[#表紙(表紙.jpg)]
松本清張
危険な斜面
目 次
危険な斜面
二 階
巻頭句の女
失 敗
拐帯行
投 影
[#改ページ]
危険な斜面
1
西島《にしじま》電機株式会社調査課長|秋場文作《あきばぶんさく》が、野関利江《のぜきとしえ》と十年ぶりに偶然会ったのは、歌舞伎座のロビーだった。
そのとき、秋場文作は会社の得意先関係の客を招待していた。会社側は彼のほかにも、販売部長や技術部長、宣伝部長などがいた。いや、調査課長である彼はむしろその末席であった。
「今夜は、会長が来ているぜ」
と、いち早く報告したのは、宣伝部長だった。
「二号さんとだ」
どれどれ、と部長連中は、開幕になってから、客席の前方を眼で捜した。最前列よりは六つか七つめぐらいあとの、ちょうど、まん中あたりに、特徴のある西島卓平《にしじまたくへい》の禿頭《とくとう》が、半分後ろ衿《えり》の中にはめこんだようにうずまっていた。西島金属工業、西島電機、西島化学工業各株式会社の会長である西島卓平は、ひどい猫背である。
その横に豊富な髪をした女が、濃い紫色の和服をきて、抜き衿のうなじを白々と見せていた。上背のありそうなことは、会長の禿頭が女の肩のあたり以上に伸びないことでもわかった。女はときどき、横を向き、子供に向かうようにかがみこんでは会長に話しかけていた。
「麻布《あざぶ》だよ」
と、販売部長が言った。
秋場文作は、会長の西島卓平に四人の妾《めかけ》がいるのを知っていた。麻布の鳥居坂《とりいざか》に住まわせているのがその一人である。もとは赤坂の待合の女中だったという。その家をよく使う西島卓平がその女中を気に入り、彼の係りのようになっていたが、ついに囲ってしまったという来歴もきいていた。
しかし、秋場文作は「麻布」を見たことはなかった。一課長にすぎない彼は、ワンマンの聞こえ高い西島会長の私生活に近づく機会はない。それどころか、会長は一調査課長の秋場文作の顔も覚えていないに違いなかった。ときたまの大会議のときには、ならび大名の果てに彼の席が与えられるくらいなものだった。
会長が来ているのは、むろん、今夜の客の招待とはかかわりはなかった。財界で威名を馳《は》せ、その辣腕《らつわん》をジャーナリズムでも騒がれている西島卓平が、傘下《さんか》の一会社の、地方販売店主招待の席に顔を出すはずはなかった。たまたま、彼の私的な観劇に、こちらがぶっつかったにすぎない。
挨拶に行ったものかどうかとの相談が部長連の間にひそかに行なわれた。結局、先方はいわばお忍びであるから、大勢でぞろぞろ出るのは不適当ということになり、販売部長だけが幕間《まくあい》に代表して行った。
「会長はご機嫌だったよ。諸君によろしくとのことだった」
販売部長がすこし顔をあからめて帰って報告した。会長のお言葉をちょうだいしたという、ささやかな感激は、ほかの部長たちにも、ある程度の興奮となって伝わった。
「麻布は愛嬌がいいよ」
部長は会長の二号を評した。
「そうだ、四人の中で一番いいな。やはり苦労している」
「容貌は二番めだな」
宣伝部長が言った。
「しかし、一番若い」
技術部長が口を出した。
「あれで、いくつぐらいだろう?」
「二十八、九か、三十までだな。女ざかりだ」
ここで部長たちは、七十を過ぎた会長の猫背の痩躯《そうく》を自然に思い浮かべ、共同の意味の忍び笑いをした。
秋場文作は話を挟まずに、口辺に微笑を漂わせて聞いていた。彼は、いわゆる「麻布」の愛人を知らない。知識がないから話に加わるわけにいかないのも理由の一つだったが、課長という身分に謙遜して部長連の会話の中に出しゃばるのを遠慮したのだ。あるいは、それは彼の卑屈であった。部長と課長という階級の差別に、彼は人一倍|拘泥《こうでい》していた。そのことは同時に、部長に対する強い憧憬《どうけい》であった。
販売部長が、調査課長に耳打ちして、閉演後に客を連れて移るべき宴会場の手はずの問い合わせを命じた。秋場文作は電話をかけるために席を立った。電話機は廊下の端にある。
用事は簡単にすんだ。舞台はあまりおもしろくなかったので、秋場文作は煙草《たばこ》が喫いたくなり、ロビーのほうに歩いた。どの扉からも、浄瑠璃《じようるり》の声がもれていた。
ロビーには客が三人いた。中年の男が二人、長椅子に身体《からだ》をすり寄せるようにして、商談をしていた。秋場文作がはいってゆくと、じろりと額越しに眺め、また背をまるめて低い声で話をつづけた。
一人は女である。ソファに腰をおろして、ジュースの赤いコップを持っていた。草履《ぞうり》をのせた緋《ひ》の絨毯《じゆうたん》とそのコップの色とは映《は》えないが、濃紫色の衣装の色彩は豪華な感じで照応した。
秋場文作は、はっとした。着物の色に眼の記憶がある。豊かな黒い髪のもり上がりが、それを確固とした。禿頭の猫背の横にすわっていた女だった。会長の「麻布」である。
あわてて秋場文作は踵《きびす》を返そうとした。同席するのを恐れたのである。二号といえども、会長の雲の上のような権威につながっている。秋場文作は地位や生活を支配する権威には恐れをいだいている男だった。
女が顔を上げて彼を見た。表情に変化を示したのは女のほうが先だった。コップを落としそうにして身体を宙に浮かせた。たしかにジュースの何滴かははねて絨毯を濡らした。眼は大きくなり、唇が半開きになった。
「吉野《よしの》さん……」
と、会長の二号は呼んだ。吉野は秋場文作の旧姓である。
「利江さんだったか」
秋場文作は唖然《あぜん》として、十年前に何度かの交渉をもった女を見つめた。すぐには実感がこなかった。眼と唇の特徴に一昔前の記憶が掘り返され、それを導入部として、たちまちさまざまな追憶がひろがって行った。当時、この女は新宿裏のあるバーの女給だった。若い身体に、すぐ皺《しわ》のよる安もののワンピースをきていた。それを最初に脱がせたのは、自分だと秋場文作は信じていた。
その粗末なワンピースと、現在、眼の前の白い衿をのぞかせた濃紫色の豪勢な衣装とには連係の説明がなかった。説明のないのは、秋場文作と野関利江との、その後の途絶であり、時間の隔絶であった。断層のある十年ぶりの再会であった。十年間、秋場文作は野関利江を思ってみたこともなかったのだ。
断層は同時に、野関利江が西島卓平の妾になっていたことであり、秋場文作が西島卓平の経営する会社の一課長になっていたことであった。十年間の隔絶がそれだけの変化を遂げさせ、皮肉な対照となって現われていた。
「吉野さん、ちっともお変わりにならないのね。そりゃあ、前よりずっとご立派だけれど」
昔の女は、なつかしい眼つきをして秋場文作を見上げた。
「君も──」
と言いかけて、秋場文作は唾をのみこんだ。
「いや、あなたも、きれいで立派ですよ。見違えるようです」
野関利江は恥ずかしそうに少し顔を伏せた。その嬌態《しな》にも堂々たる色気が出ていた。秋場文作は気圧《けお》された。
「僕は、あなたを先刻お見かけしましたよ」
彼は、すこし逆上《のぼ》せ、昔の女に敬語をつかった。
「あら」
野関利江は顔をあげて眼をまた見開いた。
「客席です。うちの会長とご一緒でしたね」
それは女に身分を自ら語らせまいとする心づかいであり、同時に、うちの会長という一語で、現在、彼女に連係をもっている環境の説明でもあった。いや、このほうに重点をおいていた。野関利江は、はたして、それを聞くとびっくりした表情になった。
「僕は、いま、西島電機の調査課長をしています」
秋場文作は急いで言った。頭を思わずさげた。昔の女にではない。会長の愛人に対して自然におじぎをしたのだ。
「まあ」
「よろしくお願いします」
まじめに、また頭をさげた。この女の肩に権威の炎が背光のように立ちのぼっていた。
「いやですわ。そんなことをおっしゃって……」
女は、まんざらでもない顔をし、いくらか鷹揚《おうよう》に、いくらかあわてて昔の男を制した。
「でも、おどろきましたわ。会長の会社にいらっしゃるなんて」
会長という女の呼び方に、特別な語感があるようにきこえた。同じ単語だが、秋場文作が言えば敬虔《けいけん》であり、彼女が言えば、うちわの狎《な》れた愛称であった。秋場文作はそれにも身分の相違を感じた。
「一度、ごゆっくり、お話ししたいんですけれど」
野関利江は、上気した顔色をし、あたりに眼をくばってそわそわして言った。
「今、気分が悪いからと言って、抜けてきたんです。会長がすぐに呼ぶに違いありませんわ」
「どうぞ、どうぞ」
秋場文作はあわてて言った。腰をかがめたものだった。まるで猫背の会長がそこにはいってくるような錯覚をおぼえた。
野関利江はソファから立ちあがった。が、何を思ったのか、帯の間から小型の手帳を出すと、鉛筆で走り書きし、それを破った。
「さようなら」
野関利江は口で小さく言って、素早く、その紙片を秋場文作の掌《て》の中におしこめた。それから足をはやめて廊下のほうに出た。
秋場文作はひとりになると、掌の中の紙片を指でひろげてみた。
「(48) 32……」
数字だけが走り書きしてあった。(48) は赤坂の局番である。野関利江は麻布の自宅の電話番号を教えたのであった。
秋場文作は、突然、彼女からドアの鍵をうけとった気持になった。
2
秋場文作と野関利江との、ひそやかな交渉がはじまったのは、このようなことからであったが、それはほぼ一年近くつづいた。二人の十年間の断層は急速に水平となり、一分の隙もないくらいに密着した。それは十年の空白をとり戻すような勢いで、ある静けさの中に、激しく進んだ。
この静けさというのは、むろん、他人の眼にうつらないという意味である。実際、だれひとりとして、両人《ふたり》の関係を知らなかった。秋場文作は用心深い性質だった。古手官吏の家に養子に行き、妻が一カ月あまり入院した期間に覚えた女遊びで、以後も、情事の秘密を保つ要領を会得《えとく》してしまっていた。養子という環境も、たしかに彼の秘匿的《ひとくてき》な性格を伸ばしていたようである。
しかし、野関利江との交渉の秘密は、尋常ではなく重大であった。彼女は、もはや、彼の昔の女ではなかった。彼の勤める会社の経営者の愛人であった。それも、ただの経営者ではなく、西島卓平といえば、今や財界の惑星であり、その傘下にある数社に君臨する独裁者であり、さらにその旺盛な事業欲は次々と新しい企画に手を出していた。
西島卓平についての伝説的な逸話は、たびたび、マスコミにのって世間に伝達されたが、それは彼の七十を越した老齢と、事業欲にみる精力との不似合いから起こった。挿話は、たいてい、そのような不平衡のおかしみから生まれるらしい。彼は朝が早い。午前中は、自宅に傘下の数社の幹部を招集して、企画会議を開き、一時間午睡し、午後は各社や各工場を回り、夜は政治家や事業家に会い、深夜まで四軒の妾宅を巡回するという話であった。
が、そのような興味的な挿話は外部のことで、西島卓平は、その主要事業下の、西島金属、西島電機、西島化学工業の各会社の重役や社員にとって、神のような存在であった。むろん、人格的な意味ではなく、その倨傲《きよごう》な絶対的威厳においてであった。各社の社長さえも、まるで給仕のように非人格的にどなられ、会長が来る、というとその前ぶれだけでも、たちまち社内は結氷したように緊張するのであった。
だから、秋場文作が、野関利江と秘密な関係をもったことは、普通の場合とは比較にならない重大な危険があった。野関利江は、彼のかつての情人でもなければ、平凡な、他人の女房でもなかった。会長という絶対権力者の所有物であった。それをぬすんでいる彼は、獅子の餌をかすめている鼠にひとしい。発見されたら一打ちで生命を絶たれる。三十七歳の彼には、ともかく、その年齢にふさわしい収入と生活があったが、発覚は、その喪失と、人生の転落に接着していた。
そのような危険を冒してまで、秋場文作が野関利江と交渉をもったのは、なにも彼女の肉体に執着したわけではなかった。それなら、彼はもっとおもしろい女をほかに知っていたし、その女との関係も絶っていなかったから、それで十分に飽食していた。十年昔に知った野関利江の身体は、ただそのことだけについていえば、はるかに新鮮さも魅力も失っていた。
秋場文作は、出世したい男であった。重役、部長、課長、平社員といった順序が人生の階段として絶えず彼の意識に梯形《ていけい》の影を落としていた。その傾斜のどの位置に自分がいるか、どの人間が彼の上にいるか下にいるか、だれが一段上に片足をかけているか、常に昆虫の触角のように心を働かしていた。
手近な可能性からいうと、秋場文作は早く部長になりたかった。部長になると、ともかく幹部であった。課長では、平社員に毛の生えたていどにすぎない。
彼のかねてからの夢は、会長邸の毎朝の企画会議に参加できる身分になることであった。彼は自分に実力があると思っていた。やらせてくれたら、だれにも負けないのだ。発想にも、実行力にも自信がある。ただ、会長の眼の届かないところに、彼はおかれているから、認めてもらう機会がないのである。まず、会長に存在を知られる機会が必要であった。それには、会長邸の有名な企画会議に参加できる資格を獲得することだった。いかなる手段を用いても、早く部長になりたかった。
野関利江と交渉をもった意義は、彼の夢を現実へ急速に近づけたことであった。それ以外の意味は何もない。つまり、利江を通じて、秋場文作の名を会長に吹きこみ、認識させるのである。
もちろん、それにも非常な危険が含まれていた。たとえば、会長は、そのことで自分の二号と秋場文作の関係に疑念を起こすかもしれないのである。あまり野関利江が秋場文作の名を強調しても悪く、薄い印象でも悪く、その度合いが微妙なのである。
「大丈夫よ」
野関利江は秋場文作と二人だけの時、男の頭の下に、その腕を敷きながら言った。
「私だって、そのへんは心得てるわ。あなたのことは死んだ兄の友だちだと言っておいたの。小さいときに知っていたけれど、この間、偶然に街で会って、西島電機にいるって聞いてびっくりしたと言っておいたわ。これからも、折りをみて、ときどき昔話するの」
「あんまり言いすぎると、かんぐられるぞ」
秋場文作は女の頬を柔らかくなでながら注意した。
「心配しなくてもいいわ。いつもは言わないの。それを言うときは、場合があるのよ」
「どんな場合だね?」
「ある場合よ」
野関利江は顔を男の胸に押しつけて忍び笑いをした。
「ああ、そうか」
秋場文作は納得した。西島卓平の秘事については、かれは野関利江からうち明けられていた。それによると、会長は世間で買いかぶるほどの体力はなく、やはり、七十をすぎた老人であることがわかった。ただ、西島卓平は、老いた身体に負担をかけずに、その望むところを執拗な方法で求めているということであった。老人は、青草のようなにおいを飲み、柔らかい魚肉のような部分の手ざわりに時間をかけ、若返りを注入しているというのだ。
「それが嫌らしいくらい長い時間なのよ。でも、そのあとは、とてもご機嫌がいいの」
ある場合とは、その時のことに違いなかった。秋場文作は、封建時代、殿さまに閨《ねや》で請願する愛妾《あいしよう》を連想した。ただにお家騒動の講談とはかぎらない。彼は野関利江による己れの夢の実現を信じた。西島卓平の独裁的な地位と、その事業会社との関係が、すでに講談的要素であった。
秋場文作は、野関利江という昔の女に再会して以来、急に世の中がおもしろくなった。人生の退屈が一どきにけしとんだ。希望が生まれ、野心が起きた。実現は不可能ではなく、歩いている地面のように近づいてきそうだった。格別な苦労も、労働も、その手段には付随しなかった。ただ、人に知られないように用心して野関利江と会えばよかった。彼女の欲望を満足させ、愛情をつなぎとめ、それを道具に利用すれば足りるのである。新鮮さと魅力が減退したとはいえ、やはり女の身体を抱くことには、そのときだけの歓楽があった。それに、これには一文の費用もかけずにすむのである。会長の妾は金持であった。
このようなうまい話がほかにあろうか。他人に言えないだけに、秋場文作は、肚《はら》のなかで一笑した。
野関利江は旺盛だった。無理もないことだと秋場文作は考えた。七十歳の会長は、摂取するだけで、彼女に与えないのである。いや、少しは与えているかもしれないが、それは正常ではなく、稀薄であった。彼女にとっては遮断された状態のほうが、むしろましであったかもしれない。少し与えられていることが、かえって、よけいに飢餓感を増大しているに違いなかった。
「君は、僕とこうなる前、会長にかくれて、ほかに男をもたなかったかい?」
疲労がきたとき、秋場文作は野関利江の足を払いながらきいた。
女は、顔を男の頬にすりつけて無邪気に首をふった。
「ないわ」
息が頬を吹いた。
「あなただけよ」
会長の二号になって野関利江は三年であった。三年間の残酷な不満を、いま秋場文作で満たそうとしているのであった。
「よく、耐《こら》えたね?」
「仕方がないわ」
野関利江は、溜息をついた。
「でも、これからは、あなたを得たから、いいのよ」
彼女は手を男の頸《くび》に巻いた。
「しかしね、しかしね、これは絶対にかくさなきゃいけないぜ。会長に知れたらたちまち馘《くび》だからね。あしたから路頭に迷わなければいけない」
秋場文作は軽口めかして念を押した。逢うたびに、一度か二度は、かならず説き聞かせる戒《いまし》めだった。
「いいわ。そうなったら、どうせ私も追っぱらわれるから、またどこかのバーに働きに出て、あなたひとりぐらいは食べさせるわ」
冗談じゃない、こんな女と心中してたまるものかと、秋場文作は肚の中で吠えた。西島卓平の妾だから利用価値があるのだ。それを失ったら、何があろう。
「おいおい。だめだよ、そんなことを言っちゃ。それよりも、秘密を守って、今の状態で長つづきしたほうがいいだろう。これはかたく守ってくれ。それに、僕は、もう少し、会社でえらくなりたいからね。親爺《おやじ》さんのほうは頼むよ」
秋場文作は女の耳に口をつけて注文した。
3
秘密は、厳重に守られた。そのことに遺漏《いろう》はなかった。
野関利江の家は麻布の高台にあった。三年前に新築された和風のやさしい家屋だった。建坪二十二坪で、こぢんまりとしている。庭はその五倍も広い。ビロードのような芝生でうずまり、石と樹木が配置してある。富裕な中流住宅であった。野関利江と二人の女中がいる。秋場文作は、さりげなくこの近所を通りかかった恰好で、それを観察しはしたが、西島卓平がいないとわかっても決してこの家を訪問したことはなかった。また (48) 32……の電話番号は知らされたが、最初の一回だけで、以後は一度も、その送受器に自分の声を流したことはなかった。だから、女中は知らないのである。
逢いびきは火曜日と金曜日の午後六時と決めていた。野関利江は旅館から九時までに家に帰ればいい。西島卓平が野関利江のところに来るのはたいてい週に一度で、それも十時以後であった。事業に熱中して多忙な彼は休養旅行に出かけることもないのであった。火曜日と金曜日の両人《ふたり》の出会いは正確に守られた。秋場文作は、一年間を通じ、最初の一回だけ野関利江に電話連絡したにすぎない。それも電話口には偶然彼女が直接出た。
野関利江も秋場文作を呼ぶために社に電話することは絶対に禁じられていた。もし、一方のどちらかが、当日故障が起こった場合、相手は旅館に一時間待って帰ることにしていた。それが都合の悪い信号であった。出会いの場所は、場末の目立たないところで、いつも決まっている三軒の家を巡回した。
この慎み深さと警戒は、一年間、だれにも知られずにすんで成功した。野関利江は、ときに迂遠《うえん》な方法に不満を鳴らしたけれど、秋場文作はいつもそれをたしなめていた。それで破綻をみせずにすんだと彼は信じていた。
成功といえば、もう一つ大切なことが成就《じようじゆ》した。秋場文作は西島電機株式会社の調査部長となったのである。待望の階段を一つ、彼は首尾よく上がったのであった。
会長邸の朝の企画会議に秋場文作が初めて出席をゆるされたとき、御前会議のようないかめしさに彼はびっくりした。禿頭で猫背の西島卓平は、その末席に子会社の新部長が来ていることなど、一顧もしなかった。広間のまん中の大きな机の前にすわった会長は、ひとりでプランをしゃべり、数字をよみあげ、左右に居並んでいる各会社の重役たちを叱った。彼が雄弁をふるい、叱咤《しつた》するときは、禿げた頭の先まであかくなり、眼が獣のように光った。会議ではなく、会長の怒号を聞く会であった。社長も重役も、抵抗力を失っていた。
秋場文作は、このすさまじい会長が、実は野関利江の青臭いにおいを咽喉《のど》の中に飲みこんでいるかと思うと、瞬間的だが、自分が会長の横にならんでいるような錯覚を覚えた。会長は何ごとも秋場文作について知っていなかった。事業の見通しには明るいかもしれないが、自分の妾の行跡については無知だった。彼の光った眼は、一度も秋場文作を上座から凝視しない。
部長の辞令をもらった直後、秋場文作は野関利江に、はじめて頭を畳につけて礼を述べた。彼女に愉悦を与えた報酬としては、もったいないくらい高価だった。こちらのもらう利潤が大きい。
「よかったわ」
秋場文作の報告と、礼を聞いて、野関利江は抱きついた。
「やっぱり、じいさん、覚えていたのね。私にはなんにも言わないけれど」
その言葉には多少の誇らしさがあり、その奥に西島卓平との生活の響きがこもっていた。秋場文作は少しも嫉妬を感じなかった。野関利江は器具である。器具に感情を動かすのは愚かであり、もっと利用すべきであった。彼には、次の目標が立っていた。西島の事業のうち、電機会社は傍流であり、子会社の感じである。主力はなんといっても金属産業であった。主流に移らなければ出世は望めないのである。彼は西島電機から西島金属工業に横辷《よこすべ》りを狙っていた。あれほど待望した会長邸の会議出席も、子会社の一部長では一顧も与えられないことを知ったのであった。
しかし、これほど用心深く秘密を守りつづけたが、秋場文作の予想もしない所から破綻が生まれた。それは外的な条件からではなく、内側からの崩壊であった。秋場文作は、野関利江を器具と考えたが、野関利江は秋場文作を恋人と考えている誤差からであった。
野関利江の彼に対する愛情が一年の終わりごろからひどく積極的になりはじめた。彼女の凝視する眼が違ってきた。瞳に粘い光がまつわり、強烈となった。
「このままの生活では、やりきれないわ」
と、彼女は秋場文作にしがみついて言った。
「ねえ、会長のところから逃げたいわ。あなたの手にすがりたいの」
野関利江は涙を流し、胸と手とを慄《ふる》わせていた。それは、秋場文作の全部を望んでいる女の欲求であった。不足のない生活を与えてはくれたが、彼女は七十の老人の嫌らしい玩弄《がんろう》にその皮膚を投げ出す義務があった。皺だらけの指と、醜い唇の這いずりにくらべ、秋場文作は成熟した男性の技巧と余裕をもっていた。野関利江は当初、あるいは西島卓平の死を待っていたかもしれない。西島の死後、彼女はかなりのまとまった金をもらうつもりだったろう。彼女はその金額を推定し、それを資本になにか商売でもはじめる設計を胸にたたんで、西島卓平の玩弄に辛抱していたに違いない。
しかし、西島卓平は、容易に死にそうもなかった。彼が枯れて死ぬまで、あと何年かかるかわからなかった。そのときになったら、この麻布の家も土地も彼女のものになるに相違ない。数年の生活をささえるに足る金もくれるだろう。が、それは、同時に彼女の肉体が老いることであった。秋場文作への惑溺《わくでき》は、老いて捨てられる前に、彼の愛情にとびこんで、それをつないでおきたい欲望のあらわれとなった。
「むちゃを言っちゃだめだよ」
秋場文作は狼狽《ろうばい》した。
彼が器具としか考えなかった女は、感情を沸騰させて彼にせまってきた。これは危機だった。
「いま、そんなことを言い出しても困るじゃないか。もう少し時期を待ってくれ」
彼は両の掌《て》で押さえるように慰撫《いぶ》した。
「待つって、いつまでよ?」
「そうだな。あと一年」
「いやよ」
女は、本能で秋場文作の当てのなさを見抜いていた。
「それまで待てないわ」
女は眼の中に、油を入れたようにぎらぎらさせて返答した。
このようないさかいは、以後の逢いびきのたびに、しだいに激しくなっていった。秋場文作の慰撫も、宥和《ゆうわ》も、威嚇《いかく》も、だんだん効果がなくなり、女は聞き分けのない狂人になりかかっていた。
秋場文作は腹を立てた。出世のために使っていた器具が勝手なことを言い出したのだ。彼は、あまりに野関利江に愉悦を与えすぎたのであろうか。それは愛情ではなく、性愛であった。それだけに女は秋場文作の血をよろこび、体内に潤《うるお》って満ちてくる男の生理に疲労に近い満足を味わっているのであった。西島卓平からは何も得られはしない。枯れて弱々しいものが哀れに彷徨《ほうこう》しているにすぎない。
秋場文作は、腹を立てているうちはまだ救いがあったが、危機がせまったことを感じると、土下座するに近い気持で野関利江に頼みこんだ。女が原始的になると、それをとどめようとする男も原始的になった。いまや、野関利江は、彼を転落させる器具になっていた。彼の期待に反抗し、彼女自身の利己的な愛情のために、彼を陥れようとしているのであった。女は西島卓平から離れても自殺ではないが、秋場文作にとっては、人生から葬られることであった。この年齢になって失業したら、絶対に浮かび上がれるところはない。現在は、彼なりに一応の成功であった。野関利江が以前のままの器具であったら、彼はもっと出世に利用するつもりだったが、彼に反逆し、危険な道具と化した今は、ひたすら現在の立場を防衛するほかはなかった。
ある金曜日の宵、野関利江は寝ながら秋場文作の手を握って、自分の裸の腹の上に当てた。
「わかる?」
と、彼に言った。意地悪い、謎のような微笑が唇にあった。
女の腹は、爬虫類《はちゆうるい》の腹のように薄気味悪い弾力と柔らかさをもっていた。
「ここよ」
と、女は一カ所の上に男の手を押しつけた。掌《て》には、ごろごろするような感触が、柔軟な皮膚の下から起きた。それは別段な変化ではなかったが、女のしぐさに特別な意味があった。秋場文作は顔色を変えた。
「三月《みつき》のはじめにかかっているのよ」
と、野関利江は勝ち誇ったように言った。
「来月になったら、会長から暇をとるわ。あなたがなんと言っても、私、絶対に産むわ」
この女なら、絶対にそのとおりにしそうであった。女は燐《りん》のように眼を光らせて、男の反応をうかがった。
秋場文作の頭の中には、あらゆる破局の場面が渦巻いた。餌を盗まれた獅子の怒り、失業、女房の狂乱、貧乏、風呂敷包みをかかえて、執拗に彼により添って歩いてくる野関利江、蕭条《しようじよう》とした日ぐれの光線の中の風景……地獄の空想は際限がなかった。
現在でも、破綻がいつ来るかわからなかった。彼が細心の注意で工夫した秘密の保持を、女のほうが破ろうとしていた。社にも電話を三度かけてきた。
「もう、会長や他人にわかってもいいじゃないの。かえって、そのほうが覚悟ができていいわ」
女はその無知な本能のために、破滅の中に突入しようとしていた。そのことに快感を覚え、煮えきらない、臆病な男を引きずりこもうとしているのかもわからなかった。
男というものは、絶えず急な斜面に立っている。爪を立てて、上にのぼって行くか、下に転落するかである。不安定な位置だった。社会の、あらゆる階層のたいていの男がそうだった。
秋場文作は、野関利江によって、将来の登攀《とうはん》を考えていたが、それに望みを失うと、せめて転落を防ぐために、この厄介な重量を身体から切り放さなければならなかった。彼は、その方法を考えはじめた。
幸い、まだ、だれも彼と野関利江の関係に気づいた者はなかった。秘密の糸は、危うくそこまでつづいていた。
4
二月の半ば、秋場文作は野関利江を家出させた。野関利江は西島卓平が来た晩、母親が病気だから山形の実家に帰りたい、と申し出て納得させ、見舞金と旅費と小遣いとをもらった。
原始的な愛情のために破滅的となった女の心理を、秋場文作は応用した。毒をもって毒を制せ、である。
「アパートを借りたからね。しばらく、そこで辛抱してくれ。そのうち、かならず女房と別れて一緒になるよ。なに、養子だからとび出すのは簡単だ」
秋場文作は、半分、自棄《やけ》を装って野関利江に言った。
「ただ、その時期まで、君とこうなっている関係は外部にかくしておきたい。いいね。僕は失業したら、君を養うことも、自ら食ってゆくこともできないのだ。会長と君との間は自然なかたちで解消するのだ。いま、知れたらたちまち馘《くび》だからね。あくまで秘密でゆこう」
「当分、食べてゆくだけの金ならあるわ」
野関利江は、銀行の預金通帳を見せた。西島卓平の手当を貯蓄した金であった。ふつうの別れ方だったら、西島卓平から、住んでいる家と手切れ金とをもらえるはずであった。死別だったら、遺言でもっとたくさんな分け前がもらえるかもしれない。女はそれを犠牲にして、とび出してきたのだ。秋場文作に密着したいため、熱情的に強請した勢いから、あとにはひけなかった。切実な後悔がくるのは、ずっと後のことであろう。その破滅的な心理に、秋場文作は誘い出しの罠《わな》をしかけた。
場末の、アパートの一室を借りうけ、秋場文作は、野関利江をそこにおいた。その付近に、西島電機、西島金属、西島化学の社員たちが住んでいるかどうかを、社員名簿で調べあげた結果であった。
家出の日は、うすら寒かった。冬支度の野関利江は、濃紫色のシールのオーバーに、紫色のドスキンのスーツをきて、多少の手回り品をトランクにつめて出てきた。紫色の好きな女である。ナイロンの下着まで、夢のように淡い紫色がついていた。
秋場文作は、毎晩、野関利江のもとに通うことを約束して、その新しい部屋に彼女と最初に一緒にはいった。
野関利江が妊娠したことは彼女の嘘とわかったけれど、それは、秋場文作にもう問題ではなかった──。
野関利江の失踪が西島卓平にわかったのは、家出の日から二週間後であった。五、六日の予定がすぎても、彼女からなんの音沙汰もなかった。山形の実家に問い合わさせると、母親が病気という事実はなく、彼女も来ていないことがわかった。
野関利江が自発的に家出したのか、あるいは他人の作為の加わった失踪であるのか、西島卓平はしばらく迷ったらしかった。持ち出したものを調べると身の回りの品だけである。銀行預金通帳がなかったが、銀行で聞き合わせると、引き出した形跡はなかった。家出の日は二月十五日だった。
「これは犯罪のにおいがするでしょうか?」
西島卓平の意をうけた秘書が、警視庁の係りに会って内密にきいた。
「さあ」
捜査課の係り主任は首をかたむけた。
「とにかく、家出人捜索願というやつを書いて出してください。それとは別に、私のほうでも調べてみます」
「会長は、利江さんが特別な事情で、たとえば、利江さんに内密な恋人ができて出奔したというのだったら、いい恥さらしだと言っています。それをたいへん気に病んでいるんですが、しかし、だれかの手で誘い出されたとか、あるいはその結果、もっと悪い犯罪の犠牲になっているのだったら、早く届けなければいけない、とも言っています」
秘書がそう述べると、係り主任は、それは早く言ってこられたほうがよかった、と言った。捜査一課では、捜索願による手配を全国にした一方、係り主任が秘書を立ち会わせて、麻布の野関利江の家を調べた。
手がかりになるような書いたものは何もなかった。なくなっているのは冬のオーバーとスーツの外出着と、多少の着替えだけだが、その身の回りの品も、冬のものばかりだった。二月十五日といえば、一カ月もすると、そろそろ春の服装だった。春の衣服は全部そのままに箪笥《たんす》の中にあった。もっとも、当人は五、六日、山形の田舎《いなか》に帰ってくるといって出たのだから、それを正直にうけとると不自然ではないが、もし、本人が家出するつもりだったら、春のものも少しは用意して行くはずであった。
銀行預金は、銀行の台帳では、二百七十万円ばかり残高があった。この通帳を野関利江は持って出ているのだが、引き出されてはいなかった。
失踪は、金を目当ての犯罪とも思われず、愛欲関係としか考えられなかった。この点を主任は女中二人について突っこんできいた。
「なんでも正直に言ってください。奥さんは、もうこの家には帰らないだろうからね。だから、気がねせずに、何ごともかくさずに言ってほしいのです」
主任はまずこう言って、
「奥さんは、外出は頻繁《ひんぱん》だったかね?」
と、質問をはじめた。
「はい、わりあいに多いほうでございました。一週間に三日ぐらいはお出かけでございました」
「そりゃあ、多いほうだな。それで用事はなんだね?」
「銀座にお出かけになって、食事や買物が多うございました。ときには、映画をごらんに行かれました。映画はお好きのようでした」
「ほう、なるほどね。それで、帰りは遅いのかね?」
「いいえ、たいてい九時までにはお帰りになりました。旦那さまが十時ごろにお見えになりますから」
西島卓平が来るまでに間に合うよう野関利江は帰宅していた。この点に主任は興味をもった。
「外から、奥さんに男の声で電話はかからなかったかね?」
二人の女中は顔を見合わせ、しばらく黙っていたが、主任がなんでも正直に言わなければいけない、と言ったものだから、年上の女中から答えだした。
「はい、それはありました」
「どういうことでかかるの?」
「私どもが出ますと、奥さんを呼んでください、とおっしゃるだけです」
「それは、何人ぐらい?」
「いつも決まった方の声で、お一人だけです」
「声で年齢の想像がつくだろう。いくつぐらい?」
「さあ、二十五、六ぐらいの方かと思います」
「若い人だな?」
主任は注意した。
「その電話に奥さんが出られると、どんな話をしていたかね?」
「私たちはたいてい遠慮して、電話のある所からはなれます」
「それは行儀のほかに、奥さんが聞かれるのを嫌がるから、という意味もあるかね?」
「はい、そういうお気持は奥さまにあったように思います」
「つまり、それは相手と内証ごとのような電話だな?」
二人の女中は、それを否定しなかった。
「相手の名前はなんというのかね?」
「大田《おおた》とご自分ではおっしゃっていました」
主任は手帳に書きとめた。
「それは、いつごろからかかってくるようになったの?」
「さあ、もう二年ぐらい前からでしょうか?」
「え、二年も前から?」
「はい、そのくらいにはなると思います」
「奥さんの話の様子は、どうだったかね、君たちのうち、どちらか、少しは聞いたことがあるだろう?」
「はい、はじめのころは、奥さまも親しそうに話していらっしゃいましたが、あとになると、だんだんに気むずかしそうになりました。大田様からと電話の取次ぎをいたしましても、留守だと言ってくれ、とお断わりになることもありました。すると先方は、どこに行ったか、としつこく行く先をきかれるので困ってしまうことがございました」
「奥さんのほうから先方に、その大田さんという人に電話をかける様子はなかったかね?」
「それはありませんでした」
「もう一度、きくけど、その声は、たしか二十五、六ぐらいの男の声だったんだね?」
二人の女中は、揃ってそうだと肯定した。
主任は入念にそれらを手帳に書きとめていた。
5
沼田仁一《ぬまたじんいち》が、麻布の野関利江の家に電話をかけて、彼女から来たはがきの通信文の事実を確かめたのは、二月十五日に野関利江が家を出た一週間あとであった。
「大田ですが、奥さんを呼んでください」
沼田仁一は (48) 32……の信号が鳴るのを耳を澄ませて聞き、それがやみ、聞き覚えのある女中の声が出ると、いつものような文句と声を送った。
「奥さまはいらっしゃいません」
丁寧だが、女中の声は尖《とが》っていた。女中までが無愛想になったのは、半年前からであった。
「どこへ行かれたのですか?」
「山形のほうです」
「いつごろ、帰られるのです?」
それには返事がなく、先方で電話を切った。沼田仁一は腹を立てたが、先方の言うことは実際に違いない、居留守をつかっているのではないと思った。
彼は電話のあるところから席に戻り、飲みかけのさめたコーヒーを咽喉に入れた。うす暗い間接照明の中にレコードが鳴っていた。タンゴ曲でアルフレッド・ハウゼの「碧空《あおぞら》」であった。かつては、この狭いテーブルの向かい側に野関利江がすわり、同じ音楽を聞いたものであった。
沼田仁一はポケットから野関利江から来たはがきを取り出した。何度も出し入れしているので皺がよっていた。消印の日付は二月十五日になっている。
「事情があって、麻布の家を出て、別な土地で暮らします。家には山形の実家に帰ると言ってありますが、もうあの家には戻りません。私のことは諦めて、捜さないでください。幸福なご結婚を祈ります」
野関利江から来た最後の通信であった。愛のあとをなつかしむ文句は、どこにもなかった。
野関利江はどこに姿をかくしたのであろうと、沼田仁一はテーブルに片肘ついて長い髪をかきあげながら考えた。眼が澄み、鼻筋がきれいに通り、蒼白い顔色の中に、唇だけが紅い男であった。二十六歳だが、美青年だから、もっと若く見えた。
たしかに野関利江には情人ができた、と沼田仁一は直感し、その確信を深めていた。自分の存在と同様に、今度も彼女は旦那の西島卓平には隠しているのであろう。違うのは、沼田仁一にも秘密にしていることだった。今度決行した家出も、その情人と一緒だと思っている。
その情人は彼よりは、ずっと年上のように思われた。おそらく野関利江よりは上であろう。三十五、六か、もっと上か。その推測に根拠はあった。その男は堂々たる体格をし、中年の厚みと落ちつきを身にそなえているに違いなかった。
沼田仁一の耳から離れない一つの名前があった。それは野関利江が、沼田仁一の肉体を抱き、ある陶酔のさ中に不用意に叫んだ一語だった。
「ヨシノさん」
彼女は眉をしかめ、吐息の間に言葉を発した。それから、ぎょっとしたように、眼を開き、間近にある沼田仁一の顔を凝視した。
沼田仁一の耳はそれを聞きのがさなかった。彼は両手を解き、その名を詰問した。
「あら、田舎の妹の名よ。ヨシノというの。おかしいわね、こんなときに、そんな名前が出るなんて」
彼女は、自分でふしぎそうな顔をした。
「長いこと会わないから、どうしているかしらと考えているので、つい、無意識に、出ちゃったのね」
それからおかしそうに声立てて笑った。ヨシノというのは女の名前かもしれない。しかし、吉野という男の姓だってある。抱擁のとき、妹の名を呼ぶ者があろうか。沼田仁一は、それを信じないで、「吉野」という男の名を信じた。
「ばかね」
野関利江は、その後も、沼田仁一の詰問のたびに一笑に付した。
「そんな男とのつき合いがあるもんですか」
「しかし、奥さんには、たしかに僕のほかに愛人ができましたよ。僕には、わかります」
「あら、どうして?」
「いや、わかります。奥さんは僕に冷たくなった」
沼田仁一は、この年上の他人の二号に限りない嫉妬を感じて泣き出した。その横たわって静止している身体をゆさぶり、頭を胸の下に押しつけ、甘えた。
「そんな人、いないわよ」
と、野関利江は諭《さと》すようにいつも言った。
「あなただけよ。でもあんまりこうして私を呼び出すのはいやよ。しつこいのは、きらい。恋愛感情には、もっと余裕《ゆとり》がほしいわ」
野関利江は若すぎる沼田仁一に、あわれむような眼をむけて言った。
そのときの野関利江の瞳は、たしかに秋場文作と比較している眼であった。眼の前にいる青年は秋場文作より一年前に現われた情人であった。若い沼田仁一はある会社の事務員で、音楽好きだった。絶えずほの暗い喫茶店にはいり、長い指を顎《あご》にあて、眼を閉じてレコードに聞き入っている。繊細だが、蒼白い情熱のようなものを身体の底に沈めていた。秋場文作は途中から現われたのだ。比較がそのときから野関利江にはじまった。沼田仁一は、たしかに若すぎる。その長身で痩せた身体と同じように、たよりなく、ものたりなかった。
野関利江が、はじめて沼田仁一に会ったのは秋の宵であった。その時分は彼女にはまったく旦那の西島卓平以外に男はなかった。男の資格はまったく老衰していたが、やはり西島卓平は男とよぶより仕方がないだろう。しかし、与えられるものがない男であった。女に不満と飢餓感だけを残し、高級車で去って行く男であった。
寂寥《せきりよう》を紛《まぎ》らすために、野関利江は、その晩、赤坂に行き、喫茶店でコーヒーを飲んだ。若い人がたくさんいた。音楽が鳴り青春が立ちのぼっている。野関利江は、そこで自由を味わい、雰囲気に浸った。孤独な麻布の家にはないものだった。
そこに沼田仁一が瞑想しながら、腕をくみ椅子によりかかっていた。野関利江は彼と口をきき、鳴っているレコードの講釈を聞いた。口調は若々しく、芸術的だった。そして彼が好きだというラフマニノフのピアノ協奏曲のように、情熱的で甘美であった。
野関利江は、五つ年下のこの青年を愛するようになった。七十歳の西島卓平の哀れな枯渇《こかつ》とは、まるで対極的である。青年らしく、ひたむきで直感的な燃え方だった。野関利江は若々しい血を得た。
沼田仁一を野関利江はたしかに愛した。だが、水平的な愛し方ではなかった。愛してはいるが、相手から平等な愛の手ごたえは返ってこなかった。つまり野関利江の愛は仁恵的《じんけいてき》であった。
沼田仁一はなんでもよく気がついた。年上の女に年少者らしい心づかいをみせ、コートを脱がせるのも、スーツの背中に回り、チャックを滑らせて開くのも、脚に密着した薄い皮膚のようなナイロンの靴下をとるのも、すべてかいがいしく世話をした。野関利江にとってその親切はたしかに魅力的で新鮮だった。かつてこのような男を知らない。彼女が今まで会った男は、ことごとく彼女に一方的な奉仕を求めるものばかりだった。
沼田仁一のほうは、その奉仕のしぐさに興奮を感じているのであった。年上の女がこのように威厳をもち、成熟し、量感があることを知らなかった。彼は野関利江から一つ一つ眼をあけさせられた。彼は無恥を習い、歓喜のなんであるかを教えられた。彼以下の若い女からは決して得られないものだった。
それに金銭的な享受もあった。野関利江は費用のことごとくを支払ってくれ、帰りには彼の財布を出させて金を補充してくれた。若い女と会う場合は彼だけが浪費しなければならなかった。
沼田仁一は野関利江に若い魂を奪われてしまった。情熱はとめどもなくたぎり、抑制も躊躇《ちゆうちよ》もなかった。一日でも会わないと、すぐに電話をかけたくなった。一週間に二度|邂逅《かいこう》するところを三度に強要した。その余裕のない執拗さが、実は徐々に野関利江に息苦しさを感じさせ、単調さを覚えさせているのを、沼田仁一は知らなかった。
秋場文作は途中で出現したが、野関利江は彼から初めて求めるものを得た。中年の彼は悠揚としてせまらない余裕があり、円熟した密度があった。
野関利江は、沼田仁一を少しずつ捨てながら、秋場文作の充足の中に身を溶けこましていった。たとえば、火曜日と金曜日とは、絶対に秋場文作のために費《つか》い、沼田仁一をほうりだした。
6
秋場文作に野関利江が燃えさかっている最中が、沼田仁一の冷遇されている時期であった。夜の八時以後の電話は、西島卓平が来ていることを考えて、野関利江から絶対に禁じられているので、さすがに控えたが、沼田仁一が何度電話をかけても、野関利江は留守のことが多かった。その中には、あきらかに虚偽の留守もあった。
沼田仁一は自分が捨てられていることを悟り、同時に女に情人ができていることを直感した。野関利江をそれほどまでに溶かすのは、彼女よりかならず年上の男であろうと考え、若い沼田仁一は見えぬ男に敗北感と憎悪を起こした。
その男は「ヨシノ」という姓であると、沼田仁一は信じて疑わぬようになった。
「ばかね」
と、野関利江はわらっているけれど、彼はその推測にしだいに確信がもててきた。
だが、それはどういう男だろう。麻布の高台の家に孤立した生活をしている野関利江の周囲からそれを発見することはできなかった。彼女の家には、男性はだれも訪ねて行かず、彼女が男づれで出ることもないようだった。
彼が、これ以外に考えようがないと思ったのは、旦那の西島卓平の会社の社員であった。突飛な考えのようであるが、それよりほかに線の引きようがなかった。会長の愛人を盗む社員を考えるのは不合理のようだが、彼女と西島卓平の二つの点しかないとしたら、西島卓平から派生している円周を捜すほかはないのである。
沼田仁一は西島卓平が経営している各会社の社員名簿を、たまたま西島電機の文書課に勤めている学校の同期生から借りた。
「そんなものを見て、どうするんだい?」
学校友だちの小橋《こばし》という男がきいた。
「ちょっと心当たりの人を捜しているんだ」
沼田仁一は言いわけをした。
「そうそう、君の社に吉野という人がいるかい?」
「吉野?」
小橋は首をひねったが、
「知らないね。僕は文書課だから、そういう名の人がいると記憶にあるんだが、覚えがないね。西島系統のよその社員かもしれないよ。その名簿には、嘱託までのっているはずだ」
「そうか、ありがとう」
しかし、沼田仁一は各社の社員名簿を丹念に見たけれど、吉野という姓は少ないらしく、同姓は少なかった。それをいちいち拾ってみると、大阪や福岡の支店にいたり、年齢が彼以下に若かったり、どうも、それと思われるものがなかった。では、あれは、やっぱりヨシノという女の名前であろうか。いやいや、そうではない、かならず男の姓だ。野関利江があのときに発した一語は、感動による神経の錯覚である。あるいは習慣である。すると、沼田仁一には相手が彼女を自分よりはるかに陶酔させ、もっと頻繁に逢いびきしている情人のように思われた。
沼田仁一は神経が尖り、苛々《いらいら》して、勤めの仕事も、ろくろく手につかなかった。妄想と嫉妬に虐《さいな》まれ、顔色はいよいよ蒼白くなり、心臓が、走っているときのように、絶えずどきどきと鳴った。野関利江の愛情が彼から水のひくように減退し、枯渇してゆく。そのぶんだけ他の男に向かって豊饒《ほうじよう》に流れこみ、溢れ、渦巻いているのだ。よし、どうしても突きとめずにはおかないぞと思った。
沼田仁一は、野関利江の麻布の家の前にかがんだり、彷徨したりして、彼女が外出するときを狙い、尾行を企てたこともたびたびだった。しかし、野関利江は、いつも女中にハイヤーを呼ばせ、家の前から走って行くのである。この近所は流しの車が通るのが少なく、沼田仁一があとをつける術《すべ》もなかった。また、野関利江の外出がいつともわからないので、タクシーを雇って付近に待っていることもできず、それだけの資力もなかった。会社に出勤しているから、時間の制約もあった。結局、彼の張り込みも、尾行も、彼女が家から出てこなかったり、留守のようだったり、家の前から車で走り去られたりして、こみあげる怒りに、ひとりで血を逆流させるばかりであった。
野関利江が沼田仁一をうるさがり、冷却しつつあったとき、彼女は、一片のはがきをくれて、実際に遁走してしまったのだ。もはや、沼田仁一の眼の届かないところに野関利江はひそんでしまった。私のあとを捜すな、と、はがきには書いてある。捜してもむだだ、ともとれるし、このままにしてくれという哀願ともとれる。野関利江が情人のところに走り、どこかの屋根の下で生活していることは明瞭であった。しかし、それを捜す手がかりはなかった。都内かもしれないし、地方かもしれなかった。
季節が移った。冬が終わり、春になった。桜が咲き、人を集めたあと、きたならしく地面に花弁を捨てた。その上に静かな雨が降り、その雨は降るごとに暖かい気候を呼んだ。
四月の半ばがすぎて、秋場文作は、単独で九州の福岡支店に出張を命ぜられた。それは、仕事の上で、前から彼がしきりに建策していたことであり、それがようやく認められて上役にいれられたのであった。出張は二日後に決まった。
「今日だったな」
当日が来て、秋場文作が出張の挨拶に行くと、上役は言った。それが四月十九日であった。上役は秋場文作の持ってきた出張予定表に判をおして眺め、
「ほほう、筑紫《つくし》にしたんだね」
と呟いた。
博多《はかた》行急行≪筑紫≫は、東京発二十一時三十分、博多着は翌日の十九時十八分で、秋場文作の字はそのとおりに書いてあった。
「博多は初めてかね?」
「はあ」
「水たきの本場だ。なんという家だったかな、海の見えるところに建っている料理屋で食ったことがあるがね、景色がいいし、うまかった。どうせ、支店で歓迎会をするだろうから、水たきを腹がだぶだぶになるくらい食わせられるよ」
上役の前を秋場文作は丁寧な微笑でさがった。
その晩、東京駅では部下の主任級が三、四人、見送ってくれた。夜の九時三十分なら、彼らは汽車が出たあと、銀座裏にでも流れるに違いない。彼らは部長の見送りを口実にしていた。
発車するまでの時間を、彼らはホームで雑談した。あわただしい周囲の旅客の空気で、彼らは軽く興奮していた。
「会長は、近ごろは機嫌が悪いそうだな」
と、主任のひとりが同僚に言った。
「機嫌はいつも悪いが、このごろはひどいそうだ。麻布に逃げられて、こたえたのだろう」
皆は笑った。野関利江が二カ月前に失踪したことは、ひそかに知れ渡っていた。野関利江に若い恋人ができて、駆け落ちしたのであるという皆の推測は一致していた。
秋場文作は、その話が出るたびに、知らぬ顔をしながら聞き耳を立てたものだった。今も、彼はこれから乗る特二の車両を背にして立ち、煙草をふかしてあらぬ方を眺め、部下の話し声に注意していた。
「部長はご存知ないですか?」
ひとりが言った。
「何を?」
「会長の機嫌です。朝の企画会議には会長邸にいらっしゃるんでしょう?」
「僕らにはよくわからないね。何しろ、はるか末席だからね。言葉もかけてもらえない」
秋場文作は避けるように答えた。実際、会議のときの西島卓平の怒号はいつものことだからよくわからなかった。野関利江が失踪して以来の、西島卓平の変化に、最も注意して観察しているのは秋場文作だったが、末席からうかがっても、七十歳の会長の顔は、相変わらず、事業と新企画と営業成績に熱中しているとしか思えなかった。秋場文作は感嘆し、同時にひそかに安心した。
「麻布の相手は、女より年下の若い男だそうだ」
社内の事情通をもって任じている薄い毛の男が言った。
「僕は、麻布の女中の一人からこっそり聞いたのだ。二十五、六ぐらいの若い男の声で、たびたび、電話がかかってきていたそうだよ。それで警察では、その男が麻布の利江さんの相手だろうと見当をつけているらしい」
秋場文作は、顔に平気を装い、聴覚を鋭くした。
「へえ、なんで警察がそんなことを調べるのか?」
ほかの者がきいた。
「そりゃあ、やっぱり会長も心配だからね。捜索願も出してあるらしい。それから利江さんの失踪はただの家出でないかもしれない、つまり、どこかで殺されているのではないかという線も考えたのだろうね」
聞いている皆の眼が輝いたとき、発車のベルが鳴った。秋場文作は立っている位置から動いた。
「じゃあ、皆さん、どうも遅い時間にすみませんでした。行って参ります」
皆は一どきに乱れておじぎをし、行ってらっしゃい、とか、ご苦労さま、とか口々に言った。
秋場文作の姿は、明るい照明の下で、特二の白いカバーの座席におさまり、窓越しに見送り人たちに手を振った。
列車が去ったあと、見送り人たちは空虚な気持になんとなく浸り、それを埋めるために銀座へ向かって行った。
7
季節がそれからも変わった。陽《ひ》が眩《まぶ》しくなり、強烈になって道路の舗装を溶かした。それから長い夏が疲れかけてきた。
九月の半ばになって、最初の台風が九州の北を過ぎたことが新聞に出ていた。それから二、三日して、同じ新聞に三段ぬきでこのような記事が現われていた。
「九月十六日の朝、山口県|豊浦《とようら》郡××村の山林中で、台風被害状況を見回っていた同村のAさんが倒木によって地割れした中から、女の足が出ているのを発見、ただちに所轄署に届け出た。検視すると、死体は部分的に白骨化し、冬物のオーバーやスーツを着ている。死後推定七、八カ月経過し、絞殺された痕《あと》がある。遺留品の銀行預金通帳によって、身元は東京都港区麻布××、無職野関利江さん(三一)と判明した。野関さんは本年二月半ばごろ自宅から出たまま消息を絶ったもので、かねて捜索願が出ていた。現場は山陰本線|吉見《よしみ》駅付近の山林でめったに人の行かぬ所だった。これによって、野関さんは犯人と共に二月ごろ東京を出発、吉見に来て、山林に誘いこまれ、犯人に絞殺され、埋められたものとみられる。原因について警視庁で調べているが、野関さんの自宅に二十五、六歳ぐらいの大田と名のる若い男の声で、たびたび電話がかかってきていた事実があり、痴情関係でこの男が犯人ではないかとみられ、警視庁では電話の声の≪大田≫という青年を捜索している」
沼田仁一は、仰天してこの記事を読んだ。野関利江が、二月の家出直後にだれかに殺された事実もそうだが、いつのまにか彼が犯人にされていることを発見した。
非常な衝撃が沼田仁一を襲った。死後七、八カ月経過といえば、野関利江からあのはがきが来てすぐである。彼女は、新しい情人と、どこかにひそんでいるとばかり思っていたのに、実は本州の西の果て、山口県の山林中で絞殺され、地の中に埋められて横たわっていたのであった。
沼田仁一は、今にも警視庁の手が、彼の身辺に輪を圧縮して迫ってくるような気がして、戦慄した。連行、尋問、野関利江との情事の暴露、それは結局、不快で煩瑣《はんさ》な長い時間の末、無罪ではあるが、会社の上役の蔑視、同僚の嘲笑の的となるのである。そのことは、悪くすると、馘首につながるかもわからない。
沼田仁一は、思いきって警視庁に出頭して、事情を説明しようかと思ったが、結果は大同小異であると気づいた。それに、電話の声と、「大田」という偽名だけでは捜索の手がかりにならないだろう。これは出て行くより、いっそ安全な状態の中に跼《かが》んでいるのがいいと思った。
しかし、彼以外に、もう一人、安全な場所にかくれている者がいる。|かれ《ヽヽ》こそ野関利江の首をしめた真犯人であった。野関利江の愛情を彼から奪い、彼を捨てさせた男だった。たいそう利口な男のようである。電話を彼女の自宅に決してかけていない。逢いびきの方法は、きわめて巧妙に打ち合わせをし、秘密の中に野関利江を存分な歓喜の中に浸らせていたようだった。経験をつんだ中年男で、脂肪の厚みのついた胸幅の広い身体の持主である。彼が野関利江と交渉をもち始めたのは、おそらく一年ぐらい前であろう。そのころ、野関利江の沼田仁一に対する愛情が減退の兆《きざし》を示しはじめていた。その男は、だれにも姿を見せず、だれにも気づかれずに野関利江を拉致《らち》して殺してしまった。
が、その男の隠れた正体は一部分だけちらりとのぞいている。それを口走ったのは野関利江だった。「ヨシノさん」と叫んだ呼び方に実感がこもっていた。野関利江の愛を略奪したあげく、その生命を絶ったのは「ヨシノ」である。
どこにいる男であろう。自分が考えもつかない環境にいた人間であろうか。沼田仁一は、蒼白い顔に汗を浮かべ、眼を光らせて考えこんだ。しかし、野関利江の生活のつながりには西島卓平しかいない。やはり、西島卓平から出ている錯綜《さくそう》した線上に、それを求むべきであろうか。
が、西島事業の各会社の社員名簿の中に、該当する人物はいなかった。
九月の終わりごろになったが、新聞には野関利江を殺害した犯人がわかったとか逮捕されたとかいう報道はなかった。沼田仁一は急に別な新聞を二つとりはじめた。
結婚の季節が近づいたことを新聞は報じはじめ、婦人欄には花嫁衣装のことや、挙式の費用のことを書いた記事が現われてきた。沼田仁一は漠然とそれを読んだ。彼にはまだ先の現実である。期待した記事を捜したあげくに眼が移ったまでだった。
沼田仁一は、バスに乗って出勤したが、花嫁衣装の記事が、頭に浮かび出た。彼は、とびあがった。連想があることに衝《つ》き当たったのである。
彼は遅刻を覚悟して、西島電機の文書課員をしている友人の小橋に会いに行った。小橋は受付に出てきた。それを離れたところに連れて行き、沼田仁一はせきこんできいた。
「おい、君、社員に養子は多いのかい?」
「そりゃあ、あるだろう」
「養子に行けば姓が変わるが、君のところで養子に行く前の旧姓がわかるかい」
「それは少し厄介だ。保存の社員身分の記録簿を、いちいち、見なければならんからな」
小橋は浮かぬ顔をした。
が、その翌日になって、小橋は社の電話を使わず、公衆電話から依頼の返事を知らせてくれた。
「おい、やっとわかったよ」
「そうか、なんという人だね?」
「何を調べているかしらんが、こんなことは社外秘だからな。あんまり人にしゃべっちゃ困るよ」
「わかったよ、大丈夫、だれにも言わない。それで、その人はなんという人かね?」
沼田仁一は期待で胸が高鳴った。
「それはね、調査部長の秋場文作という人だ。結婚前の旧姓が吉野となっている。つまり、養子だな」
「調査部長か」
沼田仁一は直感というか、どうもその辺の地位が当たっているような気がした。彼は、秋場文作という文字を一つ一つきいて手帳に書いた。
「その秋場さんというのは、どんな人かね?」
沼田仁一は、はずむ息を整えながらきいた。
「仕事のできる人だ。まだ四十にならないがね。去年の秋、課長から部長になった人だ。評判がいいらしい」
去年の秋? 沼田仁一の記憶では、それは野関利江が急激に冷えてゆくのが、はっきりわかったころであった。そのとき部長になったというのも意味ありげである。
「君」
沼田仁一はつづいて頼んだ。
「僕に一度、その秋場さんという人をそれとなく、見せてもらえないかね。廊下のガラス窓越しに拝見すればいいんだ」
「そりゃあ、いいけど」
友だちはすこし心配そうにきいた。
「何か悪いことじゃないだろうな?」
「そんなことは絶対にないよ。君にも迷惑はかけないからな」
友だちは承知した。
昼休みに、沼田仁一は会社を抜けて丸ノ内のビル街にある西島電機をまた訪ねた。友だちは出てきた。
「今、秋場さんは昼めしから戻ったばかりだそうだ」
調査部の前に案内された。清潔な建物でガラス張りの中に事務室がひろがっていた。
「ほら、あの右の大きな机の前にいる人だ」
友だちは、廊下からこっそり指さして教えた。
沼田仁一は秋場文作を初めて見た。彼の考えていた人物のイメージとはかなり違う。肩幅の広い精力的な男かと思っていたが、痩《や》せてスマートであった。しかし、身体は運動家のように締まっていた。眼がぎょろりとして大きく、鼻が高かった。頬のあたりがすこし沈み、眼窩《がんか》がくぼんでいたが、それは適度な知性的な陰影となっていた。秋場文作は、皆とはそこだけ空間をとった大きな机の前に、たったひとりで書類を見ていた。
沼田仁一は、一目みただけで、秋場文作が野関利江の情人であったことを疑わなかった。
データは秋場の旧姓が吉野であることだけだったが、しかし、それを知らなくても、この男なら街の雑踏の中で見かけても、野関利江の情人だなと見わけがつきそうだった。いかにも、あの女の好きそうな型《タイプ》だった。その直感は、ひとりの女の体臭を共有した感覚からきており、同じ女の血のにおいを秋場文作の姿からかいだと感じたからでもあった。
あの男が、野関利江の愛情を真空のように吸い上げたのか。彼は思うままにあの女の肉体を操縦し、心を崩壊させたのか。沼田仁一は凝視しているうちに、やるせない劣等感と憎しみがこみあがった。野関利江を絞めた犯人は、あのとり澄ました顔で、書類を見ている男に違いないのだ。
「ありがとう」
と礼を言って、そこをはなれた沼田仁一は足がふるえて力がなかった。
彼は、帰る途々《みちみち》に、警察に投書してやろうかと思った。しかし、秋場文作が野関利江と関係があって、彼女を殺したという具体的なものは何一つなかった。それは彼の直感にすぎない。真実かもしれないが、客観性がなかった。それでは投書しても意味がなく、捜査当局がとりあげてくれそうにも思えなかった。
何か、秋場文作の尻尾をつかむものはないか、と沼田仁一は必死になって考えた。すると、いいことが一つ浮かんだ。
8
野関利江の死体発見が九月十六日で、死体を検案した警察の推定では死後七、八カ月ぐらいだという。彼女が家出した時期と一致していることは、もはや明瞭だが、秋場文作は山口県の現場に野関利江を、そのとき、すぐに連れて行ったのであろう。
それなら、そのころ、秋場文作は社を欠勤しているはずであった。沼田仁一は本屋から山口県の地図を買ってきて調べてみたが、それは下関から西海岸よりに北に向かって這いあがっている鉄道であった。山陰本線はそれから萩、浜田方面の北海岸につづくのである。
東京・下関を往復するのだから、秋場文作は今年の二月か三月かに、かならず二、三日以上は欠勤していなければならないはずだった。下関に行くまでに急行で二十一時間はかかる。夜東京を発《た》ったら、翌日の夕方でないと下関に着かないのだ。そこで、山陰線に乗りかえ、現場近くの吉見駅までは、さらに三十分を要する。
沼田仁一は、またもや西島電機の小橋を呼び出した。
「いろいろすまんが、秋場さんは二月と三月のうち、どの月かに二、三日休暇をとっていないか、出勤簿をこっそり調べてもらえないだろうか?」
友だちは、不審を起こした。
「この前から変だぜ。秋場さんがどうかしたのか?」
ここまでくると沼田仁一も彼に協力を求めるため、あるていど打ち明けなければならなかった。
「君は、会長の麻布の二号が、山口県の山の中で殺されていたのを知ってるだろう?」
「もちろん、知っているよ。新聞にも出たし、社内では大評判だ」
友だちはうなずいた。
「それなんだよ。僕はね、どうも秋場さんがおかしいような気がするのだ」
沼田仁一が低声《こごえ》で言うと、友だちは、眼をむいた。
「え、秋場さんが? そんなばかなことはあるまい。あの人は立派な人だ」
友だちは断言したが、
「それとも何か、そのはっきりした証拠があるのかい?」
と、興味を起こしたようにきいた。
「心当たりがあるが、何しろ、秋場さんが休暇をとっていることがわからなければ、なんとも言えない。二月、三月のうち、つづけて休みをとっていたら、君に、すっかり話すよ」
「そうか、よし」
友だちは自社に関係があることなので、すっかり興に乗ったらしかった。見てくるから待ってくれと言って足早に立ち去った。秋場文作はおそらく休んでいるだろう。二日間か三日間である。二日間でも犯行ができぬことはないが、これは最小限度の条件で苦しいに違いない。
煙草を一本|喫《す》い終わったときに、友だちが待っていた場所に帰ってきた。
「どうだった?」
沼田仁一はすいがらを投げてきいた。
「だめだよ。二月も三月も一日も欠勤していないんだ。全部、出勤の判コがおしてあるよ」
友だちは報告した。沼田仁一は驚愕した。そんなはずがない。彼は必ず休んでいるはずなのだ。
「そんなはずはないといっても、実際にきれいに判コが出勤簿にならんでいるんだもの」
友だちは反抗的に言った。
「だれか、代印をおしたのじゃあるまいな、本人は休んだけれど、出勤していたようにして」
「ばかな。学校の代ヘンとは違うぞ。部長が休むとたいへんだ。一流会社ではそんなトリックはできないよ」
それはそのとおりだった。
「ただね、四月十九日から五日間、秋場さんは福岡出張のために社にいないんだ」
友だちはつけ加えた。
「四月十九日か。それでは問題にならんな」
死体は死後推定七、八カ月で、冬の季節だった。冬物のオーバーとスーツを着ていた。沼田仁一は地に唾を強く吐いた。唾は乾いた土に転がった。
しかし、それからも沼田仁一は秋場文作が野関利江を汽車に乗せて西へ運び、首を絞めた犯人であると信じて疑わなかった。それは確固とした信念になっていた。他人は知らない。同じ女の肉体を分けあった相手だ、それからくる直感に狂いはないと信じていた。
冬オーバーを着た野関利江と肩をならべて歩いている秋場文作の長身の姿が、沼田仁一の眼にありありと映《うつ》っていた。女のそのオーバーというのは沼田仁一も知っていた。野関利江と知り合ったころに、彼女が新調したあれに違いない。彼女がひどく気に入って、沼田仁一の賞賛を求めたものだ。
「これ、すてきでしょう?」
と、濃紫色のシールの光沢を見せびらかしたものだった。その下には紫色のスーツをきていた。彼が女の背中に回って、肩からすべらせて下に落とす高級なナイロンの下着にも、淡い藤色がついていた。
紫色の好きな女である。沼田仁一がそれを言うと、
「そうよ。紫色って、大好きなの。昔は、貴族の色だったって何かの本に書いてあったわ」
と、満足そうに答えたものだった。
新聞記事によると、冬もののオーバーとスーツを、白い骨を部分的に出した腐爛《ふらん》死体はまとっていたというから、かならず、あの紫色の衣装であろう、と沼田仁一は推測した。
だが、そのオーバーのことから、彼は一つの着想に行き当たった。
女のオーバーは冬ものだった。秋場文作が博多に五日間出張したのは、四月十九日からである。晩春と初夏の境目である。この二つは接着しないか。
季節がばらばらである。女の着ていた服装のころには、秋場文作が一日も社を休んでいない。秋場文作が五日間、東京を留守にした時期は、女の冬の服装から外《はず》れている。
沼田仁一は考えぬいた末、女のその支度は、かならずしも、女がそのとき着て行ったとは限らないと思いついた。トランクに詰めて持って行くことである。着て出る服装は、別の季節のものだった。これなら、両方の矛盾した条件が融合するのである。
沼田仁一は、机によりかかり、一心に考えた結果を紙に書いてまとめてみた。
(1)二月十五日。野関利江、冬の服装で家出。
(2)四月十九日。秋場文作は、博多に五日間の出張。野関利江同行。このとき、秋場文作は、女の冬ものをトランクにひそかに詰め、女は家出後に買った季節の服装で旅行した。
(3)その博多行の往復のどちらかで、秋場文作は野関利江を伴って下関駅で山陰本線に乗りかえ、吉見駅で下車した。それから何かの口実を設け現場に女を誘いこみ、山林中で秋場文作は野関利江を絞殺した。そのあと殺人者は死体の服装をトランクの内容品の冬ものと取りかえ、穴を掘って土の中に埋めた。秋場文作は山をおり、ふたたび下関に出て、山陽線に乗った。
(4)九月、死体発見。
しかし、これには、さまざまな、矛盾と断層があった。沼田仁一はそれに気づいている。一番大きなのは、死後時間の問題だった。九月に発見された死体が死後七、八カ月としたら、二月か三月である。野関利江の家出した時とは合致するが、秋場文作の博多出張の時間とは合わない。約二カ月のずれがあるのだ。この推定時間が正当だったら、その月一日も欠勤していない秋場文作のアリバイは成立するのである。
だが、死後の経過時間も、五カ月以上になると、死体を見ても正確には判定できないのではなかろうか、と思った。どうせ、田舎の医者が検案したのだから、二、三カ月の誤差はありうるのではないか。ことに、この場合、犯人がその誤りの穴に導くよう企んで、死体の衣服を冬ものに着せかえた。医者は、それを見て惑《まど》わされた。「冬」が被害者の死の季節だ、という強い印象をうけたに違いない。沼田仁一は、この問題は解けたと思った。
次は、野関利江が、秋場文作が冬ものをトランクに詰めて持って出るのに、なぜ不審を起こしてとがめなかったのであろうか、ということだった。四月十九日なら夏物を詰めるべきである。これは野関利江が知らなかったのではあるまいか。彼女の留守の時にでも、秋場文作がトランクに詰めて知らぬ顔をしたのかもわからなかった。
最後に、(1)と(2)の間に断層がある。二月十五日に家出した野関利江は、四月十九日に秋場文作と同じ汽車に乗ったとすれば、その六十三日間の野関利江が消失している。秋場文作がその間、野関利江をどこか秘密の場所にかくしておいたのであろう。細密な計画を立てていた彼のことだから、かならず外部に知れることなく野関利江をアパートかどこかに秘匿していたに違いない、と沼田仁一には考えられた。
だが、もっと、重大なのは、秋場文作の四月十九日の出張旅行の裏づけだった。
西島電機の小橋に聞かせると、彼はすっかり面白がっていた。彼は調査の役目をひきうけた。
「おい、だめだよ」
と、小橋は沼田仁一に結果を知らせるために来たとき言った。
「秋場さんは、四月十九日の急行筑紫で博多に、途中下車することなく直行しているよ。同伴者はなかった。それは、出発を東京駅のホームで部下の数人が見送っているんだ。僕は、その一人にきいたんだがね。全然、ひとりだったそうだよ。それから、その列車は二十日の十九時十八分に博多駅に着き、支店の者が出迎えている。だから直行していたことにはまちがいはないよ。帰りかい。帰りは、上京する支店長と一緒に板付《いたづけ》から羽田まで日航機だったそうだ」
9
沼田仁一は、そうだ、飛行機があると思った。出張の帰路ではない。往路だ。
殺人現場は、山口県の西海岸の山林である。飛行機で行ったとしても、博多から下関に引き返すのは、遠すぎる。博多より近い場所に飛行機が着くところ。時刻表の後ろのページをみると、日航機は降りないが、全日空機が小倉《こくら》に着くことがわかった。
◯ 全日空機 羽田発八時──大阪十一時十五分──小倉着十四時十五分。
一方、急行筑紫の時刻を記した。
◯ 東京発二十一時三十分──下関十八時二十三分──博多着十九時十八分。
こう書きならべて、沼田仁一は両方を見くらべた。
午前八時に全日空機で行けば、小倉に十四時十五分につく。もっとも飛行場から小倉までは多少時間がかかるだろう。それにしても十五時には小倉に着く。時刻表によれば、十五時二十七分発、下関行に乗れる。下関着十五時四十五分、下関からタクシーを飛ばせば、これが、ほぼ吉見まで十五分で行けることが鉄道案内所にきいてわかった。これから付近の山林にはいって犯行をとげ、帰りはふたたびタクシーに乗って、下関に十五分で出る。沼田仁一はいろいろな計算をした末、前夜、東京駅を二十一時三十分に発した筑紫は、下関駅に十八時二十三分に着くから、秋場文作は犯行をとげたあと、それに乗ることが可能だとわかった。それだと博多駅に着いて、予定どおり出迎え人に会うことができるのである。
つまり、秋場文作は、四月十九日、東京駅を二十一時三十分の筑紫に乗車はしたが、途中急行券をむだにして品川駅に下車、一泊して、二十日の八時羽田発の全日空機に乗る。小倉に着陸して、下関に行き、目的をとげ、前夜東京駅から乗った筑紫に、ふたたび、下関から博多までの急行券だけを買って、乗った。ちょうど、東京から博多までを通して乗ったような恰好になるのであった。
すると、野関利江はどこにいたか。おそらく出張日が確定したとき、秋場文作は、彼女を旅行に連れて行くと称して品川の旅館で十九日の夜、待ち合わせるように打ち合わせたのであろう。二十日朝、両人《ふたり》は飛行機に乗り、小倉に降り、山口県の現場まで同行した。野関利江は金持だから、飛行機の料金ぐらい苦にならない。
これを考えると、初めて、他の疑問の一つが関連して解けた。秋場文作は、野関利江をさきに品川に行かせた。その留守に紫色の冬ものを彼はかってに詰めて持ち出したのであろう。野関利江が咎《とが》めるはずがなかった。
この想定の図面ができたとき、沼田仁一は心から歓声をあげた。
だが、これで秋場文作を攻めることができようか。これは沼田仁一の勝手に作った理論である。理論は合っているが、なんの裏づけも、証拠もない。秋場文作に突きつけても、驚きはしないのだ。彼は、中年の落ちつきをもってわらうだけであろう。
よし、それなら、と沼田仁一は蒼白い顔に闘志を燃え立たせた。秋場文作が、全日空機に乗ったのなら、乗客名簿にその名があるだろう。しかし、おそらく偽名に違いない。偽名を見破る方法を、彼は考えついていた。
沼田仁一は航空会社の事務所に行った。もっともらしい理由を述べ、係りの者に四月二十日発、小倉行の乗客名簿を見せてもらった。三十人乗りだが、この機は大阪からも乗る客のために席が予約されており、東京からは二十五人であった。書きとるのに楽だった。
名簿をうつすが、それを全部書きとる必要はない。男と女の年齢を秋場文作と野関利江に当てはめ、それにしぼればよかった。二十代と五十代の男を省《はぶ》き、四十代と五十代の女は不必要だった。
書き抜いて行くうちに、沼田仁一は、おやと眼をとめた。「春野雪子」の名があった。有名な美貌の若い映画女優で、人気の上昇線にあるスターだった。彼女も小倉に行ったのか。そう思って見ると、その時の乗客の中に映画会社の職業を記した人が多いのがわかった。九州のロケーションにでも行ったものらしかった。
沼田仁一は、書き取った名前の十六人に、はがきを出した。はがきの文句はなんでもよい。時候の見舞文だけである。差出人の住所も名前も、正確に書いた。受け取った者は、未知の者からの挨拶に驚くだろう。そして、「受取人不明」の局の付箋《ふせん》が付いて返送されてくるものだけが、旅客機の偽名乗客であった。
返送されたはがきは正確に二名であった。「山本次郎」と「山本ふみ子」。平凡な夫婦の名前である。名簿に、男四十歳、女二十八歳と記入してあった。住所は高円寺《こうえんじ》××としてあるが、杉並郵便局は朱筆で「受取人不明」の付箋をつけていた。沼田仁一は、紅《あか》い唇に笑いを浮かべた。秋場文作と野関利江を、彼は思いどおりに発見したのである。
だが、これがすぐに実証の価値をもつだろうか。秋場文作をこれだけで恐怖させることができるだろうか。材料がまだ不足であった。
沼田仁一は、いつもの喫茶店に行って考えた。かつては、野関利江と会合した喫茶店であり、今も、ほの暗い店内では、ラフマニノフの曲がゆるやかにピアノを鳴らしていた。甘美で、情熱的な旋律である。野関利江の顔が真向かいに浮かぶようだった。彼女と会った三年前と少しも変わらぬ店の雰囲気と音楽だった。野関利江が、沼田仁一を捨てて秋場文作に傾き、西島卓平の妾宅を出て走った情人に殺されるなどの激しい時間が、この中間にはさまれていたことを、少しも感じさせない甘美な静寂であった。
野関利江の好きな衣服の色まで、眼の前にあざやかに出た。昔の貴族の色だと喜んだ紫である。──沼田仁一は、はっとした。彼はあたかも音楽に聞き入るように、眼を宙に浮かせた。
壁に、映画の上品なポスターがかかっていた。春野雪子の顔がうすい照明に昏《くら》い微笑を沈ませていた。沼田仁一の眼には、小倉の空港に降りた彼女を、たくさんなカメラマンが囲繞《いによう》している光景が映った。
10
沼田仁一は、秋場文作にあてて、手紙を送りはじめた。発送者の名前もなく、一行の文句を認《したた》めた手紙が中身にはいっているのでもなかった。
紫色の小さな布片が一枚だけ挿入されていた。
紫の意味を、この世で一番わかっているのは、秋場文作にちがいなかった。彼は、西日本の山中で、紫色のスーツ、紫色のオーバーを死体に着せた。もしかすると、あのうすい藤色の紗《しや》のような下着も着せてやったのかもしれない。紫色に、彼の脳は強烈な反応を示すに相違なかった。
偽名の手紙を、秋場文作にあてて四日に一度はかならず送った。中身は、布片であったり、印刷物を裂いた一部分であったり、あるいは紙に水彩絵具がなすりつけてあったりした。その色のどれもが、紫であり、すみれ色であった。
秋場文作は、だれからとも知れず送られてくる紫色に、畏怖《いふ》しているに違いなかった。紫の布、紙、絵具の色を手にしてふるえている彼を、沼田仁一は想像した。女の首を絞めた指が、その色の服を着せたのである。沼田仁一が、いつかガラス越しに見た大きな机の上で書類をいじっているあの指であった。
三週間たって、沼田仁一は、封筒の裏に初めて名前を書いた。「山本ふみ子」であった。そのかわり、内容物の紫色は消え、中身は何もなかった。秋場文作は、亡霊から通信を受け取っている思いをしているに違いなかった。
だれかが、おれの犯罪を知っている。それが近くの見えぬところに存在している。秋場文作は、足をすくませているだろう。彼の不安、恐れ、焦燥、煩悶《はんもん》が若い沼田仁一には眼に見えるようであった。
それが終わると、沼田仁一は次の攻撃に移った。このとき、封筒の裏は「山本次郎」の男の名前となった。秋場文作自身がつけた殺人行のときの彼の名前であった。偽名の本人の手紙を本名の本人が受け取るのである。
今度は手紙らしく、本文がはいっていた。数字の多い文句である。
≪筑紫≫東京二一・三〇 品川二一・四一 下関一八・二三 博多一九・一八
≪全日空≫羽田八・〇〇 小倉一四・一五
ただ、これだけであった。しかし、それだけで秋場文作には、長文の手紙以上に内容を理解できるであろう。
ぼんやりしたものから、形のあるものへ、抽象的なものから具体的なものへ──沼田仁一の攻撃は、意識的に効果を積み上げていた。秋場文作は、しだいに萎《な》えて、手で額を押さえ、その場にうずくまっているに違いなかった。
数字の攻撃は五回ですんだ。
沼田仁一は、考え考え、次の文句を手紙に書いた。
[#ここから1字下げ]
「秋場文作殿
いろいろな手紙を送りましたから、もう、お気づきのことと思います。あなたが一番よくご存知のはずです。そして、あなたと同じくらいに、ぼくも知っています。何もかもです。野関利江さんも、あなたと同じていどに、ぼくも、特別な意味で知っています。こう書くと、利江さんの家に電話をかけていたという若い男の声をあなたは思い出すでしょう。むろん、それがぼくです。新聞によると、警察では、ぼくが犯人だと目星をつけて捜しているそうです。ぼくには困ることだし、あなたには喜ばしいことでしょう。
ぼくが、先日来、いろいろと送った手紙、紫色もあれば、山本ふみ子の名もあり、飛行機と汽車の時刻のようなものもありました。あなたは、びっくりしたでしょう。だが、それだけでは、まだ、あなたは安全です。ぼくが知ったといっても、何も証拠がありませんから。あなたは、おそれているかもしれませんが、逮捕されることはないのです。
しかし、困ったことがあります。あなたは利江さんと、羽田から全日空で小倉に行ったとき、××映画の春野雪子と乗り合わせたことを覚えているでしょう。そのほか映画の仕事をする人も一緒でした。九州にロケーションに行ったのでしょう。
春野雪子は人気スターです。そのスターが来るというので地元はわいていました。地方新聞が飛行場におしかけカメラを構えました。春野雪子が愛想をふりまきながら旅客機から降りる。彼女がタラップを降り、ゲートに歩むまで、アマチュアをまじえたたくさんのカメラマンがシャッターを切り、その音は絶え間がありませんでした。これは想像ですが、間違いないでしょう。困ったことというのは、その春野雪子さんのうしろから乗客たちがつづいているのですが、その群れの中に、あなたと野関利江さんの顔が出ているのですよ。あなたは用心したに違いありませんが、いつまでも飛行機の上に残ってかくれているわけにはゆきません。顔をうつむけ、できるだけレンズの群れから避けたでしょうが、カメラマンはあまりにもたくさん来ていました。そして、あまりにいろいろな場所から撮《と》りすぎました。防ぎようがなかったのはもっともです。あなたと、野関利江さんとが、ちゃんと写真の中にいるんですよ。
春野雪子が小倉に降りた日は四月二十日で十四時十五分着の飛行機でした。これは問題です。あなたは、そのころ≪筑紫≫に乗って、広島近くの景色をひとりで見ているはずでした。それから、二月の寒いときに殺されたはずの野関利江さんが、冬のオーバーでなく、春の季節の支度で、あなたの横にいることです。現場には一時間ぐらいで行ける小倉の飛行場ですよ。
写真は、たしかな証拠です。非情なレンズは正確にその人の顔を記録します。一万人の証言よりも有力です。
これだけ言うと、あなたも、そのネガが、どんなに貴重で、何ものにも代えがたいかわかるでしょう。あなたの地位と生活とを奪い、人生から転落させる危険なネガです。恐ろしいネガです。あなたはきっとほしいと思うでしょう。どのような理由で、利江さんをあなたが殺したのか、その動機はわかりませんが、たぶん、あなたが飽いたのかもしれません。ぼくは、まだ利江さんを愛しています。忘れられません。愛しているぼくを捨て、殺す運命にあるあなたの手に抱かれたのは、彼女の不幸でした。しかし、ぼくは、何もあなたに仕返しを考えているのではありません。ぼくも、利江さんとの関係がわかったら、会社の都合が悪くなるので、警察に訴えようとは思いません。ぼくは若いから貧乏です。その写真は偶然にぼくが友だちから見せてもらって気づいたのです。写真をうつしたカメラマンは九州のある新聞社の人で、友だちの兄さんです。ぼくは頼んで送ってもらいました。
変な見栄《みえ》は張りません。このネガを買ってください。ほかの新聞の写真をとりよせて見ると、あなたと利江さんの顔は出ていませんでした。このフィルムだけです。たいへん貴重です。あなたの社会的生活と出世を奪い、死に追いやるおそろしいネガです。ぼくは貧乏だが、若いからたくさんな金は要求しません。二十万円でけっこうです。
よかったら、×日の夜八時かっきり、新宿駅北口の電話ボックスの前に来てください。ぼくは背広ですが、目印のためにネクタイをはずし、片手に茶色のレインコートをたたんで持っています。天気でも、レインコートは持って行きますから。
では、お待ちしていますから、よろしく願います。
[#地付き]電話の青年」
[#ここで字下げ終わり]
長い文句の手紙であった。文字も下手《へた》だった。しかし、秋場文作は、いかなる宗教書よりも厳粛に読むだろう。
沼田仁一は、そのずしりと掌《てのひら》に手応えする厚い封筒を持って街に出かけた。電車が走り、車が疾駆していた。人が忙しそうに歩いている。変わったことのない風景だった。彼は赤いポストに近よって、その封筒を投げ入れた。手紙はポストの底に落ち、音が聞こえた。
沼田仁一はそれを大事そうに聞いて、電話をかけに行った。
三日めの夜。沼田仁一は、茶色のレインコートをかかえ、ネクタイのない疲れた背広で、新宿駅に悄然と立っていた。
灯と人とが、流れ、交差している。さまざまな声と音とが絶えず漂流していた。彼はそれを眺めていた。
黒い人影が、近づき、横から沼田仁一の身体を指でつついた。背の高い、中年の紳士だった。沼田仁一が廊下からガラス窓越しに見た顔であった。
「手紙くれたの、君だね、秋場だ」
渋い、低い声だった。
「そうです、金、持ってきてくれましたか」
沼田仁一は、見上げてきいた。
「うん」
紳士は新聞紙に包んだものを握らせた。
沼田仁一は包み紙をあけ、二十万円の紙幣のまちがいないのを眼で確かめた。
「ネガをくれ」
と、買主は催促した。
沼田仁一は、ポケットから、何もはいっていない茶色の安封筒を出して渡した。
秋場文作は、封筒の中身を出そうとして、眼を伏せて、のぞきこんだ。
そのへんに、ぶらぶらしていた人影が二人、用ありげに近づいてきた。
「刑事さん。この男ですよ。ネガを買いに二十万円、持ってきたのが証拠です」
沼田仁一は、秋場文作の胸に、痩せて長い指をまっすぐに向けた。
[#改ページ]
二 階
1
竹沢英二《たけざわえいじ》は、二年近く療養所にいたが、病状はいっこうに快《よ》くならなかった。入所患者にすすめられ、俳句雑誌に投稿したりして、一時期、句作に熱中したこともあったが、近ごろはそれにも飽いてきた。回復の希望が薄れてくると、療養生活には倦怠と絶望を感じるばかりである。
療養所は、海近くの松林の中にあったが、東京からは二時間を要する。幸子《ゆきこ》は、月二回ここを訪れた。一日と十五日。これは家業の印刷屋の休日であった。
「どうだ、商売のほうは?」
英二は妻の顔を見ると最初にきいた。十年も経営してきたのだから、気づかうのは無理もなかった。幸子は営業成績を数字にメモしたもので見せた。売上げ掛金から、紙代、インキ代、活字代、機械の償却費、修理代、外交員一人、職人五人、小僧二人の給料、雑費、それらを差し引いたのが生活費と英二の療養費である。一日に行ったときは、きまって先月の数字を見なければ気のすまない人であった。
「女手でよくやってくれてるね」
夫はほめた。月々、黒字になっている。
「あなたがお留守だから一生懸命ですわ」
幸子は言った。
「ありがとう。おれがいる時よりは成績がいい」
「いいえ。あなたに帰っていただいたら、どんなに助かるか。ただ、経費を必死に切りつめていますの。女の力では、そんな消極的なことしかできません」
「得意先の会社や商店も、おまえが回っているのだろう?」
「三宅《みやけ》さん一人じゃ手がまわりませんわ。電話がかかったら私が自転車でとび出して行きます。ついでに近い所を回ってきます。皆さん、同情してくださるのか、よくしていただけますわ。ほかの印刷屋と競争になっても、単価があまり違わなければ、うちにくださるようになさいます」
「商売に慣れたんだね。おまえは頭脳《あたま》もいいし、他人《ひと》に愛嬌がいい」
「そんなこと、ありませんわ。二年かかってコツがわかったのでしょうか。罫《けい》ものの面倒な見積りもまごつかなくなりました。ただ、近ごろ、長期の手形をもらうので、材料の支払いが苦しくなりましたが」
夫婦にとっては、商売の話は一つのたのしみであった。たいしたもうけではないが、赤字よりは明るかった。
「おれも、おまえのおかげで、左うちわでベッドに寝ていられるわけだな」
英二は枕につけた顔をねじって、横で果物をむいてくれる幸子を満足そうに見たものであった。
それが、ここ二、三カ月、英二は、何を聞いても気の浮かない顔をした。以前のように眼は輝かず、無気力に天井を見ることが多かった。
「幸子、おれはもう家に帰りたい」
ある日、訪ねて行った幸子に夫は言った。
「ここに寝ていても、家にいても、おんなじことのようだ。二年辛抱したが、まだこんな状態だからな」
「何をおっしゃるのです。病気に性急《せつかち》はいけませんわ。気長に養生してください。あなたより三年も四年も長くここにいる人がいるじゃありませんか」
幸子は反対した。
「そんな長期患者は、もう見込みのない人さ」
夫は眼尻に皺《しわ》をよせてわらった。
「どうせ、そういう組にはいるのだったら、家で寝ていたいのだ。機械の音を聞いたほうが、まだおれに活気が戻る。商売のほうだって、寝ていておまえの相談に乗れる」
「商売のほうはいいんです。今までどおり、なんとかやれそうです。それよりも、そんなに気を苛立《いらだ》てずに、俳句でもお作りになって、落ちついて療養してください。私が月に二回でお寂しかったら、三回でも四回でも面会に参りますわ」
幸子は夫をなだめようとした。英二の髪はぱさぱさに乾き、鼻梁《びりよう》は尖《とが》り、眼だけが光っていた。
「いや、毎日、おまえと一緒にいたいのだ」
夫は冗談めかして言った。
「そりゃあ、私だって。でも、困りますわ、そんなご無理をおっしゃって」
「無理じゃないさ。この四角い病室に二年間、こもっていてみろ、たいてい飽きあきする。窓から見える景色は毎日同じものだ。朝、眼がさめる。やれやれ今日もこいつとまたにらめっこかと思う。看護婦の検温が日に四度、医者の回診が午前と午後、食事が三度。みんな同じ顔がはいってくる。ちっとも変わらない。読む本は患者仲間で交換しあっても、三日もすると一冊も残りがなくなる。あとは天井と向きあってるだけだ。人間の感性はすり減ってゆくばかりだ。おれは、こんなところで死にたくない」
「死ぬ──」
幸子は声をのんだ。眼が狼狽して夫を凝視した。
「あなた」
「いいんだ。すぐ、死にゃしないさ。ただ、こんなところに放りこまれていると、夜中なんか眠れぬまま、くだらないことを先々と考えるのだ。これはいけないと思うよ。おれに必要なのは気力だよ。これじゃ精神的に参って病気まで悪くしてしまうよ」
「だって、ここは空気もいいし、手当ても行き届いていますわ。うちは埃《ほこり》っぽいし、手当てもここのように十分にはできませんわ」
「手当ては、付添い看護婦でも付けてくれたら、ここと五十歩百歩だ。なるほど階下から工場の紙埃などが上がってくるだろうが、換気に気をつければいい。とにかく、おれはこの療養所にいるのががまんできなくなったのだ。気分がめいってしかたがない。耳に印刷機の音を聞き、おまえの顔を始終見て、商売のほうまで指図できたら、元気が出てくる。活気が違うのだ。こりゃあ大切だな。いま、おれがほしいのはこれだ。思っただけでも元気になれそうだよ。頼む。幸子。ここでは気分から死んでしまいそうなんだ」
夫は懇願して説いた。昔から言い出したらきかぬ人だった。十五年間一緒にいて、幸子はこの夫の性質を知っている。
しかし、子供がなかった。それが彼女の意識のどこかに、結婚してまもない錯覚をいつまでも揺曳《ようえい》させていた。それは美点でもあり、落度かもしれなかった。
二カ月の後、結局、幸子が夫の主張をきいて退院させたのは、その落度のほうだといえそうである。
療養所を出た日は寒い日だった。英二は車の中に何枚もの厚い毛布に包みこまれ、外に流れる風景を、子供のように物珍しげな眼で、うれしそうに、きょろきょろ眺めていた。外光をうけると、唇にうるおいがなく、皮膚が艶《つや》を失って白いせいか、毛穴が醜く目立った。
幸子は見て後悔した。もう一度、この車を療養所へ引き返させたい衝動がつきあげた。
2
わが家の二階に寝ると、夫は眼を細めて喜んだ。手を打たんばかりであった。
「いいなあ。やっぱり自分の家だ。この気持はおれのように二年も他所《よそ》で寝ていたものでないとわからないよ」
階下から紙を叩く機械の騒音が上がってきていた。職人の話し声が聞こえる。
「これだよ、おれが夢の中でも聞きたかったのは。いいな。何ともいえない。元気が出そうだよ、幸子」
夫は床の中ではしゃいでいた。
「よかったわ。でも、心配だわ」
幸子はおそるおそる夫の顔を観察した。
「何がだい?」
「だって、療養所から途中で無理に、退院したんですもの。向こうの先生も、とても気づかってらしたわ」
「大丈夫だ」
夫は力んだ。
「あんな無味乾燥な所に寝ているより、こっちのほうがよっぽど気持が爽快なんだ。病気は気のものというじゃないか。なんだか、たった今から快《よ》くなってゆきそうな気がするな。おまえもずっと傍にいてくれるしな」
「そりゃあ、私もうれしいけれど、なんだか心配でしようがないの。大丈夫? そんなにお喜びになって。大事にしてくださらないと困りますわ」
「大丈夫だよ。おまえがそんなに心配するのだったら、付添い看護婦を頼んでくれ。それだったら、入院しているのと同じだ。いや、専用で看《み》てくれるから、療養所にいるよりいいかもしれない」
夫は言った。
むろん、幸子はそのつもりだった。階下に降りると外交員の三宅が立っていて低声《こごえ》できいた。
「奥さん。大将の具合、どうだす? もう連れて帰りやはってよろしのんか?」
三宅は五十年輩だが、大阪から来ていた。
「快《よ》くて帰ったんじゃないのよ」
幸子が説明すると、三宅は首を傾けた。
「そら大将の気持かてわかりますけどな、ちょっとお早うおまへんか?」
その時期でないことは幸子にもわかっていた。しかし、英二にせがまれてどうしようもなかったのだ。夫の言い分、というよりも、その心情に負けたのだ。療養所の医者は不機嫌だった。幸子の申し出を無謀だと言った。
それなら、どれくらい、療養所においたら治癒するのかと幸子はきいた。その答えに医者がある期間の数字を言ってくれたら、彼女も無理に夫の言うとおりにはならなかったかもしれない。医者の返事は曖昧《あいまい》だった。沈黙に等しいその返答が、幸子に夫を連れ帰らせる決心を固めさせたのだ。同じことなら、夫の喜ぶようにさせてやりたかった。実際夫の言うとおり、絶望感をいだいて療養所に寝ているよりも、家に帰って元気づけば、あんがい、回復のきっかけとなるかもしれないのだ。幸子はその淡い希望にとりすがっていた。
幸子は、電話帳を繰《く》って、派出看護婦紹介所を捜した。あんまり遠くない所に、電話番号を二つ持っている会があった。電話を二つもひいている所に信頼感がわいた。いかにも優秀な看護婦をおいてはやっていそうな会に思われた。
電話には初め取次ぎらしい女が出たが、用件を言うと、男のように太い女の声に変わった。
「私が会をお世話しているのですが、どういうご病気ですか?」
先方の会長が問うた。幸子が答えると、病状をいろいろ質問した。状態によって料金が違うらしかった。
「そういう病人でしたら、若い人よりは経験の多い年輩の人がいいでしょう。ちょうど、いい看護婦がいますから、さっそく、お伺いさせます」
料金は食費つきで一日五百円だと言った。幸子は頼んだ。
二階に上がると、夫は眼をふさいでいた。くぼんだ眼窩《がんか》に疲労が沈んでいた。二時間も車に乗せた結果が覿面《てきめん》に出た思いで、幸子はぎくっとなった。やっぱり無理をして連れて帰るのではなかった。またしても後悔にすくんだ。
夫は薄く眼をあけると、幸子を見て笑った。
「いい気持で、うとうとしていた」
ここにおすわり、と顔でうながした。
「お疲れになったのじゃない?」
幸子は布団《ふとん》の下に手を入れて、夫の温《ぬく》い手首をなでた。
「平気だ」
夫は言って、唇をある形にした。それは二年ぶりであった。幸子は顔の上に伏せた。かすかな口臭が彼女の唇をあけて熱く流れこんだ。夫は咽喉《のど》を動かして妻を吸った。
夫の熱っぽい手が、幸子の身体を布団の中に匿《かく》まおうとした。彼女は身を退《すさ》らせた。
「いけません。もう、わがままをお出しになっちゃだめよ」
夫は弱く笑ったが、眼が粘って光っていた。
「療養所にいらっしゃる時と同じ気持をもってくださらなきゃあ嫌だわ。いい気になって、油断なさると、取り返しがつかなくなりますよ」
幸子はたしなめた。
「いま、派出の看護婦さんを頼みました。これから、ちゃんと看護婦さんの言うことを守ってくださいね。お医者さんは前の関口《せきぐち》さんをお願いしましょう」
「看護婦が今日から来るのか?」
「まもなく来るでしょう。あなたが快《よ》くなる見通しがつくまで、ずっと居てもらいましょうね」
夫は、つまらなそうな顔つきをした。
「あら、どうしてそんな顔をなさるの?」
「他人が傍にずっと居ると、せっかく、おまえの顔を見ながら、何もできない」
「まだ、そんなことおっしゃるのね」
幸子が睨むと、夫はふたたび彼女の頭に腕を巻き、耳のそばで、低い声であることを質問した。
幸子は頬をあからめて言った。
「私にはお店の仕事がありますわ。忙しくて、なんにも考えませんの、だから、あなたも一生懸命|快《よ》くなることばかりを考えてくださいね。私もその先をたのしみに働きますわ」
離れると、夫は自分の顔の上に布団をかぶせた。
頼んだ派出看護婦は一時間後に来た。
幸子とあまり違わず、三十五、六歳ぐらいに見えた。背が少し低く、まるい眼に愛嬌があった。色が白く、若い時はかなりきれいだったと思われるが、眼の下にはたるんだ皺があり、髪が少なくてやはり年齢だけの顔であった。この年齢になるまで派出看護婦で働かなければならないとは、どんな境遇のひとであろうかと幸子はひそかに思った。
会長の紹介状みたいなものを差し出して、丁寧に挨拶した。世慣れたところはあったが、下品でないところに、幸子は好感をもった。紹介状によると坪川裕子《つぼかわひろこ》という名だった。
「坪川さんは、どのくらい、このお仕事をやってらっしゃいますの?」
幸子はお茶を出してきいた。
「はい。十八のときに免許をとりまして病院勤務をしてからずっとでございます。結婚して六年ぐらい休みがありますけれど」
坪川裕子はつつましやかに答えた。
「で、ご主人は? あら、こんなこと伺って悪いわ」
「いいえ。四年前に亡くなりました。子供を田舎の実家においているものですから」
彼女はどこでもそれを聞かれるのになれているのか、別段、怯《ひる》みもせずに答えた。
「そう。それは大変ですわね」
幸子は、やはり、いけないことをきいたと思った。最初でなく、もっと後になってきけばよかったと思った。
しかし、坪川裕子にはそんな暗い様子はなかった。何よりも経験の長いことが安心であった。若い人と異なって、家庭の体験があれば病人の世話も行き届くにちがいないと思われた。会長が電話で、いい人があると言ったのは、まちがいなさそうであった。
「それではお願いしますわ。病人は二階で寝ていますの」
「はい」
坪川裕子は持ってきたトランクから白衣をとり出すと、手早く着替えた。きびきびした動作であった。
「看護婦さんが見えましたわ。坪川さんとおっしゃる方です」
二階に上がり襖《ふすま》をあけてはいると、幸子は夫に言った。坪川裕子は幸子の後ろにすわって病人におじぎをした。
夫は首をもたげて看護婦を眺めた。坪川裕子も竹沢英二を見た。
幸子の気がつかないことが、二人の遭遇した視線に起こった。
3
坪川裕子は、世話の行き届いた看護婦であった。することに誠意が籠っていた。それは一つ一つ処理する動作を見ているとわかるのだ。動作には職業的な美しさがあった。熟練の手さばきが律動的である。
が、それだけではない。職業的というものはどこか冷たさがあるものだ。それは傍観していても嗅《か》ぎとれる。坪川裕子にはそれがなかった。親身になって世話をする、という真心が満ちていた。くりくりした眼を動かして、病人の注意に油断がなかった。
幸子には、二日も経《た》つとそれがわかった。
「あなた、いい看護婦さんに行き当たったわね」
幸子は、坪川裕子が席をはずしているときに夫に言った。
「まあね」
夫は頭を上げ、自分の片手で枕の位置を直しながら答えた。
どこか気のないような答え方だった。
「よかったわ。ずっと居てもらいましょうね」
幸子のほうが乗り気だった。
「あの人に任せておけば大丈夫だわ。私、安心してお店の用事ができそうね」
「そうだな」
夫はものうそうに言ったが、眼は輝いていた。
「店のほうも大事だからな。そのおかげでおれがこうして寝ていられるんでね。まあ精を出してくれ。おれも寝ているが、今度は見てあげられる」
「ぜひね。店は主人がいないとやっぱりだめなものよ。たとえ、寝ていてもね。私、はりあいが出たわ」
坪川裕子が戻ってきた。夫婦が話し合っているのを見ると、会釈《えしやく》して、枕元の水差しの水を取りかえにすぐに出て行った。遠慮しているのだった。
「坪川さんはね」
と、幸子は低声《こごえ》で言った。
「未亡人ですって。子供が一人、実家に預けてあると言ってたわ」
夫は別段興味を起こしていそうになかった。
「あら、ご存知でしたの?」
「いや、知らない」
夫は少しあわてて首を振った。
「知らないが、そんなこと、おまえ、もうきいたのか?」
夫の眼差《まなざ》しには、ちょっと非難があるようだった。
「うっかりね。あとで悪いと思ったけれど。苦労してんのね。苦労しているから、万事によく気がつくのだわ」
夫はたいぎそうに眼をつむって、それには相槌を打たなかった。坪川裕子が水差しをかかえて忍びやかに帰ってきた──。
関口医師は三日おきに往診に来てくれた。急変する病状ではなかった。回復する見込みも遠かった。医師の様子にそれが出ていた。幸子がきいても、別に変わりはないと言い、季節が変わり、春になったら快《よ》くなるでしょうとたよりないことだった。が、療養所での医師の態度を見てきている幸子には、さして失望も起こらなかった。
その関口医師が、最初の往診の日に、二階から降りてきて、
「奥さん。いい看護婦さんを雇いましたね」
と、見送りに立つ幸子に言った。
「そうでしょうか。紹介所からよこした人ですが」
幸子は医師を見上げた。
「われわれは一目でわかりますよ。あの人は、年齢《とし》がいっているだけに経験が深いですね。よく、気がつきます。ああいう看護婦をつけておくと、へたな医者にかかるよりもいいんですよ」
幸子は心強く思った。そんな人なら、いつまでも居てもらいたい。五百円の約束だが、少しお礼を出してもいいと考えた。
坪川裕子は控えめだった。初めて会ったときとは少々印象が違う。もっと、はきはきとふるまう人かと思ったら、幸子に対しては言葉も少なく、眼を伏せて丁寧にものを言った。
「坪川さん。遠慮なさらないでね。長く居ていただくのだから、うち同様に、気軽にしてくださいね」
幸子は彼女に言った。看護婦は頭を下げて、はい、と言った。幸子は、遠慮深い女だと思い、もう少し明るさがあってもいいのではないかと感じた。それとも、派出看護婦は、病人の家を回っているのだから自然とそうなるのであろうかと思ったりした。
しかし、病人の世話をよく看てくれれば、それで言うことはないのだ。その点では坪川裕子は立派であった。幸子が、いつ二階に上がって行っても、彼女は患者の枕元にすわり、病人の様子を見まもっていた。退屈であろうと幸子は雑誌をおいているのだが、それを読んだ形跡もなく、机の上にきちんとのっているだけだった。
「今は、ご気分がよろしいようです」
坪川裕子は、幸子を見ると相変わらず丁寧な口吻《くちぶり》で報告し、体温表を見せたりした。だが、すぐその後では、決まって座をはずした。
「遠慮深いひとね」
と、幸子は見送って夫に言った。
「新婚夫婦じゃあるまいし、二人きりでおくこともないのにね」
夫は笑うかと思うと、顔を天井に向けて、ぼんやりした眼をしていた。
「でも、親切に世話してくれるでしょう?」
幸子は夫をのぞいて言った。
「不親切ではないね」
夫は、ぼそりと答えた。
「私よりいいでしょう?」
何気なく言ったのだが、夫の眼に急にこわい表情が出た。その思いがけない反応に、幸子のほうが、かすかにあわてた。
「私がお店の仕事の合間を見てお世話するよりも、行き届いていいでしょう。私だと、どうしても粗末になりますわ」
幸子は言い直した。なぜ、そうつけ加えねばならないのかわからなかった。
「うん」
夫の眼は、そのとき和《なご》んでいた。
幸子は階下に降りながら、夫はどうしてあんな眼をしたのであろうかと考えた。坪川裕子が来てから、もう四、五日経っていた。その四、五日来、夫はなんとなく神経質になっていた。幸子を見る表情が、苛々《いらいら》したようで、笑いがなかった。よく世話してくれるようでも、やはり他人をおいたので、夫の神経を尖らせているのかと思った。
店の仕事は忙しかった。電話で注文が来る。記帳がある、見積りがある、印刷の進行状態、遅れた言いわけ、刷りあがった品を小僧に届けさせる、材料屋への支払い、手形の割引、得意先回りと、集金、苦情をきく、刷り直し、校正、そのうち外交員の三宅が帰ってきて見積りの相談など、瞬時も幸子は手が放せなかった。
幸子は、あまり二階に上がって行く暇がなかった。それは頼みにできる付添い看護婦をつけた安心もあるからだと信じていた。それでも、むずかしい見積りや、めんどうな問題に当面すると、夫のところに行く用事になった。
しかし、階段に足をかけるたびに、幸子は心の中に素直に急いで上がれない躊躇《ちゆうちよ》が起きた。理由のないことである。が、看護婦というよりも、ひとりの女が、二階で夫とひっそりと向かい合っている意識が、突然に起こってくるのは、どういうわけであろう。なぜ、女に意識がかかるのか。幸子は、階段をわざと足音たてて、ゆっくりと上がった。小さな工場からは印刷機械の音が響いているので、足音はそれに負けないように立てねばならなかった。そうしなければ悪い気がした。もとより必要のない遠慮である。
襖をあけると、たいてい夫と坪川裕子とは、はいってきた幸子に、揃って眼を向けていた。幸子のほうがなんとなくたじろいで、頬が熱くなった。瞬間、自分が他人のような錯覚を起こした。
4
夜は、病間との境の襖をあけ放して、一つ部屋に幸子と坪川裕子とが寝た。交代で夜通し起きているほどの病状でもないので、敷居ぎわに坪川裕子が横たわり、次に幸子が寝た。坪川裕子のほうが英二に近かった。それは、看護婦だからしかたがない。妻の位置よりも、看護婦のほうが病人本位では大切であった。夜中に、いつでも起きる態勢が必要だった。
実際、坪川裕子は、忠実に任務を実行していた。英二が低声《こごえ》で一言いうと、がばとはね起きて用事をした。布団の裾のほうに器物をさし入れ、じっと待っていることもあれば、背中をなでていることもあり、薬を飲ませていることもあった。幸子は、ときどき眼をさましてそれを見る。昼の疲れで気づかないで眠っている時もあるのだから、それを知るのはたまのような気がした。
そのことは看護婦の勤務なのだ。が、妻の任務とも言えた。ここでは看護婦が妻のすることの半分を奪っていた。あるいはそれ以上かもしれない。幸子は、気づいても起きあがることができなかった。
夫と看護婦との、その時の会話は極めて短く、事務的で、そして低かった。一方は病人の命令であり、一方はその受けこたえであった。が、幸子の醒めている耳には、ひどく秘密めいて響いてならなかった。夫婦間に、あることが行なわれる前後の低声を容易に連想できそうだった。そういえば、夫は近ごろ、幸子に少しも唇を求めない。それは、もっとあってもいいのだ。幸子が夫の前にいる時は、坪川裕子はかならずといってもいいほど、何かしら用事をこしらえて座をはずしているのだから、夫はなんでもできるはずであった。二年間、療養所生活をした夫は、衰えた身体《からだ》だが、もっと激しく妻の皮膚を求めるのが普通ではなかろうか。現に、療養所から連れて帰った日は、夫の手は妻のにおいを探ろうとしていた。
夫は、近ごろ、幸子だけと居ても、さっぱりとした顔をしていた。幸子が、衝動的に夫の頭を抱え、唇を押しつけても、落下してくるものを仕方なく受け止めるというほどの熱意しかなかった。時には、煩《うる》さそうに、あるいは、何かを恐れるように顔を振った。
「よせよ」
と、叱るように言った。そんな時の彼の眼には、以前ほどの粘っこい光はなかった。むろん、幸子の頬を赤らめさせるような質問もしなかった。
夫は、幸子と二人きりでいると、何か、おどおどしていた。それが妙な苛立ちとまじった。夫は何をはばかっているのか。そうだ、それははばかっているという形容が当たりそうだった。それなら対象は看護婦しかない。もちろん、彼女は他人には違いないが、夫は不当に意識しすぎているようだった。これも病人のとがった神経からだろうかと幸子は考えるのだ。
幸子は、仕事のことを相談に行っても、英二が全く気乗りしないことに気づいた。あれほど、それに熱意をみせて、たのしそうな顔をした彼ではないか。見積りや、銀行のことなどを話しに二階に上がっても、夫は聞き流すだけで、
「それは、おまえのいいようにしてくれ」
と答えるだけだった。積極的な表情は何もなかった。幸子は、はずんで持ってきた用事のやり場を失った。
「まだ、本当に気力が出ないんだね。頭もぼんやりしている」
と、夫は妻にきかれて理由を述べた。
「療養所から出るときは、実際にもっと元気が出ると思ったんだがね。まだ、どうもいけない」
「印刷機械の音を聞いたら元気が出たと、帰った日におっしゃったわ」
幸子は夫の顔を見つめて言った。機械の騒音は階下で鳴っていた。
「うむ。あの時はそう思ったがね。頭が重いせいか、今ではその音がわずらわしいくらいだ」
それなら、また、療養所にお帰りになるといいわ、と幸子は言いかけて、それは声にならなかった。
幸子は胸がつまって階下におりた。この寂寥《せきりよう》の原因ははっきりしない。入れ違いに坪川裕子が階段を上がって行った。少しうつむき、いつもつつましやかな姿勢だ。幸子はそれを眼の端に入れて、動いている機械の傍に戻った。原因は彼女だろうか。直感は茫乎《ぼうこ》としていて容《かたち》が見えなかった。彼女は、たった一週間前に来た年増《としま》の派出看護婦ではないか。どこにも直感と結びつく不安な線はなかった。
しかし、夫と坪川裕子と二人だけの会話を聞いたことがなかった。幸子が聞いているのは、彼女自身が介在している時のみである。患者と看護婦の事務的な、乾いた短いやりとりだけだった。それは二人だけの会話ではない。もっと、長い、笑いの混じった会話を耳にしていない。それを聞いていたら、このような動揺はないであろう。彼女の不在の間に、夫と坪川裕子との未知の言葉の交換が行なわれていそうな想像があった。
坪川裕子は、相変わらず愛嬌のあるまるい眼をして幸子に行儀のよい言葉を使った。敬語はいつまでも崩れなかった。いかにも自分は派出看護婦であり、雇い主に対する関係を心得たような態度であった。亡夫の子を実家に預け、その養育費と貯金にひたむきになっている女としか、見えなかった。髪が少なく、眼のふちの小皺《こじわ》に苦労の痕跡があった。幸子は彼女と向きあっている時だけは安心できた。
が、幸子は看護婦が傍から離れ、うつむき加減で二階に上がって行くと、ふたたび妙に落ちつきを失うのだった。そのような不安を与える何物も坪川裕子は、その容貌にも、身体にも、年齢にも持っていそうになかった。いや、どのように分析しても、それはない。だのに、幸子に動揺が起こるのはなぜだろうか。あるいは二階がいけないのであろうか。
夫の病床に、坪川裕子が一人でいることのためか。それは看護婦だから、わかりきったことなのだ。では、襖でしめきった二階の部屋に夫と彼女だけを密閉し、幸子が階下に隔絶された位置から起こる不安なのか。それは、幸子が坪川裕子に看護婦よりも女を感じたからにほかならなかった。そこにくると、またもとの漠然とした直感に返った。
ある晩、幸子は夜中に眼をさました。病間には暗い電灯がいつもついている。その薄い光線の下で、夫と坪川裕子とが何かしていた。幸子は、はっとなった。心臓の速さが全身に伝わった。
が、よく見れば、いつものとおり、看護婦が夫に起こされて用事をすませ、そのあとで背中をなでているのであった。幸子を驚愕させたのは、赤い色彩だった。看護婦が白衣の上に羽織を着ているのである。暗い光線の下ではそれが長襦袢《ながじゆばん》のように見えたのだ。
いや、それとても、もっと明るい灯《ひ》の下では、色彩は年齢相応にくすんだものに違いない。
夜ふけの冷気では白衣だけでは寒いに相違なく、羽織を着るのが普通であった。
だが、そのように考えても、幸子の驚きは去らず、神経がとぎすまされた。耳に、夫と坪川裕子との低い声が聞こえてくる。言葉は明瞭でなく、単語も聞き取れなかった。ものを言うたびに、舌がぴたぴたと湿性の音を出した。
幸子は、耳をおおいたかった。
5
昼間、幸子の前におかれている夫と坪川裕子とは、依然として自宅療養患者と付添い看護婦であった。言葉は短くやはり事務的だった。二人は視線も合わさなかった。明るい陽射《ひざ》しのはいった座敷には、夜の薄暗い内密めいた雰囲気はあとかたもなかった。
冷静に考えてみればなんでもないことだった。患者と看護婦に位置づければ、奇異はなかった。病室だけの二人、夜中の看護、少しも異様ではなく、異常なのは幸子の神経かもしれなかった。だが、ふしぎだった。どうしてこの疑惑が起こるのか。坪川裕子は、さして美人でもなく、若くもなく、そしてこの家に来て、たった十数日ではないか。考えられないことだ。そんな短時日に男女の心は結ばれるものだろうか。
しかし、幸子の前にいる二人は、あまりに何食わぬ顔でありすぎた。感情がなかった。幸子の眼に見えない部分が心の中でしだいに拡大してくるのは、その裏側にある空白である。彼女が不在のときの、夫と坪川裕子のささやきや動作であった。
坪川裕子には、いささかの変化もなかった。相変わらず、勤勉で、幸子に丁重だった。彼女が十数日前、初めてここに紹介状を持って現われた時と全く同じであった。遠慮深く、言葉は控えめだった。それから幸子が夫の前にすわる時は、やっぱり、そっと立ちあがってその場をはずした。
幸子は、手探りしようがなかった。勝手に猜疑《さいぎ》とひとり相撲をとっているような気がした。これは恥ずべきことかもしれない。しかし、たしかに、この意識ははずれた矢ではなさそうだった。どこかに手ごたえを感じた。どこかに──それは依然として形のないものであった。
夫の病室に行くことが、幸子はしだいにこわくなった。当然夫に相談しなければならないことでも、二階に上がることをためらった。何か威圧のようなものを二階から感じるのだ。異常な、ただならぬ雰囲気が熱風のように階段から吹きおりてくる。彼女は夫への用事をほとんど圧殺した。わけのわからぬ我慢だった。
夫の病間に行くのは、幸子のほかに、医者の関口さんと、外交員の三宅がいた。幸子は二階から降りてきたこの人たちの様子に特別の兆候はないかとうかがった。
幸子は、関口さんの診察のときには、わざと二階に行かなかった。そのほうが、医者が病間の空気を感じるのに鋭敏に思われたからであった。
関口さんは二階から降りて靴を穿《は》くまで、別段な様子はなかった。口からも、病状のこと以外は変わった言葉は吐かれなかった。三日に一度来るのだが、いつも同じことであった。幸子は安心し、同時にもの足りなかった。
が、その関口さんが、ある日来て、たった一度だけこんなことを言った。
「ご主人は、だんだん元気になられますね」
「あら、そうですか。そんなに?」
幸子は思わず眼をみはった。
「いや、病気のほうはたいして変化はありませんがね。気持がひどく元気そうなんですよ。何よりですよ。薬よりも精神的なことでずいぶん違いますからね」
幸子は知らないことを聞いたと思った。幸子が知っている夫は、いつも詰まらなそうな顔をして枕に頭をのせているのだ。不機嫌で、笑ったことがない。何を言っても生返事だった。快活なところは少しもなかった。
すると、医者に見せた顔と、自分に向ける顔は、違うのであろうか。いや、夫がわざわざ医者にそうふるまうはずがない。夫がそのような状態のときを、医者がたまたま目撃したというのであろう。幸子は、関口さんの一言から、自分の不在のときの夫の一部分を見た思いがした。夫が、坪川裕子を傍に寄せて、うれしそうに話し合い、笑っている光景が想像にうかんだ。
三宅は、医者にくらべると、英二のところに近づく度合いは頻繁《ひんぱん》であった。毎日、一度か二度は仕事のことで話しに行くのだ。何かを察知するのは、三宅のほうがもっと可能だった。
が、この大阪弁を使う外交員は、饒舌《じようぜつ》であったが、そのことにはまったく触れなかった。触れないというのは、ないからであろうか。どうもそうとは取れなかった。言ってはならないから、幸子には沈黙しているようだった。あんがい、職人たちにはこっそりと教えているのではなかろうか。幸子には、自分だけが聞こえない声に包まれているように思われた。
幸子は、尖ってくる神経がたまらなかった。これから早くのがれねば参りそうだった。二階の圧迫から解放されたかった。
それを言い出す機会は、思ったより早くきた。ある日、どうしても夫に相談しなければならない仕事の用事ができた。客が来て、待っているのだ。猶予はできなかった。幸子は二階に足を踏み鳴らして上がった。抵抗するものを押しかえすような気持だった。
階段を上がりきると、坪川裕子があわてて襖をあけて出てきた。手には何も持っていない。幸子に、ちょっと会釈するように頭を下げて、階段を下へのがれて行った。幸子は、うつむいた坪川裕子の頬に涙が流れているのを見のがさなかった。
幸子は、看護婦が階下に逃げて行ってから、はじめて激しく動悸《どうき》が鳴り出した。彼女はしばらくそこにうずくまった。いま、すぐ夫の傍へ行けば、夫の頬にも涙が流れているのではないか。その恐怖があった。
坪川裕子の頬に光っていた涙が、今までの得体の知れなかった茫漠とした渇《かわ》きを、急速に凝固させた。幸子の眼の前に容《かたち》のなかったものが、はっきりと形になって出た。抽象が、一筋の涙を見たことで現実に具象化された。幸子は、決心をつけて立ちあがった。
夫は眼を閉じて寝ていた。眠っていないことを幸子は知った。眼尻に涙のあとはなかった。急いで拭き去ったのであろうか。瞼《まぶた》が薄赤くなっていた。
夫は眠った恰好をしていたが、表情をこわばらせていた。幸子がそこにいることをあきらかに意識して動揺を押さえているのだった。
幸子は、すわって、
「あなた」
と言った。夫は二度めの声に薄い眼をあけた。眩《まぶ》しそうだった。
「坪川さんには帰っていただきますわ」
思ったよりも、ふだんの声が出た。
「代わりの方を呼びましょうね」
夫はわずかに唇のはしを痙攣《けいれん》させたようだった。それ以外は、いつもの平静な表情で特別な反応はなかった。
「よかろう。おまえのいいようにしてくれ」
夫は懶怠《らんたい》に答えた。聞きようによっては、観念した投げやりな自棄的な調子であったが、あくまでも妻の前を糊塗《こと》するようにもとれた。
階段をおりると、入れ違いに坪川裕子が上がりかけていた。いつもの習慣だ。幸子は、
「坪川さん」
と呼びとめた。坪川裕子は、はい、と返事し、幸子に軽くおじぎをした。頬には、もう涙の痕跡はなかった。幸子は、彼女を座敷に入れた。
二人だけで相対すると、坪川裕子は肩をすぼめ、頭を少し下げていた。少ない髪であった。幸子は自分が宣言する立場に立っていることを意識した。
「都合で、今日かぎり帰っていただくことにしました。いろいろとお世話になりましたが」
幸子は、言いながら、自分の頬がひきつるのを覚えた。坪川裕子の肩が少し慄えたように思えたが、よくわからなかった。
坪川裕子は両手を畳の上に揃えて、頭を下げた。それは承諾の表示であった。
「ふつつかで、お世話が行き届きませんでした」
彼女は丁寧に挨拶した。どの家に行ってもそういう挨拶をしているような調子であったが、それで終わったのではなかった。
「すみませんが、明日のおひるまで、おかせてください。あと始末のこともありますので、それまで旦那様のお世話をさせていただきとう存じます。明日のぶんのお給金はちょうだいいたしません」
屹《きつ》とした言い方であった。さしうつむいているので、よく見えないが、唇を噛《か》んでいるに違いなかった。それを幸子に承諾させずにはおかないような気魄《きはく》が坪川裕子の全身から炎のように立ちのぼっていた──。
(明日のぶんのお給金はちょうだいいたしません)その言葉が、幸子の心にいつまでも残った。しかし、その夜、彼女は坪川裕子といつものように一緒に寝たが、何事も起こらなかった。
6
翌日のひるすぎになっても、坪川裕子は二階から降りてこなかった。
階下で仕事に追われていた幸子は、心が騒ぎながらも、二階をのぞくひまがなかった。いや、正確には畏怖《いふ》が彼女の足をすくませたのだ。
二階からは、こそとも物音がしなかった。機械が紙を刷っているので、騒音に妨げられて何も聞こえるはずはないのだが、幸子は耳に神経を集めた。手は無意識に動いているだけで、心はそこになかった。
ある予感が、ついに幸子を駆り立てた。彼女は蒼い顔をして、階段を二階に走り上がった。
しまった襖の前で、幸子は息をのみ、聞き耳を立てた。膝が慄えた。しかし、この壁は突破せねばならなかった。襖をがらりとあけた。
男と女が、布団をかぶって寝ていた。行儀のいい恰好ではない。かけた布団は乱れていた。それは、そのまま少しも動かなかった。
思ったとおりが、正直に現実になっていた。正直すぎた。幸子は、あたりが一時に夜なかになったかと思った。すべての音が消えた。そのくせ、逆上は起こらず、起こるはずのことが当たり前に起こったのだという意識がした。それを錯覚とも思わなかった。
幸子は、布団の端をめくり、夫と坪川裕子とが顔をよせて、息を引いていることを確かめた。夫は落ちくぼんだ眼窩に瞼を閉じ、坪川裕子は、くりくりした眼を塞いでいた。眼のふちの皺は、もとのとおりであった。二人の口からは泡があふれて、敷布の上にこぼれていた。夫は伸びた髪を乱し、坪川裕子は、少ない髪をほんの二すじ三すじ、頬によじれさせているだけであった。
幸子は、布団の端を戻し、しばらくそこにすわった。下から機械の音がしていた。こんな場合に、仕事の手順がいろいろと浮かぶのは奇妙であった。枕元には睡眠剤の大瓶が空《から》になって二本ころがっていた。
夫は幸子から突然逃げた。連れ去ったのは坪川裕子であった。この背の低い、三十五歳の派出看護婦が、この家に来て一カ月も経たぬうちに、夫を略奪したのだ。途中の計算がまったく示されてなかった。結果が、一足飛びだった。
幸子は敷布団の下に、白い封筒の端がはみ出ているのを見た。幸子は、手を伸ばした。これが計算書だった。遺書も二通、夫のぶんと坪川裕子のぶんとがぴったり重なっていた。
幸子は夫の遺書の封を破った。落ちついた字ではなかった。
「突然、こんな結果になって詫びの言いようがありません。長い間の君の親切を決して忘れない。申しわけない、と言うよりほか言葉がないから、それだけを書いて、薬を飲もうかと思ったが、やっぱり一通りの事情を言ったほうがいいと考えたから簡単にふれておく。詳しいことを書いても、君には苦痛であろうから。
坪川裕子は、僕が君を知る前の恋人だった。事情があって結婚できなかった。その経緯《いきさつ》の説明は省《はぶ》く。とにかく、彼女と別れて、僕は君と結婚し、彼女は別な男と結婚した。以来、十六、七年、たがいに消息がなかった。
裕子が、突然、付添い看護婦としてこの部屋に現われたとき、僕は仰天した。彼女も息がつまるくらい驚いたという。幸か、不幸か、それは君に悟られずにすんだ。それが僕たちがこうなる運命の緒《いとぐち》だった。それからのことは書くこともない。君は敏感に察していたようだから。どんなに隠しても、妻の直感は鋭いものと知った。
裕子は不幸な人生を歩いた。僕の身体がとうから回復の見込みのないこともわかっている。同情がそこからあい寄ったというのは、月なみのようだが、以前に結婚できなかった愛情がふたたび燃えだしたのだ。だが、これは現実には遂げられることではない。君の存在、環境、そのほかの煩わしい事情が妨げている。
幸い、僕も裕子も、生きるより死ぬ条件のほうにぴったりはまっている。それで──」
幸子は、手紙をここまでよむと、投げ出した。坪川裕子の遺書は読む必要もない。それを書きのこした二人は、彼女の横に布団を被《かぶ》って寝ている。幸子は取り残された。妻は完全におき去られ、夫はひそかなる略奪者に連行された。いいようのない孤独感が幸子にわいた。身体が宙に泳ぎ出しそうだった。長いこと手をついて彼女はすわりつづけていた。二人が短時間に結ばれた理由はこれでわかった。昔の恋愛がよみがえったという。だが、幸子にとってはかかわりのないことだった。遠い知らない時のことだ。四、五日前からその情事が始まったと書かれても、同じことだった。
取り残された者がここにいる。世間の嘲《あざけ》りと憐愍《れんびん》と漠然とした非難とが彼女に集まるであろう。むろん、いわれのないことだった。しかし、不当にも世間は残された人間へ無慈悲にそれを加えるものだ。幸子は、自分の身体がずりさがるのを覚えた。この世から最も軽蔑と憐《あわれ》みを受ける存在になりつつあった。死んだものが負けというのは、この場合、嘘だ。疵《きず》を負ったのは生きてのこった者だった。不合理だが、実際は、そうなのだ。世間は敗者に仮借《かしやく》がない。
幸子は、静かに遺書を破り、火鉢の中で火をつけた。何度にも分けて裂いた紙を燃した。火はそのたびに炎を勢いよく上げた。
最後の火が鎮《しず》まり、白い紙の部分はことごとく黒い灰になった。灰は少しの空気の動きにも揺れて舞い立ちそうになった。
それから彼女は、布団の下から坪川裕子の身体を取り出し、抱えようとしたが、重かったので、ひきずるようにして夫からはるか遠い場所に移して寝かせた。衣類の皺を正し、胸に手を組んでやった。
夫の横があいた。その場所こそ幸子のものだった。そこに幸子が横たわったとき、彼女は初めて略奪者から夫をとり戻すのであった。坪川裕子は、ただの随伴者に変わり、幸子が勝利を得るのであった。
幸子は、便箋《びんせん》に新しく手紙を書きはじめた。宛名《あてな》は、後とりに決めた、現在まだ実家から高校に通っている姪《めい》の母、つまり姉にあてたものだった。
「──夫の病気は全治の見込みがありません。夫は絶望し、生きる気力を失っています。私は、夫と一緒にどこまでも参ります。夫から離れて、私という人間はないのです。かってな行動をお許しください。
看護婦の坪川さんが一緒に死んでくれるそうです。私は懸命にとめたのですが、どうしてもきいてくれません。彼女にも、そうしなければならぬ切羽《せつぱ》つまった事情があるのでしょう。坪川さんのことだけが、私の心残りです……」
幸子は、文字を綴《つづ》りながら、自分がどのように夫を愛していたかに初めて思い当たった。いかなる詐術《さじゆつ》も、その愛のためにはゆるされると思った。どこまでも夫に密着するためには──。
幸子は、箪笥《たんす》をあけ、夫の不眠のために用意してある睡眠剤の大きな瓶をとり出した。夫が彼女の場所を横にあけて待っている。
坪川裕子は幸子の夫の竹沢英二を略奪した。幸子は、今それを奪いかえした。しかし、実際の略奪者は幸子かもしれないのだ。
むろん、薬をことごとく飲んでいる幸子には、その懐疑はなかった。
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巻頭句の女
1
俳句雑誌「蒲《がま》の穂」四月号の校了のあと、主宰者の石本麦人《いしもとばくじん》、同人の山尾梨郊《やまおりこう》、藤田青沙《ふじたせいさ》、西岡《にしおか》しず子の間に、茶をのみながらこんな話が出た。いつものように、会合は医者をしている麦人の家であった。
「先生、今月も志村《しむら》さち女の句がありませんでしたね」
古本屋をしている山尾梨郊が言った。
「うん、とうとう来なかったね」
と、麦人はゲラ刷りをまだ見ながら言った。
「これで三回つづきますね。病気がよっぽど悪いのでしょうか?」
貿易会社に勤めている藤田青沙が、顔を麦人のほうに向けて言った。この編集委員の中では青沙が一番若く、二十八の独身だった。
「さあ、胃潰瘍《いかいよう》ということだからね」
「胃潰瘍というのはそんなに重いのですか。このごろは、手術すればすぐ癒るでしょう?」
「普通の病院ではね。しかし、ああいう所はそんな手術をすぐしてくれるのかな」
麦人は首を傾けた。彼が、ああいう所と言ったのは、隣県のH市にある施療院で「愛光園《あいこうえん》」という名がついていた。話に出てくる志村さち女というのは「蒲の穂」に去年から現われた女性投句者で、麦人選の雑詠で一度巻頭を占めたことがある。雑誌の志村さち女の名前の上には、いつも小さい活字で「愛光園」と住所のようについていた。つまり、彼女はそこの施療患者であった。
「手術をすぐしない、というのは、やはり予算のない関係ですか?」
梨郊が代わってきいた。
「予算は乏しいにきまっている。しかし、それで手術をするかしないか、そこは、はっきり僕にもわからないが、まあ、十分な手当てはできないだろうな」
繁盛している病院の経営者の麦人は、眼鏡を光らせて三人を見た。
「お気の毒ですわ」
と、西岡しず子が言った。ある会社の課長の妻女で二人の子を持ち、あまり不自由を感じない空気をいつも身につけていた。
「身寄りの方がどなたもいらっしゃらないのでしょうか?」
「施療院なんかにはいっているところをみると、そうでしょうな」
と、麦人は煙草を口にくわえた。
「いったい、いくつでしょうか?」
梨郊が言った。
「前に一度手紙をもらったことがある。ほら、巻頭をとった時に来た礼状さ。それによると三十二、三らしい」
麦人がそう答えたので、西岡しず子は自分との年齢の差を考えるような眼つきをした。
「結婚の経験はあるのですかね?」
「それはわからん。身もとのことは、問い合わせたことがない」
と、麦人は眼を少し小さくして梨郊の顔を見た。
「しかし、冗談ではなく、もう一度手紙を出してみる必要があるね。こう三カ月もつづいて投句がないとすると」
「もう一度?」
「うん。実は先月、見舞いかたがた投句の慫慂《しようよう》をしたところだ。会費は二度送ってもらったきりだが、それは免除してあげてもいいのだ。さち女は投句者の中でも、ちょっと光っているからね」
「本当に」
と、西岡しず子が共感した。
「私も注目している方ですわ。いつかの巻頭の句はよござんしたわ」
「それで、その返事は来ましたか?」
と、青沙が質問した。
「それがなんとも言ってこないのだ。あれほど熱心にそれまで投句をつづけた女《ひと》がね。だから病気が進行したのではないかと心配している」
麦人は煙を口から吐いた。
「先生」
と、青沙が言った。
「手紙はぜひ出してください。もし病気が重いなら、投句はどうでもいいですから、激励してあげたいのです」
「うん。まあ、そのつもりでいるがね」
「実は、さち女の句の一つを思い出したのです──。身の侘《わ》びは掌《て》に蓑虫《みのむし》をころがしつ。やっぱり彼女は寄るべのない孤独者ですよ」
「蓑虫か。なるほどね」
麦人が煙草をもった手の肘を机の端にのせて眼を上に向けた。三人はそれで考えるような表情をした。
そのことがあってしばらくすると、麦人の家に五月号の編集のためにまた同じ四人の顔が集まった。
「先生、やっぱり来ませんね」
と、藤田青沙が言った。
「なんだ。ああ、志村さち女のことか?」
「そうです。集まった句稿を引っくり返してみたのですが、ありません」
「そうだ。来なかった。手紙は僕が書いて出したのだが、返事が来ない。代筆でもいいから、だれかに頼めばいいんだがね」
麦人は少し不満そうに言った。
「どうしたんでしょう?」
西岡しず子がつぶやいた。
「まさか死んだのじゃないでしょうな?」
と、梨郊が麦人に首を伸ばした。
「死んだのなら、死んだと施療院から知らせがあろう。でなかったら、手紙は返ってくるはずだがね」
「愛光園が横着しているのではないでしょうな?」
「うん」
麦人の眼は、そんな場合もありそうだと言っているようだった。
「亡くなったのではないと思いますわ。いくら何でも、それなら愛光園から通知が来るはずです。手紙をこちらからお出しになっているんですもの。それに、月々の雑誌だって、さち女さんには送っていますわ」
しず子が口をはさんだ。
「僕もそれに賛成だな」
と、青沙は言った。
「彼女はやはり重症なんじゃないですか。手紙はだれかが読んで聞かせてあげても、代筆を頼む元気もないというような」
「そうだね」
麦人の眼つきは考え直したものに変わった。
「そうかもしれない。一度、愛光園の責任者あてに、ききあわせてみようか?」
「それよりも、先生」
と、青沙が言った。
「来月の初めは、A支部の句会があるでしょう。先生がご出席なさるご予定ですね。AとH市は近いですよ。汽車で四十分ぐらいかな。その句会の前か、あとかに愛光園までおいでになってはいかがですか? 先生が直接お見舞いにいらっしゃったら、当人は光栄に思って喜びますよ、僕も、その日は日曜だからお供してもいいです」
「ひどく熱心だね」
と、麦人は青沙を見て、眼鏡の奥の眼を細めて少し笑った。煙草が好きなので、笑うと黒い歯が見えた。
「いや、しかし、それはいい思いつきだ。なるほどAからなら近い。青沙君がついて来るというなら、僕も足を伸ばしてみようか」
「先生、私からもお願いしますわ」
しず子が少し頭を下げて言った。
「身寄りのない方なら本当にお気の毒ですもの」
梨郊が、商売が閑だったら自分も一緒に行こうかな、と言った。その予定は、それでできたようなものだった。
2
麦人と青沙は五月の晴れた日曜日、「蒲の穂」A支部の句会に行った。東京都といいながら、そこは隣県に近いはずれであった。約束した梨郊は、古本の市《いち》があるとかで参加を断わってきた。
句会は三時に終わった。支部の人に引き止められたが、麦人は所用を言って引きあげ、青沙と二人でH市に汽車で行った。さらに駅から愛光園までは六キロの距離だったが、バスで行くと、麦や菜の花畑の向こうには広い沼の水が光っていた。この辺は水郷であった。
愛光園は林に囲まれた中にあった。三棟つづきの古びた汚い木造の建物だったが、見るからに陰鬱な感じがした。それでも玄関前の花壇には、つつじが贅沢《ぜいたく》に溢れるように咲いていた。
埃《ほこり》っぽい受付に立つと、小さい窓をあけて看護婦が顔をのぞかせた。
「志村さんに面会したいのですが。志村さちさんです」
青沙が言った。
「志村さちさん?」
痩《や》せた顔の看護婦は窓の中で首を傾《かし》げていたが、
「ああ、その方なら退院なさいました」
と答えて、二人をじろじろ見た。
「退院? それはいつですか?」
「そうですね。もう三カ月ぐらい前です」
麦人と青沙とは顔を見合わせた。
「では、病気が快《よ》くなったのですか?」
「さあ、どうでしょうか」
看護婦が曖昧《あいまい》な顔をしていた。
「それでは、現在の住所は? つまり、退院した先はわかりませんか?」
「さあ」
麦人が青沙に代わった。彼は名刺を出した。
「私はこういう者です。院長先生がおられたら、志村さんのことで、ちょっとお眼にかかりたいのですが」
看護婦は名刺を眺めた。それには麦人の本名と医学博士の肩書がある。
「ちょっとお待ちください」
看護婦の尖《とが》った顔が消えた。彼女がまた現われて二人を粗末な応接室に請《しよう》じるまで、煙草を一本喫う間《ま》が、じゅうぶんにあった。
院長は五十すぎの太った人だったが、艶《つや》のあるあから顔が、この建物の中で不似合いに見えた。手に一枚のカルテを握っていた。
「お忙しいところを恐縮です。志村さんに会いたいと思って来たのですが、退院なさったそうですね」
麦人が言った。
「そうです、二月十日に退院しました」
院長はカルテを見て言った。
「病気のほうは快《よ》くなったのですか?」
「これをごらんください」
院長はカルテを差し出した。麦人は眼鏡をはずして、細い眼つきでそれを丁寧に読んだ。
「なるほど」
麦人はやがて顔を上げて眼鏡をかけた。
「むろん、本人はこれを知らなかったのですね?」
「そうです。胃潰瘍だと言っておきましたから」
と、院長は答えた。それから麦人と院長の間には、医者の術語のドイツ語をまじえて、二、三の問答があったが、横で聞いている青沙にはよくわからなかった。
「ありがとうございました」
と、麦人は言った。
「志村さんとは面識はないですが、私のほうの俳句雑誌によく句をもらっていますので、お見舞いに来たわけです」
「そういえば、志村さんの枕元には俳句雑誌がいつもおいてありましたな」
院長は言った。
「熱心に句を作る女《ひと》でしたよ。それが、ここ三カ月ばかりぱったり何も来ないので、どうしたかと思ったのです」
と、麦人は言った。
「三カ月前というと、志村さんがここを退院した時ですな。ちょうど、それくらいです」
「しかし、そんな状態で出て、どうするつもりでしょう。だれか引取人があったのですか?」
「ありました」
と、院長はうなずいた。
「結婚をする人が出てきたのです」
「結婚?」
麦人も青沙も、驚いて院長の顔を見た。
「そうです。突然のことで、お話ししないとわからないでしょうがね」
院長は微笑して、次のようなことを話した。
志村さち女の本名はさち子で、身よりがない。生まれは四国のM市で本籍もそこになっている。去年の暮れに、この愛光園で不幸な患者のため一般の寄付を募《つの》った。これは例年のことで、新聞にも出た。すると東京の中野に住む岩本英太郎《いわもとえいたろう》という人から五千円送ってきて、自分は四国のM市の出身だが、同郷人がお世話になっておれば、この金を見舞金として上げてほしいと手紙に書いてきた。愛光園では調べてみて、それは志村さち子しか該当者がいないことがわかり、五千円はさち子に与え、その旨を岩本という人に報告した。さち子も岩本氏に礼状を出したようだった。
岩本氏から、さち子に、改めて慰めの手紙が来る。さち子も返事を出す。こんな繰り返しが三、四度あって、ある日、当の岩本英太郎氏が、さち子に面会に来た。三十五、六の風采《ふうさい》の立派な人であった。その時も、岩本氏はさち子に三千円を贈って帰った。彼は親切に同郷人の不幸な患者を慰めて帰った。
それからも岩本氏は二度ばかり来た。機縁というものはどこにあるかわからない。岩本氏とさち子の間に愛情が生じたらしい。今年の一月の末、彼は院長に面会して、さち子と結婚するから引き取らせてくれと申し出た。自分のほうで養生させるから、ということだった。
「それは結構ですが、あなたは志村さんがどんな病気か知っていますか?」
院長はその時、言ったそうである。実は、あれは胃潰瘍ではない。本人にはそう言ってあるが、本当は胃癌《いがん》なのだ。あなたが結婚しても、当人の生命はもう半年と保てないでしょう、と実際のことを告げた。
岩本氏はひどく衝撃をうけたようで、しばらくむずかしい顔で考えていたが、やがて決心をつけたように、いや、それならなおさら可哀想だ、こういう場所で死なせたくない、たとえ、三月《みつき》でも半年でも、せめて彼女の生涯の最後のしあわせを築いてやりたい、私の家で死なせたい、と沈痛な面持で改めて頼んだそうである。院長はそれを感動して聞き、承諾したのだと語った。
「なるほど、そういう人があったのですかね、志村さんは短いながら最後の幸福をつかんだわけですね」
麦人は、聞き終わって言った。
「その岩本氏の住所がわかりますか?」
「わかります。控えておきましたから」
院長は看護婦を呼んだ。今度は若い看護婦が出てきて、院長に言いつけられてノートのようなものを持ってきた。院長はそれを繰り、指で捜して言った。
「中野区××町××番地です」
麦人はそれを手帳に書きとって、
「ときに、私のほうから当院あてに志村さんに手紙をこの間から二度ばかり上げたのですが、この住所に転送していただいたのでしょうか?」
と、尋ねた。これも院長は看護婦に事実を確かめた。看護婦は、たしかにその郵便物は転送の付箋《ふせん》を貼ってポストに入れたと言った。
「退院した人に来た郵便物は、間違いなく転送するように申しつけてあります」
院長は念を入れて言った。
3
「おかしいですな。ちっとも返事がないのですが」
麦人は頭を傾けた。
「返事がないとすると、もしや大変悪い結果になったのではないでしょうか?」
「さあ、なんとも言えませんね。二月に退院する時の病状では、あと四カ月生命があれば長いほうだと思っていました」
院長は言った。麦人は煙草を黙って喫った。傍で聞いている青沙も暗い表情になっている。電灯が三人の頭の上で点《つ》いた。
愛光園を出た時は、あたりの麦畑に蒼白い夕靄《ゆうもや》が流れていた。
「志村さち女は死んだのでしょうか?」
青沙は田舎道でバスを待ちながら、横に立っている麦人にきいた。
「死んだかもしれないね。カルテを見せてもらったが、癌の症状は決定的だし、それも相当進行している」
麦人はずんぐりした背をいっそう屈《かが》めて言った。
「今日は五月十日か。二月十日に退院したというから、まる三月《みつき》だね。あるいはそうかもわからんね」
「もし、そうだとしたら可哀想だな」
青沙がぽつりと言った。
「うん。しかし、親切な男が現われてよかったよ。よくしたものだね、あんな場所で寂しく死んでゆく患者も多いのに。考え方によっては志村さち女は最大の幸福者だよ。死の間際に恋愛をつかんだのだからね」
二人はその夜遅く東京に帰った。
すると、麦人があくる朝まだ眠っているところに、青沙が訪ねてきた。
「いやに早いね」
「出勤の途中ですからね。先生、昨夜、あれから雑誌を繰って、さち女の句をよみ直したのです」
と、青沙が若い眼を輝かして言った。
「やっぱり、あれは恋愛でしたね。これは最後に出た句の中の一つですが、こんなのがあります。──春を待ち人待ち布団《ふとん》の衿拭《えりふ》きぬ。岩本という人が来るのを見すぼらしい病床《ベツド》で待っていたのですね」
「なるほどね」
麦人は眠けの去らない眼をこすった。
「さち女はしあわせだったということか」
「先生」
と、青沙が膝をのり出した。
「僕はさち女の様子が知りたくなりました。もし、亡くなっていたら、お線香を上げたいと思います。先生はさち女が引き取られた先の住所を控えましたね。僕に教えてください。会社の帰りに寄ってきます」
「そうかね」
と、麦人は立って、洋服のポケットから、手帳を出して眼鏡をはずした。
「君、これだよ」
青沙は自分の手帳に書き取っていた。それを見ながら麦人は煙草に火をつけて言った。
「昨日から、さち女がひどく気がかりになったらしいね」
「その句をわれわれが選んでいたかと思うと、妙に身近に感じます」
青沙は手帳を戻しながら言った。
「そうだ」
と、麦人は素直にうなずいた。
「われわれの雑誌で巻頭句をとったことのある女《ひと》だ。たいへん縁がある。まあ、様子を見てきてくれたまえ」
青沙はおじぎして出て行った。麦人はそのまま洗面に立った。
麦人が院長の本職を一日じゅうつとめて、風呂にはいり、晩酌を飲んでいると、青沙が八時ごろ再びやってきた。彼は浮かない顔をしていた。
「行ってきたのかね?」
「はあ。行ってきました」
「そうか。それはご苦労でした。まあ一杯」
麦人が杯を出しても、青沙はすぐには手を出さなかった。
「で、どうだった?」
「亡くなっていました」
青沙は低い声で言った。
「やっぱりね。君がここへはいってきた時の顔つきでわかったよ。それは気の毒なことをした」
と、麦人もしんみりと言った。
「それで、お線香をあげてきたのかね?」
「それが、もう他所《よそ》へ移転していたのです。もう一カ月も前だったそうですが」
青沙は杯を手にとって言った。
「移転していた? じゃあ、さち女が死んだということは?」
「近所で聞いたのです。それはこういうわけです」
と、青沙は話した。
青沙が会社の帰りに、手帳に書いた中野の番地を訪ねて行ったのは六時ごろだった。それは駅から二十分も歩く、たいへんわかりにくいところだったが、ようやく捜し当てた。付近は住宅地で、目的の「岩本」という家は奥のほうにあって、さして大きくない古い家だった。ところが訪ねてみると、そこには別の人が移ってきていて、前の借り主の岩本さんは一カ月ばかり前に奥さんが亡くなるとまもなく、どこかに越して行ったと教えられた。
青沙はそこで家主を訪ねて、少し詳しいことを聞いた。岩本という人は去年の十一月ごろ、その家を借りた。何でも丸ノ内辺の会社に勤めているということだったが、独身だった。出張が多く、月のうち二十日も家に帰らない。たいてい戸締まりがしてあって、近所では高い家賃を払ってもったいないことだと話していた。が、家にいるときは、掃除している主人の姿が垣の外から見受けられた。それも時たまだった。
ところが、二月ごろ、その家に奥さんが来た。奥さんはちっとも外へ出ない。というのは病気で始終寝ている様子である。この辺の馴染でない医者が一週間に二度ぐらいやってきた。主人は相変わらず出張が多いらしく、手がまわらないのか、家政婦のような女が来て面倒をみているようだった。この女もあまり外に出ない。東京の山の手辺がたいていそうであるように、近所づきあいがないから、その家の詳しい様子を知る者はなかった。
ところが、四月の初めごろ、夜中に自動車の音が何度も岩本の家の前でしていたが、その翌日、玄関に「忌中」の貼り紙が出た。近所では初めて奥さんが死んだことを知った。夕方、霊柩車《れいきゆうしや》が来て葬式が出たが、岩本という人は親戚も知己もないらしく、たった一人でしょんぼりと霊柩車に乗って火葬場に行った。近所の人だけがそれを見送ったが、あんな気の毒な寂しい葬式は初めてだったと言い合った。親戚らしい人が、それから三日後に二、三人で来ていた。
岩本という人は、そんな葬式をして体裁が悪くなったのか、それとも奥さんに死なれて、その家に住む気がしなくなったのか、まもなく家主に申し出て、どこかに引っ越してしまった──。
「家主は、岩本さんは気の毒な人だと言っていました。先生、ですから、志村さち女は死んだのですよ。それも岩本氏に引き取られて、二カ月も経つか経たぬうちです」
青沙は沈んだ顔でそう話した。
「やはりだめだったのかな」
と、麦人も呟いた。
「先生、胃癌というのは、そんなに勝負が早いですか?」
「癌はみな早い。愛光園の院長が二月ごろ岩本氏にあと四カ月ぐらいだと宣告したのは、最大限を言ったのだ。やはり二カ月が寿命だったのだな。やれやれ可哀想なことをした。さち女も短い間のしあわせだったね。君、次号の後記には、さち女の冥福《めいふく》を祈る、と書いておこう」
「わかりました。しかし、岩本という人も気の毒ですね」
「そうだね」
青沙は十時すぎに少し酔って帰って行った。麦人はそれから風呂にはいった。
湯につかっている間も、麦人の頭からは、さち女の死のことが離れなかった。短い幸福。死んだのちは寂しい葬式だったが、岩本氏ひとりに送られただけで彼女は満足だったのではあるまいか。
そんなことを思っているうちに、彼はふと眼をじっと湯気のこもっている天井に向けた。不意にあることに思い当たって、考えている眼つきであった。
4
翌日、麦人は青沙の勤め先に電話をかけて、今晩、帰りがけに寄ってくれと言った。彼は承知した。
青沙が現われたのは七時ごろだった。
「何かご用ですか?」
「志村さち女のことだがね」
と、麦人は言った。
「先生もさち女が死んだのが気にかかるとみえますね。僕も昨夜何だか気分がよくなかったです」
青沙は頬をなでていた。
「ところで、ちょっときいてもらいたいことがあるんだがね。家主の話では、さち女が死んで葬式が出て三日後に、岩本氏のところに親戚らしい人が来ていた、ということだったね?」
麦人は言った。
「そうです」
「さち女には身寄りがないから、それは岩本氏の親戚だろう。しかし、葬式後、三日も経って親戚が来るというのは、少し遅すぎるね」
「だけど、親戚が地方の居住者だったら、それくらいかかるかもわかりませんよ」
「なるほど、岩本氏は四国だったね。四国からなら、それは当然だ。だが、さち女は岩本氏と同棲して二カ月ぐらいしか経っておらぬ。おそらく結婚入籍の手続きもすんではいまい。むろん、遠い所にいる岩本氏の親戚も、手紙の上で知ってはいたろうが、さち女を見たこともないし、まだ縁が浅いのだ。その女が死んだからといって、遠方からわざわざ上京してくるだろうか」
「そうですね。しかし、二カ月でも、さち女は岩本氏の奥さんですからね。死んだという電報が来たら上京するかもわかりませんよ。田舎の人は義理がたいですからね」
「そうかなあ」
麦人は煙草をふかしながら考えていたが、
「ときに、さち女が死んだという晩に、自動車の音が何度かしていたと言ったね?」
「そうです」
「それをもっと詳しく知りたいのだ。何時ごろに何回したかということだ。今度は家主でなく、隣の家ででもきいたらわかるかもしれないよ。それから岩本氏は自分で自動車の運転ができたか、ということもね」
「それはどういう意味ですか? 先生は、さち女の死因を疑われているわけですか?」
青沙は眼を大きく開いた。
「いや、別に疑いをもっているわけじゃない。ただ、それを知りたいだけだ」
麦人は曖昧な表情をしていた。
「そうですか。きいてこいとおっしゃれば、きいてきます」
「まあ、そんなにむくれるなよ。それから大事なことがある。さち女を診察にきていたという医者はどこの開業医か。あまりその辺では馴染のない医者だということだったが、近所で顔を知っている者がいたら、きいてほしい。それと──」
「手帳につけます」
青沙はポケットから句帳兼用の手帳を出して書き入れた。麦人はつづけた。
「それと、葬儀屋だ。どこの葬儀屋が来たかわかっていたら、それもきいてくれたまえ。次に、最も必要なことだが、さち女が岩本氏の家に来てから家政婦が雇われたということだったね。なんという家政婦会から派遣されたのか、ぜひきいてもらいたい」
「それだけですね。わかりました」
青沙は何かききたそうにしていたが、やがて素直に帰って行った。
次に青沙が来たのは、翌々日の夕方であった。
「遅くなりました」
「いや、ご苦労でした。わかったかね?」
麦人は身体を乗り出した。
「それが、あまりよくわかりません」
青沙は弾《はず》まない顔で報告した。
「岩本氏のいた家の隣家で聞いたのですがね。ふだんから交際がないから、よく知らないというのです。しかし、さち女が亡くなったと思われる晩、その家の大学生の長男が夜遅くまで勉強していて自動車の音を聞いたといいます」
青沙はここで手帳を出して見ながら言った。
「最初は十一時ごろで、岩本氏の家の前に自動車が来てとまった。玄関の戸があく音がして人がはいる足音がしたから、たしかに、だれかが自動車を降りてその家にはいった、そのとき女の声がしていたといいます」
「なに、女の声だって? それは家政婦の声ではないのかね?」
「学生は、そうではない、家政婦の声はときどき聞いていたが、それとは違っていたと言ってました。それから一時間ばかりして、表においていた自動車がエンジンの音を立ててどこかに出て行ったそうです。そのときは人声はしなかったといいます。学生は勉強がすんで寝ようと思い、手洗いにはいったときに、また自動車が来て岩本氏の家の前にとまったそうです。それが午前二時ごろだったと言っていました」
「待て待て」
と、麦人は鉛筆をもってメモをとった。
「それでは、自動車は夜が明けてからも、家の前にあったわけだね?」
「いや、それは六時ごろに、また出発したそうです。それは隣家の奥さんが眼をさまして音を聞いています。それから岩本氏は自動車の運転ができるそうですよ。以前に白ナンバーのルノーか何かを運転して家に寄ったことがあるそうです」
「よろしい。それでは今きいたのを整理してみよう」
と、麦人は改めて新しい紙を持ってきて、次のような、表みたいなものを書いた。
自動車(来た)午後十一時ごろ
(去った)十二時ごろ
(来た)翌日午前二時ごろ
(去った)午前六時ごろ
「こうだな。それから医者のことは?」
「やっぱり、その近所では知らないお医者さんだそうですよ。年輩の先生だったそうですが、一週間に二回ぐらい往診していたといいます」
「それから葬儀屋のことは?」
「これも近所では知りません。僕はしかたがないので、近い所の葬儀屋を二、三軒まわりましたが、帳面を繰ってくれて、そのころ、岩本という家で葬儀を扱ったことはない、と言っていました」
「それはご足労をかけたね。それから、家政婦会のことは?」
「それもわかりません。なんでもその家政婦は、ちっとも近所の人と口をきかなかったそうです。三十ぐらいで、勝気そうな美人だったと言っていました」
「うむ、そうか」
麦人は、煙草を灰にしたまま、考えるように眼を閉じていた。
「先生、どこか変なところがあるのですか?」
青沙が茶をのんで、麦人の顔を見た。
「そうだね。変だというわけでもないが」
と、麦人は眼をあけて、青沙に笑いかけた。
「まあ、いいよ。どうも、いろいろ骨折りをかけた。すまなかったね」
青沙も微笑した。
「先生も、すっかり、さち女に取りつかれましたね」
5
翌日、麦人は院長の仕事を午前中できりあげて外出した。
はじめは中野の区役所に行き、係員にきいたが、四月ごろ、志村さち子の名でも、岩本さち子の名でも埋葬許可証を出したことがないという返事を聞いた。それから、中野区内の葬儀屋を四、五軒きいてまわったが、手がかりがなかった。
麦人は医師会の事務所に行き、調査を頼んで帰った。その結果は二日おいてわかった。岩本氏の番地の家に往診に行き、死亡診断書を書いたのは、池袋の開業医でY氏だった。
麦人はY氏に電話をかけた。
「その患者は岩本さち子とか志村さち子とか言いませんでしたか?」
この質問にY氏は電話の傍にカルテを持ってこさせた様子で返事した。
「いいえ、草壁泰子《くさかべやすこ》となっています。三十七歳です。草壁|俊介《しゆんすけ》妻です」
「草壁俊介妻、泰子ですね」
麦人はメモをとったが、鉛筆を握る指が興奮で少し慄《ふる》えた。
「その家は、岩本という家ではなかったですか?」
「そうです。標札には岩本|寓《ぐう》としてありました。私もちょっとふしぎだったので、主人にききますと、友人の家に同居しているのだと言っていました」
電話の医師は答えた。
「なるほど。それで患者の病名は?」
「マーゲン・クレーブス(胃癌)です。私が最初頼まれて往診した時は、もうだめでした。それでも一カ月ぐらい通いましたかな。中野のあの辺は行ったことがないので、そんな所から初めて呼ばれたので、ちょっと意外に思いましたよ」
「死亡時刻はいつでしたか?」
「それも、電話で、死んだから来てくれというのですぐ行きました。四月十日午後十一時三十分ごろその家に着きました。私は死後一時間ぐらいを診《み》たわけですが、死体の様子では、主人のいうことと合っていましたから、死亡診断書にはそう書いておきました」
「あなたが行かれた時は、だれかが横にいましたか?」
「主人と、家政婦のような女の人と、二人きりです。二人とも泣いていましたよ」
「どうもありがとうございました」
麦人は電話を切ると、しばらく棒のように立っていた。それから自動車の用意をさせ、警察署に向かった。
草壁俊介という三十八歳の男が妻殺しの容疑で品川のほうで捕えられたのは一週間後であった。愛人も一緒だった。それが家政婦と称していた女だった。
俊介は妻が邪魔になったのと、その生命保険金二百万円を取るのが目的であった。愛人が愛光園の看護婦と友だちで、その看護婦の口から志村さち子という身寄りのない、しかも死期近い施療患者のことを聞いた。これを俊介に話すと、彼は一案をたくらんだ。さち子を引き取り、死んだ時は妻の名前で死亡の手続きをしようと思ったのである。年齢も近い。さち女が四国のM市生まれということは看護婦から聞いていたから、同郷人への寄付を手がかりに、俊介はさち女に近づいた。たびたび見舞いに行くうち、彼はさち女を愛しているようにみせかけた。愛に飢えているさち女は、たちまち俊介に傾き、結婚するという申し出に喜んで中野の家に引き取られた。この家も、彼が計画した時に借りたものだった。
さち女は自分が癌であることを知らず、あくまでも胃潰瘍だと信じているから、自宅で療養させるという俊介の親切に涙を流した。家政婦も付添いにきた。これが俊介の愛人で、殺人の共犯者だとは彼女は少しも知らなかった。
俊介の実際の家は世田谷で、そこには妻もいた。彼が出張だといって、ときどきしか中野の家に来なかったのは、実は世田谷の家にいなければならなかったからだ。計画は慎重に進められた。それは、ひたすら、さち女の死を待つことだった。
さち女は四月十日の午後十時すぎに死んだ。死ぬころには、家政婦の正体に気づいていたらしいが、もうどうすることもできなかった。さち女が息を引きとるや否《いな》や、その場に居合わせた俊介はすぐに世田谷の家に行き、妻を自動車に乗せた。その自動車は近くの友人のを借りたという。妻にはなんとか理由をつけて、中野の家に連れこんだ。その時、妻が車から降りて何か言ったのを隣家の長男が声を聞いたのだった。
家に連れこむや否や、俊介は後ろから妻を倒して絞め殺した。愛人は口と手を押さえていたという。死ぬとすぐに死体は裏に匿《かく》した。それから俊介は近くの公衆電話《ボツクス》に行って医者を呼んだ。
医者は、さち女の死亡を見届けて死亡診断書を書いた。それはかねて草壁泰子の名前になっていた。年齢も同じくらいであった。
医者が帰るとすぐに、俊介は、かねて用意して買っておいた寝棺《ねかん》に、妻の絞殺死体を入れて蓋《ふた》をした。夜中に釘を打つ音がしてはまずいので、それは夜が明けてから打ったという。さち女の病死体は、俊介が抱えて、表の自動車に入れ、自分で運転して出て行った。これが十二時ごろで、やはり隣家の長男が去って行く車の音を聞いた。
俊介は、深夜の甲州街道を走り、北多摩郡の人家から遠い田圃の道ばたに死体を捨てて帰った。この往復の所要時間が約二時間で、帰ったときの車の音を同じく大学生が聞いたのだ。その二時間の留守の間、愛人は気丈にも本妻の絞殺死体の傍で待っていた。
さて、借りた車をそのままおいておくのは都合が悪いし、貸し主に返さねばならない。俊介は朝の六時ごろ、それを運転して返しに行った。それを隣の奥さんが眼をさまして聞いたのである。
ところで、田舎の道に捨てられたさち女は身元のわからぬ行き倒れとして処分されるであろうと俊介は計算していた。死体の服装も粗末な衣服に着替えさしていた。事実、あとで調べると、彼女の死体は行路病死者として役場の手で仮埋葬されていたのであった。
それから、俊介は北海道の親戚に妻の死亡を知らせた。妻の親類は上京して、中野の家に来て、仏壇の遺骨に手を合わせた。親戚との文通は一年に二、三度しかないので、北海道から来た親類は俊介が中野の家に移転していたのだと思ったという。
葬儀屋が知らなかったのは、麦人も青沙も、「岩本」の名前できいたからわからなかったのである。中野の葬儀屋は草壁泰子の埋葬許可書を持って死体を霊柩車で火葬場に運んだのだ。どうも変だとは思った、と葬儀屋は警察で言った。その家に呼ばれて行った時は、仏はちゃんと棺にはいっていて、蓋には釘づけまでしてあった。おそろしく手まわしのよい家だなとびっくりしました、と述べた。
草壁俊介は、保険金を受け取り、世田谷の家も売り払って、品川に愛人とアパートにいるところを捜査員に逮捕された。
この事件が新聞に出たあと、青沙は麦人の家に来て、きいた。
「先生がおかしいと思ったのは、何からですか?」
「最初は親戚が三日も経って来たということだったが、それよりも、はっきり疑念を持ったのは、さち女が死んだ夜の自動車の音の度数さ」
と、麦人は前に書いたメモを広げた。それは(来た)(去った)と二回ずつ書かれてあった。青沙もそれを覗きこんだ。
「けれど、これでも足りませんね。ほら、医者が死亡診断書を書きに十一時半ごろ自動車で来たと言ったでしょう。その車の音がないじゃありませんか?」
麦人は青沙の顔を見て薄く笑った。
「あの家は奥のほうで道が狭い。僕は実検に行ったのだ。つまり、医者のは大型で、家の前まで車がはいらずに、大通りでとめたのさ。草壁が借りた車は、小型のルノーだったんだ。ほら、彼が以前に家の前まで乗りつけてきたのを、近所の人が見たと君が言ったじゃないか」
麦人はそう言って、あとを足した。
「編集後記の志村さち女の死を悼《いた》む文章は僕が書くよ」
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失 敗
1
D署が──といっても、判然としないだろうから、かりに東北の中都市の警察署と書いておく。そのD署が警視庁から大岩玄太郎《おおいわげんたろう》の手配依頼をうけたのは、東京で事件が発生して一週間めであった。
事件というのは東京の杉並区のある住宅地で起こった。白昼、某会社重役の留守宅に二人連れの強盗が押し入り、夫人(四五)と女中(一八)を縛って、現金六万五千円と、洋服、腕時計、カメラなど時価約二十万円の品物を奪って逃げた。このとき、抵抗した夫人を金槌で殴って殺害している。
質入れした品物から足がつき、主犯は浦瀬三吉《うらせさんきち》、共犯は大岩玄太郎と目星がついた。両人《ふたり》とも、おりから都内に工事中のある飯場《はんば》の人夫であった。浦瀬は前科二犯、三十一歳で、大岩には前科なく、三十三歳である。
主犯の浦瀬は大岩を伴って、九州方面に逃走している模様なので、警視庁から捜査員が出張したが、大岩の家族の住所がこのD市なので、ここにも立ち回る可能性が強いから手配を乞《こ》うという捜査一課からの依頼だった。
刑事部長の山村《やまむら》警部は、大岩玄太郎の家族宅を警戒する必要を感じ、刑事の島田良平《しまだりようへい》、津坂弘雄《つざかひろお》の二人に、当分の間、張り込みを命じた。
「××町の住宅営団四十九号か。こりゃあ難儀ですな」
と、古参刑事の島田は、手配書にある大岩玄太郎の留守宅の住所を見て顔をしかめた。
「どう難儀なのだ?」
山村警部は、その顔を見た。
「だって、これは戦時中、軍需工場の工員のために建てた住宅でしてね、二百軒ばかりが密集して建っています。前後左右、小さな家がひしめき合っています。その辺にしゃがんで見張るには、都合の悪い所ですよ」
「そうか、隣か前の家を借りて見張るわけにはいかないだろうね?」
「そりゃあ、すぐわかってしまうでしょう。長屋みたいなものですから、妙な人間が毎日出入りしていたら、噂になりますよ。第一、われわれを寝泊まりさせるほど広い家はないでしょうしね」
刑事部長は、困った顔をした。
「何か、工夫《くふう》はないかね?」
「その大岩の家族は何人ですか?」
「女房と、五つになる男の子が一人だ」
島田刑事は、眼をつぶり、額に深い皺をよせて考えていたが、
「家族は二人きりですか。じゃあ、仕方がないから、その家のあいた部屋におかせてもらいましょうか。そこが一番人数が少なそうだ」
「女房が、亭主に通報しないかね?」
「大丈夫でしょう。行く先がわからないから通報のしようがありません。それに近所まで大岩が来て、うろうろすれば、こっちが早く気づきますからね」
「そうすると、大岩の女房には、あらかじめ言っておく必要があるね」
「まあ、あまり心配させないように、何となく含めておくのですな。そりゃあ、私から言います」
刑事部長は承諾した。島田刑事は老練の定評があった。若い津坂刑事は、横に立って黙って聞いているだけだった。
二人が署を出て行ってから二時間ばかりすると、島田刑事だけが帰ってきた。
「ひとまず、ご報告します」
と、彼は渋い声で部長に言った。
「大岩玄太郎の家内は、くみ子といい、二十八歳です。五つになる亮一《りよういち》という男の子が一人あります。大岩は半年前に失業して、職を求めて上京したそうです。いい口があったら妻子を呼び寄せるつもりだと近所の人に語って行ったといいます。くみ子は民生保護をうけており、現在、当市の失対工事の日雇い人夫に出ています。つまりニコヨンですな。昼間は子供を近くの寺の託児所に預け、戸をしめて働きに出ています。日ごろの近所の評判は悪くはありません。だいたい、こんなところですな。いま、津坂君を残しています」
島田は、これだけのことを知らせて引き返した。
あくる朝、山村部長が署に出勤すると、島田はもう来て待っていた。眼が眠そうだった。
「やあ、ご苦労。どうだった?」
「大岩の細君には、それとなく話しました。気持のしっかりした女ですね。亭主を東京にやるのではなかったと悔やんで泣いていました。事件の詳しいことはあまり言わずに、心配しないように極力なだめてはおきましたが」
山村はうなずいた。島田なら、老練だから、その辺はうまく計らってくれて、如才《じよさい》はないだろうという安心があった。
「しかし、やっぱり察するのですね。昨夜、あの細君は、床の中で、一睡もしないでいましたよ。われわれは、一間《ひとま》をおいて、三畳の台所に寝ましたが、泣き声が耳について困りました。やっぱり嫌なものですね」
島田は、暗い表情だった。
「今日も働きに出ているかね?」
部長はきいた。
「いや、今日は休んでいます。出て行く気持にならないのですね。そうそう、近所には、われわれは、親戚の者が来ている体《てい》にしておきました」
「うむ。細君が近所から嫌な目にあわないようにな。なるべく心を配ってくれ。津坂君はまだ若いので、君からよく注意するようにね」
「いや、あの男も、よくやりますよ」
と、島田は後輩をほめた。
2
「で、夜は?」
「交代で仮眠をとっています。三時間おきです。夏でないから助かりますよ。蚊に攻められないですみますから。食事も代わり番こに飯屋に行って、それもなるべく遠い所まで行きます。親類の者が三度の飯を外にたべに出ることが近所にわかると、まずいですからね」
「まあ、ご苦労だが、しっかり頼むよ。そのうち、すぐにでも大岩が他所《よそ》で逮捕されたという通知がはいるかもしれんからね。それまでだ」
警部は慰め半分に激励した。
「ところで、細君は、亭主がどんな悪いことをやったか、ききたがらないかね?」
「そりゃあ、ずいぶん、ききだそうとしていますがね。われわれが、東京で起こったことで、どんな事件か詳しいことはよくわからないが、たいしたことではなさそうだと押さえているものですから、それ以上に押し返してはききません。もっとも、詳しくきくのがこわいのかもしれませんね。しかしあの細君は感心ですな」
島田刑事は言った。
「どう感心なんだ?」
「一つ家にいるようなもんですからわかるのですが、朝、五時には起きて、支度して職安に出て行く。眠っている男の子の枕もとには、朝御飯を弁当にして作っておくのですな。子供は、眼をさますと、それをたべて、ひとりで着物を着替え、託児所に出て行く。五つの子とは思えませんよ。しっかりしたものです。うちの子は一つ上ですが、まだ甘えん坊で比べものにはなりません。細君は六時に仕事から帰るのですが、そのとき託児所に寄って親子一緒に帰る。駄菓子ですが、かならずお土産《みやげ》を持って帰ってやっています。夜は、貧しいながら親子でたのしそうですね。見ていて、ちょっと涙が出そうですよ」
「ふむ。それで、細君は君たちが一つ家にいることで、ヒステリーを起こさないかね?」
部長はきいた。
「そりゃあ、当然いい顔はしません。あまりものも言わないし、笑い顔もしません。こっちも遠慮して、居候《いそうろう》のように一間に縮こまっていますよ。それでも津坂君なんか、子供が可哀想だというので、晩飯をたべに行った帰りには、菓子や果物なんかを買ってきたりしていますよ」
「そりゃあ、津坂君だけじゃあるまい」
と、部長は島田刑事の顔の皺を眺めて微笑した。
「どうだね、亭主の大岩から手紙やはがきのようなものは来ないかね?」
「全然何も来ません。郵便物は一枚も来ない家ですね」
「大岩は、女房のところに帰ってくるつもりはないのかな。それとも、警察の手で警戒されていると思って、用心しているのかな」
「おそらく、そうでしょう。もし、大岩が主犯の浦瀬とばらばらだったら、かならず女房のところに帰りたいはずですがね。どこか遠い所にフケるにしても、女房子の顔は一度は見に来ると思いますが。それが彼らの心理ですからね」
「大岩という男は、主犯の浦瀬と違って、前科もなく、おそらく善良な男だろうな」
部長は、煙草に火をつけて言った。
「私も、そう思います」
島田刑事も、部長のピースを一本もらってうなずいた。
「あの細君が、亭主を東京にやるんじゃなかったと悔やんでいるところをみると、こっちにいい職もなく、生活が苦しくなるばかりなので、東京に仕事を求めに行ったに違いありません。だが、思うようなこともない。飯場の人夫なんかしていたところで、送金もしてやれない。そこで、浦瀬にふらふらと誘われて強盗をやったのでしょう。大岩は、根が女房子想いのいい亭主だったと思いますね」
「職がなかったことが悪いんだね。東京に行けば、何か仕事があるという考えが甘すぎた」
「薄給の上に重労働だと、ぶうぶう言いながらも、これでしあわせなんですな、われわれは」
ここで二人は苦く笑い合った。
「ところで、部長、労働といえば、津坂君が、あの細君の仕事場にも張り込んでみたいと言っているんですがね。つまり、大岩がそこに来て、連絡をとるかもしれないというのです。そりゃあありそうなことで、いい思いつきだと思いますが、私の一存でいかないものですから、いちおう、部長に相談してみると言っておいたんですが」
「うむ」
主任は、ちょっと考えた。
「すると、細君がニコヨンで働いている現場で、一ン日《ち》中、見張っているわけか?」
「そうです。留守は私ひとりで十分です。大岩一人ぐらいは逃《の》がしはしません」
「それはいいが、そうなると、毎日、津坂が現場にうろうろしていては、ほかの人夫連中に妙に思われるから、市の現場の係りぐらいには事情を話しておいたがいいだろうな」
「そうですな。では、市のほうにはよろしく願います」
「そうしよう。まあ、ご苦労だが、頑張ってくれ」
部長と島田刑事とは、こんな打ち合わせで別れた。
このようにして一週間ぐらい経った。その間にも、島田刑事は、毎日、一回は、電話を山村部長のところにかけてきて、連絡をとった。何も起こらない。張り込みは異状なく続けているということだった。
「どうだね、君たちばかりではくたびれるだろう。交代を出してもいいよ」
ある時の電話で部長は言った。
「いや、構いません。ほかの連中も事件を抱えていることですから、まだしばらくはいいです」
島田刑事はそう返事した。
ところが、その三日後であった。大岩玄太郎が十里ばかり離れた隣県の海岸で水死体となって発見されたのである。現場は、二十メートルの断崖で、海が崖下に押しよせて飛沫を上げている。ここから彼が飛びこんだ証拠には、断崖の上の木の枝に、彼の上着が引っ掛けてあり、そのポケットから、女房のくみ子にあてた遺書が出てきた。
すべての罪を清算し、あとのことは頼むという文字は遺書の紋切り型でそれだけで子細《しさい》はわからなかったが、その中に見のがせない文句がはさまっていた。
「──十二日の夜、おまえとちょっとでも会えたのは何よりうれしかった。思ったとおり、家には警察の手が回っており、困ってうろうろしていたが、その厳重な張り込みの刑事の眼をくぐって、なつかしいわが家の裏で、おまえの顔を見たのは思いがけなかった。亮一の顔を見ることができなかったのは、ただ一つの心残りだが、これは欲というものだろう。どこまでも生きのびてくれと、おまえに言われたが、ついにその気力を失った。ふがいない亭主をもったことを諦めてほしい。かってなようだが、亮一をよろしく頼む。おまえには最後まで苦労のかけ放しで、すまなかった。くれぐれも身体に気をつけて、この先の幸福をつかむように祈る──」
これによると、犯人の大岩玄太郎は、十二日夜、妻のくみ子と自宅の裏で会っている。張り込みの刑事二人は何をしていたか──この個所が問題になった。
3
たとえ従犯とはいえ、強盗殺人の犯人を逸したというのは、毎日毎晩、張り込んでいた手前、その責任は問われなければならなかった。犯人を自殺させたのも失敗であった。家の裏で会っていながら、泊まり込みの刑事がまったく捕え得なかったのはどういうわけか。
署長は、警視庁に対して面目がつぶれたと言って怒っている。刑事部長の山村は、島田と津坂の両刑事に事情を追及することにした。これは査問にひとしかった。
その前に、まず、大岩玄太郎の妻のくみ子を呼んで、果たして遺書の文句のとおり、まちがいないかを質《ただ》した。
くみ子は、小柄な女で、ひっつめ髪の、化粧のない顔で山村の前に現われた。痩せた顔に眼ばかりが大きい。毎日の労働のため色は黒いが、化粧して、ちゃんとした身装《みなり》を整えさせたらもっと若く見えるだろうと山村部長は尋問しながら考えた。
「十二日の夜、ご亭主があんたに会ったというのは、ほんとかね?」
「はい」
くみ子は、伏し眼になって答えた。
「それは、何時ごろかね?」
「十一時半ごろだったと思います」
低い声だが、わりとはっきりした口調で彼女は言った。
「前から来るという連絡があったのかね?」
「いいえ。あの晩、不意に来たのです」
「来たことが、どうしてわかった?」
「戸を叩いたからです」
「戸を叩いた? そのとき、あんたは起きていたのか?」
「いいえ、寝ていました」
その返事は、どこか躊《ためら》いがあり、二、三秒、ひまどった。
「眠っていたのに、よくわかったね? それほど、戸を叩く音は大きな音だったのかね?」
「いえ。あまり大きくはありません。でも、いつも気になっていたので、小さい音でも、すぐ眼がさめました」
「気になっていたというのは、ご亭主が帰ってくるかもわからないということだな」
「はい」
くみ子は、はっきりとうなずいた。
「それから?」
「それから、私は、こっそり起きあがって裏口へ行き、戸の心棒をはずして、外に出ました。すると、主人が暗い所に立っていて、小さい声で私の名を呼びました」
「そのとき、家の中に泊まっている刑事たちに気づかれないかと心配しなかったかね?」
「それは心配しました。裏に出るのも、忍び足で歩きました」
「刑事たちは、どうしていた?」
「刑事さんは」
くみ子は、ここでちょっと言いよどんだが、
「眠っておられました」
「二人とも?」
「はい」
くみ子は、また眼を伏せて答えた。
「ご年輩の刑事さんは布団にくるまって寝こんでおられました。布団は粗末なものですが、畳の上にごろ寝をなさるのはお気の毒なので、私が無理にお出ししたのです。はじめは断わられましたが、とうとう交代でそれにお寝《やす》みになるようになられました」
「交代というと、一人はいつも起きていたわけだな?」
「そのようでございます」
「すると、その時、布団の中に寝ていたのは年上の刑事だった。当然、若いほうの刑事は起きているはずだが、やっぱり一緒に眠っていたのかね?」
「いえ、布団の中ではありません。その横の畳の上です。どちらも上着を脱いだままですが」
「その部屋は、台所に近い三畳だったね。それなのに、裏の戸を叩く音が、遠いあんたに聞こえて眼がさめ、刑事たち二人に聞こえなかった。しかも、あんたが裏口の戸をあけて出るのも全然知らずに眠っていたというわけだね?」
くみ子の返事は、また二、三秒ほどとぎれた。
「そのとおりです」
と答えて、次をつづけた。
「若い刑事さんは、何しろ昼間のお疲れがありますから、ついお眠くなるのでしょう」
「昼間の疲れ?」
「はい。あの方は、私の働いている現場にいつも離れずにいらっしゃいますから」
「ああ、なるほど。しかしあんたのように働いているわけではないだろう?」
くみ子は黙ってうなずいたが、そのうなずき方が、少しはっきりしなかった。
「働いている女のあんたのほうが、よけいに疲れて熟睡するはずだがね」
山村はくみ子の顔をじっと見たが、くみ子はその視線をさけるように下を向いた。
「まあ、よろしい。それから、あんたがご亭主に会った時間はどれくらいかね?」
「はい、よく覚えていませんが、あまり長い時間ではありません」
くみ子は、少し頬をあからめて答えた。
「おおよそでいい」
「二十分ぐらいだったと思います。何しろ、刑事さんたちに気づかれては困るので、気が急《せ》いて、主人を早く逃がしたい思いでいっぱいでした」
「二十分か。それで、あんたが家のなかに戻った時も、刑事たちは知らずに眠っていたのかね?」
「はい」
彼女は、浅くうなずいた。
「亭主に自首をすすめなかったのかね?」
「はい。逃げられれば逃げてもらいたかったのです。長い刑期で苦しませるよりも、そのほうが私は助かります」
彼女は臆せずに言いきった。
山村はこの女の知恵を嘲《あざけ》ることができなかった。
そのほかのことを質問して、くみ子を帰したあと、山村は、煙草の先を灰にしながら何やら思案していた。
4
島田刑事は、恐縮しきって山村部長の前に呼ばれて出てきた。
「どうも、えらい失敗《しくじり》をしました」
日ごろは、多少、横着げにみえるこの老練な刑事もしょげていた。
「君にも似合わないじゃないか」
「どうも申しわけありません」
島田は額に皺を集めて、おじぎをした。
「大岩が来たことに全然、気がつかなかったのかね?」
「はあ、どうも。すっかり寝込んでしまったものですから」
島田は、白髪《しらが》の目立つ小鬢《こびん》に手をやった。
「仮眠の交代時間はどうなっていたのかね?」
「その晩は、私が十時半から寝まして一時半に津坂君と交代することになっていました」
島田刑事は、ふだんよりも丁寧な口のきき方をした。
「大岩が来たのは十一時半だから、君が寝てから一時間後だな。寝入りばなで音が聞こえなかったのかな」
「ああ、大岩が叩いたという裏の戸の音ですか。いつもは、ちょっとした音でも眼がさめるのですが、その晩に限って運悪く気がつきませんでした」
「津坂が当然、起きている番なのに、あいつまでその音がわからぬくらい眠っていたのかね?」
「はあ。でも、部長。これは私の責任ですから」
「そんなことは、今、どっちでもいい。ききたいのは、津坂が、起きているはずなのにどうして眠ってしまったかということなのだ」
山村は少し強く言った。
「その晩だけです。いつもは、きちんと油断なく起きている男ですが、運の悪いときはしかたがないもので、つい、うとうととしかけて、本当に寝入ってしまったらしいのです。何しろ、あの細君の仕事の現場まで行って張り込んでいるので昼間の疲労が出たと思います。ほとんど連日ですから、若いとはいいながら、まだ慣れないのでくたびれたのだと思います」
山村は期せずして島田がくみ子と同じことを言うと思った。
「君たちは、台所に近い三畳の間に寝ていたから、裏は一番近いはずだ。それなのに、かえって遠いところに寝ていたくみ子だけが裏戸の音に気がついたのは、妙だな」
「はあ、言われてみれば、そのとおりですが」
島田も首を傾《かし》げていた。
「くみ子は、その裏の戸をあけて出て行き、大岩と外で二十分ばかり会って、戻っている。その出入りには音がするものだ。どんなにこっそりと行動しても、目と鼻の先だからわかるはずだがね。どうだね?」
「いや、どう言われても、まったく口があきません」
島田は、すっかり恐れ入っていた。
「それで、その時、先に眼がさめたのはどっちだ?」
「津坂君です。島田さん、島田さんといって私を起こすのです。眼をさまして、もう交代時間かと思って時計を見ると、一時ちょっと前でした。いつもは、彼は遠慮して十分ぐらいすぎて起こすほどですから、おかしいな、と思ったのです」
「津坂は、そのとき、どう言ったのか?」
「様子が少し変だから、起きてくれと言ったのです」
「なに、様子が変だと言ったのか?」
山村部長は、ちょっと考えるような眼つきをした。
「その根拠はなんだね?」
「私もそれを津坂君にききました。すると、彼が言うには、実は、自分も、つい居眠りをしていたが、眼がさめてみると、どうも眠った間に、何かあったような気がする。それで、すまないが、一緒に見てくれというのです」
「それで起きてみたのか?」
「もちろん、はね起きました。一番に、あの細君の寝ている隣の部屋まで様子を見に行きました。それは表のほうの六畳で、間に四畳半があり、それから裏に私どもが寝た三畳があるのです。十二坪ばかりのこの家は、そんな間取りになっています」
「わかった。それから?」
「その四畳半から、間の襖《ふすま》を少しあけてのぞいてみると、細君は、すやすやと寝息を立てていました」
「ちょっと待ってくれ。そのとき、五つの男の子はどうしていた?」
「それは──待ってください」
島田は、額に手を当てるようにしていたが、
「その時は別な布団を横に敷いて寝ていたように思います。たしかに、一つ布団の中で一緒ではありませんでした」
「いつも、別々に寝るのかね?」
「いや、いつも同じ布団の中で、抱いて寝ていたのですが、どうもおかしいな。あの晩は子供と離れて寝ていたように思いますね」
「そうか。それで、津坂はどう言ったんだな?」
「念のため、家の外を見ようと言ったのです。それで裏口から外に出たのですが、異状がないので安心して二人はうちに戻りました。あの時、津坂君が、もっと早くカンを働かせばよかったのですね。そしたら、大岩が細君と会ってるところをふん捕まえられたのに、残念です」
山村は、それには答えないで、別の質問をした。
「その夜が明けて、細君の様子はどうだったかね?」
「仕事を休んでいました。今日は身体の具合が悪いからって言いわけしてましたが、私も、それはいいことだと思いましたよ。何しろ、あの丈夫でもなさそうな身体で、雨でも降らん限り、毎日、仕事に出て行くんですからね。あれが私の女房なら、無理に引きとめるところですよ」
「休んで、その日、細君はどうしていた?」
「なんだか、ごろごろ寝ていましたね。そうそう、朝の間は、表の通りのほうにある家の前の名ばかりの小さい畑を鍬《くわ》で打っていましたが」
「津坂はどうしていた?」
「所在なさそうに、子供の相手なんかしながら家の中からその畑を見物していましたよ。あの子供は母親が仕事を休むと託児所に行かないんです。あとで考えると、あの細君が休んだ理由は、前の晩に亭主に会って別れているから気持が動揺していたんですね。それが察知できなかったのは、残念で、まことに申しわけありませんでした」
山村部長は、島田刑事を退《さが》らせたあと、また長いこと考えていた。
5
津坂刑事がはいってきた。蒼い顔をしている。山村部長が、前の椅子を指すと、それに腰かけるでもなく、長身を直立させていた。
「部長、申しわけありませんでした。島田さんにはご迷惑をおかけしました。全く私の責任です」
津坂は、眼をまっすぐに山村に向けた。山村は、興奮している彼に、
「まあ掛けろよ」
と言った。煙草をとり出し、火をつけ、煙を吐き、しばらく何も言わなかった。津坂は山村の言葉を落ちつかなく待っていた。
「どうだね」
と、山村は言った。
「はあ?」
津坂は、唾をのんだ。
「疲れたろう? 張り込みは何日、つづいたね?」
「十日間です」
津坂は答えた。
「少し長かったかな。三時間ずつの仮眠でも連日つづけば疲れる。交代を考えていた矢先だった。もっと早く、代わりを出せばよかった」
「いや、私が悪かったのです。つい、気がゆるんでいたのです。大事なときに、眠ってしまいました。どんな責任でもとります。島田さんには責任のないことです」
津坂は自分の過失を強調した。
「十二日の晩、君は一時半から島田君と仮眠を交代するはずだったね。すると、眠りかけたのは何時だったな?」
「十時半に島田さんが布団の中にはいり、横で私がすわってしばらく雑誌をよんでいました。それが二十分ぐらいだったと思います。そのうち眠たくてたまらず、つい、うとうととしかけたまま、いつのまにか、本当に寝入ってしまいました」
津坂は、頭を下げて言ったが、言葉は明瞭だった。
「君は、昼間は、あの細君、くみ子という名だったな、くみ子の働く現場に行っていたのだね」
山村は、話を変えた。
「はあ。毎日、行って、大岩が現われないかと思って、見張っていました」
「くみ子の働きぶりはどうだね?」
「それは、一生懸命に働いていました。ああいう人たちの働きというのは、見ていると、あまり真剣でないようですな。年寄りや女が多いせいか、気を入れてやっていないようです。休憩が多くて長いです。無理もありません。いくら働いても、希望がないのですから。その日だけの働きですからね。横で眺めていると、こっちの気持まで誘われて絶望的になります。傍を着飾った男女が、たのしそうにぶらぶら遊んで歩いているのを見ると、仕事とはいいながら、癪《しやく》にさわることもあるだろうと思います」
「その中で、くみ子は一生懸命になって働いているというわけだな?」
「そうです。感心なくらいです」
部長は、津坂の顔をじっと見た。
「君は、すわってばかりいて、何もしないで、張り番をしていたのか?」
「はあ」
津坂の眼差《まなざ》しが弱くなった。そうではないだろう、ときどきは手伝うこともあっただろう、という質問を用意していたが、山村はそれを口に出すのを止めた。
「仕事がすんで、帰りはどうだね?」
「くみ子のあとから、私が遅れて歩きました」
「どんなふうだった?」
「晩のお惣菜《そうざい》を買い、子供のおみやげに駄菓子を二十円ばかり買って、託児所に寄り、子供を連れて一緒に帰るのです。毎日、きまってそうでした」
「そういう時は、一番うれしいんだろうな」
「それは、もう。子供と会ったときは、とてもうれしそうにしていました」
山村は、津坂の顔をふたたび見まもるようにした。
「くみ子は、君が始終、傍から離れないので、嫌がっていなかったか?」
「はじめは、とても嫌な顔をしていました」
「はじめは?」
「はあ。しまいには、それほどでもありませんでした。諦めていたのでしょう」
部長は、ここで煙草を喫った。それは何か考えている時間だった。
「亭主がどんな悪いことをしたか、君にしつこくきかなかったかね?」
「それも、亭主と会う前は、ずいぶんききたそうにしていましたが、私たちが言わないのと、何か大変なことをやったのではないかという予感がしたのでしょう。きくのがこわいといった様子に変わりました」
「じゃあ、心配していたろう?」
「はあ。しょんぼりして可哀想なくらいでした。いつも考えてばかりいました。ああいう様子を見ると、われわれのほうが辛かったです」
「つくづく、こんな商売がいやになるか?」
「はあ。そう思ったこともあります。あの細君には罪はない。罪のない女を、われわれが同居して苛《いじ》めているように感じることもありました。といって、それで職務を怠けたわけではありません」
「それはわかっている」
山村は煙草を灰皿に押しつけた。
「ところで、君が眠っていて、眼がさめたのは何時ごろだね?」
「一時前でした。いつのまに、こんなに寝てしまったのかと、びっくりして起きました」
「物音か何か、そんなものを聞いたから眼がさめたのではないか?」
「いえ。ふいと眼がさめたのです」
「しかし、島田君を起こして、様子がおかしいと言ったそうじゃないか?」
「そう感じたからです。感じただけで、根拠は何もありません。たぶん、思わず寝込んでしまったので、その恐れから、そんな気の迷いが起きたのだと思います」
津坂は、なんとなくうつむいた。
6
「大岩が裏の戸を叩いたのは、十一時半ごろだとくみ子は言っている。その戸の音は、最も近い君たちのほうがよく聞こえるはずだ。離れた、表の部屋に寝ているくみ子が耳ざとく聞いて起きたというのが、僕にはふしぎなんだがね」
山村部長は、はじめてふしぎという言葉を使った。津坂は、眼のふちをかすかに慄《ふる》わせた。
「眠っていてまったく知りませんでした。不覚でした。その点どんな責任でもとります」
「責任のことを言っているのではない」
と、部長はおだやかに言った。
「くみ子は、裏の戸をあけて亭主に会いに出て行った。そこで二十分を過ごし、引き返して、戸を元どおりに締めて寝床にはいった。くみ子は君たちのすぐ横を通ったのだ。それも気がつかずに眠っていたのだな?」
「はあ」
津坂は頭を下げた。
「くみ子が寝床にはいったのは、十一時四十分か五十分だ。君が眼をさましたのは、一時十分前としても、一時間と少しの時間の経過があるな。それは、君がまだ眠っていた時間だ」
部長は、じろりと津坂の顔を見た。津坂の顔は少し蒼ざめていた。
「君が島田君を起こして、くみ子の様子を見に行った時は、くみ子は床の中で寝ていたんだね?」
「そうです」
津坂はうなずいた。
「子供は?」
「子供は──」
津坂は、唾をのむように咽喉を動かした。
「くみ子の横で寝ていました」
「一緒の布団でか?」
「いや、別の布団でした」
「いつも、そうなのか?」
「いえ、日ごろは確か一緒の布団で抱いて寝ていたように思います」
津坂の声は小さかった。
「すると、十二日の晩だけ、別々に寝ていたというわけだな」
津坂は黙っていた。沈黙したのは、それを考えているのではなかった。顔はその表情と違っていた。
「くみ子の寝ていた部屋が六畳で、外は往来になっていた。そこに小さな畑がある、そういう位置だったね?」
「はあ」
津坂は、かすかにうなずいた。
「十三日は、つまり、くみ子が亭主の大岩と会ったあくる日は仕事を休んだ。その日の朝、くみ子は畑を打っていたそうだね?」
「はあ」
これにも津坂は少しだけうなずいた。
「君は、家の中から見ていたそうだな?」
「はあ、ただ、なんとなく──」
「くみ子は、畑で何をしていたのだね?」
「鍬で、土を掘り返していました」
津坂の声は、思いなしか慄えていた。
「それは、どれくらいの時間かね?」
「三十分ばかりでした」
「三十分か──。三十分も狭い土地を掘り返していれば、たいていの足跡は消えるな」
山村は、それをひとり言のように言った。それから、また煙草を喫い、煙を吹きながら、眼の端で津坂を見ると、津坂はうなだれ、肩を落としていた。肩にはかすかな震えがあった。
二人の間にふたたび沈黙が落ちた。今度は非常に長い間に思われた。それは息の詰まりそうな緊迫が流れていたからである。
沈黙を先に破ったのは津坂だった。
「部長」
と、彼は突然顔を上げ、椅子からもはねるように立ちあがった。
「私を処分してください!」
叫ぶような言い方であった。
「処分? 眠っていたからか?」
津坂は顔をゆがめ、涙を落とした。
「重大犯人を逃がしたからです。免職にしていただきたいと思います」
犯人を逃がした──それは、不覚にも眠っていたから逃がしたのか、あるいは、もっと別な理由で逃がしたのか、そのどちらともとれる言い方であった。
山村部長は、津坂の泣いている顔を眺め、なぜかその追及を厳しくしなかった。
津坂刑事は免官にはならなかったが、自分で辞職した。
そのあと、山村部長は島田刑事を誘って酒をのんだとき、島田の質問にこんなふうに答えた。
「津坂は起きていたのだ。あいつは眠っていなかった。しかし、島田君、君は仮眠の番だから熟睡していた。だが、いくら眠っていても、一番近い裏戸を叩く音に君が眼をさまさないはずはないのだ。それなのに、そこから遠いところに寝ていたくみ子だけが聞いたというのは、大岩は裏の戸を叩いたのではなく、往来から来て、くみ子の部屋の雨戸を叩いたのだ。だから、くみ子だけが聞いて起き、裏からではなく、表の雨戸をこっそりあけて、大岩と会ったのだ。裏の戸をあけたりしめたりしたら、君だって起きただろうからな」
山村は杯を口に持ってゆきながら説明をつづけた。
「津坂は、もちろんそれに気づいたろう。狭い家だからな。彼は、くみ子のあとを追おうとした。その時、何かが起こった。くみ子が、津坂に、どんなことを言ったかわからない。ただ、くみ子に愛情を感じはじめていた津坂に、その追跡を中止させるに十分な何かが、くみ子によって語られた。その約束は、くみ子が外で大岩と会って二十分後に部屋に帰ってから果たされたのだ。君を起こした一時十分前まで、それは一時間以上の時間があった。なんのための時間かわかるだろう。五つになる子供は、その時に別な布団に移されたのだ」
島田は皺の多い顔をしかめ、溜息をついた。
「部長は、それにどうして気づいたのです?」
「津坂が、君を交代時間よりずっと前に起こしたからさ。何も根拠がないのに、様子が変だといって君を定時前に起こしたのは、やはり落ちつかなくて何かしなければならなかったからだ。津坂が眠るような男ではないことと、その不安定な動作に、僕は、何かあるな、と思ったのだ。それと戸の音で、近いはずの君が眼をさまさなかったことだ」
「なるほどね」
「それを、はっきり知ったのは、往来側の畑をくみ子が朝早く掘り返していたと聞いてからだ。ははあ、大岩の足跡を消したな、とすぐにぴんと来た。津坂が家の内からそれを見ていたと君は言ったろう。おそらく、津坂がくみ子に与えた知恵かもしれないな」
「津坂君は、部長のその推察に気づいていましたか?」
「気づいたようだね。僕が、だんだん話してゆくうちに、泣いていたよ。懲戒免職にしてくれ、などと言っていた。僕は、知らん顔をしていたがね。それ以上、追い詰めたら困ることができると思った」
「なぜですか?」
「だって肝心の大岩玄太郎は自殺したもの。この上、新しく自殺者を出したくないからね」
山村は自分の杯を島田の手に与えた。それから呟くように言った。
「津坂は、くみ子とそのうち一緒になるかもしれないね。そうなったほうがいいさ。自殺させるよりもね」
彼は島田に注いでやるため、銚子をとりあげた。
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拐 帯 行
1
森村隆志《もりむらたかし》は外から会社に帰ってきた。事務所はビルの内にあった。廊下を歩いていると、ガラス戸に幕をおろしているよその事務所がいくつか眼についた。今日は土曜日である。三時を過ぎた今は、昼までで帰った会社が多い。
隆志は自分の事務所のドアを押した。ここはまだ社員が居残っている。それだけに小さな会社だなと、土曜日になると彼はいつも思うのだ。ドアがあくと同時に、熱気が顔に当たった。外はもうオーバーが重たくなったのに、ストーブを相変わらず焚《た》いている。スチームの設備のないビルだった。社員が四、五人ストーブを囲んで懶惰《らんだ》な恰好で腰かけていたが、森村隆志の顔を見て、お帰り、と言った。
隆志はオーバーを脱ぎ、手提鞄《てさげかばん》をもって会計のところに歩いて行った。会計部は腰までの板で仕切られ、開き戸がついている。現金の取扱いのため、一般の机から隔離された檻《おり》のようであった。檻の中では、頭の毛の薄い会計主任が背を屈めて新聞を見ていた。
その前の机で、隆志は鞄を開いた。会計主任が眼鏡をはずし、隆志を見上げて、
「ご苦労さん。どうだね、寄りはいいかね?」
と言った。月曜日に大口の手形を落とさなければならない。主任は集金に気を揉《も》んでいた。
「今日は半分です」
淀みなく言えた。言ってしまって、隆志は自分の行為が決定的になったことを感じた。鞄から札束と小切手を取り出した。鞄の中は二つに仕切られ、一方にはまだ札束が残っていた。白い厚味が潜《ひそ》んでいる。彼は鞄の蓋をし、止め金の音を鳴らした。
「栗栖《くるす》商会が現金で五万円、小切手で十二万円、東洋工業が現金十二万円、渡瀬産業、現金九万円、御手洗《みたらし》商事、小切手二万八千円──」
会計主任はふたたび眼鏡をかけ、隆志の言う内訳をメモし、小切手と現金の付合わせをしはじめた。金高を数え、赤鉛筆でチェックしていった。
「これだけです。あとは月曜日にしてくれというのが五件あります」
隆志は報告した。五件分、三十五万円、全部現金で鞄の中に残っていた。
「そうか。困ったな。月曜日の二時までに集まればいいが」
主任は、手形を落とす時間を気づかって顔をしかめていた。
「できるだけ、午前中に集めるように回ってみます」
「そうか。ぜひ、そうしてくれたまえ」
会計主任は老眼鏡を光らせて若い隆志の顔に笑顔を与えた。
手提鞄をもって、隆志は自分の席に歩いた。鞄はわざと机の上にほうりだして、ストーブの仲間にはいった。
「どうだ、今日は土曜日だから少し早く切りあげて池袋に飲みに行こうか」
一人が隆志に言った。
「今日はだめです」
年少の彼は、一番後輩であった。
「なぜだ?」
「映画を見に行く約束があるんです」
「女の子とか。ああ、いつか歩いてるとこを見たぜ。あれはどこの社の子だ?」
隆志は説明しないで笑った。見られたのは本当であろう。ずいぶん、いろんなところを西池久美子《にしいけくみこ》と歩いている。渋谷、井《い》ノ頭《かしら》、多摩川、鎌倉──日曜日の夜はときどきネオンの看板がひっそりと光っている旅館街を彷徨《ほうこう》した。
話は飲みに行く相談にかえった。あの店は借金を払ってないから当分だめだと言う者がいる。相談は借金の話に移った。それから月給の少ないことに変わった。不景気な雑談が衆をたのんで自棄的な景気をつけていた。
隆志は、机の上に投げ出した鞄を見向きもしなかった。しかし、意識は絶えずそこにひかれている。三十五万円の札束が、四つに分けて中に納まっていた。どう使おうとかってな、自分の金であった。隆志は寡黙《かもく》に人の話に聞き入り、ときどき、ストーブに石炭を投げた。
時計が四時を過ぎた。皆は散って帰り支度にかかった。隆志は自分の机の引出しをあけて検《しら》べてみた。会社の伝票用紙、封筒、鉛筆、便箋、そんなものばかりである。私物は一つもなかった。四、五日前から、それとなく準備にかかったものだった。
「お先に失礼します」
残ったものに挨拶して、隆志は鞄をさげて立ち上がった。オーバーを着るとき、檻の中の会計主任を見たが、背を曲げて帳簿の上で算盤《そろばん》を一心に動かしていた。
隆志は、この事務所の中を改めて眺めた。今日限りで見納めであった。少しも未練はない。古ぼけた、縁の切れた存在であった。ドアをしめたとき、隔離はいっそう意識の中で明確になった。
廊下から階段をおりた。手提鞄を片手で振った。ほとんどの事務所が茶色の幕を降ろし、人影がなかった。今日は土曜日である。土曜日に意義があった。前からそれを考えていた。
明日は日曜日で事務所は死んでいる。月曜日の午前九時を過ぎないと機能はよみがえらない。今から四十一時間後である。つまり彼の行為が発覚するまでの時間であり、追跡されるには、十分に余裕のある距離であった。ゆっくりと遠いところに逃げられる。三十五万円と同じくらいに贅沢《ぜいたく》な時間であった。
五時半までには少し間があった。隆志は京橋から銀座を往復した。街は人出が相変わらず多い。男も女も子供も、どのような生活をもって歩いているのか。若い男女は腕をくんでしゃべりながら歩調を揃えている。ばかばかしいと思った。今の気持に少しもなじまない存在だった。街の色も虚《むな》しいものとしか映らない。遠い光景だ。行き交う勤め人は身ぎれいな服装をしているが、財布の中は千円とないに違いなかった。定期券入れに、千円札をたたんで大事にかくしているくらいであろう。鞄の中の三十五万円を眼の前で撒《ま》いてやったら、どんなに仰天するか、本気にやれないことではない。向こうから来る気取った若い女の顔だって、いきなり突き飛ばせるのだ。それもできるのである──。死ぬと決めてしまったら、これほど暴力的に自由なことはなかった。
隆志は、京橋から車を拾って東京駅に着いた。三分とかからなかった。
料金を払ったとき、運転手が、
「もったいない金の使い方をする」
と、厭味《いやみ》を言った。
隆志が十五番ホームに上がって行ったとき、人の群れている中から、西池久美子が手を振って近づいてきた。顔を上気させ、スーツケースをさげていた。
横に着いている列車は、特急|博多《はかた》行「さちかぜ」であった。
2
窓に東京の夜景が流れた。密集した灯《ひ》はしだいに凝結を緩《ゆる》め、薄くなり、疎《まば》らになった。東京が逃げ去ったのだ。それからの窓には、暗黒が走った。
窓から目を放した西池久美子が、
「東京とも、ついにお別れね」
と言った。口の中に入れているガムの薄荷《はつか》の匂いがした。
「寂しいかい?」
森村隆志が言った。久美子は細い首を振った。暗い空に、羽田の航空管制の灯が回っているのを二人はなんとなく見つめていた。
特二の車内は、昼光色に輝いて、贅沢な旅客たちへ光を添えた。客は白いカバーに頭をもたせ、それぞれの姿勢を作っていた。みんな、屈託なく旅をたのしみに行くように見えた。男客は煙草の煙を吐き、女客はみかんや菓子を食べていた。
「ねえ、どこでやるの? 決めちゃったの?」
久美子がきいた。ガムを指先でつまみ、口から出して捨てた。
隆志は手帳を広げ、指先で突いた。博多──阿蘇──日奈久《ひなく》──指宿と鉛筆書きがしてあった。
「ずいぶん、回るのね。ユビヤドってどこよ?」
「ばかだな。イブスキと読むんだ。鹿児島県さ。日本の南の果ての温泉だ」
「お金、あるの?」
隆志は網棚にも上げず、自分の横においた手提鞄に眼をやった。
「あるさ。みんな使っちゃった時をね、最後にするんだ。日本の果てなら、ちょうど、僕たちの運命にふさわしい。それまでね、うんと贅沢に遊ぼう」
久美子は顎《あご》をひいてうなずいた。この女は彼がそれほど金を持っている理由を知らない。死ぬことだけを承知している女だった。
西池久美子には両親がなかった。五年前から叔父のところで育てられてきた。叔父は下級官吏をしていて、来年くる定年退職後の身の振り方に奔走している。吝嗇《りんしよく》で、家庭は息が詰まりそうで潤《うるお》いがなかった。義理の叔母は、久美子に白い眼ばかりを向けていた。久美子の働く給料の大部分を吸い上げて、給料日だけは機嫌がよかった。久美子は希望がないと言った。
森村隆志が、彼女と愛を結んだ半分の理由が、その同情から出発していた。彼は、長野県と山梨県とが境を接する山奥の農家の三男で、実家は兄夫婦のものになっていた。たとえ父の代でも百円の送金も受けられなかった。故郷に帰ってみたのは、父の葬式の時の一度きりである。
乾燥した境遇の相似《そうじ》が、久美子を知ったとき、水が通うよりも安易に愛を流れ合わさせた。二人は溺れた。しかし、耽溺《たんでき》のあとには、現実の乾きが再び二人を包んだ。ちょうど、泳いだあと、皮膚が乾くようなものである。人間はいつまでも、水の中に浸ってはいられない。
死のう、と本気に言い出したのは、どちら側かわからなかった。もっとも、つまらないから死にたいわ、と言ったのは久美子が先のようである。そうだな、生きていてもしかたがないな、と隆志は空を向いて賛成した。それから後に隆志が、死にたいな、と言うと、久美子は、そうねえ、とうなずいた。こういう繰り返しが何度かあった。井ノ頭の池の傍《そば》だったり、代々木の夜の木立ちの中だったりした。
なんとなくその会話が時日とともに一つの意志に移されて行った。それは、前途に運命的なものを形づくった。そこまで踏み出さねば、ほかに途《みち》がないように思われた。無論、環境の乾燥がそれを助けたのだが、二人で死ぬ、という行為は、それ自体に甘美な感傷があった。つまり、乾きがその甘さを求めさせたとも言えそうであった。森村隆志は、はっきりその意志を久美子に伝えた。彼女に異論はなかった。実行は、いつでも隆志の申し出に従うと言った。
隆志は死ぬなら、その瞬間を贅沢にやりたいと思った。今までの生活が、あまりに惨めすぎた。これを死まで続けるのは情けなさすぎた。一時間でもいい。思うような豪華な味をたのしみたかった。その雰囲気は、一日ならいいと思い、二日なら、なおいいと思った。どうせ、死ぬと決めているのだ。恐ろしいものはないはずだった。秩序も、道徳も気づかう必要はない。最後まで、見すぼらしいサラリーマンで終わるのは不合理だった。彼は虚無的な空想を伸ばした。
ついに、会社の金をその雰囲気の資本にしようと彼は決心した。死ぬ前に、すぐ捕まっては詰まらない。せめて五日間ぐらい自由な時間がほしかった。死にくらべて、僅少な要求である。そのため、彼は金の持出しを土曜日に設定した。日曜日が、まる一日浮いてくる。絶対に安全な一日であった。
あと四日間だ。隆志は、九州に場所をえらぶことを決めた。理由は、九州に行ったこともなければ、行きたいと他人に口走ったこともない。むろん、縁故もないからだった。たいていの逃亡者が失敗するのは、前に旅行したことがあるところとか、知人がいるところとかを求めて行くから、すぐ捜索の手が伸びるのだ。隆志にとって、九州はなんらの因縁《いんねん》もない。土地カンもない。どの追及者の連想も、ここには及ばない。まず、四日間ぐらいは安全であろうと思った。
彼は一週間前に、集金から少し削って、この「さちかぜ」の特二券を二枚買っておいた。久美子には、行く先は九州とのみ知らせておいて、この日を限って家出を促した。絶えず運命的な目標を前途においていた甘い死がいよいよ現実となった。久美子は一瞬眼を閉じたが、喜んで行を共にすると言った。実際、いま横にすわっている彼女の様子を見ても、不安もなく、憂鬱もうかがわれなかった。いかにも最後の旅をたのしんでいるように見えた。贅沢をするのだ、と隆志が言っても、疑いもしないようだった。隆志は拐帯《かいたい》した金のことは絶対に彼女にもらすまいと思った──。
「ねえ」
と、久美子が言った。座席《シート》の角度が変わるのをたのしみながら、仰臥《ぎようが》していた。
「こんな贅沢な汽車に乗るの、はじめてだわ」
「そうかい」
と、隆志は煙草に火をつけて答えた。あわれむような笑いが出ていた。この女は、三等車のかたい椅子にしかすわったことがない。
「ねえ」
と、座席の陰で彼の手を求めた。
「あの席、どうしてあいてるのかしら」
それは、向かい側の三つめの座席だった。二人ぶんがあいていて、海老茶《えびちや》のビロード地に白い布のカバーが全体を見せていた。
「予約の人が先で乗るためだ。そうだ、次が熱海だったな。熱海からでも乗るんだろう」
隆志は答えた。窓の外には相模湾《さがみわん》の暗い海がひろがっていた。彼は週刊誌を広げた。
列車がとまって、窓の外に明るいざわめきが起こった。熱海だった。
「そら、乗ってきたわよ」
久美子がおかしそうに言った。
あいて客を待っていた斜め向こうの二つの席には、中年の紳士と妻らしい人がすわった。
3
空席のままというのは、見る眼に感じが不安定である。中年の夫婦がそこを埋めたので、隆志も、久美子も、なんとなく落ちついた。
落ちついたといえば、この夫婦の乗客は、いかにも渋い安定感をその身装《みなり》や態度にもっていた。夫のほうは、四十七、八であろうか、やや多いかげんの白髪《しらが》まじりの頭髪をきちんと分け、櫛《くし》の節目がきれいだった。洋服の柄もネクタイの好みも、教養を偲ばせている。彼はやや痩せていたが、柔和な眼をしていた。熱海の灯が窓の下に動いているのを一瞥《いちべつ》すると、ポケットからパイプを取り出し、真白いハンカチで磨きはじめた。
妻は、夫のオーバーを丁寧にたたみ、自分のコートを脱いで一緒に網棚にあげた。コートは銀鼠《ぎんねず》色地に狐色の大きな筋のあるシールだったが、下の着物は黒っぽい塩沢に、渋い茶色の錦紗《きんしや》の羽織だった。光を消した艶《つや》が全体に沈んでいる。四十前であろうか、細長い面《おも》で上品な感じであった。支度が終わると、夫の横に落ちつき、黙って、雑誌を開いていた。静かな眼差《まなざ》しである。
夫はパイプをくゆらした。妻は雑誌をおき、夫の用のすんだハンカチをとって、きちんと畳み、ポケットに返した。そのついでに、膝にこぼれていた煙草の粉を払ってやった。
夫は、一言か二言、何か言った。妻は顔を寄せてそれにこたえた。微笑が二人の頬にあった。静かな話し方である。妻は、すんなりとした恰好のいい姿勢で掛けていた。
隆志と久美子は、斜め前のこの夫婦に、しばらく眼をひかれた。
「品のいいご夫婦ね」
久美子がささやいた。隆志はうなずいた。思っていたことを久美子が言った。この夫婦は、周囲のどの乗客にも見当たらない、おだやかな上品さと、静寂な愛情を、その雰囲気にもっていた。
それからも、ときどき、隆志の眼は、斜め向かいの二人に走った。夫はパイプをくわえて本をよんでいる。妻は、スーツケースからウィスキーの角瓶をとり出して蓋《ふた》をとっていた。夫は、パイプを放し、小さなコップを手に持った。妻は瓶をそれに傾け、蓋をした。動作がリズムを持ったように垢抜《あかぬ》けていた。夫は何か言った。妻は笑って首を振った。恥じらいのみえる振り方だった。ウィスキーをすすめられたのを断わったのである。
隆志は眼をそむけ、久美子を見た。久美子は背を後ろに倒し、眠っていた。子供らしい寝顔だ。隆志の愛情だけを信じている顔だった。が、この時、彼には妙に久美子が離れた存在に感じられた。
離れた、というのは当たらないかもしれない。とにかく、一瞬距離を感じたのは事実だった。今まで、あれほど密着していたものが、急に遠のいた。なぜか説明ができなかった。しかし、それが斜め向かいの夫婦の影響であることは確かだった。──考えてみると、こっちの二人には過剰な愛情はあるが、生活がなかった。先方には、控えめな愛情の底に、安定のある生活の基礎があった。それが眼に見えない圧迫となってくる。隆志が、久美子をわずかな間でも遠く感じたのは、そのせいだった。
隆志は眼をふせた。斜め向かいの妻も、顔に白いハンカチを当てて眠っていた。かたちのいい眠りかたであった。夫は、まだパイプを握って、本に眼をさらしていた……。
博多には午《ひる》を過ぎて着いた。乗客は身支度をした。隆志は網棚のスーツケースをおろしてやり、久美子に与えた。
「着いたのね」
とうとう着いたという意味が口吻《こうふん》にあった。窓の外には見知らぬ駅が構えていた。
隆志は鞄を提げた。三十五万円の札束はさほどの重さではない。今日は日曜日である。絶対に安全な一日だった。発覚するのは明日のことである。それもおそらく午後になってからであろう。檻の中の会計主任が、得意先のほうぼうへ電話をかけて、色を失っているのが眼に見えるようである。
降りる時に、隆志は斜め向かいの夫婦に眼をやった。夫はトランクをさげ、通路に立ってなんとなく隆志のほうを見ていた。やはり、おだやかな眼だが、彼はあわてた。妻は、コートを着て、夫の後ろに従っていた。すらりとした背である。夫のオーバーの肩を指でなでていた。隆志は、久美子を先に立てて歩いた。
駅の前に出ると、旅館の客引きが寄ってきた。案内されたところは、街からはいりこんだ小さな旅館であった。部屋は六畳ぐらいの狭さ、障子をあけると、隣の家の物置きがすぐに見えた。
服装で、客引きに値打ちを踏まれたのだ、と隆志は気づいた。隆志のオーバーは三年前に買ったものだった。久美子のものも色があせて裾《すそ》のほうには汚斑《しみ》が見える。彼の靴も、彼女の靴も、皺が寄ってくたびれていた。その二揃いの靴が、宿の下足箱の中にはいっているかと思うと、彼は赧《あか》くなった。旅館の者は、彼の持っている手提鞄の中に、浪費してもいい三十五万円があるのを知らない。
「デパートに行こう」
女中が茶と菓子を出して、引き退《さが》ったあと、隆志は言った。
「デパートに?」
久美子は驚いて眼をあげた。
「うん。買いものに行くのだ。僕たちは、もっと上等な服を着る必要がある」
否応《いやおう》を言わせないものがあった。外出する、と宿には言って、デパートの場所をきいた。
東京と同じくらいに立派なデパートがある。隆志はまず自分のオーバーと洋服を買った。既製服だが、英国製である。その場で着てみたが、軽くて手触りが違い、春の日向《ひなた》のように暖かかった。これと、靴とに十万円近く払った。久美子には、しりごみするのを、シルクのスーツに、アストラカンのオーバーを強《し》いた。着てみると、よくお似合いです、と女店員が半分|妬《ねた》ましそうな眼つきで言った。サファイヤブルーの色に、高貴な光沢が散っていた。久美子の服装に、七万円を払った。日ごろ、買いつけた安物のネクタイよりも気軽な買物であった。
久美子は、眼をみはった。
「大丈夫?」
さすがに不安な眼だった。
「大丈夫さ。一昨日かぎり社をやめてね、退職金をもらったのだ」
久美子は、納得して安心した。
旅館に帰ると、番頭も、女中も、眼をむいていた。隆志は、ざま見ろ、と思い、ほかの旅館に移るからと言った。女中が、あわてて、もっといい部屋があると告げたが、構わずにそこを出た。出るとき、千円の茶代をおくと、女中は畳に頭をすりつけておじぎをした。
Hホテルは、博多で一番の高級ホテルだった。フロントの前に立っても、蝶ネクタイの|係り《クラーク》は、怪しみもしないで二人に一揖《いちゆう》した。隆志はペンをとって、すらすらと偽名を記帳した。紺色の制服を着たボーイが荷物を持って先に立つと、彼も久美子も、買ったばかりの新しい靴で緋《ひ》色の絨毯《じゆうたん》を踏んだ。
その夜の夢は、豪華だった。
4
翌日の朝、二人は博多を発《た》ち、熊本に向かった。手帳に記《しる》した予定の行動で、熊本から阿蘇に行くのだ。途中の景色は、明るい陽の下にあった。
今日中には、会社が警察に訴えて、森村隆志の行方を捜索し始めるに違いなかった。追及は彼の故郷にまず及ぶかもしれない。彼の友人、彼がかつて旅したところ、そういう所が捜されている。九州とは誰も気がつくまい。それがわかるまでには、まだ時日がある。
鞄の中には、まだ十七、八万円残っていた。服装に金をつかい、ホテル代も、二人で一万円とられた。惜しくはなかった。まだ、これだけの金が残っていれば、三、四日の旅の夢には少しも困らなかった。
阿蘇に着いたのは、遅い午後だった。観光バスに揺られて登山した。黄いろく枯れた山が眼の下に沈んで行った。バスガールが絶えずしゃべる。甘い調子であった。二人は移りかう景色を見ていた。遠いところに霞《かす》んで海が見える。雲の下の草の上には、放牧の馬が群れていた。
火口の上は、褐色の絶壁だった。地鳴りがして煙が上がっていた。二人はそれを見つめていた。
「自殺する奴は、どこから飛びこむんだろう?」
ほかの見物客が話しながら、二人の背後を通った。煙で、下は見えなかった。隆志も久美子も、そこでは別なことを語った。が、気持の中では、自殺者のことを話し合っていた。
外輪山が、外壁のように囲んでいた。その内側に広い平野が沈んで横たわっているが、外輪山の囲みは、妙に息苦しさを与えた。囲まれていることの圧迫感であった。そこに追いこんで、脱出することを拒否しているような山の姿であった。陽が、その外輪山の陰に落ちはじめた。
「降りようか」
隆志が言った。久美子はうなずいた。彼女の顔も、蒼白くなっていた。
バスで下ると、坊中《ぼうちゆう》という駅に戻った。
「いい旅館はないかね?」
隆志が言うと、運転手はドアをあけて二人を迎え入れた。自動車は、しばらく平原を走っていたが、やがて山を登りはじめた。箱根か日光のように、滑るような白い道がついている。平原の畑では麦踏みを見たが、ここでは藪の中で鶯が啼《な》いていた。
山の中腹に、白い壁のホテルがあった。昏《く》れなずむ山の中に、ホテルの灯は窓に明るく輝いていた。自動車が旋回して玄関につくと、白い服のボーイが飛び出してきた。
ここでも、帳場《フロント》は上等な客として隆志と久美子を扱った。ボーイは赤い絨毯の階段を先導した。すれ違いに、外人の夫婦が降りてきた。
ふしぎなことに、隆志は映画の中の人物になったと感じた。身のこなしが自然とそうなった。彼は股を伸ばして廊下を歩いた。汚いビルの事務所でだるまストーブを囲み、石炭をくべていたもう一人の彼は消し飛んだ。
「夢みたいだわ」
久美子は部屋にはいって呟いた。観光ホテルは阿蘇山中第一の旅荘である。部屋は色彩と調度に贅沢が満ちていた。隆志は久美子に近づき、両手を広げて抱いた。こんな身ぶりをしても、おかしくはなかった。
ロビーに出ると、落日の名残りが、遠い平野と海を淡く照らしていた。海の向こうには雲のような薄い色の山が見えた。山と、棚引《たなび》く雲とは頂上のあたりで、まじわりあっていた。
「きれいね」
と、久美子は手摺《てす》りにつかまって溜息をついた。
「あれ、どこの山?」
「雲仙だろう」
言ってしまって、隆志は、ずいぶん遠い所に来たと思った。東京がはるかかなたの存在になっている。そこでの生活も、感情も──。
これから別な生活がはじまる。それは三日か四日であろう。その先の瞬間のことを彼は茫乎《ぼうこ》として考えた。しかし、まだ、その現実は知っているだけで隙があり密着がなかった。隙間は空気のような不安が揺れて埋めていた。夕食をとったあと、隆志は久美子を誘って散歩に出た。あたりは夜が来ていて、山の気配が冷たく匂った。灯の遠いところまで二人は歩いた。暗い空の下に、黒い山がすぐ近くで立っていた。
二人は手を組んだ。ときどきは立ちどまって、唇を合わせた。互いの唇は夜気で冷えていた。黒い世界は果てがないように思われ、どこまでも続きそうだった。音が死に、枯草が匂った。
「──闇をくぐって二筋に
一つは暮れる山に入り
一つは遥かの海に行く」
久美子がくちずさんだ。
「なんだい、それは?」
隆志が咎《とが》めた。
「詩よ。外国の……」
詩はわかっている。詞《ことば》が甘美で不吉だった。久美子にも不安が漂っている。息苦しさを甘美な口先で紛《まぎ》らわしていた。彼女は自分の行く先の近づいてきたことを知っている。隆志は感情がこみあげた。
帰りにかかると、雨が一滴落ちてきた。あんがい、遠くまで歩いてきたことに驚いて、足を早めた。ふと、後ろに何かを感じて振り返ると、二匹の牛がついてきていた。久美子は悲鳴をあげて隆志の腕につかまった。放牧の牛は、ゆっくりと二人のあとから歩いていた。
「怕《こわ》いわ」
大丈夫だよ、と隆志は言った。牛との距離は遠ざかった。雨滴の数が多くなった。
ホテルの玄関が見えるところまで近づくと、傘をさして二人の男女が歩いていた。傘の陰と、暗いのとで顔は見えなかったが、女はホテルの着物を着ていて、すらりとした背だった。傘は、遠いホテルの灯から遠ざかった。
隆志は、不意に、「さちかぜ」で見たあの中年の夫妻を直感した。
「いまの人、汽車の中で見た人ではないかね? ほら、熱海から乗った夫婦さ」
久美子は、振り返ったが、傘は闇の中に、もうはいっていた。気がつかなかったわ、と彼女は言った。
部屋に戻ったが、隆志は気持がどこかに落ちて行くことを感じた。さきほど、闇の中で覚えていた感情とは、急激な落差があった。何か、がくんとしたものだった。この沈みは今、あの夫妻と会ったと感じたときから始まった。あの落ちついてパイプをくわえている夫の風貌《ふうぼう》と、おだやかな上品さを湛《たた》えている妻の動作を思い浮かべて、隆志は言いようのない気持の崩壊に陥った。
小ゆるぎのない、巨巌のように安定した先方の生活が、彼を圧迫した。
「踊ろうか」
と、隆志は言った。
ホールに降りると、外人夫婦がタンゴをかけて動いていた。隆志はそれを見つめていたが、外人が去るとジルバをかけて踊り出した。こんな急速な踊りをしなければ遣瀬《やるせ》がなかった。それは、自分で自分を沸《わ》き立たせたい気持だった。
5
翌日、阿蘇から熊本に出ると、二人は城の中など見てまわった。なにも眼に映るものはなかった。彼らは、怠惰に市中を彷徨した。
午後の汽車で下りに乗った。下りは、さらに南の果てに近づくことであり、いよいよ東京から遠ざかることであった。
数時間で、日奈久という駅に降りた。手帳の第二のコースである。
旅館は海に近く、白壁の塀を回《めぐら》した大きな家であった。
女中は、広い座敷に通した。十畳の間と六畳の控えの間、ほかに応接セットなど置いた別間があった。二人の服装を見て、一番上等の部屋に通したらしかった。蘇峰《そほう》書の一軸の前には香炉が煙を上げていた。
「東京のお方でございますか?」
女中が宿帳の字を見て言った。
隆志は、思わず怯《おび》えた眼をした。女中の顔は丁寧に笑っていた。
「東京のお方はめったにおいでになりませんので」
女中はお愛想を言っているのだった。この辺で見るべき場所など教えた。東京と書くのはまずかったと、隆志は思った。
今ごろは捜査はどの辺まで進捗《しんちよく》しているのであろうか。故郷、知人、友人の先は全部洗われているに違いない。犯人は、この辺に立ち回る模様──という新聞記事の一句が頭に浮かんできた。当局にその見込みがないとわかれば、追及の線は新しく立て直されるであろう。いや、それはもう始まっているかもしれなかった。見えない線がすぐそこまで伸びてきていそうであった。
あと二日だな、と彼は思った。
軒の下には星空があった。久美子は海のほうを見ていたが、ここからは見えなかった。
「海に行ってみない?」
隆志は誘った。久美子は、素直についてきた。元気がなかった。
海は、冷たい風が吹いていた。家のならびから離れると人影がなかった。潮の香りだけが強い。隆志は久美子の肩に手をおいた。その肩は掌《てのひら》に伝わるほど慄《ふる》えていた。
「寒いのよ」
と、久美子は言いわけするように言った。実際、風は寒い。遠くに黒い島があり、人家の灯が冷たい空気に揺れているように、ちかちかしていた。
「帰ろうか、風邪《かぜ》をひくよ」
隆志は言った。風邪をひくよ、という言い方が不自然でへんな具合であった。
「いいの。少し歩きましょう」
海に沿って彼女は歩き出した。海は、女中が宿で説明した、不知火《しらぬい》が夏に浮かぶという有明海であった。
二日あとに死ぬよ、と隆志は、よっぽど言い出そうとしたが、声にならなかった。言っては残酷のような気がした。久美子は、それを感じているのだ。言う必要はないように思われ、気持の上で、十分それを語っていると考えた。言うときは、今から死ぬよ、という言葉になりそうだった。
向こうの島に灯台の灯が明滅していた。
来る時の列車の窓から見た、羽田の航空管制の灯を思い出させた。あの時は、東京を逃げたすぐ後であった。
死ぬ前の豪華な旅が、このように気持を沈ませるとは思いも寄らないことだった。もっと人生の最後の充足を期待したのだ。安サラリーマンとして彼が遂げられなかった夢を、三、四日の間にことごとく燃焼させるつもりで来た。空想していたことの一部は、たしかに現実になった。しかしその場の充実は、指の間から逃げて行くように脱落するのだ。
なぜかわからなかった。が、それが彼の心の中で自然に起こった現象でないことは言えそうであった。何かの影を受けてからだった。自分より勝《まさ》っているもの、もっと充実した何ものかの影であった。隆志は、それは、あの夫妻だと思った──。
向こうに、赤い火が燃えていた。黒い松林の間に炎を出していた。
「行ってみましょうか」
久美子が言った。こんな時、人間はもっと暖かい色を望むのであろうか。沖には、一つの漁火《いさりび》もなかった。
火は塩焼きであった。風が渡っている松林の下の、掛け小屋のような所で火は燃えていた。大きな竈《かまど》がかかり、老人がひとりで薪《まき》をくべていた。星の下で、火の赤さは、これまで見たこともないくらいにきれいだった。
二人は黙って見物して二十分ばかりで引き返した。
宿の女中が、お寒いのにどこまでいらしたのですか、ときいた。
「塩焼きを見てきた」
と言うと、へえ、あんな所まで、と眼を大きくした。
「酒でも頼もうか」
と、隆志は言った。酒は元来が好きではなく、これまで飲んでいなかった。
「いいわ、わたしもいただくわ」
と、久美子も言った。真黒い心の中で、酒がさっき見た塩焼きの火に思えた──。
その夜、二時ごろであった。隆志は、何かの音に眼をさまされた。
「ごめんください」
と、忍びやかな女の声だった。
久美子も横で眼をあけた。隆志は、どきりとした。
「申しわけございませんが、警察の方が、各部屋のお客様にお会いしたいそうでございますから、ちょっと失礼させていただきとうございます」
女中は襖《ふすま》の外で小さく言った。
隆志は、顔が蒼《あお》くなった。胸が高く鳴り出した。頭が逆上《のぼ》せて、指の先まで動悸《どうき》が打った。何か言おうとしたが、声が咽喉《のど》につかえた。待ってくれ、待ってくれ、と心の中で叫んでいたが、出た声は別なものだった。
「どうぞ」
口から出して、しまった、と思った。とっさの偽装がみすみす破綻《はたん》に突入するかと、眼をつむりたいくらいだった。久美子が起きて、手早く、その辺を片づけ、明るい電灯をつけた。彼女も、不安そうに隆志を見た。
襖があいた。
「恐れ入ります」
女中が行儀よく膝を進めて来ようとした。それを誰かが後ろでとめた。ジャンパーを着た男が二人づれで女中の背後から隆志たちの顔を覗いている。女中をとめたのは、その一人のようだった。
男の声で、二言三言、何かささやきあっていたが、刑事の一人が、急に大きな声を出した。
「どうも、失礼いたしました。もうけっこうですからお寝《やす》みください」
隆志たちに言っているのだった。女中は詫びて襖を閉めた。刑事の足音が遠ざかるのを聞いて、隆志はよけいに動悸がたかぶった。彼は床の上にすわったまま動かなかった。動くと心臓が破れそうだった。
「どうしたのでしょう?」
久美子が言った。声に恐怖が含まれていた。彼女も追手のことを考えているに違いなかった。しかし、それはもっと単純な、家出人の捜索のことだった。隆志が会社の金を拐帯した逃亡者であるなどとは塵《ちり》ほども思っていなかった。
隆志は、あと二日間の緊迫を現実に考えた。夜気が肩を冷たくさせた。
朝になって、茶を運んできた女中が昨夜のことをあやまった。
「事件が起きたのですって。犯人は若い夫婦づれだそうです。この日奈久に来ているという情報があったから、昨夜は、この辺の旅館は片端から調べられました。それでも、とうとうわからなかったそうでございますがね」
わからなくってよかった、と隆志は思った。
隆志は顔を洗い、庭の見える縁の椅子に腰かけた。今朝は天気がいい。陽《ひ》の光に強さがあった。外の冷えた空気が、その光に溶けてゆくのがわかるようだった。
茶を飲み、新聞を広げた。社会面を捜したが、この地方の記事ばかりで、自分のことはのっていなかった。女中の言った事件のことも書いてなかった。
「あら」
と、向かいの椅子に腰かけていた久美子が低く叫んだ。
「あの、ご夫婦だわ」
隆志は新聞を放して、眼を庭のほうにやった。
庭はかなり広い。池も築山《つきやま》もあった。植込みの木が多い。南らしく、棕櫚《しゆろ》が葉を空にひろげていた。
その木の間を二人連れで歩いているのはまさしくあの中年の夫婦だった。夫は相変わらず端正に洋服をきてパイプをくわえていた。頭髪の手入れも変わりはない。いかにも朝の庭歩きをたのしむように、少し背を屈め、ゆっくり足を運んでいた。
妻は、夫のすぐ横にぴたりと添っていた。すらりとした姿は、夫の歩調に合わせなければ気がすまないように、緩く歩いていた。その間にも、絶えず夫の様子に気を使っていた。静かな、充実した姿だった。
「あのご夫婦も、この旅館に泊まってらしたのね」
久美子が感嘆して言った。
「うむ」
「どこのお方かしら? 熱海に泊まって、九州へ見物にいらしたのね。羨《うらや》ましいご身分のようだわ」
そうだ、羨ましい夫婦だった。隆志は凝視をつづけた。夫婦は、庭を回り、池の水を見ている。水は早い春の陽射しに、光の粒子を撒いていた。
安定した生活が、その二人の様子に溢れていた。夫のパイプをくわえた姿も、妻のより添った姿も、たとえば冬のおだやかな陽の光のように、凝結した静止と暖かみがあった。がっちりとした建築のような生活を踏まえた、羨望《せんぼう》すべき中年の安定だった。
──あんな人生もある!
隆志は、感動して涙が出そうだった。
夫と妻とは静かに語り合った。ふと、夫は顔を上げてこちらの方を見た。やさしい眼に、訝《いぶか》りの表情がみえた。それから妻の方を向いて何か言った。妻はこちらに白い顔を向け、ああ、汽車の中でお見かけした方だわ、とでも言ったように、夫に答えた。夫妻は微笑を隆志と久美子に投げた。
隆志は希望のようなものが湧いたと感じた──。
6
「それきり、その夫婦には会わなかったのかね?」
と、検事は隆志にたずねた。
「会いました。指宿の旅館でも、偶然、一緒になりました。その時は、話をしました」
隆志は検事に答えた。
「どんな話をしたのか?」
「普通の話です。旅行はいい、というようなことです。先方のご夫婦が、部屋に僕たちを招《よ》んでくれたのです。ご馳走をしてくれました」
「ふむ」
と、検事は鼻で答えた。
「指宿まで行って、おまえはまだ心中するつもりだったのか?」
「とにかく、指宿に行くことは行きました。今から考えてみると、死にたいという気持は、だいぶん変わっていたと思います」
「どう変わっていたのか?」
「死んでもいい、死ななくてもいい、という気持です。いや、死にたくないと思ったかもしれません。そのほうが強かったようです」
「それは、なぜだ?」
「あの夫婦が、僕にそれを与えました。実際、僕は羨ましかったのです。ああいう人生をいつかは持ちたい、そう思ったのです」
「しかし、おまえは会社の金を拐帯して逃げたのだ。それができるのか?」
「できると思いました。罪は清算します。しかし、そのあとは懸命に努力して、自分の人生を建て直したいと思いました。その勇気を、あの夫婦から学びました」
「それで、自首して出たのか?」
「そうです」
検事は、しばらく隆志の顔を見つめていたが、煙草を一本とりだして彼にすすめ、自分でも喫った。それから、ぽつりと言った。
「あの夫婦は、君たちのほうを羨しがっていたかもしれないよ」
「え、どうしてですか?」
「君たちが、無邪気に若い青春をたのしんでいるように見えたに違いない。なんの心配もなくね」
「なんの心配もなく?」
「そうだ」
検事はうなずいた。
「先方は君たちより、もっと大きな苦労をもっていたのだ。あの男はね、六百万円の横領犯人だったのだ。ある会社の会計課長でね。君たちが細君だと思っていた女は、バーのマダムで彼の愛人だった。君たちは、あの二人から勇気を得て東京に帰ったが、当人たちはそのあとで情死したよ。薬を宿で飲んでね」
隆志が息を詰めて、言葉を失っている間、検事は彼の刑量を考え、執行猶予を論告しようと思っていた。
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投 影
1
太市《たいち》は、東京から都落ちした。
今まで勤めていた新聞社を、部長と喧嘩して辞《や》めてしまったのだ。
ほかの新聞社に行くのも気がさして、辞めてしまったら、新聞記者ぐらい潰しのきかないものはない、とはじめてわかった。
もう東京にいるのも嫌であった。
「おれ、田舎に行くよ」
と言ったら、頼子《よりこ》は、そう、と言って反対もしなかった。社からもらった退職金のある間に、瀬戸内海のSという都市に移ってきた。別に知人があるわけではない。地図を見たら、海の傍で、好きな釣りができるし、なんとなく住みよさそうだったからだ。
しかし、退職金も少なくなると、頼子は心細がってきた。
「ねえ、どうするの?」
と頼子は言うが、こういう土地に来た一種の虚脱感があって、見えすいた生活の行き詰まりも切実にせまってこない。うん、うんと生返事しながら、釣道具をかついで出ていった。
部長と衝突したといえば聞こえはよいが、頼子のことに夢中になって、社にもろくに出勤しなかった。退職金引当ての前借りや知人からも借り出して頼子に注ぎこみ、というよりは毎晩の逢瀬《おうせ》に彼女の働いているホール通いに費《つか》い、二人で東京周辺の温泉地も遊び歩いた。
はじめは適当な理由を電話で届けて休んでいたが、たび重なると口実に窮して、面倒臭いままに無届け欠勤がつづいた。
社会部という忙しい部署に籍のある者がそんな怠けかたをして無事であるはずがなかった。辞表を出す羽目には、彼自身がしたことだが、もともと部長と気が合わなかった。彼は前の部長には可愛がられたからよく働き、腕ききだといわれたものだが、今度、他の部から移ってきた部長には何となく睨《にら》まれて冷遇され、いつかは大喧嘩をして辞める時が来るような予感がしていた。辞めるように怠けたのは、その絶対の予感をわれから早く実現にもっていった運命的な心理もあった。日本でも一流の新聞社なのに惜しいことをしたものだという人があるが、所詮は他人の批評である。
そんなことで大した退職金もなく、東京でうろうろ職を捜したのではたちまち動きがとれなくなる。前に学校の先輩がこの市の地方新聞社で羽振りがよいことを知っていたので、通知も出さず頼子と二人でいきなり来たところ、その先輩はその社をやめてここにいないことが初めてわかった。
こんな時、あんまり動き回ってあせるよりも、しばらく物価の安いこの土地にいて職も捜し、東京の友人にもここから手紙で就職を頼んでおけば、そのうちなんとかなると思った。
それで頼子との間借りの新生活に心たのしませていたが、いくら物価のやすい土地でも、無収入で釣りにばかり行っていたのでは、三カ月たった今、行き詰まりが眼の前にきた。
のんびりした土地のようでも、就職難は同じである。本気に捜す気もないが、捜してもなさそうだ。それに新聞原稿用のザラ紙に書く4B鉛筆を握りつけた指には、ちょっと別なものを持つ気が起こらない。
「ねえ、どうするの?」
と、頼子が言っても、生返事して瀬戸内海につき出た突堤に釣りに通ったのは、一つにはそれであった。
ある日、太市が夕方かえってみると頼子が外出着ですわっていた。それは彼女のたった一つの晴れ着であった。きれいに化粧していて、薄暗い六畳の空気から浮き出ているようである。
どこに行ったのかと問うまでもなく、彼の顔をみて彼女のほうからにこにこして、
「わたしねえ、仕事みつけたわ、あなたに知らせずに行ったんだけれど、ごめんなさいね。だってもう五百円きりないのよ」
と言う。彼女の仕事というと、おおよその見当はついたが、
「なんだい」
「この土地で一番というキャバレーに行って支配人《マネジヤー》に会ってみたの。すぐ、オーケーだったわ。明日の晩からゆくことにきめたわ」
こういう場合の用意にと、彼女はドレスを二着、もってきていた。
「ねえ、ごめんなさいね」
と、頼子は彼の顔色を窺《うかが》うようにささやくのに、すまないと正面切って言えない性質《たち》なので、
「いよいよ、おれもヒモで暮らせるか」
と、苦笑すると、
「バカね」
と叩かれた。
2
キャバレーは『銀座』という名で、そとからみても、東京の場末の一番ぐらいに大きそうであった。太市は毎晩、その近くまで頼子の帰りを迎えに行ったが、そうしているうちに、
──なるほど、こんなことではいけない。
と思った。
少し真剣になったつもりで、新聞の案内欄に眼を通す毎日になったが、三十前後の男にはいかに職業がないかを痛感するだけであった。
東京で磨きをかけた頼子が、店でたちまち売れているのは、亭主根性で当然と思ったが、そういう収入だけで暮らすのは、卑屈になるまいと思っても、じめじめした心持に引きこまれていった。そんなにあせることないわ、と気をかねる頼子の言葉には関係のないことであった。
すると、ある朝、地方紙の案内欄の隅に、
『有能記者招聘、望気骨有奮闘者。陽道新報社』
という三行広告が眼にはいった。
どうせ名もない地方新聞社とは思ったが、この時ばかりは飛び立つ思いで家を出た。
書かれた所番地を捜してゆくと、ごみごみした路地だから、もとよりそれらしい建物があろうはずはなく、『陽道新報社』と看板だけ不釣合いに大きいのが、古びたしもたやの表に掲げてあった。
予想はしていたが、あまりひどいので、たじろいだが、ともかくはいってみた。狭い玄関の土間から、ささくれ立った古畳の座敷がまる見えで、それでも事務机とガタガタの回転椅子が一応の恰好をつけていた。
出てきたのは割烹着《かつぽうぎ》をきた中年女で、細君らしく、わりと小ざっぱりしていたのが太市には好感がもてた。
来意を言うと、いったん、引っこんだが、しばらくして出てきて、どうぞ、と落ちついた微笑をみせて頭を下げた。
ひどく狭くて急な暗い梯子段を上がると、二階は八畳ばかりの間で、床がのべてあった。
「主人はこの半年|臥《ふ》せておりますので、失礼ですが、ここでお眼にかかります」
と、細君が断わりを言った。すると、布団がもぐもぐと動いて、寝ている当人が起きあがった。
それは痩せた眼の大きい、顴骨《かんこつ》の尖った五十年輩のとげとげしい感じの男であった。頭の半白と面《おも》やつれとが老《ふ》けさせてみえるので、実際はもっと若いかもしれない。
しかし気力の鋭さを感じさせるのは、彼の眼の光と、一語一語区切って言うような言葉のハリであった。
彼は陽道新報社長|畠中嘉吉《はたなかかきち》と名のり、太市に向かって眼を注いで、
「あんたは新聞記者の経験はあるじゃろうな?」
ときいた。
太市が、三年ぐらいの経験がある、と言うと、彼は、それ以上深くは身の上をきかなかった。その代わり、この市がこの地方で占める特殊性とか、しかし市政が不手際であるとか、中央政治が地方行政に不熱心であることなどを述べた。
それは二十分ぐらいであったろう。話を打ち切ると、すぐ、今いったことの要点を新聞記事体にその場で書け、と言った。そんなことは新聞社の入社試験の初歩なので、ぼんやり聞いていたけれど、まとめあげた。
畠中社長は、眼鏡をもってこさせて、それを見ていたが、ふん、ふん、と鼻からつめた息を出した。
「目下の政治問題について君の独自の意見をかいて明朝もってきて見せてくれたまえ。これはウチの新聞や」
と言って、タブロイド判二枚折りの新聞をくれた。
帰って、その『陽道新報』を読むと、表も市政記事で、社会面はなかった。その市政記事たるや報道と攻撃をごっちゃにした主観的な記事で埋まっていた。つまり、これは予想どおりの地方の小新聞であった。
それを寝転びながら、裏と表をくり返し読んでいるうちに、太市は不覚の涙を流した。おれもついにここまで落ちたかという感傷であったが、日本で一流の新聞に書いていた魂と地方の小新聞に書く魂と、おれの本質に変わりがあろうかと自分の心を説得した。寂しいのは理屈のほかだからしかたがない。
「常に正義をもって市政悪と闘う」
という陽道新報の題字の横に書かれた白ヌキのスローガンを口ずさみながら、頼子を迎えに暗い街に出た。
3
翌日、採用ときまったとき、畠中社長は眼を光らせながら床の上にすわってこう言った。
「あんたは実は十一人めの入社志望者だが、わしの眼に合格したから、しっかりやってくれ。それで他所者《よそもの》のあんたには不案内じゃろうから、今の市政の概要を言っておく。あとは自然にわかってくる。まず、この市は市長派と助役派にわかれている。助役はことごとに市長に楯ついている。それならなぜ市長が女房役の助役をクビにせんかというと、助役は策士で市会議員の多くに自己の味方をつくった。それに彼は次の市長選挙に打って出るつもりじゃから吏員の上層部にも人気とりをしとる。つまり市長が助役をクビにするには、助役はあまりに強大になっているのじゃ。そのことが一つ。助役は人気をとるために係長以上の吏員のいいなりになっている。その吏員を市会議員は自分のええようにさせとる。わかるかな。これが今の市の現状じゃ」
文章で言うなら、一章一章の句切りに力を入れるハリのある言い方であった。
太市は反問した。
「すると、あなたは市長派ですか?」
社長は半白の頭を強く振った。
「わしはどの派でもない。二十万市民の味方じゃ。この市政悪と闘ってきた信念の男じゃ。市長も助役も市会議員も吏員も、わしを煙たがっとる。それでええ、一人でもやる。病気で寝こんで残念じゃが、あいつらは喜んどるじゃろう。くそ、負けるもんか。わしの代わりにここの市政悪を徹底的に叩いてくれ。だれにも遠慮はいらん。一文の広告ネダリもせん。そうじゃ、君の同僚を紹介しよう。湯浅新六《ゆあさしんろく》という男じゃ。まじめな奴じゃが、惜しいことに覇気が足らん」
畠中社長は手をたたいて割烹着の細君を呼び、新六を呼べと言った。
湯浅新六は猫背で、色がくろく、しなびたような顔をしてはなはだ老けてみえた。
近づきにというので、太市は彼を表に引っぱり出して、おでん屋に誘った。
「大将はこの市の上層部には嫌われ者ですよ、誰かれとなく狂犬のように噛みつくのですからな。市会議員選挙には連続八回落選の記録保持者ですよ。それであんなひねくれ者になったんですな」
と、湯浅新六はコップ酒をなめながら説明した。
「大将、病気で残念がってますよ。僕は大将の気に入らん男ですがね、あんな嗅覚《きゆうかく》もないし、筆も立ちませんしね。でも、これで週刊のタブロイドの新聞をひとりで埋めていますよ。なんて言っても、この新聞じゃ自慢にもなりませんな」
新六は自分でわらった。この男にもこんなコンプレックスがあった。今まで、どういう新聞社をわたってきた男であろう。そういえば、太市の経歴を畠中社長はきかなかった。新六もそんな質問はしない。それはそれでよいのだ。
新六は酔った。
「だが、わたしは大将が好きですよ。金を強請《ゆす》らんで貧乏しとるところがええ。奥さんも主人の道楽は諦めたと言うて米櫃《こめびつ》を空にして笑っていますよ。あの奥さんもええ。ねえ、田村さん、大将をたのみますよ」
二、三軒を回っているうちに、太市は新六を担《かつ》いで歩いた。
社長一人に、太市が入社してから社員が二名になった。印刷は小さい汚い印刷屋に賃刷りさせていた。割付けも校正も大組みも社員の役だ。
近代的な照明のある大新聞社の賑やかな工場とは天地の違い、ぽつんと裸電球が一つ二つ下がった薄暗い活版台の上で、もそもそした老職人の活字のさし替えを見ていると、太市はまた危うく涙が出そうになった──。
頼子は、
「いやね、そんなところ。イヤだったらいつでも辞めてよ」
と、慰めた。そんな言葉を言う立場は亭主と女房で逆なのだが、煙草をふかして黙っていた。陽道新報記者というお仕きせの名刺はまだ見せる勇気がない。税引き八千円という畠中社長の決めた月給のことを胸の中で考えていた。
翌日から最大の取材場所である市役所に行った。うすぎたない建物の中を、各課の課長の席へ新六が太市を連れて歩く。どの課長も小ばかにしたような顔をして、へらへら笑う新六を相手にしない。
相手にしないのは彼らばかりではなかった。この市役所では大新聞の支局と地方紙五、六社とで結成した市政記者倶楽部があったが、その倶楽部からも加入を許されていないのである。
要するに陽道新報はだれからも除《の》けものにされていた。その蔑視の白い眼の中を新六は猫背を曲げて、へらへらと卑屈な笑いをしながら取材に歩いていた。それを観察しているうちに、ふと、太市は、新六のその卑屈にみえる動作の奥には、畠中の傲岸《ごうがん》な闘志につながる反抗を見るような気がした。
4
ふた月ばかり過ぎると少し慣れた。ある日、太市は土木課に足を向けた。入口のガラス窓から覗《のぞ》くと、課長の机の前に、肩幅の広い大きな男が立っているのが見えた。
土木課長は、南といって、わりと親しめそうな男なので、太市は何気なく、その席に近づくと、
「生意気いうな」
と、どなる声がした。それは立っている大きな男の声なのだ。みると、南土木課長は席にすわって顔をうつむけている。
これはまずい所に来た、と思ったが、もうどうしようもなかった。突っ立っている、というよりも仁王立ちに立ちはだかっているその大きな男は、太市のほうをじろりと見た。口髭の下の顎が赤ン坊のように二重にくくられているくらいに肥えた、四十すぎのあから顔の紳士であった。誰なのか、もちろん太市は知らない。向こうも知るまいが、じろりと一瞥《いちべつ》した目つきは好感のあるものではない。あきらかに邪魔なところに来たという敵意があった。
「覚えておれ」
と、男はふたたび怒声を課長のうなだれた頭の上に浴びせた。それを捨《すて》台詞《ぜりふ》というのであろう。彼はくるりと背を回すと、声を呑んでいる課長たちの前を通り抜けて廊下を悠々と出て行った。
小学生のように叱られていた南課長は、ようやく頭をあげた。彼はチョッキからライターをとり出して煙草につけたが、指先が少し慄《ふる》えていた。非常な憤怒の感情を抑制していることが、わかった。
しかし課長はやや蒼ざめた顔色に、少し間の悪そうな微笑を見せた。
どうしたのですか、そう言おうとしかけると、課長の瞳が鋭く別のほうに動いた。この課には係長の机が三つある。そのまん中の机から、一人の男がさりげない様子で椅子を立った。南課長の瞳はその男の背中に動いたのだ。
男は机をはなれると、便所へでも行くようにのっそりと歩いて廊下に出て姿を消した。課長の瞳は意味ありげにそこまで追って、普通にかえった。その二、三秒の黙劇のような動きを太市は眼の隅から見のがさなかった。
折りから課員が書類をもってきた。課長は朱肉のついた判コを片手に握って新しい仕事に向かっている。老眼鏡をかけた彼の鬢《びん》は白かった。
太市は、煙を吐いて、
「何か変わったことはありませんか」
と言うと、南課長は今度は顔もあげずに、
「何もないね」
と、書類の文字を眼で追っていた。太市は一本喫い終わっただけで立ち去った。
その夜、新六をおでん屋にひっぱり出して話すと、彼はくすんだ顔に眼を光らせて、
「へえ、それはおもしろかったな」
と言って、コップの縁《ふち》から酒を吸った。
「その大きな男は市会議員の石井円吉という男じゃな。あいつ、なんで南課長をそんなにどなりつけたんじゃろう。何かあったのかな、石井はこの市のちょっとしたボスなんだ」
「係長はなんというのだい?」
「そりゃあ、港湾係長の山下じゃろう。きっと忠義顔をして石井議員のあとを追いかけて行ったに違いない。へえ、おもしろいな。あいつ、以前はそれほど石井にくっついていなかったがな」
「課長と係長は仲が悪いのかね」
「表面は悪くないが、石井議員と山下の仲を臭いと思っているんじゃないかな。けど、その一幕はおもしろかったが、それをまだ事情にうとい君が、そう細かく観察したのはなかなか鋭いな」
「いや」
と、太市は酒を注いだ。
「けど、なあ、君」
と、新六は太市のそばに近よって声をひくめた。
「こりゃあ、何かあるぜ。少しほじくってみようか。あの山下という係長は助役派なんだ。要領がよくて、女好きな奴でな。それから、石井議員は赤線区域をバックにしたボスで、アクの強い男なんだ。気の弱い南課長をいじめているのは何かあるぜ。こりゃあ調べたらモノになるだろうな。第一大将を喜ばしてやりたいよ。ここんとこ陽道新報も紙面がパッとせんでいたまま、やきもきしているからなあ」
5
キャバレー『銀座』のかんばんは十一時で、ダンサーたちが帰るのは十一時半ごろであった。この時間に頼子を迎えに行く太市には、それまでの間がもてない。自然とおでん屋の腰かけにすわることが多い。
その晩も安酒をなめていると、ふと先客の中の横顔に見覚えがあった。頬が落ちて鬢が白い。肘《ひじ》を台の上に突いて、うつむき加減に杯を口に運んでいる。それが南土木課長だと気づくのに時間はかからなかった。しばらく見ていたが、ひとりで考えこんでいるような恰好に、寂しそうな翳《かげ》があった。
太市は立って、その横の席に移った。
「課長さんじゃありませんか」
と声をかけると、南課長はふりむいて瞳をすえ、いぶかるように見ていたが、わかったらしく、
「ああ、君か」
と、口もとを笑わせた。役所の課長席にすわった無愛想な彼でなく、人さびしいところで見知りの顔に会ったという人なつこさが表情に出ていた。
太市が、失礼します、と杯をさしむけると、素直に、彼は、
「ありがとう」
と、礼を言って受けとった。
「課長さんもよくここへ見えるのですか?」
と言うと、
「いや、そうでもないが」
と、語尾は薄い笑いに溶けた。そのひとり笑いは思いなしか、自嘲めいたもののようにとれた。
飲んでいるうちに少しずつ打ちとけたような雰囲気が出てきそうであった。太市は市会議員の石井円吉からこの南がどなられていた情景が眼に残っている。新六に話したとき、そりゃあおもしろい、何かあるぜ、ほじくってみよう、と言った彼の声も耳に新しい。太市は、ここで南と偶然飲む機会になったのを幸い、この秘密の端か何か聞き出せるかもわからないと思った。
「市会議員のなかには、わからんことを言ってくる奴もあるでしょうな」
と、ようやく酒の気分の出たところで、それとなくアタってみた。
すると、杯のふちに触れていた南の唇がぴくりと動いた。急所にいきなりさわられたという唇の慄えかたであった。太市は、しまったと思った。言い方がまだ生《なま》すぎた。もっと遠くから回って言えばよかった。
あの時の場面を太市に見られている南課長には、それがどのように心の奥でひけ目になっているか、太市の想像以上だったのだ。
課長は腕時計を見て立ちあがった。今までの柔らかい笑いは顔から消えた。太市は、機会《チヤンス》が帰り支度をしているのを感じる。
「じゃあ、先に」
南はそう言った。言ったまま二、三秒そのまま立っていた。太市は、おや、と思った。すると、南の酒臭い息と顔が近づいてきて、
「僕はね、仕事は信念でしているのだよ」
と、少し吃《ども》り気味に言った。
それはそのことを言い残したいから言ったという感じだ。そのまま彼の痩せた背中は、おでん屋ののれんの外に出た。
信念で仕事をしている──か。この出来合いの安っぽい言葉を言いたくて、南課長は二、三秒の逡巡《しゆんじゆん》をした。文句は安っぽくても、彼の気持は逼迫《ひつぱく》している。それはわかるのだ。人間は、真剣な時ほど平凡な言葉を言うものだ。
何があるのだろう。新六に釣られたわけではないが、酒を飲んでいるうちにだんだん興味が出てきた。
時計を見た。十一時を回っていた。ダンサーの亭主は、女房を迎えるために、立ちあがった。
『銀座』はネオンだけ点《つ》いていて、窓が暗くなっていた。二十間ばかり離れた暗い街角で煙草を喫いながら待った。夜気が冷たい。
いつものように女たちが裏口から出てきた。すると今夜は自動車がそこにとまっていた。大きな男の影が車から出てきて、女たちのかたまった中にはいった。急に女たちのしゃべる声や笑い声が大きく揺れた。
男が一人の女の手を引っぱっている。自動車の中に入れようとするらしい。女は拒《こば》んでいる。他の女たちも、がやがやと騒ぎながら男をなだめていた。
男はついに諦めたらしい。何か言って笑っている。大きな男だが、その広い肩幅に見覚えがあった。広い背中は女たちに押されて自動車の中にはいった。
女たちの喚声《かんせい》に送られて、車が走り去った。一しきり、また女たちの笑い声が起こった。
そこで、女たちは、三々五々に崩れて散った。そのなかから、一人の女が歩いてくる。さっきの男に車のなかに引っぱられようとした女だが、それが頼子であった。
「お待ち遠さま。寒いのに、ごめんなさい」
と、頼子はいつもの礼を言った。黙ってならんで暗い通りを歩く。
「何だい、あの男?」
と、太市が言った。
「あら、見てたの。やだわ。しつこいのよ、あいつ。どうしても車で送ってやると言うの」
「君に惚れているのかい?」
「なんだか知らないけれど、うるさいの。このごろ、毎晩のように来て、私と踊りたがるわ」
「市会議員の石井円吉という男だろう?」
「あら」
と、頼子が太市の顔を見た。
「知ってんの、あなた?」
「ああ、ちょっとね」
おもしろいと思った。今晩、偶然、南課長にも会い、石井議員の姿も見たのは、どういう因縁かな。信念で仕事をしている、と言った南課長の言葉の裏はなんだろう。「覚えておれ」と南課長にどなった石井の言葉の意味は何か。
頼子が身体をすり寄せてきて、
「ねえ、何を黙って考えてんの。やねえ、妬《や》いてんの?」
と、顔を見上げて、指をからませた。
「ばかな」
6
陽は当たっているが、海からの吹きさらしの風が冷たい。広い空地で、雑草の生えているところや、ドラム缶の置き場や、倉庫のような建物が、疎《まば》らに見えた。
いくつもの島が青い海にうかび、島を縫ってゆく巡航船や、大阪通いの貨物船がゆるやかに動いていて、いかにも瀬戸内海らしい風景であった。
「あれだよ、あの建物だ」
と、新六は指さして太市に言った。
工場とも倉庫ともつかぬ細長い二棟のバラックで、窓ガラスもほとんど壊れている荒廃ぶりであった。それが広い空地の中にぽつんと取り残されたように建っていた。
「あれが石井円吉所有の鉄線工場だ。ま、内を覗いてみよう」
歩いて傍まで行き、破れガラスの窓から内部をのぞきこむと、何やら器械のようなものが二つ三つ転がっているだけで、がらんとした無人の空家であった。
今朝、太市が陽道新報社に行くと、新六がいきなり腕をつかまえて、見せるものがある、と言って引っぱってきたのがここであった。
「ここが石井円吉の工場ということはわかったが、それがどうかしたのかい?」
と、太市が新六にきいた。新六は風に火を消されないようにマッチをすって煙草に移し、
「さあ帰ろう」
と、煙を吐いて歩き出した。その途々《みちみち》、彼はこう説明をした。
「あの工場は二年前に石井が建てたのだが、事業不振で半年前から休業して、現在はああいう状態だ。石井は、あれで二百万円ぐらいの損失をしている。それはいいが、問題はあのボロ工場の建っている土地だ。あれはこの市の港湾拡張の道路予定地になっている。それで市では立ち退きを要望しているわけだが、それに対して石井は四百万円の補償を要求しているということだ」
「四百万円とは吹っかけたものだな」
「うん、現在は休業しているが、再開することになっているという言いぶんだ。そんな気づかいはない、見るとおりの廃業のボロ工場さ。だが石井は事業の将来からみて四百万円の補償額では安いと主張している」
「市ではなんといっている?」
「土木課の山下係長が起案をして、南課長に出したそうだが、南は判を捺《お》さんということだ」
「要求が高いというのだね」
「いや、一文も出せんというのだ」
新六は煙を吹いた。
「それはまた、なぜだい?」
「ここまでは、やっと土木課員から聞き出してわかったが、それから先はまだ調べてない」
「しかし、補償の要求額が高いというのはわかるが、一文も出さんというのはどういうのだろう」
と、太市はいぶかった。石井円吉が南課長をどなりつけたのは、そのことであったか。が、一文ももらえないのなら、石井が怒るのももっとものように思えた。
「そのわけを調べるために、これから君とここに行こうと思うのだ」
と、新六は、きたない手帳を開いて、鉛筆でかきつけた住所と名前を見せた。
「登記所で調べてきたんだ。これが石井のボロ工場の地主なんだ」
と、彼は説明した。太市は新六の活動に、少々彼を見なおした。自分では嗅覚がないと言っているが、なかなか隅におけない。
訪ねた先の地主は質屋の親爺《おやじ》であった。
「あの土地はわしのものにまちがいないが、石井さんがわしに無断であの工場を建てたんだな、その当時はわしもずいぶんやかましくかけ合ったもんや。どだい他人《ひと》の土地に無断で家を建てるのがむちゃや」
と、質屋はうす暗い格子の帳場にすわって説明した。
「けど石井さんが謝ったのでな、相手は市会議員でもあるし、相当の地代も月々もらうことにして話がついた」
「それでは、地主さんに無断で建てたくらいじゃあ、あの工場の建築許可もとっていないかもしれませんな」
と、新六がきいた。
「さあ、それは知らん」
それはこの親爺にきくまでもないのだ。市役所の建築課で調べたら、案の定、無届け建築であった。
「やっぱり南課長が補償金給付に判コをおさんはずじゃ。無届け建築に補償金を出すことはないからな」
と、新六が言う。
「しかし、あの工場が建ったのは二年前だろう。石井はここが道路になることは百も承知で建てたんだな」
と、太市は自分の推察を言った。
「つまり、彼ははじめから立退き補償金目的で建てたんだろう。工場とは名ばかり、ちょっと何かがたがた音をさせただけだったろう。つまり、石井は四百万円をとるのが目的だったんだ」
「君はなかなか言うな」
と、新六はほめた。
「おそらくそうだろうな。ところが案に相違して、南課長が補償金をウンといわん。南は無届け建築ということを、ちゃんと知っているのだ。それを理由に断わると角が立つから、婉曲《えんきよく》に拒絶したんだな。吏員というものは有力な市会議員がそれほどこわいのだ。ところが石井は承知せん。彼とても弱味があるから、覚えていろ、という君が聞いたあの捨てぜりふになったのだ。彼のことだから、山下という係長をつかって何をやるかしれん」
太市は南課長が、私は信念で仕事をしている、と声を詰まらせて言った言葉を思い出した。彼は石井という有力市会議員の圧力に追いつめられながら、必死に頑張っているのであろう。
「南という課長はえらいな」
と、太市は言った。
「うん、頼りない男だけれどな、正直な奴だ。が、このていどじゃ、まだウチの新聞ダネにならんな。せっかくはりきったのに、大将が落胆するじゃろう」
と、新六が皺っぽい顔を縮めて呟いた。
7
この辺の市の人事は、どうでもなるとみえて、まもなく、吏員の一部分の異動があって、土木課の山下係長が港湾課長になった。この市では、港湾計画が将来の事業だというので、今まで土木課の下にあった港湾係を独立課にして、その課長に山下が昇任したのであった。
「これは臭いぞ」
と、その発表を見て、畠中社長が病床にすわって眼を尖らせた。
「山下を課長にするため、港湾を土木課からはずしたのは歴然じゃ。さては石井が助役をつついたのかな。南では思うようにならんから、山下を立てて、石井はうまい汁を吸うつもりらしい。これは、油断はできん。助役は人気とりに市会議員や吏員のいいなりじゃ。どんなことになるかわからんぞ。諸君、しっかり見張ってくれ」
諸君といっても、太市と新六しかいない陽道新報の編集陣であった。
ところで、それからまもないある朝、新六が太市の顔を見ると、
「おもしろいことになったぞ。すぐ一緒に来てくれ」
と言う。東京の新聞社にいた時は、社旗を風になびかせて車で飛んだものだが、陽道新報ではどこに行くのにも、市電と足だけである。
新六がつれてきた場所は、この間いっしょに来た海岸であった。見ると、問題の石井円吉のバラック工場がばらばらに解体されて、崩した古材や板が積み上げてあった。島の見える青い海と取りくずした建物の跡と、雑草の空地では、ちょっと油絵の風景になりそうである。
「さては山下が港湾課長になったんで、さっそく、石井は補償金をせしめたのかな」
と言うと、新六は、
「それに決まっているよ。タダで家を崩す男ではないからな。調べてみよう」
と、眼を輝かしていた。
「どうして調べる?」
「そりゃあ、わけないよ。補償関係は土木課でやっているから、土木課で調べればすぐわかる」
それから市役所に行った。
ところが土木課を当たってみると、そんな補償金を石井に出していないことが判明した。
「これはあんがいだったな」
と、新六は真に意外な顔をした。
「やっぱり石井がおとなしく折れたのかな」
と、太市は呟いた。
「そんなことは絶対にないよ。そんななまやさしい男じゃない」
と、新六は口をとがらせて反対して、
「かならず彼は金をとっている。金をとったからボロ建物を解体したのだ。しかも山下課長になってすぐのことだ。土木課で補償金を払ってないとすると、これには手品がある。よし、その手品を見つけてやるぞ」
と、興奮して言った。
太市はその晩、キャバレー『銀座』に行った。女房の働いている所へ客となってゆくのは気がさすが、今晩は下心があった。
争われぬもので、ほの暗い照明のなかに浮かび出ている店内の装飾は田舎じみて垢ぬけせぬものだったが、設備は、相当なものであった。
テーブルにつくとボーイが来て、注文を聞き、ドレスをつけた女の子が傍によってきた。フロアでは、十三、四組が回転する色照明に射られながら、音楽に揺られて踊っていた。
頼子を眼で捜すと、踊っている群れの中からすぐわかったが、相手は見覚えのある肩幅の広い大男であった。相変わらず石井は頼子がお目当ての常連とみえる。女房がこうして他の男から狙《ねら》われて踊っているのを見るのは、ちょっと新鮮であった。
ひとくぎり音楽がすむと踊りの群れが崩れた。石井はボックスにすわった。あとに従った頼子が、ちらりと太市のほうを見たようだったが、気づいたのか気づかぬのか、知らぬ顔をしていた。
石井は頼子を傍にひきつけて、しきりにグラスを傾けていたが、やがて、ぐるりの四、五人のダンサーに何か相談をもちかけ始めた。ダンサー同士が、がやがや言っている。何を言っているのか遠くてわからなかった。
石井が支配人を呼んだ。何か笑いながら言っている。支配人は頭を二、三度下げていた。石井は支配人の肩を叩いて立ちあがった。すると、ぞろぞろダンサーたちが立った。
石井はむろん、頼子を放さない。何をするのかと、太市が眺めていると、頼子は用でもあるようなふうをして離れてきた。にこにこ笑いながら、ボックスにドレスの裾《すそ》をひきずってきた。ふと、顔見知りの客を見かけたから来た、というような恰好だった。
「まあ、しばらく」
と、彼女は言った。太市の傍にダンサーがいるものだからそういう挨拶だった。
「やあ」
と、太市もバツを合わせた。
「これから石井さんのお供で坐潮楼《ざちようろう》に行くのよ。だから、またね」
と言って、握手を求めて、また石井の傍に戻った。石井が、じっと太市のほうを見ていたが、彼は知らぬ顔でビールを飲んだ。
石井が、頼子と三、四人のダンサーを連れて去ると、太市は横のダンサーにきいた。
「坐潮楼というのはなんだい?」
顔の扁平なダンサーは、
「あんた坐潮楼を知らないの? この町で一番大きな料理屋だわ」
と答えた。それを聞いて太市は頼子の謎を解いた。これは坐潮楼に来てくれ、ということである。
金を払って、出ようとしたら、荷物預り所のところに、支配人が浮かぬ顔をして立っているのに出会った。
支配人は、太市をお客と見て、丁寧におじぎをしたから、
「女たちが急に少なくなったので詰まらなくなったよ。どうしたんだ?」
と言ってみた。支配人は困った顔をして、
「それなんですよ。石井さんが、今夜、撮影会をしたいから一時間ばかり三、四人貸してくれとおっしゃるから、しかたなしにお貸ししたのですが、商売物を忙しい時にもって行かれて、困っています」
支配人が頼子たちを商売物と言ったので、おかしかった。それにしても夜間撮影会とは、石井にもそんな面があるのか、と思った。
「断われば、いいじゃないか?」
「いいえ、それができるくらいなら、お断わりしますよ。石井さんは、この市のボスですからね、私らのような弱い商売では、あの人に睨まれたら困ります」
表へ出て、習慣的に時計を見たら、八時四十分になっていた。
坐潮楼の所をたずねながら来てみると、なるほど、大きな構えであった。海が近いとみえて、風に潮の匂いがしていた。
玉砂利を敷き詰めた奥深い玄関をはいっていくと、式台に、きれいに化粧して、きちんと帯をしめた女中たちがならんですわっていた。
「石井さんの撮影会に来たんだが」
と、度胸をきめて言うと、
「ああ、さようでございますか。それならこちらです」
と、立ちあがって下駄をはき、中庭の木戸を押して案内してくれた。
中庭も、植込みが深くとってあって、広そうだった。あんまり近づくとバレそうだから、もういいよ、わかっているから、と言って、女中を引き返させた。
靴音を忍ばせて行くと、中庭の芝生の上に女たちをならばせ、それを取り巻いて二十人ばかりの黒い人影が、がやがや言っている。芝生の外灯が暗くて、はっきりわからないが、みんなカメラをもって、モデルのポーズを決めているところらしい。
「おい、もう、九時近いよ。その辺で始めようじゃないか」
と、石井の濁《だ》み声が聞こえていた。それに促されたように、人影の動きもいそがしくなった。やがて、はい、そのままで、とか、もう少し斜めへ、とか注文する声がひとしきり聞こえていたが、やがて瞬間に蒼白い閃光がした。
それを皮切りに、連続的に光が閃いた。なにしろ、二十人ぐらいの人間が、思い思いに、シャッターをつぎつぎと切るのだから、閃光の絶え間がなかった。
ひとしきりすると、十分間ぐらい休みがあって、また閃光を放ちはじめた。女たちは合間合間に嬌声を上げている。
太市は眺めていて退屈になったのと、この分なら頼子の身に心配はない、と思ったから、こっそり坐潮楼の外に出た。
空を見上げると、月がなく、真黒な空に星が貼《は》りついている。見ていると急に東京が恋しくなってきた。
こんな時は、夜の海が無性に見たくなった。潮風の吹いてくるほうをたよりに当てずっぽうに歩いて行くと、暗い、倉庫のような建物がごたごたとならんでいる。その間を抜けてやっと海の正面に出られた。
暗夜で海は黒く淀んでいた。淀んでいたという形容にふさわしいほど、風もなく、波の音も静かであった。下が岸壁だから、ゆるく波の揺れる音がしている。
向こうに島があるのだが、灯《ひ》も見えない。ただ右手よりに、岸近く、小汽艇が一艘ついているらしく、電灯が一つ、マストに輝いていた。真暗な海の上に、あかあかと輝いているのは、それだけだった。
その小汽艇と岸壁の間に、もう一艘、灯も何もつけない船が黒い影ですわっていた。
すべては、もの寂しいばかりの、暗い海であった。
太市は不覚にも、涙が出そうだった。東京に帰りたかった。流れて、内海の名もない小都市に落魄《らくはく》している己れの身が、はじめて哀れになった。いや、そういう自分についてきている頼子が、愛《いと》しくなった。
太市は、そこには五、六分ばかりで、自分の家へ引き返した。
気力も抜けて、布団にくるまって眠っていると、頼子に起こされた。
「どうだった、撮影会は?」
と、ねむそうな声できくと、
「撮影会かなんだか知らないが、長いったら、ありゃあしないわ。一時間もかかったのよ。やたらにつぎつぎと撮《と》りまくるんですもの。疲れちゃった。チップは少しはたくさんくれたけど」
「へえ、そりゃあよかったね」
「あなた、来てくれたの? 暗号《サイン》したのに」
「うん、ちょっと覗いたけれど、すぐ帰った」
「たよりにならない人ね」
8
あくる朝、寝床の中で、朝刊をよむと、地方版に大きく、南土木課長の行方不明を報じていた。太市は一ぺんに眼がさめた。
──南土木課長は十日夜、帰宅しないので家人が心配して諸方にききあわせたところ、いずれも心当たりがないというので、本署に捜索願いを提出した。同氏は謹厳で、今まで一度も無断で外泊したこともないので、憂えられている。
十日夜の同氏の行動は、今回の異動で新たに土木課係長から新設の港湾課長になった山下健雄氏の送別会に臨み、九時十分ごろ宴が果てそれから帰途についたものである。同氏はその時かなり酩酊《めいてい》していたそうで、皆がとめるのにもかかわらず、自転車に乗って帰ったという。
山下港湾課長の話「南課長はかなり酩酊していたから、私は、自転車に乗らずに、歩いてお帰りなさいとすすめた。しかし同氏はいつもの習慣で自転車に乗って帰られた。あの時、私がお宅までお送りすればよかった。まちがいがなければよいがと祈っている」──
太市は、その新聞を投げ捨てて、とび起きた。晩がおそいから、頼子は起こさないことにしている。が、太市の勢いで、頼子が目をあけて、
「なんなの?」
ときいた。
「いや、何でもない。今から社に行ってくる。おまえさんは寝ていなさい」
と、顔だけ洗って、とび出した。社というのは、陽道新報社のことである。昔は、彼が社と言ったのは、天下一流の新聞社であった。
行ってみると、おどろいたことに、湯浅新六がもう来ていて、猫背をまるめて、畠中社長の前にかしこまっていた。彼は、太市がはいってくるのを見て、しょぼしょぼした眼を上げ、
「お早う。早かったな」
と言った。相変わらず、少しも変化を見せない、しなびた顔であった。
それにくらべると、畠中社長は寝床の上にすわってはいるが、かなり興奮した面持であった。いつになく血色がよいのは、そのせいらしい。眼がぎらぎら光っていた。
「君」
と、社長は太市に言った。声の調子に気負ったものが籠《こも》っていた。
「わが市政の腐敗も、ついにこの不祥事まで来たぞ」
太市は顔を上げた。
「不祥事? 不祥事と言いますと?」
「わかっているじゃないか。君はなんのために、朝早くここに来た?」
と、社長は新聞紙を指でたたいた。今朝の南土木課長の行方不明を報じた新聞だった。
「しかし、南課長の行方不明は、ただちに不祥事とはならないでしょう。どんな事情かわからないかぎりは、なんとも──」
「君は何を言うか」
と、社長はどなった。
「君はもっと市政に通じているかと思った」
「いや、市政には通じてきたと思いますが、南課長の行方不明とは、今のところ関係ないと思いますが」
太市はせっかく、朝早く起きてきたのに、頭からどなられて、少し、むくれた。それで少し老人に逆らってみる気になった。
「別ではない、断じて同じじゃ」
「しかし、データがありません」
「そんなものはなくともわかっとる。わしはこうして寝ていても、常に市政のことは、手にとるように知っとる。そんな直感がのうては、市政浄化を標榜《ひようぼう》した新聞は作れん」
「社長は直感でよいかもわかりませんが、僕らは客観的なデータがないと、判断の基礎が立ちません」
畠中社長は、じろりと太市を見た。
「君は今まで大きな新聞社にいて、一部の担当しか与えられていなかったから、そんな近視眼的なことを言うのじゃろう。真相を洞察《どうさつ》するには、もっと大きな眼を開きなさい。データ、データと君は言うが、君も南土木課長と一言ぐらいは話したことがあるじゃろう」
「はあ、あります」
と、思わず答えたが、はっとなった。確かにある。彼は、太市に、こう言ったことがあるではないか。
(仕事は信念でしている)
その一言を確かに聞いた。
そうだ、そういえば、その言葉も、データといえば言えるのだ。この親爺、あんがい、味なことを言うと思った。
「それ見なさい」
畠中社長は、太市が少し考えたので、乗ってきた。
「事件は、そのときどきにあらわれたものを、あわてて拾っているようでは、いかん。材料はいつも日ごろからある。それを、いつも──」
彼が、ここまで話したときに、電話が鳴った。卓上という、しゃれたものではなく、階段の降り口の壁に取りつけてある旧式のものである。
「どれ、私が出ましょう」
今まで黙っていた新六が、のそっと立って受話器をとった。
彼は、はあ、はあ、と聞いていたが、
「ありがとう」
と、無感動に礼を言って、受話器をかけてすわった。
「なんじゃ?」
と、畠中社長のほうが気にかけてきいた。
「警察の岩間次長から知らせてくれました。南土木課長の死体が上《かみ》から上がったそうです」
「ええっ」
社長が、眼をむいて、びっくりした。
「そ、それで、ど、どうだというのだ?」
と、彼は急《せ》きこんで、吃った。
「自転車も一緒に引き上げたそうです。外傷がないから、目下のところ、過失死という見方だそうです」
新六は、少しも感動を見せずに言った。
「ばか」
と、社長は眼を尖らせた。
「絶対に、他殺じゃ」
9
南土木課長の葬式は、午後三時から自宅で行なわれることになった。
太市は、焼香にゆくことにした。生前、この気の毒な課長とは親しい交際があったわけではないが、彼には赤の他人のこととは思えない。
いつぞや、飲み屋で見た南課長の、うつむきかげんに杯を口に運んでいる頬の落ちた顔が忘れられない。
「僕はね、仕事は信念でしているのだよ」
と、少し吃り気味に言った言葉がまだ耳に残っている。
信念とは何か。
市会議員の石井円吉に圧迫されて、それに必死に抵抗している南の気持がこの言葉に出ている。──地方の市会のボスほど市役所の吏員に横暴なのだ。ことに石井のような男には、吏員は縮みあがっている。市長も助役も、市会議員も、石井円吉には一目も二目もおいている。それだけの強力な勢力を石井はもっているのだ。
その石井の横車を南課長はおさえていたのである。「信念」というのは、石井が力ずくで強引に押しつけようとする不正に、抵抗しようとする南の決心であろう。一課長である彼の地位と、弱い性格から考えれば、それがどのように大変な決心か、太市にはよくわかった。
さすがの石井も、南の抵抗にあって弱ったに違いない。理屈を正面に立てられると、石井はどうすることもできない。今までは、彼の睨みで、それを押し通してきたが、南にはどうすることもできなかったのだろう。
石井は腹心の山下係長を港湾課長にさせた。それで、南の実権を削《そ》ごうとする下心は明瞭なのだが、さて、その矢先に南が不慮の死をとげたのだ。
畠中社長は、
「他殺だ」
と、床の上で叫んだが、それは彼の怒気から発した気まぐれな言葉で、別に根拠があるわけではない。
とにかく不幸な人だと思うと、太市は、南の霊前に焼香したくなった。これも何かの縁である。
南の家の住所と番地を訪ねてゆくと、太市は、はてな、と思った。これは、つい最近来たことのある土地のような気がした。
「いつだったかな。たしかに見覚えがあるが」
立ち止まって、ぐるりを見回すと、やっとわかった。十日の晩、彼が石井円吉の夜間撮影会に坐潮楼に来た、その坐潮楼の付近なのだ。
あの時は夜なので、昼間見るのとは感じは異なったが、たしかにそうなのだ。道を歩いていると、左手にその坐潮楼の屋根が見え、右手に見覚えのある倉庫がある。あの晩は、その倉庫の横を通って海を見に行ったのだ。
すると、南課長の家は偶然にも坐潮楼の近所だったのである。
実際、道路はそれから十字路になり、左に曲がったところが南課長の家になっていた。角の電柱には当日の参会者のために、「南家」という矢印の紙が貼ってある。
道を曲がってから南課長の家までは、歩いて四、五分ぐらいの距離だった。この辺は場末で、近所は、人家の間に、まだ畑があった。
太市が、ぶらぶら歩いてゆくと、道路に立てた電柱に人が登っていた。何気なしに見ると、電工夫らしい男が、街灯を修理していた。それを近所の老人が見上げている。
「悪いことをする奴があるものだ。子供ならともかく、大人がのう」
老人は電工夫に話しかけていた。
「おじいさん、見てたのかい?」
電工夫はきいている。
「ガチャンと音がしたので、とびだしてみたら、その街灯が消えて、男が棒のようなものをもって逃げている。ありゃ空気銃じゃろう。空気銃で街灯を撃つなんて、ひどい悪戯《いたずら》をする男もあるもんじゃ」
太市は、それを耳にしながら、なるほど田舎は、のんびりした悪戯があるものだと思った。
南課長の家の前に来ると、さすがに市役所の幹部の葬式らしく、道路まで花輪が飾られていた。参会者が、ぼつぼつ出入りしている。
受付には市役所の吏員が三、四人すわっていた。太市が香典の包みを出すと、丁寧におじぎしたが、名刺を見ると、ぎろりと眼をむいた。名刺には『陽道新報記者』の文字があるのだ。畠中社長が市政をいつも叩くものだから、市役所の者は、この小新聞を小面憎《こづらにく》しと思っている。
太市は、さっさとそこを素通りして、奥に通った。
今は未亡人となった南課長の奥さんが、まだ小さい子供をつれて祭壇の横にすわっていた。親類らしい人がいならんでいる。それはいいのだが、山下港湾課長の顔がその中にあるのに、太市は少しおどろいた。
だが、考えてみると、それは驚くに当たらない。山下は南課長の旧部下なのだ。この葬式の世話をやいているのは当然だろう。しかし、生前の南課長と山下の間を知っているだけに、太市は妙な気がしたのだ。
柩《ひつぎ》の前に、太市は心から焼香した。どういう巡り合わせか、この土地に流れてきたばかりに、故人とはいささかの因縁をもった。手を合わせながら、太市はふと、人間の見えない運命のようなものを思った。
席を立つとき、太市と山下との眼が合った。山下は市役所に取材に来ている太市の顔を知っている。
山下は、太市の顔をじろりと睨んだ。
10
太市は、南課長の家を出ると、十字路のほうに向かって戻って行った。来るときに見た電柱の街灯の修理は終わっていて、新しい電球がとりつけてある。
十字路まで来ると、この道を曲がらずにまっすぐ行けば、海岸に出ることがわかった。それは行く手に蒼《あお》い海の一部分が見えたからだ。
太市は、海岸のほうに出てみようかな、と思ったが、それも面倒臭いので、そのまま家に帰った。
頼子がドレスにアイロンをかけていた。
「あら、どうしたの?」
と、頼子は太市の腕に巻いた喪章を見て言った。
「うん、南さんという市役所の土木課長の葬式に行ったのだ」
太市は喪章をとって、畳の上に寝転んだ。
「ああ、新聞に出てた、酔って海に落っこちて亡くなった人ね。お気の毒でしたわね」
「ああ」
太市は仰向《あおむ》けに、四肢をひろげた。
「あら、眠るの? 社のほうをサボって、昼寝なんてイヤだわ」
社という言葉を聞くと、またしてもくすぐったくなる。社長以下記者とも三人、半ペラの新聞の印刷は町の工場に頼んで賃刷りしている。以前、彼が社といえば、天下一、二の一流新聞社のことだったが──。
「疲れた。頼子、お前の膝をお貸し」
疲れたのは、こんな境遇に落ちてきた心の疲労でもあった。
「いやな人」
それでも頼子はアイロンのほうをやめて、寄ってきた。太市は彼女の膝に頭を乗せた。後頭部に柔らかい弾力の感触があった。
太市の眼の真上には、頼子の顔があった。この女にも苦労をかけている。
「何を、まじまじと見ているの?」
頼子は上からさし覗いた。眼が笑っていた。
「いつまでもきれいだからさ」
太市が言葉を紛《まぎ》らわして言うと、頼子はいきなり唇を押しつけてきた。太市は彼女が哀れになり、背中に手を回して抱いた。
「苦労かけてすまないね」
とささやくと、頼子は顔を上げて首を大きく振った。太市をじっと見て言った。
「あなたって、いい方ね」
いたわるような言い方だった。
東京から流れてきて、この女には、おれだけが頼りだと思うと、いっそう愛《いと》しくなった。
「頼子。身体だけは大事にしろよ」
と言うと、
「あなたこそ。いつまでも元気でいてくださらないと、わたし困るわ。南さんのようにあなたに万一のことがあれば、わたしも死んじゃうわ」
と言った。
「大丈夫だよ。安心しろ」
「本当ね。きっとよ。わたし、こんな所におっぽりだされたら、行き場がなくて困るわ」
と、いつもの頼子の癖で、あとは軽口めかして言った。それで太市の心も少し軽くなった。
「そのときは、石井円吉に拾ってもらうさ」
「あら、いいの?」
頼子の眼が悪戯っぽくなった。
「いいさ」
「じゃあ、そうしようっと。あいつ、このごろとても、しつこく口説《くど》くのよ」
「ふうん」
「おまえ、ほんとにひとりかと何度もきいて、おれの世話になれってきかないの。いいかげんにあしらってるんだけど、だんだん追い詰められてきそうだわ」
「何か妙なことをするのかい?」
太市は、そんなことを聞くと、少しばかり動揺した。
「やっぱり妬《や》けるの?」
「ばか」
「そりゃあ、いろんなことをするわ。身体にさわろうとしてね。でも、ご安心あそばせ。決して変な真似はさせないから」
「そりゃあ、そうだろう。おれの女房だからな」
「ふ、ふ。そうよ。でも、相手も油断なくチャンスをねらっているの。ほら、この間の夜の撮影会ね。そうそう、南さんが海に落ちて死んだ晩だわね。あのときも、帰りには、わたしを略奪するって、ちゃんと自動車を待たせているの。振り切って逃げたけれど、こわかったわ。そんなこともあろうかと、あなたにサインして来てもらったのに、先にさっさと帰るなんて、たよりにならない人だわ」
「そりゃあ、悪かった」
「口さきだけじゃあ、いやよ」
「口さきだけじゃないよ。ほら」
太市は、また頼子を抱くと唇を強く吸った。彼女は睫毛《まつげ》を揃えて伏せている。頼子が自分のものかと思うと、太市はいまさらのように幸福感が湧いた。
「あのね、ちょっと妙なことがあるのよ」
頼子は唇をはなすと言った。
「この間の夜間撮影会ね、石井の主催なんだけれど、あとできくと、石井はちっともカメラに趣味はないんですって。少し、おかしいわね。わたしを狙うために、わざわざあんなことをしたのかしら」
「ふうん」
太市は腹這いになって、煙草をすった。
煙を吐きながら、それは少々おかしいぞと思った。まさか、頼子が言うように、彼女を狙うために、そんな大げさなことをしたとは思えない。だが、カメラに趣味のない男が、どうして夜間撮影会などをやったのだろう?
そういえば、なるほど、その晩に南課長は海中に墜落して水死した。撮影会と南の死。この二つの事実の間は、あんまり縁が離れすぎて関係はなさそうである。だが、偶然とはいえ、それはほとんど同じ時間に起こっている。
(南課長の死は、絶対に他殺じゃ)
太市の耳には畠中社長の言葉が聞こえた。
よし、これから現場に行ってみよう。
かけ声かけて、はね起きると、
「あら、お出かけ?」
と、頼子が眼をあげて言った。
「うん。仕事だ。おまえもそろそろ仕度だろう」
11
太市は前の十字路に立った。陽は夕方のものになっていて、道路に落ちた彼の影が長かった。
さて、どっちが東で西だろう? そうだ、海が南になっているから、この十字路を中心にして、南課長の家は、海の方角とは反対に北にあたっていた。例の坐潮楼は、道路の北側に、少し引っこんで屋根が見える。
南課長は、市役所のある西の方角からこの道路を自転車で走ってきて、この十字路を北に曲がってわが家に帰るのだ。あの晩も、宴会の帰りが、十字路まではその同じコースでなければならなかった。
ところが、彼は十字路を北に曲がらずに南に曲がったのだ。南に曲がって直線にすすめば、二百メートルぐらいで岸壁となり、下はすぐ海が来ているのである。つまり、十字路を左に曲がればわが家、右に曲がれば海である。
もしや、南課長が、左と右と方角を取り違えたのでは──と思ってみたが、そんなことは絶対にあり得ない。課長は十五、六年も同じ道を通いつづけている。夜間であっても、またどんなに酔っていたところで、人間の習性として、慣れたわが家への帰り道をとり違えることはないのだ。
太市は、十字路を南に曲がって、岸壁のほうに出た。
海が見えた。いつ見ても、この景色はいい。島がいくつも沖にあった。落ちかかった陽の色が、太市の眼には、この風景を哀愁のあるものにした。いつぞやの晩は、ここの夜景を見て、東京恋しさに涙を流したものだった。
あれは、十日の夜だった。南課長が、この岸壁から自転車もろとも海中に没した晩であった。
太市は岸壁の上に立って、下を見おろした。海は深そうな色をしている。おだやかな海だが、やはり白い波が、かなりな激しさで石垣を洗っていた。南課長は、この波の中に墜落して呑まれた。
太市は、海のほうを見ているうちに、ふと、何か一つ足りないような気がした。この間の晩の記憶から見ると、海が少し広すぎる。
だが、その理由はまもなくわかった。あの夜は、この岸壁から離れた向こうに、貨物船がいたのだった。それから、その貨物船のすぐ向こうには、汽船が停泊していた。それが、今はいない。海を広く感じたのは、そのせいだった。
太市は、そこに腰をおろして、しばらく海を眺めていた。陽はすっかり落ちてしまい、空だけが明るい色を残していた。
やりきれない気持が、また襲ってきた。いつになったら、東京に帰れるだろうか。有楽町界隈の忙《せわ》しげな風景が眼に浮かぶ。深夜まであかあかとついている七階建の窓の灯が思い出された。友だちの顔がいろいろと眼に見える。部長と喧嘩したのは、短気だったと後悔した。だが、あの場合はそうするよりほかなかったのだ。
それにくらべると、ここの畠中社長はなんと愛すべき老人だろう。腐敗した市政を浄化すると称して、発行部数千数百のペラ新聞で頑張っている。老人は本気にそう思っているのである。ほかのアカ新聞によくあるように、強制的に広告をとるのでもなく、寄付させるのでもない。いわんや恐喝がましい行為は絶対にしない。口を開けば、青年のように、正義、正義とどなっている。
ただ一人の先輩記者である湯浅新六も、とぼけた味のおもしろい男だ。これくらい『陽道新報』に似つかわしい記者はいなかった。すっとぼけているようで、どこか芯《しん》があった。こんな記者は、いまどき東京には生存していない。
二人とも太市は好きだった。もし自分に野心がなく、田舎ぐらしに甘んじるのだったら、生涯この二人と働いていいと思う。
(だが、おれは、まだ若い)
田舎で朽ちる気はしなかった。まだ夢が捨てきれない。第一、頼子をこんなところに道連れにしておくのは可哀相だ──。
気づくと、あたりは、すっかり暗くなりかけていた。
そうだ、畠中社長に連絡しておかねばならぬと思った。老人、どこに行ったかと心配しているに違いない。
太市は立ち上がって十字路の方に戻って歩いた。どこか電話のある家はないかと両側を物色した。
幸い、雑貨屋が眼についた。
電話を借りた。東京のように嫌な顔はされない。どこも親切に貸してくれる。
電話口には畠中社長が出た。
「社長ですか? いま南課長の死をいろいろ調べているのですが」
いろいろでもなかったが、そう言った。
「そうか、そりゃあご苦労」
老人の濁《だ》み声が弾《はず》んでいた。
「新六も、市役所のほうを一生懸命ほじくっている。君もしっかりやってくれ」
「はあ、やります」
「ええか。南課長は普通の死ではないぞ。絶対に殺されたのだ。警察は過失死にしとる。ぼんくら警察じゃなんにもわかりゃせん。わが社の活動はこういうときじゃ。一つ南課長の仇《あだ》を討《う》ってやろう。無能警察の眼をあけてやるのだ。ええか、他殺の線で断固たる決意でやってくれ。優秀な君の腕に期待しとるぞ」
「はあ、わかりました」
電話を切っても、まだ耳には畠中社長の興奮した声が鳴っていた。新六も、どうやらハッパをかけられているらしい。
太市は道路に出た。
十字路まで来ると、北の直線の方角には、かなり向こうに街灯が光っていた。太市は、昼間、南課長の家に焼香に行く途中で見た、電工夫の修理を思い出した。
それから西の方へ角を曲がろうとしたとき、ふと反対の東側に何やら蒼白く光るものが見えた。
鉄工場があるらしく、夜業をしていて、しきりとガス溶接の光をぴかぴか出していた。太市は、やや長い間、それを立って眺めていた。
彼は、その工場を確かめてみたいと思った。それで足をそのほうに向けて、蒼白い光線をたよりに行くと、工場は案に違《たが》わず小さなもので、低い門には『大隈《おおくま》鉄工所』とある看板が門柱の電灯の光でよめた。
太市は、あることをききたいと思い、工場の横にある小屋のような事務所のドアを叩いた。事務員が一人いた。
数分の後、その事務所を出たときの太市の顔は、見違えるように興奮していた。
彼は、借りている二階に帰ると、まだ頼子が、キャバレー『銀座』から戻っていない部屋で、熱心に図面を鉛筆でかいた。
書きあげたその図面を見ながら、太市は、じっと考えこんだ。
12
朝、太市が出勤すると、畠中社長の細君が座敷を箒《ほうき》で掃きながら、うちが待っているから二階に上がってくれと言った。編集部は階下の古畳の上に、机を二つならべているのだ。
音を軋《きし》らせて二階に上がると、例のとおり畠中社長が布団の上にあぐらをかき、湯浅新六が、ぽつんとその前にすわっていた。
「お早うございます」
と言うと、老人はこっちを向いた。その顔はひどく機嫌がよい。
「田村君、まあそこへすわれ」
「はあ」
「新六がええ取材をしおった。この男には近ごろめずらしい」
新六はしなびた顔で苦笑していた。
「それはよかったですな。石井のことに関係あることですか?」
「むろんじゃ。新六、話してあげなさい」
老人は鷹揚《おうよう》にお茶を飲んだ。
「田村君、おれはとうとう石井の手品をみつけたよ」
新六は太市のほうを向いた。
「手品?」
「うん。ほら、いつか石井がボロ工場を自分の手で崩したことだ」
ああ、そうかと太市は思い出した。石井が無届けで建てたバラック工場が道路になるというので市に補償金を請求した。元来、道路になる予定地を知っていながら、石井は建物をつくったのだ。補償金目当てであることはいうまでもない。
南土木課長はそれを知っているから、つっぱねた。石井はずいぶんと南課長に圧力をかけたが、南を動かすことはできなかった。それで腹心の山下係長を新設の港湾課長にさせたのだった。
山下が新課長に就任するとまもなく、石井は例のボロ建物を崩した。あの時は太市は新六と現場へ見に行ったものだ。
ところが調べてみると、土木課では、石井に補償金を出していない。南課長が、もちろん出すわけはない。しかし、石井は一文も取らずに、黙って建物を取りこわすはずはない。かならず金をどこからか取っている。
(これには手品がある。よし、その手品を見つけてやるぞ)
と、新六は言ったものだった。いま、その「手品」を見つけたと言っている。
「そりゃあ、お手柄だった。どういうのだ?」
「金は港湾課から出ている。土木課をいくらほじくってもないはずじゃった」
「あ、そうか、では山下が出している?」
「そうじゃ。さっそく、山下が石井に忠義立てをしているんだ」
「なるほど。しかし、どういう名目で?」
「支出の名目は港湾拡張費の中からだ」
「うむ」
太市はうなった。港湾拡張費とは、うまいところに眼をつけたものである。この市は港湾を五カ年計画で拡張整備する予定になっていた。そのため国庫から補助金をもらっていた。
「それで、いくら取っているんだな?」
「六百万円だ」
これには太市もまた驚いた。
「あのボロ建物が六百万円だって? だれがそんな評価をしたのだ」
「石井と山下との慣れ合いだよ。石井は港湾委員をしているからな」
「それで、よくほかの委員や議員から苦情が出ないな」
「みんな石井の勢力に圧倒されているんじゃ。議長も助役も石井の鼻息をうかごうとる」
黙って聞いていた畠中社長が大きな声で言った。
「どいつもこいつも腐っとる。わが市政は腐臭を放っとる。田村君、ええか。国民や市民の税金がこんな不正なことに乱費されてええか。許せん。わが陽道新報は断じて市民に訴えて腐臭市政を糾弾《きゆうだん》せにゃあならん」
太市はもっともだと思った。なるほど田舎の市政はいい加減なものだと呆《あき》れた。これでは地方自治体が赤字赤字といいながら、一向によくならないのも無理はない。
畠中社長の大言壮語が、このときほど太市に好もしく思われたことはなかった。
「それで、田村君、君は昨夜、電話をかけて南課長の死因の見当がついたように言うとったが、それは、なんじゃ?」
社長は、さっそく、太市のほうを向いた。
「いや、まだ推定の途中の域です。僕も南課長は殺されたと思っています」
「当たり前じゃ。それはわしが前から言うとる」
老人は昂然《こうぜん》としていた。
「もう少し裏づけを取るまで待ってください」
太市が、言うと、老人はあんがい、あっさりとうなずいた。
「よろしい。君に任せる。いやしくも殺人事件をあばくのじゃから、君も慎重にやってくれ」
太市は、内心ほっとした。ここでうかつに自分の推定を言ったら、社長はどんなにいきり立つかわからない。
「しかし、社長、南課長の死が他殺だとしたら、だれが犯人でしょうか?」
「そんなことはわかりきっとる。石井の一派じゃ」
老人は平然として言った。
「だが、石井は南課長を殺さなくとも、目的は達したじゃありませんか」
「君は、眼光がまだ冴《さ》えておらんのう。南を殺したということは、他にどれだけ石井が南に弱点を握られているかちゅうことを露呈しとるんじゃ。たぶん、南課長は正義感から、少数の反石井派にこれを訴えようとした気配があったものとわしは思う。石井は南を殺して先手を打ったんじゃ。これが、この殺人の動機じゃ」
畠中社長は、自分の考えに疑問を起こさない男にみえた。
13
太市と新六とは、二階から降りると古机の前にすわった。これが編集部である。
「田村君、君がオヤジに話していた南課長の死因のことは本当かい?」
新六がさっそくきいた。
「本当だ。あれは社長の言うように他殺だな」
太市は答えた。
「へえ。そりゃあ驚いた。わしは半信半疑に聞いていたが、じゃあ、だれか南課長を海に突き落としたのか?」
「いや、そういう直接の下手人はいない。しかし犯人はいる。南課長を手にかけて海中に突き落とした者はいないが、同じ結果にした者はいる」
新六がのみこめない顔をしたので、太市は図面を描いてみせた。そして詳しく自分の考えを説明した。
「なるほど、えらいことをやったもんだな」
新六は図面に眼を据えて吐息をついた。
「それで、僕の推定が当たっているかどうか、調べてみたいのだ。一つ協力してほしいが」
太市が言うと、新六はうなずいた。
「ええとも。ぜひやらせてくれ。わしのほうは手が空《あ》いている」
「ありがとう」
と、太市は礼を言った。
「それじゃあ、君は十日の夜、あの岸壁の沖にいた貨物船と汽船はどこの船で、だれにチャーターされたか調べてくれ。汽船といっても、小さなランチていどだ」
「オーケー。そんなことはわけはない。どうせ、近所の船だろうから、この市の汽船会社を調べれば、わけはない。ほかにはないか?」
「では、もう一つ頼む。山下があの晩、南課長と料理屋でめしを食っているな。たしか山下の送別会だった。そのとき、宴会は何時にすんだか。それはその時刻にすむ予定だったか。南課長はどのていどに酔っていたか。それも調べてもらいたいな」
「わかった。あの宴会のあった料理屋なら、わしも知っているから気やすく言ってくれるだろう」
「じゃあ、たのみます。僕は別な方面を調べてみるから」
二人は一緒に陽道新報社を出て別れた。太市が振り返ると、とぼとぼ歩いてゆく新六の猫背が見えた。
太市は例の十字路から左に曲がって、南課長の家のほうへ行った。いつか見た街灯の下までくると、電柱の下に立ってそれを見上げた。街灯の電球は取りかえられたままに完全であった。この辺の街灯はグローブなしで裸だ。ただ笠《シエード》だけがついている。
太市は、腰をかがめてその辺の地面を歩き回った。もしや空気銃の弾《たま》が落ちていないか、と捜したのだ。
すると頭の上で、
「もしもし。何をしていますか?」
と、突然声が聞こえた。
太市がおどろいて見上げると、すぐ横の二階から老人が見おろしていた。まぎれもなくあの時、電工夫と話していた老人だった。彼はむずかしい顔をして太市を睨むようにしている。
太市は、その老人に会えたので、かえってうれしくなった。
「あ。実は弾が落ちてないかと捜しているのです」
「弾?」
「はあ。この間、お宅の前のこの街灯を空気銃で撃った奴がいるでしょう。その弾を見つけたいと思っているのです」
「ふうん。あんたはだれじゃな?」
「新聞社の者ですが」
「どこの?」
「陽道新報社です」
太市はしかたなしに言った。昔は、大新聞の名を胸を張って言ったものだ。
「陽道新報だと? そうか、じゃあ、お待ち」
老人は二階の障子をしめた。
かれは戸口から現われた。ひどく不機嫌かと思うと、そうではなく、にこにこしていた。
「陽道新報なら、わしは愛読しているよ。市政の批判は、いつも痛烈じゃ。孤塁に拠《よ》ってようやっとる」
意外なところに知己があった。畠中社長が聞いたら、さぞ喜ぶだろう。
「それで、なんじゃな? 空気銃の弾なんぞ捜して?」
「その前におたずねしますが、この街灯を撃って電球をこわしたのは何日ですか?」
「あれは十日の夕方じゃった。もう暗くなるころだったよ」
十日の夕方と聞いて、太市は内心、しめた、と思った。すると、老人は、いきなり掌《てのひら》をひらくと、
「弾は、これじゃ」
と言った。なるほど、空気銃の鉛弾が一個、掌《て》の上にのっていた。
「わしが拾っておいたのじゃ。不都合者をとっちめる証拠にな」
「それで、やった奴は見つかりましたか?」
「その時は逃げたが、あとでわしが捜した。せまい土地だから、日ごろから空気銃を持ってうろついていた奴を捜せば、すぐわかる」
「だれです?」
太市は声をはずませた。老人は、じろりと見て、
「そんなことをきいてどうする?」
「市政浄化のため、ぜひ必要なのです」
太市はとっさに言った。
「へえ、電球をこわした奴と市政浄化と関係があるのか?」
と、老人は今度は眼をまるくした。
「あります」
見込みがあると思ったから、太市はきっぱりした言い方をした。
「うむ」
老人は少し考えていたが、
「市政のためというならしかたがない。陽道新報のために言ってやろう。それはな──」
「それは?」
「山下という市役所の課長の息子じゃ」
14
夕方、太市は新六といつもの飲み屋で落ち合った。今日はほかに話し声が聞こえぬよう、片隅のほうにすわった。
「料理屋のほうはな」
と、新六は報告した。
「宴会は三日前から山下の名前でとってあった。自分の送別会に、そんなことをするのもおかしいが、まあ南課長の部下で長らく庶務のほうもみていたから、そうしたのじゃろう。九時すぎにはすむという予定だったそうだ」
「九時すぎにね」
太市はうなずいた。
「実際、九時五分には宴会は終わり、南課長が自転車にのってそこを出たのが九時十分だった。南課長は、かなり酔っていたそうだ。しかし、自転車に乗れるくらいだから、そうひどい泥酔ではなかろう」
「うむ、うむ。なるほど」
「困ったのは、船のほうだよ」
新六は顔をしかめた。
「いや。貨物船のほうはわかった。ありゃあ貨物船じゃなく、泥さらいの浚渫船《しゆんせつせん》だったよ。県の船で、四日から一週間ばかりあの位置にいたのだ」
「一週間というと、十日までか。敵はそれまで計算に入れていたのだな」
「そうだ。それはええが、問題の小さい船のほうがわからん。汽船会社は市内に二つしかないが、どっちにきいても、そんな船を出したことがないと言うのだ」
「まさか、石井の手が回っているのじゃあるまいな?」
「あの汽船会社は、どっちともわしは顔じゃ。わしにかくし立てをするようなことはせん」
新六は、ふしぎな男で、市内の方々に顔が利《き》いている。彼がそう言うなら、まちがいないであろう。
困った、と太市は思った。新六が言うとおり、問題はあの小汽艇なのだ。山下の手でチャーターされたのは確実だ。市内の汽船会社でないところが、いよいよ変だ。
「どこの船を雇ったのだろう?」
「わからん。手がかりがない」
「石井か山下の配下だと思うがね」
「調べるのに、これは骨が折れるぞ」
どんなに骨が折れてもよい、太市は調べて突き止めたいと思った。
太市は新六と別れて家に帰った。むろん頼子はいない。ひとりで寝ころんで考えこんだ。
石井円吉が撮影会に連れて行くと称して、頼子をはじめ女たちを引き具してキャバレー『銀座』を出たのが、夜の八時四十分ごろだった。そのときは、自分も、その場に居合わせたから知っている。現にあとからついて行ったら、二十人ばかりの素人カメラマンが、さかんに閃光を光らせていた。頼子の話によると、一時間もつづいたという。
南課長が宴会を終わって料理屋を出たのが、九時十分ごろだった。そこから自転車で十字路に到着するのは、十分ぐらいだから、坐潮楼では夜間撮影会の最中だ。じゅうぶん、石井の目的には間に合うはずだ。
その目的のために、あの小汽艇は、石井か山下の道具に使われているとしか考えられないのだ。どうかして、その船の正体をみつけたいものだ。街灯を撃った空気銃の弾をくれた老人のような援助者は出ないものかな──。
いろいろ考えているうちに、いつのまにか太市は眠くなって寝入ってしまった。
太市は揺り起こされた。眼をあけると、頼子の顔があった。
「あなた、そんなところに、お布団も敷かないで寝ていると、風邪をひくわよ」
「なあんだ。もう、おまえが帰ってくる時間か。いま何時だ?」
「もう、十一時半よ」
「へえ、そんなになるか」
太市が眼をこすると、頼子が唇を当てて吸った。
「はい、目覚まし」
太市は、それでも半分眼を閉じかけた。
「いやよ、また眠っちゃあ。風邪をひくってば」
「大丈夫だよ」
「いや、いや」
頼子は上から身体を押しつけて揺すった。
「放せよ」
「いけない、いけない。溝口さんみたいに風邪をこじらせて入院しちゃいやだわ」
「溝口さんってだれだい?」
太市はものうい声で言った。
「石井についてよくお店に来る取り巻きよ。市役所の何かの係長ですって。夜、マージャンをやって、風邪をひいたそうよ」
「マージャンをやって風邪をひくのか?」
「それがね、あまりここんとこ姿を見せないから、石井の家来のほかの男にきいたら、船の中で十二時ごろまでマージャンをやったんですって。寒い海の風に当てられたんだわ。外聞が悪いから、これは内証だよ、と言って教えてくれたわ」
「なに」
太市は、はね起きた。
「頼子!」
「何よ、急に」
「たしかに、船の中でマージャンをしたと言ったんだな?」
「そうよ」
「それは、十日の晩だろう?」
「それは聞かなかったけれど」
「おい。それを教えてくれた奴にもっと詳しくきけよ。大事なことなんだ。少しばかりサービスしてな。ききだすためには、それくらいは、おれは眼をつぶるよ」
「いやなことを言うわね」
15
「社長、それでは説明しますよ」
事件がはっきりしたから詳しく言いますと、太市は、畠中社長の前にすわった。二日後のことだった。新六も横に例の表情のない顔ですわっていた。
老人は布団の上に、もう興奮した顔ですわっていた。
「十日の夜、石井と山下は共謀で南課長を殺すことを計画したのです。計画の第一は、坐潮楼で夜間撮影会を開くこと、それも午後九時前から十時近くまでが条件です。それからこの岸壁から離れたところに、県の浚渫船があったので、それを幸いに、沖側の方に小汽艇をおくことも条件です。船にはマストに灯がついていました。これは八時ごろからこの位置に停泊して、十二時ごろまでいました。一方、山下港湾課長のお膳立てで、料理屋で宴会があり、これに出席した南土木課長を、九時すぎには自転車で帰途につかせる必要がありました。それから、当夜、南課長宅の近所のこの街灯が消えていることも重要でした。以上の四つが、この犯罪の必須《ひつす》条件です」
「ほう、どういうことだ?」
「順を追って言いましょう。南課長は、いつも西から来て、この十字路を左に曲がり、わが家に帰っていたのです。昼間なら問題はないのですが、夜はこの辺は商店がなく、真暗です。ただ、南課長宅の近くに街灯が電柱にとりつけてあります。十字路まで来ると、この街灯が光っているのが見えます。それから、ここに大隈鉄工所という工場があります。ここでは夜業するときに、いつもガス溶接の作業をするので、蒼白い光をぴかぴか出しています。西のほう、この図面では左のほうから来れば、この街灯と工場の光とは、自然に一つの目標となるでしょう。南課長も夜の帰宅のときには、その気持があったと思います。ここに、この犯罪の着想がありました。もし、この十字路から逆の方向に、街灯の光が見え、工場のガス溶接の閃光が見えたら、どうでしょう。日ごろ、それを目標にしている者なら、うっかりして、十字路を逆に行くに違いありません。そのまま進んで行けば岸壁になります」
「うう」
老人は、眼をすえた。
「あの夜、南課長は自転車に乗っていました。彼は十字路で左に曲がろうとしていったん考え、右のほうへ自転車で真直ぐに走って行ったのです。自転車の速力だからたまったものではありません。課長は跳躍して岸壁から海中へ墜落したのです。あすこには柵がありませんからね。十字路で課長が、ちょっと考えたに違いないというのは、いつもとは逆の方角に街灯の光と工場の閃光がみえたからです。しかし彼は酔っていました。その意識が錯覚を起こしました。街灯と工場の光を間違いのない目標と信じて、北に行くべきところを、南の海のほうへ自転車を走らせてしまったのです」
「反対の方角に、街灯と工場の光があったのか?」
「その十日の夜は、そうでした。まず、本ものの街灯は消えていました。それは、ある男がその夕方、空気銃で撃って電球をこわしたからです。それから、大隈鉄工所はその日は定休日でした。だから犯人は前から大隈鉄工所の定休日を知っていて、十日を決行日に選んだのです」
「うむ」
老人は唸《うな》るだけだった。
「さて、これで本ものの光は消えました。あとは、偽装の光をつくらねばなりません。鉄工所の光は、当夜、坐潮楼の庭で夜間撮影会を催し、二十数人の放つカメラの閃光で紛らわしました。南課長は十字路で見て、ガス溶接の閃光とまちがえました。坐潮楼は十字路を中心にして大隈鉄工所と対角の位置にあります。次は、街灯です。これは海上に小汽艇を浮かべました。つまり、船のマストの灯が街灯の役目をしたわけです。ここで犯人は周到な心づかいをしています。県の浚渫船がそこにあったので、そのかげに小汽艇をつけました。こうすると、マストの灯は、海に映りません。浚渫船は夜は作業がないので、すべての灯火を消して真暗です。つまり、小汽艇のマストの灯火がたった一つ目立つだけで、これが街灯の代わりをしました」
「よく考えたものだな」
社長は言った。太市はつづけた。
「次は時間ですが、坐潮楼の庭の夜間撮影会は九時まえからはじまりました。約一時間かかっています。一時間の間、絶えず閃光があったわけです。これは南課長が十字路に到着する予定の時刻に多少の誤差があってもいいようにしたのです。だが、南課長は目算どおり、九時すぎには宴会を終わって料理屋を自転車で出ました。十字路に到着したのはおそらく九時十五分か二十分ごろでしょう。万事、犯人の計画どおりです。彼は、偽装の≪街灯≫と≪工場の閃光≫を見て、海のほうへ向かって一直線に突進したのです。このとき、彼の酩酊が、方向を錯覚させる一つの条件でした。左に曲がるべき習慣を右に変えたのは、第一が偽装の灯、第二が大酔のため、思考力がぼやけ、灯の目標だけを当てにして進んだことです。自分は酔っているという意識から、目標物をことにたよる経験は、われわれにも始終あります。南課長が突進すると、海まで、それを阻止するなんの障害もありません。こうして過失溺死体となりました」
畠中社長の顔面は、興奮で赤くなっていた。
「最後に犯人です。街灯の電球を撃ったのは山下の長男で、今年学校を出て、父親のヒキで市役所の吏員に採用されています。これは、はっきりした目撃者もあり、証拠の空気銃の弾も持っています。坐潮楼の夜間撮影会の催しは石井がやったことで、彼自身にはカメラの趣味がありません。小汽艇は当市の船会社のものでなく、F市の船会社の所有船でした。山下がお気に入りの部下四人をそこにやって、それをチャーターさせ、この現場に十二時ごろまで停泊させていたのです。むろん、その部下たちには事情を言っていないでしょう。彼らは言われたとおりのことをしただけで、船の中でマージャンをやっていました。その一人がその夜風邪をひいて病気になり、肺炎を起こして入院しています。これで、僕の調べたことはだいたい終わりです」
「よく調べたものじゃ」
老人は感にたえぬように言った。眼が、ぎらぎら光っていた。
「まさしく石井と山下と共謀しての犯罪じゃ。もう、捨てておけん。田村君、君はこれをすぐ記事にまとめあげろ。新六、おまえはその裏づけとなる石井一味の悪事を書き立てるのじゃ。よし、今度の号は全紙面をこれで埋めよう。発行部数は一万じゃ。全市にもれなく配って、市民にこの事実を知ってもらおう。なに、紙代と印刷の費用は、あるだけのものを質においてもつくるぞ」
「社長」
と、新六がはじめて言った。
「警察に先に言わなくてもいいですか?」
「ばか」
老人は一喝した。
「無能警察は、わが社のあとから、ついてくるわい」
床の上におどりあがらんばかりに、まっかに興奮していた。
一カ月後、太市は、もとの新聞社の先輩の世話で、社の傍系の民間放送会社に就職がきまり、東京に戻ることになった。
さびしい駅のホームには、畠中社長の細君と湯浅新六とが見送りにきてくれた。
発車のベルが鳴っている間、新六のやせた手は太市の手を握り、細君は頼子と泣きあっていた。
「田村さん。うちはあのとおりの身体なので、見送りできないと言って、とても残念がっていました。本当にありがとう、ありがとう、と言って涙を流していました」
細君は太市に言った。
「いいえ、僕こそ社長にはたいへんお世話になりました。僕はこの土地に来て、社長によってはじめて新聞記者の正道というものに眼をあけてもらった思いです。このご恩は一生忘れられません」
「いや、田村君、それは本当だ」
新六が言った。
「社長のような人間がいたというだけでも、君はこの田舎に来た意義があったというもんじゃ。東京に帰っても忘れんでくれ」
「忘れるもんか」
太市は握った手に力を入れた。
「忘れるもんか、一生」
汽車が動き出した。
「新六さん、社長を頼むよ」
太市は叫んだ。
「わかっとる。わしはあの社長と夫婦じゃ」
新六が胸をたたいた。社長の細君が顔を歪《ゆが》めて笑った。
二人の影は、さびしい灯にホームに落ちている。それがしだいに見えなくなった。
太市は頼子と向かい合って、暗い窓をいつまでも見つめた。この土地が、流れるように逃げてゆく。
彼は気づかないうちに涙を流した。ホームに見送ってくれた二人の影がまだ眼に残っていた。しかし、こみあげてくる感情は、彼と頼子が、何カ月間か、この土地へ残した自分の影への愛惜《あいせき》ではなかったか。
初出
危険な斜面『オール讀物』昭和34年2月号
二 階『婦人朝日』昭和33年1月号
巻頭句の女『小説新潮』昭和33年7月号
失 敗『別冊週刊サンケイ』昭和33年新春号
拐帯行『日本』昭和33年2月号
投 影『講談倶楽部』昭和32年7月号
単行本 「危険な斜面」は昭和37年6月 光文社刊
この本は昭和55年3月に刊行された文春文庫の新装版を底本としています。
〈底 本〉文春文庫 平成十九年十一月十日刊