原油に対して、BPへの全ての前払金についてNRCに与信の便宜を与えるものとする。ただし、BPへの前払金の金額と条件は江坂アメリカの考えに従うものとする。
江坂アメリカの意図は、NRCをして、精製操業が予定製造水準に達するまで、初期の困難を克服させることにある。
江坂アメリカによってBPへNRCのためになされる前払いについては両者(NRCと江坂アメリカ)の合意による払い戻し条件に従って、NRCは江坂アメリカに対して約束手形を発行することとする。全ての約束手形は江坂アメリカの経営部門が営業部門に振替える公式の率による金利を含むものとする。
NRCは江坂アメリカに対して、エイジェンシー・コンペンセーション(代理店口銭)として積出しされた全ての原油の一バーレル当りUS¢2の料金を送り状に基づいて日々支払うこととする。
本契約は十年の期限切れ、もしくはNRCの江坂アメリカに対する未払いの負債が返済されるか、いずれかの遅い時の方まで、さらにNRCとBPもしくは他の供給者との間で締結された原油契約の期間及び延長期間中は効力を持つものとする。
不可抗力とみなされる理由を除いて、本契約の不履行の場合、全ての未払いの負債は、当事者同士が同意しない限り、直ちに支払わなければならないこととする。
「補助契約書」のこうした条文のところどころが、うつむいて歩き回っている上杉二郎の眼に浮び上がってくる。
最初予定された六回の原油船積みのうち、いかなることがあろうとも、予定通りにPRCに船積みされないか、または原油が引き渡されないために、江坂アメリカの予定された資金繰りに切れ目が生じた時には、江坂アメリカは遅延が生じてから、次の二回分の原油船積みに対するBPへの前払いを停止する権限を持つ。
その場合、PRCから受け取ったいずれの受取金もBPへの支払いに使用されるものとする。しかしながら不可抗力とみられるような事態が起り、PRCが発生した責任を償い得ないような原油の船積みが長期にわたって途絶えることが起った場合には、原油の船積みが正常なスケジュールに戻るまで、その事態の後の全ての前払いは停止または取り消されるものとする。そうでない限り江坂アメリカは合意された前払いが完了するまで、原油の船積みに対する前払いを続けることに同意するものとする。
これは本契約書の細則をきめた副文で、いわば「補助契約書」とでも呼ばれるべきものである。
もう一項目ある。その「前払い」の(c)項である。
≪NRC, upon receipt of notices from ESAKA of the date of advances to BP for the shipments of crude oil, shall immediately issue promissory notes to ESAKA to cover the amount of such shipments and ESAKA shall thereupon pay out of the bank account referred to in Chapter II e of the Agency Agreement to NRC or as it may direct the payments received from provincial in respect of such shipments. All promissory notes shall be due and payable June 30, 1985≫
こういうのも上杉二郎の頭には、タイプ活字そのままに刻まれていた。
さらには九月二十日付の本契約書・副契約書の双方に記されたNRCの副社長レイモンド・マーティンと、江坂アメリカ社長上杉二郎自身のサインが、あざやかに眼蓋の裏に焙《あぶ》り出されるのであった。
光栄ある自己の署名よ。大橋恵治郎会長が支援し、河井武則現社長が「花を持たせてくれた」実りがこれであった。その署名入りの契約書を相互に交換したときの周囲の拍手も耳底に残っている。これですべては決定してしまった。もはや要造社主父子は、これに関するかぎりいかなる権限をもってしても介入することができない。……
大きな拍手と楽隊の音楽が現実に耳に達した。
上杉がわれにかえってふりむくと、サッシンの演説のあと、次々とつづいた祝賀スピーチはようやく終り、サッシンとバルチモア首相とBPの代表とシカゴの銀行頭取とが横一列にならび、赤いリボンの鋏《はさみ》でテープを截《た》ち落したところだった。船の招待客に土地の民衆の九千人が揉み合って製油所の構内に流れこんだ。
海上を見渡すと、セント・ジョーンズからもポート・オー・バスクスからも見物の漁船がきていた。なかにはしゃれた帆船もあった。とくに北洋漁業の基地として知られるセント・ジョーンズからのは大型外洋船だったが、それでもクイーンエリザベス二世号にくらべると子供のように小さなものである。それら無数の小船にとりまかれた女王号は、威厳を含んだ寛容な微笑で、ゆったりと海にくつろいでいた。
巨船に群らがり寄っている無数の「小船」を見ていると、上杉にはそれらがさまざまな邦銀ニューヨーク支店の姿に思われてきた。
江坂アメリカがNRCの代理店契約をすると知ってからは、住倉銀行も三丸銀行も外為専門の東和銀行も、その他ニューヨークに支店をもつ一流の邦銀が、きそって江坂アメリカにLC(信用状)開設を申し入れてきたものである。
NRCが経営管理する操業会社PRCはクラウン・カンパニーという「官立」の印象が邦銀支店側にあった。原油供給契約がBPというこの英国のメジャーだったこともある。PRCの建設資金援助には、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴをはじめ、イギリスの銀行団シンジケートにECGDが一億三千万ドルの融資を保証した。それと、堅実な商法で鳴る江坂産業への伝統的な信頼がある。このような信用の綜合が邦銀各ニューヨーク支店に江坂アメリカへの融資競合現象をおこしている。なべて邦銀には、金の貸出し先が少なく、融資の準備金がだぶついていた。
各邦銀の支店長・次長たちだけでなく、日本からくる本店の幹部が愛想笑いをうかべ、手をすり合せてニューヨークのサードアベニュー九五番地のアトランティック・ビル十六階の社長兼米州総支配人室に鞠躬如《きつきゆうじよ》として入ってきていたのを、上杉二郎は思い出すのである。現在ではその主要銀行が住倉銀行ニューヨーク支店に落ちついて、数は少なくはなっているが。──だが、一時はあの世界一豪華巨船にまつわりつく小船の群に似ていた。「勝利」の気分とはいいものである。
開所式の祝宴は、現地時間午後七時半から桟橋に横づけされたクイーンエリザベス二世号のブリタニア・レストランと、コロンビア・レストラン、クイーンズ・グリルの全部をその会場に宛てておこなわれた。NRC側の広報係によると、三百キロはなれた州都セント・ジョーンズには大規模なホテルも気のきいたレストランもないとのことだった。
森林も、海も、島も、断崖も、汐かぜの闇の中に包みこまれた中で、製油所の|電 飾《イルミネーシヨン》だけがクリスマス・ツリーのように窓から妖しく見えた。
ここでも紳士はタキシードにもどったが、婦人たちは、また違ったイブニングドレスで朱色の揚羽蝶や黒い蛾《が》が舞うようだった。夜ごとの「お色直し」である。ニューヨーク西四十四丁目ドックで大きな荷物がおびただしく船腹に運びこまれた理由がこれだった。
今夜はいちだんと北洋料理の色彩が濃厚だった。大ヒラメ・エビ・ホタテ貝・タラ・サケなどがニューファンドランドふうに料理されてあった。ここでも新聞・雑誌社のカメラマンやテレビ・映画の撮影班が主だったテーブルをまわっていた。
河井社長が隣の米沢副社長と昼間の開所式について感想を語り合っているとき、靴音を消して上杉二郎が河井の背後に忍び寄った。
「河井さん。これを……」
上杉は一枚の紙片を見せた。
≪十五分前に本船に入ったテレックスによると、おびただしい戦車隊を先頭とするエジプト軍はスエズ東岸をイスラエルにむかって進撃しており、イスラエル軍も空軍で反撃している。シリア軍とイスラエル軍はゴラン高原で激戦中であり、第四次中東戦争は本格化した。イラクは、バグダッド放送によると、アメリカの大手石油会社エクソンとモービルの二社のイラク国内にある資産を国有化した。国有化された二社は、両社で国際石油資本が操業しているバスラ石油の二三・七五パーセントの株を所有している。残りは英国のBPほかオランダ系とフランス系の石油会社である。この処置についてイラク政府は「イスラエルのアラブ諸国侵入にたいする報復であり、アメリカに一撃を加えるため」と言明している。アラブ・アフリカ諸国もエジプトとシリア支援に派兵その他の手段に訴えて立ち上がりそうである。これらの産油国は石油を中東戦争の武器として使うため、石油生産を九月を基準に五パーセント削減、その後も毎月五パーセントずつ削減を上積みしてゆくことを検討中であり、メジャー側の情報では、サウジアラビア、クエート、イラク、イランなどの産油諸国が原油価格の大幅な値上げを一致して要求し、場合によってはアラブの敵対国と判断される諸国にたいしては石油禁輸の作戦に出る可能性もあるとの観測に立ち、メジャー側はいまからその対策を考究中であるという。──以上はサッシン氏よりの伝言です。なお一週間前にサウジアラビアのラス・タヌラ港を石油を満載して出港した栄光商船の新造大型タンカー朝日丸は、いま大西洋に入って南緯二九度二七分、西経一二度五分を航行中とのことです≫
「河井さん」
上杉二郎は、彼の耳もとにささやいた。
「石油価格は国際的に急騰しますよ。江坂アメリカの扱う石油金額もふくれ上がりますね」
上杉の顔はうれしそうだった。
二つ席を隔てた岸田美術課長が、河井の手にあるメモを一字でも読み取ろうと低い背を伸び上がらせていた。
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第二章
1
氷川《ひかわ》神社の銀杏《いちよう》が山吹色となった。
暗い色の雑木林の中にこの樹が多い。奥に引込んだ拝殿の緑青《ろくしよう》のふいた屋根の上には椎の繁みが黒くのしかかっている。四方に急坂をもった狭い台地上の境内は玉垣を囲って角地《かどち》にある。
江坂産業の氷川寮は、東京都港区赤坂六丁目××番地にあった。神社の東側にあたる氷川坂の途中で、戦前からの屋敷町である。江戸時代は旗本の下屋敷がならんでいた。
氷川寮は純和風建築の二階建であった。坂の傾斜を均《な》らした階段式石垣の上に高い塀をめぐらせたところは、神戸の六甲山麓に沿う芦屋・岡本・御影一帯の勾配の急な街で見かける住宅と同じである。
寮といっても、役員も社員も利用はできない。社主江坂要造の東京の家であった。家の中も要造好みの設計になっている。
江坂産業東京本社は丸ノ内のビルにあった。
要造は東京に来ても丸ノ内にはほとんど顔を出さない。用もなかった。東京本社代表も各部長も寮に出向いてくる。が、それも少なかった。業務を見ないことにしている社主は、彼らを呼びつけて指示を与える必要もないのである。代表以下の幹部がくるのはご機嫌うかがいのためで、その伺候はもちろん事前に社主の許可を要した。要造は、ある種の人間以外は、おおむね人嫌いであった。
その日は午後二時に起きて二時半に食事をし、三時から坂道を登って氷川神社まで散歩にきた。要造は毎日午前六時ごろ寝る。夕方になってから眼が冴えるのである。散歩のお供は梶井ムラであった。要造は数年前に妻を喪《な》くして以来、「秘書」の梶井ムラに身のまわりを世話させていた。江坂産業の役員たちも彼女を梶井さんと言っていた。
「この銀杏の葉は何というのやな」
流れ造りの拝殿の前に手を合せて戻るムラを待って要造はきいた。日の短い季節で、奥まった神社の周囲は夕闇になっていた。
「黄色とちがいますか」
ムラは梢を見上げて臆病そうに答えた。要造が古陶磁に精通し、色のことにも詳しいからである。
「黄色かていろいろある。見てみいな。青味がかって冴えた黄色もあるし、赤味がかったのもあるし、葉の先の腐った部分は茶色になってる。染色のほうではこまこう色分けしていちいち名前をつけてる。菜花《なのはな》色や鬱金《うこん》色や黄朽葉《きくちば》色や金茶《きんちや》色やいうてな」
「呉服屋の番頭はんが着物や帯をひろげて、そないなことを言うとりますなァ」
「この明るい黄色はな、イギリスではレモン・ピールというのや。あっちゃの鬱金色はマリー・ゴールドというとる。金茶色はオールド・ゴールドや」
「四十年も前にロンドンに留学しやはったのに、ようおぼえておられますなァ」
「そやな。若いときに聞きおぼえたことは脳味噌も新鮮やさかい、年とっても忘れんもんやな。秋になるとウインザーあたりの郊外に行って落葉の色を友だちから教えてもろた。音楽を勉強してる仲間や」
要造は遠方を眺める眼つきをした。坂下の町の屋根が沈み、その上に秋晴れの空がひろがっていた。古城の城壁から見たイギリスの田舎町の角度と似ていないでもない。
「その音楽友だちの中に、好きなガールフレンドもいやはりましたやろ」
「居《お》らなんだというたかて、おまえ、信用せんやろな」
「そら、そうどす。日ごろのおこないを見させてもろてますよってに」
「四十年も昔や。わしも忘れてしもた」
「会長はんにお訊きしても、そんなこと知りまへんいうて、とぼけてはります」
「大橋が何を知るかいな。あいつロンドン支店長で、大阪の親父にイギリスからご機嫌とりに精出すだけやった。かえって、わしを煙たがっとった」
二人は杉木立の間を歩き、別な鳥居から出て急な坂道を下った。ムラは要造のバンドのうしろを軽くつかんで前に転ばないようにしている。彼女は瘠せがたで、胴が細く脚が長かった。四十半ばだが、ちょっとした動作にも要造への誠実さが出ていた。
氷川坂を下る途中に小さな日用品店があった。店の前には主婦たちが冷たい夕陽を浴びて長い列をつくっていて、順々に配給品のようなものをもらっていた。店から出てくる者は短い筒形の紙を大事そうに抱いていた。
「東京でもトイレットペーパーを買うのにえらいしんどいことだすなァ」
ムラは低い声でささやいた。要造はちらりと眼をむけたがすぐに爪先に視線を落してそろそろと下り坂を歩いた。
「トイレットペーパーでも洗剤でも品切れの噂がとんで買い溜め騒ぎが起ったのんは大阪のほうが早うおましたけど、それが今ごろになって東京に騒動の波がきよりましたのだすな。石油が日本に入らんようになったいう噂がひろがったばっかりに戦時中と同じ品不足になりましたな」
「しょむない話や。物は製造会社の倉庫にいっぱいあるわ。物がないちゅうのはデマや。消費者が不安感に駆られてつくったデマやがな。一犬虚に吠えて万犬実を伝えるちゅうことがあるけど、輪をひろげてゆく噂ほど怕《こわ》いものはないわい」
人の集りでは寡黙な要造もムラには言葉が多かった。
家に戻ると、頭の禿げた六十五、六の老人が迎えた。瀬川という先代のころからの社員で、要造の取次役をしている。外部では三太夫とアダ名していた。
「旦那。汲古堂《きゆうこどう》の神西《じんざい》はんが昨日の電話のお約束より二十分遅れて四時にお伺いしますと、さっき電話で言うて参りました。遅れて済んまへん言うとりました」
「四時にくるのは間違いないか」
「へえ。汲古堂がそない言うとったのは間違いおまへん」
几帳面に洋服の膝を折った瀬川は、眼をいからしたように丸く開き、鼻をふくらませて答えた。彼は少しぼけてきていて、取次の用事をとり違えては要造に叱られた。瀬川は要造の居るところに従って回る。ふだんは芦屋の家、東京はこの家であった。
要造は二階の十畳に坐って煙草を函から引き出した。ムラが卓上のライターで点けてやる。煙草は半分喫って捨て、すぐ次のを指につまむ。汲古堂は青山の骨董屋である。その主人がくるまであと十五分あった。ざっと眼を通した朝刊をもういちど読むことにした。老眼鏡は要らない。視力はいいほうである。
政府が「石油緊急対策要綱」を発表していた。対策の骨子はこうである。
マイカー自粛、週休二日制などの石油節約運動を起す。企業の石油と電力の消費を、今月二十日から行政指導した上、十二月一日から月末まで一〇パーセント減らす。レジャー輸送を抑制、給油所も休日営業を自粛する。総需要の抑制、投機防止法の適用品目の拡大、便乗値上げと不当利得の防止策をとる。エネルギー供給の確保に努力する。官用車の運行を二〇パーセント減らす。公務員のマイカー出勤を自粛する。官庁内の室温を二〇度未満にする。ネオンの点灯を自粛する。日曜ドライブを自粛する。高速道路での経済運転をする。暖房の合理化をする。電気器具の合理的使用をする──。
これらの対策の影響について新聞は観測を書いていた。
鉄鋼界への影響は、おおまかにみて重油と電力の供給が一〇パーセント削減されたばあい、大高炉メーカーで六、七パーセント程度、平炉メーカーで一二パーセント程度の生産減になるといわれている。このことで金属工業界では、来年は不況とインフレが並行して起るスタグフレーションになる恐れがある。さらに国際収支も楽観できず、日本経済は難しい時期を迎えそうだ、と心配している。
石油化学は、燃料と原料ナフサの削減という二重の痛手をうけ深刻である。エチレンはじめ石油化学製品の減産は二〇パーセント近いものになりそうである。瓦斯《ガス》化学業界では、国民総生産が一パーセントふえると化学工業の需要は一・四パーセントふえるという関係にあるが、石油危機によって化学工業の生産は、大変な不況になるかもしれないといっている。
紙・パルプ業界は、電力、重油の削減率以上の影響を受けそうである。会社によって差はあるが、買電に頼っているところに一番響くことになる。これは工場のボイラーの蒸気圧は一定に保たなければならないので、工場によってはひとつの系列をとめてしまわなくてはならない場合も起るからだ。したがって電力、重油の削減率が一〇パーセントとしても、紙の生産は一五─二〇パーセントに減るおそれが強い。
石油業界では、政府の消費規制に、今後、原油供給削減が厳しくなるというのに一〇パーセントの抑制で切り抜けられるのかとの批判が強く、一〇パーセント抑制せよということは九〇パーセント確保せよ、ということだが、現実に製品が生産されなければ、売ることができない、のが現実だという。
船舶は、わが国の輸入品のほとんどを運んでいるだけに、船舶用燃料の削減は、わが国経済の各分野に大打撃を与える。船舶用の重油は、排ガスが海上に出てしまうので硫黄分の多い重油でもすみ、手当ては比較的簡単といわれてきた。この情勢は変らないが、外国で給油する場合は、その国の給油態勢によって、左右される面が多い。海運界では航路の変更の必要などを十分予想している。
中小企業については、東京の民間信用調査機関では、年末から来年にかけて、倒産がかなりふえると予想している。鉄鋼、石油化学などの素材メーカーの減産によって、鋼材やプラスチックなどの原材料が手に入らないところが出るものと見られ、いわゆるモノ不足倒産≠ェ心配される。また、インフレがひどくなるため、金融引き締め政策が長期化する公算が強まっていることも中小企業にとっては不安のタネである。
一方、通産省は、石油の対日供給削減に伴うわが国石油備蓄の今後の減り具合を明らかにした。それによると、四十八年度下期の石油輸入量が計画に比べて一五・四パーセントも減った場合、九月末には五十九日分あった備蓄は、来年三月末になんらかの抑制措置をとらないと三十二日分に落ちこみ、電力・石油の大口需要者に対する一〇パーセントの供給削減を十二月から来年三月まで継続した場合でも、来年三月末に三十八日分に減ることになる、とみている──。
≪かくて第四次中東戦争後ふくれ上がった石油危機は、わが国へのエネルギー供給を締め上げることによって、高度成長路線にとどめをさそうとしている。実質生活の落ちこみは、瞬間的には急角度になることも予想される。かりに、今回の石油危機の引き金となった中東紛争が近く解決したとしても、産油国の石油戦略≠ェ今後しばらくはつづくとみるべきであろう。石油のカベは、その九九・七パーセントを輸入に頼るわが国にとってはひと際厚い。そのカベを独力で乗りこえるにはあまりに無力であり、手遅れであったことは、今度の危機で内外にあからさまに示された。といって米国に頼ろうにも、そんなに甘くないことは十月十四、五両日、アラブ諸国と中国訪問の帰途訪日したキッシンジャー米国務長官を祈るような気持で待ちかまえていた政府首脳たちの、同長官との会談後の落胆ぶりが何よりの証拠である≫
江坂要造は、このような記事を拾って読んでいる。
ある箇所は簡単に、ある箇所は丹念に行を追っていた。
が、じっさいのところ、これらの深刻な記事のすべてが彼自身の危惧になって逼《せま》ってきているのではなかった。日本の石油不足は、江坂産業の営業には関係ないことだった。業務部門に石油部はあるが、これは従前どおり船舶用重油《バンカー・オイル》を扱っていて、しかも微々たるものであった。船舶用重油は、こんどの石油危機からは石油としてもっとも縁が遠いところにある。
石油を扱っているのは江坂アメリカだが、これも日本とは無関係である。英国の石油資本BPとカナダのNRCとの間に行なわれるアラブの石油取引に江坂アメリカは代理店として介在しているだけである。両社相互間に原油の受け渡しが用船契約の栄光商船の大型タンカーの運搬によって行なわれるたびに代理店としての手数料が自動的に入るだけである。その石油の扱い高も、原油価格がOPEC(石油輸出国機構)によって大幅値上げになればそれだけふくれ上がる。
問題は、OPEC側がアラブ諸国に対して敵性をもつと判断した国には石油の輸出を大きく削減することにある。イギリスはアメリカとともにイスラエル援助国だ。アラブには最も敵性国とみられているので、サウジアラビアの原油を扱っているBPはその割当てが大幅に削減される。そのぶんNRCへの輸出も削られるし、したがってNRCの操業会社であるニューファンドランドの製油所(PRC)への原油供給量は少なくなる。このことは代理店江坂アメリカの石油扱い高の減少と手数料収入の低下につながる。
だが、OPECの石油輸出削減の方針がいつまでつづくだろうか。イスラエルとの紛争が解決すればもとどおりになるのはあたりまえとして、たとえその紛争が長引いても、削減方針の維持がどこまでつづくかは疑問のように思う。
日本政府はにわかに親アラブ色をうちだして副総理を特使にアラブ諸国を回らせ、石油輸入量の削減がないように要請すると新聞にある。日本のように石油の備蓄量の少ない国は大狼狽だが、メジャーのBPには当分の余裕はあろう。日産十万バーレルとかいうニューファンドランドの製油所、PRCへの供給くらいにはこと欠かないだろう。
アラブ諸国は石油を対イスラエルの戦略手段としているが、それにつれてのじっさいの目的は石油の価格つり上げにあるのではないだろうか。もう一つの新聞にも、ペルシア湾沿岸の石油はあと五十年で尽きるといわれている、世界各国はそれに代るものとして新エネルギーの開発を急いでいるが、アラブ産油国としては、それまでに石油価格を上げてなるべく高く売ろうとしている、という面があると「解説」されていた。そうなると石油の輸出はもと通りになるが、高価格はそのまま据え置きになろう。
どっちにしてもNRCの代理店となっている江坂アメリカの扱い高と手数料収入は現在のふくれたままになって進行するだろう。あとは江坂産業の営業成績のことだが、石油ショックによる市場不況も経営陣がなんとかやるにちがいない。新聞には石油値上げによる高度成長の挫折と、各業種の値上りが目白押しという見出しが氾濫《はんらん》していた。やってくる不況を乗り切れないような江坂産業の経営幹部は不適格者として社主の自分が斥《しりぞ》けるだけだ。
要造はそんなことを煙草を喫いながら、うつらうつらと思っている。梶井ムラを連れての氷川神社の散歩ですこし疲れたようだ。七十になると脚から老いてくる。ゴルフなどもとより趣味ではないし、第一、やたらと人につき合うのが嫌いだった。
瀬川が汲古堂の来訪を報らせにきた。要造は階下《した》の十二畳の座敷に通して、木村を出しておくようにと言った。木村は開発本部美術課員であった。
座布団を立つ前に新聞のページをめくると、ニクソン米大統領が盗聴問題で苦境に陥り、じぶんが使った日本製の録音装置は高級でなかったと全米テレビ中継で一時間を超す弁明をおこなった、というワシントン電が出ていた。いまの要造にとって落葉の一枚よりも興味のない記事であった。
2
汲古堂が置いて行った古陶磁が三個、床の間のうすべりにならべられてあった。
北宋の白地黒掻落牡丹唐草文瓶が一個、李朝の象嵌三島茶碗一個、李朝の染付秋草文面取壺一個である。
灰色の堅緻な陶質の素地に白化粧を全面に施し、さらに鉄釉をかけ、これを掻落して文様を描き、その上から透明性のやわらかい釉薬《うわぐすり》を厚くかけてある。通称磁州窯というが、正確には河南省の修武窯である。日本にある同類の逸品は関西の民間美術館の竜文瓶と東京の民間美術館の牡丹文瓶が代表として知られている。この牡丹唐草文はそれにも劣らないもので、これが現れたのは稀有のことである、と汲古堂の主人は言った。
象嵌三島は、素地が鉄分のある粗土で、これに土型で胴全体に丸紅つなぎの三島文様(その模様が静岡県の三島神社の暦に似ているところから三島という)を押し、これに白土を埋め、透明性の釉薬を厚くかけてある。三島の逸品は東京のN美術館と関西の古美術商所蔵に水指と壺があるが、この茶碗もそれにひけをとらぬ秀作である。また、染付秋草文面取の壺は、純白に近い白磁質の素地に暗い沈んだ調子の呉須《ごす》で簡素な十字花草を釉下に描き、これに透明性の白釉がかけてあるが、愛好家のよろこぶ秋草文の染付のうちでもこれは逸品である。そう汲古堂の主人神西は説明して帰った。
要造は、神西が慇懃鄭重《いんぎんていちよう》に、専門家である要造に気を兼ねながら弁じ立てるのを、終始ほとんど黙ったまま聞いていた。品ものを手にとって重さを測り、肌合いを撫で、内側をのぞき底を見つめ、もとのとおりに置いて正面から左右からためつすがめつ眺め、形と色と文様とを凝視する。
北宋の修武窯白地黒掻落牡丹唐草文瓶が三百五十万円、李朝の象嵌三島茶碗が二百十万円、染付秋草文面取壺が二百五十万円で、これは社主のような方のところにどうしても納まるべきものと思いますから、とくべつに勉強した値です、と神西は熱をこめて言った。
「三つとも置いといてんか」
代金は半月あとに大阪の江坂商事の川久保のところへ取りにきてほしい、と要造は背をまるめて短く神西に答えた。川久保又三は江坂商事の社長で、江坂産業の社内では社主の股肱《ここう》の臣という定評があった。
「木村はん。あんた、この三つの品ものを、ええと思いはる順にならべてみなはれ」
要造は傍の木村準一に気のない声で言った。木村は、社主と汲古堂との対座中、ずっと傍からはなれなかった。
木村は逡巡したのち、李朝の染付壺を床の間の右に置き、それから少しはなして三島茶碗と北宋の磁州窯の瓶とを胴がふれ合うくらいにいっしょに置いた。彼の逡巡は、しかし、一応形式的に慎重を期したという見せかけだったのは、そのならべかたに迷いのないことでわかった。とうに決めていたのである。
要造がうなずいたので、木村は合格したのを知った。
本村は東京の大学の哲学科を出た。江坂産業のような総合商社に入社を希望したのは場違いだが、哲学科では学校の教師の口もなく、遊んでもいられないので、一時の腰かけのつもりで入社試験をうけた。経済学部や外大卒の多い受験者の中で文学部哲学科は彼一人だったので、面接試験の役員たちもおどろいていたらしい。毛色が変っているということから正面席の社長をはじめその左右から質問が集中したが、それはあきらかに落第を前提とした興味本位の訊きかたであった。
このとき、コの字型にならべた役員席の右端にこっちの顔ばかり見つめている年寄りがいた。末席にいるので役員ではなく人事課の課長あたりが陪席しているのだろうと木村は思っていた。その年寄りは一語も発しなかったのだが、うつむいて何かメモのようなものを書いていた。あとで分ったのだが、それが社主の要造であった。これもあとで聞いたのだが、メモには、木村という受験者は人相が「吉《きち》」だから採用に決定せよ、とあったというのである。要造は骨相を観ることにも凝っていた。
試験する役員が一致して採用を内定した受験者でも、社主の骨相学的な意見によって簡単に覆された。Aは成績優秀だが、将来は江坂一家にかならず反逆する男である、Bは江坂産業の禍根となる人物である、Cは責任のある地位についたとき戦国時代の美濃の梟雄《きようゆう》斎藤|道三《どうさん》のごとく社の乗っ取りを策するようになる、というのが要造の霊感的な予言であった。役員はこれを嗤《わら》うことができなかった。かりにだれかがその予言の非科学性を婉曲《えんきよく》に指摘しようものなら、もしわたしの言葉どおりになったら、あんたはどないして責任をとってくれはりますか、と社主に血相を変えて詰め寄られるのであった。
入社してからの木村は大阪本社開発本部美術課に配属されて、おもに古陶磁の勉強ばかりさせられた。その関係書はもとよりのこと、博物館や各民間の陳列館通いをさせられた。いいものばかりを見て眼を肥やせ、良悪や真贋の鑑別はおのずから会得《えとく》できるというのであった。
そのようにして要造は蔵の中から蒐集品を数点ずつ木村に取り出させ、これをいいものから順々にならべよと命じた。東洋の陶磁にかけて要造のコレクションは群を抜いている。宋の白磁、高麗の青磁、李朝の染付というのが三つの蒐集グループだが、ことに李朝のものは名品のすべてがここに集中していると思われた。博物館にも、名だたる民間の美術館にも、質的に比肩するものはあっても、量でははるかに劣った。要造はこれらを国内だけではなく世界各国に散在しているものからあつめた。総合商社の江坂産業は各国の主だった都市に支店・出張所を持っていたから、その点はすこぶる便利であった。
はじめ木村は、いいものと悪いものと格差のはっきりしている品から撰別を試された。馴れるにしたがい次第にその格差の距離を縮めてゆき、ついには逸品中からの鑑別となった。ここまでくるのに木村は十五年以上かかった。それでも鑑定の狂いは少なくなかった。
それにしても要造ほどの者が、あきらかに悪いと思う物をどうしてかなりの数持っているのかと、まだ初めのころに思ったものだが、社主の口から答えを引き出さなくとも、しぜんと分ってきた。
いまの場合がそれである。
要造は汲古堂の持参した三点を黙って買った。木村がかんたんに区別したくらいだから、二点がよくないものとは要造も知っている。しかも、白地黒掻落瓶がいちばん高い値をつけられてきている。この手法は磁州窯では代表的なものの一つで、牡丹文や牡丹唐草文も一般的な文様である。京都の博物館、大阪の美術館、米国の美術館などにあるのがよく知られている。汲古堂の持ってきたものを見ると、牡丹唐草文がそうした類例の寄せ集めだから、独自性がなく、黒釉文様の輪廓を彫った切尖《きつさき》にも鋭さがない。線が鈍くて、よたよたしているのは模倣だからである。そのくせ上下を括《くく》る黒地の白線は民芸品らしく大胆に一気に付けたようにみせかけているものの粗野でしかない。瓶のかたちも肩のあたりに本ものだけに感じられる張りがなかった。
李朝の象嵌三島茶碗にも同じことがいえる。丸紋つなぎという「暦手」に緻密さがなく、底の円輪に描かれた図文の線も曖昧《あいまい》である。
この二つの品にくらべると、染付壺は佳品といってよい。簡素な秋草文はそれに漂う寂寥《せきりよう》から茶人の以前から好むところだったが、その絵も悪くはない。器形もよく、釉下に沈んだ呉須の暗く錆びた色に雅致が感じられる。釉面の透き具合、胴体の円満なふくらみ、腰の線、高台の付け方に迫力がある。思うに汲古堂はこの真物を目玉として持ってきたのだろうが三品中いちばん安い値をつけたのは、何も知らぬふりをして贋物の磁州窯白地黒掻落牡丹唐草文瓶と李朝の象嵌三島茶碗とを高値の抱き合せで売りこもうとする魂胆であろう。おそれげもない商売根性だが、そうだとすれば汲古堂も社主の眼《め》をまだ甘く見ている、と木村は思った。
その要造は、木村の三品のならべかたを見て、ひとり言をつぶやいた。
「骨董屋が持ってきた悪い物も眼ェつぶって買うてやらんとな、ええ物を持ってこんようになりますがな。ええものを手に入れるには高い金出してガラクタも集めんとあきまへん。こりゃ、会社の経営と同じことだす。毎年入ってくる新入社員は会社にとって必要な数だす。その中から会社の為、経営者の為になる人は少のうおます。その少ない人材をわては目利きして育てるようにします。そないな人材を社に入れるには、やっぱりガラクタを金出して仰山入れんとなりまへん。古美術品集めと似てますやろ」
入社試験に社主の要造が末席で入社志望者を熱心に観察しているのは人材の鑑定であった。もしかすると骨相学や易占いのようなものは表面上の理屈で、そうでも言わないと自分の直観だけでは役員連中を説得できないからではなかろうか。要造に託宣を与える名だたる易者が神戸に居るという話だが、それも要造の偽装で、実際に頼っているのは自己の眼だけであろう。
要造は、じぶんの鑑識眼にかなった新入社員だけを丹後海岸の野原の社員寮にひと夏の数日間連れてゆく。野原は国鉄小浜線東舞鶴駅で下車し、半島の突端の日本海側にある。海水浴場が東の野原と西の竜宮浜とにあるが、野原にある寮を竜宮寮と社員間で呼んでいるのは、そこが社員寮といっても実体は社主の別荘寮になっていることと、そこへ呼ばれた新入社員は要造のお声がかりということで、社主父子に忠誠を誓う撰《え》り抜きの分子、いうところのファミリー派に育つ結構なる竜宮城になぞらえたのだった。近くには浦島の伝説地がある。
戦前の江坂商会には先代が見込んだ少年たちに奨学資金を出して学校に入れ、卒業すると同時に社員にする制度があった。少年のことを社員の間ではお小姓衆といった。このお小姓衆出身の者が現在の江坂産業の役員の中に数人いて、側近派の中核をなしている。専務の鍋井善治などはその筆頭で、お小姓衆出身者で組織されている「竜樹会」をとりしきっていた。その会員は、当然なことにみな年配者であった。
戦後、その制度に代るものとして現れたのが要造による「竜宮寮」出身のファミリー派であった。かれらは、風光明媚な野原の海岸で遊泳し、社主所有のモーターボートを爽快に乗り回し、寡黙な社主の言う訥々《とつとつ》とした人生訓を聞くのであった。
いいものを蒐《あつ》めるには、金を出して悪い品物も買いこまねばならぬという要造の呟きは、このファミリー派育成にも通じていると木村は思った。
そういえば、木村はいつぞや、要造にこう言われたことを憶えている。
磁州窯の焼きものにしても李朝の茶碗や瓶や壺も、みんな民間の日用品として焼いたのんや。三島にしたかて時の天子もそんなものは知らはらへん。李朝の焼きものは、民衆が飯を食べる茶碗や、水入れやった。それを太閤の朝鮮役で朝鮮へ行った武将が持って帰り、茶人が侘《わ》びや寂《さ》びがあるいうて珍重した。粉引とか井戸とかいう高麗茶碗いうたかて当時の朝鮮人の飯碗でんがな。瓶でも横に口のついとるのがあるけど、日本の陶磁専門家は何に使うたかわからんと言うてはるけど、あれはそのころの溲瓶《しびん》やがな。朝鮮の冬は寒い。夜中に温突《オンドル》の寝所から凍りつくような外の便所に通うのは辛《つら》い。そこで小便をする溲瓶を寝所に置く。いまでも田舎の農家に行くと、あれと同じ形の陶器があるということや。そんなものでも、飯碗でも、水入れでも陶工は魂を入れて造った。東洋人である職人のプロ根性やな。そやさかいに、茶人の芸術心に触れ、現今の美術品となっとるんや。そないな陶工連中は、はじめから、美術品や芸術作品を作ろうなぞとは夢にも思うてへん。李朝の王家にあないな茶碗や花生《はないけ》や壺が一つも伝世品として残ってへんのは、それが民衆の日用品で、使い捨ての品物やったからや。それでも陶工は職人の魂を入れとる。
ウチの蔵にもある唐三彩の駿馬像かてそうや。あれははじめから、貴人の墓の中に入れられる明器《めいき》として造られた。明器やからお墓の中に入れられたら、それきり人間の眼には触れんもんや。陶工としてはこれほどつまらん製作はないと思うけど、それでもかれらは魂を入れて造った。西域産汗血馬のいきいきとした躍動の姿、それに乗ったり、手綱を引張ったりしている胡人の顔や姿、いまの彫刻家がちょっと真似でけへん写実性がおますがな。いったんお墓に入ったら、それこそほんまに闇から闇に葬られる運命の明器にさえ、その製作に陶工は全霊を打ちこんではる。手抜きが毛筋ほどもない。当時の陶工は後世の盗掘や発掘は夢にも思うてへんかったさかいにな。
天平時代の仏像やそのほかの彫刻物でも同じやろ。いまは国宝になっとる仏像はだれがつくりはったのや分らへん。そのころの仏師や彫刻師は国宝になる工芸品を作ろうとして仕事したのやないから、作者の銘も入れてへんがな。自分の名を世に顕わそうとかいうような利己的な功名心は一つもおまへなんだ。ただ、職人として全力をその製作に尽した。プロの根性や。それこそ信仰や。そやさかい、それが芸術作品になった。いまの工芸家や芸術家は、はじめからおれは芸術作品を作る、ライフワークにとりくむなどというてホラを吹きはるけれど、出来た作品は箸にも棒にもかからんものや。それは己を殺すいう謙虚さがないからやな。功名心や自己顕示欲ばかりが表にガリガリと出てるからや。
人間はなんでも謙虚に奉仕する心がないとあかん。わしは古美術品を眼にするたびに、それらを作りはった職人の心にふれる思いがします。ああこの人は、だれに賞めてもらおうという期待は一切なく、ひたすら民衆の奉仕に精魂をこめはったんやな、ああ立派なお方や、というてその作品の前で頭をさげとります。人間、私心を去って、奉仕に一念するほど尊いことはおまへん。
木村が憶えているこれらの社主の言葉は、長い間にわたって、きれぎれに聞かされたものが彼の頭の中で、一つのものにまとまっているのであって、寡黙な要造がいちどきに言ったのではなかった。
が、いまは美術品として高い評価を得ている古陶磁の作者が、私心を抱かずその陶工としてのプロ根性を燃焼させた、その民衆への奉仕心は信仰に近いものですらある、と聞かされると、その民衆への奉仕を社主への奉仕に置き変えれば要造がファミリー派の社員らに求めているものとなんだか近似しているように木村には思えるのであった。
そういえば、木村は曾《かつ》てS堂にある曜変天目茶碗を見せてもらったことがある。要造の所蔵しているのに旧大名家から出た油滴天目茶碗がある。油滴の地は漆黒の鉄釉で、これに斑点状の結晶が浮ぶが、斑点の部分は光沢がない。いわば親類筋というところから、木村は曜変天目を見せてもらいに行ったのである。
曜変天目は素地が鉄分の多い灰黒色の粗い土で、内外全面に漆黒の釉薬がかかり、内面に華やかな結晶が全面に浮び上がって、結晶の一つ一つが玉虫色の光彩を放つ。どうしてこのような現象になるのか、釉薬と火度の偶然な作用による化学的な変化だということ以外にはくわしく分っていない。そのような品だから、曜変天目は外国には一個もなく、日本に五個あるだけという。
もと柳営御物《りゆうえいぎよぶつ》だったというS堂の曜変天目は宵の青黒い天空に一面にあらわれた星座のように神秘的に輝き、それが光線の加減で銀色や金色に、あるいは真珠色にと、いわゆる玉虫色のように微妙に変化するのである。中央部は何もないが、それを円形にとりまいて群星が星団にも似た微細な光芒をともなってつらなり、その外をいくつかの星座が断続して夜の天空にひろがっている。それらは白鳥座、サソリ座、大熊座などにも見えるのである。
木村は、中央をとり囲んで連鎖した星群がファミリー派、その外の各星座が中間派、もっと外のきれぎれの星座群が反《アンチ》ファミリー派のように思えてきたことがある。
ファミリー星座中、輝く大きな星はさしずめ専務の鍋井善治にあたろう。お小姓衆出身の彼は、側近ナンバーワンをもって自他ともに任じている。その次に大きい星は副社長の米沢孝夫にあたるだろう。前の金属本部長だった。一カ月前にアメリカに出張し、クイーンエリザベス二世号に乗ってカナダのNRCの製油所開所式に参列して帰った。米沢副社長はそのときの盛大さを遇う人ごとに吹聴していた。
その次の星は常務の安田茂で、この前、上杉二郎に代って江坂アメリカ社長兼米州総支配人になったばかりである。もとニューヨーク支店長をしたことがある。ゴルフなどするとき、社主の要造さんは偉大な人だ、と同僚に呟いて聞かせるそうである。
その次の群星が原燃料本部担当常務の竹本滋夫、業務本部管掌常務の春田信彦、管理本部管掌常務の豊田稔、開発本部長の田辺真、機械第一本部長の池永正雄、機械第二本部長の東山文人、繊維本部長の永井季雄、木材・建材本部長の増井勇太、農水産本部長の川北茂三郎などといったところで、このへんになると星屑の中にいるようなものであった。
茶碗の中心からもっとも遠く、外縁の円周に散らばる小星座、山猫座、天秤座、蛇座、鳳凰《ほうおう》座などといったところは反ファミリーにも見立てられようか。その中での一等星は相談役の浜島幹男で、社長のとき人事権の委譲を社主要造に要請して椅子を逐《お》われた。彼は重要人事権をもたない社長は意味がないと社主に言うと、そんなら、あんた、辞めなはれ、と要造に一蹴され、相談役に斥《しりぞ》けられた。
次に大きな星は、顧問の加藤勝市で、この人は専務時代に当時の大橋社長の下で住倉商事と江坂産業との合併を推進し、要造の不興を買って顧問に落された。その次の星はもう一人の顧問|対馬《つしま》伝蔵で、米沢副社長のもとにずっといて鉄鋼業務に精通していたものの、江坂明太郎のとりまきグループに嫌われて、常務を最後に傍系の大崎燃料に転出させられた。
常務青山晋一は父親が元江坂産業の副社長であって、父親の関係から住倉銀行と親しく、銀行に内部情報を流しているのではないかとの疑惑からファミリー派に冷眼視されている。常務波多野信吉は、徹底した反米沢副社長派である。常務村瀬耕治は、鉄鋼の生えぬきだが、米沢以後の鉄鋼幹部に反撥して、ファミリー派から睨まれている。まずこういったところが、天空の外辺に散在する反ファミリー星座の光のうすい二等星・三等星といったところであろうか。
内縁と外縁との間に位置するいくつかの星座は、中間派にも見られよう。現社長の河井武則がその中の一等星である。反大橋恵治郎派に徹底した木材畑の出身。いちおう建前の人だが、人物が小粒なためにファミリー派に利用されて中継ぎの社長にされている。
常務入江利男は曾て「大橋の丁稚《でつち》」といわれ、毒にも薬にもならないとの評がある。鉄鋼第一本部長の宇和俊久はファミリーに人が居ず、仕事の必要上から現職に就いている。副社長の泉準一郎は、住倉銀行からきた。同銀行の八田頭取に意をふくめられたが、いまは要造に忠誠心をもっている。もっとも銀行にいても後に将来性がないとのことである。しかし、こちらの社内では銀行の出向ということから警戒され、距離を置かれてツンボ桟敷にあり、両方から浮き上がっている。
この中での大きな惑星はなんといっても会長大橋恵治郎である。住倉商事との合併をすすめ、話がまとまった段階で社主要造に諒承を求めたところ、要造にその独走を咎められて社長を解任されたが、要造のイギリス音楽遊学のときのロンドン支店長。以後江坂の大番頭的存在だったが、その地位から要造とは互いに利用し合ってきた仲である。要造との関係が決定的に決裂するでもなく、親密に戻るわけでもない。奇妙なその存在はまさに惑星である。
その大橋に眼をかけられてきた常務上杉二郎はこの九月まで江坂アメリカの社長であった。アメリカだけでなく、その実績は江坂の全海外支店中の第一である。滞米はあしかけ二十年近くにおよび、大橋会長が常務・専務・社長時代を通じて援護してきた。みんなは上杉を見習え、と大橋会長は社員たちにハッパをかけていた。この九月にNRC代理店契約を仕上げ、江坂の石油部門を飛躍的に拡大した。河井現社長もその努力を認めて支持している。
けれどもこれほど仕事のできる上杉がどういうわけか社主父子には気に入られていない。アメリカに居てこそ実力が発揮できたのに、約二十年ぶりの日本で彼にどのような仕事ができようか。ファミリー派の観測では、帰国後は半年も経たぬうちに相談役に退けられるとみているようだ。このことからすると、上杉二郎は中間派と反ファミリー派の間を彷徨《ほうこう》する遊星《あそびぼし》のようなものであろうか。その光は、この曜変天目の玉虫色のなかでも、あたかもサソリ座のアンタレス星のごとき赤色を帯びて見えてくる。──
美術課員の木村が曜変天目からこのような幻想を抱くのも、ひっきょうは彼の特殊な位置、社内の出世に望みを絶たれた人間の、野心もなく競争心もなく、無風帯に居る客観性からであった。
そうして木村美術課員のその客観的判断となる資料は、彼の耳に入ってくるさまざまな風聞から構成されていた。それらの内報を教えてくる側にも、彼が骨董品の東京での購入や整理で社主の傍に居るというだけで、何かの機会に推薦してもらおうといったはかない功利心があった。
木村準一に残っている小さな出世といえば、いま大阪本社の美術課長をしている岸田直介が停年になったときにそのあとを襲うくらいなものであった。そうなると、海外のオークションに出かけ、競り落した骨董を航空機の天井から宙吊りにして捧持して帰らねばなるまい。
わしはな、じぶんの道楽だけで古美術品を買い蒐めてるのやおまへん。将来、江坂産業に財政的な危機がきたとき、かならずこれが救いの神になる。そのためにはええもんを買うておかななりまへん。大橋や浜島が社長のおり、金がかかるいうて、渋い顔をしとったけど、あいつらは遠い先が見えへん。どないに事業が順調に行ってたかて企業やさかいどこでつまずきが起るかわからへんがな。そのとき、わしの蒐めた一流古美術品が起死回生の神になりますのや。二、三流品やと役に立ちまへん。今は値段が高いようでも、将来はこの五十倍も百倍もの値になります。そのときになったら、かならずわしは感謝されますがな。
要造のそういう声も木村の耳には残っている。
3
江坂要造が大阪から東京に出てくるのには、およそ三つの目的があった。
一つは東京本社の空気を監視するにあった。東京は大阪本社の出先であった。この出先機関に反社主の動きがかりそめにもあってはならなかった。
どこの会社でも多少はあることだが、とかく東京の支店は大阪本店とソリが合わない。東京支店(名目上は東京本社となっている会社が多い)にはじっさいに営業活動をしているのは東京だという意識がある。官庁方面の交渉は東京に集中している。総合商社に関係の深い通産省・運輸省・農林省・大蔵省・外務省などの役人との顔つなぎもある。許認可をめぐる問題や諒解をとるような場合はとくにそれが必要であった。関係会社でも東京に本社をおくものが多い。経済の中心は東京であった。江坂産業にとっても大阪本社が資本を擁する参謀本部なら、東京本社は実戦部隊の司令部であった。
東京は、大阪の「本社」にある種のコンプレックスを持っており、同時にその本社|面《づら》が気に入らない。大阪は東京本社を「支店」だと蔑視しながらも、首都での活動ぶりやそのスマートさに反撥する。むろん、主要な人事は両者間の交流となっているが、底流にある対抗意識には変りなかった。江戸時代からの東西対立観念はいまだに流れている。
要造は、そうした東京から眼がはなせなかった。側近派の幹部の多くを大阪に置いていることもあって、東京が「独立」化するのをおそれている。ここで反社主の気運が醸成されると事実上江坂産業の分裂だと彼は考える。もし東京の反社主の危険な空気が大阪本社に波及でもすれば、江坂一族は没落する。
要造は、東京本社の代表に側近派の専務を派遣し、それも長くは置かないで交代させた。代表が下部の空気に汚染せられるのを防ぐためである。しかし、それだけではまだ心もとなかった。彼が赤坂氷川坂の家に行くのは東京本社監視のためであった。要造は営業の運営には無関心に近かったが、人事面だけには細心な注意、他人が猜疑心《さいぎしん》と評するほど神経を費した。事実、彼が氷川寮に滞在しているというだけで、東京本社への圧力的な効果があった。
要造が東京に出てくるもう一つの目的は、東京方面での骨董の入手であった。関西だけでは限界があった。それには京橋にある古美術店蒼竜洞と接触する必要があり、また愉しみでもあった。
要造の古陶磁にたいする目利きは、愛好家の眼でもなく、まして学者・研究家の眼でもなく、まさに骨董商のそれであった。人はよく彼にその鑑定眼の由来を訊くが、彼は恥しそうに黙って笑うだけである。が、じっさいは蒼竜洞の創始者で、宗田勇蔵、号を素耳斎といった人に手ほどきを受けたのである。宗田素耳斎は小学校も出ていないので文字が少しも読めなかった。少年のころから骨董屋丸山博山堂の丁稚に出されたため、古美術品に対する鑑定眼を養われ、その感覚は鋭く、だれも彼に追付けなかった。蒼竜洞の共同創始者である南山隆男はもっぱら資金面の調達をうけもち、素耳斎がシナに行って骨董を買い漁るのを支援した。素耳斎がシナの各地から金送れの電報を打ってくると、すぐさま工面して送金したという。素耳斎はすでに死んで、現在の当主はその婿養子にあたる。
要造の古陶磁は、李朝や高麗からはじまった。これには理由がある。戦時中、住倉林業の朝鮮支配人をしていた人が辞めたとき、その所蔵品の数十点を江坂徳右衛門に贈った。商売一途の徳右衛門には骨董趣味がなく、子の要造がこれをもらった。商売に不熱心な要造の骨董へののめりこみがこれよりはじまった。
要造は、李朝初期官窯の染付小鉢に付けた文様のコバルト色に魅せられ、壺に描かれた鉄絵の枯淡な茶褐色にも惹かれた。紅色を基調とした辰砂の色相は、その微妙な諧調が心を融けこませる。一時代前の、いわゆる高麗青磁に見る吸いこまれるような透明な水色、白濁した地にガラス質の多い釉をかけ玉のような強い光をもつ白磁、その白一色には青味を帯びているのもあれば紅色に見えるのもある。黒色があらゆる色彩を発光しているように、白色はすべての色彩を昇華しているように映る。
素耳斎は、店にある同じ種類の古陶磁を持ち出して、いいと思うものの順からならべてみなさいと要造に言った。要造がいま木村にさせているのはそのときの習得であった。
いいものはかならず心に迫るものがある、力強さがある、わるいものは、どのように上手につくっていても力がなく、弱々しい。心に逼ってくるものがない、それにははじめからよいものばかりを多く見ることである、と素耳斎は十五、六のときからある骨董屋に丁稚奉公したころの経験を言った。学者・研究家と骨董屋の違うところは、骨董屋はその古物に自分なりに莫大な金銭をかけていることだ、一個の目利き狂いが店じまいにつながることも珍しくない。それだけに骨董屋は目利きに全生活がかかっており、これをやり損えば妻子を路頭に迷わす。そう思えば、どうしても真剣にならないわけにはゆかない、甘さは微塵《みじん》も許されない、絶えず背水の陣の心がけだ、そこが学者・研究家と違うところである、と眼に一丁字《いつていじ》ない彼が話した。
素耳斎は一つの例を言った。博物館の古陶磁室主任だったFという人は、古陶磁の鑑定にかけては稀有の才質をもっていた、たいへんな勉強家でもあって敬服していたが、骨董屋であるわたしの眼からみると、まだ目利きに甘さがあった。それは博物館によって生活が保証されているからである。不幸にしてFさんはある新しい贋作壺を鎌倉時代の逸品と見誤ってそれを国宝指定にまで押し上げていった。これにはいろいろと事情があって、Fさんの目利き違いには同情すべき点はあるが、それが公けの問題になってFさんは博物館を辞めた。自分はかねがねFさんの優秀な鑑定眼の中にひそむ一抹の甘さに危惧を抱いていたので、やはりその要素が不運を負う運命になったのだと思った。聞けば最近Fさんは瀬戸の近くに窯《かま》をつくってやきものを造りはじめたという。さすがにFさんだと自分はあらためてFさんに敬服した。古陶磁は学問という名の表面だけの研究だけではわからないのである。Fさんは実作をはじめたことによって古陶磁の実体内容そのものに入ってゆくだろうし、これまでの甘さもなくなるだろう。それにくらべても、絶えず一家|凋落《ちようらく》と紙一重の商売をしている骨董商は、その目利きに一厘一毛の甘さもゆるされない、そのことはその作品をつくった名も知れない陶工との触れ合いになるのである。それでもまだ目利きに狂いがあるのだから、この道ばかりは先をみきわめることができない──。宗田素耳斎は曾てそう言った。
要造は李朝のものから中国のものにわけ入った。骨董屋の真剣勝負のような目利きに代るのが彼のモノマニアックなまでの固執心であった。その蒐集に一つの体系らしいものができると、その内容を充足させなければ承知できなくなった。徹底的な経験主義者素耳斎の手ほどきを受けた彼の眼は骨董屋的であると同時に、コレクターとしての欲望があった。
要造は古陶磁に関するあらゆる本を耽読した。ノートを克明にとって博物館や美術館通いをした。そういう博物館や企業経営の有名な美術館の所蔵目録は、昔にさかのぼったものからほとんど集めた。それが日本だけでない。中国、アメリカ、フランス、イギリス、トルコの博物館のものにまで及んだ。たとえば、中国では故宮博物院のもの、アメリカではニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、シアトルなどの美術館、とくにニューヨークのフリーア・ギャラリーやメトロポリタン美術館、カナダではローヤル・オンタリオ博物館、トルコのトプカピ・サライ博物館、イギリスのブリティッシュ・ミュージアムなどが主だったところである。海外の支店を動員できるから、この点は便利であった。
さらに、戦前からの旧大名家や財閥の売立品目録類は手に入るかぎり蒐集した。これらは古美術品の移動目録であり、変転の軌跡を辿る調査目録であった。彼が欲しいと思う古陶磁はどこからどこに流れ、現在どこに淹流《えんりゆう》しているか、彼の脳裡《のうり》には骨董屋のように正確に刻まれていた。のみならず、骨董屋の情報で、その品がまさにその家から動こうとしていることまで知っていた。その点、所蔵家の死亡は心ひそかに歓迎すべきことだった。
一つの品が手に入ると、要造はそれらの目録類を出して、八時間でも十時間でも坐って照合した。眼は偏執狂のように光り、坐った場所からは食事に立とうともしなかった。
古陶磁は、独りでそれに対して楽しむものである。これが人との交際を厭《いと》う要造の気持に叶った。茶人が道具のことを独楽といったというが、なるほどと思った。それが独り楽しむものならば、その範囲をひろげたい。多くの名品を持つことが彼の独楽を豊かにするのであった。
敗戦後、旧王家の所蔵になる李朝の陶磁がよほど出まわったことがある。蒼竜洞にも相当に入った。要造はそこからも買い、手をまわして他からも購《あがな》った。社長にしてやった大橋恵治郎が、また骨董でっか、と金のかかることで顔をしかめるので、江坂商事というトンネル会社をつくり、腹心で人のいい男を社長にしてそこから金を出させるようにした。息子の明太郎がヨットを買いあさる道楽があるので、その金も江坂商事から出させた。江坂商事は土地を買いあさり、ゴルフ場をつくり、ボウリング場まで建て、土地の転売をやっている。
要造は、手に入りそうな唐・宋や李朝の名品をのがしたとなると、世の中が真暗になったくらい絶望的な気持に陥る。しばらくは食事が咽喉を通らぬくらいで、人が見ても眼つきは虚《うつ》ろとなり、話しかけても返事はせず、身も心もないくらいに懊悩《おうのう》し、憔悴《しようすい》が目立つ、という。
しかし、そういうときの要造にも、気を紛らわすものがないではなかった。それが彼の時々なる出京の三番目の理由であった。
瀬川、と要造はその日も三太夫を呼びつけた。今夜八時から「むら竹」を取っておくんや、それからいつもの人たちに至急に電話で連絡をとってな、「むら竹」に集まってもらうようにたのみなはれ、芸妓《げいこ》は福奴と波津子がくれば二人だけでええ、と命じた。「むら竹」は氷川坂をだらだらと下ったところにある料亭であった。要造は大きな料亭を好まなかった。
瀬川は自分の手帖を開いて八つのアドレスに電話した。そのことごとくが音楽家であった。ただ一つだけナイトクラブがあった。要造自身は、煙草は無性に好きだが、酒はすこしも飲めぬ。
要造は、瀬川にそのクラブに電話させるときに言った。プローベのママにも来るように言いなはれ、店が忙しいかてかめへん、わしが李朝の辰砂壺をのがしたんで、今夜はその残念会をやるのんや、いうてな。
クラブ「プローベ」は銀座七丁目裏にあり、衰微した財閥の妻女が営んでいた。
「あんたもいっしょに行きなはるか」
八時近くになって要造は梶井ムラに訊いた。
「いえ、この前に伴《つ》れて行ってもらいましたさかい、今夜は家に居らしてもらいます」
「そうか」
梶井ムラは柔順な女で、要造が朝までピアノを弾いている夏の夜、冷房嫌いの要造のために、ひと晩じゅう起きて要造の背中を団扇《うちわ》で煽《あお》いでいるような性質だった。
「さっき、どこぞから速達が来て瀬川はんが受けとってはりましたけど、ごらんになりはりましたか?」
「うん。見た、見た」
要造は上衣のポケットの上を軽くたたき、すこしだけうす笑いした。
「むら竹」には五人の音楽演奏家がきていた。三十前後で、年配でも四十を出ていなかった。チェロ、トランペット、バイオリン、フルート、ピアノである。クラリネットと声楽の男二人はあとからくるということであった。よその家の座敷から抜けてきたという福奴と波津子とがお膳運びをした。福奴は面長の背のすらりとした女で、波津子は頸の長い女である。どちらも四十を出ていた。
要造はいつものように襖《ふすま》ぎわの末席に坐った。それが習慣だと知らないうちは客たちはたいそう狼狽するが、習慣だとわかってしまうと、座布団の上に素直に落ちつくようになる。
若いとき、ロンドンでピアノを勉強したことのある要造は、演奏家を愛好していた。彼らには個人的にも必要な金を出していた。A響(全日本交響楽団)の特別維持会員で、その金額は他の会員のそれの二十口ぶんくらいを負担していた。広くは知られないが、江坂産業の社主はかくれた楽壇の支援者《パトロン》という定評になっていた。
客の演奏家たちは、はじめは遠慮しているが、酒が入るにつれて互いの話が活発になった。末席の要造は、ジュースに手を出すくらいで、煙草ばかり喫い、終始うつむいて耳を傾けている。
演奏会の練習で時間どおり来られなかったというクラリネットと声楽の男も駆けつけてきて、座は賑やかになった。集まっているのは要造が将来一流になることを予想した才能ある芸術家ばかりなので、彼らのそうした自負は、酒が入っての仲間話に快い昂奮を漲《みなぎ》らせた。技術論が出る、古典の現代解釈論が出る、留学したころの外国の生活の話が出る、指揮者の品定めが出る、それがここには居ない仲間の批判的な噂話に発展する。──
要造は、その話の仲間には加わらない。短い質問もしないし、相槌《あいづち》もうたなかった。うつむき加減に黙ったまま、眼を細めて聴いているだけである。あり合せの煙草の空函の裏や箸袋などにボールペンをときどき走らせる。話の興味のあるところを細かい字でメモをとる。
要造は家に帰ってこのメモをすべて克明にノートに写し取るのだった。会社の役員の話を聞いたときも同じだった。寝床に腹這いになって愉しげにメモの整理をする。細字がノートにびっしりと詰まる。時間を忘れての作業だった。
しゃべっているほうは、要造のそうした様子がひっかかって、話しにくいことだった。が、どうかわたしのことは気にしないでおくんなはれ、あんたがたで自由にしゃべってもらいたいのだす。それをこないして聞いてるのがなんともいえんわたしの愉しみだす、と、にこにこして言われると、それに従わないわけにはゆかないし、そのうちに出席者も馴れてもくるというものだった。演奏家たちにとっては、要造は音楽の憬慕者であり、かつてその道に志したことがあるだけに才能豊かな演奏家を尊敬し、それゆえに芸術家仲間の話に口をはさむこともできないでいる奇特な金持のパトロンにも見えた。もっとも、常人と変った性格の人とは思っていたが。
十時近くになって、クラブ「プローベ」のママ岡野道江が座敷に入ってきた。演奏家たちは歓声をあげる。店の名を練習《プローベ》とつけたくらいだから岡野道江は音楽教育でも名高い著名な女子大を戦前に卒業した。いまでも相当な腕でピアノを弾いた。
こんばんは、ママ、と福奴と波津子の真白い顔が、岡野道江のフランス化粧の顔に挨拶した。
「おそくなりました」
演奏家たちにひととおり言葉を交わしたあと、道江は末席の要造の傍に坐った。
「店、忙しいようでんな」
「おかげさまで。あとは店の女《こ》に任せてきましたの」
「すみまへん。だいじなママを忙しゅうなる時間に呼び出したりしてな」
「どういたしまして。……あら、今夜、梶井さんはどうなさいましたの?」
「都合があって、よう来られんそうや」
要造につれられてほうぼうへ行く梶井ムラは、岡野道江とも、ここにいる福奴や波津子とも顔馴染であった。
「なんですか、瀬川さんからのお電話では、今夜は残念会だそうですけど」
道江は、クナッパーブッシュがどうのカラヤンがどうのと言い合っている演奏家たちに視線を遣りながらきいた。
「そうや。永楽の染付と李朝の辰砂の壺が京都の美術館のほうへ行《い》てしまいました。蒼竜洞の社長によう言うときましたけど、やっぱり二代目はあきまへんなア。先代の素耳斎はんやったら、執念がおましたさかいにこないなことにはならへんけどな」
「それで残念会ですか」
道江は大きな眼を笑わせた。
「わてには笑いごとやおまへんで」
「すみません。その李朝のなんとかいう壺は滅多に出ないものなんですか?」
「三島や李朝の辰砂の壺はあるところにはあって、それがたまに出ますけどな」
「まだ、旧家にはございますのね」
頸の長い芸妓の波津子が横から口を出して李朝の古陶磁展を美術館でこの前見た話をした。波津子はいくらか骨董をかじっていて、その知識を宴席でもよくひけらかした。あんた、ちょっと、あっちへ行っといてんか、と要造は骨董好き芸者を追いやってから、
「道江はん。あんたはええとこの嫁はんにいった人や。以前《もと》の縁で、いろいろな名家の人を知ってはるやろ?」
と、その顔をのぞきこんだ。
「わたしの婚家《いえ》があんなふうになったので、おつき合いさせていただいている先が少なくなりましたわ」
「それでも、わたしらが寄りつけんような名族と交際があるのやから、たいしたもんや。どうやろな、古陶磁を持ってはるそういうお家にあんたの顔でコネつけてもらえまへんやろか」
「できるだけそうしてみますけど、婚家は没落してますし、わたしだってバーなんかやってますから、お役に立つかどうかわかりませんよ」
「そないに肩身を狭もうしやはることはおまへん。あんたは初めて会員制のクラブを開きはって、その才覚と勇気には感心してますがな」
「そうおっしゃられると恥しくなりますわ。主人がもうすこししっかりしてくれてると、わたしもこんな苦労はしません」
「苦労といやはるけど、あんたの顔を見てると愉しんでやってはるようやで。派手な商売にむいてはるのやな」
「ヘンなことをおっしゃっては困ります」
「まあなんやな。来年の夏には丹後の野原寮に気晴らしにまた海水浴をしにおいでなはれ。いつかは妹はんとも来てもろて、愉しゅうおましたな」
「もう、五、六年前になりますわね。あのときは会社の若い方が多勢でいらしていて」
「五、六年前の入社社員やったら、いまはもう立派な中堅社員になって、社のために働いてくれとります」
「社主の教育がご立派だからでしょう」
要造は、ポケットから封を切った速達の部厚い封筒をとり出した。
「道江はん。ちょいとこれに眼を通してみなはれ」
道江が封筒の裏を返すと、大阪からの個人名になっていた。
「よろしいんですか?」
「どうぞ。けど、内緒に読んでおくんなはれや」
便箋に十二、三枚はあった。
興信所や私立探偵所などに依頼してその報告書かと思えるような内容だった。役員の私行上のことがことこまかに書いてある。
各人の実名で、出張先ではどういう女性といっしょだったとか、東京に出張して帰社するのに大阪駅に絶対に社員を出迎えさせないのは、名古屋の愛人のもとに寄っているからだとか、日曜祭日などではどのような女性と郊外のどこのホテルから出てきたとか、その日時・場所が具体的に、そして詳細に書かれてあった。
道江が息を呑んで読み終り、硬張《こわば》った顔で返すと、要造は低い声で言った。
「ウチの重役はんは柔かい人ばかりだす。これで会社があんじょう行くのやったら、けっこうなことだす。こないなことを書いて寄越すのは、わてが年々の入社試験のとき見込みのある奴やとおもて野原寮でひと夏きたえてやった連中だす。これがもう揃ってええ社員になりましてな。愛社心に燃えとります。こないな通信を、わては連中に頼んだことはおまへんで。そやけど、こないなだらしのない役員が多うては、江坂産業の将来はどないになるのやろ、十大総合商社の中に入ってるけどほんまに発展が望めるのやろか、うかうかすると会社が潰れることにもなるのやないやろか、と、社のさきざきを憂えての、やむにやまれぬ愛社精神からの愬《うつた》えだす。……わては、そやからというて、役員はんを責めはしまへん。私行上のことは社の業務と関係おまへんさかいにな。そやけど、若い社員たちの眼にあまるようなことがあれば、こら、士気にも関係しおるから黙ってもおられまへんわな。それでな、わては、気がむいて常務会に出るようなことがあれば、その席上で、それとなしに本人だけにわかるように風刺してやりますのや。みんな心におぼえがおますさかい、汗を掻きよります。その顔色を見てると、おもろうおまっせ」
寡黙な要造が、こうして低い声で綿々と話したあと、鼻に数本の皺を寄せて笑った。丹後野原海岸の「竜宮寮」に要造に呼ばれた連中がいわゆる「お小姓衆」で、その出身者らが社主父子の側近を形成している。かれらは秘密警察政治にも似たようなことをしているらしい。岡野道江は持株少ない社主の人事統制の秘密にふれた思いがし、それには古陶磁への偏執と共通するものがあることにも思いあたり、おそるおそる要造の顔色を窺《うかが》い見た。
向うでは演奏家たちの大きな声が飛び交うていた。
「アシュケナージというピアニストは、評論家が言うほどの才能の持ち主かね。バッハの協奏曲なんか、ありゃ甘く甘く、響きがいいように弾くだけじゃないか……」
4
神戸の芦屋の家に、木材・建材本部次長の粂野《くめの》章平が訪ねてきた。
粂野は二週間前に木材の買付け業務でカナダに出張し、ヴァンクーバー、ポートランド、オタワをまわって昨日帰国した。
社主に至急にお目にかけたいものがあるといって、三太夫の瀬川を通じて電話してきたのだった。
今日の要造は機嫌がよかった。かねて食指を動かしていた旧大名家蔵の井戸茶碗が二、三日うちに手に入りそうだからである。
一次長が単独で直接に面会を申し込んでくることは滅多にない。要造が会う気になったのはそのためでもある。
粂野章平は三十七の頑丈な身体つきで、いかにもカナダの山林を見て回ってもおかしくないような男だった。頭髪は濃く、口のまわりやもみあげの削りあとも顔料を塗ったように青かった。
粂野は要造の前に出ると、カナダからの手土産を出した。アザラシ皮の札入れが三つくらいで貧弱なものだった。カナダといえば毛皮製品が名産で、コート・ジャケット・ストール、敷物には白熊・ブラウンベアなどがある。粂野がそういう立派なものを土産にしなかったのはわけがある。
いつぞや役員会に出た要造が、ある役員の前にスコッチウィスキーの瓶を振りまわし、こないな上等な酒をわての家に送ってくれはるのんやから、あんた、さぞほうぼうから貰うてはるのやろうな、と痛烈な皮肉をその役員に浴びせたという話が、社員間にひろがっていたからである。
両手を突いている粂野に、要造は、
「ご苦労はん。カナダはもう雪やろな」
と、粂野が傍にひきつけている黒のアタッシェ・ケースをじろじろと見て言った。
「はい。北部のほうはもう六十センチ以上積もっておりました」
東京育ちの粂野は歯切れよく答え、口切りに木材買付け状況を述べにかかった。
「粂野はん。そんな仕事のことをわてに話しにわざわざここへきやはったのんか?」
「いえ、そういうつもりではありませんが、つい……」
粂野は恐縮した。
「わてに会いにきやはったのんは、あんたひとりの気持からでっか?」
「いえ、じつは本部長の増井が社主のお目に入れたほうがいいと申しますので、おうかがいしたのでございます」
木材・建材本部長の増井勇太は、現社長の河井武則と気が合わず、河井によって一時閑職につけられていたのを、要造がいまのポストに戻してやった男だ。これもとくべつな意味はなく、河井が持ってきた人事予定を見て、ふいと起った気まぐれに似たものからである。河井の人事異動構想に一人だけ気に入らないのがあり、増井を閑職から復活させることによってそのバランスをとったつもりだった。
「そんなら、増井はんも、どうしていっしょにここへ来なはらへん?」
「はい。じつは内容が内容でございますので、社のためとはいいながら、増井は私心を疑われては心苦しいので、失礼すると申しておりました。社主には重々お詫びを申し上げるようにとのことでございます」
粂野は大きな身体を縮めた。
「なんやたいそうなことのようでんな」
要造は膝の上に両手を置いて言った。
「まず、これをごらんいただきとうございます」
粂野はアタッシェ・ケースの蓋を開き、黄色い上質紙の大型封筒をとり出し、その中から書類の束を抜き出して要造の前に置いた。一部は英字新聞の切抜き記事のコピーで、厚手の模造紙に一枚一枚ていねいに貼ってあった。一部は横書きの日本文だった。
「カナダの新聞のようやけど」
要造は切抜きを一瞥した。
「ハイ。わたしがオタワに参りましたおり、図書館で見つけましたニューファンドランド州の新聞でございます。こんど江坂アメリカが代理店契約をしたNRCのアルバート・サッシン会長と、州立PRCの製油所を創設したニューファンドランド前首相ジョージ・ウッドハウス氏のことが、かなり暴露的に書かれております。ウッドハウス前首相のことはともかくサッシン会長のことは、こんどの代理店契約で江坂アメリカと関係が深うございますので、ご参考までに社主にお目にかけようと思いまして」
「ああさよか」
NRCのサッシン会長に関する暴露記事というので、要造はひとりでうなずいたようだった。
その合点の意味はたぶんこうであろう。──NRC代理店契約に働いた当時の江坂アメリカ社長上杉二郎を大いに支持したのは河井武則である。その河井社長に木材・建材本部長の増井勇太は、左遷のことがあっていらい反撥している。サッシン会長の暴露記事を見せようというのは、とりもなおさずNRC代理店契約を推進した河井に対する増井の反感のあらわれであろう。そうして社主の自分にそれを見せることによって契約に水をかけようとする肚《はら》のようだ。だから、増井は、私心を疑われそうだから、などと言って粂野を一人で寄越したのにちがいない。そうなると粂野を木材買付けにやらせたのやら、こんどの契約のアラ探しにカナダにやらせたのやら分ったものではない。
そんなふうに思ってかどうか、要造は頤《おとがい》を引いて英字紙のコピーと、手書きの訳文とを両の手に持った。
「社主は、英国にご留学なさっておられますので、もちろん訳文の必要はございませんが、ご参考までにそれを添えました」
粂野は頭を心もち下げた。
「いや、ロンドンに居たのはもう四十年も昔ですがな。英語もあらかた忘れてしもてます。それに英字を読むのは、昔からしんどうてかないまへんだした」
「とんでもありません。英語に堪能な社主に、わたしの拙い訳文をお目にかけるのは汗顔の至りでございます」
要造は眼を通しはじめた。
梶井ムラがそっと入ってきて、二人の前の茶をとりかえた。要造の黙読するのを見ると、恐れるように足音も襖の音も殺して出て行く。
カナダの地方紙は、日付順に揃えてあった。
最初は一九六八年九月十六日付である。江坂アメリカがNRCと代理店契約をした一九七三年九月よりちょうど五年前の記事であった。
≪ニューファンドランド州首相ウッドハウスは、今回のNRCとの契約で、サッシンには何一つリスクを負わせず、製油所の建設資金はすべて州予算から融資するようにした。しかし、この計画は、いまやたいそうな醜悪な図になっている。ウッドハウスの行動の大部分はミステリーに閉ざされているが、いっぽうではニクソンやサッシンなどといっしょに世界じゅうを飛びまわっている。
サッシンとの共同事業についてこれまで分っていることは、サッシンが要求していた担保証の条件をニューファンドランド州議会が承認したという事実である。この無謀な決議が行なわれたことから二人の閣僚が辞任した。
われわれはふたたびニューファンドランドの製油所に注目しなければならぬ。カナダ連邦政府はこのとりきめを無効にすることもできるはずだからだ。わけもわからないプロジェクトにたいして所得税を免除するといった甘い条件を出すことによって東部カナダの工業全体が泥沼にはまりこんでしまう前に、一切のとりきめを無効にすべきである≫
同月十七日付。
≪オタワ発──最近共和党の大統領候補に指名されたリチャード・ニクソンが一九六五年にニューヨークのプロモーターであるアルバート・サッシンの弁護士としてオタワを訪れたことを憶えている人は多いであろう。当時のサッシンはニューファンドランドのカンバイチャンスに工場を建設してひと儲けしようと躍起になっていた。
そのオタワ訪問後、ニクソンはサッシンとウッドハウスといっしょにモスクワに飛び、フルシチョフに会ったことも周知のことだ。
サッシンは大統領選挙でニクソンの後援者になっている。先月共和党大会のおこなわれたマイアミビーチではサッシンは精力的にパーティに顔を出し、また自分でもパーティを主催した。この共和党大会で、ニクソンは大統領候補に指名された。ニクソンとサッシンがウッドハウスと組んで何をしようとしているかふしぎに思われるが、ニューファンドランド州民も同じ疑問を持っている。最近では議会内でもウッドハウスはサッシンを甘やかしすぎるという非難がおこっている。
甘やかしすぎる、という言葉はむしろ叮嚀すぎる表現かもしれない。トロントのサザン・ビジネス・パブリケーション社が出している雑誌『カナディアン・ペトロリアム』は、ウッドハウスとサッシンとが、カンバイチャンスの巨大な精製コンビナートの所得税を十五年間免除するために、どのような方法をとったかをあきらかにしている。
同誌は、この事態を「専制政治力の記念碑」ともいえるものだと言っており、また、資本主義に内在する潜在的欲望が最悪のかたちであらわれたものだと評している。
カンバイチャンスの製油所は日産十万バーレルの能力をもつことになっている。ECGDは十五年払いでサッシンに一億三千万ドルを貸付けることになっており、その後製油所は考えられぬ安値でサッシンが買いとることになっている。
契約有効期間中、州政府所有の製油所は、カナダの所得税・不動産税・動産税のうちの七パーセントを免除されることになっている。
政府の土地は経費も合せてわずか|一ドル《ヽヽヽ》で製油所に払い下げられることになっていて、電力も提供される。この価格は通常の市場価格にくらべてはるかに安価なものである。
サッシンは製油所を管理し、その管理に要した経費はすべて返済される。そのうえ経営費として年間利益の二七パーセントと、売上げの五・一パーセントを受け取ることになっている。
サッシンにとっては何一つ損のないようになっている。十五年間のうちに一億三千万ドルを返済すれば、サッシンはPRCのすべての株を買い取る権利をもつ。その価格は常識はずれの安値で製油所の全資産を手に入れたうえに、無税の利益を十五年間積み立てることもできるのである。
さらに、その後二十五年間は、サッシンはニューファンドランドにおける同種の精製および化学プラントの建設に対する拒否権を持つことになっている。
『カナディアン・ペトロリアム』誌はまたこうもいっている。「十五年にもわたって所得税を免除することになれば、ニュー・ファンドランド州民が得るべき利益はすべて彼らの手中に入ることになる。このようなひどい条件で州立企業を設立するなどという話はこれまで曾て聞いたこともない」≫
九月二十五日のネーション紙。
≪オタワ発──予想されたとおり、ウッドハウスとサッシンとのあいだには相当な関係があった。両人はカンバイチャンスの製油所プロジェクトに課せられる所得税の免除に共同で策動していたことが暴露された。
サッシン側では、批判する新聞社にたいして誹謗者《ひぼうしや》だと非難している。
連邦政府の蔵相は、下院の新民主党からの執拗な質問に答えて、ニューファンドランド州政府を調査すると言明した。
もちろんサッシンだけがその種のプロモーターであるとはいわないが、われわれが知りたいのはサッシンとウッドハウスとの間に交わされた秘密取引である。サッシンはウッドハウスの友人であり、共和党の米大統領候補であるニクソンの後援者でもある。
サッシンが使った方法は、州法を楯にして無税の州立企業をいくつか設立することであった。このようにして基本的利益が州によって保障され、化学コンビナートと巨大な製油所の建設と運営とにあたるというものである。
サッシンはウッドハウスから自分の望む条件を引き出すまでいくつもの州を渡り歩いている。ウッドハウスは産業界ではほとんど認められていないので、あせっていた。
サッシンはいくつもの夢を持っており、その計画をウッドハウスばかりでなく、他州にも持ちこんでいる。その一人はノヴァ・スコシア州の首相に対してであり、他はニューブランズウイック州の首相やマニトバ州の首相に対してだ。彼はどの「持たざる州」が有利な条件を出すか調べていたが、ニューファンドランド州の首相のがもっとも有利であると判断したのである。
もし、どの州でもウッドハウスがとった方法を採用し、州立企業を所得税免除のために利用することになれば、結果は収拾のつかないものになるだろう。地方レベルであれ国のレベルであれ、市民のレベルはゼロになってしまうだろう≫
──新聞記事は一九七三年に飛ぶ。この間にウッドハウス首相は、新聞などのマスコミ攻撃と、反対党のジェームス・B・バルチモアの立候補によって、ニューファンドランド州の選挙に敗れる。彼は首相の地位を失い、バルチモアが州の首相となる。いっぽうサッシンが応援したリチャード・ニクソンはアメリカ大統領に就任する。
ところが、あれほどサッシンとの「忌わしい関係」を攻撃していたバルチモアは首相の座に坐ると、たちまちサッシンの言いなりになって、NRCとPRCへの条件を少しきびしくした程度で、ウッドハウス前首相の方針をほとんどそのまま踏襲した。
このへんがサッシンの政商ぶりだと新聞はバルチモア新首相へも疑惑的な皮肉を投げかけている。
≪アルバート・サッシンはイリノイ州でレバノン系アメリカ人として生れた。最初はジャーナリストになるつもりだったが、第二次大戦中にOSS(注。戦略諜報局。対ドイツ謀略のためにアレン・ダレスがスイスの首都ベルンに本部をつくった機関。CIAの前身。ダレスはCIA初代長官)で働いていたころから考え方を変えた。戦争が終ってから彼は石油業界にとびこんだ。
サッシンは、ジョン・D・ロックフェラーのようになるには精油業をやる以外にはないと決め、地の利がよく、しかも税金のかからない製油所のために敷地をさがしはじめた。
彼はハワイでは失敗したが、プエルトリコで最初の建設にとりかかった。しかし資金がつづかずに破産の憂き目にあって逃げ出した。次にサッシンはパナマで精油業をはじめた。このとき彼は四十二年間無税という条件を認可させている。が、そのシルバー・バード社の製油所が完成する前に、彼はイギリスの投資会社に売却している。このときカリフォルニアやカナダにあった製油所も同時に売り払った。一説によると株の総額は九億ドルだったといわれる。
その資金と経験とを生かしてもっと大きな計画に着手した。それは日産六十万バーレルの製油所を大西洋側に建設することであった。ウォール街で弁護士を開業していたリチャード・ニクソンの助けもあって、サッシンはカナダのニューファンドランド州に州立会社を設立した。その企業には、十五年間無税という有利な条件が与えられていた。
ニューファンドランドはカナダの貧しい州である。だから他では考えられないような条件を州政府はサッシンに認可したのだった。しかも州政府は融資ばかりでなく、それに必要な土地まで彼に与えた。
サッシンはその見返りとして、当時の州首相ウッドハウスをたいそうよくもてなした。ウッドハウスは前にはイギリスに属していたニューファンドランドをカナダの最も新しい一州に加えた功労者である。サッシンは、ウッドハウスがニューヨークにくるときは、かならず一流ホテルを取ってやり、毎日彼を招待し、会社の飛行機を提供した。サッシンは六隻のタンカーをもっていたが、そのうちの一隻には、ウッドハウス号と命名していた。ウッドハウスの後継者であるジェームス・B・バルチモアにたいしても同様で、やはり、タンカーの一隻をバルチモア号と名付けた。
サッシンは、また、メジャーにたいしてこう言っている。『メジャー側は、不凍港(注。ニューファンドランドのプラセンシア湾にあるカンバイチャンスのこと)を持つほどの実力をもった競争相手が出現したことを快く思っていないのだ。だからオタワ(カナダ連邦政府)に圧力をかけて無税の特権をとり消させようとしているのだ』と。
カナダ連邦政府の首相は、『サッシンはカナダとアメリカの友好関係を悪化させようとしている』といっている。これにたいしてサッシンは、産業のない土地に工業をおこすことがわたしの望みなのだ、と答えている。また、サッシンが社長をしているSNRの業務担当役員のビル・ブリグハムは『わが社は安い精油を提供しているのだ。無税であるからこそ、それが可能なのだ』と語った。サッシンの言によると『すでに十年分の売買契約があり、資金面もきわめて順調だ』とのことである。計画中の三つの製油所の建設には八億三千万ドルが必要だが、そのうちの半分は英国の銀行筋から融資を受けることになっており、サッシン個人に対しても一億千四百万ドルの融資がなされているとのことである≫
──要造は、こうした新聞記事の写しにざっと眼を通した。
木材・建材本部長の増井勇太が、次長の粂野章平をつかってこの資料を見せようとしたのは、アルバート・サッシンがいかに危険な政商であるか、そのサッシンのNRCと江坂アメリカとが代理店契約を結んだのがいかに危惧すべきことかを、社主の自分に報らせるつもりらしい。
が、これには増井が粂野にいみじくも言わせたとおり、彼の「私心」である反河井社長の意識が発動している。「私心なき愛社心のあまり」というのは、こういう場合の社員たちの使う常套的な表現であった。
「おおきに」
要造は、粂野次長に礼を言った。
「これは貰うておきます。増井はんにもそう言うといておくんなはれ」
べつに読後感も意見も述べなかった。しかし、これはいつものことである。ただ、一言、呟くようにいった。
「サッシンはんは、どえらい政商でんな。ウッドハウスはんとじぶんの関係を攻撃していたバルチモアはんがニューファンドランド州首相になりはると、すぐそれを掌中にまるめこみはるんやからな。ニクソン大統領とも親友やそうな。わては、なんやしらん親父のことを思い出しました。親父も明治・大正・昭和のはじめと生きぬいてきましたけど、あれもちょっとした政商で、危ない橋も渡ってきたようだすな」
粂野はそれを聞くと、びっくりしたように社主の顔を見た。サッシンの黒い政商ぶりが、先代徳右衛門を社主に想起させたとすれば、この資料は逆効果にもなりかねなかった。そういえば政商には、その奸黠《かんかつ》な性格において共通するものがある。
粂野は、懸命な思いに駆られたように、いそいで別なところからパンフレットのようなものを出して要造の前に押しやった。
「これは、この十月初旬におこなわれたクイーンエリザベス二世号での製油所開所式セレモニーの原色写真をのせたパンフレットでございます」
「ほう。立派なものでんな」
「はい。NRCが発行しております。念のために申しますと、これにはサッシンの演説をはじめウインストン・チャーチルの孫、ニューファンドランド州の首相、シカゴの銀行頭取、イギリスのBPの代表や財界人などといったところの祝辞が出ております。ところが、わが社では河井社長、米沢副社長、江坂アメリカの社長だった上杉常務などが招待されておられましたが、このパンフレットに付いている主要出席者名には記載されてありません。日本側は一人も名前が載っておりません。NRCと代理店契約を結んだわが社の代表が出席者名にも載ってないというのは奇妙だと増井本部長は言っております」
粂野はそこを強調したが、要造はちょっと眼をつぶり、
「そやな、そら、けったいでんな」
と、軽く言っただけであった。
粂野次長は芦屋の返道を下りる車の中で考えた。
社主が、サッシンの過去や行動に関しての「資料」を読み終って、その政商ぶりから先代徳右衛門を連想したような独り言を呟いたのはどういう気持からだろうか。
江坂徳右衛門は「回顧録」を大正十一年に自費出版している。それは江坂商会(当時)の創始者の手記として今では江坂産業の幹部社員の必読文献となっている。
その序文の「余は富山県越中国下新川郡松倉村大字鹿沢なる山深き村の農家の子に生れ、東都に勉学したるのち、商賈《しようこ》の道に励み、僥倖《ぎようこう》にも現在の江坂商会の基礎を造り、社会的にも幾分の地位を認められたるものなるが、その過去三十八年間は決して平坦なる道にはあらず、郷里の地形の如く峻険あり絶壁あり深谷あり、あるいは断崖を攀《よじ》らんとして叶わざることあり、迷路に行き暮れて自失することあり、数丈の豁谷《かつこく》に転落して死に瀕せしことあり、その艱難《かんなん》の桟道たるや名状しがたし。……」の冒頭一章のごときは、粂野も暗誦《そら》んじているくらいである。
徳右衛門が江坂商会を発展させるまでの段階には、砂糖にしても鉄にしてもパルプにしても工作機械にしても、たんなる「商賈の道」に精励しただけではなく、それが貿易商であればよけいに政商的な面もあったであろう。砂糖にしても日糖汚職事件が起っているように政界とのつながりが多く、八幡製鉄所の鉄をもらうにしても八幡製鉄所長官が自殺したような鉄屑払下げ汚職事件が発生し、これまた裏に政界との関連があったといわれている。その間に徳右衛門がいかなる政商ぶりを発揮したかはさだかでない。「回顧録」にもその点はふれられてない。しかし社内でもひそかに語り伝えられるのは徳右衛門が明治の功臣にして財界にも睨みを利かした某伯爵にひとかたならぬ愛顧を受けたということである。なぜかこのことは社内でもあまりあからさまには語られないが、その秘密めいたところに徳右衛門の政商ぶりが隠されているのかもしれない。──
数日後、要造は大阪本社の常務会に久しぶりに顔を出した。彼は常務会には気のむいたときだけ、オブザーバーとして末席に坐る。
常務会での話し合いをいつものように黙って聞いていた要造は、会議が済むと、そこに河井社長と米沢副社長の二人だけを残した。
「河井はん。NRCのニューファンドランドの製油所は、仕事があんじょういってまっか?」
テーブルにはあらためて女子社員に紅茶を運ばせ、気楽な雑談といった調子だった。要造は末席から動こうとはせず、社長と副社長が、中央壁間の先代徳右衛門の大きな油彩肖像画を背負った上席から、社主のいる末席へ移ってきた。
「はい。ニューヨークの上杉君からの報告によりますと、カンバイチャンスの製油所の山猫ストライキもようやく解決して、これからフルに生産に入るとのことだす」
河井は、高層の窓からさしこむ午後の陽に白髪の筋を光らせ、口もとをおだやかに綻《ほころ》ばせた。
「なにぶんにも、早いとこ動いてもらわんことには、オイルショックのいまがいちばんの稼ぎどきだすさかいに」
米沢も地肌の頭を光らせながら言った。
「石油産油国は、イスラエルに味方するイギリスには原油を出さんと言うとるそうやけど、PRCのカンバイチャンスとやらの製油所に油を供給するブリティッシュ・ペトロリアムのほうは大丈夫でっか?」
「はい。その点は、上杉君の報告によると、ブリティッシュ・ペトロリアムはイランの原油を買う契約ができたそうだす。イランはアラブ諸国とは立場が違いますよってに、これはいけそうだす。国王《シヤー》はイランの近代化をすすめる方やし、もともとアメリカ寄りだす」
「さよか。そら、ええな。上杉はんの報告やいうことやが、それは上杉はんがサッシンはんから聞きはったことやろか?」
「そうやと思います。これは、わたしの推測にすぎませんけど、BPとイランを結びつけたのも、サッシン氏ではないかと思います。あの人は、なかなかのやり手だすさかい」
「わては、つい二、三日前にサッシン氏のことを書いた資料を読ませてもらいました」
要造は眼を細めて言った。
「ははあ。さよだすか」
社長も副社長もあまり意にとめていないふうだった。ありきたりの日本の新聞雑誌記事でも読んだのだろうと思っているらしかった。
「サッシン氏は、エライ政商でんな」
社長も副社長もすぐには呑みこめない顔で、揃って紅茶をすすった。
「米沢はん。あんた、クイーンエリザベス号のセレモニーでサッシン氏とよく話をしやはりましたか?」
要造は肥った副社長に眼をむけた。
「よくということはおまへんけど、ちょっと挨拶だけはしました。なにぶんにも千人からの人数だすさかいに、話をする時間もおまへんだした」
米沢は弁解がましく答えた。
「ああさよか。そりゃ無理もおまへんな。千人からの客ではなァ。紳士がみんなタキシード姿やったいうて、あんたはその夢のような豪華なセレモニーをわてに話してくれはりましたな」
「へえ。ご報告をしました」
「あんたも、タキシード姿は生れてはじめてやいうてだいぶん感激しやはって、明太郎にも早うタキシードを着るような晴れの場所に出るようになんなはれ、いうて激励してくれはりましたなァ」
「へえ。明太郎はんは社主の後嗣ぎやさかい、早うそうなってもらわなあかんと思いましてな」
人のいい米沢も、社主の言葉の行き先に不安を感じたらしく、用心深く答えた。
「そらありがたいことだす。どうか、あんたがたで明太郎をよう指導してやっておくんなはれ。……ところで、あんたがたはそのセレモニーのときの写真集を見やはりましたか? こらNRCで出した原色版ばかりの豪華版だすがな」
「いえ、まだ見てへんだす。そないなものが出ましたか?」
二人とも訊き返した。
「出とります。わても、つい、二、三日前に見せてもらいました。クイーンエリザベス二世号が寄港したハリファックスの歓迎ぶりや、カンバイチャンスの製油所の全容も出とります。大したもんですなァ、あれ」
「へえ。……」
いつ、そんなものを社主は手に入れたのか、と二人とも気味悪げな表情になった。
「なんにもないニューファンドランドに、あないな立派な製油施設を政府の州立で建てさせたサッシン氏は偉いもんやとおもて、つくづくサッシンはんの顔写真を見ました。イギリスのチャーチル元首相のお孫はんや、州首相のバルチモア氏や、シカゴの銀行頭取やBPの代表など米英財界の祝辞を言やはる人の顔が出とりました。けど、あんたがたの顔は載ってまへんなァ」
「ほう、さよか」
米沢が、きょとんとした顔で言った。
「載ってへんがな。ウチはNRCと特約店契約したのやから、あんたらは大事なお客さんや。それが写真にも出てへんし、うしろのほうについてる来賓リストにもあんたがたの名前はおまへん。こら、どういうことでっしゃろな?」
うつむいていた河井社長が、咳をしたあと、大きくない声で答えた。
「その写真集はまだ見てませんけど、そういうパンフレットが出たのなら、たぶんカナダやアメリカむけの宣伝でっしゃろな。サッシン氏一流のPRと思います。そやから、わざとウチの出席者をそのパンフレットから省いたのやと思いますけど」
「ああさよか。そういうことでっか」
要造はテーブルの上に両手をきちんと揃えて、こっくりとうなずいた。
「いえ、これは、わたしの推測ですねん。ニューヨークの上杉君にテレックスして、さっそくNRCに問い合せることにします」
河井が、たじろいだように言った。
「いや、そら要《い》らんことでっしゃろ。それよりも上杉はん、まだニューヨークに居やはるんでっか?」
要造は表情をひきしめてきいた。
「はい。まだNRCとの契約後の残務がありますので。もすこし、ニューヨークに置いとこうとおもてます」
「そんなことは、後任の江坂アメリカ社長の安田はんにやってもろたらよろしがな」
要造にしては珍しく激しい口調になった。
「………」
「九月何日か付《づけ》で、上杉はんを、本社に戻す辞令も出てまっしゃろ?」
「はい」
「河井はん。上杉はんを早う日本に呼びかえしなはれ」
社主のその声が河井には鋭く残った。
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第三章
1
一九七三年(昭和四十八年)九月一日付で江坂産業常務(原燃料・鉱産業務専任担当)になった前江坂アメリカ社長兼米州総支配人の上杉二郎は、この発令を以前から予知していた。
それは主として大橋恵治郎会長からの私信によった。
大橋はかろうじて代表権のある会長だが、いまは営業部門にはいっさい口出しできない立場にある。社長時代、住倉銀行の八田頭取を介して住倉商事との合併話をすすめた「越権」を要造社主に譴責《けんせき》されてからである。社主は前から大番頭の大橋に江坂産業を乗取られるという不安を抱いていた。
上杉二郎を終始支持し、庇護してきたのはその大橋であった。敗戦後、他の企業のように合併もされずに済んだのは、GHQとの交渉で財閥指定からのがれ得た上杉の功を直接上司として認めて以来である。江坂アメリカの発展も上杉の働きによる。NRC代理店で石油部門に大きく進出でき、十大総合商社の中堅に入れたのも上杉一人の功績である。みんな上杉を見習えと社員たちに訓示した大橋の気持は現在も変らなかった。兵庫県西宮市の自宅からの私信と、ニューヨークはマディスン・アベニュー四三番地ビルトモア・ホテル気付の上杉の私信とは常から交換されていた。
二週間前にきた大橋の手紙では、近く上杉を本社常務、原燃料・鉱産業務担当として呼び返し、安田茂常務を後任とすることにほぼ内定したとあった。更迭の理由は、NRC代理店契約が成功したこと、上杉の在任が二十年の長期に亙《わた》っていることなどで、社長の河井もNRC代理店契約成功を機会にこれに賛成していると報らせてきた。
上杉は大橋あてに手紙を書いた。カナダのニューファンドランド州の漁村カンバイチャンスに、クイーンエリザベス二世号がPRCの製油所開きの祝典に入港する十月九日よりさかのぼることほぼ二カ月の時点である。
≪大橋会長殿
ニューヨークにて
[#地付き]一九七三年八月五日
[#地付き]上杉二郎
七月二十一日付|貴翰《きかん》で近く小生の転任が本社の最高幹部間に内定している由を承り、いよいよ来るものが来た感じがいたします。
正直に申しあげて、江坂アメリカこそ小生の働き場所であり、二十年はおろか三十年でも働き、ここにて骨を埋める所存でありましたので、今回の内定はかねてからの覚悟ではありながらも、やはり万感胸に逼るものがあります。小生は江坂アメリカでこそ働き場はありますが、二十年ぶりに内地に還っては、いわばオカにあがったカッパ同然で、なすところはないと存じます。原燃料・鉱産業務担当ということですが、小生は永年海外の現場で過してきたもの、いまさら本社勤務にはむきません。総合商社江坂産業の業務運営システムとしては海外の現場が主戦場であることはもちろんです。この実戦部隊の指揮班にこそ作戦・計画・用兵・指揮の独自性があります。本社の各本部担当は単なる親会社の役員にすぎません。
要するにこの内定された異動は小生を内地に召し還された上で、いずれ時機を見て退役仰せ付けのご用意かと察します。小生もすでに六十一歳、退役編入は当然のことで、この点にはいささかも不満はありませんが、転任の背後的事情にいささか合点のゆかぬものがあり、日ごろの御高庇に甘え、会長にだけひそかに所感を申し上げて御判断を仰ぎ度いと存じます。
そもそもNRC代理店問題は、江坂産業年来の念願である石油部門の本格的進出を果したもので、それだけに小生としても最後の御奉公のつもりで不敏を顧みず、それこそ決死の覚悟で、サッシンSNR社長と交渉をつづけてきたものであります。そして来たる九月半ばの契約成立見込みにいたるまでこの交渉は実に紆余《うよ》曲折を経ており、それだけにいまなお問題点を少なからず抱えております。そのことを一言で申しますならば、NRCの代理店になることが江坂産業の至上命令であったことに因《よ》っております。
河井社長は、代理店契約の完了を小生にさせることは小生の退き際に花をもたせる意味だと温情溢るる発言を他にむかってされておるそうですが、そのご好意には感謝するとしても、はたして『上杉に花をもたせるために最後まで代理店契約にあたらせ、それゆえにもっと早かるべき交替を延期させた』のでありましょうか。この言葉だけに限定すれば、その意味にはいささか適切を欠くものがあるように思われます。
およそ言葉の意味は宏大無辺であります。河井社長の温情は、じつは河井氏が小生のためを想われる以外に、社長としての氏自身の業績のために小生の交替を今日まで延期させ、もって対NRC交渉に専ら当らせた意味も含めているように思われます。もっと飾りを除《と》って申しますならば、河井氏は社長である自身の業績のために小生を利用されたのであります。
会長と河井社長との間が円滑を欠いていることは、社内周知のことであります。また、小生が会長より高庇を受けていることも社内のあまねく知る通りであります。それなのに、会長と反《そ》りの合わぬ河井社長がNRC代理店契約交渉について何故に「会長系」の小生を全面的に応援してきたのでありましょうか。石油部門進出は江坂産業の全社的な利益であり意義であるから個人的な利害感情を超越するといえば立派な大義名分になりますが、要は河井氏自身の利益が、氏の小生にたいする嫌悪の感情に一時的でも優先しているからであります。
小生は会長と河井氏とが合わない事情に乗じてこのように申しているのではありません。忌憚《きたん》なく申せば、河井氏は他人を利用することのみ心得ている人で、それに対しての感謝の念のすこぶるうすい性格であります。年来河井氏を知る者は小生のこの言に必ずや首肯《しゆこう》するところがあると存じます。
たとえば、これは小生の経験ですが、河井氏がまだ技術開発本部長(過去の職制ですが)だったころ、南米の材木買付けにつきニューヨークに来られ、その交渉にあたり、小生にその便宜供与につき辞を低うし、丁重を極めて依頼されたことがありました。俗に言う追従笑《ついしようわら》いでお世辞たらたら、まさに揉み手よろしくの懇願ぶりでありました。小生も、社のことですから微力を尽したのですが、幸いにもその交渉は成功しました。小生はその交渉の成功が小生の努力にあったとは決して自惚《うぬぼ》れてはおりませんが、それにしても、些少の努力はしたのに、そのあと河井氏からはこれといったご挨拶は何もなかったのであります。その後、河井氏とは何度か顔を合せる機会がありましたが、そのことはまったく忘れたかのような顔で、まるで小生など眼中になき様子でありました。これは小生一人の経験ではなく、他にも同様の経験者のあるのを後から聞いたのであります。
河井氏は木材畑で、世事に疎《うと》いという評を耳にしますが、それはまことに好意的な観察者の言であります。じつは河井氏ほどエリート意識の強い者はなく他を利用するだけは利用する官僚そっくりの冷たい性質であります。
あと一カ月半後にせまるNRC代理店契約書の調印、ならびに来たる十月七日から予定されているところのクイーンエリザベス二世号上でのセレモニー出席のため、河井社長は米沢副社長とともに来米されるそうです。
河井社長が小生に感謝の言葉を述べられるとすれば、代理店契約書の調印は来たる九月半ばにはたぶん実行され得るものの、それに付帯する種々の問題がその後に残されており、それは当初より交渉にあたった小生でなければ解決できない困難さがあることを熟知しておられるからであります。それなくして河井社長が小生に気をつかわれることは何もなかろうと思われます。もし契約書調印と同時にいっさいの問題ことごとく解消し、雲一点ない青天の如きものであるならば、そうして河井社長がそう信ずるならば、氏の性癖からして、小生をまったく無視するの態度に出られると思われます。
しかし、おそらくそういうことはないでしょう。というのは、くりかえすようですがNRC代理店契約後といえどもサッシン氏との厄介な交渉が実質的に今後に継続するであろうことを河井氏自身が何よりよく知っておられるからであります。たとえば、代理店契約にあたってサッシン氏に与えた特別融資供与のごとき重要事は河井社長の決裁を得ているからであります。これは常務会にはかけられない議案であり、したがって常務会の承認を得ていないところのきわめて異例のものであります。この交渉経過については、小生は極秘テレックスでニューヨークから本社の河井社長宛に逐一報告し、社長の承認を得ておることにより、いわば、社長と小生の間だけの直接了解事項であります。そうしてこの重大な極秘問題を含んだまま九月中旬に予定されているNRCとの調印に入るのであります。
この件は、さきに常務会の承認を得たNRCに対する例の千五百万ドルの融資(栄光商船のタンカー用船契約に伴うもの)とは別個の、四千二百万ドルの特別融資(名目上では "advance" =「前払金」というきわめて曖昧な表現になっております)のことをさすのであります。
もっとも前者の千五百万ドルの対NRC融資は、これが栄光商船のVLCC三隻の向う十年間の用船契約に伴うものであったため、その五〇パーセントにあたる七百五十万ドルを栄光商船側が江坂産業に対して同社のタンカー二隻の担保と河村栄光商船社長個人の保証を提供しました。この条件があったからこそ、常務会では、NRCのために用船手配をしてやるのになぜNRCに対して融資まで必要か、という一部の異論があったにもかかわらず、けっきょくその承認を得たのであります。
しかしながら、後者の四千二百万ドルの融資は、前者とはまったく性質を異にし、これはNRC=サッシン氏にたいする完全な貸付金であります(後述します)。これでは、とうてい常務会の承認を得る見込みはありません。
当初、サッシン氏は契約の間際になって、二千百万ドルの対NRC融資は江坂アメリカがNRCと代理店契約を結ぶ必須の前提条件であることをもち出して来ました。当惑した小生は、サッシン氏の強硬な主張からして、その主張を呑まないかぎりは契約破談にいたる旨の意見を添え、河井社長宛に極秘テレックスで送りました。その結果、社長より、やむを得ないとの承認のテレックスをうけとったのであります。
よってサッシン氏にそのことを伝えましたところ、しばらくしてサッシン氏はさらにその倍額の前記四千二百万ドルの増額融資をあらためてもち出しました。小生は困惑しましたが、これをさらに河井社長にテレックスで伝えましたところ、石油部門の拡大は江坂産業の年来の目的であるから、それもまた止むなしとの承認を得たのであります。
ただし、前述のように、さきの用船契約時の千五百万ドルの融資でさえ常務会はその承認の可否をめぐって紛議したのですから(反対の急先鋒が鍋井専務・江坂明太郎専務だったのはご承知の通り)、このうえ四千二百万ドルの融資ともなれば、それが常務会の承認を得るの見込みはなく、よって常務会には秘匿で、河井社長の権限による決裁となりました。
四千二百万ドルの「アドヴァンス」(前払金)という名目の融資の件は、常務会の承認を得る契約書には明記されず、一方、常務会には提出しないところの、ウラ契約書ともいうべき補助契約書のみに記載され、この融資に見合うNRCの約束手形の決済期限が、すべて一九八五年六月三十日となっていることもこれまた補助契約書(現在は草稿ですが)にのみ記載されるのであります(前払金(c)項)。補助契約書がウラ契約書的な性格になっている理由がここに存するのであります。
サッシン氏が、あくまでも四千二百万ドルの融資を強硬に主張し、これが果されなければ江坂アメリカのNRC代理店契約をご破算にすると言う以上、これを呑むためには、本社の常務会に提出する契約書の体裁のほうをこのように創作せざるを得なかったのであります。
この条文については、NRC副社長ビル・ブリグハム氏の助言により、小生と、小生の部下である江坂アメリカのごく少数の幹部社員とが知恵を絞りました。サッシン氏はこの創作された条文を承知し、サインをOKするといっております。条文がどのようなものであれ、サッシン氏としては四千二百万ドルさえ手に入れればよいからです。
これらのことはすべて小生が極秘テレックスを通じて河井社長に詳細に報告し、社長の承認を得ているものであります。けっして小生の独断専行ではありません。四千二百万ドルすなわち、邦貨にして百二十六億円ものサッシン氏への融資が本社最高幹部の何びとにも相談することなく、どうして小生の独断で決められましょうか。空おそろしくて、できることではありません。
かく問題が問題だけに、小生がNRC側との交渉にあたって、「すべて河井社長に報告し、重要事項はとくに社長の承認を得るように。けっして独断で決するな、もし極秘を要するからといって、事後承認含みで独断でやればかならずのちの禍根となる」と小生をきびしく戒められた会長の御指導にたいし、ふかく感謝申し上げるしだいであります。
──さて、小生の後任には安田常務が内定している件に戻りますが、小生にはこの人事が理解できません。したがって、NRC代理店業務の江坂アメリカの将来にすくなからず不安と危惧の念をいだくものです。
なるほど安田君は──小生も一時期、彼がニューヨーク店長をしていたころに部下として使ったことがありますが──仕事は几帳面で、カミソリのように鋭いところもありますが、それはいわば日常的な業務の面であります。小範囲での守備ならこれで十分ですが、大きな事業ととりくんでゆく面では不向きです。安田君の能力は正直いって事務屋≠フそれであって、企業家の力量はありません。几帳面さも事務屋の律義さであります。
もし安田君をして、サッシン氏のような桁《けた》はずれの人物と今後の交渉にあたらせるとすれば、彼はかならずサッシン氏に翻弄され、ひきずりまわされることは火を見るよりあきらかであります。これは江坂産業をしてじつに容易ならざる事態に立ち至らせるでありましょう。
さらに申しあげにくいことですが、いささか私的感情を承知であえて申しますと、安田君と小生とは性が合いません。周囲では犬猿の仲のように噂しているようですが、それほどではないにしても、万事反りが合わないのは事実であります。そのことを本社の上部のほうで承知のうえでこの人事の内定をなされたのであればまことに不便であります。すなわちNRC代理店契約後の諸問題について安田君は小生の後任としてそれに当り、小生は江坂産業の原燃料(石油)担当役員として、NRC代理店契約に沿う江坂アメリカ社長の業務遂行を指揮できないという、不徹底にして曖昧な関係におかれるからであります。
これが両人の間がしっくりしていれば、それなりに万事相談し合って意志の疎通もはかれるのですが、このような両人の状態ではとうてい円満にゆくはずもなく、うかうかするとアドヴァンスの名目となっているNRCに対するウラの特別融資、それに見合うNRCの約束手形の長期支払猶予期間などを明記した補助契約書の内容を、安田君が曲解するおそれが十分にあります。忌憚のないところを申しますと、NRC代理店契約は小生の功績ということになっていますので、これに対する安田君の感情が快いはずはありません。
さらに誤解をおそれずに申しますと、NRC代理店契約は、NRCの実力者にして、その親会社のSNR社長のサッシン氏と小生との協力関係によって、その共同作業により成立したのであります。いまやその契約書の調印が目睫《もくしよう》の間に逼っているときの更迭は、小生に対する本社首脳部の不信のあらわれであり、いわば小生は苦労だけをさせられてようやく晴れの署名という花を手にする直前になって追い出されたのであります。九月一日付の更迭発令ならば、同月中旬に見こまれる契約書調印の署名は江坂アメリカ新社長安田茂君が輝かしいサインペンを握られることになります。いったい、どなたが策動して、小生を追い出したのでありましょうか。策動者の顔は小生の眼前にありありと映っております。
小生は、たんなるジェラシーだけで申しているのではありません。想えばニューファンドランド州において州立製油所設立の計画があるとの新聞記事を読み、州部セント・ジョーンズにウッドハウス首相(当時)を早速に訪ね、ニューヨークのサッシン氏を紹介され、パークアベニュー五〇番地のシティバンク・ビル内SNR本社にて同氏と交渉を重ねるようになったのは今から六年前の一九六七年暮れのことであります。それより五年と八カ月にわたり、端倪《たんげい》すべからざるサッシン氏と変幻きわまりない交渉で苦労してきた小生を、その結実である晴れの調印の場から外されたのは、蔭の策動者が何人であれ、小生の長い苦労、交渉の苦労は筆舌に尽しがたいものがありますが、その辛酸をあまりに踏みにじった人事ではないでしょうか。
もとより小生は社主の信頼がうすいことを承知しております。しかし、そのことを知っているだれかが、それに乗じ、小生の追い出しを策し、そしてそれがまんまと成功したのだと考えるとき、悲憤の迸《ほとばし》り出るのをどうすることもできません。
この冒頭の部分でも申しましたように、たとえ二十年ぶりに帰国しても江坂産業では小生の将来性はまったくありません。このへんで自分の新しい人生を開くことも一方法かと存じます。さいわいにアメリカでは友人や知人も少なくないので、その人たちの友情によって、ささやかながら自分にむいた事業もおこし得るかと存じます。あるいはこれが小生の人生最後の転機かとも考えます。愚感に対し、会長の御教示をいただければ幸いに存じます≫
≪大橋会長殿
ニューヨークにて
[#地付き]一九七三年八月二十二日
[#地付き]上杉 二郎
八月十七日付のご書面をありがたく拝見しました。
会長のいつに変らぬ御芳情には深く拝謝申し上げます。
『江坂産業にはもうしばらくとどまってくれ、君ほどの手腕と顔があればいつでも独立できるが、いまは江坂産業もNRC代理店になって石油部門に大飛躍するのとき、これまでの対NRC交渉のゆきがかり上、この路線が軌道に乗るまで見てほしい、そうすることがサッシン氏との協調を今後も円滑にしてゆき、わが社の完全な利益持続となる。江坂産業での君の処遇と地位の保証は、ぼくが身体を張ってでも引きうける、社主といえども指一本ふれさせない、また社主の君にたいする感情はけっして悪くはない、NRC代理店を成功させた君の功績を社主は評価していることだし、どうかあまりにナーヴァスにならないように。また、後任の江坂アメリカ社長となる安田君と君との関係は、ぼくが十分に調整するから懸念無用にされたい』
こういう会長のお言葉に感銘いたしております。
会長のお諭《さと》しにより、前便で小生が申し上げた退社云々の言葉がいささか小生の感情より出ていたことを反省いたします。
考えてみますと、小生は広島県よりハワイに移民した農民の次男であり、たまたま叔父の養子となって故郷に帰り、養父に旧制高商を卒業させてもらい、貿易商江坂商会(当時)の入社試験を受け、爾来《じらい》約三十年間を江坂で働かせていただきました。一介の移民の小倅が江坂産業の常務取締役にさせていただき、その間、来る九月一日発令が予定されるまでの二十年間アメリカで仕事をさせていただき江坂アメリカ社長の重要な椅子にも就かせていただきました。会長のお引立てによるのはもとよりのことですが、江坂産業からうけた恩義は非常に深いしだいであります。
それを想うにつけ、また会長よりの公私両面にわたる御厚情をふりかえるにつけ、前便での小生の軽率な発言を取消させていただき、ここに御忠告にしたがい、江坂産業にたいする小生の最後の御奉公をいたし、御恩の万分の一にお酬いするの決意をあらためてお誓い申し上げます。
前便にても述べましたように、NRCのオーナーであるSNRのアルバート・サッシン社長は、俊敏な商才をもっております。かんたんにいえば、ひと筋ナワではゆかぬ人物であります。交渉の段階で小生は身をもってそれを経験いたしました。それにより小生は自己の商社マンとしての甘さをよく知らされました。その点はまたとなき勉強となりました。しかし、ここで小生の私的な感慨を申しますなら、サッシン氏は、とほうもなく大きな商人であり、そこにいい知れぬ魅力を感じました。その魅力とは、氏の精力的な行動力を支えている強烈な魂《ソウル》といったものです。それは何か魔力的でさえあります。それに何か引込まれそうな恍惚としたものを小生はおぼえました。これは途方もなく巨《おお》きな人物に対したとき平凡な人間がもつ、大なり小なりの麻痺でありましょう。
前便でくどくどと書きましたように、NRC代理店契約はスタートから、ある意味で複雑怪奇な問題をはらみ、サッシン氏の巧妙なるリードにより、今後の実践段階にそれがどのような波瀾《はらん》を起すかわかりません。
それなら、そんなリスクの多い契約はやめたほうがよいという考えもありますが、ご承知のように、江坂産業の石油部門大発展という至上命令のためには、この契約は、目前どのような不利を忍んででも、終局の利益のためには、どうしても実現させなければならないのであります。一方、これはひとえに河井社長の熱心からでもあります。その熱心さは、河井氏が社長の現職にあるあいだに大きな業績をつくり、もって河井政権の長期化を図ろうとするところから出ている、と推測されるのであります。
それなら、なおさら安田氏の江坂アメリカ社長就任は、ことをぶちこわしにするものといわざるを得ません。氏の温和な手腕では、とうてい巨人サッシン氏に太刀討ちできるものではないのみならず、失敗に傾く可能性が大であるからです。
河井社長は、NRC代理店契約は江坂アメリカとの間だが、それでは江坂産業本社としての利潤には何らの寄与をしないので、代理店の手数料一バーレル当り二セントの三分の二、すなわち年間約四十九万ドルを江坂産業の収入分に繰り入れるようにしてくれと小生に言って来ました。本社はこの手数料とそれにともなう年間約二百六十億円の売上げ見込みが欲しいわけです。河井氏には本社の売上げ成績上昇が第一なのです。
だが、この河井氏の欲望によって江坂産業は江坂アメリカの代理店業務に名目的にも実質的にも介入する正当な理由づけができました。河井氏はその成績至上主義から、手数料の分け前を要求しただけに過ぎませんが、小生からすると、きたる九月一日の異動発令以降、江坂産業の原燃料担当役員として江坂アメリカのNRC代理店業務に直接タッチすることもでき、ひいては江坂アメリカ新社長の安田氏を直接にチェックすることが可能になるわけであります。
ただ、それをどのようにして具体化してゆくかが問題であります。NRC代理店契約はあくまでもNRCと江坂アメリカとの間で結ばれるものであります。その点では、一バーレル当り二セントの手数料はいちおう江坂アメリカに入り、本社の江坂産業はその三分の二を子会社江坂アメリカから上納≠オてもらうというかたちになってしまいます。これでは主導権を江坂アメリカの安田新社長がにぎるところとなります。
これを本社側に移すためには、江坂産業とNRCとの代理店契約が形式的にもなされなければなりません。つまり契約書の内容は同一ですが、江坂アメリカ=NRCの契約書、江坂産業=NRCの契約書(補助契約書を含めて)とふた通りの契約書が必要となります。江坂産業=NRCの契約書は、九月一日に発令される江坂産業常務、原燃料・鉱産業務担当上杉二郎が江坂産業代表取締役(もちろん小生は代表取締役ではありませんが、これは契約書の慣例上の形式です)として署名し、なおかつ江坂アメリカ=NRC契約書も江坂アメリカ代表取締役社長として小生が署名すれば、契約後の業務に小生がNRC側つまりサッシン氏とひきつづき全面的に接触をもつことになり、将来ともNRC担当に小生がなることで好都合であります。したがって、NRC関係では浮き上がってしまう次期江坂アメリカ社長の安田氏には不快かもしれませんが、社のためにしばらく辛抱してもらうしかありません。
つまり二組の契約書(補助契約書とセットの)は、九月中旬の某日現在として江坂アメリカ代表取締役上杉二郎と江坂産業代表取締役上杉二郎とふたとおりのサインとなります。
このように二組の契約書があっては、NRC側も混乱するだろうと思って、じつは昨日サッシン氏に会い、二組の契約ともNRCの副社長ビル・ブリグハム氏のサインがもらえるかどうか打診しましたところ、サッシン氏は、君のほうの事情でそういう二組の契約書が欲しいなら、自分のほうはいっこうにかまわないと承諾してくれました。
かくて、前記のように、NRC代理店業務に関するかぎり、これまでどおり小生がサッシン氏と直接交渉に当ることになります。これは河井社長の承認を得ています。
後日になって常務会などで、小生の右の契約書署名が、小生の独断にすぎるとか越権だとかいう批判が鍋井専務や江坂明太郎専務あたりから出るかもわかりませんが、そのときは小生がその弁解にあたる所存です。
よろしくおねがいいたします。小生に反省と奮起の勇気を与えてくださった会長の御高教に重ねて御礼を申し上げます≫
≪江坂産業社長 河井武則殿
一九七三年九月二日
[#地付き]江坂アメリカ社長
[#地付き]上杉二郎
(テレックス)九月一日附の小生の転任辞令発表を拝見しました。
江坂アメリカの代表としてNRC|代理店 契約書《エイジエンシイアグリーメント》の署名に小生を任命くださいましたことに感謝いたします。
きたる十月五日には、米沢副社長とともに、江坂アメリカ新社長就任披露パーティ御出席と、つづく七日からのクイーンエリザベス二世号上におけるNRC=PRCのカンバイチャンス製油所開所式に御参列のため、ニューヨークにお出でくださる由、欣快に存じております。その節、お目にかかるのをたのしみにしております。世界一豪華船上にて御高話をうけたまわり、かつ当方からも種々報告を申し上げたいと存じます≫
2
──十一月半ばの、今日のニューヨークは底冷えがした。
高層ビルのあいだから急激に吹きおろし舗道を叩いては舞い上がって駆ける風は、中央分離帯をさかいに何列にもなって上下線にひしめく金持連の高級車の暖房《ヒーター》を一様に高めさせた。
上杉二郎は外装が艶々しい黒化粧のシティバンク・ビルの前で降りた。パークアベニュー五〇番地は、道路からこの四十階建てビル前に凹字形にひっこんだ前庭の噴水が一つの象徴になっている。この季節のこの寒さでは、噴水もその先端で岐《わか》れる水を見ただけでいまにもその飛沫《しぶき》が頭に降りそそいできそうな慄然とした効果しか与えない。それを囲む花壇の燻《くす》んだ緑の上に落葉の腐った黄色い断片がひっかかっていた。春と秋に色を咲かす中央分離帯の草花も同様である。街路樹はあらかた裸の梢になっていた。この縦長なトリミングの構図のなかでは、ガラス窓と黒の化粧|煉瓦《タイル》のビル正面玄関上にならんだ CITY BANK BUILDING の金属色と、噴水わきの白いポールに伸び縮みする星条旗の赤い筋とが、僅少な暖色だった。
玄関内にはこのビルに割拠している百数十社の名がロビーの壁に積み上げられてあった。そのうち "Sassin Natural Resources Co. Ltd."(SNR)とその系列は少なくとも十二、三社はあり、十五、六階の全部を占めていた。いわゆるサッシン・グループである。"Newfoundland Refining Co. Ltd."(NRC)は十五階だった。
ホールの両側にはエレベーターが三つずつある。二十人ばかりが吐き出されたが、昼食の時間であった。入れかわりに十人が乗った。東洋人は上杉だけで、十五階に降りたのも彼一人であった。廊下はあたたかかった。
SNR本社のドアをおすと、中は温室のようだった。ロビーのひろい正面にブロンドと赤毛の女秘書が長い机にならんでいた。ブロンドが長い頤《あご》をちょっと上げて上杉に眼で微笑《わら》い、インターホンに口を近づけた。返事を聞きとってからミスター・サッシンは来客中なのであと十分待ってほしいと伝えた。
彼女はそれまでのきびきびした動作を止め、ミスター・ウエスギは近いうちに日本に帰国するかもしれないとサッシン氏からきいたけれど、ほんとうか、と話しかけてきた。
たぶんそうなりそうだね、と上杉はすこし身を引くようにしていった。眼尻に出る小皺も柔和だったが、眩しそうに細めた半眼には繊細な感情が浮び、その二重瞼の裏側には複雑な言葉がたゆたっているようにみえた。これが対手に、とくに女性たちに常に魅力をおぼえさせるようだった。
もうニューヨークには戻らないのか、とたずねるので、ときどき戻ることになるだろうね、こちらに仕事の連絡があるから、と答えると、それは二カ月に一度くらいかと彼女はまたきいた。
上杉二郎が彼女たちに人気があるのは、その中年のどことなく倦怠感のみえる魅力的な顔にもよったが、彼生来の親切によることが多かった。それも決して身振りの大きいものではなく、さりげない自然の動作にひそんでいた。言葉もたしかで、洗練されているのである。
タイプを打っていた赤毛のほうの秘書が紙をはずしながら、マリアンも日本にいっしょに行くのかと気がかりげに訊いた。いや、彼女は残る、彼女は江坂アメリカの秘書で、ぼくについている秘書ではないからね、と上杉はいった。こちらの秘書二人は意外そうに彼の顔を見ていた。
二人がミス・グレッグとはいわずにマリアンと呼んでいるのは、上杉がこの事務所にマリアン・グレッグを使いに寄越すことがあるので、心安くなったにちがいない。彼女を日本に連れて行かないと言ったときの両人の表情からここの女秘書どもが自分とマリアンとの間について何を想像しているか上杉には推量できた。マリアン・グレッグは必要以上のことを口に出す女ではなかった。
上杉はむかって右側、壁ぎわの客待ち用革張りイスに所在なげに腰をおろした。向いの壁には、高い天井につかえそうな二百号ぐらいの油絵が掲げてある。いつものことだが、いやでもこれが眼に入る。
画は人物でも静物でもなく、工場の風景だった。画家が芸術的に描こうとしたものではなく、そのような美術性を一切犠牲にした克明な工場|俯瞰図《ふかんず》であった。
全工場は、ごく小部分を除くと、すべて銀白の化粧であった。大小無数の塔《タワー》が林立し、その下に構造物が一見乱雑なようだが秩序をもって配置してある。特異なのは厚味のあるカフスボタンのようなものが配列されていることで、これを見ればだれにもこの工場が製油所《リフアイナリー》だと知れる。
上杉は、かねがねサッシンからこの鳥瞰図について説明をうけていたので、そのいりくんだ工場機構の配置を視線を追って分析することができた。
左寄りにある二段カプセル形ともいえる数基の塔は、七一〇トンの水添脱硫装置ハイドフリックスで、高さが九一フィートある。この区域《エリア》が製油所の心臓部ともいうべきもので、すなわちジェット機エンジン用の燃料、自動車用ガソリン、灯油などの高級石油を精製する。
その他のタワーと下部のさまざまな構造物は、あるものは真空蒸溜装置《ヴアキユーム》だったり、それと接続する熱分解装置《ビス・ブレーカー》の群だったりする。そして各群がそれぞれに独立装置《ユニツト》をなしているのである。空冷熱交換装置《エア・クーラー》の巨大な円筒を横腹にいくつも押しこまれた水素化精製装《ハイドロボン》置のユニットと、|改質 装置《プラツト・フオーマー》との組み合せ。そういったユニットとの結合が各所に層々と積み上げられて、その堆積が見ようによっては背景となりまた前景となって交錯している。
長大に空に伸びて工場の煙突ともあきらかに違う白色のタワー数基が原油常圧蒸溜装置《クルード・デイステイレーシヨン》というぐあいで、知らない者にはこれらの弁別がつかない。軍艦の司令塔のようなものとか、その下に配列されたお椀《わん》を伏せたような物体としか映りようがない。それでも厚味のある貝殻製カフスボタンのようなものが大小無数の原油・製品の貯蔵タンク群であり、それらと工場の各装置とを結ぶ中間の十数本の動脈が送油管であることぐらいは判る。だが、そのタンクのなかの数列分は、じつはそうではなくて送風用の四つの羽根《フアン》が上部に付いている空冷熱交換装置のどっしりとした体躯なのだ。この区別はやや困難としても、素人に一目瞭然なのは一カ所に自家用発電所があることと、いくつかの変電所とのあいだに高圧線の鉄塔がならんでいることだった。
さらには海につき出したL字形の桟橋には、船からの原油陸揚げラインと、船への出荷ラインとが敷設されてある。げんに図にはVLCC(二十万トン以上の大型タンカー)が横付けされ、いましも埠頭の奇妙な形のローディング・アームが腕を伸ばし肘を曲げて、タンカーの甲板から桟橋の長い陸揚げラインに原油を吸い上げて移すところであった。
(この近代的な製油工場は、市場の需要にこたえることのできる|柔 軟 性《フレキシビリテイ》をもち、原油を多種類の良質な石油に精製することが可能である。精製工場は、どんなに硫黄分の多い原油を持ちこんでも各種の質の良い製品がえられるように設計されている。すべての石油精製は、一つの|計 器 室《コントロール・ルーム》によって制御されている。建物は強化コンクリート製で防爆構造になっている。熟練したオペレーターによって常に監視されているうえ、全設備の操業状態は常時コンピューターでモニターされている。六基の原油貯蔵タンクには三百六十万バーレルの原油を貯蔵することができ、これの建設には一万八千四百七十六トンの鋼材を必要とした。このタンクは直径二百六十フィートで、高さは六十四フィートあり、それぞれのタンクには六十万バーレルもの原油を貯蔵することができる。これらはアメリカ北部のなかで最大の原油貯蔵タンクとなった。さらに五十六の中間製品タンクや製品タンクがあり、それぞれは三万九千九百バーレルないし二十五万三千八百バーレルの石油製品類を擁することができる。……)
非芸術的だが、カタログの表紙にもなるような写実的なこの画を眺めている上杉二郎の頭上に、PRCのカンバイチャンス製油所開所式でおこなったサッシンの劇的な演説の声が聞えてきた。
日産十万バーレルの製油所はかならずしも大きくはなく、むしろ小規模のほうである。しかし、おそらく最新の技術を集めたであろうこの製油所が、アメリカのシカゴやデトロイトなどにあってもけっしておかしくはないのに、この画の背景にも描かれているように、カナダのなかではもっとも開発のおくれた州の一つニューファンドランドの寒々とした一漁村に建設されていることの意義は大きいのだ。画には、近景にプラセンシア湾の青い海があり、中景の巨大な製油所の細密画を経て、遠景に残雪をいただく連山と、涯《はて》しない森林と、ところどころなる湖沼などが描写されてある。もし、工場図の上を手で蔽って隠すとすれば、あとは北国の荒地しか残らぬ。現地をクイーンエリザベス二世号で訪れた上杉の実感でも、それら荒涼たるカナダの森林地帯は、野生鹿や山犬や狼などが闘争するジャック・ロンドンの小説の世界であった。
(カンバイチャンスへの資材輸送はひじょうに大きな努力を要し、三百五十エーカーもの用地のなかで、主な陸揚げ地点の建設に、まず埋め立てからはじめた。そして現地に機材が運びこまれる前に、建設請負会社は五十七万五千平方ヤード以上もの沼地を埋め立て、百万立方ヤードの土や岩を掘削したのであった。かくて五万五千トン以上もの機材が現地に運ばれたが、そのなかには五十万フィートにおよぶ鋼管が含まれていた。製油所の建設にあたり、建設請負業者は一万七千八百立方ヤードものコンクリート打設工事、千二百トンの鋼材を使ったパイプラック工事、一万トン以上もの熔接鋼管製スプールと、七百二十五トンもの特殊鋼管製スプールで組み立てた配管工事、四十八万八千フィートの地上配管工事、八万七千フィートの埋設配管工事を行なった。これらの配管工事は仮に一本の線につないだとすると百九マイルの長さになる。……)
この二百号の油彩画だけを見ていると、このような近代的な製油工場を凍土《ツンドラ》地帯に接した森林のまんなかに据えた未来の完成想像図に見える。夢みている人間が、その空想を想像画に託したり、|模 型《ミニアチユア》に造ったりして、それによって夢を果した歓びに浸っているのと同じにみえる。
だが、これは現実であった。画はまさにその現実を模写しているのだ。それこそ天地間に何もない荒蕪《こうぶ》の地に、かくも壮大で美しい工場をつくったサッシンの情熱と、その実現のためにニューファンドランドの首相二代を動かしてきたプロモーターとしての精力的な手腕に驚歎する。上杉には女王号で現地を踏んだ一カ月前の感動があらためて揺り戻してくるのだった。
彼のこの瞑想を破ったのは、奥からの多い靴音だった。五人の訪問客は一人ずつならんでドアから去って行ったが、いずれも年配の紳士で、豊かだが実用的な身なりをしていた。事業主、銀行家、企業の幹部、そういった種類の人間に映った。
間《ま》を置いてアルバート・サッシンが外出の支度で奥からあらわれた。頬の削《そ》げた、額のひろい、細長い顔には濃いサングラスがよく似合い、若々しくさえ見える。ブロンドの秘書がマフラーをかけ、コートをうしろから着せかけるあいだ、上杉に、待たせて済まなかった、飯を食いに行こう、と誘った。出がけに秘書をふり返り、車は要らないといって運転手への連絡を無用にさせた。
エレベーターを待つあいだも乗ってからも絶えず横に人が居たので、ビルの玄関を出るまでサッシンは無言でいたが、噴水の傍を通りぬけるとき、はじめて立ちどまり、
「出発は、いつだね?」
と、上杉に正面の顔をむけた。
「明後日です。午前十一時発のパンナム機、羽田までの直行便です」
上杉の答えを聞いてサッシンは両手をわずかにひろげた。
「ぼくは今日の夕方から三泊の予定でパナマに行かなければならない。伴《つ》れがあるので、変更がきかないんだ。残念ながら、君のためにお別れパーティを開くこともできないし、空港に見送りに行くこともできない。この次、君がニューヨークにくるまでそれらは延ばすことにしよう。そこで、いまから、ちょっと風変りなレストランで二人きりの昼食会《ランチヨン》とゆこう。君に時間があればだがね」
「けっこうですね。時間はたっぷりありますよ、ぼくのほうには。後任者への引継ぎはとっくに終っていますからね」
サッシンのキャデラックが必要でないわけだった。同じビルのならびをパンナム・ビルに肩から圧し潰されそうな古びたグランド・セントラル駅にむかい歩道をあるいて三分とかからないところでサッシンはとまり、上杉ににやりと笑いかけ、此処だというしぐさをした。脚の下にそのレストランの看板は出ていた。空は晴れていて、空気は冷たいが明るい陽が道路に落ちていた。
サッシンが先に立って、歩道から急にうす暗くなった狭い石段を下りて行った。下りきったところに店のドアがあり、押すともう五、六段低い位置で地下食堂の全貌がただちに見渡せた。橙《だいだい》色の電灯の下にかなり広いスペースでテーブルとイスが隙間ないくらいにならべられ、向うの壁ぎわの鉤《かぎ》の手に料理皿を陳列したカウンターが伸びていた。地方駅構内の地下大衆食堂といったところだった。
客は、二十人ばかりがばらばらに坐っていた。サッシンは馴れた様子でカウンターの前に行き、ならんでいる一品料理からハンバーガーの皿と牛乳のパックとを長い盆の上にとりこんだ。上杉もそのとおりに見習った。サッシンはとくべつにバーボンを一本とった。二人ぶんの勘定はサッシンが支払い、それぞれが盆を持って適当なテーブルについた。テーブルは細長い机みたいなもので、五人はいっしょにかけられた。ビニールのテーブル掛けにはところどころに煙草の焼けあとがあって、その青い格子縞を切断していた。
サッシンが風変りなレストランといったはずで、此処は彼が行きつけのホテル・プラザのオーク・ルームやロックフェラー・センターにある料理店「|十二人の 皇帝の 広間《フアーラム・オブ・トウエルヴ・シーザース》」や五二番街の「ラ・グラノ」など最高級のところとはまったく対蹠的《たいせきてき》な安食堂であった。バーボンの一瓶は別として、牛乳つきの一皿が一ドル五十二セントだった。
まわりの客がまた風変りであった。年老いた者が多く、夫婦づれやアベックは一組もなかった。それぞれひとりで坐って皿にかがんでいた。退職後の年金で死までをつましく暮している老官吏、失業保険で食いつないでいる貧弱な体格の労働者、亡夫のわずかな遺産をできるだけ減らさないようにと心がけているような寡婦、職業紹介所を歩き回っている間に立ち寄った五十男の失業者といったところが、これらの客の品さだめであった。
音楽は一つもなく、まるで火葬場の待合室のようだった。客は、話相手がないこともあって一語も発せず、背中をまるめて皿に見入り、首をあげても鼻のむいた先にある壁の斑点《しみ》をじっと凝視しているだけであった。すぐ間近のテーブルに同じ境遇の人間が坐っていても、そんなものは見飽きたかのように眼を動かすでもなく、ひたすら自分の不仕合せを見つめてじっとしていた。
パークアベニューといえばこの付近は高級ビジネス街であり、ユニオン・カーバイド・ビル、ケミカル・ニューヨーク・ビル、シーグラム・ビル、リバー・ハウスなどの美観を誇る高層ビルがたちならぶ。アルバート・サッシンの事業を顕示するサッシン・グループとよばれるいくつものオフィスが入っているシティバンク・ビルもそのなかに伍している。さらに近くのセントラル・パーク付近は、ニューヨーク随一の豪華な高級住宅街なのである。
そうした特権階級区域にこの安食堂があるのは、マンホールの穴から下水道に落ちたような感じの、文字通り地下《アングラ》の飯屋《めしや》であった。
「こんなところに君を昼食に誘ってわるかったかな」
サッシンはうすい頬に皺を集めて微笑した。濃いサングラス越しでも、間近だとその眼のあたりの陰影がよみとれた。髪毛も瞳も黒味がかっていた。
「かえってこのほうが印象的でうれしいですね。いや、お世辞でなく」
「そういってもらうとありがたい。高級料理店となると、その印象がかえって平均的になると思ってね。今回はひとまずここで送別のランチョンとした。ぼくの勝手な思いつきだけど」
「なによりの趣向《アイデア》です」
サッシンは上杉のグラスにバーボンを傾け、上杉は相手のそれに注ぎ返した。グラスを合せたとき、サッシンはチェリオと渋い声で低く叫んだ。半分を飲んだとき鼻に松脂《まつやに》の匂いが漂った。ニューファンドランドの森林の臭いのような気がした。
「よく、ここにおいでになるんですか」
べつに別離の挨拶らしいことも交わさなかったのは、またすぐに戻ってくるからである。
「ときどきね。気分を変えにくるよ。ビジネスの食事つきあいでやりきれなくなったとき、親父《おやじ》のにおいを嗅ぎにくるんだ」
「お父さんの?」
「親父は、ぼくが子供のころ、こういう安食堂によく連れて入ったものだ。むろんニューヨークじゃない。イリノイ州の田舎町でね、シカゴに近い土地だ。祖父がレバノンからの移民でね。二代つづいて自動車修理工場の労働者だったよ。うだつがあがらなかったのは、レバノン人というところからアメリカ人に冷たい眼で見られてきたからだ」
3
レバノン人やシリア人は、ユダヤ人とともにアメリカの一般社会では白眼視されてきている。これら中東の民族は吝嗇で、狡猾で、狡智に長《た》け、金儲けに抜け目がなく、そして守銭奴ということになっている。いわれのないアメリカ人からの蔑視と、陰に陽に加えられた迫害とが彼らの苦闘の歴史であった。
レバノン人とシリア人とは古代フェニキア人の子孫である。前十二世紀から前八世紀のあいだ約四百年間にもっとも栄え、レバノン杉で造った船で地中海をわがもの顔に乗りまわし、沿岸各地に植民都市を造った。最盛期にはその商船隊が西は大西洋、東は紅海、インド洋を巡航して、バルト海の琥珀・木材、スペインの銀、南アラビアの金、インドの香料などを交易した。かれらは造船術にすぐれているところから建築技術にも長じ、また鉱山の採掘者でもあった。その商船隊は海軍でもあったから、交易のなかにはずいぶんと掠奪もともなっていたろう。征服地の住民をとらえ、これと銅とを交換する「商賈《あきうど》にして人の身と銅《あかがね》の器《うつわ》をもて貿易を行なう」(旧約聖書・エゼキエル書二七ノ一三)奴隷商人であった。
こういったことがレバノン・シリア系にアメリカ一般社会がいわれのない差別観念を与えているとしたら、かれらの屈辱と反撥とは、ユダヤ人以上に骨の髄まで滲みこんでいることであろう。
サッシンがふと洩らした過去の一部のようなものは、上杉にもいたく同感された。江坂産業における「あれは二世でね」「どうせ英語屋だ。それ以上のものではないよ」といった不当な、差別的な蔭での評価と共通するものがあった。
上杉は、サッシンがシカゴに近いところで生れたというのを聞いて眼球の裏側に光芒の走るのを感じた。鉄鋼業を中心とする重工業地帯のシカゴには、製油所がある。付近の油田だけでなく、遠く中部油田やメキシコ沿岸油田からも送油管で原油がそこに送られてきているはずである。精油企業に対する彼の異常とも思える情熱と執念は、子供のころからシカゴの製油所を見ていたことによるのではなかろうか。いまにみろ、おれも、という発願が年少の彼に燃えていたかもしれない。こう考えてこそ、彼がパナマやメキシコに製油所をつくった理由がはじめて解けそうである。
いま、間近にサッシンの顔をあらためて見つめると、その黒褐色の髪には少なからず白髪がまじり、耳わきのもみあげなどは真白であった。髪毛はずっと少なくなって、禿げ上がった前額がひろがり、それには数本の横皺が、眉間の深いたて皺に接合している。六十前後の年齢からいって、頭髪のうすいことも白髪の混じることもふしぎではないが、無数の皺があることとそれらがどれもナイフの尖先で切りこんだように深いこととはやはり平穏な半生でなかったのをかたっているようである。
眼の下には袋をつけたように大きなたるみがぶらさがっており、それを含めて小皺の多い眼のまわりは隈どりしたように黒ずんでいる。これは鷹のような眼つきとその鋭い光の効果をすくなからず減殺しているようでもある。鼻は脂肪が落ちて鼻梁《びりよう》だけがたかく残り、鷲鼻の外形を強めはしているものの、その尖ったさきにはこまかな皺が寄っていた。うけ唇《くち》なのだが、その下唇はものを食べるときにだらしなくつき出るし、顴骨から下の肉が落ちているので、口を動かすたびにその部分の皮膚が皺を派手に揺り動かした。
頤の下からとがった咽喉仏のあたりにかけては皮膚がゆるみ、血管の筋だけが露わに突張っていた。手の甲にしたってそうで、黝《あおぐろ》い血管が皮膚の下に木の小枝を入れたようにふくれ上がっている。爪はみんな不格好に歪んでいる。高級料理店でしょっちゅうナイフやフォークを握ったり、人前で署名《サイン》をしたりするのだから、つとめて爪の手入れには気をつかい、もしかすると専門の美容師に磨きあげさせているのかもしれないが、いびつな形はなおりようもなかった。それというのも、その変形が彼の過去の労働によってきているからであろう。これだけは、服装がどんなにしゃれていようと、カフスボタンに宝石が嵌《は》まっていようと、隠しようもなかった。
彼の背中にしてもそうで、以前からみるとその猫背が相当にひどくなっていた。ちゃんとした客に会ったり、あるいは虚々実々とわたり合う対手と会談するときは、隙を与えないために、その姿勢に威厳を見せ、挑戦的にしているが、このような場所で気心の知れた年下の人間を前にしていると、つい肉体の弱体をさらけ出すものなのであろう。
こうしたサッシンの姿を見ていると、その服装を別にすれば、まわりで黙々と食事している貧乏な年金生活者や老いた失業者と択《えら》ぶところがないようである。皮膚にも背中にも長いあいだにわたって堆積した苦闘の疲労が顕われていた。
けれども、仔細に観察すると周囲の人々の疲労|困憊《こんぱい》が持続的で、その表情は絶望的に弛緩《しかん》しているのにたいし、サッシンのそれには生気が間歇《かんけつ》的にもどっていた。それは彼の体内の底に溜められている高い地熱のような精力に根ざしているように思われる。彼の意志力は、自然法則的に老いてゆく肉体の中に存在しながらも、それに抵抗し、鍛錬し、まだまだ敗北には屈せずにどこまでもヴィジョンの実現貫徹という勝利に前進するデーモンの主にみえた。
アルバート・サッシンがその若いころにどのような経歴をもっていたかはだれにもわかっていない。どのていどの学歴をおさめたかも不明である。が、彼の一般的なレベルでの知識──すぐれた教養という意味ではなしに──からすると、少なくとも二流の大学は出ていそうだった。シカゴ付近だと、そういう種類の大学をいくつか思いうかべることができる。たぶん彼は労働しながら学資をかせぎ、そのどれかの大学を卒業したのであろう。老いてはいるが彼のごつごつした太い指と不格好な爪はあきらかに青年期までの労働の名残りだからである。
彼がいつごろその労働生活から脱け、頭脳をはたらかせる商売の世界に入ったかはこれまた不明である。上杉は、これまでサッシンとの雑談でそのことを彼の口から引き出そうとしたこともあったが、成功しなかった。
戦時中、OSS(戦略諜報局)所属の海軍大佐だったという風聞についてもサッシン自身は否定的に笑って、人が造ってくれている話でね、と答えるだけであった。要するに彼が石油業界に顔を出す一九五〇年代のはじめまでは、その経歴ははっきりしないのである。
しかし登場するといきなり業界の注目を浴びるような活躍ぶりとなった。正統派≠フ業界からするとアルバート・サッシンの活動は少々|胡散臭《うさんくさ》く、まやかしもののように見えたらしい。しかしこれは新興派≠ェ常に受ける排斥と冷嘲の待遇であった。すでに確固たる地盤と市場《マーケツト》とを築きあげて、それを尊厳な秩序と称している既成の業界大手、とくにロックフェラーの石油帝国に食いこむのに、あとからの者は奇襲方法しかないのである。だが、それが成功し、先輩業者から認められるようになれば、それは奇手でも奇襲でもなくなり、正統派≠フ秩序のなかに組み入れられてしまう。時間がかかるけれど、そういったものなのである。
サッシンのばあいは、その奇手がリチャード・ニクソンやニューファンドランドのジョージ・ウッドハウスやジェームス・B・バルチモアなど政界人との結びつきによる利権の獲得であった。これ以外に、既成マーケットの堅固で壮大な城砦《じようさい》に割りこむ方法はない。サッシンからみれば、同じ中東のユダヤ人モルガンもかつてはそのような非正統な&法で儲け出したのだから共感があったろう。ロックフェラーにしたところで、父親は行商人で、かれは仲買店の帳簿係だったから、その若いじぶんを比較して、それほどの径庭《けいてい》を感じなかったろう。
サッシンが年少時に父親につれられて移住先のイリノイ州で育ち、シカゴの二流大学で苦学したとすれば、かれは当然にロックフェラーが一八九〇年代に六千万ドル以上の寄附をしたシカゴ大学を毎日のように見て通ったはずである。ロックフェラーの幸運は、一八五九年にペンシルヴァニアで石油鉱脈が発見されるといちはやく石油業の将来に眼をつけて六三年に石油精製業に進出したことにある。つまりそのときは先発の石油業者はなく、かれが開拓者の栄誉と利益とを独占した。
それだけではなく、ロックフェラーのオハイオ・スタンダード石油会社がクリーヴランドに製油所を造ったことがその発展の大きな要素となっている。この地が原油生産地にも近く輸送の便にめぐまれていたからである。
サッシンがニューファンドランド州政府をしてカナダの最東端プラセンシア湾のカンバイチャンスに製油所を建設させ、つづいてはノヴァ・スコシア州に製油所をつくらせる計画をしているのは、アラブの原油輸送とカナダならびにアメリカ東北部に精油供給の最短距離を狙い、またそれを宣伝しているのは、ロックフェラーのクリーヴランド製油所設置のやりかたにならっているのではないか。かれは故ロックフェラーに競争心と敵意を燃やし、焦燥しているようにみえる。そう思って観察すると、かれの疲れたような、黝《くろず》んだ眼のふちのあいだから洩れる輝きが魔神的《デモーニツシユ》な熱を帯びていた。まるで巨大な対手に目標をつけているすばしこい魚類が、くたびれたふりをして海草のかげから眼を光らせ焦燥しているのと似ている。
サッシンには妻子がない。女は居るだろうが、それはいつでも悶着なしに取り換えられるしろものだ。かれの活動を阻み、かれをひとところに定着させようとひきとめる妻はいない。かれは身軽に、いつでもどこへでも行ける。
かれはセントラル・パーク東側のニューヨークで最も豪華なカーライル・ホテルに二部屋をとって定住している。が、これとてもいつでも引きあげて他のホテルかマンションかに移れるていのものだ。ホテルに年間契約で居住はしているが、自己所有の家宅はない。したがって家に拘束されることがない。どこにでも勝手に転々とできる。極言すれば、かれは、ホテルという借りものの部屋に住み、借りものの家具を使い、借りものの机で仕事をし、借りものの電話機で通話し、借りもののベッドに横たわっている。開くパーティですら借りものなのである。かれは仕事の飛翔のためには、そのデーモンの命ずるままに他の見知らぬ場所から場所へと容易に転々とでき、その意志は自由に天界に翔け得る。
それにひきかえ一般の生活人は、妻子と家をもち、少しずつだが妻子と共有の財産をつくってゆく。それが大きければ大きいほど、かれの意志は地上にくくりつけられ、それより飛び立つことができない。冒険の翼は折られ、野心の魂を失う。そこには小賢《こざか》しく生きてゆこうという知恵だけが地上を這ってゆく。その触角がさぐりあてようとするのは世間からの尊敬と体面を得る道である。
そうした人種と、デモーニッシュな人間が受けている非難と侮蔑、つまり偏執・夢想・無頼・独断・非妥協といったものとはおよそ対立している。どちらが英雄であるか議論の余地はない。魔神はそれだけの蠱惑力《こわくりよく》を、非英雄の人間たちに与える。
実生活の上では、同化も同調もできないことがわかっていながら、その魔力に吸いこまれる誘惑と抗《あらが》ってそれに敗北するのは、世間の体面を気にしている賢明な人間のほうである。
上杉二郎は、いまこういった感情を頬杖ついてサッシンを凝視しながら持ったのではない。それは常々からのものだが、こうして地下《アングラ》の送別会をしてもらうと、まさしくアングラ・マイニュの饗応のようで、サッシンの魔王的なものがひしひしと身に伝わってくるのだった。
もとよりそのあいだも二人の会話が切断されたのではなかった。だが、その声のうえにサッシンと交渉してきた回想が否応なしに重なってくるのである。
たとえば現実の声でサッシンは、たったいまこんなことを言った。
「東京のホテル・オーハラはいいホテルだね。ぼくがもういちど泊りたいと思っている数少ないホテルの一つだよ。あとはイランのイスファハンにあるシャー・アッバースか、トルコのブユーク・アンカラくらいなものかね。なにしろ、ぼくには東洋人の血が流れているんでね」
サッシンはいつ東京に行ったのか、と当人に訊き返すまでもなかった。迂闊《うかつ》だが、それが八、九年前の事実だったのを、上杉は最近になって他の情報から知ったのである。
サッシンが東京にやってきたのは、その情報によると、サウジアラビアの原油輸入を扱っている中東石油会社との交渉のためだった、というのである。──
4
その話を耳にしたとき、クイーンエリザベス二世号の招待客の中にあった中東石油ニューヨーク事務所長蔵内良夫の顔に上杉は思い当った。
クイーンエリザベス二世号の数少ない日本人招待客のなかにこの中東石油ニューヨーク事務所長の姿を見かけたとき、江坂産業の社長河井武則も軽い不審を起したものだったが、上杉もやはり同じ印象をうけた。が、交際のひろいサッシンのことだからニューヨークの日本人所長をなんらかの関係で儀礼的に招待したのだろうぐらいに考えていた。いまにして思えば、宇美幸商事をのぞく住倉商事、三池物産、三丸商事、菱紅、帝綿などの総合商社の顔が見えなかったのはたしかに奇妙ではあった。が、これもサッシンの側のなにかの都合によるものと単純にやり過していた。
そうではなかった。サッシンにはこの中東石油の幹部を豪華船に招待するだけの因縁があったのだった。
サッシンが中東石油会社に接近したのは──情報によると──カンバイチャンスの製油所建設につれてその原油の供給先を求めるためであった。その時期は上杉がNRCの代理店に江坂アメリカが契約すべくサッシンに接触をはじめる三年前のことである。
──サウジアラビアと原油供給の契約をした中東石油会社がアラビアの原油を輸入しはじめたとき、日本の通産省は、その原油の全部を日本へ持ちこませる方針をとっていた。しかし、あまりにもサウジアラビアの油田が大きいというところからメジャー(国際石油資本)のなかでもとくにシェルから、アラビア石油のすべてを日本がとりこむのに強い抗議がなされた。それに中東石油の社内でも、一部は海外(日本以外)に売って商売すべきだという声が高かった。
そのため中東石油では海外市場での売りこみ先を探しはじめた。そのときアメリカの中堅の石油販売会社(石油製品の販売会社)である「シティ・サービス」という会社が、中東石油の扱うアラビアの原油を買いたいと申し入れてきた。中東石油とシティ・サービスとの間で原油取引の交渉がはじまったのは一九六〇年の暮であった。
交渉はその後ほぼ二年間つづいて、契約の合意をみた。その間、アラビア石油の油田が大きいとわかって、「コンチネンタル・オイル」という会社も購入に参加してきた。そこで中東石油会社では、サウジアラビア政府と、同社が石油の第二利権をもつクエート政府に同意を求めたところ、クエート政府は諒解したが、サウジアラビア政府はこれを拒否してきた。中東石油はその資本金のうち一〇パーセントがサウジアラビア政府、一〇パーセントがクエート政府、あとは日本財界の共同出資となっていた。
サウジアラビア政府の拒否の理由は、この取引は原油の売買でなく、石油利権の売買だから認められない、というものであった。そのため、この商談は成立寸前になってこわれてしまった。これが一九六三年のことである。
その破談の後で、サッシンが中東石油に接近してきた。この会社がアラビアの原油をかかえているのを嗅ぎつけたのだった。
そのころ、サッシンはカリフォルニアとペンシルヴァニアに小さな製油所を経営していたが、カンバイチャンスのPRCの製油所はようやく計画がその緒についたときであった。サッシンはこの計画を具体化するためにその原油供給先をさがしていたのである。
サッシンが中東石油とシティ・サービス、コンチネンタル・オイルとの契約破談の情報をどこから入手したかはわからないが、たぶんサウジアラビアの王室関係者からであろう。レバノン系米人のサッシンは、つねづねこうした取引には、自分には東洋人の血が流れている、と宣伝していたし、彼の手腕をもってすれば、サウジアラビアの王室関係に特殊なルートをもっていたとしてもふしぎはなさそうであった。
サッシンのグループと中東石油とのあいだに交渉がもたれたのはこのときが最初で、それ以前は何のつながりもつきあいもなかった。また、このときもサッシンの側からとつぜんに中東石油に声をかけてきたのであって、中東石油からサッシンにアラビアの原油を売りこむといった働きかけはまったくしていなかった。
サッシンは、その営業面での責任者であるR・マッケンジーを帯同して来日し、中東石油の東京本社を訪れた。ホテル・オーハラの特別室を五日間とったというのはこのときのことである。サッシンの片腕にブリグハムがいるが、彼はサッシン・グループの金融面を担当していて、このときはさしあたって必要がないためか姿を見せていなかった。
このようにして中東石油とサッシン・グループとの交渉は二年近くもたれた。交渉のテーブルについたのはマッケンジーと中東石油の蔵内良夫がおもだった。サッシンは交渉にはかならず同席したが、その場ではあまり発言しなかった。
一九六五年ごろから、中東石油とサッシン側との間で本格的な交渉がはじまったが、それからの交渉舞台はニューヨークに移された。蔵内は中東石油ニューヨーク事務所長として赴任していた。
中東石油としては、以前のシティ・サービスとの交渉でサウジアラビア政府から、石油の売買ではなく利権の売買だというクレームをつけられた苦い経験があったので、その点を配慮し、原油販売の条件を慎重に練りあげた。サッシン側との間で合意に達した条件は、結果的には、シティ・サービスとの交渉でまとまったときの条件のうち、利権譲渡とされた部分を変えただけで、その他はシティ・サービスとの間で合意したものとほとんど同じであった。
つまり中東石油としてはサッシン側に対して、当方の条件はこのようなものだと提示したうえで、サッシン側にはその条件を呑んでもらうしかないとした。細かい部分での詰めは行なわれたが、大筋では中東石油の出した条件で合意に達した。これが煮詰まるまで約二年間のやりとりがあったのだが、あとは契約書に双方が署名するだけとなった。
ただ、このように交渉が長くかかったのは、中東石油側が提示したダウン・ペイメントの条項にサッシン側が最後まで難色を見せたからである。ダウン・ペイメントというのは、中東石油が油田発掘に既に投じていた資金のうち減価償却にあたる部分をサッシン側に現金で前払いさせるというものである。サッシン側は中東石油と合意に達したとき、けっきょくこのダウン・ペイメントの約三千万ドルの支払いを承諾するつもりだった。
それよりほかにカンバイチャンス製油所への原油供給の道がないとすればやむをえなかったサッシンだが、彼としては、でき得るならばこのダウン・ペイメントを払いたくなかったのである。中東石油の蔵内は、サッシン側と交渉をすすめているとき、サッシンの要請で彼といっしょにミシガン州にあるサッシン・グループのメインバンクを訪れ、このダウン・ペイメントをサッシン側に融資してくれるよう依頼したりした。サッシンには潤沢な資金がなかったようであった。
カンバイチャンスに原油を供給してくれるところが中東石油以外にないとすれば、サッシン側としては中東石油が契約の絶対条件とするダウン・ペイメントを調達しなければならないが、契約のサインが延びたのも、約三千万ドルの工面がすぐにはできなかったからである。
しかしこの中東石油との交渉では、サッシン側は非常に有能な弁護士をつけてきて、じつに細かい点まで丁寧に交渉し、契約書も慎重につくられた。このような状況だったので、サッシン・グループはたいそうきちんとした企業であり、そこで仕事をしている人たちはすべて優秀なビジネスマンだという印象を中東石油側は持った。サッシン自身にしても切れ者で、いくらかヤマ師的な性格をもっているように思われたが、有能な企業家なら多かれ少なかれそのような性質を兼有していることだし、日本的な倫理観でアメリカのビジネスマンを裁断するのは当らないという意見を、中東石油ニューヨーク事務所長の蔵内は持っていたようである。
ところが、その後、サッシン側から中東石油への連絡が途切れてしまった。中東石油側が首を傾《かし》げていたとき、サッシン側とBPとのあいだで原油供給契約が結ばれたことを中東石油はほかからの情報で知った。サッシン側からは直接にはそのことで説明がなかった。
イギリスのBPはメジャーのなかでも大手である。サッシンははじめ中東石油と交渉しているとき、自分は東洋人《オリエンタル》であるからメジャーからは絶対に原油を買わない、同じ東洋である日本の企業から買うと言っていたのに、とつぜんの変心だと中東石油側はうけとった。サッシンは二年間もつづけてきた中東石油との交渉を、しかも契約書にサインするまでになっていた中東石油を見限って、かれの「嫌っていたメジャー」のBPとどうして手をにぎったのだろうか。要するにサッシンは中東石油が条件とするダウン・ペイメントを支払いたくなかったのだ、と中東石油側では推測した。
そのころBPは自分のところで抱えていたクエートの原油の処分に困っていた。そこでサッシン・グループが原油の供給先を探しているという情報を耳にし、サッシンに売りこみをはじめた。これにはイギリス政府も仲介に乗り出し、カンバイチャンス製油所の建設資材・建設資金ともにイギリス政府が保障するという熱心な売込み運動であった。ダウン・ペイメントを中東石油に払いたくなかったサッシンは、このBPの好条件にさっそくに乗りかえたのである。
そのようなことで、サッシン側と中東石油との破談はまったくサッシン側の一方的な都合、考えようによっては、ドライで身勝手な都合によるものであって、一部に伝えられているような「契約書の字句がどうにでもとれるような曖昧さのために、契約を結ぶ直前になって中東石油がサッシン側に危険を感じて契約を破棄した」といったものではなかった。──
こういった数年前の話がさきごろ上杉二郎の耳に届いていたのである。
もしこの情報が、NRCの代理店になることを江坂アメリカがサッシンに申し入れた時期に入っていたら、どうなっただろうか。サッシンに資金が豊富でないことがわかって、代理店契約を引込めただろうか。たぶんそうはしなかったろうと上杉は思う。
NRCの代理店に江坂アメリカがなりたいと上杉が再度申しこんだのは、NRCとBPとの原油供給の直接取引が成立(一九七〇年)したあとだ。その二社間の商談ができる裏側の事情は、実は何も知っていなかった。というよりもニューファンドランド州政府がPRCを設立し、カンバイチャンスにその製油所をつくるというニューヨーク・タイムズの目立たないベタ記事を読んでセント・ジョーンズに飛んだというのが、この交渉の単純な発端であった。上杉は州首相のジョージ・ウッドハウスからSNRのサッシンに会うようにすすめられ、ウッドハウスの紹介状をもらってニューヨークに戻り、パークアベニューのシティバンク・ビルにあるSNR本社にサッシンを訪ねたというのが第二の展開であった。
BPとの原油供給契約が成立したあと、NRC=江坂アメリカとの代理店契約にあたって、サッシンは上杉に中東石油との交渉の経緯を語るはずもなかった。だれにしたって破棄された第三者との契約について、必要もないのに、自分から語るはずはない。それがビジネスの倫理である。
サッシンが、中東石油との契約交渉は自己の資金面に不利な点をさらけだすことになるから上杉に沈黙していたのは事実だろうが、それはサッシンの背信とか狡猾を意味しない。商談は、それが起ったときがいつも新しい時点であり、それにまつわる他社との過去のいきさつとはいっさい無関係なのである。もしそこに手落ちがあれば、契約を申しこんだほうの調査不足という責任である。
上杉のサッシンへの信頼は、それは江坂アメリカ=江坂産業の信頼にもなるのだが、サッシンのNRCがニューファンドランドの州立会社《クラウン・カンパニー》PRCの経営権を任されていること、原油の供給先がメジャーの大手中の大手BPであること、この背後にはイギリス政府の支援があるということなどに焦点が置かれてあった。
いまにして思えば、サッシンが中東石油の提示するダウン・ペイメントを承服しながらも実践を渋ったことと、こちらの代理店契約にあたって栄光商船の用船契約時の千五百万ドルの貸付金(その五〇パーセントは栄光商船側から江坂産業に対してタンカー二隻の担保と社長個人の保証はあるものの)と四千二百万ドルの「前払い」という名目の貸付金とは、性格を一にするのである。どちらもサッシンの手もと不如意を物語っている。
中東石油に対してはサッシンはその約三千万ドルの前払金が出せなかったのであり、江坂アメリカに対しては逆に用船契約時の千五百万ドルと今回の四千二百万ドル合計五千七百万ドルの前払金を要求したのである。サッシンにとって出すのと入るのとではたいそうな違いである。
しかも前回の千五百万ドルの貸付が「NRCをしてカンバイチャンスの製油所の精製操業が予定製造水準に達するまで初期の困難を克服させるまでの援助的な融資」(契約書)であったように、あとの四千二百万ドルの貸付もまったく同じ趣旨によるものである。つまり金をもたぬサッシンのために、江坂アメリカはNRCの金融面の面倒を見る契約に我からはまりこんだことになった。しかも一バーレル当り二セントという格安な代理店手数料でだ。
しかし、そのように見るのはひっきょう第三者の立場だと上杉は考える。石油部門の拡大、十大総合商社の末尾からの脱出という江坂産業の絶対念願による至上命令からすれば、この機会を措いて他にどのような手段があったというのだろうか。
サッシンに資金のゆとりがないというのは、近ごろようやく分ってきて、実のところ案外な思いであった。だが、サッシンは、あのシティバンク・ビル内だけでも十数社にもわたる系列企業を入れている。そこに掲げられている会社名でSNR、NRC以外の標示板のおもなものだけでもこういうのがある。
カナディアン・アトランティック・オイル(Canadian Atlantic Oil Co. Ltd.)、マーカット・オイル(Markat Oil Co.)、ノーザン・カリフォルニア・リファイニング・カンパニー(Northern California Refining Co. Ltd.)、デラウェアー・ペトロリアム(Delaware Petroleum Co. Inc.)、メリーランド・ペトロリアム(Maryland Petroleum Co. Inc.)、カナダ・アメリカ・エキスポート・リファイニング(Canada-America Export Refining Co. Ltd.)、アライド・オイル・コーポレイション(Allied Oil Corporation)、オブテイン・オイル(Obtain Oil Co. Ltd.)、グローバル・アライド・ペトロリアム(Global Allied Petroleum Co. Inc.)、ニューファンドランド・アンド・ラブラドール・ペトロリアム (Newfoundland & Labrador Petroleum Co. Ltd.)、ノヴァ・スコシア・リファイニング・コーポレイション(Nova Scotia Refining Corporation)=以上石油事業関係。
ラジオ・サザン・カリフォルニア(Radio Southern California Co. Inc.)、エレクト・ブロードキャスティング・コーポレイション(Elect Broadcasting Corporation)、WRCテレヴィジョン・コーポレイション(WRC Television Corporation)、シリアス・テレヴィジョン(Sirius Television Co. Ltd.)、スタンダード・ブロードキャスティング・コーポレイション(Standard Broadcasting Corporation)=以上放送事業関係。
これがいわゆるサッシン・グループである。目につくかぎりでもこのように手をひろげていれば、運転資金の一時的な逼迫《ひつぱく》は普通の現象である。どこの企業だって、資本金の三十倍、五十倍の商売をしている。遊ばせている金をもっているところはどこにもない。ある意味ではどこも資全面では「綱渡り」をやっている。
早い話が、大手総合商社にしても、もし、なんらかの事情で銀行からの融資が停《と》まってしまえば、明日から倒産の危機に陥りそうなところばかりである。銀行融資という水道の栓が開いて蛇口から水が流れ放しのあいだはいいが、いったんその栓が閉められてしまうと、たちまち行き詰まってしまうのが実情である。そのような弱点をどこの企業もかかえている。
しかし、サッシンは綱渡りに似たやりかたをしているようだが、絶対に倒れることはない、と上杉二郎は信じていた。サッシンのデモーニッシュな意欲と執念と粘着性とが大小の危機をのりこえてかならず成功にもってゆくだろうと、上杉は、いまもサッシンの鷹のような眼つきを前にして思うのである。
もう一つ、上杉のひそかな気がかりは対NRC融資に、サッシン側から何ら担保を取っていないことだった。
前の用船契約にともなう千五百万ドルのNRCへの融資にはタンカー提供側の栄光商船がその五〇パーセントを保証してくれたが、こんどはそのような保証もなく、まったく江坂アメリカ単独の無担保融資である。
それに見合うNRC側の支払約束手形はとれるが、一年ごとに書き換えられるそれらの手形のすべては一九八五年六月三十日に決済されることをサッシンは主張した。十二年後の決済といえば、四千二百万ドルが十二年間にわたって無担保でNRCへ貸付けられることになる。その金利はいちおう「ニューヨークのプライムレートに二・二パーセントの金利を加えたもの」(補助契約書D項)と決められてはいるが、無担保貸付という不安の前には金利収入も価値がうすくなるのである。しかしながら、無担保融資こそサッシンの強い主張であり、これが容れられなかったら、江坂アメリカの代理店契約も断わるというのだった。
ニューヨークと大阪のあいだに極秘テレックスが交わされ、河井社長からNRCへの無担保貸付を承諾すると上杉に返事してきた。河井は代理店契約に最後まで執着していたのである。
5
江坂産業本社のテレックス室は他の部課室からきりはなされた場所に設置され、一般営業用の連絡テレックスとトップ・シークレットのものは区別され、それを管理するのは室長自身であった。極秘用のテレックスはもちろん幹部だけのものであり、発信者が指定する宛先の者に室長がそれを届けることになっている。
テレックスは、その機械的なしくみからいって複写が何枚も付いているが、極秘用のものは当事者の命令によって原板も複写も破棄されるようになっている。その内容を知るのは、当時者のほかはテレックスの室長だけで、室員にもわからない。室長は、軍隊の暗号班長のように最高の秘密情報を知る立場にあるが、口はきわめて固いのである。
NRCにたいする四千二百万ドル無担保貸付のことは、こうしてニューヨークの自分と大阪本社の河井社長との間だけの連絡で、江坂アメリカが全面的に呑むことになったが、これもまたサッシンの情熱的な勝利と上杉は思うしかなかった。
だが、こうした重要問題が社長とだけの打合せであり、その結果、社長しか承諾をとっていないところに将来の不安が残されていた。江坂産業の社長はオーナーではなかった。人事権ももたされてなく、したがって独裁権をもっていなかった。常務会は社長の支持派と反対派の寄合い世帯であり、社主の側近派とそれに排斥されている派の集会所であった。要造社主に絶対的な人事権を握られて、人事権なき社長の地位はきわめて不安定であり脆弱《ぜいじやく》であった。将来《さき》になってサッシンへの貸付が「NRCになりかわって代理店の江坂アメリカがBPに対して原油代の前払い」という契約書の偽装、その十二年間据置き貸付にサッシン側から一ドルの担保もとってないことの不当性、それらを反対派に非難され攻撃されたとき、社長は身を守るために、そういうことがあったのを自分は知らなかった、契約はニューヨークの上杉が独断でサッシン側と結んだものである、補助契約書など上杉は自分に見せたこともない、と弁解して言い逃れするかもしれなかった。
そこに社長だけと連絡し、その承認を得た弱点があった。他の役員のだれもそれを証言することができない。仮りに河井社長が米沢副社長あたりにそのことを内密に話して了解を得ていたとしても、先になって情勢不利と判断すれば副社長もまた逃亡するにちがいなかった。
といって、このサッシンへの貸付金は無担保のことを事前に本社へ正式に要請しても、とうてい常務会の承認を得るの見込みはなく、すれば代理店契約は成功しない。このような事情の板挟みのために、最悪の場合、けっきょくは自分だけが孤立する、と上杉は思う。
会長の大橋にしたところで、機会あらば、いまいちど江坂産業を支配したい欲望を持っているから、これを犠牲にしてまで自分の孤立を救うとは考えられない。大橋は返り咲きを狙っているからこそ要造社主との決定的な正面衝突を回避し、不和と修交とのないまぜを自ら操作している。そこにロンドンいらい要造とのあいだに狡猾な猫のような狎《な》れ合いがみえないことはなかった。社主にすれば、大橋が江坂産業の乗取りを策さない限りは安心であり、あれで利用できる男だと思っているようである。──
上杉はさまざまな想いを、これまでの経緯を織り交ぜて胸に浮べていた。サッシンと椅子をならべて話を交わしながらだが、そのとりとめのない会話がときどき意識から遠のいてゆくのである。
あたりの灰色の情景は変らない。近くに坐っている老婦人はスープをひと匙ずつ啜《すす》っては上体を起し、前面の壁を虚ろな眼で見詰めていた。人々は、踵《かかと》の減った靴で歩道から降りて入ってくると、一ドルそこそこの皿を黙って択び、黙って石段を昇って行く。
サッシンの声が急に上杉の聴覚をゆりおこした。
「ところで、君、江坂アメリカがわれわれに貸付けてくれる四千二百万ドルの金の出どころだがね、あれはビルのアイデアだが本社のほうはうまくいっただろう?」
サッシンのうすい唇が両端に皺を集めて微笑《わら》っていた。
「ああ、何とか本社のほうには気づかれないで済みそうですよ」
上杉は眼を醒ましたように答えた。
「ビルは知恵者だ。あの方法だったら、われわれへの融資額をとくに銀行から借りることもないし、したがって君が本社の幹部に許可を求める必要はない。江坂アメリカが銀行から借りていなければ、さしあたって本社には捻出の痕跡がつかめないからね」
──江坂アメリカだけで融資の四千二百万ドルを数回にわけて出すのは、それほど困難ではなかった。一億五千万ドルぐらいの資金はいつも回転していた。
だが、サッシンのNRCへの貸付となると、何度も思い返すように、本社に稟議書を出しても常務会の承認はとうてい得られないし、とくに、それを一般回転資金から出すとは飛んでもない話だと一蹴されるにきまっていた。仮りに常務会が一歩退ったとしても、銀行からの借入という稟議を通すわけもなく、これも不可能であった。
上杉の苦悩を見て、NRCの副社長ビル・ブリグハムが助言した方法というのは、原油を媒介にした融資方法である。
すなわち大型タンカー(VLCC)が配船されると、各邦銀ニューヨーク支店に江坂アメリカが設定したLC(輸出信用状)勘定で、一定のユーザンス(支払猶予期間)の後、代理店としてBPにたいして原油代金を支払う。同時に江坂アメリカはNRCが経営を見ているカンバイチャンス製油所の操業体である州立会社のPRCから、やはり一定のユーザンスの後にこれに見合う代金をうけとる。代金をうけとれば、江坂アメリカは同額面のNRC振出しの約束手形を受けとり、額面相当の金額をNRCへ貸しつける。
NRC振出しの約束手形は一年間の期限のもので、双方で一年ごとに書き換え、その最終期限を十二年先の一九八五年六月三十日とする、というものだった。
これだと、NRCへの金融でも貸付でもなく、NRCの代理店としての江坂アメリカのBPへ原油代の前払いという契約書の名目になるので、担保の必要はない、とビルの助言は言うのである。
しかし、契約書の偽装名目でも、四千二百万ドルは江坂アメリカがNRCに代ってBPに原油代の前払いをする「立替え払い」の形式であるから、この名目による融資に最初から一ドルの担保もとれないのはそれだけでも不合理であった。これに対しサッシンは、支払約束手形の交付(十二年先の決済)だけを主張し、NRCの代理店として江坂アメリカがBPに前払いする名目になっているので、このような立替え「前払い」には商取引の慣例からいって担保を出す要はないと言い張るのだった。
上杉はこれも承知しないわけにはゆかなかった。とにかくビル・ブリグハムの助言が、目下の本社対策の苦慮を救ったのはたしかである。その第一回の貸付の時期は、来年(七四年)三月じゅうに大型タンカー二隻がカンバイチャンスに入港して、原油の荷降しをしたときで、金額において約八百万ドルであった。
「ところでね」
サッシンがまた話題を変えて言い出した。明るい声であった。
「われわれは、いま、アラスカのノースロープの石油開発やカナダのアルバータ州のオイル・サンドの開発を計画しているんだがね。これらの油田開発はなかなか有望だよ」
バーボン一本を二人で空けて酔ったのでもなかろうが、サッシンの陰鬱な面貌に陽光が射し、かわりにその眼つきの鋭さはなごみを見せていた。
「それにラス・タヌラの重原油三十万バーレルとアラビア軽原油五十万バーレル売買のほうも目鼻がついたよ」
サッシンは上機嫌となり組み合せた指をこすって鳴らした。
「これも江坂アメリカがNRCの代理店として、ぜひとも扱ってほしいね」
「やらせてもらいますよ、ぜひ」
上杉は即座に答えた。前からサッシンに話を聞いていたし、これだけの事業欲に燃えた男も珍しかった。ともすれば反省で消極的になりがちだった上杉の心にも活気が蘇ってきた。サッシンに煽《あお》られるのを望んでいたといえた。
「その交渉は、今後もつづけて君とやってゆきたい。おたがい、気心がよく知れているのでね。筋からいえば、君の後任者の江坂アメリカ社長の安田氏と交渉するのがほんとうだろうがね」
「ぼくは日本に戻っても江坂産業の石油部門を見る原燃料業務担当役員ですからね。ぼくと交渉してもらってけっこうです。業務規則からいっても、そうなっているんですよ、NRC代理店契約では、江坂アメリカ社長上杉二郎と江坂産業代表取締役上杉二郎と、二種類の契約書ともそういうぼくの署名ですからね。後者の署名によって、ぼくは将来もずっとNRC担当になっているのです。あのふた通りの契約書の作成については、あなたの諒解を得ましたね」
「そうだった。あれはいい着想だった。とくに君が江坂産業代表取締役として署名したのはね」
サッシンも満足そうに長い指を擦り合せた。
上杉は、サッシンのことだから、たぶん安田茂と自分の不仲を知っているのだろう、だが、彼にしても馴染のうすい安田よりも自分とひきつづき交渉したほうが利益があると考えているにちがいない、と想像した。
サッシンがイスの上で身体をもぞもぞと動かしたので、そろそろここを引きあげる身ぶりととって上杉も腰を浮かしかけた。一時間以上も、忙しい男がここに粘っていたのだ。が、サッシンは立ち上がるのではなく、上杉の肩に手を置いて、大事な話を忘れるところだった、といって耳もとに口を近づけてきた。
「PRCの株をね、ぼくのNRCが全面的に譲りうけたよ」
小さな声だったが、これが上杉には鼓膜を裂く雷鳴に聞えた。
「えっ、それはいつですか?」
「じつは、クイーンエリザベス二世号の上だよ。カンバイチャンスで製油所開所式のセレモニーをやっていたろう。あの最中さ。ボート・デッキの上の特別室にとったぼくのオフィスでだ。君の船室とは廊下を隔てた向い合わせだったな。ニューファンドランド州首相のジェームス・B・バルチモアとのあいだで、その調印を終ったよ」
「………」
「君には、いままで黙っていてわるかったが、いろいろと事情があってね。しかしね、外部の人に打ちあけるのは、君がはじめてだよ」
「すると、すると……、サッシンさん、PRCはもう州政府のものではなくなったんですか?」
「一カ月前の十月十日かぎりでわれわれのNRCがニューファンドランドの州政府の持っているPRCの株九〇パーセントを譲り受けた。あとの一〇パーセントは前からNRCが持っていたがね。もともと州政府はPRCの営業をNRCにぜんぶ任せていたんだからね。どっちみち同じだ。官営で持っていることで、連邦政府に掣肘《せいちゆう》されたり、州議会で野党につつかれるよりも、民間に全株を譲渡したほうが首相も肩の荷がおりるというものだよ」
「じゃ、PRCはクラウン・カンパニーではなくなったんですか……?」
「クラウン・カンパニーだって? ふん、そんなものは見せかけの権威だ。それをありがたがる頭は時代おくれの古帽子だよ、泥溝《どぶ》にでも叩きこめだ」
が、古帽子であろうとクラウン・カンパニーの権威は崇高そのものであった。信用のすべてがこれに集中していた。日本流にいえば、絶対に破産することのない親方日ノ丸の「官営」であった。
げんに江坂アメリカがNRCの代理店を希望し、それに江坂産業の最高幹部が支援を与えたのも、NRCがクラウン・カンパニーのPRCの営業を委任されている安心からであった。まさかのときにはニューファンドランド州政府が保証に乗り出してくるし、カナダ連邦政府にしても最終的な援助をせざるを得ないという大きな期待があった。この期待こそ大きな安堵であった。河井社長が代理店契約に異常な意欲を燃やしたのも、この保証あればこそで、未経験にひとしい石油部門進出の冒険もPRCがクラウン・カンパニーだという信頼の上に乗っていた。社主の江坂要造がその代理店契約を支持したというのも、先代が官営の八幡製鉄所と結びついて江坂商会の基礎をきずいた歴史的実績を回顧したからであろう。江坂産業の幹部は、その社業発展の軌跡を教訓にして「官営」には伝統的な信仰を抱いている。
PRCがクラウン・カンパニーでなくなったことによる官営信仰の崩壊を社長の河井をはじめ幹部たちにどのように報告すべきか。また大きな重荷が地を震わせて墜ちてきた。社主の眼が暗い壁から光って見えた。
「君、ニューファンドランド州政府はPRCの株をいったいどのくらいの値でわれわれに売り渡したと思うかね?」
サッシンは、当ててみなさいとほがらかな声でゲームを挑んできた。
「さあ。一千万ドルくらいですか」
上杉は上《うわ》の空で答えた。
「とんでもない話だ。そんなに出せるものか。千ドルさ」
「千ドル?」
おどろくと、サッシンは片眼をつむった。
「前首相のウッドハウスは、一ドルでぼくに全株を売り渡すといったんだがね」
「一ドルで? あの、たったの一ドルでですか?」
唖然《あぜん》として問い返すと、
「まさか、一ドルというわけにもいかないしね。バルチモアは千ドルにきめようといったんだよ」
と、サッシンは法外な値段を吹きかけられたような表情をしてみせた。そこには政商の顔がありありと浮んでいた。
だが、いくらサッシンが政商でも、州政府にそんなことができるのだろうか。
「できるさ。それがニューファンドランド州の初代首相ウッドハウスの方針だったんだよ」
サッシンはこともなげに答えてこう言った。
「いいかね。はじめから話すとね。ニューファンドランドがイギリスの植民地になったのは一四九七年のことで、コロンブスがアメリカ大陸を発見した五年後だ。一九二三年の世界大不況のあおりで植民地の経営が悪くなったので、ニューファンドランドの住民は英本国にたのみこんで直接統治にしてもらった。そのときイギリスから七人の官僚がきてこの島ぜんたいを統治した。その子孫がこの島の名家になっている。当時の人口は約二十万人だった。現在は五十三万人だがね。なにしろトランス・カナディアン・ハイウェイができたのがほんの十五、六年前だ。それまでの交通機関といえば貧弱な船だけだった。二十世紀の初めには小さな漁村が点在するだけで、住民はラジオ番組がただ一つの娯楽だった。セント・ジョーンズにウオーター・ストリートという大通りがあるが、人々はそこの商社にきて魚を売り、わずかな代金をもらっていた。その商社を支配していたのが、さきほど言った七つの名家だ。島の貧しさといったらひどいものでね。企業というものがまるでなく、経済恐慌のときには餓死者が続出した」
サッシンはひと息ついた。
「一九二〇年に、民間放送ができたとき、ウッドハウスは養豚業で成功していたが、新聞記者時代の経験を買われてラジオ番組をもつことになった。彼の企画したもので、週一回ニューファンドランドの民謡とか歴史を訪ねるといった番組は、圧倒的な人気を集めたものだった。ウッドハウスは自由党から立候補した。ニューファンドランド州がカナダ連邦の最後の一員になったのは一九四九年のことで、ウッドハウスは州の首相だった。かれはニューファンドランドをイギリスの直接統治から離脱させ、カナダ連邦に参加させた功労者だ。だからウッドハウスはニューファンドランドの歴史と共にある人物だ。ウッドハウスの採った州の政策というのはこうだった。この島は貧しいうえに出産率が高い。生活費が少なく、貧富の差が激しい。この住民所得のレベルを上げるためには企業誘致しかない。ウッドハウスはぼくにたいしてこう言った。
『サッシン君。君たちはここの住民がどんなに貧しいかわかっているか。若者たちはケベック州に出稼ぎに行き、島に定住するのを嫌う。そこでだ、わたしが考えたのは、州立会社方式だ。その結果、どれだけ企業がこの島に来て、島を開発し、島をうるおしたかわからない。わたしは、この島にきてくれる企業家に、クラウン・カンパニー方式のその会社をあとで一ドルで払い下げることを考えついたんだ。君、すばらしいアイデアだろう。このアイデアのために、いくつかの企業がニューファンドランドに企業投資をしてくれたんだ。それでなくては、こんなひどい僻地の過疎地帯にだれが好きこのんで企業をさげてやってくるものか』──
ウッドハウスはぼくにそう言ったものだ。ぼくはそれを聞いて唸ったね。クラウン・カンパニー方式はカナダでは一般的なやりかたで、げんにカナダ国営放送や国営鉄道なんかがそうだ。ただ、それをあとで一ドルでその企業主に払い下げるというのが一般の者には非常識に聞え、カナダ連邦政府もそれには反撥しているようだがね。だが、そんな思いきった政策をしないことには、ウッドハウスがいうように、ニューファンドランドには企業は一つもこないよ。企業家は、ある時点までくるとクラウン・カンパニーがわずか一ドルで払い下げてもらえるというメリットがあるからこそ淋しい島にやってくるんだ。島の住人はそれによって就職ができ、若者は出稼ぎを必要としなくなって島に定住し、住民の所得が上がるというわけさ」
「クラウン・カンパニーのPRCの株が、あなたに千ドルで売られたのは、ウッドハウス前首相からの方針を、いまのバルチモア首相が踏襲しているということですか?」
上杉は訊いた。
「そうだ。まさか一ドルではどうもというわけで千ドルになったんだがね。ぼくの尽力でPRCはできたようなものだし、それを呼び水にしてカンバイチャンスの別の土地に日産三十万バーレルの製油所新設が計画されているし、お隣りのノヴァ・スコシア州だって日産二十万バーレルの製油所をつくりかけている。ぼくに千ドルでPRCの全株を譲ってくれたのは、こうした企業誘致に働いた功績を認めたバルチモア政府のぼくへのお礼心なんだよ」
「しかし、PRCには約二億ドルが注ぎこまれているでしょう。千ドルであなたのNRCにPRCの株を譲ったとなると、その投資ぶんはどうなるのですか?」
NRCとの契約を結ぶにあたって、ニューファンドランド州政府内には閣僚委員会がつくられた。当初、同委員会が製油所建設事業に要する資金として見積もったのは約二億ドルである。その内訳は、製油所建設費一億五千五百万ドル、調査費五百万ドル、運転資金一千万ドル、それに港湾設備費としてカナダ連邦政府からの補助金二千三百万ドルであった。
「その二億ドルはNRCが肩代りして引きうけることになる。つまり、われわれのNRCがこれからあげる利益のうちから年々返済することになるんだ」
二億ドルといえば六百億円である。いったい、それだけの借金を、十何年間かわからないが、NRCは返済できるだけの利益を生むことができるのだろうか。だが、サッシンの事業はカンバイチャンス製油所だけでなく、これから建設されるノヴァ・スコシア州の日産二十万バーレルの製油所(第二次)、同じニューファンドランド州でさらに日産三十万バーレルの製油所(第三次)、その他の新規事業があるので、それらの総合的な利益からみると、二億ドルくらいの返済はものの数ではない、とこともなげに答えるのだった。
しかし、PRCへの投資は州政府だけではない。それにはイギリス側からの投資も入っている。すなわちECGDがイギリスの石油精製技術と設備を買うことを条件に、第一抵当権付きで一億三千万ドルの融資保証を、イギリスのマーチャント・バンクであるクラインウォルト・ベンソンをリーダーとするイギリスの銀行団に与えている。
それだけではなく、PRCにはアメリカのファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴとフランクリン・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの両銀行も融資している。
州政府がPRCの全株をわずか千ドルでサッシンのNRCに売りわたすことについて、これらイギリス系とアメリカ系の融資元は州政府に了解を与えたのだろうか。これら両国の投融資は、PRCが州政府のクラウン・カンパニーであるからこそ行なったのであり、それがサッシンという民間人の会社NRCに譲り渡されたとなると、それには州立に見合うような信用がなければならない。はたしてサッシンにそれだけの信用があるのだろうか。
「なにしろニューファンドランド州の議会はさきごろ州法第五二条を通過させて、州立会社の株を民間会社へ譲渡することを承認したんだからね。州法はあらゆる契約に優先する。イギリスの銀行団もアメリカの銀行筋もこれを了解してくれた。……だから君もこのことを江坂産業の社長や常務会に話して了承をとってほしいね」
6
だが、どうしてPRCが官営会社《クラウン・カンパニー》でなくなり、サッシンのNRCに九〇パーセント株が譲渡されたと河井社長に告げ得るだろうか。常務会はもちろんのことである。それが「官営」だからこそ河井に安心があったのだ。それは上杉とて同じだった。PRCがクラウン・カンパニーでなくなったことは、それがあとで首脳部に「自然」とわかってくるまで、黙っておくほかはないと上杉は心に決めた。いま、この大事なときに、彼らに余計な混乱を与えることはないと思った。
それにしても、サッシンから背負い投げを食ったような衝撃を上杉はどうすることもできなかった。州首相のバルチモアとサッシンとのあいだにそんな重大なとりきめが、場所もあろうに、クイーンエリザベス二世号上の、自分の船室からいって目と鼻の先にあたる、サッシンのオフィスでおこなわれたというのが二重のショックであった。あのときは、裏でそのような両者の売買契約のサインがなされているとは知らずに、黒い蛾や紋白蝶のような婦人たちの舞うはなやかな饗宴の雰囲気に自分もまきこまれていた。
いい知れぬ不安が上杉の背中に匍《は》い上ってきた。これが江坂産業の危機につながるものとなるのではなかろうか。舞台が世界一のイギリス豪華巨船だったというのは不吉な暗合であった。一九一二年四月、大西洋に漂流していた氷山に衝突して沈んだタイタニック号の悲劇が思い合わされる。
タイタニック号の沈没は、彼女がロンドンからニューヨークへの処女航海の旅に出て五日目の夜だった。この船は当時世界最大の巨船というだけでなく、世界で最も豪華を誇る客船であった。
氷山は船底をペーパーナイフのように裂いて闇の中に去ったが、船客に与えたその鈍い衝撃は、事態の深刻さをさとらせなかった。かりに氷山の一角を擦《こす》ったとしても、まさかこの世界一の巨船がそのために沈むとはだれも思わなかった。状況の真相をつかんでいたのは船底近い機関室に働く船員だったが、船長は客に混乱を与えないためにこれをしばらく秘しておいた。乗客にとって世界一巨船の旅はピクニックのようなものだったから、デッキ・スチュワードが「ただ氷山にちょっと触れただけなんです。そしてもう通り過ぎました」と客に言ったときも、客たちはほとんど無関心にうけとって談笑をつづけた。氷山にちょっとふれただけで、この巨船が他愛もなく沈むとはだれもが思っていなかったし、地上のように安泰だとみんなが信じていた。婦人船客のなかには乗船後間もなくスチュワードが船室に置いた救命帯を見て「沈まない船だというのにおかしいじゃないの」とからかった者もあったくらいだった。「神さまでもこの船は沈められませんよ」と出航のとき船員は乗客たちに保証していた。その巨船が沈んだのである。少なくとも千五百名以上の乗客・乗組員の生命が船と運命を共にした。最後まで船は沈まないと信じて。
忌わしい符合であった。世界一の巨船クイーンエリザベス二世号が世界最大の船タイタニック号の幻影に重なり、それが巨大な資金を世界じゅうに回転させている総合商社のイメージとも重なる。江坂産業の社員のだれもが自社の安泰を信じ、これが崩れるとは夢にも思っていない。これもまた地球のように安全だと確信していた。
PRCはもはや州立会社ではなくなっていた。これがタイタニック号の船底を裂いた氷山の役にならなければいいが。それを江坂産業の首脳部にすぐに言えないというのは、タイタニック号の船長が乗客に混乱をおこさせることをおそれてしばらく沈黙していたのとどこか似ている。そうして、あとでそれが知れたとしても、江坂産業や江坂アメリカの社員たちは、幹部も含めて、「ただ氷山にちょっと触れただけなんだ、そしてもう通りすぎた」と言うにちがいなかった。──
「サッシンさん」
上杉は、いまわしい幻想をふり切るように、上体を急にサッシンの方へ回して言った。
「四千二百万ドルの融資ですが、あれはNRCからの抵当を近い将来にもらえるんでしょうね。第一抵当権者がECGD、第二抵当権者がニューファンドランド州政府になっていますが、ウチにはぜひ第三抵当権を設定してもらいますよ。そうしないと、本社の首脳部がうるさいですから」
不安を消す道はこれ以外になかった。上杉は言葉に懸命な思いをこめた。ニューファンドランド州政府はサッシンに千ドルで持株を譲渡したとはいえ、ECGDと共に製油所を抵当にがっちりと押えているのだ。
「わかっているよ。君の立場はよくわかっている。ぼくが州政府首相のバルチモアとイギリス銀行団に言いさえすれば、江坂に第三抵当権を設定するくらいはすぐに了解してくれるよ。心配は要らない」
「ほんとうですね?」
「シュアー」
サッシンは上杉の肩を叩いた。
上杉は安堵した。サッシンが請け合ってくれたのだ。イギリスの銀行団はともかくとして、彼の影響力の強いニューファンドランド州政府がサッシンの依頼を拒むとは思えなかった。たとえ前首相のウッドハウスにくらべてバルチモアがNRCにたいして現在多少きびしい態度をとっているにしてもである。そのきびしい態度というのも、バルチモア首相のカナダ連邦政府への遠慮と、州議会の野党対策であって、いわば対手を宥《なだ》めるための策略であった。
「まあなんだね、どこの企業でも役員会というのはわからず屋が多いものだよ。どうして、みんなあんなに偏狭なんだろう。君がここまで仕上げてきた努力と才能にたいして江坂の首脳部はもっとそれを評価し、君のすることにどうしてもっと寛大になれないのだろうか」
サッシンは、江坂の首脳部がうるさいと洩らした上杉の言葉にかけて言った。
「それは、アメリカと日本の企業形態や経営者の考え方の相違からきているんです。日本の企業は合議制となっています。現場段階の合議制が上部に行ってそこでの合議によって決定される。したがって、企画でも実行でもたえず他との合意が必要なんです。ところがぼくのやっていることはアメリカ方式でしてね、企画もぼくがだいたいひとりで考えるし、それを実践に移すのもぼくがひとりでやります。それが日本の商社方式にはなじまないんですね。上杉はチームワークを嫌うとか、パートナーと相談しないでなんでもひとりでやってしまうとかいって非難されているんです。しかし、合議制だと、どうしても安全だけを考える平凡な意見にしか落ちつかないし、行動力も鈍くなって商機をのがすと思うんですがね」
この上杉の意見をサッシンは同情の眼で迎えてうなずいた。
「君がさきで江坂産業に居づらくなったときは、すぐにでも辞めて、ぼくのところに来なさいよ。君ほどの才能のある人だ、いつでもぼくが引きうけるよ。もしぼくのところが君の気に入らなかったら、アメリカの一流商社のどこにでも紹介できるよ。ぼくは、これで政界にも財界にも顔がひろいんでね。ニクソン大統領とは十数年来の親友だ」
サッシンは力づけてくれた。
彼がリチャード・ニクソンの親友だというのは法螺《ほら》でもなんでもなく公然たる事実だった。彼はニクソンを自分の会社の顧問弁護士として雇い、大統領選に出馬する彼のために財政的援助をつづけてきた。サッシンがニューファンドランドのウッドハウス前首相とともにニクソンと組んでソ連に飛び、ニクソンの「親友」ニキタ・フルシチョフに会いにモスクワに行ったのは評判になっていた。もっともそれには、フルシチョフの家が見つからずに三人ともその近くで野宿したという興味的なゴシップのほうが強かったが。とにかくサッシンがアメリカの政界に顔のひろいことは無類だった。そうして今はかれの親友ニクソン政権の天下だった。
サッシンが江坂産業を辞めたときの上杉の身がらを引受けるといったその言葉は、その場かぎりの空疎な慰めや挨拶ではなく、現実性のある約束に聞えた。じっさいサッシンの顔とその強引さからいって、上杉一人くらいをアメリカの一流商社に押しこむのはわけなさそうだった。
「そのときはおねがいしますよ」
上杉は、いまの場合、その依頼を半ば冗談めかして言ったが、暗夜の大西洋を急行してくるカルパチア号(注。タイタニック号の船客を可能なかぎり移乗させた救助船)を見るような思いであった。
だが、こんな予感──想像といってもいいし空想といってもいいが、そのようなものを胸に抱いている者は、江坂産業のなかにだれ一人としていなかった。
アメリカにおける商社の活動の情報を蒐《あつ》め、その内容を熟知しているはずのどの邦銀ニューヨーク支店長も、江坂アメリカがPRCの代理店としてBPにその原油代の支払いをするという「三国間貿易」の将来に、不安をもつどころかきわめて楽天的であった。かれらは、大型タンカー一隻分の原油代金二千万ドルに対して約十万〜十三万ドルの手数料が自動的に入る江坂アメリカのLC開設を競い合っていた。──〔最終的に「発表」されたことだが、各銀行ニューヨーク支店がかかえた江坂アメリカのLC残高(未払い分)は、七六年一月末現在で、住倉銀行六千七百十万ドル、共立銀行五千二百二十万ドル、東和銀行六千六百三十万ドル、三丸銀行四千八十万ドル、三池銀行二千四百七十万ドルであった〕
「そろそろ出ようかね」
サッシンは腰をあげた。食堂は、客の出入りはあっても声がなかった。靴音さえ消されていた。どの客もセルフサービスでテーブルにつくと、一品か二品の料理皿に背中をかがめる以外は身じろぎもしなかった。客は壁を凝視し、瞑想に耽っていた。瞑想が幸福なものでないことは、その虚脱した姿でわかった。もしそれに色彩があるとすれば、過去の甘美な追憶にちがいなかった。この地下食堂で活気のある様子でいるのは、若いウエートレスと、ならべた皿に鍋からの料理をとり分けている調理場のコックくらいなものだった。疲労した男客の数人が、女の子のかたづけるバーボンの空瓶を羨ましげな眼で追っていた。
歩道に近づく石段を上って二人は地上に出た。ふたたび明るい世界に一転した。高級ビジネス街は、その大通りの両側に高貴なビルを配列していた。サッシン・グループのオフィスが入っているシティバンク・ビルの一部も見えた。白いポールの上で寒風に煽られている星条旗は望まれたが、噴水はその場所が引込んでいるために眼に入らなかった。
「では、この次の早い再会まで」
黒眼鏡をかけたサッシンは立ちどまって上杉に手を伸ばした。
「日本での奮闘を祈るよ」
握った手は針金のように硬かった。
「ありがとう」
「ニューヨークにくるのはいつになる?」
「予定としては一カ月くらいのうちにと考えています。NRC代理店業務について本社の担当役員としてあなたとの折衝に頻繁にこなければなりませんからね」
背景に金満家の乗る高級車の列が冷たい風を捲いて走り交うていた。分離帯の草花が妙に青々と見えた。曇り空から洩れるうす日が、背中に金属をおし当てられたような寒さを与えた。
「どうか、たのむ」
自分が留守でもビル・ブリグハムに連絡をとってくれとサッシンは言った。彼の削げた頬は、鈍い太陽の光を受けても黒い影を溜めていた。濃いサングラスのために、落ちくぼんだ眼窩《がんか》は消されたが、その底に光る眼は、あの呪縛性の強い、デモーニッシュな瞳は、その黒眼鏡ごしでも明瞭に知れた。
タクシーが走り出すまで、サッシンは手を挙げて上杉を見送った。うしろ窓をふりかえると、歩幅を伸ばして歩道をあるいて行くサッシンの後姿がまことに精力的なものに映った。
タクシーは典雅な古い中央駅横の陸橋の坂を上って行った。ここだけがニューヨーク市街の一部を高いところから見下ろせる道路だった。
二、三分間の高所からの展望だが、それとは対蹠的な連想が上杉の心に走った。たったいま、二人だけの「昼食会」をすませてきた穴ぐらのような地下食堂にである。サッシンはどういうつもりで、あのような場所に自分を連れて行ったのだろうか。風変りなところが印象に深いと彼は言った。本拠にしているシティバンク・ビルの「ご近所」だからサッシンにはよくわかっているのだろう。彼自身もときどき、あそこでこっそりと昼飯を食っているのかもしれない。そうしてフォークを措《お》き、レバノン人移民の子として貧窮のなかに育ち、周囲に虐《しいた》げられた少年時代を、壁を見つめて追想に耽っていたのかもわからぬ。いまの出世した身にひきくらべて。
だが、それは彼の単なる過去の回想だけだったろうか。
サッシンのような「派手な商売」をしているプロモーターは、投機師と同じで、激しい浮沈がつきものである。サッシンは奈落に落ちたときの予見から、あの地下《アングラ》に身を置き、鍛錬をいまから身につけようとしているのではなかろうか。
そうすると、サッシンが自分をあそこにつれこんだ真意はなんだろうかと上杉は考えてみた。もしかするとサッシンは、堕ちたときの地獄をのぞかせたつもりではなかったろうか。
江坂産業の本社にいる限り将来のない自分の立場を、サッシンのことだから察知しているにちがいない。原燃料・鉱産業務担当の常務から相談役、つづいて退社というのがすでに決められたコースだった。この原燃料・鉱産業務担当というのも、帰国する自分のために新設されたもので、変則的な、不要なポジションであった。いわば河井社長の「お情け」的な配慮であった。もっとも、それには当分のあいだNRC代理店の業務を見させるという河井の功利的な面も抜け目なく働いてはいたが。しかし、その業務が軌道に乗る見通しがつきさえすれば、いつでも座を追われる性質のポジションであった。その先に街区があった。サッシンから見せられた地下の、落伍者の通う飯場《めしば》がそれに通じている。サッシンの声が聞えるようだった。上杉よ、いまから心を鍛錬しておけ。
レキシントン街を迂回して三番街九五番地角のアトランティック・ビルの前でタクシーを捨てた。パークアベニューと三番街とは一ブロックを隔てているだけで、タクシーで直行して五分とかからない。上杉は、サッシンの空気を身体から冷《さ》ますためにこの遠回りによって時間をつくった。
アトランティック・ビルの十六階に昇った。フロア全部が江坂アメリカ本社であった。四角なプランの中に、大会議室、総務部室、応接室、農水産部室、鉄鋼・機械部室、小会議室、原燃料部室、テレックス室が配置され、社長兼米州総支配人室は西と南に面した角にあった。その廊下をへだててニューヨーク支店長室がある。
社長兼米州総支配人室にはすでに後任の安田茂常務が入っていた。上杉はしばらくは彼と同居状態なので、そこにまっすぐに行けばいいのに、そうはしなかった。上杉は安田とはできるだけ顔を合せたくないのである。顔を合せても、最小限度必要なこと以外はお互いなるべく口をきかないようにしていた。だから、いまも彼は原燃料部のドアを押した。有本七郎と島村和雄とが机から上体をあげたが、有本が察し顔に立ってきた。支店長室には、これも新任の富田正一が入っていた。
二人は隣の小会議室に入ってドアをかたく閉めた。
「いま、サッシンさんと会って、離任の挨拶をしてきた」
イス二つを密着させるようにして坐った上杉は腹心の部下の有本に言った。
「そうですか。サッシン氏は残念そうでしたでしょう?」
有本は上杉の顔を見た。
「いや、彼はぼくがすぐにニューヨークに戻るのを知っているからね。そこは安心しているんだよ」
「そうでしょうね」
有本は長い顔をうなずかせ、眼鏡を指先でずりあげたあと訊いた。
「明後日お発ちだというと、重要書類についての安田さんへの引きつぎは、いつになりますか?」
「そりゃ、明日でもいいよ。いちいち書類を彼に見せることはない。口頭の引きつぎだけでいい。十分もあれば全部が終るよ」
上杉は無造作に答えた。
「あの補助契約書の件もですか?」
「あれは、べつだん口で言うこともない。安田君がロッカーから書類を引張り出して見ればわかることだよ」
「え、それで大丈夫ですか?」
有本はおどろいて聞き返した。あらわな危惧が、その表情に出ていた。
「まあね。安田君は几帳面な性質《たち》だし、商社の業務に精通しているから、あの書類を一覧しただけでわかるだろう」
「しかし……しかし、あれは見ただけでは、ちょっと呑みこめませんよ」
「いいんだ、ぼくがそう言ってるんだから」
上杉の口調が強かったので、有本は、はい、とおとなしく答えた。有本はもともと江坂産業では石炭のほうをやってきた。石油のことをはじめて教えられたのは上杉からである。有本は上杉の仕事ぶりに心酔していた。
「だから君もね、安田君から補助契約書のことを訊かれたら、自分には何もわからない、上杉がいつもの調子でひとりでやったことだから、と答えてくれたらいい。それで通るはずだ。ぼくがチームワークを好まないで、なんでも単独にやっているという悪評は社内に高いからね」
じゃ、たのむよ、と上杉は、有本の腕を軽く上から敲《たた》いて立ち上がった。
ドアから外に出ると、廊下に佇んでいる秘書のマリアンの顔があった。彼女は書類を持って立っていたが、それは体裁で、上杉が戻ってきたのを知ってそこに待ちうけていたのだった。窓からさしこむ光が彼女の髪を耀《かがや》く金色にふちどっていた。
上杉は、眼で今晩アパートに行くと告げた。彼女は莞爾《かんじ》として、高い踵を回すと元気よく去って行った。はた目には、有能な女秘書の敏捷な姿にみえた。
上杉は見えない重い荷をいくつも背負ったような気がして、窓辺に寄って下を眺めおろした。
このビルのすぐ前に低いビルがあって屋上がレストランの経営する遊び場になっている。若い男女が群れて、色のついたイスに自堕落にかけていた。髪も髭も長く伸ばした若者と、浮浪者のような格好をした娘が十数人くらいいた。太陽の位置で蔭になったところにもかれらはならんでいた。
日蔭に引込んでいる顔がふいと上杉のほうに上がった。上杉は眩暈《めまい》がした。江坂要造の顔と陰険な眼とをそこに見た。サッシンとは陰陽の対照的な地を匍うデーモンの男の幻像を。──
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第四章
1
十一月二十日午後一時半、河井社長と上杉二郎とは芦屋の社主の家に着いた。訪問時刻は昨日社主からの指定だった。
阪急線を北に越した山手で、六甲山がすぐ眼の前であった。山腹は紅くなっている。有馬温泉方面へ行く渓谷の道が入口から紅葉見物の車で詰まっていた。空は晴れている。山におだやかな陽が当り、山襞《やまひだ》の明暗を彫りくぼめていた。
社主の家は、芦屋川から西へ二百メートルばかりのところで、かなり急な勾配の地形に建っている。敷地約四百坪、家屋は道路沿いに寄って面積約八十坪、和洋折衷の二階建てである。正確には社主江坂要造の所有ではない。江坂産業株式会社からの借家であった。
外塀は自然石を積み上げて漆喰《しつくい》でかため、門柱につながっている。せまい鉄の門扉を押して入り、斜めにつけた踏石からすぐ玄関の格子戸の前に立つ。家は三十年前の建築だった。
三太夫の瀬川が玄関の三畳に侍のように肘を張って坐り、河井には、おいでやす、と言い、上杉には眼を流してから、お帰りやす、と首だけを前に動かした。うす暗い中に肉色の禿頭だけが目立った。社主はいま来客中ですよってに、少々お待ちください、といつもの切口上で言い、応接間に導いたあと、おい、おい、お茶《ぶう》や、と奥にむかって高く叫んだ。
応接間は窓が小さいうえに棕櫚《しゆろ》の葉が重なって垂れ、中をよけいに昏《くら》くした。それだけに五十号ばかりの金の額縁がレンブラントの画の中のように光った。マントルピースの上には染付の平鉢が鈍い白と藍色の文様を浮き上がらせていた。明《みん》の牡丹文で、中国では青花白磁と言うとは河井が社主から教えられたところである。五年前にたしか一千何百万円かで買わされた。これも社の収蔵庫からの貸与となっている。
収蔵庫から社主宅へ出す古美術品は美術課でその貸与返却を帳面に記入しているが、出し入れの度数が頻繁な一方、期限がないので、ある種の品々は長期の貸与となっている。それが思い出したように返ってくるかと思うと、すぐに貸出しとなり、こんどは前よりも長く社主宅に留め置かれる。こうしてだんだんに長くなる。それが二つや三つではなく、十数個も入れかえ引替えに出入するので、まるで手品師の両手に数個ずつにぎられた玉が宙を舞って目まぐるしく交換されるのに似て、しまいにはどうなっているのかわからなくなる。そういう品にかぎって価値のあるものだった。もっとも、そうはいっても帳簿をしっかりと点検すればそれらの品が社主宅にあるのか本社の収蔵庫にもどされているのか明瞭になるのだが、そのチェックをあまりに厳重にやるとクビになるといって美術課員はわざと怠慢になっていた。この応接間からは見えないが、母屋の北側は池と植込と芝生の庭園となっていて、その両隅に土蔵があり、そこへは母屋の裏口から踏石伝いに行けるようになっていた。土蔵には本社収蔵庫からの貸与品が詰まって逗留していた。長期の淹留品《えんりゆうひん》はついには事実上、帳簿面からは「自然償却」されていた。だから、こうして江坂産業の社員の眼にふれる応接間に飾られた古陶器などは、社主にとってどうでもいい品であった。
河井がそんなことを思いながらマントルピース上の平鉢、睡蓮釣人図の冴え返った青色を眺めていると、突如としてピアノが鳴り、つづいてソプラノが頭上に落ちてきた。頭上というのは間違いで、ほんとうは二階からだから奥の間の上から伝わってきたというのが正しいのだけれど、それがあまりに不意だったことと、ピアノもソプラノもこの古い家の天井を震わすくらいに高かったので、そのような錯覚を一瞬おぼえたのだった。伴奏のピアノは社主の要造がつとめているとはわかったが、ソプラノは、どういう歌手がきているのかわからなかった。
「君、あの曲がわかるかね?」
河井は上杉にきいた。
「はあ。マダム・バタフライじゃないですか。ある晴れた日に、のところだと思います」
上杉はすぐに答えた。
「オペラか」
道理で高い声が長々とつづくと河井は思った。オペラの歌手なら、要造がずっと応援をしている簑田麻知子にちがいなかった。心なしか、要造のピアノも力がこもっているように聞えた。
要造のピアノは、弾き方は旧いが本格的なものだった。旧いのは今から四十年も前にロンドンで音楽教師について習ったせいである。河井は、十年ぐらい前に、現会長の大橋恵治郎とそれほど不仲でなかったころ、大橋から当時の、というのは大橋がロンドン支店長だったころ、音楽勉強にきた要造の面倒をみた想い出話を聞いたことがあった。
それによると、昭和六年に要造は妻と生後間もない男の子を連れて日本からきた。先代徳右衛門社長の依頼で大橋は前もって借家を周旋屋にたのんだが、その家具付の貸家はオールバニーの上品な住宅街であった。家の規模からするとそれほど大きなものではなく、大使館員ならば一等書記官、一流商社なら支店長級の家程度であった。が、家は古いが三階建てで、部屋数はかなりあった。一階は食堂・応接間、それにピアノを練習する部屋があった。二階は書斎、寝室、居間、子供部屋で、三階は従業員の部屋にあてがわれていた。
従業員というのは、中年婦人の女中、赤ン坊をみる三十前後の看護婦《ナース》、この二人は英国人で、ほかにロンドンで傭った日本人の料理人がいた。ほかに毎日通いでくる英国人運転手がいた。要造のもっていた車はベンツであった。
要造は、ほとんど毎日家にいてピアノの練習をしていた。一心不乱という言葉がこのときの彼にあたっていた。だが、その勉強のためにどこかの音楽専門の学校に入るでもなく、著名な音楽家のもとに通うでもなかった。家にきてくれるかなり年輩の婦人ピアノ教師についてレッスンをつけてもらっていた。だが、この婦人は英国ではかなり名のあるピアノの先生で、練習はイギリス流のきびしいものだと彼は言っていた。
要造が出かけるといえば、アルバート・ホールやクイーンズ・ホールでの音楽会か、さもなくばテニスを見に行くくらいのものだった。たまに日本人会へ気まぐれに顔を出すこともあるが、知人もなく、またそれをすすんでつくろうともしなかった。話し相手もなかった。彼は英国風の暗色《ダーク》調のスーツと地味なネクタイを好んだ。
そのうち要造はピアノを急に断念した。彼自身の言葉によると、先生からも周囲からも聴衆の前で演奏するようにすすめられるが、多くの人の前に出るのは自分の性分に合わないので、それで練習も諦めたということであった。イギリスではある程度の腕になると、聴衆の前での演奏が当然なこととされ、教師も熱心にそれを慫慂《しようよう》する。その唆《そその》かしに耐えられなかったと彼は言った。
そのころから要造は人見知りが激しかったと大橋恵治郎は河井に語って聞かせた。まだ二十六のときであった。それほど陰気ではないが、若さというものがまったくなかった。金銭にはなかなか細かいところがあった。何を注文するにしても、詳細に吟味し、けっして無駄使いをしなかった。金銭の値打ちをよく考えて、地道に使うことを考えていた。徳右衛門からの仕送りは、支店長の大橋を通じて渡されたが、要造は増額を希望したり、臨時支出をねだったりした。仕送りに不足はなかったが、ありあまるほど来たわけではなかった。ロンドンにはその気になれば金を費う場所はいくらでもあったし、生活費が膨張する余地は多かった。それに彼はそのなかから見込みのある日本人のテニス選手に月十ポンド程度の支援をしていた。当時の商社支店員の平均月給が三十ポンドであった。そのくせ要造はラケットを持ってテニスコートに立ったことは一度もなかった。彼はそのころから、自分にない才能の持主または自己を超す才能の資性ある者を援助する風があった。
要造がそんなふうに家に引込みがちなのにくらべ、妻の牧子は明るい性格で、それに、きびきびとしていた。あまり上手でない英語で使用人にてきぱきと命令し、マーケットでの買いものもひとりで行った。彼女はだれとでも気楽に話をし、なかなか好評であった。多少派手に見えるのは実家が大阪の商家だったので、その育ちによる。夫婦仲は睦まじく、外出のときはいつもいっしょであった。それも妻のほうから誘っていた。彼女は夫の引込み思案なところを何とか矯正《きようせい》しようと積極的につとめていたようだった。
二十六、七の大事なときに、なぜ要造は社業にも就かず、そんな中途半端な、遊び半分の音楽勉強に妻と子供づれでイギリスにきたのか、また、それを刻苦して江坂商会を築いてきた徳右衛門がなぜに易々として許したのか、という質問になると、大橋の答えは流水が淀みにきたようににわかに勢いを失くした。先代は要造さんに甘かったからな、という言葉しかなかった。だが、「回想録」にあるような徳右衛門の過去の努力と、事業への指揮ぶりからして、いわば息子を怠惰にするだけのピアノ修業にロンドンに行かせるほど甘いとは思えなかった。また要造にしても、将来の社長として社業をいまのうちに勉強しておかねばならぬことくらい自覚しているはずなのに、それを放棄したわけが分らなかった。いろいろと考えて、要造が拗《す》ねたと推測するのが当っているような気がする。だが、いかなる理由で父親に拗ねたり反抗したりしたかは見当がつかなかった。また、徳右衛門ほどの男が、簡単にそれに屈した理由にも推量がつきかねた。いえるのは、この父子の性格がまったく違っていることだった。要造はそのころから、もちろんまだ若かったのに、年寄りくさく、世捨てびと的な傾向があった。その性格の形成が何によるのか、だれにも窺えなかった。彼の寡黙と身辺に漂う暗くて重い雰囲気は、それがまるきり先天性のものとばかりは思えなかった。
先代からつかえている大橋恵治郎はその辺の事情を知っている、直接に知らなくても江坂商会の創業期から居る先輩から聞いたり推察したりして何かを知っていると河井は思うのだが、大橋の沈黙からは何も引き出せなかった。「回想録」の巻頭に掲げられてある徳右衛門の妻、つまり要造の母は、瓜実顔《うりざねがお》の明治型の美人で、富士額の下にきれいなかたちの眉が揃い、眼は切れ長で細く、鼻筋はまっすぐに通っていて、上品な唇が両端に軽い強さで結ばれていた。背はすらりと伸びていて、写真では裾模様だが、この代りに両肩のもりあがった当時の夜会服をきせると貴族の令夫人として立派にとおる気品があった。そのような高貴な階級に比べなくても、たとえば絵はがき写真で騒がれた万竜などという名妓に匹敵しそうであった。写真を見ただけでも、だれもが一目惚れしたであろうと思われ、それについて浮いた想像がいくらでもできそうなきれいな女であった。
その隣にいる徳右衛門は姿こそモーニングだが、背は低く、両肩は張り、額の禿げ上がった顔はまるくて扁平であり、目鼻がその中にくしゃくしゃとして金槌《かなづち》で敲《たた》きこんだようにいっしょに収まり、それに咽喉もよくみえないような猪首《いくび》であった。たとえ精悍な風貌《ふうぼう》ではあっても、端麗な妻のそばにおくと野卑な醜男《ぶおとこ》という印象はまぬがれなかった。そうしてこの夫婦ならんだ写真を見てだれもがうけるのは、この美人の妻を獲得できたのは、若いころ越中の山村から大阪に裸一貫で出てきた徳右衛門の成功のおかげであり、妻は彼の勲章だという感慨であった。
要造の顔は父親に似てなく、母親似だった。彼の温和な容貌はそこからきている。すると母親というひとは、内気で、もの静かな性質であったのであろう。そうしてまわりのことに神経質なたちではなかったろうか。そうだとすれば、当人にとっても徳右衛門にとっても不運で、もしこれが父親似であったら、要造はもうすこし覇気のある性格になっていたかもしれぬ。
二階のソプラノにつき合う要造のピアノの音を聞いているうちに、河井はそんなことをうつらうつらと想っていた。彼は音楽をまったく解しないが、横の上杉二郎はわかるとみえて、退屈せずに耳を傾けていた。
「うまいもんだな。いや、歌手のことですが」
上杉は言った。
「あれは簑田麻知子といってね、君はアメリカに長くいて知らないだろうが、いま日本では一流の歌手なんだ。来年の春にはパリでリサイタルとかを開く予定だとこの前新聞に出ていたな」
「道理で」
上杉はうなずいて、こんどはすこし違った表情になって河井に顔を近づけた。
「その簑田という歌手を社主は応援しているのですか」
「肩入れしていることはたしかだな」
それがどの程度かというのは言葉を濁した。種々と噂を聞いているのである。いま、二階で簑田麻知子が蝶々夫人を歌い、要造がピアノを弾き、余人がいないらしいところをみると、噂の本体をさぐり得たような気が河井にはした。要造には常からそういう習性があった。
それにしても約束時間をきめて人を呼んでおきながら、それも自社の役員の帰国と新任挨拶、社長が付添いというのに、それを待たせて、歌手の練習にピアノ伴奏をえんえんとつき合うというのは、要造の相変らずのやりかたというほかはなかった。無神経なのではない。そのほうはぴりぴり尖っているのだから、これは一種の嫌がらせであった。要造は役員を軽侮し、会社すら軽蔑しているようにみえた。それは彼の衒《てら》いでもなんでもない。社主でありながら江坂産業じたいに対して虚無的心理が働いているようにさえみえる。古美術品を愛し、音楽を愛好するのは、その裏返しのようだ。しかし、それらにすら要造はどれだけの価値と充実感をもっているかわかったものではなかった。かれは美術・音楽といったような芸術の、実りのない感動を撫でまわしている空虚な耽美者ではないのか。
だが、ふつうのディレッタントにないものが彼にはある。気味悪いくらいの執念であった。それはその芸術や物にいだくものではなく、人間に対してであった。要造はその執念を骨董のように掌上に転がし、吟味し、自分で観賞しているようなところがあった。それはどうかすると怨念にまで上昇しそうな性質のものであった。虚無とその執念とが同じところにいっしょに居る。もしかりに強いて他に比喩《ひゆ》を求めるなら、自己の暗い出生への憾《うら》みから出ているとでもいったら、それに近かろうか。──
河井がそんなことまで思っているうちに、歌が消え、ピアノも最後の響きをのこして熄《や》んだ。拍手は男一人だけのものである。時計をみると二時十分になっていた。さだかには聞えないが二階では笑い合っていまの練習のあとを検討しているようであった。十分過ぎても十五分過ぎても要造は降りてこなかった。
ようやくのことに、いくらか気忙しげなスリッパの音がドアの外に聞え、つづいて要造が姿を現した。河井と上杉は革イスから立ち上がった。羽織姿で、要造は二人の横を通って正面に回った。そのあいだ、彼の上品な面長の白い顔は上杉のほうへずっと向いたままで、銀ぶちの眼鏡の奥から瞳がのぞきこんでいた。
「社主。上杉君が昨夜羽田に着いてこちらに戻ってきましたので、そのご挨拶にわたしがいっしょに参りました」
河井につづいて上杉が、頭を深くさげて挨拶を述べた。
「お帰り」
要造は上杉の直立に対い合って自分でも不動の姿勢をとった。
「長いこと、ご苦労はんだしたな」
要造が見つめるので、上杉は眼を伏せた。
「こんど、NRCの代理店にうちがなったことでは、あんたにたいそう骨折ってもらいました。社長から聞いとりますが、ありがとう。ようやってくれはりました」
要造は礼をいって、まあ掛けなはれ、と自分からソファに腰をおろした。羽織の紐が歪んでいるのが、こっちから見て気になった。
2
狭い窓を背にした要造のいくらか前屈みの上半身は、とぼしい逆光の中で影絵になっていた。眼鏡が光の欠片《かけら》をちらちらときらめかした。それが、暗い内陣に置かれた漆で真黒な古い仏像の顔に光る水晶の玉眼に見えないこともなかった。
「ニューファンドランドの製油所のほうは、あんじょういってまっか?」
両指を座禅のときのように膝の上に組んだ要造は上杉に訊いた。それがもの静かすぎて、声がききとれないくらいだった。いままで二階で蝶々夫人の伴奏に力を入れすぎたあまり疲れたようにもみえた。
「はい。帰国する際にサッシン氏とも会いましたが、製油所はこの月の下旬にはフル操業に入るはずで、諸設備の機械は試運転でもたいへん好調だということであります」
上杉はサッシンからもらった報告書をとり出し、その具体的な説明をした。N・クラフト社の設計ならびに機械は優秀で、とくに第二次精製装置ともいうべき脱硫分解装置《ハイドフリツクス》や熱分解装置《ビス・ブレーカー》は世界最新の設備であることをつけ加えた。そうして今月下旬の日産十万バーレルの操業に合せてアラビアの原油を積載した栄光商船のVLCCが、さきの第一船につづいて三隻、ニューファンドランドのプラセンシア湾に配船中であると述べた。
要造は、ふむ、ふむ、と鼻を鳴らすような返事で応えていた。非常に熱心に聴いているようでもあるし、心そこにないといった表情にもみえた。もしあとのばあいだとすれば、気持はまだ二階にあるのかもしれない。歌手が帰った様子はないからである。だが、油断は少しもできなかった。中央に据えられた小さくて鋭いその瞳は、眼鏡のガラスの燦《きらめ》きと紛《まが》うくらいに暗部に光っていた。上杉は、ニューヨークの社屋から群衆の中に見つけた社主のこの顔に眩暈《めまい》を覚えたものだった。それがそのまま眼前の現実にあった。
要造は上杉からひととおり聞きおわると、
「そんで、こんごのことやけど、NRCのほうは、江坂アメリカの社長が担当するんでっしゃろな?」
と、さりげないふうに訊いた。金歯も光った。
河井がイスの上で肩を動かした。
「それにつきましては、わたしからご説明します」
要造は河井に白い顔をふりむけた。
「上杉君には今後も本社の原燃料業務担当役員としてNRC代理店業務をみてもらうことにしたいのだす。と申しますのは、そもそもの発端から上杉君がこのことにかかりあっておりますし、サッシン氏とはとくべつに懇意にしております。PRCとNRCとは不可分の関係だす。そのPRCのカンバイチャンス製油所の操業が緒につき、それが軌道に乗り、かつは近いうちに日産二十万バーレルの製油所をもう一つ建設する計画もおますよってに、いろいろと折衝が将来おこって参ります。それにはPRCのことなりNRCのことなりを十分に知りぬいている上杉君に直接に担当させたほうが、万事スムーズにゆくと思い、そのように手筈を決めております」
その手筈が、NRC代理店契約の名義人を江坂産業代表取締役上杉二郎と江坂アメリカ社長上杉二郎にしていることなのだが、そこまでは河井も社主には言わなかった。名分からすれば、後者は契約書交換時の二十日も前に上杉は江坂アメリカの社長の地位ではなくなっており、前者は本社の常務会にもはからずに代表にしてしまったのであるから、独断越権の沙汰であった。しかし、このことによってNRC代理店業務はアメリカの法人である江坂アメリカには関知させず、いっさいが江坂産業の上杉常務の手に握られることになった。すべてはNRC業務を円滑に遂行するためであった。
社主は、NRCとPRCの不可分の関係ということについてまだ呑みこみが十分でないようだった。彼の顔には、中途半端な理解に示すときの茫乎《ぼうこ》とした表情が浮んでいたが、上杉のほうへ向き眼鏡を光らせてたしかめるようにきいた。
「カンバイチャンスに製油所を持っているPRCは、ニューファンドランド州政府のものやいうことだしたな?」
上杉が返事する前に河井が即座に答えた。
「そうだす。クラウン・カンパニーだす」
明確な答弁であった。
上杉は内心で狼狽したが、訂正をはさむ余裕はなかった。実はPRCの全株のほとんどがわずか千ドルでサッシンのNRCに譲渡され、PRCはいまやクラウン・カンパニーでも何でもなくなったことは、河井にもまだ打ちあけていなかった。
この告白をどうして簡単に河井に言えようか。サッシンはその譲渡契約をクイーンエリザベス二世号の上で済ましたのである。カンバイチャンス港に停舶中、ボート・デッキの一層上にあるペント・ハウスといわれる特別室につくったサッシン事務所《オフイス》でニューファンドランド州首相ジェームス・バルチモアと契約署名をとりかわしたのだった。上杉の客室からはせまい廊下を隔てた斜め向うの部屋である。そうして同船には河井社長も米沢副社長も乗り合せていた。それを知らなかったとすれば、開所式セレモニーの祝い酒に酔い痴《し》れ、婦人たちが黒い蝶、揚羽蝶と舞う舞踏会に眼を奪われすぎていたことになる。
パークアベニューの地下《アングラ》の飯屋でサッシンにそれを打ちあけられたときの衝撃を、当分のあいだ自分だけにとどめておこうと上杉はひとりで決めていたのだった。
「クラウン・カンパニーなら、まあよろしな」
要造にはクラウン・カンパニーは官営会社と同意語であり、先代によっていまの会社の発展基礎となったのは官営八幡製鉄所との取引だったという歴史的意識がその言葉に重なっていた。
だが、それは社主だけではなく、河井社長をはじめ社の首脳陣の全部が、それと同等の、あるいはそれ以上の安心をクラウン・カンパニーの響きに持っているのである。州政府は財政的に貧困でも、連邦政府が後楯として控えている。しかし、それらの「政府」はもう無くなった。ニューファンドランド州立会社は幻となっている。この事実があとで判ったとき、社主は欺されたことにどんな怒りをもつだろうか。社主だけではない、この事実をいまだに告げ得ずにいる河井からもその秘匿を責められるだろう。江坂産業はクラウン・カンパニーの拠りどころを喪失した。あとはアルバート・サッシンだけが対手である。この国際的な寝わざ師のような商売人が。
「|前払い《アドヴアンス》」の名による四千二百万ドルの実質貸付金ぶんにたいしてできるだけ早く抵当を取らなければいけない。しかし、この無担保融資は、江坂アメリカがNRC代理店になる絶対の条件であった。これを呑まないかぎりは代理店契約には応じられない、とサッシンは宣言した。契約の交渉がすすみ、あと一歩で締結がみこまれたときに突如として出したサッシンの条件であった。融資返済が十二年先というのもそのときに出た条件である。強硬で、鉄のような意志を見せたことだった。これが容れられなかったら話は水に流そうとサッシンは言ったものである。手もとに十分に引きつけておいてのことだった。つまりはサッシンの掌中に江坂アメリカが乗ったときに、サッシンは焦《じ》らしはじめたのだ。その駈引が分っていても、あのどたんばになってどういう策があったろうか。江坂産業の石油部門拡大は社の至上命令だったではないか。だからこそ、その条件もまたやむを得ないと河井社長は常務会を経ずに承認を与えたのだ。
けれども、その承認の裏には、NRC─PRC─ニューファンドランド州立会社─カナダ連邦政府という一連の信頼が河井にあったからである。それが雲散霧消したいま、残るのはサッシン個人だけなのである。
いま、四千二百万ドルぶんの抵当をとっておかなければ、将来、NRC=PRCの事実がつまずいたばあい、とり返しのつかないことになる。サッシンからとるべき原油代が滞ることはないとだれに断言できよう。NRC代理店としての江坂アメリカは、原油の供給先のBPには原油代を支払わねばならぬ。大型タンカー一隻あたり約十万〜十三万ドルの手数料によろこんでいる各邦銀ニューヨーク支店のLCは、カンバイチャンス港からの原油陸揚げの|送り状《インボイス》がくるたびに江坂アメリカの手形を事務的にBPに流してゆく。それなのにNRCからその金の振込みがないとなると、それだけでも江坂の損失はふくれ上がってゆく。
その不安には根拠があった。この十月からペルシア湾の原油代が二一パーセント引きあげられていた。第四次中東戦争によるアラブ産油国の対敵戦略だった。原油代の高騰は、サッシンの資金を苦しくするだろう。もし精油が見込みどおりに売れなかったら、どんなことになるか。断崖の上から霧のこもる海をのぞき脚が震える思いであった。
では、サッシンのNRCが代金を払わなかったばあい、つまり契約不履行によって原油供給を停止することができるか。その条項が契約書には無いのである。これもサッシンの強硬な主張で、契約不履行はあり得ないことだからそれをわざわざ条文化する必要はないというのである。自分を信用できないなら、はじめから契約しないほうがよろしかろう、と仁王立ちになっていた。
それを呑んだのも、ひっきょうニューファンドランド州政府=カナダ連邦政府が背後の保証として存在していたからだ。セント・ジョーンズとオタワとがPRCから手を引いたと分ったいま、その保証は失われた。あとには、NRCからの代金がこなくても、江坂アメリカはNRCの代理店という責任においてBPに原油代を支払い、また、NRCの要求するままに原油をカンバイチャンス製油所に供給しつづけなければならない、という契約条項だけが残る。なんの支払保証もないままに。
せめて四千二百万ドルの実質貸付金にたいしての担保をいまのうちに設定しておかなければ、という焦燥が現在の上杉を占めていた。これがこの先、NRCの支払停滞にたいする歯止めになる。一度担保を設定しておけば、停滞ぶんにたいして次々と担保を取ることができよう。
地下の飯屋で、上杉がサッシンに四千二百万ドルの担保をたのんだのは、こういう気持からだった。無担保融資が代理店契約の絶対的な前提条件となっているために、正面から強く言えることではなかった。彼の友情に愬《うつた》えるしかなかった。サッシンは、その依頼に「シュアー」(いいとも)と言ってくれた。その返事はあまりに気軽な調子だった。しかし、あれはアルバート・サッシンがその身上話をしみじみと話したあとだった。その場だけの口先とは思えない。彼だってこっちの苦境を察してくれている。もともと苦労人なのだ。いまの上杉はそれに凭《よ》りかかっていた。──
「上杉はん。サッシンはんいうひとは、信用おけるひとでっか?」
要造が、上杉の胸の中に合せたように訊いてきた。上杉は心臓の上に石が飛んできたような気がした。
「信用できる人です。わたしの長年の交際で、そう思います」
上杉は言い切った。
「さよか」
要造はそれっきりあとを黙った。
河井は心配げに社主の顔色を見まもっていた。河井の心境は上杉に分る。河井は、社主からクイーンエリザベス二世号の祝典を編集したパンフレットに江坂アメリカの名もなければ河井や米沢や上杉の名も載ってないことを皮肉られた、それから五年前のカナダの新聞に出たサッシンを非難する記事を示された、と言っていた。サッシンが大統領になる前からリチャード・ニクソンと組み、ニューファンドランド州前首相のウッドハウスと組んでいる黒い政商だという内容であった。社主がどこからそんなものを手に入れたかわからない。たぶん、社内でご注進する者があったにちがいない。その「忠義者」にはおよその見当がついている。今日社主宅に行けば、その話が社主から出るだろうというのが河井の上杉に言った事前の予測であった。サッシンは信用が置ける人間か、といま要造が訊いたので、横の河井が気を使いはじめたのだと上杉は察した。要造は質問をしだすと、ねちねちとした調子でいつまでもつづく。矢つぎ早に訊くのではなく、間《ま》を置き、休んでは訊く。相手の返答を聞いて、そこから手がかりを考えては質問を発展させるのである。
しかし、要造が次に口を開いたとき、それにはふれず、
「NRC業務は、なるべく早いとこ江坂アメリカ新社長に担当させなはれや」
と、言った。河井にむけての言葉だった。そのあと、下をむき、
「それがスジやがな」
と、ひとりごとのように言った。
「はい。いずれ、そのようにとりはからいます」
それがスジやがなと呟く要造の言葉に含まれた調合物の分量を上杉は測った。業務上の正当な分割を主張しているほかに、社主はアメリカから自分を引き離そうとしている。それにはニューヨークの女の噂が社主の意識にこびりついている。息子の明太郎専務が新婚旅行でニューヨークにきたとき、支店員のだれかが耳に入れた。新婦を同行していただけに、帰国した明太郎の高い非難の調子がわかる。これが明太郎ひとりで来て、支店員のだれかが女を彼に世話していたら、そのような身ぶりの大きい報告はなかったであろう。ニューヨーク支店にもファミリー派は配属されていた。世界じゅうの江坂産業の支店に、お小姓出身者やファミリー派が網の目のように配置されてある。ある者は中立派や反ファミリー派の支店幹部の言動を芦屋に密書で報告し、ある者は芦屋のために外国にある中国の古陶磁器を買って飛行機で戻ってくる。
要造には女の噂がなぜそのように気に障るのか。潔癖なのではない。ここにも、人間は自分と似たことをする者に嫌悪と反撥を抱くという心理的通則が適用される。要造のスジ論はそのへんの分量が多いにちがいない。
「で、上杉はんは、大阪本社詰めでっか、東京本社詰めでっか?」
社主は社長の河井にたずねた。
「東京本社在勤ということにしておりますが」
河井は要造の眼鏡にむかって答えた。
「けっこうやな」
要造はうなずいて、膝の上の両指を細工でもするようにこまかく動かした。
「……東京には会長がよく行きはるさかい、上杉はんには会長のお守りも頼んだほうがよろしな」
低い声だが、ずけずけした言い方であった。河井が顔色を変えたくらいだった。
代表権だけはどうにか持たせてもらった会長の大橋恵治郎は、いまは隠居同様の身なのに、月に二回は大阪と東京とを往復している。常務会にも出席せず、社務を見るというのでもなかった。大阪にいれば大阪本社の会長室に顔を出し、東京に行けば東京本社の会長室に入って、どうでもいいような報告を役員から聞く以外は新聞と雑誌を読むのが仕事といってもよかった。その報告に自分から意見をいうでもなく、笑って聞くだけで、むしろ雑談のほうに身をいれた。往復するのは退屈をまぎらわすためだと蔭口をいわれているが、要造にはもう一つの見方があろう。いつぞや大橋が東京から大阪に戻る途中のことを、いまごろ大橋はんは名古屋の好きなおなごはんのとこで着替えしてはるじぶんやろな、と鼻の頭に皺を寄せて言ったのを河井は聞いた。大橋の東京出張は、名古屋に立ちよるための名目だと要造は言いたそうだった。
上杉の東京本社在勤を、その大橋会長のお守り役に勝手に解釈した要造の露骨な言葉は、大橋と上杉の関係とは別に、上杉の仕事をあまりに見くびった言いかたであった。
だが、明太郎専務やそのとりまき連中にいわせると、上杉に焦点が絞られ、あんな奴の顔は見たくもないから東京へ追いやってしまえ、ということになったのだろう。明太郎のむき出しの敵意は、なにをやっても失敗したこれまでのことが上杉への劣弱感と嫉妬から発している。だから、東京在勤が大橋のお守り役と要造に呟かれても、上杉は河井のようには深刻にはうけとめず、大橋の子分とみられていることからの皮肉だと思っていた。
「ところで、上杉はん。こんどこっちへ帰りやはって、奥さんと会いなはったか?」
要造の眼鏡が心もち上がった。
「一昨日《おととい》の夜、羽田に着いたばかりですので、明日、広島の田舎にいる家族のもとに行くつもりにしております」
「そら、ええ。早う行ってあげなはれ。奥さんとも長いこと会ってへんやろな?」
「はい」
上杉は窮屈そうに返事した。
「あんたがアメリカにいやはるあいだ、奥さんを呼んであげなはったか?」
「いえ。ございません」
「一度も?」
「なにしろ、わたしどもがニューヨークに行ったときは単身赴任という規則でございましたから。それに、つい、馴れてしまいまして」
「あれは大橋はんが社長のときに決めなはったんや。あのころは江坂産業も貧乏でな。家族同伴の赴任がようできなんだ。その点、わたしは当時の社員や家族に申し訳なく思うとります。わたしは、それはあかん言うて、浜島はんが社長のとき、家族同伴のシステムに変えさせました。単身赴任はどないしても不自然だす。仕事には精が出るけど、その不自然からくるつまずきもおますさかいな。みんな若い身空や」
社主は上杉の胸を細い針で刺してきた。浜島幹男は社長の人事権掌握を主張して要造から社長のイスを逐《お》われ、いまは相談役であった。
「そんで、奥さんはアメリカにはいちども?」
と、くりかえしてきいた。
「子どもの学校の問題もあったものですから。それに、家内は外国で暮らすのをおっくうがりました。田舎育ちなものですから」
「さよか。それにしても二十年間、よう辛抱しやはりましたな。ま、あんたは男やさかい、ええけどな」
要造は、にこりともしないでつづけた。
「わては会社の仕事を責任もってやってくれはるのんやったら、臍《へそ》から下のことは何も言いまへんけどな、あんた、アメリカにややこしい因縁を置いたままにしてへんでっしゃろなァ?」
髪の半分近くが白くなっている役員に、社主は、いくらか品のよくない、無遠慮な言葉をかけてきた。
「そういうことはございません」
「そんならええけど。で、こんどは東京で奥さんや子どもはんといっしょやろうな?」
「明日、家内に会いますので、よく相談をします」
「そうしなはれ。二十年ぶりや。奥さんもあんたにはもう落ちついてもらいたがってはりますやろ」
上杉の東京の落ちつきさきはすでにきまっていた。丸ノ内に近いホテルのせまい部屋を一年契約で結んであった。ニューヨークでもずっとホテル暮しだった。その生活の延長だが、いまはそれが社主に言えなかった。
その社主が背にした狭い窓を塞ぐ棕櫚の細長い葉に当った光が弱くなっていた。もう午後の陽ざしだった。要造がなんとなくマントルピースに乗った明の染付鉢に視線を移したとき、表に車の停まる音がした。
瀬川が顔を出し、お供が参りました、と要造に鞠躬如《きつきゆうじよ》として伝えた。河井が上杉に眼配せして腰を浮かしかけると、
「なあ、河井はん」
と、要造はそれを押えるように言った。どういうわけかその表情は和み、言葉も柔らかだった。
「ひとつ相談やけどな」
「はあ」
「いま、二階に遊びに来とるんは、簑田麻知子や。オペラのプリマドンナ歌手としては日本では最高の素質をもってはる。そんで、わては肩入れしてる。わては素質のある芸術家は有名でも無名でもみんな好きや。ところが日本の政府は文化事業や芸術家に冷淡でな、財政的に困っててもなんの援助もせん。外国とはえらい違いや。ところでやな、簑田麻知子は、いま練習場がないので困っとる。いまいる家がせまいうえに、近所に家が建てこんできて、練習する歌やピアノがうるさいと文句を言うてきよるそうや」
ここまで聞くと河井にも要造の依頼がわかった。簑田麻知子が練習場をつくりたいというので、その建築費を融資してやりたいというのである。外には防音装置の、室内には音響効果のある設計にして、仲間うちの小人数の聴衆もすわれるイス席のスペースをもつ練習場である。その新築の金を江坂商事から支出することに同意してくれというのだった。
江坂商事は江坂産業の子会社である。その資本のほとんどは江坂産業から出ているので、社主は河井の承認を求めたのだった。江坂商事はトンネル会社で、そこの社長はファミリーの忠勤者であった。これまでの値の張った骨董品もそこに買わせている。それだけでなく明太郎専務のヨット買いのおつき合いまでさせていた。明太郎は自分で贅沢に設計したヨットを造船会社に造らせるのだが、これにはたいそうな金がかかった。
簑田麻知子の練習場建築費貸与要求は、要造の巧妙な取引であった。拒絶すれば、上杉の原燃料業務担当にさまざまな方面から圧力を加えるぞという含みが言外にあった。それではNRC代理店業務を全面的に上杉に委せている河井が困惑するだろうと、逆光にきらめいている要造の銀ぶち眼鏡と金歯とが言っていた。河井は石油に熱中している。石油部門の繁栄で社内の業績をつくり、長期政権を考えていることくらい要造はとっくに知っていた。
「先月はニューヨークのオークションで宋と元の壺を二つせり落して七千万円がとこ江坂商事から出してもらったけど、あれはあれで江坂産業の財産や。わては無駄費いはしてへん。いつも言うとるとおり、将来江坂産業に危機がきたときにかならず役に立つ。そのときは値段が五倍にも十倍にもはね上がってますがな。そやな、いま持ってるだけでも、さきになると二十五億円から三十億円にはなりまっせ」
要造は、いまから先見の明を誇るように言った。機嫌がいいのは、河井が簑田麻知子の練習場建築費の融資を承知したとみてとったからである。だが、河井には骨董品の将来の値よりも、いまの社主の浪費が苦痛だった。それに江坂産業の危機にその骨董品の何割が提供されるだろうか。あとは「自然償却」として社主の所有になっているはずである。
「その簑田さんの練習場にはどのくらいかかるのですか」
河井は遠慮がちに訊いた。
「簑田麻知子が言うには、自分の家の裏に七十坪の家があって、その家主が売ってもええという意向やそうな。ああいう場所でも坪七十万円というとるそうや。列島改造とかにつられて土地の値も法外になりよったな。で、四千九百万円。それに練習場が四十坪。坪三十万で建築費が千二百万円。合わせて六千百万円。そのうち簑田は一千万円しか出せへんそうや。そやから五千万円ほどの貸付になる。簑田はそれを十年間に払うと言うとる。この金はタダでやるのやないわ。ちゃんと土地を抵当に取りまっせ。抵当にな」
「そういうことなら、よろしゅうおます」
河井は承諾した。
だが、要造が抵当、抵当とくり返していったのが上杉の耳に残った。
玄関の見送りには要造のうしろに顔の長い中年の女が膝をついていた。上杉にははじめてだが、梶井ムラであった。河井は彼女に叮嚀に会釈した。
門の前には要造のキャデラックが横づけされてあった。本社が社主専用に運転手つきで提供しているもので、要造はこれから簑田麻知子と昼食をとりにどこかへ出かけるらしかった。
3
京都木屋町の旅館で、六時という約束に大橋恵治郎は先にきて待っていた。小さな門を入っても玄関までの石だたみが長く、鯉の泳ぐ中庭の泉水わき廊下から座敷はさらに奥まっていた。
「こういうところでないとな、幕府方の密偵の眼が光っとるさかいにな。わてとあんたとが二人きりで座敷で会ってるところを見られたらさいごや、倒幕の密議をしよるいうて、すぐにご注進やがな」
大橋恵治郎は血色のいい顔に白い歯をのぞかせた。骨太な体躯で、三、四杯は飲んだ濡れた盃が前にあった。
大橋の言葉は、この家の由来に江坂産業のお小姓やファミリーを懸けたものだった。旅館は明治の元勲の夫人だったひとが隠居所にしていたあとだという。元勲の夫人というよりも、勤王の志士として京都を舞台に活躍していたころの愛人で、この土地の芸妓だった。大衆小説や映画、演劇にしきりと出てくる有名なその芸妓の名が、そのままこの旅館の屋号になっていた。この部屋の控の間にはその夫人が愛用したという金紋黒塗の長持が置いてあり、床わきの違い棚には芝居で使うような「御用」の提灯がのっていた。座敷は鴨川に面している。対いの暗い連山の下を電車が灯をつらねて走っていた。
大橋には昨日本社の会長室で帰国の挨拶を上杉はした。わずか十分間だった。そのとき、この家でゆっくり会おうと大橋が言った。
「ご機嫌さん。まず」
大橋が上杉と盃をあげた。長いことご苦労さまと大橋はあらためて言ってくれた。
「江坂アメリカのLCを開設している邦銀ニューヨーク支店の本社側から、招宴の申し込みが殺到しとるのとちがうか?」
大橋は笑いながらきいた。
「いや、そういうものはみんな断わりました」
「それがええ。けど、住倉銀行のほうは受けたほうがええな。ありゃ、ウチのメインやし、邦銀ニューヨーク支店のなかでもLCがいちばん大口のはずやったな?」
「そのうち目立たぬような席で受けようと思っています」
「そうやな。あんまり派手な席にしてもらうと、岡っ引が大げさに報告して痛くもない腹をさぐられるさかいにな」
大橋は「御用」提灯に眼を走らせて言い、
「幕府方は猜疑《さいぎ》のかたまりや」
と、盃を干して顔を顰《しか》めた。
話があるから料理だけを運んでくれといって女中がすわるのを断わっていた。猜疑のかたまりとは社主にむけてのことだった。
「今日午前中、芦屋にうかがって社主に挨拶してきました。社長もいっしょでした」
「そうか。要造はんのご機嫌はどうやった?」
「社主の機嫌ばかりは、ぼくにはわかりません」
上杉は当面あたりさわりのない返事をしたのだが、
「そうやな、あのひとばかりは昔から何を考えてはるのか、ようわからん」
と大橋もいった。上杉は酒を注いだ。
「ぼくはこのまえ連絡に大阪に帰ってから十年ぶりに社主に会ったのですが、頭がうすくなられたていどで、顔は十年前とあんまり変ってないのにおどろきました」
「変ってへん、変ってへん。ぼくらは始終見てるさかい、変ってへんように思うとるけど、十年ぶりに見た君までそう思うなら、ほんまに変ってへんのやなア。あの男は妖怪みたいなもんや」
妖怪という語が江坂要造にいちばんあたっていると上杉は思った。ニューヨークの社屋の窓から見おろしたときの幻覚などはまさにそうだった。
「どうしてあないな偏屈な人間ができたかわからんな。まるで徳右衛門はんの子と違うみたいやなア」
大橋のこの独り言のような言葉は、上杉が今日要造に会ったときに彼に感じたもの──虚無と怨念とが同居している異常な性格の形成が出生の暗さに由来している、という感想にピントグラスのように合った。
「社主は小さいときからああいう性格だったんですか」
「幼いときはぼくも知らんけどな。ロンドンに新婚でピアノを習いに来たときからもう一風変っていたな。そのころから若さちゅうもんがまったくなかった。金の計算がこまこうて、妙に年寄り臭かったなア」
大橋は四十年昔を回顧する眼を見せた。が、すぐにそれをふり払うように首を振った。
「で、その席では、どないな話が出た?」
「河井君が、NRC代理店業務は上杉に全部委せますからといってくれました。社主はいちおう了承されましたが、なるべく早い時期に江坂アメリカ新社長に譲るようにといっておられました。河井君は、いずれ、とかいって確答はしませんでしたが」
「河井はな、いまのところ君が必要なんや。君からNRCをはなしたら、こらせっかくのものが潰れてしまうがな。ニューヨークの安田ではなんにもでけへん。安田はクソ真面目だけが取得で、仕事はでけん男や。それでファミリー派にしがみついてる。河井はそれをよう知ってるよってに君を放さんのや。NRCがあかんようになったら河井の長期政権の野望も沈没しかねんからな。けど、要心しいや。河井は表も裏もある男や。いまは君を利用してるけど、いつ君に煮湯を呑ますかわからんからな。あいつが要造はんにぴったりというのんを忘れなや。あいつの性格は、ぼくがよう知ってる」
「わかっています」
「それをよく肚の中におさめておくんや。ぼくにそのへんのとこを見抜かれてるさかい、河井はぼくが煙とうて、裏にまわってさかんにぼくの悪口を言いふらしてる。あいつがどないにぼくを攻撃しようが、ぼくは蚊にさされたほどにも痛うないわ。悪口を言うとるのんは、ぼくが社長時代にあいつを重用せんやったからや。とてものことにその器やないさかいな。それをぼくに冷遇されたと思うて、根に持ってるのやがな。ケチ臭い奴や」
大橋恵治郎は河井武則を罵った。その眼の光にはもういちど返り咲きを狙う大橋の欲望が滲《にじ》み出ていた。
「その河井がやなア、ぼくと君との関係を知りながら、君にNRCをまかせて好遇するふりをしてるのは、みんなわが身が可愛いからや。ふつうやったら、君は大橋の子分やからいうて、さっさと遠ざけるとこやけど、それがでけへん。まあ君もNRCがあるかぎりは安泰というとこかなア」
大橋は昂奮しかけた自分を抑えるように少し笑った。
「しかし、ぼくが江坂産業にいるのももう長いことはないような気がします。社主の受けは悪いし、明太郎専務からは睨まれてるし、ファミリー派から毛嫌いされていますから。東京本社在勤というのもそのへんから出たように思います」
「ファミリーは要造はん父子《おやこ》の顔色しだいでどっちでもむく風見鶏みたいなもんやから、問題やない。せいぜい岡っ引根性で奉仕してるだけや。かんじんなのは要造はんやけど、はっきり言うて、君が感じてるように、要造はんは君にええ印象をもってはらへん。そらやはりぼくとの関係が原因や。君が仕事のできるのんをよう知ってるのになア。おべんちゃらをいう幇間《ほうかん》のような社員ばかり近づけといて、仕事のできる社員を遠ざける社主も困ったもんや。業務はひとつも見んで、道楽の金ばかり社から出させたがる。どケチ。自分の金は一銭も出さん。そんで人事権だけをにぎる。それもあの男には江坂産業がだれかに乗取られるという被害妄想がたえずつきまとってるからや。社内には岡っ引がくまなく配置されてる。このごろはお茶くみの女の子かてファミリー派やいうから、社では何にも口が開けんがな。江坂産業をつぶすものがおったら、そら要造はんや」
ぼくが社長のときは要造はんに社内の人事へ口をはさませなかった、入社試験のときに立会うか、人事でもわずかしか関与させなかった、業務に口出ししてもぼくがぴしゃりと断わると、要造はんも自分の無理がわかってるさかい、すごすごとそれを引込めたもんや、それがぼくが社長をやめると、とりまき連のファミリー派が、わっと出てきよった、要造はんはその連中に乗せられて今のような滅茶苦茶な人間になりよった、と大橋は言った。
灯を連ねた電車が音を響かせて通りすぎた。酒が入ったのも手伝って、大橋は舌が速くなった。
「八年前に、ぼくがすすめていた住倉商事との合併ができとったらな。こんなひどいことにはならずにすんだものをな。要造はんに私物化されてる江坂産業を総合商社として近代化するためには住倉商事との合併しかないのや。住倉銀行の八田恭三部頭取もえらい乗気でな、外部に洩れんように気をつかいはって、きめこまこう住倉商事の社長や専務と詰めをやってはった。それがどうや。例のお小姓組頭の鍋井が要造はんに内通や。そんで一晩でひっくりかえった。ぼくは八田頭取の前に頭をさげに行ったが、顔からは火が出るし、身体じゅう汗びっしょりやがな。あんな恥しいことは一生に一度もない。いまでもなにかの会で八田はんに会うと、あのときは惜しかったなアと言われるけど、そのたびにぼくは顔がよう上げられんがな」
大橋は屈辱を思い出してか、口にふくんだ盃を噛み砕きそうだった。
「気の毒なのは専務の加藤勝市君や。ぼくの意図に賛成してくれて、住倉商事の専務と会ったりなどして、ぼくの使い走りをしてくれたばかりに要造はんの怒りにふれて、ぼくの会長と同時に、顧問に追払われた」
「加藤さんはいまどうしておられますか」
「久しゅう会わんがな。噂で聞くと家に引込んだまま盆栽いじりでもしてるということや。孫をつれて電車に乗ってたのに会った人があるけど、見ちがえるほど年をとったそうや。あの男は顧問になってから江坂産業の玄関には足も踏み入れん。武士やなア。顧問料は経理から自宅へ郵送や」
「相談役になられた浜島さんはどうしておられますか」
「あれも社長をクビになってから会社にはめったに現れん。けど、ぼくの家にはときどき来る。小さな会社の経営者になってる。なア君、人事権のない社長は意味がないいうて要造はんに楯ついたあの鼻柱の強い浜島が、社員がちょぼちょぼとしかおらへん中小企業にかがんどる。ちょっと涙が出るがな」
「常務の村瀬さんは?」
「要造はんに睨まれ、ファミリーから排斥されてからは、煙のような存在になってる。常務とは名ばかりや。現場の連中からもそっぽをむかれてる。常務会に出ても石のように黙ってる。ありゃ坊主みたいな心境やろ」
「顧問の対馬さんはいかがですか」
「明太郎はんに嫌われ、ファミリーに白い眼をむけられ、こらあかんと思うてか、一年前に自分から常務をやめて、子会社の大崎燃料の役員に行ってしまいよった。ちっぽけな子会社の社長になって出てゆくいうのんは、よっぽどの決心やなアとそのときは思うとったが、いまを見ると加藤や浜島よりはええかもしれんな。そのかわり子会社の社長として、本社の若僧にも頭が上がらんさかい、どっちゃがええともいえへんけどな」
上杉にパークアベニューの地下食堂の風景が浮んだ。皿から一匙ずつすくっては、放心したようによごれた壁を見つめている影のような群だった。
「話がさみしゅうなったなア」
大橋も言った。上杉がぼんやりと考えている様子に気づいたからである。
「そやけど、君は心配せんでもええで。手紙にも書いといたけど、君のことはぼくが身体を張ってでもひきうける。おかしな真似はさせん。ぼくは要造はんには前々から貸しがある。どないな貸しかは言えへんけどな。ぼくは会長にさせられたときも代表権を粘った。要造はんが折れたのもそのためや。そやから、君には指一本ふれさせん。あんまり短気を起しなや」
「ありがとうございます」
上杉は膝を直した。
「いつまでも要造はんの江坂産業やないわ。そのうちにきっと変る。三百年の徳川将軍かて仆《たお》れるときは仆れるんやからな。上杉君、それまで短気を起さんで辛抱しといてや」
大橋の語気には、もういちど江坂の掌握を、というカムバックの気魄《きはく》がこもっていた。彼はメインの住倉銀行の頭取八田恭三郎を頼りにしているようだった。
「ぼくもできるだけ頑張らせていただきます」
「そうしてや。それにはやっぱりNRCのほうがあんじょういかんとあかんけど、そっちのほうはどうや? だいたいは君からの手紙で承知してるけど」
「帰国する二日前にサッシンに会いましたが、カンバイチャンス製油所のほうはなかなか好調だといっていました」
上杉は、サッシンから聞いた進行状況の説明をした最後に、ニューファンドランド州政府の保有するPRCの全株がサッシンのNRCに譲渡されたこと、したがってPRCはもはやクラウン・カンパニーではなくなったことをうちあけた。社主はもとより河井にも言えなかったことを大橋にだけは話したのである。これは、補助契約書の秘密と同様に、自分の胸だけでは抱えきれなかった。また、四千二百万ドルの対NRC=サッシンの十二年間無担保貸付金については社長の河井だけに報告してある。これは大橋からも≪重要事項はとくに社長の承認を得るように。決して独断で決するな、もし極秘を要するからといって事後承認含みで独断でやれば、かならずのちの禍根となる≫という手紙による助言もあったからだ。PRCがクラウン・カンパニーでなくなったことは河井にも社主にも言えなかっただけに、のちの禍根、それもわが身にふりかかる攻撃という禍根を軽くするために、大橋に知っておいてもらいたかった。
「困ったなア。そらまた面倒なことになった」
はたして大橋は眉をよせた。
サッシンがたった千ドルでニューファンドランド州政府からPRCの九〇パーセントの株を買受けたと耳にしたときは、ほんまか、と眼をみはった大橋だが、事情を上杉から聞いているうちに腕を組んだ。
「これは要造はんにも河井にも言わんほうがええな。そのうち、向うの様子が伝わってくるやろから、自然に知れてきたという格好にしたほうが無難や」
「会長もそう判断されますか」
「うむ。どうせ向うの事情でそうなったんやから、こっちでじたばたしたかてしょうがないやないか」
「ぼくもそう思います。会長にそう言っていただいて、ぼくも心の負担が軽くなったような気がします」
上杉はほんとにそう思った。
「なんやかやと君も気苦労やな」
「サッシンが名うての商売人だけに緊張のしどおしです」
「君、サッシンは大丈夫やろうな?」
「いろんな方面に手を出しているので、資金ぐりは楽でないようですが、イギリスの銀行団とかシカゴの銀行など大手金融筋をつかんでいるし、おどろくほど各国の政財界人に知己をもっていますから、信頼は置けると思います。ぼくがこっちに帰るときも、新しい大型プロジェクト計画を三つも四つも話していました。かならず大成功する人物だと思います」
上杉は話しているうちに熱が入った。半分は自分に言い聞かせているからだった。
「天才的な政商やいうことは聞いておったけどな」
大橋は遠方を眺めるような眼つきをしていたが、上杉に瞳を戻して言った。
「なあ、補助契約書にある例の十二年間据置きの四千二百万ドルの融資やけどな。いまのうちに抵当権を設定しておいたほうがええのんとちがうか。そのほうがNRCと商売してゆくためにも将来が安全やと思うけどな」
だれの考えも同じであった。河井もそう言った。少なくとも四千二百万ドルの融資の性格を知る者は一つことを考える。
「NRC代理店契約には四千二百万ドルの無条件融資つまり十二年間据置き無担保が前提条件になっていますから、いまこれを表からサッシンに要求するわけにはゆきません。しかし、ぼくが彼に会ったとき、非常に好意的な返事で、それに協力するといってました」
「カンバイチャンス製油所はどこが抵当を設定してるんや?」
「第一抵当権はECGDに、第二抵当権はニューファンドランド州政府が設定していると聞きました」
「そんならウチは第三抵当権をとろうじゃないか。なにぶんにも近代技術の粋を集めた立派な製油所やそうやから、第三抵当でも四千二百万ドルに見合う評価額ぶんぐらい残ってるやろ?」
「もちろんあります」
──しかし、このとき大橋は、日本流に考えていて、第三抵当権の設定は、第一、第二抵当権を持つ者の承認が必要であるというカナダ法を知らなかった。
「河井と米沢がクイーンエリザベス号に新調のタキシードを着て乗りこみ、カンバイチャンス製油所の見事さを帰ってから言うとった。米沢なんかほうぼうに吹聴してまわっとったが、そういう製油所なら第三でも第四でも抵当能力はあるやろ?」
「あります。さきほども申し上げたようにNRC代理店契約時の前提条件がありますから、いますぐに要求するわけにはゆきません。しかし、サッシンはウチの抵当権の設定に好意的だし、それだけの抵当物件が現にカンバイチャンスに存在してるんですから安心していいと思います。それに、四千二百万ドルの貸付金も、製油所の操業と販売とが軌道に乗るまでの援助資金ですから、向うが軌道に乗れば十二年先を待たずに回収できます」
「それもそうやけどなア。ま、サッシンが協力的なら、少しでも抵当権をつくっておいたほうがええなア」
「そう思います。努力します」
「なあ。大けな声では言えんが、これが常務会に分ったら、えらいこっちゃで。江坂アメリカが四千二百万ドルをNRCに無担保で十二年間貸付けしてるちゅう真相がな。江坂アメリカの回転資金から出してるから、いまのところ本社は分らんでおるけどな」
「はい」
上杉はうなだれた。
「契約書の文面も、江坂アメリカがNRCのためにBPに原油代の|前払い《アドヴアンス》をするようになってる。けど、江坂アメリカは各邦銀支店のLCからBPへカンバイチャンスにタンカーが入港するたびに自動的にきちんきちんと払うようになっとるんやから、BPが要求もせんのにこっちゃから前払いの必要はないわけや。これはどうみても理屈が通らん。ちょっと考えたら、ははあ、こらNRCへの貸付やなア、それをうまいこと前払いで胡魔化しとるんやなアと分るはずや。そんな単純な胡魔化し契約書が、本社の常務会ですうっと通ったんやから、こら常務会のポカやなア」
「ぼくも、あの稟議書に付けた契約書は常務会でひと悶着あるものと覚悟していましたが、難なく通ったんで、かえって気が抜けたような心地でした。あのときの常務会は、どうなっていたんですか?」
上杉は大橋の顔をのぞきこんだ。大橋は笑った。
「あのときは持ち回りの常務会でな。なにせ河井はNRC代理店契約をなんとか成立させることに一生懸命やったし、ほかの専務や常務連はそっちのことがようわからんさかい、ぼんやりして承認してしもたんや。それに常務会ちゅうのんは、専門の担当が力説すればそれに委せてしまうふうがある。内容がよくわからんいうせいもあるけど、それぞれに縄張りがあるさかいに他人の領分は侵さんという美徳やな。相互不可侵や。少々説明がおかしいなと思ってても黙ってる。そこで、いちゃもんをつけると、次は自分の番のとき文句をつけられるさかいな。それが怕《こわ》いのや。本社の常務会ちゅうのんは、偉方《えらがた》の頭数ばかり揃った儀式みたいなもんや」
「だいたい分ります」
「あのときの持ち回り常務会では、いちばん文句をつけそうな専務の明太郎と鍋井とが黙って判コを押した」
「どうしてですか?」
「明太郎はシスコにばかげた事業をはじめて大赤字の大失敗、鍋井はあることで社主の激怒を買い解任前の状態で、両人とも悄気《しよげ》かえっておったからな。河井の説明に口出す余裕もなかったんや」
明太郎の失敗は、上杉が江坂アメリカ社長で米州総支配人のときだから直接に知っている。ばかげた事業というのはサンフランシスコ支店をわがもの顔に使って行なったものだ。また、鍋井専務が社主の逆鱗《げきりん》にふれた話は、クイーンエリザベス二世号上のバーで、鍋井とはライバルの米沢副社長が、酔った舌でおもしろおかしく聞かせてくれたものである。
「あの契約書を要造はんに見せたら、前払い条項の粉飾を、あの人一流の鋭いカンで見ぬいたかもしれへんけどな。その要造はんは業務にはノータッチ、それよか骨董の鑑定に血道をあげてはる。まあそんなことで、あの契約書は君や河井の思惑どおりに常務会を通ったんや」
「幸運でした」
上杉は大きな息を吐いた。
「そやけど、補助契約書がもひとつ難問やで。本契約書のほうは、アドヴァンスとあるだけやけど、補助契約書のほうは、君から送られた写しを見ると、二千百万ドルと金額が具体的に明記されとるからなア」
「あれは、サッシンの要請で、調印直後に倍の四千二百万ドルになりました」
「おおそういうことやったな。それにその貸付額が十二年間据置きいうのんも、補助契約書にはじめて出とることや。NRCからのすべての手形の支払いは一九八五年六月三十日を期限とする、というてな」
「はい」
「それから不可抗力が発生した場合、NRCの支払義務の停止という、常務会に出したら、それこそ問題になりそうな条項も補助契約書にはあったやないか」
「補助契約書は紛議をよびますから、本社には提出しておりません。ただ、社長の河井君だけは知っております」
「その補助契約書は、どこに置いたる?」
「江坂アメリカ財務部長の金庫の中に、重要書類の束に入れて、保存してあります。財務部長の田沢貞一君に預けてあります」
「財務部長の金庫の中に?」
大橋は意外そうな顔をした。
「君は、そのことを後任の安田君に引き継ぎをしたのか?」
「いちいち書類を出して、ああだこうだといって説明はしておりません。ただ、口頭で書類の全体について概略を言っただけです」
「ふむ。君と安田とはあんまり仲がよくないからな」
「………」
「書類の全部をひっくるめて概略を口頭で引き継ぎしたわけか。安田はなんちゅうとった?」
「あの男もぼくが煙たいですから、ああそうですか、いずれあとでゆっくり書類を見ます、といってました。ですから引き継ぎは二十分くらいで終りました」
「その引き継ぎで、補助契約書には遂にふれなかったのか?」
「補助契約書とはいいません。書類束の中には本社の常務会の承認を得たNRC代理店契約書関係の書類もあるよ、とは言いました」
「契約関係の書類か。うまいことを言いよったな」
大橋はまた笑った。が、すぐにそれを消した。
「安田はあのとおり几帳面な男や。あれは事務屋やからな。あとで補助契約書を出して、じっくり条項を読むかもしれへんで」
「読んでも、あんまり気にはとめないでしょう。常務会で承認された契約書と一連のものだと考えるでしょうから。引き継ぎにぼくがそういうニュアンスで言っていますし、それに、NRC関係は本社にいるぼくの担当になっていますから、江坂アメリカ社長には直接関係がありません。したがって安田君は所管外のこととして興味を示さないと思います」
「そうか。それもそうやなア」
大橋はなんとなく頤《おとがい》の下を指で掻いた。
「会長。いまアラブの原油は二一パーセント値上りしていますが、この先、まだ騰《あが》りそうですね?」
「うむ。騰る。二一パーセント値上げはアラブ産油国側の暫定措置や。来年になったらメジャーのアラブ敵対国への戦略値上げがもっと強うなるわ。二倍か、もしかすると三倍になるかもしれへんで」
「アラブ原油を買ってるBPの原油代も二倍から三倍になりますね。そうすると、いまのLCの金額枠ではとうていNRCへの送油量が足りなくなりますから、LCの金額枠も二倍か三倍にふやさないといけなくなります。つまり、ウチの扱い高が二倍、三倍になるわけです。ぼくはこの値上げでふくれ上がった江坂アメリカの扱い金額の中に四千二百万ドルを包みこもうと思っています。扱い高の膨張に逆比例して四千二百万ドルが小さくなってしまいますから。こうすれば、四千二百万ドルは十二年も経つともっと少額になります」
「うむ。なるほどな。そうすると、四千二百万ドルの抵当もそのうち不要になってくるというわけか」
「そうです。ただし、現在のように二一パーセント値上り程度では、どうにもなりませんがね」
上杉が暗鬱な空の端に僥倖《ぎようこう》の青空がひろがるのを待っているのはこれだった。
「いや、そらゆけるで。とても二一パーセントの値上げでおさまるような情勢やない。もしかするとOPECは一挙に三倍値上げを通告してくるかもしれへん。イランの王《シヤー》がなかなか強硬やからな」
「会長。ぼくは来年早々にニューヨークに飛びたいと思います。サッシンと会って抵当のことも頼むし、二倍、三倍の原油値上げによるLCの枠の拡大、そうして四千二百万ドルの包みこみのこともやってきたいと思います」
「そらええ。行きなはれ」
「しかし、社主がどうもぼくのニューヨーク行きが気に入らんらしいのです。なるべくやらせないような意向です」
「要造はんは遊んではる人や。君は仕事でニューヨークに行くんや。遊んではる要造はんになんの気がねが要ろうか。仕事のためや。どんどん行きなはれ」
「そう言っていただくとありがたいのですが」
「そやけどな、あんまり要造はんを刺戟せんように行きなはれや。河井だけに言うてな。さいわい君は東京本社在勤やから、大阪本社を留守にしとるよりは目立たんわ」
「そうですね」
「そう目立たんわ。君が芦屋に行ったとき要造はんはどないしとった?」
「簑田麻知子というオペラの歌手をよんで、蝶々夫人の稽古に社主はピアノ伴奏をしておられました。なんでも簑田さんが稽古場をつくるので、その資金を貸してやってくれと河井君に言っておられました」
大橋は横をむいた。
「相変らず達者なもんやなア。あの年でな。やっぱり出来が違うわ」
東山の黒い裾に電車が長い光を幽灯のように曳いて走っていた。
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OPEC加盟のペルシャ湾岸六カ国の原油の値段は、一九七三年十月に一バーレル当り約三ドルだったものが、第四次中東戦争が起り、十一月には五ドルとなった。さらに七四年一月一日には、十二ドルにすると六カ国は発表した。中東戦争前からみると、三カ月足らずのあいだに二度の小刻みを置いて一挙に四倍の値上げとなった。
同月六日ごろ、メジャー(国際石油資本)の大手BPは現地積出し価格を十二月現在値の二倍に引上げることを日本の石油業界に通告してきた。むろん他の国際石油資本もこの値上げに歩調を合せた。
原油代が七三年十月現在から四倍に値上りしたのであるから、NRC代理店としての江坂アメリカがBPの原油代として支払う金額も四倍となった。NRC代理店としての商売が四倍にふくれあがったのである。
よって江坂アメリカは各邦銀ニューヨーク支店のLCへの与信枠を約四倍にふやすこととなった。それまでの六千万ドルからいっぺんに二億三千百万ドルへ広げることを四月に開かれた江坂産業の常務会は決定した。河井社長と原燃料業務担当上杉常務の主張が通ったのである。
江坂アメリカのLCを最初に開設したのは東和銀行であった。その前身は外国為替専門の特殊な銀行で、その伝統からして外為には強いし、国際情勢にも早耳のほうである。
各邦銀ニューヨーク支店とも資金がだぶついているいわゆる「過剰流動性」のときであった。金を借りてくれる相手としてはアメリカ人の企業があるが、これはおもに設備投資用なので、その事業にたいして銀行は神経を使わなければならない。言葉の不便もあった。確実な日本の総合商社にLCを開設してもらえば、商社の取引行為のたびに銀行に手数料が入ってくる。寝転んでいて口銭が入ってくるようなものである。貸付金の使途に神経を尖らせる必要もなければ、焦付きの心配もない。日本人どうしだから、肩を叩いたり省略した言葉のやりとりだけでも意志が通じる。以心伝心的な日本流でゆける。
そのため邦銀のニューヨーク支店員は、たえず各総合商社──そのほとんどは現地法人組織になっているが、そういう事務所に顔を出しては、なにかいい話はありませんかと世間話にまぎらわせて商社の新しい活動を知ろうとした。話相手がその現地法人の社長のときもあれば財務部長といったポストの人もあれば、また主任級、平社員のこともある。社長(アメリカ法人組織の)は口がかたいし、なんとなく寄りつきがたいので、銀行員もそのような探りのためにはあまり会いに行かない。
江坂アメリカの社長上杉二郎は、NRCのプロジェクトをはじめるについて、ニューヨークの各邦銀を招集して説明会を開くようなことはしなかった。その必要を認めなかったのは、銀行が大口LCを開設することによる利益を知っているからであり、説明会を開いてまで、ということは下手に出てまでLCの開設を要請することはなかったからである。銀行のほうから競ってとびついてくるのは必定《ひつじよう》だからだ。江坂産業をバックにした当時の江坂アメリカの上杉社長兼米州総支配人はまことに頭《ず》が高かった。
或る銀行が商社のLCを開設すると、ニューヨークの日本人社会の狭隘《きようあい》さは、その情報の伝わることが速い。情報の蒐集場所としては、カーネギー・ホールの前にある日本クラブがある。ここでは銀行マンや日本のメーカーの支店員などが、集まってしばしば麻雀を愉しむ。そのほかに食事の会では日本料理店が使用される。ウエイターやウエイトレスもほとんど顔見知りなので、心付けをはずめば情報蒐集に協力してくれることも考えられる。どこの商社やメーカーのだれが、どのような人を接待していたかの情報をはじめ、個人のプライバシーまで耳に入ってくる。日本人が行くゴルフ場は、ニュージャージー州のホムニー・ヒルときまっていた。このゴルフクラブの会員になっている銀行員や商社マンは多い。銀行間の交際では、支店長だけがバンカーズ・クラブに集まる。
しかし、江坂アメリカのNRCプロジェクトの情報が銀行に入ったのは、このようなありふれた情報蒐集の場所ではなかった。もしそういうことだったら、東和銀行よりも、江坂産業とは六十年の取引の歴史があるメインバンクの住倉銀行が先に情報を得ていなければならぬ。
東和銀行の得た情報は、アメリカでも日本でもなく、はるか東のパリからであった。
東和銀行とはいちおう別法人となっているが、ヨーロッパに欧州東和銀行というのがある。一九六七年の夏ごろ、欧州東和銀行パリ支店は、ロンドンのマーチャント・バンク頭取トーマス・アンダースンからNRCへの投資をすすめられた。
サッシンはアンダースンとは知己であり、アンダースンは彼のために幹事となってイギリスで対NRC銀行投資団を組織した。この協調融資団にはイギリス輸出信用保証局(ECGD)が保証をした。まさに国家機関が保証したのである。パリの邦銀でアンダースンと関係の深いのは別の銀行だが、外為を扱う伝統的な東和銀行が外国人によく知られている。
だが、こんどは欧州東和銀行がNRCと江坂アメリカとの関係を知らなかった。NRCの信用調査については幹事としてのアンダースンを信頼して、東和銀行で再調査をすることはなかったが、江坂アメリカについては所在地がニューヨークなので欧州東和銀行から東和銀行ニューヨーク支店にこのことを移牒《いちよう》してきたのだった。
東和銀行ニューヨーク支店が逸早《いちはや》く江坂アメリカからLCの開設をとりつけたのは、こういう次第で、その開設の実現は一九七三年の九月であった。
東和銀行に出遅れた住倉銀行ニューヨーク支店のまき返しは速かった。もともと江坂産業のメインだし、東和銀行にそれほどおくれることなく江坂アメリカのLCを開設した。つづいて、共立、三丸、三池の各銀行の順となった。しかし、どの邦銀ニューヨーク支店も、NRC取引の主体となっているPRCのカンバイチャンス製油所の視察にニューファンドランドに行ったものは一人もなかった。
LCの開設事情がそもそもそのようなことだったから、原油代四倍の値上りについて江坂アメリカの与信枠を機械的《ヽヽヽ》に四倍に増大することに各邦銀支店はもとより同意した。これに危惧を感じるニューヨークの邦銀支店は一行もなかった。
このようにして、一九七四年(昭和四十九年)の一月から十月までは、江坂アメリカにとっても、また江坂産業にとってもなにごともなかった。NRC関係はまことに平和裡に、円滑にいっていた。
江坂アメリカ社長安田茂からは、NRC関係の問い合せは本社に何も来なかった。上杉からひきついだ江坂アメリカ全事業に関する重要書類を一応は点検したが、安田はべつにNRCについて疑問を起さなかったのかもしれない。
ただ、去年の十二月と、今年の一月、二月、上杉二郎の姿をニューヨークで見かけたという噂が立った。カーネギー・ホール前の日本クラブや日本料理店にたむろする銀行マンや商社員のあいだでである。江坂のNRCプロジェクトをつくった男だから、これは目立つ。
上杉さんはなんの用事でニューヨークに頻繁にあらわれるのだろうかと関心をひいた。何かまた大きなプロジェクトを手がけに来たのではなかろうか。銀行マンはふたたび江坂の新しいLC開設に出遅れてはならないと気がはやるし、商社マンは競争相手が何を計画しているかと神経が尖鋭になる。
各邦銀支店の次長といったところが江坂アメリカの財務部長に会って訊くと、さあ、知りまへんで、上杉はんはこっちに姿を見せはらしめへんだした、とおどろいた顔をする。それがまんざらとぼけているふうでもなかった。
銀行支店長連がホムニー・ヒルのゴルフクラブで江坂アメリカの安田社長と顔を合せたとき、この話をもち出して探りを入れると、
「上杉さんがこちらにおいでになったことはちらりと耳にせんでもありませんが、社のわたしの部屋にはお見えにならないので、どんな用事かよくわかりません。連絡も受けていません」
と、安田は不愉快そうな表情で答えた。
本社の原燃料担当常務が何度もニューヨークにあらわれたというのに、これは奇怪な話であった。
安田社長もそれではあまりに恥しいと思ったか、
「上杉常務は以前から単独行動で仕事をやる性格なので、こんどもいつものでんではないでしょうか。NRC代理店業務は本社の上杉常務が総攬《そうらん》しているので、たぶんNRCとの連絡にきたのだと思います。しかし、新しいプロジェクトを手がけるということはありません。それだったら、当然わたしに話がなければなりませんから。上杉常務はこちらの原燃料課の者と打合せをしている様子ですが、それがなによりたんなるNRC業務連絡にきた証拠です」
と、つけ加えた。
銀行員が支店長がゴルフ場から持ち帰ったこの話にもとづいて、江坂アメリカの原燃料担当部員有本七郎に当ってみると、上杉常務と会ったことは否定しなかったが、自分にも常務の来米の用事がよくわからない、なにせ常務はこっちに居るときからなんでもじぶんひとりでやるほうなので、部下の者もそれに参加させてもらえなかった、とここでも上杉常務の単独行動主義・秘密主義が楯にとられた。
上杉二郎の再三にわたるニューヨーク出張は、江坂産業の本社でもあまり知る者はなかった。東京本社の者でさえ、ここ二週間ばかり上杉常務の姿が見えないな、と思っているていどだった。本社の原燃料・鉱産業務担当といっても上杉はNRCにかかりきりだったので、東京本社でもあまり関係がなかったからでもある。あれは江坂アメリカの業務だという意識があった。
そのうちに在ニューヨークの日本人のあいだに、上杉さんがたびたびやってくるのは、ニューヨークにいる愛人の始末のためだとの噂がささやかれた。愛人は秘書として使っていた金髪《ブロンド》娘のマリアンだけではないというのである。おせっかいな人間がいて、この噂を大阪の江坂産業本社の者に流すものがあった。
上杉常務のニューヨーク出張は、五月をかぎりとしてやんだ。社主が河井社長に上杉の出張をやめさせるように厳命したという風評が、こんどはこっちの社内で立った。
そういう小さな波乱はあったが、今年(昭和四十九年)になってから秋まで、江坂アメリカや江坂産業の上にNRC関係は平穏であり、静寂であった。すべては順調に運んでいるように思われた。
げんに、四月二十日付で江坂産業の原燃料本部長平井忠治の名で、ニューファンドランド・リファイニング・カンパニーの近況報告が常務会に提出された。
≪NEWFOUNDLAND REFINING CO. 近況報告 並びに同社向原油取扱い内容一部変更の件。
昭和四十八年一月十二日及び六月十八日両常務会に御報告致しました首題NRC社関係業務に就き、其の後の推移並びに最近の石油事情急変に伴い、内容を一部改訂せることを御報告致します。
一、NRCの近況
昭和四十八年十月十日、英国・カナダ両国政府代表をはじめとし関係各界人士を招いて、同社 COME-BY-CHANCE 製油所の開所披露式典が行なわれ、更に設備の整備、点検を経て、同年十二月十五日生産を開始いたしました。爾来《じらい》順調に操業度を上げ、本年三月中旬には日産十万バーレルの完全操業に入って居ります。
他方、製品の販売に就ても、世界的石油製品需給逼迫を背景に、操業開始当初より高収益、好採算が予想されて居ります。
二、当社関係業の概況
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(イ)タンカー用船関係
NRC社と栄光商船を結ぶタンカー長期用船契約の第一船として朝日丸(二十三万三千トン)が昨年十月七日第一回目の船積みを行なって以来、順調に運航されて居り、其の仲介手数料が第一〇七期より東京・ニューヨーク両店に於て業績に寄与しております。さらに本年三月三十日第二船エレファント号(二十八万一千トン)の進水、引渡しが行なわれ、第一回船積みに向かって居りますので、これも間もなく業績に反映される予定であります。
(ロ)BP/NRC原油取引
上記朝日丸の第一回船積以降順調に受渡しされており、本年二月までに千九十万バーレル、受渡高四千八百八十三万三千ドルの実績を挙げております。
(ハ)上記のほか、新たにNRC社製品並びにNRCの親会社サッシン・ナチュラル・リソーシズ社の持つ原油契約の日本およびEC市場への販売に協力方要請を受け、努力を重ねた結果、本年一─三月積みとして合計三百六十万トン、金額四千四百五十万ドル(約百三十億円)の成果を見ております。これら諸契約に伴う江坂全体の利益は約六十六万四千ドル、邦貨換算約二億円に達する見込みであります。
(ニ)上記諸条件を通じSNRおよびNRCグループと当社の業務は現在まで順調に進んでおり、かつ実に多くの可能性を包含しております。よって当本部としては今後一層グループとの綜合的提携を推進し、当社石油業務拡大の一助と致したく考えて居ります。
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三、BP原油取扱いにかかわる代理店協定の内容一部変更に就て
昭和四十八年六月十四日、常務会に御報告致しました通り、BPがNRCに供給する原油に関し、当社がNRCに対し、二・五カ月のユーザンスを供与する事を条件にNRCの代理店としてその取引に参加する旨の協定を締結し、これに基づき上記の取扱実績を挙げております。しかしながら、昨今の原油価格の急騰に加え、今後の価格見通しが更に流動的な点から、上記代理店協定のユーザンスに関する規定を変更する要を生じました。すでにNRCとは交渉を重ね、下記の線でほぼ合意に達しておりますので、御報告致します。
イ、現行条件
(a)ユーザンス 二・五カ月。総合約千五百万ドル(原油価格バーレル当り二ドル)
(b)NRCに対する与信総額 約四千五百万ドル(前記ユーザンス期間総額の他BPの供与する百五十日分の債権が生ずる)
ロ、価格上昇に伴う上記金額の変動
現行条件の設定に当り原油価格をバーレル当り二ドル(当時の実勢価格)として計算しましたが、其の後急騰の結果、バーレル当り九・八ドルに達しております。その結果各金額は下記の如く大幅に増加し、さらに今後の価格動向によっては、一層累増の可能性大であります。
(a)ユーザンス総額 約七千三百五十万ドル。
(b)与信総額 約二億二千五十万ドル。
ハ、条件改訂案 上記ユーザンス額並びに与信額の増大を防ぐために、左記の如く条件を変更致します。
(a)ユーザンス 期間に関係なく総額四千二百万ドルとする。
(b)与信総額 上記ユーザンス額の限定により、与信総額が約一億八千九百万ドルに留まる見込みであります。
(c)ユーザンス総額に対し、NRCをして州政府の設立せるPRCを経由し、四千二百万ドルまで決済可能な REVOLVING STAND-BY CREDITを発行せしめます。
(d)上記当社負担に伴い、仲介手数料をバーレル当り二セント(従来は第一年度一・七五セント、二年度以降一・五セント)に引上げます。その結果、十年間の当社利益は五百四十九万ドルから七百二十万ドルに増加する見込みであります。
(e)今後原油価格の変動に伴い、NRCに対する与信額、ユーザンス金額、さらに同社の発行する REVOLVING STAND-BY CREDIT の額を変更する必要が生じるので、定期的に彼我間で数字の見直しを行ないます。
四、其他
サッシン・グループは既に稼動開始せる上記 NRC COME-BY-CHANCE 製油所に引きつづき、カナダ NOVA SCOTIA 州に日産二十万バーレル能力の製油所を建設開始(イタリアENIグループ建設負担)しており、一九七六年稼動の見込みであります。さらにNRC現製油所の隣接地に日産三十万バーレルの大型製油所新設を計画中であります。
これら新規プロジェクトに対しても当社が原油供給・製品販売・運送費さらには資材調達の面まで取扱うべく、SNR社と折衝しており、これが具体化により当社石油部門の一層の飛躍が期待されます≫
このとおり常務会報告は薔薇《ばら》色に染められていた。
この時期、SNRおよびNRCのアルバート・サッシンと江坂産業の原燃料・鉱産業務担当役員上杉二郎のあいだに忙しく書簡が往復していた。
一九七四年四月二十四日付の手紙で、サッシンは上杉二郎にこう書き送っている。
≪以下はSNRと江坂アメリカおよび江坂本社との間に取りかわされた了解事項である。
(1)江坂はSNRの代理店として日産一万五千バーレルのマレーシア原油の販売にあたり、かつまた日産三万バーレルのサウジアラビア原油あるいはこれと同等の原油の精製のための代理店として活動するものである。
(2)江坂はSNRにたいして原油供給の六カ月前にその代金を支払い、その最初の六カ月が経過したときに、つぎの六カ月分の代金を前払いするものとする。そして、つねにこの当座勘定が維持され、原油の十二カ月分はつねに前払いされていることになる。
(3)以上の取引はマレーシア原油については十年間、サウジアラビア原油については三年間とその後の七年間は Nova Scotia Refinery にたいして日産三万バーレルの原油を供給するという条件で継続されるものとする。
(4)SNRはこの前払金を双方合意ずみの市販可能な証券を購入するために使用する。
(5)この前払金は原油の供給によって返済され、その保証として一級の市販可能な証券およびその他の証券(これは市販可能である必要はない)による担保および十二カ月分の原油の供給がおこなわれるものとする。前払金の金利と銀行諸費用は半年毎に江坂の原価で支払われる。
(6)SNRがこれ以外の原油、つまり自分が必要とする以上にこれ以外の原油を手に入れることができるとき、江坂は同様の条件でそれを他者に販売することができるものとする≫
一九七四年五月十三日。江坂産業・上杉より、SNR・サッシンあて。東京時間十一時の電話のコピー。
≪われわれは一九七四年六月二十日から三十日の間にラス・タヌラから八万トンのアラビア産軽原油を出荷することを確認する。価格は積載時掲示価格の九三パーセント・プラス・米ドルでバーレルあたり十五セントとする。この原油はシンガポールにおいてシンガポール・ペトロリアム・カンパニーによって精製され、そのリスクと勘定はわれわれの顧客が負うものとする。われわれの理解するところでは、これはわれわれの原油取引契約の一部として考えられ、したがってコミッションとしてFOB価格の一パーセント二分の一を配達時に支払われたい。この件について、当方のニューヨーク事務所にテレックスで確認されたい≫
一九七四年五月三十日。SNR・サッシンより江坂産業・上杉あてテレックス。
≪もしあなたが、いまも六月二十日から三十日のあいだに出荷される八万トンの軽原油(価格は積戦時の九三パーセント・プラス・バーレルあたり十五セント)をシンガポールのSPCの製油所で精製することに関心をお持ちなら、至急テレックスでお知らせ下さい。多分ご記憶だとは思いますが、この前のシンガポールの件をキャンセルされたので、ペトロミンとの関係が非常に悪くなっております≫
一九七四年七月十九日。江坂産業・上杉よりSNR・サッシンあて書簡。
≪このたびの北海石油権益交渉に関して、あなたにご迷惑をおかけしたことを深くおわびします。あなたもご存知のように、私の意図はあくまでもSNRおよび江坂の利益のためであり、それはいつも私が真剣に考えていることなのです。しかし、イギリス政府の発表および日本銀行が打ち出した(日本の銀行の)ユーロダラー市場における借入れ制限政策のために、正常な輸出入業務以外の海外および国内における金融の源を断ち切られてしまいました。したがって、私の提案は重役会で否決されてしまいました。これは私の努力にたいして欲求不満を起させる打撃であり、私をして江坂より身を引こうとさせた事態でもありました。
あなたに対して約束を果せなかったことを心からおわびしたいと思います。
私はあなたが心から努力してくださったことを感謝し、貴重なすべての地図をお返しいたします≫
一九七四年七月二十四日。SNR・サッシンより江坂産業・上杉あて書簡。
≪北海の件に関してあなたの会社が最終的態度を示した背景を説明する、七月十九日付のあなたの真面目な心からのお手紙を受けとりました。われわれは何が起ったかをよく理解しており、同情を禁じえません。わが国においても重役会というものは日本と同じく、そうしたものです。東京やニューヨークにいて椅子に深々と腰を下ろしている重役たちは上杉あるいはサッシンが表に出て、会社のためにいかに大きな取引をなそうとしているかをよく知らない、そういうことはよくあることです。しかし、同様にぬかりなく仕事をすすめることも必要だし、価値ある取引を失わないことも必要です。
われわれは経験をつみ洗練されたビジネスマンであることを心にとどめて下さい。このようなささいなことでわれわれと江坂の関係には何の支障も生じないし、これからも両社にとって有効な利益のある仕事を継続して行きたいと望んでいます。気を落さないように。江坂におけるわたしの友人へ≫
──サッシンは、ニューファンドランドのPRCとNRCが扱うBPの原油精製だけではなく、マレーシアとサウジアラビアの原油精製をも扱うことを企図し、この新しい二つとも江坂産業ないしは江坂アメリカがサッシンのSNRの代理店になることを上杉に依頼したのである。そのほかラブラドール(ニューファンドランドの北隣りの州)の鉄鉱石の開発会社をおこし、江坂産業がその全株の四九パーセントを受持つように申入れた。
上杉はサッシンのこの依頼や申入れをいったん承諾した。しかし常務会にはかるとこの提案が否決された。日本銀行がうち出したユーロダラー市場の借入れ制限政策のため困難というのが表面上の理由だが、常務会では相変らずの上杉の「独走」ぶりに反撥を起したのだった。江坂明太郎専務と鍋井善治専務とが反対の急先鋒だった。
もっともサッシンが次から次と出すプロジェクト計画は、江坂産業にとってあまりに金がかかりすぎる。
上杉はいったん承諾した手前、サッシンに面目なく、かつは江坂産業がキャンセルしたためにサウジアラビアの原油を精製するはずのシンガポールとの関係にヒビが入ったという非難に謝り、その謝罪状のなかに、常務会の否決は打撃的で、はなはだ不満であり、自分としては江坂産業を退社したいくらいだ、と述べた。
この詫び状にたいしてサッシンは上杉に同情して、アメリカでも重役会というのは日本と同じようなものだ、ニューヨークや東京の本社にいる重役どもは椅子に深々と腰をおろしていて、表に出て働いている者の努力が分らない、と上杉の立場を理解したうえ、このことで従来の江坂との提携関係にはなんの支障もないから、君も気を落さずに仕事をつづけてくれ、と手紙で慰めた。
サッシンとしては、NRC代理店としての江坂アメリカ=江坂産業にいま手を切られては窮するし、最大の提携者上杉に身を引かれると困惑するのだった。
その年の十月十六日、江坂アメリカの住倉銀行ニューヨーク支店扱いBP発行為替手形千五百四十万ドルに見合うNRCの約束手形の満期が切迫し、その支払期限を延期するという事態が発生した。江坂アメリカによるいわば最初のロールオーバーであった。
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第五章
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十月十三日の午後二時、江坂アメリカの財務部長田沢貞一は、ブロード・ストリート六〇番地ビル三十六階の住倉銀行ニューヨーク支店に淀江文治支店長を訪ねて行った。昨日、電話で面会の約束がとりつけてある。
日系の女子社員の案内で応接間に通された。壁には京都東山一帯を描いた日本画の額と、八田頭取の揮毫になる書の横額とが掲げてあった。飾り暖炉の上には連獅子《れんじし》の京人形、部屋の隅には創始者住倉勝左衛門翁の半身銅像が月光菩薩《がつこうぼさつ》の模像と対角線でむかい合っていた。窓の外にはエンパイヤステート・ビルなどの高層ビルが明るい陽をうけて光っている。
次席の品川国雄が最初に入ってきた。いつも江坂アメリカの財務部室で会っている男である。
「おめずらしいですね、部長さん。ウチにお越しくださって支店長にお会いいただけるとは」
品川は笑った眼で田沢を見つめるようにした。おととい、江坂で田沢に会ったのに、今日の支店長面会の話は少しも出なかった。なんの用事かとのぞきこむようにしていた。
「いや、簡単なことをおねがいに上がりましてね。それに、ここんとこ、支店長さんにはしばらくお目にかかってないのでご挨拶を兼ねましてね」
田沢も笑顔で応じた。
「わざわざ恐縮です」
品川は四年前に赴任したときからの次席で、四十を越した年齢とは思われぬくらいこまめに動きまわる。
支店長の淀江文治が入ってきた。額のひろいのと鼻筋が徹《とお》った印象が憶えやすい顔になっている。色も歯も白い。上品な笑顔で腰をかがめた。
支店長の掌がさす方向にすすんで田沢財務部長は「連獅子」の人形を背に深い肘掛椅子に腰を沈めた。支店長がその対いに坐った。次席の品川はどうしたものかと眼をうろうろさせていたが、客の田沢が、品川さんもどうぞ、と言ったので、はじめて支店長と田沢のあいだの二つ三つはなれた椅子に落ちついた。
「支店長。財務部長さんは支店長にご挨拶にお見えになったそうですよ」
品川は、ちぐはぐな立場になりそうな自分をたてなおすのと、両者の機嫌をとるようにまず紹介した。
「それはそれは。話が逆になりまして恐れ入ります。お電話いただけたら、わたくしがお伺いいたしましたのに。品川君をはじめいつも手前どもの者がお邪魔しております。それについ安心しまして、わたくしはご無沙汰ばかりしております」
とくべつ用事でもないかぎり、銀行の支店長は顧客《とくい》先の挨拶まわりにはあまり出なかった。同様に、大手総合商社の財務部長が銀行支店長を訪ねて行くことはそうしげくない。前もって|約 束《アポイントメント》をとりつけて面会に来たからには、ただの挨拶だけでないことくらい支店長にも次席にもわかっていた。
とくに品川は一昨日江坂で会ったとき田沢から今日の訪問を聞いていないだけに少々気がかりそうだった。が、淀江支店長のほうはそんな様子を素振りにも見せず、これから顧客先との雑談を愉しむふうだった。こうして支店長と次席とをならべて田沢が眺めると、住倉銀行でエリートコースを大股で歩いているといわれているだけに、淀江の人物の際立ちがわかる。年齢は品川より六つも若かった。
女子社員が二人しずかにはいってきた。一人はアメリカ娘で、三人の前に菓子をならべ、日系娘が|おうす《ヽヽヽ》を作法どおり運んできた。小さな生菓子の卯《う》の花色がきれいだった。
田沢は菓子皿をひきよせ、楊子で菓子を割りながら淀江支店長にむかい、じつは、と言い出した。
「支店長さん。三日後の十月十六日が満期となっているBP振出しの千五百四十万ドルの為替手形のユーザンスの期限が目前にせまっていますが、じつはわたしどもが受けとっているそれに見合うNRC発行でおたく扱いの約束手形が期限内にはちょっと決済ができなくなりました。詳しいことはあとで申しますが、ついては、支払期限をすこしさきに延ばす|はね《ヽヽ》金融をおねがいしたいのですが」
「ほほう」
淀江支店長が次席に眼くばせすると、品川はすぐに立って出て行った。
田沢が詳しいことはあとでと言ったのは、支店長の手もとにいまその関係書類がないからである。
次席が帰ってくるまで、両人は志野の茶碗をかかえて緑色のにがい茶をすすった。支店長は明るい顔であった。咽喉を反《そ》らせて茶碗の最後の一滴を飲みほし、もとに戻したあと親指の腹で碗のふちを拭い、ハンカチを胸からとり出して口辺に当てた。
「なんですね、おうすも京都あたりのお寺などでゆっくりといただきたくなりますね」
支店長は眼もとに柔和な笑みを漂わせた。
こちらにおいでになってどのくらいになりますか、という田沢の質問に、そろそろ三年になりますが、一年に二回在外支店長会議があるので、五カ月前に大阪へ帰りました、けれども鉄砲玉のような往復ですよと、これも笑顔の返事だった。
品川次席が戻ってきて、手にした書類の開いたところを支店長に渡した。支店長は長い指先で書類の端を押えて見ていたが、
「なるほど、そうでございますね」
と低く言い、田沢の言葉を確認した。
──現地法人江坂アメリカと、そのLCを開設している邦銀ニューヨーク支店との取引関係をここでやや詳しく書く。
まず、江坂アメリカから本社の江坂産業の保証書付きでLCの開設を依頼された邦銀ニューヨーク支店では、原則として本店から、江坂アメリカに当該金額の与信(銀行取引で、受信側つまり江坂アメリカに対して信用を与えること。手形の割引、貸付、その他手形引受、信用状の発行、債務保証などを含む)をあたえてよいという承認を得たあと、BPの取引銀行にLCを開設する。
住倉銀行ニューヨーク支店がBPの取引銀行にたいして開設したLCはNRCのスタンド・バイ・クレジット(Stand-by credit 支払保証信用状。相手方への担保の意味になる)付きで、その総額はわずか三百万ドルであった。
BPは船荷(原油)に保険をかけて船積みする。このときBPは船会社(栄光商船)から|船 荷 証 券《ビル・オブ・レイデイング》(BL)を受けとり、|送り状《インボイス》と自社(BP)発行の住倉銀行ニューヨーク支店宛て為替手形とをこれにそえて、BPの取引銀行に預託し、あとの決済事務を任せる。
為替手形は、振出人が支払人に宛てて一定の金額を受取人または指図人に支払うべきことを委託する形式の手形である。つまりBPは為替手形によりNRCの代理店江坂アメリカに対して原油代の取立をBPの取引銀行経由で行なう。
BPの取引銀行は、江坂アメリカのLCを開設している住倉銀行ニューヨーク支店に右の為替手形、船荷証券、送り状、保険証書を一括して送る。住倉銀行ニューヨーク支店ではこの支払請求の呈示を江坂アメリカに通知し、同社の与信総額の中からBPの取引銀行に為替手形の額面金額を支払う。これで銀行間の決済は完了する。
江坂アメリカは住倉銀行ニューヨーク支店に、同行がBPの取引銀行と決済したBPの為替手形の金額(原油代)と同額の金を支払わねばならない。しかし、その銀行への支払いは商品代(原油代)が入金するまでの期間を考慮して猶予期間がある。これがユーザンスとよばれるものだ。江坂アメリカのユーザンスは、住倉銀行ニューヨーク支店とのとりきめで五カ月であった。普通は一カ月だが、これは商社にたいする銀行の信用できまる。
江坂アメリカは、この支払いに見合う金額(手数料を含む)の約束手形をNRCから取り、これを取立てに回し、住倉銀行ニューヨーク支店に支払う。以上によって通常の代金決済が完了する。
もっともユーザンスの期間中は支払未完了なため、船荷証券などは江坂アメリカには渡されず、住倉銀行ニューヨーク支店に保管されたままなので、BPの原油はカンバイチャンス港には陸揚げできない。そのため、江坂アメリカでは銀行から「信用受領証」(トラスト・レシート=TR)をユーザンスを期限として発行してもらう。江坂アメリカはこのTRによって船荷証券、送り状を銀行から受領して船会社(栄光商船)に送付する。船会社はそれによってタンカーの原油をカンバイチャンスの埠頭に陸揚げする。製油所では埠頭の送油パイプでこれを工場に送るというしくみである。
TRはまったく銀行が取引先商社の便宜を図っての処置である。これに対して商社が担保を銀行に入れることもあれば、入れないこともある。これは銀行の商社にたいする信用関係で、住倉銀行ニューヨーク支店では江坂アメリカから慣例としてTRの担保をとっていなかった。それだけ銀行は江坂アメリカというよりも、親会社の江坂産業を信用していたのである。
もちろん、以上の代金決済のことは、住倉銀行ニューヨーク支店にかぎらず、江坂アメリカのLCを開設している他の邦銀ニューヨーク支店についても同様であった。──
ところが、いま、江坂アメリカの財務部長田沢貞一が住倉銀行の淀江ニューヨーク支店長に申し入れたのは、BP発行の千五百四十万ドル(原油代)の為替手形に見合うNRCからもらっている同社振出しの約束手形(住倉銀行ニューヨーク支店を支払場所とする)が三日後にせまっているユーザンスの期限内に決済できそうにないので、期限を延長してもらいたいというのだった。
淀江支店長が、
「そうですか。……わたしには原油代金のことはよくわかりませんが、千五百四十万ドルというのは、原油のどれくらいの量ですか?」
ときいたので田沢は答えた。
「二十万トン級の大型タンカー一隻ぶんの積載量だそうです。わたしも石油のことは素人ですが、ウチの専門家からそう聞きました」
「なるほどね」
支店長は前にかがみ、蒔絵《まきえ》の接待煙草函の蓋を開けて田沢にすすめ、ライターを点けてやり、自分も一本をつまんだ。
「どういうご事情か、いちおうおうかがいしましょうか」
淀江は存外気楽な姿勢で煙を吐いた。
千五百四十万ドルといえば邦貨にして四十六億二千万円(三百円レート)である。相当な金額ではある。
田沢はのびやかに煙草を喫いながら言った。
「NRCの説明では、製油所に従業員の予期しないストライキが発生して操業がおくれたというのです。そのためNRCの資金繰りに若干の狂いがでてきた。そのためBPの為替手形に見合う約手が期限どおりに決済できなくなったのですね。これは、ほんのちょっとした手違いで、ストライキのほうもすでに解決しました。製油所のほうもすぐに操業にとりかかれるわけです。むろん、こんな小さなハプニングがあったところで、NRCの経営にすこしの不安があるわけではありません」
「で、支払期限の延期はどれくらいですか?」
支店長は訊いた。
「二カ月さきにしていただきたいのです。本年の十二月十六日です。もちろんそれまでにNRCから入金の通知があればその約手の決済ができます。いわば、ちょっとハネていただきたいのですが」
ハネるとは「|はね《ヽヽ》返り金融」の略称動詞化である。
輸入業者が輸入商品を販売して代金を回収するまでにはかなりな期間がかかる。輸入決済手形(為替手形)に見合うユーザンスの期間内に代金の回収ができて銀行支払いができればよいが、普通一カ月とされているユーザンスの期限内にそれが間に合わないとき、商品代金の入金があるまで銀行からひきつづいて金融をうける必要がある。これらは輸入にひきつづいて生ずる金融なので「輸入|はね《ヽヽ》返り金融」とよんでいる。普通言われているロールオーバー(手形支払期限延期)とは、いちおう別にされている。──しかし、あとで考え合せると、これは江坂アメリカの実質的な第一回のロールオーバーといってよかった。
淀江は後頭を椅子の背に凭《もた》せ、天井に瞳を凝らしていた。いかにも銀行内のエリートらしく賢そうな思案ぶりだった。
「かしこまりました。承知いたしました」
もとに戻した顔を田沢にふりむけた。
「そうですか、それはどうも」
「おたくとわたしどもの銀行とは六十年来のお取引ですからね。NRCの事情よりも、わたしどもは江坂産業さんをご信用申しあげております。この四月には、原油代の高騰で与信総額もそれ以前の四倍にふやしていただいておりますしね。支払期日延期の金額がかなり大きいようですが、わたしの判断で、その|はね《ヽヽ》金融を承知いたしました」
「そうですか。どうもありがとう」
田沢はなるべく軽い調子で、そつのないエリート支店長に頼んだ。
為替手形に見合う約束手形の支払期日延期書替えつまりロールオーバーは、めったに起らないとされている。しかし、「はね金融」ならときどきある。商社の回転資金が一時|狭窄《きようさく》状態になっているときである。いま江坂アメリカの財務部長が持ってきた話も、金額は大きいけれど、それである。
田沢は支店長に言った。
「この千五百四十万ドルぐらいは、わたしのほうでユーザンスの満期前にひとまず立替えてNRCの約手を決済すればいいんですがね。また、代理店業務というのは本来そういうものでもあるけど、そういうことを今からやっていると、NRCを甘やかす癖がつきますからね。ここはきちんとやっておきたいのです」
これにたいして淀江支店長は、ごもっともです、と言った。
そのあとは空気をなごませるためか支店長はニューファンドランドにいつか休暇をとって鮭《さけ》や鱒釣《ますつ》りに行きたいなどと言った。
田沢は、もし製油所をごらんになりたければ、いつでもNRCから製油所長あての紹介状を書いてもらいます、と言った。
支店長は、その節はおねがいします、と頼んだが、ふと思い出したように、
「カンバイチャンス製油所はプロビンシャル・リファイニング・カンパニー(PRC)が操業しているんですね?」
と訊いた。
「そうです。PRCが操業会社で、NRCがその管理運営、つまり精油の販売をする会社です。ですから、NRCとPRCとは一体なんです。それをサッシンさんのサッシン・ナチュラル・リソーシズ(SNR)がその系列下に置いているわけです」
田沢は言った。
「PRCは、やはりニューファンドランド州の州立会社ですか?」
「そうです。クラウン・カンパニーですよ」
田沢は躊躇《ちゆうちよ》するところなく答えた。
「そうすると、クラウン・カンパニーのPRCには、最後にカナダ連邦政府の保証があるのですから、それと一体のNRCの基礎は絶対というわけですね?」
「そういうことです」
田沢はまことにのんきに返事をした。
「それに加えて、江坂産業さんの年来の信用ですから、手前どもはまったく安心しております」
支店長の淀江は濃い眉をあげていった。
「どうも。これからもよろしくおねがいします」
「こちらこそ。ときに、ご無沙汰していますが、社長さんはお忙しくていらっしゃいますでしょうね?」
江坂アメリカ社長安田茂のことである。話題が変った。
「はあ。なんだかんだと忙しがっています。あの人は几帳面な性質《たち》ですから。それに安田は社長になって一年一カ月半ですから、仕事に馴れるのにもう少しかかるかもわかりません」
「しかし、前にニューヨーク店長をやってらしたから、こちらの業務にはご経験があるわけですね」
淀江もソファに背をもたせ、楽な姿勢をとった。
「いや、店長と社長とはやはりだいぶん違うようですよ。それに米州総支配人を兼ねていますから、ほかの支店も見なければなりませんからね」
「ごもっともです。ゴルフ場でもお見かけしないので、お忙しいだろうとは思っていました。前の上杉さんとはゴルフ場でよくお眼にかかりましたよ」
「上杉前社長さんは、すっかり馴れ切っておられましたからね」
品川次席が口をはさんだ。
「アメリカに二十年間も居たんですから、そりゃだいぶん違います」
「二十年といえば、人生の三分の一ですね。こちらがもう故郷と同じでしょう」
淀江があらためて驚歎の眼をみせた。
「ご承知の通り上杉はハワイ生れですからね。アメリカが故国のようなものです」
「うかがってはいましたが、ゴルフ場などで話される米語などはアメリカ人以上に流暢《りゆうちよう》なもので、びっくりしました。日本よりもアメリカに友人やお知合いが多いと思います。今年の前半には上杉さんのお姿をよくこのニューヨークでお見かけしたと聞いていますが、ご出張のさいにはそういうお友だちによくお会いになるのでしょうね?」
「そうかもしれません」
田沢は曖昧に答えた。
品川が年下の支店長へそっと眼で合図した。江坂アメリカに始終出入りしている品川は、上杉の女の噂や、安田と上杉とが反目し合っていたことなども知っていて、これは淀江には前に教えてあった。
淀江は次席のひそかなサインでそれを思い出したか、いくらかあわて気味に、しかし、そのうろたえを見せないように上体を椅子の背からおもむろに引きはなし、軽い咳をした。そのうえで、
「上杉さんは、東京本社の原燃料・鉱産担当重役として、こんごもずっとNRC業務を見てゆかれるとうかがいましたが、ニューヨークによくお見えになってたのは、NRCとの業務連絡が多いのですね」
と、話の中心を上杉の仕事にあらためて置いた。
「そうです。NRCのプロジェクトは上杉常務がはじめからタッチしていたので、それに通暁しているわけですね。江坂アメリカは上杉の指示にしたがって実務を行なうだけになっております」
最後に、田沢は住倉銀行から千五百四十万ドルに見合う「|はね《ヽヽ》金融」を受ける手続きを済ませたあと、腕時計に眼を投げ、椅子の肘掛に両手を突いて腰を浮かせた。
2
いい天気で、両側のビルにも路上にもおだやかな秋の陽が当っている。これまで建物や並木の影を拾って歩いていた人々が、日光の下をえらんでいた。その並木の葉が黄色くなり、分離帯の植物に赤い花が群れていた。
車の窓に流れるこの明るい風景を座席の田沢貞一は憂鬱な眼差しで眺めていた。瞳が動かないから、何を見ているのでもなかった。
十六日が期限のBPの為替手形に見合うNRCの約束手形千五百四十万ドルの|はね《ヽヽ》金融を住倉銀行ニューヨーク支店に頼むように命じたのは安田社長であった。
これが前社長の上杉二郎だったら、すぐにも江坂アメリカの手持ち回転資金から支払ったにちがいない。いずれ近いうちにNRCがその約手の決済をすると信じている上杉は、代理店としてユーザンス満期内の立替え払いを躊《ためら》いもなく行なったであろう。銀行に対して実質的なロールオーバーなどというみっともないことは避けたにちがいない。
いまから立替え払いをしていてはNRCにこっちの足もとを見られると言い出したのは安田現社長である。そこに前任者上杉への反撥があった。上杉がNRCプロジェクトを達成したことへの嫉視、そうしていまも東京本社の原燃料担当としてその業務を見ていることへの反感と対抗が安田にある。NRCにはきびしい態度に出ないと足もとを見られる、という安田の言葉には、NRCのサッシンに甘かった上杉への意識があった。こっちは舐《な》められないぞ、という安田の心がのぞいているように田沢には思われた。
そのほか安田の言いぶんには、千五百四十万ドルは立替えるにはあまりにその金額が大きすぎる、そんなことをすれば江坂アメリカの資金繰りが苦しくなり、資金ショートを起しかねない、というのがあった。
だが、そういうことはない。原油値上りいらいの江坂アメリカの各邦銀支店の与信総額は二億ドル以上にもなっている。これで資金ショートが生ずるはずもない。
しかし、田沢には安田社長に楯つけないものがあった。上杉にたいする安田の特殊な感情もそうだが、そのほかに上杉の指示で田沢は財務部長としてNRCに四千二百万ドルの融資を安田には黙っておこなっている。それも、向う十二年間据置き貸付、無担保というものだった。しかも、これは本社にも正式に報告されてないもので、いわば当時の上杉社長の独断による秘密融資である。
この融資がNRCの代理店になる絶対条件だから、責任はすべてぼくが負う、君はぼくの指示どおりにやってくれていい、と田沢は上杉に言われた。原燃料担当部員の有本七郎も島村和雄も同様に上杉から言い含められた。
上杉が社長のまま留任していれば問題はないが、去年の九月一日付で本社役員に転じた。上杉は担当重役としてひきつづきNRCとの折衝に当っているが、それは両社上層部どうしでの話合いであって、実務は依然として江坂アメリカがおこなっている。その社長が安田だから、田沢にとっても有本や島村にとってもやりにくいことだった。とくに田沢財務部長は上杉社長時代からの金の流れの責任者である。
東京本社に転じた上杉は、この四千二百万ドルの対NRC秘密融資のことが気になって、今年の一月から五月にかけてニューヨークにたびたび来た。上杉はじぶんの後任者の安田社長のところには行かない。こっそり会うのは腹心の原燃料担当部員有本七郎・島村和雄と田沢財務部長だけである。
中東戦争で原油の値段が今年の二月で四倍となった。したがって対NRCのLCを設定している各邦銀ニューヨーク支店の与信枠を四倍にひろげることになり、これは本社の常務会で承認を得た。四千二百万ドルをこの増大した与信総額のなかに押し込み、十二年先まで据置きのNRCに対する無担保貸付額の帳尻を減少させる、というのがこっそり会ったときの上杉のプランだった。四倍にふくれ上がった取引高を利用して今後十二年間にわたる取引の中で貸付金四千二百万ドルを漸次解消してゆくという、のちの常務会手当て用の「合理的」な数字のマジックであった。
今年の四月二十日付で江坂産業原燃料本部長平井忠治の名で常務会に提出された「ニューファンドランド・リファイニング・カンパニーの近況報告」の中に、原油価格上昇に伴って、与信総額を約一億八千九百万ドルに増大させて、「ユーザンス 期間に関係なく総額四千二百万ドル」とあるのは、その魔術的な数字合せである。期間に関係がないというのは、貸付金の返済支払いが十二年先というのに合せているようだ。
この常務会報告は、その前にニューヨークに来た上杉と有本とが相談して腹案を練り、田沢がこれに参加した。上杉はこれを東京に持ち帰り、自分に心酔している本社の原燃料本部石油第一課長の篠崎寅雄に常務会報告の案文を書かせ、平井忠治原燃料本部長が常務会に提出したものだ。平井はよそから途中江坂産業に入社した人で、上司の上杉担当役員とはできるだけ衝突しないように心がけていた。いつかも彼はその立場上なにげなくNRCのバランスシートを見せてほしいと上杉に言ったところ、上杉に顔色を変えて怒鳴られたことがあり、それいらい東京本社の原燃料本部長でありながらNRCにはノータッチであった。
江坂アメリカの財務部長田沢貞一には、安田現社長に対してNRC貸付金の四千二百万ドルの秘密があるが、これがいつ安田に暴露するかわからないのである。有本などは、すべては上杉さんが単独でやったことで、われわれは何も知らないことにしよう、それよりほかに逃げ道はないなどと言っていた。
しかし、この対NRC貸付金は、上杉の話だと、河井社長の承認を得ているということだった。ただ、常務会には話してない。前に栄光商船との用船契約のとき、NRCには担保つきで千五百万ドル融資している、いままた無担保で四千二百万ドルも融資するとなると、かならず常務会の反対をうける。そうなるとNRCの代理店になれなくなるので、これは上杉君のいうとおりに常務会にはしばらく秘しておこう、といって賛成したという。上杉はそう田沢らに洩らした。
河井社長が承認していれば問題はなさそうに見えるが、それは常務会に図ったものではないから、いわばヤミの承認だった。常務会に出してあるNRCとの正式契約書には「江坂アメリカは代理店としてNRCに代りBPに対して前払金を支払う」とはなっているが、その金額は明示されていない。四千二百万ドルの金額は「補助契約書」ではじめて出現する。
それに、上杉から田沢が聞いたことだが、正式契約書には、はじめNRC側の原案では融資の正体をそのまま表現した「loan」(貸付)という言葉になっていた。「貸付」では常務会の承認が得られないので、これを「advance」(前払い)の文字に変えてくれといったのは上杉である。河井社長もそれを支持したという。NRCの副社長のビル・ブリグハムもSNRのサッシン社長も金さえ入ってくれば文句の表現はどうでもよいから上杉の言う通りになった。かくて、原油代の「前払い」となれば原油を売るほうのBPになされるべきなのに、逆に原油を買うほうのNRCへ「前払い」がなされるという、はなはだ辻褄《つじつま》の合わない、滑稽な文章が引き出されることになった。
しかるに、そのときの常務会は甚だ迂闊とも呑気とも言いようがなく、正式契約書にある「江坂アメリカは代理店としてNRCに代りBPに対して前払金を支払う」(金額は明記せず)の条項の文章と、河井社長の巧妙な説明で、すんなりと承認してしまった。これを深く研究もせず、追及もしないで。また、そんなことをすれば他日自分の番にはね返ってくるので、各常務とも揃って判を捺したのは、儀式《セレモニー》である常務会の性格を遺憾《いかん》なく現していた。また、それを見こしていたから、河井社長も上杉江坂アメリカ社長(当時)も正式契約書だけを出して諮《はか》った。
そのとき、上杉の仕事に最も文句を付けそうな社主の息子の江坂明太郎専務は自己の手がけたアメリカ西海岸の事業が大失敗して意気沈み、財務担当の鍋井専務は社主要造に江坂家の私事にまで入りこんだというので「出過ぎ者め」と叱られて勘気を受け、その地位すら危なくなっていた際だ。彼は心そこになく、NRCの正式契約書を検討するどころではなかったろう。これも河井・上杉にとって天の佑《たす》けであったといえそうである。
しかもこの四千二百万ドルのNRCへの融資も、それが無担保であり、十二年の長期据置きであること、ユーザンスが無期限であることなどを明記した補助契約書も、上杉の説明ではすべて河井江坂産業社長、米沢同副社長らが承知の上のことだという。このようにトップが承認している融資のことが、どうして心の重荷になっているのかと田沢は胸にきいてみる。
やはりこれが常務会の正式な承認を得たものでないという暗い影につきまとわれているからである。この融資額も、補助契約書の内容も、みんな隠し子だ。常務会の認知をうけたものではない。
NRCのほうが調子よくゆき、江坂アメリカ=江坂産業の石油部門が飛躍的に発展したあかつきには、常務会の追認ということになろうが、それまでいつ常務会にこれが知れるかわからない。それより先に安田江坂アメリカ現社長がいつ気づくかわからないのである。たとえば本社から会計監査にきたときがその一つの危機ではないか。その指摘があったとき財務部長としての自分は、監査の役員や安田社長にどう答えたらよいのか。……
車は交差点の信号で停まった。歩道の人ごみの中からこっちへむけて笑いながら手をあげている女性がいた。知合いの商社員の奥さんで、日本から観光にきた知人を案内しているらしい。田沢は重い気分のなかで笑顔をつくってそれに応えた。
もう一つ、田沢にとって安田社長にたいする背信的な負担は、四千二百万ドルを各銀行からすべて江坂アメリカ財務部長の署名で引き出し、去年の十月末から今年の七月にかけて、NRCのブリグハム副社長宛てに送金していることであった。去年の九月には上杉に代って安田が後任社長としてすでに着任しているのである。
江坂アメリカが各取引銀行に自社の「会計責任者《トレーザラア》」(treasurer は政府では「財務官」の意)として登録しているのは、社長と財務部長と、それにニューヨーク支店長の三人であった。この三人のうち一人のサインだけでも、銀行は預金の引出しや金融を承認する。
四千二百万ドルの大金は田沢が安田社長にかくれて調達し、NRCへ貸付けたものだった。たとえその実践が、本社の河井社長、上杉担当常務の指示に従ったものとはいえ、あくまで秘密裡の実行であったから、このことを隠している直属上司の安田社長にはまことに後ろめたい思いであった。会社規約からしても組織体秩序からしても違反行為である。
もう一人のトレーザラアのニューヨーク支店長富田正一は、在任中の上杉社長とははじめのあいだはよかったが、チリーの鉱石買付けか何かのことで独断があったといって上杉に叱責され、いらい上杉の仕事には関知しないようになった。ことにNRC関係にはまったくそっぽをむいていた。
上杉と安田の不仲はもとよりのことで、顔を合せても口を利かない状態だった。このような現象はどこの会社にも似たり寄ったりがあるもので、それほど異とするにはあたらないが、社長交替の事務引継ぎもNRC関係を上杉は口頭で仕方なしに早口にしゃべっただけであった。安田もまた義務として承るというだけで、とくに上杉が手がけたNRC関係には気乗りがしないので、その基本書類を見せてくれとも頼まず、上《うわ》の空で聞き流していた。
しかし、ひとり不安なのは田沢であった。NRCとの補助契約書(Supplementary Agreement)は、上杉の言いつけでとくに彼が保管している。また四千二百万ドル貸付に見合うNRCの約束手形(一九八五年六月末が支払期日)もその補助契約書といっしょに金庫に蔵《しま》いこんでいた。このことを社内で知っているのは有本と島村だけである。原燃料部のこの二人は本社の上杉と絶えず連絡をとって上杉の指示をうけている。この一月から五月にかけて上杉は頻繁にニューヨークに来たが、彼は有本らとどこかで会ってはいても、安田社長のところへは一度もやって来なかった。
もちろん安田はそのことを承知であった。社内の昼飯の場所などで有本や島村や田沢と顔を合せると、上杉さんをこのニューヨークの街角で見たという噂があるが、あれはほんとうかね、とにやにや笑いながら、何しろ上杉君は以前から神出鬼没だからね、などと彼らに当てこすっていた。
有本などはけろりとしたもので、いやまったく、とかなんとかいって胡魔化しの相槌を打っていた。安田にしても、上杉などに社長室へ入ってこられるよりも、腹に据えかねる思いではいながら、その顔を見ないほうが気楽そうであった。そういうことで田沢は今後のNRC関係について成行次第では東京本社にいる上杉常務の次に有本と島村がたよりであった。
こんどの千五百四十万ドルの「|はね《ヽヽ》金融」でも、上杉さんがこっちに居たら、そんなケチな真似はせずにあっさり江坂アメリカの豊富な回転資金から立替え払いをしますよ、NRCから原油代の入金が少しくらいおくれても、ウチがBPに立替え払いをするのがNRCの代理店業務たるゆえんじゃありませんか、それを銀行にたのんで|はね《ヽヽ》てもらったりするのは、安田さんの上杉さんへの嫌がらせですよ、と感想を洩らしたのも有本であった。
このぶんでは、補助契約書や長期貸付のNRC振出しの約束手形の存在が知れたときの安田社長の激怒のほどが想像でき、いかに本社担当役員たる上杉の指示、社長・副社長の内密な諒解があるとはいえ、田沢は安田にたいして虎の尾を踏む心地であった。
三番街九五番地アトランティック・ビル十六階の江坂アメリカのオフィスに帰り、田沢が社長室に行くと、安田茂はひろい机の上に英文の書類をひろげていた。
報告にその机の手前に田沢が立って、ふとその書類の標題に眼を落すと「SUPPLEMENTARY AGREEMENT」とこちらから読めたので、心臓の上に石が飛んできたようになった。が、心をしずめてその逆さ文字によく眼を止めると、似てはいるが違ったアルファベットの羅列であった。
安田は机の前に立っている田沢に眼をあげたが、動揺の残る彼の顔色を見て、眉をひそめた。|はね《ヽヽ》金融を銀行が断わったと思ったらしかった。
「こちらの希望どおりにゆきました」
田沢は、社長がひろげているのが補助契約書でなかった安堵を含めて、明るく報告した。
「支店長の淀江さんは即座に承知してくれました。千五百四十万ドルの|はね《ヽヽ》金の手続きは済ませてきました」
「あ、そう」
安田はべつに声もはずませず、
「ご苦労はんでした」
と単調に言って、また書類に視線を晒《さら》した。社内では「剃刀《かみそり》の安」と言われて、仕事は切れるほうだが、どちらかというと事務に精通していた。
「淀江さんは社長によろしくとのことでした」
「ありがとう」
「淀江さんは任期中に休暇をとってニューファンドランドに鮭や鱒を釣りに行きたいと言ってましたから、そのときカンバイチャンスの製油所をごらんになるのでしたら所長あてにウチからNRCの紹介状をもらってあげますと話すと、支店長はよろこんでいました」
「ああさよか」
社長が眉間にうすい縦皺をつくったのを見て、田沢は気がついた。安田にとってはNRCもカンバイチャンスの製油所も耳に好ましくない響きであった。千五百四十万ドルもの|はね《ヽヽ》金融をすぐに承知してくれた住倉銀行の支店長を賞め、安田にもよろこんでもらおうと思ったはずみが、つい、うかつな口走りとなった。
「そのほか、支店長はNRCのことで何ぞ言うてへんでしたかいな?」
どういうつもりか安田のほうから気に染まないはずのNRCの名をもち出した。が、それはNRCに対して銀行筋に消極的な評価があるのではないか、あればそれを聞きたい、というふうにもとれた。
「そうですね、べつにとりたてては言いませんでしたが、NRCと一体となっているPRCはやはりクラウン・カンパニーですかと支店長はききました。もちろんそうですよ、と答えましたけど、クラウン・カンパニーというのは銀行筋にも好感が持たれていますね」
「ふむ」
安田社長は鼻から吐く息に混えて返事をし、
「まあ、NRCのとりえいうたらクラウン・カンパニーくらいなもんやなア」
と軽く言った。
「社長は、NRCのブリグハム副社長やサッシン・リソーシズのサッシン社長に会われますか?」
田沢は、安田のほうからNRCのことを言い出したので、こんどは安心してきいた。上杉の後任の江坂アメリカ社長としても、またNRC関係の実務責任者としても、普通ならサッシンやブリグハムに会うのが筋というものだった。
「いやいや、ぼくはあの人たちに会う気はおまへんわ。上杉君がいまも直接に当っているんやから。ぼくはそれに深くかかわりとうおまへんな。本社から言ってくることだけを適当にやってればたくさんだす」
安田は手を横に振らんばかりであった。
上杉二郎のやったあとの仕事をなぞれるものかという反撥、面倒な思いまでして上杉の責任をこっちが分担するいわれはないといった回避が、安田のその言葉にはっきりと出ていた。
三時すぎ、田沢は原燃料部の有本に誘い出されて近くのコーヒー・ショップに行った。クライスラー・ビルの白い尖塔の頂上がのぞく商店街は人通りが多く、女の服装も秋の落ちついた色になっていた。
カウンターに肘を突いてコーヒーをとった。まわりにはオフィスづとめの若い男女が鼻にかかった発音でしゃべりあっていて、こっちの内緒話の邪魔にはならなかった。離れた向う隅に、よその日本商社員が二人坐って、これもひそひそ話をしているだけである。
「|はね《ヽヽ》金のほうは、うまくいったそうですね?」
有本は、黒眼鏡の奥から若い眼を笑わせた。
「ああ。スムーズにいった」
田沢は運ばれたコーヒーに一口つけた。
「そりゃそうでしょう。銀行にしてもウチのLCをひらいていることでうまい汁を吸っているんですからね。こんどの千五百四十万ドルにしてもVLCC一隻ぶんですが、その手数料の約二千九百万円が寝ていても銀行に入るんですから、こたえられませんよ。二カ月の|はね《ヽヽ》金なんかは即座にひきうけても罰はあたらないはずです」
有本は言った。
「君、いまでもほかの銀行からウチのLCをつくってくれと言ってきてるよ」
「そのはずですよ。邦銀は貸出しの金がだぶついて困っているんですからね。ウチのような厖大《ぼうだい》な取引をする商社のLCは邦銀ニューヨーク支店にとってはいちばん魅力的ですよ」
去年から今年にかけて日本の銀行は国際化時代に入っていた。邦銀は国際金融市場から資金を短期で借入れていたが、この資金の金利が、企業にたいする貸出金の金利を上回るという逆ザヤ現象を起していた。国際金融市場ではこれを「ジャパン・レート」と呼んで、日本の銀行の性急な借入れ競争に顔をしかめていた。しかも邦銀にはその借入金を消化するだけの貸出先がないのだから、手持ちが過剰となっているため、信用ある企業の貸付先として比較的有利な金利で貸付けられる日本の総合商社が邦銀の目標になっていた。
有本は、千五百四十万ドルのNRCの約手は立替え払いができたのに、|はね《ヽヽ》金融を住倉銀行に頼んだのは安田の上杉に対するイヤがらせだ、とここでも言ったあと、
「ときに、田沢さん。NRCとの正式契約書にあるBPへのアドヴァンスのことを安田さんはまだあなたに何も訊きませんか?」
と、身を寄せてきた。
「いや、まだ、ご下問はないね。あの人は、上杉さんのやったことに無関心を装っているからね」
「そこが安田さんの盲点になっているんですね」
有本は他人事《ひとごと》のようにいった。
「なあ、有本君」
こんどは田沢が有本の横顔に顔を寄せた。
「ぼくは今日も住倉銀行からの帰りに、車の中でのことだが、BPへのアドヴァンスという名のNRCへの貸付金が、いつ安田さんや本社の常務会にわかるかしれないと考えると、気が滅入ってね、鬱《ふさ》ぎの虫にとりつかれてしまったよ」
「そんなにご心配になることはありません」
有本は片手で田沢の背中を敲《たた》いた。
「すべての手形の決済日は一九八五年六月末とすると補助契約書にあるじゃないですか。十二年先の勘定日ですから、それまでNRCの手形は表面上は問題にならないわけです。それに、ユーザンスの期間も十二年間ですから、そのあいだはそのぶんのロールオーバーもありませんからね。あれは上杉さんとブリグハムとが考え出した名案ですよ」
「うむ」
田沢はがぶりとコーヒーを飲んだ。どういうわけか銀行で出された|おうす《ヽヽヽ》を思い出した。
「それに、石油代の高騰に比例して与信総額も四倍に上がっています。NRCのスタンバイ・クレジットのほうは依然として三百万ドルですが、これも与信総額が四倍になった今は少なすぎます。けど、今後NRCとの長い取引の中にこの四千二百万ドルを押しこみますからね。少なすぎるスタンバイ・クレジットも問題でなくなります。これもNRC副社長のブリグハムが考案したと上杉さんは言ってましたが、うまい手を考え出したものです」
「そうか。ぼくはまたサッシンと上杉さんとが相談して案出したのかと思っていた」
「ブリグハムはサッシンの片腕ですからね。口八丁手八丁の人物ですよ。まあそんなことで、あの貸付金が十二年先の帳尻にたとえ少々残っていたところでたいしたことはありません」
「そうだな」
「そうですよ。第一、このカラクリは当座の便法ですからね。いまにNRC代理店としてわが社の石油部門が軌道に乗って繁栄すれば、なにもこそこそといつまでもこれを隠しておく必要はないわけです。常務会に堂々と出してその追認を取ればいい。常務会だって異議は出ませんよ。本社の河井社長もそのつもりなんでしょう」
後輩は弱気な財務部長を勇気づけた。
「ぼくはいまからあまりに暗い面だけを考えすぎていたのかな」
田沢の眼が反省の末に明るくなった。
「それはそうですよ。いまはPRCのカンバイチャンス製油所が操業にとりかかったばかりじゃありませんか。ストも終ったというから、飛躍はこれからです。四千二百万ドルの貸付金くらい問題じゃありませんよ」
うむ、と田沢はうなずいた。口からこぼしたコーヒーの茶色っぽい滴《しずく》が襟に付いていた。
「それにね、田沢さん」と有本はなおも言った。「あと二、三年もしたら、米沢社長時代ですよ。次期社長を考えて石油部門の拡大にハッスルしたのは米沢さんじゃないのですか」
「米沢さんがそうだというのは十分考えられるね」
田沢の表情がますます明るくなった。
「米沢さんが社長になったときは、河井さんは相談役に退き、上杉さんも退社しているでしょう。あの人は、退《や》めたい退めたいと言ってるんですから。自分の功績を考えてのこととはいえNRC関係でともかく上杉さんのつっかい棒となっている河井さんが退けば、社主に睨まれている上杉さんのことですから、すぐにやめてゆきますよ。大橋会長もだんだん力がなくなっているから、上杉さんへの庇護にも限界があります」
ニューヨークに居ても有本には本社上層部の人的関係がマンハッタンの地図のように分っていた。
「とにかく十一年さきのことまでは考えないことにしましょうよ、田沢さん。そのときわれわれの環境だって、どうなってるかわかりませんからね」
田沢財務部長は有本にバケツの水を浴びせられたような気がした。
十一年さきには、自分はとうに停年になって江坂産業を退社している。孫の守りでもしているころかもしれない。そのときのNRCへの貸付金《ローン》の帳尻を心配している自分を、有本は嗤《わら》っているようであった。
この才気走った男はそのころ本社の部長か、役員で本部長になっているかもしれなかった。田沢は、有本の剃りあとも青々しい精気溢れる横顔を、ふたたび気落ちした面持で眺めた。──
千五百四十万ドルのBPの為替手形に見合うNRCの約手の決済は、|はね《ヽヽ》金融の猶予期限の二カ月以内にNRCが三回に分けて完全に実行した。
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カンバイチャンスの製油所の空は日ごと夜ごと炎が燃えつづけていた。周辺に林立するタワーよりもひときわ高いフレアー・スタックの先からは放出される石油ガスの火焔が渦巻いて噴いていた。
一昨年(一九七三年)の暮から工場は操業に入っていた。生産は順調にいっている模様だった。
だが、南北約三キロ、東西約二キロを自然林の中からきりひらいて工場にしたところで、その人工的な構築は、広漠とした針葉樹の森林の中では砂粒の塊のようなものだった。が、その森林地帯にしても、面積十一万平方キロのニューファンドランドの全島では五分の二にすぎない。四百メートル以上の高地は凍土地帯《ツンドラ》であり、それが島の西北部から西南部にかけての山地全体にわたっていた。火山起原のこの島は岩礁から成り、多くのくぼみは湖や沼沢となっていた。まわりは北大西洋の海で、北だけがせまいベル・アイル海峡を隔ててラブラドールに接している。村落があまりに少なすぎ、人口があまりにまばらであった。
その中での製油所であった。たしかに全島からすると砂粒のかたまりのようではあったが、その砂粒は現代的な工場建造物が設計技術の粋を尽して層々と積み上げられたものだった。蒸溜塔・減圧塔・反応塔・再生塔など一群のタワーは銀色に光って空にそびえ、それぞれが沢山の機器を従え、無数の石油輸送管がそのあいだを巨人の動脈のように走っていた。大小の貯油タンク群が整列しているところは、まるで婦人化粧品売場にならべてあるシルバーのコンパクトを見るようだった。
けれども、それが技術の粋をつくした現代工場であればあるほどまわりの荒涼とした風景とは合わなかった。ここから西方三十五キロのところにある新聞用紙用のパルプ工場はすでに古いし、それにすすけた旧式の単純な工場だった。パルプ工場はそれなりにまわりの荒々しい風景と融けあっているが、この製油工場はあまりに新しすぎ、美しくしゃれすぎ、巧緻にすぎた。そのため周辺の粗野な光景からは分離し、孤立していた。
のみならず、この広漠とした自然林の曠野には、近くに十数戸の漁村が一つあるという以外、人の息吹《いぶ》きもないというのに、この工場の構内には千人近い人々がかたまって働いていた。湖は工業用水池であった。従業員の宿舎として白亜のアパート団地もある。小さいが商店街もできている。トラックや車が走り、プラセンシア湾につき出た長い埠頭には大型タンカーが横付けされている。それがあまりに人工的に過ぎた。それも忽然と二年前に出現したのである。異様な光景だった。
北緯五十度に位置しながら、このひろい島は冬期でも氷点下十度ぐらいだった。近くを流れているメキシコ湾流の影響だった。雪はそう深くは積もらない。けれども白い世界にはなる。三月ごろになると沖合に大きな氷山が訪問する。寒流と暖流の変り目となるこの季節では、海は濃霧に蔽われる。
深い海霧《ガス》の中に光る中空の火焔を見ていると、あたりが灰色に閉じられて何も分らないだけに、まるで悪魔のしわざのようだった。霧の立たない日中は、雲の天蓋が製油所の上に輪をつくり、その雲に赤い炎が映る。森林に棲むムース大鹿や黒クマやキツネなどの動物も不安げにこれを見上げているようである。
夜はそのフレアー・スタックから噴き出る石油ガスの火焔が空を焦がし、海に映じる。製油工場の各施設には蒼白い電灯が点く。その一カ所以外は暗黒である。沖合を通る漁船の漁夫たちは、宙なる妖火と、墓場のような工場の蒼白い光とを眺めて、縁起でもねえと身震いした。夜光虫を数珠玉《じゆずだま》にしたような長い桟橋は、暗い海に突き出された悪魔の槍に似ていた。
この桟橋には、約二週間ごとに二十万トン級の大型タンカーが入れかわり立ちかわり現れては横付けされた。原油を二十万トンの船に満載したとするとそれは百四十五万バーレルにあたる。サウジアラビアの出荷港からこのプラセンシア湾までは片道三十日を要した。月産三百万バーレルの製油所に原油を不足することなく供給するためには、百四十五万バーレルを積んだVLCCが一カ月以内に約二隻(二百九十万バーレル)入港しなければならなかった。
昼夜に拘らず、タンカーからの原油が輸送管で工場に送りこまれる発電機のモーターが響く。夜にはVLCCののっぺらぼうな広い甲板にはマストの灯しか見えないが、端にかたよった船室の窓には明りがともっていた。そこからはときどき日本人船員の唄声と手拍子とが洩れて昏《くら》い海風に乗った。
ニューファンドランド島の漁船は、この島の南にあるグランド・バンクと呼ぶ海陸棚いったいをタラの漁場にしていた。水産ではタラの水揚げが筆頭だった。ニューファンドランドのタラ漁船もその漁夫《バンカー》も、その漁場の名をとってバンカーとよばれた。タラ漁船の漁夫たちは、夜の出漁でプラセンシア湾の沖合を通るたびに、製油所の宙なる赤い妖火を遠望した。そしてタンカーの黒い巨体を見た。かれらにはそれがまるで魔法の島のように映った。それにつれてまわりのじっさいの小島にも岬にも精霊がうごめいているように思われ、製油所ができる前には決してなかった戦慄を彼らはおぼえた。
漁夫たちは、もちろん一昨年の十月はじめにあの桟橋にやってきたクイーンエリザベス二世号と、その船上で挙げられたとてつもない華美な祝典のことを憶えていた。この記憶は語り草となってのちまでも消えることはないだろう。漁夫のなかには物見高い見物人としてその世界一の豪華船の中に入れてもらった者もいたし、開所式でのアルバート・サッシンの意気揚々たる演説も聞いていた。
──この製油所の建設にあたり、業者は一万七千八百立方ヤードものコンクリート打設工事、千二百トンの鋼材を使ったパイプラック工事、一万トン以上もの熔接鋼管製スプールと七百二十五トンもの特殊鋼管製スプールで組み立てた配管工事、四十八万八千フィートの地上配管工事、八万七千フィートの埋設配管工事を行なった。建設請負会社は五十七万五千平方ヤード以上もの沼地を埋め立て、百万立方ヤードの土や岩を掘削したのである。五万五千トン以上もの機材が現地に運ばれたが、そのなかには五十七万五千フィートにおよぶ長大な鋼管が含まれている。六基の原油貯蔵タンクは、一万八千四百七十六トンの鋼材を必要とした。……
外観からしても、この劇的な数字による機材の組み合せが、さまざまな高塔をもつ壮大な銀色の現代城郭の積み上げとなり、科学技術の粋を尽して精力的に活動している状《さま》が知られた。
石油精製は、高度な化学・物理原理の応用・最新工学技術の応用による。それには基本的には、原油中に混じっている炭化水素の成分を各種製品ごとに一つ一つ取り出す分別の操作と、原油中の有害な不純物を除去あるいは無害なかたちに変える操作と、分別した各種成分の本来の性質を製品の利用にもっとも適するように変質させる操作と、以上の三つの操作を行なった各種成分を製品の利用に最適となるように組み合せ、それでも不十分なばあいにはさらに各種添加剤などの有効物質を配合する調合の操作とがある。
この基本的な四つの操作を組み合せた石油精製法のうち、分別方法では蒸溜がその操作の代表となっている。
原油は、原油蒸溜装置に入れられるが、この装置には加熱炉《パイプスチル》と蒸溜塔《トツパー》とがある。原油は加熱炉の|加 熱 管《フアーネスチユーブ》の中で、蒸溜に必要なだけの熱を与えられて蒸溜塔にはいる。ここで各成分の沸点の差に応じてそれぞれの溜分に分けられる。
混合溶液を、その成分分子の沸点の差を利用して分離するのがこの蒸溜である。原油はいろいろな炭化水素分子の複雑な混合物だから、これらを分別する蒸溜は石油精製のうちでもっとも重要な単位操作となっている。
原油はまず常圧蒸溜装置で、この操作により軽質ガソリン・重質ガソリン・灯油・軽質軽油・重質軽油が蒸発分離されて得られ、その残り渣《かす》の残渣油《ざんさゆ》が蒸発せずに筒底より出る。軽質・重質ガソリンは次の水素化精製装置(Hydro Treating)によって不純物が除去され、精製ナフサとなり、さらに改質装置でオクタン価を高めるとプレミアム・ガソリン、レギュラー・ガソリンが製造される。軽質軽油や灯油はやはり水素化精製装置によって、製品灯油やディーゼル軽油に精製され、ジェット燃料は精製ナフサ灯油の調合により作られる。残渣油は減圧蒸溜装置にかけられ、さらに有効成分に分離され、重質軽油とともにそれぞれの製品目的に応じた精製工程によって各種重油、アスファルト、潤滑油、パラフィン蝋《ろう》などになる。
水素化精製とは、原油中の不純物を除去するもっともよい方法の精製法である。プラットフォーマーからの副生水素や水素製造装置からの水素を利用して、硫黄化合物は硫化水素に、酸素化合物は水に、窒素化合物はアンモニアに、金属類は触媒に吸着され、それぞれをほぼ完全に除去する方法である。
これは燃料の精製に適用し、脱硫(硫黄分を抜く)や脱臭、脱色をおこない、これらの燃焼性と安定性を高め、残溜炭素分を少なくする。
軽質重油を原料として高オクタン価のガソリンを製造する分解法は、普通は触媒を使用する接触分解法によっている。接触分解法の代表的な方法は、シリカ・アルミナ系の粉末触媒を流動させて使用する流動接触分解法である。FCC法(fluid catalytic cracking)といっている。これだとオクタン価九〇(単味)前後分解ガソリンを五〇〜六〇パーセントの収率で得ることができる。
FCC法には、ER&E社とUOP社とシェル・デベロプメント社と、ケログ社の四方法がよく知られている。
この装置をかんたんにいうと、原料油が反応塔に入り、触媒と接触し分解反応を起し、カーボンのついた触媒は、内部のサイクロン・セパレーターの操作によって分離され、下段装置の再生塔に送られる。この二つの塔の高さは合せて五十メートルもある。分解して軽質化した生成物は蒸溜塔および回収装置によりLPG、分解ガソリン、分解軽油などに分離される。ナフサ、ガソリン、ジェット燃料、灯油、ディーゼル軽油などの商品価格の高い製品を通常「白モノ」とよぶのに対し、主として工業用燃料に使用される重油や船舶用重油《バンカー・オイル》などの重質油は、いわゆる「黒モノ」で低価格商品となる。したがってFCC法により白モノの製造比率が高いと石油会社の利益は多くなる。将来は白モノの製造比率が、技術開発により、現在の世界平均で六〇パーセントから七〇パーセント、八〇パーセントになることも、それほど夢ではなくなっている。
もっとも、石油の需要市場によっては、白モノを多く求めるマーケットと、黒モノをも相当量に欲しいマーケットとがある。日本のばあいは後者だが、アメリカでは航空機と自動車などが圧倒的に多く、重油以外の天然ガス、石炭などの燃料もあって、前者となっている。
このほか軽質重油を原料として「白モノ」を製造する分解法として熱分解法がある。重質油の軽質化の目的でよく知られているのがビス・ブレーキング法という熱分解法で、ニューファンドランドの製油所にはこの方法が導入されていた。
創立当時、ニューファンドランド州立会社だったプロビンシャル・リファイニング・カンパニー(PRC)は、重質油の軽質化の装置としてビス・ブレーキング装置のほか、N・クラフト社の「ハイドフリックス」装置を導入した。UOP社のプロコンによる「アイソマックス」に近似した装置である。これはN・クラフト社がイギリス系で、PRCの設立に財政的援助を与えた英国の銀行団《シンジケート》の強い意向によった。
石油については何もわからないニューファンドランド州政府は、カンバイチャンス製油所の技術者を雇傭《こよう》するのに、ウッドハウス首相と親しいアルバート・サッシンに依嘱した。ウッドハウス初代首相はPRCの設立者であり、彼はサッシンと組んで製油所プロジェクトを推進してきた。
サッシンの経歴についていえば、彼は一九四七年ごろから石油界にとびこみ、プエルトリコで最初の製油所を建設した。これは資金がつづかずに失敗した。しかし、カリフォルニアとカナダに製油所をつくり、つづいてパナマでも製油所の建設にとりかかった。その製油所が完成する前に、サッシンはイギリスの投資会社に売却し、同時にカリフォルニアとカナダの製油所も売り払った。売却した株の総額は九億ドルと噂された。そのようなことでサッシンは製油業のベテランであった。
もっともウッドハウスは当初その技術陣の選定を、原油を供給してくれるメジャーのブリティッシュ・ペトロリアム(BP)に要請した。しかし、一流エンジニアのイギリス人たちは製油所がカナダの東端にぶらさがっている凍土帯《ツンドラ》で占められた荒蕪《こうぶ》な島だと聞いて、たとえ一年の契約期間でも嫌だといって断わった。そんな島流しはごめんだというのである。そこで島流し生活でも希望する二流の精油技術者がさがしだされたのだった。その中のサミエル・フォルガーはカンバイチャンス製油所の工場長となり、マイルズ・ウォートンは技師長となった。
カンバイチャンス製油所施設の受注者N・クラフト社ではPRCと、その管理会社のNRCのために、製油所完成に必要な数々の基本的事項を盛った設計と技術資料を作製した。これはN・クラフト社の系列会社で、エンジニアリング会社であるシカゴのバーンズ社によって詳細な設計仕様書として編集された。この設計仕様書は通称「ブルー・ブック」とよばれた。
ブルー・ブックに記載された装置は、すべてクラフト社が開発したものであった。とくに精油機能の心臓部である水添脱硫装置においてはそうで、これはクラフト社が開発して特許を獲得しているハイドフリックスが指定された。
製油所装置のすべてをイギリス系のクラフト社(アメリカ・クラフト社)製のものにし、その設計の一切をその子会社の技術会社に依嘱した事情の裏には、英国銀行団とそのPRCへの融資を保証したECGD(英国輸出信用保証局)の圧力にも近い強い要望があった。そのような、やむを得ない事情をさし引いても、基本設計を一社に全面的に依頼したのは、カンバイチャンス製油所の技術者たちが技術的に未熟だったことを示している。
製油所はその建設にあたって、各社のメーカーに仕様書と見積書を出させ、技術陣はその幅広いもののなかから各部の目的に適応する最もよいと思われるものを選定して、各個別にメーカーを決めるのが普通であり、最良の方法とされている。その選定は発注側の技術陣が研究の上で行なう。カンバイチャンス製油所にその選定がなかったことは、つまりは選定するだけの技術的能力がなかったか、あるいは技術力の貧困さを露呈しているだけのことである。
ともあれ、一九七〇年四月二十日にはPRCとクラフト社との間に建設工事の略式約定書が署名調印され、最終的にはその年九月二日に正式契約が両者間に署名調印された。この契約は、ニューファンドランドのカンバイチャンスに日産十万バーレルの製油所をクラフト社が総計一億五千五百万ドルの一括請負いで建設するというものであった。このときクラフト社=バーンズ社の基本設計は、精油生産計画による利益予測を基準にしたものであり、その利益予測は同社作製のブルー・ブックにも記載されていた。
ブルー・ブックに規定された仕様どおりに、製油所の原油常圧蒸溜装置、減圧蒸溜装置、改質装置、水素化精製装置ならびに第二次精製段階である水添脱硫装置《ハイドフリックス》やビス・ブレーキング装置(減圧残渣油熱分解装置)などが、一九七三年十二月一日に完成してクラフト社よりPRCへ引渡された。クイーンエリザベス二世号がカンバイチャンス製油所の埠頭に接岸して盛大な開所式の祝典を行なってから実に五十二日目である。その十一月に、国連安保理事会ではイスラエルとエジプトとが中東戦争停戦協定に調印した。同時にOPEC(石油輸出国機構)十カ国は十一月の石油生産を二五パーセント減にした。原油価格の二一パーセント値上げを発表した翌月に入ってのことである。
クラフト社からの引渡しまでには、クラフト社からの機械技術員と、機械据付けのバーンズ社の技術員とがカンバイチャンスに来て、製油所側の技術者立会いのもとに二カ月間の運転テストを行なった。それはクイーンエリザベス二世号上でセレモニーがあげられた十月十日以前からであった。このとき製油所側の技術者たちは試運転に立会うというよりも、すべての操業技術をクラフト社とバーンズ社の技術者らに教えてもらうという状態だった。旧式の製油所でしか働いたことのない彼らエンジニアたち、工場長のサミエル・フォルガーも技師長のマイルズ・ウォートンも、この最新型の精油装置についてはまったく技術知識がなかったのである。
このような状況のうちに製油所のエンジニアたちはテストにOKを出し、それによってPRCはクラフト社とバーンズ社とにたいして検収書(letter of acceptance)を交付した。検収書を両社に発行したことは、すべての精油機械・施設とその据付けとが正常であることを承認し、その引渡しを異常なく受けたことの証憑《しようひよう》だった。
こうして七三年十二月二日からカンバイチャンス製油所の操業は、クラフト社とバーンズ社の技術者たちがすべて立ち去ったあと、まったくの自前で運転することになった。
──ニューファンドランド島の東端、州都セント・ジョーンズと西端の港町ポート・オー・バスクスとを結ぶ一本の主要道路トランス・カナディアン・ハイウェイを走る車から見た昼間の製油所は、針葉樹林と白樺林の上にのぞく銀色の塔群《タワー》と中空に噴き出る火によってその活動が知られ、闇夜ならばその炎が悪魔の火とも見え、月あらば真赤な火焔が曠野の上に月光と映え合う絶妙な神秘さで沖往く漁船を怖れさせ、かくて終夜の作業が知られた。
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ニューファンドランド島の春は遅い。セント・ジョーンズの街でも道路の傍に根雪が積もっていた。それでもさすが三月の半ばで、漁船の港を見おろす坂の木は小さな芽を出していた。一九七五年(昭和五十年)だった。
坂道に沿ったセント・ジョーンズ・ホテルの四階の部屋で、アルバート・サッシンはNRC副社長のビル・ブリグハムと気むずかしい顔で対い合っていた。
サッシンは苛立《いらだ》っていた。こめかみに太い静脈が怒張し、くぼんだ眼瞼は神経質に震えていた。椅子に坐っても落ちつかず、床を往復したが、自分でも気をしずめるように窓にむかって立ったりした。窓からは港に碇泊している大型漁船の白い群が見え、正面背景に岩石から成る褐色の丘陵シグナル・ヒル(一九〇一年、マルコーニの無線電信をイギリスから初めて受信した場所)があった。
資本金わずか二百ドルのNRCの副社長ビル・ブリグハムは深刻な表情で腕組みしていた。ちゃんとしたホテルといえばこのセント・ジョーンズではここしかなく、その中でもこの部屋は特等室だった。両人は二日前にニューヨークから飛んできて泊まっていた。サッシンがブリグハムを連れてニューファンドランドにやってきた理由は二つある。一つはカンバイチャンス製油所のビス・ブレーキング装置が不調だという現場からの報告を受けたこと、もう一つは州政府に対しての政治的工作を含めた陳情であった。今日も昨日につづいてカンバイチャンスに行き、州政庁に出頭して帰ったばかりであった。
ビス・ブレーキング(vis breaking)装置というのは、精油工程の第一次精製装置(常圧蒸溜装置による軽質油から水素化精製装置を経てガソリン・灯油などを得る)とは別の第二次精製装置であって、第一次工程の残渣油を減圧蒸溜装置にかけてさらにこの残渣を熱分解することによって軽質油やガソリンを得るとともに、重油を軽質化する方法である。ここでは軽質油と重油とに分離される。
もう一つ言えば、減圧蒸溜装置からの他の工程は、水添脱硫装置であって重油の硫黄分を少なくする(低硫黄化)装置で、減圧蒸溜装置からの軽質重油を処理する間接脱硫法と、残渣をそのまま脱硫する直接脱硫法とがあり、重油の硫黄含有量が〇・一〜一・五パーセント以下にすることができる。この水添脱硫装置が各社の開発によって特許登録の名称が異なり、UOP社では「アイソマックス」または「ユニボン」、シェロン社では「アイソマックス」または「RDSハイドロ・トリーティング」、シェルでは「トリックル」または「シェルHDS」、ER&E社では「GOファイニング」、BP社では「BP・HDS」などとなっており、N・クラフト社では「ハイドフリックス」とよんでいる。要するにこれらの脱硫装置は、硫黄含有量を少なくした重油しか得られない。
これにくらべると、重油を軽質油に化してガソリン・灯油・軽油などを得る、とともに重油を軽質化するビス・ブレーキング装置がどんなに有効であるかわからない。なぜかというと、第一次工程の常圧蒸溜装置、水素化精製装置などでは重油の量が六〇パーセントなのに、ビス・ブレーキング装置によってこれが最高四〇パーセント台に減り、そのぶん軽質油の量が六〇パーセント台にふえるからである。
したがって、クラフト社がPRC=NRCに提出したブルー・ブックのなかには軽質油六〇パーセント、重油四〇パーセントの生産による利益見込みが計算されている。
そのビス・ブレーキング装置が不調で、十分に作動しないとなると、軽質油と重油の比率が転倒し、予想利益が消えるばかりか欠損となってくる。
「ビス・ブレーキング装置の調子が悪いというのは」
サッシンは窓辺から離れ、ブリグハムの傍に歩み寄って鋭い眼で訊いた。
「クラフト社の製品に欠陥があったと思うかね?」
「正直言って」
とブリグハムは重い声で答えた。
「ぼくはそうは思わないね。工場長のフォルガーも技師長のウォートンも、しきりと機械の欠陥を主張していたがね。どうやら、あれは連中の言い訳のようだ。事実は、二流の技術屋連中が新式の機械に不馴れなために、運転にミスをして、そのためにビス・ブレーキング装置に狂いが生じたということじゃないかね」
サッシンは眉根を寄せ、肩をすくめた。
「あの野郎どもには腕がなかった」
彼は罵った。ブリグハムの考えと違わなかったのである。
「ぼくは製油所の運転テストにはカンバイチャンスに来て、たびたび立会ったが、クラフト社やバーンズ社の技術屋連中はみな若くて、動作がきびきびしている。ウチの技術屋どもはのろのろしていた。装置のしくみや機械の運転を息子のような連中から教わっていたが、その反応も鈍い。あれじゃ、どこまで頭に入ったか知れたものじゃない。そのくせ腕におぼえの自慢ばかりして、よその若い技術屋に横柄《おうへい》だったからね」
ブリグハムが言うと、
「あいつらが、馴れない手つきで装置をいじり、機械をこわしてしまったのだ」
とサッシンは吠えた。
「しかし、はじめのうちだからそれは仕方がないね。なにしろそういう連中しかニューファンドランド島のような寒地には来てくれなかったんだ」
ブリグハムはそういってサッシンをなだめた。
「イギリス人は気取り屋の卑怯者だ。狡《ずる》い|老 犬《リビング・ドツグ》だ。奴らは、とんでもない喰わせ者のエンジニアを寄越した」
サッシンはつづいて毒づいた。
「そんなことをいまさらここで言っても仕方がない。対策はどうするかね? アルバート?」
「対策? 対策は製油所のフォルガーやウォートンの臀《しり》を叩いてビス・ブレーキングの調子をもっとうまくゆくようにさせるだけだ」
ブリグハムは鼻先を鳴らし、パイプをとり出した。彼のほうが冷静だった。
「アルバート。しかし、この三カ月前からビス・ブレーキング装置の不調がよくなったようじゃないかね。重油からの脱硫装置がうまくいっているようだ。エンジニアの連中もだんだんと調子を出してきたようだよ。フォルガーもウォートンも、今日そう言ってたじゃないか」
「いまごろになって調子がよくなったところで、なにもかも遅すぎるよ。うすのろめが。どうして一年前からそれをやらないんだ? おかげでこっちは地獄じゃないか。いまごろ、やつらがにこにこしてそんなことを言っても、かえって腹が立つばかりだ」
サッシンは拳を振りまわした。
アルバート・サッシンにとってまさしく最大の危機だった。このセント・ジョーンズ・ホテルの一室で猛り狂うのはふしぎでなかった。
──サッシンが最初にニューファンドランドにかかわってきたのは一九五〇年の後半のことだから因縁は深かった。かれはセント・ジョーンズ近くのハリウッドにゴールデン・イーグル・リファイナリーという石油精製工場を設立した。この製油所ははじめタイにつくられる予定だったが交渉が失敗し、サッシンはそれをニューファンドランドに移したのだった。
そのころ州首相のウッドハウスはこの島の第三のパルプ製紙工場の建設を望んでいた。ウッドハウスの意をうけてサッシンはニューファンドランド・パルプ・アンド・ケミカル・カンパニーを設立した。法的な手続きは五〇年の暮に終っている。その法人組織の会社は理論上はニューファンドランド州政府によって所有されているクラウン・カンパニーの形式だった。過疎地帯のこの島に工場群をつくり、島の繁栄を図るというウッドハウス首相の方針としてこの形式はニューファンドランドでは一般的な方法だった。
それが州立会社という形式のために、会社はカナダ連邦税を払う必要はなかった。それだけでなく、実際に会社を経営している者は、その会社の選択売買権を持っていて、もしこの企業が成功したばあいは、小さな額で会社の権利を買いとることができるという恩典が与えられていた。これもウッドハウスが企業の誘致にその経営者の意欲を刺戟するためだった。
三期十八年間にわたって首相として政界を牛耳ってきたウッドハウスが一九六六年秋の選挙にも勝ち、首相に就任すると、六七年の二月ごろにサッシンはカンバイチャンスに製油工場を建設することを政府に申請した。クラウン・カンパニー方式で、もし成功したばあい、その選択売買権を与えるように彼はウッドハウスに要請した。
≪サッシンのようなプロモーターの最初の申請というのは、常に偉大に聞えるものである。大きな業績を残したいと考えている政治家たちはその言葉に魅惑される。しかし、政治家を法的なとりきめの段階に引きずりこむと、サッシンが現れてこう言う。わたしはもっとよい条件を与えられないかぎり、わたしの要請を取り下げると。そのようなとき、いつもウッドハウスが彼にその条件を与えていた≫と、ウッドハウスの政敵の立場にある者は言っている。
六七年の半ばごろ、サッシンとニューファンドランド州政府とのあいだに協定が成立し、会社名はプロビンシャル・リファイニング・カンパニーと登録された。
州政府はそのクラウン・カンパニーのPRCに対して電力を一キロワット当り〇・二五セントというおどろくべき安値で供給することになった。州政府はまたPRCへ三千万ドルの貸付をした。また州政府は製油所建設中の施設に対する販売税をとらず、また工事中の会社によって動かされるすべての車にガソリン税を課さなかった。サッシンは事実上すべての税金を免除されていた。
一方、他のメジャーたちはあらゆる種類の法人税を課せられている。サッシンはPRC建設にあたって、その競争相手のアメリカのメジャーたち、とくにロックフェラーたちはわたしをやっつけようとしていると叫んでいた。≪もちろんメジャーたちは、サッシンがウッドハウス首相から受けた優遇にくらべ、自分たちがいかに不幸な状態におかれていたかをあらゆる意味で語ることができる≫と批判派は言った。
一九六七年、NRCはPRCの販売エージェントとして設立された。それまでに製油所建設計画はふくれ上がっていた。英国側は一億三千万ドル、ニューファンドランド州政府は前述の三千万ドルをそれぞれ提供した。連邦政府は製油所の埠頭など付属施設建設費二千三百万ドルを請負うことになった。サッシンは三千万ドルを二回に分けて提供した。それで製油所建設に要する事業資金は、当初の見込みが二億ドル足らずだったのが、最終的には二億千三百万ドルにふくれあがった。
イギリスの商業銀行団からの融資が多大だったために、その圧力により製油所の建設には英国のN・クラフト社のアメリカでの子会社であるシカゴのクラフト社が全施設を請負うことになった。契約ではすべての製品は英国製でなければならないとされた。NRCや製油所側に選択の余地はなかった。契約はクラフト社にとってたいそう条件のよいものだった。というのは、メーカーとしては最高の品質でないものでも製油所に押しつけることが可能だったからである。着工は七〇年の秋だった。
七二年一月の選挙で与党は勝利できなかったので、ウッドハウスは州首相を辞任した。バルチモア内閣ができた。
しかし、在野だったころのバルチモアはサッシンに批判的だったが、首相になると彼に理解と同情を示すようになった。サッシンはどの政治家をも魅了する才能をもっていた。七三年十月十日のカンバイチャンス開所式の豪勢な祝典にはバルチモア首相も出席して祝辞を述べた。
その前に、サッシンはノヴァ・スコシア州の首相ジェラルド・リーガンのもとに行き、カンソー海峡にも製油所を建設することに彼の興味を向けようと試みた。カンソー海峡は、ノヴァ・スコシア本土とケープ・ブレトン島との間にあり、水深のふかい港がある。しかし、リーガンはそれに興味を示さなかった。
それにも拘らず、あとになってのことだが、サッシンはクイーンエリザベス二世号がカンバイチャンスに向かう途中、来賓たちや新聞記者を連れてカンソー海峡に臨む土地へ行き、第二の製油所建設予定地を見せるなどした。
サッシンは次にその北にあるニュー・ブランズウイック州に行きジョン・ハットフィールド首相に会い、製油所の建設計画をすすめたが、ハットフィールドは反応をまるきり示さなかった。
そこで、サッシンは再びニューファンドランドに戻り、カンバイチャンス製油所のわきに、日産三十万バーレルの第二製油所を建設するように申し出た。
≪サッシンは相変らず取込み詐欺のようなことをたくらんでいる≫と、ニューファンドランド州政府閣僚のジョニー・クロフォードはそれを聞いて批判した。
しかし、バルチモア首相はニューファンドランド州に第二の製油所をつくるのは望ましいことだとサッシンに同意した。が、新首相はウッドハウスとすこし違って、そのとりきめにはいくつかの条件をサッシンに出した。
第二の製油所計画では三億八百五十万ドルの費用が見込まれた。英国輸出信用保証局=ECGDが一億九千万ドルを都合し、ニューファンドランド州政府は第二抵当権者として七千八百五十万ドルを与えることに同意した。そして四千万ドル(財産物権の純価)がサッシンによって支払われることになった。
七四年一月末、バルチモア首相によってサッシンとの新しい協定内容が発表され、第二製油所の新社名はニューファンドランド・ラブラドール・エジソン・カンパニーと付けられることになった。
バルチモアはサッシンに、それには四千万ドルの抵当物件を出すこと、すべての電気料金を払うこと、税金を払うこと、土地使用料《ロイヤリテイー》を支払うことを条件とした。ここが前首相のウッドハウスの甘い点とは違っていた。それも議会内にサッシン批判派の声が強かったからである。
バルチモア首相との協定により Newfoundland Labrador Edison Co. Ltd. が設立され、これにECGDが二億ドル近い融資をし、州政府が八千万ドル近い金を出すという取り決めがなされたときがアルバート・サッシンにとって、得意の絶頂であった。第一製油所となるはずのカンバイチャンスの工場建設も着々と進んでいたのだった。
しかし、七四年の暮、サッシンはバルチモアに、その年一月にとりきめられた契約では、第二製油所を設立することができないと申し出た。
原因は原油代の値上りである。中東戦争の起らなかった前にくらべて二月にはその四倍となっていた。ところが、精油の売値はカナダでは政府の統制によって抑えられ、アメリカでは国産の石油を使用することによって値上げができなかった。
しかも、製油所は七四年の一年間のほとんどはストライキによって仕事にならなかった。操業開始後すぐの一月から三月までは就労者の賃金引上げストライキがあった。八月から九月にかけて交代勤務員によるストライキがあった。その間に石油事情が大きな変化を遂げた。
サッシンは第二製油所の契約条件を、第一製油所の最初の契約と同じ条件、つまりあらゆる税金の免除、電気の最低価格供給などを要求した。当然、州政府によって拒否され、新会社も第二製油所も設立計画が流れてしまった。しかし、これはサッシンが経済的に苦しくなったため、拒絶を見こんでの新計画の放棄であった。
BPとの契約により、BPからのみアラビアの原油を買うことをサッシンは義務づけられており、そのためにいつも市場価格ではもっとも高い額をBPに支払わねばならなかった。原油の値段が急激に上昇した直後でも、他社では一バーレル当り九ドルないし十ドルで原油を仕入れることができたのに、サッシンは最高値段十七ドルをBPに支払わされていた。
しかし、それでも二回にわたるストライキが発生せず、カンバイチャンス製油所が七三年十二月からずっと操業していたら、たとえ原油値段の四倍上昇という状況に出遇ったとしても、事態は少し違ったものになっていたろう。サッシンの言い分だが、対処の仕方があったと主張するのである。十分に操業できなかった一年間の失われた時間は大きいというのだ。その一年の怠惰の間に彼の負債がふえた。製油所施設運転の不調がロスに追い打ちをかけた。
ビス・ブレーキング装置が作動しないとわかったのは六月ごろからである。工場長のサミエル・フォルガーも技師長のマイルズ・ウォートンも機械の不調はほどなく直ると請け合った。精油業には通じていても、機械技術に詳しくないサッシンはエンジニアたちの自信たっぷりな言いぶんを信用するほかはなかった。
ほどなく機械の調子は回復するといっていた彼らは、これは少々厄介な装置なので時間がかかりそうだという言葉に変ってきた。これも信頼する以外になかった。
熱分解装置のビス・ブレーキングがうまく作動しないとなると、残渣油から軽質油がとれず、したがってそれからガソリン・灯油などの白モノをつくることができない。溜まるのは黒モノの重油ばかりだった。
バーンズ社作製のブルー・ブックの仕様では白モノと黒モノとが六対四の比率だった。それでこそ製油所は利益を生むことができるのである。仕様もそのように見込み計算されてある。それが逆転して四対六となると、それだけでも大きな欠損だった。
しかも江坂アメリカを通じて用船契約した栄光商船のVLCCは期限どおりに確実にプラセンシア湾に姿を現した。入港した原油は製油所に陸揚げしなければならない。一カ月に約二隻の大型タンカーが次々と入ってくるので、あらゆる原油貯蔵タンクはアラビアの石油で溢れ、収拾がつかなかった。船を沖合に停泊させて待たせると、契約によって一日ごとに莫大な超過停泊料金を取られる。事実、しばらくのあいだプラセンシア湾は大型タンカーで溢れた。それらの船からは原油がすぐには陸揚げできなかった。製油所に交代勤務員のストライキがあったり、ビス・ブレーキング装置がうまく機能しなかったからである。タンカー数隻もの超過停泊料金は何百万ドルにも上った。
サッシンの決断によって、カンバイチャンスで生産しすぎた重油は、タンカーの原油荷降しと引きかえに積荷されて大西洋へ出て行った。これら硫黄含有量の多い重油は、ドーヴァ海峡を通過してオランダのロッテルダム港に到着して、そこで主として東ヨーロッパ向けに安売りされた。そうでもしなければ重油の始末がつかなかった。カンバイチャンス製油所は、当初の計画にあった白モノと黒モノの比率が逆転し、実にその六〇パーセントは黒モノである船舶用重油《バンカー・オイル》を製造していた。
それだけではカンバイチャンスに入港するタンカーの原油が日産十万バーレルの製油所では消化できなかった。タンカーは原油そのものを積んだままプラセンシア湾を反転して他国の製油所へ向かった。もちろん産油国の原価を切っての叩き売りだった。そうでもしなければ、原油を海に流すしかなかった。
しかし、カンバイチャンスで生産される四〇パーセントの白モノも、カナダやアメリカ東部で売れなかった。サッシンははじめから確実な販売市場をまったくもっていなかったので、二月からの原油価格急上昇いらい、カナダやアメリカの自衛策によってさらに完全に締め出されていた。
それでもアルバート・サッシンは最終的に希望を捨てなかった。彼は七五年に入っての二カ月のあいだに約二百万ドルの損失をうけた。一カ月に百万ドルの赤字だ。今後も赤字はふえつづけるだろう。去年一年間の累積赤字を加えると、おどろくべき欠損の数字となる。それでも彼はこの事業を諦めようとはしなかった。
サッシンはニューファンドランド州政府には製油所はすべて調子よくいっていると述べていた。むろん地元だけに州政府の人々はこれを信用しなかった。しかし、幸いなことに、江坂アメリカからもその親会社の江坂産業本社からもカンバイチャンス製油所の様子を見にくる者は一人もなかったので、サッシンが強調する「すべては順調にいっている」という言葉は疑いもなく信用された。また、江坂アメリカの取引銀行である日本の各銀行ニューヨーク支店からもだれ一人として製油所について現地の噂を聞きにくる者はなかった。ニューヨークからセント・ジョーンズまでは、カナダのオタワまたはモントリオール経由でわずか四時間ちょっとの飛行時間なのに。──
この三月半ばの天気のいい日、セント・ジョーンズ・ホテルでのサッシンとブリグハムとの会談は重要だった。
PRCつまりサッシンの負債は圧倒的なものになっていた。たとえ製油所のビス・ブレーキング装置が快調をとりもどしたところで、何もかも手おくれであった。こうなれば、どこかに犠牲になってもらわねばならなかった。最終的には借金の踏み倒しである。
「ビル。エサカからの融資はどうなっているかね?」
サッシンはようやく落ちつきをとりもどして言った。頤《おとがい》に手を当てているのは何か思案がきまったときの彼の癖だった。
「四千二百万ドルのことかね? あの金は君がニューヨークで新聞を出す事業にまわすといって持って行ったじやないか、アルバート」
サッシンのSNRの子会社であり資本金二百ドルという幽霊会社なみのNRC副社長ブリグハムは、いくらか言いにくそうに答えた。
「あれとは別だよ」
サッシンは深い眼つきを動かさずに言った。
「それ以後のエサカからの借金はないよ。去年(七四年)の十月に払う原油代は、ユーザンスの期限は切れたが、その後二カ月以内に三回に分けてエサカに支払ったからね。目下はその後の原油代のユーザンスがあるだけだ」
「ビル。そいつでゆこう」
サッシンはにわかに立ち上がった。
「それでゆこうとは?」
「BPから原油をどんどんカンバイチャンスに送らせるのだ。大型タンカーを艦隊のようにプラセンシア湾に続々と入港させるんだ。一年でも二年でもね。その原油代は代理店のエサカ・アメリカにみんな責任をもってもらう」
「なんだって?」
さすがにブリグハムは呆れた眼でサッシンの異常な精気に満ちた顔を見上げた。
「さしあたり、エサカの取引銀行に払いこむ金をECGDの借金の利子に回すんだ。そうしてエサカには製油所は万事うまくいっていると言い聞かせておくんだよ。向う一年間は第二製油所の設立計画に資金が要るので原油代の支払いは猶予してくれと、わたしからウエスギに申し込む。ウエスギはけっきょく承知するよ。そうだ、それにはBPが原油代の取立てを一年間待ってくれることにわれわれと諒解がついていると言うんだな」
「しかし、その嘘はやがてエサカにわかるだろうな」
「当座の時間をかせげばいい。あとはずるずるとエサカをこっちのペースに引込めばいい。ウエスギはわたしの理解者だ」
「しかし、BPのほうにはどう言うんだね。原油代のほうはエサカのLCから、タンカーから荷降しされるたびに支払い決済されるから、BPに文句はないはずだが、それでもわれわれがエサカに金を払ってないことを知ると、BPは不審を起すよ」
「ビル。そのときはBPに言ってやるんだ。欠損のすべての原因は英国製ビス・ブレーキング装置に欠陥があったからだと言ってね。バーンズ社のつくったブルー・ブックの仕様どおりにはなっていない。われわれは欺された。バーンズ社は詐欺だと言ってやるんだ。そういうことをやったのもイギリス製品だけを買えといったイギリス銀行団からの圧力だから、そのシンジケートにもECGDにも責任がある。もちろん、バーンズ社を系列下に置いているBPにも欠陥装置を売りつけさせた責任がある。そう言ってやれば、向うはおとなしくなるよ。なにしろバーンズ社製品だけを押しつけて、他のメーカーの製品を撰択させなかったという負い目が向うにはあるからね。BPにしたって最高の高値の原油をわれわれに売りつけていることがわかっているからね」
「しかし、バーンズ社に対してこっちは機械引渡しのレター・オブ・アクセプタンス(検収書)を出しているからね。機械異常なしの証明をしているから、その通りにはなりにくいのじゃないかね? 向うがその証明書を楯に取るのはわかり切っているからね」
「そんなことはどうでもいえる。その引渡しも向うのエンジニアに胡魔化しがあったと言うんだよ」
「うむ。けどな、それにしても、エサカのウエスギが可哀想じゃないかね」
ブリグハムは憮然とした面持で言った。
「わたしもウエスギに同情するが、こっちは生き残らねばならんからね。生きるためには何でもしなくてはね。それに損をするのはエサカだ。ウエスギはエサカに不平をもって辞めたがっているから、たいしたことはない。あの男が辞めたら、ぼくがあとの面倒を見てもいい。彼が希望するならだがね」
最終的には江坂産業からの負債を踏み倒すことに決心したアルバート・サッシンは俄かに元気づいてきた。その表情は、牡牛とその血とを祭壇に供献されて燔祭《はんさい》の焔(旧約聖書申命記三三ノ一〇)に映える神《ヽ》の輝く眼光と朱の顔にも似ていた。
5
江坂アメリカ社長安田茂が、自社のNRC代理店業務にぼんやりとした疑念をもちはじめたのは、その年の一月中旬頃であった。かたちは見えないが、茫漠とした影のようなものがどこかに溜まっているような気がするのである。足もとにそういう影をふいと感じて仰向いて見ると、太陽の眩しい光を滲みこませた蒼空は限りなくひろがって雲の断片だに浮んでいない。雲の翳《かげ》りが地上に落ちているわけではなかった。が、「感じ」として心がそうとらえるのである。
去年の十月十三日、NRCの約手千五百四十万ドルが期日どおりに決済できずに住倉銀行支店に|はね《ヽヽ》金融をたのんだ。江坂アメリカの回転資金から立替え払いというのも考えぬではなかったが、金額が少々大きすぎた。こっちの手持ち資金が窮屈になってくると思った。上杉二郎の後任として社長になってから一年と一カ月半のことである。前社長の上杉だったら、逡巡することなく期限内に立替え決済しただろう。そこは二十年間も江坂アメリカに居つづけ、ニューヨーク支店長で五年間、社長・米州総支配人になってから十年間というキャリアと、一年とすこしという若い経験の違いで、要するに度胸がなかったといえるかもしれない。
安田も八年前にニューヨーク支店長を二年間やっていて、江坂アメリカの商売はわかっている。だが、社長と支店長とでは責任の負い方が天地ほども違う。支店長は自分の責任部分を社長の責任に押しつければよかった。気が軽いのである。支店長管掌の仕事で拙いことがあっても、社長は対外的にも、ときとしては本店にむけても、すべてはわたしの責任です、と言ってくれる。そうでなければ、支店長以下の部下の信頼は得られないのである。社長によってはそのような部下の人気とりを考え、親分的な包容力を意識しすぎて、暮夜ひとりのときに悩むこともあろう。意味のない話だと安田は考える。社長の仕事といえども、たとえ部下の領分に口を出して、神経質だとか、人間が小さいとか、煩いとか、事務屋だとか陰口をたたかれる不人気者になっても、きめ細かく、几帳面にしておくべきである。地味でも、そのほうが間違いない。
前任者の上杉は、自己の才能を信じきって、なんでもひとりで切り回してきた。部下は、あとから彼に命令されて、おろおろとついてまわるだけである。かんじんな点は社長の彼が握りこんでいるのだから、部下はその断片的な命令がどこでどうつながっているのかわからず、連絡的な頭脳をもつことができない。安田から見て上杉は組織を考慮しない男であった。
もっとも上杉の眼からすると、部下たちのすることがのろくて、鈍感で、じれったくてしかたがなかったのであろう。現場の仕事を知り尽しているからである。部下たちに仕事を分け与えるよりも、自分がひとりでやったほうがはるかに能率的で的確に効果を上げてゆく。
部下たちからはこれが卓絶した才能と手腕の持主に見える。上杉の崇拝者が社内に居てもふしぎではなかった。かれらは、社長からほんのお裾分けの仕事をもらって、それがその仕事の全体像のどの部分にあたり、どのように結合するのかも一切わからないままに遂行し、最終的な仕上りを初めて知り、奇蹟でも見るように驚歎する。もし、すこしでも上杉の独断的で天才的な仕事の中心部に近づけてもらえれば、それはその部下に神の使徒のような意識を与えるだろう。たとえば、ここの原燃料部に居る有本七郎や島村和雄のようにである。本社にもう一人使徒が居る。やはり原燃料本部石油第一課長の篠崎寅雄である。
有本七郎は、上杉が本社へ去る三年前から彼に仕えていた。語学が好きで江坂産業に入社し、希望して江坂アメリカに転じた。死ぬならアメリカで死にたいなどと口走っている男だから、二世上杉の米語に圧倒されて、さらに彼に敬慕の念を増している。島村にしても変らない。東京本社の篠崎も同じだ。サラリーマン社会には、上司にむけて殉死を誓う酔語があるが、有本・島村・篠崎の輩は真面目に、しん底から、本気でそう決意しているにちがいなかった。
有本と島村とは、上杉が江坂アメリカに残置した一点の砦《とりで》である。NRC関係はすべてこの両人に扱わせている。当人がニューヨークに居ないのだから、その身代り的な連絡係として彼らが必要なのだ。すなわち有本・島村・篠崎は上杉の円光近くに侍《はべ》る使徒となり得た。有本、島村は現在でも東京本社の上杉の命をうけ、その指示どおりに動いているはずだ。ニューヨークと東京の上杉グループ間の秘密テレックスの往復は頻繁なはずである。
安田にはそういうことがよくわかっていた。しかし、現在の江坂アメリカの社長が部下の有本や島村を呼びつけて詰問しても、両人は決して事実を言わないだろう。なべて子会社の社員の顔は本社へ向いている。忠誠心は本社の役員へ抱いている。本社の首脳部の意向で子会社の社長の運命が左右される以上、いたしかたのないことである。だれしも身の出世を希望しない者はいない。有本のばあい、上杉常務が主《しゆ》であればなおさらのことである。
上杉二郎はまことに派手で、きらびやかな存在である。しかし、安田から見ると、上杉はたんに己惚《うぬぼ》れに耽溺しているにすぎない。自分で才能を誇張してみせている。そのためには単独行動の秘密主義が必要である。それが神秘性を帯びて見えるのだ。近代経営的なティームワークを組んで、自分の頭脳や才能を皆に知らしめては彼自身の限界をさとられ、神秘の箔《はく》が剥落する。上杉は幽暗な密教の内陣奥深くに居る。私生活からしてそうでなければならぬ。私生活を開けっぴろげにしていては自己がカリスマ的な存在でなくなるからだ。上杉二郎の神秘性は、公私一体の秘密主義のところにほの暗い蝋燭の炎をたゆたわせている。
それというのも上杉二郎がハワイ生れの二世という劣弱感からきている、と安田は思う。これは安田の類推だけでなく社内では以前からほとんど一致した観測となっている。上杉二郎は終戦直後、江坂産業が分断の危機に面したとき、当時編成された渉外部の大橋恵治郎(現会長)の下でそれを回避する手がらを立てた。それすら人々は彼は二世だから、英語屋だから、と言って貶《けな》した。その人種差別にも似た負い目は、上杉の魂まで浸みこんでいるにちがいない。いまにみろ、見返してやるといった発奮が今日の上杉二郎になったことはたしかだし、そのことではたしかに尊敬していい。しかし、尊敬は理論が構築するものだ。彼への曾《かつ》てのいわれなき蔑視はいまだに人々の意識に尾を曳いている。理論と意識とは乖離《かいり》している。上杉の神秘主義はそうした人々の意識を抹消しようとしているかのようにみえる。
おそろしく近代経営からはなれた考えかただと安田茂は上杉について思う。上杉は合議を嫌い、自己の才能に凭《よ》った独断を好む。社長としてその権限が与えられたとき、方針ははなはだ個人的となる。上杉が人にたいして好悪が激しいのもそういう個人的な特徴からきている。自分が上杉とずっと前から合わないのも、いまの支店長の富田正一が上杉から冷遇されていたのも、原因は彼の性格に求められる、と安田は思っている。──
去年十月の|はね《ヽヽ》金融は、延期した二カ月以内にNRCが三回にわけて支払ってきた。完全である。晴れ上がった空のように明朗《クリアー》である。NRCに一点の翳りもおぼえる必要はない。住倉銀行ニューヨーク支店長が即座に|はね《ヽヽ》金融を承諾したはずだといえる。銀行は千五百四十万ドル邦貨にして約四十六億二千万円の無担保二カ月間融資にいささかの危険《リスク》も感じなかったのだ。銀行の判断が正鵠《せいこく》を射ていた。自分の気が小さいばかりにNRCへよけいな不安を募らせたのだろうか。
しかし、と安田は考える。|はね《ヽヽ》金融とはいえ、満期の手形の支払いを二カ月さきに延期するのだから、ロールオーバーの一種にはちがいない。金額が千五百四十万ドルと張っていれば、もう完全なロールオーバーではないか。|はね《ヽヽ》金融という「気軽な」響きに警戒心を緩まされているようだ。銀行サイドが覚えなかったリスクを、こちらは別なリスクとして受けとめる必要があるのではないか。銀行は、|はね《ヽヽ》金融を保証する江坂アメリカの背後にそびえている日本の十大総合商社、手がたい商売で聞えている江坂産業に信用を置いている。しかし、江坂アメリカとNRCとの関係は、銀行のリスクとは別個のものだ。銀行側のペースに捲きこまれてはいけないのではないか。
雲一つない空の下で、その雲の断片が落している影でもなく、ぼんやりとした影を安田が感じているのは、その原因が結局は上杉が残したNRC関係の書類を自分が何一つ入念に見ていなかったことにあるとわかってきた。常識的で平凡なことだが、書類をすすんで見ようともしなかった理由は自分の側にもあった。NRC関係は上杉二郎の担当だ、例の上杉の神秘的な領分だ、上杉のやったことなど見たくもない、といった反撥もその不干渉に加勢していたようだ。
後任者として事務引継ぎのときも、上杉は書類もろくに見せず口頭で伝えた。NRC関係は今後も担当役員として自分が本社で全部見るからと上杉が言うので安田も、どうぞ、と答え、面倒臭くなくてかえっていいと思った。上杉も詳しく言わなかったが、安田もろくに聞いてはいなかった。まったく形式的な引継ぎであった。それですら二十分でも上杉と顔を合わしているのさえ長い時間だった。義理上、安田のほうから歓送会を提案したが、案の定、上杉が口実を設けて断わってきた。
NRC関係の知識を身につけようと安田社長はあらためて思った。ひんやりと肌を撫でる不安は、どうやらそこから影が霧のように噴き上がっているようである。自分のNRC関係に対する知識の土台が弱かった。そのため自信に欠けていた。知悉《ちしつ》しておく必要がある。
安田は有本などを呼んで講釈を受けるのも癪《しやく》であった。有本や島村は自分と上杉の不仲なことを承知の上で、東京の上杉と連絡をとり合っている。たとえ彼らを呼んで聞いてみたところで全部を言うはずもなかった。
次にNRC関係を知っているのは財務部長の田沢貞一である。この肥った男は茫洋とした顔つきでいるが、脳味噌も掛値なくそれと同じ分量である。田沢は安田新社長の機嫌を損じぬ程度に、有本と社内で連絡している。上杉が居るころからの財務部長なので、回転資金などのやりくりの上からNRC関係のことはかなり知っているようである。だが、これとても上杉の息のかかっている人間だから、いきなり頭から聞いたところで、まともな返事があるとは思えなかった。
支店長の富田正一は、鉱石の買付か何かの些細なことで上杉の個人的感情にふれて、社長の彼から遠ざけられた。富田は、手続きの上から有本などがNRC関係の書類を持ってきても、上杉はんのNRCやったらわしの知ったこっちゃないで、と呟いて内容をのぞきもせず、投げやりにサインするだけであった。彼から何も得るところはない。
安田は社長室の書類入れキャビネットの抽き出しを全部開け、重要なものを入れているロッカーもみな開け放って捜した。だが、キャビネットにいっぱいならんでいる江坂アメリカ各業務のマスター・ファイル(基本書類綴り)のうち、NRC関係だけは、どういうわけか脱けていた。
こういうとき秘書のマリアンが居れば、上杉と一体の彼女はたちどころに指摘できるのに、この痩せた金髪の三十娘は去年の二月に退社した。いまの三世娘の秘書は安田が入れたもので何もわからない。上杉が去年の一月から五月ごろにかけてニューヨークにたびたび来ていたのは彼女のアパートの移転など一切の世話をするためだという噂も耳にしないことはない。
まあ女のことはどうでもよいが、NRC関係の本山ともいうべき江坂アメリカの社長室に、そのマスター・ファイルが無いというのはどういうことだろうか、と安田は訝《いぶか》った。不審なことである。せっかく身を入れて勉強しようと意気ごんだ矢先なのに、その入口のドアは閉められていた。
考えられるのは、有本か島村かが握りこんでいることだった。有本の可能性が強い。安田は、両人に即刻提出せよと命じようと思った。社長命令である。両人がどのように上杉に言い含められたとしても、これを拒否する理由はない。
NRC関係書類でも、どうでもいいものは残されていた。それと、安田が着任してから本社から回ってきたプリントものにもそれに触れたものがある。ナマの資料がくるはずはなかった。それらはNRCと直接連絡している東京の上杉常務がすべて自分のところに押えている。
安田は、ふと去年の五月はじめごろに東京本社から送られてきたプリントものの常務会記録に眼をとめた。これまで放ったらかしていたものだが、NRC関係のマスター・ファイルが見当らぬいま、やむを得ず、しかし新しい眼で、江坂産業原燃料本部長平井忠治の名による「NEWFOUNDLAND REFINING CO. 近況報告 並びに同社向原油取扱い内容一部変更の件」を読み直すことができた。
内容は、カンバイチャンス製油所が一九七三年十二月十五日に操業を開始していらい順調に操業度を上げ、昨年三月中旬には日産十万バーレルの完全操業に入っていることからはじまり、原油価格の高騰で当社とNRCとが交渉を重ねた結果、与信総額を約二億二千五十万ドルと大幅に増加する必要を説いた次に、
「(a)ユーザンス 期間に関係なく総額四千二百万ドルとする。
(b)与信総額 上記ユーザンス額の限定により、与信総額が約一億八千九百万ドルに留まる見込みであります。
(c)ユーザンス総額に対し、NRCをして州政府の設立せるPRCを経由し、四千二百万ドルまで決済可能な REVOLVING STAND-BY CREDIT を発行せしめます」
とある稟議条項にきて安田の視線は停まり、その文章に吸着した。
(c)項は、NRCにたいし、四千二百万ドルに見合う「|回 転《リヴオルヴイング》スタンバイ・クレジット」、つまり支払保証信用状というNRCの担保を銀行に入れさせるというのである。
この四千二百万ドルは二項目前の(a)項の、ユーザンスの期間に関係のない四千二百万ドルと同額である。ユーザンス期間に関係ない四千二百万ドルとは、どういう性質のものだろうか。そうしてこれにNRCから同額の担保(回転スタンバイ・クレジット)を江坂アメリカの取引銀行(対NRCのLCを開設している銀行)に新たに入れさせるというのはいかなる意味だろうか。
条項の字句は、数字をあげて具体的に体裁づけてあるが、よくよく読むと抽象的で曖昧《あいまい》な表現である。
NRCに銀行へ担保を入れさせる以上、四千二百万ドルはどうやら江坂アメリカがNRCへ融資した金のようである。そうでなければNRCに「四千二百万ドルまで決済可能なリヴォールヴィング・スタンバイ・クレジットを発行せしめ」る必要はない。そう考えると「ユーザンス 期間に関係なき総額四千二百万ドル」は、長期の融資ということになる。
いったい、江坂アメリカはNRCへ四千二百万ドルもいつ融資したのか。この稟議条項には「条件改訂案」とあるが、改訂前のもとの条件はどの契約書に沿っているのだろうか。
安田が見せられた契約書、安田だけではなく江坂産業の常務会が見せられた一九七三年九月二十日江坂アメリカの上杉代表作製のNRC代理店契約書には、四千二百万ドルの数字は一カ所もなかった。この「条件改訂案」で忽然として出現した数字である。
上杉二郎のしたことだ、と安田は気がついた。秘密の一端が頭を露わした思いであった。四千二百万ドル。約百二十六億円もの金がNRCへ貸付けられている。しかもそれに抵当権を設定していなかったことは、ここにさりげなく同額に見合うスタンバイ・クレジットをNRCに発行させる、という文句の挿入でも明白だ。
安田は、急いで手もとに保存している七三年九月の契約書をとり出して見た。
そこには貸付金とか融資に当る "loan" の文字はなく、だが、前払いの意にあたる "advance" の字がある。"advance to be made to BP"「BPに対してなされる(原油代の)前払い=vだ。
"──ESAKA, as agent of NRC, agrees to extend to NRC credit facilities of ESAKA for any advances to be made to BP for the crude oil to be supplied to Provincial Refining subject to ESAKA's discretion as to the amount and terms of advance to be made to BP. The intension of ESAKA is to enable NRC to overcome start-up difficulties in the initial start-up until the refining operation has reached the normal scheduled production stage."
≪NRCの代理店としての江坂は、プロビンシャル・リファイニング(PRC)に供給される原油のためにBPに対してなされる前払いとして江坂の与信の便宜をNRCにあたえることに同意し、かつBPになされる前払金の金額と条件については江坂の判断に従うものとする。江坂の趣旨は、製油操業が正常な予定製造段階に達するまで、NRCをして操業初期の困難を克服せしめることにある≫
"For such advances made by ESAKA to BP for NRC, NRC agrees to issue promissory notes to ESAKA according to the repayment terms and conditions to be agreed."
≪江坂によりNRCのためにBPになされるかかる前払いについては、双方で合意された返済支払の条件に従いNRCは江坂に対し約束手形を発行する≫
だんだん分ってきた。江坂アメリカは、NRCにたいしてBPの原油代の前払いを融資貸付けしたのである。だからこそNRCはその「返済支払《リペイメント》」にあたる約束手形を江坂アメリカに振り出すというものである。
そうなると、BPは前にNRCにたいして原油代の前払いを要請したことになる。NRCには当座その支払いの余裕がないので、江坂アメリカからの融資をそれに宛てた、ということらしい。
しかし、BPがなぜNRCに原油代の前払いを要求したのかわからない。BPとしてはプラセンシア湾にタンカーが入港するたびにその原油代を取引銀行に委託して江坂アメリカのLCから取立てているのであるから、不安はないはずだ。BPは江坂を信用している。だからこそNRC代理店になるのに同意したのだ。それなのになぜその上に前払いをNRCに要求するのか。
江坂アメリカはNRCとのあいだに代理店契約書を交わしているが、BPとはなんの契約書もかわしていない。三国間貿易といっても、契約の面からすると実際上はNRCと江坂アメリカの間のみの二国間貿易である。したがってBPがNRCにこのような前払いを要求した事実を江坂アメリカは知るよしもない。BPにたいする前払いとはNRCの一方的に江坂にむけて言っていることである。
さらに裏を考えると、NRCはBPにその供給される将来の原油代の前払いをするという名目で、江坂アメリカから金を借り出したのではないか。その「前払金」なるものがはたしてBPに渡されたかどうか保証のかぎりではない。あるいはNRC=SNR(サッシン社長のグループ)が自己の回転資金に流用したかもしれないのだ。
このようにみてくると、去年の一九七四年四月二十日付で江坂産業常務会に提出されたNRC関係の報告書にある≪ユーザンス 期間に関係のない総額四千二百万ドル≫が契約書に言う≪BPにたいする前払金四千二百万ドル≫にあたるものであり、さらにそれが「前払金《アドヴアンス》」ではなく貸付金《ローン》であることは≪返済支払いのためにNRCから約束手形を江坂アメリカにたいして振り出させること≫で明瞭だ。
そうして常務会に提出された稟議書の≪条件改訂案≫が≪NRCをして四千二百万ドルまで決済可能な回転スタンバイ・クレジットを発行せしめる≫のは、この貸付金が前には無担保であったため、いまになって焦慮《あせ》ってNRCに銀行に担保を入れさせ、それによりNRCからの支払能力を確定しようとしたものらしい。
安田茂はプリントの文章を熟読吟味してこのように考えた。
前にはたかがプリント資料だと思って莫迦《ばか》にしてろくに読みもしなかったが、これにはたいへんな内容が含まれている。常務会がこの提出稟議を異議なく承認したのは、例のわけもわからず判を押すだけの儀式だったからだ。
安田は東京本社の原燃料本部長平井忠治に宛てて問い合せのテレックスを打った。プリントの常務会資料によれば、カンバイチャンス製油所の近況報告と稟議が平井の名で常務会に提出されているからである。
翌日、平井原燃料本部長からはテレックスの回答があった。
「リンギシヨハ ウエスギジヨウムニイライサレ ソシキジヨウ ワタシノナデ ジヨウムカイニダシタ シタガツテ ソノナイヨウニツイテハ ワタシハ ナニモシラナイ ウエスギジヨウムニ シヨウカイサレタシ ヒライ」
(稟議書は上杉常務に依頼され、組織上わたしの名で常務会に出した。したがって、その内容については、わたしは何も知らない。上杉常務に照会されたし。平井)
安田は笑い出した。
6
有本七郎と島村和雄が社長室に来た。
「ぼくはね、おそまきながらわが社の代理店業務を勉強しようと思うとるんや」
安田茂は眼の前に揃って立っている二人に言った。
「君らも知ってるとおり、NRC業務は上杉常務がここの社長時代に手がけられて、いまも東京本社でその業務を総合的に見てはる。そんで今まではぼくも安心して上杉常務に凭《よ》りかかってのんきにしてたんやが、去年の十月十六日にNRCの約手を住倉銀行支店に|はね《ヽヽ》てもろうてからは、こら自分でも江坂アメリカ社長としてもうすこしNRC業務を勉強せなあかんと思うてな。そういつまでも上杉はんに甘えてばかりもおられへんがな」
二人はすばやく顔を見合せたが、有本が口を開いた。
「社長がそう思われるようになったのは、十月の|はね《ヽヽ》金のことがあって、それでNRCに不安を持たれたためですか?」
「いいや。そういうわけやない。|はね《ヽヽ》金の千五百四十万ドルは二カ月以内にNRCからきちんと入金になったさかいにな。クリアなもんや。そんなことを心配してるのやないけど、ぼくもこのさいに、石油のことやNRC業務をもうすこし勉強しようと思うてな。そんで、教科書のつもりでNRC業務関係のマスター・ファイルをここでさがしたんやが、それがどうしても見あたらんのや。そんでNRC業務をやってる君らがマスター・ファイルを持ってへんかと思うてな、持ってたらぼくに出してくれんか?」
「いや、ぼくらはそんなもの預かってません」
有本が答えた。
「そうか。おかしいな。それがないはずはないけどな」
「社長。それは上杉常務が東京本社に持って行かれたのとちがいまっか。上杉常務はNRC業務をまだ見てはりますよってに」
島村が言った。
「うむ。それはそうかもわからんな。上杉はんがマスター・ファイルを東京へ持って行きはったのは確実かね?」
「いや、確実というわけやおまへん。そうやないかなアと想像しただけだす」
島村はあわてて弁解した。
「君らは、そのファイルを前に見たことがあるんやろな?」
「いや、見せてもらったことはありません。そういうものがあるとすれば、上杉社長がしまいこんでおられたと思いますから」
有本がかわって答えた。
そうやろな、上杉前社長はNRC業務をひとりでやってはったさかいな、と安田は言い、ならんで立っている両人に椅子にかけるようにすすめた。
「こういうものがある。去年の四月の本社常務会に平井原燃料本部長の名で提出されたNRC関係の業務報告ならびに原油代の高騰にともなう与信枠の増大を要請する稟議書のプリントや」
常務会文書のプリントは常務にしか配布されてないので、部員の有本も島村もいま安田に見せられたのが初めてであった。椅子に腰をおろした二人は揃って上体を乗り出し、プリントの活字に眼を落した。
「かなりの長文やが、そのなかでぼくのようわからんとこがあるさかい、その点だけを君らに聞きたいんや。(a)ユーザンス 期間に関係なく総額四千二百万ドルとする、とあるな。それから、(c)ユーザンス総額に対し、NRCをして州政府の設立せるPRCを経由し、四千二百万ドルまで決済可能な回転スタンバイ・クレジットを発行せしめます、ともあるなア?」
安田はその箇所を指で示した。のぞきこんでいた二人は、はっと息を呑んだように見えた。
「このユーザンス総額四千二百万ドルと、四千二百万ドルのスタンバイ・クレジットちゅうのんは、何のことやな?」
二人はこっそりと眼を見合せた。
「知りません」
有本がきっぱりとした語調で答えた。心なしか彼も島村も顔色が白くなったようにみえた。
「そうかア」
安田は煙草をくわえ、ライターの火をゆっくりとつけた。
「四千二百万ドルのスタンバイ・クレジットをNRCに新たにつくらせるちゅうのは、江坂アメリカが前にNRCへ担保なしに融資したものに対して、こんど新たに支払保証という名の担保を銀行に設定させることやと思うけど、どうやな?」
安田は長い煙を吐いて言った。
「さあ」
有本は慎重に、そして大仰《おおぎよう》に首をかしげた。
「さあというたかて、そやないか? 常識論から言うてもな。島村君はどないに思う、一般論として?」
「さあ。NRC業務は特殊な条件が多うおますさかい、一般論ではちょっと判断がつきまへん」
島村はあきらかに東京の上杉二郎を意識して答えた。
「そうか、NRC業務に特殊な条件が多いのんは君らのほうがよう知っとるわけやな。それやから、ぼくは勉強しようと思っとるんやで。ええか、この(a)項も(c)項条件改訂案の中に入っとる。この条件改訂を承認してくださいという原燃料本部から常務会への要請がこの稟議部分や。ほなら改訂案とある以上、改訂案前のNRCとの契約条件なるものが存在してるわけや。な、そやろ?」
これには両人とも仕方なしにうなずいた。
「そのもとの契約書を君らは見たことがあるか? そら、あるはずやな、君らはNRC業務を担当しとる専門家やさかい」
「それは一九七三年九月二十日のNRC代理店契約書とちがいまっか?」
島村が言った。
「ああ、これかいな」
安田は書類の下にかくしておいた代理店契約書のコピーを二人の前に出した。
「そうだす」
島村はすぐにうなずいたが、有本は要心深く黙って見ていた。
「これには江坂アメリカが代理店としてNRCになりかわりBPへ原油代を前払いするというとりきめが書かれとる。ウチから直接にBPに前払いするんやのうて、NRCがウチから借りた金でBPに前払いするようになっとる。そうすると、有本君、BPはNRCにたいして先々ぶんの原油代の前払いをしてくれえいうたのかいな?」
「知りません」
有本は勢いよく首を振った。
「けど、それがないことには、ウチがNRC経由でBPに前払いすることはないわけやがな」
安田は迫った。
「わたしにはわかりません」
「契約書には前払いの金額が書いてないけど、この常務会資料のNRCへの貸付金らしい四千二百万ドルというのんがそれとちがうか?」
「わかりません」
有本の返事から安田が横の島村に視線を移すと、彼も、知りまへんと眼を伏せていった。
「君らに聞いても、なんにもわからんのやなア?」
安田はわざと呆れたように言って両人の顔を眺めた。
「上杉常務がこっちの社長のとき、NRC関係はほとんど全部ひとりでやっておられましたから、ぼくらは何も知らされておりません。NRC業務でもぼくらは末端の雑務のような事務ばかりを命じられておりましたから」
「末端の雑務か」
安田は冷笑を浮べて二人を見た。
「ほならわからんわけやなア。……もうええわ」
両人は椅子から立ち、軽く頭をさげて出て行ったが、ドアに消える前のうしろ姿には衝撃をうけた様子がありありと見えていた。
たぶん、有本はこの追及をうけたことを東京の上杉へむけて秘密テレックスを打つだろう。安田は三十分ばかりほかの仕事をして時間を消した。そのあいだ、有本と島村は財務部長の田沢にことの次第を伝えるにちがいなかった。田沢に追及の予備知識を与えたほうが安田にも楽であった。
呼んだ財務部長の田沢貞一が入ってきた。案の定、蒼い顔になっていた。緊張で、はじめから息苦しそうにしていた。
安田は彼を応接間の革椅子に招じ、二つのプリント印刷物を手にして、その傍に坐った。できるだけ財務部長の気持をやわらげようとしたが、田沢は審問をうけるように顔を硬直させていた。
安田は、だいたい有本と島村に問うたと同じことからはじめたが、顔も言葉もできるだけ愛想よく努めた。
「上杉社長にあんたが言いつけられて財務部長として命令どおりにやりはったことはよう承知してます。ただ、ぼくにはどうもNRCの代理店業務に呑みこめないところがあるので、いまお訊ねした点だけをありのままに言ってくれはらしまへんか? ぼくとしてもそれを聞いたかてこの問題をすぐに本社へ出してどうこうしようとは思うてしめへん。ぼくかて江坂アメリカの社長として、問題点があれば責任上なるべく穏便に善処したいと思うてます。それにつけても実態を心得ておかんことには、どもなりまへんがな」
安田の柔らかい言葉に田沢は折れた。あるいは有本や島村から安田の詰問のことを聞いたときに覚悟をきめていたのかもしれなかった。有本・島村などと違い、財務部長として経理に関係する問題だから、逃げるには限界があった。
田沢貞一は、稟議書にある「条件改訂」の前条件が一九七三年九月二十日に江坂アメリカ社長上杉二郎とNRC副社長ビル・ブリグハムとのあいだに交された契約書であること、BPへ原油代の前払いとしてNRCに融資した四千二百万ドルの金額は、その契約書の具体的な実行をとり決めてある「補助契約書」に明文化してあることを遂に安田にうちあけた。
「補助契約書やって? そんなものがおましたのか?」
安田はおどろいて叫んだ。
「はい。ございます」
「そら、ぼくは見たこともおまへんで!」
「上杉常務が握っておられて、社のごく少数の首脳部以外は、どの常務の方もご存知ないと思います」
「田沢はん。その補助契約書なるものをいますぐ見せてもらえますか」
「上杉社長に言われて、私の金庫の中にお預かりしています。いま、持ってきます」
田沢貞一は力のぬけた大きな身体をドアに運ぶのによたよたとした足どりであった。
安田は窓ぎわに歩いた。すぐ前の、ここよりは低いビルの屋上が若者のたむろ場所になっている。寒くなってもきたない厚着でやはり集まっていた。
そうか、補助契約書というのがあったのか。道理で。いや、そうでなければならない。具体的に細目を書いたものがあるはずだ。それがあってこそはじめて「条件改訂」案の意味がはっきりしてくる。
それにしても四千二百万ドルを記した常務会の報告書をプリントにして各常務に配布したのは、上杉二郎にしては迂闊すぎたのではなかったか。そこから「補助契約書」がまさにいま発掘された。安田は、アメリカ人がよくするように口笛を鳴らしたい気持だった。
田沢が戻ってきた。黒い書類鞄をかかえていた。
二人はもとの革椅子に揃って腰をおろした。田沢財務部長は、黒鞄の中から茶色の厚手大型封筒をていねいにとり出し、安田社長に渡した。
封筒の中は、たった三枚綴りのタイプ文書のコピーであった。
「ほほう」
安田は機密文書でも扱うような手つきで持った。次のページをめくって、江坂アメリカ社長上杉二郎とNRC副社長ビル・ブリグハムの末尾の署名がさきに眼についたくらいだった。
冒頭に、"SUPPLEMENTARY AGREEMENT"(補助契約)と題した内容文を読みすすんでゆくうち、"TERMS AND CONDITIONS FOR ADVANCE"(前払いの期間と条件)で眼が停まり、(a)から(c)までの三項目を読んだ。
≪(a) 江坂アメリカはNRCになりかわって、BPにたいし、約二千百万ドルの前払いを、BPからPRCへの第一回の原油の船積みのときを最初として行なう。
(b) さらに江坂アメリカはNRCになりかわりBPに対し、六回までの原油船積みにたいし、二千百万ドルまでの追加前払いを行なう。追加前払いは六回の船積みの最後から九十日目か、または(a)項記載の二千百万ドルの前払い支払いが完了したときか、どちらか早いほうの場合に行なわれる。
(c) NRCは、以上のBPへの前払いが江坂アメリカよりなされたという通知をうけとると、直ちに江坂アメリカへ当該船積額をカバーする約束手形を発行する。すべての約束手形は一九八五年六月三十日を期限として支払われる≫
これによると、江坂アメリカは第一回の原油船積みのときに二千百万ドルをNRCに「前払い」として支払い、その支払いが終ればさらに二千百万ドルの「追加前払い」をNRCへ支払うことになっている。四千二百万ドルの前払いを二回に分けたのだ。
これらの前払金にたいしてNRCは江坂アメリカに約束手形を振り出すが、それらすべての約手の支払期限が十二年先の一九八五年六月末であるというものだった。
「この四千二百万ドルは、もうNRCに渡しておますのか?」
安田茂は補助契約書から挙げた眼を田沢財務部長に移した。
「はい。一昨年の十月から去年の七月までに、取引の各邦銀支店と外国銀行から調達してNRCへ支払っております」
田沢の肥った顔は、縮まりこみそうな表情になっていた。
「そら、ぼくはなんにも知りまへんで。あんたはぼくに相談もせず、報告もしやはらへんやったさかいな」
安田は怫然《ふつぜん》となって言った。
「申しわけありません。なにぶん社長時代を通じて上杉原燃料担当常務の指示にしたがいましたので」
やはり上杉の楯をもち出した、と安田は思った。田沢もまた本社の上役のほうへ顔をむけているのだ。子会社の社長は実質的には部下に無視されている。社員の人事権も親会社がにぎっているのである。
「上杉君は上杉君や。本社の担当役員やいうたかて、この江坂アメリカの社長はぼくで、財務部長はあんたや。ぼくに隠れたようにしてあんたが四千二百万ドルも銀行からトレザラアのサインで金集めしたのは、組織上のルール違反やおまへんか」
「その点はなんとも申しわけがございません。弁解するわけではございませんが、社長は上杉前社長から引継ぎの際に、その件も含められていたと思いましたので」
田沢の強弁だ、と安田は思った。が、それは安田の弱点を衝いていた。ソリの合わない上杉からろくに事務引継ぎもしなかった落度はこちらにある。いまさら、ぼくはなんにも上杉から聞いてへんで、と立場上安田は言えなかった。わからないことがあったら、その引継ぎのとき何故に上杉によく訊かなかったかと突っこまれそうである。
安田の鋭かった舌端は勢いがにぶくなった。
「いま、NRC業務関係のマスター・ファイルを見ようと思ったんやけど、それがここにおまへん。有本君や島村君に聞いても知らん言うとる。あんたがそれを預かってまへんやろな?」
安田は質問を変えた。
「いいえ。わたしのところにはございません」
「そんなら、どこにしまいこんであるのやろ?」
NRCの貸付が関連している記録のマスター・ファイルの保管も財務部長の責任だと安田は言外にいい、さらにそれを東京に持ち帰ったらしい上杉への非難もこめたのだが、田沢はまぶしげな眼つきで、
「わたしには分りません。しかし、社長は引継ぎのとき、マスター・ファイルをごらんになったのじゃありませんか?」
と言った。
これも見なかったとは安田には言えなかった。引継ぎ者の怠慢がわかってくる。安田は、被告に追いこまれている裁判官のような気持になった。
「そうすると、この四千二百万ドルはウチからNRCへのローン(貸付金)でっか?」
安田は態勢のたてなおしにかかった。
「ローンではなく、アドヴァンス(前払金)だと上杉さんから聞いております」
田沢は神妙な表情で答えたが、安田にはそれがとぼけた顔に見えた。
「なるほどこの補助契約書にもそう書いたある。けど、四千二百万ドルいうたら、原油の高騰したいまはVLCCで二隻ぶんか三隻ぶんや。一隻の運航が三カ月に一回としても六十日か九十日で四千二百万ドルの前払いぶんの原油は終ってしまいますがな。それなのに、PRCがウチに入れる約束手形の最終決済期限はみんな十二年さきの一九八五年六月末となってますやろ。これはBPへの前払いやのうてNRCへの貸付金ですがな。タンカー何隻ぶんいうのんは文章のアヤで、作文による偽装でっしゃろ。そやおまへんか?」
「そのように常識的には見えますね。しかし、上杉さんがされたNRC代理店契約は特殊なものですから、一般論では判断できないと思います」
田沢は補助契約書の文字にちらちら眼を落しながら言った。彼はNRC契約の特殊性を強調したが、たしかにNRCの代理店になるために先方の強圧的な希望に上杉が屈した点でそれは特異性を持っていた。このNRCの強圧的な要求は理不尽でさえある。
田沢がまたしても上杉の名をかざし、そうして貸付金の正体をぼかそうとしたので、安田は常務会資料のプリントを出した。
「ここに条件改訂案とあるのは、この補助契約書の条件を改訂するという意味やな?」
田沢もこの常務会資料を見るのが初めてなので、その文章を熟視したうえ、
「そうだと思います」
と肯定した。これはいくら田沢でも逃げようがなかった。もっともこのプリントが安田の手もとにあることはこの三十分のあいだに有本から聞いたにちがいなかった。
「これは原油代が急騰した結果、前にむすんだこの補助契約書の条件を改訂しようというもんやが、この(a)項の、ユーザンス 期間に関係なく総額四千二百万ドルとする、というのんは、どないな意味でっか?」
「さあ、これで見るとそれは本社の平井原燃料本部長が作製された稟議書のようですから、わたしにはよくわかりませんが」
「この報告書のほうでは、ユーザンス総額が約七千三百五十万ドル。これは原油代が急騰したあとやけど、まだまだ原油代が騰るやろうという見込みのときだす。それなのに、逆にその半分近い四千二百万ドルに抑えこむというのんは、現実ばなれやおまへんか。なんぼ期間に関係なくというたかて」
「この文章で見ると、ユーザンス額の限定を四千二百万ドルにすることによって、与信総額を約一億八千九百万ドルにとどめる見込みとありますね。つまり与信枠の危険率を減らすという狙いでしょう」
「ユーザンスの最高限度額を四千二百万ドルに決めたことじたいが非現実な以上、それをもとにしたこの見込み計算もナンセンスですがな、あんた」
「………」
「それにユーザンス限定額を四千二百万ドルにしたいうこの数字やけど、これはいったい何を基準に割り出したんでっか?」
「さあ、ぼくにそう言われても困ります。これは本社の平井さんが常務会に出された報告書ですから」
「じつは平井君にぼくからテレックスで問い合せましたんや。そしたら、これは上杉常務に言われた通りに書いたんで、自分は知らん言うて来た。ぼくもそう思いますな。これは上杉君のプランだす。間違いおまへん。あんたはこの江坂アメリカで長いこと上杉社長のもとで財務部長として仕えてきやはったさかいに、このプランをつくった上杉君の意図や意味がわかりますやろ?」
「いえ。上杉さんの肚《はら》の中はここの社長時代からぼくらにはわかりません」
「さよか。そんならユーザンスについてのぼくの想像を言いまっけどな、この期間に関係ない四千二百万ドルは、NRCに|前払い《アドヴアンス》の名で貸付《ローン》した四千二百万ドルを包みこむカモフラージュやと思います。そうすると期間に関係ない言うことと、十二年先の約手支払いということとがぴたりと合いますがな」
「わたしにはよくわかりません」
田沢財務部長はくりかえした。
「そうだすか。……よくこんな報告書を本社の常務会が承認したもんやな。本社の常務会は何をしとったのやろ」
安田の腹立たしげな独り言を聞いた田沢は、大きな身体をもそりと動かして、
「社長。それは上杉さんの考えを本社の首脳部が支持していたからではありませんか」
と、呟くように言った。
「本社首脳部というと、社長や副社長のことでっか?」
安田の眼がしぜんと光った。
「いや、そのへんはわかりません。ぼくには何もわかりません。しかし、首脳部の承認がなければ、常務会がたとえならび大名であっても、この報告書は通らなかったでしょうね」
安田は黙って合点合点をするように頸を前に動かした。
たぶん田沢は、江坂アメリカの社長がいくらニューヨークでがたがた言っても、本社の首脳部が上杉のやり方を支持している以上、無益ではないかと言いたいにちがいなかった。そこにも本社へ向いている田沢の顔があった。
「四千二百万ドルがNRCへのアドヴァンスであろうとローンであろうと、一九八五年六月三十日を最終決済期限とするNRC振出しの約束手形を、財務部長は持っているはずやな?」
安田は傍に坐っている図体の大きい男に言った。
「はい。わたしが預かっております」
「それを見せてもらえまっか?」
「ここに持って参りました」
田沢は書類鞄の中からもう一つの厚手な大型茶色封筒をとり出して約束手形の束を安田の前に提出した。
安田はそれに見入った。PRC振出しで、ブリグハム副社長サインの約手が七枚あった。発行日は補助契約書にしたがって二組にわけられていたが、総額四千二百万ドルになる七枚とも一年ごとに書き換え、最終決済期限は一九八五年六月三十日となっている。しかも七枚のそれぞれの支払い場所(銀行)が違っていた。
田沢が社長室を出て行ったあと、安田はニューヨーク支店長富田正一を呼び入れた。
「富田君、ぼくの知らんうちに本社の上杉君の意をうけてこっちの田沢君や有本君、島村君らがえらいことをやっとるで」
「そうでっか?」
聞かないうちに富田は眼をみはった。
「まあ、そこにかけなはれ、ゆっくり話すわ」
ゆっくり話を聞いたあと、富田は安田に訊いた。
「で、社長はこれを本社へ言うてやるつもりでっか?」
「いや。そうもゆかんな。ゆかんとこがある。どうやら、これは河井社長も米沢副社長も知ってはるようや」
「そうでっか?」
富田はまた眼をまるくした。
「いや、もうちょっとぼくの邪推を言わしてもらうとな、社長の河井はんは、この件では、上杉君と共同謀議してはる疑いがあるな。いくら上杉君が大胆でもこんな大仕事をひとりでやれるわけがない。副社長の米沢はんは気の毒に何も知らはらへんでそれに捲きこまれてはるとも思われるわ。それに、会長の大橋はんかて、上杉君から内情を聞いてはるかもしれへんで」
安田茂のこの表現にはファミリー派と反ファミリー派との使いわけがあった。河井武則は非ファミリー派である。米沢孝夫は「お小姓」出身のファミリー派の筆頭である。大橋恵治郎は反ファミリー的中立派の旗頭である。上杉二郎はこの大橋にくっついている。そして安田自身はファミリー派で、社主要造を「尊敬」していた。
──その晩安田茂は、家に持ち帰った補助契約書の全文について自分で翻訳作業にとりかかった。
英語には相当自信のある彼にも、難解な文章が一つあった。凝《こ》り性の彼は、まるで大学受験生のようにその英文解釈を未明近くまでかかっておこなった。
一九七五年三月初旬のことである。三十歳半ばの日本人夫婦が七つばかりの男の児を連れてオランダに観光にきた。夫は、東和銀行ニューヨーク支店員だったが、こんど本店に転勤となったのを機会に、二週間の休暇をもらって帰国コースを東回りにとり、ヨーロッパを大急ぎで見てまわろうというのだった。ニューヨークに三年半をすごしての家庭サービスである。
ハーグに行くと、ここにはマドローダムというオランダの模型市街《ミニチユア・タウン》がある。各地の名所や建物を二十五分の一に正確に縮めて広大な敷地につくられたもので、子供の夢の国である。汽車が走り、高速道路には車が流れる。スキポール空港ではアナウンスがはじまり、ジャンボ機がゆるやかに滑走をはじめる。街頭オルガンがきこえ、ゆるやかに風車がまわる。ロッテルダム港には大型船が入っている。子供がよろこんだ。
このことからロッテルダムを見に行くことになった。ここから西南に八十キロばかりのところである。途中、ハーグの海岸スヘベニンゲンにレンタカーを停めた。北海に面した保養地。ホテルがならび、熱海に似ていると妻は言った。まだ肌寒いのに砂浜の小屋がけの中では、籠の中に女の半裸身が入って太陽を吸いこんでいた。
ロッテルダムに入ると、階段式屋根とチョコレート色の煉瓦建物に白いカーテンを閉ざした窓のならぶオランダの伝統的な家屋は少なくなり、代りに殺風景な港湾の工業都市が現れてくる。ライン川に入るロッテル川の河口が北海にそそいで、ここがヨーロッパ随一の港となっている。
この港湾を望んでユーロ・マストと名づけられた高さ百八十五メートルの展望塔がある。まるで京都タワーみたいね、と妻は言った。京都タワーは仏寺の蝋燭《ろうそく》のかたちだが、これはマストになぞらえて一本の白い柱となっている。百メートルのところに輪のように張り出した展望台がある。子供づれの夫婦はエレベーターでそこに登った。
広いガラスばりの窓際にならぶレストランのテーブルについて飲みものなどをとって港湾を見おろした。岸壁には造船所のクレーンが高くならんで音響を轟《とどろ》かし、ドックや各埠頭には黒い大きな貨物船が横づけとなっている。とくに二十万トン級の大型タンカーが何隻も入港しているのは、そのマストに翻っているさまざまな色の各国の国旗とともに壮観と美麗とを兼ねていた。
その大型タンカー群の中に日ノ丸の旗を見つけたのはやはり子供であった。
ロッテルダムはユーロ・ポートといって世界各国からヨーロッパむけの貨物が陸揚げされるので有名だから、日本のタンカーが入っていてもふしぎではない、ここには日本の石油会社もあるし、日本の商社も二十近く進出している、日本の銀行支店も多い、と東和銀行勤務の夫は、妻と子供に説明した。
展望台を降りたあと、子供にせがまれるまま夫婦は湾内一周の遊覧船に乗った。遊覧船は、繋留されたおびただしい貨物船の列前を閲兵式のように歩いてまわった。
おや、あれは栄光商船のタンカーではないか、と夫は船腹についた EIKO LINE の白ペンキ文字に眼をとめた。展望台から見えた日章旗の大型タンカーがこれだった。「朝日丸」の文字が船首近くの下にならんでいた。
栄光商船の朝日丸なら、カナダのPRCに用船された原油輸送船ではないか。江坂アメリカの対NRCのLCを開設している東和銀行ニューヨーク支店員だった夫はそういう知識を持っていた。江坂アメリカが数年前にNRCのためにサウジアラビアとニューファンドランドとを往復する栄光商船のタンカー用船契約をとりもち、そのために江坂がNRCに千五百万ドルを担保つきで融資したいきさつも、三年間ニューヨーク支店で暮していた夫は知っていた。
その大型タンカーの朝日丸が、どうして北欧のロッテルダムなんかに入っているのか。カンバイチャンス製油所の精油を売るのだったら、カナダかアメリカ東部海岸のマーケットのはずである。
夫は遊覧船から上がると、日本の商社の支店の一つを訪ねた。朝日丸はニューファンドランドから船舶用重油を積載してきて、昨日その荷揚げが済んだところだという。二十万トンのタンカーがプラセンシア湾から船腹一ぱいに積んで、よくは分らないが船舶用重油《バンカー・オイル》を叩き売りにきたらしいというのである。ロッテルダムはヨーロッパに安値で貨物を処分しにくる港としても聞えている。
商社間には「仁義」があって、他の商社の商売内容に立ち入ったことは第三者に言わない。しかし、その口ぶりからしてそれが推測ではなく事実を言っているとうけとられた。
帰国した銀行員はそのことを、江坂産業につとめている友人の一人に話した。
「そんなバカな」
江坂産業の社員は笑って答えた。
「PRCのカンバイチャンス製油所は、最新式の石油精製装置をもち、日産十万バーレルのうち、六〇パーセントまでが白モノを精製している。白モノというのは、ジェット機のエンジン油とか車のガソリンとか灯油とかいった高級油のことだ。普通の精製だと、白モノと重油などの黒モノと称するものとがやっと半々ぐらいの率だがね。日本にある製油所の全部はこの装置だ。なにしろカナダ市場にしてもアメリカ市場にしても、白モノの需要が絶対に多いんだ。最近、ウチの社に入ったニューヨークの江坂アメリカからの報告でも、カンバイチャンスの製油所は快調にフルに操業しているとPRCからレポートをうけているとあったよ。栄光商船のVLCCがニューファンドランドから船舶用重油を積んで、ロッテルダムに捨て売りに行くなんて、そんなバカなことはあり得ないよ。……それはなんじゃないかな、NRCはVLCCを七隻も用船契約をして、剰《あま》った三隻ぶんをほかにまわして再用船させ、利ザヤをかせいでいるというから、ロッテルダムで君が見た朝日丸もその一隻で、その商社の人がニューファンドランドからバンカー・オイルを積んできたように錯覚したんだろうな。それとも競争相手の商社がためにするデマかもわからんな」
江坂産業の友人は、ばかげた話だとふたたび笑った。
[#改ページ]
第六章
1
三月二十日、NRCのブリグハムは、二十三日が支払期日となっている二千三百五十万ドルの約束手形を五カ月先に延ばしてほしいと江坂アメリカに申し入れてきた。これは一カ月前に三池銀行ニューヨーク支店扱いだったのが、共立銀行支店に肩代りされたものである。
江坂アメリカの主力銀行は去年の九月ごろまでは住倉銀行と東和銀行の両ニューヨーク支店だったが、タンカーの第六船ぶんから共立・三池・三丸・駿遠の四銀行各支店が一斉にLCを開設した。過剰流動の現象で、邦銀の各支店にはだぶついた資金の最も安全で有利な貸出先として総合商社は魅力の対象だった。
この四銀行のうち三池・三丸は旧財閥系の大手であり、共立は戦後の都市銀行であり、駿遠は地方銀行ながら中央進出に精力的であった。
去年(一九七四、昭和四十九年)十一月にユーザンス期限のきた共立銀行扱いの千五百万ドルは江坂アメリカが支払いを二カ月延長している。また、同年十月の住倉銀行扱いの千五百四十万ドルは二カ月延ばした。
住倉扱いの千五百四十万ドルも共立扱いの千五百万ドルも|はね《ヽヽ》金という名のロールオーバーである。しかし、住倉のぶんが去年末まで三回に分割してNRCから入金があったように、二カ月延長された共立の千五百万ドルもこの三月二十日にNRCから支払われた。つまり去年のこの両銀行扱いのものは無事に決済が終ったのである。
共立銀行扱いの二千三百五十万ドルというのは、もともと一カ月の支払期限延長の段階で、三池から共立に肩代りしてもらったものだが、肩代りしたことでは、江坂アメリカの財務部長田沢貞一が共立銀行の希望ということにして三池の諒承をとった。共立銀行としては江坂のLC勘定が多ければそれだけ手数料が睡り口銭的に入ってくるために利益となる。のみならず、共立銀行にはもっと江坂に喰いこみたいという積極的な姿勢があった。すでに江坂の主力銀行は住倉銀行だが、両者のこの伝統関係にすすんで割りこむ意欲に共立は燃えていた。
その二千三百五十万ドルが三月二十三日の時点でさらに五カ月もの再延期となると、もはや完全なロールオーバーだった。だが、共立銀行ニューヨーク支店長は動じなかった。やり手の評判がある支店長はあくまでも江坂アメリカと江坂産業に絶対の信用を置いていた。
共立銀行にはBPの取引銀行から別口で二千五十万ドルの為替手形(原油代の取立て)がきていた。これは銀行間ではLC勘定で決済ずみだが、ユーザンスは三月末になっている。ところがNRCではその支払いを都合で八カ月先まで待ってほしいと、その五日前に江坂アメリカに言ってきた。
社長の安田茂は色を失った。さきに三池銀行から肩代りしてもらった二千三百五十万ドルが五カ月の延長(NRC振出しの約束手形の支払期日は八月二十日)となっているのに、いままた二千五十万ドルを八カ月延長(NRCから江坂アメリカへの約束手形の支払期日は十一月三十日)すると、現在共立に対し二口で合計四千四百万ドルのロールオーバーを持つことになる。
NRCはいったいどういうつもりなのか。支払延期もNRC副社長のブリグハムが「都合により」と電話で通告するだけで、理由がいっこうにはっきりしないのである。
安田は田沢を呼んだ。
「NRCがこないにいうてきてるからには、共立には八カ月の決済延期を頼まななりまへんやろ。そやけど、五カ月延期の二千三百五十万ドルの口をかかえてはる共立に、いままた二千五十万ドルを八カ月先の支払延期にしてくれとたのむのは、こら、つろうおますな。共立にとっては重大なことや。支店長は言うことを諾《き》いてくれますやろか?」
「とにかくぼくが支店長に会って社長の希望を伝えましょう。支店長はどうせ本店にテレックスで稟議を出すと思いますが、その返事がくるまで二日はかかるでしょうな」
田沢はそれほどあわてた様子もなく答えた。
「あ、それから、こないなロールオーバーがほかの取引銀行に聞えたら、えらいこっちゃがな。そのへんはくれぐれも内密にしてもらうように」
「それは大丈夫です。銀行は取引先の問題を他行には絶対に洩らしませんから」
「なにぶん頼みます」
この事実が他行とくに住倉銀行と東和銀行に知られてはたいそう困る。ロールオーバーはその企業の危険信号を意味するからだ。こんどの場合、共立銀行には、二口で四千四百万ドルという多額が、五カ月ないし八カ月のロールオーバーを起しているし、しかも前の一口は再延長である。これを知ったなら、いくら相手が総合商社でも住倉と東和とは警戒して江坂アメリカへの融資を減らすかもしれない。
救いは、田沢も言うとおり、銀行間では取引先のことを秘匿する慣習にあった。各銀行は横の連絡のない、孤立した金融の城砦《じようさい》であった。
田沢財務部長は、ひどく事務的な態度で共立銀行ニューヨーク支店に向かって出て行った。
今年の一月、本社の原燃料・鉱産本部長名による常務会報告を安田に突きつけられて補助契約書の存在や、|前払い《アドヴアンス》の名目の四千二百万ドルがNRCに対する事実上の無担保・長期融資であることまで「自白」させられた田沢は、以来傍観者的な立場に後退していた。自分は財務部長という経理事務の担当にすぎない、社長のあんたの命令どおり何でも機械的に使い走りをつとめますよといった投げやりな、第三者的な態度になっていた。上司にたいして常に部下がとる消極的な抵抗手段である。もとより田沢の心も東京本社の上杉常務に向いていた。
安田は田沢が出て行ったあと、草稿を練り上げてテレックス係主任を社長室に呼んだ。これを河井社長あてに極秘扱いで打ってくれと命じた。
通信の要旨は、NRCの約手二口が長期のロールオーバーを発生させていることの報告と、今後のNRC対策についての指示の要請であった。
後者は上杉二郎でないと埒《らち》があくまい。NRCの内情は上杉しか知らないので、河井は上杉を詰問するにちがいない。このテレックスだけでも河井と上杉には厳重な警告となろう。──
安田は机の抽出しから四枚の紙をとり出した。一枚は補助契約書の原文で、その第一条の(c)項に赤鉛筆でアンダーラインが引かれてあった。他の一枚は、その条の原文を同じく英文で書き直したもので、これには邦文の対訳がついていた。あとの二枚は、原文を分析したメモである。三枚はいずれも安田のペンであった。今年一月のある晩、自分のアパートに持ち帰り、検討した補助契約書の条文のうち第一条の(c)項であった。彼の試みた解釈がこの二枚のメモだった。まず、原文。
≪NRC, upon receipt of notices from ESAKA of the date of advances to BP for the shipments of crude oil, shall immediately issue promissory notes to ESAKA to cover the amount of such shipments and ESAKA shall thereupon pay out of the bank account referred to in Chapter II e of the Agency Agreement to NRC or as it may direct the payments received from Provincial in respect of such shipments. All promissory notes shall be due and payable June 30, 1985≫
この項は advance(原油代の前払い)に関したところだが、文章が曖昧でわかりにくい。故意に曖昧につくられたようなところがある。不審を起した安田はあの晩、深夜までかかって文章を検討し、原文の一部を自分流に構成し直してみたのだった。
@ NRC, upon receipt of notices from ESAKA of the date of advances to BP for the shipments of crude oil, shall immediately issue promissory notes to ESAKA to cover the amount of such shipments. ESAKA shall thereupon pay to NRC out of the bank account referred to in Chapter II e of the Agency Agreement or, as NRC pay direct, out of the payments received from Provincial in respect of such shipments. All promissory notes shall be due and payable June 30, 1985.
原文の and のところを二分して、二つの構文に書き直したのだ。
それによる訳文@。
≪NRCは、原油の船積みに対するBPへの前払いの日付の通知を江坂アメリカより受け取ったら、ただちに江坂アメリカへ当該船積み額を含む約束手形を発行する。その上で江坂アメリカは代理店契約の第二条(e)項に記されている銀行口座からNRCに支払うか、またはNRCの指示通りに、当該船積みに関してPRCから受けとった金額からNRCに支払うかするものである。すべての約束手形は一九八五年六月三十日を期限として支払われることとする≫
最も重要なのは direct を「指示」とする訳語であった。
原文は、さらにもう一つの書き直しも可能である。
A NRC, upon receipt of notices from ESAKA of the date of advances to BP for the shipments of crude oil, shall immediately issue promissory notes to ESAKA to cover the amount of such shipments. ESAKA shall thereupon pay out of the bank account referred to in Chapter II e of the NRC Agency Agreement or, as NRC may direct, out of the payments received from Provincial in respect of such shipments. All promissory notes shall be due and payable June 30, 1985.
その訳文A。
≪NRCは、原油の船積みに対するBPへの前払いの日付の通知を江坂アメリカから受け取ったら、直ちに江坂アメリカへ当該船積み額を含む約束手形を発行するものとする。その上で江坂アメリカはNRCとの代理店契約の第二条(e)項に記載されている銀行口座から〔BPへ〕支払うか、または〔NRC〕の指示どおりに、当該船積みに関してPRCより受取った金額から〔BPへ〕支払うかするものである。すべての約束手形は一九八五年六月三十日を期日として支払われることとする≫
安田は、第一条(c)項を、原文の本社訳のほか、このように二通りに解いてみたのである。ということは本社訳を含めて三様に翻訳できるということである。契約文はそれだけ多岐に解釈できる複雑さを持っていた。その曖昧も晦渋《かいじゆう》も起案者が或る目的をもって故意に作文したとみてよかった。
安田は自分の書いたこれらをまだだれにも見せていなかった。その機会がなかったのだ。が、共立銀行にロールオーバーの二口目が発生したいま、これを上杉二郎の腹心である原燃料課の有本七郎と島村和雄に見せ、作文の罠《わな》に似た目的を確認する必要があると思った。
安田はもういちど自分の書いたものを点検したうえ、受話器をとった。
有本と島村は二十分も経って社長室へ来た。済みまへん、客がきてましたよってに、と部員の有本がそれほど済まなさそうな顔でもなく言った。この二人はとかく呼んでもすぐには来ない。万事が柔順でなかった。これも消極的な抵抗であった。
まあそこに掛けなさい、と安田は前に突立っている二人を椅子に坐らせた。
「この補助契約書の第一条の(c)項の原文やがな。ぼくの頭の悪いせいか、どうもわかりにくいのや」
安田は、共立銀行のロールオーバーのことには触れずに、まず条文の原文を有本の前に出した。その(c)項には赤線が入っていたので、島村もいっしょにすぐそこへ眼を落した。
「わが社の訳文はいちおう出来とるが、かならずしも原文に忠実とはいえんようや。ええかな、原文そのものだけを見てみるとやな、だれがだれに対して金を払うのんかはっきりしてへんとこがある。つまりやな、かんじんなとこがぼかしてあるような気がするんや」
うつむいて原文に眼をさらしている有本も島村も、安田の言うことを頭の上で聞き流しているようだった。
「わが社の訳文はこうなっとる」
安田はタイプの印刷を読んだ。
「NRCは、原油の船積みに対するBPへの前払いの日付の江坂アメリカからの通知を受け取ったら直ちに江坂アメリカへ当該船積み額をカバーする約束手形を発行し、江坂アメリカは、エイジェンシイ協定の第二条(e)に記載されているところの銀行口座からNRCへ支払うか、当該船積みに関係してPRCから受け取った支払いを管理する。すべての約束手形は一九八五年六月三十日を期日として支払われる=c…こう訳されとる。参考のために聞くけど、こらだれが訳したのや?」
二人はすぐには返事しなかったが、有本が、
「上杉常務だす」
と顔をあげて答えた。表情も声も硬かった。有本が上杉の名を出したのは、あきらかに予防線であった。実際は有本だろうと安田は推測していた。
「さよか。どうも、この訳文は明確にすぎるようやな。というのは意訳が勝っとるようにぼくには思われる。そこで、ぼくはぼくなりに原文に忠実に訳してみた。それがこれや」
安田は別な紙を出した。それが@案の原文の書き直しとその訳文であった。両人の眼は一斉にそれに向かった。
「ぼくは君らのように英語の達人やないさかい、自分に分りやすいように and のところをピリオドにして切り、二つの構文にしてみたのやけどな」
有本は顔をあげて、
「どうもわが社の訳文とそう違わんように思いますけど」
と、とぼけたような眼をした。
「そう違わんやて? そんなことはないやろ。まず、問題は direct の訳し方や。わが社訳ではこれを『管理する』としてるけど、ぼくのはごらんのとおり『指示どおりに』と訳してある。辞書には direct に管理と指示の両方の意味があるとあるけど、このばあいは指示の意味にとるのが適切やと思うとる」
「そうすると、社長は or as it may direct が前段の pay out of the bank account……(銀行口座から支払う)にまでかかると解釈されますのか?」
「そうや、または|それ《ヽヽ》 (it) の指示にしたがって(or as……may direct)のフレーズが、銀行口座からNRCへ支払う、のフレーズまで意味上かかっとると思うとる」
有本は、それには従いかねるといったように首を左右に振るように傾《かし》げ、島村の顔を見たが、島村もまた同じように首を捻っていた。
「direct を管理すると訳すると、PRCからの原油代の入金がわが社の管理下に置かれておるように解釈される。つまりその入金はわが社が管理して、そののちにわが社からBPに支払ってゆくようにとれるわな。けど、実態はそうやない。わが社がPRCからの入金をいったん管理してその金からBPに直接支払うのやのうて、NRCがBPに支払うことになってる。そのためにわが社からNRCへの|前払い《アドヴアンス》もあることや。だから、この direct を管理すると訳すのは、実態とはかけはなれとる」
有本も島村も黙した。安田の言うとおりだったからである。
「そこでや」
はずみをつけた安田は二人に言った。
「もう一つ、原文を分割して別な構文もつくってみた。それがこれや」
彼は次のAの文章を英文・訳文ともに出した。両人の眼はまたいっしょにそれへ注がれた。
≪江坂アメリカは……銀行口座から〔BPへ〕支払うか、または〔NRCの〕指示どおりに、当該船積みに関してPRCより受け取った金額から〔BPへ〕支払うかするものである≫
「この〔形カッコの中の字句は、ぼくが原文の意味をとって補ったのや」
安田は注釈してつづけた。
「ええかね。『it の指示どおり』の it をぼくはNRCをさしとるとみた。このフレーズが意味の上から前段のフレーズにかかってる以上は、そう解釈したほうがあたっとる。本社訳では it をNRCからの入金の代名詞にしてるけど、君らはどっちゃが妥当やと思うかね?」
「さあ、どちらにもとれますなア」
有本は、眼鏡をずり上げて言った。鼻の頭に汗が滲み出ていた。
「どちらにもとれるやて? そこがこの原文の曖昧なとこや。もし it が本社訳のとおりやと、direct を『管理する』と訳したのと組み合せになって、NRCとの取引の実態とかけはなれたものになるがな」
有本も島村も発言しなかった。安田は煙草をくわえて火をつけた。
「実態と違う意味からいって、このAの訳文は役に立たんわ。で、これを棄てる。そやさかい、けっきょく妥当なのは、こっちゃの@の解釈や。……ところが、そう解釈するとやな、また奇妙なことになる」
有本が唾をのみこんだ。安田が何を言い出そうとするのか、少々不安の様子だった。
「それはな、こういうことや。江坂アメリカはBPに対する原油代の前払いとして銀行口座からNRCへ金を支払う、またはNRCの指示通りにNRCへ金を支払う。どっちゃにしてもわが社はNRCに前払金を支払うことになるのやけど、後者のようにNRCの指示通り、あるいは指示にしたがって、となると、わが社はNRCの望む条件のままに金を支払わなきゃならん。つまりわが社としてはNRCの言うままに無条件にNRCへ金を支払うということや。ということは、原油を積んだ船がカンバイチャンスに入って来ようが来まいが、NRCの指示があればその指示通りにわが社は前払金をNRCへ銀行口座から支払わねばならんちゅうことや」
「しかし、それには、PRCから江坂アメリカに原油代の入金があった上で、という条文になってます」
有本が言った。
「たしかにそう書いてある。けど、これは、or という従属文に導かれたもので、主体は前段にある。つまりやな、NRCがわが社宛に約束手形を発行するのは、わが社からBPへ船積み原油代の前払いの日付の通知をうけとったとき、とあるのが主体や。これにもNRCの指示に従って、というのんがかかっとるとぼくは思うね。その指示とは、NRCが前払いの日付の通知を自分らの思いどおりにわが社に出させることや。言葉を換えると、原油の船積みがあるなしにかかわらず、NRCの指示どおりの前払いの日付に、わが社はその通知をNRCへ出し、約束手形をもらって前払金を支払うということや。実際上の意味はな」
「そんなことにはなりまへんやろ、社長」
有本は顔に血の色を上《のぼ》せて抗《あらが》った。
「本社訳にもあるように、NRCは、原油の船積みに対するBPへの前払いの日付のある江坂アメリカからの通知をうけとったら、直ちに江坂アメリカへ当該船積み額をカバーする約束手形を発行する、とおます。これは銀行間のLC勘定をカバーする取引上の決済のことだすがな」
「うむ。それは君の言うとおりや。それなら、その決済がなんで前払金にならんとあかんのや。LC勘定をカバーするための決済でわが社がNRCから約束手形をもらうんやったら、こりゃユーザンス期限付の普通の融資や貸付やないか。それがどうして前払いという語になるのや? PRCとNRCとは一体や。NRCからの入金をNRCへ原油代の前払いにするというのも奇妙やないか?」
安田も激して言った。
「………」
「このアドヴァンスという語彙がけったいなのは、今年の一月にこのぼくの部屋で君たちと話し合ったな。問題はまたそこへ戻るわけやが、NRC関係は上杉常務が全部ひとりで作成したさかい、自分は知らんというとったな。その後に補助契約書があることがわかり、それを田沢君に出させたのやけど、この条文のことは君たちは与《あずか》り知らんわけやが、違うか?」
「へえ。知りまへん」
「ほなら、君がこの条文の解釈にあれこれと言うのはおかしいやないか?」
「ぼくはただこの条文を見せられてぼくなりの解釈を言っただけだす」
「君たちは英文に堪能やからな。そうか。ありがとう。参考になった」
有本と島村が出て行ったあと、安田は机上に残った一枚の本社訳にもう一度眼をさらした。原文の direct を「管理する」と訳すると、入金を管理する意味となって江坂アメリカの自主性が強く出る。これによって上杉は河井社長や米沢副社長を納得させたのだろう。上杉のごまかしだと思った。
しかし、補助契約書はNRCと江坂アメリカとのあいだで江坂アメリカ社長上杉二郎名義で交わされたものだ。江坂産業本社は形式的にはこれに関与していない。本社とNRCとは、一般的で抽象的な本契約書が、江坂産業代表取締役上杉二郎名義で、交換されている。したがって、すでに前払い名目でNRCへ貸付けた四千二百万ドル以外にも、今後、原油代に対するNRCへのLC勘定の金融は、対アメリカの窓口である江坂アメリカの資金繰りから出さねばならなくなる。どうやらそうなりそうだ。
本社としては、その資金繰りは子会社に全部任せることになるので、それに対する本社常務会の無感覚が生じる。社長も副社長もそこを考えていると思われる。
おおまかな本契約書は本社とNRC間で、細目規定の補助契約書は江坂アメリカとNRC間で、と二つに分離した上杉の手腕の冴えに安田はいまさらのように感歎した。
2
田沢財務部長が共立銀行ニューヨーク支店から戻ってきての報告では、支店長は二千五十万ドルの新規のロールオーバーについて本店にむけて一応稟議を出す、と返事したという。三月二十三日に三池銀行から肩代りして一カ月延び、さらにそれを五カ月延長した二千三百五十万ドルの約手(NRC振出し)をすでに抱えている共立の支店長は、今度の八カ月延長の手形書替えに、それほど深刻な表情は示さなかったそうである。
銀行は江坂アメリカの背後にある江坂産業を信用している。NRCの約手などよりもそれを保証する江坂産業に信頼を置いていた。たしかに約手のロールオーバーは企業《NRC》の赤信号ではあるが、銀行はそれが直ちに江坂に連動するとは考えていなかった。江坂産業は堅実な内容を伝統的に誇っており、各銀行ともそれを信じている。たとえ現在赤信号を点滅させているNRCでも、江坂が取引している以上、それの改善は江坂が行なうにちがいないと思っていた。それもまた代理店としての任務だからである。
共立の支店長は、去年十一月に同店扱いのNRCの約手が二カ月延長され、その期日の今年一月にまた二カ月延長されたが、それがこの三月十五日に無事に決済が終ったことを評価している、本店もこの点を考慮するにちがいない、稟議の承認が明日あたりのテレックスでくることを支店長は期待している、と田沢は報告した。
きわめて事務的な報告だが、田沢も安堵したらしかった。NRCのロールオーバーは財務部長の彼にも責任があることだった。その田沢は有本から補助契約書の第一条(c)項についての安田の疑問を間もなく耳にするにちがいなかった。社長はんは大学受験生みたいにひと晩ねじり鉢巻で英文解釈≠してはった、という彼らの蔭口が安田に聞えるようであった。
翌日の午前十一時、安田は大阪本社の河井社長からテレックスをうけとった。
共立銀行ニューヨーク支店が同店扱いの手形支払延期の書替え(二千五十万ドル。八カ月延長)に万一応じないときは、貴社の資金から直ちに決済されたし。しかしながら同銀行は手形の書替えを承諾するものと予測する。NRCの業務は順調にして、いささかも不安なし。
河井の返事は安田の予想したとおりだった。親会社の社長は、万一銀行が拒絶したばあいはNRCからの入金を待たず子会社の資金繰りでその約手を落せというのである。NRCの業務が順調でいささかも不安がない、というのは、上杉二郎の意見によったと思われる。昨日こちらから打ったテレックス報告を見た河井は、上杉に相談したにちがいなかった。
NRCが共立銀行扱いの約手合計四千四百万ドルにロールオーバーを起したところで、たいしたことはない、同社の精油業務は順当に行っているので懸念の必要はない、とこっちの心配を一蹴しているテレックスの文字は、上杉の口調そっくりであった。
いわゆる|はね《ヽヽ》金融と称する短期支払延期の手形書替えはあっても、五カ月、八カ月など共立扱いの約手が二口もそろって長期のロールオーバーを発生させたのは異常な事態といわなければならぬ。普通だと、NRCへ至急に事情を問合せよという訓令が本社からくるところだ。
それがなく、NRCは健全だという東京本社の返事は、本社じたいがNRCになり代ってニューヨークに回答してきたようなもので、正確には上杉二郎がサッシンを代弁して安田の危惧を斥《しりぞ》けたのだった。
窓口の責任者たる安田はNRCに対して何ら直接交渉権を持たされていない。すべては本社の原燃料・鉱産担当たる上杉常務とサッシンとの間で高度な話合いがおこなわれている。折衝はそこでなされ、江坂アメリカは対NRCの単純な現場的業務連絡機関にすぎない。これも一昨年の九月に作成交換された江坂産業・江坂アメリカとNRCと二通りの契約書にもとづくものだった。
江坂アメリカ社長として前任者の上杉からはろくに引継ぎもされていない。補助契約書の存在にしたところで、安田が自力で発見した。NRCのことならこっちに任せておきなさい、あんたは何も心配をせんでよろしい、とほほ笑んでいる上杉と、その同調者である河井社長の顔とが、あたかもこの一本の回答テレックスにならんでいるようであった。安田は両人に子供扱いされている自分をさとった。
同じ日の午後、共立銀行ニューヨーク支店長は二千五十万ドルのNRC発行約手の八カ月支払延期を諒承する旨の正式回答を田沢財務部長宛に寄せてきた。予想どおり東京本店に稟議が通ったのである。
共立銀行では、やはり去年十一月期限のニューヨーク支店扱いNRC約手千五百万ドルが二カ月延長されたあと無事に決済された実績を高く買ったらしかった。これは田沢の推定どおりだった。その根底には江坂産業に喰いこもうとする共立銀行の意欲がある。共立は、住倉銀行や東和銀行よりは下位クラスの都市銀行であり、江坂アメリカのLC開設参加では遅れて来た銀行の一つである。貸付資金のだぶつき(流動資金現象)は他行と同じだから、タンカー一隻分に約千八百万円から二千万円もの手数料が自動的に入ってくるのは銀行にとって大きな魅力であった。共立が江坂の金融割込みに性急なくらい積極的なのは、他行に出おくれたことのあせりでもあった。
銀行がそのような思惑を持っていればいるほど安田の不安は増した。なんとかしてNRCの経理内容をつかみたかった。
NRCは実質的にはSNR(サッシン・ナチュラル・リソーシズ社)である。NRCの資本金わずか二百ドルという信じがたい少額がそれを証する。だが、この小会社の経理内容の調査は普通の興信所では歯が立たなかった。それを翼下に収めたSNR社では一流の経理士・弁護士たちを雇っていた。とくに弁護士のアーサー・ウォッシュマンは前大統領のリチャード・ニクソンの相棒《パートナー》であり、NRCの副社長のビル・ブリグハムにしたところで名うての公認会計士であり、アメリカのほうぼうに公認会計事務所をもっていた。このような人士をサッシンが大金を出して擁しているのは、それじたいが防禦的な姿勢──他を攻撃するよりも他からの攻撃に対して常に武装し、その組織を要塞化しているのである。ということは、その組織の内部が他からつつかれたらもろくも崩れそうな矛盾に満ちた弱さをもっているからではないか。江坂との補助契約書一つをとっても、その秘密性といい条文の曖昧さといい、それを証拠だてているような気がする。
たとえば、正契約書にはその有効期間を十年間としている。それなのに補助契約書では、すべてのNRCの手形は一九八五年六月末日に決済されるとして、締結時より十二年後となっている。これはアドヴァンス名目となっている四千二百万ドルの貸付金については、はじめから返済の意志がないことを示しているとも見られるではないか。
もっとも正契約書の条文六条には≪この協定の諸条件は、十年間の期限切れ、もしくはNRCの江坂アメリカに対する未決済の負債が返済されるかする時まで、NRCとBPもしくは他の供給者との間で締結された原油契約の延長期間中、効力を有するものとする≫とある。契約の有効期間をいちおう十年間としながら、NRCは江坂に負債があるかぎり、もしくは、以下の条件によって有効期間が延長されるとある。この「もしくは」以下がくせもので、NRCがBPその他の供給者と原油契約を延長すれば、江坂との契約もまたしたがって自然延長されるというのである。これでは、代理店として江坂は十年の契約有効期間を過ぎても、延々と原油供給をNRCへ行なう義務をもつことになる。正契約書の第六条を熟読するだけでもそういうおそろしい内容を持っており、それがまさに補助契約書の内容と表裏一体をなしていた。
このこともサッシンのSNRコーポレイションの欺瞞性《ぎまんせい》を示している。それが大きな弱点であるから、それゆえに組織は有能な弁護士・公認会計士らを防禦の武装にしていると思われる。
安田は試算してみた。七四年二月いらい原油価格は一バーレル当り約十ドルとなっている。ペルシャ湾からバーレル当り一ドル五十セントの運賃でプラセンシア湾に持ちこむとして、十一ドル五十セントで、約十二ドルとなる。現在の精油の売価は六ドル五十セントに抑えられている。これを約七ドルとすると、バーレル当り五ドルの損となる。
カンバイチャンスの生産能力が一日十万バーレルとして一日に五十万ドルのマイナスとなる。一年つづくと一億八千二百五十万ドルの欠損となる。これは原油代+運賃だけの計算だから、これに保険料・金利・人件費・電力代・出荷運賃などの諸掛を加えると、年間二億ドルを越す赤字となろう。おおざっぱに試算しただけでもNRCはこれだけのマイナス経営である。NRCはいったいどういうつもりでいるのだろうか。
江坂がもし担保をNRCに設定していれば、その担保の評価額にNRCの赤字が達したときにはそこで取引にストップをかけることができる。ところが現在その担保をとっていないのであるから、正契約書第六条の規約によって代理店としての江坂はBPその他からNRCへ永久に原油を供給しつづけるように義務づけられている。そんな義務をまともに履行すれば江坂はどうなるのか。安田は、何もかも呑みこむ深い淵を覗きこむような身震いを感じた。
けれどもこの粗い試算は外部のものである。カンバイチャンスが日産十万バーレルに達しているかどうかもよくわからない。NRCはこっちには何一つ資料も情報もくれないのである。
安田は意を決して有本と島村を呼んだ。上杉に対して相変らず忠誠をつくしているこの二人を使うことは好ましくないが、NRCと江坂アメリカとの実務上のパイプはこの両人しかいないのでやむを得なかった。
「ぼくの試算ではこんなふうになる」
安田は二人に言った。
「けど、これは油には素人のぼくの概算やから間違っとるかもしれへん。君らは石油の専門家や。どう思う?」
有本と島村は安田のつきつけた数字に見入っていたが、
「NRCのことは上杉常務が全部掌握していやはるよってに、ぼくらにはようわかりまへん。そやさかい社長のこの試算が当ってるかどうかも判断でけまへん」
と有本は眼で島村と相談しながら答えた。安田が予想したとおりの返事であった。
「ぼくの試算は、NRCの決算がわからんさかい暗闇の中で算盤《そろばん》をはじいているようなもんや。自信もなにもない。上杉常務が一人で知ってはっても、BPの原油代はウチのLC勘定から決済しとるし、NRC約手の保証はウチが銀行に行なっている。ウチは上杉常務からNRCの決算書などの資料を一つも貰ってへんさかい、現地の実務会社としてのウチは単独ででもNRCから決算書を見せてもらわんことには不安でならんがな。君らはNRCへ交渉して決算書を貰ってきてくれ」
有本と島村はまた顔を見合せた。二人は困惑と軽蔑の表情をうかべていた。
「そりゃ、むずかしいと思いますが」
島村が眉をひそめて言った。
「なんで、むつかしい?」
「NRCでは、上杉常務とすべて交渉しているので決算書のことも全部上杉常務に聞けと言うにきまっています」
「上杉常務は上杉常務や。江坂アメリカはこっちゃで実務を行なってる。LC勘定の決済もNRCへの融資もみんなウチの回転資金からまかなってる。ウチはウチでNRCの決算書をもらわんことには暗闇相手に商売しとるようなもんで、仕事がでけへん。どないしてもNRCが決算書をくれへんなら、来月の原油供給のLCを開かんと言うてくれ」
「えっ」
この言葉に二人ともびっくりした。
「社長。お言葉を返すようですが、そら、じっさいにはでけまへんやろ。LCをやめるなどと言うたら、契約違反になりますがな」
有本が口を尖らせた。
「契約違反にはならへん。契約書にはNRCの決算書が来んでも原油を供給せいとは書いてないさかいな」
安田はこめかみに筋を浮かして言った。
「………」
「とにかく、君らはぼくの言うとおりに交渉するんや。決算書がないことには、本社から原油供給のLCをつづけよという指令もわれわれに来てへんというてな」
「社長。LCをストップしたらNRCはお手あげになりますやろ。わが社の仰山な対NRC債権も回収でけへんさかい、こっちも破滅ですがな」
「NRCとしては自分とこの危機のほうがずっと重大や。江坂の破滅なんぞはNRCにはどうでもええが、自分とこが潰れたら元も子ものうなる。ま、とにかくぼくの言うとおりにブリグハム副社長へ伝えて強硬に談判してくれ。責任はぼくがとる」
「へえ。じゃ、とにかくそう言ってかけ合ってみますわ」
有本と島村は、不承不承というよりもむしろ不貞腐《ふてくさ》れた態度で出て行った。どんなに安田が自分らに腹を立てても、この子会社の社長には人事権がないというタカをくくった態度がありありと現れていた。彼らの忠誠心は太平洋を隔てた本社に、とくに上杉常務へむかっていた。
三時間後、パークアベニューのNRC本社から戻ってきた使いの両人は、ブリグハム副社長との交渉結果を安田に報告した。NRCの経営状況は東京の上杉常務に詳しく報告してあるので、上杉常務より委細を聴取してくれとブリグハムは案のじょう答え、LC停止を江坂アメリカが軽率に云々《うんぬん》するのは不穏当であると強く非難したという。
回答は安田の予想どおりだったが、それには一つだけ収穫があった。ブリグハムはなるべく近いうちに東京へ出むき、NRCのこれまでの決算報告書の一切を上杉常務に手交すると明言したというのである。
安田は本社宛に月報を書き、それにブリグハムの言葉を伝え、彼が来日したときはNRCの経営状態について徹底的に質問してほしいという河井社長宛の親展書簡を添えた。
月報には共立銀行扱いのNRCの約手合計四千四百万ドルが三月三十一日現在長期のロールオーバーを発生させていることが記載されていた。
──四月はなにごともなかった。
五月に入ると、十六日にユーザンスの期限のくる住倉銀行扱いの二千百五十万ドルのNRC発行の約手が落ちず、三十日の支払延期書替えという事態が起った。
住倉銀行ニューヨーク支店は、しかし、容易にこれに応じた。前回の千五百四十万ドルの手形が、延長期間の二カ月以内に三回にわたってだが、NRCが落した実績に安心したようである。今回の四十五日の支払延期も前回どおり|はね《ヽヽ》金融の扱いだった。いっぽう、住倉銀行は、同じニューヨークの共立銀行支店扱い四千四百万ドルのNRC約手がロールオーバーをおこしているなどの事実を、まったく知っていなかった。
五月二十八日は住倉銀行扱いのNRC振出しの新たな約手千七百五十二万ドルが支払期日となったが、これはNRCが当日に決済した。六月九日、つづく住倉銀行扱いの二千万ドルも期日どおりに落ちた。
五月二十八日と六月九日を支払期日とする二つのNRC振出しの約手合計三千七百五十二万ドルが無事に決済されたので安田は安堵した。これらはVLCC二隻ぶんの原油代であった。三月末に有本と島村とをNRCへ遣って強硬談判させた効果がここにあらわれたと安田は思った。
このぶんだと、共立扱いの合計四千四百万ドルの期日延長の約手二口も、住倉扱いの二千百五十万ドルの|はね《ヽヽ》金融の約手一口も、その延長された期日にNRCが支払ってくれそうであった。
しかし、事務的で細心な安田茂は、それですっかり気持を落ちつけたわけではなかった。彼はひとりでこっそりと興信所のダン&ブラッドストリートを訪ねた。信用調査では世界で最も著名であり、ダン・レポートといえば、確度のもっとも高い内容として権威があった。
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ブリグハムが来日する以前、五月中旬に江坂アメリカと江坂産業東京本社とでしきりとテレックスのやりとりがあった。
≪5月19日送信。江坂アメリカの有本より東京本社篠崎石油第一課長あて。──ブリグハム副社長はなかなかつかまらず、秘書を通じてプッシュしております。NRCとしては早く決済するというより、むしろ、いかに対処するかを考えているようです。一方、われわれは安田社長より、その後どうなっているのか聞かれており、今週中には返事をしなければなりません。ブリグハム氏は近いうちに日本に行くらしく、そうなればますます困難になり、NRCに対し決断のレターの送付を実行しなければならないかもしれません。以上ご参考まで≫
≪5月20日送信。江坂東京本社より、ニューヨークのNRC宛。至急にこのメッセージをブリグハム氏にお渡しください。
江坂アメリカの有本君よりあなたが来日する由の通知を受けとりました。しかし、日本の企業ではいま株主総会および重役会をひらく時期に当っており、それは今月二十六日から月末にかけてです。したがってあなたの来日は六月以降のほうがよいと思います。
話は変りますが、当方の銀行から今月末までに第三抵当権の取得をするようにとの強い警告を受けております。またNRCの未払分の支払期日の延期は、当方の財務部ではこれは七千五百万ドルの受取手形を受領するようなものだと考えております。したがってスタンバイ・クレジットの不足ぶんを補い、堆積している未決済の手形をカバーするには最低でも一億五千万ドル、最高で一億七千五百万ドル相当の第三抵当権を取得することが必要だとしています。銀行は江坂に対する与信枠を縮小しようとしており、そうなればあなたがBPから購入する原油も削減せざるを得なくなるでしょう。第三抵当権にたいするあなたのすみやかな対応が本当に必要なのです。そうしていただかないと、すべてはわたしたちの手からはなれ、銀行側がこの仕事を積極的に管理することになるでしょう≫
この銀行云々の通信文は上杉がNRCに抵当権の設定を急がせるための方便であった。各取引銀行はNRCのクレジットの増額も第三抵当権の設定も江坂産業に申し入れていなかった。銀行はまだNRCの経営状況を把握していなかったからである。方便に銀行の圧力をもち出したのは上杉がブリグハムやサッシンにたいして試みたいちおうの脅しであった。これもまた上杉の熱望からである。
≪5月22日発信。江坂アメリカの安田より東京本社篠崎石油第一課長宛。──本日のブリグハム氏との会談の結果を報告します。
(a)抵当権のことはうまく行きそうだとのことです。
(b)NRCの財務決算書は非常に悪く、どこにも公表したくないとの説明があったが、われわれはぜひ必要なことを強調し、ブリグハム氏が訪日のさい、上杉氏に四半期の決算書を持参する旨、約束しました。
(c)支払期日のきている勘定に関し、彼らは何ら具体的な支払いプランも持っておらず、現在の財務状態が悪い上に、将来の改善のメドも立っていず、目下努力中とのことです。本件に関し具体的案を提示するよう要請しました。
(d)期日の経過した勘定の利息(貸出金利プラス1パーセント)は十月九日に請求することをOKしましたので、計算でき次第、計算書を出す予定です。しかし、現状からして利息はもちろんのこと元金も近いうちに支払われるとは思われません。
(e)近く支払期日の来る手形は、@五月二十八日付千七百五十二万ドルA六月九日付二千万ドルB六月十五日付二千百五十万ドルC六月三十日付千六百三十七万ドルです。上記のうち@Aは期日どおり支払われる予定。Bは七月三十日に延期される予定。Cは六月三十日に一部を支払い、何日か待って支払われるかもしれない、ということなので、当方としても社内的にも問題があるため、非常にむずかしい旨、説明しておきました。
以上概略ですが、そちらでもブリグハム氏の訪日のさい、強くプッシュしていただきたいと思います≫
──七月の初め、カナダ連邦政府の鉱産・エネルギー担当の国務大臣ガブリエル・バートランド夫妻が来日した。夫妻は造船所で造船中の大型タンカーに「マザー・シール号」と命名するために長崎市に赴いた。
それとは別にニューヨークからNRCの副社長ビル・ブリグハムが東京に飛来し、赤坂のホテルに入った。
ブリグハムは同じホテルにバートランドが宿泊していることを知り、夫妻が長崎から帰ると、さっそく敬意を表するためにお会いしたいと申し入れた。バートランドは承諾した。
ガブリエル・バートランドは、ニューファンドランド州の初代首相ジョージ・ウッドハウスの曾ての政敵であった。当初ウッドハウスの内閣に入っていたが、ウッドハウスがサッシンとあまりに親しく、サッシンの石油事業に便宜をはかりすぎるという理由から閣僚を辞めた。ウッドハウスはバートランドが野心家で次期政権を狙っていると非難した。その点は、ウッドハウスからすると、バートランドはニューファンドランド州現首相ジェームス・B・バルチモアと似た立場だが、バートランドはその後国会議員に打って出て、現閣僚の地位に就いたのである。
してみると、バートランドがサッシンの片腕であるブリグハムに好感をもつはずはなかった。しかし、日本の旅行先で表敬訪問を申しこまれるとこれを否む理由がなかった。
ブリグハムからすれば、ニューファンドランドの製油所をも監督下に置いている連邦政府の鉱産・エネルギー担当相が同じホテルに入っていると聞けば、今後のこともあって知らぬ顔ができなかった。
今後というのは、カナダ連邦政府が目下おこなっている石油価格の統制と輸出規制を緩和させる方向である。これもバートランド鉱産・エネルギー担当相の権限となっていた。
江坂産業の原燃料・鉱産担当常務の上杉二郎もこの表敬訪問に同行した。江坂アメリカがNRC=PRCの代理店をしている立場からである。そうしてブリグハムはホテルでバートランド夫妻に夕食をもてなした。上杉も陪食した。上杉はこのことを河井社長以外には江坂産業の役員のだれにも教えなかった。
小さな晩餐会の雰囲気は、和やかで愉しいものであった。バートランドはサッシンのことにふれず、ブリグハムも彼のことを話題にしなかった。夫人は高い窓から見える東京夜景のイルミネーションを賞め、料理の魚とカナダの魚料理《シー・フード》とを比較し、長崎旅行の途次に見物した京都の社寺庭園と新幹線とを賞讃した。バートランドは終始笑顔で相槌を打っていたが、ときどき上杉二郎に好奇的な視線を走らせた。連邦政府のエネルギー担当相は江坂産業・江坂アメリカがサッシンのNRCに深く関連していることや、その主人公が、この白髪の目立つ、温和で、どこか魅力的な顔の、そして素晴らしく米語の達者な男であることを前から聞き知っているようであった。
カナダの石油輸出規制の緩和または撤廃の陳情はブリグハムの口からこの席では出なかった。まったく社交的な一夕であった。ブリグハムは場違いの陳情で、バートランドの気分をこわすほど目先の見えぬ男ではなかった。ここは印象をよくしておいて将来の陳情の布石としたかったのである。
翌日の午後二時ごろ、上杉はやはり江坂のだれにも秘密裡に単独でそのホテルにブリグハムを訪ねた。昨夕と違い、会談はまったく業務的であり、そうして深刻な内容であった。
ブリグハムはNRCの一九七四年度決算書を遂に上杉二郎に手渡した。そのバランスシートの最下段にならぶ数字は五千八百二十万ドルの赤字であった。
──カンバイチャンス製油所の操業開始は七三年十二月だから、去年一年間にNRCは月平均四百八十五万ドルの欠損を出したことになる。一日に十六万二千ドル、約五千万円(三百円レート)の損失であった。
これは去年一年間のことであって、今年の分はもちろん入っていない。これでゆくと本年上半期の欠損見込みは二千九百十万ドルとなり、これを去年一年間分に加算すると七千七百六十万ドルの累積赤字となる。たとえば、こうして二人で語り合っている今日も一日に十六万二千ドルが損失しているのである。そうしてこのNRCの赤字は明日も明後日も、来月も再来月もふえつづけてゆくのである。
「心配しないでもいい、ジロ」
ブリグハムは、頭を抱えている上杉二郎を愛称で呼んで慰めた。
「わたしが君にNRCの正直な決算書を見せたことによりショックを与えたようだが、こうしたありのままの決算書を隠すところなく見せる勇気はわれわれに自信があるからだよ。つまりだ、NRCの経営がほどなく立ち直るからだ。去年はカンバイチャンス製油所で|山 猫 (ワイルドキヤツツ)ストライキがあった、それと製油所のビス・ブレーキングという減圧残渣油熱分解装置とやらがうまく作動しなかった。そのために予定生産量に達しなかった。しかし、ストライキはすでに解決した。カナダではストライキが年中行事のようなものさ。それにうかつだったのがこっちの手落ちだが、それも今後の対策ができているので、またいつ発生しても生産に狂いがないようになっている。それと、ビス・ブレーキング装置もだんだん順調になってきている。新しい機械にエンジニア連中もはじめのうちは馴れないものだ。それから、これは最も重要なニュースだが、石油の販売価格が近いうちに上がる。アメリカ東海岸でも石油輸入制限が解除される。アメリカではすでに石油価格が中近東戦争以前の四倍になりつつある。つまり原油価格に見合うだけの販売値になったわけだ。カナダの石油価格統制と輸出統制も緩和ないし撤廃にサッシンが働きかけて効果をあげつつある。昨夕、ぼくがバートランドをホテルでご馳走したのもその含みからだ。夫人ははしゃいでいたね。奴は女房孝行だから、満足そうだったじゃないか。NRCはほどなく立ち直るよ」
二十四時間ぶっとおしに働いても疲れを知らぬといわれる精力的なブリグハムにそう力強く言われると、ついこちらも彼のエネルギーに伝染されそうになる。上杉は自分の胸の急な鼓動が聞えるような気がした。それはほとんど不安からだったが、ブリグハムの強い言葉に励まされてもいた。
しかし、NRCは去年から今年の上半期にかけての七千七百六十万ドルの赤字を下半期で喰い止め、さらに黒字に転換できるのだろうか。販売価格が上がったといっても、それは原油の値上りに見合うものであり、大幅な利潤が出るものでもない。それにアメリカ東海岸部のマーケットはロックフェラー系のメジャーに抑えられていて、ブリグハムのいうような楽観的な状態ではないはずだった。
「この決算書は持ち帰って社長だけに見せることにするよ、ビル。社長はたぶんぼく以上にショックを受けるだろうね」
上杉は言った。
「社長を説得してもらいたいものだね。決算書を見たらびっくりして、今後の原油供給のLCを閉鎖するなんて、江坂アメリカ社長のミスター・ヤスダのようなことは言わないようにね」
ブリグハムは赤ら顔を皮肉に笑わせた。
え、それはどういうのだ、という上杉の問いにブリグハムは五月の約手延長書替えがおきた時点での話をした。その共立銀行の四千四百万ドルと住倉銀行の二千百五十万ドルのロールオーバーのことはニューヨークからの月報でもとより上杉も知っていた。が、安田の「脅し」の話はいまはじめて耳にした。しかし、五月二十二日付の安田から篠崎宛のテレックスの内容は上杉も見ていた。
「安田君は小心な人だから神経質なんだ。NRC業務担当はこのぼくだからね。安田君の言うことなどはいちいちとりあげなくてもいいよ。すべてぼくに任せてくれ」
「そう思って、この決算書も君にだけ見せた。ほかの者には見せはしない。ミスター・ヤスダはNRCの経営を気にしているが、すべては君に聞いてくれと彼に言ってある」
ブリグハムは片ほうの眼をふさいだ。金の屑糸が植わっているようなその毛むくじゃらな指には太い指輪が嵌《は》まっていた。
上杉は、NRCとの折衝はすべて自分の任務だから、江坂アメリカ社長にはこっちから別途に指示を出すと言って、ブリグハムの安田に対するその態度に同意した。
そんなときの上杉には、脳味噌の容器が小さいことを想像させる安田の狭い額と、こせこせした身振りが浮んでいた。二人は顔を合せてもろくに口を利かなかった。NRCへの事務的な上杉の指令は、ニューヨークの有本と島村に送られるか、または彼の意図をうけた東京本社の篠崎石油第一課長より連絡をとらせるかしていた。安田もまた上杉には直接通信せず、いつも篠崎経由だった。両人は業務通信の上でも顔をそむけ合っていた。
「ビル。実は五月二十二日に安田君からぼくの部下の篠崎という石油第一課長宛に、NRCの件でテレックスが来た」
「どういうのだ?」
「君はニューヨークでその日に安田君と会ったそうだね?」
「会った。江坂アメリカのマネージャー(安田)がパークアベニューのオフィスにやってきたからね」
「そのときの会談の様子がそのテレックス報告になったんだ。君が日本にきたらNRCの決算書をもらってそのコピーをニューヨークに送ってくれという頼みだ。それからNRCの財政状況が非常に悪い、将来改善の見込みもない、というんだ」
「ひどいね」
ブリグハムは笑った。
「君は改善にむかって努力中だと言ったとある」
「石油事情の好転をマネージャーには言った。NRCの財政状況に改善の見込みがまったくないものなら、われわれが努力してもどうしようもないじゃないか。マネージャーの報告は事実を歪めている」
「たぶんに彼の主観が入っているね。彼はそのテレックスで、こうも観測を述べている。NRCの現状からして貸付金の利息はもとより元金が近いうちに返済されるとは思えない、とね」
「近いうちに、という前提条件付でなら、あるいはそれは正しい。しかし、返済しないのではない。その報告は悲観的なアクセントが強すぎる」
「安田君は事務屋だからね。どうしてもせまい視野でしかものが見えない。それから近いうちに支払期日がくるNRCの手形が四本ならべてあった。五月二十八日から六月三十日の間だ」
「待ってくれ」
ブリグハムは手帳をとり出した。
「そのうち二本は期日どおり支払っているよ。二本で三千七百五十二万ドルだった」
「君はそのとき、安田君にその二本は払えると言ったそうだね」
「約束どおり支払った」
「ところがあとの二本の三千八百万ドルぶんは支払期日が延長されそうだと君は言ったそうだ」
「そのとおり。それはまだ決済してない。六月十五日の二千百五十万ドルは七月末、六月三十日の千六百三十七万ドルは八月に半分くらい払える。ぼくは見込みのないことは言わない。嘘は言ってないよ」
「信用するよ、ビル」
「しかし、それにしてもそんな報告を江坂アメリカのマネージャーが、どうして君に直接報告しないで君の部下にむけてテレックスを打つのか?」
「内部事情は言いづらいが、じつのところ、安田君とぼくとは性格が合わないからだ。だから彼はぼくの部下を通じて間接的に報告してくる」
上杉は苦笑した。
「わかるよ。そういうのはどこの会社にもあることだ」
「ところで、ビル」
と上杉は言葉を変えた。
「われわれは、安田君の報告とは関係なしに、NRCへの抵当権設定を急いでいる。君にもらった決算書にこのような大きな赤字が出ているならなおさらのことだ。もちろん、この決算書は社長以外の役員たちには見せはしないがね。ぼくがしまっておく。そうしないと役員連中から文句が出そうだ。しかし、それにしてもだ。第三抵当権の設定を早くしてくれないと、今後ぼくの仕事がたいそうやりにくくなる」
これが上杉の心からの叫びに聞えたので、ブリグハムは同情を示して言った。
「それはそのとおりだ、ジロ。われわれも君にはひきつづき協力してもらわねばならない」
「わが社としては、少なくとも一億ドル程度の抵当権の設定が望ましい。第一抵当権を持つECGD(英国輸出信用保証局)と第二抵当権を持つニューファンドランド州政府の諒承を取る斡旋《あつせん》をするとサッシンはぼくに約束してくれた。あのことはどうなっている?」
「諒解工作はうまくすすんでいるようだよ。サッシンのことだから間違いはない。彼は魔法使いのようになにごともちゃんと実現してみせる。これまでがそうだったではないか」
「それを信じたい。帰ったら君からサッシンにそれをプッシュしてくれ。それが早く実現しないことにはぼくの立場がいよいよ苦しくなる」
第一抵当権所有者と第二抵当権所有者と二者の諒承がないと第三抵当権は認められないカナダ法を知っているのは、江坂産業の役員の中にはほとんどいなかった。常務会も余剰抵当価値にはいつでも第三抵当権がつくれると考えていた。もっともカナダ法は特殊なもので、各国にその例があまりなかったから役員たちがそう思いこんでいるのも無理はなかった。
そのうえ、常務会の形式的な業務審査──他の担当役員の管掌部門には互いが干渉しないという相互不可侵律が、石油関係はいっさい上杉常務に任せきりにしていて、この問題にとくべつ研究もしなければ強い関心も持っていなかった。順位抵当の優先権を認めるカナダ法を知っているのは上杉からそのことを聞いた社長の河井武則だけだった。業務担当の副社長米沢孝夫も知らなければ、財務担当の専務鍋井善治も知らなかった。もう一人の副社長の泉準一郎は銀行から出向してきたお目付役ということになっているが、住倉銀行から来たこの人は重要なことは何一つ知らされていなかった。主要銀行から送りこまれた役員というよりも、実質的には停年間際になって頭取の口添えによって江坂産業に副社長として再就職したのだった。こうして二人の副社長、一人の専務がカナダ法による第三抵当権の拘束を知らなかったのであるから、常務会がこの問題におとなしかったのは当然だった。
しかし、それだけに上杉の肩には第三抵当権設定のことが重くのしかかっている。抵当の対象であるカンバイチャンスの製油所の評価額は四億ドル以上と見られていた。ECGDとニューファンドランド州政府とが合計してその半分に抵当権を設定しているとしても、残りの一億五千万ドルないし一億七千万ドルに対し一億ドル程度の第三抵当権をつくるのは可能なはずだった。
その計算の根拠は、NRCへ前払いの名目による四千二百万ドル(七三年末から七四年前期にかけて渡し済み)の上に、目下ロールオーバーを起しているNRCの約手計八千百八十七万ドル(内訳は共立銀行ニューヨーク支店扱い四千四百万ドル、住倉銀行ニューヨーク支店扱い三千七百八十七万ドル。うち住倉扱いの千六百三十七万ドルを含むが、これは六月三十日の新規分。──これらのすべては江坂アメリカのLC勘定よりすでにBPへ原油代として支払い済み)を加えた約一億二千万ドルの債権に見合う額だった。
上杉はNRCが銀行にさし出しているスタンバイ・クレジット(銀行信用状。実質的な担保)を三百万ドルから九百万ドルに増額するように以前からサッシンに要請していた。だが、それはいまだに実現されていなかった。
前払い名目の四千二百万ドルのNRCの貸付金はオイルショック以後の原油代値上りに対応するという口実で、銀行の与信総額を約二億二千五十万ドルに大幅に増した中に≪ユーザンス 期間に関係のない総額四千二百万ドル≫を押しこんで常務会の眼をくらまし、うやむやのうちに正当化させた。去年の五月に江坂産業原燃料本部長平井忠治の名によって常務会に提出された「NRC近況報告並びに同社向原油取扱い内容一部変更の件」の後半の稟議部分がそれに当り、これは上杉が河井社長や米沢副社長の諒承を得た。
このトリックを安田茂に発見されたことは、ニューヨークの有本の通報で上杉は知らされたが、さすがは「剃刀《かみそり》の安」でよく見抜いたと上杉は思う。もっともそれは安田に魂胆があっての努力であった。しかし、安田はそれをまだ公然とは問題にしていない。思うに安田はそのファミリー派の一方の旗頭である米沢副社長(他方の旗頭は鍋井善治専務)がこの策略に一枚噛んでいることを推知して、いまは口をつぐんでいるだけであろう。
そのようなことで、四千二百万ドルは一挙に二億二千五十万ドルに増大したNRCの与信総額の中に包みこんで解決したようなものの、同額のスタンバイ・クレジットをサッシンに強く頼む上杉の心理には、将来安田の暴露によって常務会でこれが問題になったとき、そのぶんはスタンバイ・クレジットでNRCからちゃんと担保として取ってありますという言い開きの用意づくりがあった。
そのさい、補助契約書にも明記した四千二百万ドルのNRC融資の件は、河井社長の承認や米沢副社長の同意があるとは上杉も常務会に説明できなかった。常務会に諮《はか》らずに巨額の貸付を単独で決定したとわかれば、米沢はともかくとして、河井社長の独断専行に対立派の鍋井専務や社主の倅の明太郎専務などが騒ぎ立て、猛烈に河井を攻撃するだろう。その社長の迷惑を消すためにも、また自分の地位保全のためにも、上杉はNRCのスタンバイ・クレジットを現在の三百万ドルから要求の九百万ドルでも足らず、四千二百万ドルにはぜひもってゆきたかった。
それと、BPの原油がカンバイチャンスに供給される途上で、今後もなおNRCはロールオーバーを起しそうな予感が上杉にないでもなかった。そうした債権がふえる将来にそなえて、総額一億五千万ドルぐらいの第三抵当権を彼は設定したかったのだった。この手当てだとひとまず安全である。
「次はスタンバイ・クレジットの増額だがね」
上杉はビル・ブリグハムに切り出した。
「サッシンは早くからそれを承諾した。三百万ドルを九百万ドルに増やすことだ。その条件としてNRCにたいする与信限度をそれまでの六千万ドルから二億二千五十万ドルに引き上げることを常務会で決定させたんだからね。それはぼくが原油価格が四倍になったという理由で社長に働きかけてそこまで持って行ったのだ。ぼくの努力を認めてほしい。それなのにサッシンは約束した九百万ドルの増額をまだ実行してくれていない。ぼくはサッシンにスタンバイ・クレジットは絶対に現金化しないと言明してきたし、こんごもそのことは固く守るよ。だから、君のほうはそれを預金だと思ってくれていい。しかし、いまや九百万ドルの増額くらいでは追付かなくなった。原油代が四倍に値上りしている現在だからね。社長をさらに説得するためにもスタンバイ・クレジットはどうしても四千二百万ドルにして欲しい。いまの三百万ドルに三千九百万ドルの追加だ」
「NRCは現在|胸突《むなつき》八丁にかかっているところだ、ジロ」
と、ブリグハムは眉をあげて言った。
「さっきも説明したように、この苦しさを抜けると、間もなく青々とした楽園に出られる。サッシンも奮闘中だ。正直言って、いまスタンバイ・クレジットに三千九百万ドルの追加は楽でない。君も協力を確約してくれているニューファンドランドの第二製油所の建設計画やノヴァ・スコシア州の製油所新設計画ほか東南アジアの原油にも彼は手を拡げているからね。これらに金を喰っている。しかし、石油販売価格は間もなく値上りする。そうしたら方々に手を打っているサッシンのリファイナリーが一挙に前進だ。勇壮な行進曲の吹奏の中でだ。好転はもうすぐだ。ジロ。そうだ、あと六カ月以内にはスタンバイ・クレジットのほうも君の希望通りにしよう。ほかのリファイナリーの投資資金からでも融通をつけてね。ぼくからサッシンにそう言うよ」
「たのむ。君がニューヨークに帰り匆々《そうそう》、サッシンからの確答をもらいたいのだ」
「そうする」
「ただ、これはぼく宛に内密にテレックスを打ってもらいたい。なにしろ、こうして君と会っていることも社長以外の役員には秘密なんだからね、ビル」
「わかったよ、ジロ。われわれも君の友情と協力が必要なのだから、君を困らせるようなことはしないよ。第三抵当権のほうはすでにサッシンも引きうけていることだし、カナダやイギリスの関係各方面に働きかけている最中だから成功は間違いない」
「ぜひ、よろしくたのむ」
二人はグラスを合せた。薄明の一隅でピアノが鳴っていた。グラスにも黄色い液体にも上のシャンデリヤの光が砕けて燦《きらめ》いていた。
「ただ、ここで言っておくがね」
ブリグハムは乾杯したばかりのグラスに口をつけ、片目を細めて上杉を眺めた。その面持はまるで悪戯《いたずら》っ子のようだった。
「NRCに金融してくれているファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC)は三千万ドルのその融資には抵当権を設定していない。その点は、いまの江坂アメリカと同じ条件だがね。しかし、FNBCは君のところのように第三抵当権を取りたいとは言ってこないよ。わがメイン・バンクはNRCを信用してくれているんだな。少なくとも江坂よりはね」
「銀行とわが社とは事情が違うよ」
上杉は言い返したが、思わずほっとした表情になった。
「しかし、FNBCがそうだと聞いて、安心したよ」
ビル・ブリグハムが来日したことも、赤坂のホテルで上杉と面談したことも、江坂産業の幹部のだれもが知っていず、いっさい秘密裡だった。
上杉は翌日、ブリグハムが羽田を離れたあと、河井社長とほかのホテルの一室をとってこっそり会った。
上杉は結局NRCの決算書を河井には見せなかった。これをつきつけたときの河井の狼狽と激しい衝撃がわかるからである。
「ブリグハムからNRCの経営状況を聞いたが、かなりの欠損を出しているようです」
「どれほどですか?」
「去年度で五千万ドル程度です」
その額を聞いて、河井は顔面の筋肉を震わせた。
「それはえらいこっちゃ」
「たしかにたいへんです」
上杉は一応相槌を打った。しかし彼は河井の前では、いや、だれの前でも軍人のように剛毅《ごうき》な態度でいなければならなかった。弱気をのぞかせたら敗北である。
彼はブリグハムから聞いたNRCの好転見込みを話した。これもブリグハムに倣《なら》って泰然とした様子の自信ある口調だった。NRCのスタンバイ・クレジットを四千二百万ドルに増額するのをブリグハムがサッシンに実行させると約束したこと、第三抵当権の設定はサッシンの奔走で実現可能なことを、まるで既定の事実のように話した。
「けど、スタンバイ・クレジットはまだ三百万ドルのままですがな。約束の九百万ドルかてでけへんのに、四千二百万ドルもNRCに増やせますかいな?」
河井は眉間《みけん》の皺を深めて疑わしそうに言った。
「三カ月以内にはそれも可能だと思います。それまでに石油の販売価格が原油の値上りに見合って四倍になるはずですから。それにほかの事業の資金からスタンバイ・クレジットの増額ぶんに回せるだろうとブリグハムは言っていました。あの男はサッシンの片腕で、その分身のようなものです。彼の言葉に間違いはないと思いますよ」
「さよか」
河井はテーブル上の一輪挿しをぼんやりと見つめていた。彼が希望を振い起そうと努力しているのがわかった。
ニューヨークの安田茂からは江坂アメリカの業務報告が月報として河井のもとに毎月届いていた。その中にはもちろんNRC関係もある。が、それは詳細なものではなかった。簡単な報告にしているのは、NRCのことは上杉常務がすべて掌握しているので、詳細な報告は必要なかろうという故意な含みがあった。そこにも安田の上杉に対する意識が現れていた。
だが、月報には六月末日現在としてNRCの約手約八千万ドル近いロールオーバーがならべられてあった。一カ月延長のものが五カ月に再延長され、一カ月延長のものがさらに四十五日延長されている。この月報は各常務にも回覧されていたが、なんの疑問もなく、すんなりと閲覧の認印がならべられた。ろくに内容も見ていないようだった。手形の支払期日延長に眼をとめても、取引上よくある手形のジャンプぐらいにかんたんに思っていた。財務担当役員ですら沈黙していた。江坂アメリカは子会社として別な組織だと常務連は考えているようだった。資金繰りは江坂アメリカの財務で行なわれている。
上杉は、ここでいよいよ河井に正念場を与えなければならないと思った。これまで隠しに隠していたPRCがニューファンドランド州政府の所有からはなれて、サッシンのNRCへ譲渡されたことをこのとき打ちあけた。
「えっ、ほならPRCはクラウン・カンパニーではなくなったのか!」
河井は眼の前に雷が落ちたように眼を剥き、両肩を震動させた。
「そら、いつ、そうなったんや?」
「ブリグハムの話だと、去年の春らしいです。ぼくもまったく初耳でした」
七三年の十月十日、クイーンエリザベス二世号の特別室ペント・ハウスでニューファンドランド州政府首相バルチモアとサッシンとの間でPRCの払下げ契約書に調印がなされたとは、上杉も河井には言えなかった。それもわずか千ドルで州政府の持株がサッシンに譲渡されたというのである。その船上のカンバイチャンス製油所の開所式祝典には、この河井も米沢副社長もタキシード姿で出席していて、生れてはじめて見る「本場の」豪華パーティに胆を奪われ、かつご満悦だったのだ。調印はあの時になされたと言えば、河井は声もなかろう。
上杉自身も、ニューヨークで一等のビジネス街、パークアベニューのビルの狭間《はざま》に黴《かび》のようにとりついた地下のスラム食堂で、サッシンからそのことを打ちあけられたときのショックを忘れ得ないでいる。
たとえNRCに多額の債権を生じても、最終的にはPRCを持つニューファンドランド州政府や、その後楯となっているカナダ連邦政府が救済してくれるという期待が河井や米沢らにあった。江坂商会いらいの伝統的な「官営」への絶大な信頼であった。NRCへ多少の危惧は感じていても、大きな凭《よ》りかかりがそこにあった。それが幻のように消失したのである。
河井は呆然となり、見る見る蒼白となった。
「社長」
上杉は、やはり有能な参謀のように毅然として、意気|銷沈《しようちん》の司令官を励ました。
「大丈夫ですよ。スタンバイ・クレジットの増額も、第三抵当権の設定も、ぼくがサッシンに直接会って話せば、わけなく実現すると思いますよ。ブリグハムへ伝言を頼んだだけでは時間がかかりそうです。ぼくをニューヨークに出張させてください。ニューヨークだけではなく、ロンドンにも行き、BP社の幹部に会い、NRCへ供給する原油代の支払いを一年間待ってほしいとたのみます。一年間のうちには石油事情もよくなりNRCはかならず好転しますから」
河井は生き返ったように上杉の顔を見つめた。
「そないに交渉してくれはるか?」
「そうしないとタンカーが入るたびにLC勘定から決済されたんでは、いくら与信枠をひろげたところで追付きませんからね」
「そら、そうや。際限がないわ。けど、BPは一年間も原油代を待ってくれるやろか?」
河井は疑わしそうに訊いた。
「BPは代理店のわが社を信用しています。LC勘定を一年間凍結して、原油が供給されるたびに一年先に当る期日のこっちの約束手形をBPに渡すということにすれば、この交渉は成立すると思いますよ」
「BPがそれを承知するかな?」
「安心してください。かならずうまくゆきますから。……そのかわり、NRCの手形がロールオーバーになったところで、それにおどろいてNRCの融資をとめたりしないでくださいよ。いま、そんなことをすればニューヨークの各銀行とも不安を起し、江坂アメリカへの金融を縮小してしまいますよ。そうなるとNRCもやってゆけなくなるし、とれる債権もとれなくなります。多額の債権が貸倒れになったときの状態を考えてみてください。銀行の不安は本社にも波及するでしょう」
「ううむ。……」
河井は苦しそうにうめいた。
「NRCをいま見放すことは本社の危機につながります。石油販売価格の値上りで、NRCはかならず好成績に転じますよ。いまが辛抱のしどころです、河井社長。……これはブリグハムから聞いたことですが、NRCの主要銀行のファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴも三千万ドルの貸付がNRCにあるそうですよ。けど、ウチのように抵当権をつくりたいなどとは決して言わないんだそうです。主要銀行はNRCを信用しているからですよ。ぼくは、ブリグハムに皮肉を言われましてね」
上杉は、河井の緊張した気持を揉みほごすように明るく笑った。
4
七月六日から三週間アメリカに出張していた上杉二郎は、二十七日に帰国した。七月三十日東京本社で開かれる常務会に間に合せるためだった。
大阪本社の社長室で河井に会った。そこには米沢副社長も呼び入れられた。
「ニューヨークではサッシンもブリグハムもカナダに出張していて会えませんでした」
上杉は報告した。
「カナダに? なんの用事でかいな」
河井が怪訝《けげん》そうに訊いた。
「NRCの対策問題でニューファンドランド州政府と連邦政府と協議のためだと思います。秘書がそう話していましたから。それ以上のことはわかりませんが、両政府の首脳が会合しているらしいのです。これはわが社にとって明るいニュースだと思います。サッシンはNRCに第二抵当権をもつカナダ政府にわが社が第三抵当権を取るのを認めさせると思いますよ。カナダが呑めば、ECGDも同調せざるを得ませんからね」
「そうなるとええがな」
肥った米沢が楽天的な声を出した。
「かならず、うまくゆくと思います。ぼくもニューヨークで、サッシンの帰りを待ってもよかったのですが、シカゴに引返し、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴに副頭取のヒルサイド氏を訪ねました。この前お話ししたように、NRCのメイン・バンクである同銀行もNRCに債権を持っていますが、抵当権をつくっておりません。江坂アメリカと同じ立場なものですから、ウチの第三抵当権設定についてその推進に協力してもらうよう頼んだのです。ヒルサイド副頭取はよく理解してくれて、自分のほうからもニューファンドランド州政府・カナダ連邦政府ならびにロンドンのECGDにたいし江坂への第三抵当権を認めるようにプッシュするといってくれました。同銀行は江坂ほどにはNRCに融資していないが、無抵当ということでは共同の立場だから、利益擁護の上から江坂のために第一・第二抵当権所有者を極力説得すると言ってくれました。強力なFNBCがわれわれに味方してくれると成功はいっそう間違いないと思います」
「そうか。それはよかった」
河井はその下り加減の眉をひろげた。
「さすが上杉君や」
米沢が横から讃めた。彼もその件は河井からひそかに聞かされていた。
「そないな面倒な交渉は君でのうてはようやらんわ。やっぱり抜群の英語の力やなア」
「いや、米沢はん。英語力だけやおまへんで。上杉君の卓抜な外交手腕ですがな」
河井は暗に米沢を制した。英語屋と言われてきたことを長いあいだ屈辱としている上杉の心情を知っているからだった。
「そらそうや。そら、もちろんだすがな」
米沢は自分の迂闊さに狼狽して早口で言った。
「いや、ぼくの仕事はたいしたことはありませんが、一生懸命にやっているだけです」
上杉は下をむいて言った。
「NRC交渉は君を措いてほかにない。われわれは君を頼りにしてます。これが一歩間違うと江坂アメリカの火をかぶって本社が大火災になるかもわからへん。じつは、君の留守に安東常務が江坂アメリカの定例監査のためにニューヨークに行ってな。戻ってきての報告に、江坂アメリカはえらいことになっとるいうて顔色を変えておった」
「安東常務は、どういっていたんですか?」
「NRCの手形が次々とロールオーバーを起しそうやと言うんや」
「それこそ安田君がオーバーな表現で安東常務に言うたんでしょう。安田君は悲観主義者《ペシミスト》ですから、なにもかもがお先真暗に見えるんです。安田君はNRCにかけ合っても向うから何も教えてもらえないので、余計にそう勘ぐるんです」
はたしてそうだろうか、と上杉は自分の吐いた言葉に懐疑を持った。安田茂の悲観論が当っているかもしれないのだ。しかし、ここではその表情を毛筋ほども出してはならないのである。
「常務会では、NRC問題についてつとめて楽観的な説明をしておくんなはれ。ほかの常務たちはNRCにはあんまり詳しゅうおまへんよってにな。ひととおりのことをあんじょう言うてくれはったらよろし」
七月三十日の常務会は、江坂産業東京本社四階の役員会議室で午後一時から開かれた。
一般業務の検討議案があったが、これはいつものように当該担当役員のひとり発言に終始した。ついで上杉が身だしなみのいい姿で起ち上がった。
「NRCに対しては江坂アメリカの債権が若干とどこおっております。これは一昨年暮より操業を開始したPRCのカンバイチャンス製油所の生産が、操業初段階の避けられない不手際によって精油の生産量が予定量に達しなかったのと、予測しないストライキの発生があったからであります。しかし、現在はその両方とも解決して生産は軌道に乗っております。しかしながら、ご承知のようにオイルショックいらい原油は四倍に値上りしましたが、販売価格は依然として押えられております。とくにカナダ政府は石油輸出規制を設けておりますので、NRCは不自由を感じております。そのように原油価格と販売値の差、いわゆる逆鞘《ぎやくざや》による損失、それとカナダの輸出規制による海外市場への輸出幅がせばめられているのとで、NRCが欠損を出し、そのために江坂アメリカの貸金が多少溜まってはおります。しかし、石油販売価格の値上げは、世界のメジャーの強い要請であり、近く値上りが見込まれますので、NRCの事情も好転してまいります。また、カナダ政府の輸出規制も遠からず撤廃されるそうでありますから、販路も拡大される見通しになっております」
上杉は微笑を浮べ、明るい声でつづけた。
「NRCに対する若干の債権につきましては、目下抵当権をつくるように関係各方面に交渉を進めておりますので、ほどなくこれが実現されると存じます。したがって債権についての不安は少しもないのであります」
居ならぶ常務連は、中央席の河井社長の表情を見遣った。社長は眉一つ動かさずにいたし、隣の米沢副社長は春風と戯れているような顔つきだった。
常務たちから上杉へ質問はなかった。「若干の債権」が金額にしてどれくらいかとも訊かず、日本流の考えから、抵当を取るのにどうして各関係方面に交渉をしなければならないのかという疑問は起きたが、その理由もたずねなかった。
江坂アメリカという子会社がやっていることであった。支払期日延長の手形書替えが重なるだけで、それに資金が使われるわけでもなかった。監督はするけれど、本社の領域外であった。一段上にいる親会社の優越意識であり、子会社に不手際があったら、上から叱るだけの立場である。常務たちは黙って煙草をふかしたり、紅茶を飲んだりしていた。なかには取引先の幹部と約束した夏休みのゴルフを気にする者もあった。
「なお、ご参考までにつけ加えさせていただきますが、NRCの主要銀行はファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴであります。ご承知のように同行はアメリカ一流の銀行でありますが、同行ではNRCへの貸付金にたいしてはなんら抵当権を設定していないのでございます。それだけNRCにたいする信用度が高いということであります」
そんなら大丈夫や、という呟きやささやきが起った。そのあと河井社長が起った。
「NRCのことは、ただいま上杉常務の報告にありましたが、上杉君はNRCを、ご承知のとおり、江坂アメリカ社長時代から手がけておりますし、現在も原燃料・鉱産業務担当としてずっとNRCを見ております。上杉君を措いてNRC問題は解決できませんので、こんごも同君の手腕に期待したいと思います」
異議なく、常務会は終った。
河井社長がまっさきに役員会議室を出た。痩せた彼の倍もありそうな米沢副社長があとにつづき、住倉銀行からきた泉副社長が三番目だった。社主江坂要造や会長の大橋恵治郎がいないのはいつものことであった。
専務の鍋井善治と、江坂明太郎専務はわざと間をおいて最後に出た。河井や米沢のすぐ後につづくのをいさぎよしとしない態度を露骨にとっていた。上杉が頭をさげてもこれを無視した。上杉の報告中、明太郎はメモ用紙に新型ヨットの設計図をいたずら書きしていた。ヨットには詳しく、高価なものを買い揃えていた。父親の骨董品と同じく、その金は江坂商事から出る。
鍋井専務は一時は社主の勘気を蒙って財務統轄権を剥奪されて脱落かと思われた。そのあいだに米沢が擡頭《たいとう》した。だが、復活した鍋井は明太郎を押し立て、土を捲いて再び奔り来たった。いずれは明太郎を社長にしてロボットとなし、会社の実権を握る野心であるらしい。米沢はこれにうろたえ、いまは河井に凭って次期政権の禅譲を狙っているようである。と、これは社内の風聞であった。業界誌にも、次期社長は米沢か鍋井か、という記事も出はじめていた。米沢はファミリーの筆頭であり、鍋井はお小姓組の元締であった。所詮は要造社主の側近派の勢力争いだった。
それに、米沢はクイーンエリザベス二世号船上の祝典いらい、河井の熱望するNRCの石油に与《くみ》しすぎていた。NRC問題がいけなくなれば、米沢の次期社長の希望も消滅する。NRC問題は河井の次くらいに身近であった。
八月下旬、「NRC対策委員会」の設置が提案された。ニューヨークの定例監査から帰った安東常務の熱心な提言が河井を動かした。委員長には米沢副社長が就いた。
それを議題とした常務会は九月八日、東京本社役員会議室で開かれた。出席の常務入江利男は、そのときのことをメモした。
≪米沢副社長の発言。
──このさいNRC問題委員会を設けて対策を講じたい。これは社長の要請である。NRC問題とは、英国のBPからニューファンドランドに石油を輸入して、ここで精製し販売するもので、年間三億六千万ドルの取扱高となっている。これは原燃料本部の業績に帰するところである。
しかし、いまやここに問題が生じている。上杉常務。あなたは、余人をもって代えがたい人物であるから、これからはNRCオンリーでやってもらいたい。そうして江坂アメリカの安田君ともよく連絡をとって、仕事の実態、金繰りを円滑にすすめるよう努力していただきたい。
上杉常務の発言。
──補足説明させていただきますと、与信枠が八千万ドルから一億五千万ドルにふえています。このため第三抵当権を設置すべく、目下これの対策にとりくんでおります。ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴすなわちFNBCは、全面的にバックアップしてくれています。
河井社長。
──上杉常務。抵当権は本当に大丈夫か。
上杉常務。
──取るように頑張ります。
河井社長。
──営業の窓口はニューヨーク支店だ。君は近いうちにニューヨークに行き、帰ることなど考えないで頑張ってほしい。
上杉常務。
──わかりました。
付記。河井社長が上杉常務に熱心に質問していたのが印象的。なんだか居ならぶ常務たちによく聞かせるような、ナレアイ問答のような感じもしないではなかった≫
5
九月十六日、江坂アメリカ社長安田茂がニューヨークから東京に来た。翌日の東京本社常務会に出席するためである。
その晩おそく河井は安田を人目に立たないように京橋裏の料理店に呼んだ。話のあいだ、女中も遠ざけていた。
「社長。NRCがおかしいさかい、ダン信用調査所にNRCの調査をたのみました。これがそのダン・レポートだす。こないなことはしとうおまへんけど、NRCの実態がどないしてもわれわれにつかめんよってに、背に腹はかえられずに頼みましてん」
安田は鞄から出した英文タイプの綴りを河井に手渡した。
河井は眼鏡をかけた。その両鬢《りようびん》には白い髪がにわかにひろがっていた。
会社名が列記してあった。
Canadian Atlantic Oil Co. Ltd., Markat Oil Co. Ltd., Northern California Refining Co. Ltd., Delaware Petroleum Co. Inc., Maryland Petroleum Co. Inc., Canada-America Export Refining Co. Ltd., Allied Oil Corporation, Obtain Oil Co. Ltd., Global Allied Petroleum Co. Inc., Newfoundland & Labrador Petroleum Co. Ltd., Nova Scotia Refining Corporation, Radio Southern California Co. Inc., Elect Broadcasting Corporation, Sirius Television Co. Ltd., WRC Television Corporation, Standard Broadcasting Corporation,……
以上がNRCを除くサッシン・ナチュラル・リソーシズ傘下の企業会社名である。十数社のこれらにはすべてサッシン氏の腹心が社長として名をつらねているが、そのほとんどは企業活動をしておらないか、計画中であって、資本金も二百ドルないし五百ドルである。これらの社の多くはパークアベニュー五〇番地のシティバンク・ビル内の十五・十六階の全フロアを占めるサッシンのオフィスに配置され、従業員は全部で約百五十人である。資金の流れをつかむことはきわめて困難である。というのは、外部よりの巨額の融資は、これらの系列会社間で複雑な貸借関係になっているからである。同社では有能な弁護士・計理士を多く雇っていて外部からの調査を拒絶している。真にその内容を知ろうとするには国家権力による強制査察以外にはない。NRCに対しての融資額の最大は江坂アメリカであるが、その金がNRCの操業会社であるPRCに有効的に使用された形跡は見られない。推定するに、それらの融資金の大部分はサッシン氏が設立しようとしているニューヨークの新聞社や放送会社の資金に流用されているもののようである。──
ダン・レポートの内容は、ほぼそういうものであった。
「社長。ウチがNRCに貸した金は、回収の見込みがないようだす。こうなったら、早いとこ抵当権を取らんことには、江坂産業にとってもえらいことになりますがな」
河井は老眼鏡をはずし、指先で眼を擦《こす》った。苦渋がその表情にあらわれていた。
「それはいま上杉君が努力中や。近いうちにニューヨークに行き、サッシンに会い、ついでセント・ジョーンズやロンドンにも飛ぶことになってる。上杉君はかならず第三抵当権を取ってくると言うてる。それが出来るまでは、帰国のことは考えるなとぼくは彼に命令してる」
「上杉常務のことやさかい、あんじょうゆくとは思いまっけど」
「この任務は上杉君よりほかに居らへん」
「社長。わが社とNRCとのあいだに代理店契約が結ばれたとき、補助契約書が交わされとります。社長はそれをご存知ですやろか?」
安田は、この質問に苦しげな河井の顔を見た。その皺まで黒く映った。
「知ってる。|前払い《アドヴアンス》の四千二百万ドルのことやろ?」
河井は、もう聞いてくれるなというように顔をそむけた。
安田は、契約書の第一条(c)項の「英文解釈」も用意してきたのだが、河井のその顔を見ては出す気力もなかった。河井はやはり補助契約書に承認を与えている。NRCの貸付が無担保であることも、すべての手形が契約時より十二年先の支払いであることも、さらにはその四千二百万ドルを与信総額とユーザンスの拡大の中に包みこんで欺瞞的《ぎまんてき》に正当化したことも。──安田はいまさらながら上杉と河井の共同謀議を眼のあたりに見る思いだった。
安田はうつむいて手帳をひろげた。
「江坂アメリカのNRCに対する債権は現在約二億八千万ドルに達しております」
「安田君。その数字に間違いはないのか。ロールオーバーを起してるNRCの約手の総額がそないにあるはずはない」
「例の四千二百万ドルが含まれとります。それに金利や諸掛が入ります。それからBPが、ウチがLC勘定で出した百五十日先の約手を割引きして換金してます」
河井は声を呑んだ。BPもわが社の手形に不安を持ちはじめたのか。──
十七日の常務会は東京本社六階の役員会議室で午前十時半から開かれた。
安田茂は、昨日帰って参りました、と挨拶し、あとでニューヨークの報告をしたい、と言った。午前中は議題となっている第百十期の中間配当をどうするかという論議につぶれた。江坂アメリカの問題をはずしても、江坂産業の決算が悪くなっている。このさい、堅実方針から中間配当を見送ろうという論と、そんなことをすれば銀行に不安をあたえ、今後の金融にさしつかえるという論とが対立した。
総合商社は銀行の金で商売している。銀行が融資先の経営に不安をもてば、返済を迫ってくる。ドライな外国銀行はすぐさま貸付金を引きあげるだろう。江坂産業は、都市銀行や目星《めぼし》い地銀のほか農協系統の雑金融機関まで手をひろげて、約二百二十行から資金をかき集めていた。これらが金融を止めると、あくる日からでも資金繰りが詰まる。しかし、河井社長の意向は、現状を建て直すために主だった銀行筋の諒解を求め、今期の中間配当を中止することに傾き、それがほとんど決定に近かった。
午後一時からの再開では安田の報告が主だった。
彼は立って、アメリカ経済の一般動向、たとえば失業率が八・四パーセントであることなどを話し、江坂アメリカの五十年一月決算の問題点となっているNRC関係について話しだした。
「NRCというのんは、つまりはPRCのことだすが、江坂アメリカはこれにたいして約二億八千万ドルの債権を持っとります。その内訳を申します。
貸付金千五百万ドル。これは栄光商船と用船契約を結んだときのもので、これに対しては担保を取っておりますよってに、問題はございません。
原油代金の貸付金四千二百万ドル。これは契約書に前払金の名目になってるものであります。しかし、わたしどもの調査では、この金はどうやらNRCのほうへ流れてしまったようであります。
次に、NRCの原油代金の手形支払期日延長による合計が三千二百八十万ドルになっております。これに金利、諸掛の八百三十万ドルを加えますと、総計が九千八百十万ドルになります。これは全部江坂アメリカの資金負担になっております。
次に、九月から十二月までに支払期日のくる手形は以下のとおりでございます。
共立銀行扱いの千七百三十万ドルの原油代金。期日は九月二十日だすが、同行におねがいして一年間の再延長が決定しております。
駿遠銀行扱いの千八百二十万ドルの原油代金。十月二日が期限ですが、これも支払期日の延長が予想されます。けど、同銀行とは初めての取引だすよってに、できれば他の取引銀行、たとえば東和銀行か住倉銀行に肩代りしてもらったほうが得策かと存じます。
住倉銀行扱いの千七百六十万ドルの原油代金。十月十七日が期日だすが、延長になるかどうかはまだ未確認でございます。
三丸銀行扱いの千九百二十万ドルの原油代金。支払期日は十一月十一日になっております。
東和銀行扱いの千百五十万ドルの原油代金。支払期日は十一月二十五日でございます。
共立銀行扱いの二千五十万ドルの原油代金。支払期日は十一月三十日でございます。これは本年三月三十一日にロールオーバーになったものであります。
東和銀行扱い一千万ドルの原油代金。十二月一日が支払期日だす。
三池銀行扱いの二千四百七十万ドルの原油代金。来年の八月十二日が期日だすが、これは今年七月十八日にロールオーバーになったものの再延長でございます。けども、BPはこれをシカゴの銀行(FNBC)で割引きしております。
共立銀行扱いの二千三百五十万ドルの原油代金。これは本年八月二十日が支払いの期日でしたが、三池から共立に替えてロールオーバーしたものでございます。BPはこれもFNBCで割引いております。
三丸銀行扱い、一千九百八十一万ドルの原油代金。これも一年前にロールオーバーしたもので、BPではこれをマリン・ミドランド・バンク・オブ・ニューヨークで割引いております。
九月から十二月までに支払期日のくるNRCの手形合計一億八千二百三十一万ドルは江坂アメリカの与信であります。かような次第で、NRCにたいするわが社の債権は総計約二億八千万ドルに達しております」
安田は言葉を切って常務たちの顔を一瞥した。反応は見られなかった。よく分らないといった茫乎《ぼうこ》とした面持が多いのである。
河井社長はつとめて無表情を装っていた。昨夜の話合いで、今日の常務会ではNRCと江坂アメリカの関係をざっくばらんに打ち明けるという安田の危機感からの気勢に圧されて、彼はこれに消極的ながら同意したのであった。
その中で上杉は、ときどき眼を天井にやっていた。シャンデリヤのまわりにはどこから忍びこんだか蠅が一匹飛びまわっていた。彼の端正な顔には動揺がなかった。
「いま決まっている原油の運搬は」
安田は関西弁のアクセントでつづけた。
「VLCCすなわち大型タンカーによる運搬は一隻あたり千五百万ドルぐらいのスケールでございます。これが二十日に一隻くらいの割合いでカンバイチャンスにあるPRCの製油所に原油を運んで参ります。現に稼働中のものは、二十万トン級のタンカーが三隻で、うち一隻は積出し港、一隻は航行中、一隻は製油所のパイプラインで原油を荷揚げ中、そういった感じで、つねに三隻程度が稼働しとります。
しかし、これまではLC勘定でBPと百五十日くらいの余裕で手形取引をしておりましたが、BPはこれを割引きしはじめ、すでにそれが三回にわたっております。これはBPが換金を急いでいるとも見られ、またNRCの状況を感知してわが社の手形にも不安を持ったとも見られないことはありません。ニューヨークの邦銀筋はまだ問題にしとりませんが、このままで事態がすすみますと、NRCへの貸付金はたいへんな金額にふくれあがる可能性がございます。……なお、この件に関しましては、上杉常務とは一切のコミュニケーションがおまへん」
あとの言葉を安田は柔らかに言った。が、同席の上杉にたいする、これまで何の連絡もされなかったことへの一矢の酬いであった。上杉の頬に、かすかだが痙攣《けいれん》に似たものが走った。
「なぜNRCから江坂アメリカに原油代が入ってこないかということだすが、NRC側では山猫ストライキが発生したためとか精油の分離装置が正常に稼働しないからだと説明しとります。けど、NRCは何度申入れても七四年度の決算書を見せてくれへんのだす。向うでは、一年間でいまの赤字をとり戻すというとります。
けど、わたしが素人なりに計算してみますと、日産十万バーレルの精製能力があるとしても精製するときに七パーセントが減少してしまうので、じっさいは九万三千五百バーレルしかできないと思われます。九月三十日現在でNRCは好調に稼働しているというておりますけど、せいぜい七万バーレル程度しか精油でけまへんやろ。ビル・ブリグハム副社長は七六年一月には能力《キヤパシテイ》いっぱいに稼働すると言うておりますけど、問題は石油のコストでございます。
おおざっぱに試算しますと、原油価格は供給地で十ドル八十セント、これに保険料、金利を含めると十二ドルになります。これを製品化してアメリカ東海岸で売っても黒字にはなりまへん。また累積赤字がこの一年間で消えるとも思えまへん。だからこそ第三抵当権を早急につくらなあきまへん。第三抵当権を先ず取ることが第一でございます。
かりに、順調にいって製油所の利益が一日あたり二十二万八千ドルという計算になりましても、NRCの借入金が約四億ドルとして、年利を一〇パーセントとすると四千万ドルであります。一日あたり十万から十一万ドルの金利を払わななりまへん。また、一般管理費を月三百万ドル、一日十万ドルとすれば、フル稼働しても、ようやっと損が出ないちゅう状態であります。……そやけど、これはあくまでもわたしの素人計算でおます」
安田は、上杉に気をつかいながら言った。
「現在、わたしどものニューヨーク支店は、ロールオーバーについて銀行と交渉中でございます。と申しますのは、これを暴露発表《デイスクローズ》されると、まったく困りますよってに。そのためにもやはり第三抵当権の設定がどうしても必要になります。
けれどもNRCを自己破産させることはでけまへん。そうなると、こっちは丸かぶりだす。われわれの交渉には限度がおますけど、江坂アメリカは債権者の立場に立って、ドライに割り切らんとあきまへん。NRCを持つサッシン氏のSNRのグループは複雑で二十社近い系列企業をかかえております。これらの企業にNRCに貸付けた資金が流用されているのではないかと考えられます。債権者の立場から、NRCへ一歩出て調査したほうがええのやないか。この際、思い切って江坂の人材をNRCに突込む必要があるのやないか。そのようにも考えます。げんにファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴは目下NRCにたいして合理化を要求しております。……NRC問題についてわたしがご説明することは、だいたい以上のとおりであります」
安田がハンカチで額を押えて坐ると、上杉がそれを受けて立ち上がった。
「ただいま安田常務からNRC問題についてかなり詳細なご説明がありました」
彼は冷静で、そして毅然《きぜん》としていた。口調も態度も。
「NRCにたいして、ただいまご説明があったように江坂アメリカはかなりの債権が嵩《かさ》みましたが、しかしながらPRCは州政府の会社でございますから、ニューファンドランド州政府なりカナダ連邦政府なりがその後楯になっておりますので大丈夫でございます」
中央席の河井が、どきりとして上杉を見た。PRCはとっくにクラウン・カンパニーでなくなっているのに、上杉は平然と嘘をついていた。
「抵当につきましても、先順位の抵当が一億五千万ドルございます。これはイギリスのECGDとニューファンドランド州政府とが持っております。それでもPRCの資産は現投資の約二倍の四億五千万ドルは十分にございます。また、NRCは石油販売のマーケットが確立された会社でございます。ついでに申しますと、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ、すなわちNRCのメイン・バンクであるシカゴの銀行はNRCの貸付金に対して担保をまったく取っておりません。主要銀行は、かようにNRCを信用しているのでございます。なお、目下BPにたいして江坂のLCなしに原油供給ができないものか、また、ロールオーバーに応じて原油代金の支払いを待ってくれないか、などということを交渉中でございます」
上杉は落ちついて椅子に坐った。
NRCがおかしくなったいま、BPとしては江坂のLCが石油代金入金の何よりの保証であった。そのLCなしの取引をBPが承知しないのはわかり切ったことだった。また、LC勘定による江坂アメリカの支払手形はこれまで百五十日間の余裕があったが、BPはそれをどんどん割引きして換金を急ぎはじめている。BPではNRCへの不信がその代理店たる江坂アメリカへの不安に移ったのだ。どうしてロールオーバーに応じる猶予を承知しようか。上杉の言うことは常務会に危機を匿《かく》した虚言ばかりだ、と安田は思った。
すると河井社長がしめくくりをつけるように言った。
「NRC問題は上杉君に今後とも専念してもらいます。この任は余人をもっては代えがたいので、同君に申しつけます。上杉常務はご苦労ですが、なおいっそう努力してください」
かしこまりました、と上杉が席から一礼した。
常務連中はまともには発言しなかった。その場の空気は、常務会が安田の長い説明と上杉の話を「聞き置く」といったところだった。
常務のなかには、NRCとPRCの区別もわからず、国内業務の担当役員にはLCという語も初耳であった。ニューファンドランドがカナダのどこのへんの位置にあるのやらもわからなかった。
雑談的な、断片的発言はあった。
「総合商社の宇美幸商事がこの取引に入りたいと言っていたから、この際いっしょに入ってもらったらどうや」
「いや、そうなると、われわれにロールオーバーのぶんだけが回ってきて、宇美幸だけが儲けるんとちがうか」
「BPにNRCの製油工場を買ってもらったらええがな」
では、これで、という社長の言葉で一同は椅子の音を床に響かせてぞろぞろと立ち上がった。完全に上杉ペースで常務会を閉じた。
翌日の夜、東京本社米州課長の矢野梧一はニューヨークへ帰任する安田茂を羽田空港まで見送った。
「本社の奴らはなんにもわかってへん。あいつらはみんな阿呆や。いまに江坂産業がえらいことになったとき、はじめて眼がさめるんや」
安田はぷりぷりして昨日の常務会を罵った。
「社長。近くまたNRC対策委員会が本社で開かれますから、そのときは重役さんたちも社長の危機感が分ってくるでしょう」
温和な矢野梧一は安田を宥《なだ》めた。
「どうだか分るもんかいな。江坂産業泰平の夢をむさぼってはる連中ばかりやからな。現場の苦労もわからへん」
待合室には外国便の発着時間を知らせるアナウンスが間断なく聞えていた。そのなかで、矢野は言った。
「これは最近耳にした情報ですが、住倉銀行の磯村副頭取が河井社長に、江坂アメリカでお困りのことがあったらお話ししてもらえないかと申し込まれたそうです」
「ほんまか?」
安田は眼をみはった。
「まだ未確認の情報ですが」
「いや、そうやろ、そうやろ。これだけ住倉ニューヨーク支店がロールオーバーを起しているんや。支店長が本店の頭取には緊急警報を送っとるよ」
安田は心配げに、しかし、半ば妙に安心したように何度もうなずいた。予期したものがきたという思いであった。
「それから、これも未確認ですが、住倉銀行から、江坂にこっそり調査を入れさせてくれとも申し込みがあったそうです」
「いよいよ江坂産業も銀行に手術してもらうとこまで来たか。……」
ニューヨーク直行使の出発が案内された。
日ざかりの二時ごろ、河井武則は赤坂氷川町の「氷川寮」に車を走らせた。残暑がいつまでもつづく。社主江坂要造は昨日から東京に来ていた。
河井の気持は重かった。今期の中間配当を見送ることに常務会で決定したが、主力銀行の強い意向でこれを翻さざるを得なかった。無配当となれば江坂産業の取引銀行に不安を与え大きな動揺が生じて好ましくないという銀行側の申入れだった。銀行は、江坂産業の財政現状建て直しよりも、無配当による融資関係への悪影響をおそれていた。いま、社長は社主へ報告の訪問だった。
三太夫の瀬川が玄関に出てきたが、河井の顔を見ると、少々お待ちを、と少しあわてた様子で奥へ引込んだ。この訪問は午前中に秘書から社主宅に通じてあるのに、妙なことだと思った。玄関先に靴が二足揃えてある。来客とはわかったが、いまさら瀬川が社主に都合を聞きに行くのが河井にはふしぎだった。
五分も経って瀬川の禿げ頭が戻ってきて畏《かしこま》って坐り、どうぞお上がりを、と荘重に言った。通されたのは六畳の間で、襖《ふすま》が閉め切ってある。冷房を利かせるためだろうが、なんだかあわてて閉めたような感じがした。この家は広くなかった。
梶井ムラがレモンの浮いたジュースを持ってきた。引込むのではなく、そのまま離れた位置にすわって、挨拶ともつかぬ言葉を言った。ふだんひかえめな梶井ムラが話相手になるのはよほどのことで、社主と来客の話はまだ長いようだった。色の地味なうすものを着ている梶井ムラは、帯が鶸色《ひわいろ》で、|帯〆《おびじめ》が青緑《あおみどり》だった。着つけや配色に以前の世界がのぞいていた。眼のふちの小皺が白粉の下から目立っていても、素人にない色気はまだ残っていた。
二十分ばかりもすると、襖の外から廊下を踏む三、四人ぐらいの足音が聞えた。玄関へ向かう気配を耳にして梶井ムラが立って行った。客が要造に挨拶していた。河井にも聞きおぼえのある蒼竜洞の番頭桑野の声だった。
要造は京橋の古美術商蒼竜洞を呼んで何か古い陶磁器をまた買ったらしかった。彼が東京に出てくる目的の大半は骨董買いと音楽家との会合であった。社の業務には無関心なので、東京本社に顔を出すことは滅多にない。ただ、人事関係の監視はしている。江坂家に反抗しそうな人物を嗅《か》ぎ当てる直感は発達していた。もとより東京にもその判断資料となる情報を運ぶ忠勤派がいた。
三太夫が玄関であわてたのも、襖を急に閉め切ったのも、梶井ムラが間《ま》をつなぐように話相手に出たのも、蒼竜洞の番頭が来ていたからであった。骨董買いのツケは江坂商事に回される。この不動産会社はその株の九〇パーセントを江坂産業が持っているので、社主もさすがに河井には、骨董屋と会っている現場を見せたくなかったのである。
十分ほど経って要造が部屋に入ってきた。顔色はよかった。元気な様子は、気に入った骨董が手に入ったせいかもしれなかった。だが、無口なことには変りはない。河井の報告を前屈みの姿勢でつくねんとして聴いていた。両手を膝の上に組んでいた。
報告は、財政の健全性のために今期の配当を見送ることにいったん決めたが、主力銀行からの強い勧告があってそれを撤回し配当に踏み切ったこと、そのためにぎりぎり間際の明日の各紙朝刊に株式名義書換え停止の新聞広告を出すことなどであった。
要造は質問をしない。返事もろくにしないくらいだった。眼を膝に落し、身ゆるぎもしなかった。河井は社主の反応がわかりかねた。しかし、これら報告の内容は、息子の明太郎や鍋井専務などからすでに要造の耳に入っているにちがいなかった。
河井は、次にNRC問題の報告に移った。これも要造は終始眼を伏せて聴いていた。彼のコレクションの中にある唐三彩の人物|明器《めいき》が置かれているようである。
報告が終ると、社主は低い声で言った。
「河井はん。なんで上杉はんをそないにたびたびアメリカに出張させなはるんや?」
はじめての質問がそれだった。
「はい。それはいま言いましたように、第三抵当権設定の交渉には上杉君を措いてほかに人物がおまへんよってだす。上杉君は、いま再度ニューヨークへ行ってますが、ロンドンで近くNRCの債権者会議が開かれますので、ニューヨークからそっちへ回ります。わたしは上杉君に、第三抵当権が取れるまで粘れ、帰国のことはいっさい考えるな、と言いつけてあります」
このとき、瀬川が細目に襖を開けて廊下にうずくまり、いま「むら竹」から、今夜はありがとうございました、と宴会確認の電話が入っていますが、と取り次いだ。要造は無表情に軽くうなずいた。
「帰国のことは考えんでよろし、と上杉はんへ言やはったんか?」
社主は不機嫌な顔のままで訊いた。
「はあ。なんといっても、こんどは上杉君に頑張ってもらわんことにはなりまへんさかい」
「そら、あんたは、上杉はんにとってはええことを言われたな」
「は?」
「河井はん。上杉はんはそれでハネが伸ばせるがな。ニューヨークにはブロンドの恋人も居やはるということやし、そのほかにも髪の赤い女子《おなご》はんが居てはるそうや。帰国のことを考えるなと社長に言われたら、こら、またとない機会でんがな。もしかすると、ロンドンにもその恋人のだれかを伴《つ》れて行かはるかもしれまへんで」
「まさか。こんどの問題は江坂アメリカだけじゃのうて、江坂産業の浮沈に関係する重大事ですよってに」
河井も要造と同じ危惧を上杉のアメリカ出張に持たないではなかった。かねてからいろいろな噂は聞いていた。上杉は東京転勤になっても妻子とはほとんど別居状態だという。しかし、NRCに第三抵当権を設定するとは上杉が自ら実現を揚言していることである。彼にとっても真剣勝負のはずだった。ニューヨークで女と会う多少の時間は持っても、放埒《ほうらつ》に流れることはあるまい。要造の上杉に対する不信感は、明太郎が曾て新婚旅行でニューヨーク支店に行ったときに聞きこんだ噂にもとづいていて、それをまだ執拗に残していた。
「そやろか」
要造の顔にはじめてうすら笑いのようなものが浮んだ。
「それにロンドンには東京本社石油課長の篠崎君も上杉君に随行しますさかい」
NRC債権者会議は十月十七日からロンドンで開かれる。これにはECGDやニューファンドランド州政府、FNBC、それにカンバイチャンスの製油所をつくった建設会社、設備機械の納入会社などの代表が集合する。議長役のECGDから江坂産業に代表の派遣を求められ、これが上杉二郎に決定していた。
上杉二郎はその前にニューヨークに行き、セント・ジョーンズに飛び、第三抵当権設定の根まわしをすることになっていた。
「随行の部下はなんぼでも誤魔化せるがな」
要造はどこまでも上杉を疑っていた。
「河井はん。上杉はんを遣ったのはおもろなかったでんな」
「けど、社主。NRC問題では上杉君は余人に代えがとうおますよってに」
「余人に代えがたい? 江坂には人材がそないに居らへんのかいな」
「申しわけないことだすが」
「河井はん。ロンドンの債権者会議でも第三抵当権は取れまへんで」
「はあ?」
「こら失敗《しくじ》りますわ。わての心眼にはそう映ってますがな」
要造は眼をかたく瞑《つむ》った。虚無的な表情であった。
午後七時からの「むら竹」の宴会には、いつものように要造をとりまく音楽家、音楽評論家たちが集まっていた。その中に、場違いのように二人の相撲取りが羽織袴で坐っていた。要造がもと贔屓《ひいき》にしていた部屋の大関紅葉山と前頭二枚目紫川だった。
小さな身体の要造は末席にぽつねんと就いた。これはいつものことなので芸妓の福奴と波津子たちも馴れていた。
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第七章
1
一九七五年(昭和五十年)十月九日午後二時ごろ、SNR会長アルバート・サッシンは、ニューヨークからカナダのモントリオール経由で四時間半の、ニューファンドランド州の州都セント・ジョーンズの小さな空港に降り立った。
日脚《ひあし》がおそろしく短くなっていて、すでに冬コートを必要としていた。細身で、どちらかというと背の低いほうのサッシンは、ニューヨークから電話予約していた空港のハイヤーをこの簡素な都市のほぼ中央にある低い丘陵上の州政庁へ走らせた。政庁は黄褐色《イエローオーカー》の煉瓦づくりの高い箱のような建物で、雪景色の中ではさぞかし美しい配色と思われるが、そうでない季節の中では地味で、重々しく見えた。屋上の望楼には一枚の楓葉をつけ、両側が紅い筋のカナダ国旗と、原住民二人が獅子の楯を支え持っている州旗とが翻っていた。
サッシンは州首相のジェームス・B・バルチモアと会見の|約 束《アポイントメント》がとってあったので、ただちに六階の首相室に招じられた。その部屋の窓からは、晴れ上がった冷たい冬空、その下にひろがる朱色の屋根と白い壁の群らがる市街、それを囲む岩と疎林の山なみが見え、一方には蒼い海が望まれた。
サッシンとバルチモアとは久闊《きゆうかつ》の言葉を親しげに交わした。サッシンは肘掛椅子に両手を張って、系列会社のNRCが現在ひじょうにうまく運営されていることを雄弁に話した。
NRCは、ここから約二百キロ北西にあるカンバイチャンスの製油所の製品(精油)を販売する会社であり、七三年の暮からはその製油所の管理・操業会社であるPRCを吸収していた。
サッシンは、アメリカ東部海岸でNRCの精油販売状況が非常に好調であり、石油価格が近く高騰するからさらに営業の好成績が見込まれると概略の数字をあげて力説した。バルチモア首相は、クイーンエリザベス二世号上での製油所開所式祝典にも列席し、PRC株の九〇パーセントをNRCへ千ドルで譲渡した責任者でもある。彼はその友情と儀礼からサッシンの能弁を、かくべつ意見をはさむこともなく、ほほえんで聴いていた。
だが、サッシンが製油所の操業をさらに能率的にするため、NRCへ一億七千五百万ドルの投資拡大を州政府に要請して言葉を結んだとき、バルチモアは余裕のない財政事情を理由にその申出を拒絶した。
サッシンはなおも再考を頼んで、友好的な雰囲気裡に政庁を辞去した。彼はその晩、この都市一ばんのセント・ジョーンズ・ホテルに一泊し、翌日午前中もホテルから、バルチモア首相に電話してふたたび昨日の件の再考を求めた。バルチモアの返辞はやはり色よいものではなかった。
その翌日、ECGD(英国輸出信用保証局)からバルチモアあてに、製油所の不調によってNRCの営業成績が極度に悪化し、日本の江坂アメリカには二億ドル以上の負債があり、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴにも多大の負債があることを報告してきた。じつは、バルチモアはNRCの決算報告書の提出方を何度も会長のサッシンに言ってやったのだが、サッシンもブリグハム副社長も言を左右にして、いっこうにそれを実行しないため業を煮やし、ECGDに調査方を依頼していたのだった。いうまでもなく、ECGDは、PRC(製油所の操業会社。当時はニューファンドランド州立)に最大に投資したイギリスの銀行のシンジケート団の後楯で、英国政府そのものである。
バルチモアは一昨日州政庁にやってきたサッシンの、すべてはうまくいっている、という独演を終始黙って聴き、口辺に紳士的な微笑を泛《うか》べてはいたが、じつは彼にたいする内心の不信感がその下にひろがっていたのであり、NRCへの投資を一億七千五百万ドルに拡大する申出を即座に断わったのも同じ理由からであった。
数日後、こんどはECGDからカナダ連邦の首相宛に至急電が来た。それには、ロンドンの債権者(銀行団)がNRCへ不安を抱いているので、同様の債権者であるニューファンドランド州とカナダ連邦政府、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ、N・クラフト社系列の機械製作所バーンズ社、ならびに日本の江坂産業などがロンドンに集まってNRC対策会議を開きたいとあった。それには大蔵次官のW・A・ハーディと鉱産・エネルギー担当相ガブリエル・バートランドの即刻派遣方が要請されてあった。
カナダ連邦政府は、ただちにこのことをニューファンドランド州政府に通知した。バルチモア首相と工業開発相のS・ブロウニングとがロンドン会議に参加することになった。
連邦政府のバートランド国務相とハーディ大蔵次官が出発した三日後、バルチモア首相の一行はセント・ジョーンズ空港からロンドン行直行便に乗りかえるため、いったん西のモントリオールに飛んだ。
モントリオール発の旅客機は、大西洋横断のために再び東へ飛行をつづけた。ロンドン行はニューファンドランド島の南端をかすめる。夜になっていた。
このとき、スチュワーデスが機内アナウンスした。
──みなさまの左手下に見えます真赤な炎は、カンバイチャンスの巨大な石油精製工場でございます。一日十万バーレルを生産いたします。また、近い将来にさらにその工場規模を拡大する予定でございます。……
バルチモアと隣席の工業開発相とは、互いに複雑な瞳を覗き合った。窓下の闇に燃え昇る一つの妖火は、魔神が臨在して犠牲《いけにえ》を嘉《よみ》しているように見え、その篝火《かがりび》が黒衣の手に持たれて後方へ移動しているようであった。──
ロンドンでの上杉二郎と篠崎寅雄とは、カーゾン街のタウントン・ホテルに宿をとった。東京本社原燃料部石油第一課長の篠崎は社命で羽田からロンドンに直行し、四日前にニューヨークから来ていた上杉に合流した。
ホテルはカーゾン通りとパーク・レーン東側通りとの間で、道路は狭く、タクシーの運転手も迷うほどだった。四階建のその小さな建物は、すぐ近くにあるホテル・ヒルトンの高層の蔭にかくれそうなぐあいだし、裏通りのビジネス・ホテルというよりも、ラブ・ホテルの感じで、部屋の壁はピンクに塗られ、鏡がいたるところに嵌めこまれていた。
「新聞記者に嗅ぎつけられたらまずいのでね」
上杉は、篠崎の不審顔にてれ臭そうに笑って答えた。
「一流ホテルのロビーには新聞記者たちがうろついている。その連中にわれわれが江坂の人間だと察知されたらたいへんだ。NRC問題を協議するためECGDの主催で産業省にカナダ政府やシカゴの銀行やバーンズ社などが参集していると、ロンドンの経済誌の記者たちにはもううすうす感づかれているそうだからね。そうなると当地の特派員が動きだし、東京に通報するだろう。いま新聞に出たらその一発で江坂アメリカはおかしくなる。各銀行が江坂の金融に警戒するからね」
上杉の思慮深い処置がわかって篠崎は感激した。ニューヨークでの上杉の性格はホテルでもレストランでもデラックス好みと聞いていた。それが外部に用心して、この安宿に入っているのである。
「NRCの債権者会議はいよいよ明日からですが、ECGDもニューファンドランド州政府も第三抵当権の設定を江坂に認めてくれそうですか」
篠崎は上杉にその成算の有無を訊いた。
「大丈夫だ。カンバイチャンス製油所の評価額は六億二千万ドルある。これはサッシンの見積りだが、ぼくも妥当だと思っている。建設時からすると物価が三倍には値上りしているからね」
建設当時は二億一千三百万ドルであった。
「第一抵当権を持っているECGDが一億三千万ドル、第二抵当権のニューファンドランド州政府が三千万ドル、合せて一億六千万ドルだ。評価額の六億二千万ドルから差引いても四億六千万ドルは残る。これを対象にしてファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴとバーンズ社と江坂アメリカの未抵当権設定の三者がその共通の立場から保証を求めるのだが、なんといっても江坂アメリカの債権額が最高だ。したがって江坂に二億ドルまでの抵当権設定を認めることは、ECGDもニューファンドランド州政府も最終的には拒絶できないよ。ぼくはこっちに四日前に到着してからECGDの担当官や、銀行シンジケート団の代表クラインオートベンソン(英国の大手商業銀行)の役員、それとカナダ連邦政府のバートランド鉱産・エネルギー担当相、ニューファンドランド州政府バルチモア首相の筋に当ってみたが、みんな理解を示してくれた。このうちのバートランド・カナダ国務相夫妻とは今年の七月に東京で会っている。長崎の造船所で建造中だったタンカーの工事視察とその船の命名式に来日したとき赤坂のホテルで夕食を共にしたんだ。こんどの会議でいまこっちに来ているNRCのブリグハム副社長もいっしょだった。バートランドは前のウッドハウス時代ニューファンドランド州政府閣僚の経験者だから、PRC設立時の事情をよく知っているし、われわれの立場に同情的だった。やはり重要な人物には前もって会っておくものだね。東京のホテルでの晩餐会はこんどの布石として有意義だったよ」
上杉の顔は明るく、語調もたいそう楽天的なのである。彼の記憶には、その愉しい夕食会のあと、ブリグハムからNRCの厖大《ぼうだい》な欠損を示す操業以来一年間の決算書が提出された暗い衝撃的なものにつづいているはずだが、それは篠崎には毛筋ほども見せなかった。
彼はこの腹心の部下にむかってさらにつづけた。
「会議にはサッシンがブリグハムといっしょに来ている。連中はクラリッジェスに泊まっているがね。サッシンは、江坂が無担保の点で共通の立場であるシカゴの銀行やバーンズ社などと連合して、ECGDやカナダ連邦政府、ニューファンドランド州政府にぶっつかるのは最良の作戦だといってぼくのアイデアをほめ、自分も全力をあげて応援すると言ってくれた。なんといってもカンバイチャンス製油所の所有主は自分だから、自分の発言力は最強だと言っていたよ。篠崎君。第三抵当権はかならず取ってみせるよ。ぼくには、明日から開かれる債権者会議で第一抵当権所有者の代表と第二抵当権所有者の代表とどう渡り合うか、その心づもりはちゃんと出来ている」
篠崎は、この有能な上司の熱気ある言葉の中にふと冷たい隙間風の流れを感じた。上杉は「第三抵当権は取れる」とは言わずに「かならず取ってみせる」と強調した。この言い方には、無理だけれどやってみる、といったニュアンスが響いている。心に思っていることが、思わず口吻に出たのではあるまいか。そう感じて篠崎は上杉を見上げたが、その表情は戦士のような微笑に蔽われていた。
篠崎は、自分が来る前の四日間に上杉がロンドンでかくも各方面と接触して根回しに奮闘していたかを考え、その能力と超人的な動きを思い、いま心の隅で一瞬に感じた危惧を日ごろの尊敬へたちまち変えた。
廊下に男と女の含み笑いが通った。
NRC債権者会議の会場はホワイトホール通りに面した産業省の会議室で十月十七日午後一時から開かれた。赤煉瓦建てに象徴された|警 視 庁《スコツトランド・ヤード》さえ近くアメリカ式の新庁舎に変るというのに、この役所は未だ暗鬱で荘重なビクトリア王朝中期の意匠にくるまっていた。窓が狭く、採光の不十分なために、昼間でも天井に吊り下がる山笠のようなシャンデリアに照明を点じなければならなかった。この建造物の白亜はロンドンの煤煙で黒くなり、それがときどき洗われるために外観にきたならしい斑《まだら》を残していた。
装飾のある長方形の木製卓子をはさんで、一方に英国産業省の次官とその下僚、クラインオートベンソンの役員たち、ニューファンドランド州とカナダ連邦政府の四人がならび、反対側にSNRのサッシン会長、NRCのブリグハム副社長や同社の顧問弁護士、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴの副頭取とその顧問弁護士、バーンズ社の社長と技術担当役員、それに江坂産業の上杉二郎と江坂アメリカの顧問弁護士と篠崎とが居ならんで対《むか》い合った。
会議は隔日ぐらいに開かれ、一カ月以上つづいた。この席で上杉は主張した。
「江坂アメリカはNRCに対して約三億ドルの貸付金や売掛代金の債権がある。ECGDやニューファンドランド州政府のそれらよりははるかに巨額である。ほんらいなら、代理店としての江坂はNRCに対してBPからの原油の供給を停止すべきところである。だが、もし、そうなれば、PRC=NRCだけでなくECGDもニューファンドランド州政府も潰れてしまうだろう。イギリス銀行団の投資はまったく回収できなくなる。ECGDは税金の中からその巨額の補償を銀行団に行なわなければならないことになって、イギリス国民の間に大問題となろう。江坂アメリカとしては原油供給の停止が本意ではない。しかし、第三抵当権の設定が認められないままに、多額な債権を擁した上で、これ以上の原油供給をつづけるのは不安である。またBPへの原油代支払いにも限界がある。われわれに第三抵当権はぜひ認められるべきである」
上杉の戦術は、抵当権を持つECGDとニューファンドランド州政府=カナダ連邦政府に対するいわば「弱者の恐喝」であった。窮鼠猫を咬むの論理で、江坂の出方次第ではイギリス政府とカナダ政府とが苦境に陥るというものであった。篠崎は傍聴して感服した。
ECGDの代表は、イギリス産業次官のトーマス・バークレイであった。額が禿げ上がって頸の短い、肥ったこの次官は、頑固者で、何かといえば第一抵当権の保持者であることの優位をちらつかせた。
サッシンはいつものように製油所は順調に行っていることを力説し、江坂がBPの原油供給をつづける限りは、現在の赤字を克服できると断言した。しかし、列席者の表情はそれをあまり信用してないようだった。
第二抵当権設定者のニューファンドランド州政府とカナダ連邦政府の代表たちは、江坂アメリカは製油所へ原油の供給をつづけるべきだと言った。その主張は、かれらの曾ての政敵で、いまはアメリカのフロリダ州に引込んでいる前首相ウッドハウスの言い方にそっくりであった。
隠退したウッドハウスは、蔭でまだこう喚いていた。
≪カンバイチャンスの石油工場は、わたしの|赤ン坊《ベビー》のようなものだ。わたしはすべての大手石油会社が、この小さな製油所に興味を持つように試みた。そしてそれを建てたのは、ほかでもないサッシンだ。サッシンはたいした人物である。わたしは、クラウン・カンパニー方式を利用してニューファンドランドに工業を誘致する方法を発見した。われわれはそれにより、非常に低い収入で非常に高い生活費と、また高い出生率とを賄《まかな》ってきた。わたしは養鶏場・砂金の会社・近代的な魚処理工場・造船工場をこの島に造ったが、それらはすべてクラウン・カンパニーを足がかりにしたものだ。最初の六カ月間、サッシンはカンバイチャンスで建設したリファイナリーで素晴しいことをやってのけた。しかし、石油危機とバーンズ社の脱硫装置がうまく機能しなかったために、サッシンの現金はどんどん流れ出して、彼の手持ち資金を上回る量になっていった。
しかし、石油危機のことで人を責めることができるだろうか。また不測に発生したストライキのことで責められるだろうか。江坂はサッシンの抱えている問題を知っており、サッシンがすべての問題を解決する能力を持っていると信じなければならない。日本側は無担保の債権者だから、製油所の利益を尊重しなければいけない。カンバイチャンスの製油所に契約通り原油を供給してこそ江坂の生きる道がある。そのうえで日本はサッシンに金を返してくれと哀願しなくてはならない。セント・ジョーンズのメモリアル・ユニバーシティで工学関係の教授をしているウイッグはわたしにこう語っている。サッシンはあまりに多くの束縛の下で働いていて、そのため石油危機のためにもろくも突き放されたのだ、と。カンバイチャンスの製油工場がもつ水深のふかい港湾は、アメリカの環境保護者たちが、これ以上造ることができないとしているほど理想的なものである。この理想的な製油工場を建て直す唯一の方法は、江坂が製油所に利益が出るまで原油の供給をつづけることだ。なぜなら、江坂は最初から熱心にNRCの代理店になることを希望し、その運動をやったからである。目先の利益に多少の見込み違いがあったからといって、すぐに離脱しようとするのは商人道徳からいって許されるべきことではない。その努力を守ってこそ、かれらが希望する第三抵当権設定の道もおのずから開かれようというものだ≫
ニューファンドランド州政府の代表者バルチモア首相と連邦政府の代表者バートランド鉱産・エネルギー担当相の会議での発言は、その政治的立場がまったく相反しているにもかかわらず、こうしたウッドハウス前首相の言いぶんに一致したものであった。
バーンズ社の代表ジーン・B・バーンズ社長は、サッシン氏は即刻われわれに請求の全額を支払うべきだと強く言い張った。なぜなら、じぶんらは、他の諸債権者らと違い、NRCへ投資したのでもなく、また金を貸付けたのでもない。製油所の建設にかかわる機械代、その運賃ならびに機械振付のためにニューファンドランド島に派遣したエンジニアたちの人件費などといった純然たる商品代金だからである。これの支払いは他の条件に優先して行なわるべきである。われわれはサッシン氏から商品代金を一ドルも受けとっていない、と主張した。
ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴの代表である同銀行の副頭取は、わが銀行の貸付金によってPRCは当初の運営ができたのであるから、無抵当のわが行に対しては優先して支払わなければならない。というのは第一抵当権と第二抵当権の設定者のみは、その返金が保証されて安全だからである。この二者はいつでもその抵当物件を差押えて換金できるから、あわてる必要はない。なんら保護されていないわれわれに対してNRCからの支払いをまっ先にさせるか、さもなかったら第三抵当権の新たな設定を認むべきである、と叫んだ。
この会議の模様について、カナダ連邦政府のバートランド国務相はこんな印象を持った。
──日本側の債権者は会議において紳士的であった。というのは他の債権者たちにくらべ、非常におとなしかったという意味である。日本側はこの会議で何らかの奇蹟が起るのを待ちうけているかのように見えた。サッシンたちはロンドンで最高級のホテルであるブルック街のクラリッジェスに滞在していた。その伝統的格式あるホテルは各国の王族が泊まるところとしても著名だが、このごろはアラブの石油成金たちが好んで逗留するホテルとしても知られてきた。サッシンはロールスロイスのリムジンを持っていた。ある日、彼は債権者たちをその車に乗せてホテルまで送ったことがある。われわれの記憶によると、上杉ら日本側代表はメイフェア地区のカーゾン通りから入った裏町の角で降りた。道がせまくて高級車は彼らのホテルの前まで行けなかったのである。そうしてそのへんは巡査が巡回していた。ホテル・ヒルトンの裏側は、それほど風紀のいかがわしい通りなのである。そこで日本側代表の泊まっているホテルがどのようなものかが想像できた。われわれは痛烈な皮肉を感じたものである。つまりサッシンに三億ドルもの金を貸した日本人たちが質素なホテルで暮しているのにたいし、サッシンらはロンドン一の豪華なホテルに札ビラを切っているという対照にである。クラリッジェスでは、ウエーターたちがサッシンのようなたいそう卑しい男から多額のチップをもらうためにご機嫌をとりむすんでいるのがあきらかに想像できる、と。
会議はもつれ、しばしば休憩した。そのあいだに裏側で相互間で猛烈な交渉がなされた。そういうとき、カナダ連邦政府の代表バートランドは廊下で上杉二郎と出遭った。上杉とは去る七月東京のホテルで夫妻で晩餐を共にした間である。
「上杉さん。あなたの社を応援している銀行はみんなこのロンドンに支店を置いていますね。その支店長たちをこの会場に呼んで、われわれの会議に参加させたら、NRCの現状をかれらに知らせることができ、時間が節約できると思いますがね」
上杉二郎は眉をあげて強気に答えた。
「バートランドさん。たぶん銀行がすべてを知らないほうがいいでしょう」
会議は、日本側が本社の指令を仰ぐという理由による要請で延引に延引を重ねた。
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上杉二郎は部下の篠崎の眼から見て憔悴《しようすい》が激しかった。上杉は江坂産業のロンドン支店から、東京とニューヨークへ毎日のようにテレックスを打ちつづけていた。時差の関係から睡眠の時間も制限されるのである。ピンクの壁にやたらと鏡をはめこんだあやしげなホテルからも夜中に東京や大阪に電話をかけた。河井社長が東京本社や大阪本社を往復してひとところにいないからであった。あまり頼りにはならないが、米沢副社長もまたそうだった。先方からも国際電話がかかってきた。上杉はホテル側の苦情を抑えるために、余分な金を支払わねばならなかった。各室で職業的な愛のささやきが交わされているこのホテルでは、まったく場違いの、不粋なビジネス電話だった。
いうまでもなく本社側は第三抵当権をとるのが至上命令であった。それを実現させるには、江坂側がどこまで譲歩すればいいかというのが上杉の河井社長への「請訓」であった。
ECGDとニューファンドランド州政府とは、最終的には江坂の言いぶんを尤《もつと》もなこととして第三抵当権の設定を認める、という意向が上杉にわかってきた。ただし、それについての条件は検討中だというのである。上杉はそれに対して先回りして社長や副社長に江坂側の条件許容の幅を質《ただ》したのだった。
河井社長は、わが社に第三抵当権取得が認められるなら、大幅な譲歩も止むを得まい、先方の出す条件を見た上で考慮したい、と言ってきた。そのテレックスの文字には、あきらかに河井の喜びが出ていた。抵当さえ取れば、NRCへの約三億ドルの貸しも大半は回収できるのである。
江坂がここまでかたくななECGDとニューファンドランド州政府を軟化せたのは、やはりシカゴの銀行とバーンズ社と無担保者どうしの共同作戦が効を奏したのである。産業省の古臭い窓から、東側はテームズ川の水、西側はセント・ジェームス・パークの森をさんざん見飽いた末のことだった。
江坂に第三抵当権が認められるなら、シカゴの銀行にもバーンズ社にも同様の措置がとられる。
この空気に気をよくしたか、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC)の副頭取が提案した。
「NRCの今後の金融はわが銀行が受持ち、バーンズ社は精油設備の欠陥を補修する。そのかわりサッシン氏にはNRCの経営から身を退いてもらいたい。その経営にはわれわれの信頼できる者を任命して当らせることにしたい」
この提案は、もちろんFNBCがバーンズ社と裏で緊密な連繋をとってのことだった。
サッシンは顔に血を注いで椅子から立ち上がり、FNBCの副頭取を睨みつけた。
「奇怪な言い分である。あなたの銀行はNRCへ三千万ドルしか融資していない。江坂の原油代金立替払いの約二億ドルとくらべると、その一五パーセントでしかない。わずか三千万ドルの融資でNRCからわたしを追い出そうというのは、バーンズ社と組んでPRCを乗取ろうとするあなたがたの陰謀である。このような謀略にわれわれは決して屈するものではない」
バーンズ社の社長ジョン・B・バーンズが横合から直ちに立ち上がり、サッシンに言った。
「わがバーンズ社がFNBCと組んでPRCの製油所を乗取ろうとする陰謀とは聞き捨てならぬ誣告《ぶこく》である。そんなばかげた中傷を言われるならば、NRCはわが社の債権二十八万六千ドルを早く支払いなさい。この債権とは、PRCの求めに応じわが社がPRCに機材等を売却した純然たる商品代金であり、また一九七一年八月二十六日から七五年八月二十六日までのあいだPRCの求めに応じ、PRCの利益のために実施した作業・労働力の代金である。これら未払金の早急な支払いを要求する」
サッシンは、こんどはバーンズ社長に向き直り、額に筋を浮かせて言い返した。
「あなたのバーンズ社は、PRCまたはNRCに対してそのような要求をする権利はない。なぜならば、あなたの社は契約書どおりのことを何一つ履行していないからである。その結果、われわれのほうこそ大きな損害をうけた。あなたの社は詐欺的行為をした」
「詐欺的行為とは、何をさして言われるのであるか」
バーンズは火をつけられたようにいきり立った。サッシンは応じた。
「あなたの社はPRCとの契約書にもとづき、機械設計・設備に関する仕様書すなわちブルー・ブックをPRCに手渡している。このブルー・ブックは、あなたの社がPRCの依頼にもとづき、PRCの利益のために技術面から作成されたはずのものである。ところが、われわれのエンジニアたちが操業にかかったところ、熱分解装置であるビス・ブレーキングが円滑に作動しなかった。そのために上質の軽油、すなわちジェット・エンジンの燃料油、自動車などのガソリン、灯油などの商品価値の高い精油は、わずか二五パーセントないし三〇パーセントしか得られなかった。したがって、あとの七五パーセントないし七〇パーセントは硫黄分の多い重油であって、販売会社たるNRCはこれら重油を値の安い船舶用油《バンカー・オイル》として売るほかはなかった。一方に原油代の高騰もあって、その損害額は多大である。あなたの社はブルー・ブックに記載された機械装置とはまったく違う偽瞞的なもの、ないしは手抜きしたものをわれわれに一方的に押しつけた。これは詐欺行為以外のなにものでもない」
サッシンは吼《ほ》えた。が、その怒声と憤激の顔つきにもかかわらず、そのくぼんだ眼窩《がんか》の底にある眼の光は冷静で、澄んでいた。
「いまの発言は、わが社にたいする重大な侮辱である」
ジョン・B・バーンズは忿懣《ふんまん》に蒼褪《あおざ》めた。
「それではサッシン氏に伺うが、わが社ではPRCのエンジニアたちからレター・オブ・アクセプタンス(検収書)を受け取っている。検収書は、わが社の技術者たちの立会いのもとにPRCの技術者が約三週間にわたって機械や諸装置を点検し、試運転した結果、すべて異常なしと認めた上で、わが社に対して交付されたものである。すなわち納入した諸機械装置は完全にブルー・ブックの仕様通りになっていることがPRC側によって確認されたのである。とくにビス・ブレーキングはリファイニングの生命ともいうべき装置である。PRCの技術陣は、とくにこの装置について憤重な点検を行ない、入念な運転をくり返してOKを出したとの報告をわたしは受けている。PRCはその上でわが社からの引渡しを完了したのである。それにもかかわらず、いまごろになって、ビス・ブレーキングに欠陥があったかのようにいわれるのは、言いがかりもはなはだしい。わが社は、それに関してなんの責任もない」
これにサッシンは激しく応酬した。
「バーンズ氏はごまかしの弁解をくりかえしているだけである。事実は、諸機械に最初から欠陥や手抜きがあったのである。とくにビス・ブレーキングの手抜きははなはだしい。しかし、深部の欠陥や手抜きは当初たやすく見破られるものではない。あらゆるところに巧妙な偽装がなされているからである。それらはじっさいの使用期間がかなり過ぎてから発見されるものである。PRCの技術者たちが、検収書をバーンズ社に発行したのは、試運転や点検の段階でこれらの欠陥や手抜きを蔽い匿した美事な偽装にひっかかっただけである。そしていかなる熟練のエンジニアといえどもこの偽装を看破できるものではない。したがって検収書の交付は、かかる詐欺行為の上で行なわれたものであるから、なんらの効力も義務もないものである。われわれは、このごまかしのリファイニング装置のために大きな損害を受けた。PRC=NRCが赤字を出した主たる原因はここにある」
バーンズ社の社長はあまりの憤りに声が途切れ、言葉が吃《ども》った。
「サッシン氏はNRCの経営能力の貧困をすべてわが社のせいにしてねじ曲げている。それは卑劣な責任転嫁である。カンバイチャンス製油所における諸機械の不調は、一に同製油所のエンジニアたちが技術未熟のためにひき起した事故である。最近の高性能の機械は、精密かつ最新技術の粋を尽して設計されたものである。同製油所のエンジニアたちは、その時代遅れの技術のために、この精巧な機械の操作を誤り、まるで小児が玩具を壊すように壊したと推定される。したがってリファイニングから上質の軽油が多くとれなかったとすれば、その責任はすべて製油所側の未熟と不注意とにある」
ここでバーンズ社の代表はひと綴りの文書をとりあげて振りまわした。
「これは契約書である。バーンズ社とPRCとのあいだのカンバイチャンス製油所建設計画に関する当初の契約書である。この一節には、万一製油所建設の不備によって起った損失にたいするバーンズ社の責任は五十万ドルを限度とする、と明瞭にうたってある。しかしながら以上述べたように製油所建設の不備はわが社に責任がなく、挙げて製油所技術者たちの技術的な欠陥、未熟、不注意に帰されるものであるから、五十万ドルを補償する義務もない。よってわが社はNRCに対してすべての商品売掛代金とその金利、諸掛り費とを即刻に支払うことを要求する」
この激しいやりとりを債権者会議の列席者たちは唖然《あぜん》として聞いていた。
アルバート・サッシンは両手を空《くう》に回転させて怒号した。
「われわれはバーンズ社にたいし注意を喚起したい。すなわちバーンズ社はPRCに納入した諸機械装置の代金を請求するが、PRCでは一九七四年春より半年間労働者によるストライキが発生し、このために生産能力が大幅に低下した。ために販売量が予定に達せず、大なる減収となった。ストライキは予測せざる不可抗力である。したがってPRCとバーンズ社との間で交された契約書にある不可抗力による損害の条項に当り、バーンズ社は請求代金よりこの損害額を差引くべきである。われわれの現在の試算では不可抗力によるこの損害額は約五千万ドルに当る」
「まったくナンセンスである」
「さらに根本的なことは、リファイニングの不調は、さきほどから言っているように、バーンズ社製品の諸機械装置の欠陥、手抜き、仕様書に違反した詐欺的行為、不誠実等に起因することは明白であるから、PRC=NRCの受けたこの損害に対し、われわれはバーンズ社が請求する商品売掛代金に対しては一ドルをも支払う義務を有さないのである。それだけでなく、PRC=NRCがバーンズ社のためにこうむった損害額は、同社が不当にも請求する商品代金と称するものを遙かに上回るものであるから、いずれのちほど詳細に計算の上、この損害額の賠償をバーンズ社に要求する。バーンズ社においてこれが受け入れられない場合、わが社はバーンズ社ならびに親会社のN・クラフト社にたいして告訴の用意がある」
代表たちの大きな混乱をあとに、サッシンはブリグハムや顧問弁護士などを引具して退席した。
だが、終始この会議ではニューファンドランド州政府とカナダ連邦政府との代表は、わりあいにのんびりとした態度であった。それは第二抵当権の取得者であるという安心からのみではなかった。それを超えた大きな安堵感──現在江坂が面しているようなおそろしい破滅の危機から運よく脱し得られたという幸福感からであった。
たとえばニューファンドランド州首相バルチモアなどは、その顔つきからすると、こんなことを考えているにちがいなかった。
──われわれの政府は一九七三年十月十日に、クイーンエリザベス二世号の船上で、サッシンと契約を結んだ結果、PRCは州立の会社ではなくなり、アルバート・サッシンの民間の企業となった。そのために、ニューファンドランド州政府はNRCに対して法律的にも事務的にもまた道義的にも何の責任も持たなくなった。初代首相のウッドハウスは州政府や州議会の承認を得ないでサッシンに対してNRCに対し文書でさまざまな援助を約束した。もし現在の政府がPRCを州立会社からサッシンの民間会社に変更していなかったならば、州政府は今ごろ総額六億ドルにも上るPRCの負債を返済する義務を負わされているところだった。それは州政府だけではなくカナダ連邦政府も連帯義務を負わされたはずである。その結果、いま目前に展開している債権者と負債者の血みどろな地獄図の中の主役になるところであった。ああ危ないことであった。おそろしい目に遭うところであった。われわれは神に感謝せねばならない。それというのもサッシンがPRC株の九〇パーセントを州政府からわずか千ドルで譲渡を受けるという利得に眼がくらんだからである。サッシンの強欲に感謝しなければならない。……
バーンズ社を告訴するというサッシンの爆弾宣言から、FNBCとバーンズ社と江坂産業と三者が共同して第三抵当権を取得するという作戦は崩れ去った。サッシンに怒ったバーンズ社がNRCに対して債務不履行を理由に、製油所の諸機械装置を差押えると言い出したからである。
上杉はホテル・クラリッジェスにサッシンを訪ねて行った。夕方で、高貴な雰囲気の漂うロビーにはターバンの徽章《きしよう》で身分の高さが示されるアラブ諸国の髭の濃い王族や部族の首長や金満家がうようよしていた。
四間つづきの豪華な部屋でサッシンはパイプを燻《くゆ》らせながら上杉と会った。彼はひどく上機嫌で、気楽な態度であった。
どうしてこんなことになったのか、これではいくらあんたが江坂アメリカに第三抵当権設定の運動をしてくれてもその実現がむつかしくなるではないか、という債権者会議でのサッシンとバーンズ社長との激しいやりとりのことを上杉はサッシンに難じた。
「そりゃァ君たちにはきびしい情勢になるだろうな」
というのがサッシンからもどってきた軽い調子の返事だった。
「サッシンさん。それでは約束がちがうよ。あんたは江坂の利益のために協力してくれるはずだったじゃないですか。あんたが癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させたばかりにバーンズ社はわれわれの共同作戦から離脱してしまった。ECGDもイギリスの銀行団も得たりとばかりに江坂に第三抵当権を認めない態度をますます固執すると思いますよ」
「たしかに。ECGDの代表の産業次官トーマス・バークレイと銀行団の代表幹事クラインオートベンソンの頭取ときた日には揃って頑固者で利己心の強い男だからな。イギリス人の典型だ」
サッシンはまるで他人《ひと》ごとのように春風|駘蕩《たいとう》として言い、瓶《ボトル》に地下蔵のクモの巣の断片がまだ粘りついていそうなスコッチを上杉にすすめた。
サッシンはパイプを措《お》いてグラスのふちを舐め、その位置から上杉の眼をのぞきこむようにした。
「正直なところを訊くけどね、ジロ。君は、江坂アメリカが第三抵当権を取れるとはじめから考えていたのかね?」
「むろんだとも」
「いやいや」
サッシンは首を振って意味ありげな微笑を泛べた。
「君は、はじめからそれを期待していなかった。君は第三抵当権の取得がいかに困難であるかを知っていたから、終始それに絶望的な気持でいた。それは君が口先で否定してもぼくがいちばんよく知っている。長いつき合いだ。君の内心が読めないぼくではない。それに、こう見えてもぼくは占星術《アストロジー》に長じているからね」
「サッシン……」
「ただね、君はその絶望のなかで奇蹟《ミラクル》の起るのを祈っていた。ECGDが第三抵当権の設定を認めてくれるかもしれないという奇蹟をね。君は江坂の役員たちには第三抵当権取得はかならず実現できると肩をそびやかして楽天的なことを言っていたが、もちろんそれは君の偽装だ。しかし、その中には、奇蹟への期待が混じりこんでいたのだ。そのために役員むきの演出にはリアリティが出ていたのだ。ちょうど俳優が役柄の感情移入から現実性が滲み出るようにね」
上杉の張った肩が地辷《じすべ》りのように落ちた。
「ジロ。気の毒だが、債権者会議でミラクルは起らなかった。こうなると、君は江坂アメリカの今後の生きる道を考えなければいけない。これは現実問題だからね。真剣に考えよう。ぼくはこう思う。江坂アメリカは、PRCのカンバイチャンス製油所にBPからの原油供給をこれからもずっとつづけなければならない」
上杉は視線をあげた。サッシンの眼はうす気味悪く光っていた。削《そ》げた頬は断崖の黒い陰翳を想わせ、その蒼い瞳は何ものをも引きずりこむ山湖に似ていた。
「江坂アメリカは当分どのような犠牲を払ってでもプラセンシア湾《ベイ》へ大型タンカーをペルシャ湾《ガルフ》から回航しつづけなければならない。それは永久ではない。当分の間だ。石油事情は遠からず好転するから、それまでの期間だ。いま、江坂が浅慮な判断で原油の供給を停止してみたまえ。PRCもNRCも倒壊するだろう。そのかわり日本の銀行は江坂アメリカへの金融を断わるか縮小するかするだろう。その江坂アメリカのパニックは本国の江坂産業にかならず波及する。まさに巨大な江坂産業としても恐慌の危機に立つわけだ。いや、ぼくがこんなことをならべるよりも君のほうがそれを知りぬいているはずだ。危機を回避する唯一の方法は製油所へ原油の供給を江坂がつづけることだね。それよりほかに江坂を救う方法はないよ。役員連中を説得してそれをやるのが君の任務だ、ジロ」
いまや「弱者の脅迫」は、ところをかえてアルバート・サッシンそのものであった。
上杉の傍に来たサッシンは、彼の腕をとりその肩の付け根のところを敲《たた》いた。
「ジロ。江坂を辞めたら、いつでもぼくのところへ相談にきてくれ。パークアベニューの飯屋《めしや》でそれを約束したはずだったね」
そこへブリグハムが部屋に入ってきた。彼はタキシードを着こんでいた。サッシンはそれを見てうなずき、上杉に言った。
「そうだ。ぼくも着更えなければならない。これからアラブの王子さまの晩餐会があるのでね。失礼するよ、ジロ。また会おう」
十一月二十一日の債権者会議では、ECGDの代表トーマス・バークレイ産業次官がNRCの先行きがきわめて悲観的であることを重ねて強調した。そうして、
「われわれは、日本側に第三抵当権の設定を認める条件として、以下の点を要求するものである」
と、用意した文書を、英国人のエリート種族がもつ癖の、そしてそれはアメリカ人から鼻もちならない|気取り《スノツブ》として指弾されている吃り調子で読み上げた。
≪(a)カンバイチャンス製油所の操業を継続することについて日本側が正当な保証をすること。
(b)そのためには江坂と日本の銀行団、石油関係の各社で企業連合《コンソーシアム》を結成し、これがNRCの経営権を取得して全責任を持つこと。
(c)そのばあい、日本の企業連合はECGDに対して経営情報を提供するとともに、ECGDの代表が経営会議にオブザーバーとして出席するのを認めること。
(d)日本の銀行団は一九七六年五月三十一日まで製油所の操業継続を保証すること。
(e)七六年三月末に期限の来るNRCのECGDに対する返済金一千万ドルの支払いを保証すること≫
上杉二郎は発言を求め、日本側にとってそのような苛酷な条件案はとうてい受諾できないと表明した。
休会となったロンドン会議が光明を得て再び開かれることのないのはあきらかであった。形式的には継続審議ということにはなったが。
篠崎が廊下を通りかかると、上杉は狭い窓辺に凝然と立って下を見つめていた。いつにない寂しげな上杉の姿だったので、篠崎は思わず、
「常務」
と、うしろから呼んだ。
「お」
ちょっとふり返った上杉のやつれた顔には、水のようなものが静止していた。
日本よりは冬のくることの早いこの地、セント・ジェームス・パークの木立には裸梢が大部分となり、堆積する色彩的《カラフル》な落葉を掃除人が掻き集めていた。
上杉二郎はその年の暮まで日本に帰ってこなかった。
3
十月二十四日、江坂アメリカ社長安田茂は江坂産業大阪本社の河井社長宛にテレックスを送り、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴが同日、NRCの三千万ドルの債務不履行を理由にカンバイチャンス製油所の競売をニューファンドランド州裁判所に提出したことを知らせてきた。
≪このニュースが流れると、江坂アメリカに対する銀行側の不安が増大してたいへんなことになる。これを防ぐためにはFNBCの債権をわが社が肩代りするほかはない。債権三千万ドルは、同行にNRCの預金が千百五十万ドルあるので、それをさし引くと千八百五十万ドルの債権になる。すなわちこの千八百五十万ドルを江坂が引きうけることである≫
安田はこのような意見具申を添えていた。
すでにこの時点で、江坂アメリカは期限が次々とくるNRCの約手を抱え、用船契約時の貸付金千五百万ドル、「前払い」名目による貸付金四千二百万ドルを含め三億ドル近い債権となっていた。
ロンドンの債権者会議が開かれる前の九月下旬までの約手は、そのほとんどが三月・五月・六月・七月・八月の支払期日の延長や再延長、再々延長のものだったが、十月に入るとそれが、もう一年先に延長されたほか、あらたに十月二日期日の駿遠銀行扱いの千八百二十万ドル(東和銀行が肩代り)、同十七日期日の住倉銀行扱いの千七百六十万ドルがあり、さらに先付け期日の約手としては十一月十一日の三丸銀行扱いの千九百二十万ドル、同月二十五日の東和銀行扱いの千百五十万ドル、同月三十日の共立銀行扱いの二千五十万ドル(三月三十一日期日のものの延長)、十二月一日の東和銀行扱いの一千万ドルがあった。いずれもニューヨーク支店扱いのロールオーバーだった。
なお、十月二日の駿遠銀行扱いの千八百二十万ドルは、支払期日が来てもNRCが落せないので、ロールオーバーを頼みたいところだが、同行とははじめての取引であるため江坂アメリカではさすがに気がさして東和銀行に頼みこんで肩代りしてもらったものである。これはニューヨークの安田からの報告によって江坂産業の財務担当常務青山晋一が東和銀行の常務を訪ね、二日前の九月三十日に懇願している。
そのような際であるから、FNBCが差押えに出た千八百五十万ドルの債権をさらに江坂アメリカが肩代りして引きうけるのは、それだけNRCにたいしての江坂の債権がふえることになって、苦痛の加重であった。河井社長は米沢副社長ともひそかに協議して、その肩代りを認める指示をニューヨークに出したが、それは差押えが実行されるわずか六時間前のことだった。六時間といえば日本とアメリカの時差ぶんだけの余裕であった。
NRCでは毎月一千万ドルから千二百万ドルの欠損をつづけていた。毎日約一億円の赤字のたれ流しであった。カンバイチャンス製油所で生産された質の低い油は、原油の価格よりも一バーレルあたり一ドルも低かった。
BPとのあいだで原油購入契約にはエスカレーション・クローズが含まれていて、その結果、カンバイチャンス製油所は世界一高い価格の原油をBPから買わされていたのだった。
そのうえ、日産十万バーレルの目標に対してわずか六万バーレルないし七万バーレルしか生産しなかったのに、七隻のVLCC(大型タンカー)が用船《チヤーター》されていた。チャーター料は前にくらべて極度に高騰していたが、その製油所ではせいぜい四隻しか必要とせず、あとの三隻も、サッシンの当初の目論見《もくろみ》に反してどこの国の製油所も再用船しなかったため、その利鞘《りざや》はおろか、大型タンカー三隻を港湾のブイにつなぎっ放しにすることによって莫大な金額を損失していた。
アメリカの石油市場は、合衆国以外で操業している製油所のものを買うことができないようになっていた。ロックフェラー系統のメジャーが市場を押えていたのである。それに、カナダの東部でもまたヨーロッパさえも石油の供給は過剰になっていた。──
このような事情は、大阪からニューヨークに飛んだ米沢副社長を委員長とする江坂産業のNRC対策委員会の四人調査団は≪よくつかめなかった≫と言い、住倉銀行も本店から調査部長の役員を同行ニューヨーク支店に派遣したが、≪現地でもほとんど得るところはなかった≫と称した。両方とも江坂産業が倒壊したあとの弁解である。十月初めの時点で、≪住倉銀行は、NRCの現状と見通しをつかもうとあせった。しかし、河井社長、泉副社長の説明も要領を得なかった。江坂産業自身、まだNRCの正確な状況がわかっていなかった≫というのも、あとで住倉銀行と江坂産業の首脳部が口裏を合せた公式な説明にちがいない。
十月二日が支払期日の駿遠銀行扱い千八百二十万ドルのNRC手形を東和銀行に肩代りしてもらった九月三十日から、江坂アメリカに対する東和銀行(戦前の外国為替専門の特殊銀行)の疑惑が起った。この伝統的な貿易関係の銀行は、NRCの状況がおかしくなったというニューヨーク市内発行の経済誌に載った小さな記事を見のがしてはいなかった。
十月七日、江坂産業の副社長泉準一郎は、住倉銀行に八田頭取を訪ねて深刻な面持で報告した。
「江坂アメリカがカナダでたいへんなこげつきをつくりまして」
「どのくらいや」
「現在の段階では、およそ三億ドル以上だす」
「なんやて、三億ドル以上? いったいどないしてそんなとほうもないことをしでかしたのや?」
「調査中でして詳しいことはまだわかりまへんが、いまわかってるぶんは、これこれだす」
「そのような不始末を起さんように、君をわざわざ江坂に送りこんだのやないか」
「申しわけありません」
「江坂の常務会はいったいどないな議論をしてたのか」
「稟議書の内容をよく確かめずに、担当常務一人以外はみんな判コを捺《お》してたのが実態だす」
八田頭取が泉をまるで江坂産業の目付役か経営の監視役のように言うのはおかしい。泉準一郎は住倉銀行の役員として停年が迫っていたので、八田が社主の江坂要造や当時の社長大橋恵治郎に頼んで、江坂の副社長にしてもらっただけであって、いわば八田が泉の人がらのよさを買って江坂に再就職させたにすぎない。
じっさい泉は江坂に入ってからはしだいに江坂化して、その経営や財政について頭取にも銀行首脳部にも報告もしなくなった。また、報告しようにも、泉は江坂では儀礼的な副社長であって、なんら中枢部分にタッチさせてもらえず、機密にわたることは何も知らされてなかった。これがカンのいい人間だったら洞察力を働かせることもできるが、えてして人がらのよさを賞讃される者にはそのセンスに欠けるところがある。
十月末、神楽坂の小さな料亭で、銀行家と企業家とが対い合っていた。銀行家と企業家との懇談は珍しくないが、そのばあい、ほとんどが銀行家が床柱を背負う。銀行の「世話になっている」企業側の招待が普通だが、いまのばあい、企業家のほうが床柱を背にさせられていた。人払いしたうえで、銀行家は言った。
「先日、泉君がきて、江坂アメリカがカナダでたいへんなこげつきをしでかしたと言うて来た」
「あれはわたしがやらせました」
「三億ドル以上にもなると言うていたが、そないになりますのか?」
「それはPRCの製油所が発足当時の貸付金四千二百万ドルを含めてのことだす。約手の額面トータルのほか、金利などが入ると、それくらいになります」
「だいたいの見当は、この六月ごろからのニューヨーク支店長からの報告で、わたしもつけていたが、もうそないな額になっとるとは知らなかったな。あんたもよう承認してきたもんですな」
銀行家は蒼白な顔になっていた。
「かねてお話ししているように、NRCのほうは上杉二郎という常務に担当させてます。江坂アメリカ社長時代からSNRのサッシン会長をよう知っていて、江坂アメリカがNRCの代理店となったのもこの男の努力でした。アメリカに行って二十年にもなるし、向うの事情はよくわかっておるので、NRCのことは上杉に任せきりにしとりました。また、任せても安心で、ずばぬけてようできる男だす。その上杉を信頼して彼の言うとおりにNRCの約手保証を社長権限で承認してきました。常務会に諮《はか》ったかて、埒《らち》のあくことやおまへんさかい。そやよってに常務会には無断だす」
「江坂アメリカの安田社長はどうだす? 現地の責任者だけにロールオーバーに次ぐロールオーバーだけに気を揉んではるですやろ?」
「そうや、なみたいていのことやおまへん。テレックスをどんどん寄越しよります。けど江坂としては、NRCの約手がロールオーバーをつづけたかて、ここで原油の供給を打ち切ることはできまへん。そないなことをしたら、約三億ドルのNRCへの債権が一文も取れなくなりますさかいに。二、三日前の電話であなたにご報告してアドバイスをいただいたように、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴのNRC債権をウチが肩代りしたのも、その差押えのことがニュースになったら、各邦銀ニューヨーク支店が江坂への金融をとめるやろし、外銀はコールを情け容赦もなく引きあげるやろし、蜂の巣をつついたようになって、すぐにそれがこっちゃの本社へ波及しますよってに」
「シカゴの銀行の肩代りの千八百五十万ドルはどこから融通しやはったんでっか?」
「江坂アメリカ社長の安田君がようやりましてな。向うの回転資金の中から工面しよりました」
「そらよかった。FNBCがNRCを差押えて製油所の油を競売に出したというニュースがひろがったら、えらいことになりますがな。こらどうしても防がななりまへん。わてもあんたの話を電話で聞いてそないに思いました」
「いろいろとNRCの件では適切なご助言をいただいて感謝しております」
「いや、それも他人事《ひとごと》やおまへんから、わたしも心配しておるのだす。おたくに万一の事態が起ったら、江坂のメインバンクの住倉銀行にも危機だすがな。それも、わたしがまるきり知らんことやったらともかく、この問題ではあんたからたびたび連絡や相談をうけたりしてますさかいな」
「申しわけありません」
「先日から話に出ているアメリカの投資銀行モルガン・スタンレーにNRC経営の実態調査を依頼する件やがな、あれは、やっぱりおたくとウチとでやらんとあきまへんな。もうNRCには遠慮しておられまへんで」
「モルガン・スタンレーに調査を依頼したとわかるとサッシンが怒る、と上杉君が言うてましたが」
「いやいや、もうそんなことをいうておられまへん。こっちはNRCの内容を確実につかんでおかんことには先行きが不安でどもなりまへんがな」
「それじゃ、ウチのほうも別途にモルガン・スタンレーに頼むことにしましょう」
「そうしなはれ。調査の結果、NRCの経営が思わしくないと分ったかて、すぐにどうするというわけでもおまへん。実態をつかんだ上での対策の立て方が大事だす」
「そのとおりやと思います」
「ロンドンの債権者会議に出てはる上杉はんの報告はどないだす? 第三抵当権は取れそうでっか?」
「この前来たテレックスでは、ニューファンドランド州政府が莫大な債権に対して保護のない江坂の立場に理解を示し、ECGDもその意見に傾いてきたので、第三抵当権は認められそうだという明るい見通しを報らせてきました」
「そら、よかった。そら、なによりだす。第三抵当権はなんとしてでも取りなはれ。それさえ成功したら、江坂の損害は僅少で喰いとめられますわ。PRCがクラウン・カンパニーでなくなったというあんたの先日の話には衝撃をうけました。そうなれば州政府もカナダ政府もNRCの負債になんの保証もしてくれへんさかい、頼みは第三抵当権だけにかかっとりますな」
「上杉には、第三抵当権がわたしの至上命令や、それが取れるまで帰国のことは考えるなと言うてロンドンに遣りました」
「そら、ええこと言やはった。それにつけても、社主の要造はんにはこの事態を報告しておますか」
「忙しい方やさかい、なかなかつかまりまへんけど、手短かにざっとは話してあります」
「で、要造はんはどない言うてはりました?」
「あの人は仙人だす。あんじょうやってくれいと言やはるだけで、ほかには何んにも意見を聞かせてくれはりしまへん。何を考えてはるのか、相変らずわれわれにはわかりまへん」
「仙人兼粋人だすな。それなのに江坂の人事権掌握には執着してはる。あんたも知ってはるように今から十一年前、大橋はんが社長のとき、江坂産業と住倉商事の合併を頼まれました。要造はんは自分の会社が住倉商事や大橋はんに奪われると思って大反対され、大橋はんの社長のクビを切ってしまわれた。あのとき合併してたら、江坂のこんどのような問題も起らんで済んだのになア。こんどの厄介は、近代化におくれた江坂の体質と、それを支える要造はんの旧い性格から来てますのやで」
「わたしも近代化には努力してきたつもりですが、なにせ人事権を持たされてない社長では、なにごともできしまへん」
「その大橋はんは、こんどの問題でどないに言うてはります?」
「あの人は批評家だす。代表権をもつ会長というよりは第三者的な立場で、いろいろ言うてはるそうだす。業務にはノータッチ、常務会にも出てきやはりまへんさかい、会長の話は人づてに耳に入るだけだす」
「あんたと大橋はんとはソリが合わんさかいになア」
「ウマが合うとは言えまへんけど、世間でいわれてるほどではおまへん」
「さよか。話は前にもどるようやけど、NRCの第三抵当権はなんとしてでも取りなはれや。それがでけへんとなると、最悪の場合、あんたのやりはったことは背任罪を構成するいうて、株主から訴えられんとも限りまへんで。すくなくともそう疑われる要素はあんたにある。あんたは、はじめから上杉はんと手をとり合ってNRCプロジェクトを推進してきやはった。その結果、これだけの不良債権をNRCにつくりはったのやからな」
「よおく、わかっております」
「先行きしだいでは、NRC関係の金の半分以上は主力銀行の住倉が負担することになるかもしれへん。次に多いのは共立銀行はんやったな。ほかの銀行はメインバンクやないさかい、みんな逃げの一手やろ。住倉に押しつけてくるのはわかり切ったる。それに、弱いことには、ウチの泉がおたくの世話になってる。泉は大橋はんの社長時代にお願いして、役員停年後の再就職のつもりで引き取ってもらったのやけど、ほかの銀行や世間ではそうは見んやろ。メインバンクから役員を派遣してるのやさかい、江坂産業そのものがおかしくなったときは、道義的にも住倉が江坂の尻ぬぐいをするのはあたりまえやと言うにきまっとる。わたしもそろそろ隠退を考えておりましたけど、まさか背任罪まがいの落度で辞めることになりそうなとは思わなんだ」
「あなたまでが、背任罪まがいとは?」
「そらそうでんがな。万々一、住倉銀行が江坂産業の負債をかぶるとすれば、その負担は一千億円以下では済まへんやろな。あんたの前やけど、わたしにはそう思えてなりまへん。もしそないなことになると、株主に大きな損失をかけたことになりますがな」
「しかし、そないには……」
「まあ、あわてんでよく聞きなはれ。わたしが言うのは最悪の事態になったときだす。いつも最悪の事態を想定しておかんことには、そのときになってうろたえますがな。よろしか、あんたは、江坂アメリカがこないえらいことになってるとは知らなんだ、最近まで江坂の役員はだれも気がつかんかった、NRCのことは上杉に全部任してあったさかいに分らなんだ、とまあ、こんなふうに世間には最後まで言い張って押し通しなはれ。役員もみんなで、そないに言うて口裏を合せるのや。そしたら、あんたは背任罪の疑いから逃れられますがな。道はそれしかおまへん」
「………」
「この前も言いましたように、ウチから調査員七人をおたくへ極秘裡に入れとります。江坂産業はんはNRCのほかに国内の商売でも、だいぶん不良材料が多いように中間報告をうけとります。いま、一千億円ぐらいをウチの銀行がかぶらなあかんかなアとわたしがいうたのは、その報告からはじき出したのだす。まだ中間報告でよう分らんけど、連中はまだおそろしいことを言うとります。そやけどな、NRCにかぎっていうと、ウチからはNRC問題を公表しまへんで。これを正直にそのまま出すと、あんたの背任罪の疑いが表むきになりますよってにな。これはどないなことがあっても匿しとかななりまへん」
「わかりました」
「けどな、PRCはクラウン・カンパニーではなくなったけど、われわれのほうは日本政府が付いてるさかい、なんとかなりますやろ。江坂産業が倒れたら、鈴木商店の比やないわ。昭和二年のときは鈴木商店に貸しこんだ台湾銀行が倒れて、史上に残る金融恐慌になった。日銀はその再現を恐れてます。江坂に融資した諸銀行を日銀が救済するには、どないなことがあっても、江坂産業を倒壊させてはならんということや。われわれのほうこそクラウン・カンパニー≠ナんがな」
4
最終的に江坂アメリカはNRCに三億三千七百万ドルのコゲつき債権をつくったが、悪いことに、これには江坂アメリカの回転資金がほとんど使われなかったため、目下の実害感がうすかったのである。手形のロールオーバーは、ただ支払期日の延長書替えだから、その期日がくるまで保証した金が動くことはない。その期日が近づけば、また五カ月先に延ばし、それがくるとさらに一年先に再延長する。書替えを重ねてゆくだけで、現金が動くことはないのである。紙の上の操作だけだった。
江坂とBPは、LC勘定により双方の取引銀行間で原油代が決済される。ところが、BPは途中から手形の期日をまたずにこれをはしから割引いて換金するようになった。BPには原油代の取りはぐれはなかったのである。
これが、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴ(FNBC)の債権を肩代りしたばあいのように、江坂アメリカが各手形の期日ごとに金の調達に銀行間を走り回れば、江坂アメリカはその苦境を大阪や東京に頻々と愬《うつた》えてくるから、本社ではそのぶんの資金をニューヨークへ送ってやらねばならず、その深刻さは直接的なものとなり、被害感は江坂アメリカと本社と一体のものとなって切実となったろう。そうなったほうが江坂としては、NRCから、それまでの債権を放棄してでも、思いきりよく早く手が引けたであろう。手形書替えという紙の上の処理が、実害感をうすめ、やがて来襲するツケの洪水に怯えながらも、決心がつかなかったのである。河井社長にはそれがあった。
しかし、数カ月先なり一年先なりに江坂アメリカが支払わなければならない手形の溜まった額はいまや約三億四千万ドルという巨大なものとなった。むろんNRCの代理店としての江坂は、NRCの約手を全面的に保証している。
それに対して江坂がNRCに持っている債権の保証となるものに何があるだろうか。用船契約時の貸金千五百万ドルに対する担保、NRCが銀行にさし出しているスタンバイ・クレジットの三百万ドルよりほかにないのだ。後者は上杉がサッシンに、九百万ドルに増額してくれと執拗に頼みつづけたのに、遂に実行されなかったものである。
一九七五年十月中旬から十一月にかけてのロンドン会議の結果、ECGDは江坂に第三抵当権を認める前提として、江坂がとうてい呑めないような苛酷な条件を出した。
江坂は、PRCをさし押えたFNBCの債権千八百五十万ドルを肩代りしてまで、NRCの危殆《きたい》が銀行関係に洩れるのを防いでいたが、それは所詮素手で崖崩れを制《と》めるようなものであった。江坂産業が最後の決断を強いられるのは、もはや時間の問題となった。
十二月十八日、江坂産業は米沢副社長名でニューファンドランド州政府首相バルチモアに書簡を送り、NRC問題の調査と処理を、アメリカの投資銀行でありその調査機関でもあるモルガン・スタンレーに依頼したことと、その中間報告が近く出るのを機会に州政府と協議したい旨を希望した。
バルチモア首相はすぐに返書を米沢副社長宛に寄越した。それには江坂産業の代表とモルガン・スタンレーの代表とをセント・ジョーンズに派遣してほしい、州政府としてもNRCの処理には重大な関心をもっているので、十分に協議する用意があると書かれてあった。
この十二月十八日の時点で、江坂産業の河井社長以下の首脳部が、州政府にこの書簡を出したのには意味があった。
──十一月中旬、住倉銀行から江坂の情報をうけた日銀では、営業局の幹部を中心に連日のように秘密会議を開き、江坂アメリカの危機が表面化してもそれが波及する経済界の混乱を最小限度におさえる対策を練っていた。
住倉銀行と共立銀行の幹部は江坂と取引関係の銀行を回って支援を要請した。江坂の首脳部も、政府と日銀関係を走りまわった。
日銀は、江坂に融資している外銀の動きに備え、主力の五銀行に一億九千万ドルの外貨を準備させた。江坂アメリカの対NRCの債権を、新設の別会社に移して凍結することも考えられた。関係各銀行がNRCの不良債権をかぶれば、危機はひとまず回避されるという見とおしからだった。日銀は江坂の問題をできるだけ軽い事件のように見せかけたかったのである。金融関係の信用維持がその眼目であった。
十二月七日の一部の新聞朝刊は、江坂がNRCとの原油取引で、カナダに六百億円のこげつきを発生させたと大きく報道した。この特ダネが紙面に出るまで、ある消息筋から江坂がおかしいとの情報を得て東京と大阪の経済部記者が動員されて江坂産業の関係者の間を回ったが、だれの口からも、江坂には時価三百億円ぐらいの古美術品のコレクションがある、という話が出るので、これはおかしい、関係者はみんな江坂コレクションをもち出して火を消そうと口裏を合せているという判断によったそうである。
その新聞の報道が、江坂アメリカ問題から江坂産業の不安に火をつける要因の一つとなった。
江坂アメリカの危殆が表面化したため、日曜日にもかかわらずその日の午後、大手町の皇居とさしむかいになっているホテルと、日本橋の日本銀行本店とで、別々の異例な記者会見が行なわれた。
江坂産業の河井社長は説明した。
≪NRCとの原油取引で、三千三百万ドル(約百億円)の代金回収が遅延している。しかしNRCはニューファンドランド州にある国策会社で、カナダ政府、州政府がバックにあり、工場の資産価値も大きいので、万一の場合にも債権未回収の心配はない。江坂アメリカの資金繰りには現在問題はないが、滞留債権が表面化したことにより、不測の事態に備えて、主力銀行五行に協調融資をお願いした≫
住倉銀行と共立銀行の両頭取は説明した。
≪江坂から具体的な資金援助の要請は、まだないが、資金需要が生じた場合には、主力五行で全面的に支援する。江坂アメリカは外銀からの借入れが多いので、外銀への心理的な影響を心配した≫
日銀営業局長は説明した。
≪現在は情勢を見まもる段階だが、関係銀行の貸出しが増える場合は、窓口規制を弾力的に運用する≫
一時の瞞着《まんちやく》である。とくに江坂側は、NRCへの債権三億三千七百万ドルをその十分の一にも達しない三千三百万ドルだと言ったり、NRCを「国策会社」と言って、未だにクラウン・カンパニーのような印象を与えるまぎらわしい用語を使ったりした。
この日、住倉銀行の一専務は、ニューヨーク支店が江坂アメリカに融資した事情と、江坂アメリカとNRC関係の実態調査のためにニューヨークに飛んだ。結果は不明に終った。
十八日、江坂アメリカはついに伝家の宝刀を抜いてNRCのスタンバイ・クレジットの三百万ドルを現金化した。上杉がサッシンに、こればかりは手をつけないから九百万ドルに増やしてくれと要請しつづけたそれである。だが、三億三千七百万ドルの債権で、担保として江坂アメリカが取得していたのは、用船契約の貸付金千五百万ドルの抵当のほかは、この三百万ドルだけであった。
NRCのスタンバイ・クレジットを現金化したことは、江坂がNRCと完全に絶縁したことを意味する。江坂はNRCの第三抵当権を完全に断念したのである。
十九日、江坂アメリカはNRC不良債権を分離して日本からの直接融資に切り替えるための別会社エサカ・アトランティック・コマーシャル・カンパニー(EACC)をデラウェア州に設立した。三億三千九百万ドルの損金の各銀行負担比率は、住倉三八パーセント、共立三二パーセント、東和一五パーセント、三丸一〇パーセント、三池五パーセントに決定した。
この日以後、プラセンシア湾に入港した大型タンカーの原油が製油所に陸揚げされることはなかった。
江坂産業が副社長名でニューファンドランド州政府首相にNRCの破産宣告申請を示唆する書簡を送ったのは、その十八日だったのである。
住倉銀行の首脳部が、江坂産業と宇美幸商事との合併を考えはじめたのは、七日の記者会見のあとあたりではないかと推測されている。
その年の暮から、翌昭和五十一年の春にかけて、住倉銀行の工作による江坂産業と宇美幸商事との「合併問題」をめぐるさまざまなエピソードが伝えられた。
十二月二十六日ごろ、総合商社の宇美幸商事の財務担当副社長は、昭和五十年の九月中間決算で自社が約五十六億円の赤字を出したことの処理問題をメインバンクの住倉銀行に説明に行ったところ、不意に副頭取から江坂産業との合併を打診された。宇美幸商事にとっては寝耳に水の話であった。二十九日、ひとまず経営再建には協力する旨を宇美幸は住倉銀行に連絡した。
十二月三十一日、住倉銀行の頭取と共立銀行の頭取とが宇美幸商事の社長と会い、江坂産業との合併を正式に要請した。
翌昭和五十一年一月八日、正月休みも返上して検討に検討を重ねた上で、宇美幸側は、合併は将来条件がととのえばという含みで、とりあえずは業務提携という方針を決定し、十日にその旨を返事した。そうして二日後の十二日には、「合併に発展することも予測される」という字句を入れた宇美幸商事と江坂産業との「業務提携」が発表された。
二月十一日、旧臘《きゆうろう》に交わしたニューファンドランド州首相と江坂産業副社長との書簡に沿って、会議がセント・ジョーンズの州政庁で行なわれた。
州側の記録は次のようになっている。
会議には、江坂産業とモルガン・スタンレーの代表ならびに州政府の代表が出席した。
日本側とモルガン・スタンレーの代表は、現在の状態ではカンバイチャンスの製油所の財政が好転する可能性は絶無だと述べた。とくに日本側は、原油の供給のためにこれ以上の資金を調達しないし、製油所の操業に関して今後いっさい金を注ぎこまないことを宣言した。
そのうえ、日本側はもはや第三抵当権になんの興味も抱いておらず、たとえ第三抵当権が得られたとしても、これ以上金を出すことはないと明言した。
日本側は、また州政府に対して、こう述べた。すなわち、唯一の可能で適切な処置は、製油所の財産管理を行ない、それによって工場を平和裡に閉鎖し、すべての担保所有債権者および無担保債権者を平等に保護しなければならない。そのためにはできるだけ速かに製油所の新しい買い手をさがすことである、と。
州政府は、別な調査によって、NRCが四千九百万ドル、PRCが千五百万ドル、合計して六千四百万ドルもの金をサッシン氏の別の会社に融資していることを明らかにした。この六千四百万ドルの金が、石油精製とはまったく無関係なサッシン氏の他の会社に融資された疑いについては、これまでサッシン氏側から何の説明も行なわれていない、そして、これらの金がNRCおよびPRCに返済される可能性はいまのところまったくない、と述べた。
このような結論から、この日本側と州政府との債権者会議は、モルガン・スタンレー側の助言を含めて、十三日にニューヨークでNRCの拡大債権者会議を開くことに決定した。
十三日のニューヨーク会議では、NRCに対しニューファンドランド州の最高裁に破産申請することを最終的に決定した。管財人には、カナダ最大の公認会計士クリムソン会計事務所を推薦した。
宇美幸商事と江坂産業とが住倉銀行の仲介で「業務提携」に調印したのは、日本時間で、その翌日の二月十四日のことであった。
江坂産業の放漫経営はNRC問題がきっかけとなって、国内商売だけでも、厖大な負債を抱えていることが暴露され、自主再建はとうてい不可能とわかった。この時点での住倉銀行の推測では、江坂の負債を八百億円と見たが、調査がすすむにつれて、それが数千億円にもふくれあがった。銀行側の最終的な見込みでは、江坂と関連企業の負債総額は一兆七千億円にもなった。商権・資産などを処分しても、不良債権は四千億円を下るまいと推計された。国内各銀行に農協関係まで入れて江坂が融資を受けた金融機関は二百二十三にも上っていた。
石橋を叩いても渡らぬという伝統的な堅実な社風に印象づけられてきた特徴ある総合商社、地球のように絶対に崩壊することはないと信じられた江坂産業が事実上倒産に追いこまれた。だれもが眼を疑わないわけにはゆかなかった。
主力銀行の住倉が、江坂と宇美幸との業務提携を第一段階として合併にむかって急いだのも、江坂を倒産させると直接連鎖倒産が国内一六二社、海外六二社、失業二万人、間接連鎖倒産の数にいたっては予想もつかないという日本経済ぜんたいの危殆を、政府・日銀の支援を得て救う目的にあったことに嘘はあるまい。しかし、住倉銀行からすると単独に江坂産業に貸しつけた七百億円があり、この不良債権が合併によって引き継ぎされることによって、多少の目減りはあっても、それがたちまち優良債権となって生きかえる魔術のような利得があった。合併をめざす八田頭取や副頭取たちの異常な熱心さはそこからもきていた。
その年、四月中旬のことである。
江坂産業の海外業務部第一部米州課長矢野梧一は、ニューファンドランド州の最高裁で行なわれるNRCの破産申請の裁判の成行きに関してNRCの管財人クリムソン会計事務所と打合わせのためセント・ジョーンズへ赴いた。彼はNRC対策委員会のメンバーとして江坂アメリカに去年の九月から出向していた。
乗換えのモントリオールから一時間でノヴァ・スコシア州のハリファックス空港に着いた。それからは大西洋上を一直線に東北へ飛びつづけたが、あと二十分で着陸というときに、機長は、濃霧のためにセント・ジョーンズには降りられないので、ガンダー空港に変更するとアナウンスした。窓は灰色の漆喰《しつくい》で塗り潰されたようになっていた。その窓に雨滴の線が奔る。ガンダーはセント・ジョーンズから西北三百キロにある小都市だった。方向が北に変ると、陽が射しはじめ、青空の一部が開いてきた。下降するにつれて霧が窓の外を急速に流れて行った。
矢野がガンダー空港からタクシーでトランス・カナディアン・ハイウェイに乗ったのが二時半ごろであった。すぐに町なみをはなれ、ハイウェイの両側に白樺をまじえた針葉樹の森林地帯がつづいた。南側の樹の間に、面積四百平方キロのテルラ・ノーヴァ国立公園の入口という標識が立っていて、肥った黒クマ、壮麗な角をもつムース大鹿、敏捷な兎など野生動物の棲む深い森は、その奥を暗瞑《あんめい》にしていた。
幅広いハイウェイでは、ときたま自家用車やトラックに出遇うていどだった。人家は一軒もなく、歩いている人の姿はなかった。半分霧にかくれた森林は涯《はて》しなくつづいた。ところどころにそうした森に囲まれる湖沼や川があり、霧の底から水が光っていた。灰色の空にしきりと霧が動いているのはやがて霽《は》れてくる前触れであった。小雨がまだ残っていて、森は濡れていた。遅い春がくると、このニューファンドランド島の沖合を流れる暖流が、停滞している寒冷な空気と衝突して濃霧を発生させるのである。
二時間ぐらい走ったろうか、あきらかに両側に海洋が迫っていると知れる地峡を通った。地図を見ると、三角形のこの島の東に小さな半島がぶらさがっていて、その端っこにセント・ジョーンズが存在していた。通過した地峡にあった町の名がサニー・サイドであることもわかった。
カンバイチャンスはたしかこのあたりと見当をつけた矢野が、長い橋のような地峡を渡り終って半島に入ったところで運転手に訊くと、口髭のいかめしい運転手は、リファイニング・プラントと呟いて顎をしゃくった。速力を落し、右側の森の上を探るように運転手は見い見いしていたが、とうとう一地点で車を停めた。
おりから霧はうすれ、一方から明るくなってきていた。森林の上にミナレットのような高塔が無数にひろがって空に聳えているのを霧の紗《しや》で矢野は見たとき、蜃気楼《しんきろう》を望見したように眼を擦《こす》った。天地ただ森林の中に、これはシャングリ・ラ(J・ヒルトンの「失われた地平線」に出てくるチベット山中の幻の都市)の再現かと思われた。
が、現実にはそこへ誘《いざな》う歓迎門があった。門は木の板を組み、それに五彩の紙が貼られていた。それは雨にうたれ陽に晒《さら》されて色|褪《あ》せ、よごれきっていた。それに片方は道の入口に倒れていた。曾て挙げられた開所式の祝典につくられたものにちがいなかった。
タクシーは森の中の、ゆるやかな坂の枝道に入った。舗装はしてなく、赤土の石ころ道であった。二百メートルもすすむと、にわかに森林が左右に大きく展き、製油所の全貌が出現した。息が止まりそうなくらい壮大な光景だった。さまざまな工場施設が連結し合い呼応し合ってそそり立っている。精油技術をまるきり知らぬ矢野は、寄り合う艦隊の司令塔にも似た大小の塔の群がどのような名称のものであり、いかなる機能をもつのか、また、その間を結んで張り回らされたパイプの何重もの列を油の輸送管とは推察をつけたものの、それがどのような連絡の用をなしていたものか、すべて見当もつかなかった。あるものは燻《くす》んだ銀色に鈍く光り、あるものは赤味がかり、あるいは黄色に、またあるものは鉄の生地そのままに黒かった。真白な貯油タンクが円形家屋のようにならんでいた。色彩はそのように微妙に豊かであったが、ぜんたいの上には、もう荒廃の地塗りの色が蔽いかぶさっていた。
広大な工場の横には舗装された道路が通じていたが、舗装にはすでに亀裂が入っていた。道と工場の境は金網の垣根《フエンス》でさえぎられ、有刺鉄線も張られてあった。人の姿はひとりとしてみえず、操業を絶った工場は機械の音もなく、森の一部のように静まり返っていた。密林の奥深く進んだ探検隊が、突如として行く手に先住民族の遺した都城や大伽藍《だいがらん》を発見したときの想いが想像できるほどであった。
道の尽きた先は海であった。海の色は、どんよりと曇った暗鬱な空を映して黒ずんでいた。島と岬とが入りまじり、それは瀬戸内海の風景にも似ていたが、岬は海に落ちこんだ岩山の断崖であった。ああ、これがかねてから名前だけ知っていたプラセンシア湾であるのか、と矢野は言いようのない感慨に襲われた。
破産申請によってNRCの帳簿はすべて管財人の手に押えられ、江坂アメリカ関係のものは管財人から|写し《コピー》が送られてきていた。対策委員会の矢野はそれを精読していた。もっとも東京本社のNRC対策委員会がどれほどの熱意を持っていたかは疑問で、見るべき成果は何もなかった。米沢副社長以下の委員たちは車を連ねて皇居前のホテルに乗りこみ、借り切った一室で皆が雑談しながら酒を飲むだけだったという噂も東京からニューヨークに伝わっていた。
いま、矢野の脳裡には中東の石油を運搬してくる大型タンカーの名が連なっていた。記録にあるものだ。一九七三年十一月五日・栄光商船の朝日丸がプラセンシア湾に入港してカンバイチャンス製油所に陸揚げ完了。七四年三月十七日・船積みの朝日丸がプラセンシア湾に入港。以後、栄光商船のVLCCが次々と入港してプラセンシア湾はこれらの大型タンカーで溢れる。四月二十四日・ユーロポリス号がプラセンシア湾に入港。六月八日・第十一次栄光丸がプラセンシア湾に入港。十一月二十日・第六次バーバラ・T・サッシン号がプラセンシア湾に入港……。
漁船の姿も見えぬプラセンシア湾に面した製油所の長い桟橋には陸揚げした油の輸送パイプ施設もなければ、雪洞《ぼんぼり》のようにならんでいた照明灯もすべてとり払われていた。あるのは裸の埠頭であり、その半壊の残骸であった。
ふり返ると製油所の大構築は、この湾頭をさらに圧している。矢野は、この建造物についてサッシンが開所式で演説した劇的《ドラマチツク》な数字を聞いていない。わかっているのは時価六億ドルもの評価額がやがてただの「遺跡」の語り草になろうとしていることだけだった。すでに銀の包《パオ》にも見紛う大小多数の貯油タンクには紅殻《ベンガラ》色の腐蝕が匍《は》い上がっていた。
ゴースト・タウンに対してゴースト・プラントという言葉がこれには言えそうであった。この巨人群の死体のような工場のどこかに熱分解装置があるはずだ。技術屋に見せたら教えてくれるだろうが、素人の矢野にはかいもく分らぬ。あれかこれかと眼を移したが、どれも同じように見えた。とにかく、この光景の中に、この製油所を≪悲惨に陥れた≫とサッシンが称する問題の装置があることはたしかであった。製油所の≪悲惨≫は江坂アメリカの悲惨であり、江坂産業のそれであった。そう思うと矢野は名状しがたい情感に打たれた。
製油所の施設を「遊休」状態にしておくならば少量でも絶えず毎日ガソリンなどを水にまぜて流し、操業の状況にしておかなければならぬ。だが、それには技術者や労働者が必要だし、たいそう費用がかかる。その金を出してくれるところがない。目下、この製油所の引き取り手がないからである。世界の市場では石油の供給が過剰気味だし、このニューファンドランド島はあまりに北にかたよりすぎていて立地条件が不利だった。それにカナダ国法と州法とが環境公害の規制に厳しすぎて操業が自由でない。引き取り手のない理由をそのように挙げる者が多かった。
矢野は動くものもなく声のない道をひとりであともどりした。|現在がある《ヽヽヽヽヽ》のは、向うの道で彼の戻りを待っているタクシーと運転手だけであった。この製油所はやがて夥《おびただ》しいスクラップとなる運命だろうが、その取り壊しの費用だけで百万ドルでもまだ足りないとなると鉄屑にもできないのである。
どうしてこんなことになったのか。NRCの調査書類を見たが、三億三千七百万ドルもの負債についての使途がまだ完全につかめないのである。サッシンのSNRグループはNRCを含めて数十社あり、これらがニューヨークのパークアベニューに面した同じビルにたてこもっている。それぞれの社名は立派だが、電話一本、女子社員一人といういわゆるペーパー・カンパニー(幽霊会社)ばかりだ。実体のある唯一の操業・販売会社はPRC=NRCだけである。貸付金と油の販売収入の流れを追っても、SNR傘下会社の相互間で何重にも融資がくり返され、非常にこみ入った様相を呈している。たとえば現在のSNRブラウン社は前のNRCベッカー社、現在のNRCベッカー社は前のSNRブラウン社といったぐあいだ。似通った社名変更はことさらに取引相手を混乱させることを狙ったようである。サッシンが高給の弁護士・計理士を数人も傭って複雑に複雑にとしくんだあとがある。金の流れの行先がサッシンに届くまで見きわめるのは至難のわざであった。モルガン・スタンレーの調査もまだそこまでは達してなく、それにはまだ長い日数と莫大な調査費が要求されよう。なおそれでも明瞭になるという期待はもてないのである。
アルバート・サッシンは世にも稀な詐欺師なのか。それとも華麗な夢を追う偉大な冒険家なのか。オイルショックさえなかったら、ニューファンドランド島の新しい土地にも、ノヴァ・スコシア州にも、ラブラドールにも、マレー半島にも、インドネシアにも、彼の計画通りに製油所が建設されたかもしれない。そうなれば江坂もこういう悲惨なことにはならなかったろう。
では、上杉二郎は何なのか。天才サッシンに手玉にとられたピエロだったのか。それともサッシンと裏で通じ合って最初から数億ドルの金をとりこむ計画の共同謀議者だったのか。矢野は上杉二郎をよく知らない。上杉の社内に置かれた疎外的な立場から、後者のように推測する人がある。また上杉の手腕と人格を信じる彼に近い者は前者の見方で、不運であったという。あるいは、長らく江坂に忠実に働いていたが、途中から気が変ってサッシンと組んだのかもしれないと、折衷論的に観測する人もある。人間はだれでも機会さえあればそうなるというのである。
しかし、サッシンもこれで一応は挫折したと見られている。もはや魔術師サッシンのシルクハットからは兎も白鳩も飛び出さない、という人が多い。しかし、サッシンは、こっちの邪推が実は正しいとしたら、江坂から吸い上げただけでも、貸付金を含めて少なくとも三億三千万ドル以上の金を握りこんでいる。この金がある限り、彼はなおも帽子からさまざまな華麗な品物をとり出して観客をおどろかせることができるかもしれない。
確実なのは、いま眼の前の製油所が森林の中で廃墟となっていることである。もはや、この製油所の真赤な炎が空に噴出して天を焦がすことはない。漁師もそれを見ることはない。
矢野はここを去るにあたって、歩いては立ちどまり、立ちどまっては振りむいた。運転手がドアを開いて待っていたが、すぐ車に乗る気も起らなかった。黄色いハウスがならんでいた。Dept. No. 1 から NO. 5 まであるので従業員とその家族のためのスーパーストアのあとだとわかった。防柵には「管財人の許可なくして構内に入るを禁ず」と標示板があったが、それも斜めに傾いていた。
工場で掘ったらしい小さな水路があった。傍に雑草が茂って、日本の野菊に似た白い、小さな花が咲いていた。矢野はそれを摘みとった。彼には植物の知識がない。帰国してから、押し花にしたこれを植物に詳しい人に見せて名を教えてもらうつもりだった。これは廃墟の記念である。そうしていずれはこれらの廃墟もとり壊されるだろうから、そうなると遺跡地の記念となろう。
だが、廃墟はこのカンバイチャンスの製油所だけであろうか、と矢野は思いあたって慄然とした。江坂産業も廃墟になろう。そうなろうとは、去年の暮まで江坂のだれが信じたろうか。江坂産業もいまに宇美幸商事に合併され、大阪と東京にその遺跡地を残すだけとなろう。してみると、手に持ったこの小さな名の知れぬ花は、江坂の遺跡の記念でもあるのだ。
タクシーに乗るとき、矢野はもういちど海を見た。大型タンカーの幻は消えて、そこにクイーンエリザベス二世号が横づけされていた。音楽と騒がしい歓声と拍手とが聞えそうである。世界一の豪華客船は忌わしい記録につきまとわれている。タイタニック号が大西洋に沈んだときも、その直前までだれもこの巨船が海中に突込むとは信じなかった。船客らは手を敲《たた》いた。給仕《ウエーター》、氷山と衝突したのだったら、その氷を掻いてきてオンザロックをつくってくれ。──
矢野は運転手に、ハイウェイに出るまではゆっくり行ってくれと命じた。せまい道の両側の針葉樹の葉は小雨と霧で天鵞絨《ビロード》の糸のように濡れ、白樺が白絹のように光っていた。鴉《からす》の群のように鴎《かもめ》が上を舞っていた。そこには、どんよりと曇った魚の胃袋のような太陽があった。
森林地帯を長く走って、矢野がセント・ジョーンズ市に入ったのは六時ごろであった。エリザベス・アベニューの傍に「ケンマウント・モーテル」とあるのを見つけてタクシーを降りた。こぎれいだと思ったが、裏の中庭を隔てて建っている厩舎《きゆうしや》のような棟割り部屋に通された。ドアを開けるとすぐに部屋で、まるで地面にベッドを置いているようだった。窓といえば天井近くに細長い換気窓があるだけで、鳶口《とびぐち》のようなのを手でもって開閉しなければならなかった。しかし、製油所の大伽藍のような廃墟を見たあとの気持にはしっくりだった。
食堂は前の建物にある。中庭の広場にはモーテルに入った男女の車がならんでいた。肥った女に鱈《たら》のフライとサラダを注文したあと、矢野がテーブルに頬杖を突いていると、正面の壁にかかった百号くらいの油絵が眼に入った。ニューファンドランド島の岩山の岬とおぼしき風景を遠景に荒海には帆船が浮び、ボートには中世の服装をした人物二人が立ち、首領らしい一人は岸のかたをさして指揮し、一人はその命令を聞いている体《てい》である。まわりのボートには幅広のリボンを巻いたヴァイキングの水夫たちが分乗している。あきらかにこの島を発見してイギリス領を宣したジョン・カボット(一四九七年)を描いているようだった。だが、その画を眺めているうちに、矢野には中央の指揮者がフェニキアの海賊の首領に思われ、それがレバノン人アルバート・サッシンに次第に見えてきた。
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前年の十二月七日、江坂産業の河井社長、住倉銀行の頭取と共立銀行の頭取、それに日銀営業局長らが記者会見で、NRCの滞留債権の表面化で江坂産業に不測の事態が起るかもしれないが、そのときは五つの取引銀行が協調融資をする、という白々しい説明をおこなってから一週間ぐらい経ってのある日のことだった。
江坂産業の大橋会長が、社主江坂要造を伴って住倉銀行に八田頭取を訪ねてきた。これは八田のほうから来訪を呼びかけたのである。
住倉銀行の首脳部としては、すでに心ひそかに宇美幸商事と江坂産業との合併をもくろんでいた。寝耳に水の宇美幸は一足とびに合併話には乗るまいが、その前提となる「業務提携」にはなんとか応じるだろう。主力銀行から強く頼まれたら、むげには断われないはずだという観測が住倉側にはあった。過去には住倉が宇美幸の危急の際に面倒をみて救ったことがあり、それには宇美幸でもいまだに感謝を表わしている。また、宇美幸首脳部の気持を忖度《そんたく》すれば、ここでその主力銀行の要請を拒絶すると、あとで宇美幸に難儀がかかってくると推測して、応じないわけにはいかないのではないか。「恩威ならび持つ」主力銀行の迫力であった。
八田頭取としては、宇美幸に合併の打診というよりも依頼をする前に、江坂側の諒承をとっておかねばならない。
ほんらいは河井社長と話合いしなければならないのだが、河井は近ごろ混乱していて、住倉銀行がこっそり江坂に入れた七人の調査員の質問にもまともに答えることができず、訊かれる数字も頭に入ってないくらい混乱状態だという。河井はもはや社長としての能力を失い、社内の権威も落ちているという調査グループからの報告だった。
そういう河井とはあとでも話ができる。そこで八田は江坂の社主と会長とに会って宇美幸商事との合併について両人の諒解を求めることにした。諒解というよりも、それは要求であった。
江坂産業は、なんといっても社主の要造の独裁である。十一年前に八田は江坂産業と住倉商事との合併を当時の大橋社長とのあいだに進め、それが決定間際になってから要造の反対で一夜でひっくりかえった。大橋は要造の激怒から会長にしりぞけられた。それを大橋に伝えたのが当時専務の河井だった。代表権のある会長にするということでやっと大橋をなだめたが、それいらい大橋は抵抗して業務にはまったくタッチしなくなっていた。
だが、こういう事態になっては、社主と会長と話すのが筋でもあり、また社主の要造の承諾がなければ、河井社長にいくら話しても河井には返答ができない。
八田が江坂要造社主と大橋恵治郎会長とに来訪を求めたのはそういう事情からだった。
江坂産業の会長が社主を伴ってきたという言い方が似つかわしいように、住倉銀行頭取応接室に坐った要造は、大橋の隣に遠慮がちに背をまるめてうつむいていた。大橋のほうは胸を張り、顔にも活力がみなぎっていた。
八田が要造を見るのは、何年かぶりであった。この人はやはり年を取ったな、と思った。もとから髪はうすいほうだったが、頭の地肌がだいぶんあらわれていた。皺もふえている。ずりさがった眼鏡も老人くさかった。が、その表情にあまり感情はあらわれていなかった。これだけは以前と同じであった。社主には、会長といっしょになぜ主力銀行の頭取に呼び出しをうけたかがよくわかっているはずだった。
「わたしのほうからおうかがいせななりまへんのに、お呼びだてして恐縮です。わたしがおたくのほうにおうかがいしますと、こういう際で新聞記者の眼につくと、またとんでもない臆測記事を書かれますよってに、失礼とは存じながら、こっそりとお招き申し上げました」
八田は、時候の挨拶抜きにまず非礼を詫びた。形式的な感じはまぬがれない。この応接室には秘書に命じて役員も近づけさせないようにしていた。茶を出した女子社員も匆々に姿を消した。
「さっそくですが、おたくはえらいことになってますな。こんどわたしは初めて知らされて、仰天してるしだいです」
本筋に入る前の言葉だった。
八田は、要造を見て言ったのだが、要造はうつむいたまま黙っている。畳に正座しているように椅子に行儀よくかけ、両手を膝の上に組んで、身じろぎもしなかった。
大橋がそれに代って答えたが、声はふしぎに明るかった。
「社がこないな状態になっているとは、わたしもまったく知りまへんだした。わたしも社長を辞めて会長になってからは、長いこと業務をはなれとりますさかい、ぜんぜん気がつきまへんだした。わたしのとこには、ろくに報告も来よらんさかいに。まあ、わたしが居ったら、こないな不始末はおまへんけど」
大橋の生気のある顔も、明るい声も、その言葉で理由が解けたと八田は思った。大橋はこのような危機を招いた河井武則の社長としての無能を攻撃しているのである。前々から両人の間は悪かった。河井は反大橋の先頭に立っていた。その河井が責任をとらされて社長を退くのは必至だ。大橋は内心それを痛快に思っているようである。
その上、大橋は自分が社長で居たらこういう不始末はしでかさなかったと揚言している。そこに彼の自己顕示が出ていた。たしかに大橋が社長だったら、江坂産業もこんな破局を迎えることにはならなかったろう。それは八田も認めていい。十一年前に江坂を住倉商事に合併して総合商社としての近代化を図りたいと八田に相談し、賛成した八田もそれに積極的に協力したものである。たとえその合併計画に、社主の独裁とファミリー派の跋扈《ばつこ》を絶滅させて、大橋自身が合併会社で指導者になろうという野望が含まれていたとしてもだ。大橋は商売人として目さきの見えるほうであった。先代社主徳右衛門に仕込まれただけのことはあった。それに彼は要造としばしば衝突した。彼以後、江坂にはそういう社長はいないのである。
「あのとき、あんたとぼくとで考えたように、住倉商事と合併してたら、今回のようなことにはならなんだのになア」
八田は述懐した。
「ほんまだす。あのときそれができていましたらな」
大橋は眼を輝かし、力強く言った。
それをぶちこわしたのは、そこに坐ってはる人やと、八田は要造を見て思わず腹立たしげに言いかけたが、さすがにそこまでは口に出せず、
「いまから思うと、かえすがえすも残念や」
という言葉に代えた。が、やるせない、忿懣の語調は残った。要造はやはり沈黙していた。
「残念といえば、わたしが社長をひいたあとの幹部の出来がようおまへんだした。役員はだらけた者ばかりだした。それを上から統率する人間もおまへなんだ」
大橋は顔色に艶を乗せ、またしゃべり出した。
「わたしが社長のときには、下部から上がってくる稟議書にはみんなこまかい点まで眼を通してました。そのうえで常務会に臨む。そこで常務たちに徹底して議論してもらいました。黙ってる常務には、その担当でなくても、わたしが名指しして質問しました。事業をやるには大けな金が動くよってに、ええ加減に判コは捺せまへん。丈夫な堤も蟻の一穴からといいます。各常務に検討に検討を重ねさせて、これはあかんと思うものは断乎としてその稟議書をボツにする。そこには上下の情実を入れさせまへん。そないなことをしたら会社がだんだんこけてきますがな。そのかわりええ事業計画はそれを積極的に推進させました。また、時代に合うように、新しいプランを出させ、練り上げたうえで、わたしがゴーのサインを出しました。こないなことを考えたさかいに、研究してみてくれとわたしから役員たちや幹部社員らに言うて、新計画をつくらせ、練りあげたうえ、実行したこともおます。口はばったいことを言うようですけど、みんなあんじょうゆきました。わたしの社長時代に江坂産業は発展したと人さまは言うてくれはります。それはみんなが心を合せてやったからだす。社の発展にはそういう強い指導性の発揮が必要だす。それなのに、わたしが会長で退いたあとの社長や常務の様子を遠くで眺めてると、みんな江坂の屋台骨に凭りかかって、ええ気分にひたりおった。……」
「大橋君」
八田頭取は語気鋭く遮った。
「は?」
「君は、何を言いにここに来られたのや?」
「………」
「君には、わたしがあんたがたを呼んだ意図がはっきりとわかってるはずや。それなのに、君からそないなピントのはずれた過去の自慢話を聞こうとは思わなんだ」
大橋が、はっとして上体を動かした。要造は前の姿勢のままで黙りつづけていた。
「わたしの言いすぎだったらご容赦願う」
八田も気がついて、軽くあやまった。
「それというのも江坂産業がどうにもならんとこへきとるからだす。銀行の一方的な判断と取られては困るけど、ざっくばらんに言って、江坂産業の自主再建は不可能やと思うております。これを見てください。わたしのところの調査員がおたくに入らせてもらってあらゆる帳簿を見せてもらい、その上ではじき出した赤字の数字だす。おたくの関連会社が二百社以上、その全体の負債額は一兆円を越えとります」
八田は極秘の朱印を捺した調査報告書のコピー綴りをテーブルの上に置いた。が、その八田の指も心なしかふるえていた。大橋はそれに視線を投げたが、要造は眼を伏せていた。
「これは、一応の試算だす。あとで正確に調査すると、この負債額はもっとふくれますやろ。これにはわたしの銀行でおたくに融資した七百億円も含まれとります。別会社に棚上げしたNRC関係の約八千万ドル、約二百四十億円の不良債権のかぶりぶんは別だす。それとも大橋はん、これでも江坂産業の自主再建に自信がおありですやろか?」
「とても」
大橋がはじめて太い息を吐き、首を振った。さきほどあらわに見えていた彼の活力も精気もたちまち消えていた。
「江坂産業をつぶすことはできまへん。日本経済の大混乱になります。金融恐慌はぜひとも避けななりまへん。鈴木商店倒産でおこった金融パニックのようなことはどないにしても防がななりまへん。いまの時代にそないなことがあると、日本に革命が起きますがな。よろしか。これは江坂産業だけを救うことやおまへん。日本経済を救い、革命を防ぐことだす」
八田はひと息入れて言った。
「ずばり申します。江坂産業を銀行の扱いに任せてもらいたいのだす」
合併とは一語も言わなかった。しかし、それは要造にも大橋にもわかっていることだった。合併先の商社にはまだ見当がつかないにしても。
大橋は隣の要造のうつむいた顔をのぞきこむようにした。二人の眼が合った。言いようのない瞬間であった。このように深刻で重大な意味をもつ視線の交換も世に滅多にあるまいと、正面から見ていた銀行の頭取は思った。
「すべて銀行にお任せします」
代表権をもつ会長が頭を深くさげた。はじめて泪《なみだ》を出していた。
八田はうなずき、すこし顔を動かして要造に眼を据えた。
「江坂はん。会長はお聞きのような返事をしやはりました。あなたはどないだす?」
いままで沈黙をつづけ、うつむいていた要造が、はじめて顔をあげた。
「銀行にはご迷惑をおかけしました。みんなわたしに責任がおます」
低かったが、語尾もはっきりしていた。当然のことだと思ったが、要造から正面切ってそう言われると、八田は感動をおぼえないわけにはゆかなかった。
「江坂産業を、銀行にお任せすることに、異存はおまへん」
いままで座禅でも組んだように椅子に坐っていた要造が立って、両手をテーブルに置き、額をすりつけた。
要造がいつまでもそうしているので、頭取のほうがあわてて中腰になった。
「ま、ま。どうぞ。そのお手を」
この人は、いま、当代稀有の名品コレクションといわれる古美術品の一切を喪失したのだ。長い歳月をかけて集めた、生命にも替えがたいものを瞬時に失って、どんな想いでいるだろうかと、頭取のほうがふと感傷的になってその顔を見た。そうして、足もとをさらわれたような気持になった。
要造の表情がすこしも変ってないだけでなく、口もとにうすら笑いさえ浮んでいた。それはけっして自嘲の嗤《わら》いではなかった。こういう言い方は大きな間違いかもしれないと八田は思ったのだが、それはいうなれば、してやったり、とでもいえる悪戯っぽい、ニタリとした笑みであった。
要造さんはほんとうは江坂産業を潰してもかまわなかったのだ、あの人は汗と膏《あぶら》できずいた先代の死後、しぜんと手に入った江坂産業を子供の玩具のように長いことかかって分解し、壊してゆくのを愉しんでいたのではないか、と主力銀行の頭取は両人が辞去したあとも、不可解なことを考えつづけていた。しかし、もしそうだとしたら、江坂要造のその虚無的なものが、どこからきているのかはわからなかった。
あとで、巨額な行内留保金を吐き出さねばならない立場となった八田頭取のほうに錯乱の風聞が伝わった。
昭和五十一年の夏ごろ、東京の青山南町の、すこし地面の低い通りの家に移ってきた年寄りの夫婦者がいた。
この辺は、十年ぐらい前までは屋敷町だったが、近ごろのことで、レストラン、洋装店、バア、喫茶店、服飾品店などといった派手な店が、昔電車通りだった表通りから押しよせてくるようになった。それでもまだ大きな旧い家が多い。夫婦が入ったのはそのなかでもわりと小さなほうだったが、二人暮しにはまだ広すぎた。奥床しげな門には、これだけは新しい木の「梶井寓」の標札があった。家政婦が隔日に通ってきていた。
男は七十近い小柄な老人で、前屈みの姿で歩く。卵形の顔は、毎日家の中でばかり暮しているように白かった。眼鏡の下にあるまるい眼は神経質で臆病そうだった。散歩などの外出には鳥打帽をいくらかまぶかにかぶった。
女のほうは、五十歳前後にみえた。化粧気がなく、その瘠《や》せた顔は皮膚が浅黒かった。すらりとした姿勢で、じぶんよりは低い主人のあとからひかえめにしたがっていた。背をまるめて歩く主人の背中をたえず気づかっているふうだった。主人の年齢に合せて身支度も地味だった。
ときおり、その家の前を通りかかる者は奥から伝わってくるピアノの音を聞いた。音楽に耳馴れた者は、足をとめて標札を見上げ、めずらしそうに門の中をのぞいた。クラシックのその弾きかたが、素人の稽古とは思えなかった。だが、それはすぐにやんだ。立ちどまっていた者は、首をかしげて通りすぎる。近所の人たちははじめのうち、ピアノの先生が越してきたと思っていた。が、べつに弟子たちが出入りする様子もなかった。
江坂要造が赤坂氷川町からこの家に移ってからは、客はほとんどなかった。江坂産業の役員たちも脚が遠のき、追従しにしきりと出入りしていた中堅社員もぷっつりと来なくなった。
骨董屋も、新聞に出ている江坂産業と宇美幸商事の合併話と、江坂労組の合併反対運動の記事に遠慮してか、電話もかけてこなくなった。それに、要造が所蔵している骨董が彼の意志で売りに出される気遣いはなかった。所蔵品は全部住倉銀行の所有に移っていた。あとは、銀行がいつそれを売立てに出すかということと、評価額とが話題となっていた。新聞や雑誌の観測は、五億円と伝え、二百億円と書いて、まちまちだった。
音楽関係の団体も気がねして定期的な寄附をとりにくることもなかった。要造が援助し、または援助した音楽家たちも現れなくなった。二人だけの家の中は森閑としていた。
「静かになりましたなア」
梶井ムラは思わずよく口に出した。家の中を家畜のようにたえずうろうろしていた三太夫の瀬川も辞めて行った。この家は借家であった。
要造は無口で、ムラが話しかけても相変らず反応がなかった。話題がないのではなく、ありすぎた。が、すべて過去のことに属していた。要造が言い出さないかぎり、ムラのほうからは触れられなかった。要造は思いついたようにピアノを弾く。彼女は黙って聴き入りながら、その背中に団扇《うちわ》の風を送る。要造は冷房を嫌った。
大橋恵治郎が十日に一度くらいの割で電話をかけてきた。そのとき要造は見違えるように元気に話す。長いつきあいの友だちと声の交驩《こうかん》をしているみたいだった。二人は腐れ縁の夫婦仲にも似ていた。
河井武則はもちろん来なかった。米沢孝夫も、江坂家の家族行事にまで顔を出していた鍋井善治も、みんな訪れることがなかった。報告することもなく、また利得もないのであろう。江坂産業と宇美幸商事との合併問題は、江坂の役員には無関係なところで進行していた。社長も住倉銀行系の企業からきていた。
秋に入ると、どうして住所を知ったのか、労組発行のガリ版刷りが郵便でくるようになった。〈合併絶対反対〉〈一人でも首きりを許すな〉〈団結して勝利を戦い取ろう〉などといった大文字が頭に踊っていた。十一月に入ると、それが〈住倉銀行の陰謀〉〈銀行団の陰謀を粉砕せよ〉〈銀行と通じた前社主・前社長・役員一同は私財を吐き出し、土下座してあやまれ〉〈江坂産業を傾けたファミリー派のゴマすり犯罪を追及せよ〉などに変った。〈自主再建は可能。組合が主導権を取ろう〉というのもあった。
新聞には、江坂本社をとりまく労組員の波が写真で出ていた。住倉銀行本店前にも赤旗が押しよせていた。ホワイト・カラーの闘争と、めずらしげに大きな活字があった。
この家にも電話がかかり、社主は居るか、と昂奮した声で訊かれ、ムラを恐怖させた。
しかし、十二月ごろになると、新聞は労組の軟化を報じ、ストは打てず、条件闘争に変ったと伝えた。見切りをつけて江坂を自ら辞めてゆく社員が多くなったとも報道した。
青山界隈に骨董店の集まっている処がある。要造は梶井ムラを連れて散歩のときはそれらの店の前に立った。中には入らず、外の陳列窓をのぞくのである。古い陶磁器があった。中にいる店主も店員も客も、鼻さきに笑みをうかべて店さきにたたずむ鳥打帽の身体の小さな老人が何者であるかを知らぬ。
歩き出したとき、うしろでムラが小さな声をあげた。
「なんや?」
要造はふりかえった。
後方を見返っていたムラが寄ってきた。
「さっき道の向う側を通りすぎはった男のひとが上杉はんによう似てはりました。上杉はんとちがいますやろか?」
小さな声でいった。
「上杉がこっちゃに居るわけはない。アメリカやがな」
「そうでっか」
二人はまた歩き出した。
「上杉はんがアメリカにしげしげと行かはるいうて、あのころは、ご機嫌がえろう悪うおましたなア」
ムラが小さな笑いをまじえて言った。
「ふん。いまは、向うの黄色い髪のおなごはんらが、上杉がアメリカから日本に行くのに機嫌悪うしてますがな」
要造は平和な顔だった。散歩に出ても行先は狭かった。料亭にも縁はない。ムラは仕合せそうだった。
高樹町には、ある財閥の遺した美術館があった。東洋の古美術蒐集が主体だった。ある日、そこの集りで古陶磁器に詳しい美術評論家が講演していた。朝鮮と中国の古陶磁器についてで、スライドを見せていた。江坂コレクションが話の中心であった。
「……以上、お話し申上げましたように、江坂コレクションは美事なものばかりが揃っております。いったいにお金持の蒐集には平凡なものが多く、ひどいのになりますと、骨董屋が入れた偽物が大部分だったという例もございますが、江坂コレクションは名品揃いであります。これらをお蒐めになった江坂要造さんはよほど鑑賞眼の高いお方だと思われます。聞くところによると、江坂さんは古陶磁器の目利きの手ほどきを蒼竜洞の先代社長宗田素耳斎さんからお受けになったそうでございます。素耳斎さんというお方は、少年のころから京都の骨董屋さんに丁稚《でつち》として働いておられました。眼に一丁字《いつていじ》のなかった人ですが、目利きは天才的でした。蒼竜洞を創業すると、シナに渡って向うの古陶磁器を買いまくられたそうです。シナの市場にはそういう偽物がたいへん多うございまして、よほど鑑定に経験を積んだ者でもだまされるのですが、素耳斎さんにはけっしてそういうことはなかった。ある人が、どうしたら真贋が見分けられるのか、あるいは逸品ばかりを択ばれるのか、その方法を教えてくださいと言ったら、素耳斎さんは、それは心眼だ、心眼だから教えることはできないと答えられたそうです。たいていの人は、それは品ものをよく見ることだ、経験を積むことだ、と答えるところですが、素耳斎さんは、そんな型通りのことは言わなかったのです。その薫陶をうけられた江坂さんはさすがです。これはもう、お金持ちの趣味とか道楽というものではない。古陶磁器にたいして卓越した鑑賞眼、選択眼をもったお方であります。江坂さんも、素耳斎さん同様に、心眼を持っておられるお方だと思います。心眼、これは何ものをも見透す霊力のようなものでありまして、平凡な人にはないものであります。したがいまして、江坂要造さんは人間の心理をも、あらゆる事業をも見抜くことにもつながるようなおそるべき洞察力、透察力の発達した天才であります」
マイクに乗った講演者のその声は、壮麗な殷・周の青銅器をならべた二階の陳列場まで聞えた。
発表誌 『文藝春秋』一九七八年一月〜八月号連載
単行本 一九七八年文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年十二月二十五日刊