[#表紙(表紙2.jpg)]
千里眼 美由紀の正体 下
松岡圭祐
目 次
イミテーション
ごく軽いG
歓迎すべき死
攻防戦
人生の真偽
パズルのピース
積み木
暗雲の記憶
購入者
同一人物
隠れ蓑
誘導尋問
アスファルト
孤児の帰還
知人の義務
湖畔
二十四年
傾斜
陽射し
新たな生命
結婚式
二か月後
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イミテーション
藍《あい》は団地の診療所に戻っていた。
美由紀《みゆき》の容態には、依然として変化はない。
いや、そうではない。衰弱が激しい。肌は昨晩よりもずっと青ざめていて、血管が浮きだしている。生気を失ってきているようだ。
瞼《まぶた》は開くこともなければ、ぴくりと痙攣《けいれん》することもない。
なぜこんなに衰えていくのだろう。動けなくする以外に、なにか施されているのか。
点滴用のビンが、藍の注意をひいた。
この液体が……。
薬剤師の紀久子《きくこ》が立ちあがって、美由紀に歩み寄った。「さあ。また注射の時間ね」
「あ、あの。紀久子さん」
「なに?」
「その注射、血流をよくするためって言ってましたよね?」
「そうよ。彼女のようすを見てわからない? この状態をなんとか維持できているのは、定期的に注射しているからよ」
「じゃあ、こっちは? この点滴のほう」
「高カロリー輸液よ。食事をとれない患者の生命維持のために、栄養を供給するの。高濃度のブドウ糖とかアミノ酸とかが含まれてるのよ」
「……いちど、外してもらうことはできないでしょうか」
「点滴を?」紀久子は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「どうして?」
「いえ、そのう、なんだか美由紀さんが弱ってきているみたいに思えるので」
「だからこそ外すことなんてできないのよ。わかるでしょ? 誰も栄養なしには生きられない」
「でもずいぶん長いこと点滴してるわけですから……」
「点滴ってのはね、ほんの少しずつ薬剤を投与するためにおこなうの。血中薬剤濃度の上昇を抑えて副作用を避けるためにね。だからまだ充分に投与したとは言えないのよ」
「……そうですか。わかりました」
紀久子はやれやれという顔をしながら、注射の準備に入っている。
藍はじれったく思った。紀久子が嘘をついているのはあきらかなのに、作業をやめさせる手段がない。
このままでは美由紀の命が危険に晒《さら》される。あの点滴が決して美由紀のためにならないことは、経過をみれば一目|瞭然《りようぜん》だ。
さいわい、いまはひとりで席をはずすことができそうだった。注射を終えるまで、紀久子はここを出られないだろう。
「外の空気を吸ってきます」と藍は戸口に向かった。
「すぐに戻ってよ」紀久子がいった。「彼女がいつ、どんな状態になるかわからないんだから」
「ええ、ほんの数分ですから」
そういって藍は廊下にでて扉を閉めると、エントランスとは逆方向に歩いた。
階段の辺りはひっそりとしていて、ひとけはない。いまのところ監視が現れるようすもない。
藍は自分の携帯電話を取りだした。
さっき喫茶店で美由紀の携帯電話を手にしたとき、伊吹直哉《いぶきなおや》の電話番号を見ることができた。頭に刻みこんだその番号をプッシュする。090─1763……。
伊吹は成瀬《なるせ》とともに、ARMSの店内にいた。
「ちょっと」成瀬は目を丸くしていた。「なんでこんな物を買いこむんです」
「さあな。知ったことか」伊吹は商品棚のあいだに延びる通路を行き来しながら、目についた商品を手当たりしだいにカゴに放りこんだ。
カゴのなかは、迷彩服や装備品、モデルガンでいっぱいになっていた。それらはすべて、ある国にちなむ物ばかりだった。
「さて」伊吹はカゴを床に置いて、なかをまさぐった。「だいたい集めたな。じゃ、これ、成瀬の分。そこの試着室で着替えなよ」
迷彩服を押しつけられた成瀬は目を白黒させた。「どういうことなんです。この軍服は……」
「イミテーションだけどよく出来てるな。ニュース映像で観る北朝鮮人民軍の服にうりふたつだ」
「なぜなんですか。どうして僕が北朝鮮軍のコスプレをする必要が……」
「ああ、待て」伊吹はカゴのなかからいくつかの品物を拾った。「それ、ベルトに突起があるだろ? そこにこの四角い手榴弾《しゆりゆうだん》を吊るすんだよ」
「手榴弾……」
「みなよ。変わったかたちの手榴弾だけど、よく再現してあるなぁ。もっとも本物はプラスチックじゃなくて鉄だけどな。このタバコの箱みたいな直方体のなかに、剛球が無数に詰めてあって、他国の手榴弾よりずっと殺傷力があるんだ。ピンを外して投げれば数秒でドカンといく」
「これを、腰に……。でもあの、伊吹さん。僕は……」
「それと、忘れちゃいけない金日成《キムイルソン》バッジ。これ左の胸につけるんだよ。階級章の上にな。あとはモデルガンだな。ええっと、AK47半自動ライフルは基本だが……これガスガンだな。銃口のあたり、マジックインキで黒く塗ってくれるかい? ガスの吸入口だってバレちゃまずいからな」
「バレるって? 誰を欺こうっていうんですか、いったい?」
「知れたことよ。んなもの、米軍にきまってるじゃねえか」
「な……伊吹さん、そんな……」
「だいじょうぶだって。あいつら基地勤務だから、敵兵とかまともに見たことねえし。それと、この筒。なんだかわかるか? RPG7って言って、対戦車ロケットだ」
伊吹は発射ボタンを押してみた。ポコンと音がして、ビニール製の弾が軽く撃ちだされた。
苦笑しながら伊吹はいった。「まあ遠目には玩具《おもちや》ってことはわかりゃしねえよ。ストラップがついてるから、肩から下げろよな。念のため、その対象年齢七歳以上っていうシールだけ剥《は》がしておいてくれ」
「伊吹さん! 僕には無理です。見てわかるでしょう、兵士っていう身体つきでもないし」
「心配するな。痩《や》せてるきみだからこそ、あの国の栄養失調気味のハングリーな兵士たちの雰囲気がばっちり再現できるんだ。絶妙なキャスティングだよ」
「でも……朝鮮語は知りませんし……」
「それは俺もさ。将軍様《チヤングンニム》マンセーとか言ってりゃいいんだよ」
「どうしてこんなことを。攻撃を受けるじゃないですか」
「そこがミソだ。たんなる不法侵入じゃなく、敵国の兵士が殴りこみをかけてきたとあれば、これは侵略だからな。すなわち開戦だ。保安部レベルで判断できる問題じゃなくなる。つまり、司令部の奴らが駆けつける」
「その前に蜂の巣ですよ」
「なら、のたれ死ぬ前に相模原団地とやらに駆けこんで、無理にでも建物を強制捜査させてやる。ほら、さっさと試着室に入れ。防衛大では三十秒で着替える訓練もあるんだぞ」
「とんでもない思いつきですよ」成瀬は泣きそうな顔をしながら、靴を脱いで試着室にあがった。「いったいどういう発想で導きだされた作戦なんですか、これは」
伊吹も隣の試着室に入った。「美由紀と初めて防衛大で顔を合わせたとき、あいつは中国の人民解放軍の制服を着てた」
「防衛大で中国軍の制服? ほんとですか?」
「ああ。自衛隊の歴史に残る珍事だよ。いたずら好きなクラスメートに騙《だま》されたらしいんだな。おかげで警備員に追いまわされるは、海上自衛隊の基地から応援は駆けつけるはで散々だったらしい。あいつがちゃんと防衛学とか戦史について勉強をし始めたのは、それがきっかけだった。二度と騙されないと心に誓ったらしいんだな」
「それなら僕らも中国にしましょうよ。温家宝《おんかほう》首相の訪日以来、友好ムードだし」
「馬鹿、それじゃ効果ねえだろうが。俺たちがアラブ系の顔つきなら最善だったんだが、さすがにイラク兵は無理があるってことで北朝鮮で妥協ってことだ」
「充分に危険だと思いますけどね……。ああ、やだな……」
伊吹は上着を脱いで迷彩服に着替えようとした。そのとき、上着のポケットに入っている携帯電話の振動に気づいた。
電話にでて伊吹はいった。「はい?」
「あ、伊吹さん」女のささやく声がした。「雪村藍です。さっきから何度も電話してるんですけど……」
「そうだったのか、すまない。取り込み中だったんでね。いまどうなってる?」
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ごく軽いG
藍は団地の隅に位置する階段の暗がりに身を潜めていた。もう一度、辺りに人影がないのを確認してから、携帯電話に静かに告げる。
「団地B2の一階にいる。住民専用の診療所がそこにあって、美由紀さんはベッドに寝かされてる」
伊吹の声がたずねてきた。「美由紀はどんな状態だ?」
「衰弱してる……と思う。点滴にきっと有害な成分が入っているのよ。でもそれを外させるわけにはいかないし……。わたしひとりじゃどうにもならない」
「わかった。怪しまれるような行動はするな。俺たちもすぐに行くから」
「どうやって? 通行証ないんでしょ?」
「方法はあるよ。きみのほうはどうしてるんだ。いまも診療室か?」
「いえ。抜けだしてきているの」
「それはよくない。すぐに戻るんだ。美由紀のそばにいてくれ。そのほうが奴らも思いきった行動がとりにくくなる」
「わかったわ。あ、それから、団地はゲートからまっすぐ入って林を超えたところにあって……」
そのとき、突如のように男の怒鳴る声がした。「ここで何をしている!」
振り向いた瞬間、平手が藍の頬をしたたかに打った。
藍は足を滑らせて転倒し、その場につんのめった。携帯電話が手から飛び、床に放りだされた。
八木信弘《やぎのぶひろ》は複数の男たちを従え、階段を降りてきていた。
じろりとした目で藍をにらんだ八木は、携帯電話を見ると、それを拾いあげた。耳にあてて低い声でたずねる。「誰だおまえ」
静寂のなか、電話の向こうが沈黙しているのが藍にもわかった。やがて、電話は切れた。ツー、ツーという虚《むな》しい音が反復する。
まだ頬に痺《しび》れるような痛みがある。口のなかも切れたかもしれない。藍は怯《おび》えながら、男たちが歩み寄ってくるのを見あげた。
「おい」八木は携帯電話を突きだした。「どこにかけていた。何を話した」
「……知らないわよ」
すかさず八木の硬い靴の爪先が藍の腹を蹴《け》りこんだ。
息の詰まるような激痛が走る。藍は腹部を押さえてうずくまった。
八木が藍の髪をわしづかみにして、引っ張った。
想像を絶する痛みに自然に涙がにじんできた。揺らぐ視界に、八木が顔を近づけてきた。
「答えろよ」八木が執拗《しつよう》にきいてきた。「誰に電話したんだ」
そのとき、廊下につかつかと歩いてくる足音がした。ハイヒールの響き。女だった。
紀久子が藍を見下ろして、ため息まじりにいった。「こんなことだろうと思ったわ。心電図の記録を見たら、けさの岬《みさき》美由紀の脈拍に不自然な変化があったとわかった。たぶん自己暗示で脈の速さを変えたのね。合図を受け取って、どうしようと思ったの? 自衛隊の仲間にでも連絡した?」
激しい動揺が襲ったが、藍はつとめて顔にだすまいと決心した。
「知らないってば」藍は怒鳴った。「電話しちゃ駄目だっての? 友達にかけてただけよ」
「ふうん」紀久子はいった。「じゃあ、その友達が誰なのか聞かせてもらおうかしら」
八木が立ちあがった。「ヒックス大尉を呼ぼう。女に秘密を吐かせるのは、大尉の専門だからな」
男たちの低い笑い声が響くなか、藍はぞっとするような寒気を覚えた。
追い詰められた。もう逃れようがない……。
伊吹はあわてて迷彩服に着変えると、装備品のイミテーションを身につけ、ブーツを履いて試着室をでた。
藍からの連絡が途絶えた。妙な男が電話口にでた。つまり彼女も捕らえられたのだろう。これで猶予はなくなった。
「成瀬!」伊吹は呼びかけた。「出発だ。もう時間がない」
隣の試着室のカーテンがそろそろと開いた。
投降する兵士のような半泣き顔で、迷彩服を着た成瀬が試着室から出てきた。
「これでいいですかね?」と成瀬はきいてきた。
「完璧《かんぺき》じゃんか……。すげえ似合ってる。自衛隊の演習に的がわりに参加したらどうだ?」
「それ、褒めてるってことですか?」
「まあな」
「じゃ、ありがとうと言っておきます……」
「きみのおかげで成功の確率もあがった。行くぞ」
伊吹は店の戸口に駆けだした。
軍事マニアらしい客たちがじろじろとこちらを見る。ずいぶん気合の入ったコスプレだな、と驚き呆《あき》れるような視線。伊吹は成瀬とともにそのなかをかいくぐっていった。
成瀬が情けない声をあげた。「伊吹さん。みんな見てるみたいですけど」
「しょうがねえだろ。こっちも好きでやってるわけじゃねえ」
駐車場のブガッティ・ヴェイロンに乗り込み、エンジンをかける。
世界最高のスポーツカーを北朝鮮軍用車両と思わせるのは癪《しやく》だが、ゲートを突破するにはこれぐらいのトルクは必要だ。人目を惹《ひ》きやすいデザインも、きょうに限っては有効といえる。
「いよいよだな」伊吹はつぶやいた。「幸運を祈ろうぜ」
「はい……。将軍様《チヤングンニム》マンセー」
「その意気だ」ギアを入れ替えてアクセルを踏みこんだ。伊吹にとってはごく軽いGとともに、ヴェイロンは急発進した。
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歓迎すべき死
診療室で、藍は後ろ手にゴムホースで縛られ、椅子に座らされた。
室内の気温は上昇し、ひどく蒸し暑かった。隙間もないほど大勢の人間がひしめきあっているせいだった。
薬剤師の紀久子、八木のほか、商店街で見た覚えのある顔が詰め掛けている。ほとんどが高齢の日本人だが、稀《まれ》にアメリカ人らしき者もいた。誰もが無表情のまま、藍と、すぐ近くのベッドに寝かされたままぴくりともしない美由紀を、かわるがわる見つめている。
八木たちがヒックス大尉と呼んだ男は、三十代半ばぐらいの白人で、この場では明らかに権力者らしく振る舞っていた。住民たちも大尉に反発するようすは見せない。むしろ従順たる僕《しもべ》と呼ぶにふさわしい態度をしめしている。
ヒックスは藍をしばし無言で眺めていたが、やがて美由紀に視線を移した。
仰向けに寝たまま人形のように動かなくなっている美由紀に、ヒックスは顔を近づけた。
犬のように鼻をひくつかせ、美由紀の全身のにおいを嗅《か》ぎまわるようなしぐさをした。
住民たちはそれを見て笑い声を漏らしている。下品で卑屈な笑い。それでもヒックスは、うけていると感じたのか、執拗にその動作をつづけた。
こんな男が軍人だなんて。藍は不快きわまりなく思った。
やがて、ヒックスは舌をだすと、美由紀の顔をべろべろと舐《な》めだした。
首すじから頬にかけて、鼻に、瞼《まぶた》の上に、ヒックスの唾液《だえき》が粘着性を帯びて糸をひく。
美由紀は無反応のままだった。実際には、美由紀には意識がある。悲鳴をあげて振り払いたいところだろうが、身体は痙攣《けいれん》ひとつ起こさない。
それをいいことに、ヒックスはベッドの上にあがり、美由紀の上に馬乗りになって、なおもしつこく顔を舐めつづけた。
この男が団地の悪事に手を貸しているのだとしても、住民のなかには身勝手な行為を不愉快に思う人間がいてもおかしくないはずだ。それなのに住民たちはなおも、つきあいのような笑い声をあげることを忘れない。老婦までもが、ひきつったように笑っている。
異常だ。藍は目をそむけた。ここの住民にまともな思考は働いていない。
ヒックスは、味わい尽くしたというように舌鼓を打った。
いまや美由紀の顔はべっとりと唾液にまみれている。
しばしその顔を眺めていたヒックスは、ぎょろりと目をむいたかと思うと、美由紀の唇を奪った。
藍は嘔吐《おうと》感を覚えた。
かなりの時間、ヒックスは無抵抗な美由紀の唇に吸いついていた。
やがて、満足そうな顔をあげたヒックスは、にやつきながら住民たちを眺め渡した。その歪《ゆが》んだ口もとに金歯がのぞいている。
住民たちにまた笑いが湧き起こる。拍手している者もいた。
ヒックスはふたたび美由紀の口にディープキスをした。下品な音を立てて周囲にアピールすると、住民たちが笑い転げる。
紀久子が心電図を指差した。「聞いてよ、この電子音。脈が速まってる。興奮してるのかもね」
げらげらという笑いが室内に響き渡る。
もう限界だった。藍は怒りとともに叫んだ。「やめてよ!」
ふいに周囲は静かになった。
冷ややかな視線が藍ひとりに注がれる。
それでも藍は物怖《ものお》じしなかった。こんな扱いを受けるいわれはない。
「やめてっていってるでしょ」藍は震える声で訴えた。「どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの。わたしたちは何も知らない」
静寂のなか、ヒックスは起きあがると、ベッドを降りて藍に歩み寄ってきた。
いきなり手を振りあげると、藍の頬を強く張った。
顔面の感覚が喪失したかと思えるほどの痛みと痺《しび》れが襲う。ヒックスは藍の胸ぐらをつかんできた。藍は椅子から引き立たせられた。
ヒックスは藍の腹に膝蹴《ひざげ》りを食らわせてきた。
胃の内容物が逆流し、吐きそうになる。酸っぱい味が口のなかを満たす。藍はげほげほとむせた。
後ろ手に縛られたまま、藍はヒックスに突き飛ばされた。
ふらふらと行き着いた先で、住民のひとりが唾《つば》を吐きかけてきた。
また周囲が湧きだした。笑い声や歓声、拍手が飛び交っている。
別の住民が藍の頬を張った。
その勢いで、よろめきながら部屋の反対側に向かうと、またその先にいた住民が髪をつかみ、投げ飛ばす。若い男がふざけたように、跳躍しながら体当たりを浴びせてきた。
藍は床に叩《たた》きつけられた。
全身の感覚が麻痺《まひ》し、意識が遠のきそうになる。
だが、その暇さえも与えられず、紀久子が藍の髪をつかんだ。
「ほら、立ちなさいよ」紀久子は指先に力をこめてきた。「岬美由紀が全身麻酔で動けなくなっているだけなのは知ってるわよね? 聴覚もちゃんと機能してる。悲鳴を聞かせてあげたら? さぞ辛《つら》いでしょうからね」
憤りがこみあげる。藍は、口をついて出そうになる嗚咽《おえつ》を押し殺した。
紀久子はにやりとした。「泣いているのをお友達に悟られないようにしようっての? いじらしいわね。でも馬鹿げた考えよ」
藍の髪をつかんだまま、紀久子は藍をベッドに向かわせた。前かがみになることを強制され、美由紀の顔が近づく。その状態で、紀久子の手に力が加わった。
「泣けよ」紀久子が怒鳴った。「泣き声を友達に聞かせな!」
こらえようとしても、自然に声が漏れる。藍は震える自分の嗚咽を聞いた。
住民たちの甲高い笑い声が響き渡るなか、藍はまた引き立てられた。
紀久子に羽交い絞めにされた藍に、ヒックスが前から近づいてきた。唾液を滴らせ、舌なめずりしている。
ヒックスの両手が、藍の首をつかんで締めあげた。
息ができない。指が気管を潰《つぶ》さんばかりに食いこんでくる。
たちまち思考が鈍り、意識が遠のいていくのを感じた。目に涙が溢《あふ》れ、視界はぼやけて何も見えなくなった。
「雪村藍」紀久子の声がする。「窒息死する原因は何かしら。首を絞められたから? それとも……」
言い終わらないうちに、ヒックスの顔が近づいてきて、藍の唇に吸いついた。
わずかな呼吸も塞《ふさ》がれ、肺に痛みが走る。つなぎとめていた意識も、潰《つい》えそうになっていた。
聞こえてくるのは、住民たちの笑い転げる声だけだった。
美由紀さん……。藍は心のなかでつぶやいた。
しばらく時間が過ぎた。
いや、意識を失ったせいで、そう感じただけかもしれない。
けたたましいブザーと、ベルの音が耳をつんざいた。
ヒックスの握力が緩んだのがわかる。藍は膝から崩れ落ちそうになった。
まだ意識が朦朧《もうろう》としている。涙のせいなのか、それとも視力が利かなくなっているのか、視界もおぼろげなものでしかない。
新たに住民が戸口から駆けこんできた。男の声はあわてていた。「アップルジャックだ。基地全域に発令されてる」
「アップルジャック!?」声を発しているのはヒックスのようだった。訛《なま》りのない日本語でヒックスがいった。「馬鹿いえ。警戒警報がどうして……」
「なんでも住宅区域に侵入者らしい。それもテロリストっていうか、北朝鮮の兵隊らしいんだ」
八木の怒鳴り声がする。「北朝鮮だと。確かか?」
「まだわからねえが、保安部は|キャンプ座間《ワン・オー・ワン》に無線でそう報告してる」
「まずいぞ」八木の声が近づいてきたのがわかる。「大尉。先日の再編で座間《ざま》には陸軍第一軍団が駐屯《ちゆうとん》してる。保安部だけじゃなく軍の正規部隊が来るとなると……」
ヒックスが大声で告げた。「カモフラージュしろ。全員、それぞれの仕事に戻って自然に振る舞うんだ。子供はひとり残らず部屋に閉じこめろ。決して外を出歩かすな」
紀久子がきいた。「この女は?」
「遊んでいる場合じゃなくなった。岬と同じく全身麻酔をきかせろ。一緒にクルマの事故で脳|震盪《しんとう》を起こしたと説明すればいい」
藍はベッドの上に放りだされた。
美由紀の身体の上に突っ伏したのを感じる。だが、もう全身に力が入らない。どうすることもできなかった。
あわただしい喧騒《けんそう》のなかで、藍の腕はつかみあげられ、ちくりとした注射の痛みを感じた。
わたしも身体の自由を奪われてしまう。美由紀と同じように、意識だけを内包する人形と化す。抵抗するなら今しかない。それなのに、力が入らない……。
泣くことしかできない自分が、情けなくて仕方がなかった。ほどなく痺れが腕にひろがり、さらに身体のあちこちに針の刺す痛みを感じる。身体は、藍のものではなくなっていった。
いっそのこと、意識を失ってしまいたい。何も感じることなく、死を迎えたい。
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攻防戦
伊吹はヴェイロンのステアリングを右に左に切って、碁盤の目状の住宅地区を走りまわっていた。
日本の住宅街とはまるで勝手が違う。塀のない開けた庭が広い歩道に面した北米式の住宅地は、運転しやすい反面、追っ手にも目がつけられやすくなる。保安部とおぼしき三台のジープを撒《ま》くこともできず、ただひたすら逃げまわるだけだった。
「きりがねえな」と伊吹は吐き捨てた。
助手席の成瀬は、顔面を蒼白《そうはく》にして声を張りあげた。「だからいったでしょう。こんな無謀な方法はとるべきじゃなかったんです」
「いまさら話し合いなんかできっこないぜ。腹をくくるんだな。ちょっと窓を開けて、AK47で撃つ構えでもしてくれないか」
「どうしてそんなことを。いたずらに相手を刺激するだけですよ」
「刺激したくてこういう恰好《かつこう》をしてるんだろうが。この手のスポーツカーは窓が小さくて、乗ってる人間が外からは見づらいんだよ。せっかくコスプレしてんのに、もったいないだろうが」
「無茶いわないでくださいよ! こんなことが職場に知れたら、部署の全員を巻きこむことに……」
目の前の角を折れて、ジープ一台が突進してきた。伊吹はとっさにステアリングを切ったが、最小限の角度に留《とど》め、アクセルも緩めなかった。
三人の迷彩服を乗せたジープはあわてたようすでステアリングを切りこみ、民家の庭に突っこんで、郵便受けにぶつかって停まった。
後方の追っ手とはまだ距離がある。伊吹はブレーキを踏みこみ、ヴェイロンをバックさせた。
成瀬の声は悲鳴に近かった。「なにするんです」
「だらしねえ保安部にお灸《きゆう》を据えてやるのさ」
伊吹は事故を起こして停車したジープのわきにヴェイロンを停めると、ドアを開け放って降りた。
ジープの三人はいずれも若く、衝突したことがショックだったらしく混乱状態だった。車両から降りてあたふたと駆けずりまわるばかりで、身近に迫った敵に気づいてもいない。
「おまえ!」と伊吹は朝鮮語で声をかけた。
ガスガンのAK47を構えて狙い済ますと、三人は怯《おび》えたようすで銃を手放し、両手を高々とあげた。
AK47の銃身を振って、さがるように合図する。三人は困惑の表情を浮かべたが、伊吹が撃つぞと脅すしぐさをしめすと、足ばやに引き下がっていった。
ヴェイロンの成瀬に、来いと合図する。
ドアが開いて、成瀬はよろめきながらでてきた。足がもつれているらしく、芝生の上に転倒した。
三人がとっさに動こうとしたところを、伊吹は銃口で威嚇《いかく》して押し留めた。
成瀬がジープの助手席に乗りこむ。伊吹は慎重に後ずさると、素早く運転席に乗りこみ、ギアを入れ替えてジープを発進させた。
ちょうど追っ手の二台が近づいてきた。伊吹はアクセルを踏みこんだ。さすがにヴェイロンに比べるとひどく鈍重だ。差を広げることは難しい。
「なぜです」成瀬がいった。「どうしてわざわざジープに乗り換えたんですか」
「屋根のないクルマじゃねえと俺たちの舞台衣装が見えねえっての。しかし保安部とはいえ、ヌルい追跡だな。発砲もしてきやしねえ」
「住宅街だから撃つのは控えているんでしょう」
「だろうな。成瀬、その肩からさげたRPG7を肩にかついでくれないか」
「こ、こうですか」と成瀬がいわれたとおりにした。
「そう。それで後ろを向け。シートのヘッドレストに顎《あご》をくっつけるようにしろ」
「はい……」
馬鹿正直に成瀬は伊吹の指示どおりのポーズをとってくれた。それはすなわち、対戦車砲で追っ手を狙い澄ます動作にほかならなかった。
さすがに追跡側も危機を感じたらしい。弾《はじ》けるような発砲音が響いてきた。
「撃ってきましたよ!」と成瀬は身をちぢこまらせた。
「そうだな。やっと面白くなってきた」
伊吹は何度か角を折れてジープをやりすごそうとしたが、距離は詰まる一方だった。アサルトライフルの発射音が響く。伊吹の乗る車体に着弾したらしく、裂けるような音とともに突き上げる振動が襲った。
タイヤを狙ってやがる。あいつらは生きるか死ぬかの勝負のつもりだろうが、こちらの装備は実はモデルガンばかりで丸腰同然だ。狙い撃ちされたらひとたまりもない。
前方に小さな人の姿を捉《とら》え、伊吹は反射的にブレーキを踏んだ。
ステアリングでわずかにかわした路上に、金髪にリボンを結んだ五、六歳の少女がいた。少女は恐怖に足がすくんだのか、ひきつった顔のまま立ちつくしている。
「ちょうどいい」と伊吹はジープを飛び降り、少女のもとに走った。
「伊吹さん!」成瀬が驚いたようにいった。「なにをするんです!」
「人さらいだ。このコスプレをしている以上、しっくりくる役づくりだ」
少女は凍りついたまま、伊吹に抱きあげられるにまかせていた。伊吹は少女をジープの後部座席に乗せると、ウィンクしてみせた。「俺たちゃ日本人だ。これは演習でね。一緒に遊ぼうや」
緊張の面持ちのまま無言で見返す少女に背を向け、伊吹はさっさと運転席に戻るとジープを走らせた。
追っ手がまた距離を詰めてきたが、発砲はなかった。人質がいることに気づいたらしい。保安部にどんなに血の気の多い輩《やから》がいたとしても、白人の子では見殺しにすることはできないだろう。
前方に別のジープが現れたため、伊吹は進路を変えてわき道に入った。保安部の車両はどんどん増えつつある。
だが、伊吹の求めている勢力はいまだ姿を現さない。
「陸軍はどうした」伊吹はつぶやいた。「本隊はいつになったら出てくるんだ?」
ゲート付近が見える道路に入ったときだった。保安部とは異なる迷彩服を着た兵士たちが、アサルトライフルをかまえて駆けこんできた。
伊吹はその人数に失望した。「たった五人かよ。がっかりさせやがる」
北朝鮮人民軍のコスプレも、たいした効果を挙げなかったか。
ところがその直後、伊吹は間違いに気づいた。
いきなり砂埃《すなぼこり》があがったかと思うと、金網のフェンスをなぎ倒し、二十台近くのストライカー装甲車が横一列になって突進してきた。
ダンプのように巨大な八輪のタイヤ、頑強な鉄製の装甲に、重機関銃を備えた走る凶器が、爆音とともに突き進んでくる。
恐るべきは装甲車だけではなかった。車両の隙間を埋め尽くすようにして、数百人の歩兵が雪崩れこんでくるではないか。
その歩兵たちの動きは、保安部の連中とはまるで異なっていた。まさに獲物に襲い掛かる豹《ひよう》そのものだ。第二歩兵師団第三旅団か、第二十五歩兵師団第一旅団と思われた。かつて日本の占領から朝鮮戦争と暴れまわった伝統の部隊の精鋭どもが、満を持して突撃してきた瞬間だった。
襲いかかる津波。伊吹はジープをUターンさせ、めいっぱいアクセルを踏みこんだ。
成瀬が悲痛な声をあげた。「伊吹さん! あまりにも作戦の効き目が大きすぎます!」
「いいじゃねえか。アメリカらしくてよ」伊吹は住宅地区の奥にみえる林めざして速度をあげた。
バックミラーをちらと見ると、後部座席の少女はひたすら凍りついている。
人質のおかげで発砲はない。だが、装甲車と歩兵は急速に追いあげてきて、包囲網はじりじりと狭まりつつあった。
路上に黒い影が走った。空を見あげたとき、伊吹は思わず息を呑《の》んだ。
上空はヘリで埋め尽くされていた。戦闘用アパッチが縦横に飛びまわるなか、そこかしこでUH60ブラックホークが低空に停止飛行《ホバーリング》し、垂らしたロープを歩兵が滑り降りてくる。
歩兵は住宅地区のあらゆる場所に展開し、市街戦の様相を呈しだした。
望むところだ。
伊吹は歩兵をかわしてジープを走らせ、前方の森に突っこんだ。
ところが、ミラーのなかに異変を見てとった。伊吹はブレーキを踏んで停車した。
成瀬が叫んだ。「今度は何です!?」
後方を振りかえる。
歩兵も装甲車も、林の入り口付近で静止していた。こちらを見据えてはいるが、前進してはこない。
舌打ちして伊吹はいった。「まずいな。団地に来てくれなきゃ意味がない」
「なぜ止まったんでしょう?」と成瀬がきいた。
「実戦だからさ。見通しの悪い雑木林には慎重にならざるをえない。それに、住宅地から俺たちを追いだした時点で、奴らにとっての危機の度合いは下がる。団地に住む貧しい日本人就労者たちはさして重視してないわけだ」
「米軍のそういう態度が、団地を犯罪の温床にしているというのに……」
「あいつらに説教でもするのか? 成瀬。いいか。連中によく見えるように、この女の子を降ろして遠ざかれ」
「……え?」
「女の子を連れてりゃ撃たれる心配はない」
「あなたはどうするんですか。米軍はいっせいに襲いかかってきますよ」
「そうでもない。まだ慎重な構えを崩さないからな。心配ないって。だいじょうぶ。ここは俺にまかせな」
成瀬は黙って伊吹をじっと見つめてきた。伊吹は視線を逸《そ》らした。
米軍が突撃をためらっているのは事実だ。成瀬が人質とともに降りたら、俺は将軍様《チヤングンニム》マンセーとでも叫んで、無理やりにでも歩兵を引き寄せてやる。
そして、たとえ銃撃されても、意地でも団地までたどり着いてやる。そうなったら、歩兵どもは団地に踏みこまざるをえなくなるだろう。
なぜか成瀬は無言のまま、伊吹を見つめつづけていた。
じれったくなって、伊吹は声を荒らげた。「早く行け!」
神妙な面持ちの成瀬は、少女を抱きあげると、ジープを降りた。
歩兵どもが緊張し、身構えたのがわかる。
成瀬が少女を抱いたまま、雑木林のなかに歩を進めた。
ジープからかなり距離を置いたところで、少女を地面に降ろした。そして身体を起こし、ゆっくり振りかえる。
いきなり、成瀬は歩兵に向かって叫んだ。「将軍様《チヤングンニム》マンセー!」
「ば」伊吹は驚いてつぶやいた。「馬鹿、あいつ……」
成瀬は少女のもとを離れ、ジープに駆け戻ってきた。
人質から距離を置いたとたん、重機関銃の掃射が始まった。鼓膜が破れそうなほどの銃撃音とともに、林のなかに小爆発のごとく弾幕が張られる。成瀬は、そのなかを必死に走ってくる。
助手席に成瀬が飛びこむのを待って、伊吹はジープを急発進させた。
「馬鹿野郎!」伊吹は怒鳴った。「なんて無茶するんだ。どうして戻ってきた!」
追っ手は、人質のいない北朝鮮兵士に手心を加えるつもりなど微塵《みじん》もないようだった。装甲車は木々をなぎ倒して前進してくる。歩兵の群れはアサルトライフルを乱射しながら林のなかに突っこんできた。
シートに座りなおした成瀬は、真顔でいった。「どうです。効果はあったでしょう? みんな追ってきましたよ」
「おい、成瀬……」
「あなただけ危険な目には遭わせられません。っていうより、伊吹さん。人質を降ろしたからには、死ぬつもりだったんでしょう?」
「……なんのことだよ、それ」
「とぼけないでください。あなたには婚約者がいるんでしょう? 死んじゃいけません」
「くさい話はそこまでにしときな。どうあっても俺の行いを美化したいのか?」
「命懸けで美由紀さんを助けたいのは、僕も同じです」成瀬は静かに告げた。「心から好きですから」
一瞬、時間が停まったかと思えるような瞬間だった。
頼りがいのない若造と思っていた成瀬が、そこまで真剣な思いを吐くなんて。
「言ったな」伊吹はアクセルを強く踏んだ。「覚悟をきめなよ、外務省。ちょっとばかり無茶するぞ」
「いつでもどうぞ。国家公務員である以上、命は国に預けてます」
伊吹は装甲車が背後に迫っているのに気づいていた。榴弾《りゆうだん》が発射される寸前、ブレーキペダルを強く踏みこむ。荷重がフロントにかかった瞬間、大きくステアリングを切った。
後輪がスライドして、ジープは横滑りしながら雑木林を抜けていった。直後に、本来の進路で爆発音とともに火柱があがった。砕け散った木の幹が破片を辺りに降り注がせる。
間一髪のブレーキングドリフトだった。だがそれも一時しのぎにすぎない。歩兵が側面に迫っている。
アクセルを踏みこんで速度をあげ、一気に林を抜けた。
目の前にひろがったのは、薄汚れた鉄筋コンクリートの建造物群だった。
これが相模原団地か。A1、A2と建物ごとに記されている。美由紀たちのいる診療所はB2だ。とすると、向こう側の建物か。
砂利道を駆け抜け、荒れ果てた庭を突っ切り、団地A2の向こう側にまわりこんだ。
驚いたことにそこはテナントの連なる商店街だった。住民たちが逃げ惑い、店のなかに飛びこんでいく。シャッターを閉める軒先もあった。
団地B1の前まで来たとき、いきなり前方から銃撃を食らい、ボンネットに火花が走った。
「伏せろ」伊吹は助手席の成瀬にいって、みずからもシートに浅く座って姿勢を低くした。
B1のエントランスの階段に身を潜め、自動|拳銃《けんじゆう》でこちらを銃撃する兵士がいる。第一軍団の歩兵ではなかった。基地勤務の大尉だ。
伊吹はステアリングを左右に揺らして蛇行運転しながら、容赦なく加速して大尉めがけて突進していった。
フロントガラスが銃撃に砕け散る。みるみるうちに大尉が目の前に迫った。目を大きく見開いたのがわかる。大尉は階段を昇って回避し、ジープはその階段に衝突した。
軍用ジープなのでエアバッグはない。伊吹はステアリングに顔を打ちつけそうになったが、のけぞることによってかろうじて胸部を当てるに留《とど》めた。
だが成瀬のほうはそうもいかなかった。ダッシュボードにもろに顔面を命中させたようだ。
「平気か?」と伊吹はきいた。
「ええ」成瀬はかなり痛そうにしながらも、身体を起こした。「年金をもらえない国民の痛みに比べれば、これぐらいは」
「公務員の鑑だよ、おまえってやつは」伊吹はドアを開け放ち、ガスガンのAK47を携えながら階段を昇った。
二階の廊下に入ると、大尉が走って逃げていくのが見えた。大尉もこちらに気づいたようすで、振りかえって拳銃を撃とうとしたが、弾切れだった。
扉を開け放ち、大尉はそのなかに逃げこんだ。その扉が閉められる寸前に、伊吹は駆け寄り、力ずくでこじ開けた。
鍵《かぎ》をかけようとしていた大尉はあわてた顔で後ずさった。伊吹は遠慮なく室内に踏みこんでいった。
そこはオフィスだった。団地内に作られた軍関係者用の部屋らしい、星条旗が壁にかかっている。机はひとつだけ、大尉以外には誰もいなかった。
大尉は必死で受話器をとり、電話をしようとしている。伊吹はAK47の銃床でその手をしたたかに打ち、さらに顎《あご》を殴った。大尉はもんどりうって倒れこんだ。
実際には殺傷力ゼロのAK47ガスガンの銃口を大尉に向けて、伊吹はきいた。「ふたりの日本人女性がいるはずだ。どこに隠した?」
戸口に駆けこんでくる足音があった。成瀬が息を弾ませながら入室してきた。
「伊吹さん。ご無事ですか」
「ば、馬鹿。日本語で喋《しやべ》るな」
大尉が妙な顔をした、そのときだった。
窓ガラスが割れ、ロープにしがみついた歩兵たちがいっせいに飛びこんできた。
と同時に、伊吹は後頭部に打撃を受けた。激しい痛みとともに、伊吹は床に突っ伏した。
あわただしい足音が室内にこだまする。脇を見やると、成瀬も同様に打ち倒されていた。
英語の怒鳴り声が飛び交ったあと、ふいに静寂が訪れた。
落ち着いた歩調の足音が近づいてくる。
「立て!」と歩兵がいった。
伊吹はそろそろと立ちあがった。AK47は手放さず、銃口を下に向けていた。
まっすぐにこちらを見つめているのは、迷彩ではない緑の制服をまとった陸軍の上級士官たちだった。その先頭の男は五十代後半ぐらい、胸には少佐の階級章をつけている。
「アルバート・エリクソン少佐だ」とその男はしかめっ面でいった。「貴様、北朝鮮のどの部隊の所属だ?」
「お待ちください」大尉が起きあがっていった。「そいつは日本人です」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せたエリクソンは、伊吹をしげしげと見つめながら日本語でいった。「この国にも敵性国家に与《くみ》するゲリラがいたとはな」
「ふざけろよ」伊吹は吐き捨てた。「なわけねえじゃん。どこの工作員が軍服で乗りこむんだよ」
「何者だ」
「そう怖い顔すんなって。身分証明書なら胸ポケットに入ってる」
取りだそうとしたとき、歩兵がいっせいに銃口を突きつけてきた。「動くな! 手をあげろ!」
仕方がないな。伊吹はいわれたとおりにした。
歩兵が慎重に近づいてきて、伊吹の胸ポケットをまさぐり、パスケースを引き抜いた。
それがエリクソン少佐に手渡される。
エリクソンはパスケースを開いて目を落とした。眉間にはさらに深い縦じわが刻まれる。
「伊吹直哉一等空尉」エリクソンは読みあげた。「第七航空団第三〇五飛行隊……」
大尉が目を瞠《みは》った。「なんですって!?」
だが上級士官はさすがに肝が据わっているらしく、さほどの動揺を見せなかった。エリクソンは成瀬に視線を移した。「そっちは?」
「成瀬|史郎《しろう》といいます」成瀬は両手をあげたまま、こわばった笑顔でいった。「外務省、文化交流部、国際文化協力室です」
「……で」エリクソンは伊吹に目を戻した。「国家公務員のふたりが揃って、その酔狂な恰好《かつこう》で相模原住宅地区に押し入ってきた理由は?」
「あんたみたいな上級士官に会いたかったからさ。相模原団地の抱える問題を直訴するには、これしか方法がなかったんだよ。まともに言ったって取り合っちゃくれねえだろうしな」
「問題とはなんだ」
「人身売買と武器密輸。女ふたりを拉致《らち》監禁。わかってるのはそれぐらいだがな」
エリクソンは大尉を見た。「ヒックス。この団地の管理はおまえの担当だな?」
「イエス・サー」ヒックスはうわずった声でいった。「ですが、ご覧のとおりこの建物は、質素でつつましい生活を送る労働者とその家族の住居でしかありません。その伊吹という自衛官の申し立ては意味不明であり……」
「意味不明だと?」伊吹は声を荒らげた。「一九五〇年から三代にわたって住みこんでる連中は、日本人でありながら地位協定の恩恵を受けて大使館員みたいにやりたい放題だった。本来は軍が目を光らせるべきところだったんだが、事実上隔離されたこの施設には監視の目なんかないも同然で、しかも保安部の大尉殿が犯罪者どもに手を貸してやがったからな。いまどき暗黒街の顔役にでもなったつもりかよ、大尉さん」
「でたらめを言うな! エリクソン少佐。この男たちが基地に不法侵入し、破壊工作同然の行動をとったことは事実です。すぐに司令部に連行して取り調べを……」
伊吹は声高にいった。「取り調べなら受けてやるぜ、ここでな。ついでに団地を歩兵どもに調べてもらったらどうだい? 未就学児童をいっぱい抱えたこの団地に、親なしの子供たちが大勢見つかると思うけどな。銃器も隠してあるだろうよ。住民の部屋は和室か? じゃあ畳も引っ剥《ぺ》がさないとな」
ヒックスが表情を凍りつかせた。
エリクソンはなおも硬い顔で伊吹を見据えた。「きみはさっき、ほかにも妙なことを言っていたな。女性を拉致監禁とか」
「そう。俺の元彼女をね」
「馬鹿な」ヒックスは目をいからせた。「診療所にいるふたりのことなら、ゆうべガヤルドで事故を起こし、私たちが救助したんだぞ」
「救助? その結果どうなってる? 無事か?」
「……脳|震盪《しんとう》で意識不明だが……」
「どうしてキャンプ座間の医療施設に運ばない? 動かすと危険だとドクターに言われたとか? おまえも軍人なら脳震盪がどんな症状かぐらい知ってるよな? たぶんドクターにも連絡とってないだろ? それに、ふたりの職場にはなんの連絡もないみたいだが、なぜ対処しない?」
「それは……名前も連絡先も不明で……」
「おまえ、ふたりがガヤルドで事故ったって言ったじゃねえか。この敷地内で起きた事故なら、車両も回収してんだろ? 車検証見りゃ名前もわかるだろうし、ナンバーを陸運局に問い合わせる手だってある。運転免許証も不携帯だったわけじゃねえだろ? そうでなくとも、オレンジのガヤルドの登録台数なんてそう多くはない。判明するだろが、すぐに」
徐々に冷ややかな空気が室内にたちこめだした。
エリクソンはヒックスにきいた。「大尉。どういうことなのか説明したまえ」
「いえ……。この男のいうことは詭弁《きべん》ばかりです。事故を起こしたふたりの身元確認はこれからですし、病院の手配も行おうとしていたところです」
「おい」伊吹はヒックスをにらみつけた。「事故なんてほんとに起きたのかよ? 人身売買の本拠地だって気づかれて、口封じのために殺そうとしただけじゃねえのか?」
「伊吹君」エリクソンがじっと見つめてきた。「人身売買というが、なにか確証があって言っているのか?」
「調べりゃわかることです。ここも大尉が使ってるオフィスみたいだから、帳簿ぐらい隠してあるでしょう。子供や銃器の在庫リストも存在するでしょうね」
ところがその瞬間、ヒックスの表情に笑いが浮かんだ。
「なるほど、帳簿ね」ヒックスは無造作に机の引きだしを開けた。「どうぞ。心ゆくまで調べていただいて結構」
伊吹は黙りこんだ。
ようすが変だ。ヒックスの態度ががらりと変わった。
帳簿やリストはないのか。いや、あるにはあるのだろう。見つからないと確信しているのだ。
エリクソンがいった。「伊吹君。歩兵にここを調べさせたとして、その帳簿であるとか、人身売買に関わる物証が出てこなかったとしたら、どうする気かね」
尻馬《しりうま》に乗るかのようにヒックスが甲高い声をあげた。「悪質な名誉|毀損《きそん》ですよ。それも不法侵入のうえでね。日本政府にも厳重に抗議することになるでしょう」
まずいな、と伊吹は思った。
室内を眺め渡しても、怪しむべきところはない。帳簿ぐらいどこにも隠せるだろうし、データ化されていたら小さなメモリーカード一枚で済む。
いまこの場で物証をエリクソン少佐にしめさないかぎり、ヒックスの犯罪は永遠に証明できなくなるだろう。歩兵が引きあげたら、ヒックスは証拠隠滅を図るに決まっている。
隠し場所はヒックスしか知らない。
美由紀なら、表情を見て一瞬で見破るところだ。だが俺の場合はそうはいかない。
どうすれば、ヒックスに本音を吐かすことが……。
と、そのときだった。いきなり成瀬が前に躍りでた。
「将軍様マンセー!」と成瀬は叫ぶと、腰から四角い手榴弾《しゆりゆうだん》のイミテーションを引き抜いた。
伊吹は面食らった。いきなりなにをするんだ、こいつ。
歩兵たちがいっせいに身構えた。エリクソンが後ずさり、ヒックスもびくついていた。
成瀬は手榴弾のピンを外し、床に放り投げた。
次の瞬間、ヒックスは猛然と棚に駆け寄り、懐中時計をひったくると、戸口に駆けだそうとした。
だが、室内の異変に気づいたようすで、ヒックスの歩は緩んだ。
なにも起こらない。爆発は起きない。
さすがに第一軍団の歩兵たちは、手榴弾が床に転がった音を聞いた時点で偽物だと気づいたらしい。成瀬を銃撃しようとする者はいなかった。
しんと静まりかえった部屋のなかで、互いの視線が交錯しあう。
やがて、エリクソンの目がヒックスに向いた。
ナイス、アシスト。伊吹は成瀬の機転に感心した。
エリクソンの顔が険しくなる。「ヒックス大尉。その懐中時計はなんだ?」
「あのう……」ヒックスは焦燥感をあらわにした。「これは、陸軍士官学校《ウエストポイント》を卒業したときに貰《もら》ったもので……」
「とっさに持ちだそうとしたな。なぜだ。そんなに大事にしているのか?」
「いえ。まあ。過去の記念ですから……。すみません。動揺しまして、意味のない物を手にとってしまい……」
「見せろ」とエリクソンが手を差しだした。
歩兵で埋まった室内では、抵抗するのは無駄と悟ったらしい。ヒックスは表情をこわばらせながら、懐中時計を手渡した。
エリクソンは時計を両手のなかでいじりまわしていたが、やがて裏蓋《うらぶた》を開けた。
その表情が曇る。
裏蓋のなかに差しいれた指が、一枚のメモリーカードをつまみだした。
ざわっとした驚きが歩兵のあいだに広がった。
「大尉」エリクソンは冷めきった目でヒックスに告げた。「なにが記録してあるのかね?」
「……それは……その……」
「連行しろ」とエリクソンは歩兵に命じた。「それから、全員でただちにこの団地内の捜索にかかれ。すべての部屋の天井裏から床下まで調べるんだ。怪しい住民は拘束してかまわん」
歩兵のアサルトライフルがヒックスに向けられる。
ヒックスは苦い顔で立ち尽くし、伊吹を一瞥《いちべつ》したが、やがて仕方なさそうに歩きだした。
ほっとして、伊吹は成瀬を見た。
成瀬も伊吹を見かえし、笑顔を浮かべた。「やりましたね」
「ああ、そうだな。勲章ものだよ」
扉が開き、ヒックスが廊下にでていく。
ところがそのとき、突然、日本人の男が飛びこんできた。
男はヒックスと歩兵の間に割って入り、手にした自動小銃を乱射しはじめた。
けたたましい銃撃音が轟《とどろ》き、銃火が稲妻のような閃光《せんこう》を走らせる。
歩兵がいっせいに散り、壁ぎわに姿勢を低くして応戦を開始する。狭い室内はたちまち銃撃戦の地獄と化した。
「伏せてろ」伊吹は成瀬を床に引き倒した。
煙と埃《ほこり》がたちこめる室内で、ヒックスが男に怒鳴る声がする。「八木、いくぞ!」
八木と呼ばれた男はさらにひとしきり自動小銃を掃射すると、後ずさって廊下に消えた。
伊吹は起きあがり、戸口めがけて突進した。
廊下に転がりでると、八木は振り返りながら銃撃してきた。
床に伏せて応戦しようとした伊吹は、手にしているのがガスガンだと知り、歯ぎしりした。俺はいつまでこんな物を後生大事に持っているのだ。
だが伊吹は、しろうとの銃撃相手にすくみあがることはなかった。狭い場所に移動してもまだセミオートに切り替えないのが奴の運の尽きだ。フルオートで掃射していれば、数秒で弾は撃ちつくす。
予想どおり、銃撃はぴたりとやんだ。八木があわてたようすで弾倉《マガジン》を引き抜いている。
伊吹は跳ね起きて猛然と駆けていった。八木が身構えるより早く、AK47を水平にスイングして、その手から自動小銃を跳ね飛ばした。
八木が獣の咆哮《ほうこう》のような声をあげて襲いかかってきたが、伊吹は八木の首を抱えこんで窓ガラスに衝突させた。そこから反対方向の壁に投げて後頭部を打ちつけさせると、ふたたび割れたガラスに向かって飛ばし、八木の身体を窓の外に放りだした。
前方で階段を駆け降りる音がする。ヒックスは外にでたらしい。
すかさず伊吹は窓の外に身を躍らせた。二階の高さ、八木がのびて倒れている地面に転がり、すぐに起きあがってエントランスに向かう。
ヒックスはもう外にでていた。中庭を走っていき、B2のエントランスを入っていく。
美由紀と藍がいるという建物だ。診療所は一階のはずだった。
廊下に飛びこむと、行く手の扉が半開きになっていた。
まだAK47ガスガンを握りしめている。武器といえばいまのところこれしかない。
診療所の看板のかかったその扉に駆け寄る。
扉を大きく開け放って中に踏みいったとき、伊吹ははっとした。
ベッドに寝かされているふたりの女のうち、ひとりをヒックスが肩に持ちあげて、連れ去ろうとしている。
しかもそれが、ほかならぬ美由紀であることを、伊吹は一瞬で見てとった。
ヒックスが振りかえり、伊吹に目をとめた。「紀久子、そっちの女を始末しろ!」
命じられたのは、白衣を着た女だった。診療所に似つかわしくない巨大な刃を持つナイフを振りかざし、ベッドに向かう。
藍は無反応まま、目を閉じたまま横たわっている。
紀久子が藍の胸もとめがけて、ナイフを振りおろそうとしている。
伊吹はとっさにAK47を紀久子に投げつけた。紀久子の反射神経は発達していた。片手でAK47を受けとめた。
だが、弱点は思いもよらぬところで発覚した。紀久子はナイフよりも銃のほうが武器として有効と考えたらしく、ナイフを投げ捨ててAK47を構えた。
その隙を突いて伊吹は突進していった。紀久子はあわてたようすで藍に向かって引き金を引こうとした。
むろん、ガスガンに弾などこめてはいなかった。紀久子が本物の銃でないと気づく素振りをみせたころには、伊吹は容赦なく紀久子の両手首をつかみ、ダブルアーム・スープレックスの要領で後方に投げ飛ばした。紀久子の身体は風車のように回転しながら薬品棚に突っこみ、けたたましい音をあげてガラスの破片を飛び散らせた。
振り返ると、ヒックスは美由紀を抱えたまま、窓の外に飛びだしていた。
廊下には別の足音がある。伊吹は棚の影に身を潜めた。
駆けこんできたのは成瀬だった。苦しげに息を弾ませながら、室内を見まわしている。
伊吹は藍に近づいた。左の手首をつかむと、脈があるのがわかる。
ワゴンテーブルの上には無数の注射器が散らばっていた。伊吹はそのうち一本を手にとり、においをかいだ。
「麻酔だな」伊吹はそれを放りだした。「意識はあるけど動けないってのはこれのことか。可愛そうに……」
「眠ってはいないんですか」と成瀬がきいた。
「ああ。いまも耳は聞こえているだろう。心配すんなよ、藍ちゃん。頼りになる奴を置いていくからな」
「頼りって……?」
「きみだよ、外務省のエース。彼女を頼んだぞ」
「どこへ行くんですか」
「元カノを取り戻すんだよ。復縁するって意味じゃないぜ、文字どおり取り返すのさ」
伊吹は窓辺で跳躍し、外に飛びだした。
中庭にひとけはない。ヒックスも姿を消していた。
ところが、階上から悲鳴がした。それも複数だ。
声が聞こえるB3のエントランスに向かって走った。階段に飛びこむと、二階から子供たちが叫びながら駆け降りてきた。
粗末な服に痩《や》せた身体、まるで難民のような子供たちだ。たぶんこの子たちが……。
流れに逆らって伊吹は階段を昇っていった。
廊下を大勢の子供たちが逃げてくる。何人かは栄養失調のせいか、足をふらつかせていた。
伊吹はその子供を抱きかかえながらきいた。「しっかりしろ。どの部屋から来た?」
すると子供は、伊吹の知らない国の言語で喋《しやべ》りながら、廊下の先を指差した。
その差ししめされたほうに目を向けた、そのときだった。
開け放った扉から身を乗りだしたヒックスが、サブマシンガンでこちらを銃撃してきた。
とっさに伊吹は子供をかばって床に伏せた。弾丸は、耳もとをかすめ飛んで壁を砕き、石膏《せつこう》の破片を飛散させる。
ヒックスは片手にサブマシンガンを撃ち、反対の手で肩の上の美由紀を支えながら、廊下を逃走していった。
「ここにいろよ」と伊吹は子供に告げると、立ちあがって走りだした。
開いた扉のなかに入る。狭い和室、畳が引き剥《は》がされていた。その下におさまっていたのは、黒光りする銃器類だった。
伊吹は踏み入っていくと、それら闇市場の商品をざっと眺め渡した。すぐに使えそうなものが目に入る。日米合同訓練で撃たせてもらったベレッタM92と、そのマガジン数本をつかみとった。
弾丸のぎっしり詰まったマガジンをグリップに叩《たた》きこむと、遊底《スライド》を引いて弾丸を装填する。
ベレッタをかまえながら廊下にでた。もうヒックスの姿はない。反対側の出口から逃げおおせたようだ。
油断なく歩を進めていき、伊吹はまた中庭に戻った。
静寂がある。風の音さえも聞こえるほどだ。
ところがすぐに、その静けさを破って銃声が轟《とどろ》いた。
姿勢を低くして辺りを見まわしたが、人影はなかった。
銃撃音はさらに続いている。商店街のほうから聞こえるようだ。
伊吹は走りだした。いつ物陰から敵が姿を現しても反撃できるよう、両手で銃のグリップを握り、銃口を肩の高さに保ちながら走った。
商店街に近づくと、銃撃音はいっそう激しくなった。
歩兵がそこかしこに身を潜め、テナントの軒先に向けてアサルトライフルを発砲していた。
物陰に隠れてようすをうかがうと、喫茶店の窓から老婦が顔を覗《のぞ》かせ、拳銃で応戦している。
ヒックスはどこだ。伊吹は伸びあがって遠方を見やった。
エンジンのかかったフォルクスワーゲン・ビートルが停車している。ヒックスがその助手席に、ぐったりとした美由紀を運びこんでいた。
それだけ確認すると、もう伊吹には待っている理由などなくなった。
銃撃戦のなかにずかずかと踏みいり、歩を進めていく。弾丸が頭のまわりをかすめ飛んでいるのがわかる。避ける気などなかった。老婦の撃つ弾の命中率がどの程度のものか、すでに把握できていた。これで当たるのなら、ただ運が悪かったというだけだろう。
「おい!」後方で歩兵の怒鳴る声がする。「戻れ! 危険だぞ!」
エリート揃いの第一軍団歩兵はどんなときでも慎重だ。だが、ただ危険というだけでは、俺が踏みとどまる理由にはならない。
商店街を不敵に突っ切ろうとすると、喫茶店の老婦があんぐりと口を開けているのが見えた。予測不能の行動に驚いたのだろう。
しかしそれも数秒のことで、すぐに老婦は銃口を伊吹に向けて、狙い澄ましてきた。
互いにマッハの速度で飛びまわる戦闘機どうしの撃ち合いに比べると、老婦の動きなど緩慢すぎて、攻撃とは呼べないものだった。
伊吹は歩きながら老婦の肩を狙って二度、引き金を引いた。耳をつんざく銃声と、反動を二度手のなかに感じる。
老婦は悲鳴をあげて、窓のなかに引っこんだ。がちゃんと食器が割れる音がする。
気の毒に。もう店じまいだろう。
リサイクルショップのほうから四人ほどが駆けだしてきた。いかつい顔の男ばかりで、手にはそれぞれ異なった種類の銃器を携えていた。
だが、伊吹に向けられたそれらの銃口が火を噴くことはなかった。伊吹はつづけざまにベレッタを四発発砲し四人の膝《ひざ》を撃ち抜いた。苦痛の呻《うめ》き声の四重奏が響くなか、伊吹はビートルめざして突き進んだ。
ビートルが走りだした。砂埃《すなぼこり》をあげながら、逃走を図ろうとしている。
伊吹はベレッタで銃撃した。連射すると、ビートルのテールランプが砕け、ナンバープレートが傾いた。弾が切れ、マガジンを落として素早く次のマガジンを装填《そうてん》する。さらに撃つ。タイヤがパンクした。ビートルは蛇行しはじめた。
なおも銃撃をつづける。リアエンジンの空冷水平対向四気筒OHVの機能停止を狙ってひたすら撃つ。排気管から黒煙があがった。クルマの速度が落ちる。伊吹は撃ちつづけた。またマガジンがからになった。交換して、銃撃を浴びせつづける。
ついにビートルの後方で爆発が起き、ボディの尻《しり》の部分に火球が膨れあがった。轟音《ごうおん》とともに火柱が噴きあがると、ビートルは停車した。
まだ運転席まで火はまわっていない。古いといえどドイツ車だ、そのあたりの設計はしっかりしている。
運転席側のドアに近づき、開け放つと、ヒックスがびくついた顔を向けてきた。
「ま、待てよ」ヒックスはうわずった声をあげた。「自衛官だろ? 人を殺しちゃいけねえ。それも同盟国の人間をな。そうだろう?」
「……ああ。まあな」
伊吹はヒックスの襟首をつかみ、乱暴に引きずりだした。そのまま地面に転がす。
「なにしやがる」ヒックスは怒鳴った。「自衛隊は専守防衛が原則だろうが。先に手をだす気か」
「あいにくだな。最近じゃ武力攻撃事態法で、先制的自衛権も可能になってるんでな」
間髪をいれずに、伊吹はヒックスの両手両足に一発ずつ、計四発を撃ちこんだ。
断末魔のような悲鳴をあげ、ヒックスは転げまわった。悪態をついているようだが、英語のスラングはよくわからない。
車体を迂回《うかい》し、助手席側にまわる。ドアを開けると、眠ったように目を閉じたままの美由紀がそこにいた。
抱き起こそうとしたとき、美由紀の囁《ささや》く声がした。「伊吹……先輩……」
麻酔が切れてきたらしい。じきに、目も開くだろう。
伊吹は左の薬指から婚約指輪を抜き取り、ポケットにおさめた。
ため息をついて、美由紀の顔を見やる。
あどけない寝顔。それでも意識はある。いま何を考えているだろう。
「安心しろ。もうだいじょうぶだ」伊吹はつぶやいて、美由紀を抱きあげた。
クルマから歩き去ったとき、後方で激しい爆発が起きた。わずかに爆風と熱を背に感じたが、たいしたことはなかった。いまの伊吹にとっては、そよ風と同じだった。
そういえば、微風が心地いい。陽も傾きかけている。こんな夕方に、ふたりで歩いたこともあった。いまこの時間も、じきに過去の思い出のひとつになる。
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人生の真偽
美由紀はぼんやりと目を開けた。
白い天井。だが、あの忌まわしい団地の診療所ではない。
まだ麻酔の効力は残っているらしく、脚に痺《しび》れがある。けれども、視界は戻った。首も動かせる。辺りを見まわすことができた。
病院の診察室。広々としていて真新しく、設備が行き届いている。大勢の看護師が右往左往しながら、患者が横たわったストレッチャーを次々に運びこんでいる。
その患者たちは子供ばかりだった。団地で見かけた、栄養失調ぎみの子供たち。
安堵《あんど》のため息が自然に漏れた。みんな救出されたのか。
外からはひっきりなしに救急車のサイレンが聞こえる。まだ子供たちの搬送はつづいているようだ。
近くを女性看護師が通りがかった。「先生が、こっちの子たちは内科に移してって。すぐに栄養を補給してあげたいそうよ。向こうの子は怪我の手当てが先。急いで」
看護師は同僚に指示を送ってから、こちらに目を向けた。
美由紀と視線が合うと、看護師は微笑んだ。「具合はどうですか?」
「……ええ」美由紀は力のない自分の声をきいた。「最悪」
「先生を呼んできます。すぐ診察してもらえるから、待っててくださいね」看護師はそういって立ち去りかけた。
「あ、すみません。ここはどこなの?」
「飯田橋の東京警察病院。もし起きあがれそうでも、まだ動かないでください。じゃ、あとで」
歩き去る看護師の背を見送ってから、美由紀は天井に目を戻した。
ここに運ばれた経緯を覚えているだろうか。麻酔のせいで瞼《まぶた》が開かなかったから、音しか聞こえなかった。救急車に乗せられた記憶はある。ほどなく、眠りにおちてしまった。
なぜ眠ったのだろう。
答えはすぐに思い当たった。安心したからだ。伊吹が一緒に救急車に乗った。彼の声を聞くうちに、緊張が解け、疲れがどっと溢《あふ》れた。
そしていま、麻酔が解け、自然に目が開いた。
美由紀は、入院患者用のベッドに寝ているわけではないことに気づいた。まだストレッチャーの上だ。あまりに大勢の子供たちが一度に救助されたせいで、ひどくあわただしい。
隣りにもストレッチャーが並べられていた。そちらに視線を向けたとき、美由紀ははっとした。
横たわっているのは藍だった。藍はこちらをじっと見つめていた。
「藍……」美由紀はつぶやいた。
すると、藍の目にみるみるうちに涙の粒が膨れあがっていった。口もとに微笑が浮かんだが、こみあげる衝動を抑えられなくなったように、藍は泣きじゃくりだした。
「美由紀さん」藍がささやいて、手を差し伸べてきた。
抱きしめてあげたかったが、動けなかった。寝返りひとつ打てない。美由紀も手を伸ばし、藍の手をしっかりと握った。
「藍。ありがとう、本当に。あなたがいなかったら、わたしは死んでた……」
「……美由紀さん」藍はぼろぼろと涙をこぼした。「怖かったよ。ほんとに怖かった……」
「わたしもよ。よく頑張ったね。藍」
震える藍の手が、離れまいとするように絡みついてくる。美由紀も離れたくはなかった。握る手に力がこもった。
随意筋のすべての運動が効かなくなり、まるで死体のようになった自分の身体に心だけが封じこめられるという経験が、いかに恐ろしいものであるかを実感した。藍が騙《だま》され、危険な目に遭い、苦しめられているのに、わたしにはどうすることもできなかった。
藍がわたしと同じように麻酔注射を強制されたとき、わたしは泣き叫ぶ藍の声に耳を傾けていた。怒りと悔しさで胸が張り裂けそうだった。
「ごめんね」美由紀もいつの間にか泣きだしていた。「わたしがしっかりしていたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのに」
「美由紀さん……。美由紀さんは以前、わたしを助けてくれた……。命の恩人だから、わたしも最後まで努力しなきゃって思ったのよ。けど、本当に怖くて、気持ち悪くて。伊吹さんが助けてくれなかったら、どうなってたかわからない……」
「そうね。藍。心から感謝してる。あなたは最高の友達よ」
「助かってよかった、美由紀さん。よかった、美由紀さんが生きていてくれて」
ようやく藍は心が鎮まりだしたかのように、深いため息をついた。目を閉じると、涙がまた零《こぼ》れ落ちた。
美由紀も瞼の重さを感じ、目をつぶった。藍の手の温もりを感じながら、眠りに落ちていくのを悟った。
ストレッチャーのキャスターが転がる音がして、かすかな振動を感じる。美由紀は眠りから覚めた。
自分が廊下を運ばれているのに気づく。ストレッチャーを押している看護師の顔を、美由紀は見あげた。
「どこに行くの?」美由紀はかすれた声できいた。「藍はどこ?」
「心配いりませんよ、岬さん」と看護師はいった。「治療の合間に、たしかめてほしいことがあるらしくて、お連れするように言われただけです。雪村さんのほうは先に入院棟に移動してます」
「そうですか……」
たしかめてほしいこと。いったい何だろう。
看護師がストレッチャーを運びこんだのは、診察室とは異なる雰囲気の部屋だった。
医療器材置き場のようだが、ソファが並んでいて客間にもなっている。職員の仮眠室か当直室かもしれない。
室内にはふたりの男がいた。そのうちひとりはスーツ姿の白人。もうひとりは日本人で、見慣れた顔だった。
Tシャツにデニム姿の、たくましい二の腕をした浅黒い男。伊吹直哉が歩み寄ってきて、美由紀の顔をのぞきこんだ。
「やあ、美由紀」伊吹は静かに語りかけてきた。「無事かい?」
また泣きそうになる。
涙をこらえながら、美由紀はつぶやいた。「伊吹先輩……。来てくれると思った」
「まあな。……それにしてもひどい顔だな。防衛大の第三学年のころ、勝手に学生舎抜けだしてヤケ酒をかっくらって戻ってきた日のこと、覚えてるか」
「ああ……あの人生最悪の朝……」
「そのときを彷彿《ほうふつ》とさせる顔だ。でもな、生きててよかったよ。ほんとに」
伊吹の厚い手が美由紀の額に触れ、そっと撫《な》でた。
自然に涙がこぼれる。昔の男の前では泣きたくなかったのに、こらえられなかった。
「ありがとう」美由紀はささやいた。「伊吹先輩」
「礼なら外務省の成瀬にいいなよ」
「成瀬君も……団地に来てたの?」
「ああ。事情の説明だけじゃなくて、救出作戦にもおおいに貢献してくれたよ。ただし、見舞いには当分来れないと思うけどな。いまは外務省に呼びだされて大目玉を食らってるからな」
「そんな……。わたしのために……」
「心配ないって。キャンプ座間の司令官から日本政府に事情説明があったからな。アメリカなら緊急事態だったと見なされて容認される範疇《はんちゆう》だと伝えてくれた。羨《うらや》ましい寛容さだよな。成瀬も減俸処分ぐらいは痛いと思わないだろうぜ。愛する女のために死ぬ覚悟もできてたぐらいだからな」
「愛する女って? 成瀬君の恋人も団地に捕らえられていたの?」
「……ったく、恋愛についちゃ大ボケかましまくりだな。これじゃ成瀬の努力も永遠に浮かばれねえな」
そのとき、伊吹の肩越しに白人の男が声をかけてきた。「よろしいですか」
「ああ」伊吹は男にうなずいてから、美由紀に告げてきた。「こちらはアメリカ大使館の職員で、相模原団地事件の担当になった……」
「ジョージ・ドレイクです、よろしく」男は控えめな笑顔とともに会釈した。「早速で恐縮なのですが、Tongue Printをとらせていただきたいんですが」
「Tongue?」美由紀はきいた。「舌ですか? 指紋《フインガープリント》じゃなくて?」
「舌なんです。日本語では、舌紋とでも言いましょうか。これも指紋と同じく人によって異なっているんですよ。幼児のころに記録したパターンは、サイズが大きくなってもパターンそのものは一生不変というのも、指紋と同じです。舌紋を指紋がわりにしている公的機関は私の知るかぎりないのですが、アラヒマ=ガスでは採用してましてね」
「アラヒマ=ガスって?」
「あの団地の人身売買組織の名です。東アジアを中心に展開していることは各国の警察も認識していたんですが、その拠点がまさか相模原団地とはね。ただし、判ってしまえば簡単なことでした。組織の名の由来も……」
「ええ」美由紀は気づいたことを口にした。「アラヒマ=ガス。相模原をアルファベットで綴《つづ》って、逆から読んだだけ」
伊吹が唸《うな》った。「その調子じゃ脳のほうも正常だな」
ドレイクは美由紀にうなずいた。「団地は第一軍団の歩兵によって制圧し、司令部が派遣した調査部隊によって隅々まで調べられています。十二歳以下の子供は百二十二人見つかったんですが、ヒックス大尉の持っていたメモリーカード内のデータによれば、うち七割の子が人身売買の商品扱いだとわかりました。貧困家庭から買い取ったり、孤児を連れてきたりして商品に登録する際、舌の模様を記録したんです。指紋にしなかったのはどうやら、両手のない子も度々いたからという理由らしいです」
「そうですか……。でもどうして、わたしの舌紋をとるの?」
「美由紀」伊吹が真顔でつぶやいた。「いいから、言うとおりにしてくれ」
困惑を覚えたが、美由紀はうなずいた。
「では」ドレイクが透明なセロファンの小片を差しだしてきた。「これを舌にあててください。軽く一度当てるだけで結構です」
美由紀は上半身を起こした。貧血を起こしたように頭がくらくらする。
セロファンを受け取り、舌をだして指示どおりにした。
「結構です」ドレイクは美由紀からセロファンを渡されると、部屋の隅に歩いていった。「少々お待ちください」
ソファに面した客用テーブルに、ノートパソコンとプリンターのような機材が置いてある。ドレイクはその機材にセロファンを読みこませ、パソコンのキーを叩《たた》いた。
「ねえ」美由紀は伊吹にきいた。「伊吹先輩は百里《ひやくり》基地に連絡をとったの?」
「とるも何も、向こうから飛んできたさ。津島《つしま》一佐って知ってるか。前に飛行隊長やってて、いまは管理のほうにまわってる人だが」
「ああ。あの怖い人」
「そう。それがもう、鬼のような顔つきにさらに磨きがかかっていてな。俺の胸ぐらをつかんできて、いまこの場で銃殺してやりたいところだと怒鳴りやがった。北朝鮮の軍服を着ている以上、射殺しても自衛官に落ち度はないとか物騒なセリフを吐いてな」
「大変だったのね……。まさか、処分は……」
「いや。査問はこれからだが、二週間ほどの謹慎で済むらしい。基地のエリクソン少佐が仲裁に入ってくれたんで、津島一佐の怒りもなんとか和らいでな。アメリカじゃ目的が手段を正当化するっていう意味のことを、何度も繰り返し説明してた。自衛隊もそうですねと口をはさんだら、おまえは黙ってろって津島一佐にどやされたけどな」
「なんとか特例を認めてくれたのね。安心した……」
「ま、司令の美濃《みの》空将からも、次からは空でやれって釘《くぎ》を刺されたけどな。始末書は各方面向けに十枚ほど書かされたが、そんなに多くないだろ? おまえはたしか……」
「ええ」美由紀は思わず微笑した。「三十枚以上書いたことあるし」
伊吹が笑った。ようやく、ふたりで笑いあうことができた。
ふと思いついたことを、美由紀はたずねた。「伊吹先輩。大輝《たいき》君は元気?」
「ああ。……どうして?」
「伊吹先輩、再婚するの?」
「……なぜわかるんだ? そんなことまで表情から読みとれるのかい?」
「いいえ。知ってるでしょ、恋愛感情だけは読めなくて」
「じゃあなぜ?」
「左の薬指に指輪の跡があるから」
しばしの沈黙のあと、伊吹は指先に目を落とした。「ああ。このところずっと陽射しが強かったからな。うっすらと白く跡が残ってる。女の目は鋭いな。ってか、千里眼はごまかせるわけないか」
ポケットから取りだした指輪を、伊吹は自分の薬指にはめた。
美由紀は視線を逸《そ》らした。
伊吹がつぶやくようにいった。「すまない……」
「どうして謝るの? ねえ。その婚約相手の人って、大輝君のことは……」
「だいじょうぶだよ。大輝の本来の母親だからな」
「よりを戻したってこと?」
「そういうことになるかな。定期的には連絡をとりあってたんだが、しだいに会う時間が増えてきて……。いっそのこと一緒になったほうがいいって話になった」
「よかったね。伊吹先輩。大輝君にとっても……」
「そうだな。だけど、美由紀」
「いいから」美由紀は涙をこらえていた。「わたしのことは、いいから」
静寂だけが流れた。
伊吹との出会いから過ごした日々のことを、美由紀は考えまいと努めた。
どうせ、すべて過去だった。わたしにとっては、どうなることでもなかった。
しばらくして、ドレイクが近づいてきた。
「すみません」ドレイクが神妙に告げた。「よろしいでしょうか」
「どうぞ」と伊吹がいった。
「岬さんの舌紋ですが……。売買データに残ってます」
「嘘」美由紀はいった。「そんなの……」
「たしかなことです」とドレイクはいった。「二十五年前に一度売られ、三か月後にアラヒマ=ガスに買い戻されて相模原団地に帰っています。それから半年後、また売られました」
美由紀は耳を疑った。
いったいなんの冗談だろう。わたしが売買されていたなんて……。
ストレッチャーから降りて、美由紀はソファに向かおうとした。
だが、激しいめまいに襲われ、膝《ひざ》から崩れ落ちそうになった。伊吹がとっさに手を差し伸べて、かろうじて倒れるのをまぬがれた。
「だいじょうぶか」伊吹がいった。「まだ寝ていたほうが……」
「いいの。ドレイクさん、そのデータというのは……」
「このモニターに表示されています」ドレイクはノートパソコンをまわして、画面を美由紀に向けた。
そこには舌紋≠フ画像データと、英語で打ちこまれた履歴の記載があった。
美由紀は一行目に大書された文章を読みあげた。「ガールJ42947」
ドレイクがうなずいた。「アラヒマ=ガスにおけるあなたの名前です……。Jは日本人という意味で、番号は取り引き順だったようですね。人身売買の商品は、売られて初めて顧客によって名前が与えられる。事前に名前をつけると、その名に馴染《なじ》んでしまうために、アラヒマ=ガスではあえて記号で呼ぶのみとしていたようです」
伊吹がドレイクにきいた。「顧客の名前はわからないのか?」
「記録に残してませんね。ここにDestinationとあるでしょう? 目的地というか、この場合は出荷先という意味ですが……。一度目は岩手県|大槌《おおつち》町、二度目は東京都小笠原となってます」
「なぜ一度売られて戻されたんだろう?」
「このような言い方は恐縮なのですが……。女の子の場合、人身売買は性的搾取を目的とすることがほとんどです。顧客は幼女への性的興味があるタイプと、そのまま育てて一生を性の奴隷とするタイプに分かれます。前者の場合は、次々に新しい幼女を求めます。いうなれば、あるていど支配したら飽きて……次の幼女に買い換えるんです」
「……岩手の客はそうだったってことか」
「小笠原のほうも同様でしょう。いちど身体に傷がついた商品は……、いえ、こんな言い方は適正ではないのですが、すでに性的搾取を受けた幼女は、それ以外の用途では売れないというのが業界の通例らしいです。小笠原の客も買った商品に飽きて、捨てた。仮にそうだとすると、その時期は二十四年と十か月前になりますから……」
「そうか。美由紀のその後と一致するな」
「待ってよ」美由紀はたまりかねていった。「いったい何の話をしてるの? わたしが三歳か四歳のころ、売り買いされていたって? なにかの間違いよ。そんな記憶は全然ないわ」
ドレイクが渋い顔をした。「幼いころの記憶ですから、失われていることも……」
「いいえ。わたしは神奈川県藤沢市にいる実の両親のもとで育ったのよ。わたしの略歴を見ればわかるでしょ?」
ところが、美由紀にとっては意外なことに、伊吹が真顔でじっと見つめてきた。
「美由紀」と伊吹はいった。「ドレイクさんはおまえのためを思って協力してくれてる。アメリカだけじゃなく、日本側も問題の解決に力を貸してくれるよ。だから隠さなくてもいいんだ」
「……なにをいってるの? 伊吹先輩。隠すって、なにを?」
「防衛大、幹部候補生学校、航空自衛隊の履歴が事実と違っていることは、半ば公然たる事実だ。誰もがわかっていて、口にださないだけの話だが……。おまえを傷つけるつもりはない。でもいまだけは、ありのままの美由紀でいればいいんだ。過去に目を向けることは辛《つら》いだろうけど、真実は知っておいたほうがいい」
激しい混乱が美由紀を襲った。
伊吹の表情に、嘘をついていることをしめすサインは皆無だった。わたしを欺こうとしているわけではない。それだけは明らかだ。
にもかかわらず、その発言内容はまったく理解不能だった。あたかも、わたしが過去を偽っているような言いぐさだ。いったい伊吹はなにを主張したいのだろう。
「わからない」美由紀は訴えた。「わからないわよ、何をいってるのか。わたしの父は岬|隆英《たかひで》、藤沢市の商社に勤める会社員。母は岬|美代子《みよこ》、旧姓は船田《ふなだ》、専業主婦。正真正銘、わたしの両親よ。実家は神奈川県藤沢市江の島三丁目二十一番四号。そこで生まれて、そこで育ったの。それ以外に何があるっていうの?」
「美由紀……」伊吹はいった。「おまえは三重県の児童養護施設にいて、四歳のころに里親の認定を受けた岬夫妻に引き取られた。ほどなく養子縁組に至って岬夫妻の娘になったけど、幼稚園にはそれについて特に知らせる必要はなかったし、防衛大も事実は知っていても略歴からは削ってくれたんだろ? 里親制度から養子縁組という過去を持つ孤児は、そうやって職場による保護を受けることもある」
「な……なによそれ。いったいどうしたっていうの、伊吹先輩? どこからそんな話を……」
「おまえだよ、美由紀……。同棲《どうせい》してたころ、俺にも打ち明けてくれたじゃないか。というより、おまえは隠そうともしていなかった。仙堂芳則《せんどうよしのり》空将も、おまえの相棒の岸元涼平《きしもとりようへい》一尉も……百里基地の人間はほぼ全員知ってるはずだ」
稲妻に打たれたような衝撃が美由紀を襲った。
そんな……。わたしが孤児だなんて……。
相手の嘘を見抜くことができなければ、ショックも和らいだかもしれない。あくまで自分を信じ、相手に腹を立てるか、もしくは冗談だと感じて笑い飛ばすだろう。
でもわたしには、それは無理だ。わたしにはわかる。
伊吹もドレイクも嘘をついていない。真実を語っている。まして、伊吹の感情はわたしへの気遣いを含んでいる。傷つけまいとしながら、それでもわたしのために事実を突き詰めるべきだと訴えている。
わたしが彼に知らせたなんて。そんな記憶は、わたしのなかにない……。
めまいが激しくなった。立っていられなくなり、脱力感が襲う。意識が遠のいていくのを、美由紀は感じた。
「美由紀!」伊吹がぐらついた美由紀の身体を抱きとめた。
感じたのはそこまでだった。美由紀は深い闇の世界に落ちていった。
[#改ページ]
パズルのピース
午後十一時すぎ。
府中の航空総隊司令部の職員宿舎となっているビルの一室で、美由紀は頭痛をこらえながらソファにおさまっていた。
私服姿の伊吹直哉と、いつもどおり皺《しわ》ひとつないスーツを身につけた嵯峨敏也。リビングルームのように高い居住性を誇る室内で、三人が顔を合わせていた。
嵯峨は窓の外を見やった。「基地のなかだってのに、静かだね」
伊吹は部屋のなかをうろついていた。「ここはヘリの離陸ぐらいしかねえからな。窓も二重だ、落ち着くだろ。……だけどさ、美由紀。退院まで待ったほうがよかったんじゃねえか? 病院を抜けだすなんて……」
「寝てなんかいられないわ。事実を知るまで、休む気になれない」
「美由紀さん」嵯峨が真顔でいった。「そのう、日々産まれる新生児の十五人は、間違った親に運ばれるっていうデータがある。親の顔を知らない子は少なくないんだ。そういう子たちが発育過程で問題を抱えたとき、僕ら臨床心理士は解決に全力を注ぐ。けれども、限界もある。心の闇については、すべてを明らかにできるわけじゃない」
「なにがいいたいの」
「僕はきみが被告になってる裁判で精神鑑定を求められてる。きみも臨床心理士だから、包み隠さずいうよ。きみの四歳以下の記憶がどうして失われているのか、理由がわからない。ひと昔前なら、トラウマによって抑圧された記憶とするところだけど……」
「ええ」美由紀はため息とともにうなずいた。「そんなものは迷信も同然。原因はきっとほかにある」
「きみが辛い状況にあるとき、相模原団地が度々フラッシュバックしたということは、その光景は辛さとともに記憶に残っていて、意識の表層に浮かびあがったと考えられる。PTSDの症状に近いけれど、完全な健忘を伴うはずはないんだ。まして幼少のころ、物心ついたきみが最初に見聞きしたものは、深く記憶に刻みこまれる……」
伊吹がいった。「重要なのは、少なくとも航空自衛隊にいたころには、美由紀はそれを覚えていたってことだ。見なよ、これらは人事管理部から借りてきたものだ。こいつは防衛大入学時に提出された戸籍謄本のコピーだが、里親だという事実が明記されてる」
美由紀はため息をついた。「さっきから何度も見たわ……。でもまだ信じられないの。十八のころ、その戸籍謄本の写しを市役所にもらいに行ったことは覚えているし、防衛大に提出したことも記憶にある。百里基地で過ごした日々も、伊吹先輩と一緒に住んでたことも忘れてない。それなのに、四歳以前の記憶だけじゃなくて、そのことに触れたときのすべての記憶がなくなってる……。こんなことってありえない」
「十一歳で里親と養子縁組の関係になったことも認識していないんだな? 法律では失踪後七年経つと死んだことになるから、四歳で見つかった美由紀は十一歳までの時点で実の両親が名乗りをあげないかぎり、誰の子でもなくなる。だから岬夫妻は養子縁組を決心したってことなんだが……」
嵯峨がうなずいた。「美由紀さんの記憶領域に起きている変異は、健忘だけじゃないんだ。四歳以下のことを忘れ去るために、ほかの記憶についても捻《ね》じ曲げられている」
「ああ」伊吹が立ちあがり、資料のなかからDVDを取りだした。「俺もどうも気になってたんだ。美由紀が航空自衛隊を辞めたあと、各務原《かがみはら》基地の件で再会したとき、あまりの変わりように仰天した。別人かと思ったぐらいだよ。いつもぴりぴりしていた凶器みたいな女が、控えめで礼儀正しい普通の女になっちまったんだからな」
「それは」美由紀はいった。「転職すれば、そんなものよ」
「そこがどうも、自覚がないように思えるんだよな」伊吹はDVDをデッキにセットした。「まあこれを見てくれ。三年前の記録だ。これも人事管理部が貸してくれた」
モニターに映しだされた映像は鮮明だった。航空総隊司令部の大会議室。忘れもしない、査問会議の風景だった。
「覚えてるか?」と伊吹がきいた。
「ええ。わたしが除隊を決心した日よね」
懐かしさはなかった。つい昨日のことのように思える。しかめっ面をしているのは防衛庁内部部局の人事教育局長、尾道隆二《おのみちりゆうじ》だ。いまは亡き板村久蔵《いたむらきゆうぞう》三佐の姿もある。辛《つら》そうにうつむくその顔に、美由紀は罪悪感を募らせた。上官だった彼の汚名返上のために臨床心理士になったのに、目的が果たせなかったばかりか、命を救うこともできなかった。
カメラがパンして、会議室の中心にたたずむ美由紀の姿をとらえた。
だがその映像に、美由紀は驚きを禁じえなかった。
航空自衛隊の青い制服に身を包んだその女は、とても自分とは思えなかった。げっそりと痩《や》せ細り、そのせいか目は異常に大きく隆起して見える。血走ったその目をむいて周りを眺め渡すさまは、飢えと恐怖に板ばさみになった戦地の難民のようでもあった。
「これが」美由紀は思わずつぶやいた。「わたし……?」
「そうだ」と伊吹がうなずいた。「身長百六十五センチ、体重三十九キロ。異常な痩せ方だよ。おまえはずっとこんな感じだった」
嵯峨がいった。「なんらかの精神面での障害が疑われたのも、ある意味当然だね。それで査問会議に精神科医の笹島《ささじま》が呼ばれたんだ」
「覚えてない」美由紀は首を横に振りながら、思いのままを口にした。「っていうより、自覚がないの。当時のわたしが、いまとそんなに違ってたなんて……」
画面のなかの査問会議は、スライドを映写して美由紀の過去を紹介していた。
幼少のころは虚弱体質。小食で痩せすぎだったことから何度か救急車で運ばれ、栄養失調の診断を受けている。
小学校に入学後は、意識的に食事をとり身体を動かすことで徐々に正常な発育へと近づき、十歳のころには心身ともにきわめて健康という診断記録が残っている。
しかしながらこの時期、学級においてほかの児童との協調性に欠け、しだいに孤立を深めていったと担任教師の報告にある。同世代よりも大人びた本を読み、哲学的な思考を好むところがあるため、級友とはものの考え方に差異が生じていたようだ。
人格面で子供らしさに欠けている一方、学業の成績はさほど誉《ほ》められたものでもなかった。授業中にぼうっと窓の外を眺めていることも多く、各教科の教師からは注意力散漫とみなされていたこともあきらかになっている……。
「わかるか?」伊吹が美由紀を見つめてきた。「略歴に従い、美由紀は岬夫妻のもとに生まれたことになっている。四歳で里親にひきとられたことや養子縁組を結んだ事実を曲げてるわけだが、おまえは当然ながら真実を知っているという前提で述べられてる。そのほかのことはすべて実際の出来事だ。おまえは児童養護施設にいたほかの孤児よりもずっと栄養が不足していて、性格的にも問題があって、集団から孤立し、むしろ反発するところがあった。その理由がきょう、はっきりしたんだよ。おまえは相模原団地で育った。ああなるのも無理はなかった……」
「そんな……。これらのことは記憶に残ってるけど、ニュアンスが違う。わたしはたしかに幼稚園や小学校では友達が少なかったけど、それは生まれつきのものよ」
「美由紀さん」嵯峨が告げた。「この映像を観てもわかるように、きみは極度の摂食障害、つまり拒食症だった。一般に、摂食障害の原因はどんなこととされてる?」
「妊娠恐怖、性的ないし攻撃的衝動の抑圧……」
「そう。きみは……人身売買で性的搾取目的の顧客に買われた以上、そこに強い恐怖と反発を感じたとみるべきだ。二十五歳の時点まで摂食障害を引きずるのは、必然だったろう」
「馬鹿をいわないでよ。わたしにそんな記憶はないんだってば」
「抜け落ちた幼少の記憶を補うために、|記憶の自発的修正《ボランタリー・コレクシヨン・オブ・メモリー》がおこなわれている。完全に記憶違いをしているわけじゃないけど、都合のいいように捻じ曲げられているんだ。だからきみは孤立も、摂食障害も、生まれついてのことと思いこんでいる」
「わたしは中学では人並みに友達ができていたのよ! ジャニーズショップにも通ったし、コンサートに行くのも好きだった。お洒落《しやれ》もしたし、原宿の行きつけだった店も覚えてる」
「中学以降は年齢相応の生活態度になったと、この査問会議でも指摘されてるじゃないか。それだけ幼少のダメージから回復してきた証拠だよ。ただし、成績は悪くて塾もさぼりがちで、自習も好まなかった。注意力散漫なところや、目的意識の欠如は変わっていなかったんだ。けれども、高校に入ったころには猛勉強して学年のほぼトップに位置するようになった。なぜだと思う?」
「……上坂《うえさか》君に恋をしたから……」
伊吹がいった。「そのあたりのことについて、さっき嵯峨先生とも話したんだけどな。よく考えてみてくれ。近くの男子校に通う上坂|孝行《たかゆき》がしきりに誘ってきたが、おまえはなかなか心を開かなかった。幼少のこともあって男が嫌いだったからだ。それも嫌悪とか、恐怖を感じていた。思春期の異性への憧《あこが》れは、アイドル歌手のようにおまえに危害を加えないとわかっている偶像への情熱に向けられ、決して本物の男性とつきあおうとはしなかった。ところが、おまえが上坂に惚《ほ》れるきっかけになる事態が起きた」
「ええ……」美由紀はうつむいた。「わたしの下校時に、襲ってきた男たちがいて……」
「その男たちを上坂が撃退した。そうだったな? 成り行きだけ聞けば三文ドラマみたいな話だが、おまえは決して夢見心地というわけではなかった。男たちに襲われたとき、たとえようのない恐怖を覚えたはずなんだ。なにもできない無力な自分を痛感し、救ってくれた上坂に強い依存心を抱いた」
「そこまで強烈な思いは抱いてなかったわ」
嵯峨は美由紀を見つめていった。「よく考えてみてくれ。きみはその上坂君と一緒にいたいばっかりに、彼が防衛大に入るとわかって、同じ進路を目指したんだろ? 両親に反対されたら、猛然と反抗して、家を出てしまった。ただの恋愛感情なら、そこまで一途《いちず》になれるかい?」
美由紀は黙りこんだ。
わずかに想起される記憶の存在を感じ取ったからだった。
それは記憶というよりも、長く接していなかった感覚と呼べるものだった。
わたしは本気で両親に腹を立て、恨みを抱いた。縁を切ってでも上坂と結ばれることを望んだ。その理由は……。
「思いだした?」嵯峨が顔をのぞきこんできた。「ぼんやりとでも、記憶に浮かびあがることがあるかい? 十八にもなると、きみは岬夫妻が実の両親ではないことをはっきりと認識していた。そういう家庭の子が、思春期のあらゆる苛立《いらだ》ちや怒りを親の愛情不足に結びつけたがることを、きみも知っているだろう。美由紀さん。きみはなりふりかまわず、防衛大に入ってでも上坂との関係をつなぎとめようとした。だけど……」
こみあげてくる孤独感と寂寥《せきりよう》感を、美由紀は認めまいとした。
涙をこらえて、震える自分の声をきいた。「ええ。上坂君との出会いは、彼の仕組んだことだった」
伊吹がため息をついた。「奴も腐り果てた男だったな。少林寺|拳法《けんぽう》部の知り合いに頼んで、美由紀を襲わせたんだからな。勇ましい救出劇は、やらせだったわけだ」
「わたしは……。そのあと、防衛大での勉強に力をいれて……体力づくりをすることに躍起になった。そうしないと、生きていられない気分だった」
嵯峨がうなずく。「きみの男性への不信感はさらに募り、自分の身は自分で守ろうと心にきめたからだね。努力のきっかけになったのは復讐《ふくしゆう》心と闘争心だったわけだ。でも、その思いだけじゃハードな防衛大の教育についていくことなんて出来ない。まして、ほかの男子学生を差し置いて首席卒業に至るなんて、並大抵の資質じゃ不可能だ」
そのとき、ふいに伊吹が、美由紀の顔の前で両手を叩《たた》きあわせた。
嵯峨がびくっとして身を退かせた。だが美由紀は、瞬《まばた》きひとつせずに伊吹の顔を見つめた。
「この違いさ」伊吹が告げた。「防衛大の国防論の授業、覚えてるな? 新田って教官が言ってたろ。中東や南米の内戦状態の国に生まれた子供は、大人になってから目の前で生じた激しい動きや音にも、動じることがないって。それが兵士としての資質を分ける最大の要因だから、どの国の軍隊でも生き残る兵士は戦場生まれの者ばかりだ、そんな話だった。俺ですらびびりが入る決死の訓練に、おまえは果敢に立ち向かった。それは……」
「ええ」美由紀は胸が引き裂かれそうに思えるほどの、強烈な心の痛みに耐えていた。「飢えと恐怖を味わいながら、大人が差し向けてくる銃口に怯《おび》えて育った……。物心ついたとき、わたしは地獄にいた。記憶にはないけど、きっとそうね。そうじゃなければ、わたしがあれだけの力を発揮できた説明がつかない……」
「美由紀。幹部自衛官としての業績の大半は、おまえの努力によるものだ。資質は、それを支えたにすぎないよ。でもおまえは防衛大入学から航空自衛隊を辞めるまで、ずっとこの映像に記録されているような女だった。周りを寄せつけず、いつもぴりぴりしていて、孤独に努力を積みあげて、トップの成績を維持した。上官にも絶えず反発し、仲間に心を許さず、命令無視も繰り返すトラブルメーカーだった。この人事管理部の書類にも、素行は最悪の部類に入ると記されてる」
認めたくなかった。美由紀は、悲痛な思いを口にした。「首席卒業したのに……。女性自衛官で初めてイーグルドライバーに抜擢《ばつてき》されたのに……」
「俺が常々思ってることなんだが、美由紀。優秀な自衛官ってのはつまり、国を守るために侵略者を殺すプロってことだ。戦争とは殺し合いなんだし、それ以外にはないからな。カミカゼって言葉がクレージーを意味するように、上層部がおまえを評価したとき、それはまともな人間性を否定されているのと同義だ。俺と似たもの同士だな。おまえはまともじゃなかった。だからトップに立てたんだ……」
「伊吹先輩……。伊吹先輩は、どうしてわたしとつきあってくれたの? 一緒に住んでくれたのは……わたしを愛してたからじゃないんでしょ?」
しばらくのあいだ、伊吹は黙りこくって床に目を落としていた。
「なあ、美由紀」と伊吹はいった。「もうわかっていると思うけど、おまえは上坂のことがあって以来、恋愛なんか眼中になかった。男なんか寄せつけもしなかった。だが、優秀でありながらトラブルばかり引き起こすおまえに上官は手を焼いて、同じタイプの男を監視役につけようとしたんだよ。……それが俺だ」
「……防衛大でずっと一緒にいてくれたり、休みの日に戦闘機の操縦法を教えてくれたのも……義務だったから?」
「最初はな。一緒に暮らすようになったとき、俺はおまえの内面に抱える問題の奥深さを知った。おまえの男に対する拒絶も理解した。だから俺は、監視係と教育係に徹しきったんだよ……」
そうだったのか。
思いがそこに至ったとき、美由紀は笑った。涙はいつしか、とめどなく流れ落ちていた。それでも笑いが漏れた。
「伊吹先輩がその後、ほかの女の人とつきあって、子供ができたのは……。そういうことだったのね。わたしを裏切ったわけじゃなかった。そもそも、恋人としてつきあってはいなかった……」
「……わかってくれてると思ってたよ。いや、あのときのおまえは……わかってたはずだった。おまえのほうから拒否したからだ。おまえは一生、孤独を抱えて生きるつもりだった」
美由紀は目を閉じた。
パズルのピースが抜け落ちているように、記憶には断片的に穴がある。やはり想起することはできない。
それでも、嵯峨と伊吹が指摘したことは事実なのだろう。同棲《どうせい》していた伊吹と、キスさえしたことがなかった。そんな関係もわたしは、奇妙だとは認識していなかった。ありのままの過去として記憶していた、そのはずだった。
だが、ずれているのはわたしの感覚のほうだった。奇異な思考や行動を、当然のものとして受けいれていた。それが異常なものだとも思わずに。
自分が普通の人間だと、わたしは信じていた。でもそれは間違いだった。
「嵯峨君……」美由紀は声を絞りだした。「現時点での、わたしの精神鑑定は? よければ、聞かせてほしいんだけど」
かすかに戸惑ったようすの嵯峨は、すぐに真顔になって美由紀を見つめた。「これは僕の臨床心理士としてのプライドをかけた分析だよ。決して私情をはさんだり、あるいはきみを貶《おとし》めようとするものじゃない。わかる?」
「ええ。嵯峨君のことは、誰よりも信じてるから」
「……じゃ、説明するよ。きみは四歳以下の経験が原因となっている複雑性PTSDに、現在もなお苦しんでいる。そのため非常に孤独感にさいなまれることが多く、人々から疎遠になっているという感覚を抱きがちだ。それから、性的行為に対する潜在的な嫌悪のせいで、感情の範囲が縮小している。恋愛感情に極端に疎い理由はそこにある。……他人の表情から感情を読めるようになっても、恋愛感情だけは察することができないのは、そのせいなんだよ。きみのなかには男性への反発がある」
「わたしは、恋愛の意味なんか知らないのね……」
「長くつづいた症状のせいだ、仕方がない。けれども同時に、強い正義感を働かせる。暴力あるいは権力で人の自由を奪おうとする相手に強い反感を抱き、実際に対抗する行動にでる。とりわけ、みずから経験した人身売買、幼女の性的搾取を連想させる状況に近ければ近いほど、嫌悪と怒りを感じる度合いは大きくなる。自制心を失い、ときに法の制限を超えて相手を追及し、裁きを下そうとするのは、こうした過去と複雑性PTSD、およびそれに伴う解離性障害によって引き起こされるものと考えられる」
伊吹が微笑した。「美由紀は無罪ってことかい?」
「それは判決が下ってみないとわからない……。認められる証拠でもないかぎり、無罪を勝ち取るのは難しいかもしれない」
「証拠だって? 美由紀は相模原団地にいて商品にされてた。立派な証拠じゃねえか」
「あれが証明してくれるのは人身売買の事実だけだよ。性的搾取が目的であることは明白であっても、顧客がどのように美由紀さんを扱ったのか、そこまでは記録に残ってない」
「美由紀は酷《ひど》い目に遭ったんだ。それは事実だろ?」
「もちろん、僕はそう思ってるよ。でも裁判ってものは、事実として認定されたものだけを証拠として取りあげる。憶測や推論は弾《はじ》かれてしまうんだ。実際、分析不能かつ複雑なところもある。たとえば、美由紀さんがひとたび暴走したとき、その行動に歯止めがきかなくなる原因は、症状のみならず、美由紀さん自身が憤りの理由を分析できないことにある。幼少の記憶が消えてしまっているから、複雑性PTSDという症例を自己分析することもできず、怒りに身をまかせてしまうんだ」
「ってことは、記憶が消えた理由はいまもって不明ってわけか」
「そうだね……。自分の生い立ちについて完全に忘れ、ずっと摂食障害とPTSDに苦しんでいた人生の記憶に修正を加えてしまっていたんだから。僕が美由紀さんと初めて会ったときにはもう、そんなふうに変わってしまった後ということになる。どうしてなのかは、臨床心理学で分析されるあらゆる症例と照らしあわせても、判然としない……」
沈黙が降りてきた。
しんと静まりかえった室内。その静寂にこそ耳を傾けていたかった。
胸にぽっかりと空いた空虚さだけが残り、しだいに、耐え難い孤独感が押し寄せてくる。
美由紀はつぶやいた。「ありがとう。充分に参考になったわ……」
それだけいうと、美由紀は戸口に駆けだした。
伊吹の呼ぶ声がする。「美由紀!」
だが美由紀は、足をとめることはできなかった。頬を流れおちる涙をぬぐいながら、ひとけのない通路を駆け抜けていった。
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積み木
夜の航空総隊司令部の職員宿舎は、とっくに就寝時間を過ぎ、静寂に包まれていた。
その階段を、美由紀はあわただしく駆け降りた。
足音が迷惑になるのはわかっている。だから早く外にでたい。伊吹に追いつかれたくはない。
玄関のわきにある受付カウンターも、この時間は消灯し無人だった。だがこの宿舎には何度か泊まったことがある。専用車両のキーがどこにあるのかもわかっていた。壁に掛かった金属製のケースのなかだ。
ケースを開けてキーをつかみとると、玄関から外に走りでた。
宿舎前の駐車場に並ぶジープ数台が、外灯におぼろげに照らしだされていた。美由紀は手にしたキーを見た。6番。該当するナンバーのついたジープに駆け寄る。
運転席に乗りこみ、キーを差しこんでエンジンをかけた。すぐさまアクセルを踏んで発進させる。
ヘッドライトを灯《とも》し、基地内の私道を走ってゲートを抜け、一般道路にでた。
深夜といえども甲州街道は交通量が多いが、新小金井街道はそうでもない。行き先はどこでもよかった。ただ空いている道を選んでジープを飛ばした。
涙のせいで視界がぼやけてくる。しきりにそれを拭《ぬぐ》って、闇に包まれた道の行く手を見つめつづけた。
混乱だけがある。だが、その理由はよくわからなかった。わたしは何を悲しんでいるのだろう。実の両親と信じたふたりと、血がつながっていなかったことか。たしかに衝撃だった。わたしは、あの母が腹を痛めて産んでくれたものだと思っていた。
しかし、わたしに失意をもたらしたものは、それだけではない。
誇りを失った。人生の誇りを。わたしは、自分で思い描いたような人間ではなかった。
防衛大首席卒業、F15DJパイロットの二等空尉という経歴だけを見れば、それは間違ってはいない。けれども、自尊心を抱けるような過去ではなかった。
クルマの往来がまったくない生活道路に入ったが、美由紀はアクセルを緩めなかった。どこへ行こうとかまわない。じっとしていたくない。
そのとき、ミラーに突然、後方のクルマのヘッドライトが閃《ひらめ》いた。
猛然と追い越していった黒のセダンが、進路をふさぐかたちで横向きになって停車した。
美由紀はあわててステアリングを切りながらブレーキペダルを踏みこんだ。
ジープは後輪を滑らせながらセダンに接近し、衝突寸前で停まった。
辺りはしんと静まりかえっている。遠くで犬の吠《ほ》える声がする。ジープのエンジン音のほかに、物音はそれだけだった。
エンジンを切り、美由紀はジープを降りた。
セダンに歩み寄っていく。古いトヨタ・センチュリーだった。姿勢をかがめて運転席を覗《のぞ》いたが、奇妙なことに誰も乗っていない。
だが、運転席のドアは半開きになっている。停車後、素早く降車したのだろう。すると、ドライバーはまだ近くに身を潜めている可能性がある。
慎重に後部座席に目を移す。そこにも人影はない。
だが、窓からなかを覗きこんだとき、美由紀は息を呑《の》んだ。
後部座席の白いシートカバーの上、暗がりのなかに、見覚えのある物体が転がっている。
ドアを開け放つと、天井のライトが物体を明るく照らしだした。
それは積み木だった。真っ赤にペイントされた積み木が三つか四つ。
以前に臨床心理士会に小包で届けられたことがあった。匿名の差出人だった。そのときは、何も感じなかった。
だがいまは……。
美由紀は手を伸ばし、積み木のひとつをつかんだ。
電気に打たれたように、びくっと身がのけぞる。
脳幹に落雷を受けたかのようだった。瞬時にフラッシュバックする光景があった。
わたしは横たわっていた。畳の上で。頬が畳に触れているのを感じていた。
聴覚も刺激を受けていた。わんわんと泣く子供の声。自分の声でもあり、ほかの子の声でもある。
その視界に散らばっていた積み木。本来は木のいろをしていた。いまは真っ赤に染まっている。
わたしの血で赤くなっているのだ。頭から噴きだす血で。そうだ、大人は積み木でわたしの頭を殴った。何度も、執拗《しつよう》に殴打した。そしてわたしは倒れた。放りだされた血染めの積み木を眺めながら……。
叫びとともに、美由紀はその積み木を力ずくで投げた。
積み木は、夜の路上に叩《たた》きつけられ、何度か跳ねて、転がった。
また静かになった。
美由紀はセダンにもたれかかりながら、その場に座りこんだ。両手で顔を覆い、泣いた。
すべてを思いだしたわけではない。でもこれは、記憶の断片だ。辛《つら》く、永遠に否定したい過去を呼び覚ます手がかり……。
靴の音がした。
ひとりの男が近くに立つ。そんな気配があった。
見あげると、スーツを着た大男がいた。長身というより巨漢だが、肥満体ではない。鍛えあげられていることは肩幅を見ればわかる。
日本人ではない。イタリア系の、決してハンサムとは呼べない顔。黒髪をオールバックに固め、ぎょろりとした目に鷲鼻《わしばな》、異様に大きな口に、割れた顎《あご》の持ち主だった。
何度も会った男だった。いまだに、その素性についてたしかなことが判明していない。
役職だけは知っている。この男がみずから口にした。メフィスト・コンサルティング・グループ、クローネンバーグ・エンタープライズ特別顧問。
美由紀は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。「ダビデ……」
ダビデという通称を名乗るその男は、いつものような皮肉めいた笑いを浮かべてはいなかった。軽薄さは鳴りを潜め、人を嘲《あざけ》るようなジョークも発しない。ただ真顔で、美由紀をじっと見おろしていた。
「どうやら」とダビデは流暢《りゆうちよう》な日本語で告げた。「過去がフラッシュバックしたようだな。相模原団地で過ごした日のことが」
まだわからない。血まみれになって畳の上に倒れた、それ以上のことは、何も浮かんでこない。
というより、ダビデのいうことを真に受けるべきではなかった。人を欺くことを生業《なりわい》とする男だ、なにひとつ信用できない。
座ったまま、美由紀は遠くに転がった積み木を眺めた。「あれを事務局に送ってきたのは、あなただったのね」
「ああ。きみがどれだけ記憶を呼び覚ますか、知りたくてね」
「何のために、そんなことをしたの」
「グループ内別会社の特別顧問がきみの失われた過去に目をつけてね。ジェニファー・レインって女だ。知ってるだろ」
……思いだした。
西之原夕子《にしのはらゆうこ》と閉じこめられた、銀座の地下の竪穴。執拗に質問を受けているとき、あの積み木が浮かんだ。
奇妙だった。つい最近のことなのに、いままで忘れていたなんて。
ダビデがいった。「あの女、じつにうまくきみの過去についてアプローチを図ったな。積み木のことを直接尋ねず、玩具《おもちや》についての質問で自発的に幼少のころを連想させようとした。野うさぎについて尋ねて、岩手の山奥にいたことを、そして猫からは小笠原の暮らしを想起させようと試みた。幼児も動物には関心を持ち、記憶している可能性が高いからな」
「心に深い傷を追った過去を暴いて、わたしにダメージを与えたかったの? 歴史をつくるとか言ってる詐欺師集団はいつもそれね」
「いいや。逆だよ。きみが思いだせないことを確認したんだ。普段の生活においては、周囲からのいかなる外的刺激によっても、きみの幼少の記憶は戻らないと確かめたわけだ」
「どういうことよ」
「閉塞《へいそく》的な空間では健忘の症状が治りやすいという学説は知ってるな? あの竪穴にはそういう効果がある」
「夕子のメフィスト採用試験じゃなかったの?」
「彼女についてのことはいい。問題はきみだよ」ダビデは、美由紀の隣りに腰を下ろした。
あいかわらずの馴《な》れ馴れしい態度。だが反感は抱いていても、いまは離れられない。わたしは真実を知りたい。
ダビデはいった。「私はとっくに知っていたことだがね。ジェニファーも気づいたんだ。幼少の記憶を失ったがゆえに、現在のきみがあることを」
「……え?」
「複雑性PTSDと摂食障害を患ったきみは、防衛省ですら手に負えない問題児だった。死をも恐れぬ態度で任務に臨むさまは勇敢ともいえるが、無謀さとも紙一重だ」
「その話なら、さっき別の人から聞いたわ」
「きみは無茶な行動ばかり取りたがった。北朝鮮の不審船を、領海を出ても追いまわしたり、楚樫呂《そかしろ》島の災害にヘリを奪って救出に出かけたり……。ところがだ。狂犬ともよぶべききみを、友里佐知子《ゆうりさちこ》が手なずけた」
「それって……」
「そう。きみの幼少の記憶をなくさせたのは、友里佐知子だ」
「……嘘よ」
「どうしてだね。私のようなメフィスト・コンサルティング特別顧問はセルフマインド・プロテクションの技法を身につけているため、嘘を見抜かれないようにすることができる。だからいま、その技法は使用せずにおこう。どうだね? 私の目を見るといい。嘘をついているか?」
美由紀は、ダビデと目を合わせなかった。セルフマインド・プロテクションを解いたところで、心理学に異常なほど精通したこの男の真意など見抜けやしない。
「いつそんなことができたっていうの?」と美由紀はいった。「だいいち友里佐知子だって、記憶を完全に消去させることなんて……」
「できないか? 美由紀。彼女の日記を読んだだろう。友里は二十年も進んだ脳神経外科技術を身につけていたんだぞ」
「たとえそうでも、わたしを手術することなんて……」
「本当にそうか? では聞くが、きみが東京晴海医科大付属病院に勤務するようになって一週間後の四月二十八日。曜日は火曜、天気は晴れだった。友里の日記には、何が書いてあった?」
思わず美由紀は絶句した。
記憶を呼び覚まそうとしたが、なにも思い浮かばない。
「……覚えてないわ」と美由紀はいった。
「馬鹿をいえ。きみほどの記憶力の持ち主が、あの重要な日記の記載内容を忘れるものか。しかも自分に関わる時期の記述をな」
「じゃあ何も書いてなかったのよ」
「そんなことはない。すべてのページが埋まっていただろ? きみが鬼芭阿諛子《きばあゆこ》にそういったじゃないか」
「……その日にどんなことが書いてあったっていうの」
「というより、きみの身に起きたことを思いだしたらどうだ。四月二十八日、きみは友里佐知子に呼びだされ、検診を受けた。職員として働くからには健康を徹底してもらうと言われて、癌検査用の巨大な機械に寝かされて、ほどなく眠りについた」
そうだった。
わたしは無防備なことに、友里とふたりきりになり、ベッドに横たわって目を閉じた。そして検査が終わったころに、眠っていたことに気づいた。友里が笑顔を向けてきたのを覚えている。疲れてるみたいね。でも身体に異常はないみたいだから、安心して。
美由紀はつぶやいた。「あのとき……」
「そう。あのときだ。美由紀、どうしてきみひとりだけが、友里佐知子による前頭葉切除手術を免れたと思う。日記には詳細が記してあった。職員は全員、検診と称して手術を施された。きみも働きだして一週間後のあの日、そうなる運命だった」
「どうしてわたしだけ……」
「日記によれば、手術の準備段階で脳電気刺激を与えたとき、きみが突然目を開いて悲鳴をあげたらしい。相模原団地の記憶がフラッシュバックして、きみは死の恐怖に怯《おび》え、取り乱したようだ」
「あの検査中にいちど目が覚めていたの? それも覚えていない……」
「友里はきみをなだめようとした。きみの反応はまさしく三、四歳児のそれで、泣きじゃくる声に幼児特有の言葉づかいが混じっていた。友里は子供をあやすように話しかけ、催眠暗示を利用しながら、なんとか寝付かせた。お友達と仲良く遊ぼうね、と友里が暗示すると、きみは目を閉じたまま、歌を口ずさんだ」
「歌?」
「勝って嬉《うれ》しいはないちもんめ。負けて悔しいはないちもんめ……」
美由紀は絶句した。
フラッシュバックが起きたのなら、記憶も一時的に戻ったのかもしれない。催眠暗示でそれが表層に浮かびあがることも、充分に考えられる。
「鉄砲担いでちょっと来ておくれ、と聞いた時点で、友里は相模原団地の人身売買の実態を理解した。彼女もメフィストの特別顧問候補だった女だからな、国際的な犯罪については詳しい」
「……それでどうなったの?」
「友里は、きみへの前頭葉切除手術を取りやめた。代わりに一過性脳虚血発作を起こして脳の一部の情報伝達を絶ち、記憶障害を引き起こした。対象は発育過程の初期段階で生まれた脳細胞、すなわち四歳以下の記憶を想起できなくした」
「脳手術で、わたしの記憶を……」
「きみはかつてメフィスト赤坂支社に捕らえられたことがあったな? こめかみに小さな手術|痕《こん》があることを指摘されただろう? 脳切除を受けなかったきみに、その痕が残っていた理由はこれだ。別の手術を施されていたんだよ」
「なぜ友里はそんなことをしたの? わたしをロボットにしようと思えばできたのに……」
「日記にもそのへんは詳しく書いてないがね。私にはわかるよ。友里が幼いころ、どんな日々を送ったか知ってるだろう?」
衝撃が美由紀を襲った。
友里佐知子も、終戦直後の横須賀で、米軍相手に幼女売春を働いて生計を立てていた。
わたしに似た過去があることを知って、彼女は……。
「同情したっていうの?」美由紀は、また溢《あふ》れそうになった涙をこらえながらいった。「友里がわたしから辛《つら》い記憶だけを奪い、健全な女として生きる道を与えたって?」
「どこまでの計画性を友里が持っていたかはわからん。友里が必ずしもきみへの優しさをしめしたとは思わない。気の迷いだったかもしれないし、きみの複雑性PTSDを手術で治療できるか否か実験したのかもしれない。実際、日記によれば、鬼芭阿諛子は友里の判断にそうとう怒っていたらしい。前頭葉を切除されずに済むのは娘であるわたしだけのはずだと、猛烈に抗議したようだ」
阿諛子が当初、わたしに異常なほどの敵愾《てきがい》心を燃やしていたのはそのせいか。
母と信じた友里の慈愛を、阿諛子のほかに受けとった女として、わたしを憎んでいたのだろう。
美由紀はうつむいた。
「いまのわたしは……友里佐知子によって作られたのね。わたしは友里のおかげで、過去を再構築した。実の両親のもとで育ち、誇りある防衛大の首席卒業者となって、二等空尉になり……。現在に至った。そう信じた……」
「ようやく精神面のバランスを得るに至ったきみが、摂食障害からも脱却し、心身ともに健康な女になったのはたしかだよ。他人への過剰な不信感も鳴りをひそめ、臨床心理士にふさわしい人格者になった。男への性的な嫌悪感だけは、潜在的に持続したようだがな」
「捻《ね》じ曲がった記憶……か。いまも四歳以下のことが思いだせないのは、脳のどこかで回路が絶たれているから……」
「安定はそれによって生まれているんだ。永遠に修復する必要はないさ」ダビデはそういいながら、ゆっくりと立ちあがった。「きみも阿諛子同様、日記の記述の認めたくない部分は本能的拒絶《インステインクテイブ・リジエクシヨン》で目に入らなかったんだからな。むろん、受けいれがたいことだったんだろう」
「だとすると」美由紀も起きあがった。「幼少の記憶が消されてることを知りながら暮らせって? 脳の回路が切断されてることを自覚しながら?」
「想起したら死にたくなるだけだ。きみの自我が崩壊するだろう。かつての重い心の傷をひきずるきみに逆戻りさ」
「ダビデ……。わたしが第二の友里になりはしないかと気にかけてたことがあったわね……」
「ああ。あれはつまり、こういうことさ。きみの生い立ちは友里そっくりだった。そして、友里の慈悲によっていまのバランスを保ってる。カエルの子がカエルになりはしないかと心配するのは、当然だろ?」
「同じセリフを赤坂支社でも聞いたわ」
「低脳な支社の連中はあのとき初めて、きみが両親についての真の記憶を失っていることに気づいた。そこで友里佐知子をきみの母親だと思わせ、きみを洗脳してメフィストの一員に迎えようとしたんだ。きみのなかに混乱が生じたのは、無意識が表出して、岬夫妻が実の両親でないと薄々感じたからだろう。赤坂支社の奴らはそこにつけこもうとした」
「わたしの過去は爆弾なわけね……。思いだしたらもう今のわたしではなくなる」
「だがな、美由紀。幸いだとも言えるんだぞ? きみの法を逸脱した行為の数々が免責される可能性があるからな。すべての暴走行為は複雑性PTSDのせいだった。きみに責任能力はない」
「裁判で事実として認定されれば、でしょ? 人身売買の証拠はあっても、性的搾取を受けたことは証明できない……」
ダビデは、無言で美由紀を見つめてきた。
セダンの後部座席に手を差しいれると、積み木をすべてさらい、美由紀に突きつけてきた。「怖がらずに、過去にアプローチすることだ。友里の手術によって辛《つら》い記憶は思いだせなくても、付随する断片的な記憶事項は想起できる。さっきこの積み木に触れたときのようにな」
美由紀は、ダビデの手にした積み木を眺めた。
触ることなど、とてもできない。
そのとき、路上にまばゆい光が射した。大排気量のエンジン音とともに、ヘッドライトが近づいてくる。
ダビデは積み木を地面に放りだすと、セダンの運転席にとって返した。「すべての過去があって、いまの自分がある。それを受けいれろ。そして未来を手にいれることだ」
「未来?」
「いいか。裁判の結果、自分がどうなってもいいなんて思うな。無罪はみずからの努力で勝ちとるもんだ」
「わたしはもう、どうなっても……」
「駄目だ!」とダビデは怒鳴った。
美由紀はびくっとした。
それは、怪しげなイタリア人として振る舞っていた男が初めて見せた、明確な怒りの感情だった。
ダビデも、一瞬でも自制心を失ったことを悔やんだらしく、苛立《いらだ》ちとともにいった。「きみは自分が犠牲になることぐらいやぶさかではないと考えているが、それは大きな間違いだ。なんら褒められたことではない。この世にはきみを必要とする者たちがいる」
「だけど、わたしがいなくても、誰かが……」
「本当にそうか? 身近なところで考えてみろ。雪村藍は死ぬほど怖い思いをした。不安神経症が再発し、また不潔恐怖に至るかもしれない。彼女のことはどうする気だ? ああなった責任はきみにあるんだぞ」
美由紀は言葉を失った。
藍。たしかにそうだ。わたしは彼女をほうってはおけない。
「だろ?」ダビデは美由紀の心を読んだようにいった。「挫折《ざせつ》が許されると思ったら、それこそ我儘《わがまま》の極みだ。きみは自分が世に必要とされたいと願い、努力してきた。その成果が出始めたところで身を引くなんてことは許されない。いいな。裁判は自分の力で勝利しろ」
それだけいうとダビデは運転席に乗りこみ、ドアを閉めた。
セダンは急発進し、闇の彼方へと走り去っていった。
直後に、別のクルマのヘッドライトが近づいてきて、停車した。
その独特のシルエットと、重低音。ヴェイロンだとわかる。
美由紀は、地面に散らばった積み木を見おろした。
ダビデはどうしてわたしにこれを与えたのか。ジェニファー・レインとのグループ内抗争に打ち勝つため、わたしを援助しようというのか。
関係ない、と美由紀は思った。わたしはわたしの意志で生きる。
そして、これがわたしにとって必要な物だというのなら……。
手を伸ばし、積み木のひとつをつかんだ。
また脳幹に電気が走ったように思えた。
血染めの積み木。さっきよりもはっきりと想起できる。閉じた瞼《まぶた》の裏に克明に浮かんだ。
わたしは畳に倒れている。でもそこは、相模原団地のなかではない。
売られていった先のどこかだ。稲光がして、雷鳴が轟《とどろ》いていた。
木々に降り注ぐ雨……。
ラジオにガリガリという雑音が混じっている。落雷が突きあげるような衝撃を走らせた。
畳に、大根の切り身をこすりつけている自分がいる。それで畳にこびりついた血をこそげ落とそうとしているのだ。
さっさと磨け。大根の成分には血を落とす作用があるんだ。
そう怒鳴っているのは大人の男だ。わたしだけではない、ほかにも幼い女の子たちがいた。
額に傷がある男が笑っている。
手には白い粉の入ったビニール袋を握りしめている。
小屋のなかには、同じような袋が山積みになっていた。
男はわたしを見つめ、涎《よだれ》をしたたらせながら近づいてくる……。
「美由紀!」伊吹の声がした。
はっとして、美由紀は顔をあげた。
指先から力が抜け、積み木を取り落とす。
異常な記憶の想起は終わりを告げ、かすかに肌寒い夜気だけが美由紀を包んでいた。
伊吹が歩み寄ってきた。
「どうしたんだ」伊吹が静かにきいた。「無事か?」
美由紀は何も答えなかった。
溢《あふ》れだした記憶に混乱し、動揺している自分がいる。心を落ち着かせるには、少し時間が必要だった。
かつて見た光景。幻想ではない。その生々しさから実際の記憶だとわかる。
四歳の記憶。わたしが売られていった先での記憶。あれが……。
複雑な思考の数々は、おぼろげにひとつのかたちをとりはじめた。そして、美由紀に自然に歩を踏みださせた。
つかつかとヴェイロンに向かう。
「おい」伊吹が追いかけてきた。「どこに行く気だ」
「二番目の客のところ」
「なに? ……思いだしたのか?」
「いいえ。それ自体は思いだせない。でも付随する記憶にはアプローチできてる」
「ってことは、小笠原に行くつもりか?」
「違うわ。群馬よ」
「群馬だって? どうして?」
「小笠原は……」美由紀はなおも浮かびあがってくる記憶を整理しようと躍起になっていた。「その顧客が、怪しげな商売の経由地に使ってただけ。各地を転々としてた。わたしに強い記憶を刻みこんだのは、山奥の家。落雷と突風、豪雨が同時に襲ってきた。いまになってそれは、熱雷だとわかる」
「熱雷か。たしかに群馬の山地は独特のかたちをしているせいで、上昇気流を生んで熱雷を発生させやすいけど……」
「ラジオにノイズが入ってから、二秒以内に稲光があった。防衛大の気象学で習ってでしょ? 群馬の中央部では雷雲は新治《にいはり》村山地から、榛名《はるな》山と赤城《あかぎ》山のあいだを抜けて、前橋、伊勢崎《いせさき》へと流れる。西部では長野原、中之条から榛名|西麓《せいろく》を経て、安中《あんなか》、富岡、甘楽《かんらく》からの流れが合流して、高崎、藤岡にでる。東部は足尾山地から桐生《きりゆう》、太田《おおた》に流れるのよ。熱雷にあれだけ近かったってことは、この三本の雷雲の流れのうち、どれかに該当するわ」
「それにしたって広範囲だろ。っていうか、いまもそいつがそこにいるって確証は?」
「ないけど……痕跡《こんせき》だけでもあれば、現在の居場所を割りだせるかもしれない」
「追っかけてどうするつもりだ」
「あの男はほかにも幼女をたくさん集めていたし、虐待もしてた。警察の目を盗んで、白い粉の入った袋を売買してた。たぶん暴力団員で、売り物は麻薬」
「だから懲らしめてやるってのか? それがまた暴走の始まりじゃねえのか?」
「いいえ」美由紀はヴェイロンのわきで立ちどまった。「わたしは幼児期に性的搾取を受けた。その証人を探しだすことが目的なの」
「人身売買の顧客を捕まえて、裁判官の前に引きずりだそうってのか。やめとけよ」
「どうして」
「どれだけ日数がかかるか判らない。ふたしかな記憶だけが頼りなんだろ? 誤認もありえる。それに……」
「なによ」
「また暴走する可能性が大だ。目的が目的だしな」
「平気よ。だいいち、悪いのはその男なんだし」
「そういう考えがすでに暴走の始まりだと思うんだけどな……。わかった、じゃあ一緒にいくよ」
「……ひとりで行きたい。駅まで送ってくれればいいわ」
「なにをいってる。俺もどうせ謹慎を強いられる身だ、力になるよ」
「やめてよ。そんなの嫌」
「なんでそんなに……」
こみあげる怒りを抑えられなくなり、美由紀は大声でいった。「まだわからないの? 伊吹先輩は、わたしの恋人じゃなかったんでしょ!?」
静まりかえった路上に、ヴェイロンのエンジン音だけが轟いている。
「ああ」伊吹はつぶやいた。「そのことか」
「なにが……そのことか、よ」美由紀はまた涙があふれそうになった。「わたしはあなたとつきあってた。そう信じてたのに……」
「美由紀。あの当時、おまえはそんなふうに言ってなかったぜ? 俺が無理にあがりこんだんだ。おまえは、勝手にすればってそう言ってた」
「ええ。わかってるわよ。よくわかってる。同棲《どうせい》したのが恋愛関係だったっていうのは、わたしが記憶を幼少の記憶を失ったあとの思い違いよ。嵯峨君のいう、|記憶の自発的修正《ボランタリー・コレクシヨン・オブ・メモリー》だわ。自分でもおかしいと思ったわ。ほかに男の人とまともにつきあえたことがないのに、伊吹先輩とだけ同棲したなんて……。一緒に住んだのに、何もしなかったなんて……」
「なあ、美由紀……」
「わたしは」美由紀は泣きじゃくる自分の声をきいた。「誰の愛にも気づけない。そもそも愛されるような人間じゃなかった」
「美由紀! いいから聞けよ。俺がおまえを愛してないなんて言ったか?」
「え……?」
「同棲することまで上官からの指示なわけがないだろ。俺は、おまえが好きだったよ。だから一緒に住んだ」
「伊吹先輩……でもそのころのわたしは……」
「病的なまでに無鉄砲で、いつも喧嘩《けんか》腰だった。そりゃいまのほうがいい女だが、あの当時の美由紀もよかったよ」
「なら、キスぐらいしてくれてもよかったのに」
「おまえに撃退されて肩を脱臼《だつきゆう》した。覚えてるだろ」
「嘘。手加減してわざとやられたんでしょ。伊吹先輩ならねじ伏せることができたはず……」
「馬鹿をいえ! そんなことできるか。特に、おまえ相手に……。なあ、美由紀。おまえが問題を抱えているのは、見ればわかった。だから見守ろうとしたんだ。くさいセリフだが、そういう愛だってあるだろ」
「……そんなこと信じられない」
「美由紀」
「ほかの人とくっついて子供まで作ったじゃない」
「なあ、千里眼! 俺の目を見ろよ。俺が嘘をついているかどうか、しっかり見極めろ。いいか、言うぞ。俺は防衛大にいた岬美由紀を愛していた。いまでもその気持ちは変わらない。……どうだ?」
じっくり観察するまでもない。恨めしいほど発達した動体視力と心理学の知識のせいで、伊吹の本心は手にとるようにわかる。
彼は嘘などついていない。すべて真実だ。
だが、そう認識したせいで、かえって悲しみがこみあげてくる。涙はもう止まらなくなった。
「悔しいよ」美由紀は震える声でいった。「情けなくて、悲しくて……。自分の意志でキスしたことも、たった二回しかない。笹島《ささじま》としたのは、やはり彼が命の恩人だと思いこんだせいだった。スクールカウンセリングで知り合った日向《ひゆうが》涼平《りようへい》君としたのは、彼が昔追っかけてた男性アイドルに似てたから……。わたしはその程度の女よ。歪《ゆが》んだ思春期を生きて、まだ卒業できてもいない。二十八にもなって……」
「いいじゃないか、そんなこと。キスがどうとか、そんなに重要なことじゃないよ」
「重要なの! だって……ずっと誰ともしなかったのに、あんな奴に……人身売買の実行犯なんかに、唇を奪われた……。拒否したかったのに、何もできなかった。好き勝手されて……。だから悔しい。情けないんだってば。伊吹先輩になにがわかるっていうの!?」
「なにがわかるかって?」伊吹は真顔で美由紀を見つめてきた。「俺にはわかってるよ。いまおまえにとって必要なことが」
それはどういう……。
問いかけようとしたが、言葉を発することはなかった。
伊吹が唇を重ねてきたからだった。
驚きだけが胸のなかにひろがり、次の瞬間には、伊吹がどういうつもりなのか観察しようとする衝動が起きる。
だが美由紀は、その衝動を抑えた。目を閉じ、なるがままにまかせた。
千里眼なんか、いまはしまっておきたい。
相手の感情が読めたら、恋愛なんて一瞬で終わってしまうのだから。
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暗雲の記憶
翌朝、群馬の空はどんよりと曇り、遠雷もきこえていた。関東の雷の発生源という知識が、早くも裏付けられる光景だった。
嬬恋《つまごい》村、上信越高原国立公園のなかを走る一本道を、伊吹の運転するヴェイロンが走りつづける。美由紀はその助手席におさまり、十八世紀の浅間山の大噴火で溶岩流によって形成された、やや不気味な岩の台地を眺めていた。
「美由紀」と伊吹がステアリングを切りながらいった。「いちおうこの辺りも、雷雲の通り道だけどな。風景を見て、なにか思いだすことはないか」
「さあ……。いまのところないけど」
「そうか。ま、焦ることないけどな。じっくり探すだけのことだ」
無言のまま美由紀は、ウィンドウに映りこむ自分の顔を見つめた。
四歳以前の長期記憶のうち、陳述記憶は消え去り、非陳述記憶はときおり思いだすことがある。記憶喪失に苦しんでいた畔取直子《くろとりなおこ》の気持ちが、いまはよくわかる。彼女の相談に乗っていたときには、わたし自身に想起できない記憶の断片があるなど、思ってもいなかった。
車内に電話の呼び出し音が鳴り響いた。オーディオのスピーカーから聞こえてくる。
「ああ。俺の携帯だ。ハンズフリーでつながってる」伊吹はステアリングのボタンを押した。「はい」
「伊吹さん?」嵯峨の声だった。
「ああ。嵯峨先生。何か用? いま美由紀と一緒に群馬に来てるんだけど」
「群馬? どうして?」
美由紀はいった。「嵯峨君は精神鑑定のために客観的立場を維持しなきゃならないんでしょ。理由は話せないわ」
「それはちょっと冷たいな……。昨晩飛びだして行ったきりだったから、心配してたんだよ」
「ごめんなさい。だけど……」
「じゃあ、ちょっと待って。僕じゃなきゃいいんだろ? 舎利弗《しやりほつ》先生に代わるね」
すぐに舎利弗が電話口にでた。「美由紀。だいじょうぶかい?」
「ええ。心配ないわ。ありがとう」
「雪村藍さんのことだけど、嵯峨先生が病院に行ってカウンセリングしてるよ」
「そうなの……。経過はどうだって?」
「かなり落ち着いているよ。あの子って、前にも中国の高官相手に堂々としたところ見せてたしさ、ああいう冒険は性にあってるんじゃないのかな? 自分でもそういってるし」
「ってことは、落ち着いてきているの?」
「ああ。不潔恐怖症が再発するきざしはなさそうだ。彼女も強くなってきてるみたいだな。まあどんな症状がでても、優秀な嵯峨先生がついていれば心配ないと思うよ。雪村さんは、美由紀に頑張ってと伝えておいてと言ってた」
「……わかった。藍にも、すぐ帰るからと伝えて。それと、ごめんねって……」
「謝る必要はないよ。雪村さんも、美由紀と再会するのを楽しみにしてるみたいだ。ところで、僕たちのほうで何かできることはないかな?」
伊吹が告げた。「ネットで群馬・茨城の山間部について調べてもらえますか。雷雲の発生しやすい山間部。榛名山とか赤城山、榛名|西麓《せいろく》とか」
「いいけど、何を調べるんだい?」
美由紀は身を乗りだし、ダッシュボードのマイクにいった。「二十四年以上前から存続している施設とか、企業とか……。どんな物でもいいんだけど」
「ずいぶんアバウトだね。待ってくれ」キーボードを叩《たた》く音がする。「ええと、二十四年前か。一九八〇年代……。ああ。会社関係の所在地リストで地名を検索してみたんだけど、ごく少ないね。山奥だからかな。それも工場がいくつかあるだけだ」
「どんな工場?」
「榛名西麓の林道沿いに和菓子の製造工場。榛名山には製糸とビールの工場がある。それから少し離れて足尾山には秤《はかり》の工場がある」
「……秤?」
「なにか思いだしたの?」
「いいえ。だけど……」
ジェニファー・レインがわたしを竪穴に落とし、幼少の記憶を呼び起こそうとしたときのことだ。わたしはあるひとつの奇妙な質問を受けた。それを思いだした。
沖縄で使っていた秤を、北海道に運んだときにはどう調整すべきか。そういう質問だった。最大〇・一八グラム減らす、というのがその答えだ。北海道と沖縄ではそれだけ重力が違うからだった。
わたしはどうしてあの解答を知っていたのだろう。防衛大で知識を広げるために多種多様な本を読みあさったが、秤と重力の関係など、どこにも記されていなかった。
そうだ、おかしな問いかけはそれだけではなかった。ほかにもあったはずだ……。
美由紀はいった。「よくわからないけど、秤工場が気になるわ。場所はわかる?」
「もちろん。メールで住所と地図を送るよ」
「お願い。それと、二十四年前の東京駅の駅長について、なにかニュースが残ってないか調べてほしいの」
「駅長? それも記憶をたぐるヒントなのかい?」
「ええ。東京駅には駅長がふたりいるでしょ? 東日本旅客鉄道と東海旅客鉄道、いずれにも駅長が存在する。そのことについて、わたしが四歳のころに事件性があることが起きてたら、関わりがあるかもしれない」
「わかった。調べてみるよ。それと、美由紀」
「なに?」
「あくまでも冷静にね。取り乱しそうになったら、考えることをやめて踏みとどまることだ」
「……努力してみる。いろいろありがとう、舎利弗先生」
じゃあ、また連絡するよ。舎利弗がそう告げて、電話は切れた。
ふうっと美由紀はため息をついた。
脳の回路が切断されている以上、記憶を紐解《ひもと》こうとしても無駄だ。ジェニファー・レインの質疑内容を検証していくしかない。あの女が、わたしの幼少の経験の何を確かめたがっていたかを。
美由紀の携帯電話が短く鳴った。
取りだして液晶画面を見ると、メールが入っていた。
「舎利弗先生からのメールだわ」美由紀は伊吹にいった。「足尾電子秤工業。住所は茨城県石岡市誉田三一六二」
「ナビに出てくれりゃいいけどな。じゃ、いくぜ」
伊吹は大きくステアリングを切り、ヴェイロンをUターンさせた。
遠雷がまた聞こえる。
この空と同じく、わたしの記憶も暗雲に覆われている。払拭《ふつしよく》できるかどうかは、自分しだいだった。
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購入者
足尾電子秤工業は、足尾山麓の筑波山方面に広がる広大な敷地だった。フェンスのなかに見える工場棟はどれも年季の入った建物で、美由紀が四歳のころから存続していたとしても不思議ではなさそうだった。
だが、ここに来た覚えは美由紀にはなかった。フラッシュバックする記憶もない。ただ思いだせないだけかもしれないが……。
ヴェイロンの車内から工場を眺めていると、伊吹がふいに速度をあげた。
どうしたのだろう。前方を見ると、工場に入ろうとしている十トントラックが見えた。ゲートは、そのトラックを通すために開いている。
伊吹はトラックを外側から抜き去ると、ステアリングをゲートのほうに切りながらサイドブレーキをかけた。テールがスライドし、ヴェイロンは横滑りしながらトラックの鼻先をかすめ、門のなかに飛びこんでいった。
トラックがあわてて急ブレーキをかけ、けたたましい音が響く。ヴェイロンは広々とした工場の庭で、ターンしながら停車した。
にやりとしながら伊吹がいった。「時間を無駄にしたくなかったんでね」
美由紀は呆《あき》れて首を横に振って見せた。「不法侵入よ」
「おまえに言われたかねえな。あ、誰か来た。ありゃそれなりの責任者だな」
ヘルメットを被《かぶ》った体格のいい男が、しかめっ面で近づいてくる。「第二工場長の村沢ですが。どちら様です?」
伊吹がドアを開け放ち、外に降り立ちながらいった。「どうも、村沢さん。ちょっと伺いたいことがありましてね」
「新聞記者の方ですか? なら、ゲートのところでちゃんと受付をしてください。いまは社長もいないんで、質問に答えられる人間は誰もいませんよ」
美由紀は妙に思った。不法侵入したクルマを即、新聞記者と結びつけた。取材攻勢にでもあっているのだろうか。いまはひっそりとしているようだが。
「冗談」と伊吹は村沢に笑った。「このクルマが、記者の取材用車に見える?」
「……たしかに凄《すご》いクルマですな。車重はどれくらい?」
秤の工場で働いているだけに、目新しい物を見ると重さが気になるのかもしれない。だがいまは、こちらとしても尋ねたいことがある。美由紀はドアを開け、車外にでた。
「すみません。村沢さん、なにか取材を受けるようなことでもあったんですか?」
「そりゃ、例の発砲事件だろ。漆山《うるしやま》の告別式は終わったばかりなんだし、遺族もショックを受けているだろうから、しばらくほっといてくれないかな」
「発砲事件……。漆山さんという方が亡くなったんですか」
村沢は眉《まゆ》をひそめた。「あなたたち、そのことで来たんじゃないのか」
「いえ。関係があるかどうかは、まだわからないんです。漆山さんは、こちらの社員の方だったんですか?」
「漆山|靖史《やすし》、第四工場長だ。定年間際だった。享年六十四歳。あんな気の毒なことになるなんてな」
「どこで銃撃されたんですか」
「朝、自宅の玄関を出たところを、乗りつけられた黒の外車から降りてきた男に撃たれたとさ。ほぼ即死だったそうだ」
「撃ったのは誰ですか?」
村沢はうんざりしたような顔になった。「もういいだろ。記者じゃないんなら、ただの野次馬かい? 犯人についてなら、とっくに逮捕されて桜川警察署に留置されてるから、そっちで話を聞きなよ」
「わかりました。あ、でも、もうひとつだけ」
「なんだね」
「漆山さんが工場長を務めてたっていう第四工場というのは、どんな秤《はかり》を製造してたんですか?」
「輸送機用の大型で特殊なやつだ。搭載したコンテナの総重量を検出する……」
「ああ。自衛隊がCH47に導入している、あれですね」
「そうだ。よく知ってるな……。自衛隊機をはじめ、国内機のシェアの九割以上は、ここの第四工場で製造された秤が独占してる」
美由紀は、気になったことをそのままたずねた。「北海道と沖縄では重力が違うから、秤の計測にもずれが生じると思いますが」
「ほんの〇・一八グラムの差だが、それを修正する仕組みが導入してある。秤にGPSが内蔵してあってな。輸送機が世界のどこに飛んでも、その国に必要な微調整をおこなう。漆山も開発に携わってきて、ソフト部分の管理責任者だった」
「でも、どうして撃たれたんでしょう?」
「さあな。恨みを買うような人間でもなかったんだがな。私の知ってるのはそれぐらいだ。警察にでもどこへでも行って、調べてくればいい」
村沢は背を向けると、工場棟に立ち去っていった。
そのとき、美由紀の携帯電話が鳴った。
「はい」と美由紀は電話にでた。
「美由紀」舎利弗の声だった。「二十四年前、東京駅の駅長が殺されてる。当時の新聞に出てた」
「殺人なの……?」
「そう。国鉄からJRに変わったばかりで、駅長がふたりいることを知らなかった犯人が、間違って別のほうの駅長を殺してしまったって事件だ。被害に遭ったのは、東海旅客鉄道のほうの駅長だった杉並信也《すぎなみしんや》って人だったんだが、犯人が狙っていたのはJR東日本のほうの漆山靖史駅長……」
はっとして美由紀はきいた。「なんですって? いまなんて?」
「漆山靖史駅長、当時四十歳と記事にあるけど……。それがどうかした?」
美由紀は振りかえった。村沢の背はもうかなり遠ざかっている。
「村沢さん!」美由紀は声を張りあげた。「漆山さんがこの工場で働くようになったのは、いつごろですか?」
迷惑そうに振り向いた村沢が怒鳴りかえしてきた。「二十年か、もう少し前ぐらいだろ。東京で脱サラした後、田舎に来たが農業に馴染《なじ》めなかったんで、ここで働くことになったと聞いた。なんでもいいから、出てってくれないか。警察を呼ぶぞ」
ぷいと背を向けた村沢が歩き去っていく。美由紀はそれをぼんやりと眺めていた。
伊吹が声をかけてきた。「どうしたんだ、美由紀?」
「殺された工場長は、二十四年前にも命を狙われてた」
「なんだと? 犯人は今度と同じか?」
まだわからない。美由紀は携帯電話に告げた。「舎利弗先生、駅長を殺した犯人について、なにか手がかりはある?」
「犯人なら、現行犯で逮捕されたよ」
「現行犯? 殺人現場で逮捕されたの?」
「そうだよ。駅構内でいきなり拳銃《けんじゆう》で撃ったらしくて、駆けつけた警官に取り押さえられた。仁井川章介《にいがわしようすけ》、当時三十二歳。指定暴力団の仁井川会の跡継ぎだったって書いてある。このとき逮捕され懲役十年、しかも人違い殺人だったってことから仁井川会を破門され、出所後の行方は不明。仁井川会は次男が継いだ。仁井川章介は事件以前から独自の密輸ルートを運営していたらしいから、いまもそれで生計を立てている可能性がある……ってことだ」
すると出所してから、さらに十四年経ったいま、本来のターゲットだった漆山を殺害したということだろうか。
暴力団の元跡継ぎによる殺人。わたしとはまるで無関係に思える。だが、どうも気になる。胸騒ぎが収まらない。
「舎利弗先生。その犯人の……仁井川章介って人だけど。写真はない?」
「あるよ。メールで携帯に送る。じゃ、またあとで」
電話は切れた。
美由紀は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。
「それで」伊吹がきいてきた。「次はどうする?」
「……桜川警察署って、どこだかわかる?」
「ここに来るまでの道に案内が出てたな。たぶん、この辺りの所轄だろう」
「じゃ、そこに行って、漆山さんを銃殺した犯人と面会するしかないわね」
「応じてくれるかな。っていうより、たしかな線なのか?」
「さあ。まだ詳細は何もわかっていない……」
携帯電話が鳴った。メールを受信した。
液晶画面を見ると、画像が表示されていた。
仁井川章介、二十四年前の顔。
短く刈りあげた頭髪、太い眉、目つきは悪く、鼻は潰《つぶ》れたように低かった。歪《ゆが》んだ唇から覗《のぞ》く歯は、何本か抜け落ちているのがわかる。
「……美由紀?」伊吹の声がした。「おい美由紀、どうかしたのか」
伊吹が抱きとめようとする寸前、美由紀は膝《ひざ》から崩れ落ちた。
携帯が投げだされ、地面を転がる。
この男だ……。
陳述記憶にはアプローチできないため、最も辛《つら》い思い出は想起できない。
しかし、この男の顔は非陳述記憶の領域にしっかりと刻みこまれていた。
積み木でわたしの頭を殴打し、白い粉の入った袋を大事そうに抱え、ほかの幼女たちにも暴行を繰り返していた。
携帯電話を拾いながら、伊吹がたずねた。「誰だ、この男?」
「二十四年前、小笠原でわたしを買った男」美由紀はつぶやいた。「群馬にわたしを連れてきて、生涯を狂わすような思い出を刻んだ張本人よ……」
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同一人物
正午すぎ。依然として空は厚い雲に覆われていた。
茨城県桜川市|真壁《まかべ》町にある桜川警察署、鉄筋コンクリート三階建ての庁舎の正面玄関に足を踏みいれる寸前、伊吹は美由紀を押しとどめてきた。
「美由紀。いいか、まず深呼吸しろ」
「平気よ。わたしはいたって冷静」
「そうでもない。目つきが変わってきてるぜ? いまここで誓ってくれ。ぶち壊しにするような真似はしないって」
いらいらしながら美由紀はいった。「ぶち壊しにはしない。これでいい?」
「なあ、美由紀。ここの留置所に仁井川章介がいたとしてもだ、そいつに二十四年前のことを尋ねたいからと申しでたんじゃ、門前払いを食らうだけだ」
「どうしてよ」
「わかるだろ。たぶんもう時効だろうし……」
「わたしにとっては時効なんか……」怒鳴りかけて、美由紀は口をつぐんだ。「ごめんなさい。やっぱり冷静じゃなくなってる……」
「クルマに戻ってろよ。俺が事情を聞いてくる」
「いえ、いいの。わたしも一緒にいくから」
「……よし。じゃ、迷わないように段取りを決めておこう。留置場に面会に行った経験はあるか?」
「ええ。臨床心理士は刑事事件の容疑者にも接見することがあるの。伊吹先輩は?」
「俺は……入ったことがあるから。知ってるだろ?」
「ああ、そうだった……」
「面接はいま可能かな?」
「逮捕後、四十八時間は接見禁止だけど、地元の新聞に逮捕は四日前って出てるから。だいじょうぶじゃない?」
「必要なものは、身分証明書と印鑑だけか。知り合いじゃなくても会えるのかな?」
「原則禁止だろうけど、こっちが知人だって言い張れば顔を見るぐらいはできるだろうし」
「それでどうする? 二十四年前のことの証人になってくれって頼むのか?」
「……わからない」と美由紀はつぶやいた。「いまはただ事実を確かめたいだけ。それ以降のことなんて、とても想像がつかない……」
玄関を入り、総合受付の警察官に美由紀は告げた。「漆山靖史さんの事件で、容疑者に接見したいんですが」
警察官は妙な顔をした。「事前にお約束が?」
「いえ。忙しかったので」
「失礼ですけど、容疑者とどんなご関係で?」
「旧知の間柄、っていうか……。ええ、ずいぶん昔の知り合いです」
「ご家族やご親族ではないんですね?」
「はい」
「すると斉藤《さいとう》さんの幼|馴染《なじ》みということですか」
美由紀は伊吹の顔を見た。伊吹も、眉《まゆ》をひそめて美由紀を見かえした。
「あのう」美由紀は警察官にきいた。「斉藤さんって?」
「……斉藤|雄介《ゆうすけ》さん。漆山靖史さん銃撃事件の容疑者です。彼の接見においでになったわけでしょう?」
「あ……はい。そうです。ちょっと気が動転して……」
伊吹がいった。「ショックで時々耳が遠くなるんです」
はあ、そうですか。警察官はなおも怪訝《けげん》な顔をしながらいった。「三階の留置管理課に行ってください。その階段からです」
どうも、と頭をさげて、階段に歩を進める。
「どういうことだよ」と伊吹がささやいてきた。「ここでの殺しは仁井川が犯人じゃなかったのか」
「そうみたいね……。でもどういう事態なのか、会ってみないことには判らない」
留置管理課での手続きは煩雑だった。
所持品検査を受けたあと、何枚もの書類に書きこみ、さんざん待たされて、ようやく接見の時間は訪れた。
接見室は、テレビドラマでよく見かける殺風景な部屋そのままだった。装飾のない壁に囲まれた狭い部屋は、ガラスで間仕切りされ、向こうには容疑者が座る席、こちら側は訪問者の座る席が用意してある。
ガラスには声が通るように穴がいくつも開いているが、そのガラス自体が二枚重ねになっていて、穴もずらしてある。細い物ですら、ガラスの向こう側に投げこむことはできない構造だった。
斉藤雄介は、眼鏡をかけた五十歳すぎぐらいの男で、疲弊しきった顔で現れた。
誰が訪ねてきたのか、よく聞かされていなかったらしい。ガラスごしに美由紀たちを見ると、妙な顔つきになった。
「どなたですか」と斉藤がきいてきた。
美由紀は困惑して、伊吹を見た。
伊吹が小声でたずねた。「見覚えのある顔か?」
「いいえ。全然……」
「あのう」斉藤がいった。「私に何の御用でしょうか」
こちらから面会を申しでた以上、なにも尋ねないわけにはいかない。美由紀は告げた。「斉藤さん。漆山工場長を銃撃したそうですけど……」
「とんでもない!」ふいに斉藤は身を乗りだした。「私はやっていない!」
「おい」斉藤の肩越しに、警察官が注意した。「大声をだすな」
「やっていないといったら、やっていないんだ。何度いえばわかる。私はその朝、クルマごと牛久《うしく》市のほうに出かけてたんだ。漆山さんって人が住んでる土浦《つちうら》のほうなんて行っていない」
「事件に関する供述は取調室でおこなえ。接見を中止するぞ」
「接見って、だいたいこの人たちは誰なんだ。私は断固、抗議するぞ。早く弁護士を呼んでくれ。これ以上警察に喋《しやべ》ることなんか……」
呆然《ぼうぜん》としながら、美由紀は感じたままのことを口にした。「そうよ」
斉藤は押し黙り、美由紀を見た。警察官も眉間《みけん》に皺《しわ》を刻みながら、こちらに視線を向けてきた。
美由紀はいった。「斉藤さんは、嘘をついていない。冤罪《えんざい》だわ」
しばし唖然《あぜん》としていた斉藤が、興奮したようすで警察官に怒鳴った。「ほらみろ! この人も言っている。私は冤罪なんだ。これは誤認逮捕だ!」
「静かにしろ! すぐに留置室に戻れ。接見は中止だ」
「戻るものか。無罪の人間を勾留《こうりゆう》しておいて、ただで済むと思うな。女房と一緒に地検に怒鳴りこんでやるからな。覚悟しとけ」
そのとき、美由紀の背後のドアが開いた。
「騒々しいな」ワイシャツ姿の無骨な中年男が室内を見まわした。「接見だと聞いて上がってきたが、いったい何をやってるんだ」
どうやら、刑事課の人間らしい。この銃撃事件を担当している捜査員だろう。
斉藤がガラスごしに刑事にいった。「私の無罪を証明しに来た人たちだ。ちゃんと話を聞いとけ」
「誰だ? 知り合いか?」
「いや……。よくわからないが、そんなことはどうでもいい。三十五年にもわたって運転手稼業ひとすじの私は、交通切符一枚すら切られていない優良ドライバーだ。お抱えから独立して、この先年金暮らしまでの十余年を明るく楽しく暮らそうとしたとたん、警察はその自由を奪いに来た。まるっきり知らん襲撃事件とやらの容疑で、私の腕に手錠をかけた」
刑事がじれったそうにいった。「逮捕状なら見せただろう。襲撃に使われた高級外車セダン、ベントレー・アルナージも間違いなくおまえのクルマだ。近所の目撃者が証言したナンバーも一致した」
「四ケタだけじゃないか。陸運局名や、ひらがなのところは記憶してなかった、そうだろ?」
「何度いえばわかる。鑑識がタイヤ痕《こん》から、四輪の摩《す》り減りぐあいをそれぞれ調べあげた。ドライバーや走行の癖や、乗員がどこに乗るかによってタイヤの磨耗は一台ずつ変わる。いわば指紋と同じだ。それがすべて、ぴたりと一致してるんだぞ。あれはおまえのクルマだ。だいたい、フリーの運転手風情が、ベントレーに乗ってること自体不自然だろう。そんなに儲《もう》かってるのか?」
「こんな侮辱は初めてだ! 私はずっと社長に気に入られ、社長の自宅がある阿見町《あみまち》からつくばみらい市の会社まで、月曜から金曜まで休みなく送迎しつづけた。あのベントレーは七年前に社長が購入し、今年の八月七日に私が辞めるにあたって餞別《せんべつ》にと、くれたものだ。さすがによく走りこんだだけに、走行距離は九万キロを超えてたが……」
おかしい。美由紀は疑問を感じた。それでは計算が合わない。
「待って」と美由紀はいった。「阿見町からつくばみらい市を週五日、七年間往復したんでしょう? 国道四〇八号線を使ったの?」
「ああ、そうとも」
「じゃあ走行距離は十八万キロを超えるはずよ。九万キロに留《とど》まるはずがない」
「な、なんだって……?」
刑事が目をいからせた。「斉藤! でたらめをいうな」
「でたらめなんかじゃない」斉藤は必死の形相で訴えた。「私は同じ道を毎日、走りつづけた。嘘なんかついてはいない」
「ええ」美由紀はうなずいた。「斉藤さんはやはり、嘘をついてません」
「なんだ?」刑事は甲高い声をあげた。「ふざけてるんですか、あなたは」
「そんなつもりはありません。正しいことを告げてるだけです」
「斉藤がいったことは間違っていたんでしょう?」
「はい」
「なら嘘つきじゃないですか」
「そこは違います」
「どうして」
「顔を見ればわかりますから」
刑事は頭をかきむしり、ガラスの向こうの警察官にきいた。「留置管理課で接見者の身元はチェックしたな?」
「はい」警察官は戸惑いがちに応じた。「ええと、そちらの女性の方は、臨床心理士の岬美由紀さんとのことでしたが」
「岬……」刑事が驚きの目で美由紀を見つめてきた。「あなたが……千里眼?」
伊吹がにやついた。「地方のほうが知られてたりするんだよな」
斉藤も面食らったようすだった。「ほんとに岬さんですか?」
「ええ」美由紀は斉藤を見つめた。「あなたが冤罪なのは間違いないと思います。お聞かせ願いたいんですが、どこかの会社に雇われてたと仰いましたけど、そのときベントレーはどこに停めてましたか?」
「龍ヶ崎市上町横溝のタワー駐車場です。会社が借りてる駐車スペースですから、ふだんはそこに戻しておく決まりで」
「雇っていた会社名は?」
「待った」刑事が口をさしはさんだ。「岬先生。なんの権限でこの事件に首を突っこんでおられるんです。臨床心理士の派遣を要請してはいないし、だいいち、先生はいま公判中のご身分でしょう? 新聞で読みましたが」
「ええ……。たしかにそうです。ここには私用で来ただけです」
「失礼ですが岬先生。容疑者への接見というのは民間捜査を許可する場ではありません。不審な接見者には事情を聞くこともありえます」
「わたしが不審な人物なの? ちゃんと名乗ったけど」
「あなた自身が別の事件の被告人なのですから、怪しまれるのは当然でしょう」刑事は美由紀の腕に手を伸ばしてきた。「お越しください。聞きたいことがあります」
美由紀はすかさず刑事の手首をつかみ、合気道の小手返しの要領で身体をひねると、関節を極《き》めてバランスを崩させた。刑事の背にまわると、腰から手錠を引き抜く。美由紀は刑事の両手を後ろにまわさせて、手錠をはめた。
「痛《い》てて!」刑事が大声をあげた。「おい、早く応援を呼べ!」
ガラスの向こうで警察官が血相を変えて、ドアの外に飛びだしていった。
斉藤はぽかんと口を開けてこちらを見ている。
「心配ないわ」美由紀は斉藤にいった。「あなたの無罪はわたしが証明する。明日には釈放されるから、待ってて」
「……はあ」
伊吹がドアを開け放った。廊下に目を走らせてから、美由紀に合図してくる。
美由紀はうなずいて、廊下に駆けだした。
階段を降りようとしたが、制服警官が大挙して階下から押し寄せてくるのが見えた。
「こっちだ!」と伊吹が怒鳴り、上に向かう階段を昇っていく。
その後につづいた。伊吹がドアを蹴《け》り飛ばすと、外の光が射しこんだ。
屋上だった。三階建ての建物の頂上。日の丸の旗がはためいているほかには、何もなかった。
急げ、と階段から声がする。追っ手はもう間近に迫っていた。
建物の右手には、二階建ての別棟が隣接していた。そこまでの落差はほんの数メートルだ。
思うが早いか、美由紀は手すりを乗りこえてその屋根に身を躍らせた。
ほぼ同時に伊吹も跳躍した。二階建ての屋根はやはりコンクリートだった。美由紀は前転して衝撃を和らげながら着地した。
身体を起こして、今度は三階建ての本棟の玄関先に長く伸びた軒先を見おろした。どの警察署にもある車寄せの屋根だった。そこまでの落差もやはり数メートルだ。
今度は伊吹が先に飛んだ。トタンの屋根に身体を打ちつける。かなりの騒音だった。玄関にいる警備の警官も気づいただろう。
美由紀も屋根に飛び移った。そのまま前方に駆けていき、本棟から離れる。
屋根ぎりぎりの縁に到達し、ふたり同時に表通りの歩道に飛び降りた。
アスファルトに転がったとき、女性が運転する自転車に轢《ひ》かれそうになった。けたたましい急ブレーキとともに、美由紀の顔からわずか数センチのところで、自転車のタイヤは停まった。
「ごめんなさい」と美由紀は告げて、ただちに起きあがると、ヴェイロンに向かって走った。
伊吹が運転席に乗りこみながら言う。「早く乗れ、美由紀!」
美由紀が助手席に飛びこんだとき、署の玄関から警官らが駆けだしてきた。
「発進して!」と美由紀はいった。
ヴェイロンはエンジンがかかった直後に一気に滑りだし、まっすぐ伸びる公道を直進していった。
サイレンの音が後方に響く。振りかえると、パトカーが追跡してきていた。
「なめんな」と伊吹がギアを入れ替え、アクセルを踏みこむ。
その加速は、F15Jの離陸時、アフターバーナーの点火が与える唐突な推進力にうりふたつだった。公道は滑走路のように流れ、このまま飛び立つのではと思えるほどのGとともにヴェイロンは疾走した。はるか向こうに見えていた黄いろの信号が、赤になるよりも前に交差点を通過した。
圧倒的なトルクの差。サイレンの音は徐々に遠ざかり、ついには聞こえなくなった。
伊吹はほっとしたようにため息をつきながらも吐き捨てた。「騒ぎを起こすなってあれほどいったのに」
「だって……。あの人は冤罪《えんざい》だし」
「また他人の心配かよ。千里眼が見抜いたっていうだけじゃ有罪無罪は決められねえって、裁判長も言ってたじゃねえか」
「だから証拠を固めに行くの。斉藤さんは、会社にいたころ龍ヶ崎市上町横溝のタワー駐車場にベントレーを停めてたって、そう言ってた。そこまで行ける?」
「ああ。そんなに遠くはないが……。行ってどうする? 彼の無罪を証明できる見込みでもあるのか?」
「ええ、たぶんね」
「……まったく、恐れいったよ。変わらないな、美由紀は」
「え?」
「自分のことより他人のことばかり心配しちまう。それがおまえの本質かもな」
美由紀は苦笑してみせた。「そうじゃないわよ。やむをえなかったっていうだけ……」
漆山靖史を銃殺した犯人を探しだすことは、必ずしも斉藤のためだけではない。
その犯人とはおそらく、二十四年前に漆山の命を狙った人間と同一だからだ。
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隠れ蓑
午後一時半。茨城上空は濃い雨雲に覆われた。ひと雨きそうだ。
美由紀は停車したヴェイロンの助手席から降り立ち、関東鉄道龍ヶ崎駅の近くにひろがる商店街を眺め渡した。
年季の入った店舗が多く、道路は広いがクルマの往来は少なかった。歩行者もほとんど見かけない。
すなわち、このタワー駐車場を出入りするクルマを目撃する人は多くないということになる。
伊吹が運転席から這《は》いだしてきた。「ほんとにここか?」
「ええ。上町にタワー駐車場と呼べる場所はここだけのようね」
道路の向かい側、パチンコ店と薬局に挟まれたスペースに駐車場の入り口があった。エレベーターのような垂直循環式で、一台ずつリフトに乗せるかたちで収納される。
入り口の脇にある管理人小屋の窓のなかに、暇そうにしている中年のスタッフの姿が見えていた。
「美由紀。あの男が何を考えてるのかも判るのか?」
「……もちろん。表情筋が弛緩《しかん》しきって怠惰な状態にあることがわかるけど、ときどき隣のパチンコ店の自動ドアが開いて店内の音が聞こえるたびに、眼輪筋が一瞬だけ収縮する。遊びたい、パチンコをやりたいという思いが募ってるのね。その欲求の強さから、たぶん遊ぶための時間だけじゃなくてお金も足りないんでしょう」
旧式のブルーバードが徐行してきて、パーキングの入り口につけた。
管理人室からスタッフがでてくる。「置いといていいですよ。あとはこちらでやっときます」
ブルーバードの運転者はスタッフにキーを渡し、立ち去っていった。
スタッフはブルーバードに乗りこみ、発進させたが、助手席側のドアを柱にこすってしまった。
あわてたようすで降り立ったスタッフは、車体を迂回《うかい》し助手席側に走った。美由紀のいる場所からでも判別できるぐらいの大きな傷が、横一文字に刻みこまれている。
しばしスタッフは、気まずそうな顔でその傷をさすっていたが、やがて開き直ったような顔で運転席に戻り、駐車用リフトのなかにクルマを乗り入れた。
伊吹がきいた。「後で客に詫《わ》びるつもりかな?」
「いいえ。上唇が持ちあがって頬筋が左右非対称になってたから、嫌悪を感じるばかりで反省はしていない。苦悩の感情も消失したから、黙っていれば気づかれないだろうと腹をくくってる。助手席側の傷だしね」
「なんて奴だ。こんな駐車場に預けるぐらいなら、駐禁切られたほうがましだな。さっきの客にばらすぞと脅しをかけて、こっちの聞きたいことを吐かせてみるか?」
「それはよくないわ。桜川警察署で、斉藤さんがここのタワー駐車場のことを話したとき、刑事さんも一緒にいた。わたしたちがここに来る可能性もあると考えて、警察はもう駐車場の管理人に電話しているでしょう。わたしたちの顔を見たらすぐ通報するだろうし、そうでなくてもいずれパトカーが来ると思う」
「じゃあ、ぐずぐずしてられねえな」
「ええ。だから早くあの管理人を追い払って、調べものを済ませましょ」
美由紀は道路の向こう側に渡り、パチンコ店の前に立った。管理人室の窓から見えないように、そろそろと近づく。
ポケットにおさまっていたパチンコの特殊景品を取りだす。嵩原利行《たかはらとしゆき》からせしめた物だった。このパチンコ店の景品とは当然異なるだろうが、そもそも景品は不正防止のために日ごとに種類が変わるため、容易に判別はできない。ここに落ちていたら、最も近い店のものだと考えるだろう。
姿勢を低くして、駐車場の入り口に特殊景品を放り投げた。
スタッフは物音を気にしたようすで、外にでてきた。そして特殊景品に気づき、拾いあげる。辺りを見まわして、落とし主らしき姿が見えないことを悟ったらしい。また吹っ切れたような顔で、その景品を懐におさめた。
美由紀は伊吹とともに身を翻し、こちらに歩いてくるスタッフから顔を隠した。
ちらと振りかえると、スタッフは上機嫌なようすでパチンコ店の向こうにまで歩を進めていく。景品交換所に向かう気だろう。
駐車場の管理人室は無人になった。美由紀は伊吹にいった。「行きましょ」
「おう」と伊吹が歩きだした。
その後につづいて駐車場に向かった美由紀は、半開きになった管理人室のドアを入った。
事務机の上に大学ノートが重ねてある。開いてみると、毎日の車庫状況と収支の記録があった。
八月七日の記録を探す。斉藤はその日に、長年雇われていた会社を辞めてフリーになった。それまではベントレーは会社の名義で、この駐車場におさめてあった。
何冊かノートのページを繰って、やっと該当する日の記載事項が見つかった。
本日解約と赤いボールペンで書きこんである欄がある。契約者は株式会社リムネス、月極で契約していた駐車リフトの番号は14番だった。
伊吹がノートを覗《のぞ》きこんできた。「それが斉藤さんを雇ってた会社名か?」
「そう。でも、ここを見て。38番のリフトもリムネスって会社が契約してる」
「まあ、珍しいことじゃないだろ。二台ぶんの駐車スペースを契約するなんて」
「斉藤さんがそれを知ってたかどうか疑問ね」
「どういうことだ?」
美由紀は一番新しいノートを開き、きょうの日付のページを見た。
そこにはまだ株式会社リムネスの名義が残っていた。38番の契約は依然として続いている。
「伊吹先輩。38番のクルマ、出せるかしら」
「たぶんな」伊吹はドアの外にでて、制御パネルに向かった。
美由紀も管理人室を出た。伊吹がパネルの38番のボタンを押している。
タワー駐車場のリフトが重苦しい音とともに動きだす。観覧車のようにリフトが一台ずつ間口のなかを通過していった。
やがて、38番のリフトが間口に現れ、機械は停止した。
「こいつは……」と伊吹がつぶやいた。
やはり、と美由紀は思った。
リフトに揺られているのは高級外車セダン、ベントレー・アルナージだった。
伊吹がクルマに歩み寄った。「斉藤さんのと同じ車種じゃねえか」
「そう。これが漆山さんへの襲撃に使われたクルマ」
「どういうことだよ? 鑑識がタイヤ痕《こん》を調べて、一致するのは斉藤さんのクルマしかなかったわけだろ?」
「襲撃現場で発見されたのは、このクルマのタイヤ痕よ。でも斉藤さんのクルマも、タイヤの四輪それぞれの磨り減り具合はぴったり同じなの。エンジンのコンディション、部品の経年劣化、故障箇所に至るまでほとんど同じだと思う」
「なぜそんなことになる?」
「斉藤さんの雇い主は、さっきの管理人にお金でも与えて、二台のベントレーを毎日交互に出させていたのよ。月曜が14番なら、火曜は38番。水曜は14番……って具合にね」
「ああ、そうか。同じ運転手に、同じ乗客。同じルートを同じ時間に走る。それを日々交互に繰り返していれば、同じ状態のクルマが二台できあがる」
「このベントレーのナンバーは、土浦330になってる。希望ナンバーだから、四ケタの部分は二台同じにできる。ひらがな一文字だけが違ってることになるけど、そこまでは誰も気づかないわね」
「走行距離が半分だったのはそのせいか。しかし、七年間ずっとそんなことを繰り返してたってのか? なんのために?」
「当然、漆山さんを襲撃した罪を斉藤さんに被《かぶ》せるためでしょうね。斉藤さんにうまく会社を辞めてもらい、餞別《せんべつ》だといって一台を無料譲渡した。名義変更して斉藤さんの物になって以降に事件が起きたわけだから、警察も元のオーナーまでは調べない」
「計画的犯行ってわけか。すると、リムネスって会社の社長が……」
「ええ。漆山さんを襲撃し、殺害した主犯ってことね」
外から声が聞こえてきた。けしからんことだ、こんな物を持ちこむなんて。
「いや、だからさ」スタッフが後ずさりしてくるのが、外の歩道に見えた。「間違えただけだよ。ほかのパチンコ屋の景品だったんだ。ここでも打ったから勘違いしちゃって……」
「どうせ拾ったんだろ」問い詰めているのは、パチンコ店の店長クラスらしかった。「換金しようなんてとんでもない腹だ。駐車場のオーナーさんに連絡してやるからな」
「勘弁してくれよ。ここをクビになったんじゃもう働くところが……」
ふたりは駐車場の入り口付近で口論を交わしている。
美由紀はそ知らぬふりをして、その背後を通りすぎて外にでた。伊吹も歩調を合わせてきた。
駐車場から遠ざかろうとしたとき、あのブルーバードのドライバーが戻ってきた。
すれちがいざまに、伊吹が声をかけた。「助手席側のドア、ちゃんと確認したほうがいいよ」
「はあ?」とドライバーはふしぎそうな顔で振りかえった。
足ばやに歩きながら、伊吹は美由紀にたずねてきた。「リムネスって会社を調べてみるか?」
「一応ね。でも、ヤクザが隠れ蓑《みの》にしている幽霊会社なら、表面だけ調べても実態は浮かびあがってこないわ」
「なら、どうする?」
「あのベントレーの車体は埃《ほこり》をかぶってなかった。斉藤さんはもう逮捕されたから、社長さんも安心してあのクルマを使ってるみたいね」
「すると、クルマを取りにくる奴がいるってことか」
「それを待ったほうがよさそうね」と美由紀はいった。「うまくすれば会社なんかじゃなくて、犯罪のための隠れ蓑に連れていってくれるかもしれない」
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誘導尋問
嵯峨は舎利弗とともに、臨床心理士会の事務局にいた。
同僚の臨床心理士は通常業務のために出払っているが、事務局は雑然としている。検事局と警察の捜査関係者がひしめきあっているせいだ。岬美由紀の関連書類を提出することに臨床心理士会が同意して以来、ずっとこんな調子だった。たぶんこの喧騒《けんそう》は、裁判が終わるまでつづくのだろう。
検事らは美由紀がどこにいるのかとさかんに聞いてきた。嵯峨は常に言葉を濁した。いま舎利弗がオフィスで美由紀からの電話を受けていると伝えたら、彼らはきっと血相を変えるに違いない。
むろん嵯峨は、公言するつもりなど毛頭なかった。オフィスの戸口に立って、検事が来ないように見張る役を買ってでていた。
舎利弗は受話器を手にして、困惑ぎみにつぶやいていた。「リムネス……かい? そういう名前の株式会社が茨城にあるわけか。……龍ヶ崎周辺、ね。わかった。いますぐ調べてみるよ。ちょっと待ってて」
パソコンに向き直った舎利弗が、キーボードを叩《たた》いてネットを検索する。
「どうしたの?」嵯峨はきいた。
「手がかりをつかんだみたいだよ」舎利弗がいった。「ある会社の経営者が怪しいらしいんだ」
「トラブルは起こしてないかな? 所轄警察に追われるような目には……」
「さあ。ずいぶん落ち着いた声で電話してきているから、だいじょうぶじゃないかな」
そうだろうか、と嵯峨は思った。美由紀はいかなる緊張状態でも冷静でいられる女性だ。たとえ大勢の敵に囲まれていても、電話の声はふだんと変わらないだろう。そんなふうに思わせるところがある。
「あった」舎利弗が受話器に告げた。「あったよ。株式会社リムネス、本社オフィスは龍ヶ崎市内のマンションの一室だな。業種はイベント業などとなってるけど、胡散臭《うさんくさ》いね。代表取締役は仁井川章介って人だ。……そう、間違いないよ。たしかに仁井川って記してある」
「仁井川?」だしぬけに蒲生の声がした。
びくっとして嵯峨は通路を振りかえった。
戸口の外に蒲生が渋い顔をして立っていた。
「が、蒲生さん」嵯峨はあわててきいた。「何か用?」
「指定暴力団仁井川会の絡む殺しは何度も担当したことがあってね。仁井川なんていう珍しい苗字《みようじ》は、どんな騒音のなかでも真っ先に耳に飛びこんでくる」
「そりゃすごい。選択的注意集中だね。ハハ……」
蒲生は嵯峨の肩越しに舎利弗を覗《のぞ》きこんだ。「そちらの先生は電話中のようですが」
「いや、あの」舎利弗は受話器にいった。「じゃあまた電話するよ。さよなら」
電話を切ると、舎利弗は誰の目にも焦っているとわかる顔で蒲生にきいた。「なんでしょうか?」
「仁井川がどうかしたのかな」
「あ、それはまあ、そりゃその、二位が、って聞いたんですよ。順位がそのう、気になって」
「順位? なんの順位ですか? ああ、ひょっとして野球か。セ・リーグ、今年は大荒れだしね」
嵯峨はそれが蒲生の誘導尋問だと気づいていた。野球という問いかけにうなずかせてから、どのチームが好きかとか、選手の名前をいってみろなどと問い詰め、自白に持ちこむ作戦だ。
だが舎利弗は、すぐにその罠《わな》に気づいたらしく、話題を自分の知り尽くしたジャンルに引き寄せた。「円谷《つぶらや》怪獣のね、ソフビ人形の売り上げ一位は間違いなくバルタン星人なんだけど、二番目はどれかなって思って。僕はゼットンだと思ったんだけど、友達はツインテールだなんていうんですよ」
蒲生は表情を硬くした。「俺はラドンとかそのあたりを推すけどな」
「あれは違うんです、円谷英二が特技監督を務めてたけど、東宝怪獣ですから。いわゆる円谷怪獣は円谷プロ製作の作品でないと」
面食らった蒲生の顔を見たとき、嵯峨は思わず笑いそうになった。
その嵯峨を蒲生がじろりとにらみつけてきた。嵯峨は表情を凍りつかせた。
「もし」蒲生がいった。「美由紀から連絡があったら、すぐ知らせろよ」
「そりゃもちろんです」嵯峨は大きくうなずいてみせた。「そうします」
腑《ふ》に落ちない顔で蒲生はもういちど舎利弗を見やってから、通路を立ち去っていった。
嵯峨はため息をついた。
舎利弗も冷や汗をぬぐっている。「やれやれ……」
「バレなくてほっとしたよ」
「そうだね。でも……」
「なんだい?」
「気になるね」舎利弗は深刻そうにささやいた。「仁井川会……。たしかに同じ漢字だよ。このリムネスって会社の社長とね」
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アスファルト
午後三時。龍ヶ崎の商店街は雨が降りだした。雲も厚く、日没前後のように薄暗い。
美由紀はヴェイロンの助手席にいた。タワー駐車場の入り口がかろうじて見える場所、交差点をふたつ隔てた路地に乗りいれ、エンジンを切って停車している。
フロントガラスに降りそそぐ雨の向こうに揺らいで見える風景を、美由紀はじっと見守った。
これまでにパトカーは二度やってきて、駐車場の入り口前に数分間停車した。美由紀たちを探しているのだろう。こんなに距離を置いて見張らねばならないのも、ブガッティ・ヴェイロンなどという目立つクルマに乗っているせいだ。
もっとも、そのことで伊吹を責めるのは筋違いというものだった。地元の警察に追われている理由はわたしにある。わたしはそんな状況に伊吹をつきあわせてしまった。
だが運転席の伊吹は不平ひとついわず、缶コーヒーをすすっていた。
「本降りになってきたな」と伊吹がいった。「きょう動きがなかったらどうする? また明日張りこむのか?」
「管理人室のノートによれば、あのクルマは毎日、これぐらいの時間に外にでてる。きょうも予定が変わらないのなら……」
「そうなるはずってわけか。待つしかねえな」
「ねえ、伊吹先輩」
「ん?」
「また警察から逃げまわる身になっちゃって、ごめんなさい。わたしのことにこれ以上、伊吹先輩を巻きこみたくないから……」
「独りで東京に帰れって? 馬鹿いえ」
「だけど……」
「あのな、美由紀。謝るぐらいなら、警察で面倒を起こすなよ。でもそのことについての俺の小言はとっくに聞いたろ? だからもう俺はなにもいわない。済んだことだ」
「……ありがとう。伊吹先輩」
ふんと伊吹は鼻を鳴らした。「俺はおまえに助けられたからさ。恩返しぐらいさせてくれてもいいだろ」
恩返し。伊吹が力になってくれるのは、それだけが理由なのだろうか。
ステアリングに投げだされた伊吹の左手に、婚約指輪が光っている。
ヴェイロンの車内は、決して広くはない。防衛大にいたころ、ふたりで乗ったアルファロメオ・スパイダーと比べても、さほど変わらない。
それでも伊吹との距離を感じる。以前にもまして、伊吹は遠くにいる。
ため息まじりに視線を落とした。どこに行ってもわたしは、独りのままだ。
「出てきたぞ」伊吹が鋭くいった。
美由紀ははっとして目を凝らした。
駐車場の入り口、ヘッドライトの青白い光が見えている。
たしかにベントレー・アルナージだった。巨大なセダンが路上に這《は》いだしてきて、テールをこちらに向け遠ざかっていく。
伊吹がエンジンをかけながらつぶやいた。「まさか三台目が隠れてたってことはないよな」
「近づいてナンバーを確認すればわかるわ」
ヴェイロンは発進した。ヘッドライトを灯《とも》すことで、先行するクルマのミラーにこの独特のシルエットを目立たなくすることができる。
ベントレーと距離が詰まった。ひらがなの部分もたしかに同一だった。
仁井川章介の所有するベントレー。動きだしたその車体の追尾に入った。
美由紀の心拍は速まった。行く手に待っているかもしれない。四歳のわたしに恐怖を刻みこんだその男が。
だが、雨のなかを一時間ほど走ったベントレーが行き着いたのは、美由紀の期待したような場所ではなかった。
そこは羽鳥《はとり》駅、小さな木造の駅舎を持つ常磐《じようばん》線の駅だった。ロータリーというよりはただの広場でしかない駅前に、ベントレーは停車した。
辺りに人影はない。売店もシャッターが下りている。
伊吹はヴェイロンをベントレーの後方に停めながら、首をひねった。「おかしいな。こんな田舎の駅に何の用だ?」
運転席から降り立ったのは、ひょろりと痩《や》せた身体に肩幅の広いスーツ、下半身はベルボトムのスラックスといういでたちの茶髪の男だった。年齢はまだ若く、二十代前半かもしれない。
どうみてもチンピラとしか思えないその男は、雨のなかを傘もささず、肩で風を切って歩いていく。駅舎にぶらりと入っていった。
美由紀はドアを開けて車外にでた。伊吹もほぼ同時に、クルマから降り立った。
急いで男の後を追う。ベントレーの脇に差しかかったとき、さりげなくその車内を覗《のぞ》いた。誰もいなかった。
乗っていたのはあの若い男だけか。こんなところに誰を迎えにきたのだろう。
駅舎の入り口に立った。なかは待合室になっているが、茶髪の男以外は誰もいない。改札に直結しているものの、駅員の姿もなかった。
男は壁ぎわの黒板に向かった。この駅にはまだ、伝言板というものが存在している。
ポケットからメモを取りだした男は、それを見ながらチョークを手にとった。メモを黒板に書き写すつもりらしい。
数列が黒板に書きだされた。20・17・27・15・4……。
「なんだあれ」と伊吹がささやいた。「競馬の予想か?」
だが、美由紀の目はその数列に釘《くぎ》付けになっていた。
数字が増えていくたび、脳の片隅が疼《うず》くように思える。
やがて衝撃が延髄を駆け抜けた。脳裏に閃《ひらめ》く光景があった。
テーブルの上に広げられた紙に書きこまれる数字、アルファベット。
鉛筆の先でアルファベットの文字を数えていく男。
いまはもう、その男の顔ははっきりとしていた。
仁井川章介。抜け落ちた歯をのぞかせ、薄ら笑いを浮かべながら、数列の下にアルファベットを書き連ねる。
もうもうとタバコの煙の漂う密室だった。絶えず子供の泣く声がしていた……。
美由紀はつぶやいた。「|1《ワン》から|99《ナインテイナイン》まで、数字を英語で表記したとき、使用しないアルファベットはA。一から九十九までをローマ字表記した場合、使用しないアルファベットはE……」
「なに? 何のことだ?」
「あの数字は……暗号だわ。仁井川が取り引きか何かに使ってる……」
「マジかよ。解読できるのか?」
「いいえ。当時のわたしも、あれが暗号だと理解してたわけじゃなかった。いまになってようやくわかるの。暗号の作成と解読だったってことが」
「作成してたのを間近で見たのか? じゃああるていどの法則性も……」
そう、わかる。暗号としてはじつに簡単なものだ。
ただし、解読するにはキーとなるセンテンスが必要だ。センテンスは毎回変わる。それが届くのが遅いと、解読できないからだろう、仁井川は苛立《いらだ》って幼女たちに当り散らした……。
記憶はしだいに鮮明になっていく。想起するのは恐ろしくもあり、悲しくもあった。脳の回線が絶たれたことによって思いだせなくなっているのは、直接の性行為のみに限られているのだろうか。周辺の記憶は、どんどん蘇《よみがえ》ってくる。
茶髪の男は数列を書き終えたらしく、チョークを置いてこちらに歩いてきた。
黒板は数字でびっしり埋め尽くされている。
騒音がした。改札の向こう、ホームに列車が滑りこんでくるのが見える。
もし男が列車に乗るつもりなら、もうこれ以上は待てない。
美由紀は駅舎のなかに歩を進めた。「キーになるセンテンスを吐かせないと」
衝動的な行動と自覚していたが、伊吹は制止しなかった。歩調を合わせ、共に茶髪の男にまっすぐ進んでいった。
男は眉《まゆ》をひそめ、立ちどまった。「なんだ、おめえらは」
伊吹はにやりとして、男に告げた。「国家公務員だと言っても、信用しちゃくれねえだろうな」
次の瞬間、伊吹は男の胸ぐらをつかみ、その悪趣味なシャツを絞りあげた。男の靴底は床から離れ、身体は伊吹の腕力によって宙吊《ちゆうづ》りになった。
「なにしやがる! 降ろせ!」
美由紀は男にきいた。「あの数列、解読するときのキーセンテンスが必要でしょ。教えて」
「ねぼけたこと言ってんじゃねえぞ、アマ」
伊吹が男の首を絞めあげた。「口のきき方がわかっていない坊やだな。どうしてほしいんだ? え?」
たちまち窒息して、茶髪の男はむせてもがいた。「放せ! わかった。言うから放せって」
「言ったら放してやる。さあ言え」
「わかった。すばしこい犬は、そののろまな茶狐を飛び越える」
「なんだそれ。ふざけてんのか」
「マジだよ。意味なんかわかんねえよ、俺は使い走りにすぎねえんだから。さあ、早く降ろしてくれよ!」
「まだよ」と美由紀はいった。「あなた、仁井川章介と関係あるの?」
「へっ。なんだよそれ。聞いたこともねえな」
「悪いけど、嘘なんか見抜けるから。ほんとのことだけ言ってくれる?」
伊吹が男を強く前後に揺さぶった。男は悲鳴をあげた。
「わかった、わかったよ」男は半泣きで告げた。「俺はリムネスって会社に勤めてるが、その会社の実体は仁井川会だ。どうだ、文句あるか」
「仁井川会……。それは違うわね」
「え? 俺は本当のことを言ってるんだよ」
「ええ。今度は嘘をついていないわね。本気でそう思いこんでる。でもあなたが加わっているのは仁井川会じゃないわ。仁井川章介は、とっくに破門になってるし」
「なんだって!? じゃあ俺がいたのは……」
「気の毒にな」と伊吹がいった。「大手だと思って入ってみたら、分家にすぎなかったわけだな。さあ、もう白状しちまえよ。仁井川章介はどこにいて、いま何を……」
美由紀は、改札口を抜けてくるふたりの男に気づいた。
いましがた到着した列車から降りてきたふたり。一見して、茶髪の男と同類だった。年齢はもっと上だ。ひとりはサングラスをかけソフト帽を斜めに被《かぶ》っている。もうひとりは黒のTシャツを着たスキンヘッドだった。
ふたりは美由紀にわずかに遅れて、こちらのようすに気づいたらしかった。あわてたようすで身構え、携えたカバンから黒光りする物体を引き抜く……。
「伏せて!」と美由紀は叫んだ。
その直後、ふたりの男は自動小銃を乱射してきた。
けたたましい銃声が耳をつんざく。美由紀は長椅子の影に這《は》って隠れた。
伊吹の反応は一瞬遅かったが、茶髪の男を盾にして銃撃を逃れた。男を抱きかかえたまま、突っ伏すようにして床に這う。
だが、茶髪の男の背は真っ赤に染まっていった。
「おい」伊吹は男に声をかけた。「しっかりしろ」
「……死ぬ」茶髪の男は、口から血を噴きだした。「痛《いて》えよ。こんなのって。こんなことって……」
美由紀は、銃撃から身を潜めたまま、茶髪の男のもとに這っていった。「もう喋《しやべ》らないで。すぐ救急車を呼ぶから……」
男は、美由紀よりも現実派のようだった。震える手でポケットからクルマのキーを取りだすと、蚊の鳴くような声でささやいた。「ダッシュボードに……ハジキが……」
「銃があるのね」美由紀はキーを受け取った。「わかったわ」
「寒い。苦しいよ。目が見えねえ……。やだよ、こんなの……」
げほっと一度、軽く咳《せ》きこんで、男は目を剥《む》いたまま動かなくなった。
伊吹が男の脈をとる。
その顔を見て、美由紀は男が死んだことを悟った。
猛然とした怒りが美由紀のなかに燃えあがった。道を外してもまだ更正のチャンスはあったのに。
床に横たわった男から離れ、伊吹がいった。「行くぞ、美由紀。扉まで走れ」
死者の冥福《めいふく》を祈る暇さえ与えられない。美由紀は涙を堪《こら》えながら戸口に駆けだした。
たちまち銃撃の嵐が襲う。着弾は近く、展示してあった土産物が粉々になって飛散した。その水|飛沫《しぶき》のような破片のなかを美由紀は突っ切り、駅舎の外に転がりでた。
激しい雨のなか、美由紀はベントレーに駆け寄った。ボンネットの上で身体を丸めて柔道の受け身のように転がり、運転席側に降り立つと、キーのリモコンボタンでドアを開錠する。
伊吹が銃撃に追われながら外に飛びだしてきた。さほど距離を置かずして、スキンヘッドの男が自動小銃を掃射しながら駆けだしてくる。
美由紀は車内に飛びこむと、グローブボックスを開けた。拳銃《けんじゆう》は二丁あった。トカレフの中国製コピー、54式だった。
車外に這いだすことも、エンジンをかけて窓を開けることも時間の無駄だった。伊吹が追われている。すぐに助けねばならない。
グリップから弾倉《マガジン》をいったん引き抜き、弾丸が入っていることを確認する。それを叩《たた》きこんで、遊底《スライド》を引いて弾丸を装填《そうてん》した。
助手席側の窓ガラスに向けて一発撃ち、ガラスを砕くと、美由紀は拳銃を放り投げた。「伊吹先輩!」
宙に舞った拳銃を、伊吹は水たまりにスライディングしながら片手で受け取った。そのまま滑りながら、追っ手に向けて発砲する。
四発の銃声が鳴り響いた。その四発目で、スキンヘッドの男はのけぞった。自動小銃を空に撃ちまくりながら、背中から地面に叩きつけられた。
美由紀は拳銃を手にとると、クルマの外に出て、伊吹に駆け寄ろうとした。
だが、すぐに銃撃の第二波が襲ってきた。美由紀は姿勢を低くしてクルマの影に隠れた。
ソフト帽にサングラスの男はポストの向こうに身を潜めながら、断続的な発砲でこちらを銃撃している。
伊吹が拳銃を片手に、美由紀の隣に駆けこんできた。
「援護して」と美由紀はいって、クルマの影から飛びだした。
敵の銃口は美由紀に向けられたが、伊吹が発砲したため、男は伸びあがって反撃を開始した。
その隙を突いて美由紀はガードレールを飛び越えて側面にまわりこんだ。男がこちらに気づいて向き直る寸前、美由紀は転がった体制から片|膝《ひざ》で立ち、男の肩を撃ち抜いた。
うっという呻《うめ》き声、水たまりに倒れる音。
そして、静かになった。降り注ぐ雨足の音だけが響いた。
美由紀は立ちあがった。
雨のなか、ひとけのない小さな駅の前で、ふたりの男が倒れている。いずれも呻き声をあげ、身体をひくつかせていた。まだ息があるようだ。
つかつかとサングラスの男に歩み寄った美由紀は、容赦なくその男の胸ぐらをつかんだ。
わずかな衝撃でも痛みが走るのか、男は悲鳴をあげた。
「うるさい!」美由紀は怒鳴った。「取り引きに来たんでしょ? 仁井川章介はどこにいるの?」
男は失神しかけたらしく、ぐったりとした。美由紀は無理やりそれを揺さぶり、正気にかえらせた。
「どこよ! 仁井川はどこにいるの。答えて!」
「おい、美由紀」伊吹が咎《とが》めるような声をかけてきた。
かすかにサイレンの音が湧いているのが聞こえる。近所からの通報があったのか、もう警察が駆けつけてきた。
「早く!」美由紀は男の身体を揺すりつづけた。「黙ってちゃわからないわよ。さっさと白状して!」
「美由紀」伊吹がいった。「もうよせ。逃げないとパトカーが来る」
じれったく思いながら、美由紀は男の顔をにらみつけた。
男はまたも気を失ったらしく、脱力して寝そべった。
サイレンの音は大きくなっていた。距離は極めて近い。
仕方がない。美由紀は男が投げだした自動小銃を拾いあげると、駅舎に走った。
戸口からなかを覗《のぞ》きこみながら、携帯電話を取りだす。カメラ機能に切り替え、伝言板にズームした。数列にピントを合わせてシャッターを切る。
すぐに外に引き返す。
伊吹は、もうひとりの男から自動小銃をせしめたらしく、それを掲げてベントレーに走った。「乗れ。急げ!」
ヴェイロンからベントレーに乗り換えるのは、悪くないアイディアだった。第一に、ヴェイロンはすでに逃亡者のクルマとして警察にマークされている。第二に、ベントレーの車内には所有者の手がかりがあるかもしれない。
美由紀が助手席に乗りこむと、伊吹はすぐにベントレーを発進させた。
駅前から公道にでたとき、後方から近づいてきたパトカーの群れが、続々と駅前に乗りいれていった。
こちらを追尾してくる車両はない。
ようやく安堵《あんど》が訪れた。つかの間の休息にすぎないが。
美由紀は伊吹の横顔を見た。
頬のかすり傷に血が滲《にじ》んでいる。
だが、美由紀は何もいえなかった。
伊吹も無言だった。ただ黙々とステアリングを切りつづけている。
雨のなか、ベントレーは疾走していく。濡《ぬ》れたアスファルトの上を滑るタイヤの音、割れた助手席側の窓から吹きこむ風の音《ね》だけが、美由紀の耳に届いていた。
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孤児の帰還
日が暮れた。夜空は遠雷に閃《ひらめ》き、暗黒に雷雲を浮かびあがらせる。雨はいっそう激しくなってきた。
信州街道沿いの目立たない側道でベントレーは停車していた。運転席の伊吹は、カーラジオの告げるニュースに聞き耳を立てている。
美由紀は助手席で、携帯電話のカメラで撮影した画像を呼びだしながら伊吹にきいた。「なにか言ってる?」
「まあな」伊吹はラジオのチャンネルを切り替えた。「羽鳥駅で銃撃事件、ふたりが重傷を負って病院に運ばれ、犯人の男女は逃走。午前中に桜川警察署を訪れた男女と同一とみられる。俺たちにとっちゃ、さして耳新しい話でもない」
「警察はわたしの名前を知ってるはずなのに……」
「指名手配を食らうのも時間の問題だろうよ。で、そっちはどうだ?」
「ええ。いまやるところよ」
車内はさっき調べたが、車検証すら積んでいなかった。頼りにできる手がかりは、あの数列だけだ。
駅で撮影した画像がでた。さいわい、黒板の文字ははっきりと読みとれる。
20・17・27・15・4・30 15・31 20・4・9・20 13・11・18・4・19・25
19・20・4・18・19・25 19・20・8・11・14・1・30・7 25・21・30 4・30 21・16・21・27・25 15・30・17 9・27・1・12
16・4・14・4・19 14・17・4・27・25・15─14・15・11 4・30 19・20・21 22・1・6・21 14・4・7・17 15・31 20・1・18・11・30・1─6・15
「さて」美由紀はボールペンと紙片を取りだした。「問題はここからね」
「そんなの、本当に解読できるのか」
「うろ覚えだけどね、仁井川らしき男がこういう暗号に取り組んでるのを見た覚えがあるの。それも一度や二度じゃないわ。アルファベットを横一列に書き連ねて、最初の文字に1、二文字目に2……って番号をふってた」
「じゃあ単純に、アルファベットを数字に変換するだけか。Aが1、Bが2って」
「それじゃ第三者に解読されちゃうでしょ。ABC順じゃなくて、その日ごとに変わるキーセンテンスを使用していたと思うの。防衛大の戦術の授業にあった暗号学の理論ね」
「あのあたりはさぼってたから、よく知らないな」
「すばしこい犬は、そののろまな茶狐を飛び越える。文章の雰囲気からすると英文ね」
「どうして英文を使う? 仁井川の取り引き相手は外人か?」
「そうかもしれないけど、日本語の文字だと五十字以上も必要だから、アルファベットのほうがいいし、ローマ字だと母音と子音の法則性で解読されやすいから……。伊吹先輩、ほんとに暗号学は勉強してなかったの?」
「記憶にないな。教官も熱心じゃなかったんだろ」
伊吹はたしか首席卒業しているはずだった。よくそれで学年のライバルたちに抜かれなかったものだ。
美由紀はボールペンを紙に走らせた。「ええと……。のろまな茶狐≠ノはその≠チていう定冠詞がついてるのにすばしこい犬≠フほうにはない。たぶんこっちは不定冠詞ね。茶狐のほうはthe、犬のほうはa。そうすると……」
直訳しながら、筆記体ではなく活字体で一文字ずつ間隔を置いて書きこんだ。
A quick dog jumps over the lazy brown fox
しばらく眺めて、美由紀は納得とともにうなずいた。「たぶんこれね」
「本当か?」
「キーになるセンテンスは、AからZまですべての文字が使われていることが重要なの。この一文にはぜんぶ入ってる」
文章の最初の文字から順に、数字を書きいれていった。Aが1、Qが2、Uが3……。
「なるほど」と伊吹がいった。「変換表ができあがったわけか」
「まだ合ってるかどうかわからないけどね。あ、でも……。たぶん間違いないわ。黒板の数列のほうに19、20、21っていう単語がある。これはT、H、Eに当てはまるから定冠詞のtheね」
「やるな。で、暗号にはなんて書いてあったんだ?」
「待って。一文字ずつ変換しなきゃならないから……」
数字をアルファベットに置き換えて記していく。
なんの取り引きかは、冒頭の単語を変換した時点であきらかになった。h、e、r、o、i、n。ヘロイン……。
やがて、すべての文字がアルファベットになった。
Heroin of high purity. Thirty thousand yen in every one gram.
Visit Seiryo-sou in the lake side of Haruna-ko.
伊吹がため息とともに翻訳した。「高純度ヘロイン。一グラムにつき三万円。榛名湖畔のセイリョウソウにお越しを、か」
「榛名湖って、榛名山の山頂にあるカルデラ湖のことね?」
「ああ。まぎれもなく雷雲の通り道だよ」
稲光が瞬き、一瞬だけ車内を白く浮かびあがらせた。
紛れもなくそこが、仁井川の隠れ家だ。四歳のわたしが監禁状態にあった場所。仁井川はいまもなお、当時と同じ麻薬密売を営みつづけている。
あのころと同じ状況が、いまも……。
「美由紀」伊吹が真顔でいった。「どうやら、突きとめたみたいだな」
「ええ……」
二十四年の時を経て、ついに戻るときがきた。故郷に。いや、地獄に。
伊吹は腕時計をちらと見た。「夜間にも取り引きしてるかな?」
「夕方近くに伝言板に告知したんだから、取り引きはむしろこれからとみるべきよ」
そうだな、とつぶやいて、伊吹がエンジンをかけた。ベントレーは走りだし、側道から国道に復帰した。
行く手にまた稲光が閃いて、暗黒の山々を照らしだす。その向こうに口を開ける絶望の谷底が、みなしごの帰還を歓迎している。そんなふうに思えてならなかった。
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知人の義務
蒲生はいらいらしながら、警視庁の捜査一課の刑事部屋に戻った。
公判中だというのに、美由紀はいったいどこに行ったのだ。嵯峨たちのそらぞらしい態度も気になる。鏡で彼自身の顔を拝ませて、表情からどんな感情が読めるかを問いただしてみたいものだ。
刑事部屋はなぜか、妙にあわただしかった。電話にでている者が多い。それも、どの顔にも緊張のいろが浮かんでいる。
捜査員のひとりが管理官のもとに走った。「病院に運ばれたふたりの身元が判明しました」
管理官がきいた。「誰と誰だ?」
「これです」書類を手渡しながら、捜査員がいった。「前科者リストにありました。ふたりとも仁井川会系暴力団の元組員です」
「仁井川会?」蒲生は驚いて声をあげた。「なんのことです」
むっとした顔で管理官が告げた。「ニュースを観てないのか」
「いろいろ忙しかったんで。で、なんの事件ですか。呼び出しはかかりませんでしたが」
「うちの管轄じゃないんだ。茨城県|小美玉《おみたま》市の羽鳥駅ってとこで起きた銃撃事件でな。ふたりは重傷で病院に運ばれた」
「撃ったのは誰ですか」
「茨城県警の調べによると、またしてもきみのお友達の可能性が高いらしいな。岬美由紀だ」
美由紀……。
愕然《がくぜん》としながら、蒲生はきいた。「どうして彼女だと?」
「けさ桜川警察署でも騒動があってな。そっちに訪ねてきたのは岬に間違いなかったようだ。男をひとり連れてるそうだがな。きみじゃなくてほっとしたよ」
「冗談を……。で、なにか対策は?」
「われわれとしては、何もできそうなことはない」
「でも仁井川会に関することなら……」
「このふたりはもう仁井川会じゃないんだ。十年近く前にクビになり、地方ヤクザに身を窶《やつ》してたみたいでな。現在はリムネスとかいう会社の社員になってる」
「リムネス?」
「仁井川章介が立ちあげた会社らしい。例の、破門になった長男だよ」
あいつか。暴力団幹部のあいだですら、狂犬扱いされていた輩《やから》だ。
だが、いったい美由紀と何の関係があるのだろう。
「管理官」と蒲生はいった。「岬美由紀はまた重大犯罪のにおいを嗅《か》ぎつけた可能性があります。あいつが無茶するときといえば、そういうケースに限られるからです。現地に急行させてください」
「駄目だ」
「なぜです。SATが出動してもおかしくない事態になるかもしれませんよ」
「どうしてそんなふうにいえる」
「美由紀が騒動を起こした後は、常にそうなってきたからです」
「蒲生警部補。岬美由紀の公判の流れは把握してるな? 弁護側は、彼女の特別な能力を認めて彼女には特殊な捜査権を与えるべきだとしている。だがこの主張はまるっきり法律に反している。彼女が一民間人にすぎないという検察の主張はおそらく認められるだろう」
「それはわかってますが、だからこそ彼女をひとりにせず、われわれが支援するべきでは……」
「事件性があきらかにならないうちは動くことはできん。これは鉄則だ」
管理官は蒲生のそれ以上の反論を拒むように、書類を顔の前に立てた。
沈黙の盾か。官僚お得意のしぐさだ。
失礼しました、と蒲生は頭をさげ、その場から立ち去った。
だが歩きながら、蒲生は決心を固めていた。警察組織の融通の利かなさは、いまに始まったことではない。
見捨てることなどできるものか。始末書など覚悟のうえだと蒲生は思った。そうでなければ、岬美由紀の知人など務まるものではない。
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湖畔
どしゃ降りの夜の山道を、ベントレーは榛名山頂に向けてゆっくりと昇っていった。
助手席の美由紀は、絶えず暗闇に目を凝らしていたが、なにも見つけることはできなかった。すれちがうクルマもなければ、人の姿も見かけない。街灯もほとんどなく、ワイパーを最速で動かしても、行く手が判然としないありさまだった。
「ひどい雨だな」伊吹がクルマを徐行させながらいった。「これじゃ今晩は客も寄り付かないだろ。俺たちぐらいのものかもな」
そうであってほしいと美由紀は思った。人数が少ないほど、犠牲者も限られてくる。
稲光からほんの数秒で、雷鳴が轟《とどろ》いた。地響きを伴っている。
雷が近い。たしかにこんな感覚だった。小笠原の漁村から船で出て、山奥に連れてこられた。いつも雷が鳴り響いていた。
青白く光った空に、富士山頂のような逆三角形が浮かびあがった。
「榛名富士だな」と伊吹がいった。「もう山頂だぜ。左手が榛名湖だ」
窓の外を見たが、そこは木が一本もない、ただ無の空間の広がりに思えた。
暗いせいで、波打つ湖面は確認できない。引きずりこまれたら、二度と這《は》いあがれない死の沼がぽっかり口を開けているようでもある。
いや、事実として、ここは帰らぬ者の魂が眠る場所なのだろう。わたしと一緒にいた幼女たちが、全員無事で生き永らえたとは思えない。
「美由紀、見ろよ」
伊吹が指差したほうに、美由紀は目を向けた。
道沿いに看板がある。青陵荘《せいりようそう》。この先五十メートル。
いよいよか。
手もとの武器を再確認した。自動|拳銃《けんじゆう》のほうはマガジンに四発残っている。小銃のほうは十六発だった。弾は貴重品だ、セミオートに切り替えておこう。
ほどなくクルマは道を外れ、湖畔に張りだした広場に乗りいれた。
平屋建てのログハウスに、明かりが灯《とも》っている。青陵荘の看板もでていた。軽自動車が二台停まっているだけで、建物の周りはがらんとしていた。
玄関前にベントレーを横づけした。
誰かでてくるかもしれないと思ったが、反応はない。
「さてと」伊吹は拳銃のスライドを引いて撃鉄を起こすと、安全装置をかけてから腰のベルトにさした。それを上着で隠しながら、ドアを開ける。「行くぜ」
美由紀もドアを開けた。自動小銃はダッシュボードに残し、拳銃ひとつを握りしめていく。
滝のように激しい雨が降り注ぐ。地面は砂利だった。そこかしこに泥水が溜《た》まっている。
伊吹とともに玄関のドアまで進んだ。
すでに全身ずぶ濡《ぬ》れだった。濡らさないようにわきの下にしのばせた拳銃を、ドアのほうにまっすぐ向ける。
確認を求めるように伊吹が振りかえった。美由紀がうなずくと、伊吹はドアをノックした。
しばらく間を置いて、しわがれた女の声が応じた。「どうぞ。開いてますよ」
美由紀は伊吹と顔を見合わせた。
ずいぶん無警戒だ。ここに来るのは取り引き相手だけだと信じきっているのだろうか。
いったん拳銃をTシャツの下に隠す。いつでも引き抜けるように、デニムの腰側に銃口を滑りこませた。
ひんやりとする銃の肌触りが、体温まで奪っていくかのようだ。
伊吹がノブに手をかけ、ドアを開けた。
そのなかは、山頂の休憩所そのものだった。明かりは、天井からぶら下がった裸電球だけで、薄暗かった。
ログハウスの内部には壁も間仕切りもなく、一室のみだった。丸太を組んで構成された壁と天井、梁《はり》に柱が縦横にめぐらされたなかに、やはり木の素材の食卓と椅子が並んでいる。
ふたりほど客がいた。ひとりは三十代の女性で、ひどく痩《や》せている。壁に向かって座り、ぶつぶつ言いながらなにか作業に興じている。もうひとりは中年の男性だった。青い包みを持って、部屋の奥に歩を進めていく。
そのどちらも、健康な身体ではないとわかる。手が震え、目もうつろだった。髪が抜け落ちて薄くなり、肌は皺《しわ》だらけで老人のようだ。
唖然《あぜん》としながら眺めていると、いままで気づかなかったもうひとりの人物が、柱の影からゆっくりと立ちあがった。
背の低い老婆が歩み寄ってくる。「いらっしゃい。おふたり?」
さっき、どうぞと応じたのはこの老婆だった。ほかに従業員らしき者はいない。
「あの」伊吹が面食らったようすでいった。「ええと、はい。ふたりですけど」
ふうん、と老婆は伊吹を見つめた。「包装用の布はそこにあるから。こんな天気だからうまくいかないかもしれないけど、お金だしちゃったらもう補償はないよ。そこ、納得したうえでやっといで」
意味がよくわからない。だが、あまり突っこんで質問するのは危険に思えた。
羽鳥駅での出来事はすでにニュースになっているが、まだ老婆は逃亡中の男女とわたしたちを結びつけていない。ラジオを聴いていないか、勘が鈍いかどちらかだろう。
「わかりました、どうも」と告げて、美由紀は老婆に背を向けた。
食卓の上のバスケットに、ハンカチぐらいのサイズの青い布が山積みしてある。二枚を手にとり、一枚を伊吹に渡した。
美由紀は室内にいるふたりの訪問者を観察した。
麻薬中毒らしきふたりのうち、女性は一万円札を何枚か揃え、メモ用紙とともに青い布にくるんでいる。指先が震えているせいか、なかなか作業が捗《はかど》らないようすだ。
男性のほうは、部屋の奥にある小さな木製の戸を押し開けた。小窓から、雨と風が吹きこんでくる。
その向こうにバルコニー状に張りだした板があり、そこに青い布を載せて、戸を閉める。
ぶらりと男性は戸から離れて、食卓の席に座り、うずくまった。
しばらく時間が過ぎたが、室内にその後、動きはなかった。老婆は玄関の扉の近くで、肘《ひじ》掛け椅子におさまって編み物をしている。
なにをしているのか確かめねば。美由紀は、からの青い布を折りたたんで、部屋の奥に向かった。
さっき男性が包みをだした戸を押し開ける。
驚いたことに、戸の向こうには、男性が置いたはずの包みはなかった。
暗闇に目を凝らす。榛名富士が正面にうっすらと見えていた。小屋のこちら側はぎりぎりまで湖に面している。人が近づけるような場所ではなかった。
豪雨のなか、鳥の翼がはためく音がかすかに聞こえる。
室内の老婆たちに怪しまれないよう、美由紀も手にした布をその場所に残し、戸を閉めた。
伊吹が近づいてきて、耳もとでささやいた。「どうなってる。ここはなんだ」
美由紀も小声でかえした。「どうやら、麻薬の常習者がヘロインを買いに来る場所みたいね。仁井川は業者と取り引きしてるんじゃなくて、直接客に売ってるんだわ。羽鳥駅の暗号は一般客へのメッセージで、キーセンテンスはたぶん麻薬常習者たちにメールか何かで配られているのね」
「奴はどこだ」
「ここにはいない。客には接触しないみたいなの。唯一の取り引き手段が、あの青い布よ」
「金と名前を書いたメモを入れて、外にだすのか。それを誰かが回収して、代わりにヘロインを包んで届けてくれると」
「誰か、じゃないわ。外はすぐ湖面だから人は近づけない。連絡係はたぶん鳥ね」
「鳥? 飼い慣らしてブツを運ばせてるってのか?」
「せいぜい数グラムずつだからね。伝書鳩の要領で調教すれば、充分に使えるでしょ」
「夜間の取り引きだから、夜行性の鳥ってことか」
そのとき、ログハウスの外にクルマのエンジン音が聞こえた。
あったぞ、と男の声がする。
「まずいな」と伊吹がいった。
美由紀はすぐに駆けだした。老婆が驚いた顔でこちらを見ている。
戸を開け放ったとき、ベントレーのわきに停車している四駆車が見えた。レインコート姿の三人の男たちが、自動小銃をかまえて辺りを散策している。うちひとりは、ちょうどこちらに向かってきていた。
目が合い、美由紀はびくっとして立ちすくんだ。男のほうも同様だった。
男が銃を構えるより前に、美由紀は地面に転がって避けた。銃撃音がしたとき、伊吹が戸口から飛びだした。
砂利の上に伏せた伊吹が拳銃《けんじゆう》を発砲した。二発撃ち、銃火の閃《ひらめ》きとともに薬莢《やつきよう》がふたつ宙に舞う。
両|膝《ひざ》を撃ち抜かれた男は、苦痛の悲鳴をあげて突っ伏した。
残るふたりが振り向き、こちらに銃撃してくる。
伊吹が怒鳴った。「クルマに乗れ!」
美由紀は姿勢を低くし、敵に威嚇《いかく》発砲しながらベントレーに向けて走った。ドアを開けて運転席に乗りこむと、キーをひねり、エンジンをかける。
伊吹がふたりの自動小銃の掃射から逃げまわっている。美由紀はステアリングを切り、銃撃しているふたりにベントレーの鼻先を突っこませた。
被弾してフロントグラスが砕け散り、ひとりがボンネットに乗りあげる。美由紀はギアを入れ替えてクルマを急速に後退させ、その男を振り落とした。
助手席側のドアを伊吹に向けて停車させる。「伊吹先輩、早く!」
ドアが開き、伊吹が助手席に滑りこんだ。
すぐに美由紀はクルマを発進させた。側面に銃撃を受け、火花が散ったのがわかる。ヘッドライトも片方が砕けて、有効な視界は狭まっている。
山道をさらに山頂方面に向けて走らせた。
後方にヘッドライトの光がさした。四駆車が追ってくる。
「美由紀」伊吹が助手席で自動小銃の準備をしながらきいた。「ブツを運んでいるのが鳥だとして、距離はどれぐらいだ?」
「遠くないわ。せいぜい一キロってところでしょ」
「じゃ、仁井川の隠れ家はそのあたりってわけだ」
「ええ。榛名富士の麓《ふもと》ね」
耳をつんざく掃射音とともに、ベントレーのボディに火柱があがった。
四駆車はすぐ後ろにまで追いあげてきていた。サイドミラーを見ると、助手席から身を乗りだした男が銃撃している。次の瞬間、そのミラーも撃ち砕かれた。
伊吹は運転席と助手席のシートのあいだから、リアグラスを通して後方を自動小銃で狙いすました。「カウントダウン三つでブレーキを踏んで減速しろ」
「わかったわ」
「三、二、一!」
美由紀は力いっぱいブレーキペダルを踏んだ。
後方に四駆車が迫り、追突寸前にまで距離が縮まる。その瞬間、伊吹が発砲した。最初は短く撃ってリアグラスを破壊し、次にフルオートで長く掃射した。
四駆車のボンネットは炎を噴きあげ、爆発音とともに真っ赤な火球を膨れあがらせた。熱風がこちらにまで吹きこんできた。けたたましい轟音《ごうおん》をあげて四駆車のボディは砕け散り、残骸《ざんがい》も道を外れて湖に転落していった。
急に静かになった。伊吹がゆっくりと正面に向き直った。
追跡者がどれぐらいの怪我を負ったか、あるいは死んだか。さだかではなかった。事故現場はどんどん遠ざかっていく。
クルマを停めて、救助したい衝動にも駆られる。だが、そんなことが許されるはずもなかった。仁井川の膝もとで追跡を受けたのだ。早めに隠れ家を突きとめなければ、向こうが先にこちらに目をつけるだろう。いや、もうそうなっているのかもしれない。
しばらく走ると、行く手は森になっていた。クルマはこれ以上、入りこめそうにない。
停車して、車外にでる。雨は依然として強く降っていたが、木々の枝葉が天然の軒を形成しているらしく、身体に感じる雨滴はそれほど多くない。
ここは榛名富士の麓だった。カルデラ湖のほとりに隆起した中央火口丘。いまは雑木林に覆われている。
伊吹がクルマからでてきて、自動小銃を地面に放りなげた。「弾切れだ。あとは拳銃の弾が二発ってところだな。そっちは?」
「まだどちらも弾が残ってる。自動小銃、伊吹先輩が使って」
「おまえは拳銃だけでだいじょうぶか?」
「片手撃ちには慣れてないの。援護してくれるんでしょ?」
「当然だろ」と伊吹は自動小銃を受け取った。「隠れ家は山のなかか?」
「でしょうね」
「じゃ、探すしかないな」伊吹が森のなかに踏みいっていく。
美由紀も並んで歩いた。地面はぬかるんでいて、滑りやすい。暗いせいで、何度も足をとられそうになる。断続的な稲光の瞬間に、数メートル先までの足もとを確認するしかなかった。
そのうち目が慣れてきて、森のなかにもあちこちに小屋が存在しているのがわかった。
「一軒ずつ調べるのか?」と伊吹がきいた。
「それしか方法がないなら」
「気の遠くなるような作業だな。分も悪いし。敵さんが何人残ってるかもわからない」
分が悪い。
その通りだ。わたしと伊吹、ふたりしかいない。
しかも、いつ銃撃を受けてもおかしくない。ここは敵のテリトリーなのだ。
生きて帰れる見込みのない絶望の旅路に、わたしは彼を連れてきてしまっている。
婚約者のいる彼を……。
ふと、森の奥で音がした。
ホー、ホーと鳴く声。
「フクロウだ」伊吹が立ちどまった。「ブツを運んでいるのは夜行性の鳥だったな?」
複雑な思いが美由紀の胸に渦巻いた。
「……でも」と美由紀はいった。「伝書鳩のように飼い慣らせると思う?」
「さあな。鳥には詳しくないからな。まあ、見た目はトロそうだし、いつも枝につかまってホーホー鳴いてるだけって印象だが」
「でしょ? この目的に当てはまる鳥がいるとしたら、ヨタカね。見た目はツバメに似ていて、羽ばたきもせず速く飛べて、昆虫を捕食する視力も持ってる」
「飛んでるところを見かけたら、追いかけろってか?」
「ヨタカは黒っぽくて、闇に紛れやすいの。羽の音もたてないから、見つけにくいわ」
「どうやったら探せる?」
「連絡役の鳥が一羽だけとは考えにくいから、小屋の軒先に同じ鳥が何羽かいるでしょうね。それを探すべきだわ。……範囲が広いから、二手に分かれましょう」
「……ひとりでだいじょうぶか?」
「当然でしょ」美由紀は笑いかけた。「心配しないで。隠れ家を発見しても、独りで突っこんでいったりはしないから。まず携帯で連絡する」
「約束だぞ。じゃ、後でな」
「ええ」
伊吹は傾斜を昇って、手近な小屋へと歩を進めていった。
美由紀は、伊吹の姿が見えなくなるまでその場に留《とど》まった。
わたしがどこに行くのかを、彼に悟られたくない。
やがて、美由紀は歩きだした。
フクロウの鳴き声のする方角に。
わたしは嘘をついた。さっきログハウスで小窓の外に、鳥のはばたく音を耳にした。だからヨタカではない。
なにより、運搬物の包装に青い布が使われているのがその証拠だった。青いろを識別できる鳥類といえばフクロウだけだ。
背丈を上回る高さの雑草が生い茂っている。そこに分け入っていくと、ふいに視界が開けた。
明かりが灯《とも》っている建物がある。
そこは、岩肌の斜面に立てられた木造の平屋建てだった。
青陵荘のログハウスとは違い、もっと古いスタイルの在来工法で建てられている。木材は朽ち果て、土壁は傾きかけていた。
その建物は、炭坑のように洞穴の入り口を塞《ふさ》ぐようにして存在していた。小屋の屋根は洞穴の内部までつづいている。
麻薬密売業者の施設は市街化調整区域に無許可で建てられることが多いと、資料で読んだことがある。榛名富士の洞穴を利用すれば航空写真にも写らない。隠れ家としては理想的だ。
寄せ集めの建築用資材で建てられた家屋。大工が数人集まって、急いで建てたという趣だった。それも少なくとも築二十四年以上は経過していることになる。
窓はすりガラスになっていて、なかに電球が灯っていることだけはわかるが、室内は見通せない。
いや、待て。うごめいている人影がある。
たしかに誰かいる。
しばらく観察したが、人の気配はそれきりだった。
静寂のなか、フクロウの鳴き声だけがこだましている。
美由紀は草むらをでると、慎重にその建物に歩み寄った。
頭上を見あげると、電線が引きこんであった。ほかにも別荘らしき山小屋が点在するこの区域に、インフラが整っていることはさほど意外でもない。
あの青陵荘を経営しているのも仁井川章介だとすれば、ここはバックストックのための倉庫として購入した土地かもしれなかった。ペンションなどはそうした小屋を別に設ける。だとすると、法的には問題なしと見なされて、行政の監視の目も逃れている可能性がある。
隠れ家としては申し分のない条件が揃っていた。抜け目のない男だ。
建物の洞穴から突きだしている部分に、金網の張られた区画があった。二メートル四方ぐらいの立方体のなかで、ホー、ホーという鳴き声がする。
近づいてみると、天井からブランコ状に吊《つ》られた棒にフクロウがとまっていた。闇のなか、目だけが妖《あや》しく輝いている。
その足の爪に、青い布きれが絡みついていた。
やはりフクロウだった。ここが仁井川の隠れ家……。
ふいに、金網のなかで、フクロウ以外の声がした。
「う……」かすかな呻《うめ》き声だった。
なんだろう。鳥小屋の底部になにかいる。
稲光によって、その闇は照らしだされた。と同時に、美由紀は愕然《がくぜん》とした。
鳥小屋のなかに横たわる幼い子供たち。全員が女の子だと一瞬でわかった。ぼろぼろの服をまとい、髪も泥だらけになった幼女たちは、折り重なるように地面に倒れていた。
その光景は、美由紀のなかに生々しい記憶を蘇《よみがえ》らせた。
異臭。独特の酸っぱいにおい。そう、この鳥小屋に漂う悪臭と同じだ。
わたしはこのなかにいた。彼女たちと、ここに閉じこめられた。
ひとりずつ、大人の男によって引きだされるたびに、悲鳴をあげた。その悲鳴が遠ざかっていく。そして、二度と帰らない。
この鳥小屋のなかで、わたしは泣いた。ほかの幼女たちと。
照りつける直射の日光も、耐え凌《しの》ぐしかなかった。幼女たちは交替で重なりあう順序を変え、夏の陽射しからかばいあった。
喉《のど》の渇きと、飢えに苦しんだ。生きることは、そのふたつの苦しみに、大人たちへの恐怖が加わった地獄の日々を意味していた。
夜は、この金網を通して星空が見えていた。天に召されることを望んだ瞬間だった。だが無情にも、太陽はまた空を照らしだす。生命は、なかなか失われなかった。
ひからびたように、動かなくなる幼女がいた。なぜか、涙はいつまで経っても枯れることがなかった。それを飲みこんで、喉の渇きを癒《いや》すことさえ覚えていた。
そして、こんな豪雨と雷鳴の夜。金網のなかに降りしきる雨のなか、身を寄せ合って眠りについた。自分たちが生きているのか、死んでいるのかさえもさだかでないまま。
ここにわたしはいた。たしかに、わたしはここに……。
そのとき、うなじに冷たい感触があった。
「動くな」と低い男の声がした。
突きつけられているものが銃口であることは明白だった。
美由紀はそろそろと両手をあげたが、降参する気などなかった。
振りむきざまにわざと足を滑らせ、相手に向けて倒れこみながら、自動小銃を手にした敵の腕を外側から巻きこんだ。敵が驚きの声をあげたのがわかる。銃口はすでに宙に逸《そ》れていた。
足を差しこんで敵の足首を引っ掛け、肘《ひじ》を敵の胸部に当てながら押し倒す。拳法《けんぽう》でいう地倒肘《ちとうちゆう》の応用技だった。
倒れこむと同時に、美由紀は男の顔を満身の力をこめて殴った。自動小銃が男の手を離れ、地面に転がった。
美由紀は手を伸ばし、その自動小銃を拾おうとした。
直後、カチッという音を耳にした。
アサルトライフルのコッキングレバーを引く音、美由紀はすぐにそう察知した。
顔をあげたとき、全身が凍りついた。静止してはならない瞬間だというのに、動くことはできなかった。
別の男がアサルトライフルの銃身を金網のなかに差しいれ、銃口を鳥小屋の床に向けている。
その男までは距離があった。全力で突進しても、引き金を引くことを阻止できない。
発砲はなかった。それはつまり、美由紀に対する威嚇《いかく》であり、脅しであることを意味していた。
無抵抗にならざるをえない。
美由紀は自動小銃を手放し、ゆっくりと立ちあがった。
近くに倒れていた男も起きあがった。口の端が切れて、血がにじんでいる。
男はそれをぬぐってから、美由紀を一瞥《いちべつ》すると、拳《こぶし》で美由紀の腹部を殴打してきた。
激痛とともに、呼吸がとまりそうになった。美由紀は膝《ひざ》からその場に崩れ落ちた。
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二十四年
建物のなかは古民家のような間取りで、廊下に面した和室が奥へ奥へと連なっている。
どの部屋も男たちがひしめきあっていた。畳に座り、銃を分解して部品を磨きながら、缶ビールをすすっている。ほとんどの男がタバコをくわえ、家じゅうに煙が充満していた。
窓はほとんどが板で塞《ふさ》がれていたが、一部は開いている。だが、外に見えるのは洞穴の内壁だった。岩肌に電線が張り巡らされて、裸電球が取り付けてある。
昼か夜かもわからない、薄暗い家屋のなか。美由紀はふたりの屈強な男に挟まれ、畳の上をひきずられていった。
朦朧《もうろう》とした意識のなかで、室内の男たちの視線が向けられるのを感じる。
こちらを見あげる男たちの顔。なんの感情も生じない者もいれば、大仰な驚きを表す者も、甲高い笑い声を発する者もいる。
「岩間《いわま》」呂律《ろれつ》のまわらない声が飛ぶ。「なんだ、その女はよ」
美由紀を抱えているふたりのうちひとりが、吐き捨てるようにいった。「フクロウの檻《おり》を嗅《か》ぎまわってやがった。仁井川さんのところに連れてく」
寝そべっていた男が冷やかすような声をあげた。「会長はそんな年増の女は好みじゃねえだろ。せいぜい十歳ぐれえまでだ」
いっせいに下品な笑い声が湧き起こる。
だが、奥の部屋から髭面《ひげづら》の太った男が現れたとき、室内は静かになった。
気まずそうな空気が漂うなかを、その太った男がずかずかと美由紀のほうに近づいてくる。
その男の片目は義眼だった。右耳から顎《あご》にかけて、かなり深手の傷を負い縫合した跡が残っている。
岩間が義眼の男にいった。「土灸《とひ》さん。たぶんこいつ、羽鳥駅で西日と嵐山が殺し損ねた女じゃねえかと」
土灸と呼ばれた男は、片目でじろりと美由紀をにらんだ。
「連れて来い」と土灸が告げた。
畳の部屋を抜け、別の廊下にでる。その突き当たりの扉を、土灸が押し開けた。美由紀は、なおも岩間たちに引きずられていった。
部屋に入ったとき、美由紀は息を呑《の》んだ。
既視感がある。それも、漠然としたものではない。
板張りの部屋は寺の本堂のように広く、がらんとしていた。床が傾いている。その傾斜がかもしだす不安定さは、はっきりと記憶に残っている。
ここにも異臭が漂っていた。散乱した生ゴミ。食糧を食い散らかした跡だった。ビールの空き缶はいたるところにあり、歩く振動で床の傾斜を転がる。
ちゃぶ台がいくつか置かれていて、紙や鉛筆が投げだしてある。数字とアルファベットがびっしり書き連ねてあった。
覚えていたとおりだ、と美由紀は思った。
わたしの記憶に最も深く刻みこまれているのは、この部屋だ。
壁沿いに、白い塀のようなものが築かれている。よく目を凝らすと、それは積みあげられたビニール袋だとわかる。白い粉の入った袋。この隠れ家の収入源。
土灸は薄暗い部屋の隅に先導していった。
その行く手から、なにやらくぐもった声が聞こえる。
やがてそれは、幼女の声だと気づいた。
声を押し殺して泣いている。
近づいたとき、あまりのおぞましさに鳥肌が立った。
暗闇にふたりの女の子が横たわっている。色違いのワンピースを着ているが、顔はよく似ていた。双子のようだ。栄養が不足し、やせ細っているという点では、鳥小屋にいた幼女たちと変わりがない。
ふたりのうちひとりは、白目を剥《む》き、口から泡を噴いていた。そしてもうひとりは、脚が血で真っ赤に染まっていた。
その血は床に流れだし、傾斜に沿って何本もの筋をつくっている。
出血が止まらないらしい。
女の子は泣きじゃくっていた。だが、声はほとんど出ていない。
理由は美由紀にも痛いほどわかった。泣き声をあげたのでは殺される。
この状況は何度も目にした。いや、わたしが当事者だった。
すなわち、少女たちはついさっき、厭《いと》わしいその狂気に満ちた行為の犠牲に晒《さら》されたのだろう。
嘔吐《おうと》感がこみあげてきた。涙がにじみでてくる。生理的な嫌悪感と、悲しみの両者が織り交ざって、耐え難い感情をつくりだす。
ふー、というため息とともに、床から立ちあがる男がいた。
白髪頭を短く刈りあげた、初老の男。いまスラックスを履いたところだった。壁に掛けたワイシャツを手にとり、羽織る。
でっぷりと張りだした腹部。さすがに年齢を感じさせる。昔はもっと引き締まっていた。
太い眉《まゆ》は以前のままだった。目つきの悪さも、鼻の低さも同様だった。歪《ゆが》んだ唇は常に半開きで、そこから覗《のぞ》く歯は、もう何本も残っていなかった。
かなり老けてはいるが、仁井川章介に間違いなかった。
仁井川はワイシャツのボタンをとめながら、岩間にきいた。「誰だ、この女」
岩間たちは、美由紀を乱暴に床に叩《たた》きつけた。
美由紀は床に突っ伏した。ひっ、という悲鳴を幼女が発した。
自分の身体に感じる痛みよりも、彼女たちの感じているであろう辛《つら》さのほうが、よほど胸にこたえる。
二十四年も前に、わたしはここで同じ目に遭った。仁井川は飽きもせずに、幼女たちを食い荒らしていた。その歪んだ性的趣味の犠牲になることを強いていた。
過去のことだと思っていた。それなのに、持続していたなんて。あれ以降も毎日のように、親を知らない幼女たちが消費されつづけていたなんて。
這《は》っていた美由紀の後頭部を、仁井川の足が踏みつけた。美由紀の顔は床に押しつけられた。
「誰だって聞いてんだ」仁井川が声を荒らげた。
「仁井川さん」岩間がいった。「さっき青陵荘でもドンパチがあったって報告が来ました。追ってたふたりとは連絡がつかなくなってますが……。羽鳥駅のことと併せて、ニュースで言ってた男女ってやつの片割れじゃないでしょうか」
「ふうん」と仁井川が足に力をこめてきた。「私服で捜査中の女性警察官ってわけか。よくもうちの舎弟に怪我を負わせてくれたな? ええ?」
痛みを堪《こら》えながら、美由紀は頭を振って仁井川の足から逃れた。
身体を起こして美由紀はいった。「なにが舎弟よ。あなたたちは暴力団じゃないわ。ただの異常者の集まりよ」
しばし沈黙があった。
次の瞬間、仁井川の平手が美由紀の頬を力いっぱい張った。
ふらついて、また床に倒れる。それほどの力があった。
頬に痺《しび》れるような激痛が走る。
仁井川が怒鳴った。「口のきき方に気をつけな。このクソアマ」
ひるむことなく美由紀は告げた。「仁井川会を破門になったくせに、その頭《かしら》を気取ってるなんてね。呆《あき》れてものも言えないわ」
「……ふうん。それを暴露すれば、舎弟どもの目が覚めるとでも思ったか? あいにくだな。俺は仁井川会の看板なんか利用しちゃいない」
「でも、羽鳥駅にいた若い人は……」
「ああ。あいつか。土灸の連れてきた若造だったな」
土灸が低い声でつぶやいた。「極道の世界に憧《あこが》れるろくでなしの類《たぐい》いだったんで……。ここでの仕事はまかせられねえんで、リムネスの事務室に詰めさせてましたが」
「そうだった」仁井川はにやりとした。「その手の若造は俺の苗字《みようじ》を聞いて仁井川会と勘違いするかもしれないが、そんなものはそいつの責任だ。俺のせいじゃねえ」
美由紀は醒《さ》めた気分でいった。「くだらないわね。使い走りって見下してた人の遺族にまで言い訳を用意してるの? 小者ね」
また仁井川の手が美由紀の頬を張った。
今度はいっそう力が籠《こ》もっていた。口のなかが切れ、血の味を感じる。
「クソアマ」仁井川が声を張りあげた。「なにを嗅《か》ぎまわってた」
「嗅ぎまわるもなにも、あなたが誰で何をしているのかぐらい、よくわかってるわよ。仁井川章介。三十代で東京駅長殺しの罪で服役、仁井川会を破門。出所後は、同じく暴力団に見放されたヤクザ風情を集めて、昔から営んでいた麻薬事業を再開する。それもこんな山奥に潜んで、粗末なヘロインを仕入れては、高純度と偽って素人相手に荒稼ぎなんてね。三流の組が日銭を稼ぐ常套《じようとう》手段だわ」
仁井川は、子分たちを眺め渡しながら笑い声をあげた。
それから美由紀に目を戻し、真顔になって仁井川は告げてきた。「調子に乗るのもいい加減にしやがれ。俺たちの商売に口だす気か」
「東京駅長だった漆山さんの殺害に失敗して、また最近になって秤《はかり》工場に勤めていたところを見つけて、殺した。どうして?」
「……やっぱり警察《サツ》の犬か? どうせ理解できないだろうがな、教えてやる。漆山はアラヒマ=ガスに商品を卸す係だったのさ」
「相模原団地の人身売買グループに、商品となる幼い子供たちを調達する係ってわけ」
かすかな驚きのいろを漂わせて、仁井川がきいた。「なぜ知ってる?」
「さあね。漆山さんはどうして駅長から秤工場に転職したっていうの?」
「アラヒマ=ガスの商品調達係が就く表の仕事に従事してたってだけだ。JR東日本の駅長は、一定の区間内の貨物車両の中身について管理責任を負っている。言い換えれば、貨物列車のなかに何を積むかは駅長の権限っていうわけだ。それに、足尾電子秤工業は航空貨物の総重量チェッカーを開発してる。これをいじることができれば、貨物の重さもごまかすことができる」
「つまり列車や飛行機で、みなしごをこっそり運ぶのにちょうどいいってわけね。でもどうして、あなたが漆山さんを殺す必要がある?」
「奴らは、俺には商品を買わせねえと言ってきた。幼女を食い物にして、ポイポイとそのへんに捨ててくるような客は、危険だから付き合いたくねえってよ」
「だからアラヒマ=ガスの人身売買に対し、営業妨害になることをしたわけ」
「営業妨害どころか、組織そのものをぶっ潰《つぶ》してやる。あいつらは俺に逆らいやがった。黙ってガキを差しだしてりゃいいんだ」
「そう思ってたのに、駅長がふたりいるのも知らず、殺したのが別の人だったなんてね。頭悪すぎない?」
仁井川は表情を硬くした。
だが、美由紀の挑発に対して燃えあがった仁井川の怒りは、美由紀には向けられなかった。仁井川は幼女のほうに歩いていくと、髪をわしづかみにして引き立たせた。
幼女が苦痛の叫びをあげた。
「やめて!」美由紀はあわてていった。
「サツはな」と仁井川は幼女の頭部を揺さぶった。「幼女買春についても俺を取り調べたが、結局そこでは無罪になった。なぜかわかるか? 警察の嘱託医とかいうアホが、四歳児には性交は無理だと報告書を出しやがった。未発達だから入るわけねえってよ。おかげでお咎《とが》めなしってわけだ! 馬鹿丸出しの警察がよ、俺を無罪にしやがった!」
仁井川が笑い声をあげると、土灸や岩間たちも同調した。
男たちの品位に欠ける笑い声が響くなか、幼女は痛みを堪えながら声を殺して泣いている。
美由紀の思いは、その幼女の心に重なっていた。
髪をつかまれた痛みが伝わってくるようだ。
「しかしよ」仁井川は上機嫌そうに声を張った。「四歳のガキとやれねえなんて、嘱託医のアホはどうやって結論づけたってんだ。試したのかってんだよな。やってみりゃわかるんだよ。掘ってやりゃいいんだ、まだ穴が深くねえならな」
反吐《へど》がでる。
「このクズ」美由紀は吐き捨てた。「いっぺん死んだらどうなの!」
室内はしんと静まりかえった。
仁井川は、幼女の髪を手離した。幼女は床に崩れ落ち、うずくまった。
「おい」仁井川がにらみつけてきた。「おまえ、立場わかってんのか」
いまは闘争心だけを燃えあがらせたい。そう自分に言い聞かせても、涙がにじみでてくる。
「何が立場よ」美由紀は怒りとともにいった。「わたしにはわかってるわ。警察の嘱託医が誤魔化されても、わたしは騙《だま》せない。あなたは二十四年前、駅長殺しで逮捕される前から、ここで同じことを繰り返してた。わたしはもう忘れたりはしない」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、仁井川は美由紀を見つめた。「なんだと……?」
美由紀は、ずきずきと疼《うず》く頭痛に耐えていた。
いまや記憶はほとんど想起されている。脳の回路が絶たれて思いだせないのは、この男とのおぞましい行為そのものだけだった。
友里の手術は実に的確だった。わたしを不安定にするすべての要因となっている記憶を、ピンポイントで排除した。
そうであるがゆえに、いまのわたしはまともな思考を身につけている。善悪の判断もできる。
そのわたしの目で見ても、仁井川章介という男は許すに値しない。こんな男が生き永らえる道理が、この世にあるはずがない。
「ああ」仁井川はぽかんと大きな口を開けた。「ひょっとして、おまえ……。二十四年前にここにいたとか? 俺とやったわけか?」
「……思いだしたとでもいうの?」
「いいや。ムショ暮らしのあいだを除いても、何百人、何千人と食ってるからな。ガキどもは使い捨てだ。死にかけたら捨ててくる。その後はどうなったか知ったことじゃねえ」
「子供たちのことを考えたことがあるの? 物心ついてすぐ、地獄を味わった。精神面の形成、発育に最も影響を与える時期に、人生を間違った方向に捻《ね》じ曲げてしまった」
「おまえはそのひとりってわけか?」仁井川は、鼻息がかかるほど顔を近づけてきた。「よく見りゃ美人だな。ガキのころの面影もあるのかもな。大人の女はそんなに興味もねえが、やってみれば思いだすかもな」
仁井川はいきなり美由紀を押し倒し、馬乗りになってきた。
美由紀は怒りとともに拳《こぶし》を繰りだし、仁井川の顎《あご》を殴った。
勢いで後方に飛んだ仁井川が尻餅《しりもち》をつく。顎をさすりながら起きあがった。
「岩間」と仁井川がいった。「フクロウの檻《おり》に行け。このクソアマが声をあげるのが聞こえたら、そのたびにガキをひとりずつ撃ち殺せ」
「わかりやした」岩間が自動小銃を携えて、部屋をでていく。
焦燥感が美由紀の胸にひろがった。
大勢の幼女が人質になっている。しかもこの男たちは、その命をまったく重んじることがない……。
仁井川が飛びかかってきて、美由紀の首を絞めあげた。
息ができない。美由紀はむせながら、仁井川の両手から逃れようともがいた。
「俺は静かなのが好きでな」仁井川がつぶやいた。「おとなしくしてたほうが身のためだ」
ふたたび仁井川の顔が近づいてきたとき、失神しそうなほどの嫌悪を覚えた。
「やめてよ」美由紀は思わず声を絞りだした。「やめて!」
そのとき、外で銃声がした。
はっとして、美由紀は息を呑《の》んだ。
銃声はあきらかに、家の外からだった。方角も、鳥小屋のほうだ。
「おっと」仁井川がにやりとした。「まずひとり」
……酷《ひど》い。
美由紀は、抵抗を放棄せざるをえなかった。
目に涙が溢《あふ》れ、視界がぼやける。怒りと悲しみで、身体の震えがとまらなくなった。
脳裏に浮かぶのは、友里佐知子が書き遺した日記の一ページだった。十五歳のころ、友里は同じ屈辱を味わった。
またしても猿以下の生き物に愚弄《ぐろう》される。友里は溢れる涙にぼやけていく視界だけを眺めていた。
肉体的には、わたしは平気だ、六歳から身体を売って生きてきたのだから。
でも、どうして希望はいつも閉ざされてしまうのだろう。結局、力に圧倒された。野蛮な暴力に負けた。
大人は、男は、肉体的な強さにまかせてわたしを圧倒しようとする。凶暴なだけの低脳な猿以下の生き物どもが世を蹂躙《じゆうりん》し、暴力でカタをつけようとする。
連中が暴力に訴えようとするとき、わたしは抗《あらが》う手を持たない。
なるにまかせるしかない。そして行く末は、いつも失意と敗北と決まっている。
抗う手を持たない。なるにまかせるしかない……。
美由紀は唇を噛《か》み、目を閉じた。
だが、不快きわまりない仁井川の荒い吐息が、ふいにぴたりとやんだ。
別の男の声が低く告げた。「誰かと思えば、仁井川のクビ切られた長男かよ。山奥の洞穴に潜んでるとはな。まさしく前時代の遺物だな」
目を開いたとき、美由紀は、友里と同じ境遇にはないことを悟った。
わたしは、信じるに足る男性がこの世に存在するのを知っている。
警視庁捜査一課、蒲生誠はナンブ三十八口径を仁井川の額に突きつけていた。
「てめえ」土灸が襲いかかろうと身構えた。
「動くな、番犬」蒲生が怒鳴った。「飼い主の頭ぶちぬくぞ!」
仁井川はそろそろと両手をあげながらいった。「物騒な警官がいたもんだな。本気で人を殺すつもりかよ」
「ああ。いましがた鳥カゴの前にいた男なら心臓撃ち抜いてやったぜ? 日本国内で自動小銃ぶらさげてて、しかもカゴのなかの子供たちを狙い澄ましてやがったんでな。拳銃《けんじゆう》の正当な使用ってやつだ。おかげで子供は無事だった」
「とんでもない奴だ。おまえのせいで死んだ人間がいるんだぞ。良心は咎めないのかよ」
「いままで三人射殺してるからな。悪い奴ばかりだったが、最初の夜は寝つけなかった。ふたりめからはぐっすりだ。おめえをぶっ殺しても、こりゃよく眠れるだろうよ」
「……どうやってここを突きとめた」
「知れたことよ。リムネスとかいう幽霊会社に踏みこんで、関係書類を押収してやった」
「令状は出ねえはずだ」
「地元でいろいろ手をまわしてるからか? 所轄はおめえに腰が引けてるかもしれねえが、あいにく、警視庁にとっちゃおめえごときザコ同然でな。仁井川会の親分も感謝してくれるだろうよ、馬鹿息子をぶっ殺してくれてありがとう、ってな」
仁井川は表情を凍りつかせた。
だが、その直後、仁井川がとった行動は予想外のものだった。
「おい、絹田《きぬた》、長嶺《ながみね》!」仁井川は大声でわめいた。「誰でもいい、このデカ殺せ!」
あわただしい足音がして、すぐに扉が開いた。男たちが銃を片手に飛びこんでくる。
「この野郎」と踏みこんだ男が怒鳴った。「なにしてやが……」
銃声が轟《とどろ》いた。
男たちは、蒲生に銃を突きつけられた仁井川に背を向け、部屋から駆けだしていく。
仁井川があわてたようすで呼びかけた。「おい、何してんだ! 早く助けろ!」
しかし、仁井川の子分たちはそれどころではなさそうだった。
催涙弾が投げこまれ、家屋のなかに煙が充満しだした。そのおぼろげな視界の向こうに、警視庁の特殊急襲部隊《SAT》のシルエットがうごめいてみえる。
蒲生が仁井川にいった。「独りで来ると思ったかよ。馬鹿め」
けたたましい発砲音が鳴り響いた。つづいて、銃撃音が家屋のあちこちでこだました。
仁井川の子分たちが応戦したらしい。たちまち銃火が連続して閃《ひらめ》き、小爆発が起きて天井は大きく傾きだした。
梁《はり》や柱が崩れ落ちてくる。蒲生が飛びのいたとき、仁井川が跳ね起きて銃口から逃れた。
美由紀も起きあがったが、幼女のひとりが床に寝たままなのに気づいた。
すぐに飛びつき、抱きかかえた。倒れてくる土壁に背を向け、幼女をかばった。
抜けた壁の向こう、洞穴のなかでも銃撃戦が展開している。いまやこの木造家屋の周りは戦場と化していた。
土灸の自動小銃が美由紀を狙った。一瞬、足がすくんだそのとき、蒲生が土灸を撃った。土灸は弾《はじ》け飛ぶように転倒し、動かなくなった。
催涙弾と埃《ほこり》のせいで視界がきかなくなっている。そのなかに必死で目を凝らすと、仁井川の姿が見えた。
仁井川はもうひとりの幼女を抱きあげると、部屋の奥にあった扉を押し開け、外にでようとしている。
「蒲生さん」美由紀は声を張りあげた。「仁井川が逃げる。女の子を連れてる!」
室内に突入してきたSATのひとりに、美由紀は幼女を預けた。あとをお願い、そう告げて、戸口へと走った。
ちょうど蒲生が外にでて、美由紀はそれにつづいた。
そこは、洞穴の奥だった。家の正面が外に面していたため、ここはちょうど逆側だ。洞窟《どうくつ》は等間隔に設置された裸電球のおかげで、内部を見通せる。岩壁に囲まれた空洞が、延々と前方につづいていた。
銃撃を受け、家の外壁が破片となって飛び散った。蒲生が地面に伏せ、美由紀は転がって岩の陰に身を潜めた。
洞窟の内部のそこかしこに敵がいた。なかでも、極めて近い場所に銃座のごとく岩肌に身を這《は》わせ、陣取っている男がいる。その男の銃撃のせいで、洞穴の奥へと逃げていく仁井川の背が見えているというのに、追跡することさえできない。
じれったさを噛みしめていたそのとき、突然、その男は銃声とともにのけぞった。
さらに周囲の敵が次々と撃ち倒され、暗闇のなかに伏していく。
味方の援護か。だが、どこからだろう。
美由紀は頭上に目を向けた。そのとき、屋根を腹這いに滑り降りてくる伊吹直哉が見えた。その体勢のまま、伊吹は敵に向けて自動小銃を掃射している。
壁面の敵をなぎ倒して、伊吹は屋根から飛び降りてくると、美由紀のすぐ近くに着地した。
「伊吹先輩」美由紀は喜びとともにいった。
「騒がしかったんで来てみた」伊吹は美由紀を見て、悪戯《いたずら》っぽく片方の眉《まゆ》を吊《つ》りあげた。「フクロウだったのかよ? 俺の最初の判断で正解じゃねえか」
「ごめんなさい……。でも、ありがとう。助けに来てくれて」
蒲生が苦い顔をした。「先に礼をいうべき相手がいると思うけどな」
「あ、もちろん蒲生さんも。ついでだけど、もうひとつ頼める?」
「相変わらず人使いが荒いな。今度は何だ?」
「援護して」そういって美由紀は飛びだしていった。
仁井川の姿は、すでに洞穴の奥に消えていた。だが、逃がしはしない。人質の幼女を見殺しになどしない。過去のわたしと、同じ境遇の幼女を。
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傾斜
「おい、美由紀!」伊吹は、走り去っていく美由紀の背に呼びかけた。「待てって!」
追おうとしたとき、銃撃音が鳴り響いた。足もとの湿った岩が砕け、間歇《かんけつ》泉のように水|飛沫《しぶき》があがる。
蒲生が身を翻し、岩の壁づたいにこちらに迫ってきていた敵に反撃した。もう半壊状態の家屋に残った柱の陰に隠れ、自動小銃の敵にナンブ三十八口径で応戦している。
伊吹はそこから駆けだし、大きくまわりこんで敵を引きつけようとした。
ふたりの男がこちらを狙い澄ます。うちひとりを両手撃ちで仕留めたとき、もうひとりは蒲生に撃たれて背中から軽く飛んだ。ふたりが突っ伏すと、また静けさが戻った。
だがそれは、伊吹たちの周辺のことに過ぎなかった。洞穴の入り口のほうで撃ち合う音がする。ときおり照明弾が撃ちあげられ、白昼のような光を放つとともに、激しい銃撃音がこだまする。
洞穴のなかが、ぼうっと赤く染まった。家屋は炎上をはじめていた。火が外壁を覆い、屋根までまわろうとしている。
煙がたちこめてきて、伊吹は咳《せき》こんだ。自衛隊の訓練で催涙弾には慣れているが、火災で生じた煙となるとさすがにきつい。
伊吹は蒲生に駆け寄った。「援護する。先に外に出なよ」
「馬鹿いえ」蒲生もむせながらいった。「美由紀が洞穴の奥にいるんだぞ」
「たぶん向こうに出口があるんだよ。だから仁井川の奴もそっちに逃げたんだ」
「なら追うまでだ」
「いまからじゃ煙が充満しちまう」伊吹は蒲生の服装を見て、呆気《あつけ》にとられた。「防弾チョッキ着てねえのか? SATが短機関銃使ってんのに、ナンブで乗りこんでくるなんて……」
「きみこそ空で暴れてろ。国内の事件は警察の仕事だ」
「ちゃんとやってくれるならな。……なあ蒲生さん、仁井川を逮捕したとして、美由紀の裁判に利点はあるか?」
「逮捕はもう必要ないだろ。SATが幼女たちを救出した。証言と医師の検査で暴行はあきらかにできるし、二十四年前にアラヒマ=ガスが美由紀を売った相手も仁井川だ。美由紀が幼くして性的搾取の犠牲になったことは、もう証明されてる」
「じゃあ、あいつの自白というか、証言はもう必要ないわけか」
「ああ」蒲生は伊吹をじろりと見た。「なにを心配してる?」
「いや……。美由紀にとって、もうあいつが生きている必要がないのなら……」
「殺すか? 馬鹿いえ。美由紀はおまえみたいに凶暴じゃねえよ」
伊吹は黙りこんで、洞穴の奥を見やった。
殺す可能性がないなどと、どうして言いきれるだろう。
あの男こそ美由紀にとって、最も理性を失わせる存在であるはずなのに。
美由紀は洞穴のなかを走っていた。ごつごつとした岩の足場を飛び移るようにして前に進む。
さっきの建物から出火したらしく、洞穴の内部に煙が漂っている。悪いことに、この洞穴は昇り坂になっていた。煙は煙突のように空洞を上昇してくる。逃れるすべは、出口まで行き着くしかない。
だが行く手は見るかぎり、果てしない暗がりがつづいている。そのなかを、仁井川が幼女を抱えたまま駆けている。何度もつまずき、転倒しながら、必死の形相で起きあがる。ぜいぜいという声が美由紀の耳にまで届いていた。
仁井川は足をとめて振りかえると、自動小銃を乱射してきた。美由紀は横方向に飛び、壁面の岩のくぼみに身体を這わせてかわした。
ガチッという鈍い金属音とともに、掃射はやんだ。その音が装填不良《ジヤム》だと直感した美由紀は、くぼみから駆けだして全速力で仁井川のもとに向かった。
あわてたようすの仁井川は、銃をかなぐり捨てて逃走した。
その先に、泥だらけの四輪バギーとオフロード用バイクが停めてあった。
ふだん仁井川たちが移動用に使っているものらしい。仁井川は幼女を抱えたまま四輪バギーに飛び乗り、エンジンをかけた。
空洞に反響する轟音《ごうおん》とともに、バギーは泥水を巻きあげながら走りだした。岩の凹凸《おうとつ》に激しく縦に揺れながら、バギーカーは洞穴の上り坂を疾走していく。
美由紀もすかさずバイクに駆け寄った。キーがつけっぱなしになっている。バイクにまたがったが、腰は落とさなかった。ステップの上に立ち乗りしなければ、こんな荒地を抜けることはできない。
小指でグリップを握り、あとの指は軽く添える。エンジンを始動し、クラッチレバーの感覚を確かめながら走りだした。
荒馬を乗りこなすようなオフロード走行、勘が備わってくるまで時間がかかる。クラッチはかなり軽い。二本指で充分操作できる。
登り坂に対し、美由紀は立ち乗りのまま前傾姿勢をとった。フロントタイヤを斜面にあてて、そこに体重をかける。岩の上にあがるたびに、スロットルを戻し慣性にまかせた。これを怠るとフロントが浮きあがって後方にひっくり返ってしまう。
水平な岩の上に達する寸前に膝《ひざ》を曲げて腰を落とし、上体を前輪に寄せる。そしてまた立ち乗りに戻る。
操作に慣れてきた。コーナリングでは身体をバイクの中心の外側に置くことで、タイヤに垂直に体重をかけることができ、横滑りを防げる。昇るのが困難な岩場は迂回《うかい》すればいい。
徐々に速度があがり、バギーとの距離が詰まってきた。仁井川がこちらを振りかえった。愕然《がくぜん》とした表情を浮かべたのがわかる。
仁井川はバギーカーを走らせたまま、運転席にかがみこむと、床からなにかを取りあげた。その棒状のものにライターで点火する。小さな青白い光が点滅していた。仁井川はそれを美由紀めがけて投げてきた。
工事用ダイナマイト、光は導火線の火だ。美由紀はとっさに進路を変え、バンク角をできるだけ深くして回避を試みた。
すさまじい爆発音とともに炎が噴きあがる。嵐のような熱風が襲いかかるとともに、洞穴は激しく揺れ、落盤が始まった。爆風はなんとか持ちこたえたが、落下してきた岩がフロントタイヤを直撃し、美由紀は前方に投げだされた。
岩に背を打ちつけ、美由紀の身体は転がった。背骨が砕けそうなほどの痛みを、歯を食いしばって堪える。遠のきかけた意識をつなぎとめる。ここで失神したのでは二十四年の苦悩に終止符を打つことはできない。
なにより、あの幼女の将来を失わせるわけにいかない。
身体を起こした。膝に力が入らない。嘔吐《おうと》しそうな気分の悪さに耐えながら、足をひきずってバイクに戻る。
バギーカーは勝ち誇ったように洞穴のなかを遠ざかっていく。
倒れたバイクを引き起こす。タイヤがぬかるみに嵌《はま》っていた。
美由紀はバイクに乗り、スロットルを少しずつ開けながら、後輪の空転を抑えた。
やがて強烈な推力とともにバイクは押しだされた。急斜面を浮きあがるようにして昇りきり、バイクはふたたび斜面の追跡劇に復帰した。
猛然と飛ばし、減速は最小限に留《とど》める。一瞬の気も抜けない暗闇のオフロード走行、身についた勘だけを頼りに全速力でバギーを追う。
そのバギーカーがふたたび視界のなかで大きくなってきた。振り向いた仁井川の、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔も見える。それだけ距離は縮まっていた。
だがそのとき、洞穴の内部は水平に近くなり、真の暗闇のなかにバギーカーは飛びだしていった。
外気を全身に感じる。出口だ。
そこは、榛名富士の頂上付近に張りだした巨大な岩の上だった。バギーカーは崖《がけ》の上で停車した。
美由紀も、行く手が切り立った急斜面と気づき、あわててバイクを傾けながらブレーキをかけた。
吹きあがってくる上昇気流に、映らないテレビのノイズのような音が響いている。
雨の音かと思ったが、違っていた。岩の向こうにひろがる渓谷に、ひと筋の滝が流れ落ちているのが、暗闇のなかに白く浮かびあがっている。
岩の下は滝つぼだ。目もくらむその落差。足を踏みはずしたらひとたまりもない。
バギーカーを降りた仁井川は、幼女を降ろし連れていこうとしたが、その幼女はつまずいて転んだ。
舌打ちした仁井川が、幼女を抱えようとしている。だが、美由紀がバイクを降りて突進していくと、仁井川は幼女から離れてひとりで逃げようとした。
その仁井川の背に美由紀は飛びかかった。岩の上に突き倒し、うつぶせた仁井川に馬乗りになって、腕で首を絞めあげる。
苦痛の呻《うめ》きをあげた仁井川だったが、手近な岩をつかんで振りあげ、美由紀のこめかみを殴打した。美由紀は激痛とともに倒れた。
仁井川は起きあがり、悠然と歩いてきた。「おやおや。遊んでほしくて自分から擦り寄ってきたのか、クソアマ」
まだ起きあがることができずにいた美由紀の顔を、仁井川の靴が蹴《け》り飛ばした。
美由紀は岩場に仰向けに叩《たた》きつけられた。
「あいにくだったな」仁井川はへらへらと笑った。「俺はな、ガキじゃなきゃ嫌なんだよ。ガキは考えを持たねえ。手なずけておけばネコみてえなもんだ。ところが、大人の女は薄気味悪い。何考えてるのかさっぱりわからねえしな」
「なら」と美由紀は低くいった。「いまわからせてあげるわ」
蝦反《えびぞ》りになって背筋で跳躍し、美由紀は起きあがった。一瞬にして仁井川との間合いを詰めた。仁井川が驚きのいろを浮かべるより早く、美由紀は身体をねじって旋風脚、後ろ回し蹴りを放った。
美由紀の踵《かかと》は仁井川の顎《あご》を直撃し、仁井川は宙に飛ばされた。すかさず美由紀は垂直に飛びあがり、まだ空中に舞っていた仁井川の脳天に手刀の切掌《せつしよう》を振り下ろした。
バキッという鋭い音とともに、仁井川の身体はうつ伏せに岩に落下した。
なおも美由紀の怒りは収まらなかった。ふらふらと上半身を起こした仁井川に駆け寄り、蹴りという蹴りを浴びせ、両手であらゆる種類の突きを食らわせた。
「ま、待て」仁井川のその声は、いくらか残っていた歯さえも折れてしまったらしく、よく聞き取れないものだった。「待て」
美由紀は容赦しなかった。倒れた仁井川にローキックを連続して浴びせて、崖ぎりぎりにまで追いやった。
最後に腹部に一発蹴りを見舞ったとき、仁井川の口が鮮血を噴きあげたのが、白い滝を背景にぼんやりと浮かんだ。
もはやボロ雑巾《ぞうきん》のようになって横たわる仁井川を、美由紀は見下ろした。
そのとき、美由紀のなかに、かつて経験したことのない感情が湧き起こった。
殺意だった。
この男を崖から落としてしまえばいい。それだけで、すべてが果たせる。
だが、かすかな理性が美由紀の本能を抑制しつつあった。
幼女が見ている。彼女の目の前で、殺人など犯せるはずもない。
美由紀は背後を振り返った。幼女はバギーカーのすぐ近くで、上半身を起こしてこちらを見ていた。
ところが次の瞬間、幼女は思いがけない言葉を発した。
「殺して」と幼女はいった。
呆然《ぼうぜん》として、美由紀は幼女を見つめた。
女の子が初めて口をきいた。それも、信じられないことを伝えてきた。
幻聴ではないのか。わたしの朦朧《もうろう》とした意識のなかで生じた、一種の聞き間違いだろう。
幼女は、泣きながら声を張りあげた。「殺して! 早く! そいつ、ぶっ殺して!」
呆然として、美由紀は幼女を眺めていた。
泥だらけの頬に、涙をぼろぼろと流しながら、幼女は叫びつづけている。殺して。ぶっ殺して。
初めて自由になった幼女の感情。その発露は、憎むべき大人を殺したいという思いだった。
否定はできない。わたしもそう感じていた。だが……。
瀕死《ひんし》の仁井川がつぶやいた。「助けてくれ……。頼むよ。殺さないでくれ……」
美由紀は無言のまま、その男を見下ろした。
殺す。ぶっ殺す。幼女はそんな言葉を覚えていた。いや、それしか学べなかったのかもしれない。あの地獄に育って、怒りをしめす言葉をほかに身につけていない可能性もある。
だが、それもこれも、この男のせいではないのか。
思いがそこに至ったとき、美由紀のなかに迷いはなくなった。そして、怒りの炎だけが燃えあがった。
仁井川の胸ぐらをつかみ、美由紀は満身の力をこめて引きあげた。
すぐ背後は滝つぼだ。
「ひっ」仁井川が恐怖の悲鳴を短く発したのを、美由紀の耳はきいた。
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陽射し
雨がやみ、榛名湖畔の夜が明けようとしていた。雲に覆われた空も、少しずつ明るんできている。
蒲生は、青陵荘なるログハウスの入り口の短い階段に座り、SATの隊員でごったがえす駐車場広場を眺めていた。
護送車が何台も連なっている。最近の護送車は目立たない外観になっているが、きょうは昔ながらのバス型、赤色灯のついたタイプが引っ張りだされている。地方の警察署だけに、大量の容疑者を逮捕する状況自体がめずらしく、ほかに対処のしようがなかったのだろう。
仁井川が雇っていた、はぐれ暴力団員の類《たぐ》いはほぼ全員が護送車に連れこまれた。残りの連中は救急車だ。じきに何人かは霊柩《れいきゆう》車に乗り替えることになるだろう。
このログハウスにいた老婦も逮捕された。群馬を中心に粗悪なヘロインが出回っているという噂は前から聞いていたが、おそらくこれで元は絶たれたろう。仁井川がいなくなった後、こんな僻地《へきち》で犯罪を継承しようとする輩《やから》もいまい。
身体のあちこちが痛い。怪我をしたわけではないが、歳のせいかもしれない。東京に戻るころには、いっそう筋肉痛が激しくなるだろう。
SATで賑《にぎ》わうなかを、ひとりの普段着姿の男が近づいてきた。とはいえ、服は煤《すす》で真っ黒になっている。
伊吹は蒲生に近づいてきた。「こっちは終わったね」
「ああ。SATが何人か残ってくれるみたいだ。美由紀の捜索に手を貸してくれるらしい」
「明るくなってくるから、わりと見つかりやすいだろう。立てるかい、蒲生さん」
「馬鹿にすんな」蒲生は関節の痛みを堪《こら》えながら立ちあがった。「警察としちゃ、きみにも話を聞かなきゃならん」
「どうしてだよ? 捜査に手を貸したぜ?」
「きみのやったことが捜査か? ローカル線の駅で発砲、この山頂でも発砲。自衛隊ってのは年々、無謀な若者ばかりを増やす傾向にあるんだな。上官の顔を拝んでみたいよ」
「あんたもだよ、蒲生さん」
「何?」
「管轄違いの群馬の山奥にまで飛んできて、SAT引き連れて救出劇とはね。管理官クラスが了承したとは思えねえな」
「知るかよ。……まあ、無謀なのはお互い様ってことか」
「だろ?」と伊吹がにやりとした。
ふん。蒲生は鼻で笑った。
この伊吹という男に、美由紀がなぜ信頼を寄せるか、その理由を蒲生はよくわかっていた。体制に与《くみ》せず、自分自身を貫く男だ。宮仕えの身でありながら、必ずしも上の命令に従おうとしない。何が正しいかは自分できめる。
自分で判断できなくなったら、人は人でなくなる。美由紀はその葛藤《かつとう》とともに生きてきた。だから、迷いのない男に惹《ひ》かれるのだろう。世間ではそれを馬鹿呼ばわりすることも、しばしばあるが。
ということは、俺もその馬鹿の類いなのだろう。美由紀のためなら、すべてを棒に振ってもかまわないと思っていた。その信念が一度も揺らいだことはなかった。
「さあ」伊吹がいった。「行こうか。捜索にかかろうぜ」
「そうだな」と蒲生は歩きだした。
そのとき、SATの群れからどよめきがあがった。
隊員たちが二手に分かれ、その合間を、一台のバギーカーが徐行してくる。
泥まみれの三人が、そのバギーカーの上にいた。
蒲生はぎょっとした。運転しているのは、ほかならぬ美由紀だ。
その隣には、ひとりの男がぐったりとしてシートの背に身をあずけている。仁井川章介だった。
さらに、美由紀の後ろには名も知れない幼女の姿があった。疲れきったようすの幼女は、ただうつむき黙りこくっていた。
バギーカーを停めると、美由紀は仁井川を地面に蹴《け》り落とした。
仁井川は瀕死も同然の状態だった。抵抗するだけの力も残されていないらしく、脱力して泥のなかに寝そべった。
美由紀はバギーから降りると、その仁井川の襟首をつかんで引き立たせた。ずるずるとSATの隊長のもとに引きずっていくと、美由紀はいった。「仁井川章介をお引き渡しします」
隊長は面食らったようすだったが、すぐに部下に合図をした。隊員たちが仁井川の確保にかかる。
連れ帰った。美由紀が仁井川を生きたまま捕え、警察に引き渡した。
「美由紀」と伊吹が駆けだそうとした。
だが蒲生は、さっと手をあげて伊吹を制した。
伊吹は、妙な顔をして蒲生を見た。
蒲生は、美由紀のほうに顎《あご》をしゃくった。いまは、邪魔をしてはいけないときだとわかるはずだ。
仁井川をSATに預けた美由紀は、おぼつかない足どりでバギーに戻っていく。
そこには、ひとりの幼女がたたずんでいた。
泥にまみれた幼女は、ただひたすらに泣きじゃくっている。
美由紀は、幼女の前にひざまずくと、その小さな身体をそっと抱き締めた。
誰も、ふたりに近づこうとしない。声をかけることも、いまは不可能に思えた。
幼女は泣きながら、美由紀にささやいた。「どうして殺さないの……?」
美由紀は震える声で答えた。「駄目よ。殺すなんて……。あなたは、あいつらみたいな人間じゃないの。それに、わたしみたいになってもいけない。わたしみたいに汚れちゃいけないのよ……」
どんなふうに心が通い合っているのか、それは当事者でなければわからない。
だが蒲生には、おぼろげに判ることがあった。
罪人にみずから裁きを下す道を、美由紀は選ばなかった。
あの幼女のためだろう。幼女にはこれからの人生がある。復讐《ふくしゆう》心と無念の怒りを抱いて生きることが、どれだけ険しい道かを美由紀は悟っているのだから。
雨雲は消えうせ、青い空がのぞいていた。まばゆいばかりの朝の陽射しが、湖畔にたたずむ人の群れに長い影を描いている。そのなかで、美由紀の横顔は白く輝いていた。太陽が宿ったかのように。
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新たな生命
東京地裁の判決が下る日、嵯峨敏也は傍聴席にいた。
当初の予定よりもずっと裁判は長びき、この日まで八か月を要した。被告人である岬美由紀が、公判が始まってからも刑事告訴を受ける事態がつづいたせいだった。
だがそれによって明らかになった事実も含めて、嵯峨の精神鑑定報告書は完成し、提出された。
秋ごろに二度面接したあと、岬美由紀とは会っていなかった。ひさしぶりに見る彼女は、白いブラウスをまとい、髪を少し短くしていた。血色がよく、以前と変わらない美しさを纏《まと》っている。
それでもその瞳《ひとみ》は、終始うつむきがちだった。不安のいろも隠せずにいる。
いまも彼女は、胸が張り裂けそうなほどの孤独感にさいなまれているに違いない。彼女はいつも孤立を余儀なくされてきた。かつては社会に相容《あいい》れない反抗心のせいで、そしていまは、その類《たぐ》い稀《まれ》なる能力のせいで。
この日、傍聴席に蒲生警部補は来ていたが、伊吹一等空尉の姿はなかった。アラート待機という、二十四時間装備品を着けっぱなしで出撃命令に備える、そんな日に当たるらしかった。
控え室で、伊吹欠席の知らせを聞いた美由紀は、そう、とつぶやいただけだった。
傍聴席には雪村藍も来ていた。彼女の経過は、美由紀よりもずっと良好で、問題なく社会復帰して勤め先のソフトウェア関連企業に通う毎日だった。不潔恐怖症の再発もない。
取り調べの警察官や検事も驚いていたが、藍の相模原団地における機転と判断は素晴らしいものだった。彼女がいなかったら、美由紀の命も失われていたかもしれない。神経症だった藍があれほどの大胆さを発揮したことは、臨床心理学的にも非常に興味深い事例に思えた。
おそらく藍は、冠摩《カンマ》事件でいちど命を落としかけてから、生まれ変わった気分で人生をやり直すことができたのだろう。大胆さは、美由紀の影響もあって備わったのかもしれない。藍は自分の命の恩人だった美由紀を救うことに、なんの躊躇《ちゆうちよ》もしめさなかった。彼女たちは、深い友情の絆《きずな》で結ばれている。藍は今回の事件で精神的に不安定になるどころか、より一層の強さを得たように感じられた。
一方の美由紀は、この八か月間は臨床心理士としての業務に就くことも許されず、舎利弗と一緒に事務局の留守を預かったり、雑務に従事したりしていた。事件で受けたショックからは回復のきざしがうかがえたものの、その目標のない毎日によって覇気が失われていくことが心配だった。世間と関わらずにいたのでは、彼女の真価は発揮されない。嵯峨はそのことも報告書に付け加えていた。
判決は、主文が後にまわされ、数々の事件の証拠をつぶさに検証することから始まった。
刑事告訴を受けたのは、嵩原利行防衛省職員や油谷尊之ノウレッジ出版社長、およびその社員、仁井川章介とその一味の者たちに対する暴行、脅迫、そしてそれらの者が所有する建造物に対する不法侵入のほか、器物損壊、交通違反、銃刀法違反などで、併せて三十六の容疑にあたることがわかった。
むろん、それらの被害者は、同時に加害者でもあり、それぞれが裁判で罪を追及されている立場だ。ただし、民間人であるはずの岬美由紀が、彼らに率先して制裁を加えることが許されているわけではない。たとえ相手が同情の余地のない犯罪者であろうと、問答無用の暴力に打ってでることは許されない。
これまでにも美由紀は、警察よりも一歩先んじるような行動力を発揮し、事件そのものを解決に導きながらも、こうした訴えの数々を引き起こされたことがあった。ただし、情状が酌量され無罪になった従来のケースと違い、今回は公判中の出来事だ。美由紀の暴走も、あきらかに度が過ぎているうえに、そもそも事態の緊急性に欠ける。裁判長はそう断じた。
すなわち、都心がテロリストによる軍事的脅威に晒《さら》された東京湾観音事件や、大勢の生徒が犠牲になる危険があった氏神高校事件などとは異なり、嵩原に対しての暴力行為は美由紀の極めて私的な衝動に端を発するものであり、被害者女性だった畔取直子にとって必ずしも必要な救済措置ではなかった。
油谷の隅田川花火大会における一種のテロ行為を防いだことや、仁井川が監禁していた幼女たちを救い得たことは、美由紀の暴走の連鎖の結果、成り行き上発覚した事件であり、美由紀の行動すべてを善意あるものとしてみることはできない、と裁判長は告げた。
美由紀の捜査力は、その秀逸な能力と数々の事件を解決した成果から、警察の捜査力を上まわっている可能性があることは認めざるをえないが、やはり警察組織内の人間ではなく、一連の行動の結果が多くの犯罪者の摘発に貢献し犯罪行為の阻止につながったとしても、警察と同様の特権的な捜査権を認めるわけにはいかない。
嵯峨は裁判長の言葉を聞きながら、心拍が速まるのを感じていた。てのひらにも汗がにじむ。
美由紀が犯罪を暴いたという社会貢献の成果は、減刑のための対象とならなかった。まさか、有罪が確定してしまうのだろうか。
しかしながら、と裁判長はいった。
相模原団地から押収された証拠と、榛名湖の仁井川の隠れ家で発覚した状況から、被告人が四歳までのあいだに性的搾取目的で仁井川に買われ、物心ついたときには想像を絶する地獄のなかにいたことは明白である。幼児期における自我の確立、自意識の芽生えに与えた影響は大きく、このため被告人は複雑性PTSDに苦しむこととなり、他者との健全なコミュニケーションを身につける機会を失い、精神面のアンバランスさから社会的孤立を余儀なくされた。
友里佐知子による脳手術の痕跡《こんせき》は医学的検査で発見され、現在、被告人が心のバランスを表層上でも保つことができているのは、仁井川によってなされた忌むべき恐ろしい行為の記憶を物理的・強制的に絶たれているからである。
同時に、仮に幼少の記憶が存続していれば、被告人はみずからの暴走行為を複雑性PTSDと解離性障害によるものと自覚できた可能性があるが、引き金となる事態を想起できなくなっていた以上、この点に被告人の責任があるとは考えられない。
裁判長はいった。被告人の痛ましい過去とそれによって生じた症例が明らかでなかったこれまでのケースにおいて、被告人の暴走行為の発端には責任能力はない。
よって、被告人を無罪とする。
ただし、と裁判長は付け加えた。症例がわかった現在以降は、いかに善意に基づいた行動だったとしても、暴力に訴えたり不法侵入や器物損壊に及ぶのを見過ごすわけにはいかない。肝に銘じておくように。
法廷内は、主文が読みあげられる直前から、ざわめきだしていた。無罪となることが色濃く思えたからだろう。そして、判決が下されたとき、歓声に似た声と拍手が湧き起こった。
蒲生はほっとしたように目を閉じていた。藍は立ちあがって手を叩《たた》いていた。
嵯峨は美由紀を見つめた。美由紀は、深いため息をついた。それだけだった。
判決文を読み終えてから、裁判長は美由紀に声をかけた。「岬さん」
「……はい」と美由紀は応じた。
「司法に携わる者として、あなたと同じ能力が私に備わってたら、そう思わない日はありません。おそらく弁護人、検察人、両者が同じ思いを抱いているはずです」
静寂が法廷のなかにひろがった。
裁判長は穏やかにいった。「けれども、仮に私が千里眼と呼ばれるほどの能力の持ち主だったとして、人の顔を見て嘘かどうかを見抜けたとしても、私はそれだけで判決文を書くことはできません。たとえ私が過去の百の裁判で信頼に足る判決を下してきたとしても、百一回目の裁判で、私がそう信じるからという理由だけで、被告人の有罪無罪を決めることはできないのです。わかりますね?」
「ええ」美由紀は小さくうなずいた。「よくわかります」
「あなたひとりだけは、真実が見抜ける。ほかの誰もわからないことが、あなたにはわかる。……どれほどのジレンマを抱え、どんなに孤独を感じるか、私には想像もつきません。それでも、あなたが幼少のころに背負わされた苦難を考えれば、これまでのことは仕方がなかったといえるでしょう。両親と信じていた人たちと、実は血のつながりがなかった。本当の親の顔はわからない。誰も頼れないというあなたの絶望を、少しは理解できるつもりです」
美由紀はかすかに瞳《ひとみ》を潤ませ、また目を伏せた。「はい……」
「ただし、岬さん。あなたはこの国に生まれ、この国に育った。ひとりの国民として、義務と責任を負っています。是非あなたの能力を、法治国家のルールに沿いつつ役立ててください。過酷な過去を背負いながら、いえ、背負っているがゆえかもしれませんが、あなたが善意と愛に満ちた心の持ち主であることを私たちは知っています。あなたの助けを必要としている人は、大勢います。これからも、人々のために生きてください。私たちは決してあなたの妨げになる存在ではない。正当な理由があれば、あなたの正義を常に応援します」
裁判長が言葉を切ったとき、傍聴席の人々は、いっせいに立ちあがって拍手をした。
その割れんばかりの拍手と歓声は、まるでコンサートのようだった。
弁護側もそれに同調している。検察側は、しばし呆然《ぼうぜん》としたようすだったが、やがて渋々ながら立ちあがると、やはり手を叩いた。
驚くべき状況だった。
それはこの判決が、血の通わない冷たい法律の哲学に導きだされたものでなく、情に支えられたものであることの証《あかし》に、嵯峨には思えた。
美由紀はぼろぼろと涙をこぼし、身を震わせて泣いていた。
彼女の苦悩の旅はいま、ひとつの区切りを迎えた。嵯峨はそう感じた。行方の見えない二十四年の暗黒の旅路。そこに光がさした。岬美由紀はきょう、生まれ変わった。新たな生命を得て、次の舞台《ステージ》に進むときがきた。
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結婚式
検察が控訴せず、判決の日をもって岬美由紀の裁判は終結した。
その一か月後、穏やかな春の陽射しが降り注ぐ休日。軽井沢の教会で、伊吹直哉の結婚式が催された。
祭壇の前で、白いタキシード姿で立つ伊吹と、ウェディングドレス姿の花嫁。伊吹の結婚相手を、美由紀は初めて見た。
新婦は予想どおり綺麗《きれい》な人だと美由紀は思った。
ふたりのあいだにはすでに五歳になる息子がいて、結婚式にも同席しているせいか、新婚特有の堅苦しさはなかった。
席を埋め尽くす三〇五飛行隊の面々もリラックスしたようすで、歓声をあげて囃《はや》し立てている。賛美歌を歌うにあたって、誰もその歌詞がわからず困惑したようすをしめすと、伊吹はいった。第七航空団唱歌か君が代にしようぜ。参列者にたちまち、笑いの渦が湧き起こった。
美由紀は、そんな伊吹の現役の仲間たちからは離れて、後方の席に座っていた。
複雑な思いに、ときどき笑顔が凍りつくことを自覚していた。それでも、かつて一度でも恋人と信じた男の幸せを願いたい思いは、純粋に心のなかに存在していた。
指輪が交換され、神前の誓いに至る。新郎と新婦は牧師の前に立った。
牧師が厳かに告げる。良きときも悪きときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、添い遂げることを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?
誓います、と伊吹が告げたとき、美由紀の視線は自然に膝《ひざ》の上におちた。その瞬間から目を逸《そ》らす自分がいた。
そして、膝の上には、涙のしずくが垂れた。水滴がドレスに沁《し》みて消えていくのと同時に、過去の幻想も失《う》せていく。その過程を、ただじっと見つめていた。
式が終わると、参列者たちは教会から駐車場につづく並木道に歩を進めた。
防衛省がらみの連中は部隊ごとにかたまりをつくっている。臨床心理士組も、やはり一箇所に寄り集まっていた。
美由紀は、その現在の職場の仲間たちと歩調を合わせていた。
雪村藍も一団に加わっていた。「綺麗だったよねぇ、新婦。なんていうか、もうとっくに幸せそうだったね」
「そうだね」と舎利弗がうなずいた。「もう長いつきあいらしいから、息もぴったりって感じだった」
談笑する同僚たちの言葉を聞くたびに、気持ちが沈んでいくのを感じる。美由紀は無言で歩きつづけた。
そんな美由紀の心情を気にかけたのか、嵯峨が声をかけてきた。「美由紀さん。気分はどう? だいじょうぶかい?」
「……ええ。平気よ」
本心では、いまは誰とも話したくなかった。
わたしへの気遣いを、いまはしめしてほしくはない。独りでいるほうが、ずっと心の癒《いや》しになる。
癒し、か。
嫌いな言葉だった。それでもいまは、人が癒しを必要としていた本当の意味を知った気がする。
美由紀の陰気さがうつったのか、周囲を歩く人々は一様に無口になった。
責任を感じて、美由紀はつとめて明るくいった。「伊吹先輩、ダンスは下手だったよね」
気を遣うように同僚たちは大仰に笑った。
舎利弗がいった。「ほんと、音楽とは合ってなかったよね。でも新婦のほうも踊るのは苦手だったみたいだ」
藍も笑いながら甲高い声をあげた。「美由紀さんなら絶対、サマになってたよねぇ」
一同は笑顔を凍りつかせた。
その沈黙に、藍も失言に気づいたらしかった。「あ、あのう。ごめんなさい」
「いいのよ」美由紀は戸惑いがちにいった。「そんなにわたしを気にかけなくても」
と、足ばやに近づいてくる者がいた。
式に出席しながらも、離れた席に座っていた外務省の成瀬史郎が声をかけてきた。「み、岬さん」
「ああ。成瀬君」
「あのう、きょうこれからはどんなご予定で?」
「予定って……別にないわ。まだ事務局のほうの手伝いをつづけてて、臨床心理士の業務に復帰してないの。どうして?」
「その、よければ、ですね」成瀬は緊張の面持ちでいった。「きょうもトゥール・ジャルダンを予約してあるので、ディナーをご一緒できれば、と思いまして」
藍がからかうようにいった。「ダルジャンでしょ」
「あ、そうそう」成瀬は顔を真っ赤にした。「ダルジャン……」
「ったく」藍は笑って、美由紀の腕に抱きついてきた。「成瀬さん、だっけ? 女をデートに誘うなら、最初はもうちょっとリーズナブルで気楽なところに誘わなきゃ。お洒落《しやれ》な店でセンスのよさをアピールするの。いきなりホテルのレストランなんて、ドン引きじゃん」
成瀬はあわてたようすだった。「あ、そ、そうなんですか……?」
笑いが湧くなか、美由紀はひとり複雑な思いにとらわれた。
デートへの誘い……。
わたしに、好意を抱いているということだろうか。
やはりわからない。わたしは、男性の恋愛感情を読みとることはできない。
「あの」美由紀は視線を逸らした。「ごめんなさい。きょうは独りで帰りたくて……」
がっかりした顔を見るのは怖かった。美由紀は背を向けて歩を早めた。落胆の感情は、表情を一瞥《いちべつ》しただけでわかってしまう。成瀬であれ誰であれ、わたしに思いを寄せてくれる人がいるとしたら、彼らのそんな心に触れたくはなかった。
わたしなんかを好きになる人はいない。すべてを理解したら、わたしなんかを……。
「美由紀さん」と嵯峨が声をかけた。
足がとまる。振りかえると、嵯峨が小走りに追いかけてきていた。
「ねえ、美由紀さん……。同僚の徳永良彦《とくながよしひこ》がいつも口癖にしてる学説、信じるかい?」
「え……? どんな学説?」
「愛をつかさどる脳神経の話だよ。以前は自律神経系の中枢である視床下部にあるといわれてたけど、いまでは大脳新皮質の奥に潜む大脳辺縁系のどこかにあるって説が有力。徳永は女の子を誘おうとするたび、その話をしてる」
「ああ……。わたしも一度聞かされたわ。じゃあ、あのとき彼も……」
「いや、徳永がきみに気があるって話をしたかったわけじゃないんだ。きみは多くの人に愛されてるよ。それはたしかなことだ」
「……そうかな。わからない。わたしには」
「どうして?」
「どうしてって、それは……」
「過去の最も嫌な思い出を想起するための回路が、手術によって絶たれたとしても、愛をつかさどる部位は別の場所にあるじゃないか。きみはきっと愛情を感じられるはずだよ。そのうち実感できるようになる」
本心なのか、励ましなのかはわからなかった。美由紀は、嵯峨の顔を見なかったからだった。
表情を見て、感情を読んでしまうのが怖い。言葉の真意を理解したくないときもある。
「ありがとう」と美由紀は微笑してみせた。「でもまだ、いまは必要ないから」
美由紀は、立ち尽くす嵯峨から離れ、ひとり並木道を歩いていった。
人々に戸惑いを残していることに、罪悪感が募る。それでもいまは、独りになりたかった。誰でもそういうときがあるだろう。たとえ臨床心理士という職に就く者だったとしても。
豊かな緑に囲まれた庭園のような駐車場に、オレンジに輝く車体があった。ランボルギーニ・ガヤルド。無事に修理が終わり、板金塗装の痕跡《こんせき》も残さずその美しさを蘇《よみがえ》らせている。
ガヤルドに乗りこみ、ドアを閉める。
またひとりになった。そんな実感があった。
じっとしていると、孤独に胸が張り裂けてしまいそうだ。
エンジンをかけ、アクセルを踏みこむ。圧倒的な加速感にまかせて、美由紀はガヤルドを疾走させた。
東京に戻るころには、きっと涙も枯れることだろう。そうなったらまた、新たな一歩を踏みだせばいい。人生はまだ始まったばかりだ。全身で幸福を受けとめられる日は、きっとくる。それまでは、わたしは人々のために持てる力を役立てていきたい。わたしの生きる道は、そこにしかないのだから。
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二か月後
ソマリアの首都、モガディシュは長くつづいた内戦のせいで荒廃しきっている。だが、夜明けとともに始まったエチオピア軍とソマリア暫定《ざんてい》政府軍による空爆には、まだ悲鳴もあがるし、逃げまどう難民たちの姿もある。
百二十万人の市民はまだ数多く生き残っている。元反乱軍のゲリラどももそのなかに隠れている。皆殺しにしてしまえばゲリラを根絶やしにできるわけだが、それでは効率が悪すぎるだろう。
よって、米軍提供のガンシップAC130により奇襲をかけ、抵抗勢力が反撃のために姿を見せた地点にのみ、集中的に攻撃する。法廷会議の残党を一掃するためにも、近海に待機している空母アイゼンハワーからのミサイル攻撃が望ましい。
ジェニファー・レインは戦禍の広がる都市の中心部から、数キロ離れたホテルの屋上にいた。
ここは今回の計画に使用するカンガルーズ・ポケット、すなわち世間の干渉を受けず密《ひそ》かに歴史を操作するための拠点だった。屋上にはあらゆる軍用無線を傍受できるパラボラと電波信号の増幅器、受信機がところ狭しと並び、マインドシーク・コーポレーションの特殊事業推進部から選《え》りすぐりのスタッフたちがオペレーションを進行している。
「局面《フエイズ》48の12」Bランクのスタッフが告げてきた。「エチオピア軍のヘリ四機が新たに駆けつけました。新たな武装勢力が発見されたという、われわれの偽情報が功を奏したようです」
いちいち確かめるまでもなかった。都市のそこかしこにあがる火柱の頻度は増し、爆発はひっきりなしに起きている。ここ数年でも最大の攻撃だろう。
だが、ジェニファーは空爆の見物には飽きていた。手鏡を取りだして自分の顔を眺める。
メイクの乗りもいい。ウェーブのかかった褐色の髪と赤いルージュが純白のスーツと好対照をなしている。
美しい。歴史を操りながら、寸分の汚《けが》れもないわたしの姿は、たとえようもないほどの美に彩られている。
こうして計画が滞りなく進行し、莫大《ぼくだい》な富を本社およびクライアントに齎《もたら》すことを前にして、みずからの美に酔いしれる。まさに至福のときだった。この喜びは誰とも分かち合えない。人類史を超越する職に就き、わたしのように歴史の改ざんを成功させ、わたしのように金を稼ぎ、わたしのように美しい者など、メフィスト・コンサルティング・グループ広しといえど、ふたりといない。わたしは唯一無二の存在なのだ。
Aランクのスタッフが耳もとのイヤホンを押さえながら、振りかえった。「エチオピア軍の無線を傍受しました。アイディード派の残党を一掃。四地区を制圧。住民はほぼ全員が死亡、軍のほうも二十人ほどの犠牲者をだしたようです」
一分間につき約三十人の死者か。ややペースが遅い。これでは正午までに五万人の市民を殺すノルマは果たせない。
ジェニファーは鏡を眺めたままいった。「フェイズ48の13。エチオピア軍のヘリを一機撃墜して、西地区への空爆を強化させて」
「御意に」攻撃操作班のスタッフがTERCOMのオペレーション・システムに向かう。「インヴィジブル7B発射」
数秒もたたないうちに、空中にまばゆいばかりの閃光《せんこう》が走り、真っ赤に燃えるヘリの破片が飛散した。一瞬遅れて爆発音がジェニファーの耳に届いた。
モガディシュの近郊に待機する自走式発射機から、インヴィジブル・インベストメントを纏《まと》った短距離ミサイルを発射し、ゲリラの地上攻撃に見せかけることは実に効率がいい。おかげでエチオピア軍は猛攻を開始した。広場に避難している女子供にすら情け容赦なく機銃掃射を浴びせ、爆弾の雨を降らせる。数百人規模の断末魔の悲鳴が混ざり合って聞こえてくるさまは、合唱のように芸術的だ。
満足感に浸っていると、この場で聞こえてくるはずのない男の声がいった。「順調のようだな。やりすぎはよくないが」
一瞬にして不快な気分に引きずりこまれる。ジェニファーは苛立《いらだ》ちを覚えて振り返った。
「グレート・ダビデ」ジェニファーは皮肉っぽく告げた。「グループ内他社の計画現場に現れるなんて、クローネンバーグ・エンタープライズのほうはよほど暇なのかしら」
ぎょろ目の中年イタリア人は、黒いシルクのスーツを着て背後にたたずんでいた。にやついた口もと、ひくつかせた鷲鼻《わしばな》。特別顧問としてはひとつの理想といえる悪魔的な性格を内包して見える、その醜悪な顔つき。
「ふん」とダビデは鼻を鳴らした。「法廷連合はせっかくこの都市の治安を回復させていたのにな。暫定政府軍どもを煽《あお》って大量虐殺か。女の考えることはわからんな」
スタッフたちは一様に緊張し、なかには手をとめて起立している者さえいる。メフィスト・コンサルティングにその人ありといわれた特別顧問ダビデの出現に、誰もが息を呑《の》んでいた。
そんな部下たちの態度が気に障る。ジェニファーは怒鳴った。「持ち場に戻って計画を続行して。命令系統を無視したらこの場で射殺する」
「あいかわらずだな」ダビデはさらに口もとを歪《ゆが》めた。「スパルタばかりじゃ部下は滅入るぜ? 心理戦で世を操るメフィストの特別顧問なら、部下の精神面にも配慮したらどうだ?」
この男は、会う人間によって人格の演じ方を変える。わたしの前ではこんなふうに高飛車な態度をとる。本当の性格はどうなのか、いまだにわからない。セルフマインド・プロテクションが|AAA《トリプルエー》級の特別顧問とあっては、表情から感情を読むこともできない。
だがそれは、ジェニファーのほうも同じだった。ダビデに感情を見抜かれていない自信はある。
ジェニファーはいった。「口出しは無用よ。この都市を法廷連合なんかの自治にまかせられない。米軍とエチオピア軍の分割統治が望ましいのよ」
「っていうより、アラブ首長国連邦と通交を始めた法廷連合を殲滅《せんめつ》して、石油の確保に踏みきろうってんだろ? アメリカはまたしても、戦争でがっぽり儲《もう》かるわけだ」
「マインドシーク・コーポレーションは大統領一族の資本なの。当然でしょ」
「歴史を作っているというよりは、破壊と虐殺、野蛮な過去への回帰だな」
「評論はよしてよ。ダビデ、妨害しようとしても無駄よ。グループ内企業どうしの抗争を、十二人議長《トウエルブ・チエアメン》は認めてない」
「とんでもない。邪魔するつもりはないよ。手だしはいっさいしない。私はただ見物しにきただけだ。性懲りもなく失敗を重ねて、またひとつグループに汚点を残す女の姿をな」
「なに言ってるの?」ジェニファーはせせら笑った。「ダビデ。あいにくだけど、あなたが評価してた岬美由紀が腑抜《ふぬ》けになった以上、わたしの計画は二度と水泡に帰したりしないわ」
「ほう……腑抜けねぇ」
「ええ。あの女は過去を知ったんでしょ? もう立ち直れないわね。裁判でも二度と無茶しないって誓わされたみたいだし」
「たしかにそれは事実だけどな。ジェニファー。きみは人間の原則のひとつを見落としてるぜ?」
「なによ」
「成長だよ」とダビデはいった。「困難な過去を背負った人間は強くなる。きみはそれがわかってない。だから毎度失敗する。同じレベルの失敗をな」
「わたしを侮辱しないでよ」ジェニファーは怒りとともに詰め寄った。「わたしをスカウトしておきながら、教育を放棄したあなたへの報いを思い知るがいいわ。見てなさいよ。わたしはマインドシークをグループ内のトップ企業に……」
ところがそのとき、予期せぬ轟音《ごうおん》とともに、ホテルの屋上は激しく震動した。
はっとして振り返ると、なんとAC130の巨体が黒煙に包まれながら、郊外の砂漠に降下していくではないか。
不時着した機体から乗員があわてたようすで駆けだすのが、蟻の群れのように小さく見えている。
アクシデントはそれだけではなかった。つづけざまに空中爆発が起きた。エチオピア軍のヘリ全機が炎を噴きながら墜落していく。地上に激突する寸前に脱出したパイロットたちの落下傘が開き、空に舞った。
空爆部隊は、たちどころに全滅した。死者はでていないようだが、攻撃力を失った。
なんだ。どういうことだ。こんな状況は考えられない。
ジェニファーはダビデをにらみつけた。「なにをしたの?」
「いったろ。私は手をだしてない。ただ見物しに来ただけだよ。あれをな」
ダビデが顎《あご》をしゃくった空に目を向けたとき、ジェニファーは息を呑んだ。
米海兵隊のAV8Aハリアー戦闘機が頭上から急降下してくる。そのさまは、まさしく襲いかかる猛禽《もうきん》類のようだった。
ハリアーは屋上すれすれにまで降下すると、機首をあげて水平停止飛行に移った。四つのエンジンノズルが真下に向き、すさまじい熱風を噴射する。肌が焼けるほどの暑さとともに、嵐が吹き荒れた。書類が宙に舞い、機材は飛び、パラボラは倒壊した。
米軍のパイロットが、こんな無茶な飛行をするはずがない。何者かが戦闘機を奪取したのだ。
片方の翼をさげたハリアーのキャノピーが開き、パイロットとおぼしき人影が、翼の傾斜を滑り降りてきた。大胆にも、飛行中の機体を空中に放置したまま機を降りた。
主《あるじ》を失ったハリアーは屋上から離れていき、空中を迷走すると、無人地帯の廃墟《はいきよ》ビルに突っこんで大爆発した。
その爆風はホテルの屋上にも達した。突きあげる衝撃とともに、砂埃《すなぼこり》と煙が押し寄せる。視界が遮られ、呼吸すらまともにできない。
咳《せ》きこみながら、ジェニファーは状況を察知しようと目を凝らした。
やがて、薄らいできた煙のなかに、フライトスーツを身につけた女がたたずんでいた。
ジェニファーは殴られたようなショックを受け、愕然《がくぜん》として立ちすくんだ。
そこにいたのは、目が覚めるほどの強烈な美しさを放つ女だった。
美しい……? そんな馬鹿な。わたしは断じて認めない。
ダビデは、いつもその女に向けるピエロのような態度をしめしながらいった。「やってくれるな、美由紀! とうとうカンガルーズ・ポケットにまで入ってきたか」
岬美由紀は醒《さ》めた表情のまま、余裕すら漂わせながらつぶやいた。「カンガルーズ・ポケット? ああ、そう。ここが都市を消失させようとした茶番劇の舞台裏ってわけ。悪いけど、消えるのはあなたたちのほうよ」
「待ってました!」ダビデは大はしゃぎで叫んだ。「日本一!」
「黙って!」ジェニファーは声を張りあげた。
またしてもわたしの計画を打ち破るなんて。どこにそんな精神力が残っていたというのだ。
いや、いま目の前にたたずむ岬美由紀は、以前よりももっと強く……。
認めない。わたしに敵などいない。
「遅かったようね」ジェニファーは虚勢を張った。「いまさら来ても無駄よ。すぐに加勢がくるわ」
だが、美由紀は動じなかった。「眉《まゆ》が上がって真ん中に寄るのを必死で防いで、怯《おび》えているのを隠そうとしてるのね。セルフマインド・プロテクションなんて、所詮《しよせん》そのていどね」
図星を突かれたジェニファーは、ぎくりとして思わず口走った。「ど……どうやってそこまで……」
「わたしに、見抜けない感情なんてないの」美由紀の落ち着き払った声が響いてきた。「千里眼ってよく言われるしね」
角川文庫『千里眼 美由紀の正体 下』平成19年9月25日初版発行