[#表紙(表紙2.jpg)]
松本清張
かげろう絵図(下)
目 次
菊 の 乱 れ
長《なが》  局《つぼね》
秋 の 怪
新 し い 女
渦  紋
愛 欲 の 文
愛  経
攻  勢
密  告
乗 物 部 屋
夜 霧 の 中
黒 い 彷 徨
脇 坂 事 件
推 察 の 糸
向 島 の 寮
大御所他界
烈  風
陽《かげ》 炎《ろう》 の 絵
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かげろう絵図(下)
菊 の 乱 れ
中秋となった。
大奥では、この日は女中どもの一年中の愉しみの一つになっている。
普通だと、御台所は午前、お年寄の案内でお側の女中をひき連れて、御納戸御座敷の庭へ出て、「お根引」と称《とな》えることをする。
これは、四、五日前に植えておいた蓮芋の茎《くき》に、御台所が両手をかけて引くと、植えて間もないから、訳なく土から抜けてしまう。
側の者共が、それを見て、口々に、
「お力がございます」
と賞め讃える。
将軍夫人といえども、武家の嗜《たしな》みを忘れぬという飾りの風習かもしれない。
この蓮芋の茎は、御膳所(料理場)に廻して、白胡麻、枝豆などを加え、味噌で和《あ》えて、「ずいきあえ」と称え、上《かみ》の御膳部に上すのだが、女中たち一同にも配膳される。
夜に入っては、明月の上るのを待ち侘びる。中秋の月見は、初午《はつうま》、節句、花見、菊見などの一年中の楽しい行事の一つで、数カ月前から女中どもはこの夜を待ちつづけてきたのだ。
まず、白の「オイシイシ」と呼んでいる団子をつくり、枝豆、栗、柿、芋などの時の野菜、果物などを添えて、白木の台に載せ、御前や御膳所に供物する。
申《さる》の刻からは女中共の歌合せが催されるが、年寄より歌題を出して思い思いに詠み出るのを、年寄や上臈で、この道に心得のある者が択んで順位を決め、秀逸の者へは景物が下される。
いよいよ月が出るころになると、御台所は縁側に出て、観賞するが、時には側の者に扶けられて庭前《にわさき》に下り、月光に濡れた芒の下の虫の声に耳をかたむけることもある。
しかし、今年は、大御所御不例というので万事控え目となり、歌合せのような行事は取りやめとなった。
ことに西丸では火の消えたようで、観月の催しは無い。
しかし、それは表向きで、女中どもは例年のとおり、部屋部屋で団子をつくって互いに遣り取りするし、月が上れば、お庭に出て観月するぶんは差し支えなし、という布告《ふれ》が出た。
女中共は、互いに気の合った者同士が手をつなぎ、お庭の築山の彼方や、泉水のあたりをそぞろ歩いた。庭といっても、外庭は、すこしはなれると樹林が深く、芒が生い繁っている。
その庭でも、寂しい場所に、ひとりの女中が、あたりをはばかるように、小走りに歩いていた。ほかの連《つれ》からわざと離れたのか、附近に同輩の影が無い。
いや、影はあった。木立ちのうしろから、ひょっこり男が出て来たものである。
「登美どのか?」
「登美どの」
男の影は低い声でもう一度呼んだ。
木の陰から現れたのは、紛れもなく添番落合久蔵だった。
「あ」
女は、予期していたが、小さな叫びを口の中でした。月の光が、その登美の半顔を照らした。血の気の無い顔色が、よけいに蒼い。
「待ちましたぞ」
久蔵は、性急に登美の手を握ろうとすると、
「あ、もし」
登美は本能的に身体を避けた。
「どう、なされた?」
久蔵は、もう息をはずませている。
「ひ、ひと目が……」
登美があたりを見廻すのを、
「なんの」
と男は一笑して、
「ここには誰もおらぬ。さいぜんより忍んで待っていたが、遠くで女中どものさわぐ声は聞えるが、猫の子一匹通りませぬわ」
と強引に女の手を引こうとした。
「待って下され」
登美はそれをふり放したが、久蔵の真剣な眼を見ると、袖を胸にやって、
「まだ動悸が打っております」
と顔を伏せた。
「ふふ、お気の弱い」
久蔵は薄く笑い、
「誰も、女中衆でそなたの挙動を怪しむものはなかったろうに」
「それを覚られぬために、薄氷を踏む思いで参りました」
と登美は小さな声で云い、
「みなは部屋部屋でお月見団子をつくり、互いに上げたり、頂いたり、それは大そうな騒ぎでございます。わたくしも、朋輩衆からすすめられましたが、それを何とか逃げてくる苦しさ……」
「それはよくなされた」
「そればかりではありません。お庭には、今宵の明月を賞《め》でんものと、あちこちに女中衆がそぞろ歩きしておりました。もしや、逃げてゆくわたしの影が怪しまれはしないかと、ここに来るまでは、脚が震えました」
「それはご苦労なされた」
久蔵は、顔にうれしそうな笑いをひろげた。
「しかし、拙者も、安閑《あんかん》とここに立っていたのではござらぬ。同役に然るべき口実をつけて脱け出し、ようやく、ここで待てば待ったで、藪蚊《やぶか》に刺され通しでござった。いや、武蔵野の涯だけに、ここの藪蚊は、いつまでも減らずに、しつこいでな。お互いに忍び逢いには苦労が要ります」
登美は、久蔵の言葉を耳に入らぬように聞き流し、
「落合どの。お頼みしたこと、教えて下さるでしょうなア?」
と、まず訊いた。
縫の登美から、頼んだこと、調べてくれたか、と云われて、落合久蔵は、一も二もなくうなずいた。
「おお、そなたのことじゃ。何で忘れよう。悉皆《しつかい》、しらべたぞ」
「忝けない」
登美は礼を云って、
「そんなら、ここで早う聞かせて下され」
「おっと、そう急《せ》くまい」
落合久蔵は、登美の手を固く握った。彼の、わくわくしている身体は、ぶるぶる慄《ふる》えている。誰も居ない、山中のような夜の庭で、想う女と二人きりで遇えた喜びが、彼の胸を昂《たか》ぶらせていた。
「その前に、そなたの気持を確かめたい。事実、拙者に心が移っているのであろうな?」
久蔵は不安なのだ。登美のような女が己を本当に想ってくれるのかどうか、確かめても確かめ足りないくらいである。
「まだ、そのようなことを……」
登美は、低く云った。
「わたくしが、こうして危い橋を渡りながら此処に来たことで、気持が分るでしょう」
久蔵は、じっと登美の顔を月の光で見て、
「おお、ほんにそうじゃ。ありがたい。ありがたい。いや、そなたのような佳《よ》い女子《おなご》が拙者に心を寄せてくれるのかどうか、まだ夢のようで信じられなくなるのだ」
と握った手を押し頂くようにした。
「それよりも、落合どの、早う、話を教えて下され」
登美は催促した。
「うむ、お女中衆の寺詣りのことだな」
久蔵は、やっと話しはじめた。
「拙者が、供廻りとして従ったのは、先月から年寄の樅山《もみやま》殿が三度と、中臈の萩川殿が両度じゃ」
「樅山さまと萩川さま……」
登美は、じっと眼を久蔵の顔に当てた。
「して、お寺は?」
「樅山様は、中山智泉院の別院、雑司ヶ谷の感応寺じゃ。萩川様は駒込の法妙寺」
「感応寺と法妙寺……」
登美は、いちいち、頭の中に刻むようにした。
「ご参詣は、永くかかりましたかえ?」
「巳《み》の刻より参って、夕の酉《とり》の刻限まで、まず、四刻(八時間)はたっぷりあったな。随分と念の入ったご参詣じゃ」
久蔵は、意味ありげに低く笑った。
「萩川さまも同じかえ?」
「この方は、ちと少いが、ご祈祷の入念さは同じことじゃ。いや、供したわれらも、外でぼんやりと待つのが、何とも退屈でな」
「お供のお女中衆は?」
「それが、半分ほどが、奥の院入りでな。いずれも玄関に出て参られたときの顔を見ると、法悦のあとのよろこびが残っていたわ……」
智泉院といい、感応寺といい、法妙寺といい、いずれも法華宗の寺である。殊に中山の智泉院はお美代の方の実父日啓が住職で、お美代の勢力で法華宗が旺《さか》んになったものだから、智泉院も繁昌する。
江戸から中山詣りは遠すぎるというので、その別院が雑司ヶ谷に出来て、鼠山感応寺という。至極参詣に便利になったので、これもなかなかの繁栄である。
日啓は野心家だけに、お美代を利用して家斉を動かし、ゆくゆくはこの感応寺を、上野の寛永寺、芝の増上寺と同格の寺格にしたい下心をもっている。上野も芝も、徳川家累代の菩提寺であるから、それと同等の格式にせんとする日啓の野心も大そうなものである。
智泉院も感応寺も、大奥女中の参詣が絶えない。ことに大御所が病床についてからは、御平癒祈願と称するお詣りが多い。日啓は、もともと祈祷僧として売り出した男で、この智泉院でも、感応寺でも、旺んに祈祷が行われる。智泉院派に属している法妙寺でもそれに負けていない。
ところが、その祈祷が問題で、奥女中どもが随喜して参詣するのは、その法験のあらたかなせいばかりではないらしい。一度、寺内の奥に入ったら、三刻も四刻も出て来ないのは仏心の厚いためだけだろうか。
落合久蔵の説明によると、寺から出てくる女中どもがみんな顔を上気させているという。
「樅山さまは、日啓上人さまのご祈祷をお受けでしょうなア?」
登美は熱心に訊く。
「左様に聞いている」
久蔵はうなずいて、
「年はとっても、日啓殿はなかなかのお上手じゃそうな。樅山殿が四刻も、薄暗い祈祷所に坐っておられるのも無理からぬというものじゃ」
と含み笑いをした。
「して、萩川さまは?」
樅山も萩川も、お美代の方のお気に入りである。
「これは、日誓という住職でな。拙者も一度、ふと垣間《かいま》見たが、なかなかの美男ぶり、まず、三座の役者衆の中にもあれほどの者はおるまいて」
「まあ、そのように……」
「美男といえば、感応寺も負けてはいぬ。揃いも揃って比丘尼《びくに》のような坊主ばかりじゃ。中にも、感応寺の日祥という祈祷僧は、若さといい、水の滴るような面《おも》ざしといい、とんと岩井半四郎か瀬川菊之丞といったところ。若い奥女中どもが、日祥の顔を一目拝んだり、あわよくばその祈祷をうけんものと逆上《のぼ》せているのは笑止な話だが。……どうやら、このごろは佐島殿も日祥に傾いているそうな」
「はて、それほどまでに佐島さまがご信心なれば、さだめしご信仰の篤い御坊でしょうな?」
「うむ、霊験あらたかであろうな。佐島殿はじめ、若い女中衆も、この世ながらの生き仏じゃと、日祥どのを大そうな持てはやしかたじゃ」
久蔵は含み笑いをやめなかった。
「して、そのほかに、感応寺で、女中衆の信仰を集めている坊さまは、どなたですかえ?」
登美は、次を問うた。
「うむ、日遠、日念、日周あたりであろうかな。いずれも、若くて、男前の寺僧じゃ」
「日遠、日念、日周……」
登美は暗記するように復唱した。
「それから、ご祈祷所まで入れる女中衆の名は?」
「樅山どの、広川どの、重山どのあたりであろうかな。これが、それぞれ、ごひいきがあるから面白い」
「ごひいき?」
「うむ。とんと役者のごひいきと変らぬわ。つまり、樅山殿が日啓のほかに日遠、佐島殿が日祥、広川殿が日念、重山殿が日周といった工合じゃ」
「佐島さまが日祥、広川さまが日念、重山さまが日周……じゃな?」
登美は記憶に刻むように念を押し、
「寺に入られてからは、それぞれの坊さまから、祈祷を受けられるのでしょうかな?」
「そりゃ知らぬ。拙者はいつもお供で、その間は寺内で待っているだけじゃ。奥の院の出来ごとは分らぬが……」
と登美の手を強く握り、
「そなたも随分と気が揉めることじゃの?」
と肩をひき寄せようとした。
「あれ、いけませぬ」
登美は手で押しのけて離れた。
「はて、いけぬとは?」
久蔵は不満そうだった。
「まだ口約束だけで、夫婦になったのではありませぬ。そのようなことは、わたしがお城を下り、晴れて夫婦の盃を交わしてからです。それに、殿御というものは、とかく浮気なもの、うっかり油断は出来ませぬ」
蒼白い月光に濡れた登美の顔は、久蔵にはひどく濃艶にみえた。
「まだ、そのようなことを申している。拙者の気持が分らぬか?」
「半分、分って、半分、分りませぬ」
登美は月の下で微笑した。
「落合どの。そなたが、真実、お心を見せたいなら、わたしの知りたいこと、たんとたんと、教えて下されませ。お寺に納めるときの祈祷の長持の中には、何が入っていますかえ?」
久蔵の顔色が変った。
祈祷のためには、当人の「身代り」の意味で、肌につけたものが寺に持ち込まれる。主に、衣類だが、西丸大奥からも、感応寺や法妙寺などに、それが長持に詰められて送られるのである。
長持は、七ツ口から出される。この七ツ口の役目が添番で、奥から外部に運び出される品物の点検をするのだが、添番は身分が低く、大奥から出されるものは、形式的にしか改めない。これは慣習であった。
ところが、江島生島《えじまいくしま》の事件で、歌舞伎役者生島新五郎が長持に忍んで大奥に入り、江島と密会した一件が露見し、それ以後は長持類の検査が厳重となった。
長持類の検査が、添番の手で厳しくなったから、生島のような不埒者《ふらちもの》が、底にひそんでいる気遣いはない筈なのだが。──
登美に、御祈祷の長持のことを改めて訊かれて、添番落合久蔵の顔色が変ったのは、どのような訳か。
「長持の中はお年寄など、主だった女中衆の申された通りの品じゃ」
久蔵は、やや、口ごもって答えた。
「そなたの番のときは、七ツ口で、それを改めなさるかえ?」
登美は問うた。
「それは、もう。拙者に限らず、添番衆は、みな役目故、云わでものことじゃ」
「長持の蓋を開けての検《しら》べかえ?」
「開けるときもあり、外から見て分り切った品なれば、開けるまでもあるまい」
久蔵の答弁はどことなく曖昧であった。
「分り切った品?」
登美は考えるようにして、
「それは、どうして分ります?」
「まず、目方を量《はか》る」
と久蔵は軽く答えた。
「衣類なれば、どのくらいの目方か、およその見当がつく。つまり、蓋を開いてみるまでもないことじゃ」
登美は、うなずいた。
長持の重量を検べるなら、なるほど、内容をとり出して見るまでもないことだった。重いものが潜んでいれば、忽ち露見の筈である。
しかし、久蔵の答え方は、どことなく落ちつかないものがある。今までのように、言葉がなめらかでないのである。登美は、窺うように久蔵の顔を月の光にすかして見ていたが、
「のう、落合どの。そなたは誰かを恐れてはいぬかえ?」
「え、何をじゃな? べつに恐れはせぬが」
久蔵は、すこしうろたえてどもった。
「いやいや。そなたは、大奥の主だった女中衆が怕《こわ》いのであろう。きっとそうじゃ。そのために、わたしの問いに真実を隠している。そなたは、それほど水臭いお方かえ?」
与力下村孫九郎は、八丁堀の役宅で臥《ふ》せっていたが、ようやく床を起きて歩けるようになった。まだ、肩や腰には膏薬《こうやく》を貼っている。
役所には然るべき病名を云い立てて引籠っていたし、近所にも、女房にそう云い触らさせておいたが、実際のことは体裁が悪くて云えた道理ではない。船宿の二階から不覚をとって川へ叩き込まれたが、下にいた舫《もや》い舟のどこかに身体がふれたとみえ、腰と肩とを強打した。
水の中でもがいているところを、幸い、船宿の船頭が寄って来て助け上げてくれたが、その体裁の悪いことといったらない。日ごろ役人風を吹かして威張っているだけに男を下げたものである。その上、水に濡れたせいか、二、三日してから発熱した。その熱がしばらくつづいて除《と》れない。
孫九郎は、島田新之助に憎悪を燃やし、床の中で仕返しを夢みていた。もとから上司にほめられるほど、探索には得意だし、検挙の実績も上げてきている男だから、相手に復讐できる自信は充分にあった。
(早く床上げして、歩けるようにならねば)
と彼は、前からあせっていた。新之助を引捕えたい心からでもあったが、実は、この前から、度々、向島の中野石翁から迎えが来ているのである。
「ご用人が、ぜひ、話があるから来てくれるよう、とのことです」
使いは、その口上を二、三度もってきた。
その度に、
「ただいま、不快で臥せっておりますが、全快次第すぐに伺います」
と帰している。これが気にかかって仕方がないのだ。
中野家の用人が呼ぶというのは、勿論、石翁が用事があるからである。この大物を逃してはならない。
石翁から眼をかけられている、と思うと、孫九郎は天にも上るような心持になっている。石翁からの声がかりといえば、絶対である。奉行さえも、石翁には縮み上っているのだ。孫九郎は、己の出世を眼の前に虹のように描いていた。
この前、年増女の変死体の処置で働いてやった。尤も、これは半分は上から云いつけられたのだが、それでも、彼の働きは認められて、石翁から、直々に讃められた。
あの女の死因は、どうも臭い。投身したが、憚ることがあって、死体は人の眼にふれぬところで処置してくれ、と注文つけられ、苦心して考えた末、やっと牢死人の体《てい》にして、非人に渡したのである。こうすれば、どこの寺にも埋葬する必要はなく、小塚っ原の穴の中で、他の牢死者と一緒に白骨になってしまうのである。
われながら、思いつきであった。
中野の邸から、度々、使いがあるのは、その女の死骸処置の手ぎわが認められて、また、何か頼みたい、というのであろう、と与力下村孫九郎は思った。
おれを石翁は買ったらしいな、と孫九郎は、うれしそうに、ほくそ笑《え》んだ。出世の大|蔓《づる》は確実に掴んだと信じた。
ただ、運の悪いときに寝込んでしまったもので、ひとりで焦慮していたのだ。
だから、今日、ようやく歩けるようになると、何が何でも向島に伺わねばという気になり、駕籠に乗って急いだのだ。
中野の石屋敷につくと、下村孫九郎は、商人のように通用門から入り、女中を通じて、用人に自分の来たことを知らせてもらった。
「こちらへ」
と女中が云うので、孫九郎は恐縮しながら上りこむと、供待ち部屋のような粗末な座敷に通された。孫九郎は、これで、まず、意外さを感じた。
用人が出て来たが、ひどくむつかしい顔をしている。孫九郎は、これは自分の出向き方が遅かったからだと解釈して、畳に両手をついた。
「お使いを度々頂戴しましたが、少々、不快のため引籠っておりましたので遅延いたし、申し訳ございませぬ」
「もう癒《よ》くなられたか?」
じろりと見た。石翁の用人だけに威圧がある。石翁を背景に大名筋から金品を捲き上げるだけの器量があった位である。一与力に過ぎぬ下村孫九郎が縮んでいる筈であった。
「殿さまより直々のお話がある由じゃ。庭に廻るがよい」
小者か、仲間《ちゆうげん》の扱いであったが、もとより孫九郎に不服はなかった。石翁から言葉をかけられるだけでも冥加《みようが》千万であった。
孫九郎が、丁重に礼を述べて起とうとしたとき、用人は、何を思ったか、
「これ」
と呼び止め、低い声で、
「ご機嫌が斜めである。気をつけるように」
と注意した。
孫九郎は肝を冷やした。今まで、喜びに胸がふくれて来ただけに、叩きつけられたように一ぺんに潰れた。彼は、もう、胸が不安に高鳴りはじめた。
女中に案内されて、庭づたいに別棟に行く。広大で見事な庭だが、孫九郎の危惧の眼には、霞んでしか見えぬ。
このとき、歩いてくる一人の女中と孫九郎はすれ違った。
(はて)
商売だけに、景色は眼に止らぬが、人の顔は本能的に映るのである。
(どこかで見かけたような顔だが)
と思ったが、さすがにその考えは追えずに、目下の不安に心が戻った。
石翁は庭で菊の手入れをしていた。植木屋がそれに手を添え、妾がうしろの方で立って見ていた。
女中が下村孫九郎の来たことを、石翁に告げたが、石翁は、ふり返りもしなかった。孫九郎は、その土の上にうずくまって、石翁の言葉のかかるのを待っていた。
石翁は、菊の方に余念がないのか、いつまでも、ものを云ってくれない。孫九郎は、犬のようにじっとしてそこで待っていた。
「よかろう」
と石翁が云ったのは、孫九郎にではなく、植木屋に向ってであった。
「もうよい」
植木屋が腰を折り、一礼して去った。
石翁は、初めて、孫九郎をふり返った。孫九郎は顔を伏せて、土の上に手をつかえていた。
「面《おもて》を上げよ」
石翁の冷たい声がした。孫九郎が、恐る恐る顔を上げると、石翁の大きな、光っている眼に当った。孫九郎は、また平伏した。
「下村とか申したな?」
石翁が見下ろして云った。
「はあ」
孫九郎は首を縮めた。
「この間の頼みごと、申し分なく処置した、と申したな?」
石翁は女の死骸のことを云っていると分った。それなら心配はないと孫九郎は、ほっとした。
「はい。恐れながら、お耳をけがしまするで申し上げませぬが、手落ちなく片づけましてございます」
「この間もそう聞いた。これが二度目だが、しかと相違ないか?」
石翁は、静かだが、念を押すように訊いた。
「はあ、左様で……」
その返事が終らぬうちに、石翁の怒声が孫九郎の頭上に落ちた。
「黙れ!」
「は」
孫九郎は、肝を消して、反射的に低頭した。
「あの死骸は、さる男に発見《みつけ》られているわ」
石翁は怒鳴った。
孫九郎は仰天した。そんなことがある訳がない。非人が、寺から掘り出して、小塚っ原の穴に確かに捨てたのだ。余人が寄りつけるところではない。
「小賢《こざか》しきことを申して、口ほどにもない奴。馬鹿者、退れ」
石翁は怒声を叩きつけた。
孫九郎は、土に額をこすりつけた。顔が蒼白となって、身体が、ぶるぶると慄えた。
そんな筈はない、そんな筈はない、と心の中で抗議する一方、眼の前が昏《くら》くなった。
孫九郎は、足が萎《な》えた。
石翁が土によごれた手を洗って座敷に上ると、若い妾が、
「お疲れでございましょう。お肩を擦《さす》りましょうか」
と訊いた。
この妾は、旗本の娘だったのを、石翁が所望したのである。
「うむ」
むっつりと返事した。不機嫌な顔つきである。妾は石翁の背中に廻った。
(能なし奴《め》)
石翁は、いま叱った下村孫九郎の卑屈な顔を想い出して心で罵った。
(小才の利《き》いた奴と思ったが、おれに取り入って出世の蔓をつかもうとする、もの欲しげな面《つら》つきだけが見えすいている)
石翁は、むかむかしていた。上は大名から大身の旗本まで、猟官運動に彼のところに来るが、石翁は遠慮|会釈《えしやく》もなく、彼らから賄賂を取り上げている。そのくせ、決して彼らに好感をもったことはない。彼らが世辞たらたら述べて帰ったあとは、石翁はいつも唾を吐いているのだ。出世欲の皮が突張っている人間を見るほど、いやなことはない。
妾の指が、石翁の肩を撫でているが、隠居の顔は、その愛好する石のように固い。
不機嫌と知って、妾が気を遣い、
「殿様。茶など差し上げましょうか?」
と再度云ったが、石翁は太い首を振った。
「欲しゅうない」
眼を、じっと庭に向けている。樹も動かず、水の音もしない。この静寂が、今日は鬱陶《うつとう》しいくらいだ。
「何か……」
と思わず口から出たのはこの鬱陶しさが云わせたのだ。
「唄でも聴かせてくれ」
妾は笑った。主人の不機嫌さが、やっと直りかけようとしている。彼女は媚びる顔になった。
「そんなら、久しぶりに三味線を弾きますから、殿様のお唄を……」
「わしは唄いとうない。聴いた方がよい」
石翁は眼を閉じた。まだしんから気分が直っていないのだ。
「はい」
妾は、また懼《おそ》れるように起ち上りかけたが、ふと、気づいたように、
「あ、それなら、よいことがございます」
と云って、石翁に微笑を向けた。
「先日、雇い入れました新しい女中はなかなかの芸達者で、三味も弾けば、唄も上手でございます。それは佳い声をして、節廻しも惚々《ほれぼれ》するくらいでございました。お慰みに、ここに呼びましょうか?」
「それは何処から来た女だ?」
石翁が眼を開いた。
「植甚からの世話でございますが」
妾は、女中のことを訊かれて、石翁に答えた。植甚というのは出入りの植木屋である。
「丁度、ひとり、手不足でございましたので雇い入れました。年齢《とし》は十九と申しておりましたが、容貌《きりよう》もよし、しっかり者のようで、芸ごとも達者でございます。つれづれのときはよい慰めと、わたしは喜んでおります」
「どこの人間か?」
「葛西《かさい》の生れと云っておりますが」
「百姓の娘か」
石翁は軽く応えた。ご時世で、当節の若い女は誰でも彼でも遊芸ごとを稽古する。
吉原や深川とも違って、江戸の各所に町芸者が殖えている。女浄瑠璃も流行《はや》っている。彼女たちの華奢《きやしや》な生活を、娘たちは憧れ、その風俗を真似しているのだ。遊芸ごとを稽古する町家の若い女は珍しくない。
「身元は確かであろうな?」
石翁は念を押すように云った。
「はい。植甚の知り合いで、鳶《とび》の者の縁者だそうでございますから」
石翁は考えていたが、
「ここへ呼んでみよ」
と云いつけた。
これを、妾は単純に、主人が興味を起したととったらしい。いそいそと起って、ほかの女中に命じていた。
「まだ、お揉みいたしましょうか……」
「うむ」
妾は、石翁のうしろに廻る。気持がいいのか、何を考えているのか、石翁は太い猪首を前に垂れて眠ったように黙っている。
畳の上を摺《す》る音がしたかと思うと、ひとりの女中が敷居ぎわに両手をついて重い髪を下げていた。
「おこん」
妾が呼んだ。
「はい」
新しい女中は口の中で返事をしたまま、頭を上げぬ。
石翁が首をあげて、その姿をじっと見ていた。
「一昨日《おととい》、奉公に参りました。お見知りおき下さいませ」
と云ったのは妾で、背中を曲げて平伏している女中に、
「おこん。殿様にそなたの唄をおきかせ申せ。つれづれなままのご所望じゃ」
と云いつけた。
「はい」
女中が、顔を上げ得ないで、もじもじしていると、
「何でもよい。どうせ、お慰みじゃ、恐れ入らずと、早う仕るがよい」
と妾は促した。
おこんと呼ばれた女中が恐る恐る顔を挙げた。
「おこんと申すか?」
石翁は、新参の女中の顔を眺めた。色が白く、上品な顔立ちである。つつましやかだが、石翁に向っても悪びれた様子はなかった。
「はい。ふつつか者でございます」
おこんは丁寧に手をつかえた。
「芸ごとはどこで覚えたか?」
石翁は、妾に肩を揉ませながら訊いた。
「吉原の近くで、姉が富本節の師匠をしておりましたので、自然に口真似をいたしました」
おこんは、はきはきと答えた。
「うむ、富本が出来るのか?」
「左様にお訊ね遊ばしては赤面いたします。ほんの真似ごとでございます」
「いや、なにごとも座興じゃ。一つ、やってみい」
と云ったが、気を変えたように、
「いや、富本をいま聴くのは重いな。小唄でもやれ」
おこんは羞《はずか》しそうにうつむいた。
「おこん、折角のご所望じゃ。遠慮してはかえって無礼になる。早う、唄うがよい」
妾も傍《はた》から口を添えた。
「はい。それでは、不出来で恐れ入りますが……」
おこんは、また丁重にお辞儀をすると、容《かたち》を直した。その姿勢に隙がなかった。
「いざさらば、雪見にころぶところまで
つれてゆこうの向島
梅若かけて屋根船に
浮いたせかいじゃないかいな」
おこんは、心もち頭を下げて、二の唄をつづけた。
「川風に、ついさそわれて涼み船
もんくもどうかくぜつして
粋なすだれの風の音《ね》に
洩れてきこゆるしのび駒
すいな世界に照る月の
中を流るる墨田川」
おこんは唄い終ると、顔を畳に伏せた。
声もいいし、節廻しも上手である。素人ばなれがしていた。それに、この屋敷の位置を考えて、咄嗟《とつさ》に、地形に由縁《ゆかり》のある文句を択び出したところにも機転の利いたところがあった。
「うまいものじゃ」
石翁の顔色が和らぎ、機嫌が直ったように見えた。
「ほんに、おこんの声は惚々いたします」
妾が後から口を添えた。
「もうよい。あっちへ行け」
石翁は、おこんを去らせたが、その後姿を見送った眼を庭に投げた。その眼は、また何かを考えていた。
庭には、さっき植木屋を呼んで手入れした早咲きの菊が、花弁を乱して咲いていた。
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長《なが》  局《つぼね》
長局の各部屋には、商人が入って、いろいろなものを女中たちに売る。反物から日用品まで、お出入りの商売人が風呂敷に包んで持ち込むのだが、なかでも女中どもに人気があるのは小間物だ。簪《かんざし》、笄《こうがい》の頭の道具から、懐中鏡、薬入れ、鋏、楊枝の類、守袋、煙草入れ、夏ならば扇子、日傘、汗拭いなど、冬ならば足袋、懐炉《かいろ》まである。
これを女中部屋でひろげて見せるから、御用のない暇な女中は、いろいろな品定めに心を奪われて起とうとしない。
いつも、五、六人の椎茸髱《しいたけたぼ》が集まって、品ものを手にとってはしゃべり合う。
出入りの商人は、無論、女であるが、愛嬌がよくて、口が上手でなければ出来ない商売だ。
六兵衛の妹、お文は、女中どもに人気があった。
お文がくると、
「お文さんが来た。何ぞ珍しいものはないかえ?」と女中たちが集まってくる。
長局は四棟に分れて、南の一の側が、年寄、上臈、中臈、中年寄、御客|会釈《あしらい》などの重立った女中が住み、御錠口番、表使い、お三の間頭、呉服の間頭、御|祐筆《ゆうひつ》頭などの役々の順で、二の側、三の側、四の側と住む。間数は二十ばかり、間口三間、奥行六間、入り側と称して小部屋があり、ここで化粧したり、鉄漿《かね》をつけたりする。
次が八畳で、南北に地白に銀で花唐草を現した襖があり、天井や小壁も地白に銀泥で唐草模様があり、なかなか華美なものであった。八畳の次が六畳の間で、女中どもの楽居するところ、食事をしたり、朋輩と雑談したりする。一の側は一人に一部屋だが、二の側以下は五、六人の女中の相部屋である。
外からもの売りにくる商人は、この楽居の部屋に入ってくるのである。商人は、勿論、御広敷の奥役人から御門通行の御切手が出されているものに限られていた。
お文は、座敷の片隅に小間物をひろげ、愛嬌をこめて女中たちの相手になっている。女はとりわけ装飾具の選択がうるさい。
たとえば、平打ち簪は長さ七寸ばかりで、耳かきの長さ一寸、かたちは楕円と決められていたが、両面に彫った松竹梅や菖蒲《あやめ》の模様が、いいの、悪いのとしばらく詮議に時を移す。笄も同じこと、長方形で長さ八、九寸、厚さ二分、幅八分ときめられていたが、右端に穴を穿ち鼈甲《べつこう》で花飾りをはめこんだもの、この飾りの藤や牡丹などの恰好が気に入るの、入らないのと、ためつすがめつ眺め、朋輩同士で詮議する。
気長にしていないと勤まらない商売だ。
しかし、奥女中共が、お文のような商人を歓迎しているのは、別な目的があった。
長局の奥女中たちが、出入りの商人を歓迎するのは、買わないで品定めをする眼の保養だけではない。閉じこもった生活の彼女たちは、商人たちの世間|咄《ばなし》を聴くのが何よりの愉しみだ。いわば、彼女たちにとって商人たちは、密閉された世界に、わずかに吹き込んでくる外の風であり、酸素の多い新鮮な空気であった。
とりわけ、お文は世間馴れているので話が面白い。
「お文さん。何ぞ、面白い話はないかえ? 聞かして下され」
と女中たちはせがむ。
「そうですねえ。そうそう皆さまに喜んで頂ける面白い話はありませんよ」
お文は馴れているので一応は焦《じ》らすが、必ず一つや二つは話の用意をして来ている。別に大そうな話題でなくともいい。世間の瑣事《さじ》でも、大奥の女中には別世界の出来事を聴くように興味がある。
尤も、お文は、そうは不断にネタを仕込んでいないから、当惑に顔をしかめることもある。そんなときは、そっと黄表紙や絵草紙の類を置いて帰ったりした。
黄表紙は、表紙の色が黄色いから呼びなされたもので、内容は絵を主にして、その余白に殆ど隙間のないまでに細かい仮名書きで、当時の世態人情流行などを書き綴ったものだ。世俗人情の表裏を写し、吉原の遊里や芝居役者のことを題材としたものも少くない。従って、描写も、ときに卑猥《ひわい》にわたることがある。
大奥でも、このような本は女中たちに歓迎されたが、その卑猥なために、あまり大ぴらには読めなかった。それで、宿下りの女中が、お城に帰るときに買ってくるとか、出入りの商人が風呂敷の底に忍ばせて持ち込んでくる場合が多い。
いまも、お文がその黄表紙を何冊か、部屋の女中たちに見せていると、
「あら、お文さん」
と云って入ってきた女中がいた。細面の、くっきりした顔立ちの女である。
「これは、お登美さま」
お文は、見上げて鉄漿《かね》のついた真黒い歯を出して愛嬌笑いをした。
登美は袂の下にかくした黄表紙をそっと出して、
「これは、面白うございました。返しますから、何ぞほかに趣向の異った本は無いかえ?」
と訊いた。
「ああ、これでございますか?」
お文は受取って、
「鐘入《かねいり》七人化粧ですね。これはみなさまに評判がよろしゅうございます。はいはい。たしかに返して頂きました」
風呂敷の下にかくし、
「お登美さま。これなど、如何でしょう?」
と次の本を見せた。
登美は、お文からうけ取った「|敵 討義女 英《かたきうちぎじよのはなぶさ》」という黄表紙の表題を読み、
「なるほど、これは面白そうな」
と、中をばらばらめくって絵を見ていた。
「登美さまは、絵草紙がお好きのようじゃな」
と居合せた女中どもが眼を笑わせ、
「お文さん、何ぞ面白いものを、わたしらにも貸して下され」
と云った。
「はい、はい。これなぞ、いかがでございますか?」
お文は三、四冊をならべて出した。女中どもは、その黄表紙を眺めていたが、
「これはあまり面白うなさそうじゃ。いま、登美さまが返した、その鐘入七人化粧というのを見せて下され」
と一人の女中が云った。
「これでございますか」
お文は、風呂敷の底にしまった本を一層かくすようにして、すこしあわてたように云った。
「これはあいにくと、なりませぬ。ほかのお部屋から、たってのご注文がありましてな。実は、お登美さまのお手から空《あ》くのを待っておりましたような次第で」
と、彼女は、謝るようにお辞儀をした。
「それはきついことじゃ。そんなら、きっと次には面白い絵草紙を持って来て下され」
その女中は、不満そうに云った。
「はいはい。申すまでもなく、これよりもっと面白いものを見つけて上ります。ご勘弁下さいまし」
お文の顔に、ほっとした安堵の色があったが、その眼は登美の眼と意味ありげに合った。
「そんなら、今日はこれでご免蒙ります。みなさま、有難うございました」
お文は、その辺にひろげた商品を片づけはじめた。
「お文さん、今日は、いつになく早仕舞のようじゃな?」
女中どもが、惜しそうに云うと、
「はい、今日はちと他《ほか》を廻るところがございましてね、この次にはゆっくりさせて頂きます」
お文は何度も頭を下げた。
「お文さん、それでは帰りを気をつけて」
登美が云った。
「これは、ごていねいにありがとうございます」
お文は礼を云ったが、このときも両人の視線が瞬間に絡み合ったのをほかの女中たちは気がつかなかった。
「ごめん下さいまし」
お文は、みなに挨拶して出て行った。
彼女は、小間物の風呂敷包みをさげているが、それをほかの部屋に見せに廻るではなく、そのまま七ツ口の方へ足を向けた。
七ツ口とは、長局と外部の出入口で、ここに添番の詰所がある。
七ツ口には、添番と伊賀者の詰所が向い合っている。
お文は小腰をかがめて、
「ありがとうございました」
と詰め人の添番に挨拶した。これに対して、添番は、
「通れ」
と云う。入るにも出るにも、「通れ」であった。
尤も、長局の各部屋の用達《ようたし》商人は、いちいち七ツ口を通って部屋に出入りするのではない。七ツ口の土間には勾欄《てすり》がついていて、この下に用達商人が詰めている。女中はこの者に、買いものを云いつけると、朝注文を出したのが、晩には整う仕組みになっている。何屋の、どういう品物と、先の好みがある分は、鳥目《ちようもく》へ札をつけて出せばよい。どんな店屋のでも、整えてきてくれた。ただ、各部屋に出入りの商人は、女だけに限られ、それも小間物とか化粧道具の商いが主だった。
お文が、七ツ口を無事に通って、外へ出たとき、そのあとを追うように添番詰所から出てきた者がある。これが落合久蔵であった。
「おう、精が出るな」
と久蔵は、お文に声をかけた。
お文は、詰所では見る顔だが、落合久蔵という名前は知らない。
ふり返って、向き直り、
「はい、ありがとうございます」
とお辞儀をした。
久蔵は、お文の提げている風呂敷包みをじろじろ見て、
「いつも、重いものを提げて大変だな」
と愛想を云った。
「いえ、商いでございますから」
お文は笑ったが、この添番が何のために声をかけてきたか分らない。
「どうだ、商いは繁昌するかえ?」
「はい、お蔭さまで」
「お前は、たしか小間物屋だったな?」
「左様でございます」
「うむ。お登美どのの部屋にも行っているのか?」
お文の瞳が瞬間動いたが、
「はいはい、お世話になっております」
と愛嬌笑いをした。
「そうか」
落合久蔵は、それなりに黙って、風呂敷包みを、またも、じろじろと見ていた。お文は薄気味が悪かった。
なんのために、この添番が、お登美の買いもののことなぞ訊くのか。いやに、風呂敷包みに視線を当てるところが、心持が悪い。そういえば、この顔つきが狡猾そうで、いやな眼つきである。
「邪魔したな」
と、久蔵は明るい秋の陽に眼を細めて云った。
「もう行ってくれ」
寺社奉行、脇坂淡路守は、公辺の仕事が済んで、遅い夕食をとっていたが、島田又左衛門が訪ねてきたというので、急いで済ませ、待たせてある別室に行った。
「やあ、いつも」
と淡路は、坐っている又左衛門に笑った眼を向けた。
「お忙しいところを、お邪魔します」
島田又左衛門は挨拶した。お茶を運んできた召使いが部屋を出て行く間、両人の間には律義な話が交されていたが、
「この間の話、だめになった」
と、淡路守の方から低い声で云い出した。
「ああ、奥女中の水死体始末でございますな」
又左衛門はうなずいて、
「向うも巧妙です」
と云った。
「折角の証拠を奪られたな」
「迂闊《うかつ》でした」
「いやいや。お手前の甥御か。そこまで調べれば大したものだ。先方のやり方が判っただけでも、随分と参考になった」
「まことに、すみずみまで心を配っておりますな。町奉行所までも、石翁の手当てがいっているとは……」
「しかし、云っても追いつかぬことだが、菊川とか申す奥女中の死体さえ手に入れば否応を云わさぬところだった。懐妊がはっきりとしているからの」
淡路守は口惜しそうな顔をした。
「左様」
又左衛門も残念そうな眼つきをした。
「その懐妊させた相手が、加賀屋敷の者とは、はっきりしているのか?」
「以前に不用意に呼ばれた良庵と申す医者が、はっきりと梅鉢紋の入った莨《たばこ》入れを、枕元に見たと云っております。つまり、男が女に与えたものに相違ありません」
「西丸奥女中と本郷なら、筋書きは合い過ぎるくらいだ。何とかして、本郷の方から相手を探り出したいものだが……」
淡路守は頬を撫でて、
「本郷と通じたり、坊主と会ったり、西丸も忙しいことじゃ」
と呟いた。
「それにつきまして」
又左衛門は一膝のり出した。
「本日、西丸に出しております縫より、ひそかに便りが参りました」
「ほう」
淡路守が眼をあげると、又左衛門は懐《ふところ》から帛紗《ふくさ》をとり出して、なかの手紙を差し出した。
淡路守は受け取って、
「よく、これを?」
と又左衛門に眼を向けながら指で披きかけた。
「されば、絵草紙の間に挾んだままを、小間物屋が受け取って参りますので」
淡路守は灯りをよせて、縫の密書をよんだ。又左衛門は、彼のその横顔をじっと眺めている。もと、美青年として聞えた淡路も、このごろは皺がふえて、老《ふ》けが目立った。
こんな話がある。
淡路守|安董《やすただ》が、家斉に知られたのは、その美貌のためであった。将軍家斉は若いときから変った色好みで、とかく気に入った小姓には、前髪を分けて垂らし、そのぶんを頬にあてがい、奴髭《やつこひげ》のようにさせて喜んだ。だから、家斉の寵童は争って、奴髭の顔を作った。
脇坂家は徳川の譜代ではなく、外様《とざま》だから、代々、要職につくことがなかった。安董は、少年のころから、ひそかに野心があり、安閑として無為に暮すのが残念で、なんとかして世に出ようと思っていた。そこで、脇坂家の家格を自ら貶《おと》して譜代家臣の列に入り、他にならって奴髭をつけた。それだけなら、ほかと変らないが、彼は人より際立って美しい役者のような衣裳を着て家斉の側に近侍した。家斉の眼がのがすはずがない。将軍は安董に眼をかけた。
家斉は、安董の内志をさぐり、功名の念あるを知って、ついに格を破って彼を寺社奉行とした。齢、二十六であった。彼は方便として面寵によって用いらるる手段をとったが、その寺社奉行としての行政手腕は、延命院一件で大いに買われた。
その、整った顔も、いまは初老の皺がたたみ、鬢髪《びんぱつ》には霜を置いている。苦労がまざまざと見えるようであった。
淡路守は、よみ終り、手文庫の底にそれをしまった。
「樅山が日遠、広川が日念、重山が日周か。佐島が、日祥とは、大ものだけに、どちらも食わせ者を択んだな」
淡路守は、縫の手紙の文句を憶えるように呟いた。
「左様。あきれ果てた紊乱《びんらん》です。まだまだ、このほかにも芋蔓をはわせたようにおりましょうが、まず、この辺が、お美代の方の側近として、申しぶんございますまい」
又左衛門は微笑しながら云った。
「淡路守様。どうやら、お家の貂《てん》の皮が動く目当てが出来たように思いますが」
「うむ」
淡路守は、眼を閉じて黙っていたが、
「それは、まだむずかしいな」
と答えた。
「ははあ」
又左衛門は淡路守の顔を見つめた。
「よく調べたが、証拠が無い」
「………」
「証拠が無うては、何とも手がつけられぬ。それは、らちもない世間の噂話、と逃げられたらそれまでじゃ。悪うすると開き直られて、こっちが追い落される。……又左衛門殿、わしの欲しいのは証拠じゃ」
疑惑の奥女中の名、坊主の名を知っていただけでは何になろう、と淡路守は云うのだ。それには確証が必要である。
「証拠さえあれば……」
と、淡路守は、若いとき、きれいだと云われたその瞳《め》を据えた。
「有無《うむ》を云わせず、遠慮なしにやるがの」
この男なら言葉通りにやるに違いない、と又左衛門は淡路守の顔を見まもっていた。過ぎた日だが、延命院一件では秋霜烈日の検挙を行った。その剛直ぶりがまだ眼に残っている。
淡路守は、その検挙をやりすぎて、大奥に排斥され一時退役となったくらいである。いま、遠慮なしに、という言葉の裏には、今度こそ、という彼の自負と意気込みとがよみとれる。西丸大奥の腐敗を粛清することは、お美代の方の勢力を没落させることであり、それにつながる石翁や水野美濃守一派の野望を粉砕することである。
「証拠が欲しい」
と彼は云うのだ。意気に燃えているだけに、何とか手がかりを求めようとする焦燥がある。
「証拠とは、どのような?」
又左衛門は、淡路守のあせっている表情を見ながら訊いた。
「されば……たとえば、艶書じゃ」
淡路守は、茶碗をとり、両手に囲って云った。
「艶書?」
「奥女中と坊主との間には、必ず艶書の取り交しがあろう。それさえあれば、不義密通の動かぬ証拠じゃ。百の噂だけでは、手が出ぬが、それが一通でも手に入るとのう」
「分りました」
又左衛門は大きくうなずいて云った。
「かならず、それを探らせて持ち出させましょう」
「又左殿」
淡路守は屹《きつ》とした眼つきをした。
「それは容易ではあるまい。大奥の年寄や中臈の部屋は、殊のほか外の部屋からの出入りが厳重と聞いている。迂濶な指図をなされると、縫どのに難儀がかかろう」
「承知の上です」
と又左衛門は答えた。
「縫は、もとよりこの役目のためには、無事でお城を退るとは思っておりませぬ。当人、とうに覚悟をしております」
「縫どのは、おいくつになられる?」
淡路守は眉をひそめて訊いた。
「当年、十九歳に相成ります」
「さきざき、輿入《こしい》れの喜びもあろうに……」
「それも、ご奉公のためには、諦めさせております」
「さてさて、きつい叔父御をもたれたものじゃな」
淡路守は又左衛門の顔を見て、息をついた。
お文が、小間物の風呂敷包みをさげて、西丸の大奥に、縫のお登美を訪ねたのは、それから数日後だった。
例によって女中どもが部屋に集まっている。いろいろとお互いに詮議しながら品定めをしていたが、
「お文さん」
と登美が、朋輩のうしろから遠慮そうに声をかけた。
「はい」
お文は、客に品ものを見せながら、首をあげた。
「この間の本、面白うござんした」
と袂に囲った黄表紙を出して、
「これ、お返しします」
「はいはい、ありがとうございました」
と、お文は愛嬌笑いをしながら、
「お登美さまは、ご本がお好きのようだから、代りを持って参じました」
と風呂敷の函の下から二、三冊の絵草紙を出した。
「それは、それは」
お登美は、わざとうれしそうな声を出したが、お文は、その中の一冊をぬき出し、
「これは面白うございます。世間の評判も大そうよろしいようで」
とさし出した。この時、ふしぎな眼つきをした。
お登美は、うけとって、中はめくらずに、初めの一丁をめくり、
「人間に魂というものあり。いかなるものぞというに、男の魂は剣なるべし。又、姫小松の浄瑠璃《じようるり》、俊寛がいいぶんをきけば、女の魂は鏡にきわまりたり……」
と、口の中でよんでいたが、閉じて、
「ほんに、これは面白そうな。お文さん、それでは、これを借りますよ」
と、懐の中に入れて、上から袂を当てた。
「今日は、簪など如何でございますか? 変った品が入りました」
お文が商売をはじめたが、登美は、
「いえ、今日は御用が忙しそうだから、この次にゆっくり見せて貰います」
とそこを去りかけた。
「御用ならば、いたしかたがございませんな。有難うございます。また、お願いいたします」
お文は頭を下げた。
登美は、その部屋を出ると、人の出入りのない庭に下りて、植込みのかげにかくれた。長局は、どの部屋も、廊下も、女中どもがうろうろしている。人眼を憚るには、こんな場所しかなかった。
お登美は懐から黄表紙をとり出し、中を開けると、封書が押し込むように挾んであった。島田又左衛門の手蹟だった。
お登美は、あたりを見廻して、素早く封を切って、中をよみ下した。
「艶書……」
お登美の眼が宙に向って止った。
すぐ、うしろの方で、土を踏む草履の音がしたので登美は顔色を変えて、封書を懐に入れ、絵草紙を袖の陰にかくした。
「登美どの」
と、声をかけて近づいたのは添番の落合久蔵である。にやにや笑っていた。
ときがときなので、登美はぎょっとした。
「珍しいな。そなたがこんなところに立っているとは」
久蔵は、あたりを見廻し、低声《こごえ》で云いながら、そろそろと近づいてきた。
「はい。あんまり御用が忙しかった故か、心持が悪くなりましたので、ここで一息、憩《やす》ませてもらっております」
登美は咄嗟《とつさ》の言い訳を云った。
「それは難儀じゃ。御殿づとめは馴れても気苦労。随分と要心をなさるがよい」
久蔵は、そう云いながら登美の身体をじろじろと見て、
「登美どの。そこに持っておられるのは何じゃな?」
と薄ら笑いをしながら訊いた。
「いえ、何でもありませぬ」
登美は胸に当てた袖をずり上げるようにした。
「はて、顔色が変っているところを見ると、何ぞ、かくしているようじゃ。ほかの者とは違う。拙者だけにでもお見せなさい」
久蔵は手を伸ばそうとした。
「あれ、堪忍して下され」
「いいではないか」
久蔵が不意に肩を突いたので、登美の抑えていた手が思わずゆるみ、絵草紙が土の上にばさりと落ちた。
「ほう、黄表紙でござるか」
久蔵は、にっと笑い、かがんでそれに手をかけた。その隙に、登美は懐の密書を、さらに深いところに隠した。これに気づかれたら大変である。
久蔵は、黄表紙の土を払い、
「ふむ、心学早染草《しんがくはやぞめぐさ》か。なるほど」
と、なかをばらばらとめくった。密書を除《と》ったからよいものの、それでも登美には薄気味が悪い。
久蔵は、ふと顔をあげて、
「近ごろは、こういうものをお読みか?」
と、にたりとした。
「はい。つれづれのままに内証で見ております」
「かような場所でも、手放さずにおられるところをみると、きついご熱心じゃな」
登美は返事に困った顔をした。
「先日、お出入りの女小間物屋が、登美どのの部屋にはひいきになっていると申したが、さては、かような絵草紙の類《たぐい》も運んでいるのか?」
「いえ、それは、よそから貸して頂きました」
と登美は弁解したが、落合久蔵は、何でも知っているといった顔で、にやにやしている。
「なあ、登美どの」
落合久蔵は、そっと、登美の手をとった。
「あれ、何をなさいます、人眼にふれまする」
登美はふり放そうとした。
「なに、人眼に知れるくらいなら、そなたがここで妙なことをする気遣いはない」
「妙なこと?」
「はて、そんなに怕《こわ》い眼つきをすることはない。わしは、これでも女中衆の間で毎日暮しているようなものじゃ。女心は知っている」
「………」
「日ごろ、権高《けんだか》に澄ましておいでなさる高い身分の御女中が、内証でどのようなものを両国あたりから取りよせられて、こっそり楽しんでおられるか、知らぬでもないわ」
久蔵自身が妙な眼で笑った。
登美は赧い顔になった。
両国には四目屋《よつめや》という店があり、そこでは恥かしい薬や、けがらわしい器具を売っているとは、登美も、口さがない朋輩の笑い話から聴いていた。──「頼まれて来たと言わねば買いにくし」「にこにこと御宰《ごさい》は桐の箱を出し」の川柳がある。
……久蔵は、どうやら勘違いをしているらしい。人情を写した文字を連ねている絵草紙を読んでいるから気を廻しているのだ。登美は、絵草紙の中に挾んでの密書のやりとりを気づかれなかったことに安堵した。
久蔵は、登美の赧らんだ顔を見て、
「のう、登美どの、拙者の気持は、そなたには、もう悉皆《しつかい》分っている筈。お城勤めを永うしても、もの憂《う》い話。そろそろ、ふんぎりをつけてはどうじゃな?」
と上目使いに話しかけた。
「その話なら、この次にして下され。わたしは、もうお局に帰ります」
登美は遁げようとした。
「これ、待ちなさい」
久蔵は、その袂をつかんだ。
「近ごろは、とかく、この次、この次とお逃げなさるが、この次とはいつじゃ?」
久蔵の笑っていた眼が、急に怒った。
「それは、いずれ、わたしから……」
「いいや、その口上は当てにならぬ。この間もそのようなことを云われた。登美どの。そなたは、まさか心変りをしたのではあるまいな?」
登美は黙った。女が沈黙すると、男は不安となり、苛立つらしい。久蔵の眼が光った。
「はっきりと答えなさい」
袂をつかんだ久蔵の手に力が入ったとき、近くで、足音が聞えた。
「あれ、人が来ます。落合どの。いずれ……」
登美が袂を払った。小走りに逃げながら、登美は、落合久蔵が厄介な人物になってくるのを感じた。
登美が逃げ切らぬうちに落合久蔵はうしろから追って、その袖を捕えた。そこは、まだ庭の木立ちがつづいていた。
「これ、登美どの。そうあわてて逃げるには及ぶまい。誰も来はせぬ」
久蔵は荒い息を吐いていた。
「そなたの気持は、どうなのか、はっきり聞かせてくれ」
「わたしの気持は……」
登美は、仕方なしに答えた。
「変っておりませぬ」
「いやいや、そうは見受けられぬ。これは拙者の邪推かもしれぬが、前ほどには拙者を想ってくれぬようじゃ。近ごろ、何ぞといえば、拙者の前を逃げ出そうとしている」
「いえ、人が来るからです。もし誰ぞに見つけられたら一大事でございます」
「はて、それは拙者が何よりもよう知っている。人眼がないのを確めているから、そなたに話しかけているのじゃ。登美どの、いつか交した夫婦《めおと》約束、あれに違背はあるまいな?」
「はい……」
「という返事をきいても心配なのは拙者の心、何とか早う、その実証を見せてくれぬか?」
「実証?」
「うむ、つまり、その……」
久蔵は、薄ら笑いを浮べた。
「二人だけで、ゆっくりと、夜のお裏庭で遇いたいのじゃ。拙者の望みを叶えてくれ。そなたも、そのような絵草紙を見ているからには、まんざら不粋でもあるまい」
久蔵の手は、袖を放すと瞬間に登美の手を握った。
「いえ、それは、お断りします」
登美は、きつい口調で云った。
「なに、断る?」
「はい、堪忍して下さいませ」
「堪忍するもしないもない。たとえ口約束にしても、夫婦になるといったからには、拙者の女房じゃ。女房が亭主の云うことをきかれぬ道理はあるまい」
久蔵は眼を光らせた。
「でも、それは、さきざきのこと……」
登美は久蔵の臭い息を避けようとした。
「さきざきのことが心配だから、こう申しているのだ。それとも、登美どの。何のかんのと云って、逃げているのではあるまいな?」
久蔵は怕い眼をした。
「いえ……」
「もし、約束に違背したら、拙者も男じゃ。恥を掻かされて黙っておれぬ。この間から、拙者にいろいろ訊いていることも腑《ふ》に落ちぬところがある。それに、拙者の持っているあの踏台……」
「あ、もし……」
その時、また近くで足音がした。
足音がしたので、落合久蔵は思わずふり返った。
「あ」
彼が、ぎょっとなったのは、立木の陰にひとりの男が立っていたからである。彼は思わず、登美を放した。女ばかりの大奥の庭に、男が居ようとは思いもかけなかった。
「だ、誰だ?」
久蔵は身構えて咎めた。
「へえ」
立木のかげから、姿を出したのは士《さむらい》でもなんでもない、これは印半纏を着た職人のような男であった。
彼は、久蔵に咎められて、頭を低くして、その場に膝をついた。
「何だ、お前は?」
久蔵は、登美との縺《もつ》れを知った者に見られなかったのに半分安心し、半分は怪しむようにその男を上から見据えた。
「へえ、屋根職の者でございます」
男は頭を垂れたまま、縮んだように答えた。
「なに、屋根直しの職人か?」
本丸でも西丸でも、絶えずこういう職人は入っていた。屋根の修繕は、作事方《さくじかた》に属し、実際の仕事は外部の定められた二、三の親方が職人を連れて入っていた。この男も、その一人に違いなかった。
「その屋根直しの職人が、何でひとりでかようなところをうろうろしている?」
久蔵は不審を問い質《ただ》すように訊いた。
「へえ、うろうろしているうちに、つい連れの者とはぐれまして。いま、持ち場に帰ろうと探しているところでございます。なにぶん、広うございますから難儀をしておりました」
広い、という云い方が久蔵には笑止に聞えた。
「お前は、誰について働いている男じゃ?」
「へえ、神田の六兵衛でございます」
男は、相変らず恐縮したように、顔をあげずに答えた。
登美が、この機会に久蔵のそばから離れようとして、足をとめたのは、その名前を聞いたからであった。彼女はそこに佇《たたず》んだ。
「うむ。六兵衛か。六兵衛なら南の御小座敷のあたりを直している筈じゃ。引返して、左に曲って行け……」
久蔵は道順を教えた。
「へえ、ありがとうございます」
職人はお辞儀をして起ち上った。
しぜんと、彼の顔は、そこに佇んでいる登美と合った。
あ、と登美が声を上げそうになったのを口を押えたのは、その屋根直しの男の眼が、登美を見てかすかに笑ったからである。
(ああ、新之助さん!)
登美は従兄《いとこ》の名を口の中で叫んだ。
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新之助は、南側の御小座敷の外に戻った。
屋根の上には、職人が、しゃがんだり、立ったりして、修繕の仕事をしていた。六兵衛が、下からその仕事ぶりを監督するように眼をしかめて見上げていた。
新之助が戻ったのを見て、
「おい、何をぼやぼやしてやがるんだ」
と叱って、顎《あご》で、こっちへ来い、と呼んだ。
「へえ」
新之助は六兵衛の前に近づいて、腰をかがめた。
「なにしろ、広いもんで……」
六兵衛は再び屋根へ眼を投げた。光を漲《みなぎ》らせた蒼い空を背景にして、職人たちは一心に仕事にかかっていた。
六兵衛は、さらに左右を見廻して、
「どこへ行きなすった?」
と低い声で訊いた。
「うむ、何となく歩いていたら、珍しい人に会ったよ」
腰をかがめたまま、職人に化けた新之助も小さな声で答えた。
「珍しい人ですって?」
「お縫さんだ」
あっ、というような眼を、六兵衛はした。
「そりゃあ、よく……」
「おれも思いがけないのでおどろいたが、お縫さんもびっくりしたらしい」
「そうでしょう」
と六兵衛はうなずいて、
「お縫さんが大奥《ここ》とは分っていましたが、よくもまあ、こんな広大なところで遇えましたね。お縫さんとは、どんな話がでましたか? 随分、お逢いにならなかったから……」
「いや、それが……」
新之助は苦笑を浮べた。
「何にも話が出来なかったのだ」
「へえ、そりゃ、また。誰かお女中衆でも横に居ましたかえ?」
「女中ならいいが」
新之助は答えた。
「妙な男が傍にいたのだ」
「妙な男が?」
「うむ。奥役人の下の方だとは思うが、お縫さんを頻《しき》りと口説いていてね」
思いがけない話なので、六兵衛が呆れた眼をして、急に返事をやめた。
「わしも、ひょっこり、その場に行き当ったものだから、うっかり話を途中から聞いてしまった。なんでも夫婦《めおと》に早くなりたいと、男の方は云っていたぞ」
「………」
「お縫さんが困って遁《に》げようとするのを、しつこく搦《から》んでいたから、わしも、思わずその場に出てしまったが」
新之助はそこまで云うと、
「六兵衛、この話は、あとでゆっくりしよう」
「慣れないことで、お疲れだったでしょう、若様」
六兵衛の女房が、銚子をすすめながら、新之助の顔をのぞいて云った。
障子を開けていると、狭い庭から入ってくる夜の風が、もう、うす寒いくらいである。六兵衛がたのしんでいる鉢の菊が、白い花弁をひろげて、縁にあった。
「いや、それほどでもなかったが。何もしなかったのが、かえって気苦労だったくらいだ」
新之助は、職人風にかたちを変えた頭をふった。
「何かされたら、こっちが大変だ」
六兵衛は笑った。
「屋根直しの、また直しをしなくちゃならねえ」
「あんなことを云って」
女房も笑いながら、
「さあ、お一つ」
と酒をついだ。
「おい、そいつはおれたちが勝手にやる。少し、話があるから、おめえは、あっちへ行ってくれ」
六兵衛は女房に手を振った。
「あい。そいじゃ、銚子が空《から》になったら、お前さん呼んでおくれよ」
女房は、新之助におじぎをして去った。
「さあ、若様、これで誰もいねえ。今日のひる、お城でお縫さんにお会いなすった一件を、ゆっくり承わろうじゃございませんか」
六兵衛は盃を置いて新之助に、
「誰か、奥役人の下っ端みてえな奴が、お縫さんに夫婦になってくれと搦んだところでしたね?」
と話のつづきを訊いた。
「そうだ」
新之助は、うなずいて、
「話の途中からだったが、お縫さんも、困っていたようだった」
「そうでしょう。女ばかりのところに勤めているから、男もそんな、いやらしい野郎に出来るんでしょうね。お縫さんも、遠慮なく、剣つくを食わせたでしょう?」
「ところが、そうじゃないのだ。お縫さんも逃げたそうにはしていたが、どうやら、その男と夫婦の口約束はしたらしいな?」
「そ、そんな、べら棒な話はねえ」
六兵衛は、眼をむいて叫んだ。
「そりゃ、若様の聞き違えだ」
「いや、おれは、たしかにこの耳で聞いたよ。妙な話だが、男が心変りをしたのか、と訊いたとき、お縫さんは、わたしの気持は変らぬ、先で必ず夫婦になる、と云ったのだ」
「若様、それは確かにお縫さんですか! お前さんの見違いじゃねえでしょうな?」
六兵衛は新之助の顔をのぞき込んだ。
「六兵衛。おれはまだ若い。眼は、お前より確かなつもりだ」
「お縫さまが」
と六兵衛は、ようやく、新之助の言葉を信じて云った。
「そんな男と、夫婦約束などする、いや、相手にするはずはないが、これは、何か仔細がありそうですなア」
彼は腕を組んで、考えこんだ。
「六兵衛、わしには、その仔細がおよそ分る気がするがの」
「はて、それは、どのような筋で?」
「お縫さんは、麻布の叔父に云いつかって、大奥の何かを探っている。叔父は脇坂侯と組んでいるから、お縫さんのしていることは、見当がつく」
新之助が云い出すと、六兵衛もうなずいて、
「危ねえ話だと、麻布の殿様にも、あっしは度々申し上げたんだが……」
「危険だ」
と新之助も同意した。
「危いが、一旦、うけ合ってお城に上ったからには、お縫さんも一生懸命だろう。だが、本人は逸《はや》っても、ひとりでは容易に仕事が出来ぬ。そこで、その男を利用のために抱き込んだのだと思う」
「なるほど」
「ところで、男の方は、お縫さんにのぼせているから、あんな場所でも、見境なく云い寄ってくる。六兵衛、およその見当はその辺だろうな」
六兵衛は、じっと考えていたが、
「なるほど、若様の筋の読みは早え。あっしも聞いていて、合点がゆきそうですよ」
と顔を上げたが、眉をしかめていた。
「お縫さまも、いろいろな苦労のひっかかりがあるようだ。何とか、その苦労でも助《す》けてあげられないものでしょうかね」
「お城の中のことだ。そいつは、ちょいとむずかしかろうな」
「そう他人《ひと》ごとにおっしゃるもんじゃねえ。頭の働く若様だ。何とか知恵が出ねえもんですかねえ」
「大奥のことは、俗界と違って、格別だからな」
「そう、はじめからお投げになっちゃ困ります」
「お前に、いま、やいやい云われても、そう急にはいい思案も出ぬわ」
「それでは、考えて下さるので?」
「まあな」
新之助は、曖昧に返事して、盃をとり上げた。
「若様、一体、お縫さまに搦《から》んでいる男ってのは、何と云う名か、お聞きになりませんでしたかえ?」
六兵衛は思いついたように訊いた。
「うむ、なんでも、お縫さんは、落合さまとか云ったようだが……」
「落合……?」
六兵衛の眼が光った。
落合という名を新之助の口から聞いて、六兵衛は、思い当った、というような顔をした。
「そりゃア、添番じゃありませんか?」
「うむ?」
「添番で、落合という男がおります。四十ぐらいの、色の黒い瘠せて顎の尖った、眼のぎょろりと大きい……?」
六兵衛が、その人相を説明すると、
「そうだ、そういう顔だった」
と、新之助は印象を想い出してうなずいた。
「落合久蔵です」
六兵衛は名前を口に出した。
「知ってるのか?」
「それほど深くは知りません。お城の仕事をしているとき、ちょいちょい見廻りにくるので、顔を合せたら挨拶するくらいですが……へええ、あの男がお縫さまにねえ……」
六兵衛は、顎を撫でた。
「あの男じゃ、ちっとばかり役者が合いませんがね……」
と不思議そうにしていたが、
「ああ、そう云や、いつか、麻布のお屋敷の前で、あの男が、うろうろしていたことがありましたよ」
六兵衛は、記憶を呼び起したように云った。
「叔父の屋敷の前を?」
新之助は、瞳《め》をあげた。
「そうです、そうです。お屋敷の前の、お寺の門のところで、随分、永く立っていましたっけ。知り合いの回向《えこう》の帰りだとか言い訳を云ってましたが」
……島田又左衛門と、お縫が、駕籠に乗って脇坂侯の邸に行くというので、目に立ってはと思って、自分が落合久蔵を追払ったことがある。
「そうだ、あのときも、麻布にお縫さまが来ていた」
六兵衛は云って、舌を鳴らした。
「畜生、さては、あのころからお縫さまを狙ってやがったな」
新之助は、六兵衛の最後の言葉を聞いて考えていたが、
「六兵衛。踏台というのは何のことか知らぬか?」
「踏台?」
「落合という男がそう云ったのだ。その一言で、お縫さんはあわてていたが」
「踏台? さあ」
六兵衛にも、分らないようだった。
「そうか。叔父貴にでも訊いたら仔細が知れるかもしれないな」
新之助はうつむいて盃を運んだ。
「落合には……」
と云い出したのは、六兵衛だった。
「たしか、女房がいると聞きましたがね。おかしな話だ、それがお縫さまと夫婦になりたいなどとは……」
秋風が立つと、大奥女中も衣替えがある。九月|朔日《ついたち》から九日までは袷《あわせ》を着《つ》ける。上臈、お年寄、中年寄、中臈などは、金糸色糸を総縫いした白|綸子《りんず》の袷に、白羽二重を重ねるが、お目見得以下は、縮緬《ちりめん》地に、草花、源氏車などの模様ある袷をつけ、白羽二重を重ね、織物の帯を纏《まと》う。
こういう衣替えがあって、気持の上でも秋を感じた二日目、長局の、登美の部屋に、
「ご免下さいまし」
と声をかけた者がいる。
「はい、どなた?」
登美の部屋は四人の相部屋であるが、そのひとりが見ると入口には、かねて顔を見知っている、年寄樅山の部屋子、|つた《ヽヽ》が畏《かしこま》っていた。
「ああ、お前さんか、どうしたのかえ?」
朋輩は訊いた。
「はい、こちらへ、もしや、お|いと《ヽヽ》さんが参っては居りませんでしょうか?」
「お|いと《ヽヽ》さん?」
登美はじめ、四人の女は顔を見合せた。が、ひとりが合点したように、
「あ、樅山様の可愛がっておられる……?」
と云いかけて、口から笑いをこぼしそうにした。
「さようでございます。旦那さま(樅山のこと)が大切にしていらっしゃる猫でございます」
部屋子は、笑いもせず、むしろ、悲しそうに云った。
樅山は猫が好きである。贅沢なもので、その猫の係りに部屋子が一人、つき切りだったが、猫は畳の上に寝ないで、樅山の裾の上に寝たり、特別にこしらえた猫の蒲団の上に寝たりした。管籠《くだかご》の中に、板締《いたしめ》縮緬の蒲団があって、猫の寝床になっている。
その猫は、三毛で、生れて三年くらい。樅山は、これに、|いと《ヽヽ》という名をつけていたから、はたの者は、おいとさん、おいとさん、と呼んでいた。
その、おいとさんの係りが、この部屋子で、彼女は心配そうな顔をして尋ねて来たのである。
「おいとさんは、ここに来ておりませんが、どうかしましたかえ?」
相部屋の朋輩は訊いた。
「はい。今朝がたから、急に見えなくなりましたので、大騒ぎしているところでございます。旦那さまのご機嫌が大そう悪いので、みなさまが心配して、方々を探しておりますが、皆目、どこへ行ったか知れません。それで、もしや、こちらへ迷い込んで参ってはおりませぬかと、お伺いに上りました」
部屋子の|つた《ヽヽ》は、自分の手落ちなので、蒼い顔をしていた。
「ここには居ませんよ」
と、こちらでは答えた。
樅山の猫係りの|つた《ヽヽ》は困り切った顔をしている。
「天井裏に上っているのではないかえ?」
「床下にいるのではないか?」
と、こちらでは勝手なことを云っているが、もとより、そんな所は探し尽したのであろう。|つた《ヽヽ》は首を振っていたが、
「それでは、お|いと《ヽヽ》さんの姿を見かけたら、どうぞ教えて下さりませ」
と頭を下げて立ち去った。
あとで、四人は顔を見合せて、
「あの騒ぎでは、とんと、人間の子を探しているようじゃ」
とか、
「樅山さまは、人一倍の猫好きで、人間には、きつい性分ゆえ、部屋の者が、さぞ、難儀していることであろう」
と噂していた。
この、お|いと《ヽヽ》という猫は、大そう躾《しつけ》がよく、部屋子などが、お下りものを与えても、ちゃんと自分の寝床に咬《くわ》えて行って、そこで食べるという工合。それで、食べものを拾い歩きするということは考えられない。それに、樅山の部屋は、一の側にあって、こっちの二の側に来る筈もなかった。
ところが、その晩の夜ふけ、登美が御用所の近くで、かすかに、猫の啼き声をきいた。
「はて」
登美は、雨戸を繰り、手燭を持ち出した。杉の葉を敷いた、手水鉢のあたりには、小さな動物の姿は無かった。
彼女は庭下駄をつっかけて地面に降りた。猫の啼き声は、今度は、意外に近いところから聞えた。
大奥の建物は、いずれも床が高い。登美が手燭を奥に向けると、その隅の方で一匹の猫がうずくまっていた。灯を受けて、猫の眼は怕《こわ》いくらいに光った。
「お|いと《ヽヽ》さん、お|いと《ヽヽ》さん」
登美は呼んだ。
その声に甘えたように、猫は、また啼いた。
「こっちへおいで」
登美は、掌をさし出して呼んだ。
猫は、逃げもせずに、じっと背を丸くしてうずくまっていたが、登美が二、三度、呼びつづけると、ゆっくり起き上って、少し、こっちへ歩いてきた。
「お|いと《ヽヽ》さん、おいで、おいで」
登美は力を得たように、手で招いた。
猫は、誘われたように、そこまで来て、登美の指を舐《な》めた。
登美は、片手で、猫のくびをつかまえ、抱き上げた。鈴の音が小さくした。猫の首には、紅絹《もみ》の首輪に、銀の鈴がついている。
「お|いと《ヽヽ》さん」
登美は、そう呼んで、柔かい毛に頬をすりつけたが、このとき、彼女の心に浮んだことがある。
夜中に、長局を歩くのはひどく寂しい。
廊下の、ところどころに置いてある金網灯籠が、ぼんやりと薄い光を投げているだけである。
縫の登美は、猫を抱いて二の側から、一の側へ歩いた。人影もなく、声も洩れない。猫は、かき抱いている登美の袖の中にうずくまって、かすかに咽喉を鳴らしている。柔かい重味が登美の手に乗っていた。
金網灯籠も、身分ある女中のいる一の側になると、真鍮で出来ている。その真鍮金網灯籠が、柱に貼った奉書の切り紙の「樅山」の字を浮き出した下で、登美は畏った。廊下から部屋の入口は、黒塗縁の杉戸で仕切られ、内側には花鳥の彩色絵があるが、むろん、廊下からは、裏側の杉の糸柾《いとまさ》の木目《もくめ》が見えるだけである。
「お頼み申します」
登美は、遠慮そうに、杉戸の傍から声をかけた。
寝静まっているとみえ、一度くらいでは、内から返事がありそうにない。登美は、二、三度、
「お頼み申します」
とつづけた。
はい、と返事したのは、樅山に附いている女中で、
「どなたでございますか?」
と杉戸越しに訊いてきた。夜中に訪問者があるのを奇怪に思っている声だった。
「お三の間の登美でございますが」
彼女は杉戸近くで声を出した。
「お|いと《ヽヽ》さんを連れて上りました」
「それは」
と内側が、はっきりとざわめき立ったのは、その口上をきいてからであった。間もなく、杉戸が開くと、雪洞《ぼんぼり》の光が、登美の顔を照らした。
「おお、これは、これは」
樅山の側についている女は、登美よりも、その袖に抱かれている猫にとびついて、
「まあ、お|いと《ヽヽ》さん、どこに行っていましたかえ。よく、まあ無事で」
と両手に抱えて頭に頬ずりした。
「二の側の、ご縁の下で啼いておりましたので、夜中とは存じましたが、お連れしました」
登美が、説明すると、奥から部屋子二、三人が、走るように出てきて、
「旦那様が、早う」
と、せき立て、猫を守るようにして奥へ行った。
「お登美さま。ありがとうござました」
と、そこに泣き伏したのは、責任者である猫係りの部屋子だった。
登美が、この騒動にすこし呆れて、戻ろうとすると、
「お登美さま。旦那様が、しばらくと申されています」
と、奥から急いで出て来た女中に制《と》められた。
登美が呼びとめられて、年寄、樅山の部屋に導かれてゆくと、幅一間の入側を通り、八畳の間に通された。
この部屋の東には間口一間、奥行三尺の仏間があり、これには将軍先祖代々の過去帳が備えられてある。しかし、黒塗本骨の障子がはまっていて、これは外から見えない。天井、小壁などは、白地に銀泥で唐草模様を描いた貼り附けで、これが雪洞に淡く光って、夢のような荘厳さがある。年寄の部屋ともなれば、なかなか立派なものだと登美はひとりで感心した。
樅山は、お|いと《ヽヽ》さんを抱いて、仏間の前の机のわきに坐っていたが、頭も上げずに入ってきた登美を見ると、
「登美かえ、近うおいで」
と、にこにこして云った。
三十を二つくらいは出ているが、五つ六つは若く見える。面長の顔で、唇がすこし大きい難をのぞくと、まず美人の方に入る。
「お|いと《ヽヽ》が世話になったそうじゃな」
樅山はやさしい声で云った。その猫は主人の膝の上におりて丸くなった。
「夜中にお伺いするのも如何かと存じましたが、おたずね遊ばしていることを承りましたので……」
登美は神妙に答えた。
「よう来てくれたな。部屋の者がうかつなため、お|いと《ヽヽ》が何処ぞへ失せて、さきほどまで、よう睡らずに心配していたところじゃ。これで、わたしも安心、気を落ちつけて寝《やす》めます。礼を云いますぞ」
「恐れ入ります。ただ、わたくしは、お連れ申しただけで、そのお言葉を頂戴するのは、勿体のうございます」
登美は恐縮したように頭を下げた。
「登美。何か礼をやりたいが……」
樅山は左右を見廻した。
「滅相もございませぬ。どうか、そのようなことは……」
登美は辞退した。
「いえ、それでは、わたしの気が済まぬ。他人《ひと》は、たかが猫の仔と笑うであろうが、わたしには、かけがえのないわが子も同然じゃ。それを助けてくれたそなたに何もやらずに帰すのは、こちらの気が済まぬ。登美、硯筥《すずりばこ》でも、簪《かんざし》でも、遠慮のう云うてたもれ」
樅山は執拗に云った。
登美は、二度、押し返していたが、決心したように、
「樅山さま、それでは、かねてのお願いを申し上げます」
「おお、何じゃな?」
「わたくしを、ご祈祷のお供に、ぜひ、お加え下さいまし」
「なにご祈祷の?」
「はい、感応寺のご本堂へお詣りいたしとうございます」
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秋 の 怪
石翁は、小用が近い。
このときも、自然と、眼がさめて、起きかけると、横に寝ていた妾が、めざとく気づいて、起き上ろうとした。
「構うな」
と制《と》めておいて、
「いま、何|刻《どき》かな?」
と、夜の暗さを計るような眼になった。
「かれこれ、四ツ半(午後十一時)をすぎましょう」
妾は、それでも、石翁の寝巻きの上に、羽織をかけてやったりした。
「うむ、いつも、そのくらいには決まって、眼がさめるようじゃな。それから、明け前の七ツごろじゃ。いや、年をとった」
「あれ、まだ、お若うございます」
妾が忍び笑いをした。
「そうか……」
石翁が、苦笑を洩らして、肥った身体を歩き出すころには、妾が、手燭をともしていた。
用所は近いところにある。石翁が出てくるまで、妾は手水鉢《ちようずばち》の近くにしゃがんでいた。虫の声が降るように起っている。
石翁が出てきて、水を使った。妾が手拭いをさし出す。
「秋になったな」
石翁は、濡れた手を拭きながら、暗い庭の方を窺っていた。
「わたくしも、虫の音《ね》を聞いておりました」
妾が云うと、
「早い」
と石翁が一語洩らしたのは、季節の移り変りのことである。
これも、茶人らしく、風流に耳を傾けていたが、
「そちは、さきに戻っておれ」
と妾に命じた。
「でも、夜分に、お風邪を召しては……」
「こいつ。さきほど、若いと吐《ぬ》かしたぞ」
妾は、くすりと笑った。
「手燭はよい。月の明りが少しある」
石翁は庭に下りるつもりらしい。眼で庭下駄をさがしていた。
月は、新月だったが、うすい紗《しや》をかけたような光が庭いちめんに下りている。樹も石も黒いが、泉水がほの白く光っていた。
ひとりになった石翁は、しばらく、あちこちを小さく歩き廻っていたが、肩に夜の冷えを感じたので、足を戻そうとした。
そのとき、何か、気になるというか、瞳《め》が別な一角に逸《そ》れた。実は、何気ない視線だが、見えない糸にひかれたようなものであった。
はっとして、瞳《め》が愕《おどろ》いたのは、その対象に当ったからである。
秋の、しっとりとした淡い月光の中だったが、石翁の広い林泉の中は、うす墨で塗ったように暗い。
日ごろ、自慢するだけあって、眼は、確かなものである。その昏《くら》い中に、何やら一つ、白いものが遠くに浮んでいるのを見た。
石翁は、足の方向を変えて、ゆっくりとその方へ歩いて行く。池の魚が、かすかに水を刎《は》ねた。
途中で、思わず足を停めたのは、その白いものが着物で、人間が立っている、と見えたからだ。
人の声も、物音も死んでいるこの深夜に、人間がひとり、庭に立っている。──
石翁は眼を凝らした。誰か、と咎めるところだったが、相手が少しも動かないのを見ると、その声を呑んだ。
白いかたちは凝乎としている。黒い樹林が、風をうけて、かすかに鳴っていた。
石翁は、また足をすすめた。石が到るところに置かれていた。
彼ほどの男が、ぎょっとしたのは、その着物の柄が、近づくにつれて、眼にはっきりとしたからである。
麻の葉である。──
その浴衣が、じっと息を殺したように、うずくまっている。首が無い!
(菊川……)
石翁は、心の中で叫んだ。
急に、池の水が、ひろがって来たような錯覚をおぼえた。かすかな呻《うめ》きが、耳のどこかに聴えた。黒い髪が水に溶けて、藻のように揺れている幻覚が起った。
首筋が冷えて、痙攣《けいれん》を感じた。
石翁は、息を沈めて、凝視をつづけた。強い眼で、一歩も退かぬ意志がこもっていた。
が、その眼は、次第に別な表情に変った。不意に、嗤《わら》い出しそうな眼になった。
石翁は、今度は、大股に歩くと、白い人間の傍に近づいた。手の届きそうなところにきても相手は動かない。
石翁は、うずくまっている人間を見下ろした。麻の葉の浴衣を、ふわりと頭からかぶっているような恰好だった。
ゆっくり、石翁は手をのばして、着ものを剥いだ。石が、その下から現れた。この石は、人間が跼んでいるようなかたちをしていた。──
石翁は、剥いだ着物をひろげ、検《あらた》めるように見た。麻の葉の模様は、あのときのものより、ずっと大柄なものだった。
「やりおる」
石翁の厚い唇から洩れたのが、この一語であった。
彼の眼が、うす暗い中に、どこかを見つめて据っていた。
石翁は、庭から帰ってくると、妾が起きて待っていた。
「随分、永く。お冷えになりませんでしたか?」
妾が立ち上って訊いた。
「冷えた」
と答えたのは、本人は、半分は冗談のつもりであったが、やはり顔色が冴えなかった。
「あまり、夜の外をお歩《ひろ》い遊ばすから……」
妾は、そう云いながら、石翁が、小脇に抱えたものに眼をとめた。
「おや、何でございます?」
石翁は、浴衣をそこに放り出した。麻の葉がよれて畳に落ちた。
「まあ、浴衣……」
妾が、眼をまるくして、石翁を見上げた。
「干しものだ」
石翁は、坐って説明した。
「莨を」
「はい」
妾は、梨地に金泥で御紋を描いた立派な莨盆《たばこぼん》を運んだ。家斉から拝領したものだが、石翁は平気で日常の用に使っている。
「干しものと申しますと?」
妾は、夜露に濡れて、湿っている浴衣に眉をひそめて訊いた。
「庭石にかかっていた。わしが取りこんでやったのだ」
石翁は、銀ごしらえの煙管《きせる》を口にくわえて云った。
「でも、浴衣など、いまごろ、季節外れのものを」
妾が不審そうに呟くと、
「なるほど、季節外れの幽霊が出たものだ」
と石翁は、煙を吐いた。
「何でございます?」
「いや、お前の知らぬことだ」
石翁は笑って、
「これを、持ち主に返してやれ」
と眼を浴衣にくれた。
「でも、誰でございましょう? このようなものを、お庭の石に干したりして、無作法な。その上、そのままにして忘れるなどとは無躾《ぶしつけ》な者があったものでございます。明日になったら、詮議して、きつく叱ってやります」
妾は、石翁の眼に無礼を働いた奉公人に、真剣になって怒っていた。
「詮議したところで、出て来ないかな」
石翁は云った。
「そうだ、これは、お前が預かっておれ」
「でも、一応は、調べませぬと……」
「はて、無駄じゃと申している」
この声が、案外に強かったので、妾の方が、おどろいた顔をした。
石翁は、灰吹きに煙管を叩いて、妾が新しい莨を詰めてくれる間、ひとりで思案を追っていた。
石翁は、風呂に入っていた。
秋の、明るい陽が射し込んで、湯にうつり、それが反射して、檜の天井の波の紋を動かしている。
眼を閉じて、石翁は老人らしく、湯の快感に浸っていたが、
「これよ」
と呼んだのは、上り場のところで、襷《たすき》をかけて、待っている古い女中に云ったのである。
「この前に来た、新参の女中、あれは何と申したかな?」
「おこん、でございますか」
女中は畏って答えた。
「そうだ。おこんと申したな」
何を考えているのか、そのまま、黙っていたが、
「おこんをここに呼んでくれ」
と浴槽《ゆぶね》の中から云った。
「はい」
女中が起ち上ると、
「お前は、もうよい。おこんと替ってくれ」
と石翁は言葉を追加した。
古い女中は、畏りました、と云ったが、面白くない顔をして出て行った。
石翁は、太い首すじのあたりまで湯につかって、また眼を閉じた。老人の癖で、熱い湯でなければ承知しないし、しかも長湯である。肥った顔が真赭になっていた。
上り場のところに、女がつつましそうに入ってきた。
「お召しで、おこんが参りました」
女は、そこから丁寧に、湯槽の石翁に声をかけた。
「うむ」
石翁は眼をうすく開いて、女を見た。顔を上げずにうずくまっている。
「わしは風呂から上る。手伝うがよい」
石翁は、大儀そうな声を出した。
「はい、かしこまりました」
言葉の歯切れがよく、敏捷な感じであった。用意してきた襷をかける動作も、きびきびとしたものである。
「上るぞ」
石翁は、湯から裸身を起てると、大きな体格だから、湯槽から湯が、ざあと音をたてて、檜の板にこぼれ落ちた。
そのまま、上り場に傍若無人に歩いて行く。おこんが、伏眼になって、湯気の立ち昇っている背中に廻り、大きな白木綿の布を掛けた。
頸から、背中、手、脚と拭いて行く。
「そこに、着ものがある」
石翁は教えた。衣類籠の中に、きちんとたたまれている。
「はい」
おこんが、かがんで、それを取ると、その下から、麻の葉模様の白い浴衣が現れた。
おこんは、浴衣に眼を遣ったが、さり気なく、視線を外して、石翁の背中に着物をかけてやる。石翁は、また、おこんの様子に眼を注いでいた。
彼女の表情を掠める、変化の欠片《かけら》も見遁すまいとする眼であった。
石翁は、着物をきせられるままになっていたが、背中に廻っている女に、
「そちは……」
と声をかけた。おこんは、それを聞いて辷り落ちるように膝をついた。
「この前に奉公に参った女じゃな?」
「はい」
おこんは頭を下げて返事した。
「唄を聞かせてくれたのを、覚えている」
「恐れ入ります」
石翁は、上から、白い女の襟あしを見下ろしていた。
下町の女特有の色気のある身体つきで、言葉づかいも、歯切れのいいものであった。
「今宵、客が来る」
石翁は云った。
「慰みに、そちが参って、唄ってくれ」
おこんは、すこし小さな声で、
「ふつつかでございますので……」
と辞退の様子を見せた。
「いや、なにごとも、慰みだから、固うなるには及ばぬ」
「はい……」
「わけて、今宵の客は、そのようなことが、好きな男での。よろこぶであろう」
「………」
「わしの前だとて、遠慮するには及ばぬ。よいな?」
やさしい声音《こわね》である。
「はい」
おこんは畏った。
「うむ」
石翁は、歩きかけたが、衣類籠にたたんである麻の葉の浴衣に眼を落すと、
「これは」
と、おこんをかえりみた。
「誰のじゃ?」
何気ない訊き方だし、顔もふだんのままであった。
「はい。わたくしは……」
おこんは、頭をさげて、表情を見せぬから、さだかには分らないが、声だけは、しっかりしたものだった。
「存じませぬが、どなたかほかの方がお置きになったのでございましょう」
「ほかの者がのう」
石翁は、薄い笑いを浮べて、おこんのうずくまった身体を、じっと見ていたが、
「そちによく似合いそうな浴衣じゃ。おこん、と申したな。いつか、これを着てわしの前に出るがよいぞ」
雨が降っている。
六兵衛は泥濘《ぬかるみ》の道を神田から駕籠で来て、この四谷の奥深いところは難儀しながら歩いた。御家人ばかりの、小さな家が密集していて、途中で、いちいち名前を訊かなければ分らないのである。
落合久蔵というのが、六兵衛の訪問先だったが、そこを探ね当てるには、かなり迷った末である。
落合の家は、大きな屋敷の角を曲った、路地奥の、同じような小さな家のならびの一つであった。雨が、腐れかけた塀をわびしく叩いていた。
名ばかりの門を入ると、狭い玄関は、目と鼻の先だった。雨のせいだけではなく、暗くて、内部《なか》がよく分らないくらい陰鬱な構えである。
「ご免下さいまし」
六兵衛は、二度つづけて、玄関先から声をかけた。
奥から出てきたのは、三十すぎの瘠せた女で、一目見ただけでも世帯やつれしていた。ぺたりと坐った恰好も、着くずれした着物のせいか、だらしない。
六兵衛は雫《しずく》の垂れている傘を、そこに立てかけ、からげた裾を下ろして、ていねいに頭を下げた。
「落合さまのお宅は、こちらでございましょうか。手前は、神田から参りました鳶職の六兵衛と申します」
「はい、落合は手前ですが」
瘠せた女房は、吊り上った眼をむけた。
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいましょうか?」
六兵衛は、女房の顔をうかがった。
「落合の家内です」
「それは、それは」
六兵衛は揉み手をした。
「手前は、いま申し上げました通り、神田の六兵衛と申しますが、日ごろ、何かと旦那様にはお世話になって居る者でございます。奥さまにお目にかかりましたのを幸い、お礼を申し上げますでございます」
「はい、それはどうも」
女房は、六兵衛の丁重な挨拶を受けた。
「つきましては、ちょいと旦那様にご挨拶に参りましたが、今日は、ご在宅でいらっしゃいましょうか?」
「丁度、非番ですから、今日は、居ります」
「やれやれ、それは好都合でございました。ありがとうございます。どうか、神田の六兵衛が参ったとお取次を願いとうございます」
「はい」
女房は、じろりと六兵衛を横目で見るようにして起って行った。
やがて、落合久蔵が、昼寝から起きたような顔をして玄関に出てきたが、六兵衛を見ると、何の用事で来たか、というような表情をした。
落合久蔵は、女房の注進で玄関に出てきたものの、六兵衛が突然、何の用事で訪ねてきたか、さっぱり分らない。お城の普請場《ふしんば》では見知りの顔だが、訪問されるほど親しくはない。
「これは、これは、落合さま。ご機嫌よろしゅうございます。ちょいと、近所を通りかかりましたので、ご挨拶に伺いました」
六兵衛は、にこにこして、
「これは、ほんの手土産の代りで、お口にも合いますまいが、坊ちゃまにでもさし上げて下さいまし」
と、持参の風呂敷包みをさし出した。
久蔵は、困った顔をしたが、帰れとも云えず、
「まあ、上れ」
と云った。
そうは云ったが、玄関先で遠慮するかと思いのほか、六兵衛は、ごめん下さいまし、と、のこのこ上ってきた。
玄関が三畳で、次が四畳半、奥が六畳という鼻を突くような狭さである。小さい子供が居るせいか、間を締めた襖も荒れ果てている。
さっきの女房が出て来て、座蒲団をすすめ、茶をくんできた。
「あいにくの雨で、鬱陶《うつとう》しゅうございますな」
六兵衛は、腰から莨《たばこ》入れを抜いて、なた豆|煙管《ぎせる》を吸いつけはじめた。上等の莨らしく、匂いがいい。
「どうぞ、お構い下さいませんように」
と、女房にも頭をていねいに下げたものである。
「やはり、何でございましょうな、ご非番の日は、ごゆっくりなすって、ご気分がよろしゅうございましょうな?」
六兵衛は、悠々と世間なみの挨拶をつづけている。久蔵は、気の浮かぬ顔をして、
「いや、それほどでもないが……」
と、口の先で仕方なしに答えていた。相変らず、六兵衛が何の目的でやって来たのか、見当がつかないでいる。
六兵衛は、一雨ごとに涼しくなってゆくの、今年は神田明神の祭礼の入費が嵩《かさ》んだだの、久蔵にとっては愚にもつかぬ世間話を、にこにこしながら云っていたが、不意に、その笑顔を収めた。
「ときに、落合さま。妙なことをお訊ねいたしますが」
と声まで、用件に入ったように改まった。
「ただ今、これへおいでになって、手前がお目にかかった奥様は、本当に落合さまの奥様でございましょうな?」
久蔵は、一瞬に呆れて、六兵衛の顔を見つめた。
「うむ。わしの家内に相違ないが」
自分でも、莫迦《ばか》莫迦しい返事をすると、六兵衛は、また眼もとを笑《え》ませてうなずいた。
「それで安心いたしました。落合さま」
落合久蔵は、一旦、呆れたが、むっとした。今のいままで、奥様奥様と云いながら、あれが、あなたの奥様ですか、もないものだ。
莫迦にしていると思った。
「六兵衛」
と彼は、強《きつ》い眼になった。
「お前、からかいに来たのか?」
「飛んでもございません」
と大きな声で否定したのは六兵衛であった。かれは、両手をあわてて振った。
「お腹立ちになっちゃ困ります。手前には、そんなつもりは毛頭ございません。初めて玄関でお目にかかりましたときから、奥様とは存じ上げましたが、ただ念のために、お訊ね申し上げたような次第でございます」
襖《ふすま》の向うでは、人の動く気配がした。久蔵の女房が聴耳を立てているに違いなかった。
「念のためだと?」
久蔵は聞き咎めた。
「へえ。左様でございます」
六兵衛は、けろりとしていた。
「おれの女房を確かめに来て、どうするつもりだえ?」
久蔵は険しい顔をした。
「へえ。妙な話ですが、お言葉を承って安心しましたから申し上げますが、いや、どうも妙な工合でございます」
六兵衛は煙管に新しい莨を詰めた。
「わたしの知り合い筋に、西丸さまの大奥へ奉公に上っている娘がおりましてね。名前はちょいと申し上げ兼ねますが、その娘が、この間、宿下りに帰りましての話でございます。お城の中のことは一切他言ならぬそうでございますが、それにつけても年ごろでございますから、自然と朋輩衆の噂話が出て参ります」
「………」
「その娘の朋輩に、登美さま、とおっしゃるお女中がおられるそうで」
「登美?……」
久蔵は急に眼つきを変えた。
「へえ。そうなんで。その登美さまとやらが、近いうちに夫婦《めおと》になりたいお方がおられるそうで、知り合いの娘は、それを話しておりました」
久蔵の眼が、急に落ちつかないものになってきた。
「何でも、その殿御になられる相手のお方が添番衆で、いや、もう、それは熱心なご執心だそうでございましてね」
六兵衛は、煙を吸い込んで、宙に吐いた。襖一重の向うでは、ごとりと物音がした。
「手前は、何気なく聞いておりましたが、そのうち、そのお方の名前が娘の口から洩れましたので、飛び上るほどびっくりしましたよ」
「六兵衛」
久蔵が、泡を食って叫んだ。
落合久蔵はあわてて、手で六兵衛の口を押えたいような恰好をしたが、六兵衛は知らぬ顔をして言葉をつづけた。
「その登美というお女中と、夫婦になりたいとおっしゃってる添番衆の名前を、手前は伺いまして、びっくりいたしました。それが、なんと……」
「六兵衛」
と落合久蔵は遮った。
眼の色は、今までとは、まるきり変り、襖の向うの女房を気にして、そわそわしていた。声音まで違っているのである。
「お前、ちょいと外に出ぬか?」
突然の云い出しに、六兵衛は、わざと、きょとんとしてみた。
「へえ、そりゃア、出ないでもありませんが……」
「出よう」
と久蔵はせき立てた。
「おれもそこまで出たいところだった」
「けれど、雨が降っております」
「雨などは構わぬ。お前の話は、一緒の傘で歩きながら聞くとしよう」
久蔵は急いで勝手に起ち上ると、
「おい、そこまで行ってくるぞ。傘を出してくれ」
と女房に大きな声で云いつけた。
女房が出てきて、六兵衛に、
「もう、お帰りですか。もう少し、ごゆるりと……」
「いや、六兵衛も忙しいから、そうしてはおれぬのだ。引き留めぬがよい」
久蔵は、振り切るように云った。
六兵衛も仕方なしに莨入れをしまい、腰に挾んだ。
「落合さま。それで、いまの話ですが……」
六兵衛が、久蔵のあとからついて玄関に歩みながら云い出すと、
「その話、その話。外でゆるりと聞こう。とにかく、外へ出よう」
久蔵は、おかしいくらいに狼狽していた。見ると、見送りのために、女房がすぐ後について来ている。
「いま、降るさかりです。もう少し、小止みになるまで、家でお待ちになったら」
女房は外の雨を見ながらすすめた。
「へえ。左様でございますな」
六兵衛が、その勧めに賛成しそうになったので、
「いや、これしきの雨、平気じゃ。六兵衛、さあ、参るぞ」
久蔵は、六兵衛をせき立てて、玄関から下駄をはき、傘を拡げた。
六兵衛が、その傘の中に入って、横にいる久蔵を見ると、久蔵の額には大粒の汗が浮いていた。
六兵衛は腹の中で笑った。
雨が傘を叩いている。その音を頭の上で聞きながら、落合久蔵と六兵衛とは泥濘《ぬかるみ》の道をしばらく歩いた。
「落合さま」
と六兵衛は云った。
「こう鬱陶しくては、お話も出来ません。ちょいと、そこらで雨宿りしようじゃございませんか」
「よかろう」
と久蔵は答えた。急に元気が出たものである。小料理屋が眼の先に見えた。二人はその紺色ののれんを頭でかき分けた。
小女が銚子を持って来て去ると、
「六兵衛。さっきの話のつづきを聞こうじゃないか」
と久蔵の方から云い出した。現金なもので、盃を含んで、落ちつき払っていた。
「へえ、へえ」
六兵衛は、やはり内心で嗤《わら》いながら、
「そのことでございます。登美さまという西丸奥女中衆に夫婦になろうと熱心に云っておられる添番のお名前が、なんと、旦那、落合久蔵さまとおっしゃるんだそうでございます」
「ふうん」
久蔵は、盃を持ったまま、わざと動じぬ顔をしていた。
「手前は、それを聞いて、はてな、と首をひねりましたね。たしか、落合さまには奥様がおられると伺っておりましたんでね。おかしいな、と思いましたよ。これは年寄りの勘ぐりかも知れませんが、ひょいとすると料簡の悪いお方が、旦那のお名前を借りて、登美さまに悪戯《わるさ》をなすってるんじゃねえか、と考えました」
久蔵は返事をしないで、頬をふくらませていた。
「こうと思ったら、手前の性質《たち》の因果なところでね、気になって仕方がありません。そこで、人助けと思いましてね、まず、落合さまをお訪ねしたわけですよ。すると、手前の思った通り、ちゃんと立派な奥様がいらして、お眼にかからせて頂きました。いよいよ、これは、どなたかが、悪戯をなすっていると分りました」
六兵衛は、久蔵の反応を見るように、その顔を眺めた。思いなしか、久蔵の唇が、すこし震えていた。
「手前は安心いたしましたよ。いや、これはお叱りをうけるかも分りませんが、もしかすると落合の旦那が、れっきとした奥さまがありながら、ひょいとしたお気持から、てんごうなさったのじゃねえかと思いましたね」
「………」
「謝ります、旦那。旦那にお会いして、そいつが、手前のいびつな勘ぐりということがよく分りましたよ。旦那は立派なお方だ、そんなお人柄じゃねえ」
「六兵衛」
と落合久蔵は、睨《にら》むように見て云った。
「お前と、登美という女中とは、どんな係り合いだな?」
「別段、知り合いでも、親類でもございません。いまも申した通り、ただ、小耳に挾んだというだけの話なので……」
「年寄りの冷水というわけか?」
久蔵は冷笑した。六兵衛は、それを怒らずに受けて、
「まず、そんなところでございましょうかな。しかし、旦那、その年寄りの癖で莫迦《ばか》念を押すようでございますが、その名乗った落合久蔵さまというのは、旦那のことじゃございますまいねえ?」
と、下から、じろりと見上げた。
「おれじゃねえ」
落合久蔵は、急にふてぶてしい云い方をすると、横を向いた。
「やれやれ、それを承って安心しました。旦那、早速、手前の知ったその女中衆に云って、登美さまに伝えるように申しましょう」
六兵衛は安堵したように云った。
「な、なにを伝えるというのだ?」
久蔵は、ぎょっとなったようだった。
「むろん、旦那の名前をかたって、いい加減な男が悪戯をしているということでさ」
「………」
「こりゃあ、ひと助けですからね。世間知らずの娘さんが、だまされているのを見ちゃ黙っては居られませんや。それに、その悪い男に、女房子でもあれば、猶更でさ。奥さまも気の毒ですからな。手前は、その男の正体が知れたら、奥様に注進に及ぶつもりでさ」
久蔵は、蒼い顔になった。
「六兵衛。それほどまでしなくともいいだろう」
と彼は弱い声を出した。
「いいえ。年寄りというものは念を入れたがるもんでしてね。手前はお城にお出入りを許されていることゆえ、作事方のお役人には知り合いもございます。時と場合によっちゃ、このことを申し上げ、組頭から不届なお方を穿鑿《せんさく》してもらうつもりでございます。当節でも、不義めいたことは、やはりお城の法度《はつと》でございましょうからね」
「六兵衛、六兵衛」
久蔵は、つづけて呼んだ。
「そこまでするには及ぶまい。そりゃ平地に波を立てるようなものじゃ」
と、頻りとなだめにかかった。
「分ったよ、六兵衛。もう、左様なことはあるまい。まあ、そう、ことを荒立てるな」
「左様でございますか」
六兵衛は、煙管をとり出して吸った。野郎、どうだ、参ったか、と彼は腹で久蔵をあざ笑っていた。
落合久蔵は、六兵衛と小料理屋で別れると、一足先にのれんを出た。勘定は、むろん、六兵衛に払わせるつもりである。
雨は相変らず降っている。雲が厚く、あたりは夕景のように昏《くら》い。彼は、さし当っての行き場がなく、目的もなく歩いた。
どうも面白くない。六兵衛に対して、わけもなく腹が立ってきた。野郎、何だって、あんなことを云いに来たのだ。女房に云うの、組頭に告げるのと、厭がらせばかり云っている。一体、どういう魂胆なのか。
登美も詰らないことを朋輩に話したものだ。由来、女は口さがないもので、宿下りを機会に、急に緩んだ紐のように、とめどもなく喋《しやべ》ったものと見える。六兵衛がそれを又聞きに聞き込んだのが、こちらの運の悪さであった。
お蔭で、折角、手に入りそうになった登美が、急に遠のいてしまった感じだ。老いぼれのくせに、余計なことをしやがる。久蔵は、歩きながら六兵衛にひとりで毒づいた。
(ばかめ。このままでひき下るおれではないぞ)
久蔵は思い直した。このまま諦めるのは惜しい。一旦、思い込んだことだ。何としてでも、登美の身体を手に入れずには置かぬのだ。
その、お喋りの朋輩は誰だろう、と久蔵が考えているとき、あっと思い当ったものだ。
(登美が告げたのだ!)
これだ。
朋輩というのは、六兵衛の作り話。登美が六兵衛に自分のことを話したに違いない。
この間から、どうも登美の様子が変だ。逃げよう、逃げようとかかっている。まさかと思っていたが、今となっては、明らかに自分を嫌って避けているのだ。その予感はしないでもなかったが、六兵衛が妙な工作をしたので、はっきりと納得がいった。顔に、いきなり冷たい水をぶっかけられた思いである。
久蔵は身体が熱くなった。
(よし。そっちが、その料簡なら、おれにも考えがある)
久蔵は心の中で叫んだ。
しかし、登美と六兵衛とは、どのようなつながりがあるのだろう。直接の筋合は無いはずだが。待てよ、と首をひねった。
が、その解決は十間と歩かぬうちに、ふいと思い出したことで出来た。
(お文という長局出入りの小間物屋だ。あれはたしか六兵衛の妹だと聞いたが……)
あの女だな、と思った。
登美のところにも出入りしているから、登美の話を聞いて、兄の六兵衛に取り次ぎ、今度の細工となったに違いない。
あの阿魔め、と久蔵はお文を罵った。
「今に、見ていろ」
六兵衛は、落合久蔵の勘定の分まで払って小料理屋の門口に立った。左右を見廻したが、雨が煙っているだけで、久蔵の姿は無かった。
(奴さん、だいぶ参ったな)
六兵衛は愉快である。
(これで、お縫さんへの手出しはしないだろう)
久蔵のあわて方を想い出して、彼は笑いがこみ上げた。手土産代や酒代ぐらいの散財は安いものである。雨の中を、神田から四谷まで足を運んだ甲斐もあった。
「姐さん、駕籠屋はどこにあるかえ?」
「あい、その辻を曲ったところにありますよ」
小女に教えられて、六兵衛はそこまで歩いた。
駕籠を傭《やと》って、六兵衛は神田への帰り道を急いだ。
落合久蔵のところに来たのが遅かったので、もう夕方近くになっている。雨が降っているので、余計にあたりが暗い感じであった。
ふと、駕籠の内から、外を見ると、傘をさした男がふらふらと歩いている。
(久蔵だな)
六兵衛は、よほど声をかけてやりたいところだったが、我慢した。雨の中を、裾に泥をはね上げて歩いている久蔵の姿は、なんとも気の毒な恰好である。先方は、むろん、横を通り抜ける駕籠に、六兵衛が乗っているとは気がつかない。
久蔵は怒ったような表情で、顔をくしゃくしゃにしていた。
(あの顔で……)
と六兵衛は、あわれになった。
(お縫さんに云い寄るとはふてえ野郎だ)
その顔も、もう六兵衛の視界には無い。駕籠は泥濘《ぬかるみ》の中を走っていた。
不意に、その駕籠が停ったのは、かなり走ってからで、湯島の聖堂の大屋根が森の中に見えている道であった。
「どうしたんだえ?」
六兵衛は駕籠屋に声をかけた。
「へえ。御代参の御行列のようで……」
今と違って、そのころは道が狭い。こちらは先方の通過まで待たねばならなかった。
駕籠屋の云う通り、奥女中の代参の還りと見えた。女乗物が五つばかりつづいている。合羽《かつぱ》姿の添番と、挾箱が先頭の駕籠脇についている。
先頭の乗物は、網代《あじろ》鋲打ちで、奥女中でも中年寄以上の身分の乗る格式のあるものだ。
六兵衛は、五つの乗物が雨の煙るなかを影のように通りすぎるのを見送った。この中の一つに、縫がいるとは勿論知る筈がない。秋の冷雨の中に、この影絵のような行列を見ていると、六兵衛は、怪物《けもの》に遇ったように、首すじが冷えた。
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新 し い 女
与力下村孫九郎が、向島の石翁の邸から、ぜひ今夜来て頂きたい、これはご隠居さまからのお声がかりである、という用人の使いをもらったとき、
「間違いなくお伺い申し上げる、とお伝え下さい。いや、遠路のところをわざわざ痛み入りました」
と、その使いに丁重に頭を下げたものである。
孫九郎は心の中で雀躍した。石翁が呼びつけるからには、新しい用命があるに違いない。尤も、前回は、用があるといわれて喜んで行ってみると、案に相違して、女の水死人の始末が不首尾だと、散々に叱言《こごと》を食った。以来、意気銷沈していた。折角、出世の手蔓を掴んだと思っていたのが、不意に断ち切れた感じだった。運に見放されたかと、悲観しながら諦めていたところだった。
しかし、今度の使いは蘇生の思いであった。悪い呼び出しではない。見捨てられたら、それきり音沙汰無い筈だが、来い、というからには脈があるのだ。
(やはり、おれを役に立つ男だと思っておられるらしい)
己惚《うぬぼ》れもあったし、今度こそは、という希望も湧いた。彼が、昏《く》れるのを待たずに、八丁堀から向島まで駕籠を飛ばしたのは云うまでもない。
石翁邸の通用門から入り、内玄関に立つと、女中が出てきた。
「八丁堀の下村孫九郎が参りましたと、ご用人にお取次ぎ下さい」
一般の者に向っては傲岸な、威張った男だが、ここに来ては、女中にまで、へらへらと笑って頭を下げた。
お上り下さい、と通されたのは、用人が外来の客と遇っている書院だった。お茶が出る。菓子が出る。菓子も普通の者が見たこともない珍しいもので、南蛮の製法とみえた。一口入れただけでも、舌がとろけるように甘い。孫九郎は、誰も居ない間に、一|片《きれ》を懐紙に包んで、袂の中にそっと落した。帰って、誰かに見せびらかして自慢するつもりなのである。
(今日は、もてなしが違う)
この前とは、雲泥の相違である。孫九郎の胸は明るかった。
用人が咳《しわぶき》をしながら出てきた。
孫九郎が座を辷《すべ》って平伏し、
「お使いを頂戴しましたので、早速に参上いたしました」
と卑屈なくらい丁寧な云い方をしながら、額越しに様子を窺うと、
「うむ、ご苦労じゃ。実はな、ご隠居さまが、あんたに見て貰いたいものがあると仰せられてな。それで、ご足労をかけたのだが……」
と用人は、にこにこしていた。
孫九郎は、安心すると共に、自分に見せたいものとは何だろうと思った。
用人が屈託なく話している間に時間が経った。外はすっかり昏れた。
(おれに見せたいものがある。何だろう?)
気にかかることである。下村孫九郎は、用人に世辞をならべながら、しきりに見当をつけようとしたが分らなかった。
襖が開き、断りを云って、若い女中が用人の傍にすすみ、耳の傍で何か云っていた。
用人は首を声の方に傾けていたが、
「見えたか。そうか、分った」
とうなずいた。女中は退った。
「お忙しいところをお邪魔して居りますので、どうか、手前にお構いなく……」
孫九郎が気を利かしたつもりでいると、
「いや。いいのだ」
と用人は、まだ孫九郎の相手になる意志を示した。
「もっと、ゆっくりやってくれ」
茶と菓子は酒に変っている。気持の悪いくらいな待遇であった。
「いや、来客があっての。ご隠居さまが会っておられる」
「ははあ、左様でございますか」
自分に関わりのない話だと思っていると、
「実はな、貴公を呼んだのは、その座敷を覗《のぞ》き見してもらいたいのだ」
「覗き見?」
孫九郎はびっくりした。
「いやいや、客の方ではない、その席にひとりの女がいる」
「はあ?」
「当家の女中だがな」
「………」
意味がよく呑み込めなかった。
「出入りの植木屋が世話して傭い入れた女だが、その身元に腑に落ちぬところがある。それを調べて欲しい」
「あ、なるほど、左様で」
やっと訳がわかった。
「ついては、顔を先ず検分してくれ、先方に気づかれぬようにしたいのだ」
「分りました」
そうだ、もうよかろう、と用人が云ったのは、孫九郎が、そういう御用ならお易いことです、と得意そうに答えてから間もなくであった。
用人の案内で、暗い中庭に下りた。ここも広庭と同じことで木が茂っている。用人は途中で、手で方向を指した。そっちへ行けというのである。孫九郎は草履の音を忍ばせた。慣れている。
灯で明るい離れ座敷が向うにあった。障子をわざと開けてあるので、部屋は一目で見えた。
大きな坊主頭は当家の主人だが、席を隔てて向い合っているのは四十ばかりの立派な武家だった。誰だか分らないが、孫九郎に用は無い。彼は、傍で三味線をひいている女だけを熱心に眺めた。
下村孫九郎は一心に女を見つめたが、その顔にどうも見覚えがない。面長のきれいな顔の女である。
石翁が客を歓待していることは、両人の間に置かれた酒肴の馳走でも分ったし、遊芸の心得があるらしい女中に三味線をひかせていることでも分るのである。
三味線は達者だ、とその方面にも多少の下地のある孫九郎は、聞いていて合点するのだ。
「朝顔の 露の命のはかなさは
ほんにいるやらいないやら
一目見る目も 目に見えず
なんとこの身は どうぞいな」
声も佳い。こりゃア、年季が入っている、と孫九郎は感心した。
客が手を拍って笑いながら、讃めている。石翁は脇息に身体を傾けて、ゆったりと笑《え》んでいる。その様子も、ここからは、まる見えであった。
(あの女をおれに見てくれというが、どうも憶えがない)
孫九郎は、苛々《いらいら》してきた。見覚えがないと云い切るのは簡単だが、それでは、折角の機会を失ってしまうおそれがある。役に立たない、と見放されるのが、いちばん辛いのである。
孫九郎は、眼に全神経を集めて、なおも凝視していた。
石翁が、次に何かを所望しているようだった。女の三味線の調子が変った。客は膝を動かして坐り直し、傾聴する態度をとった。
女は、三味線の調子が整うと、唄い出した。
「あわれ古《いにし》えを 思い出づれば懐しや
行く歳月《としつき》に関あれば 花に嵐の関守も
宵々ごとの白雪は……」
富本節だな、と孫九郎はひとりでうなずいた。これはまた、前の歌沢よりは節廻しや声が冴えている。素人ではない。玄人《くろうと》にしても、これほどの力量はざらにあるまい。
(富本の師匠にしても怯《ひ》け目はない……)
孫九郎は、聴いていて、こう考えた。
あっと思ったのは、その感想が、一つの記憶にぶつかったからである。
(富本の師匠といえば……)
下谷の奥に探ねて行ったことがある。やはり、石翁に関係したことで、医者を掠奪した若い男を捜し出すために、吾平をだまして所を聞き込んだのだ。島田新之助という名前まで分った。恨みの積っている男で、船宿の二階から大川に自分を投げ込んでくれた男だ。下谷で聞いたのは、新之助が富本の師匠の豊春という女と一緒に暮していることだった。
(あ、そうだ。あのときの……)
船宿の二階に自分が乗り込んで行ったとき、新之助と差し向いに坐っていた女である。
(間違いない)
孫九郎は、爪弾きで唄っている女中の顔を検《あらた》めるように見つめた。
やんや、やんや、と声を出して賞めそやしたのは、客の奥村大膳であった。もとから賑かなことが好きでもあり、女も嫌いではなかった。おこんが一曲を唄い終って、おじぎをすると、自分から盃を把《と》ったものである。
「おこん、と申したな」
と、抜けるように白い項《うなじ》から、腰の曲線にそれとなく眼を流し、
「見事なものじゃ、受けてくれ」
と手の盃をさし出した。
「恐れ入ります」
おこんは両手をつかえたまま、細い声を出した。
大膳は、気づいたように、石翁に、
「ご隠居さまのお言葉に違《たが》わず、見事なものです。これに盃を取らせても、よろしゅうございましょうな?」
と訊いた。
石翁がゆったりと笑って、
「気に入って何よりじゃ。おこん、折角のお言葉ゆえ、お流れを頂戴いたせ」
とやさしい声を出した。
「はい」
おこんは、今度は怯《わるび》れずに受けた。膝をにじり寄せてきたから、大膳の鼻を女の匂いが搏《う》った。飲みぶりもいい。かたちのいい唇に、つつましやかだが、きれいに干した。
おこんが懐紙を出して、盃の雫《しずく》を落そうとすると、
「いや、そのまま、いま一杯」
と奥村大膳は押し止めて銚子を傾けてやる。
「あれ」
「いやいや、遠慮は要《い》らぬ。この方も見事じゃ」
おこんは、もじもじしながらも受けた。奥村大膳は、ひどく興がっている。
石翁は、うす眼を開けて笑っていたが、
「大膳、酔うたな」
と云った。
「は。いや、それほどには……」
大膳は、おじぎをした。
「いや、酔うているぞ。やはり、気に入った女の傍だと酔いが早い」
「これは、したり。ご隠居さま、ご冗談を……」
「いや、そなたの性質《たち》は、わしがよう知っている。そなたほど女に惚れやすい男は居ないぞ」
「ご隠居様、仰せられましたな」
「匿《かく》すな。古い交際《つきあい》じゃ。それを知らぬでどうする。そこに居るおこんは下町好み。前にそなたの女だった菊川は御殿風。雅《みや》びやかもよし、粋《いき》もよしか……」
大膳からもらった盃を唇に当てていたおこんが、きらりと眼を光らせた。
「菊川」の名を口から出したとき、おこんの眼がきらりと光ったのを、石翁は己の眼の端に入れておいた。
「のう、大膳」
と、石翁は、奥村大膳を揶揄《やゆ》するように云った。
「そなたは、まだ、菊川のことを忘れずにいるか?」
「ご隠居さまとしたことが、今宵は、また何を仰せられますやら」
大膳は、てれ臭そうに手で石翁の言葉を抑えるようにした。
「それは、もう過ぎたことでございます」
「いやいや、一度は命と惚れ込んだ女のことじゃ、過ぎても、思いが残るのは当り前であろうな」
「はて、もう、そのことは……」
「年寄りの前じゃ。遠慮することはない。あれは佳い女だった。わしが、もう少し若かったら、そなたと張り合ったかも知れぬ」
「お戯れを……」
「ははは、叶うまい。そなたの男前には負けるでな。されば、菊川がそなたに魂を投げ出した筈じゃ」
「今宵はまた……」
と大膳は、満更でもない顔で云った。
「ご冗談が長うございます」
「菊川も可哀想な」
と石翁は、興がったように、構わずにつづけた。
「惚れた男を残しては、死んでも死に切れなかったろうに。大膳、時には供養をしてやっているか?」
大膳は酔った中にも、ちらりと厭な眼をした。石翁は、大膳も見ているが、おこんの顔も眼の端から外さないでいる。おこんは、さり気ない様子をしながら、一心に話に聴き入っている。
「ご隠居様。もうお許し下さりませ」
大膳は、それでも謝るように頭を下げた。
「はは、だいぶ弱っているから、このくらいで堪忍してやろう」
「どうぞ、お願いします」
「とかく色事は、はじめ好しの、終り悪しじゃ。菊川も、そなたを知らずにいたら、今ごろは大奥の中年寄として、無事に勤めていられたろうにな」
石翁の云う意味ありげな話に、おこんは耳を澄ませていた。飲んだあとの盃を手に持ったままである。
「おこん、どうした?」
石翁に云われて、はっとした。
「盃を大膳に返してやらぬか」
じろりと見たものである。おこんは、あわてて、盃の雫を懐紙の上に切った。
「わしは、ちと用がある。おこん、大膳の相手をしておれ」
石翁は、ぷいと座を立った。
石翁は、廊下を渡って別室に戻ると、用人が待っていた。
「八丁堀より参っております」
「見せたか?」
石翁は訊いた。
「ただ今、庭より立ちかえりました」
「呼べ」
と云ったのは、下村孫九郎に直接《じか》に訊くつもりなのである。
間もなく、下村孫九郎が恐る恐る入ってきた。はじめから頭を上げないのである。ひたすら石翁の威光に撃たれたような様子を示した。
「下村か」
「はっ」
孫九郎は、畳に額をすりつけた。ここで何とか、挨拶を述べなければ、と思うが声が出ない。
「見たか?」
石翁の太い声が落ちた。
「は」
孫九郎が縮んで答えた。
「お申しつけの通り、孫九郎、お女中を拝見いたしました」
「何者か?」
石翁が、同じ声で短く訊いた。
「は」
と云ったが、石翁に気圧《けお》されて、どのように口を切ったらいいか、ちょっと迷った。
「早く云え」
石翁は催促した。孫九郎は、うろたえて、
「は。あれなるお女中、たしかに手前、見覚えがござります」
石翁は黙っている。
「前に一度、ご当家の駕籠先を乱した不埒者の詮議で御用を勤めましたが……」
「………」
「そのときに怪しいと見当をつけた若い男がござります。その男が、情婦と酒を飲んでいる現場に、手前、踏み込みましたが……」
川に投げ込まれたことは云わない。
「その情婦とみえる女が、まさしく、手前、拝見したお女中でござります」
石翁は、まだ沈黙を守っていたが、ふん、と微かに鼻を鳴らせただけである。その顔つきは、低頭している孫九郎には分らない。
「見あやまりではあるまいな」
と、石翁の声は下りた。
「はあ、確《し》かと、いや、これは確かでございます。手前、一心不乱に見つめておりましたので、たしかなものでございます」
石翁は、また黙っていたが、
「その若い男の名は何と云う?」
と訊く。
「島田新之助と申す旗本の伜でございます。これは、船宿の女主《あるじ》を絞って、泥を吐かせたのでございますが、それにつきまして、殿様、申し上げたい儀がござります」
孫九郎は一生懸命であった。
それについて申し上げたい、と下村孫九郎は石翁に云い出した。ここで手柄になりそうなことを云わねば、と初めて身を乗り出した恰好だ。
「云うがよい」
石翁は、無愛想に促した。
「その島田新之助と申します男の縁戚が、麻布鼠坂の上にございまして、島田又左衛門なる七百石取りのお旗本にございます」
「なに、島田又左衛門?」
石翁の動かなかった眼が、はじめて動揺した。
「はい。島田又左衛門殿はただ今、無役《ぶやく》でございますが前には、御廊下番頭まで勤めた人物でございます」
石翁は瞳《め》を沈めて聴いている。下村孫九郎の説明など聴いていない。そんなことは下村づれから聴かなくとも、石翁の方がもっと詳しく知っているのだ。
いいや、島田又左衛門をその境遇に堕《おと》したのは、実は石翁自身なのだ。又左衛門は頑固で、ひとりで正義ぶっている男だ。そのころ、まだ播磨守といった石翁や、林肥後守の勢力に、何かと楯つくようなところがあった。無論、問題にもならぬ抵抗である。一吏僚の反抗など、歯牙にもかけることはないが、気に入らぬ男であることは確かだ。そんなものを要職につけて置く訳にはいかない。忽ち、林肥後守に云いつけて御役御免にしてしまった。
島田又左衛門に連なってもう一つ、嫌な記憶がある。又左衛門の義兄|粕谷《かすや》市太夫は、又左衛門に輪をかけたような愚直な男で、これは石翁が自身で家斉を唆《そその》かして役目を罷免《ひめん》させた。当人は、それを悲憤し、廃人同様になって死んでしまったが。──莫迦《ばか》な奴である。
(そうか、島田の一族か)
何か、万事、合点が行きそうである。
合点の行かなかった脇坂淡路守の行動も、島田又左衛門と結びつけると、忽ち霧が霽《は》れたように糸筋が見えてくる。
「下村」
と初めて石翁は、柔和な含み声で云った。
「はあ」
孫九郎は、お辞儀をした。
「あの女は、おこんという名で来ている。当家出入りの植甚と申す植木屋からの世話じゃ」
「は」
「葛飾《かつしか》の百姓の娘と申しておったが、むろん、嘘であろう。身元を調べて参れ」
「委細」
と孫九郎は、平伏して云った。
「委細、承知仕ってござります」
孫九郎は、安心と感激で、泪に咽《むせ》ぶばかりであった。
石翁が、客を待たせている部屋に戻ると、大膳は、上機嫌で、何やら、おこんに戯れかかっている。
奥村大膳は、おこんの手を握り、何か話しているところだったが、石翁が部屋に入ってきたので、さすがに、手をそっと放した。大膳の顔は赭《あか》くなり、眼の中も酔っていた。
「大膳、酔ったな」
石翁は笑いながら席についた。おこんを見ると、女は羞《はず》かしそうにうつむいている。
「おこん」
石翁はやさしく呼んだ。
「大膳が何ぞわるさをせなんだか?」
おこんは、うつむいたままで笑っていた。そこに一種の嬌態《しな》があって、邸の奉公人には見られない身体の雰囲気をもっていた。
「大膳はの、女癖の悪い男じゃ。気をつけるがよい」
「これは」
と、大膳はあわてた。
「ご隠居様、お口が悪い。手前、迷惑仕ります」
「念のためじゃ」
石翁は笑った。
「ま、そなたが喜んでくれて、わしもうれしい。今宵呼んだ甲斐がある。ところで、大膳」
「はあ。これは、またお嬲《なぶ》りでございますか?」
「そう恐れるな。すべて、客に呼ばれ、客を招く席では眼福《がんぷく》ということがある」
「眼福……眼の保養でございますな?」
「そうじゃ。名蹟、名画、名器の類いを見る。これは、何度、見ても飽かぬものじゃな」
「左様でございます。ご当家には珍重の逸品が集まっておりますが、いつぞや拝見仕った牧谿《もつけい》の一軸は何度拝見しても結構にござります」
「絵も佳い。しかし、いまわれらには、もっと眼の歓ぶものがあるわ」
「はて、何でございましょう?」
「分らぬか。大御所様より頂いた名筆じゃ。それ、そなたにも、いつぞや見せたな」
「ああ、あれを?……」
大膳は膝を叩いた。
「なるほど、これは、ご趣向でございまするな。あの時は、手前、恐る恐る拝見いたしましたが、実は、かねてより篤《とく》と今一度、拝見仕りたいと思っておりました。これは願うてもない眼福でございまする」
「見たいか?」
「是非……」
「おこん」
と石翁は、坐っている女に云った。
「少々、厄介なところに置いてある。取り出す故、そなた手伝ってくれ」
「はい」
おこんは起ち上った。
「実は、この男の傍に、そちを置いておくと危いでの」
「ご隠居様」
大膳が顔を上げた。
「心配するな。すぐに戻って参る」
石翁は先に立って廊下を歩いた。おこんは雪洞《ぼんぼり》を持ってすぐうしろに随った。石翁の足もとが暗くならぬよう気をつけて行く。
広い屋敷で、廊下をいくつも曲った。召使いの住む棟は別だから、ここは、むろんどの部屋も昏《くら》いはずであった。廊下には、かすかに風が流れている。
「ここじゃ」
隠居は立ちどまって、杉戸を顎でさした。おこんは、
「はい」
と返事をして、跼《かが》み、廊下に雪洞を置いて、両手で杉戸を開けた。
石翁は、廊下の灯を自分で把《と》って、おこんを誘い入れた。
「仏間じゃ」
彼は部屋の説明をした。
八畳くらいの広さである。半分が上段になり、その奥に寺にあるような大きな厨子《ずし》があった。灯が黒漆の扉を照らした。
「これを」
と云ったのは、おこんに手燭を持てという意味である。石翁は扉に手をかけ両方に開いた。
金色が醒めるように眼を奪った。小さな照明の工合で一部分しか見えぬが、重ね合せた金箔は燦然《さんぜん》という形容がそのまま当てはまるように光っていた。
「将軍家ご先祖の御霊《みたま》と、わが家の先祖を祀《まつ》っている」
隠居は云った。おこんの持った手燭が彼のうしろにあるので、大きな坊主頭の影が、金色《こんじき》の中で揺れた。
おこんはそこへ坐った。思わぬ部屋に来て度を失ったというのが本当である。手燭を置いて掌を合せたのは、仏への礼儀であった。
石翁は、礼拝するでもなく、そこに立って、いきなり厨子の奥にある阿弥陀如来《あみだによらい》の立像を両手で掴み、さし上げた。これも巨《おお》きくて金色の見事なものであるが、その台座の載っていた位置には桐油《とうゆ》紙に包んだ薄い細長いものが残っていた。
「おこん、これをとれ」
石翁が、重い仏像を抱えたまま命じた。
「はい」
おこんは起って、桐油紙の包みをとった。軽いので、内容は紙だけと分った。石翁は仏像を置いた。
「大切なもの故」
と石翁は、妙に嗄《しやが》れた声を出した。
「ここに、こうして蔵《しま》ってある。安心じゃ。どれ、こっちにくれ」
「はい」
おこんが包みを渡そうとしたとき、妙に荒い呼吸《いき》を感じて、はっとした。石翁の眼が光って、おこんの顔に逼《せま》っていた。灯がその半顔だけに当っているので、陰影が墨で描いたようにつき、凄い形相であった。
石翁の眼が光り、荒い呼吸使いが逼った。おこんが、はっと声を呑んだのは、大坊主の図体が今にも山の崩れるように殺到する気配に見えたからだ。
おこんは身体を縮めた。石翁は、まだ動かない。が、こちらが少しでも遁《に》げようとすると、その隙を風が舞い込むように、石翁の脚が伸びて来そうであった。
(あ、あ)
おこんは口の中で声を出している。言葉が出ないのである。
手燭の灯は畳に置かれたままである。厨子の金色が神秘をこめて奇怪に昏《くら》く光っている。声も音も外からは聴えない。
石翁が動いた。
あっと、おこんが眼を塞いだとき、石翁が立ち上っていたのである。
「は、ははは」
はじけるような笑いが、この年寄りの口から出た。今まで、張り詰めたような空気が、その大きな笑い声で揺れた。
「おこん」
おだやかに隠居は云ったものである。
「灯を持て」
…………
もとの座敷では、奥村大膳がひとりで酒を飲んでいたが、石翁が入ってくる姿を見ると、
「これはお早いお戻りで」
と迎えた。にこにこしながら、そのうしろに随っているおこんの顔に素早い一瞥を走らせた。
「待たせた」
石翁は大膳に云って、
「大事なもの故、ちと厄介なところに蔵っているでの」
と無造作に桐油紙に包んだものを出した。
大膳が、受け取って押し頂き、
「これは、ちと、お粗末なお扱いでございますな」
と包みの紐を解きかけた。
「ばかめ。桐箱に入れ、いかにも大切そうに扱えば、誰に狙われるかもしれぬ。油断も隙もない世の中でな。かように油紙などにくるんでおけば、さしたるものではないと見遁すものだ」
石翁が説明した。
「いや、これは恐れ入りました。ご隠居さまのお知恵、いつも凡人の意表に出ております。どれ、それでは、ゆっくり、眼を愉しませて頂きましょうかな」
奥村大膳が包みを解いて中の書附をとり出した。紙は折り目がきっちりとついている。
家斉自筆の遺言書きが披《ひろ》げられた。大膳は声を上げた。
「これ、これ。何にもまさる名蹟《めいせき》でございます。ご隠居様、これを見ておりますと、われらの天下が幻のように眼の前に泛《うか》んで参ります」
おこんが思わず緊張するのを、石翁はじろりと見た。
「大膳、堪能《たんのう》したか?」
と石翁が云ったのは、奥村大膳がためつすがめつ、眼でなめるように、大御所のお墨附を見た揚句であった。
「は。充分に」
大膳は、恭《うやうや》しく頭を下げて云った。
「充分に、堪能いたしましてござります。俗に眼福を愉しむは三年の延命と申します。ましてや、得難き大御所様のお墨附……」
「これ」
「は、いや、こ、これは失敗《しくじ》りました」
大膳はうろたえて頭に手をやったが、おこんは、つつましげにうつ向いていた。石翁はそれに一瞥をくれた。眼尻に皮肉な皺が寄っている。
「いや、なに、その、これほどの名蹟を再度拝見いたしまして……」
大膳は云い直した。
「三年どころか、手前、二十年も永生きするような心地がいたします」
「随分と、永生きするがよい」
石翁は、微笑《ほほえ》みをふくみながら、書附をとって、くるくるとたたみ、油紙を巻いて、膝の上でゆっくりと紐をかけた。
「おこん」
と呼んで、
「そなた、これをもとの通りに蔵ってこい。場所は見せたはずじゃ」
と包みをさし出した。
「えっ」
おどろいたのは、当のおこんだけではなく、傍の大膳までが眼を瞠《みは》った。
「わたくしには、それは、あまりに……」
品物が重大すぎるのである。手をつかえて辞退するのを、
「はて、わしが申している。落して壊れる焼ものならば格別、ただの紙じゃ。大事ない、蔵ってくれ」
「は……」
「なにを躊躇《ちゆうちよ》しておる。早く蔵って、ここへ戻って来い」
「はい」
おこんは、仕方なしにそれを頂くようにうけ取った。指先がすこし震えていた。
おこんが立って行くのを見送った大膳が、
「ご隠居さま。これは愕きました」
と石翁を見上げた。
「お墨附を女中に持たせたことか?」
「ちと、ご磊落《らいらく》すぎるように存じますが」
「あの女中なら心配は要らぬ」
と石翁が、笑いを含んで云った。
「大膳。そなた、あの女が気に入ったか?」
「これは……」
「いや、戯《ざ》れ言《ごと》ではない。そなた、菊川を失って寂しいであろう。何なら取り持ってやってもよいぞ。菊川に懲《こ》りたと申しても、なにも膾《なます》を吹くことはない……」
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渦  紋
寺島のあたりには、植木屋が多く、道路からも、鬱蒼《うつそう》と茂った庭木が見えるのである。
与力の下村孫九郎が「植甚」を尋ねると、すぐに分った。枝折戸《しおりど》があって、庭石伝いに奥に母屋《おもや》が引込んでいる。風雅な商売なのである。
客かと思って、横合の松の木の間から出てきた男に、
「主人は居るか?」
と訊くと、庭男は孫九郎の風采を呑み込んで、すぐに奥へ消えた。
どうぞ、と案内されたのは、見晴しのいい庭で、主人の甚兵衛が挨拶に出て、どうかお上りなすって、とすすめたが、
「いや、ここでいい。眼の愉しみでな」
と、磊落らしく、縁側に腰かけたものだった。
「へえ、たしかに中野さまのお屋敷に、そのお女中をお世話したのは手前でございますが」
と植木屋の甚兵衛は、孫九郎の質問を聞いて答えた。
「そりゃ事実は、仲間《なかま》から頼まれましたんでね。手前の方は、それを信用して、当人をお屋敷の奉公人としてお願いしたのですがね。旦那、何か不都合なことが起ったのでございますか?」
「不都合というほどのことでもないが」
と孫九郎は言葉を濁した。
「ちっとばかり知っておきたいことがあるのだ。で、誰だね、その世話を頼んだというのは?」
「神田にいる六兵衛という鳶職でございますよ。腕のいい男で、お城のお屋根ご普請にも御用を承っている者です。気のいい奴でしてね。そいつが云うことだから、間違いは無えと思ったんですが……」
「神田の六兵衛だな」
孫九郎は、念を押して、その家の場所を詳しく聞き取った。
面白くなりそうだ、と下村孫九郎は植木屋を出て、神田に向う途中でも考えたことである。
おこんという石翁の邸の女中は、たしか島田新之助という若い侍の女だ。顔に見覚えがたしかにある。その女が石翁の屋敷に奉公しているからには、何か企みがありそうである。世話人の植甚は、神田の六兵衛から頼まれたという。その六兵衛を訊ねたら、およそ芝居の筋道が分るに違いない。
石翁に対する面目を回復するには、絶好の機会であった。よし、これは一つ、性根を据えて、じっくりと手繰ってやろうというのが孫九郎の考えであった。これで成功すれば、出世の蔓《つる》をつかんだようなものである。孫九郎が、ひとりで含み笑いが出て、脚が軽かったのも無理はなかった。
神田の地理には、八丁堀に近いだけ、もとより詳しい。彼は六兵衛の家を苦労せずに、探し当てた。
「今日は、あいにくと、宿が仕事に出ておりまして」
と、六兵衛の女房が、下村孫九郎の質問に答えた。
「わたしには、よくわかりませんが」
「はてな」
と孫九郎は、狡猾な笑いを見せた。罪人を調べるときに相手の言い分を疑ってみる。そういうときの顔つきであった。
「女房のお前さんが知らぬ筈はないがな。女中の口入れを植甚に頼んだのだ。その話、亭主から聞かぬわけはあるまい」
「いいえ」
と女房は、笑って首を振った。
「うちは、よそのご亭主とは違うんですよ。何もかも、ひとりで呑み込んで、勝手にやってしまうんですからね。ちっとでも、話をしてくれるといいんですが、まるきり関白でござんしてね。連れ添った昔からでございますよ」
「すると、その話は、まるで聞いていないというのか?」
孫九郎は、嘘か本当か、見極めるように女房の顔を見た。女房は真顔なのである。
「初耳なんです。どういうことなんでしょうねえ?」
「お前さんの亭主が、さる屋敷の奉公に、植甚の口利きで入れた女中は、触れ込みでは、葛飾の百姓の娘というのだがな、わしの勘《かん》では、富本節の師匠らしい」
孫九郎は、六兵衛の女房の反応を探るように、じろりと見たが、これにも彼女は平気であった。
「おやおや」
と、眼を瞠《みは》ったものである。
「そんな粋筋の女を世話したんですか。わたしに内証なんですね。宿と、なにか、係り合いのひとでしょうか?」
「うむ、もしかすると、お前さんの亭主の隠し女かもしれねえぜ」
孫九郎は、この女房、一筋縄ではゆかないと思ったので、今日は諦めることにした。
「今晩でも、宿が仕事から帰ったら、訊いておきます」
女房は答えた。
「もし、それが新|情婦《いろ》だったら、あたしも放ってはおけませんからね」
下村孫九郎は、一応、外へ出た。
こんなことでごまかされるものか、と彼は思った。石翁への忠義立てがある。自分を認めて貰う機会なのだ。捜索にかけては、仕事が念入りなので、評判をとっている男だった。
下村孫九郎は、道を歩いていると、向うから急ぎ足に来る女がいた。眉を落した中年女だが、孫九郎が、それとなく注意して、見送っていると、その女は六兵衛の家に入っていった。
これが六兵衛の妹のお文であるとは、下村孫九郎は知らないのである。
「来たか」
と、眼を光らしたのは、夕方、仕事から帰って、女房から八丁堀の与力が来たことを聞いた六兵衛である。
「植甚の方から廻って来たと云ったのか」
と話の念を押して、
「嗅《か》ぎつけたのかな」
と瞳を据えて呟いた。
「お前さん」
女房が心配して、
「若様に、早く知らせなくちゃア……」
「何処へ行きなすったのだえ?」
「麻布の殿さまのところだよ」
「そうか。じゃ、やがてお戻りなさるだろう」
「お役人は、明日出直して来るといってたよ」
「ここで、じたばたしたところで始まらねえ。話の相談は、若様が帰ってからのことだ。とにかく飯にしろ」
六兵衛は、しかし、女房の酌で、盃を持っているときでも、浮かぬ顔をしていた。
職人が、新之助が戻ってきたことを告げた。六兵衛は坐り直した。
「おや、お帰んなさい」
六兵衛が入って来た新之助へ挨拶して、
「麻布の方も、お変りはございませんかえ?」
「相変らずだ。元気なものだ」
新之助は六兵衛のつくった場所に坐った。
「今日は、お縫さんのことで、妙な話を聞いて来てな」
「妙な話? へえ、こっちにも妙な話が舞込みましたが。いえ、お縫さまのことじゃありません。豊春さんのことですがね」
新之助は眼を挙げた。
「気にかかる。先ず、そっちの方から聞こうじゃないか」
と微笑した。
「実はね、あっしの留守に、八丁堀から与力が来ましてね。嬶《かかあ》に、豊春さんのことを訊いたというんですよ。植甚の方から廻って来たと云ったそうだから、身元調べをはじめるつもりに違えねえ。若様、もしかすると、こいつあ、向島の方で勘づいたんじゃございませんかねえ」
新之助は、六兵衛の女房へ訊いた。
「与力は名前を云わなかったかね?」
「何にも」
と女房は首を振った。
「人相はどうだったね?」
「痩《や》せて、眼のぎょろりとした人でした」
「頬骨が高くはなかったかな?」
「そうでした。唇が厚くてね、ねちねちしたものの云い方をする人でした」
「それだ」
と新之助は、膝を打つようにしてうなずいた。
「そいつは、下村孫九郎という男だ」
「ご存じで?」
「よく知っている。そうか、あの男が来たのか」
新之助は思案する眼つきになった。
「どこから、身元が割れたのでしょうか?」
と、豊春のことを云ったのは六兵衛であった。
「それは石翁に違いない。さすが隠居だ、読み筋が早い」
新之助は眼を挙げて云った。
「少し嚇《おどか》してやったのだ。その小細工から気がついたのかもしれぬ」
「小細工?」
「菊川の浴衣だ。なに同じ麻の葉模様の別の品ものだが」
新之助はうすい苦笑を泛うかべた。
「そいつを庭の石に掛けて置くよう彼女《あれ》に云ったのだがね。石翁が見たら、胸にぎくりとくるだろうというのが狙いだ。つまり、それから騒ぎになる。その慌てかたを見たかったのだ。が、どうやら、これは、おれのいたずらがしくじったようだな」
「おこんさんが、危い目に遇うんじゃございませんかね?」
六兵衛は、豊春のことを云って、瞳《め》を沈めた。
「そういう危険はありそうだ。だがな、六兵衛。それで、かえって敵が|ぼろ《ヽヽ》を出してくるかもしれぬぞ」
「女には、危ねえ話ですね」
「女でも」
と新之助は笑った。
「おこんは、ただの生娘《きむすめ》ではないでな、あれは海千山千だ。それよりも、しっかりしているようで、危いのは武家の娘だ。この方が、よっぽど心配になる」
「お縫さんのことですか?」
と六兵衛も気づいたようだった。
「そうだ、今日、麻布の叔父のところへ話を聞きに行ったんだがね。それ、踏台の絵ときのことだ」
「おっと、そのこと。何だか分りましたかえ?」
「分った。この春、吹上の花見のとき、多喜という大御所お気に入りの中臈が踏台から足をすべらして転倒し、それが因《もと》で死んだのだ。お縫さんの機転で、実は、その踏台に蝋を塗っていたというのだ」
「蝋を」
六兵衛は、眼をまるくした。
「それも、お美代の方に気に入られたいための工夫だったんだがね。それで、どうやらお美代一派には近づくことができたのだが、面妖なことに、その細工した踏台が誰かに隠し場所から盗まれていたのだ。お縫さんは、当座、叔父に会って、大そう、そのことを気にしていたそうだが、今になって分ったよ」
「………」
「あれは添番落合久蔵が、隠し場所から見つけて、さらに別なところに隠したのだ。落合は、それを種に、お縫さんを脅かしているのだね。落合という奴、自分の思う通りにならぬと、次にどんなことを目論むか分らぬ。この方が、余程心配だ。六兵衛、わしも忙しくなる」
「怪しからぬ」
と声を荒らげて云ったのは、与力の下村孫九郎である。前にいる六兵衛の女房を睨みつけていた。
今日、改めて訪ねてきたが、六兵衛はやはり仕事に出ていて留守だといい、亭主に話したが、何の返事もなかったので、自分ではよく事情が分らない、という女房の口上を聞いて孫九郎は憤ったのである。
舐《な》められた、と思ったのだ。八丁堀の与力で、しかも仕事には切れると自負している彼が、屋根職などに軽く|いな《ヽヽ》されたと思うと、屈辱で怒りが湧いた。
「おい、おらあ子供の使いじゃねえぜ」
と孫九郎は捲き舌になった。
「これでも、お上の御用を勤めている北町奉行所附の与力だ。本来なら、六兵衛を呼び出して取調べるところを、お慈悲をかけて、おれの方から出向いてやったのだ。それに、掛取《かけと》りみてえに、亭主が何にも云わねえから分りませんで、済むかどうか、とっくに承知の上だろう。ようし、お上をそれほど恐れねえとは不届な野郎だ。亭主の六兵衛はもとよりのことだが、女房のおめえも縄かけて、しょっ引いてやるから、覚悟しろ」
「あれ、どうぞご勘弁下さいまし。今夜、亭主が帰ったら、きっと聞いておきますから、明日、また、お越し下さいまし」
六兵衛の女房は畳に顔をすりつけた。
「やかましい。明日《あした》来いの明後日《あさつて》来いのと、上《かみ》を愚弄するか。亭主が帰《けえ》ってくるまで、おめえを番屋に留めておくからそう思え」
孫九郎が、六兵衛の家の入口で真赫になって怒鳴っていると、孫九郎のうしろから肩をたたくものがあった。
「誰だ?」
孫九郎がふりむくと、若い侍が、にこにこして立っていた。
「下村氏。しばらくです」
あっと思った。下村孫九郎は眼をむき、顔色を変えた。自分を大川へたたき込んだ男が眼の前に立っているのである。
思わず、一足、退ったものだった。
「相変らず、お元気なようですなア」
新之助は笑いながら云った。
「いま、ちらと、あんたの声を聞いたんですが、いや、大きな声なので自然と耳に入ったのかな、どっちにしても、植甚から中野様のお屋敷へ出た女中のご詮議らしい。あれはね、わたしが一番よく知ってるんでね」
「………」
「というのは、彼女《あれ》は、わたしの情婦《いろ》でね。植甚さんには、わたしから頼んだんです。そうそう、あんたもいつか船宿の二階で、わたしといっしょのところを見た筈だ。……下村氏、ちょっと、そこまで出よう」
「ど、何処へ参るのだ?」
孫九郎は、おびえていた。
「下村氏、折角、ここまで見えたのだ。お送りするのが礼儀だ」
新之助は笑顔で云った。
「それには及ばぬ。構わないで貰おう」
下村孫九郎は、弱味を見せまいとした。
「いや、そうはいかぬ。わたしの情婦《いろ》のことで、わざわざおたずねに与かったのだ。だんだんと申し上げたい。これは、わたしに責任がありますでな」
孫九郎は黙った。半信半疑の気持でいるから、しゃべったら聞いておいてやろうという下心も動いた。
「丁度、秋日和だ。外歩きには気分が快《よ》くなりましたな」
六兵衛の家を出てから、孫九郎とならんで歩いている新之助が云ったものだ。他意の無さそうな、のんびりとした歩き方だが、孫九郎は警戒していた。もとより伴れになるには好ましい相手ではない。
「お役目とは云いながら、いろいろご苦労さまです」
|むっ《ヽヽ》としたが、新之助の顔は明るいのである。往来を歩いている人にも、彼は呑気そうな眼を投げている。
「それで、ご不審の筋は、どういうことなんでしょうかな?」
新之助は歩きながら訊いた。両人の間隔は離れていない。新之助の方が、孫九郎の身体に密着するように、より添っているかたちであった。孫九郎が離れようとしても、新之助がすぐに身体を寄せてくるのである。
孫九郎が圧迫感をうけるのは、この位置のせいでもあった。前に手痛い目に遇っている彼には、新之助が大きくみえて仕方がない。
「いや、ただ、念のためです」
孫九郎は曖昧に答えた。
「念のため?」
と新之助は切り返した。
「ははあ、北町奉行所では、屋敷奉公の女中の身元を、いちいち、念を入れて洗われるのか?」
孫九郎が返辞に詰まっていると、
「そうとしか考えられぬが、下村氏、それとも、これは中野さまから出たお指図かな?」
と追及した。
そうだ、とも、そうでない、とも孫九郎は云えなかった。そうではない、と云えば、では、何のために与力が身元を調べに来るか、と追い打ちをかけられるに決まっている。中野石翁は退官していて、現在、要職でも何でも無いのだ。
孫九郎は面倒と思ったし、あの女中と新之助の間を確かめたことだけに満足して、
「拙者は、ほかに用があるので、ここで失礼します」
と別れようとすると、新之助が袂を押えた。
「待って下さい」
新之助に袂を抑えられて下村孫九郎が、はっとしたのは、次に、右手首が新之助の左手で、しっかりと掴まえられていることである。強い力であった。
何をする、といって振りほどくのは出来ないことではないが、大変みっともないことになりそうな気がする。つまり、争いとなると、こちらが負けそうなのである。下手をすると、地面に匍《は》わされないとも限らない。実力の判っている相手であった。往来には、人通りがあまりに多すぎた。
「もう少々、ご一緒したい」
新之助は、顔で笑いながら、手の力はゆるめていなかった。よそ目には、仲のいい友だちどうしが、肩を寄せて歩いているように見える。
下村孫九郎は、顔色を失って歩いている。罪人の護送には慣れた男だが、今は逆な立場に立たされていた。
「たかが、ひとりの女中の身元を」
と新之助は世間話のような口吻《くちぶり》で云っていた。
「八丁堀の歴々の与力が、自身で詮議なさるのは、これはどういうのでしょうなア」
快活な話し方である。
「いや、これは泰平のご時世とうけとってよろしいかな?」
孫九郎は、額に汗をかきながら歩いていた。仕方なく歩かされていたというのが本当のところだ。眼をきょろきょろさせながら、往来の人間を見ている。知った顔の同心か岡っ引かが、通行人の中に居たら、合図して新之助に飛びかからせるつもりであった。
あいにくなもので、こういう時に、一人も出遇《でく》わさないのだ。もの売り、巡礼、駕籠かき、丁稚《でつち》、職人、馬子、それに女である。与力とはみんな縁が無い。
このままだと、新之助にどこまで連行されるか分らない不安が、孫九郎を動揺させ、朱房を懐から出して振り廻すつもりで身体をもがいていると、
「下村氏、どうかなされたか?」
新之助が覗き込むように腰を低くしたと思った途端、孫九郎は脾腹に衝撃をくらって意識が遠くなった。彼は地面に仰向きに埃を上げて倒れた。
「これはいかん」
と叫んだのは、新之助である。仆れた伴《つ》れの上にかがみ込んだものだ。
人通りの多い場所だから、この出来事に、歩いている通行人が眼をまるくして忽ち集まってきた。物見高い江戸っ子ばかりである。
「どなたか」
新之助は、周囲を見廻して云った。
「駕籠を呼んで下され、すぐ、医者に連れて行かねばならぬ」
老人が、のぞき込んで訊いた。
「お伴れが、どうかなさいましたか?」
新之助は、眼を笑わせた。
「|てんかん《ヽヽヽヽ》です。悪い持病でしてな」
とり巻いている群衆の中から、職人風の男が出て来て、仆れている下村孫九郎をのぞいていたが、
「お気の毒になア。旦那、わっちの草履でよかったら、ご病人の頭の上に乗せて頂きましょうか?」
と、新之助に申し出たものである。本当に|てんかん《ヽヽヽヽ》で倒れたものと信じたらしく、まじないをすすめたのだ。
「ありがとう」
新之助は苦笑してそれを断った。
「どなたか、早く、駕籠を呼んで下さらぬか」
合点だと走り出した男が、忽ち通りがかりの駕籠屋を連れてきた。
新之助は孫九郎の身体を抱き、駕籠に入れた。誰の目にも、親切な介抱にみえた。
「知り合いの医者が下谷に居る。そこまでいっしょに行ってくれ」
承知しました、と駕籠屋は棒鼻を上げた。
「お役人のようだが、可哀想に」
とか、
「親切なお友達だ」
などと人々は云いながら輪を崩して散った。
孫九郎は、駕籠の内で、おとなしく睡《ねむ》っているらしい。脾腹に、痣《あざ》ができるくらい、ひどく打ったので、当分、正気づく気遣いはないはずであった。
実際、良庵の家に着いても、孫九郎は、溜め息一つ洩らさなかった。
「これは、お珍しい」
出て来たのは、内弟子の弥助で、新之助に笑って頭を下げたが、うしろにいる駕籠屋を見て、
「おや、どなたか、お客さまでございますか?」
と訊いた。
「病人を連れてきた。弥助、良庵どのはいるか?」
「へい、おります」
「これか?」
新之助は、手で盃の真似をした。
「へい、いえ。すぐ、よんで参ります」
弥助がいそいでひっこむと同時に、良庵が奥から現れた。
「これは、見えられた」
と良庵は大きな声を出したが、顔も眼も真赤であった。
「まず、まず、上って下され」
「病人を抱えてきた」
新之助は云った。
「ちと、厄介な病人でな。当分、外に出しては困る病気だ。良庵どの、面倒を見て下さるか?」
「いいとも」
酔っている医者は即座にひきうけた。
「あれ以来、わしの留守がたたって、患家が減った。新規の病人を、周旋して下さったとは有難い」
下村孫九郎は眼を醒《さ》ましたとき、自分が思いがけぬ畳の上に寝転がされているのを知った。
まず、煤《すす》が黒い糸になって落ちそうな古天井が眼にうつった。これは、と気がついて首を横にすると、すぐ傍の赤茶けた畳の上で、新之助と医者とが酒を飲んでいた。
孫九郎は起き上ろうとしたが、脾腹に棒で殴られたような痛さを感じたので、顔をしかめて思わずうめいた。
「気づかれたようだな」
良庵が、にこにこして赭い顔を向けた。医者は盃と徳利を持って、孫九郎のところに近づき、
「丁度、二人では寂しいところだった。貴公、まず、一杯、如何じゃ?」
と盃をさし出した。
孫九郎は、腹を押えて、顔を歪めている。
「ははあ、痛みますか?」
医者は盃と徳利を放し、寝ている孫九郎の着物を、やにわに押しひろげた。
脾腹のあたりに、黝《くろ》い痣ができている。医者が指を当て、
「ここか?」
と強く押えると、
「う……」
と孫九郎は、眼をむいて口を開けた。
「痛い、痛い」
良庵が呟いて、
「よしよし、手当てをして進ぜよう。弥助、弥助」
と大声を出した。
「湯を沸かしなさい。罨法《あんぽう》の用意じゃ」
新之助が寄って来た。
「下村氏。失礼しました」
詫びるように、軽く頭を下げたものである。
「ところで、失礼ついでにお願いがある。貴殿、しばらく当家で暮して頂きたい」
「………」
孫九郎は、身体をびくりとさせたようだった。
「いや、ご不承とは知っているが、これはまげて、ご承引を願わなければならぬ。ゆっくりとお訊ねしたいこともありますのでな。そのため、手前、しばらくここで寄食《いそうろう》となります」
「やれやれ。口が二つふえて、もの入りじゃ。患家は減るし、銭は無し。尤も、酒だけは工面するが」
良庵が云った。
「下村氏。お訊ねしたいこと、まず、申しておきます。それでなければ、貴殿も、気にかかろう。ほかでもない、大川に流れていた女の水死体、麻の葉の浴衣をきていた筈だが、一旦、寺に埋めたものを貴殿の指図で牢死の扱いとして、非人にかつがせ、千住に捨てたことじゃ。いや、かくされても無駄、われらには分っていること。ただ、貴殿の口から、はっきりと承りたい。それから、それを誰にでも云えるようになって頂きたい」
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「いつぞやの与力が」
と石翁が用人を呼んで訊いたのは、今朝のことである。
「何ぞ云いに来おったか?」
石翁としては気になるらしい。あれから三日経つが、音も沙汰もない。
そう面倒な調査でもないのに、何をやっているのか。
用人が、首を傾《かし》げて、未だ来ないと答えると、
「呼んで来い」
と命じたのである。
あの木ッ端与力め、と石翁は肚で呟いていた。大事な仕事だと思って、糞《くそ》丁寧にやっているのか。そのために暇どっているのかもしれない。もの欲しげな出世欲が面《つら》つきに出ていて、石翁が、いちばん軽蔑している型なのだ。
上は大名から、下は小役人まで、どうしてこう出世亡者が多いことか。大名たちを翻弄《ほんろう》し、くれる物は、どしどし取り込むのが隠居の趣味であった。下村孫九郎などは、塵《ちり》一つにも値せぬ男だが、こっちの望み通りに働かせた上で、放り出すつもりで隠居は居る。
夕方近くだったが、下村孫九郎の消息は、石翁が庭を歩いているときに、届いた。
用人が来て、
「与力のことでございますが……」
と畏《かしこま》った。
「うむ?」
「使いを出しましたところ、三日前より何処に参りましたやら、行方が知れぬそうにございます」
「帰らぬのか?」
はじめは、仕事のためかと思った。
「役宅にも帰らず、役所にも姿を見せぬ由でございます。そこで、奉行所の方をひそかに探らせましたところ、本人からは何の報らせも無いので、いま、心配して、こっそり探しているそうでございます」
下村孫九郎に命じたことは、むろん石翁の個人的なことで、孫九郎が奉行所の上役に連絡しているはずはなかった。それに、功名心の強い孫九郎のことだから、この内証の仕事を誰にも告げる気遣いもなかった。
連絡の無いままに消えた下村孫九郎を、奉行所が心配しているのは、そのためである。
(三日も戻らぬとは……)
むつかしい仕事ではないのだ。下村孫九郎ほどの者なら、一日で片づく調査ではないか。
石翁は腕を組んだ。
(もしや……)
もしや、見えぬ敵の手が下村孫九郎を拉致《らち》したのではないか。
そうだとすると……
石翁の眼が険しくなった。
用人が、気遣わしそうな顔をして、
「下村のこと、もしやご当家で命じたことで、変事が起ったのではございませぬか? それならば、別な人間に申しつけ、事情を探らせてみましょうか?」
と主人の顔を見上げた。
石翁は池の水面を眺めていたが、
「今夜あたり雨かな?」
と呟いた。
「は?」
「ひどくブトが集まって舞っている。天気の崩れる前じゃ」
と関わりのないことを口に出したが、
「その必要はあるまい」
と云ったのは、用人への返事であった。
「捨てておいてよかろう。そのうち、向うから沙汰があるかもしれぬ」
「はあ」
用人は一礼して主人の傍を離れた。
そのうち沙汰があろう、というのは、無論、奉行所からという意味ではない。下村孫九郎自身か、でなかったら敵方からという含みなのだ。敵が下村を押えていたら、必ず何かのかたちで出てくる。下手に奉行所をつつくよりも、その方がずっと利口だ、と石翁は考えている。
石翁は庭を歩き出した。愉しむためのものではない。考えながら歩いているのだ。
鋏の音が、樹の間からしていた。
これだけの広い庭だし、殊に凝り性だけに植木屋が、毎日、何処かで仕事をしている。十人ぐらいは必ず散っているのである。
歩いている石翁の眼が、ふと、或る場所にとまった。葉の繁った松の木の上に、職人がひとり葉を剪《つ》んでいる。
若い職人というのは、その身体つきで分った。頬被りをして鳥のように枝の上にうずくまっているのである。
石翁は、じっと下から、その職人の姿を見上げていた。
樹の上の職人は、石翁の視線を感じたのか、ふいと下を向いた。頬被りしているから、眼だけがのぞいている。その眼が、下の石翁を見つめていた。
二つの視線は上と下の距離を置いて、互に絡み合っていた。石翁も動かず、樹上の職人も動かなかった。
「ふむ」
と声が洩れたのは石翁の方が先であった。隠居が大声で叫ぶ前に、上の職人の身体が動いて、樹の枝を渡って移った。
(出合え!)
石翁はそれを口に出すところだった。
が、頬被りの男の方が、枝を動かし、するすると遁《に》げて行った。葉が騒いでいるだけである。
来た。石翁には、来たという感じであった。
外には雨の音が強い。夕方から降り出したのだが、夜中になってひどくなった。
この女中部屋には四人が一緒になって寝ているが、それぞれの寝息がつづいている。ひとりだけ眼をさましているのは、おこんで、これは夜のふけるのを蒲団の中で、さきほどから待っていた。
胸が騒いでいる。何かを決行する前の気持の昂《たかぶ》りでじっとして身体を動かさないのが苦しいくらいであった。
おこんは、そっと起き上った。
朋輩は、よく眠っている。昼間の働きで、夜は丸太を転がしたようなものだった。
おこんは、手早く着物を着更えて、帯をしめ直した。まさかのときの用意だった。襖をそっと滑らして廊下へ出た。
用所に行くふりをしているのだが、方向は違っていた。手燭の明りをたよりに廊下の角を曲った。
雨戸のすぐ外は庭なので雨の音がいっそう大きく聞える。風が少しあるとみえて戸を殴るように打っているのだ。
その音が遠くなったのは、おこんの歩いている廊下の位置が、ずっと奥まったところに入り込んできたからである。
この方角の進み方には誤りはなかった。前に、石翁に連れられて来たし、すぐあとでは、お墨附を入れた大事な包みを、もとの場所に納めさせられたものだ。そのときに、しっかりと眼で方向の順序を覚えておいた。
この大きい屋敷全体が睡っているのである。外の、雨と風だけが起きて騒いでいるのだ。おこんは、廊下が鳴らぬよう、ゆっくりと歩いた。
見覚えの杉戸のところへ来たとき、彼女は思わず吐息が出た。始終、息を呑んでいるような状態で、苦しいのである。
それから、念のために、耳を澄ましたが、無論、人が歩いている気配はない。彼女は杉戸に手をかけた。音を立ててはならなかった。
ようやく、身体が入れるだけの隙間を開けると、内部《なか》の重い空気が顔に流れてきた。かすかに線香の匂いがするのは、夕方に燃えたものが、空気にまだ残っているからである。
おこんは、激しく鳴る動悸をしずめるのに苦労だった。ここまでくると雨の音も聞えず、彼女の呼吸《いき》が自身の耳に伝わるくらいだった。
少しずつ奥に進んだ。寺のような大きな仏壇がある。おこんは、真黒い厨子《ずし》の扉に手をかけた。それはかすかな音を立てて開いた。金色のものが闇の中に沈んで現れた。
阿弥陀如来の仏像が、気味の悪い赤ん坊のように立っていた。この下に、彼女が、この危険を冒してまで狙う包み紙がある。慄えそうな手で、彼女は仏像を動かした。
仏像は動いた。
おこんは、その台座の下に手を入れた。指に触れるものは、ざらざらとした木目《もくめ》だけである。指が慌てた。
無い!
あの紙包みが無いのである。たしかにあの夜、石翁が取り出し、自分の手でそこに納めたお墨附の包みが指に当らない。
はっとしたのは、自分が相手の罠《わな》にかかったのではないかということだ。
闇の中で、顔から血の引く思いであった。おこんは、仏像を置くと、じっとその場にすくんだ。この闇のどこかに、誰かがひそんで、こちらの行動を見つめているような気がしてならない。
何秒かの間、彼女は動かないでいた。耳鳴りがする。胸には動悸が破れるように搏《う》っている。今にも、思わぬところから、人間がとび出して来そうであった。
長い時間だったが、実際は、それほどではなかったかもしれない。
声も聞えず、足音も起らなかった。
思い違い──と思ったのは、無論、かくし場所のことではない。罠ではなかったかもしれぬということだ。石翁が、あとでお墨附の入れ場を変えたのかもしれない。
女中に見られたのを不念《ぶねん》と思って、変更したのかもしれぬ。気性の大きい男だが、やはり大事なものだけに、気をつけたとも考えられるのだ。
おこんは、|ほっ《ヽヽ》とした。かすかに安心が戻ったが、同時に失望した。
折角、あれほどの獲物があったと喜び意気込んだのだが、これでは、手も足も出ぬ恰好になった。今後、再び、あれを発見することは容易ではない。折角のものが、彼女の手から遁げてしまった感じであった。
闇の中は、相変らず死んだように音を消して沈んでいる。何も耳に聞えないことが、今度はおこんに恐怖を湧かせた。
おこんは、寸時も此処にうずくまっているのが耐えられなくなって、身を起した。逃れたい気持が起ると、背中に恐怖が逼《せま》ってくるものだ。
彼女は厨子の扉を慄える手で閉めた。かすかな音が、ぎいと鳴る。それが耳に響くくらい大きく聞えた。
音が熄《や》んだのちも、耳を澄ませたが、別段の変化は無い。今のうちだ、という慌しい気が、彼女を遁げる動作に駆り立てた。
杉戸も無事に閉めた。
手燭をたよりに、おこんは廊下をもとの方へ急いだ。怕《こわ》いものが後から追って来そうなのである。何か、非常に危い立場に自分が立っていると初めて判った気がして、後悔が起きた。
おこんは廊下の最初の角を曲った。
左右とも杉戸が立っているが、これは多勢の客を受ける以外、滅多に使わない部屋である。
廊下の突当りは、諸道具を入れている部屋で、来客のために、蒲団だの座蒲団だの、そのほか、こまごました接客用の道具が納《しま》ってある。
その杉戸の正面にきて右に曲る。いや、曲ってすぐだった。
がらりと音がして杉戸が開いたものだ。
死んだように静かな家の中だから、この物音はひどい。
あっ、とおこんは肝を冷やした。身体が一瞬に凍ったのだが、次には、何かの力が、うしろ衿にかかって引き戻された。
「あ、あ」
声も出ないうちに、咽喉輪《のどわ》に腕を捲いてしめつけられ、そのままうしろに引きずられた。
おこんの持っていた手燭は、誰かの強い息が吹きかかって消えた。
杉戸が閉ったとき、彼女の身体は突き放され、柔かいものに当ってよろけた。
闇の中だが、真黒いものが、おこんの正面に立ち塞がっていることが分った。怯《おび》えて、うしろに退《さが》ろうとしたが、これは積み上げた蒲団の壁に当って邪魔された。
喘ぐ息が、おこんの口から切羽詰ったように洩れた。
「ふ、ふふ」
動物の啼くような忍び笑いが、おこんの耳に入ったが、それが次第に弾《はじ》けるような笑い声に変った。おこんが動顛《どうてん》したのは、それが奥村大膳の声と分ったからである。
「は、ははは。やって来た」
大膳は暗い中に仁王立ちになって云った。
「おこん、と云ったな?」
おこんは身体をすくめて、うずくまり、防禦の姿勢を構えたが、胸が嵐のように騒いだ。
「ご隠居の申された通りじゃ」
大膳の痰《たん》に絡んだ声がしゃべった。
「そちは、唄もうまい、三味もうまいが、忍びもうまいな」
覚悟はしたが、これを聴いたとき、おこんは絶望で力が抜けた。
「はは。おどろいたであろう? わしが此処に居ようとは思わなんだろうな?」
大膳は、少し身体を動かした。
「ご隠居の仰せじゃ、今宵、泊れと申されてな、わざわざ、そこの広い客部屋にひとり寝かされていたのを、そちは知るまい。そのとき、そちのことを聞かされて、仏間に忍んで参るかも知れぬと、心待ちに待っていたのじゃ。案の定、ご隠居の察しの通りじゃ」
大膳は一歩すすんだ。
「おこん、誰に頼まれた?」
「………」
「おこん、誰に頼まれた?」
奥村大膳は、もう一度云った。暗い中で彼の身体が揺ぐように動いた。
おこんは黙っている。食いしばっても、歯がかすかに鳴った。
「仏間に忍びこんだからには、何かを狙ったに相違あるまい。奇特に、線香を上げに深夜に参ったとは、よも言い訳できまい。そちが取りたいものは、勿体なきことながら大御所様のお墨附。これ、おこん、天をも憚《はばか》らぬ不届者とは思わぬか」
大膳は、また一歩近づいた。
「かような大胆不敵なことをするからには、女のそちの一存ではあるまい。当家の奉公も、その下心あってのこと。さあ、誰に頼まれて、当家に忍び入った? おこん、返事をせい」
大膳は叱咤《しつた》しているが、その声は妙に息切れがして聞えた。
「だ、誰からも……」
おこんは、ようやく口を利いた。
「頼まれたのではありませぬ。つ、つい、うかうかと、迷い入りました」
笑い声が大膳の口から洩れた。
「迷ったのか。子供の云うようなことを申す。おこん、誰から頼まれた? それを云え」
声が無かったので、大膳は苛立《いらだ》ったように近づいた。おこんの遁《に》げ道は、蒲団の山や道具で塞がれている。
「ご隠居は……」
と大膳は近いところで云った。
「何もかも、見通してござる。そちが眼を晦《くら》まそうとしても追っつかぬ話じゃ。わしは、そちの吟味を隠居から任されている。おこん、そちも、これほどの不敵な仕事を頼まれた女じゃ。まさかのときの覚悟はあろう。さあ、潔く口を割れ」
大膳の手が、おこんの肩をつかんだ。
「あ」
おこんが避けようと精いっぱいに退るのを、大膳は引きすえるように強い力で押えた。
「い、云わぬか?」
大膳の荒い息が、おこんのすぐ横から聞えた。
「わたくしは……」
おこんは喘《あえ》いだ。
「何にも知りませぬ。どうぞ、お宥《ゆる》し下さりませ」
「知らぬ?」
大膳が鼻で嗤《わら》った。
「強情な女。知らぬと飽くまで白《しら》を切るなら、痛い目に遇わせてやろう」
大膳は、おこんを一旦、突き放すと、しばらく動かずにいた。
これから、どう料理してやろう、と思案しているみたいだった。一本一本指の骨を鳴らしているようだった。
外の雨の音が微かに聞えている。おこんは胴震いした。
「雨か」
と横たわったまま呟いたのは石翁で、さきほどから寝苦しい様子だった。
横に臥せている妾が、眼をさまして、これも外の雨が耳に入ったらしく、
「よい音」
と云った。
「一雨ごとに、秋が闌《た》けてゆきます」
「うむ」
石翁は気の無い返事をして腹匍っていたが、
「莨《たばこ》をくれぬか」
「はい」
「雨のせいか、どうも今夜は蒸すようじゃ」
起き上った妾は、枕元の莨盆の灰を掻き、埋み火を探して、煙管につけたが、石翁が云うほど蒸し暑いとは思わなかった。
「いま、何刻《なんどき》であろう?」
「はい」
と妾は返事したが、睡っていたので、よく分らない。八ツ(午前二時)ごろだろうと推量を云ったが、
「いや、九ツ(午前零時)だ」
と隠居は訂正した。眼をさましていて、数えたように正確に聞えた。
年寄りだから、夜中に眼をさます癖はあったが、今夜は、それとは違う。なにか気になることがあって寝つかれない、というふうだった。
「おい」
と隠居は急に云った。
「何か、向うの方で音がせぬか?」
煙管を宙に持ったままである。
妾は耳を澄ませたが、雨音だけで別段のことはない。
「いいえ」
と首を振ろうとした途端、微かだが、遠くで杉戸でも閉まるような音がした。
「あれ」
と妾は顔色を変えて、石翁の方へすり寄った。
「何でございましょう?」
石翁の眼が、薄暗い中に光っていたが、それには返答せず、気づいたように吸い口を唇に持って行った。
音は、それきり聞えぬ。
「咽喉《のど》が乾いた」
と隠居は自分のことを云った。
「水をくれぬか」
「はい」
妾が立ち上ろうとしたとき、やはり遠くで微かな音だったが、がたがたと戸が鳴った。
妾が、うろたえて、また坐ると、怯えたような眼で石翁を見た。
「な、何の音でしょう?」
石翁が煙管を叩いた。
「なんでもない。鼠でも走っているのであろう。気にするな」
「強情な女」
と云ったのは、奥村大膳で、おこんの黒い姿を目の前に見据えて吐息をついた。
「おこん、この期《ご》になって遁れは出来ぬぞ。わしはご隠居から、どのような責め方をしてもよいと云いつかっている。かりにも、お墨附を盗もうとした大罪人じゃ。表向きの吟味でも死罪になるのは必定じゃ。そちは、少々、甘く考えているようだな」
大膳の声には、満更、威しばかりでもない調子があった。
「死罪──」
と大膳は、自分の言葉に気づいたように、
「おこん、死罪は奉行所だけにあるものと思うな。たとえば……」
と、一息つくようにして、
「当屋敷でも、無事に生きて出られぬかもしれぬ。ここで殺されても、誰も知らぬ。もし仮りに気づく者があっても、奉行などには手の出ぬことじゃ。ご隠居の威光は、老中衆でさえ憚《はばか》っている。これは、とんと公方《くぼう》のようじゃ。そちの身体を闇から闇へ葬るぐらい、朝飯前のことよ」
大膳が何を云っているのか、おこんには分った。菊川殺しのことは新之助から聞いて知っている。彼女は、胴震いした。
「おこん、なにも、わしはそちを殺そうとは思わぬが……」
大膳は効果を確めたように云った。
「あまり強情だと何をするか分らぬぞ。さあ、素直に申せ。ありのまま白状すれば、そちは無事にここを出られるのじゃ。さあ、云え、誰に頼まれた?」
「し、知りませぬ」
おこんは叫んだ。
「殺されても、知らぬことは申せませぬ」
大膳は、身もだえている女の気配を闇の中で見つめて、黙っていたが、彼の吐く息が荒くなった。
「ふむ、殺されてもか……」
嗄《しやが》れた声が彼の口から洩れると、不意に、木が倒れるように、彼の身体がおこんの上に落ちた。
「あ、ああ」
おこんの首が大膳の腕の中に締めつけられ、顔が男の頬に引き寄せられた。身体のもがきを大膳の脚が押えつけた。
「おこん」
大膳は汗を流し、嵐のような息を吐いて云った。
「ただ殺すのは惜しい女。白状せねば、どのような苦しめようもあるぞ」
おこんは咽喉に絡んだ太い腕で息苦しく、口をいっぱいに開けて、顔を仰向けた。
その顔を、脂と汗でねっとりと濡れた大膳の顔が、力ずくにこすりつけてきた。
「は、放して」
おこんは、大膳の脂でぬるぬるした顔から遁《のが》れようとしたが、男は彼女の身体を羽交《はがい》締めにした上、その頸《くび》を放そうともしなかった。
「これ、おこん、静かにせい」
大膳は、荒い息を犬のように吐いた。
「ここで、白状すればよし、白状せぬときは……」
「云えぬ。知らぬことです。な、なにをしようとするんです。早く、放して」
おこんが藻掻《もが》くたびに、女の体と臭いとが、大膳の心の底を揺すぶり、掻き立てた。
「おこん!」
大膳は気違いのように吠えた。
「あ、ばか!」
「ほう、莫迦《ばか》と申したな。莫迦でもよい。どうせ、そなたは、このわしの手にかかって死んでゆくもの。わしの存分にしてやるのだ」
「い、いや。いっそ、殺して」
おこんは身体を夢中に動かしたが、あがけばあがくほど、大膳を逆上させた。
「ふむ。そちは誰に頼まれたか知らぬが、憎い諜者じゃ。むろん、殺さいでか。殺しても、世間には知れぬ」
髪が乱れ、それが大膳の鼻や口を撫でた。彼の息はいよいよ気忙《きぜわ》しいものになった。
「だがの、おこん。ただでは殺さぬぞ。わしはそちが好きじゃ。初めて見たときから好きだった。どうじゃ、ここで、わしの思い通りに、ならぬか。ご隠居の手前は、わしがどうでも、とり繕《つくろ》ってやる」
「いや。死んでも、誰がお前のようなものと……」
「ふふ。そろそろ下町女の気性を出したな。そこがよい。そこが無性におれには堪《こた》えられぬのじゃ。さあ、暴れてくれ。暴れるほどおれは気持がよい」
灯の無い、真暗い場所でのうごめきであった。大膳は、おこんを動かさなかった。
「顔が見えぬが残念だが、そちの柔かい頬も、唇も、おれは勝手に吸えるぞ。さあ、この通りじゃ」
大膳が激しく顔をすりつけてくるのを、おこんは手を突張って遮った。
「きたない。けだもの!」
その手を大膳が自分の片手でゆっくりと外した。男の強い力には敵わなかった。
「ふう。柔かい、可愛い指をしているのう。どれ、おれにこうさせろ」
大膳は、おこんの指をつかむと、一本一本、唾の溜った口の中に入れて、べろべろなめはじめた。
「いや、畜生!」
おこんが手を引っこめようとしたが、力が及ばない。大膳は、女の指を口の中に入れ、舌で味わい、歯で咬《か》んでいた。
指を男の力に握られて、おこんはどうすることもできなかった。大膳の気味の悪い、べとべとした口の中で自由を失っていた。
「う、う」
大膳は奇妙な声を出した。突然、口から指を放すと、おこんの顔に、のしかかってきた。
「いや」
おこんは、ようやく左手で男の顎を突き上げたが、
「あ、あっ」
と悲鳴を上げたのは、その手に大膳が咬みついたからである。
「こうなった上は、悪あがきするな。おこん、往生しろ」
大膳は女の身体を締めつけた。
「ち、畜生。だ、だれが……」
おこんは叫んだが、抵抗は塞がれていた。肥えた男だけに、ひどい力なのである。それでも、相手の顔を避けようと、首を激しく左右に振ると、不意に頬が鳴って、灼《や》けるような熱さを感じた。
「あっ」
大膳が殴ったのだ。
「おとなしくしろ」
おこんは顔が痺れ、反りかえるように上体を大膳の腕の中で曲げた。髪が崩れて、簪《かんざし》と櫛《くし》が落ちた。
大膳の汗が、おこんの顔にぼとぼとと滴った。おこんは眉をしかめ、鼻翼《こばな》で逼った呼吸をし、唇を開けて喘いだ。
犬のような男の激しい息遣いが、この暗い中に高く聞える。おこんの反った背中が、ほとんど下につくくらいに曲った。男の手が、着物を剥ぎはじめた。
「あれ、あ、ああ……」
もう、駄目かと思った。必死に身体を捻じ曲げようとして、下に突いた片手が冷たい物に触った。落ちた簪で、銀づくりの長い脚がついていた。
「はあ……」
大膳は全身で荒い呼吸をし、苦しげに溜め息を吐きつづけた。おこんの裸になった肩に彼のべっとりとした掌がかかり、そのなめらかな皮膚をしばらく撫でて賞玩していた。そのために、おこんの片方の手が何をしているのか大膳には分らなかった。
「うむ、もう……」
大膳が狂ったような勢いで、おこんの身体に密着しようと押し倒しにかかってきたとき、おこんの手が相手の顔を見当に、下から伸びた。
「ぎゃあ」
大膳の身体が、横に転んだ。得体《えたい》の知れぬ飛沫が、おこんの顔にもとんだ。
「う、う、う」
大膳は転んだまま、もだえている。
おこんは、起ち上ると、大膳の横をすり抜け、杉戸を開けて廊下に出た。手には大膳の眼球《めだま》を刺した、血塗《ちまみ》れの銀簪が握られていた。
腹匍って莨《たばこ》を喫っていた石翁が、不審な眼つきになったのは、物音でなく、人の叫びを一声聞いたからである。
つづいて戸が開く音がし、廊下を逃げる跫音《あしおと》が耳に入ったとき、隠居は莨を放り出して床から起き上った。
「手燭」
と横の妾に命じた。
「早く」
と急がしたのは、石翁が短気を出したときの声だった。
手燭の灯が横になびいて消えるくらい、廊下を大股で急ぐと、やがて微かな呻《うめ》き声が近くなってきた。
ふだん、不要な道具を納っている部屋の杉戸が半分開いたままになっているので、声の場所はすぐに分った。
石翁は入口に一旦とまった。動物のようにうごめいているのは、女ではなく、はっきり奥村大膳と知れた。
ゆっくりと入って、手燭をさし出すと、大膳のうずくまっている黒い背中が照らし出された。
「大膳、どうした?」
石翁は声をかけた。
「う、う。ふ、不覚を……」
大膳はうつむき、両手で顔を掩っていたが、絞り出すような声を出した。
石翁のうしろからついてきた妾が、怖れるように大膳の姿を覗いていた。
「不覚とは?」
石翁は一歩寄った。
「め、眼を……」
大膳は、まだ肥った身体を縮めていた。
「眼をどうかしたのか? どれ、見せろ」
石翁は大膳の衿首《えりくび》をつかむようにしてひき上げた。
下に向っていた大膳の顔が、それにつれて仰向きになったが、灯に映し出されたその形相《ぎようそう》を見て、さすがの石翁もぎょっとなった。
右の眼が、ほおずきをそのまま嵌《は》め込んだように真赫《まつか》で、それから血が頬から顎にかけて噴き流れている。それを掩っていた掌も、血がいちめんに塗られて、指の間から流れ落ちていた。
妾が、一眼見て、悲鳴を上げたくらいである。
「うむ、これは、ひどい」
何とも醜悪な大膳の顔だった。片眼が潰れ、血が眼窩に溢れ落ち、そこだけ赤い紙をべっとりと貼ったようだった。
(簪だ)
石翁は直感した。
「医者、医者を呼べ」
石翁は妾に口早に云うと、自分の帯を解いた。大膳は畳に血を滴らせ、ひいひいと呻吟《しんぎん》している。
石翁が解いた帯で大膳を眼かくしして縛りながら、
「誰か参れ」
と大声で叫んだのは、逃げた女の手配をするためである。
「馬鹿め」
石翁が口の中で罵ったのは、奥村大膳に向ってである。
「ばかな奴」
腹が立った。しかし、その憤懣《ふんまん》は、大膳の|へま《ヽヽ》に対してか、それとも、おこんに今まで戯れていた彼への腹立ちか分らなかった。
女中どもが来て、奥村大膳を扶《たす》け起し、みなで手を取ったり、肩を抱えたりして別の座敷に移している。
眼かくしされた大膳は、相変らず低く呻きながら、腰を屈めて、女中たちに連れられて歩いていた。
その哀れな様子を見て、
(何という態《ざま》だ。見苦しい)
と石翁は唾を吐きたくなった。あのぶんでは片目の失明は免れまい。
家来が廊下を走ってきて、
「おこんの姿は女中部屋には見えませぬが」
と告げた。
「そうであろう。ほかの手配は?」
石翁は、むっつりして訊いた。
「表、裏とも門のあたりに人数を配っております」
「間に合うかな」
石翁は呟いた。
「いや、それは。相手は女でございますから」
家来が主張しようとするのに、石翁は不機嫌にじろりと見て返事をしなかった。
「いま、ご邸内を探しております。雨が降っておりますので、軒の下などに忍んでいるかも分りませぬ」
「粗漏《そろう》なく探せ」
石翁は短気に云った。
「はっ」
家来は、石翁の不機嫌に慴《おそ》れたように走り去った。
(もう、遁げたかもしれぬ)
石翁は何となくそう思った。そんな気がするのは、小さいことだが、近ごろ手抜かりがつづいているからだ。
それが、もっと大きな手抜かりを暗示しなければいいが。
漠然とした不安を感じた。
女中が来て、
「お医者さまが見えました」
と知らせたので、一室に行くと、大膳が仰向きに寝ていて、医者の手当をうけていた。小さな水|盥《たらい》は血で真赤になっていたし、大膳は、大きな声で、痛そうに哭《な》いていた。
灯を寄せて、大膳の患部を覗きこんでいた医者が、布きれで血をしきりと拭いながら、首を傾《かし》げていた。
(大膳め、不具になりおった)
これでこいつも、役に立たぬわ。──石翁は哀れな脱落者を立ったまま見下ろしていた。
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愛 欲 の 文
落合久蔵は、登美に逢えないので苛々していた。
近ごろ、登美の感応寺代参のお供が多いのも、彼の焦燥の原因の一つでもあった。
いつぞや、神田の六兵衛が来て、嚇《おどか》されたが、そんなことで引込む彼ではない。いや、そのような邪魔が入れば入るほど、執心は募るばかりである。
何とか隙をみつけて、登美を引込もうとするのだが、彼女は、繁々と、年寄佐島や、中年寄広川の供をして感応寺詣でに精出している。
この一行は刻限ぎりぎりには、お城に帰ってくるのだが、登美はそれきり部屋に入ったまま、前のように庭などに姿を見せなくなった。
それに、佐島や広川にひどく気に入られている様子で、用の無いときは、その部屋に始終入りびたっているらしい。
こうなると、足軽にも等しい御家人の添番は哀れなもので、いくら奥仕えといっても、男では登美の部屋に行くことも出来ず、誰かを使って呼び出すことも出来ない。
以前には、登美の方から、逢う機会をつくるように、さり気なく中庭あたりに姿を見せたものだが、そのことは、さっぱり今では無くなってしまった。
(見限られた)
というのが、久蔵の憤懣《ふんまん》の一つである。
それから、寺詣りということも、彼の心を攪乱《こうらん》した。
奥女中の代参の秘密が、およそ、どのようなことか、彼のように代参の供廻りをする者には察しがついているのだ。
加持祈祷と称して、奥女中どもが、奥の院で長い時刻《とき》を過している。出て来て駕籠に乗るときに見ると、役つきの女中どもは、いずれも、顔は赧《あか》く上気し、汗ばんでいるのだ。玄関では坊主どもが出て、見送りに平伏しているのだが、女中の眼が、ちらちらと未練気に役者のような坊主に注がれている。
坊主も図々しく、上目遣いに女中の眼顔に応えている。久蔵は、その現場を、端の方から何度も見ている。
(祈祷などと云って、何をやっているのか分ったものじゃない)
奥女中どもが、坊主に逢いたさに、代参にことよせていることは判ったし、そのことは心得て、肚では嘲笑《わら》っていたのだが、ことが登美となると、気持は違ってくるのだ。
久蔵は、あの登美が、うす暗い本堂の奥で、坊主共からどのような扱いをうけているかと想像すると、目の前に、じっと坐って居られぬような地獄絵が泛《うか》ぶのであった。
(おのれ)
と妬心に狂って、夜中に睡れないことも、度々あるのだ。
登美の部屋に話に行くことも出来ない、呼び出すことも出来ない落合久蔵が、煩悶《はんもん》と思案の末に思いついたのが、長局に出入りする女の小間物屋のことである。
「これぞ」
と膝を叩いたものだ。
「あの女なら、登美のところに自由に出入りしている。あいつを使ってやろう」
いい知恵だと思った。
久蔵は、非番の日に、女房をわざと使いに外出させ、懸命になって手紙を書いた。
「近ごろ、そなたの姿に会えぬので、苦しい思いをしている。ぜひ、会って話したいことがあるから、その返事をくれぬか。返書は、この小間物屋に渡してくれるとよい」
これを懐にかくし、あくる日、出勤して、添番詰所に頑張っていた。
しかるに、その日は、いくら待っても、女小間物屋は姿を見せない。久蔵は失望した。
彼女が商売の包みを提げて、小腰をかがめて、七ツ口に現れたのは三日ばかり経ってからである。
久蔵は、同僚にはさり気ないように、素早く番所を出て、小間物屋に近づいた。
「ちょっと」
と呼びとめたものだ。
「はい」
お文は、立ちどまり、如才なくおじぎをした。
「済まぬが」
と低声《こごえ》で久蔵は人目につかぬ場所を眼で指した。
「こっちへ来てくれぬか。ちと、頼みたいことがあるでな」
「はい」
滅多に無いことなので、お文は怪訝《けげん》な顔つきをしたが、それでも素直に云う通りに従った。出入りの監視人ともいうべき添番に憎まれては損だからである。
「そちは登美どのの部屋に出入りをしているな?」
ぎょっとしたのは、この質問をうけたお文の方である。思わず息を詰めたが、さすがに顔色は抑えて商人らしく愛想笑いをした。
「はい。ごひいきになっております」
「うむ」
久蔵はうなずいて、懐に温めていた文《ふみ》を、そっとお文の手に握らせた。
「済まぬが、これを登美どのに渡してくれぬか。いや、少々、内密の用事があってな」
不思議そうなお文の眼に、さすがにてれながら、久蔵はやさしい声を出した。
「怪しまれる用事ではないが、とにかくほかの女中衆の目が煩《うる》さい。分らぬように内証で渡してくれ」
落合久蔵は、お文が長局から帰るのを、詰所でそわそわして見張っていた。
その、お文は容易に帰って来ない。多分、女中どもに囲まれて商売に暇どっているのであろう。
だが、いつ七ツ口を帰ってゆくか分らないので、久蔵は、朋輩の話しかけるのも上の空に、油断なく眼を光らせていた。
二|刻《とき》近くも辛抱した甲斐があって、お文はようやく姿を現した。商売物の風呂敷包みを下げ、にこやかに詰所の前を会釈して通る。
久蔵は、そっと詰所を脱け出し、或る距離まで行ったときに、お文に近づいた。
「これ」
と、そっと呼びとめた。お文は振り返って、微笑しながら会釈した。
「登美どのに渡してくれたか?」
久蔵は機嫌よく訊いた。
「はい、たしかに」
お文は、愛想笑いしながら腰をかがめて答える。
「それは有難い」
と、現金に、にこにこして、
「で、登美どのは、何か申していたか?」
「いいえ、別にございませぬ。ただ、黙って帯の間に挾んでおられました」
「そうか」
久蔵は、ちょっと失望したが、最初は、先ず、そんなところであろうと思った。
それから日が経つが、登美からは一向に返事がない。久蔵には、宿直と非番と代る代るにあるから、毎日つづけて出勤というわけにはゆかず、もどかしくて仕方がない。
例の女小間物屋も、毎日来るというわけではないから、久蔵の非番の日に来ることもあるらしく、どうにも歯車が合わなくて、じれったくて仕方がない。
それでも、女小間物屋に会うこともあるのだが、
「別に、お登美さまから何もことづかってはおりませぬが」
と決まった返事ばかりするのである。
久蔵は、その後に、二度も催促の手紙を書き、託しているが、音も沙汰も無い。
その、お登美は相変らず感応寺参詣の供をしているのだ。添番は多勢いるから必ずしも、久蔵だけが供廻りに当るとは限らず、登美のときには一度も当ったことがない。
それも考えてみると、登美がわざと久蔵を避けているように邪推されるのだ。久蔵は熱くなった。
(あの阿魔《あま》め。どうするかみていろ)
嚇《か》っとなって、心の中で罵《ののし》ってはみるが、未練があって、最後は顔を見た上でと思っている。
そのうち、久蔵は妙なことに気づいた。近ごろ、女小間物屋が来る日が、決まって、お登美の寺詣りのあった翌日なのである。
外の夜気は、すっかり秋のものになっている。夜は障子を閉めないと、部屋が冷たいくらいなのである。
脇坂淡路守が、庭に向った小さな明り障子を開けているのは、この夜気を愉しむためでもなければ、庭の黒い植込みを透かして眺めるためでもない。目の前に近く坐っている島田又左衛門との密談を第三者に聴かれないためだった。
部屋は狭い茶室である。淡路守が点前《てまえ》をし、客の島田又左衛門が茶碗を賞玩して納めたあとであった。
淡路守は、又左衛門が持って来た手紙を、しばらく燭台の下で読んでいた。静かな眼つきだったが、瞳《め》の中に一点、灯のようなものが燃えていた。
「樅山は、いくつになるかな?」
と又左衛門に訊いたのは、この手紙の主、奥女中樅山のことである。
「登美の話では、三十路《みそじ》を越したとか申していましたが」
又左衛門は小さな声で答えた。両人の身体は触れ合わんばかりに接近していた。
「うむ」
淡路守の眼に、苦笑の翳《かげ》が揺らいで、
「とんと、これは下世話に申す女郎の艶文じゃな」
と云いながら、手紙をくるくると捲いて懐におさめた。
手紙は、奥女中樅山が、感応寺の寺僧日遠に当てた艶書である。
──おまえさまのこと、日夜想うて、手がつかず、心はどこやらに飛んで空蝉《うつせみ》のようである。夜は、この間、会うた時の、おまえさまの声ばかりが耳に聴え、眼、口が眼の前に泛んで寝苦しい。わずかにまどろむ夢は、おまえさまのことばかり。こんな切ない苦しい思いは生れてはじめてで、一刻でもよいから遇いたいと思うが、御殿勤めはそうもならず、地獄に落ちた思いがしている。この次のご代参のお供は明後日あたり。それだけに千秋の思いをして待ち焦れている。自分の命はおまえさまにかけているから、いついつまでも心変りがせぬよう祈っている……
こんな意味が、お家流のきれいな文字で書かれてあるのだ。文字は水の流れるように流麗だが、文句には炎が燃え上っている。
「なるほど、これ一通でも、女中ども不行跡の確証にはなるが」
と淡路守は云った。
「しかし、樅山だけでは、ちと弱い。わしが手入れするには、少々、相手が小さいな」
「そのことです」
又左衛門は、さらに膝を乗り出した。
「近いうち、年寄佐島と日祥との艶書を手に入れる、と登美から申し越して居ります」
「なに、佐島の?」
淡路守の眼がはじめて愕いた。
佐島は年寄である。年寄といえば大奥総取締で、格式からいえば老中格である。その佐島はお美代の方の側近第一で、樅山は菊川亡きあとに代ってお美代の方の眷顧《けんこ》をうけている。
樅山はともかくとして、佐島が感応寺の日祥に送った艶書が手に入りそうだ、と登美の縫から知らせてきたというので、脇坂淡路守が眼を輝かせて唸《うな》ったのである。
「そりゃ、まことか?」
と思わず訊き返したくらいだった。
「縫のことです。確信あってのことでしょう」
島田又左衛門はうなずいて答えた。
「そうなるとありがたいが……」
淡路守は、この人に滅多にない興奮を現した。
「佐島の不行跡の確証を押えると、有無を云わせぬ。すぐに検挙に踏み切る」
「ぜひ、左様にお願い申します」
島田又左衛門は頭を下げた。
「そうなると、お美代の勢力は著しく殺《そ》がれます。水野美濃守どのはじめ、君側の輩《やから》を追い落す機会にもなります」
又左衛門は力をこめて云ったが、
「ただ、心配なのは、淡路守様が折角、手入れ遊ばしても、竜頭蛇尾にはならぬかと……」
と眉をかすかに寄せた。
「竜頭蛇尾?」
「いえ、お手前さまのことではございませぬ。老中衆の決断でございますが……」
「それなら心配は要らぬ」
淡路守は微笑を頬に泛べた。
「水野越前が居る」
と強い口調で云ったものだ。
「余人は知らぬが、水野越前は大奥粛清を考えている唯一の人物じゃ。これは本物だよ。この間から、わしと話し合っているが、近ごろ珍しい硬骨漢じゃ。越前は、こう申している。自分が老中筆頭になったからには、思い切った改革をするつもりだが、大御所様存命中は憚らねばならぬ。恐れ多いことながら、大御所様ご不例のご様子から見て、ご大漸《たいぜん》は遠からずと思うが、奸物ども百歳の後を考えて策動している。これでは何にもならぬ。だから、越前は、わしに、奥女中手入れの口火を早く切れと催促している」
「そこまで伺えば安心です。水野老中も、なかなかな人物でございますな?」
「切れる男だ。あれならやるぞ。わしも張り合いがある」
淡路守はそう云ったが、ふと気づいたように、
「しかし、縫どのも、なかなかの働きようだが、そこまで食い入るとは身辺に大事はないか?」
眉をひそめて訊いた。
縫の身辺に大事はないか、という脇坂淡路守の言葉を、島田又左衛門は正直にうけ取った。
「もとより縫は充分にそのことを知っております。その任務でお城に入ったからには、生命の危険は、当人も覚悟の前でございます」
又左衛門が云うのを、淡路守は聴いて、彼の顔を眺め、暗く微笑した。
「又左殿は武辺の人ゆえ」
と彼は云った。
「人情のことには疎《うと》いとみゆる。わしが云うのは普通の生命《いのち》のことではない。女の命、つまり縫どのの身体のことじゃ」
「………」
又左衛門は不意に黙った。声は無いが愕然《がくぜん》とした顔色である。指摘されて、そのことに気づき、はっとなった表情だった。
「坊主が」
と淡路守は、又左衛門の顔から視線を外して、沈鬱な声で云った。
「佐島や樅山などの歴々の奥女中の艶書を、渡そうというのじゃ。これは容易ならぬこととは思われぬか?」
又左衛門は眼を落した。淡路守の云う意味が次第に分って来たからである。
「たださえ好色の坊主共じゃ。そこまで縫どのに心を許そうというからには、もとより、ただごとではあるまい。また、何かを縫どのに求めなければ、そのようなことをする筈がない。又左殿、わしが気づかっているのはそれじゃ……」
「………」
「縫どのの誠心はよく判る。今どき、珍しい女子《おなご》じゃと感嘆している。だが、その危険を冒してまで、縫どのに働いてもらうのは、わしも心苦しい。まずまず、ほどほどのところで引返して貰えぬか?」
「淡路守様のお言葉ですが」
又左衛門はようやく口を開いたが、いままでとは声が打って変って湿っていた。
「この一件は生《なま》やさしいことでは探索が出来ませぬ。縫がお城に御奉公に上ってもう一年近くなります。ほぼ、奥女中の様子も判ってきたことと思いますので、彼女《あれ》にもその決心がついたのでございましょう。淡路守様。ご案じ下さいますな」
「しかし……」
「いや」
と又左衛門が首を激しく振ったものである。
「ここで、あれに憐愍《あわれみ》をかけてはなりませぬ。縫の思うように働かせて下さい」
「又左殿」
「いや、仰せ下さるな」
又左衛門の声が泣いていた。
「縫は女の命も、とうに覚悟の上でございます。それでなければ、この大役勤まらぬ。むごいようだが、叔父の手前がそう申しているのでございます」
島田又左衛門は暇乞《いとまご》いした。起って、わざわざ庭の簣戸《きど》まで手燭をもって見送ったのは、脇坂淡路守である。
「秋になった」
と淡路守が呟いたのは、外に出て夜気にふれたからである。
「遅くまで」
「いや、お気をつけて」
碁でも打ったあとのような挨拶をして、島田又左衛門は脇坂屋敷の門を出た。
若党が提灯《ちようちん》を持って前を歩く。脇坂で駕籠をすすめたけれど、又左衛門は歩いた方がいいと断った。足には自信があるのだ。
心には、まだ登美のことが揺れている。年寄佐島のような奥女中と感応寺の寺僧の間に交された艶書を手に入れたとなれば、なるほど、これは寺社奉行が大奥に手入れする重要な決め手になるのだ。脇坂の背後には老中水野越前守忠邦がいて、脇坂の後楯になるという。今度こそと脇坂淡路守も勢い込んでいる。目的は大奥の女どもでない。中野石翁、水野美濃守、林肥後守など、永年に亙《わた》って家斉の寵《ちよう》を恃《たの》み、本丸の将軍家さえも憚らせて、政道を専断し、賄賂《わいろ》をとって政治を腐敗させた汚吏の一掃に在る。
(縫には可哀想だが)
と又左衛門は思っている。この機会でなければ彼らを仆《たお》すことは不可能である。縫が穢《けが》らわしい妖僧の手にかかろうとも、眼を瞑《つむ》らねばならぬ。
(縫も覚悟していよう)
自分の心に、われと聞かせたものだ。
暗い道に、提灯が先に立って歩いている。それが、不意に停った。
「叔父上か?」
向うで声をかけてきた。
若党がふり返って、
「新之助さまでございますが……」
又左衛門が進んだ。
「新之助か?」
「これは」
と新之助が提灯に顔だけ照らされて笑った。
「お待ち申しておりました。お屋敷へ向ったところ、脇坂様へお越しと聞きましたので」
「帰るところじゃ」
とうなずいて、
「何か、急用か?」
「ちと……」
新之助が傍へ来たので、又左衛門は若党に、離れておれ、と命じた。
「例の菊川殺しの一件でございますが」
新之助は低声《こごえ》を出した。
「あれは、やはり石翁の仕業です。死体の始末をした与力を捕えて良庵の家へ置いてあります。それと、石翁の家へ入れておきました、おこんもそう申しております」
「おこんと云ったな。その女が帰ったのか?」
「石翁の屋敷から逃げ帰りました」
「うむ」
「叔父上」
と新之助は云った。
「おこんが申すには、石翁は、どうやら容易ならぬ書付けを持っているようです」
「何だ」
又左衛門が眼を光らせた。
「大御所のお墨附です」
「大御所の……?」
又左衛門が思わず声を上げた。
「それは確かか?」
「確かだ、とおこんは申しております。石翁が、わざわざ、おこんの前で、加賀藩屋敷の用人奥村大膳に見せたそうです」
「加賀藩の用人にか」
又左衛門はうなずいて、
「そりゃ、あることだな。石翁一派は加賀どのと気脈を通じている。石翁が病中の大御所から都合のいいお墨附をねだり取ることは推察していた。それは、この間も脇坂殿と話したことじゃ。やっぱり、そうか」
「そのお墨附の内容ですが」
「うむ、うむ」
「おこんには、もとより分りませぬが、前田の用人が眼を細めて大喜びしていたところをみると、よほど彼らに有利な内容のように考えられます」
「それも、ありそうなことだ」
又左衛門は想像するように云った。
「大御所の目の黒いうちに、石翁が無理にお墨附を強請したに違いない。しかし、そのようなものが、あの一派に渡っているとなると、これは容易ならぬことだ。そのお墨附を振り廻して、何をするか分らぬぞ。これは脇坂殿にもう一度会うために、引返さずばなるまい」
又左衛門は急に心をせかしたように云った。
「そう思ったので、手前も、お留守中を待ち切れず、こちらへ廻って来ました」
「よいことをしてくれた。しかし、新之助、石翁がなぜに、おこんのような女中の前で、大事なものを用人に見せたのじゃ?」
「罠《わな》です」
新之助が苦笑した。
「罠だと?」
「石翁は、女中奉公にきたおこんの正体を怪しんだようです。それでお墨附をわざとおこんに見せびらかせ、わざわざ匿し場所まで見せたそうです。おこんも、女知恵で、それを夜中に取りに行き、うまうまと罠にはまりこんだのです」
「なるほど。それで、無事だったか?」
「どうにか遁《に》げて帰りました。ああ、それにもう一つ土産話があります」
「土産話?」
「左様。殺された菊川の色の相手は、どうやら、その前田の用人、奥村大膳らしゅうございます」
暗い夜道の脇で、この密談はつづいた。
女小間物屋のお文が七ツ口を通りかかったのを見過して、落合久蔵は詰所を脱けて出た。
「おい」
と、うしろから呼びとめたものがある。
お文がふり返って、
「これは落合さま。いつもお世話になっております」
落合久蔵は、今日はむつかしい顔をしている。お文の提げている風呂敷包みをじろりと見て、
「ちと、訊ねたいことがある。こっちへ来てくれ」
と、人目に立たない陰に呼んだ。
お文は、また、登美の文使いの返事を請求されるのかと思って、青い眉をひそめたが、いやとも云えず、素直に従った。
落合久蔵には下心がある。昨日、登美が十日ぶりに感応寺に代参の供をしているのを知っている。登美が寺詣りした翌る日は、必ずこの女小間物屋が、長局へ商売に来ることにも気づいているのだ。
「どうだ、商売は繁昌しているか?」
久蔵は、口先では、さり気なく訊いた。
「はい。お蔭さまで、ごひいきを頂いております」
お文はお辞儀をした。
「女中衆は、髪飾り道具に目がない故、さぞお前も儲かっているであろうな?」
「ありがとうございます。いえ利幅が少うございますから、それほど儲かってはおりませんが、いろいろとお買い上げを願っているので仕合せでございます」
「それは何よりだな」
久蔵は鼻で嗤《わら》うような声を洩らした。
「ところで、お前のその風呂敷の中身を見せてくれるか?」
「え?」
お文はびっくりした。
「何とおっしゃいます?」
「風呂敷包みの中を見せて欲しいというのだ」
久蔵が、嵩《かさ》にかかった調子になったので、お文は瞬間に顔が硬《こわ》ばった。それでも、強《し》いて笑顔をつくった。
「お見せ申すのはやさしゅうございますが、これは殿方にご覧に入れてもつまらぬ女ものの品ばかりでございます」
「いや、それを、わしは見せて欲しいのだ」
「は?」
「それとも、見せることが出来ぬというのか?」
「そういうわけではございませぬが……」
「見せなさい」
久蔵は、お文の手から包みを奪うように取った。
「わしは人の出入りを見張っている詰番じゃ。役目の上からも包みを検《あらた》める」
落合久蔵は大きな風呂敷の包みを解《と》いた。役目だ、とお文に聞かせておいて、勝手にやるのである。
お文は、唇を白くして、おびえたように佇《たたず》んでいた。
まず、簪《かんざし》、櫛《くし》、笄《こうがい》などを納めた、抽《ひ》き出しのついた箱が出てきた。それも二重に重ねてある。
久蔵は、抽き出しの一つ一つを開けてのぞいた。こうなると、彼もお文から嫌われることを承知で、職権にものを云わせているのである。
底の浅い抽き出しには何ごともない。きれいな意匠を凝《こ》らした女ものの道具が、眼に美しくならべて納まっているだけである。
箱の下には、五、六冊の黄表紙が忍ぶように敷いてあった。
「ふん」
久蔵は、鼻をならした。
「お前は、相変らず、こういうものを長局に持ちこんでいるのか?」
かれは、上の一冊をとって、ぱらぱらとめくりながら云った。
お文は蒼い顔になって、
「はい。お女中方より、いろいろとお頼みがありますので、つい、御用をつとめております」
と、できるだけ相手の気持に逆らわぬように云った。
「女どもは、長局で退屈のあまり、かようなものを喜んで読んでいるのか」
久蔵は、本の中の絵を二、三見ていたが、軽蔑したように云って、その下の絵草紙をとり上げた。
「どれもこれも、同じようなものだ」
かれは三冊目をとった。
お文が、耐え切れずに、
「あ、もし、それは……」
と手にとりすがろうとしたとき、久蔵の開けかけた絵草紙の間から、ぽろりと一本の封状が地の上に落ちた。
久蔵は、じろりと、お文を見ておいて、
「何だ、これは?」
と手で拾い上げた。
お文は真蒼になって、眼だけを光らせていた。
久蔵は、拾い上げた封状の表を見たが、宛て先は無く、
裏に、
「縫まいる」
と認《したた》めてあった。
「縫。はてな、縫とは?」
久蔵は首を傾げて、横目でお文を見た。彼は登美の実名が縫であることを知らない。
「は、はい」
お文は、ごくりと唾を呑んだ。
「お端下《はした》部屋の、お末のお方でございます」
お末というのは、長局の下女のことである。
落合久蔵は、登美の本名を知らない。だから上書きの裏にしるした縫の名前を、お文がお末の女中だといっても、彼をごまかせた。
それでも久蔵は、怪しむように、それを見ていたが、
「縫という女中は、お前の近所の者か?」
と訊いた。
「はい。つい、近くに親元がございますので、わたくしが、ときどき、ことづかっております」
お文は、内心、すこし、ほっとしながら答えた。
久蔵は、まだ未練気に、その手紙を手から放さない。お文は、今にも、彼がその封を開けるのではないか、と内心では気が気でなかった。
お文には、その手紙の内容の想像がついている。縫から島田又左衛門に宛てた密書で、感応寺における大奥女中の行状を詳しく伝える報告書であった。これが又左衛門から寺社奉行の脇坂淡路守に流れる情報であることも知っていた。
これを落合久蔵に見られたら、一大事である。
お文は、手紙が久蔵の手のうちにある間は生きた心地がしなかった。久蔵が、役目を云い立てて、中身を改める、と云い出しはしないかと恐れた。
その久蔵は、封をためつすがめつ見ていたが、さすがに、職権をもって検めるとはまだ云い出さない。が、久蔵は意地になっているから、分り兼ねるのだ。
お文は、つとめて愛想笑いをしながら、
「落合さま。どうぞ、御用がお済みになりましたら、お返し願います」
と頼んだ。
「うむ。返せと申すなら、返しもするが」
とじろりと見て、
「長局の者がかような文をお前たちに託して親元と文通するとは怪しからぬ。こんなことは禁制になっている」
と叱言《こごと》を云い出した。
雲行きが、また怪しくなったので、お文は胸が、どきどきしたが、
「恐れ入ります。向後は決して頼まれませぬから、今回はお目こぼし願います」
と頭を下げた。
自分が、登美への文使いを頼んでおきながら、思うようにゆかないので、久蔵がその意地悪をすると思うと、勝手なものだと、お文は肚の中で憤っていた。
折から、遠くの方で、
「落合氏、落合氏」
と呼び立てる同僚があったので、久蔵は残念そうに封書を投げ出し、
「早く仕舞って、帰れ」
と、お文を睨みつけてその場を離れた。
お文は、安堵の吐息をついた。
「添番が咎めたというのか?」
島田又左衛門は、登美からの封書を読み終り、手筥《てばこ》の中に蔵《しま》うと、それを運んでくれたお文に云った。
又左衛門の屋敷で、誰もここには近づけていなかった。
「はい。役目だと申されて、強引に包みを解いて調べられました」
「今までに無かったことだな?」
「初めてでございます」
「どうしたのだろう?」
又左衛門が、気がかりげに、眉をひそめたのは、もしや、この密書連絡が添番詰所に気づかれたのではないか、ということである。
お文は、落合久蔵の魂胆を知っている。久蔵が、縫に懸想《けそう》して、その想いが遂げられぬところから、文使いを頼んだ自分まで小憎らしと思っているのだ。彼が役目と称して、包みを改めたのは、つまりは、その意地悪である。
が、そのようなことは、謹直な、この島田又左衛門には云えなかった。
「とにかく、添番が、この文まで調べなかったのは、何よりだ」
又左衛門は、今は、ただその無事だけを喜んでいた。
「わたくしも、ほっと胸を撫で下ろしました。一時はどうなることかと、生きた心地がしませんでした」
お文は、いまさらのように溜息をついた。
「心配かけた」
と又左衛門は礼を云い、
「そなたのお蔭で助かっている。これは、わしだけのことではない。いずれ、事が済んだら話すつもりだが、そなたの役目は天下のお為になっていることじゃ。いや、大げさな、と思ってくれるな、真実《まこと》、そうなのだ」
「勿体のうございます。わたくし風情に……」
お文は頭を低く下げた。
「もう少し、辛抱してくれ。目的の成就は、眼の前に来ている。何とか、添番たちの眼を掠《かす》めて、縫から密書を運んでくれ。長うはない。いま、しばらくじゃ」
島田又左衛門に熱心に頼まれて、お文はその屋敷を出た。
外は、もう昏《く》れかけている。この昼間でも静かな屋敷町が、人の影を絶っているのだ。
帰りを急ぐ、お文の胸に、一つの不安が揺れている。
島田又左衛門からは、懇々と頼まれたが、この仕事が、無事に果せるかどうかということだ。
落合久蔵に咎められたが、今度は、どうにか無事だった。しかし、この無難が、このまま終りまでつづけられるだろうか。悪い予感がする。
暗くなりかけた空に、鴉《からす》が二声啼いて通った。
お文は、よけいに不吉な気持になった。
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愛  経
雑司ヶ谷の感応寺は、境内拝領地二万八千六百余坪あり、表間口二百九十間、裏幅二百六十九間、奥行、東の方二百十間、西の方二百二十間あるという広大なもの。
お美代の方の信仰が特に篤《あつ》いため、堂宇も見事なものだし、大奥や諸大名関係の寄進も多い。
本堂は、総朱塗、影向《ようごう》柱は総金で、金襴巻極彩色である。格天井《ごうてんじよう》も極彩色で天人を描く。組物や彫物は、すべて天人か、又は、竜、獅子、鳳凰《ほうおう》などで、欄間《らんま》には極彩色の四季の花鳥が上げてある。
本堂に安置した本尊は、宗祖日蓮大菩薩読経座尊で、御丈三尺六寸、左脇壇には一寸八分の大黒天秘仏の尊像、右の脇壇には、大国|阿闍梨《あじやり》日朗菩薩念珠の座像がある。
本坊客殿は南面して桁行《けたゆき》八間半、梁間《はりま》六間半、向拝《こうはい》三間半に九尺、内陣三間半に五間。総坪は七十八坪。
庫裡《くり》の坪数は百二十二坪。この中には対面所十二畳の間というのがある。壁、床、違棚の張付は金砂子で、富士山、舞鶴、若杉の画で、秀伯筆。小襖、附書院下は梅の絵、違棚上は、遠山に鹿の絵で、同じく秀伯筆。
そのほか、居間、内仏間、惣門、鼓楼など、いずれも美観でないものはない。
この日、年寄佐島と、年寄樅山とが、幾十度目かのお美代の方の代参として詣り、台香炉を寄進した。
寺側では、本坊客殿に迎えて、歓待につとめる。将軍家や、御台所の代参と違って、格式は厳しくないが、お美代の方の代参とあれば、無論、大切この上もないのである。
ここで、暫らく休憩があって、内陣に案内される。
ここでは、衆僧が揃っていて、加持祈祷の用意が出来ている。正面に本尊三宝、四菩薩、四天王、三聖、二天を祀っているが、外光を遮断した内陣は、昼間でも夜のように暗く、銀燭台の上に燃えている火が、神秘な光をあやしげに放っているだけである。
その正面の壇上には、祈祷の願文を認《したため》た剣形の立札があり、天井には|しめ《ヽヽ》縄を張って、幣が垂れている。衆僧は、手に剣形の板と数珠を持ち、それを振って打ち鳴らすのである。
「あにまにまねい、ままねい、しれい、しゃりてい、しゃみや、しゃび、たいせんてい、もくてい、もくたび、てい、もくてい、もくたび、たび、しゃび、あいしゃび……」
祈祷の経文は、妙法蓮華経の陀羅尼品《だらにぼん》で、この唱和する坊主の声が、暗い内陣の中に虻《あぶ》の群のうなりのように湧き上っているのだ。
佐島も、樅山も、坊主たちのあとに、神妙に手を合せている。
「まかざれい、うつきもつき、あれあらはてい、ねれていねれたはてい……」
登美も後にうずくまってじっと経を聴いていた。
感応寺の住職は、お美代の実父日啓だが、これは老齢で祈祷の勤めは出来ない。こういうときは、弟子の日祥が代りをしている。
日祥は、三十二、三歳で、美男のため、まだ二十七、八くらいにしか見えない。顔が、いま木挽町で評判の、瀬川菊之丞に似ているとかで、参詣の奥女中には第一の人気がある。
老獪《ろうかい》な日啓のことだから、日祥を出すのは、己が老齢のためばかりではなく、この辺の計算も入れてのことかもしれない。
ほの暗い内陣では、その日祥の声がひときわ高く聞えて、読経が次第に終りに近づいたことが知れた。年寄佐島は、肩のあたりを震わせんばかりにして、恍惚としてその声を聴いている。
「──そまなげゆとう、せんぽけゆとう、はしかけゆとう、うはつらけゆとう、にょぜとうひゃくせんしゅくようしゃ……」
陰にこもった単調な律音《リズム》が、かっかっと鳴る数珠の音に伴奏されて、蝋燭の灯のゆらぐこの内陣に神秘的にひびく。
やがて、声が余韻をひいてしぼむと、板を打つ数珠の音が一段と高くなり、加持祈祷の儀式は一応終った。
「南無妙法蓮華経……」
佐島も樅山も、神妙そうにとなえた。登美も、それに唱和して、手を一心に合せた。
日祥が仏前から起って、衆僧をかき分けてくると、佐島の前に、ぴたりと坐って手を突いた。金襴の袈裟をかけた目のさめるような姿である。
「これにて、無事、加持祈祷の修法はおわりました。今日は、ご名代様には、遠路のところ、お役目まことにご苦労さまに存じます」
澄み徹った声だし、ほのかな光の当る半顔は、浮き彫りされたように美しいのである。
佐島が、年齢《とし》に似合わぬ恥らいを身体に見せて、
「お前さまこそ、ご苦労さまでございました。いつもながら有難きご祈祷、泪がこぼれます。お城に還って、お美代の方様に申上げなば、さぞご満悦のことと思います」
と日祥の労を犒《ねぎら》った。
「恐れ入りましてござります」
と日祥も礼を云った。
それから、別間にて休憩ということになるのだが、この寺の習慣になっているのか、佐島と樅山が、別々に僧に案内されて先に起った。佐島と樅山は、少しうつむき、かいどりを捌いているが、そのとり澄ました顔は、もう赧く上気していた。
登美が、まだ、そこに坐って合掌していると、
「お登美さま。どうぞ」
と若い寺僧が耳もとに来てささやいた。
登美はうなずいたが、大きな息を思わず吐いた。
登美が通された部屋は六畳の小部屋で、客殿から東へ渡廊下をわたり、さらに一間幅の廊下を奥へ踏んでゆく。右に八畳の役番部屋、左に十二畳の対面所と三十畳の部屋が三間つづいている。その鈎《かぎ》の手の廊下を突き当って、右に廻るのだ。
その部屋は、日ごろ、何に使っているのか分らない。とにかく、ここにも仏壇があり、天井には菊の極彩色、左右の襖は淡彩で、大松に群鳥の画が描かれてある。外の光線が射さずに、仏壇に燃えている蝋燭がただ一つの照明であることは、内陣の陰湿な感じと同じであった。
しかし、登美がこの部屋に入ったのは、今日が初めてではない。これが何度目かであった。仏壇の金箔も天井の菊の模様も、襖の松の枝のかたちも、眼には馴染のものなのである。
小僧が、茶を登美の前に置いて退った。
それきりである。だれも入っては来ない。遠くではうちわ太鼓を叩く音がしている。
登美は、ぽつねんと坐って、それを聴いている。佐島も樅山も、どこに行っているのか、さっぱり姿を見せない。人の話し声も聞えないのだった。その静寂なことは、部屋の昏《くら》さと同じように、外に明るい陽が当っているとも思えなかった。
どれくらいの時が経ったか。廊下を踏んでくる忍びやかな足音が耳に入ったときは、登美の胸がはっとして騒ぎ出した。
襖が開いた。
登美はうつむいたまま、それを見ずに、耳で知っていた。坊主が衣を捌く音を聴かせて、横に坐ったのである。
すぐには、声がせず、
「登美さま」
と云ったときは、もう上《うわ》ずったものだった。
さっき、幽暗な内陣で、陀羅尼品《だらにぼん》の経を有難そうに誦《ず》したのと同じとは思えない人間臭い声であった。
「よく、見えられました」
と、その声はつづいて云った。
「お逢いしたかった。登美さま、一日一日が辛抱出来ぬくらい、早うお顔が見たくて、待ち焦《こが》れておりました」
男の息が、すぐそこにせわしなく聞えたので、登美は顔を上げた。
日祥の顔が近いところに迫っていた。瀬川菊之丞そっくりだと評判をとっている美しい面貌《かお》に、眼が光っていた。その見開かれた黒い瞳には、蝋燭の灯が点《とも》っている。
「あ、もし」
登美は、日祥の伸びて来た手を外し、
「いけませぬ、日祥さま……佐島さまは、どうなされました?」
と身体を後へずらせると、
「なんの、あのお婆《ばば》。待たせておけばよろしゅうございます」
日祥は、それを吐き出すように云った。
「まあ」
と登美は、日祥の顔をわざと打ち眺めた。
「お口の悪いこと、そのようなことを仰せられてよろしいのですか?」
「構わぬ」
日祥は真顔で否定して、
「佐島さまには手前の心は少しも動いておらぬ。至極迷惑しているところです」
「それは、ちと、罰が当りましょう」
「はて」
「小首を傾《かし》げなさることもありますまい。随分と今までお仲がよろしかったではございませぬか?」
「それそれ」
日祥は手を振った。
「それが手前には迷惑千万と申しているのです。これは何度も登美さまには申し上げていることで、佐島さまがどのような振舞をなされても、手前には、とんと関わりがございませぬ」
「でも、お仲のむつまじいことは、どなたさまの眼にも映っている筈です」
「当寺が大奥の特別の庇護を蒙っているからには」
と日祥は、かなしそうに云った。
「そう無下《むげ》なることも出来ませぬ。ご参詣のお女中のお気に入るよう万事、お勤めせよとは上人さま(日啓)よりのお達しでございますゆえ、やむなく、ほどほどのお相手をしている訳でございます」
「それ、お相手なされていると申されたではございませぬか?」
登美は睨むような眼をした。
「こ、これはしたり、そのような意味では毛頭ございませぬ」
日祥は、あわてたように、どもった。
「ただ、檀家のご機嫌をとっているのと、少しも違いはありませぬ。手前は、佐島さまの皺《しわ》づらを見るのも厭でございます」
「いまごろは佐島さまが、くさめをなさっておられましょうな」
「いや、これは手前の真実の言葉でございます。あの、お婆さまの、骨っぽい手で握られると、手前も寒気がして、逃げ出したくなります。それを寺のために、じっと我慢している辛さ。登美さま。お察しなされて下され」
日祥は、登美の方にいざり寄ると、また、手をのばして登美の指を握った。登美は、今度は、それを振りほどかなかった。
「のう、登美さま、手前はあなたさまを一目見たときから、執心いたしました。仏に仕える身で恥かしい話ですが、この想いばかりは、経を万巻|誦《ず》したところで救われませぬ。登美さま。これは真実本心、初めてこの世の煩悩《ぼんのう》地獄を味わいました」
「そりゃ、まだ信用できませぬ」
登美は相手をじらすように、首を小さく振った。
「なに、これほど申しても、信じて下さらぬとは?」
日祥は、手を握られたままうつむいている登美の横顔を見つめた。伏し眼になっている登美のまつ毛は長く揃って黒い弧をきれいに描いていた。これは男の心を焦らせるに充分だった。
「登美さま。先だってより度々申し上げた手前の気持、まだ判ってくれませぬか?」
登美は、かすかに首をふった。
「その、お言葉が本当やらどうやら、わたくしにはまだ得心がゆきませぬ」
「はて。それは、また、どうしたことで?」
「お前さまは、類《たぐ》いなき美しいお方。わたくしは、まだ見ませぬが、瀬川菊之丞とやら申す人気役者にそっくりとのこと。わたくしと違って、身分の高い大奥女中方が、わいわい騒いでおりまする」
「そんな話は聞かぬでもないが」
日祥は内心の得意を抑えるように、控え目に云った。
「どのようなことを云われようとも、手前の気持は登美さまひとり。ほかの方には、心が動きませぬ」
「お口のお上手なこと。叶《かな》いませぬな」
「何を申される?」
「日祥さま」
登美は、不意に顔をあげて、日祥を見た。黒い瞳だが、強い視線であった。
「佐島さまは、どうなさいます?」
「はて。また、あの婆さまのことを……」
「いえ、いえ。そうではありませぬ。あなたさまがどのようにおかくしなされても、わたくしの眼には狂いはない。あなたさまは、たしかに佐島さまと懇《ねんご》ろになさいました」
「これは、また、登美さまの疑り深い……」
日祥は、声も乱さずに云った。
「あの婆さまとは、ただ、大事な檀家としてのおつきあい。向うさまが、少々どうかしてござるだけでございます。あの執拗《しつこ》さには、手前も閉口しております。考えてもご覧《ろう》じませ。あのような皺くちゃ婆さまに、手前が欲気を出す道理はございますまい。いまも、向うに婆さまを置いてけぼりにして、こうしてそなたの傍に来たではございませぬか」
「でも、佐島さまは、お偉いお方ゆえ……」
「どのように偉くとも、あの猫のような顔ではご免じゃ。手前は、そなただけしか目に入らぬ。これほど申しても分りませぬか?」
日祥は、登美の手を握っていたが、身ぶるいすると、たまりかねたように、抱き寄せようとした。
「あれ、まだ、いけませぬ」
登美は日祥の身体を押し返した。
「まだ、とは?」
日祥が、身体を反らせ、後手をついて、登美を燃えるような眼で凝視した。
「お言葉だけでは信用できませぬ。わたくしも、あなたさまが好きなゆえ、欺されたときのことを思うと、いっそ、口惜しゅうございます」
登美は、自分を見つめている日祥に云った。
「そなたを欺す?」
日祥は眼の色を燃やして、
「なんでそなたを欺してよいものか。これでも御仏に朝夕仕える身じゃ。遊び女《め》を相手に申しているのではない。仏罰の恐ろしさを思うと、嘘など云える道理はございませぬ」
と云い、また、身体をそろそろと近づけてきた。
「いえいえ、佐島さまとあれほど懇ろにされていながら、わたくしの前では、悪口を申されます。次は、わたくしの番じゃ。あなたさまに飽かれたら、今度は新しい女中衆に、わたくしを悪しざまに罵って口説き、わたくしは捨てられるのでございましょう」
「どこまでも疑り深いお方じゃな」
日祥は呆れたような眼をした。
「あの婆さまと、手前とは何ごともありませぬ。向うで勝手に執拗くもつれて来ているだけでございます」
「そりゃ、本心でしょうなア?」
登美は強《きつ》い眼をした。
「本心とも」
日祥も言葉に力を入れた。
「そんなら、佐島さまに心が無いという実証を見せて下され」
「と、いうと?」
「この間から頼んでいる通り、佐島さまから貰った文《ふみ》を、みんなわたくしに見せて下され」
「さあ、それは……」
日祥は当惑顔になった。
「いかに、何でも……」
「いやじゃ、いやじゃ」
登美は激しく顔を振った。
「それを、みんな見せて下さらぬうちは、わたくしの心が融《と》けませぬ。あなたさまは、佐島さまにも都合のよいように、わたくしにも調子のいいことを申されているように思います」
「これは、したり、な、なんで手前がそのようなことを……」
「かりにも女の大事じゃ。あなたさまのお言葉だけでは、お心に従うわけには参りませぬ。わたくしの安心するようにして下さりませ。それなら、いつ、なんどきでも、わたくしは女の命をあなたさまに預けます」
登美は顔を伏せた。
「きっと、左様か?」
日祥は、登美の匂い立つような白い衿すじを見て、唇を震わせた。
「はい、必ず……」
登美は、うつむいたまま、うなずいた。
「よし。さらば致し方がない。ここに、その文の束を持って来ました」
日祥は袈裟《けさ》の衣に手を入れた。
日祥が、決心したように、懐の中から出したのは、文束《ふみたば》だった。四、五通はあるらしい。
「これじゃ、あの婆さまからもらったのは……」
日祥は、てれもせず、登美の眼の前に見せた。
「あ、これが佐島さまの?」
登美がとびついて、
「どうぞ、わたくしに読ませて下され」
「いや」
日祥は文を持った手をひいて、
「このようなものを見せたら、登美さまが手前を嫌いになられます」
登美の顔を窺《うかが》うように見た。
「何故でございます?」
「それは分り切ったこと。手前には覚えのないことを、いかにも有ったように、いやらしい文字で、じゃらじゃらと認《したため》てあります。知らぬ者がよんだら、佐島さまと手前とが、いかにも訳あったように取りまする」
「そりゃ、なおさらに読ませて頂きとうございます」
登美は、俄かに熱心な表情になり、生気を得たようになった。
「さあ、日祥さま。一通だけでも見せてくだされ」
と文を握った日祥の手にとりついた。
日祥は、登美のその手を片手で掴み、
「そんなら、一つだけは仕方がない。その代り、きっと手前がいやになったとは申されませぬな?」
「はい。必ず。それは得心ずくでございます」
「ならば、仕方ございませぬな」
日祥は、いかにも惜しそうに一通を登美の手に渡した。
登美は、それを、急いで披《ひら》いた。長い手紙だ。彼女は巻紙をくりひろげ、一心に眼を移してゆく。
なるほど、濃厚な文句であった。文字は、お家流で優美だが、内容は、遊女のように、露骨な恋情が認めてある。
日夜、お前さまのことで恋いこがれている……この間、遇うたときのうれしさが忘れられず、その喜びが、まだ身体の内にうずいている……そのため、独り寝の夜が苦しく、お前さまの面かげを手枕にして寝ると、夢を見るのだが、それが、うれしくも恥かしい……今度の代参の日が待ち遠しく、もう心が火のように燃えている……。
登美が読んでいて、耳朶《じだ》が赧《あか》くなるような文字が臆面もなく綴られてある。
登美が読んでいる眼が妖しく光ってきたと思ったか、日祥が、むず痒《がゆ》そうな微笑をうかべて、
「のう、登美さま」
と握っている手に力を入れた。
「それをよんで、まさか手前が嫌にはならぬでしょうな? 今も、申した通り、この文の文句は、みなそらごとじゃ。登美どの。まさか、あなたさまは、これが真実《まこと》とは思わぬでしょうな?」
日祥は、なかば、危ぶむように、登美の横顔を見つめた。
「いいえ、まんざら偽りごととは思いませぬ。佐島さまのご執心なこと、読んでも、読んでも、胸がつかえて参ります」
「それそれ、それが、あの婆さまのひとり合点の幻じゃ。ありもせぬことを、あったように思い、このようなことばかり書いてよこします。迷惑するのは、手前ばかり……」
「でも」
登美はうなずいて、
「その言い訳は、どうでも、こうして文を下さるからには、あなたさまのお心も、少しは分って参りました」
「そうか、少しは分ってくれましたか?」
「はい……」
「それは忝《かたじ》けない。さてもさても、登美さまの頑《かたくな》なこと。骨が折れました。本当に、腹が断ち割れるものなら、この気持を見せたいほどでございます」
日祥は喜色を満面に泛《うか》べた。
「それでは、日祥さま。その文の束をこちらに頂きましょう」
登美が、日祥の持った文束に指を伸ばすと、日祥はその手をあわてて後に引いた。
「あれ、どうなされました?」
登美が叫ぶように云うと、
「いやいや」
と日祥は激しく首をふった。
「これは、滅多に渡せませぬ」
「はて、それは、また、何故でございます?」
登美の眼は、驚愕していた。
「されば、手前もこうして、洗いざらい、あなたさまに実証を見せたからには、今度は、あなたさまの実証をこの場で見せて下さいませ」
日祥は、熱い息をはいて云った。
「えっ」
登美の顔が一どきに硬直した。
「のう、登美さま、手前の切ない心、察して下され。この婆さまの文などお前さまに見せただけでも、これが分れば、手前には一大事じゃ。それを、気の済むように、お前さまに渡すと申している。滅多な気持では出来ませぬぞ」
「………」
登美の胸の中が嵐のすさぶように揺れた。この佐島の艶書は、生命に代えても欲しいのだ。この機をのがしたら、日祥の気がどのように変らぬとも限らぬ。
息が詰りそうだった。眼の前が暗んできて、あたりが黒ずんで見えた。
「そんなら、きっとかえ!」
日祥を見上げた登美の眼は、火のようだった。
年寄、佐島は、さっきから苛々《いらいら》して坐っていた。
「上人《しようにん》さまに呼ばれていますので、少々、お待ち下さいまし」
と日祥が断って、出て行ってから、もう半刻を過ぎるのである。
「左様か。ゆるりと用事を済ますがよい」
と佐島は仕方なしに鷹揚に微笑して応えたものの、出て行ったきりで、日祥は容易に帰って来ない。
その間、小坊主にお茶を三度とり替えさせたが、それは日祥の様子を訊くためで、
「日祥どのの用事はまだか?」
と見栄も体裁もなく訊いたものである。
佐島の通される部屋は、いつもきまっている。この寺院でも、最も奥まった部屋で、立派なものだ。
前は閉め切った障子を隔てて中庭に向い、両隣の部屋は役僧の個室だが、佐島がここに入っている間は、遠慮して出て行っている。
欄間の松に鶴の彫物、襖の金砂地に墨絵で描いた花卉《かき》、袋戸棚の小襖の極彩色の波に千鳥の模様──それはもう見飽いて、かえって視線にちらつき、神経が尖ってくるみたいである。
樅山はどうしているのだろう。それを想うと、自分だけに貴重な時間が無駄に流れているようで、いらいらしてくる。
脳天に血が逆《のぼ》って、身体が自然と落ちつかなくなった。
鈴を鳴らすのも、自然と手荒くなった。
襖を開け、廊下に小坊主が畏った。
「お呼びでございますか?」
と悠長なのだ。
「日祥どのは、どうしておられる? 上人さまの御用はまだ済まぬかえ?」
こめかみのあたりに、うすく青い筋が浮いた。いつも隠したがっている顔の皺《しわ》が、濃くなった。
「はい。いま少々……」
小坊主はおじぎをした。
襖がしまって、小坊主の足音が消えてからも、佐島の神経は尖ってくる。いや、ひとりにされると、よけいに孤独地獄に陥るのである。
不自由な外出だけに、時間の貴重さが身にこたえるのだ。六ツが帰城の刻限だった。
ふと、登美は、どうしているのだろう、と思った。
あの女は、おとなしいから、どこかの小部屋に静かに坐っているに違いない。きれいな顔をしているから、若い坊主に人気があると、この間、日祥が、睦言《むつごと》のついでに云っていたが……
はっと顔色が変ったのは、その日祥と登美との影である。
(もしや)
佐島の唇が、悪い想像で見る間に白くなった。
佐島は、日祥と登美の二つの影を眼に泛べてならべると、不安が急に逼ってきた。
登美が、若くて、美しいだけに、危惧《きぐ》が胸に拡がるのである。
佐島は、すでに三十四である。この年齢の女なら、誰でも感じることだが、若い者への劣等感がいつも内心に存在している。
それを見せまいとする強がりが、地位の優位を利用しての高飛車な態度であり、統御であり、貫禄である。
しかし、この弱点が、一たび破綻《はたん》すると、若い者への嫉妬と憎悪は激しいのである。
佐島は、手荒く、経机の上に置いてある鈴をとって振った。
小坊主が来るのも遅しと、起ち上ると、自分で廊下の杉戸を開けた。
行儀よく歩いて来たのは若い納所《なつしよ》坊主で、廊下に坐った。
「日祥どのの用事はまだかえ?」
佐島の声は初めから尖っていた。
「はい。いま、少々」
坊主は佐島の剣幕に怯えていた。
「左様か。いかい暇どりじゃな」
坊主の青い頭を上から見下ろして、
「供して参った登美は、いずれに待っている?」
と、わざと柔かく訊いた。
「はい。それでは伺って参ります」
坊主は起ちかけた。
「訊かぬでもよい。そなたが知っていよう?」
「いえ、手前は……」
「かくすでない」
佐島は鋭く浴びせた。
「およその見当はついている。そなた、日祥から口を禁《と》められたであろう?」
「い、いえ、け、決して……」
「それ見い。あわてているではないか。さ、早く、そこへ連れて行け」
「で、でも、手前は、なにも存じませんので」
「教えてくれたら、褒美《ほうび》を遣ろう。あとでそなたが叱られることはない。日祥には、わたしが、よく云っておく」
佐島は、懐から金襴の紙入れを出すと、二分金を坊主の目の前に落した。
「こ、これは……」
納所坊主はあわてた。
「さ、早く。こちらかえ?」
佐島は、廊下を奥の方へ向った。かいどりの裾を忙しくさばいて進む。
「もし」
坊主が金を握ったまま、狼狽してあとからついてきた。
廊下に突き当った。
「こっちへ行くのか?」
佐島が右に行きかけて、うしろを振り返ると、納所坊主は、廊下にペタリと坐って口を開けたまま、首を振った。左へ行けと、教えているのである。
佐島が、この部屋だ、と直感に来たのは、廊下を曲って、四枚目の杉戸の前であった。
前後を見廻したが誰もいない。納所坊主も途中で逃げ帰ったらしい。
この部屋なら、佐島も前に一度、日祥と入って、ひとときを過した記憶がある。部屋の間どりや、襖、戸袋の模様まで覚えていた。
佐島の顔が、ひき吊《つ》ってきた。
胸の中が熱い湯を注ぎこまれたように沸《たぎ》り立つ。吐く息が炎のようだった。杉戸の前に釘づけになった脚は、黒い直感に慄えていた。
そっと、耳を杉戸に当てたが、内部《なか》からは、こそりとも物音がしない。声も聞えない。空洞のように静まり返っているのである。
が、佐島には、この杉戸の向うに、何か二匹の動物がうずくまっているように思えてならなかった。その動物の吐く息が耳に感じとれそうなのだ。
佐島には、まだ、わずかだが、自尊心が残っていた。それが、杉戸に手をかけて、いきなり引き開ける衝動を制止していた。
彼女は何度か躊《ためら》った。胸は嵐のように狂い、呼吸が苦しかった。
足が、その場所を一度はなれたのは、その息苦しさを整えるためだった。
二、三間、こっそりと廊下を歩いた。ひっそりとした昼間の寺院は、廊下も、天井も冷たい。お題目の太鼓も経の声も、いまは、落ちた風のように熄《や》んでいる。
佐島は、ふう、と太い息を吐いた。熱病患者のように、息が熱い。
日祥と登美の縺《もつ》れた姿、が眼にうつる。払いのけようとしても、執拗に泛んでくるのだ。男のしぐさ、男の甘えた声は、佐島の知識にあったし、想像が、それだけ、現実的で、なまなましいのである。
どうしたものか──
佐島は、験《ため》しを思いついた。
廊下を、今度は、強く足音を立てて歩いた。女の歩き方ではなく、男のような乱暴な音であった。
それを、目指す部屋の前で、不意に停らせて、今度は、忍び足になり、そっと杉戸に耳を当てて屈んだ。
ことり、とかすかだが、音が聞えた。はっきりと、現実的な音であった。つづいて、また、ことり、と音がした。
佐島の頭に、火がついたのは、その音を耳にしたからであった。
いきなり、杉戸に手をかけたが、びくとも動かない。杉戸が女の力で重いためではなかった。はっきりと、内部《なか》から、戸締りしているのだ。
「日祥どの」
佐島は、錯乱して戸を叩いた。
「開けなされ。何をしている」
恥も外聞もなく喚《わめ》いた。
「日祥どの。わたしじゃ。開けなさい」
日祥は狼狽していた。
廊下に足音がしたときから、はっとして、登美の背中に廻した手を、思わずゆるめたものだが、そのままじっとしていたのは、足音が、この部屋とは関係なく通りすぎるかと思ったのだ。
が、足音は、ぴたりと、この部屋の前でとまったのだ。部屋の入口の杉戸は、外から開かないように、棒を挾んで置いてある。
登美は、うつ伏せになって厚い座蒲団の上に崩れていた。お寺で、坊主が坐る座蒲団だから、大きくて、贅沢に厚いのである。
登美の髪は重く前に傾きくずれて拡がった衿から、背中まで覗かれそうだった。白い光沢をもった皮膚が、充分に日祥の血を逸《はや》らせているところであった。
登美は、微動もせず、上からそこに突き倒されたままで、死んだという恰好だった。帯の結び目がほどけかけているのは、日祥の手が、いま、それを解いたばかりのところだからである。
日祥は、次に移る作業をしばらく中止して、廊下に聴耳を立てた。誰かが様子を窺っているのではないかという不安だ。
誰かが──日祥が、身体に急に寒気を感じているのは、その誰かが、寺の住人ではなく、顔に厚化粧をして皺をかくしている佐島ではないか、と予感したからだ。
杉戸の向うに跼《かが》んでいる者が感じていると同じことを、日祥も直感していた。そこに、何か一匹の生物が眼を光らせているように思える。
日祥は顔に汗を出している。呼吸《いき》切れがしそうだった。
うつ伏せになった登美の顔を起そうと、手を頬に当てたが、女は軽い抵抗をして云う通りにならなかった。が、すり寄せた男の鼻には女の匂いが、むせるように充満した。
日祥は、飛び上った。予感はしていたが、こうはっきり事実となって現れると、彼は魂を消した。
「早く、早く」
と、低いが、あわて切った声で登美を揺さぶった。
「日祥どの、ここを開けなさい、日祥どの、早く」
日祥が、髪の下に露《あらわ》れている女の真赧になった耳朶《みみたぶ》を吸おうとしたとき、
「日祥どの!」
と、はっきり佐島の上ずった声が聞え、戸が激しく鳴ったのである。
杉戸が寺いっぱいに響きそうに叩かれた。
日祥は眼をむき、蒼くなってうろたえている。それでも庭へ下りる明り障子を明けて避難の道をつくった。
日祥が真先になって、衣を翻し、縁からとび降りて遁げた。
登美の眼に、日祥が畳の上に落して行った文の束がうつった。
佐島は、なおも外から戸を叩いていた。
「日祥どの。どうなされた。ここを開けぬか。早く」
男のように野太い声である。それに、気が苛立っているから、外聞もなかった。
「日祥どの、日祥どの」
眼が光り、顔が蒼すごんでいた。
この騒ぎが、あたりに響かぬ筈はない。
廊下の角から、坊主が、一人、二人と姿を現しておずおずとこちらを眺めていた。佐島の剣幕がすごいので、近づけないらしい。
佐島の眼にも、廊下の端から、こちらの様子を見ている坊主の姿がちらりと入った。
いくら狂ったような状態でも、さすがに、はっとしたらしい。見栄をつくろう習性のついている大奥女中の高位者だけに、とっさにわが姿の破綻《はたん》を救う動作をとった。
かいどりをとり直し、のぞいている坊主の方を向くと、
「これよ」
と、顎をしゃくって呼んだ。打って変った静かな声なのである。
は、と摺り足に坊主が来る。これは小坊主でなく、年輩の役僧だった。
「この部屋に日祥が閉じこめられているようじゃ。開けてやれ」
役僧が、怪訝《けげん》な眼つきをしたのは、その意味がよく呑みこめなかったからだが、険しい顔をして、ものも云わずに立っている佐島を見ると、懼《おそ》れて訊き返しも出来なかった。
は、と畏って、杉戸に手をかけて開けようとしたが、無論、開く筈はない。
「よそから入れ、中で閉めているのじゃ」
佐島が性急な声で命じた。
この佐島の声を、登美は内部《なか》に立ったまま聴いていた。杉戸には棒が閂《かんぬき》のように挾まったままである。
登美は、日祥が落して行った文《ふみ》の束を手で数え、それをしっかりと、懐《ふところ》の奥へ納める余裕があった。動悸が激しく打っている割合に、気持は落ちついていた。
庭に面した明り障子は、あいたままである。日祥のつくった避難路だが、今度は、登美の逃走路になっていた。
彼女は、裾をからげ、庭石を足袋で踏んだ。乱れた着物の着つけは、きちんと支度し直したし、今度は、庭下駄を早く見つければよいのである。
庭下駄は、すぐ離れたところに、揃えて置いてあった。いつでも庭を歩きたい者のために用意されてあるのだが、足袋|裸足《はだし》で逃げた日祥は、眼が昏《くら》んで、これを足にかける暇がなかったらしい。
登美は、中庭をよぎった。秋の陽が手入れの行き届いた草と木の上にひろがっている。彼女は、そぞろ歩きでもしているように本堂の方へ向った。
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攻  勢
暮れてしばらくだったから、五ツ(午後八時)ごろである。
向島堤を一挺の町駕籠が北へ急いでいた。提灯もつけて、ちゃんとした普通の乗物であった。駕籠屋のほかに、ひとり附添いがついていた。頬被《ほおかむ》りをして、裾をからげている。駕籠の中にいる客の供人かと誰でも思うのである。
この男が、ときどき、指をあげて駕籠屋に何か云っているので、行先の案内人でもあるらしい。
星が無く、暗くて分らないが、空には厚い雲が垂れているようでもあった。
駕籠の中の人物は、声も洩《も》れない。そういえば、駕籠は、外から、丈夫な縄で、真ん中が括《くく》られているのだった。内の客が、駕籠から外に転落しないための要心だが、これは気力の弱った病人か、前後不覚に意識もなく酔った人間への処置である。
川の水も、樹木の茂みも黒い。
駕籠は、土手を切れて、田圃の見渡せる場所に来たが、附添いの人間が方向を教えたのは、石翁の邸であった。
広い邸で、外から見ると、庭の立ち木が、森のようだった。
門は、むろん、閉まっている。
駕籠が、門前の真正面に下りた。
「ここらでよかろう」
と頬被りの男は駕籠屋に指図した。
駕籠屋が、乗物の上から縛った縄を解く。それから、大酔の果か、前後不覚に大|鼾《いびき》をかいている一人の男の、背に廻って脇に腕を入れてひき出した。
奇怪なことに、頬被りの男の指示で、その酔い痴《し》れた男は、門の脇の塀のところに、背中を凭《もた》せて坐らせられたのである。茣蓙《ござ》も敷かず、じかに、地面の上だった。
「帰ってくれてよい」
と駕籠屋に、頬被りの男が云った。
「へい」
駕籠屋自体が、この処置を怪訝《けげん》に思い、塀にもたれて鼾をかいている男を心配そうに見たものである。
酔って、睡っているから、駕籠から落ちないように縄をかけてくれと、注文したのもこの男なら、ここへ着けてくれ、と云ったのもこの雇い主なのである。
「早く、帰ってくれ。早い方がいいぞ」
頬被りの新之助は駕籠屋をせかした。
「へい、へい」
充分に酒手をもらっていることだし、駕籠屋は、何か無気味なものを感じて、急いで空駕籠を担いで去った。
新之助は、それを見送ると、まだ地べたにだらしなく坐って眠っている男をじろりと見た。
「ご門番、ご門番」
と門の戸を激しく叩いたのは、そのすぐあとである。
戸を叩く音に門番が出て来て、
「どうれ?」
と、脇のくぐり戸から顔をのぞかせた。
「どなたじゃ?」
頬被りの男が立っていたので、怪訝な顔をしている。
「通りがかりの者だが」
と新之助は、おだやかに云って、
「ご当家のお知り合いの方だそうだが、大そうお酔いになって、前後不覚のようじゃ。ご門前まで介抱して参ったが、どうぞお引取りを願いたい」
門番は、この口上をきいて、
「それは、ご親切に。して、いずれにおりますか?」
と云ったのは、本当に邸の者が外で酔い痴れて帰ったのか、と思ったからだ。
「あれに」
男が指さしたので、門番は釣られて外に出る。見ると、なるほど、塀のところに、黒い人間の影が地面に坐り込んでいるのである。
「おう、これは」
と近づいて、その顔をのぞき込んだが、当邸の人間というのは誤りで、よく邸に出入りする八丁堀の与力なのである。門番は、その顔と名前を知っていたから、
「下村どの、下村どの」
と肩をゆすったが、下村孫九郎は、塀に凭《よ》りかかって坐ったまま、口からだらしなく涎《よだれ》を垂らして大|鼾《いびき》をかいている。
「これは、始末におえぬ」
と門番は呆れたように呟いた。
「では、たしかに」
頬被りの男が、念を押して、立ち去りかけたので、門番はあわてて、
「ご親切に。いずれのお方か……?」
と訊きかけたが、
「いや」
と男は笑った。
「両国の飲み屋で一緒になりましたのでな。あまり、こちらが大酔なされているので、ちと心配になり、いらぬ世話ながら、お送りした」
「それはどうも恐れ入りました」
と、門番が礼を述べたのは、下村孫九郎は邸の者ではないが、主人の石翁に呼ばれてよく訪ねてくる客だったからである。
会釈をして、親切な男は歩み去った。
門番が、下村孫九郎を真上から見下ろして、その不覚の睡り方に手がつけられないと思ったか、舌打ちして、朋輩を呼びに行った。
二人で、下村を抱えて、とりあえず、門番小屋に入れたけれど、下村はまだ口を開けたまま、睡りから醒めない。
夜だったが、門番の報らせをきいて、用人が様子を見にやって来た。
石翁は、出入りの庭師を呼んで、新しい庭の設計を相談していた。
着想というものは、妙な、思わぬときに出るもので、今夜も、石翁は宵の口に床に入ったが、枕に頭をつけてから、ふと庭の趣向を変える暗示が浮かんだ。
現在の庭は、すでに完成されて立派なものだが、そろそろ眼に飽きが来ていた。それで部分的にどこかを変えようと思っていたのだが、その思いつきがつかずにいたところへ、ふと妙案が泛んだのである。
それが、ひどく名案のように思われたので、老人の癖で、すぐに庭師を呼びにやらせたのだった。思い立ったら、明日までが待てない気短さだった。
紙の上に、自分で筆書きしながら、大体の設計の説明を庭師にしているところに、
「お邪魔します」
と用人が入ってきた。
石翁は、ちらりと見ただけで、説明をつづけていると、一区切りついたところで、用人が石翁の耳に何か囁《ささや》いた。
「何処に居る?」
眼をぎょろりとさせて石翁が訊いたのは、下村孫九郎のことである。
「供待部屋に移して寝かせてございます」
用人は答えた。
よし、と石翁はうなずいた。あとで行くという意味だと知って、用人は障子を閉めて去った。
石翁は、それからも自分の思いつきを庭師に話していたが、用人が来て、下村孫九郎のことを云ってからは、気持が密着しなくなった。
行方不明になって、奉行所でも内密に捜索していたという下村孫九郎が、突然、誰かの手で此処に運ばれて来たのは奇怪である。一体、下村は、今まで何処に、どうして居たか、彼をここに連れて来たのは誰か、そして何故、彼をこの邸にわざわざ運んだのか。──石翁の頭の中は、その問題の方へ傾きそうであった。
「今のところは、これまでだ」
石翁は、俄かに庭の話を打ち切った。
「明日、お前の方でも考えておいてくれ」
庭師の方では、今まで熱心だった石翁が、急に話を閉じたので、内心びっくりしていた。そっと窺うと顔つきも、浮かぬものに変っている。
「結構なお話でございますので、篤《とく》と考えさせて頂きます」
庭師が畳に手を突くのを見て、
「頼む」
と云って石翁は座を起った。
廊下をすこし急いで、供待部屋の障子を開けると、用人が内から迎えた。
石翁の眼には、畳の中央に、下村孫九郎が大の字になって鼾をかいているのがうつった。
石翁は、下村孫九郎の前後不覚に眠りこけている姿を、上からしばらく見下ろしていたが、顔を寄せて嗅いで、
「酒は飲んでおらぬの」
と呟いた。
険しい顔つきだった。眼は、いぎたなく鼾をかいている男を睨みつけている。
「左様、手前も、それに気づきまして、奇怪なことと思っておりますが」
用人も、むつかしい表情で云った。
「連れて来たのは何奴か?」
石翁は訊いた。
「門番の話によりますと、頬被りをした男で、人体は見えなかったと申します。声は若かったそうでございますが」
「………」
「何でも、両国で飲んでいて、大酔したのを介抱して連れて来たが、当屋敷の人間と聞いたので届けたという口上だそうでございます」
石翁の頭の中に閃いたのは、若い男の姿であった。
いつかは、長持の中から人質の町医者を奪い、その前の晩には、不敵にも庭に侵入して攪乱した男である。
屋形船に乗って大川を下っているとき、大橋の上から、菊川の着ていた同じ模様の浴衣を落して見せたのもこの男なら、女を使って女中に入りこませ、麻の葉の浴衣で小細工したのもこの男である。これはこちらの心理的な効果を見ようとした小癪《こしやく》な意図らしい。
この若い男に、石翁は一度は遇っている。
しかも、それが自分の庭でだった。相手は松の樹の上にいた。石翁が歩いていて、ひょっと上を向いて、眼が合ったものだ。
相手は、やはり頬被りをしていたが、その眼つきの鋭さは尋常でなかった。確かに、若い眼なのである。若い憎悪の視線が刃物を想わせたくらいだった。思わずこちらの眼をはずしたときに、相手は、するすると枝を伝って、猿のように遁げて行ったが……。
若い男だが、やりおる、と思った。
(島田又左衛門の縁者だそうだが)
島田又左衛門──脇坂淡路守──水野越前守──本丸の線は、石翁がとうに知っていることだし、その尖兵といってもよい、若さ一本槍で、恐れげもなく石翁に突っかかってくる若者に、石翁も処置しかねるものを感じた。
下村孫九郎が、詮議に出かけたまま、行方不明になったときいたとき、微かに不安な若い男の影がさしたが、まさかと思ったけれど、やはりそうだったのだ。
孫九郎を連れて来たのが、あいつなのだ。
呼びにやらせたかかりつけの医者が、大急ぎでやって来たが、昏睡している孫九郎の様子を診ると、
「これは、薬で睡《ねむ》らせたものと見えまする」
と石翁に答え、自然に醒めるのを待たねば手のつけようがないと云った。
下村孫九郎は、一晩中、睡りつづけた。診察に来た医者の云った通り、睡り薬を呑まされたに違いなく、その薬も町の薬屋には売っていないから、長崎あたりの南蛮医術を心得た医者の投薬ではないか、というのである。
素人だけでなく、敵に医者が一枚加わっていることを察して、石翁はひそかにうなずいた。菊川のことで拉致《らち》した医者の顔を思い出したからである。
その孫九郎は、翌朝の陽の高くなったころに眼をさました。
ふわりと眼蓋《まぶた》を開けたが、瞳はまだ溷濁《こんだく》していた。そのにごった眼を動かして、きょろきょろとあたりを見ていたが、不思議そうな顔をした。
見たこともない部屋に自分が寝ているのだ。
その瞳が、ある一点に定まったとき、
「これは!」
と跳ね起きようとしたのは、意外にも、そこに石翁の顔が在ったからだ。
孫九郎はうろたえ、身体を起したが、身体がまだふらふらしている。頭が石を置いたように重い。嘔《は》きそうなくらい胸がむかむかするのである。
それでも、石翁の前なので、無理に畏《かしこま》った。衣服の着つけがだらしなく崩れているのは醜態だった。髪も乱れたままである。
「下村!」
この声が、下村孫九郎には雷が落ちたように聴えた。彼は、畳の上に這《は》いつくばい、顔をすりつけた。
「そちは、何故にここに来ているか覚えているか?」
怒声ではないが、石翁の問い方が、冷たく、乾いた調子だった。
「は……」
分らない。それを思い出そうとしていた。自分が、何か大変な失敗《しくじり》をしたことは察しがついたが、頭の中が白い雲につつみこまれたように、はっきりしないのである。
孫九郎は、額から脂汗《あぶらあせ》を流していた。
「どうじゃ、分らぬか?」
石翁の声が迫った。
「は……」
孫九郎は頭が上げられなかった。いまや、自分が断崖の上に立っているような危い立場らしいことが先に彼を恐れさせた。
「覚えぬか、想い出してみい」
叱ってはいない。しかし、ひどく冷酷な声だった。
「昨夜、そちを当屋敷に連れて来た男がいる。まだ若い男じゃ。それ、島田又左衛門の縁類の男だ」
「あっ!」
島田と聞いて、孫九郎が思わず声を立てたのは、記憶を閉じこめた壁が、そこから破れはじめたからである。
石翁の尋問が、それから始まった。
「おこんの詮議に、神田の六兵衛を訪ねましたところ、そこに不意に、島田新之助が現れまして……」
と下村孫九郎は、言葉を咽喉につかえさせながら話しはじめた。恥と、石翁の威圧からうける恐怖とで、身体中に汗を流していた。
新之助を尋問するために外に連れ出し、同行したが、と体裁をつけて、
「そのとき、不覚にも、当て身を喰らい、気を失いました」
と、それからは、本当のことを述べた。
「気づいたときは、医者の家で、手前は縄で括《くく》られ、自由を奪われておりました」
「医者? 何という名前だ?」
石翁は眼を光らせた。
「それが、良庵と申す奴でございます」
「よし」
石翁はうなずいた。
「それから先をつづけろ」
「何しても、手前は早く脱け出そうと思いましたが、身体を縛られている上、向うでも油断なく見張っておりますので、その隙がございませんでした。まことに上を恐れざる無法者でございまして……」
下村孫九郎は、どのように役人風を吹かして嚇《おどか》してみたり、哀願したりしたことであろう。石翁の眼はそれを想像しているようだった。
「ただ、それだけか?」
「は?」
「いや、そちを括《くく》って監禁していただけかと訊いているのだ」
「はあ……」
孫九郎は、少しずつ顔色が変ってきた。
「何か、向うから訊かれたであろう」
「は……」
下村孫九郎は蒼くなって苦しそうな顔をした。
「はっきり申せ」
石翁は追及した。
「は、その、ほかには別に……」
しどろもどろになると、
「莫迦《ばか》!」
突然に大きな声だったし、石翁の顔が鬼面のようになった。
「菊川の死骸の始末は、どう答えた?」
孫九郎は肝を消した。絶句して、しばらく言葉が出ない。
「下村、そちはしゃべったな?」
「………」
与力は慄え出した。
いつも、罪人を嚇かしている男が、逆の立場に立たされて、色を失い、戦慄しているのである。
「どうだ、菊川の一件を訊かれて、そちはしゃべったであろう? 隠すな。何もかも、わしには判っている」
石翁の眼に射すくめられて、孫九郎はへたばった。
心は萎《な》えて、精も根もない。言い訳をしたところで叶わぬことを悟った。自分の心がもろい砂のように崩れてゆく。
「日夜といわず、折檻《せつかん》をうけましたので、苦しさのあまり……」
と彼は顔に冷たい汗を流しながら云った。
「白状したのか?」
石翁が、やはり乾いた声に戻って訊く。
「何とも、申し訳……」
「ばかめ。それを訊いているのではない。菊川の死骸の始末の一件、べらべらとしゃべったのか?」
「はあ……」
孫九郎は顔が上げられなかった。
石翁は、じっと睨みつけていたが、
「それだけで済んだか?」
「………」
「それだけではあるまい。どうじゃ。云え。こうなれば五十歩百歩じゃ。何を聞いても愕《おどろ》かぬ」
孫九郎の乱れた髪が細かに慄えていた。
「返答出来ぬか。そちが返答出来ぬなら、わしから云ってやろう。そちは何か書かされたな?」
わっと声を上げたいところだった。孫九郎は自分の体が宙に放り出されるのを覚えた。
「どうじゃ。そちが白状したことを書かされたのであろう?」
孫九郎は、歯の根が合わず、寒気がしたように、かちかちと歯を鳴らした。
「云え。こうなれば、何もかも云え」
石翁が、急に起ち上って、こちらに迫って来そうに思えたので、
「お、仰せの通り、や、止むを得ず……」
「一札書いたか?」
「な、何とも、はや。……いや、そのときは、われながら乱心……」
と、今は生きた人間の顔でなく、眼をむき出し、皮膚も唇も土色になっていた。
「うむ、やはり、そうか……」
石翁は、板のように足もとに匍《は》っている下村孫九郎を見た。裏切者を見るような、憎々しい、軽蔑し切った眼つきであった。
「犬め」
石翁は吐くように云った。
「どうせ、八丁堀の人間だとは思っていたが、これほどの犬とは思わなんだ。恥を知らぬ畜生なら致し方があるまい」
孫九郎の顔が押しつけている畳は、汗で水でもこぼしたように濡れていた。
「明日にでも北町奉行に申し伝える」
石翁は冷酷に云った。
「奉行所からは放逐させるから、左様に覚悟せよ。そちのような腰抜け役人は、一日たりとも置いておけぬわ」
孫九郎は絶望で、気を失いそうになった。
翌日の朝、隅田川の百本杭に男の入水《じゆすい》死体が引っかかっているのが発見された。
見つけたのは、川を漕いでいる小舟で、死体は下を向いて沈んでいるから、髪と、羽織が水面に出ていた。その白い紋が発見者には印象的だった。
「こりゃ、侍の土左衛門だ」
船頭は叫んだ。裏白の紺の足袋が水の下に透いて漂っていた。
届けによって、すぐに検視の役人が来て、ひき上げたが、死人の顔と風采を見ておどろいた。まぎれもなく八丁堀の役人で、下村孫九郎なのである。
役人はすぐに奉行所に注進した。
数日前から行方不明になっている与力下村孫九郎のことであるから、むろん、検視は厳重だった。
死骸を調べてみると、別に外傷は無い。
水を飲んでいるところを見ると、明らかに水死である。
普通の人間ではなく、かりにも奉行所つきの与力であるから、前夜の足どりは厳しく探索された。
すると、両国の居酒屋で、下村孫九郎は、狂気のように酒を飲んでいたという聞込みがあった。
「そりゃあ、怕《こわ》いくらいでございましたよ。いえ、入っていらしたときからそうなんです。真蒼な顔をなさいましてね」
居酒屋の亭主も雇女も、口を揃えて、そう証言した。
「そうかと思うと、一口もきかずに、眼をすえて、黙りこんだりなさいましてね。それから、台の上に突伏して、おいおいと大声を上げて泣き出されたのには、びっくりしましたよ。日ごろの下村の旦那とは、まるで人間が違っていましたから」
日ごろは、威張っていて、何かと泣かされた記憶がこの亭主にもある。いや、ここ一軒ではなく、両国から柳橋にかけて水商売をしている店で、下村におどかされ、凄まれた経験が無いものはない。
「あれは、誰かが、河岸《かし》を歩いている下村のうしろから、どんと突き落したのかも分らねえぜ」
陰では、そういう噂が立った。
「なんにしても、悪い奴だった」
吻《ほつ》とした表情なのである。
足どりの捜査は、両国の飲み屋から伸びて、それ以前の下村の行動を探り出した。
すると、それらしい人物が、石翁の邸から出て、堤の上をふらふらと歩いていたというのである。
石翁の邸から!
探索の連中が、思わず顔を見合せたものだ。
すると奉行所の上の方から、
「下村孫九郎は乱心の果に入水自殺した」
との決定が下りてきたのであった。
奉行所の与力は同心や岡っ引をつれて下谷の良庵の家を襲った。
「吟味の筋がある」
という上からの命令で、逮捕に向った連中には嫌疑の内容が分らなかった。
良庵の家に行って見るとこれが玄関から裏まで昼間から戸を閉しているのだ。
「開けてみい」
与力の言葉で、岡っ引たちが雨戸をこじ開けると、無論、内には人間は居ないのである。
医者の家には必ずある薬草の類、薬研《やげん》、薬箱も無ければ、家財道具も無い。残っているのは、汚れたがらくたのたぐいだけであった。
「逃げたかな」
と役人の方が感じたときに、
「あっ」
と岡っ引が声を上げた。
壁には、それを証明するように、
「当分の間、転居仕り候、行先都合により不明 良庵」
と墨で黒々と書いた貼り紙がしてあった。
理由は分らないが、とにかく、逮捕に向った相手に逃げられたことは確かで、上から命令されたことだけに落度になりそうである。
それで、近所を手分けして訊いて廻った。
「さあ、よく存じませんが」
日ごろから人気のあった良庵のことだし、それに、係り合いを恐れて、誰もはきはきと口を利いてくれない。
「近ごろは、患家も少くなったようなので、良庵さんは、のんびりした顔をしていましたよ」
と云う近所の者も居た。
「はてね。どうして患者が少くなったのかね?」
岡っ引は訊いた。
「へえ、一時、良庵さんが何処かに雲がくれしていましてね。内弟子の弥助さんがだいぶん心配していましたが、間もなく、良庵さんはひょっこり帰りました。それ以来ですよ、良庵さんが何となく患家をとらなくなりましたのは」
「へええ」
岡っ引はこれは何かの手がかりになるかも分らぬと思ったか、根掘り葉掘り訊いたが、それ以上のことは出なかった。
「するてえと、この家は、医師と内弟子だけかえ?」
「へえ、男二人でございます」
「かりにも世帯道具を運んだのだ。大八車にでも乗せたに違えねえ。近所のおめえたちが見かけねえというのはおかしいな」
岡っ引の眼におどかされても、
「いいえ、まるっきり知らねえことでしてね。へえ、なにしろ、夜中に運んだと見えて、朝起きてから越したと知って、びっくりしているところでございます」
「急に大世帯になったな」
と眼を細めたのは島田又左衛門であった。
人間が家の中に一人でもふえると、人数がもっとふえたような感じになるが、良庵と、内弟子の弥助が越して来ただけで、膨《ふく》れたように思えるのである。
「すぐに麻布に移った方がいい」
と良庵に指示したのは新之助で、
「あすこなら、まあ大丈夫だ。やせても枯れても、旗本だからな。町方が簡単に踏みこむわけにはいかない。手入れしようとすれば、若年寄か、お目付の許可が必要だ。一歩も外に出ぬことさえ心がけていたら安全だ」
と説明した。
「そんなに早く、来るものかえ?」
良庵は、自分の永いこと住んだ家だし、未練があったが、
「下村孫九郎を送り込んでおいたから、石翁は何もかも察するに違いない。下村が白状したら、すぐ、こっちの町方が来るぞ、愚図《ぐず》愚図してはいられぬ」
とせき立てるので、その晩のうちに、弥助に大八車をひかせ、良庵の後押しで島田の邸に来たのである。新之助が万一を考えて、あとからついてきた。
又左衛門が喜んだのは、下村孫九郎から取りあげた一札の自供書である。それには、
「一、菊川の死体は中野石翁の手によって隅田川に流された形跡あること。死体は、たしかに懐妊していた。
一、水死体は、一旦、現場近くの寺に身許不詳として仮埋葬したが、自分が石翁のたのみで、獄死の女囚人の扱いにして、非人に渡し、小塚原に埋め直したこと」
を認《したため》て記し、拇印《ぼいん》まで捺《お》してあるのだった。
「手柄だった」
と島田又左衛門は、何度も読み返して、大満悦で讃《ほ》めた。
「これさえあれば、いざというときに、石翁の罪状をあばく動かぬ証拠となる。かつは、菊川が妊娠したことで大奥の風儀も実証され、脇坂殿手入れの有力な物証になるぞ。いや、ご苦労だった」
と新之助に云い、
「与力をここまでやるからには、相当に骨を折ったであろうな?」
「先ず……」
新之助は、うなずいたが、浮かぬ顔をしていた。
「評判の悪い男ですが、ちと、可哀想なことをしたように思います」
このときは、まだ下村孫九郎の入水をこちらは知っていなかった。
「いや、遠慮は無用じゃ。やるがよい」
又左衛門は、昂然《こうぜん》としていた。
「新之助。縫からまたとない物が入ったぞ。脇坂殿に届けておいたが、いよいよ敵を攻める番が来た」
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密  告
添番落合久蔵は今日は非番である。
非番というのは退屈なもので、小鳥に餌をやるか、内職をしているものはそれに精を出すか、そうでなかったら、日向《ひなた》の縁に寝ているよりほかに仕方がない。
しかし、落合久蔵は、落ちつかなかった。
それは、登美のことが、始終、心にかかっているからで、何としても遇いたくて仕方がない。
登美が、もう少しで手の中に落ちそうになっていただけに、ここで遁すのは残念でならないのである。
(どうも、あの女、おれから遁げようとしている)
と気づいてはいるが、それが、今度は心を苛々《いらいら》させて、思わず気が昂《たか》ぶってくるのである。
近ごろは、登美の逃げ方が巧妙で、長局に引込んで出て来ないし、外出のときは寺詣りの行列の乗物の中だから、久蔵が近づく機会がないのである。
(よし、万一、おれを裏切ってみろ)
と久蔵は考えている。
(あの女の仕掛けた蝋塗りの踏台は、おれの手にあるのだ。添番詰所の天井裏に大事に納ってある。あれを、出すところへ持ち出せば、あの女は局から追放され、へたをすると死罪にもなり兼ねないのだ)
それが、久蔵の唯一の手の内だった。
実際、それは大そうな効力があって、登美が久蔵の申出でを無下に断り切れないでいるのは、踏台という久蔵の切り札のためである。
久蔵は、登美のその弱味をとうに知ったつもりでいる。
が、登美に、近ごろのように巧妙に逃げられては、話すおりがないから直接《じか》にその威しもきかず、何とか手段はないものか、と今日も朝から寝ころびながら、そのことばかり思案していた。
すると、ふと、思い当ったことがある。
(あの女小間物屋め、ちょっとおかしいぞ)
と考えたのだ。
登美への文を頼んでも、返事を貰って来てくれたことがない。それは、まあ別として、いつか検査して包みの中から出てきた黄表紙本のことである。
あの本の中から、文が落ちた。女小間物屋は、長局に奉公しているお末の者が実家への便りをことづけたと云っていたが、あれは怪しいと思った。あのとき、小間物屋の女房の顔色が真蒼になっていたではないか。
あの女房は、登美と仲が好いらしい。
(そうすると……)
久蔵は眼を閉じた。子供がそばに来て何かせがんだが、叱って追払った。
「そうだ!」
と、かけ声をかけて、はね起きたのは、考えた末に、思いついたことがあるからだ。
落合久蔵は、今日は非番だが、家を出かけた。
折角の非番を御苦労なことだが、常盤橋御門の外、橋を町方へ渡ったところで、立って待機していた。
身体を隠しておくには都合のいい場所である。本町といって、商家の多いところである。往来には絶えず人や馬が通る。町家の軒下に佇《たたず》んでいるぶんには、御門から出てくる人間に見つかる気づかいはない。
久蔵が、家に寝転んでいて思い出したのは、昨日、たしか奥女中の感応寺祈祷の代参があり、登美もその中に入っていたことだ。
登美がお寺詣りをした翌日には、必ず、女の小間物屋が長局へ商売に来ている。
これは偶然の一致ではない、と落合久蔵は考えついたのだ。
(あの黄表紙の中に入れた文が怪しい)
縫というお末の女中からことづかったといっているが、もしや、縫とは登美の本名ではあるまいか。──
そう考えついた途端、これは是非、あの女小間物屋を追及せねば、と思ったのである。
久蔵は、町家の軒下に立って、気長に見張った。といっても、あの女小間物屋がお城を出てくる時刻は、およその見当がついているのである。
久蔵は、さり気なく、人でも待っているような風で立っている。
そこへ、後から、ぽん、と肩を叩かれたのには、さすがの久蔵も、不意のことだし、びっくりした。
ふり返ると、そこには鳶の神田の六兵衛が羽織を被《き》て、にこにこと立っていた。
「これは、落合さまではございませんか?」
六兵衛は眼を細めている。
「どうなさいました、こんなところで?」
久蔵は、悪い奴に会ったと思った。
「うむ」
と曖昧《あいまい》に、
「友達と待ち合せているのだ」
と言い訳を云った。
「左様でございますか。落合さまとは、よくそんなときにお眼にかかりますな」
六兵衛に云われて思い出したのは、いつぞや、麻布の島田又左衛門の邸の前で、登美を見張っているときに、今日と同じように出会ったことだ。
どうも、都合の悪い時ばかり、この男は来る。
「ああ、今日は、お非番でございますか?」
六兵衛は、久蔵の風采《ふうさい》をじろじろ見て云った。久蔵は、余計なことを云う奴だと不愉快になった。
落合久蔵の、むっつりして不機嫌なのが、六兵衛にも判ったらしく、
「ご非番なら、お楽で結構でございますな。やはり、お身体をお休めになりませんと……」
と云い、
「手前は、これからお作事方に呼び出されて、お伺いするところでございますよ。それでは、ご免下さいまし」
頭を下げて丁寧な別れ方をした。
久蔵は、それを見送って、やれやれと思った。余計な奴に遇ったものだ。
うっかり、此処に立って、知った顔に遇ったら、何を話しかけられるか分らない。話の途中に、あの女小間物屋が出て来たら、うかつに見遁さないとも限らないのだ。
久蔵は、深い軒の下をえらんで、いよいよ身を縮めた。
眼だけを油断なく、御門の方へ向けていると、しばらくして、彼の視野には、女小間物屋が常盤橋を渡って来るのが写った。
「うう」
と咽喉の奥で、声を出したものである。
女は相変らず、片手に商売物の風呂敷包みを提げている。前を通る通行人の姿で、彼女の姿は、見えたり、かくれたりしたが、落合久蔵も、そっと軒の下で身体を動かした。
橋を渡り切って、小間物屋は、神田の方角へ歩いて行く。自分のあとを誰かが跟《つ》けて来るとは、まるきり気のつかない歩き方であった。
やはり、往来には人通りが多い。十間ばかり距離を置いて歩く久蔵は、通行人のかげに邪魔になろうとどうしようと、決して、小間物屋を眼から失わない覚悟だった。
今日も天気がいい。すっかり秋になっている。よそ見には、落合久蔵が、呑気にそぞろ歩きをしている恰好であった。
あとを跟《つ》けながらも、久蔵は、女小間物屋を呼びとめる場所を眼で探していた。
このように人通りの多い往来で、呼びとめて詮議をはじめる訳にはゆかない。物見高い連中に輪を作られることは必定である。
両側の家を見ると、これがあいにくなことに、商家が連なって、人の眼が多い。
さりとて、このままにしておくと、あの女は自分の家に入ってしまう。久蔵には家の中まで入って尋問する資格はない。
(困った。どうしたものか)
焦燥《あせ》ってきた。
折角、あの小間物屋を待ち伏せ、うまく跟《つ》けて来たのに、逃す手はないのである。
女は、少し急ぎ加減で行く。うしろから見ると、すらりとした背の恰好で、下町女の粋な色気がどこかに感じられた。
そのうち、久蔵は、その道筋に、適当な場所のあることを思いついた。
落合久蔵が、跟けて行くうちに、恰好な場所を思い出したというのは、この先が神田堀で、お濠から東の方へ数えて、竜閑橋、乞食橋、中之橋、今川橋というように、一町毎に橋が架《かか》っている。
女小間物屋は、その内の、乞食橋を渡るつもりらしい。これを行くと鎌倉河岸の方角へ出るのだが、久蔵が思いついたのは、その乞食橋を渡る手前に、白旗稲荷という小さな社祠がある。本銀町一丁目の角になっているが、ここの境内なら、ちょっと人目を避けることが出来るのである。
橋が見えてきて、女小間物屋の姿がそれにまっすぐにかかろうとしたとき、久蔵は急いで追いつき、
「おい」
と軽く女の肩を叩いたものである。
「あ」
女小間物屋はふり返って、久蔵のにやにやと笑っている顔を見ると、
「これは落合さまでございましたか」
と、びっくりしたように眼を瞠《みは》って、おじぎをした。
「うむ。ここを通りかかって、お前の姿が見えたので声をかけたのだがな」
眼を、提げている包みに落して、
「今、お城から戻ったのかえ?」
と、相手を安心させるように、微笑《わらい》をつづけた。
「はい。左様でございます」
「お前は、働き手だ。精が出るな」
久蔵は世辞を云った。
「いいえ。女手の商売ですから、はかがゆきません」
お文は、いやな奴に遇ったと思ったが、それを顔色に出すわけにはゆかなかった。
「うむ、その商売のことだがな。わしは、実は、これから親類の家に行くところだが、何も手土産を用意してない。お前の姿を見て、思いついたのだが、向うには年ごろの娘が一人いる。簪《かんざし》でも持って行ってやりたいが、ちょいと、ここで見せてくれぬか?」
久蔵はおだやかに云った。
「はい……」
お文は、嫌とも云えない。商売だし、ここで断ると、また、お城の出入りに、どんな意地悪をされるか分らないのだ。
「それは、ありがとうございます。どうぞ、ご覧下さいまし」
頭を下げて云ったが、ここは往来だし、どこで包みを開こうかと迷った眼をすると、
「そんなら、このお稲荷さまの境内を借りよう。気の毒だが、こっちへ来てくれ」
久蔵は、赤い鳥居を指して、自分で先に立って歩いた。
お文は、仕方なく従った。
白旗稲荷は、さほど広い境内ではないが、大きな榎《えのき》の樹や、銀杏《いちよう》の樹が高く伸びている。銀杏の葉は半分黄色くなっていた。
落合久蔵は、赤い鳥居が無数にならんでいる下をくぐった。突き当りは拝殿だが、久蔵は、わきの末社の祠《ほこら》に行く。
ここまで来て、お文は気味が悪くなった。真昼だといっても、この一郭は、賑かな町なかの死角になっていて、人の姿が全く無いのである。
前は神田堀を隔てて、俗に、主水河岸《もんどがし》と呼ばれる高い土手が長々と見えている。境内の高い銀杏の上には、昼間から梟《ふくろう》でも啼きそうだった。
「落合さま」
堪りかねて、お文はうしろから云った。
「あの、わたくしは、ここで失礼させて頂きます」
「いや」
落合久蔵は、笑顔でふり返った。
「済まぬ。こういう場所へ誘ったのは、気の毒だが、なにせ、男が簪を買うのでな。万一、人の眼についたら、ちと恥かしい。わしが色女にでも遣るように思われるでな」
実際に、明るい声を出して笑い、
「ははは。この辺なら大丈夫だ。どれ、見せて貰えるか」
と立ちどまって風呂敷を見た。
「はい……」
仕方がない。拒む理由が見つからなかったし、久蔵の様子は、本当に親戚の娘に簪を買うようにみえて、他意なさそうだった。
お文が、祠の縁に包みを置いて、大きな風呂敷を解きはじめる。小さな箪笥《たんす》のようにいくつもの抽き出しのついた髪飾りの道具入れの函が現れた。
「簪なら、これでございますが」
お文は、その一つを抽き出す。
「なるほど」
簪がきれいに納めてある。
「女の道具というものは、眺めていて、美しいものだな」
選択するように、かがみ込んだが、眼は簪にはなく、函の下に重なっている黄表紙の本に向っていた。
「そうだ、簪もいいが、どれ、この下にある絵草紙も見せてくれぬか。女子《おなご》というものは、こういう類《たぐい》を読みたがる」
あっ、と顔色を変えたのは、お文の方で、久蔵が手を出して、箱の下から取り上げそうになったので、
「あ、もし、それはいけませぬ」
と押し止めた。
「なに、いけぬ?」
初めて、久蔵の眼つきが変った。
「これは、そちが長局の女中どもに貸している黄表紙本であろう。ここで、わしが見たら、都合の悪いことでもあるのか?」
落合久蔵は、無理に、箱の下に敷いてある三冊の絵草紙をとり上げた。
「あ、もし」
お文が、あわてて取り縋《すが》ってくるのを押し除け、上の一冊をぱらぱらとめくると、これは何も挾んでいない。
黄表紙が、ふくれているのは、二冊目で、めくるまでもなく、中から、ぱらりと文が出たのである。
落合久蔵は、黄表紙だけを捨てた。
「ふん」
宛名は無く、
「縫まいる」
とだけ書いてある。
久蔵が、その結びを解きかけたとき、突然に、お文が横合から奪ったのである。真蒼な顔をしていて、乱暴な力であった。
「何をなさいます?」
睨みつけて、久蔵が、たじろいだくらいに凄い形相だった。
「い、いかに、お添番とはいえ、あまり無体なことをなさいますな。よそさまより預かった文まで、お披《ひら》きになるとは、理不尽が過ぎます」
「なに、よそより預かったと?」
久蔵は、お文が、しっかりと握っている手紙を眼で指して、せせら笑った。
「やい、その縫とは誰だ? お登美のことであろう?」
「………」
久蔵が、自分で愕いたのは、当て推量に云ったことが図星、女小間物屋が、眼をいっぱいに剥《む》き出したことだ。それから、女は、ものも云わずに、それを懐に入れて駆け出した。
久蔵に、怒りが湧いたのは、この時で、うしろから飛びかかって、衿首を掴んだ。
「舐《な》めるな。うぬ」
欺された、と思ったのは、登美が町方にいい男がいて、この女が文使いをしていた、と察したからだ。道理で、自分の頼みごとには相手にならなかった。
登美と、この女小間物屋とが、共謀《ぐる》になって嘲弄《ちようろう》したと思うと、女を掴んだ腕に力が入った。
「あれ」
女は声を出した。
久蔵は、あわてて、手でその口を塞いだ。女がその手に咬みついたことも彼を怒らせた。
女は後に引き倒された。着物がはだけて、白い脚がもがいているのを、久蔵は、ずるずると引き摺って、祠のうしろに運び込んだ。樹と草の蔭の中である。
「あ、ああ、あ……」
声を出されると、自分がどんなに危険な立場であるかを久蔵は知っていた。彼の顔も、藍のように蒼くなり、汗が眼に沁みた。それを拭えないのは、女の上に己の体重をかけて、細い頸《くび》の血脈を圧さえているからである。
お文は、眼をいっぱいに開いて、死から脱れようともがいている。顔が、見るまに、紅をさしたように赤く充血して、咽喉《のど》にかかった久蔵の指を外《はず》そうとしていた。
その手を、久蔵の膝が押えつけているのだが、下に敷かれた女の必死の力は、一時、久蔵の膝を浮かし、咽喉輪にかけた手をゆるめさせた。
女の身体が、下から盛り上って、久蔵は重心を失った。仰向きに仆《たお》れると、同時に、起き上りかけた女が、土に爪を立てて、横に匍《は》い出した。
久蔵は、倒れても、女の帯を放さなかった。結び目が解けて、長く伸びた。
お文は、赤ん坊のように四つん匍いになって逃げかけている。むき出した膝に血が滲んでいた。はあ、はあ、と喘《あえ》ぐ息が、犬のように急だった。
絞められていたために、すぐには声が出ないのだ。口を開けて、何か叫ぶつもりで顔を上にむけていた。
この稲荷には、堂守りが居ない。人も寄りつかず、昼間でも森閑としたものだった。陽が縞《しま》になって、樹の葉の間から射している。往来を通る呼び売りの声が聞えていた。
女に叫ばれては一大事である。久蔵も必死だった。自分がどんな立場に置かれているか分っていた。この女が憎いとも、文を奪おうとも思わず、ただ、自分を防衛したいために、女を沈黙させねばならなかった。
「あ、ああ、た、たれか……」
這っている女の背が伸び腰が浮いた。両手を、壁でも撫《な》でるように振っているのである。
久蔵は解けた帯をつかんで立ち直った。肩がまるきり出そうなうしろ衿《えり》を目がけて、とびつき、腕を女の顎の下に入れて、引き倒した。お文は、他愛なく崩れて仰向きになった。
「た、たすけて、たすけてください……」
ほかの人に向って云っているのではなく、のしかかっている久蔵に頼んでいるのであった。
その歪《ゆが》んだ女の顔が、久蔵にふしぎな昂《たかぶ》りを与えた。年増女の迫った息の匂い、身体の臭いと弾みが、久蔵を狂人にした。
彼は、女の胸の上に股《また》がると、女の両手に膝をかけ、自分の両手は女の白い、慄《ふる》えている咽喉にかけて押えつけた。うすく浮いた二つの筋の上にあてた親指へ力を入れたのである。それへ、己れの体重を、前屈みになっていっぱいにかけた。
お文は、眼をむき出し、髪を草の上に乱している。人声は無い。久蔵は、力をゆるめなかった。長いことそうしていた。女の顔は草の下の土にめり込んでいる。
女の抵抗は手足から脱けていった。
乱れた髪を伝わって、蟻が一匹、這い上っている。久蔵は、女の凄《すご》い形相とともに、それがいつまでも眼から忘れられなかった。
日が暮れたばかりの時刻だったが、石翁は客間で、人と会っていた。
客は、西国筋の或る小藩の江戸詰家老だったが、用件は会わない先に分っている通り、主人の頼みとして、この度、自分の藩に重大な賦役《ふえき》を課されそうだから、何とかそれを軽い方に転役して貰えないか、という懇願なのである。
家老は、くどくどと自藩の窮乏を訴えている。公儀の課役だから喜んでお請《う》けしたいのだが、目下、藩庫が底を突いているので、その役に当たると財政が崩壊するというのである。
石翁は、その江戸家老の泣き言を、ふん、ふん、と云って聴いていた。別段、それについて、意見を云わない。何も云わない方が、得策なのだ。黙っていると、先方から、勝手に賄賂の高を上げてくる。
一度だけでは、いいとも悪いとも云わないのが石翁の主義で、五、六回くらい無駄足を運ばせる。その結果、持って来た「時候挨拶」の贈りものを、じろりと見るのである。
「それは、お気の毒な。なんとか骨を折って進ぜよう」
と、気に入れば答えるが次の言葉を添えるのを忘れなかった。
「わしは、隠居の身だからの。ご政道に口を出すわけにはゆかぬ。それは、分ってくれるであろう。ただ、知っている要路の人間に話してあげるだけだ」
頼む方は、それでいいと喜んで答えるのである。隠居と云っても、石翁の勢威がどれくらいのものか、充分に分っている。ただ一口、助言してもらったばかりに、若年寄になった者もいるし、少将の官位に叙せられた大名もいる。
石翁の云うことは、表向きの一応の挨拶で、「わしが骨を折る」と云えば、願望は叶えられると同じことだ、と頼む方は欣喜《きんき》雀躍《じやくやく》して納得するのであった。
さて、石翁は、いまも、江戸家老の泣かんばかりの繰《く》り言を聴きながら、その名のように、石のように黙っていた。相手は、そのために、口説きに熱を入れるのである。
退屈だったから、会ってみたが、石翁は、いい加減うんざりしてきたので、あくびを一つするつもりだった。この、あくびを大きく見せると、客は、たいてい狼狽《ろうばい》して帰って行くのである。
用人が隅の障子を開けて入ってきた。
すり足で畳の上を這って石翁の耳に低くささやいた。
「添番が?」
石翁は、大きな坊主頭を傾《かし》げた。
「はい。重大なこと故、ぜひ、殿さまにお目通りして申し上げたい儀がございます、と申しております」
「よし、行く」
と云ったのは、その添番が西丸の勤務と聴いたからである。
石翁が、添番を待たせてある、という部屋に行ってみると、雪洞《ぼんぼり》の傍に、中年の瘠せた男がしょんぼり坐っていた。
思った通り、石翁には見憶えのある顔である。西丸の添番で、たしか落合|某《なにがし》という男なのだ。
石翁は、西丸のあらゆるところに、かねてから手を打っていた。添番は七ツ口の見張り番で、長局からの品物の出し入れは添番が改め役になっている。
長局に出入りする品物については、規則通り厳重にされると困ることが多い。これは、お美代の方の希望だったし、その勢力下の長局の女中どもの要望でもある。石翁は、その「手心」のために、奥役人にも手を廻しているが、添番にも、心易さを見せている。
そのなかで、この落合某という添番は、お美代の方が敵視していた、多喜の方の存命中、その一派の情報を何かと持ってくるので、使える奴と思い、その後も、この邸に呼んで小遣いをやったことがある。
いつぞや、島田新之助が良庵の行方を探しに向島へ来たとき、舟の渡場の茶屋で、川魚の料理で一杯飲んでいる士《さむらい》を見かけたが、それが落合久蔵で、石翁から貰った小遣いで、ちょっとした贅沢をしていたわけである。
さて、石翁が見たいまの落合久蔵は、灯のそばで蒼い顔をして、うずくまっている。
石翁が入ってきたので、久蔵は板のように、そこに平伏した。
「落合とか申したな」
石翁は坐った。どのような虫のような下僚でも、利用価値があると思うと、石翁ほどの人物が、自分で声をかけてやるのだ。殊に、内容を、家来には知らせたくないのだから、猶更である。
「はっ」
久蔵は鼻が潰れるほど、畳に顔を摺りつけた。
「殿さまには、ご機嫌うるわしく、祝着至極に……」
「その挨拶は、もうよい」
石翁は笑って、
「何か用か?」
と訊くと、落合久蔵は、さも威光に打たれたように懐から、恐る恐る、紙の捲いたようなものを取り出し、
「何とぞ、これを……」
と恭しくさし出した。
石翁が、それを取って披《ひら》く。なぜか、ひどく皺がよっているが、最初の二、三行を読んだとき、隠居の眼が、俄かに燐が射したように光った。
平伏している久蔵を一瞥したのち、今度は雪洞をひき寄せ、文の内容を熱心に読みつづけた。
石翁は、その手紙を読みおわって、懐に入れた。
険しい眼つきだったし、眉の間につくった皺も深いのである。厚い唇の端を、ぎゅっと曲げたものである。
「この文の主、縫と申すのは、西丸長局に奉公しているのか?」
あまり、ものに動ぜぬ石翁が、握った拳を慄《ふる》わせていた。
「はい。お三の間詰めでございます」
久蔵は、やはり手を突いたまま答えた。
「尤も、長局で、登美と申しているのが、縫なる女の正体だと存じまする」
その手紙には、縫より、島田又左衛門様まいる、とはっきり書かれてある。
──前回にひきつづき、このような文を手に入れました。前ほどの内容はないが、早速にも脇坂侯にご持参願いとうございます。なお、これにて私の役目も終ったと存じますので、近いうちに、お城から退らせて頂くつもりでおります。
これが、縫という女の島田又左衛門に宛てた文面の意味で、同封の手紙というのは、年寄佐島より感応寺の日祥に送った艶書の一つなのである。
(このぶんだと、大奥女中の艶書が相当脇坂淡路守に流れている……)
石翁が、動揺しているのは、このことで、淡路守が大奥の手入れに、いつでも積極的に出られる確証を握った、と察知したのである。
「その登美という女が、この縫に間違いないか?」
と訊くと、
「今までも、その形跡がございまして、長局出入りの女小間物屋に託して連絡をとっておったように存じます。まさしく、登美は、これなる縫という女に相違ございませぬ」
落合久蔵は、いんぎんだが、自信ありげに答えるのである。
「よし」
と石翁が、うなずいたのは、縫という女が、脇坂と島田の線から西丸長局へ送りこまれた女間諜だ、と直感したからである。
石翁の眼には、いつも見せている剛愎《ごうふく》な色が珍しく掻き消えて、不安な翳《かげ》りが射している。翳りは、脇坂の背後に控えている本丸の老中水野越前守忠邦の影である。
「よく、持ってきてくれた」
石翁は、久蔵に眼を移して、その手柄を讃《ほ》めたが、
「それで、その方は、どうしてこの文を女小間物屋から貰ったのだな?」
と不審を質問した。
「………」
久蔵は、急にうつむき黙していたが、俄かに膝をうしろに滑らすと、畳の上へ、がばと伏せた。
「殿様……お助け下さいまし」
落合久蔵は、這《は》いつくばって、
「何とぞ、何とぞ、お助け下さいまし」
と云った。泣き出しそうな声である。
石翁が、見ると、久蔵の顔は、雪洞の明りにも、たらたらと流れている汗が光ってみえた。
「助けよとは?」
石翁は不思議そうに久蔵を眺めた。だし抜けだし、動作の俄かの変化も、言葉の意味も分らなかった。
「は……」
久蔵は絶句して、暫らくは、ものを云わない。低頭して乱れた髪をみせているだけである。よく見るとそれが、こまかに慄えているのである。
石翁が勘づいたのは、これは、手紙を女小間物屋から奪うために、何か非合法な手段に訴えたのではないか、という想像である。
多少のことは、この手柄のために諾《き》いてやるつもりで、
「どうしたのじゃ。云うてみい」
とおだやかに訊いた。
「はあ」
みると、久蔵は肩まで、ぶるぶると慄わせているのだ。
よほど、肝《きも》の小さい男と思ったので、
「云わぬか。多少の便利は図ってやるが」
と促した。
「は……」
久蔵は、平伏したまま、荒い呼吸《いき》使いをしていたが、
「殿様!」
「………」
「て、手前、その、手紙を奪《と》るために、女小間物屋を害《あや》めて参りました」
叫ぶように云った。
「なに、殺した?」
まさか、と思ったが、これは意外な告白であった。
「うむ……」
じっと、落合久蔵の這っている姿に眼を向けたまま、
「それは、まことか?」
と念を押した。
「真実でございます」
一度、吐いてしまったので、久蔵は、あとをするすると述べた。
「あまりに強情に拒みますので、その手紙欲しさに、つい、首にかけた手に力を入れましたところ、気づいたときには、女の息が絶えておりました」
「場所は、どこじゃ?」
「石町《こくちよう》一丁目、白旗稲荷の境内でございます。いえ、手前ははじめから殺すつもりではございませんでしたが……」
久蔵の弁疏《べんそ》を聴きながら、石翁は、ほかの思案をしていた。
大事な文を取るために人を殺した、その手紙は石翁には必要なものだ、だから、殺人犯人としての奉行所の追及を、石翁の手で阻止してくれ、というのが落合久蔵の頼みなのである。
その肝《はら》には、お前のために図ったことだから、そのくらいのことはしてくれてもいいだろう、いや、もっと、生命《いのち》がけで働いたのだから、取り立ててくれないか、という性根《しようね》が見え透いている。
石翁は、卑屈に這いつくばっている落合久蔵を軽蔑の眼ざしで見た。
「よし」
と口では云ったものである。
「わしが、何とかしてやろう」
落合久蔵は、石翁のその言葉を聞くと、蟇《がま》のように平伏した。
「なんとも、忝けなきお言葉……あ、有難う存じまする。有難う存じまする。ご恩のほどは、一生、久蔵、忘却仕りませぬ」
危機を脱れたので、久蔵の顔には生色が蘇《よみがえ》っている。
久蔵は、ここで、さらに石翁の心に取り入らねばならなかった。
「おそれながら、いま一つ、お耳に入れたき儀がござりまする」
「まだ何かあるか?」
「は。実は、その縫なる女は、去《さん》ぬる弥生《やよい》の桜の御宴に、多喜の方を仆《たお》した張本人にござりまする」
「なに?」
石翁の眼が、また大きくなった。
「その仔細を詳しく話せ」
「畏りました」
久蔵は顔を上げて、一膝すすめた。
生命《いのち》が助かったので、自然と口も雄弁になった。話し出したのは、縫が踏台に蝋を塗って、多喜の方を転倒させた一件である。
石翁も、話を聞いて、さすがに心の中で唸った。お美代の方と対立している多喜の方を仆して、お美代の方に取り入り、情報を探る機会を掴んだ──その綿密な敵の計画には舌を捲いたのである。
「その踏台は、どうなった?」
石翁は質問した。
「手前が、隠し場所からひそかに取り出し、添番詰所の天井裏に匿《かく》しております」
こうなると、久蔵も、登美のことを諦めるよりほかはなかった。人殺しの下手人として捕まるか、助かるかの瀬戸際《せとぎわ》である。いくら狙った登美でも、己れの生命には代えられないのだ。
折角の切り札だが、踏台のことも石翁に渡してしまった。
「よく云ってくれた」
石翁は感謝した。
「そのほうのことは、わしが引き受ける。心配するな」
この言葉と、気持とは、うらはらであった。
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落合久蔵は、夜中に起されて、眼をさました。
枕もとの行灯《あんどん》に灯をつけて、女房がさしのぞいている。
「あなた。どうかしましたかえ?」
灯影の工合で、女房の半顔が光ってみえたので、久蔵はぎょっとした。
「どうかしたか、とは?」
久蔵は、ぼんやりとした眼を向けた。
「大そう、うなされておいでだったよ」
「うなされていた?」
「そりゃあ、ひどいうなされかた。ううむ、ううむ、咽喉から絞り出すような声で、身体を転がしているんだもの。寝つかれやしない……」
女房は久蔵の胸にさわったが、
「ひどい汗。一体、どうしたのかえ?」
と気味悪そうに夫を見た。
「そうか」
じっと行灯の明りに眼を据えていたが、
「水をくれ」
と注文した。
「ついでに、寝巻きを着替えさせてくれ」
「あい」
女房は台所に行って湯呑に水を汲んでくる。久蔵は、それを一口に飲んだ。
溜息をついたが、胸は、まだ動悸が激しく搏《う》っている。
そうか、うなされていたか……と、下をむいて考えた。
女小間物屋の、死に際の形相を夢に見ていたのである。
仰向けになった顔で、眼が飛び出していた。鼻孔からも口からも白い泡が出て顔色は紫色に充血しているのだ。白い咽喉の血脈に、親指の爪がめり込み、色が痣《あざ》のように変っている。ひいひいと、笛を吹くような声が洩れて、顔を左右に振りながら藻掻《もが》いている。それが少しずつ、地の中に押し込まれてゆく。乱れた髪が、土まみれになり、何百匹とないアリが髪から匍《は》い上ってくる……
たすけてください──と女は云った。
死ね、死ね、と彼はそれに叫んだ筈だ。女の飛び出た眼の玉に、自分の顔がうつっていた。こんなところに、おれの顔が映るわけがない、これは夢をみているのだ。夢の出来事だ、しかし、夢なら本当に助かるのだが、と夢を見ながら思っていたから妙である。
女の顔が下から不意に擡《もた》げてきた。いくら力を入れて押えても、上へ浮いてくるのだ。この力が、どうしても入らなかった。じれったいくらいに力が入らない。女は嬰児のように赫《あか》い顔を突き上げようとする。その顔を正面から見たくないから、押え込もうとする。その格闘が長かった……。
「まあ、この汗」
女房が着替えのために脱がせたが、その寝巻きが水に漬けたように濡れていた。
落合久蔵は、一晩で、げっそりと瘠《や》せたようになった。眼が落ちくぼんで、病み上りみたいな気持であった。
悪い顔色で出勤すると、同僚が、
「落合氏、どうかなされたか?」
と訊く。
「別に」
強《し》いて微笑《わら》ったが、
「お顔色がよろしくない。気をつけられたがよろしかろう」
と云ってくれる。
そのうち、同僚の間では、落合久蔵が最も恐れていた話題がひろがった。
女小間物屋が白旗稲荷の境内で殺害された噂である。これは長局にも始終出入りしていた女で、添番連中にとっては、顔見知りだから、話は賑《にぎや》かであった。
「首を絞められて死んでいたというが、真っ昼間に大胆不敵な奴もあったもの」
「下手人は、あの女の情夫《いろ》で、恋模様の縺《もつ》れかららしい。町方で捜しているそうな」
「そういえば、年増ざかりの色気のある女だったな。昨日、笑いながら、ここを通っていたが、いや、人間、いつ、どこでどうなるか分らぬものじゃ」
落合久蔵は、耳に蓋《ふた》をしたくなった。昨日の出来ごとが、まだ悪夢のようである。ふと、自分が犯《や》ったような感じがしない瞬間がある。
詰所に、ぼんやりとしていると、
「向島のご隠居が登城なされているぞ」
という情報を同僚が持ってきた。
「さては、大御所様のご容体がお悪いのかな」
と色めく者もあれば、
「いや、ただのご病気お見舞であろう」
と評する者もある。
家斉の容体は、秘密にされていて、下部の者には知らされていないのである。石翁が登城したといえば、すぐに家斉の病気に結びつけたがるのだ。
落合久蔵は、石翁が来た、と聴いて、内心、ほっとした。昨夜の頼みをきいて、その処置をつけに登城してくれたに違いない、という気がした。
今まで、気が抜けたような久蔵は、心に俄かに活力を覚えた。助かった、と思ったのだ。石翁が救助に来てくれた。もう、安心なのだ。
殺されたのは、たかが、市井《しせい》の女一匹である。石翁が、闇から闇へ葬るくらい訳は無いのだ。落合久蔵の悪い顔色に生色が浮んだ。
隠居には手柄を立てている。現に、ひどく讃めてくれた。救助してくれるのは当然なのだ。──
午《ひる》すぎになって、組頭が落合久蔵を呼びに来た。
「落合氏、御広敷番頭がお召しでござるぞ」
「はあ」
久蔵は、期待と不安に胸が高鳴った。
添番落合久蔵は、御広敷番頭に呼ばれて、奥向役人のいる御広敷詰所に出た。
久蔵を喚《よ》んだのは持田源兵衛という者で、六十近い老人である。御広敷番頭は、番衆及び添番を監督しているもので、この持田などは三百五十石の旗本、役科三百俵だ。御家人で持高五十俵の添番とはよほど違う。
「お召しにより、落合久蔵まかり出ました」
久蔵は、丁寧に頭を下げた。
「うむ、久蔵か」
持田源兵衛は、あたりを見たが、同役や上役が執務しているので、
「ちと話があるが、ここでは話しにくい。こっちへ来てくれ」
と別間に立った。
そこは八畳ばかりのせまい部屋で、誰もいない。久蔵は坐ったが、胸がどきどきした。
わざわざ、人のいないところで直属上役が話をしたいというのだから、もしかすると出世の内命かもしれない。
「さて、久蔵」
持田老人は微笑しながら、
「そちは妙なものを納《しま》っているそうだな?」
とおとなしく訊いた。
「妙なもの、と申しますと?」
久蔵は見上げた。
「さるところより聞いたのだ。何だそうだな、踏台をしまっているそうではないか?」
はっとした。さるところと云っているが、登城している石翁の口から出ていることは勿論である。
「はい」
恐る恐る上役の瞳《め》の色を窺《うかが》ったが、機嫌よく眼を細めているのである。久蔵は安心した。
それに、石翁の口から出ているので、隠し立てようもない。
「はい、さる事情がありまして、手前、詰所の天井裏に納《しま》っておりまする」
「そうか」
持田源兵衛はうなずいて、
「出してくれ。いや、訳は訊かなくとも分っている。出してくれ、出してくれ」
と掌を上にむけて、二、三度、上下に揺すった。子供が物をくれ、とねだっているときの恰好だった。
落合久蔵は、添番詰所に急いだ。
物置になっている梯子段を上り、うす暗い中を心覚えの場所に行くと、例の踏台がクモの巣をかぶって置いてある。
久蔵は、それをていねいに拭いた。
赤塗り蒔絵《まきえ》の唐草《からくさ》の金色が出たが、足をかける台にも、蝋のあとがまだ薄く光っている。
落合久蔵は、それを抱えて、再び、番頭のところへ引返した。
このときまでは、まだ讃めて貰えると信じていたのである。
「ご苦労ご苦労。これか?」
御広敷番頭持田源兵衛は、落合久蔵の持ってきた踏台を、眼を細めて、ためつ、すがめつ見ていた。
わざわざ、手で撫でてみて、
「なるほど滑るわい」
と呟いた。
落合久蔵は、手をつかえ、番頭の機嫌のいいのに安心していた。もはや、石翁が口添えしていることは明瞭だった。
「さて、落合氏」
と、おだやかに、
「貴公、どうして、かようなものを納っておられたのじゃな?」
と訊いた。
訊問の口調ではなく、世間話みたいなのである。
「は、いささか存じよりがありまして」
久蔵は口を濁した。多喜の方の一件を番頭などに云うには、あまりに重大過ぎたし、そのことは石翁さえ知っておればいいと思った。
「うむ、存じよりか?」
番頭持田源兵衛の眼が光ったのは、このときである。
「黙らっしゃい!」
頭上に鳴った不意の大喝だった。
「はっ」
久蔵は肝を消した。うっかりとしていたところに不意を衝かれたので、肩が一震《ひとふる》いしたほどだった。
「存じよりとは何ごとじゃ。貴公、いつから大奥の什品を勝手に始末する身分になった?」
久蔵は、あまりの激変に呆れたが、
「いや、その、存じよりと申しますのは……」
と弁解しようとしたとき、
「言い訳無用じゃ」
と源兵衛は、前よりも大きな声を出した。
「これよ、よく聞きなさい。大奥長局の備品は、たとえ箒《ほうき》一本なりとも奥向きの然るべき指図をうけるのが規則じゃ」
「いや、それは心得ておりますが、これには……」
「ほう。知って己れの詰所の天井裏にひそかに匿《かく》すとは……ははあ、これは何だな、貴公、ひそかに機会《おり》を見て、わが家に持ち帰らんとの魂胆であろう。さては、盗賊……」
久蔵は仰天した。
「これは、滅相な。いかに番頭殿とはいえ……」
「えい、黙れ。左様な盗賊をわしの配下につけておく訳には参らぬ。留守居殿に申し上げ、お役御免を願ったから、左様に心得ろ!」
久蔵は、とび上った。
「えっ、それでは、もう……」
「こういうことは早い方がよい」
持田源兵衛はうそぶいた。
「今日、ただ今より、そのほうは添番役を召し放されたと心得ろ。早々に退出せい!」
落合久蔵は悄然として下城した。
──添番は召し上げられた。それは御広敷番頭持田源兵衛の口からも出たことだが、つづいてすぐに、御広敷用人から正式に解職を申し渡された。
「──其方儀、日頃より御用向忠勤に欠けたるところ有り、のみならず今度御役柄を踏み越え勝手なる振舞|有之《これあり》たる段不届に付、添番の役召上げられ、吃度《きつと》窮命申付|候《そうろう》者也」
御広敷用人というのは奥向の取締一切を掌る留守居の直ぐ下にいる者で、若年寄の支配、高五百石、役科三百俵、桔梗間詰《ききようのまづめ》という大そうなものである。
添番の落合久蔵とは、まるで格式が違うから、この解雇命令を読み聞かせられても、久蔵は、口一つ利けなかった。
すべてを石翁に頼っていたのだが、こうなって、はっきり分ったことは、その石翁から裏切られたということである。そうでなかったら、こうまで手順よく、とんとんと運ぶ筈がないのである。
踏台を出せ、という。それが罠《わな》であった。取り上げて置いて、それに名目をひっかけて、あっさりと馘《くび》にしてしまった。
「裏切られた」
今の今まで出世を夢みていた久蔵は、自分が今や一匹の虫になったかと思われた。これくらい、みじめな気持はないのである。石翁に腹を立ててみても、相手はあまりに巨大過ぎた。
虚脱したような気持になって、職場を退いた。同僚も、うすうすは事情を知っているのか、挨拶してもあまり、ものも云ってくれない。冷淡なものだった。
久蔵は、とぼとぼと歩いた。役を離れたから、さしずめ明日からの生活に困る。些細な御家人の扶持だけではやってゆけないから内職でも始めるほかはない。諸事、物価高であった。
女房にはどう云って罷免《ひめん》の理由をとり繕《つくろ》おうかと憂鬱に考え込んでいると、
「落合氏」
と肩を叩かれた。
眼を上げると、久蔵の知らない顔が三、四人揃って道に立っていた。
「落合久蔵だな?」
横柄な口の利き方だからむっとしていると、
「北町奉行所附与力だが」
と名乗られて、久蔵は雷が落ちたような衝撃をうけた。
「ちと訊ねたいことがあるから奉行所まで同道願いたい」
「い、一体、それは……」
五体が瘧《おこり》のように激しく震え出した。
「白旗稲荷の境内で女が何者かの手で殺された。貴公にその絵解きをして貰いたいのじゃ」
落合久蔵は、あたりの景色が黒くなって、傾いてゆくのを覚えた。
石翁は、病間に大御所家斉を見舞ってから、別室に退くと、お美代の方と、水野美濃守とを呼んだ。
「大御所のお命も長うないな」
石翁は両人の顔を眺めながら、ひとりごとのように云った。他人の手前ならともかく、この両人は身内だと心得ている。
ことに美代は自分が養女にして育て、家斉にさし出した女だ。
そのお美代の方は、長い間の家斉の看病だというのに、その顔は少しも窶《やつ》れていない。化粧も濃いくらいで、前にも増して嬌《なまめ》かしく見える。
美濃守はさすがに看病人としての苦労で瘠せているが、その蒼白い顔がかえって妙な美男ぶりに見えるのである。
「よく保《も》てた」
石翁が云ったのは、家斉のことで、
「畢竟《ひつきよう》、手当てがよいからじゃ。ほかの者なら、とうに死んでいる」
と笑い、
「わがまま者が死病にかかっているから、さぞ、むずかることであろうな?」
と訊いた。
「はい。……ときには、ご無理なことを仰せられます」
お美代の方が答えてから、ちらりと横の美濃守の方を見た。
美濃守の厚ぼったい瞼《まぶた》に、うすく紅の色がさした。
石翁は、両人のこの微妙な表情を見て、
(ははあ)
と察した。
家斉は女好きで、その生ませた子の多いことは前例がない。女の子の嫁ぎ先が無くて困り、無理に押しつけられた大名もある。
病体の家斉が、叶わぬ身体の不自由から、その病的に尖った神経を何に求めているか。そこには、いつも病間に詰めているお美代の方と美濃守がいる。家斉が、この男女両人に、或ることをせがんでいるのは考えられぬことではない。
ご無理を仰せられます、とお美代の方の低い言葉とそれに瞼を赧《あか》らめた美濃守の表情で、石翁は、すぐにこれだけの想像がついた。
「ときに」
石翁は、それには気づかぬ風に切り出した。
「大御所様大漸も近づいたとなれば、われらもかねての計画を急がねばならぬ」
美濃守が、切れ長の眼に怜悧な光を湛えてうなずいた。
「お墨附は頂戴した。しかし、これで安心できる筈はない。面倒なのはこれからだ」
石翁は続けた。
「すでに、その面倒な動きが始まっているでな。いまのうちに払わねばならぬ。なに、今ならさして骨折ることもない。……美代。長局に登美という女がおるかな? 実の名は縫と申すが……」
石翁が登美のことを、お美代の方に訊く。お美代の方がそれに答える。水野美濃守を交えて三人、それからどのような話し合いがあったか、人を遠ざけた一室では内容の判りようもなかった。
後刻、お美代の方が年寄佐島を呼んで、ひそひそと話をしたことは確かである。これには、佐島が蒼《あお》い顔をしてうなずくだけであった。
美濃守との要談を済ませた石翁は、機嫌よく下城し、例の屋形船で向島に帰館した。
ついで、その夜は、美濃部筑前守と林肥後守を石邸に呼んで茶会を開いている。
そのときの要談が一刻とき半もかかっている。これも、余人を近づけていない。
石翁の話を、両人は合点合点をして聞いていた。
客を送ってのち、石翁はおとなしく寝についたが、その翌る朝は、本郷の加賀屋敷から、用人前田源五右衛門を呼びつけた。
源五右衛門が駕籠を飛ばしてくると、
「そちと茶を喫《の》みたくなったでのう。年寄りは気が短い。思い立ったらすぐに呼ばぬと落ちつかぬ。迷惑だったな」
と石翁は労《いたわ》った。
「いえ、どう仕りまして。ご隠居さまの御用なれば、すぐにも飛んで参ります」
源五右衛門は、奥村大膳が眼を潰されて役を退いて以来、そのあとを襲《つ》ぎ、石翁と前田家との連絡係りをつとめていた。
「それはありがたい」
石翁は、茶室に前田源五右衛門を呼び、茶を点《た》てて振舞ったが、そのあとで、
「ちと、そのほうに話したいことがある。こっちに寄ってくれ」
と近づけた。
それからの話が長い。源五右衛門の顔も緊張していたが、ときどき、愕いたように石翁の顔を見ている。
話が済むと、
「この話は、そのほうから直々《じきじき》に前田|美作《みまさか》に伝えるように」
と厳命した。前田美作守は加賀藩の江戸詰家老である。
前田源五右衛門が帰ったあと、石翁が庭に出ていると用人が来た。
「お耳に達したいことがござります」
「なんじゃな?」
「ただ今、北町奉行所より連絡がございまして……」
「うむ」
「例の添番落合久蔵と申す者、今朝、明け方、伝馬町牢内、揚屋《あがりや》にて、首をくくって相果てたそうにござります」
「死んだか?」
「左様、報告して参りました」
「ほう」
別に愕きもしない。眼は石を見つめたままである。人間一匹の自殺よりも、もっと大切な思案事があるのだ。
島田又左衛門が、脇坂淡路守を訪問したとき、淡路守は大そう機嫌がよかった。
「又左殿。何かと心配をかけたが、近いうちに、いよいよやることにした」
と、低い声だが、快活に話したことである。
「ほう、では、いよいよ……?」
又左衛門も眼を輝かした。
「うむ、検挙の材料も揃ったしな、先日来、順序を考えていたが、どうにか目鼻がついた」
「それを、承ってわれわれも喜ばしい限りです。思わず身体が浮き立つようでございます」
又左衛門の声は、この男には珍しく弾《はず》んでいたし、実際に膝を一つ二つ乗り出したものである。
「一日も早う、貂《てん》の皮の槍さばきを拝見したいものでございますな」
「見ていてくれ」
と云ったのは、淡路守が自信を示したのだ。
「しかし、こうなったのも貴殿の働きのお蔭じゃ。何にしても、実証が無うては、わしの力でも及ばぬでな。これは有難かった。わしは越前殿(老中水野忠邦)にも度々申し上げている」
「いや、手前の手柄ではございませぬ。畢竟《ひつきよう》、縫めが生命《いのち》がけに働いたからでございます」
「そのことじゃ」
淡路守は、眼を沈めてうなずいた。
「姪御殿には、礼の云いようもない。まことに言葉には尽せぬ」
大奥に手入れした経験をもつ淡路守は、縫の行動がどんなに困難であるかを知っている。そして、そのためには、縫がどのような女としての覚悟をしていたかを知っている。──
「ただ、残念至極なのは」
又左衛門が云った。
「密書を運びました、文と申す女、これは、手前のところに出入りする鳶の者の妹でございますが、落合という添番に殺されたことでございます」
「うむ、聞いている」
淡路守は知っていた。
「その者は、揚屋で自害したそうだな」
「左様。乱心したそうにございますが」
「乱心とだけは云い切れまい」
淡路守は微妙な表情をした。
「南北両奉行所とも、誰かの息がかかっている筈じゃ。どのような手が廻っていたか、知れたものではない」
「すると、向島が……」
又左衛門は、思わず淡路守の顔をのぞき込んだ。
「いや、大事ない。文から添番が例のものを奪って石翁に届けたとしても、大方の確証は揃っているでな。ただ……」
ただ、と云いかけて、淡路守は暗い顔をした。
証拠の大事なものは、殆ど手に入れた。ただ──と云いかけて、口をつぐんだ淡路守の表情の暗さは、ややあって、次の言葉となった。
「ただ、これで、われらの仕方も先方には知られている、と見てよかろう」
ぽつりと云ったものである。
先方、とは云ったが、それが石翁を指していることは勿論だ。つまり、こちらで証拠を蒐集《しゆうしゆう》していたことを石翁一派に察知された、という意味だ。
その影響として、
「ちと、仕事がやりにくくなった」
と淡路守は眉を寄せている。
「これからは、何かと妨害や迫害があろう。水野越前殿の話でも、近ごろ西丸大奥からの風当りがきつくなりはじめたそうじゃ」
「老中にも?」
「笑っておられたが、これはさすがに閉口らしい。いつまでたっても、大奥は苦手じゃ。石翁の手が後に動いて、老中職の追い落しにかかっている様子がみえると云われたがな。越前殿が幕閣に居ては、彼らの仕事がし難《にく》いのじゃ」
「左様でございましょうな」
又左衛門も暗い顔になった。
「ま、そう心配されるな。頑固者の越前殿じゃ、そうやすやすと退《ひ》くことはない。わしは気強く考えている」
「頑固にかけては……」
又左衛門は淡路守の顔を見た。
「お手前さまもお負けになりませぬ」
「もう一人、ここに居るわ」
淡路守は、初めて笑いながら又左衛門を指した。
「頑固者三人集まれば、何とかなろう」
「まことに」
又左衛門も、その笑いに融けたが、どこかに笑いきれぬものが残っていた。心の底に黒い滓《おり》のようなものが堆積している。それが不安とも云えるし、暗い海をのぞいているような気持でもある。
「われらは、それでよいがの」
淡路守が、微笑を消して云った。
「心配なのは、姪御どのの身じゃ。一刻も早う、お城から退らせぬと危険だと思うが」
「そのことは、早刻にも宿下りをお願いするよう申しつけてございます。なにせ、身を退くにはむつかしい大奥のこと、いろいろ理由を考えておりますが、万一のときは、宿下りのまま、身をかくす手段も考えております」
「それがよい。早うなされるがよいぞ」
淡路守は忠告して、
「ときに、妙な申し込みをわしは受けている」
と、また謎の微笑をした。
「妙なことと申されますと?」
「近いうちに、茶会に呼ばれている。方向は、本郷じゃ」
又左衛門は、あっと眼をむいた。
「本郷……すると、加賀藩邸からのお招きでございますか?」
又左衛門が愕いて訊くと、
「珍しいことじゃ」
と淡路守は眼をかすかに笑わせた。
「前田家から、わしを呼びに来た。伝来の茶器を見せてやるというのだが、今までに無かった話だ」
「で、お請《う》けになりましたか?」
又左衛門が問うと、
「断る理由は無い。ありがたく請けたよ」
と恬淡《てんたん》としている。
「それは、お見合せなされませ」
又左衛門は、熱心な眼つきになった。
「お招きした先が悪うございます。前田家とは腑《ふ》に落ちませぬ。ご用心なさるに越したことはありませぬ」
「用心はする。しかし、断ることはない。いや、わしは進んでゆくつもりじゃ」
「………」
「この企ては、うしろに石翁が居る。茶会にことよせ、畢竟、わしの肚《はら》を探ろうとする所存であろう。面白いと思ったな」
「しかし……」
「いや、お手前の忠告はよく分る。しかし、又左殿、お手前の姪御でさえも女の生命をかけて働いてくれた。わしがじっとしている訳にもゆかぬではないか」
「お言葉ですが、姪は女でございます。寺社奉行のお手前さまとは重味が違いまする」
「同じだと云って貰おう」
寺社奉行は云い切った。
「もともと、危険を考えたら、初めからこの仕事はやれるものではない。何もせず、じっと役所に坐っておれば、それでも勤まるが、わしは再勤したときから、今度こそ、と思ったのだ。前から危いことは承知だ。縫どのをあのように働かせておいて、われらが爪楊枝をくわえているわけにもゆかぬ」
「それでは、どうでも?」
「敵が呼んでくれたのが幸いなくらいじゃ。こちらも、じっと先方の顔色を見てやる」
「それほどまでに仰せられますなら、おとめ申しても無駄でございますな」
「頑固者と申したばかりじゃ」
淡路守は微笑したが、又左衛門は笑えなかった。
「そのお茶会は、いつでございますな?」
「三日先との案内でな。役所が退《ひ》けてからでよい、とのことで、六ツ刻《どき》から本郷へ伺うことにしている」
「三日先……」
又左衛門は指を折った。
「十七日でございますな。それでは、淡路守さま、くれぐれもご用心のほどを……」
「ありがたいが、ご心配に及ばぬ。十八日には、また、ここに見えられよ。茶会の模様を話して進ぜよう」
又左衛門が辞去するとき、雨が降り出した。
島田又左衛門は、芝口一丁目の脇坂淡路守の上屋敷を出た。
暗い中に雨が降っている。冷たい雨だ。一雨毎に冬が近まってくる。
駕籠は雇ったのだが、ちゃんと横には吾平も附いていたことだ。夜道の覚悟で提灯も用意して来ている。定紋《じようもん》は四ツ割菱《わりびし》である。
駕籠は、麻布の方角に向って歩いている。脇坂の隣が、松平陸奥(伊達家)の上屋敷、次が松平肥後(細川家)の上屋敷である。いずれも広大な塀が長々とつづいている。
道は、この塀に沿っている。夜ともなれば人が通らないのが普通である。殊に雨の晩だった。
又左衛門は駕籠の中で、鬱々《うつうつ》と考えていた。外には雨の音と、駕籠かきの水溜りを踏む音がする。
脇坂淡路は、加賀家の茶会に呼ばれてゆくらしい。どうもそれが気がかりである。加賀の御守殿は家斉の女《むすめ》でお美代の方の生んだ子。その伜が世嗣の前田犬千代である。美代の養父が石翁と来ている。
西丸大奥と前田家とは親子の間柄にも似ているから前田家で脇坂を呼ぶというのは、どんな魂胆がかくされているか分らない。
かげで、石翁の指金《さしがね》が動いていることは無論だ。
(無理に制《と》めた方が、やはりよかったな)
又左衛門は、かすかに後悔した。脇坂を本郷にやるべきではない。かけ替えのない身体なのだ。
二度と、寺社奉行で、あのような硬骨漢が出ることはないのだ。淡路守は大奥粛清のために生れてきたような男なのである。
(万一のことがあったら)
それは、縫にも云えることだ。そうだ、これも危険なのだ。脇坂淡路守が忠告したくらいである。
ふと、別な足音が前方から起ってきた。
駕籠の中の又左衛門は知らないが、笠と合羽《かつぱ》を被《き》た男が、向うの道から歩いてきたのだ。
駕籠の傍まで来て、その男はふと足をとめた。
「卒爾《そつじ》ながら」
と吾平に問うた。
「お旗本、成瀬久兵衛様のお駕籠ではございませぬか?」
吾平が違う、と答えたのは無論である。
「ご無礼仕りました」
その男は笠を傾けて、詫びて行く。
駕籠の中の又左衛門が聞いていて、たしかにその足音はうしろに去った。
細川家の長い塀が、やっと切れようとするところ、今度は、前と後の方から、多勢の、しかも、忍ぶような足音が起った。
雨は相変らず、強くもならず、弱くもならずに降っている。
島田又左衛門は、駕籠の中に居て、前後から起った多数の足音を注意深く聞いた。
濡れた草鞋《わらじ》が泥濘《ぬかるみ》を舐《な》めて、ぴたぴたと音させている。うしろに四、五人、前方も、ほぼ同数だと見当がついた。
歩き方が武士のものだったし、それも、ある意図をもった気配だった。忍びやかだが、一つのものを狙っている歩き方だった。
挾まれた──
と又左衛門は感じた。
危険を、脇坂淡路守に説いたばかりの帰りだった。
又左衛門は、刀を把り、鯉口をくつろげた。いまにも駕籠から放り出されたら、すぐにも跳ねて起ち上る態勢にしていた。
脇について歩いている吾平に注意を与えようと思ったが、声を出すのは危いと知って、そのまま黙っていた。
駕籠は、何ごともないように進んでいる。細川家の長い塀が、もう切れるころであった。来るな、と思った。足音が近い。
その瞬間に、駕籠がとまったのである。誰かが、棒鼻を前から押えたらしく、駕籠がうしろへ揺れて戻った。
「あ、何を……」
吾平の叫ぶ声が聞えたが、これは、理不尽な行為を咎めたのだった。
駕籠は地上に坐った。同時に、前からも後からも、足音が迫って、囲んだようだった。
「卒爾ながら」
太い声が前から聞えた。
「島田又左衛門殿とお見うけ申すが、しかと左様でござろうか?」
吾平は誰かに押えられているらしい。駕籠屋も同じとみえて声も出さぬ。
「貴公の名は?」
又左衛門は訊き返した。
「わけあって、申し上げるわけには参らぬ。ただ、島田殿かどうかを承りたい」
「作法には無いことだな」
又左衛門は駕籠の中に坐って云った。
「承知」
と相手はうすく笑った。
「ご容赦願うよりほか仕方がない」
「人数は、何人連れて見えられた?」
又左衛門は訊いた。
「手前ども九人」
声は答えた。
「貴公が頭領とみえるが」
又左衛門は云った。
「雇い主は誰じゃ?」
「なに!」
声は気色ばんだようだった。
「寅の方角か、子《ね》の方角か。方位はいずれじゃ?」
寅は向島に当り、子は本郷に当っていた。
殺気が駕籠の外で立った。
駕籠の両側が殺気立ったことは、内に居ても、風が起ったように分った。
又左衛門は、坐っていて羽織を脱いでいた。いつでも駕籠からとび出して走れるようにしていたし、走ってから立ち停り、敵を迎える地形まで考えていた。
脇坂邸には、度々通っているから、この近所はたいてい頭の中に憶えていた。
しかし、敵の人数は圧倒的に多い。容易ならぬ危機に立っていることは自覚できた。それだけに軽々しい挙動には出られぬのである。虚を見せてはならないのだ。
敵の実力も分らなかった。問答は、駕籠の内と外とで交されていた。垂れも塞いだままだったから、敵の姿も見えぬ。
向島か、本郷かでさし向けた人数だとは推察したが、それを訊いたときに、敵は殺気をみせたから、それは当っていたし、いよいよ来るか、と又左衛門も構えた。
「待て」
太い声が云ったのは、又左衛門にではなく、味方を制したのである。
「手出しはするな」
声も重かったが、貫禄があるとみえて、両側の多勢の男が一足退いたようだった。迫っていた鋭い空気が急にゆるんで感じられた。
「島田氏」
と太い声は又左衛門を呼んだ。
「………」
「貴公、脇坂殿の邸から出て来られたようだが、ご用事は何ごとでござるか?」
無論、返事の必要のないものである。黙っていると、
「お答えがないが、ご返事を聞くこともないようじゃ。されば、手前より勝手に申し上げる」
「………」
「大奥に就いての一件、以後、手出しは無用になされたい。貴公には益なきことじゃ。次に、淡路殿への通謀もお止めになるがよろしかろう。蟷螂《とうろう》の斧《おの》じゃ。所詮、己が災いを招くだけが落ちでござる。これだけは、申し上げる」
「用向きは」
又左衛門は口を開いた。
「それだけか?」
笑いが、その男の声で返ってきた。
「それだけだ。ただし、口の先だけではない。貴公が肯《き》かぬときは、必ず、その災いが参ると心得られたい。これは、屹《きつ》と申しておく」
この威嚇は、九人の人間に駕籠の両側を囲ませた効果の上だった。今でも、その気になれば、いつでも斬れるのだ、と云いたげだった。
「承った。たしかに」
又左衛門は現在の対決が終ったことを知って、刀の柄に掛けた指を放した。
「憶えておく。憶えておくだけはな……」
島田又左衛門は麻布の屋敷に帰った。
途中は何ごとも無い。
敵も退《ひ》き際が立派で、
「これだけは、屹と申し上げておく」
と宣言をしたまま、命令で行動をしたように、駕籠の両側の人数も、ひき上げて行ったのである。その遠ざかる足音を、雨といっしょに又左衛門は駕籠の中で聴いていた。
吾平に訊くと、
「いずれも笠で面体《めんてい》をかくしておりましたが、れっきとした士《さむらい》でございます」
と答える。
「頭分《かしらぶん》の男は?」
と問うと、
「何か、でっぷりと肥《こ》えた男で、雨合羽《あまがつぱ》を被ておりましたから、しかとは分りませぬが、相当な身装《みなり》のお士と思います。この人の下知で、ほかの人は動いておりましたようで」
と云う。行動に秩序があったことで、その正体のほどが想像できた。
「手前を羽交締《はがいじ》めしていた男は、それは力が強うございまして、息も出来ぬくらいでございました。旦那さまに万一のことがあってはと思い、気が気でございませなんだが、咽喉に廻された腕が閂《かんぬき》となって、声が出ぬのでございます」
とも吾平は云った。
要するに、敵は容易ならぬ武力を威嚇に持ってきたのだ。この問題から手を引け、と彼らは脅迫している。いや、その威《おど》しは虚勢ではなく、本物なのだ。今でもやれるぞ、と彼は見本をみせたのである。
(石翁が、いよいよ出て来た)
又左衛門が、皮膚にじかに感じたのは、これだった。
淡路守が、
(敵もこちらのやっていることを察した)
と暗い顔をしたのは、たった今だったが、こうまで早く、彼らが直接行動に出てこようとは思わなかったのだ。
(敵も必死だな)
思わぬ敵の気魄《きはく》に愕かされた恰好だった。
屋敷に帰ると、寄食している良庵が出てきて、
「お顔色が」
と又左衛門を見上げた。
「うむ。ちと、途中で故障があってな」
又左衛門は暗く微笑した。
「故障と申しますと?」
良庵が訊くのに、又左衛門はすぐに返答しないで、
「明日あたり新之助を呼んで、貴殿とも、よく相談をしたい。少々、面倒なことが起りそうじゃ」
と云った。
その片頬に上っている不安な表情を、良庵は、この人が、という思いで見つめていた。
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乗 物 部 屋
家斉の病気は一進一退を繰り返していた。
が、それは平衡の上に立っているのではなく、次第に下降の傾斜を匍《は》っているのだった。
湯殿で仆《たお》れて以来、すでに七カ月になるのだが、身体の不自由、言語の障害はいくぶん除《と》れてきた。
はじめは、間歇的《かんけつてき》に、ひどい頭痛を訴えたものだが、それはいくぶん治った。
その代り、近ごろでは頭が少々、呆《ぼ》けてきたようである。
枕頭には、いつもお美代の方と、水野美濃守とが詰めているが、ときには、その顔を忘れていることがある。
「お前は誰じゃ!」
とお美代の方に、茫乎《ぼうこ》とした眼を向ける。
「美代でございます。美代でございますよ」
彼女が五寸ばかりの距離に顔を近づけても、
「美代? いつ、奉公に上ったのじゃな?」
と不思議そうに訊く。癒《なお》ったとはいえ、言葉もけだるいくらい緩慢であった。
同じことは、水野美濃守についても云えることで、頻《しき》りに誰かと訝《いぶか》って訊くのである。
「なに、水野美濃守じゃと? いずれの藩主であったな?」
などと呟くのだ。
膳が来ると、箸をつけて、子供のように舌を鳴らし、
「これは、そのほうがこしらえたのか。美味《うま》いな。さても料理の上手な男よ」
と真顔で讃《ほ》めるのである。
尤も、このような痴呆《ちほう》的な現象はときどきで、その間は意識がわりにはっきりしているのである。
そのときは機嫌よく話をする。しかし、機嫌がいいといっても油断はならない。突然、真蒼《まつさお》な顔をして憤《おこ》り出し、枕元にあるものを投げつけ、お美代の方でも美濃守でも、ひき据えて打擲《ちようちやく》する。しかし、近頃は、気力が衰えて、床の上に起きることが出来ないから、寝たまま拳《こぶし》をあげて、ぶるぶると震えると、美濃守の方から顔を差し出すのである。
そうかと思うと、突然、大声を出して、
「ただ今より上野の御廟《ごびよう》に参る。早急に供揃いをせい」
と命じたりするのだ。
熱が出るときは非常に高い。その時は歯を食いしばって呻《うな》りながら苦しんでいる。舌を見ると紙のように真白い。医者のすすめるいかなる煎薬《せんじぐすり》も受けつけない。
ひっく、ひっく、と始終、しゃっくりがつづいている。顔も手足も瘠せ衰えているのに、腹だけは、妊娠のように膨《ふく》れ上っていた。その顔も、身体も、色を塗ったように黄色になっているのだ。
典医どもは秘薬を調合しながらも、浮かぬ顔をして首を傾げているのだ。
誰の眼にも、家斉の死期が近いことを思わせた。
この上は、神仏にたよるほかなさそうだった。
感応寺の住職、日啓が、大御所家斉の「病気見舞」として登城した。
日啓は、お美代の方の実父である。齢《よわい》六十を超しているが、まだ顔の色も艶もいい。ただ、足もとが少々|縺《もつ》れるが、介添《かいぞえ》の扶《たす》けで、西丸の長い廊下を疲れもみせずに歩いた。
法華宗が、家斉の代に繁昌したのは、全く日啓がお美代の方の実父であるという因縁だけで、宗旨がよかったのでもなんでもない。家斉が美代にすすめられて、法華宗に転向したので、大奥はじめ諸大名の奥までがこれに倣《なら》った。
一体、武家の宗門は殆どが浄土宗、禅宗だったのが、家斉の代に、法華への宗旨変えを申し出た大名もあったくらい、法華宗は諸家に人気があった。
いうまでもなく、これは家斉への阿諛《あゆ》であり、お美代の方をはじめ、その大奥側近への追従《ついしよう》だった。先祖以来の宗旨を変えなければならなかったほど、法華のうちわ太鼓を鳴らさないと、立身も出世も出来なかったのだ。
「西御丸を始め、諸大名の奥女中、多分は日蓮を信仰せられ、はては我生れ来りし先祖より伝ふる所の宗をすて、此宗にゐること、古今同じく、其数甚多し。是も宗の僧のすすむる所にして、又、先々の女中たがひにすすめあへるが致す所也」
また、こうも書かれている。
「近世諸家の貴人、京都より妾を召さるるに、多くは日蓮宗なり。その故は日蓮宗の僧等、其の檀那《だんな》と心をあはせ、下賤《げせん》の数ならぬものにも、かほよくむまれし処女あれば、金銭を与へ、育てしめ艶芸を習はす。年ややたけゆくとき、日蓮宗の法義を教へ侍《はべ》る。是は若し大家の妾となり、幸ひせられば必ず主家を勧めて、我宗を其邦へひろくせんたくみ也。邪徒《じやと》の奸曲《かんきよく》ここに至れりと京の人かたりし」(天野|信景《さだかげ》「塩尻」)
この天野の云う最後のところは多少、曲解で、諸家の貴人というのは、多分、大名か高禄の旗本のことであろうが、妾を京から呼ぶのに、法華宗を条件としたのは、一に将軍家や大奥へ気に入られようとの魂胆で、法華宗がわが宗旨を拡めんとした企らみがあったとは思われない。むしろ諸人の出世欲が法華宗を流行《はや》らせたのだ。
それはともかくとして、上人日啓は、その法華流行の本尊である。彼は、己の法華感応寺を、ゆくゆくは、寛永寺、増上寺と同じように、将軍家の菩提寺《ぼだいじ》としたい下心があって運動したほどの坊主であった。
いま、長い廊下を歩いて、西丸大奥の家斉病間の一つ隣に辿《たど》りついたのは、表向きの名目こそ「御見舞」であるが、実は、直々《じきじき》に家斉の病床で祈祷をしようというのである。
これも、日啓自身の発意ではない。西丸老中、林肥後守と側用人水野美濃守の招請であった。
大御所見舞といっても、日啓が直々に家斉の病間に進めるわけはなかった。病間と次の間の間《あいだ》の襖を締め切り、日啓は襖越しにお見舞を言上するのだ。
この間は、十二畳敷で、南の小壁には欄間がある。四面とも襖を締め切り、襖は金砂子地に金泥で桜花の模様を描いてある。
天井と小壁の貼附は、丸竜と称して、竜をまるいかたちに意匠したものだ。
日啓は厚い緋の座蒲団の上に坐し、金泥|葵《あおい》唐草の匍《は》った経机を前に経文を誦《ず》していた。「御見舞」というのは、表向きの口実で、実は病間近くで加持祈祷を修めようというのである。
日啓のうしろには、上臈、中臈、年寄、中年寄、御客|会釈《あしらい》など、奥の役人がずらりといならんで、日啓の読経に、頭を下げて有難そうに数珠を繰ったり、唱和したりしている。
病間には、家斉が横臥しているのだが、読経の声を煩さそうに顔をしかめて聞いている。横に、お美代の方と水野美濃守とがいるのはいつもの通りだが、今日は、西丸老中林肥後守、側用人美濃部筑前守が控えている。
家斉の病室には、水野、林、美濃部の三人以外には、いかなる人物も出入りを宥《ゆる》されなかった。
たとえ、本丸から将軍家慶が見舞の都合を問い合せてきても、
「大御所様思召し」
を云い立てて滅多に遇わせないのである。
三家、親藩に至っては、けんもほろろである。
「大御所様思召し」
とか、
「お医師の意見でございます」
とか云って、余人を絶対に病間には入れない。だから、本丸の方で、
「あの三人が、大御所様を閉じこめて、何をしているか分らない」
と猜疑《さいぎ》するのである。
老齢とは云え、日啓の声はよく徹《とお》る。声は若いときから自慢であった。
「とくあのくたら、さんみゃくさんぼだい、ねんぜんなんし、がじつじょうぶつちらい、むりょうむへん、ひゃくせんまんおく、なゆたこう、ひよご……」
高らかに誦しながら、片手に山形の板と数珠を持って振る。その音が、かっ、かっ、と音律的に鳴るのである。
これにつれて、うしろの女中たちも、
「むくれい、わられい、はられい、しゆきやしや、あさんまさび、ぼつだびきりしてい、だるまはりしてい……」
と唱和してゆく。
法華に凝《こ》っているから、「陀羅尼品《だらにぼん》」の一部くらいは暗誦しているのである。
家斉は、数百匹の虻《あぶ》の唸りのような声に、眉に皺を寄せ、嬰児のように、枕の上で頭を振っている。
日啓上人の加持祈祷に唱和しているのは、大御所の病間近くだけではなかった。
当日は、年寄の触れとして、
「上人の御祈祷がはじまれば、女中どもはそれぞれの部屋に籠りて陀羅尼品を誦すべし」
の触れが長局全体に出た。
それで、その時刻になると長局中から称名の声が湧いた。
本丸の長局は四棟あり、南から一の側、二の側、三の側、四の側と称した。一の側は役つきの重い女中が居るところで、十数部屋に分れている。これには二階もついている。
二の側と三の側は、間数二十、四の側は三十ばかりである。御錠口、表使い、お三の間頭、呉服の間頭、御祐筆頭を始め、以下役々の順で二の側から三の側、四の側に住む。
これは本丸の例だが、西丸はそれよりやや規模を小さくしている。しかし、家斉が大御所のときは、その派手な性格と、実権を握っていることとで、総女中の数は本丸にあまり負けなかった。
なにしろ長局に住む三百人あまりの女中が、一斉に、
「あにまにまれい、ままねい、しれい、しゃりていしゃみや、しゃびたい、たいせんてい、もくてい、もくたび……」
と経文を膝の上に置きながら唱和するのだから、その声は西丸全体に満ち満ちた、といってよい。
日啓上人の読経がはじまって間もなくであった。
そのうしろに控えていた年寄佐島が、合掌のまま、ふと、横を向いた。さり気ない向き方で、何気なしに顔を振ったようにもとれた。
すると、その列のうしろに居た女中が、するすると横に滑るように出ると、静かに襖を開けて出て行った。年寄の樅山だった。
それだけのことだ。樅山が何かの用を思い出して、部屋をこっそりと出て行った、という印象だった。
しかし、樅山は廊下を歩いて長局に向っていた。これも、普通の歩き方で、さして大事な用事があるとは思えなかった。
長局に近づくと、どの棟も経文の合唱である。
樅山は三の側の廊下を歩き、ある部屋の前に停ると、杉戸を細目にひらいた。
三人の女中が、一心に手を合せて口を動かしていたが、その一人が杉戸の細目に開いたところから覗いた顔を見て、
「あ」
と小さな声を立てた。
樅山は、顎をしゃくって、おいでおいでをしている。
その女中が近づくと、
「登美を、これへ」
と呼んだ。眼を細めて、微笑を湛えているのだ。
女中たちの間で、手を合せていた登美は、ひとりの女中から耳打ちされてうなずいた。年寄の樅山が喚《よ》んでいるというのである。
膝をそっと滑《すべ》らして杉戸の方へ、こっそりと行く。ほかの女中は、まだしきりと陀羅尼品を誦している。
静かに杉戸を開けて出ると、樅山が廊下に立っていた。
登美が一礼すると、樅山はかすかな笑いを眼もとに浮べていた。
「そなたも、ご祈念をしていましたかえ?」
樅山は、廊下の端を、ちらちら見ながら訊いた。
「はい」
それは奇特なことじゃ、と樅山は云った。
大きな声を出さないと、各部屋から、真夏の蝉《せみ》時雨《しぐれ》のように降っている女中どもの唱和の声に消されそうだった。
「ちと、そなたに用事があります。暇をとらさぬから、そこまで来て下され」
樅山は云った。何気ない云い方だった。
「はい」
登美が、うなずいたのを見て、樅山が先に立って廊下を歩く。
いつもは、必ず女中衆の誰かが歩いている長い廊下が、今に限って殆ど姿が無いのである。
「お末、たもんに至るまで各々の部屋にて、上人の祈祷が相済むまで籠《こも》り、祈念のこと」というのが、年寄の達しだったから、この長局の廊下には、嘘のように人かげが無い。
樅山は、行先を云わずに相変らず、黙って先を歩く。三の側から一の側への廊下は中央が長局通り廊下と云って、随分、道中が長く、また見通しがまっすぐにきくのだ。廊下の端が小さくつぼまって見える。
この廊下を歩いているときでも、左右の部屋部屋から聞える女中どもの唱和の声は湧き上るようだった。
先に立った樅山は、一の側の廊下まで行かずに、途中で右に曲った。二の側の廊下で、これも左右を見渡すと、気が遠くなるほど長い。
樅山は、右の方へ真直ぐに歩いてゆく。
一体、どこへ行くのか。
登美の心に、かすかな不安が湧いた。
樅山は、いつも感応寺詣りには一緒だったし、いわば仲間うちだった。年寄佐島にはひどく気に入られている。
登美には決して悪い上役ではなかった。それに、ここは長局のうちなのだ。何が起るというのか。
不安がる理由は少しもない、と登美は自分の胸に云い聞かせた。
しかし、それに、かかわりなく、動悸がひとりでに激しくなってくる。
長い廊下を歩いて、年寄の樅山がようやく足を停めたのが二の側の角の部屋である。
樅山はふり返り、登美を見て笑う。
「ちと、そなたに、内密の話があります。なに、それほどむつかしい話ではないが、少々外聞を憚《はばか》ります」
「はい」
登美はすこし頭を低《さ》げた。
「うるさいお局のこと、そなたとわたしが密談していると、また何かと勘ぐられるかもしれませぬ。ほかに、場所も無い故、この内に入ってくれませぬか?」
樅山が指したのが、足を停めた角の部屋であった。
「お乗物部屋!」
登美は、その部屋を見て口の中で叫んだ。
日ごろは用の無いところである。この部屋は奥女中が外出のときに使う乗物が四、五十も格納してある。長局の中には、こういう乗物部屋が五カ所もあった。
なにぶん西丸だけでも、慶応元年の調べでは、女中の総計四百六十九人もあったという。この中で、外出のときに乗物を宥《ゆる》されるのは限られた高級女中であったが、それでも、日ごろから二百挺以上の乗物が用意されていたわけである。
この乗物部屋で話をしようというのだから、登美が、場所の意外に愕いたのであった。
樅山は微かに笑って、
「なに、話は、すぐに済むことじゃ。お入りなされ」
と杉戸を開けた。
妙なことだが、その戸がすらりと開いたのだった。登美は、日ごろ、その戸に丈夫な錠前がかかっているのを知っているが、見るとそれが無いのである。前もって、誰かが抜いているのだ。
樅山は躊躇《ちゆうちよ》せずに先に入る。登美も胸の動悸を抑えながら、仕方なしに続いた。
部屋の内はうす暗い。四、五十挺も網代鋲打ちのきらびやかな乗物がならんでいるのは壮観だが、どこか薄気味悪い。人のいない乗物ばかりが沢山集まっているのを見るのは変な気がする。
「どうぞ」
樅山に促されて、登美は、さらに二、三歩、足を進めた。
とたんに、うしろの入口の杉戸が音立ててひとりで閉まったのである。
「あっ」
声を上げたのは、それだけではない。
置かれた乗物の陰から、華やかな色彩が立ち上ったと見ると、これが年寄佐島の姿だった。
登美が眼を大きく開けて、うしろに退った。その身体を三、四人の力が不意に抑えた。
「ざれい、まかざれい、うつきもつき、あらあらはてい、ねれてい……」
長局全体の斉唱の声の中には、乗物部屋で少々叫んでも、人の耳に聴える筈はなかった。
乗物部屋でどのくらい時刻《とき》が経ったか分らない。
とにかく、大御所の次の間では、まだ日啓上人の長い加持祈祷がつづいていたから、あまり長い時間ではなかったのであろう。長局でも、むろん、女中どもの斉唱がつづけられている。
長局の通り廊下を二人の女中が歩いていた。一人は年寄佐島で、一人は年寄の樅山である。
佐島はどういうものか、歩く足もとが少しよろめいている。樅山がそれをうしろから抱きかかえるようにして扶《たす》けて歩いていた。佐島の顔も樅山の顔も蒼白になっていた。
長局廊下から、御殿の廊下にかかった。この廊下も長いが、いろいろと屈折している。それを幾曲りかして、もとの御病間の次の間の襖を静かに開けた。
このときは、佐島は年寄の威厳をとり戻して、ちゃんとした姿勢になっている。つづいて、樅山が入って、それぞれもとの席に着座した。
ほかの者には、二人とも偶然に、何か用があって席を起ち、戻ってきたという印象だった。ただ、それだけのことである。別に変った様子もない。両人とも、前のように、日啓上人の背後から手を合せている。
加持祈祷も、終りに近づいたらしい。
日啓上人の数珠をふる動作がいよいよ大きな身振りになり、かっかっという音が激しくなった。
日啓の読経の声も一段と高くなった。音声が自慢なだけに、年老いても朗々たるものだった。
うしろの女中衆も、それにつけて騒々しい。普通なら団扇《うちわ》太鼓《だいこ》を鳴らすところだが、それはさすがに遠慮している。
地白に金泥、銀泥の極彩色絵の襖一重を隔てて、家斉は、いよいよ頭が痛いらしく、顔を枕の上で振っているのだ。
上人の声が、終りに近づいて、張りをみせたときである。
そのうしろに控えている女中たちの最前列にいた年寄佐島の姿勢が妙な傾きかたをした。と思った途端に、崩れるように、ふわりと前に突伏したのである。
はじめは祈祷に感動して泣いたのかと思ったが、そうではなく、急いでいざり寄った樅山に扶け起されたときは、佐島は真蒼な顔をして眼を閉じていた。
「佐島さまはご気色が悪いそうな。どなたかお部屋まで手伝って下され」
樅山は低い声で云った。
樅山が佐島を抱き起す。傍にいた女中二人がそれを扶ける。不意の珍事だが、小さな波乱で終った。
佐島は、外の廊下へ抱えられて出た。
登美の姿が見えなくなった。──
はじめに騒ぎ出したのは、相部屋の女中二人である。登美と同じくお三の間で、長局三の側、西より五つ目の部屋にいる。
お三の間の役というのは、毎日、表使以上のお居間向きお掃除一切を終り、毎朝の湯水を上げ、火鉢、煙草盆などを取扱い、これを小姓に渡す。
また年寄、中年寄、お客|会釈《あしらい》、中臈詰所の雑用を直接に達し、ときには鳴物狂言の催しがあると、お次の女中と共に択び出されることがある。
だから、遊芸一通りの心得がある女中が多かった。
登美の姿が見えない、と気づいたきっかけは、お三の間頭が、
「明日は上亥《じようい》の祝儀がある故、何かと御用が忙しい。いろいろと打ち合せたい故、登美を呼んでたもれ」
と命じたことからである。
何処を探してもいないのである。相部屋の同輩は、
「たしかに、お部屋で、ご祈祷のとき、わたしたちと一緒に坐っておられましたがなあ」
と不思議な顔をした。その加持祈祷が終り、日啓上人は一刻ときも前に退出しているのだった。
はじめは、御用所か、中庭に出ているのかと思って探したが、どこにもいない。
そのうち、思い出す女中があって、
「登美さまは、ご祈念の最中、たしか樅山さまに呼ばれて部屋を出て行きました」
と云い出した。
相部屋のお三の間女中が、年寄の樅山の部屋に、おそるおそる伺いに行くと、
「ちと申しつけたい用事があった故、廊下へ呼んで話したが、それは二口三口で済んだこと。わたしはそのまま上人様のご祈祷の場所へ帰ったゆえ、その後、登美がどうしたかは知りませぬ」
との返事だった。
その樅山との話が済んで、登美が座敷に戻ったのを見た者はない。一方、樅山は、たしかに一時は中座したが、しばらくして元の席へ帰っている。
お三の間頭は、報告を聞いて眉を寄せた。
突然、登美が姿を消したのは、合点のゆかぬことである。しかし、騒ぎ立てている最中に、当人がひょっこり何処かから帰らぬとも限らぬので、それからも二刻ばかりは待った。
それでも、登美は一向に顔を見せなかった。
こうなっては仕方がない。
お三の間頭から中年寄に報告する。
さらに奥から、御広敷留守居にこのことを通告した。
留守居は用人に申しつけて、長局一帯を捜索するように命じた。
すでに夕刻になっていた。
登美の捜索は、その夕方からはじまった。
お広敷用人の指図で、添番衆、伊賀者が長局の諸所方々を探し廻った。
御用所から、床の下、天井裏まで捜したが登美の姿はなかった。
門番に念のために訊いてみると、外出の様子はない。
探しあぐねた一同が顔を見合せていると、そのなかで、
「もしや、お乗物部屋では?」
と云い出す者がいた。
「まさか」
と否定する者が多かった。
というのは、乗物部屋には丈夫な錠前がかかっている。この開閉は添番頭がやっている。彼らが居なくては、開けることは叶わないのだ。
「念のためじゃ、開けてみい」
用人の下知で、添番のひとりが錠前を外《はず》した。重い戸が開いた。
すでに、昏《く》れかけているから、内部はいよいよ暗い。各各、手燭をもって、四、五十挺もならんでいる乗物の間を点検した。
乗物は、不要の時は、油《ゆ》たんがかかっているのだが、見た眼にはいずれも異状がなかった。乗物と乗物の間や、隙をくまなく見て廻ったが、手燭の光は何の変異も見つけ出さなかった。
およそ、一刻近くも探したが、登美の姿は発見されなかった。
「面妖《めんよう》なことじゃ」
捜索隊は首をかしげた。
とにかく、今日は日が暮れたことであるから、明日もう一度、よく調べようということになってひき上げた。
長局では大そうな騒ぎだった。
女中どもは、寄るとさわると、この話に夢中になった。そして、みな恐ろしそうな顔をする。
長局には怪談がつきものであった。ずっと何代か前にも女中がひとり忽然《こつぜん》と御殿から消えたことがあった。おおかた、妖怪変化にさらわれたことであろうと、その話をきく者は怖気《おぞけ》をふるい、夜、御用所(厠《かわや》)に行くときでも、入口では必ず有難いお経の一節を唱えたものだ。
あまり、女中どもが騒ぐので、
「明日は目出度い玄猪《げんちよ》の日である。滅多なことを口にせぬように」
と年寄から触れが廻ったくらいである。
玄猪というのは、十月上の亥《い》の日で、災難除け、子孫繁昌の祝いごとがある。この日は上《かみ》から女中一同へ亥の子餅と御膳所でつくった萩の餅を下される。炬燵《こたつ》開きがあるのも、この日からだった。
不安な一夜が明けて、その日が来た。
その日は、朝から人夫を長局に入れて登美の行方の本格的な大捜索となった。広い長局であるから人夫も百人近い。これに添番や伊賀者がつき添っている。
もしや井戸の中ではないかと、これも人夫が降りて鈎《かぎ》で探ってみた。井戸だけでも長局には二十五カ所もあるから大そうな騒ぎである。
また、局々《つぼね》の縁の下や、物置部屋なども捜した。まるで長局は煤払《すすはらい》のときのようである。
女中も思い思いの場所を探す。当日は亥の子で、御台所は綸子総縫《りんずそうぬい》入りのお|襠 赤紋《かいどりあかもん》縮緬《ちりめん》の間着組白《あいぎくみしろ》を被る。女中もお襠が違うだけで、あとは同じだ。
いわば祝儀の日だから、人夫に立ち混って探す女中の晴れ衣が対照的だった。
乗物部屋もむろん探した。しかし昨夜と同じように登美の姿は、置きならべられた乗物の間には見えないのである。
「妙だ」
奥向の役人は首を傾げた。
もう、この上は探す所が無いのだ。
外に出たのでないことは確かである。人間ひとりが長局から消失したことになる。
添番頭が首を捻《ひね》った。
「こうなったからには、もう一度、乗物部屋を探すほかはない」
しかし、それは二度も探したのである。
「いや。念のためじゃ。いちいちの乗物の内を調べるのじゃ」
聞いた者はまさか、と思った。乗物には油たんがかかっている。戸の錠前は、たしかに外から掛けているのだ。
それでも一同はその下知に従った。ほかを探しあぐねているから止むを得なかった。
四の側、三の側の乗物部屋を探した。四、五十挺も入っているのをいちいち、油たんを除《と》って改めるから、大変な手間である。
異状はなかった。捜索は二の側の乗物部屋に移った。
附添いの役人の前で、人夫が油たんをはずす。すると乗物の金具がうす暗い中にも光ってみえるのだ。
ひとりの人夫が、網代鋲打ちの乗物の引戸に手をかけていた。
彼は当然、内身《なかみ》の空《から》を予想していたから、平気ですっと引戸を開けた。
突然、紅い色彩が眼にうつった。次には黒い女の髪がぱらりと散って、うずくまった衣裳に藻のようにかかっているのが見えた。
「ぎゃあ!」
人夫は仰天して、悲鳴を上げて転倒した。
人々が駈け寄って、乗物の内をのぞいた。ひとりの女中が背を前に折り、押し込められたように静止していた。
立派な乗物の中が死体の膝から底にかけて、どす黒い血で充満していた。
乗物の内で血塗《ちまみ》れになって死んでいる登美を一目見ると、添番頭は仰天して、御広敷番頭に知らせた。この番頭が、持田源兵衛であった。
源兵衛は報らせを聞いて、
「なに、登美が!」
とびっくりした顔をした。
早速に二の側の乗物部屋に駈けつけてみる。このときは、添番頭の指図で、近くの乗物は片づけられ、網代鋲打ちの乗物だけがぽつんと置かれてあった。
引戸が半分開き、登美の横顔が祈るようにうつむいて坐っている姿が見えた。髪は元結《もとゆい》が切れて、前に海草のように乱れ下っていた。
胸乳のあたりから血が噴きこぼれているが、これはどす黒く乾きかけて、前に垂れ下った髪を糊のように粘りつかせていた。膝の上には、梅の模様を彫った平打ちの銀|簪《かんざし》と、鼈甲《べつこう》づくりの笄《こうがい》とが落ちて血に染っている。
乱れた帯上げからは赤綿の守袋がはみ出し、懐《ふところ》からはハコセコと呼ぶ錦の紙入れが落ちかかっていた。また乗物の中には、登美がいつもはいていた表五枚重ねの萌黄《もえぎ》の緒の上草履《うわぞうり》が投げ入れてあったが、これは底が半分、べっとりと血の中に浸つかっていた。
「これは椿事《ちんじ》じゃ。検視があるので誰も手をつけるな」
持田源兵衛は命じて置いて、すぐに表から目附を呼んだ。
戸板を持って来て蓆《むしろ》を敷き、この上に登美の死骸を乗物から移す用意をした。
目附は乗物の中の死骸を改めた。今まで分らなかったが、登美の凭《もた》れた背を起すと、うしろに両手が廻されて、縄で括《くく》られている。その結び目が女結びであった。
登美の死体は戸板に移されて横たえられた。
死顔は眼を開き、髪を唇の間に咬《くわ》えて、無念の形相をしていた。美しい顔だけに悽惨であった。
目附は胸を開いて疵口《きずぐち》を改めた。凶器は見当らぬが、懐剣のようなもので心臓を一突きで刺していることが分った。
「これは、ひどい」
と検視の目附が瞳を逸《そ》らせたほどだった。
下手人は、登美を後手に縛って自由を奪った上に、胸乳を狙って突き刺しているのだった。まるで人形を刺すように、たやすい操作なのだ。
不思議なのは、杉戸の錠前が外からかかっていることで、これは当の係りの添番頭でないと開閉が出来ないのだ。それから死骸を入れた乗物の油たんが、ほかのぶんと同じようにきちんとかかっていた。落ちついた下手人だと一同が感嘆した。
念のために年寄の樅山に事情を訊くと、
「わたしは登美どのとお廊下で話して別れたまでじゃ。そのあとは知らぬ。何故に、そのようなことをしつこく訊くのじゃ?」
と怕《こわ》い眼をして役人を沈黙させた。
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夜 霧 の 中
寺社奉行脇坂淡路守|安董《やすただ》は、本郷の加賀邸の茶会に招かれているという前の晩、老中上座水野越前守忠邦をその邸に訪うた。
忠邦は、このとき四十六歳の働きざかりである。
忠邦は脇坂を迎えると、別室に招じ、人を遠ざけて、話を聴いた。額の広い、目つきの鋭い人で、濃い眉毛に強い性格を思わせた。
「妙な方角から、座敷がかかったな」
忠邦も、はじめは笑っていた。
脇坂淡路が、何ごとかを愬《うつた》えはじめた。忠邦の眼がそれから光り出したのである。
のちに、天保改革で名を遺したこの人のことに少し触れなければならぬだろう。
水野家は六万石で肥前唐津の城主であった。その先祖は家康の生母伝通院の実家だから、徳川家とは深い因縁の家柄である。
元来、肥前唐津は、公称は六万石だが、実際の収入は二十六万石といわれていた。それに長崎お固め十八家の一つで、諸役ご免であるから、その利益は少くない。だから、水野家は唐津城主として、繁栄し、その裕福は諸藩の中でも指折りであった。
ところが、忠邦は、一度は老中になって、天下の要路に当らんという気持があった。
しかし、長崎お固めの家柄は、老中に登用しないという慣例があった。
そのために、忠邦は、唐津から国替えを申し出たのであった。むろん、これには家老たちの猛反対があったのだ。諸臣、こもごも諫《いさ》めたが、忠邦は断じて肯《うなず》かない。国替えの先は遠州浜松である。これは実収が少い。
忠邦は老臣たちに云った。
六万石の大名が、六万石の知行を賜るのに何の不足を云うことがあろう。自分は水野の家に生れ、外戚の家筋に列《つら》なり、譜代の席にある。一度は御加判の列となり、天下の仕置を掌《つかさど》らんこそ、身の本望である。そのためにとて願い上げた国替えであるのに、諫めるとは、忠邦に不忠をすすめようとの趣意か、と諭《さと》して、老臣たちを沈黙させたのであった。
忠邦は、最初から天下の政治に腕をふるってみたいという意気込みがあったのだ。
閣老となり、多忙中も読書を怠らず、いつも儒者、国学者を侍《はべ》らせて、毎夜午前零時にならないと寝につかない。朝は鶏鳴に起き、入浴し、衣を改めて祠堂を拝し、朝食を終って、髪を直させる際に、内外の用事をきき、これを裁断することが習慣だったという。
彼は、早くから弊政を改革しようという気持があったが、大御所家斉が生存中は、その絶対的な実権のために、手をつけることができなかったのである。
彼が改革の手腕を揮《ふる》おうとするならば、家斉の死後でなければならなかった。
脇坂淡路守が、水野越前守忠邦とたった二人で、どのような話をしたか、家来を近づけさせないので、外部には分らなかった。
ただ、淡路守が辞去の際、越前守が玄関まで送りながら、
「御用大切の折じゃ。お身体をくれぐれもいとわれよ」
と云ったのに対し、
「御老中こそ御大事になされませ、今宵、ゆるりとお目にかかって、手前も、近ごろ心おきのうお話ができました」
と淡路守は喜んでいた。
「いや、わたしこそ、懇《ねんご》ろなお話を承って、ありがたい」
と越前守も、厚い唇に微笑をみせた。それで、これからも、こういう機会をたびたびつくり、懇談を交したい、と熱心に云ったほどである。
「それは、手前もお願いしたいところですが」
淡路守は、受けてうなずいたが、
「今宵、申し上げたことで手前の肩の荷も何やら降りたように思います。これで、いつ、死のうとも心残りはありませぬ」
と云った。
ほかの者ではない。水野越前に、自分の知っていることをみんな云ってしまったから、という安心が、少々、誇張的な表現になったのかもしれなかった。
この人に滅多に無い云い方だったので、水野越前守が、思わず淡路守の顔を見つめたくらいだった。
「これは、大そうな」
と越前守が笑った。
「わたしと、お手前とは年齢《とし》はあまり、違わぬ筈ですな。お見うけするところ、お身体もご丈夫のようじゃ。なにせ、わたしはこれからが働きざかりと気を張っている。淡路どのも左様な気弱なことを云わずと、たんとお働き下され」
と激励した。
「いや、まことに左様でございましたな」
淡路守は、二、三度うなずいて笑ったが、越前守が、あとから思い出して、元気がないように見えたのである。
淡路守は、鍛冶橋御門内の水野邸を出て行った。その行列が、乳鋲《ちびよう》の扉が真一文字に開いている門から見えなくなるまで、越前守は見送っていた。
越前守は、わが居間に帰った。
淡路守が最後に話した声は、まだ耳に残っている。
どうも落ちつかない。
小姓を呼んで、茶をいれさせた。ふしぎだが、淡路守が帰ったあとで、心騒ぎがするのである。
それを鎮《しず》めようと、茶を三度まで替えさせたくらいだった。
西丸奥向の用人、持田源兵衛は、下城すると、屋敷のある番町の方へは向わず、正反対の神田の方角へ駕籠を向けた。
明日は非番である。だから、今夜からゆっくりと妾宅で過そうというつもりであった。
実は、近ごろ、人の世話で手に入れた若い女がいる。両国辺の水茶屋で働いていた女だから、体面上、妾として屋敷に奉公させることもできず、根岸の下屋敷に置くこともできない。尤もこの方には別な妾がいる。
源兵衛は五十八歳になる。新しい妾は十七で、彼は近ごろ、この女に魂を奪われていた。屋敷にいる妾は二十一、やはり源兵衛のような老人には若い身体の方がいい。
それに、町家の女とはいいながら、一度、客商売の水をくぐっているから、男の扱いを心得ていた。源兵衛は夢中になっている。
体面上から、源兵衛は、お駒というこの若い女を神田明神の近くに囲っていた。本妻はもとより、屋敷にいる妾にも、根岸の妾にも内緒にしていた。
それで、途中で自分の駕籠を帰し、わざと町駕籠に乗りかえたものである。
「奥には、友達の家で夜通し碁会があると申しておけ」
と供について来ている家来や仲間《ちゆうげん》を番町にかえした。
ただひとり、若党の茂助というのを連れて神田に向った。これだけには機密を知らせていた。
「殿様」
駕籠わきについていた茂助が、歩きながら途中でささやいた。
「なんだ」
「誰やら、うしろから、跟《つ》けて来ているようでございます」
「なに?」
源兵衛は、ぎょっとなった。
「どんな奴だ?」
「いえ。向うも町駕籠に乗っておりますから風体《ふうてい》は分りませぬ」
茂助は答えた。
「どうして、跟けて来ていると分るのだ?」
「殿様が、お駕籠をお乗り換えなさいましたときから向うに見えておりましたが、こっちが歩く通りに、うしろから来ております。あのぶんでは、お城からお退りになったときから、つけていたかも分りません」
「うむ」
源兵衛は首を傾げた。まさか、女房が人を傭ってあとを尾行させているのではあるまい。
「茂助」
「はい」
「駕籠に、次の辻を右に曲れと申せ」
尾《つ》けられているかどうか、試してみるつもりであった。
駕籠は辻を右に曲った。
しばらく行ってから、
「どうじゃ、ふり返って見たか?」
と駕籠の横を歩いている茂助に訊いた。
「なるほど、殿様はお知恵がございます」
「ばかにするな」
「両度、ふり返って見ましたが、うしろの駕籠は眼に入りませぬ」
「それみろ」
源兵衛は駕籠の中で安心した。
「違ったであろう?」
「違ったようでごさいます」
「わしを跟けるやつなどいるものか」
源兵衛は、平静になって、
「このまま行くと遠くなる。次の辻から、左へ行け」
「畏りました」
駕籠は、もとの通りに出た。
「茂助、どうじゃ、うしろから来ているか?」
源兵衛は、多少、不安になって訊いた。
「いえ、来ておりませぬ。尤も、だいぶん暗くなりましたが」
「よく見ろ」
「やっぱり、駕籠は見えませぬ」
「そうであろう」
源兵衛はすっかり安心した。
「たまたま、同じ道を来ていた駕籠があったのだ。その方の思い違いだ」
「左様でございました」
「しかし、廻り道をしたで、ちと急がせい」
島田新之助は、御広敷番頭持田源兵衛の駕籠が、急に辻を曲ったところから、
(これは気づかれたな)
と思った。まずい。
それまで、あの駕籠のあとをつけてくれと云っておいた駕籠屋にも、多分の鳥目をやって帰し、自分は歩いてあとを追ったのである。幸い、日が暮れかけて暗くなってくるし、家の軒の下を択んで急ぐぶんには悟られそうもない。着ている衣服が黒っぽいのも幸いした。
向うの駕籠の脇についている若党が、ときどきふり返ったが、気づいた風もなかった。
駕籠はそのまま真直《まつすぐ》に進み、とある細い道の奥に消えた。
新之助が、そこまで行ってみて確かめたことは、どこかの寮でもありそうな、洒落《しやれ》た家であった。大きくはないが、植込みも茂り、門の構えも風雅なのである。
いまの駕籠が、その前で降りていたが、間もなく引返していた。
新之助は、絵草紙屋が目についたので、
「ちと、ものを訊きたいが」
と、店番の女房に云った。
「はいはい」
唇の薄いこの女房は、何でもしゃべりそうであった。
「寒くなったな」
源兵衛は奥の間に通って、あたりを見廻して、
「ほう、炬燵《こたつ》ができているか?」
と部屋の隅を見た。
お駒が若々しい笑いを浮べて、
「はい。おとといが亥《い》の子《こ》でございました」
と云った。
この女の趣味なのか、役者絵をべたべたと貼った隅の二枚|屏風《びようぶ》の前に、緋縮緬《ひぢりめん》の蒲団が炬燵にかけてある。
しかし、源兵衛には、こういう趣味もひどく気に入るのである。屋敷は勿論のこと、根岸の下屋敷にも見られない下町の色彩であった。武骨な士屋敷で育った彼には魅力だった。
「なるほど、おとといは上亥であったな」
源兵衛は、お駒の下ぶくれの可愛い顎を見て、眼を細めながら云った。
「わしも、お城で紅白のお餅をお上から頂いた」
「あら、お城でも亥の子がございますか?」
「あるとも」
源兵衛は、羽織を脱ぎ、袴《はかま》の紐をときながら云った。
「お城でも大切な祝いごととなっている。まず、諸大名が暗いうちから登城してお上にお目通りし、祝着を申し上げる。御台所を始め大奥の女中どもは、金糸銀糸の縫取りのある襠《うちかけ》に、緋縮緬組白の間着《あいぎ》を着るのじゃ」
「まあ、きれいでございましょうなあ。まるで絵草紙のようでございますなあ」
お駒は若い眼を瞠《みは》って、感嘆した。
「わたしも、今度、生れ変りましたら、御殿にご奉公しとうございます」
お駒は憧憬をこめて云った。
「なんの、御殿づとめがよいものか」
源兵衛は云った。
「よそ目には、仕合せそうにみえるが、なんの、なんの、女子《おなご》としてお城に一生奉公では、それは、それは辛いことがたんとあるぞ」
源兵衛は、云いながら、頭の中に、ふと、登美の姿が掠《かす》め過ぎた。かれは、思わず、いやな顔をした。
「寒いな」
と話を急に変えて、
「ちと、あたたまろうか?」
と緋縮緬の炬燵蒲団を見た。
「それよりも、殿様、風呂が沸《わ》いております」
「なに、もう風呂が沸いているのか?」
「わたしが入ろうと思って下女に立てさせたのでございます。丁度、よい折にお見えになりました」
「それは忝けない」
源兵衛は、顔中を笑わせた。
「早速、温まってこようか?」
「お上りになったら、お燗《かん》をしておきます」
持田源兵衛は風呂に入った。
屋敷の風呂に入るのとは、別な趣がある。小さくて、粗末だが、この方がずっと愉しい。
「殿様」
お駒がのぞいて、
「お湯加減はいかがでございますか?」
と訊いた。赤い襷《たすき》をかけている。
「うむ。いや、よい湯だ」
源兵衛は、やさしい声を、湯気の中から出した。
「そうですか。では、お背中を流しましょう」
せまい板の間に下りた。
お駒は、甲斐甲斐しく裾をからげている。白い脚が、源兵衛の眼に嬌《なまめ》かしく見えたので、彼は、手拭いで、つるりと顔を拭いた。
「そうか、では、そうしてくれ」
湯の音を騒がせて、彼は風呂桶をまたいで上った。
背中を向けると、お駒が糠袋《ぬかぶくろ》をこすりつけ、手拭いで、ごしごし擦《こす》りはじめた。若いから力がある。
それに、絶えず、お駒の白い二の腕と、むっちりとしたふくらはぎとが、眼の前にちらちらするのだ。屋敷の古女房はもとより、少々飽き加減の妾二人には無い色気である。
「殿様」
背中からお駒が云う。
「うむ?」
源兵衛は、いい気持になって、うっとりとした声を出した。
「お城のお女中衆のお話、もっと聞かせて下さいな」
なんだ、まだその話が気になっているのか、と源兵衛は思った。やはり、若い女だけに贅沢《ぜいたく》な御殿女中の生活に興味を持っているのだ。
「そのことは」
と源兵衛は云った。
「いずれ、湯から上って、酒を飲みながら、ゆるりと話してやる」
「本当でございますね?」
お駒は念を押し、
「また、すぐにいつもの悪い癖がはじまるのは、いやでございますよ。殿様ったら、すぐに、いけ好かないいたずらをなさるんですもの」
と甘えた声を出した。
「いや、大丈夫じゃ。今夜は、酒を飲んでもおとなしくしてやる」
源兵衛は、身体をねじ向け、背中に動いているお駒の手をとった。
「ほれ、もう、そんなんですもの」
「いや、これは約束を違《たが》えぬというしるしじゃ」
手をつかんで、引き寄せようとすると、
「ごめん下さいまし」
と、憚《はばか》るような女中の声が聞えた。
「あの、お殿様に、お客さまでございますが、どういたしましょう?」
「客?」
源兵衛は、思わず、お駒の手を放して、びっくりした。
誰にも知らせていないこのかくれ家に、しかも夜に入った今ごろ、誰が訪ねて来たというのであろう。
「間違いではないか」
と思わず、訊き返したくらいである。
「いいえ、お間違いではないようです」
女中は、やはり低い声で云った。
「持田源兵衛どのはおられるか、とおっしゃいました」
「武士か?」
と二度おどろいた。
「そうです。まだ、お若い方ですが」
「名前を聞いたか?」
「お会い申したら分ると云っておられます」
「怪《け》しからん」
と、裸の源兵衛は憤《おこ》った。
「ひとの家を訪ねて来て、名前を云わぬ奴があるか。名前を聞いて来なさい、名前を!」
女中は細い声で、はい、と云って逃げた。
お駒が心配そうな顔をして、
「どなたで、ござんしょうねえ?」
と、また背中を擦りはじめたから、源兵衛はその手を払った。それどころではない。
「さあ、誰だか……」
うかぬ顔をして、
「誰も、この家を知ってはいない筈だが……いずれにしても怪しからぬ」
呟いて、風呂に入った。
お駒が、
「おとといが亥の子で、殿様がお見えになるかと思って、牡丹餅《ぼたもち》をつくったんですが、残りが三つ四つございます。お客さまでしたら、お出ししましょうか?」
と訊いた。
「ばか、誰だか分らぬものを」
源兵衛が顔をしかめていると、女中が境の戸のわきに戻って来た。
「お客さまの申されますには……」
「うむ、うむ?」
源兵衛は首を伸ばす。
「向島より使いの者が参った、とお伝え下さいとのことでございます」
女中は復命した。
「な、なに!」
源兵衛が湯を騒がせて仰天した。
「向島からだと?」
顔色まで変ったものだ。
石翁から使いが来た。不意に、雷の音を頭の上に聞いたようなものだった。
「向島から葛西太郎《かさいたろう》(当時の有名な川魚料理屋)でも届けて来ましたかえ?」
お駒がのんびりしたことを云ったので、
「ばか」
と大喝《だいかつ》して、湯槽《ゆぶね》からとび出した。
石翁から使いが来た──
西丸奥向番頭持田源兵衛は気もそぞろである。
「お駒、お駒」
と呼び立て、風呂から上ったばかりの身体に汗もろくに拭《ふ》かない。
襦袢《じゆばん》よ、着物よ、羽織よ、と騒ぎ立てた。
石翁ときくと、巨大な威力にすくんでしまいそうである。目をかけられると、出世させて貰えるが、逆鱗《げきりん》にふれると、自分の首くらいは簡単にとんでしまう。公方《くぼう》さまよりも怖《こわ》い権力者なのだ。
(その石翁が、どうして自分がここにいることを知ったか?)
支度をしながら、首をひねったが、
(さすがに石翁だ。これはと思う男には、密偵をつけて行動を探らせているときいたが、噂の通りだ。自分も跟《つ》けられていたのか)
今さらながら石翁の怖さに怖気《おぞけ》をふるった。女房はもとより、誰一人として知っていないこの秘密のかくれ家を、石翁はちゃんと知っているのだ。
源兵衛は、石翁に秘密を知られたと思うと、自分の全身まで、彼の手に握られてしまったような恐ろしさを覚えた。
(使いというのは、何だろう)
それも心配になってくる。夜分だし、使いが来るにしては妙な時刻なのである。よほどの急用に違いない。
今度は、その急用の内容が心配になってきた。
「お駒」
と、そっと呼んで、
「向島のお使いはていねいに上にお通ししたか?」
と訊く。
「はい。もう、あちらの座敷でお待ちになっておりますよ」
「そうか。丁重に扱っただろうな?」
「はい。それは、もう……」
「うむ。して、どんなお方じゃ?」
「まだ、お若いお武家さまで……」
お駒は、源兵衛の顔を見ながら、
「すっきりした、佳い男前です。どこか、身体に粋なところがあって……」
「そうか、うむ、うむ」
源兵衛は袴の紐をあわてて結んでいる。
「わたしでも、一眼惚れするようなお方でございますよ」
からかうような眼つきをしたが、
「ばか、はしたないことを申すな」
と、いつもの岡焼きが出る暇がない。
ようやく、衣服を整えて、客を待たせてある居間の襖を開けた。
「お待たせ申した」
持田源兵衛が挨拶して見上げると、客は、なるほど若い男で、袴もつけていない着流しで坐っていた。
客は、持田源兵衛が入ってきたのを見ると、坐り直して膝を整えた。
「夜分に」
と頭を下げた。
「推参して申し訳がありませぬ」
「いやいや」
源兵衛は、対手の丁寧な挨拶に首をふった。
「一向に、われらは構いませぬ。して、ご隠居さまにはお変りはありませぬかな?」
「まず」
若い客は笑顔をしただけである。
なるほど、いい男前だと源兵衛は思った。笑い顔も柔和な愛嬌がある。
お駒が茶を持ってきて、
「粗茶でございますが」
と作り声で云い、客の顔をのぞいた。
「もうよい。呼ぶまで退っておれ」
源兵衛はお駒に尖《とが》った声を出した。
「いやはや」
源兵衛はお駒が逃げると、思わず頭に片手をやった。
「かようなところにお使いを頂いて、手前も汗顔の至りでござる。しかし、さすがに、ご隠居さま、よくまあこの家をご存じでいらせられたと、ただ恐れ入るばかりでござる」
これにも若い客は黙って微笑《わら》っていた。
源兵衛は、恐縮しながらも、さすがに、この使者の風采を注意せずにはいられなかった。いつも来る石翁の使いの者とも顔が異っているし、袴もつけていない着流しでいるのはどういう訳であろう。
「それでは御用を、お伺いいたしましょうか?」
源兵衛はのぞき込む。
「いや、ほかでもないが」
使者は云い出した。
「先日、長局で登美と申す女中が変死を遂げましたが」
「うむ」
源兵衛はうなずいた。顔色が急にむつかしくなったものである。
「そのとき、御広敷番頭の貴殿が、たしか変死の場にお立ち会いなされたな?」
使者は訊いた。
「左様」
源兵衛はそれにもうなずいた。
「登美と申す女中の疵口、目附衆が改められたはずだが、貴殿も立ち会って見られたでござろう?」
「見ました」
源兵衛は答えたが、ちょっと妙な気がした。そのことなら、とっくに委細を石翁に報告してある筈である。
「疵口は何で刺されておりましたか?」
使いの若い侍は眼を光らせた。
「あれは……」
源兵衛は答えかけて、相手の鋭い眼に出会うと、あっと初めて大事に気づいた。
「卒爾《そつじ》ながら」
源兵衛は若い使いを見つめながら、初めて油断のならぬ気持になった。
「貴殿のご姓名は?」
「島田新之助と申しまする」
若い侍は、平気な顔で答えた。
「島田新之助……」
源兵衛は呟いたが、無論|馴染《なじみ》のない名前である。
「して、いつごろから、ご奉公なされましたな!」
源兵衛は重ねて問うた。少々、おかしいが、間違ったときの用心もしている。
「両三年になりまする」
島田新之助は、やはり平然と答えた。
「ははあ」
源兵衛は云ったものの、真偽の確かめようがない。
「そこで、持田さま」
源兵衛が絶句したので、新之助は催促した。
「登美と申す女中の疵口は、たしかに懐剣のようなもので刺されたということでしたな」
「左様」
源兵衛は短く答えた。
「して、刺された場所は?」
「胸乳でござる」
「乗物部屋の網代鋲打ちの乗物の中と聞いたが、戸の錠は外からかかっていたそうな。左様に違いありませぬか?」
「その通り」
「錠前の詮議はなされたか?」
「一応は。しかし、誰が開閉したものやら、しかと分らなんだ」
「しからば、登美は誰かによって乗物部屋に連れ込まれ、乗物の内に坐らせられたまま、懐剣で刺されたと思うが、そのまえに、登美を呼んで話をした女中衆はおりませぬかな?」
源兵衛はその質問を聞くと、
「島田氏」
と何気なさそうに、
「村上氏はお元気かな?」
と全く別なことを反問した。
「村上氏?」
「左様、村上軍兵衛殿じゃ。ご隠居のお使いでよく見えられたが、近頃、とんとお顔をお見うけせぬ」
「村上氏なら変りはありませぬ。元気です」
「しかと左様か?」
源兵衛は念を押した。
「左様」
この返事を聞くと、持田源兵衛は、不意に態度をがらりと変えた。
「曲者」
と云うなり起ち上ったものだ。
「化の皮を剥がしおったな。ご隠居の家来に村上軍兵衛という名の者はおらぬわ。うぬ、何処から参ったのだ。何者か名乗れ!」
持田源兵衛が吠《ほ》え立てると、
「持田氏」
島田新之助はおとなしく云ったものだ。身体も動かさず、眼ざしも静かなのである。
「おしずかになされい」
「なに!」
「番町のお屋敷と違い、ここは隣近所の壁も近いようじゃ。歴々のお旗本の荒いお声が知れると、何かにつけてご都合が悪かろう」
「うむ」
つまったが、
「名を申せ」
「島田新之助と申し上げた筈です」
「やあ、偽名であろう?」
「お疑いなさるなら、どうおとりになっても結構です」
「身分は?」
「これは、手前も旗本の端くれとだけでご勘弁願いましょう。役も禄高も、持田氏には及びもつきませぬが」
「何を探りに参ったのだ」
「先刻よりお訊ねしております。登美が殺される前、呼び出した女中があった筈。その名前を伺いたい」
「うぬ。そのようなことを。ど、どこから頼まれて参った?」
「手前、一存で参っております」
「帰れ!」
「ほう。仰せられぬ?」
見上げる眼に光があった。源兵衛は、ちょっと気味悪くなったが、
「当り前だ。何を世迷言《よまいごと》を申す。帰れ、帰れ」
と虚勢をつけた。
新之助が起った。これは素直に帰るのか、と源兵衛が思った瞬間、対手の身体が黒い風のように動くと感じると同時に自分の身体が宙を舞って、畳の上に投げ出された。
源兵衛は衝撃と、気持の動顛とで、声も出ないでいると、ずしりと重いものが背中にのしかかった。
「う、う」
手を畳に這《は》わせる。
「持田氏。乱暴をお許し願いたい。しかし、手前、どうしても承らずにおられませんでな」
源兵衛が仰天したのは、自分の背中に跨《またが》った若い男が、脇差《わきざし》を抜いて、頬にぴたりと当てたことだ。
「ご返事を聞こう」
と頭の上で声がした。
「ただし、お騒ぎなさるとどのようなことになるか、ご覚悟なされ。手前、まだ若いので嚇《かつ》となるかもしれませぬでな。しかし、お生命《いのち》は頂戴せぬ。貴殿の頬か、背中を裂くのがせいぜいかもしれぬ。が、これは貴殿にとって生命を失うより怕《こわ》い筈。歴々の旗本が、かような隠れ家で、おめおめと手ごめにされて切られたと公儀に聞えたら、お家は取り潰《つぶ》しになろう」
「………」
「持田氏」
新之助は云った。
「このままでは、貴殿も女どもに恰好が悪かろう。今まで通り、端座なさるがよろしい。さあ、起きなさい」
衿首をひっぱるようにすると、源兵衛は、蒼い顔をしながらも、すごすごと起きた。ものものしく、羽織と袴をつけているだけに、源兵衛は屈辱に震えていた。
新之助は、坐り直した源兵衛の傍にぴったりと附いて、
「さあ、何事もない様子でお話しなされ。ただし、正直に云って頂かないと、手前も癇癪《かんしやく》を起すことになる。さすれば、貴殿、ご家名に障《さわ》ることにもなりましょうな」
と脇腹に脇差の切尖《きつさき》を当てた。が、これは、源兵衛の羽織の袂《たもと》で外から隠していた。
「………」
源兵衛にとって、家名に疵《きず》がつくのがいちばん恐ろしいのである。新之助の云う通り、下町の素姓の卑しい妾の家で手負いをうけたとなると、旗本にもあるまじき所業として、公儀から取り潰しに遇うのは必定である。
好くいって甲府流し、悪くすると切腹にもなりかねない。
「持田氏。さあ、お答え願おう。登美を呼び出した女中は何という名ですかな?」
「それは……」
ごくりと唾をのんだ。全身で、脇腹の切尖を感じていた。
「うむ、それは?」
新之助が眼を光らす。源兵衛は、その表情から何をされるか分らない、と思うと、冷たい汗を流しながら、
「樅山《もみやま》と申す年寄じゃ」
と吐いた。
「樅山」
新之助は、それを記憶するように呟いて、
「ただひとりではあるまい。いえさ、呼び出したからには、おおかた樅山は手引きであろう。登美と一緒に乗物部屋に入った女中がほかにいる筈じゃ。その名を申されい」
と尋問した。
「知らぬ」
「なに?」
「拙者は、変事を聞いて、あとからかけつけ、調べをしただけじゃ。誰が登美と一緒に居たものやら……」
「お黙りなされ」
新之助は叱った。
「取調べをなされたからには、その辺の事情もご存じの筈。さあ、誰が一緒に登美と乗物部屋に居りましたか、申されい」
脇腹の脇差が少し動いたように思われたのだ。源兵衛は胸がどきりとした。
「ま、待たれい」
源兵衛は鼻翼《こばな》で呼吸《いき》をしていた。
「そのあと、貴殿は詳しく調べられた筈だ。樅山と乗物部屋に入った女中は誰じゃ、さあ申されよ」
持田源兵衛は、絶えず脇腹の恐怖を感じていた。
「し、知らぬ」
と一応は云ったが、
「なに、知らぬ?」
と新之助の手がぐいと動いた。
持田源兵衛は、いまにも突き刺されそうな気がして眼をむいている。
「ご存じない筈はなかろう。お手前は御広敷番頭として、左様な事故の際は、こまごまとお調べになるのが役目じゃ」
「………」
「知らぬで押し通されようとしても、手前、承服できぬ、さあ、申されい」
源兵衛は、新之助の語気が強くなるたびに、蒼くなった。
「全くもって存ぜぬ」
「なに?」
「じゃが、知らぬが、これだけはお伝え出来る。つまり騒動のあとのことだが……」
「うむ?」
「まず、ま、待たれい」
源兵衛は息を整えるようにして、
「これは、登美の不慮の死に関わりがあることかどうか、さだかには分らぬが……」
と、一息ついて、
「当日は、長局の各部屋では女中ども、大御所ご不例|平癒《へいゆ》の祈念をしていたが、ご病所の次の間でも、日啓上人をお迎えし、重立ったる役つきの女中衆もご祈祷の座に加わっていた……」
「うむ、それで?」
「そのなかに、年寄佐島と申す者、途中より中座いたしたが、間もなく帰って急に気分悪く伏せてしまった。この介添《かいぞえ》をいたしたのが、樅山じゃ」
「なに、すると、樅山も一緒に、その場を外していたのですか?」
「左様。両人とも、中座していたという。ただ、佐島のみは気分悪しくなり、わが部屋に引き取ったそうな……」
新之助は考えている。瞳も、しばらく宙にむけたままだったが、
「その佐島どのは、どうしています?」
と訊いた。
「何やら、そのまま気分が勝《すぐ》れぬので、御医師の診立《みた》てをうけたが、しばらく病気保養を云い立てて、宿下りを願い出た」
「宿下り? 病気保養とあらば、まさか親元ではあるまい。いずこの寮でございますな?」
「向島でござる」
「なに、向島?」
「田原屋庄兵衛と申す蔵前の札差しの寮と聞いている。わしの知っているのは、これだけじゃ」
「夜分に、大そうお邪魔をしました」
お駒が、新しく茶をいれに来たとき、新之助は挨拶したものだ。
このときは、脇差も鞘《さや》におさめ、持田源兵衛とは離れていた。
「あら、もう、お帰りでございますか?」
お駒が新之助を見る。
「失礼しました」
新之助は重ねて云い、源兵衛に、
「いろいろとご教示を得て忝けない。ご隠居さまも、ご満足でござろう」
微笑《ほほえ》みながら云う。
源兵衛は、苦り切っている。
「ただ今のお話、念を押すようですが、間違いないでしょうな」
「………」
「これは、いろいろと調べてみて、あとでお手前が間違いを申されたとなると、ちと面倒なことになります。手前、なんども押しかけて参らねばなりますまい」
「間違いはない」
源兵衛は、顔をしかめたまま云った。
「忝けない」
新之助は、頭を下げて、
「それでは、ご隠居さまに申し上げねばならぬこともあり、これにて失礼します」
と起ち上った。
「また、どうぞ、お越し下さいまし」
お駒が、いそいそと見送りに立つ。
源兵衛は、つくねんと腕組みして坐っていた。
新之助は、眼もとに愛嬌のある笑いをみせて、この家を出た。
お駒が、源兵衛のところに帰ってきて、
「佳い男ぶりね、ほんとに、今度、またお使いに見えるかしら?」
と云うと、
「たわけ!」
と、この女には聞かせたことのない乱暴な言葉を吐いたものである。
町には、霧が、しっとりと重く下りている。夜が、その霧にぼかされて濡《ぬ》れていた。
(佐島)
新之助は、歩きながら呟いている。
(縫が殺されたころ、中座していた。帰ったときは、蒼い顔になっていた)
順序を立てて、話の内容を考えている。
(病気を云い立てて、宿下りをし、向島の札差しの寮にこもっている)
普通ではない。何か、知っている。知っているというよりも、何かをやったのだ。その精神的衝撃が、女の佐島を病気にしている……
佐島が、誰の差し金で、それをしたのか、新之助も見当はつくのだ。
霧の中から出てくる通行人が、びっくりするくらい近くに来ないと姿が見えない夜なのである。
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黒 い 彷 徨
石翁は、ひとりで茶を点てて、喫んでいた。
こんなときは、妾もよせつけない。何か思案するときは、いつもこうなのである。
日ごろ、人と遇うときは剛愎にみえるこの男が、こんな場合、ひどく孤独な、寂しい感じにみえた。
さっき、妾が来て、
「ご相伴を」
と云ったが、不機嫌な顔で、それも断ったくらいである。
「今夜は、霧が深うございます」
と、そのとき妾が云った。
石翁は、釜に湯が沸《たぎ》っている音を聴いている。じっと動かないのだ。
廊下を踏む音が、遠くでしたようだったが、これは予期したように、こっちには来ずに、他へ曲ったらしい。
(遅いな)
石翁は思っていた。
本郷から、使いがこっちに来る時間も考えているのだ。もう来なければならない。
脇坂淡路守が参会したという報らせは、一刻半ばかり前にあった。もう、そろそろ散会するころなのだ。
(手違い?)
いや、そんな筈はない。それなら、そのような報告がある筈だった。
苛々《いらいら》しても仕方がない。落ちつこうと思った。おれらしくもない、とも思った。
二服目をたてようとしたが、それはやめた。茶の心に入ってゆけないのだ。
石翁は、座敷を起って、障子を開けた。
あっと思った。夜だが、白いまくがいちめんに張っているのである。近くの立木が、まるで見えない。
石翁は庭に降りた。
いつもの夜ではない。海の底にでも居るように、視界が閉ざされていた。夜の暗さも白く、ぼけてみえるのだ。
(この霧では……)
石翁は考えている。
ただ、水音だけは聴えていた。池に鯉が刎《は》ねている。
しかし、夜全体が、霧の重さに圧さえられているような晩だった。何処かに、何かが起っても、不思議には思われない気持だった。
間もなく、下駄の音がしたかと思うと、うしろから、用人の姿が現れた。
「申し上げます」
「うむ?」
石翁は振り向いた。来た、と思ったのだ。
「本郷より急使が参りました」
黙っている。
「ただ今、脇坂さまのお乗物は、加賀藩邸のご門をお出になったそうにございます」
石翁は、これにも黙っていた。昼間なら彼の眼が異様に光っているのが見えた筈である。
新之助は、神田川に沿った土手を歩いていた。
霧は、やはりここにも降りている。土手には柳の並木があったが、葉がすでに半分は落ちていた。しかし、夜だし、霧が深いので、柳はおろか、三間先が見えないのである。
いわば、白い夜だった。
「滅法《めつぽう》、霧が深えじゃねえか」
「全くだ」
声だけが、先に聞えて、
「これじゃ何が来ても分らねえぜ」
と話している当人の姿がやっと、にじむようにあとから現れて来るのである。
「おっ」
と愕《おどろ》いたのは、先方が新之助に突き当りそうになったからで、
「ご免下さいまし」
と謝って離れた。
どこかの屋敷の折助らしく、夜遊びに出てきたものと思えた。
その姿も遠くなる。
「ちょいと」
不意に、女の声が聞えた。
「寄って行きなよ」
姿は見えない。やはり、男の声で、
「えい、おめえ、袂《たもと》を放しゃがれ。こっちは忙しいのだ」
と云っている。
「何を云うのさ。そのつもりで出て来たくせにさ。さあ、お寄りよ」
「うるせえ阿魔《あま》だな。おれは、そんなのじゃねえ。ごめんだ、ごめんだ」
「へん、ばかにするねえ、そこらを夜っぴてうろうろしても、二十文で買える女はいないよ」
「何を」
「睨んだね。面白いね、その甲斐性があったら、寄ってお行きよ」
この話し声は、新之助が通り過ぎるまで聞えた。むろん、その姿は見えないのだ。
ぼうっと姿が霧の中から出てきたが、手拭いを頭から被ったかたちの女で、
「ちょいと」
と声をかけると、鼠啼きをした。
この辺は夜鷹の稼ぎ場である。新之助は、近道なので、この柳原の土手を通ったのだが、通り抜けるまでは迷惑だった。
急ぎ足に歩いていると、また、霧の中から黒い人影が現れた。それも、多勢なのである。片方に寄って、気をつけてみると、駕籠を担いでいて、前後を幾人かが警固していた。
ふしぎなことに、提灯が無い。
(はてな)
新之助は見送った。その一行は、誰も一語も発せず黙々と夜の霧の中に消えてしまった。
足音まで低いのである。
なぜ、提灯に火を入れないのか──。
歩き出しながら、思ったことだ。
新之助が麻布の島田又左衛門の屋敷に行くと、
「殿さまは、もうお寝《やす》みになっております」
吾平が云った。
「良庵は起きているかな?」
「へえ、先刻まで弥助さんとの話し声が聞えておりました」
新之助は廊下を歩いて奥の部屋に行った。障子には灯りがさしている。
「これは、戻られた」
良庵が行灯《あんどん》の傍から見上げる。
新之助が坐ると、
「うまく聞き出せたかな?」
と顔をのぞいて訊いた。
「聞くには聞いたが」
と新之助は良庵に手短に話した。
「威《おど》して聞いたことだが、まず、嘘は無いようだ」
「なるほど」
良庵は腕を組んで、
「そりゃ本当のことを云っているな。下手人が誰か、すらすらと云っては嘘になる」
とうなずいた。
「佐島という年寄が下手人で、樅山が手引き、というところかな」
良庵は新之助を見た。
新之助は考える眼つきだったが、
「中座したあと、戻ってきて気分が悪くなったところは、そうだという気がする。人ひとりを害《あや》めたのだ。女だからそれくらいのことはありそうだな」
「で、どうなさる?」
良庵が、顔をうかがうように見た。
「まず」
新之助は云い出した。
「佐島が保養をしている向島の寮へ訪ねて行き、糾明してみるつもりだ」
「うむ、うむ」
良庵は合点合点した。
「して、それからは?」
「それからは……」
新之助は良庵を、じろりと見て、
「事の成り行き次第じゃ」
「なりゆき次第……なるほどのう」
良庵は深くうなずいて、
「お縫さんを殺した憎い奴じゃ、誰であろうと容赦されぬが道理じゃ、ここの大将も、……」
と又左衛門の部屋の方を見て、
「あれから気落ちなさったのか、お縫さんが可哀想で堪らぬのか、とんと元気が無うなってしもうた。今夜も早寝だが……」
新之助は黙っている。
「弥助、おらぬか、茶でもいれぬか」
と良庵は手を叩いたが、ふと、新之助の着ものを見て、
「大そう肩が濡れていなさるが」
と眼をみはった。
「霧の中を歩いてきたせいだ」
新之助は、ぼそりと答えた。
「では、すぐにでも向島に乗りこむか」
と良庵は新之助を見た。
「どうするか」
新之助は呟いたが、それは自分に訊いているような云い方であった。眼は迷っているのだ。
「手早くしなければ、またどんな邪魔が入るか分らぬ」
良庵は、煽《あお》るように云った。
「うむ」
腕組みして、
「むつかしい」
と呟いた。
「むつかしいとは?」
「佐島が下手人かどうか、まだ決められぬでな」
「はて」
良庵が眼を光らせて、
「知れた話じゃ。佐島という年寄に相違ないわ。新之助さん、いま、あんたが話した通りじゃ」
「分らぬ」
新之助は首を振った。
「分らぬとは?」
「証拠が無い。人を疑うには、よほど慎重にせねばならぬ。話を聞いての推量だけでは危険なことだ」
「そりゃ無論だが」
良庵は急《せ》いた。
「ほかで起った事件《こと》ではない。誰も入らぬはずの乗物部屋で、お縫さんは殺されたのだ。手引きしたのが樅山で、中座して蒼くなって戻った佐島が下手人だ。佐島が乗物部屋に行っていたのは間違いないな。これは当て推量ではない」
新之助もそう思うのだ。
「しかし、その実証がない」
「歯がゆいご仁だ。樅山は御殿の中で、どうにもならぬが、佐島は向島の寮にいるではないか。またとない機会《おり》じゃ。訊いてみることだな」
「………」
「新之助さん。黙ってひっこんでいる法はあるまい。前には、六兵衛の妹が殺された。下手人は捕まったが、何で殺したか、お上《かみ》でははっきり云わぬ。云うと不都合なことが起るからだ。下手人は、もと西丸の添番という噂ではないか。ただの御家人としか名前を出していぬのがおかしな話よ」
良庵は、激しい憤りを口調にみせた。
「察するところ、お文さんは、お縫さんへの密使を気づかれたのじゃ。それで添番に殺させて、その添番を有耶無耶《うやむや》のうちに処刑する。うまい手を考えたものじゃ。そこで、今度は、お縫さんを殺すことになった。これは算盤玉《そろばんだま》をはじいてみんでも分ること、指図した黒衣《くろこ》は誰であれ、まず役者から詮議することじゃ、ええ、新之助さん?」
霧の晩である。
飛鳥山《あすかやま》が近いが、この霧では、黒い山影も黒雲のようなとばりの中に閉じこめられて見えない。
霧の中に水音が高かったが、これは音無川の筈である。
桜どきなら格別、季節外れの今ごろでは人の歩きもないし、まして夜ともなると、森閑としたものだった。
一挺の乗物が霧の中から現れた。前後を囲って、黒い影が歩いている。ぼうとにじむように点々と灯が動いているのは、この供廻りの者が持っている提灯だった。
紋がある。
「輪違《わたがい》」だった。
これは、飛鳥橋《あすかばし》を渡らずに、川のほとりにある料理屋の方へ一行が曲ったとき、
「おや」
と料理屋の使用人が見て、眼を瞠《みは》ったことである。
「はてな、今ごろ……」
と思ったのも道理、真ん中に乗物をはさんだ一行は花屋という料理屋の表で、とまったのだ。
この辺は、都からはずれているが、料理屋が多いのである。
江戸名所図絵に、
「飛鳥橋のあたりは、貸食舗《りようりや》の亭造《やつくり》壮麗にして、後亭《さじき》の前には皎潔《こうけつ》たる音無川の下流《ながれ》をうけて、生洲《いけす》をかまふ。この地はるかに都下を離るるといへども、常に王子の稲荷へ詣づる人ここに憩ひ、終日流に臨んで宴を催し、沈酔するも多し。夏日は殊さら凛々《りんりん》たる河風に炎暑を避けて帰路におもむかんことを忘るるの輩《ともがら》も、又、少からず」
とある。
秋もまた悪くない。それは、秋草の中になく鈴虫や松虫の声を聞こうと粋人がわざわざ杖をひいてくるからである。
が今夜は異う。
乗物は、立派なものだった。供廻りの人数が多いのも、身分ある武家を思わせたことだ。それが、霧の深い夜、わざわざここまで乗りつけてきたのである。
「頼もう」
と花屋の表戸を、供の武士が叩いた。
ほかの者は地面に坐り、乗物の中の主を守っている。
「へい」
小女が戸を開けたが、夜霧に濡れているこの一行を見て、びっくりし、奥へ走り込んだ。
代って、主人がおどおどとした様子で出てきたが、外をのぞいて、忽ち平伏した。
「夜分に迷惑だが」
と士《さむらい》はていねいに云った。
「ちと憩《やす》ませて貰いたい。いや、多勢ではないが……」
「亭主か?」
と、その士は訊いた。
「へえ、左様でございます」
花屋の亭主は松右衛門といったが、この不時の行列の客に、ど胆を抜かれた恰好でうろたえていた。
「主人が」
と、供頭のような士は、はっきりと主人と云ったのである。
「暫時、憩みたいと仰せられている。しかるべき部屋は有るだろうな?」
「へ、へえ」
松右衛門は眼をまるくして、
「むさくるしいところでございますので……」
と、うろたえて答えると、供頭の士は、それを断られたととったらしい。
「いや、どのような部屋でも構わぬ、暫時、休むだけでよろしい、と仰せられているのでな。奥まった部屋さえあれば、苦しゅうない」
おだやかに頼みこんだものである。
「へ、左様でございますか」
亭主が、半分は逆上《のぼ》せて、返事もしどろもどろになっていると、
「では、頼むぞ」
と士は片足を踏み込むようにして云った。
「へえ……」
亭主が、ぼんやりと見ている前で、士は表に引返し、地面に据えられた乗物の傍にかがみ込んでいた。これは料亭が承知したから、乗物から出て頂きたいという意味を、主人に告げているらしい。
亭主が、吾に返って、俄かに家内の者に指図しはじめたのはそれからである。奥まった部屋という指定だったので、この家では音無川に面した離れを掃除させたものだ。ふだんは、江戸から来る俳諧の連中が運座などに使う風流好みの部屋だった。
番頭、女中、小女などが総がかりで、戦場のような忙しさで掃除を終ると、
「出来たか?」
と供頭の士が、ずいと入って来た。
「へ、へえ、ただ今」
亭主がおじぎをすると、
「済まぬな、夜分に来て。なに、分ったお方だから、それほど気を使わなくともよい。ただ、身分のあるお方ゆえ、粗忽《そこつ》のないようにしてくれ」
士は、くだけた口調で注意をし、部屋の内、外を見廻して、
「いや、結構だ」
と云って引返した。
高貴の方が、お忍びで見えた、ということは宿の者にも分った。それにしても、妙な時刻に来られた、とは思ったが、このときは身分のある人が気紛《きまぐ》れに寄った、と解釈していたのである。
乗物の引戸が開いて、人の影が出てきた。
乗物の内から出た人物は花屋の奥へ歩いて行く。このときは供頭の士がつき添ったが、主従は何も云わぬ。
花屋の亭主は案内した。家中が、みんな起きて、目立たぬように出迎えたが、身分ありげな客は、見向きもしない。
家来は、主君に甚だ丁重に従っていたが一語も交さない。離れ座敷に坐ってもこれは同じで、黙って主人の動作を見まもっているようなところがある。
その主人というのは、恰幅《かつぷく》のいい男で、年齢は四十五、六ぐらいにみえた。羽織についた紋は単純な意匠だから、花屋の亭主があとまで憶えていた。
白い輪が二つ重なっている「輪違い」である。勿論、表で待っている供士の提灯にも、この紋がはっきりと描いてある。
亭主は、この身分ある客が、すこし酔っているのではないか、と初め思った。姿勢が不安定に傾いてみえたからだ。が、そうでないことは、供頭の士が、
「ひどくお疲れであるから、或は、暫時、お寝《よ》い遊ばすかもしれぬ。この家の者は、誰もお部屋には参らぬようにしてくれ」
と注意したことで分った。
「畏りました」
亭主は答えた。
「それでは、お夜具でも運ばせましょうか?」
供頭の士は、
「お風邪を召されてはいけぬな。では、そうしてくれ」
と云い、女中が夜具を抱えてくると、自分が部屋の前で受けとって、運び入れたものである。
茶、莨《たばこ》盆なども、いちいち、女中からうけとってその士は主君の前に置いた。三十すぎの瘠《や》せた男である。
客は、行灯の灯も煩わしいのか、それを避けるようにして坐っている。
亭主が、縁側に畏って、挨拶をしようとすると、
「もうよい。お忍びであるから、かえって迷惑だ」
と、その家来がとめた。
亭主は、こそこそと母屋《おもや》へかえった。表には霧に濡れて、お供の家来たちが、うずくまっている。この家来たちの間にも、ささやき一つ聞かれない。
花屋の亭主は、女房に早速「武鑑」を持って来させ「輪違い」の紋の主を探した。有ったのだ。
「帝鑑間 中務大輔 従四位侍従 脇坂淡路守安董 寺社奉行 五万千八十九石余 居城播州揖西郡竜野」
亭主は、客の正体を知って、いまさらのように仰天した。
このとき供頭の士が、離れ座敷から出て表へ歩いてゆく足音がした。
花屋の亭主は、身分のある客とは思ったが、それが、五万石の大名で、寺社奉行の脇坂淡路守とは知らなかった。顔色が思わず変ったものである。
あわてて、表に出ると、供頭の士に取りすがるように云った。
「恐れながら……」
と地面に坐り込んで、
「高貴のお方とは存じまするが、もしや、脇坂淡路守様のお忍びではございませぬか?」
と訊いた。
供頭は、亭主の顔を見ていたが、
「それが、どうして分る?」
と反問した。
「はい。その、ご紋を拝見しましたので、武鑑を繰りましたので」
すると供頭は低く笑った。
「さすがに気が利いているな。しかしのう」
と低い声で云った。
「主君は何ごとも自分の名は申すなと仰せられているからわしの口からは何とも云えぬ。その方がこの紋を……」
と提灯についている「輪違い」を指したものである。
「どこぞのお方であると思えば、それでよい。ただ、そのような考えで粗略なく扱うがよい」
含みのある言葉だったので、花屋の亭主はいまさらのように恐れ入って、地面に手をついた。
「ついては……」
供頭は語をついだ。
「主君のお心持は、あくまでも、おしのびのお憩みであるから、その方たちは、お部屋からお呼びがあるまでは、お伺いするのを遠慮してくれ」
「へえ、へえ、……」
「主君は、風流なお方ゆえ、かような晩、このような閑寂な境地をお好みになるものと思う。われらも、あまり、うるさくお伺いするとお叱りをうけるくらいじゃ」
「は、左様で、はあ……」
亭主は頭を下げるばかりだった。
「女中共にも、屹度《きつと》、左様に申しつけて、お妨げしないようにしてくれ」
「はい。それは、もう……はい」
亭主は、転ぶようにして家の中に入り、家内や傭《やと》い人一同にこのことを申し渡した。無論、一同粛然となった。
亭主や女房は、己の部屋に入って静かにしていた。警固の方は、供士がいるから安心である。気遣いなのは、あれほどの身分のある方をひとりで放っておいていいものかどうかである。
が、供頭の厳命があるので、はらはらしながらも、誰も離れには寄せつけなかった。
そのうち、時間が経過してゆく。
時刻《とき》が過ぎるが、離れの方からは、一向に手を鳴らして呼ぶ様子がない。こそとも音がしないのである。
花屋の亭主の松右衛門は、気になるが、お傍に寄ってはいけないという厳命なので、様子を見に行くこともできない。
お供の衆は、表に霧に濡れながら、主人を待っているので、亭主は傭い人に云いつけて、温い茶を沸かし、接待することにした。酒もと思ったことだが、これは勤務中だし遠慮した。
表に乗物を置いて、うずくまっている士《さむらい》たちに茶を配ると、
「忝けない」
とみなが礼を云ってくれる。
が、どうしたことか、互いが話一つ交さないのだ。やはり主君を待っているという気持からか、行儀よくしているのである。しかし、これだけ多勢の人間が黙りこくって表に待っているというのは、あまり気持のいいものではない。
(まるで、葬式が出る晩のようだ)
と松右衛門は思った。
そのうち、さっきから松右衛門と交渉をしている供頭の士が来て、
「夜中、まことに造作《ぞうさ》をかけて済まぬ」
と低い声で云った。
「どういたしまして。行き届きませぬことで……」
亭主が詫びる。全く、何の世話も出来ないのである。
「ついては、主君の仰せには」
と供頭は云い出した。
「ここの離れが気に入ったゆえ、いま暫らく憩みたいとのことじゃ。で、われわれにも家の内に入って休めと仰せられているが、折角ああして閑寂を愉《たの》しまれていられるのに、同じ家にこれだけの人数が入っては騒々しくなり、お妨げとなる。で、一同はその辺の別な料理屋を起して休むことにする」
「はあ、左様で……」
「いや、気遣いするな」
供頭は、松右衛門の心を読んだように云った。
「わたしが、時を見計らって、主君をお迎えにくる。そうだな、半|刻《とき》あとぐらいに参る。それまで、その方たちも、離れには近づかぬようにしてくれ」
「へえ。畏りました」
松右衛門は頭を下げるよりほか仕方がない。
間もなく、供頭の言葉通りに、表の軒下に並んでうずくまっていた士たちが起ち上り、空《から》の乗物をかつぎ、行列をつくって花屋を離れて行った。
どうした理由か、このとき提灯の火を悉く消していた。だから、「輪違い」の定紋も見えず、人々の影も霧の中に消えて行った。
さらに時刻が移ってゆく。
夜は深くなったが、花屋では亭主の松右衛門はじめ、家内が睡ることもできない。
離れには、高貴のお方がひとりで坐っているのである。近づくな、ということなので、様子は分らないが、多分、芝居のお殿さまのように行儀よく、ぽつねんと坐っているに違いない。
音もしないのであった。
(さすがに、お大名だ。静かなものだ)
と感心したことである。
花見どきには、江戸から客が来るが、離れを借りてはじめはおとなしくしていても、そのうち、騒々しくなって手のつけられないような喧《やかま》しさになってくる。そのことを思い合せて、身分のある人間と、下司《げす》とは違うと感嘆していたのである。
さいぜんの供頭の士は、半刻も経ったら、お迎えにくると云ったのに、一向にそのことがないのだ。
(はて)
首を傾げたことだ。
呑気といえば呑気、いかに主人が独り居を好むからといって、一刻もすぎて、少しも様子を伺いに来ないというのは、いかなる訳であろうか。
「お前さん、どうなさったんだろうねえ?」
女房が心配しはじめた。
「うむ」
松右衛門も心配になってきた。供士の連中は近所の料理屋に休んでいる、ということだったので、傭い人を走り廻らせて探させたが、
「どの家にも、そんな多勢の客が居るような様子がありませんぜ。みんな寝静まっていまさあね」
と報告してきた。
松右衛門は落ちつけなくなった。
「仕方がねえ。おめえ、お茶でも持って行って、ご様子を窺《うかが》って来な」
「あら、いやだよ、あたしひとりでは。怕《おつ》かなくてさ。お前さんもついて来ておくれよ」
松右衛門は羽織袴で、女房を従え、離れに恐る恐る近づいた。
制《と》められたことだが、このままだと夜が明けてしまうのだ。
離れの障子にはぼんやりと灯が見える。
「ごめん下さいまし」
亭主は、出来るだけ、地声を押し殺したような声を出した。お大名には、どのような声を出していいか分らない。
「ごめん下さいまし」
何度も声をかけたが、内部《なか》からは返事がない。女房と顔を見合せたことだ。
茶道具を持っている女房が、思い切って、障子を細目に静かに開けた。
「あっ」
行灯に灯芯が燃えているだけで、人の影は無かった。
亭主の松右衛門も、女房も、眼を瞠《みは》った。
思わず、声を呑んで、顔を見合せた。たしかに端座している筈の客がいないのである。
座蒲団も、莨《たばこ》盆もそのままになっている。
「これは」
泡をくって、座敷に上る。
確実に客は姿を消している。
松右衛門は、ぼんやりした。半分は狐につままれたようだ。普通の庶民ではない。自分の推量によると、五万石の大名で、寺社奉行なのだ。供頭の士も、それを否定しなかった。
「輪違い」は脇坂侯の定紋。有名な「貂《てん》の皮」の当人だ。
「おせい」
と松右衛門は、女房に云った。
「その辺をお歩《ひろ》いではないか。お探し申せ」
女房は、あわてて下駄を突っかける。
「なんだか気味が悪いねえ。お前さんも来ておくれよ」
「うむ」
松右衛門は、このとき俄かに供頭の士が恐ろしくなった。奇怪なことである。自分の大切な主人を放っておいて、何処に行ったというのだ。あれだけの人数があとかたなく掻き消えてしまったのである。
離れの裏は、庭になり、その先は音無川が流れている。せせらぎが聞えてくる。
「また、大そうな霧」
女房が思わず云った。闇の中だが、白い雲のようなものがいちめんに張っている。それが一層に薄気味わるく眼にうつるのだ。
「お前さん」
女房は提灯を持って、庭の地面を照らしていたが、亭主を低声《こごえ》で呼んだ。
「これ」
指を土に向けたが、そこに草履《ぞうり》で歩いた跡が見えるのである。枯れた草が踏まれている。
「木戸を」
と亭主は云った。
庭から道に出るには、垣根に柴折戸《しおりど》がついている。この辺に遊びにくる客のために、風流に作ったのだが、足あとは、はっきりとこの木戸から外に向っているのである。
その外まで来て、亭主は蒼くなった。
草履で踏んだあとは、飛鳥橋を渡って、山へ向っているのだ。
花見のときとは違う。風流どころではない。山は秋がすぎて、荒涼として霧枯れているのだ。しかも、三間先が見えぬ深い霧の晩であった。
亭主は、思わず身慄《みぶる》いした。
霧の中をひとりで山へ行った大名が魔ものに思えたものである。
「うわぁ」
亭主も、女房も、足を縺《もつ》らせて、わが家の中に逃げ帰った。
外はまだ夜の底である。
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脇 坂 事 件
脇坂侯の江戸家老は、脇坂|釆女《うねめ》といったが、上芝口一丁目の藩邸内の役宅に寝ているところを深夜に起された。
側用人大須賀昌平の口上として、夜中ながらすぐに出仕して頂きたい、という。
「何刻《なんどき》じゃ?」
支度をしながら訊くと、
「そろそろ寅の刻(四時)でございます」
という返事だった。ほどなく夜が白むのである。
本邸の奥に行くと、御役部屋には、あかあかと燭が燃え、留守居役脇坂久兵衛と年寄秋山伊織とが待っていた。すこし離れて、側用人大須賀昌平が頭をうなだれて坐っている。
脇坂采女は、大須賀昌平が、今宵、本郷の前田侯邸に主君のお供をして随行したことを知っている。夜中、といっても、暁の間近い今ごろ、不時に呼び起されたことといい、これだけの顔ぶれが揃っていることといい、俄かに悪い予感で胸が騒いだ。
「ご家老」
采女の着座するのをみて、まず昂奮して叫んだのは留守居の脇坂久兵衛で、
「一大事が出来《しゆつたい》いたしましたぞ」
と告げた。
采女は、大須賀が、蒼い顔をしてそこに坐っているのをみて、主君の身に変事が起ったことを早くも察した。
「一大事とは?」
わざと落ちついて三人の顔を眺め廻す。ここで自分から騒いではならぬのだ。
「殿のお行方が知れなくなりましたぞ」
「なに?」
予期した変事だったが、その形が変っている。
「お行方が知れぬと」
呆然とした。本郷の前田邸の茶会に淡路守安董が参会したことは確かなのである。行方が知れぬときいても、すぐには訳が分らぬ。
「左様、これなる大須賀昌平が、ただ今、加賀藩邸より立ち戻り、報らせて参りました」
脇坂久兵衛も動顛のあまりか、口のあたりがひきつっている。
当の大須賀昌平は、両手を畳の上に突き、肩を慄わせていた。
「昌平」
采女は、大須賀を睨んだ。
「そちは、主君《との》のお供をして本郷から戻ったのではないのか?」
「はっ」
大須賀昌平は、やはり乱れた頭を下げたまま、急には言葉を出さなかった。
「うろたえ者め」
采女は叱った。
「かような場合じゃ。面《おもて》を上げて、何でも、はきはきと申せ!」
江戸詰家老、脇坂采女に叱られて、側用人大須賀昌平が蒼い顔をして語り出したのは、こうである。──
昨夜、本郷加賀藩邸での茶会に、主君淡路守安董の供頭をつとめたのは大須賀昌平である。茶会は六ツごろからはじまった。大体、一刻くらいのうちには済むと思って、大須賀はじめ、供の面々は、乗物を玄関わきに据え控えていた。
すると、半刻ばかり経って、前田家用人らしい人物が現れて、茶会はほどなく済むが、そのあと主人は客人といささか酒を酌みながら雑談される模様であるから、ご一同は供待部屋に入って、ご休息なさるがよかろうと云ってきた。
このとき、淡路守は前田邸に公式の訪問ではないから、供廻りの人数も十二、三人という少い数である。
前田家用人の言葉に従って供待部屋に入る。さすがに百万石の大名だけに、供待部屋といっても広い。十二、三人が楽に手足を伸ばして坐れる。
一刻をすぎたころに、夜食が出た。
それなり、半刻が経ったが、音も沙汰もない。
「永いお話だ」
と大須賀は思った。
前田家の方でも、夜食を出したきり、寄りつかない。
主人どうしが話し合っていることへの遠慮と、前田邸内に居ることへの安心とで、大須賀が供待部屋を出て、尋ねることもしなかった。
ところが、夜が更けるに従って、次第に大須賀の胸にも不安がきざしてきた。あまりに話が長すぎるのである。すでに、亥の刻(午後十時)をとうに廻っていた。
大須賀は意を決して、供待部屋を出て、前田家の家来の姿を求めた。
しかし、廊下には人のかげもない。大きな邸だけに、まるで方角も何も分らない。
ようやく、つかまえた前田の家来に訊くと、はて、と首を傾け、暫時、お待ち下さい、と云い捨てて去った。
ほどなく、前田家の用人が急いで来て顔を見せたが、これは供待部屋に退屈そうに坐っている脇坂の家来をみて、あっと叫んだものである。
「お手前方は、まだここに居られたか?」
と眼をまるくしている。
「まだ、とは?」
大須賀の方が、びっくりして反問する。
それからが騒動である。
脇坂淡路守は、一刻前に、前田邸を辞去されたと云うのだ。
「えっ。しかし……」
大須賀が訊くまでもなく、脇坂様はお迎えの乗物で門を出て行かれたと、前田の用人は自分から云い出した。
供頭、大須賀昌平の報告はつづく──。
脇坂淡路守様は、とっくに辞去なされたと、前田家用人の話を聞いて、大須賀は天地がひっくりかえるほどに愕いた。
われらは、主君のお供をして、はじめからここに控えている。現に、お夜食を頂戴したくらいではないか。われら以外に主君を迎えに来る供人は無い筈。いかなる仔細で、それを脇坂の家中と認められたか、と血相変えて詰め寄った。
用人は問い詰められて困惑した。しかし、彼にも理が無いではない。迎えに来た者は、たしかにお家の御定紋《ごじようもん》、輪違いの提灯を持参されていた。
事実、脇坂様は、何の疑いも無く、玄関先に待ったお乗物にお乗り遊ばした。もし、違っていれば、脇坂様が家来の顔を見て、まずご不審を起される筈。もっとも、当夜の淡路守様はいささかご酒を召され過ぎご酩酊《めいてい》のご様子であった。
さるにもせよ、下世話に云う、生酔《なまよ》いの本性は違わず、たとえお酔い遊ばしても、御家来衆の顔はお判りになる筈。淡路守様が普通の通りお輿に入られて帰られたものを、何でわれらに疑念が起ろうや。
ただ、失態といえば、われらが供待部屋を覗かなんだこと、これは手落ちであるが、まさか、淡路守様に二重のお迎えが参ったとは思わず、つい、うかつにそのままにした。
今、貴殿方が供待部屋に未だ坐って居られるのを見て、さてさて不思議なことがあるものよ、と驚き入った次第である。
いずれにしても、淡路守様がご不審も起されずに、お乗物を召されたからには、必ず御家中の方々に相違あるまじ。何かの手違いにて別のお迎えが参ったやも知れず。怱々《そうそう》に立ち帰られて、事実をお調べあるがよろしかろう、と逆に諭される始末であった。
大須賀昌平は、真蒼になって動顛した中にも、半信半疑で、本郷から上芝口まで、折からの夜霧をついて馳せ帰った。
主君は帰邸していない。大須賀は事の重大を知って慄え出した。
すぐに用人が留守居脇坂久兵衛と、年寄秋山伊織を呼びにやる。次に江戸詰家老、脇坂采女を迎えにやったという次第であった。
無論、前田家の云うような、主君に別な迎えを出したことは無いのである。
「奇怪千万」
大須賀の報告を聞いて、脇坂采女は眦《まなじり》をあげた。
「何者かの企らみで、偽の迎えが行き、主君をいずれかへお連れ申したに相違ない。家中の者を総起しなし、本郷を中心に八方を捜索させい」
こう云ってから、大須賀を眺め、
「昌平、事が落着して主君にお目にかかるまで、切腹は相成らぬぞ」
と厳しく云い渡した。
脇坂采女の指図で、脇坂家の家中総出で主人の捜索をしたが、杳《よう》として行方が知れない。そのうち夜が白みかけてきた。
家中の捜索は一旦中止された。これは外聞を憚《はばか》ったためである。
それからは、采女を中心として、重役一同が集まって、深刻な評議をした。
すぐにも大目附に届け出て、上《かみ》の手で捜して貰おうという説。
いやいや、それはまだ早い。せめて今日一日待って、模様を見定めるがよろしかろう。そのうち、主君がご帰還になるかもしれない。そうなっては面目上取り返しがつかぬ、という自重論。
この二つが岐《わか》れて、いずれとも決し兼ねているうちに、朝が昼になり、夕暮近くなった。
脇坂淡路守安董は依然として帰邸が無かった。
こうなると、もう猶予が出来ない。脇坂采女は、大目附初鹿野河内守信政にこのことを申告した。
初鹿野河内守も愕いた。五万石の大名、しかも寺社奉行が行方知れずになった。前代未聞のことである。
すぐに、前田家に使いを立てて様子を聴かせたが、
「脇坂殿には、たしかに戌《いぬ》の刻(午後八時)前にお帰りになりました」
との返事である。どう押しても、この返答しかない。
強《し》いて云うと、
「御門の内ならば当方にて責任があるが、一旦、御門外に出られたあとは知らぬこと」
との口上であった。
当夜の茶会に、淡路守に変った様子はなかったかと訊けば、
「茶会のあと、御酒を少々召し上がったが、それとても格別の酔体《すいたい》は無かった」
という返答である。
すぐに、北町奉行榊原|主計頭《かずえのかみ》忠之、南町奉行筒井伊賀守政憲に命じて、御府内一帯の捜査に当らせた。
それにしても奇怪なことは、あとから淡路守を迎えに行った供行列である。前田家の申しようでは、淡路守は何の疑いもなく、乗物に移ったという。
偽の供揃なら、淡路守は、わが家来であるかどうかすぐに判別がつく筈である。それを疑わずに、唯々《いい》として乗物に坐ったのは不思議な話である。
行列は、ちゃんと脇坂家の定紋のついた提灯をもっていた。もし、偽だとすると、計画的な誘拐《ゆうかい》としか思えない。
脇坂家では、取り敢えず、淡路守病気につき、引籠りを願い出た。
南北両町奉行の捜査は厳重につづいた。
石翁は、向島の邸で、三人の客と雑談していた。
客は、西国、中国、北国筋の大名の、それぞれの留守居役である。この大名たちは、日ごろから、石翁に何かといんぎんを通じ、石翁も便宜を計ってやっている。
だから、客といっても、終始、機嫌伺いに来る留守居役であるから、気楽だし、石翁も機嫌よく話相手になってやっている。
日ざしが障子に当っているが、梢の影も、よほど葉を落したものになっていた。
各藩の留守居役は、在京の外交官のようなもので、交際上手なところから、粋人が多い。その方面の話題は豊富なのである。
いまも、女の話から自然と食物の話に移っているところで、
「洲崎《すさき》の升屋《ますや》も結構ですが、少々、古臭くなりました。この間、日本橋浮世小路の百川《ももかわ》に参りましたが、あそこは庖丁が冴えております。今までのように、硯蓋《すずりぶた》や重箱に口取肴を大盛りにし、浜焼の大鯛もそのまま大皿にのせてくるなんざ、もう流行《はやり》ません。百川のは、懐石《かいせき》に長崎料理が入っておりまして、これは、ちょっと乙《おつ》に食べられましたな」
と、ひとりの留守居がしゃべっていた。
石翁は、にこにこして聞いている。
さらに、その留守居が長崎料理の珍しさを披露に及んでいると、会釈して、用人が石翁の傍にすすんだ。
石翁がうなずいて、客三人に、
「ちょっと失礼する」
と断って座を起った。
主人が中座したので、客三人は、勝手に食べものの話をつづけ、山吹茶屋がどうの、田楽《でんがく》茶屋は何処がいいの、と互いに知識を披露し合っていると、思ったより早く、石翁が戻ってきた。
まえと少しも変らない顔色で、違うといえば、もっと機嫌のいいことだった。
「ここだけの話だが……」
と石翁は座に着くと云った。
「寺社奉行が何処かに行って、行方知れずになったそうじゃ」
えっ、と驚いたのは留守居役三人で、
「竜野侯が?」
眼をまるくしたものである。
「うむ、いま耳にした話じゃ。どうじゃ、寺社奉行の雲がくれは権現様以来聞いたことがあるまい?」
と微笑した。
「まことに」
三人が、まだ信じられない顔つきをしていると、
「淡路も気の毒な。まだ、若いのに」
と奇怪な言葉を洩らした。
三人の留守居が、あとで不思議に思ったのは、この時にはまだ脇坂淡路守の生死は分っていなかったのである。
留守居役が三人帰ったあとでも、石翁は、自分で茶を点てて、つくねんと坐っている。
眼を閉じて考えごとをしている。が、これは思案するためだけに、ここに坐っているのではないことが、間もなく判った。
用人が入って来て、耳打ちする。
「うむ」
石翁はうなずいて、老人らしく、大儀そうに起ち上るが、眼は活々と光っているのである。
裏側の縁に出ると、この庭の特徴で、植込みの樹が多い。その樹のかげに隠れるようにして、ひとりの男が坐っている。
「申し上げます」
と男が云いかけるのに、
「これ」
と低く制して、
「声が高いぞ」
と自分から姿勢を前にかがめて、耳を近づけたものである。
男が何かを囁《ささや》く。石翁はうなずく。ただそれだけのことだ。ほんの、二言か三言の密語であった。
石翁は、席にかえった。顔には、満足そうに微笑がひろがっている。それから眼を細めて、何かを考えている。
陽が雲にかげったのか、障子がすうと暗くなる。妙に肌寒い。風炉《ふろ》の炭火に手をかざしたくなるのだ。
廊下に足音がして、
「参りました」
と用人が告げる。
石翁は、黙って起ち上る。
やはり縁に出て、しゃがむと、樹に姿をかくして、一人の男が膝をついている。一刻前に来た男とは違うのである。
この男が、膝をにじり寄せて、石翁に顔を近づけ、手で口を囲い、何ごとかを報告した。
「なに?」
石翁の大きな耳が、動物のそれのように、動いたかと思われた。
「死体が出たのか?」
石翁が、報告者の顔を、まっすぐに見た。
男はうなずく。さらに、それから、数語をささやいた。
石翁の表情が、硬いものになっている。
「よい」
と報告者を退らせて、部屋に帰り、鈴を鳴らした。
「何か?」
用人が来て、石翁に伺うと、
「両町奉行に、誰かしっかりした奴をわしのところに来るように云ってやれ。奉行に話して聞かせたいことがあると云ってな」
と身体も、首も動かさずに云った。
用人が、忙しく退って行く。
石翁には、急いで町奉行に打たねばならぬ手があるのだ。
早朝、二人の百姓が音無川のほとりを歩いていた。
音無川は石神井《しやくじい》川の下流で、いま、百姓が歩いているところは、王子権現の方からくる流れと、飛鳥山の下をめぐってくる二つの流れと、三つが合流して、広い淵となっている。
ここには、明暦二年の造築という石畳の石堰《いしぜき》がある。往昔、このあたりは深潭《しんたん》をなして物凄く、漆坊弁天という大蛇が住んでいたという伝説もあったくらいだ。
寒い朝で、百姓が白い息を吐いて歩いていると、ふと、一人が川の方を見て、足をとめた。
「おい、妙なものが浮んでるでねえか?」
と指さした。
川のふちには葦《あし》が生えている。その葦の間から、黒いものが見えるのであった。
「うむ、何だろうな」
伴《つ》れの百姓が、川のふちに寄って眼を凝《こ》らす。葦の密生に妨げられてよく判らないが、どうやら黒い着物が浮いているようだ。
「おい、人間じゃねえか!」
と一人が、頓狂な叫びをあげた。
「人間だと?」
そう云われて見ると、ふわりふわりと浮いている着物の先には髪の毛があるようだ。この川は、中央部は流れがあるが、両端は、葦が生えているせいもあって、淀《よど》んでいるのである。
「違えねえ、死人が浮いてるぜ」
伴れの百姓も確認した。
蒼くなって駆け出したものである。すぐに庄屋に走り込んで知らせた。
村役人が集まって、百姓どもをつれて現場に急行した。
人足が、長い竿《さお》を川へ突き出して、死体を掻き寄せる。死体は、ふわふわと浮きながら岸に寄ってくるのである。
かなり、手もとに来たところを、百姓どもが、川の中に膝の下まで行って、死体を抱きかかえて、岸辺の草の上に置いた。
うつ伏せになっていた死体を仰向けにして寝かせたが、その顔は、年齢《とし》ごろ四十五、六歳ばかり、人品|卑《いや》しからぬ人相である。すでに、息は絶えて、鼻孔《びこう》と口からは水が出ている。
「これは、身分のあるお仁《ひと》らしい」
誰でも気がつくのは、その衣服の立派さである。黒羽二重の紋附に、綸子《りんず》の白無垢の下着を重ねている。ただし、これだけの人物が、羽織と、袴《はかま》が無いのが不思議だった。
着物についた紋は、「輪違い」である。
身分ありそうな、というところで、早速に、村役人が武鑑を調べはじめた。
「あっ」
と叫んで、その指の当ったところを見せた。
「脇坂淡路守安董 寺社奉行」
と出ている。
村役人は仰天してこのことを関東取締出役、俗に八州廻りに訴える。役人が出張してきて一応検視したが、事が重大なので、すぐに早馬を仕立てて江戸|馬喰町《ばくろちよう》の郡代《ぐんだい》屋敷に急報した。
郡代は愕いて、勘定奉行に報告する。勘定奉行とは妙だが、郡代は勘定奉行の管轄になっているからだ。勘定奉行からこのことを老中に申告した。
このときは、もう午《ひる》近くなっていた。
現場での検視の結果では、死人は水を飲んでいるから、溺死と決着していた。外傷はどこにも無いのである。
前夜は霧が深かった。それで、当人はこのあたりを歩いているうちに、道の方角を失い、足を滑らせて川に落ちたのであろう、と推定された。死体の様子からみて、前夜の夜中か、本日の未明の災難だと思われた。
ただ、不思議なことに、羽織と袴が無い。これだけ身分ありげな人が、このあたりを歩くのに着流しということは考えられない。
それに、何の理由で、この寂しい道をひとりで歩いていたか、である。霧の深い夜なのだ。現場は田園や草地ばかりで、川を越して遥か向うに王子権現の森が見える。こちらには飛鳥山が近い。また南の方は、広い田の彼方に、板橋村の百姓家の屋根がぽつぽつとあるだけだった。夜の淋しさが想像されるのだ。
そのうち、江戸から役人と一緒に脇坂の家来が駆けつけてきた。このときは死体の身元にほぼ見当がついていたので、丁重に陣屋に運んで安置してあった。
脇坂の家来が、死人の顔を見て、
「たしかに、主人淡路守に相違ござらぬ」
と泪《なみだ》ながらに証言した。
居合せた役人一同、今さらのように驚愕《きようがく》した。
死骸は、脇坂家の乗物に移し、目立たない人数で江戸に還って行く。無論、急病人を運ぶ体であった。
上芝口の脇坂家では、変り果てた主人を邸内に迎えた。邸内に慟哭《どうこく》の声が充ちたのは云うまでもなかった。
老中への届けは、さし当り病気重態とし、二日後に喪を発した。家督は、直ちに嫡子|安宅《やすおり》に仰附《おおせつ》けられる旨、内報があった。
ここで最も衝撃をうけたのは、老中水野越前守だ。
脇坂淡路守が、過失で溺死したとはどうしても思えない。場所が場所だし、時刻が時刻なのだ。
その上、折も折だ。西丸大奥|紊乱《びんらん》の証拠を握って、再度の弾圧を下そうとした矢先なのである。普通の死ではない。この事故死の裏には謀略の匂いがあった。
越前守が、自ら南北両町奉行を喚んで、脇坂の死の真相を究明するよう厳命したのは当然であった。
江戸府内以外の隣接地の警務は、郡代の管掌であったが、脇坂淡路守の一件は、ことが重大なだけに、その真相究明には、南北両奉行手附与力のうち、捜査技術の優秀なものが、小者(岡っ引)を率いて調査に当ることになった。
淡路守が行方不明になったのは、本郷の前田邸を出てからであるから、まず前田家の事情を聴取する必要がある。
幕府目附が非公式に出した質問に、前田家の返答はこうである。
「当日の茶会は、内々の集まりで、淡路守殿が茶道に嗜《たしな》みあるところから、お招きしたまでである。淡路守殿は機嫌よく過された。亭主役は主人加賀守、相伴として親戚筋の方々を招いた。淡路守殿が御帰邸のために当屋敷を出られたのは、戌の刻で、そのときのご様子は、いささか御|酩酊《めいてい》にお見うけしたが、大酔というほどではなかった。
脇坂家家中の供衆を、当屋敷の供待部屋に入れておいたのは事実である。時間が長いと思ったので、夜食を出したくらいである。しかるに、淡路守殿がお帰りのころには、玄関先に供揃が出来ているという知らせがあり、われらは供待部屋の衆が玄関先に出て、お待ちなされたものと思っていた。事実、脇坂殿には何のお疑いもなくお乗物を召され、御門を出て行かれたのである。われらは御門の外までお見送りしたが、供の御行列は御定紋入りの提灯で警備されていた。
ところが、そのあとになって、件《くだん》の供待部屋の衆がまだ居残っていることが判り、われらも愕いた次第である。察するところ、脇坂家は連絡の手違いで、二重にお迎えが参ったものと思う。あとで、偽のお迎えが来たとのことだが、はてさて世の中には面妖《めんよう》なことがあるものと驚き入ったことである。
事情は以上の通りで、当邸には何らの手落ちはない。淡路守殿がお疑いもなく、お乗物を召されたのに、われらが何で疑念を持とうか。淡路守殿にはお気の毒であるが、われらも近ごろ迷惑なことに思っている」
前田家は極めて素気ない回答をしてきた。これは、とりようによっては、事件の渦中に巻きこまれまいとする要心のようでもあり、当邸を疑うなどとは以《もつ》ての外であるとの憤りともとれた。
一方、当夜の脇坂家供頭大須賀昌平については最も厳重に調べられた。偽の迎えと何らか連絡があったのではないか、という疑いである。主人淡路守が退出するまで、いつまでも前田邸に待っていたことが不審がられたのである。
しかし、大須賀昌平は忠実な性格であることが判って、この嫌疑は晴れた。
次は、淡路守自身の不可解な行動である。
捜査をしているうちに有力な聞込みがあった。
脇坂淡路守らしい人物が、飛鳥山の茶亭で休息したというのである。
この辺は料理屋が多いが、その中で、花屋という料理屋が当の休憩場所だったと判った。
この聞込みは岡っ引が耳にしたのだが、その報告で、与力が花屋に出張してきて、亭主の松右衛門や女房、傭い人を調べた。
「その人物は、いつごろ当店に来たか?」
と与力は松右衛門に尋問した。松右衛門がおよその時刻を答える。これは大事なことだったので、女房や傭い人にも確かめたところ、淡路守が本郷を出てから、ここに来るまでの時間と大体符合した。
「うむ」
与力は尋問をつづけた。
「して、それが、脇坂淡路守さまと判ったのは、いかなる仔細からか?」
「お供衆が提灯を持って居られましたので、その御定紋を見て、脇坂さまとお察し申しました」
松右衛門は答えた。
「その紋は、いかなる紋か?」
「輪が二つ違いに重なったもので、輪違いと申しまする紋と心得ました」
「輪違いの定紋が、脇坂さまの御紋とどうして知ったか?」
「武鑑を繰《く》りまして、判りましてございます」
「うむ、そのほう方《かた》へ行ったときの、その者の模様を有体《ありてい》に申せ」
「まず、供頭のようなお方がお見えになり、主君が暫時お休みになりたい故、奥の間を貸してくれと申されました」
「その男は、どのような人相か?」
「三十すぎの、やせたお侍でございました」
「主君という人物は休息したか」
「奥の間にお通しいたしました」
「人相はどうじゃ?」
「四十五、六歳くらい、少し肥り気味で、眉の濃い、下ぶくれのお顔でございました」
役人はわずかにうなずいた。これは寺社奉行脇坂淡路守安董の人相と合うのである。
「それから、どうしたか」
「そのお方は奥座敷にひとりでお憩《やす》みになり、供頭さまの指図で、手前どもは、一切お近づきを遠慮いたしました」
「供の連中はどうしていた?」
「表でお待ちになっておられましたが、およそ半刻ばかり経ってから、自分たちも近所で休むからと申され、いずれかへおひき揚げになりました」
「それは何処か?」
「あとで、傭い人どもに探させましたが、判りませんでした」
「そのほうは、その人物が脇坂さまであると確かめたか」
「供頭のお方にお訊ねしましたが、そうだとは申されませんでしたが、粗忽のないようにしてくれと云われました」
「それからどうした?」
与力の尋問はつづいた。
「へえ。それから、手前どもも、あんまり心配になりましたので、奥座敷にこっそり行きまして、様子を見ますと、そのときはもう、お客さまの姿がありませんでした」
花屋の亭主松右衛門は答えた。
「無かったとは?」
「どこかへお出かけになったのでございます」
「どうして分ったか」
「裏は庭になっておりますが、その土の上に草履のあとがついておりました。そこで、手前と女房とが提灯を持って、足あとのついている方向を辿《たど》って参りました」
「それは、どういう風についていたか」
「庭を横切って、木戸の外に向っておりました。手前が足あとを拾って参りますと、何と飛鳥山の方へ向っているではございませんか。丁度、濃い霧がいちめんに山をかくしておりまして、真夜中のことではあるし、何となく気味が悪くなって、家の中に戻りました」
「供侍は、もう戻って来なかったか」
「それきりお帰りになりませんでした」
「その人物は、離れに、たしかに一人で居たか」
「一人で居られたと思います。なにしろ、お傍に寄ってはならぬ、というので、離れには行きませぬが、話し声はむろんのことコトリとも音がしませんでした。さすがに、身分あるお方は違ったものだと感心していたくらいでございます」
「そのほうが、そのお方を見たのは、離れに供侍と一緒に案内して行くときだけだな」
「左様でございます」
「そのときの、様子はどうか」
「そのお方は、黙っていてものは云われませんでしたが、ひどくお疲れになっているようにお見うけしました。手前は、それでお休みになるのだと心得ました」
「疲れていると、どうして判ったか」
「ひどく、ぼんやりしたご様子で、元気がありませんでした。一切のことは、供頭のようなお方がお世話なすっていらっしゃいました」
「そのほうが、足あとをつけていったのは、何刻《なんどき》ごろか」
「およそ四ツ半(午後十一時)ごろだったと思います」
「それでは、そのほうの家に休んだ間はどれくらいか」
「一刻半(三時間)ぐらいかと思います」
「いままで申し立てたことに相違ないか」
「相違ございませぬ」
松右衛門の尋問は終った。
が、その後になって、脇坂淡路守らしい人物を見たという目撃者が三、四人ばかりあらわれた。
与力はその目撃者を喚《よ》んで問い質《ただ》した。
脇坂淡路守らしい人物を見た、という目撃者は四人いた。いずれも土地の百姓である。
与力は彼らを陣屋(関八州取締出役詰所)に喚んで尋問した。
まず、百姓甲との問答。かれは三十歳くらい。
問 その方が見た人物の人相を申してみよ。
答 夜でございますし、霧が深うございましたから、たしかには分りませなんだが、小肥りのお武家さまでございました。
問 それは何処で見たのか。
答 飛鳥山の下を東に向いますと、御殿山の方へ出る道がございます。その途中に、六国坂というのがございますが、その坂にかかる手前でございます。
問 それは何刻ごろか。
答 およそ四ツ半(午後十一時)をすぎていたと存じます。こんな真夜中に、お武家さまが、おひとりでふらふらとお歩きになるなど、奇妙なことと思い、少々、気味が悪くなったくらいでございます。
問 そのお方は、そのほうを見ても、何にもものは申されなんだか?
答 言葉をおかけ下さるどころか、まるで、知らぬ顔で、お歩きでございました。
問 そのほうは、提灯を持っていたか?
答 持っておりました。
問 提灯をさし出して、そのお方の顔を見るようなことはしなかったか?
答 そんなことは致しませんでした。けれども、お武家さまにしても、ご身分のある方のようにお見うけいたしました。
目撃者甲の聴取りは終って、次は乙と丙との証言である。これは、中年の夫婦者であった。彼らは質問に、交互に答えた。
問 そのほうが、そのお方を見たのは、いずれの場所か?
答 一里塚の近所でございます。これは六国坂を下ったところにございます。
問 それは、何刻であったか?
答 子の刻(午前零時)を過ぎておりました。手前どもは、願いごとがあって、不動さまにお百度まいりをした帰りでございました。(この近くに明王山不動院あり)
問 そのお方の人相は分っているか?
答 手前どもは、向うから人影が参りますので、もしや、同じ願かけのお詣りのお方ではないかと思い、提灯をさし出して、お顔を見ましたから、よく分っております。
問 それを云ってみよ。
答 小肥りのお方で、四十五、六歳くらい、眉の濃い、立派なお武家さまでございました。手前どもは、びっくりして、あわてて、おじぎをしましたが、そのお方は、なにかもの想いに耽《ふけ》っているような、ぼんやりした様子で、ふらふらと歩いてゆかれました。
与力は、次の目撃者丁を呼び出した。それは二十七、八の青年である。
問 そのほうが、その武士を見かけたのは、何刻ごろか?
答 へえ、そろそろ夜明けが近うございましたから七ツ(午前四時)ごろだったと存じます。
問 そんな時刻に、そのほうは、どうしてうろうろしていたのだ?
答 恐れ入ります。じつは、吉原《なか》へ遊びに行ったのですが、馴染《なじみ》の女がなかなかやって来ず、とうとう遣《や》り手の婆と喧嘩をしまして、業《ごう》ッ腹ぱらなものですから、とび出して来たんでございます。旦那の前ですが、近ごろの女郎《おんな》ときちゃ、銭《ぜに》が目当てで、もう昔のように意気や張りを見せようってえなアいねえもんでございますね。
問 黙れ。そのような話を訊いているのではない。
答 へえ、へえ。恐れ入りました。
問 そのほうが、その武家に遇ったのは、何処か。
答 俗に滝不動裏門道てえのがございます。飛鳥山から滝不動さまの方へ行く道なんで。手前は滝廼川《たきのがわ》村の百姓でございますから、あの道を通ると近うございます。
問 その方はどうしておられたか。
答 その晩は、滅法霧が深うございましてね。手前が歩いておりますと、目のさきに、ぼうと人かげが立っているじゃございませんか。いや、季節外れの幽霊が出たかと愕きました。よく、見ますと、その人影はふらふらと音無川の方への畦道《あぜみち》を歩いているではございませんか。まるで、魂の抜けたような恰好でございました。
問 それでは顔は見なかったのか?
答 顔を見る段じゃございません。やっと、それがお武家さまだと判ったくらいでございます。
問 どのような体格であったか?
答 左様でございますね。ちょっと小肥りの体格でございました。それで手前もちっとは安心しました。幽霊や変化《へんげ》の肥えたのはあまり怕《こわ》くございません。
問 それでは、そのほうは、その武家のうしろを見送っていたのか?
答 へえ。どうも、面妖なことがあると思って、しばらく立ち停って見ておりましたが、すぐに濃い霧で見えなくなりました。
問 その歩いて行った方角は、たしかに音無川の方か?
答 左様でございます。
目撃者の証言は、大体、これで終った。
これによると、脇坂淡路守は、花屋から、飛鳥橋を渡り、山の麓を歩いて、六国坂から一里塚まで行き、再び引返して、滝不動裏門道に出たことになる。奇怪な彷徨《ほうこう》である。
南北両町奉行所、ならびに郡代屋敷の当事者は、脇坂淡路守安董の死について、次のような結論を下した。
「寺社奉行には、御用繁多のため、いささか過労気味となり、逆上せられていた模様である。近ごろは、少々、気鬱《きうつ》(神経衰弱)で、常人の振舞いとは思えない節があった。これは脇坂家家中の申立てるところである」
「当夜、淡路守殿は、前田邸の茶会に参会せられたが、そのときも、加賀守殿のお話に、とんちんかんな返事をなされたという。茶のあとに、ご酒を召されたのもよけいに悪かった。これは気鬱の症状を昂じさせたものと判断する」
「されば、淡路守殿は、供侍を待たせながら、別の供をお呼びになった。世上、この供がにせもののように噂するが、左様な事実はない。脇坂家の家中に訊ねても、全く主人失念のためと云っている」
「淡路守殿には、前田邸を辞去されるときから妙な様子があった。口の中で、ぶつぶつ呟いたり、何かもの想いに耽って返事を忘れておられたり、御用所に起たれるときも、案内の侍とは別な方角にふらふらと歩かれたりして、案内の者をあわてさせた」
「本郷の前田邸を出て、行列を上芝口の自邸とは反対の板橋村に向かわせたのも、淡路守殿の気鬱がなせる奇怪な行動である。板橋村から飛鳥山の料亭に乗物をつけさせ、そこで、ひとりで休憩なされた。いかなる意図か分らぬが、供侍はそこから帰らせておられる。世間には、このことについていろいろ噂をしているが、脇坂家へ問い合せての結果の事情はこれである」
「さて、別間にお憩《いこ》いなされていた淡路守殿は、さらに逆上なされたらしい。すなわち、ひとりで宿の者にも断りなく抜け出され、飛鳥山の方にお出でになった。夜中、まことに奇怪な行動であるが、すべてご気鬱が昂じたはてと思えば諒解できぬこともない」
「飛鳥山の麓から六国坂へ、それから一里塚へ、さらに滝不動裏門道の畔《あぜ》みちへと、淡路守殿は、さまよいつづけられた。途中で、淡路守殿を目撃した者は、いずれも、ふらふらと魂が抜けたように歩いておられたと申し立てている」
「最後の畔みちから、音無川の淵は近い。思うに、淡路守殿は、逆上のあまり、自ら入水《じゆすい》なされたか、もしくは、ぶらぶらと川べりを歩かれているうちに足をすべらせて川へ転落なされたのであろう」
「されば、脇坂淡路守安董殿の死は、世上の浮説に云うが如き、不慮の怪死ではなく、全く、過労のはての気鬱が昂じ、逆上なされての自らの入水か、過っての溺死である。これは、諸方面を調べての結果、間違いないところである」
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推 察 の 糸
南北両奉行所、並に郡代屋敷の探索当局は、脇坂淡路守安董の怪死について、このような結論を出した。
「以上のように、脇坂淡路守殿は気鬱が昂じて入水されたか、転落されたかであり、その死は自殺または過失死である」
無論、この捜査報告は老中に極秘のうち差し出されたのであって、世間には、病死となっている。
公儀に出した脇坂家の届けにも、病死となっている。そうでなければ、脇坂家に疵がつくからだ。公儀はこれを受理して、嫡子安宅に五万石の家督をつがせている。
「妙な話だな」
島田又左衛門が、これをさる筋から聞きこんで来て新之助に云ったものである。
「かりにも五万石の大名が単身で、夜中、ぶらぶらと歩く……そんな莫迦なことがあるものではない」
「脇坂さまは、本当に御用繁多でお気鬱でしたかな?」
横に一緒に居た良庵が訊いた。
「そりゃア御用は多かった。しかも、公辺の用事のほかにも、いろいろと気を遣われていたことは確かだ。あのお方は西丸大奥手入れの準備で一生懸命だったからな」
又左衛門は云った。
「しかし、それと気鬱とは違う。わしがお会いしている脇坂殿は、逆に至極元気であったよ。人間、何か大きなことをやろうとする前には意気が昂《あが》るものだ。脇坂殿がそれだったよ。顔色もいいし、張り切っておられた。気鬱などとは飛んでもない」
「そうすると……」
新之助は叔父の顔に眼をあげた。
「あの飛鳥山の水茶屋に休まれたのは?」
「それだ」
又左衛門は首を傾げていた。
「わしは思うに、何人《なんぴと》かによって、脇坂殿は誘拐されたのではないかと考えるな」
「誘拐?」
「うむ、そうとしか考えようがないのだ。前田家にはちゃんと脇坂家の供侍が待っていた。あとの迎えの行列は、むろん、にせものだ」
又左衛門は、自分の推測を話し出した。
「脇坂殿は、誰かの謀略でその偽の迎えの乗物に乗せられたのだ。偽の方でも考えている。ちゃんと、脇坂殿の定紋入り提灯を用意して行っているのだからな。それからその行列は、飛鳥山に向ったのだ」
「脇坂様は、よくもおとなしくついて行かれましたな?」
「そこが謀略と申しているのだ。思うに、脇坂殿は、その水茶屋で誰かと会見するように申し込まれ、承知なされて行かれたと思う。それでなければ、脇坂様が承知なされる筈がない。深夜、そのような場所で、脇坂様が唯々と会見を承知なされた相手の名は……新之助、これは、よほどの人物の名前ではなかろうか」
誘拐といっても脇坂淡路守の場合は強制的に拉致《らち》されたのではなく、誰かがひそかに会見を申し込んで、その場所に出向いて行った──島田又左衛門の推察というのはそのことから、対手の人物というのが余程の大物だと云うのである。
「しかし、先方では何のために会いたいと口実をつくったのですか? よほど、うまい口実でないと脇坂さまが出向いて行かれない筈ですが」
「その通りだ」
と又左衛門はうなずいた。
「わしが思うに、淡路守殿は西丸から手をつけて大奥粛清をなされようとした。これは、前にも経験があるから、今度は徹底的になされる筈だった。当然、大奥からの反対がある。脇坂殿はそれも覚悟の上だった。貂《てん》の皮が前回よりも大暴れするところだった。大奥は、前の手なみを知っているから怖れをなした。それに、今度は水野越前守殿という大樹のような後楯もついていることだ。大奥からは犠牲者が出る。それも大量な犠牲者だ」
又左衛門は、熱心につづけた。
「そこでじゃ。先方では、淡路守殿に取引を申し込んで来たものと思う」
「取引……とは?」
「つまり、淡路守殿に大じかけな粛清をされては叶わぬでな、それをどの程度に縮めるか。いや、縮めて欲しい、その代り、或る程度の犠牲は認めよう、淡路守殿の意向が判れば、自発的に辞める者を出してもよい……つまり、そのような取引を敵側から申し込んできたに違いない。むろん、話し合いは極く内密のうちに進めなければならぬ。ご足労でも、その場所までお越し願えぬか……多分、そのような云い方で誘ったのであろう」
又左衛門は話をすすめた。
「されば、淡路守殿も、先方の肚を探るつもりで出て行かれた。それが前田邸の玄関に来た向うの迎えじゃ。淡路守殿は、わが家来にも知らせてはならぬので、黙って迎えの乗物に乗った。先方が脇坂家の定紋入りの提灯を持たせたのは、つまりは前田家への体裁じゃ」
「では、飛鳥山の水茶屋がその指定の場所でございましたか?」
新之助が考えながら訊いた。
「一応はな」
又左衛門は答えた。
「しかし、先方は来る意志は毛頭無い。脇坂殿は、そこで長いこと待っていた。待てどくらせど約束の人物が来ないので、初めて変だと気づいた。罠《わな》だ、と判ったに違いない。遁《のが》れようと思ったが、表には、供に化けた敵側の連中がいる。そこで裏口からのがれたが、お大名のかなしさ、あの辺の地理をご存じない。加えて、夜の霧の中じゃ。つい、さまよううちに、あとをつけて来た敵の一人に、音無川へ突き落されたと思う。……」
「叔父の云うことは」
新之助は、良庵と連れ立って、田圃道を歩きながら云った。
天気がよく、空は晴れ渡っている。田圃には切株ばかり残っていた。今、行って来た王子権現の森と、飛鳥山の姿が背中に遠ざかっていた。
昨日、霰《あられ》まじりの雨が降ったあとで、田舎道は泥濘《ぬかるみ》になっていた。新之助も良庵も、刎《は》ね泥を警戒しながら歩いた。
「叔父の云うのは」
新之助は、昨夜聞いた、又左衛門の推察のことを良庵に批判していた。
「あれは、間違いだね」
「え、間違い?」
良庵は新之助の横顔を見た。
「うむ、ちっとばかり見当が狂っている」
「しかし」
良庵は首を傾げた。
「ひどく筋道は立っていたように思うがな」
「筋道の立て方が、最初《はな》から違ってるのさ」
新之助は雪駄《せつた》で小石を弾《はじ》いて云った。
「どういうことだね?」
「敵側の人物と、取引するために出かけたまではよかったがね……」
彼は話した。
「それからがいけない。花屋に休んだのは、脇坂殿ではない」
「えっ。だけど、新之助さん」
良庵は反問した。
「人相、風采、いま遇った花屋の亭主の云う通り脇坂さまにそっくりじゃないかえ」
「そっくりだ」
新之助はうなずいた。
「遇ってはいないが、そのほか、飛鳥山で出遇った土地者も、似た人相だったと、みんな口を揃えて云うに違いない」
「すると、そいつらは嘘をついているのかえ」
「いや、嘘を云っているのではない。みんな、本当のことを云っているのだ」
「はてね」
医者は首を傾げた。
「さあ、分らなくなった」
「花屋に休んでいた脇坂殿は、本物ではない。あれはにせものだ」
「そ、それは、ほんとうかえ?」
「そうでなくては辻褄《つじつま》が合わない」
新之助は答えた。
「かりにも五万石の大名だ。それに寺社奉行といえば若年寄に次ぐ格だ。そのような人物が二刻近くも、たった一人で、夜中の水茶屋に休んでいると思うか?」
「………」
「飛鳥山のあたりをうろついているのも同じことだ。大名がひとりで、羽織も袴もつけずに着流しでふらふらしていると思うか。……おれではあるまいし」
「新之助さん、そりゃア、どういうことだね?」
良庵は、水溜りを一跳びして訊いた。
「つまりさ、水茶屋に休んだり、飛鳥山のあたりをうろついていたのは、脇坂淡路守殿ではないのだ」
新之助は、低い声で云った。
あたりは人も通らない。遠くの田圃道に、女性が一人、鍬をかついで歩いていた。
「そうすると?……」
「そうだ、あれはにせものだ。脇坂殿によく似た男の」
「………」
「わざと水茶屋に休んだり、飛鳥山のあたりを人目につくように、ふらふらと妙な歩き方をしたり、これはにせものが、そう見せかけるためにしたことだ」
良庵は、しばらく息を呑んだような顔をしていたが、
「けれど、音無川から上った死体は、正真正銘の脇坂さまだったぜ」
ときいた。
「死体はほんものさ。歩いていたのはにせものだ」
新之助は答えた。
「そうするてえと……本郷の加賀藩邸を出たのは?」
良庵が考えながら訊く。
「あれは、ほんものだ」
「水茶屋に休んだのはにせものか。ほんものとにせもの、どこで入れ替ったやら……」
良庵は呟いた。
「入れ替ったのではない。ほんものの乗物をかついだ行列と、にせものの行列と二つあったのだ」
「はてね?」
「ほんものは、本郷から、こっそり出た。この方は人数が少いし、乗物も立派でない。提灯も消していたに違いない」
新之助の眼には、この間の夜、柳原堤を歩いているときに出会った無提灯の駕籠の一行が泛んでいた。足音も消しているような歩き方だった。
「一方、にせものは、堂々と脇坂家の定紋をつけた提灯を賑《にぎや》かにかざして、歩いたものだ。飛鳥山の水茶屋に着いたとき、わざわざ亭主に武鑑を披《ひら》かせたほど、目立つようにした。途中、誰に出会っても、脇坂殿の行列が通っていたと分るようにしたのだ。このテは、にせものの脇坂殿を、人目につくように、ふらふらと歩かせたと同じことだ」
「しかし、新之助さん」
良庵は抗議した。
「脇坂家では、水茶屋にお供したのは、当家の者である、と云ってるそうだが……」
「五万石の屋台が可愛いからさ」
新之助は嗤《わら》った。
「下手に、逆らうと、五万石がフイになる……」
脇坂家が泣寝入りしたのは、五万石が可愛いためだと新之助は云う。
つまり、ここで事を荒立てて抗議すれば、淡路守安董は妙な場所で変死したことになる。さすれば大名としての体面を失墜するから、公儀のお咎めがあろう。脇坂家の家中が、偽の供行列を、止むなく承服したのは、この辺の事情からであった。
「老中筆頭の水野越前守殿も」
と新之助はやはり道を歩きながら云った。
「ことの究明には痛し痒《かゆ》しだ。元来、脇坂殿と組んで大奥粛清を目論んでおられた水野閣老も、脇坂殿の下手人を探せば脇坂家に疵がつく。これも詮方なく眼を瞑《つむ》られて、南北両町奉行所などの探索報告を鵜呑みになされたと思う」
「するてえと、奉行所の報告も、脇坂家のためを考えてのことかね?」
良庵は訊いた。
「それほどの親切心から出たかどうか……」
新之助は苦笑した。
「脇坂家のためよりも、下手人のためだろうな」
「すると、その下手人ってえのは?」
「直接《じか》の下手人のことを云ってるのじゃないよ、良庵さん。そのうしろに立って、にたにた笑いながら指図をしている奴さ。おれは、その巨きな人間のことを云ってるのだ。奉行が三人かかっても歯の立たない男さ」
「新之助さん、それじゃ、やっぱり……」
良庵は、すり寄って来て、小さな声を出した。
「向島かね?」
「見当は、その辺だね」
新之助は答えた。
「そうか……」
良庵は、しばらく黙って歩いていた。黙っているのは彼も考えているからだ。
「すると」
良庵は首を起した。
「ほんものの脇坂さまが連れ込まれた所はどこだね?」
「おれも、そいつが判らなかったが、今日、ここに来て、初めて、およその見当がついたよ」
「え、どこだ?」
新之助は、良庵の肩をたたいて、顎をしゃくった。
「ほれ、あすこだよ」
良庵が眼を向けると、大きな屋根が、長い塀に囲まれ、植木が林のように繁っていた。
「前田の下屋敷だ」
あっと良庵が口の中で叫んだ。
「ここに前田の下屋敷があるとは気がつかなかったよ。此処は板橋村だな。飛鳥山も、音無川も、目と鼻の間だ。良庵さん、向島の隠居も、なかなか眼が敏《さと》いな」
「するてえと……」
良庵は、広壮な前田加賀守の下屋敷を横眼で見ながら訊いた。
「脇坂さまは、此処に連れ込まれなすった? ……」
「まあ、いずれその見当だ」
新之助も前田の下屋敷の門前を見ながら云った。
門の前には、棒を持った警固の者が二、三人立って、これも新之助と良庵の歩いている方を、じろじろと見ている。
「地の理はいいし、この屋敷の奥の院に引込まれたら何をやられるか分らない」
新之助は、低声《こごえ》で云った。
「良庵さん、あんたは、脇坂殿が、羽織と袴無しの死骸で発見されたのをどう思いなさる?」
「そのことだ。わしにもよく判らんが、おおかた脇坂さまが妙な頭脳《あたま》におなりになり、途中で勝手に脱がれたと見る人もあるようだな?」
「敵も、そう世間に思わせるのが狙いだった」
新之助は云った。
「だが、考えてみるがいい。いかに気鬱《きうつ》が昂じたとはいえ、お大名が羽織も袴も脱《と》るというのは常識には無いことだ。お大名というものは、どんなに狂ってても、癖になった威儀は身につけているからな」
「そりゃ、そうだろう」
良庵はうなずいて相槌《あいづち》を打った。
「羽織や袴を脱がせたのは、脇坂殿が常人でなかったと見せたい小細工だろうが、細工が念入りすぎて、ボロを出した恰好だ。これ一つとっても、脇坂殿は、自殺や、誤っての入水ではないよ」
「なるほど」
「その小細工をしたのは、下っ端の猿知恵の廻った男に違いない。あとで、向島から、散々、叱言《こごと》を食ったことだろうよ」
「すると、やっぱり下手人は川向うの方角かえ?」
「そうだ。あんたが散々な目に遇った方角だ」
「いや」
良庵は頭を抱えた。
「あのときは非道《ひど》い目に遇った」
「川向うは禁句らしいな」
新之助は微笑したが、
「こうなると、おれも向島に文句の一つもつけに行きたくなる」
と、ぼそりと云った。
「えっ」
良庵がおどろいて、
「では、石邸《いしやしき》に、いよいよお出かけか?」
と新之助を見あげた。
「その方もだが、先に片づけることがある」
「はてね?」
「お縫さんの敵《かたき》だ。あれも目下、向島だからな。いや、向島には、いろいろな化け物がいる」
板橋村から巣鴨にかけて、大名の下屋敷が多い。
西から数えただけでも、加州家下屋敷、柳沢弾正|少弼《しようひつ》下屋敷、一橋家下屋敷、藤堂和泉守下屋敷、つづいて寄合《よりあい》旗本の久世|内匠《たくみ》、一色丹後守、土屋兵部、駒木根大内記などの下屋敷がある。
また、御領茶園もあって、田園を隔てて、飛鳥山、王子権現などの森を眺めるこの辺の見晴しは、大そう佳い。
板橋は、江戸から発して中山道へ向う最初の宿場で、上宿《かみじゆく》、中宿に分れていた。むろん旅籠《はたご》や水茶屋が多い。
この上宿の真ん中を割って石神井川が流れている。この川の上流が音無川になるのだ。
新之助と良庵とは、石神井川に架《かか》った橋の上に立って、上流の方を眺めていた。広い畑の向うには、俗に滝不動で知られている思惟山|正受院《しようじゆいん》の松林と裏山とがもり上ってみえる。
おだやかな陽ざしであった。
石神井川の東岸には、加州下屋敷の長い塀がつづき、流れる水に影を落していた。
「良庵さん、見たか?」
と新之助が云う。
「何をだえ?」
良庵が、川の方へ首を伸ばした。
「ほれ、この川の水が加州の下屋敷の内に取り入れられているだろう。あの塀の下に石垣があるが、中ほどに水門が見えるではないか」
「違いない」
良庵が見て云った。
「お屋敷の庭の泉水に取り入れられているわけだな。さすがは加州家だ、川の水を利用して、いいところに下屋敷を建てたものだ。他家の下屋敷には川水が無い」
「うむ。きっと見事な造庭だろうな」
新之助は云い、
「だいぶん歩き廻って足が少々疲れてきた。どれ、その辺で一休みしようか」
と誘って、目についた水茶屋に入った。
「いらっしゃいまし」
女中が出て来て、
「奥が空いております」
と奥座敷に通した。
四畳半ばかりの狭い部屋で、隣室とは襖で仕切っている。
「寒いから、すぐに一本つけてもらって、腹をあたためよう」
新之助が云うと、良庵も、
「正直、そいつを待っていた」
と眼をほそめた。
熱燗《あつかん》で五、六杯飲んだあと、
「これでどうやら人心地がついたから、早速、訊くがね、新之助さん?」
と良庵は、新之助をのぞきこんだ。
「ほんものの脇坂さまが殺されたのは、死骸の浮いた場所と同じかえ?」
脇坂淡路守が、どのような方法で殺害されたか、新之助は云って聞かせるという。
良庵が、発見現場の川に突き落されて殺されたのではないか、と云うのに、
「それは違うな」
と新之助は否定した。
「いいかね、良庵さん、当夜は、にせものの脇坂が、あの辺をうろうろしていたのだ。ほんものの脇坂殿を入れたら、二人になる。これは面倒だし、だれに見咎《みとが》められるか分らぬ。と、いって、ほんものの死体の浮いていたのは、あすこだし、おれも、この現場に来るまでは困っていた」
「そこで、自分の眼で見て、判じものが分ったというわけだね。どこだえ、新之助さん?」
良庵は盃を口から放して訊いた。
「お前さんも見ただろう、石神井川が加州家下屋敷に取り入れられて流れ込んでいるのをさ」
「うむ。水門があったのを見せてもらったな」
「それだよ。あの水門をくぐって、庭に流れこみ、泉水になっている水が曲者だ」
良庵は、ぎょっとして眼を新之助に向けた。
「それじゃあ……」
「そうだ、脇坂殿は泉水の中に漬けられたのさ」
新之助は、うなずいて云った。
「ほれ、良庵さんも何か思い出すだろう?」
「思い出すどころの段じゃねえ」
良庵は叫んだ。
「菊川のときと同じだ。わしが向島屋敷にかがんで居たときだ」
「そうだ。向島の隠居の屋敷は隅田川の水が入っている。こっちは石神井川が入っている。川の名前は異うが、水には変りはない」
「ううむ」
良庵は唸《うな》った。
「非道《ひど》いことをしやがる」
「全くだ、と云いたいが、いまさら愕いても仕方がない。もともと、そういう人間だ。同じ人間でも、われわれの物差しでは計れない工夫に出来ている」
「するてえと、新之助さん」
良庵は、膝をすりよせた。
「はっきり聴こう。脇坂さまも、隠居の手で殺《や》られなすったのか?」
「手口が同じなら、そう見ても困るまい。おれの推測では、隠居が手口を教えたのだ。いや、指図したといった方がいいかもしれぬな。隠居と加州家とは特別な因縁だ」
「菊川のときと同じに、脇坂さまを泉水に溺れさせて、死骸を、現場の川に捨てに行った……」
良庵は眼を宙に吊《つ》らせた。
「そのとき、小細工をして、羽織と袴を脱《と》ったに違いない。良庵さん、その絵解きには、お前さんも苦情はあるまい?」
「無い!」
良庵は、唇を歪《ゆが》めて答えた。
新之助と良庵とが、その小料理屋に入ったのを、あとから跟《つ》けて行った者がある。
これは両人が加賀藩の下屋敷の前を通っているときから、眼をつけていた男で、この辺の地廻りの岡っ引で卯之吉といった。かねてから、加賀藩の用人に手当てをもらって、出入りしている。
ちょうど下屋敷の勝手口から出たところだったが、若い侍と慈姑《くわい》頭の医者のような男が二人連れで、下屋敷の方をじろじろ見ながら、低声で話し合って歩いているのが眼に入り、
(これは)
と首を捻《ひね》ったのは、さすがに商売柄であった。|ぴん《ヽヽ》と頭にきたものだ。
手拭いを出して、急に頬被《ほおかむ》りしたものだ。眼を光らせて両人のあとから、間隔をおいてぶらぶらと行く。この辺の職人といった恰好だが、侍と医者とが橋の上に立ち停って、加州家の水門を眺め、ひそひそと話しているときは、知らぬ顔をして両人の背中を通った。
話し声が耳に入るかと思ったが、ゆっくり歩いても、向うの声が小さいので耳に入らない。立ちどまって聴くわけにもゆかないので、残念ながら、ぶらぶらと通りすぎた。
近くの旅籠《はたご》屋の軒下に立って、それとなく両人の方を注視していると、彼らは、橋の上を動いて、前の小料理屋に入った。
ここまで見届けると、しめたものである。岡っ引の卯之吉にとっては、むろん、この辺は縄張りである。
両人が小座敷に上ったところを見計らって、
「ごめんよ」
と小料理屋の軒をくぐった。
頬被りを脱《と》って、面《つら》を見せると、
「あ、親分」
と女中が声を上げて、おじぎをした。
「これ」
口に指を当てて、黙って居ろと合図し、
「いま、二人連れの男客が入《へえ》っただろ?」
と小さな声で訊く。
「はい。お武家様とお医者さまで?」
「うむ。どこに腰を据えたかえ?」
「奥の四畳半でございます」
「そうか。たしか隣の部屋は六畳の間だったな。おれを其処に通してくれ」
「六畳の間は、王子詣りのお客さまが入ってらっしゃいますが……」
「そんなものは構わねえから、よその座敷に移してしまえ」
「はい。でも、男ひとりに女ひとりの組でございますから、親分、どこかほかのお座敷でも……」
「ほかの座敷では役に立たねえのだ」
卯之吉は眼に角を立てた。
「早く、そいつらを追い出してしまえ。ええい、早くしねえか」
彼は女中を叱った。
岡っ引の卯之吉は、六畳の間に強引に入り込んだ。
若い夫婦者か、出来合っている男女かしらないが、あわてて部屋を出されたあとには、膳の上に仲よく銚子が二本と盃が二つ、箸が二ぜん置いてある。
二枚の座蒲団がくっつき合っている。
(ちぇっ、何をしていたのか、面白くもねえ)
卯之吉は心の中で舌打ちした。
女中が、
「親分さん、すぐに片づけますから」
と云うのに、卯之吉は、眼をむき、おのれは声を出さずに顔つきで叱った。
女中は、思わず自分の口に手を当てて逃げた。
卯之吉は、畳を爪先で歩き、出来るだけ襖ぎわに身を寄せてしゃがんだ。襖には、これも、オシドリが川を泳いでいる。
声は、はっきりと聴えない。これは隣室に人が来たことを気づいて対手が警戒したのではなく、はじめから内密らしく、ささやき合っているのだ。ひとりの声は若く、ひとりは嗄《か》れて、年寄りじみている。卯之吉の眼には、前田家下屋敷の前を通っていた胡散気《うさんげ》な侍と医者の姿が浮んでいた。
おもに、しゃべっているのは若い声で、年寄りの声は聴き手に廻っている。
が、ときどき、思わず昂《たか》ぶるのか、声が高くなってくる。
「脇坂殿が……」
とか、
「加賀藩の下屋敷で……」
とか、
「石神井川……音無川……向島……」
などと、片言が聴えるのだ。
昂奮して来たのは卯之吉で、思わずしゃがんだ膝を動かしたときに、襖に擦れて、かすかな音を立てた。
話し声が、ぴたりとやんだ。
顔色を変えたのは卯之吉で、今にも、襖ががらりと開き、侍が押取《おつと》り刀で出て来そうな気がして、泡を食って爪先で離れた。
それから、庭に下りると、裸足《はだし》で逃げ出したものだ。
が、たしかに収穫はあった。短い言葉を聴いただけだったが、傭われている前田家に関わりのある不審は確かだった。これは、手当をもらっている手前、早速に用人に注進に及ばなければならないのである。──
良庵が不安げに新之助の顔を見た。
「隣で音がしたようだが……」
「なあに」
と新之助は平気で云った。
「犬が聴いたのかもしれぬ」
「えっ」
良庵が狼狽《ろうばい》すると、新之助は手で抑えた。
「聞かれても大したことはないさ。向うが今、どう出てくる訳もなかろう」
宵に、加賀藩の用人、前田源五右衛門が来た、というので、石翁は自分の居間へ通せ、と命じた。
炬燵《こたつ》に当って、今度、新しく妾奉公に来た若い女に肩を揉《も》ませていたが、
「そちは向うへ行っておれ」
と女を去らせた。入れ違いに前田源五右衛門が入ってくる。敷居際に手をつくのに、
「まあ、こちらに入れ、寒いな」
と、火鉢の傍にすすめた。
「何だな、今ごろ?」
石翁は煙管《きせる》に莨《たばこ》を詰めている。吸口も雁首も金づくりで、それに精巧な彫刻がしてあった。どうせ、どこかの大名の進物に違いなかった。
「その後……」
と、畏《かしこま》っている前田源五右衛門が細い声で云った。
「あちらの方には変った動きはございませぬか?」
「あちら?」
石翁は、対手に眼をむけたが、これは奉行所のことと察して、
「別段、聞かぬ。また、動きようがないと思うが……」
と、じろりと源五右衛門の顔を見た。源五右衛門の表情は、どこか動揺していた。
「何か、あったのか?」
「はい。少々、気がかりなことがございまして」
源五右衛門は答えた。
「うむ?」
石翁は煙を吐いた。
「申してみい」
「はい。今日の昼間、板橋の下屋敷の門前を怪しげな男が二人、ご門内を覗きこむようにして通りましたそうで。これは探索を商売にしている人間が報らせたことでございます」
「うむ」
「その者の申しまするには、両人は石神井川の橋の上で、当邸の水門を眺めたりしておりましたが、間もなく小料理屋に入り密談をいたしましたそうで」
「………」
「探索の人間が、隣の部屋でそれを聞きましたところ、さだかには聴えねど、時々、脇坂殿がどうしたとか、前田の下屋敷、川の水、向島などという言葉が耳に入ったそうにございます。それで、もしや、と存じまして……」
源五右衛門の眉は不安そうだった。
「その両人とは何じゃ?」
石翁は、急に唇を曲げて、煙管を灰吹きに叩いた。
「は。ひとりは、若い武士で、ひとりは町医者の風体の由に申しております」
石翁は、眼を閉じて考えていたが、
「源五、それは別の筋からだ」
と眼を開けて云った。
「別の筋から?」
前田源五右衛門が、石翁の言葉を耳に捉えて、不安げに顔をあげると、
「いや、別段、案じることではない」
と隠居は笑った。
「たとえ、こそこそと動くものがあっても、何ごとかあろう。第一に、脇坂家から、主人病死を公儀に届出ていることだ。他から苦情は云えない話じゃ」
「左様でございますな」
源五右衛門は、納得したようにうなずいた。
「越前が」
と石翁が嘲笑した口吻《くちぶり》になったのは、老中水野忠邦のことだ。
「心では躍起となっても、こればかりは始末に負えぬ。あいつ、おのれの小細工で、脇坂の五万石を潰すような愚かなことはようせぬでの」
「左様でございますな」
「源五」
石翁は、じろりと見た。
「そちは、つまらぬことをいちいち気にかけて顔色を変えるでない。もそっと落ち着け」
「恐れ入りました」
「わしがおる。何があろうと、安心するのだ」
「それは……」
源五右衛門は平伏して、
「肝に銘じて心得ておりますが、何ぶん、ことがことでございますので、つい、うろたえて参上いたしました。いえ、御教訓を承りました上は、向後、大安心でございます」
「そうせい」
石翁は、煙管から輪を吹いていたが、
「源五、今度のことは宰相様(当主前田斉泰)のお耳に達していないであろうな」
と訊いた。
「それは、もう、滅多なことは申し上げておりませぬ」
「向後も気をつけるのだ。家中一般にも洩れてはならぬ」
「委細心得ております」
「よしよし。まあ、折角、来たのじゃ。ゆるりとして行け」
石翁は金の煙管で灰吹きを叩いたが、今度の音はやさしかった。
前田源五右衛門は、石翁に諭《さと》されたり慰められたりして馳走になり、夜おそくなって、その屋敷を出た。
駕籠に乗って、向島堤を戻って来たのだが、隅田川から吹く風が、ひどく冷たい。
牛の御前を過ぎたあたりで、一挺の町駕籠と行き遇ったが、むろん駕籠の中で縮んでいる前田源五右衛門には気づかぬことである。
牛の御前から三囲《みめぐり》稲荷のあたりにかけて、裕福な商家の寮が多い。その町駕籠は、その一つに用があって来たと思われた。
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向 島 の 寮
「旦那様」
襖の外から女中が、そっと呼ぶ。
年寄、佐島は、臥《ふ》せたまま、眼をあけた。顔色も蒼く、痩せている。あれからの気鬱がこのように彼女をやつれさせている。
ここは、商家の寮だが、手を廻して貸してもらっている。それも佐島の才覚ではなく、誰か知らぬが、ちゃんとお膳立てしてくれて、佐島が宿下りを願い出ると、ここに移るように云ってくれたのである。誰が手順よく、そうしてくれたのか、およその察しはつくというものだ。
寮には、主人はいない、全部を佐島のために明けている。ただ、傭い人だけは置いているが、これは佐島が不自由のないようにとの計らいで、贅沢《ぜいたく》なくらい人数が多い。
贅沢といえば、佐島に対する配慮は至れりつくせりで、西丸奥で、タテのものをヨコにもしなかった佐島は、ここでも格別な不便を感じなかったくらいだ。
病人というところから、食べものも栄養のあるものばかりだし、料理人がいちいち調理しているらしく、凝《こ》っている。とにかく、大奥で老中なみの格式と云われた地位の者としての待遇は、心を配られている。
「旦那様」
と襖の外で呼んだ女中も、むろん、佐島がお城から連れて来た者ではなく、この寮の使用人なのだ。
偉いひとだから、ここに来ても、大奥と同じに呼ばねばならないと思っているらしい。
この女中も気の利いた女で、寮の主人には長く奉公していると聞いている。実際、よく心が利くのである。
佐島は、この女中に、心づけの銭を惜しまない。
それは普通の心づけではなく、特別な意味の謝礼がこもっている。
その意味というのは、その女中が、襖をあけて、そっと佐島の傍に来て、ささやいたことでも判った。
「旦那様。お見えでございます」
佐島の顔が眼がさめたようになった。急に起き上るようになり、
「すぐに、これへ」
と息をはずませて云った。
「はい」
立ち去ろうとすると、
「あ、これ」
佐島は呼びとめた。
「鏡台と化粧道具を……」
「はい」
華麗な夜具の枕元に、女中は鏡台と行灯《あんどん》とを運んでくる。
「大急ぎで、髪を直してくりゃれ」
「はい」
女中は、そわそわしている佐島のうしろに廻った。
佐島は、女中に髪を直させ、自分は行灯のあかりで、しきりと顔に化粧して、鏡をのぞきこみ、それで満足したか、女中をふりむいて、
「早う、これへお連れしてたもれ」
と命じた。
「はい」
女中は、手早く、鏡台を片づけ、炬燵の位置を直し、座蒲団を置いて、早足で去る。佐島は縮緬《ちりめん》の寝間着の上に、眼のさめるような緞子《どんす》の襠《うちかけ》を羽織って、前を合せるように重ねて、炬燵の前に端坐する。
もう、息がはずんでいるのは、胸がときめいているからだ。
やがて、廊下に足音がすると、
「ごめん下さいませ」
と女中が襖の外で云う。
それから襖が開くと、女中の顔は陰にかくれ、頭巾を深く被った男が、十徳姿で現れた。
「おう」
佐島は、半分、身体を浮かして、
「日祥どの。寒かったであろうな。早う、これへ」
と、うれしそうに笑いながら手招きする。
男が頭巾をとると、剃ったばかりの青頭の日祥の顔が出た。これは芝居にも出て来そうな佳い男である。
日祥は、佐島の歓迎にも応えず、笑顔も見せないで不機嫌な顔をしている。それが、佳い男ぶりなだけに、よけいにきれいにみえるのである。
「日祥どの、よう来てくれました」
佐島は、坐っていられないで、起ち上ると、まだ黙って立っている日祥の肩に手をかけた。泪の出そうな顔をして、
「わたしは、そなたに遇いとうて、遇いとうて……」
と縋《すが》りつくのを、日祥は、自分の両手で女の手をしずかに外した。
「谷中からここまで、夜風に吹きまくられ、川風にさらされながら、ようようと来ました。まあ、当らせて下され」
日祥は、そのまま自分で、緋縮緬に鹿の子を白く絞った炬燵のかけ蒲団の中に膝を入れた。
「ほんに、そうであろう。さ、もそっと、なかに入って暖まるがよいわ」
佐島は、いそいそと、うしろから坊主の肩に手を当てる。白粉を塗ったばかりだが、笑うと皺が出る。
佐島は、耐りかねたように、そのまま、日祥の肩においた手に力を入れると、男の背に負われるように身体をすべらせた。
「はて」
日祥が眉を寄せた。
「そこをお離れ下さい。いまの女中が、茶を持って参りましょう」
その言葉の通り、ご免下さい、と襖のかげで蚊の鳴くような女中の声がした。
女中は、両人の間に茶を置き、遁げるように去った。
それまで、行儀をよくしていた佐島が、急に身体を崩した。
「日祥どの」
日ごろ、他人《ひと》を下に見て、権高なものの云い方をするこの女が、小娘のように甘い声を出したものである。
「そう横ばかり見ていないで、もそっと、わたしの方を向いて下され。影になって可愛いお顔がよく見えませぬ」
ぞろりと襠の裾をひいて這い寄り、
「のう。日祥どの。わたしはどのように、そなたを待ち暮していたか。じっとここにひとりで待っていると、気鬱がよけいに昂じまする」
と身体を斜めにして、日祥の肩にすがろうとした。
「いや」
日祥は、その手をすぐに取るのではなく、
「佐島さまからのお文は、お使いの方より頂きましたが、そう度々、お使いが寺に見えましても、他の僧たちの手前もあり、手前もちと困却いたします」
と、笑顔を見せないで云った。
「ほんにそうであろう」
佐島は気弱にうなずいた。
「わたしも、それは考えぬではなかったが、あまりにそなたが来てくれぬ故、心の堰《せき》が止めかねて、つい、使いを何度も出すようになりました。そなたの迷惑は、重々承知だが、わたしの心も察して下され」
「佐島さまは、あまりに性急でございます。手前は、朝夕、勤行《ごんぎよう》のある身、そうそう思うように、ここまで忍んでは来られませぬ」
「それは重々察していると云っているではないか」
佐島は、日祥の手をとって、自分の両手の中に揉み込むようにした。
「それを思えばこそ、わたしの辛さも海山です。折角、こうしてお城を宿下りし、この家に寝起きするのもそなたに自由に会える愉しみがあればこそじゃ。それも、わたしの気儘《きまま》ばかりを押しつけてはいぬ。我慢に我慢を重ねてのことじゃ。今夜、そなたが来たのも、使いを一昨日から五度も出した揚句ではないか。わたしは狂いそうなのをおし鎮めて、そなたを待ちこがれている」
佐島は、そのまま、身体を男の膝の上にあずけた。折角羽織った襠も、肩が脱げ、寝間着が露《あら》わになった。
日祥は、まだ、眼を横にやっている。女の顔が下から真正面にのぞき上げるのを、わざと避けているようだった。
佐島は、じっと男の顔を見たが、
「日祥どの!」
と急に高い声を出して、身体をふいに放した。
日祥どの、と不意に甲高い声を出して、身体をはなした佐島は、怕《こわ》い眼をして美男の坊主の顔を凝視した。
「そなたは、近ごろ、様子が変ったなア?」
声を慄わせ、唇の端を曲げた。
「また、そのようなことを……」
日祥は落ちついて云った。
「……手前は一向に心変りはしませぬが。何度も云う通り、なにせ、佐島さまの仰せのようになっておりますと、仏の勤めもおろそかになり、上人《しようにん》様に叱られます」
「嘘じゃ」
と佐島は叫んだ。
「真実、それで、ここに来られぬのか、それともそなたの心変りで足が遠のくのか、わたしに見分けがつかぬと思いやるか?」
日祥が口を尖らせて何か云いかけると、
「えい、黙るがよい!」
佐島は狂ったように顔を振った。
「そなたが、どのように、わたしを口先でごまかそうと思うても無駄じゃ。わたしには、そなたの心が、とうから読めている。わたしは欺《だま》されたのじゃ。えい、口惜しい!」
佐島は日祥に手をかけると、強い力で振った。日祥は、尻もちをついて引っくり返りそうになった。
「これは、無体な」
手を宙に泳がせてようやく坐り直し、
「佐島さま、落ちつきなされ」
と云うと、佐島は二度目の攻撃をして、日祥の眼や、唇をめちゃめちゃに手で捻《つね》った。
「えい、この眼が女をだましたのじゃ、この口が女をたぶらかしたのじゃ。この女殺しめ」
組みつかれて、日祥は仰向けに傾き、佐島の手の下から顔を振って苦悶した。
「こ、これ、お、おやめなされ」
顔中を掻きまわされて、日祥は真赧《まつか》になり、両手を突張って防禦した。
「日祥どの、今宵こそは許しませぬぞ。そなたも、今夜、ここへ誘い出されたが因果じゃ。覚悟するがよい」
佐島に、眦《まなじり》を吊り上げて睨みつけられ、日祥の最初のとり澄すましは崩壊した。
彼は、困惑と恐怖とをまぜた表情で、
「ま、ま、佐島さま、落ちついて……」
と両手で宙を撫でるようにして、恐ろしさ半分の笑顔を無理に浮べた。
「何を申す」
佐島は髪を振り乱して、日祥を見据えた。
「いまさら、その口車には乗らぬぞ。そなたの心変りは、とうから気づいていたのじゃ。云いにくければ、そのわけを申してやろうか?」
「いや……」
「えい、よけいなこと云わずと聞きなされ。そなたはな、……そなたはな、あの登美に心を移しているのじゃ。それ以来、わたしから逃げようとしている!」
登美に心が移って、わたしから逃げようとしている、という佐島の鋭い言葉は、日祥の胸に刺さったらしい。それが嘘でないだけに、日祥は、言い訳の言葉を出すよりも先に、顔色が変った。
日祥が、唇をもぐもぐさせると、
「ほ、ほ。口が開くまい」
佐島は吊り上った眼で、坊主を冷笑した。
「わたしの眼に狂いはなかろう? そこは永年、大奥にお仕えして女どもを使ってきたわたしじゃ、そなたぐらいの人間の心が読めいでどうする?」
「しかし……」
「日祥どの。言い訳すればするほどボロが出る。やめなされ」
「………」
「それよりも、そなたが想いをかけている肝心の登美のことじゃが、そなたは登美が近ごろ何故に寺詣りせぬか訝《いぶか》しく思っているであろうな?」
「登美どのは、ご病気でお宿下りとか……」
日祥が云いかけると、佐島は、けたたましく嗤《わら》った。
「宿下りは、宿下りでも……」
佐島は、日祥をじっと見て、
「……あの世への宿下りじゃ」
と瞳を据えて吐いた。
「えっ」
日祥は、跳び上るほど仰天して、
「そ、それは、佐島さま、本当でございますか?」
と眼をいっぱいに見開いた。
「それ、登美のこととなると、そのように顔色を変える。えい、小憎い奴め」
佐島が、また、とびかかろうとしたので、日祥はあわてて座を滑り、
「それは迷惑なお疑い。手前は、ただ、寺で顔見知りの登美どのが、病気で亡くなられたのなら、せ、せめて回向《えこう》を致さずばと……」
「ふん、せいぜい可愛い女子《おなご》の回向をしてやるがよいわ」
佐島は、あざ笑った。
「だがのう、登美は病気で死んだのではないぞ」
彼女は日祥を憎々しげに見て、笑いを消した。
「病気ではないと仰せられますと?」
日祥は、おそれるように訊いた。
「登美はのう」
佐島は、唇を噛んでから云った。
「わたしにとって憎い女。可愛いそなたの心を奪った女。……わたしはそなたに生命《いのち》がけで惚れているのじゃ。わたしの生涯で、そなたがたった一人の男。……その男を奪った女も、わたしは生命をかけて憎みまする」
「えっ、それでは?」
日祥が恐怖の眼をむいた。
「そうじゃ、登美はわたしが手にかけた」
佐島は、怪鳥《けちよう》のような声を出した。
塀から、跳び降りて、新之助は庭に立ったまま耳を澄ませた。
どこからも声が聞えず、足音もしない。
塀を跳び降りたとき、横に枝を出した樹がかなり騒いだのだが、誰も気づかぬらしい。暗い植込みは、闇の中にもとのように沈んだ。
持田源兵衛から聞いた、年寄佐島の保養先はこの家である。昼間、一度、前を通ってみて、寮の持主の名前も近くの家で確かめたし、地形も見定めて来たのである。
そのとき、使いに行くらしい小女《こおんな》が寮から出て来たので、新之助は、
「この家に、身分のあるお城づとめのお女中が逗留《とうりゆう》されているそうだが、そうかね?」
と訊いた。
小女は、新之助の顔を見て、
「さあ、わたしには……」
と、返事をもじもじさせていたので、新之助は素早く懐《ふところ》から小銭《こぜに》を出して握らせた。
「どうだね、そういうひとが居るだろう?」
と訊くと、小女は躊《ためら》いながらも、こっくりとうなずいた。
「わしは、その方と、ちょっと知り合いなのだ。あとで伺うつもりだが、お部屋はどの辺かね?」
新之助は微笑して問うた。
「……奥の離れでございます」
小女は、低い声でうつむいて答えた。
「離れというと、どの辺りになる?」
「はい。およそ、あの辺になります」
小女は、赧《あか》い顔をし、指をあげて教えた。
塀を廻らしているこの家は、裏が一帯の田圃になっていた。新之助が、小女と別れて、遊びに来たように、ぶらぶらしながら、観察すると、裏の木戸がしっかりしている割合に、塀が低い。寮だし、あまり外からの用心を考えていないようだった。
塀から侵入すると決めて、今夜それを実行したのだが、森閑と鎮まっていて、誰も気づかない。
小女の云う離れに眼を遣って、新之助は暗い足もとを注意しながら歩いた。
小さいが、泉水もあり、庭石も多く、石灯籠などが立っている。
新之助は、足音を忍ばせた。
離れは、さらに竹垣で囲んである。これは厄介だったが、丁度、松の枝が都合のいいところに延びているので、それにつかまって、竹垣を越すことが出来た。
離れは、母屋から別れている。
新之助が、表戸に手をかけてみると、意外なことにすぐに一寸ばかり動いた。客でもあるのか、なかからは話し声が聞えてきた。
それから、音がせぬように身体を入れるだけの隙間をつくればよいのである。
その時、突然、女の大きな甲高い声が聞えたので、新之助は自分が発見されたのかと思った。
「日祥どの、登美はわたしが手にかけたぞ。そなたの可愛い登美をな」
佐島は、蒼凄《あおすご》んだ顔に薄い笑みを泛べた。
「そ、そりゃ……」
日祥は、眼を宙に見開いて、
「嘘でございましょう? ま、まさか……」
口ごもりながら、すこし後退《あとずさ》った。
「いや、め、滅多なことを申されますな。たとえ戯れでも、そのようなことを口に出されますと、誰の耳に入るやもしれませぬ」
「ほほ、嘘と思うか?」
佐島は、男の顔から眼を放たずに冷笑した。
「ほかの女子《おなご》が云うのではない。この、年寄佐島が申すのじゃ。|てんごう《ヽヽヽヽ》は申さぬ。……そなたは、わたしを甘く見くびっている」
「………」
「日祥どの。そのように疑うなら、証拠を見せて進ぜようか?」
「えっ」
日祥は、佐島の常人とは思えぬ表情から、指先まで慄わした。
「待っていや」
佐島は身体の向きを変えると、厚い褥《しとね》の下に手を入れた。その手が蒲団の下から出たとき、袋に入った懐剣が握られていた。
日祥の眼は、怖ろしそうに、それに吸いつけられている。視線を外そうとしても、何かの力で縛りつけられたように自由にならなかった。
佐島は、日祥の正面にぴたりと向った。
「ようく、見てたも。これじゃ」
佐島は日祥の顔を見詰めながら、懐剣の袋の紐を解いた。眼がぎらぎら光っている。
日祥が息を呑んでいると、佐島はゆっくりと手を動かして、刀を錦の袋から抜き出した。刀身は鞘も無く、布で捲《ま》かれてあった。佐島はその布も解いた。行灯の明りに無気味に光るものが現れた。
「さ、佐島さま……」
「ほれ、そう怖《こわ》がらずと、ようく見なされ、これじゃ。そなたの可愛い登美の生命を絶ったのはな。ふふ、まだ、登美の血がここに付いているわ!」
佐島が、懐剣の刃を、日祥の眼の前に突きつけた。
「う、うう……」
日祥は咽喉から異様な声を洩らした。刀身の先から、柄《つか》まで、どす黒い斑《ふ》がいっぱいに粘り付いている。
「日祥どの。これが登美の血じゃ。そなたが可愛がった女の血じゃ。それ、舐《な》め廻してみるがよいわ!」
佐島が日祥の眼の前に近づけたので、日祥はうしろに倒れんばかりになった。
「これ、舐めぬか。そなたに舐めさせようと思い、わたしは毎晩、身体を横《よこた》える褥の下に敷いて寝ていたのじゃ」
日祥がにわかに匍って遁《に》げようとしたので、
「えい、この薄情者め!」
佐島は叫ぶと、日祥のうしろ首に、刀身をぴたりとつけた。
うしろ首筋に、血糊のついた懐剣をぴたりとつけられて、日祥は肝を消した。逃げることもできず、四つん匍《ば》いのまま動けずにいる。
「これ、そこから一寸でも逃げてみや」
髪をふり乱し、襠も脱いだままの佐島は、刀身をへらのように日祥の青頭に密着させ、上ずった声で云った。
「この切先が突き刺さるものと覚悟するがよい」
日祥は五体を震わしている。女は逆上しているから、本当にやりかねないのだ。
「さ、佐島さま……」
日祥は舌を吊った。
「ど、どうか、そ、そのような、ら、乱暴はおやめ下され……」
「ふう」
佐島は熱い息を吐いて、
「そなたには、これくらいにせぬと性が入らぬ。のう、そのままで、わたしの云うことをよく聞くがよい」
「………」
「そなたの想うていた登美の最期を聴かせてやる。登美はのう……」
佐島は熱にうかされたように云い出した。
「西丸大奥のお乗物部屋で息をひき取った。苦しい最期であったぞ。男どもの手で、縄をかけられ、口を塞《ふさ》がれ、乗物の中に坐らせられて……」
どこかで、ごとりと物音がした。佐島は、はっとなって黙り、凄い眼つきであたりを窺《うかが》った。が、何ごとも無く、音もそれきりだったので、四つん匍いになっている日祥に眼を戻して続けた。
「そのような有様ゆえ、身動きすることが出来ぬ。少々の声を洩《も》らしても、外には聞えぬ。折柄、大御所さま御不例|平癒《へいゆ》の祈祷中ゆえ、長局ではみなが大声で経文を唱えていた。誰も、お乗物部屋で何が起っているか気がつかぬ」
日祥は背中を震わしている。
「その登美を、わたしは、この懐剣で突き刺してやった。或るお方より頼まれてしたことだが、わたしには別の恨みがある。登美はそなたの心を奪った女、この世に生きて貰いたくない女じゃ。……わたしは、あの女の顔が憎い、あの女の若さが憎い!」
佐島は、眼の前に登美が生きているように眦《まなじり》を吊り上げた。
「登美は、苦しんで死んだ。わたしの顔を睨《ね》めつけ、赤い血を白い身体から流して死んだ。そなたが抱いてやった身体を、わたしは紙を裂くように、この刀で切った……」
日祥は、手が萎《な》えたか、そのまま畳の上に突伏した。
「日祥どの。どうじゃ?」
佐島は気持よさそうに、上から見下ろして云った。
「そなた、登美の血のついたこの刀でわたしに殺され、この場であと追い心中をせぬか?……」
頸《くび》の根を、佐島の血染めの刀身で、ぴたりと押えつけられている日祥は、動くことができず、へたばったまま汗を流している。
さらに、佐島から、登美の後追い心中をせよといって刃に力を入れられたから、今にも突き刺されるような気がして、彼は動顛して悲鳴をあげた。
「さ、さ、佐島さま」
日祥は、腹這いのまま、手を合せた。
「た、たすけて下され」
「ほう、助けよ、とは生命が惜しいかえ?」
佐島は燃えるような眼で、日祥の蛙のような姿を見つめる。
「い、生命は惜しゅうはございませぬ。佐島さまのお手にかかれば本望でございますが……」
日祥は、必死に云い逃れを云った。
「かような濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》で死ぬのは、ざ、残念でございます」
「ふん、濡れ衣ではあるまい。わたしの眼に狂いはない。そなたの心に訊いてみよ」
「弥勒菩薩《みろくぼさつ》、導首《どうしゆ》菩薩、華童《げどう》菩薩、陀羅尼自在《だらにじざい》王菩薩、観世音菩薩、大勢至《たいせいし》菩薩その他|菩薩摩訶薩《ぼさつまかさつ》八万体に誓いまして、手前は登美どのに心を動かしたことはございませぬ」
日祥は刃の下で、咽喉に唾をのみ込みながら弁じ立てた。
佐島は妖《あや》しげな眼で、それを聴いていた。
「手前、真実、心に在るのは佐島さまだけでござります。……正直、申しますと、いつぞや登美さまに云い寄られ、手前甚だ迷惑したことがございます。それからは、寺参《じさん》の度にあやしげな素振りをされましたが、手前、とんと心を向けたことがござりませぬ。佐島さまの眼には、それがどう映りましたことやら、思いもよらぬ濡れ衣を蒙りまして、手前、悲しゅうござります」
日祥は、首すじに据えられた佐島の刀身が軽くなったような気がしたので、懸命に弁じ立てた。
「日祥どの」
佐島は、眼をきらきらさせたが、さっきの眼の光とは違ったものになっていた。
「それは……真実《まこと》かえ?」
と男の伏せた顔を、上から覗き込む。
「何もって偽りを……今も、諸王諸菩薩にお誓いしたばかりでござります。これに背《そむ》きましたら、手前、仏罰のほどが怖ろしゅうございます」
佐島は、しばらく、黙っていた。すると彼女の顔がくしゃくしゃに歪んできた。
日祥の首に当てていた懐剣を、離すと、ぱらりとそれを隅へ放った。
佐島は、やにわに日祥の背中に力いっぱい抱きついた。
「に、日祥どの……か、堪忍してたも!」
佐島はしがみついて、声を上げて泣き出した。
佐島は、日祥の背中に重なるように抱きついていたが、日祥の頬に手を当てて、
「日祥どの。こちらを向いてくだされ」
と顔を捻じ向けさせた。
日祥が顔を廻すと、佐島は、その頬に自分の頬を擦《こす》りつけた。泪で冷たくなっている。
が、吐く息は熱く、
「日祥どの。くどいようだが、そなたが、いま、云ったのは本心であろうなア?」
と、少し甘えるような調子になっていた。
人心地に返った日祥は、女の逆上があと戻りしないように機嫌をとった。
「なんで、手前が偽りを申しましょう。手前が佐島さまを慕う気持は、前と少しも変ってはおりませぬ。それを……あなたさまが、よけいな気の廻し方をされるのでございます」
「かんにんしてたも」
佐島は、何度も日祥の頬に唇を吸いつけた。
「それというのも、そなたが愛《いと》しいからじゃ。そなたを放しとうないから、嫉妬の炎《ほむら》も出る。わたしは若うない。気があせっている。つい、そなたが若い者に心を移して、わたしに情《つれ》のうしているのではないかと、いらいらしてくるのじゃ」
佐島は、美男の若い情人をもった年増女の焦燥を告白した。
「はて、手前には左様な浮《うわ》ついた心はさらさらございませぬ。大奥にお仕えなさる身分の高い年寄佐島さまのご寵愛を蒙《こうむ》っているだけでも、身の冥加《みようが》に尽きまする」
「そんなら、わたしを大事に思ってくれるかえ?」
「勿体ない……」
「わたしを愛《いと》しく想うてくれるのじゃな?」
「憚《はばか》りながら、寝ても醒めても。……思うように、お会い出来ぬ身なれば、よけいに、心がせかれて燃え上り、勿体のうございますが、読経《どきよう》の間にも佐島さまのお顔が眼の前に現れ、狂いそうになりまする」
「日祥どの。そなたは口がうまいが、そりゃ真実であろうな?」
日祥は、佐島の眼がまた妖しく光ったように思えたので、あわてて、
「し、し、真実、心からお慕いしておりまする」
「そうかえ」
佐島は、感情が極まったように、日祥を抱きしめた。
「わたしは、そなたから離れぬゆえ、覚悟するがよい。そなたが遁げても、どこまでも追ってゆく。よいか、日祥どの!」
「………」
「わたしは人を殺している。登美を殺しているのじゃ。この上、怕《こわ》いものがあろうか。そなたがわたしを欺したと知ったら、登美と同じように、わたしに殺されると思うがよい」
新之助は、足音を忍ばせて、一旦、外に出た。侵入したときに、要領が分ったので、今度は、楽に寮の塀を乗り越えることができた。
年寄佐島と、日祥と呼ばれている坊主との密会の場面に思いがけなく遭遇したが、図《はか》らずも、佐島の口から縫殺しの下手人の告白を聴かされた。
こういうかたちで成功しようとは思わなかったし、それだけ余計な手間をかけないで済んだというものである。最初、この家に来るまでは、佐島に白状させる自信が、実のところあまり無かったのだ。
あれは、当人の実際の声なのだ。情人の坊主をだいぶ威《おど》かしていたようだが、嫉妬のあまり本当のことをぶち撒《ま》けた上、縫を刺した凶器まで見せている。偶然だったが、こんな幸運はなかった。やはり、お縫さんが手引きしてくれたのかな、と思ったくらいである。
新之助は、その場にとび出して佐島を取り押えようと思ったが、あとの処置を考えて、一度外に出た。
佐島は、下手人でもあり、大切な生き証人でもある。その身柄をこっちに引取る必要があった。これさえ出来たら、敵方の脅威になることは云うまでもない。
女だから、厄介なのだ。新之助が外に出たのは、佐島を取り押えたのちの護送の方法を先きにつけておくためだった。駕籠を見つけて、塀の外に待たせ、佐島を連れ出したら、いつでも駕籠に乗せて遁《に》げられるように用意をしておきたい。
幸運というものは、相ついで起る。新之助が辻駕籠を遠くまで探しに行くまでもなく、塀の暗いところに、莨《たばこ》の火が、赤く見えたものだ。近づくと、これが駕籠屋で、二人の駕籠かきが、うずくまって休んでいた。
「駕籠屋だね?」
新之助は、小さく声をかけた。
「へい」
煙管《きせる》を地面に叩いて、一人が返事した。
「今から、すぐに頼みたいが」
新之助が云うと、別の一人が、
「折角でございますが」
と答えた。
「わっちらは、ここでお客さまのお帰りを待っておりますので」
「そりゃア……」
困った、と新之助は思った。客待ちしているとは知らなかったが、この辺はへんぴな田舎だし、何処まで行けば駕籠屋があるのか分らない。
「何とかならないかね?」
と、自分でも無理なことを云った。
「へえ、なにしろ、お約束でして……」
むろん、駕籠屋は拒絶した。
ふと、新之助は、この駕籠屋が誰を待っているのか、見当がついた。
新之助は駕籠屋に云った。
「その待っている客は、谷中から乗せて来たのであろう?」
これは当った。
「旦那、よく御存じで?」
と、駕籠屋が答えたのである。
「ご存じも何も」
新之助は笑って、
「あいつとは友達だ」
「へっ?」
「此処へは、よくやってくるのかえ?」
と小指を出して見せた。
「へ、えへへへ」
駕籠屋は笑っている。
「そうだろう、当節は、坊主の方が持てるでな。駕籠屋、イロをつくるのだったら、坊主になることだ」
「へえ、でも、日祥さまのようには。……おっと、いけねえ、つい、口が滑《すべ》った」
「なに、おれになら構わぬ。いまも、その日祥と話したところだ」
「すると、旦那もこの家に?」
「おれのは、そんな粋筋《いきすじ》ではない。野暮《やぼ》用だ。……ところで、駕籠屋、日祥は帰りが遅くなるぞ」
「すぐに、お戻りになるという約束ですが」
駕籠屋は困ったような顔をした。
「お前も察しが悪いな。いま、揉《も》めごとの最中だ。日祥め、可哀想に弱り果てている。あれじゃ、ちっとやそっとでは出て来られまい。実は、おれも仲裁に入ったが、女が逆上《のぼ》せて手がつけられぬ」
「そいつア弱りましたな」
駕籠屋は顔を見合せていた。
「わっちらは、ここでいい加減冷えて、風邪をひきそうでございます」
「そうか。そいつは気の毒なと云いたいが、丁度都合がいい。どうだえ、日祥とは話をつけるが、これから麻布の方へやってくれぬか? 酒代《さかて》はうんとはずんでやる」
「へえ、そりゃア、願ったりでございますが、あちらのお寺さまに悪いようで……」
「話は、おれがつけてくると云っている」
「へえ、それさえ決まれば結構でございます」
「それでは頼むぞ。いや、おれが乗るのではない。女だ」
「へえ?」
「日祥の対手の女だ。狂人《きちがい》のように逆上しているので少し頭を冷やしに別な屋敷で保養させようと思うのだ。だから、日祥も喜ぶ」
「左様でございますか」
駕籠屋は、わけの分らぬ顔をしていた。
「ほれ、酒代は前渡しだ」
新之助は、小粒を一つ投げ出した。
「お、こんなに頂いちゃア勿体ねえ」
「待っていてくれ」
新之助は、また、寮の中へ引返した。
新之助が、再び離れの外に戻ったときに、俄かに胸騒ぎがした。
いままでの空気とは違うのである。臭いが違う。たしかに何かが違う。
森閑と静まっていることに変りはなかったが、いままで、木の匂いや、葉の匂いがしていたものだが、今度は、それよりも、もっと動物の持つ異臭が漂っていた。
はっとしたのは、離れの入口の戸がいっぱいに開いていることだった。内部《なか》の行灯《あんどん》の明りが、そのままの空間でまる見えだった。
この戸は、新之助が苦労して、音立てぬように、わずかばかり開いておいたのだが、それがさらに、力いっぱいという恰好で開け放たれている。
臭いがそこから洩れていた。
それと、笛を吹くような音がかすかにしている。
新之助が奥の間にとび込んだとき、座敷は血の海だった。畳から、佐島が寝ていた蒲団にかけて、赤い色がべったりと塗ってある。
新之助は息を呑んで、この場を見つめた。
日祥が、匍《は》い出した恰好で、両手を畳に伸ばして長くなっている。その、うしろ頭から、脇腹にかけて、血が、まだ、酒樽の栓を抜いたようにこぼれていた。
佐島は、日祥の伸びた脚を片手で掴まえるように握って、これも突伏していた。縮緬《ちりめん》の白い寝間着が、大柄の染め分けのように赤い色を散らしていた。
崩れた髪が広がっているのを眼にするだけで、佐島の顔は畳についているので判らない。ただ、右手は肘を曲げて、懐剣を咽喉のところへ敷いていた。かすかな笛の音色は、切れた頸の血筋が穴をあけて鳴っているのだった。
わずかな間の出来ごとだった。新之助が外に出て、駕籠屋と交渉している間なのだ。
その両人の姿から考えて、佐島が発作的に日祥を刺し、自分も咽喉を抉《えぐ》った、と容易に想像できる。日祥が愕いて、匍《は》って逃げようとしたところを、佐島が追って、脇腹などを切ったに違いない。血の臭いが座敷に充満していた。畳をむしった日祥の指先は、まだ生きているように、痙攣《けいれん》していた。
新之助は、入口の方へ戻り、垣を越した。寒い夜の風が額に当ってくる。
急な喪失感が新之助の心の全体だった。
──生き証人は死んだ。
縫の下手人という復讐《ふくしゆう》よりも、敵の謀略を知る生き証人として、佐島を生捕りにしたかったのだ。持田源兵衛から佐島の保養先を聴き出したとき、最初に浮んだのが、この計画だったのである。
それも、瞬時の油断で潰れてしまった。
塀の外に下りて歩くと、駕籠屋が声をかけて起ち上った。
「都合で、おれが乗ることになった」
新之助は、ぼそりと云った。
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「死んだか」
新之助が帰って、又左衛門に報告したとき、叔父は腕を組んで一言、吐いた。
「惜しいことをした──」
無論、死んだ年寄佐島を惜しんだ訳ではない。縫を殺した犯人が自害したことであり、敵方の陰謀を知る生きた証人を失ったことを嗟嘆《さたん》したのである。
縫を殺したのは、佐島であろうと見当がついていたから、それがはっきりしても、さほど意外ではなかったが、当人の告白をこっちの手でさせて、訴えたかったのである。
「しかし」
新之助は、又左衛門に云った。
「まだ、一|縷《る》の望みがございましょう」
「何だな?」
又左衛門は顔をあげた。
「佐島が日祥と無理心中をしたことでございます。西丸奥女中と法華坊主の相対死《あいたいじに》、これだけでも、西丸大奥の不行跡が明るみに出ます。ここを手がかりとして……」
「駄目じゃ」
又左衛門は、遮って首を振った。
「駄目とは?」
「第一に、あの寮は、石翁がひいきにしている商人の家じゃ。両人の死体は早朝には発見されるだろう。そのまま、役人のもとに届け出れば、こっちのものだが、そうはすまい。注進は、先ず石翁のもとに行く。それから先、うやむやにするくらい朝めし前じゃ」
「………」
「佐島は病気保養のところ、養生叶わず病死、日祥は急死、死場所はそれぞれ別で、関係無し、というところでケリをつける」
新之助は黙った。
「惜しかった」
と又左衛門が次に云ったのは、新之助の処置だった。
「おれだったら、その場で騒ぎ立ててやる。近所の弥次馬を、夜中でも集めるのだ。さすれば、隠しようもない。否応《いやおう》なしに、これは世間の明るみに出る。新之助、そちに似合わず、ちと抜かったな」
「気がつきませんでした」
新之助は云ったが、叔父の方法にも、少々疑念がある。石翁の勢力は奉行所にも及んでいるから、それがどこまで成功するか。
「淡路守殿がおられたらなア」
と又左衛門は吐息を吐いた。
「これを逃《のが》しはなさらぬ。びしびし容赦なくやられるに違いない。いまの寺社では駄目じゃ」
寺社奉行のあとは、牧野備後守|忠精《ただきよ》が襲職していた。おとなしい人物で、脇坂ほどの勇気は、もとより無い。
「新之助、ここらで、おれたちも考えねばなるまい」
麻布の島田又左衛門の屋敷に、未知の訪問客があったのは、その翌日である。
駕籠をわざと門の前に下ろさせなかったのは、町人としての遠慮で、玄関に立って案内を乞うのも腰が低かった。
立派な風采で、五十を越していると見られるが、人物も貫禄がついていた。町人でなく、武士だったら、千石以上の大身に直して見てもおかしくはない。
「殿様にお目にかからせて頂きとうございます」
取次に出た吾平にも丁重なのだ。
「どちらさまで?」
吾平も膝頭を揃えて訊くと、
「南鍋町の風月堂がお目にかかりに伺いました、とお取次を願います」
と頭を低くした。
吾平が奥に行って、このことを又左衛門に云うと、
「風月堂か!」
又左衛門は眼を瞠《みは》った。瞬間に、顔色まで輝いたように吾平には思えた。
「あちらへお通ししてくれ」
又左衛門が云った。客間を指定したのも、町人を迎えるにしては丁寧すぎた。
風月堂というのは江戸で有名な菓子屋だとしか吾平には知識がない。その菓子屋が何でここに訪ねて来たか、吾平には判断がつかなかった。
おかしなことに、又左衛門が、着物まで着替えて、客の待っている座敷へ出て行ったことである。
「先生」
吾平は離れの医者のところへ伺いに行った。
良庵はむずかしそうな医学の本をよんでいたが、
「なに、風月堂が来たと?」
と、これも本を落したほど、眼をまるくした。
「どういう人が来た?」
と訊く。
「へえ、とても押し出しの立派な五十恰好の男ですよ」
吾平は印象を云った。
「そりゃア、風月堂の主人に違いない。……そうか、来たか」
良庵は、ふんふんと鼻から息を鳴らしてうなずいた。
「先生、殿さまと、菓子屋とは、どういうご縁なんで?」
「縁も何も無い。菓子屋が来たのだ。ここの親玉に、菓子の注文を取りに現れたのだろう」
「へ?」
「お前も、これから風月堂の菓子がふんだんに食えるぞ」
良庵は笑っていた。
あくる日、島田又左衛門は、駕籠の迎えを受けて、屋敷を出た。
又左衛門も、この日は衣服を改めている。
行先は、下谷にある風月堂の寮ということだったが、これはすべて先方に任せきりであった。
駕籠も、通しではなく、下谷に着くまでに、途中で三回は乗り替えた。その都度、打ち合せができているとみえて、新しい駕籠が目立たないように迎えに出ている。
迎えに来た人間は、風月堂の使用人らしいが、
「どうぞ、これにお移り遊ばして」
とか、
「もう、しばらくのご辛抱でございます」
とか云って、始終、又左衛門に主人の客としての礼を尽している。
麻布から、下谷まではかなりの道中である。一つ駕籠で通せなかったのは、その長い道程にもよったが、どうやら行先をはっきり他人に知らせたくない理由もあるらしい。
下谷にも寮が多い。田圃を眺める場所に、いわゆる杉の生垣の幾曲り、の風景が見られるのである。
その中でも、風月堂主人の寮は、構えも大きいし、数寄《すき》を凝らしている。当時、「菓子司」として有名なのは、日本橋の鈴木越後、同じく金沢丹後、神田|主水《もんど》河岸《がし》の宇都宮、深川の船橋屋などがあるが、風月堂は老舗《しにせ》である。それだけに、主人が保養のためにつくったこの下谷の寮は、近所で目立っていた。
又左衛門の乗った駕籠は、数寄屋風の構えの表口に着く。
「これは、おいでなさいまし」
でっぷり肥った男が、又左衛門に近づいて、丁寧に挨拶した。昨日、屋敷に来た風月堂の主人で嘉左衛門といった。
「ご遠方を……」
「いやいや」
又左衛門は低く云って、
「もう、見えて居られるか?」
と訊いた。
「はい。先刻、ご到着でございました」
嘉左衛門は奥へ案内しながら答えた。
「それは」
又左衛門の顔色が瞬時に昂《たか》ぶったようにみえた。
通されたのは、茶室造りである。手入れの届いた植込みと、庭石とが、これを囲っている。
「しばらく、お待ちの程を……」
嘉左衛門は、又左衛門に断って出て行ったが、ほどなく、部屋の外から、気さくげな足音が聞えてきた。
又左衛門が、向きを変えて、低頭していると、
「いや、そのまま、そのまま」
と磊落《らいらく》に声をかけながらひとりの人物が入って来た。
島田又左衛門が、眼をあげたときに、その人物は気楽に床を背にして坐った。床には、禅家《ぜんけ》の枯れた筆になる一軸が懸っている。
その人物は、粗末な衣服を被《き》ていた。服装からだけみると、どこかの田舎大名の家老ぐらいにしか想像できない。いや、万事、贅沢で、華美になっている今の世では、田舎の小藩の家老といえども、もっと派手好みである。
瘠せて、頬骨の出ている男で、眼が鋭く、顎が尖っている。が、どこかに気品があり、威厳があった。
しかし、知らぬ者が見ては、これが老中、水野越前守忠邦とは予想もつかない。
「遠いところを」
と越前守は、微笑して又左衛門に云った。
「お呼びして申し訳ない。実は、一度は、お手前にお遇《あ》いしたいと思いましてな」
言葉も、対等な調子だし、人なつこいのである。
「恐れ入りましてございます」
又左衛門は平伏した。
「初めて御意を得ますが、手前……」
「いや、島田氏」
越前守が手で抑えた。
「お手前をお呼びしたのは、わたしじゃ。お名乗りになるまでもない。わたしは越前……見知って頂こう」
「恐れ入りました」
「お手前のことは、亡き脇坂淡路守殿から聞いていた。一度、お手前にお会いしたいと思っていたが、つい、機会《おり》が無く……いや、機会といえば、淡路守殿が不慮の急死を遂げられたから、急にお手前に会いたくなったというのが本音じゃ。今までは、間に、淡路守殿が居られたのでな」
「は……」
「淡路殿は、お気の毒であった。あれほどの人物、返す返すも惜しいが、ここでお手前とお遇いする機縁をつくってもらったようなものじゃ。……場所をと考えたが、結局、風月堂の厄介になった。とかく、人目が煩《うるさ》いでな」
水野越前守忠邦と風月堂とは特別な関係だった。忠邦が下情に通じていたというのは、風月堂の報告に負うところが多い。忠邦が風月堂と相識って唇歯《しんし》の間柄になったのは、風月堂の娘を忠邦が家慶に推挙して、その寵妾にしたからだ、という説がある。
「天保の昔、南鍋町に風月堂といへる菓子商ありて、水野越前守、この家の娘を養女として御本丸へ御奉公に出し、十二代公の寵妾と為したり。ゆへに風月堂の主人も水野家に親しく出入りし、その手先と成て世上を物色して密告すること多かりし。奥向のことは、この女に探索させ、下々のことは、風月堂のあるじに偵知せしめし事多かりし」(灯前一睡夢)
老中水野越前守と、風月堂の関係は、世上の一部に知られていて、島田又左衛門もかねてから承知していた。
水野越前守が、風月堂の寮で、島田又左衛門と密《ひそ》かに会っている、という情報を聞いたとき、石翁は顔色には出さなかったが、心では衝撃をうけたものである。
「どれくらい遇っているのか?」
石翁は、その情報を持ってきた加賀藩の用人、前田|采女《うねめ》に訊いた。
「ここ十日の間、三度ほどだと申しておりますが……少々、耳に入るのが遅くなりました」
采女はうつむいて云った。
石翁には恐ろしい者はなかったが、水野越前守忠邦という男だけは気味が悪かった。将軍家慶の信寵を得ているということだけでなく、その人物が、現在の幕閣の誰よりもしっかりしていることだった。
性格は地味な方だ。本を読むのが好きだと聞いているが、そんなことはどっちでもよい。家中の士に勤倹を示して、華美な世俗に染まぬよう、風儀を革《あらた》めたというが、それも問題ではない。怖いのは、越前守が、ひたすら家斉の死を待っている姿勢であった。むろん、これは形の上に現れて見えることではないが、石翁にはこの本丸老中が弓の弦をいっぱいに引いて矢を構えているように見えて仕方がない。その指が矢を飛ばすときはいま、西丸の奥で弱い息を吐きつづけている家斉が、その呼吸をとめた瞬間であろう。
石翁が、たまに遇う越前守は律義で礼儀正しい男である。石翁にも敬意を払って他意ないように見える。が、その精力的な身体の中には、いまに大仕事をしそうな野心がひそんでいるように感じられる。
他人には分るまい、おれには見えるのだ、と石翁は呟いている。
越前守の姿が眼に浮ぶとき、
(いまは仕方がありませんよ。大御所が死んだら、思う存分にやります。それまでは辛抱しているのですよ)
と石翁に、云っているように思える。
石翁には、越前守の若さが恐ろしかった。まだ四十六歳という年齢で、仕事をする男の最盛期である。これは七十すぎの石翁が、どうあせっても手の届かぬことである。
次には、越前守が家慶という次の実権者に密着していることだった。いまの家斉の時代は近いうちに終る。医者も、家斉は、この年が越せるかどうか分らないと側近の者に公言していることだった。
時の権力者に付いている者は、常に|次の《ヽヽ》権力者に付いている者に畏怖《いふ》していなければならぬ。追い落される瞬間を、いつも絶望的に幻想に描く。
若ければ、|現在の《ヽヽヽ》権力者に見きりをつけて、|次の《ヽヽ》権力者に転身する手段もあるが、石翁はあまりに年齢をとり過ぎたし、あまりに家斉に付き過ぎていた。
島田又左衛門を呼んで、水野越前守が何を訊き出そうとしているか、石翁には不安に思われてきた。
すでに、死んだ脇坂淡路守が越前守と気脈を通じ合っていたことを石翁は知っている。越前は淡路を使って大奥粛清をやらせ、大奥政治改革の突撃路を作ろうとしていたのだ。
淡路守のところへ、何かと又左衛門が情報を持ちこんでいた形跡がある。淡路がそれを越前の耳に吹き込む。この三者の関係が、淡路の急死によって、越前と又左衛門の直接のつながりになったらしい。
石翁にとって不安な種が一つある。それは病床の家斉に書かせたお墨附である。将軍|継嗣《けいし》を前田犬千代に定めることの内容だ。家斉が死んだら、間髪を入れず、これを「大御所様ご遺志」として現将軍家慶に押しつけて、有無を云わさずに承認させる計画だ。時間をあけたら、策動する者が必ず出て来るので、家斉の死骸の温《ぬく》もりが未だ冷めないうちに、
「大御所御遺志」
を振りかざす計略だった。生前、実権を家慶にも譲らず、絶対の権力をもった家斉の遺志とあれば、当然、誰も拒否はできない。ただし、これは家斉の死後、極めて短い時間に、疾風のように決定する必要があった。
ただ、恐れるのは、事前に、この計画が敵側に洩れはしないか、という危念である。そうなると、敵の抗議を時間的に封じ込めようとする石翁の計算は崩れるのである。敵側も、充分にその対策を立てるからだ。
石翁は、いつぞや、又左衛門方から発したと思われる女|間諜《かんちよう》の前で、わざと墨附のことを云ったことがある。あのときは、その女の正体を見極める詭計《きけい》として用い、あとで女を殺すつもりだったが、奥村大膳めが、飛んだ色気を出して失敗してしまった。
あのときは、ただ、「大御所様のお墨附」だと吹聴《ふいちよう》しただけで、内容は云ってもいないし、見せたこともない。が、「お墨附」のことは、あの女が又左衛門に報告したに違いない。
又左衛門が、それを淡路守に云い、淡路は水野越前に必ず取りついでいるだろう。
敵側が、その「お墨附」の内容を、どう推測しているか、だ。
果して、越前守が、それを解いているとしたら。──
それから、更に詳しいことを訊くために、又左衛門を呼んでいるとしたら。──
石翁の眼は、家斉の死が近づいていることと共に、前途に不吉な黒雲が湧き上るのを凝視《ぎようし》している。……
「ご隠居さま」
前田采女が、恐れるように近づいてきて、石翁の耳に何かささやいた。
前田采女が、石翁の耳もとに口を寄せて、低声《こごえ》で云うと、隠居の瞳《め》が動いた。
「遅い」
と石翁は云った。
「しかし」
采女が主張した。
「このままにしておく法はありますまい。始末をつけねば……」
「気が済まぬというのか」
「手前の性分として」
采女がうなずいた。
「それをやるなら、もっと早い時期にすべきだったな」
これは石翁が半分は自分の心に云いきかせたような呟き方であった。
「が、そなたが気が済まぬなら、気ままなようになされ」
「ご隠居さまも、いろいろとお含みのあることと存じますが……」
「わしか……」
石翁は、かげのある笑い方をした。
「わしは、自分なりに、好きなことをしたでの。さほどには思わぬが」
好きなことをした、という一語に、石翁が妙な自嘲の響きをもたせたのを、前田采女は気がつかない。
「だが、島田又左衛門と申す奴を」
と、はっきり石翁は名前を云って、
「軽く見過ぎていたのは、ちと手違いであった」
と云った。負けぬ気の、剛気な隠居がそう云ったのである。
「これはご隠居さまにも似合わぬ仰せ」
采女が声を昂《たかぶ》らせ、
「左様なことがあろうとは存じませぬが、それならば、余計に、この際、邪魔者を除いた方が……」
と石翁をのぞいたが、隠居は気の悪い顔をしていた。
「危くはないか?」
「それは、万事、手抜かりなく」
「あまり大きな騒動を起しては困るが」
「心得ております」
「誰をさし向ける? まさか、本郷から人数を押し出すわけではあるまい?」
「その辺のところは、ご安心下さいませ」
采女は呑み込んだように答えた。
「手前、心当りの者がございます」
「………」
「これが、出来る者ばかりでございます。金を遣れば、一も二もなく承知をいたします。それでなくとも、仕官の匂いをちらつかせてやれば、これはもう、死物狂いで働きます」
采女が説明した。
「当世、商人どもが贅沢になって、夢のような暮しをしておりますが、素浪人は相変らず、食うや食わずで生きておりまする」
良庵が、近くにいる新之助のところから、島田又左衛門の邸に戻りかけたのは、夜が更けてからで、提灯を持って、出て、よろめき加減に歩いていた。
退屈なので、新之助のところに出かけて行っては酒を飲む。新之助は、荒物屋の二階を借りて、豊春と一緒に居た。豊春は、昼間は出稽古に歩いている。
新之助との話も息が合うし、豊春のとり持ちもいいので、ここに来ると良庵は、つい、長尻になってしまうのだ。
屋敷町は、日が暮れると、人の歩きが絶えてしまう。それに一間先が見えぬくらい真暗だ。
坂を上って、寺の塀について歩いていると、ぬっと横合から人が出てきたので、良庵はびっくりした。
最初、辻斬りが出たかと思ったくらいだ。覆面をしている。
「待て」
と、良庵のうしろから声をかけた。
「へえ」
良庵が立ち停って、提灯を向けようとすると、
「そのまま」
と命じた。提灯の明りで顔を見られるのが厭なのだ。
「いずれへ行く?」
「はい、すぐそこの……」
と云いかけて、ぐっと言葉をのんだ。島田の屋敷とは、うっかり云えないと思った。
「横町に、急な病人が出来ましたので、参っているところでございます」
「医者か?」
男は、良庵の慈姑頭を見た。
「はい、左様で」
「酔っているな?」
酒の匂いを嗅《か》いだらしかった。良庵はあわてて、
「はい、その、丁度、寝酒を飲んでいるところに、迎えが来ましたので……」
と弁解した。
すると、軒の下から、三人の同じような恰好の影が現れた。それを見て、良庵の横の男が、
「医者が病人を診《み》に行くと云っているが」
と云った。
「どうする?」
三人は覆面の眼をじろじろ良庵に当てていた。良庵は不安で動悸がうった。
「医者なら仕方がないが、やはり通さぬ方がよかろう」
三人のうち一人が云った。
「おい」
と良庵に、
「都合があって、ここは暫らく通行出来ぬ。半刻、あとに出直せ」
と命じた。
「どういうことだろう?」
息せき切って駆け戻った良庵の報らせを聞いて、島田新之助は小首を傾げた。
荒物屋の二階で、襖を半開きにして新之助が出てきたのだ。今まで、良庵が新之助と飲んでいた座敷は、行灯《あんどん》に衣がかかり薄暗くなっているが、その薄い明りの中に、艶《なまめ》いた蒲団がちらりと外から見えた。
「その連中が、覆面をしていたって?」
新之助は、考えるような眼差しで訊いた。
「うむ。物騒な男ばかりでな。ひどく殺気立っていた」
良庵は寒そうな色に変った唇を動かして云った。酔いも醒めている。
「半刻あとに出直せと云ったんだな?」
新之助の頭に泛んでいるのは、むろん、叔父の屋敷がそこに在ることだった。
覆面の人数は四、五人居たという。良庵が見たのが、それくらいで、ほかにもっと居るかもしれない。半刻の間に、何かを決行して、ひき揚げようというつもりなら……
脇坂淡路守の例もあるし、敵側が仕掛けて来たと考えるほかはなかった。充分、納得できるし、むしろ遅すぎたくらいである。
「刀」
と、新之助が襖の内へ云った。
「行って下さるか?」
良庵が新之助を見上げた。
「叔父貴だからの。様子だけは見届けずばなるまい」
「そりゃ、その通りだ」
豊春が襖の間から顔をのぞかせ、刀を袂に抱いてさし出した。寝間着の上に、急いでほかのものを羽織っていた。
「何か危いことが?」
豊春は不安な顔で、新之助と良庵とを見くらべた。
「妙な連中が叔父貴の屋敷の近所をうろついているそうな。ちょいと見て来る」
新之助は、刀を豊春から取って腰に差した。
「気をつけて」
と豊春は新之助に云ったが、胸を押えて、
「何だか、このへんがどきどきするが、新さま、大事ないかえ?」
と心配そうに新之助のうしろに立った。
「なに、ご亭主の腕なら大丈夫。ほんの半刻の辛抱、寂しかろうが床を温めて待っていなされ」
良庵が豊春に云って、先に梯子段を降りかけたが、
「医者のわしがついている。こりゃ何よりの後楯じゃ。安心なされ」
と、うしろを向いて云った。
新之助が笑って、
「熱燗《あつかん》つけて待っていてくれ」
と豊春に云った。
表へ出ると、新之助は裾をからげ、刀を掴んで駆け出した。良庵がそのあとから提灯をかざし、よたよたしながら随《したが》った。
叔父の屋敷の前まで来たとき、新之助が知ったのは、すでに屋敷の内で騒動がはじまっていることだった。微《かす》かだが、物音が聞えるし、塀の内側の空気が違うのである。
勝手は分っている。
うしろからついて来た良庵に、提灯の灯を消させ、
「この辺で待っていて貰いたい」
と隣の塀の陰に匿れてもらった。
「わしが呼ぶまで、出ないで欲しい」
「そら殺生《せつしよう》じゃ。わしも医者でな。あんたが怪我でもしたら、手当てに飛び出さなくちゃならねえ。豊春さんと約束じゃ」
良庵は、あとで様子を見に出る、と云った。
新之助が裏木戸にかかると、影のようにひとりの男が立っていた。
「おっ」
先方では、足音もしないで、急に現れた人の姿に、ぎょっとして身体をひいたとき、新之助はとび込んで脾腹《ひばら》を衝いた。
詰ったような声を出して、見張りの男は仆《たお》れた。
裏口に二人ほど男がいたが、地響きに、何だ、といった不審の恰好で、外を見すかすように出てきたが、これも新之助を発見して、あっと声を出して、すぐに飛び退《すざ》った。
「だ、誰だ?」
「この家《や》の者だ。名前を訊こう」
一人が、ものも云わないで横から斬り込んでくるのを、抜いた刀で、相手のそれを新之助は刎《は》ね上げた。
「あ」
男は刀を手から放す。身体の揺れたところを、新之助は刀で叩いた。男は異様な声を出して地面に這いつくばった。
残った男が狼狽《ろうばい》して、
「出会え、曲者だ!」
と奥へ叫んだ。
「曲者はそっちだ、間違えるな」
新之助が刀を振り上げると、男は家の内に走り込んだ。
「なんだ、なんだ」
二、三人連れの覆面が出て来るのと、新之助は真正面に出遇った。向うでは、一瞬、立ちすくんだが、すぐに散って刀を構えた。
奥の間では、畳を踏む荒い音、物の倒れる音にまじって、刀を打ち合う音が聴えていた。
「叔父上」
新之助は奥に叫んだ。
「新之助が参りましたぞ。ただ今、そちらへ」
「おう」
と云う声は、遠くからの又左衛門の応答だった。
「ははあ、貴様がこの家の甥か?」
壁際に立って睨んでいる男が云った。暗いので、新之助の体格を見極めるようにしていた。返事をしないでいると、
「だあ」
と一人が身体を突進させてきた。
横から、いきなり突進してきた男の刀を、新之助は受けると同時に刎ね上げた。これが強い力だったので、対手は手をしびれさせて落したが、肩に新之助の刀が入ったのを知って、声を上げて仆れた。
「心配するな」
新之助が微笑して、
「峰打ちじゃ。生命《いのち》に関わりはない」
と正面から睨んでいる男と向い合った。
「出来るの、少しは」
この男は一歩出て、刀を大胆に上段にとったが、それなりに進めずに居た。
奥の方からは、刀の合う音と、足音とが乱れて聞えた。
「参るぞ」
新之助が身体《からだ》を伸ばしたとき、うしろから一人が襲撃してきたので、背を縮めて刀を廻した。
その男は腹を押えて屈《かが》み込んだ。
「おう」
正面の男が、風を起して刀を下ろしてきたが、これは新之助が避《よ》けたし、同時に自分の刀の切先が対手の顔を割いたものだった。
対手は、異様な声を出して転んだ。
「かすり傷。手当てをするがよい」
新之助は奥に走り込んだ。
床を背にして又左衛門が刀を構えて立っていた。それを四人が囲んでいた。
足音に、ふり向いた一人を新之助は刀で叩いた。立ち直る準備も与えない瞬間だったし、この男が倒れたことが、ほかの三人に動揺を与えた。
「要らぬことを。新之助、手出しするな」
又左衛門が、荒い息を吐いて云った。
三人のうち、二人までが新しい敵を迎えたが、ほかの連中が来ないことで、結果を悟ったらしく、足が浮いていた。
「遁《に》げるか」
新之助は云った。
「遁げるなら、遁げるでよい。さあ、どうする?」
新之助が前に出ると、まっ先に、一人がものも云わずに縁側に走った。庭の樹の折れる音がしたのは、それからである。
残った二人が、それにつづいた。
「やあ、遁げるか?」
又左衛門の声が追った。
「ここへ引返せ」
「叔父上」
新之助が制《と》めた。
「向うの間《ま》に、三人ばかり唸っておりまする。訊くぶんには不足はありませぬ」
「余計なことを」
又左衛門は、新之助に不平を投げた。
「誰が手出しを頼んだ? おれ一人で片づけられるものを、つまらぬことをする奴だ」
新之助は黙って微笑した。
家の中は、襖、戸障子が倒れたり、ものが壊れたり、惨憺たる有様であった。
「灯《あか》りを持て」
又左衛門が大きな声を出した。
丸い提灯が庭先から近づいたので、又左衛門が屹《きつ》として、
「何奴だ?」
と怒鳴った。
「はい、わたしじゃ」
良庵が縁側に匍《は》い上って来ながら返事した。
「おう、あんたか」
「いや、ひどいことをしおる。まるで地震のあとのようじゃ」
良庵は提灯の光で、あたりに輪を描き、
「そこまで来たとき、屋敷の騒動を耳にしたのでな……」
と新之助に報らせた次第を話した。
蝋燭《ろうそく》の火が裏から近づいたが、これは吾平や、近所の使用人だった。
「怪我《けが》は無かったか?」
又左衛門が吾平に訊いた。
「はい。仰せつけの通り、物置小屋にかくれておりました」
「一体、どういうのです?」
新之助が叔父に訊いた。
「どうもこうもない」
又左衛門が笑った。
「いきなり、多勢やって来たのだ。わけがわからん。理不尽じゃ。こっちで訊いても、ものを申さん。わしは、すぐに雇い人を避難させて、対手になってやったが」
「お怪我は?」
良庵が訊いた。
「手負いになって堪《たま》るか」
又左衛門は強気だった。
「もう少し、新之助が来るのが遅ければよかった。存分に働いてみせたかった……」
新之助は微笑した。あのときの様子では、必ずしも叔父の言葉通りではなかった。
「どこからさし向けた手の者か?」
又左衛門が首を傾げた。
「奥に、三人、仆れて居る筈でございます」
新之助が云った。
「斬ったか?」
「峰打ちを食らわしました」
新之助が奥に行ったが、一人だけ、衿首をひきずって来た。
「いつのまにか、二人は匍い出して遁げたようでございます」
畳に仆れている男は、覆面のまま、脾腹を押えて唸っていた。
「浪人じゃな?」
又左衛門が、その服装の貧しさを見て呟いた。
「面体を剥《む》け」
新之助が覆面をむくと、月代《さかやき》の伸びた、やせた顔が灯に照らし出された。
「灯りを見せい」
又左衛門が云うと、吾平が灯を入れた行灯《あんどん》を男の顔に近づけた。
頬のこけた、蒼い顔の瘠《や》せた男である。眼が落ちくぼみ、生気の無い表情をしていたが、灯に照らされたので眩しい顔をした。
「浪人だな?」
又左衛門が云う。男は生活苦のやつれが顔に現れている。
「誰に雇われて参った?」
男は黙って、唇を噛んでいる。殺されることを覚悟している表情だった。
「云わぬか?」
「云えぬ」
浪人は短く、初めて云った。
「殺すがよい」
又左衛門は笑い出して、
「不愍《ふびん》なことを申す。たかが一両か二両ぐらいの賃仕事で、生命《いのち》を落す気か?」
男は起きようとしたが、痛そうに顔を歪めた。
「良庵、手当てしてやってくれ」
「ほい。そりゃ、わしの領分じゃ」
良庵が男の懐を開けて、疵の個所を診ていた。浪人は、医者のするままに任せていたが、表情が和《なご》んできた。
「ご浪人」
又左衛門が云った。
「姓名は聞かぬでもよい。ただ、こちらの問うのに、首をたてにするか、横にするかして貰いたい」
浪人は又左衛門の顔をちらりと見たが、反抗的な眼ではなかった。
「おぬしを雇ったのは、向島か?」
浪人は、それでも躊躇していたが首を振った。
「うむ、それでは、本郷の筋か?」
浪人は、もっと考えていたが、結局、苦い顔をしてうなずいた。
「うむ、それでよろしい。問うのは、それだけじゃ。良庵、手当てを丁寧に頼む」
「医は仁術。丁寧はわしの看板じゃった。それで患家に持てたものだが……」
又左衛門は、新之助に眼配《めくば》せして、別の部屋に移った。
「やはり思った通りであったな」
又左衛門は考えるような眼つきをした。
「おれの家まで押しかけさせるとは、石の隠居も、少々、あせってきたかな」
「やはり、本郷が向島の指図をうけたと思われますか?」
新之助が訊くと、
「知れたことじゃ。本郷は何でも向島に相談している。新之助、これは何か向島に返事をしてやらずばなるまいな」
又左衛門は肩を聳《そびや》かした。
「貧乏ながら、かりにも天下の旗本屋敷に土足で踏み込ませたのじゃ。黙って引き退る法はあるまい」
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大御所他界
正月が過ぎた。
松が除《と》れてから、十五日以上も経った。
昨日、雪が降って、道が泥濘《ぬかるみ》になっている。向島の、この辺は田圃道だから、雪解けがすぐに、どろどろになる。
島田新之助は、足駄を穿《は》いて、ぬかるみに困りながら歩いていた。この辺りに多い植木屋の庭には、梅の蕾《つぼみ》が枝についていた。
石翁の邸の長い塀が見えた。
新之助は、門前を知らぬ顔で往復した。警固の番人が棒を持って立っていたが、寒そうに肩を縮めている。新之助をじろりと見たが、別に怪しむ様子はなかった。
屋敷内の様子は、大体、新之助に分っている。二度まで、この塀の内側に侵入していることだ。
ただ、石翁がこの屋敷の内に寝起きしているかどうか、確かめる必要があった。
仮りにも旗本屋敷に土足で踏み込ませたのだ。黙っている法はあるまい──と云った叔父の又左衛門の意見で、石翁に一太刀酬いる決心が新之助に出来ていた。
石翁の悪行は数えてみて、きりがない。当人は直接手を下さないが、暗い陰に坐っていて、人を指図してやらせてきたのだ。脇坂淡路守、菊川などの他人のことは、先ず措《お》いて、縫を殺させたことでも我慢ができない。これは従妹《いとこ》だし、小さいときから知っている仲だった。
新之助、わしはやるぞ──と又左衛門も顔色を動かしている。石翁を生かして置けない、とも云った。腕の立つ叔父だが、ひとりで斬り込ませるわけにはゆかない。
新之助は、叔父と相談して、まず、石翁の在邸の有無を確かめることにした。世上の噂によると、石翁は、しばしば本郷の加賀藩邸の御守殿《ごしゆでん》に寝泊りに行くという。
御守殿は、将軍の子女を貰った大名が邸内に建てる女房の住居だが、加賀藩の当主の内室溶姫は、石翁の義理の外孫に当る。
折角、邸内に斬り込んで行っても、目指す石翁が居ないでは、何にもならぬ。斬り込みは一度だけで、これに失敗したら二度と繰りかえせないのである。
新之助が立ち寄ったのは石翁の邸の近くにある茶屋である。当時、石翁に進物を持参する大名の家来や旗本が多く、それらのために進物を調製する店や、茶屋が出来ていたくらいである。
「へえ、ご存じありませんか?」
茶屋の亭主は、新之助のさりげない質問に答えて云った。
「ここんところ、お殿様は、ずっとお城に詰め切りでございますよ」
「ほう、そりゃ、どういう訳だな?」
「大きな声では申せませぬが、どうやら大御所様のご病気が大変らしゅうございますよ」
「大御所が!」
新之助の報告を聞いて、又左衛門は眼をむいた。
「病気が悪い悪いと世上で伝えていたが、石翁がお城に詰め切りだとすると、いよいよ、いけなくなったのかな」
「誤伝ではないでしょうか?」
新之助は、叔父の顔を見た。
「こういうことは、よく誤って伝えられることが多いようでございます」
「いや、そうではあるまい」
又左衛門は首を振った。
「石翁の邸の近くの茶屋がそう云うなら間違いはあるまい。世間のとりとめのない噂とは違う」
「手前が見ましたところ、門前はひどく静かでございましたが、茶屋の申すには、一昨夜が、ひどく騒々しかったそうでございます」
「それなら、尚もって間違いはあるまい」
又左衛門は深い眼差しをしてうなずいた。
「そうか。大御所も、いよいよ、いけなくなったか……」
「しかし、まだ、早急に判断するのは、どうかと思います。これまでも、度々、そのような噂が流れておりましたから」
「いやいや。今度は間違いなさそうじゃ。石翁が二晩も城に詰めているなら、まず、大御所の危篤は確実とみてよい。もしかすると……」
又左衛門は、新之助の顔を見て、
「大御所は、いまごろ、亡くなっているかもしれないぞ」
「………」
「かようなことは、容易に世上には洩らさぬものじゃ。大名衆に知らせるときは、息をひいて二日も後だということが多いでの。まして、世間への喪の発表は、ずんと遅れるのがしきたりじゃ」
「そうでございますな」
「新之助、残念なことをしたな」
又左衛門は溜息をついた。
「折角、思い立ったのに、石翁が留守では、どうにもならぬ。当分の間、諦めねばなるまい。隠居は、ちょっと城から帰らぬぞ」
「左様でございましょうな」
「うむむ、残念だな」
又左衛門は、袖をまくって、腕を撫でた。
が、忽ち、眼の光が別なものになった。
「こうしてはおられぬ」
と急に、そわそわして起ち上り、
「新之助、わしは、これから越前守殿の屋敷に行ってくる」
と、意気込んだ声を出したものだった。
「大御所危篤と聞いて、石翁があわてて城に駆けつけ、ずっと詰め切りでいる理由が判るか」
又左衛門は眼までぎらぎらさせた。
「隠居め、最後の大芝居を打とうとしているのじゃ!」
家斉は、大鼾《おおいびき》をかいて寝ている。
この状態は、昨日からだった。その前は、細い声だが、ものも云うし、意識はあったのだ。
それが、昨日の朝になって、床の中から、瘠せ細った手を出して、お美代の方をさし招くようにした。
「は?」
お美代の方が、枕もとに近づいて、話を聴き取ろうとすると、家斉は美代の手を握って、
「き、ぶん、が、わ、るい」
と、もつれる舌で云った。
「ご気分がお悪うございますか?」
お美代の方がのぞき込むと家斉の眼は、もう、妙に、白くどろんと濁っていた。握った手にも力が脱《ぬ》けている。
「美濃」
はっとしたお美代の方は、すぐ横の水野美濃守の顔を見た。
「はっ」
美濃守は、家斉の顔に一瞥をくれて、さっと座を起った。
病間になっているお小座敷を出ると、襖の外から、
「お医師、お医師」
と叫んだ。
「はあ」
詰めている典医どもの返事が聞えた。
家斉が仆《たお》れてから、すでに久しい。医者は交替で十人ばかりが詰めきっているが、まさか急変があろうとは思わないから控えの間にかたまっていた。脈の伺いには、半刻の間隔をおいて病間に伺候する。
医師どもが、病間に詰め切らないのは、お美代の方と美濃守とが、何となく、自分たちを邪魔者扱いにするからである。
この両人の様子を見ていると、全く恋人同士というに等しい。寝ている家斉などは、有って無きが如くで、両人で熱っぽい視線を絡み合せ、身体を摺り合せている。医者の方が眼の遣り場に困るのだった。
そんなことだから、なるべく御病間には遠慮するようにしていたのだが、美濃守の絶叫で、一人が襖を開けて顔を出した。
「な、何を致しておる! 大御所のご様子が変ったぞ」
美濃守は、顔を真蒼にして怒鳴った。
「えっ」
中川常春院はじめ、医師どもは、駆け転ぶようにして病間に走った。
家斉は、大鼾をかいているが、いままでの鼾と違って、声が異様である。眼のふちは黝《くろず》み、眼窩《がんか》が落ち、鼻梁《びりよう》が瘠せて高く、鼻翼《こばな》をふくらませて弱い呼吸を吐いている。
素人眼にみても、断末魔の形相《ぎようそう》だった。
「恐れながら」
脈を診《み》た常春院が平伏した。
「大御所様のご臨終、お間近かにござります」
家斉は、死相を現して大鼾をかいている。鼾だけを聴いていると、昼寝でもしているようだ。
「恐れながら、この鼾が」
中川常春院は、お美代の方と、水野美濃守とを等分に見て云った。
「鼾が熄《や》んだときが、ご臨終でございます」
お美代の方は、さすがに蒼い顔をしていた。美濃守が、
「あと、どれくらいご存命であらせらるるか?」
と訊くと、
「まず、明日の今ごろが精いっぱいかと存じます。早ければ、今宵のうちにも」
と答えた。
それからが騒動だ。
美濃守がこのことを西丸老中林肥後守に報らせる。肥後守から、本丸老中ならびに若年寄に連絡する。これはすぐに将軍家と、本丸大奥とに伝わった。
将軍家慶は、供揃も待たずに西丸に来た。家斉は湯殿に倒れて以来、何度か大漸《たいぜん》を伝えられて、またか、と思われたが、ちかごろ衰弱がひどく加わり、余命いくばくもなしと沙汰されているので、今度は家慶も本気になってやって来た。
ついで、家慶の世子家定も来る。居合せた老中真田信濃守、堀田備中守、側用人堀大和守、若年寄本庄伊勢守、遠藤|但馬《たじま》守も西丸に駆けつけた。
それから、加賀や安芸などの、家斉の子女が嫁いだ先の大名衆にも知らせる。これは、数が多いからいちいち、急使を立てるのに大変であった。
二刻も経たないうちに、御三家を筆頭として、加賀宰相斉泰、これは家斉の婿で、溶姫の夫だ。松平出雲、島津、浅野などの子女をもらった親藩が続々と登城してくる。
尤も、世上に大御所ご容体急変のことが洩れてはならない、という配慮から、隠密のうちの登城であった。
この夜から、西丸役人は云うまでもなく、老中、若年寄は泊り番をはじめ、万一のときに備えた。
御小座敷に寝ている家斉の枕辺には、水野美濃守をはじめ、美濃部筑前守、竹本若狭守などの側衆が控えて、家斉の背が楽になるように抱きかかえるようにしていた。裾の方には、小姓が三人いて、蒲団の下から家斉の脚を揉むようにしている。
こんな危篤の状態になると、女どもの力では及ばないから、お美代の方も、家斉の手をとって撫でるばかりであった。医者は五人が交替で絶えず脈を伺っている。
そのうち、石翁が、病間に摺り足で入ってきた。
「ご隠居さま、これへ」
美濃守が低い声で迎えた。
石翁は、病間に、つ、つ、つ、と屈みながら爪先で入ってくると、家斉の枕辺にぴたりと坐った。
お美代の方も、水野美濃守も、石翁のために身をずらせている。
永年、特別の恩寵をうけている石翁のことだから、石翁が、傍若無人に、家斉の枕辺近く坐っても、誰も文句を云うものがない。
石翁は、じっと上から家斉の顔をさしのぞいていた。
家斉は、落ちくぼんだ眼を閉じ、口を開けて、相変らず鼾声《かんせい》をあげている。頬が削り取ったようにすぼみ、顔の色は、すでに死人と同じであった。
石翁は、家斉のその顔をしばらく凝視していたが、ほろほろと泪をこぼした。それから、うつむいて泣いた。
お美代の方はじめ、並居る者も、さしうつ向く。日ごろ、剛愎な石翁が泣いたのだから、みなの胸は余計に悲しくなったのであろう。このときは、見舞いに来ていた将軍も世子も本丸に、一旦、還っていた。
「常春院殿」
石翁は顔をあげて、主治医の中川常春院を睨むように見て声をかけた。
「はっ」
常春院は縮んで返事をする。
「大御所のご寿命、あと、いくら持つ?」
「されば、恐れながら、あと一日かと……」
「今度は、ご回復は覚束《おぼつか》ないか?」
「はっ。ご衰弱、殊のほかひどうございます故……何とも恐れ入りましてございます」
常春院は罪人のように平伏した。
「うむ」
石翁は、並居る人々の顔を順々に見廻した。病室は狭いので、御三家ならびに親藩の大名衆は、家斉に対面すると、別間に引き取っている。だから、此処には、西丸老中林肥後守はじめ、美濃部筑前守など西丸側衆と小姓が居るくらいなものであった。
「肥後どの」
「は」
老中、林肥後守が顔をあげた。
「筑前どの」
側用人美濃部筑前守が顔をあげた。
「それに、美濃どの」
石翁が水野美濃守に眼をむけると、美濃守が静かに顔を起した。
「ちと、お話ししたいことがござる。あれへ」
と云うと、自分で先に座を起った。
ずっと離れた一室に四人が囲い合うように坐ると、
「さて、方々」
と石翁が三人をじろじろ見て、低声《こごえ》で話しかけた。
「かねて、大御所様百歳のときに備えて、われわれが準備したること、いよいよ実行の段になりましたぞ」
大御所家斉は、天保十二年|閏《うるう》正月三十日、西丸奥にて他界した。年六十九歳。
一代の驕児《きようじ》で、これほど仕たい放題のことをして死んだ大御所は居なかった。隠居して西丸に退いても、最後まで、現将軍家慶に実権を与えなかった。
侍妾が多く、子女五十四人の嫁ぎ先に苦労し、縁談をうけた大名の方でも迷惑したのは有名な話である。
家斉の驕奢《きようしや》については、砂糖の話がある。
家斉が将軍のとき、菓子製造の用として一日、白砂糖千斤を費した。そのとき、御膳番掛りが評議して、いかに将軍家でも、砂糖一日千斤を費すと、一年に積って三十六万斤となる。あまりに大そうであるから検分しようと云って御膳方に申し入れた。
立ち会ってみると、半切桶《はんぎりおけ》に砂糖三百斤ほど入れ、水を沢山汲み入れ、白木の棒でかき立て、この砂糖は砂が混っているからといって、桶をひっくり返し、三杯まで取りかえたので、御膳番掛りが肝をつぶしたという。
すべてが、この調子で、贅沢はこの上もなかった。次代の家慶になって、水野忠邦が、いわゆる天保の改革をやったのは、当然だった。
さて、家斉が死んでも、すぐに喪を発したのではない。
これを知っている者は、近習《きんじゆ》の者、老中、若年寄、三奉行、目附、医者、奥女中などで、そのほかへは厳重にこれを秘した。
これは、葬式の用意や、御宝塔(墓所)の築造に、相当な日数がかかるから、それらが完成した上で、初めて喪を発する。
大御所、将軍の他界の当日、すぐにこれを知る者は作事奉行と朱座だといわれる。作事奉行は、墓所を築造するためだが、朱座へは当日より朱の売買を禁ずる旨の達しをする。
これは棺に朱を詰める(腐蝕防止)ため、にわかに申しつけても、朱の不足が無いようにするためだ。
家斉が他界して、二日ののちに、「御肌付」と唱える棺が出来た。桐のマサ目一寸板に、高さ四尺五寸、横四尺ものだ。
その夜は、かねて寵愛をうけた小姓たちが入棺のことをする。
家斉の死体には白|無垢《むく》をきせ、直垂《ひたたれ》をつけ、太刀や烏帽子《えぼし》を納めた。
棺に納めると、朱をつめる。
かねて、家斉の今日のことは予想されていたので、女中どもは、思い思いに、法華経を写したものをお棺に納めてくれと持ってくる。家斉の生前愛好したものも詰める。棺の隙間には、華麗な小蒲団のようなものを入れ、次には葉抹香を十俵ほど詰める。この間に、墓所は昼夜を分たずに築くのだが、この間にも、石翁の西丸派と、忠邦の本丸派とは互に秘策を練っていた。
本丸老中水野越前守忠邦は、家斉の葬儀奉行を仰せつけられた。
そのために大そう忙しい。
家斉の遺骸は、上野東叡山寛永寺に葬ることになった。
徳川家の菩提寺《ぼだいじ》は、寛永寺と、芝の増上寺と二つある。将軍や大御所が死去するたびに、葬式をどちらで行うか、両寺の争いになっていた。
しかし、家斉の宗旨は法華宗である。法華宗信者の家斉を他宗の寺に葬るのは不合理である。こういう場合を予想して、お美代の方の実父日啓が、感応寺を上野や芝と同格にせよと請願していたのであった。
感応寺は、天保五年に、雑司ヶ谷に二万八千余坪の地を賜り、その造営には、武士は大小をさして土運びをし、大奥女中は縮緬《ちりめん》などの贅沢な着物をきて、もっこかつぎをしたという。そのほかの人夫、一日に何万人となく働いて前代未聞の地形《ちぎよう》築きであったという。日啓は、ここに寛永寺や増上寺に劣らぬ七堂|伽藍《がらん》を建て、輪奐《りんかん》の美を競うつもりであった。
むろんこれは家斉の意志から出たことで、家斉がもっと存命していたら、日蓮宗の徳川家菩提寺が出来ていたかもしれない。
さて、諸般の準備の進行状態からみて、家斉の葬儀は、大体、二月下旬には出せる見通しがついた。
目の廻るように忙しい水野忠邦が、或る日、将軍家慶に面謁を求めた。
家慶は、亡父公の葬儀の打ち合せであろうと、そのつもりで会うと、
「暫らく、お人払いを……」
と忠邦は申出た。
葬儀の話に、人払いは異なことである。家慶が忠邦の面貌を見ると、大そう沈鬱な顔をしている。
人払いの上、家慶に対し、忠邦は何ごとか話していた。その話が何か、誰も傍に居ないので、他人には分らない。
話は、半|刻《とき》近くもかかった。
忠邦が退出したあと、家慶の顔は、すこし蒼くなっていた。
西丸老中、林肥後守|忠英《ただひで》から、お目通り願いたしとの申し出があったのは、その日の夕刻であった。
「今日は、夕刻であるから、明日にするように」
家慶から、そう答えがあったと本丸老中より伝えた。
次の日、早朝に、林肥後守が拝謁を申し出ると、
「大御所様ご他界により、上様にはご悲嘆のあまり、ご気分|勝《すぐ》れさせられず……」
とこれも、拒絶された。
水野忠邦が、ひそかに何ごとかを言上したのは家慶だけではない。
彼は家斉夫人にも面謁を求めた。
家斉夫人寔子は、島津から来ている。
生前の家斉とは夫婦仲があまりよくなかった。多数の側妾《そばめ》を擁して、荒廃した愛欲生活を送っている家斉に呆れて、夫に近づいていなかった。
が、家斉の逝去後は、西丸の奥に引込んで、髪を下ろし、冥福《めいふく》を祈っていた。
本丸老中、水野越前守が、ご機嫌伺いに面謁を求めたとき、この度の葬儀奉行をしている忠邦のことであるから、それに関連したことを言上に来たものと誰しも思っていた。
夫人に会った忠邦は、家慶のときと同様、ここでも二、三の重立った侍女以外は、人払いを乞うた。
忠邦が何を云ったか、夫人寔子が何を聞いたか、そこに居合せた者のほかは分っていない。
とにかく、話は半刻近くかかり、忠邦は退出する。
忠邦が、お広敷の廊下を歩いていると、ここで西丸老中林肥後守忠英と出遇った。
双方とも互に会釈した。
「越前殿には、この度のご大役、何かとご苦労に存じます」
肥後守が挨拶すると、
「いやいや、大御所様|薨去《こうきよ》に当り、肥後殿のお世話こそご苦労でございました」
と忠邦も挨拶を返す。
「上様のご機嫌は如何でございますな?」
肥後守が、さり気なく訊く。
「されば、ご他界後、ご気色勝れさせず、われらも心痛いたしておりましたが、どうやら明日あたりより、表へ御出座になられるようでございます」
「おう、明日より表へ」
肥後守は急に眼をあげたが、気づいたようにその眼を伏せた。
「恐れながら、ご親子の情、さこそとお察しいたします」
「そこもとより、上様にお目通りを願い出ておられることは、手前も存じておりますが」
忠邦は、じろりと肥後守を見て、
「明日よりご出座に相成る模様でござれば、左様にお取り計らい仕ります」
と好意を見せた。
「それは千万|忝《かたじ》けない」
肥後守は礼を云う。のみならず、忠邦が家斉夫人のところに機嫌奉伺に来たことまで謝した。
肥後守は、さらに葬儀の準備の進行状態まで訊いて、多分、二月の二十日前後にはご大葬が行われようという返事を忠邦からとった。
肥後守が、忠邦を見送って、部屋に戻ると、水野美濃守と石翁とが居合せていて、
「なに、越前が御台所に会いに参ったと?」
と、話を聞いて顔色を変えて叫んだのは石翁であった。
「越前が、御台所のところへ参ったのか?」
石翁は、大きな眼をむいて、睨むようにしている。
「左様、御台所のご機嫌伺いと申しておりましたが」
林肥後守は、石翁があまり愕いているので、かえって、きょとんとした顔をしていた。
「ご機嫌伺い?」
石翁は、じろりと肥後守を見て、
「お手前は、その席に立会われたのか?」
と反問する。
「いえ、手前は居りませぬが」
肥後守は、すこしうろたえて、
「なにせ、われわれとてお声のない限り近づけぬ御台所のお部屋でございますれば、その場には参りませぬが、越前は葬儀奉行、かてて加えて大御所ご他界について、御台所にご挨拶申し上げたことと存じます」
石翁は横を向いて黙った。気に入らないときの返事はしないのが癖だ。
「何か……」
水野美濃守が、見かねて、顔色を窺《うかが》うように石翁を見た。
「ご不審でも?」
石翁は眉間《みけん》に立て皺を深く彫って考えていたが、
「これは、先《せん》を越されたかな」
と呟いた。
「え、先を越されたとは?」
「されば、越前が御台所に挨拶に参ったのは、ただご愁傷を申し上げただけではあるまい。また、葬儀の次第を報告に参ったのでもあるまい。もしかすると、もっと容易ならぬことを云ったかも知れぬぞ」
「容易ならぬこととは?」
肥後守も美濃守も、石翁の顔を揃って見つめた。
「われらのかねての計画を察して、防ぎに参ったのかもしれぬ……」
「………」
「のう、思い当らぬか。肥後殿が、本丸に上様のお目通りを願い出ても、容易にお許しがなかったではないか?」
「そのことなら」
肥後守が急いで云った。
「上様のご気色も、どうやら本復となりましたので、明日はお目通りできるそうにございます」
「誰が、左様に申しました?」
「は。それは、あの、越前でございますが」
「ははは」
石翁は低く嗤《わら》った。
「それ、ご覧《ろう》じろ。すべて越前の計らいではないか。本丸老中故、当り前と申せばそれまでだが、何やら、すべて越前の指し金で本丸が動いているような気がする」
「ご隠居さま」
「はて、これは失敗《しくじ》ったかな」
「さしたることはございますまい」
水野美濃守が、石翁の曇った顔を見て、勇気づけるように云った。
「越前め、たとえ、われらの目算に気がついたとて、何しに制《と》め立てが出来ましょうや。恐れ多くも、大御所ご直筆の御遺訓でございます。上様とて、抗《さから》いは出来ませぬ」
「まことに」
と云ったのは、林肥後守で、横から美濃守に賛成した。
「ふだんより大御所様のご威勢に、頭上らぬ上様でござる。殊に、薨去されてすぐあとに拝するご遺志でございますから、何ともお頭《つむ》を下げられたまま、一言もございますまい。そこを一気に乗り切るのでございます」
「越前はもとより、余の者が何と申そうと、お墨附をかざし、恐れ入らせるばかりでございます」
美濃守が云う。
「その場で、ご遺訓に逆《さから》えば、上様にとってはこの上なきご不孝、また、他の者は、不忠者になりまする。何か、小賢《こざか》しげに口を挾む者があれば、かえって、こちらに好都合、不忠者じゃと大喝して、追い落すことができまする」
「はて、これはご隠居さまの、はじめからの目算ではございませなんだか?」
両人は、代る代る石翁の沈んだ顔色をひき立てるようにした。
石翁は腕を組んでいたが、一向に晴々しい顔をしなかった。
「いまも、そう思っている。お墨附を楯に、犬千代様後嗣に強引に押し切るつもりだが、どうも、越前の動きがのう……気に食わぬ」
「これは、ご隠居さまとも覚えぬ、お気の弱いことを仰せられる。上様さえその通り、なんの越前づれが妨げになりましょうや。もし何ぞと云えば、大御所さまご遺訓に背《そむ》く不忠者と極めつけて、退職させる口実をつけるだけでございます」
「………」
「それに、ご隠居さま。越前の生命は、そう永うはございませぬ」
「なに?」
美濃守の言葉に、石翁も屹《きつ》となった。
「さればでござる。大井村の修験教光院なる者、近来稀なる祈祷者でござります。彼が祈れば、いかなることも叶わざるものなく、たとえば人命をも縮めることができまする。手前、ひそかに、かの教光院に命じ、越前めの生命を呪わしておりますから、きゃつめ、程のう患《わずら》いつき、相果てることと存じまする」
美濃守は得意そうに云った。
石翁は答えない。
重い溜息が口から洩れた。そんな悪あがきが、余計に事態を不吉にするように見える。もし、呪詛が暴《ば》れて、新任の町奉行鳥居甲斐守|忠耀《ただあき》に検挙されたらどうする気だろう。鳥居は忠邦の腹心だった。
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烈  風
西丸老中林肥後守忠英に、側衆水野美濃守忠篤が付き添い、家慶に目通りすることになった。
「大御所ご遺訓により、言上《ごんじよう》致したき儀、これ有り」
というのが前触れであった。
家慶は、ことがことだけに、表では聴かず、「御休息の間」に両人を喚《よ》んで対面することになった。
肥後守と美濃守とが、西丸より本丸に出かけるとき、石翁は、くれぐれも注意している。
「もし、余人がお墨附に対し異議を挾むときは、大声|叱咤《しつた》して不忠呼ばわりをなし、これを却《しりぞ》けること。これは水野忠邦あたりより出そうであるから、特に忠邦に対しては注意すること」
「将軍家に対しては、ご遺命の威光を示し、間髪を入れずに、承服せしめること」
「お墨附は、対手方がご遺命を承服せぬ間は決して渡さざること」
この三つを、
「くれぐれもお忘れなきように」
と云い含めた。
肥後守も美濃守も、それは充分に心に入れた。両人の眉の間には決死の覚悟が現れている。伸るか、反《そ》るか、一生一代の賭《かけ》であった。
見送る石翁の顔も、期待と不安で硬くなっていた。
両人が本丸に到着すると、側用人堀大和守が出て来て、
「上様には、本日、御休息の間に、ご出座遊ばされます」
と案内する。
両人はうなずく。至極、尤もだと考えたからだ。
長い廊下を歩いて、御休息の間に導かれ、両人はちょっと肝を冷やした。
御休息の間は、京間で三十五畳敷き、南、西、北の三方は襖でたて切ってある。天井下は竪《たて》一間もあるが、欄間は無い。
敷居、鴨居、長押《なげし》とも槻《けやき》を用い、襖には、極彩色の賀茂|競馬《くらべうま》図を描いて、いずれも黒塗の縁がついている。腰は襖つくりで、金砂子に秋草が彩色で乱れ咲いている。襖の引手は花葵形を楕円にし、まん中の凹んだところは滑かにして、周辺は七子《ななこ》地葵の御紋散らし、金具は金|鍍金《メツキ》である。
天井は貼《はり》天井で、金砂子に切箔《きりはく》を置き、天井下の貼付は金砂子に金泥で雲形を描いてある。長押の釘隠しは、径三寸ばかりの花葵形で、これも金鍍金だった。
上座から、老中水野越前守忠邦、同じく堀田備中守、同じく真田信濃守、若年寄本庄伊勢守、同じく堀田摂津守、同じく遠藤但馬守、これに、小姓、御納戸衆がずらりと居ならんでいる。
「これへ」
という堀大和守の声で、両人は高麗縁《こうらいべり》の畳を爪先で踏んだ。
警蹕《けいひつ》の声がかかって、家慶が出座した。蒼白い顔の将軍だった。
一同が平伏する。
側用人堀大和守が進み出て、西丸より林肥後守と、水野美濃守が御前に罷り出ていることを告げる。
家慶は、うなずいたが、これは畳に頭をこすりつけている肥後守と美濃守には判らない。
家慶は低い声で、大和守に何か云いつけていた。
それが人払いだった。側衆と小姓どもが静かに起って行った。衣ずれの音が、しばらく、さやさやと鳴っていたが、それが鎮まると、もとのように針一つ落ちても、耳に入るくらいの静寂に返った。
老中衆のならんでいる席から、風邪でもひいているのか、咳《しわぶき》が二つ、遠慮そうにつづけて起った。
家慶が、また何か低く云った。両人の横にいる大和守がそれを受けて、
「御諚《ごじよう》でござる。御前へ近う」
と小さな声ですすめた。
林肥後守と、水野美濃守とは膝行して、少し進んだ。
再度、「近う」と言葉があったが、それ以上にすすまぬのが作法だった。
「肥後か」
はじめて家慶から声がかかった。
「はあっ」
林肥後守につづいて、美濃守も低頭した。
「大御所様よりのご遺命があるそうな。予も早う拝見したい。これへ」
家慶が云った。
「はあ」
美濃守が持参のふくさに包んだ桐箱を出して、これに一礼した。
大和守が傍に寄って、取次ごうとすると、
「あいや」
と肥後守が遮《さえぎ》った。
「恐れ多くも、大御所様直々の御筆でござる。お取次ぎは憚り多うござる」
肥後守は一生懸命だった。肚に力を入れていたが、声が少し慄えていた。
「尤もじゃ」
家慶が声をかけた。
「予が、そちらに参る」
家慶は座を起った。
美濃守がふくさを解き、肥後守が捧持している前に、家慶は上段を降りてすすみ、三尺くらいの距離を置いて、ぴたりと坐った。
「拝見する」
肥後守は声も無く、上体を折って、桐箱だけをさし出した。手が慄えていた。
家慶は、頭を下げて受けとり、紅絹《もみ》で撚《よ》った紐を指先で解いた。細長い、瘠せた指だった。
林肥後守と、水野美濃守の耳には、さらさらと、お墨附の紙が摺《す》れる音だけが聴えた。
低頭している林肥後守と、水野美濃守の頭上に、家慶の披《ひら》く大御所のお墨附の紙が、さらさらと微かな音を立てている。それだけで、将軍家がどのような眼つきで見ているか、どのような表情をしているか、両人には分らなかった。
家慶は読み下しているらしい。長い時間がかかった。何度も、繰り返して読んでいるらしいのである。
肥後守と美濃守とは、激しい動悸が搏《う》っていた。額に、うすい汗が滲《にじ》んだ。
将軍家が、
(大御所のご遺言ながら、承服できぬ)
と云えば、屹《きつ》となって身を起し、その不孝を詰《なじ》って、捻《ね》じ伏せるのが、両名の使命だった。家慶が、否、と云うか、応、と云うか、両人の耳の中は、真空みたいになった。
耳朶《みみたぶ》が燃えてくるのである。
家慶が膝を動かした。それは畳に触れて袴《はかま》が鳴ったので分った。両人は、固唾《かたず》をのんだ。
家慶は顔を横に向けた。そこには、側用人堀大和守が控えている。
「越前を」
と家慶は微かな声で云った。
この声は、無論、肥後守と美濃守の耳に聴えた。両人は更に身体を固くした。越前が出てくる。忠邦が出てくる。
越前守忠邦は老中のならんでいる列から、ひとり離れて膝行して来た。
「これを」
家慶が、お墨附を見せた。
忠邦は、一礼し、恭《うやうや》しくそれを両手にうけとった。それから、文字に眼を向ける前に、もう一度、押し頂いた。
今度は、忠邦の番だ、と肥後守と美濃守は極度に緊張した。血が頭に逆上《のぼ》ってくる。この勝負は、忠邦との一騎打ちであった。忠邦さえ伏せたら、こちらの勝利であった。
異議を唱えるか──両人は息を呑んだ。胸が慄えてくる。
家慶のときよりは、もっと、もっと長い時間がかかった。何度も何度も読み返しては、思案しているらしい。
肥後守も、美濃守も、この状態が永遠につづいたら、息が切れそうであった。眼が昏《くら》んだ。永い、永い沈黙の時間だった。
「恐れながら」
細い越前守の声が聴えた。両人は全身を耳にした。
「大御所様のご遺命なれば、お従い遊ばされるがご孝道かと存じまする。また、天下のため、至極の仰せかと存じ上げます」
肥後守と美濃守は、わが耳を疑った。空耳かと思ったが、これは夢のような現実であった。こう簡単に、すらすらと行くのか、と思った。
「ご遺言、たしかに拝読した。安心せい」
家慶は、そう両名に云うと、お墨附をあっさり忠邦に渡してしまった。
「すぐ、承知されたのか?」
石翁も、本丸から、いそいそと帰ってきた林肥後守と、水野美濃守の報告を聴いて、意外そうに訊き返した。
「はあ、それは、もう……」
肥後守は、口辺から笑いを消し切れぬように、眼を細めながら、
「全く、他愛《たわい》ないくらいでございましたよ。こちらが、力んで行ったのが、おかしいくらいでございました」
と声を浮かして云う。
「越前も……」
石翁は、少しも笑わないで、厳しい眼で、両人の顔を交互に視た。
「越前も、たしかに、恐れ入った、と云ったのだな?」
言葉つきも、念を押して、強いのである。
「左様です」
今度は、水野美濃守が答えた。
「お墨附を拝見して一礼すると、大御所様ご遺命なれば、お従い遊ばされるがご孝道かと存じまする、と、これはもう、はっきりと、上様に申し上げておりました」
「上様は、何と仰せられた?」
石翁は気にかかってならぬように訊《たず》ねる。
「は。ご遺言、たしかに拝読した、と仰せられました。それから、われらに向って、安心せいと……」
「まことに左様に仰せられたか?」
「それは、もう、確《し》かと、われらの耳に……」
「それにつけて、越前は、何と申し居った?」
「御意、有難き次第、とお答えしておりました。次に、もう一度、恭しくお墨附に一礼すると、箱に納め、手もとに取りました」
肥後守が、その場の模様を話した。
石翁の不安な表情が、はっと恐怖に変ったのは、それを聴いてからだった。
「なに、越前は、お墨附を手もとに取ったのか?」
「はあ」
と云ったが、両人の方が怪訝《けげん》そうな眼つきであった。
「お墨附のこと、上様もご承引になり、越前も恐れ入りましたので、渡して参りました」
その処置に誤りはない。
石翁も、たしかに、対手が承知しない限り、お墨附は持って帰れと両人に云った。両人は、対手が承諾したから、お墨附を与えてきたのだ。当然の話で、誤謬《ごびゆう》は無い。
が、あまりに、対手が易々と承知したのが心にかかるのだ。これにひっかかって、お墨附を越前の手に、あっさりと渡したことが、ひどい間違いを不用意に冒《おか》した気持になった。何か、ぽかりと取り返しのつかぬことをやったのではないか。
石翁は、急に、足もとの穴に落ち込んだような恐怖に蒼褪《あおざ》めたのである。
隠居は、俄かに脂汗を額に滲ませた。
それから二十日あまりが過ぎた。
何ごとも起らなかった。
本丸が騒々しいのは、大御所の葬送の日どりが決まって、その準備に忙殺されていることだけであった。
石翁は、向島から、谷中の寮に移っていた。向島を去ったのは、誰にも会いたくないからである。
林肥後守、水野美濃守などは云うまでもなく、美濃部筑前守、内藤安房守、瓦島《かとう》飛騨守、竹本若狭守などの一党は喜色満面、身体も宙に浮いたという恰好で、
「われわれの世は安泰じゃ。上様は大御所様のご遺命に従われた。越前めも屈服した。前田犬千代様を将軍家後嗣として西の丸にお迎え出来る。めでたい、めでたい。この次は越前めを追い落してくれる」
と手放しで笑っているのである。
本郷の加賀藩邸からも、ひそかに向島に使いが来て、万事祝着、と当主からの喜びを伝えてくる。
お美代の方からも、泪ぐんで喜んでいる、とことづけがあった。
みんなが、大成功に欣喜雀躍《きんきじやくやく》して酔っているのであった。
石翁が、家斉の相談相手として勢威を振ったように、前田犬千代を迎え、家慶を隠居させ、家定を将軍に直し、次代を犬千代に嗣《つ》がせると、自派の誰かが操《あやつ》り役となって、わが世の春の永遠を謳《うた》おうというのだ。
それが夢でなく、現実に眼にうつっているのである。心配した本丸の家慶はじめ、水野忠邦の頑固な障害が、他愛なく崩れたので、喜びは、それだけに大きい。
しかし、石翁ひとりは笑わなかった。
向島を遁《に》げ出したのも、そういう連中に来られるのを嫌ったからだ。連中の紐のゆるんだ顔を見ているとやり切れないのである。
そう手放しで喜んでよいものか。──
石翁には、まだ不安がある。晴れ渡った空に、一つまみの黒雲を見ているような危惧《きぐ》である。しかも、石翁の眼にしか映っていない雲であった。
(まだ分らぬぞ。その場になって、犬千代を城に迎えるまでは分らぬ。越前がいるからな。越前がいる)
谷中の寮にも見事な庭がある。下谷だけではなく、彼の寮は、大塚、巣鴨、日暮しの里、根津などにもあった。いずれも結構な庭をしつらえている。
(越前がいる。おかしい。あいつが素直に、引込んだのがおかしい)
石翁は、庭にひとりで降りて歩きながら、苦渋《くじゆう》を顔に浮べて、敵側の見えない罠《わな》を探っていた。
(大御所のお墨附を渡したのが……)
やはり、これが取り返しのつかぬ敗北の端緒のような気がする。判らないのは、罠と、お墨附とが、どう結びつくかである。
家斉の遺骸は、天保十二年二月二十日、西丸を出棺して、上野東叡山寛永寺に葬られた。
棺蓋には、「前|征夷《せいい》大将軍従一位|太政《だじよう》大臣|源《みなもとの》朝臣《あそん》家斉之墓」と書き、傍には、「天保十二年|閏《うるう》正月三十日寿六十九歳、勅賜正一位賜号文恭院」と書かれた。
出棺前には家慶はじめ、夫人など一門の焼香がある。式が終ると、柩《ひつぎ》を白木造りの車に載せ、白木綿の綱を轅《ながえ》に結んで小姓共が曳《ひ》く。車輪の径は一尺六寸ばかりで、左右十二ずつ付く。大奥の廊下を軋《きし》る音は何とも云えない。怨鬼陰夜に咽《むせ》ぶ、という形容が当るかもしれない。
長い間、家斉に仕えたお美代の方はじめ、十数人の愛妾たちは顔に袖をあてて泣いている。女中のなかには柩に取りすがって、声を放ち、泣き叫ぶ者もある。
玄関からは仕丁《じちよう》が白丁着で柩をかつぐが、これがなかなか重く、数十人の仕丁では上野までの遠路をかつぎ通すことができないから、一番組い組の人足が二百人、これも仕丁の服装で従うことになっている。
これよりさき、西丸から出た柩は、山里の庭を通り、馬場のあたりに差しかかる。このほとりには、本丸老中、若年寄などがならび、次いで西丸の重職が並んでお見送りする。
西丸に仕えている近習の役人、侍医などもこの辺の道にうずくまって柩を目送した。西丸の杜《もり》の木立の上には、早春の空が澄み切っている。
腕木の門の内には大内記大学頭、御台所御用人、お庭番などが敬礼している。
このあたりから、柩を先導する諸士が徒麻上下《かちあさかみしも》で歩み出る。家斉の打物(長刀《なぎなた》)などは白い覆いをし、白衣を着た力士が持って従う。柩は車に白い綱をかけ、三十人ばかりで莚道《えんどう》の上に引き出す。その車の音は、近侍の者には胸がつぶれるように聞える。
柩のあとには、本日の葬儀奉行、水野越前守忠邦が従う筈であったが、支障があって、老中掛川の城主太田|備後《びんご》守|資始《すけもと》がお供をした。そのあとから若年寄、御側の者、そのほか近侍の者がむれて供奉《ぐぶ》した。ことに、水野美濃守忠篤の打ち悄《しお》れた姿が人目をひいた。
吹上の門まで来て、しばらく休みがある。ここで柩を龕《がん》に移す。これから白丁が数十人で担ぎ進めて、上野の御成道へ向うのだ。
ただし、大御所や将軍家の葬送には、三家、三卿はじめ、譜代大名は一人も供に立たない。外様大名は勿論のことである。すべては近侍の臣や幕閣の諸役人のみが従うことになっている。
家斉の葬儀の行列は埋門《うずめもん》を出て、竹橋を下り、一橋《ひとつばし》から御成道へ向った。
沿道には諸人が土下座している。
葬列は、御成道から上野にさしかかる。
真先に、一番|立《たち》のお払いの徒《かち》二人が、沿道を左右に分れて歩むが、
「ええイ、下におろう」
と極めて長く遠くに響くように聞える。
この声が遠くに消えるころ、二番のお払い徒が二人、同じく、
「ええイ、下におろう」
と声を響かせて行く。
次に、三番のお払いが同じように呼ばわって通る。
それから、高張提灯《たかはりぢようちん》が二つ、次に口とり二人ついたお先馬、沓箱《くつばこ》、再び高張提灯二つ、そのあと馬乗り二人、麻上下股立《あさかみしもももだ》ちで二行に歩む。
次には、白い覆いをかけた挾箱《はさみばこ》が四つ一列に担いで静かに歩む。そのあと、手提灯二つ、台傘《だいがさ》、日傘、雨傘、床几《しようぎ》が、いずれも覆いをかけて通るが、その間に高張を二つずつたてる。
後に、御徒衆《おかちしゆう》、麻上下高股立ちでつづき、白覆いをかけた具足、長刀の間には、御徒|小人《こびと》目附らがみな麻上下でならんでゆく。次に、小十人組、つぎに手提灯四|張《はり》つづき、次に麻上下の徒頭《かちがしら》、小十人頭が行き、次に高張提灯、そのあとに香炉《こうろ》を持った同朋衆二人が従う。
次には、薙髪《ちはつ》した小姓が水色の長上下、無紋の小袖で、右は袋入りの刀、左は脇差を持って二列に歩む。あとの替りの役の小姓も同じ扮装《いでたち》である。
そのあと、老中太田備後守が、衣冠にて冠へこより掛けをなし、鞘巻の太刀を帯び、末広の扇を持つ。その間には高張提灯が入る。
次が出家、次が高家《こうけ》二人で、左右に歩む。これも衣冠である。
そのあと、白丁の者がかつぐ柩が行く。柩の四方は高張提灯で、後から若年寄二人が衣冠でつづき、側衆、小姓らが従う。沿道に土下座している諸人は棺が通過するときは、頭を地面にこすりつける。
槍が通ったあと、麻上下の中奥小姓、中奥御番、目附二人が左右に歩む。次に小人目附、十文字槍、鍔《つば》槍などがつづき、あとに大番頭、書院番頭などが従い、一町ほど隔って供押えがゆく。
上野に至るまでの道筋には、各大名が辻々の固めをして警固している。
この行列が上野に着くと寛永寺には、かねて龕《がん》前堂《ぜんどう》というものがしつらえてあって、これに棺を据え、輪王寺の宮が導師となって、数百人の寺僧が出て、いかめしい読経の作法がある。
これが終って、棺を葬穴に納めるのだが、薙髪した近臣が付き添うくらいのことで、一人として余人は近づくことが出来ない。
人夫、石工などが、銅棺の蓋をする音や、石を畳む音が離れて立っている者に寂しく聴える。
前太政大臣正一位徳川家斉の霊はこうして鎮まった。
大御所家斉の死去は、世間に衝撃を与えた。
それは、家斉自体が、どうだったという意味ではない。世間の興味は、家斉死後の、中野石翁や林肥後守、水野美濃守一派の凋落《ちようらく》の予想に向けられていたのだ。
庶民は、いつも黙々としている。何ごとも上からは知らされず、教えられていない。
しかも、真相はちゃんと知っているのだ。眼は塞がれているようだが、見るべきものはやはり正確に見ているのである。
文恭院と諡号《しごう》のついた家斉の死去後、一カ月と経たぬうちに、江戸市中には戯文が出た。
落書は、口を塞がれた庶民が、精いっぱいに洩らす感情の捌《は》け口である。
思召これから先は出ぬなり   奥向
内願ごとも止むか重畳《ちようじよう》     取計
向島石の隠居も淋しくて    権門
おみよもろ共《とも》法華|三昧《ざんまい》     妙法
連歌に擬した戯文である。
思召というのは、家斉が隠居して大御所になったが将軍家慶に対して実権を渡さず、思召という形式で家慶をおさえたことを云う。西丸奥女中が内願といって勝手な要求を持ち出し、それがたいてい「大御所様思召」に化けて、本丸を悩ました。家斉が死んだら、その悪弊もなくなるだろう、との諷刺である。
石の隠居は、むろん石翁のことで、凋落の暁は、これも大奥を逐われるお美代の方と、法華太鼓を叩いているほか仕方があるまいとの揶揄《やゆ》である。
この戯文は、江戸市民の人気を得て、評判になった。自然と、林肥後守や水野美濃守などの耳にも入ってくる。
「ばかなことよ」
美濃守は、白い顔に笑いを泛《うか》べたものである。
「何も知らぬ愚民どもがほざくこと。今に見よ」
と、あざ笑った。心に期するものがあるのだ。
家斉が死んだら、すぐにおのれ一派が凋落するように見るのは、あまりに単純な世間の見方だ。そのときの手は、抜かりなく打ってあるのを余人は知らぬ。
いまに、世間が、呀《あ》っと思うだろう。
追い落されるのは、水野越前の一派なのだ。そのときの世間の愕く顔を見てやりたい。
美濃守はひとりで、世人の無知を嗤《わら》っていた。
折から、石翁より、美濃守宛に、
「大御所様ご病中は何かとご介抱ご苦労であった。ついては、お慰みにもと思い、大石灯籠一基を進上したい」
と申し入れがあった。
季節は、春も盛りをすぎようとしていた。
石翁が水野美濃守に石灯籠を贈ったのは、大御所看護慰労のほかに、もう一つの意味があった。
それは、美濃守が、家斉死後、西丸より転じて本丸の側衆になったのを祝ったことである。ひとり美濃守だけではなく、林肥後守は西丸老中より本丸の若年寄となり、美濃部筑前守は小納戸頭取となった。
いずれも出世街道である。
世間が何と云おうと、この通りだという自信が三人の胸を膨《ふく》らませている。
殊に、美濃守忠篤は自負の強い性質だったし、何といっても家斉の覚えが目出度かったという余勢を意識している。
石の隠居も健在なことだ。
(なに、越前づれが)
と肩を聳《そびや》かす気持であった。
その石翁の贈った石灯籠は、石翁がわざわざ人夫を使って、美濃守の本所の下屋敷に据えてくれるというのだった。
親切な隠居である。
美濃守は愉しくなった。
今日は四月十六日である。世子家定の誕生日なのだ。
城中では酒肴を頂くことになっている。
どうも、あの世子は身体が弱い、と美濃守は、近臣に肩衣袴《かたぎぬはかま》を着けさせながら思っていた。
いつ見ても蒼い顔をしている。見るからに元気が無い。あんな男を公方にしても勤まるわけがない。頭脳も弱く、云うことも、とんと子供じみている。
家定などは、一度、将軍につけておいて、早いとこ隠居させることだ。あとは、前田家より迎えた犬千代を将軍にする。それが、自分たちの目的だったし、家定が虚弱なだけに、案外、早く実現しそうに思えた。
そうなった暁は、こちらの天下である。うまくゆくと、家斉のときよりは自由に権勢が張れるかもしれない。
さしずめ、自分などが新将軍の側用人となり、実権を一手に集めることだな。
美濃守は夢見るような瞳《め》になって、輿《こし》に揺られながら登城した。
当日は、家定の誕生日だというので、城中のどの顔も、いつもより晴々としている。
美濃守は側衆だから、まず家慶の前に出て御用を伺った。
家慶も、ふだんの顔色をしていて、別に変ったこともなかった。美濃守が、右大将家(家定)の誕生日の祝儀を申し上げると、おだやかにうなずいたほどだった。
御用伺いが済んだので、美濃守は詰所に引取ろうとした。
すると、詰所の入口に、御用部屋(幕閣)の坊主四、五人が美濃守の戻ってくる姿を待ち受けていた。
御用部屋坊主は四、五人居たが、美濃守忠篤が詰所に入ろうとすると、それを前から塞《ふさ》ぐようにして正面にうずくまった。
「水野美濃守様に申し上げます」
美濃守は、足を停めて、じっと坊主に見入った。
「御老中水野越前守様仰せに、美濃守殿に御用の儀これあるにつき、すぐに御用部屋にお越し下されたし、とのことにござります」
「なに、越前殿が?」
美濃守は、何かは知らず、ちょっと不安になった。
が、別に不安なことは無い。
不安に感じたのは心の迷いである。ふしぎなことだが、越前守忠邦から何か詰問されるのではないか、と瞬間に思ったのは、どういうことであろう。
それは、今まで、あまり御用部屋に老中から呼び出されることもなかったからだ。老中が幕吏を譴責《けんせき》するときは、御用部屋に呼び出して云い渡すので、思わず不吉な例に結びつけたのかもしれない。
しかし、それには先例があるのだ。罪を蒙《こうむ》るときは、前日に御用部屋から奉書を以て当日の登城を命じる。そのときは麻上下、袱紗《ふくさ》小袖着用という指定がある。
いま、美濃守のおのれが着ているものは、肩衣袴の平服である。何のことがあろう、と彼は自分の怯懦《きようだ》を心で叱った。
いやいや、老中水野越前が喚び出すからには、もしかすると加増の沙汰か、新役に就けるというのかもしれぬ。美濃守は、家斉存生のころ、度々の沙汰によって加増が五千石にもなっている。
いま、文恭院(家斉)の思召をついで、公の病床に近侍した労を嘉《よみ》して、さらに加増の褒賞《ほうしよう》をくれるというのかもしれぬ。越前め、何ほどのことがあろう。おれには一指もよう触れまい、と心を直して勇気が出た。
坊主の案内で、御用部屋に行く。
御用部屋は将軍の御座の間から遠くはなれた「御膳立の間」を充《あ》てている。これには、上の間と下の間があり、上の間が老中、下の間は若年寄であった。幕府の政令はこの両間から出た。
美濃守が、上の間にすすむと、水野越前守忠邦が上座に坐っていたが、美濃守をじろりと見た。
美濃守は、なに、こやつめがと対抗意識に燃えた。家斉在世中の権威の滓《かす》がまだ身から払い落されず、あまり敬礼もしないで、越前の前に横着げに坐った。
「越前守殿。何やら手前に御用があるとのこと、何ごとでござろうか?」
いとも横柄な口の利き方であった。
越前守は、美濃守を見て急に風を起したように自分で威儀を正したが、突然の声も大きかった。
「水野美濃守、ただ今より御沙汰を申し聞かす!」
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陽《かげ》 炎《ろう》 の 絵
水野美濃守は、はっとなった。
老中水野越前守は威儀を正して、美濃守を睨《ね》めつけている。山のように動かない正しい姿勢で、美濃守が、思わず肩をぶるんと慄《ふる》わせたほどだった。
「御沙汰じゃ。水野美濃守、頭《ず》が高かろう!」
越前守が叫んだ。
本能的に美濃守が一膝すべって両手をついた。これは、将軍家の言葉だから、聴く作法になったまでだ。しかし、越前守の威厳が美濃守を威圧して平伏させたともいえる。
「そのほう儀……」
越前守が、美濃守の頭上で云った。
「菊の間|縁頬詰《えんがわづめ》仰せつけらる。奥へ立戻ることは相成らず、直ちに表へ出よ」
聞いている美濃守は仰天した。わが耳を疑ったというのが、このときの実感で、坐っている畳が傾いたか、と感じた。頭の中が虚空《こくう》のように軽くなり、急に自分の身体が冷たくなった。
「分ったら、相起ちませい!」
越前守が、追うようにつづけた。
美濃守は咽喉《のど》がひきつって声が出なかったが、それでも必死に顔を上げた。額も頬も汗が流れていた。
「う、伺いたき儀がござる」
美濃守は越前守に向って喚《わめ》いたが、わが耳にも、自分の声とは思えなかった。
「何じゃな?」
越前守が、皮肉に微笑したようだった。
美濃守は胸が逼《せま》って息苦しかった。
「て、手前、落度は、いかなる仔細か、承りとうござる」
将軍家の沙汰には、当人から理由を訊き返さぬのがしきたりだ。美濃守の反問は、勿論、老中水野越前守への詰問であった。
「ははあ、それを訊きたいと云われるか?」
越前守は、おとなしい眼に返っていた。
「しかと承りとうござる」
「されば申し聞かす。そのほう、ならびに林肥後守の出したる大御所様ご遺言と称するお墨附は、真赤な偽筆と相分った」
美濃守は、それを聴くと指先まで震《ふる》えた。
「こ、これはしたり、勿体なくも大御所様お墨附を偽筆などとは……、な、なにを証拠に」
「黙れ」
越前守は大喝した。
「文恭院様御台所にお目にかけたところ、はっきり偽書であると仰せられたわ」
あっ、と叫んだ。家斉夫人が否定したのだ。美濃守は、忽ち、越前守の黒い罠《わな》にかかった己《おのれ》を自覚した。
「これ」
越前守が、目配せすると、うしろより目附が二人入って来て、茫然自失している美濃守の肩をつかんで引立てた。
美濃守は、虚《うつ》ろな眼をして長い廊下を目附の腕に倒れかかるようにして歩いた。中の間《ま》の境までくると、目附は美濃守の肩を押しやって、彼を放逐した。
美濃守の貶黜《へんちゆつ》は、側用人を免ぜられたことだけではなく、家斉時代に受けた加増五千石は悉く取り上げられた。
若年寄林肥後守忠英の場合も、美濃守と同じであった。
これは御用部屋の下の間に入ろうとすると、相役永井肥前守が、つと起って来て、
「肥後守殿、ただ今、水野越前守殿がお呼びです」
と教えた。
林肥後守が、軽い気持で、上の間に入り、水野越前の前に何気なく坐った。政治向きのことで、何かの指示があるのかと思ったのだ。
水野越前守が、そこに坐った肥後守を見る。ふだんの眼つきで、別に変った様子もない。
「越前守殿、ただ今、何やら手前に御用がおありとのことですが……」
肥後守が訊くと、越前守は、急に坐り直して、肥後守の正面を向いた。
はてな、と肥後守が怪訝《けげん》に思った途端、
「林肥後守殿、ただ今より御沙汰を申し聴かすから左様心得られい」
と越前守の声が叱った。
はっとしたとき、
「御沙汰でござるぞ」
と越前守が重ねて叱咤《しつた》した。
肥後守が切られたように平伏する。まるで無我のうちだった。
「林肥後守、そのほう儀、かねて勤め方《かた》、尊慮に応ぜず、若年寄のお役ご免の上、菊の間|縁頬詰《えんがわづめ》を命ずる。かつ、加増の地八千石を召し上げられるにつき、左様に心得あるべし」
越前守は、ゆっくりと云った。美濃守の場合と違うのは、これはさして昂《たか》ぶりもせずに云ったことだ。
が、肥後守の耳には、すぐ傍で百雷が一時に落ちたかと思われた。あたりの声が一瞬にかき消えたのである。
あまりのことに、請け答えが出来ないでいると、
「これより御用部屋に入ること罷《まか》りならぬ。怱々《そうそう》に表へ出ませい」
と越前守が命じた。
肥後守は顔面蒼白、唖のように口が利けずに、ぶるぶる慄《ふる》えていると、
「肥後殿」
と、目附村瀬平四郎が、肥後守の肩衣をうしろから敲《たた》いた。
同じく目附牧野|中務《なかつかさ》がうずくまっている肥後守の脇に腕を入れると、乱暴な力で軽々と抱き起した。
林肥後守は抱き上げられて、ようやく足を畳につけた。顔中に冷たい汗が噴き流れていた。
爪先で畳を踏まえたが、急にあたりが黒くなって来た。最後の視界に入ったのは、越前守の嗤《わら》っているような顔つきである。肥後守は、ふいに己の身体が軽くなったと思った途端、意識を失った。
西丸側衆美濃部筑前守も、また、家斉死去後は本丸に容れられて小納戸頭取にとりたてられていた。
林肥後守は若年寄に、水野美濃守は将軍家側衆に、それぞれ出世していたから、彼らが世間の思惑にかかわらず、わが世の春のつづきをうたっていたのは無理もなかった。老中水野越前守何するものぞ、との驕慢があった。
が、これは越前守をあまりに甘く見くびり過ぎていた。人間は、そのままの位置から滑り落すよりも、一段上に昇らせてから、奈落に一挙に突き落した方が、よけいに転落の効果が大きい。
越前守忠邦にその計算があったかどうか。とにかく、故家斉の寵愛をうけた林肥後守も、水野美濃守も美濃部筑前守も、一段昇格させて陶然となっているところを、不意に落したのである。
美濃部筑前守の場合は、林肥後守や水野美濃守などよりも身分が低いだけに、悲惨であった。
小納戸頭取美濃部筑前守は、同じく水野越前守に呼び出されて、
「そのほう儀、つとめ方、思召に応ぜず……」
と罪状を申し渡された上、
「禄三千石を没収、甲府勝手|小普請《こぶしん》を申しつける」
と宣告された。
実は、美濃部筑前守は、この晩、小納戸頭取就任祝いに、親類、縁者、知友を屋敷に呼んで宴を張る支度をしていたのだ。
美濃部は、云い渡しを聞いて、御用部屋をよろぼい出た。
「甲府勝手……」
美濃部筑前守は酔ったような足どりで廊下を揺れながら歩いた。
放心した顔つきで、血走った眼をむき、呟いている。
「甲府勝手……」
甲府勝手は旗本に対する一種の処罰である。甲斐甲府城に勤務せしめるのだが、一旦、甲府に流されたら、再び生きて江戸に還るを宥《ゆる》されない。死ぬまで江戸の空を恋いながら、山を眺めて暮すのだ。甲府勝手は、山流しとも云って、いかなる不良旗本でも、その処分には慄え上ったものである。
美濃部筑前守は、ぶつぶつ呟きながら、廊下をよろよろして歩いてゆく。
事情を知らぬ者が廊下で行き合って、愕いてぶつかりそうな身体を避けた。筑前守は眼の前に何があろうが、盲目のようであった。
顔からは血の気がひいている。髪も鬢《びん》が乱れたままで、とんと狂人に違わなかった。
「筑前守様」
お坊主が二、三人、筑前守の様子に、恐る恐る寄って来て声をかけた。
筑前守はその声も耳に入らぬ様子で、相変らず、ぶつぶつと口の中で呟いていた。すでに眼の色が常人と違っていた。
石翁は懐手《ふところで》をして立っていた。
なま暖かい夜で、星一つ見えない。
見えるのは、数百挺という提灯が、立っていたり、動いたりしている。これだけの提灯が集まると、この広い一郭が、真昼のように明るいのである。
夥《おびただ》しい人夫が働いていた。その数も大そうなもので、千人近い土工が動いている。
家を壊す音が聴える。樹を挽き倒したり、塀を崩したりして、さまざまな音がしていた。土運びをしているのは、広大な池を埋めている連中だった。厄介なのは、大小無数の庭石で、人夫どもが懸け声をかけ、地面から掘り出して倒しているのだ。それを何処かに捨てにゆく組もある。
石翁は、立って、それを眺めている。
(一夜明けたら、この屋敷も田圃だ)
石翁は爽快な気がした。
負けた、となると未練を残さぬ男だった。さしも、数寄と壮大を誇った向島の屋敷を、いま、一気に叩き崩しているのである。
(越前。おれが負けた)
笑ってやりたいくらいだった。
家斉のお墨附をうかつに渡したのが不覚であった。危い、と思ったが、やはりそうだった。敵は家斉夫人に対しての工作を済ませていたのだ。
夫人は偽筆だと云った。家斉はこのような慄えた文字は書かぬと主張したという。病中だから、というこちらの言い訳は通らなかった。夫人が、夫の字を鑑定したのだ。だから間違いないというのが敵側の論拠だった。
夫人は、越前の云うことを聴いてお美代の方や石翁、水野美濃、林肥後の一派に復讐したのである。いや、夫の家斉にさえ復讐したのだ。
(見事だ。文句を云うところはない)
石翁は、向島の屋敷の崩壊する音を聞きながら、見えぬ水野越前に云っていた。
林肥後、水野美濃、美濃部筑前の三権臣の免黜《めんちゆつ》などは、敵ながら胸のすくようなやり方だった。雷が落ちたようなものだった。
(やったな、越前)
と讃《ほ》めてやりたいくらいである。
(負けた。きれいに引き退るよ)
石翁は、心の中で哄笑《こうしよう》していた。
地震のように、地をゆるがせて、大きな音がした。闇の中に、土煙が空まで立ち昇った。屋敷の大きな一棟が崩れ落ちたのである。
家も、庭木も、石も、悉く贅を尽したものだった。材も、木も、石も、諸大名が争って寄進したものが多い。向島の田圃の中に、まるで公方の住むような御殿が出来上っていたのである。
(何もかも無くなってしまえ)
一どきに数千の人夫を集めたのもそのためだった。癇性な男だけに、一刻が我慢できなかった。夜が明けるまでに、田圃にするつもりなのである。
広大、豪壮な屋敷は、文字通り、一夜のうちに消え失せてしまった。址《あと》には、瓦礫《がれき》と材木が山になっているだけである。
林のような植木も、悉く伐り払って隅田川の川風が吹き貫《ぬ》いてくる。無数の庭石のあとが穴になり、池は赤土で埋まってしまった。
(これで、せいせいした)
石翁は、懐手をして、あくびをした。
負け惜しみでなく、本気に思ったことだ。面白い夢を見せてもらった、と思えばそれでよい。大藩小藩を問わず、諸大名が争ってここまで音物《いんもつ》を持って頭を下げに来たのだ。
(生きていた甲斐があった)
と石翁は思うのである。現役は、ただの小納戸役に過ぎなかった。門地門閥も無い。それでいて、譜代、外様を問わず、各大名が彼の前に頭をこすりつけたのだ。男に生れた甲斐があったというものである。
(しかし、ちと長生きしたかな)
自然と微笑《わら》いが眼もとに出た。家斉の死と共に、彼の生命も終ったのである。もとより、家斉の一片の肉筆では防ぎようがなかった。水野忠邦が居なくても、没落は時の問題であった。悪いことは、家斉よりも、自分が早く死ななかったことである。
「これから、いずれへ?」
と用人が傍から石翁に訊いた。
「そうだな。大塚にでも行くか」
大塚、とふいに口に出して、自分でぎょっとした。別邸は、谷中、根津、吉原つづき、巣鴨、日暮しの里などにあったが、大塚が本郷に近い。やはり、心のどこかでは加賀藩邸を恃《たの》んでいるのか。
「お美代の方さまは……」
と用人が報らせた。
「本日、西丸を出られて、本郷の御守殿内にお移りになりました」
「………」
黙って、うなずいただけである。
(美代も、西丸から追い出されたか)
加賀藩邸の御守殿の主《あるじ》は、美代の女《むすめ》、溶姫であるから、わが娘のところに余生を求めたといえば立派に聞える。しかし、年々、二、三百両くらい捨扶持《すてぶち》をもらい、文恭院のお位牌《いはい》を守って、題目を上げながら、押し込め同様の生涯を終るのである。女のことだ。曾《かつ》ての栄華を想って、見果てぬ夢の未練に、泪を流すことであろう。
駕籠に乗って行く途中、石翁は、邸の近くで町家が騒動しているのを聞いた。
何だ、と訊くと、菓子屋、料理屋、酒店、餅屋など、およそ石翁のところへ音物を運びに蝟集《いしゆう》する諸藩の士を相手にした商人共が、石邸《いしやしき》の俄かの瓦壊《がかい》に、狼狽《ろうばい》して店を閉じるところであると云う。
「なるほど、これは、いかい迷惑をかけたものじゃ」
石翁は孤独《ひとり》になったのだ。もう、誰も寄りつきはしない。鼻もひっかけてくれぬだろう。老人は駕籠の中で、声を上げて笑った。
水野越前守忠邦の疾風迅雷の処断によって、家斉の寵を得ていた林肥後、水野美濃、美濃部筑前の一派が没落した。その余波が大きいのである。
今まで、石翁や、この三権臣への賄賂《わいろ》で、昇格や任官した幕吏は夥しい数である。それらが、あおりを喰《くら》って、津波をかぶったように、大浪にひき浚《さら》われてゆく。
退役や、役替は毎日のように発令され、その数は数千人に及んだ。
なかにも、悲喜劇は、田口五郎左衛門という旗本で、彼は水野美濃守の妹を女房にもらったお蔭で、加賀守と称し、長崎奉行までなり上った。それが四月十五日、勘定奉行に抜擢されて、その夜は、栄転の祝いにと飲めや唄えの大饗宴を催した。
しかるに、翌る十六日に登城したところ、田口加賀守儀、長崎奉行在勤中罪あるを以て免官、小普請入りを命ぜられ、加増分二百石を没収、その子は平常不行儀を以て、家督を下されざる旨の命が下った。
側衆五島伊賀守は、町々の抱屋敷や地面を買い込み、地代、店賃をとりあげ、上芝の辺には質店を出して、番頭には自家の紋付を着せて商売をさせ、数千両の財産をつくった。これも、美濃守一派の没落で、役儀取放、地所も取り上げられて、押込めとなった。これに類する噂は、毎日のように江戸市中に伝わった。
没落する組があれば、浮ぶ組もある。
今まで、石翁や、林肥後、水野美濃一派に睨《にら》まれて逼塞《ひつそく》していた者、賄賂を快しとせぬため、志を得ぬ者は、この度の改革で、俄かに浮び上った。
そのため、転役、退役の組と、新たに任官した組の引越しで、武家屋敷町は、地震のような騒ぎだったという。
大奥女中にも変革が起った。
美代、うた、そで、八重、いと、るりの家斉の衆妾は、いずれも髪を摘んで西丸を退った。それを取り巻いていた女中衆も、お城を退る。殊に、お美代の側近の、年寄、中老、中臈などの役職女中は、悉く追放された。
大奥は、水野越前守の改革で、一応、粛清が成った、──かに見えたのである。
この大騒動を江戸市民が喝采《かつさい》せぬ筈はなかった。
[#ここから1字下げ]
「ひご(肥後)ろから、かね(金)て覚悟はしながらも、かう、はやし(林)とは思はざりけり」
「みづの(水野)泡、消えゆく跡はみの(美濃)つらさ、重き仰せを、今日ぞきく(菊)の間」
「肥後米も、美濃、筑前も下落して、相場の立たぬ、評議まちまち(町々)」
[#ここで字下げ終わり]
早速、落首が出た。──
春の明るい陽ざしが町に落ちている。
町角に人が集まっていた。大そうな人だかりである。
その人の輪の中に、ひとりの男が瓦版《かわらばん》をもって喋《しやべ》っていた。
「東西東西、これより口上を以て申し上げまする。申し上げまする太夫は尾厄五免太《おやくごめんた》(御役御免だ)、はやし(林)は、みづのみの助(水野美濃守)、みの部ちく蔵(美濃部筑前守)にござりまする」
声は、ものうい春の昼下りを喚《わめ》いている。
「この度、ご改正につき、何がな珍しき芸道をご覧に入れとう存じますけれど、御存じの坊主(中野石翁)を初め、諸|侫人《ねいじん》ばらの仕くみましたる芸道は、道ならざる儀にて、なかなか当時の御意には叶いますまい。右につき、かねがね心づきましたる、肥後(林肥後守)下りの尾厄五免太連中が、なしくる業、馬鹿林にてご覧に入れまする。まず、五免太お目通り差し控えます。最初、相つとめまする芸道は、僅かの旗本よりだんだんと経上りまして、四ほん(品)竹の上に飛び移ります。これを名づけ権家の一足飛び、はい。是よりまた口先の勢いを以て、諸方の金銀を追々に手もとに取り入れまする。はい、かよう致しまして中段を相勤めまする者共は、手合せをいたし、自然と横しまになります。これよりなおなお登りますれば、はやし(林)につれて賄賂多きともがらは、次第に立身の体にござりまする。これを名づけて運の目、欲の川浪、これもお目にとまりますれば、八方の縁の綱は、一度に、ぷっつりと切れて、一万八千石を引くり返し、高は平の一万石と替り、八千石を棒にふります。まことにこの段は、放れ業にござりますれば、閉門のせつは、幾重にもご用捨おゆるしの程願い奉りまする……この儀、相済みますれば、ご先代の御方は一切お入れ替え。さあさあ、ご評判、ご評判……」
聴いている群衆は、喝采し、手を拍《う》って笑っていた。文句の意味は、何を表現しているのか、誰にも分った。みなが、溜飲を下げているのだ。思わず、かけ声を投げる者もいた。
この群衆の輪のうしろについて居た三人連れが、静かな足どりで、そこを離れた。
一人は島田新之助で、一人は医者の良庵だった。もう一人は新之助の傍についている豊春だった。今日は、艶やかな化粧をしているので、はたの者が、じろじろと見返るくらいだった。
「大そうな人気だな。水野越前さまは大当りだ」
良庵が歩き出して云った。
「どこへ行っても、ご改革の噂で持ち切りだね」
「うむ。みんな、今までの鬱憤《うつぷん》を晴らしているのだ」
新之助も足を運びながら云った。
「町人は、いつも黙っているが、上の方で変なことをしているのを見遁しはしないのだ。黙っているから、何にも知らないと思うと大間違いだよ」
来るときからの話のつづきを新之助はしていた。
桜の花は散ったが、葉が新緑に映えていた。飛鳥山一帯が葉桜で、その下に坐っていると、人間の顔が青く映るくらいである。
天気がいいので、花は無くとも、人が山を歩いていた。この辺一帯が江戸の行楽地だった。山の麓の茶屋も、客で大入りなのである。
茶屋から借りた茣蓙《ござ》を草の上に敷いて、新之助と良庵が酒を酌《く》んでいた。良庵が自慢の瓢箪《ひようたん》を持参に及んでいる。途方もない大きな奴だった。
蒔絵の重箱が真ん中に出ていたが、なかの料理は、豊春が朝暗いうちから起きて造ったものである。その豊春も、新之助と良庵の間に坐って、愉しそうに微笑していた。頬がうすく赧《あか》いのは、良庵から無理に酒をすすめられたせいだった。
「どこの患家を廻っても、その話でね」
医者が云った。
「石翁も林肥後も美濃部筑前も、水野美濃も散々なていたらくだ。それに引きかえ水野越前守の株の上りようは大したもんでね」
「患家は、前よりは殖えたかね?」
新之助が笑いながら訊いた。
「殖えた、殖えた。休んでいる間も長かったが、久しぶりに帰ったら、これがまた、えらい人気でね。やはり、これが、ものを云うらしい」
医者は、袖を捲って、瘠せた腕を出して見せた。
「そりゃ結構だ。永いこと休んだので、帰っても良庵さんの玄関が門前|雀羅《じやくら》を張ってるのじゃないかと心配していたところだ。食い扶持の合力《ごうりき》はするつもりだったがね」
「あなた……」
豊春が横から、新之助に眼を向けて、
「良庵先生を見くびっちゃいけませんよ」
とたしなめた。
「大きにそうだ」
良庵が笑った。
「けど、食い扶持の合力は、お志だけでも有難いね。いえさ、新之助さんが、それだけの身分になったことさ」
「役についたことかね?」
新之助はうすく笑った。
「新知三百石、当座、これで金に不自由しないと満更でもなかったが、もう、窮屈になったな。飽きっぽいおれのことだから、三日坊主になりそうだ。明日でも、気楽な小普請入りを願い出るかもしれぬ。叔父貴は、御廊下番頭になり、加増三百石でご機嫌だが、叔父貴とおれとは、骨の仕組みが違っているでな。おれのは土台が怠けものに出来ている……」
「けど、新之助さん」
良庵が惜しそうに云った。
「あんたの、その気性がわしは好きだが、折角、浮び上ったのだからね。やめるてえのは勿体ねえ話だ。それも賄賂《まいない》など使って、汚ねえことをして出世したんじゃねえ、自分の力だからね」
「自分の力?」
新之助が、眼で訊き返した。
「そうだとも。石翁一派を仆《たお》したのは麻布の大将や、あんたの力がどれだけあったか分らねえ。そこを水野越前守様が見込んで、お取立てなすったんじゃないか?」
「折角だが、良庵さん、それはちと違うな」
新之助が、口から盃をはなして云った。
「なるほど、叔父貴もおれも、少しは何かをしたかも判らぬ。叔父貴なんざ、脇坂殿と組んで、石翁一派と闘ったつもりでいるがね。なに、そんな人間の一人一人の働きなんざ知れたもんだ。そんなもので、公儀の大きな仕組みが変る訳はない。仕組みの前には、人間の小さな働きなどは、ものの数じゃないよ」
「けど、新之助さん。げんに水野越前様のために石翁や水野美濃、林肥後の連中が没落したじゃないか。美濃守なんぞは、信州高島へ永のお預けというからね、夢みてえな話さ」
「水野越前にしたところで」
新之助は云った。
「自分が石翁や林肥後の大屋台をひっくり返した気でいなさると大間違いだな。仕組みが変るのは、人間ひとりの力じゃない。人間の力ではどうにもならぬ別の仕組みが、ひっくり返すのだ。仕組みと仕組みの喧嘩さ。人間の力は、そこから、はじき出されている」
新之助は、ごろりと横になった。
「早い話が、水野越前の勢力も、いつまで続くかな。自分では大奥を退治したつもりだが、この怪物も黙ってはいまい。これも大奥という仕組みだよ。水野越前が自分の力で勝ったと思うと大間違い、いまに押えつけた仕組みに追い落される。ほら、このごろ、新しい政令が雨のように出るだろう。あの改革改革と性急なのが落し穴にならなければいいがね。実は、もう、はらはらしているところさ」
新之助は、豊春の膝に顎をのせて、じっと野を見つめていた。
「しかし、ちょいと面白かったな」
「何がだね?」
と良庵も、豊春も訊いた。
「この一年、自分のやったことさ。いまから思うと、一生懸命やったつもりだが、何の役にも立っていない。ただね……」
と野の草の上に眼を細めた。そこには明るい陽の下に陽炎《かげろう》が揺れていた。
「ほら、この陽炎のような、はかない絵を、ちっとばかり面白く見せてもらっただけだったな」
中野石翁、林肥後守、水野美濃守、美濃部筑前守などの一党が没落して間もなく、天保十二年十月に、お美代の方の実父日啓が住職をしていた鼠山感応寺が幕命によって破却させられた。
日啓は、雑司ヶ谷に二万八千余坪の地を家斉からもらって、七堂伽藍を作り、将軍祈願寺の号を申し下して、上野や芝と同格にするつもりで策動していたが、大伽藍が完成せぬうち、工事半ばで水野忠邦の命によって破壊されたのだ。
日啓は罪を問われて投獄せられたが、獄中で病を得て死んだ。
それから、七カ月経った天保十三年五月十二日、石翁中野清茂は七十四歳にして没している。牛込七軒町仏性寺に葬られた。法名は高運院殿石翁日勇大居士。──身分は僅か御小納戸役でありながら、養女美代を家斉に献じたばかりに家斉の信寵を得、法体となって隠居しても将軍相談役として随時登城し、権勢を張って驕慢を通した中野石翁は、高運院殿の戒名通り、まことに一代の幸運児であった。水野忠邦による晩年の不遇は、彼の長い生涯から見れば極めて短い時間であったといわねばならぬ。
お美代の方は、本郷赤門の御守殿の内に暮していたが、やがて実の女《むすめ》、溶姫がお国入りとなって加賀の金沢へ去ったので、仕方なく次の女末姫の縁先、浅野家の霞ヶ関の藩邸に引き取られた。
しかるに、末姫もまた、本国芸州広島へ往ったので、やむを得ず、また加州の本郷邸に扶助を頼む身となった。加州家でも、知らぬ顔が出来ぬから、下谷池の端に一戸を借り入れ、お美代の方を住まわせた。その間に、溶姫も金沢で死んだので、お美代の方はいよいよ心細い身となった。それでも、前田家ではお美代を本郷無縁坂の一寺に移して、明治初年まで女中七名をつけて世話したという。
一方、家斉側近の寵臣一派を膺懲《ようちよう》し、大奥を抑えつけて世間の喝采を浴びた水野越前守忠邦も、改革のあまりの性急による不人気と大奥の費用節減に怒った大奥女中の反撃と、反対党の策動に遇って天保十四年九月に老中を罷免された。
九月十二日、老中土井|大炊頭《おおいのかみ》が、忠邦に免職を申し渡すため「明十三日、麻上下にて登城のこと」との通告を出すと、忠邦は「癪気不参」と登城を断り、名代を出して罷免の申渡しを受けている。
さしも旭日の勢いであった忠邦も、たちまち、転落の人となったのである。栄枯は常に、人事の上に繰り返される「かげろうの図」の如きものであろうか。
水野忠邦が罷免されたと聞いた群衆は、何千人と知れず、その屋敷の前に集まって、ときの声をあげ、石礫《いしつぶて》を邸内に投げて暴行を働いたという。──改革当初、忠邦に喝采を送った同じ江戸の民衆がである。
[#地付き](完)
本作品は、江戸時代の差別的な身分制度を背景に描かれており、また、当時の社会がかかえていた差別を描写するため、現在の人権尊重の精神から考えると、公表に際して深い配慮の必要な言葉が使われています。しかし、物語の展開上、重要な状況説明として不可欠な表現でもあります。また、著作者はすでに故人であり、みだりに改訂することも許されません。熟慮の上、このような表現については、原文のままにしました。読者諸賢が差別根絶の立場から、本作の背景となった時代がかかえていた深刻な差別の事実や差別意識について注意深い態度で読んでいただくよう、お願いする次第です。
[#地付き]文春文庫編集部
初 出 東京新聞夕刊 昭和三十三年五月十七日から翌三十四年十月二十日まで連載
書 籍 松本清張全集25 「かげろう絵図」一九七二年 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年八月十日刊