松下竜一
砦に拠る
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目 次
蜂起の章
築城の章
勝鬨の章
争訟の章
落城の章
王国の章
あとがき
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蜂起の章
一 涸れた湖底
わたしん名前でございますか。
ヨシと申します。ええ、片仮名ですたい。そうばってん、ずうっと芳子で通してきたつです。芳《かんば》しいと書くですたい。さあ、別に理由《わけ》ちゃないとですたい。なんとなし、それん方が好きじゃもんで。
こん秋が来ると、満の六十八になるですたい。主人の知幸《ともゆき》がのうなってからでん、もう丸っと五年が経《た》つですもんね。ほんなこつ、歳月の経《た》つとは早えち思うですたい。
ええ、今でんが、あんダム反対闘争んこつを聴かせてくれちゅうておみえになる方が、時にはおりますばってん、わたしゃほとんどなあんも答えられんとです。そういうふうですき、なんかわたしがわざっと隠してしゃべらんごつ受け取るお方もあるらしゅうございまして、わたしも随分とつろうございますが、ほんなこつもうわたしにゃ答えられんこつが多うございますたい。
それでん、お前ん主人の室原《むろはら》知幸ん闘いじゃったろうちいわるれば、そらぁもうそうにゃ違わんとですけんど、わたしゃただもう知幸ん陰でいうが通り動いちょっただけんおなごでございましたもん。あん永い闘争ん歳月、何がどげぇしてどうなっちょるちゅうよな説明は、主人からはひとこつも聞かざったつです。そげな馬鹿んこつがち思わるるでしょうが、これはもう室原知幸ちゅう男を知らんお方にゃ、分ってもらえんこつかもしれませんですね。
なんさま、大変な闘いじゃありました。どしこつらい思いをして過ごしましたかは、もういい果てんですたい。なんしろ相手は国家であるとでしょうが、国家の力ちゅうもんは底が知れんおそろしいもんですたい。知幸がなんぼ強《つい》い男ちゅうたち、かのう筈はないとですもん。とうとう、それで命を縮めたつです。わたしん生涯も、もうあれで終ったちゅう気がしますたい。
考えちみりゃあ、わたしん生涯には甘い女の生活とかなんとかは丸きりなかったつです。八人の子を育てるこつと、知幸ちゅうむつかし男に仕えるこつと、最後にこりから息をつこうち思うちょりましたらまあ、思いもよらん国家を相手のダム反対闘争でございましたろ。
ええ、ええ、八人の子を産んだつですよ。それも六番目がようよおとっこんほかは、みんなおなんこですたい。まあ今思うてん、八人ほずの子を、よう、どげえしてふとらせちきたんじゃったろうかちですね、自分でん不思議な気がしますばい。なんかこう、おしめばっかり洗いよった気がしますばい。うちにゃ裏山から清水を樋《とい》で引いちょりましたが、ほんのショボショボ小舟に落ちよるくらいなもんで、とてんすすぎ洗濯にゃとれるほずはないとですもん、毎日|津江《つえ》川に行くですたい。ずうっと坂をくだって、降りた直ぐんあたりは水苔がついちょりますもんね、やっぱぁちょっと中の瀬まで入っていかにゃならんとです。大きなしょうけを抱えち、いかな日でんいっぺんな行かにゃならんですたい。子供を下痢させでんしゆうもんなら、もう一日中津江川通いですたい。
そらぁまあ下働きんおなごしも居ましたばってん、なんさま大世帯でございましょうが、父の新《あらた》夫婦に、知幸ん直ぐ弟の知彦《ともひこ》の方が先に結婚して子供もおりましたし、他にも腹違いの妹や弟も居ましたもんね。ええ、知幸ん母は若うしてのうなって、あとよりは知幸とたったひとつ違いん若い人でしたき、ま、複雑な大世帯じゃあったですたい。そげなふうですき、なんからなんまで自分でせにゃならんとでしたね。
世間じゃ、山林地主ちゃ、やれ何億の分限者ちゅうて、さぞ贅沢な生活じゃろうち思うごつございますばってん、とんでもないとですよ。よそさまは知らず、わたしは贅沢のぜの字もない毎日でございましたばい。昭和八年から一日欠かさん家計簿が、なんよりん証拠ですたい。ちょっと読みあげてみましょうか。――昭和八年九月二日、菓子四十五銭、イカ十銭、ダンゴ六銭、送料八銭、胃薬十一円二十五銭、梨三個十銭、控帳六銭。九月七日、ナフタリン五銭、ひびき十銭、玉子六つ二十一銭、オデン三銭、煎餅五銭。ざっと、こげなふうでしたもんね。
だいいち、わたしには室原家ん山林がどしこあって、どんくらいの資産ちゃ生涯知らざったです。知幸はそげな話はひとこつもせんし、わたしも自分にゃ関係ないち思うちょりましたもん。最初ん頃は、毎日ん入費もいちいち主人が払いよったほどですよ。わたしが月々どんくらいと目標を定めて貰うようになったんは、子供達が小国《おぐに》ん中学校に入る頃からですね。それも、貰う時もなかなか文句が多《お》うして、どおしてわれたちゃ貰うことんじょう考えちょって、取るちゅうこたぁ一銭もしきらんとか、われたちゃ金ん値打ちも分らんとか、お説教を散々聞かされた上で、やっといただいたもんですたい。なんの贅沢がでけましょうか。
ほんともう、何をいわれてもわたしはさからわんですたい。さからえるもんじゃありません。わたしゃ一生涯、主人には「はい」とよりほか、いうたこたぁなかったような気がしますたい。今考えれば、なんかすこうし馬鹿らしい気もしますもんね……。
たとえば、「さあ頭つめ」ちゅうて道具持って来て庭にでんと坐るですよ。そしたらわたしゃ何をしていても「はい」ちゅうて、直ぐつまにゃならんとですたい。主人はなぜか生涯長髪をせざったですもんね、丸坊主でそれがちいっと伸ぶと、さあ痒《かゆ》いとか頭が痛いとかいうちやかましいとです。かぞえてみると、ぴしゃっと十日目ですたい。なんさま、月に三遍の頭つみですよ。これが、わたしにとっちゃ、なかなかん苦でございましたね。気をつこうちせんと、バリカンが引っかかっち毛を引くですきね、さあ痛いっち怒鳴らるっと、こっちはたんだあわてて引くもんじゃき、たんだ毛を引いち、たんだ怒られにゃならんでしょうが。ようやっとつみ終ってんが、それでまだ済まんとです。やれ、毛が残っちょらせんか、われがそん眼はガラス玉じゃき分らん、鏡を持ってこいちゅうてですね。こっちも心得ちですね。どうせ後ろん方は鏡でんが見れんとですき、それで前ん方だけは特に念入れてですね、後ろは手を抜きよったですたい。
するこつなすこつ、こげなふうにむつかしい男でしたね。風呂でも、三時頃、日の照るうちに「おれは風呂に入るぞ」ちいわれたら、もう風呂ん窓に南陽の差しよるとに、焚きつけなならんとです。それもどういうもんか、あん激しい気性が熱い湯には入りきりませんたい。ぬるう焚きつけち、そっで入っちょって、ちょっとぬる過ぎるき焚けちゅうですよ。そん焚きつけが又暇がいると、われがいつまでも焚かんき湯ざめしたとかなんとか怒鳴られるもんですき、それでまだ焚かんでいいぞちゅう前から、もうわたしも上手にちいっとずつ焚きつけちょきますたい。風呂ん中からは見えませんき、まだ焚くこたぁいらんぞちいいますき、まだ焚きよりませんちいうですたい。そうせんと、間に合いませんもんね。さあ、湯からあがると裸で走り出てくるですたい。ほしてからもう、冬なら服を火にあぶっちょいて、一番下ん肌着から、こんだこれ、こんだこれちゅうて渡してやらな、何着るかは自分で分らん人ですたい。それも、肌着をいきなり出してやっては気にいらんとです。肌着をこうやるごつ持っていかにゃ……後ろが上ですたいね、前が肌着は下になっちょらな直ぐ首を突っこめんでしょうが。そげなふうに渡すですたい。ズボンもバンドを通しちょって渡さんと怒らるるとです。ばってんあわてちょると、つい反対向きにバンド通したりしますもん、忽ち大目玉ですき、自分でちょっと腰にあてちみたりして、ああこっちがこうちゅうたふうで、ちゃんとしてね。そして、着てしまうと、ああ気色がよかったちゅうちからですね。
大体、おなごちゅうもんな、家ん仕事をいわるるがままにしちょきゃいいち、そげなふうでしたね。わたしが婦人会の部長になって、ええ、黒淵は六部に分かれちょって、志屋んへんが第六部で、わたしが部長ですたい。それで六部全体の部長が集まる会議に行かなならんとを、行くこつがいるか、婦人会が何かちゅうて、行くなら行けちいうて叩くですたい。それかちゅうて、行かなわたしん責任が果たせんですし、二里ばっかり山を越えて行くとに、なさけのうして泣く泣く行ったこつもございました。
大体、おなごに何が分るかちゅうふうでしたきね。わたしが新聞読んで、今日はこげなこつ書いちょりましたねちいうと、うんな知ったかぶりすんな、新聞はオモテだけ読んだちゃ分らん、ウラがあるち、こういうようないい方をして叱られましたき、もう、うがったこというてん腹かかるるし、まちごうたこついうと、なんの馬鹿らしいこついうかち怒らるるでしょうが、それで全然なんにもいわれんですたい。普通ん夫婦ん対話なんちゃなかったですもんね。
それでん優しゅうなかったかちいいますと、わたしが病気で寝たりすると、つきっ切りで冷やしてくれたり、よう看病をしてくれよったです。いつでしたか、わたしがひどう寝こんで、ひょっとしたらもう助からんかしれんちゅうことがあったですたい。なんかほしいもんなねえかちゅうですき、どげえしてあげなこついいましたやら、わたしゃ岡晴夫ん歌が聴きたいちいうたですたい。そしたら日田ん町から蓄音器をかたげちこおて来てくれたつです。今思えば、どうも腹ん中は口ほどじゃなかったようですたい。
確かに暴君じゃったち思いますけんど、やっぱぁそん頃は、男ちゃ皆あげなんもんちしか思うちょらざったつです。ま、明治生まれん男ちゅうもんは、自分だけはやっぱこう、けたはずれに上ん方からおんなを見おろすちゅうたふうな、そげなふうにおりたがっちょるふうでしたね。近所ん男んじょうでん、よめさんの話を聞いちみますと、どこでんけっか口やかましゅうしてですね、気に入らんとげんこつをかませたりして泣かせよったようです。志屋神社んお祭りやら阿弥陀様ん祭りにゃおんな同士で集まってから鯖ん|ぬたあえ《ヽヽヽヽ》で酒のうだりして、男達ん愚痴やら品定めでうさを晴らしたもんですたい。
あれでダムん問題さえ起こらんなら、わたしん一生も、やっぱぁどっちかちゅうと、しあわせじゃったちいうべきかもしれんち思うとですよ。まさか一生の終り近くに、あげなおおごつに遭《あ》おうちゃですねえ……。まあ、これがわたしちいうおなごの享《う》ける運命じゃったんでしょうね。
知幸んお墓でございますか。ダムんそばにありますたい。そうですか、参ってやっていただけますか。御案内いたしましょう。
筑紫次郎と呼ばれる九州第一の大河筑後川は、阿蘇外輪山に源を発して数多くの支流を合わせつつ成長し、筑後・佐賀両平野の穀倉地帯を緩かに蛇行し潤してゆく。幹線流路一三八キロ、筑紫次郎の旅は熊本・大分・福岡・佐賀四県に跨り、最後は有明海に注いで終る。
阿蘇外輪山の急峻を駆けくだって来た幾つかの支流が合して、漸く緩かに筑後川本流の趣を湛え始めるのは、大分県日田市内に入ったあたりからである。このあたり、三隈《みくま》川と呼ばれる。
室原ヨシさんが、水没地となる志屋部落を離れて居を構えたのは、三隈川畔の高台であった。彼女に伴われて、かつての志屋部落跡へと向かったのは、一九七五年五月も終り近い日で、もうすっかり初夏の日射しが三隈川の川面を煌《きら》めかせていた。
日田市から志屋部落へは、川に沿う道を遡って行く。飯田《はんだ》高原に発した玖珠《くす》川が三隈川に注ぐあたりで小淵橋を渡れば、ここからは大山《おおやま》川である。車が日田郡大山町の短い町並みを抜ければ、川に沿う道に迫って緑濃い杉山が続いていく。対岸も杉山である。
二十分程走った頃、最初のダムが見えてくる。松原ダムである。堰堤《えんてい》を渡る国道二一二号線と別れて、更に大山川沿いに県道を遡行《そこう》すれば、直ぐに貫見《ぬくみ》の地で大山川は杖立《つえたて》川と津江川に分岐する。私達の車は、大分・熊本の県境をなす津江川沿いに大分県側を遡行し続けたが、このあたりは旧道の水没に替えて山の高みに拓《ひら》かれた道で、幾つもの隧道《ずいどう》を抜けて行く。遙か眼下の湖底には、こちらの岸にも彼岸にもかつての部落台地が点在し始めている。
梅雨に備えて春頃から水位を落とし続けたダムは、今漸く湖底を涸らして、かつての部落跡は水から引き揚げられたばかりの溺死体のように露《あら》わとなっている。それらが部落跡だと知れるのは、岸から迫《せ》り出した台地に遺る段々畑の痕によってである。離村の日、家々は解体され撤収されたので、しぶとく立ち尽す枯木の他には何も無い荒涼とした台地に、堅固な石垣で区切られた段々畑だけが今もくっきりと遺っている。人々が住家を取り払ったあとの台地というものは、ここに一村があったのかと疑う程に、狭く小さく見える。
水底から露わになったばかりの台地には、まだ幽《かす》かな草の芽の萌《きざ》しもなく、灰色めく濡れ土の色の他にはひと刷毛の生色も目につかぬ。そこがダム湛水時《たんすいじ》の水位となる一線を境として、それより上の緑濃い山腹と、それより下の生色を喪った土色の湖岸が画然として対照を際立《きわだ》てている。
「むぎいあとかたになってしもうち……いいようのない気持で見るとですもんね」
小さな身体をきっちりと和服に包んだヨシさんは、窓の外を見降ろしながら呟いた。
間もなく、車は下筌《しもうけ》ダムに至った。日田市から約二〇キロの距離である。湖底から九八メートルの高さで聳える堰堤を渡れば熊本県となる。渡って直ぐ、津江川沿いに道をややあと戻る最初の隧道が天鶴隧道《てんつるずいどう》。それを抜けると直ぐ左手に降りてゆく狭い道がある。かつての志屋部落に降りる道だ。
熊本県阿蘇郡|小国《おぐに》町大字黒淵字志屋は、戸数二十一戸の小さな山峡の部落であった。
部落を通り抜けるかつての川沿いの道にまで降りて来ると、その辺《あた》り一面を覆って丈高《たけたか》い雑草が立ち枯れている。人が見捨てたあとの部落跡に、ダム放水時の夏の間ほしいままに茂った雑草がやがて湖底に沈んでしろじろと立ち枯れたのであろう。
「ああ、まだ石段だけはそんままですたい」
道から五段の石段を踏んで、ヨシさんはかつての屋敷跡に佇《た》った。さすがに水に強いアヤメが玄関脇のあたりに緑の鋭い葉を立てて紫の花をかかげているのが、この枯れ枯れの廃墟にただ一点鮮烈な彩を添えている。この人からこの場で往時の憶い出を聴きたいばかりに連れだって来て、しかし今ひっそりと一人の思いに沈んでいる人に、私は言葉を促すことがためらわれた。
志屋は、津江川を前にした山裾の部落で、緩い傾斜に段々に家々が重なり、その前を白っぽい県道が通り抜けていた。その道を挟んで津江川へと落ちる斜面にも、僅かながらの家と多くの段々畑と竹藪や杉木立があった。
屋敷跡から見降ろすと、道の向こうの段々畑が津江川へ落ちる崖縁に、黒々と異様に拗《ねじ》くれて立つ五本の枯木があった。その木の名を問うた時、ヨシさんの声がやっと少し弾《はず》んだ。
「ああ、あれはうちん畑の柚子《ゆず》の木ですたい。志屋には柚子ん木がえらいあってですね、皆して搾りよったつです。ほんなこつ、ここはなんでん出来るよかところじゃあったですたい。あん下ん崖ん斜面じゃ、わたしがこんにゃくを作りよったですたい。こんにゃくは坂へらん所ん方が、どういうもんか向いちょるとですもんね。だいぶんがつ売れよりましたよ」
ぽきぽきと枯茎を折り分け踏みしだいてその崖鼻まで来た時、ヨシさんはあっと驚きの声を洩らした。
「こげな急な崖じゃなかったですたい。ばってん、ダムん水に土を抉り取られたつでしょうか」
見降ろせば、崖の土は削《そ》げたように崩落し尽して、この急斜面を降りることなど出来そうもない。
今、眼下の涸れた湖底にやっとかつての津江川の流れは蘇り、あるところ激しく白《しろ》水沫《みなわ》を立てて瀬の岩を噛み、あるところ碧潭《へきたん》の色を濃く深めている。一年のうち短い夏だけしか湖底に蘇らぬ渓流であってみれば、もう河鹿《かじか》の鳴くこともないのであろうか。
「あの道にかぶさるごつして、一本出っぱった杉ん木があるとでしょうが、あん下んへんが穴井貞義さん方のあった所で、あそこで部落はおしまいですたい」
ヨシさんの指呼する方に振り向けば、志屋部落の背の杉山は蒼黒い程の厚い緑に鎮もり、今更のように鶯の声に気付く。
あそこでおしまいとヨシさんはいったが、むしろ志屋部落はそこから始まるといい直した方がいい。部落で唯一軒のよろず屋を営み、その店の前がバス停でもあった穴井貞義方が志屋部落の入口で、部落の終りはダム堰堤寄りの方の高台にあった志屋小学校であろう。その小学校の下を過ぎて一キロ程行けば、やがて道は大きな崖に遮られて行き詰まり、そこから蜂の巣橋で津江川を斜めに越えて大分県中津江村に移るのだった。そのあたり、今はもう聳え立つダム堰堤に塗りこめられて面影もない。
今、ヨシさんに導かれて私はかつて学校のあった高台の下を過ぎ、蜂の巣橋の方へ行く県道から折れて、背後の山から津江川へ注ぎ落ちる渓流天鶴川に沿う部落はずれの道を山の方へと登って行く。この道の途中に、故・室原知幸氏の墓所がある。
茶の木の垣で囲われた広い敷地は、墓所というよりは園と呼ぶにふさわしく、ツツジの花に彩られている。
徳昌院釈量寿居士・室原知幸の墓誌は朱をもて刻字されている。
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国家 松原|下筌《しもうけ》ダム建設に対し 室原知幸が十三年の永きにわたり 公権と私権の闘争を続け 終始一貫して公共事業のあり方 民主国家に於ける人権尊重を力説し ダム建設史上に大きな波紋を残して昭和四十五年六月二十九日死亡……
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「おれんしたこつが、曲がらんなり歴史に残っていくとじゃろうかち、主人はのうなる頃、ようと呟きよりましたもんね」
ヨシさんが問わず語りに洩らしたその言葉が私の胸に次第に拡がっていた。あの勁《つよ》過ぎるともみえた老人も、その晩年にはつい心弱い呟きをかたえの妻に洩らすことがあったのかと思うと、懐しさが込み上げた。
私がこの老人のことを思い始めたのは、いつの頃からであったろう。確かなことは、私自身が力を尽して来たわが町(大分県中津市)の火力発電所建設反対運動が孤立していくにつれて、私の思いは急速にこの老人へと傾いて来たということであった。その思いが極まったのは、前年一九七四年の夏であった。
その夏の初め、電力会社は私達が提訴中の建設差止請求訴訟を無視して、発電所建設の為の海岸埋立てを強行着工したのだった。それは喪いたくない海岸であった。其処で私達は海水浴を愉しみ、貝を掘って来たのだった。私達は海に陸に懸命な阻止行動を展開したが、忽ち海上保安庁の巡視艇に制圧され、陸では機動隊に制されて封じられてしまった。その阻止行動の中で、五人の同志が威力業務妨害等の罪に問われて逮捕され、獄中に拘禁されていった。
そのひと夏、私は毎日のように明神《みようじん》海岸に抗議の坐りこみに通った。目前の海では、十数隻のクレーン船が傍若無人に捨石の山を築いていた。醜怪な鉄爪を振りまわすそれらの巨艦に対し、叫びさえ届かぬ徒手空拳のこのむなしい坐りこみが、なんの意義を持つのかという苦渋に満ちた自問を振り切って、いや無意味でもいい、一個の反対意志の尊厳をその海岸に屹立させ続けるのだという意地だけに私は必死に執していた。
灼けつくような海岸で、眼前の凶暴なクレーン船の群れに憎しみの視線を箭《や》のように刺しつつ、私はこの小柄な老人の勁さをしきりに思い続けていた。晩年にはおおかた歯も抜け落ちて、歩く足のふとよろめくこともあったという。そんなはかない肉体の内に意志力だけは烈々と膨満して、ただ一人で国家と拮抗《きつこう》してついに屈することなかった老人。はかない肉体を超えて聳え立つ一個の強靭な意志力を、私はほとんど奇蹟を仰ぐように思い続けていた。
ともすれば頽《くずお》れそうな坐りこみの意志を、私はこの老人の凄まじい勁さを思うことで持続させようとしていた。勁さがほしかった。これからますます厳しく追いこまれていくにちがいない己が運動を支えるだけの勁さが、なんとしてもほしかった。その勁さの秘密を、この老人から学び取れはしないか。それにしても、この老人はついに弱音《よわね》というものを洩らすことはなかったのだろうか。私はそのことにこだわってもいた。もしそうであるなら、懦弱《だじやく》な私には矢張り学ぶに遠過ぎる人だというたじろぎがあった。
今、ヨシさんの口から洩れた言葉に、私は室原知幸の吐息のような肉声を聴いていた。この勁過ぎるとみえた老人も、矢張り内に人間らしい弱さを秘めていたのだという安堵にも似た懐しさが込み上げていた。私は黙ったまま、ヨシさんの背後から墓に手を合わせていた。
「過ぎて振り返れば、なにもかも運命じゃったちゅう、不思議な気がするもんですねえ。あの昭和二十八年の大雨さえ降らんじゃったらち、今でんがふっと思ったりするとですよ」
墓の周りの草を抜きながら、ヨシさんが呟いた。
二 運命の豪雨
一九五三年六月二十五日の夜が明けて、志屋部落の者達は底ごもる異様な音に耳を澄ませていた。それは最初、背後の山の杉木立を吹き抜ける風の音のようであったし、遠い空に鳴る雷の音のようでもあった。しかし、戸外に出てみると風は無く、雲が厚く垂れこめて昏《くら》い山々の空にも、稲妻は奔っていなかった。
「山鳴りたい。えらい山鳴りたい。どん山が鳴りよるとじゃろ……」
室原知幸は庭から妻のヨシに声をかけた。津江川の瀬音を圧して、ごおっごおっと伝わる響きは、背後の山から来るのか、対岸の山からなのか、それとも上流の山々からであるのか、耳を澄ませてもわからなかった。この小さな部落は川を前にして山々に囲繞されている。どの山からともしれぬ不気味な音は、間歇《かんけつ》的に山裾の小さな部落を揺すり続けた。
――ばさろう山鳴りんする日は、山に入らんこったい。なんかおおごつがでくるとばい。
そういう故老からのいい伝えは、この部落の者達の記憶に生きていた。その朝、男達は山に秣切《まぐさき》りに入ることを控えた。
雨が降り始めたのは、午前九時であった。降り始めると同時に、それはただならぬ豪雨であることが分った。忽ち対岸の杉山が紗を掛けたように灰色にけぶり、その奥の山はかき消されていった。山鳴りはいつしか熄《や》んでいた。
間もなくどの家も軒の樋を打ち落とされ、篠突く雨は屋根からじかに瀑布のように降りそそいだ。それは志屋部落の年寄達も体験したこともないほどの集中豪雨であった。
この朝、停滞した梅雨前線は、既に暁闇から筑後川下流に豪雨を降らせつつ、その中心雨域は次第に上流へと移って来て、この阿蘇外輪山一帯にどっかりと腰を据えたのだ。
遠くない酒呑童子山《しゆてんどうじやま》に源流を発する津江川は、増水が疾い。昼頃には、早くも岩にぶち当たる奔流が丈高いしぶきを騰げて、道の低いあたりを浸し始めていた。上流にある鯛生《たいお》金山の野積みのズリをも洗い流すのか、その奔流はどこか乳白色を帯びている。時折り、どどっどどっと裏山が轟くのは、根方を水に穿たれて倒れる立木が出始めているのであろう。
豪雨は歇《や》むことを忘れたようであった。日頃は細い渓流をなして背後の山から津江川に落ちる天鶴川も、今や全山を洗う雨を集めて瀑布のようになだれ落ち、ほとりの水車小屋を捲きこんで流した。
福岡県知事杉本勝次が久留米市から緊急電話で起こされたのは、翌朝午前六時である。
「宮の陣の堤防が危ない。保安隊の緊急出動を要請してほしい」
久留米は杉本の郷里であり、実兄が市長をつとめている。彼は対策をととのえると、ゴム長を履いて現地へ向かった。既に道の到る所が出水で遮られていて、遙かに佐賀県の方から迂廻しつつ久留米へ辿り着いた。
筑後川の堤防に立った時、杉本は「あっ――」と声を呑んであとずさった。九州第一の大河筑紫次郎の怒り切った姿が、そこにあった。
川は、これほどに形相を変えるものか。今にも躍り越えんばかりの茶色の濁流がごうごうと唸りを立てて、何物をも流し尽さずにはおかぬ猛々しさで奔っている。日田・小国の貯木場からであろう、太い杉丸太が次々と矢のように流されて行く。これが橋や鉄橋を打ち砕くのだと気付いた時、杉本は恐怖に貫かれた。刈り取られたばかりの麦の束も、数限りなく軽々と奔って行く。六月初めに大きな被害を出したジュディ台風からかろうじて生き残った麦が、こうして流されてしまうのか。
もともと、筑後川上流をなす杖立川、玖珠川、津江川はいずれも源流を阿蘇外輪山とその原野に発していて、保水力乏しい火山灰地質は鉄砲水を生み易い。どの川も怒張し切って筑後川に躍りこんできているのだ。
堤防で土嚢積みに励んでいた保安隊と消防隊にどよめきが起こり、一斉に作業の手を休めて棒立ちになった。家が流れて来る! 瓦屋根が斜に沈んで、それでも二階の窓が見え隠れしながら、ゆっくりと家が流れて来た。屋根の上に人は居なかった。
杉本が久留米市役所に入った午後四時頃、雨はようやく小降りとなり、多分これで危険を越えるだろうと安堵を抱かせた。多くの市民も愁眉をひらき、避難先から帰って来て夕食の用意にとりかかっていた。それが天のもうけた陥穽《かんせい》であったろうか。久留米市合川町枝光の堤防約二〇〇米が一瞬のうちに決壊したのは午後五時であった。躍り出た濁流は渦をなして市内へ流れこみ、久留米全市を泥の海に浸していった。
瞬時に死者が出た。濁流に捲きこまれ流木にすがった者も、力尽きて水の中に消えていった。倒壊した家の下で、押し寄せた泥に深く埋まってしまった一家もいた。久留米刑務所からは刑囚が集団で脱走した。杉本知事も、濁流に浸された久留米市役所に二日間孤立する。
被害は久留米市を中心として筑後・佐賀両平野にわたり、堤防決壊二十六カ所、田畑冠水六万七千町歩、死者百四十七名、流失家屋四千四百戸という惨状で、損害総額は四百五十億円に達した。
雨が降りやんだのは二十九日午前九時で、丸四日間の総雨量は各地で七百ミリから千ミリに達していた。のちに「二八災」と名付けられて、この豪雨禍は筑後川災害史に悲痛な記録を刻むことになった。
六年後、杉本勝次は室原知幸と対決することになる。しかしこの時、両者はまだ互いの存在すら知ってはいなかった。ましてこの豪雨が、「志屋部落滅亡史」の幕を切って落とした運命の雨だったとは、部落の誰も知ろう筈はなかった。
下筌《しもうけ》・松原ダム紛争史の浩瀚《こうかん》な記録として『公共事業と基本的人権』(下筌・松原ダム問題研究会編、ぎょうせい刊)がある。この書物が起業者側(建設省)の視点で貫かれていることさえ忘念せずに読み通せば、その記録は精緻をきわめている。同書巻末年表によれば、一九五四年八月一日、〈九州地方建設局日田調査出張所が設けられ予備調査はじまる〉というのが、両ダムに関する九州地方建設局(略称、九地建)の最初の公式行動であったことが分る。
しかしこれには前史がある。既に一九五二年から大山川の久世畑《くぜばた》でのダム構想が治水のために進められていたのである。二八災によって筑後川上流に治水ダムの設定がいよいよ緊急事となり、その測量は加速された。
大洪水禍の翌春(一九五四年)、大山村はダム反対村民大会を開き、代表を選んで中央省庁に反対陳情をおこなった。もしこのダムが実現すれば、大山村の中心部六百戸が水没することになり、それは全村の潰滅を意味していた。
志屋部落の者達は、日田市への往き来に通る大山村でダム反対の横断幕をもの珍しげに仰いで過ぎた。熊本県辺境の志屋部落では、町役場のある宮原《みやのはる》に行くよりは、むしろ大分県日田市に出る方が便利なのであった。
志屋の者達が、ダムは久世畑に造られると信じこんだ頃、実際には久世畑構想は消えていたのである。のちに九地建は、久世畑を放棄したのは反対運動への顧慮ではなく、調査の結果地質の不適が判ったためと説明する。川床に大きな断層破砕帯がある上に、左岸側の山腹が厚い赤色泥灰岩でおおわれていて、そっくりずり落ちる危険が判ったという。
久世畑を放棄した九地建は遅れを取り戻すため直ちに上流松原地点を選定したが、松原ダムの容量ではそれひとつで治水効果をあげるには足りないので、いまひとつのダムを上流に設定する必要に迫られた。そこで選ばれたのが津江川上流の下筌であった。一九五五年末には、既に松原・下筌のふたつのダムの組み合わせ構想は九地建内部で固まっていた。
翌一九五六年一月、下筌地点両岸の横断調査がおこなわれた。そこは志屋部落から一キロ上流地点で、両岸の山腹が大きく迫《せ》り出て谷幅を狭《せば》めている。この調査の時、九地建と室原知幸の間に最初のトラブルが発生している。測量員が知幸所有の山林に立入り、勝手に測量支障木を伐除したことに知幸が激しく抗議したのである。室原知幸がいかに立木一樹一樹を大事にしていたかについて、たとえば実妹|川良《かわら》トシの回想がある。
「わたしが杉の枝を一本でん切ってくるとでしょうが。さあ一体、どん山んどっちぃ向いた枝じゃったかちゅうちですね、たった一本の枝んこつやかましゅうして、わたしゃもうしゃあしいき、ついいいかげんな答をしちょくですたい。そうすっと自分で調べに行って来て、わりゃあすらごついうなちゅうておごらるるとですよ。もう、枝一本切られやせんですたい」
そんな知幸であれば、よしんば雑木一本だったにしろ無断伐除を見逃すはずはない。結局この時のトラブルは四時間余の話し合いで、九地建が五千余円の補償金を払うことで落着したが、九地建職員の横暴はこの時から強く知幸に印象づけられたようであった。
このあと、その年八月十日から十月末まで、室原知幸所有の山林に立入って、いよいよ下筌の本格的な地形測量がおこなわれた。右岸ダムサイトになる地点である。前回のトラブルで懲りた九地建は、今度は事前に知幸の諒解を得ていたことを、のちの参議院建設委員会で九州地方建設局長|上《うえ》ノ土実《つちまこと》が証言している。それに対して、知幸は憤然と反論しているのだが……。
「その当時は、ダムのダの字も申しませんでした。私はそれこそ河川の調査と、こう理解しておりました。重ねて申し上げます。ダムのダの字も申したわけではありません。私は筑後川上流の河川の何か改修関係の護岸か何かのことだろうと推察して、雑木の伐採を許したわけなんです」
この三カ月にもわたる調査は、呑気な志屋部落の者達にもさすがに不安な波紋を拡げていった。ダムではないかという臆測は公然と囁かれ始めた。それだけではない。憤慨を誘ったのは、この三カ月の地形測量で測量員は収穫前の田畑を無造作に踏み荒らしたのであった。それもこれも、もとはといえば室原さんが勝手に測量を許したからだという非難の声が耳に届いた時、知幸の心中は穏やかでなかった。これまで、志屋部落でこの誇り高い老人を非難するような者は誰一人いなかったのに。この心外な非難を払拭する機会を、知幸はひそかに待った。
一九五七年八月に入って、九地建は室原知幸の山林での地質調査のための試錐《しすい》許可を求めて来た。一度断わり、再度懇請して来た時、彼は厳しく答えた。
「ボーリングより前に、ひとつはっきりさせてもらいたい。先頃からの測量や調査は一体何の為なのか。既に部落にいろんな臆測が飛んでいるので、この際部落全体に納得のいく説明会を開いたらどうか」
九地建は、これを呑まざるをえなかった。
八月十四日はこの里の盂蘭盆《うらぼん》で、ヨシは実家のある宮原まで墓参に出かけていた。どの家も里の墓参りで女達の留守が多かった。
この日、九州地方建設局による重要な説明会が開かれると通知されて、志屋とその周辺部落の男達五十名は、部落のはずれの高台にある小学校へと、幅の狭い石段を登って行った。背後の杉山の蝉しぐれに混じって、時折り郭公の声が透る暑い昼さがりである。
集まって行く一人一人におぼろげな不安があった。ダムの話だと知らぬ者もいたし、それと知っていても、さてそれが自分達の生活をどう変えることになるのかまでは、誰もがはかりかねていた。
男達は雨天体操場の床にじかに坐った。既に正面には椅子に腰かけた九地建職員が待っていて、何の資料配布もないまま説明会は午後二時に始まった。中央の男が立上り、建設省日田工事事務所の佐多所長だと名乗った。
「皆さんも、あの昭和二十八年六月の大洪水のことはお忘れでないと思います――」
佐多所長の話は、そのことから始められた。それは志屋の男達にとっても、まだ記憶にあたらしいことであった。あの時、志屋はさしたる被害を受けたわけではないが、それでも道路が決壊し、水車小屋と原山広作の家が流されたことをあらためて憶い出していた。佐多所長は、筑後・佐賀両平野での二八災惨状を強調した上で、このような惨禍を二度と起こさぬ為にはどうしても上流に流量調節のダムが必要なことを力説していった。その地点として大山川の松原と津江川の下筌が選定されたのだといい切った時、会場にはおおっという押し殺した声が一瞬|興《おこ》った。
やっぱりダムであったか。察していた者にとっても、このように確然と宣告されてみると、矢張り衝撃なのであった。しかもそれは二重の衝撃であった。これまで部落の直ぐ上流、下筌地点でのダムしか考えていなかった彼等は、今思いがけず下流大山川の松原にもダムの造られることを知らされたのだ。どうやら部落は両ダムに挟撃されるらしいと気付いた時、男達の不安はつのった。ひょっとしたら部落は沈むのではないか……。
所長に続いては工務課長が「筑後川治水基本計画」なるものを、数字をあげて説明し始めた。それによれば、二八災を百年に一度起きるか起きないかの大洪水と想定して、この時の日田市長谷地点での筑後川流量を毎秒八五〇〇立方米と推定、このうち二五〇〇立方米を上流ダム群により調節し、下流河道部の計画流量を六〇〇〇立方米とする計画なのだという。
男達は苛立ちながら細かな数字の羅列を聞いていた。知りたいのは、筑後川の改修計画などではなかった。流量計算などではなかった。何よりも早く知りたいのは、その両ダムによって部落がどう変貌するのかという一事であった。
「こん学校も沈むとでしょうか」
怺えかねたように工務課長の説明を遮って肝腎な質問が発しられた時、男達はしんと静まってその答を待った。
「そうですね、ダム湛水時の水位はこの校庭から十米はあがるはずです」
こともなげな短い答が五十人の男達の耳朶を霹靂《へきれき》のように打った。|たんすいじのすいい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という言葉は正確には分らぬながら、この学校すらが水没するということだけは、紛れもなく伝わった。それは信じられないような答であった。この部落の高台にある小学校の、その校庭よりも尚十米も水があがるとすれば、志屋部落はすっぽりと、全くすっぽりと呑み尽されてしまうということではないか。津江川沿いの段々畑で田を作りこんにゃくを作るどころではない。部落の全員がこの地を捨て去らねばならぬではないか。父祖の地を捨てて、一体どこへ移って行けというのか、移った先でどんな生活が始まるというのか……。
驚きと不安の私語が最初はためらいがちに小声で始まり、瞬く間にそれは声を荒らげていった。それはまず、前年秋の調査時の測量員の横柄な態度に対する非難として噴き出していった。稲穂を踏み荒らされた、畦道の小豆を倒された、松の苗木を傷《いた》められたと、次々に怒声を集中されて、これには所長も陳謝せざるをえなかった。
ひとしきり続いた喧騒を制して、北里栄雄《きたざとさかお》が部落を代表するようにダム建設反対の意見を表明した。志屋出身で熊本市在住の県会議員である彼は、球磨川市房《くまがわいちぶさ》ダムで所有林の一部が水没し、補償交渉の駆引きには体験があった。説明会は夕方六時迄続いたが、九地建の説得は「こんなふうに一人一人の皆さんの声を個別に聞く時間はないし、これではまとまる話もまとまらなくなるので、是非代表を選んで対策委員会をつくってくれ」ということに尽きていた。説明会は散会した。
家族にどのように話せばいいのか。帰って行く一人一人が思いに沈んで寡黙であった。まだ明るい夕べの杉山からは蜩《ひぐらし》の声が波のうねりのように高まったり消えこんだりしながら聞こえていた。
知彦は家に帰る前に、朝のうちに沈めた張り網を見に津江川へと降りて行った。ふと振り返ると、兄の知幸が崖縁に佇っていた。そうだ、あの理屈屋の兄がなぜ今日に限って一言も意見を吐かなかったのだろうと、知彦は急に不審を感じた。そのことを下から問いかけようとして、知彦は思わず声を呑んだ。夕日を受けた知幸の表情はひどく厳しかった。
九月に入って、九地建は説明会で非難の声の続出した前年測量時の無礼を詫びるために職員達が二級酒五本を携えて志屋部落にやって来た。酒は部落長穴井貞義方に預けて、各戸を戸別に陳謝してまわり、最後に室原邸を訪れた。知幸は、今日は疲れているので休ませてくれ、いずれにしても各戸を訪問して詫びたのは結構であったといって奥に引っこんだ。先の説明会での知幸の沈黙を暗黙の諒解と受けとめていた九地建は、これでいよいよダムサイト右岸のボーリングを許されるだろうと安堵して帰って行った。
それだけに、九月の終る頃室原邸の門柱に貼り出された一枚の木札を知った九地建の驚きは深かった。その木札には〈建設省及びその関係者面会謝絶〉と墨書されていた。
なぜ室原知幸がこのような木札を突然掲げたのか、その真意をはかりかねる九地建の驚きと困惑は深かったが、しかしその木札がこれから十三年間という永く凄まじい国家への抵抗宣言になるのだとは、その時まだ誰一人思い及ばぬことであった。その木札は、さりげなく小さかった。
木札は数日の内に志屋部落全戸の玄関に貼られていった。隣りの浅瀬《あさぜ》部落、更に下流の芋生野《いもの》部落にも貼られていった。津江川を越えた対岸大分県中津江村|蕨野《わらびの》部落にも貼られていった。この四部落は、室原家や北里家など志屋部落の山林地主を中心として、山仕事や山の産物で、互いの生活が密に結ばれている。
この時以後、九地建は四部落七十世帯の者達との接触をほとんど絶たれることになった。部落の誰に声をかけても、「ダムんこつなら大学さんに聞いてくれ」「大学さんに睨まれたら村八分にされる」という返事で顔をそむけられた。九地建は漸く、異常事態に直面したことを知った。
大学さん、と呼ばれるのが室原知幸だと知った時、九地建の職員の中には「まるで似合わぬ――」と、その呼称の不釣合を思わず嗤《わら》う者があった。いつも丸刈り頭で袖無しを着こみ、村夫子然《そんぷうしぜん》とした小柄な老人と、大学さんの呼称が容易に結びつかぬのであった。
この秋、室原知幸満五十九歳。この小柄な老人の凄まじい個性に、まだ九地建は気付くはずもなかった。
三 大正デモクラシー
その奇妙な呼称が示す通り、室原知幸はこの山峡の里で珍しい大学出身者である。大分県の竹田中学から早稲田大学政治科に入学したのは、大正八年であった。雑誌『改造』の創刊された年である。河上肇、堺利彦、長谷川如是閑らもそれぞれが主宰する雑誌に拠って、漸く興ろうとする新しい時代の息吹きを一段と昂揚させていた。首都のデモクラシー運動は、普通選挙要求を中心としてただならぬ熱気を孕んでいた。
入学した早稲田大学そのものが、デモや集会の有力の震源地なのであった。殊に政治科は在野反骨の行動精神が燃え熾《さか》る坩堝《るつぼ》であったといえよう。大講堂での課外講義と称する講演では、永井柳太郎、吉野作造、中野正剛らが迎えられ、御大大隈重信も加えてその熱弁が青年達を煽っていた。その時期、言葉は力を帯びていた。学生達は普通選挙を要求して首都の街路に押し出して行き、到る所で街頭演説を繰り拡げた。そのような時代の奔濤に捲きこまれて、青年知幸も又デモの渦中にあった。
だが彼は行動家には遠かった。というよりは、政治科に身を置く学友達の中で際立って異質であった。時代の風雲に煽られて天下の大局を論じ慷慨《こうがい》尽きせぬ早稲田政治科の学生達は、細部に拘泥せぬ磊落《らいらく》な気宇を誇示する気風が色濃く、その中に在ってどういうわけかいつも懐に小六法をつっこみ民法までそらんじて異常に佶屈《きつくつ》な理屈に固執している知幸が奇異に見えてならなかった。
「なんだ、重箱の隅をほじくるような奴だ」
彼の異常なまでの理屈|癖《へき》に辟易して、学友達は知幸を疎んじた。彼等にとって、知幸は理解し難い男であった。当時せいぜい月五十円の送金で生活する彼等にとって、百円も百五十円も送金して来る知幸の親元が一体いかなる身分であるのか興味をそそったが、そのことも知幸は語ろうとしなかった。なぜ彼がそれを伏せたのかを推してみる時、この時期青年知幸を最も動揺させたものがなんであったかが見えてくる。折りしも顕在化し始めた農村問題がそれである。
知幸在学のその時期、農村は漸く動き始めていた。工業生産の拡大に伴い農村労働力が都会の工場労働に吸引されていくに連れて、いまさらに賃労働に較べて小作労働の報酬の低さが農民自身に自覚され始めていた。既に激しく昂揚している都会での労働争議が、このような目覚めた農民を刺戟せぬはずはなかった。一九二一(大正十)年は小作争議が激発する年となる。早稲田大学においても、北沢新次郎教授指導のもとに早大建設者同盟に拠る浅沼稲次郎らが、この時期農村へと身を投じていっている。
山林地主であると同時に、小作人を擁する田畑地主として山峡の閉鎖社会に君臨する室原家の長子の青春の心情は、この激動の中でどのように揺れ動いたであろう。学友達に倍する送金の贅を許したのは、紛れもなく大地主としての室原家の立場であったはずである。
後年、知幸が洩らしているように、河上肇の『貧乏物語』に感動し、田中正造の捨身《しやしん》の行動に激しく魅かれたという若い日の思想・心情と、しかし還ってゆかねばならぬ山峡の閉鎖社会での階級的立場との相克は決して浅いものではなかったろう。同じような苦悩をもっと鋭い形で背負った有島武郎が北海道の農場を全小作人に無償で解放したのは一九二二(大正十一)年八月であった。それは、青年知幸の揺れ動く心に厳しい問いを突きつけたはずである。
大学卒業後も、肺結核の療養と称して知幸は東京周辺にとどまる。だが彼は本当にそれを病んでいたのであろうか。もし本当にその病いに苦しんでいたのなら、大震災直後の混乱した都会にとどまる方が不自然ではなかったかという疑問が湧く。むしろそれは、実母リノが五年前に結核で亡くなっていることから思いついての口実であったのではないか。都会にとどまる為の口実である。そのような口実をもうけてまで帰郷を避けねばならぬほどに、彼の懊悩と逡巡は深刻であったのではないか。山峡の閉鎖社会での支配者的地位に還ってゆくべきか、一個の自由人として都会で何かをなすべきか、その相克は容易に結着をつけえぬことであったろう。知幸は大学卒業後五年間を無為に過ごしている。その間、父に大枚の金を送らせてヨットを需《もと》め茅ヶ崎の海岸を乗りまわしたりしたということから推して、五年間の彼の心の振幅は甚しいものがあったと思われる。
そして、彼は還って来る。呼び戻したのは、矢張り杉山に籠もる祖霊であったろうか。杉山には、それを守り育てて来た幾代もの祖先の霊が籠もるのだという。杉が成木となるには三十年から五十年の歳月を要する。そのような悠久の周期を介して杉山が祖父から父へ、父から子へと伝えられていくとき、杉山に働く者はおのずから杉の古木に祖霊の籠もるを見るようになるという。
知幸の帰郷は満二十八歳であった。家では父|新《あらた》が若い後妻ウメを得て健在であったし、ふたつ違いの弟知彦が既に妻帯して山仕事に励んでおり、知幸のすることはなかった。社会主義運動、労働争議、普通選挙運動に激動する首都から戻ってみると、ここは矢張り時代に取り残されて眠りに沈んだ谿間の里なのであった。
「おれは政治をやってみたい――」
帰郷して間もない日、知幸は珍しく自分の方から新に口をきいた。もともと、この父子は|そり《ヽヽ》が合わなかった。いつも土足袋《どたび》で山行きを愉しみとする働き者の世間人である新には、狷介《けんかい》で異常なまでの理屈癖を持つ知幸が、わが子ながら苦手であった。加えて、ウメとの再婚に激しく反対されて以来のこだわりが尾を曳いていた。
「政治をやるというてもお前……」
新は気弱に言葉を濁した。新はまだ己が町議の席を知幸に譲る意志はなかった。都会から持ち帰った知幸の理想が、この山国の議会で通ずるとは思えなかった。
知幸はむっつりして読書に没入していった。村人達が彼を大学さんと呼び始めたのはこの頃からである。この辺境の里では知幸以外に大学出が無く、だから大学さんと呼べば彼のことであった。いつも家に籠もって読書にふけっている彼の孤高な姿勢が尚一層その呼称を定着させていった。と同時に、座敷大学さん、座敷ぼんとも陰で呼ばれていることと思い合わせれば、部落の皆に背を向けて何やら難しい本に没入している金持のぼっちゃんの結構な生活に対する、苦々として働かねばならぬ村人達の軽い揶揶もこめられていただろう。取寄せた資料を参照して、この村では珍しい落花生とか綿とかレタスの栽培をこころみる彼の|あたらしがり《ヽヽヽヽヽヽ》を、しかしどう見ても百姓には不向きだと村人達は陰で笑った。
中津江村の川良《かわら》家に嫁いでいる長女トシのところに、新が困じ果てた表情でやって来たのは三年後のことである。知幸が邸に寄宿している女先生吉田ヨシと結婚したいといいだしたのだという。豪家である室原家の長子の嫁は家格から選ばねばならず、新はそれにふさわしい候補を縁戚の中から定めて公然と話を進めていたのに、まるで足元を掬うように知幸が思いがけないことをいい始めて、一歩もひこうとせぬのである。吉田ヨシが小間物屋の娘であることに、新は立腹していた。
「そらぁおとうさん、あなたが悪いたい。若い男と女をひとつ屋根ん下に置けば、いつかそうなるこたぁわかっちょったろうもん」
トシにそういわれると、新には返す言葉が無かった。志屋小学校に赴任して来た若い女先生がたった一人で高台の学校宿舎に住むのを見かねて、邸に来ることを勧めたのは育友会世話人の新自身であった。その点を突いて、トシは巧妙に父をなだめていった。兄がいったんこうといいだせば、もう誰一人それを翻意させえぬ烈しい気性であることは、幼い頃から知悉していた。
一九三一年五月二十五日、室原家長子の結婚式は志屋部落全戸と親族を邸に招んで旧家らしい格式でおこなわれた。二十三歳の花嫁の表情は晴れやかではなかった。
結婚後も座敷大学さんの生活はほとんど変わらなかった。子供だけが毎年のように生まれていった。知幸がやっと自立するのは、一九三七年である。この年、新は温泉郷として知られる杖立に隠居し、弟知彦は道を挟んで斜め前の川辺に新宅を構えて分家する。名実共に室原本家の当主となった知幸は、小国町議に当選する。既に三十七歳である。町議二期目の選挙は翼賛選挙であったが、推薦に洩れた知幸は、「よーし、おれがこげなん悪法はちち破っちゃる」と憤激して出馬し、激しい警察の干渉を排して当選している。由来、政争の激しい熊本県ではこの辺境の山峡の里すら例外ではなく、室原家と北里家というふたつの豪家が選挙のたびにこの狭い里を二分して争うのであるが、この角逐は後年北里家の勝利に帰してゆくことになる。
知幸は政治家には不向きであった。一九三七年から四八年まで三期をつとめた町議会生活の中で、彼は孤立を極めていた。その徹底して佶屈な自説固執の癖が、妥協を旨とする政界と相容《あいい》れず、周囲から敬遠され疎まれたのである。実際、彼の非妥協はしばしば議会を頓挫せしめた。辟易した町議会は巧みに画策して、態よく彼を小国町公安委員長に送りこむことで議会を去らしめている。「知幸はうまくかつがれたのう」と、父新は笑ったが、知幸はこの公職においてもいよいよ徹底した潔癖ぶりを発揮して、身内親族の者の些細なヤミ米買入れにまで眼を光らせて皆を窮屈がらせている。一体、室原知幸という強烈な個性の一特徴は、何事にかけてもの異常なまでの徹底ぶりにあったといえよう。
一九五一年、知幸は心臓動脈瘤の診断に驚き、その公職を捨ててあっさりと又座敷大学さんの生活に還ってゆく。五十二歳の彼に、まだ隠居は早過ぎたが。
彼のおかしさは、その徹底的な潔癖ぶりがどうやらもはや生理的なものとすらなっていることであった。ヨシの作った料理でなければ汚ながって箸をつけようとしなかったし、それがナマ物だというだけの理由で、子供達に柿を食べることを禁じた。日に幾度も手を洗い、外出から帰った時は庭先で頭から爪先まで三十分も洗いあげて、やっと汚れが落ちたと安堵して家に入るのだった。それだけに、健康に関しては臆病過ぎるほどに細心であった。遠い日田市までくだらねば医者のいないこの僻地で、彼は整備された薬品戸棚と聴診器を持ち医学書にも読みふけっていた。心臓動脈瘤に驚き、あっさりと隠退したのは彼にしてみれば当然であったろう。
ヨシが初めて夫と旅に出たのは、この頃のことである。遠い旅ではなかった。別府菊人形見物二泊の旅である。ヨシにとって、この小さな旅が知幸との生涯唯一度の想い出となる。のち、闘争の渦中にあって、その資産五億とも六億とも書き立てられる知幸とヨシの日常は、それ程に質素なのであった。山林地主の資産とは杉や檜の立木であり、それは伐除してこそ換金出来るのであり、伐除を嫌う知幸の生活がつつましいのは当然であった。なぜそんなに杉を伐り惜しむのかと問われて、知幸は笑って答えている。
「おれは杉山を眺めちょるとが一番の愉しみたい。こげえ愉しませちもろうちょるもんの、どげえして切らるるか」
実際には知幸は山に入ることは少なかった。志屋部落背後の山中深くに小竹《おだけ》という十戸の部落があり、ここの穴井|蔀《しとみ》に室原家の山林の差配を任せていた。山行きは少なくても、志屋部落そのものが山の裾にあり、家の庭に立てば視線の遊ぶ所どこも蒼黒いまでに鎮もる杉山である。
彼は杉山に向かっていると、心がしんと静まるのだった。己が気性の異常なまでの烈しさを自覚しているだけに、そのような慰藉を大切にした。整然と並ぶ無数の杉の鉾は、そのひとつひとつの芯のあたりはか黒いまでに沈潜した緑なのに、宙に伸びようとする秀先《ほさき》のあたりはさながら透くような淡い水色にけぶって、それがどんなに杉山を優しくみせていることか。遠い山の杉一樹一樹のけぶるような秀先に視線を遊ばせていると、その幽《かそ》けさの中に彼の烈しい心もしんと収斂されていくようだった。この秀先の尖《とが》りがやがて丸味を帯びてくる時、杉は漸くその伸びを止めるのだ。
四季常緑の杉山も、向き合えば季節毎の彩を持つ。美しく萌え立つのは、矢張り全樹が粒々とその芽を吹きあげる五月である。その時期杉山は萌黄の色を帯びて或る華やぎに蔽われる。杉の香の強く籠もるのもこの頃であろう。だが知幸が殊に好きなのは、皆夏の驟雨に沛然と蔽われてけぶる薄墨色の杉山であった。彼はその雨中に、みしみしと太って行く全山の樹々の勢《きお》いの声を聴く気がするのだった。雨が杉を太らせていく。小国杉・日田杉が飫肥《おび》や吉野と並び称される良木として知られるのも、平均湿度八三%、年間降雨量二二〇〇ミリというこの土地の多雨多湿が杉の成長を早めるからなのだ。
ちょうど志屋部落の邸の斜め前あたり、津江川を越えた対岸の山が室原家の一番の美林で、
「こん山がおりげん庭んよなもんたい。こっちから向こう見て歯を磨くとが、毎朝一番の愉しみばい」
と、知幸はよくヨシに繰り返していった。若い日に愛読した蘆花の『みみずのたはごと』が再び彼の机上に置かれていた。どうやら知幸は、この辺境の谿間で孤高の生涯をひっそりと埋もれさせてゆくと心に決したようであった。毎夕、日課のように門前の道に降りて水を打っている彼に、村人達は丁寧に、頭をさげて過ぎるのだった。大学さんという畏敬はこめつつ、部落の祭りにも顔を出さぬ知幸に対して村人達はいつしか隠棲者への薄い印象しか抱かぬようになっていた。あの運命の豪雨さえなければ、室原知幸の晩年は静かな老いに埋もれてゆくはずであった。
室原知幸がなぜダム反対闘争に立上ったのか、その最初の動機が今も関係者の間で釈然としていない。なぜなら、彼が当初このダムを受け入れようとしていたことが、今では明らかにされているのだ。国会証言ではダムのダの字も知りませんでしたといい切っている知幸が、実は早い段階で集団移転地を探していたことを、従弟にあたる大山村村長矢幡治美は証言している。同じ証言は志屋の穴井隆雄にもある。「黒淵六部がそっくり移住出来るような広い場所がどっかにないもんかのう」という知幸の呟きを、|まだダムのことなど思い及ばなかった時期《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のこととて、隆雄は不思議なことを聞く印象で記憶にとどめていた。大学さんたる知幸が、ダム水没を契機として新しい村づくりの構想に意欲をそそられたろうことは、いかにも察しられる。
その彼が一枚の木札を門柱に貼りつけて大転換を遂《と》げていく陰には、余程な何事かが起きたのではないかと推測されながら、それが何であったかがついに分らぬというのである。
だが、そのことの推測は難しいことではない。志屋小学校での説明会こそが、室原知幸を反対へと転換させてゆく直接のきっかけであったと見るべきであろう。その時知幸は、部落中の男達が口々に憤激してダム反対を叫んだその勢いに驚いた。日頃温順なだけの里の男達が初めて見せた団結した意志表示の激しさが、知幸を衝き動かしたのだ。よし、皆がこれほどに反対であるなら己れが先頭に立とうと決意することは、抜きん出た学才によってこの里の指導者を自負する知幸にとって、当然であったはずだ。
それには事情も絡んでいる。この山峡の閉鎖部落では、いかなる山林地主といえども山仕事をする部落民に離反されては杉山を維持出来ぬという直接な利害関係がある。夏の下草刈り、成木伐除、植林、枝打ちなどにいちいち遠くから人手を傭ってくるわけにはいかぬ。そのことを知幸は考えざるをえなかったろう。更に事情をいえば、説明会の場で北里栄雄が積極的に示した反対発言に知幸が刺戟を受けたことである。志屋部落を二分して確執の蟠《わだかま》る北里家の栄雄が村人皆の反対意志をまとめて一気に部落をリードしてゆくかもしれぬという不安が、対抗意識過敏な知幸を刺戟せぬはずはない。
そんな事情に加えて、彼の凄まじい矜持がある。室原知幸という老人の敏感過ぎる矜持について、この時まだ九地建職員の誰一人として気付かなかった。その鋭ど過ぎる矜持がどんなに傷つき易く、傷つけば心魂を尽してその怒りを激発させていくのだとは、不幸にしてこの時まだ誰も知らぬことであった。実際には、志屋小学校での説明会の記録は残されていないし、人々の記憶も薄れている。しかし志屋の男達が僅かに記憶している隻語《せきご》から推してみても、この時の九地建職員が山峡僻地の里人に対した態度の横柄さは想像がつく。例えば、「建設省は地球のお医者さんです。信頼して委せて下さい」という、まるで小学生を諭すような疎略な比喩。更には一転して、「日本は戦争に負けたんですよ。それを思えばこれくらいの犠牲を忍ぶことがなんですか!」という高飛車な威嚇。そんなひとことひとことが、どれほど室原知幸という矜持の塊のような男の逆鱗に触れていったことであろう。おそらくその日、知幸は床にじかに坐らされて、椅子に掛けた九地建職員から|見降ろされていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という事だけでも、激しい怒りを押さえ続けていたに違いない。「佐多さんが来られて話されましたときに、そのときの状況といいますか、態度と申しますか、それは大変な役人のようだと、こう私は最初感じたのであります」と、国会陳述で知幸は控え目に示唆している。
以上の推測に私は自信を持ちながら、しかし例えば知幸の異母弟室原|亥十二《いとじ》氏が、「兄の反対の理由は世間でいわれているようなことだけじゃありません。もっとどろどろしたものなんです。それはまだまだ語るわけにはいかないのです」と洩らした言葉に、旧家の暗い奥処《おくが》を覗くような不安もおぼえているのだ。
説明会から間もない日、穴井貞義や高野展太ら数人が知幸を訪ねて来た。
「ほかなこつじゃありませんたい。わたしだん今度んダムにゃどうしてんが反対したいとです。室原さんのような山持ちなら、どこに行ってんがいのちき(生活)でくるとでしょうが、わたしだん貧乏人はそげえはいかんですたい。どうしてんこりゃあ反対せなち皆ずりしていいよるとですが、それでんどうすりゃいいか分らんもんじゃき、ひとつ室原さんに指導してもらわれんもんじゃろうかちゅうこつで、わたしどんが代表でお願いにあがったようなわけですばい」
日頃からせっかちなものいいが癖の貞義は、知幸の前で恐縮してますます言葉に躓いた。知幸は腕組みしてじっと聞いていたが、
「君達は反対反対と気安くいうが、本当に覚悟はあるのか」
と厳しく問い返した。
「おれがいったん反対に立てば、絶対に途中でやめん。それについて来るだけの覚悟が君達にあるのか」
「ありますばい。大将ん指示通りに動きますばい。是非指示してやってください」
貞義達が口々にその覚悟を述べると、知幸は「考えておこう」といって、皆を帰した。数日後、知幸はヨシにも行く先を告げずに旅に出ている。各地のダム視察の旅であった。自らの眼で各地のダム水没者の現実を視るまでは、やはり行動には立てないと知幸は考えたのだろう。厳しいまでの徹底癖を持つ彼にとって、それは当然であった。実際に知幸がどのダムを視察したかは、後日それを聴かされた周囲も既に記憶が薄れていて今では判然としない。しかしそれがどこのダムであっても、まだ戦後の混乱から立直ったばかりのダム事業は、その建設に急なあまり水没民への補償は充分でなく多くの悲劇を生んでいた。その実例を知幸は視て来た。漸く知幸の決意が定まる。
よし、俺が立って墳墓の地を水没から救おう。そう覚悟した時、知幸の想念の底から若い日鮮烈な印象を焼きつけられた足尾の義人田中正造の警世の咆哮が時空を超えて蘇ったであろう。谿間の里での不本意な隠棲の歳月にも郷愁のように消えなかったあの大正デモクラシー運動の奔濤の息吹きがなまなましく蘇るような気のして、既に還暦に達する知幸の血もとくとくと騒いだであろう。無為に学才のみを抱いて、座敷大学さんと揶揄されながら辺境に人知れず老い朽ちようとしていた室原知幸に、思いがけぬ機は至ったのだ。今こそ鬱屈した数十年のエネルギーを噴射して挑戦するにふさわしい巨大な標的が眼前に現出している。
ある夜、知彦は兄に呼ばれて行き、仏間に通された。奇妙な顔をして突っ立っていると、
「ここに坐れ」
と、知幸は自分の前を示した。
「室原家ん御先祖が楠氏であるこたぁ、お前も知ってん通りたい。こん地を拓いたんも、おれ達ん御先祖たい」
知幸は唐突にそういった。室原家の祖が楠氏であることの記述は小国郷土誌にある。四条|畷《なわて》の戦いに敗れた楠|正行《まさつら》の一族|正遠《まさとお》は九州に逃れ、いったんは現在の大分県日田郡中津江村|古室原《こもんばる》に居を定めたが、その地の領主に攻められて対岸に移り、その子|正知《まさとも》から室原姓を名乗り始めたという。
「――ばってん、おれ達ん代でこの土地を水没させとうはないたい。実は先日、展太君や貞義君達が、おれに反対運動の指揮をしてくれちゅうて頼みに来たたい。それでん、われんまえじゃきはっきりいうが、おれは百姓ん力は|あて《ヽヽ》にはしちょらんたい。確かにあれ達ん反対意志は今はほんもんたい。ばってん、こん反対運動はなまなかんこっちゃねえぞ。建設省は久世畑をやめち焦っちょる、奴だん何がなんでんこれをやる覚悟ちおれは見ちょる。さ、そうなると国を相手ん激しい戦いになろうたい。百姓は必ず途中から落ちこぼれちゆく。永く厳しい戦いに辛棒がでけんたい。しかし知彦――」
烈しく、その名を呼んだ。
「おれとわれが手を組みゃあ、国家を相手に互角に戦ゆるたい。部落ん皆が落ちてん、おれとわれが残りゃあ戦ゆる。国が法を振りかざすとなら法で受きゆうたい。金でくるとなら金で戦うたい。なんの、山んひとつくらいおれは売ってもいいたい。知彦よい、われも御先祖ん前で誓うてくれ。おれとわれが手を握れば必ずこんダムは潰さるるたい」
兄の表情の輝きに知彦は驚いていた。動脈瘤の診断で隠棲してからこのかた、すっかり弱々しく老いてみえた知幸に、今何かが蘇っているのだと、知彦は眩しかった。
「兄貴、おれもするばい」
知彦は、思わず知幸の手を握っていた。知幸は愉しげに頷きながらいった。
「おれとわれで、日本一の反対をしゆうたい」
四 総蹶起
やっぱり醤油くさい。
元醤油屋の土間を借りているのだから醤油くさいのは当たり前だと苦笑しながら、それでも野島は閉口していた。予備調査段階を終えた九州地方建設局が、日田市にあるこの元醤油屋を借りて「松原・下筌ダム調査事務所」の看板を掲げたのは、一九五八年四月十六日である。所長として赴任した野島虎治は三十三歳の若さであった。
その日、まだ事務所らしい体裁も整わぬ小暗い土間で、野島は十人の所員と共に上ノ土局長から門出の訓辞を聞いた。聞きながら大きく胸は脹らんでいた。阿蘇火山地帯に巨大なコンクリートダムを果たして安全に構築出来るのかという危惧が、建設省内部にもあることを野島は知っていた。必ずやれる、という自負が野島にはある。はえぬきのダム屋としての自負であった。
野島が東京帝国大学土木科を卒業して、建設省の前身である内務省東北土木出張所に入ったのは敗戦間もない一九四七年であった。アメリカのテネシー河総合開発の画期的な全貌が伝えられた時期で、野島は忽ちダム事業の壮大さに魅せられてしまった。自然を制御し自然と共存する人間の叡智をその事業に見たと思った。折りしも、戦時の空白から漸く立上り始めていたわが国の建設行政もテネシー河総合開発の成功に着目し、それを範として利水と治水を兼ねた河川総合開発事業をめざし始めていた。その最初の試みのひとつである雄物《おもの》川上流の鎧畑《よろいばた》ダム工事に野島は携わった。はえぬきのダム屋だという自負はそこから生まれている。
一九五三年の筑後川大洪水の惨禍を知った時、天草出身の彼は自ら希望して九地建筑後川工事事務所(久留米市)に移って来た。九州第一の大河筑紫次郎を自分の手で制御してみせるという野望が湧いていた。ダム屋の乏しかった筑後川工事事務所で、彼を中心として筑後川治水基本計画は策定されていった。それだけに松原・下筌両ダム建設に賭ける野島の熱意と自信は誰よりも強い。
日田工事事務所から予備調査の資料一切を引継ぐ時、野島は佐多所長から「あんたはしあわせもんだよ」といわれて吃驚した。佐多にしてみれば、逸《はや》り過ぎている野島を少しからかったのかもしれなかった。
「なにしろもうほとんど用地問題も片付いている。あとはどんどん建設工事さえ進めればいいんだからね」
そういわれて、かえって野島の危惧は深まった。そんなにうまくいく筈はないと、体験から直覚していた。野島は鎧畑ダムに取組んだ当初、ダム建設をただに壮大な技術問題としてしか捉えていなかった。だが技術者としての野島の夢は、現場に踏みこんでみて忽ち打ち砕かれてしまった。ダムが純粋に技術問題である以前に、より一層そこに棲んでいる対住民とのどろどろとした人間くさい問題であることに否応なく直面したのであった。僅か十戸しかない山中の部落を相手に、彼は来る日も来る日も交渉に入りこまねばならなかった。部落の背後には共産党がいて、その抵抗は頑強であった。若い野島にとって、それは思ってもみない試練であった。人間の強さと弱さ、気高さと醜さが剥き出しになって絡み合っていた。野島が村人の信頼を得ることが出来るまでには何カ月にわたる日参が必要であった。ついにその山中の人々が部落を捨てて行く日、思いがけなく野島は十戸の人々から記念品を贈られた。その時の感激は今も忘れていない。
そんな重い体験があるだけに、とても佐多所長の気楽な挨拶が信じられず、疑いと不安が湧くのをどうしようもなかった。果たして、一巡してみた各部落には面会謝絶の木札が貼られて、既に異常事態であった。積極的な野島は、反対の中心者と聞く室原知幸の邸の門を幾度か叩いてみたが、それは開かなかった。
野島は小国町町長河津寅男を訪ねて知幸との斡旋を依頼しようとした。小国町はその面積の八割が山林で、大山林地主が少なくなく、彼等が町政を握っている。河津町長も大山林地主で小国町森林組合理事長を兼ねていた。その河津が野島の用向きを聞き終えると、ま、ちょっと待ってくれといった。
「室原さんのことは、あん人が町会議員の頃からよう知っとるですたい。ばってん、大変な肥後もっこすですたい。……それに今回の室原さんの反対の背景には北里栄雄さんとの対立があると、わしは見ていますな。室原さんは代々あの一帯に君臨してきとったんじゃが最近は北里さんがのしてきましてな、県議会にも出よりますたい。隣り同士に住んで仲が悪いとです。ま、暫く待ってなされ、わしが折りをみて、うまくとりもちますたい。あんたもあんまり焦らんこったい」
とても他所者《よそもの》に分ることではないという口吻であった。のちには全国町長会の会長をつとめる程の実力者河津も、町議時代の先輩である知幸の異常なまでの理屈|癖《へき》だけは、どうやらひどく苦手のようであった。
小国町長の斡旋を当面期待出来ぬと悟った野島の落胆は大きかったが、ひとまず志屋を中心とする反対部落は措いて、大分県側から積極的に折衝を進めていくことに方針を切り換えることにした。彼にしてみれば、ダム水没対象はあくまでも大分・熊本両県に跨る一町四村三八〇世帯一九〇〇人なのであり、室原知幸一人に拘泥しての全体の渋滞は許されぬことであった。
まず最初に取組んだのは、大分県中津江村である。〈津江は山勢崩潰の形に似たり、よって潰《つい》えるより津江と呼ばれる〉と記録に見えるように、この辺りは山の重畳とした峡の里で、そこに棲む里人《さとうど》の文明離れした間抜けさを嗤う津江山《つえんやま》ばなしは、今も周辺に語り継がれている。前津江、中津江、上津江と連なるが、ダム水没予定世帯をかかえるのは中津江と上津江で、殊に最大被害は中津江村に集中し、一九七世帯七七三人に及ぶ。
その中津江村野田小学校で三百人の村民が集まって水没者大会の開かれたのは、野島の着任後三カ月も経たぬ七夕の日であった。この日、二時間にわたって懸命に説き続けた野島がやっと着席すると、児塔《ことう》村長はいきなり皆に呼びかけた。
「そういうわけですから、ひとつ全村を挙げて協力しましょう。早速にも補償交渉に入りましょう」
これには野島の方があわてて、押しとどめねばならなかった。
「いえ村長さん、ちょっと待って下さい。私どもは暫く席をはずしますから皆さんだけで存分な討議を尽した上で賛否をはかって下さい」
提案通りの討議が開かれ、三十分後に再び会場に呼びこまれた野島は、大会の名に於いて条件協力の決議を告げられる。この時の感激を野島は後日、『土木施行』(六巻七号)に記している。〈会場の人々の表情にも長い間の肩の重荷を下してほっとしたような固さのほぐれた和らぎが感じられた。体格、風貌、人がら、どの点からみても七福神のほてい和尚をほうふつさせられる村長さんの顔にも安堵の笑みが溢れ大きな腹をゆすって話しかけられたときは文字通り御仏の大慈を感じたもので、その後もこの村長さんの信頼をそむいてはいけないと肝に銘じ、紆余曲折に際しいつも思い出しては正しい判断のよすがとした忘れられない感激の一瞬であった。〉
中津江村は順調過ぎる運びであったが、五七戸三五一人の水没者をかかえる日田郡大山村は難物であった。野島が初めて村役場に矢幡村長を訪ねた日、矢幡はあっけにとられた表情をした。
「なんだ、君みたいな若造がぼくらの村を料理しに来たのか!」
そのせいもあってか、その後は幾度訪ねても居留守を使われたり、会ってはくれても挨拶程度の短い時間で追い出されるという日が続いて、どうやら老練な矢幡が若造野島の人物試験をしているようであった。久世畑ダムの時の経験を持つ大山村では、いち早く村民大会を開き対策委員会を結成して一切の個人交渉を封じて委員長の矢幡に一任していた。それだけに矢幡は慎重であった。遙かな東北までダム視察にでかけたりもした。
建設省は建設省にあらずして破壊省なりと、面と向かって揶揄し続けた矢幡がついに意を決して野島と相対したのは、もう夏の盛りであった。野島はそれまでにむなしい訪問を四十回も繰り返していて、その根気に矢幡は打たれていた。
矢幡が打ち出した基本方針は明快であった。個人補償はあとまわしにして、村の公共補償から話を煮つめたいということであった。各地の先例でそれがおろそかにされていることを矢幡は視て来ていた。矢幡から百二十八項目に及ぶ公共補償要求細目が示された時、さすがに野島は驚いた。結局その後の話合いで四十項目を受け入れることになる。野島の方からは、日田市の事務所を松原ダムに近い大山村に移したいという申入れがあり、矢幡は承知した。大山村との交渉もこれで緒に就いた。同じ頃、大分県栄村にも上津江村にもダム問題対策委員会が出来て、用地交渉は漸く軌道に乗り始めていた。
その間、野島は精力的にジープを乗り回して各部落に入りこんでいる。偉丈夫の彼にはヘルメットがよく似合った。彼は各部落の詳細な人脈図を作ろうとしていた。補償交渉という、ともすれば金銭欲のどろどろと噴き出す危うい話で人の心の奥処《おくが》まで踏みこんでいくには、まずこの山峡の閉鎖社会の入り組んだ人間関係をしっかりと頭の中に図式化しておく必要があった。誰の諒解を取れば一族全部が靡《なび》くのかを掴むことは重要であった。野島が村で子供を見かけても、それがどこの何番目だと見分ける迄に、それ程日を要しなかった。本来、純粋に技術屋の自分がなぜこんな用地屋まがいなことに熱中せねばならぬのか、野島はふっと苦笑することがあったが、所長である以上それも責務であった。昼間交渉に出た用地係りががっかりして帰って来る日が続くと、見かねた野島が夜のうちにひそかにその交渉相手を訪ねて説得を重ねる。漸く相手の心がほぐれて話の糸口がつこうとする時、彼はいうのだった。
「ここから先は、明日又用地係りを来させますから、彼と話を進めてやってください」
帰りしなに彼は照れ臭そうにつけ足す。
「あ、それから僕が今夜来たことは、うちの用地係りには内緒にしていてくださいよ」
翌日、もうすっかり尻ごみしている用地係りを叱咤して送り出す。夕方、その用地係りが顔を輝かせて帰って来る時、野島は微笑する。明日から、この若い用地係りの自信が大きく違って来るだろう。
大分県側が順調に進んでいく間も、野島の意識を重く圧し続けているのは、室原知幸を中心とする熊本県側反対派の不気味な沈黙であった。大学さまはいつどのような形で動き始めるのか、大山川を背にした事務所で瀬音に耳を傾けつついつしか考えに沈んでいる自分に、野島はしばしば気付くのだった。
八月に入って間もない日である。
ヨシはいいつけられて部落の三人の男を呼び集めて来た。山仕事や雑用の折りに日雇いで頼み慣れた男達である。
「暑いところを済まんばってん、ひとつ、これを一軒ずつ配ってまわってくれんか。志屋だけじゃのうして、三人で手分けしてから、浅瀬、芋生野、蕨野、大山ち、せんぐり廻ってくれんか」
見れば、薄桃色の小さな短冊を束ねたものが堆く箱の中に詰まっている。
「大将、一体こりゃあなんですと?」
男の一人が尋ねた時、知幸は妙に照れたようにぶっきら棒に答えた。
「狂句たい。ダム反対ん狂句たい」
ははあ、さすが大学さん、ばさろう面白か趣向を思いつきなさるばい――男達は短冊の束を抱えて散って行った。男達は配り終えるのに三日間かかった。下筌・松原両ダムが沈めんとする部落は熊本・大分両県に跨って二十一にも及ぶのである。〈想湧くままに書きつらぬ 歌にあらず 文をなさず只駄作のみ 高覧に供す 御感想を得ば幸甚至極 各位殿 小国町室原知幸〉という表書きを付して束ねた短冊をめくった谿間の人々は、成程成程と頷いて笑った。
[#ここから2字下げ]
大臣が地建が、県知事が何が来ようが驚くな、たかが五尺の体だよ
勝手にセメントの杭打ち込みてさて信用せよとはおこがましきかな
妻や子の運命決す此の一戦、闘かわんかな建設省と
居住《すむ》、所有《もつ》、生活《くらす》、皆の権利さ、アリドン(あいつらの意)が何んちいわうとも
皆衆《みんなのしゆう》、どこで生活《いのちき》なさる気か、真《ほん》によかとこなかですばい
聞かん、云はん、判押さん、その通りその通り
小役人えて大きな面《つら》をする、爾《なんじ》公僕たるを忘るな
お山の大将、上にわ順下にわ横柄、これ津江根性か、いや失礼でござる
大山の村民《むらびと》さんよダム反対の幕懸けし事昨今の事
[#ここで字下げ終わり]
これを、当人は照れながら狂句たいといった。由来、熊本には肥後狂句なるものが盛んである。肥後方言を駆使して、あくどいまでに即物的表現で機智を発揮する。その意味では、これは確かに狂句の範疇であろう。但し、字数からいけば明らかに狂歌である。面白いのは、知幸がその狂歌作りを唐突に始めて、おかしなまでに熱中していっていることである。今遺る草稿を見ても、一作一作の推敲ぶりは尋常でなく、これも知幸独自の徹底癖かと微笑を誘われる。凡そ文芸と呼ぶには遠いこれらの戯歌《ざれうた》はむしろスローガン的であるだけに意外なほど村人達に喝采して迎えられたようである。ついに運動ビラも機関紙も出すことのないこの風変わりな反対運動の中にあって、これ以後知幸の発する狂歌が唯一の教宣ビラの役を担っていくことになる。
八月十八日早朝、志屋部落背後の山中にある小竹《おだけ》部落の穴井|蔀《しとみ》を知幸の使いが呼びにあがって来た。
「大将が急いでかっせにくだって来いちいいよるとたい。なんでん、こりから日本一《ヽヽヽ》ちゅうつを始むるとたい。ナカさんも連れち来いちゅうこつきな――」
山仕事に籠もる蔀は、下の部落の事情にも疎かった。狐に抓まれたような気持で、彼は妻のナカと共に山をくだった。待っていたのは、志屋部落入口にダム反対の大看板を立てる仕事であった。日田市で作らせたというブリキの切板文字の看板は一字が一米四方もあった。この午前、志屋部落の道沿いには俄にプラカードが林立し、部落入口の宙空には〈守れ墳墓の地〉と大書した横断幕も張り渡された。それだけのことを済ませると、午後一時より志屋小学校で初めてのダム反対集会が開かれた。志屋だけでなく、浅瀬《あさぜ》、芋生野《いもの》、蕨野《わらびの》、室原《むろばる》などからも参加して全員でダム絶対反対が決議され、室原知幸がリーダーに選出された。ただ、この反対運動が特異であるのは、リーダーとしての室原知幸を定めた外にはなんの会組織も定めぬことであった。反対運動としての正式組織名すら、ついに付けることはなかった。こののち全国的に注目されてゆく下筌闘争が、どうやら前近代的《ヽヽヽヽ》な反対運動らしいと見做《みな》されてゆく所以《ゆえん》は、この発足時から始まっている。
この日、弟の知彦は手帳に短い記録を残す。〈当分の間説明会を開く必要なしの返事を小国町へ返答す、穴井貞義の名儀です、本日、外色々審議をなし総蹶起反対に猛進する可くす、焼酎三升飲み散会す、酒代栄雄氏と小生にて半額出して支払う〉
勘ちがいしやんすな、こちらは静中動ですぞ
という知幸のおかしな狂歌を目にした時、野島は思わず苦笑してしまった。勘ちがいなどしてはいない、必ず大学さまの反攻が始まると覚悟していた。しかし、ついにその大学さまが動き始めた時、野島はあっと思った。それは野島の意表を衝いていた。
九月二十二日、反対派百三十名は突如として津江川を渡り、大分県中津江村|栃原《とちばる》部落にデモをかけて来たのである。永い眠りに沈んだような山峡の里に、それは一揆の蜂起を思わせるような異変であった。それにしても、風変わりなデモであった。大学さんがこれからの永い紛争を通じて遺憾なく発揮していくことになる|芝居っ気《ヽヽヽヽ》は、この冒頭のデモにおいて例外ではなかった。
なんと賑やかなデモであろう!
まるで楽隊行進である。数えれば大太鼓が三個、小太鼓二個、シンバルもあればタンバリンもある。全部知幸が日田の町で買い揃えて来たものだ。祭りのチャンガラを持ち出した男もいれば、軍隊から持ち帰った喇叭《らつぱ》を久々に持ち出した者も一人ではない。鳴物を総動員してのデモなのであった。総勢百三十名、志屋小学校に勢揃いして打上げ花火と共に出発した。
この日のデモの為に二日にわたって行進の練習を重ねていた。軍隊上りの壮年者|吉野智《よしのさとる》が威勢のいい号令を発して歩調を指導したが、長い旗竿を片手で掲げての行進は結構難しかった。旗竿の先に閃《ひらめ》く赤地に白くダム反対と染め抜いた大旗に風の抵抗は軽くはない。つい旗竿を傾けて肩に担ぐと、途端に大学さんの声が飛んだ。
「こらっ、まちっと威勢よう真っ直ぐ立てんか! そげんなこつで国家を相手にゃでけんぞ」
行進歌も練習済みであった。それを作詩したのは浅瀬部落の青年高野香である。〈ばんだのさくらかえりのいろ〉に始まる軍歌「歩兵の本領」の節に乗せての替歌であった。
せまい谷間というなかれ
ここはわがさと 富のさと
湖底にすとは 何事ぞ
断固とまもれ わがさとを
住居《すまい》の権がわれにあり
いかなる手段《てだて》を とろうとも
迷わす言葉を 吐こうとも
あくまでまもれ わが住居
志屋小学校の高台をくだり、天鶴川に架《かか》る小さな志屋橋を越えると県道は直ぐに断崖に阻まれて蜂の巣橋で大分県側へと移る。今、賑やかな鳴物と行進歌が行くのは、その大分県側の道である。下筌《しもうけ》、鳥梁《とりやな》、小村《こむら》、下鶴《しもづる》、古室原《こもんばる》などの小さな部落が川沿いに点在している。デモ隊はその一つ一つを縫うように行進していった。部落に入る時、鳴物も行進歌もひときわ勢いを増した。時ならぬ轟きに、まず子供達が飛び出し犬が怯えて吠え狂った。
「ダム反対ぞお」
「ダム反対ぞお」
部落部落で知った顔を見かけるとデモ隊の中から声が飛んだ。デモ隊は三小隊に編成されていて、先頭は指揮者吉野智が率いる老人部隊である。足の遅い者達を先に立てる配慮であった。男も女も野良着の上からタスキを掛け鉢巻を締めて地下足袋である。
知幸はデモの最後尾に従いている。食糧と飲物を積んだ自動車に添うようにして、拡声器を肩から提げてゆく。
「のう荒木さんよ。お前さんにも旗一本貸そうかい」
小国署から派遣されてつき添う私服の荒木刑事に、上機嫌の知幸が冗談をいいかけた。
「まあ! 大将んあげな笑顔は初めち見るごたる」
振り返った穴井ツユが、かたえの女に弾んだ声をかけた。女が背負う赤んぼが急に泣き始めた。
条件賛成で固まる中津江村にも反対派に心寄せる家があって、そんな軒先には焼酎が出されていて、それを湯呑みで口々に含む時、「こらぁほんとん一揆んごたるばい」という実感が一人一人を興奮に誘いこんでいった。栃原部落の川良《かわら》家の門の内に隠れるように立って、知幸の妹トシはうなだれていた。彼女も又飛び出して行って兄の一行を迎えたかった。庭に導き入れて酒も茶も饗《きよう》したいと思う。しかしそれが出来なかった。トシの夫は中津江村議会議長として条件賛成を遂行すべき中心に立っているのだ。逡巡するうちに賑やかなデモ隊は過ぎて行った。ふと人影が差して、トシは顔をあげた。知幸が汗を光らせながら立っていた。わざと一人遅れて立ち寄ったのだ。
「トシよい、心配せんでいいぞ。おれはおれん道、わりゃあわれん道」
それだけ囁くと、知幸はついと出てデモ隊を追った。トシの眼に涙が湧いていた。遠ざかるデモ隊が林立させてゆく旗竿の先の金色の珠一個一個の煌めきが、きらきらと滲んでトシはいつまでも立ち尽していた。
デモは回を重ねるにしたがって参加者が増えていった。周辺の部落が次々と加わって来た。十一月十四日、第四回目のデモ行進を知彦は簡潔に記録する。〈凡そ一八〇名位集合して松原岩戸へ行進す。プラカード、ラッパ三個入れ盛大なるダム行進出来る。三時頃学校へ帰りつき話合有り、兄より委細に渡り反対の将来性に対する話し有り、充分説明有り、一同強い信念を記す効果有り。本日婦人にはモンペを全部に支給す、一般には軍手〉
知幸は意気軒昂として、あのおかしな狂歌を捻《ひね》っては、短冊にして配り続ける。〈第一編駄作第二凡作第三劣作と並べてきました。尚第四、第五へと継続してゆきます〉
ダム調査員、反対なくば気抜けせん、ここに我あり礼拝すべし
あな嬉し、あな喜ばし、ダム反対の此の一戦、我運命を賭けん
この儘に人生《よ》を終らんとせしこの我に、刺戟剤たるかなダムの話
最後の一首には〈建設省様様〉とも添え書きして得意満面の趣きである。面白いことに、この第三編から村人の投稿歌も混じり始めている。〈今回の内に○印が二つあります。これわ御婦人から頂戴した三つの内です。勿論原文の儘であります。御厚意感謝致します〉
○住みなれし愛郷《さと》を離るる此の悲愴を金に代えると言ふ人に逢ひたし
○無能なる我流しぬ此の悲涙ダム候補の川にこぼる
十二月十日、第五回デモはついに四百名に達する。狭い谿間の道に長蛇の列を作った。この日、デモへの物品寄付を几帳面な穴井貞義が記録している。〈正中十本(坂田茂八本、高野香一本、穴井貞義一本)、クワシ(菓子)三〇五〇円、室原氏、イリコ二〇〇匁 室原氏、油アゲ三十枚 室原氏、米三升、北里氏、外イリコ 正ユなど部落持ち〉
正中は焼酎のこと。知幸はほとんど酒を嗜まなかったが、部落の男達は寄り集えばよく焼酎を呑み、陽気にさんざめくのであった。
五 幽鬼となる
一旦は協力を決めた大分県側各部落に動揺が起こった。一体ダムは本当に出来るのか出来ぬのか。それがはっきりしなければ将来の生活設計がまるで立てられぬ。宙吊りの状態が続くなら条件協力の決議を白紙に戻すという強硬な声も出始めて九地建の苦悩は深まった。
なんとかして大学さんの懐に飛びこみたい。会って話し合いを重ねれば、相手はインテリと評判の大学さんのこと、必ず分って貰えると野島は信じている。だが、どのような仲介者を頼んでも知幸の話し合い拒絶の姿勢は崩せなかった。知幸と縁深い有力代議士にも動いてもらったし、勿論縁戚にはことごとく当たってみた。ある時、耳寄りな話を聞きこんだ野島は知幸の遠縁に当たる婦人を訪ねて行った。かつて若い日の知幸とその婦人の縁談を纏めようと、周囲が動いたという。
「ああ、にいさんのこと……」
彼女は知幸のことをそんな呼び方をした。
「もう小さい頃からようと知ってるですもんね。そりゃあもう大変なやん茶坊でね……やん茶坊がそのまんま他人のめしを食べんとに育ったもんですき、恐いもんがないとですたい。とてもじゃないが、にいさんを主人としての生活にゃわたしゃ耐えきらんとですき、結婚はせざったですばい。そらぁもう、わたしが間に立っても駄目ですたい。にいさんがこうち思いこんだら、もう誰も止めることはでけんとでしょ。……いっそ、ひっくくって連れて行くしかないとでしょう……」
茶目っぽくそういわれた時、野島はつい釣られて笑ってしまったが、帰って行く心に重いしこりが拡がっていた。弟の知彦からも仲介を断わられた。
「兄貴が一度ああいいだしたら、もうどうにもならんですたい。ばってん、あんたどう国家には法ちゅうもんがあるとでしょうもん。ちゃんと法で押してくれば部落としてはさからわん方針ですたい」
背が低く丸顔に近い知幸と対照的に、知彦は長身で面長《おもなが》である。知幸が東京に在る間も父を助けて山林業に精出していた彼には、才智|秀《ひい》でて強烈な個性の兄を立てて、自らは陰で支えるという姿勢が早くから身に付いているようであった。思い悩む野島は、いっそ面会を求めて幾日間でも知幸の閉ざされた門前の石段に坐りこもうかと考えることがあった。あの誇り高い大学さまは、実はそうしてほしいと望んでいるのではなかろうかと、ひそかに相手の心理を思いはかってみるのだった。だが実行はためらわれた。中津江村の者達が日田市への往き来に必ず通過するこの道沿いで自分がそんな頼り無い姿を曝《さら》す時、それがかえってどんな波紋となってあらたな動揺を拡げていくだろうかと考えると、そのことが不安であった。
その年も終り近い日、冷たい雨の中を中津江村から大山村の事務所へジープを走らせて帰る野島は、ふと知幸の日頃閉ざされている表門の扉が開いているのを通り過ぎる視野の隅に捉えた。あわててジープを止め、引き返すと彼は石段を登って行った。ついに大学さんに直面するのだと思うと、さすがに野島の動悸は高まっていた。
庭を入った正面が玄関の部屋で、その上り框《かまち》に腰をおろして知幸は来客と談笑中であった。
「九地建の野島です」
名乗った瞬間、知幸は俄には呑みこめぬような不審の表情を見せたが、はっと血相を変えると雨中に飛び出して来た。
「わりゃあ表ん面会謝絶ん札が見えんとか! 見ちょってわりゃあ押し入って来たつか! 無礼もんが! すぐ出て行け!」
「いえ、今日はダムの話にまいったわけじゃありません。通りかかりましたら御在宅のようなので、ちょっと御挨拶に……」
「挨拶なんのいらんたい。おれはおれん流儀で反対をするとたい。わりゃあわれんやり方で攻めちこい。さ、出て行け、出て行かんと若えもん達を呼んで叩き出すぞ!」
今しがたまで来客に見せていたあの好々爺の微笑が、なぜこれ程に激しい憎悪の形相に一変するのか、野島は茫然とする程に気を呑まれて、雨の中を突き出されている自分に気付いた。
「おい塩持ってこい!」
聞こえよがしにヨシにいいつける知幸の怒声が響いた。
「ありどんが入って来ただけでん、涜れたごたる」
石段にまで塩を撒いて、知幸はぴたりと扉を閉ざした。
明けて一九五九年一月二日、ダム反対総蹶起大会が松原ダム予定地近くの貫見《ぬくみ》の黒淵水力発電所傍の川原のグラウンドで開かれた。いよいよ決戦の年としての、年頭からの示威であったが、それにしてはこれも又賑やかな新年会であった。二人のギター弾きを雇って来ての、のど自慢が繰り拡げられた。張りのある美声が自慢の穴井蔀が浪花節で沸かせれば、芸達者の穴井貞義が歌で応える。ヨシもマイクの前に押し出される恰好で日向《ひゆうが》民謡イモガラボクトを歌った。音痴の知幸はにこにこしながら聞く一方だったが、
「誰かおれん作った行進歌も、うとうちくれんか」
といいだした。津江地方に伝わる茶もみ唄に合わせて知幸が作った替唄は、行進の歩調と合わずにまだ一度もデモでは歌われていなかった。皆尻ごみして、吉野智と吉野牧夫の二人が歌った。
※[#歌記号、unicode303d]ヤーレ
ダムの話なんぞわ
もみに もみ もんで
こっぱ微塵に してしまえ
やれもめ やれもめ
その意気 その意気
会場は白い幕で広々と囲まれ、ダム反対のプラカードが林立し、子供達が無性にはしゃいで駆け回った。あちこちの焚火で鰯を焼く匂いが漂い始めると、焼酎がまわされ、女達の輪になっての手踊りが続いた。真冬の川畔にそれ程の寒さは感じられず、手袋をしている者もなかった。この日、津江川の空は青く晴れ渡っていた。
年頭からのこの賑いを、九地建は大学さまの挑戦と受け止める。これ以上の異常事態を放置出来ぬと判断した九地建は、ついに土地収用法の適用に踏み切ることに決する。一月八日、上ノ土実九州地方建設局長名で熊本県知事に対し土地収用法第十一条に基づきダムサイト地点へ立入る旨を通知する。
国はついに伝家の宝刀を抜いたといえよう。一気に事態は緊迫する。
室原知幸の猛勉強に拍車がかかる。
日々、金を惜しまず取寄せる夥しい書物、雑誌、新聞で忽ち座敷は埋まっていった。ヨシが整頓しようとしても、一切手を触れさせない。畳が腐りはしないかというのが、ヨシのひそかな心配であった。
知幸は焦っていた。既に国家を相手に開戦の火蓋は切られ、敵は土地収用法という強権をふりかざして迫っている。それに拮抗する為の即戦力として必要な学問の取得に、今や一日の遅滞も許されなかった。とりあえず必要な学習分野だけでも、法律、地質学、河川工学、気象学、ダム工学、電気工学に及んだし、そのどれひとつに取組んでも、俄《にわか》な学習に重過ぎた。法律の分野ひとつとってみても、土地収用法、憲法、河川法、多目的ダム法、電源開発促進法、民事訴訟法、行政訴訟法という広域を跋渉せねばならぬ。六十歳を越えた老人が、今性急にそれに挑んでいる。
「ほんと、いつ寝るとでしょうか、いつ見てんが書斎の灯は消えざったちゅう具合ですもんね」
その聖域を怖れて近付かぬヨシには、知幸の就眠時間も分らなかった。ヨシと娘達の会話もおのずから声を潜めていき、二十一歳の裕子、二十歳の節子は時に津江川の磧《かわら》に降りて若い声で思い切り叫びたい日があった。邸内にはテレビを観ることも憚るような嶮しい緊迫が張り詰めていた。
或る深夜、縫物をしていたヨシは、背後の気配に振り向いて、あっと魂消《たまげ》た。いつ書斎を出て来たのか、放心したように知幸が佇立していた。
「おとうさん、どげえしましたと」
幽鬼――という言葉が動顛《どうてん》しているヨシの脳裡をかすめた。
「おれには誰も教えちくるるもんがおらん」
それだけ呟くと、知幸は又影のように奥座敷へと戻って行った。ヨシの動悸はいつまでも鎮まらなかった。室原知幸は既に鬼になったというべきであろう。己が意志力と能力のあらん限りを燃焼し尽さんとする凄絶な一匹の鬼に。
又の深夜、ヨシは座敷から低く洩れ来る知幸の声にはっと胸騒ぎして廊下に走った。心臓発作を起こした知幸の呻き声かと慌てたのだ。読書する声だと知って、ヨシの足は止まった。知幸が声に出して本を読むことなど珍しいことであった。その声はやがて怒りに駆り立てられるように高まっていき、ヨシにははっきりと聴き取れた。
「……次に破壊すべき渡辺長輔方には、一人の狂妹あり。ために県庁側より任意に取り毀ちては如何と勧められしも、長輔は病妹のため節を枉《ま》げんか、村民に対する面目なきを如何、誓約を守らんか、病妹の手当を如何にすべきと、煩悶懊悩、嗚咽《おえつ》物言う能《あた》わず。田中翁また黙然として座し、永く病める妹は狂い騒ぎ老母は涙のうちより『コレさえなければ早く立ち退いたのですけれど馬鹿でも気がふれているので……』と嗚咽やや久し『気がふれているのですから縊り殺す事もならず……』と泣き、長輔は地上に座し、『この家は妹と二人で働いて拵えたのだ、気違いの妹はここで飼殺しにするつもりでいたのだ……』と側なる竹を手に取り地を叩き、『土地収用法が何だ、家屋敷まで取った上に家を壊すとは何だ、壊すなら俺を殺してから壊せ』と怒号号泣し、翁もまたこれを見て熱涙地に滴る。」
そこで知幸の声はぷつりと熄《や》んだ。今、知幸は泣いているのかもしれぬと、ヨシは思った。そう思うだけでヨシの眼に涙が溢れていた。ヨシはその時、それが荒畑寒村の『谷中村滅亡史』第二十六章の一節であることを知らなかったが、描き出された土地収用の悲惨な情景はありありと見えていた。居間に戻って縫物を膝に置いてからも、ヨシは茫然としていた。今聴いた情景こそが、やがての日の志屋部落の運命ではないだろうか。それを、おとうさんは本当に防ぐことが出来るというのだろうか……。
国家は公共の利益となる事業の為には私人の土地を収用することが出来ると定める土地収用法は、民衆史の上に幾多の悲劇を生んで来たし、今も生み続けている。名も無き蒼氓《そうぼう》一人一人にとっては、それは常に抗すすべなき強権として発動される性質のものだからだ。
一旦口火を切った九地建の法的手続きが矢継早に続く。土地収用法第十一条一項に基づく県知事への通知によって自動的に〈立入権〉を得ると、次には第十四条一項による土地の試掘等の許可申請を熊本県知事に提出する。これを受けた知事寺本広作は第十四条一項後段の規定により、当該土地所有者である室原知幸と穴井隆雄両名に簡単な文面の求意見書を郵送した。(九地建は当初、ダムサイトの山林所有主を室原知幸一人と見ていたが、そこには穴井隆雄の所有林が混じっていて、むしろ杉の立木は穴井側に多いことが判ってきた。)
求意見書に対する返書の文面に、室原知幸の面目は躍如としている。
[#ここから2字下げ]
〈復啓 監第五九の二 二月二〇日付(二一日付投函)熊本県知事寺本広作の書留書面を同二三日受取りました。同書面によれば三日より二〇日に至る約二旬を要しおるに、当方に対しては二三日の受取り日から二六日に至る数日の内に意見を具申せよ、二六日までに具申なき時は意見のないものとして処理いたしたいとは何を意味するものなりや。今日の熊本県庁の事務処理はかかるものなりや洵に意外の感あり。
この案件は当方にとりて重大なものでありかつ地域的には一町四カ村(熊本県小国町、大分県日田郡中津江、上津江、大山、栄村)に亙る住民の生存に係る問題を包蔵している。一片の書類整理として事を運ぶべきものか、県庁と小生との感覚のずれ甚しの感あり。
記一によれば、試掘・試錐《しすい》に山林一町五反を要する様書しあれど、それ程の広さを要するものなりや、球磨川水系における貴庁、建設省、会社の実例も手近におありでしょう。小生の方より寧ろ貴庁に伺いたし。また添付の図面もなし。現地不明(地番なし)。
同二によれば小生外一名となりおり、小生は他の一名に取計う義務もなし。尚試掘・試錐の方法も不明、期間も不明等々。
依而《よつて》、当方は反対の意見を具申します。
(追伸)僅少の返信料といえども、九地建か貴庁が負担すべきものと思われます。何か一本抜けている(非公僕的、非民主的)様です。今までにおける九州地建の測量等斯の如し。〉
[#ここで字下げ終わり]
この返信こそが、公式にはこれまで沈黙を守って来た室原知幸の、初めて国に伝える意見であった。虚心に読めば、この返信で室原知幸は国家に対して厳しく礼節を求めているのだと気付く。その礼節を欠いた国家に対して、「無礼者っ」と叩きつけんばかりの口吻が、この返信の底に抑えられている。凄まじい迄に己れを高く恃《じ》するこの老人の、無礼な国家に対して将《まさ》に発せんとする大喝がかろうじて抑えられている。この老人にあっては、己れ一個の尊厳の重みは正《まさ》に国家そのものの重みと対等なのであり、されば聊《いささか》も臆することなく己が人格の尊厳にふさわしい礼節を、厳しく国家に対して求めているのだ。だが不幸にも、一個の私人の矜持の高さ烈しさを忖度《そんたく》するが如き温《ぬく》い人格をついに持ちえぬのが、国家という機構の宿命なのかもしれぬ。「無礼者っ」と身を震わせて怒る老人と、そのような怒りを理解出来ずに戸惑う国家と、両者の救い難い懸隔がこれ以後の紛争をますます泥沼に落としこんでいくことになる。
この返信を受け取った熊本県知事も、返信料云々の件りを読み捨てている。億万の資産家でありながら微少な返信料にまで言及してくる知幸を、さすがに奇矯の老人よと苦笑したのかもしれぬ。それが価額の問題などではなく、一個の人格の全尊厳を賭けての厳しい礼節の問題だということを県知事は読み抜けなかった。ただ、添付図面無し等の指摘は、事務処理上の杜撰さを突かれたことなので、慌てて県土木部長名で補正通知を発した。
この補正通知に対して、知幸はむしろ追伸が主体らしい皮肉な再返信で答える。箇条書きの追伸に曰く――
〈県知事名になったり、土木部長名になったり不可思議
送付の図面にては境界不明――何れ確認訴訟の問題を残す
小生、穴井隆雄、以外の者あり
相変わらず返信料封入しあらず
今迄の建設省の測量、横着〉
ひょっとしたら、この各箇条を知幸はあのスローガン的狂歌を作ると同じ調子で書きつけたのかもしれぬ。だがもはや熊本県知事はこれ以上室原知幸に拘《かかわ》ろうとはしない。当該土地所有者の意見を法的に聞きおいたとして、九地建に対し試掘等の許可証を発した。
五月十三日、九地建作業員はダムサイト右岸での土地収用法に基づく測量等支障立木の伐採に入りこんだ。迂闊にも、志屋部落の誰も、暫くはその作業に気付かなかった。現場は志屋部落から遠望しても、聳え立つ断崖の向こう側にあって見えない。一旦蜂の巣橋で津江川を斜めに渡り大分県側の道に出て、渡った直ぐの道から見て正面対岸の山腹であった。そこに行くには、橋を渡った直ぐの地点から梯子伝いに十数米程も下の磧に降りて、津江川を筏で渡るしかない。川幅は二十米足らずで、平水時には膝からせいぜい腰までの深さの渓流で、流れは疾い。渡り終えた対岸の岩だらけの磧からそのまま杉の美林が整然と急峻な山腹を這い登っている。標高五六〇米、蜂ノ巣岳と呼ぶ。作業員達はその急斜面の下の方に取付いて、無造作に伐木作業を進めていった。
五月十九日夕方、大山村の川原にダム反対の看板を立てに行った男達三十名は、帰り途の芋生野で宮崎万喜の店先に屯《たむろ》して焼酎をひっかけていた。知幸が日田の看板屋に作らせて部落の男達に立てさせるダム反対のプラカードは、既に志屋、浅瀬、芋生野から大山に杖立にと溢れ始めている。
「おーい、おおごつがでけちょるばい」
一人の男が駆けつけながら、喘ぐように叫《おら》んだ。
「九地建の奴どんが木を伐りよるばい!」
「おりげん山かっ!」
穴井隆雄が鋭く問い返した。
「そうたい。もう、ばさろうやられちょるばい」
男達はもう駆け出していた。自分達の部落を駆け抜けて蜂の巣橋を渡った時、彼等は茫然として足を止めた。そこにあった筈の緑濃い杉の美林は忽然と消え失せていて、岩だらけの山肌がむくつけに露出していた。十三日から始まった伐採は、十五日の雨で休んだことを除けば既に幾日にもわたり、九十七本の杉の成木と六百本の雑木を切り払っていた。ちょうど大きな三角形に切り裂かれた山腹は、周りを囲んで濃緑の美林が残っているだけに空虚さが際立って、志屋の男達の眼にはこれこそ国家が揮った強権行為の隠れもない兇状として映った。
「ようも、こげなむてえなこつを……」
男達に怒りが噴き上げた。彼等は二手に分かれると一手は彼等だけが知る裏山伝いの杣径《そまみち》を迂廻して九地建が作業をしている山腹の直ぐ頭上へと寄せて行った。橋上に残った男達は、そこから怒声を浴びせ始めた。やがて山の上に出た男達は作業隊の頭上に寄せて行った。男達は、看板立てに使ったままの鉈や金槌や鋸を提げていた。驚いた野島は作業隊を引揚げた。
翌早朝、作業の続行を目指す野島は作業隊を率いて対岸に来た。伐除作業は既に終っていたが、それら伐木を片寄せ、その日から測量と試錐に入る予定であった。この朝、津江川の渓谷はまだ濛々と霧がこめていた。しかし、その霧の奥に既に尋常《ただ》ならぬ騒《ざわめ》きを聞き留めて、作業隊の不安は高まった。渡河に移ろうとする頃、霧は霽《は》れていった。最初に、向こうの磧に太鼓を抱えてこちらを凝視して立つ男が見えた。それは、いつでも急を告げようとする姿勢であった。やがて霧が山腹を這うように上へ上へと移って行くに連れて、野島は茫然とせねばならなかった。切り拓かれた山腹にダム反対の赤旗が幾十本と翻り、百本ものプラカードが林立している光景を彼は見たのだ。旗を掲げ持ち、襷を掛けた男達は一斉に作業隊に向かって喊声を放ち始めた。
愕きから醒めると、若い野島に負けん気がむくむくと湧き起こった。尻ごみする作業隊を叱咤して渡河すると、山腹へと攀じ登って行った。乱調子の太鼓が急を告げ、突撃喇叭が峡谷に鳴り響いた。
「燻《いぶ》せ、燻せ、ありどんを川へ燻し落とせ」
知幸の号令に、男達は一斉に杉の枯枝に火を点じるとなまなましい杉の葉を焼《く》べ続けた。濛々と涌く煙はわずかに上向きに立ち登ると風に折れて山腹を舐《な》めるように蔽って降《くだ》った。作業隊は猛煙に包まれていった。午前十時、煙に涙を流しながら野島は又しても作業隊を引揚げざるをえなかった。
更に翌朝、対岸に立った野島はもはやその山腹が完全に大学さまの部隊によって占拠されたことを知らねばならなかった。前日よりも尚夥しく翻る赤旗の間に、一夜にして一棟の丸太小屋が現出していた。それは梃《てこ》でも動かぬという大学さまの不敵な宣言のようであった。野島は、もはやそこに立入ることが不可能となったことを認めねばならなかった。
「皆、竹を切れ!」
朝の光の中で知幸がいい放った。
「切って、竹槍を作れ」
男達は山の青竹を戞々《かつかつ》と切り倒すと、身の丈《たけ》程の竹の鋒《きつさき》を競い合って鋭く削《そ》いだ。
「なんの、咎められたちゃ、山ん蝮《ひらくち》とりちいやあいいたい」
知幸がそういった時、緊張していた男達にどっと笑いが湧いた。
悄然と引揚げて行く野島達の背を、男達の鯨波《とき》の声が打った。それは峡谷に響き合うのか、遠離《とおざか》る野島の耳にいつまでも聞こえ続けた。
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築城の章
一 柚子を※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぐ
これはまあ、ようおいでくださいました。
ほんと、何度おいでいただいても、わたしゃなあも役ん立つ話つはでけませんで、すみませんでございますねえ。部落の人達と昔話でんがすれば、なんか記憶もよみがえりましょうが、なんさまもう、みんなばらばらに散ってしもうて滅多に会えんとですもん、とぜねえこつですたい。
昨日は志屋ん山へ柚子《ゆず》を採りに行って来ましたですたい。まだほんとはすこうし早過ぎるですけんど、人が住まんごつなった水没地ん山ですき、早目に行かな盗られてしまうとですもん。柚子は美しゅうて、人目に立ちますもんね。二百がしこも|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いで来ましたろうか。
柚子※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぎながら、ほんと村んくらしがなつかしゅうしてですね、なんかこう、こげないい所は無かったんじゃなかろうかちですね思うたこってすたい。ダムん問題が起きるまでは、もう部落じゅうがひとつにまとまっちですね。志屋小学校ん運動会なんかじゃ、親達ん方が陽気に騒いだもんですたい。
知幸も、あん闘いが始まるまでは、結構家んこつをいろいろとしてくれよりましてねえ、柚子も※[#「手へん+宛」、unicode6365]いだもんですたい。ばってん、それがまあ村んほかん男ん人達とちごうて、いっそへたくそですたい。あれは、うまく竿ん先ん股にひっかけてねじらにゃいけんとですが、どういうもんかおとうさんなそれがうまくやれんで、癇癪起こしち竿を振り廻すもんですき、たんだ傷もんにしてしまうですたい。もう、おとうさん、あんた※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぐのんはせんじょくれち頼まななりませんでしたもん。
※[#「手へん+宛」、unicode6365]いで来ると、柚子を搾るとです。柚子ん酢はなかなかようしてですね。やっぱあ、男ん方が力がありますもん、わたしが柚子を切って、おとうさんが搾るとです。闘争ん始まる迄は、おとうさんな着物で通してましたもん、わたしが襷を結んじゃってですね、前掛けもしちゃって、向き合って搾ったもんです。昨日は柚子※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぎながら、頻りにそげなことを懐《おも》いだしてですね、あああ、ダムんこつが無かったら、あげな生活が続いち、おとうさんもまだ生きちょったろうなち、つい思うたもんですたい。
今朝はあなたがおいでくださるちゅうもんですき、早ように起きて柚子ん皮を砂糖煮したとですが、ちょっと急ぎ過ぎましたき、粘《ね》りようが足らんごたるですばい。ま、お茶うけにつまんでみてください。志屋部落じゃ、冬ん初め頃にゃどん家でんがこれをお茶うけに作ったもんですたい。酢を搾ったあとん美しい皮を選ってですね、砂糖入れちぐつぐつ煮ながら粘《ね》るですたい。よおけ砂糖が要るですもんね、砂糖ん中に柚子ん皮が埋まっちょるふうですたい。知幸がまた、酒も煙草もやらんですき、甘いもん好きでしょうが、「かあちゃんよい、砂糖をもちっと入れちみい」ちゅうからですね、たんだあもうするですたい。どん家もそれぞれ切り方、煮方に|こつ《ヽヽ》があってですね、ちょつとずつ、やっぱあちがうとですもん、みんな心ん中じゃ自分んかたんが一番ち思うちょるですたい。……考えちみますと、人間のしあわせちゅうつは、喪われたあとに気付くごとありますね。柚子※[#「手へん+宛」、unicode6365]いじ、柚子搾っち、柚子ん皮をぐつぐつ煮て……そげなこつは、そん頃はしあわせともなんとも気付かん、あたりまえん冬仕度みたいなもんでございましたばってん、今になっちみますと、なんかしらん、たまらんごつなつかしゅうしてですねえ、なんかおとうさんも闘いん大将におさまっちょるつより、襷掛けちですね、柚子搾りよった方がにおうちょった気がしてなりませんもん。
もう、あれよあれよちゅう間に蜂ノ巣城つがでけていって、おとうさんな家を捨ててしもうたですたい。山ん砦に行っち、帰ってこんですもん。一週間も十日も帰らんごとなっていったとです。ばってん、十日も帰らにゃ、頭ん毛がのぶとでしょうが、おとうさんな髪ん毛ののぶとだけはこらえきらん性分ですけ、もう仕様なしに帰っちくるですたい。どげんもこげんも帰っちこにゃ、わたしも頭つみに山までは出張せざったですもんね。ほんともう、ただ頭つみにだけ帰っちくるちゅうふうですたい。わたしが頭つんでやる間も、なあもものちゃいわんですもん。なんか、思いつめたごとして考えちょるふうですもん、わたしも声をかくるとが|えずい《ヽヽヽ》ですたい。もう、頭ん中はダムんこつでいっぱいちゅうふうで、「なんの、おれが絶対ダムを造らしゅうか」ち呟くとですよ。わたしにいうたんかち思うて、「えっ」ちいうても、なんのこたぁない、ひとりごとですたい。なんの会話もありゃあしませんもん。
頭つんで風呂に入って、さあ又夕方から新聞やら本やら抱えち山に戻って行くでしょうが、もう御飯もうちで食ぶるとが少ないちゅうほどですたいね。仕様が無いですもん、わたしゃなんか食べさせなち思うて、甘酒を造っちょいたです。甘酒なら米と餅米ででけちょりますもんね、栄養があるとでしょうが。酒はもうビールをコップにいっぱいも飲めんとですが、甘酒なら茶呑みにふたつぐらいがぶっと呑んでですね、そして山に戻って行くですたい。なあもひとことも口いきくとじゃなかですたい。ほんと、帰って物を食べる時んほかにゃ口を開くちゅうこつが無いですもん。
あんまり夜も眠らんごつして考えごとんじょうしよったからでございましょう、そん頃知幸はひどう痩せてしもうてですね、元々、小男じゃありましたが、さあどんくらいでしたろ、身長なんか計ったこたぁないくらいですもんねえ、この小さなわたしよりちいっと位しかおおくのうはなかったですもんね。それが痩せてしもうたもんですき、あるとき知幸ん身内ん一人が入っち来るなり、わたしをえらい見幕でおごりたくるですたい。一体なんの食べさせよっとか、あげえ痩せさせちしもうちょるち、わたしをどなるですたい。ばってん、なんの食べさせよるかちゅうたちゃ、本人は家に帰ってこんでしょうが、わたしゃ答えようも無いですたい。
どうせ、山ん砦じゃ男ばっかしん簡素な自炊でしょうが、大したもんな食べちょらざったとでしょ。煮しめもんとか、味噌汁くらいでしたろ。それに、知幸は人ん造ったもんなよう食べきらんとでしたもん。もう、人が手を触れるとばいきんが付くちゅうちから嫌いよったですもんね。それが、山で生活すりゃ、みなずりして料理すっとですき、そらあもう神経質な知幸ん眼から見りゃあ、ばいきんだらけちゅう具合でしたろ。ありどんなしょんべんまったちゃ手も洗わんちゅうちですね、気にしてましたもん。最初ん頃はとてん山ん食べもんはのども通らんごとありましたろ。あとじゃ、すっかり慣れていってですね、ようあれだけん変化がでけたもんじゃち、妹んトシ子さんなんか不思議がっちょりましたもん。
最初はわたしも見かねてですね、知幸ん好きなだご汁なんかつくっち持って行ったですたい。志屋んへんのだご汁は味噌でしますたい。芋を入れたり大根入れたりしてですね、団子の粉がまたいいですけね、今のこのあたりで買う小麦粉とちごうて、うちうちで作った小麦を|こうばし《ヽヽヽヽ》にしたんですきね。団子もちぎったとを知幸は好かんで、ひらっとうのばしたとが好きですたいね。それを作って山に持って行ったら、まあばさろうおこらるるとですよ。こん山に来て、おれだけが皆とちごうたとを食べらるっかちゅうちですね、持って行ったとをひっくり返して地べたに捨ててしもうたですたい。それでもう、おはぎでんがまぜめしでんが、山に持って行くにゃ、十人おれば十人が食ぶるがしこ、七人おれば七人食ぶるがしこ持って行くしかないですたい。ばってん、そげなこつはそうそういつもでけんもんですきねえ。
それをまあ、わたし一人が悪いごとおこらるるとですよ。知幸ちゅう男ん特殊なこつは仲々周囲にゃほんとんとこは分らんし、それに知幸にゃ誰も面と向こうてなあもいえんもんですき、ただもうわたしが責めらるるですたい。なんちゅうてん、室原一族じゃあ、わたしゃやっぱあ他人みたいなもんですきねえ。ほんともう、つろうしてですね、そげな愚痴は誰にこぼすこともでけんですたい。知幸とはまるで話がでけんですし、わたしん小国《おぐに》ん父母はもう早ように亡《の》うなってますしね。娘達がはがいがって、おかあさんなまるで女中じゃちゅうちからですね一緒に泣いたこつもあるですたい。ま、若いもんの眼からみりゃ、そうとしか見えんでしたろ。
なんさま、おとうさんなあれよあれよちゅう間に英雄になっちしもうたですもん、やっぱあ、わたしんごつきもんこんめえおなごにゃ、英雄よりは襷結んじから柚子搾りよったおとうさんの方がいいですたい。ま、おとうさんな山にこもっち得意なふうですばってん、おなごはやっぱあ陰んこつをいろいろせにゃあならんとでしょうが、倉ん籾出しをしち精米所に持っち行ったり、漬物つけたり、掃除したり、洗濯したり……裕子やら節子やらおりますばってん、おとうさんの褌までは娘達にゃ洗濯させられませんもん、血で汚しちょりますもんね。ええ、痔が悪いとですよ。悪い日にゃ一日に二回も褌をとりかえるですたい。そん度びに洗濯せにゃなりません。まわりが見かねて手術をすすむるでしょうが、えずがってせんですたい。手術したら死ぬるかもしれんちゅうちからですね、国を相手に闘いよる英雄も、自分のからだんこつになると、おかしいほど臆病でしたもん。「かあちゃんよい、褌だけは娘達に洗わすんなよ、うらめしがるきのう。われがしちょけよ」ちゅうちからですね。
やっぱあ一番難儀したつは、お客さんの多いこつですたい。なんさま蜂ノ巣城んこつが有名になりだして、あげな雲ゆきになりますと、親類がですね心配しち、ちょろんぽろんとですね訪ねちくるですたい。報道陣もひっきりなしに来るですたい。さあ一人一人に挨拶もせにゃならん、お茶も出さなならん、お茶うけもみつくろわなならん、時分刻《じぶんどき》が来りゃ昼めし、夕めしも出さなならんとでしょうが。町中とはちごうて、ほら肉じゃほら魚じゃちゅうて直ぐ手には入りませんもん。日田ん町まで買いに出るたちゃ自動車もありませんしね、もう有り合わせんもんで工夫するしかないですたい。
よう、焼米を出しよったですもん。これはやおうしておいしゅうして、歯の無い知幸ん好物ですたいね。米のほやほやをね、まだ刈り取る前ん頃の米ですたいね、それつを取って水につけちょいて、それから釜で炒ったとを精米所に持って行って、さがかしてもらうとですよ。こうばしいにおいがするですたい。食ぶる時は、それに白砂糖まぶしてお茶うけにしたり、お茶をかけて醤油の実《み》をかけてざぶざぶ食べたりするとですよ。もう、志屋じゃあどこん家でんが焼米をしちょりましてね、都会からおいでなさった記者さんなんか、変な顔して食べよったですたい。なんか、えらく粗末なもんを出したふうに思うんでしょうかねえ。
そうそう、里芋もよう出しよったですたい。あん頃は大きな炉があってですね、それに焚物くべちから朝から火は消しませんでしたきね、ぜぜ鉤に土瓶を吊っち、いつでん湯はたぎっちょるちょうふうで、そっで、灰をちょっとあせっちからですね、それにあの鉄きゅう(かなあみ)で焼くのなんのそげなん品《ひん》のいいこたぁしませんばい、畑から掘りあげちざっと土を落とした芋を灰ん中にそんまんま入れちょってですね、ぷすんぷすんち焼けてくるでしょうが、それをふうふういいながら塩ふっち食ぶるとですよ。これもおいしゅうしてですね。
もう、そげなこつばかりしてましたねえ。わたしゃほんとに四方に気いばっかりつこうたもんですたい。ばってん、どしこ気いつこうたちゃ、やっぱあなんやかやひどいこつをいわるるでしょうが、おなごちゃつらいもんですたい。真夜中に湯に入るちゅうお客さんに風呂ん水を汲みながら、もう情けのうして涙んこぼれたこともありました。なんのあなた、水道なんかありましょうか。井戸もありゃせんですたい。志屋ちゅう所は岩盤の関係とかで井戸は掘らんですもんね。水はお宮んうしろから、山ん水を竹ん樋《とい》で流しん舟に引いちょりましたばってん、途中で調子が悪いと洩ったり、何かつまっちから越しよったりするもんですき、しょっちゅう水当《みずあ》てに行かななりませんたい。水舟から風呂まではちょっとばかし距離がございましてね、何回も水汲んで運ぶとが、なかなかつろうございました。あとで思えば、もうそん頃から高血圧が始まっちょったんですね、なんか気分のわるい日が続いてですね。ばってん、もうそげなこついうちょられませんもん、あとからあとからお客さんが来るでしょうが。
お客さんがみえると、わたしゃいちいち直通電話で砦ん知幸におうかがい立てるとです。こげこげいう人がみえてますが、おとうさんお会いになりますかちゅうちですね、おおそん人なら山に連れちこいちいえば、わたしが案内すっとです。ばってん、そげなん奴は追い返せちゅうとがほとんどですたい。そっで断わる役目はわたしでしょうが、もうねえ遙々とこげな山まで来た人にね、帰っちくれちゃなかなかいいだしにくうてですね、お茶を飲んでもろうたりして、なんとか気いそこねんように気いそこねんようにして切り出したもんですたい。
記者さんの中にゃ、知幸が会わんならわたしからいろいろ聞きだそうちする者もいますたいね。わたしゃあなあも分りませんき、分りませんちいえば、わたしまでが隠しちいわんごと思うてくいさがるとです。ほんとにわたしが闘争んこつはなあも知らんちわかると、なんか呆れたごとして帰ってゆくですたい。英雄室原知幸ん妻にゃまるで似合わんおなごじゃち思うんでございましょうね……。
あれは、やっぱぁそん頃んことでしたろうか、新聞記事ん中で知幸は心臓が悪いちゅうとがちらっと載ったですたい。以前、九大病院にしばらく入院しちょりましたもんね。さあそうしたら、皆からわたしが責めらるるとですよ。考えもねえ、われがいらんこつ新聞記者にしゃべったちゅうちですね。知幸んからだん弱いこつを敵に知られたら、敵ん志気が高まる、それが分らんかちゅうちですね。ばってん、わたしゃしゃべりゃせざったとです。わたしゃ、ほんと新聞記者にゃなあもしゃべらんでしたもん。それがまあ、わたしがしゃべったごと皆から責められたりするですもんねえ。
ほんなこつ、わたしゃみじめでございました。
二 砦を築く 一九五九年六月。
津江川を見降ろす蜂ノ巣岳の急峻な山腹を男達が占拠し続けている。土地の者達はこの山を|つめんへら《ヽヽヽヽヽ》と呼ぶ。
その山腹へは、裏の杣径《そまみち》伝いに上の方から降りて来ることも出来たが、それは大きな迂廻になるので部落の男達は矢張り正面から津江川を渡った。その辺り、津江川は渡渉出来ぬ程の深さではなかったが、頻繁な渡河に備えて三隻の竹筏が浮かべられた。十本の太竹を括って前後と中央に横竹を渡しただけの簡単な物で、矢張り太竹で一寸した縁枠も取り付けてある。それは間もなく四隻に増やされ、〈ダム反対いかだ〉と呼ばれるようになった。
蜂の巣橋を渡って一旦大分県側の道に出た男達は、十数米の崖を梯子で降りて磧からその竹筏に乗った。一隻に三人か四人が乗り、青竹で川床を突きながら渡って行く。渓流は澄んで、奔る小魚の影が川床に覗けた。二十米に足りぬ川幅は、要領良ければ竹竿の幾突きで渡河出来たが、一寸均衡を崩すと竹筏は大きく傾《かし》いで男達を水中に零《こぼ》し、峡谷に悲鳴と哄笑を生んだ。筏の着く場所も決められていて、狭い磧からは直ぐに十米からの崖がそそり立っている。山腹に登って行くには、磧の石伝いに置かれた杉丸太の径を右手へと歩いて行かねばならない。
蜂ノ巣岳は、志屋部落からの県道を遮った絶壁の内側が深い窪になっていて、この辺り蛇釜《じやかま》と呼ばれる深い淵をなして、そこだけが水の色も緑を帯びている。蛇釜の窪のもう一方の壁をなして迫《せ》り出た三角岩は上の方で大曾根《おおそね》となって頂上へと続くが、この大曾根の内側が九地建によって杉木立を伐除された山腹であった。それは丁度、大曾根ともっと上流の曾根との内懐のような山腹で、三角型に切り拓かれた斜面は凡そ四五〇〇坪の広さであった。
磧から仰ぐと、山腹は七十度位はあろうかとも見える急角度の傾斜で、立木を切り払ったあとの山肌は一面にみっしりと蔦葛や枯枝や朽葉で蔽われ、そこここに岩が露呈している。ぽっかりと切り拓かれた三角型の空地の右辺上方にはまだ杉木立が残っていて、それより下の方は樫、欅、桜、松、黄櫨《はぜ》などの雑木林が続いている。左斜辺にあたる部分は岸壁で、さして高くはない岸壁の上は雑木の山となっている。切り拓かれた三角型の頂き部分から更に蜂ノ巣岳の山巓《さんてん》へは一層切り立った峻嶮となっている。
九地建作業隊を津江川に燻《いぶ》し落とした五月二十日から、男達はずっとその山腹を占拠し続けている。ここを占拠したのは偶然の成行《なりゆ》きであったが、自分達がどれ程重要な戦略的地点を押さえてしまったかに、室原知幸は直ぐ気付いた。ここを占拠し続ける限り、このダムサイト地点の試錐《しすい》は不可能であり、試錐を省いてダムを造るわけにはいかないであろう。よし、山腹を占拠し続けるのだという戦術が定まり、男達が山に通い始めたのだ。
折りしもこの狭い谿間の里も田植の農繁期で、若い者や女達が田で働き、山の現場の守りには年寄った男達が詰めた。知幸、知彦兄弟、穴井隆雄、穴井恵、高野展太、末松豊、高野鉄兵等が中心であった。彼等は朝、弁当を腰に下げて鉈や鎌を手にして出かけた。充分な足拵えをして、ダム反対の赤地に白の染抜きの襷を背から胸に掛けていた。朝出て夕方には山を降った。九地建が熊本県知事から得ている立入り許可が午前八時三十分から午後五時迄と限られているので、その時限を守り抜けばよかった。
男達の山での毎日は結構多忙であった。河川敷との境界に杭を打ち連ねて、これに白ペンキを塗り鉄条網を張ってゆくだけの作業に数日間を費した。次には、九地建が伐除したまま散乱させて遁《に》げた伐倒木を陣架《じんか》けで組んで片寄せねばならなかった。これは九地建が犯した兇状の証拠物件としてこのまま残す方針である。蔦葛や朽葉や雑草で蔽われた山腹にあらましな径もつけねばならない。鍬で或る程度地|均《な》らししたあとに、磧から運んで来た石を敷き詰めていった。
「なんか、小学校ん頃を憶い出すたい」
知幸が上機嫌でそういった時、
「ほんなこつ、そうたい」
といって、年寄組は笑った。孰《いず》れも知幸とは二、三歳違いの幼馴染であった。あの頃、志屋小学校は男先生がたった一人いて、子供達は勉強に通うというよりは津江川の磧か裏山で遊ぶことの方が多かった。今、せんぐり石を手渡して運ぶ共同作業が、知幸だけでなく年寄達一人一人にそんな遠い日の事を憶い出させている。
五月二十日の夜造りあげた小屋には、〈集会場〉と描いた大看板を前面に壁のように取り付けた。その小屋は中腹より少し下がった辺りに造られている。急峻な山腹なので、まず頑丈な石組みの土台を築き、その上に間口|三間《さんげん》の小屋を乗せた恰好になっている。小屋といっても壁は無く、柱だけでトタン屋根を支え、背後だけはそそり立つ山腹そのものが壁となっている。それは日除けの小屋であったし、対岸の監視をする小屋でもあった。山に通い始めてみると、矢張りそういう拠点らしい物がないことには、なんとなく落着かぬという感じであった。
やがて第二の丸太小屋が造られた。集会場の左上方で、これは極く小さな無造作な小屋で、〈勝つぞ〉と大書した横看板を前面に張った。毎日のように対岸に偵察に来ている九地建への示威であった。
ときには昏れても作業に励む男達は、津江川から涌くように舞い上って来る蛍の小さく青い灯の饗宴に思わず手を休めて見惚《みと》れることがあった。
九地建も手を拱いていたわけではない。現場を占拠された直後の五月二十二日に〈ダム建設反対の皆様へ〉と呼びかける書簡を反対派全戸に送ったが、ほとんどが受取拒否で返送されて来た。それでも諦めずに六月九日にも〈ダム建設反対の皆様に再度啓上します〉という書簡を送ったが、これも半数以上が返送されて来ていた。〈皆さん、フルシチョフ・ソ連首相が間もなく米国を訪問する事は御存知でしょう。あの仲の悪い米ソでさえ話合いで物事を解決しようとしているのです……〉という九地建苦心の呼び掛け文を、
「まさか、ありどんなおれんこつをフルシチョフにたとえちょるんじゃなかろうのう。なんの、おれがあげな大物じゃろうかい」
と剽軽《ひようげ》て、知幸は皆を大嗤いさせた。新聞を余り読む事の無かったこの谿間の里人達も、ダム問題が緊迫して来るに連れて購読者が俄かに増え、ニュースに過敏になっているだけに、フルシチョフ・ソ連首相がニューヨークでの秋の国連総会に乗り込む事を知っている者は少なくなかった。
九地建は再び攻め込む機を窺って偵察を続けていたが、反対派の緊張は高まる一方で、室原邸の前の竹藪には高い監視小屋が設けられ、九地建のジープが通り過ぎるだけでサイレンが鳴り渡り、その度びに日に幾度でも部落の男も女も山の田から駆け降り、川辺の田から駆け登って来るのだった。もし九地建が山の現場に再び侵入を企てるなら全員がそこへ疾駆して行く手筈であった。部落を挙げての臨戦態勢が一人一人の気概を昂揚させ、誰もが驚く程機敏に反応していた。各戸の戸口には栗の木で作った拍子木が吊り下げられ、〈建設省来りなば叩きつたえよ村人に〉と大学さんの筆になる木札が添えて打ち付けられている。
部落の者達百五十人が再び山腹に籠もったのは六月十二日であった。この日午後二時、九地建はダムサイト試錐等の請負業六社を伴って対岸で現地説明会を持ったのであった。その一行が対岸に着いたとき、山腹に籠もる男も女も一斉にサイレンを鳴らし、鉦を叩き、喇叭を吹き鳴らし、太鼓を乱打し、拡声器で怒鳴り始めた。何も鳴物を持たぬ者達は青竹で山肌や岩石を撲っては怒声を放ち続けた。それはさながら合戦の鬨《とき》の声のように狭い峡谷に反響して、対岸で説明を続けようとしているダム調査事務所長野島の声を呑み尽してしまった。
男の中の一部はついに蜂ノ巣岳山巓まで登り、その高みから巨大な岩石を転ばし始めた。それは凄まじい地響きを立てながら転落し、岩稜《いわかど》にぶつかっては撥ねながら津江川に飛び込み烈しい水柱を立てた。落石の一個が支線を引っかけて切断し対岸の電柱がぐらりと傾いた時、敵味方両方からあーっという叫びが興った。もはや業者の入札どころではなかった。山を降った男達が手に手に青竹を持ち、叫びを挙げながら筏に乗ってこちらに押し渡って来るのを見た野島は、一行を素早く引き揚げさせた。
「知彦よい、〈勝つぞ〉じゃどうもちいっと弱いごたるばい。やっぱあ、〈勝った〉ちゅう看板の方が勇ましかろ。逃げち行くありどんを見ちみい。おれたちゃ、もう勝っちょるたい」
対岸の磧に渡った知幸は、山腹を振り仰いでそういった。いいながら彼の脳裡に、よし、ここを山寨《さんさい》にするかという思いつきが閃いていた。
やがて、〈勝つぞ〉の小屋の少し上方にもう一棟の丸太小屋が築かれて、それには〈勝った〉の横看板が前面に取付けられた。
山に籠もる男達が湯を沸かして茶を飲む為の釜屋も築かれた。これも壁を持たぬ簡単な丸太小屋で葦簀《よしず》をめぐらし、中には石積みの曲突《くど》がふたつ築かれ、天井からはぜぜ鉤が吊られた。釜屋の傍には湧水の溜りがあり、澄んだ清水は飲料にも洗顔にも使われたが、或る日水底の岩陰に小さな山椒魚の棲みついているのが見付かり、水汲みの度びに男達は岩陰を覗いては微笑した。
山の木立に蝉が焦《い》るように鳴き始めた頃、男達は涼み台を造った。場所は集会場の直ぐ右斜め下にあたり、急峻な斜面から宙に突き出した桟敷といった感じで、巧みに立木を支柱に取込んだ高床式台座は二十人の男達が屯する広さであった。青竹を丸毎に敷きつめて少しずつ隙間を持たせた台座には、下から川風が吹き上げて抜けたし支柱の立木が影を落とした。この辺《あた》り海抜二六〇米である。
山に籠もる男達の日々に村の生活のにおいが持ち込まれ始めている。
知幸は毎日、山に詰める男達に煙草と菓子と酒を支給するので、それ等の買物は穴井貞義の店で済ませたが、ペンキやトタンや針金など日田の町までくだらねばならぬ買物は紙片に書き付け、ヨシにいいつけて山に登った。ヨシはそれ等を買い整えて山に届けねばならなかった。ヨシの日常が慌しくなっている。その頃のヨシの日記には、〈毎日、蜂ノ巣行き〉とだけ簡潔に記されているが、彼女は筏による渡河が恐くてならなかった。こちらの磧から呼ぶと迎えの筏が来てくれたが、幾度渡河しても馴れることがなく、ヨシは筏の上に蹲って眼を閉じていた。そんなヨシを知幸がおかしがって笑った。
阿蘇外輪山北端の山峡でどうやら大きなダム反対運動が起きているらしい、しかもそれはひどく風変わりな運動であるらしいと聞きつけて入り込んで来た新聞記者達は、蜂の巣橋を渡って絶壁の向こう側の光景が展けた瞬間、あっと目を瞠って立ち止まらねばならなかった。急峻な山腹を埋めて高々と無数の赤旗が風に翻り、眼を凝らせばダム反対の文字が一枚一枚の旗を白く染め抜いている。山腹を蔽って林立する大小の夥しいプラカードは白地に赤文字で描かれている。まだ小屋数こそ少なかったが、それは正《まさ》に山寨そのものと見えた。一九五九年という現代に唐突に出現したこの珍しい光景に、町から来た記者達は呆気にとられるのだった。その一人は次のように書いている。〈初めてそれを見た時の印象と申しますと、突然目の前に時代劇の中の百姓一揆か野武士の砦が現われたようでした。巨大な国家権力に立ち向かうには滑稽な感じさえしました。でも、じっとそれを見詰めているうち、強烈な土の抵抗の意志が伝わって来るようでした〉。
それが蜂ノ巣城と呼ばれ始めたのは、もう盛夏の陽が山腹に照りつけて|草※[#「火+媼のつくり」、unicode7185]《くさいきれ》をむんむんと煽っている頃であった。最初に名付けたのが誰であるか、それははっきりしていない。蜂ノ巣岳に構える砦が蜂ノ巣城と呼ばれ始めたのは、ごく自然発生的であったとしておいてよかろう。その二年前に製作されて評判の黒沢明監督の映画『蜘蛛巣城』の|もじり《ヽヽヽ》である事が読者の興をそそって、以後その呼び名は紙面に定着していった。
それが蜂ノ巣城と呼ばれ始めた以上、室原知幸は蜂ノ巣城城主ということになる。しかしこの城主は記者達にとってどう理解していいか掴みようもない程に奇矯で怕《こわ》い老人であった。記者達の入城は勿論、一切の取材にも応じようとはしなかった。何故取材を拒否されるのかさっぱり分らぬ記者達は、蜂ノ巣城への朝の登城時と夕べの下城時を待ち伏せて執拗な取材を試みようと図った。
「お前達《まいだん》は――」この傲岸な城主は、時には記者達をそう呼び捨てた。「新聞記事を書くとが商売だろうが、おれはお前達《まいだん》商売にいちいち協力する暇など無いたい。なんさま、国家を相手の戦《いくさ》ん真最中でのう」
「ですから、何故そんなに反対していられるのか、その理由を是非聞かせて欲しいんです。それを広く世間に伝えて世論の同調を得ることは、あなた方の運動にとって大きな支援になると思うんです」
若い記者が、|むき《ヽヽ》になって喰いさがる。
「小賢《こざか》しいこつをいうでない。そげなこたぁしてもらわんでいいたい。おりどんの闘いはおりどんでやるたい。ま、君達も土地収用法でももっと勉強してから出直して来なさい」
若造、何が解るかっという一方的叱責で切捨てて、この城主はすたすたと行く。或る時、喰いさがる婦人記者は逆に知幸から浴びせられた質問に答え切れずに面罵されてその場で泣き出してしまった。うっかりと片手をズボンのポケットに差込んだまま知幸にものをいい掛けた記者も、磧の岩の上から声を掛けた記者も、途端に「無礼者っ」と一喝されてもう二度と口を利いてもらえなくなった。この倨傲で奇矯な城主には取り付く島が無かった。
九地建も又、この城主・室原知幸との折衝の場を見出せずに焦っていた。事の成行きに窮した九地建局長上ノ土実は、熊本県知事寺本広作に現地へ出向いての説得を強く懇請した。
大分県知事木下|郁《かおる》が積極的に中津江村などに出向いて説得したのと対照的に、寺本はこれまで一度も現地に来ていなかった。それを懇請したのも実は今度が初めてではない。先に土地収用法第十四条を適用するに当たって、その事前に現地出向を強く懇請しながら容れられなかった。あの時が取返しのつかぬ逸機だったのではないかという不安と悔やしさが今も野島の心中に蟠っている。
しかし、県知事寺本の立場も微妙であった。熊本県にしてみれば両ダムによる受益は何も無く被害だけを受けるのである。まして其処は、県政の中枢熊本市から見れば関心を払うに遠過ぎる山峡の辺境である。積極的介入に立つ気にはなれなかったろう。暫く冷却期間を置くことは出来ぬのかどうか村上建設大臣の意向を尋《ただ》しに上京した県知事は、帰県後「国の態度があれ程強硬とは知らなかった」と嘆息した。
県知事寺本広作がやっと重い腰を上げて阿蘇大観峯《あそだいかんぽう》を越えたのは八月二十六日であった。鬱蒼と続く杉木立の中を行く九十九折《つづらおり》の道は蝉しぐれに覆われていた。南小国《みなみおぐに》から小国へ入れば、道は筑紫次郎の源流杖立川に沿うて降って行く。どこまで行っても亭々と聳える杉木立は尽きず、思いがけなく木立の奥に隠されたような小さな滝が迸っていたりする。こんな平和郷の奥に大きな争擾《そうじよう》が待ち受けているとは、寺本には信じられない気がした。だが温泉の湯煙りの白じろと立ち登る杖立辺りから、沿道にダム反対のプラカードが見え始めて、それは芋生野《いもの》、浅瀬《あさぜ》と通り抜けるに連れて一挙に増えていった。寺本はむっつりと黙っていた。
志屋部落はこの日、知事を迎えるべく殊更賑やかにプラカードと旗と横断幕を氾濫させていた。志屋部落を半ば過ぎた時、寺本は側近にふと尋ねた。
「室原知幸氏の家はどれだろうな?」
知る者がなかった。丁度道脇の竹藪でプラカードを立てている頬被りの農夫に、車を止めて訊《き》いてみた。男は黙ったまま斜め前の邸に顎をしゃくってみせた。
「ああ、ここか」
寺本は石垣の上に板塀をめぐらした邸を一瞥しただけで車を進めさせた。邸の門は閉ざされていた。車が少し動いた時、側近の一人が頓狂な声を発した。
「あっ、今のは確か室原知幸では!」
はじかれたように一行が振り返った時、頬被りの男は消えていた。誰も半信半疑であったが、それは紛れもなく室原知幸であった。芝居っ気の多いこの老人は県知事一行をそんな形で迎えたのであった。
峰の巣橋を渡って対岸の山腹へと視野が展けた瞬間、寺本は茫然として呟いた。
「これはひどい――」
たじろいだように言葉を呑んだが、もう一度同じことを呟いた。
「これはひどい。想像以上だ」
寺本も沿道の夥しいプラカードを抜けて来つつ或る程度の覚悟は定めていたが、今眼前の光景と耳朶を打つ甚しい喧騒は想像を遙かに超えていた。この日反対派は二百名が鉢巻を締め襷を掛けて砦の中に詰めていた。真紅の旗と白いプラカードは山腹を賑わせ、あらゆる鳴物が輻輳《ふくそう》して峡谷に響き合う有様は往古の合戦絵巻を再現したかと思わせる光景であった。
筏は全て対岸の磧に引き揚げられ、津江川を渡る術《すべ》は無かった。気を取り直した寺本は対岸の砦に向かって大きく手を振り、深々と頭を下げた。砦に籠もる反対派に精一杯の挨拶を送ったのである。やおら両手を口に当てると大声で叫び始めた。
「熊本県知事の寺本でーす。皆さん方の反対理由を充分聞かせていただこうと思ってやって参りました。私一人でいいですから、そちらへ渡してくださーい。それが無理でしたら、どなたか代表の方こちらにおいでくださーい。話し合いましょう。室原知幸さんはおいでますかあ」
津江川の瀬音と砦の鳴物に押されて、寺本は自分の叫び声が忽ち消えこんでいく心細さに一層声を張り上げていった。マイクの用意を忘れた側近に腹が立った。
砦からは嘲弄の声がマイクで返って来た。
「皆さーん。今対岸の道から何やら叫《おら》んでいられるのが熊本県知事さんでーす。私達が滅多に見られぬ偉いお方ですから、よーく見ておきましょう。――県知事さんに申上げます。私共が今居る場所は、あなたの許可で丸裸にされた所でーす。よーくこの光景を見てお帰りくださーい。今更話し合うことはございませーん」
その声は知彦であった。県知事如きには城代家老の応対で充分という皮肉が籠められていた。県知事は尚三十分に亙って叫び続けたが遂に声を嗄らして対岸を離れた。
「このような異常な反対運動は見た事が無い。大抵私が出て来れば話し合いに応ずるものだが……。もうこんな所には二度と来たくない」
記者団に取り囲まれた県知事は忿懣をぶちまけると、谿間の里を後にした。
砦に籠もる二百人の興奮は、自らが響かす喧騒に掻き立てられて弥《いや》が上にも昂まっていた。これまで手も届かぬ|偉い人《ヽヽヽ》と見えていた県知事殿ですら、自分達百姓の団結の前には歯が立たなかったではないか。マイクも無いまま口に手を当ててぱくぱくと何やら叫《おら》んでいたあの滑稽さといったら……。
砦の二百人は少なくともこの瞬間、ダム反対闘争の勝利を信じていた。
三 冬の砦
谿間の里の秋は短い。
雑木林が黄葉を散らし、薄紅色の山茶花が花を零し始めると、山は日毎に冷えて来る。男達が籠もるこの窪みのような山腹は殊に日当たりが悪かった。
九地建が再び強制測量に突入するのではないかと懸念された十月も、何事もなく過ぎようとしていた。ただ、この月二度に亙って知幸は筑後川改修期成同盟代表と会談している。ダム建設促進の立場の者との話合いを一切峻拒してきた知幸としては珍しい事であった。矢張り、あの二八災で大きな被害を受けた筑後川下流域の人々の声を無下に拒むことは出来ぬと顧慮したのであろう。筑後川改修期成同盟は下筌ダム反対運動の高まりに拮抗して下流域八市二十二町村代表が結成した組織で、会長は久留米市長杉本勝次である。二八災当時福岡県知事として筑後川氾濫の惨状を身をもって体験した杉本は、郷里久留米の市長に転じてから、筑後川改修の促進に精力を注いでいた。彼は、筑後川治水には下流部の改修だけでは抜本策にならず、どうしても上流に流量調節用のダムが必要であると見ていた。唯、そうだからといって上流の少数者に一方的に犠牲を強《し》いる積りは無かった。下流域七十万人が感謝金を積む覚悟で、杉本は室原知幸の理解を請《こ》おうと考えていた。
正面から会見を申込んでも拒まれるかもしれぬと考えた杉本は、佐賀県諸富町の三島町長と二人で早朝から室原邸の門前に佇ち尽した。重く閉ざされた門の内から金木犀の芳香が頻りに漂って来た。午前七時、蜂ノ巣城に出て行こうと門を開いた知幸に杉本は挨拶した。知幸も意外に愛想よく応じて門内に導いたが玄関の上り框《がまち》に腰掛けて座敷にあがれとはいわなかった。会談は、再び襲うかもしれぬ大洪水に対する下流域七十万人の不安をいう杉本と、いや、筑後川治水にはダムよりももっと事前に打つ手があると主張する知幸が平行線を辿るのみで終った。諦め切れぬ杉本は、日を置いてもう一度知幸を訪れたがもはや会談に進展はなく、以後両者は激しく対立していくことになる。国賊と罵る端書が下流の人々から寄せられるようになり、知幸も又狂歌で応える。
端書もて我等水没せよと迫るか、筑後川下流のあさましき人々は
この会談に一縷の望みを繋いでいた九地建は落胆した。もはや話合いによる解決は望めぬと分っていながら、しかし強制測量に突入する事はためらわれた。漸くこの風変わりな紛争が全国の注目を集め始めていて、九地建も安易な強行策は執《と》れなくなっている。国家権力に抗して奇抜な山寨戦術で果敢に闘い続けている谿間の農民に対して快哉の思いを寄せる国民は少なからずいると見做さねばならなかった。嶮しい山腹にもし強行突入して流血の事態を招けば、その非難が建設省に集中するだろう事は眼に見えている。だが事情はどうあれ、このまま逡巡の許される事ではなかった。おそらく、年が明けた一月こそが決戦ではないかという臆測が新たに流れ始めていた。
山の男達は越冬準備に精出している。
まず集会場の拡張から手を付けていた。ここを越冬本拠にするつもりである。間口を三間半に拡げ、奥行きの方も二間余の広さを取るように、土台の石垣を大きく築き足した。背後は以前のまま山腹の岩を壁としたが、これ迄柱だけで吹き抜けであった左右に鎧張りの板壁を張り、引戸を付けて出入口とした。正面は下半分を板壁として上部は硝子窓を入れた。板壁には〈集会場〉の大看板を従前通り取付けて、新たにサイレン第一号を窓外に備えた。
拡張された集会場の内は八帖の座敷と六帖の土間に分けられて、土間の中央にはドラム缶で造った大きなストーヴが据えられ、それを囲むように両側に木のベンチが置かれた。
この頃にはもう男達は十人編成で毎日の登城輪番が決まっていたので、この集会場の壁に全員の木札が提げられ、登城して来るとまず自分の名札を表向きにすることから山での一日を始めるようになっていった。登城者は番丁《ばんちよう》と呼ばれ、それは大体週に一度位の割りで廻って来る。集会場の座敷には夜具も置かれ、泊まろうと思えば五、六人は寝ることが出来たし、室原邸との直通電話もテレビもここに置かれた。どういうわけか知幸は大きな天体望遠鏡までここに持込んで皆を驚かせた。
薪小屋も造られ、その小屋一杯に焚木が貯えられていった。越冬準備に精出す男達の頭上で百舌鳥が鋭く鳴き、騒がしく鵯《ひよ》の大群が渡った。
山仕事に馴れた男達は小屋架けにも石垣を組むことにも巧みであった。杉丸太も竹も手近にあったし、石は磧にあった。皆、活《い》き活《い》きと立働いたが、中でもひときわ活躍の目立つ男がいた。背は高くないが頑丈な体躯は並みはずれた膂力《りよりよく》を感じさせて、その相貌にもどこか周囲を懼《おそ》れさせる不逞のにおいがあった。皆、この男のことを武《たけ》しゃんと呼んだ。
この年四十三歳の穴井武雄は地付きの者ではなかった。戦後、妻ハスヨと共に入婿・入嫁の形で志屋の|かさ《ヽヽ》ん家に養子入りしている。新参者の彼は、志屋部落の者が孰《いず》れも室原家か北里家の二大勢力に色分けされている煩わしさを嫌って、両者から等距離を保とうとして来た。滅法力が強い上に高所を恐れぬ彼は、立木の伐採や伐倒木の搬出を請負って、良く仕事の出来る男としての評判を得ていた。
彼がかつて広島で橋を架けたり土木建設工事に働いていたという前身を知らぬ志屋の男達は、蜂ノ巣城構築に示す武しゃんの技倆に眼を瞠ることになった。勿論、知幸がいち早く武しゃんの異能に着目した。
「武雄君、こげな所に見張り小屋が立ったら九地建の連中もたまがるじゃろばい」
一体に、知幸は誰に対してもこれをしてくれという頼み方をすることは稀であった。周囲の方が、彼のさりげないものいいから何をしてもらいたがっているのかを察してやらねば急に不機嫌になるというふうなのだ。武雄も、知幸のそんな風変りなものいいを察し始めている。もともと、蜂ノ巣城に輪番で出るようになるまで武雄は室原知幸をほとんど知らなかった。村の祭りにも顔を見せぬ座敷大学さんに会うのは、やっと部落の誰かの葬式の折りくらいしかなかったのだ。砦で接する知幸は、想像していたよりは明るい表情で冗談などをいったが、己が意のままにならぬ時彼の癇性な怒りは周囲に容赦なく投げつけられて、そんな時の知幸は正に暴君のように見えた。
「武雄君、こげな所に――」
と知幸がいって指呼するのは、大抵高く嶮しい場所であったり、掘ることも釘を打ち込むことも出来そうにない岩場であることが多かった。知幸がそういいだした以上、不可能だと答えれば不機嫌になることは分っている。捩り鉢巻の武雄は黙ったまま腕組みして、その絶壁や岩場に鋭い視線を遣る。丸太を立てる足場になりそうな僅かな岩襞や、ワイヤーを掛ける割れ目を探しているのだ。やっと、彼は短い呟きのような言葉を洩らす。
「ひとつ、やってみますばい」
武しゃんが敏捷に動き始めると、男達も一斉に動き始める。彼を指揮者と定めたわけではないが、おのずとそういう築城体制が出来ていった。
私は取材の過程で穴井武雄の小屋造りの工夫を実見する為に、今も遺る数少ない蜂ノ巣城の形骸である一棟の見張り小屋まで登って行った。同行は広島工業大学工学部建築科講師地井昭夫とそのゼミナールの学生達であった。それは高い断崖の上にもう一段|突兀《とつこつ》と立つ狭い岩場を土台として組まれた見張り小屋で、かつては蜂ノ巣城と志屋部落両方を見霽《みはるか》す位置であったろうと思われる。そこに至る径は、もう荒草と蔦と灌木の繁りに蔽われて消えかかっていた。霧の霽れたばかりの早朝、蝮を懼《おそ》れて棒で草叢《くさむら》を薙ぎつつ露の中を登って行った。その見張り小屋は蜂ノ巣城紛争も末期に近い頃築かれたもので、それでも既に十年はこの吹き曝しの崖上に佇立《ちよりつ》し続けたことになる。辿り着いて見ると、屋根のトタン板は吹き放されて天井は既に無かった。
だが、入口の滑り戸は思いがけなく軽々と動いた。十年余の風雨を正面《まとも》に浴びながら、その小屋組みが聊かも狂っていないのであろう。高所恐怖症に近い私は懼る懼る小屋に踏み込んだが、三方を囲む鎧張りの板壁の丁度眼高の辺りの一枚ずつが武者窓となっていて、そこからふと見降ろした遙か眼下の深い底いに津江川が光っていた。一瞬眼の昏む気のして、思わず私は一歩身を退いていた。よくもこんな危険極まりない場所に小屋を構築し得たものだという素朴な驚きが衝き上げていた。このような場所を敢えて選んだに違いない武しゃんの、己が技倆に賭けた意地と誇りが察しられる。
そそり立つ断崖の上に突き出た瘤のような岩場があり、そこに見張り小屋は立っているのだが、その岩場は狭過ぎて小屋の半分程は宙に迫《せ》り出している。それを支える幾本かの太い丸太はずっと下の方の断崖の岩襞をうまく足場として立てられているが、その根方は巧みに岩と岩の裂け目に差し込んだり、八番線の針金で岩石にしっかりと括りつけたりしている。小屋の床下には一本の丸太が横向きに丁度狭い岩場そのものを支えとした梃《てこ》のように通されて宙に突き出ているが、その丸太の一方の端は岩蔭の合歓木《ねむのき》に結《ゆわ》えられている。小屋の床を支える一本の丸太を繋ぎ留めるには痛ましい気のする程細い木なのだが、山の木はさすがに強靭なのか折りしも優しい薄桃色の絮《わた》のような花をけぶらせていた。
支柱一本一本の固定の工夫を見ていくに連れて、その場の自然条件を十全に利用し尽しているという臨機の知恵が随所に読み取れて、私は感動していた。今はもう全貌を見ること叶わぬ蜂ノ巣城幾十棟の小屋一個一個にこのような工夫が光っていたに違いない。
「僕等の建築学は、いつの間にかこういう素朴で基本的な技倆を忘れてしまっているようです」
地井昭夫は幾度も慨歎した。
思えば、ダム問題に遭遇したことで室原知幸がその智力、意志力の限りを触発されていったように、武しゃんも又水を得た魚のように活躍の場を得たということになろう。後年、部落の全員が知幸から離反して去ったあとにも、武しゃんのみは知幸に随《つ》いて尚一人抵抗の城造りを続けてゆくことになる。
「そりゃあそうたい。武しゃんな室原さんから金で雇われちょったとじゃき、やめようにやめられんたい」
今、かつての志屋部落の者達は穴井武雄の事に触れると、或る含みを込めてそういう。知幸が武雄の特殊な技倆に着目して、彼にだけは給料を払うことで毎日の登城を義務づけていたことは事実である。だがそれだけのことで彼があの気難しい城主に最期近く迄|従《つ》いていったとは考えられぬ。そうさせたのは、矢張り彼の職人としての技倆の誇りであったに違いない。己が腕一本で築き上げていく砦が国家という巨大な敵を思うさま翻弄していく痛快さが武雄を駆り立てたに違いない。彼の生涯でこの時期程、壮大な気宇を誇れる日がかつてあったろうか。懼るべき断崖上に孤り佇立して遺る見張り小屋に立てば武しゃんと呼ばれた男の己が腕一本で国家と張り合った凄まじい意地が伝わって来る。それは同時に、室原知幸という、より凄まじい男の意地を背景にしてのことではあったが。
武しゃんは志屋の男達に余り好かれなかったようである。部落の新参者であるからというだけでなく、どうやら彼の不逞な面魂と膂力が周囲に或る懼れを抱かせたようであるし、又その狷介な職人気質が荒い声を立てさせもしたからであろう。そんな武雄の烈しい気性には知幸も一目置いていて、
「わりゃあもう、こうち思うたら人んいうこたぁ聞くとじゃないき」
といって、彼だけは為《な》すに任せたが、そういう特別扱いもかえって他の者達の反感をそそったろう。
「わたしは随分と喧《やかま》しゅういうたですきね。皆していっぺん造った小屋でん、気に喰わんと直ぐにくずしてやり直させたりしましたもんね。わたしゃあ雑な仕事は好かんですきね」
穴井武雄は、自らが余り好感を持たれなかった理由《わけ》をそんなふうにいう。確かに、彼の築城作業は厳しかった。もし支柱の一本が外《はず》れても小屋は急斜面を転落して行き、それは次々と他の小屋を捲き込んで雪崩《なだれ》を打つような惨事を呼ぶかもしれない。それが武雄の仕事を厳しくさせていた。ずっと後年、蜂ノ巣城で七百の反対派と数百の警官隊が激突する日が来るが、それだけの荒々しい人員を呑みこんでもついに一個の小屋も自壊することはなかったのだ。
「わたしんこつはいろいろいわれてるでしょうな。しかし、何をいわれたちゃわたしは気にせんですたい。あん闘いん中で誰がどれだけんこつをしたちゅうつは、わたしがぴしゃあっと知っちょるですもんね。ばってん、わたしはそれを今更しゃべったりはせんですたい――」
今、穴井武雄の寡黙は突き崩せぬ程に重い。
十二月十七日にこの冬初めての雪が砦に舞い散ったが、それは積む程のものではなかった。そのまま雪を見ずに新しい年を迎えた。
一九六〇年の元旦、城主室原知幸は七時には登城し、やがて次々と詰めかけた部落の男達と共に屠蘇を酌み交した。
「さあ、いよいよ待った無しの決戦の年ばい。ありどんが暴で来れば暴で迎え撃つぞ」
大きな注連縄《しめなわ》を飾った集会場で、知幸はさも朗らかにいい放った。翌二日には、今度は女組が城に詰めて屠蘇を酌み、これからは女組も番丁を組んでの登城を決めた。
蜂ノ巣城への往き来に降り立つ大分県側の磧には、既に葦簀《よしず》張りの戦闘指揮所と救護所が設けられていて、決戦前夜の緊迫をいやが上にも掻き立てている。磧から上がった県道脇には高い監視所が築かれ、その下の看板には、〈決戦地、左下川原。予定三十五年一月。敵――建設省、味方――ダム反対者〉との戦闘宣言が大書されている。城主知幸の芝居っ気はここでも発揮されていて、二十本もの大杓文字《おおしやもじ》を立て連ねてその一本一本に例の狂歌の新作を墨黒々と披露しているのであった。
飯をとるを務《つとめ》とす、このシャモジ群、今は小役人を召捕る用に
千余の警官来る由 志屋の蜂の巣さてわ蜂の巣となる
志屋の蜂の巣真冬もぶんぶん 触《さわ》らしゃんすな生命《いのち》にかかる
鉄条網にて往生せしムササビ 誰の身代りぞ師走四日夜のこと
上の土、上土《じようど》にあらず下土《げど》なり 下土なれば農夫《われら》関せず〔註〕
ダムよあんたなんかに惚れやせぬ 捨てちゃえ捨てちゃえ
俺達を湖底へと痴《おこ》がまし たかが|※渫匠《けんせつしよう》じゃないかいな
〔註〕上ノ土九地建局長への揶揄
中には、さっぱり意味の解らぬ歌も混じっていたが、それを尋ねて城主の逆鱗に触れる程な物好きはさすがにいなかった。
知幸の芝居っ気はそれにとどまらない。昔から蛇穴があるといわれてきた蛇釜の滝壺の窪みに大きな注連縄を張って蜂ノ巣城の守護神としたし、砦の中に蜂の宮の祠を据えもした。更に、蜂の巣橋から志屋寄り五十米のあたりの道脇を整地して柿の木を植え込んだ小園を造り、ここに〈蜂之巣〉と大書した桜の木の頑丈な標識を立てアカバチの巨きな巣を吊り下げるということもした。町から来る記者達には、最初そんな虚仮威《こけおどし》がいかにも田舎者の泥臭い稚気剥き出しに感じられて顰蹙《ひんしゆく》の苦笑を誘ったが、それでも知幸があとからあとから臆面もなく繰り出して来る奇妙な演出にいつしか圧倒されていくのだった。
女組の番丁が三人ずつ組まれて砦に通い始めると、早速炊事場が造られた。釜屋の直ぐ斜め下で、水も釜屋横の湧水の溜りから樋で引いた。女の番丁は、朝家を出る時にそれぞれの畑から野菜を摘んで持ち寄った。どの家でも、ちょっとした初物《はつもの》が成ると、まず室原さんに喰べてもらおうといって砦に持って来た。砦に薄青く炊煙が立ち始めると、山の生活もひとしお親しさを増した。
或る日、炊事当番に当たった穴井ツユは豆腐を切ろうとして思わず土間に取り落としてしまった。驚いたことに、豆腐はこわれなかった。志屋小学校下の穴井義亥が造る豆腐はよしちゃん豆腐と呼ばれて、どういうものかひどく固い。ツユが泥のついた豆腐の表面を庖丁で薄く削ぎ落とし何喰わぬ顔で鍋に放り込んだ時、思いがけず「こらっ!」という大喝が降って来た。見られてない筈だったのに、一番怕い知幸が見ていたのだ。首を竦めて振返ると、知幸の表情が笑っていた。異常なまでに潔癖過ぎた知幸も、山の共同生活の中で少しずつ変化している。
それでも彼は毎日のように砦を巡廻しては紙屑や木屑を神経質に拾い廻ることだけは止めなかった。古釘などは箱に拾い収めた。物を散らすことも、物を粗末にすることも彼には我慢ならぬようだった。皆が困るのは、知幸と共に膳を囲む時である。少しでも喰べ残しをすると叱られるので、知幸の隙を見て背後にそっと隠しこまねばならなかった。
喘息を持つ知幸の山での越冬をヨシは気遣ったが、当人はそんな持病も忘れたようである。尤も、彼の喘息は一風変ったアレルギー性疾患で、女の脂粉を嗅ぐと起こる発作だから山での男達に囲まれての生活はかえって良かったのだろう。
決戦を目前に男達の泊り込みが始まると、喇叭の消灯譜が凍るような峡谷の虚空に夜毎寂しく吹き鳴らされた。
事態はいよいよ急迫しているのに、相変わらず知幸は取材拒否の姿勢を崩さない。記者陣は、城主知幸攻略に心を砕いたがまだ成功者はいなかった。
西日本新聞記者稲積謙次郎は、なんとしても単独インタビューを取る覚悟で、或る底冷えのする一夜、カメラマンと共に室原邸の門を潜った。入れ違いに他社の記者が出て行きながら、「とんだ玄関払いさ」と苦笑してみせた。悪い時に来たなと、たじろぎが湧いたが意を決して玄関に入り込んだ。途端に大喝が降って来た。
「甘えちゃいかん! 隴《ろう》を得て蜀《しよく》を望む≠ソゅう諺を知っちょるとか!」
稲積は一瞬ぽかんとした。何の事をいわれたのか咄嗟に判断がつかなかった。隴を得て蜀を望む≠ニは――確か、ひとつの野望を果たして更に次なる野望を貪る事をいう筈だがと考えた時、はっと悟った。この日の午後、彼はカメラマンと共に磧の知幸にインタビューを懇請してついに容れられず、しかしやっと外から蜂ノ巣城を撮影することだけは許可されたのであった。その事に付込《つけこ》んでもうひと押しとばかり邸まで押し掛けて来たのを、甘えるなっと大喝されたのだなと気付くと、稲積は思わず顔が赧らんだが、しかしここで「怯《ひる》んではならなかった。彼は眼眸《まなざし》に力をこめて知幸を見返した。真正面からの挑戦であった。梃でも動かぬという稲積の気迫を感じ取ったのか、知幸は悟すようにいい始めた。
「人間、礼儀が一番大事なんだよ。建設省の役人はそれを知らんから腹が立つんだ。昔の武士は己れを辱かしめられれば相手を即座に斬って捨てた。斬ること叶わねば自らが恥じて自刃した。男の尊厳とはそれ程に重いものだ。それを建設省の小役人共は忘れちょるたい。おれがそれを徹底的に思い知らせてやる」
やがて堰を切ったように知幸は早口で喋り始めていた。一言一言が烈しく九地建の不法行為を撲《う》つ非難である。稲積はまるで自分が叱責されているようであった。堆《うずたか》く積まれた本の山から次々と抜き出しては、己が理論の正当な根拠を示してダム反対論を説いていった。激した時の癖なのか、知幸の片頬はひくひくと痙攣している。眼が細くて眉毛も有るか無きかに薄い知幸がそうやっていい募《つの》る表情が、ふと、やんちゃな少年のように稲積には見えた。質問を挟むどころか、坐れともいって呉れない。玄関の土間に立たされたままの稲積とカメラマンは、絶えず己が両足を交互に踏みつけては凍《こご》えに耐えていた。知幸自身も玄関の間に棒立ちになって坐ろうとしない。口の端に泡を溜めて、口説《くぜつ》は歇《や》むことを知らない。カメラマンが大きな咳をする真似をしながら、先刻から巧みにカメラのシャッターを押し続けている。
「知らんと思うて、先刻から何度撮せば気が済むとかっ!」
忽ち大喝が降った。全てを見抜いている怕い老人だと身が竦んだ。
「――向こうが暴力で来れば、こっちも暴力で迎え撃つ以外無いじゃないか。もう真剣勝負の太刀は斬り結ばれている。だが、こっちはあくまで受け太刀《だち》だ。相手が剣を引かぬ限り、こっちから引くわけにゃいかん。引けば斬られる。こうなりゃ、もうイデオロギーとか理屈じゃないたい。補償も要らん。意地と意地の戦いだよ。墳墓の地を死守してみせるたい。今夜の講義はこれで終り。さ、帰りなさい。もっと勉強するんだぞ」
知幸はさっさと奥に入って行った。吻《ほつ》と吐息が出た。実に三時間に亙る長口舌を立ちっ放しで聞かされたのである。二人は凍えと緊張で震えながら帰って行った。数日して隠し撮りの写真が出来上るとそれを拡大して稲積は知幸に送り付けた。手紙を添えた。〈あなたが意地の戦いというなら、私にも新聞記者の職を賭した意地がある。あなたが私を拒み続けるなら、私は意地でもあなたと戦う〉
数日後磧で行き遇った時、知幸がにやりと笑って呼んだ。
「おい、意地っ張り屋、おれについて来い」
稲積が呆気にとられたことに、知幸はずんずんと彼を砦の内に導き入れた。
「この男は、生意気にもおれに喧嘩を売って来た初めての記者だ。その心意気が気に入ったから、これから木戸御免にする」
集会場でそういって皆に紹介された時、稲積は固くなってお辞儀をしたが、熱いものが込み上げていた。
しかし稲積はまだ稀な成功例であった。相変わらず知幸の癇癖な取材拒否は柔らぐ気配はなかった。蜂ノ巣城主が如何に取材者泣かせであったかを書き残した作家がいる。安部公房である。安部が『中央公論』誌の依頼で現地を訪れたのは、この年四月二十六日であった。現地で遇ったA新聞記者が、この東京から来た芥川賞作家の会見希望を室原邸からの直通電話で砦の城主に取次いでくれる。
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〈それにしても、おそろしく長い電話だった。やっと二十分ほどしてから、やや緊張にあおざめた表情で、記者氏が振り向き、やはりどうしても会うわけにはいかないし、また電話に出てもらうわけにもいかないと言っている。東京から来たくらい、ちっとも珍しくない。さる週刊誌の記者などは、真面目に一週間も通いつめたから、やっと会ってやったのだ。ついせんだってもある女の小説家が来たが、一回目にいきなり私の話を聞こうだなどとするから、その場で断わってやった。大体、土地収用法の第十四条! がなんであるかも、ろくすっぽ知らないくせに、私に会いたいだなどというのは横着過ぎる。そんな不真面目な連中に、いちいち会っていたのでは、時間の無駄だ。本気で私に会いたければ、六法全書でも勉強してから、出なおして来なさい……と、まあ大体そんなことを、延々としゃべりまくったというのである〉
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会いもせずに頭ごなしに不勉強だと切捨てられて、安部はさぞ苦笑したろう。安部は丁度、ダム建設現場を舞台とする長篇『石の眼』を書きあげたあとであり、その取材の為に佐久間、奥只見《おくただみ》、御母衣《みほろ》、黒部《くろべ》など幾つものダムを歩いていて既にダムの諸問題に関しては一家言を抱いていた。
矢張り室原知幸は世間でいわれているように一種奇矯の老人であるのか、それとも奇を装う策士であるのか。もし後者だとすれば、そのように奇矯な策を弄してまで企んでいる真の目的は奈辺《なへん》にあるのか、――安部のルポルタージュは、その事の推理を展開することで成り立ってゆく。卓抜なこのルポルタージュが、しかし今読み返して聊か滑稽であるのは、室原知幸の企む真の目的なるものを詮索して展開される彼の推理が巧緻であればある程に、その|考え過ぎ《ヽヽヽヽ》が実相から隔たっていくおかしさである。その実相は一片の推理を働かす必要も無く眼前に丸見えであるのに、それが余りにも単純過ぎて信じられずに、裏を裏をと読んでゆうこうとする知識人安部の怜悧さの空転が滑稽めく。
室原知幸が夥しく翻しているダム絶対反対の旗印に、その裏の意味など有りはしなかった。ダムを造らせぬという決意の他に何の企みも有りはしなかった。だが、各地でのダム反対が常に補償交渉を有利に導く為の利を狙った運動であることを見慣れている世間知《せけんち》は、ダム絶対反対という単純明瞭な旗印にも、尚その裏の狙いを詮索してやまぬのである。何かの利に絡む狙いが無くて、なんで惜し気もなく大金を注ぎ込んでまで蜂ノ巣城などを構築するものかという勘繰りから、安部も又逃れることは出来なかった。『事件の背景』と題する安部のルポルタージュはエッセイ集『砂漠の思想』(講談社刊)に所収されて今も読み継がれているのだが。
四 国会に立つ
「わたしにゃあ、あん連合赤軍の気持がなんかこう判るごつあるとですばい」
いきなり穴井ツユさんにそういわれた時、私は一瞬あっけにとられてしまった。蜂ノ巣城の憶い出を愉しげに語ってくれるこの陽気な婦人の口から唐突に飛び出した連合赤軍という言葉は、なんとも不釣合であった。
「――やっぱあ今思や、砦ん中ちゅうつは特別な世界じゃったなち思うとですばい。あん頃は、家に居ると親戚やらなんやらが来るでしょうが。いわるるですたい。あんたたちゃあ国んするこつに反対しよるばってん、絶対かのうはずはないじゃろうもん、てえげん頃にやめた方がよかばいちね。そっでもう、ほんとそうじゃなあち不安になるでしょうが。それがあなた、砦に出て行くと室原さんが、なんのダムが出来らりゅうか、これこれこういうわけでもって国はこんダムを造れんごとなっちょるちゅうちですね、諄々《じゆんじゆん》と説明してくるるですよ、ああやっぱりこん闘いは勝つばいちゅう気にさせられてしまうとですばい――」
ああ、そうなのか。彼女がいいたいのはそういう事なのか。赤城山中に籠もった連合赤軍がその極度な閉鎖生活の中で一人一人がカリスマ的雰囲気に呪縛されていった有様を、今彼女は往時の蜂ノ巣城を振り返って、ふと重ね合わせているのだ。
確かに、砦の中で部落の者達に諄々と説き続ける室原知幸には教祖的雰囲気が濃かったろう。後年、知幸は国土問題研究所理事佐藤武夫への手紙の中で次のように述べている。〈蜂之巣城に集った各位へ(ブラクミン)と、毎日、ダムの話(下筌ダムと限らず)、河川、地域開発、公共事業の在り方、法律、特に蜂之巣関係の各訴訟、収用委員会、国会の予算や建設各委員会、河川、宅地関係の各政府案等を語り合っています。……全力を傾倒して、農民の信頼感に応えています。建設省を相手とする反対闘争の至難にして長年月に及ぶ事を当初から意識して、多数決(合議制)に依る甲論乙駁のため反対闘争の土崩瓦壊を恐れこれを防ぎつつ進む方法を最初から取っている次第です。然し前記の如く、毎日各位と蜂之巣で意見の調整をやっています……〉
この手紙で知幸が強調しているのは、合議を排し一切を己が一存で決してゆくという特異な蜂ノ巣城方式を維持する前提として彼が常に部落の者達の啓蒙を怠らなかったという点であろう。だが、〈毎日各位と蜂之巣で意見の調整をやっています〉という件《くだ》りは、明らかに外部に対する知幸の弁明である。やがて見ていくように、室原知幸は部落の皆の意見に耳を傾けることはほとんどしていない。質問ひとつにしてからが、それが適切でない時には、「わりゃあ何度同じこつをしゃべらすっとか」と忽ち大喝されるので、誰も解った顔をして知幸の話を一方的に傾聴するというのが大凡《おおよそ》砦の光景といえた。正に、城主室原知幸には啓蒙専制君主の称号が相応《ふさわ》しかったかもしれない。
――一九六〇年一月十九日、砦はこの冬初めての積雪を見た。一望全山の杉が雪を被《かず》いた風景は浄い。
「今日は雪見酒たい」
集会場のストーヴを囲んで、男も女もこの日は昼間から酒を酌んだ。歳末にあちこちから贈られた祝儀酒が座敷にずらりと並べられてなかなか減りそうにない。知幸は僅か一盞《いつさん》の酒に頬を紅潮させた。
「建設省ん奴どんな、攻むるぞ攻むるぞち掛声んじょうじ、なんの攻むるこたぁでけんたい。法的根拠に自信が無いたい。宮原《みやのはる》ん役場で今、事業認定申請書ん公告をしよるけんど、あげないい加減な書類でもっておりどんの土地ぃ取り上げるこたぁでけんたい。おれは今、それに対する意見書を作りよる」
「そん意見書ちゃ、国に出すとですか」
酒が廻った寛ぎで、気軽に質問が出る。
「おお、そうたい。――建設省はここを土地収用法で取り上げようちしよるとじゃが、それにゃあこんダム事業が公共性を持っちょるちゅうこつを国に認定してもらわにゃならん。それが事業認定ん申請たい。ばってん、いい加減なもんぞ。考えちみい、九州地方建設局長上ノ土が出す申請書に建設大臣村上が認定ん判をつこうちゅうつじゃき、一人二役たいね」
「そらぁ無茶苦茶ばい」
「なんのそげんこつをおれがさするか。申請書公告期間中に文句んある奴は意見書を出せるちゅうつが土地収用法にあるたい。それつを出して、国をぎゃふんちいわせちゃるたい。なんの赤紙一枚でやすやすと土地い取らりゅうか、今は戦時中じゃねえぞ――」
「そうたい、そうたい、戦時中あん赤紙はどんこんならんばい」
知幸がふと洩らした赤紙という言葉に感慨を誘われたように座が騒《ざわ》めいた。砦に詰める男達には軍隊体験者が多い。
「そうじゃろうが、土地収用法ちゃ現代の赤紙たい。ばってん、今は民主主義ん世の中じゃろうもん、赤紙ん中身をおれたちゃあ調ぶる権利がある。公共性ちいえばおりどんが懼れ入るち思うちょったら大間違いぞ。――大体、民主主義の根幹は国民一人一人の権利の徹底的な尊重にあるたい。そりゅうを、已《や》むをえん多数者の利益ん為に少数者に犠牲になってもらおうちゅうつが土地収用で、こらぁ民主主義ん根幹を侵《おか》す已むをえん例外だ。さ、そんなら、そん公共性の中身ちゅうつを徹底的に吟味し、手続きも万全を尽さにゃいかん。建設省ん奴どんな、それを尽しちょらん。建設大臣村上ん奴は、筑後川下流民八十六万人が室原一人ん為に危機に曝されちょるごとほざきおったが、肝腎なこつが抜けちょるたい。下流を洪水から守るとに、ほんなこつ上流ダムが最上の手段かどうかちゅう大衆論議が抜けちょるたい。そりが尽されち、成程そうじゃち万人が納得でけた時、初めち公共性がいわるるたい。ただお上《かみ》ん決めたこつじゃき従えちゅう思いあがりが、おれは許せん。国が八十六万対一ちゅうちからおれんこつを国賊にしたつるなら、そん一匹ん力ん恐ろしさを見せつけちくれようたい。大体やなあ――」
知幸はいい差してふっと笑った。
「ほん去年の秋までは筑後川下流民七十万ちいいよったろうもん。それがいつん間か八十万になり、今度はもう八十六万に釣り上がっちょるたいね。バナナん叩き売りじゃああるめいに……えっ、ああそうか、バナナん叩き売りちゃどんどん下《さ》げちいくとか、アハハハッ、逆《さかし》か、逆か」
雪見酒が充分に廻り、ストーヴの焚火が燃え熾って、上気した皆の笑いが集会場に弾《はじ》けた。
一月二十五日、室原知幸は九州地方建設局の事業認定申請書に対する意見書を建設大臣に提出した。室原知幸外四〇七名となっているが、書いたのは知幸一人であり、この意見書に彼の下筌・松原ダム反対の論理が集約されていると見ていい。
意見書は十五項目に亙っている。しかも十五項目総てが簡潔過ぎる箇条書きである。どうやら室原知幸という癇癖の強い老人は、人を一刀で斬捨てる如き鋒《きつさき》鋭い箇条書きを何かにつけて好んだようである。
例えば意見書第六項は次の如く曰う。〈下筌ダムサイトの試掘試すいについては、法律上幾多の疑問あり。建設省が実力行使をなさんか、我等迎え撃ち流血の惨となるは火を見るより明らかなり〉と。
これを意見書として見れば、まるで穏当ではない。まず幾多の疑問点なるものを一点ずつ詳述してこそ適切な意見書であろうものを、それを彼は斬捨てている。疑問点一つ一つ論《あげつら》うだけの知識は既に蓄えながら、それを肝腎なところで開陳しない。こういうところに、この老人の或る種の偏屈さがある。まるで、「おれが疑問点があるという以上、絶対に問題があるのだ。おれのいうがままに撤回せよっ」とでもいうらしい城主独断の口吻がありありと伝わる。ましてや後段部分に至っては、これはもう露わな戦闘宣言であり意見書という規矩からは食《は》み出している。
十五項目の意見書の内、特に重要な指摘を含んだ箇条を引けば、次のようである。
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〈松原・下筌ダム計画は筑後川総合開発事業の一環であると事業認定申請書にうたってあるが、その総合開発計画に関する記述を欠く〉(意見書第一項)
〈電力に関しては、九州電力株式会社の業務であり、我等は同社の利益を計らう責任なし〉(同第三項)
〈申請書に「両ダム計画に付、あらゆる機会を利用して、利害関係人に説明」せし由述べあるも(三十三年八月、木下大分県知事の中津江村来村を一つの機とす)、建設省の出先機関は、最初から土地収用法を語り、書信は八円切手にて(洵に事務的である)済まし、利害関係人の要望は聞けど、返答は避け、セメントの杭は勝手に打込み、ダム建設計画の概要は、申請書によりて初めて判明せし有様で、何があらゆる努力か〉(同第五項)
〈申請書に「久世畑は、これのみで所要の洪水調節が可能であるが、地質的には断層が介在し、処理が極めて困難である」と、これは技術上の絶対不可能の意か。なお、困難を立証する調査書を示せ〉(同第九項)
〈申請書に「筑後川は水源を阿蘇外輪山に発し、高峻な山岳地帯を流下し、幾多の渓流支流を入れ云々」と。それ、砂防工事が緊急である〉(同第十二項)
〈地建は語るか。筑後川下流の引堤、堤防嵩上げに、放水路、何れも技術的に困難。それに伴う用地買収費、工事費は多額。これまた困難、依って上流部の一、二か所に皺寄せせんと、これ松原・下筌ダム計画か〉(同第十三項)
[#ここで字下げ終わり]
以上を聊か敷衍すれば、室原知幸が突き出した論理は次のようである。
まず第一項が衝くのは、国の計画の杜撰さである。松原・下筌ダムは筑後川総合開発事業の一環だとしながら、その総合開発計画は示されていない。実際にはそのようなものが出来ぬ前にダム計画のみが先走ったのではないかという疑問を知幸は出している。
第三項は、両ダムが治水に名を借りて実は九州電力の発電用ダムの機能の方が大きいのではないかという疑問である。当初、筑後川治水という大義名分から始まった両ダムにいつの間にか九州電力の水力発電所附設が割り込んで来ている。兎に角多目的ダムに於いては国が多額の建設費でダムを造り、それに乗っかって電力会社は不当に安い費用分担で発電所を得ているという疑惑がつき纏うのだ。確かに九州電力としては両ダムによって大山川水系の既設水力発電所が水没する代償として新規の発電所を両ダムに附設するというのであるが、喪うものの三・五倍規模の出力となることからも不当利益が窺えると、知幸は見ている。
意見書第五項、第九項が衝いているのは、国がこのような計画を策定し決定してゆく過程での住民無視である。計画の全貌資料を匿し込んで唯一方的に国の結論に従えという衆愚政治に対する忿《いか》りである。久世畑ダムを中止したのは本当に地質上の理由だけであるのか、そこに政治的策動が絡まなかったかという知幸の執拗な疑問も、一切の資料の非公開という行政の秘密主義から発している。
第十二項、第十三項がこの意見書の核心であろう。ここに於いて、知幸は治水対策としての両ダムの効果に疑問を投げかけている。火成岩地帯の多い筑後川上流一帯では山脚の崩壊、浸食が著しく、夥しい滞砂や石礫が忽ちダムの湖底を埋めてその機能を減殺するだろうし、ついには人工災害を齎《もたら》すのではないかと、知幸は指摘する。
では筑後川治水対策はどうすればいいか。まず上流部には徹底した砂防工事を施すこと、中・下流部には引堤による河道拡幅、堤防の嵩上げ、河床の浚渫、佐賀穀倉地帯のクリークの排水系路の整備、これらを総合的に推《すす》めることによって初めて筑紫次郎を制御出来るだろうと、知幸は考えている。
この簡潔過ぎる意見書の結びで、室原知幸はついいつもの芝居っ気を発揮して国をからかっている。かの狂歌三首、追記として建設大臣村上勇に呈上するのである。矢張りこの老人の性《さが》の中には一匹の奇矯の虫が棲んでいるのかもしれぬ。
[#ここから2字下げ]
玖珠《くす》川や杖立川を放置して 筑後川に洪水なしや、これ建設省
佐賀筑後無数のクリークあん儘で 良かんベーカ 悪かんベーカ
国鉄の公共補償(久大線)に怖れなし ダムサイトの組合せ外づせるが下榎釣を
[#ここで字下げ終わり]
村上建設大臣はこの意見書が衝く疑問点に遂に一片の回答も与えることなく、三カ月後に事業認定を告示することになる。
室原知幸は一体何時間眠るのか。
深夜迄机に向かいながら、しかし朝はもう四時には必ず起床して書物を披いている。日常は眼鏡を用いぬ知幸も、読書の時はさすがに老眼鏡を掛けた。学ばねばならぬ事はいよいよ多岐に亙っていく。英米法の権威である伊藤正己東大教授に英米の土地収用法を学習するに適当な書物の紹介を乞う手紙を出したのもその頃であった。苦手の電気に関しても、新制高校の教科書を需《もと》めて基本から独習し始めている。
暁け方六時を過ぎると彼は書物を置き、邸を出る。家では綿入りの袖無しを愛用しているが、外に出る時はその上から厚い生地《きじ》のジャンパーを着た。彼は、きまって穴井貞義の店まで歩いた。未だ店の開《あ》いていない時には、津江川の岸に佇《た》って待つ。
「早よう起きんと大将が来なさるばい」
恐縮した貞義とツユは六時には起きて火を熾《おこ》して待つのが習慣となった。知幸はその日砦の中で必要になりそうな買物をするのだが、どうやらそれが目的というよりはその早朝の時間が学習の憊《つか》れを癒す小憩であるらしい。火に手を焙《あぶ》りながら暫く貞義やツユと話し込んでゆく。どちらかというと、貞義よりは屈託なく陽気なツユがいい話相手であった。
「大将、建設省は攻めて来るとを諦めたごとあるですね」
ツユが訊いた。決戦の筈だった一月も、何の気配も無いまま、尽きようとしている。
「なんの、諦めちょらぁせんたい。世間の反応を窺うちょるんよ。ま、見ちょってみい、近い内に裁判を打って来るたい」
「えっ、国が裁判を打ちますと!」
ツユは吃驚した。国家が国民を相手に裁判をするなどという事は、ツユの理解を越えていた。
「なんの、負きゅうか。法廷で建設省をきりきり舞いさせちゃろうたい」
知幸は笑って熱い茶を啜った。
その事態は忽ちやって来た。二月四日、国は室原知幸外六十四名を被申請人として熊本地方裁判所に「試掘等妨害排除仮処分命令」を申請したのである。訴えの趣旨は、既に土地収用法の諸手続きに基づいて国が実施権利を取得している試掘とそれに伴う障害物排除を行なうに当たって、室原知幸ら反対派は坐り込みその他によって妨害してはならないという緊急司法命令を出してくれというにあった。問題は遂に法廷に持ち込まれた。
待ち構えていたように、室原知幸も直ちに国を被申請人として「妨害排除仮処分命令」を熊本地裁に申請する。蜂ノ巣城内の家屋には人が居住しているので、その家屋及び電灯・電話設備の占有・使用を国は妨げてはならないとの緊急司法命令を出してほしいという趣旨で打ち返したのである。
直ぐ後《あと》で、国は自らが起こした仮処分申請の法的疑義に気付き之を取り下げるが、結果的にはこの時の国の最初の提訴が、逆に室原知幸という異常に|六法全書好き《ヽヽヽヽヽヽ》の老人の凄まじい訴訟戦術に火を付けることになった。まず二月末から六月末迄の僅か四カ月間に知幸は告訴迄含めれば実に十件の訴訟を頻発する事になる。以降、それは室原知幸の命が竭《つ》きる日迄|歇《や》むことなく続いて、その提訴件数は五十件に及ぶ程であった。一方、国もこれに対応して室原知幸とその一党を訴えること二十六件に及び、熾烈な訴訟合戦を展開するのである。
実に室原知幸はその晩年僅か十年間に於いて八十件に近い争訟に明け暮れる事になる。これだけを考えても、一個の人間の生涯としては異様極まる事であったろう。下筌・松原ダム紛争史の一面は、正に一大争訟史であったともいえよう。小柄な一個の老人は、国家が法の中に保障した基本的人権と私有財産権に準拠して徹底的に国家権力に抗していったのである。早稲田大学政治科に在って常に懐に小六法を離さなかった知幸にとって、それは本懐の真剣勝負であったろう。
当時の福岡法務局訟務部長広木重喜は後年次のように書く。〈かくしていよいよ下筌ダム問題は、土地収用法をめぐる双方の法律論争という形で、以下展開してゆくのである。それは「蜂ノ巣城紛争」の大きな特徴であるが、室原氏がすぐれた法律家だったというわけではない。「法には法、暴には暴」のスローガンのもとに、徹底的に地建側に対し、正当手続きの履践《りせん》方を要求し、法的不備があれば一点たりとも容赦しない、との反抗精神の現われともいうべきであろう。まさしく、土地収用法が表からも裏からも、批判され検討されたことは、この「下筌ダム論争」以前には起らなかったし、また今後そのようなことはおそらく起らないであろう。したがって、われわれはこの法律論争を通じて、いままで実務的には必ずしも使いこなされていたといいきれない土地収用法を、全条文にわたって検討させられる仕儀となったわけである〉(『公共事業と基本的人権』所収)
国家の強権行為を正当化する土地収用法(一九五一年施行)に対して徹底的に法的疑問を突きつけて迫った|最初の国民《ヽヽヽヽヽ》が室原知幸であったという事を、この一文は示唆していよう。しかも国家は、室原知幸一人に梃子摺《てこず》った結果を大いに生かしてその後の土地収用法を遺漏なきよう巧みに改竄していくことで二人目の室原知幸の出現を封じていったのである。〈また今後、そのようなことはおそらく起らないであろう〉と広木がいい切る背景には、法を己が掌中に持つ国家の自信が在る。
「誰か心当たりん弁護士を世話して呉れんか。骨んある弁護士が欲しいんたい」
熊本市に病院を開いている異母弟室原|亥十二《いとじ》のもとに兄の知彦が穴井隆雄と貞義を伴って来たのは二月十一日の夜であった。自分で頭を下《さ》げて頼む事を嫌う知幸は来ていない。
雪の散らつく夜であったが、亥十二は三人を市内の坂本泰良弁護士の自宅に伴った。在宅した坂本は、宜しい協力したいといった。但し、社会党代議士である自分は東京滞在が多くて専念は無理なので代りに庄司進一郎弁護士を紹介しようといって直ぐ同行してくれた。庄司法律事務所で話は纏《まと》まった。自由法曹団に属して活躍する庄司は、坂本と共に革新系弁護士として知られている。
亥十二の家に泊まった三人と共に、翌早朝庄司法律事務所の森|武徳《たけのり》、森|純利《すみとし》は現地へ向かった。二人は庄司事務所で書記を勤めながら司法試験をめざしている。昼頃現地に着き蜂ノ巣城内に迎えられた。
「こらっ、わりゃあ誰ん許可を受けて写真を撮《と》りよるとか!」
激しい怒声をいきなり浴びせられて、森純利は危うくカメラを取落としそうになった。誰の許可にもなにも、知幸は庄司法律事務所に今後の法廷対策を依頼して来たのであり、それを引受けた以上公判準備に必要な証拠写真の収集は当然ではないか。その事を年長の森武徳が説明したが、一旦激昂した知幸は容易に機嫌を直さない。やっと知彦の執り成しで改めて撮影許可が出されることになった。
――これは、えらい爺さんに引っ掛かったぞ。自分の方から依頼しておきながら、この自分勝手な横柄さはどうだ。とてもこんな爺さんとは永くは付合えんぞと、森純利は内心呆れてしまった。しかし、まるで宿命ででもあったかのように、彼は後年室原知幸の参謀となってゆき遂に知幸の死に至る迄離れ得ぬ唯一人となってゆく。
やがて砦の者達は、二人の紛らわしい森を大森、小森と呼び分けるようになる。大柄な武徳が大森、小柄な純利が小森である。大森・小森の砦への出入りは繁くなっていった。かつての志屋部落の者達の中には、今でも大森・小森が弁護士であったと信じている者がいる。実際には室原知幸があとからあとから頻発する訴訟に振り廻されて、彼等は遂に司法試験を受ける余裕も無く終ったのであるが。
室原知幸が坂本泰良、庄司進一郎という革新系弁護士と結び付いた事は、蜂ノ巣城闘争を微妙に変質させていく切掛《きつかけ》となった。これ迄頑なに現地独力主義で徹して来た知幸が、受身の形ながら革新政党と関係を持ち始めたという事である。
まず二月十九日午後、社会党国会調査団が蜂ノ巣城に入る。この中には、大分県選出の小松幹もいた。彼は知幸の母方の遠縁に当たる。公式には始めての部外者の入城を、新聞は〈杉のカーテンひらく〉と大きく報じた。実は新聞記者達も随伴して初めて城中を垣間《かいま》見る事を許されたのである。この日、女達は総出で握り飯の炊き出しを行なった。それは、国家権力と対決して闘う勇敢な農民達を激励する革新政党という図には違いなかったが、同時に又ブルジョアジーの最たる山林地主と革新政党というちぐはぐな結び付きから来るぎごちなさをも感じさせる光景であった。
二月二十四日、小松幹は衆議院予算委員会第四分科会で下筌・松原ダム問題を緊急質問し、論議は俄に国会へと移された。三月に入ると、それは更に参議院建設委員会の両度の参考人喚問へと進展してゆき、もはや九地建は国会審議の成行きを手を束ねて待つ以外にない。室原知幸も又、参考人として喚問される。「ひとつ、国会で田中正造ばりん大演説をぶってくるか」といい置いて知幸は出発して行く。この時上京する知幸の懐中には、一枚の名刺が秘められていた。それには、曰《いわ》くがある――。
九州地方建設局河川部長樺島正二が室原邸の流しの端《はた》から入って来て知幸との面会を乞うたのは、二月に入って間もない日の夜であった。樺島は長野県美和ダムの全村反対を三年がかりで説得し切った実績が買われ、急遽室原知幸説得の切札として九地建へと移って来たばかりであった。彼はまず、美和ダムでの己が体験を綴った冊子を知幸に送り付けたが、これがにべもなく返送されて来ると、意を決して室原邸に乗込んだのであった。
「わりゃあ、なにゅう考えちょっとか。ありどんと会わんこたぁ聞かんかと分っちょろうもん。こん馬鹿たれが!」
玄関に迄聞こえよがしに知幸から怒鳴りつけられて、取次ぎのヨシは気の毒そうにその旨を樺島に伝えた。已むなく彼は名刺だけをヨシの手に置いて帰って行ったが、まさかその一枚の名刺が知幸を激怒させることになったとは、当人の夢にも想わぬことであったろう。その一枚の名刺が唐突に国会の場に持ち出された時、樺島はさぞ仰天したであろう。
「……それがこの名刺なんです。こんな失礼な名刺がありますか。東京都杉並区――樺島さんが、本省の方へ勤められておったかどうか知りませんけれども、杉並区云々、高井戸云々と書いてあります。これは消してあります。この名刺を持って来たわけであります。これはずいぶん軽蔑したことなんです。それも最初ならともかく、事、ここに立ち至っても、まだ人をばかにする精神があるわけなんです。樺島さんが、自分よりもえらい人だったら、こんな古い旧住所の名刺をペンで消して持って行けるでしょうか。そんな精神、そんな態度の人と話し合いはできないのであります」
三月二十五日午後一時三十七分に開会した第三十四回国会参院建設委員会の会議が一時間余過ぎた頃、室原知幸は俄に一枚の名刺を振り翳《かざ》して忿《いか》りを爆発させている。一堂の列席者皆唖然としたであろう。たかが一枚の名刺である。よしんばそれに非礼を嗅ぎ取ったとしても、その不快はひとりの胸裡に密かに納めておくのが常人であろう。そのような私憤を天下の公論の場で烈しく論《あげつら》う室原知幸は矢張り異様である。彼の凄まじいまでの矜持がそれをさせている。
この時知幸が論ったのは名刺の事だけではない。九地建から届く書信が全て開封の八円切手で、僅か二円の節倹がされている事にもこの老人は国家の己れに対する軽侮を嗅ぎ取り、烈しく忿りを発しているのである。このような思いがけない私憤を突きつけられて、国家は当惑してしまう。建設大臣村上勇は答えている――
「……八円の切手でなんだと、なるほど、室原さんからお考えになれば、そういうことも考えられると思いますが、これはどうも役所の処理というものは、これがたとえどなたのところに出すにいたしましても、開封して第三者が見ても差しつかえないものは、これは八円切手を使っておる。こういうような点も、決して室原さんをばかにしたのでもなければ、軽く扱ったのでもない。これを一つ一つ私が解説してみますと、私は室原さんのこの反対の目的が、もう少し深度が深くて、非常にどうにもこうにもならないものじゃないかと思いましたが、今話を伺いますというと、決してそんなに根が深くないということを私は考えたのであります……」
この答弁は、この期《ご》に及んで尚大臣が室原知幸という矜持の塊のような老人の心理の機微を悟れなかったことを示している。己が心魂を尽して発している忿りをあっさりと大臣から軽んじられた時、知幸の内心の痛憤は極まっていたろう。一枚の名刺を振り翳し、あるいは開封郵便について論いながら激昂する老人と、なんだそれしきの事が忿りの原因だったのかとむしろ安堵しているらしい国家との断層は絶望的に深い。最早や幾時間を費やしても、この委員会において室原知幸と国家との間に通じ合う言葉は無い。実に五時間半に亙った建設委員会で憊《つか》れ果てた知幸は、最後に国に向かって次のようにいい放つしかない。
「委員会の御配慮まことにありがとうございます。だがしかし私の(ダム反対の)決意は変わりません。非常に投げやりな言葉でございますが、とことんまでいく決意でございます。これだけを申し上げておきます」
知幸が国会から帰って来る夜、阿蘇外輪山北麓の志屋部落では知彦の家の前に大きな焚火を囲んで村人達が待っていた。知幸の帰って来たのは、もう十一時に近かった。道脇の焚火に寄って来ると、弾んだ声でいった。
「談判決裂たい。大臣を相手に宣戦布告して来たたい。さあ、いよいよ九地建の奴どんな攻め込んで来るぞ。明日から山を固めなならん」
紅《あか》さを募らせて燃え熾《さか》る焚火の炎を、男達は凝乎《じつ》と見詰めていた。
五 前夜
蜂ノ巣岳の雑木林に混じる山桜が咲き熾り、滝の辺《ほと》りの山葵《わさび》が白い小さな花をつけている。
春の闌《た》ける頃、蜂ノ巣城はその相貌を見違える程|魁偉《かいい》にして来ていた。とりわけ最前線が屈強となっている。鉄条網は三重に廻《めぐ》らされその内側には三棟の監視小屋が立ち並び、それらは一直線の渡り廊下で結ばれている。屋根と高い腰板で囲われる渡り廊下は、いざという時にはそれ自体がバリケードの役割を果たすだろう。それを提案したのは森武徳である。彼は、九地建の突入時に砦の男達が肉弾戦を演じる危険だけは避けねばと考えて、最前線に建物のバリケードを築く事を知幸に提案したのであった。
「君は津江川ん実情を知らんからそげなこついう。ばってん水がいったんいみっちみい、いっぺんに流さるるたい」
知幸はそういって最初はひどく渋ったが、結局その案を容れたのであった。尤も、武徳もその直後津江川の増水の恐ろしさに直面している。三月三十一日、大分県側の磧に築かれていた戦闘指揮所と救護所があっけなく流されて行ったのだ。
小屋の建増しに連れて、知幸の山から次々と杉材が伐り出される。
「皆さんは、室原さんの山を伐るのに遠慮することはありませんよ。そもそも室原家がどうして山持ちになったか、皆さん御存知ですか――」
或る日、武徳は知幸の居ない所で部落の者達に問い掛けた。
「昔、この辺りの杉山は共有林だったんですね。この谷間の者全部の共有だったわけです。アラケと呼ばれる指導者の統率の下で共同作業をしていたようです。このアラケは全員の選挙で選びます。――それで、明治五年にそれまでの土地の永代売買禁止が解除され、土地所有制度が始まったのですが、地券を受けると税金を取られるもんですから共有林の地券を進んで受ける者が居なかったんです。それで困った政府は、共有林の指導者であるアラケに地券を交付してこれを山林所有者に定めたんですね。たまたま、この辺りの当時のアラケが室原家だったというわけです。皆さんの中でお年寄の方は、そんな話を御先祖から伝え聞いていませんかねえ……」
皆、初めて聞く話に怪訝《けげん》な表情で黙りこんでいた。郷土史や民俗誌に興味を持つ武徳は、そういう事を何かの本で読んだ記憶があるのだった。後日、武徳は、
「森さんよ、あんまり皆に変な知恵をつけんでくれよ」
と、知幸からやんわりと窘《たしな》められている。
この頃、小屋造りにも一つの変化が見られた。これまでは、集会場、釜屋、炊事場、休憩場、薪小屋、便所など生活に必須な機能を備えた小屋造りが主であったが、今や蜂ノ巣城を如何にして防禦するかの戦術的な構築物へと変って来たのである。先ず、防禦線としての最前列の監視小屋と渡り廊下がその戦術に沿うて造られたのであったが、中腹に次々と築かれていく小屋はむしろ法的戦術に基づくものであった。
土地収用法第十四条は、測量に当たって已むを得ない必要があれば障害となる物の伐除を県知事の許可で実施出来る事を定めているが、その障害物を〈植物若しくはかき、さく等〉と限定して記述している。これを字義通りに読み取れば、蜂ノ巣城を構成する一棟ずつの小屋は|植物若しくはかき《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|さく等《ヽヽヽ》以上の厳然たる構築物として伐除の対象外になるはずだと知幸は考えた。かくて、彼はそれらの構築物により一層民法上の権利を設定すべく、居住性を具備した小屋をますます増やしていく戦術に出たのである。
その為、小屋造りの方式までが変って来た。それ迄は現場での丸太組みであったのが、今では小竹部落の穴井蔀が山中で製材し、一棟分ずつの角材を組立式に符号を付してひと括りの荷駄にして次々と馬に曳かせて砦に運び込み始めていた。組立ハウス方式の採用である。それは、間口二間、奥行き一間半に規格化されていた。
砦での組立は、夜の内に懐中電灯を頼りに密かに行なわれる事が多くなった。そこに知幸のもう一つの策が働いている。九地建が第十四条での障害物伐除の許可を県知事に申請する為には障害物一個一個の所在位置・形状等を特定せねばならず、その為地建職員は毎日対岸から双眼鏡で蜂ノ巣城を監視しては図面に記録を続けている。それを攪乱する事が覘《ねら》いであった。一夜明けて忽然と一棟の新しい小屋が出現したかと思うと、前日までの小屋が思いがけぬ場所に移っていたりする。簡易な組立ハウスではそんな詐術が自在であった。九地建の監視者は双眼鏡を通して捉える蜂ノ巣城の日々《にちにち》の変幻に悩まされ続けた。
国の側も、第十四条によって果たして小屋までを除去する事が法的に許容されるのかどうかに自信は無かった。強行論としては、明らかにこれらの構築物一切が妨害を目的として建てられている以上、かきやさく並みに伐除して当然だとする積極的解釈であったが、いや飽く迄も国は法文上の字義を自ら遵守すべきだとする消極説もあって揺れ動いた。そうする内に、国はふと河川予定地制限令という明治以来埃をかぶって埋もれていた重宝な法令を思い出したのであった。
直ちに国は、標高三三八米のダム湛水予定線下の全域を河川予定地として制限令の適用区域とする事を告示した。これによって標高三三八米以下に存在する一切の構築物は既に河川敷内の違反物件として河川法に基づき除却命令を発する事が出来るようになると、国は考えた。今度こそ、してやったりという思いであったろう。
だが忽ち室原側は国・九地建局長・熊本県知事を被告とする「河川予定地制限令違反に基づく建物除却による妨害排除仮処分命令」を熊本地裁に提訴する。河川予定地制限令はその第一条に〈河川に関する工事により新たに河川となるべき区域〉に適用すべき法令である事を明確にしているが、ダム工事が果たして|河川に関する《ヽヽヽヽヽヽ》工事の範囲に属するか否かという大きな疑問を提出したのである。同令にも河川法にも、〈河川に関する工事〉の字義が具体的に明文化されていない事が、再び国の立場を苦しくさせた。
この春、激突の決戦を目前にして国と室原知幸は既に知恵を尽しての火花を散らしていたのである。
五月に入ると、蜂ノ巣城は一斉に電灯をともした。ポールの上の幾十の裸電球が落とす灯影は津江川の流れに映えて、それは文字通り不夜城の出現であった。
九地建は既に大分県側の岸辺でハッパの音を轟かせ始めている。その轟音は、飽く迄もダム工事を遂行するぞという国家の威嚇の響きとして対岸の蜂ノ巣城を撃ち続けた。蜂ノ巣城に詰める一人一人は、遂に決戦の日の間近である事を否応なく覚悟せねばならない。しかしそれを覚悟するにしても、その決戦がどのような形で現出するのか、まるで闘争経験の無い彼等には想像がつかなかった。その事が一人一人の心中を著しく不安にさせている。
この時期の志屋部落の人々の暗い表情に着目して、安部公房は前記ルポルタージュの中で、〈本当に闘っている人たちなら決してあんな表情はしていないはずだ〉と鋭い洞察を加えている。城に詰める一人一人の表情が余程暗かったのであろう。
一体、この巨大化し過ぎた闘いの決着は何時《いつ》来るのか、どのような形で来るのか、漸く一人一人の心中に不安は濃くなっている。加えて、生活の不安もあった。闘争資金一切は室原知幸の醵出であり既に一千万円を費ったと噂されていて、それ故に彼等一人一人の負担は全く免れていたが、しかし番丁として或いは不時の緊急呼集で城中に詰めればそれだけでその日の仕事は休まねばならず、山での日稼ぎに頼っている者にとってはそれは辛い収入減である。或る時、番丁を休んで田仕事に精出した男が和幸から面罵されるという事があった。
「わりゃあ、田圃《たんぼ》とこん闘いとどっちを大事に思うちょっとか! こん闘いに敗けりゃあ、田圃どころか家ものうなるちゅうつが、わりゃあわからんとか」
男は項垂《うなだ》れて黙りこくっていた。そういわれればそうに違いなかったがしかし生活の事を心配しなくてもいい室原知幸と自分とは違うのだという内心の反発は膨れていた。ただ、それを口に出して抗弁する事は出来なかった。それをすれば知幸が異常な程激昂するだろう事を部落の者達は皆知っている。城主室原知幸の擅断《せんだん》ぶりの前に、部落の者達は自《おのずか》ら口を緘《かん》し始めていた。百姓であるお前達に何が解るか、黙って俺に従《つ》いて来いという口吻で誰の容喙《ようかい》をも認めぬ知幸の前では口を噤んでいるしかない。口を噤んだ分だけ、人々は表情を暗くしていった。
しかし彼等は未だ信じてもいたのだ。智将室原知幸と共に在る限り、あるいはこの闘いに勝つのではないかと。もし勝利した暁には、この闘いに非協力だった者は村八分にされるだろう。この閉ざされた里で村八分は一番恐ろしい。一人一人の心は決戦を前にして甚しく揺れ動いていた。
或る時、私はダム反対のデモ行進歌の作詞者であった高野香氏を訪ねて行き、氏が「下筌ダム闘争自己批判」というレポート用紙十枚足らずの手記を残している事を知らされ吃驚した。この闘争の中では手記などは皆無だと思っていた私は、興奮を抑えてさりげなく披見を懇請した。その手記は、具体的事象に触れての記述というよりは、当時の浅瀬部落の青年高野香の心境の記といった趣《おもむき》で、それだけに一読して決戦前夜の砦の者達の心の動揺が伝わるようである――
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〈二月下旬に出してあった種々の裁判が去る五月六日付で熊本地裁より却下された。それに附随した種々の裁判は取り下げたと室原さんは言った。それは一応そうされても何も驚く事ではないが、やはり心中おだやかならぬものを感じる。今から先、種々の裁判がされる事であろうが、総てがこうだとは思いたくはないが、先ず此度のような大体の線が持続されるのではないかと思われ心配である。
総てが法によって解決されるものと信じ又そのように行動したつもりであるが、その法で敗れた場合どうなるか。三池の騒動のように裁判の後で実力で喧嘩する事がどうなるか、又そこ迄行った場合どんな状態になるか全く予想もつかない。……外側の雑音の種々にはもう気にとめない。総てが法律的に決められるべきでそのように決められればもう何も言う事はない。現在の闘いは建設省が色々と打って来る手を重箱の隅をほじくるような事ではね返しいつまでも蜂ノ巣に手を着けさせず暴を示威しておどし、あきらめさせる方法であるが、今迄の方法は総て建設省に研究されていると思わねばならず、又大局的に見た場合ダムの必要性等から見て簡単にあきらめてはくれないだろう。
現在の闘いの方法で問題が果たして解決するだろうか、法律的な小さな間違いは間違いとして、ダム建設の大きな方向は変らないのではないかと思われる。……志屋、浅瀬の人を一人一人個々に見た場合、果たしてどれだけ真剣に考えているか甚だ頼り無いものとなる。然しその頼り無い者が多数あるという現実を忘れてはならない。それが本当の姿であるから。
今全部を室原さんに負わせているが、それが一人一人の負担になり責任を少しずつ置きかえられ、いつか知らない間に抜き差しならぬ破目に近づいて行くような予感がする〉
[#ここで字下げ終わり]
津江川に梅雨の季が迫っている。
九地建に焦燥の色が濃い。梅雨に入れば津江川は増水して暫くは渡河出来なくなるだろう。時間を藉《か》せば、ますます蜂ノ巣城は堅固な山寨と化してゆくばかりである。既に蜂ノ巣岳山腹を蔽う構築物は二十七棟に増え、その大部分は登記さえなされている。
九地建としては梅雨の来る前に一気に蜂ノ巣城に押し渡り、河川予定地制限令違反のこれら構築物を強制代執行で除却し、土地収用法に基づく測量・試錐等に入りたい作戦であった。だが、熊本・大分両県警合同の下筌警備本部から九地建に待ったが掛けられていた。警備の都合上、蜂ノ巣城立入りは六月十九日以降にしてもらいたいという申入れで、九地建はこれに従わざるをえない。実は、その日付けには大きな意味があった。それは、もし不測の事態が起こらねば日米新安全保障条約が自然成立をみる筈の日付けなのであった。
阿蘇外輪山北端の山峡の里が国を相手に決戦の時を迎えようとしていた一九六〇年六月、日本国そのものも又十年目を迎えた日米安全保障条約の更改か破棄かをめぐって、その去就を迫られていた。二分された国論の対決は激しく昂まり、列島中がかつてない熱い政争の季節に突入していた。首都では岸内閣退陣を要求する巨大な反安保デモ行進が国会議事堂を連日のように取巻き、六月四日の反安保闘争全国統一行動には全国で五六〇万人の労働者がストに参加した。山峡の下筌警備どころではない、この国の警察体制は挙げて反安保勢力の規制に集中されねばならなかったのだ。
首都での激突は六月十五日に起きた。この日午後一時から日比谷公園に順次集まった国民会議関係の各労組・地方代表三万人による国会請願デモは整然と行なわれたが、全学連主流派七五〇〇人は午後五時より国会周辺デモに移り、六時には国会構内への突入を図った。激突はこの時から始まった。警官隊と全学連と右翼団との烈しい衝突であった。国会周辺は警官隊が打ち振う警棒と、ガス弾と放水によって血と煙と水と泥に塗《まみ》れた学生達の阿鼻叫喚の修羅場となっていった。泥だらけになり群衆の底に倒れていた瀕死の一女子学生は病院に担ぎこまれたが間もなく絶命した。この夜、重軽症者四六八人、検挙学生は一五〇人に達した。ニュースは全世界に飛び、イギリスの新聞は、〈今や、日本は戦後最大の危機に直面した〉と報じた。
蜂ノ巣城に籠もる山峡の里の一人一人も、新聞を通し集会場のテレビを通して刻々と報じられる凄惨な激突を凝視し続けていた。国家権力が凄まじい敵意で学生達を叩き伏せていく光景を、息を呑むように見詰めていた。自分達が対決している国家の正体が剥き出しとなって迫り、一人一人の心中を震え上がらせていた。
彼等を不安に陥《おとしい》れているのは首都の激突だけではなかった。この時期、九州では大牟田の三井三池炭鉱労組の大ストライキが続いていた。一二〇〇人の組合活動家の馘首に抗して始まったこの歴史的争議は、石炭搬出を阻止すべくホッパーを十重二十重《とえはたえ》のピケで包囲して警官隊と対峙していた。組合は分裂し、労働者同士が憎しみをぶつけ合っていた。
全学連や三池労組のように凄惨な事態だけは迎えたくないというのが、蜂ノ巣城に籠もる一人一人の心の底の密かな思いであった。さいわい蜂ノ巣城にはこの里の者ばかりで、全学連も労働組合も混じってはいないという事が一人一人の安堵であった。
城主室原知幸は自らに迫る激突の時を前にして、激動する首都の有様をどのように見ていたのだろう。三池争議をどのように見ていたのだろう。それらに関して知幸が何かの言葉を洩らしたという記憶を、今誰も持っていない。ただ森武徳は、
「森さん、おれの思想は大正デモクラシーまでが限度ばい」
と呟いた知幸の言葉が、確かこの時期のことではなかったかと聞きとめている。
あの過熱した政争の季《とき》に口を緘していた知幸が、しかしたったひとつだけ、
「あげなふうに闘わにゃつまらんばい」
と、折りに触れては称揚した対権力闘争がある。立川基地拡張に反対する砂川農民闘争がそれである。
一九五五年五月、東京都下北多摩郡砂川村の農民は米軍立川基地拡張の為の土地取上げを調達局から通告されて驚愕する。早くも翌月には土地収用法が適用され、九月、警官一八〇〇名は完全武装して農民に襲いかかり、検束三〇名負傷者一〇〇名を出す惨事を引き起こしている。このような警察権力による農民制圧は尚その後も繰り返されていくが、土地を守り抜こうとする農民とその支援者達は毅然としたスクラムで耐え続けた。そのスクラムの中から「夕やけ小やけの赤とんぼ……」の合唱が湧き、〈土地に杭は打たれても心に杭は打たれない〉という強靭な合言葉が生まれていった。
「あげなふうに闘わにゃつまらんばい」
そういって知幸から砂川農民の熾烈な闘争を語り聞かされる時、蜂ノ巣城の者達は矢張り心中密かなたじろぎをどうしようもなかった。警官隊に襲われて流血させられたり検束されていくような恐い目にだけは遭いたくなかった。だが否応なく蜂ノ巣城も又その時を迎えようとしている。
松原・下筌ダム工事事務所長野島虎治は、満を持してその時を待っている。既に一切の準備は整えられた。最初の日の架橋作業に向けて、施工班、渉外班、広報班、輸送班、監視班、救護班の編成も終えていた。流血の事態だけは絶対に避けたい方針で貫こうとしているのに救護班を設けることはおかしかったが、事務所の女子職員一同から自分達も是非連れて行ってくれ、ヘルメットをかぶりゴム長を履くからと熱心に訴えられて、已むなく彼女達にそんな役割を当てたのであった。女子職員までが奮い立つような職員一同の熱気が野島に自信を与えている。
蜂ノ巣城突入は建設省が挙げて総力を賭ける方針で、九地建からは新任の住友局長、吉田総務部長、樺島河川部長が、本省からも伊藤河川局開発課長が参画して首脳陣を形成するが、現地職員一同の「現場の直接指揮は一切野島所長一人に任せてほしい」という異例の要望が容れられて、当日は野島が陣頭指揮に立つ筈であった。二年間に亙って苦を共にして来た部下との信頼関係が、今実を結んでいるのだという満足感が野島を励ましている。新聞が蜂ノ巣城に迫った決戦を大きく報道し始めるに連れて、職員の家族に不安が昂じる事を憂慮した野島は、バスで家族を現地に招き状況を具《つぶ》さに説明して安堵させたりもした。
蜂ノ巣城には〈暴には暴〉の看板が大きく掲げられているが、野島は智将室原知幸が実際には暴を揮うとはみていない。彼は、この立入りでもし測量まで出来なくても、せめて砦の扉を押し開き、部落の者達と対面して話し合いの切掛が掴めるならそれだけでもいいと考えている。その為には、職員や労務者が暴発せぬように呉々も訓告を繰り返さねばならなかった。どのような罵詈《ばり》を浴びせられてもただ黙々と動く機械に徹してほしいという苛酷な戒めで全職員・全労務者を縛ったのである。許す発言は唯一つ、「それは班長にいって下さい」だけに止《とど》めて、あとは唖《おし》になれというのである。
あとはもう当日の天気だけが心配という心境で、彼も又大詰めに来た首都の激動に目を注いでいた。
六月十八日夜、首都では最後の統一行動として国会周辺を三十万人の巨大なデモ隊が取り囲んだ。東大安田講堂に於いては全教官、全学生参加の下に故・樺美智子の大学葬が営まれたが、やがて遺影を先頭に街頭に進出、彼女の倒れていた国会南門前に至って瞑黙したのちデモ隊へ合流して行った。
午前零時を過ぎて新安全保障条約は自然成立した。巨大な反安保エネルギーも遂に力竭きたのである。日曜日であった。
それが日本の将来にどのような意味を持っていくかは、それ以後の歴史の経過によってしか裁断出来ぬことであった。しかし、阿蘇外輪山北端の山峡の里にあっては、新安保の成立は即蜂ノ巣城決戦のその刻を迎えたという事であった。下筌警備本部の申入れで十九日迄の強行を控えていた九地建は、逸り立つ奔馬のように明日津江川を渡河するであろう。
熊本・大分両県警は三百人の警官を動員して明日に備えた。蝮に備えて四十人分の血清も用意された。
この日午後から降り始めた雨は夜に入っても歇まなかった。
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勝鬨の章
一 津江川の攻防
津江谿谷に一九六〇年六月二十日の夜が明けようとしている。
雨は上がり、空は霽《は》れていきそうであった。津江川の流れは僅かに増水して川幅を拡げ、前日砦の男達が築いた石塁の脚元を洗っている。その石塁は砦最前面の防禦線として水際に九個連ねて並べたもので、一個一個は大きな木枠から成り、中に石がみっしりと詰められている。
砦の男達七十名は、既にきびきびと動いていた。磧《かわら》で新たな竹筏を次々と組もうとしている。これを津江川の中央に泛かべ、帯のように繋ぎ並べて九地建の渡河を阻もうとするのである。その秘策の漏洩を虞《おそ》れた知幸は、ぎりぎりの今朝になって着手を命じたのであった。
やがて筏が組み上がると、男達はそれを曳いて流れの中に入って行った。津江川の中央には一個の岩が突兀《とつこつ》と屹《そばだ》っている。男達はその岩に寄って行くと、最初の筏をワイヤーで結《ゆわ》えて固定した。あとは、次々と筏と筏を一列に繋ぎ合わせる作業が続く。初夏とはいえ、朝の清冽な渓流は作業する男達に忽ち鳥肌を立たせた。唇が紫色に染まると、砦に戻って焚火に身を炙《あぶ》らねばならなかった。焼酎のコップも廻された。午前の陽が射して来ても渓流の冷たさは変わらなかった。
漸く十隻の筏を繋ぎ並べた時であった。
「来たぞお」
蜂の巣橋の上の見張りが叫《おら》んだ。午前九時四十分、九州地方建設局作業隊がバス、トラック、ジープを連ねて現場に到着したのである。既に早朝から警官隊も報道陣も見物人までがこの狭い谿に殺到していて、蜂の巣橋から大分県側の県道一帯は大変な雑踏となっていた。連日の報道が、この日の蜂ノ巣城攻防戦へと興趣を掻き立てていた。九地建側もこの日の混雑を予測して、前日の内に県道から磧の宙空に張り出す指揮台を設けていた。上ノ土実から交替したばかりの九地建局長住友彰、吉田総務部長、樺島河川部長、本省から来た伊藤河川局開発課長、そして松原・下筌ダム工事事務所長野島虎治等、この日の作業を指令する九地建首脳陣がその指揮台に立った。
「やられたっ」
津江川を見降ろしたた瞬間、野島は心中に呟いた。川の中央を一列に遮っている筏の阻止ラインを視たのだ。この日の九地建の作業は、津江川に仮橋を架けることであった。その橋を渡って測量班が砦へと立入る予定である。しかし、今眼前に視る河中の阻止ラインが架橋を妨げることは必至であった。
「あの筏の列を跨ぐように橋脚を高くする必要がありそうですね」
野島はそういったが、直ぐに苦笑せねばならなかった。まるで砦側は九地建首脳陣の考えを見抜いたように、筏の列に添うて高い柵を築き始めていた。丁度、筏に手摺を付けるように丸太を立て並べては横木を渡してゆく。その横木にはダム反対のプラカードを次々と縛り付けていき、見るみる派手なバリケードが川の中央に築かれていった。
「これでよし、皆、山に戻れ」
知幸の指令で男達は砦に戻った。
「九地建の奴だんな、向こう岸からこっちに向かって橋を架けち来るたい。なんの、仲々ここまでは来れんたい。あん筏をどげなふうに越ゆるか見物しちょろうや。もし筏を切ったりし始めたら、そん時ゃ皆ずりして川に突っ込め。ばってん、それまでは絶対ありだんの挑発ん乗っちから川に入ったりはするなよ」
砦に詰める人数は次第に膨れて、もう男女で百二十人は越えていよう。この日、対岸の九地建側は九十名であった。九地建職員六十名と角《すみ》建設の労務者が三十名で、職員は鼠色の制服に白ヘルメットをかぶり腕章をしているので区別が付く。
野島は凝乎《じつ》と津江川に向かって思案を凝らしていた。当初の計画では、大分県側の岸から砦の山際へと架橋していく筈であった。金網で作ったダルマ籠を川床に据え、これに栗石を詰めて橋脚とし、その上に丸太の橋桁を渡して簡易な仮橋とする計画であった。だが、流れの中央に筏の牆壁《しようへき》を置かれてしまった今となっては、ダルマ籠の橋脚では高さが足りなかった。筏を強行排除出来ぬわけではないが、それをすれば砦の男達が河中に飛び込んで来て激突となるだろう。出来るだけ衝突を避けたいというのが、この日の基本方針であった。
野島の鋭い視線が下流に注がれた。筏の長い列は川の中央にある岩より上流に向かって泛かべられていて、岩より下流には障害物は無い。
「架橋地点を岩の下流側に変更しましょう。――こちらから架けていくと、又筏を流されるかもしれませんから、いったん向こう岸に渡って、砦の方からこちらに向けて架けましょう」
野島の提案が首脳陣に即決された。逡巡は許されなかった。野島は磧に降り立つと、既に勢揃いしている作業隊に指令を発した。
「今から作業にかかる。架橋地点を岩の直ぐ下流、筏の流されていない部分に変更する。先ず対岸に渡って、向こう岸からこちらへ向けて橋を架ける。第一の橋脚は、砦側を刺戟せぬように石塁の二米手前に木馬を据える。全員、砦に背を向けて作業すること。砦からどんな罵声を浴びせられても絶対に振り向いてはならぬ。――では、配置を説明する。架橋工作は施工班二十名がこれに当たる。八鹿ダム第一出張所長が指揮する。施工班をカバーする為に末吉用地課長以下十名が前面に出る。更に上流側には姉川工務課長の一隊、下流側には吉岡ダム第一出張部長の一隊が出て牽制する。では、末吉隊から川に入れ!」
どっと飛沫《しぶき》を撥ねて作業隊は次々と津江川に躍り込んで行った。時刻は十二時四十分であった。
「只今から架橋作業を開始します。作業が順調に進むように地元の皆さんの御協力をお願いします」
指揮台から吉田総務部長がマイクで砦に向けて呼び掛けた。
砦の男達の大半は、その時水際の石塁の上に腰を降ろして対岸を見守っていたが、どっと水《みず》飛沫《しぶき》を上げて制服の大群が河中に躍り込み始めた時も、高《たか》を括っていた。架橋は大分県側から延びて来るのだと思い込んでいた。だが、その大群が岸辺に止《とど》まることなく思い掛けなくこちらに向かって徒渉して来るのを視て、俄に混乱した。
「こらぁ、こっち側にあがるとばな」
隣りに坐っていた高野鉄兵が駭いて石塁の上に立上った時、知幸も釣られて立上っていた。九地建は架橋を諦めていきなり砦に攻め込んで来るのかと思った時、知幸は動顛した。石塁の上に六十人の男達が棒立ちになった。作業隊の先陣は見るみる石塁の間近に迫って来る。その先陣の中から一本のポールが槍のように知幸の足元に突き出された時、彼は嚇《かつ》と逆上した。己れが狙《ねら》われたと思った。皮肉にもそれは、砦側を刺戟せぬように二米の距離を置こうとして差し出した測量棒であったのだが。
「おんどれ生意気な、建設省はおれに向かっち棒を突き出しやがった! そっちが暴ならこっちも暴だ。皆、かかれっ、かかれっ!」
知幸は自らが皆に与えた戒めを忘れて真っ先に川に躍り込んで行った。高野鉄兵は石塁の上に立ちはだかったまま、
「来たぞお、建設省ん奴がむかって来たぞお」
と、振返って山の上の方に急を叫んだ。片足が義足の彼は、急には川に飛び込めない。室原知彦、吉野|智《さとる》らがほとんど知幸と同時に川に躍り込んだ。男達は次々と石塁から飛び込み、山に居た者達も奔り降って川に入った。咄嗟に手に青竹を掴んでいる者もいた。山の上の方まで木材を取りに行っていた穴井武雄は、少し遅れた。彼は川の方から喊声が聞こえて来た時、翔ぶように山を駆け降り川に躍り込んで行った。既に男達は長い棒を横向きにして何人もが取り付き、九地建職員を押し返そうとしていた。武雄もそれに加わった。「どかんか、わりどんな」「貴様ら帰らんかっ」「暴には暴だっ」「おれ達にいのちきすんなちゅうつかっ」「おれ達ん山を伐ったつは誰かっ」
烈しい怒声を相手の貌に叩きつけながら、彼等はじりっじりっと対岸へ押して行った。
青竹で水面を激しく叩いて水飛沫を撥ねながら作業隊に迫っている男達もいた。水飛沫よりも、振り廻す竹の唸りに威嚇されて作業隊は後退して行かざるをえなかった。狭い谿谷に、男達の叫喚と、九地建、警官隊の制止のマイクが輻輳《ふくそう》して響き合っている。
女達も幾人かは川の中に入っていたが、知幸の五女節子はそんな女達の先頭に立っていた。四女の裕子も居たが、彼女はむしろ逸る節子を引き止めようとして傍を離れずにいた。節子達は掌《て》に川の水を掬うては作業隊に浴びせ続けているが、ひどく昂ぶっていて、懸命に掬っては放《ほう》る水が遠く届かず、周りの自分達同士を濡らし合っていることにも気付かないようであった。砦に残って見降ろしている女達の眼に、それはひどく滑稽な光景であった。
「こらっ、わりゃあ先刻《さつき》からおれん頭んじょうに掛けよるじゃねえか!」
到頭知幸が振り返って背後の穴井寅男を叱りつけた時、砦の女達は怺えかねて大笑いしてしまった。
水飛沫が眼を射るように津江川の川面《かわも》に弾けている。野島は、混乱の中で幾人かの怪我人が出始めているのを見て、全員岸に退くことを指令した。午後一時前であった。
「びしょ濡れたい。直ぐ服ん着換えを持って来い」
知幸は直通電話で自宅のヨシに命じた。高血圧に悩むヨシは、この日もひっそりと家に居て気を揉んでいた。
対岸にも焚火が燃え上っている。作業隊が服を乾かしている。
九地建が架橋工事を再開したのは午後二時半であった。その間、状況が又少し違って来ている。休止時間の内に、砦側は岩の下流側にも杉丸太で急造した筏二隻を泛かべて阻止ラインを拡げてしまったのだ。
已むを得ず、九地建側は牆壁の向こう側に越えることは諦めて、この日の架橋を中央の岩から大分県側に向けて川の半分だけに止《とど》めることに再変更し、作業隊は再び川に入って行った。
彼等が岩に辿り着き、直ぐ傍の川床を鑿孔機で掘りダルマ籠を据える作業を、砦の男達は岸から見守っていたが、作業隊が一列に並んでダルマ籠に詰める栗石を手渡しで運び始めた時、再び岩の周辺へと寄せて行った。以下は、後日この日の衝突が刑事事件となって取調べを受けた時の穴井武雄の検察調書からの供述である。
[#ここから2字下げ]
〈私達が対岸におりますと、前と同じように午後二時三十分頃、建設省の人達が揃の服装で川の中央附近の大きな石(岩)の所へ来て、金網の籠を据えつけ、それに石を詰め始めましたので、私達はその大きな石には筏が流れないように針金で石と筏をつないでいましたので、それを建設省の者から切られないようにと思って、水の中へ這入り、新たに針金を張って石につないだり、前につないでいた針金の切られたのをつないだりしたのであります。
私が大石の上にあがっていたところ、どうしたはずみか滑り落ちました。川の中で女の人達が泣いて建設省の人達に水をかけていますので、私も黙ってそれを見ておく訳にはいきませんので、手で建設省の人に水をかけました。すると建設省の者も私達に水をかけていましたが、その中の二人が手拳大の石を一つずつ私に目がけて投げつけました。それで、私は当りませんでしたが腹が立ち、建設省の者はどんな事でもすると思い、女の人が竹棒で水を叩いていたのをその竹を貰って私も川の水面を叩き建設省の作業員に水をかけました。……〉
[#ここで字下げ終わり]
これには、警察と九地建が撮った証拠写真が幾枚もある。先ず、県道から俯瞰した大型の写真が川の中央の全景を捉えている。川の中央に筏を連ねた阻止ラインがあり、筏にくっつくようにして突兀と立つ一個の岩がある。その岩は、丁度握飯を真中から截ち割ったように片面が削《そ》ぎ落とされていて、残る片面の岩肌は半円の斜面をなして如何にも滑りそうである。この危《あや》うい岩の上に穴井武雄が少し腰を屈めて立ち、針金を引っ張っている。岩の上には報道記者数人も登っていて、それだけで狭い岩場は一杯になっている。岩の削がれた方の直ぐ陰に、既に大きなダルマ籠の橋脚が出来上り、今、九地建作業隊は第二の橋脚造りに移っている。それを取囲んで、砦の男達が水を浴びせている。第一回の咄嗟の衝突と違って、今度は皆洗面器などを持ち込んで水を掬っている。水飛沫の中に立つ九地建職員の中に、両耳を手で塞《ふさ》いでいる者が見える。
小型の写真には、穴井武雄が長い青竹を振り翳《かざ》して、今し川面に敲きつけようとしている一瞬の姿が捉えられている。腰を深く折り、躰を斜にして川面に俯いた彼の面貌までは見えない。カメラは、捩り鉢巻の彼をやや斜め後方から捉えている。ランニングシャツから出た、肩から背にかけての筋肉が三重に波打って盛り上り、今|方《まさ》に激発させんとしている力の巨きさを予感させる。映像としては定かに焦点が合っていなくて輪郭が茫としているのが、かえって一瞬の躍動を伝えてくれる。男の忿怒《ふんぬ》の瞬間が、表情は見えぬながら躰ごとの躍動で一枚の写真に焼き付けられている。次の一瞬には、発止《はつし》と敲《たた》きつけた青竹が硬い響きを発して川面を切り裂き、高く撥ねた水の飛沫は辺りを眩いほどにけぶらせるだろう。その飛沫を自らも燦爛《さんらん》と浴びながら、その時もう武雄は又青竹を振り翳しているだろう。この日武雄は、水を撲ち続けるだけで太い青竹を簓《ささら》のように敲き割っている。
その写真の遠景には、ダム反対の襷《たすき》を掛け、絣のモンペに身を固めた女の群れが、これも腰を深く屈めて必死に水を掛けようとしている。その水飛沫が眩しく光つて、一体何人の女達がそこに居るのかはっきりしない。
一回目の衝突の時は遠慮していた女達も、今度は残らず川の中に入っていた。今度は思い切り作業隊に近寄って、器《うつわ》で掬った水を正確に浴びせた。興奮した女の中には、ワーワー泣きながら水を掛ける者もいた。作業隊は黙々と背を向けて耐えていた。冷たい渓流に肌着まで濡らして、作業員達は唇の色を喪って震えていた。谿谷の空に雲が増え、日射しが弱まっている。辛い水攻めであった。浅い川底から容器で掬われる水には砂が混じっていて、それが浴びせられる時、鋭い痛みを打ちつけた。右に顔を背《そむ》ければ右から浴びせられ、左に避ければ左から浴びせられた。何故こんなにまでして耐えねばならぬのかという憤りが突き上げていたが、それを爆発させることは宥されなかった。幾ら水を浴びせても退こうとせぬ作業隊に苛立った女達の中には、背後からその襟の中に水を注ぎ込もうとする者もいた。それでも作業隊は耐えようとしていた。
「君、君。無抵抗の者にあんまりな仕打ちじゃないかね」
白ヘルメットの大柄な職員が堪《たま》りかねたように横から遮った時、節子は怺《こら》えていたものが迸るようにワッと泣きながら、その男の腰にはたはたと拳で打ち掛かっていた。
「おとうさんを苛《いじ》めないで! おとうさんを苛めないで!」
節子は泣きながら叫んでいた。彼女は、病身な父が日本中から苛められているように思えてならなかった。川に飛び込んだのも、父を守りたい一心であった。節子は、今自分の前に立ちはだかっている男が野島だとは知らなかった。
この午後の衝突を捉えた証拠写真の中で、殊に私が魅かれている一枚がある。その一枚も高い場所からの撮影で、川の中に棒立ちになっている反対派の男達十三人が見降ろされている。男達の膝までを浸して渦を巻くような渓流のうねりが、黒白の写真の中ではまるで彫金の硬い波のようにてらてらと黒光りして見える。そこに十三人の男の群像が立ち尽している。渓流と十三人の男達の他には何も撮《うつ》ってはいない。これは、水中乱闘の渦中のどんな瞬間であったのだろう。
前面中央に室原知幸が立つ。登山帽に白のクレープシャツ、黒ズボンにゴム長の装いで、知幸は今し何かを叫んでいる。尖った口先で、それと判る。両の腕も、自らの叫びの勢いに釣られたようにやや前に持ち上げられている。何か猛々しく相手を詰《なじ》っているようだ。次の瞬間には、ばしゃばしゃと水を踏み分けて相手に詰め寄ったのかもしれぬ。この午後の衝突の終り近い頃、九地建側から石を投げた者が居ることに激怒して知幸らが激しく詰め寄り警察が割って入るという場面があったが、あるいはこの写真はその刻のものであったろうか。
ここにも穴井武雄が居る。青竹をがっしりと川床に突き立てて、一方の腕を腰に当てがい、正面を睥睨《へいげい》している。どこか不逞なこの面構えが、あるいは彼を無頼と印象づけた表情であろうか。十三人の群像の中では、矢張り異彩を放っている。
それと対照的に、私はこの群像の中の幾人かに、まるで放心したような哀しみの表情を見出してはっとさせられる。紛れもなくそれは哀しみの表情である。己が闘争のこれまで幾度かの激突の修羅場で、ふと周りにこのような表情を見て来ている私には、それと解る。
どのような激突の最中《さなか》にも、ふっと空白のように訪れる静止の瞬間がある。その時、哮《たけ》り立っていた一人一人もふと我にかえる。肉体が激しく動いた昂ぶりのあとの弛緩の中でじわじわと湧き来るものを、私は矢張り哀しみとしか呼びようがない。修羅場の中に儚い一個の肉体として佇立しているのだと気付く哀しみ。何故こんな闘いをしているのだろう。何故こんな憎しみを以て五体と五体をぶっつけ合わねばならぬのだろうという遣瀬無い念《おも》いが、今この写真の中の数人の胸底に哀しみを溜めているに違いない。
特に一人の若者の表情に胸衝かれる。無帽のその若者は白シャツを着て、両手には田植えの時の手甲をはめ、青竹を川床に突いている。つい先刻迄この青竹で川面を打擲《ちようちやく》しては九地建作業隊を威嚇していたのであろう。しかし今彼は悄然と項垂《うなだ》れている。彼の視線は穴井武雄のように正面を睨まず、凝乎《じつ》と川面に落ちている。己が足元を潺々《せんせん》と往きてやまぬ渓流の光りを見詰めて放心しているように見える。勿論、この若者だとて次の瞬間再び激突が始まれば、弾かれたように青竹を振りかぶって猛々しい忿りに全身を委せていくに違いないのだが。――これが一九六〇年六月二十日午後の砦の男達の実像であったのかと、私はこの小さな写真に焼き付けられた十三人の群像に見飽かぬ。
この日二度目の衝突に関して、福岡高等検察庁検事堀賢治は次のように報告している。〈反対派は、その後更に数隻の竹筏をつぎたして下流に流し、あくまで作業阻止の態勢を固めた。ここにおいて建設省は、竹筏を除去せんか、より多数の負傷者を出すことをおそれ、再度計画を変更し、竹筏の手前から左岸に二個の橋脚を設けて架橋することとし、午後二時半頃より再び同様の作業員を以て、橋脚作業を開始するや、反対派は男女計約五十名が再び河中に入り、作業員に水を浴せ、針金を引き廻して作業員の身体にひっかけて転倒させ、あるいは押す、蹴る、ゆすぶる等の暴力脅迫を繰り返した。そのため作業員は河川中央寄りの第一の橋脚設置は不完全なまま、後退して左岸寄りの第二の橋脚作業に移ったが、反対派はなおも左岸近くまで押しかけ、石を手送り中の作業員に対し、同様の暴行脅迫を加えて作業を妨害し、作業員計三名に三日〜五日の傷害を与えた。ここにおいて、それまで左岸にあってマイクで警告を繰り返していた警察官が、制止に入りやっとその場を収拾した〉(『公共事業と基本的人権』)
この日両度の衝突で九地建側は十六名が傷害を受けたと発表し、やがて警察は刑事事件として捜査を始めることになる。但し、いずれも擦過傷等の軽症に過ぎなかったのだが。
夕刻五時半、遂に架橋までゆけずに二個の橋脚を据えたのみで九地建作業隊は引揚げていった。続いて警官隊も去ると、峡谷には静けさが戻り、砦に大きな焚火が燃え騰《あが》った。津江川夏の陣第一日目の攻防は蜂ノ巣城側の鮮やかな作戦勝ちに終って、城主知幸は上機嫌であった。
「こげなんがでけたばい」
即詠の狂歌一首、墨汁で一気に書き流すと皆に示した。
鼠色の制服濡れて引揚ぐるありどんほんまの濡れ鼠
どっと哄笑が湧いた。
この日、知幸の着換えを抱いて砦と志屋部落を三度往復したヨシは、夜になって溜息のような一行を日記に誌《しる》す。
〈今日のようなことがなんとかならないものか、明日が気になる〉
二 梅雨空の下で
翌二十一日は夜明け頃から雨となった。
この日、反対派は早朝から大分県側の磧を占拠し、降り頻る雨中に二つの焚火を囲んでピケを張った。前日の河中での防禦戦から一転して、敵の発進基地を先取して押さえる奇襲作戦であった。百余人の男女が合羽に身を固めて黙々と雨中に蹲っていた。
この日は、ヨシも朝から家を出た。彼女が蜂の巣橋を渡った時、ちょうど鯛生《たいお》から降《くだ》って来たバスから川良美郁《かわらよしゆき》とトシの夫婦が降りるところだった。美郁はダム賛成を決議している中津江村議会の議長であったが、そのような公的立場は措いて義兄知幸の身を気遣っていた。
「芳子姉さん、顔色がえらい悪いが、大丈夫な?」
トシは心配そうに問うた。ヨシがこの頃高血圧に悩んでいて、砦にも専ら娘の裕子、節子が詰めている事をトシは耳にしていた。
「気分は悪いばってんが、家におってからあれこれ心配しよるとん方が、よっぽど血圧には悪いごたるもん」
ヨシは笑ってみせたが、かえってトシには気がかりであった。
雨脚が異様に激しくなるに連れて、早くも津江川の相貌が変わり始めている。標高一一八〇米の酒呑童子山の急峻を一気に奔り降って来る津江川の増水速度は凄まじいまでに疾い。早くも轟きを立て始めた濁流はあちこちで岩に打ち当たり、噛み砕くような波濤をどおーっ、どおーっと騰げ始めている。男達は、妨害用筏を流されまいと川に入って針金で補強作業に必死であったが、もはやそのような小細工では抗し切れぬことを悟らねばならなかった。川の中に止《とど》まっていることからして甚しく危険となっている。男達は補強作業を諦めて、繋ぎ合わせていた筏を一隻ずつに解き放ち、ワイヤーで砦側の磧《かわら》に引揚げ避難させる作業へと切換えていった。
十一時頃からいよいよ激しさを増した雨はそのまま衰えをみせず、正午には既に津江川の水位は二米を超え川幅を一挙に拡げている。見るみる狭められていく左岸の磧では、資材引揚げに立働く建設省作業隊と戦闘指揮所を撤収する反対派とが入り乱れて大混雑となったが、それぞれの緊急作業に気をとられて互いの衝突は起こらなかった。恐ろしい程怒張して来る津江川そのものが今では両者の敵であった。激流が川底で大石を転がせてゆくのであろう。ごとっごとっという鈍い音が時折り聞かれた。
筏の撤収作業は捗らなかった。激流に抗し筏を曳くワイヤーは弦のようにぴんと張り詰め、風にきーん、きーんと鋭く鳴って顫《ふる》えた。必死に手繰り寄せようとする男掌の拳は、いつしかワイヤーを喰いこませて血が噴いていた。きゅーんという鋭い金属音が走ってワイヤーが切れ、一隻の筏が箭《や》のように流れ始めた。それを追って、すっ裸の男が奔流に身を躍らせて行った。
「あーっ」という悲鳴が両岸で興った。
「とんちゃんたい。あれはとんちゃんたい」
とんちゃんと呼ばれる若者、吉野知賢の頭がどおーっと襲う飛沫の下に呑み込まれて消えた時、再び両岸から悲鳴が挙がった。筏はあっという間に視界から消えて行った。若者がかろうじて下流の岩に縋《すが》り着いたのを見た時、反対派の男女も九地建の作業隊も皆|吻《ほつ》とした。
雨脚は一向に衰えなかった。一旦、トシと連れ立って炊き出しの為に自宅に帰っていたヨシは、午後二時頃現場に戻って来てあっと目を瞠った。
僅かな時間に津江川の形相は一層獰猛になっていた。既に川幅は二倍に拡がり、吠え哮《たけ》る奔流は九地建が前日据えた二個の橋脚を呑み尽し、蜂ノ巣城最前面の石塁を呑み尽し、更に鉄条網を浸して第一線の見張小屋の脚柱を荒々しく噛み始めている。
ヨシの小さな身体を貫いて戦慄が走った。又しても下流筑後川の堤防が決潰するのではないかという恐怖にヨシは撲たれていた。もし二八災のような惨状が再び起きた時、知幸はどんな非難に曝らされることになるだろう。その惨状の元凶は室原知幸一人にある如く世間の罵声は殺到するだろう。人殺し! 人非人! 極悪人! がんがんと襲い来る怒声が既に聴こえるような気のして、ヨシはくらくらとして来た。
「芳子姉さん、どげえしたと? 大丈夫ね? やっぱあ家に帰ろうや」
雨中に屈みこんだヨシの異常さに気付いたトシは、支えるようにして志屋部落へと連れ帰った。居間に横になったあとも、ヨシは震えていた。
午後四時、蜂ノ巣城見張小屋三棟とそれを繋いだ渡り廊下がゆらゆらと揺れたかと思うと、ゆっくり傾《かし》いでいき逆らい切れぬように激流に呑み込まれ流されていった。水位は既に平水時の十倍を超えて五米に達している。下流筑後川の堤防はあちこちで警戒水位を突破し始めていた。この日筑後川の堤防が決潰しなかったのは、不思議な僥倖であったろう。
雨が歇《や》んだのは、二十二日の午前十一時であった。津江川の怒張は鎮まらず、砦側も九地建側も休戦である。その間、九地建首脳は熊本・大分両県警合同による下筌警備本部に今後の方針を打診に行ったが、警察側からその弱腰を叱咤されて強行策に転ずることを決意した。尤も、警備本部も積極的な大分県警と消極的な熊本県警に違和があるようであった。砦側も又、この日庄司進一郎弁護士を迎えて対応策を練っている。
二十三日も、津江川は未だ減水しない。砦側も九地建側も、それぞれ流失したものの補填・復旧の作業に精出している。殊に砦側は流失した第一線の見張小屋三棟を新たに築かねばならなかった。
「ほお、お日さんが暈《かさ》かぶっちょるばい――」
作業を指揮している知幸が空を仰いで呟いた。午後になって漸く三日ぶりの晴れ間が津江川の空に覗いている。
だが、翌日は又雨となった。
ヨシは、祈りが通じたのかも知れぬと思った。彼女は雨による休戦が一日でも長く続くことを心中に希い続けている。この日は気分も快《よ》く、冬からのカーテンを夏物に取替えるつもりで縫物を始めたが、午後になると次々と来客が続いて縫物どころではなくなった。
知幸の弟|諸田幸男《もろたゆきお》も東京から駆けつけて来た。旧家室原一族の血の団結は濃く、弟妹全員が駆けつけて長兄知幸の一身の安全を護ろうとしている。この日、熊本市の弟|亥十二《いとじ》が知幸に諮ることなく庄司弁護士と相談して熊本地裁に九地建との和解勧告を申入れたのも、多分知彦を中心に六人の弟妹の密かな相談の結果であったのだろう。九地建側は裁判所から示されたこの和解勧告に応じることを直ちに表明した。
翌二十五日、庄司弁護士と亥十二は朝から砦に入り、知彦らと共に知幸が和解勧告に応じてここらで闘いの矛《ほこ》をおさめるように説得を重ねたが、頑として容れられなかった。逆に、自分に相談も無く勝手な策を弄したということで知幸は立腹した。
午後、小舟で対岸に出て来た知幸は、磧に待ち構えていた記者団に向かって、和解の意思など毫も無いことを表明し、
「わしらの信念が変えらりゅうか。建設省の馬鹿どんが明日から作業をやるちゅうとならやってみい」
と、口の端に唾を溜めて怒鳴るようにいった。傍で庄司はむっつりとしていた。
熊本地裁の和解勧告も多分蹴られるだろうと予測していた住友九地建局長は、明日を蜂ノ巣城突入再開の日と定めて、この日全員に休暇を出し英気を養わせていた。合同警備本部は渡河に備えて上陸用舟艇と梯子を用意した。
再び決戦の日を迎えた二十六日は曇天で、時折り薄い陽光が射した。
日曜日であったが、前日休暇を取った九地建職員・労務者は休日返上で午前九時半には砦の対岸に集結した。狭い大分県側の県道一帯には、朝から日田バスの臨時増便で送りこまれた見物客が蜂ノ巣城夏の陣の攻防を期待して詰めかけ、混雑を極めている。山腹の木々にも、河中の岩の上にも人が鈴生《すずな》りで、彼等に危険を警告する警備本部のマイクが鳴り続けている。蜂の巣橋際には、砦側の立てた「非常事態宣言」の看板が九地建の不法行為を詰《なじ》って、見物人の目を止《と》めている。
作業隊はこの朝いきなり河中に入らず、岸に板張りの道路を作ることからとりかかった。午前十時、庄司法律事務所の書記森純利が警備本部に来て、「法的手続き不備のまま強行しようとしている建設省の行為は職権濫用なので取締ってほしい」と申入れたが、警備本部では「九地建の手続きに不備はない」と答えて一蹴した。
午後一時半、架橋工事が再開された。数人の作業員が泳いで川の中央の岩に渡り、川岸との間にロープを張り渡すと、そのロープに縋って次々と後続の作業隊が河中に入って行った。まだ水位は一米以上もあり、作業員達の首の辺りまでを浸している。濁流は冷たく、足を抄われそうな疾さである。作業隊は、かろうじて流失を免れていた橋脚に九本の丸太を架け渡し、これを鉄線で縛るとその上に板を渡していった。
九地建も警備陣も拍子抜けしたことに、この日砦側は河中に入ることなく、石塁の上に屯して野次を放ちながら見守るだけであった。一番拍子抜けしたのは、激しい攻防戦を期待して朝から詰めていた千人の見物人であったろう。この日砦側が静観戦術に一転したのは、庄司弁護士の厳しい諫言によっている。二十日の突発的暴走が警察側に紛争介入の口実を与える結果となり、既に知幸、知彦、穴井武雄らに威力業務妨害・公務執行妨害容疑での任意出頭状が届いていることを配慮して、庄司はこの日の静観を厳しくいい渡していた。
砦側の妨害が無いにも拘らず、増水した津江川での作業は捗らず、やっと七米の架橋で九地建は引揚げて行った。警備陣も見物人も去りひっそりとなった津江川で、俄に砦の男達がきびきびと動き始めた。明日は架橋が届いて来るであろう砦の真正面に牆壁としての矢来を組むのである。一日手足を縮めていた鬱憤を霽らすように、男達は四米もある杉丸太を力一杯運んでは石塁の外側に立てていった。横木を八本渡して、杉丸太の間隔を棕梠竹で塞いだ。〈ここから私有地〉と宣言した看板も矢来に取付けた。作業に励む男達の足元で河鹿《かじか》が啼き、蛍が舞い上った。昏れてゆく空には厚い雲が籠めて、星は見えなかった。
作業続行の二十七日は月曜日というのに、前日を超える見物客が早朝からこの狭い谿間に蝟集し、それを目当ての屋台のラーメン屋までが出現していた。交通整理の巡査の刺すような笛が忙《せわ》しく鳴り続けている。
このような見物客を相手に、砦側はこの日PR作戦に転じた。登山帽にゴム草履の知幸自身がマイクを持ち、見物客に向かって九地建の法的手続き不備を詳細に解説し自らの正当防衛を訴えた。更には、同じ趣旨を書いたプラカードを掲げて数人の若者が対岸の見物客の雑踏の中を往き来しては、珍しくビラを配ったりもした。このPR作戦には九地建も堪り兼ねて女子職員の声で対抗放送を開始したので、谿間に飛び交う土地収用法の難解な条文の遣取りに見物客は戸惑うのだった。
そして、この日ついに城主室原知幸は記者団を城中に招請したのである。
「これまでお茶も差上げなかった非礼を宥して下さい」
あの傲岸そのものの城主の口から、和《にこ》やかにそう挨拶された時、記者団は唖然とした。城中には三百人の反対派が詰めていたが、女達は記者団に豚汁を振舞った。この変化を、さすがの室原知幸も事態がここまで追い込まれて、ついに弱気になったのだと解釈する記者もいたが、どうやら蜂ノ巣城の作戦司令が激情家の城主知幸から冷静な法律家庄司進一郎、坂本泰良に移ったことは確かなようであった。
入城した記者団の眼を特に引いたのは、砦集会場(記者団はそこを本丸と呼び始めているが)に張られた大きな赤旗であった。〈団結〉の二文字が真中に大書され、それを囲んで幾十の寄せ書きが放射状に書き込まれている。それは、今史上最大の労働争議を闘っている三井炭鉱三池労組四山支部から贈られたものであった。
架橋前進工事は午後一時二十分に始まった。水位は依然として一米近くあり、流速は疾い。現地視察に来ている上原熊本県警本部長が室原知幸に会見を申入れて来たのはその刻であった。明らかに、架橋工事から知幸の注意を外《そ》らせようとする陽動作戦であったが、知幸はそちらが出て来るなら砦内で会ってもいいと応えた。上原に代って佐藤小国署長が小舟で来て、舟上で知幸は会談したが、上原の会見申込みに関しては再度拒絶した。帰って行った佐藤署長が再び砦の下まで来て、今度は威嚇的に室原知幸の任意出頭を求めて叫んだ時、知幸は対岸に迄届く程の怒声を発して応えた。
「逮捕状が出せるちゅうんなら出してみい!」
その間架橋工事は進み、砦の矢来迄二米を余す距離に近付いたが、ここで砦側が急遽流した二隻の筏に妨げられて一旦作業を中止せねばならなくなった。
午後三時五十分。残りの架橋を一気に強行しようとする九地建は、仮橋の先端に立った吉田総務部長がマイクで「筏を取除いて下さい」と砦側に要請した。
「宜しい、筏を取除くので橋の高さをもう一米高くしなさい」と、森純利がマイクで応じたのを切掛《きつかけ》に、時ならぬ論戦がこれから一時間に亙って大観衆の前で展開されることになった。千五百人もの見物人の視線に曝らされては、九地建側も砦側の主張を論破出来ぬ限り強行には踏み切れない。それは舌鋒切り結ぶ法律論争であった。小兵《こひよう》ながら若い森純利の声は鋭く透った。
「我々は杉の伐倒木を組んで筏を流す権利があるのだ。ここにこんな低い橋を架けられるとその権利が侵害されるではないか。もし筏を流す者がこの低い橋に当たって怪我をしたら建設省はどのような責任を取るつもりか」
森が切込むと、吉田総務部長も負けてはいない。
「わたし達もここ二年間津江川を見て来ているが、一度も筏の流れているのは見たことがない。仮定の問題に答えるわけにはいかない」
森からマイクを奪うようにして、知幸が怒鳴り始めた。
「何をいうか。おれは六十二年間ここに棲んでいるのだ。吉田、お前がたった二年間この川を見たくらいで何をいうかっ!」
「しかし筏流しには河川法に基づく許可が要るが、あなた方はそれを取っていないではないか」
「おいおい、馬鹿なこついうちゃいかん。この川の筏流しは河川法が出来る何十年も前から続いちょるんだ。慣習法は成文化された法と同じ力を持っている事をお前は知らんのか」
知幸はマイクの前に高野展太を立たせると、筏流しの慣習を証言させた。
結局、マイクでの論争を続ける内に午後五時を過ぎてしまい、九地建作業隊は引揚げて行った。森純利、庄司進一郎と組んだ室原知幸のお得意の法律論争に九地建はいい負かされたという印象であった。この日も夕刻から夜にかけて、矢来の背後に新たに一棟の見張小屋を築き、その両翼に廊下を張り出した。
翌二十八日も曇天であった。この日、九地建は午前中の工事を見合わせた。水没四カ村の代表団が来て、室原氏を砦に訪ねて説得するので暫く時を藉してほしいと申入れたのである。今更代表団の説得が功を奏するなどと信じたわけではないが、実は九地建首脳陣内部が強行策の是非をめぐって意見が割れ、収拾がつかなくなっていた。一旦は強行を決めながら前日での法律論争にいい負かされて、又しても躊躇が湧いていた。
砦に登った水没四カ村代表団は、果たして逐《お》われるように空《むな》しく戻って来た。もはや正午が迫り、決断を迫られた住友局長らは再度警備本部の意向を需《もと》めて行ったが、呆れた警備本部は、もうこれ以上大部隊をこの谿間の辺境に止《とど》めるわけにはいかない、三池争議がいよいよ緊迫しているので明日にでもここを引揚げると叱りつけた。慌てた九地建首脳陣は午後の強行策を決した。
午後一時過ぎ、測量隊二十名を率いた吉田総務部長が仮橋の先端迄来てマイクで砦に呼び掛けた。
「只今から土地収用法第三五条の立入りを始めます。妨害しないで下さい」
室原知幸が待ち兼ねていたようにマイクで応酬する。
「お前達の法的手続きは不備だ。もしこのまま立入りを強行するならお前達は不法行為を犯すことになる。何故なら――」
知幸はやおら眼鏡を掛けると小六法を片手に土地収用法の関係条文を甲高い声で朗読し始めた。又しても前日の法律論争が再開されたようであった。しかしこれは九地建の巧妙な陽動作戦であった。
砦側の注視が仮橋上の一隊に吸われている隙を縫って、午後一時三十五分九地建別働隊二十五名は突如河中に飛び込み砦の上流に奔《はし》った。その辺りは岩が無く僅かながら砂洲となっている。作業隊は石塁の上の有刺鉄線をペンチで切り裂き、木の柵を鋸で切り倒し、あっという間に幅十米の突破口を開いた。中央に集中していた砦部隊は虚を衝かれて大混乱したが、一斉に破られた地点へと奔り、どっと二百人の男女が折り重なるように坐り込み、川に背を向けてスクラムを組んだ。
「挑発に乗るな、手出しはするな!」
庄司や大森、小森が必死に叫んで混乱の統制を図る。
「おれが行って、ありどんの叩き出しちゃる!」
顔面蒼白となった知幸が叫んで走ろうとするのを、ヨシとトシと節子が左右から取縋って離さない。激昂し切った知幸が何をしでかすか分らなかった。泣いて縋る女達の力が知幸を縛った。水に落ちた知幸の登山帽が流れて行った。
第一線のバリケードを切り裂いた作業隊も、砦部隊の背を向けたスクラムに阻まれて其処からは一歩も踏み込めない。測量班が磧の砂洲に三本の杭を打ち込み三脚板を立てて測量を始めると共に、施工班が坐り込み部隊の退去を迫った。この日は警察隊七十名も一斉に渡河して、「暴力行為は直ちに検挙する」と警告を発し続けた。
やがて、坂本泰良代議士が九地建首脳陣と会談に入ったという情報が流れて、対峙する作業隊とスクラムの間の険悪な緊張がやや弛んだ。女達が頻りに九地建職員に悪態を吐《つ》いたり泣き落としを掛けたりし始めている。
「なあ、あんた達|にん《ヽヽ》が嬶《かかあ》や子があろうもん。あんた達ゃ嬶や子を置いてからよそん土地に移って行けるっとですか!」
河津れい子が大真面目にそう叫んだ時、傍の穴井ツユが慌てて遮った。
「れい子さんちゃ、嬶や子を置いて立退けちゃ建設省もいいよらんとばい」
「えっ、――ああ、そうじゃったかな」
興奮しているれい子が大声で相槌を打つと、スクラムにも九地建作業隊にも思わず笑いが湧いた。それを切掛に砦の女達はスクラムの男達に握り飯を配り、背後に突っ立っている作業隊にも差出した。無視して受けぬ職員も居たが、素直に礼をいって頬張る者の方が多かった。結局、九地建は坂本の申入れを容れてこれ以上の強行突破を断念し、午後三時作業隊を引揚げさせた。
気を取直した城主室原知幸は、ここで持前の芝居っ気を発揮し、全員に万歳を三唱させたあと、対岸の見物客にマイクで挨拶をした。
「皆さん、御声援有難う御座居ました。お陰で今日も蜂ノ巣城を守ることが出来ました。暑い中を皆さんにお茶も差上げませんで失礼を致しました」
一旦破られた柵も鉄条網も忽ち夜の内に修復されてしまった。男も女も次第に憊《つか》れを濃くしていたが、それでも砦から帰って来ると夜の田に入って草取りに励む者も少なくなかった。闘いが如何に烈しかろうと、田を守る日常の営みは罷《や》めるわけにはいかない。
二十九日は朝から雨雲が低く垂れこめて、一寸突けば雨が零れて来そうな空模様であった。津江川夏の陣も既に十日目の攻防となる。九地建も今日こそ決着をつけねばならぬ時に追いこまれている。
九時十分、九地建作業隊は立入り通告と共に一気に下流に奔り、鉄条網を切り裂きその内側の前面渡り廊下の壁板を引き剥がしにかかった。砦の男女は廊下の内側に背を向けて坐り込み、壁板を剥がそうとする作業員の手が背に触れる度びに、
「こらっ身体にせつかうなっ、暴力で来るとかっ」
と怒鳴り、女達は殊更に甲高い悲鳴を発してたじろがせた。この時、押し入ろうとする作業隊と防ごうとする砦部隊の激突の中で浅瀬部落の河津きみえと穴井笹子が昏倒し、九地建救護所に運ばれていった。担架で運ばれる蒼白の二人を見送って女達は哭いた。
下流の渡り廊下で攻防が繰り拡げられている間に、別働隊は上流側に奔り、正面矢来のやや上手の鉄条網を切断して突っ込んで行った。第二線の鉄条網を切り裂こうとした時、突然霧のような冷たい滴が降って来た。雨か、と皆一瞬思った。
「わーっ、臭い!」
一斉に悲鳴が騰がった。中腹の杉林の中から撒かれた糞尿であった。作業隊も警官隊も記者団もこれを浴びてしまった。狂ったように川に飛び込み服を躰を洗う者が続出した。臭気は辺りに立罩《たちこ》めた。
この日砦側はどうしようもなく手薄であった。そんなに毎日のように日稼ぎを休んで砦に詰める余裕は貧しい村の者達に宥されることではなかった。百人に満たぬ男女があちらに走りこちらに駆けて防禦のスクラムを組んだが、諸方から攻め入る作業隊によってかなり内部まで蹂躙されてしまった。警官隊もこの日は二百人が出動し容赦なく坐り込みのごぼう抜きをした。
その間、坂本泰良、小松幹両代議士は必死に九地建首脳陣と折衝を重ねていた。両代議士の申入れ趣旨は、係争中の〈河川予定地制限令違反に基づく建物除去による妨害排除仮処分命令〉の決定が七月十二日に予定されているので、それまで一時休戦をしてはどうかということであった。九地建はついにこれを呑んで、午前十一時作業は中止された。
正午、砦側は九地建に対し、
「剥ぎ取った壁板や鉄条網その他の資材を直ちに返却せよ」
と申入れた。土地収用法第一四条はその事を定めている。折りしも降り出した雨の中を、九地建側は七十人の作業員が丸太や有刺鉄線やブリキ板などを担いで仮橋の先端迄運び、堆《うずたか》く積み上げた。しかし室原知幸は住友局長が出て来て謝罪しなければこれらを収納しないと拒絶し、押問答の果てに結局作業隊は再びこれらを担いで引返さねばならなかった。それが滑稽だと指差し囃し立てて砦の男女は嘲笑した。九地建職員一人一人、泣くに泣けない惨めさを噛みしめていた。
一旦内部迄立入りながら九地建が一時休戦を受入れたのは確かに弱腰には違いなかったが、そうせざるを得ぬ苦悩があった。幾度鉄条網を破って突入してみても、夜の内に忽ち修復されてしまうという賽の河原戦術に九地建は音《ね》を挙げていた。しかも鉄条網を破って突入しても、そこに立ちはだかる二列の見張小屋とその廊下を除却するには、九地建は既に法的根拠を喪っていた。それを喪わしめたのは、皮肉にも二十一日の豪雨であった。九地建が砦の工作物を除却する法的根拠としているのは河川予定地制限令第三条違反であるが、その執行に当たっては該当工作物を一個ずつ特定した上で河川法第二二条による更正命令、行政代執行法第三条第一項による戒告、更に第二項による代執行令書という煩雑な手続きを経なければならない。九地建は蜂ノ巣城突入に当たってその手続きを完了していたのであったが、二十一日の豪雨が第一線の見張小屋を流してしまい、新たに築かれた工作物に関してはもう一度手続きを最初からやり直さねばならなくなった。その手続きが出来ていなかった。第一線の建物を除却出来ない以上、それより奥へは踏込める筈はなかった。
このような状況下で、新たな政治情勢も生まれていた。二十日の水中乱闘事件に関して警察が積極的な捜査活動に入ったのだ。策尽きていた九地建が、むしろここは警察に委せて事態を見守りたいと考えて休戦に踏切ったのは当然であったかもしれない。
六月三十日夕刻、室原知彦、穴井武雄両名は小国署に任意出頭して簡単な取調べを受けたが、知幸は四度目の任意出頭期限をも無視し、ついに熊本地裁一の宮支部は夕六時四十分、室原知幸に対する逮捕令状を発した。
「わたしの逮捕令状が出されたらしいが、わたしとしては警察の出頭命令をどこまでも拒否する考えはない。ただ、その時期が問題だ。蜂ノ巣城が今のように緊迫した状態の時、なぜ出頭させるのか、意図が分らない。あえて三十日に出頭させようというところに政治的意図があるように思われる」
その夜、知幸は記者団に憤懣をぶち撒けた。津江川夏の陣の焦点が、室原知幸の逮捕にかかって来た事を記者団は悟った。
七月三日、知幸は十三日振りに自宅へ帰り湯に入ると早く就眠した。明日の朝知幸の髪をつんでやらねばと、ヨシは考えていた。
三 遁走
男ん意地ちゅうつは、ほんと厄介なもんでございますねえ。
もう、おとうさんな、「なんでおりが警察にのこのこ出て行こうか。逮捕しきるならしてみい、上原ん鼻をあかしちゃる」ち息巻いちですね、上原ちゃ熊本県警本部長んこつですばい、知彦さんやら弟妹《きようだい》皆が警察に行った方がいいちゅうとに、まるで諾《き》こうとせんですたい。あんまりいうと、もう癇癪起こしてしまうですもんね、誰も説得しきらんとです。ばってんが、警察に出頭せにゃあ逮捕さるるでしょうが。警察にゃ行かん、逮捕はされとうないちゅうちから、そげなうまい方法ちゃ無いですもん。もう逮捕状は出ちょるでしょうが、新聞にゃ今にも逮捕するような記事が出ちょるですたい。おとうさんな出頭すりゃあ逮捕されんで済むかしれんのんにち、わたしゃどんくらい心ん中で思うかしれんですけど、それをいえばおこらるるですもんね、妻たちゃ容赦ないですたい。わたしゃもう黙ってるだけですたい。ほんと、あん時ん癇癪は烈しかったですもん。きっと、おとうさんも内心はどげえすりゃいいか分らんとでしたろ。頭ん理屈じゃ、出頭せにゃ逮捕さるるち分っちょりながら、やっぱぁおとうさんの意地がそれをさせんのでしたろ。もう、おとうさんときたら、意地ん固まりみたいな人でしたもん。ほんと、男ん意地ちゃ厄介なもんですたい。
意地っ張りんおとうさんのこつを、新聞なんかじゃ室原知幸は肥後|もっこす《ヽヽヽヽ》ん代表ちゅうてから書いたとですが、志屋ん辺じゃ|もっこす《ヽヽヽヽ》ちゅう言葉は余り使わんですたい。わたしも、新聞が書くまではそげな言葉ちゃ知らざったとです。肥後ちゅうたちゃ、もう志屋ん辺は熊本県の端《はし》も端《はし》、大分県に近いですもん。言葉たちゃあ、肥後弁と日田弁のまじりですたい。肥後|もっこす《ヽヽヽヽ》ちゅうたら偏屈もんとか意固地もんとかいうこつでございましょ。志屋ん辺じゃ、そげなとを|へんげんもん《ヽヽヽヽヽヽ》とか|どじれんもん《ヽヽヽヽヽヽ》とかいいますたい。ま、あんまりいい意味じゃ使わんとです。お天気屋ちいいますかね、そん日の気分で右んもんを左ちいい張ったりするですたい。まるきり相手の理屈も聞かんとに横車を押すとを、そげえいうて嫌うですたい。ま、|もっこす《ヽヽヽヽ》ちゅうたら、もっと筋を通した頑固ちゅうこつでございましょうかね。ここらじゃ知幸んようなごたるとを、|むつかしもん《ヽヽヽヽヽヽ》ち呼びよりましたね。ひと理屈もふた理屈も持っちょっちから、自分が納得せにゃ絶対に首を縦に振らんもんのこつを、ありゃあ|むつかしもん《ヽヽヽヽヽヽ》じゃち呼ぶですたい。「おりんこつを新聞な肥後もっこすち書くばってん、おれはおれん筋は通しよる」ち、知幸はいいよったとですき、本人は|もっこす《ヽヽヽヽ》じゃあないち思うちょったとでしょ。
兎に角、自分より下ちいいますか、山ん下働きん人とか部落んみんなとかにゃやさしゅう頭をさげよったとですが、自分より上んもんにゃ梃でんが頭は下げんちゅうふうですき、ま、普通ん人とは反対ですたい。そげなんふうですき、とてん警察なんかにゃ呼び出されたからちゅうて行くこっちゃありませんたい。行かな損ち分っちょってんが、行かあせんですたい。
山から久し振りに帰って来た翌日、たいていみんなずりして説得したつを到頭振り切って夕方頃から又山に戻って行ったですたい。あの晩、なかなかわたしゃ寝つけんで心配したつをおぼえていますたい。今にもおとうさんな逮捕されるんじゃないかち、もう気がかりで気がかりで。それに、おとうさんのこつですもん、いざ逮捕さるるちなったら大暴れして怪我しやせんじゃろうかちですね、そげなこつ思うと寝つけんでしたもん。あの晩は激しゅう雨が降っていました。
結局、百人からの警官隊が山を襲うたんはそん夜明けでした。さあ、確か五時頃でしたろ、雨が降ってましたもん暗かったですたい。ええ、そん時ゃもう、おとうさんな逃げたあとでしたもんね。警察は踏み込む直前迄、砦ん中ん知幸を双眼鏡で確認してたんに、なして消えたんじゃろうちゅうて、狐につままれたそうでございますが、あとでわたしゃ、あん夜の番丁《ばんちよう》だった吉野敏孝さんに詳しいいきさつを聞いたとです。なんでも、午前三時頃、対岸からあの、自動車のラッパちいいますかねえ……そうそうクラクションですたいね、それつがやかましゅう鳴るもんですけ、敏孝さんが起き出て見ると、対岸から頻りに一人の男が手旗信号を送って来たちゅうとですたい、敏孝さんな予科練あがりじゃもんですき信号が読めるんですたい。こっちからも手旗で応えたところ、相手は新聞記者で、マモナクムロハラタイホニケイカンタイガヤマニムカウちゅうて手旗で知らせてくれたそうです。直ぐ知幸ん書斎に駆けつけたら、おとうさんな眠らんまま机に向かって書き物をしよったそうです。逮捕に来るかもしれんち予期しちょったとでしょ。よし、逃げようちゅうちからおとうさんな若い敏孝さん、坂田亘さんと連れ立っち雨ん山道を懐中電灯をたよりに歩いてから、志屋んはずれの山ん中にある穴井|巳音夫《みねお》さんの小屋まで来て隠れたそうです。敏孝さんと亘さんはおとうさんを其処に残して、あとで連絡に来るちゅうて又砦に戻ったちゅうこつですが、丁度そん時警官隊がどっと踏込んだそうです。雨が激しゅうして津江川が増水して橋を渡れずに山越えして踏込んだんで、それだけ遅れたんですね。
わたしらはもう、警官隊が志屋部落を通り抜ける時、直ぐ飛び起きたとです。そりゃあもう分りますたい、警察ん車があとからあとから狭い道を行くですもん、十五台じゃったちゅうこつですもんね。そらっ、室原逮捕に来たぞっちゅうこつで、部落中がいっぺんに目を覚ましちから、皆警察ん車を追うごとして山に駆けて行ったとです。うちじゃあ節子が合羽着て行ったですたい。まさかおとうさんないち早く逃げたちゃ知りませんもん、どうか抵抗などせんと無事につかまっちくれりゃいいがちですね、節子にんが、おとうさんに縋ってでんが鎮めなさいよちいいふくめて送り出したとです。
節子が出て直ぐでした、うちにも警官隊がどっと押し込んで来たですたい。家宅捜索するちゅうでしょうが。もう、わたしゃ坐りこんでしまいたい程たまがったですもん。末っ子ん知子が目が覚めたら、どんだけおびえて泣くかしれんち、そんことばかり気がかりでしてね。裕子が家宅捜索にゃ立会ったとですが、まあ見ちょりますと、おとうさんの大切にしちょる本を乱暴に頁をめくっちゃ、ぽんぽんと放り投げるとですよ。それこそおとうさんな日頃から手を洗うて本をひらく程大切にしよりましたもん、もうなさけのうして、くやしゅうしてですね……。さあ、一時間位も捜索しましたかしらん、知幸ん狂歌の短冊集とか、あげなんとを持って行ったちゃなんの役にも立たんとでしょうもんを、やっぱあなんか押収していかにゃ恰好つかんちゅうたふうで、持って行ったですたい。
そんうち節子が帰って来て、おとうさんな山に逃げたごたるばいち言うでしょうが、ほっとするやら又あらたな心配が始まるやらですね。ラジオんニュースは、室原知幸が逃亡したので警官隊は一斉に山狩りを続けているちゅうて、ひっきりなしに放送するですたい。台所ん窓から外をひょっと見ると、もう家ん廻りは警官で一杯で、報道陣も囲んでるちゅうふうで、あああ、到頭こげなこつになっちしもうてち、もう取返しんつかん悪夢ん中におるごたる気がしたとです。
あん日は午後になっち、雷がひどう鳴ってですね。山は荒れたですもん。
夕方になっても、依然として室原知幸の行方は不明ちゅうてラジオは繰り返すですたい。とうとう夜になって、ひょっとしたらおとうさんな闇にまぎれて裏山から降りて来るかしれんち考えて、家ん裏戸ん鍵をそっとはずして待ったですたい。食ぶるもんななんか持って行ったやろうか、ひもじい思いをしよらせんじゃろうか、さぞ蚊に喰われよるとじゃろうに、どこで寝よるとじゃろうか、蝮は大丈夫じゃろうか、いつも痔に使う柔い紙は持って出たじゃろうか、心臓は大丈夫じゃろうかちですね、あとからあとから心配が湧くばかりで眠るどころじゃないですたい。裕子も節子も眠らんとです。呑気者ん節子は高校ん頃ん試験勉強ちゅうたちゃ一回も徹夜ちゃしたこつは無かったんが、到頭こん晩だけは生まれて初めてん徹夜をしたですもんね。
翌る日もやっぱあラジオは知幸ん行方不明を放送するですたい。杖立や日田や小国に通じる道は全部警察ん検問が張られていて、それにひっかからんところをみると、附近の山にまだひそんでいる筈だちゅう警察の見解をいうですたい。もう、こん日は朝からひっきりなしに心配して来てくれる人達ん応対でわたしゃきりきり舞いですたい。新宅ん知彦さんの家を、まあちょっと対策本部ちゅうたふうにしてですね、そこで庄司弁護士さんとか、小松幹とか、――ええ、これは知幸ん母の妹の子ですき、知幸とは従弟《いとこ》ですたいね、そん頃は大分県選出ん社会党代議士ですたい、それに大森、小森さん、あとは亥十二さんとか親族が皆してですね、収拾策を協議しよったとです。わたしゃもう家ん客の応対で精一杯追われよったとですが、或る人がどなりこんで来て、「新宅ん方じゃ皆知幸んこつを心配して対策を協議しよるんに、酒ん肴も運んでこん、まるで気がきかん」ちゅうちから、わたしゃ激しゅうおごられたですたい。直ぐ詫びに行ったとですが、あああ、女ちゃ辛いなあち泣こうごとあったですたい。今になっち考えちみりゃ、あげな時、おなごにゃ台所仕事ちゅう欠かせん仕事があるとですき、かえって辛棒でくるんかもしれんちゅう気もしますたい。ぼうっとして泣いちょるこつが許されませんもんね。
わたしゃ新宅ん協議なんかにゃ加われませんもん、詳しいこつは知らんまんまですばってん、あとで朝日新聞記者が書きました『地方記者』ちゅう本を読みましたら、知幸が山から降りて来た場で即座に逮捕せんちゅう約束を県警の方でするなら、知幸を山から連れ戻して県警本部に出頭させたいちゅう取引きをこちらからしたようです。それを新聞記者を介して上原県警本部長に申入れたら、約束をしよう、周辺の張り込みを解いてもいいちゅう返事じゃったそうです。ところが肝腎なおとうさんの行方が知彦さんにも誰にも分らんごとなっちょったとです。穴井|巳音夫《みねお》さんの小屋から居らんごつなっちょったつです。志屋ん山狩りで危いち思うてどこかへ移ったとでしょ。到頭、県警本部に出頭させる約束の夕方五時を過ぎて、どうしても見付けだせんもんですき、川良美郁さんと誰じゃったか何人かして警察に謝りに行ったりして大騒ぎしたとをおぼえちょりますたい。室原知幸はひょっとしたら自殺したとじゃなかろうかち不吉な噂も耳にしましたばってん、そげなんこつだけは、わたしゃ全然心配せざったとです。あれだけ建設省に烈しい敵意を持って闘《たたこ》うちょるに、なんでそれを放り出して死んだりするもんかち、これは確信があったですたい。おとうさんな、こん闘いを捨てきらんとですもん。――そう思うたんは、九地建が初めて鉄条網を破って立入ろうとした時ん、知幸ん怒りのすさまじさを見てからですたい。あげな恐ろしい顔をして知幸を見たこつはなかったですもん。ああ、おとうさんなダム反対ん鬼になりなさったち、肝ん潰れる思いで見ましたばい。なんの、おとうさんが自殺などしますもんか、それどころか砦を捨てて遠くへも逃げきらんち、わたしは初めっから思うてましたもん。そうですき、もういい加減出てくりゃいいんに、まるきりやん茶坊主に駄々こねよるごたるこつを、早ようやめちほしいち、わたしゃもう心配と一緒に腹も立てちょったんですたい。
夜ん十二時近くでしたろうか。新宅から使いが来て、知幸が山から降りて新宅迄来ちょる、服が濡れちょるんで着換えを持って来い、報道陣に気づかれんごとして来いちゅう伝言でしょうが、やれ嬉しやち思うてですね、ばってんわたしが行けば目立ちますもん、裕子に風呂敷包みを持たせて走らせたとです。なんでも最後は大分県側の蕨野ん山中の坂田司さんの小屋に隠れちょったそうでございますが、ばってんどげんしてあの津江川を警察に気付かれんと渡ったんでしょうねえ、その後も逃走中んこつは知幸は一言もわたしにゃしゃべらざったですき、今も不思議ですたい。
知幸は新宅に帰って来てんが、まだ相当大暴れしたそうですたい。もう、ほんとにやん茶坊の駄々ですたいね、到頭みんなでなだめすかして、やっと県警に出頭するちゅうこつで、小松幹さんを先頭にうちに帰って来たとです。待ち受けていた記者団が門を入ろうとする知幸にフラッシュを焚くと、「こらっ、今撮すなっ! あとでちゃんと記者会見する」ちゅうちからですね、やつれた姿を見せとうなかったとでしょ。わたしゃ直ぐ、おとうさんを風呂に入れたとです。風呂を焚きつけながら、「おとうさん、湯加減な、どげなふうですと?」ちいいますと、「ああ、丁度いいぞ」ちいうちからですね、今思えばおかしなもんですたい、二人が交した言葉ちゃそれだけでしたもん。風呂からあがると、ちゃんとネクタイ締めて背広を着て、記者会見をしました。もう、おとうさんもすっかり覚悟を決めたとでしょう、記者さんの質問にゃ笑ったりしながらですね、なして逃げたんかち訊《き》かれて、「たった一人んおれを捕まえるんに百人も警官が来て大げさで高圧的な態度が気にくわんので上原ん鼻をあかせちゃったんだ」なんち答えて、まあわたしらがあげぇ心配してたんに、ほんとおとうさんないい気なもんじゃち、わたしゃ腹ん中でくすくす笑うたもんですたい。
記者会見を済ますと、午前五時頃でしたろうか、小松幹さんに伴われて確か是賢《これかた》さん――知彦ん長男の車で熊本へと向かったとです。出る時、靴を揃えてやったら、誰にも聞こえんごと、「あとんことは頼むぞ」ち、ひとことささやいたですたい。「はい」ち返事したら、思わず涙がこぼれてですね……。
もう三晩続きん徹夜でしょうが、気分は悪うして今にも坐りこもうごたるですけん、まだ寝るわけにゃいきませんたい。ばってん、泊り客が八人から居ましたし、それに徹夜の記者さん達に五升の米を炊いて握り飯を出したとですもん。わたしがもう倒れるように眠ったんは、最後のお客さんを送り出した七月七日ん正午でした。あとで知ったとですが、丁度その時刻、庄司弁護士さんに連れられて県警本部に出頭した知幸がその場で逮捕されていたんですね。わたしゃ今も、おとうさんが手錠を掛けられた時に眠っておったつを、ほんと申しわけなかったちくやんでおりますばい。
四 〈万歳〉の旗
城主室原知幸の逮捕は、砦に通う反対派に深刻な動揺を与えていった。勿論、これ迄と変ることなく男組も女組も番丁《ばんちよう》を組んでの砦通いは続けていたが、一人一人の内心には複雑な陰が差していた。それは啻《ただ》に室原知幸の逮捕によって惹き起こされた翳りというのみならず、六月二十日から十日間に亙って続いた烈しい攻防そのものによって醸されてきた動揺といってよかった。先に引用した浅瀬部落の青年高野香の手記が、その間の事情を率直に伝えてくれる。高野が前掲の手記から二カ月振りにペンを執ったのは、未だ室原知幸が逃走に入る三日前である。
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〈流血の惨事まで引き起し、そして今から先どうなるかわからない闘いにはもはやついて行けない。自分の生活権を守る為に自分の生活を犠牲にし自分の一生迄犠牲にしてダム反対を続ける事に無意味なものを感じた。
去る六月二十日の水中乱闘事件の前、弁護士の仲介で和解の話があったらしいが、その事は部落関係人には相談される事なく一直線に実力に走った事は、どうも納得がいかない。蜂ノ巣城には絶対に法律的に建設省は手が出せないから、強制測量等単なるおどしで、そのおどかしに乗ってはならないといわれた。そこで強制測量を避ける為には種々の工作物をするというので、それには一生懸命に自分も働いた。然し、その強制測量が実現した。おどかしではなかった。そして法律的に問題になるといっていた渡り廊下等も簡単に取り除かれた。それは警官の護衛のもとでやられたことであり、実力で止めさせようとすればどんな事になるか、大変むつかしい事になった。ダム反対を成しとげる為には常に警察と官僚に勝っていねばならないが、それはむつかしい。
望まれる事は平和的な話し合いで解決される事であるが、とても室原さんの心境からすれば絶対的に駄目な事である。そうすれば、何時迄も虚勢を張って闘って行けば自分を深いどろ沼に引きずり落とす結果になり、気が付いた時はどうにもならない状態になるのではないか。三池の騒動が他人事ではなくなった。自分達の上に振りかかり、自分から泥沼の中に入ろうとしているこの闘いは、この先何時迄続くかわからない。ダムを造らねばならないとする国の根本方針が変らぬ以上、何とかして砦に立入って来るだろう。闘いを進めて行けば行くほどはげしいジレンマに落ち入る。頭がガンガン鳴り、どうしてよいかわからなくなる。
又、現在のダム反対の指導層が部落の人からだんだん外部の人に変って行く事を何と見るか。その人達は部落の人の事等まるで考えてはいまい。単に利用しているのではないかと思われるふしもある。ここで脱落者が多数出た場合直ちにとは言えないが、或る時期になれば当然三池の第二組合的なものが発生する事になろう。そうなった場合どうなるか、部落内同士のいがみ合いが起るのではないか。村八分等のような事件が起るだろうか〉
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七月十日朝、田の草取りをしていた穴井武雄は畔道に降りて来る三人の男達を見て、逮捕に来た刑事であることを直感した。泥に塗《まみ》れた手足を洗いたいと猶予を求めると刑事達は家迄付き添うて来た。服を着換える間も刑事達はさりげなく傍に立っていた。末っ子が纏わり付いた時、刑事の一人が十円玉をひとつ握らせた。
この日、拘置期限を延長された室原知幸は、阿蘇郡一の宮署から熊本刑務所京町拘置支所に身柄を移されたが、顔色がひどく蒼かった。直ちに、熊本市で病院を経営している弟亥十二が警察医と共に診察をした結果、持病の心臓病悪化が認められ、坂本泰良弁護士が拘留執行停止を申立てた。熊本地裁宮地支部はこれを認めたが、忽ち検察側の準抗告に遇って阻まれた。
その夜、穴井武雄の妻ハスヨは、何時迄も家の周りを巡廻し続ける警官の跫音が耳について眠れなかった。夫を拉致《らち》した上に、何故こんな事までするのかと思うと、不安だった。部落では、穴井武雄の逮捕に続いて反対派一人一人への呼出しが一斉に始まっていた。
〈明七月―日、午前八時三十分から同九時までの間に中食携行の上小国警察署に出頭して下さい 小国署中山警部〉といった簡略な呼出状も、そのような事に慣れぬ部落の一人一人の内心を脅《おびや》かすに充分な効果を示した。今や警察がこの機を逸《そ》らさず徹底的に反対派に揺さぶりをかけて抵抗の意気を殺《そ》ごうとしている覘《ねら》いは明白であった。
裕子も節子も呼び出された。行くと、幾十枚もの証拠写真を突き付けられ、写真の中の一人一人に付いてこれは誰で何をしていたのかと執拗に訊かれた。節子は、多くの写真の中に自分がくっくりと撮されていることに驚いた。呼出しが続くに連れて、部落内にはどこか隠微な感情が蟠り始めていた。
結局、六月二十日の件に関して室原知幸、室原知彦、穴井武雄、穴井初美、森下光成、吉野卯与喜、吉野智の七名が公務執行妨害、威力業務妨害、傷害の容疑で起訴される。孰れも蜂ノ巣城の中心的存在である。
室原知幸が亥十二の病院に入ることを条件に保釈出所を認められたのは七月十九日であった。二十日には穴井武雄も保釈となり、彼は一足先に志屋の自宅へ戻った。
その間、九地建が受けている代執行令書の期限は七月十日で一旦切れたが直ちに再申請して、十五日から三十日迄の令書を新たに得ている。一方、坂本、小松両代議士が一時休戦の口実とした〈妨害排除仮処分命令〉はその決定直前に室原側が訴訟を取上げ、九地建としては欺《あざむ》かれた恰好になった。それでいて、何故城主室原知幸の拘禁の間に九地建が蜂ノ巣城立入りを強行しなかったのか、定かな理由は分らない。強《し》いて推測すれば、警察による弾圧の最中《さなか》に砦に攻め入ることは余りにも警察権力との癒着を露骨に見せ過ぎるという疚しさゆえであったろうか。
七月十九日、熊本地裁は九地建と室原側双方に対して無条件白紙の立場で調停に応じないかとの勧告を示し、九地建は渡りに舟と、これに応じた。もし、室原側がこれを蹴れば九地建として立入強行の恰好な口実を得ることになる。
室原知幸は、勧告に関しては部落の皆と相談したいのでと、一旦は即答を避けたが、結局独断でこの調停を拒絶している。「恥辱に満ちた刑事被告人の身では話し合いには応じることが出来ない」という烈しい感情的理由であった。
七月二十八日午後、室原知幸は志屋部落へと帰って来た。村人達は部落の入口迄出迎えた。女の中には泣いて迎える者もあった。知幸は顔色こそ優《すぐ》れなかったが意外に元気な声で、「これからますます頑張るぞ」と、第一声を発した。
城主帰還を歓ぶ短い宴が果てて、知幸は二十四日振りに砦の書斎に籠もった。暫くして知彦が入って行った時、知幸は机の前に腕を組んでつくねんと坐っていた。
「兄貴、なして灯もつけんと――」
愕いて問うた時、絞《しぼ》り出すような知幸の声が聴こえた。
「知彦よ、おれは御先祖に申しわけない。おれは縄つきになった。おれは渡鹿《とろく》にうむされた」
渡鹿は熊本刑務所所在地である。つい先刻迄の宴での知幸の声の明かるさが消え失せている。知彦は声を呑んで立ち尽した。
「こん年になっち赤っ恥《ぱじい》かかされた。おれも建設省ん奴どんに傷を負わせんで済ますか。みちょってみい……おれが生きちょる限り……」
知彦は、もはや建設省との間に和解の途《みち》が永遠に絶たれたことを知った。
「――兄貴、明日のこっちゃが……。兄貴は明日は第一線には立たんでくれんか。まだ自重した方がいいたい」
「分っちょる」
知彦は兄を暗がりに置いたまま、部屋を出た。砦の空には燦爛《さんらん》として星が撒かれていた。翌二十九日を、九地建は第二次執行令書による立入りと既に表明している。
丁度一カ月間に亙った休戦期間中に新たな状況が生じていた。労働組織の積極的介入である。既に七月二日、熊本県評を中核とする安保改定阻止熊本県民共闘会議は松原・下筌ダム反対運動支援を決議し、その日の内に田上《たのうえ》県評事務局長らは現地入りして志屋小学校で三池争議のニュース映画を上映し、砦に一泊している。
日米新安全保障条約の自然成立と共に安保阻止闘争は火の消えたように終熄していき、目標を喪った労働組織は暫くこの山峡の執拗な抵抗に関心を向け始めていた。それでも当初は、労働組織としての明確なダム反対理論を未だ持ち得ず、あるいは又一風変った蜂ノ巣城闘争の政治的位置づけに戸惑うて、その介入に躊躇がみられた。
県評が積極的介入に踏切る切掛は、六月末から七月初めにかけての警察権力による反対派農民への弾圧であった。山林地主の室原知幸を支援するというのではない、国家権力による農民弾圧を許せぬのだという大義名分を掲げて熊本県評は労農提携の反権力闘争を打出した。折りしも、史上最大の労働争議といわれた三井三池炭鉱労組の闘いも中労委斡旋による中央収束へと動き、七月二十二日の支援全学連と警官隊の大衝突を最後に後退していき、相次ぐ革新運動の沮喪の中で労働組織の眼に国家権力と沮抗して尚屈することない蜂ノ巣城闘争は大きく浮かび上っていた。
室原知幸も又、「闘争がこのような形で拡がってくるのは、いわば時の流れだろう。支援に来る者を拒む理由はない」として、労働組織の受入れを表明した。逮捕され起訴されるという思いがけぬ衝撃に遭った知幸の、それは内面的変化であったろう。それは又、これ迄〈守れ墳墓の地〉のスローガンの下に結束して来たイデオロギー抜きの土着闘争が変質し始めたということでもあった。
九地建にとって事態はいよいよ厄介になっている。特にこの一カ月に亙って九地建首脳陣を憂慮させたのは、総評翼下の全建労オルグによる九地建現地職員一人一人に対する就労拒否を呼び掛ける説得工作であった。九地建現地職員一人一人は全建労翼下の松原・下筌支部組合員なのであり、上部機関による執拗な説得工作がどのような動揺を内部に拡げていくのか、首脳部の不安は濃かった。
だが、津江川の水を浴びせられ糞尿を浴びせられ悪罵に耐え抜いて来た現地職員は、これまでの経緯《いきさつ》を詳知せずに徒《いたずら》に公式論のみを以て説得しようとするオルグに却って反発を示した。彼等は筑後川治水の為にこの両ダムの必要性を信じ、それを造り上げることに技術者としての情熱を燃やしていた。しかも注目すべきは、彼等が次のような視点をも持っていたという事である。
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〈ダム建設の結果、山林地主、室原氏を中心とする封建的支配体制――その階層的支配体系は二十世紀の今日かくもあるかと思われるくらいである。これは今昔物語に出て来る説話のような庄屋の権限のように強い支配権を有している――が崩壊して、これら水没者が生活の再建の途を講ずるとすれば、現在の補償体系しかのがれ路がないと思っている。だからこそ話合った上一人一人生活再建を目指して代替地造成を根幹とする補償をし、生活再建の途を計ろうと努力を重ねているのである。このように封建的支配から解放せられて自由な生活が出来るという点よりして、革新陣営からは協力を得ることはあっても赤旗まで立ち並び、権力に反抗する者は労働者の味方であるという文句まで出ようとは夢想だにしなかった〉(「下筌問題について社会党・総評・全建労の動きに対しての私の疑問」末吉興一)
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決戦再開の二十九日早朝、全建労中央オルグ八人が到着し、現地職員に就労拒否の最後の説得を試みた。工事事務所長野島虎治はこれに決着を付けるため、全建労中央オルグの列席する場で全職員に就労賛否の無記名投票を提案した。首脳部の中にはその大胆さを危ぶむ者もあったが、結果は野島の自信通り六十八対九で圧倒的に就労が支持された。
その勢いに乗って、午前十時百人の作業隊は真正面の矢来から攻め込んで行った。堅牢と見えた丈高いバリケードが破られるのに五分とかからなかった。しかし、立入った直ぐ前面を塞いで第二線バリケードを成す見張小屋と渡り廊下があり、廊下の中にはみっしりと反対派が坐り込んでいた。朝の陽が翳《かげ》り曇り空となっているが、廊下の中の誰の顔も汗を噴いて上気していた。作業隊は渡り廊下の腰板を剥がしにかかったが、直ちに森純利が得意の法律論を振りかざして抗議を始めた。
「代執行の対象ではない建物、廊下をなんの法的根拠があって壊すのか、土地収用法による立入りは何でも壊していいのか」
「壊すのではなく、はずして通路を作るだけだ」
という九地建の抗弁は力無かった。法律論争が二時間も続く間、作業隊は強行立入りを控えて川原の整地作業を続けていた。
午前十一時には安保改定阻止熊本県民共闘会議の十四人が砦に駆けつけ、〈下筌の皆さんへ 官憲の弾圧に屈せず最後迄共に闘いましょう〉と大書した総評からの激励の寄せ書きの旗を渡り廊下に張りつけて九地建職員をたじろがせた。更に彼等は午後になって九地建首脳陣に作業中止の申入れをして、結局これ以上強行による流血を懼れた九地建は午後三時に作業隊を引揚げさせた。その間、立入りを逸《はや》る作業隊は首脳陣の弱腰を突き上げ、県評オルグ団に喰ってかかり、慌てて吉田総務部長が宥《なだ》めるという光景が見られた。
集会場では共闘会議の面々の指導で、三池で歌われた「がんばろう」の団結歌が砦の女達によっておぼつかなく合唱されていた。午後になって降り始めた雨を染めて、頻りに雷光が奔っていた。
七月三十日の暁け方、芋生野《いもの》部落の吉野牧夫は妻のあや子と共に牛を曳いて家を出た。薄明の山で刈った青草を牛の背に積んでいたが、その背が揺れる度びに草の露が曙光に煌めいた。芋生野から砦迄はほぼ一里ある。生憎、牛が蹄を痛めていて、一緒に出た部落の者達から次第に遅れてしまった。
跛を引く牛にとぼとぼと添うて行く牧夫の足取りも重かった。日稼ぎの休みが続いて、生計が苦しくなって来ている。僅か八戸から成る芋生野部落には山持ちは一人もおらず、皆田作りの合間を鉄索、下刈り、木挽、炭焼など山の日稼ぎで生計を支えている。田も部落内には無くて、津江川を大分県側に渉らねばならない、そんな貧しい村である。これからも日稼ぎを休む日が続き、田の手入れも怠る日が続けば、生活はどうなっていくのだろうという不安が牧夫の足取りを重くしていた。
既に四十日間続いている九地建との攻防も彼の心を暗くしている。南方の戦線で生死一瞬の弾雨を潜って来た牧夫は、激突そのものを恐いとは思っていない。ただ、九地建と激突する度びに彼の心に蟠《わだかま》る遣り切れなさは、何故この平和時に同じ日本人同士が肉体をぶっつけ合い罵り合わねばならぬのかという疑問を押さえ得ぬことであった。
「牛んわらじを編んじゃればよかったなあ。これじゃ、むげねえごたる」
跛のひどくなった牛を見兼ねたようにあや子がいった。
「そうちゃのう。なんさま、急な話じゃったもんのう」
牧夫も心配そうに牛の蹄に眼を遣った。
砦に牛を曳いて来いという指令が知幸から皆に下《くだ》されたのが前夜であった。磧に牛を繋ぎ並べてピケを張ろうという作戦である。その突飛な戦術はひょんな事から生まれた。前日午後、砦で穴井ツユが傍の河津きみえに、
「これじゃあ砦を守る人間の数がどげんもこげんも足らんばい。――いっそ、牛ん手でんが借りてえごたる」
と、冗談をいっているのを聞き止めた知幸が、ぽんと手を打って、
「おっ、そらあいい、そん手でいこう」
と、大声を出したのだった。なんの事かと、ツユの方が呆気に取られた程だった。
牧夫とあや子が跛の牛をあやしながら辿り着いた時、磧には既に牛が犇《ひしめ》いていて、その一頭一頭の背に男達がダム反対の赤旗を巻き付けようとしている。津江谿谷に時ならぬ牛の鳴声が涌いている。
結局、二十三頭の牛と一頭の馬が修復された矢来前面に繋ぎ並べられた時、九地建作業隊が到着して、最後の攻防が始まった。この日で第二次代執行令書の期限が切れるのである。牛群による期待のピケはまるで役に立たなかった。九地建に雇われている労務者には近在の農家出身者が多くて、彼等があっさりと一頭一頭を脇に曳いて行ってしまった。
「こらっ、突かんか! 角はなんの為にあるとか!」
バリケードの内から牛を嗾《けしか》ける叫びが頻りに投げられたが、どの牛も長閑《のどか》な鳴声を挙げながらおとなしく曳かれて行った。「アリャー、アリャー」と、ツユは気抜けのした声を挙げた。
九地建作業隊が昨日と同じ正面の矢来を破ってなだれこんだのは午後一時二十五分であった。この日も第二防禦線の渡り廊下にはみっしりと反対派が坐り込んでいたが、作業隊は前日と違って、いきなり梯子を掛けてこの渡り廊下を乗り越えようと図った。慌てた反対派は廊下の守りを女達に任せて、男達はどっと屋根に這い上ると背を向けて坐り込んだ。熱い陽差しに灼けたトタン屋根は男達の尻を焦《こ》がしそうであった。梯子から作業隊が乗り移ろうとしても、坐り込み部隊が腕を組み合って遮り、トタン屋根を揺すり梯子を揺するので、危なくて足を踏み出せぬ。トタン屋根は男達を乗せて大きく撓《たわ》み今にも陥没しそうになっている。下では、女達が屋根上の重みで廊下が前向きに倒壊せぬようにロープで懸命に後ろから引っ張っている。そのロープには子供達までが縋っていた。
だがこの日、作業隊も激しかった。既に一カ月余に亙る無抵抗に徹した衝突の中で耐え続けたものが今にも爆発しそうであった。弱気の首脳陣の統制を突き破っても、今日こそ一気にこの第二防禦線を乗り越えるのだという敵愾心が一人一人の行動を激しくさせていた。遂にトタン屋根の上に踏み登る者も出て掴み合いが始まっている。知彦の掌から血が流れていた。「叩き落とせ、叩き落とせ!」という怒声が飛び交い、警察のマイクが「危険だから反対派の者達は屋根上から降りるように!」と連呼し続けている。
午後三時、又しても作業隊に中止指令が伝達された。この時、ついに作業隊の怒りは九地建首脳陣に向かって噴出していった。
「なぜ中止するのですか! 今一歩で越えられるじゃないですか」
「こんな弱腰をいつまで繰り返せというんですか。やらせて下さい。黙って見ていて下さい!」
だが、この日の中止指令は異例にも中央の建設大臣から届いたものであった。そう説いて宥める住友局長や樺島河川部長の声にも、熱《いき》り立つ作業隊の余憤は鎮まらなかった。野島が説得に立った時、やっと彼等は対岸へと退《ひ》いて行ったが啜り泣きしている職員が少なくなかった。
砦では勝鬨《かちどき》の万歳が高らかに繰り返され、それは谿谷に谺《こだま》した。演出好きの城主知幸がこの日を期して密かに用意していた垂れ幕が、蜂の巣橋宙空に張られたワイヤーをさあーっと流れて、〈勝ったぞ〉〈万歳〉の大文字が幾つも谿谷の風に翻った。遠く日田の方の杳《くら》い空では、雷が頻りに鳴っていた。
この日の劇的な大臣指令を引き出したのは、社会党の田中一、内村清次両参議院議員、田上熊本県評事務局長等による中央での折衝であった。三人は、現地の緊迫した攻防状況を橋本建設大臣に膝詰めで説明した。五分間だけと時間を限った大臣が、三十分を越えて説明に聴き入っていた。こうしている間にも現地では流血の惨事が起きているかもしれないという必死の愬《うつた》えが大臣を説き伏せた。必ず室原知幸を説得して大臣との会談を実現させるからという田中議員らの提案と引換えに建設大臣が発した中止命令が、最も際どい時刻に現地に届いたのであった。
この日を以て第二次代執行令書の期限が切れた九地建は、遂に方針を切換えることにした。賽の河原戦術のような立入りを打切り、これからは城外からの写真撮影等で調査を進め、早い機会に熊本県収用委員会に収用裁決を申請してダムサイト予定地の山腹をそっくり国有化する方針に踏切ったのである。
津江川夏の陣は四十日間の攻防の果てに蜂ノ巣城側の勝ちに畢《おわ》り、谿谷に休戦の静けさが訪れた。
幾日も砦の男女は勝利の宴に酔っていた。日頃酒を嗜まぬ知幸までが、
「ああ気持いいなき、もちっと飲もう。もちっと注《つ》いで呉れない」
といって盞《さかずき》を重ねて周囲を驚かせた。皆、涼み台に寛《くつろ》ぎ、清水に浸した手拭を頭に乗せて暑気を払いつつ合戦譚は尽きなかった。陽気な冗談が頻りに皆の口を突いて、笑いが弾けた。
「今日はもう、馬鹿あみましたばい」
穴井貞義が笑いながらいい始めると、
「とうちゃんちゃ、あげな馬鹿らしいこつをいいなんなちゃ」
と、ツユが笑って止めようとした。
「今日ん昼、兎を罠に掛けたんですたい」
ほおう、という相槌が起こった。
「そりじゃき、すぐ兎汁をしましょうち、思うたですたい。芋も洗い、牛蒡も掘りして、さて……」
「そしたらまあ、肝腎の兎が逃げちょったんと!」
噴き出しながら、ツユが話を先取りした。
「いや、そうじゃないたい。逃げちょらんたい。わしが罠からはずした途端に逃げられたんですたい」
貞義がせっかちに訂正して、涼み台に爆笑が弾けた。
「貞義君、そらぁほんとん話かい。えっ、ほんとん話か」
知幸は大笑いしながら繰り返した。
その時、集会場の直通電話がツユを呼び出した。未だ笑いの残ったままツユが電話に出ると、ヨシの異様に抑えた声が聴こえた。
「ツユさん、おおごつがでけちょるき、直ぐ貞義さんと二人して帰っておいで」
何事とも判らぬままツユは貞義と連れ立って小走りに砦を降りた。胸騒ぎが高まっていた。学校下迄戻って来た時、ヨシが待っていた。その下の磧に人の群れているのを見た時、ツユも貞義もはっとした。一散に駆け降りて行った。そこに吾が子俊明が寝かされていた。水に濡れた小さな裸身に取縋ると、未だ仄かな温みがあるようだった。だが、十歳の少年は卒《つい》に蘇生しなかった。ツユは何時迄も号泣し続けた。
少年の水死は、勝利に酔っていた砦の一人一人の胸底に刺すような痛みを奔らせた。繰り返す激しい闘いの日々、子供達を置き去りにし続けた悔いが湧いていた。蜂ノ巣城は遂に守り徹したが、その為に犠牲にしたものをそれぞれが密かに算え始めていた。
五 大臣と会わず
津江川夏の陣後の焦点が、室原知幸と建設大臣の会談に懸《かか》って来ている。
その御膳立役である田中一代議士が知幸の意嚮を打診に来たのは八月六日であった。知幸は、「現在刑事事件の被告として保釈中の身なので上京は出来ないが、大臣西下の機会なら部落代表と共に会ってもいい」と答えた。
同じ日、中央では建設大臣が室原知幸に宛てて書翰を発している。
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〈謹啓
御清勝の段慶賀申上候
愚生、仁兄の早稲田大学の後輩にてこの度重責を負うことに相成りました。
過日早大校友有志の祝賀会有りて、室原知幸氏に近く懇談いたしたい旨の雑談を阿部賢一教授と致し候所阿部教授より自分も同席させて貰って懐旧談をいたそうとの話も之有、御多忙中恐縮乍ら御上京下さらば幸甚にて候
小生十二日より十四日不在に付、十一日迄か又は八月十五、六日頃御上京下さらば誠に好都合にて候
右御意得たく執筆仕り候敬具
八月六日
室原知幸仁兄
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]橋本登美三郎〉
橋本がこの書翰で、〈この度重責を負うことに相成りました〉と記したのは、七月中旬に発足した池田内閣に建設大臣として列して未だ間も無かったからである。この書翰は、かつての早大時代の知幸の旧師までも引合いに出して同窓意識に訴えようとする巧妙さであったが、これを受取った知幸自身は、「用があるならそっちから出て来るのが筋だ」といって、返信すら出さなかった。その間、帰京した田中議員が大臣の西下を勧めたこともあって、九月十五日に大臣は再び速達の書翰を発した。いずれも巻紙に闊達な墨書である。
[#ここから2字下げ]
〈残暑益々酷しき折柄御健勝慶賀申上候
小生来る九月二八日福岡着、九州地区の建設行政視察の為西下致すべく候
この機会に御高見を拝聴いたし度甚だ御迷惑の事と存じ上げ候も後輩の為是非とも御来福願上げ候
小生御地に参上いたすが礼儀に候も、如何とも日程の都合がつかず御多忙中遠路御来駕の程を懇願申上候
場所は福岡市呉服町帝国ホテル七階ロビーに小生の名で設営いたし候 九月二八日正午にお願い申上候 尚その際代表者各位も御一緒に御来駕下さる様御願い申上候 小生も単独で御目にかかるべく候間貴殿並に部落代表者以外は次の機会にお願い申上候
右御願い申上げ候敬具
九月一五日
室原知幸様
[#地付き]橋本登美三郎〉
[#ここで字下げ終わり]
大臣が西下して来るなら会おうと田中議員に答えておいたのは、まさか多忙な大臣が怱卒《そうそつ》と九州迄下っては来まいと考えた知幸の、どうやら一時逃れの方便であったようだ。再度の大臣書翰に接して困惑した知幸は、一応皆にその旨を告げて部落の総意に従いたいと諮った。
この部落総会で、はからずも部落の青年層と知幸の考え方の違いが初めて表面化する。知幸が、「たとえ相手が大臣でも、ダム建設が前提なら会うわけにはいかぬ」と主張した時、穴井隆雄の長男昭三等は、「年寄り組は今のようないつ終るとも知れぬ見通しのない長期戦も平気だろうが、おれ達若い者はこのままでは将来の生活設計が立たぬ。仕事もあるし、そうそう砦にばかり出るわけにもいかぬ。大臣と会って補償条件を充分に引き出せるなら是非会うべきだ」と反論し、これが知幸を激怒させてしまった。
甲論乙駁の弊害を虞れて己れ独りの強力な指導制を領《し》いている知幸は、総会に諮るという形式は執っていても己れの論と対立する異見には極めて非寛容であった。それだけに皆彼の面前では口を緘し勝ちであったのだが、この日青年達が真っ向から反論を唱えたのは、余程に思い詰めていたからであったろう。だが、この砦で禁句となっている補償《ヽヽ》という言葉を耳にしただけで激昂した知幸は、口を極めて青年達の腑甲斐無さを罵倒し始めた。総会は流会した。興奮した青年層ももはや知幸と袖を訣《わか》つことを口々にいい立てたが、知彦や隆雄や貞義等が懸命に宥めて分裂だけは回避された。「なんとか親方を説得して、大臣に会わせるから」と、知彦が約したからである。実は、青年達だけではない、全員が知幸と大臣の会見を願っていた。
だが知幸にしてみれば、大臣会見など論外なことであった。絶対にダムを造らせぬと決めた以上、一切の話合いは有り得なかった。何故なら、話合いとは互いの条件を持ち寄ってどこまで譲歩出来るかという場合にのみ成り立つのであり、絶対にダムを造るという者と絶対に造らせまいとする者の間に譲歩は有り得ない筈である。知幸はダム絶対反対の意志を毫も枉《ま》げる積りは無かった。
「それは、そうばってんが――」と、知彦達老人組は深夜迄知幸を説き続けた。知彦達の憂慮は、わざわざ大臣が西下して来るのにその話合いにも応じなかった時、世論の風当たりが彼等反対派に厳しくなるのではないかということであった。既に今年の春、水上熊本県副知事との面会を拒否した時、地元の有力紙熊本日日新聞が「室原知幸氏に訴える」という異例の社説を掲げて、知幸のとった態度を遺憾としたことを知幸達は忘れていない。その社説は次のように書き出されていた。
[#ここから2字下げ]
〈室原さん。あなたは一昨日水上副知事があなたに面会を求めたのを拒否された。これはあなたのためにわれわれの採らぬところです。なぜなら、水上副知事は知事の意を受けて、話し合いの糸口をつけるために下筌を訪れたのであり、知事はわれわれ県民が選んだ、いわば県民の代表であり、副知事は知事と一心同体ともいうべき人であって、その副知事がニベもなく面会を拒否されたということは、われわれ県民がニベもない扱いをされたという感じを避けられないからです。副知事の求めた面会を断わったことは、それ故、県民のあなたに対するひそかな支持を失わせる以外のものでありますまい。あなたのために採らざるゆえんです〉
[#ここで字下げ終わり]
この伝でいけば、建設大臣を拒否することは日本国民全部をニベもなく扱うということになりはしないかと、知彦達は恟《おそ》れた。「分った。兎に角、会うだけは会おう」という言葉がやっと知幸の口から洩れた時、彼等は救われたように吻とした。
約束の九月二十八日は、雨が降って谿間の里は肌寒かった。朝早く、知彦は穴井貞義、坂田司、高野展太等と知幸の出発を見送ろうと邸にやって来た。大臣の待つ福岡市に行くには、日田市迄|降《くだ》ってそこから久大《きゆうだい》線で三時間はかかる。早朝に出発せねば間に合わぬのに、知幸は一向に出て来なかった。やっと出て来た知幸を見た時、知彦達は唖然とした。知幸はいつもの山行きの身拵《みごしらえ》だった。「やっぱあ行くのは罷《や》めた。行ったちゃ同じこったい」とだけいい捨てると、声も無い知彦達を置いてさっさと砦へと出て行った。
博多の帝国ホテルロビーでは、建設大臣橋本登美三郎がつくねんとして室原知幸を待ち続けていた。既に現地からの電話で知幸の来ない事を知った野島がその旨を告げたが、大臣は「万一ということもある。なお奇蹟を待とう」といって、定刻の正午を過ぎても三十分間椅子に黙然と坐り続けた。
――後日、知幸はいつもの如く狂歌に心中を託している。
橋本に会わざれば非室原にありとPRすか、地建の幹部《もの》は
橋本の至情判るとも我《われ》今|詮術《せんすべ》もなし下筌ダムの問題
我と地建の激闘詳知せずダム作らんとす大臣《おとど》あわれ
橋本建設大臣との会談を廻《めぐ》っての知幸と青年層との分裂は、知彦等のとり成しで一先《ひとま》ず回避されたが、それは飽く迄も表面的にであった。奥深い所で反対派の分裂は始まっていた。勝鬨の万歳を谿谷に響かせた蜂ノ巣城反対派も、砦を出て一人一人に戻った時その内心は複雑であった。野島虎治の手記を辿れば、既に津江川夏の陣激突の現場に於いて、彼が反対派一人一人の内心の動揺を見抜いていたことが分る。
[#ここから2字下げ]
〈昭和三五年六月から七月にかけての第一次蜂ノ巣城代執行の立入りは、諸般の情勢がととのわないままに失敗し現地職員一同は悲涙にむせんだのであるが、涙のかげに一筋の明るい希望と信念を抱き得た。多勢の観衆やマスコミ関係者の注視する前で、私達は、あわや流血の惨がと危ぶまれた切迫した緊急事態のさなかに、部落の人達と柵ごしに面と向かいあって長時間を過ごした。お互いに顔をつきあわせ、それぞれの立場を精一杯に支えている内に、お互いの心と心を結ぶものがにじみ出て来た。それまでのすさまじい敵対感情もいつの間にか吹き飛び、公衆やマスコミ関係者の監視の重圧をも超越してしみじみと話し合えるムードが素直にかもし出されて、最前線のあちこちで静かな話し合いの輪が出来始め、私自身も柵ごしの争いで手を傷つけられた室原知彦さんと話を始め、長時間にわたってダム建設について意見を交換し合った。
「ダム建設で我々水没者は犠牲になるのではないかという不安がつきまとっている。兄貴はともかく、私を始め部落の人達は十分な補償がなされて生活の再建が出来さえすれば、ダム建設に反対する気持はない」と主張され、私も「ダム建設は水没関係者の犠牲の上にたって遂行されてはならない。水没関係者の生活の実態を十分に調査し意見も採り入れて安心して生活再建できる適正な補償対策を果たした上で、皆さんにも協力して頂き納得ずくのダム建設を推進する決意である。そのためには皆さんとの話し合いが必要であるので、私共を信頼して、いままでのいきさつをすてて、白紙の状態で話し合える場を作ってほしい」と要望した。知彦さんは「意のあるところは良く理解できるし、部落の人達も同じ考えであると思うが、今は時期が悪い。兄貴をほっておくことも出来ないし、また建設省の補償の在り方も具体的に示されていない状態では部落の人達も動きにくい。もう少し時間をかして欲しい」との意向で、「ではその時期を待つが、補償対策については大分県の人達と話し合いながら具体的に進めているので、その実情を参酌してほしい。最終的には皆さんとの話し合いを通じて皆さんの補償対策がたてていかれる筋合いであるから、できるだけ早い機会に実現できるようご高配をお願いする」と約束して別れた。〉(『公共事業と基本的人権』)
[#ここで字下げ終わり]
実は野島は、もっと確実な形で志屋部落内部に有力な内応者を得ていた。北里|栄雄《さかお》の長男達之助である。室原知幸が勾留中の七月十日、野島は達之助に呼び出されて宮原《みやのはる》の近くの人目につかぬ小温泉で最初の話合いを持っている。達之助の他に二人の若者が居た。その時達之助は、「国がもっと強硬に攻め込んでくれると、自分達も砦から離脱し易くなるのだが――」と、野島に示唆している。
この時期、達之助は未だ政治家として立ってはいなかったが、県議である父栄雄の秘書的な役割を務めつつ次期町議選立候補を目指していて、その現実的な柔軟路線は青年層の中に次第に同志を拡げていっていた。彼が公式に同志を糾合して室原知幸から離脱し、第一次条件派として旗幟《きし》を鮮明にするのは尚三年後のことであるが、実際にはこの迅《はや》い時期から北里派は条件賛成へと転じていたのである。
だが、そんな彼等もこの時期すっぱりと砦通いを罷《や》めてしまったわけではなかった。矢張り未だこの狭い谿間の里全体が室原知幸の強烈な意志の統制下に在り、その桎梏《しつこく》からは誰も脱《ぬ》け得なかった。それに、ひょっとしたら室原知幸が勝つのではないかという見方も、実際に津江川夏の陣の鮮やかな完勝を体験した皆の胸の裡には捨て難く残っていた。酷ないい方をすれば、この時期多くの者達は迷いの中で二股を掛けていたといえよう。
そんな頃、独り寂しい形で砦から脱けて行った者がいる。浅瀬部落の青年高野香である。既に引用したように、彼は砦にあって僅かながらも手記を誌《しる》した唯一人であり、その手記にもどこかインテリ的な苦衷が感じられるのは、彼が多少とも都会に生活した者の眼でこの谿間の里の紛争を視たからであろうか。彼は熊本の鉄道学校を出て兵庫県の国鉄に三年勤めたあと、兄の戦死を機に郷里に帰って来ている。浅瀬部落も又貧しい小村であり、高野が只一軒の山持ちであった。彼が早くから知幸の闘争のやり方に疑問を抱きながら、しかし忠実に砦に通い続けたのは、周囲を顧慮しての気弱な不決断からであったが、ひとつには知幸の信頼を裏切りたくないという辛い心情が濃かった。癇性の知幸は、悟りの鈍い者に向かっては容赦なく罵声を浴びせたが、何故か香は一度も知幸の荒い声を受けたことは無かった。そして香は、知幸から多くの事を教えられていた。その知幸に背《そむ》いて砦を去ることが香には辛過ぎた。もし、あの椿事が出来《しゆつたい》しなかったなら、香の砦通いは尚悶々として続いていただろう。
九月十三日、高野香は砦中腹の物置小屋の屋根の修繕に登っていたが、そこで足を滑らして転落していった。鋭い悲鳴に皆が駆けつけた時、彼は下の岩場に俯きに落ちて昏倒していた。峻嶮な蜂ノ巣城であれば、いつかは起こると恐れていた事故が遂に出来したことで、知幸も色を喪った。直ちに穴井昭三の車で日田市の医院へと運んだ。頭と全身を強打した香は、さいわい命に別条は無かったが自宅に戻っても一カ月からの起き臥しの日々を送らねばならなかった。そして彼は再び砦には還って来なかった。
しかし、砦から離脱した彼が尚もその悩みと迷いから解放されなかったことは、十一月一日付けの彼の手記を読めば分る。
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〈……国を相手の大闘争、その闘争を目的として人生を生きる事は何の為に生まれたのか、生存価値さえうたがう。自分の心の中にあるなやみ、それは皆誰の心の中にもあるなやみだろう。程度の差こそあれ、皆一応は考えている事だろう。然しそのなやみを絶ち切る事は出来ないものか。前門の虎建設省、後門の狼室原さんと同じ考えの部落の人、その間でもだえているのが自分だと見ると、誠にあわれである。それでも男かと言い度い。女であれば人の言う通り強い人におせじを言ってうまく生きて行けば良いかも知れないが、男である以上そんな真似は出来ない。自分の考えが正しいと思えば何故その正しいと思った方向へ進まないのか。目的の為には手段を選ばぬやり方、如何なる方法ででも阻止しようとする考え方、それは意地としては誠に結構な事であるが、万人に向っては通用するものでは無さそうだ。右を向けと言われれば右を向き左を向けと言われれば左を向く、自分自身の考えは全く無視して生きている人生は嫌だ。通っても通らなくても自分の考えを表示する事、この表示をその都度その都度にやって行かないと感情に支配された指導層にいいかげん引き廻される。しかもそれがお前の為と言う名目で。
人間の一生を左右する大事件だからその大事件と言う名に押しつぶされて自分の為すべき方向を迷っている。まだ今でも迷っている。その為他人の言うなりになる。人の言う通りにしていれば非難は少ない。人の受けは良い。然しその為に自分の将来を犠牲にしてはならない。
自分のこの心境の変化について、祖父や母、妻、家族の者は大変心配するだろう。家族の者に心配をかけたくない。家族の者に心配迄かけてと言う事が今までブレーキになっていたが、これはあく迄心の中までの納得の行くような説明をせねばならない。然し年齢の差、教養の差、考え方の違いがあり、うまく行くかどうかわからない……〉
[#ここで字下げ終わり]
部落の一人一人の屈折した動揺とは逆に、革新労働組織はこの時期から下筌・松原ダム反対闘争に大きく関わり始めている。
既に津江川夏の陣の終った翌七月三十一日、総評第十五回全国定期大会で下筌・松原ダム建設反対闘争の支援決議がなされ、それをより具体化する為の全九州各県総評事務局長会議が八月二十五、二十六両日に亙って杖立温泉で開かれたのであった。その杖立での会議に先駆けて、重要な論文がアカハタ紙上に発表されている。執筆者は元建設省技監で共産党中央統制監査委員の兼岩伝一であった。下筌問題を討議する全建労大会に党から出席した兼岩が、組合員からその見解を求められたのを機にアカハタ紙上で答えたのが、「ダム建設についての七つの問題――九州・下筌のたたかいについて」と題する簡潔な論文であった。(尤も、この論文の指摘する主要点と同じ事は既に室原知幸がその箇条書きの意見書に述べていたのであるが)
これまでダム反対の理論的根拠を持ち得なかった革新労働陣営にとって、この論文が明確な方向を示唆することになった。田上熊本県評事務局長は直ちにアカハタ掲載論文を県評機関紙に転載している。六〇年安保闘争の余憤|冷《さ》めやらぬ中で、社共両党の共闘姿勢は未だ濃密であった。杖立の会議に基づいて、やがて総評は下筌ダム技術調査団を現地に送り込むことになる。
この秋の終る頃、室原知幸は一冊の著書を刊行している。『下筌ダム――蜂之巣城騒動日記』がそれである。室原知幸が書き遺したこの唯一の著書は、新書版一七八頁の小著で東京学風社から刊行されているが、実際には三千部全部を知幸が購い取ったという意味で自費出版であったとみていい。知幸は、これを思い付く限りの学者、政治家、著作家、労組幹部、関係者等に贈呈している。
この小著を初めて通読した時、私は微かな溜息を吐《つ》いた。室原知幸という人物は余程文学的情緒に遠い人であったなという慨嘆であった。通読してもどかしい迄に感動を呼ばぬのは、どの頁の行間にも室原知幸の肉声が聴き取れぬからであった。なによりも、〈守れ墳墓の地〉のスローガンで始まった運動の記録であれば、冒頭に語られるべきはこの里の風土、生活への室原知幸の濃い愛着でなければなるまいに、それが完全に欠落している。逆に、無くもがなの〈全九州各県総評事務局長会議の顛末〉などが挿入されていることがなんとも奇異である。
「この〈総評事務局長会議の顛末〉の章は、あなたがお書きになったんじゃないですか?」
熊本市に森武徳氏を訪ねた時、私は予《かね》ての疑問を質《ただ》してみた。
「いや、あれは森純利君が書きましたよ。僕が書いのたは〈建設省の筑後川総合開発計画≠ノ対する疑点〉の章です。室原意見書の解説ですな。それから〈下筌ダムをめぐる法律闘争〉の章は真砂泰輔という熊本大学の先生で……」
「一寸待って下さい。じゃあ、あの本のどの章を室原さん自身が書かれたんですか?」
あっけにとられて私は問いを挟んだ。
「室原さんは全然書いていませんね。いや、〈はじめのことば〉だけは室原さんだったかな?」
「どうして室原さんは自身で書かれなかったんですか?」
「さあ、忙しかったんじゃなかったかな」
室原知幸はかつて東京から谿谷の里に帰って来た若い日、弟の知彦に「本の一冊も書かずに帰って来た」嘆きを密かに洩らしている。『下筌ダム――蜂之巣城騒動日記』が、実に二十数年振りの知幸の著作の実現かと見たのは、どうやら私の思い込みであったようだ。
蜂ノ巣城に二度目の冬が廻って来た。
当面、九地建は攻め込んで来そうな気配は無かったが、蜂ノ巣城の防備はいよいよ固められていった。遂には鉄条網に電流が通されたとの噂も流れた。
十二月十八日、この冬最初の粉雪が昼と夕方に薄く舞った。砦に泊り込む者は、裏山に啼く狐の声を寂しく聴くことがあった。
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争訟の章
一 女の気持
今日はひとつ面白い写真をお目にかけましょうか。
ほれ、芸者さん達に囲まれておとうさんがにこにこ笑うちょるでしょうが。こげなこたぁもう、ほんなこつ珍しいですたい。これは、裕子ん結婚式ん時ん写真ですたい。昭和三十……六年でしたろ。こん頃はもうおとうさんもすっかり有名人ですき、芸者さん達に記念撮影を一緒にさせてくれちゅうてせがまれたとでしょ。御機嫌ですたい。
ええ、裕子ん結婚はわたし一人で決めたですもん。相手はまあちょっと縁続きで気心も分ってましたしね……。おとうさんに相談しようにも、もうよっぽど山ん方にばっかりおりましたもん。それに、女子供なんかにゃひきつろうちゃおれんちゅうふうでしょうが、われが一切しよちゅうちからですね。
前ん年ん水中乱闘事件で、節子や裕子んこつを週刊誌なんかが〈下筌のジャンヌダルク〉とか面白がってはやし立ててですね、わたしゃ早く娘達を志屋から出しちゃりたいち思いましたもん。やっぱぁですね。
もう、おとうさんな山におらにゃあ、裁判から裁判で、家んこつなんか頭にゃありゃあしませんもん、前ん日に「おとうさん、明日が裕子ん式ですよ」ち念を押しましたたい。「おっ、そうじゃったか」ちゅうふうでね。
お陰で盛大な式でごさいました。日田ん市長さんとか代議士さんとか、まあ色んなお方が式には出てくださいました。ばってん、みんなダムんこつは避《よ》けちからひとこともしゃべらんですたい。勿論、おとうさんもそげな野暮なこたぁせんですもん。
式ん時んおとうさんの挨拶ですか? さあ、別に変わったこつちゃいわざったですよ。なんさま人さまん前での挨拶ん下手な人じゃああったですたい。やっぱぁ、若い頃から|座敷ぼんち《ヽヽヽヽヽ》いわれたごと家んじょうに籠もっちょって、自分から娑婆ん挨拶するちゅう立場におっちょらんでしょうが、慣れちょらんですたいね。まあ、都合よう天気ん挨拶でんがなんでんがする人がありますばってん、とてもおとうさんなあげなふうじゃなかとです。おくやみとかなんとかでんが、わたしが挨拶して、おとうさんな傍から黙って頭だけさげるちゅうふうですもん。
ほんとまあ、おかしなもんですたい。ダムんこつになると、おとうさんな口角に泡ためち、それこそもう何時間でんが、人にゃひとことも口ぃはさませんほどしゃべりまくるのんに、ほんのちょっとした世間の挨拶ちゅうつがどげんもこげんもしきらんですたい。紙にあらかじめ書いて読んでみたりですね。それも、どういうもんですか、するっと口から出るちゅうふうにゃいかんごたるですもん。「このたび……四女……裕子が……誰それさんのお世話で……」ちゅうふうに、ひとことひとこと区切ってからですね、非常にこう力を入れち、まあ、なしておとうさんなそげえ緊張なさるんかしらんち、わたしゃ横で聞いちょってはらはらするやらおかしいやらですね。
裕子が嫁いだあとは、節子がもう、なんからなんまでようやってくれましたね。わたしゃあ、やっぱぁ身体がわるうしてですね。そおらもう、道ぃ行きよりましても、向こうん方がこう影のごつですね、ちらちらしてですね、目ぇぬぐうてんがようならんとでしょうが、それで立ち昏《くら》むごたるですたい。それが血圧んせいですたいね。百八十幾つかあったですもん。なんでも腎臓からきたらしゅうございましてね。もともと、わたしゃ若い頃から腎臓病みじゃもんですき……。ほんとは気ぃつかうんが一番悪かこつですばってん、毎日毎日お客さんの絶え間ちゃありませんし……。
ま、砦ん番丁を節子が代りに行くちゅうふうで、わたしゃあんまり山にも行かざったです。どういうもんか、節子にゃおとうさんも割と甘かったですたい。ちょっと、こん写真の見てください。磧でおとうさんに負《お》われちょるとが節子ですたいね。さあ、なんぼん頃でしたろ。向こうに蜂の巣橋が見えましょうが。おとうさんな、こん位置からあん橋を見るとが、どういうもんか好きだったようでございます。まあ、おとうさんが子を負うちょる写真ちゃこれしか無いもんですき、あん子もおとうさんからよっぽどむぞがられたごつ思うちょるですたい。頭つむとも、わたしでない時ゃ、必ず節子ですもんね。……そうですね、わたしゃもうおとうさんと顔を合わせるこつも滅多にないちゅうふうで……砦ん様子なんかも節子から聞くようなこつですたい。
そん頃ん話で、今も忘れられんこつがありますたい。ダム建設工事事務所の野島所長さんの奥さんからおとうさん宛てに手紙が来たちゅうこつです。わたしゃ見てないですが、おとうさんが砦で「こげな手紙が野島ん|かかあ《ヽヽヽ》から来たばい」ちゅうて、皆に読んで聴かせたそうです。そん手紙ん内容ちゅうつが、知幸に反対運動をやめてほしいちゅう、思い余っての願いですたいね。――うちの主人は、ダム反対闘争に出遇ってからすっかり笑いを忘れてしまいました。毎日苛々しているようで、家庭も暗くなっています。どうか室原さん、主人を助けると思って、わたくしを助けると思って反対運動をやめてくださいませんか――ち、まあそげなふうなこつが切々と便箋何枚かに書かれちょったそうでございます。
わたしゃそれを聴きました時、野島さんの奥さんの気持がほんとようわかってですね。おとうさんと野島さんは敵《かたき》同士ですき、わたしとそん奥さんも敵同士ちゅうこつでしょうが、ばってん、わたしも野島さんの奥さんもほんとおんなし犠牲者みたいなもんでしょうもん。わたしがつらい思いをしよるとおんなじごと、野島さんの奥さんもどしこつらかろうち思うてですね……。
おとうさんな、そんな手紙を皆に読んで聴かせてから「そらまぁむげねえち思うばってん、なんのおれが女子供にひきつろうて反対運動をやめるような男じゃろうか」ち笑うたそうですたい。多分、返事ちゃ書かざったとでしょ。
わたしゃとうとう野島さんちゅう人も知らんままでしたたい。そげな馬鹿なち思わるるでしょうが、だあれもあれが野島所長じゃち教えてくれませんでしたもん。なんかこう、わたしゃ今でもようわからんとですが、国家ちゅうつは一体何でございますかねえ。国家がダムつくるちゅうて、ばってん本当に正面に立って攻めて来るんは野島さんちゅう所長さんでございましょうが。やっぱぁ、ただの個人ですもんね。だから奥さんが陰で泣いたりするんでしょうもん。なんかこう、そげなこつを思うと、国家ちゅうもんがわたしゃわからんごとなるですたい……。
ばってん、もう何もかも過ぎてしもうたこつですたい。あん頃ん哀しみとか苦しみとか怨みとかも、もうなんかこう薄れてしもうてですね、そっでどういうもんですか、この頃わたしゃ見たこともないそん奥さんのこつを懐い出したりするんですたい。今|会《お》うてですね、あん頃はお互い苦しみましたねち、女ちゃいつでん苦しいもんですねち慰め合いたいちゅう気がしていますたい。
ほんともう、どしこよおけん人が、あんダムん為につらい思いをしたとでしょうか。部落んもんだけじゃなかとでしょ。攻めた建設省ん人達ん中にもやっぱあつらい思いをする人はよおけございましたでしょ。……そげなこつ考えたりしよりますと、わたしゃふっと思うんですよ、そげん人達一人一人からおとうさんな今どげなふうに思われているんじゃろうかちですね。
なんか、時々たんだとぜのうしてですね……。
二 砦の春
「おりが初夢は御大師《おだいつ》さんじゃったばい」
屠蘇を酌みながら知幸がそういった時、砦の男達はほほおといって思わずその顔を見詰めた。知幸の顔が上機嫌に笑っている。それは縁起がいいというべきかどうか、相手が知幸であるだけに誰も次の言葉を呑んでいる。一九六一年が明けた蜂ノ巣城では、夫々《それぞれ》の初夢が陽気に語られていた。
幾日かして、知幸が又呟いた。
「どげえしたこつじゃろうのう。毎晩のごつ、おりが夢に御大師さんの来なさる――」
砦の男達は驚いて知幸の顔を見守った。知幸に御大師さん信仰があろうとは、思いもよらなかった。だが知幸は謎のようないいかたをするだけでふっと黙ってしまうので、それ以上の事は誰も訊《き》かなかった。
やがて或る日、知幸が弾んだ声で皆に告げた。
「とうとう……夢に御大師さんのお告げがあったばい」
吃驚している皆の顔を見廻して、知幸は一寸言葉を切った。唐突な話にどう合槌を打てばいいのか、砦の男達は面喰らったように口籠もった。
「玖珠《くす》ん戸畑にお立ちの石んお地蔵さんを蜂ノ巣にお迎えしよちゅうお告げたい。そんお地蔵さんがおりどんを敵から守ってくださる――」
続けて知幸の口から出た言葉に、今度こそ皆あっと駭かされた。
「早速じゃが、一日も早ようそんお地蔵さんを蜂ノ巣にお迎えしようち思うんたい」
夢の中の譚《はなし》と聴いていたら、いきなり現実に飛び移って来たのだ。一体、お地蔵さんを迎えるといっても、本当に夢のお告げの通りに玖珠の戸畑に石地蔵が立っているのだろうか、立っているにしても勝手に拉し来ていいというものでもあるまいに……。
「貞義君と恵君と展太君と、明日お迎えに行ってくれんか」
あっけに取られている男達に、知幸は愉快そうに命じた。
翌日は粉雪が散らついたが、穴井貞義、穴井恵、高野展太の三人は知幸の指示のまま、半信半疑の思いで玖珠迄出向いて行った。確かに石地蔵は立っていた。大人の丈《たけ》よりは少し低く、柔和な相好《そうごう》で右手に錫杖、左手に鉦を持つ地蔵であった。どのような話がついているのか、その里の人々は合掌して地蔵を見送ってくれた。途中で傷《いた》めぬように全身を晒木綿で包《くる》んで自動車で運び、津江川から砦へは丸太に吊って肩に担いで運び上げた。知幸はほおほおと声を弾ませて、白布に包まれた石地蔵を先導した。安置したのは山の中腹で、集会場の東側に当たる。
翌朝、雪は石地蔵の丸い頭にも肩にもぽっこりと積んだ。誰が気を利《き》かせたか、直ぐに頭巾が被せられ腹掛けが着けられると、それだけで石地蔵は如何にもそこに相応《ふさわ》しげに見えて、砦の者達の心に和《なご》みを与えるようであった。
それが、知幸の密かな覘《ねら》いであった。
彼は、蜂ノ巣城が既に永い歳月の籠城に入ったのだと視ている。目の前の敵と激突するよりも、目に見えぬ敵に備えての辛く永い忍苦の歳月が始まったのだと覚悟している。
――これから三年かかるか、四年かかるか。いや、もっと延々と続くだろうか。
室原知幸は遠くを視る眼眸《まなざし》で闘争の歳月を測ってみただろう。残り尠い命の竭《つ》きぬ限り、幾年でもそれに耐え得る自信が彼にはあった。しかし、部落の者達にまでそれを期待するのは苛酷だと承知している。その苛酷を承知でこの砦に拠《よ》り続けるにはどうすればいいのかを、知幸は必死に考え抜いたであろう。
せめて、砦の生活を誰もが耐え易いものにしたい。蜂ノ巣城がそのまま志屋部落の暮らしの延長であるような――そう考えた時、知幸は密かに地蔵を探し需《もと》めたのであろう。さいわい、玖珠の戸畑にいる早稲田大学時代の先輩が己が地所に立つ地蔵を貸してくれることになり、知幸は借用料を支払って契約を結んだ。御大師さんが夢枕に顕《た》つ譚は、迎え入れる石地蔵に霊験を添えようとする知幸流の稚気溢れた演出であった。知幸の芸が細《こまか》くなっている。
砦の暮らしを村そのもののように日常化したいという知幸の希いが、日を追うに連れて蜂ノ巣城を多彩なものに変えていった。ブロックの生簀を築き鯉や鱒を放ったり、数十羽のあひるも飼った。あひるは津江川に泛かび、夜は砦の小舎に戻った。あひるの卵は、砦での食膳に並んだ。女達は、砦に菜園を作った。やがては大きな時計台が立ち、ダム反対の大きなネオンの看板も灯《とも》るようになる。
この冬は二月二十六日に最後の雪を見た。
部落の女達が|かるいてぼ《ヽヽヽヽヽ》を負《かる》うて山の蕨採りに出る頃、知幸は指図して蜂ノ巣城の彼方此方《あちこち》に沢山の躑躅《つつじ》を植え込ませた。彼は格別花好きで、自宅の花園もマツバボタンやヒナギクやコスモスで彩っている。
躑躅をみっしりと植え込むと、蜂ノ巣城は見違える程緑に蔽われた。既に砦の山腹のところどころには茶の木が自生していて、新芽を春の陽に柔らかく光らせ始めている。こうして杉山に自生する茶の木は間野《かんの》茶と呼ばれる。やがて五月が来れば、砦に女達が詰めて間野茶をひらい、甲斐甲斐しく茶揉みに励むだろう。その頃には躑躅も一斉に紅や桃や白の花を開いているだろう。
「なんさま、室原さんなケイカンに気ぃつかいながら蜂ノ巣城をつくっていきましたもん」
穴井武雄の妻ハスヨさんからそう告げられた時、成程そうであったろうと私は頷いた。対岸から絶えず監視を怠らぬ警官の目を遮ろうとして夥しい躑躅を植え込んだということであろうと思ったのだ。だが、直ぐに私は思い違いらしいことに気付いた。問い直して、ケイカンが景観のことだと確かめた時、私の胸裡に感動が奔った。花を愛するこの老人は、国家を相手の熾烈な闘いのさなかにも、その砦の構築にあたって景観に気を配るだけの情念《こころ》の余裕を喪ってはいなかったのである。
「そうですたい。大将はもうばさろう凝り性でしたからなあ。たとえばですな――」
穴井武雄さんも、横から言葉を添えるのだった。
「渡り廊下をずうっと造るとでしょうが、その廊下がぴしゃぁっと一直線でないと気に入らんちゅうふうですたい。ばってんが、あげな嶮しい山でしょうが、岩もあっちこっちにあるですたい。どだい、真っ直ぐちゃ無理難題な注文ですよ。……それをわたしゃなんとか工夫してやりとげたもんですたい。なんさま、大将のいいつけですからな」
それを聴きながら、私は思わず微笑していた。室原知幸に関して聴き集めていく話には、|真っ直ぐ《ヽヽヽヽ》という言葉が随所に出て来るのだ。例えば、実妹|川良《かわら》トシさんは、「兄さんをひとことでいえば、ただもうまっすぐーい人でしたね」と、|まっすぐーい《ヽヽヽヽヽヽ》という言葉に力を籠めて繰り返したし、甥の是賢《これかた》さんにいわせれば、「たとえば伯父さんと津江川に張り網に行くでしょうが。ほかんもんは、もうざあっとした張り方でさっさと済ませるとに、伯父貴ときたら違うですたい。もうぴしゃあっと真っ直ぐに張らんと気持が悪いちゅうふうで、それこそ石があれば石を除《の》けてですな、ひとん三倍も四倍も時間をかけるですたい」ということになる。あれはヨシさんの口からであったか、裕子さんからであったか、「布団ひとつ敷くとも、畳んへりに沿うて真っ直ぐでないと忽ち敷き直させられたもんです」と聴かされた時も、私は思わず笑ったのだった。室原知幸の潔癖なまでに|真っ直ぐ《ヽヽヽヽ》な志向は、日常の布団の位置から遂には国家の非礼を糺《ただ》して罷《や》まぬその姿勢にまで一貫していたのであろう。
この春、室原知幸満六十一歳。既に彼が相手にする建設大臣も三代目である。大臣は就任すると先ず室原知幸に会見を申し入れることが恒例となって来ていて、新任の建設相中村梅吉も又、住友九地建局長を介して会見を慫慂して来たが、知幸は頑として撥ねつけたばかりである。
その時の新聞談話で知幸は軒昂といい放っている。「今後もダム反対の気持は絶対変わらない。建設局長、建設大臣、その他関係者とは一切面会しない。地元のダム反対運動を通じて既にこの砦は全国に通じる民主主義擁護の砦になったのだ」と。
蜂ノ巣城が東京地方裁判所の石田裁判長一行を迎え入れたのは、一九六一年の春未だ浅い日であった。
室原知幸はその晩年僅か十年間で実に八十件近い争訟に奔命することになるが、中でも下筌ダム紛争の興廃を賭けた最大の争訟が、この前年五月二十八日に東京地方裁判所へ提訴した「事業認定無効確認請求事件」(同時に執行停止の申立て)であった。被告を建設大臣とするその行政争訟は、被告が一九六〇年四月十九日付けで室原知幸・穴井隆雄・末松アツ・末松豊の土地(蜂ノ巣城所在地)に対して為《な》した事業認定が無効であるとの確認判決を裁判所に求めたものである。
松原・下筌両ダム建設が土地収用法を適用すべき公共事業であると認めた建設大臣の裁定がもしこの裁判によって覆えされれば、国が企図している蜂ノ巣城の強制収用は不可能となり、ダム建設も諦めざるを得なくなる。逆にいえば、室原側はこの訴訟に敗れる秋《とき》、その蜂ノ巣城を国家権力によって一挙に潰滅させられるだろう。謂わば、室原知幸はこの行政訴訟に乾坤一擲の勝負を賭けたといえよう。
本件が現地から遙かに隔たる東京地方裁判所に係属したのは、この時期行政訴訟は総て東京でしか起こせぬという偏頗《へんぱ》な制約の故であった。その事は室原知幸にとってやや不運であったろう。一九六〇年五月二十八日という提訴期日から察しられるように、室原側は当時|目睫《もくしよう》に迫っていた九地建の蜂ノ巣城突入を司法の手を藉りて牽制しようという意図であったのだが、その逼迫した息遣いは東京の裁判所に迄は届かなかった。九州の山峡の騒擾の熾烈さがそこからは視えなかったのである。執行停止にかかわる緊急な現地検証の要請も裁判所から見捨てられている。元々、執行停止に現地検証は無いのである。
裁判長石田哲一が事の重大さに気付くのは、津江川夏の陣によって室原知幸が刑事事件被告とされた事を知ってからであった。〈六月にいわゆる水中乱闘事件が起り、これが本件訴訟の円満な解決の最大の難点となったことを合わせ考えると、裁判官として今でも何とも言い難い苦衷を覚える〉(『公共事業と基本的人権』)と、後年石田は述懐している。
一旦、本件係争の重大さに気付いた石田はこの裁判に精力を集中していった。一瞥して至難な裁判であった。あるいは己が永い裁判官歴の中で最大の裁判に遭遇したのかも知れぬという予感も動いていた。先ず現地を知らねばならぬと考えた石田が、筑後川の実地検証に訪れたのは三月十日である。本件が松原・下筌ダムという局所の問題ではなく筑後川全域を思料《しりよう》すべき裁判なのだという認識に立つ検証であった。第一日は、筑後川河口近い福岡県大川市の大川橋袂から検証に入っている。ヨシの日記によれば、その日好天であった。
その時から十五年目の早春、私も又その場所に立ってみた。かつて、上流日田で組まれた杉丸太の筏は筑後川を遙々と下って来て、この大川の町で家具となった。戦前には榎津《えのきづ》と呼ばれた程に河岸の榎が水面に影を落としていたと聞くのに、今では一樹の榎も見当たらず、水は濁り葦《よし》も未だ蕭条《しようじよう》と立枯れてひどく殺伐とした風景である。大川橋は川中の洲に架かっていて、この洲から佐賀県の諸富《もろどみ》町となる。筑後川改修期成同盟の杉本久留米市長が室原知幸と会見してダムへの協力を懇請した時のもう一人の同行者がこの諸富町の町長であった事を私は懐い出していた。
検証の一行は、この日大川橋から遡行して原鶴《はらづる》(福岡県朝倉郡杷木町)迄の間に十三箇所で筑後川の改修状況を視ている。室原側が、筑後川の治水は上流ダムによるよりもむしろ下流の河道拡幅、堤防嵩上げ、佐賀平野のクリーク整備こそ効果的であると主張しているのに対し、建設省側はいや既に下流域の改修は施行しつつあるのだがそれだけでは治水の目的は達しられないのだとして対立している、その争点に添うての検証であった。
私は久留米市に引返して高良山《こうらさん》に登った。標高二五〇米の辺りに在る高良山神社に立つと、筑柴平野を緩やかに蛇行して光る筑紫次郎は遙かに一望の筈であるが、この日春霞は視界を杳渺《ようびよう》と狭めていた。直ぐ眼下に、豪雨の度びに決潰の危機に曝される宮の陣の堤防が在る。丁度くの字を逆に折ったような屈折点で、一気に奔って来た激流が曲がり切れずにこの左岸に激突するであろうことが、高所からの俯瞰で察せられる。
検証の一行は高良山には登っていない。検証団は川沿いに車を進めたのであった。それはかなりな人数であった。裁判所からは裁判長石田哲一外二陪席裁判官と書記官等、原告側からは室原知幸、知彦兄弟に庄司進一郎、坂本泰良両弁護士と森武徳、被告側は九地建から住友局長、樺島河川部長、野島工事事務所長、本省から羽鳥建設省河川局開発課長補佐が加わり、これに多数の記者団が随行している。
この日、石田は室原知幸と初対面であった。未だ知幸は東京での公判廷に出て来たことが無い。石田は、会う前からこの十一歳年長の室原知幸という老人に興味を深め、知幸の小著『下筌ダム――蜂之巣城騒動日記』も熟読していた。既に中央のマスコミにも、肥後|もっこす《ヽヽヽヽ》室原知幸は喧伝されていて、その偏屈さ、奇矯ぶりは話題になっていた。だが、この日対面した知幸は意外な程裁判所一行に礼節を尽し、石田は「おや?」と思う程好ましい印象を受けた。この小柄な、しかも柔和な相好の老人が国家の前に立ち開《はだか》り立往生させている当人だとはとても信じられない気がした。やがて検証が推《すす》むに連れて、石田ははっとした。各箇所での九地建側の説明に噛みつくように反論していく知幸の相貌は烈しく一変していた。確かにこの老人はダム問題に命を賭けているのだと、石田は緊張させられた。
ただ、知幸の言動は如何にも洗練されていない。どことなく、井の中の蛙の気味があって、それが都会人石田には頻りに目についた。それにしても、こんな老人が国家という巨大なものに必死の抵抗をしているのかと思うと、石田の心中には惻隠の情のようなものが密かに動いていた。一方、国側の説明役の中心になっている若い野島工事事務所長の自信に溢れた言動は、石田の目には勝気に逸《はや》ると見えた。この勝気な性格が国家権力を背景として使命感に燃える時、力で押す強行策に偏らぬとはいえぬ危惧が感じられた。
検証を終えて原鶴の宿に引揚げようとする石田裁判長から、
「どうでしょう、食事を一緒にしませんか」
と誘われた時、知幸はあっけにとられた。裁判官という者が係争中の原・被告両者に対して完《まつた》き中立者であろうとして極度に神経を遣うことを知っている知幸は、この突飛な石田の申出の真意を量りかねて咄嗟の返答を失する程であった。
原鶴は筑後川に沿う温泉宿である。夏であれば灯に彩られた鵜舟が幾艘も川面に泛かぶ。この夜、原告側一行と酒席を倶にした石田は、勿論係争中の事件に関しては一言も触れなかった。いかにも東京から鄙《ひな》の宿に来たという寛ぎで、微醺《びくん》を帯びた石田はやおら上機嫌に謡《うたい》を披露し始めた。駭いたことに、石田は東京から謡曲の教本まで持参して来ているのであった。長身痩躯の石田が背筋を正して謡うのを、さすがの知幸も唖然として見守っていた。
ここで知幸も又酒興の歌で応ずるべきであったろうが、音痴の知幸にそのような洒脱さは無い。それどころか、酒を嗜まず況《ま》して脂粉の香すら受けつけぬ知幸にとって、芸者までが侍るその夜の席は辛いものであったろう。それでも座を立たなかったのは、これはひょっとしたら並《な》みの裁判官ではないのかも知れぬという期待感が知幸の心中に湧いていたからであったろう。――まず、室原知幸という難しい老人の心の裡に飛び込みたいと考えた石田哲一の破天荒な心理作戦は功を奏したようであった。
十二日に実地検証一行は蜂ノ巣城に入った。建設省側の入城に関しても、さすがに知幸もこれを遮ることはしなかった。石田は、初めて観る蜂ノ巣城の聴きしに勝る偉容に目を瞠った。それは、写真で想像した以上の巨きさであった。が同時に、そこでも田舎くさい稚気が鼻につくのをどうしようもなかった。幾らこの山寨が壮大さを誇ろうとも、国家という無限の権力の前には一溜《ひとたまり》も無かろうにと思うと、このような虚仮威《こけおどし》な物で国家に立ち向かっている知幸が、矢張り井の中の蛙と視えてならないのだ。
砦には部落の男女が多く詰めていて、女達は山で採れた茶だといって土産の包みを勧めた。蜂ノ巣城を引揚げる石田を筏で渡したのは穴井貞義であった。筏が川の半ばに差し掛かった時、
「一寸、停《と》めてください」
と裁判長が声を掛けた。停止した筏に坐ったまま、石田は暫く目を瞑っていた。今、裁判長の脳裡を占めている想念が自分達にとって吉であるのか凶であるのかと惟《おも》うと、筏の上の貞義も砦から見送る者達もひどく緊張して裁判長の瞑黙した面から視線を逸《そ》らすことが出来なかった。
――石田裁判長はこの一九六一年だけでも、尚三度の現地検証と一度の出張尋問に東京から出向いて来ている。異例の熱意であったといわねばならぬ。
しかしこの春、九地建も行政訴訟に制せられて手を束《つか》ねていたわけではない。一旦建設大臣が下《くだ》した事業認定はそれが行政訴訟で覆えされる迄は飽く迄も有効と見做されるとして、蜂ノ巣城所在の山腹全域を一気に土地収用に掛けるべく、熊本県の土地収用委員会に申請しようとしていた。収用委員会に土地の収用を申請するに当たっては、収用地の土地調書・物件調書が必要とされる。この為九地建は実に七カ月振りに蜂ノ巣城への立入調査を図ったが、勿論激しく阻止されてしまった。砦の男達にとって、それは久々の刺戟であったろう。あっけなく引揚げて行く職員達を砦の男達は囃して嗤ったが、九地建にしてみればこれは飽く迄も立入り調査をすべく努力したという実績作りを覘《うかが》ったに過ぎなかった。努力はしたが頑固に阻まれたので已むなく他の方法で土地調書・物件調書を作製せざるを得なかったという収用委向けの口実を作ったという事である。
予定通りに九地建は航空撮影に基づく調書を作製して熊本県知事に提出する。収用委に提出する調書には県知事の署名が必要とされるのだ。だがこの時、寺本知事の思いがけない抵抗に遇って九地建は少なからず慌てている。寺本は、この調書作製に県の吏員が立会っていないことから責任を持てぬとして、然もこの調書が航空写真や対岸からの双眼鏡観察による作製であることから現地の実情と齟齬《そご》しているのではないかという疑問を出して、署名を拒んだのである。事実、蜂ノ巣城は山腹右辺下方の雑木林の内側が対岸からも高空からも視界の盲点となっていて、既にそこにも砦の小屋は伸びているのである。
だが、所詮国の機構の一員たる県知事の抵抗ははかない。その署名を二週間遅延させただけのことで、寺本は四月十八日に調書に署名、二十七日には九地建が熊本県収用委員会に収用裁決を申請する。
収用委員会は、知事が民間から任命し議会の同意を経た委員によって構成されるが、その事務局は知事部局が兼任している。元熊本市長福田虎亀を会長とする熊本県収用委員会は五月九日に第一回の会議を持ったが、この申請を受理すべきかどうか多少の躊躇を見せた。調書の建物、立木数が現地の実数と大きく喰違っているので申請を受理しないでほしいという上申書が既に二度に亙って室原側から提出されていて、これに牽制されたのである。
結局、現地視察をしたりして十月三日にやっと受理するが、実際には東京地裁の事業認定無効確認請求訴訟の進行を横眼で睨みながら、これ以後収用委としての実質的審尋は棚上げされていく。
下筌ダム紛争の総ての局面が、今や東京地裁での行政訴訟の結論へと収斂されていこうとしている。
三 山を売る
現在、下筌ダム堰堤《えんてい》を大分県側から熊本県側に渡り最初の天鶴隧道を潜《くぐ》ると、直ぐ左手に降りて行く道がかつての志屋部落跡に通じている。そちらへと降りずに、反対に右手の山中に分け登って行く径がある。自動車が入れぬという幅ではないし急斜面でもないが、石塊が露呈し凹凸《おうとつ》の甚しいこの径を自動車が腹を擦るようにして登って行くのには難渋する。未だほんの人の背丈程の稚い杉床の傍を過ぎたり、隠れたような小さな田に出遇ったり、亭々と岨《そばだ》つ杉木立に遮られて小暗く湿る径を過ぎたりしながら幾度も折れ曲がって、漸く一軒の重い藁屋根の家に辿り着く。
かつて、ここには小竹という十戸の聚落があったが、下の志屋部落の水没と共に残村補償を適用されて、九軒が山を去った。山麓の志屋部落を喪っては、この山奥に孤立する十戸だけでは生活が成り立たなかった。唯一軒、取残されたように山の深みに止《とど》まった穴井蔀さんは、父の代からの室原家の山林の差配を務めとしている。
私が突然の訪問をした五月の或る日、夫妻は軒先に拡げた茣蓙に向き合って坐り、新茶を揉んでいた。その坪先は、私が曲がりくねりながら登って来た径を見霽るかす展けた位置を占めている。
「こんな所にたった一軒で寂しくはありませんか」
つい私は、最初の率直な印象を問いにしていた。
「そうですな、もうずっと木ぃばっかし相手ん暮らしをしよりますと、特に寂しいちゅうこつは思わんごとありますなあ。なんさま、こうして身近に何万本もの杉が、まどろしゅうはありますが年々育って行くとを見るつがなんともいえん頼もしゅうしてですな。……そらまぁ、自分の持山じゃありまっせんですが……」
既に六十歳になる筈のこの山守《やまも》りの相貌の皮膚の滑らかな靭《つよ》さは、老人と呼ぶ印象に遠い。
「そうですなあ、大将のこつですか――ええ、わたしゃ室原《むろばる》さんのこつは大将ち呼びよりましたですが、ま、なんさま変わったお方じゃありましたな。ばってん、さあひとくちにどげなんふうに変わっちょったかいえちいわれると答えきらんとですが、なんかこう、やっぱあ普通ん娑婆ん人じゃなかったですな。あんまり山には来よりませんじゃったばってんが、どういうもんか、山んどこにどげなん杉があるかちゅうこつは不思議な程正確に知っちゃおったですな。頭のすずしい人でしたからなあ……」
家の内に招じ入れようとする蔀さんに、私は辺りの杉木立を案内して貰いたいと乞うて、倶に歩き始めた。
「この間、日光に行きましてな、高名な日光杉を見て来ましたばってん、どうもなんですな、|うち《ヽヽ》ん杉みたいに本当にのびのびと育ってないように思いましたですなあ」
家の坪先を少し降《くだ》ると、もう杉木立に入る。杉の朽葉と枯枝の乾いた匂いが籠もる木陰を踏みしめて歩くと、初夏とはいえ山の空気はひんやりとしている。遠く近く鶯が頻りに啼き、時折り混じる甲高い囀りの主《ぬし》を訊くと、あれは瑠璃《るり》で、もうそろそろ三光《さんこう》も啼き始める頃ですがと、蔀さんは木末《こぬれ》を仰いだ。
「ちょっと、こっちの木立を見て下さい。曲がったり跨《またが》りが多いとでしょうが、戦争ん頃ですたいね。昭和九年に植えて、一番面倒みらなでけん頃に人夫がおらんで、とうとうこげな具合いですたい。……不憫な木じゃあるですなあ」
木々に寄り添うて生きて来たこの山守りには、全山の杉一樹毎に人の世の歴史と重ね合わせての記憶が刻まれているのであろう。
「そうですなあ、杉の面倒みちゃ、ごく単純なもんではあるですたい。先ず苗木を植えるとですよ。えっ、苗木ですか。これはですな、三十糎位の枝を剪《き》って挿木しておくですたい。挿木栽培ですな。そうですな、大体五、六カ月で根が付きますたい。それを植林すっとですが、やっぱ時期としちゃ三、四月頃が一番いいごとあるですな。山仕事としちゃ、こん時がばさろうせわしゅうしてですな、やっぱ七、八人は雇わななりまっせん。ばってん、日頃はそげえ人は要らんでしょうが、そこんところが山仕事の調節のむつかしいとこじゃあるですたいね。日頃はもう、わたしら夫婦だけでやれますもん。……植林の間隔ですか、知幸さんのお父さんの新《あらた》さんは大体二・五米から三米の間隔での植林のごつあったですが、知幸さんの代になってからは、一・五米間隔に縮めましたな。これからは、むしろ小振《こぶ》りん材の方が需要が増えるちいいましてな。そういう見通しは鋭うございました。ええ、そうですたい、密植すればそれだけ一本一本が横に太りきらんとですよ。……苗木が根付いてからは、五、六年は毎年下刈りが欠かせんですたい。根ざらいともいいますな。雑草を鎌で払うてやる仕事ですたい。一年草の萱《かや》なんかあなた、放っておいたらもうばさろう伸びてしもうてから、苗木ん丈を越えるですたい。雪でん積もろうもんなら、がっくりと苗木ん上に被《かぶ》さっておおうもんですき、苗木が伸びきりまっせん。ま、五、六年を過ぎればあとは枝打ちして、下ん方の枝を払うてやるくらいですな。十五年位すると間伐《かんばつ》ですたい。成長の悪か木ば間引くんですわ。杉はみんな揃うた高さで伸びていかんと、遅れたもんは日当たりが悪うしていよいよつまらんごつなるですもんね。こんなのんを早よう見限って伐り取るとです。そうですな、ここらはなんでも気候条件が日本一とかいいましてな、ええ、雨が多いし霧が深いですもん、よそより余程生長が早いらしゅう聞いていますたい。三十年もすれば一応の売り物にはなりますばってん、室原《むろばる》さんはそげえ早ようは伐らんでしたな。大体七十年物位を出しますたい。――これなんか、七十年物ですよ」
蔀さんが指差す巨きな樹に私は寄って行った。腕を周して抱こうとしても囲み切れない太さで、木肌は仄かに温んでいる。周囲七尺はあろうか。抱いたまま真上を仰ぐと、遙かな宙空で梢が謐《しずか》に揺らいでいて、つい吸い込まれるように仰ぎ続けていると己が身体も揺らぎゆくようで、私は慌てて視線を地面に落とした。その丈は既に三十米は越えていよう。もうこれだけの大樹になると、中途で伐り採ればどちらが梢《うら》か幹《もと》か判らなくなるという。
「室原さんは、大体どのくらいの山持ちだったんですか?」
「ま、五十町歩ですから大したこつはないですたい。なんさま小国《おぐに》じゃ四百町歩、五百町歩という山持ちがいますから、さあ、中位ですかな、あるいは中の下《げ》といったところでしたでしょう。ただ、山ちゅうつは、面積だけじゃ較べられまっせん。どしこ立派な立木《りゆうぼく》があるかちゅうこつですたい。そん点、室原さんの山は良材が多いし、年代物《ねんだいもん》が多いですたい。百五十年物がある山ちゃ、こん辺りにゃもう珍しいでしょ。大将も、これだけは伐れん、こりゅう伐ったら御先祖に申し訳が立たんちゅうてですな……。ま、大将もあげな烈しい闘いをせざったら、とてん木は伐るとじゃない人でしたが、とうとうひとつん立派な山を丸裸にしましたもんね。そん時、大将がわたしにいうた言葉が忘れられんですたい。のう蔀君よ、杉山を守ろうちゅう闘いん為に杉山を裸にせなならん。こらぁ悲しい皮肉たいちですね。――伐る時も自分じゃ見に来ませんでしたもんね。そうですな十三年間の闘いにどしこ伐ったとでしょうか。三億円分は伐ったとじゃないですかな。それも皮肉に材木の底値の時期でしてな。室原《むろばる》さんが亡《の》うなってから値が騰がったですたい。三倍からになりましたもんね」
逍遙する杉林の邃《ふか》みで幽《かす》かに渓流が鳴っている。この鬱然とした杉山が一体どれ程の降雨を貯え霧を露を滴《したた》らせて地下水を涵養しているのかと惟うと、私には畏怖にも似た感情が湧いていた。
或る時、室原知幸は都会から来た取材記者にいきなり質問を浴びせたという。
「山林の機能について述べてみなさい」
記者は口をひらけなかった。
「帰りなさい。帰って、山林がどれだけ洪水を防いでいるか、又どれだけ地下水を養っているか、勉強してから出直して来なさい」
知幸は容赦なく記者を追い返したという。そんな挿話を思い返す内に、ふっと浮かぶ稚い詩があった。
みどりの山を忘れては
悲しきことが絶えないの
建設省《おくに》の人よ今一度
心静かに返り見て
遠い都会の未知の少女が、室原知幸|おじさん《ヽヽヽヽ》を励まそうとして送って来た詩である。
「みてみい――」
この稚い詩を歓んだ知幸は砦の男達に晴れやかにいったという。
「純真な少女にも分るこげなん簡単な真実が、濁った役人どもにゃ分らんごたる。――じゃが、みちょってみい、日本中が段々おりどんのいうこつん正しさを分って来るばい」
室原知幸は、その持山を三つに区分して考えていたといわれる。家族の生活費を生む為の山、娘達に賦《わ》けて遺す山、そしてダム反対闘争の資金源としての山である。
闘争が大規模になるに及んで、知幸は年間の闘争資金を一千万円の枠内に抑えるという方針を立てた。現在の貨幣価値に直せば三千万円にも当たろうか。膨大な額であったといわねばならぬ。年間一千万円の闘争費という線を決めるに当たっては、知幸流の計算があった。即ち、年間一千万円程度の伐木であれば|闘争資金源の山《ヽヽヽヽヽヽヽ》を伐り尽すのに三十年を要する筈であり、その頃には最初の伐木後に植えた杉が又成木となっている計算である。かくて、室原家が幾代を賭けて闘争を続けてもその資金は涸れない筈だという遠大な見通しに知幸は立っていたのである。
だが、現実には一山を丸裸にしたことで察せられるように、明らかにその計算は齟齬を来たしている。木材相場の変動ということもあったろうし、もっと不測の事態もあった。後年、川良美郁宛ての書翰で知幸は愬《うつた》えている。
[#ここから2字下げ]
〈昨年は私の体(時間)が都合つかなかっただけで無く、私が信用しています小竹の穴井蔀君が秋にかなりの日数入院し、其の退院と同時の様に、今度は利市君(蔀君の父)が体をいためまして、これも亦長く入院し、為に、私にこれが響き山の方は下草刈りから手入れ、伐採、全てストップした儘越年し、本年もまだ全然動きが取れずにいます。これは私だけの番外話と致しまして、今後の山林経営をどうするか、ダムから来る労務者の移動、当地では当分処置なしの有様です〉
[#ここで字下げ終わり]
ダムから来る労務者の移動とは、ダム建設工事の方に労務者を取られて山子を雇えなくなったことを意味している。
しかし一番致命的な齟齬は、闘争費そのものが年間一千万円の枠を越えたということにあった。一九六二年、早くも年間闘争費は千二百万円に達し、さすがの知幸も、
「森さん、困るなあ、君等はおれを破産させる気か」
と、森武徳に嘆いている。森に嘆いてみせたのは、彼が訴訟事務の中心に在ったからである。一九六二年といえば、現地蜂ノ巣城をめぐっては完全に膠着状態にあり、その維持にさしたる出費は必要なかった筈であり、闘争資金の大部分は訴訟費用であった。就中《なかんずく》、事業認定無効確認請求訴訟に千二百万円の大半が蕩尽されたと見て間違いない。
この訴訟は、前述したように東京地方裁判所に係属した関係から、原告側代理人は当時東京に事務所を構えていた坂本泰良弁護士が主に担当し、これに熊本県から庄司進一郎弁護士が加わっていた。坂本事務所に属する弁護士がもう一人参加していたとはいえ、国を相手の大裁判にしては原告側弁護陣はいかにも弱体であった。ただそれを補佐して、実質的にダム問題の争点を科学的、技術的に検討してこの裁判を押し推《すす》めたのが中央民主団体災害対策会議であったという意味では、攻め手の布陣は厚かったといえる。
普通、中央民災対と略称される同会議は、一九五九年九月、死者行方不明五千人の大被害を出した伊勢湾台風を契機として、労働組合、民主団体、革新政党が協力して災害闘争を進める為に結成した組織で、事務局は総評内に置かれ、多くの科学者、技術者の参画を得て、技術専門委員会をその内部に設けていた。事業認定無効確認訴訟の争点となった筑後川治水の科学的、技術的問題の解明に当たったのが、この技術専門委員会であった。
本件の係争点は、大別すれば法律上の問題点、主に手続き上の瑕疵《かし》と、ダムの治水効果にかかわる科学的問題点という二局面で展開されていったのであるが、後者に関しては民災対技術専門委が多くの一流学者を鑑定人として繰り出した。それぞれの学者が幾度も現地に出向き、実地検証し資料を蒐集し、あるいは実験をして緻密な結論に達する迄には、一件の鑑定だけでも莫大な研究費を必要とする。室原知幸はその財力を以て吝《おし》み無く鑑定に力を注いだ。その為、この時の鑑定集によって我国はダム問題に関わる貴重な科学的資料を一挙に充実せしめたとさえいわれる結果となったのである。石田裁判長自身も、〈思いかえすと、室原氏の異例といってよいほどの本件訴訟に対する熱意、同氏に資力があったことが前提であるとしても費用を惜しまないでの証拠資料の提出にも室原個人の人柄がしみこんでおり、知らず知らずのうちに人間室原にひかれていた自分を感ずる〉(『公共事業と基本的人権』)と讃《さん》している。
この時の科学的、技術的争点が具体的にはどのような点に亙っていたかを知る為に、原告側の鑑定事項及び鑑定人を掲げておこう。(肩書は孰れも当時)
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、筑後川全域にわたる雨量、高潮、気象対策ならびに建設省の計画によって災害は防止し得るや
[#地付き]気象研究所台風研究室 奥田 穣
二、筑後川の洪水流量の算定および長谷洪水量に関して
[#地付き]東大助教授 高橋 裕
三、筑後川災害の事実的検討と、下筌・松原ダムの治水効果について
[#地付き]国土問題研究所理事 赤岩勝美
四、(1)筑後川流域の土地利用の高度化と水害(出水機構)との関係
(2)筑後川流域の林業及び木材工業の発展と水害(流木)の関係
[#地付き]国土問題研究所理事 佐藤武夫
五、筑後川上流のダム地点の地質ならびにダム地点の地質に関する諸問題
[#地付き]東京農大講師 郷原保真
[#地付き]東京農大教授 小出 博
六、下筌・松原ダムの背水と堆砂について
[#地付き]熊本大学教授 藤芳義男
七、下筌・松原ダムの費用振分け計算について
[#地付き]東大助教授 新沢嘉統
[#ここで字下げ終わり]
いまひとつの局面としての本件係争の法的問題点、主に手続き上の|重大且つ明白な瑕疵《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》として原告側が論駁し続けたのは、土地収用法第一九条が定める〈事業認定申請書の欠陥の補正及び却下〉に触れてである。即ち、同条は事業認定申請書及びその添附書類が不備であって然も一定期間を置いても補正されない場合にはこれを却下しなければならないと定めていて、正に本件はそれに該当するのだという指摘であり、その根拠を次の如く曰う。
建設大臣は多目的ダムを新設する時は予め建設に関する基本計画を作製し公示すべき義務を多目的ダム法第四条で定められている。ところで本件は発電施設をも含む多目的ダムであるにも拘らずその基本計画を作製していない。この為、発電を兼ねる多目的ダムでありながら電力会社との間に「貯留量の配分」「ダム使用権の設定予定者」「建設に要する費用の負担」という重要事項が決定されないまま事業計画書が作製されていて、これは土地収用法第一九条が却下を規定している不備な計画書なのであると。
九州電力の発電所計画の遅滞が事実であっただけに、被告建設大臣側の反論は如何にも詭弁的で苦しい。即ち曰う。〈本件ダムは多目的ダムではあるが現在は河川法による直轄工事であって特定多目的ダム法による工事ではなく、将来基本計画ができた時にダム法によるダム工事になる〉のであると。
室原知幸がこの訴訟に吝みなく資金を蕩尽して乾坤一擲の勝負に賭けたのは、己れが必ず勝つと信じたからであったろう。法的にも科学的にも、理は己れの側にあると信じざるを得なかった。既に他の訴訟は悉く敗訴を累《かさ》ねつつあったが、それにも拘らずこの行政訴訟だけは勝つと信じた。その心理の傾きには、裁判長石田哲一への密かな期待が動いていたであろう。
その審尋が終って裁判が結審したのは一九六二年四月三十日であった。あとはもう、判決の日を俟《ま》つばかりである。室原知幸の晩年の闘争に於いて、その気力の最も充溢が見られたのは、勝訴判決を信じて俟つこの時期のことであったろうか。同年九月七日付けで鑑定人の一人佐藤武夫に送った書翰の中で、間もなく満六十三歳になろうとする知幸はその頃の充実した多忙ぶりをむしろ愉しむように溌溂と告げている。
[#ここから2字下げ]
〈くる日もくる日も、ダム反対闘争
現地蜂の巣の作戦、施設の増強
県下、筑後川筋等えのPR
蜂の巣訪問、視察者えの応接
私から投函する、いろいろの手紙書きいただいた手紙、新聞、雑誌、書籍類の開封
切り抜き、メモ等の整理何やかや
で、家業などは全然棄て、日夜全精力を傾倒し、今年は五月十八日からずっと蜂の巣で籠城しています〉
[#ここで字下げ終わり]
その頃室原知幸がどれ程の勉強をしていたかは、現在関西大学図書館室原記念室に収蔵されている浩瀚《こうかん》な雑誌・月報の類いを一瞥するだけで察しられよう。
森純利は、そのことに触れて次のように書いている。
[#ここから2字下げ]
〈室原氏は、驚く程の勉強家であったことは前にふれたが、私が行くのを待ちかねていて、話し出すと、昼から食事の時も含めて夜中まで続くことは普通であったが、その話は絶えず新しいものであった。私が、室原氏宅に着くと室原氏は、新聞雑誌から法律、電気、河川等の専門書に至るまで整理していて、ひとまず私が、それに目を通すことをいつの間にか習慣づけていた。そうしなければ室原氏との話ができないのである。新聞類は、商業新聞は全部、電気新聞から官報に至るまですべてとっており、国会図書館や岩波に至る新刊図書目録、果ては神田の古本屋の古書目録をとって注文した図書、それをすべて読破して必要と思う箇所には、赤丸赤線をつけ付箋をつけて、重要なところには意見をつける等して、私が熊本に帰って来るまでの間のを全部整理してある訳である。外で闘いながら、この努力は並大抵の人でできることではない〉(『公共事業と基本的人権』)
[#ここで字下げ終わり]
更に、主要新聞は毎日数十部ずつを購入し、聊かでもダム関係記事が掲載されていればその箇所を赤線で囲んで諸方に送るという作業を怠らない。かつてのモンロー主義から転じて、室原知幸は今や己が主張を精力的に世間に愬《うつた》えようとしている。左に揚げる文書は、珍しく謄写版印刷であることからも多方面に送付されたことが察せられるのである。
[#ここから2字下げ]
〈近況御知らせ
下筌ダムに関し、中津江村妥結すと各紙が大々的に九月二十八日、十月十一日の両度に亙り報じました。この事について実相を認《したた》めます。
九月二十七日、中津江村で、村主催水没者大会を開きました。勿論ダムに賛否の両者が集まっていますが、ダム反対者中には参会しなかった者も多数います。村長が補償交渉の結果即ち基準表を発表し、木下知事が、此れが最後で最高であると裏付演説をし、ダム賛成組の一部が拍手をした訳であります。只、それだけです。一名の署名捺印者もありません。越えて十月十日には中津江村長だけが九地建に行き、木下知事立会のもとで、どんな契約書を受取ったか、水没者は誰一人見ていません。真に奇怪な話であります。村長雲の上を行くで、日本にも今時こんな村長もいます。
今後、村長は狡猾にでて、個人補償交渉にはタッチしないでしょう。従ってダム賛成組は、指導者がなく、ばらばら、こんなことに成るのではないかと思います。……私の方、蜂ノ巣城は微動だに致しません。
昭和三十七年十月十四日〉
[#ここで字下げ終わり]
私の方、蜂ノ巣城は微動だに致しません――という殊更な結びを読み返す時、その一行の背後に潜《ひそ》む室原知幸の孤独を念わざるを得ない。水没戸数の六十%を占める中津江村の補償交渉が妥結した時、しかもそれが全国最高の補償基準であった事は、熊本県側の一人一人の心中を隠微な形で動揺させていったに違いない。現実に、巨額の札束がこの狭い谿谷の里に乱舞し始めたのである。知幸が右の如き文書をわざわざ謄写印刷で大量に作らねばならなかった理由もそこにあった。
津江川夏の陣が畢《おわ》り蜂ノ巣城が膠着状態のまま籠城に入って、既にこの時二年余を経ている。その間、砦に通う一人一人の生活と思いはどのようであったのだろうか。私は誰彼にそれを尋ねている。だが、皆遠くを視るような目をして言葉を探るのだが、やがて途方に暮れたように口籠もるのであった。これという事件も無いままに過ぎた二年余に関して、彼等の記憶は寂しいまでに薄いようである。一切を己れ一人で背負うて室原知幸の日々は充実を極めていたが、他の者達には精々砦の補強作業くらいのことが山での日常であったろうか。
室原知幸の幼な友達の一人である穴井恵氏を訪ねた時、大患を漸く脱したばかりという老人は私の問い掛けにもほとんど反応を示さぬ程に寡黙に沈んでいた。諦めて辞去しようと立上った時、私はふと老人の呟く言葉を聴きとめたのだった。
「まるで夢んごとして、うかうかと蜂ノ巣で年を過ごしてしもうて……」
大分県日田郡中津江村の補償交渉が妥結し、早くも十一月七日の新聞には同村の野田小学校が七十米の高台に移転して新築を開始した事が報じられている。〈父兄が喜びの地づき〉〈プールもある三倍になる運動場〉という見出しである。行政訴訟の帰趨を待たずに、九地建はあくまでもダム建設に向かって外濠を埋めていく。圧倒的な既成事実の重《おも》みによって判決そのものをも左右しようとする計算も働いていたろう。
志屋部落の動揺がいよいよ顕著になっている。既に北里達之助を領袖《りようしゆう》とする反室原勢力は着実にその数を糾合しつつあった。それが公然化する契機は、一九六三年四月の町会議員選挙であった。由来、この小さな志屋部落からは、室原家と北里家が拮抗することによって二人の町議を小国町議会に送り続けて来ていたが、一九五五年に北里栄雄が県会議員に転じてからは町議は室原派だけになり、この時の町議現職は穴井隆雄であった。この統一選挙の年、北里家では当主栄雄が病没し、その長子達之助が初めて町会議員に立候補を表明し、八年振りに室原、北里両派は激しい選挙戦を展開することになったのである。
室原派が候補に擁した穴井隆雄は、正確にいえばむしろ穴井派と呼ぶべきであろう。穴井隆雄は室原知幸に匹敵する山林地主として、志屋部落内での縁戚関係から見れば最大の派閥を形成している。温厚な人柄で、これ迄の行動面では室原知幸の影響下にあった。家も知幸の邸の直ぐ上に位置して、屋号の博多屋で呼ばれたりするのはかつて博多商人が季節毎に出張《でば》って来てそこで荷を拡げたからである。
この時の選挙戦は、女達が初めて自動車に乗ってマイクを握った程に、熾烈であった。両者共、ダム問題を争点とすることは意識して慎重に避けていたが、それはあくまでも表面的な韜晦であり、北里派に随《つ》く者がダム賛成派であり、穴井派に与《くみ》する者がダム反対派である事はもはや公然の事実であった。誰がどの派に属するかは、単に縁戚関係だけでは割り切れぬ複雑さを極めている。例えば穴井隆雄の妹が嫁いでいる石田通は北里家の山林の差配を仕事として勿論北里派であったし、隆雄の叔父穴井義亥も北里家に随いた。一方、園《その》ん本家と呼ばれる北里本家の北里雄一郎の叔母アツが嫁《か》している末松|元《つかさ》と、その養父で医者どん方《かた》と呼ばれる末松豊も又穴井派に廻っているという複雑さである。
選挙の結果は両者共に当選であった。
ダム問題はダム問題として、両派から唯一人中立であろうとし続けている穴井武雄は、両者|夫々《それぞれ》に祝儀の酒を届けた。
遂に政治家として立った北里達之助が、既に充分な勢力を糾合しつつ、尚公式にはダム賛成を表明しないのは、彼も又東京地裁の事業認定無効確認請求訴訟の判決を息を潜める思いで見守っているからであったろう。もし先走ってダム賛成を表明した挙句に室原知幸が勝訴すれば、己が政治生命が断たれかねない事を彼は計算していた筈である。
東京地裁は一旦結審した本件の弁論をこの年三月十三日に再開したが、それも五月十四日に結審し、判決を七月二十日と決定した。
この五月、ヨシは五女節子を遠くに嫁がせている。この時も又、知幸は一切をヨシに委せ切りであった。家を去ろうとして頭を下げた節子にやっと知幸は声を掛けた。
「知らぬ人様《ひとさま》の中に一人で行くとじゃき、とにかくまわりんもんに頭をひくうして朝晩の挨拶は忘るんなよ。皆からむぞがらりいよ」
不意に節子に熱いものが込み上げていた。お父さんこそ、裁判に良い判決が出ますように――といおうとして、節子は声もなく啜り上げていた。
森武徳が佐藤武夫に宛てた七月十三日付けの書翰の終り近くに、ふっと次のような事を記している。
[#ここから2字下げ]
〈室原さんも体力の衰えを感ずるそうで、……|初めて《ヽヽヽ》昼寝をしているのをみました〉
[#ここで字下げ終わり]
初めてという言葉に傍点を振ったのは私である。満六十四歳になろうとしている室原知幸が体力の衰えを洩らしたという事実よりも、彼がこれ迄一度の昼寝すらしなかったという事の方に私の駭きは大きいのだ。
七月二十日の筈であった判決は九月十七日に延期されることになった。裁判所も又、判決に苦慮していたのである。
四 敗訴
一九六三年九月十七日午前十時、東京地方裁判所民事三部に於いて裁判長石田哲一は、事業認定無効確認請求事件の判決をいい渡した。
主文
一、原告末松豊の訴を却下する
二、原告室原知幸、同穴井隆雄、同末松アツの請求をいずれも却下する
三、訴訟費用は原告等の負担とする
室原知幸はこの判決を蜂ノ巣城集会場のラジオのニュースによって知った。
彼はこの頃ずっと籠城生活を続けていたが、この朝十数人の男達も詰めて倶に判決のニュースを聴いた。原告側全面敗訴の報が告げられた瞬間、知幸の片頬がぴくっと痙攣した。知幸が激情を発した時に見せる表情の動きであった。この昂ぶりを抑えるように須臾《しゆゆ》の間目を瞑《つむ》り、そして開いた。
「判決についての感想を――」
すかさず、記者団からマイクが突きつけられた。
「まあ待ちなさい。兄貴もそげえ急に訊かれたちゃ答えられんとじゃろうが。君達にゃ遠慮ちゃないとか」
知彦が記者団を激しく叱責した。彼も又興奮しているようであったが、それ以上に兄知幸の心の裡を思い遣っているようであった。
「いや、いいたい。なんの、そげえ騒ぐこつがあろうか」
知幸が殊更に平静な声を出した。西日本新聞記者稲積謙次郎はメモ帳を構えた。
「勝っても負けてもわしゃ驚かん。勿論控訴するよ。裁判の結果がどうであれ、建設省の事業認定は今年四月に、期限切れで無効になっとるんだから……。まあ裁判の影響といえば熊本県土地収用委員会の委員たちへの心理的影響ぐらいのもんだろう。――ところが建設省は一昨年四月の土地収用裁決申請のときは、ダム建設の基本計画を持たなかったのだから、裁決申請手続きそのものに大きなミスがある。収用委員会もそれを承知しているだろうから、うかつな裁決はできんはずだ。したらしたで裁決無効確認の訴えなど打つ手はいくらでもある」
弾き出されるように一気に言葉が迸《ほとばし》るのは、矢張り内心に抑えている激昂のせいのようであった。
「ダムは永久に出来はせんよ!」
といい切った時、知幸は烈しく集会場の床を拳で叩いていた。メモを取りながら、稲積は不思議な気がしていた。知幸の口から、未だ一言も判決そのものに対する非難が出ていない。あれ程勝訴を確信していた知幸にとって、この全面敗訴は意想外の不当判決である筈なのに、それを論難する言葉は遂に知幸の口からは聞かれそうになかった。〈法には法〉をスローガンとして闘い続けている室原知幸の遵法《じゆんぽう》精神の、これが真髄であろうかと稲積は改めて考えさせられるのだった。そういえば、判決を待つ先程の緊張の時間に知幸は頻りに筑後川改修期成同盟の動きに憤慨していたのだった。期成同盟が昨日大会を開き、裁判長に宛てて棄却要請電報を打った事を忿《いか》っていたのだ。
「神聖な裁判に大衆運動で圧力をかけるなどもってのほかだ」
吐き捨てるようにいった知幸の烈しい口吻が未だ稲積の印象に残っている。
――成程、この老人は裁判を神聖なものと信じ抜いているのだ。一切の外的圧力から屹立《きつりつ》して、厳正なる法文のみに照らして理非が糾される殿堂だと信じ抜いているのだ。だからこそ、彼は数多くの争訟を抱えながら、部落の者達を傍聴席に連れて行くことすら避け続けたのであろう。そういう行為すらが裁判官への示威になりかねぬと惶《おそ》れたのであったろう。だが、もしその神聖と信じられている裁判が、実は政治的判断で動いているのだとしたら……。
そこまで念うと、稲積は室原知幸の顔を正視出来ないような痛ましさを覚えるのだった。室原知幸という老人の法に寄せる純粋過ぎる信頼が、ふと報われること薄い係恋のように思えてならなかった。
砦の男達は、やがて涼み台に場を移して酒宴を始めていた。そんな賑いによって、敗訴に毫《ごう》も挫けていないことを自他に誇示しようとしているようであった。それは、勝訴を見越して既に準備されていた酒宴であったのかも知れない。しかし、その座に集まっているのは、室原兄弟、穴井恵、高野展太等ほとんど老人組だけであった。
一切の権力の容喙《ようかい》を峻拒し独立不羇の筈の裁判官が、その判決前に於いて判決内容を一方の当事者である国に対して既に洩らしていたという事実を、恐らく生前の室原知幸は卒《つい》に知る事は無かったであろう。
実は、国は判決の一カ月前に既に勝訴の情報を得ていたのである。ほかならぬ判決者自身によってであった。福岡法務局訟務部長広木重喜が上京して陪席裁判官の一人である山本和敏と接触して、その事を明かされている。当時広木は、室原知幸が頻発する数多くの訴訟を受けて立つ国側の法的実務の中心にあった。
この時の接触で山本判事は、自分ともう一人の陪席滝田薫判事が書いた判決文が石田裁判長の手元で相当大幅に書き変えられて戻されて来た事を広木に告げている。判決期日が延期されたのはその為であった。どうやら裁判長は室原知幸を勝たせたいと考えているらしかったので、その事で両陪席が裁判長を説得して一応国を勝訴させる点では合意をみたが、ただ判決理由は裁判長の意嚮《いこう》に添うて相当国に対して厳しい内容になる事は覚悟していてほしいと、山本判事は広木に告げたのであった。
右の経緯によっても分るように、裁判長石田哲一は室原知幸を勝たしめたいと考えていたようである。その事は、判決理由書からも充分に察しられる。理由書に於いては原告の主張を随所に引用しつつ被告国の非を窘《たしな》めているのであるが、しかし結論的には事業認定を取消す程の法的瑕疵があったとは認められないとしたのである。それは如何にも苦しげな論旨であった。
例えば、争点となった多目的ダム法第四条の謂う基本計画の欠如に触れては、〈けだし抽象的に考えても数個の事業主体がそれぞれ異る目的で単一ダムを建設し利用しようとするのであるから各事業主体間の利害(権利関係)が調整されなければダムの円滑な管理運営は期し難い、のみならず各事業主体の享受する便益に応じて建設費用の分担が取り決められなければ工事の進行さえ覚束ない道理であり、いわんや国が河川法に則り治水工事を施行するのであるから特別の根拠もないのに他の事業全体が負担すべき工事費用を立替支出することは許されないことであってみれば斯る事項について予め基本計画として公示される必要があると考えるのがダム法の理想にそう解釈であることは明らかである〉と、原告側の主張を全面的に首肯しておきながら、〈しかしながら基本計画の欠如は元来ダム法の問題であり土地収用法に基づく事業認定の適否が争われている本件においては基本計画が作成されていないのに多目的ダム建設を目的とする事業認定を行なうことが適法であるかどうか〉が問題なのであると巧みな論旨の擦《す》り替えを行ない、一応事業認定申請書は土地収用法第一八条第二項に定める書類・図面の添付が揃っているので方式上の瑕疵は認められぬという結論に導くのである。
而も、多くの学者を動員して双方が激しく争ったダムの適地性、治水効果等科学的・技術的問題点に関しては、〈ダムサイトの選定の如きは事業の効果に疑わしいところが存在しない限り何処に決定するかは起業者の自由な裁量に委ねられている事柄であって、経済上の得失(費用、水資源の利用効果)の多少は当不当の問題とはなっても事業認定の適地性を直接左右するものではない〉とする乱暴な自由裁量論で切捨ててしまっている。
この苦しげな判決理由は、当然の如く多くの法学者、科学者の批判を浴びたし、当の石田裁判長自身すらが、〈右のような裁判所の判断には予め結論を出していながら原告らの主張の正しい点を無視するわけにはいかないところから徒らに法律技術を駆使して、論理的にみえるようにツジツマを合せたに過ぎないとの手厳しい批判もあながち誤りだとはいえないと思う。そして専門的立場から純粋に科学的に判断資料を提供された各鑑定人らがその資料を小刻みにして都合のよいように引用している裁判所のやり方に不満を感じられるのも、もっともかと思う〉(『公共事業と基本的人権』)という、告白ともとられかねない述懐を洩らしているのである。裁判長石田の忸怩《じくじ》たる念いが伝わって来る。
或る時、室原知彦氏が私に向かって言葉を迸らせたことがある。
「石田さんが、兄貴に無言で抱きついて来てですな……済まんじゃった、宥して呉れちゅうて謝まってですなあ……」
日頃甚しく寡黙なこの老人が、全く唐突に声を高め手真似までして伝えようとする言葉の意味を、あっけに取られて私は咄嗟には理解出来なかった。訊き返すうちに、やっと私にもその光景が彷彿として来た。判決後のいつのことであったか、石田裁判長自身が杖立温泉迄来て室原知幸と対面し、右の如き光景を演じたというのである。
「現職の裁判官がああして、わざわざ謝りに来られた。これは大変な事なんだ」
と、知幸はこの事に感激して遂に石田を恨むという事は無かった。判決から一カ月後に佐藤武夫に宛てた書翰にも、むしろ判決理由書への知幸の積極的評価が窺える。
[#ここから2字下げ]
〈仰せの通り(一応判決は敗訴でありますが)仲々判決要旨には味があります。
今迄の我等の意見は意見でありましたが、今後は判決の要旨中で我等の意見を認めた分は控訴に利用、尚収用委でも利用し加ゆるに基本計画なくしての裁決申請書を突く事に役立ててゆきます。更に裁判長が我等の意見を逆に認めなかった理由も判り、これで我等の反撃材料もはっきりし大いに研究する決意であります。〉
[#ここで字下げ終わり]
一年前に退官して弁護士に転じたばかりだという石田哲一氏を、私は東京弁護士会館に訪ねて行った。氏の語り口はひどく性急で、それは案外室原知幸のそれと似ているのではないかと思われた。
「僕は、室原さんの国家に対する抵抗を評価しています。国家に対して国民が正当な権利に拠って抵抗するのは当然な事です。それが無ければ、国というものが何をしでかすか分らんという危惧は、国家の機構の一員であった僕には良く分ります。だからこそ、室原さんのあの一途な抵抗に心を動かされるんです。……唯しかし、それだけではいかんのです。抵抗はしなきゃあならんが、どこかで折れ合わないかん。あの三里塚のようになったらいかんのです。一体、公共性とは何なのか、なぜ我々は国家というものを必要としているのか、その事にも思いを致さねばいかんのです。そうでしょうが、国家というものは、必要があればこそ在るんですよ。室原さんに、僕はそれを繰り返していったんだが、分ってもらえなかった。矢張り、そこんところがあの人はお山の大将でしたな。都会的センスが無かった。本当に広い意味での社会的視野、良識が欠けていたんですな。そこがあの人の限界でしたね。――僕は実は判決後も九地建に頼まれて、室原と九地建との仲介役に立って幾度も現地に出向いてるんでしてね。ま、こういう事は現職の裁判官としては型破りな行為で、余り公けにすべきことじゃありませんがね。唯どういうものか室原さんが僕には信頼を寄せているらしいというんで、九地建の方から泣きついて来たもんだから。なにしろあんなふうなじいさんで、もう大臣が来ようが誰が来ようが一切拒否してるわけですから、ま、僕で役に立つんならということで仲介に入ったんですが……接触してみて、矢張り本当のところ僕にもあの人は解らぬところがありましたね」
「ひとつお訊きしたいんですが――」
私は躊躇《ためら》い勝ちに切り出した。
「あなたが国を勝たせるに当たって、国からの圧力といったものが一切無かったといい切れましょうか」
「そういう事なら一切ありませんでした」
言下に石田氏はいい切った。
「あれは全く裁判官としての私自身の社会的良識による判断です。あの訴訟でもし国を敗訴させていたら、あれ以降ほとんどの公共事業が停滞することになったでしょう。僕の判断は正しかったと思います。ただですな――」
氏は、少し間を置いて言葉を継いだ。
「あなたも僕の書いたものには目を通されて御存知と思うが、僕はあの判決に充分な納得を持ったわけではなかったのです。証拠不十分、審理不尽の心配がありました。だから僕としては、室原さんがあれを控訴審、更には上告審と持っていく中で、上級審がどんな判断をくだすか、非常に期待しておったわけです。あの判決理由書も、これこれこういう問題点があるという事を、実は室原さんに示唆して、これで上級審を争いなさいという積りで書いたんだが……まさか、あんな意外な結果に終ろうとはねえ……」
石田氏がいう|意外な結果《ヽヽヽヽヽ》とは、控訴審に関してである。それは、意外なというよりはむしろ奇怪なといい換えたい程の経緯であった。
室原知幸は一審敗訴の後、直ちに東京高裁に控訴手続きを取り、飽く迄も諍う意欲を強めていたことは、前に掲げた佐藤武夫宛て書翰からも察しられる通りであった。彼が第一審の敗訴判決にそれ程動揺を見せなかったのも、控訴審での闘いに期する処があったからであろう。
だが、十二月七日の夜遅く、室原知幸は東京の坂本泰良弁護士から一通の電文を受けて茫然と立尽す。
控訴が本日を以て休止満了となるが、いかがしたものかという駭くべき問い合わせであった。正に寝耳に水の内容である。訴訟の休止満了とは、公判期日に当事者が出廷を怠り、更にその後一定期間内に新たな公判期日の申出を為《な》さない時は、もはや訴訟の意志を喪ったとして取下げと看做《みな》されるのである。その期限が今夜だという電文を持って、さすがの知幸にも今更打つべき妙手は無かった。
「森君、これは一体どういうことだ!」
電話でいきなり烈しい声を浴びせられた武徳も、茫然として絶句してしまった。彼には、何故そのような起こり得べからざる事が起こってしまったのか見当がつかなかった。
この日を以て、事業認定無効確認請求訴訟は休止満了し、第一審の敗訴判決が確定する。知幸の落胆にはいいしれぬものがあったろう。何故本件がそのような事になったのかは、一つの謎である。坂本弁護士が或る意図の下《もと》にわざと休止満了に持込んだのか、それとも全く迂闊な初歩的ミスであったのか、今も関係者はその事に触れると口を緘している。孰《いず》れであれ、弁護士としては宥されぬ背信行為には違いなかった。
このような事が起きたのも、室原知幸と坂本泰良の関係が次第に疎遠になっていたからであろう。実は、既に東京地裁での行政訴訟の係争中に中央民災対の学者達から弁護陣の不熱心に対する批判が顕著であり、知幸に対して解任要請が為《な》されていたのだが、義理堅い知幸はこれを一応黙殺し続けていたのであった。黙殺したとはいえ、彼も又弁護陣への不信を深めていたであろう。あるいは又、森武徳が佐藤武夫に宛てた書翰で指摘している次のような事実も、知幸と坂本泰良の微妙な関係をいい当てているかも知れない。
[#ここから2字下げ]
〈福岡県議の小沢さん(日共)から議会での質問原稿を室原さんに送って来ておりました。大変良くまとまっており研究の成果がにじみでており敬服致しました。室原さんも大変感服されて、返事に小沢さん高倉さん(日共県議)両名を近々蜂の巣城へ来る様招待したとのことです。……室原さんは、自分は人のいうリベラリストの段階であるが、そのように生きてきた一つのスジガネが山林地主としてどうしても自民党に入りきらなかったものであるといい、坂本先生が私を煙たがっているのは日共嫌いの坂本先生(社党代議士)が日共の指導性を口にする私を疎外するのであろうといっておりました〉
[#ここで字下げ終わり]
室原知幸は、ここに最大の争訟を喪って当面闘いの武器が尽きた恰好となる。だが、遂に彼はその深甚な落胆を周囲に洩らさなかったし、況して坂本泰良に対する非難を一言も洩らすことは無かった。古武士《こぶし》の如く耐えたといえようか。
室原知幸の狂歌草稿の中に〈勝利の行進〉と題する一連がある。
津江の山峡谺《やまあいこだま》して、ダム反対勝利の行進続く
杉一色の相間《あいま》、ダム反対の赤旗|躍動《はためき》し進む
ダム反対の赤旗と共に日の丸行く、感懐《おもいわ》深し
ダム反対勝利の行進、山民《たみ》の顔《かんばせ》、笑いと涙
六年《むとせ》の間、身罷《みまか》りし同志《とも》よ、ダム反対勝利行進見遣れ
初めの内、私はこの一連を読む度びに戸惑い続けた。作歌の日付けが入っていないが、歌中に六年とあることからすれば、津江川夏の陣の勝利の折りの歌とは考えられない。もしダム反対闘争を一九五七年の木札による意志表示から始まると見れば、六年目とは一九六三年に当たることになる。恐らくその年の作であると考えて差支《さしつか》えあるまい。だが、そうだとすれば事業認定無効確認請求事件に敗訴した年であり、それ以後雪崩を打って反対運動は崩壊していくことになる。一体、勝利の行進とは、いつどのようにして行なわれたのであろうかというのが、私の深い戸惑いであった。
だが或る時、私ははっと気付いた。これは、仮想の歌だったのだ。裁判の勝訴を確信していた知幸が、その暁には勝利の大行進くらいのことは当然企図していたであろうし、その光景を思い浮かべている内に、つい歌の方が先に出来てしまったのに違いない。実際には敗訴に畢《おわ》り、勝利の行進も幻と消えて、狂歌だけが残ってしまったのだ。痛ましさを誘う推察だが、私はそう断定したくなっている。
この一連には、〈長々と駄文綴りし禿筆《ちびふで》も我勝ちたればこれもて収む、闘いはまだあるものと期待して、君我しばし身体休めん〉との詞書《ことばが》きが付されている。〈君我しばし身体休めん〉には、容易に弱音を吐かぬこの老人の、ふと洩らしてしまった吐息のような本音《ほんね》が含まれているようである。
五 崩壊
一九七五年夏、私は既に町会議員に転じている北里達之助氏を訪ねた。招じられた応接間のキャビネットに立てられている故ケネディ大統領の録音盤が、政治家としての氏の志向を窺わせるようであった。
「あなたも最初の頃はダム反対デモ行進歌の歌詞を作ったりされたようですね」
「そうですな、当時はまあダム反対にあらずば部落内に住めんといった雰囲気でしたもんね」
旧《ふる》い事を持ち出されて、氏は一寸苦笑した。
「――しかし、私の内心はもう最初からダム賛成でしたね。なにしろ私らみたいに戦時中の教育を徹底的に叩き込まれて育った者には、国家のする事に逆らうなんという発想は頭から浮かびませんよ。国のやる事に勝てる筈はない、どうせ勝てんのならそれをうまく利用する事を考えんとですね。その為には、ある程度の反対運動はやっぱり必要でしょうな」
「室原知幸さんを、どう見ていました?」
「どうもこうも、あの人はもう全く人の話は聴かんちゅうふうでしたね。あれでは誰も最後までは従《つ》いていかんですよ。従いて行こうにも、あの人にはヴィジョンが無かったですもん。一体、反対運動をいつまで続けてどういう形で収束するのか、そしてその後はどうするのかというヴィジョンを全然示さんわけです。ただもう意地だけで、おれは死ぬまでやる、黙って従いて来いというんじゃ、これはもう指導者としては無責任でしょうが。ま、年寄はそれでいいかもしれんが、若い者《もん》はそうはいきません。なにしろもう、あんなふうな部落で農業も成り立たなくなっていましたし、私はダムを契機に政府の農業構造改善事業に乗っかるべきだという考えで若い者達と話し合っていきました」
「失礼ですが、現在どの位の山林をお持ちなんですか?」
そういう立入った問いに答えて貰えるかどうか危ぶみながら私は尋ねてみた。
「三四〇町歩ですかな……。大体、九州ほとんどの県に山を持っています。そうですな、年間の売上げ総額がざっと一億円といったところでしょうか。実際の利益となると、ま、その半分位がいいとこでしょうな」
精悍な表情に微笑を浮かべて事も無げにいわれた時、私は正直圧倒されていた。
北里達之助は、その若さに於いて室原知幸と対照的であっただけではない。彼の思考方法を特徴づけている経済的合理主義という一点でも鋭く好対照であったといっていい。その事は両者の山林経営策にも表われている。室原知幸はその生涯に於いて、たといダム闘争に奔命することが無かったとしても父祖から享け継いだ以上に自ら山林を拡大するという経略は恐らく持たなかったに違いない。現状維持を図るだけの消極的山林地主といえた。どうやら室原知幸は山林を経営対象と視る以上に、自然賛仰の対象として深い情念を寄せていたようである。木を伐りたくないという心情がそれを証している。
北里達之助にそのような纒綿《てんめん》たる情念は薄い。むしろ彼は、如何にすれば山林業を効率よい利潤を生む近代企業へと合理化出来るかを追求しようとしている。その説明によれば、次々と二十年物の山を買い取っていくのだという。
「そりゃあそうでしょうが。最初から育てれば三十年も四十年も掛かりますよ。そんな悠長なサイクルじゃ経済性に合わんですよ。それより、二十年育った山を買いとればあともう十数年もすれば伐れるわけですわ。とにかく、己が一代にどれだけテンポ速く回転させるかということなんです。そうでなきゃ近代企業としての合理的な採算ペースにはとても乗りませんよ」
北里達之助のこの鮮明な経済的合理主義が早くから若者達を魅きつけていったのであろう。彼を領袖とする水没者同志会が正式に発足しダム建設協力を表明したのは、一九六三年十月二十五日の事であった。東京地裁での敗訴判決から一カ月余しか経ていない。如何にもそれは素早い運びであったが、それに至る準備は疾《と》うから着々と推《すす》められていた。判決に先立つ八月二十五日、北里達之助に率いられた志屋、浅瀬の二十九名が杖立の千歳館でダム工事事務所の野島所長、岩井副所長と密かに会い、補償説明を受けている。その会合を知らされなかった芋生野、小竹部落の者達は、何故呼び掛けてくれなかったのかと、あとで知って悔しがった。この時から北里達之助は公然と室原知幸と拮抗してそのリーダーシップを発揮し始めることになる。この時三十四歳である。
「若《わけ》え者《もん》のじょうが、なんやら陰でこそこそ策動しよるごたるが、ありどんになんがでくるか。建設省からいいごつあばらかさるるとじゃろう」
知幸はそういい腐して嗤ったが、これは達之助の指導力を見縊り過ぎていたといえよう。その合理主義からして、北里達之助のリーダーシップは極めて民主的であり、この点に於いても擅断《せんだん》的な指導制を領《し》く室原知幸とは決定的に対照的であった。彼は集団移転による新しい村造りという構想を抱きながら、しかしそれを己が傘下に集まった者達に一方的に押し付けるという事はしていない。総てを全員の投票に諮るという方法を執《と》った。
まず最初の票は、全員が揃って集団移転をするか、それとも各自が好みの場所を見付けて個別に移転するかの選択に投じられた。結果は、圧倒的に集団移転に票が集中した。
次の票は、では集団移転地を熊本県外に選ぶか県内にするか、特に小国町内を選ぶかに投じられたが、矢張り出来れば住み慣れた小国町内から離れたくないという意志が集計された。直ちに町内四箇所の候補地が挙げられて、全員が四組に分かれて視察に行っている。夫々《それぞれ》の視察の結果が報告討議された上で最終的に投票で選定されたのは、小国町大字黒淵地内蓬莱の原野一五、五〇〇坪の土地であった。
この時点では、未だ九地建との補償交渉が完結していないので、北里達之助は己が名義で土地購入費として四千万円を肥後銀行から借入し、それを千円札で四万枚にして机上に山と積み上げ全員に見せている。ともすれば新しい未知な生活への不安に竦み勝ちになっている部落の者達を安堵させるには金の力だと、達之助は知っている。既に彼は一派の領袖として充分な老獪さを具えていたといえよう。
北里達之助が芋生野、浅瀬、志屋、小竹で糾合したダム建設協力派は四十三世帯に達し、室原知幸を中心とするダム反対派二十一世帯の方がもはや少数派なのであった。これ迄ダム問題での去就を公式には表明しなかった小国町議会も、このような地元の趨勢を量って、遂に翌年正月の町議会で条件付賛成決議をする。雪崩を打って反対運動が瓦解していく。
この時期、焦点が熊本県収用委員会に移っている。一九六一年十月三日に九地建からの土地収用裁決申請を受理しながら、東京地裁での判決待ちで実質審理を棚上げし続けて来た収用委も、いよいよ結論を出さざるを得ない処に追い込まれていた。室原知幸も又、思いがけぬ形で控訴審の途が絶たれた今となっては、この収用委の収用裁決阻止に全力を尽す以外に方策は残されていない。
収用委員会には、室原知幸等土地所有者の代理人団として庄司、坂本両弁護士、森武徳、森純利、田上熊本県評事務局長等県評幹部が毎回出席して、審尋は騒然としていた。室原知幸も又、神聖な裁判所ならぬ県庁内で開かれる土地収用委に対しては何の遠慮も抱かなかったし、むしろ烈しい敵意を示していた。知幸の敵意にはそれなりの経緯《いきさつ》もあった。或る時の収用委で、審理に先立って事務局の主管責任者として「新しい県土木課管理課長さんです」と紹介された男を見て、知幸は一瞬己が眼を疑った。それは、津江川水中乱闘事件で知幸に手錠を掛けた大海県警刑事部長であった。この無神経な人事に知幸の忿りが爆発した。代理人団もこれを問題視して追及し、遂に県当局も大海を収用委事務局から外《はず》さざるを得なかった。だが、公正であるべき収用委を実質的に左右しているのは県の吏員によって構成される事務局ではないのかという知幸の不信は募っている。
一九六四年に入っての最初の収用委員会が開かれたのは二月三日午後一時からであった。既に通算十四回目を算えていよいよ大詰の段階であり、この日は筑後川改修期成同盟代表二十八人も貸切バスで熊本県庁に押し掛け、収用裁決を今月中にも出して欲しいという陳情書を各委員席に配布した。会議の始まる直前の出来事であった。代理人団がこれを見咎めて詰問した。
「何だ、何だ、一体何をしてるんだ」
席を立上ると陳情団に一斉に詰め寄った。室原知幸が先頭にいた。
「何をっ、貴様は黙っとれ!」
知幸の表情が引き攣った。
「貴様とは何事だ、貴様とは!」
「貴様というて何が悪いか。これは海軍で使った言葉だ」
「あやまれ、おい、あやまらんかっ」
激昂して掴みかかろうとする知幸を庇うように代理人団オルグが割って入り、期成同盟陳情団と揉み合いを始めた。これ迄回を重ねて来た収用委の度びに互いに投げ合って来た野次の罵声が夫々《それぞれ》の憎しみを募らせていた。突然、知幸が上着をかなぐり捨てると肉弾戦の中に躍り込んで行った。誰も止める間の無い瞬時の事であった。だが、あっという間に弾き出されてしたたかに尻餅を搗《つ》いてしまった。
福田委員長のとりなしで陳情団が自主退場し、収用委は午後三時過ぎに開かれたが、興奮醒めぬ知幸等の抗議で実質審議は出来ず、翌日からの現地鑑定を通告しただけで閉会した。
その夜、知幸は画用紙に赤いマジックインクで荒く書きなぐる。
筑後中流|杷木《はき》の町、人を貴様と呼ぶ町長林蟠居す
唯我独尊町長林一二三、別の名はジャングル温泉旅館の主
林、暴言暴力逞しければ、面子《めんつ》失せり筑後川改修期成同盟会は
生まれて初めて貴様呼ばわりされ人前で尻餅を搗かされた屈辱は、知幸の心中に疼き続けた。
私は取材で当時の部落の人達に会う度びに、「あの頃日記をつけていませんでしたか、手帳にメモを残すことも無かったのですか」と、執拗に尋ね続ける。だが、ほとんど誰もそれを遺していない。断片的に読んで聴かされるヨシさんの日記は別として、前に掲げた室原知彦氏の僅かなメモと高野香氏の手記を披見出来た僥倖を除けば、そのような記録に遇うことは無かった。
当時砦に通った者達が挙《こぞ》って記録を遺していない事実は奇妙な程である。谿間の里の者達が元々記録の習慣を持たなかったという事であろうが、むしろ、一切の判断を室原知幸に托し切っていたという一人一人の消極的な姿勢の徴《あらわ》れだと見るべきだろう。
それだけに、一人の女性から、
「ほんの少しですけど、メモを持ってるんですよ」
という答が返って来た時、私は尠なからず驚いたのだった。
「だってもう、ほんとに僅かなメモで、お見せしても役に立つような内容のものじゃないんですから――」
そういってはにかむ彼女に、私は懇請して見せてもらった。成程、それは幽《かす》かなといいたい程に断片的なメモで、少女が几帳面につけていく家計簿の余白に記されたものであった。
少女は、穴井武雄の長女美智子である。――そう書いてしまって、私は一寸|躊躇《ためら》っている。今彼女と会っての印象から十二年前の面影を想って、つい私は少女という表現を執《と》ってしまったのだが、当時彼女は十八歳である。少女と呼ぶ年齢ではないだろう。だが、小学校の終り頃から病気に苦しみ、中学校を卒えるとずっと家に引き籠もり勝ちであった孤独な彼女の面影は、矢張り未だ少女を感じさせたろうという気がしてならない。少女は、母に代って几帳面な家計簿を記帳するかたわら、ダム闘争に関わる出来事を余白にほんの一行の文字で誌し続けているのである。
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一月一日(一九六四年)、午後、ぜんざい食べに蜂之巣へ行く。
一月七日、小国町議会がダム建設協力発表(六日午後一時)の為、対抗策で皆城に集まる。
一月十四日、ダムのことで、皆町長へ抗議に行く。
二月四日、収用委員会、現地鑑定に来る。父、蜂之巣に行く。鑑定人の立入りを拒否。
二月五日、収用委員会来る。
二月十日、熊本の収用委員会に父行く。
二月十七日、蜂之巣のことで父日田ゆき。
二月二十一日、蜂之巣のことで父は穴井文典さんと日田ゆき。
二月二十七日、ダム賛成派、旅行ゆき。
二月二十八日、近所の家は増作などで忙しそう。
三月一日、ラジオのニュースで、熊本県収用委員会が蜂之巣の土地を収用裁決したことを知る。母、くやしがる。
三月三日、本日より賛成派の家屋調査の予定であったが行なわれず。
三月四日、暗い春。
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世間から身を潜《ひそ》めるような寂《しず》かな生き方をしている少女の目に、谿間の里のこの年の春は爛漫とした自然に囲まれて尚暗い気配を見せたのであったろう。
賛成派の移転に伴う補償交渉の為の家屋・田畑調査が九地建の手で始められようとしていて、それに先立ってどの家々も俄な増改築に狂奔している。
そんな光景を詩集に書き止めた詩人がいる。九地建用地部職員であった本田真一である。詩集『娑婆巡邏曲』には、用地部職員として本田が視た室原知幸への痛烈な詩数篇も収めているが、ここには俄な札束の前に激変していく谿間の里の悲しい光景詩を引いておこう。
皮算用
どんどん家が建つ真っ|さらさら《ヽヽヽヽ》のハイサッシが
だんだん増えてゆく赤い屋根青い屋根が
都会の周辺ならいざ知らず猪《しし》の出る山奥に
三年で四百人も減ったという過疎の村に
〈多目的ダム水没予定地〉とか謂う繁華街
つい先だって立入り調査の調印したばかり
県知事の招宴にしたたか酔払った委員たち
村に戻って誰がどんな智恵をつけたものか
銀行と信用金庫が争って部落を巡り始めた
「粗品」のタオルとマッチで鞄を膨らませ
富山の薬売りさながら戸毎に触れて回った
補償金を抵当にお金貸しますいくらでも
その補償金たるや 村の住民でさえあれば
借家人でも壱千万は確実 との噂もっぱら
みんな色めきたった それ丈握るンならと
山働きがガタ減りし、日中から焼酎|呷《あお》った
山師の杢十どんが八畳ひと間で先鞭つけた
〈次男夫婦を家わかれさせにゃあ〉と
脚の踏み場もない夜の寝ざまだったから
一応 大義名分はご立派なものだったが
〈役人の調査前でなけりゃ認められぬテ〉
隣の善次郎が ついでは後家のお芳も……
それから先は 俺もわれも 何がなんでも
オール借金のにわか分限者が旦那気取りで
どんどん家が建つ 早晩解かねばならぬ家が
だんだん増えてゆく利息の事は知らないで
興奮した村も昏れそめると県道筋のひと処
赤いネオンに灯が入る その名は床し「バー湖底」
これは、津江谿谷の光景を直接詩にしたものではない。だが、この里に俄な分家が増えた事実はある。これまで構わなかった家の坪に大きな石が運び込まれ、池が掘られて鯉が泳ぎ始めている。庭石にも植木にも池にも鯉にも補償金が付くという皮算用である。
美智子の母ハスヨは、近所の婦《おんな》が庭に茶の木を植えながら、一本植える毎に、
「ほい、二百円。ほいさ、又二百円」
と呟いているのを聴き止めて吹き出してしまった。聴けば、茶の木の補償は一本に付き二百円に査定されるのだという。
「ハスヨさん、あんたそげぇ笑いよるばってん、あんたも補償ん時になったらやっぱあこげえするばい」
彼女はそういって、一緒になって笑った。ハスヨが見ていると、彼女が植え込む茶の木には根の付いてないのさえあった。調査の日だけ緑を見せていればいいのである。
杉の成木を伐採して換金したあとに苗木をみっしりと植え込むことも競って行なわれた。まさか水没地でこれから杉を育《はぐく》もうというのではない。総て補償金が覘いであった。従って、生長に必要な間隔は無視して、やみくもな密植であった。本数が多い程補償金も高くなる。遂には、余りにも欲張って密植し過ぎた為に、植林ではなく苗床だと査定されて一律面積計算でひどく減額されたという失敗譚まで伝わって嗤いを誘った。
そんな浅ましさを知幸は眉を顰めて嘲笑している。人里離れた山峡の里で、恵まれた桙杉《ほこすぎ》に囲繞されて培われて来た平和な共同体が音を立てて破綻しようとしている。反対派は賛成派を嘲笑し憎んだし、賛成派はもうこの里を捨て去ろうとして浮足立っている。中には兄弟が賛否に分かれて断絶したし、一家が補償金の配分をめぐって啀《いが》み合い始めた。
知幸は便箋に狂歌を書きつける――
ダムとは只の二字なれど、罪なもんだよ親子兄弟ばらばらにす
穴井美智子のメモが、突如〈第二グループが、夜、峰之巣のことで集会を持った様子がある〉と誌すのは、三月二十六日である。北里達之助一派の離脱を第一の雪崩として、歇むことなく続いて来た崩壊のこれが最後の決定的な雪崩の始まりであった。
第二次賛成派の代表者は穴井隆雄であった。元々諍いを好まぬ性格の彼は、蜂ノ巣城の築かれた山腹の主要地主であったが、実は九地建の立入伐除には事前交渉で一旦は了承を与えていたという経緯がある。当時のダム用地出張所物件係長であった赤崎勇氏に会った折り、氏が憤懣やる方ないという口吻で強調したのもその点であった。「峰ノ巣城が造られるきっかけになった昭和三十四年の杉山の伐採が我々の一方的な強権行為みたいに書かれたりしているのを見る度びに、本当にくやしい思いをしています。建設省の中にもそんなふうに信じている者が居るくらいですからね。――あの時、我々は精一杯の手を尽しましたよ。穴井隆雄さんとは幾度も話し合ってるんです。穴井さんの家は室原さんの家の直ぐ上ですから、我々室原さんに気付かれんごと遠くに車を止めてですね。穴井さんは、調査の為の伐木ならやむをえんだろうと承知して呉れたんですよ。伐った木は九地建の方で買い取ってほしいとまでいってるんですからね。そういう事実を穴井さんが部落の人達にしゃべってくれたらよかったんですが……」
諍う意志の薄い穴井隆雄も、室原知幸の強烈な意志力と部落全体の趨勢に捲き込まれてここまで来てしまったのであったろう。さりとて、彼が第一次賛成派に与《くみ》しなかったのは、同じ町議として拮抗する若手の北里達之助の傘下に入る事を潔《いさぎよ》しとしなかったからにほかならぬ。
部落全体が莫大な補償金に浮足立ち、もはや部落構造そのものが崩壊していく中で、頼みとした知幸の闘いが敗色を深めているとすれば、穴井隆雄が賛成派へと転じるのは時間の問題であったかも知れない。
穴井隆雄の参謀役としては末松|元《つかさ》が動いた。彼はかつて志屋小学校にも勤めた教師であり、蜂ノ巣城所在地に一部を所有する末松豊の養子である。彼からの密かな慫慂を容れて建設大臣と九地建局長が反対派に書簡を発したことが、第二次賛成派として踏切る契機となった。今からでも遅くない、従来の反対の態度を変えて協力する場合には、補償その他生活再建に関し協議に応ずる用意があるという呼びかけが書簡の内容であった。
三月二十六日、室原知彦宅で第二次賛成派の者達の話合いが、知幸に気付かれぬように密かに持たれた。この話合いには穴井武雄だけが呼ばれなかった。彼を疎外したのは、これ迄の蟠りがあったからである。彼等は、知幸から給与を受けつつ従っている武雄に関しては特殊な立場と看做していた。
この日の話合いで一同はダム賛成へと転ずる事を全員異議なく確認する。もはや趨勢がどう争《あらが》いようもない速度で敗北へと雪崩を打っている事は、誰の眼にも紛れもなかった。ここで尚頑張り続ければ、土地収用法を適用される事は避けられない。矢張りそれよりは条件交渉を執りたかった。今、彼等に与えられているのが選択の為の最後の猶予であり、これを逸することは怕《こわ》かった。大臣書簡を前にして、彼等は頽《くずお》れるようにダム建設協力の途を選んだ。
ただ、その事を誰が室原知幸に告げるかという段になって、誰も口を閉ざしてしまった。彼等と倶に行動して欲しいという願いをどうしても知幸に告げねばならぬのに、猫に鈴を付ける勇気は誰にも無かった。結局、日頃一番知幸に向かってものをいい易い立場に居る室原|是賢《これかた》が一同から頼み込まれて承諾する。彼は知彦の長男であり、中学校の教職にあったが津江川水中乱闘事件の翌春に職を退き、以後ずっと伯父である知幸に随いてその手足となって動いて来ていた。「明日もう一日だけは黙って番丁に出ろうや」と申合わせて皆散会した。
翌三月二十七日夜、穴井隆雄、室原知彦等三十名は蜂ノ巣城に籠城中の室原知幸に会いに行った。山腹の夜は春とはいえ冷え込んでいる。一人一人の表情が緊張で硬《こわ》ばっていた。皆、知幸の前に坐ると、ひどく居心地悪く項垂《うなだ》れてしまった。困惑したことに、当てにしていた是賢の姿が見えない。では、誰が切出すのか。皆、互いを窺うように沈黙し続けた。その重い沈黙を怺え兼ねたように穴井昭三が口火を切った。隆雄の長男である。
「室原さん、わしらはもうダム反対をやめようち、皆ずりして話し合うて決めたですたい。そんこつでこげえして皆揃うて――」
途端に知幸の表情に朱《しゆ》が注いだ。
「どこでお前達《まいだん》なそげな話をしたつか!」
噛みつくように知幸が怒声を発した時、知彦が狼狽したように慌てて昭三を制した。
「昭三、わりゃあ一体なにゅういうとか」
知彦の心は、部落の者達と知幸の間に挟まれて動揺しているようであった。前夜の打ち合わせとはまるで違った成行きであった。このままでは又しても知幸の強烈な意志力に組み伏せられてしまうと虞れた吉野敏孝が咄嗟に声を高めた。
「知彦さん、一寸待って下さい。そらぁちいっと話が違いますばい。――室原さん、私からはっきりいいます。もう私等はこれ以上反対運動を続けちゃいききらんですばい。もう、大勢はどう見てもかなわんでしょうが。私等もここまで頑張って来てやめなならんのは、そらぁはがいいですたい。ばってん、もうどげんもこげんもならんですよ。もう、するだけんこつはした、こうなった以上は補償交渉に切替えようやち皆して話し合うたとです。大将も一緒に山を降りて下さい。お願いします」
一斉に、お願いしますの言葉が続いた。
「大将、あんたは、おれについち来たらわりいごつはせん、心配せんなついちこいちいうたでしょうもん。わし等はそれを信じてついち来たですたい。今度は先頭に立って、建設省からうんと銭《ぜに》を取って下さい」
誰であったか、涙声で口説くように愬えたが知幸はもはや耳を藉さなかった。射竦めるような視線を知彦に向けた。
「知彦、われがこげなこつ――」
続く言葉が咽喉から出ない。頬が激しく痙攣し、凄まじい瞋《いか》りが両眼に滾《たぎ》っている。知彦は一言も発せずに深く項垂れていた。
「大将、わし等はあなたにこれまで一生懸命協力して来ましたたい。仕事も休んで番丁をつとめて来ましたたい。――ばってん、もうこれ以上は続かん。わし等にゃ大将んごと金も力もねえとです。こんまんまいけば、みんな不幸になるですたい。お願いですから、わし等と一緒に山ぁ降っち、わし等ん補償交渉ん指導をして下さい」
穴井英之が必死に口説いた。
「何をいうかっ。お前はふたこと目には協力した協力したというが、おれに恩の着すっとか!」
激昂して我を喪った知幸は、ここで畢《つい》に口にしてはならぬ激しい侮蔑の言葉を一同に叩きつけてしまった。
「お前達《まいだん》百姓は、はっきりいうて、おりが足手纏になったぐらいたい。おれは初めっからいうちょる。貞義君、おぼえちょろうが! おれが一旦反対運動を始めたら絶対に罷《や》めんというたろうが。えっ、いうたろうが! おれと一緒に死ぬるまでやりきらんもんな、さっさと離れちいけ! 時計ん振子じゃあるめぇし、あっちについたりこっちいついたりするなっ! お前達がおらんごつなりゃ、足手纏が無《の》うなって、おれはかえってせいせいするたい」
項垂れ続けていた男達がはっと顔を上げた。一人一人の面《おもて》が今は知幸に劣らず紅潮して眼が炯《ひか》っている。このままでは誰かが知幸に掴み掛かるかも知れなかった。
「もういい、今夜は引揚げようや。親方も急な話じゃ答えられんたい。独りになって今晩ゆっくり考えてもろうた方がいい」
悚《おそ》れた知彦が皆を鎮めるように立上り、皆ぞろぞろとそれに続いた。砦から崖沿いの渡り廊下を行きながら、男も女も侮し泣きに啜り上げていた。
「こん城を一人で守ったごと思うちょる。もう誰も来るもんか。大将一人で守ってみるがいいたい」
「ほんなこつ、こげえ大将に尽しち来ち、なんちゅうつめてぇ仕打ちか」
「もともと大将はあげな人じゃったんじゃ。|もっこす《ヽヽヽヽ》たい。どげんもこげんもならんもっこすたい」
永い団結の終焉にしては惨め過ぎる罵り合いであった。気丈な穴井ツユが、泣き続ける女達を腹立たしげに叱咤していた。
「そげえ泣きなんなちゃ。前ん人達に見られちみない、それこそ笑わるるとばい」
|前ん人達《ヽヽヽヽ》とは、彼女等がその浅ましさを嗤った第一次賛成派を指している。それ等の者達に今の惨めな姿を見られたくなかった。志屋小学校の下迄戻って来ると、道脇に焚火をして固まった。夜は更けていたが、このままの不安な気持で誰も一人にはなりたくなかった。
「これからはしっかり団結して、第一次ん者《もん》達に笑われんごとぴしゃあっと建設省と交渉しゆうや」
幾度もそう誓い合って、やっと夫々《それぞれ》の家に帰って行った。
翌朝、番丁で砦に登って来た高野鉄兵は、他の番丁が一人も見当たらない事を訝《いぶか》しんだ。室原《むろばる》部落から只一人の反対派として砦通いを続けて来た彼は、前夜の出来事を知らされていなかった。彼は、知幸が砦の書斎で本を披いているのを見付けた。
「みんな今朝はどげえしたとな? まだ誰も出て来ちょらんごたる」
鉄兵は背後から声を掛けた。
「みんなもう反対は罷めたばい。もう、これからはおれ一人でする――」
知幸は書物から顔を挙げずに答えた。鉄兵は吃驚して知幸の背を見詰めた。知幸は肩を怒《いか》らせているようであった。鉄兵は山を降り知彦を訪ねて行って事情を知らされた。
後年、室原知幸は次のように記している。
[#ここから2字下げ]
〈動揺した反対派の者と、私との切り離しに全力を挙げて弱い環に立ち向かい、その結果村を出る者が続出した。
建設省側では、私が孤立化したと判断したであろうが、私は孤立ではなかった。
私は長い反対闘争の中で、刑務所に迄つながれたことを忘れない。
そして私の身体全体が松原・下筌ダムの本質と権力を見つめてきたのであるから、早かれ遅かれ一人になることは考えられたし、一人になっても、建設省の姿勢が改められない限り、又私の闘いが、昭和三十年代、四十年代の日本における民主主義の実態を、私権と公権の限界を立証する記録を作るものであることの信念を貫く確信を有していたのであるから、むしろ足手まといがなくなり、思うように闘えると実にさばさばした気持であった。
これは決して強がりではない。
代々に亙って、共に生活してきた者との訣別の気持とは異なるものである。〉(『公共事業と基本的人権』)
[#ここで字下げ終わり]
実際には、知幸は穴井武雄を遣《や》って各戸を廻らせている。
「おれもいい過ぎたと反省しちょる。もういっぺん戻って来てくれんか」という知幸の伝言を容れる者は、もういなかった。
蜂ノ巣城に知幸だけが取残された日、志屋部落では嫁ごうとする穴井良子のお別れの宴があった。良子は、隆雄の長女が嫁いでいる穴井文典の妹である。宴に招《よ》ばれているヨシは、知彦の妻トミと連れ立って家を出た。
「あんなあ――、あんたまだ義兄《にい》さんからなあも聴いちょらんとじゃろ?」
トミはいい澱むようにヨシの耳元で囁いた。
「えっ、何をね? なあもうちゃあ聴いちょらんが」
「そうじゃろうなあ。……実はなあ、もうみんな反対運動をやむるこつにしたんよ。それでなあ、昨夜《よおべ》みんなして義兄さんに話しに行ったんじゃが、あげなふうな気性じゃき、ばさろうはらかいてなあ、一人になってんがやめんちゅうたい」
ヨシが黙ったまま歩き続けているので、トミは一寸言葉を切った。
「義兄さんがみんなと一緒にやめてくれたら、芳子ねえさん、あんたもどんくらい楽になるかなあ」
黙り続けて歩くヨシを慰めるように、トミが言葉を継いだ。
――やめるもんか、やめるもんか、うちん頑固じじいがやめるもんか、くたばるまでやめるもんか!
ヨシの心中に不意に烈しい忿《いか》りが込み上げていた。誰に叩きつけようもない絶望的な激情であった。
この日、女達ばかりの宴はいつもの姦しさを喪って異様な雰囲気に沈み込んだ。良子の母が座を賑わせようとして頻りに歌を所望したが、誰も応ずる者は無かった。今、志屋部落の者達一人一人に、室原知幸と訣別しようとしている重さが苦しい迄に伸《の》し掛かっている。誰もがヨシから視線を逸《そ》らせていた。
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落城の章
一 茶摘みの頃
新聞なんかで見ますと、あなたん方の裁判も、なかなかおおごつんごとありますね。からだだけは気をつけてくださいよ。あんまりお丈夫にゃ見えんふうですき、奥さんも御心配でしょ?
わたしも、今はよっぽど元気になりましたが、あん頃はどっかこっか悪うしてですね、ま、ちょっといやぁノイローゼんごつなっちょったとでしょ。部落んみんな反対運動をやめたんに、おとうさん一人なにがなんでん続けるちゅうですもんね、これから一体どうなるじゃろち思うと、もうノイローゼにもなりますたい。病気は気からちいいますけど、ほんなこつあん頃はからだが悪うしてですね、ええ、神経痛ですたい。右腕が肩より上にあがらんとです。なんか、棒んごと重《おも》うしてですね、自分の髪も結《ゆ》えんちゅうふうで、しくしく痛むんですたい。それに膀胱炎もひどうしてですね、夜中痛んで、わたしゃあ泣きよったですもん。小便に行きとうして、行くとあんまり出らんとですよ。お医者ん先生は、こらぁなんちゅうてん安静が第一じゃちいうですばってん、なんの安静になんかしちょれますもんですか、あとからあとからお客さんばっかりで、わたしゃ一週間も十日も風呂に入る暇もないちゅうふうですもん。蜂ノ巣城もいよいよ大詰じゃちゅうふうで、次々と記者さんが来ますし、それにおとうさんを説得しようとして、東京から弟の幸男さんが来る、杖立ん母が来る、敏子さんが来る、一族もう皆ずりして来ましたばってん、なんの今更おとうさんがやめましょうか。なんでも、おとうさんの記録映画を作るちゅうて、部屋の撮影をしたりですね。あとで聞けば、大島渚さんちゅうて有名な監督さんじゃったそうですが、わたしゃもう、あとからあとからんお客さんで、誰が誰やら少しもおぼえちょらんですたい。
そん内に、革新ちゅうつがぞろぞろ来始めたですたい。労働歌ちゅうとでしょうね、なんかこう勇ましい歌を合唱しながらぞろぞろ家ん前を通って砦に行くですたい。そうそう、革新の人達んこつをオルグちいうんでしたね。そげな言葉もおぼえたですたい。女の人なんかパラソル差したりして、まるでピクニックに来たごたるふうで、ほんとにこげな人達がなんかおとうさんの役に立つんじゃろうかち、失礼じゃけどそう思うたもんですたい。知彦さんも、革新の来るのには厭な顔をしていましたねえ。ええ、知彦さんな穴井隆雄さん達と山は降りましたばってん、やっぱあおとうさんのこつを心配してですね、なんさま、あげなふうでおとうさんなわたしにゃあなあも説明してくれんもんですき、知彦さんがこげこげこうなっちょるちゅうて話してくれるですたい。知彦さんと穴井恵さんの二人は、穴井隆雄さん達第二次賛成派からも離れていましたね。知彦さんの立場もやっぱあ辛《つろ》うしてですね、「おれはハムレットんごたる心境ばい」ち冗談いいよりましたもん。
国が、蜂ノ巣城を国有地ちゅうて看板立ててから、いよいよ決戦迫るちゅうふうで、革新の人達の人数も増える一方で、砦で千人の集会ちゅうこともあったですたい。勿論、もう村ん者《もん》な誰一人加わりません。知彦さんが心配して磧ん下まで行って見て、帰りに寄って来て、「親方がオルグとおんなしヤッケ着て、同志諸君ちゅうて演説したばい」ちゅうて驚いて報告してくれたもんです。「とてんもう、あげな親方にゃ従《つ》いちゃいけん」ち、首ぃ振ったもんです。
わたしゃもうおろおろするばかりで、何が一体どうなっているのか全然わかりゃあしませんし、ただもう、おとうさんの身体んこつが心配なばかりで、ええ、そん頃おとうさんなようと寝汗をかくふうで、シャツん着換えを取りに帰るもんですきねえ。なにしろ、ここん谷間の春は四月ん終りになっても炬燵をしまえんほど寒い日が続くかち思うと、汗ばむほどん日もあるし、天候が不順ですもんね。おとうさんな帰って来るちゅうたちゃ、朝早くひょくっと帰って来て、茶を飲んだり、風呂に入ったりして、また直ぐ山に帰るちゅうふうで、身体んこつのなんの問う暇もありゃあしませんもん。もう、せいぜいおとうさんの好きな筍や蕗なんかの煮染めを作って、博子に持たせてやるくらいでねえ。ほんと、あの春は孟宗の出来年《できどし》でございました。えっ、博子ですか? 六番目の娘ですたい。節子が嫁いだ年ん春に大学を卒業して帰って来ましてね。そうですね、うちじゃあ、ダム闘争にかかわったんは四番目の裕子に五番目の節子、そして六番目の博子ですが、この子が一番長かったですね。自動車の免許を取って、おとうさんが熊本や福岡の裁判に行くとに、いつも運転して行ったもんです。わたしも博子がおるんで、ほーんと助かったですたい。そん頃は日田ん料理学校に通うていたもんですき、この子の作ってくれる珍しい料理がわたしん一番の愉しみでしたね。なんの、沢山は食べれやしなかったんですけど。
或る時、山に行った博子が帰って来て、おとうさんがどんぶり茶碗を六百ほど買《こ》おちょけちいうたちゅうでしょうが。それが始まりで、次々に日田ん町まで大きな買い物をしにやられたもんです。砦にオルグが何百ちゅう数こもって、いよいよ決戦だちゅうんで、それの準備ですたいね。乗込んで来るオルグもヘルメットかぶって戦闘態勢でしょうが、こんな人達ん中に捲き込まれて、おとうさんな一体どげえなるんじゃろうち思うとですね……。警察もどんどん入って来始めたですたい。建設省が砦に攻め込むための橋を架けるちゅうこつで、それをオルグの人達が架けさせまいちして、川で騒ぎがあって警察が来たんでしょうね。三十五年の時は、建設省は橋を架けるんに苦労したもんですき、今度はずっと早くから本格的なコンクリート橋を架けて用意したんですたい。それに、砦ん方も穴井武雄さんが指図して砦の補強工作をオルグん人達とやるもんですき、家ん外に出ると、川上ん方から、そんな騒ぎが聞こえて来るですたい。そん度びに、あっ、なにか大きな衝突が起きたとじゃなかろうかち心臓がどきどき騒いでですね。
もう心配で心配で、わたしゃ阿弥陀さまにお参りに行ったですたい。ええ、今はダムに沈まんごと上に揚げて、志屋神社の横に移していますが、そん頃は部落ん中にあってですね、公民館の傍でした。これはまあ、村の婦《おんな》たちん仏様で、特に安産の願《がん》を掛けましたね。効くんでございましょうね、志屋部落じゃ難産で苦しむ者が一人もいませんでしたもん。女だけが参るんじゃないんですよ、いよいよ自分の嬶《かかあ》が子を産むちゅう刻が近付くと、亭主が転げるごとして阿弥陀さんに祈りに走ったもんです。人の出産だけじゃなくて、牛や馬の安産もお願いしたもんです。願掛けたとおりの安産をすると、お礼の|おとちょう《ヽヽヽヽヽ》を奉納するもんですき、堂の内にはおとちょうがいっぱい懸かっていますたい。ええ、おとちょうつは、晒木綿で作った細い旗みたいなもんで、それに祈願のお礼が書かれてるんですたい。わたしも、孫がでくる度びにおとちょうをおさめたとです。
えっ、そん日のわたしの願《がん》でございますか? それはもう、どうか大事《おおごと》になりませんようにちゅうことでした。新茶をお供えしました。そうですね、志屋じゃあ四月の終りから五月にかけてが茶の採り入れで、新茶の包みを作っては、遠くの娘達に送ってやるんが愉しみでしたね。
今も、志屋の茶摘みの風景が忘れられませんたい。あの年の春も、部落は分裂し、砦にはオルグが詰めちょりましたが、茶摘みの風景はいつもん年と変わらんのどかなもんでございました。
二 オルグに埋まる
部落の者達が砦を降りたのと入れ替るように、革新労働組織の支援が本格化して来ている。それは、支援というよりはむしろ彼等自身が蜂ノ巣城防禦の主体を荷って前面に登場して来たという事であった。既に早く、熊本県では土地収用委員会での代理人団会議が発展して下筌・松原ダム建設反対対策会議が結成されていたし、筑後川下流域の大部分を占める福岡県でも、社・共両党、県評、日本農民組合、部落解放同盟等による下筌・松原ダム建設反対福岡県対策協議会が結成され、大分県では地元である日田地区労が中心となって体制が組まれていた。
〈下筌の戦いの本質は池田政府の軍国主義、帝国主義復活の経済的基盤、すなわち所得倍増計画の根幹をつき、これに反対する戦いであることがあきらかになりました。しかも、この戦いは筑後川の完全な治水をかちとり、労働者、農民、市民の生命、財産を守り、荒廃する国土を守る戦いであり、企業合理化で労働者を苦しめるもの、農業構造改善事業などで農民を農村から追出そうとするもの、農民の水を収奪して独占資本に引き渡そうとするものに対する戦いである〉というアピールが、これ等革新組織がこの蜂ノ巣城闘争をどのように位置づけていたかを示している。
しかし、谿間の者達にはこのような趣旨は理解の域を超えていた。蜂の巣橋の脇にオルグが建てた掲示版を地元の者達は戸惑って読んだ。〈全人民的規模で日韓会談粉砕、日中国交回復促進などの諸闘争を結合して戦うことが重要である〉という宣言と、この里のダム反対闘争がどう結びついているのか解しかねたのであった。ただ、ダム反対闘争がもはや完全に変質した事だけは部落の誰にも分ったし、それだけに自分達の離脱は正しかったのだと逆に安堵もしたのであった。
一九六四年五月十一日、国は蜂ノ巣城に対して代執行令書を発した。既に国有地として収用裁決されているその山腹を、五月十五日から七月十五日の間に砦を取壊して収用しようというのである。
いよいよ代執行期日の始まった五月十五日から、各県の対策会議は蜂ノ巣城への泊り込みオルグを毎日一五〇名に強化して送り込み始めた。オルグは各職場の労組から選抜されたが、山峡の里の蜂ノ巣城が充分に喧伝されているだけに、珍しい物見たさも加わって志望者は竭《つ》きなかった。彼等は各自若干の米を携えて、二泊三日の日程で蜂ノ巣城へと繰り込んで来る。オルグの動員旅費に関しては対策会議の方で自己負担するが、一旦城中に入って後の費用は一切室原知幸が負担するという口約束が交されているので、知幸は夥しい食糧、器具、畳、夜具等を購入して城中に運び込んでいる。米も百俵から必要で、それも一個所から買い入れれば露見するので、九州一円から少しずつ買い集めて、空中に張るケーブルで夜の内に密かに城中に運び込んだ。麦、饂飩《うどん》、馬鈴薯、味噌、醤油、砂糖、塩鯖等も大量に貯蔵された。
城中に入ったオルグ達は小隊に編成される。作業班は蜂ノ巣砦の補強作業に働く。なにしろ決戦の日には千名からのオルグ団を収容する筈で、その為に上流側の雑木林の陰に二棟の大講堂を築くという作業が急がれた。津江川を筏で渡河しなくてもいいように、既に蜂の巣橋際から山裾の崖沿いに蛇釜の滝の前を渡って行く長い廊下橋も頑強に補強され、屋根と腰板も張ってあるので、その渡り廊下自体も蓆さえ敷き詰めればそのまま宿泊施設となる筈であった。作業班を穴井武雄が指図した。動哨班は近隣部落に入り込んで、田仕事の農民と話し合い、彼等がなぜこのダム反対闘争にやって来たかを分ってもらおうと努めた。また、そうやって動き廻る先々で九地建や警察の動きを察知する役割も負うことになった。炊事班は女子を中心にして組まれ、医療班は全医労の者達によって編成された。
この時期、蜂ノ巣城の中枢本部を形成したのは、田上重時(熊本県評事務局長)、西里龍夫(社党熊本県選対委員長)、酒井善為(社党熊本県副委員長)、井上栄次(共産党熊本市議)、坂本泰良、庄司進一郎、三浦久、青木幸男(いずれも弁護士)、長野春利(社党熊本県本部書記長)、森武徳、森純利等である。既に春闘の闘い方をめぐって中央では社・共両党が罅《ひび》割れし始めている時期にもかかわらず、蜂ノ巣城での各党、各組織のチームワークは極めて緊密であった。
繰込んで来る者達を一種の熱気に包んで行く何かが、この山寨にはあるのだった。城中では朝六時の起床に始まり、夜十時の就眠まで厳しい規律によって作業と学習が励行された。学習の中心は勿論このダム闘争の意義についてであり、講師役は森武徳か森純利が勤めた。更にそこから展開して、背景にある政治問題もまた当然な学習課題であり、それは主に田上重時が講義した。労働組合の学習を数多く経て来ている田上も、蜂ノ巣城に於ける夜の学習会ほどに真剣な熱気を帯びたものを知らなかった。ふと彼は、延安での毛沢東の抗日大学に擬して内心密かな興奮をおぼえることがあった。
室原知幸がオルグ達に直《じか》に講義をするということはなかった。どうやら知幸は、圧倒的な数の革新オルグ達に囲まれながら、己れは一線を劃しているのだという態度を殊更に持しているようであった。面白いのは、会議のテーブルに就いても、知幸だけがいつもちょっと身体を斜《はす》に構えてよそを見ていることである。会議の始終ずっとそうなのである。それはいかにも、俺はお前達とは違うんだぞということを態度で表明しているといった感じであった。そもそも、これまで部落の者達と籠もっていた間も己れ一人の擅断《せんだん》で事を決して来た彼に、会議というものは苦手であったろう。日々|倶《とも》にありながら、このような知幸の存在はオルグ幹部連にとって煙《けむ》たいものであった。
「どうも、|じいさん《ヽヽヽヽ》にゃ困るなあ」
彼等は陰でそういってこぼした。なにしろ、革新の猛者《もさ》達も知幸に頭があがらないのである。
「こらっ田上君! 君は自分の家《うち》でも飯台《はんだい》を平気で跨ぐとかっ」
或る時、田上は知幸から大喝されてしまった。飯台といっても、ただの細長い板切れを直《じか》に床に置いているだけのことなので、誰もついそれを跨いでしまう。その度びに知幸の大喝が飛ぶのであった。
「この城中に入った以上は、わしの流儀に従ってもらう」
というのが室原知幸の宣言なのであり、それに反すれば幹部とて容赦なく叱り飛ばされるのだ。革新の猛者である田上も、この煙たいじいさんから叱られる時は、小学生のようにその猪頸を竦めているしかなかった。
二泊三日で次々と入れ替っていくオルグ陣と違って、ずっと常駐を続けねばならぬ田上等幹部連にとっては、さすがに城中の日々は息苦しいものになっていった。酒を飲めぬのが辛かった。城中では厳しく禁酒がいい渡されている。嶮しい山寨にあって酒に酔うことは剣呑《けんのん》であった。彼等は、夜遅く穴井武雄方に貰い風呂に行って、そこで酒を飲むようになった。妻のハスヨが、ニンニクを擂《す》りおろしてその中にキャベツを刻みこんでくれるのを肴にして、やっと彼等は解放された気分に浸るのだった。
その頃の穴井美智子のメモには、〈田上、田口さん風呂入り〉〈夜、佐藤、千井、小沢さん風呂入り〉〈川端さん風呂入りに来る〉〈田上、大森さん夜風呂入り〉〈三人風呂入り〉等という記述が頻りに繰り返されている。城中の幹部連にとって、穴井家の貰い風呂は正《まさ》に煙たいじいさんからの逃避行であり息抜きであったし、更にはじいさんには聴かれたくない論議をこらす密議の場でもあったのだろう。
「君らはどうしてわしんとこの風呂にも来んのかね」
さすがに気を悪くしたのか、或る日知幸がそういいだして、断り切れずに森武徳が随《つ》いて行った。ところが知幸の様子がおかしい。一向に武徳に風呂に入れといわずに、殊更ぐずぐずしている。
「森君、洵《まこと》に済まんが、わしに先に入らせてくれんか」
到頭、思い切ったように知幸がそういった時、武徳はあっけにとられてしまった。この人は、この一言を切出せずに先刻からもじもじしていたのかと思うと可笑《おか》しくもあった。
「どうぞ、どうぞ、お構いなく」
武徳がそういっても、知幸は頻りにくどくどと詫び言を繰り返した。この潔癖過ぎる老人は、他人のあとの湯に入るということがどうしても出来ぬというのであった。
あっという間に風呂から揚がって来た知幸が、
「森君、わしは湯舟の中に入らんじゃったからな。外で湯をかぶっただけじゃからな」
と念を押していった時、武徳の方はすっかり恐縮してしまって、もうなんだか風呂に入りたくないような気持になっていた。
この時期、映画監督大島渚がテレビ用ドキュメンタリー・フィルムを製作する為に現地に入っている。
後年、室原知幸の訃報に接して大島が書いた文章がある。それは、ヨシさんのことに触れて書き出されていることで印象深い。
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〈室原家は、まさに端正にして典雅なたたずまいで緑の濃い山を背にあったが、奥さんはそこに太古から住まっておられたと言っても信じられる程物静かにひっそりと坐っておられた。室原さんはほんの少しの時間、わが家にいただけですぐ蜂ノ巣城へ帰って行くのだった。だから私も室原さんに随ってすぐ室原家の外へ出てしまったのだった。その帰り道だったか、なぜそんな話になったのかわからない、きっと私が無遠慮に何か言ったのだろう、それに対する答だったかどうか、とにかく室原さんは、自分の奥さんのことを語られた。それは、自分の妻は、大正時代から一日もかかさずに日記をつけている、そういう女だ、という話だった。
私の記憶は正確ではない。大正ではなく昭和の初めだったかもしれないし、日記ではなく家計簿だったような気もする。ともかく私はいたく感動したのである。人間の生きている重味のようなものを、魂の奥底から揺り動かされる形で感じさせられたのだ。この山奥の小さな村のひっそりとした一つの屋根の下に確実に存在する一つの女人の生。そしてその女人の夫である室原さん。私はそれを見せてください! とのどまで出かけた声を押えるのがやっとだった。見せてくださいどころか、ください! と言いたかったのだ。あるいは盗んで逃げたかったのだ。しかし、一人の人間の確実な生は、見ることはできても、もらいうけることはできない、盗み去ることもできない。私は、この時ほど自分の不確かな生をなさけなく思ったことはない〉
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大島は、室原知幸から撮影の承諾を得るのに大変な時間を要している。知幸は己が闘いをテレビによって喧伝してもらう必要など、毫も抱いてはいないようであった。結局大島は、勝手に撮《と》るのを黙認されたような形で始めてしまったが、もひとつ厄介なのはオルグ幹部連の諒解をも得なければならぬという仕組であった。大島は田上重時、森武徳等幹部と杖立温泉のホテルロビーで会見した。大島の申入れは、決戦の日には予め城中にカメラを据えさせてほしいということである。
「一体、あなたはこの闘争をどのような視点でとらえようとしているのですか?」
田上は、大島の申入れには答えずに逆問した。
「この闘争には階級的視点が感じられません。まあ、室原さんのお遊びみたいなもんでしょう」
ずばりと、大島は答えた。その一言に憤激した田上等は大島の申入れを峻拒してしまった。この一言は、気鋭の大島が蜂ノ巣城に籠もる革新オルグについ放ってしまった痛烈な揶揄であったろう。〈室原さんは正に吉本隆明風に言うならば一つの直接性として国家権力に対立しておられたのだ〉と視ている大島にしてみれば、知幸を取巻く革新オルグ陣に関心はなく、それなのに彼等の諒解を求めねばならぬ仕組がつい反感をそそったということであろう。
大島の一言は、蜂ノ巣城に籠もる革新オルグの痛点を衝いている。当時の新聞を閲していくと、知幸の次のような談話を見出す。「共産党も社会党も応援に来るのが遅すぎたくらいじゃ。道理がわかれば、だれでもわたしに賛成するのが当たり前。自民党はまだこんのか――」
没イデオロギーとも受取れるこのような公式発言に田上等幹部は眉を顰めたであろう。
「困ったじいさんだ」と陰でぼやきながら、しかし幹部の誰も知幸の言動を掣肘することは出来なかったろう。
それだけに彼等は、この闘争を室原知幸の支援というのではなく、彼等独自の革新戦略に基づく労農提携の戦線として色づけようとして腐心している。
その時期、城内で数日毎に刊行されたガリ版刷り西洋紙一枚裏表の「蜂の巣しんぶん」に目を通すと、〈勝利をめざす労農同盟〉などの見出しが直ぐ目に付く。その中味も、〈連日、多くのオルグが附近の農家を訪れ、ダム問題、政治の話、全国民を苦しめている独占の話など、慣れぬ仕事を手伝いながら農民とヒザをまじえて話し合いをすすめている。下筌・松原ダムの闘いは、一室原や農民だけの闘いでなく、民主勢力、労働者との共通の闘いとして発展し、新しい時代をつげる労農同盟の典型となりつつある〉という調子の昂揚したものであるが、これはむしろ、かくあれかしという革新オルグの願望の表現であったと見る方が現実に近かったであろう。労農提携のスローガンを掲げてみても、肝腎の農がもはやこの山峡の里では幻の存在でしかなかった。彼等は、より喫緊事《きつきんじ》である補償交渉の方にすっかり気を奪われていたし、元々外部の者に対しては本能的に心を閉ざす永年の因習にあった。町から来たオルグ達の誠意をこめた援農作業についても、今、穴井ハスヨさんは苦笑していうのである。
「田んぼん加勢たちゃあ、あんまり役には立ちませんもん。まあ、ヒラクチ(蝮)でもなかとに、蛇《へべ》さえ見ればおそろしがってから……。援けになるより、かえって邪魔になるくらいじゃったばってん、いっそ断わるんもわるいごたってねぇ」
躑躅《つつじ》の咲き盛る蜂ノ巣城で、幾百の革新オルグ陣に囲まれながら、室原知幸は毅然として城主であり続けている。和して同ぜずといった姿勢であった。
当時知幸が城中での決起集会で革新オルグ達を前に挨拶した時の草稿を見てみると、次のような言葉で結ばれていることに興味を惹かれる。「ここで、この蜂ノ巣城で我等の勝利をかち取り、更に進んで民主主義の発展へと、同志諸君邁進致しましょう」
つまり室原知幸は、下筌・松原ダムの強行は民主主義に反する国家の強権行為だと断じているのであり、ダム反対運動は目先の目的を超えて、もっと広汎な民主主義死守の闘争にまで昂まっているのだという視点から、その一点に於いて革新オルグ陣営とも手を結んでいるのだとみられる。
では、室原知幸が志向する真の民主主義とはどのようなものであったのか。強制代執行を目前にして日田市で開かれた講演会で、彼は次のように語り始めている。
「わたしの民主主義という解釈は、情に叶い理に叶い法に叶い、こういう三本立てであります。で、建設省、いかに大きな屋台であると致しましても、情を蹴り理を蹴り法まで押し枉《ま》げて来るというなら、どんなに強大な力を持っていようとも、このじじいはその奔馬に向かって痩せ腕を左右に差延べて、待ったをするのであります――」
洵《まこと》に簡明なこの要言は、この後室原知幸の終世の信奉となっていく。彼の僅かな草稿を調べていた私は、次のような狂歌まがいの一首だけが書かれている小紙片がピンで挟み込まれているのに気付いた。〈法に、理に、情に叶う、この事が、民主主義だと我思う〉。これには、〈昭和四五、五、二九、熊本、阿蘇、小国、志屋、室原知幸、七二歳〉と付記があった。この日付けは、死に最も近い時期であり、他の歌稿にほとんど日付けが無いことから推しても、この一首は殊更宣言的な趣を呈して見えて、最晩年の室原知幸の想念を占めていたものを暗示しているようである。
しかし、ここでいうまでもなく、室原知幸が求めて已まぬのは飽くまでも現体制でのより良き民主主義なのであり、体制そのものの変革をまで志向しているのではない。革新組織と一線を劃さざるを得ない分岐点はそこにあった。
強制代執行を前にして、蜂ノ巣城を革新オルグ団の精鋭で固める一方、室原一流の訴訟頻発による攪乱戦術もまた続けられている。自由法曹団系(福岡第一法律事務所)の弁護士陣が加わった為に、この戦術は一層強化されたといっていい。
だが、もはや国はそれ等一切の争訟を押し切って、力による代執行に踏み切る決断をする。六月九日、閣議は蜂ノ巣城取壊しを全員一致で了承したのである。憂慮した社会党の成田書記長と太田総評議長が河野建設大臣に会談を申入れて、室原・河野会談を斡旋したいので五日間の猶予期間を貰いたいと懇請し、河野一郎はこれを容れる。
しかし、建設大臣河野一郎はこの会談が実現せぬであろう事を既に予期していた。実は、ほんの二日前瀬戸内総合開発懇談会に出席した河野は大分県入りして、隠密裡に室原知幸に和解を打診していたのである。河野が提示した条件は、「これまで反対運動に使った一切の費用を償った上で、更に二億円を積みたい」というものであったが、伝え聞いた知幸は、「今になってんが、まだそげなこつをいいよっとか……」と呟いて憫笑したのみであった。銭金を幾億積むよりも、なぜ大臣自らが来てこれまでの非を心底より詫びようとしないのか、という思いがこの誇り高い老人の真意であったろう。果たして、室原側は河野会談を拒否した。強制代執行の閣議了承を白紙に戻さぬ以上、大臣との話合いも無意味であるとしたのであった。最後の打開策もあっけなく潰《つい》えて、もはや九地建の突入は目睫に迫った。
六月十四日、蜂ノ巣城には革新組織千名が聚まり最後の総蹶起大会を開き、シュプレヒコールは津江谿谷を揺るがせた。この日から臨戦態勢が布《し》かれて常駐オルグ団も二〇〇名に増員された。最強部隊と目される三池労組、新日窒水俣労組の精鋭それぞれ五〇名が入城したのは翌日で、城内の士気はいよいよ昂まった。
だが、この土壇場に於いて、オルグ中枢本部は苦悩していた。幹部陣内部で強硬派と穏健派の論議が角逐して、決戦に臨む方針をいまだに決し得ずにいたのである。よしんば危険な戦術を駆使しても徹底抗戦を執るべきだとする強硬論は、主に熊本県勢であったが、福岡県勢は逮捕者や怪我人を出すような戦術は回避すべきだとする意見を執った。筑後川下流域を占めるだけに多数の県民がダム賛成派であるという事情に加えて、ダム推進の立場にある鵜崎知事が社会党出身であるという事が、この砦に籠もる福岡県勢の動向を微妙にしていた。
六月十九日未明、オルグ団は代執行阻止模擬演習を密かに行なった。未だ水の面の昏《くら》い津江川で花火の水平打ちが試された。花火は対岸の崖に当たって炸裂し、激しい白光が一瞬谿谷を染め上げた。その凄まじい威力に砦の者達は息を呑んだが、それがかえって多くの者達を穏健策へと纏めていく結果となった。
一方、一九六〇年津江川夏の陣の完敗の無念さを忘れぬ工事事務所長野島虎治もまた、今度こそ万全の態勢を整えて決行の日に備えている。彼の手記は語る――
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〈六月中旬以降になるとさすがに五月からつづいていた好天気もくずれ出し作業隊はまた一つの天候という敵と闘わねばならなかった。天気予報では雨であったが既往二〇カ年の天気から判断して最も降雨回数も少く雨量も五〇ミリメートルをこえたことのない日として六月二三日を予定した。五〇ミリメートルをこえると津江川の増水は代執行橋を越え立入りが不可能になるのである。
六月二三日雨量が五〇ミリメートル以下でオルグ団の数が七〇〇名以下のときは代執行を決行することとし、何れの条件かを越えたときは極めて危険な状態で作業は不能であるから中止し延期することとした。梅雨の頃でもあり六月二三日不能となれば七月一五日の代執行期間内には代執行が完了しないという重大事態も予想され、全く背水の陣であった。事は極秘裡に運ばれねばならないので、作業隊の労務者には前日の夕刻に、また職員には前日の退庁前一時間の午後四時に命令を下すことにした。職員には色々の準備もありもっと前に発表しても良いと考え事前にこの件について相談したのであるが、職員は「自分達の肚は決り心身共に何時命令が出てもすぐ出てゆき立派に代執行をする用意はできている。何日か前に話を聞けばその間人間だからかえって心が動揺しないとも限らない。機密を要することでもあるし前日の退庁時に命令して貰いたい」と申出て、ただ一言「所長、その日は決っているのか」と問い質し「決っている」と答えると「それならば良い。前日命令して下さい」と言って落ちついていた。
本当にこのときほど頼もしいと思ったことはないし、代執行は無事完成できるとのゆるぎない自信を得た。六月一九日に降雨のため津江川は増水したが次第に減水しだしたが一向に晴天にならず気をもんだが二一日には津江川の水も作業可能な位に下る見通しはついたが、どこでもれたのかオルグ団は次第に増加しあわただしい動きは急ピッチで高まっていった。二二日朝には既に二三日決行は察知されオルグの動員も始まり報道陣も動き出したので予定を早めて午前一一時作業隊全員に動員令を発し二三日午前六時事務所に集結を命じ全労務者に徹底するよう手配を命じ午後八時最終の班長会議を開き各班の人員資材の手配完了を確認し配車を示図した。〉(『公共事業と基本的人権』)
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実は、この決行前夜、蜂ノ巣城に集結したオルグ団の数は七〇〇名を超えていた。野島が決行を危険として中止する筈の動員数なのであったが、彼の手元にその夜届いた報告は六九〇名となっていた。決行を逸《はや》る職員が、そこまでで算えることを止めてしまったのである。オルグ団はさすがに城中だけでは収容しきれずに、穴井武雄方や室原知幸邸にまで分散して宿泊している。「本当に天井が抜けるんじゃないかって思うたわぁ」と、穴井美智子はその夜の心配を記憶している。ヨシもまた、日記に誌している。
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〈記者全部を座敷にあげて一升びんで酒を飲ませる。血圧低きため身体はなんとなくぐらつく、夕飯ものどを通らず、事態がどんなに悪くなるかと気になるばかり、夜十二時頃オルグ六〇人程来て泊まった。十二時頃まで騒がしくて寝られず〉
[#ここで字下げ終わり]
三 城主の涙
一九六四年六月二十三日。
ほとんど眠れぬままに、ヨシは午前三時に牀《とこ》を離れて弁当を作り始めた。未だ明けぬ谿谷の空には一個の星も見えない。雨になるのかも知れぬと思った時、ヨシの胸裡に淡い期待のようなものが萌《きざ》していた。雨に水嵩が増せば、荒れる津江川が今日の決戦を流してくれるかも知れぬという、縋るような思いであった。炊事場から幾度も庭に出てみたが、しかし雨の滴は零《こぼ》れて来なかった。
薄々と白み初める頃、砦の方の空に打上げ花火が弾《はじ》けた。それが合図であったのだろう、邸に宿泊していたオルグ団が起き出て砦へと出発した。ヨシもまた、絣のモンペと土足袋《どたび》に身拵えして砦へと急いだ。既に報道陣や警官隊で道路は混雑している。
入城して、ホッと安堵したことに、知彦が既に室原一族を率いてそこに居た。杖立の義母ウメがいる。知彦の妻トミがいる。熊本の室原亥十二、福岡の川良美郁とトシ、東京から駆けつけた諸田幸男、それに永瀬キヨ、河津晁と泰子、皆長兄知幸の身を気遣ってそこにいた。志屋部落からは穴井武雄とハスヨ、穴井恵、室原部落の高野鉄兵も来ている。彼等は皆、〈室原知幸を守る地元応援隊〉と染め抜いた腕章を付けていた。オルグ団から孤立したように固まっている一族にヨシも加わった。建設省と警官隊の不法行為を証拠として記録しておけと知幸から指示された是賢は首から三台のカメラを吊って、既にあちこちに動き廻っている。
この谿谷に特有の朝靄が夜明けを遅らせている。蜂ノ巣城に籠もるオルグ団七百余名は整然と守備配置を完了していた。最前線の渡り廊下を守るのは、三池と新日窒水俣労組精鋭による特別中隊であった。正面第二線に布陣するのは福岡県評勢から成る第一中隊、左翼を固めるのは熊本県評勢による第二中隊、右翼と頂上を受持つのは第三中隊で、これは大分県評勢であった。
この朝、室原知幸は草色のヤッケに身を包み、城中を巡廻してはオルグ達に短い言葉を掛けていた。サングラスを掛け、時にはヤッケのフードで顔を覆うたりもして、オルグ達はそれが城主知幸とは気付かぬようであった。森純利が影のように添うている。純利は胃潰瘍が悪化していて、既に医師から早期入院を勧められながら、この日まで堪えて来ていた。
知幸が守備陣を一巡して、上流の見張小屋まで来た時、椿事があった。その辺り、岩襞を伝う隘路になっていて、直下は津江川が淵をなしている。先を歩いていた知幸が折り返そうとした瞬間、あっという声を残して純利の視界から消えてしまった。仰天した彼が見降ろすと知幸が木の根に縋って宙吊りになっている。純利は一方の手で立木を掴み一方の手で知幸の腕を掴んで渾身の力で引揚げた。さすがに顔面蒼白になった知幸は暫くそこに踞《うずくま》って息を鎮めた。
「森君、誰にもいわんでくれ」
照れたように視線を遠く逸《そ》らせて、知幸が呟いた。純利は、少しばかり嘔吐したが、今朝も食物が喉を通らなかったので、苦い胃液を粘っこく吐いただけであった。
午前七時十五分、五六〇人の九州地方建設局作業隊が三十一台のバス、トラックを連ねて対岸に到着した。砦のサイレンが一斉に鳴り響き、爆竹が立続けに爆《はじ》けた。この攻め手の首脳陣を形成する伊藤九地建局長、西原用地部長、坂梨河川部長等が対岸から迫《せ》り出した作業指揮台に立った。
「税金泥棒帰れっ!」
「なしてこげなん所に来たかっ! 帰れ帰れ! 帰って新潟に行けっ!」
「お前等、誰ん為のダムを造るんじゃ!」
砦からの罵声はわんわんと谿谷に響き合う。大きな被害を齎《もたら》した新潟地震の直後であるだけに、「新潟に行け」という叫びが激しく浴びせられた。
午前七時半、コンクリート製の収用橋を渡ろうとした野島所長の一隊は、橋上に待ち構えていた田上対策会議議長等十六名の交渉団に包囲された。交渉団は三浦、松本両弁護士を中心にして、代執行で直接強制が許されるとする建設省の法的見解を説明せよと迫ったが、野島は一切の応答を拒み、作業隊に向かって筏を繋ぎ並べる作業を指揮し続けた。蜂ノ巣城立入りと物件撤去の為にはコンクリート橋だけでは足りず、幅広い筏を組み並べて仮橋を準備する必要がある。業《ごう》を煮やした抗議団は更に九地建首脳陣への抗議に出向いたが、彼等はそのまま退路を警官隊に阻まれて城中に戻れなくなってしまった。
午前九時半、指揮台のマイクから代執行宣言が発せられた。「室原知幸さん、室原是賢さん、蜂ノ巣城の中におられる皆さんにお知らせ致します。只今から昭和三九年五月一一日付け熊本県知事の代執行令書に基づき、代執行に着手します。――蜂ノ巣城内の皆さん、直ちに荷物を持って城外に退去して下さい」
同時に、これまで待機していたダンプカー九台が出動して収用橋を渡り土嚢を投げ込み始めた。収用橋は砦側を刺激せぬように磧までしか延びていないので、そこから砦の山裾までの空隙を土嚢で埋めるのである。それを踏んで作業隊は一斉に砦の最前面に取付いて行った。
「建設省の諸君、建設省の諸君。君達はそのような無法な行為をする権限は無い。君達は代執行の限界を超えた事をやろうとしている。直ちに罷めなさい。直ちに罷めて退《さが》りなさい。君達も労働者の同志ではないか」
第一線渡り廊下のトタン屋根の上に仁王立ちした酒井善為がハンドマイクで絶叫し続けている。田上等が城外に抗議に出たまま戻れぬので、守備隊の指揮者は酒井や井上栄次等である。
「酒井さん、危険ですからそこから降りて下さい。あなたの責任で砦の皆さんを避難させて下さい」
九地建のマイクが敵将を名指しで呼び掛ける。既に作業隊は鋸や鎌や鋏やペンチ、槌を揮って最前面渡り廊下の腰板を剥ぎ取ろうとしている。だが、切り裂かれる度びに内側に坐り込むオルグ達がさっと縄や竹や針金や板で補填していくので、突破口を切り開けない。砦の後方部隊も、補強材の運搬に動き廻り、誰も顔に汗を噴いている。
「危ないじゃないかっ、こらっ、手を切るつもりかっ」
「この建設省の大泥棒! 人民の手に切りつけるのかっ!」
口々に喚びながら廊下の裂け目から突き出されるオルグ達の手に牽制されて、取壊し作業は難航した。廊下の軒には大きな石が幾十となく吊られていて、それも一個一個取り除かねば危険であった。
遂に作業隊は作戦を変更して、廊下にロープを掛け前方に引き倒そうとし始めた。すかさず、オルグ団の中の決死隊が屋根の上に登り、石を並べ始めた。廊下が傾斜すれば、これ等の石がごろごろと作業隊に向かって転げていくだろう。後方部隊は矢張り廊下にロープを掛けて後方へと引き始めている。
午前十時半、これ以上の攻防を危険と視た統合警備本部が、九地建作業隊に作業を中止して後方に退くことを命じた。砦部隊からはわっと歓声が挙がった。
「こらっ、もう二度と来るなよ!」
剽軽な一声が挙がって砦に爆笑が涌いた。だが、これは勝利ではなかった。統合警備本部と九地建との連繋作戦であった。
午前十一時、警備本部はこれから警職法に基づく緊急避難の実力行使に踏み切る事を砦側に通告した。この日、熊本・大分両県警は七〇〇名の機動隊を派していたが、内三〇〇名が怒濤のように蜂ノ巣城になだれこんで行った。無抵抗の指示は守備隊全員にゆきわたっていたが、それでも機動隊に抱えあげられると|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いて暴れる者は尠くなかった。オルグ一人に三人の警官が取り付き、抱え上げて橋上へと運び始めた。橋上の両側にも機動隊が列をなして並び、否応なくオルグ団は対岸へと連行されて行く。
その頃、右手の急斜面を攀じ登って来た坂梨河川部長の率いる別働隊が突如山頂から城中に突入して来た。正面の攻防に集中していた虚を突かれて、頂上部分は一挙に破られてしまった。右翼の指揮を執っていた浜田楠生(日田地区労事務局長)は愕然とした。「止めよ、止めよっ、危ない!」彼は駆け登りなから吠えるように叫び続けた。この急峻な山寨《さんさい》で、もし頂上から混乱すれば雪崩を打って人も小屋も岩も転げ落ちる大惨事となるかも知れなかった。坂梨河川部長は浜田の申入れを容れて作業を中断し、オルグ団第三中隊と共にそこに坐り込んだ。それは、一見奇妙な休戦であった。作業隊もオルグ団も下方前線での機動隊による排除行為を見降ろしていた。
烈しい叫び、悲鳴、「ポリ公帰れ!」のシュプレヒコールは途切れなく騰がり続けていたが、オルグ達は一人一人排除されていった。今ではもう諦めたように、橋上まで抱え出されると一人で歩いて対岸へと渡るオルグが多い。それでも、機動隊の列の間を昂然と労働歌を歌いながら歩く者もいた。最前列の最強部隊百人が排除されるのに二十分も要しなかった。対岸では排除されたオルグ達が渦巻きデモを続ける掛声と、それを規制する機動隊の笛が鋭く鳴り続けている。
室原知幸は、このあっけない成行きを蒼白になって第二線から見守っていたが、怺え切れずに最前線に奔ろうとした。知彦等が必死にそれを止めて、拉し去るように集会場へと退かせた。
「森君、第一線はやられたが、今日はもう二線までは来んだろう」
付き添うて離れぬ純利に、知幸は励ますように声を掛けた。自分で自分にいい聞かせているようであった。一九六〇年夏の九地建の優柔不断な攻撃が記憶にある知幸の、それは希望的観測であった。機動隊の排除は第二線に進み、いよいよ簡単であった。城中に戻れぬまま対岸から凝視し続けていた田上は、第二線の屋根の上で抵抗していた上杉佐一郎(部落解放同盟福岡県書記長)が機動隊から引き降ろされる際に大きく両手を振ったのを見て、不意に涙が込みあげていた。
第二線の排除に続いて、無防備となった集会場から酒井等幹部が退去させられて行った。炊事場では柱にしがみつく女子オルグを容赦なく引き離して、女達は声を挙げて泣いた。第三中隊もまた、自ら荷物を纏めて撤退して行った。
その頃、知幸の姿が見えなくなっていた。純利は、しまったと肝を冷やした。彼がこの日知幸に執拗に添い続けたのは、知彦等とはかった上での監視役としてなのであった。落城に際して知幸が自殺するかも知れぬという危惧を彼等は捨て切れなかったのだ。純利は必死に探し廻った。ヨシもまた、砦の小屋を一棟一棟覗いて廻った。書斎まで来た時、中から鍵が掛かり黒いカーテンが引かれている事を確かめた。中に知幸が潜んでいるに違いないと察したヨシは、声を掛けずにその場を離れた。ヨシにはずっと警官がつきまとっている。夫が自殺などする筈の無い事を信じている彼女は、いさぎよく砦を降りて行った。知幸の着換えを纏めた風呂敷包みを提げて、機動隊の両側に並ぶ橋上を過ぎながら、ヨシはまるで下罪人のような惨めさに項垂れていた。
オルグ団の完全に排除された城中で、室原知幸の潜んでいる場所は忽ち見付けられた。純利、知彦等と機動隊が書斎に殺到した。知彦が硝子戸の外から労《いたわ》るように静かな声を掛けた。
「兄さん、大変じゃったな――」
内側はひっそりと鎮まり、知幸の声は返って来なかった。不吉な思いが純利の動悸を早めた。機動隊の浅田隊長が戸を破ろうとする。純利はそれを制止した。
「室原さん、鍵をあけて下さい。僕一人、中に入りますから」
純利がそう呼び掛けると、中に初めて人の気配が動いた。鍵の鳴る音がして、純利は部屋に入った。そして直ぐに自分で鍵を掛けた。室原知幸は机の前に正座し、机上には書物を披いていた。
「森君、どうしたらいいか――」
知幸がぽつりと問うた。知幸が自ら問い掛けるという事は珍しいことである。さすがの知幸も去就を決しかねていたのであろう。
「城を出ましょう。城は落ちても闘う手段は幾らでもあります」
純利は断定的にいい切った。知幸の視線が純利を睨むように注がれた。
「よし、出よう」
いうと同時に知幸は立上っていた。純利は鍵をあけた。その瞬間、機動隊が土足でなだれこんで来ると、知幸を羽交締《はがいじめ》にした。必死に遮ろうとして知彦もまた躍り込んだ。
「そうせんでもいい! おれがついちょる。おれが兄貴を出させるから触るな! なーにをお前達《まいだん》はそげえ騒ぐとか!」
知彦が叫ぶ、純利が叫ぶ。この時、蒼白の城主が鋭く叫んだ。
「触るなっ! 自分で歩く!」
機動隊はたじろぎ、道を明けた。
知幸は長身の知彦に手を曳かれるようにして崖沿いの長い渡り廊下を歩いて行った。遅い足取りであった。時刻は午後一時二十分を指していた。
ふと躓いた知幸を振返って知彦の足が停まる。大島渚のテレビ用記録映画『反骨の砦』は、この時の知幸、知彦兄弟をさながら花道を退《ひ》いて行く名優の幕切れのように凝乎《じつ》と見詰めている。その長い場面に被せて嫋々《じようじよう》と奏されるのは「荒城の月」である。落城の悲愁を、大島はその一曲に籠めたのであったろうか。
知幸は曲がり淵まで退くと、そこの岩に腰を降ろして、早くも壊され始めた蜂ノ巣城の方を振り仰いで動こうとしなかった。三時間、彼はそこを去らなかった。
当時の新聞を閲していた私は、〈老いの眼に光る涙〉という見出しに行き当てた時、思わずはっとさせられた。忽ち、興奮が私を襲った。あの老人が! あの勁《つよ》過ぎる老人が、やはり遂に涙を見せたのかという、それは思いがけぬ期待が報《むく》われたような奇妙な昂ぶりであった。室原知幸の眼に光る一滴の涙に、弱者の私はいい知れぬ親《ちか》しさを寄せようとしていたのであったろう。ただ、室原知幸の涙に触れているのが、数多い新聞の中の唯一紙である事が私には妙に気掛りであり不安を誘った。私はその記事を書いたのが熊本日日新聞の高浜守雄記者である事を確かめると、只その一点を確認したくて熊本市まで出向いた。
「あの落城の日、本当に室原さんは涙ぐんでいたのでしょうか?」
唐突な私の質問は、高浜氏をたじろがせたようであった。
「――さあ、私は室原さんの眼に光るものを見たような気がしたのですが……。しかし、今はっきりとあれが涙だったのかと問われれば、そうでしたと答えるだけの確信はありませんね」
氏の答は私を落胆させた。元々、十一年前の一瞬の事を今更に確認しようとしたのが無理には違いなかった。あの勁過ぎる老人も落城の悲愁の底で一滴の涙を泛かべていたのだと私は信じたいと思う。
「忘れられない姿でした。数歩あゆんでは立ち止まり、城を振り返るんです。また数歩あゆんでは振り返るというふうで……」
室原知幸が、もう昏れ初めた曲がり淵の岩から立上って砦の廻廊を離れて行く時の光景を、眼前の宙に想い描くように高浜記者は語って、言葉を呑んだ。
知幸が志屋小学校まで引揚げて来た時、校庭には未だ二百名のオルグ団が残っていた。彼等は知幸を囲んで、「頑張ろう!」の拳を挙げた。「城は落ちたが、まだまだ戦いはやめないぞ!」と一斉に呼号した。知幸もまた、そのシュプレヒコールに和していたが、彼等の大半がもう二度とこの谿谷の里に還って来ない事を見抜いていたであろう。
ふと、校庭の隅に屯している機動隊と九地建職員の姿に気付いた時、知幸の忿りが爆発した。つかつかと寄って行くと叫《おら》んだ。
「わーれが面《つら》よう見ちょけ! なーにか、今日んわがどんが行動は! 一九六四年、白日の下《もと》、新憲法下のもとに於いて、世界に恥を曝らしたんだぞ、お前達《まいだん》は。……永久にこれはドキュメンタリー、記録として遺るんだよ。永久に記録として遺るんだよ。ええか……日本の民権剥奪というか、民権剥奪というか、日本社会運動史の中に歴然とお前達のやった行動は遺るんだぞ。ええか、日本の恥ぞ。……将来、ね、一九六四年ちゃこんな事が行なわれたかと、オッ、警官護衛の下に、洵《まこと》に日本の歴史の上に恥辱の一日を作ったんだ、お前達は! 今日、それを作ったんだぞ、歴史の上に!」
機動隊も九地建作業隊もオルグ団も声を呑んで粛然とし、昏れようとする校庭に知幸の悲愴な叫びだけがいつまでも消え泥《なず》むようであった。
映画『反骨の砦』を、徳川夢声のナレーションは次のように結んでいる。〈蜂ノ巣城は滅びた。しかし城主室原知幸の心の砦、そして彼がその闘いによって人々の心の中に築いた砦はついに滅び去る事はないであろう〉
その朝、穴井貞義は九地建作業隊のトラック群が志屋部落に埃を捲き立てて過ぎると、もう耐え切れぬ焦慮に駆られて自転車に飛び乗ると蜂ノ巣城へと向かった。今更入城する勇気は無かったが、近くから室原知幸を見守りたかった。互いに激昂して哀しい訣れをしてしまったが、今、貞義は知幸の身を心底から按じていた。夥しい見物人が殺到して、道は甚しい混雑となって来ていた。掻き分けるように行く内に、彼の気持は重くなっていた。知幸の事が心配で、思わず飛び出して来たのであったが、そんな自分も面白半分の見物人と変わらぬのではないかという自己嫌悪が強く擡げていた。駄目だ、室原さんに申し訳ない――貞義は心に呟くと、穴井隆雄の田の傍から自転車を返した。夕方、買物に来た田上から室原知幸の無事を確かめて、彼は漸く安堵したのであった。
落城から三日後、室原知幸はその心境を特別手記として西日本新聞に寄せている。
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〈わたしのことを人はがん固者、わからず屋というかもしれぬ。現世でどのように思われようと後世が必ず正義を証明してくれる。わたしはそれに喜びを感じて、いままでもやってきたし、これからもやっていく。蜂ノ巣城の落城を世間は室原の敗北とみるかもしれぬが、わたしは負けたとは思わぬ。強がりでもなんでもない。勝ちとか負けとかいうことは、とことんの結果をみてもらわねばわからぬことだ。蜂ノ巣城の落城はまだ長い闘争の一現象にしか過ぎぬ。
こんどの代執行で城は落ちたが、建設省と警察が法も情けも踏みにじった無謀が白日のもとにさらされ、天下の人に知れわたったことは厳然たる事実だ。世間の批判も出てくるだろうし、出てこなければウソだ。負けるが勝ちということわざもある。あれだけ堅固な城に、しかも三池争議などの歴戦の猛者がわんさと詰めていたのだから、こちらが本気で抵抗したら、ぜったい建設省は攻め込めなかったはずだ。もし、代執行橋の爆破や、三池海戦≠ナみせた花火の水平射撃でもやったら、どんなことになったか。ヤッケをかぶった覆面だから、だれがやったかわかりゃせぬ。陣営内に相当の強硬論もあったが、わたしは極力それをなだめた。オルグの人たちに公務執行妨害などで検挙者を出すような迷惑をかけないのがわたしの責任だ。
建設省、警官隊が攻めて来たとき、わたしを前線に出さぬようにダム反対対策会議の人や親族の者がしていたが、わたしはヤッケを頭からかぶり、サングラスで変装して何度も前に出ていき、みんながぜったい手荒なことをせぬようにさしずした。対岸からはだれも気づいてはいないだろう。むこうが石をのければ、こちらはまた石を置く。板を取り除けば、板を打ちつけるという防戦のやり方だった。ふん尿作戦などという卑劣なことはわたしはせぬ。三十五年の蜂ノ巣夏の陣のとき、建設省作業隊に頭からふん尿をぶっかけたのはわたしの知ったことではない。いまでこそいうが、決戦前、河原の石をどんどん運び込んでいたのもゼスチュアだ。こんどのこうした抵抗の自然の結果が落城ならやむをえぬだろう。これはあきらめではない。
法にかない、理にかない、情にかなう、これが民主的なやり方だ。それを破った建設省を歴史の審判が許すはずがない。いやしくも国家がやる事業は裁判が確定してから堂々とやるべきだ。それがダム建設事業認定無効確認の訴えにせよ、収用裁決取消しの訴えにせよ、裁判はまだ進行中で、なにひとつ片づいていないのに、既成事実だけで押してきて、あとは金銭で片づければいいというのはあまりに官僚的で、だれが考えても筋が通らぬ。筑後川洪水防止のため急を要すると建設省はいうが、下筌・松原ダムの治水目的はゼロではないか。電力資本への奉仕だということははっきりしている。筑後川総合開発計画も持たずして、なんでダム建設を急ぐ理由があるか。農民も都市の人も、上流も下流も全部が納得のいく総合開発計画ができて、ダムが必要だから……とやってくるのが物の順序、常識というものだ。下筌・松原ダム反対闘争は筑後川全体の問題につながっている。
わたしのこんごの戦いは(1)法廷闘争、(2)国会などでの政治問題化、(3)世論への訴え、(4)現地でのいろんな戦術がある。身軽になったから、どこへでもとんでいく。蜂ノ巣城にかぎらず、まだ周辺には残った建て物、わたしの家屋敷、山林、田畑などもある。第二、第三の蜂ノ巣城を築くことになるかもしれぬ。ぜったい妥協はしない。落城したらわたしが自殺でもするのではないかと心配してくれる人もあったが、死んだらいくさにならぬ。戦いはこれからだ。
◇数々の無法かさねし地建、警察、我は究明続く、民主主義のため
◇この戦い、今は理解す者、いくばくぞ、後世必ず多しと、わが心明るし
◇一九六四年六月二十三日、蜂ノ巣城こわしの暴代執行、永劫、日本史汚しゆく
昭和三十九年六月二十六日
自宅にてしたたむ〉
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この勁過ぎる老人は落城の衝撃を一夜で振り落としたようである。全国から殺到した激励電報に囲まれて、もはや動揺の色も無く次の戦術を模索し始めている。
だが、そのような異常なまでの勁さを持ち得ぬ周囲の一人一人は、もうすっかり草臥《くたび》れている。森純利は落城の翌日入院した。
穴井美智子さんも、当時を振返っていうのである。
「あの一週間、わたしはもうほんとになんにも食べれなかったんですよ――」
病身の彼女は落城の日もひっそりと家に籠もっていた。家で、城中の父母や|室原のおじさん《ヽヽヽヽヽヽヽ》の事を心配し続けていた。気難しいといわれる室原のおじさんも、なぜか美智子には優しかった。それは、週に一度の朝の出遇いのせいかも知れない。その頃彼女は週に一度久留米市の病院に治療に通っていて、そんな朝は小暗い内から貫見《ぬくみ》のバス停まで歩いて出なければならなかった。その途中で、きっと散策している知幸と出遇った。
「どうかな、もうちったぁあんばいはようなったかな」
室原のおじさんは、いつもの決まり文句で声を掛けてくれるのだった。美智子が読書好きだと分ってからは、自分の読み終えた雑誌を父に託《ことづ》けてくれるようにもなった。そのおじさんが苦境に追い込まれているのだと思うだけで、美智子の食欲は喪われていった。彼女はその週、到頭通院を怠った。二週ぶりに来た美智子を一目見るなり、医師は駭いて問いを発した。
「穴井さん、一体何があったのかね! まあ、こんなに野菜んごと痩せ細ってしもうて」
美智子は不意に込みあげた涙を眼に一杯溜めて黙っていた。
四 所長交替
落城の翌日から蜂ノ巣岳は梅雨に降り蔽われた。九地建作業隊の手によって、砦の残骸の収去作業が毎日続けられている。夥しい物件は総て一個所に移転した上で室原知幸に引渡さねばならないが、それは板切れ一枚をも疎かに出来ぬ作業であった。板切れ一枚の欠損にも眼を炯《ひか》らせている知幸が、若しもの場合忽ち訴訟に愬えるであろう事を九地建は予測せねばならなかった。九地建が一番肝を冷やしたのは、代執行の混雑の中で石地蔵の首が落ちたことであった。慌てて石工を呼び、セメントで接《つ》いでもらった。
九地建が収去した物件概数は次の通りであった。
(1)食糧品 米七〇俵、麦、キウリ、カボチャ、玉ネギ、馬鈴薯、醤油、キャベツ、食料油、味噌、漬物、塩魚、豆、佃煮類、約二〇〇箱
(2)家財道具類 食器類、バケツ、電話機、電気器具類、火鉢、カヤ、桶、木箱、樽、タライ、炊事道具、ホウキ、カサ、ナワ、新聞紙、天幕、釘、スコップ、ムシロ、ハシゴ、サイレン、洗面器、植木鉢、風呂がま、カーテン、フトン類、約七〇〇箱
(3)電線約四〇〇〇メートル (4)タタミ約一〇〇畳 (5)給水管約二〇〇〇メートル (6)鉄線類約四〇〇キログラム (7)トタン板約一八〇〇枚 (8)水槽約五〇個 (9)竹類約九〇〇件 (10)ハシゴ約一〇件 (11)窓ガラス、ガラス戸約一六〇枚 (12)杉丸太、板材類約二〇〇〇〇件 (13)叺《かます》、むしろ約三〇〇枚 (14)看板、立札、旗竿約五〇〇件 (15)電柱約三〇本
これ等の物件の内動産類は倉庫に、解体材はダムサイト近くの土地に保管し、室原側と引渡し協議を行なったが、室原側は動産類など一部を引取っただけで残りは九地建からの再三の引取り督促を無視し続けた。このような場合どう措置するかは代執行法にもその規定が無い。困惑した九地建は、相手が室原知幸であるだけに、管理人を付けてこれ等の物件の保管に気を遣う破目に陥ることになる。
物件引渡しの協定書に目を通すと、その第五項があひるの事を定めていて、微笑を誘われる。〈協議が成立しないときは七月三十一日までに限り現状のまま九地建においてエサを与える〉というのである。実は、このあひるには九地建も手を焼いている。代執行当日、知幸があひる二十羽を津江川に放ったのは九地建の収去作業を厄介にする奇策であったが、正《まさ》にあひる部隊はその任に応えたといえよう。なにしろ九地建は、遁逃したあひる全部を探して捕捉するのに二週間を要したのであった。
蜂ノ巣城跡の収去整地作業は七月十五日まで続いた。そんな作業の日々、知幸は土足袋で裏山から現場に現われては矍鑠《かくしやく》として監視の眼を炯らせ続けた。彼が最も問題にしたのは、裏山の谿間の落ち込んだ一隅に立つ三十二本の杉の処遇である。その部分を航空写真でしか測量しえなかった九地建は薪炭林と見誤って、裁決書には雑木としての補償額しか計上していなかった。これでは裁決効力は無い筈だという知幸の厳しい追及に九地建はたじろいだが、結局これを除却してしまった。ダム工事事務所副所長岩井鉄太郎は、毎日のようにそんな知幸の追及の矢面に立たねばならなかった。知幸と共に監視に来る革新オルグは、どんな小さな越権行為も見逃さず、その度びに岩井に詫状を要求した。いつの間にか工事事務所内で岩井の詫状は有名になっていて、宴席などで若い者達から※[#歌記号、unicode303d]書いた詫状が五万通 と囃される程になっていた。
或る日、裏山の谿間で知幸と行き遇った岩井は、頃日《けいじつ》の行き懸りから論戦を交すことになってしまった。その谿には清冽な湧水があって、岩井はそこに降りて行くのが山の現場での一番の慰藉であったが、それは知幸にとってもそうであるらしく、二人は良くそこで行き遇うのだった。
「室原さん、僕はあなたを民主主義者だと思いませんよ」
岩井は、つい口火を切ってしまってから、しまったと慌てた。それが室原知幸の痛所を衝き過ぎる禁句であることに気付いたのである。果たして、知幸の片頬が一瞬痙攣した。
「ほほう、一体なんで君はそういうのかね」
もう腹を据えた岩井は、ずばりと答えた。
「そうじゃありませんか。人の田んぼのある所に勝手に柵をして、その人が耕作出来ないようにする、これが民主主義者のすることだといえますか」
そういえば知幸に通じる筈であった。その出来事はつい数日前である。
志屋部落の道沿いに、知幸が自宅へと引水しているビニールパイプが敷設されているが、それを九地建作業員が誤って傷つけた件で岩井は始末書を取られたのであったが、直ちに知幸はその敷設部分を保護するかのように道沿いに鉄条網を張ってしまった。岩井が呆れたことに、そこは穴井隆雄の田に面していて、知幸は他人の土地の入口を塞いでしまったことになる。いくら分裂して去った者に対する憎しみが底にあるにしても、このような専横を為《な》す者に民主主義を語る資格があるのかというのが、岩井の内心の憤りであり疑問であった。
「では、君のいう民主主義とは何だね」
知幸は指摘された事実はさりげなく聞き流して、抽象論で逆問して来た。喰えぬじいさんだなと岩井は内心苦笑した。
「ボルテールがこういっています。〈私はあなたの言うことに賛成はしない。しかし、あなたがそれを言う権利は死をもって擁護する〉――つまり、これが民主主義の真髄じゃないですか」
「おれがそうじゃないち、君はいうとか!」
「だって、あなたは自分の意見以外を認めようとはしないじゃないですか。なぜ私どもと話合いをしようとしないのですか」
「君等役人は口がうまいからなあ。おれみたいな田舎者はいいくるめられてしまう」
もう知幸の口調は冗談めいて来ている。それでもこの際、岩井は正面切っていっておきたかった。
「――まるで、あなたを見ていると、この世に自分一人で生きてるようです。民主的人間とは、社会関係の総和としての人間のことじゃないですか」
「ほほお、ますます君は難しいこついうたい。なにかね、その社会的総和うんぬんとは、やっぱり君の信奉するボルテール先生の御託宣かね」
「いいえ、これはレーニンの言葉です」
折角の岩井の挑戦を知幸がはぐらかす形でその時の問答は終った。翌日また、収用地の裏の谿間に行くと、やはり知幸がオルグ達数人とそこに憩うていた。彼は岩井を見掛けると指差して大声を挙げた。「おお、見よ! レーニンの申し子が来たぞっ」皆、爆笑し、岩井も苦笑してしまった。本当に喰えぬじいさんだと思った。
収去作業を完了した九地建は、七月二十日から蜂ノ巣岳山腹の表土掘削を開始した。ハッパが鳴り響きブルドーザーが往き来すると、忽ち山腹はその草々に蔽われた表層を剥ぎ取られていった。落城の日まで、その山腹を彩っていた夥しい躑躅の印象が生々《なまなま》しいだけに、白茶けた地層を曝らし始めた蜂ノ巣岳は何か内臓を剥き出したように無惨であった。
九地建は、遅れている岩盤の試掘・試錐を急いでいる。既に調査が完了している大分県側左岸のダムサイトには地質的問題点は余り無かったが、右岸の蜂ノ巣岳には不安があった。この辺りの地質は下筌熔岩と小竹熔岩から成っているが、後者は脆弱である。下筌ダムがアーチ式ダムとして計画されているだけに、両ダムサイトの岩盤の強度が特に問題とされる。何故なら、重力式ダムがダム本体の重量によって水圧に耐える構造であるのに比して、アーチ式ダムは貯水池の方にアーチ状に突き出す曲面によって水圧の荷重を左右両岸のダムサイトに分散させて伝える方式であり、それだけの堅固さが両ダムサイトの岩盤になければならない。アーチ式は、谷幅が狭く両岸の岩質が強固なV字峡谷に相応《ふさわ》しいダムで、利点は重力式ダムに較べて堰堤の厚味が薄くて済み、場合によってはコンクリート量も重力式の六割で足りるという経済性にある。逆に室原知幸は、その点を問題として狂歌で指摘する。
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下筌ダム、堤頂《てつぺん》の薄さ、只の四米、これもて六千万トン貯水と、さあ大変
下筌崩壊せば六千万トン一気に松原を潰《つぶ》し一億万トンの水日田を湖底に
下筌ダム上流に破砕帯 地すべり地帯数多 何時 思うだに背筋ゾーッと
マルパッセ五百 バイオント三千の犠牲 これアーチ 下筌またアーチ
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アーチ式ダムは、戦後経済力乏しいフランス、スイス、イタリア等が国土復興の必要から開発した方式で、我国での第一号は一九五五年宮崎県耳川に完成した上椎葉《かみしいば》ダムであるが、これは外人の設計によった。日本人技師のみによるアーチ式ダムの第一号は宮城県北上川に完成した鳴子ダムで、この時から我国も本格的なアーチダムの時代に入った。その頂点を示したのが一九六三年に完成した堤高一六八米の黒部ダムであった。
確かに室原知幸が指摘するように、マルパッセ、バイオントという二つのアーチダムの崩壊例が外国にあったが、それ等の原因も既に究明され、九地建技術陣も下筌峡谷に築こうとするアーチダムに不安は抱いていない。右岸の岩盤に緻密なグラウト工事を施せば、強度の問題も克服出来る筈である。野島虎治は、いよいよダム屋としての己が本領を発揮する時が来たことに奮い立つ思いであった。だがこの時、既に密かに野島の更迭が九地建上層部で検討され始めていた。野島自身は、それを知らなかった。
一カ月半に及んだ入院後、自宅で静養中の森純利は広木重喜からの電話を受けて一寸驚いた。福岡法務局訟務部長の広木が、室原知幸の争訟を受けて立つ国側の中心的参謀である事で充分な注目はしているが、これまで個人的接触をするような仲にはなっていない。その広木が会いたいというのである。どんな話なのか見当もつかぬまま、純利は熊本営林局の寮に出向いた。彼がその種の会談に料亭の類《たぐい》を避けるのも、知幸の戒めによっている。
「森さん、あなたは野島所長という人をどう見ているか、ひとつ率直なところを今日は聴かせてもらえませんか」
広木は、のっけからそう問い掛けて来た。広木の真意が分らぬだけに、純利はやや言葉を濁しながら、これまで観て来た彼自身の野島観を語った。
「実は、私共も困っているのです――」
広木は純利の言葉に頷くと、一寸視線を逸らせながら言葉を継いだ。
「野島君が熱心なことは僕等も認めています。ただ、彼は自分以外にこのダムを造れる者はいないという信念が強過ぎるんですよ。いきおい、独断的になって来ています。まあ、この際率直に九地建内部の事情を打明けていいましょう……野島君と現地工事事務所の存在は今や九地建の関東軍的存在となってるんですな……」
それは純利も薄々と察していたことであった。それにしても一体なぜ広木はそんな事を打明けようとするのか、第一、広木は九地建の人間ではないではないか。純利のその疑問を読んだように、広木は言葉を続けた。
「勿論、僕が九地建内部の事を問題にするのは不審でしょうが、なにしろ訴訟につきあわされるのは僕等の方ですからねえ……ま、正直、悲鳴を挙げたくなりますよ。九地建の不始末の跡始末はみんなこっちですからね。――実は今日あなたにおいでいただいたのは、野島君を替えたいということなんです。その事をひとつ、室原さんにお伝えして下さい」
「伝えるだけでいいのですか」
野島更送を取引として、広木が当然室原側に何かの条件を付けて来るのではないかと察した純利が念を押してみた。
「そうです、伝えてもらうだけで結構です」
広木の答は、純利にとって意外であった。
「秋の終りまでには、そうしたいと思います」
広木はそういって立上った。別れた後、純利は考え込んでしまった。翌日、早速そのことを知幸に伝えに行った。
「そうか、そういう事をいって来たか。――まあ、広木という男のお手並を見てみるたい」
知幸は何の解釈も加えずに、そういった。だが、秋が過ぎて冬に入っても野島所長更送の動きは表面化して来なかった。あれは、広木の空約束に終ったのではないかと純利は密かに疑い始めていた。
この冬、工事事務所に野島所長を取材訪問した大分合同新聞記者高浦照明は、下筌ダム建設に賭ける野島の並々ならぬ情熱を強く印象づけられている。更送の気配など微塵も感付いて無かったということであろう。科学記者である高浦は、室原知幸が指摘する問題点を中心に技術的にも相当突っ込んだ質問を重ねたが、その一点一点を野島は正確に説明して自信をみせた。意外であったのは、野島が敵将室原知幸を高く評価している事を隠さぬことであった。これから室原知幸を訪ねるという高浦に、野島は現場に行く建設省のジープへの同乗を計ってくれた。雪の積んだ日で、バス路線は杜絶していた。九地建の職員は心得ていて、志屋部落を過ぎた場所で高浦を降ろしてくれた。だが、その配慮も知幸から見抜かれたようであった。訪ねて行った高浦に、いきなり知幸は質問を浴びせたのである。
「あなたは一体、何に乗って来ましたか?」
九地建のジープで来たといえば、取材を拒否されかねなかった。窮した高浦は、通りかかった車に乗せてもらいましたと曖昧に答えたが、知幸は納得しなかった。
「わたしは、家の前を通る車は全部視ているが、そんな車は通っていない。先刻、九地建のジープが通ったが、あなたはあれに乗って来たのではないか」
高浦は冷汗の出る思いでそれを否定しながら、頭の鋭い老人だと畏怖が湧いていた。さいわい知幸の方でその追及を止めてくれたので、ホッとした。早速高浦は質問を始めたが、知幸の応答はなめらかではなかった。三時間程も経った時、知幸が初めて人なつこい微笑を見せて高浦に打明けた。
「実は、わたしはあなたを建設省のスパイではないかと疑っていた。第一に、あなたの来方に不審があった。九地建のジープで来たのではないかと思えた。第二に、あなたが余りにもダムの専門知識に詳し過ぎる。これまで無数の新聞記者がやって来たが、あなたのように専門知識を持って取材に来た者はいなかった。それでつい、あなたを疑ってしまった。――しかし、もうその疑いは解けたから、これからはひとつ本気で答えましょう。その前に晩飯にしよう。今夜は泊まっていきなさい」
三時間にも亙る曖昧な応答はそんなわけだったのかと、高浦は驚いた。表を通る自動車を総て監視しているらしいことといい、訪問者を疑ってかかることといい、正に室原知幸の日常坐臥そのものが臨戦態勢にあるのだと知らされた事への驚きであった。夕飯にはアメタイの煮つけが出されたが、質素な膳で、知幸が骨まできれいにしゃぶったのが印象的であった。夫人や娘がどこで生活しているのか一向に姿を見せず、邸の中で老人の姿はひどく孤独に見えた。その夜は滔々とダム問題を論じる知幸につきあわされて午前三時まで起きていたが、三十歳を少し過ぎた高浦の方が先に疲労してしまう程であった。牀に着いた高浦に、知幸はそっと裾から電気あんかを差入れてくれた。
翌日は、未だ積雪の残っている道を現地へと案内してくれて、その間も途切れなく説明を続けた。この老人は、疲労という事を知らぬのではないかと、高浦は内心呆れていた。室原知幸の話柄《わへい》の特徴は、単に下筌・松原ダムの問題だけに局限されず、日本列島全域の治山治水、開発の問題から更には世界にまで拡がって罷まないという壮大さにあった。この老人は確かに今眼前の問題で闘っているが、その視線はどうやら数代先の日本列島を俯瞰しているのではないかと、高浦は感じた。「川をいじめちゃいかんのです。必ず人間はその仕返しに遇わねばなりません」と、幾度も知幸は繰り返していった。
辞去しようとして、高浦は最後の質問を試みた。
「室原さん、現実にはもう、こうして工事に入ってしまい、あなたの闘争も表面的には敗北なわけですが、それでも何故まだ反対運動を続けられるのか、そこのところを――」
知幸の柔和であった相好が途端に一変した。
「君は一体、昨日から今まで、なにを聞いちょったつか!」
烈しい怒声であった。
「あれだけ話しても、未だ君にはわたしの真意は伝わらなかったのか」
若い高浦は、知幸の烈しい怒りの前に萎縮してしまいそうであったが、必死に喰いさがった。
「室原さん、新聞記事というものは、どうしても、そこを室原さん自身の言葉として書かねばならないのです」
「――そういうものかね?」
「そういうものです」
知幸の表情が漸く和らいでいた。
「では、こう書いてくれ。わたしは歴史の中に真実の記録を刻みこむつもりだと」
そういってから、知幸の表情に一瞬はにかみが泛かんだ。
野島所長の更送が表面化するのは、年を越えてからである。その時、現地工事事務所の職員一同が野島留任の署名簿を九地建局長に突き付けるという異例の叛乱が起こった。これまで倶に永い忍苦に耐えて来たのだという濃い絆が敢えてそれをさせたのであったろう。
これからいよいよダム構築にかかる本番を前にして転出していかねばならぬ野島の無念を、皆思い遣ったのであろう。ついに局長自身が現地事務所に説得に乗り込んで、この叛乱を鎮めねばならなかった。
一九六五年二月一日付けで、松原・下筌ダム工事事務所長は副島《そえじま》健に替る。
――私が副島氏を東京に訪ねたのは、それから六年後の冬であった。水資源公団の質素な官舎の一室で対面した時、私は六年前の交替人事の巧妙さを一瞬にして悟らされた。並みはずれて大きく真丸な顔と私は向き合っていた。その真丸な大きさが、そのまま人なつこさとなっている。氏の語り口も訥々として率直であり、眼の動きもどことなく愛嬌を醸している。私は、海洋博間近の沖縄開発庁の応接室で対座した野島虎治氏の威を秘めた鋭い眼眸を想い泛かべていた。この両者の好対照に建設省が賭けてみたのは明らかである。
「あの昭和二十八年の豪雨の時は、佐賀県の神埼土木出張所の主任でしてね、僕の眼の前で城原川の堤防が見るみる決潰していきましたよ。――ええ、僕は佐賀平野の百姓の出なんです。九州大学工学部を出て佐賀県庁土木部に入って、ずっと土木畑を廻りました。九地建に出向したのは、二八災のあとです。菊池川の工事に携わったり球磨川の市房ダムに関係したりして、下筌に行く前は熊本工事事務所長でした。――いやぁ、下筌の工事事務所行きを電話で命じられた時は驚きましたね。困った困ったと頭を抱え込みましたよ。なにしろ、室原さんの難しさは重々承知していましたからね。熊本地裁での裁判やら県収用委員会の度びに、九地建の対策本部として熊本工事事務所の僕の部屋が使われましたから良く分るんです。こらぁ大変な役が廻って来たぞと思いましてね。なんかこう、出征兵士といった気持でしたよ。これに失敗したら家門の名を汚《けが》すんだといったふうなですね……。その時の僕の年齢ですか……えーっと、三十八……そうですね、三十八歳でした」
いきなり電話辞令を受けて思い悩むうちに、副島にはふっと懐い出す話があった。それは、一九五五年宮崎工事事務所高鍋出張所時代に或る夜の宴席で老町長から聴いた話であった。副島の手記を藉りる――
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〈宴終る頃、町長はいきなり「貴方は建設省の上城《かみじよう》という男を知っているか」と聞かれた。そこで私は本省厚生課長の上城さんなら名前だけは知っていると答えたが、そこででて来たのが次の話である。小丸川の河水統制事業(現在の河川総合開発)がはじまったとき上城氏は県庁土木課の若い事務官であった。ところが第一号の発電ダムで武者小路氏の「新しき村」が水没することになった。武者小路氏はどうしてもうんといわない。その武者小路氏から承諾印をとってこいという命令が若い上城氏にいいつけられたのである。早速上城氏は現場近くの部落に下宿して「ベントウ」さげて日参したそうである。晴れて武者小路氏が畑にあればだまって耕作の手伝いをし、雨降れば薪を割ったり下男代わりの仕事に従事して一言も用地の話はしなかった。それが相当続いたある日座敷に上げられ、承諾書をだまってくださったというのである。武者小路氏にしてみれば、県庁の若い者と初めから見透しだったわけである。上城氏は喜び勇んで県庁に帰った。このことが当時の知事相川勝六氏の知るところとなり、「みどころのある若者」ということで内務省に帰るとき連れていかれたのが上城ですよという話である。〉(『公共事業と基本的人権』)
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副島はこの挿話を反芻するうちに、室原知幸攻略に関する緒戦の方針を定めることが出来た。まず、一番最初に挨拶に行くこと、しかも絶対に玄関払いを喰わぬことに策を尽さねばならぬと考えたのである。その考えに至ったのは、副島が室原知幸を〈己《おの》が言葉に殉ずる老人〉だと見抜いたからであった。ひと度び口外した以上、後《のち》に縦《よし》んばその間違いに気付いても飽く迄も己が言葉に殉じて死をすら択ぶ古武士のような老人なのだと見た時、副島はこの老人の攻略の総てが最初の出遇いに懸かっていると考えざるを得なかった。もし、その一瞬「会えぬ!」という一言で封じられれば、もはや二度と老人の懐に飛び込む機会は喪われるのだと覚悟せねばならぬだろう。野島所長七年間の悲劇がそれであった。
では、兎に角初対面で穏やかに会ってもらえるにはどうすればいいのか。結局、副島が思い付いたのは平凡な手であった。紹介状を持参しよう。あの頑固な老人でも受け取らざるを得ないような人からの紹介状を持って挨拶に行こうと考えた時、副島の脳裡に熊本大学教授藤芳義男の名が浮かんでいた。藤芳教授は事業認定無効確認請求訴訟で室原側鑑定人であったのであり、これを拒むことはありえないと副島は考えた。倨傲とも見える室原知幸がその学問好きのゆえに学者に対しては相応の畏敬を抱いているらしいという点をも副島は計算していた。
副島はこれまで藤芳教授と特別の交誼を持ったことはない。ただ、藤芳が元々九地建企画部長だったという点では先輩であり、その誼《よし》みだけをたよりに、入院先の病牀に訪ねて行き、事情を打明けて懇請した。
「馬の骨じゃなかというだけでいいですから、紹介状を書いて下さい」
考えて置こうと、藤芳はいった。数日後、再び訪れた副島は分厚い封書を藤芳から渡された。何が書かれているかは聴かされなかった。その封書を押し戴くと、副島はその足で室原知幸への土産の菓子を買いに出た。
――室原さんは貴族趣味だから、なんかこうふとーか名前ん銘菓がよかかしれん。
菓子箱一つを択ぶのに、彼は長時間を歩き廻った。やっと見付けたのは「五十四万石」という銘菓であった。
二月十日、彼は自動車で現地入りした。赴任する工事事務所にも立寄らず、いきなり志屋部落の室原邸に乗り着けた。「御免下さい」と幾度か呼んだが、邸の中は静まりかえっていた。障子の硝子に顔を付けるようにしてそっと覗いて見ると、机に向かって読書している老人の姿が視えた。なんだ、居るのに返事もしないのかと思うと、副島は出鼻を挫かれたような気がした。もう一度、声を張り上げて呼んでみた。
「どなたですか?」
やっと、老人の声が返って来た。ここで、建設省ですと名乗ってはならないと、副島は咄嗟に念った。
「副島と申しますが……」
老人が本を置き眼鏡をはずすのが硝子越しに見える。そえじま……と、呟いているようであった。この一瞬に総てが懸かっているのだと思うと、副島の胸の動悸はさすがに昂まっていた。
「あんた建設省じゃろ?」
依然として立上らぬまま、老人は問うて来た。もう、嘘はいえなかった。
「はい、建設省の者です」
「建設省の者には会うわけにはいかん。帰ってくれ」
「実は私は、今度こちらに赴任して来た者ですが、熊本で親しくしていただいた藤芳先生からのお手紙を託《ことづ》かって来たものですから、とりあえずまっ先にと思いまして――」
「そうか、藤芳さんの手紙なら取らんわけにゃいかんなあ」
老人がやっと障子を開けて出て来た。すかさず副島は、己が名刺と藤芳の封書と菓子折りを三段重ねにして差出した。老人は、藤芳の封書だけを抜き取ると、名刺と菓子折りは無造作に突き返した。ただ、その瞬間老人の視線が名刺を読み取った事を副島は見逃さなかった。副島はそれ以上の長居はしなかった。工事事務所へと引返しながら、まず第一の関門は越えたと、自らを慰めていた。副島が森純利の口を通じて藤芳教授の手紙の内容を知らされるのは、ずっと後日の事である。「もう、やるだけの事はやったじゃないか。これからは建設省のやり方を見て批判していったらどうか。物理的抵抗はここらでやめるべきだ」という趣旨が諄々と説かれていたという。
勿論、それだけの事で副島が室原邸への出入りを自由に宥されるということにはならなかった。少なくとも、緒が切れずに繋がったというだけの安堵であった。室原知幸攻略を焦ってはならなかった。
五 灯の消える里
工事事務所に着任した副島を、室原知幸からの一通の内容証明郵便が待ち受けていた。〈私所有の五筆の土地(本件収用地及び、これに隣接する二筆の土地)上に生立する杉、松、檜、雑木は、昭和三九年一二月一五日に、日田市大字十二町、日田木材市場株式会社に売渡し済みであることをお知らせする〉という簡略な通告状である。相手が智将室原であるだけに、これも何かの奇策を秘めた布石だと考えぬわけにはいかぬが、奈辺にその意図が匿されているのか、副島にも岩井にも読めなかった。
その通告状が曰う私所有《ヽヽヽ》の五筆の土地というのは明らかに知幸の失念で、これは既に知幸自身が甥の是賢に贈与したという形になっていて、登記もそう更えられている。そこは第一次代執行で収用した蜂ノ巣城跡地に隣接した土地で、知幸所有の三十年物の杉・檜等四百本が立つ美林となっている。九地建は工事の進捗に連れて、この土地をケーブルクレーン等の工事用設備設置用地とする必要から、既に前年秋から法的措置を進めていて、現在熊本県知事が土地細目の公告をしている段階にある。
「この、日田木材市場株式会社というのは、室原氏とどんな関係にあるのですか?」
副島は岩井に問うた。野島前所長転出の後も副所長として止まった岩井に、副島はこれから何かと教えて貰わねばならない。太った副島と対照的に、小柄で細い面貌に眼鏡を光らせた岩井は一見如何にも技術屋然としているが、実際には用地屋である。
「ああ、その会社の経営者は足立盛義といって、室原知幸氏の甥の是賢氏と日田中学時代の同窓生らしいです。ま、今では数少ない室原側近グループの一人といったところですな」
その日田木材市場株式会社から内容証明付郵便が届いたのは二月二十二日であった。〈五筆の立木中、一部を室原知幸に返却した。その区域は、貴所が収用のため立入調査した区域と略々同じであり、現地に看板、杭、鉄線、ペンキ等を施し明示してある〉という通告状で、ここに於いて九地建もこれが土地収用手続きに必要な物件調書の作製を複雑にする為の室原知幸の新戦術である事を悟らねばならなかった。翌日には追っかけるように知幸から〈日田木材市場から返還を受けた立木全部を左記の各氏に贈与した。各自の持分については、現地で一本毎に名札を着け明示してある〉という通告が届き、被贈与者名を一瞥した工事事務所は事態が一挙に複雑化したことを知り緊張した。そこには、田上重時、坂本泰良、西島春雄、井上栄次、青木幸男、三浦久、松本洋等革新オルグ二十四名の名前が連ねられていた。現場を確かめに行った職員は、〈蜂之巣闘争記念林〉という大きな立看板を見て来た。
この時から工事事務所は物件調書作製の事務作業に忙殺されることになる。収用委員会に収用裁決を申請する為には立木一本一本の権利者の署名を得て物件調書を整えねばならないが、その権利者がめまぐるしく変っていくのである。三月三十日、知幸から〈蜂之巣闘争記念林中、室原知幸、同よし、同基樹、同博子、同知子の五名の持分の範囲内で、室原是賢、同迪子、同淳子、三雲裕子、広田節子の五名の参加変動があった。その内容は現地立木に明示してある〉との通告が届き、革新オルグに加えて室原家の全家族が加わったことを知らせて来たが、これが四月に入ると、ついに十二日から五月二十八日までの一カ月余の間毎日のように一名乃至七名の共有者が加わり、その都度通告の郵便は工事事務所に届いた。一本の立木の所有者が数名に亙り、しかも均等な持分ではなく複雑な%で細分化されているのであった。
現地に調査に行くと、立木一本一本に所有者の名前が木札に筆で書かれて針金で括り付けられている。立木だけではない。山の岩一個一個にまで所有者の名が下《さ》げられていた。その頃知幸が書いた文章の中に、〈私は以後、第二、第三の蜂ノ巣城を作り、物件、立木、雑草、土一片におけるすべてのものが武器となって今日まで闘っている〉という一節があるが、それは決して空疎な豪語ではなかったのだ。知幸は日田の町から大量の蒲鉾板を買い込んで来ては、その一枚一枚に名前を書き込んでいった。そんな作業を、知幸は結構愉しんでいるようであった。
それにしても、工事事務所がこれ等の処理作業に忙殺されたように、それは室原側にとっても輻輳を極めた所有権設定作業の筈であった。それを一体誰がしていたのであろうかという私の疑問は、穴井美智子さんに会って解かれた。
「これを見て下さい」
彼女から示された大学ノートには、日々増加を累ねていった闘争記念林所有者の名前が各立木毎に整然と記帳されていた。
「あなたがこうして毎日整理をしていたのですか?」
「ええ、毎日毎日変るもんですから、父が私に記帳させたんです。……室原のおじさんからも、美っちゃん、お陰で助かるとほめられたんですよ。ほんとにもう、毎日毎日書くもんですから、あの頃の革新オルグの皆さんの名前はすっかり覚え込んでしまって、今でもあの頃の方々が代議士になられたりして活躍されてるのを新聞なんかで見たりしますと、一人で懐しがってるんですよ……」
病身の彼女が、家籠もりのまま室原知幸の、既に孤独へと傾斜し始めた熾烈な闘いをこんな形で助けていたのかと思うと、その変色した一冊のノートを前にして私の感慨は尽きなかった。
工事事務所は、このままでは際限が無いとして、五月六日から十五日に亙って確認出来ただけの立木所有者に電報で物件調書作製の為の立会い及び署名を求め、それが応じられなかった為に小国町長に対し土地収用法第三六条四項による吏員の立会い及び署名押印を要請し、土地調書及び物件調書を完結した。五月二十九日、九地建は熊本県収用委員会に収用裁決申請書を提出する。
勿論、その間も単に闘争記念林に振り廻されて工事の進捗が停滞していたわけではない。事態は着々と進んでいる。
四月一日、国は新河川法を施行する。これは、室原知幸一人に梃子ずった国が新法を以て河川管理者を従来の県知事から一級河川に限り建設大臣の直轄と変える事を定めたのである。孤立した室原知幸を封殺していこうとする国家の攻勢の輪が徐々に収斂されていく。
五月八日、下筌ダム工事入札が行なわれ、大成建設、清水建設、鹿島建設、間組等を向こうに廻した西松建設が三回目に十四億七千四百八十万円で落札した。それは、いよいよダム本体の工事が着手される事を意味する。西松建設のダム歴は古く、戦前満州にもダムを築いている。西松建設下筌出張所長となった甲斐栄一が社長と倶に室原邸に挨拶に出向いた時、知幸は家の表に水を打っていたが、対応は柔和であった。
「御承知のように、わたしは建設省に対していろんなやりとりをしている。しかし、西松さんに対して特別妨害したりする積りはないので、あなた方はあなた方の信念でやりなさい」
知幸はそういって、手土産のカステラを押返した。
西松建設は直ちに仮排水隧道二三八米の工事に着手する。ダム本体の構築期間中、津江川の流れを締め切り、この隧道で迂廻させねばならない。隧道掘鑿のハッパとドリルの音が谿谷を揺すり、いよいよダム建設譜は驀進し始めた。
この時期、室原知幸がどういう事を考えていたかを知る為に、〈偶感〉と題した狂歌一連を掲げておこう。
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蜂ノ巣の闘《たたかい》とことんえ 我の為 建設省の為 日本の為
三度《みたび》代執行か 黒い霧はれやらず 蜂ノ巣の山河
警察ば第一線にまた代執行? よからん事《こつ》 恥ば現世に後世に
猪牟田 国東《くにさき》え 川畑 菊池え水引けば 日田は乾《ひ》た ほんまに水|小々《ひたひた》
松原 下筌|負担金《だしまえ》 大分四億 佐賀九億 福岡二五億 九電たった五億 妥当《よか》か
松原 下筌 九電負担金十五億を只の五億に やーいゴネ得の尤《ゆう》か
松原 下筌 年間二七〇日満水発電 判った判った発電が主
洪水期 ダム空《から》でなし 松原四 下筌十三米だけ空《くう》に 御愛想
松原 下筌ダム周辺《サイト》 断層《われめ》多く崩壊《くずれる》の虞ありと 土地調整委員会に宛てた建設省
松原《ダム》が下筌《ダム》を沈むる計は奇計で奇形
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私はこれまで、本稿に於いて室原知幸の狂歌を余り引いて来ていない。歌稿が少ないというのではない。今、私の手元にはコクヨの書簡箋三冊分の歌稿がある。尤も、綴じられていないために既に頁は離れて順序が乱れているし、かなりな散佚もあるようである。それでも歌数に不足はない。適宜に引用すべく、もう幾度私はこれ等の歌稿に眼を往き来させたことか。その度びに微かな溜息を吐《つ》かされている。その詩想の余りの乏しさ故にである。
室原知幸は、ダム反対闘争開始と共に唐突に始めた狂歌作りの熱意をついに死を以て閉じる日まで少しも褪せさせてはいない。己が作歌技倆に亳も不安を抱かなかったらしい事は、室原知幸という一個の性格を考察する上で見逃してはならぬ事実であろう。一首一首に示される推敲の執拗さも、この老人の異常なまでの徹底癖を証している。右に引いた〈偶感〉一連を誌した便箋に至っては、次々に貼り重ねた紙片で厚紙のようにごわごわとしている。例えば、助詞一字の訂正を五度繰り返したのであろう、小さな紙片が五重に貼り累ねられて分厚く盛上っている部分さえある。あの多忙な老人が、どのような私《ひそか》な時間を偸《ぬす》んで小指の爪先程もない紙片を切り貼りしては、ああでもないこうでもないと助詞一字の推敲に熱中していたのかと思い遣ると、何か人間誰しもが一つは持つという弱点を垣間見たような気がして、私は微笑を誘われる。五度も訂正した助詞が一首の中に少しも生きてはいないのである。
副島健が室原知幸と正面切って対決せねばならぬ時がやって来た。五月十四日、国が新河川法の初適用による第二蜂ノ巣城に対する除却命令を室原知幸に発したのである。
知幸が第二蜂ノ巣城を築き始めたのは、第一蜂ノ巣城の落城から間も無くであった。冬の訪れる頃には、既に十棟の建物から成る第二蜂ノ巣城が完成していた。それは第一蜂ノ巣城のように一箇所に蝟集した構築物ではなくあちこちに散在したが、それ等一棟ずつの配置は的確に九地建のダム建設要地を抑えていた。例えば、蜂の巣橋より下流の大分県側の岩壁沿いに一五〇米の渡り廊下と一棟の見張小屋が築かれているが、これは仮排水隧道排出口という要衝を抑えているのであったし、蛇釜の滝を背にして架けられた渡り廊下とそこから滝沿いに裏山へと絶壁を這登って行く階段の位置も、ダム本体工事の要衝を占めていた。これ等を除却せぬことには、九地建の工事が支障を来たすのは目に見えている。
除却命令を受けた室原側は、直ちに建設大臣を被告とする「除却命令取消請求訴訟」とその執行停止を熊本地裁に申立てた。だが、地裁での第一回審尋と定められた六月十二日の前日払暁、九地建作業隊は一挙に第二蜂ノ巣城を攻めたてたのであった。思い切った奇襲であった。
津江谿谷の闇を切り拓くように次々と自動車の灯が突き進んで来たのは、午前四時頃であった。切れ目なく続く灯の箭《や》に浮き上って小雨が煌めいた。九地建職員四十人、西松建設の労務者百四十人は、現場で秋竹九地建局長の訓示を受けて四班に分かれると、西原用地部長の代執行宣言で直ちに各棟の除却作業に散って行った。
この日の防禦陣は甚しく手薄であった。審尋前日という虚を衝かれて諸方に連絡を取る余裕がなかったという事があるが、よしんば連絡出来たとしても参院選直前の今、革新労組が遠い谿間に兵を割くのは無理であったろう。防禦陣は、あちこちに散在する建物は一切無人に任せて、蜂ノ巣岳の蛇釜に構えた砦に籠城して九地建の攻撃を迎えた。その砦を灼くように、投光器の眩しく太い光の束が投げられた。籠もる者は、室原知幸、是賢、穴井武雄、森武徳、森純利、田上重時、青木幸男等と、日田地区労から駆けつけた浜田楠生等に過ぎなかった。
小雨がいつしか霧となって白《しら》み始めた津江川に突然大音響が谺して、攻撃陣を一瞬驚愕させた。何かが炸裂したのかと思った。砦の廊下の一部が巨大な水柱を立てて、津江川に陥落したのであった。これは室原知幸の作戦であり、かねてから穴井武雄に指示して工作させていた吊紐を剪って落とさせたのである。蜂の巣橋袂から砦本丸に至る渡り廊下を自ら切り落とすことで、九地建の側面からの進入路を絶ったのである。これで九地建は正面からの渡河によってしか攻められなくなった。だがこの日、九地建の準備も抜かりは無かった。直ちにゴムボート二隻を救命着姿の職員が漕ぎ出すと共に、ドラム缶を組んだブイが次々と泛かべられて、その上を板による仮橋が岩壁へと延びて行った。津江川もこの辺りは碧潭《へきたん》をなしているので、作業は慎重であった。その間も互いのマイク合戦は続いている。「田上さん、お久し振りです」と、九地建のマイクで呼び掛けられて、田上は苦笑していた。
六時過ぎ、心配した知彦が対岸に現われた。知彦はもはや兄とは反対行動を倶にしないとはいえ、兄の身が心配でならない。砦から皆が手を振ると、知彦は砂洲に引揚げている竹筏を川に曳き落とそうとし始めた。一人の力では仲々難渋して、砦の者達はもどかしい思いをしたが、それでも漸く川に泛かべると、それで渡河して弁当の差入れに来てくれた。
七時過ぎ、浜田が前夜いい置いて来た緊急呼集が通じて、地元日田地区労の組合員が鯛生行きバスで駆けつけて来た。砦からは歓声が挙がり、彼等は竹筏で渡河し始めた。何故かぼんやりしていた機動隊が慌てて渡河を阻止し始めた時には既に二十名近くが岩壁を這登って砦に入っていた。田上は指揮して、組合員の一部を階段の上の小屋へと移動させた。
再び強まった雨の中で、午前八時二十分、警官隊は実力排除を開始した。砦本丸が絶壁の要害に懸かっているだけに、それは困難を極めた。雨に濡れた岩肌はともすれば足を滑らせた。僅かな人数の排除であったにも拘らず、完了までに凡そ二時間を要する程であった。室原知幸は機動隊に逐《お》われるように階段を上へ上へと登って行き、ついに横手の岩に跳び移った。機動隊員が続こうとすると、「来るなっ、ここからはおりがん私有地じゃ!」と一喝して裏山へと姿を消したが、やがて山から廻って対岸の磧へ降りて来た。記者団がその知幸を取囲んだ。
「建設省ん卑怯|者《もん》が! 民主主義のルールも何もあったもんか。熊本地裁の審尋が明日じゃちゅうとに、こん暴挙を君等はようと見てくれ。これが国んやりかたたい! これが!」
登山帽を被り、ネルのシャツの上から半コートを引っ掛けた知幸が、既に壊され始めている砦の方を指呼して嗔《いか》りの言葉を一気に吐き出した。頬骨が突き出して来ているが、老いの風貌には烈しい気魄があり、擡げた首に幾筋も血管が膨れて見える。
だがこの直後、室原知幸はふと面白い事をしている。ちょうど通りかかったアイスキャンデー屋を呼び止めると、二百数十本全部を買上げ、「君達も奮闘して暑いだろうが。アイスキャンデーをわしが奢ろう。さあ、早い者勝ちだぞ」と、九地建作業隊に呼び掛けたのである。これはどういう心境の変化であるかと、吃驚して記者の一人が問うと、知幸は悪戯に成功した童のような笑いを浮かべて答えた。
「なーに、敵に塩を送ったようなもんたい。いや、ばってんが、塩にしてはちいっと甘過ぎるかなぁ」
知幸自身、もう幾本も歯の抜け落ちた口をあけて、アイスキャンデーを舐めているのであった。
午後二時、森純利に連れられてヨシと知彦の妻トミが工事事務所に抗議に来た。この日の除却作業で給水管が断たれた為、水が来なくなって食事の用意も出来ぬという愬えであった。この給水管というのは、第一蜂ノ巣城上方の穴井隆雄の土地に湧く水をビニールパイプで延々と知幸と知彦の邸まで引いていたものであるが、既にその湧水地点は国が穴井隆雄から任意買収していたし、パイプの通過地も収用地である関係から、これを除却したのであった。両家には、古くから使っている裏山の水源からの引水があり、穴井水源からの引水は室原戦術の一環だと九地建は判断している。副島はその旨を述べてヨシ等の抗議を拒んだ。尤も、ヨシはほとんど黙っていて、純利が抗議を代弁したのであった。
ヨシ等が帰って行ったあと、副島は突然、今から室原知幸に会いに行って、給水管除却の事情を釈明して来たいといい出して、周りを驚かせた。「とんでもないことをしてくれるな!」と西原用地部長が大喝した。工事事務所長の不用意な一言がどんな形で次の法廷で室原知幸の武器に変えられるか知れない。策士室原知幸を相手にしている以上、毫も隙を見せられぬ事を西原は説かねばならなかった。それでも副島は、なんとかして己が意中を室原知幸に伝えたい未練は消せなかった。考え抜いた末に、彼は妻を詫びに遣ることにした。これなら後日何かの問題が派生しても、自分は与《あずか》り知らなかったと弁疏出来る。
室原知幸は、幼い娘の手を引いて副島の妻蔦子が詫びに来た時さすがに面喰らったようであった。
「まあ見て下さい。水が来んごとなってさっぱりですたい」
苦笑しながら彼は自ら台所や風呂や泉水を見せて廻った。「主人が御迷惑をお掛けします」と蔦子が消え入りそうな声で詫びると、知幸は打消すように手を振って制した。
「なーに、奥さん、心配するこたぁいらんたい。わたしは建設大臣を相手に喧嘩しよるんで、なあもあんたのとうちゃんが相手じゃないたい」
そこで知幸の語調が一寸笑いを帯びた。
「あんたもそげなんこつ一々気にしよったら、とうちゃんに浮気さるるばい」
蔦子も思わず笑ってしまった。
この頃から、夜になっても灯のともらぬ廃屋が小さな志屋部落のあちこちに蝕まれたような闇を深めていった。それは、背に|聳っ《そばだ》ている山々の暗さが沈んで来て部落の亀裂を浸し、重い闇の|帷を《とばり》拡げているかのようであった。
第一次条件派がいよいよ部落を立退き始めたのである。春頃からぼつぼつ移住が始まっていたが、大半の者達の未練はせめて盂蘭盆だけは墳墓の地で送りたくて、立退きが盛夏となったのであった。これまでの不仲のままに、挨拶も無しに立退いて行くので、残された者達はいつ知れず殖えていく空家を覗き込んで、おや、この家ももう居ないのかと気付くのであった。狭い部落だけに、かつては蟠りなく付き合っていた想い出がどの空家にも遺っていて、さすがに寂しさを誘った。
白じろと灼けた道を毎日のように家財を満載したトラックが埃を捲き上げて走った。集団移転した者達は、移転先に落着くとこれ等の廃屋を取壊しに戻って来る。廃屋撤収は九地建との約束事項であった。そのまま放置しておけば、ダム予定地から予定地へと全国を渉猟して補償金に在付《ありつ》こうとする浮浪の徒が棲み着くのである。
永い間、幾代にも亙って日と雨と雪を吸って来た重い藁屋根が解かれ、囲炉裏の煤と油に黒々と燻《いぶ》された太柱が倒されて行った。檐《のき》端に未だ懸かっているダム反対の赤旗に気付いた時、立退者の心に痛みのようなものが走った。墓も倒されていき、土葬されて朽ちた先祖の骨が泥に塗《まみ》れて掘り揚げられると、その場で金網に載せられて炎々と焼かれた。それは、白昼悽愴な光景であった。
一九六五年夏、さなきだに小さな志屋部落は二十五世帯から十二世帯に半減したのである。九月二十三日、僅か二十七名に減った児童達を励まして父母ぐるみの志屋小学校運動会が開かれた。これが最後の運動会となる事を、皆口には出さぬながら心中に惟《おも》っていた。彼等もまた、一年後にはこの谿間の里を離れていくと、既に決めているのであった。
九重山を遠望する原野に突如現出した小国町黒淵蓬莱団地を新聞や週刊誌は長者村≠ニ銘打って一斉に紹介している。〈一家にテレビ二台というのはザラ、車も全部で二十台を越すというから「ダムさまさま」というところだが、家々にはそれぞれ昔の家の写真が飾られ、地名も将来は「志屋」「浅瀬」にしようというから、やはり墳墓の地への郷愁は捨て切れぬものがあるらしい〉という調子の記事には、孰れも聊かの揶揄が込められている。
後年、この新しい村に調査に入った関西大学社会学部教授神谷国弘は次のように述べる。
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〈蜂の巣城闘争を語る人々はそのほとんどが室原知幸だけにスポットをあてている。もちろん、室原をぬきにして蜂の巣闘争はなかったに違いない。知謀の限りをつくし、莫大な私財を投げうって闘った室原の非妥協的、根源的な闘争は長く後々の世まで語りつがれていくであろう。だが、室原がダム建設史上に放ったすさまじいまでの光芒のみに目を奪われて、彼とは別な立場にあり、別な行動をとりながら、彼におとらぬ忍耐と使命感に燃えて、黙々と現実の処理に努力した人々を忘却するならば、それは片手落ちのそしりをまぬがれまい。絶対反対を通すことは室原のような恵まれた立場の者にのみ可能であって、日々の糧を日々の労働によってしかえられぬ人々のよく耐えうるところではない。このことを室原自身いちばんよく分っていた。とすれば、現実を現実として受けとめ、与えられた条件の中で最善の選択をしながら、現実的に処理していく人々についても公平な評価をしなければならないのである。集団移転という処理方式についてはいろいろ議論もあろう。しかし、あの時点において、あの条件において、水没による犠牲を最小限にくいとめる方式としてあれ以上の代案は考えられるだろうか。とすれば、その実現に漕ぎつけた北里達之助はじめ集団移住のリーダー達の識見と手腕を、われわれはいくら高く評価してもしきれない〉(『ダム日本』所収論文)
今、蓬莱団地の高台には、集団移転の記念碑が立ち、その碑文は次のように結ばれている。〈この蓬莱移住部落は静かな、平和な理想郷である。しかし、この部落造りは我々同志の団結の賜であるとともに町当局はじめ地元蓬莱奥山の人々、並びに、建設省当局の御協力によるものである。ここに湖底に沈む先祖の霊の冥福を祈るとともに、この部落が青空に向かってのびて行く杉の木立のように、永遠に平和で発展することを祈念するものである。いつまでも! 栄えあれ! 黒淵蓬莱団地!〉
[#ここで字下げ終わり]
格調高いこの碑文の起草者が、実は団地住人ではなくダム工事事務所副所長岩井鉄太郎である事を知った時、私は一寸驚いた。それを確かめて問うた時、岩井氏は「僕は、五十年後、百年後の人々に読まれても恥ずかしくない文章のつもりで書きましたよ」と、私に告げた。
しかし、志屋部落の世帯数が激減した事も、原野に現出した文化的新団地も、室原知幸の眼中には無い。彼は密かに第三の砦を構想しているのであった。
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王国の章
一 旗を縫う
これはまあ、寒いとにようとおいでくださいました。伏木峠は雪がふこうございましたでしょうが。
今日あたりは、志屋んへんも相当に積んじょりましょうち、さっきからひとりで思いよったとです。あのあたりは、なかなか雪がふこうございますもんね。
雪ちいえば、わたしゃあ忘れんようたちゃあ忘れられんことがありますたい。もう、あなた、志屋部落みんな立退《たちの》いてしもうてから、うちだけ一軒があの谷間に取り残された冬のことですたい。ええ、ええ、もうほんとに一軒切り、ほかにゃなあもありゃあせんですもん。
やっぱあ、雪がふこう積んだ日がありましてねぇ、わたしと博子と知子で部落んはずれまで行ってみたですたい。いえ、なんの、雪見なんのちゅう風流じゃありません。近所づきあいもなあもないですき、家籠もりばっかし続くでしょうが、それで時々家族三人固まって外歩きをするんですたい。
もう、部落たちゃあ家は一軒ものうして、土台だけが残っちょるちゅうふうで、それがみんな雪でまっしろに埋め尽されちょりますき、そこがついこんまえまで部落だったちゃ信じられんごとありましたね。ひょいと振り返ると、ただもうわたしら三人と、ついて来る犬ん足痕だけが雪ん上にずうっと続いちょるでしょうが。それはもう、なんともいえんとぜねえ気持でしたね。もう見渡す限りの杉ん山もまっしろなばかりで、この谷底に生きちょるんは自分達だけじゃちゅう……なんちいいますかねぇ、ほんとに世間から捨てられてしもうたような……。今でも、はっきり懐いだすんですたい。まっしろな雪ん上に、自分達だけん足痕がずうっと続いて、ほかにゃあなあもありゃあしませんもん。
あああ、こげな淋しい処で、愉しい目もみらんと死んでいかなならんのじゃろうかちですね。ばってん、そげな|そぶり《ヽヽヽ》でんみしゅうもんなら、おとうさんな、「おっ、わりゃあおれんするこつに不満があるなら、いつでん子供達を連れち町に出ち行け、おり一人でここに残る」ち、こうでしょうが。わたしゃあもう諦めちょりましたね。おとうさんがダム反対をやむるちゅうつは、まず考えられませんもん。まっしろな雪ん世界に、おとうさんの旗だけが真紅《まつか》にひるがえってですね。
えっ、おとうさんの旗んこつをまだ話しちょりませんでしたかねえ。そうですか、あれにもわたしゃあ苦労をしたとですよ。
あれはいつ頃んことでしたろ、「おい、かあちゃんよい、わりゃあひとつ旗あ縫うちくれんか」ち、いきなりおとうさんがいうとでしょうが。おかしなこつ、おとうさんないいなさるち思うてですね、「旗ちゃ、さあっち縫わんかと、ありましょうもん」ち訊《き》き返したですたい。「なんの、日の丸ん旗じゃねえたい。おりがん旗ぞ。世界にいっちょんしかねぇおりがん旗を作るんたい」ち、こうでしょうが。ははあ、またおとうさんなおかしなこつをたくらみなさったばいち思うてですね、「どげな旗を縫いますと」ち訊ますと、「おお、日の丸ん反対ばい」ち、いうですもんね。日の丸ん反対ちいわれたちゃあですね……わたしが呑み込めん顔をしちょるもんですき、ほれ、赤地に白丸ん旗ぞちゅうて、赤鉛筆で絵ぇ描いてみせてくれたとです。
「おりんこつを、世間じゃ、国んするこつになんちゃかんちゃ反対んじょうしくさって、アカのなんのいいよるばってん、なんのおりがアカなんかじゃろうかい。アカん中にちゃんとシロも入っちょるところを見するたい」ち、いうたこつをおぼえちょりますがねぇ。ええ、そうですたい、おとうさんがわたしに旗ん意味を聴かせてくれたんは、あとにも先にもそれだけんこつでしたね。なんでも新聞記者さんなんかにゃ、これは室原王国旗とかなんとか、いろいろ得意になって説明したようでございますが、ほんともう、いつもんことですが、わたしにゃなんの説明もしてくれるこっちゃないですもん。
いったい、どんくらいん大きさん旗にするんかも指示してくれんでしょうが。ま、とにかく、ようと目立つごとばさろう大きゅう作れち、これだけん命令ですたいね。それも一枚かち思いましたら、なんのあなた、これからは何枚要るんか分らん、谷じゅうを旗で埋め尽くすちゅうでしょうが、わたしゃあ直《す》ぐ日田まで布《きれ》を買いに行ったとです。大幅ん布をこおて来て、さあ、いったいどげな大きさにしたもんか、なんさま初めてんこつですもん、困りましたねぇ。
結局、国旗を出しち来て、そん縦横ん比率をまねて作りましたがねぇ。ええ、おぼえていますたい、横三尺二寸、縦二尺七寸で、真中の白丸の径が一尺一寸になるようにしましてね。真中ん丸ですか、それは新聞で型紙を作ってですね。初めんうちは、赤地の布に裏と表から白丸を縫いつけようとしましたが、むつかしゅうしてですね、途中からは赤布の真中を丸う切り抜いて、そこに白布の丸を縫いつけるやり方に変えました。そんうち、切り抜いた赤い丸型の布がどんどんたまるもんですき、これももったいのうして、風呂敷つくったり布団入れにしたりしましてね……。
最初ん一枚がでけて、「おとうさん、こげなもんでいいですか」ち見せましたら、「おお、これで立てらるっね」ち、いうてですね。いーえ、なんの別にほめちなんどくれましょうか。腹ん中じゃどげえ思うちょったちゃ、女子供にそげな甘い言葉ちゃ口に出す男じゃありませんもん。
旗ぁ縫う|こつ《ヽヽ》ちゅうつは、まあ、紐つけをしっかりするちゅうことですね。なんさま、家ん庭だけじゃのうて、山ん上にも掲げたりするもんですけ、あっちゅう間に風に吹かれて谷底に飛ばされたりするですたい。紐つけも耳ぃ縫うとも特別に丈夫にしましたねぇ。段々慣れてくると、あとはもう旗ぁ縫おうとも随分|らち《ヽヽ》があくようになったもんですたい。ええ、そおらもう何枚も要るですもんね。雨風にさらされて色が褪せたり、ちょっと破れたちゅうちゃ、もう、おとうさんな神経質に新しいつを新しいつをちゅうふうで取替えるですもん。わたしゃもう、いつでん五枚は用意しちょかないかんですたい。
いつか一度、わたしんからだ具合がわるうして、ちょっと縫うとを休んで、生憎旗ん用意を切らしたこつがあってですね。さあ、おとうさんなえらい腹かいちですね、「わりゃあ縫いたむなけりゃ、なしてはっきりそげぇいわんか! もういい、われにゃ頼まん」ちゅうてですね、日田ん染物屋に注文を出したですたい。ばってん、わたしも精一杯やりよるとに、そげえいわれたらもうはがゆうてですね、ええい、もう誰が知るもんかち、相手にならんでしたたい。……ところが、やっぱぁ女ん欲ちゅうもんですかねぇ、日田ん染物屋じゃ、旗ぁ一枚二百五十円とらるっと分ったら、もう馬鹿らしゅうしてですね、染物屋をことわって、またわたしが縫い始めましたもん。
そうでございますねぇ、旗ぁ一枚一枚縫いながら、そらぁもういろんなこつ思うたもんですが、……ばってん、今じゃもう大方は忘れてしもうたごとありますね。やっぱぁ、なんちゅうても情けなさが先に立ちましたね。なんで自分達一家だけが、こげな淋しい処に取り残されて、こげなん辛い思いをせにゃならんかちですね……。
ちょっと誰かと気晴らしに話したいち思うても、もう友達はみんな出て行っておりゃあしませんし、買物をしようにも貞義さん方が日田に出て行ってからは店も手近にゃありませんし、行商も廻ってきちゃあくれませんもん。浪しゃんから、遊びに来ませんかちゅうて誘いの手紙が来るですばってん、行けばもう新しい家がうらやましゅうして、いよいよ情けのうなるですもんね、なかなか足が向かんとです。もう、そげなふうですき、たんだとぜのうしてですね、だあれとん話もでけん家籠もりでしょうが。テレビはありますばってん、ちょっと雨が降ったちゃもう映りませんもん。なんさま、線を山ん上ん方から引いちょりますけ、どういうもんか雨が降るとわりいですがね。それに、牛が線を噛んだとか、山ん木の枝が落ちかかったとかちゃ、たちまち映らんごとなって、修理もおいそれちゃ来てくれませんでねぇ。
あああ、こげなん生活がいったいいつまで続くじゃろうかちですね。もう、ダムは段々高さを増してるでしょうが。おとうさんのおらん日に、博子ん自動車でわたしゃ気晴らしに対岸にでけた高い県道をドライブしてみるですたい。もう全然風景が変わってしもうてですね。志屋部落も下ん方にちいそう見えて、そこにもうほんの僅かな家がちょこちょこっと残っちょるだけでしょうが。おとうさんの旗が立っちょるとも見えるですたい。もう、ほんのちっぽけですもんね。ほんなこつ、心細うして……。
谷をまたぐ紅い吊橋を見たちゃあ、もう、どげえしてこげなん高い嶮しい処にこげなん見事な橋を架けましたろうちですね、たまがるばかりで、……こげなん大きなこつをすすむる国ん力に、おとうさん一人どげえ頑張って対抗したちゃ、もう、どうもこうもならんのにち思うばっかりでねぇ。
ほんともう、旗ぁ縫いながらむなしゅうしてですね。いったい、何枚縫うたらこげなん辛いこつが終りになるんじゃろうかち、思い、思いですね……。ほれ、あの、番町皿屋敷ちゅうお芝居がありましょうもん。幽霊になった女中のお菊が、皿をかぞえるでしょうが、いちまーい、にまーい、さんまーいち……まあ、わたしもちょっといえば、そげなふうでしたい。いちまーい、にまーい、さんまーい……ち、縫い続けて、何枚縫えばこげな辛いこつから抜け出せるんじゃろうち、怨みをこめてですね。わたしも、ちょっとノイローゼんごとなっちょりましたもん。
結局、わたしが縫うたとは、八十五枚ですたい。おとうさんの亡《の》うなりました時に、二枚ほど残っていましたんで、一枚はお棺に入れてあげてですね。やっぱぁ、あん旗はおとうさんの闘いの象徴でございましょうもん。もう一枚は、今も仏壇にお供えしていますたい。
不思議なもんでございますねぇ、あれを縫う時はほーんと辛いこつ思い思い、怨みまじりに縫うたもんでございますが、やっぱぁあれだけ縫い続けますと、なんかこう、ほんとにおとうさんとわたしだけん旗じゃったちゅう気のしてですね、今じゃもう、ほんなこつなつかしい気がしますねぇ。御覧になりますか。どうぞ、仏間においでください。
――どうなんでございましょう、ほんとにこれはおとうさんのいいよったごと、世界にひとつしかない旗なんでございましょうかねぇ?
二 一本のパイプ
一九六五年八月二十六日深夜、月明の谿間に動く幾人もの影があった。彼等は黙々と丸太を担ぎ、岩襞にへばりつくように動いていた。その足元から河鹿の啼声が涌き続けている。
「武雄君、連中が出て来るまでにゃ間に合うじゃろうな」
刻が過ぎて、室原知幸が声を掛けた。六人ほどの人夫を指揮して作業を推《すす》めていた穴井武雄は、ちょっと空を仰いだ。山に狭められた谿底の夜明けは遅いが、空の蒼さに乳色がしのびこもうとしている。
「なんの大将、大丈夫ですたい。もう、おおかたでけたでしょうが」
武雄のいう通り、第三蜂ノ巣砦はほぼ形を整えて来ている。蜂の巣橋直ぐ傍の津江川曲淵右岸に築いた一棟の監視小屋が本丸で、そこから七十米ほどの渡り廊下が崖沿いに延びている。今は、更に山の上方へと登り廊下を架ける作業に移っているのだ。
七時前、それは完成した。
「連中が出て来たら、たまがるたい」
上機嫌の知幸は人夫達を連れて、朝の食事に引揚げて行った。
早朝、松原・下筌ダム工事事務所所長副島健は、西松建設作業員からの電話で呼び起こされた。作業員が現場に来てみると、忽然と砦が現出していて、工事の手がつけられないという報らせである。副島は直ちに副所長岩井等を帯同して駆けつけた。
「これはまた――」
一体どういうつもりだろうという風に、副島は岩井の方を振り返った。岩井もまた首を傾げている。室原知幸が第三砦を築いているのは、六月に撤去した第二砦の下手《しもて》であるが、そこは既に国が末松豊から任意買収して国有地の標識を立て有刺鉄線を廻《めぐ》らせている場所なのであった。法を知悉している筈の知幸がなぜ国有地侵奪罪の危険を犯すような暴挙に出たのか、副島にも岩井にも合点がいかなかった。
いずれにしろ、このような違法行為を見遁すわけにはいかないと判断した副島は、直ちに作業員を指揮してこれ等の構築物を撤去させた。ちょうど終った頃、知幸が穴井武雄を伴って現場に戻って来た。
「おっ、副島君、こりゃ一体なんじゃ! 何の権利で他人《ひと》ん建物《たてもん》を壊したつかっ!」
知幸が色をなして見咎めた。
「しかし、ここが国有地だということは標識も出ていて室原さんも御存知じゃないですか。私どもは、所有権に基づいて障害物を排除したまでです」
副島に代って、岩井がすかさず答えた。
「おいおい岩井君。君はとつけむねえこつをいうたい」
待ってましたという口調で、知幸は切り返して来た。
「ここが、なんの国ん土地じゃろうか。おりげん土地たい。正真正銘、おりげん土地たい。えっ、国は末松から買《こ》おたか知らんばってん、おりげん土地との境界線の間違えちょるたい。なんなら、君等が不審ち思うとなら、わしはいつでん土地境界確認の裁判で決着をつけようじゃないか。――えっ、自分の土地に何のしゆうと、君等に文句をいわるる筋合ちゃなかろうもん。さあ、武雄君、構わんから、もう一遍廊下を架けようや」
だが、促された武雄はなぜかためらって腰を上げようとしなかった。日頃戦闘的な武雄のこの意外な逡巡に戸惑ったように棒立ちになった知幸は、ひっこみのつかぬままやにわに自分で杉の丸太を担いで岩径を攀じ登ろうとし始めた。
「あっ、室原さん、そげなん無茶な! やめてくだっさい」
唖然とした副島が慌てて引止めにかかったが、それを振切って一本目を途中まで運び上げると、戻って来て二本目の丸太を担ぎ上げた。途端に足元がよろめき、副島が手を添えねばならなかった。
「室原さん、そらぁ危ないですばい。やめてくださいよ。私ん眼の前であなたに大怪我でもされようもんなら、たちまち私ん首が吹っとびますばい」
おどけるように窘《たしな》めながら、副島は丸太をそっと地面に降ろした。さすがに息切れしている知幸は逆らわなかった。そのまま地べたに坐り込んだ。
「ほお、副島君、君はこのおれを見降ろすとかね」
ようやく息の鎮まった知幸が、照れ臭さを紛らすように皮肉をいうと、岩に腰を降ろしていた副島が慌てて地べたに坐り直した。丸々と太った副島の恐懼した所作に愛嬌があって、皆思わず笑った。ダム工事事務所に移って半年間で五キロも太って、呆れた九地建局長から「君は少し楽をし過ぎているのではないか」と大真面目に疑われ、「滅相もない。室原さん相手にどうして楽など出来ますか。これはもう全く因果な体質ですたい」と、情けなさそうに抗弁した笑い話は事務所中で知らぬ者はない。
「どうですか室原さん、一遍くらいはあのヘルメットを被ってみせて下さいよ」
肩を並べて坐った副島が、笑いながら知幸に話し掛けた。着任して間も無い日、彼は九地建の作業監督者用ヘルメット、ユニホーム、長靴を知幸邸に持参して、「これさえ着用すれば、ダム建設現場への出入りは何処でも自由ですから、どうぞいつでも気の向いた時に視に来て下さい。私どもは室原さんには一切の秘密は持たんつもりですから」と、申出ている。「一応、預かって置く」と知幸は受取りながら、しかしそれ等を着用することは無かった。
「馬鹿ぁいうなよ。おれが君達建設省とおんなし恰好になれるか」
知幸が苦笑してみせる。砦を壊された忿りは、もう薄れているようだ。そんな二人のやりとりを聴きとめながら、岩井は不思議な気がしている。それは、野島前所長の時代には有得ない光景であった。それだけ室原知幸の心境が頓《とみ》に変化しているには違いなかったが、副島の人徳も大きく働いているようである。実際、自分は迚《とて》も知幸に対してこんなざっくばらんな態度はとれないなと、岩井は密かに嫉視している。着任から僅か半年余、拒まれても拒まれても家族ぐるみで知幸に近付いてゆこうとする副島の、陽性で磊落《らいらく》な姿勢がさしもの知幸の頑なさを解《ほぐ》し始めているのだ。
「どうですか、もういいかげん砦造りはやめてくれんですか。私をあんまりいじめんで下さいよ」
「副島君、誤解しちゃいかん。なにも君をいじめよるんじゃないたい。おれん相手は国たい。――大体、君等にゃ山林の境界なんか判りゃせんじゃろうもん。ちゃあんと、先祖からの境界ん決め方があるんたい。おれんごと、こんめえ頃から山ぁ歩きまわったもんでなきゃあ、それが分らん。君等がおりげん土地の砦を壊すちゅうとなら、おれはまた何回でも造るたい」
「そらぁしかし困りましたなあ。またあなたを相手に法的措置を執《と》らなならんごとなりますたい」
「おお、それでいいんたい。副島君、それでいいんたい。ひとつひとつ互いの主張を出し合って、とことん法的に決着を付けていく。それでいいんたい。民主主義ちゅうつは、もともと手間ひまん掛かるもんたいね。えっ、そうじゃろうがね、岩井君」
過日の民主主義問答を揶揄するように、知幸が岩井に呼び掛けた。
実はこの間《かん》、副島は福岡法務局に事情を急報して指示を仰いでいたのである。いかに些少とみえる問題点でも、忽ち訴訟という手段で諍って来る室原知幸を相手にしていかねばならぬ九地建は、法的難題に遭遇する都度、福岡法務局に見解を質《ただ》すほどに用心深くなっている。福岡法務局もまた中央と連絡をとり、副島が知幸とののんびりした会話に韜晦《とうかい》している内に、迅速な検討が交されていた。やがて、その回答が密かに伝えられた。室原知幸のしたいようにさせておけというのであった。最終的には訴訟で決着を付けるしかなかろうというのが中央の判断であった。山林の境界は往々不分明であり、あるいは室原知幸の主張に正当な根拠があるやも知れぬという虞《おそ》れを法務局も抱いたようであった。
結局、その日の夕刻には第三蜂ノ巣砦の本丸が再び崖沿いに築かれてしまった。ダム本体構築地点直下の要衝が室原知幸によって占拠されたことになる。
やむなく、国は宮地簡易裁判所に室原知幸及び穴井武雄両名を被申請人として、本件土地使用の妨害排除等の仮処分申請をなした。だが、知幸は審理の途中で次々と第三砦の所有者名増加を九地建に通告し、その都度国はこれを被申請人として仮処分申請の追加をし併合裁判にしてゆくという煩をみることになった。最終的には、二百四名を被申請人とする煩雑な裁判となったのである。
十月三十日午前十時、宮地簡裁は国の申請を全面的に認容する仮処分判決をいい渡した。九地建は判決正本を受領すると直ちに保証金四十万円を供託し、熊本地裁宮地支部の竹原執行吏を伴って車を飛ばした。裁判所から現地までは四十粁の山道である。午後一時十八分、執行吏立会いの下で九地建が砦の取壊しを開始した時には、まだ知幸は裁判所から帰り着かず、第三蜂ノ巣砦は護る者とて無い空ろな砦であった。作業隊によって撤去は易々と進められた。取壊したあひる小屋から遁れ出た二羽が、津江川の淵に白い影を泛かべて泳ぎ廻っていた。この日、小雨に濡れた谿谷の紅葉は洗われたように美しかった。
午後五時頃、現場まで戻って来た知幸は、自動車から降りずに憮然として撤去作業を眺めただけで自宅へと引揚げて行った。穴井美智子のメモに、〈夕方、アヒルを是賢氏と持って行く〉とある。
十二月一日、仮排水隧道が完成して津江川の流れは迂廻し始めた。乾いた川床を黄色いブルドーザーが往き来し始めると、その地層は忽ち剥ぎ取られていった。基礎掘削工事である。
もはや元に戻れぬ加速度で建設譜は推《すす》んでゆくが、満六十七歳を迎えた老人の抵抗はいささかも歇《や》む気配はない。或るラジオ放送のインタビューに淡々と答えている。「私の決意ですが、ちっとも変っていません。これからも変りません。変っては大変です。変っては日本の為にならない、こう思っています。私の信念に対し、仮りに一億の方々が間違っているとおっしゃるならば、私は逆に一億の方々の方が間違っていると遠慮なしに申上ぐる程の自信を持って下筌・松原ダム建設に反対をしている者であります」
あるいはまた、佐藤武夫(国土問題研究所理事)に宛てた書翰でも、次のように述べている。〈こういう私の観方、私の動き方、全て後日の批判に任せます。とにかく私はたった一人でも微動せず闘争を続けてゆきます。イソップか何かにあった様に記憶致しています。ロバの親子のようなウロウロした姿勢でなく、自己の方針通り進めて参ります〉
一九六六年、九地建は室原知幸の抵抗の恐ろしさを嫌というほど味わわされることになる。知幸の抵抗手段もほぼ竭《つ》きたと高を括っていた九地建にとって、この一年間は痛恨の年となるのである。九地建をして、イソップ物語のロバの親子のようにウロウロさせたのは一本のビニールパイプの存在であった。これまでもしばしば問題となってきた給水管がそれである。
第一蜂ノ巣城最盛時の頃、室原知幸は城の上方の穴井隆雄の所有地に湧く水を城中での用水にすべく、九電鉄塔下に水槽を造りそこから引水していたが、落城後はこの湧水を延々と二粁に亙ってビニールパイプで志屋部落の自邸へと引いたのであった。このパイプは、旧鯛生金山から志屋部落に至る里道沿いを這って、穴井隆雄と知幸の土地をも通っている。この里道上には二棟の見張小屋も残存していて、これ等の物件がダム工事の進捗と共に障害物となって来ていた。九地建にとって厄介なことに、この里道部分はダム湛水区域より高所となっている為、河川法に基づく撤去命令が出せないのである。智恵を絞った国は、里道を一旦公用廃止処分にして熊本県から建設省に所管替えをした上で、所有権に基づく物件撤去の請求本訴及び仮処分申請を裁判所に求めたのであった。
その判決が下されたのは三月二十九日である。国が愕然としたことに、宮地簡裁のその判決は見張小屋等の除却は認めたが、水源及び送水管に関しては「これらの施設は物件又は物件類似の性質を有する湧水利用及び送水権であり、土地所有権に対抗して法的保護に価する」として、室原側の主張を肯認し国側の撤去請求を退けたのであった。室原知幸の八十件近い争訟の中で、その主張が裁判所に肯認された実に唯一の判決である。
春とはいえ氷雨の降っているこの日、九地建は簡裁の決定を受けるや直ちに現地に直行し、午後三時から見張小屋等の撤去作業を行なった。裁判所から戻って来た知幸も又、登山帽にグレーの半コート、地下足袋といったいつもの身拵でカメラを提げて現場に来たが、さすがに上機嫌で自ら撤去物の置き場を指示したりするのだった。
「岩井君、どうだね今日の判決は。えっ、君達ん目から見れば、なんだな、万年三振のオールド・バッターが、なんのはずみか思いがけないクリーンヒットを打ったちゅう、そげな感じじゃろうが――」
知幸の会心の笑いに釣り込まれて、つい岩井も苦笑したが、判決によって撤去が拒まれたこの一本のか細いパイプが、これからどれほど厄介な障害物となってゆくかを痛いほど予感せざるを得ないのであった。
岩井は、室原知幸という老人を怕《こわ》いと思っている。毎日、欠かさずに山の現場に来てはじっと建設現場を凝視している知幸のその執拗な視線が怕いのだ。世間は知幸のことを智将といい策士と呼ぶが、必ずしも知幸に湧くような智謀があるのだとは岩井は見ていない。ただ、こうして毎日現場に来て射るように視続けているその執念が、今いったい何が建設省を困らせるかを具体的に見抜かせてしまうのだと思う。一本のか細いビニールパイプも法的権利で鎧われる時強力な抵抗の武器となるのだと睨んだのも、このような工事現場での執拗な監視の中からであったに違いない。
九地建にとって不運を極めたのは、そのパイプが通っている辺りは岩質が最も脆弱で、ここを大きく掘削してスラストブロックで置き換えるという大工事を施さねばならぬことであった。室原知幸がお得意の狂歌で〈岩山《ヤマ》ありてダム造るこれは理《スジ》 大岩山まで造りて下筌じゃこれは無理〉と皮肉った岩盤置換工事の真っただ中を、そのか細いパイプが這っているのである。
ハッパで石が撥ねパイプを剪《き》る度びに大慌てで繋がねばならなかった。なにしろ、知幸の炯《ひか》る眼がじっと監視し続けているのだ。或る時にはこのパイプを地中に埋設したり、また或る時には櫓を組んで宙に高く吊上げねばならなかった。その度びに知幸の同意を得ねばならぬし、執行吏の立会いを求めねばならぬので、工事は丸一日つぶれてしまうのであった。高がこんなパイプ一本にという念《おも》いは誰の内心にも蟠りながら、しかしそれを口に出して洩らせば、知幸に烈しく噛みつかれるに違いないので口を緘していた。建設現場に働く一人一人が、権利《ヽヽ》というものの重さを厭というほど考え込まされるのであった。
結局、この送水管が除去されるのは、控訴審で熊本地裁が国の申請を認容した十月二十六日の翌日になっての事である。
三 第二次立退き
まだ九地建が一本のビニールパイプに翻弄されている最中の四月十日、毎日新聞は突如「下筌ダム紛争 和解成る」という大見出しの記事を掲げた。
肥後もっこすの桁外れに永過ぎた抵抗もようやく罷《や》むのかと、愁眉を披いた読者も多かったろう。「反骨城主、最後をきれいに……」という見出しで、次のような解説記事も付されている。
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〈抵抗一点張りの闘争から、急転して和解工作へ動き出した熊本県阿蘇郡小国町黒淵の下筌の現地は、三十九年六月の第一蜂ノ巣の落城当時の姿から見ると、文字どおり一変している。九日の現地は津江谿谷特有の霧が白く立ちこめていたが、作業をするブルドーザーのエンジンの音や、岩盤を掘削する音が谿谷にこだましていた。
一歩退いて……≠ニいう動きは、三月二十九日の宮地簡裁(阿蘇郡一の宮町)の仮処分による取り壊しのときにすでに現われていた。これまでは九地建だけで一方的に取り壊していたが、この日は取り壊したそばから反対派が材料置き場を設け、取り壊しに対する受入態勢≠つくるなど、これまでにない現象だった。
城主≠フ室原知幸氏は「この問題は代執行をするか、私の方から取り除くかの二たとおりしかないが、水源問題では九地建のハナをあかしたばかりで、この勝訴に乗じすぎると世間から反感を受け、マイナスになるから……」と微妙な発言をしていた。
それにしても、最近の室原氏は反骨老人≠フ姿がすっかり消え最後をきれいに……≠ニいう落ち着いた心境になったように見うけられた〉
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前年から問題となってきた闘争記念林のある谿間の斜面が既に一月二十九日に収用裁決され、その強制代執行が迫っていたが、突如室原側から立木自主撤去の申入れがなされて、それを毎日新聞は和解成ると報じたのである。永い紛争期間を通じて、室原側の自主撤去は初めての穏健策であり、これを和解だと早合点したのも無理なかった。実際には、他紙がほとんどそのような楽観的な解釈をとらなかったことでも知れるように、この自主撤去は性急に和解などと呼べるものではなかった。
実は、この自主撤去を決めるに当たっては、ダム反対対策会議内部でも激論が交わされている。その激論は、ついには対策会議自体を解体させるほどのものであった。
既に第二砦が落ちて以降、革新労組幹部によるダム反対対策会議の動きは著しく鈍っていて、知幸との間も疎遠になってきていた。事態の推移にもはや楯突けぬと見るオルグ陣の無力感のせいであったが、加えて両者の感情の行き違いにも原因があった。オルグ陣は知幸の非民主的な暴君ぶりを嫌うし、知幸はオルグ陣が男の約束≠守らなかったといって怒っている。一九六四年蜂ノ巣城決戦時の動員費はオルグ側の負担と約束を交しておきながら、実際には八十万円の赤字を知幸が尻拭いせねばならなかった。知幸にとっては些少な金であったが、「男は一旦約束した事は、その信義に賭けて守らねばいかん」として、その不誠実を詰《なじ》った。どうやら知幸は、あの落城時のオルグ陣の不甲斐なさをそのような形で責めているようであった。
反対対策会議で自主撤去を主張したのは、森純利一人であった。他のオルグ達は、あくまでも建設省と対決して代執行に持込むべきであり、自主撤去は敗北主義にほかならず、これは階級的裏切行為であると論駁して対立した。ここで、階級的裏切行為という非難はいかにも唐突な激語であるが、この一語には没イデオロギーの山林地主室原知幸への皮肉と共に、森純利への反感も込めれていた。既に労務管理士の資格を取得している純利が、この頃熊本市内のタクシー会社の経営コンサルタントとなり、労使の紛争時には使用者側としてテーブルに着き、労組側の支援に来る田上重時等熊本県評幹部勢と対決するという気まずい事態が重なり、田上等は知幸に対して純利を対策会議から逐《お》えと迫っているが、知幸はこれを聴き流しているのであった。そういう背景があって、反対対策会議内部での自主撤去をめぐる論議は徒らに対立を増幅せしめた。
森純利が自主撤去に固執する根拠は、まず何よりも室原知幸の立場に身を置いて事態を見れば、今回の収用地は相当の美林であり、それを傷物にすべきではないという点にあった。九地建の手による強制代執行では伐り方が蕪雑《ぶざつ》になって売物にならなくなる虞れがある。それに、自主撤去が必ずしも戦術的に見て敗北主義だとは思えなかった。なぜなら、こちらが時間をかけて丁寧に伐れば日数を稼げるし、その伐倒木を対岸の空地に出して積めば、建設工事の妨害にもなるはずである。
結局、最終的決断を求められた室原知幸は森純利の自主撤去法案を採った。退けられた田上等革新オルグ陣は、この時を境として室原知幸と袂を訣《わか》つことになる。四月十三日、熊本市で自主撤去に関する三者協約(室原知幸・寺本熊本県知事・神田九地建局長)がとり交されたが、室原側から出席したのは知幸、是賢、純利の三人で、オルグ陣の姿は既に無かった。
「下筌ダム紛争 和解成る」は、甘過ぎる解釈であったようだ。自主撤去の調印を推める一方で、知幸はその闘争記念林奥の未収用地に第四蜂ノ巣砦を築いていくのである。これは収用境界線すれすれに建てられていて、立木を巧みに利用した四階建て一棟と平屋の三棟からなっている。四月十四日付け西日本新聞は、「右手で『ハンコ』左手で『トリデ』――何を考える? 室原さん」という見出しの記事を掲げているが、これが率直な表現であったというべきであろう。
梅雨に降り蔽われている山腹で、闘争記念林の伐木作業は難航した。既に村人の半分が立退き、さらにまた第二次の立退きが始まろうとしているこの谿間の里で老練な人夫を集め得ないという障害もあった。それなら自社の人夫を提供したいのだがと申入れた西松建設下筌出張所所長甲斐栄一は、知幸に拒まれた。どうやら、伐木作業の遅滞は知幸の意図的な戦術の一環らしいと知った甲斐は、室原知幸に不信を抱いた。
果たして、七月十三日の自主撤去期限にはまだ半分の伐木も終ってはいなかった。九地建側はやむを得ず再び代執行手続きを執り、八月十八日強制代執行が行なわれることになった。また振り出しに戻ったのである。
その朝も、谿谷に霧が沈んでいた。副島所長に率いられた九地建職員四十人、西松建設作業員六十人が闘争記念林に繰り込んで来たのは午前六時前であった。既に、室原知幸、穴井武雄、森純利等が霧の中にいた。
「ただ今からワイヤーを切断しますから、特別作業員以外は危険ですから立退いて下さい」
作業隊がマイクで告げた。闘争記念林には、室原側が伐倒木を搬出していたケーブルワイヤーがまだ張られたままなので、これから除去せねばならない。
「穴井武雄さん、危険ですから、もっとさがって下さい」
マイクが頻りに呼び掛ける。
作業隊は、未収用の知幸の山林への立入りを拒まれたので、やむなく収用地境界線上でワイヤーを切断していったが、その一本が撥ねて、宙に吊り上げていた給水パイプを剪り水が噴き零れた。忽ち知幸の叱責が飛び、慌てて作業員が修復せねばならなかった。四本のワイヤーが除却されたのは午前七時であった。既に杉林を蔽って、油蝉が炒《い》るように鳴き競っている。
記念林の中の小屋の撤収作業にかかった時もトラブルがあった。屋根上の作業員が、剥いだトタン板を荒っぽく投げ降ろして、指揮者から「もっと慎重にやれ」と怒鳴られ、「たかが、こげなん古トタンの一枚や二枚――」と、つい呟いたのを知幸に聴き咎められたのだ。
「おい、そこの作業員! 今ん言葉をもう一度大声でいうてみい。お前達《まいだん》のそげなん思いあがった根性が、これまで国民を苦しめて来たつを、まだ気付かんとか!」
烈しく詰寄った時、兼広用地部長がすっ飛んで来て、ものもいわずに作業員を突き飛ばして遠くへ追い遣った。
次々と杉の伐り倒されてゆく谺を背景に、このあと知幸はRKB毎日放送の松崎幸一記者のインタビューに、とめどない能弁を発揮している。
「ええ、ええ、礎石ですね。わたしのやってることは……そうですよ。ええ。権益を守るちゅうか、一億人民のですよ、権利を主張するちゅうこつは、そうじゃないですか。眠っておったんじゃ、そりゃあ社会の進歩ちゃ無いはずですよ、いつまでも二千年の昔とおんなじかも知れませんよ。ええ、ほんとに沢山の人達の犠牲の上に為政者はあぐらをかいてるですもんね。か弱い者の上に、その時の為政者ちゅうか力の強い者がですよ、ええ、自分の方からこりゃああいすまんからどうしてやろうちゅう親切気があるならいいけど、ほなら、自分達が都合がようやっていかるら、いかるるしこ、そのまんまやっていくですよ。相手ちゅうか、自分のですね、股の下におるですね、庶民がおとなしければですよ。誰かがそれをやっぱぁ反発ちゅうですか、意見を述べていかなですね。そういうまあ、残酷な悲惨な、これはまあ見ようによっちゃ歴史の連続なんですものね。……ほして、それが進んでゆけば、いわゆるなんといいますか、ゆりかごから墓場までもいいとかですよ、あるいはなんとか主義の国家とかね、なってゆくわけですわね。だから、そういう主義の国家になったからといっても、またその時でもやっぱぁ闘わなならんですものね。ほんなぁ、いわゆる社会主義の国家になったから、共産主義の国家になったから満点じゃちゅうわけじゃないですもんね。いわゆるその組織の体制のもとで矢張り闘いはしていかなならんですもんね。どんな、いわゆる、為政者が出て来るか分りませんしね、組織ばかり先行しても、人民がついていけなきゃあですね。いわゆる、ついていくちゅうか、教育、啓蒙を性格化するということと、組織というものがやはりほどよくですね、すすめていかな仕様がないでしょうね。組織だけが先にぱーんと出ちゃあ、なんとしても人民がついていけんちなると、今度は激しい法で規制せにゃあですね、その組織が崩壊しちゃうですもんねぇ。そこにいろいろの問題が起きて来るわけですたいね。ええ、なに運動とかかに運動とか……。いや、わたしがですよ、礎石になり切るとか、なるとかうぬぼれちゃいないですけどね、歴史とか時代というものを見た場合、そういうものじゃないですか。そういうものから見たとき、わたしのやり方がマイナスじゃないのだと、わたしは決してマイナスにならないということだけは、えらい自信満々のようですが、はっきりと申上げられますよ。決してそれは逆行じゃない、右とか左とか、右顧左眄とか逆コースじゃない。これは必ず前身するですね、日本のですよ、日本の民族国家が前進する礎石になりうるんだと、わたし自信を持っとるわけなんですね」
闘争記念林の除却には、一カ月を要した。その間、知幸は毎日のように山に来て収用境界の柵に倚って作業に眼を炯らせている。石塊一個でも境界柵を越えて知幸の地所に飛び込もうなら忽ち怒声を挙げて抗議をゆるめない。
或る時、伐倒木の一本が運悪く柵を越えて知幸の山林内に半身ほど倒れ込んでしまった。すかさず知幸はこれを不法侵入者≠ニして縛り付けてしまった。弱った副島は、西松建設の甲斐所長と連れ立って詫びに行った。知幸は境界線の柵内で鼻唄混じりにダム反対の看板を描き続けていた。白地に赤いペンキで〈ダム反対〉の四文字を描いていくのだが、凝り性の知幸のことゆえ一枚一枚の仕上げに時間が掛かる。看板描きに熱中している|ふり《ヽヽ》をした知幸に無視されて、用件を切出せずにぼんやり佇んでいた副島はいっそのこと加勢をすれば早く終って話もし易かろうと気付くと、甲斐にも促してそこらに投げ出されている筆を拾った。
「こらっ、何をするとか! 君達にそげなこつさせらるるか。えっ、副島君、建設大臣が知ってみよ、君ん首が飛ぶばい」
知幸の方が吃驚して制したが、副島と甲斐は構わずにダム反対の看板を描き始めた。暫くして、ふと筆の手を休めた知幸が副島に問い掛けた。
「副島君、こん看板はいったい何の描きよるとか、分るか?」
「えっ?……」
何を描いているにもなにも、ダム反対の四文字を描いているだけではないか。副島も甲斐も、知幸の問いの意味をどう受取ればいいのか判らずに戸惑うて顔を見合わせた。
「ダム反対と描いてるつもりですが……」
「そう思うじゃろうが、そうじゃないたい。君達は逆《さかし》に読みよるんたい。本当はな、対反ムダ……大半無駄と描きよる」
あっと思って、副島と甲斐は立ち並んだダム反対の看板を眺め直した。まんまと担いでみせたというふうで、知幸はそんな二人に小気味よく笑い続けた。
――私は今、ふっと一冊の本を想い泛かべている。室原邸の書棚に見た小山勝清著『彦一頓智譚』である。頓智にすぐれたその肥後民話の主人公を、知幸は殊のほか愛していたのかも知れない。副島は、室原知幸を漫画読本の性悪な意地悪じいさん的作戦がうまく、中でも右の挿話は知幸のユーモアの最大傑作であったろうと述べている。
だが、この挿話は単なるユーモアとして見るには、切な過ぎるものが残るようである。室原知幸は、もはや世間の大方の眼が彼の罷むことない抵抗を〈大半無駄〉な事に片意地を徹する偏屈者と視ている事実を重々承知しているのだ。その頃の知幸の新聞談話を辿れば、それが素直に表白されている。
「わたしのやってきたことは、うわべだけみれば負けばかりだ――。今後も負け続けると思う。今の社会ではそれが当然なのだろう」
「(西の山に落ちる夕日を指差して)わたしは名誉とかゼニで争っているのではない。わたしのいのちもあの夕日のように、あといくばくもないだろう。裁判にも負けるかも知れない――」
しかし、と彼は続けて曰うのである。
「しかし、わたしが戦いに負ける度びに、権力の実態が明らさまにされ、歴史に刻まれていく」のだと。
室原知幸の心境が、第一蜂ノ巣城落城以降、それ以前の悲愴なまでに嶮しく張り詰めたものから次第に変って来ている。一種の平常心に戻っての反対運動へと移っているようである。この変化は、|現実の敗北《ヽヽヽヽヽ》を観念した処から生じているのであろう。山が削られ、岩が砕かれ、川が堰き止められてゆく圧倒的な現実を観念し切った上で、しかしなお納得出来ぬものには抵抗を罷めぬと覚悟した時、この老人の抵抗心は融通無礙の境に入り始めたかと見える。
それにしても、津江谿谷の相貌の変化は凄まじい。ダムサイトはますます白茶けた地肌を深く刳られて行き、地盤強化のカーテングラウト工事に備えて無数のパイプが打ち込まれていく。既に高い部分には、ダム本体のセメント打込みを控えてクラッシングプラントやバッチャープラントが組まれ始めている。目を瞠らされるのは、峡谷を跨いで朱塗りの欄干の下頓橋が高さ八十米の宙空に架けられたことである。対岸の大分県側の、見上げるような高みに新しい県道も開通している。その県道は幾つもの隧道を潜るのである。
七月十一日から、バスはその新道を往き始めた。もう谷底の志屋部落にバスは来なくなったのである。それは、世間が志屋部落を廃村として見捨てた事を意味した。その夜知幸は、副島に宛てて抗議の書翰を書いている。
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〈急啓
本日から路線が替り志屋部落を通過せず、対岸の新道路に依る様になったのは、貴所の交通禁止に依るものである。実は貴所からこの件について事前に協議、少くとも昨日は連絡あるものと思っていた処、昨日どころか本日に至っても何の連絡もなく一方的に右の処置に出た事については洵に遺憾である。此の交通禁止処置が如何に部落の生活に直接影響が甚大であるか位は常識で御判りの事ではなかろうか。此処に我等は抗議文を草して御送りします。これに対し大至急折り返し何らかの御回答を下さい。御回答ない場合は適宜の方法を講ずる心算であります事を念のため附加致し置きます 以上〉
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知幸は何かにつけて抗議の手紙をダム工事事務所宛に書き続けたが、その度びに六女の博子が自動車でそれを事務所前の茶店に届けるのだった。そうしておけば、茶店が所長に手渡してくれる。
室原知幸の抗議にも拘らず、一旦新しい路線へと替ったバスが再び谷底の志屋部落へと還って来る事は無かった。毎週久留米の病院に通っていた穴井美智子さんが、当時を懐い返していう。
「本当に、バスが来なくなったのには困りました。穴井貞義さんのお店の下の方から対岸の蕨野部落に吊橋が掛かってるんです。それを渡って、其処から今度は高い所に出来た新しい道迄登って行くんですけど、もう、とても靴なんか履いたんでは登れないんです。それでゴム草履を用意してて、其処だけ履き換えるんです。――登り詰めた所に簗瀬の停留所があって、そこでバスを待ちながら見降ろすと、もうずっと低い対岸に部落がちっちゃく見えて……」
そのちっちゃな志屋部落に第二次条件派の立ち退きが始まっている。穴井美智子の簡略なメモを辿れば、
七月二十六日、末松氏日田へ引越し
八月十五日、穴井寅男、浪江さん引越しのあいさつに見える
八月十八日、穴井寅男さん方、上田に引越し
九月一日、新学期、志屋小人員十名になってしまう
九月十六日、穴井寅男氏方くずす
とあって、部落が寂しくなって行く有様が窺われる。第一次の者達が去った前年夏は、未だそれ程にも感じなかった寂寥が今はヨシを深く包んでいた。一番親しかった穴井浪江と訣れるのが、特に辛かった。浪江はヨシより八つ齢若《としわか》で口数も多くはなかったが、二人は妙に気が合った。浪江がぜんまいや蕨や椎茸を携えてお別れの挨拶に来た時も、二人は涙ぐんだし、今度はヨシがお返しに履物とバケツを持って行った時も、話は尽きることなく、矢張り涙を零し合った。いよいよ浪江の一家が小国町上田に向けて発つ日、彼女は道脇でヨシの手を取って声を挙げて泣き出してしまった。浪江の夫は困惑したように、既に乗込んでいる自動車の窓から覗いていた。
「浪しゃん、そげえ遠くに離れるんでもないんに、なあもそげえ泣くこたぁないたい」
そういってヨシは無理矢理浪江の躰を車の中に押し込んだ。車が走り去った時、ヨシの眼に怺えていたものが溢れて零れた。
一九六六年夏の終りにその廃村に取り遺こされたのは、室原知幸、知彦、穴井武雄、穴井恵の四家族と、志屋小学校の宿舎に住む井添先生夫妻だけであった。夕べ、蜩の鳴声をヨシは一入《ひとしお》の寂しさで聴き呆けることがあった。
この年の暮れ、これまで唯一人知幸に随いてその手足のように行動して来ていた穴井武雄までが、知幸と袂を訣つことになる。なぜそうなったのか、さなきだに口重い穴井武雄氏は容易にその真相を明らかにしたがらぬが、ふと洩らした言葉から察すれば、激しい口論のゆきがかりから一挙に破局へと至ったようである。
「室原さんは、わたしん長男がダム建設現場で働き始めたとを、宥せんちゅうてばさろうわたしを責めたですたい。ばってん、子供には子供の将来がありましょうが、それを選択する権利は子供にありましょうもん。たとえ、子供が現場で働いちゃおっても、わたしゃあちゃんと反対運動を続くるとですき、なあもそんこつで大将から咎めらるる筋はないですたい。――わたしも、気が短い方ですき、つい、かっとしていい返してしもうたですたい。大将、あんたはわたしん長男のこつを非難するとですが、自分の身内んこつは見えんのですか、九地建の副島さん達とゴルフしたり酒飲うだりしよるとには眼をつむるとですかち、いうてしもうたですたい。――それで、おしまいですたい。武雄君、もう二度とうちん敷居は跨がんでくれちいわれたとですもんね。ようございます、もう二度とお邸の敷居は跨ぎませんち答えて、さっさと帰って来ました。それ切りですたい」
右の言葉からも察せられるように、もうこの時期には知幸の周囲は皆九地建職員と慣れ合い的な関係となっていたのであろう。日一日と進んでゆくダム建設譜をもはや元に戻す術《すべ》もない大勢の中で、知幸周辺とダム工事事務所の間には敵対関係も薄れていたろうし、むしろ|難物じいさん《ヽヽヽヽヽヽ》の意を損《そこ》ねまいとすることでは両者の間に通い合うものが生じていたのだ。
穴井武雄の長男を現場のクレーン運転士助手として世話をしたのも、西松建設の甲斐所長であった。穴井美智子のメモを辿れば、既に前年六月二十四日の項に〈西松建設より甲斐、中村氏来る〉とあり、さらに翌日〈再度来る〉とあって、接触の早かった事が察せられる。
「そうですね、私は穴井さんにはっきりいいましたよ。あなたは室原さんに随いて最後まで反対の行動を続けるつもりでしょうが、いったい室原さんはあなたを本当に対等の同志として評価しているのですかとね。室原さんはあなたの将来の事まで考えてくれているのですか、あなたは結局使い殺されるだけに終るんじゃありませんか――その一言が穴井さんにはこたえたようでしたね。暫くして、息子さんの事を私の方に頼みに来ましてね」
甲斐栄一氏の言である。
二度と邸の敷居を跨がぬと約した穴井武雄は、室原知幸の葬儀の日もその門をくぐろうとしなかった。
四 王国宣言
室原知幸が穴井武雄とあっさり絶縁したのも、既にこの頃知幸が武雄に替る手兵を一人得ていたからであろう。その男、綾垣直という。
先頃直木賞を受賞した佐木隆三に『大将とわたし』と題する中篇小説がある。大将《ヽヽ》が室原知幸で、|わたし《ヽヽヽ》が綾垣直である。勿論、これは巧みに小説化されているので、実像というよりはモデルというべきであろう。私は綾垣氏に会おうとして幾度も連絡したが、拒まれてしまった。氏にしてみれば、またしても何を書かれるのかという不安が先立ったのかも知れない。
したがって、綾垣直がいつ頃室原知幸と接触を持ち始めたのか、正確には判らない。綾垣の住家はかつての蜂ノ巣城の対岸にあり、下筌ダム堰堤の上流三百米に位置したから、まさにダム直下に場所を占めていたことになる。ダム工事にとってそれほど重大な障害となる住家なのに、なぜか九地建は立退き交渉を忘れていたらしい。そこらの経緯《いきさつ》を『大将とわたし』は次のように述べている。
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〈ところが待てど暮らせど建設省はわが家へは来ず、発破が四六時中鳴り響き、粉砕機が廻り続けるその轟音にかき消されがちに、順二はか細い産声をあげたのであった。ようやくわが家へも使者が来たのは一年前、順二の首がすわりかけ、大将の第三砦が落ちた直後だった。代執行の日、もはや誰一人とて大将の手勢はなかったから、厄介なのは残る老人だけとまずは一息ついた役人が台帖をめくっていて、初めてわたしとの交渉が未消化であることに気づいたという〉
[#ここで字下げ終わり]
巧みに戯画化された『大将とわたし』を、事実そのままとして受けとめるわけにはいかぬが、九地建用地部職員が綾垣直の家に初めて交渉に来たのが第三砦の落ちた直後であったという記述は事実に即していると考えられる。とすれば、一九六五年晩秋である。どうしてそれまで放って置かれたかを推してみるに、九地建はいち早くこの家の所有主との補償交渉を済ませていたので、その借家人に過ぎない綾垣直の事は、いつでも立退かせ得ると高を括っていたのであろう。なにしろ、綾垣は第一蜂ノ巣城最盛期にも反対運動に加担しなかったような人物である。
「もう、住家といっても、そういっちゃあ失礼ですが、まるで小屋みたいなもんでしてね。あの何年か前に夫婦でそこに移って来て山の賃仕事とかしていたんですな。――確かに補償交渉は遅れたようですが、綾垣さんも一旦は立退きを承知したんです。それが一夜でひっくり返りましてね。どうしてそういう急変をしたのか、担当者にもとうとう分らんだったそうですが……」
綾垣氏の事に触れた時、副島氏は当惑したように言葉を濁した。
結局、九地建は移転補償費百八十一万円を提示し、一方綾垣は百九十万円を要求してその僅かな差額九万円の歩み寄りが成らず、九地建側は交渉不調としてこれを大分県収用委員会に収用裁決の申請をする。裁決申請額はたったの六万八千円であった。土地収用法の懲罰的性格がこれほど露骨に示された措置は稀有であろう。茫然とした綾垣が|川向こう《ヽヽヽヽ》の室原知幸に愬えて行く。『大将とわたし』によれば、〈家内はただひたすら歎き悲しみ、ほぼ正確に三日三晩を泣き明かしたが、四日目に晴れた空を見上げたその瞬間、不屈の闘志で第四砦の建築にとりかかる大将の姿が目に入り、家内は突然、大将に訴えよう、と言いだしたのである〉ということになる。
「よっしゃ、おれに任せよ」
と、知幸が請合う。懲罰的性格を露骨に示した収用裁決申請額に知幸の公憤が滾《たぎ》ったのであったろう。この時から綾垣は室原邸の作男のような立場で出入りし始めている。その夏のヨシの日記には、〈綾垣さんと墓地掃除〉〈綾垣さんに道路の溝揚げさせる、竹割りさせる〉〈綾垣さんに肥汲み、柴刈りさせる〉等の記述があって、室原邸での綾垣の役割りが察せられる。穴井武雄が手を引いたあとは、砦の工作も彼の主要な役務になっていった。
「なあに、あの男に砦を造るのなんの、そげなぴしゃあっとした仕事は出来ゃあせんですたい」
穴井武雄氏は、いわば自分の後釜に坐った人物への反発を隠さない。
この時期、記録映画『蜂の巣砦のその後――室原さん、あなたは』の撮影に入った映画監督須藤久の望遠レンズが捉えた室原知幸の印象的な姿を、私はまざまざと瞼に止《とど》めている。既に廃墟と化し始めている志屋部落の白い道を、ただ一人室原知幸が歩いて来る。黒い犬が一匹道を横切ってゆくが、他に動く者の影は無い。ただ室原知幸一人をカメラは凝視し続けている。頬の肉は弛《たる》み、両眼はいよいよ細く、さすがに相貌に老いを深めている。だぶだぶのズボンはバンドの替りに紐で括られ、ゴム草履をつっかけている。歩く姿勢も全体に猫背の感じになり、手に提げているのは小型カメラである。九地建の些細な不法行為たりとも見付け次第告発すべく、外出の折りには手元から常に放さない。
「おれんこつを、世間じゃ肥後もっこすん代表的悲劇じゃのなんじゃのちいいよる。えっ、あの森鴎外の阿部一族の悲劇、それから熊本神風連の悲劇、そして室原知幸ん悲劇と、まあこういうふうたい。――なんの、悲劇なんかじゃろうかい」
画面の中の室原知幸が建設工事の谷底を見降ろしながら語るその声はくぐもって、良くは聴き取れない。老人は掌中の黒い小さな物を弄《いじ》っているのであったが、それをつと口に哺んだ。チョコレートなのであった。既に歯の抜け落ちている老人は、チョコレートを好むのである。
この画像から迫る印象を一言でいえば、老人というものの醸《かも》す底深い不気味さである。
一九六七年一月二十八日、津江谿谷には冷たい小雨が降ったり歇《や》んだりしていた。この朝、下筌ダムサイトには国旗が翻り、生コン輸送車にもコンクリートバケットにも小旗が組み合わされ花が飾られている。バケットは、五色の紙テープを長く曳いている。いよいよコンクリート打設が開始されるのである。
午前十一時半、副島所長の合図と共に谿谷にサイレンが鳴り渡り、左岸のバッチャープラント附近から黄色いコンクリートバケットが、空中に張り渡すケーブルを伝って滑り出して来た。空中百米を渡るバケットは、谷底から仰げば小さく見えたが、実際には九トンの容量を持つ巨きさである。やがて下降して来たバケットの底が開くと、打設第一号のコンクリート三十立方米が岩盤に敲き込まれた。瞬間、見守る百人の工事関係者は万歳を三唱した。
谿谷は、一斉に始動した機械の轟音に包まれていった。下筌隧道に近い原石山で採られる岩石はクラッシングプラントで三次に亙って破砕され、ベルトコンベアーでバッチャープラントに送り込まれ、ここでコンクリートが造られる。コンクリートは気動車で運ばれてバケットに積まれ、ケーブルで谷の空へと送り出されていくのである。クーリングプラントも始動している。コンクリートが凝固する時に発生する水和熱を取る為の冷却水を送り出すのである。コンクリート打設と併行して、岩盤補強の為のコンソリデーショングラウト、カーテングラウトが続けられて、無数に打ち込まれたパイプを通じてセメントミルクが地中の亀裂へと高圧で吹き込まれていく。コンクリートの中への計器の埋設も進められる。巨大な自然に挑み、それを変貌させていく圧倒的な機械の力は、この力の巨きさゆえに正義そのもののようであった。
「あんなもの見たくもない」
といって、コンクリート打設第一日目を久留米へと出かけていた室原知幸は賢明であったかも知れない。いかな彼とても、谿谷を揺るがせて建設に驀進する巨大な機械群の前では、己れの卑小さに意気沮喪しかねなかったろう。彼はもはや眼前の工事から目を逸らし、事態の進捗から超然として屹立することで己が抵抗の意志を磨《と》いでいくしかない。コンクリート打設から僅か一週間後、義弟川良美郁(ダム補償で福岡に移転)に当てた書翰を見ても、室原知幸の視野には眼前で圧倒的に進捗していっている筈の現場工事等は無いかの如くである。
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〈謹啓
てr 新春を迎えて、早や四旬にも成ろうとしています。真当に日時の速さ只々驚き入る次第であります。私、昨年中は特にお世話様に成り相済みません。実は年頭以来毎日の様に参上致さねば成らないと思い続けていますのですが、実際はどうにも成らず、一日どころか、寸時を追っていくと云う慌しい生活の連続で、大晦日より元旦え、そして今日迄、昼は勿論、夜も午前一時、二時迄起きていて、考え、読み、且つ書くと云う有様です。自分で、よくもまあ体が続くものと感心しています。こんな訳で至って健康であります。自分の事ばかり長々書き恐縮です。昨年拝借の金の利息だけでも至急に御支払い参上致さねば成らないと毎日思い続けるばかりで、実行が出来ず、何とも申し上げ様が有りません。やっとここ数日、体の遣り繰りが出来る様に成りましたので、此の機を失せず昨年の利息(利息が一ヶ月延びましたので此の利息も加えまして)約五〇万を持参し、尚御謝り致し度いと存じています。貴殿、又御多用の事、わざわざ御在宅下さっては恐縮ですから、何卒御自由に御願い申上げます。追って元金の方は今しばらく猶予賜り度く、本年後半に成りましたら、ぼつぼつ御返済が出来るものと考えています。実は私と建設省との争いは、今後早やければ、数ヶ月内に新規に起訴が二件増す(一つは基本計画の変更に伴うもので、まだ変更の告示を待っている状態です。もう一つはいくつもの代執行による損害賠償、何れも私が提訴)事に成っています。外に飛入りが出来るかも知れませんが、今迄のものを加えて、法廷闘争が続き、現地で当地でいろいろの反対表示(看板・建物・有刺鉄線・地拵え等々)が成され、外に学者との連繋、世間えのPR等続けて参りますが、次第に経験も積みましたので、合理的に運び、従って体も時間も金も無駄な消費が減じ、一言で申しますと闘争が軌道に乗り、第一、時間の都合がつくように成って参りますと思います。そうしますと、山の方の手入れが出来たり、僅かな山ですけど何処から伐採するかの方針も立ち、貴殿から拝借の金の支払いの目途もついて参りますと思っています。……〉
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とかく、世間に向かってはポーズをとり勝ちな室原知幸も、身内である川良美郁への私信の中でまで衒《てら》うことはないはずである。ここに述べられた心境は率直な表白であったと見ていい。そうだとすれば、既に闘争開始から十年、満六十八歳の老人が淡々と曰う〈次第に経験も積みましたので、合理的に運び、従って体も時間も金も無駄な消費が減じ、一言で申しますと闘争が軌道に乗り、第一、時間の都合がつくように成って参りますと思います〉という一節は、うかとは読み過ごせぬ底恐ろしさを秘めている。
九地建がその建設譜をいかに昂らかに謳歌しようとも、その現実から超然として室原知幸の抵抗精神は屹立している。彼は、もはや激変していく谿谷の凄まじい相貌にも何の動揺も抱かない。揺るぎない己れ独りの精神の王国を築いていくのである。その証しのように、彼は痛烈な王国旗を谿谷の空に掲げ始める。
室原知幸が自邸の庭の金木犀のほとりに掲揚台を立てて、赤地に白丸の室原王国旗を翻したのは、一九六七年二月十二日であった。その前日が、論議を呼んだわが国の建国記念日第一回に当たっていて、本当はその日に知幸もまた日本国から独立した室原王国発足の旗を掲げたかったのだが、生憎の雨で一日ずらしたのである。
知幸がこの旗を得意然としていたことは、その狂歌によく徴《あら》われている。
室原王国、昭和四十二年二月十一日建国、これ第一三七番目として
二月十一日、室原王国建国の日、日本国はもたもたの日
春、春、室原遂に狂いしか、否、否、王国建設とは、さては
日本国天皇は裕仁、室原王国は知幸、そうかそうか
日本国旗、白地に赤、室原王国旗、赤地に白、各々に理
室原王国旗、日の丸の逆か、別《ノー》、別《ノー》、これはほんまに世界一
右も左も杉の山、あれ赤地に白丸の旗、王国の旗
津江川右岸、室原王国旗、春風に、何と思うや、左岸通行の人
赤地に白丸の室原王国旗、津江|山川《さんせん》映え渡る
下筌ダム建設こだますなかに、室原王国旗へんぽんと
津江川畔、室原王国旗、まことに鮮か、王の住居《すまい》と共にあり
室原王国旗、我家に揚がるとも、狼狽《あわて》しゃんすな、警察《ポリス》の群
だが、折角の室原王国独立宣言に立会う記者も、もはやいなかった。知幸は唯一の立会者である森純利に、「なあ森君、こん旗ん意味が分るか。日本の国旗は権力が国民を包みこんじょるが、わしん旗は国民が権力を包みこんじょるたいね」と、上機嫌で述べている。
――それなら室原さん、なぜあなたはそれを共和国旗と呼ばずに王国旗と呼ぶのですかと、映画『蜂之巣砦のその後』の中で、須藤久は疑問を投げ掛けている。現実《ヽヽ》の室原知幸にではなく画像《ヽヽ》の知幸にかぶせた問いなので、知幸自身の答は得られていないが、私にはなんだか笑いながらとぼけてみせる彼の答が聴こえるようである。
「ばってん、そうじゃろうもん。共和国を宣言しようにもなにも、共和国人民がおらんたい。えっ、そうじゃろうが、こん老いぼれと、無関心のばあさんと娘が二人ちゅうんじゃ、いくらわしでも、とてん共和国宣言はでけんたい。――まあ、しかし、おれも一回は国王の気分になってみたかったんたい。ワハハハハ」
私は、室原知幸がこの国の論議を沸騰させた第一回建国記念日に敢えて王国旗を掲げて、独立宣言《ヽヽヽヽ》をしたその思想に拘《こだわ》って、東京の実弟諸田幸男氏を訪ねて行った。氏が知幸を代行して特許庁に世界で第百三十X番目という独立旗を商標登録した事実を知ったからである。
「そうですな、旗の登録を依頼するような兄貴の手紙は受取らなかったという気がしますな。多分、私が何かのことで帰郷した折りに直接頼まれたんでしたろう。もう、記憶がはっきりしないんですが、旗のことで特に印象的な兄貴の話といって、別に無かったと思いますがねえ。兄貴にとっちゃあ、あれも一種のいたずらみたいなもんじゃなかったんですか。それほど思想的に深い意味ちゃなかったろうという気がしますがね。なにさま、あんなふうで、一風変わったことが好きでしたもんね。ええ、それは勿論、横暴な国に対する兄貴の抵抗宣言であったことには違いありませんがね……。えっ、天皇制についてですか? 兄貴がですか……さあ、特にその事で兄貴と話し合ったという記憶はないんですが、兄貴も天皇制について特別な意見ちゃ持たんようでしたよ。私なんかと同じでしたろ。特に否定するということも賛美するということもなかったと思うんですが……」
諸田氏の返答に私は少し拍子抜けしたが、多分、氏の答が正鵠をいい当てているに違いない。室原知幸自身に、天皇制について直接問い掛けた熊本日日新聞記者高浜守雄もまた、同じような事を書いているのである。
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〈私は室原氏に「天皇制についてはどう思うのか」と聞いたことがあるが、「べつに何とも思っていない。そんなことどうでもいいじゃないか」という答えがはねかえってきた。建設省や警察といった国家権力が法律を無視して個人の生活をおびやかしていることに抗議しつづけた室原氏にとって、まさにそんなことはどうでもよかったのだろうが、室原氏のこのことばは決して否定的な発言を意味していないと私は思う。
明治四十四年の大逆事件判決直後「天皇陛下に願い奉る」という文書を書き、さらに「謀反論」と題する「一高」での講演さえも行なった蘆花が、当時としては急進的な思想を示しながら天皇への敬愛を忘れなかったように、このことばには「大正リベラリスト室原」の面目が躍如としているといってよかろう。〉(『公共事業と基本的人権』)
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ここに、偶々、室原知幸の旧い小文が活字となっている。一九五一年、日田市の九州日之出新聞という小新聞に寄せた「我観」と題する小文である。
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〈新春に当り私の常々思っていることを端的に述べよう。日本人は嘗て世界三大国の一つであると自負していたものが、終戦となると堕ちも堕ちたり落胆を通り越し卑屈となった。同じ敗戦国民とはいえ独乙民族には「スピリット・ソウル・ヴィガ」そういったものを持っている。日本は占領下に暮すこと満五ヶ年有四ヶ月である。実を云うと草臥れている。戦争中の非行の数々は飽くまで謝して行こう、だが何時迄も此の姿では堪えられない。吾等は卑屈を捨てよう。そして感謝、批評、協力、希望等をなそう。其の前提として八千万同胞は国家のシンボルである天皇の下に規律ある国民生活を営もう。鳴雪の句に「元旦や一系の天子富士の山」とある。誠に然り、旧思想という勿れ、真に国運を考えていただく諸賢には理解して貰えるだろう。〉
[#ここで字下げ終わり]
この小文を書いた頃、室原知幸は小国町公安委員会委員長という公的地位にあった。そして十六年後、彼は津江川水中乱闘事件によって既に刑事犯として有罪(執行猶予付き)が確定する身となっている。〈国家のシンボルである天皇の下の規律ある国民生活〉から甚しく彼は食《は》み出してしまっているのだ。今や、彼にとっては日本国そのものが敵なのである。だからこそ、その祖国と訣別して彼はその山峡の廃村に独立王国旗を掲げているのだ。とすれば、室原知幸がこの祖国の今も象徴であり続けている天皇を、本当にどのように考えていたかは、矢張り今も私の気に懸かり続けていることである。
五 恩讐を超えて
一九六七年三月二十日、ダム湖底になる谷底で定礎式の神事が多数の関係者を聚めて行なわれた。紅白の綱で吊られて運ばれて来た定礎石が据えられ、神主の祝詞《のりと》と御祓を受けるとコンクリートが被せられていった。
この日のために、室原知幸は実は神主の祝詞に対抗する経文を準備していた。谷底の神事に向けて、マイクでこの呪詛経をいんいんと降らせてやろうという魂胆なのであったが、ちょっといたずらもあくど過ぎると森純利から制止されてしまった。結局、幻に終ったその呪詛経には、知幸の考えがよく盛り込まれているので、掲げておこう。
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〈チーン 只今から室原国王は、日本国官僚共にもの申す。室原王国は昭和四十二年二月十一日建国宣言をなした。国旗は赤地に白をもって表し、既に蜂ノ巣城に掲揚しあるにつき各位留意すべし。チーン それ信心浅く、心貧しき者共、ここ蜂ノ巣の河底に集いに集い、下筌ダム定礎式を言挙《ことあ》げ、今より悪業《あくごう》を積み重ねんとすか。この罪深き業《わざ》、払いたまえ、清めたまえと申すなり。チーン そもそも、ここ蜂ノ巣城に下筌ダムを造らんと、昭和三十二年この方、建設省は法も理も情も、踏みつぶして、ゴリゴリの遣り方もて、続け来る。あな賢からず。あな賢からず。それ払え、清めたまえと申すなり。チーン もともと、この下筌、松原ダムは、治水を主としたダムでなければならない。処が、実際は一カ年のうち、約九カ月も満水で、九電が発電し、洪水台風期の約二カ月間でさえ、下筌を僅か十三メートル、松原を僅か四メートル水位を下げるだけで、九電は依然として発電を続ける。これでは治水はおぼつかない筈なのに、建設省は、これで二十八年程度の洪水なら完全に防げると強く主張する。だが、だが、真当《まつとう》に治水を主とするならば、それは大山川に一つ、玖珠川に一つ、これが常識である。今|其処《そこ》の河底にお集りの衆、目を左右に、上にと、静かに、注意深く、両岸を見てごろうじ。何とダムサイトの地質の悪さ。そこで建設省は多数の坑《あな》を奥深く掘り進み、この坑を、鉄材、セメントで充填《うめ》、地質《やま》の改造をやっている。特に右岸上部、もとの蜂ノ巣城|上《うえ》の岩山は、根こそぎ取り捨てて、二十万|立《リユーベ》、或いは其れ以上にも及ぶか、大量のスラスト・ブロックで人工の岩山を造り、ここに三心アーチ、八十二度のダムを造るのだと、設計の大変更をやった。さてこのダムの厚さはと言えば、天端《てんば》は、たった五メートルしかない。あな危し、あな愚し、南無阿弥陀、南無阿弥陀。チーン 顧りみるに、この下筌・松原二つのダムは、当初発電四万キロで、建設費百十八億円、内、九電負担十五億だった。これ昭和三十四年の時点、其の後十億も建設省は減額し、何んと只の五億とし、発電は新に高取を加え、松原をピークに変更、為に、電力は十一万余キロと、増加したものである。これが多目的ダム法による下筌・松原ダム基本計画の内容で、第一回事業認定期間三カ年を経過し、尚も半歳以上経った後、告示すると云う前代未聞の、曰付《いわくつ》きの代物《しろもの》である。処が、其の後|何処《どこ》でどう狂ったのか、建設省は、この基本計画を更に変更し、近き日再び告示する。即ち、高取を止め、柳又へ持ってゆき、今度は十三万キロにも及ぶ大発電へと変更、これでは、最初の四万キロが三倍以上にも成る訳、それでも九電負担は九億そこそこの小額であろう。実は、七十億、八十億、いやそれ以上も負担するのが妥当だと思われるのに、これでは、黒い霧、又は金環蝕と云われても仕方あるまい。ここ蜂ノ巣の河底に集える賢《さか》しき者共、神々のお祓い受け、清《すが》々しい心もて、耳すませよ。天来より言あり。このダム宜《よろ》しからず。宜《よろ》しからずと。チーン 思うに、建設省は、河川と民有地の境も、個人と個人との境も判別出来ず、只、強引に、蜂ノ巣城へ立ち入り調査をする為、建物を毀《こわ》し、地域住民を土足にかけ、或いは水中合戦を誘導して、我等同志多数を罪にし、又試掘の障害物を伐除すると称して、勝手に立木を片っぱしから切り倒し、尚も、これにて、飽き足らず、遂には収用へと、昭和三十九年六月、蜂ノ巣城へ代執行を、目茶苦茶にかけ、果ては、目くらみて、裁決外の杉立木多数と、建物二棟等を伐り毀すの狼藉《ろうぜき》振りを敢てし、更に、翌四十年六月には、河川法に依ると号して、熊本地方裁判所の審尋にすら出廷せず、明らかに司法権に逆い迄して、またまた蜂ノ巣城へ代執行をし、挙げくの果ては、気が狂ったのか、河川予定地外に飛び込み、相も変らず、建物等を、たたき毀すの大狂乱《きちがい》を演じ、尚且つ、十月には、蜂の巣橋|際《ぎわ》の土地の境界訴訟で、奇怪千万極まる執行を遣ってのけ、越えて、四十一年八月には、我等の闘争記念林とその土地等に、又々、代執行を強行せり。この外、飲料水問題等多く訴訟中である。今後建設省は、次ぎ次ぎ非民主的な言動を積み重ねて、下筌ダム問題を、逐日《ひましに》、錯雑させゆくものであろう。さらばこの愚しの建設官僚共を、祓え、清めたまえと申すなり。あなかしこ。あなかしこ。南無阿弥陀。南無阿弥陀。チーン〉(杉野なおき『蜂ノ巣城』より)
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マスコミの関心は、もはやかつての蜂ノ巣城主から、今は下筌・松原ダムの壮大な建設譜の紹介へと移っている。山を削り岩を砕き大自然を征服してゆく建設工事が写真に特集され、ちょっとそれに添えるように、なおむなしい抵抗を罷めぬ名物じいさん≠フ健在ぶりも紹介されるという具合である。
だが、マスコミの関心の外で室原知幸の静かな抵抗である訴訟はあくことなく続いている。この一九六七年だけでも、ダム基本計画の一部変更の告示に対して「特定多目的ダム法に基づく基本計画」の無効確認請求訴訟を福岡地裁に提訴したのを始めとして八件を争っている。いずれも、国、熊本県知事、九地建局長、大分県収用委員会等が相手方であり、それ等の悉く敗訴していくのであるが、それでも彼の争訟意欲は殺《そ》がれはしない。訴訟記録という公的資料の中に、彼は一九六〇年代の民主主義がどのようなものであったかを刻み込んでいこうとしているのである。「公権優先から次第に私権尊重へと世論が移り変っていく過程を、裁判所という実験室で実験しているつもりだ」という室原知幸の言葉を、甲斐栄一は聴き止めている。
室原知幸が、この年の夏から現地入りした関西大学下筌・松原ダム総合学術調査団(団長桜田誉教授)を歓迎したのも、そのような客観的な形で彼のなして来た抵抗の軌跡が正確に記録されることを期待したからにほかならなかった。
この学術調査団編成を桜田教授に働き掛けたのは、広木重喜であった。広木はこの時期既に福岡法務局から大阪法務局訟務部長に転出していたが、下筌ダム問題への関心は薄れていなかったのだろう。後年、室原知幸はこの広木を評して、「あれは敵の参謀ではあるけれども、男らしい男だ」と、辛辣な彼にしては珍しい褒辞を呈しているが、それは先の野島更迭やこの学術調査団編成に果たした広木の陰の働きをじっと見ていたからであったろう。
副島もまた、この調査団を歓迎し、学者の精緻な眼がこの永過ぎる紛争の膨大な記録を収集し分析することに協力を惜しまぬと約した。現地工事事務所の独身寮で開かれた桜田調査団歓迎会には、室原知幸も森純利も出席した。いよいよ調査が始まると、桜田教授を挟んで知幸と副島が同じジープに乗ることにもなったし、室原邸の座敷で資料調べをした桜田と倶に副島も食事の相伴に与《あずか》るという光景も見られるようになっていった。
身近な接触が深まるにつれて、副島はふと、おやじさんと呼びかけたいような親愛を室原知幸に抱き始めている自分に気付くのだった。
一九六八年は、日本国の明治百年であった。だが九州では、その新年は米国の原子力空母エンタープライズの佐世保入港をめぐる警察権力と全学連の激突で幕開いた。
これまで頑なまでにダム問題以外に関しての発言を控えて来た室原知幸が、この時初めて佐世保での激突を狂歌の対象としている事に目を惹かれる。警察権力への彼の憎悪の烈しさを証していよう。
全学連ば罵る人《ひと》、さて其方《そなた》何した世の為に
ポリ集団暴行全学連え これ佐世保市民環視の中
エンプラ受入工作|栄作《エーサク》か得策《エーサク》か 不作不作
おーウエルカム、エンプラとアメに甘し佐藤
佐藤阿呆、野党腰抜け、インテリ多言、めげるな全学連
騒然とした〈日本国〉を、津江谿谷の〈独立王国〉からこの老人は凝視し続けている。日本国は巨大開発を拠点とする高度経済成長路線を驀進していた。既に新全国総合開発計画は中央官庁の机上で最後の仕上げに入っていた。だが、旧全総の拠点開発は漸く深刻な公害問題で繁栄の足下を脅かし始めてもいた。己が地域が開発問題に曝らされた時、考え込む者が尠くなかった。そのような者達にとって、既に十年余の先駆的な闘いを貫いている老人の姿は熾烈な印象で再認識されるのだった。彼等は、奥深い谿谷の廃村へと、貴重な示唆を求めて訪ねて行くようになった。室原知幸はこの年六月十三日付け佐藤武夫宛て書翰で、彼等と応対する繁忙ぶりを軒昂として記している。
[#ここから2字下げ]
〈私は私なりに自分のダム反対だけでなく諸処の公共事業関係、それはもうダムだけではなく、いろいろの問題を投げ込まれ、絶えず何処からか、主に地域の代表者として十名内外来られ、どうかしますと婦人ばかり六十人も七十人も貸切で来られ、切実な訴えを聞かされ、老生の私、体の続く限り語り、手紙の往復を続け、奮闘仕っています。明治百年どころの話ではありません。大変な日本であります。甚しい非民主化の日本であります。私の闘いもこれからであります。筑後川開発問題もこれからであります。これからどんどん争点が出て来ます。〉
[#ここで字下げ終わり]
それはさながら〈室原学級〉と呼ばれる程の盛況ぶりであった。多数の聴講生《ヽヽヽ》を前にして、老人の長広舌は倦むところが無かった。話に熱が入ると、口角に白い泡が溜まる。老人の話は野暮ったいユーモアに彩られていて、聴く者を飽かせなかった。矢張り一番多い訪問者は、各地でダム問題に遭遇している辺境の住民であったが、知幸は彼等に対して安易に抵抗を煽ることはなかった。むしろ、抵抗が如何に至難であるかの方を強調して訪問者に溜息を吐かせることが多かった。老人は、己れが衆に抜きん出た強烈な精神力と財政基盤に支えられて漸くこの十年余の闘争に耐え得たのだという特殊事情を承知している。
室原知幸の狂歌草稿の中に紛れ込むように、手紙の下書きと目される走り書きの一片が挟み込まれているのに私は目を止めた。
[#ここから2字下げ]
〈急啓
先日はわざわざ御出で下さったのに、御気にめさぬ事ばかり申上げ失礼致しました。事は重大なのに面会時間には制限あり、どうしても話が粗雑に成る次第です。
1 補償基準を先きに、調査は後
2 数は力、分裂しない事
3 町長には町長の立場あり(余り頼らない、荷をかけない)、地元(水没)は地元(自分等)でがっちりと
4 時、時、時が智慧をつけてくれる〉
[#ここで字下げ終わり]
文面から察すれば、〈室原学級〉に聴講に来たダム水没者に、あとでいい足りぬ事を手紙で簡潔に示唆しようとしたのであろう。〈数は力、分裂しない事〉という一項に、この老人が密かに耐えている孤絶の苦衷が窺われるようである。〈時、時、時が智慧をつけてくれる〉という一項も又、十年余を貫いて来たこの老人にして初めていえる底重りが感じられる。
実は、前掲の佐藤武夫宛て書翰にはまだ後半部がある。
[#ここから2字下げ]
〈私、五月早々からカゼに罹り気が勝れず、とうとう十二日から臥床、二十日頃で快方に向いましたけれど、続いて神経痛が出まして、これが仲々の厄介もので五月を越しやっと四、五日前から楽になりましたけれど、まだ離床が出来ません〉
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二カ月後の八月十二日付書翰でも、まだ知幸は臥床中であることを愬えているので、多数の訪問者にも牀上に起き直っての応対であったのだろう。
室原ヨシさんは、当時の知幸の病状についてこう語っている。「神経痛ちゅうつが、腰ですたいね。腰がひどう痛むとです。ま、大体が病みぎょうらしゅうしてですね、なんさま、あげなんふうな気性でしょうが、なんのこげえぼやぼや寝ちょらりゅうかちゅうてですね、気をあせらすんですたい。ひっきりなしにお客さんの相手もせにゃあならんちゅうふうで、床ん上に起き上って坐るとに、布団をこずんでなんかかると、すぐと布団は崩るるでしょうが、さあもう癇癪を起こしち……。やれ、ああせよ、こうせよちゅうちからですね。布団を五枚も敷いて寝てみたり、そうすると今度は段があり過ぎて、起き上るとに畳に手ぇつかんとならんとに手が届かんちゅうふうで、わたしゃ新聞を十日分束ねたつを作って、手付台んごと脇に置いちゃったりですね。そおらもう、なかなかせわしゅうございましたよ。……さあ、そんなことが随分と長びいたように思うちょりますが……」
しかし、谿谷の廃村に早い秋風が立つ頃には、その神経痛も小康状態に入ったようである。室原知幸は森純利と大分新産業都市視察の小旅行に出ている。彼は、己がダム問題を究明していく過程で、この国の開発問題そのものまでを視野に捉え始めている。大分市は新産業都市の模範の如く喧伝されながら、既に別府湾の赤潮をはじめ公害問題は顕在化して来ている。この日、知幸はコンビナート移住者達の巨大団地である明野《あけの》団地等を視察した。
森純利が室原知幸と旅をしていて、いつも閉口するのは宿を取る時である。脂粉の香を異常に嫌う知幸は、決して観光旅館には泊まろうとしない。しかも厄介なことに、知幸は既に胸中に宿を決めていながら、それを明らさまにいいださないのである。ただ、さりげない会話の中で、それをちらちらっと暗示するので、それで察してやらねば不機嫌になる。純利も、いつしか知幸のそんな廻りくどいやり方に慣れて来ている。別府湾沿いを車で走りつつ、もうそろそろ知幸がヒントを洩らす頃だがと気を配っていると、果たして、廻り込んだ湾の対岸の松林を知幸が指呼した。
「森さんよい、今頃ん松原は人気ものうして、気持よかろうな」
「あそこを知ってるんですか?」
「うん、あそこは奈多海岸だ。夏場は海水浴で賑わうたい」
「その海岸迄行ってみますか」
純利がそういうと、知幸は表面気乗りのせぬ語調で、「そうだな、行ってみるか」と応えた。車は別府湾を大きく廻り込んで行った。
シーズン・オフの海岸には人気が無く、唯一軒の海の家も既に閉鎖されていた。これでは泊まれないと純利がたじろいでいると、知幸はさっさと管理人を探しに行って、一夜の宿を頼み込んでしまった。知幸はこの海岸に何かの懐い出を抱いているのかも知れないと、純利は察した。
寂か過ぎる夜であった。月光が皓々として別府湾を隈なく照らし、対岸には湯の町別府の綺羅星のような灯のさざめきが海岸部から山の手へと拡がっている。
「森君。おれは君に心から済まんと思うちょる。おれは、君の若い人生を引っ掻き廻してしもうたんじゃないかと思う時がある。折角、弁護士をめざしちょった君を……」
松籟《しようらい》のざわめきに誘われたように、知幸がいつになく沁々とした口調でそういった時、純利の胸に温いものが膨れていた。
「いえ、いいんです。弁護士なんかになれなくても、随分貴重な事を学ばせてもらいましたもん。なにしろ、実戦から実戦ですからね、鍛えられましたよ」
純利は一寸冗談めかして答えた。
「そういうてくれると、正直わしもほっとするたい。それでん、君ん奥さんや家族はそう思うておるまいからなあ。おれも、家内達ん眼からは馬鹿な男としか見られちょらんもんね。実際、家内や娘達には本当に迷惑ん掛け続けじゃち、心ん中で詫びよるんたい。ばってん、男たるもんがそげなんこつを自分の嬶《かか》や子に口に出していえるるとか、えっ森君、おれみたいな古い人間にゃ、それはいえんたい。――ただ、森君。おれがいくらこん闘争にのぼせたちゃあ、家族を路頭に迷わすようなことはせんだけん配慮はちゃんとしちょるつもりだよ」
湾を渡って来る風は夜更けて冷えていた。シーズン・オフの海の家には風呂も閉ざされている。知幸と純利は早く牀に着いた。眠りかけた純利は、知幸の呟きを夢のように聴き止めた。
「おれん命も、もうなごうはねえちゅう気がするたい。おれんしたこつは、所詮ごまめの歯軋りじゃったんかも知れんなあ。……森君、おれん死んだあと、ダムんこつで相談に来る者達があれば、今度は君が相談に乗ってやれよ。これは、おれからん頼みたい。君もそれだけの知識と体験を積んだとじゃき。――ばってん、こげなこついうたら、君の奥さんからはますます怨まるっとじゃろうな。おい森君、もう眠ったとか?……」
純利は返事をしなかった。涙が頬を伝っていた。
その秋、室原知幸はもう一度小旅行をしている。それも、裁判官石田哲一と副島ダム工事事務所所長と行を倶にしての耶馬渓《やばけい》旅行である。
頼山陽が形容の美辞を喪って思わず筆を抛擲したと伝えられる谿谷美の名勝耶馬渓は、日田市から山越えで大分県中津市へと抜ける途中にある、車で一時間余の距離を往く。東京から来た石田を歓迎して知幸が企画した旅で、これに副島も誘われたのである。谿谷は紅葉に彩られていた。副島は、まるで老いた父に添う孝行息子のような面映ゆい心境であった。知幸はダム問題など忘れ去ったように好々爺の相好を崩して冗談言に興じては、石田と副島を笑わせた。本耶馬《ほんやば》、深耶馬《しんやば》、裏耶馬、仏舎利塔、耶馬渓博物館、羅漢寺、荒瀬堰と観て廻り、行く先々で知幸は下手な狂歌を手帖に書き込んでいった。
耶馬渓まこと山と渓、流れは清く豊ゆえ耶馬は一入《ヒトシオ》映え渡る
岩に紅葉に温泉、後藤又兵衛と裏耶馬伊福の里は
よくもまあ集めたものぞ、耶馬渓風物館、そは跡田河畔にあり
五〇〇羅漢共、過密に過ぐ、耶馬渓羅漢寺洞窟の中で
耶馬渓の青《あお》の洞門《どうもん》の近くに白堊の仏舎利塔が立っているが、これは知幸の次女陽子が嫁いだ先の父が建てたもので、ここで一行は食事を招ばれると、青の洞門をくぐってみた。菊池寛の『恩讐の彼方に』で知られる洞門は、その昔|禅海《ぜんかい》和尚という旅僧が此処の懸崖を這い登る径から転落死した者を見て発心し、永い歳月をかけて鑿で掘り抜いたと伝えられる隧道である。
「副島さん。土木工事ちゅうもんは、すべからくこげなふうに後代の者《もん》にまで称賛されるもんでありたいもんじゃな」
知幸が小暗い隧道の中で皮肉をいって笑った。笑い声が壁に谺した。
これより後の日、知幸はその狂歌の中に幾度か「恩讐の彼方に」という言葉を詠み込んでいる。菊池寛のその作品が伝えるところによれば、禅海和尚は実は凶状持ちの元侍であり、その罪滅ぼしに岩掘りの難行に立ち向かったのであるが、或る日彼を敵《かたき》と狙う武士が遂に探し当てて来る。和尚は、この岩山を掘り抜く迄命を藉してほしいと懇請し、武士も又一日も早く敵を討ちたいが故に和尚と並んで鑿を取るようになる。幾年も幾年もの難行を倶にして、遂に岩山を掘り抜いた時、武士はもう敵討の事は忘れていた。恩讐の彼方に二人は突き抜けていたのである。――知幸は耶馬渓小旅行で出遇ったこの言葉が、今の己が心境を表徴するに相応《ふさわ》しいと感じたようである。知幸にしてみれば、敵方の最前線の指揮者副島健、そして己れに敗訴判決を下した石田哲一と倶に遊んだその小旅行からして、恩讐の彼方に突き抜けた心境なのであったろう。
確かに、彼の心境は大きく変化している。今もダム建設反対の節は毫も枉げることなく争訟に熱意を燃やしているのであるが、その一方で彼はダム建設に協力さえし始めているのである。一見矛盾したこの両極的対応も、もはや室原知幸の内部では矛盾となっていない。
なぜなら、彼は己が反対意志を訴訟記録の中に刻みつけていくことで節を通しているのであり、しかし現実には眼前にダム堰堤が聳え立ち始めている以上、そのダムをせめてより良きものにする知恵を九地建に藉そうとするのである。副島もまた、知幸の提言に謙虚に耳を傾けようとしている。「わたしは室原学級の模範生ですたい」と、副島は冗談めかしていうほどである。
知幸の提言の覘いは、このダムをどのようにすればこの地域の者達の利益に繋がらせることが出来るかという点にあった。新池ノ山橋は、このような知幸の提言を建設省が受け入れて架けた橋で、知幸にしてみれば〈おれが架けさせた〉橋であった。下筌ダム上流一・五粁の峡谷を高々と跨ぐこの橋によって、この辺境の里人達は小国町の中心である宮原に出易くなる。橋脚の高さ六十三・五米はこの時期日本一であり、知幸の希望のままに朱鷺《とき》色に塗装されている。
青の洞門、恩讐の彼方、豊後津江、新池ノ山橋も
新池ノ山架橋、これ恩讐の彼方、我も建設省も
矢部、津江、小国各郷袋路じゃ、抜け出せ新池ノ山橋利して
知幸には、余程この橋がお気に入りだったようである。来客があると、しばしば架橋中の新池ノ山橋に案内してここからの谿谷と杉山の美観を誇らしげに指呼して見せた。やがてはダム湛水で満々となる湖面に朱鷺色の橋の影が美しく映えるだろうと語る知幸を見ると、まるで下筌ダムの完成を待ち希んでいるかのようで、来客は唖然とさせられるのであった。
室原知幸の協力は新池ノ山橋に対してだけではなかった。彼は永い紛争期間を通じて、初めて己が雑木林を話し合いで建設省に譲渡したのである。それは下筌ダム堰堤下流の熊本県側補償道路の用地としてであったが、この譲渡にあたっては、知幸が一つの条件を付けている。この道路は室原知幸の杉山を拓いて通過する計画なのであったが、知幸はそれを隧道に変えよと提言したのである。それは知幸の観光構想から発している。既に両ダムサイトは補償道路によって切り拓かれ、杉山が著しく損なわれている。せめて己が美林だけでも遺すことで、湖面に映える杉鉾の美しさを保ちたいというのが知幸の希いなのであった。建設省にしてみれば、ここを隧道にする事で道路工事の費用は四倍余に膨れるが、知幸の構想を容れることになった。なにしろ知幸は、この杉林は永代に亙って伐らないとまで約したのである。
「この隧道は、地名を取って天鶴隧道と名付けようと思うんですが、ひとつ、入り口に掲げる額の字を書いていただけませんか」
副島がさりげなく持ち掛けた時、知幸は一寸戸惑った表情を泛かべた。
「えっ、このおれが額の字をか……」
「この山が室原さんの持山なんですから、是非……」
そうだな、考えておこうといったが、数日後副島は知幸から額字を受け取った。
「副島君、君にはダムという完成物が記念として遺っていくことになる。ばってん、おれには遺る物がない。この額が、おれん記念碑みたいなもんたい。ちっとばかり寂しいたい」
知幸が少し照れたように、そういった。
六 終焉
カンネ(葛)藪下にダムの見ゆ、あれ薄汚れて、チャチな下筌が
室原知幸が殊更に矮小化して詠い捨てる下筌ダム堰堤が、実際には津江谿谷を圧して堤高九十八米の壮大なコンクリートの壁を見せている。もう試験貯水に入るのも間近である。下流の松原ダムの工事進行は下筌より少し遅れているが、間もなくこれも完工しようとしている。志屋部落が水没するのは、その松原ダムが湛水する時である。
そうなれば、知幸は満々と水を張る湖面を見降ろす高みに居を遷して、ダム監視の主《あるじ》となろうかと考え始めている。
「屋根は総ガラス張りというのはどうじゃろうな。満天の星が寝たまんま仰げるごとしてね。えっ、すばらしいぞ。それに、ボタン一つで家全体が廻転するちゅう仕掛けも面白いごたるなあ。九電に電気を貰うんも癪じゃき、いっそ風車による発電もしてみるか。風車が湖面に映って、なかなかいい眺めち思うがね……」
密かに知幸は、ダム湖畔での新しい家の設計図を幾通りも描いているようであった。そんな夢のような話と、一方ダムへの敵意に満ちた狂歌を読み較べるとき、知幸の心奥でダムへの愛憎は自身でも整理出来ぬまでに錯雑としているかのようである。
室原知幸の微妙な心の揺れを量りつつ、森純利や副島健等はいったいどうすればこの老人を円満に高処に移すことが出来るかを、今や懸命に思い詰めている。ダム湛水開始という日限が迫っているのだ。この烈しいまでの衿持に貫かれた老人の十二年間に及ぶ闘いに幕を引かせるには、それにふさわしいだけの花道を用意してやらねばならぬだろうというのが、知幸周辺一人残らずの見方であるが、その花道が何であるのか、敵同士のはずの森と副島が今や共同謀議を累《かさ》ねねばならぬのだった。
一九六九年春、志屋小学校は廃校となった。最後の一年間は児童は三人しかいなかった。室原是賢の長女由美、次男豊明、穴井初美(恵の長男)の次女章子である。
七月二十四日、弟の知彦一家が日田の町へと移って行った。前夜、両家は知幸邸の仏間に揃って記念写真を撮った。
夏草茂る廃村に、遂に室原邸一軒だけが取り遺されたのである。ヨシには、夜の来るのが恐くなった。辺りにともる灯影はもう無かった。どこまでも茫々とした闇に沈みきっている。番犬のつもりで飼い始めた雑犬が、夜の寂寞の底に魑魅《ちみ》でも窺うように不吉に吠え狂う時など、ヨシと博子と知子の女三人は寄り添って怯えていた。
珍しく穴井ツユが訪ねて来てくれた日、ヨシは涙ぐむほど嬉しかった。穴井隆雄を中心とした第二次条件派の者達は集団移転を選ばなかったので各地に散在してゆき、穴井貞義とツユの一家は日田の町の新興団地に移り、其処で開いた店が早くも軌道に乗り始めていた。
ヨシとツユがひそひそと話していると、珍しく知幸が自分から書斎を出て来た。
「こらっ、ばあさんと何の内緒話をしよるとか!」
さすがに知幸の声にも人懐かしい弾みがあった。
「室原さん、あなたももういい加減楽をしなさらんですか」
上機嫌の知幸とみて、ツユは気易くいい返した。
「そうちゃなあ、おれも楽はしたいばってんが、そうもいかんでなあ」
「どうですか、もう日田ん町に出て来て、入れ歯もして……」
「あんた、おれん顔見ると、歯のこつんじょういうごたる」
知幸はそういって笑ったが、開いた口にはもうほとんど歯が失くなっている。ツユは、今ではこの廃村迄来る牛乳配達もいないだろうと察して粉ミルクの缶を知幸への土産に持って来ていた。ヨシがお返しに自分で煮込んだ蕗の佃煮を土産に持たせた時、
「なになに、ばあさんが土産をやるとなら、おれも負けんごと土産をやらにゃならんな」
といって、知幸は書斎に入って行ったが、幾枚かの新聞を袋に入れて持って来た。
「これを貞義君にあげてくれんかな」
それは、知幸自慢の新池ノ山橋のことを解説した記事の載っている新聞であった。帰って行くツユを、ヨシは部落のはずれ迄見送った。
「ツユさん、わたしゃあもう、こん寂しい場所で死ぬるしかないごたる」
別れしなに、ヨシがぽつんと呟いた言葉がいつ迄もツユの胸に沁みて残った。
秋立つ頃、知幸は実に三年振りに砦を築いた。第五の砦である。大きなダム反対の看板が立ち、王国旗が掲げられた。場所は志屋部落の入口にある旧共同墓地の近くで、突き出したような山になっているので、もし松原ダムが湛水すれば、其処だけが島のように湖面に泛くことになる。さすがに知幸は戦術に長《た》けている。六畳二間、炊事場付き木造家屋は、砦というよりは山荘の趣きで、知幸も「自宅は来客が多いので、ここをわしの応接間にしたい」と空惚《そらとぼ》けて記者に語っている。
十月三十一日、新池ノ山橋が完工し、その渡り初め式に室原知幸は招かれた。いつもの恰好で出かけようとする知幸をヨシが説得して背広を着せたので、珍しく正装の知幸は秋沢九地建ダム工事事務所副所長と並んで先頭に立ち上機嫌であった。あとで、自分で用意した記念品を参列者全員に配っている。
翌日、下筌ダムは本格的貯水に入った。この日、薄曇りの津江谿谷は既に肌寒く、ダムサイトには早くも氷柱《つらら》が皓《しろ》く光り、氷も張っていた。副島は、重さ六トンの鉄扉が津江川の流れを堰き止めるのを感慨を込めて見守った。新池ノ山橋完工を歓んだ知幸も、しかしこの日はダム下手の右岸の己が畑で焚火をしながら、堰堤の方を見向きもしなかった。
下筌ダムがその湖面を一日一日拡げていき、松原ダムの完工も目睫となって、九地建に苦悩の色が深まっている。松原ダム湛水開始迄に室原邸の移転を終えねばならないのだが、その話し合いはついていない。ここまで来て、室原邸だけは強制収用に持ち込みたくないというのが副島の苦衷であった。
「のう森さん、最後の幕引きが大変だぞ。最後の幕引きはあんたがせなならん。これは大変だぞ」
或る日、朝食の椀を置いて、突如知幸がそういい出したので、純利は思い切って訊《き》いてみた。
「一体どうすれば幕が引けますかねえ」
「そうたいねえ……やっぱあ、大臣が詫状くらい書かないかんなあ」
あっ、そうだったのかと、純利は心中に声を発する思いだった。彼は直ちに副島にその旨を告げて相談をした。「そおら森さん、わたしにゃむつかしいですたい」と、副島は首をかしげた。官僚機構に属する一員として下部からそのような意嚮を上申しにくいという副島の立場を斟酌して、純利は自分で奔走する事にした。彼は直ちに行動を起こし、友人である宮崎県選出の児玉代議士を介して坪川建設大臣と会見することに成功した。森純利の来意に耳を傾けた坪川は、
「分りました。しかし私も一国の大臣の立場として、ここで詫状を書くという事を安易に約束は出来ないので、充分検討してみましょう。――ただ、私は個人的に室原さんを尊敬している事をお伝え下さい」
といった。
十日程経て、官房長が大分から長崎へ行く途中、詫状の原稿を持参したいという連絡が入ったので、純利は阿蘇山上で会う事を約した。その時見せられた原稿は、葉書大の簡略なもので、到底純利を満足させるものではなかった。一体、どう書けばいいのですかという官房長に、純利は「では、わたしの方で書きましょうか」といった。結局、おかしな絡繰《からくり》であるが、室原知幸に宛てた坪川建設大臣の詫状の草稿を書いたのは森純利と副島健の二人である。
「あれは、一世一代のラヴレターの積りで書きました」
と、副島は述懐する。
送り返された草稿はやがて建設大臣坪川信三の名で見事な巻紙に墨書されて九地建に届いた。もう歳末も近い頃であった。今度は、この建設大臣の詫状をいかに機嫌よく知幸に受理させるかが、純利の一抹の危惧であった。
「室原さん、怒鳴られても仕様がありませんが……実は建設大臣と交渉して詫状をいただきました。もう九地建の金庫に入っています。これを受取って、最後の矛《ほこ》をおさめたらどうでしょうか……」
純利が恐る恐るいい出した時、
「あんたもまあ、ようとおれに気付かれんごと騙したもんじゃなあ。どうも最近あんたの態度が変だとは思うちょったが……」
と、知幸は笑った。決して機嫌の悪い声音ではなかった。
「じゃあ、受け取ってもらえるんですね」
純利が性急に畳み込んだ。
「まあ待ちなさい。未だ時期が早い」
「…………」
純利はいきなり虚を衝かれたような気がして、知幸を見詰めた。
「まあ森さん、も少し待ちなさい。必ず下流の連中が近い内に来るたい。ダムは出来たは水は貯められんはで、一番やきもきするんは下流の連中たい。困り果てて詫びに来るたい。おれんこつを散々国賊扱いした連中が詫びに来る、そん時が勝負たい。それから大臣の詫状を受取って幕を引こうじゃないか」
「下流から本当に来るでしょうか」
「来るたい、見ちょってみい」
知幸ははっきりと先を読んでいるようにいい切った。坪川建設大臣の詫状は暫く九地建の金庫に眠ることになった。
この冬、知幸の顔が妙にむくんでいることがヨシには気懸りであった。知幸自身も、「顔がおびい(重い)」といってはよく手で擦《こす》る所作をしている。いっそ診察してもらったらと勧めるのに、「なんの大したこたぁねえ」といって、知幸は打捨てて来た。
だが、ヨシの不吉な予感が当たった。一九七〇年一月二十二日、室原知幸は突然呼吸困難に陥入った。ヨシは自分がかかりつけの小国の楳木《うめき》医師に急報した。十七粁余の山道を楳木は急行した。ヨシは門前の道に立ち尽していた。
楳木の機敏な処置で知幸は落着いたが、入院することはどうしても肯かなかった。脇から一緒になって入院を勧めるヨシに、知幸は「今おれがどうして入院しておらるるか。他人には風邪を引いたちいうちょけ。風邪なら誰でん引く」と叱りつけるようにいうのだった。楳木の診たところ、知幸の症状は大動脈弁障害、大動脈瘤、持続性心房細動兼冠硬化症に、肺水腫、腹水を併発していて決して楽観出来るものではなかった。
「家内がいつもお世話になります」
布団に起き直った知幸がきちんと膝を揃えて挨拶したので、楳木も慌てて正座した。楳木は血圧に悩むヨシを十年来診て来ているが、知幸を診察するのは初めてである。布団の周りはみっしりと本が積み上げられ、楳木が座ろうとした時も、ヨシが「後で叱られるけど……」と呟きながら本の山を片寄せて場所を空けてくれた程であった。
「どうですか、下筌もすっかり湖面を拡げて、なかなかいい風景でしょう」
知幸が、さもダムの完成を歓ぶように語り掛けて来たので、楳木は内心驚いてしまった。
「杉の山が湖面に影を落とす風景は、さながら泰西名画といった趣きですよ」
どう返答すべきか戸惑っている楳木に、知幸は一方的に喋り続けた。
「新池ノ山橋はどうですか。あれは、わたしが建設省に造らせたもんです。朱鷺色の橋と、杉山とトンネル、これが蒼い湖面とコンビネーションを見せるはずです。トンネルの暗い中から外に出た瞬間、ぱっと湖面が眼に入るでしょうが、夕日に映えた湖面に緑の杉山が影を落としている……そのまま名画の世界ですたい」
己が郷土自慢をして已まない好々爺と化している知幸を前にして、楳木は狐に抓まれたような気がしていた。
その冬、知幸は病牀から離れることは出来なかった。〈空も地も(世の中)ウットウしい日々が続いている日本であります……実は一月以来カゼ其の後が神経痛に罹り何れも重くはありませんけれど仲々根治せず軽快には成りましたけれども未だ完全には離牀出来なくて困っています〉と、佐藤武夫宛て書翰で嘆いている。心臓病の事は伏せたようである。離牀出来ぬとはいえ、彼は布団に起き直っては来客に接することは罷めなかった。大詰近しと見て再び訪れ始めた記者陣にも、知幸は病人らしからぬ旺んな言辞を吐いて、蜂ノ巣城主の健在を印象づけた。
「わたしは遂に勝った」
というのである、
「何故かといえば、見てみい。ダムはでけたが水が溜められん。建設省は、松原ダムの湛水は三月一日からだと大きなこつをいいよったが、どうだ、もうその日もとうに過ぎてしもうた。ダムは無用の姿を曝らしちょるたい。つまり、わたしが勝ったのだ。十三年間を賭けて、家庭も仕事も抛り出し、世間からは気違いのようにいわれて、わたしは七十歳を越えてしもうた。――ばってん、どうだ、国はダムの水も溜めきらん。世間が皆、一体何故こんな事になったか注目するだろう。その時、わたしは一気にわたしのいいぶんを表明することになるだろう。なぜ、このわたしが十三年間も賭けて国に抵抗して来たかを」
四月に入って、知幸は再び家の周りをぼつぼつ散策する程に恢復して来た。或る日、志屋小学校の校庭に登った知幸は茫然としたようであった。廃校から一年、早くも其処は草叢と化そうとしていた。その日から知幸は校庭に跼《かが》んで草を採り始めた。
四月十四日、大分県大野郡緒方町の老人教室三百名が下筌ダムの見学に来て、室原知幸に一日講師を依頼した。沢山の老人同士に囲まれて、知幸の表情は晴れやかであった。自ら下筌ダム堰堤に立って、来《こ》し方《かた》の闘争を語り、「わたしは勝った」と説明した。堰堤上流は湖面を成しているのに下流側がからからに涸れている対照的な光景を眼下にして、老人達は知幸のその言葉を信じた。一見、自分達と変らぬ僂背《ろうはい》としか見えぬ知幸の身内に今も烈しく燃えている意志力に、老人達も照射されるようであった。この老人教室には知幸の竹田中学時代の同窓生もいて、懐しい握手を交したりした。
四月二十三日、室原知幸が心中密かに待ち受けていた者達が竟《つい》に来ることになった。
「森さん、いよいよこれで永い闘いの幕が引けるな」
その朝、ことのほか上機嫌の知幸は自ら庭に縁台をしつらえ、水を打ってそわそわとしていた。この日、午前十時から久留米市民会館で大会を開いた松原・下筌ダム建設促進対策協議会の代表井上義人久留米市長等十五人が室原邸を訪れたのは午後二時四十分であった。いつもの袖無しを着込んだ知幸はにこにことして一行を庭先に招じ入れた。永過ぎた闘争が暫く大団円に至ろうとする、その欣びをさすがに知幸は隠し切れぬようであった。
「今日は室原さんにお願いに来ました」
縁台に並んで腰掛けた井上義人が切出した時、
「はい、うかがいましょう」
と、知幸はまだ微笑の消えぬ相好で答えた。次の言葉を待っている知幸に、井上はいきなり巻紙を披いて大会決議文を朗読し始めた。「百万住民の悲願であった松原・下筌ダムは、室原氏の永年にわたる執拗頑固な反対にもかかわらず、関係団体の協力で建設された。しかしその機能は発揮されていない。梅雨期を前にして、ここに百万住民の総意を結集して、室原氏の猛省を促す」
途中から知幸の頬が痙攣するのを森純利は見た。ああ、これで総ては又水泡に帰したと純利は激しい落胆に襲われるのをどうしようもなかった。読み終えた井上から黙って決議文を受取ると、知幸はもう一度目を通している。読み返すというよりは、そうして滾《たぎ》る心を鎮めているのに違いない。
「室原さん返事を聞かせて下さい」
井上会長が迫った。
「なかなか強腰の要望書だが、一応受取って置こう。即刻善処せよとあるが、即答は出来ない。いずれ文書で回答するから、皆もう帰ってくれ」
勉《つと》めて冷静に答えようとする知幸に被せるように井上等は一九五三年の災害の惨状を語り、知幸も烈しく応酬して、遂には両者の間に「問答無用だ」という感情語が飛び交った。会見は二十五分間で打切られた。一行が去ったあとも暫く、茫然としたように知幸は縁台から立上らなかった。
「森さん。悲劇だな」
これ程気落ちした知幸の声をかつて一度も聞いた事が無いと、純利は思った。
「――おれにとっても、君にとっても、建設省にとっても……」
純利は臍《ほぞ》を噛《か》む思いであった。大臣交渉まで成功させながら、下流同盟への政治的工作を失念したばかりに、九仞《きゆうじん》の功を一簣《いつき》に虧《か》いてしまったのである。もうこれで室原知幸の最期の花道は完全に閉ざされてしまったことになる。この烈しいまでの矜持を持する老人が〈頑迷固陋な室原知幸〉と決めつけられた以上、もはや和解の途は考えられないであろう。
室原知幸は口惜しさを敲き付けるように狂歌を書きなぐっている。
井上、我を頑固と、決議文をもて 松原これで、カラカラに
井上、起業者でなし、権利義務もなし、松原ゲートどうする
松原でさんざんの建設省、この責め室原ぞと、とんでも
松原ダム治水だめ、このぶざま、南部・井上の迷コンビ
南部・井上・高姿勢 筑水下流の百万の意に抗し
もはや已むを得ぬと判断した九地建は、五月一日、室原知幸の邸宅、田畑、山林等を強制収用する為の裁決申請書を熊本県収用委員会に提出した。副島は知幸と顔を合わせるのが辛かった。
「副島君、君の男も立ち、わたしの男も立つ、この複雑な連立方程式がなんとか解けぬものかなあ」
知幸はそういうのだった。
気落ちしている知幸も、五月二十七日の緒方町への旅ではすこぶる晴れやかであった。先に一日講師を勤めた老人学級から招聘《しようへい》されての旅で、是賢が自動車を運転して行を倶にした。この夜、町営老人休養ホーム憩いの家≠ナ、老人達を前にして矍鑠《かくしやく》と語った知幸は、翌日はかつての学友に案内されて母校の竹田中学(現高校)を訪れ校内を一巡した。
「おれはこの藪中に隠れていつも本を読みよったもんじゃき、上級生からようと殴られたよ」
そんな懐い出を是賢に語った。『荒城の月』で知られる岡城址にも足を延ばし、知幸が引揚げる時老人学級生一同は万歳で送ってくれた。もう黄昏《たそがれ》の松原ダム堰堤を渡りかかった時、知幸は車を駐めさせて降り立った。
「こげな愉快なこたあねえ。――おれが勝った形じゃもんね」
知幸は涸れた谷底を見降ろして、いつまでも動こうとしなかった。
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〈復啓
去る十二日は御端書拝見仕っています。先生から度々御便り戴いていますのに、私失礼ばかり続け申訳け御座居ません。御指示の通り闘いはすっきりとした姿勢で明年へと進んで参ります。建設省、九電にとりては大変な事態です。現実はどうにもなりません。三月一日からもう百余日、白日の下にダムを曝らしています。起業者側の面子など、すっ飛んだわけです。今後も宜しく御指導下さいませ。先づは右、御詫び迄 敬具〉
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六月十七日付け佐藤武夫宛ての書翰が告げているように、気落ちの底から立上ったこの老人は、早くも明年にかけての戦術に智謀を練り始めている。
六月二十九日朝、副島は熊本市の森純利から電話を受けた。
「たった今知彦さんから電話がありましてね、知幸さんが今度は危ないちゅうんですたい。わたしも今から直ぐこちらを発ちますが、副島さん、あなた先に行ってみて下さい。まあ、大丈夫とは思うんですが……」
吃驚した副島はそのまま工事事務所を飛び出した。しかし、往く内に、きっと大丈夫だろうという気がして来ていた。彼はこれまでよく知幸に向かって「室原さん、あなたは九十歳までも生きますばい。建設省はこれからまだ二十年は苦しめられそうですな」と冗談をいって来たのだが、実際知幸はそれ程に元気そうに見えるのであった。彼は病牀の知幸に告げねばならぬことがあった。前日、彼に転勤の内示が届いたのであった。「室原さん、とうとうわたしもあなたん為に首が飛びましたばい」そういって知幸を笑わせてやろうと思った。室原邸の玄関で案内を請うと、出て来た知彦が涙に濡れた顔で叫ぶように告げた。
「副島さん。兄貴はしまえたあ!」
愕然とした副島は知幸の死の牀に臨んだ。ヨシが枕元の座を明けてくれた。既に知幸の顔は白布で被れていたが、それを捲って対面した時、不意に涙が込み上げていた。涙を塞《せ》き止めるように副島は瞑黙した。
工事事務所に戻ると、副島は直ちに南部九地建局長に電話をした。
「今日午前、室原知幸さんが亡くなられました」
「えっ、亡くなられた……」
電話の向こうで南部が絶句した。
森純利は、篠突く雨の阿蘇大観峰を、その頃車で越えつつあった。室原知幸の存命を未だ信じていた。
あれは、おとうさんが斃れる二日前んことでございましたろ。志屋神社ん前に枇杷の木がございますが、もうだあれも※[#「手へん+宛」、unicode6365]ぐ人ちゃありませんもん、わたしと博子と知子の三人して※[#「手へん+宛」、unicode6365]いで食べよりました。そうしたら、ひょこっとおとうさんが通りかかって、「おい、あんまり食ぶると腹がいとうなるぞ」ちいうでしょうが。わたしゃもう、なんか悪いことしよるとを見付けられたごと、ぎくっとしてですね……。「一体、おとうさんこそ、今頃何してますと」ち訊いたですたい。そんな昼間にお宮ん辺りをうろうろするおとうさんじゃないですもん。「おお、犬ん奴がおりげん手拭をくわえち行ったき、村中探し廻ったばってん、どこん行ったかとうと分らん」ち、こういうですたい。わたしゃ変じゃなあち思うてですね……。たかが手拭一本、村中探して歩くほどんこたあないですもん。――あとになっち考えてみますと、あれはやっぱぁおとうさんが志屋部落に最期の別れに廻りなさったんでしたろ。
六月二十八日ん朝は、杖立から吉野敏孝さんが訪ねてみえて、お茶でも出そうとしてましたら直ぐ帰って行ったでしょうが。そしたら、気忙《きぜわ》しゅうおとうさんが呼ぶもんですき、はい、はいちゅうて部屋に小走りで行きました。部屋に入って、もうびっくりしました。おとうさんな顔面蒼白で顔中冷汗を浮かべて唇も土色でしょうが。右ん下腹を押さえちから、痛い痛いうめきますもん。直ぐに津江ん医院に電話しましたばってん生憎日曜日ですから休みですたい。それで又小国ん楳木先生にお願いして、さあ、先生の車がお見えになる迄ん時間のなごう感じられたことちゅうたら……。先生が直ぐ鎮痛剤を打って、おとうさんな昏睡に入ったとです。夜になって福岡から長男の基樹が帰って来るし、奈良からも節子が帰って来て、看病をしてくれたですが、夜中からはもうみんな寝かせて、わたし一人がおとうさんの枕許にいました。
おとうさんなもう半ば無意識で、「かあちゃんよい、かあちゃんよい」ちゅうてですね、まるでもう子供になったごつしてですね、わたしん手え握って放さんですたい。「はい、はい、どこにも行きませんよ、ここにおりますよ」ちゅうてからですね……。「小便がまりてぇ、お墓んそばに小便に行って来る」ち、そげなことも何遍もいいましたね。そん時でも、わたしゃ、まだまさかおとうさんは死ぬるのなんの、そげなこたぁ夢にも思わんもんですき、今度おとうさんが元気になって又わたしんこつをどなりあぐるようなこつになったら、おとうさん、あんたはわたしん手え握って放しなさらんじゃったんを忘れましたかち、そげえいうてひとつからこおちゃろうのなんのち思いよったくらいですたい。
とうとう夜が明けて、ふっと眼を明けたおとうさんが、「二分間だけ夢を見たぞ」ちいうでしょうが、二分間ちぴしゃっというところがやっぱあちょっとおかしいですたいね。「おとうさんの好きな花園ん夢でも見なさったんでしょ、ニコニコ笑うていましたもん」と、わたしはいうたです。血圧もずっと上って来ましてね、皆安堵して枕許に寄って来ましたら、「みんな退散してくれ、しゃあしい」ちゅうて、早速元気を出すでしょうが、「はい、はい。じゃあ今ん内にみんな朝御飯でも食べましょ」ちゅうてわたし一人残って皆を追いやったですたい。そのあとでございました。急に右下腹を押さえて、「あっ」と一声挙げるなり、直ぐ頤《あご》からわなわなっと痙攣が走りました。「ああっ、おとうさん、おとうさん」ちわたしが叫んだもんですき、みんな飛んで来て、泊りがけの楳木先生が直ぐリンゲル注射の用意して、わたしと知彦さんで|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》くおとうさんを押さえつけて二時間も注射しましたが、到頭おとうさんの息は絶えてしまいました。基樹が口移しに息を吹き込んだとですが、もう生き返りませんでした。六月二十九日午前九時十分でございました。そうですね、満七十一歳には二カ月ちょっと足りない年齢でした。
――わたしどもが志屋の家を離れたんが、その年ん十一月十日でございますから、今考えますと、まあようも女三人だけであの谷底の一軒家で四カ月余りも暮らしたもんじゃち思いますたい。おとうさんの霊が、行っちゃならんぞ、行っちゃあならんぞちゅうて引止めていたんでございましょう。
わたしゃあ、やっぱぁおとうさんに必要な女じゃったんでしょうかね。もう、子供んごとしてですね、わたしん手ぇ握って、かあちゃんよい、かあちゃんよいち、しがみつくごつしてですね……
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あとがきにかえて
闘いの哀しみ――蜂ノ巣城主の妻の視線
蜂ノ巣城主として知られた故・室原知幸氏の凄絶な対国家闘争を主題とした作品を書こうとして調べ始めた頃、ふと私は、自分の古い日記に何かの記述を見出せるのではないかと思った。当時、新聞報道をひたすら日記に書き写していたことを想い出したからである。語り合うような友を一人も周囲に持たぬ貧しい豆腐屋の若者にとって、そんなふうに世事を記録していくことがひそかな慰藉であった。
古いノートを披いてゆくと、一九六〇年六月二一日の項に、次のような記述があった。
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終日、執拗な激雨続く。
下筌ダムの争いもいよいよ大詰に来た。
昨日の架橋工事では、作業員十七人が地元妨害者の投石等で負傷した。
三池争議といい、又自衛隊の基地問題で荒れている新島といい、実に多くの果てしない闘争が、同じ民族をふたつにもみっつにも分けて、血の雨さえ降らせている。
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これは、下筌《しもうけ》ダム紛争史でいえば、最初のヤマ場となった一九六〇年夏の陣の緒戦についての記述である。筑後川治水計画の一環として国(建設省)が設定した下筌・松原両ダムを納得できぬと立上った水没予定地の里人達(熊本県阿蘇郡小国町志屋を中心に)が、山林地主室原知幸氏に率いられて壮大な山寨を築きダムサイトを占拠し続けていたが、この年六月二〇日、建設省は津江川を渡河してその蜂ノ巣城≠ヨの突入をこころみたのである。地元民との衝突は津江川の水中で起きた。
私の古い日記の短か過ぎる記述が、室原氏ら反対派に対して必ずしも好意的でないことは、地元妨害者《ヽヽヽヽヽ》という表現にあらわれている。多分それは、当時の新聞論調の反映なのであったろう。筑後川下流域を豪雨禍から護るには、どうしても上流にダムは必要であり、それを財力にまかせて反対し続けている肥後もっこす≠フ老人に、世間の大方と同じく私も又眉を顰めていた気配である。
まさか一五年後、その室原知幸氏の抵抗の軌跡を追ってひたぶるに書くことになろうとは、夢にも思わぬ私であった。古い日記を繰り続けても、これ以外に下筌ダム紛争に関しての記述は見出せない。これ以後、尚一〇年間にわたって老人の孤高な抵抗が続いたことを思えば、わが里(大分県中津市)から遠くはない谿間の闘いの意味を、私は理解出来なかったのだというしかない。その紛争が一応終熄したのは、老人の死によってであった。室原知幸氏は、一九七〇年六月二九日に亡くなっている。
大きく報じられた稀代の反骨老人の死に、私は感慨を抱いたであろうが、それも日記には残されていない。無理もないことであった、その時の私は自身の問題に懊悩していたのだから。その六月、私は豆腐屋を廃業し著述で立つことを選択したのであった。零細な豆腐屋として、夜中の二時に起床して夜まで働き続けた無休の一三年間、私は全く家ごもりの生活に縛られて来た。一人の友も持てぬまま、気付いてみれば孤独な二十代は終っていた。自分には、ついに青春がなかったという焦燥が私を駆り立てた。世事を日記に書き写すことで、おのが卑小で単調な生活に彩を添えるというひそかな慰藉も、もうむなしかった。家から一歩踏み出して、私も又行動してみたい(社会とつながってみたい)という積年の念いが昂じた果てに、唐突に私は豆腐屋を廃業したのであった。田舎町にあって、著述を業として一家を扶養できるのかという生活不安は深刻であったが、そういう背水の陣を敷いてこそ、私は遅まきの青春を生き直すことが出来るのではないかと、賭けるような思いなのであった。
考えてみれば、私が豆腐屋として苦闘した一三年間は、室原知幸氏が国家の公権に抵抗した一三年間とそっくり重なっていることになる。
だが、著述を業として立つと決めた一九七〇年六月、私の視線はまだこの老人に向かっていなかった。私の視線が縋るように老人に向かうのは、ひとつの激しい体験を経てからのことである。
一九七二年六月、私は中津市において「周防灘開発問題研究市民集会」を主催している。
新全国総合開発計画で打ち出されたスオーナダカイハツは、山口・福岡・大分三県にまたがり、遠浅の周防灘沿岸を水深一〇米までべったりと埋め尽してコンビナートを造成しようという超規模計画であった。既に先進地では、繁栄の陰の公害問題が深刻化していたが、もともと工場のない田園都市である中津では、開発志向は市民の間に瀰漫していた。誰も、本当にはその計画の中味を知らぬままに、いや、知らぬから一層それはバラ色の発展幻想を増幅させていたといえる。
本当にそれは私達市民にとって歓迎すべきものなのかどうか、まず中味を吟味しようじゃないかというのが、研究集会を呼び掛けた私の趣意であった。家に閉じこもってなんの行動にも無縁であった私が、そこまで立上るには随分な逡巡があった。それでも、そうせざるをえないほどに、私の不安は突き上げていた。私が豆腐を積んで夜明けから日没まで日に幾度も往き来した河口が埋め尽されて、そこに銀色の石油タンクが立ち並ぶということは、想像するだに耐え難いことであった。孤独な一三年間に慣れしたしんだ〈私の風景〉が破壊されようとしていることに手をこまねいていることは出来なかった。研究集会を機に結集した多くの市民と共に、私は周防灘総合開発反対の運動に踏切った。当面の具体的な目標は、隣り町の海岸を埋めて立つ巨大な火力発電所を阻止することであった。電力エネルギーがなければ、開発行為は不可能となると考えた。
だが、勢いよく燃え上った反対運動も、わずか一年足らずで消えこんでいった。誰しもが|お世話になっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》電力という公共性に抵抗するだけの強靭な反開発思想を弘く全体化できなかったからである。それでもなお反対を罷めない私達少数者は、弁護士すらついてくれぬ差止訴訟を提訴したが、その係争中に電力会社は海岸の強行埋立に着工したのであった。
一九七四年夏、私は埋立の進行する海岸に、毎日抗議の坐り込みに通った。それは、無力な意志表示であった。海岸のわずかな人数の坐り込みなど視えないような沖で、クレーン船は傍若無人の捨石作業を続けていた。海上に乗り出してそれを阻止しようとした同志は捕えられて獄中にあった。多くの市民は、海岸でのそんな出来事も見ていないようであった。私の孤独は濃かった。
その時である、私の視線が縋るようにあの老人へと向かったのは。
私は、対比すれば全く小規模ながら、確かにあの老人があゆんだと同じ道程を辿っていることに気付いた。眼前に巨大なダム堰堤のコンクリート壁がそびえてゆく時、あの老人の孤独はいかに極まっていたろうか。部落中すべてが闘いを捨てて移住していった廃村で、しかし彼は抵抗の意志を折らなかった。
あんな老人が居たと思うことが、その夏の私の支えであった。あの老人の勁さを思うことで、私はともすればくずおれそうなおのれを叱咤し続けた。
あの老人のことを、もっともっと知りたいと願った。関係図書をことごとく読み、新聞スクラップにも目を通したが、なお私の渇望は癒やされなかった。
自身で、あの老人の抵抗の軌跡を辿ろうと私は決めた。
故・室原知幸氏について書こうと決めた時、その未亡人ヨシさんが日田市に健在で、しかも闘争中も日記を残されていたという点を、私は余程|あて《ヽヽ》にしていたといえる。知幸氏に最も寄り添って生きた人の直話を聴き、その日記を見せてもらえれば、それだけで老人の闘争の軌跡の核心を辿れると考えたのは当然であったろう。
ヨシさんを初めてお訪ねした日、私の目算はみごとにはずれてしまった。私のたたみかけるような質問に、彼女は「さあ、そのことはわたしはようと知りませんですがねえ」と済まなさそうに答えるばかりであった。そんなことがあり得るだろうかと、私は猜疑した。あれだけ天下に喧伝された大闘争を、その妻なる人がほとんど答え得ないということがあるだろうか。だが、彼女は故意に語るまいとしているのではなかったし、又、六十八歳の彼女の記憶が薄れているのでもなかった。どうやら、彼女はあの一三年間の闘争にあって全くつんぼ桟敷に置かれ続けていたらしいと確認した時の、私の驚きは大きかった。
「あん永い闘争ん歳月、何がどげぇしてどうなっちょるちゅうよな説明は、主人からはひとこつも聞かざったつです。そげな馬鹿んこつがち思わるるでしょうが、これはもう室原知幸ちゅう男を知らんお方にゃ、分ってもらえんこつかもしれませんですね」
そういってぽつりぽつりと語るヨシさんの話から浮かび上って来たのは、家庭にあっては想像を絶した暴君の姿であった。
「女子供に何が分るか」
己が一人の力を恃んで国家権力と拮抗した室原知幸氏は、そういって妻ヨシを闘争から切り放していた。
|あて《ヽヽ》にしていた取材源を喪った私は途方に暮れたが、やがて思いがけないあらたな興奮がこみ上げるのを感じた。これだ、これをこそ書かねばという興奮であった。
これ――というのを、どう表現すれば適切だろうか。仮りに、妻の視線と呼んでおこう。天下に名を轟かす壮大な闘争を持続している夫の陰で、ただおろおろと夫の健康を気遣い、押寄せる来客の日々の食事を心配し続けた妻。できれば、こんなことはもう早く罷めて、昔の平和な里の生活に戻りたいとひそかに希いながら、それを夫に向かってはいえなかった妻。室原知幸氏の壮大な対国家闘争を、たとえば太々とした緋色の糸で織るかのように叙述してゆくなら、その中に私は妻ヨシさんの視線を細い一本の糸でしのびこませたいと切実に思った。
ここ数年――ということは、私自身が反開発運動の渦中に入ってからの歳月となるが、|闘いの哀しみ《ヽヽヽヽヽ》ということを、しきりに考え続けている。どのような闘争にせよ、それを報道などがとらえてニュースとするのは、|絵になる《ヽヽヽヽ》戦闘的な場面でしかないのであって、それがいわば闘争の公的な顔≠ノなっていくのだが、そしてまさにその顔≠アそが闘争には違いないのだが、そういう公的な顔≠ナない、日常的な陰の部分に、いつも私の思いはひそんでゆくのだ。生活に憊れ、孤立に耐え切れずに、もういっそ安穏な生活に埋もれてしまいたいとひそかに思うこともあるひとりの時間を、どんな猛々しい闘争者もきっと持っているのだと思う。そういう|闘いの哀しみ《ヽヽヽヽヽ》を匿し持たぬ闘争者を、私は同志として信じ切れないという気がする。
余りにも勁過ぎる姿をしか印象づけなかった室原知幸氏にも、闘いの哀しみが浸すように湧いてやまぬ日は、必ずあったろう。これまでどのような記録者も見抜けなかったこの老人の哀しみを、妻の視線だけはとらえ得ているのではなかろうか。
「語って下さい、なんでも――」
「いえ、もう本当にダム闘争んこつは、わたしは知りませんから」
「ダム闘争のことは、もういいんです。あなたの生活を聴かして下さい。あの、水没前の谿間の里の日々のことを……」
ヨシさんは寡黙な老女である。
「ほんとによい所でしたねぇ、志屋ちゅう部落は――」
白い細い糸を、寡黙な繭からつむぎ出してゆくのに焦ってはならなかった。彼女の話を聴き取るのに、私は一年をかけた。
私の『砦に拠る』が完結した時、ヨシさんは告げるのだった。
「あなたのお書きになるのを読みながら、初めておとうさんの生前のことが、ひとつひとつ、ああ、あれはこういうことだったのかと納得できました」と。その一言が、筆者へのなによりのねぎらいとなった。
[#地付き](PR誌「ちくま」一九七七年九月号所収)
松下竜一(まつした・りゅういち)
一九三七年大分県中津市に生まれる。豆腐店自営を経て、一九七三年、「豊前火力絶対阻止・環境権訴訟をすすめる会」発足に参画、代表として活躍。著書に『豆腐屋の四季』『海を守るたたかい』『ケンとカンともうひとり』『記憶の闇』など多数ある。
本作品は一九七七年七月、筑摩書房より単行本として刊行され、一九八九年一〇月、ちくま文庫に収録された。