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松本清張
日本の黒い霧(下)
目 次
征服者とダイヤモンド
帝銀事件の謎
鹿地亘事件
推理・松川事件
追放とレッド・パージ
謀略朝鮮戦争
なぜ『日本の黒い霧』を書いたか
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[#1字下げ] 征服者とダイヤモンド
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残暑のきびしい昭和二十年九月三十日午後三時すぎのことである。大蔵次官山際正道氏に、GHQのESS(経済科学局)キャップ、クレーマー大佐から電話がかかって来た。用件というのは、今夜八時ごろ日本銀行へ監察に行くというのである。
ところで、ただの銀行監察というのに、クレーマー大佐は、物々しく装甲車に兵士を乗せ、約三十数名を一グループとして、日銀を取り巻いたのであった。
この日は日曜日だし、夜のことである。宿直のメンバーがいるだけだから、危険なことは何もなさそうなのに、大佐はこの僅かな当直者を集めて、その一人ひとりに厳重な身体検査を行なった上、帰宅せよと命令した。あとはたったひとりの保安要員を残したのみである。つまり、高電圧の技手一名だけが、あの広い日銀にぽつんとひとりで残った。
しかし、日銀の首脳部は、逆に全員集合を厳命された。このときのメンバーは、総裁渋沢敬三、副総裁新木栄吉、理事相田岩夫(のち日販社長)、柳田誠二郎(のち日本航空社長)などの各氏で、一体、この突然の命令は何事であろう、と心配顔で集まり、別館一室に待機していた。
日本銀行の三井側や東銀側には武装車が停車し、物々しく着剣した連中が、日銀の入口全部を固めて、内に入らせないのである。
昭和二十年九月といえば、進駐軍が駐留して間もない頃で、何をされても日本側は文句の云えない時であった。武装の兵士が日銀を包囲したのだから、一体、これからどうなることかと、総裁や理事たちの不安は一通りではなかった。
この報を聞いて、大蔵省の山際次官も心配してやって来たが、クレーマー大佐は護衛兵を連れて、日銀側役員を立ち会わせたうえで、いよいよ、夜の日銀内部の監察に取りかかったのである。
一体、監察といえば抜き打ちにやるのが当然だが、それにしても、装甲車を出動させ、着剣の護衛兵を連れて夜間に乗り込んで来たのは、占領直後とはいえ、甚しく異常だった。
クレーマー大佐のこの突然の行動の真意は、何であったろうか。
通訳がひとり付き添い、役員の案内で、クレーマー大佐は日銀の内部を順々に巡視して行くつもりだった。
しかるに、日銀内の各室は鍵がそれぞれ違っている。それらの数多い鍵は守衛室の鉄庫に一括して収めてあるが、その肝腎の鉄庫を開くべき鍵をもった宿直員が、先方の命令で帰ってしまったから、どうしても各室を開けることができない。役員の一人がそのことを云うと、大佐はいらいらしはじめた。恐らく、彼は連れて来た兵隊によって鉄庫の扉を破壊したいくらいであったであろう。鍵が無くてはどうにもならない。
クレーマー大佐が突然の監察を日曜日の夜に選んだのは、意味が無いではなかった。彼はこの地下室の大金庫を開け、存分にその「中身」を監察したかったのである。鍵の問題に考え到らなかったのは、大佐の不覚であった。大佐の内心は怒り狂った。
ところが、このとき、大佐の頭に一つのヒントが泛んだ。それは、鍵は、自分が必要なときはいつでも開けられるように、米軍内にも置かなければならないことだった。
このことは、のちに、米軍によってそのような措置が取られた。その副産物の一つがのちのサンフランシスコ事件であり、カリフォルニヤ事件である。いずれも日本のダイヤの大量持ち出しであった。(後述)
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さて、いずれにしても、鍵が無くてはどうにも仕方がない。この夜の査察は明らかに、クレーマー大佐の失敗であった。だが、大佐は、それでへこたれなかった。日曜日が駄目なら、月曜日がある。即ち、翌十月一日には朝から監察をやる、と彼はきびしい顔で日銀側役員に宣言して一旦帰った。
実は、クレーマー大佐の狙いは、地下室の金庫だけなのであった。だが、そのことズバリを云ってはいかにもまずい。大佐の「監察」はその見せかけであった。翌日は十月一日で、朝から晴れ上ったいい天気だった。
何も知らない一般行員は、日曜日の休みで元気を回復して出勤して来た。ところが、わが銀行の前に来ると、その入口は悉く扉が下り、着剣した米兵が立哨していて、中に入るのを遮った。こうして、未曾有の中央銀行の一日封鎖が断行された。
「九時ごろになって、私を先頭に、出席行員、女子事務員、雇員、合せて約二千人、舗道に四列縦隊で整列させられたが、延々として本館に沿うて左折し、銀行集会所の前ぐらいまで、文字通り長蛇の列を作った。そして、私が総裁室に入ると、すぐ、その入口の両側に二人の番兵がやはり鉄兜、着剣で張番をして、便所に行くときは、その内の一人が銃を肩にして付いて来た。交換手はもちろん一人も入行していないから、電話は外からかかって来ないし、一般行員も居ないので、しばらくは手持無沙汰であった」
と、渋沢敬三氏は当時のことを書いている。
行内に行けたのは、限られた役付きの者だけであった。数百という鍵を使い分けながら、中島という行員の通訳で、渋沢総裁自ら先導して、一室一室の監察を受けたのである。
ところで、このときの検査は厳重を極めたが、クレーマー大佐は、なぜか急《あせ》っていた。バカ叮嚀なくらい説明しながら案内しても、クレーマー大佐の機嫌は直らなかった。彼は、ときどき、呶鳴り散らしていた。ところが、地下室に来て、大金庫四個を見たとき、大佐は、はじめて目的地に着いた安堵をその顔面にあらわしたのである。その微笑が何を意味するかは、当時案内していた人びとは誰も気が付かなかった。
かくて、金庫の扉は開けられ、役員は遠ざけられ、クレーマー大佐によって金庫の中は精密なる監査が行なわれたのである。
これについて渋沢氏は次のように書いている。
「後からだんだんと落着いて考えてみると、クレーマー大佐の査察は日銀本体ももちろん大きな目的の一つだったが、特に資金統合銀行を閉鎖し、その後の作為を防ぐのを目指してもいたようである。統銀は終戦寸前、二十年五月資本金五千万円半額払込で設立、各種金融機関の統合資金の軍需面への運営とその共同運用によるインフレ抑制を目的とした銀行で、日銀の別働隊でもあった。
僅か三カ月の活動だったが、当時としては相当多額の資金を軍需関係に供給したに違いないが、同時にユーナイテッド・ファンド・バンクと訳されていたことも、どえらい銀行が日銀内にあって大組織を作り、ことによると金塊等も別に保存しているように思ったらしかった。だから前もって何等かの作為をさせぬため、不意打に臨検、行員を退去せしめ、ありのままを調べんとしたのだが、その時の調べ方や注意の向け方からそんな想像を抱いた人もいた。ゆえに、結局のところ僅かな帳面しかなかったことは先方としてはむしろ意外であったらしい」
だが、果してそうだったろうか。
クレーマー大佐の考えていた、このユーナイテッド・ファンド・バンクの意味は、日銀側が考えたよりも実はもっと深いところにあった。それは後述するが、とにかく、一国の中央銀行が一日休業したということは滅多にない例である。それで、このような査察の作業が終了したのは午後四時半頃で、それから全行員の入行が許された。女子事務員はすでに早く帰宅させられていたが、一般行員は帰ろうともせず、常盤橋公園ほか二、三カ所に分れて、成行きを心配顔に待機していたのであった。
このクレーマー大佐査察のあと、接収貴金属を管理していたマレー大佐の事件が起った。マレー大佐は本国に召還され、軍事裁判にかけられて、十年の判決を受けた。その裁判内容は、詳細には日本側に報らされていない。だが、その犯罪容疑は、日本から多数のダイヤを持ち出したというところにあった。どれだけの数量をマレー大佐が持ち出したかは、正確には不明だが、伝えられるところによると、十万カラットともいう。また別に後述するヤング大佐事件も起っている。
ダイヤ鑑定人松井英一氏は書いている。
「それからしばらくして、今度は横浜の軍事裁判にかけられることになったのです。いろいろな人が喚問を受けて毎日通ったわけです。最初呼ばれたのは、交易営団の雑貨部長をしておった福田さんです。福田さんの証言によると、交易営団から米軍に供出ダイヤモンドを渡すときに、今まで袋に入れて整理してあったものを、魔法びん九つに入れて渡したというのです。ところが、私たちが日本銀行で最初に見たときには、魔法びんからは一つも出ていない、ハトロン封筒から出てきたのです。
ですから、これはわれわれの想像では、目方をかけてしまったらどうすることもできないので、マレー大佐が盗んだとしたら、交易営団から米軍に渡した魔法びんからハトロン封筒に移すときに、あるいはそのときほかの連中も少しは盗んだのではないかとも想像しますが、そのときになくなったものに違いないと思われるのです。事実、交易営団の数量とわれわれが目方をはかった数量との間にはだいぶ差があるらしいのです。どれだけ差があるかということはわれわれにはわからないのですが、若しダイヤが盗まれたということになれば、チャンスはそのときしかないと思われます。ともかく、とうとう軍事裁判まで行ったわけです。
どうしてマレー大佐が宝石を着服したということがわかったのか。それは大佐が、いよいよ日本銀行の仕事を終えて米国で上陸するとき大佐を調べたところ、ダイヤモンドが出てきたからです。もうそのときにいろんな調書が全部まわっていたわけです。先回、夏休暇に帰って持っていたダイヤモンドを細君にやったり、お金にかえるために出したりした、そういうことが全部わかってからのはなしです。現場はこうだというのでつきつめられた。しかし、大佐ではあるし、非常に勲功のある人ですから、惜しいというので、最後になって非常に問題になって解決が長引いたと聞いています」
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昭和三十一年五月十九日に、東京都渋谷区神泉九に住む青木斌氏(六一)という人が、大阪市北区衣笠町二大阪回生病院において死亡したことがあった。病名は急性肺炎となっている。
同氏は、終戦後に隠退蔵物資等処理委員会委員長代理世耕弘一氏と共にダイヤ摘発に協力した人である。ところが、死亡前に大阪の近畿大学から「百万円を青木から恐喝された」と大阪府警に告訴されたため、三十一年五月十四日に、青木氏は在宅中逮捕され、大阪に連行されて留置されていたのであった。十六日になって青木氏は発病したので、留置していた警察署では、近くの回生病院に入れた。これだけでは普通の事件で、ただ恐喝被疑者が留置中に病死したというだけのことである。この青木氏の死亡については今でもダイヤに絡るいろいろな噂がある。当時の新聞に妻の美代さんの談話として次のような記事がある。
「わたしはどうも腑に落ちないのですよ。主人は、近畿大学(学長世耕弘一氏)のことで十回近く大阪に行ったのですが、その際、お礼として一回一万円ぐらいをわたしは貰っていました。だから、百万円の恐喝というのは、そのお礼と大阪での旅館代だと思います。その証拠に、大分前に告訴状が出ていたそうですが、真相が掴めないので、警察でも延び延びになり、今度逮捕されても結論が出なかったのではないでしょうか。それよりも、主人の死因について次の点から不審があると思います。病院の人の話によると、十六日、医者から急性肺炎と診断されたのに、入院したのは十八日なのです。なぜ、十六日に入院させなかったのでしょうか。次に、わたしが佐藤公証人を通じて大阪に電話して、荷物は何を持って行ったらよいか、と連絡を取ったのに、先方では、来なくてもいい、という返事でした。折角、切符も買っていたのに無駄になったのですが、どうして病気なのに来てくれと云わなかったのでしょう。お陰で死に目にも会わなかった。死体はまだわたしが行ったとき温かだったが、肩と腰に蒼黒い斑点があり、どんな原因かはっきりしなかった。わたしは不審な点を医者に訊きたかったので、担当医者に面会を申し込んだが、会ってくれず、女医の方が、お気の毒です、と云っただけです。主人が十六日に発病したとき、注射を打ってもらったそうですが、その後、数分経って動けなくなり、痛みを訴えたことを、隣の留置場で見ていた人があります。死因がどこにあったか、納得のいかないことが多いのです。しかも、主人は、検挙される前日、ダイヤモンドに関する報奨金の書類を作ったばかりで、今度の国会に提出しようとした矢先なので、奇怪な気持がします。今度のダイヤ問題についても、主人が国のためと思い、命を賭けてやったことです」
これは新聞記事からの引用だが、これには、美代さんは、近く、青木氏の生前の友人と連絡して真相究明に乗り出すことになった、と伝え、一方、青木氏の死亡とダイヤをめぐる怪奇な情報については、参議院議員大倉精一氏(決算委)などにも連絡されたので、次期国会で真相追及がなされることになっている、と報じている。
大阪地検別所主任検事の話では、
「青木は十四日に逮捕したが、四日目に肺炎を起したから、一時釈放して、大阪回生病院に入院させたが、死亡した。青木を逮捕したのは、近畿大学に対する暴力恐喝事件に関してだが、検察庁としては、ダイヤ事件及び中古エンジン事件に関係あるとは知っていたが、調べたのは先の恐喝に関してだけだ」
なお、回生病院の話として、
「青木という人が、十六日に、気分が悪いと云って来たので、入院させたところ、急性肺炎で死んだ。警察のことは知らぬ」
とある。
市井の一個人の死と、クレーマー大佐による日銀の突然の監察とは、実は間接的なつながりがあるのである。
では、この二つの点は、どこでつながり、どのような線になっているのか。
さらにもう一つの点をつけ加えてみよう。これは、ずっと下って昭和三十四年九月のことだが、米国空路勤務の日本人スチュワーデスが宝石を密輸して発見された事件がある。場所はサンフランシスコ空港で、彼女の旅行鞄の中から、二重底に隠されていた時価五万ドル相当の小粒ダイヤ約四千粒が発見された。これはすぐにFBI(米連邦検察局)の本部に報告されてフーバー長官は宝石事件専任の調査官を東京に派遣した。それまで、米国でダイヤの密輸が増加して、一流宝石商や、その機関である国際ダイヤモンド商協会(IDDA)は正規な取引が妨げられ、ダイヤの値段も変動しかねないので、その原因についてしきりに調査中であった。ところが、それぞれの入って来る宝石の出所を追及すると、どうやら東京方面からの密輸らしいと判ったのである。折から、このスチュワーデスの密輸が発覚したので、早速、調査官の東京派遣となった。この事件は、調査官の東京における活動でその取引ルートが主としていわゆる東京租界と云われる地帯を舞台に行なわれていたことが判った。
これらの三つのばらばらの出来事が、これから述べる線の中にどのような点となっているか、書き進めてみたい。
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日銀地下金庫には、現在(昭和三十五年)十六万一千二百八十三カラットのダイヤがある。問題は、以前から実際その量だけあったものか、あるいは残された部分がそれだけなのかという疑問である。このダイヤの主体は戦時中に国民の供出した物が中心で(それにはダイヤだけでなくほかの貴金属も含まれていた)正式には「接収貴金属」と呼ばれている。
「接収貴金属処理法」が成立して、昭和三十五年五月現在、接収貴金属処理審議会(会長東谷伝次郎前会計検査院長)が大蔵省を主管庁として開かれ、間もなく日銀ダイヤも日の目を見ることになり、これをめぐって世界のダイヤ商人の暗躍がはじまっているということは、週刊誌などに書かれていることである。
そもそも、戦時中、国民からダイヤを買い上げるという狙いは、終戦前、戦争が苛烈になって、軍需省から工業ダイヤの必要を迫られたからである。政府は昭和十九年七月二十二日、一九機第二三五一号という軍需次官名による通達でこれを立法化した。別名「ダイヤモンド買い上げ実施に関する件」ともいう。(但書にはダイヤモンド以外のものも希望があれば一緒に買い取ることが明示されている)
あとの問題に引っかかるので、一応、一九機第二三五一号の要旨なるものをざっと記すと、次の通りになる。
@ 軍需省でも、昭和十九年八月十五日から十一月十四日までの三カ月間に、ダイヤモンドを買い上げることになった。これは、全国的に一般家庭、業者から即金で買い上げるもので、その業務は、交易営団が政府の命を受けてこれを行なう。このダイヤは航空機や電波兵器の生産に必要なものである。
A 買い上げは、東京、大阪、京都、神奈川、愛知、兵庫、福岡の七大都府県庁指定の百貨店を買い上げ代行店として指名する。このほかの道府県では、中央物資活用協会が巡回して買い上げる。東京では日本橋三越、銀座松屋、上野松坂屋、神奈川県では伊勢佐木町松屋で、それぞれ即時鑑定即時払いとする。
B 指輪、帯どめ、髪飾り品等のダイヤ入り装飾品、ダイヤ以外でも、希望があれば一緒に買い取る。
C 買い上げ価格、三カラット、三千三百円、二カラット、二千七百円、一カラット、二千円。
D 三十分の一、五十分の一の小カラット物も買い上げ、粉末にしてレンズ磨きやダイスの穴削りに使用するから、極小ダイヤでもかまわないから供出のこと。(『朝日新聞』)
このような軍需次官通達を記憶しない人びとでも、当時、とにかく戦争に勝たねばならぬ、勝つことがすべてだ、という政府の言い分を信じて、自分手持ちのダイヤや貴金属を献納したり供出したことを思い出すに違いない。そして実際、負けないために、という政府の掛け声に対して、なかには、買い上げ金も要らない、と云って供出する人たちもあったくらいである。そして、その地域は、法令の示す通り、内地はもちろん樺太、北海道、朝鮮、台湾、満州、関東州、そのほかの地域に亙っていたし、その供出には行列までしたのであった。このような国民の熱心な供出によって、軍需省が最初に予定していた期間三カ月は四カ月となり、昭和十九年十二月十五日までも受付はつづいた。
そして、この締切の最終日、十二月十五日の翌日、当時の軍需次官竹内可吉氏は国民に感謝の談話さえ発表し、その中で「ダイヤモンドは目標の九倍、白金は二倍という大成果が上った」と述べているのである。
ところで、問題なのは、一体、その目標額は幾らであったかということだ。これは当時発表されなかったし、また、当時は軍需品生産に軍機という便利な名目があったから、数量を発表しなくても不自然ではなかった。
しかし、すぐに日本が敗戦したため、接収ダイヤはそのまま各所に眠った。そして、前記のように、接収貴金属処理審議会が設置されたのは、そのことから実に十五年を経た昭和三十五年である。集められた大量のダイヤが十五年目に日の目を見ようとしているわけだ。
一体、この法案がはじめて国会に提出されたのは昭和二十八年で、この時はお流れとなり、さらに三十一年に再提出された。この時もまた法案は通過せず、継続審議のまま持ち越した。三十二年三月に、衆議院大蔵委員会が大蔵当局と協議した結果、ともかく、この法案の審議をはじめなくてはならないということになり、大蔵委員会で法案取り上げ方を決めた。そして、個々の問題点については、その審議の経過で取り上げ検討するということにして、ここにやっと、問題の日銀貴金属に審議の手が打たれることになったのである。
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この時の評価額は、政府・民間を含めて七百三十億円であった。試みに、その内訳を云うと、金百二トン、四百十六億円、銀二千百十四トン、二百二十四億円、白金一トン、十四億円、ダイヤ十六万一千カラット、七十二億円、そのほか二億円などで、七百三十億円という数字になる。
これを政府、公共機関、民間などに分けると、国(旧陸海軍から貴金属を引き継いだ厚生、大蔵省及び造幣局を含むもの、金額三百五十九億円)、日銀(三百七億円)交易営団などの戦時中の回収機関(百十六億円)、民間(四十三億円)という具合になっている。
ところが、この当時の政府、国会関係者や担当筋などでは、この法律の実施面にはいろいろの問題がある、と云い出した。それは、ざっと次のような点からである。
@ 米占領軍は、この貴金属の管理中に、その大部分の貴金属を熔解、または混合し、或る一部を米本国に持ち帰って売却しているので、旧所有者を判定することはなかなか困難な問題である。
A 政府の意図は、国に所属する貴金属及びダイヤは、これを売却し、一たん貴金属特別会計に繰入れ、その後使途を検討するという狙いであるが、社会保障とか戦争犠牲者の援護費用にするとかの意見もあって、調整を要すること。
B 戦後、米軍によって接収された民間分の四十三億円は、これを詳細に調査したうえ、概ね旧所有者に返還するが、戦時中、民間から回収された貴金属及びダイヤは、これら機関がまだ政府に貴金属を引き渡さないうちに占領軍に接収され、|関係書類も戦災で焼失《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》してしまったため、前者と同一に取扱うことが困難と見られる。
問題は、この第三である。つまり、国民から取り上げたダイヤや貴金属は、まだ買い上げ機関が政府に現物を引き渡さないうちに占領軍に接収され、その関係書類も戦災で焼失してしまったという言い分だ。だから、これを要するに、現物は占領軍に持ってゆかれ、その書類も焼いて無いのだから、何も無いという結果になる。ここに疑問が生れる。果して関係書類は本当に焼けて無いのであろうか。
このことについて一つの参考資料がある。それは、当時の隠退蔵物資等処理委員会の副委員長であった世耕弘一氏の手記である。世耕氏は云う。
「供出ダイヤの数量は、現在まで明確に発表されていないのは残念である。国会での、当時の担当係官公吏の証言では、十六万カラットそこそこだと云っている。そして、現在、日本銀行の地下室の金庫にある、十六万一千カラットのダイヤモンドは、それを実証していると云っている。ところで、私はこの数字には承服出来ない。私が内務政務次官として、内務省にいた時分隠退蔵物資を摘発した時の参考資料に基いて調査しても、六十五万カラット位なければならない勘定である。
当時の担当者の言い分によると、それほど巨額に上るダイヤモンド資金は、交易営団になかったから買い上げる筈がない、との反対論である。又、一面、日本人はそれほどダイヤを持っていないとの議論である。私には、この反対論に正面から反駁出来る資料と理由がある。それはまず第一に、現に朝日新聞の記事の通り、政府や、専門家の予想以上に、全く予定供出量の九倍に上っていることである。初めは二億円位の見込みであった。もう一つは、三カ月の供出予定期間を、さらに一カ月繰延べたことである。
尚、さらに重要な根拠は、最初十五億円出し、さらに三億円追加して十八億円以上支出したことである。そこで、この支出金額によって割出しても六十万カラット以上なければならぬ勘定になるのである。
ところで、反対論者は、世界のダイヤモンド産出量から見ても、それは嘘言だと云うのである。一応、この主張には考えさせられるのであるが、私が調査したところによると、日本の代表的宝石商の専門家の意見を聞いても、私の見解は正当だと云われるのである。
即ち、日本の代表的宝石商四軒だけでも、現在までに数十万カラット位輸入していると云うのである。もちろん密輸を含む。私は日本にダイヤモンドが意外に多いと云う立証をあらゆる観点から出来るが、ここでは省略する」(『特集文藝春秋』31・2)
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さて、この日銀のダイヤが、当初、どの程度の数量であったかということになると、いろいろな見方があり、数量を算定するむきもあるが、いちばん正確に近いやり方は、次のような方法ではあるまいか。
つまり、当時、関係機関がどの程度の金額でこの供出したものを買い入れたか、という点である。この金額から他の貴金属の経費を差し引いたのちの金額を買上げ基準価格の平均価で割れば、正確なカラット数字が生れるわけなのである。ただ、果してこの方法が可能かどうかということで、この方法が成立するためには、買上げ統計金額に掛値やごまかしがなく、正直な数字が提示されていなければならぬ。しかし、残念なことには、ここでも意図された策略の抜け穴としか思えない事柄に直面するのである。
というのは、当時、この買上げに関係した人物である軍需省軍需官の私市《きさいち》信夫氏の行政監察委員会での証言中、ダイヤ買上げ基金の問題の項での発言によると、「この買上げについては特に予算措置を講じなかった」と述べている。また、買上げ機関の一つである交易営団では、その清算人である黒瀬勘一という人物が、「買上げ金は正金銀行からの借入金であった」と云っている点である。また、他の買上げ機関である中央物資活用協会では、軍需省の斡旋を受けて、「銀行金融団から借入金を受けて処理した」というのである。
この証言は、書類紛失や現物不完全保管で本来なら一応厳重に調査してしかるべき筈のところ、数億円とも数千万円ともいう交付金という名目の政府補償をするらしい最近の動きの根拠ともなっている。政府側では、交易営団は終戦時に政府の代理として保管していたダイヤ十五万カラット、中央物資活用協会の方は保管していた一万六千カラット分を補償交付金としているらしい。
その問題はいまいろいろ疑惑を内包しているが、一応措いて、ここに数字が見える。つまり、前記の両方を合わせて十六万六千カラットは、政府発表の十六万一千カラット(日銀保管分)に近くなるので、間違いはないというのだ。だが、これは数字だけを合わせた手品のにおいが強い。かえって右の発表は「十六万一千カラットの証明」として作られた跡が濃いのである。逆に云えば、紛失した書類でどうして正確に十六万一千カラットの数字が書類上で作り出せるのかといいたくなる。
話を戻して、ダイヤの総額を算定する方法としては、ひとまず、以下のような方法がある。即ち、はじめの軍需次官通達の予定による三カ月間の買上げ経費十五億という数字である。そして、一カ月延期ということで追加された経費の三億円がある。すなわち、両方で十八億円という数字が貴金属買上げに使われた資金なのである。ところが、軍需次官通達に明記された貴金属買上げ基準価格を平均すると、六カラット、八千円、つまり一カラット、千三百三十三円強ということになる。計算しやすいように千三百円として、端数を切り捨ててみて、前記の十八億円を割ってみると、そこには、いやでも正確な当時のダイヤ数量が現れようという次第なのだ。さて、この計算でいくと幾らになるだろうか。
実に百三十八万四千六百十五カラットという日銀分の十倍に近い数字がいやでも出てくる。
しかし、これは全部ダイヤとみた場合だから、白金の分や他の貴金属を除いて、当時の資料で計算すると、その約半分、六十二万カラットという数字になる。これが一つの見方だが、さらにそのことを類推するものを、あとでいろいろと触れてみたい。
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昭和二十一年五月以降、米軍機関では、接収ダイヤの内から、次のように各国に連合国物資ということで返還を行なっている。果して実際に渡したかどうか分らないが、とにかく、返還されたという記録はある。それによると、オランダ、英国、フランス、フィリッピン、中国など合わせて十二万七千四十八カラットという数字で、前記の十六万カラットの現存しているものを加えてみると、二十八万七千カラットということになる。
また、あとで述べるが、方々に散ったダイヤが日銀に集められ、昭和二十一年五月頃に、交易営団当時、鑑定人が再鑑定の立場で米軍の委嘱を受けたときに、ダイヤは二十六、七万カラットあったという話とほぼ近い数字とも云える。
いずれにしても、数量は前記の一兆円以上あることは考えられるのだが、それよりさらに数倍、十兆円説も出ているくらいである。
いろいろ数字を並べたが、要するに「十六万一千カラットのダイヤの当初からの数字が疑う余地のないくらい正確である」という見方は、およそ事実を歪めた形跡が見えるのである。
日銀の金庫に当初から十六万一千カラットがあったという根拠の薄弱さは、次のことでも分る。ダイヤを持ち出したマレー大佐の軍事裁判の詳細は日本側に知らされていないが、同大佐は十万カラットものダイヤをくすねたといわれている。この数量の当否はともかくとして、多数のダイヤが持ち出されていたことは、同大佐が軍事裁判によって十年の重刑に処せられたことでも分る。
さらに別に、ヤング大佐事件がある。カーネル・ヤングはESS(経済科学局)に部属し、日銀金庫管理のキャップであった。彼は本国帰還を命ぜられたが、サンフランシスコに着いた途端に、八百万ドル(その後の三百六十円レートではない)に上るダイヤの現物を発見されて逮捕された。これも、同大佐は軍用機で帰ったのだから、この密輸が発見される訳は普通はないのだが、G2関係機関の謀略的通報によったものらしい。今日では、この事件については詳しいことは発表されていないし、その筋ではタブーになっているようだ。いずれにせよ、マレー大佐の十万カラットといい、ヤング大佐の八百万ドルといい、相当な量が日銀金庫か他の管理機関から流れていることは事実である。しかも、日銀の保存貴金属の保管警備には、第八軍アイケルバーガー中将直轄の第一騎兵師団から、常時、一個小隊が派遣されたのである。そして、その四つの金庫の中には、ダイヤのみならず金、白金《プラチナ》、銀などが現在発表されている数量の以前のままの数量で格納されていたのであった。そして、この管理のキャップがクレーマー大佐であり、ヤング大佐である。
持ち出しが暴露しただけでもこれだけの数量である。分らないままに持ち出された数量にいたってはどれぐらいあるか分らない。即ち、クレーマー大佐が見込みをつけて急襲査察をしたユーナイテッド・ファンド・バンクの実力は予想どおりだったのである。そして、クレーマー大佐汚職のあとを襲ってESSの局長となったのがマーカットである。
そして、彼も亦その遺産を受継いだらしいことは、今日でも「マーカット資産」の名が国会の質問に出るくらいである。このことはあとで触れたい。
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さて、世耕氏はつづけていっている。
「そこで、日本銀行にある現在の十六万一千カラットのダイヤは、戦時中から日銀にあったのでなく、隠退蔵摘発で私があちこち追い廻しているうちに、最後に日本銀行の地下室に逃げ込んだ、と思っていただけば前後の事情が早分りされると思う。その証拠には、充分鑑定され選別されて、立派な袋に入れられて保管されたダイヤが、その後、大小混合し、しかも砂まで混入されている有様からも、ダイヤがあちこち歩き廻ったことが分ろう」
実際は、戦時中に日銀にあったものに、ほかのものが加わったとみるのが至当ではあるまいか。だから、いよいよその本来の数字は分らなくなる。これを裏書きするように、次のような事実がある。
それは、当時の中央物資活用協会業務部長の職にあった青木正氏(のちに警察担当の国務大臣)などは、
「大蔵省久保外資局長に頼まれ、埼玉県埼玉郡真和村の自宅に、日銀地下室からダイヤ入りの木箱十六個、金の延棒二十五本を秘かに運び、徹夜で車庫の地下室に埋めた。しかし、二週間後、米軍に発見されて、そっくり持ち去られた」
と国会で証言している。国会の委員からその信憑性を疑われ、米軍に持ち去られたというよりも党の方に出したのではないか、と激しく追及される一幕もあった。
そのことは別にしても、このことから次の事実を青木氏ははしなくも述べたと云えよう。
@ 日銀地下室からは、日本人関係者の手によって地方に持ち出された事実があること。
A こうした物件は米軍によって摘発され、それを持ち去られたという事実があること。
B それゆえ厖大な価格のものが持ち去られる自由があったということ。
さらにこれを考えると、日銀地下室から地方に運ばれるとき、三段階があるわけだ。即ち、@地下より出すこと、Aそれを運んでゆく間、Bそれをどこかに隠すとき、ということが考えられる。この三つの段階では、それぞれこれに従う人が巧くやれば何かやれる機会を持っているということなのだ。
だから、当局筋が、十六万一千カラットは初めから終りまで変らない数字である、と云いつづけていることは、このような事実から見ても不自然であることが分る。最終的に日銀地下に現在の形であるまでには、さんざん動き廻っているのである。
つまり、関係者が持ち運びし、それを隠し、またこれが摘発を受けて日銀に入るまでの間に、厖大なものが紛失した、と見るのは自然ではなかろうか。
自民党の代議士中野四郎氏は、
「日銀地下室にダイヤのあったことは事実だが、しばらくして姿を消したことも事実だ。そして再び戻ってくるまでの間に、何分の一かのダイヤが減っていたのだ」
と述べている。そして、これらがいわゆる日銀物のみについてでなかったことは容易に考えられることである。
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前にも述べたように、ダイヤの買上げは、むろん東京だけではなく、大阪、京都、神奈川、愛知、兵庫、福岡の七大都府県の指定百貨店を買上げ代行店としている。そして、これらの店では、即時鑑定のうえ即金払いをした。問題は、そのダイヤがどうなったかである。悉く中央に送って日銀の地下室金庫に納められたとは思えない。これには空襲下の危険もあったし、すでに本土決戦が叫ばれている時なので、中央に集めるよりも全国の各地ブロックごとに分けて貯蔵したと見るのが自然ではなかろうか。つまり、地方ブロックとは、行政機構も当時は北海道総監部、東北総監部、関東総監部、中部総監部、近畿総監部、中国総監部、四国総監部、西部総監部などに分れていて、軍事面や政治面のみでなく、このブロックごとに金融、財政、経済の面がブロック化されていたと見るべきである。そのブロック中心の経済基盤は地方金融機関だった。だから、大蔵省と日銀を結ぶ一環として、地方ごとの金融機関がそれぞれ買上げ取扱機関と特別な関係、例えば、その保管業務に一部参加していたとしても自然な推定である。
現に、一万田尚登氏の手記には、
「二十年六月、私は名古屋支店長を命ぜられた。これは当時、戦争も末期に入り、本土決戦を覚悟していた時だ。日本をいくつかのブロックに分け、各地区がさながら独立国としての能力を持とうというときだった」(雑誌『財界』)とあるのである。
だから、戦後、米機関のCICやCIDなど、または直接に第八軍情報機関やGHQのG2関係機関が、これら地方金融機関に極秘の手を伸ばして、そこで摘発した貴金属、宝石、あるいは真珠などを持ち去った例も少なくはなかろう。だが、同様なことは日本人側(それをやれるような立場の人々)にもあったとみていい。そのことは、現在でも地方金融機関の中にある奇怪な噂や事実、または特定会社にまつわる一連の事件の数々こそ裏書きする。そして、当時のものが整理されて、今日では政治そのものの中にこれらの財宝が深く根を下ろしているものさえある。
とにかく、地方ブロックごとに買上げたこれらのダイヤは、中央に送った部分も多少あろうが、そのほかの部分がどのような運命になったかは、今は正確に知る由もない。また、百貨店などが買上げていたダイヤがどのぐらいの量になっていたかは分らないし、従ってどれだけの数が政府機関に引き渡されたかは、一切不明である。
戦後になって世間に夥しいダイヤが出た事実は、どう説明したらよいか。また一たび法令が出るや忽ちそれが姿を隠した事実からもおよその事情が分ろうというものである。
例えば、東京第一陸軍造兵廠の約三万カラットのダイヤが、発見されたときには僅か一割にもならない二千二百カラットになっていたという事件があった。これはほんの一例だが、こうしたパーセンテージこそ、数量の謎をそのまま語っているとみてよいであろう。
こうして、計画的にも、また偶然的にも、貴金属を終戦直後に隠匿したり埋蔵したりしたのは、一つは占領軍にこれら日本の財宝を渡したくないという「公的」な観念もあったのである。ところが、フィリッピンのバギオで、そのことがポツダム宣言違反だと云われたので、その隠匿を中止し、逆にあわてて回収に廻った。これが昭和二十年九月十四日の閣議決定事項「軍その他の保有する軍需用物資資材の緊急処分に関する件」の陸軍大臣通達である。ところで、この日付によく注意されたい。
クレーマー大佐が日銀を急襲したのは、この「バギオ法令」の出た二週間後の九月三十日の日曜日であった。ここにこそクレーマー大佐の意図があったと云わねばならない。ポツダム宣言違反を連合国から指摘されて、回収の法令が政府から出された直後に、逸早くクレーマー大佐は日銀の金庫の査察をしたのであった。
しかしこの通達が出てから、果してどれだけ回収されたであろうか。或るものは戻ったかもしれない。しかし、或るものは日銀から出っ放しのまま永久に戻らないものも相当あったに違いないのだ。こうして、さっぱり数量が分らないのは、前記のように、当局の説明として、当時の関係書類が戦災によって焼失したり紛失したりしていることを挙げている。だが、繰り返して云う。果してその書類は焼失し、紛失したであろうか。
戦後に、ダイヤの再鑑定を桐生市で行なったことがある。そのときの数名の鑑定人には、接収ダイヤを扱っていた当時と同じ鑑定人がいた。また、クレーマー大佐事件のとき、昭和二十二年五月、横浜軍事裁判所で同大佐の裁判を行なったが、そのときに、|ダイヤ供出台帳によらなければ分らないような日本人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》までが呼び出されて証言しているのである。つまり、関係書類が焼けたとか、供出台帳が無いとか云っても、この一事を見てもそうでないことが分る。台帳が無くて、どうして供出者が分ったのだろうか。焼失したと称する供出台帳は実際にはあったのだ。
そして、同時に供出台帳はアメリカ側の手によって押収されていたということが分るのだ。つまり、同じ「紛失」にしても、日本側からアメリカ側に所有が移っていたわけである。
これを裏返せば、供出台帳によってアメリカ側では正確にダイヤの数量を知ることが出来たともいえる。だから、これによってアメリカ側がそれらのダイヤや貴金属を持ち去る見当をつけたということも考えられるのである。しかも、アメリカ側に接収されたと云っている日本側には、接収されたときの命令書や交付書や受取書などの証拠書類は一つも無いのだ。
要するに、万事が霧みたいにウヤムヤであって、こんな状態で正確にダイヤを保管していたという方がどうかしている。これは中央の一例だが、前述のように、各ブロックごとに分けられた保管機関でも同様なことが必ずあったに違いない。
さらに付け加えたいのは、このダイヤ買上法のときに、軍の秘密だからといって全体の数量を発表しなかったことだ。ところが、供出の締切をしたのは昭和十九年の十二月十五日であった。敗戦の半年前である。終戦まで僅か半年間だから、軍需省が狙ったようにどれだけのダイヤが軍需工業用に廻されたかは推して知るべしである。極めて僅かなものであったに違いない。で、このときの関係者の狙いに、すでに終戦を予想して、軍機による数量の未発表をいいことにし、ダイヤ横取りの企みがあったと推測できないだろうか。もし、それが事実あったとすれば、これほど大きな罪悪的な謀略はあるまい。国民が、勝つためには、という政府の掛け声に応じて供出したダイヤや貴金属、そして本土決戦に備えて餓えを忍びながら竹槍を研いでいた時代、謀略者どもが、このような横取りの計画をもっていたとすれば、誰しも憤りを感じるであろう。
「国を挙げて国民が戦っているのに、その時すでに計画的にダイヤや貴金属その他をゴマ化していた者がある。ひどい人たちである。このような人たちが|戦後の第一人者となって各方面に活躍《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》されるとすれば、世の中はどうなるのだろう」(傍点筆者)
と世耕氏が云うのは、この辺のところである。
さらに、ダイヤの鑑定についても問題がある。これは現在いろいろ云われているので多くは触れないが、要するに、ダイヤの鑑定方法といえば、特殊なものを除いて肉眼鑑定である。だから、鑑定は大体カンに頼ることになり、もし、意図するものがあれば、上質のものを上質でないとして選び分けることも簡単に出来るのだ。そして、こうしたいわゆる「選り抜き」が行なわれなかったという証拠はどこにもない。ここにもまた大きな問題点がある。このことから、全体の数量を買上げ値段だけで割り出せない不合理も生れてくるのである。だが、この問題ばかりを突ついていると同じところに停滞するので、先を急ぐ。
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昭和二十年三月に東京が空襲を受けて、銀座松屋の鑑定室は移転して、桐生市の金善ビルに移った。このときの運搬のことについては誰も注意していない。だが、前に述べたように、三つの段階によって移動中のダイヤが減らなかったとは保証出来ないのだ。この点について調査し直す必要もあるのではないか。事実、当時、警察に貴金属紛失容疑で調べられて、とうとう口を割らなかった人間が、戦後、大金持になって突如出現した例さえある。
また、当時、供出されたダイヤの集積の一つは、三井信託銀行の地下金庫に保管されていた。ところが、例の閣議決定の陸軍大臣通達で、このダイヤは金庫から抜け出したのである。このとき交易営団がやったのは、魔法びん九つにダイヤを詰め込んで某所に隠したのだが、これは、バギオ会議後のクレーマー大佐の日銀査察事件に次いで、同じ年の十月十八日、米軍機関のCICのC大尉によって摘発を受けた。この際も前の三つの段階にさらに「摘発」という一つの段階がおまけとして付くわけだ。だから、その段階においてはダイヤが一粒も紛失しなかったと見るのはナンセンスである。つまり、交易営団側では、その量が十万六千二百三十三カラットだと云っているが、それは口頭で伝えるのみで、それを証明する書類は何一つ無いのである。しかも、C大尉は全部を接収したのに、日本人側に領収書や保管書、あるいは接収押収書といったものは一枚すら出していない。米軍の命令というので恐れをなして、日本人側も受領書類の交付を請求しなかったのか、それとも何かのナレアイがあったのか、そのへんのところは分らない。
また、このほかに、軍需次官通達とは別に、海軍が二万カラット以上のダイヤを、昭和十九年に、栃木県の那須地方の或る個人宅に埋めたことがある。これも米軍のCIC機関によって摘発され、「黒磯事件」と呼ばれた。これにもまた接収受領を証明する書類は一枚も無いのである。
さらに、佐竹事件なるものがある。この事件は、電波兵器の権威者佐竹金次大佐が、自分の持っていたダイヤ一袋を売却する途中、仲に入った朝鮮人がMPに逮捕され、没収されてしまった話である。この事件は、没収されたダイヤがMPの手に消えたまま、ウヤムヤになってしまった。このダイヤは、佐竹大佐がドイツから持って帰ったものといわれている。もちろん、日銀リストには入っていないが、要するに、このようにして当時の接収ダイヤの問題は出鱈目なのをいいたいのだ。つまりは、日銀金庫にあるダイヤの十六万一千カラットという数量も当初からのままであったということは何一つ証明できない例証を出したのだ。
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以上の例から見ても、銀座松屋→桐生金善ビル、あるいは三井信託地下→魔法びん九個、というような、身の軽い動きをダイヤはしている。そして、その原簿も無ければ受取の証明書も無いという有様で、完全保管されていたと信じる方がお人よしになる。しかもいろいろな接収ダイヤの「紛失」が計画的ならば、その計画にタッチしていた当事者はどのような操作をやっていたか、想像するまでもあるまい。具体的な例もないではないが、いちいち個人名にわたるのでここでは遠慮したい。ただ、戦後、突如として出現し、不思議なのし上り方をして来た財界人や、地方銀行の不正に絡む事件の経過が、その片鱗を見せているとだけ云っておこう。
さて、これらの謀略者どもにとっては、当時、政府機関として発足した隠退蔵物資等処理委員会なるものは厄介至極なものだった。そして、当時の法令として、物資摘発については報償金制度まで設けられた。この制度によって、一部のブローカーの間には、現物があるという噂だけで、そのアテ推量の目録が権利として売買されたほどであった。
殊に、都合の悪い者にとっては、世耕機関の活動が少々うるさくなったので、これを何とかしなければならなかった。ここで、或る策動が成功して各都道府県警察部に対して内務省防犯課の通達がなされた。この通達によって以後の摘発行動は中止せざるを得なかった。通達の内容は、概略、次の通りである。
「経済安定本部内隠退蔵物資等処理委員会副委員長世耕弘一は、昭和二十二年四月十一日付罷免せられた。従って、同日以前に同名義で発行されている隠退蔵物資摘発指令書は、単に情報としての取扱いを受けるに止まる。指令者は、これを回収せよ。四月十一日後の指令書は偽造文書の取扱いを受ける。摘発要員と自称する者には厳重取締を行い、摘発物資払下げ名目の運動費、手付金などの詐欺行為と具体的事犯は報告すること。諸会社、団体、農水産会社には、被害の出ないよう警告すると共に、該当の件は報告すること」
勿論隠退蔵物資等処理委員会はいろいろな欠点を内蔵していた。例えば、その末端の運動員に悪質ブローカーや札付きのならず者もいたし、それらがこの指令書を悪用して醜聞の種をまき、詐欺を働く事実も多かった。その委員会の存在が敗戦直後の日本にとって大きな効果があったかどうかは後世の評価に俟《ま》つとして、もし、そのような委員会が無かったらどうなったであろうか。国民は厖大なヤミ市の物資の出所が一体どこであって、どうしてヤミ市に流れて来たか、その疑惑の一部をも知ることが出来なかったであろう。ダイヤや貴金属にしても、いわゆる「日銀もの」と云われるものは、この委員会によってはじめて摘発され国民に知らされたのだ。
世耕氏によると当時、全国に五百億円の物資(当時の価格だから三十五年現在では当然一兆五千億円とみてよい)があると云っていたが、別の筋では軍関係の臨時軍事費や物資調査関係者のリストで、当時のものとして数千億円(従って現在価格では十兆円か二十兆円)の数字があるとも計算していた。本土決戦を決意して、数年間は経済が持ちこたえられると呼号していた当時のことだから、かなり厖大な物資があったことには疑いをいれない。軍需次官通達のかたちで公然化しただけで相当量あったのだから、それ以外にはどれだけあったかは見当がつかないのである。
そして、放出されたその一部は、バギオ会議でポツダム宣言違反として否定されてから日本側はあわてて回収したかたちになったが、その大部分の残りはあらゆる方法で隠匿されていた状況であった。
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隠退蔵物資摘発は、はじめは組織的なものではなかった。その摘発も燃料、ゴム、皮革、繊維品と、莫大な軍需品や日常品から、果ては工業用資材、薬品に至るまで、その数量と物資の広汎なことは、当時の記録にも明らかになっている。
摘発は、米軍機関と特別な関係の立場において大々的に進められた。東京中央線一帯から広範囲な摘発がはじめられたが、これによって巨額な隠退蔵物資がとにもかくにも登場しはじめたのである。従って、政府もようやく事の重大なのに気づいて、経済安定本部を中心にして隠退蔵物資等処理委員会を組織し、委員長には大蔵大臣兼安本長官石橋湛山氏を据え、世耕弘一氏を副委員長にして発足したのは世間周知の通りである。だが、前に述べたように、この機関の末端は、いわゆる世耕指令書を不正に扱う者も現れて、政治権力につながる謀略者たちがそれをいいきっかけにして遂に世耕弘一氏を罷免し、同処理委員会を解散させてしまった。
この委員会に隠匿物資の秘密を知られたり、ヒントや情報を握られて困っていた連中が、GHQの各機関なども利用して、権力機関を動かして、遂に邪魔ものの解体へ追い込んだのであった。この間、キャラコ事件、軍服事件、水飴事件、ガソリン事件など、全国的に大規模な事件が次々に起ったのは、戦後史を彩るほどである。しかし、これは表に出た事件で、こっそりとヤミで処理されたものはその何十倍か分らない。例えば、今日までも極めて少数の関係者にしか知られていないが、或る有名な食品会社に関連した莫大な麻薬をCICに押収された事件とか、CIDに摘発された用紙事件とか、この処理委員会の歴史と、これにつながる日本側の手出しの出来なかったGHQ関係の怪事件を並べるならば、きりがあるまい。
ところが、この隠退蔵物資摘発に伴う報償金制度は時価相当額の何割かを摘発者に支給するというのであった。前に書いた青木斌氏のことは、実にこの報償金にからまる事件なのである。
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この青木氏は、実は世耕氏の片腕となって隠退蔵物資摘発をした男で、その実力は当時大きく買われていた。彼は、いわば身体を張って発見に成功した十六万カラットのダイヤの報償金を求めていたのである。
彼の要求する報償金総額は二十一億円余りで、その根拠は、政府が一割の報償金を出すということになっていたので、彼の発見摘発したダイヤ十六万一千二百八十三カラットを一カラット二十五万円と計算し、合計四百二十億円となるわけだから、これを一割でなく、昭和二十四年、総理庁告示第二十四号第四条適用によって、最低五分の報償金の請求をしたのであった。ここで注意深い読者はその青木氏の云う発見のダイヤの量十六万カラットが日銀金庫のそれと同量であることに気づかれるであろう。しかり、青木氏こそ日銀ダイヤを「ひとりで発見した」と称していたのであった。
では、果してそうかというと、そうでないとも云えるし、そうであるとも云える。なぜかというに、日銀ダイヤははじめから、そんな大変なしろものが日銀にあろうとは一般国民は何も知っていなかった。特殊な者、または少数の者しか政府関係でも知らなかったのである。そして世耕氏自身も「青木発見」によって初めて知ったくらいだと云われている。
だが、国民の前にその存在を知らせたという点においての功績は、青木氏は世耕氏と共に認められてもいいが、彼には協力者もいたし、またアドバイスする人もいたわけだから、青木氏がただひとりの発見者とははっきり云い得ないだろう。しかし、正規の日銀ダイヤを闇の中から陽の下に引っ張り出した功績は大きいとみていい。同時にそのことは、青木氏の摘発を喜ばないものの出現となった。それこそ青木氏よりはるかに巨大な力を持った政治的な怪物である。青木氏がそれに気づいたのは非常に遅れてである。
青木氏は、この日銀ダイヤ発見までには非常な苦心を要した。ダイヤ買受け人となってルートを探り、ブローカーの仲間に潜入して、その根源を突きとめた。それが日銀地下室であることを遂に知った。その間、或いは、ブローカーと渋谷の喫茶店で会い、代金支払いの肝腎なところでピストルを乱射されて失敗したなどスリラーめいた冒険もやったのである。そして、青木氏がその報償金請求をつづける限りは、非常に都合の悪い方面の連中がいた。そこで、青木氏は些細なことから恐喝事件に問われて大阪府警に留置されたが、これも謀略の臭いが強い。青木氏は、前述のように「途中で気分が悪くなり」回生病院に入って急死したが、死体は「肩と腰に蒼黒い斑点があった」と、その妻女が云っている。
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その後、青木氏のこの巨額の報償金請求については数人の関係者が登場し、複雑な抗争をつづけて来たが、その間、恐喝、説得、嘆願書といった、あらゆる手段が用いられたという。しかし、遂に国会の議題に上ることなく、いつの間にか関係者は沈黙させられてしまった。この裏面にも複雑な事情が読み取れそうだ。
この青木斌氏の奇怪な死亡事件の他にも、この処理委員会の調査員だった或る男が謎の失踪を遂げたり、また或る調査員が小屋の中で死んでいたりした事件と共に、不思議な印象をうけずには居られない。
とにかく、当時の国内の接収ダイヤや、戦争中フィリッピンから日本軍が持って来たといわれるフィリッピンダイヤや、そのほかの貴金属などの総額になると、一体どのくらいあったかは雲の中に入ったように分らないのである。
では、問題は、現在日銀にある十六万一千カラット以外のものはどうなったかである。その何割かはアメリカ軍が接収と称して強奪して行ったものもあろう。が、その残り大半はどこかの政治面に流れて、政党幹部の政治資金などに利用されたようなことはなかっただろうか。いや、その疑いは濃いのである。
そうなると、政府買上げ機関と政党とが一環をなして巧みな略奪行為を行なったといわれても仕方がないであろう。略奪と云ったのは、ひとりアメリカ軍だけではないのである。そして、そのときの財宝が今日でもまだ一般庶民とは無縁な方面の底を流れている。
なお、その残りらしいものが、ときどき、日本国内の知られざるルートで市場に出たり、前に述べたようなスチュワーデスを使った米国への密輸となったり、ダイヤモンドを鏤《ちりば》めた装飾品の出現となったりしているのである。
終戦直後、GHQ要人に対して「貴婦人グループ」の社交的な接触があった。この女性群はいずれも名門の婦人ばかりで、彼女たちの接触によってどれだけGHQの高官が満足したか分らない。遂に、その中の高名な子爵夫人はGHQ要人と恋愛沙汰にまでなった。この女性群の接待ぶりは、恰も「昭和の鹿鳴館」といった感じがする。彼女たちの力によって、パージになった政治家や、実業家が陽の目を早く見た例もあるし、またGHQ要人側も、彼女らを通して日本内部の情報を取っていたともいわれる。そのことはともかくとして、この「昭和鹿鳴館」に使われた接待費にもまた以上のダイヤが使われたといわれている。
また、日航機「もく星」号が墜落したときに、ただひとりの女乗客小原院陽子さんの死体の周囲にはたくさんなダイヤが散らばっていて、その収容をアメリカ軍側で秘密裡に行なったということもある。ついでだが、この小原院陽子さんについては、筆者は「もく星」号遭難事件にも書いたが、最近になって、少々考え直さなければならないような要素を持っていることに気づいている。
それから、某週刊誌に出ていた、日本から追放されたシャタックという外人のことである。これもダイヤや貴金属が絡んでいるが、この出所も同一経路と見ていいのではなかろうか。
こんなことを書いていくと際限がない。とにかく、接収ダイヤの謎は非常に深いといわなければならない。また、最近の交易営団と中央物資活用協会の清算に関してのいろいろの動きも、やはりその辺の根が未だに不思議に曳いていると云っていいだろう。
一万田氏の手記には、
「当時、非常に急いだ仕事の一つに、支那事変と云われた時代に、これも戦争準備の一つであるが、日本銀行の金準備増強の一途として、民間より条件付きで買上げた貴金属類があった。これを占領軍の来る前にいかに元の持主に返すかということであった。ところが、空襲で行方不明、疎開で住居不明である。返還先が分らないので返還が間に合わず、|半分ほどを占領軍に押えられた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
とある。権威ある日銀総裁の椅子や大蔵大臣の椅子に就いた一万田氏の言葉だから、間違いはないであろう。
即ち、これによって、日銀金庫の中にはすでに支那事変当時から貴金属は集められていたこと、その後、「大東亜戦争」になって集まったものがこれに加わったこと、そして、それらの半分ほどが占領軍に押えられたことをわれわれは知るのである。
ここで、また考えたくなる。占領軍に押えられたこれらの厖大な貴金属は一体どうなったのか。それは前述のように、マレー大佐やヤング大佐のごとく持ち出しの分ったものもあるが、分らないままに消えた方が大部分であろう。そして、これらの貴金属は日本における諜報路線の資金工作に役立ったと見ていいのではないか。
米軍には、日本のように臨時軍事費などというものは無く、その予算は議会の承認を得なければならぬオープンなものである。しかし、限られた予算内では充分な諜報活動が出来得るものではない。押収した貴金属はこれらのルートに流れたものと思って大きな間違いはないと思う。現地機関では資金は現地調達なのである。
この意味からいっても、ESSのクレーマー局長の日銀査察で、いわゆるユーナイテッド・ファンド・バンクの実態を彼らが知ったことは大いに役立ったわけである。
そして、日本のユーナイテッド・ファンド・バンクは、戦時中、東南アジアなどの各地から日本軍が持ち帰った厖大な貴金属がその主体をなし、中心は金塊で、それは数百億ドルに達していると云われた。
これを押えなければ経済的に日本を支配することにはならない、とESSのキャップは考えたであろう。つまり、軍事はG2であり、政治面はGSであり、経済関係はESSであった。
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しかし、いかに金塊を持ち出しても、またダイヤやその他の貴金属を持ち出しても、現物そのものではあまり役に立たない。金《かね》に換えなければならないからである。
ここに厄介なことに、諜報機関が国際的なヤミ機関と手を握る理由がある。ダイヤやプラチナを金《かね》に換えるためには、どうしても闇市場の連中と手を握らなければならないのである。
また、これらの暗黒面、つまり、密輸業者にしても、権威面の援助があればその作業は容易となる。
いわば、両者はここに完全に手を握って、一方は謀略資金を作り、一方は安全に密輸商売が出来るというものである。のみならず、謀略側では、彼らからいろいろな情報がとれるという利益もあるわけだ。前記のように、いわゆる東京租界を舞台にして国際密輸団が暗躍し、繁昌しているといわれるゆえんは、この辺にあるようだ。
講和発効後、GHQは消滅し、その高官連中は帰国した。しかし、彼らの握っていた個人資産はそのまま正直に返還されるわけはない。といって本国に持ち帰るわけにもいかず、これが日本にそのままの形で、しかも秘密の裡に凍結している。それが噂で云われるところの「マーカット資産」であり、「C資産」であり「K資産」である。但し、これらのものは殆ど民間の接収ものばかりで、軍関係の莫大なものは、日銀外に隠匿されてしまったので、さすがのESSもこれを発見することが出来なかったらしい。
いずれにせよ、この日銀物については、占領軍が一月交代で一個小隊を日銀内部に入れて、昼夜勤務に就けさせたのだから、その力の入れ方は想像がつく。また、日銀本館の一室に専任の鑑定室が極秘の裡に置かれ、一日じゅう鑑定人と米軍人だけが立ち会って、四カ月もかかってダイヤの鑑定を行なった。その期間内、鉄製のケースに入っていたダイヤが金庫に戻されるまでにどのくらいの量が紛失したか、よそからは分らない。奇妙なことに、その当事者たちには一度も身体検査は行なわれなかったのである。
マレー大佐は、クレーマーESS局長が日銀査察のあと、その貴金属の保管を必要とした際、GHQならびに第八軍アイケルバーガー中将の関係者によって指名された接収貴金属管理官であった。同大佐が、昭和二十二年の春に米国に持ち帰ったダイヤは、十八カラット以上が実に五百二十個あった、といわれている。分ったのがこれだけだから、実数はこの倍ぐらいになるかもしれない。これを摘発したのは、やはりG2のCICの秘密路線であったという。軍事裁判では秘密が保たれ、日本人側には全く知らされていないから分りようがない。だが、その後数年経って開かれた日本側の行政監察特別委員会では、米軍指定の日本人鑑定人久米武夫氏が「少くとも大粒のダイヤの二つほどは日銀に返されたと思う」と証言している。返還は確かにされたかもしれない。しかし、分っているだけでも五百二十個のもののうち、返還分が僅か二個ぐらいしかはっきりと云えないとは、この辺に謎の真相が見えるようだ。
「二十一年四月ごろです。突然、進駐軍から、日本銀行の中にダイヤモンドがあるからそれをひとつ整理せよ、という命令を受けたのです。久米武夫という宝石学者が主任で、私と城谷と巽、日本人はこの四人です。それにアメリカ側から地質学者のヘンダーソン、ポーシャッポの二人が任命されてきたのです。
最初、進駐軍から、ダイヤモンドと貴金属類については、これは国の財産であるから、報告して出せ、という指令があり、その報告を出す人もあったし、出さない人もあった。そのときに交易営団が集めて持っていた品物を進駐軍が見たわけです。それは日本銀行に預けてあるということがわかって、進駐軍に接収されたのです。それを保管していたのを、このままになっていたのでは整理がつかないからというので、われわれ四人と米人二人と六人にその整理を命じたのです。任命を受けた際に手を上げ誓約をさせられ、今度のダイヤモンド鑑定についてはあくまでも秘密を守ること、妻にも語らぬことを誓わせられまして、そして自分の顔の番号入の写真を取られるし両手の指紋も取られました。私は指紋を取られたことは生れて初めてなのでいやな気持になりました。米軍は後日問題が起った時に必要なので、採用すると全部指紋を取ることはあたりまえのことと思っています。鑑定に必要なるいろいろな準備をしてその仕事を始めたのですが、われわれが最初見たときの光景は、日本銀行の地下二階の大金庫の前に大きなテーブルを出して、管理人のマレー大佐と各将校立会いのもとに、われわれがそこに並んでおって、そのテーブルの上にハトロン封筒の中から大佐みずから封印を切ってダイヤモンドをがらがらと出し、次ぎ次ぎと開いて山のごとく積んだわけです。一斗マス一ぱいくらいあったでしょうか。
そのときの光景は、宝石を扱っている者としては感無量といいますか、おそらくあとにも先にも見ることのできない光景でした。みな国民の愛国心の発露の結晶で、明治以来蓄積された宝石である。実に貴いことである。それを整理せよということで、とりあえず、そのダイヤモンドの山を、いちいちハカリにかけたのです。ところが、私たちはその総数量がどれだけあって、どうだという記録をとることはできません。それは秘密ですから、向うの軍人の書記がみんな数量をタイプライターで打って、記録をつくっていくのです。われわれはその一部分の鑑定をまかされているだけで、一つ一つのダイヤモンドの目方をはかったり、品質を見たり、数を数えたりという仕事ですから、ソロバンや記録はできないわけです。ですからそれはあとからわかったのですが、そのときに全部で二十五、六万カラットあったというのです。
今度は個々の石の値段を踏んだわけです。この品物はいい、この品物は悪い、という鑑定をするのです。こういう微妙な仕事は地下室ではとても暗くて見ちゃいられません。一々ピンセットでつまんで虫眼鏡で見るのですから、ここではとても見られない、といって交渉して、三階の部屋を一室あけてもらったのです。今度は一人が一つの机を持って、その前にMPの監督者が一人ずつついて、さらに一人の将校が監視している。表にはMPが二人ついて、外部から人が入れないように番をしているという厳重な監視のもとに、私たちは毎日毎日ダイヤモンドの鑑定をしました。五月ごろから始まって、十月ごろに終りました。朝八時から夕方四時までやるのですが、アメリカの習慣で土曜、日曜は休みでした。
この中で一番大きいダイヤモンドは南方から買い付けたもので、五二・七五カラット、色は薄い黄色の少しく変形ものでありました。
そのときにダイヤモンドの保管の金庫を預かって、われわれの監督をやっていた米軍のマレー大佐がダイヤモンドを紛失したという事件がおこりました。ちょうど夏の休暇をもらって大佐が本国へ帰るときに、ダイヤモンドを持って帰ったようです。
あとから考えると、その留守にわれわれが仕事をしているところにいろんな人が見学に来ていると思っていたのが、実は調べに来ておったわけです。マレー大佐は日本に帰ってくると、またわれわれの鑑定している室に来て監督をしていましたから、そのときはわれわれはそんな事件があったとはちっとも知らなかったのです。仕事はすべて終って、米人も帰るし、われわれも任を解かれたのです。ちょうど終ったのが十月末日頃で、六カ月間に及びました。
それから一、二年たって、日本銀行の地下室に保管されてあったダイヤモンドが無くなったということがわかったのです。私たちが最初調べたときおよそ二十五、六万カラットあったというダイヤモンドが、十六万カラットに減ってしまったのです。
ところが、昭和二十三年の七月頃、突然、横浜の米軍司令部から、君たちは日本銀行でダイヤモンド鑑定の仕事をやっていたが、そのことについて用事がある、という呼び出しを受けて、われわれ四人は何ごとかと出頭しました。そこではいろんなダイヤモンドを見せて、『このダイヤモンドにおぼえはないか』と訊くのですが、そんなことはちょっと見ただけではわかりません。すると『このダイヤは薬品で洗ってあるか洗ってないか』といって訊くのです。一体どういうわけでわれわれを呼んで、どうしようというのか、こっちはさっぱりわからない。そのダイヤモンドを手にとって見たところが、どうも古い品物らしいのです。『それならこれは時価どのぐらいの相場か』と検事は問います。ダイヤモンドの値段を評価するときには、外国の相場だとかいろいろなものを調査しての相場をいっているわけですから、そこで協議した結果、『これだけのものでしょう』といったら、向うで考えている値段とそう違わなかったので、そのとき立会った数人の将校は『君たち日本人はとてもエキスパートだ。ほんとうの技術者だ』といって非常に感心してくれたのです。そして今までの罪人扱いのような態度ががらりと変って、われわれを非常に尊重し出したわけです。
私が交易営団で再鑑定しているとき見かけた珍しいダイヤモンドが、その中にあったのです。交易営団では、みんなが供出して買付けたダイヤモンドを、これはほんとうのダイヤモンドで標準値段であるかを再鑑定調査して後に各々の認定を受けた品が通過してデパートではその代金の支払いを受ける、という仕組であったのです。私はその中で特に大きいものだとか、珍しいものがあると、こういう機会はめったにないものですから、直径と高さと目方と品質をメモしておいたのです。そのメモしたものが偶然マレー大佐の所持していたダイヤモンドの中にあるのです。
『これこれこの品物は私はおぼえがあります』と検事にいったのです。『それはいい証拠だ。そのメモを一つ提出せよ』というので、私のメモと照合してみますと、一分くらいしか違わなくて、大体間違いないという結論になりました。私の証言に同時にその品物をどこかのデパートから出したという証明が一枚あれば一番確実なわけですが、見当らなかったのです。
『事実、これはおまえが見たので、こういうものがあるという証明はされた。それなら、おまえはこれと同じ品物が世界中に数たくさんあると思うか』という検事の質問です。『それは一カラットや二カラットくらいのものならあるといえましょう。しかしながら、十カラットのもので、形も同じ、品質も同じ、カラットも同じというものは、天然のものとしてあるべきはずがない』と私は云いました。
それを聞いて検事は非常に喜びました。それを一つの証言にしたわけです。其他三、四件の証言が備ったのです。
あのときのことを思い出しますと、しょっちゅうそういう会合があって、おどされるやら、調べられるやら、まるで自分が罪人になったようないやな毎日でした」(松井英一著『宝石・貴金属の選び方買い方』より)
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GHQ内の首脳部やGSの要所にいたハリー・エマースンの記録(井上氏訳)によると「円をドルに換貨することは非合法だと宣言されるまで、アメリカ軍将兵は、毎月、アメリカに彼らの俸給総額を超過すること約八百ドルの金を送金していた。会計局のハロルド・R・ルース大佐は、この超過金額はヤミ市場の利得金だとしていた。のちになると、計画はさらに大仕掛になった。一例を挙げると、或る日本の皇族は、外国煙草を何艘となく輸入する手筈をし、それをヤミに流して、その皇族とアメリカ人の仲間とで、日本の鉄鋼業を支配するに足るだけの金儲けをしようともくろんだ。この計画は最後の瞬間に失敗したが、占領軍当局の下位段階では承認を得ていた。一九四七年頃のニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙、ニューヨーク・タイムス紙、双方の新聞電報は、アメリカの役人達がその地位を利用して非合法な金儲けをしていることを指摘し、アメリカの私企業の重要人物が、曾て自分が監督していた当の部下で、当時占領軍の軍籍にある者をそそのかしてそのようなことをさせていると報じ、占領軍も亦非合法手段に訴えることを敢ていとわぬ人間だという日本人の疑いを裏書きした。枢要地位にある役人が買収されているという噂は非常な勢いで拡がって行った。そして、昭和電工の醜事件で何十億円という汚れた金がバラ撒かれたことが分ったときには、日本人ばかりでなく、他の幕僚部のアメリカ人までが羨しがって、巨額な賄賂が授受されたことを囁き合っていた。(略)だが、ほかに証明された事件もいろいろあった。憲兵司令部配下の一憲兵は、ヤミ取引の罪で刑務所に送られた。エドワード・J・マレー大佐は、日本銀行で彼に保管の責任を負わされていたダイヤモンドを横領した嫌疑を受け、その宝石をカリフォルニアに密輸しようとして刑務所入りをした。二名のアメリカ軍少佐が、自分たちが保管すると称して持ち去った二百万ドル以上の値打ちのある金とダイヤモンドが消えて無くなった事件は、一九五二年八月、議会で問題になり、調査されることになった。その他、下級将兵が泥棒を働いたという事件も数々ある。そういった非難を受けた将兵の数は、占領軍の数万という数に比べると取るにも足りない数であり、金額も日本人自身による詐欺、窃盗の数に比べれば極めて些少のものではあったが、こうした事件は、占領軍の廉潔さに対する信頼をひどく傷つけた。日本人は、多くのアメリカ軍人、民間人が同様な嫌疑を受けて、こっそりと本国に送還されていることを知っていなかった」とある。
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なお、これに関連したことだが、昭和二十九年二月二日、衆議院法務委員会の席で、当時の自由党代議士鈴木仙八氏が法務大臣に対しての質問に、「世評によると、マーカット資金というのが約八百億円あると伝えられている。これが鉄道会館、造船界に流れているのではないか」との発言が当時の議事録にある。これに対して法務大臣は「報告を受けていない」と逃げている。これは、すでに「マーカット資金」という名前が日本の政界にも知られている証拠である。
もし、これらのM資産、K資産、C資産などと呼ばれるものが実在しているならば、それがどのようなグループによって守られ運営されているかはこれまでの叙述から見ておよそ想像がつくと思う。
以上は接収ダイヤのことだが、ついでに云えば、例のインド独立の志士と云われたチャンドラ・ボース氏の莫大な宝石、貴金属もどこに行ったか分らない。
ボース氏は最後に入ソを決意して、副官ハビブラマン大佐を伴ってサイゴン空港をあとにした。それは、ポツダム宣言受諾の終戦詔勅放送の二日後のことであったが、その翌朝未明に、コーチシナのツーラン飛行場を出発して台北に飛んだのである。そして、この飛行機はKCM型輸送機で、元九七重爆二型の改装であって、機は優秀だった。同乗者は、ビルマ方面軍参謀長から関東軍参謀次長へ移る四手井綱正中将だった。台北までは何の変化もなかったし、同乗者も変っていなかった。それが正午に台北飛行場に着いて、場長のもてなしを受け、食事も終り、そして給油も完了した。それから九州の雁ノ巣飛行場に向け出発したのである。
同乗者は同じ顔ぶれで、飛行機はゆるやかにスタートして、辷《すべ》るように滑走路を走って離陸浮揚した。そして僅か二十秒、その瞬間にガタガタと飛行機は振動してキリ揉み状態になって左に傾斜し、地上に激突した。火焔が忽ちこの飛行機を取り巻いた。
同乗者のうち、四手井中将、滝沢少佐(正操縦士)、機上機関係下士官一名が即死した。チャンドラ・ボース氏は全身火達磨になったが、台北陸軍病院南門分院から救急車が来た。第三度という重い火傷で赤不動さながらになったが、遂に、あらゆる手当ての甲斐もなく、その生涯を閉じた。
今日まで、インドではボース氏のこの遭難は問題になっている。調査団も日本に来た。しかし、真相はどうもよく分らない。というのは、ボース氏はソ連に亡命を決意したので狙われたのかもしれない、という説もあるが、これは当てにならない。なぜなら、日本の呼びかけに応じて日本行きを決意したときのボース氏は、ソ連からドイツに行ったりして活躍していたので、ソ連はもともと関係のあったところだし、思想的なことではなかった。実際、あとで行方不明になってしまったトランク二つの宝石、ダイヤ、貴金属の入ったものを見ても、このボースの死因を説明するものは、その奇怪な宝石にまつわる動きしかない。その飛行機は台北まで無事に来たのだ。乗務員にも異常がなかったのだ。
とすれば、給油か整備かが原因であることは疑う余地があるまい。乗っていた者がそれを計画しない以上、地上勤務者がやったとしか考えられない。
あるいは不可抗力だったかもしれないが、どうして今まで述べたこの疑点を徹底的に調べてみないのであろうか。そのときボース氏が持っていたのはトランク二つというのだ。
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このことを現場で目撃した元日映の特派員吉野宗一氏の書いたものによると、
「このときのチャンドラ・ボースの持っていたトランク二個の宝石、黄金は、独立運動のためインド全国民から献納されたものだった。これが数億とか数十億とか云われているが、トランク二個というのは、あとで石油罐二つに入れ替えられている。石油罐二つというのは大変な量だ。数億とか数十億とかいう低い数字は考えられない。あのインド軍の維持一つ見ても、そうした僅かな数字で賄えるものではあるまい。単位はこれより一ケタ上か、あるいは二ケタ上で、数倍も多いのではなかろうか」
とあり、また日印友の会理事田中正明氏の書いたものには、
「インドの民衆はボースの死を信じない。それには三つの理由が考えられる。その第一は、台北飛行場で遭難してから南門分院で最後の息を引き取り、遺骨として日本に送られ、旧日本陸軍の依頼で東京都杉並区高円寺の蓮光寺の住職望月森栄師がその遺骨を預かるまでのいきさつが、インド人を納得させるに足りず、幾多の疑問があるからだ。ボース氏と共に独立運動に参加したA・M・ナイル氏らインド人側が、目撃者の言はまちまちだ、と云って激しく追及するのはこの点である。またボースと同乗した副官のハビブラマン大佐が手に擦過傷《かすりきず》を受けただけで助かっている。
彼は遺体の顔に掛けられた白布を取り除けて確認しなかったこと、惨事の状況を曖昧にするなど、彼の帰国後の言動がさらに疑惑を深めたことは事実である。また翌日台北に飛来した副総帥のアイヤー氏にボースの遺体を見せなかったとも伝えられ、さらにボースの遺品(時計とか眼鏡とか)が何等残されていない点など、疑えば際限がない。遺骨は大型トランク二個(宝石)と共に、酒井中佐と林田少尉が裁量して、飛行機で東京に飛び、元大本営参謀の木下少佐に引き渡し、木下少佐はこれを元大本営第二部第八課長高倉盛雄中佐に渡した。これが九月七日で、その翌八日に、在日インド独立連盟東京支部長ムルティほか二名のインド人に遺骨を遺品と共に手渡したということになっているが、その確証もなく、日付も食い違っている。ムルティ兄弟は、その後、自家用車を二台も持ち、豪華な生活を送っていたが、ドル買、密貿易などで数回事件を起し、目下、兄弟ともインドに帰っている。宝石問題の真相究明には、当然、ムルティとの対決を必要とするわけであるが、高倉中佐も告白しているように、とにかく、こうなってみると手落ちがあったように思う。と云うより、確かに手落ちで、この間の写真とか受領書とか、きめ手になる物的証拠は何も無い」
とある。
このボース氏の持って来た石油罐二個入りのダイヤ、貴金属などは、もちろん日銀物でもなく接収物でもないが、やはり日本のどこかに泳いでいる厖大なダイヤ、貴金属の中の一部に交っていないだろうか。とすれば、インドの志士も浮ばれないことである。
要するに、日銀地下金庫に最初から十六万一千カラットのダイヤがあったかなかったかということは、ここまで来るともはや問題でなくなる。当初、莫大なものが日本にあったということは、これで見当がついたし、そして、その半分はアメリカ軍に押収のかたちで略奪され、残りの大半も日本の政治面に隠匿された疑いが濃いのである。
アメリカ側に押収されたものは、その幾分かは彼ら将校によって持ち出されてはいたが、大部分は何々資産という名において現在の謀略の資金となり、これがヤミ市場の顔役とつながっていることはほぼ解明出来たと思う。近ごろ報じられているように、東京租界における国際的顔役どもの噂も、その辺から筋を引いていると云っていいだろう。
だが、これは日本の一般国民には分っていないことである。
謀略はどの辺で行なわれ、いかなるかたちで行なわれているか、今後もわれわれの眼からは見ることは出来ない。それが分るときは何かの事件が起ったのちである。例えば、アメリカの謀略方面の国務長官と云われるCIAの親玉アレン・ダレスが日本に来て、駐留米側と協議し、すぐに軍用機で帰国した事実など、ジャーナリズムはもちろん、日本政府の権威筋ですら、知っていなかったのである。
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[#1字下げ] 帝銀事件の謎
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帝銀事件の犯人は、最高裁の判決によって平沢貞通に決定した。もはや今日では、いかなる法律手続きによっても彼の無罪を証明することは不可能である。云い換えれば、法務大臣の捺印があれば、いつでも彼は絞首台に上る運命にある。(もっとも再審請求が弁護人側から出されているが、必ずしも刑の執行を拘束しない)
帝銀事件は、これで落着した。少くとも、平沢貞通を犯人にすることによって世紀の残虐事件は終止符を打ったのである。
しかし、弁護人側からは、最高裁の判決が下ってからも、たびたび再審要求などが出されて、儚《はかな》い抵抗の努力がなされた。だが、そのいずれも悉く却下されている。今日では、どのような方法をもってしても、平沢貞通を帝銀事件犯人から取り消すことは出来ない。
私は昨年(昭和三十四年)、『文藝春秋』に「小説帝銀事件」を書いた。かねてから平沢貞通犯人説に多少の疑問を抱いていた私は、この小説の中で、出来るだけ事実に即して叙述し、その疑問とするところをテーマとした。小説の形にこれを仕立てたのは、私の疑問をフィクションによって表現したかったのである。しかし、疑問をそのような形で書く以上、内容的なデータは出来るだけ事実に拠らしめなければならない。その小説の中では、殆どフィクションは挿入せず、検事調書、検事論告、弁護要旨、判決書など、裁判記録を資料に使った。
この小説で私がテーマとしたのは、帝銀事件が発生してから平沢逮捕に到るまでの警視庁捜査が、途中で一つの壁にぶつかり、急激に旋回した跡が感じられたことである。今日でも、この疑問を私は捨ててはいない。この小説を書いた当時、私の調査は充分とは云えなかった。すでに、その跡を辿ろうにも、すべての痕跡は土砂の中に埋没されていた。捜査当局や検察筋と何の繋がりも持たず、法律的な知識もない私にとっては、その痕跡を発掘することは至難なことである。私が小説の名にそれを借りて疑問を書いたのは、その貧弱な知識の故であった。
しかし、今でも私は、当時の疑問に対する情熱を捨ててはいない。
[#5字下げ]2
最高裁の判決は絶対権威である。私は最高裁の権威と尊厳とを支持する。しかし、それには万人が納得するだけの論理と科学性がなくてはならない。少しでもその判決が疑念を持たれたり、曖昧な印象を与えてはならないのである。帝銀事件に対する平沢被告への判決はどうであったか。
最高裁の判決は、殆ど第一審の判決をそのまま通過させたと云ってよい。
平沢有罪論の根底をなすものは、彼の自白である。それが検事に強要されたにしろ、またコルサコフ氏症による平沢被告の異常心理の自白であるにせよ、とにかく、その自白が重大な証拠の一つとなった。
敢えてその自白を証拠と云うのは、この事件の起ったのが昭和二十三年一月二十六日のことである。この年の秋、刑事訴訟法は旧法から新法に変った。いわば、帝銀事件は、幸か不幸か、旧刑事訴訟法の最後の事件であった。
旧刑訴法によれば、本人の「自白」は証拠と見なされる。しかし、新刑訴法では、他の物的証拠がない限り、本人にとって不利なる自白は証拠とは見なされないのである。私は、帝銀事件が旧刑訴法の法則によって悉く処理されたとは敢えて云わない。すでに新刑訴法の発足当時であったから、この事件も新刑訴法の精神によって処理されたであろうと思う。
しかしながら、事実は、平沢被告の自白が最大の証拠になっている。これは何を意味するか。新刑訴法の精神で審理しながら、なお且つ自白を証拠としなければならなかったのは、他の物的証拠がことほど左様に薄弱だったからといえるのではないか。
試みに、この厖大な帝銀事件の裁判記録を一読しても、検事側がいかに物的証拠の薄弱さに苦悶していることか。その点では或は、平沢貞通以上の苦悩であったかも知れない。第一、有罪を決定する最大の要素である兇器にいたっては、検事側に少しの解明もされていない。平沢被告が帝銀において十六人にのませた毒薬はどこから入手したのかという、入手経路も定かではない。判決書によれば「被告がかねて所持したる青酸カリ」と片づけている。
この毒物の入手については、検事側も懸命に捜査した。平沢被告もその自白の中でそのことに触れているが、裏づけは何もなかった。しかも、使った毒薬が果して青酸カリであったか、そうでない別な化合物であったか、その辺の厳正な判断も下されていない。
およそ、殺人事件においては、兇器は物的証拠の中で最たるものである。それがこの曖昧さでは、他の物的証拠と称するものも価値の比重が甚だ軽くなるのである。
他の物的証拠と検事側が主張するものは、例えば「松井蔚」の名刺、強奪した小切手の裏書の筆蹟、アリバイの不成立、事件後被告の手に入ったと称する金の出所不明、面通しによるその人相などである。だが、これらは、科学的には正確に平沢被告に直結する物的証拠とは云いがたい。
[#5字下げ]3
犯人が帝銀を襲う前年、昭和二十二年十月十四日、安田銀行荏原支店で使用した松井蔚の名刺は真正であった。また、平沢被告も、昭和二十二年の春、青函連絡船の上で、松井博士と名刺の交換を行なっている。だからといって、その安田銀行で使った松井名刺が平沢の貰った名刺だと断定しうる根拠は何一つない。事実、丹念な性格の松井蔚氏は、交換先をいちいちメモしていたが、それでも十七枚の行方不明のいわゆる事故名刺が出て来た。安田銀行荏原支店で使用されたその名刺は、十七枚の事故名刺の一枚かも知れないのである。
小切手の裏書の文字は、帝銀椎名町支店から強奪した犯人が書いたものと推断されるが、この筆蹟について平沢被告のそれとを鑑定した筆蹟鑑定人の回答には、絶対的な客観性があるとは思えない。鑑定人の一人は、平沢のものではない、と云っている。可能性は遂に絶対性とはなり得ないのである。
面通しは、多くの証人によって証言されたが、これも絶対性はない。また、アリバイもどこか作られた感じがする。事件直後に平沢被告が入手したという大金も、その出所不明を事件に結び着けているが、これとても、状況証拠にはなり得ても、それが直接証拠とはならないのである。
私は、ここで再び平沢被告論を書くつもりはない。以前に「小説帝銀事件」を書いて、そのことはすでに云い尽したことだし、面倒な捜査内容や裁判経過をいちいちここに記録する根気もないのである。私が書いた後からも、平沢被告無罪説を論述した著書が一、二出ている。詳細なことを知りたい読者はそれらについて読まれるのが便宜だと思う。
私がこれから書くことは、前回の拙稿に尽されなかったことの疑問に新しく視点を置きたいと思う。つまり、警視庁の捜査主力は、なぜ途中で、傍流だった居木井警部補の名刺班に旋回しなければならなかったか。その突き当った壁とは何か。そして、壁の正体とは何を意味するか。今度はそれについてふれてみたいと思うのだ。
[#5字下げ]4
帝銀事件の経過は、これまでしばしば書かれているので、詳しくは述べない。
昭和二十三年一月二十六日午後四時ごろ、帝銀椎名町支店に現れた中年男は、腕に東京都のマークの付いた腕章を付け、近所に集団赤痢が発生したから、進駐軍の命令で全員予防薬を飲まなければならない、と云って、吉田支店長代理以下十六人に毒を飲ませた。そのときの模様は、犯人に面会した支店長代理吉田武次郎が生き残って、次のように供述した。
「わたしは銀行で毒を飲まされたことについて申し上げます。本日午後四時ごろ銀行業務を終り、営業の事務処理をいたしておりましたところ、そこへ店の戸の横のくぐり戸を開けて、年齢四十五、六歳の、背広を着て、左腕に白地に東京都の赤じるしの腕章をつけた男が入って来まして、名刺を出しました。『東京都の者ですが、支店長は』と申しましたので、私は『支店長はいませんが、私が支店長代理です』と云いました。そうしてその人より受け取りました名刺には、東京都衛生課並びに厚生省厚生部医員、医学博士と書いてありましたが、名前は記憶いたしておりません。そうしてその方を入口より事務室に上げて、私の座席の隣の椅子にかけてもらいました。すると、その男は『実は、長崎二丁目の相田といううちの前の井戸を使用しているところより、四名の集団赤痢が発生し、警察の方へも届けられたろうが、このことがGHQのホートク中尉に報告され、中尉は、それは大変だ、すぐに行くからお前一足さきに行け、と云われて来たが、調べてみると、その家に同居している人が、今日この銀行へ来たことが分った。ホートク中尉はあとより消毒班を指揮して来ることになっている。その消毒をするまえに、予防薬を飲んでもらうことになった』と云いましたので、私は『ずいぶん早く分りましたね』と云いますと、その人は『診断した医師から直接GHQへ報告されたのだ』と申しておりました。
そうしてその男は『もうすぐ本隊が来るから、そのまえにこの薬を飲んでもらおう。元来これはGHQより出た強い薬で、非常によく効く薬であるから』と申しまして、幅一寸に長さ五寸くらいの医師の持つ金属製の箱を出しましたので、給仕が湯呑を全部洗って持って来ました。するとその男は『この薬は歯に触れると琺瑯質を損傷するから、私がその飲み方を教えますから、私がやるようにして下さい。薬は二種あって、最初の薬を飲んだのち、一分くらいして次の薬を飲むように』と云われ、その男は小さいビンを出しまして、ガラスにゴムのついたスポイトを出した。その薬は無色で少し溷濁《こんだく》しているもので、スポイトで少量ずつ湯呑に分配して、その男は最初の薬を、舌が出せるだけ出しまして、そのなかほどへ巻くようにして飲んで見せました。店員の者も全部それを見習って飲みました。するとその薬は非常に刺激が強く、ちょうど酒の飲めぬ人が強い酒を飲んだように、胸が苦しくなってきました。そうして一分して第二の薬をまた分配してもらって飲みました。そうして私は井戸に行きまして、うがいをして帰ろうといたしますと、みなの者もばたばたと倒れますので、これはいけないと、私の席へ帰りましたが、間もなく意識が分らなくなってしまいました。その男は赤いゴム靴をはき、一見好男子で、知識階級の人のようでありましたが、医者としてはちょっと手が武骨であるようであります。腕章は白い布で、赤く東京都のマークが押捺され、その下に黒字で達筆に防疫消毒班と書かれてありました」
この供述中の、進駐軍の係の名は、初めホートク中尉であったが、のちにホーネット、またはコーネットと云ったように思うと改められた。
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この犯人が鼻筋の通った品のいい好男子であったことは、生き残りの四人とも証言している。吉田支店長代理だけが左のこめかみから頬にかけたあたりに直径五分くらいの茶色のしみがあったと云い、ほかの三人は気が付かない。オーバーは着ていたのか、手に持っていたのかはっきりせず、吉田支店長代理は背広の腕に腕章を巻いていたと云っている。また男の靴について証言した者も吉田支店長代理だけで、露店に売っているような赤のゴム靴だったと云い、スリッパを揃えて出した阿久沢行員は、靴がどんなだったか分らなかったと云っている。田中行員も靴のことは覚えていなかった。
この薬の味、色、臭いについては、生き残りの四人の行員の証言は少しずつ違っていた。吉田支店長代理は「最初のは少し白く、濁った液で、強いウィスキーか何か飲むように、胸が焼けるようだった」と云い、田中行員は「ガソリン臭くて舌がぴりぴりした」と云い、阿久沢行員は、「薄黄色でアンモニア臭に近いにおいと、苦いような味がした」と云っている。
この生き残りの人たちは悉く、近くの聖母病院に入院した。
一方、予防薬と称して行員に飲ませた湯呑は、行員の数だけの十六個である。だが、犯人が自分で飲んで見せた茶碗があるから、全部で十七個の筈だったが、一個足りなかった。つまり、腕章を巻いた犯人に出したと思われる湯呑は発見されなかったのである。犯人が指紋の発見を恐れて持ち去ったものと考えられる。そして、これらの湯呑の飲み残りは集められてガラスの醤油差しに入れられたが、それはごく少ない量だった。また死体の吐瀉物は八個の湯呑茶碗に採集されたが、これらは、翌二十七日に、警視庁鑑識課の理化学室に届けられた。
被害者たちの話では、最初に刺激の強い薬を飲まされ、第二回に飲んだものは、水と同じものだった、ということだから、青酸化合物を飲んだとすれば、この第一の方と思われる。そうすると、この飲み残りは、殆ど第二液が主なわけだ。これを調べると、青酸その他、毒物らしいものは何も出なかった。
そこで、更に精密に検査する必要があって、胃の内容物の分光分析を、東大理学部化学研究室の木村教授に依頼して垣花助手が正式に分析を行なった。死者の吐物を入れた湯呑と、残りの液を入れた醤油差し、更に生存者の胃洗滌による吐物を入れた二本の褐色の瓶が届けられたが、この両方の液からも少量の青酸が検出された。西山技師が、この瓶の一方を開けたとき、青酸の臭いにまじって石炭酸の臭いがした。あとで聖母病院で調べたところ、それは石炭酸の空瓶を使ったことが分った。とにかく、調べた限りでは、胃の内容物や飲み残り液からは、カリとナトリウムしか出ない。そういう試験の結果、青酸カリとして捜査してもいい、という腹を捜査当局は決めた。しかし、西山技師は慎重を期して、第一薬は青酸カリに類するもの、第二薬は水らしいもの、と報告した。
胃内容物には、明らかに青酸が認められる。従って、飲んだ毒物が青酸であることは間違いなかった。ただ、青酸と何との化合物であるかが問題である。そこで、更に胃内容物を濾過した液について、いろいろな反応検査が行なわれたが、カリとナトリウムしか依然として検出されない。だから、結局、青酸カリ、または、青酸ナトリウムというものに間違いない、と推定された。
私が、なぜ、このように毒物検査を詳細に書くかは、この事件ではこの毒物が唯一の兇器だからである。
[#5字下げ]6
帝銀事件が発生してのち、他の銀行に類似の未遂事件があったことが分った。それは、帝銀事件から一週間前の一月十九日午後三時五分ごろ、新宿区下落合の三菱銀行中井支店に、品のいい紳士風の男が訪れて、厚生省技官医学博士山口二郎、東京都防疫官と印刷した名刺を出して、都の衛生課から来たが、ここのお得意さんから七名ほどの集団赤痢が発生したので、進駐軍が車で消毒に来たが、その会社の一人が、今日この銀行に預金に来たことが分った。それで、銀行の人も、現金、帳簿、各室全部消毒しなければならない。今日は現送はあったか、と訊いた。支店長が、現送は無い、と答え、預金に来た者の会社の名前を訊くと、赤痢が出たのは、新宿区下落合の井華鉱業落合寮で、そこの責任者の大谷という人がここに来た筈だ、と山口と名乗る防疫官は云った。支店では井華鉱業と取引はなかったが、井華鉱業落合寮の責任者の大谷という同じ名前で六十五円預金したことが分ったので、折から、行員が小為替類をまとめて本店に運ぼうとしているのを止めた。
支店長は、一枚のことでそんなことをされては困ります、その為替を消毒するだけにしてもらいたい、と抗議したので、彼は肩に掛けていたズックの鞄の中から、小さな瓶を取り出し、その瓶に入っていた無色透明の液体を、その小為替の裏表全体にふりかけたのちに、それを戻した。そして、彼は、これでいいと思うが、MPがやかましく云ったらまたあとで来る、もし来なかったら済んだものと思って結構です、と云って帰った。
この事件は、実害がなかったため、当時、銀行は警察には届けなかったものである。
問題の松井蔚の名刺が使われたのは、前年の昭和二十二年十月十四日の出来事である。狙われた銀行は、品川区平塚の安田銀行荏原支店だった。それも午後三時過ぎ、閉店直後の銀行に、一人の品のいい男が現れて、渡辺支店長に、厚生技官医学博士松井蔚、厚生省予防局、という名刺を出した。彼は云った。
「茨城の水害で悪疫が流行したので、現地に派遣され、くたくたに疲れて帰ってきた。ところが、今度は、水害地から子供を連れて小山三丁目のマーケット裏の渡辺という家に避難してきた夫婦者が、赤痢にかかり、そこから集団赤痢が発生したので、消毒のため、GHQのパーカー中尉と一緒にジープで来た。調べてみると、きょう午前中、そこの同居人が、この銀行に預金に来たのが分ったので、この銀行のオール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュ、またはオール・マネーを消毒しなければならない。金も帳簿もそのままにしておくように」
そのものの云い方は、威張った風ではなく、叮嚀だった。
ここでは渡辺支店長が慎重で、近くの平塚橋交番に小使を行かせて問い合わせたので、交番の巡査が、早速、小山三丁目あたりを自転車で探し廻ったが、赤痢が出たような家がない。巡査が銀行に行くと、その男は支店長の前にまだ立っていた。巡査の質問に、その男は、確かに三丁目のマーケットのところに進駐軍の消毒班が来ている筈だ、と主張したので、巡査は再び、確かめるために銀行から出て行った。
そのあとで、その男は、予防のため全員これを飲まなければなりません、と云って、ズックの鞄から、茶褐色の瓶と無色透明の瓶を出した。それから、支店長、行員二十九名を集めて、各自の茶碗に、まず茶褐色の瓶から、茶褐色の液体三滴ずつ、およそ一・五ccばかりを入れ分け、自分で飲んで見せたのち、全員に飲ませ、更に二番目の液も飲ませた。のちの帝銀椎名町支店のときと全く同じやり方である。この作業が終ると、もう消毒班が来そうなものだ、と呟きながら、遅いからちょっと見てくる、と云って、通用口の方へ歩いて消えた。それきり戻って来ない。
そのときの液は、渋味のある|えごい《ヽヽヽ》味だった、と云うだけで、実害がなかった。だが、一応、荏原署に届けたので、荏原署では、概要メモと松井蔚の名刺を保存していた。
この二つの未遂事件が帝銀事件と同一人物の仕業であることは、間違いなかった。そこで捜査陣は、この三つの銀行の行員の証言と、二枚の名刺という物的証拠によって、著しく捜査の進展を予感した。
[#5字下げ]7
更に、帝銀事件から二日後の一月二十八日の午前十時には、ようやく被害金品が確定して、盗まれた小切手の手配をしたのだが、それは、すでに犯行翌日の二十七日、安田銀行板橋支店から金に換えられていたことが分った。
それは、振出人森越治、金額一万七千四百五十円。裏書には「板橋三の三六六一」と犯人の筆蹟がしるされてあった。裏書人は後藤豊治だったが、これは本人が名前だけ書いていたので、犯人がデタラメの住所を、横に書き加えたのであった。この男の人相、風体について調べると、同銀行支店長代理の田川敏夫は「その男は五尺三寸前後で、肩は丸みをおび、厚みがあって、猫背ではなく、着ぶくれたような感じだった。ラクダらしい格子縞の白っぽい一枚生地のハンチングをかぶっていたが、そのハンチングは、後のほうが立って見え、新品らしかった。オーバーは茶色で、帽子が合の派手なものなのに、茶色の厚ぼったい冬オーバーを着ているのが、いかにも不釣合いで印象に残った」と述べた。そのうえ、その男は、太い黒ぶちの薄茶色の色眼鏡を掛けていた。
犯人が三つの銀行のどの現場にも一人で現れているのに、金を取りに来るときだけ他人を使うということは考えられない。筆蹟も、犯人の年齢、教養の程度と一致する、という見方から小切手を現金に換えた男も犯人自身、従って筆蹟を犯人のものとして捜査することに、捜査当局は方針を決定した。
四つの銀行に現れた男が、全部同じ犯人だとすると、その男は、言葉にあまり特徴的な訛がないこと、服装や態度も田舎臭くないこと、三つの現場の選び方が地方からの上京者にしては垢抜け過ぎていること、しかも帝銀から安田銀行板橋支店へと、一日で服装をすっかり変えて現れている点などから、犯人は都内在住者という捜査範囲の、見込みを立てた。
そこで、安田銀行板橋支店に、同じ時刻ごろ居た客の中から目撃者を探すため、聞込みを行なう一方、都電に乗ってきたということが考えられるので、都電巣鴨営業所に、その男の人相を書いた紙を貼り出して、運転手や車掌の協力を求めた。それには人相、風体ののちに「請負人風」としてしるした。この「請負人風」としたのは、目撃者から得た特徴を汲んだのである。
[#5字下げ]8
ここで、私は捜査当局が、全国の警察署にあてた「帝銀事件捜査要綱」を書いておくことにする。これを読むと、捜査当局が考えていた、最初の帝銀犯人のイメージがどのようなものであったか、はっきりすると思う。
[#1字下げ]「刑捜一第一五四号の六。昭和二十三年二月七日。
[#地付き]刑事部長」
「帝銀毒殺事件捜査要綱一括指示の件。
帝銀毒殺事件については、数次の指示に基き、鋭意捜査中のことと信ずるも、更に認識を深め、捜査の徹底を期するため、左に捜査要綱を一括し一部を付加した。
一、都庁、区役所の衛生課、防疫課(係)、各保健所、病院、医師、薬剤師、その他医療、防疫関係者で、松井蔚または山口二郎の名刺を受けた者がないかを調査すること。
二、次の者から更に似寄人相者を物色すること。
@ 医師、歯科医師、獣医師、生命保険会社保険医師、薬剤師、または各種医学、化学、薬学研究所研究員及び学校の先生、生徒、薬品製造人、または販売業者、もしくは薬品のブローカーに従事し、またはその経験ある者。
A 進駐軍の通訳、事務員、雑役などに従事し、またはその前歴ある者。
B 銀行員、またはその経験ある者。
C 水害地の防疫に従事したる者。
D 引揚者、または帰還将兵中、医療の心得ある者。
E 病院、医院、薬局等より青酸塩類を入手し、またはせんとしたる者、または職務上これらを取扱う者、並びにこれらの工場、製造所に出入りする者」
これら捜査要綱や指針はたびたび出されているが、更に捜査当局はこれらの事件を検討して、その「共通点」を発見している。それは、次のような通告である。
「右三件を検討すると、左の諸点が一致し、同一犯人の所為と推断された。
一、犯行の場所。 三件とも、都心を離れた焼け残りの住宅、または商店街にある小規模の銀行である。
二、犯罪の日時。 第一回は火曜日、二回、三回は月曜日を選んだ。月曜は、前日が休日の関係から銀行の取引高が多いので、犯人はそこを狙ったのではないかと考えられる。時は、いずれも閉店後の残務整理中で、これは一般人の出入りもないし、現金も比較的多い時で、犯行の好機であった。
三、犯人の扮装。 表面丸出しであるが、いずれも左腕に、東京都防疫班、消毒班等と毛筆で達筆に墨書し、東京都マーク、または角印を捺した白布腕章をつけ、相手を信じさせようと図った。
四、職権を肩書した名刺の使用。 前述の厚生省技官の肩書がある松井蔚及び山口二郎の名刺を使用し、相手を信じさせた。
五、犯人の言動の一致点。 (A)自分は水害地の防疫から帰って来た。(B)銀行付近に集団赤痢が発生した。(C)進駐軍に報告され、パーカー、マーカー、ホーネット、コートレー中尉の命により消毒班が自動車で来た。(D)患者を調べると、同家の者が今日、この銀行に金を持って来たことが分った。(E)それゆえ、この銀行の一切のものを消毒せねばならぬ。(F)消毒班がやがて来るから、すべてのものはそのままにしておくように。(G)今日、現送があったか。(H)消毒班が来る前にみな予防薬を飲んでもらわねばならぬ。(I)薬は二種類を、最初飲んでから一分後に第二を飲まねばならぬ。(J)薬が歯に触れると琺瑯質を害するから、こうして飲むのだ。(K)犯人が各自の茶碗を集めさせて、スポイト様のもので、所持の薬瓶から薬液を茶碗に注ぎ、犯人自身その一つを取り範を示した」
ところが、帝銀事件が起って犠牲者の五十七日目を迎え、巷間には、この捜査の迷宮入りが伝えられて来たのである。捜査当局は「資料潤沢」のこの事件にその懸念はないと、本部や各署を督励している。そして、この頃から「軍関係」が見えてくるのだ。
[#5字下げ]9
[#1字下げ]「刑捜一第一五四号の九。昭和二十三年三月二十二日。
[#地付き]刑事部長」
「帝銀毒殺事件については、全国官民の絶大なる協援を得て、五十七日間に亙る継続捜査を推進して来たが、未だ犯人に対する決定的資料を掴む域に達しない。巷間伝うるところによれば、本捜査はすでに行詰りに達し、係員岐路に迷う、の説をなす者あるやに聞くが、およそ本件の如くに資料潤沢にして滋味豊かな事案に対し、僅か数旬の捜査をもって悲観的観測を下すが如きは、断じて首肯し得ない」
と鼓舞し、捜査要綱を新たに左のように加えた。
「(一)、薬学、または理化学系学歴、もしくは職歴、知識、技能、経験ある者より容疑者を物色すること。
(二)、軍関係薬品取扱特殊学校、同研究所及びこれに付属する教導隊、または防疫給水隊、もしくは憲兵、特務機関に従属の前歴を有する者(主として将校級)より容疑者の物色」
これが六月二十五日になると、捜査はいよいよ追込状態となった。その刑事部長の名前で出された捜査の指示の中から拾い出すことにするが、その前段の文章は、極めて示唆に富むものがある。
「帝銀毒殺事件に関しては、百五十二日の継続捜査にも倦色なく、連日、容疑者の物色及びこれが検討に努力し、成績見るものあるに深甚なる謝意を表する。捜査本部も引続き旺盛なる士気の下、各方面の捜査を推進して来たが、|このほど大幅な捜査線圧縮を果し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|捜査方針の一部を新たな方向に移行した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(傍点、筆者)
○軍関係を最適格とするゆえんは、
第一に犯人は、毒物の量と効果に対し、強い自信を持っていたと認められる点である。
犯人が帝銀で使用の毒薬は、青酸化物溶液であって、その濃度は、五パーセント乃至一〇パーセント。一人々々に与えた量は、大体五ccほどである。これを化学的に推算すると、右の液は、純粋な青酸カリ(またはソーダ)が、〇・二グラム─〇・五グラム含まれている。これは、青酸カリの致死量〇・三グラム─〇・五グラムとすれすれの量に当るから、そこに、犯人の最少の量(刺激)で目的を達しようと企図した努力のほどが窺われる。特に、犯人が十六人を殺す右の溶液を、僅か一二〇cc入り小児用投薬瓶に一本準備して来て、これを二cc入りピペット・スポイトで、二回を少量ずつ正確に割出し、各自の茶碗に注いだ点を勘案すると、薬の量と効果に対する犯人の深い自信が看取せられる。もし、犯人にこの自信がなかったとすれば、もっと濃度を高めるとか、量を増すとかして、そこに素人臭い何等かの破綻を見せるべきであろうが、これを軽く偶然の一致と看過するわけにはいかない。
第二に、犯人は、毒薬の時間的効果に対し深い自信を持っていたと認められる点である。第一、帝銀の場合は、第一薬と第二薬の間に一分の間を設け、この間、毒薬の嚥下者を完全に手許に掌握していた。この一分は、嚥下の毒薬が体内で独自の作用を起し、まさにその効果を発しようとする、犯人にとっては極めて重要な時と推定する。
もし、この間、嚥下者を自由に放任すれば、効果発生時に屋外に飛び出したり、ほかに救いを求める等、致命的な破局を生ずる危険がある。しかして、一分後、第二薬を飲ましてあとは嚥下者に含嗽《うがい》を許し、手許から放している。これは、もう大丈夫である、との犯人の自信、つまり、嚥下者が毒薬に気づいても、外に飛び出したり、ほかに救いを求める時間的余裕がない、との自信と、効果発生時に相手方から受けるであろう断末魔的反撃を避けるための周到な考慮と推測する。これによって犯人は毒薬の時間的効果について充分の自信を持っていたと推定する。
○犯人の所持品中のピペットは、駒込型と云い、細菌研究所または軍関係諸研究所で主として使われ、ケースも、戦時中、軍医が野戦用として携帯した小外科器のケースに、型、大きさなどが最も似寄りであって、これからも犯人の職歴が察知される。
○次は、犯人の態度である。当時、犯人は十六人をも一挙に毒殺する者としてはあまりにも落着きがある、堂々たる態度であった。薬を注ぐにも、計るにも、手先一つふるわさず、応答もしっかりしている。それゆえ、誰ひとり不審を抱かず、一同進んで毒薬を飲んだ感じさえ受ける。この度胸というか沈着さが、犯人の経験から生れた自信による、と断ずることが一概に不合理とは云い切れぬ。
○これらの諸点を割って、これにより捜査方針の一部を軍関係に移行し、着々、これが掘り下げを実施している」
以上が、捜査当局が考えていた帝銀事件犯人の人間像である。この詳細な捜査要綱や指示の各項を読めば、当初立てた当局の推測がいかに精緻であり、合理的であったかがよく分る。まことに見事な推理といわねばならない。
ところが、この六月二十五日付の指示から二月半ほどした九月十四日付の刑捜一第八八七号は、「平沢貞通に対する捜査資料蒐集についての指示」となり、局面は平沢画伯の登場となるのだ。
即ち、平沢に対する逮捕状が出たのが八月十日で、平沢が北海道の小樽で逮捕されて東京に着いたのが、帝銀事件が発生して二百十日目であった。
[#5字下げ]10
帝銀事件捜査は、最初の段階では本筋の方向にむかっていたと思える。捜査要綱の中では、繰返し繰返し、帝銀の真犯人が医者や医療関係者であり、復員の陸軍衛生関係の公算が大であると強くうたっている。この事件に対して約五千人の容疑者が全国の警察で調査されたが、このいずれもが、捜査要綱に云っているような医薬関係者であった。
しかし、ひとり平沢貞通だけには、この医療薬品業務関係がないのだ。彼は一介の画家であった。帝銀であれほど細密な計算や取扱いを行なったほど毒物に対する知識があるとは思われない。
捜査は、なぜに、初期の方針通り最後まで旧陸軍関係にむかわなかったのであろうか。平沢貞通を逮捕した端緒は、松井名刺と人相の点である。だが、松井名刺の根拠の薄弱なことは、前に書いた通りである。容貌は、捜査要綱を読むと「犯人の特徴は目撃者の証言だけでは当てにならないからこれに捉われてはならぬ」と繰り返し注意している。尤もな注意で、正しいといわねばならぬ。だが、実際は、居木井警部補の平沢逮捕のきっかけになったのは、彼の人相が手配のモンタージュ写真とよく似ていたことからである。
平沢に対する面通しは、彼が東京に護送されてから、銀行関係者によって行なわれたが、似ている、と云う者と、あまり似ていない、と云う者との証言に分れた。このことは、ここでは詳しくふれないが、人間が目撃した印象の頼りないことは、すでに捜査要綱自身が、「犯人の特徴を過信し、決定資料とする傾きが今もって絶えないが、再三注意した通り、これは一、二の者が云うに過ぎぬから、全幅の信頼はかけられない」(刑捜一第一五四の八)と自戒している通りなのである。だが、実際は、それに反して平沢は逮捕されたのだ。
この事件の直接証拠となるものは、毒物以外にない。小切手の裏書の文字も、アリバイも、名刺も、証拠と呼ぶにはあまりにも価値稀薄である。例えば、名刺は、松井氏と交換した人物が必ずしも使ったとは云えず、或は第三者に渡したものを悪用されたかも分らないのである。また小切手の裏書も、極言すれば、帝銀で毒殺した当人の筆蹟かどうかは、直接の証明がない。つまり、帝銀の犯人と小切手の裏の「板橋三の三六六一」の住所記入筆者とは別人かも分らないのである。例えばここに共犯者があれば、帝銀の犯人は、その金の引出しだけをほかの者に頼んだという仮説もあり得る。容貌が両者似ているといっても、これが当てにならないことは、捜査要綱の注意事項の指摘通りである。
この事件について共犯者は無い、と捜査本部は決めてかかっているが、しかし、それは共犯者を目撃した者がないというだけのことである。共犯者は必ずしもその犯人と一緒に銀行内に現れたとは限らない。眼の触れないところに共犯者が居たかも知れないのである。
[#5字下げ]11
およそ直接証拠として動かしがたいものは兇器と当人の指紋である。しかし、この事件に関しては、指紋の検出は不可能だった。兇器の毒薬は、裁判は「青酸カリ」と独断したが、その青酸カリにしても平沢がどうして入手していたかの経路さえ分っていない。平沢の最初の自白によれば、それは、昭和十九年十月ごろ、淀橋区柏木にいるとき、薬剤師の野坂某より、絵具の地塗りに混入して用いる、と称して、約一六グラムの青酸カリを貰い受けた、と云っているが、この野坂薬剤師は、すでに死亡していて、その事実を確かめようがないのである。まして、帝銀に使われた毒物が青酸カリであったという決定的な実証は無いのだ。最初、検事は「青酸化合物」と云っていたが、いつの間にか、途中でそれが「青酸カリ」そのものとなってしまっている。
平沢の手記によれば、高木検事もその毒物について困ったらしく、或る日、「なあ、平沢、青酸カリにしておいていいだろうな。お前がそれを貰ったことにしておこうな、いいだろう」と云って決めてしまったと書いている。その事実の有無はともかくとして、裁判記録には、単純に、悉く「青酸カリ」となっているのだ。だが、「青酸カリ」と決定する何等の根拠も証明も帝銀事件に関しては全くないのである。
また、その毒物を使用するとき、ピペットを使ったが、これは「駒込型と云い、細菌研究所または軍関係諸研究所で主として使われた」と捜査要綱は決めているのに、平沢の場合は、そのピペットを所持していた証明がない。仕方がないので、検事は、これを万年筆のスポイトを使用したと決めている。最初のなんら偏見の入らないころの捜査要綱とはまるで違うのである。
そして、その毒物を入れた瓶は、平沢は、「塩酸を入れた瓶」と云ったので、使用後、その瓶はどこへやったか、と、検事が問うと、「銀行を出て、前の長崎神社の境内の藪の中にあるゴミ溜のようなところへ捨てました」(第三十五回聴取書)と云っている。
捜査側では、この自供にもとづいて、長崎神社のゴミ溜を探して、それらしい古瓶を地下四尺から掘って拾い上げたが、もちろん、それが証拠品になるのがどうかしている。ゴミ溜の中から、誰が捨てたとも分らないものを拾い上げたのだ。さすがに公判でもこれを証拠品として取上げていない。
毒物は青酸カリだ、と検察側は云うが、青酸カリは、これを飲むと、普通、十五、六秒の間に絶息するという。ところが、帝銀事件の場合は、第一薬を飲んだ者が、約一分間おいて第二薬を飲み、更に倒れるまで三、四分の余裕はあったようである。青酸カリでは絶対考えられない遅効性であった。これについての捜査当局の推理は、前に述べた通りだが、同一薬を犯人自身も飲んでいながら異状のないことについては、
「《A》飲んだと見せて、実は飲まぬ。(B)飲んだには相違ないが、事前に、中和剤または解毒剤の類を嚥下し、毒物の効力を失わしめた。(C)第一薬を計り出したピペットの中に、予め無害の液または中和剤の類を入れておき、最初、それを自分の茶碗に入れて飲んで見せた。(D)薬液に工作を加え、有害と無害の域を作り、自分は無害の分のみを汲み取り飲んで見せた」
という推定がなされたが、結局、Dの手段によったものと推測された。
[#5字下げ]12
その方法は、薬液の中にトリオールまたは油類を入れるのである。すると、比重の関係から、薬液は下層に沈み、油類は上層に浮び、確然と区別されるから、犯人は上層の無害の分を汲み取り、自己の茶碗に入れ、下層の毒薬を相手方に勧めればよい。事実、帝銀では、第一薬が上層は澄み、下層は白濁しており、若干のガソリン臭があった、というから、犯人はこの方法によったと推定される。また軍関係では、青酸化物溶液を保存するのに、空気に触れさせると炭酸ガスと化合して、逐次表面から無害の炭酸カリに変化するので、その防止方法として油類を入れ、空気との接触を遮断していたとのことである。
これだけ正確に突きながら、なおまだ捜査が軍関係にゆかなかったのはなぜであろうか。そして、これほど、帝銀の真犯人は軍の衛生関係者に直結する、と考えながら、なぜ、医学知識ゼロの平沢に向かわねばならなかったか。また、この薬を飲ませるときに、犯人は始終落着いて、経験者であるような印象を受けたと述べながら、なぜ、毒殺には未経験者の平沢と決定しなければならなかったか。
ところが、事実はその捜査は軍関係に向かって絞られていたのである。そのことは、前出の捜査要綱の六月二十五日付には、「このほど大幅な捜査線圧縮を果し、捜査方針の一部を新たな方向に移行した」といい、同日付、国警本部長官の指示には「捜査は、今や細密なる基礎的捜査段階を経て本格的捜査に移るに至った」と述べ、刑捜一第二〇四号の警視庁指示は、「しかしながら、この間、圧縮し得た捜査綱は、犯人の方向をある程度限定するものがある」とうたっているのである。それが何を指向しているかは、同じく捜査要綱の中で「軍関係適格者に対する容疑者の物色」にあると書いていることで明瞭である。
繰返して云うが、この捜査要綱は、極めて純粋に、帝銀事件犯人の人間像を浮き彫りにした見事なものである。それをなぜに、およそこの捜査要綱とはまるきり離れた平沢貞通に指向しなければならなかったか。
警視庁は、明らかに、捜査の進行途中、一つの壁にぶつかったにちがいない。
[#5字下げ]13
捜査当局でも、この毒物が単純な青酸化物とは思っていなかったであろう。況んや、のちの公判廷で決められたような青酸カリにおいてをやである。
捜査当局は、帝銀に使われた毒物について、あらゆる研究を行なったに違いない。そして、青酸カリ以外の化合物が何であるかの究明に力を尽したと思う。
そして、遂に、それが旧陸軍研究所において製造されていたアセトンシアンヒドリンに極めて類似することが分ったであろう。これは、戦時中、軍が極秘に研究し、製造していたもので、軍用語で「ニトリール」と呼ぶものであった。これは、神奈川県稲田登戸にあった第九技術研究所の田中大尉によって発明されたといわれている。そして、これは帝銀に使われたように遅効性のものであった。しかし、この「ニトリール」が帝銀事件に使用された毒物と同一である、という断定は何もない。ただ、大層よく似ていた、と云うことは出来る。
更に、満州では第七三一部隊があり、石井中将の下にさまざまな謀略用細菌が研究されていた。警視庁が、これらの復員者の中に帝銀事件犯人がいた、と当初考えていたのは当然である。
事実、そのような方針がある程度進んでいたことが、その捜査要綱の中にはっきりと出ている。
「前一の(5)後段(註、犯人は、医療、防疫、薬品取扱、または研究、試験等に経験あり、特に引揚者や軍関係当該研究者及び特務機関員、憲兵などを最適格と見なすことを云う)に述べたる通り、犯人は右関係者に属する公算が極めて大であるから、この筋の洗いについて、特に慎重を期せられたい。なお、これまでの捜査経験によれば、右の大部分は、現在、医療、防疫、薬品関係に就職しているにつき、右捜査については、特に注意を要する。なお、本部において発見した右関係者の名簿(貴管下の部)を末尾に添付したから、おのおの本人につき、容疑の有無、御検討相成ると共に、容疑なきときは、名簿登載漏れの多数ある実情に鑑み、更に本人につき、同一部隊に属した他の適格者を発見せられ、捜査の上、結果を御連絡願いたい」
とある。
これで見ても、捜査の状態がかなり具体的に軍関係に進んでいたことが分る。これには、その名簿さえ付けているのだ。そして、まだ記載漏れがあるだろうから、名簿の本人について、なおも聞いてくれ、と指示している。
ここで注目したいのは、その軍関係の適格者の大部分が、現在、医療、防疫、薬品関係に就職しているという事実である。
当時、第七三一部隊の要員にしても、第九技術研究所関係のメンバーにしても、その細菌や毒物についての知識は卓抜であった。彼らが復員するや、民間の医療、防疫、薬品関係会社に就職したのは、極めて自然のことだった。現在も、薬品会社の技術畑には、多数残留している筈である。
しかし、問題は、これだけの優秀な技術者を、ただ、民間の薬品関係会社だけが拾ったのであろうか、ということである。決してそうではなく、その中の何パーセントかは、GHQの公衆衛生課(PHW)関係に密かに留用されていたのであった。そして、その関係の最高の長が、第七三一部隊長だった石井四郎中将であった。
石井中将は、終戦時に、逸早く帰国した。同中将は、敗戦後、しばらく、新宿区若松町で旅館を営業していたが、新聞記者の追及にあい、その行方は分らなくなった。
石井中将の第七三一部隊は、戦犯として、その部下はソ連側に逮捕され、裁判にかけられている。その裁判記録も、一九五〇年、モスクワで出版された「細菌戦用兵器の準備及び使用の廉《かど》で起訴された元日本軍軍人に関する公判書類」と日本語訳になっている。
ところが、日本に帰還した石井中将関係の人々は、米軍側から戦犯に問われることがなかったばかりか、かえってGHQの中に留用されたのだ。なぜ、アメリカ駐留軍が彼らを使用したか。石井技術部隊にしても、九研関係にしても、当時の陸軍の細菌研究は非常な進歩をみせ、アメリカとしては、何とかこれを利用したいからであった。
裏返して云えば、ソ連側で梶塚隆二軍医中将(終戦時の一〇〇部隊最高幹部)以下を戦犯に問うたのは、彼らに利用価値なし、と判断したと云えるし、アメリカ側で石井中将以下を庇護したのは、利用価値あり、と判断したと云える。むろん、その価値とは、来るべき局地戦争にこれを応用しようとするものである。従ってその秘密研究がGHQ内部に存在することは、あくまでも外部に秘匿されねばならぬものであり、世間に洩れてはならなかったのだ。
もし、帝銀犯人が、このGHQ内に庇護されていた細菌部門関係者の筋から出ていたとすると、これは容易ならざることである。当人のことを云うのではなく、そのために、アメリカが日本旧軍人を留用して細菌研究をしているということが分れば大問題だし、世界に知られては、極めてまずいものなのである。だから警視庁の捜査が軍関係にむかって圧縮尖鋭化されると、困った事態になることは当然だった。占領軍の呼ぶ通称「MPB」(警視庁)の捜査技術は優秀であった。徐々に、しかも的確に、精密に、その網を軍関係に絞りつつあった。しかも、これだけの大事件である。日本の新聞はもとより、外国の通信員が鵜の目鷹の目で事件の推移を注視していた。もし少しでも、そこにGHQ内の細菌研究部門の存在が窺知されようものなら、日本の新聞は押えることは出来るが、世界の特派員の通信を押えることは不可能であった。現に、警視庁では、事件が起った最初、生き残りの犠牲者を聖母病院に入院させたが、日本の新聞記者の面会は堅く禁止した。しかし、外国の新聞記者は押えることが出来なかった。共同通信の記者が病院に行って生き残りの帝銀行員から話を聞いてスクープしたのは、外国通信員に化けたためである。
[#5字下げ]14
平沢貞通が東京に護送されて来たときは、まだ高木検事も、藤田刑事部長も、平沢を「黒」とする確信はなかった。その途中の護送方法の残酷さに、人権問題の声が起り、検事側では、一応取調べたら、すぐに釈放する、と云ったくらいである。しかし、平沢被告に、図らずも日本堂の詐欺事件の前歴が暴露すると、世間の印象も、平沢はクロかも知れないと強く考えるようになった。警視庁も俄かに平沢真犯人説に傾いていったのである。平沢被告にとっては、日本堂事件はまことに決定的な運命であった。
しかし、考えてみると、日本堂の事件は単なる小切手詐欺事件である。詐欺事件と大量虐殺事件とは、自ら質が別だ。だが、一般には、そのような悪いことをするから大量の毒殺もやりかねない、という印象となる。しかし、詐欺を働く者には殺人が出来ない、という信念は、誰よりも捜査に携わる熟練の捜査員たちが知っている筈だ。詐欺と殺人とは根本的に犯人の人格が違うのである。しかし、世間では、そうは見ない。ここに、平沢に対する巧妙な状況設定のすり替えがあった。
さらに、帝銀に用いた毒物は、裁判で云うように、青酸カリではない。高木検事も、裁判の初めには「青酸化合物」という言葉を使っていたが、遂には、いつの間にか「青酸カリ」になってしまった。確かに、帝銀に使われたのは単純な青酸カリではなく、特殊な化合物である。それがアセトンシアンヒドリンやニトリールと呼ぶものであったにせよないにせよ、とにかく、単純な青酸カリでないことは確かであり、その遅効性の特徴から見て、特別な化合物が創造されていることが分るのである。検事側の主張する「青酸カリが古くなったから遅効性となった」というようなナンセンスな話では決してない。
だから、かえってこう云えるのだ。帝銀事件に使われた毒物が単純な青酸カリだったら、或は平沢が犯人かも知れない。しかし、それが特殊なものだったら、断じて犯人は平沢ではないのである。
では、|もし《ヽヽ》、|平沢が犯人でなかったら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、一体《ヽヽ》、|真犯人はどのような人物であろうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。次に、その推定を考えてみたい。
[#5字下げ]15
それには、いろいろなデータがある。帝銀犯行のときに、犯人が眉一つ動かさず、冷静な手つきで薬品の分量を計り、精密な計算で仆《たお》していったという度胸は、捜査要綱がしばしば伝える通り、過去にその経験があった者という推察がなされる。犯人は、陸軍研究所関係で主として使用されていたという「駒込型」ピペットを持っていた。実演のときに見せた薬の飲み方も、到底、素人の技とは思えない。第一薬を自ら見本として飲んで見せても、自己に実害を与えなかったことの用心深さも、繊細な技術を要する。
犯人は、必ず、近くに赤痢やチフスが発生した、と云って消毒に来ている。事実、帝銀の場合は、近くの相田小太郎という家で、疑似発疹チフスが発生していた。自供の中で平沢は、通りがかりにジープを見たから、と云っているが、それは表通りからはちょっと見えない路地の奥だった。しかも、そのジープが駐車していた時刻は、三時よりも以前である(そのジープに同乗していた日本人、区の職員の証言によると、区役所に帰ったのは三時十五分ごろだったという)。だから、平沢がジープを見ることは不可能なわけだった。
帝銀犯人には、この法定伝染病の発生が一つの条件だったと云える。だから、捜査当局が、犯人は都の衛生関係の情報を知り得る立場にあった、と云っている。だが、それは都だけだったろうか。当時、その伝染病の発生については、都の衛生局からGHQ公衆衛生部にも報告されていた筈である。悪疫発生状態を知っていたのは、都だけではないのだ。
犯人は、現場でパーカー中尉、或いはホーネット、コートレー、マーカー中尉の名前を挙げている。これは、聞く方の耳によって受取り方が違ったのだが、調べてみると、それは実際に存在していた人物だった。
「犯人が現場で云った進駐軍の中尉の名のうち、パーカー及びコーネットというのがあったが、調査の結果、右はいずれも実在し、且つ防疫に従事した事実があるので、犯人はこれに関係を持つ者、即ち、当時、同中尉の防疫に干与した者ではないか、との推定により、目下、極力、捜査中である」(捜査要綱)とある通りである。
名前をデタラメに云って、一人くらいは偶然に符合することはあり得るとして、二人の実在の名前をいい加減に云い当てることは不可能である。犯人は、進駐軍防疫官の名前をはっきり知っていたのだ。
以上のことから、毒殺者は、当時の進駐軍に留用された細菌関係の旧軍人または軍属、と推量していいのではなかろうか。彼が英語を使っていたという事実は、それが巧くはないにしても、留用者を推量する参考にならないだろうか。もちろん、進駐軍の命令だということを本当らしくみせるため、わざと英語を使ったという見方もあるが、それよりも、進駐軍関係者そのものであった、と考えた方が自然である。
そのことをなおも考えるために、犯人が四つの銀行に現れた日と、山口二郎名刺を注文した日を表にしてみる。
二二年 一〇・一四(火)後3〜4時(安田荏原支店未遂)
二三年 一・一七(土)前10時(山口名刺注文)
〃  一・一八(日)午前中(同名刺受取)
〃  一・一九(月)後3〜4時(三菱中井支店未遂)
〃  一・二六(月)後3〜4時(帝銀椎名町支店既遂)
〃  一・二七(火)後3時30分(安田板橋支店小切手受取)
警視庁捜査要綱では、犯人捜査は「日」ではなく「時」である、と云っている。つまり「時」とは、この時間のアリバイを云うのだ。だが、私は、更にこれに曜日ということに注意したい。山口名刺関係の土、日を除いて、あとの犯行は月曜日と火曜日ばかりである。捜査当局では、これを解釈して、「月曜日は日曜日の翌る日で銀行事務が繁雑だから犯人はその混雑を狙った」と云っているが、では、火曜日はどう説明するだろう。私の観点は違う。
つまり、犯人は、勤務の都合上、月曜日と火曜日の午後しか身体があかなかった、ということが云えるのではなかろうか。土曜日と日曜日(山口名刺)は、進駐軍関係は休みである。だから、午前中でもかまわなかった。しかし、彼は勤務の状態から、火曜日と月曜日の午後だけ身体が自由であった。当時の進駐軍関係では、勤務の状態によってこういうことはあり得た。帝銀犯人の場合は、水、木、金は一日じゅう拘束された勤務だったのであろう。
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例えば、二十七日(火)の安田板橋支店に小切手を受取りに行ったときを考えてみよう。普通ならその小切手の手配が回らないうちに、一刻も早く換金したいところである。だから午前中に行った方が、午後に行くよりも安全率が高い筈だ。ところが、実際には犯人は三時半でなければ現れていない。これは、彼が火曜日は午後でなければ身体が自由にならなかったということになろう。それなら、それほど大事な犯罪をするのだから、勤務を休んでやった、という考えも起るかも知れないが、犯行当日に勤務を休めば、それだけ怪しまれるわけである。
次に、犯人は、焼跡の多い辺鄙な小銀行を選んだ。ここでは人数も二十人から三十人ぐらいで、いわば、人数を掌握する点では、丁度、手ごろではなかろうか。そして、彼の行動範囲は、北は板橋から、南は品川近く(荏原)に至っている。その間に、椎名町と中井が入る。更に、名刺を頼んだ銀座にも現れている。まことに、その行動範囲は全都の南北に亙っている、と云っていい。もちろん、日は違う。だが、彼が午後からしか勤務の拘束が解かれなかったり(しかも現場に現れたのが三時以後になっている)、自由がなかったとすると、一種の機動性がそこに見られるのである。
殊に、帝銀椎名町支店を襲ったときは、雪降りのあとの道であった。
平沢アリバイ論では、弁護側が、五十七歳の平沢が長靴をはいて現場まで僅かな時間で到着する筈がない、と論じていることも参考になる。つまり、この機動性を私は、犯人は或はジープを利用していたのではないかと思うのである。
犯人は、細密な計算を立てて、銀行の犯行をやってのけたが、彼にも、犯行途中で外から人が入ってくることの懸念はあったに違いない。例えば、時間外に得意先の者が用事で通用門から入って来るとか、外勤係が戻って来るとかという心配はあったであろう。そのとき、一人でも外から来て、行員がばたばた仆れるのを目撃すれば、万事休すである。忽ち外に急を告げに行くだろうから、犯人は進退きわまるわけである。あれほど精密な計算を立てた犯人が、そのときの身の処置を考えなかったというのは不自然である。必ず、そのときの用意をしていたに違いない。僥倖にだけ頼ったのではあるまい。
例えば、こういう想定は成立たないか。進駐軍要員であった彼は、その付近までジープで来て、それを目立たぬところに置いて、あとは銀行まで歩いて来る。服装は上から私物のオーバーを被ればちょっと分るまい。事実、行員は犯人の服装を正確に憶えていなかったが、オーバーを着ていたとは云っている。もし追いかけられたら、忽ちそのジープのところまで走ってゆき、それを動かして逃走する、という寸法だ。当時、進駐軍のジープは黄ナンバーであって、日本の警察も迂闊にはこれに手をつけることは出来なかった。昭和二十二年から三年の初めといえば、進駐軍の威力が最も発揮されていた頃である。
ところが、「捜査要綱」によると、自動車の線を洗ってはいたが、当局は途中でこれを捨てている。その対象をもっぱら日本側の自動車に目標を置いたからであろう。進駐軍用のジープは、その対象外であったに違いない。
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ジープといえば、帝銀椎名町支店の近所にある相田小太郎方に来ていたジープも、もっと研究する必要があるのではないか。このジープは、相田宅に疑似発疹チフスが起って、その消毒に都の衛生課員が進駐軍軍人と来たものだが、そのチフスは集団発生ではなかった。平沢がこのジープを見たという自供は時間的に合わないという弁護人側の主張は別にしても、ただ一軒に伝染病が発生したからといって、わざわざ進駐軍の軍人が来るものだろうか。そんなことは都の衛生課員に任してよかったのではないか。しかも、それに同乗して来たのは、アーレンという軍曹であった。
それが、例えば、上野の地下道に浮浪者が屯《たむろ》していてDDTを撒布する、といった大仕掛な消毒ならともかく、一個人の家に発生したというだけで、進駐軍の軍曹がわざわざやって来たという事実は、もっと考究されてよいと思う。
更に、犯人が口にしたというパーカーとコーネットの両中尉は、帝銀捜査が旧軍人関係に指向されていた頃、帰国転属になっているのだ。前にも述べたように、犯人は、偶然にこの両中尉の名前を口にしたとは思えない。犯人と、この防疫係の両中尉とは、それが直接的でないにせよ、何等かの関係はあったと思う。だから、両中尉の周辺から洗ってゆけば、或は真犯人に到達する可能性があったかも知れない。ところが、何ゆえか、防疫担当のこの両中尉は転属を命ぜられて、日本から去ってしまった。
帰国と云えば、平沢のアリバイに関係あるエリーという軍人も、同じように転属になっている。
当時、平沢の次女は、このエリーと親密であったが、一月二十六日(帝銀事件の日)、エリーは中野の平沢宅に遊びに来ていたが、ボストンバッグにタドンを入れた平沢の帰宅をその日の夕方迎えている。このことが証言されると、平沢が帝銀に行く筈のないアリバイが証明されるのだが。
エリーの勤務表を調べてみると、一月二十六日は、確かに公休になっていた。だからエリーが遊びに来たのは、日付に思い違いはないのである。ところが、このエリーも、平沢が逮捕されてからすぐに、本国へ転勤となっている。エリーの証言を日本で得る機会は、それで無くなってしまった。
そこで、弁護人側は、アメリカにいるエリーの国際公証を申請したのだが、裁判所は、これを却下している。このエリーの帰国も、前に述べたパーカー、コーネット両中尉の転属と、どこか同じような狙いが感じられるのである。
それなら、私の想像による犯人は、GHQのどのようなところに所属していたであろうか。
それは、三つの仮説が立てられる。
@ 犯人は、現役のG3(作戦部)所属機関の極秘石井グループの正式メンバーであった。
A 関係は皆無とは云えないが、上級グループではなく、また、戦後の秘密作業(細菌戦術)の進行には直接タッチしていなかった。
B 曾ての第七三一部隊(関東軍防疫給水部、石井部隊)か、または第一〇〇部隊(関東軍軍馬防疫廠)に所属した中堅メンバーであり、ニトリールのような毒物の存在を知り、かつ、それを使用しうる立場にあったが、戦後の秘密作業は知っていたものの、関係は公的にはなかった。
という三つの仮説である。
その内、実際に考えられやすいのは、第三のケースだが、この方面の警視庁の洗いに対し、GHQやG2のCIC、またはPSD(CIEの世論・社会調査課)が、日本側にある種のサジェッションを行なった、という想像は空想ではないと思う。
実際、警視庁は、最初の捜査要綱に基いて、本格的に軍関係方面にむかって捜査を行なっていたのだし、事実、警視庁本来の実力をもってすれば、遠からず真犯人の身辺近いところに進み得たであろう。しかし、この犯人が分ることは、同時に、現在進行中のG3直属の秘密作業を日本側に知らせることになるので、この捜査方針の切換えの必要を米側は切実に感じたであろう。そこで、捜査要綱に基く本筋捜査の打切りにGHQが大きく動き出した、というのが想像に泛ぶ状況である。
当時、日本の北や南の涯、或は日本海の沿岸の、しがない開業医や、また医者をしていた者でもその前歴者には、警察機関の内偵が進んでいたのである。(前述、捜査要綱名簿の箇所参照)
GHQが、犯人の身辺に当局の捜査の手を伸ばしてもらいたくない理由は、GHQのセクション(作戦参謀部)の、最高秘密作戦計画の一つであるCBR計画のC項(細菌)における石井作業の完全秘匿にあったと思う。この作業内容が日本警察の捜査によって暴露すると、甚だ困ったことになるからだ。
もし、その存在が少しでも漏れたら、忽ちそれは新聞、報道関係、特に東京駐在のUPやAPなどによって世界に打電される危険があった。実際、その頃、GHQとしては、出来るだけ速かに帝銀事件の締め括りをするように日本側に要望していた。表面では、前代未聞のこの残虐行為を早く解決すべしという慫慂《しようよう》ではあったが、実の肚は、捜査の手が軍部に伸びない前に、何でもよいから早く「犯人」が検挙されることを望んでいたのではあるまいか。
恰も、そこに、警視庁主流派からは冷眼視されていた居木井名刺班が、北海道から平沢貞通を捕えて来たのである。もともと、コルサコフ氏病にかかって精神に錯乱を来していた気味の彼は、検事の取調べに対して、それでも三十日間の抵抗を試みたが、遂に半分発狂状態になって落ちてしまった。GHQとしては、最も望むべき事態に解決がむかったのである。
更にGHQに幸いしたことは、この平沢貞通に日本堂詐欺事件の過去があって、そのために、人権問題まで起していた平沢に対する世間の同情が急激に黒説の印象に変ったことである。ここで再度云う。詐欺と殺人とは全く異った犯罪質なのである。それを犯罪前歴者という概念のもとに状況が作られ、平沢貞通は敗北したのであった。
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捜査要綱にうたわれた指針こそ、帝銀事件に対する本筋であったと思う。それが平沢逮捕によって急激に変更されたのは、「壁」にぶつかった捜査本部が、急激に平沢へ廻転したゆえんではないかと思う。とにかく、この事件を何とか解決するためには「犯人」が必要であった──という私の想像は荒唐無稽であろうか。
事件捜査が完了して、その打上式に出席したGHQ公衆安全課主任警察行政官H・S・イートンが「不可解にも近い障害を克服して、帝銀事件を見事に解決したことは、世界でも類例を見ない。諸君は、容疑者に手錠をはめたり、護送の途中新聞記者に会わせたことに対し、人権を侵害した、と非難を浴びたが、これは事情を知らぬ者の言である」と捜査当局の活動を称讃したのは、また別な意味にも取れるのである。
警視庁では、帝銀に使われた毒物が、軍で造ったアセトンシアンヒドリンに似ていることを知っていた。だから弁護人側にも同じように分っていた。それで弁護人は、第九技術研究所の元課員であった伴繁雄中尉を証人として出廷させることを申請した。伴中尉は、このアセトンシアンヒドリンを使って軍が上海で実験したのに立会った、と云われている人である。ところが、検事はこれを却下したが、そのとき、検事は弁護人にむかって「そんなことをすると、GHQの壁にぶつかりますよ」と云ったということである。
では、上海で実験したというのはどのようなことか。現在いわれているのは、次のような内容である。
実験に使われたのは中国軍俘虜で、場所は上海特務機関の一室だった。昭和十八年十月のことで、すでに戦局が日本側に不利な時である。俘虜は三人ずつが密室へ閉じ込められた。周囲は、厳重な憲兵の警戒網がしかれている。その中に、白い手術着の軍医が立っていた。これはニセの軍医で、第九技研の所員だった。
医官に続いて、赤十字の腕章を付けた衛生兵(これも本部から特派された憲兵)が入り、すぐ俘虜たちに告げた。君たちの居た収容所では、今、伝染病が流行している。君たちが保菌者でない証拠はない。もし発病したら、この日本軍機関も困るし、君たちも病気にかかるのは辛いだろう。それで、今日、軍医が予防薬を持って来た。飲み方は、こちらから指示する。「第一薬は、この通りにして飲む。すぐあとで第二薬を飲む」と云って、軍医も衛生兵も、俘虜たちと同じ茶碗へ注いだ薬を飲み、更に第二薬を重ねた。もちろん、初めから軍医と衛生兵のものはそれとなく目印がついていた。結果は、予想通りうまくいった。第一薬を飲んだ俘虜たちは、第二薬をつづけて飲んだ。五、六分経つと、俘虜たちは激しく苦しみ出し、忽ち四肢を引きつらせて昏倒し、やがて二、三分ののち絶命した。青酸カリなら即死だが、五、六分を経てはじめて仆れるというこの毒物の成果は、これで実験済みとなったのである。
この薬の使用目的は、敵地に潜入した情報班員が捕われたとき、敵の油断を見すまして、看守を仆し、脱出するための貴重な時間を稼がせるにあった。また、敗戦時の自決用としても考えられたとも云われている。つまり、飲んですぐに断末魔を見せたら、あとから飲む者が勇気を失うので、五、六分の猶予をおくように造られていた、と云うのである。
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ところで、帝銀事件捜査に、GHQがあれほど接触されるのを嫌っていた石井中将以下の細菌関係の留用者たちは、何を研究していたのであろうか。
もともと、七三一部隊にしても、一〇〇部隊にしても、日本軍部の上層部ではその技術が高く評価されていたのだ。そのことを証明するのに、次のような事実がある。
軍隊の経験ある者ならば、誰でも知っているだろうが、陸軍には「各部」というものがあった。これは「兵科」というのに対する言葉で、例えば、技術とか、経理とか、獣医とか、衛生とかいうものであり、「兵科」に比べて、最高職は中将までである。特に職業軍人の「兵科」からすれば、「各部」というのは一段格が下のように見られていた。そればかりでもあるまいが、いわゆる作戦ということになると、参謀の起案する作戦命令というものは「作命×第何号」というので、×のところには甲、乙、丙、丁などの区別があって、その重要度を表わしていた。このうち、甲は最も重要な作戦命令であって、「兵科」はともかく、「各部」などには甲の適用などはまず無かったといっていい。あっても、それは特例中の特例といってよかろう。
ところが、細菌部隊だけはこれと違っていた。即ち、「作命甲第何号」という、甲という特殊ケースが無数にあったといわれる。
では、この甲という特別に重要な意味を持つものにどんなものがあったかというと、例えば、事前に、ある都市や山村に潜入した細菌部隊要員が、その実験経過を試すために、狙ったものや場所に伝染病菌などを撒布するのだ。もちろん、極秘裡に実行された。それは必ずしも占領地域だけではなかった。敵地に対しても潜入して行なわれた。熱河作戦が「阿片作戦」といわれているように、こうした細菌作戦が行なわれた著名な作戦も相当数に上ったのである。
この工作が完了すると、別の名目でその地域に対して作戦が行なわれる。それは軍事行動の場合もあるし、隠密行動のときもある。その時がいずれも「作命甲」というような扱いになされるのである。その狙いとするところは、細菌戦の効果がどの程度にあったか、その状況を知るため、いろいろな方法が取られたのであった。場合によっては、死体を運び出して、これを解剖し、確かに所定の菌や毒によって目的が果されたかどうかを、また、その確率などを調査されたのだった。
その作戦に従う一般兵から見ると、目的を知らされない場合が多かった。だから、今日でも、その真の目的を知らされずに、表向きに下命された状況や命令通りを思い込んでいる人たちの方が多いであろう。
この事実は、この特殊作業を握っていた石井軍医中将に対するGHQの特別待遇に通じている、といってよい。
この細菌戦準備の全貌について明るかった関東軍細菌部隊の首脳高橋軍医中将が、ソ連の裁判廷で供述した内容の一部を摘記してみよう。
問 あなたは第一〇〇部隊の細菌戦態勢について、関東軍司令官梅津大将に報告したか。
答 しました。
問 梅津大将に報告した内容は?
答 第一〇〇部隊は、その使命について努力しつつある。諸設備や細菌の増殖状態も、順調に進んでいるなど……。
問 梅津大将は何と答えたか。
答 非常に満足した。いっそう努力してくれと云った。
問 第一〇〇部隊の年間の細菌生産高は?
答 炭疽菌千キログラム、鼻疽菌五〇〇キログラム、赤痢菌百キログラム。
問 その生産高で十分と思ったか。
答 いや、十分と見なさなかった。
問 第一〇〇部隊が、興安省に派遣された任務は何か。
答 河川、貯水池、牧地、家畜頭数の調査および季節による家畜の移動調査。
問 この偵察の目的は何か。
答 それについて梅津大将は、私に次のように語った。すなわち、対ソ戦が始まった場合、もし日本軍が防禦を行なうべき大興安嶺まで退却するならば、第一〇〇部隊は、このさい北興安嶺の家畜をすべて家畜伝染病に感染させ、これを利用する敵に伝染病を感染させて、戦力の低減をはかるのだと。故に第一〇〇部隊は、その使命を達するため調査を開始したのである。
問 山田大将が関東軍司令官になってから、あなたは第一〇〇部隊の業務について報告したか。
答 三回にわたって概略を報告した。
問 その報告に対する、山田大将の態度はどうであったか。
答 「同じ方針で続行するよう」と簡単な言葉であった。だから、私は山田司令官も梅津前司令官と同じ方針だと思った。
問 あなたは第一〇〇部隊で、人体実験が行なわれたことを知っていたか。
答 聞いていた。しかし、コレラの実験は聞いていなかった。しかし、その責任は私が負うべきものである。
問 この細菌戦の準備は、まず第一にソビエト同盟を目標としたのか。
答 その通りである。(『日本週報』第四五六号)
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この日本の細菌技術を、GHQは関係者を留用することによって著しく研究を進歩させた、といわれている。そして、今では殆ど定説になっているが、朝鮮事変については専らこの細菌作戦が取られたという。
だが、アメリカでも、この細菌戦の研究は早くから進められていたのである。この機関がどのような研究をやったかは、一九四六年の、G・W・マーク(のちのアメリカ細菌兵器委員会の委員長、細菌兵器進歩の功によって陸軍長官に任ぜられた)の報告によっても明らかだ。
これによると、細菌兵器の研究は飛躍的に進み、アメリカ陸軍化学研究所の手に移って、その中心研究機関として、別名「特殊計画部」がメリーランド州フレデリック市の近郊キャンプ・デトリックに設けられて、第二次大戦中に約三千六百人がここで働いていたという。また、アメリカ海軍では、これとは別に、カルフォルニヤ大学の中に、直属の細菌兵器の研究機関を持っていた。これらの研究費用は、約五千万ドルに上った。ところが、朝鮮動乱の三カ月前の、一九五〇年三月三十一日、国防相ルイス・ジョンソンは、大統領に年間報告を行ない、その中で「人間、家畜及び穀物に対し、伝染性の多数の病原体に関する完全且つ詳細な研究がなされている。しかし、国防上の見地から、この研究を公表するのは賢明ではない」と述べた。
また、一九五〇年の「ミリタリー・レビュー」(『軍事評論』)四月号には、細菌兵器の使用についての論文が掲載され、「感染された病気は、出来得る限り治療困難であることを要し、また、その感染経路が判定困難であることが必要である。そして場所の如何を問わず、医療的免疫が可能であってはならないし、感染者がいかなる化学的治療にも無反応になることが望ましい」といったことが記されている。
そのうえ、一九五一年三月、アメリカ衛生研究所のヘース所長は「微生物の砲弾と爆弾がすでに完成し、使用出来る段階にまで達した」と発表した。以下、これに関してすでに発表された記録によると、次のようなことが記されている。
米軍が細菌戦をやり出したのは、一九五〇年国連軍が北朝鮮から退却する際、米軍は退却のため通過した平壌市、平安南道、平安北道などに細菌をばら撒き、そのため天然痘患者が発生し、一九五一年四月までに三千五百件以上にも上り、一割が死亡した。江原道では千百二十六件、咸鏡北道では八百十七件、黄海道では六百二件で、米軍が通過しなかった地域には発生しなかった。
また、一九五一年三月、米軍は、第一〇九一号細菌上陸用舟艇が、朝鮮東海岸元山港にいた際、艇内で朝鮮、中国人民捕虜に実験をやった、といわれている。米国週刊誌『ニューズ・ウィーク』四月九日号は、このことに触れ、「共産軍の中にはペストが蔓延し、この恐るべき病気が国連側にも広まる可能性があった。この上陸用舟艇には、医学的研究設備と実験用動物が乗せられていた」と報じている。──
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帝銀事件に使用された毒物は、検事側が云うような単純な青酸カリではなかった。それは旧陸軍関係が製造した毒物と思われる可能性が強い。そして、それは旧日本軍の研究していた秘密兵器であり、その業績は、当時のGHQが、九研関係者、七三一部隊帰還者の留用によって秘密の裡《うち》に研究されていたことに、われわれの考えは突き当る。
ここまでくると、帝銀事件の教えるものは、単に平沢への懐疑だけではないのである。恐ろしいのは、それらの秘密毒物や細菌が、日本の旧軍部から米国へ技術参加していたことである。
以上の米側の出版物によっても、それが朝鮮動乱に使用されていた事が窺い知られる。更にいえば、右に述べた細菌舟艇は、その後、巨済島の捕虜収容所でも実験を行なったと、当時のAP通信は報道している。「毎日、三千人に対して実験を行ない、そのために、十一万五千余名の、主として北朝鮮捕虜の中で、千四百名はひどい伝染病に侵され、そのほかの八〇パーセントは、ある種の疫病に感染した」という。
一九五二年、二月二十四日、中共の周恩来外交部長は、その抗議声明に「二月二十九日から三月五日までの間に、アメリカの軍用機が六十八回、延四百四十八機が東北地区(満州)領空を侵犯し、撫順、安東、寛甸、臨江などに、細菌のついた昆虫をばら撒いた。ハエは普通のものと比べて色が黒く、頭が小さく、羽が倍も大きく、毛が多い。ノミも普通よりずっと色が黒く、背が長い。クモは茶褐色。これらの昆虫は、厳冬の山野でも生存し活動することが出来る、耐寒性の強い毒虫として培養されたことが証明された」と述べている。
北京において、国際科学委員会が発表した「細菌戦黒書」は、この朝鮮の謀略的細菌のデータを詳しく載せている。(片山さとし訳『細菌戦黒書』)
しかし、この出版物については、米側では、嘘だ、と反撃した。だが、U2事件でも分るように、果して米側の嘘だという主張が真実かどうかは、自ら判断されるであろう。
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とにかく、帝銀事件は、その捜査段階で、どれほど国際的に影響のある問題を露呈しそうになったか。そして、この秘密厳守のために、一人の犠牲者がニトリールのニの字も知らないのに犯人にされたり、そして、真犯人が完全にそのために罪を逃れたりしていたとすると、これほど恐ろしいことはない。帝銀事件の真犯人は、金欲しさにやったかも知れないが、妄想を逞しゅうすれば、一種の実験用としてやったかも知れない幻さえ抱くのである。
この帝銀事件を考えると、兇器に使われた正体不明の毒物は、更に最近の安保条約にうたわれた「細菌学職」にも連想されて、われわれは不安を感じるのである。
第三十四回国会参院予算委員会第二分科会では、岩間正男氏の質問に、政府委員小里玲氏は次のように答弁している。
「細菌学職。この職務にある労務者は、バクテリア、リケッチア、ヴィールスその他細菌的組織体ならびにその発生の形状、組織および生命の過程、人、動物または魚類の病気の原因としての重要性、殺菌、消毒および統御の方法、病気療法上の利用、衛生、分解、醗酵、工業的過程または土壌生産性に対するその活動と効果などに関する研究と調査における研究または他の専門的および科学的作業について勧告し、運営し、監督し、または実施する。この職名にある労務者は、次のごとき代表的な職務を監督または実施する(略)」
しかし、この政府答弁は通りいっぺんの体裁であり、偽装とごまかしが感じられる。この細菌学職が、答弁のような平和的な利用とは、とうてい考えられないのである。問題は、アメリカ側からそれが要求されたということであり、それによってやはり戦術的なものに結び着くとしか思えないのである。
帝銀事件は、われわれに二つの重要な示唆を与えた。一つは、われわれの個人生活が、|いつ《ヽヽ》、|どんな機会に《ヽヽヽヽヽヽ》「犯人《ヽヽ》」|に仕立上げられるか知れないという条件の中に棲息している不安であり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一つは《ヽヽヽ》、|この事件に使われた未だに正体不明のその毒物が《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今度の新安保による危惧の中にも生きているということである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
[#改ページ]
[#1字下げ] 鹿地亘事件
[#5字下げ]1
昭和二十六年十一月二十五日午後七時ごろ、藤沢市鵠沼に転地療養していた鹿地亘《かじわたる》は、江ノ電鵠沼付近の道路を散歩中、二台の米軍乗用車によって挾まれた。次に、車から降りた五、六人の米軍人の手で車内に連れ込まれ、手錠を掛けられ、白い布で眼隠しされたまま拉致された。いわゆる鹿地事件の発端である。
事件の経過をなるべく簡略にするために、要点だけを摘記していくと、鹿地が最初監禁された場所は、東京都本郷の岩崎別邸、通称岩崎ハウスと呼ばれるキャノン機関の本拠であった。ここで四日間を過し、十一月二十九日には、川崎市新丸子の東銀川崎クラブに移された。最後は神奈川県茅ヶ崎の接収家屋に留置された。
十二月二日には鹿地はクレゾール液を飲んで自殺を図っている。
のちに、鹿地が衆議院法務委員会で証言したところによると、その経過は次のようなことになる。(鹿地証言要旨摘記)
「散歩中逮捕されたのは、適切に云えば、人さらいに遇ったようなものである。恰度、江ノ電の鵠沼の道路にさしかかったとき、軍用車がやって来た。避けようとしたとき、車は横づけにされて、中から制服、私服の軍人五、六人が出て来て、ものも云わぬうちに殴り倒され、車中に引きずり込まれた。殴られたときには傷はつかなかった。付近は学校や住宅だから、人通りはあまりなかった。私はそのとき、残念ながら大声を上げるだけの肺の力がない。健康からいって抵抗力がなかった。
一時間ほど連れて行かれ、建物の階段を半ば担がれて二階の一室に連れ込まれ、後ろ向きのまま夜明けまで訊問が続けられた。『英語を知っているか』と訊かれたが、『少しは分るが、知らぬ』と答えると、彼らは英語で相談をはじめた。それによると、『厄介なことになった』とか、『あまり酷い拷問を加えると参ってしまう』とか云っていた。キャノン少佐(のちに中佐)は、自分に『拷問は嫌いだが、場合によっては止むを得ない』と云い、また『静脈に麻薬を入れて無意識のうちにしゃべらせてやる』とも云った。
五日目に、眼隠しをして病院に連れて行き、レントゲンを撮った。それから数日を経て米人の医者が治療に来たが、『このままでは半年も持たない』と云った。
訊問はなお続いたが、自分は殆ど気力が無くなってしまった。キャノン少佐が看護と監視のために付けていたのが、光田ともビル・田中とも云う男で、これが釈放されるまでずっと自分に付いていた。
外部との接触は全然断たれていた。私はかかるやり方に抵抗する手段を考えた。
二十六年十一月二十九日夜、眼隠しをされて川崎に連れて行かれ、そこで監禁された。光田が怠け者だったらしく、日本人の山田善二郎を代りに私の看護と監視に当らせた。この人が次第に私の様子を見たり、その後私が自殺を図ったりしたのに感動し、同胞としての心が湧き立ってきた。私も純情なよい青年と分ってきたので、事情を打明けて、内山完造さんに手紙を渡してもらうように頼んだ。その後、そういう方法で山田君がときどき私の使者をやった。
同年十二月二日未明に自殺を図った。家族に手紙を出したのは、十二月末か一月に入ってからと思う。それは軍の方で、家族が心配しているだろうから『道路上で交通事故に遭ったので、しばらく知人の家にいる。すぐ帰るから安心しろ』という手紙を書け、と云ったので、自分も家族が安心すると思い、手紙を書いた。
自分はベッドの脚に足を縛りつけられていた。自分は鎖などを取ってもらうよう妥協したいと思って、次第に名前も云い、相手と話もした。そうしたら相手は鎖を解いてくれた。
十二月二日、自分は自然に死ぬものなら自分の意志をはっきりさせたいと思って、午前二時ごろ、最初、シャンデリヤに帯を下げ、首を吊った。一時意識を失ったが、気が付いてみると、ベルトは切れていた。これはしまったと思い、そばにあったクレゾールの瓶を取って三分の二ばかり飲み、意識を失った。ところが、翌日の夕刻、意識がさめてみたら手当を受けていた。この状況は、目撃した山田君に訊いたら分る。
とに角、咽喉が焼けて水一滴も入らなかった。約三、四週も経って、ようやくミルクが通るようになった。私の決意というか人間的な態度が分ったのか、これ以後、こういう方法ではいかぬと思ったのだろう、非常に紳士的な態度を装って接触してきた。自分も再び自殺の機会はないと思い、長く機会を待とうと思ったので、基本的な誇りを失わぬ限度で話もしようということになった。
最初、私を逮捕したのはキャノン少佐で、二月末ごろ、同少佐は、ガルシェー大佐を私に紹介し、そのとき、『私の用事は済んだ。今度はこの人たちに引渡す』と云った。私が『帰して欲しい』と云ったら、少佐は『あの人に話せ』と云って振切るように出て行った。極東軍の声明では、CICが短期間私を捕えていたと云うが、私としてはその声明を尊重して反問しようとは思わぬ。光田のほかに、新たにジャック・高橋という二世と、白系露人らしいジミーという男が、代官山の家で交る交る私を監視していた。なお、ガルシェー大佐は、『自分は最高決定者ではない』と云っていたから、もっと関係者があるのだと思う。
軍が私に求めたものは、中国で私がやっていたことを米軍と協力してやってくれ、ということだった。結局、具体的なことは云わなかった。私は『米国の極東政策には不賛成だから協力出来ないだろう』と答えた。私は日本人だから中共党員ではない。日本共産党にも入っていない」
[#5字下げ]2
鹿地が代官山の別荘風の家に移されたのは七月のことで、十二月に入って、突然、沖繩に連行された。そして再び日本に軍用機で送り還され、十二月七日夕方、釈放となった。このときは、ジープに乗せられ、青山の神宮外苑付近で降ろされた。鹿地は車代千二百円を貰って、タクシーで新宿区下落合の夫人池田幸子宅に帰った。鹿地は鵠沼で誘拐されてから約一年間、米軍人の手によって監禁されていたわけである。
ここで鹿地の略歴を述べると、鹿地亘はペンネームで、本名は瀬口貢、明治三十六年、鹿児島県下の中学校長の一人息子として生れた。七高を経て東大を卒業した。在学中より新人会のメンバーとして活動し、卒業後、プロレタリア作家同盟(旧ナップ)に加入し、やがてナップがプロレタリア文化聯盟へと発展的解消するに及んで、その書記長となった。
創作は少く、文学評論で活躍した。その論調は革命的だが、党員ではなかったといわれる。当時、プロレタリア作家は「階級運動における特等席にいるもの」として、実践における日和見的態度を党より批判されたものである。
その後、リンチ共産党事件で二年間入獄、昭和十一年、出獄した。同年、神戸から青島《チンタオ》へ着いて、上海へと渡った。上海では内山完造の世話で魯迅に会い、中国の青年作家の作品を毎月一本ずつ雑誌『改造』に掲載することにして、その翻訳に当った。池田幸子と結婚したのもこの頃である。
この頃から鹿地は魯迅全集の翻訳などして、わりに豊かな生活をしていて、左翼運動も全然やらなかった。
昭和十二年夏になって、いわゆる支那事変の動乱は上海に及び、鹿地は香港から漢口《ハンカオ》へ逃れた。その後、更に重慶に逃れた。この時は、孫文未亡人の宋慶齢と郭沫若の手引によるといわれた。そこでは政治部長の陳誠の下に付き、主として対日宣伝を担当し、終戦時までその仕事をした。この期間中に、抗日宣伝活動機関としての反戦同盟を作ったのである。
鹿地がどうして米軍の監禁から釈放されたか。そのきっかけは、二十七年十一月二十三日号の『週刊朝日』の記事からである。この号には、鹿地の失踪についていろいろな推測を試みていて興味深いが、そのなかに次のような一節がある。
「この事件には目撃者がいた。その話によると、十一月二十五日の夕方、鹿地氏が散歩していると、突然、道の両方からへッド・ライトをアカアカと点けた自動車が迫ってきた。驚いて避けようとしたが、間に合わない。鹿地氏はちょうど追いつめられたネズミのように、動けなくなってしまった。その車から一人の男が出てきて小銃の銃床で殴りつけ、昏倒した鹿地氏をそのまま自動車に乗せて運んでいった。そこは横浜のCIC関係の機関らしい。そこで言語に絶する拷問にあった」
「この話を伝えてくれたのは、その米軍機関に勤務している日本人通訳で、鵠沼の現場にも立会い、横浜でも日夜鹿地氏を監視していた人だが、あまりにひどい有様に同情して、奥さん(鹿地夫人)のところへ様子を知らせに来てくれたのだった。その人の住所も名前も、これが洩れたら私の命が危いから聞いてくれるなという条件だったので、奥さんは全然知らない。そのとき、鹿地さんが通信を書いた紙片を届けてくれた。アメリカ煙草の紙に十行ほど書かれたもので、「誰かに売られた。米軍のある機関に連れられて行っている。実は自殺をしようとして、クレゾールを飲んだが、手っとり早い手当のために目的を果せなかった。だが、身体のことは心配するな。我を忘れよ。子供をたのむ。白公館にて』と間違いない筆跡であった。私はその紙片を奥さんのところで見た。
その人は、その後もやってきて、都合三度ばかり来たようだ。なんでも、その人の姓は山田とかいって伊豆に住んでいるということだけ分っている……。
というのである。この話は、怪文書(英文。鹿地氏の拘禁中、改造社などに発送された。──松本)の内容とぴったり一致する。また、鹿地氏の第一、第二の手紙とも強い関連をもっている。まさに鹿地氏の失踪事件を解明する最大のキメ手と思われる」
この中に出てくる「山田」が山田善二郎である。彼は新丸子の東川クラブ《T・C》のコックとして住み込んでいたが、鹿地の身辺の世話を焼いていたのだった。鹿地が茅ヶ崎のハウスに移されることになったとき、このことを鹿地に知らせ、家族の住所を教えてもらい、休日に下落合の留守宅を探したが、見つからず、二回目に内山完造宅を訪ねて、この事情を知らしたのであった。
ところが、山田は六月十日ごろまで茅ヶ崎にいたが、七月から横須賀の米海軍給与部に移った。が、これも十一月二十四日に退職した。これは、前記の『週刊朝日』に出た「山田」の名前によって、彼が鹿地と内通していたことが米軍関係者に感づかれそうになったからだった。
ともかく、山田自身が身辺の危険を感じて、更に詳しく鹿地のことを、内山完造や日中友好協会関係に訴えたことが鹿地釈放の糸口となったといえる。
つまり、山田の知らせで、鹿地夫人は親族と一緒に社会党代議士猪俣浩三を訪れて、鹿地の救出と山田の保護を頼んだのである。これが十二月六日のことであった。
猪俣は、この問題を早速人権擁護委員会に持込み、更に衆院法務委員会で緊急質問する手筈を整えた。同時に、国警、最高検、人権擁護局などにも事件の究明を申入れた。当時、国警長官だった斎藤昇は、この問題について、「捜索願が出てから全国に手配し捜索しているが、国警としては今のところ有力な手がかりは何もない」と発表した。
この捜索願が出たのが、事件が起って八カ月目であった。つまり、山田の訴えを聞いて、初めて鹿地の捜索願が夫人から出されたのであった。何故、それがこうも遅れたかというと、鹿地の失踪は米機関に誘拐された疑いが最初からあったので、もし、日本警察側に捜索願を出すようなことがあれば、それが米軍機関に通じ、同氏の生命の危険が考えられたからである。
ところが、その七日の夜八時過ぎ、前記のように、鹿地は突然下落合の自宅ヘ一人で帰って来たのだった。
鹿地が釈放されたのは、鹿地自身が云うように「私が救い出されるきっかけとなったのは、山田君の決死の行為のお蔭である」に尽きよう。
つまり、山田が拘禁中の鹿地から手紙を受取り、これを内山完造に連絡したことから、日本の新聞が騒ぎ出したのである。それで遂に米側でも彼を留置し続けることができず、やむなく釈放せざるを得なかったのだ。
もし、山田の通報がなかったら、鹿地の運命はどうなったか分らない。鹿地が監禁されていた東川クラブの使用人の榎本某は、衆院法務委員会で、「クラブの周りは鉄条網とコンクリートの塀で囲まれていて、監視人がいるので、部屋から逃げようとしても出られないだろうと思う」と証言している。
現に、その後、鹿地は米軍用機によって沖繩まで連れて行かれているから、氏の生命は完全に米機関側の手に在ったわけである。日本の新聞が騒いで鹿地の監禁が世間に知れたのは、米軍特務機関の失敗であった。
ところで、鹿地はいかなる理由によって米軍側に捕えられたのであろうか。鹿地自身の衆院法務委員会における証言によると、「中国で私がやっていたことを米軍と協力してやってくれと云われた。結局、具体的なことは云わなかった」とあって、鹿地を米側の或る任務に就かせようために強制隔離したと想われる。この鹿地の言葉にある「中国で私がやっていたこと」という意味は、あとで触れよう。
さて、この事件について、米国大使館スポークスマンは、「もし、鹿地氏が本当に米国人によって虐待を受けたということが立証されるならば、責任者を法に照らすための努力は惜しまないであろう。なお、当大使館の受けた報告によれば、一九五一年末に鹿地氏が抑留された理由は、日本における某外国のスパイとしての関係からであった。この事件の詳細は、すでに日本国警に移されており、国警がいま調査を行なっているものと了解している」と発表した。
この発表は、鹿地が釈放後、衆院法務委員会で証言をした翌る日になされたものだ。そして同じ日、斎藤国警長官は、参院外務委員会、衆院法務委員会で、「鹿地亘氏は、目下、国警で捜査中の某スパイ事件に関連しているものとみられる。鹿地氏署名入りの自供書は、十日、米軍の関係官から受取ったが、これによると、鹿地氏が米国の諜報網の一員であることが立証されている」と答弁した。
この斎藤長官の言葉の中にある「鹿地氏署名入りの自供書」とはどのようなものか。それは鹿地自身の手記から窺える。
「意識あいまいな態度が十日以上続いたろうか。私がものもいえない状態の中で、もうキャノンはすぐやって来て、やかましい尋問をはじめるのだったが、私は医者が来たとき、声を出せないことを訴えた。すると、おどろいていった。医者は『誰もモノをいわしてはいけない』と厳しい顔で、光田に『みんなによく注意するよう』いいつけた。だが、四、五日すると、またキャノンがやって来て、私に『ゆっくりでいいから、これまでのことをまとめて自白書を書け』と、例の自白書を書くことを強いた。こうして彼の構想による自白のスジ書きが私に渡され、やがて原稿用紙とインキがとどけられた。『だれにも知られないよう』にして自白書は一週間ばかりででき上った。いわゆる自白書なるものは、こういう中で、彼らの意図の中で作られたものである。
くわしい内容はおぼえていない。ただその中には、ある外国人のレポに会い、三橋某への橋渡しをしたという虚構の経過が述べられている。むろんこれは、歯ぎしりするほど口惜しいことだったが、このままでは、生け捕りにされた獲物が、捕獲者の手のヒラの上で楽にささえられて、いびられている、無力さを感じて、どうするすべもないので、『よろしい、 それでは一応屈服とみせかけて自由の機会をつかまえよう』と考えなおしはじめた。これが私の自白書を書いたときの気持である。
それができ上ると、彼らの態度は一変した。いや、私が自殺を決行したのち、彼らの態度は変って来たのだ。彼らは私の決意を感じて手段をかえたものであろう」
右の鹿地がキャノンに強要されて書いたという「自供書」の中に出てくる「三橋」は、同じ十二月十日の夜、警視庁に「逮捕」された。このとき、警視庁では、証拠物件として電鍵一、送信機一、電源部一、受信機一、送信機一、送話機一、送信用空中線二本、受信用空中線二本、真空管七個、整流管三個を押収した。
三橋正雄の取調べは「電波法違反容疑」であった。
ところが、斎藤長官は、十三日になって、三橋は「逮捕」したのではなく、三橋が身の危険を感じ取ったといって「自首」して来たのだ、と法務委員会で報告した。そして、鹿地がこの事件に関係があるということは三橋の自供の内容によるものだ、とも云った。その三橋の自供とは何かというと、
@ 三橋がモスクワで無電技術の特殊訓練を受けた経歴を持ち、帰国後、或る筋から十数万円を貰い、某国との無電送受信を行なっていた。
A 鹿地とは仲介者を通じて連絡があった。
などで、電波法第五二条第一項及び第一一〇条の違反の容疑が強い、とある。
更に、三橋については、取調べの結果、スパイ容疑が明らかになった。即ち、終戦後、陸軍通信兵としてソ連に抑留された三橋は、各専門部門に分れたスパイ教育の通信関係を教育され、二十二年十二月、舞鶴港に帰国。翌年一月ごろ、抑留中に指示されたレポと都内某所で会合。その後は、レポによって送られた暗号情報について月三回ぐらいずつ発信していた。
鹿地とは、同氏行方不明前からレポを通じたり直接会ったりして連絡があり、行方不明後、鹿地だったことを知っていたと自供した。
三橋正雄なる人物は、鹿地と連絡していたことについて詳しく述べている。
「私は昭和二十一年ソ連に抑留されていたが、翌年春には、モスクワ郊外で暗号などスパイ技術の教育を受け、成績が良かったので電波の提督≠ニいう異名を貰った。日本へ送還される寸前になり、「上野公園で会う男がいる。外人で、肩から鞄を下げ、不忍池を散歩している。この池には魚はいますか、と云われたら、戦時中はいたが今はいない、と答えよ』と指令された。二十二年十二月、引揚船で舞鶴港に上陸。翌二十三年一月、指令の通り、ソ連人らしい男と同月十二日連絡した。
無電機は、都内豊島区目白警察付近の学校横で受領し、板橋町の間借先へ持ち帰った。レポを通じて暗号情報を受取り、超短波送受信機で暗号の通信を行なった。レポには三人のソ連人らしい男があり、日本人の最初のレポは、二十四年八月から元駐ソ大使館付武官佐々木克己氏(二十五年十一月自殺)で、鹿地氏がレポになったのは二十六年八月からであった。
同氏とは、ソ連人らしい男のレポの紹介で、『今度の連絡は、江ノ島電鉄鵠沼駅から一つ手前の駅で下車、江ノ島方向へ歩いてゆく日本人と会え』と云われ、街頭連絡をはじめた。大船町の山手街でも会った。レポとの連絡方法は、指令された場所に行き、レポと会い、土中に埋められた送信用の暗号電文と、現金二、三万円を受取って帰った。殆ど会話はしていない。
都下北多摩郡へ移転してからは、石神井公園や、自宅近くの稲荷神社そばの電柱脇の土中に暗号電文が埋められ、金属性のマッチ箱大の函に入れてあった。レンガが置いてあれば、埋めてある知らせであった。こちらで受信したものは、その代りに函へ入れて埋めた。去る六日、レンガが置かれてあったものの、暗号電文は無く、こちらが埋めておいた電文はそのままになっていた。それまでこんなことはなく、自分がアメリカ側にも協力していることが分ってしまったと思い、不安がつのり、自首して出た」
ところが、鹿地の方では、「三橋という男は会ったこともなければ知ってもいない」と云い、三橋の自供には何ら関係がない、とはっきり公言した。
しかるに、国警が中心となって捜査を行なった結果、十二月二十八日に「鹿地・三橋事件捜査報告書」を作成したが、この中で三橋の自供に基き裏づけをした結果、その後の新しい点を次のように発表した。
三橋はモスクワから帰還する際、ソ連情報機関から「日本に帰ったその月の十七日に、上野公園西郷銅像下、乃木大将が書いた忠魂碑の裏に着≠ニ書け。もし、その字が消えていたら、その翌月の十七日に、同公園不忍池畔を歩け。そこで肩から鞄を掛けたソ連人に会ったら、合言葉を使え。そのソ連人がお前の日本での第一回目のレポだ。この男の命令には絶対服従せよ」という秘密命令を貰った。その男には、二十三年一月十七日ごろ、現金三万円を貰った。
一月上旬ごろ、かねて復員者を監視していた当時の在日米軍CIC本部から、東京本郷の元岩崎邸に呼び出しを受けた。ここで米軍に対するスパイの役割も誓い、現金一万円を貰った。
二十四年三月下旬ごろ、当時の在日ソ連代表部に行き、赤軍情報部員であるDという上級技術部員から、無電送信の任務と周波数、暗号表を授けられ、帝国電波の二階で第一回の発信を行なった。
二十四年八月ごろ、国電信濃町駅前で日本人レポと会い、現金二万円を貰った。この男は、あとで元駐ソ日本大使館付武官佐々木克己大佐と分った。
二十六年八月上旬、ソ連代表部に呼びつけられた三橋は、次の指令を受けた。
「江ノ電鵠沼付近をぶらついている男が、本鵠沼はどちらでしょうか、と訊くから、それは私の付近です、と答えよ。これが君の指令者だ」
そこで、三橋は白ズボン、登山帽といういでたちでその場所に行き、指令の男からレポ用紙を貰い、当時、帝国電波の間借から転居した東京都練馬区豊玉上二ノ一九高岡方から発信した。
この男とは、同じこの場所で三回、大船町の山手街で三回、藤沢市柳小路で三回、都内の白山付近で一回と、計十回会った。そのつど一万円から二万円を受け、レポ用紙に従って発信、その内容を三日以内に米関係者に報告した。この男が問題の鹿地亘であると知ったのは、鹿地問題が新聞に載ってからである。
鹿地は、これを全面的に否認した。そこで、衆議院法務委員会は、昭和二十八年八月四日、不法監禁事件について最終的な結論を出すため、鹿地亘と三橋正雄とを証人として喚問した。この席上、三橋は、
「私は鹿地氏に前後十回も会っているのだから、間違う筈がない。あなたに違いない。何故、あくまで否認するか」
と詰め寄ったが、鹿地は、
「この人は全然知らない。答える必要はない。私は、今日、アメリカの謀略と対決するため出席したのだ」
と述べて、あくまでも三橋との関係を否定した。即ち、両者の間には、直接次の問答があった。
三橋「その頃は、相手の日本人が誰か分らなかったが、今、ここでお顔を拝見すると、鹿地さんであることが分った」(やや笑いを浮べて云い切る。鹿地無表情で三橋の話に耳を傾けたまま)
小林委員長「そのときの男は、鹿地氏に間違いありませんか」
三橋「ええ、ここに居る鹿地氏に間違いないのですが、もっと痩せておられた。帽子を取った姿は見たことがなかったが、ハンチングの後ろから生え際を見ると、白髪が多かった。ゴマ塩だったと思うが、今見ると、鹿地氏の髪は黒い。染めておられるのではないかと思います」(鹿地は顔色も変えず、天井を向いて眼を閉じたまま)
三橋「十回も会っているのだから間違う筈がありません」
小林委員長「絶対に間違いないか」
三橋「ええ、絶対に間違いありません」
小林委員長「あなた、鹿地氏に話しかけてみて下さい」
(三橋証人起ち上って鹿地証人の左脇に寄って話しかける)
三橋「あなたに違いない。何故、あくまで否定されるのですか」
鹿地「私はこの人物と問答する必要はないが、まあ、さっきからいろいろと云っているから、私も少し反撥すると、あなたが第一回に会ったという八月三十一日は、私は開襟シャツを着て長ズボンをはいていたと云うが、私は夏中はいつも半ズボンをはいて歩いています。前もって断っておくが、あなたは私が強制されて書いたものを土台に話している。新聞に載ったものや、私が書いているものを見て云っているのだから、陳述がだんだん変っている」
三橋「私の陳述は違いありません。間違っているとすれば、新聞報道の誤りです。警察や裁判所で調べてもらえば、私の陳述が変っていないことが分る。いろいろ攻撃されているが、体験を申し上げているだけで……」(対決は十分余りで終った)(二十八年八月四日付『朝日新聞』)
結局、法務委員会の結論は次のようなものになった。
「同委員会は、八カ月に亙る調査の結果として、@ 講和発効後、鹿地氏が不法監禁された疑いがある。A 講和発効後、鹿地氏の監禁の事実を日本政府に通知しなかったことと、家族に対し友愛的配慮がなかったのは遺憾である、との結論を下した。この委員会の結論を、政府を通じて米軍当局に伝え、また今後この種の事件が発生せぬよう要望することとした」
こうして、さしものいわゆる鹿地事件も、何となくアイマイな感じで終了した。三橋は電波法違反で起訴されたが、直ちに服役し、鹿地は病気入院などのため裁判が延びている。
以上が、いわゆる鹿地事件の概略である。しかし、私などには、どうもこの事件はすっきりしない感じを受ける。何か間に厚い膜が挾まっている感じである。もっと率直に云えば、警察側も、鹿地の側も、その全部を公けに出し切っていない感じがする。かたちの上では、三橋は単なる電波法違反として判決を受け、鹿地もその共犯者として起訴されているが、事件が単なる電波法違反でないことは、無論だ。問題は、@鹿地が二十七年四月二十八日の講和発効以前から引きつづき米軍特殊機関に抑留され、講和後も釈放されなかったという事実が日本の主権を無視したこと、A鹿地を強制拘禁したことが人権蹂躙であること、という点で猪俣氏などの攻撃が当局に集中した。だがその問題のほかにも重大なのは果して鹿地がソ連のスパイであったかどうかという疑点であろう。
さらに、鹿地を抑留した機関が、米軍の組織下にある特殊工作機関であり、いわゆる「キャノン機関」と呼ばれるものであった事実も重要であった。
ところで、鹿地抑留が日本側に騒がれるようになったとき、その釈放に骨を折ったのは日本官憲側だ、とその筋では云っている。当時の国警長官斎藤昇の『随想十年』には、それを次のように云っている。
「鹿地亘が米軍に不法監禁されているらしいという怪文書が出ていた十一月末のある日、社会党左派の某代議士(註。猪俣浩三氏を指すものと思われる──松本)が、国会内で私に面会を求め、鹿地亘が確かに米軍によって監禁されている。その事実の一部を山田某なる者が立証している。自分は山田某が真実を述べているかどうかについて調査をしたが、山田某の言は信用するに足るようである。自分としては人権擁護の見地から鹿地を救出したいと思う。しかしこの扱いによってはあるいは鹿地は消されるかもしれない、無事救出する道はないか、私の知恵を借りたいというのである。私は『さようなことが出来るかどうかわからないけれども、何とか努力をしてみよう。但し米軍に監禁されていることが事実であり、そして鹿地が救出されたということになった後に、これを反米運動に利用されるような始末になっては私としては不本意である。あなたのお考えはどうか』と尋ねたところ、同氏は『自分も鹿地が無事に出てくれば目的は達成されるので、それ以外何の求むるところもない。この事件を反米運動に用いることは、自分としても本意ではない。極力防止するようにいたしたい』ということであったので、私は米軍の心あたりのところに行って、『某代議士がかくかくのことを訴えている、これが真実であるかどうか、真実であるとすれば、如何せられる所存であるか、このままに放置することは、おそらく許されないであろう』と述べた。相手は『あなたは私を逮捕に来たのか』と冗談を云いながら、『鹿地がわが方の手にあることは事実である。これをいかにすればよろしいと思うか』と私に反問した。私は『事ここに至っては、鹿地が望むならば自宅に帰すより道がないではないか』こう云って帰ったのである。
それから、数日経った十二月七日(日曜日)のお昼ごろ、米側から私に電話があって『至急に来てもらいたい』ということである。行ってみると、『今夜夕刻、鹿地が自宅に帰るようにするから、身辺の保護をしてやってもらいたい』ということであった。このとき私は『先日の某代議士は、この問題を大きく取り上げようとは考えていないと云っていたけれども、鹿地が自宅に帰った後、米側に対する悪宣伝を始めることはないか、また宣伝をされては困ることが貴方側にはないか』と確かめたところ、『鹿地は、「自分は自由の身になって、静かに著述でもして送りたい。自分が声を大にすることによって、自分がスパイであったということを暴露されることを最もおそれるものである。米国側に対しては何のうらむところがない」と平静に語っているところをみると、彼の言には嘘はないと思う』ということであった。私は一抹の疑いを抱いていたけれどもそのまま帰った。
翌朝、某代議士に対して、『鹿地が昨夜帰ったぞ』ということを電話で知らせたところ、彼は非常に感謝の意を表し、『これで私は何も云うことはございません』と云っていた。それから数時間経って、某代議士は私に何の挨拶もなく、国会内で記者団に対し鹿地の声明を読み上げ、世間を驚かしたのである。この事件について依頼を受けた当の某代議士から最も著しい攻撃を受けたことは、まことに感慨無量である」
この斎藤の手記の中にも、「鹿地は、自分が声を大にすることによって、自分がスパイであったということを暴露されることを最もおそれるものである」と云ったと述べて、鹿地自身がスパイであったと告白したことをあくまでも疑っていない。この斎藤国警長官の信念は、恐らく、鹿地がキャノン機関によって抑留中に「強制的に書かされた」という「自供書」からきたのであろう。もし、この「自供書」が真実であれば、鹿地はソ連のスパイだったと決定されるのである。
ところが、この「自供書」を書くときの鹿地の心境は、鹿地自身が書いている。
「(機関員に自供書を書けと責められて)私は顔をあげて、遂に、書きましょう、と云ってしまった。私は書いた。苦肉の策と自分に云い聞かせはしたが、やりきれない自己嫌悪に陥りながら書いた。二人の二世がやって来て、そばで助言した。彼らが去ったあと、幾度か、ストーブに入れて出来た分を焼き捨てようか、と考えた。えい、やってしまえ、決心したことだから、眼をつぶる思いで一気に書き上げた。それを田中(機関員の名)が持ち去ったあと、私は何か大事なものをどこかに紛失した気持で、身体じゅうから力が抜けてしまった。何も考えたくなかった。かなり経ってから、ふと、不安が湧いた。あれをとうとう渡してしまったが、もし、このあと、待ち受けた『時』より『決着』をつけねばならない時の方が先にやって来たら? ≪ありうることだぞ≫この考えは、私をすっかりあわてさせた。そうなればやはり死ぬよりほかはないが、あとに汚ない手記が残る。そこまで考えてみるべきではなかったか? 書くのはまずかった。だが、書かないではいられなかった。結局、自分は『のぞみ』(釈放のこと)に誘われた。|最初に経歴の要求に応じた時が早くも失敗の一歩だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それを糸口にしてずるずると手繰られた。私は取返しのつかない口惜しさに思い悩んだ。だが、それも今となってはどうにもならぬ。結果を見るほかはない。≪おれには気弱いところがあるぞ。相手を騙すつもりでいて、互いにいい顔をして応《う》け答えをしているうち、いつでもこちらの方が乗じられてしまう。しまいには抜き差しならなくなって、尻尾を巻くことになるのだが、その時は前よりずっと条件がむずかしい≫(傍点・松本)
「自供書」はこうした心境で書かれたと鹿地はいう。
[#5字下げ]3
では、その「自供書」の内容はどうであろうか。その「自供書」のうち、第十節「ソ連人との関係」という一節が、昭和二十八年二月十五日号の『週刊朝日』に公表されている。編集部の註によると、これは、「先にアメリカ側から国警に送られ、去る一月二十六日の衆院法務委員会の秘密会で初めて発表された。鹿地事件の真相を解く一つの鍵として紹介する」とある。尚、これはキャノンの指示で書いたものを、ガルシェー大佐のすすめで詳細に書き直したものだ、という註がある。その内容を次に摘記する。
一九五一年の春、私(鹿地)は神奈川県鵠沼の海岸近くに部屋を借りて結核の療養中であった。当時、朝鮮の戦争は一周年になり、鵠沼付近の海岸では、国連軍の砲撃、上陸の演習が盛んに行なわれていた。そこは私の散歩コースだったので、よく演習中の上陸舟艇などを目撃することになった。六月中旬のある日、付近の小さな砂丘の上に立って演習を眺めていると、一人のロシア人らしい者が私に拙い英語で話しかけてきた。彼は身長五尺八、九寸、無帽、開襟シャツ、頭髪やや赤味がかった褐色の四十歳前後の男で、私は外国通信員かもしれないと思った。
彼は、自分も遠くない海岸の別荘に避暑しているから、ときどき会いに来る、と云って、十日ばかりのちの日を約束して別れた。その後、この外人と、十日もしくは二週間隔てて、二、三回ほど同じ場所で会った。七月の下旬、多分、三度目の会見であった。彼は私を自宅の夕食に誘った。八月中旬、約束の日の午後七時ごろに、彼は自動車を持って同じ場所に私を迎えに来た。|とある郊外の静かな別荘風の洋館の二階で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|彼と会食した《ヽヽヽヽヽヽ》。その時は、ほかに人は居なかった。彼は急に態度を改めて、私を招待した目的について語り出した。
彼は云う。米国は単独講和を実現し、その機会にソ同盟代表部などを廃止して、日本を独占的に制圧する企図に出ると思われること。従って、|その前に秘密なグループを作って日本に残し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、日本で進行する事態を監視する準備の必要があることを語った。
そして、このような活動には、私のような国際的経験のある日本知識人の協力が特別に期待されていると云って、私の協力を要請した。
私はこれが一種の情報活動であることを察知し、気が進まなかったが、もはや原則的意見で同意を表示したのちに尻込みすることが卑怯に見えるのを惧れたので、婉曲に、私としては病気中のことだから殆ど役に立つ仕事は出来ないむね返答した。
彼は私の病状を詳しくたずねはじめたが、私が、少くとも半年ぐらいは社会的接触を持つことが不可能だ、と告げると、では、半年後には活動に加わってくれるか、と突っ込まれる、私は断る言葉がないので承認してしまった。
彼は非常に喜んで、私が病状を恢復するまでの連絡の持続方法を、次のように申し入れてきた。
第一に、療養期間の半年の間は、私の健康の負担にならないように、極めて軽い任務を引受けてもらいたいこと──つまり、私に一人の日本人を紹介するから、その日本人と月に三回だけ、私の住居から遠くない地点で連絡を取ること。第二に、この日本人と会う数日前に自分(つまりその外人)と会ってもらいたいこと。彼の説明によると、この日本人とは、名前を三橋正雄というラジオ技師で、本来は彼(外人)が会う筈なのだが、私が彼らの間に立ってメッセージを取次いでやれば、病人でもあるので、世間に目立たなくて好都合だ、と云うのだった。
これらのことを、彼はもうまるで決定されているような態度で私に押しつけ、私はそれに口を挿む余裕がなかった。彼はすぐ私に三橋の写真を示し、彼と会う方法を指示した。場所は、江ノ島電鉄の鵠沼駅付近の道路、時間は九月初めの某日(確かには覚えていない)午後七時。眼じるしは、三橋が白の布帽子で、白ズックのカバンを提げてくること。
この眼じるしの人物を見つけると、私から「本鵠沼に行く道」をたずね、三橋がそれに対して「本鵠沼の誰をたずねるか?」と反問し、私が「某々」と告げると「それは私の友人です。案内しましょう」と応ずる手はずだった。
なお、その外人は、安全のために私の姓名および住所を決して三橋に知らせないようにと忠告した。
こうして私ははっきり決断のつかないまま、自分には自信もなく、|気のすすまない仕事の関係に引き入れられることになった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
三橋との最初の会見は予定どおりに九月初旬に実現された。
私は外人に依頼されていた通りに、彼との、その後の連絡を打ち合わせたが、それはほぼ次のようなものだった。
まず三橋の方から、彼が一カ月三回実行することになっているラジオ送信の日を私に知らせ、それより三日前を私たちの連絡の日に決定する。私はその日を外人に知らせ、(外人との会見の日どりも、それより数日前にさかのぼって決められる)三橋に渡すことになっている暗号電報と思われるメッセージを受取り、連絡の日に三橋に渡すというのだった。
最初の会見の時、私は三橋にその経歴をたずねて見た。(これは外人の指示にしたがったもので、私は彼についてくわしく知っておくように、と云われたからである)
その結果、私は彼がシベリア抑留の経験者であって、現在では、結婚し、満一歳半の女児を設けていることなどを知った。
私と三橋との連絡は、その後約三カ月間、十一月末に私が逮捕されるまで、つづいた。その間、十月中に彼は都合があって、二度ばかり連絡を断ったので、全部で五、六回会ったことになる。
連絡の場所は、私の住居から電車を利用して十分以内の地点を選び、鵠沼海岸駅付近の 236 Route, 大船駅前の小川にある橋の上二カ所を、最初に会見した場所に加えて、使用した。
もし、事故のため会えなかった場合は、一日おいて二日目に同じ地点で会う約束だった。
外人は、その後は、日中の会見をやめて、大てい七時過ぎの暗くなった時間を指定して私と会った。
このとき以後、彼は私との間に、長い談話をとりかわすようなことはほとんどなくなった。彼は私と三橋との会見の模様をたずね、私に例のメッセージを渡し、これを必ずタバコ箱などの中に擬装して連絡者に渡すように注意した。
私と会って、彼が必ず発したのは、私の健康がまだ回復しないかという督促に似た質問であった。この点、彼は結核の病状について充分な知識を持っていないように思われ、彼には、私が病気を理由にして怠けようとしているのを疑っているのではないか、とさえ思われた。
私の方では、自分の弱気やあいまいな態度のため、そんな関係に引き入れられはしたが、いったんそのような関係になった以上は無責任に連絡を怠ることもできないので、自然に身を引く機会を見出すことをひそかに期待していた。
事実、一カ月に六回(外人は十一月に入って一、二度連絡を怠ったが)二人のものと連絡をとることは、私の健康にかなり重い負担だったので、私は秋に入って次第にまた発熱するようになり、間もなく自然的条件で、この仕事からはずれる機会がくるように思われた。──(傍点・松本)
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このような状態で、鹿地は自分がソ連のスパイであったことを「自供」したのだ。これが、アメリカ側でも、日本の治安当局にも、「鹿地はスパイだった」という決め手になったのである。これを強制的に、あるいは脅迫のうちに書かされた、という内幕はともかく、鹿地も後悔しているように、その出来上ったものが「証拠」となって相手側に握られたのである。
鹿地は、別の手記でこの「自供書」を書くはめになったのを、「最初に経歴の要求に応じた時が早くも失敗の一歩だった」といっている。その「経歴」とは、恐らく、鹿地が戦時中重慶において果した任務歴のことを指すのであろう。従って、鹿地事件の内容を探るには、氏の「経歴」を無視することはできないように思われる。
同じく戦時中鹿地と共に重慶で工作をしていた、青山和夫は、その著書で、
「鹿地自身も、アメリカ秘密謀略機関で各国のスパイを逆に使うOSSに忠誠書を差出してOSS員となったために、国民党宣伝部では鹿地と手を切り、重慶収容所の三民主義日本革命同志会を使用することになった。この鹿地のOSS参加が、後年の鹿地事件を発生させた原因である」
と述べている。
このOSS(戦略情報局)の前身がOWI(戦時情報局)で、同じく重慶にあった。OSSの後身がCIA(中央情報局──その長官がアレン・ダレス)と発展するのだ。従って、重慶で投降日本軍人三十名ばかりをもって組織したという反戦同盟の統率者鹿地は、当時のアメリカ機関との結びつきがあり、その過去が鹿地事件の発生の因をなしている、と青山は指摘するのだ。
当時、重慶には鹿地と青山とがいた。青山和夫というのもペンネームだが、彼は重慶にあった国際問題研究所の王※[#「くさかんむり/凡」、unicode8283]生と結びつきがあった。鹿地は「※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の顧問格」ということで陳誠に信頼され、郭沫若と親しかった。もっとも、青山の場合も郭とはよかった。
余談だが、この王※[#「くさかんむり/凡」、unicode8283]生の国際問題研究所というのは、日本のゾルゲ機関から上海の満鉄調査部を通じて情報を取り、情勢判断をしていた優秀な機関だった。日本軍部が北進策をとらず南進策を決行するとの判断の資料を出したのも、この機関である。
ところで、この機関に属している青山と、主に俘虜将兵を組織した日本人民反戦同盟の鹿地とは、極めて仲が悪かった。青山の著書『謀略熟練工』と、鹿地の著書『抗戦日記』の両方を読み比べると、随所にお互いが罵り合っている文章がある。両方で、おかしいとか、日本の軍事スパイ臭いとかいう意味のことを書いている。
両人は、終戦後、前後して日本に帰国した。青山は埼玉県の山村に引っ込んでしまい、鹿地は湘南で闘病生活に入った。二人とも一切の運動から手を引いた、と云っている。
私が何故、こんな中国関係を書くかというと、それはあとの記述に関係するからである。
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ここで、鹿地問題を絞ってみよう。
鹿地問題を考えるには、どうしても鹿地の正面に立っている三橋正雄を考えなければならない。
先に国会における鹿地、三橋の対決の模様を出したが、これと鹿地のいわゆる「自供書」とを読み比べると、妙な対照である。鹿地の「自供書」には、三橋と会った次第がかなり詳細に書き込まれている。しかし、法務委員会での対決は、三橋がしきりに喰い下がるのに、鹿地は徹頭徹尾、お前のような者は知らぬ、と突き放している。
ところが、鹿地自供書と三橋の自供とはかなりうまく一致する。@[#底本では○に漢数字の一]これは真実だからそうなのか。A[#底本では○に漢数字の二]あるいは誰かが筋書を書いてその通り記述させ、三橋にもそう自供させるという演出の結果、そうなったのか。治安当局は、三橋自供と鹿地自供書とを高く評価しているのだ。
だが、これは作られた感じが強い。鹿地の手記を読んで、さらに「自供書」の内容を読むと、そのことが余計に分るような気がする。では、鹿地・三橋両人を動かした筋書作者が別にいることになる。
しばらく、三橋自供も、この筋書作者の指示と仮りに考えて、これを検討してみよう。
まず、鹿地の自供によると、鵠沼で国連軍の上陸演習があり、それを見物していた時に、四十歳前後の外国人が話しかけ、これがソ連人で、情報活動を勧めたとなっている。
これは不自然な話で、米軍の演習のまん前に情報班のソ連人が見物しているのも、あまりにむき出し過ぎておかしい。そして、一面識もない鹿地に、会見わずか三回で、いきなり当のソ連人が情報活動を勧めるものだろうか。
こんな場合は、必ず第三者、つまり、ほかから見ても決しておかしくはない人物が(外国人でなく、まず日本人、または、それと見える朝鮮人、台湾人、中国人などを使って)自然接近のかたちで、マークした人物にアプローチするのが自然である。
そして、その人物の名前も知れない。鹿地自供書には、「彼は自分の素姓をはっきりは私に告げなかった。ただ、日本占領のあとに日本にやって来たことを、前に話したことがある。この姓名については、到頭、訊きそびれた。彼からさも熟知しきった親愛な態度で接しられると、今さら、あなたの名前は何と云ったか、とたずねる失礼さに、そのことがためらわれた。で、名前を聞き洩らした」とある。
普通の付き合いではない。情報活動を依頼されるという重大な相手に、名前を聞きそびれたから遂に聞けなかった、というバカげた話がありうる筈がない。ここにも作られた「自供書」の内容がある。
つまり、実在の人物でなかったから、名前の挙げようがなかった。いい加減な名前の創作では、あとで反撃されるから、いっそ、名前を知らなかった、ということにしたのではないか。それから、鹿地自供書には、鹿地が取り得た情報は何なのか、それをレポしたのはどういう内容のことなのか、一切触れられてはいない。
もちろん、もし、そういう事実があれば、具体的な発表が困難であることは分る。しかし、それにしても、もう少し、それと思わせるような輪郭を出してもいいのではないか。例えば、ゾルゲ事件にはまだ具体性があった。
だからこそ、ゾルゲスパイ団というものの実体性を強く世間に印象づけた。ところが、鹿地事件については、ただ、レポだの、無電送信だのといったようなことが羅列してあるのみで、情報内容はさらに述べられていない。これでは空疎な感じを与えるだけである。中身が何もないから発表しようがない、と思われても仕方がないのである。
鹿地は病身であった。殆ど鵠沼の療養地から動いていない。肺結核の症状も相当なもので、彼が機関に監禁されたときに吐いた痰もガフキー一〇号という相当なものだ。これでどのような情報活動が出来るというのであろうか。
情報活動というものは、あらゆる方面に行動しなければならない。鹿地には体力的にその能力はなかった。鵠沼から一歩も外に出なかったというのも、その行動を極めて狭く限定する。
そこで考えられたのが、鹿地が自ら情報活動をするのではなく、外人からレポを貰って、それを三橋に渡すという役目である。外人とは、前記のロシア人のことである。
もし、これが実際にソ連のスパイだったとしたら、ソ連の諜報機関もまことに間抜けと云わざるをえない。まずい英語しか話せないその外国人は、鹿地が見ても、東欧もしくはロシア人であることがすぐ理解されるくらい特徴があった。身長五尺八、九寸で、頭髪やや赤味がかった褐色の四十歳前後のこの男は、病気で鵠沼に療養中とはいえ、戦時中、重慶にあって抗戦活動をした高名な鹿地亘に直接レポを渡すようなオープンな挙動をするだろうか。鹿地の身辺にはまだ、日本官憲はもとより、中国側やアメリカ側の眼が光っていたのである。それに、目立たない一市民ならともかく、高名な鹿地に、ソ連人と分る男が直接に接触するという、いかにもこれ見よがしの活動をするものだろうか。
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三橋については、彼が自首後、そのアジトを点検したところ、送受信機一切が警視庁によって押えられたが、これも子供騙しみたいなチャチな機械設備であった。屋上には堂々とH型のアンテナが張ってある。スパイ活動する者が、このような子供騙しの機械を使い、しかも、当時テレビのなかった頃に、わざと目立つようにアンテナを屋外に立てているのもおかしい。当然、三橋の自供を裏づけするための表向きな、あるいは発表用の道具立てという感じがする。
つまり、これを裏返すと、もし、本当に三橋がソ連のスパイ通信活動をしているなら、こんな設備ではあるまい。本当の設備はほかにあって、それを破壊から免れるためにかくして、発表用の代りのものを用意したという感じがする。
さらに、三橋の自供で見逃してはならないのは、鹿地のレポの前は佐々木克己大佐だったということである。佐々木の死亡によって鹿地が後任になったというのだ。
即ち、国警の調べによると、佐々木は、昭和二十四年以降、在日ソ連情報機関と三橋との間のレポを担当していたというのである。
この佐々木克己という人は、昭和二十五年十一月、東京都中野区富士見町の自宅物置で縊死を遂げている。佐々木は、陸士三十八期。昭和十六年、駐ソ大使館武官室秘書として入ソした。在ソ期間は一年一カ月である。
佐々木は二十五年八月三十日の晩に釣りに出かけたが、その途中、栄町付近で、後から尾いて来た高級自動車が急停車し、中からとび出した二人の外国人が佐々木を殴って車に乗せて拉致した。
その晩は帰らず、翌朝、佐々木は顔を紫色に腫らして家に帰って来た。非常に恐怖におびえている様子で、その遭難事件についてはあまり触れなかった。
ただ、密貿易のバイヤーと間違えられて、連れてゆかれた、抵抗したが、殴られて意識不明になり、眼隠しされているので連れてゆかれた場所は分らない、と家人に語っただけであった。この事件以来、佐々木はひどい神経衰弱になった。人に襲われるというような恐怖に付きまとわれていたという。かくて、十一月十九日の早朝、自殺したのであった。
この佐々木は生前、しきりにソ連関係の元日本将校を歴訪していた事実がある。
「国警では、二重スパイ三橋の密告で佐々木がアメリカ側に逮捕され、責められたのが監禁事件だろう、と見ているようだ」
というのが新聞の観測だった。
とにかく、佐々木の場合も、その連行状態といい、鹿地と非常によく似ている。鹿地事件を解く鍵が佐々木の場合にはあるようだ。ソ連帰りの佐々木の自殺が、自らのスパイ行為におびえてのことかどうかは分らないが、少くとも、三橋の自供は、三橋を中心にして、佐々木と鹿地との二つの線を繋いでいる。
これは考えようによっては、鹿地をスパイに仕立てるという三橋の自供が、佐々木の名を出すことによって印象を強めたという役割にもなっている。
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当時の国警本部の発表によると、「三橋は、昭和二十二年、ソ連から舞鶴に引揚げ、占領軍情報関係筋から、ソ連の秘密任務について詳しく追及された。その結果、同人は日本国内のスパイ情報を、ソ連へ無電連絡する任務を与えられていることを自供し、逮捕された。その後、米機関の監視の下に放されたが、家庭の事情などから、米国側の技術情報部員になることを積極的に申し出たといわれている。三橋の転向を知らないソ連在日機関では、レポを使って同人に、ソ連や北鮮向けの暗号電報による無電連絡を月三回ほどやらせていた。
三橋は、この暗号電報を打電する前に、米国側の情報部員に見せ、米国側から報酬を受ける一方、何食わぬ顔でソ連からも報酬を受けていたという。無電情報活動は、二十三年初めから都内各所を転々としながら続けられた。打電は約九十回に及び、米ソ両国からの報酬額は、合わせて数百万円に上るだろうといわれる」となっている。
この発表によると、三橋は舞鶴ですでに米機関側にソ連情報活動の任務を白状したというのだ。
そして、積極的に米国との協力を申し出てソ連からの情報活動を一年間やったというのだが、この通りなら、ソ連の在日機関もずいぶん間抜けと云わざるをえない。この発表には、どこか真実が隠されているように思える。
また、三橋の申し立てによって、当局では十二日午後十一時四十五分からが連絡日に当ることを知って、同人の無電機械で待機していたところ、確実に呼出し電波が数回に亙ってあり、これは、電波管理局の調べで、ウラジオストックの方向から発信されていることが確認されたというのだ。しかし、十五日夜半の再度の無電連絡日には連絡なく、これは、すでに十五日には某国側が三橋の逮捕を知ったためらしい、ということになっている。
つまり、十二日の呼出し電波のキャッチは、三橋の無電連絡を確証づけたわけである。また、彼が自首前に打っていた電波については、
「同人の申し立てによって当局で調べた結果、電波管理局が以前から都内周辺から発信される怪電波を捉えていたものと同一波長であることが確認された。当局では、三橋を連行して、十六日、鹿地氏との連絡場所、新宿区信濃町都電停留所および事件関係の高田馬場など三十カ所の実地検証を行なったのち、午後七時、八王子医療刑務所に留置した」とある。
一体三橋が当局に自首していたことを知らずに、某国(ソ連を指す)からの電波がなおも呼出しを続けていた、ということがあり得るだろうか。ソ連の在日情報網はそれほど迂闊だろうか。
三橋の自供書や当局発表によると、いかにもソ連在日機関はしてやられ放しで、少しもいいところがない。ここにも全体の筋の不自然さが目立つのだ。
もっとおかしいことがある。
というのは、ほぼ一年間、鹿地は米軍キャノン機関によって拘禁されていたのだから、この期間は三橋とは何の連絡もしていないわけである。また出来るわけもないのだ。ところが、この一年間、鹿地との連絡を断たれていた筈の三橋が、鹿地釈放の新聞記事でいきなり、「自分の身辺が危い」と感じて自首したということは、一体どういうわけなのだろうか。もし、三橋が真に自分の身辺の危険を感じたとすれば、それは鹿地が行方不明になった時でなければならない。これまでレポを取っていた鹿地が、急に一方的に連絡を断ち、消息が分らなくなったのだから、三橋としては米機関の中に鹿地が拉致されたことを逸早く察しなければならない。
それが世間に騒がれるようになっても、まだ三橋は何の反応も示さず、尚も一年も活動を続け、鹿地が釈放された時に、急に「身辺の危険を感じた」のでは辻褄が合わない。作られた芝居の筋書は、この辺でも馬脚を現している。そこで、べつに考えられることは、鹿地の抑留中には三橋には連絡がなかったのだし、しかも、三橋の電波情報活動は続けられていたのだから、三橋は鹿地とは別なスパイルートを持っていたわけである。だから、そのレポ連絡は鹿地拘留中にもずっと続き、また続けさせていたということになる。
この理屈をも一つ進めると、鹿地事件でいろいろと国際的に不利な方面に事件が発展すれば関係筋が極めてまずいことになるので、これまでの「三橋の立場」を犠牲にしても、三橋と鹿地とが関係があるようにして当面の乗切りを企図せざるをえなかった、という想像になってくる。
これまで、鹿地事件については、鹿地の拘禁はソ連側のスパイ活動にあったということを裏づけるために、三橋という人物を登場させ、それによって、鹿地に同情的だった世論を冷却させることを狙った、といわれているが、順序はまさしく逆なのである。三橋が持っていたルートとは、鹿地でなく、実は、|別な線《ヽヽヽ》だったのだ。その|別な線《ヽヽヽ》と鹿地とをスリ替えた、ということにならないだろうか。
私の考えでは、三橋がソ連向けの電波活動をしていたことも、それを米機関に探知されて米側に身売りしていたのも、本当だと思う。そして、三橋が打電する前にそのレポを米機関側に見せていたということも、恐らく真実に近い供述であろう。もっとも、この方法は、三橋自供にあるような、あまりにも幼稚な工作ではなく、もっと高度な秘密手段がとられていたと思う。
つまり、彼の自供は、この米情報機関の実体を白日の下に出さないための、作られたニセ供述であると思う。内容がナンセンスなのは、そのためであろう。
三橋が打電していた場所は、彼の自宅と称する保谷だけではなく、他所にもあったであろう推測は前にも書いた。新聞記事にも「三橋について事件関係の高田馬場など三十カ所の実地検証を行なった」とあるが、この三十カ所は、レポの連絡場所以外に、彼の打電場所が含まれていたと思う。しかし、新聞などに発表されたものは、保谷の自宅一カ所であり、使用された無電機は、到底ウラジオ方面に届きそうもないお粗末な道具だった。
当時、大河内工学博士は、三橋のH型アンテナについて、「この程度のアンテナでは、関東周辺の無電送受信は出来るが、ウラジオ辺りとの連絡は到底取れそうにない」と云っている。新聞に写真入りで出された三橋の無電室は、かざりである。本物は別の場所に秘匿されていたと思う。
そこで、以下は私の推測になるが、三橋自供のこのへんまでを真実と見ていえば、三橋がソ連に送る情報を米機関に前もって見せて打電したことを、ソ連在日機関側がいつまでも気づかない筈はなかったと思うのだ。三橋は途中から米機関に身売りしたのだが、そのことは間もなくソ連側に探知されたと思う。だが、ソ連側では、すぐに三橋と連絡を絶たなかった。それは三橋と米機関との結びつきを潰滅させることをおそれたからである。つまり、ソ連筋ではしばらく三橋を泳がせて、米機関の実態を凝視していたと思う。
一方、米機関側では、三橋にレポを渡す相手は一体何者かを懸命に洗いはじめたと思う。三橋はタダの無電技師である。実際の情報屋は誰なのか、その追及に猛烈に活動した。
すると、三橋はそのレポの場所として、鵠沼に度々出向いている。|この鵠沼がレポの場所だったということは意味が深い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
これまでは、鹿地の登場の裏づけとして氏の静養地が出たものとされているが、私の考えでは、三橋が鵠沼に行ってレポを取っていた、という供述は、恐らく嘘ではあるまいと思う。
「鹿地自供書」によると、鹿地はソ連人に招待されて、鵠沼付近のその人物の別荘で食事を共にした、と云っているが、その場所は明らかにされていない。まさか眼隠しで連行されたわけではなかろうから、はっきりと指摘できるのに、そのことがなされていない。これは、「自供書」の中にソ連人の名前が云われてないのと同様に不思議な話である。
ところが、私の想像だが、ソ連人の別荘ではないが、鵠沼には三橋がレポ連絡を取るようなアジトがあったのではあるまいか。そして、そのアジトは、案外、ソ連ではなく第三国人関係ではなかったかと考えるのだ。
三橋は「私の連絡場所は鵠沼で、そこで或る人物と会ってレポを取っている」と米軍側に訴えたので、米軍側がそのレポを捕えてみると、それが鹿地だった、ということになっている。だが、私は、三橋自供のこの「鵠沼連絡」は、恐らく真実のような気がする。ただ、その相手は鹿地ではなかった、つまり、相手のレポのスリ替えが何者かの手によって行なわれたのではないかと思うのである。
ここで思い出すのは、当時、中国(国民政府)代表部なるものの存在である。これは、初代の団長が朱世明で、次が商震。三代目がまた朱世明である。また余談になるが、朱世明の最初の解任は、或る日本人映画女優との噂が災いとなった。商震が後任となったが、丁度、朱世明がアメリカに渡るため渡日してきた時、商震の運動で来世明が三代目になったのである。ところが、この時にえらい騒動が起った。このことはまだ一般には公表されていることが少いので、誤解を避けるため、青山和夫の著書のなかから引用しよう。
「周恩来は中共建国を前にして海外の中国外交機関に与える特別メッセージを発表した。このニュースと発表文を中国代表団の中共派に渡したが、私の予期しない事件に暴走してしまった。中共派の中の誰かが、周恩来の親書がきたということになり、中国代表団は朱世明をかついで中共支持を世界に声明し、中共の新国旗をかかげる準備をしてしまった。私が某をおとずれたのは丁度決行予定の前日だった。『いよいよやる。今朱世明が最後的にきめている所だ』と、準備万端を話してくれた。おどろいた私は『とんでもない。君たちが中共支持に切りかえ、それを世界に公表するのは悪いことではない。むしろよいことだ。だが、中共幹部、周恩来の海外中国外交機関に中共参加をもとめた声明の真意は、新しい中共が、国府に代ることだけでなく、国府がもっている国連での拒否権≠も引きつぐことが本当のねらいなのだから、この拒否権≠国府に残しておくようなやりかたなら、たとえ今中共支持を公表しても、中共の方が認めないだろう。すぐ事態を正常にもどせ。今ばたばたさわぐのは中共がきらう小資産階級の投機主義≠セ』といいきった。この連中、まことにフ抜けしたようにぽかんとしていた。これが中国代表部の赤旗事件の真相なのである」(『謀略熟練工』)
しかし、私の知る限りでは、中国代表部の転向を抑えたのは別の筋である。
それはともかく、この中共の新国旗を代表部に掲げるという密議は葉山で行なわれたから、いわゆる「葉山会議」として一部にいわれている事実である。
このことから考えると、国府代表部には、中共派グループと国府の保密局グループの二大対立があった。「葉山会議」では、国府系の職員を一挙に逮捕し、中共派グループが寝返りを打つ計画をやっていたというのだ。
何故、こんなことをわざわざ書くかというと、当時、鵠沼には、この中共系の中国代表団員の宅があったのである。その家が「鹿地自供書」による「ソ連人の別荘」と同一であったかどうかは、もとより判断はできない。しかし、三橋が鵠沼でレポを取っていたということ、鵠沼には中共系の代表団員がいたということ、そして、その土地には中国で反戦運動をやっていた鹿地がいたということ、この三つの路線を繋ぐと、何かしらぼんやりと一つのイメージが出てくるのである。
だから、三橋が打電をしていたのは、案外ウラジオではなかったのかも知れないのだ。
鹿地が鵠沼に療養先を持ったのは、本人にとって不幸であった。レポの「スリ替え」は、まず、鹿地の住んでいた立地条件からはじまったと云っていい。私は、三橋のレポが「鹿地だった」ということを「米軍機関が探った」ことには、米軍機関に吹込んだ何者かがいたような気がするのである。鹿地が幽閉中、山田善二郎に託した巻煙草の中の消息、つまり、夫人池田幸子に宛てた連絡に「私は誰かに売られた」とある。
米軍機関は、鹿地がソ連のスパイと聞いて怒った。三橋に対ソ情報を流していたのはほかならぬ鹿地だと知って怒った理由は、鹿地こそわが味方だと思っていたからであろう。ここに鹿地の中国時代の履歴が生きてくるのだ。
鹿地が重慶でOSSに協力を頼まれたとき、米側では三つの条件を出している。
@ アメリカ政府へ忠誠を誓うこと。
A アメリカの防諜法を遵守すること。
B 捕虜の身分として協力すること。
これに対して、鹿地は次のような態度を取ったといわれる。第一の忠誠問題については、いかなる外国政府にも忠誠は誓えない。日本軍閥打倒という共同の目的のために一対一で協力することはあっても、その下で働くことは自分の立場としてあり得ない。
第二については、外国の防諜法によって拘束を受けることは反対だが、軍の機密に属することがあれば、その都度これを公表しないようにと申し入れてもらえばよい。だから、必要以上われわれに対して軍機を洩らす必要はない。第三の捕虜の身分問題については、協力する成員が捕虜扱いにされては困る。
結局、この問題は大きな面倒にはならず、紳士協定という点で了解が成立した。これは鹿地の言い分である。
「当時、鹿地氏は非常に高く評価され、アメリカ国務省日本部長ジョン・エマーソン氏(マーシャル元帥の中国白書の作成に参加した)は、延安で野坂氏に会い、重慶で鹿地氏に会っている。そして、エマーソン氏は鹿地氏の家に泊っていたほどであった。なお、OSSやOWIで働いていた二世のうち、戦後、東京のGHQに勤務するようになった者も数名あったが、鹿地氏はあまり深い交際を避けていたと云われる」(『週刊朝日』)
そして、鹿地は帰国後も日共には入党せず、日共との関係はそれほど「熱い」ものではなかった。
米軍側が鹿地を拉致監禁したのは、彼が、重慶時代のこのアメリカとの協力を裏切ってソ連の手先となった背信に怒ったためかもしれない。そして、彼を責めて、ソ連に流すその情報は一体どこから入手していたのか、その組織は何なのかを「拷問」する気になったのであろう。これがキャノン機関による鹿地の「監禁」というかたちに現れたのではあるまいか。
だから、キャノン機関が鹿地に対して米側への協力を強制したというのは、当然、それに付随したことで、拉致監禁した最初の目的は、重慶時代の協力を裏切ったことへの怒りであろう。
だが、機関としては、そのことを責めるだけでは能がない。その「背信」を追及した上で、さらに「友情」を復活し、米側への協力を強制したのであろう。
三橋が鵠沼でレポを取り、そのアジトが中国人の筋ではなかったか、という私の想像には、多少、根拠らしいものがないでもない。というのは、この鹿地事件の起る一年ほど前、張学良の子息張学詩の家庭教師をしたことのある王卓然という人が、アメリカのバイヤーに化けて日本に来ていたことがある。この人が中共に帰った以後、どうなったか消息が分らない。王卓然は大学の学長をしていたくらいの学者だが、一時は粛清説が日本に伝わったくらいだ。その失脚が鹿地事件が明るみに出て騒がれた直後である。しかし、こういう事実があったということだけをここに述べて、それ以上の推測は慎みたい。
とにかく、三橋のレポの連絡場所が鵠沼だったことは本当ではないかと思う。そのほか、レポ場所について、いろいろ都内の名前を当局は挙げているが、これはあまり当てにならない。
だから、鹿地が米軍機関員に襲われた江ノ電鵠沼付近の地点からほど遠からぬ所に、三橋がいつもレポ連絡に行っていた場所があったのではあるまいか。こうして、米軍の特殊機関、いわゆるキャノン機関は鹿地を拉致しソ連スパイの実情を白状せよと迫ったが、訊問しているうちに機関は、三橋のレポが鹿地でなかったことに気づいたかもしれない。だが、それでも釈放はしなかった。米軍機関としては、重慶時代の鹿地の「経歴」を信じていた。だから、その「友情」を今後も復活継続して欲しい、と繰り返して頼んだのであろう。
鹿地の手記を見ると、拉致した当時こそ足に鎖をつけて椅子に括りつけられるような残酷な扱いだったが、その後は待遇が変ったという。
これを鹿地は、絶対に自分はソ連のスパイを働いたことはない、また、米軍にも協力できないといって拒否し、ここで殺されるよりも自殺した方がいいと決心し、クレゾール液を飲んだときから向うの態度が変った、と書いている。
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この鹿地を最初に拘置したのが、湯島にあった元岩崎別邸のキャノン機関の本拠である。その後は、新丸子の東川クラブに移したり、茅ヶ崎に移したりしている。米軍機関としては、何とかして鹿地を陥落させたかったに違いない。
ところが、そのうち、鹿地の失踪はキャノン機関に拘禁されているらしいと日本側に洩れて、大騒ぎが起った。米機関としては、鹿地を、講和発効後も引続いて強制拘置していた理由を明かさねばならなかった。そこで鹿地に提出されたのが、例の「自供書」を自筆で書くことと引替えに、氏を釈放するという条件だった。鹿地は「遠からず釈放する」という言葉に期待をかけて、悔恨とともに「自供書」に署名したと述べている。
ところで、米軍側が鹿地を拘禁した理由は以上のほかにもう一つあった。それには鹿地自身の手記を借りる。
「(拘禁中)たった一つ、彼らがしきりに知りたがったのは、中国で私が一緒に反戦運動をやってきた仲間たちが今どうしているか、また連絡と組織を保持しているのではないか、ということだったが、この方は『しらべ』というよりは彼らの『ねらい』にほかならなかった。もうずっと彼らはそれを狙いつづけて来ていた。それは太平洋戦争の頃まで遡る。米軍は手を変え品を変え、反戦日本人を買取ろうとした。いろいろの所から私たちに手を伸ばして来て、最後には、例のOSSがやって来た。資金と資材は米軍が出すから、私たちの方から人間を出し、双方協力して、日本に対する反戦と平和の宣伝機関を作ろう、というのだった。当時、私たちは、中国の人々に守られながら日本人民反戦同盟を作り、侵略戦争の停止、平和な人民日本を目標に懸命な活動を続けていた。連合国側がみなこれに大きな関心を寄せていたが、中にはアメリカのように、その自主性を銭で買取り、自分の手先にしようと企むものも現れたのだ。私たちにしてみれば、日本人の自主的な立場からの協力なら、国際的な反ファッショ戦線のため願ってもない機会だったので、進んで相談に応じたが、彼らの魂胆が分ると、厳しくそれを刎ねつけた」
とある。結局、このOSSとの提携が「紳士協定」ということになって成立したのは前記の通りだが、問題の狙いは、昭和二十六年に起った鹿地の監禁が、戦争中、重慶において反戦同盟を組織していた人員で日本に帰国している人間を、アメリカ機関がスパイに使うために、鹿地に協力を強制したというところにある。
しかし、この鹿地自身への協力要請と、曾ての重慶における氏の部下との協力要請が、鹿地監禁理由の全部ではあるまい。何故なら、単に、それだけの協力要請だったら、なにも病身な鹿地をいきなり路上で殴りつけて車で東京に運び、岩崎ハウスに幽閉するような乱暴なやり方をするわけがないように思われるからである。
もし、以上の目的のみだったら、鹿地に対して三顧の礼は取らないまでも、極めて鄭重に協力を要請する筈なのである。それをこのような乱暴な処置に出たのは、やはり米機関側では鹿地に「裏切られた」という気がしたのではあるまいか。
この事件は、どこかにスリ替えが行なわれている。例えば、ここで「鹿地自供書」に出ている「ソ連人」を「中国人」に置替えてみる。そして、鹿地を別なXという人物にするのだ。すると話の辻褄は多少合ってくるような気がする。
Xが鹿地とスリ替ったのは、鹿地を「売った」人物がいて、それが「自供書」の筋書きを作ったのではあるまいか。
その「自供書」にしても、これは米機関側が持っていたものなのだ。それをどうして日本の国警側が受領したのであろうか。米機関と日本の治安当局はそのように親密な間柄だったということを、このことでも立証出来るのである。
当時、斎藤国警長官や三輪警備一課長(のち警察庁警備局長)が「この鹿地スパイ事件というのは風聞ではなく、相当確かな証拠がある」と断言したことは、この鹿地のしたためた「自供書」が国警側に渡っているから、いきおい、強い発言となったのだ。しかし、問題は日本当局が、米軍機関の手中にある、この「証拠」をどのようにして入手したかである。
この点について、自民党の小林法務委員が委員会で「鹿地自白調書は、いかなる機関を経て入手したか」という際どい質問をしたのに対して、斎藤国警長官は次のように答えている。
「鹿地氏の声明と米当局の発表から、自白調書のあることを知り、只今私の方で取調べ中の事件(電波法違反事件、三橋のこと)は、これと関連があるので、調書があれば便利と思い、向うの関連機関に照会の上、そこから十日夕刻入手した。鹿地は、スパイ事件に関係なし、と反撥しているが、少し違った点もある」
斎藤長官は、この答弁の中で、「関連機関」という名を用いて、米軍当局ということを伏せている。だが、それが明らかに米軍当局で、日本側当局との間に「鹿地自供書」の授受があったことは、この答弁でもはっきりするのだ。
表向きの云い方とは逆に、裏側ではこっそり両者の間にこのような取引があったことが分るのである。ということは、当局の鹿地事件捜査は米軍側と常に連絡の上、行なわれていたということになるのだ。さらに云えば、捜査は米側の利益に影響されながら行なわれたのである。
こんなことで、どうして公正な独自の捜査が出来ようか。今日、この事件がハッキリしないのは、そのためである。ここに問題の伏在があるのだ。
さらに、この事件では、キャノン中佐という名前がはっきり出されている。またガルシェー大佐という名前も語られている。
もし、鹿地の述べていることが実際かどうかを本気に追及する気があれば、米側ではキャノン中佐やガルシェー大佐を証人として出すべきである。いや、出さざるを得ないのである。
ところが、米側では、それと察知したかどうか、公式発表では「キャノンという中佐は米軍人名簿の中にはあるが、当人は十カ月も前に日本を去っているので、本人かどうかは分らない。また、ガルシェーという名前は名簿にはない」と云っている。
さすがにここまでキャノン中佐の名前が出てみれば、キャノン中佐の存在そのものを否定することができず、このような表現をとったのであろう。
当時、外務省の伊関国際協力局長は、この件でターナー公使と会ったのち、新聞記者につぎのように云っている。
「大使館の回答には、抑留していたのはCIA(アメリカ中央諜報機関)だというようなことは云っていない。関係者で現在日本に居ない者もあり、調べにくい、と云っている。あまりいろいろ訊くので、貴官は外交官を辞めてタンテイになったのか、などとターナー公使から云われたくらいだ」
この伊関局長に対するターナー公使の最後の言葉などは、一国の外交官の言葉ではない。日本はともかく講和後独立した。その相手の外務省幹部に「貴官はタンテイになったのか」などとはひどい云い方である。こんな風にナメられては、キャノン中佐を喚問するどころの話ではない。また「関係者で現在日本に居ない者もあり」というのは、すでにガルシェー大佐やキャノン中佐を日本から去らせたことを云うのである。
もし、アメリカ側に真に誠意があるなら、軍籍にあるガルシェーやキャノンなどをすぐに召喚してでも証人に立たすべきである。彼らは軍人だから、世界のどの国に配属されているかは、米軍当局はその調査に数分もあれば分る筈だ。
[#5字下げ]9
鹿地はキャノンの命令で、家族に宛て心配させぬよう通信を出しているが、その最後に「白公館にて」という文字をさりげなく書いている。この「白公館」は、実は鹿地にとっては或る意味を含めたのである。鹿地は手記に書いている。
「戦争が終りに近づく頃、このOSSは、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の泣く子も黙ると云われた兇悪な戴笠特務機関と協力し、中米合作社(SACCO)を設立した。合作社という字面は立派だが、実はアメリカの科学技術で※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石の爪牙を武装させ、大量の手先を養成し、それをアメリカが支配しようというだけのことだった。重慶から十五キロばかり離れた、嘉陵江辺の磁器口と呼ばれる村に、その広大な基地が設けられた。そこには沢山の進歩的な学生や労働者がさらわれてゆき、再び陽の目を見なかった。やがて、この土地が解放されたあとでは坑内から沢山の犠牲者の人骨や屍体が掘り出され、西安事件で※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]に反抗した楊虎城将軍も屍体になって発見された。付近の住民は、この所を『白公館』と呼んで恐れ憚っていた。アメリカ政府は公然と、こんな『立派』な活動のため巨額な予算を組んでさえいた。そしてこれらの謀略機関は、嘉陵江辺の『白公館』もそうだったし、雲南の崑湖の小島でもそうだったが、必ず景勝の地を選び、恰も広大な別荘でも構えているように見せかけて恐ろしいことをやっていた。『熱海』と聞いたときも(註。鹿地は鵠沼から拉致されたときに、車の中で米軍人にこれから熱海に行く、と聞かされたことを指す──松本)、だからまずぴんと来た。あれじゃないか? 数カ月前、北京から送られて来た『新華月報』という雑誌に出ていた白公館跡の鬼気迫る写真が、まざまざと思い泛べられた。土壕の中に散乱している白骨と、腐った肉体が崩れて地面に吸われてゆく脂ぎった人型、酸鼻な姿を曝したウジのわく屍体が写し出されていた。金色に輝く大銀杏の不気味な美しさが、地中の人血を吸い上げているように私の眼に映ってきた。彼らの一隊(キャノン機関員のこと)は、夜になると、どこかに出かけてゆく。帰って来た例の二世が、頬を輝かせて駆け込んできた。『また一人来ましたよ。今夜は忙しいぞ』とあたふたと出て行った。地下室があって、犠牲者はそこに連れ込まれたらしい。私が相変らずの『相談』(米軍に協力のこと)を受けている最中に、深夜、ピストルが鳴りひびいた。あとはしんとしている。肌が粟立った」
このような不気味なキャノン機関というG2直属のCIC独立機関のアジトは、キャノンの出身部隊第八軍司令部内の横浜のビルの二階、横浜市内の個人アジト、本郷ハウスと呼ばれる湯島の岩崎邸、川崎の東川クラブ、江ノ島大磯を結ぶ湘南道路に沿った茅ヶ崎郊外の茅ヶ崎C31ハウス、代官山駅付近にあるUSハウス740号、渋谷区猿楽小学校付近の代官山ハウス、さらに北海道、関西、九州に至るまで、いわゆるキャノン機関はそれぞれのアジトを分散して持っていた、といわれる。とすれば、世に恐るべきテロ的謀略機関が日本中に設置されていたことになる。
この機関に監禁されていた鹿地が無事に脱出できたのは、ハウスボーイ山田善二郎の努力によってその監禁が外部に洩らされ、それによって日本の民間側が騒ぎ出したからである。
さすがにアメリカ軍でもこの事実を匿すわけにいかず、鹿地を釈放せざるを得なかったのだから、もしも山田の命賭けの努力がなされず、従って日本の世論が湧き立たなかったら、キャノン機関は鹿地をどのような運命にしたか分らない。或は佐々木克己大佐のあとを追うようなことになったかもしれないのである。
とにかく、これによってその機関名を明るみに出されたキャノンは、その理由によって自ら日本に於ける失脚を招いたのであった。
だが、謀略機関はキャノンのみではない。キヤノンの名前が出たのは偶発的で、それ以外、どれくらいの数の「キャノン機関」の同類が、当時の在日米軍機関の中にあったか知れないのだ。
謀略とは、少しもその姿を出さずに活動し、目的を達したら、誰にも知られることなくその地を去るのをいうのである。
それにしても、鹿地事件ぐらい未だに真相の分らない事件はない。冒頭にも述べたように、今日でも、当局側では真相を匿しているし、また鹿地の側にしても、その全部を云い尽したという感じがしない。あらゆる点で、鹿地事件は、未だに複雑怪奇である。
私はアテ推量ながら以上のことを書いたが、これとてもどこまで事実に追っているか、自信がない。これが本当の謀略というものの姿であろう。
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[#1字下げ] 推理・松川事件
[#5字下げ]1
松川事件における広津和郎氏の観点は、被告たちの無罪を立証するために重点が置かれた。従って、その資料は殆ど裁判記録のみに限られているようである。被告の無罪を証明するために、その資料を法廷記録に限定し、その中から矛盾や不合理を抽出して真実の帰納を試みたことでこれは正しい方法である。そのために、広津氏は意識して法廷記録に出ないものや、単なる噂にすぎないものは排除している。これも当然の態度である。
「法廷記録および法廷に提出された証拠の一切を調べても、被告人諸君が松川事件の犯人であるということを証明しているものは一つもない。むしろ、被告人諸君がこの事件とは何の関係も無いということを証明しているものばかりである。よく人は、それならば誰が真犯人か、とわれわれに質問する。それに明確に答えることが出来れば、人を納得させるに都合がいいということをわれわれは知っているのであるが、しかし、残念ながら、今の段階では確実な返答をすることは出来ない。真犯人が何者であるか、ということを想像させる若干の資料が無いとは云えないが、しかし、それは想像させるに止って、キメ手であるとは云えない。判決文は想像や臆測によって被告人諸君を真犯人と認定したことがいかに不当であるか、ということを検討しているのが私の文章である。その私自身が想像で真犯人を推測するなどということは、もとより避けなければならない」
と広津氏は云っている。
殊に、余計な「浮説」や推定を交えて推論することは、かえってその設論に混乱を来す。
広津氏も云っているように、被告たちが無罪だったら誰が真犯人かを知りたい気持は、この松川事件に関心のある人びとは誰しもいだくであろう。事実、それらについて若干の臆測記事が書かれていないではない。だが、それらを読んでも、明確にその疑問に答えるものは無いようである。
私もまた松川事件全被告を無罪と信ずるものである。その理由は、以下の拙文で説明したい。誰が犯人かということについては、その具体的な指摘はもちろん私にも出来ない。事件発生後、十年以上も経た今となっては、さまざまな証拠が、偶然にまたは故意に消滅している。発生当時に比べると、今日残っている資料は何分の一かであろう。この中からまた法廷上のいわゆる「証拠能力」として何分の一かが残され、他は捨てられてしまった。しかし、残された僅かな材料や資料の判断からでもおぼろげながら犯人の幻影を類推するのは不可能ではないように思われる。私は広津氏とは別に、視点をこの方に向けて松川事件の実体を見つめたいと思う。
資料が当時から比べて相当消滅しているという意味は、一つは、その資料が直接《ヽヽ》に被告に関係の無いものとして検察側が削ってしまったものがあるからである。この削られた部分には、特殊な理由で|故意に《ヽヽヽ》ふるい落されている資料があると思う。というのは、この落された中に、この事件の実際を知る材料がひそんでいたのではなかろうか。云い換えると、それは無意識もあろうが、また、時に意識して、現在の被告に直接関係がないというかたちで落されて行った貴重な資料が相当あると思うのである。
従って、今日残っている僅かな材料で複雑怪奇な松川事件を解明することは、殆ど不可能に近い。しかし、具体的に真犯人は誰かとはいえないにしても、その影像は漠然と指摘出来るかもしれない。
[#5字下げ]2
まず、昭和二十四年の夏に起ったこの事件の経過から述べよう。だが、これをいちいち書いていては、それだけでも本稿は長編となる。また、私の視点は被告たちの無罪を直接に立証するためではないから、私の叙述に関係のあるところはそれを適宜入れておきながら、以下簡単に記すことにする。
事件の発端を、広津氏の文章から借りる。実は、法廷記録から引用すればいいのだが、それは文章も長いし、煩雑だし、無味乾燥だから、要領のいい氏の文章を引用する。
「福島駅を定時に発車した四一二号旅客列車が、八月十七日午前三時九分、金谷川・松川間のカーヴ(東京の北方二六一粁二五九米付近)にさしかかった際、先頭機関車が脱線顛覆し、続く数車輛も脱線し、機関車に乗っていた機関士石田正三ほか二名が惨死した。現場視察によるとレールのツギメ板がはずされ、枕木の犬釘が抜かれ、長さ二五米、重さ九二五瓩もある一本のレールは、線路から一三米も離れたところまで飛んだものか、何の破損もなく真直ぐの形のまま、あだかも搬ばれてそこに置かれたように地面の上に横たわっていた。犬釘をはずすために普通に使われるバールが一本、付近の稲田の中から発見された。続いて全長二四糎に過ぎない自在スパナも一個発見されたと云って捜査当局から持出された。捜査当局側の主張によると、その自在スパナはバール同様稲田中から発見されたということであるが、不思議なことに誰が発見したのか発見者はついに解らないというのである。
下山事件、三鷹事件に続いて、三度国鉄にこの戦慄すべき椿事が起ったので、これらの事件の裏側に、何か恐ろしい計画的な意図が隠されているのではないかという不安を国民は感じた。その不安にその翌十八日、吉田内閣の増田甲子七官房長官が新聞記者に向って発表した談話は、一層油をそそいだ。それは次のような談話であった。
『今回の事件は今までにない兇悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流に於いては同じものである』
後になって考えれば、十七日に事故が起った翌日の十八日では、特に何かの予断を持たない限り、現場でもまだ五里霧中で何者がかかる犯罪を行なったかの見当さえついていた筈がないし、従って現場から二六一粁余離れた東京の吉田内閣に、事故の真相が解る筈がないから、内閣の重要な地位にいる官房長官が、そういう談話を発表したということが、いかに軽率で乱暴であるかということに思い当るが、当時においては、筆者なども迂闊に増田官房長官の談話を信じ、それを思想的犯罪と思い込まされたものであった。それには六月半ば以来の列車妨害の新聞報道や、下山、三鷹と続いた事件についての宣伝が、いつかわれわれの心に、増田官房長官の談話をそのまま鵜呑みにさせる下地を作っていたのである。筆者と同じように、国鉄労働組合や共産党は、何というあさはかなことをするものだと、当時眉をひそめた国民も少なくなかったことであろうと思う。
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捜査当局は事件後間もなく、福島及び松川付近のいわゆる不良少年たちを洗い始めたが、しかしその捜査の目標が国鉄福島労組の幹部や共産党員に向けられていたことが、事件後、二、三日目からの福島の諸新聞に現れている。そして間もなく東芝松川労組の幹部にもその目標が拡げられて行ったことが報じられている。
ところが事件から二十四日後の九月十日に最初に逮捕されたのは、労組幹部でも共産党員でもない、例の定員法で馘首された当時十九歳の赤間勝美という少年線路工手であった。傷害容疑という名義で、前年友達と喧嘩をしたという廉《かど》であったが、それは名義だけで直ぐ松川事件について調べられた。
それから一週間ほどして東芝側からは窃盗容疑という名義で、菊地武という十八歳の少年が逮捕されたが、同じく労組幹部でも共産党員でもなかったことが注目に値する。その窃盗容疑というのは、工場で配給の煙草を盗んだという他愛のないことであったが、そのことは嘘であることが直ぐ解った。しかし帰されずに、松川事件のことを調べられ始めたが、偶然にも盲腸炎になったので釈放された。
こういう労組の幹部でもなく、共産党員でもない少年達を捕えて、それから労組幹部や共産党員の方へ逮捕の網を拡げて行こうという魂胆であったことが、この事件全体を考えると明瞭である。そのことはやがて読者にもお解りになることと思う。
赤間少年は約十日程で自白調書を取られた。その自白が任意のものであるか、捜査当局の誘導によるものであるかはいずれ検討するが、この赤間自白によって、次ぎ次ぎと被疑者が逮捕されて行った。
九月十日 赤間勝美(国鉄労組福島支部福島分会員)。(罪名、傷害)
九月十八日 菊地武(東芝松川工場労組員)。(罪名、窃盗。間もなく盲腸炎のため釈放)
九月二十一日 赤間、列車顛覆を自白。罪名を列車顛覆に切替え、同自白による逮捕始まる。(十月十三日起訴)
九月二十二日 本田昇(国鉄労組福島支部委員、共産党員)、二宮豊(同上、共産党員)、鈴木信(同上、福島分会委員長、共産党員)、阿部市次(同上、福島分会書記、共産党員)、高橋晴雄(同上、福島分会委員、共産党員)、浜崎二雄(東芝松川工場労組員)、佐藤一(東芝労組連合会オルグ、共産党員)。(いずれも十月十三日起訴)
十月四日 杉浦三郎(東芝松川工場労組組合長、共産党員)、太田省次(東芝松川工場労組副組合長、共産党員)、佐藤代治(東芝松川工場労組員、共産党員)、大内昭三(東芝松川工場労組員)、小林源三郎(同上)。(いずれも十月二十六日起訴)
十月八日 菊地武再逮捕。(十月二十六日起訴)
十月十七日 二階堂武夫(東芝松川工場労組員)、二階堂園子(同上)。(いずれも十一月七日起訴)
十月二十一日 武田久(国鉄労組福島支部委員長、共産党員)、斎藤千(国鉄労組福島支部委員、共産党員)、岡田十良松(同上及び福島地区労組会議書記長、共産党員)、本田嘉博(アカハタ記者、後に釈放)、加藤謙三(国鉄労組福島支部福島分会員、共産党員)。(十一月十二日、斎藤、武田、加藤起訴。十二月一日、岡田起訴)
検察側の説くところを要約すると、これらの被疑者の中の或る者たちが、八月十三日及び八月十五日に国鉄労組福島支部事務所に集まって、列車顛覆の共同謀議をなし、それに従って東芝工場内でも何回かまた謀議がくり返され、その結果、国鉄側から本田、高橋、赤間の三人、東芝側から佐藤一、浜崎の二人が出て行って線路破壊の実行をなし、そしてまたその線路破壊に使用したスパナとバールは東芝側の小林、菊地、大内の三人が松川駅の線路班倉庫から盗み出したということになるのである。
以上が松川事件の概略であるが、被告等と多くの弁護人等が、右の犯行を取調陣のデッチ上げであるとし、控訴を続けたが、福島地方裁判所における第一審においても、又仙台高等裁判所における第二審においても、裁判官たちの取り上げるところとならず、それぞれ判決が下された。
第一審では全員有罪、第二審では三名が無罪となり十七名が有罪となったが、十七名の被告等は直ちに最高裁に上訴した」(広津氏『松川裁判』)
最高裁では、三十四年八月十日に、破棄差戻し七名、上告棄却五名の七対五の判決で、事件が仙台高裁に差戻されたのは周知の通りである。この審理で上告棄却の意見を持った田中最高裁長官は、
「多数意見は法技術に捉われ、事案の全貌と真相を見失っている。しかも、その法技術自体が証拠の評価と、刑訴四一一条の適用において重大なる過誤を犯している。従って私として到底承服することが出来ない」
と少数の反対意見を発表した。
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前章で、事件の発端を広津氏の文章から借りたが、それからの経過を少し書いてゆくことにする。
転覆事件の通報を受けて、最初に警察官として到着したのは、当時、国警福島県本部捜査課次席警視玉川正であった。その証言によると、玉川警視は、八月十七日の午前五時ごろ、自宅に居たが、直接に国鉄福島管理部からの事件の通報を受けた。玉川警視は、すぐに電話で部下を非常招集して、県本部に直行し、三、四十分のち、七、八名の部下が集まったのを機に、コマンドカーで現場に赴いた。この時、辺りはまだ暗く、事故列車の乗客は、機関車のそばや田圃の辺りでうろうろしていた。
玉川自身は証言で、その後を次のように云っている。
「そのうちだんだん明るくなって来ましたので、これが一応列車妨害ということになれば、その前年にも列車妨害と考えられるような事案が庭坂にありましたが、そのときはなにをもって妨害したか道具が出て来なかったのであります。それで私は此の事案にかんがみまして一応松川線路班と金谷川線路班でそういう道具を盗まれていないかどうか調査してくれといって各二名の刑事を現場からやって調査させたような記憶があります。このように松川と金谷川の両線路班に刑事を派遣した時刻は、大体六時半か七時前後と記憶しております。まだ朝食をとらない時でありました。そのうち松川線路班に調査の為に行った刑事がもどって来て『バールが盗まれていると松川線路班でいっている』という報告を寄せたのであります。
そのうち事件現場付近の田んぼの中から自在スパナとバール各一梃が発見されたのを現認するに及んで、松川線路班から盗まれたという道具は多分これだろうというので捜査会議の結果、それをもとにして聞込み、足取捜査をすることになり、その翌日と思いますが、私は二、三人の捜査員をつれて松川線路班について、右バールやスパナを盗まれた事実をたしかめるため、松川町の原巡査駐在所に行って、そこから松川線路班に行きました。
そこには福島保線区長だかも居り、松川保線区長や保線区の幹部二人か三人、それに線路人夫や臨時人夫等も十人位いました。そこで私は持って行った現場で発見のバールやスパナを見せて、ここから盗まれたものに違いないかと聞きましたところ、分区長はそんなものはおれの方のものではないといいましたが、倉庫係であったと思いますが、それはおれの方のものかも知れないというので、私が一体こういう物の台帳があるのかないのかとききますと、台帳はないが、ここにある黒板が台帳の役目をしているのであり、この線路班にある道具はこの黒板に書いてある通りであるというので、私が黒板には現物があるものだけを台帳の代りに書くのか、現物が揃ってなくともあることになっているものを書いておくのかと尋ねますと、現にここにあるものだけを書いておくのであって、修理にやったりして現にここにない物は黒板には書かぬという話ではなかったかと思います。
そこで私は右のバールやスパナを指して、これらの物がここにあるのを見たことがないかと聞きましたところ、そのとき外でその有様を見聞していた十六、七歳になる少年の臨時人夫が、これはここの物だ、このバールは昨日あそこの修理におれが使ったものだと申しました。すると分区長であったか、他の者であったか、とにかく上の者がよけいなことをいうなとその少年人夫を叱りましたので、私が事実は事実として明らかにならぬと困るから本当のことを話してもらいたいといいますと、その者もここの物かも知れないといいますので、倉庫係ともう一人の者に原駐在所に来てもらってききましたところ、実際はうちのバール、スパナに間違いないのだが、自分の方からなくなったといえば、こちらの責任になって困るからいわなかったと倉庫係が申しましたので、右のバールとスパナとは松川線路班から盗まれたものであることを確信したのでありました」
この証言の中で、私の後の文章に関係のあるのは、@玉川警視がこのとき一緒に現場に赴いた七、八名の部下の名前を一人も憶えていないこと。A事件発生通知を警察から受けたのではなく、国鉄管理部から直接自宅に通報があったこと。B現場に着くとすぐに「物」を調べていること。そしてバールやスパナが出てくると、今度は逆にその出所を追及したことなどである。これは弁護人側からも云われていることだが、私が後で云うことにも関係があるので、読者は以上のことを記憶して頂きたい。
警察では、事件が起って二十四日目の九月十日に、赤間勝美という十九歳の少年が事前に、「汽車の転覆がある」と他人に話したというので、いわゆる「予言をした」と聞き、まず、傷害の疑いで彼を引致した。赤間は、列車転覆の前夜、即ち八月十六日の晩、丁度、虚空蔵菩薩の祭礼であったが、その境内で、友人二人に、今夜あたり列車転覆があるかも知れないと云ったといって、警察ではそれを白状しろと責め立てた。赤間というのは、小学校卒業後、福島保線区永井川線路班に線路工夫として就職していたが、昭和二十四年に、第一次整理の時、馘首され、その後、福島のパン屋に工員として就職していたのだ。彼は町のチンピラである。
赤間に対して警察では自白を強要したが、遂に、彼が以前に或る女性を強姦したという調書を作り、これを彼に突きつけて、自白しなければ眼の前で実演させてみせる、などと云って責めた。そして、その方は大目に見てやるから松川のことを白状しろ、と強要した。この取調べに当ったのは、逸早く現場に到着した玉川警視で、以下、この事件の取調べの警察側の主役となったのは玉川である。
赤間は、毎晩の取調べに遂に屈服した。そして、彼の自供に基く自白調書が、のちに国鉄関係の被告を逮捕する糸口を作ったのである。
赤間自白によると、赤間と本田昇と高橋晴雄の国鉄側三人は、列車の転覆を実行するために、十六日の晩十二時ごろ待合せて永井川線路班の南側踏切を通って線路伝いに破壊現場に行ったことになっている。
その晩は、虚空蔵菩薩の祭りで、踏切のすぐ傍にテントを掛けて、四人の線路工夫が警戒に出ていた。ところで、このテントのことは、赤間自白の最初には出ずに、後になってテントのことに気が付いた検事はあわててその自白をさせた。つまり、最初、検事も赤間も警戒テントのことを知らなかったのは、赤間自白が想像で出来たからであると弁護人側は主張するのである。ところで、警戒に出ていた工手たちは、赤間らが傍を通るのを見かけなかった、と証言した。赤間自白では、線路破壊に五人がその場所を通過したことになっている。だから、この証言は自白の内容と合わない。この点も、数次の法廷論争の中心になっているところである。
また、赤間らが通ったという線路脇にも、遊間調査(線路と線路のつなぎ目の伸縮の調査)のテントが出ていたが、それも赤間自白に現れていない。遊間調査の工手たちは、その夜、誰ひとり赤間らの通った足音を聞かなかった。当夜、二十メートルばかり離れた所にアベックが一組居たが、その声は聞いている。だから、誰か人が通れば、工手たちは気づかない筈はないのである。
さて、こうして赤間自白によって、国鉄側から赤間、高橋、本田の三人が破壊実行に出かけたという容疑で検挙されたが、さらに、国鉄側と謀議したということで、東芝側の佐藤一、浜崎二雄の二人が線路破壊の実行班、そして、それに使用したスパナとバールを松川駅の線路班倉庫から盗み出したということで、同じく東芝側の小林源三郎、菊地武、大内昭三が検挙された。その他、国鉄側の単独共同謀議、東芝側の単独共同謀議、国鉄と東芝側の連絡共同謀議の三つの謀議の線を検察側は打ち出して、そのことから「共同謀議」の「議長」武田久以下の逮捕となったのである。
これを分りやすく云うと、線路破壊は、赤間自白によって、国鉄側三人、東芝側二人でやったと分った。それで、この相談のために国鉄、東芝とも、それぞれ単独にも協議したであろうし、両方の連絡打ち合せもあったに違いないと警察側は見たのだ。当時、国鉄は大量首きり反対で、また東芝は独禁法による整理反対のために、度々会合を開いていたから、検察側ではその会合のどれかを列車転覆の「共同謀議」に設定したわけである。
つまり、赤間を捕えて来て、その自白を端緒にして、他の被告が続々検挙されたということになるのだ。そして、他の被告の犯行は、すべて赤間自白の筋書によって認定されたものである。
要するに、全被告の罪状は、赤間自白を端緒にして起訴されたことになるのである。従って、この自白をめぐって検察側と弁護人側との攻防が展開されることになったのである。赤間被告は自己の自白は官憲によって強要された虚構であると一審以来主張しつづけた。
この共同謀議についてもまた論争の中心になるところで、例えば、その東芝の団交の席上に佐藤一が居なかったという事実が、あとで「諏訪メモ」の出現によって明らかにされたりした。
しかし、私の論の進め方は、これらの被告の無罪を証明するところに重点を置いているのではなく、視点は別な所にあるのだから、この辺の詳しい叙述は省くことにする。
ただ、ここにどうしても必要なことが一つある。それは、加藤謙三という当時十九歳になる少年で、彼は国鉄労組事務所に同居して地区労の仕事を手伝っていた。彼は、転覆した上り四一二旅客列車の前の、下り一五九貨物列車が運転休止になっているから、その間に線路の破壊作業をするようにと、八月十六日の夜、国鉄側から東芝側へ連絡したと認定されて、第二審で十年の刑を云い渡されているのである。
この貨物列車の運転休止は、線路破壊に重要な条件になっている。何となれば、現場に到着して線路破壊の作業開始が午前二時四分ごろで、所要時間は、約二十三分乃至二十七分余を要している(赤間自白と一審以来の検証結果及び列車時刻に関する関係証拠からこうなる)。これだけでも、犬釘八九本、チョック二九個、ナット九本を線路から抜き取る作業が可能かどうかが問題になっているくらいだから、その途中に下り貨物列車が運行表の予定通り、二時十二分ごろに通過しては、全然、破壊作業は不可能になるのである。だから、もしこの作業をやろうとすれば、貨物列車の運転休止は必須の条件だったのだ。
従って破壊工作班は貨物列車の運転休止をあらかじめ知っていなければならない。このことから加藤少年の役目が当局に重視されるのである。即ち、加藤は、十六日午前十一時五十八分に松川工場に入門し、折から組合大会が開かれていたが、彼は、その大会後、寮の組合室で杉浦、太田ら東芝側の幹部にむかって貨物列車運転休止の連絡をしたというのである。
ところが、弁護人側では、この列車が運転休止と決定したのは十六日の午後一時ごろで、それが関係機関のすべてに連絡完了したのは午後五時十分ごろであるとすると、午前十一時二十八分発で福島駅を発ち、同五十八分に松川工場に入門した加藤がそのような事実を知る筈がない、と衝くのである。
さらに広津氏によれば、加藤少年はそのような事実を連絡される立場になかったし、また、連絡を東芝側に伝えるほどの重要人物ではなかった、と云っている。この下り貨物列車というのは、十四日から引きつづいて運転休止になっていて、その前からもたびたび運転休止があったという。この点ものちに触れることであるから、ことさらにその部分を書いておく。
その他、これにはいろいろな問題がある。例えば、赤間をはじめ五人の破壊班が現場で作業をしていたとしたら、その夜その時刻には、彼らのアリバイが成立しないことになる。ところが、この点も、検察側では、アリバイがなかったと主張する。弁護人側ではそれを検察側のでっち上げだと云う。一例を云うと、赤間被告の場合、いつも夜は祖母の横に寝るのだが、武田巡査部長の調べでは、祖母は「勝美は二時ごろにも帰ってこなかった。四時ごろにも帰ってこなかった」という調書を取っている。祖母は、そう云った憶えはない、と云うのだが、調書には拇印が取られている。しかし、祖母は文盲であった。このことから、警察側は強引に赤間アリバイ否認の証拠を作ったと衝かれている。
その他、本田昇のアリバイにしても、彼はその夜酒に酔い、自宅に帰らず、国鉄労組支部の宿直室に寝たのだが、それを証言する者があっても判決には取上げられていない。
また、転覆作業に加わった高橋被告の場合は、身体障害者の彼が、八里近い真夜中の道を歩いて作業を行なうということは肉体的に不可能である。長歩きすると腰のつけ根の関節が歯が熱で浮いたような感じがするという高橋が、一里平均四十一、二分で歩いたというところにも矛盾がある。この点も、実地検証などでいつも問題になったところで、検察側は可能性はあるという。
だがこんなことを書いていては際限《きり》がない。被告の無罪の証明自体がこの拙稿の目的ではないから、次に、この論に関係のある疑惑の部分を述べてみよう。
[#5字下げ]4
この事件で唯一の物的証拠といえば、転覆作業に使用されたと見られる現場発見のバールとスパナである。前にも述べた通り、これは、玉川警視が到着すると同時にすぐに捜索させて、田圃の中から発見されたものである。ところが、この中のスパナは誰が発見したか、今もって不明となっている。
このバールとスパナは、松川線路班の倉庫にあったものが盗まれていたことになっている。ところが、だんだん調べてみると、この点があやふやになり、果してそれが松川線路班のものであるかどうか、怪しくなってきた。判決文によると、「松川線路班のものではないと云えない」というアイマイな結論になっている。
それはともかくとして、前にも云った通り、バールとスパナは、この事件の唯一の兇器である。現場の証人は、「証拠品のバールはゲージタイ(線路の幅を止めておく鉄棒)で作ったものである」と述べているが、国鉄の事故報告書に同じ趣旨が記載されているそうである。そして、二人の証人は「証拠品のバールと似たゲージタイで作ったと思われるバールが松川線路班にもあった。しかし、証拠品のバールは松川のものと断定できない」と云っている。その証人の一人は、ゲージタイの太さについて「軌条に使うゲージタイは、本件の証拠物になっているバールより細く、三十七キロ軌条のものはもっと太いと記憶している」と述べている。
つまり、国鉄の軌条規定によると、三十キロと三十七キロと二つあるのだが、現場から発見されたバールは、この二つのどちらにも所属していない、となっている。してみると、証拠品のバールは国鉄使用のゲージタイで作ったものでないということになる。
また、証拠品となっているバールの尖端にはYという英字が刻みつけてある。爪の先にXという文字も、Yほど深くはないが、刻みつけてある。もっとも、このXという字は、斜線の一方が少し長く突き出ていて不規則になっているところから、あるいは瑕《きず》ではないか、という論もある。Xの方はともかくとして、Yの方ははっきりと刻印されているのである。
ほかに、このバールについて注目すべきことが一つある。それは、バールの爪先に近い所に草色と朱色の塗料が少し付いていることだ。
このペンキの付け方は、何かの目印に付けたか、あるいは他の塗料が不用意に付着したかと思われる程度の付き方である。ところが、国鉄現場の証人は、目印に色ペンキを使うことはない、と云い、更に、この草色について次のような証言がある。
「信号機などには青色のペンキを使うことがあるが、草色ペンキを使うことは滅多にありません」(高橋二介証人)
この「滅多にない」というところに、判決は係り合いをつけている。「当審証人高橋二介の証言によれば、保線管区で草色のペンキを使うことは滅多にない、と云っているものの、これをもって絶無であるとも考えられず、これ又、それがためにこのバールをもって国鉄の備品でないと断定するに足りない」と述べている。
ところで、高橋証言の、滅多に使うことはない、というのは否定的の意味なのである。証人は「滅多に」というのをべつに証拠があって云ったのではなく、ただ、言葉の上に不用意に出たという感じは、法廷叙述を見ても分るのである。いわば、この「滅多に」は「絶対」に近い含みがあるのだ。英語で云えば little(少しもない)を a little(少しはある)という意に、裁判官は強引に解釈しているのである。
この解釈をさらに、「|それがために《ヽヽヽヽヽヽ》このバールをもって国鉄の備品でないと断定するに足りない」と、バールが「国鉄の備品である」ほうに加勢されている。
ところで、このバールについた草色だが、一口に云って、いろいろな段階がある。冴えた草色か、濁った草色か、明るい草色か、明度や色度に問題があろう。
現在、この草色のペンキは、朱色と共に証拠品のバールから殆ど消えているそうである。私は見たことがないので、それを実見した人に訊くほかはない。岡林弁護人の話によると、その草色は「|暗い草色《ヽヽヽヽ》であった」そうである。
高橋証人の云うように、「一体、線路班では色物は使用しませんので、考えつかない」とあるから、問題のバールが松川線路班のものだとすると、その倉庫にこのような色ペンキは無かったことになる。判決では、前にも云ったように、「滅多にない」という言葉から「ないとは云えない」という「可能性」を強調しているが、これはただ言葉の上の強引さであって、証言によって、その草色のペンキはバールに付着すべきものでないことをわれわれは知るのである。また、信号機などに青色を使うことはあるが、青色と草色との違いは、誰が見ても分る。
この色の問題は、のちに私が触れることに大事な点だ。
また、このバールにはX・Yという英字らしい印があったが、これは国鉄の備品には付けなかったものである。この事件が起ってからこの問題がうるさくなって、鉄道では事後、「フクホ」といった日本式の記号を付けるようになっている。更に、このバールには縦の瑕跡があった。バールは、その作業によって横に瑕が多く付くことはあるが、縦に瑕が付くことは滅多にないことを、同じく現場の証人は証言している。このバールに限って、何故、縦に瑕が付いたか不明である。
次に、スパナの問題だ。現場から発見された証拠品のスパナは、いわゆる自在スパナであって、国鉄が軌条作業に使うものはもっと大きな柄の長い片口スパナである。二十四糎しかないこの小さな自在スパナで継ぎ目ボールト・ナットの取外しは不可能に近いか、又は疑問である意味を抜山、武蔵、小山、仙波の各鑑定人は述べている。証拠品と同じ硬度の自在スパナを使って実験をやったが、忽ち亀裂を生じて役に立たなかった。それほど硬度が軟いのである。ところが、判決では「証拠品の自在スパナ、バールをもって本犯行に使用されたものと認めることは不合理でない」と結論している。が自在スパナのことは、残念ながらこれぐらいにして、次に進みたい。
今度は、継ぎ目板の問題がある。
赤間自白によれば、「継ぎ目板一カ所を外して転覆作業を行なった」となっているので、検察側では最初から、継ぎ目板は一枚だけ外されていた、と主張した。ところが、継ぎ目板一カ所の取り外しでは列車は転覆しないのである。検察官のこの主張には何度か変化があって、事件から一年半近く経ったころ、「本件は二カ所の取外しと認定するものであると思料するに至った」と変った。
「このように、継ぎ目板についての主張が三度も変った原因を追及してみよう。私たち弁護人は、本件の転覆現場で継ぎ目板二カ所が取外されていたという事実を指摘した。検察官は、この単純明確な事実を前にして、このように動揺し、苦労している。これは何故であるか。この単純な事実が、本件の犯人は二十名の被告諸君ではなく、全く別の種類の人々であることを示しているからにほかならない」(岡林弁護人弁論要旨)
ところが、検事は、二審になって新たに二枚の継ぎ目板を提出してきた。一カ所では列車転覆が不可能だと分ったので、二カ所説を認め、その証拠として、今まで提出されなかったものをどこからか持って来たのである。そして、弁護人側は、検事側はこの継ぎ目板を隠匿していたというのである。赤間自白では一カ所しか取外していないというのが、ここで崩れている。二カ所の証拠を出したのだ。それは事実上一カ所では不可能なことから、検察側が残りの一カ所(継ぎ目板は一カ所について二枚)を立証しようとしたのである。そして、検察側は新しい証拠品は今まで倉庫に蔵ってあったのをうっかり見落していた、といっている。
ところが、この新しい証拠品の継ぎ目板は、果して現場のものかどうかはっきりしないのである。というのは、後から出された二枚の継ぎ目板は、直線でなく曲っているのだ。現場の模様から見ると、板は直線になっていなければならないのである。彎曲では不合理なのだ。
このことから考えると、問題のもう二枚の継ぎ目板はどこかに失われて、本当は現在は実在しないということになる。しかし、実在しないでは検察側の立証にならないから、どこか別な所から継ぎ目板を見付けて、それで間に合せようとしたところがある。要するに、もう一カ所の継ぎ目板の二枚は行方不明になっているのである。
もし、それなら、もう二枚は何処に行っているのか? そしてそれはなぜ発見されないのか? この疑問点をも私は後で推測したい。
[#5字下げ]5
永井川信号所構内の南部踏切の傍に、当夜、虚空蔵菩薩の祭りがあって、その警戒のためにテントが出ていたことは、前にも述べた。そして、テントの番人が、当夜、赤間が通ったのを見かけなかった、と証言したこともちょっと書いておいた。
このテントには、内部に二つの合図灯を点けていたのみならず、外にも六十ワットの外灯が点けられていて、普段は真暗な踏切を照らしていたのである。だから、そこを赤間たちが通れば、三人の見張人は誰でも気が付く。殊に赤間は以前国鉄にいたので顔見知りの人間だ。
ところで、このテントは、徹夜で見張が付けられたのではない。警戒を止めた時刻は、見張人の証言によると、十二時十分か十五分ごろになっている。その後は外灯も消し、テントも撤収していたから、中の警戒灯も消えたことになり、後は再び真暗い踏切になっている筈なのである。しかし、赤間被告は、そのテントのあるのを認めているから、彼の通過したのはテント撤収以前となるわけである。自白による通過時刻は、撤収寸前になっている。
検察側や判決の主張によれば、赤間自白によって、破壊班は図面のように線路沿いに往復し、その途中、南部踏切を通過したことにしている。それならば、当然、テントの見張人が赤間たちを見なければならないのだが、それを見ていないとなると、赤間被告たちがその線路を通らなかったことになる。云い換えると、初めからその自白が嘘か、あるいは別な道を通ったことにしかならない。
別な道といえば、この線路伝いの歩行路から東に離れた陸羽街道しかないのである。これは中間に丘陵があるがだいたい線路に並行している。転覆現場から北の方二十メートルばかり離れた所で浅川踏切となって交叉し、松川町に入っている(前掲の図参照)。ところが、赤間自白には、もとより陸羽街道を通ったというようなこともなく、また検察側も陸羽街道を問題としていない。
[#5字下げ]6
この事件の警察側の主役が玉川警視であるとは前に書いた。これについて岡林弁護人は云っている。
「玉川警視は、捜査の中心人物であった。この人が自白をさせたと云ってもよい。いわば本件の検挙についての功労者であり、表彰され、警察署長に栄進もしている。この人の役割を考察することは、本件の真相をたしかめ、被告諸君のムジツを明らかにするために必要である。
1 証拠のインメツおよび捏造
この問題について玉川警視は、最も重要な役割を演じている。本件において最も重要な、そして最も多くの問題を投げかけている証拠物は自在スパナである。この自在スパナが、この人の手によって毀損された。本件事故の真相を追究するについても最も重要な証拠インメツは、そういう形でもおこなわれた。またそれによって自在スパナに使用の痕跡が捏造されたのでもあった。このことはすでに詳論したとおりである。
昭和24年8月17日事故の朝、バール、スパナ発見前における予言者のように敏速な行動──バール等の脱線作業の道具が松川線路班から盗まれているということを、正体不明の人物に命じて予知し「確信」をもったこと──およびバール、スパナ発見後には、うって変った鈍重さで翌日まで行動せず、翌八月十八日からではあるが「確信」を松川線路班に押しつけたこと等は、解きえないナゾの問題であり、この事件の真相について重大な疑惑を投げかけている。これについても、上述したとおりである。
このような疑惑につつまれた玉川警視の証言が、いかに信用しがたいものであるかについて、次の二、三の点を指摘する。
2 事故当日の朝、玉川警視は何時頃から現場に居ったか? 玉川警視の証言によれば、現場到着の時刻は、結局午前六時頃ということになる。しかし証言の内容を検討すると、この時刻は明らかに誤りであって、おそくとも午前四時頃には、かれはすでに現場に居ったことがわかる。まさか、午前三時十分頃の事故の前からでもあるまいが、それを否定する資料もない。これもまた解きえないナゾの一つであり、予言者的行動とあわせて重大な疑惑の種になっている」(岡林弁護人弁論要旨)
弁護人側が検察官に投げた疑惑は、これだけではない。
これは先にも云ったように、直接に被告と関りないこととして、弁護人側も法廷で発言していないが、当夜、現場付近に非常警戒がなされていたという事実がある。
金谷川に大槻呉服店というのがあるが、事件の前夜、その店の土蔵が破られ、盗難があった。これは新聞にも報じられたが、その時は、松川事件とは結び着けて考えられなかった。それが関連して考えられるようになったのは、事件の夜、この沿線付近一帯に多くの警官が配置され、非常警戒態勢にあったことが分ってからである。
第一審十一回公判で、佐藤森義警部補(当時の福島地区警察署警備係長)は大塚弁護人の問に対し、次のように答えている。
問 昨年八月十六日、証人の勤務を覚えておりますか。
答 その日は、松川の駐在所におったと記憶致します。
問 その時、証人は警備係長として多少なりとも警察官を集め、犯人検挙の上について適切な処置をとったか。
答 別段の処置はとりませんでした。
問 証人は、その夜は松川におりましたか。
答 夜の十一時頃には福島へ帰りました。
問 その晩帰るまで松川の近くで土蔵破りの事件が起らなかったですか。
答 その様な事実はなかったと思います。
問 その晩松川町近辺に非常線を張らなかったですか。
この時、検察官(鈴木検察官)は異議を申し立て、その理由として、弁護人の発言は本件事件と関連性がないから許さるべきでない、と述べた。
大塚主任弁護人は、本発言は撤回する、と述べた。
大槻呉服店の破蔵事件は、八月十六日の午前二時から三時ごろまでに発生したもので、当日の夜から翌日の朝(八月十六日から十七日)にかけて非常線を張り、警戒に当るということは、袋の鼠になった犯人の捜査のためならいざ知らず、普通は考えられないことである。また福島地区警の警備係長は自ら出動し、その他の警備係が警戒に当っていることも注目される。普通、泥棒などの捜査は、警備係ではなく捜査係の仕事であるのに、労農運動係である警備係が出動していることも不思議だ。このような警戒非常線に包囲された中で列車転覆事件が発生したのも奇妙なことである。
右の法廷記録の中にもあるように、大塚弁護人の問が、「その晩松川町近辺に非常線を張らなかったですか」とあった時、突然、鈴木検察官が異議を申し立て、弁護人の発言は本件事件と関連性がないから許さるべきでない、と撤回させているが、「本件事件と関連性がない」という理由は、この稿の冒頭にも私が云ったように、それが直接に被告と関係がないという意味から除外したのであろう。
しかし、直接に被告《ヽヽ》に関連がないからといって、事件《ヽヽ》についてのいろいろな関連状況を取除いては、事件の本当の真相究明は出来ないのである。実際の真相を知ろうとすれば、もっと広い範囲の状況資料を検討しなければならない。ところが、今日の裁判では、それは「法廷外」ということで認められていないのだ。
広津氏の『松川裁判』に対して、上智大教授青柳文雄氏が「広津評決の検討」というのを発表した。これは今まで出た中で、一番まとまった広津批判であるが、その中に、「広津氏は、しかもその批判に当って、証拠と被告らの主張とを取違え、趣意書で事実を証明しようと試みたり、証人訊問に当って、訊問の方だけを採用して自分の判断の正当性を説明しようとされました。個々の供述の分析はされましたが、綜合はされませんでした。私はこれに対して、証拠能力のある証拠に基いてこの評決の批判を試みたつもりです。また記録に接した以外に、被告らや証人らには面会もしていません。記録外の資料は判断に加えていないつもりです。私はまた、証拠を分析したばかりでなく、その供述の背後の情景は、分る限り記録から引用しました」(雑誌『ジュリスト』三十四年九月号)
という箇所がある。
青柳氏の云う証拠能力や記録とは、法廷において採用されたものを云うのである。しかし、このような狭いコップの中に限っていては、関連性のある他の真相の究明には少しも役立たないし、かえって事件そのものの追究にも程遠くなるのである。真相究明は法廷技術のみによるべきものではない。
疑問の最後に、赤間逮捕の意義にふれたい。前述のように、赤間は友人二人に、列車転覆が近くある、ということを予言した|かど《ヽヽ》で逮捕された。しかし、赤間がそう予言したかどうかは、その二人の友人が聞いたという言葉が証拠になっている。いわゆる伝聞証言だ。それから、彼の自白から続々と各被告が検挙されたのだが、その最初は、玉川警視が取調べて、「他の者はみんな調べがついている、本田はお前がやったと云っているぞ」という意味を赤間に云って、彼を憤激させ、赤間の口から本田の名前を云わせている。
ところが、この時はまだ、本田は検挙されていなかったのである。検挙されていない本田がどうして「赤間も一緒にやった」と云ったか不合理である、と弁護人側の突くところだが、とにかく、玉川警視は赤間を捕えて、次に、彼の口から本田の名前を吐かせ、続々、他の被告に及んだということは、審理の状況から見て判断が出来る。
そして、赤間を除く他の被告の殆どが共産党員であったし、また検挙された者が間違いなく全部起訴されているということも注目したい。つまり「赤間の自白から」というかたちを取って、警察側ではあまりに犯人群を事前に的確に知り過ぎていた、という印象を受けるのである。云い換えると、最初から検挙すべき者を知っていて、それらを、「赤間自白」を形式上の手づるとして続々逮捕した、という想像がなされないでもない。
もしそうだとしたら、警察側が事前にそれほどよく知っているためには、よほど内偵が行届いていたと思わねばならぬ。このことは後にふれる。
では、当時、列車妨害事故は、全国でこの松川だけだっただろうか。決してそうではなかった。この事故が起る以前にも頻々として各地に類似の事故、または未遂が続発している。そして、これは日ごとに各新聞紙に大きく載せはじめられたのである。
国鉄の記録によると、その年の六月二十八日、つまり松川事件の起る約一カ月半前に、緊急鉄道電話で「列車妨害事故は、当分の間、細大洩らさず報告すべし」という指令が全国に出されているという。その目的は説明されていないが、目立ちはじめた列車妨害記事は、実はこの反応なのである。これについては、岩波書店発行『歴史学研究』一九五八年十月号に載っている古屋哲夫氏の「松川事件に至る反共意識の動員について」に具体例が多い。その記事の中に、国鉄労組や共産党が次第に暴力化しつつあること、事故の背景に思想的意図があることなどをほのめかすような当局の解釈が付されるようになった、と註されている。
この状況を理解するには、一九四九年という当時の情勢を一通り見なければならぬ。
[#5字下げ]7
国内政治的には、この年の一月二十三日の選挙に、共産党が一挙に三十五名の議席を占め、大都市では殆ど第一位となった。二月十六日に第三次吉田内閣が成立、二十六日には早くも「行政機構刷新及人員整理に関する件」が決定して、これによる失業者は百七十万を推定している。五月には「定員法」が成立、七月には国鉄第一次・第二次の首切り九万九千名を発表、東芝は四千五百八十人の第一次首切りを発表した。この一月選挙が行なわれる僅か一カ月前には、中共軍が北京へ入城し、中国制覇が目の前にあった。これは必然的に米ソの対立激化を誘発した。当然、吉田内閣はアメリカの意をうけて露骨に対共圧迫策をとった。
その前の年の一月、アメリカのロイヤル陸軍長官は、それまでの方針だった「日本を広汎に非軍事化する」企図を改め、「強力な日本政府を育成するにある。日本自身が自立出来るだけでなく、今後、極東に起るかも知れない新しい全体主義の脅威に対して、防壁の役目を果すのに充分に強力な、安定した民主主義を築き上げるにある」と演説した。ロイヤル演説は、アメリカの高官が正式に日本を「極東の工場化」することを最初に表明した歴史的な言葉だが、この「極東に起るかも知れない新しい全体主義」とは、云うまでもなく、中国革命の成功と、ソ連の進出を指す。即ち、一年後には朝鮮事変が起っているのを考え合わすべきだ。
その前年にGHQは、いわゆる経済九原則なるものを日本政府に強要した。「竹馬の足を切る」というドッジの比喩は、企業合理化というかたちにおいて大企業の人員整理となって現れた。国鉄と全逓は、いわゆる定員法によって首切りが行なわれることになり、民間でも東芝の四千名をはじめ主として電機産業関係に大量の首切りが行なわれた。そして、これに抗議する労働者に対して、政府は武装警官による弾圧を行なうとともに、団体等規制令、労働法の改正などで対抗した。
この騒ぎの最中に下山事件が起り、三鷹事件がつづき、松川事件が発生した。殊に下山事件では、さしもの国鉄労組の闘争を水をかけたように鎮静させる効果があった。つまり、当初の当局側の宣伝では、下山総裁は共産分子または組合の尖鋭分子に暗殺された、と発表したので、労組側ではデマだと抗議しながらも、闘争は萎縮せざるを得なかったのである。このことは、松川事件が起ると同時に逸早く東京で増田官房長官が、松川の列車転覆は共産党の仕業だ、と宣言したのと軌を一にしている。
では、松川事件の起った福島県下の労働運動はどうであったか。青地晨氏の文章によると、次のように説明してある。
「まずその前に、福島県下の労働運動地図ともいうべきものをえがいてみよう。まず山間部の猪苗代湖には東京にもっとも近い大発電所があり、ここの電産猪苗代湖分会は日本の労組の最精鋭といわれた電産のなかでも、とりわけ共産党の勢力がつよかった。海岸地方には常磐炭田の炭鉱労組、県の中央部には国鉄労組福島支部があり、いずれも共産党の組織率が高かった。以上の三つの組合は、県全体の遅れた意識のなかで、それでもするどい運動拠点を形づくっていたのである。
共産党県委員会ではこれらの組合を中心に、農民組合や一般市民をまきこんだ郷土産業防衛闘争を組織、ドッジ・ライン反対、吉田政府打倒の統一戦線を活溌に展開していた。一方県当局は東北六県の警察力を県下に集中、大げさにいえば他県から動員した警官で町中が埋まる観を呈した。こうした二つの陣営の尖鋭な対立は、県下を不気味な空気のなかに包みこんでいたことはいうまでもない。
こうした緊迫状況のなかでこの年の六月十三日、平事件と福島県会赤旗事件が突発した。平事件の発端は平駅前に設けた共産党の壁新聞掲示板の撤去問題にすぎないが、矢郷炭坑の労働者を主力とするデモ隊四百名が平警察に押しかけて署を占領、赤旗二本を表玄関に立て、留置中のデモ隊員をブタ箱から救出し、逆に警官をブタ箱に放りこんで勝ちどきをあげた。同じ日に福島県会に押しかけたデモ隊は傍聴席で赤旗を打ちふり、肝を潰した議員たちが議場から逃げだしたのが、いわゆる県会赤旗事件である。この二つの事件が同日におこり、また付近の湯本、内郷両署に平署の応援にゆかないと誓約させたことなどから、この一連の事件は『日共の革命演習』というレッテルをはられ、騒擾罪で起訴された」(『中央公論』三十四年九月「松川事件特集号」)
松川事件の起った時の社会情勢は、ざっとこんなものであろう。
[#5字下げ]8
それでは、前記の列車妨害事件の中に松川事件と似たものはなかったであろうか。いや、それは実によく酷似した例があるのだ。その一つは、前の玉川警視の証言の言葉の中にも出たが、「庭坂事件」と「予讃線事件」である。
まず、庭坂の方から先に見ると、昭和二十三年四月二十七日午前零時四分、奥羽線赤岩・庭坂両駅中間を、青森発上野行四〇二列車が進行中、機関車と次の郵便車が脱線、高さ十メートルの土堤下へ転落、つづく荷物車と客車一台も脱線傾斜して、機関士、助士の二名が即死、技工は重傷後死亡した事件である。そして現場を調査すると、事件発生の地点は、下り傾斜で半径三百メートルのカーブとなっており、脱線地点付近の犬釘と非常継ぎ目板が抜き取られていた。
これは玉川警視の云う通り、遂に真犯人が挙がらずじまいだった。しかし、松川事件と手口は瓜二つのように似ている。
もう一つの予讃線事件というのは、松川事件の起るほぼ三カ月前の、五月九日午前四時二十三分ごろのことである。四国の予讃線高松桟橋駅を出た宇和島行下り旅客列車が、愛媛県難波村大浦部落の切通しカーブに差しかかったところ、列車が転覆。機関助士三人が即死、機関士と乗客三名が負傷した。
そして、現場の調査によると、継ぎ目板三枚、ボールト八本、犬釘七本が外されていたし、証拠品として押収されたバール、スパナにローマ字の刻印があり、国鉄で使っていたものではないことが判った。
この時も犯人が判っていない。しかし、読者は、この二つとも松川にひどく似ているのに愕かれるであろう。そして、いずれも現場の線路がカーブになっている。松川の場合は、レールが半径五百メートルのカーブとなっている。なお、事件は違うが、下山総裁が轢断された地点もカーブとなっている。更に、この後に起った北海道の芦別事件の爆破地点も線路のカーブが選ばれている。つまり、線路のカーブは、このような破壊活動には必須の条件となっているらしいことに気づくのである。
「庭坂事件」と「予讃線事件」とは犯人が挙らないことで、かえって松川事件の予行演習とも見られよう。
[#5字下げ]9
私は前に下山事件を書いた。この時、下山総裁が轢断されたのは決して自殺ではなく他殺だ、と判断した。そして、総裁が轢断された理由は、彼が鉄道従業員の大量首切りに対して抵抗し、そのためにGHQの鉄道担当官シャグノンの怒りに触れ、それが彼を死に至らしめた遠因だ、と書いた。
下山氏は技術畑出身者だっただけに、現場の従業員には殊更に愛着を持っていた。従ってGHQから押しつけられた大量の整理案には極力渋って実行を延期していた。これがシャグノンには我慢がならなかったのである。何故、シャグノンは、深夜、総裁の自宅まで襲って、ピストルをちらつかせながら脅迫行為に出たか。そこまでシャグノンを追い詰めさせた隠れた理由はあったのである。しかし、下山氏はシャグノンの真意を知らなかった。
下山氏は、国鉄整理が単なる定員法による経済的理由と単純に解釈した。しかし、実際は、定員法の名前に隠れての整理案には、実は来るべきアジア共産圈との対決のための、米軍の作戦企図が隠されていたのである。
前にも云う通り、すでに中共は中国全域に支配権を確立しつつあった。ソ連も強大になりつつあった。これに対処するためには、日本の輸送面においても、いつでも意のごとく動くような態勢におかなければならなかった。そのためには、全国鉄従業員の中に共産分子が少しでもいては困るのである。殊に、ソ連と海一つ隔てて対峙する東北から北海道までの全域の鉄道には、一人の共産党員も、一人の同調分子もあってはならなかった。いざという時に、サボタージュやストライキを起されては輸送が狂い、作戦に重大支障を来すからだ。
他の企業がいわゆる経済九原則による経営合理化の名の下に整理を断行したのは、日本を完全に工業化する狙いであった。それとはまた別に、鉄道輸送関係には重大な作戦意図があったのだ。従って、シャグノンはG2のウイロビーあたりから相当な圧力を受けていた。そのために、あるいはシャグノンのスキャンダルをCICが嗅ぎつけ、それを攻め道具としてシャグノンを強圧したともいわれている(後年のシャグノンの失脚は彼の汚職と醜聞とによる)。だから云うことを聞かない下山総裁を深夜でも襲わなければならないところまでシャグノン自身が追い詰められていたのだ。不幸、下山氏はそれを知らなかった。
この下山氏を共産党員の陰謀ということで消すことによって、謀略は二重の効果を上げた。それが共産党分子の仕業だという宣伝のために、国鉄の首切り反対闘争は俄かに火が消えたようになり、当時の加賀山副総裁の言葉を借りていえば、そのために国鉄整理が円滑に進んだので、結果からみて下山氏の死は無意義ではなかった、ということにもなるのである。(上巻所収「下山事件」参照)
そういえば、福島地方には当時アメリカ関係筋がしきりと顔を出している。
共同通信の記事によると次のように出ている。福島市の外れに教育会館があったが、これには当時アメリカ軍政部が陣取っていた。七月四日に第一次人員整理が発表された時、郡山機関区の組合員は、辞令を受取らないと頑張り、ピケを張った。すると、軍政部司令官クラーク中佐が郡山に乗込み、ピケ隊の先頭に立っていた委員長に、指揮隊をしてピストルと銃を構えさせ、委員長は、眼の前に突き出されたピストルの銃口を見てその場に卒倒し、首切りは強行された。この例でも想像されるように、軍政部は警察、県庁に対して絶大の権力を持っていた。県の労政課でも毎日報告書を提出しなければならない。事件が起ると、警察幹部は状況をまず軍政部と福島CICに報らせていた。
軍政部とは別に県内で密かに活動していたのは、福島CICだった。この地区のCICは当時、旧軍人の調査が一段落すると、二十三年ごろから共産党対策に熱中した。松川事件が起った時、報告に行った警察幹部に対し、CIC隊長のアンドリュー少佐が繰返して、共産党の犯行だ、と強調した。松川事件に関する限り、東北管区CICも、東京のCIC本部も、異常な関心を持っていたのは事実である、と共同は報じている。
しかし、もし、松川事件に米軍が関係しているとするならば、それはCICだけではないのである。理論の上からいけばCIAでなければならない。というのは、このCIAの中には、破壊活動班というのが設けられているのだ。そして、CIAが日本に在って、その地盤を確立したのは一九四九年のことである。一九五四年十月六日の『IF・ストーンズ・ウィークリー』には、次のようにCIAに関するストーンの記述を掲げている。
「自動的な秘密外務省になりつつあるCIAのこの傾向は、CIA自身が誇らしげに述べていることから更に完全に証明される。サタデー・イヴニング・ポスト紙は、三回に亙る『CIAの奇怪なる行動』と題する記事を連載したが、これはCIAの承認を得ている正式のCIAの横顔である。この記事によれば、グヮテマラのアルベンス政権、エジプトのファルーク政権、イランのモサデク政権を転覆させたのはCIAの功績だとしている。そしてそれらは、海兵隊の代りに秘密機関、破壊手段等を政府転覆のために利用しているのである。外交手段でもなければ軍事諜報活動でもない、もう一つの活動方法は破壊行為である。スパイ網およびCIAの公然な調査機能と合せて、CIAは極秘の第三部隊を動かしている。あるいは不満の徒が不法活動に動員出来るような所、即ち、抵抗運動が小規模ではあるが勇敢であるような所、そういう他の国では、CIA機関は破壊活動班の一隊を鉄道使用補給路の鉄橋に送り込んだのである。かくして鉄橋は爆発された。その際、人命は失われ施設は破壊を受けた。これは友好的な関係にあって、且つ正常な外交を結んでいる国に対して、平時に、秘密の裡《うち》に仕掛けられた戦争である」
このストーンの筆を松川事件に当てはめるとそのままぴたりと一致しそうである。
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さて、問題を具体的に松川事件に戻してみよう。
この転覆作業が行なわれるためには、下り一五九貨物列車の運休は必須の条件だった。問題の四一二旅客列車が現場で転覆したのは、十七日の午前三時九分である。そして、この転覆作業を行なうために、赤間自白によると、赤間たちが歩いて現場に到着し作業にかかったのが、午前二時十分ごろと推定されている。作業時間は二十三分乃至二十七分。従って作業完了は二時三十三分乃至二時三十七分ごろとなる。
ところが、運休貨物列車が休まないで走ったとすると、時刻表による大体の現場通過時刻は午前二時十二分である。まさに赤間自白によれば、破壊作業開始中だ。従って、この貨物列車が通過するということはこの作業の邪魔になり、もしかすると、三時九分に現場にさしかかる四一二旅客列車の転覆に間に合わないかも知れないのである。
それなら、転覆を、もう一列車見送って、後の列車にしたらどうであろうか。
試みに、その四一二号列車の後を考えると、次に現場を通過するのに、三時十六分ごろの四一一列車がある。その後は、一七三列車が三時五十分ごろに通過する。この間は三十四分間しかなく、工作時間の余裕がない。
また、この二本の通過列車ではいかにも時間的に遅過ぎる憾みがある。八月十七日というと、夜明けが早い(この日の日の出は五時五十四分)。後の列車を目標にして作業すれば夜明け近くなって、引揚げる時、その薄明の中で誰かから姿を見られないとも限らない危険があろう。現に、三時九分の四一二号列車の転覆の時でさえ、逸早く現場に到着した玉川警視は、間もなく夜が明けたと証言している。だから、もし列車を転覆させるとすれば、この四一二列車が恰好である。
いずれにしても、現場を二時十二分ごろに通過する貨物列車があると、作業の邪魔になることは確かである。
ところが、作業班に幸いしたこの一五九貨物列車の運休は、十七日の当日だけではなかった。その一カ月前からときどき運休し、現に、事件当日の三日前からも運休していた。
それなら、当日だけ運休するなら問題になろうが、その前から運休しているのならべつに怪しむに足りないだろう、という説が出るかも知れない。しかし、この疑念が示すように、もし謀略班がその貨物列車を止めたとすれば、その日だけ止めるのでは作為があまりにも見え過ぎるのである。当日の破壊活動のために列車を止める必要があれば、前から止まっていたという慣習の条件を自ら作っておかなければならない。
一枚の葉を隠すには森の中に置くのがいい。もし森が無かったならば、森を作ればいいのである(G・K・チェスタートン)。そして、この日に運休した一五九貨物列車が一カ月前からもしばしば休止していたという工作は真意を隠すために「森を作った」ことになるのではなかろうか。
当時の鉄道運行は、日本人の自由にならなかった。それは米軍のRTO(輸送司令部)が実権を握っていて、その許可がなければ貨物列車一本の自由さえ利かなかったのである。まして、RTOを掌握している親玉はCTS(民間輸送部)の鉄道担当官であり、事実上の「運輸大臣」と称されたシャグノンではないか。彼は日本の鉄道を、「マイ・レールロード」と呼称して私物視したほどのオールマイティーであった。首切りを渋る下山総裁にあれほどの圧力を加えていたシャグノンが、もしその気になれば、下部に指令して貨物列車一本の運休工作ぐらいは意のままである。
だから、問題の一五九貨物列車の運休を発令したのは誰かを追及すべきであろう。しかし、今日となっては、もはや、その真相の詮索は無駄だと思う。検察側は、運休を命令したのはあくまでも日本人の当事者の自主的な発意であると主張するだろうし、それより奥のアメリカ人関係のことは絶対に法廷に出されることはないであろう。しかし、この点の真の追及も、この事件の鍵の一つではないかと思うのである。
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松川事件が起る前にも、福島管理部事件、いわゆる福管事件があって、この時は、シャグノンの名前が出てきて日本人側を威嚇している(註。福管事件─首切り反対のため国鉄労組福島支部の幹部連中が管理部長と団体交渉中、管理部長が一方的に打切ったので、それに憤激した組合員が管理部に押しかけた。警官隊が来て組合員に解散を命じたが、そのとき、警官隊は「シャグノンの命令だ」と云ったのである)。
また、松川裁判の一審の時にも、明らかにアメリカ軍の二世と思われる者が裁判長席の後ろに控えていて監視するような状態であった。これは弁護人側の抗議で、さすがに裁判長も退去させたが、これを見ても、いかに松川裁判をアメリカ側が注視していたか分る。ところが、このアメリカ軍人の裁判席に居たことはそれほど取るに足らぬことだ、という不思議な説をなす者がある。
それは、三十四年十一月号の『法律時報』に載った「松川事件の見方」という座談会だが、これは、前述した「広津評決」に対する青柳論文をめぐってのテーマだった。広津氏はその中でこの問題に触れ、
「第一審が開かれるとアメリカの二世の将校が裁判官の後ろの椅子に腰を掛けていたという事実もあるのですからね。本当に圧力をかけた者は何者であったか、という問題も出てくると思うのです。大体、日本の裁判所で裁判官の後ろにアメリカの将校が腰掛けているようなことがあれば、それは異常なことですから、被告団、弁護団が反撥することも考えられます」
と述べている。これに対して、出席した東大教授平野龍一氏は、
「占領軍が本当に裁判に圧力を加えようというなら、そんなやり方はしないでしょう。この事件の事情は知らないのですが、私どもアメリカの裁判所を見学に行くと、裁判官の隣に坐らせてくれます。これはローヤーたるお客に対するエチケットですね。この場合も、その軍人は元々ローヤーで、裁判を見学に来たのではないかと思います。これだけのことで裁判に対する圧迫があったと云うのは、少し飛躍があるのではないでしょうか」
と云っている。
平野東大教授は不思議な発言をするものだ。日本人がアメリカに見学に行っているのと、この松川裁判とは、全然違うのだ。日本では外国人が裁判官席に坐る慣例もなく、まして占領時代にアメリカの軍服を着て坐れば裁判を監視に来て圧力を加えていると見られるのは当然だ。しかも松川事件はアメリカ軍が関係しているように疑惑をもたれていた当時ではないか。それを外国流のエチケットだなどとは常識外れの発言である。
また、この二審の裁判では、実際にMPが裁判所を遠巻きにして要所要所に立っていたこともあるのだ。
松川事件には、アメリカ占領軍の幻影が常に付きまとっているのである。
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赤間たちが永井川信号所のテントを見たか見なかったかという論議が法廷闘争の一つになっている。赤間自白によれば、彼はテントを見たといい、このことから検察側はテントの前を赤間たちが通過したと云うのだが、テントの番人は、赤間の通過を見なかったと主張しつづけている。
これに対して判決文は、「線路を人が歩いた場合、東側通路を歩けばテント内の人に足音が聞えることは当然だろうと考えられるが、西側の場合は、その路面が特に固いものでないことも考え合せ、必ずしも、テントの中に居た人に気づかれるものとも認め難い」から、警戒人の加藤技術係らが赤間など三人の通るのに気がつかなかったとしても、赤間ら三人が通らなかったとは限らない、と解釈している。
検事も、判決も、赤間自白をこの事件の唯一の基礎としているから、どうしても赤間がそのテントの前を通ったことにしなければならない。しかし、番人の見なかったという主張を容れると、赤間自白の基礎が崩れるから、「赤間たちは通過したが番人は気づかなかった」という強引な論理になってしまったのである。しかし、赤間はその自白を翻して犯行を否認しているから、もしこれを信ずれば、彼らはテントの前を通っていなかったことになる。通っていなければ警戒人が気づく筈がないから、これは素直に番人の証言がそのまま受け容れられる。しかし、それでは検事も判決も困るのである。
テントの中に居た加藤技術係以下三人の番人が、すぐ前を人が通るのを見なかった、という証言は、その一貫した主張からみて、あくまでも正しいと思う。「見なかった」のは、その前を人が誰も通らなかったのだ。これが真実だ。しかし、当夜は現場に転覆作業が行なわれていたことは厳然たる事実だし、それでは一体どうなるかということになろう。
それは、赤間らの自白を基礎にして、破壊工作班が線路沿いの道を往復したということを認め、或いは、認めたい、から真実に矛盾が起るのである。つまり、実際の破壊工作班は、赤間自白による道とは異った道を選んだのかも知れない別の可能性があるのだ。異った道とは、即ち、赤間たちが往復した線路沿いから東の方に走っている陸羽街道のことを指すのである。つまり、実際の破壊工作班は陸羽街道を通ったものと私は推測するのである。彼らは福島から松川に向い、陸羽街道を堂々と南下したのだと私は推定する。
以下は私の推測になるが、この陸羽街道は、福島からの謀略工作班が米軍トラックか又はジープに乗って、幌の中に身を隠しつつ走ったルートだと思う。陸羽街道のことは、弁護人側も検察側もふれていない、この事件の盲点である。
これをもっと具体的に推理すると、破壊工作の謀議実行隊は、問題の一五九貨物列車運休の措置が取られた後に、福島CIC本部を秘密裡に出発して、赤間自白の道や線路伝いとは全く別の陸羽街道を伝い、信夫橋を渡り、濁川の橋を渡り、東北本線とは浅川踏切で接触し、そのまま松川町の或る地点で最終打合せを終らせ、当夜、現場付近に配置されたと思うのだ。
もとより、破壊活動班が単独に現場で実行する危険を犯すわけがない。そこで、松川駅はもちろん、川俣線と街道の交錯する地点の東側、即ち東芝松川工場労組事務所と、東芝松川工場労組八坂寮付近に、目立たぬようにピケが張られていたであろう。また石合踏切の付近にも同じような立哨を置き、特に現場付近は、作業班のほかに東北本線の両側に若干のピケを配置。なお、大事を取って、浅川踏切と奥羽本線並びに東北本線のクロスする所と北西の地点にも、そのような配置があったものと思われる。従って、これに動員された車はピケ隊を入れて四台以上。更に緊急事態に備えたものが普通ジープで数台動員され、実行工作班はこの完全警戒網の中で行なわれたものと思う。
これらの工作各班には、それぞれ超短波もあれば無線もある。連絡は完璧であり、権限を発動して列車も運休してあるから、現場での工作の懸念は皆無だった。
そして当然のことに、この時に使用されたスパナやバールも皆それぞれ前以て用意された正規の作業用のものであったと思う。或いは、仙台CICあたりがその工具を破壊作業員に手渡していたのではないだろうか。
現場に残したようなチャチなものでは無論あるまい。
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裁判では、現場にわざわざ遺された一本のバールと一本の自在スパナだけを唯一の物証として採用しているから、弁護人側は短時間にあれだけの作業が出来る筈はないなどと云わねばならないのだ。しかし、あれだけの作業をするのに、たった一本のバールや、スパナを持って行くような間抜けた作業があるだろうか。何本ものスパナ、何本ものバールをもってすれば、現場での破壊活動は極めて短時間に行なわれるのである。それを赤間自白に飽くまでも辻褄を合せようとするから、いろいろな矛盾や破綻が出てくるのだ。
当夜は、前夜の大槻呉服店の土蔵破りで非常警戒がなされていたことは既記の通りだ。すると、前述の破壊活動班のピケと、この日本警察側の非常警戒とは、或る種の了解がなされていたのではなかろうか。了解という言葉が強ければ、この二つの警戒は偶然の暗合と解釈してもいい。こう考えるのは、警戒に出たのが捜査係ではなく、警備係があまりにも多く動員されているからである。
ここで、玉川警視が事件発生後直ちに駆けつけた時間が早過ぎた事実を思い出して頂きたい。しかも、玉川警視は事故発生を警察から報らされたのではなく、国鉄管理部からの直接電話を自宅に受けたのである。この連絡の取り方といい、現場に到着の早さといい、到着するやすぐに、倉庫からバールやスパナの紛失を知らないうちに逸早く「物」を探させた処置といい、その行動が弁護人や広津氏などからさまざまに指摘される由来が起るのである。そして、これは以上述べた私の推定状況下でようやく説明されないだろうか。
また、当時の福島地区警察署警備係長佐藤警部補も、当夜の十一時ごろまで松川の駐在所に居た、と一審の公判で証言している。何のために、地区署の警備係長が松川駐在所にそんなに遅くまで居たのであろうか。このへんも玉川警視の行動と思い合されるのである。現場で彼が指揮した七、八名の刑事の名前も覚えていないことも、この辺で思い当る。
このことを更に理由づけるものとして、例の「諏訪メモ」を取り上げたい。この「諏訪メモ」は周知のように、最高裁まで検察側によって隠されていたものだが、法廷技術では、このメモに書かれた東芝の団交席上に佐藤一が居たということに焦点が絞られている。つまり、佐藤一被告のアリバイが成立するかどうかで共同謀議の有無が決定されるキメ手となっている。
ところが、この同じ「諏訪メモ」には別の奇怪な記事がある。
「諏訪メモ」の八頁には、当時、東芝松川工場と、国警、地警、米占領軍民政部、CIC労政課などと連絡があったことが示唆されているのだ。
即ち、「諏訪メモ」の八頁には、当時、東芝松川工場事務課長補佐諏訪新一郎氏の手蹟で左の通り記載されている。
「13 対外的関係ハ(緊急時)西ガ主トシテ当ル
[#2字下げ]国警本部──警備課長(次席)
[#3字下げ]6・30赤旗事件トカチ合フ 11日カラ10名位
[#2字下げ]地警──警備係長──応援者
[#4字下げ]根拠地──原
[#1字下げ]民政部──労務課(野地通訳)
[#1字下げ]CIC──tel 1360──加藤通訳
[#2字下げ]──「松川デス、頼ミマス」連絡者20分
[#1字下げ]労政課──野地課長or高原
[#2字下げ]C.C or30[#「30」は縦中横]名地警カラ来ルノハ最大限」
このメモの文句は、次のように解釈されている。
「国家警察福島県本部への連絡はそこの警備課長(あるいは次席)にすること。11日からはそこから十名の応援が来ている。福島地区警察への連絡は警備係長(前記、佐藤森義警部補のこと。この人は松川の原駐在所に夜おそくまでいたことは前述のとおり)にすること。そして根拠地「原」とあることは私たちの注意をひく。そこには佐藤森義警部補がつめ、佐藤倍雄巡査が、夜もねないでいたことと考え合せるならば、その意味ははっきりするであろう。根拠地という以上は、ここに連絡すれば、東芝労組弾圧にすぐにも乗り出せる警備配置がここを中心にできていたことではないか。さらに驚くべきことに、アメリカ民政部労務課やCIC(防諜部)などとも密接な連絡体制ができていることである。『松川デス、頼ミマス』の二言の通報で、すべてが了解され動き出せることになっているのである」(『中央公論』「松川事件特集号」=熊谷達雄氏稿)
以上を見ても、どのようにアメリカ機関側と警察側とが日ごろから緊密な連絡があったかということが分るのである。
私はこの玉川警視のことを考えると、白鳥事件の白鳥一雄警部のことを連想せずにはおられない。白鳥警部は札幌地警の警備課長で、当時の日共関係を担当する一方、CICとも常に連絡を持っていた。彼は、その蒐集した情報をその所属する市警には提出しないで、G2と連絡のある国警に情報を提供していたといわれる。つまり、白鳥警部がCICや国警と特別な繋がりを持っていた立場が、この玉川警視にも連想されるのだ。
それはともかくとして、以上私の推定する工作が当夜行なわれていたとすると、いかに深夜といえども、また寂しい土地といっても、誰か目撃者があったのではないか、という疑問が当然起る筈だ。しかし、今日、その目撃者は出て来ていない。しかし、その目撃者が出て証言をしないからといって、その事実が無かったとはすぐには断定できないのである。
殊に、当時、事件関係者は警察の異常な情熱によって片ッ端から検挙されていた時であり、誰でも極度に関り合いになるのを恐れていたのだった。今でも、実地検証に行って付近の住民に訊くと、いずれも口を固く閉ざして、何も知らぬ、と否定するのだ。
殊に、その物々しい異常な事実を目撃したら、恐怖が先に立って、人に云えたものではなかろう。このへんにも謀略班の心理的な狙いがあったと云わねばならぬ。
そのことで一つの悲劇的な挿話がある。それは、当夜、奇怪な行動をする男を見たと云う人の不思議な死である。それは英文の怪文書にも打たれて、すでに今では知れわたったことだが、一応、書いておく。
目撃者の名前は、渋川村の佐藤金作という人である。彼はたまたま脱線の現場付近を通りかかった時、二人ほどの「大男」が枕木からレールを外しているのを見た。彼はそれを見て、一体、何をしているのだろうかと、ちょっと不審を抱いたが、多分、レールを検査するか、修理をやっているのだろうと、自ら納得して、さして愕きもしなかった。この仲間に加わっていた一人の日本人が彼の後を尾けて来て、わが家の戸を開けようとするところを、後ろから日本語で呼び止めた。この男は彼に向かって、その晩見たことを他人に口外してはならない、と告げ、口外するとアメリカの軍事裁判にかけられる、と警告した。もとより、彼はそれが何のことか全く理由《わけ》が分らなかったが、ただ、云いません、と答えた。
しかし、翌朝になって、初めてその理由が分った。彼はこの転覆事件について不安を感じていると、五日後、一人の見知らぬ男がやって来て、彼に福島市CICの事務所の位置を書いた地図を見せ、明日、ここへ出頭して下さい、話したいことがあるそうですから、と告げた。彼は恐怖が増して自分の家を逃げ出し、横浜で三輪車の運転手をやっている弟の許に身を寄せ、彼自身も三輪車の運転手になった。
しかし、彼が三輪車の運転手になって二カ月後、昭和二十五年一月十二日、行方が分らなくなった。そして、失踪して四十日余りののち、彼の死体が入江に浮いているのが見つかった、と聞かされた弟と金作の家族は死体を確かめに行ったが、その時はすでに火葬にされていた。
そして、検屍の結果を「傷は負っていない。多分、酒に酔って入江に落込み、心臓麻痺で死んだのだろう」と聞かされた。英文に書かれたことは、調べてみると、それが実際だということが判った。
そして、死んだ金作は、生前、何者かに怯え、自作の川柳にも「自殺するまでの気持を知る暗さ」「頸やっと繋ぎ真綿で絞められる」「バラバラに骨外されて夢が醒め」「種蒔きし人は静かに墓地に消え」「新聞の事に吸いつく批判力」などと作っている。
更に、転覆現場付近に永らく住んでいた乞食が、事件後、いつの間にか姿を見せなくなった、という噂も伝わっている。
これらのことが直接に事件に関係があるかどうかはしばらく措くとしても、たとえ目撃者があっても容易にそのことを口外出来ない事情にあった、という例証になると思う。それならば、破壊活動班は、自分の仲間の警戒と、間接的には日本警察の非常警戒と、目撃者の無い環境の中で、破壊作業を悠々と行なったと見るべきであろう。
[#5字下げ]14
この事件の兇器は、現場に遺されたバールとスパナである。この二つが遺された唯一の物的証拠だ。そして、二つとも指紋は付いていなかった。
現場に遺された自在スパナで軌条のボールト・ナットが緩められるかどうかは、諸鑑定がその可能性を疑問視していることだし、この鑑定をめぐる論争は現在もつづいている。だが、自在スパナではその作業は絶対に不可能と私には思われる。従って、スパナは作業には使用されなかったと見ているから、この自在スパナのことよりも犯人の幻影をほうふつさせるバールの方に考えの重点を置いてみたい。
問題のバールには、X・Yという英字らしい印が付けられていた。それまで国鉄側の備品には、このような刻印を付けられた事実が無かったことは前にふれた。それと、このバールには草色のペンキが少量付着していたのである。この草色のペンキは、法廷記録でも問題になっている。
先にも云う通り、私は本当の破壊班は、現場に遺された一梃のスパナ、一梃のバールだけで(しかも、それはニセモノだが)作業したとは思っていないし、そのほかにハンマーも使われたと思う。証拠品となっている継ぎ目板の打痕は、ハンマーのようなもので激しく叩いて取り外したことを示しているそうである。
それと、このバールには縦に瑕が付いている。国鉄側の証言でも、バールは滅多に縦に瑕が付くことはなく、殆ど横に付く、と云っているから、現場に遺された縦の瑕跡でも、そのバールは国鉄側で使用する目的とは別に、他の作業用の目的にも使われていたものではなかろうか。「他の」というのは、常識的なバールの目的以外にという意味である。云い換えると、このバールはそれだけでも国鉄のものではないと思われるのである。
このバールはゲージタイで作られたものだが、国鉄規格の三十キロ軌条よりは太く、三十七キロのものとしては細過ぎる。とあって、国鉄の規格軌条のゲージタイでない別のもので作られたという疑問があるのだ。
この太さのことといい、X・Yという国鉄に無い記号といい、問題のペンキの色といい、それがその持主が何者であるかを自ら想像させる。
ところが、このバール、スパナのことについて次のような発言もあるのである。やはり前記の「松川事件の見方」の座談会でだが、出席者の野村正男氏は、
「世間では、その意味から占領軍の特務機関がやったのじゃないか、その持物じゃないか、ということを云うわけですけれども、私が不思議に思うのは、あの頃、占領軍の鉄道関係の機関(RTO)がありましたね。あれは別に鉄道の道具を持って来たという話も聞かないし……」
と云い、さらに、
「占領軍の兵隊が機関車を持って来たわけじゃなし、いわんやバール、スパナを、と思うんですがね」とある。
聞かないとか、思うということは、この発言者の感想であって、それをとやかく云うつもりはないが、世間の一部には、この野村発言と同じことを考えている人もあるかと思って、ここにその速記の一部を取り上げたのである。
機関車のことはともかく、「いわんやバール、スパナを」と云うのは、あまりにも事実を知らないような云い方のようである。米軍は日本を見物するために駐留したのではなかった。常に、いつでも戦えるという戦闘態勢にあったのだ。およそ軍隊とは、常に戦闘を基準に存在していることはどこの国も同じことである。米軍は、日本に駐留している時も、あらゆる戦闘態勢に備え、あらゆる戦闘器具を用意していたものだ。だから工具も工兵用として|何でも持っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。殊に鉄道は軍隊輸送の最大動脈だから、その方面の工具も日本の鉄道備品以上の優秀なものを準備していたと考えられる。
もし、かりにアメリカと、日本に地理的に近い他の国とが戦争状態になった時、アメリカ軍はその作戦に、日本の鉄道従業員だけを当てにしていたのであろうか。鉄道労働者がストライキを起した場合も想定して、アメリカ軍は自力でも鉄道輸送が出来うるくらいの専門部門の軍隊を準備していたであろう。そのくらいの態勢と用意は、占領地に臨む限り計画されていたのである。況んや、バールやスパナの如き平凡な普通工具においてをやである。
現に、米国は日本占領直後、作戦用のディーゼル電気機関車(日本のDD50形式、DF50などと同じタイプのもの)を、日本のゲージにあわせて製作し、進駐と同時に十数輛陸揚げした事実がある。占領中は日本の各地で使用したが、その修理は品川機関庫(最も沢山使用していた)と、大修理は国鉄大宮工場、浜松工場でやっていた。占領後、国鉄にこの一部(多分比較的製作年度の新しいもの)が引きつがれ、国鉄では、これにDD12型式と名づけて、現在、五輛ぐらい使用しているという。このタイプは日本のDD13、DD11の型式の先駆をなすもので、外観的にはほぼ同様の型である。もっとも、DD11、13は日本独自のもので、動力伝達方式もディーゼルカーと全く同様の、液圧式トルクコンバーターを用いている。
ところで、この米軍のディーゼル電気機関車の修理用に、日本ではちょっと想像のつかないほど、大量の部品と多数の解体組立用の工具類を持って来た点は注目すべきで、おそらく、この工具類は、現在でもどこかの機関区には、一部残っているのではなかろうか。工場関係の機関車技術者は、この機関車を初めて見たとき、用意周到なアメリカの作戦計画を知って愕いたといわれている。
こういう事実があるから、野村氏のいうように、占領軍の兵隊が機関車を持って来たわけではなし、いわんや、バール、スパナをと思うんですがね、という素朴な否定的疑問も意味のないことになる。
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次に、問題の草色のペンキを考えてみたい。
この色のことを考えると、私は、やはり下山事件における色の問題を思い出さずにはおられない。下山総裁の死体の上衣からは正体不明の色の粉が検出された。それは青味がかった緑色であった。(上巻「下山事件」参照)
下山事件のその色の粉のことから、私は下山氏が拉致された場所が塗料の使用される工場に関連すると推論した。そして、その粉の色は、アメリカ軍がその兵器に保護色として塗っている色と同じだ、とも云った。
同じことがこのバールについた草色のペンキにも云えるのである。それは明るい草色ではなく暗い草色だった。現在、証拠品のバールからその色が消えているのは残念だが、その事実は法廷記録にも残っている。
それで私は次のように推断するのだ。
このバールは、そのような色の塗料が塗られてある場所に一時置かれたことがあって、しかも、その塗料が乾いていないので、偶然にバールがそれに触れて色が付着した、と見たいのである。しかし、国鉄倉庫などに草色のペンキを塗った物がある筈はないのだ。ましてや信号機などに塗る明るい青色とはまるで違う。暗い草色はアメリカ軍兵器の保護色なのだ。
私は、この松川の破壊謀略班の一部は或いは仙台方面から来たのではないかと疑っている。仙台には小型の米軍野戦工廠があった。ここでは小型飛行機やヘリコプターの整備などをしていて、青森県三沢飛行場とは別な補助飛行場があった筈だ。これは想像だが、もし、問題の工作班がこの野戦工廠から特務班として選ばれて出動したとなると、鉄道破壊の道具には事を欠かない。現在証拠物として残っている犬釘を見ると、スパナなどで手間をかけて抜いたものではなく、一ぺんに抜き取るような機具を噛ました跡があると鉄道現場の専門家は云っている。すると、日本には無いそのような機械的な工具が向うにあったのかもしれない。
また、バールに草色のペンキが不用意に付くことも不自然ではない。問題のバールは、そのような色のペンキが塗られた道具の置いてある倉庫に在ったのかもしれない。或いは運搬の途中、車(ジープがこの色だ)の乾かないペンキの部分にバールがふれたのかもしれない。
要するに、唯一の兇器であるところのスパナやバールが、検察側の主張するような、被告が倉庫から盗み出した鉄道備品でも何でもなく、全く別なものということを云いたいのである。
ところが、判決では、この唯一の物的証拠を認めないと事件の全体が崩れるので、「松川線路班のものでないとは云えない」とか、「破壊作業が不可能とはいえない」とかいう漠然とした表現で、これを証拠として認めている。
この判決文を見ると、私はまたしても帝銀事件を思わずにはいられないのである。
帝銀事件では、使用された毒薬が果して何であったかという証明も、平沢被告がそれをどこから入手したかという経路も明らかにされていない。十二人を殺した毒物は、東大その他で検査の結果、青酸カリ化合物ようのものというだけで、未だに正体ははっきりしていないのである。それがいつの間にか判決では青酸カリとなり、さらに、「被告がかねて所持しいたる」となって、入手経路の証明の点も無視されている。帝銀事件の場合も、青酸カリが唯一の物的証拠であったが、このような曖昧な証拠論で判決を下したのである。それはそういうかたちででも兇器を認めないと困るからである。(「帝銀事件の謎」参照)
これについて、さすがに永年、法廷専門の新聞記者だけに野村正男氏は私と同じ感想を持っている。
「広津 少数意見の中に、スパナはどこから持って来てもかまわぬ、というようなことを書いている人がいましたね。下飯坂さんでしたか。
野村 それは帝銀事件の判決と似ているでしょう。さっきも申上げたように、平沢が青酸カリをどこで入手したか、それが果して青酸カリそのものであったか、青酸カリ様のものであったかということは、遂に捜査上現れないですね。しかし、全体から見て有罪の認定をして差支えない、こういうことになっているのが平沢の判決です。こういうケースは……。
広津 平沢の場合のそれとこれとは違うんじゃないですか。
野村 ウエートはむろん違うでしょう。しかし、平沢の場合も重要な問題ですよ。平沢の場合も十二人殺しているんだから、どこから持って来て、毒物の性質はどうだ、というのは欲しいところなんですね。しかし、遂に確定し得なかった」(『法律時報』三十四年十一月号・「松川事件の見方」座談会記事)
この発言の中にもあるように、「全体から見て有罪の認定をし」たやり方は、この松川事件も同じである。バール、スパナとも確実に松川線路班のものだという証拠もないし、また現場の破壊工作に自在スパナが使用されたという決定も鑑定上の結論が出ていないのである。もし、これほどの大事件に犯人が出ないと都合が悪い、というような理由で、曖昧な兇器論をなし「証拠」として認めたとなると、由々しき大事である。
私は、現場で使用された形跡も無い自在スパナは偽物《にせもの》、X・Yと読まれる記号の付いたバールは、米軍の作戦部と関係の深い補給輸送部隊の使う野戦工具《ヽヽヽヽ》の一つか、又は、彼らの手でゲージタイから造られた手製の道具(兵隊が面白半分に)ではないか、と思うのである。国鉄側の作った最初の事故報告書には、バールが工作に使用された形跡を認めている。今日となってはその確認は困難だが、もし、それを認めるとしても、松川の現場で使用したとは限らない。タテのキズと思い合せて、われらの考えつかない別の用途に使ったかもしれないのである。要するに、バールもスパナと同じく、現場で使用されたものでなく、真犯人たちが擬装のために現場に置いて逃げたと解釈するのだ。
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次は、失われた二枚の継ぎ目板の問題である。
私は敢えて「失われた」と云いたい。赤間自白によれば、継ぎ目板は「一カ所取除いた」となっていて、検察側もずっとそれを主張しつづける。ところが、実地検証の結果、一カ所では列車の転覆は無理だという印象を受けたのか、弁護団の追及のこともあって、二審になって、不注意でつい出し忘れた、と称して新しく継ぎ目板を出したのである。
しかし、この板は、前述のように曲っている。失われた箇所の板は直線でなければならないから、弁護人側はこれを別物ではないかと衝くのである。つまり、検察側は苦し紛れに、辻褄を合せるため他からいい加減な板を二枚持って来たのではないか、と云うのだ。
私はそのどちらとも断定するわけにはいかない。しかし、しばらく、弁護人側の偽物説を取って考えよう。すると、実際の二枚の継ぎ目板はどこかに隠れて行方不明になったままなのである。もし、実際にそれがあれば、検察側は弁護団が納得するようなものを堂々と最初から提出するであろう。裏返して考えれば、現場に遺棄された継ぎ目板は一枚しかなかったから、赤間被告をして、工作で取外したのは一カ所だけだ、と云わせたともいえる。
「継ぎ目板のイントクについて──。
山本検察官は、そういうつぎ目板があることを知らなかったから原審の法廷に提出しなかったと、云う。知らなかったのは、自分で『おかしいです』とも云う。『おかしい』はずだ。山本は、昭和二十四年十月頃にそのつぎ目板の捜査の報告をも受けているではないか。
検事は、自白の『真実性』を主張するために、法廷で証人に対してまで強引きわまる誘導尋問をやってみたり、あとから調書をつくったりしている。だから自白とハッキリくい違うようなつぎめ板を提出する気になるはずはない。検事がイントクしたのは、むしろ、ふつうの心理過程である」(岡林弁護人弁論要旨)
では、その継ぎ目板を持っていったのは、犯人以外には考えられない。何故、犯人は継ぎ目板二枚だけ持ち去ったのであろうか。
現場付近の田圃の中に、使用したと思わせるバールとスパナを「証拠品」としてわざわざ置いて行った犯人が、後で当然問題になるような継ぎ目板二枚をどうして運び去ったか。
ここで思い出すのは、下山事件である。下山総裁の遺体から失われた物がある。眼鏡、ネクタイ、ライターである。これは当時付近一帯の草狩りまでして捜索したが、遂に現れず、今日では謎となっている。私は、この下山氏の持物の行方不明と継ぎ目板二枚の行方不明を同じ意味に考えたい。
つまり、これは犯人の「戦利品」なのだ。こういう云い方は奇妙に聞えるであろうか。しかし、戦場において、兵士がしばしば敗者の持物を「記念」として奪い、それを密かに持っていることは、日本兵がかつて大陸などでやったことであるし、外国兵の場合は殊にその傾向が強いのである。それからすると、下山氏のライター、ネクタイ、眼鏡は恰好の戦利品であった。捜しても出てくるわけがないのである。私は迂闊にも、下山事件を書く時にこのことに気が付かなかった。今度、松川事件を手がけてみて、初めてそのことに逆に思い当った次第である。
或る犯人たちが、後のことなどあまり考えずに面白半分に二枚の継ぎ目板を鹵獲品として持ち去ったものだと思う。
だが、この場合は下山氏のライター、ネクタイ、眼鏡とは理由《わけ》が違う。下山氏からの分捕品はポケットにも入るが、継ぎ目板となると大きいし、重味もある。手軽には運べない。だから犯人はジープのような乗物を持っていた。私は継ぎ目板の謎をかように解釈したい。
そのことからもう一つの矛盾の解決に到達する。それは現場に遺されたバールとスパナの問題にかえるが、その二つとも指紋は無かった。広津氏などは、わざわざ現場にこのような物をいかにも見てくれと云わんばかりに遺しているのはおかしいという意味のことを述べている。これは誰しも考えるところであろう。
しかし、ここに別な矛盾がある。もし、その現場に証拠品として遺すなら、後でその使用可能性に問題になるような疑わしい物を何故遺すだろうか。遺すとしたら、万人が納得するような証拠を何故遺さなかったか。自在スパナの件は、今でも鑑定で論争中である。こんな厄介な手続を取らなくても、一ぺんでそれと決定するような兇器を何故遺さなかったか。そのほうがはるかに効果が上るのに。
理由は、使用された物が明らかに国鉄側の備品ではなかったからである。その破壊工作にはハンマーも使われたであろうが、これは遺されていない。ただハンマーの打痕だけが継ぎ目板とボールトに残されたのみである。
バールとスパナの二つに指紋が付いていないことは、いかにも犯人の用心深さを思わせるように受取られているが、こんなことは工作班にとっては常識的な初歩だ。普通でも手袋をはめて作業するのは、はめないで作業するよりはるかに習慣的なのである。
だが、犯人たちは、現場から破壊工作を完了して引揚げる時、何か「破壊工作の証拠」を残さねばならぬと気が付いたかも知れない。そこで、偽物のバールとスパナが役立った。しかし、当然遺さなければならぬ継ぎ目板は持ち去った。この矛盾は、この犯行に何かチグハグさを感じさせるのである。
転覆現場では、一本のレールが線路から十三メートルも先へ動かされていた。その原因は不明だが、そのレールが曲ってもいず、横倒しにもなっていないところから考えると、十人以上の人数で、大力の大男が面白半分に運んで行ったとも考えられる、と岡林弁論要旨に述べてある。この「面白半分に」というのが実行に当った犯人の性格を推定させ、更に、それが犯人の姿とこの破壊謀略の性質を類推させるのである。
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この事件の被告たちは、いずれも赤間自白によって次々とイモ蔓式に捕えられた者ばかりである。まず、赤間自白から──鈴木、高橋、本田、阿部、佐藤、浜崎が逮捕された。これは主として国鉄側である。
今度は浜崎を逮捕し、その自白から──杉浦、太田、佐藤(代)、二階堂、小林、菊地が逮捕された。これは主として東芝側である。
この国鉄と東芝との二つを結ぶため、共同謀議を作らねばならぬ。その自白が太田省次である。太田の口から武田久(共同謀議の議長)、斎藤千、岡田十良松などが捕えられ、そして事件全被告が共同謀議の罪名となった。つまり、「赤間」自白と、「浜崎」自白と、「太田」自白は、検察側にとって、この事件の三つの要《かなめ》なのである。
ところが、実はもう一つの要になりそこねた男がいる。赤間逮捕から一週間して、東芝側から逮捕された菊地武という十八歳の少年である。菊地少年は窃盗容疑という名義で逮捕されたのだが、それは嘘であった。しかし、帰されずに、すぐ松川事件のことを調べられはじめた。ところが、彼は偶然にも盲腸炎になったので釈放されたのである。
もし菊地少年がこのとき盲腸炎に罹らなかったらどうであろう。彼は赤間と同じように、列車転覆陰謀の東芝側の導火線になっていたであろう。従って、捜査当局はこの事件検挙を赤間、菊地両立てでもくろんだとも云えるのである。菊地少年が盲腸炎で倒れたため、せん方なく、代りとして浜崎が狙われたとも云えるのである。
いずれにしても、赤間少年の自白からと云うよりも、それを橋頭堡として次々に的確に共産党員の被告を作ったことは、まことに鮮かと云わねばならぬ。そのことは、まだ本田昇が逮捕されない先に、玉川警視が赤間に「本田はお前がやったと云っているぞ」と云って本田の名前を出させたことからも類推出来るのである。
このことから、警察側にはかねてからこれらの被告の動静がはっきり分っていたと思われるふしがある。各被告とも、その性格や、習慣や、家族の状態、嗜好、趣味、いずれも調べあげられていたであろう。それには玉川警視も部下を使って事情の掌握をしていたかも知れないが、私はこれだけの的確な情報を取るには、東芝側なり国鉄側なりに、日ごろからスパイが入っていたという感じを強めるのである。
それを連想させるに足る一つの挿話がある。それは、共産党の県会議員でAという男の存在である。彼は福島地区の共産党幹部だったが、この翌年、丁度、コミンフォルムの批判があって以来、Aは代々木の共産党を非難していたという。福島の共産党でもこの批判以来二つに割れたが、Aはその分裂派と一緒に出て行った。ところが、彼は、その出て行った派からも間もなく除名された。理由は、Aが予てから特審局と緊密な連絡があったことが暴露されたからである。つまり、彼は、共産党対策のため情報を蒐集している特審局の紐付きであったわけだ。
この事実なども、私の推定するスパイ潜入説の傍証になると思う。
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また、松川事件が発生する前後には、さまざまな興味ある動きがあった。
松川駅から西へ約二百メートル、県道沿いに「松楽座」という芝居小屋があるが、八月十六日の夜、つまり事件当夜、ここに旅廻りのレビュー団がやって来た。小屋が|はね《ヽヽ》たのは午後十時を廻っていた。それから数時間後、この座から程近い石合部落の先で列車転覆事件が起きたのである。不思議なことに、レビュー団は、その晩一回だけ興行したのみで、翌日にはもうどこかへ消えていた。事件後間もなく、この劇団のことが人びとの間に不審がられるようになった。この町にレビュー団が姿を現したのは、後にも先にもこのとき一回きりであったし、このような小さな小屋を選んだのも不思議だった。小屋を貸した「松楽座」の主人阿部某は、そのころ何回か調査に来た人からレビュー団の興行主のことを聞かれたが、結局、口を閉じたまま、その後死んでしまった。最近になって、この興行主は戦前から満州、中国などを渡り歩き、戦後、国鉄、警察、米軍に関係を持っていた怪人物だった、ということだけが伝わっている。
共同の記事によると、次のように出ている。
「『列車妨害の手口から見ると、戦時中、大陸や南方で軍隊が行なった手口と同じであり、技術面に明るいか、またはその暗示を受けた者でなければ不可能である』──事件直後、現場を調査した福島管理部機関車係、保線係の総合調査報告によると、そう推定されている。旧特務機関、右翼筋の犯行という説は、当時から相当根強く信じられている情報の一つだ。それは犯行手口からの推定だけではない。
現場から二十キロ離れた安達郡和木沢村に、当時、反共右翼の巨頭と云われたT氏が土建飯場を持っていた。同氏は、事件前から福島県下で反共演説をブチまくっていた。
『謀略部隊を潜入させるためには絶好の足場ではなかったか』──もちろん、T氏は、その後この噂があるたびごとに否定している。
しかし、和木沢村には『日の丸同盟』という、そのころ県下で活動していた右翼団体の関係者がいたり、事件当夜のアリバイに不審を持たれ逮捕された元鉄道員I氏が住んでいたり、右翼説にはこの村が必ず登場して来るのである」(三十四年八月二十日付『中国新聞』)
松川の破壊工作班は、たとえアメリカ軍関係者であったとしても、軍人を直接に使ったとは思われない。実際の工作班には日本人側の「下請業者」が使われたであろうと想像されるし、もし軍人を使うなら、多分、それは二世の隊員であったと思われる。
このような推論は、今まで誰も積極的には云い出さなかったことだ。松川事件の関係者は、単なる想像が裁判に悪い影響を与えてはならないという用心深さから、そのことを云っても、単にアメリカ軍関係を暗示する程度に慎重に表現しているにすぎない。
「真犯人は被告諸君とは全く無関係の人物である。本件列車てんぷく事故の発生した夜、非常線がはられていたか否かということは、弁護人としては立証することができない(原審第十一回公判における検察官の異議申立)。しかしその夜おそくまで福島地区警察署の警備係長が松川の駐在所に居ったことは立証されている(原審第十一回公判における佐藤森義警備係長の証言)。真犯人はそのような情況下に平然として行動した大胆不敵の人物であるということも推察できないわけではない。被告の中にはそのような人物はいない」(岡林弁護人弁論要旨)
しかし、事件発生後十年以上も経た今日、法廷記録というコップの中での論争だけでは、この事件の真犯人の追及は到底望めそうにないのである。
付記──本稿は三十五年『文藝春秋』に掲載されたものだが、その後、最高裁差戻し、仙台高裁やり直し裁判、門田裁判長の全員無罪の云い渡し、検察側の最高裁控訴という事態の経過があった。しかし、本稿は裁判の追及が主体ではないので、別に書き改める必要がなく、多少の修正をしただけにとどめた。
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[#1字下げ] 追放とレッド・パージ
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日本の政治、経済界の「追放」は、アメリカが日本を降伏させた当時からの方針であった。一九四五年八月二十九日に、アメリカ政府はマッカーサーに対して「降伏後における合衆国の初期対日政策」という文書を伝達し、さらに同年十一月三日付で「日本の占領並びに管理のための連合国最高司令官に対する降伏後初期の基本的指令」と題する文書を発した。GHQは、この二つの文書に基いて占領政策を実行に移すことになったのである。
この十一月三日の米政府の指令は、追放についてGHQに広い権限を与えている。
「日本の侵略計画を作成し実行する上で、行政、財政、経済その他の重要な問題に積極的な役割を果したすべての人々、および大政翼賛会、日本政治会とその機関、並びにこれを引継いだ団体の重要人物はすべて拘置し、今後の措置を待つべきこと。また高い責任地位から誰を追放するかを決定する最終責任を与えられる。さらに一九三七年(昭和十二年)以来、金融、商工業、農業部門で高い責任の地位に在った人々も、軍国的ナショナリズムや侵略主義の主唱者と見なしてよろしい」
この指令はトップ・シークレット(極秘)であって、総司令部に接触していた当時の日本側首脳も容易に窺知することが出来なかったのだった。
この方針に基いて、未曾有の追放が政界、官界、思想界に荒れ狂ったのである。
もっとも、この追放を実際上実行に移すに当っては、GHQ全体が一つの意見に必ずしも纏まったのではない。G2の意見とGSの意見とに喰違いが早くも見られたのである。
このことについてマーク・ゲインは書いている。
「総司令部の内部には劇的な分裂が発展し、全政策立案者を二つの対立陣営に分けてしまった、とこの批評家たちは言う。一つの陣営(GS)は、日本の根本的改造の必要を確信する者で、他の陣営(G2)は、保守的な日本こそ来るべきロシアとの闘争における最上の味方だという理由で基本的な改革に反対する。日本で必要なのは、ちょっとその顔を上向きにさせてやることだけだ、と言うのである。この案に反対の人たちは、次のような論点の数々を挙げた。
@徹底的な追放は、日本を混乱に陥し入れ、革命さえ招く惧れがある。Aもし、追放を必要とするにしても、逐次に行なうべきで、その間、息をつく暇を国民に与えなければならない。B追放は、最高指導者に限らるべきである。命令への服従は規律の定めるところであって、部下は服従以外には途がなかったからである。
軍諜報部の代表を先鋒に、軍関係の四局は悉く結束して追放に反対した。国務省関係の或る者もこれに味方した。追放を支持したのは主として民政局で、総司令部の他の部局もばらばらながらこれを支持した」(『ニッポン日記』)
マーク・ゲインがこれを書いたのは一九四五年(昭和二十年)十二月二十日で、もとより、ソ連はまだアメリカの「戦友」だった時である。が、早くもこの見方はのちのGHQの占領政策転換を予見して興味が深い。
追放は、マッカーサーにアメリカ統合参謀本部が与えた指令のように、「日本国民を欺瞞し、これをして世界征服の挙に出るという過誤を犯さしめた者の権力と勢力を永久に除去」することを目的としたもので、対象はこの限りに置かれていたのである。
ところが、米国防総省《ペンタゴン》がマッカーサーに与えた「追放」という巨大な武器は、後年になって、最初の目的とは裏腹な民主陣営にも振われたのである。これは世界情勢の変化、つまりはソ連との対立が激化して、アメリカ自身の安全のために、GHQの政策が大きな変化を遂げたからにすぎない。別な言い方をすれば、「弾圧を荒っぽい外科手術と信じている」ウイロビーが「棍棒の使用よりも小規模の改革のほうがより多くの味方を獲得しうると考えている」ホイットニーに勝ったのである。
占領は、昔のように強い力をもって対手国を制圧するのではなく、徐々に自国に同化させるという方策がアメリカの考え方であった。このため、「同化」に邪魔になりそうな旧勢力の駆逐が追放の一つの狙いであった。
追放の意義は、それが「懲罰」か、或は「予防措置」か、考え方の分れるところである。当初の追放は、確かにこの二つの意味が含まれていた。旧勢力の除去は、つまり軍部の擡頭と権力的な国家思想の復活を予防するために行なわれたが、また「日本民衆を誤らせた」というよりも、アメリカに対して敵対行為に出た指導層を追放によって懲罰する意味も含まれていたのである。戦犯の絞首刑は懲罰の最極限の現れである。
しかし、追放の意義は、あとで触れるように、後になって大きく転換した。ここでは懲罰ではなく、ただ「予防措置」の意義だけが大きくなった。
つまり、今度は軍部の擡頭や国家思想の復活を対象としたのではなく、その逆の方面、ロシアや|中  共《レツド・チヤイナ》に「同調する分子」の勢力拡大を予防したのである。云い換えると、対ソ作戦に支障を来たすような因子の除去に目的の重点を置き換えたのであった。
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マッカーサーの追放の最初は、日本の秘密警察組織を徹底的に破壊するという目的で、一九四〇年来上層の警察官吏だった山崎巌内相その他の上級警察官の全員を罷免したことだった。この命令は十日間で実施されて、四千九百六十名の内務省官吏が罷免された。しかし、どういう理由《わけ》か、旧軍部の上層階級にはこの追放が不徹底だった。この意味は後で触れる。
ところで、当初、GHQの首脳部は、しかし、誰を追放していいかよく分らなかった。
「計画者自身、一体、何をなし遂げることが期待されているのか、大した確信を持たず、また誰を排除しなければならないのか、知っている者は一人もなかった。そこで、何が軍国主義的、超国家主義的であるか、また指導的とか有力なというのはどういう意味であるのかを定義するに当って、解釈に大へんな食い違いが生じてきた。マッカーサーがさらに日本の経済努力を唯一平和的目的のみに向かって指導しなかったあらゆる個人を重要な経済的地位から排除するように命令されるに至って、この不明確さはさらに加わった」(H・E・ワイルズ『東京旋風』──以下ワイルズとする)
先ず、GHQは日本政府に、経済、新聞、出版、ラジオ、演劇、各界の超国家主義指導者の名簿作成を要求した。十月七日の指令は、千二百五十に上る政治団体会員の全員名簿を提出するように要求した。このやり方は追放計画を予期以上に長引かせた。というのは、日本政府が挙げることを忘れた名前が次から次に発見されたからである。公職適否審査委員会の委員の一人だった岩淵辰雄の話によれば、日本側でどうにかして、日本自らの手で戦争犯罪人を決定し、懲罰しようと希望し、三千人の該当者を選んで、その名簿をホイットニーに出したところ、ホイットニーは、それっぽっちか、と云ってひどく怒った。ホイットニーは、ドイツでは同じような追放令の下で三十万人のナチが追放されたのであるから、日本でも、それ以上ではなくとも、せめてその数に匹敵する人数を追放しなくてはならぬ、と叱ったという。
「どれだけの人数が追放になったかは誰も知らず、その記録報告は不完全で、保管も悪く、その多くのものは、民政局が不可解なと呼んだ火事で焼失してしまった。ホイットニーの正式の報告では、一九四八年六月現在で、七十一万七千四百十五名の資格審査の結果、総計八千七百八十一名が追放になったことになっている。これに職業軍人十九万三千百八十人を加えねばならないし、追放を恐れて自発的に辞職した者は約十万人はあったと見てよかろう」(ワイルズ)
これらの追放は、中央ばかりではなく、新憲法が制定され、地方制度改革の実現と共に、県知事をはじめ市町村長、地方議会の方面にも追放令は拡大適用された。この中には、助役や収入役、農地委員までが適用範囲とされた。
さらに、追放はこれだけで終らず、昭和二十一年十一月二十二日には、官公職から公的活動という方向にまで大きく範囲を拡げた。このため、公益団体、新聞、出版、映画、演劇の各興行会社、放送会社、その他の報道機関までが適用を受けることになり、その対象機関は二百四十、経済関係は二百五十人、報道関係では百七十人が追放された。さらに新聞社は三流、出版社は五流クラスまで枠に入れられ、今まで政界、財界の追放を対岸の火事のように見物していた世界に思いがけない旋風を捲き起した。このほか、新しい特徴としては、追放者の三等親までも公職に就くことを禁止したのである。
『朝日年鑑』(二十四年版)によれば、二十三年五月一日現在で十九万三千百四十二名が追放された。
追放が三等親まで及ぶというのは、極悪犯罪者にも適用されないことだ。しかし、この抗議は、ホイットニーに容れられなかった。これは、追放された連中が依然として元の会社に出入りし、そこに事務所を持ったり、子分と話をしたりすることや、その子供を身代りとして活動させている事実が、投書によってホイットニーに分ったからである。このように、GHQ側としては、追放の該当者を日本側から名簿を出させる以外、密告や投書によって決定した例が多い。誰を追放していいか分らなかった占領軍首脳部は、勢いこのような方法も採らねばならなかった。このことは、日本人同士の他人を陥れる悪辣で陰険な策謀をはやらせ、また一たび追放の烙印を受けた者は、自らの手でその無罪の証明の証拠を集めねばならぬという悲惨な状態に身をおいた。
追放は、当初、「永久」なものと日本の各界に思われていた。まさか四年後に解除になろうとは夢にも思っていなかった。「永久」と思い込んだのは、GS指令の中に「旧勢力の永久排除」という文句が見えているので、そう解釈したのである。共同通信の加藤万寿男の話によると、民政局のネピア議会課長が、他には絶対に云わないでくれ、自分の見方では四年だ、と洩らしたという。つまり、追放は正味四年という、云わば時限立法のようなものだった。もし、この計画が情報ではなく実際の予定か計画の意味を持っていたならば、日本側の被追放者は、あれほど周章狼狽したり打撃を受けることはなかったであろう。四年後に復帰という目算があれば、改めて適当な対策を講じていたことであろう。彼らが追放を「永久」と解釈したところに、前記のような、日本人同士の権謀術策で陥れ合う暗い闘争が起ったのである。
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追放名簿の作成は、はじめは全く政府の手で一方的に行なわれたのだが、二十一年六月から官制によって公職適否審査委員会が設けられ、政府とは独立してこの機関が審査に当った。委員長は美濃部達吉で、委員会は馬場恒吾、飯村一省、入間野武雄、谷村唯一郎、寺崎太郎、山形清によって構成された。追放が地方にも拡大されると、各地方にも審査委員会が設置された。また異議の申立てに対しては、別に公職資格訴願審査委員会を設けて、沢田竹次郎ら七人の委員が任命された。
この公職追放という形式による旧秩序の崩壊は、即ち新秩序の誕生というほどには円滑にいかなかった。それには謀略も懇請もあり、また幾つかの例外があった。が、しかし、「粛清」は、大体、GHQの思う通りに進んだようだった。
日本人の手によって以上の二つの審査会が設けられたが、これは殆ど有名無実に等しかった。何となれば、指摘されそうな人物は、これらの日本人の委員に頼み込むよりも、直接、GHQに訴願したほうが手っ取り早いし、有効だったからである。そこで、自分だけは例外になろうとする必死の工作が随所で展開された。また、とうてい逃れることが出来ないと観念した数多くのグループの中でも、追放自体が間違っているという理論を打ち出すことによって、形式はともかくとして、実質的な追放を避けようとする凄じい巻返しが行なわれた。当然、このためには、アメリカの利益となりうる存在を彼らに誇示すれば追放を免れ得る可能性があったし、また裏取引としては、財宝の献納や、女性を近づけて親しくさせ、彼女らの口からとりなしを頼むという裏工作もあった。
追放を受けた連中は、一時は虚脱に陥ったが、間もなくアメリカの対日政策の本質を見抜いた。それには一つの覗き穴があったのである。
「ICS(統合参謀本部)の命令を文字通りに守れば、当然追放される筈のそういった軍人の中に、二人の陸軍中将がいた。ヒットラー政権当時、ドイツの駐在武官をし、のち、マニラヘ降伏使節団の団長としてやって来た河辺虎四郎と、陸軍情報部長だった有末精三である。二人とも英語はしゃべれなかったので、ドイツ語でウイロビーと話し合った。ウイロビーはドイツ生まれで、その名前は元フォン・ツェッペ・ウント・ワイデンバッハだった。
マッカーサーに保護された三番目の軍人は服部卓四郎大佐で、元東条の秘書官で、参謀本部の作戦課長をしていた人物である。日本海軍軍人で保護された筆頭は、海軍を代表してマッカーサーの到着を出迎えた中村亀三郎中将と、海軍随一の戦略家と称されていた大前敏一大佐だった。このグループにアメリカ側の編集者として配置されていたクラーク・H・河上は、河辺、有末と一緒に働いている旧日本軍人およびその他の者も、この両名との毎日の接触に当って、元の彼らの軍の肩書をそのまま付けて呼ぶことを命令されていたと報告している。彼らほどには恵まれない他の日本人は、皇族をも含めて普通人の地位に引きずり下ろされてしまった。当然、追放されるべき将校連が特権を与えられたばかりでなく、元ドイツに交換教授として派遣されていた荒木光太郎教授と、芸術家のその夫人は、二人とも戦争当時ドイツの外交官仲間と特に親しくしていたというので、一般日本人よりも特に厚遇を受けていた」(ワイルズ)
この荒木光太郎は、画家荒木十畝の子で、その夫人が、のち、郵船ビルで個室を与えられ、歴史の編纂に従事していたという荒木光子である。光子がウイロビーの厚遇を受けて「郵船ビルの淀君」と噂されたのは、ケージスと親しかった子爵夫人鳥尾鶴代や、その学習院グループの存在とは別のケースである。荒木夫人はその手腕をウイロビーに高く買われたが、鳥尾夫人の場合は愛情でケージスと結ばれた。楢橋渡は、鳥尾夫人を通じてケージスに働きかけ、追放を早く解除になった、と一般に信じられている。
岩淵辰雄は語っている。
「『追放者を三十万出せというなら出すが、それはほんとうに責任があって追放になるんじゃなくて、反省の機会を与えるんだ。だから、こういうものは一ペん追放して、格好がついたら、すぐ助ける方法を講じなくちゃいかぬ、それをアメリカがOKするなら、おれがやってやる』といった。吉田はすぐマッカーサーのところに行って相談した。すると、マッカーサーは、『それはおれのほうで初めから考えていたことだ、それを君のほうから言ってこないから黙っていたのだ』ということで、吉田は助ける機関として訴願委員会を作る、それと同時に有名無実になってしまった委員会の構成をかえて、公職資格適否審査委員会というものにしたんです。
そこで、僕や加藤さんや、いま日本化薬社長の原安三郎さん、これらと一緒に実際にやってみると、どうも変だ。つまり、吉田がマッカーサーに直接会って了解を得たということが、GSのケージスなんかにはおもしろくないんだね。それで、訴願委員会のほうがいくら人間の申請をしても一向にアプルーヴ(許可)してこない。
いよいよ二十二年の総選挙が始まって、僕らで楢橋を追放したら、そのとき初めて向うから、『訴願委員会は何をしてるんだ』といってきた。『楢橋は一週間以内に再審査して、選挙に間に合うようにしろ』というわけなんだが、それまで、訴願委員会をアプルーヴしないんだ。僕らが委員会を作るまでにはそういういきさつがある」(『日本週報』31・4)
無論、鳥尾夫人のような立場に縋ったのは、楢橋だけではない。その効果はともかくとして、政財界の大物が必死の助命工作を行なったのである。
前に云った軍人たちはどのような理由でGHQに仕事を与えられていたか。司令部には「歴史課」というセクションがあって、戦史の編纂という名目になっていた。この仕事に当っていた服部卓四郎は云う。「従来、いわゆるマッカーサー戦史の編纂をとかく政治的に取扱っているが、決してそんな政治的なものでなく、ただ、こつこつと戦史資料を集めたにすぎなかったものである。人選にしても、戦争時代に永く陸海軍統帥部に職を持っていたような、戦史関係の事務を執るのに適当な人を選んだにすぎなかったと思う。ただ、戦史資料の蒐集についてわれわれが気持よく協力出来たのは、ウイロビー将軍の友情、国は違っても軍人同士という相通ずる友情によるものだったと思う。これは今日でも私の感銘しているところである」またウイロビーは、そんな歴史が書かれていたことを後で否定した。しかし、これらの職員の本当の仕事の目的は、ソ連の活動についての諜報調整の仕事をしていたものと推測される。そのためには、戦前から対ソ作戦のベテランだったこれらの職業軍人が適任者であったことは云うまでもない。日本参謀本部は、シベリヤから沿海州に至るまでの精密な地図や作戦計画を持っていた筈である。
のちの「服部機関」の噂を考えればこれがうなずけよう。
また、一部に信じられている噂によると、荒木夫人は、歴史課に勤めている時、他のグループと共に、例のゾルゲ事件の資料をウイロビーのために整えていたという。この資料がのちにウイロビーによってGSのニューディーラーたちをやっつける武器になったのを思い合せると、(上巻「革命を売る男・伊藤律」参照)これら職員たちが「ウイロビー将軍の友情」を受けていた理由が分るのである。この問題も、あとに関連して触れる。
荒木夫人は魅力に富んだ、極めて頭のいい社交夫人で、政治的な野心を持ち、ドイツ人やイタリア人の外交官仲間に顔が売れていた(註。荒木光太郎教授は、大戦前、交換教授としてドイツに行き、大島大使と親交があった)。しかし、ウイロビーは彼女の誠実さに深い信頼をおいて、その助言を高く買っていた。自由に自分の事務所に出入りさせたばかりでなく、歴史編纂についての面倒な技術的、財政的責任まで彼女に任せていた。大急ぎで狩り集めたアメリカ人の一団を助けるために、ウイロビーはおよそ二百名に達する日本人を雇い入れて、それを荒木教授の名目的監督下に置いた。これらの連中のうち十五名は陸海軍の上級将校で、そのうち或る者は実際の作戦計画に参与していた人物であり、この多くは極めて枢要な地位にあった連中だった。これら郵船会社班は、その誰一人として歴史家でもなく、文筆家でもないのに、日本側の記録を掻き集めて公式の日本側の戦史を編もうというわけだった。彼らの仕事は秘密ということになっていて、世間に洩れることをひどく警戒していたのは、ウイロビーが、ニューヨーク・タイムズのフランク・クラックホーンに対して、そんな歴史は編纂されていない、と真向から否認したことでも分った。(ワイルズ)
否認したのは、当時、戦史編纂がマッカーサー個人の功績を顕彰するためだという非難があったからである。
服部卓四郎は、ともかく日本の敗戦の原因を追及した『大東亜戦争史』全四巻を完成した。しかし、荒木班は、厖大な人員と予算と日月を要しながら、それが不出来だったという理由で一般の眼には触れずに終った。歴史課の仕事が対ソ作戦の情報資料を調整するにあったことは、ワイルズの指摘するところである。
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追放されるべき軍人組がGHQの傭員になったばかりでなく、さきに第一番に追放を受けた特高関係の人間が、いつの間にか、彼らの側に採用されて息を吹き返していたのである。
マーク・ゲインは、『ニッポン日記』で、彼が山形県酒田に行った時のことを書いている。
ゲインが土地の署長と交した会話は次の通りである。
「署長『私は単なる警察官で、特高警察のことは知りません。この警察にも特高係はありましたが、係長は県庁から来た人でした』ゲイン『その男はどうしましたか』『追放されました。九月二十三日のことでしたが、特高の連中は、みんな解職されました』『その男は今どこに居ますか』『ほら、あの門のところに腰掛けてる男がいるでしょう。アメリカの歩哨のそばに。あれが元の特高係長ですよ』『で、あの男は何をしているんです、米軍の宿舎で?』『日本人と米軍との連絡係です。九月二十四日に、彼は任命されました』『他の特高の連中は?』『ここの警察には六人いましたが、三人は連絡事務所で米軍の仕事をしています』
同様なことは、ロバート・B・テクスターの『日本における失敗』の中にも出ている。
「一九四六年、私が働いていた県に接続する県のCICの隊長は私に、彼が最も重要な任務を委任している彼の最も『貴重』な部下は、職業的テロリストの団体として世界的に有名な日本の秘密警察の元高級警察官だった、と云った。このCIC分隊の一隊員は、この元秘密警察官は県下に起る一切のことを知っている、と云って驚歎していた。分隊長はこの有能な『日本人部下』の助力を得て、穏健なニューディール派占領軍職員の日本人との接触をさえ細心に見守っていた」
GSが「追放」という武器を持っているのに対して、G2はCICという「諜報」武器を持って対抗した。従って、CICが下部傭員に情報活動に有能な元特高警察官を傭い入れたことは不思議ではない。ここにおいて、占領後最初に追放された特高組織がいつの間にかG2の下に付いて再組織されたのであった。
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ここで話の筋を元に戻して、GHQのこうした動きを、被追放政治家たちが見逃す筈はない。彼らは早くもG2とGSの対立に眼を着け、ひいては、それがアメリカの日本管理政策の本質だと覚ったのである。このことは、さらに、米ソの対立が安全保障理事会などで顕著になるに及んで、G2の線を本筋のものだと確認するようになった。
政治家たちは、自分が事実上の追放を免れる唯一の救い道は、追放を指定したGSに対立するG2に気に入られることによって、GSの連中をうち敗かすにある、と考えついたのであった。彼らはまた、追放の指定は止むを得ないとしても、別な立場で、つまり実際上、追放されない前と同じような権利を確保しようとしたのである。
最初、GHQの各セクションは、それぞれ、多数の日本人を出来るだけ多く追放に指定することによってマッカーサーに気に入られようとしたのだった。このことは、それぞれがいかに仕事に熱心であるかをマッカーサーに見せたかったのである。従って、追放の枠外にある者もこの組の中に入れられてしまった。地方の市町村の議員まで追放指定を受けたのは悲喜劇的なナンセンスだが、日本側がこれに抗議してもホイットニーが頑として受付けなかったのは、実はこのマッカーサーに対する「点数稼ぎ」の心理からだ。
だから当然追放に値しない者が追放指定を受けて、生活権まで脅されるような状態にあった時、一方では、当然指定された大物には以上の工作によって実際上の非追放運動をした者があったのである。占領軍の追放指定の無知は、無力な小物を罰し、狡知にたけた大物を跳梁させる結果になったのであった。
筆者は、ここに政治家や官僚の追放に関する裏話を書こうとは思わないし、また興味もない。そのようなことを知りたい読者は、いままで出版されている適当な本について読まれるといい。だが、ここではその中の一例として鳩山一郎の場合だけを書いておく。
鳩山の場合は、GSとよかった楢橋渡がその陰謀を行なったと一部に信じられている。『鳩山一郎回顧録』によると、当時のことを次のように書いている。
「その頃の米国記者や、後に来た米国人などの話によると、当時、司令部には『桃色』の連中が多かったという。その人々が僕の追放をやったんだということを話してくれた。しかし、僕自身が反共声明でわざわざ自分を追放にしたようなものだ。これは僕が追放について不用意な点だったと言える。もう一つは、楢橋渡が当時非常に宣伝した、僕を政界から追放しろという意味のことを米本国から要求して来たというようなことだった。僕は自由党の創立委員会や総務会などで、政府は怪しからん、と云って攻撃した。もし、そういうことであれば、何故、政府は先方に対して僕を追放すべき理由が無いということを明らかにしないんだ、不親切ではないか、と云って、楢橋の言葉を捉えて攻撃したのだった。ただ、僕は攻撃ばかりしていて防衛することについてはまことに注意がなかった。マーク・ゲインなどが『世界の顔』をタネにして僕を虐《いじ》めたが、あれは問題になるような変な所を前後の連絡もなく切り抜き、英訳して記者団に配ったものだ。僕はその英文を見ていないが、直訳したのだと思う。直訳しなければ僕を攻撃する材料は出ないと思う。それで記者団が僕を散々にやっつけて、ゲイン自ら書いているように、僕を追放へ持って行ったと思う」
今では誰でも知っているように、鳩山追放の理由の一つは、彼が戦時中にヨーロッパから帰った時、その旅行記というべき世界元首の印象をまとめた著書を出したことである。それが『世界の顔』と題したものである。この中にはヒットラーやムッソリーニを賞めていた。これが引っかかったのである。
しかし、最初、GSは鳩山追放にそれほど積極的な熱心さを持たなかった。鳩山の場合はどっちでもよかったのである。それをGSに詰め寄って追放に持って行ったのはゲインなどの進歩的なアメリカ新聞記者だといわれている。ゲインは鳩山を丸ノ内のプレスクラブに呼び出し、この本をネタにつるし上げをやったのだった。その時の経緯《いきさつ》をゲインの『ニッポン日記』から抜萃しよう。
「この晩餐会の直前、私は政治的審査会を組織した。被告は鳩山だった。新聞社の特派員は政治に介入すべきではないかも知れない。が、私は、これはいかなる観点からも正当な仕事だと考えた。一アメリカ人としての私は、日本が有数の戦争犯罪人──次の総理に予定されているだけに甚だ危険性のある男──の手から逃れるのに力を貸したかったのだ。一週間ほど前、ヒットラーとムッソリーニ訪問の旅を終えて帰国した鳩山が一九三八年に書いた本の翻訳を、総司令部の或る将校たちが私に呉れた。その本の内容は、民主日本の次の総理の唇から曾て出たものとしては甚だふさわしからぬものを盛っていた。その将校たちは、この本を根拠に鳩山を追放しようと試みた。ところが、これは失敗に終った。そこで彼らは、この翻訳を私にパスしてよこした。晩餐会がはじまる前、私はこの本を十二に引裂いて、関心を持つ中国や英国や米国の特派員たちにおのおの各部分を請負わせた。
ところが、最初の一弾は、実はINS特派員のオーストラリア人フランク・ロバートソンによって放たれた。どこで手に入れたのか、彼は鳩山の著書の一節を持ち出し、これに対して鳩山がどんな解釈を持っているのか聞きたい、と切り出した。一九三八年に書かれたその一節は次のようなものだった。『ヒットラーは心の底から日本を愛している。日本国民はますます精神的訓練に努め、ヒットラーの信頼を裏切らぬようにせねばならない』これを皮切りに査問は熱を帯びてきた。たしかに多少猛烈でもあった。しかし、鳩山は、その過去に関しては彼自身以外誰も恨むことは出来なかった。
訊問がいよいよ肉薄するにつれて、鳩山はいよいよ混乱してきた。最初、彼は、何も憶えていない、と云い張った。そこで、彼の著書からの引用を突付けると、その本の中では嘘を書いたのだ、と云った。が、われわれの武器はその著書だけではなかった。さらにいろいろな資料が提出されはじめるに及んで、鳩山はもはや猟人たちと駆けくらべするだけの思考の速さを失ってしまい、すっかり怯えきった一老人と化した。致命的な一撃は、鳩山が愉しい晩餐会だろうと予想して、この席に腰を下ろしてから約八時間後に加えられた。明日の新聞の大見出しに、総司令部や日本政府(鳩山を審査しパスさせた)がどんな反響を示すか愉しみだ」
しかし、この『世界の顔』は、鳩山回想にもある通り、前後ばらばらに切り取られたもので、その中間の文章を入れると、その調子はそれほどでもなかったかも知れない。それに悪いことに、これは鳩山自身が書いたのではなく、山浦貫一の代筆であった。だから鳩山は、何を訊かれても憶えがなかったのは当然だったのである。明らかに、これは些細な云いがかりで鳩山を追放に追い落したのであった。
もし、そのような揚げ足を取るならば、ウイロビーが前に書いた次の文章はどうなるであろうか。
「ムッソリーニがフランスヘ侵入する直前、ウイロビーはフランコ元帥および中国における日本の活動に、概して同情的な書物を書いた。彼は云った、『その瞬間の感動的な靄に捉われない歴史的判断は、白色人種の伝統的、軍事的優越を再建することによって敗北の記録を抹殺した功績を将来永くムッソリーニに帰すことであろう』」(テクスター『日本における失敗』)
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当時の政局は、どの党も絶対多数を取れなかったため停頓をしていた。鳩山は社会党と連繋するつもりだった。彼にすれば、事前にも手を打ってあることだから出来ると考えていた。ところが、社会党は九十二名を取って昂然としていた。鳩山の提携申し出にも動かなかった。幣原首相は、楢橋書記官長と進歩党幹事長の犬養健らの手で、現職のまま進歩党の総裁になることに決った。しかし鳩山は社会党との連立を中心と考えていたし、進歩党と連繋する気持は少しもなかった。
もし、楢橋の鳩山追放工作が真実とするなら、居坐りを画していた幣原内閣のために鳩山追放は行なわれたといえるのである。しかし、ここに問題なのは、日本の政党同士の駈引きや、闇打ちのことではなく、そのような工作にGHQが荷担したということである。これを逆に云えば、G2とGSの相剋につけ入った日本人が、それを利用することによって対手を追い落したり、己れを浮び上らせたりしたのである。
社会党の某婦人議員が司令部に日参して、自党の大物の讒訴《ざんそ》を行なって追放を請願したのは有名な話である。
この「追い落し」は、日本人に向けたばかりでなく、あとではGHQの内に居る「敵」にも向けられた。
平野力三は、GSに睨まれて追放を喰ったのだが、彼の「敵」ケージス失脚については平野夫人が一役買っている。
「岩淵 それには秘話があるんだ。ケージスに止めを刺したのは、実は、平野さんの奥さんなんだよ。昭和二十四年だったと思うが、ある日、第八軍司令部からハドソンという大佐が、当時参議院議員だった平野成子を訪ねてね、『実は、ケージスを日本から追い出さないと、占領政策がうまくゆかない、いろいろ証拠があるんだが、署名する者がない。これでは書類の効力が出てこない。ミセス平野に署名してもらいたい』といってきたんだ。奥さん喜んでね、『すぐ、やりましょう』いうんで、その場で署名しちゃったんだ。
平野 それは、僕を追放にした天罰だよ」(『日本週報』31・4座談会)
ケージス追出しの陰謀は、こうして日本人の情報協力を得てG2の線から行なわれたのである。下部にCICという有能な謀略機関を持っているG2は、まことにこういう仕事はたやすかったのである。
政界の追放と車の両輪をなした財界の変革は、経済、金融、産業の支配者であったESS(経済科学局)が行なった。が、経済民主化という上ではGSとESSは全く歩調が合ったし、身近だったのである。
そもそも、GHQの機構は、最初、Gセクション(参謀部)と、行政部門(GS)と、渉外局と、三つの柱になっていた。他のものは部と呼ばれていたくらいだった。
一例を取ると、のちに天然資源局となったNRSは、元は部であった。この担当内には、日本の運命転換の一つと云われた農地改革をふくむ日本の農林省に当るものが入っていた。だから、「追放」はGS、「民主化政策」はNRSというふうに、両者の関係も緊密になっていた。NRSに結ばれていたラデジンスキーが農地解放をやったことが、のちにGSの赤化だという非難に転嫁されたこともこうしたグループごとの繋がりの例証と云うことができる。民主化という方向においてはESSなども変るところはなかった。
もう一つ書き落してならないことは、リーガル・セクション(LS)と呼ばれた法律局(これも前には部であった)がある。これは全くGSと関連性を持っていて、この理念から特審局が誕生したのである。この特審局の変貌の過程こそ、GHQがその政策を大転換する経緯を如実に語っている。つまり、右の追放から左の追放に移る姿を、特審局ははっきり見せているのである。
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特審局というのは、昭和二十年九月に内務省に設けられた調査部から発足している。二十一年には部は局に昇格したが、その後解散され、総理庁内事局二局となって萎縮した。これは内務省解体に関する「マッカーサー命令」のためだ。
二十三年に司法省が法務庁となった時、第二局はここで初めて「特別審査局」という名前を与えられて、法務庁の所轄に入った。
この特審局の使命は、「日本軍国主義の除去、民主主義に対する妨害の排除」というポツダム宣言に基く占領目的のために、目付役の任務が与えられたのだった。従って、特審局と占領軍の関係は極めて密接であった。
GHQでは、この人選に初め内務省官吏を考えたが、内務省は軍に次いでの国家主義だというので不適任として、次に、非政治的と考えられている法務庁の検事から選ぶことにした。アメリカでは判事が民衆の信頼の強い地位であるから、その判事と同格の検事たちにこの仕事を託したら、その権威と信頼を足がかりに、この重責を果すものと考えたらしい。
初代の特審局長は、片山内閣が任命した滝内礼作だった。彼は、ずっと以前に司法部内の赤化事件として騒がれた尾崎判事問題の関連者で、当時、札幌地裁の予審判事だったが、友人の尾崎判事に同調して、同判事に資金を送った疑いで一旦入獄し、執行後に判事を辞めた経歴の持主である。それが片山内閣の成立で弁護士鈴木義男が法務総裁になったため、友人の彼が同総裁に拾われて局長のポストに就いたのだった。赤のシンパサイザーと見られた滝内を特審の初代局長に据えたことでも、その性格が分るのである。つまり、GSと特審局とは切っても切れぬ間柄と云うよりも、GSの政策実現機関だったとも云うことができる。
だから、内閣の組閣がはじまると、特審局には各社の政治記者が押しかけて組閣情報を取ったものである。というのは、GHQから睨まれていない人びとを中心に組閣しなければならないからだ。そして、この睨まれているかいないかを判断する有力な情報源が特審局だった。
「ああ、A氏ですか。あの人は駄目じゃないんですか」
特審局の課長クラスが得意気に洩らす一言が、新聞社にとって重要なデータにもなったわけである。いわば、特審局はGS、LSの二つの線を日本側機関として代表したようなものだ。(司法記者団編『法務省』)
「一口で云えば、特審局は連合国最高司令部に直結しています。諸君が担当する事務にも、この渉外性が脈々と流れているのです。われわれはこの民政局との関係で二つの原則を立てています。第一は、特審局をガラス張りの箱に入れ、すべてを民政局に報告することです。隠したり、蔭でこっそり仕事をしたり、こういうことはしないのです。
第二は、日本人の良識を持つことです。民政局に対してもおめず臆せず、ものを云わねばなりません。そして、われわれのする仕事は、日本政府の責任で行なっているのです。だから民政局に責任を転嫁するようなことはいけないのです。外で仕事をする場合、司令部とか民政局とかいう言葉を出すのは禁物です。……」(昭和二十五年十月、吉河特審局長が新規採用の職員に対して人事院五階講堂で行なった訓示)
まず、こういったところが特審局の性格であろう。つまり、GHQに直結していても、あくまで表看板は日本政府の名前を使っている間接統治の典型的機構であった。
この吉河特審局長がウイロビーに見出された面白い話がある。それは、前に書いたGHQの「歴史課」の仕事にも関連することである。
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歴史課が、対ソ戦略の情報調整をしていたらしいことは、前に述べた。と同時に、ウイロビーはゾルゲ資料の捜索にかかっていたのである。このゾルゲ関係の資料を調整していたのが、荒木夫人とそのグループだと云われている。
当時の記録は、空襲によって殆ど焼失していて、残っている資料といえば、検察官や判事が個人的に持っていたガリ版刷の写しぐらいのものであった。GHQの取調べを受けた検事や警察官の連中は、ゾルゲを担当した検事が実は吉河光貞であることを隠していた。これは、名前を出せばきっとパージを喰うに違いないし、ああいう若い検事をパージにしたら、後に警察の筋が通らないから、できるだけ名前を隠してやろう、というような含みがあったらしい。
事件の核心の掴めぬG2は、CICを使ってシラミ潰しに調べてみたが、どうしても直接ゾルゲに関係した部分だけがぽっかり穴が開く始末だった。いら立ったG2は、日本側を追及した結果、かくし切れずに日本側から、遂に吉河検事の名前が出た。こうして吉河光貞がG2に大きく映るようになった。
G2に出頭した吉河検事は、焼け残ったゾルゲの打ったタイプを持っていた。これはゾルゲ自身の手で、拘置所の中でドイツ語の鉛筆書きで訂正などがしてあったのである。どうしてこれがゾルゲのタイプだと証明できるか、というと、「まず第一に、鉛筆で書いたドイツ語、それは紛れもなくゾルゲ自身の筆蹟である。またタイプライターというものには癖があり、個人用のタイプにも必ず機械の癖が活字の摩滅になって現れるものだ。ほかのゾルゲが打ったものと比べれば分るだろう。このタイプは、日ごろ、彼が愛用していたものを押収してきて打たせたのだ」と答えた。この貴重な資料はすぐにウイロビーに提出された。アメリカで出版された『ウイロビー報告』の見出しには、「これは爆撃された焼野ヶ原の東京から、ミスター・ヨシカワが助け出した唯一の資料である」というようなことが書いてある。が、それはこうした経緯《いきさつ》によって同書の重要部分が作られたのであった。『ウイロビー報告』は、実はGSの線に打撃を与えようとするウイロビーの武器となった。
この報告書の中には、ゾルゲのスパイ活動がいかに日本の作戦を狂わせたか、ということが出ている。その謀略は、遠くはノモンハンにおける日本側の敗戦から、日本軍に北進を取らせず南進作戦を取らせた謀略活動まで、こと細かに「ゾルゲの自白」の骨子に組み立てられたものであった。この報告書の中ではじめてスパイ伊藤律の名前が出たのは有名である。
当時、GSだけでなく、本国政府にも「赤色分子」がいたので、それへの警告もあったが、G2の狙いは、GSから徹底的にニューディーラーたちを追い出すことにあったのである。
吉河光貞は、学生時代、東大の新人会に属し、そのため司法省入りが一年遅れたと云われるくらいの左翼通であった。滝内礼作のあと、彼を特審局長に据えたのは吉田首相で、はじめから赤色追放の下地は出来ていたといってよい。
前に掲げた吉河局長の訓示は昭和二十五年で、実にこの年、GHQの政策大転換が行なわれたのだ。
政財界の一斉追放が行なわれると、外部からの批判が表面にまるきり出て来なかったわけではない。
アメリカの雑誌『ニューズ・ウィーク』の二十二年一月二十八日号に「日本の追放の裏面──米国軍人の対立」という論文が載ったのだ。筆者は、同誌の東京支局長コンプトン・パケナムであった。
この論文は、経済追放が間違った政策だ、と批判しただけでなく、GHQ内の対立を明るみに出したものだった。その主張は「追放を財界へ及ぼしたため、日本の財界人は二万五千人から三万人がその職を追われ、その上三等親までその職に就けないから、犠牲者は約二十万人に上る。これによって日本の全経済機構の知能が除かれることになる。当然の結果として、日本の経済界は新円成金や闇屋、山師などの手に渡ってしまうだろう。極左の連中は得たりとばかり、虎視耽々と狙っているソ連のためにこれを利用するであろう。有能で経験と教養を持った国際的な階層──いつも米国と協力しようとしている階層が切り離されてしまうのである」
と論難した。
GHQは放って置けなかった。この論文は明らかに「有害」だと考え、間もなく、マッカーサーの名前による反駁が発表されて、論戦は白熱したものになった。マッカーサーは、まず、この記事は問題について何の知識も理解もない、と前置きして、
「追放の細目は慎重に作られていて、日本を侵略戦争に駆り立てるような政策立案に影響を与えない普通の実業家や技術家は含まれていない。この行動がアメリカの理想である資本主義経済に反するものだと解されたり、反対されるのは、全くおかしなことだ。指令を実行する方法として、私は諸種の情勢を正しく考え、司令官として当然の手心を加えたのである。私はさらにこの目的を促進したが、それは最高司令官として従うべき基本的指令に合致するだけでなく、他の方法を採ることは再び世界を戦争に導く原因を見逃すことになり、ひいては新たな戦争を惹き起すことになるからである」
民政局は、このマッカーサーの反駁の線に沿って追放が行なわれても日本経済は少しも変化がなかったと主張した。
しかし、パケナムは筆を緩めず、四月から五月にかけて、日本経済の混乱を突いた記事を載せ、五月二十六日号には、再び石橋湛山の追放を取上げてGSにぶっつかった。
「大多数の占領軍関係者は、追放がどこまで拡がるのか疑問を持っているし、親米的な日本人がどしどし除かれているという意見を隠さずに云いはじめている。民政局は、追放は日本政府によって行なわれているのだ、という作り話を云いつづけている。しかし、実際は民政局によって指導され、ときには直接の命令でやられている、というのが東京での常識となっている」
と記してから、石橋湛山事件をケースに、日本側の審査委員会が非該当にした者をホイットニー局長が追放した経緯《いきさつ》を詳しく暴露したのだった。
さらに『ニューズ・ウィーク』は六月十三日号に「日本の混乱」という記事を五頁に亙って載せた。
「追放は、例えば日本共産党の擡頭などということより遙かにひどい打撃を米国に与えた。追放の範囲はマッカーサーが決めるものだったが、彼は民政局長のホイットニー代将にこれをゆだねた。彼は追放の広範な施行細則を作り出し、日本政府はこうした指示を政令として出すように強要された。これは日本人が自ら追放をやっているのだという偽りの見せかけをするためだった。追放のやり方にはどことなく左翼や反資本主義者の色がある。東京にいる多くの米人たちは、民政局の中にいる共産党同調者やもっと悪いのが、そのイデオロギーを追放の中に注ぎ込んだと信じている」(住本利男『占領秘録』)
パケナムは、この占領政策批判でGHQに睨まれ、遂に日本から国外追放になった。
しかし、占領初期にパケナムが批判したことは、当時こそGHQに気に入られなかったが、のちにはその通りの趣旨に大転換したのだから皮肉である。
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GHQのマッカーサーの「|側  近《インナ・サークル》」三人男は揃って無能であった。彼らはただ戦争をして来たというだけで、他に取柄はなかった。
「上層部の無能と無経験は例外でなくて、常則だった。実例。占領軍の経済科学方面を担当した少将は、生涯を砲兵隊で送った。GHQの民政局長をつとめている少将は、正規の歩兵将校で、明らかに、彼を全日本の地方民事行政官の監督官の適任者にする経験を持っていない。軍政部の下で、教育一切を担当していた中佐は、べつに進歩した学校制度を持っていないことで知られている南部の或る州での、無名の中等学校の前管理人にすぎなかった。軍政部の下で、民間情報一切を担当していた中佐は、以前、ある大きな石油会社の広告専門家だった──経済科学の部長の地位は、経済学者に譲らねばならない。民事部長の職務は、行政的経験を持つ者に振り当てなければならない。教育部長には、広い経験と広い見識を持つ教育者、そして情報部長には、宣伝、或は世論調査の専門家が、そしてこれらの交替者は文官でなければならない」(テクスター『日本における失敗』)
誰からでも批判される、この無能な軍人首脳部が、本国政府によって何故交替を指令されなかったのであろうか。答は簡単である。彼らはマッカーサーの信頼が厚かったし、「現地軍」は本国政府よりも強いのである。このことは、曾ての日本の関東軍の強力を想い起せば分る。
このうち、軍事専門家としてのウイロビーは、のちの朝鮮戦争の時、在満中共軍の実力を過小評価して敗戦に導いた責任者なのである。
ウイロビーは粗暴で、人使いが荒く、一日に三度命令を変えても平気だったし、ホイットニーは一切をケージスに任せっ放しで遊んでいたし、マーカットは会議の席で極めて初歩な経済用語についてトンチンカンな質問をして皆を呆れさせた。これら無能の首脳部が、それぞれのセクションでマッカーサーヘの「点数稼ぎ」に追放者の数を必要以上に出したのだから、日本各界の混乱は当然だった。しかも、それに中傷と陰謀があり、さらにGHQの下部役人や通訳たちの介在があるのだから、いよいよ複雑怪奇なものとなった。
これらを包みながら、GHQはやがて大きく旋回し一本にならねばならなかったのである。
この旋回の途中のポイントに立ったのが、松本治一郎の追放である。半生を部落解放に捧げた松本が何故、追放されなければならなかったか、誰しも不審に思うところだが、このGHQ政策転換の途中という見方からすれば解釈がつく。
松本の追放処分は、推薦議員の一人として二十一年一月に指定されたのだが、これはすぐに抗議され、また当時の首相秘書官だった福島慎太郎がGHQへ陳情したりして、一応非該当を確認された。これによって松本は参議院の副議長となり、国会開会式には天皇の拝謁問題が起っている。このことから保守党に反感を持たれたりして、二十三年の九月、再び資格問題が起きた。二十四年の一月二十三日、総選挙があったが、その翌日に松本治一郎は再追放となった。
松本の追放は「右翼」として、追放されたのだが、実質的には左翼のそれであり、いわばレッド・パージの第一号とも云うことができよう。
こういう見方でないと、松本治一郎の追放問題の本質は分らない。
占領の初期、GHQの民政局に働いていた要員の多くは、進歩的な考えの持主が多かった。
彼らは日本の民主化に当って、本国では実施出来ないような理想的な政策を日本で試験的に実施しようと考えていた。ケージスが云うように、日本を自分の理想の実験地にしたかったのである。
しかし、この民主化政策は、GHQの予期しない効果を生んだ。共産党の進出であり、労働運動の尖鋭化であった。GHQは、自らの手で煽った火を自らの手で消さねばならない状態になった。
「占領管理という現実政治の問題においては、統治もしくは管理する側に立つ国の現実的な利益が常に第一に考慮される。従って、朝鮮戦争以後、国際情勢の変化に応じて連合国、特に米国の現実政治上利益とする要求が変化するに伴って、日本管理の方針に修正が加えられてきたことは怪しむに足りない。一方、連合国、特に米国が国際関係上日本にいかなる役割を期待するかに応じて、日本の国際的地位に変化を生じてきたこともまた当然である」(『戦後日本小史』矢内原忠雄編・岡義武稿)
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「レッド・パージの謎は未だに解かれていない。誰がこの旋風の主《ぬし》であったのか、トルーマン大統領か、マッカーサー元帥か、それともGHQの労働課なのか、いや、時の政府吉田内閣のアイディアであったのか、それも掴めていない。追放リストの作成者も、その協力者も、また、何故新聞や放送が真先に血祭りに挙げられたのかも明らかにされていないのである。一九五〇年夏から約半年、全産業に吹きまくったレッド・パージはそれほどに、規模において、手口において、複雑怪奇なものであったのである」(『文藝春秋』三四・六「日本の汚点・レッド・パージ」)
二十三年一月のロイヤル声明(註。ロイヤル陸軍長官がサンフランシスコでした演説で、「世界の政治情勢に新たな事情が生じ、日本は援助がなければ侵略的、非民主的イデオロギーの食いものになるような情勢となったので、われわれは日本を充分自立し得る程度に強力にして、これを安定させると同時に、今後東亜に生ずるかも知れない新たな全体主義的戦争の脅威に対する防壁の役目を果すだけの、自足的な目的を固守している」と述べた)は、早くも左翼陣営や労働運動界に衝撃を与えた。丁度、その年の三月には全逓闘争がはじまっていた。これはその後の労働闘争の先頭をなしたもので、また、官公庁の中で最も尖鋭とされた全逓が中心になったことで、のちに記憶されていいものである。
これは従来中央だけで行なわれた闘争形態を各職場や地域に持ち込み、民主戦線結成を実践するというにあった。この闘争は地域ごとに波状的にストライキを行ない、政府と資本家陣営を脅威した。この情勢から、公務員関係にスト権を与えてはならない、という方針が打ち出されるにいたったが、一つには、GHQの公務員制度課長として本国から来たブレインのフーバーの力も与っていたといえよう。
フーバーは、日本の公務員をアメリカのようなストライキ権のない、正規の団体交渉権も持たないような組合にしてしまうことを公務員法の中に盛り込もうとしたのである。
GHQのレーバー・セクションのキレン課長はフーバーと衝突し、マッカーサーの前で八時間にわたる論争を展開した。が、その結果、キレンが敗れて、彼は任期一年何カ月を残しているにも拘らず、悄然として貨物船でアメリカに帰国した。
この時、キレンは、帰国四時間前、全逓の幹部を呼んで、三十分にわたって演説した。その要旨は、「これからの日本の公務員は非常な難路に立つだろう。しかし、君たちは充分な力を持っているから闘うことが出来るかも知れない。しかし、君たちが今闘うということはプラスかマイナスかということになると、断言は出来ない」というようなことだった。
このキレンの言葉通り、その年の十二月には公務員法が改正され、同時に公共企業体等労働関係法が制定された。さらに、国鉄、専売は団体交渉権は持つが、その他の国家公務員は団体交渉権すらも持たないという状態になった。自治体関係の者は、政令二〇一号によって手も足も出ないように縛られた。
こうして、朝鮮戦争の勃発と並んでレッド・パージヘの進軍は刻々に迫っていたのだった。
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レッド・パージは、それが「GHQ示唆による絶対命令」であることを解雇者に告示し、「この至上命令は国内のあらゆる法令に先行するものだ」と告げた。従って、どんな協約もこの命令の前には役に立たなかった。
このうち、放送関係、といっても当時民放は無かったので、NHKが狙われた。そこで、NHKの場合を例として書いておく。
NHKは、すでに昭和二十一年十月にストを行なっている。これは団体交渉権の確立、賃上げ要求で、新聞、通信、放送労働組合が闘争したのだが、新聞関係は全部脱落してしまい、結局、NHKだけがストに入ったのである。当時はまだ民主勢力が強かったので、このストには占領軍は介入しないだろう、という労組側の予想だった。それで経営者側も初め受太刀だったのが、途中で態度を変えた。それは占領軍と政府が経営者側を支持するということが分ったからだった。
ラジオ部門は、CIE(民間情報教育局)のラジオ課の監督だったが、この時にはそのセクションの連中が争議団の前に出て来て、ストライキをすぐ止めろ、と勧告した。いきなり職場に来て、お前たち止めなければ大変なことになる、と威かしたりした。これが経営者側を強腰にさせ、組合の全面的な敗北となった。
NHKは、最初、戦争中のやり方への反動もあって、民主的な番組をしきりと出していた。メーデーの歌の指導などをしたのもその頃である。CIEのラジオ課から、天皇制の問題について討論をやれ、というような指示が来たりした。こういうことが、アメリカのやり方が民主的だと錯覚した原因である。従って、番組で「真相箱」というようなものが出て来たり、ニュースの面でも民主化運動のなかでその傾向が強くなっている。そのうち、ラジオ課では部課長を通じて、国会討論会でも共産党の発言を減らすようにいってきた。この右がかった新しい傾向は組合と経営者側との間に摩擦を起したが、二十四年の春ごろ、砧の放送技術研究所で行なわれた大会では組合は二つに割れてしまい、職場においても、「真相箱」とか「日曜娯楽版」のようなものが睨まれるようになった。そして脱落者が相次ぎ、第一組合から第二組合のほうへ多数の者が脱けて行った。八千人あった組合が、最後には百数十名くらいになったのである。そして、この残った全員がレッド・パージに引っかかったのであった。
それらの中の編成局関係者は、パージのすでに一年ぐらい前に、目黒の放送文化研究所に配置転換された。ここでは何も仕事を与えず、完全な島流しであった。
大体、放送はニュースと音楽の二つが構成の要素で、いろいろアレンジしたものがドラマになったり、いろいろなかたちになったりして、放送されるのである。従って、朝鮮戦争下のニュースは非常に比重が大きい。演芸番組というと、戦争前は落語家が来て落語をやったり、浪曲家が来て浪曲をやったりしたが、そういうのは「貸座敷」といって、ただスタジオを提供するだけだった。つまり、大した創意も工夫も無いわけで、文芸部と云っても、久保田万太郎が文芸部長だったが、文芸は存在しなかった。それで、かつて、このニュースの民主化で増田官房長官がNHKに抗議したこともあった。
ところで、NHKのレッド・パージは、他の新聞社の場合と違って、経営者が首を切るというかたちを取らず、連合国最高司令官の命に基き、ということがはっきりしている。
これは電波をGHQが管理していて、建物の一部も進駐軍放送というかたちで使っていた。ラジオは、作戦命令でも、軍命令でも、一番早いし、国内的なキャンペーンとしても、その即時性、広範性からいって、新聞とは比べものにならないくらい影響力が強いのだ。その意味で朝鮮戦争におけるラジオの役割、NHKの使命は新聞社とは比重が違うのである。例えば、ラジオ放送は朝鮮でも聞えるし、朝鮮人は日本語が分るので、その取扱いにはGHQも非常に慎重だったのである。だから、当時のNHKには殆ど自主性が無く、司令部の直接管理と云ってもよかった。従って、解雇者に対する通告も直接GHQ命令のかたちが取られたのだった。
この命令は、辞令を渡さず、何時間後に退去せよということで、昭和二十五年七月二十五日の朝、該当者を集めて、時間を決めて建物から出ることを要求された。
「パージになった日は、朝の十時過ぎに、放送文化研究所に居る者は全部集まれということで、いきなり、ここに居る人は建物に出入りしては困る、というかたちで文書を読み上げられたわけです。所長はGHQに呼び出されて、あたふたと帰って来て、部課長にそう伝えさせたのです。読む手がふるえていましたね。一体、それはどういうことなんだ、と押問答をやっても、とにかくそういう命令だ、これはマッカーサーの命令なんだ、われわれはそれに対して拒むことはできないのだ、私は取次ぐだけだ、というわけで、対手はあくまでマッカーサーということで逃げていました。大阪の場合は、黒人のMPが銃を持って来たと話していました。本館もMPが来て、鉄砲を構えて、出て行け、というようなわけでした」とNHKのパージ組の一人は云っている。
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レッド・パージの特徴は、どの社も通じて次のことが共通的に云える。
@それが占領軍の絶対命令であったということ。A指名リストがすでに出来ていたこと。B解雇者は云い渡されたら、即時に職場やその建物から退去を要求されたこと。C反対闘争が起らなかったこと。Dほとんどの会社に第一組合と第二組合があり、組合勢力が分裂していたこと。
パージが占領軍命令だということは、殆どの場合、間接的に云い渡された。ただ、直接にそれを表に出したのはNHKだけである。これは占領軍が電波管理をやり、その建物を占領軍が使用していたからである。その他は、こういう直接なかたちではなく、経営者が間接的に司令部の指導だとか、示唆だとか云って申渡しが行なわれた。例えば、『読売』の場合は、社長布告として次のように発表された。
「連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の、昭和二十五年六月六日、七日、二十六日、七月十八日の指令並びに書簡は、日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者は言論機関から排除することが、自由にして民主主義的な新聞の義務であることを指示したものである。このたび、関係筋の重なる示唆もあったので、わが社もこの際、共産主義者並びにこれに同調した分子を解雇することに方針を決め、本日、左記の諸君に退社を命じた。今回の措置は、一切の国内法規、或は労働協約等に優先するものであることを社員諸君はよく了承のうえ、平静に社務に精励されんことを望むものであります」
本人に手渡した辞令は、以上の理由をもって「日本の安全に対する公然たる破壊者である共産主義者並びにこれに同調せる者に対し解雇することに方針を決定した。よって本日限り貴殿に対し退社を命ずる」となっている。
このマッカーサー書簡とは、「共産党が有害な団体であり、大衆の暴力行為を煽動することによって平和で穏かな国土を無秩序の闘争場裡にしようとしている」ので、日共中央委員会全員を公職から追放し、さらに六月七日、『アカハタ』を「虚偽に満ち、煽動的、反動的呼びかけの記事と社説を満載している」として、編集局員をパージし、六月二十六日には『アカハタ』の一カ月停刊を、さらに七月十八日には無期停刊を命じたことを云うのだ。
各新聞、放送局の追放は、この『アカハタ』に対する解釈を拡大援用したものである。
指名された社員たちは、守衛に付添われ、重役、局長、私服刑事の居並ぶ所で辞令を渡されようとした。しかし、社員たちは一斉に「この解雇は米軍の指令であり命令であるのか、また連合軍からの示唆によるものか」と問詰めたが、局長側は言葉を濁し、多くを答えなかった。
追放指令を受けた社は、朝日、毎日、読売、共同、日経、東京、時事通信、放送協会の八社で、その後、全国地方紙にも引きつづき同様の措置があって、全国四十九社、被解雇数七百名に上った。(『新聞協会十年史』)
大体新聞に対するGHQの監視は、その前から兆《きざ》しがあった。昭和二十四年五月三十日に行なわれた公安条例反対デモに参加した東交労組の橋本金二という組合員が建物の二階から墜死した事件があった。共同通信社では、その写真に二階から地面まで点線を引いたが、これが恰も警官の暴行によるが如き記事を出したというので、GHQの激怒を買った。即ち、社内共産党フラクの活動によるものであるとして、理事長伊藤正徳はじめ在京の主要新聞代表は呼びつけられて、厳重な警告を受けた。その結果、共同通信社は、当時の日共細胞九名を編集、業務外の資料室に配置換えをしたのである。のち、伊藤正徳自身もGHQの圧力で共同通信社を追放された。これらがのちのレッド・パージの伏線になっている。
問題の一斉パージを行なう数日前(『アカハタ』停刊後一週間目)、CIEは首脳部を呼んで、「社内にいるコンミュニストとその同調者を即時解雇せよ」という重大な指示を与えているが、この通告を受けて、各社は二十八日午後三時を期して一斉に解雇通告を行なったのである。「これは組合にとって全く予想外なものであった。それだけに、事前に予知していたとはいうものの、動揺は激しかった。解雇通告を顔色ひとつ変えず受取り、将来の革命後の日本について一席弁じ、その日には覚悟しておれと云う勇ましい女性がおるかと思うと、哀願的に、自分は違うと云って通告の撤回を求める男性あり、といった風景がある社では見られたのも、その一つの現れであった。しかし、その他大体において、被解雇者は解雇通告を返上して、組合に拠って対策を練り、社側に理由の説明を求めたが、『今は何も云えない。出る所へ出たら全部話す』と云って突っぱねられ、社によっては私服警官、或は制服警官を待機させ、時間を切って退出を迫り、これに応じない者は、警官、守衛などの腕力で摘み出したのであった」(赤沢新一「新聞街に巻起る赤旋風」『増刊文藝春秋』二十七年十二月)
新聞社だけではなく、他の産業の各社とも大体同じことであった。ただ、経営者側が指令を受けて僅か四日の間に被解雇者の名簿が出来たというので、その迅速さに誰もが驚歎した。当然、共産党員または同調者と見られるような人名簿が予め作られていた、という推測になるのである。
このリストの作成については、社によっては、経営社側、GHQ側、特審局側の三つのリストを突き合せて、その一致したものを選んだものもあったし、必ずしもそうでないものもあった。当時、共産党員は、団体等規制令によって共産党員であることを登録していたから、この分は真先にやられた。団規令は主に特審局の管掌するところだから、特審局のリストと云うことも出来る。GHQの指名は、大体、この特審局の線からと思っていい。
そのほか投書なども採用したらしい。さらに経営者側では、職制によって目ボシをつけられた者が上げられたのである。それは、組合活動などで「過激な言辞」を吐く者がマークされた。
当人にはその意志がなくてもパージのリストに載った者もいる。本人ももとよりだが、他の者も、あの人が、と愕くような者が入っていたという。が、とにかく、指名された者は有無を云わさず建物の外に追い出されたのである。「十年前の七月二十九日、東京は小雨が降っていた。その雨の中を、私は二十人の仲間と一緒に共同通信社の建物から追出された。経営者は、私たちの退去を強制するために警察官を呼んだ。数十人の警察官は私たちを包んで、退去を拒むならば実力を行使する、と威嚇した。私たちの出て行く道は警察官の列で囲まれていた。その間からデスクを並べていた友達が手を振って別れを惜しんでくれた。建物を出て雨の街を歩いているうちに、張り詰めた気が緩んできた。濡れながら歩いてゆく自分が、家を追われた犬のように感じられた」(小椋広勝『思想』昭三五・八)
そのほかでも、追放者は些細な理由で指定された。『アカハタ』を購読していたというのはいいほうである。マルクスの『資本論』を持っていたというのでマークされた人間もいた。弟が同調者というので兄の課長が会社から馘首になったのもあった。職場大会で上役の悪口を云ったというので追放された人間もいた。このような追放が全部、「占領軍指示」という「憲法に先行する」絶対性の前に抵抗が出来なかったのである。
当然のことに、経営者側では、日ごろ組合運動に熱心な者、気に入らない者を、この中に水ましするのもあった。GHQの新聞課長インボデン自身は、この指令が拡大解釈されるのを惧れた言辞を吐いているが、経営者側としてはなんらの紛争を起さずに「好ましからざる人物」を辞めさせるのだから、これほど重宝なことはなかった。その一方、職制に勧められて「転向」した者は残った。ついこの間まで激励して手を握っていた婦人部長が、追放の指令の出る二、三日前から、急にそっぽを向くような場面も見られた。また、会社側のリスト作成に「協力」した者は、のちに係長に出世したようなケースもあった。
これに対して組合側は、概ね抵抗がなかった。「1、占領政策に従う。2、現在における判断資料によれば、今回の措置は止むを得ざるもののように思われる」という決定をした新聞社の組合もあった。新聞労連は在京中央執行委員会を開いたが、「結局、今回の措置は、共産党が従来民主主義の原則に抗して取り来った行動並びに現在朝鮮において起っている事態について取りつつある態度に対する措置であって、民主主義の根本原則並びに新聞言論の全般的方向、労働運動への規制として取られたものではないと認定する」と、あっさり承認した。もっとも、あっさりにも何も、この重圧の前には抗しようがなかったのである。
この組合の無抵抗は、また当時の労働運動の情勢からも見なければならない。国鉄の定員法が発動され、第一次馘首が通告されて、反対闘争が起ろうとした時、下山事件が起り、つづいて第二次馘首通告直後に、三鷹事件、松川事件が起った。これが労働組合側に不利に宣伝されたため労働者は国民その他の階級から孤立させられ、闘争態勢を崩されたので、政府は所期の行政整理を強行することが出来た。反対に組合の闘争は退潮した。それにつづいて日立の四カ月に亙る企業整備反対闘争が行なわれたが、これが敗北するとそれを契機に労働組合運動は再び後退を重ねたのである。その間に、産別傘下の各有力組合内部にいわゆる「民同」の勢力が起り、組合組織の分裂が進んだ。民同派の強い組合は相次いで産別を脱退して、やがて「総評」を結成し、産別は主導権を全く失って、微力な集団に萎縮してしまった。こういう労働運動の情勢が、政府と占領軍にレッド・パージを強行させる自信をつけさせたのである。
また、このレッド・パージに対して共産党が殆んど何もしなかったのも反対闘争の盛り上らなかった原因の一つである。「このレッド・パージ闘争の時期には、また共産党の内部抗争が最も愚劣なかたちで繰返され、闘争を組織化するどころか、大衆の闘争に水を掛け通した」(斎藤一郎『戦後日本労働運動史』)
さて、この背景のもとに、レッド・パージのリスト作成に一役買ったのは特審局である。特審局はもともと、昭和二十二年に、公職追放の資格審査機関として内閣調査局より変身したものだ。初めは、どこまでも占領方針によって、秘密的軍国主義、極端な国家主義団体、つまり反民主的な団体、人物の調査活動などを行なうのが目的であった。ところが、団体等規制令が出るころ、反民主主義的団体の中に左翼も含めて、と拡大解釈して、俄に左翼勢力の調査活動に矛先が向けられるようになったのである。
レッド・パージのリストをここで作ったのは、この団規令による届出名簿がもとだが、それは細胞名簿を中心に、その同調者を含めて、各官庁ごとに調査された。この時、経済安定本部などでは、生活物資局長の東畑四郎(東畑精一の弟)までがアカに入れられていたので、初代特審局長滝内礼作がびっくりした話がある。その調査がどのように広範囲に及び、そして正確でなかったことが分る。
この新聞社関係のレッド・パージは国会でも問題になって、社会党の赤松、共産党の梨木代議士などが質問したが、大橋法務総裁は、「新聞報道機関の共産主義者とその同調者解雇の処置は適切で、正当の理由があるものと考える。政府はこの処置に全幅的に賛成を表すると同時に極力これを支持する」旨を言明した。これにつづいて、総司令部CIEのニュージェント中佐も、八月三日、声明を出して支持した。だから、この二本を背骨にして、レッド・パージは思うように行なわれ、つづいて、公務員、教育界、国鉄、私鉄などの民間産業に波及して行くのである。
さて、このパージによって追われた者はどうなったか。『日本新聞協会十年史』によると、
「直ちに解雇を承認して退社した者、不当解雇として地裁に身分保障の仮処分を申請した者、本訴を起した者、不当労働行為として労働委員会に提訴した者、労委への提訴と並行して、地裁に仮処分申請などさまざまであったが、裁判所関係では仮処分申請は全部却下となり、労委関係は提訴件数十九件、申立人員総数百八十三名を数えたが、棄却、却下、和解、救済などの処理によって、二十六年八月ごろまでに、ごく一部少数の者を除いて解決した」
とある。
中央労働委員会は、この解雇に対して、レッド・パージは組合活動に関する解雇ではなく、従って不当労働行為による解雇ではない。だからこの解雇は労働委員会の取扱権限外の問題だ、という解釈を取った。というのは、もし、このレッド・パージを不当労働行為として中労委が取上げたら、労働委員会はGHQによって潰されるだろう、という憂慮からだった。マッカーサー書簡による追放は国内のあらゆる法律によるものでなく、また憲法に拘束されるものでもない。とGHQも政府も考えていたのだ。また、各地方の裁判所では申請を却下した。こんな状態でいくら審理を運んでも無駄だと分ったのか、和解する方法を勧めていた。
この中で、『朝日新聞』の小原、梶谷両記者の場合は特別である。もともと、この二人は共産党員でも同調者でもなかったのだが、小原記者は、たまたま当時起っていた改造社のストの記事がGHQの新聞課長インボデンの忌諱に触れ、「小原は共産党員である。私の新聞であるならば馘首するであろうに」といった意味を社の幹部に警告したので、追放された。また梶谷記者の場合は、或る共産党員の死に弔歌を詠んだことが理由に挙げられた。この二人の不当解雇に対する裁判の係争は最高裁まで行き、遂に、八年ののち、勝訴復社したのである。
こういう場合は稀有なことで、たとえ裁判所が受付けても、長い裁判に耐え切れず、途中で挫折し、「和解」になったり、提訴を取下げたりするのが多かった。経済的に逼迫している被解雇者にとっては止むを得ないことだった。あらゆる提訴機関に望みを失った被解雇者は、それからは生活苦と貧窮に日を送ることになるのである。
例えば、NHKの技術者たちは、ラジオ受信機の修理業をはじめたり、手に職の無い他の連中は、翻訳、雑文書き、行商、焼イモ屋、佃煮屋、本屋などをはじめた。
こういう生活状態の中に追込まれたのにつけ込んで、彼らをスパイに仕立てようという狙いがはじまったのはまた当然である。
このマスコミ関係のパージは、これを皮切りにして他の産業部門に及び、被解雇者は、新聞、通信、放送関係の七四五名のほか、電気産業の二一三七名、石炭産業の二〇二〇名、化学工業の一三四六名、第一次金属製造業の一〇四八名を初めとして、合計一〇、八六九名に上った。(労働省労政局発表)
このほか、八月三十日には、全国労働組合連絡協議会(全労連)が共産主義的な団体として解散の指令を受けた。
こうして日本の労働運動における共産党の勢力は殆ど影を潜めるようになった。
解雇者に対して、内通者になれ、という誘惑のケースは多かった。産別会議の幹部が或る日歩いていると、ジープが横に寄って来て、お前、スパイをやれ、と云い、拳銃を片手に威かしたこともあった。全逓の村山副委員長の話によると、昭和二十三年、闘争の時に、進駐軍専用の回線を誰かが切断したことがあった。そこで、搬送工事分会長、全逓の青年部長、副部長、工事協議会の書記長が捕まり、軍事裁判にかかった。書記長のほうは転向してスパイみたいなことをやり、共産党を脱党した。間もなく彼は係長になった、というケースもある。また、組合内部のことを報らせれば起訴にはならない、従って軍事裁判にかけない、というのもあった。全逓の村山副委員長の話によると、
「沼津で床屋さんをやっている人ですが、これは全逓出身で神奈川地区の全逓本部の書記長をやっていた人です。昭和二十四年九月七日から十日までに、全逓の第十二回の上諏訪で行なわれた中央委員会に出席して、統一派のほうに賛成の発言をしたため首を切られたのですが、それ以後しつこくスパイ活動を強要されたのです。その後、彼は横浜の進駐軍に勤めていました。ところが、全逓の前歴がバレて馘首《くび》になったのです。何回も何回も馘首になり、最後に横須賀のCIDの情報関係に勤めた。英語が出来るので通訳として入ったのですが、そこでもバレて首を切られた。神奈川の刑事がついているから、どこに行くか尾行してみると、横須賀のCID情報局に入ったので、こいつは大変な者を入れた、というので馘首になった。彼は向うの二世から、もう辞めたんだから過去のことを話してもいいではないか、一生の面倒をみる、毎月五万円を出す、と最初云われたそうです。承知しなかったら、十万円まで増したそうですよ。あなたの今まで見聞したことを報らせてくれ、ということだったそうです。それも断った。ところが、ジャパン・タイムスの広告欄がありますね。自動車を売るとか、部屋が欲しいとか、あそこへ何とかいうことを出してくれ、と云ったんだそうです。これも何かの策略ですね。ごく最近までそれをやらされておりました。全逓の人間としては一番露骨にそういうスパイ強要をされた一つの例です。後は、地方的なものは随分ありました。殆どが威かしです。やらないと君たちは馘首になるかも知れない、というような威かしですね。これは札幌の電話局にあった」
という。
そして、こういう情報蒐集のために育成した連中が特審局の後身である現在の公安調査庁の情報網に、今日、含まれていなかったら幸いである。
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レッド・パージの烙印を捺されて解雇された人間は、どの会社からも永久的に閉め出された。
三菱電機に勤めていた当時の組合長は、レッド・パージにあって失業して、いろいろな職業を転々としたが、たまたま、進駐軍関係の自動車運転手になろうと考えて応募した。すると、虎ノ門にあるCICに呼び出され、行ってみると、「お前が三菱に居たことは、ちゃんとこの通り写真ではっきりしている」と見せられ、びっくりした。これは、前に会社側が占領軍の仕事をしていて、従業員の顔写真を占領軍に撮らせていたためであった。
顔写真までは無いにしても、レッド・パージを受けた者は、前歴を隠して就職しても、それがバレると必ず解雇された。その失業の果てに自殺した人間もあるくらいである。
全逓の荏原電話局の支部にいた或る組合員は、他所《よそ》の地区に応援に行って警官に捕まり、それが原因になってレッド・パージになった。その後、何度就職しても、パージの前歴がバレて解雇され、遂に、二十九年の末、横浜で電車に飛び込み自殺した。まだ三十一歳だった。
こういう例は他にもある。東京都庁は現業を含めて百七十名のパージを行なったが、その中の江戸川区役所吏員の一人は、馘首されたのちニコヨンをやったり、地方紙の記者をやったりしていた。彼は三十三歳で、三人の家族持ちだった。が、二十六年の末、荒川放水路に身を投じて自殺した。遺書は無かった。
都営の結核病院に勤めていた二十九歳になる看護婦は、組合の役員だったが、パージを受けてから個人経営の病院を転々とした。彼女は大きな病院に就職しようとしたが、そのたびに身許調査の結果、パージのことが分り、どこに行っても就職は出来なかった。二十七年の春、彼女は失意のまま郷里栃木県に帰る途中、列車の中で服毒自殺をした。
その他、レッド・パージで職場を追われ、新しい仕事にも就けず、懊悩と貧窮の末、気が狂い、精神病院に収容されている者は、東京都の場合でも四人はいる。以上は東京中心だが、これを全国に求めると、同じようなことがもっと多い数に上るであろう。
経営者は、採用者に対して、それがアカであるかどうか厳しく身許調査している。日経連所属の各会社は、二十四、五年の退職者に対しては特に調査が厳密である。このためアミの目をくぐることが出来ないといわれている。
同じ被解雇者でも、新聞社関係の記者は筆が立つから、それを生かして活路を求めるので、まだいいほうである。一番悲惨なのは、手に職を持たない人たちだ。また、逆に、パージになった人間を意識して傭う会社もある。これは、その経歴から組合運動対策に向けさせるためだ。戦前の共産党の転向組の大物の今日の在り方を見れば、それは納得できよう。
パージで追われた人間は、どこにも就職出来ないとなると、小さな商売をするか、ニコヨンになるしかない。貧苦と経済的な窮乏は、次第に彼らからイデオロギーを奪い取る。食うためには何でもしなければならなくなる。尖鋭な党員でも脱落する。こうなると、社会的にも経済的にも、また党からも見放されて、気の弱い者は性格破綻者となるのだ。
また、党自体も当時コミンフォルムから批判されて、例の所感派と国際派とに分裂していたから、そのどちらかに立っていた下部党員は、その立場によってはおっぽり出された。共産主義運動という精神的な支柱が彼らの苦しい生活をなんとか保たせているのだから、これを失うことは、彼らを破滅に陥れることになる。さらに、他のパージ組でも、貧窮との戦いに敗れ、良心的な生き方に耐えきれなくなってしまう。そのため、曾ての組合運動の闘士が、詐欺をやったり、暴力団に入ったり、横領して逃げたりした例もある。レッド・パージの与えた影響は、今日でも悲惨に生きているのである。
いや、それだけではない。パージを受けた当時の人たちは、今では、大てい、四、五十歳くらいになっている。だから、今度は子供の就職に自分の経歴が響くのだ。ひたすら自分の過去を子の就職先に隠さねばならない。
当初、GHQは、極端な国家主義者、日本を戦争に導いた指導者に対して「永久の除去」を謳い、その追放は「三等親に及ぶ」と云ったが、このことをまさに文字通りに受けているのは、ほかならぬレッド・パージの被解雇者たちである。
彼らは永遠に就職から閉め出されている。しかも、それはわが子にまで及んでいるのだ。
この悲惨に比べ、占領当初の被追放者は、現在では完全に蘇生し、政界、財界、官界、あらゆる所で安楽に活動をつづけている。「赤《レツド》」の烙印を捺された労働者は「永久」に追放であり、アメリカが占領政策として最初の追放の目標に選んだ「黒い」指導階級は、そんな烙印などとうの昔に消してしまって納っているのである。
最後に、レッド・パージの真の指令者は、極東情勢に狼狽した米国防総省《ペンタゴン》そのものだった、と云っても間違いはあるまい。
[#改ページ]
[#1字下げ] 謀略朝鮮戦争
[#5字下げ]1
このシリーズを書きつづけて、遂に最終回を迎えた。いつかも書いたように、これは日本における米軍占領中の出来事に限定している。その意味で、ここに「朝鮮戦争」を取上げるのは、奇異な感じを読者は受けられるかもしれない。
朝鮮戦争はケタ外れに大きいし、必ずしも、このシリーズの最終に書くべき課題ではないかもしれない。しかし、これまで書いてきた一連の事件の最終の「目的」は朝鮮戦争のような極点を目指し、そこに焦点を置いての伏線だったと云うこともできる。もっとも、米軍は最初からこの戦争を「予見」したのではあるまい。在日米軍は、その占領初期の段階では、少くとも日本民主化の忠実な使徒(もちろんアメリカの利益の枠の中で)であった。それが変貌したのは極東情勢の変化からである。一九四八年ごろから、そろそろ、この「予見」がはじまったといってよい。
それぞれの事件は、それ自体の解剖では実体の究明にならない。さまざまな事件が、このような「予見」の中に鏤《ちりば》められていると考えた時に、はじめて真の性格が分るのである。
この意味で、これらの一連のシリーズの最終に、朝鮮戦争を否応なしに持って来ざるを得なかった。前にも云う通り、この「予見」の集中点が必ずしも朝鮮でなくてもよかったのである。地理的に、それはヴェトナムでもよかったし、ラオスでもよかったし、或はもっと別の地域でもよかったのだ。いずれにしても、それはアメリカ勢力の現状を変更できるような地点が択ばれることに変りはなかったのである。たまたま、その条件が合致し、やり易い場所が朝鮮だったというにすぎない。朝鮮はその「黒い栄光」に択ばれたのだ。「朝鮮は一つの祝福であった。この地か、あるいは世界のどこかで、朝鮮がなければならなかったのだ」(一九五二年、ヴァン・フリート将軍がフィリッピン代表団に語った言葉)
朝鮮における三十八度線の区劃は、一九四五年十二月の米・英・ソのモスクワ会議の申し合せで、在朝鮮日本軍の武装解除、軍および財閥設備の接収の暫定的な境界線だった。そこでは、朝鮮民族の分布や地理的条件によるのではなく、緯度という地理学上の人工的な線が、便宜上の境界になったにすぎない。これが米ソの冷戦で、一つの民族が南北に分れ、対立し、憎悪しあう半永久的な軍事・政治の区分線になったのだ。つまり、米ソの激烈な冷たい世界的闘争のなかに、この境界線は「二つの政策、植民地図の運命に対する二つの態度、対角線的に反対な二つの方針の図解」(シャブシーナ『第二次大戦後の朝鮮』)となったのである。
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朝鮮戦争の端緒についてよく云われる「南北のどちら側から先に攻撃を仕掛けたか」という問題は、今日でも興味のある謎である。アメリカの国務省の発表では、「北朝鮮軍が一九五〇年六月二十五日日曜日の夜明け直前(朝鮮時間)三十八度線を越えて、大韓民国に対し、全力をあげての攻撃を開始した、という最初の公式報告は、朝鮮に駐在する米国大使ジョン・J・ムチオから受取った。同大使の報告を国務省で受取ったのは土曜日の夜、即ち、六月二十四日の東部日光節約時間午後九時二十六分であった。北朝鮮の共産政権が大韓民国に対して開始した奇襲こそは、世界の平和への狂暴な攻撃であった。この奇襲は、人民らによって選ばれ、国際連合の協力を得て樹立され、世界における自由な諸国家の大多数によって承認された一独立政府の治政下にある、平和に満ちた人民に対し向けられたものであった」(『朝鮮白書』)とあって、北朝鮮側の侵入と断じている。ところで、この日は丁度日曜日であったため、奇襲が真珠湾の攻撃と同じ性質だと見るむきもあった。
ジョン・ガンサーは書いている。「(一九五〇年)六月二十五日日曜日の朝早く、私は妻と共に京都から東京へ帰って来た。そして、そのまま直ぐまた日光へ旅行に出かけた。発車の間際になって、ホイットニー少将は私たちを見送りながら、日光へは同行できなくなった、と云った。マッカーサーに云われて、丁度この日曜日に総司令部へ出る必要ができた、とのことだった。しかし、これは何か変ったことでもあったためとは思われなかった。総司令部の幹部どころは、大抵、日曜日にも呼び出されることになっていたからである。時間は午前八時二十分だったが、丁度そのころ朝鮮で起った事件については、総司令部ではまだ誰も知らなかったと思う。日光に着いて、世界で最も華麗な見物の一つである寺院を見物して、丁度昼食を取ろうとしていた時、この高官の一人が思いがけなく電話に呼び出された。彼は私たちの所へ戻って来ると、低い声で『大ニュースですよ。韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始したんです』と云った」(『マッカーサーの謎』)
ガンサーのこの文章は、いろいろの本によく引用されている。確かにこの時は、韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始した、と高官は囁いたというのである。ガンサーはつづけて、「このニュースは、どちらが侵略を始めたのかという点については、とんでもなく間違ってはいたが」とあっさり主客の位置を変更している。つまりその高官は昂奮のあまり、間違えてしまったというのだ。
ガンサーはつづけて云う。「東京の総司令部は云わずもがな、韓国駐在のアメリカ人たちも、完全に不意を衝かれたかたちであった。いずれも、まるで太陽が突然に消え失せでもしたかのようなひどい愕き方だった。北朝鮮側としては戦術上の完全な奇襲に成功したわけで、それはまた戦略上の奇襲でさえもあった。まことに真珠湾以上の醜態だった。われわれは眼をつむっていたばかりでなく、われわれの脚までがぐっすり睡っていたのである」
この記事は、そのまま日本国民の印象でもあった。当時の日本の各新聞の第一報は、いずれも「北鮮軍、三十八度線を侵入」と大きく書き立てている。だから日本国民の大多数は今でも、北朝鮮軍が南朝鮮軍に仕掛けた、と信じている。
ガンサーによると、六月二十五日朝、北朝鮮軍は、正規軍四個師団および警官隊三個旅団という大部隊を繰出して攻撃し、戦線には七万人の将兵が投入され、約七十台の戦車が四カ所の違った地点で同時に行動を起した。このような軍隊を集めて、武器と装備を与え、予定の日に広い戦線に亙って一斉に予定の攻撃にすべり出すには、最少限、一カ月の準備が必要であったに相違ない、という意味を云っている。もし、そうだとすると、この三十八度線の動きをワシントンの国防総省《ペンタゴン》は何も知らなかったのであろうか。三十八度線の両側は、それまで何百回となく小戦闘を繰返し、極度の緊張にあった。現に、国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスは、戦争の勃発する二日前、三十八度線の最前線の塹壕の中に入って視察し、東京に帰っている。もし、アメリカの情報網が北側の「不意討ち」の動きに全く「眼を閉じ、両脚さえもぐっすりと睡り込んでいた」なら、随分、だらしのない話である。
ワシントンの新聞記者たちは、これを確かめようとして中央諜報局長官ロスコ・H・ヒレンケッター海軍少将に質問したが、彼は、「朝鮮では、今週、または来週ごろ、侵略が始まるかもしれない状況だった」し、米国の諜報機関はこれを知っていた、と言明した。また同少将は、次の日、上院歳出委員会の非公開会議に出席して、「米国諜報網が虚を衝かれたのではない」ことを共和党議員に納得させながら、一方では、「北朝鮮軍は南朝鮮侵略の能力を一年以前から持っていたが、実際に進撃して来るかどうか、また進撃して来るとすればどんな予定表によるか、を予見するのは不可能であった」と語った。これは彼の前言と喰い違っているが、次の日、上院委員会に呼び出された同少将は、秘密会でさらに説明を行なった。この時、聴問会室から出て来た委員たちは、ヒレンケッター少将の証言が前のアイマイな声明とは全然違ったもので、謀報機関の報告の綴じ込みを取出したりして、自分が虚を衝かれたのではないことを証明したので、委員たちは「中央諜報局がよくやっていた」ことを納得したそうである。(I・F・ストーン『秘史朝鮮戦争』)
さて、東京のマッカーサーの司令部はどうであったか。
「しかし、マッカーサーは朝鮮にはあまり注意を払っていなかった。かれは動乱が勃発するまで僅かに一度しか朝鮮を訪問していない。それもたった一日だけで、それは一九四八年八月の韓国独立式典に列席するためだった。そのまた韓国が独立した八月十五日以後は、朝鮮に対しては政治的にも軍事的にも、かれには何の責任もなかったのである。元帥のほうには何ら非はなかったのである。朝鮮はかれの管轄ではなかった」とガンサーはマッカーサーのために弁護している。しかし、さすがに、これではいかにも困ると思ったのか、つづけて、「しかし、その半面、かれはアメリカの極東軍最高司令官として、朝鮮の事態にはもっと深く注意していて然るべきであったろう」と柔らかくたしなめている。朝鮮がマッカーサーの管轄外であったということは、同時に朝鮮が極東軍司令部の管轄の外にあったということになる。これは誰が聞いてもおかしな話で、ただ三百代言的な強弁としか取れない。朝鮮にはホッジ中将が司令官として駐在していたが、無論、極東軍最高司令官としてのマッカーサーとつねに連絡があったことは云うまでもないことだ。
それにマッカーサーの最高情報長官ウイロビーG2部長は、ワシントンと同様に北朝鮮軍の侵入を事前に知らなかったのであろうか。
これに対して、戦争の勃発した六月二十五日早朝の平壌放送は、内務省の報道を伝えた。「今六月二十五日払暁、南朝鮮カイライ軍は、三十八度線全域に亙り、三十八度線以北地域に不意の進攻を開始した。不意の進攻を開始した敵は、海州《ヘチユ》方面西方からと、金川《クムチヨン》方面と、|鉄 原《チヨルウオン》方面から三十八度線以北地域に向って一キロ乃至二キロまで侵入した。
朝鮮民主主義人民共和国内務省は、三十八度線以北地域に侵入した敵を撃退するようにと、共和国警備隊に命令を下した。警備隊は進攻する敵を迎え撃って苛酷な防衛戦を展開している。共和国警備隊は、襄陽《ヤンヤン》方面から三十八度線以北地域に侵入した敵を撃退した」
いろいろな資料から見て、南朝鮮側では、戦争勃発を予見したさまざまな準備処置が講じられていたことがうかがえる。しかし、北朝鮮側に、この「処置」があったかどうかを知ることは出来ない。これは、その資料が乏しいためか、それとも、その「処置」が「皆無」だったか、どちらかである。しかし、全く皆無だったとは常識的に思われない。何故なら、三十八度線ではそれまでに実に千回以上の小戦闘が繰返されていたし、またのちに触れるような南朝鮮側の臨戦態勢の情報が全くキャッチされなかったとは思われないからである。だから南朝鮮側の「侵入」を受けるや、直ちにこれを受けて軽く斥け、さらにあれだけの猛追を行なったのは、当時、ただ防禦的な態勢で、手薄な警備隊のみが配置されていたとは考えられないのだ。この辺は、ガンサーの云う北朝鮮の態勢や、アメリカ切っての軍事記者ハンスン・ボールドウィンが書いたような、「北朝鮮軍四個師団の主要部分および警察軍旅団と報告されている部隊二つが三十八度線に配置されており、おそらく日本製と思われる軽戦車および中型戦車、ソ連式一二二ミリ野砲約三十門その他の重装隊が前線に配置され、部隊の集結が目に着くようになってきた」という報告は、その数字をどの程度信用するか別として、防禦から大攻撃へ直ぐに移れるだけの兵力の配備はあったように考えられる。
このことに関してだが、退役後のマッカーサー自身の証言がある。戦闘以前の北朝鮮軍の配置について、彼は次のように云った。「双方とも軽装備と呼びうるものを組織しました。南朝鮮の国境警備隊は正規の警察よりは幾らか強力で、当然、国境を警備していましたが、正規軍には比較すべくもありませんでした。私の記憶によれば、北朝鮮軍の保安隊は、彼らの云う四個旅団に組織されていました。そして、この旅団は、その強さにおいては北朝鮮の正規軍と同じくらいでした。しかし、北朝鮮側が三十八度線に沿って配置した保安隊の背後では、新しい軍隊が組織されていました。この軍隊は慎重に組織され、おそらく鴨緑江《アムノツク》の北方で──多分、満州で慎重に訓練されていました。要するに、北朝鮮軍は三十八度線から遙かに遠い所に配置されていたのです。それは防衛のための配置であって、攻撃のための配置ではありませんでした」
これは不思議な証言である。北朝鮮軍は攻撃のための配置をしていなかった、とマッカーサーは証言する。これは彼が罷免になってからの言葉だが、アメリカが国連に持出した際に説明した北朝鮮の侵略は、この言葉でどう説明できるであろうか。ストーンもこのことについて「何故、北朝鮮側は完全に準備出来てから侵略を始めなかったのか。その理由は、おそらくウイロビー少将が説明してくれるだろう」と書いている。
それは、それから一年後になってウイロビーが「いわゆる北朝鮮軍全軍は、数週間に亙り待機の態勢にあり、三十八度線に沿っていつでも行動に出られる準備を整えていた」と述べたことに照応する。また、アチソンが米国諜報機関の能力について上院議員に質問されたとき、「私は諜報上の失敗があったとは思われない」と述べ、六月二十五日以前に提出された北朝鮮軍の企図に関する諜報の実例とした二つの報告については、これまでかなり言及されている。その一つは、米極東軍司令官の綜合週間情報で、それは、一九五〇年三月十日に、「北朝鮮人民軍は一九五〇年六月に南朝鮮を侵略開始の予定、との報告に接した」と云っている。米極東軍司令官とは、もちろんマッカーサーである。また、韓国が北朝鮮と戦った場合、米国はどこまで支持してくれるかという問題について、米上院外交委員長コナリーがワシントンの有力な週刊誌に与えたインタビューは、東京の英字誌『日本タイムス』に五月三日転載されたが、その見出しは「コナリー、共産軍が米軍を南朝鮮から追出すと予言す」と大きく掲げている。
マッカーサーがどのように言葉を隠していても、南朝鮮が北朝鮮に仕掛けるかもしれない警報は、頻々と米側に捕捉されていたのである。「米情報機関はよくやった」と賞められたヒレンケッター海軍少将は、CIAの二代目の親分だったが(この年十月、彼は更迭されて、その後に有名なアレン・ダレスが就任した)まさにワシントンの情報機関は知っていたのである。もちろん、東京のG2もこれを知っていた。ワシントンよりも東京の情報機関が朝鮮により多くの情報網を置いていたことは、その地理的関係からいっても、現地軍の直接影響からいっても、想像に難くない。朝鮮における情報が直接ワシントンに行った場合もあったに違いないが、それよりも多くの場合、東京からの情報が中継されたと考えるのは妥当であろう。公式、非公式の各種記録が示すように、G2は比類なき情報網を持ち、謀略機関としては第一級を誇っていた。その中には、CICや、独立したキャノン機関や、Y機関などと呼ばれるものが存在し、専門に、中国、北朝鮮、ソ連情報に数十億円の巨費とあらゆる機能を投入して接触していたし、各種の暗号や通信書簡までも極秘裡に捕捉していた。
しかも、これほどの態勢があり、「不意討ち」を喰った印象を与え、アメリカ本国でも上院外交委員会が騒いだのは何故であろうか。また、ガンサーが日曜日に日光に見物に行くほどGHQの空気がのんびりしていたのは何故であろうか。ここで、一つの犯罪を企む犯人はつねにアリバイを工作することを、何となく連想するのである。アメリカ軍が韓国軍を三十八度線の前面に置いて、あくまでも一方的な防衛態勢で、北朝鮮軍の攻撃を予知できなかったと主張することがこの場合のアリバイなのである。
国連の現地視察員が、「韓国軍には侵略を目的とする作戦は不可能である」旨の報告書を国連安全保障理事会に書いたのが、戦闘開始の前日の六月二十四日で、これはアメリカにとっても極めて好都合なアリバイとなった。
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マッカーサーは、韓国軍の三十八度線の防衛が脆くも破れたことについて、のちに証言している。「韓国軍は北朝鮮軍には全然抵抗できませんでした。そして、韓国軍の補給力の配備が途方もなく貧弱だったのです。韓国軍は、その物資や装備を三十八度線のすぐ傍に置いていました。彼らは縦深陣地を造っていなかったのです。三十八度線と京城の至る所が韓国軍の物資集積地域だったのです」
要するに、これで見ると、韓国軍は敗走の際、兵器や軍事物資(多分、それはアメリカ製や日本製であったであろう)を集積したまま敗走したので、あとに入り込んだ北朝鮮軍がそれを自分の武器に使ったということになる。これだと、戦闘初期に北朝鮮軍の主力が三十八度線から遙かに離れた遠い所に配置されていたにも拘らず、緒戦の際の勝利の説明がつくのだ。
資料の潤沢なせいか、南朝鮮側の戦争勃発の予見は、恰も地震計のように頻繁に記録されている。五〇年五月に入ってから、三十八度線付近に北朝鮮軍の大部隊が集中していることが韓国側によって伝えられている。即ち、申性模国防長官は、五月十日、外人記者団との特別会見を行ない、「十日以内に、全面的な内戦が勃発しそうである」と語り、李大統領は、同じく十二日に、「五、六月は、危険な時で、何事が起るかしれない」と言明している。また、蔡参謀長も、「北朝鮮側は、五月二十日の韓国総選挙を機会に、大規模な攻勢を展開するおそれがあり、韓国軍は兵力を配置して警戒している」との談話を発表している。
しかし、南朝鮮側がこれらの警告を公然と訴えたのは、なぜか、これが最後になった。
「何故、その日から沈黙を守ったのであろうか? それからというものは、京城で何の声明も発表されず、東京から官辺の意向を反映した新聞電報も打たれず、米国議会での演説もなかった」(I・F・ストーン)
ところが、この頃、アメリカ国防長官ジョンソン、元アメリカ参謀総長ブラッドレー、国務省顧問ダレスが極東を訪問して、マッカーサーと会談した。ダレスは、それから南朝鮮を訪問して塹壕に入って視察したのである。ダレスは何のために前線を視察したか。「彼は塹壕に入ってスミレを摘んだのではあるまい」とソ連外相のヴィシンスキーが皮肉るところだ。そこでまたダレスは韓国議会で演説して、アメリカは共産主義と戦う南朝鮮に必要な精神的・物質的援助を与える用意がある、と言明した。また、戦争勃発の五日前、ダレスは李承晩に書簡を送って、「私は貴国が今度の大ドラマで演じうる大きな役割に非常な期待をかけている」とも書いている。
李承晩政府の元内務長官金考錫は北朝鮮側に捕われて、その「告白」を書いているが、それによると、一九五〇年一月、ロバーツ将軍が李承晩閣僚に訓令して、「北伐計画はすでに決定済である。たとえ、われわれが攻撃を始めるにしても、やはり正当と見られる口実を作る必要がある。このため、まず大事なのは、国連委員会の報告だ。国連委員会がアメリカに都合のいい報告を出すのは当然であるが、それと同時に、諸君もこの問題に注意を払い、国連委員会の同情を買うように努めなければならない、と通告した」と云っている。北朝鮮側の捕虜の「自白」だから相当割引くとしても、このような訓示があったかもしれないという可能性は考えられるのである。
このような資料からみると、南朝鮮側が三十八度線で先に火蓋を切った、という強い印象は免れない。しかし、もう一度繰返すが、南朝鮮側に比して北朝鮮側の資料は極めて手薄である。比重は南朝鮮に遙かに重い。従って、この資料からは韓国やアメリカ側に歩の悪い結論の引出しとなった。もし、同量くらいの資料が北朝鮮側から発表されていたら、この比較はもっと明瞭になり、公平になるだろう。何故なら、南朝鮮が「侵入」するや、北朝鮮軍は忽ち「追い返した」だけでなく、破竹の勢いで京城を葬り、大田《テチヨン》北方に進出し、別働隊はまた日本海側の江原道《カンウオント》を快走で進撃した事実を知っているし、開戦数日にして、韓国軍に代ったアメリカ軍を相手にしてそれを南朝鮮の一隅に追い込んだ実力にわれわれは驚歎しているからである。
もとより、それは北朝鮮側から云うように、アメリカ占領地の民族解放に燃えた熱意や、「三十八度線より遙か離れた後方」で受けた訓練の成果もモノを云ったに違いないが、優秀な近代的作戦の起源も知りたいからである。
率直に云えば、三十八度線をどちらが先に越したかということは、時間の問題であったように思う。李承晩は「北伐」を叫んでいたし、金日成もまた南朝鮮側の「解放」を呼号し、南朝鮮側の民衆に向かってその以前からたびたび呼びかけを行なっていたからだ。李承晩は全朝鮮が自分の「領土」だと心得ていたし、金日成も同じように李政権をカイライ政権として、南朝鮮側はアメリカ軍の侵略地帯だと思っていた。つまり、両者とも、三十八度線という境界線をひいた二つの国は存在しなかったのである。戦争勃発前に、この境界線に沿って千回もの小戦闘が起っていたのは、そのことを証明する。
さて、戦争ははじまった。
「国際連合視察員たちは、六月二十四日に帰って(三十八度線視察)報告を提出した。その晩、彼らの居ないところで戦争が始まった。李承晩は、それが北朝鮮による挑発されざる侵略によって始まった、と発表した。これに反し北朝鮮政府は、韓国軍が三カ所で三十八度線を越境して撃退されたのち北朝鮮軍が攻撃に移ったのだ、と報告した」(I・F・ストーン)
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朝鮮戦争の経過を略述する前に、何故それが起らねばならなかったかを当時の国際情勢について眼を走らせてみる。
世界大戦は終ったが、実際の平和は到来せず、米・ソ両国の間には冷たい戦争が始まった。四七年三月のトルーマン声明、六月のマーシャル・プランなどでアメリカの政策は表面化し、四九年四月の北大西洋条約(NATO)の調印でアメリカの対ソ包囲体制が完了した。ソ連を在外軍事基地の網で包囲するという、いわゆる「封じ込め」が一応出来上ったのである。この背後には、アメリカが原子爆弾を独占したという軍事技術上の優位があった。
当時、アメリカは原爆の所蔵を自負していて、ソ連は今後十年以上は保有出来ぬ、という見通しが強かった。これを運搬するにはB36、B50などの長距離無着陸爆撃機があり、これもソ連は技術的に及ばぬと思っていた。この戦略から、四六年三月に戦略空軍(SAC)が大統領命令によって編成された。
この戦略の目的は、破壊力の時間的集中と、攻撃力の組織的集中、並びに戦闘力の地域的集中である。つまり、B29が延べ三万二千機で十四カ月をもって日本を破壊したと同じ効果が、原爆によればタダの8発で、しかも最少の人員でまとめて出来ること、各機には予め攻撃する場所が分っていて、普段からその状況下に訓練を積み、命令が出てから攻撃するのではなく、最初から攻撃目標を決めていること、さらに、このような態勢から戦略爆撃機千五百をしてソ連を包囲する。この爆撃機は一五〇乃至一六〇の基地に置き、ソ連を目標に円の照準の中に入れる。こうして、いざという場合一挙にソ連を叩くことが出来る戦略態勢を整えた。四七年九月には空軍省が独立して、この対ソ戦略は完成した。
NATOの成立がこの直後であったことを思い合せると、アメリカの計画がよく分るのである。
しかし、事態は変った。中国は赤軍によって完全に制圧され、ソ連はまた原爆保有を声明した。四九年十一月の革命記念日には、アメリカが原爆奇襲攻撃を行なえば、ソ連も原子兵器で報復することが出来る、というマレンコフ声明となった。封じ込め作戦は、この新しい情勢のために完全に破綻したのである。アメリカは焦躁にかり立てられた。このままだとジリ貧は免れない。世界にばらまいた厖大な資本はどうなる。アメリカが次に取る手段は、朝鮮を足がかりにして、ソ連と中国との分断作戦以外には取る途は無かったといっていい。
なお、アメリカが朝鮮作戦を遂行するに都合の好かったことは、その前年の十月からソ連が中共の国連加盟を主張して容れられず、国連をボイコットしていたことだ。
もし、ソ連が国連に出席していたら、アメリカの主張する「国連軍の加入」は、ソ連の拒否権に遇って成立しなかったであろう。朝鮮における国連軍の構成は、もちろんアメリカが主力であり、その統帥権からいってもアメリカ軍単独であった。このことから、朝鮮への介入にはソ連の国連ボイコットはアメリカにとって極めて都合が好かったのだ。
ストーンは書いている。「実際、攻撃開始に選ばれた時期は、北朝鮮側の見地からいって非常に不適当な時期のように思われた。ソ連は、その年の一月、中共の国連加盟不承認に抗議して国連ボイコットを開始して以来、安全保障理事会に出席していなかった。安全保障理事会のもう一つの『東欧』側の椅子は、ソ連と意見が合ないユーゴによって占められていた。国連の北朝鮮反対に動員する試みが行なわれるとしたら、拒否権でそれを葬り去る友邦が安全保障理事会内に一国も居ないわけだった」
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この国際情勢を背景とした戦争前における朝鮮の情勢をざっと振返ってみよう。
一九四五年八月十五日、日本軍が降伏して、三週間後の九月八日、ホッジ中将の率いるアメリカ第十四軍団が沖繩から仁川《インチヨン》に上陸した。空から撒かれたアメリカ軍の最初の声は南朝鮮に軍政を施行すること、曾ての日本の各種機関および職員を存続させること、治安を乱し占領軍に反抗する者は厳罰に処すること、公用語は英語をもってすることなどをうたったマッカーサーの布告第一号であった。この日、韓国民主党が結成された。アメリカ軍政はこの系列の者によって九名の諮問機関を構成した。李承晩がアメリカから帰国して右翼の頭領となった。十月十七日、ホッジ中将は軍政府は南朝鮮の唯一の政府である、と言明して、南朝鮮各地に組織された各人民委員会を弾圧し始めた。朝鮮問題の具体的な解決案は、一九四五年十二月の米・英・ソ三国外相によるモスクワ会議で決定されることになった。
だが、その要旨は、朝鮮民主主義臨時政府を樹立して、長期に亙る日本帝国主義の有害な結果を急速に取除く条件を作る。この臨時政府の組織に関する法案は米・ソ共同委員会を組織して作成すること、委員会は朝鮮の民主的諸政党と協議すること、さらに共同委員会は朝鮮臨時政府を国家的独立に導くため、その援助に四カ国(米・ソ・英・中)による後見制を実施することなどを決定した。この決定は、間もなくアメリカ自身がボイコットすることになる。
李承晩と金性洙(韓国民主党党首)などは、モスクワ会議の決定を信託統治だといって反対運動を起した。一部の民族主義者がこれに同調した。ホッジは「反対の自由」を宣言して彼らを援助し、その集団(民主議員)を中核とした臨時政府の樹立を図り、三国外相決定の路線を骨抜きにしようとした。臨時政府樹立のための協議対象に「多数」を登場させるため無数の団体が創作され、百十九を数えたほどだった。
ソヴェトはこれに反対し、二回に亙る共同委員会は、遂に意見の一致を見出せないままに終った。
南朝鮮ではアメリカ軍政の諮問機関として「立法議員」の選挙が行なわれた。九十名の議員のうち四十五名は、アメリカ軍政の任命による官選議員であった。これは南朝鮮独立政府樹立への原型だった。
四七年九月、アメリカは朝鮮問題の審議を第二回国連総会に持込み、北朝鮮に進駐しているソ連との話合いを一切拒否した。国連側はソ連の反対を無視して「国連調整委員団」を派遣し、その監視下に総選挙を行なうというアメリカ案を可決させた。
一方、北朝鮮では、朝鮮労働党中央局が全朝鮮の平和的統一を具現するための組織的な主体となった。党の中央は、南朝鮮の特殊な条件に照らして北朝鮮に置かれた。さらに、これは他の人民委員会を集めて「北朝鮮臨時人民委員会」となり、金日成が委員長に就任した。四八年二月には、北朝鮮人民会議は人民軍の創設を決定した。
南朝鮮では、一切の批判、一切の抵抗は許されなかった。四六年十月、大邱を中心として南朝鮮全域に捲き起った大規模の人民抗争は二百万余りの人員が抗議に参加し、アメリカ空軍、機動部隊がこの弾圧に動員された。この時、殺された者三百名、行方不明三千六百名、逮捕、投獄されたもの一万五千人に及んだ。
四六年十二月に、李承晩はアメリカに渡り、南朝鮮における単独政府樹立の打合せをした。この時も、アメリカ軍政に反対する団体は大量に検挙され、南朝鮮刑務所に収監された受刑者は、二万六千四百名に達した。
四八年八月十五日、ソウルでは李承晩を大統領とする「大韓民国」の建国式典が行なわれマッカーサーがこれに出席した。その前の四月には、国連調整委員会が南朝鮮の単独選挙の監視を決定した。この単独選挙に反対して激しい人民抵抗が行なわれ、二月七日には、南朝鮮の全産別労働者のゼネストが断行され、二百万もの大規模な闘争が三日間つづいた。三月三十日から有権者の登録は開始されたが、それを拒否する者に対して警察とテロリストの殴り込みが行なわれ、リンチ、放火などの事件が繰返された。済州《チエチユ》島では弾圧に抵抗して二万島民の蜂起が狼り、人民武装隊によって十五カ所の警察署のうち十四カ所が襲撃された。「南朝鮮の丘という丘。峰という峰にはパルチザンの活動が始まり、夜ごとに狼煙《のろし》のデモが行なわれた」。八月二十四日、韓米暫定的軍事協定が結ばれた。十月一日に更に調印された韓米財政協定の実質は、日米の行政協定と同じものだった。内容は、アメリカは韓国軍の指導権を持ち、米軍は不必要と認めるまで駐留する、共同防衛上必要と思われる全地域を利用する、というものだった。
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李承晩政府は、国家保安法を四八年十一月に制定した。日本の治安維持法に当るもので、それを上廻るほど苛酷なものだった。一方、「暴動」は相変らず熄《や》まず、済州島鎮圧を指令された第十四連隊の軍隊は麗水《ヨス》、順天《スンチヨン》方面で叛乱を起し、山岳地帯を中心にパルチザンの活動を拡大した。その範囲は、四九年三月に、南朝鮮の八道十二市百三十一郡のうち八道三市七十八郡に及んだ。
一九五〇年五月三十日に第二次選挙が行なわれたが、李承晩は反李承晩派の六十六名の立候補者を辞退させ、その選挙員二百二十名を国家保安法によって検挙した。しかし、それにも拘らず、議員数二百十名のうち李承晩派の当選者は四十八名にすぎなかった。李承晩独裁によるその政権の危機は、決定的な運命に直面した。間もなく三十八度線に戦争が起った。「彼らは戦争の挑発によって延命を図ったのである」(『朝鮮の歴史』朴慶植・姜在彦著)
この南朝鮮側の記録に対して北朝鮮側は、着々と金日成の指導によって基礎が固まり、工業生産力の建設となった。これは北朝鮮の記録にはもっと讃美的な修辞で書かれているが、公平に考えてあまり間違いはないように思える。何となれば、北朝鮮では南朝鮮のようなストライキや暴動や暗殺などが見られないからである。重工業建設のために一般の農民の「不平」が宣伝されているくらいなもので、南朝鮮側のような暗黒的な印象は、北朝鮮側からは受けないのだ。
以上は、紙数の関係で、南朝鮮の状態をざっと走り書きにしたにすぎないが、要するに、朝鮮戦争が勃発する直前の李承晩政府は壁の前に行詰っていて、何か奇蹟的な活路を求めなければならない状態だったことは否めないのである。
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朝鮮戦争に戻ろう。北朝鮮は、開戦して僅か三日後の六月二十八日にはソウルを占領、七月三日|漢《ハン》江を渡河突破して、四日に水原《スウオン》を落し、中部では|春 川《チユンチヨン》、東部では三陟《サムチヨク》と、怒濤の進撃ぶりを示した。
一方、アメリカ政府は、開戦の翌日二十六日に、マッカーサーに対して、日本にあるアメリカ軍の武器を韓国に供与するよう命令し、アメリカ議会は対韓援助五千万ドルの追加を決定した。二十七日には京城の南方水原にアメリカ軍前線指揮所が設置されて、二十九日にはマッカーサーが前線指揮を行なっている。三十日に日本を出発した先遣部隊は戦線に急行して、七月二日、ディーン少将が朝鮮派遣アメリカ軍総司令官に任命されて、五日には大田《テチヨン》の北方で早くもアメリカ軍は北朝鮮軍と衝突している。この頃は、米軍の強力さは無敵と信じられていた。ところが、七月五日、烏山《ウサン》で初めて衝突した北朝鮮軍と米軍の戦闘は僅か一日で米軍の惨憺たる敗走となった。
北朝鮮外相朴憲永は、国連に向けてアメリカ非難の声明を発した。
「朝鮮民主主義人民共和国政府は、すでに一九五〇年六月中旬頃、北朝鮮にたいする武力攻撃がまもなく開始されるだろうことを、たしかな情報にもとづいて知ることができた。この結果、朝鮮民主主義人民共和国政府は李承晩軍の侵攻を撃退するための諸対策をあらかじめとることにした。
安易な勝利≠確信することによって、李承晩一派とそのアメリカの主人たちは誤算をおかしてしまった。李承晩軍の侵攻にたいする返答として、人民軍はただちに潰滅的な打撃をあたえた。朝鮮におけるじぶんの手先たちのあまりに早く、そして完全な敗退をみてとったアメリカ帝国主義者たちは、既成事実に名をかりて国連をかつぎだし、朝鮮人民にたいする公然たる武力干渉にのりだしたのである」
十三日、米軍は戦車戦の雄ウォーカー中将を迎えて、一五五ミリ砲の増強も到着、ふたたび米朝決戦の幕となった。錦《クム》江南岸の米韓軍の、開戦以来、最善の防衛陣地であったと称されるこの線も、七月十六日、北朝鮮軍により一斉に渡河され、米軍はまたも大田へ向って敗走した。
正直に見て、緒戦段階における北朝鮮の一方的な勝利の根源は、旺盛な士気と闘魂に因ること、さらに火力や軍の編成などが遙かに南朝鮮軍より勝れていたことも原因している。例えば、米軍の二・五インチバズーカ砲は、北朝鮮軍のT43型戦車の装甲を貫くことが出来なかった。砲撃力の点でも、米韓軍の主力は一〇五ミリ砲であったのに、北朝鮮軍の主力は一五五ミリ砲であった。これに対して南朝鮮軍の兵力はずっと劣っていた、と評するむきがあるが、弾薬や小火器は南朝鮮側が豊富であったであろう。当時、北朝鮮側はバズーカ砲を知らなかった。それに、南朝鮮側はやたらに自動車が多く、米軍はまた空軍偏重で、地上軍も重装備の機械化過多の有様だった。
空軍にしても、米軍の主力はジェット戦闘機だったが、この時速九百三十キロの快速機に対し、北朝鮮軍が繰出したのは時速三百十一キロという、ヤク型のプロペラ機だった。この速力の相違は、かえって速すぎたことで米軍に困難を感じさせ、あわてて旧式のプロペラ付きのF51やF52という速力の遅いものを引張り出すという有様だった。
勝ちに乗じた北朝鮮軍を邀撃せんと呼号する国連軍に対し、北朝鮮軍は主力をもって錦江の不撤退線を浸透突破すると共に、東部戦線の出足を速めることによってこの不撤退線全体を大きく包囲しようと試みた。だが、北朝鮮軍は、この国連軍の銃火の不撤退陣地を「秋風が高粱《コーリヤン》畠を渡るように音もなく通過」してしまった。しかし、この頃になって、米軍には一五五ミリ砲の増強などがあったりして、北朝鮮軍戦車の威力も緒戦の烏山の頃ほど一方的な脅威ではなくなった。その上、北朝鮮軍飛行機は急激に少くなり、どの重要戦闘にも北朝鮮空軍は数えるほどしか出動していない。また地上機動力も従前の快速ぶりを失いつつあった。
しかし、北朝鮮軍は、この頃から、その用兵、戦術、指揮、作戦面で腕の冴えを見せはじめた。
錦江を渡河突破した北朝鮮軍主力は、すぐに大田に入らず、西方を南下迂回して、西方より大田の側面に脅威を加えた。大田包囲の形勢である。
これに対して米軍は、料理人、技術員、事務員までが歩兵部隊に加わり、タコ壺に入って戦い、必死の時を稼ぎながら、せめて東方からの脅威だけは牽制せんと、F80、B26並びに海軍機による猛爆を開始した。この頃、第一騎兵師団が浦項《ボハン》に上陸した。
これを見るや、北朝鮮軍の東部戦線は俄に南下を開始し、忠州《チヨンチユ》から咸昌《ハンチヤン》への企図が明らかになってきた。これにつられて、米軍がこの方面を決戦場と発表すると、北朝鮮軍は再転して、大田西方からまたも活発な砲撃を開始し、七月二十日には大田を占領した。
この大田防衛中に、前線司令官ディーン少将は行方不明となった。
一方、西海岸沿いの南下部隊は快速ぶりを発揮して、一日三十キロ平均の早駆けだった。即ち、十八日に大田戦線を発って、裡里《イリ》、全州《チヨンチユ》、光州《クワンチユ》、順天、晋州《チンチユ》と西海岸をひた走りに南下したが、これは、山下兵団のマレー半島南下の大機動作戦より日に二十キロも速いと云われている。
この頃、米軍がようやく北朝鮮の実力を過小評価してきたことが分った。例えば、ロイター通信特派員の報道によると、烏山地区で米軍が敗北した時、「北朝鮮軍は思ったよりも戦闘が上手だ」と云ったが、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』は、「今やアメリカ人が敵の能力を全く過小評価していたことはすでに明らかだ。二日間に亙って行なわれた激しい戦いにおいて北朝鮮軍はその訓練が優れていたこと、戦火の下でも立派な規律を保っていること、優秀な指揮官が指揮を取っていることを示した」と云い、ワシントン筋では、「北朝鮮軍の軍事知識がこのようなものとは誰も想像しなかった」と論評した。
北朝鮮軍の圧力は、まず、最南端の晋州、馬山《マサン》に対し西方から加えられた。即ち、北朝鮮軍は比較的疲労の少い中央戦線で南下、秋風嶺《チユブンリヨン》、金泉《キムチヨン》を突破、洛東《ラクトン》江西岸に迫り、西海岸を迂回した軍をもって、七月三十一日、晋州を落し、馬山を窺いながら釜山《プサン》の咽喉首に匕首《あいくち》を擬したのである。
米軍は新手の増援軍を挙げて馬山に投入、空軍と、砲兵と、戦車のすべての火力を総動員する大物量戦(キンイン作戦)を展開した。
晋州危しとみるや、北朝鮮軍はそのすぐ北方から猛攻して大邱《テク》を孤立させ、同時に、大邱攻撃部隊は倭館《ウエコワン》周辺で渡河を企て、ここに数十回に亙る渡河、再渡河、再反撃の激闘が展開される。
米軍はB29九十三機を出動、僅か二十一マイルの倭館戦線に二百五十機、爆弾五千発の絨緞爆撃を敢行した。
一方、北朝鮮軍は東部で行動を起し、慶州《キヨンチユ》を陥れて蔚山《ウルサン》に迫った。そして、米軍側は洛東江第一線陣地のすべてを抛棄、大白《テベク》山脈南麓の最後尾陣地に追詰められ、全線僅か二百キロ余りという、まさに海に追落される寸前の態勢となった。第二のダンケルクを思わせる、と喧伝されたのはこの頃である。
しかし、九月の初めから米軍の火力は著しく増強されると共に、北朝鮮軍の攻撃力もその威力をやや減退しはじめた。米軍は少しずつ東部戦線で押し返し、大邱を孤立から救い出し、じりじりと形勢を逆転させつつあった。その九月十五日に仁川上陸が行なわれたのである。
これを要するに、緒戦の北朝鮮軍の勢いは洛東江戦闘の終り頃に堰止められ、ほぼ互角の相互衝突となり、最後には微かながら逆転の兆候もあった。緒戦における北朝鮮軍の火力の優位は、それ以上の有力な火力の巻返しに直面して後退を余儀なくされたのだ。米軍の仁川上陸で、北朝鮮軍の伸び切った兵站線が突かれた状態になったのである。
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九月十五日、千機に上る飛行機の掩護の下に、艦船三百隻をもって、兵力五万の国連軍が大量の日本輸送員を使用して仁川上陸を行なった。仁川守備の北朝鮮軍の抵抗も、この大兵力と大物量の前にはあえなく潰れ、上陸した米軍は一路ソウルヘひた押しに進んだ。
「それにしても、仁川上陸作戦に対し、北朝鮮軍の防禦能力はあまりにも脆かった。それが一たびその直後の京城防衛戦ともなると、極めて頑強な抵抗力を示したのである。いよいよ不思議である。この意外な脆弱さの原因は、少し立入って見る必要があろう」
と『アメリカ破れたり』の著者吉武要三氏は書いている。この著者によれば、北朝鮮軍が脆かったのは、要するに、野戦で強かった北朝鮮軍が陣地戦では経験が無く、それに必要な準備、築城、編成、戦術に著しく薄弱であった、と云い、野戦と陣地戦は相当異った兵学知識と経験を必要とする、と説いている。
もう一つは、金日成自身が反省しているように、この仁川防禦陣地には「ろくに訓練を受けていない新兵」ばかりがその部署に居たことも敗因の一つである。また、人は仁川上陸が「奇襲」であるというが、戦局から見て、仁川に国連軍が上陸することは常識であった。日清・日露の戦役はもとより、古くは豊臣秀吉の朝鮮征伐に至るまで、仁川上陸作戦は戦史上の常識であって、「何ら偉大な構想でもなければ天才的作戦でもない」と云う。問題は、これほど明白な事態に対して、北朝鮮軍の無防備、無準備が指摘されるのである。そして、さらにこの時期において北朝鮮軍が制空権を完全に喪失していたことも挙げられる。
国連軍の猛攻によってソウルも遂に落ちた。一方、国連軍の仁川上陸によって洛東江戦線から北朝鮮軍は一斉に大退却を開始した。米韓軍が南方からこれを追い、その先鋒第八軍の第一騎兵師団は、これと呼応して仁川・ソウル地区から南下した第十軍団と水原付近で連絡が成り、ここに南部方面の北朝鮮軍を挟撃する形勢となった。
それでは、南北の国連軍に挟まれた大部隊の北朝鮮軍は捕捉され、殲滅できたであろうか。決してそうではなかった。それは米軍の眼前から煙のように消え去ってしまったのである。
「南部戦線の北朝鮮軍がどうして国連軍の追撃から免れたかは、戦局の一つの謎である。彼らは煙のように消え失せたようだ。彼らは殆ど一夜にして姿を消しはじめ、米軍探索機も道路上における北朝鮮軍大部隊の移動をまだ発見していない。また、北朝鮮軍が大部隊を北部戦線に送っている動きもない。大きな問題は、装備を付けたこれらの北朝鮮軍がどうしたかということである」(AP・ホワイトヘット記者)
「米軍情報将校は、三十日夜、北朝鮮軍はどこに居るか、という非常な難問題に対する解答を見出そうと躍起になっている。ここ四日間、北朝鮮軍の大部分約十万は、少くとも国連軍部隊の眼前から消え失せてしまった」(ロイター・バレンタイン記者)
十万の大軍が敵前で掻き消えた。──これまでの戦史にも無いことである。が、この謎の解答は、実はこういうことだった。
十万という兵は撤退と云うよりも解体に近かった。例えば、歩兵部隊は、一カ月先とか四十日先とかの非常に長期に亙る集合日時と集合地点を指示される。小銃その他の小火器は全身に厚くグリースが塗られ、それぞれの工夫で隠され埋められる。その場所についても、埋めた者自身か、せいぜい、彼のほかには彼が最も信頼する市民一人かが知ってるだけである。その市民は、のちにこれをパルチザン闘争に使うことが出来よう。こうして武装を解いた兵士たちは、それぞれ、彼ら特有の驚くべき耐久力と不屈の意志を持って、山から山へ、集合地点に向かい、不眠不休、飲まず食わずの彷徨をはじめるのである。まさしくこれは撤退よりは解体に近い。しかも、それが解体に至らなかったところに資本主義国の軍隊との相違がある。辿り着けなかった者は、行き着いた山でゲリラとなったであろう。行軍半ばにして仆れた者もあろう。いずれにせよ、このような様相の撤退は、住民の完全な精神的支持と、兵士各自の頑強な政治意識の二つがあって、はじめて可能なことである。
また、歩兵部隊のような消滅と異り、重砲兵や重戦車の撤退はいかにして行なわれたか、それは未だに謎である。ただ一つ明らかなことは、米軍が遂にこれを捕捉できなかったという事実だけである。(前掲『アメリカ破れたり』)
兵隊は民家に飛び込み、そこで軍服を脱ぎ、白衣に着替える。こうすると、付近の住民と全く変らないことになる。そして、彼らは白衣のまま、いわゆる便衣隊となって、山野を北へ北へと向かって走りつづけたであろう。いずれにしても、このようなことは土地の住民の北朝鮮軍に対する好意がなくては出来ないのだ。好意とは、即ち、北朝鮮軍兵士が信念として持っている革命への共感であり、同情である。十万の兵が、さしたる損害も受けずに、無事に北朝鮮へ向かって「集合」したのは、一に南朝鮮住民の支持があったからである。それは李承晩政権への反感と云うよりも、同胞を殺しに来るアメリカ軍への憎悪からであったに違いない。
九月二十九日、李承晩はソウルヘ帰還した。十月一日には、マッカーサーは北朝鮮に対し即時降伏を要求し、二百五十万枚のビラを撤いている。
こうして米韓軍は、十月一日、三十八度線を突破北上してから約一カ月の間、元山《ウオンサン》、平壌《ピヨンヤン》を落して、朝満国境に派手な進撃をつづけたのである。威風辺りを払った金日成の軍隊は、まさに雲散霧消したかのように見えた。
国連軍は、中国が介入するかもしれない、という予測は持っていた。しかし、なお避け得るという希望もあって、その危険性を予測しながらも、無人の野を行くように国境線へ新作戦を展開したのである。だが、この危険はまさに的中した。マッカーサーは、十一月七日に、外国共産部隊の介入に直面した、と発表せざるを得なくなった。国連軍の情報によれば、介入中国軍は、最初六万と推定されたが、次いで最終的には二十万と確認された。十月二十五日にはマッカーサーは、クリスマスまでには帰還できるであろう、と発表したばかりなのに、それどころではなくなった。十一月二十六日、米軍二十万、中国軍二十万で正面衝突が始まった。
この正面衝突は、米軍の「意外」な全面敗北に終った。中国軍は西部戦線だけで一週間に二万三千名を殲滅、無傷の自動車二千台、戦車五十五台を鹵獲《ろかく》、一路、平壌へ向かって南下、東部戦線でも山岳地帯から逃亡する米韓軍を追って南下し、「アヒルのような勢い」で米海兵隊第一師団の一万二千名を殲滅、残存部隊は咸興《ハムフン》で命からがら開城《ケソン》へ遁げ出す有様だった。「米陸軍史上最大の敗北」と称せられるゆえんである。
この時期にトルーマンが「朝鮮における原爆使用を辞せず」という声明を出し、世界は第三次大戦が始まるのではないかと、息を詰めてこの成行きを見つめたものであった。潰走する米軍は驚くべき混乱状態にあり、遂に、総司令官ウォーカー中将を部下の戦車が轢き殺すという椿事が起ったほどだった。
この時期、米軍がその勢力下に置いた後方地区ではしきりとゲリラが蜂起し、米韓軍の後方を攪乱している。この時の武器は、前に述べた十万の兵が幻の如く消えた際隠された小火器や、戦車や、重砲などが地下から掘り起されて使用されたと思える。
さて、騎虎の勢いに乗じた中国軍は、再編成をした北朝鮮軍と一緒になり、前線で攻勢に転じて、陣容を建て直す余裕もない米韓軍を追って三十八度線を突破、一月四日には早くもソウルを取返し、水原、烏山の線まで進出した。中部戦線でも、春川、洪川《ホンチヨン》を落し、堤川《チエチヨン》まで進出、東部戦線では、「戦わずして遁げる」米韓軍を追って三陟まで迫った。この一週間で一万三千名を殲滅した、と北朝鮮側では発表した。
米軍ではこの敗戦を回復するため、厖大な資材を注ぎ込んで反撃に転じた。北朝鮮軍は柔軟な作戦によって攻撃を繰返しながらも、|※[#「さんずい+文」、unicode6c76]山《ムンサン》と|※[#「馬+帝」]《インチエ》を結ぶ線に退いた。米軍は再びソウルを手に入れたが、五一年六月、ソ連のマリク休戦提案で休戦が成立するまで、この地帯で戦闘がつづけられた。
この朝鮮戦争に両軍が投入した兵力は、六月二十四日の『朝日新聞』によると、国連軍八十万(米軍三十五万、韓国軍四十万、その他五万)、共産軍は中国、北朝鮮合せて百万と観測している。朝鮮戦争は動員兵力の点で、近代戦史上、二つの大戦と、普仏、日露、朝鮮と数えられるべき五大戦争の一つに入るのである。これだけの軍隊があの半島に犇《ひしめ》き合ったのだ。
死傷者の損害については、正確なところは分らない。戦争開始一年目には、国連側の発表によると、国連軍の死傷は二十九万二千で、共産軍の死傷は百十六万二千と云い、同じく共産側の発表によると、五十九万八千が国連軍死傷で、自軍については発表していない。
また、中国が戦争に介入して以来一年間の経過では、国連側の発表は二十三万五千であり、共産側は国連軍の死傷を三十万七千と云っている。両陣営とも共産軍の死傷を不明としている。とにかく、正確な数字は判らないにしても、大層な損害であった。
また、国連側は、開戦一カ月で、前線司令官ディーン少将が捕虜となり、オーストラリア軍司令官グリーン中佐が戦死、前線総司令官ウォーカー中将が戦死、五一年には米第九軍団司令官ブライアン・E・ムーア少将が戦死している。北朝鮮側では、第四師団長朴性錫が戦死、参謀総長彪乾が戦死、中国軍司令官の林彪が中部戦線で負傷し後送されている。
また、敗走中の事故死とはいえ、ウォーカー前線総司令官が自軍の戦車に轢殺されるというが如きは、いかにそれが凄絶な戦いであり、混乱の極致であったかが分る。
そして、これに極東軍司令官がトルーマンによって罷免されるというエピソードまで付くのだ。
開戦以来の空軍の損害は、米軍が九百機以上、共産軍の損害は五百三十二機(極東空軍司令部発表)となっている。朝鮮半島の上空にのみ限定されたこの損害は、第二次大戦時の空域の広さから比較して、米空軍未曾有の出血ということが分る。
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五一年四月十一日、マッカーサーはトルーマンによって突如解任された。
その一週間前の三日、マッカーサーは朝鮮前線を視察し、襄陽で韓国軍を激励し、西部戦線では米軍が三十八度線を突破し、京城を回復し、勝利の追撃をつづけている時であった。「天皇よりも偉い」神さまのようなマッカーサーが解任されたと知ってびっくり仰天したのは、日本国民だけであった。そして、解任の理由を知らされなかったのも、日本国民だけだった。
それに先立つ会談は、太平洋の孤島ウェーキ島で行なわれた。五〇年十月十五日の日曜日、ウェーキ島にある民間航空局の宿舎のみすぼらしい建物が、その場所だった。
「会談の雰囲気は和やかなものだった。トルーマンとマッカーサーは、はじめ二人きりで一時間ほど話をし、それから双方の随員を交えて二時間に亙って協議した。会談が済むと、コミュニケが起草され、両者はまるで外国政府の首班でもあるかのように、このコミュニケにそれぞれ頭文字で署名した。これが終ると、元帥は何となく落着かない様子で、一刻も早くそこを離れたいように見えた。一度、彼はポケットから金時計を取出し、それに眼をやると、そのガラスをゆっくりと指で撫ぜ、また元のポケットに納めた。この会談がこんな短時間で終るとは、殆ど誰にとっても意外だった。初めの計画では、トルーマンはその日の夕刻に帰途につく予定だったが、もう正午には出発してしまった。マッカーサーもそれから五分遅れて帰途についた」(ジョン・ガンサー)
朝鮮戦線ではまさに北朝鮮軍を三十八度線の北に押し返す瞬間であった。「勝利」が近づいた時にマッカーサーが解任された理由は何であろうか。
直接の理由は、それは下院の共和党の一議員が、台湾の国民党の軍隊を中国本土に投入し、戦線を展開させ、朝鮮から共産軍を追い払うべきだ、という一般の意見をマッカーサーに質問した。マッカーサーは書簡で、その意見を尊重した、と回答したが、その議員は下院でそれを読み上げたので問題になったのである。これは、戦争を朝鮮だけに限ろうとしていたトルーマンの政策をマッカーサーが全く無視したものだった。
「もしも、この事件がただそれだけのものであったならばアメリカ政府としてもおそらくマッカーサー元帥の解任までは考えなかったであろう。ところが、それは一連の事件の始まりだったのである。元帥はトルーマン大統領の手を押えつけて、元帥自身が自分の情勢判断に基き、最も適切だと思う軍事政策を、政府の反対を押し切ってトルーマンに採用させようと決意していたのである。彼の考えは、戦争を朝鮮から中国に切換えることにあった。中国の沿岸封鎖、中国本土に対する空軍活動、満州にある戦争の経済的基地に対する爆撃、おそらく国民党の軍隊を台湾から中国本土へ侵入せしめること──これらの考えは、のちになって明るみへ出されたものだが、とにかく、元帥はこれらの策を取るのが絶対必要だと見なしていた。そして、これを強行してもアメリカの世論の大部分の支持が得られることを彼は知っていた。世論は『赤札を貼る』決議を促進させたほどであったから、この世論の後援があれば、政府を自分の意志のほうへ引きずり込むことが出来る、と彼は観測したのであった」(『マンチェスター・ガーディアン』主筆グィー・ウィント『朝鮮動乱回顧録』)
マッカーサーが望んだ方針とはどのようなことであったろうか。彼はアメリカが戦争を朝鮮に限定した点は誤りだったと思っていた。朝鮮の地勢はアメリカが優秀を誇る武器には適していなかった。この半島は機械戦には狭すぎるし、山が多すぎた。空爆の目標となるものも数が少すぎた。北朝鮮軍の実力は、中国そのものの中にあった。そこが彼らの基地であった。戦争が朝鮮に局限されているかぎり、中国は北朝鮮軍の特別な補給地域であった。戦争が長引くのはそのためである。アメリカがその空軍をもってすれば、その基地を粉砕して戦争を急速に終らせることが出来るだろう。また、中国沿岸の封鎖は補助手段としても有益に違いない。
そのためには、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石を督励して中国本土を攻撃させるべきである。彼の軍隊をただ睡りにふけらせておかないで充分に活用し、「本土奪回」に進ませるべきだ。これらの手段を取れば、戦争は大した損害を蒙らずに急速に終結しうるだろうし、朝鮮における人命の消耗も終ることになろう。これまで戦われたと同じような戦争をつづけて行けば、死傷者の数を増すばかりで、成功の望みは薄い。──と、以上のことをマッカーサーは実際に述べている。なお、彼の観測によれば、アメリカ軍が鴨緑江沿岸に北朝鮮軍を追上げても、中国は出て来ないだろうし、ソ連も手出しはしないだろう、と見ていた(この時はまだ中国軍の出現はなかった)。
これと反対の立場を取って委員会で論議した人の中に、統合参謀本部議長ブラッドレーがいた。もし、マッカーサーの云う通りにすれば、アメリカは決定的な成功を収める望みのない地域にアメリカ軍を突込むことになるだろう。アメリカ軍を引揚げることも非常に困難になり、一度、この冒険が行なわれたならば、中国の背後にいるソ連がどこか他の土地で、おそらくヨーロッパヘ打って出ることが出来るわけだ。その場合に、それに対抗しうるアメリカ軍を活用することが出来ない、と云った。遂にトルーマンはブラッドレーに味方した。
もちろん、マッカーサーは、その言葉の中では云わないが、もし、中国本土に侵入する場合は、原爆の使用を考えていたに違いない。現に、トルーマン自身も、中国軍がその「人海作戦」によって雪崩を打って出た時、「原爆の使用を辞せず」と声明している。この声明を見てびっくりした英国の外相が、急遽、ワシントンに飛んで、これを押し止めたことは周知の通りである。
ワシントン政府も、イギリスも、フランスも、マッカーサーほど甘い観測を持っていなかった。もし、アメリカ軍が中国に侵入するなら、米軍は曾て日本軍が味わったような泥沼に突込むような戦いになるだろうし、ソ連は必ずどこかの国境を破って出て来るであろう。世界大戦は必至となる。また、ブラッドレーが惧れるように、アメリカ軍が中国の広汎な地域にモタモタしている時、ソ連はヨーロッパの一角に出撃して来る可能性がある。これは英仏にとって最も恐ろしい事態であった。
トルーマンがマッカーサーを罷免したのは、単にブラッドレーに味方したのみならず、このような友邦の必死の引止め策があったからだ。
しかし、ここで問題としたいのは、トルーマンとマッカーサーの確執ではない。このマッカーサーの抱いていた意見が彼のかねてからの計画であったとすれば、それが彼の基地である日本にどのような影響を与えていたかということである。
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朝鮮戦争は、さまざまな影響を日本の上にもたらすことになった。戦争勃発以後、日本はアメリカの軍事行動のために用いられ、B29は本土や沖繩のアメリカ空軍基地から朝鮮戦線へ出撃した。また、戦線に動員された米軍は、装備や補給などを日本で大量的に行なった。北朝鮮軍や中国軍がその背後のソ連を安全地帯としたように、米軍にとっては日本は安全な「聖域」であった。
「朝鮮戦争は世界政治における緊張を一段と激成し、国際的軍備拡張は大きく進展して、それは『特需』と相俟ってわが国の輸出貿易を著しく増大させることになったのである。そしてまた、アメリカはこの戦争を契機としてアジア諸地域の反共政権に対する援助を一段と強化すると共に、これらの地域をアメリカの反共防衛計画に緊密に結び着けようと試みるようになった。しかも、これまで日本の経済的自立を急速に達成しようとしてきたアメリカは、今や軍事生産を中心としたわが国工業生産力を、アジアにおけるこの防衛計画のために役立てようと企てるに至り、それは『日米経済協力』という名の下に推進されることとなった。これらの結果、朝鮮戦争前、ドッジ・プランによるデフレーション政策に苦しんできたわが国経済界は、今やその窮境から救い出されることになったのである」(矢内原忠雄編・岡義武稿『戦後日本小史』)
アメリカ軍は日本を占領した当時、旧軍閥勢力と、それに結び着いた独占資本とを掃蕩することに努めた。この時期は、まだ東西の冷戦がそれほど表に現れず、日本は民主主義化に向かって米軍に育成されつつあった。そして、日本は東洋のスイスとして中立を守り、どちら側の陣営にも付かないことが日本の自立を永続させるものだ、と強調していた。
その方針を自ら壊して、日本を米軍の防衛線の一環としたのは、米ソの冷戦が激しくなってきて、それに伴う極東情勢の変化である。アメリカは極東の共産勢力──ソ連の原爆保有声明、中国の革命成功などの新しい変化に否でも応でも対決せざるを得なくなった。それがどの地域で起るか分らなかったにせよ、「朝鮮戦争」は、この時からアメリカの幻影となったのである。
この幻影への対決は、早くも四八年(昭和二十三年)頃から準備を整えるようになった。まず、部内のニューディーラーたちの追返しとなって現れ、次いで、作戦を主とするG2の線に方針の一本化が行なわれた。占領当初、ラジオが、主題歌のように謳っていた、あの「人民の、人民による、人民のための、政治」という声は消えて、軍靴の音が聞えかねまじき有様となった。このGHQの百八十度の転回は、当然、日本政府に対する国内措置変更の強圧となって現れた。
「これまでのところ(一九五二年)、すでにダレスは日本の吉田首相から、中共とは政治的または経済的|紐帯《じゆうたい》を結ばない、と誓った個人的書簡を捲き上げるのに成功した。このような条約は、日本と、そのもっと近くで、最も大きい隣邦との間に、和解出来ない敵対関係のがっちりした土台を据えるものであった」(ストーン)
これは朝鮮戦争が起ってから三年後のことだが、このような動きは戦争前から活溌にあった。つまり、アメリカは絶えざる緊張感を日本に与えなければならなかったし、国民には赤に対する恐怖心をつねに注射しつづけなければならなかった。このことは、「アメリカが日本を防衛してくれる」という心理的な面で役立つ。
ラストヴォロフ事件、鹿地・三橋事件、北海道に起った関三次郎の事件などは、共産勢力が日本国内にいかにスパイ活動しているかという警戒心を与え、下山事件、三鷹事件、松川事件などは、いかに共産思想にかぶれた尖鋭分子がテロを行なうかという恐怖心を植えつけさせた。そして、あとの三つの事件は、国鉄から共産分子を一掃するという実利の上においても役立った。戦争となれば、輸送がいかに大切であるか、その場合、鉄道輸送そのものが戦略の一つなのだ。
「日本人の反応は立派なものであった。かれらはわれわれのしたあらゆることを道義的、精神的に支持しただけではなく、労働争議や、其他あらゆる民主主義にともないがちの摩擦は、私から一言もいわないのに即座にやんだ」(マッカーサー『老兵は死なず』)
また、朝鮮戦争勃発前夜には、日本共産党中央委員の追放、『アカハタ』の停刊、朝連の解散などの有効的な措置が相次ぎ、戦争が起ると、反軍思想を一掃するため、日本のマスコミ界にレッド・パージの旋風を捲き起した。
これと並んで国家警察予備隊の創設となる。朝鮮戦争が起った翌月、マッカーサーは吉田首相に書簡を与えて、「法の違反や、平和と公安を乱すことを常習とする不法な少数者に乗ぜられる隙を与えないような対策を確保するため」に、七万五千人の警察予備隊と、海上保安隊の現有保有力に、新たに八千名の増員を行なうよう要求した。その後、アメリカは、更にこの警察予備隊と海上保安隊を強化し、これを中心に日本の再軍備を行なわせ、日本を軍事的にも、またその反共防衛計画にも役立たせようと考えるようになった。
従って、朝鮮戦争が無かったら、現在の自衛隊は無かったであろうし、またあったとしても、現在よりも遙かに少数な人員で済んだであろう。そして現在の自衛隊、海上保安隊の「武官派」の幹部が、旧日本陸海軍の将星によって占められるというような現象も無かったであろう。
[#5字下げ]10
日本人の戦争協力にかえろう。
朝鮮戦争当時、日本人が米軍に従って戦線に参加した、という噂は、当時、街にも流れていた。しかし、それをはっきり次のように指摘する者もある。
「日本の寄与は、単に工業と領土だけに止まらない。日本人の朝鮮戦線参加については、人民軍側によって繰返し指摘されている。五二年十一月十九日の朝日新聞は、アメリカ軍と一緒に朝鮮戦線に参加し、京城付近の戦闘で戦死した、東京都港区赤坂北町二ノ五、ペンキ業、平塚元治さん長男重治君(ネオ・平塚)のことを報じ、外務省の話によると、このような例はほかにもある、と述べている。これらの事実を打ち消すべく、同年九月二十九日、米コロンビア放送(CBS)の東京支局長ジョージ・ハーマンは、同放送を通じ、八〇〇〇名から成る幽霊部隊が朝鮮戦線で戦っている、彼らは日本からやって来た在日朝鮮人の志願部隊だ、と述べ、彼らこそ共産側の云う『朝鮮における日本人部隊』の正体だ、と弁明した。
ところが、翌三十日、明らかにされた在日韓国代表部筋の言明によると、民団系の在日朝鮮人が志願して朝鮮に出動したのは事実だが、その数は六二五名にすぎない。すると、ハーマン記者の云う八〇〇〇名からこの六二五名を差引いた残りはどこの兵隊か、ということになる。かくして、ハーマン記者は事志に反して、少くとも七三七五名の日本人が朝鮮戦争に参加している事実を証明してしまった」(劉浩一『現代朝鮮の歴史』)
この詳細な数字の当否はともかくとして、朝鮮戦線で日本人が米軍に直接協力したことは否めない。仁川上陸に当って、一千機に上る飛行機の掩護の下に、艦船三百隻を持って兵力五万の国連軍が輸送されたが、この中には相当数の日本人輸送員が使用されていることは事実である。彼らは、或は水先案内人となり、或は掃海作業員となり、或は操作要員となって協力した。
仁川上陸は、戦略上極めて常識的なものだったが、この作戦に必要な助力は、日本旧軍人に求められたと云っていい。朝鮮の地形や、海域の水深は、日本軍ほど潤沢な資料を持っているものは無いのだ。そのような資料は、他のものと一緒に占領後、アメリカ機関の中に集められていた。GHQの別館郵船ビルの中には歴史課・地理課というセクションがあって、そこには多数の旧日本軍人上級将校が参与していた。
「アメリカ人の一団を助けるために、ウイロビーはおよそ二百名に達する日本人を雇い入れて、それを荒木教授(註、東大経済学部教授)の名目的監督下に置いた。これらの連中のうち、少くとも十五名は陸海軍の上級将校で、そのうち、或る者は実際の作戦計画に参与していた人物であり、その多くは極めて枢要な地位にあった連中だった。例えば、有末精三中将は参謀本部情報部長で、アメリカ軍におけるウイロビー自身の地位に相当する地位を占めていた。河辺虎四郎中将は参謀本部次長で、降伏の手続打合せのためのマニラ会談の首席代表だった。服部卓四郎大佐は永い間参謀本部作戦課長を勤め、東条の秘書官だった。海軍側の代表連の頭株は、中村勝平少将と大前敏一大佐で、大前は自分のことを謙遜して、日本海軍第一の頭の悪い男だ、と称していた。海軍組も揃って卓越した人材揃いだった。これらの郵船会社班は、その誰一人として歴史家でもなく文筆家でもないのに、日本側の記録を掻き集めて、公式の日本側の戦史を編もうというわけだった。彼らの仕事は秘密ということになっていた。郵船会社班の仕事は極秘の裡に進められていたので、一部観測者たちは、日本人がこうして働いているのは、日本参謀本部員がアメリカ占領軍と協力しているのを誤魔化すためだ、と考え、日本人の仕事を名目上監督していた一人のアメリカの民間人までがそう思い込んでいた。荒木班と、それに協力している参謀本部員の主な仕事が戦史の編纂にないという疑いは、彼らに与えられていた特別待遇によってますます強められた」(ワイルズ『東京旋風』)
郵船会社の建物の中に置いたこの歴史課・地理課は、戦史の資料だけでなく、作戦の資料を調整していたことは、疑いを入れない。日本陸軍の伝統として、仮想敵国はロシヤであった。ウイロビーがこれらの旧参謀本部員を使うのに熱心だったことは、この理由で分る。また、朝鮮に関しての「戦略地図」も、曾ての領土であったから、隣接する満州にかけて詳細を極めたものが保存されてあったに違いない。これらが朝鮮戦争に役立ったと思うのは、極めて自然な考え方である。
戦略地図は、朝鮮だけではなかった。それはソ連領の沿海州や樺太対岸も含まれていた。対ソ戦略は明治以来の日本陸軍の伝統だから、この方面の研究は詳細に行なわれていた。敗戦直前、これらの資料は、信州松代の地下大本営に大多数隠された。終戦になって、これらの資料の奪い合いが旧陸軍軍人のなかで行なわれた。そしてその資料の殆どがウイロビーの手に入ったのである。郵船ビルの歴史課・地理課の仕事とは、そのような資料の調整だったのである。
この戦略地図は、今でも、修正や改訂が加えられている。それがときどき洩れて、国会の問題となったりする(一例を云えば、国会で、社会党の飛鳥田議員がこの地図を出した如きである)。
この戦略地図は、GHQにとってこよなき資料であった。但し、地図の上では分らないことがある。その後の人工的変化だ。軍事施設、工場施設、村落の分布と人口、新設の交通路、農業生産地──こういったものは新しくなるにつれ訂正しなければならない。そこで、ソ連領から帰って来る引揚者をチェックして、彼らの証言を判断して改訂が行なわれたのである。
GHQに協力した旧軍人の中で、有末(A)、河辺(K)、服部(H)、中村(N)、大前(O)のうち中村氏を除いて、これに辰巳中将の(T)を入れ、呼びやすいようにしたのがKATOH機関と呼ばれるものだった。G2の日本機関の中では最優秀の特別組織であり、その実力は、任務こそ違うが、アメリカのトレッシー機関の第四二二CICと比肩したと云われているほどである。
こうしたなかで、服部機関、つまりH機関が仁川上陸作戦の有力な助言者だったといわれている。
この組織の中には、朝鮮軍に長く勤務していた特務機関の曾てのメンバーが入っていたことも確かであろう。いわゆる海軍出身者の一部と、船舶部隊といわれた日本陸軍の旧軍人たちが仁川上陸輸送員であったのではなかろうか。
これまで、日本の海軍はどのようにして温存されたであろうか。その機関としては第二復員庁があった。ここでも、前田稔元海軍次官の下に数十名の高級将校がいて、戦史作成などをやっていた。これは郵船ビルの陸軍組と呼応するものだが、郵船組がそうであったように、この戦史編纂も対ソ関係の海軍戦略の研究であった。また、ソ連や満州から復員してくる旧海軍軍人で使える者はチェックして、ここに入れていた。これがのちに、旧海軍大学内にはっきりと戦史研究所なるものを移して作り、ウイロビーを通じて歴史編纂課に連絡するのである。
歴史編纂課には、元海軍大佐大前敏一、大佐大井篤、大佐寺井義守、中佐三上作夫、中佐奥宮正武氏ら、それに終戦当時の海軍大臣秘書官中村純平氏などの人材を集めていた。
このようなことから、朝鮮戦争の協力態勢は、黒幕が野村吉三郎海軍大将をキャップに、軍政を山本善雄、作戦を富岡定俊、軍需生産を保科善四郎氏などが担当したといわれている。海上警備隊ではこれらをブレーンとして、幕僚長長沢浩、警備部長寺井義守、海上部隊吉田英三氏という編成となった。これらがアメリカの朝鮮戦争に協力しながら「日本海軍」が出来たといわれる理由である。
これらとは別に、元海軍大臣副官福地誠夫大佐は復員局に入り、のち、民間会社に入っていたが、一九五三年、「海軍」の復活と同時に第二幕僚部調査課長に就任した。幕僚長は運輸官僚の山崎小五郎氏だったが、これはロボットにすぎない、と云って自らこぼしていた。副幕僚長は長沢浩大佐だった。
空軍関係の旧日本軍人にも、朝鮮戦争に協力させられた者がいる。これは組織としてではなく、個人的な関係で手繰り寄せられた。
一例を挙げよう。現在、日航の幹部になっている人なので仮りにK氏としておく。K氏は、戦後、翼を失って、名古屋の東山公園の近くで喫茶店か何かをやっていた。二十五年の冬、鶏鳴社が発信人という電報を受取った。鶏鳴社とは、神宮外苑中央線ガード付近にあって、戦後、翼を失ったパイロットたちが田中不二雄氏(元田中飛行学校長)を中心にして組織していた団体だった。田中氏は、当時、代々木クッキングスクール、代々木編物学院、航空タイムス社などを主宰していた。
電文は「ヒコウキニノレルスグコイ」というのだった。田中氏の所にGHQのオコンネル中佐とV・コステロ大佐が来て人員の招集を頼んだ。これはGHQの最高命令だ、飛行機操縦士の再訓練をせよ、月四万円から五万円出す、まず五人を集めろ、飛行時間四千五百時間以上の経験者で、人選は極めて優秀な者に限り、秘密を厳守せよ、と云った。そこで、田中不二雄、中尾純利、佐竹仁、森田勝一、崎川五郎氏が集められた。集合場所は新橋の地下鉄駅前で、午後一時に行くと、ジープが迎えに来て、横須賀海軍病院へ連れて行かれた。そこでは異常なほど厳重な検査を受けた。七月三日、採用合格通知が来たが、森田勝一氏だけは適性失格で、結局、四人が合格した。七月四日、厚木へ連れて行かれた。自動車内は米士官たちが取囲み、日本人作業員や米兵に見せぬようにしていた。最初、リンク・トレーニングからはじめて訓練を受けた。用語が分らなくて困った。「コンタクト・ウェザー」とは何のことか分らず、のちになって「有視界飛行」と納得するような始末だった。日本人には絶対に会うな、と云われた。食堂にも行けなかった。訓練後、平塚市の一軒家に隔離された。一月九万円を貰い、年二回、ボーナスが十万円ずつ出た。二十五年一月から、B29、B17などでマニラ、台湾、京城などへの空輸作業に使われた。これは朝鮮戦争が終るまで続けられたが、何を運ばされたか分っていない。自分たちがやったことは絶対にしゃべってはいけない、と厳重に念を押された。
これは空軍だけではない。このような特殊作業に協力させられた旧陸海軍軍人は、他にもたくさんあったと想像される。
例えば、朝鮮戦争に参加した日本人は全部国籍を削られ、韓国人名になっていた。この作業員は戦争の補助要員として、輸送、設営、補給、修理などに使用されたが、また諜報要員としても使われたと思われる。日本人と韓国人とはちょっと顔の見分けがつかないので、極めて便利であった。しかし、どれだけの日本人が参加したかははっきりとは分らない。
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朝鮮戦争は、前にも触れたように、南朝鮮側には資料が豊富だが、北朝鮮側の資料は少い。この戦争に関して北朝鮮側が発表したものは、米韓軍を敗北させた経過と、士気の旺盛だったことを述べているものばかりで、情勢分析の客観的資料といったものは殆ど無い。
もし、北朝鮮側からの資料がもっと潤沢に出されたら、朝鮮戦争自体に対する分析、評価はもっと精密になるだろう。
しかし、北朝鮮側の動きは、南朝鮮側の動きのようにはさっぱり知られていない。戦争の後期には、ソ連の戦車戦の権威ジューコフ元帥が中国軍と北朝鮮軍の指揮を取ったといわれているが、未だ伝説の域を出ないのである。
疑問も残っている。朝鮮戦争中、北朝鮮側の外務大臣として華々しく国連に抗議文を発表し、アメリカと李承晩政権の侵略を非難した朴憲永は、「アメリカのスパイだった」という名目で戦争終結二年後に処断されたと報じられた。しかし、朴憲永が「アメリカ帝国主義の手先」としてどのように反逆行動をしたかは詳しく分らない。朴憲永の裁判記録があるということは聞いているが、まだ眼に触れる機会がない。
この北朝鮮側資料の「欠乏」の理由は、想像されぬではない。どのような国でも弱点はあるし、批判さるべき欠点は持っている。北朝鮮側は資料の発表が「敵」の逆宣伝の材料になるのを恐れているのかもしれない。
こういう意味で、たびたび云うように、朝鮮戦争は、戦闘経過だけの新聞電報の構成ではとても分らないのである。
この戦争には、そのほか細菌戦の問題がある。
北朝鮮と中国側の発表によると、アメリカ軍は細菌戦術によって攻撃を北朝鮮から中国本土へ広めている、というのであった。共産側では、その証拠として具体的なものを列挙した。この記事によると、蚤、蜘蛛、家鼠、野鼠、蝿、蛤などが大量に発見された。例えば、北朝鮮の順陽《スンヤン》という村では、数千の人間蚤の一集団を発見したという。それは、約三、四平方メートルごとに一人という人口稠密な地域の三百平方メートルの土地で、地面の色が蚤の大群の色に合致しているような黒っぽい所を択んで撒布されたが、これらの蚤を検査したところ、恐るべき細菌、特に黒死病、破傷風、炭疸病、コレラなどの菌を感染されているのが発見された。そしてこれらのものを発見する直前、アメリカの空軍機が低く旋回して爆弾を落さずに飛び去った、ということだった。
蚤と、細菌と、入れ物の破片は、写真に撮られて多数配布され、北朝鮮と中国側から世界に向かってこの非人道的な戦略が訴えられた。しかしこれらの細菌戦術が実際に果してどれだけの効を奏したかは明瞭でない。アメリカ側ではそれを、中国や北朝鮮の巧妙な宣伝だ、といっている。
しかし、細菌が中国や北朝鮮の後方に撒かれたことは、ある程度信用していいのではないかと思う。
ここでまた思い出すのは、戦時中、細菌研究を北満でやっていた石井中将の七三一部隊である。(「帝銀事件の謎」参照)終戦直前、石井中将は日本に帰還していたが、これを逸早く庇護し、隠匿していたのは、GHQであった。ソ連ではこの部隊の裁判を行ない、現に、その裁判記録がモスクワから日本語訳で公刊されている。ソ連からは、石井中将を戦犯としてたびたび指摘して来たが、アメリカ側では、遂にこれを引渡さなかったのみならず、彼を庇護したのである。
GHQ内のG2か、或いは公衆衛生部かが石井中将の研究を参考にしていたことは今も一部で信じられている。帝銀事件の犯人の用いた毒薬が、陸軍特殊研究所で研究されていたものに似ていたことから、真犯人はその部下の軍人か軍属ではないかと云われているくらいだ。こう考えてくると、日本側は、細菌の方面でもアメリカ軍への協力に参加していたといえる。
この石井中将が戦犯にならなかったことで想い起されるのは、石原莞爾中将のことである。
彼は「満州国建国の功労者」で、満州事変の際には関東軍作戦主任参謀であった。石原作戦は満州占領に大きな功績となっている。当然彼は板垣征四郎大将などと一緒にA級戦犯として東京裁判で処断される筈の人物だった。
しかし、彼はアメリカ軍の手に「保護」されて、その病を得て郷里に帰るや、会津まで鄭重にアメリカ兵が送ったと云われるくらいだった。彼は東北の田舎に居て、悠々と東京裁判を眺めていた。この辺の事情は、マーク・ゲインの『ニッポン日記』にちょっと出ている。
何故、マッカーサーは石原莞爾を庇護したのであろうか。
石原莞爾は対ソ作戦の「権威」で、それはソ連と中国とを分断する作戦を考えていたようである。この意図はマッカーサーの考え方と一致していた。もし、想像を許されるならば、マッカーサーが北朝鮮軍を三十八度線から追上げて、満州に侵入し、中ソ分断作戦を図ったのは、石原将軍のサゼッションが大きく働いたのではあるまいか。
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それでは、結局のところ、朝鮮戦争の本当の経過はどうなのであろうか。
アメリカ軍は三十八度線に火を点けた。しかし、当初の誤算は、韓国軍の実力を過大評価していたことと、北朝鮮軍の力を過小評価していたことであろう。アメリカは、韓国軍が攻撃を受けても少くとも二カ月くらいはもてると思ったに違いない。しかし、実際にやってみると、忽ち北朝鮮軍によって敗走させられた。もし、この韓国軍の実力がもっと早く分っていれば、アメリカ軍の朝鮮揚陸はもっと前から準備され、もっと早期に戦闘行動が開始されたであろう。
当初の考え方では、北朝鮮軍が侵入して来て韓国軍と戦っている間に、北朝鮮軍を「侵略軍」として国連できめつけ、すぐにアメリカ軍を中軸とする国連軍の編成となって出兵する考えであったと思う。そして、この時期を少くとも一カ月か一カ月半と見ていたのではあるまいか。
しかし、事態は、その予想を裏切って、韓国軍の敗北は急速だった。韓国の危機も忽ちだった。事実上、アメリカ軍の到着が遅れたのはその当初の思惑違いであるし、在日米軍が殆ど空っぽになる状態になったのも、その作戦計画の齟齬《そご》である。
戦ってみると、アメリカ軍自体が北朝鮮軍のために散々な有様となった。前に書いたように、戦闘機や爆撃機もあまり役に立たなかった。戦車も地理的条件では有効ではなかった。その上絶えず北朝鮮軍のゲリラ戦に悩まなければならなかった。北朝鮮軍の戦闘がゲリラ戦に長じていたことは、金日成軍の「長白山《チヤンペク》の虎」以来の特技である。敵の武器を奪って攻撃を仕掛けることは、その最も得意とするところだった。
アメリカ軍は包囲され、南朝鮮の一隅に爪立ち、ようやく仁川上陸によって攻撃に転じた。マッカーサーは、このまま押して三十八度線を突破し、鴨緑江まで北朝鮮軍を追詰めるつもりだった。彼の考えでは、ソ連は戦後の創痍がまだ癒えず、到底戦う力が無いと信じていたし、中国もまた革命後怱々であるから、外敵に立ち向う余裕は無いと計算していた。しかし、中国は出て来た。それも義勇軍のかたちで、「人海作戦」で押し出して来ようとは予想もしていなかった。
マッカーサーの考えでは、たとえ満州を占領してもソ連は出て来ない、と踏んでいた。事実、米軍は、鴨緑江の水豊《スブン》ダムを爆撃している。このダムを潰せば、満州の重工業施設は発電を失い、忽ち機能が停止するのだ。アメリカ軍は水豊ダムを爆破した。しかし、遂に、ソ連は出て来なかった。
ダムの破壊は、アメリカ軍にとって冒険的な試験だったかもしれない。ソ連は手を出し得ないから、アメリカは中国軍を叩くことが出来る。それには台湾の国府軍を使用し、※[#「くさかんむり/將」、unicode8523]介石に大陸反攻の本望を遂げさせ、失った中国をソ連包囲の一環に取り返すことが出来る、と考えたかもしれない。
しかし、この冒険政策は、英仏などを恐怖させ、「優柔不断」なトルーマンの制止するところとなった。この意味から、中国はアメリカの罠に引っかからず、正規軍を繰出す代りに、人民義勇軍という名前のパルチザン部隊を大量に北朝鮮へ投入したのは賢明であったと云わねばならない。
当時、ソ連は、その原爆貯蔵は遙かにアメリカに及ばず、また軍需生産も本格的に回復せず、マッカーサーの予見した通り、朝鮮戦争に手を出すことが出来なかったというのが本当であろう。
ソ連外相マリクの休戦提案を「休戦を乞うた」とアメリカが取ったのも、その辺の事情からである。
アメリカがたびたび公言しているように、日本は沖繩、台湾、フィリッピンと共にソ連や中国を包囲する強力な鎖だし、日本はその中心環である。朝鮮戦争中に日本の果した軍需工業の役割は、アメリカの期待以上だった。日本人をして絶えず共産国の脅威を感じさせるには、朝鮮は永久に二つに分れていなければならないし、中国の不承認は不可欠である。
中国と日本が不仲であることは、日本人に絶えず国際的な緊張感を持たせるのに役立つ。自衛隊は日本を防衛するというそれ自体の任務よりも、アメリカの極東における補助戦闘力となっている。新安保条約が、その鉄則の役割を演じる。このことが崩されないためには、アメリカは日本国民に絶え間なく共産勢力の恐怖を与えつづけねばならない。
これまでの占領中のさまざまな事件が、この一つの焦点に向かって集中されているように、今後も(実質的にはまだ日本はアメリカの占領中なのだ)、この種の謀略はアメリカの努力によってつづけられるであろう。
「朝鮮は一つの祝福であった。この地か、或いは世界のどこかで、朝鮮がなければならなかったのだ」
と米朝鮮前線司令官ヴァン・フリート将軍は云った。I・F・ストーンは、この素朴な告白のうちにこそ、朝鮮戦争の隠された歴史の鍵がある、と云っているが、この次に、極東のどこかに「第二の朝鮮」が発見されたときは、第一番の滅亡の危機が日本を襲うことは間違いないであろう。
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[#1字下げ] なぜ『日本の黒い霧』を書いたか
[#2字下げ]──あとがきに代えて──
『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。
これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。
そのほか、こういう書き方が「固有の意味の文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間めいたヌエ的≠ネしろもの」と非難する人もあった。これも、私という人間が小説家であるということから疑問を持たれたのであろう。
私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。
まず『日本の黒い霧』を書くことを思い立った動機からいうと、以前に「小説帝銀事件」を書き終わったときのことにさかのぼる。私はこの事件を調査しているうちに、その背景がGHQのある部門に関連していることに行きついた。これなくしては帝銀事件は解明できないと思ったくらいである。
帝銀事件の真犯人と目されている平沢貞通が、どのような毒物を用い、その毒物をどのような経緯で入手したか、判決文には今もって明記されていない。
この毒物は普通、青酸カリといわれているが、そのような単純なものでなく、最初の捜査記録を読んでみても分る通り、青酸化合物である。その化合物がどのようなものかは化学的に解明されずに終わったのである。
また、平沢が毒物を入手したという彼の最初の「自白」は、いかにもその根拠が稀薄で、さすがに判決文でもこれを書き入れることができず、ただ単に「被告がかねて所持しいたる」となっていて、兇器論としては、まことに根底の弱いものとなっている。
今日、多くの人びとにいわれるように、この毒物が当時の陸軍特殊研究所関係から流れ出たものではないかという疑念は、いまだに消えていない。ところが、この陸軍特殊研究所にいたメンバーは、当時の秘密的性格のゆえに、その行方が全部はっきり確認されていないのだ。のみならず、その最上級者石井中将のごときはGHQの庇護を受け、その顧問となっていたくらいである。同中将が満州で謀略用の細菌研究をやり、そのために、ソ連側では戦犯の一人として起訴を要求していたにもかかわらず、アメリカ側ではこれをかばい通した。
帝銀事件が起るや、警視庁が、その捜査の初段階で、この旧陸軍関係をひたすら追及していたことは、今では隠れもない事実である。しかし、どういう理由からか、それは途中で急激に方針が転換され、北海道から拉致《らち》されてきた市井の一画家にすべてをかぶせて「解決」してしまった。当時の警視庁が最初の捜査でつき当った重大なる壁とは、GHQの超権力の障壁であったように私は思う。
この壁の正体は、GHQが特別に旧陸軍の特殊研究を参考にしていたある種の組織を、日本側の捜査から表面に出るのを防衛したためであった、と私は推定している。犯人が何びとであったにせよ、そのことの追及から、極秘に作られている秘密組織の存在を、GHQは外部に知られたくはなかったのであろう。
しかし、帝銀事件は、単にGHQがその組織を暴露したくないという動機のみにとどまるが、下山事件は、それよりもはるかに大きな意図の下に行なわれた占領軍の謀略であった、と私は考える。
初代の国鉄総裁下山定則氏の死は、いまだに、自殺か、他殺か、警視庁では結論を出していない。しかし世間に流れ出た「下山白書」の内容では、自殺の線で決定している。今日、その捜査が打ち切られているところをみると、自殺の結論で決定したものと思う。
しかし、下山氏の死を自殺と決めるには、さまざまな矛盾がある。詳細なことは本文で書いたから触れないが、私は、警視庁の当時の首脳部はいまだに下山氏の死が自殺でないと信じているように思える。
警視庁は、最初、下山総裁の死を他殺の線で考えたが、捜査が進行するにつれ、どうにもならない巨大な障害に阻まれたはずである。警視庁の捜査が他殺から自殺に転換した時期や、その後の自殺説を裏付けるための資料の収集の仕方を見れば、この臆測に根拠がないとはいえないはずだ。
では、下山氏はなぜ殺されたか。すべて殺人事件には相手を消すことによって利益を受ける者が必ず存在する。すなわち、この事件では、その利益の享受者はアメリカ占領軍(正確にはG2)だったと考えても大した間違いではないように思っている。
当時、すでに知られているように、国鉄では定員法によって従業員の大量首切りが予定されていたが、これはGHQの日本政府に対する勧告があったからだ。いや、勧告というかたちをとられての命令であった。
当時の国鉄労組は、日本最大の組合であり、かつ二・一ストでも分るように、組合運動の中心であった。十二万もの整理問題を中心にして、国鉄労組はふたたび激しい闘争を開始しようとしていた。ところが、下山事件が起ってから、この闘争は台風の眼の中に原子爆弾を打ち込んだように衰弱し、雲散霧消してしまったのである。
加賀山副総裁が書いているように、「下山総裁の死は、徒死ではなかった。この事件を契機に国鉄の大整理は漸次進行し、無事終了した。総裁の死は、貴重な犠牲であった」ということになる。
また、東芝社長の石坂泰三氏も「ぼくの東芝再建には、下山氏の死に負うところが大きい。ぼくは今でも、同氏の犠牲は当時の混乱したいろいろの争議に大いに役立ったと思っている」といっている。
しかし、これは真の受益者の言葉ではない。最大の利益配当を受けた者はGHQだった。米ソの冷戦がようやく激しくなりかけたこの年は、この事件によってどれくらい占領軍が当初自ら煽《あお》った日本の民主勢力を右側に引き戻したかしれなかった。丁度この時期に、アメリカ側は一年後の朝鮮戦争を予測していたと想像されるのである。
私は下山事件についてはかなり思い切った推定をした。同事件については、それまで、多少の推測が文章で発表せられていないではなかったが、綜合的に、しかも、下山総裁の死に至るまでの順序、場所、方法を推定して提出したのは、拙文が最初ではなかったかと思う。私はこの調査には自分なりにかなり時日を費したつもりだ。
最初、これを発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった。
しかし、小説で書くと、そこには多少のフィクションを入れなければならない。しかし、それでは、読者は、実際のデータとフィクションとの区別がつかなくなってしまう。つまり、なまじっかフィクションを入れることによって客観的な事実が混同され、真実が弱められるのである。それよりも、調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って私の考え方を述べたほうが小説などの形式よりもはるかに読者に直接的な印象を与えると思った。
そこで「単なる報告や評論でもない」こういう特殊なスタイルができあがったわけである。もとより、私は「固有な意味での文学」などを書こうとは思わなかった。そういう既成の枠《わく》からはずれてもかまわない。自分の思い通りの自由な文章で発表したかった。作者が考えていることを最も効果的に読者に伝達するには、文学の形式などはどうでもよいのである。このような方法ですべて書き進めた。
ここで断わっておきたいのは、ここに取り上げられた材料は、すべてアメリカ軍が名実ともに、日本を占領していた間に起った事件ばかりである。従って、その後のことは、一応、この枠の中からはずすことにした。しかしながら、歴史は絶えず水の流れのように継続する。この意味で、占領中だけに限るのは必ずしも適当ではないが、一応の区切りをこの枠の中に決めたのである。
北海道に起った白鳥事件、ラストヴォロフ事件、帝銀事件、松川事件などは、比較的、いわゆる「事件」としてのにおいの強いものである。しかも、これらは時期的に接近している。下山事件、松川事件、三鷹事件、白鳥事件などといわれるように、同年に継続的、または連鎖反応的に起っているものもある。
そして、これらが結果的に民主勢力ヘの制動機の役目、つまり、日本における共産勢力の「暴動性」を「警告」した事件であった。この線は、最初に手がけた下山事件の背景と共通の政略性を持っているように思う。いや、政略性というよりも戦略的謀略性と呼んだほうがいいかもしれない。
だが、これらは事件の一つ一つを調べてみての結論であって、私は、もちろん、最初から一つのモノサシを振り回したのではなかった。従って、個々の事件の材料はなるべく客観的に取り上げ、構成したつもりだ。また、その資料はなるべく信用に足るものを取り上げることに努めた。
しかし、いうまでもなく、資料だけでは事件の本当の姿は分らない。資料と資料の間には、継続性もなければ関連性もないのが多い。一連番号がないのだ。そこにぽっかりと大きな空白の穴がある。私は自分のやり方を、あたかも歴史家が資料をもって時代の姿を復元しようとしている仕事にまねた。
史家は、信用にたる資料、いわゆる彼らのいう「一等資料」を収集し、それを秩序立て、綜合判断して「歴史」を組み立てる。だが、当然、少い資料では客観的な復原は困難である。残された資料よりも失われた部分が多いからだ。この脱落した部分を、残っている資料と資料とを基にして推理してゆくのが史家の「史眼」であろう。従って、私のこのシリーズにおけるやり方は、この史家の方法を踏襲したつもりだし、また、その意図で書いてきた。
ところで信用にたる資料といっても、そのことごとくが正確な姿で書かれたとはいえない。ここにいう「信用にたる」資料とは、ときには、その筆者が知名な人という意味であり、また、発表された書籍・雑誌が信用にたる出版社のものという意味である。それはあくまで引用資料としてである。しかし、私はその資料を鵜呑みにしたわけではなかった。それぞれの筆者には、それぞれの立場があり、誤謬もある。
この点も、私なりの判断で、なるべく客観的に解釈したつもりである。ところが、記事の「歪曲」が、かえって真の姿を伝える場合も多いのだ。つまり、この歪曲が、他の資料を照合することによって、そこから真実と思われる姿の発見もあった。
このシリーズの最後を朝鮮戦争にしたのは、占領中の日本の不思議な事件が、結果的にここに集約されたかたちになっているからである。
もとより、朝鮮戦争の勃発は、アメリカの最初からの目論見《もくろみ》ではなかった。しかし、米ソの冷戦が激化し、朝鮮がアメリカにとってかけがえのない価値と分ってくるにつれ、在日アメリカ占領軍は戦争を「予期」しはじめたのである。
アメリカが、日本の民主主義(それもアメリカの政策の枠内でだが)の行き過ぎを是正したのは、日本を極東の対共産圏の防波堤とはっきり意識したころにはじまる。
しかし、一つの大きな政策の転換は、それ自身だけでは容易に成し遂げられるものではない。それにはどうしてもそれにふさわしい雰囲気をあらかじめ作っておかなければならぬ。この雰囲気を作るための工作が、さまざまな一連の不思議な事件となって現れたのだと私は思う。GHQが朝鮮戦争を「予期」しはじめたのは、一九四八年(昭和二三年)ごろからであろう。
その翌年は、朝鮮戦争の起る一年前だ。この年、マニラにあったCIA極東本部が日本に移ったことも、それを裏付ける一つといえよう。この四九年に、下山事件、三鷹事件、松川事件、芦別事件などの鉄道に関する事故が発生している。これらの事件がすべて鉄道に関連していることに注目されたい。軍作戦と鉄道とは不可分であり、輸送関係は作戦の一つなのだ。
ところで、これらの「謀略」が行なわれたのは、決してアメリカ本国政府や国防総省《ペンタゴン》の意図ではなかった。それは在日GHQ機関であったと思う。このことは日本政府や軍部の意志を「無視」して旧満州地区や華北地区に謀略を行なった関東軍の立場とよく似ている。また、実際の謀略はGHQの上級者が命令したとは限らず、下部機関の「現場」が勝手にやったため、上級機関がその事態収拾に腐心したケースもあろう。「下山事件」「松川事件」はそのような種類のものであったと思っている。
事態収拾は占領軍という強権のために、日本国民には真相を知られることなくして行なわれた。日本側権力筋が協力させられたからである。このことは占領中の日本では彼らの謀略がいともやすやすと行なわれる条件にあったことを意味する。だから占領が解除(たとえ表向きでも)されたら、この『日本の黒い霧』に収められたような奇怪な事件が嘘のようになくなった事実を素朴に考えるべきであろう。
ある人はこれに反論して、それは社会情勢の変化でその種の事件が起らなかったからだというかもしれない。しかし、占領期の最後に起った「白鳥事件」を境にして鋏で截ち切ったようにきれいさっぱりと無くなったのは妙ではないか。
また、その後もこの種の謀略を行なおうとすればそれを必要とする社会情勢はあったのである。たとえば新安保闘争の時期がそうである。それこそ世論を反共に駆り立て、闘争を下火に持ってゆく衝撃的な事件が権力筋から求められた絶好のときだったではないだろうか。それが、第二の「松川」や「下山」事件の突発に遂にならなかったのは、ともかくもオールマイティーな占領政治がなくなったため、起し得なかったからである。
さて、これらの一連の出来事は、今ではすでに忘れられかけようとしている。当時、新聞記事で読んだ読者もほとんど概念だけとなって、うろ覚えの状態にある。また、当時は年少であった人が、今日では成年に達している。これらの若い人のために、私はこれらの事件の記述を、大体、半分は紹介的に書いておいた。
本書を指して「悉く米軍の謀略というオチになっているので曲がない」とか「変化がない」とかいう批評をきく。しかし、これはフィクションではないから「曲」をつけるわけにはゆかない。飽くまでも帰納法的な結論で終始するほかはないのである。たまたまそういう傾向の事件だけを集めただけで、同傾向の短篇集を編むのと少しも変りはない。「何んでもかでも米軍の謀略にする」予断で書いたのではないのである。
GHQの日本占領史といったものは、今ではぼつぼつ現れはじめている。
しかし、それらの多くは、「正統的」な現代史といった概観的なものが多く、私のような感じ方で書かれたものは少ない。こういう事件も、今のうちに、何かのかたちでメモしておかなければ、将来、分らなくなるのではなかろうか、というのもこれを書いた私の秘かな気負いであった。
それが成功しているかどうかは、読者の判断に任せるよりほかに仕方がないが、私自身についていえば、いろいろ書きたりないところもあり、資料蒐集の不備もあり、調査の未熟もあったが、一九六〇年の自分の仕事としては悔いはなかったように考える。
初出誌 文藝春秋 一九六〇年一月号〜十二月号に連載
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年七月二十五日刊