杉本 苑子
続 今昔物語ふぁんたじあ
目 次
沼のほとり
出《しゆつ》 離《り》
犬がしらの絹
馬にされた商人《あきゆうど》
鷲《わし》の爪
婢《はした》 女《め》
碁仙人《ごせんにん》
榎屋敷《えのきやしき》の女
狩人《かりゆうど》と僧
銅の精
笛を砕く
指の怪
父を食った男
きつね妻
五位の休日
あともどり谷
沼のほとり
1
東どなりの空《あ》き家《や》に、人が住みついた。丹生《にぶ》の雄鳥《おとり》と名のる二十七、八の青年である。
「どうか、よろしく」
と、隣づきあいを始めるにあたって、玉女《たまめ》の家にも、礼儀ただしくあいさつにきた。箔置《はくお》きを、手職《てしよく》にしているという。
「どんなことをするのかしら、箔置きって……」
弟の千幡《せんまん》に、玉女は訊《き》いてみた。
「木彫りの仏体や屏風《びようぶ》、色紙形《しきしがた》なんぞに、金銀の箔を貼《は》りつける仕事じゃないのか」
「むずかしそうね」
「根《こん》がいるよね。金箔なんて、紙より薄いそうだもの、息をつめるようにして貼るものらしいよ」
ほとんど家にこもりきりなのに、なんでもよく知っている弟だと、玉女は感心する。
「でも、そんなこまかい手仕事をするひとには、見えないわね」
「職人というより、武者みたいだね」
背がたかく、肩のがっしり張った、雄鳥はいかにも健康そうな、たくましい身体つきをしていた。
顔だちも、きりっと緊《しま》って男っぽい。眼の配《くば》りがやや、するどすぎるのが、はじめはとりつきにくかったが、笑うと、精悍《せいかん》さが消えて、したしみやすい、きさくな印象に変わる。
口かずは、すくない。そのくせ雄鳥が、こまかいところにもよく気のつく、あたたかな性格の持ちぬしであることは、まもなくわかった。
「買いすぎてしまったんだ。食べてくれないか」
てれくさそうに言いながら、玉女の家の水屋口に、野菜や魚、ときには米、塩、醤《ひしお》のたぐいまで、雄鳥はさりげなく、置いていってくれるようになった。
「いやに、なれなれしいやつだなあ」
と、警戒を口にしたのは、千幡だった。
「家族はいるの? 雄鳥さんて……」
「いえ、独《ひと》り者よ」
「用心したほうがいいよ姉さん、なにか下心があっての親切に、きまっているもの……」
腹だたしげにいう弟の、人みしりの強い性格に、さからうまいと、つとめながらも、玉女は反射的に頬にほてりをおぼえ、あわてて顔をそむけた。
彼女はじつは、千幡とは逆に、隣人の好意がうれしかったのである。病弱な弟を女の細腕にかかえて、貧乏ぐらしに、疲れきっていたさなかなのだ。
九ツのとき、腰にはさんでいた草刈り鎌《がま》に落雷して、千幡は半身不随になってしまった。即死しなかったのがふしぎなくらいだが、いらい、どうやら動く片方の手足も、成長はいちじるしく遅れて、ぜんたいにコオロギさながら痩《や》せほそったまま、一日のほとんどを、寝たり起きたりの状態で送っている。杖にすがれば、わるいほうの足をひきずってでも、歩けないことはないけれども、足萎《あしなえ》だの、よいよいだのと、村の悪童たちにからかわれるのを口惜《くや》しがって、めったに外へ出てゆこうとしない。
姉の玉女は十八。千幡は、二つ下の十六……。頭はよく、読み書きもできる。寺の長老から仏典など借りて、だまって読みふけっている姿はたのもしかったが、また、玉女にすればそれだけに、どこか気むずかしく、扱いにくくもある弟の日常なのである。
麻布を織って、姉弟《きようだい》二人の生活を、玉女はけんめいにささえていた。日がな一日、機《はた》の前に坐りつづけても、手間賃は法外に安く、貧苦からぬけ出すことができなかったのに、となりに雄鳥が移ってきてからは、目に見えて毎日があかるく、ゆたかになった。
みなしごの姉弟に、雄鳥は同情をよせているが、優位に立つ者の哀《あわ》れみと、それをとられないように、こころづかいしてくれているらしい。
「こんな柄《がら》、似合うかな」
やがては食物ばかりでなく、小袖や帯、鏡や櫛《くし》といったくらしに役立つ雑具まで、それもなかなか高価そうな品を、
「おみやげだよ」
と、持ってきてくれるようにさえなったけれども、雄鳥が家で仕事をしているのを、玉女は見たことがない。職人仲間がたまに出入りし、なにごとか打ち合わせたり、つれだって出てゆくのを見かけるばかりであった。
「京の仏師の家に寝とまりして、その工房で箔を貼るのだ」
と雄鳥は説明し、十日、二十日、ときには一ヵ月も家をあけることがある。
旅みやげは、留守番をたのむための礼がわりに、贈ってくれるのだが、
「よごれもの、たまったでしょ?」
玉女も返礼のつもりで、洗濯や縫い物など、なにくれと雄鳥の身の廻りの世話に心を配った。ささやかな手伝いでも、雄鳥に感謝されるのが、うれしくてならない。気持に張りができ、表情まで玉女はいきいきしてきた。
「姉さん、急に近ごろ、きれいになったね」
さぐるような眼で千幡は言う……。
「恋したんだろ? 雄鳥さんに……」
あきらかな反感が、その口ぶりには燃えていた。
「雄鳥さんも姉さんを好いてるよ。はっきり、おれにはわかる」
「そんなこと、あるもんですか」
ムキになって否定しながらも、玉女は知っていた。弟の察しの通り雄鳥もまた、自分を愛しはじめてくれている事実を、彼女は痛いくらい感じ取っていたのである。
2
隣り同士、独り身同士だ。若い二人が他人でなくなるのに、さほど時間はかからなかった。
二軒の家は村のはずれに並んで建ち、道をへだててだらだらくだりに、前は蘆原《あしはら》につづいていた。その先は、めぐり五丁ほどの沼である。鯉がい、鮒がいる。なまずが釣れ、うなぎも捕れた。州《す》を吹きわたる風が涼しい。
雄鳥と玉女は、蘆の葉のそよぎのかげによりそって、水禽《すいきん》たちのさえずりに祝福されながら熱く、固く、抱擁し合うひとときを、くる日くる日、飽きることなくたのしんだ。
「もう夫婦《めおと》だよ。家を分けていることはない。晴れて一緒にくらそうじゃないか」
雄鳥の提案を、
「うれしいわ」
涙いっぱいな眼で、玉女も受けた。
「夫婦だと、おっしゃってくれたお言葉にすがって、わたしもうちあけます。あのね雄鳥さん」
指の先まで、玉女はまっかになった。
「わたしね、赤ちゃんができたらしいの」
「なんだって!?」
撓《しな》いそうな女の肩を、折れるかと思うほどの力で、雄鳥は抱きしめた。
「ほんとうかい? 玉女さん」
「たぶん、まちがいはなさそうだわ」
「そいつはすてきだ。でかしたぞ」
男の狂喜が、玉女にも夢のようなよろこびだった。
「じゃ、生んでいいのね」
「世帯を合わせよう。村の人たちにもこうなったら、二人の仲をはっきりみとめてもらうほうがいいからね」
「でも、弟が……」
あなたを嫌っているとは、あからさまには言いづらい。
「そうだ。わすれてた」
ふところから打ち紐《ひも》のかかった小さな木箱をとり出して、雄鳥は玉女の掌《てのひら》にのせた。
「これ、ためしに千幡にのませてごらん」
「お薬?」
「唐から舶載された霊薬だ。珊瑚樹《さんごじゆ》の粉末を練って作った丸薬でね、万病に効験があるそうだよ」
「万病に!?」
「唐物《からもの》を扱う商人に手を回して、たのんでおいたんだ。千幡の身体をなんとしてでも、よくしてやりたいと思ってね」
玉女は、むせびあげた。
「ありがとう雄鳥さん、ご恩はわすれないわ」
「恩だなんて、水臭いことを言ってはいやだな。あんたの弟は、おれの弟でもあるわけじゃないか」
渡された高貴薬をにぎりしめて、玉女はとんで帰ったが、暗くなりかけた家のどこにも、弟のすがたは見えなかった。めったにないことである。
「千幡ッ、千幡ッ」
よびながらいま一度、表へ出たとたん、もどってきた弟と出あいがしらにぶつかった。
「あんたまあ、不自由な身体で、どこへ行ってきたの」
「寺さ」
杖を投げ出して、千幡はペタと框《かまち》に腰を落とした。肩でぜいぜい息をしている。
「くたびれたのね。本を借りるなら、わたしが行ってきてあげたのに……」
ささえて、家の中へ入れてやりながら、
「雄鳥さんに、唐渡《からわた》りの霊薬をもらったのよ。あなたの身体にも、きっと効くと思うわ」
玉女はいそいそ、木箱をとり出した。
「唐の薬だって?」
掛け紐をとき、ふたを払って、釉《うわぐすり》のかかった小さな壺から中身をつまみ出すと、
「やっぱりそうだ、あの雄鳥って人は、盗賊だよ姉さんッ」
千幡はやにわに、大声をあげた。
「ほら、ごらんよ、この、赤いきれいなつぶつぶ……。珊瑚だろ。朝廷の宝蔵《ほうぞう》から消えてしまった秘薬にちがいないよ」
「なんのことなの千幡、あなた、なにを言ってるの?」
「寺へいま、国庁の役人がやってきて、長老さまや村長《むらおさ》に告げていたんだ。夜叉神丸《やしやじんまる》とやらいう盗賊の一団が、ここ一、二年、都を荒らし廻っているが、ひと月ほど前、宮中《きゆうちゆう》の納殿《おさめどの》を破って、衛府の官人を殺傷したあげく、かずかずの宝物をうばって逃げた。万一、うろんな噂《うわさ》をききこんだら、ただちに密訴して出よ、盗まれた品の覚えはこれこれと、触れ書きの写しを見せた中に、たしか珊瑚の薬もあったよ」
小きざみに、玉女はふるえだした。
「前からおれは、あの人を怪しいとは思っていたんだ。たかが箔置きのくせに、景気がよすぎるものね」
眼を血走らせ、千幡は気おい立って姉に命令した。
「さあ、この薬を証拠にそえて、姉さんいそいで、寺か村長の宅へ知らせに行ってくれよ」
「わたしにあの人を、訴人しろというの?」
つい、玉女の声はひきつった。姉の恋を、知らない千幡ではないはずなのに、なんという思いやりのなさかと、胸が滾《たぎ》ったのだ。
「そりゃあ気のどくではあるさ。でも、かかわり合いが発覚したら、ただじゃすまないよ。密告すれば功に免じてゆるされるけどね」
「いやッ、いやッ、わたしには訴人などできないわ」
「半病人のおれに行けというのか? へとへとのおれに、もう一度、寺まで往復しろというのか?」
せきたてられ、むりやりに薬の壺を押しつけられて、玉女は仕方なく戸口を出たが、こっそり走りこんだのは、となりの雄鳥の家だった。
3
「そうか。こんな田舎にまで手が回ったか」
ゆがみ笑いに雄鳥は笑って、
「逃げよう玉女」
口ばやに言った。
「どこへ?」
「どこでもいい。おれのゆくところへついてくればいいんだ」
「じゃあ、やはりあなたは、夜叉神丸とやらいう盗賊だったのね」
「おれはそんな、首領株じゃないが、手下の二十人ぐらいは預かっている男さ」
お腹の子……。その父が、官に追われている賊の一味だったとは!
「さ、行こう」
腕をつかんでうながす男へ、
「待って」
玉女はしがみついた。
「弟を……あの弟を、残してはゆけないわ」
「ばかをいうな、あんなごくつぶし、足手まといになるばかりじゃないか」
噛《か》んですてるように雄鳥はいった。玉女がはじめて目にする怒りに燃えた顔だった。
「もう、こんなもの、どうでもいい」
薬の壺を、炉の火に叩きつけて、雄鳥はみじんに砕いてしまった。
「義理の弟と思えばこそ、危い橋を渡ってまで手に入れてやった品なのに、かえってこの薬を証拠に、姉のおまえをそそのかし、訴人させようと企《たくら》むとは、千幡め、なんという憎いやつだろう」
床下から革袋を二つ、雄鳥はとり出した。
「砂金だ。持っていてくれ」
そして胴鎧《どうよろい》を着こみ太刀をはき、
「いそげ」
うむもいわさず玉女を引っ立てて、戸外の夕闇へおどり出た。
「おねがい、せめてひと目だけ、弟に逢わせて……」
雄鳥は返事をしなかった。人が変わったようなきつい横顔に、玉女はおびえ、圧倒されて、ぐいぐい手をひっぱられながら沼べりの道をたどった。
蘆がさわぐ。人の足音におどろいて、眠りにつきかけた鴫《しぎ》や五位鷺《ごいさぎ》が、ギャギャッとけたたましい声をあげ、羽音をたてた。
道はぐるりと沼のほとりを半周し、玉女たちの家からはま南にあたる対岸で、本街道に合していた。
「こんなこともあろうかと用心して、向い岸の百姓家に、馬をあずけておいたんだ」
そこまで行きつけば、遠国へとぶこともわけはないと、せかされて、夢うつつのように足をはこぶうちに、玉女は下腹が痛んできた。
「ね、わたし、ちょっと……」
「どうした?」
「くだりそうなの」
「しようがない。はやくしてくるんだぞ」
蘆を分けて、玉女は水ぎわへおりた。
「見ててはいやよ。もう少し離れていて……」
「ばかだな、恥かしがっている場合か」
それでも十間ほど遠のいて、雄鳥はこちらに背を向けた。
茂みにしゃがむと、しかし嘘《うそ》のように腹痛はうすれ、悲しみがこみあげてきた。五体が、まんぞくでない弟……。
「ひねくれ根性のくせに、なまかじりの学を鼻にかけて、たかくとまっている」
と爪はじきされ、日ごろ村の者たちに白い眼で見られている弟が、姉の自分にさえ捨てられたら、いったいどうなるだろう。乞食《こじき》か、餓《う》え死か……。結果の悲惨は、火をみるよりあきらかではあるまいか。
「せめてこの砂金を、ひと袋だけ、置いてきてやったら……」
金の力で、どうにか一人でも生きてゆけるに相違ない。――そう、思いつくと、玉女は矢も楯《たて》もたまらなくなった。
雄鳥は腹を立てるだろうが、どうせ盗んだ金なのだ。玉女は小袖をぬぎ、石にかぶせて、うずくまっている形に見せかけると、下着一枚になって足さきを、そっと水に入れた。
「まだか」
声がした。ぎょっとしてふり返ったが、雄鳥は正直に、まだ向こうを向いたままだ。
「もうじきよ」
答える声がふるえた。西の山ぎわから月が出て、さざ波が金色《こんじき》にきらめき立った。明るさがこわい。
砂金の一つは小袖のそばに置いた。ひと袋だけを身体にくくりつけ、玉女は水にもぐって抜き手をきった。沼べり育ちである。水練は魚に負けない。
沼のまんなか近くに岩が二つ三つ頭を出している。つめられるかぎり息をつめて、やっとその一つにとりつき、岩かげに顔をかくしてふり返ると、南の岸ははるかに遠のき、待ちくたびれたのか蘆を分け分け、小袖に近よってゆこうとしている雄鳥の姿が、小さく見えた。
「かんにして……。すぐ、もどってきます」
心のうちで詫びながら、こんどは水面に顔を出して泳いだ。わが家の灯が、暗い北岸にまたたいている。その灯を目ざして、玉女は死にもの狂いで水を掻《か》いた。
「千幡ッ」
ようよう州へあがり、濡れそぼった半裸の身体を覆《おお》うゆとりもなく、家にかけこむと、
「姉さん、帰ってきたねッ、やっぱりおれを、置きざりにしたわけじゃなかったんだね」
頬を涙でよごしながら、弟が框《かまち》へまろび出てきた。
「いえ、すまないけど、また行かなければならないの。わたし……わたし……」
雄鳥さんの子をお腹に宿しているの、とは、言えないままに、砂金の袋を玉女は弟の手ににぎらせた。
「だめだ。もどってもむだだよ姉さん、雄鳥さんの逃亡を知って、おれは通りがかりの百姓を村長の屋敷に走らせた。いまごろは街道の要所要所に、国庁の兵が馳け向かっているはずだよ」
言いざま、やにわに玉女の胸へ、千幡はかじりついてき、
「おれ、姉さんが好きなんだ」
狂気のように哀願しはじめた。
「行かないでッ。たのむ、たのむよ。おれのような、こんな身体でも、時がくれば男になる。……姉さんッ、おねがいだ。雄鳥さんのことはあきらめて、おれと……お、おれと……」
「お前まあ、なんてことを……」
力まかせに、玉女は弟をつきのけた。獣《けもの》に堕《お》ちた千幡! 雄鳥に嫉妬し、報復の一念に常軌を失った千幡!
抱きすくめられた肌のあとが、変色し、腐ってでもゆくようなおぞましさと同時に、歪《いびつ》な性の目ざめにおののく弟の、不具の肉体へ、どっと、憐《あわれ》みが突きあげてきた。身をひるがえして玉女は月明かりの路上によろめき出た。
国府に近い街道ぞいで、雄鳥が追手の重囲におちいり、斬《き》り死をとげた時刻――。
対岸へもどるのをあきらめた玉女は、ひっそり、縊死をとげていた。水につよい彼女がえらんだのは、みじかかった雄鳥との、忘我の日々を、屋根裏から見おろしていたであろう隣の家の梁《はり》であった。
出《しゆつ》 離《り》
1
主人の訪《おとず》れを告げようとして行列よりひと足さきに、松明《たいまつ》をふりふり屋敷の門をくぐった小《こ》舎人童《とねりわらわ》の多聞丸《たもんまる》は、暗《くら》がりからとび出してきた男に、いきなり肩をつかまれて、
「だ、だれだッ」
のけぞった。
「しッ、大きな声を立てるな。おれだよ」
炎《ほのお》の揺《ゆ》れの中に、皺《しわ》だらけな顔をつき出したのは、多聞丸同様、三位《さんみ》の中将・藤原|雅道《まさみち》の邸内に召し使われている老雑色《ろうぞうしき》だった。
「や、じいさんお前、なぜ、このご別邸になど来ているのだい?」
「北ノ方さまのお供《とも》で、やってきたのさ」
「なんだって!? ここへ北ノ方さまがおいでになったって?」
「奥では今、たいへんな騒ぎが持ちあがっている気配《けはい》だ。ご主人の中将さまが、なにも知らずに乗りこんでみろ。三つ巴《どもえ》の大騒動になるのは目に見えている。いそいでお止《と》めしてこなければまずいことになるだろう」
言われるまでもない。藤原雅道はこの別邸に、ひそかに愛人を囲《かこ》っているのだ。
あたふた、多聞丸はひき返して、
「たいへんですッ」
あわや門前にさしかかろうとしていた主人の牛車《ぎつしや》に、走り寄った。
「邸内におはいりになってはなりませぬッ」
「どうしたのだ多聞丸、なにをそのようにうろたえている」
簾《すだれ》をあげて、雅道は顔をのぞかせた。
「北ノ方さまが、押しかけて来ておられます」
「なに」
「ご本邸からお供してきた雑色が、待ちうけていて、こっそり耳うちしてくれました。そういえば篝火《かがりび》のほの明りで、車宿《くるまやど》りにとめてある北ノ方さまの女車も、見えたようでございます」
「そうか。とうとう妻にカンづかれたか」
いま雅道は、宮中《きゆうちゆう》からの退出途上である。
「このまま、ここを素通《すどお》りして、ご帰邸なされませ」
と、車副《くるまぞ》えの随身《ずいじん》たちも、しきりにうながしたが、
「いや、やはり私が行かなければ、とりしずめることはできまい」
雅道はきき入れなかった。
カッとすると、なにをしでかすかわからない妻なのだ。ののしられ、責《せ》めたてられて、わななき恐れているであろう愛人の身の上が、たまらなく気になった。
車はただちに、邸内に曳《ひ》き入れられた。しかし一歩、おそかった。わずかな侍女たちにかしずかれて、女が起居している西の対《たい》ノ屋……。雅道がそこへかけつけたとき、出合いがしらに、妻が廊下へとび出してきた。その、形相《ぎようそう》のすさまじさに、雅道は思わず棒立ちになった。
「よくもわたくしに、煮え湯をお飲ませになりましたね」
血走った眼で、妻は雅道をにらんだ。
「女はわたくしから、あなたさまを奪い取った盗人《ぬすびと》……。思い知らせてやりましたよ」
言いすてると、ばたばた廊下を走り、自身の車を曳き出させて、あとも見ずに本邸へもどっていってしまったのだ。
部屋の中では、女房たちが泣きさけんでいた。
「医師を早くッ」
「それより、ご祈祷《きとう》を……ご祈祷を……」
妻が嫉妬《しつと》に狂って、女を絞《し》め殺したのである。どれほどの念力《ねんりき》を、両手に籠《こ》めたものか、
「しっかりしてくださいッ、気を、たしかに……」
抱きあげて、呼んでも、ゆすぶっても、すでに正体《しようたい》はなかった。身体は、みるみる冷えてゆく……。
雅道は呆然となった。なんという惨《むご》い、そして、あっけない別れ方か!
医師が来た。祈祷僧もやってきたが、こときれた者がいまさら蘇《よみがえ》るはずもない。歎き悲しむ主人のすがたを、多聞丸はかいま見て、
「いよいよ夕顔の宿、そっくりな結末になってしまったなあ」
まだ十七歳の少年ながら、そぞろ、涙を誘われた。
宮廷の女房や廷臣たちのあいだに、いま熱狂的に読まれている源氏物語を、多聞丸も、草紙《そうし》好きの姉から聞かされて、あらすじだけは承知していた。そして、つくづく思ったのは、物語の中の夕顔の巻と、主人・雅道の恋の相似《そうじ》であった。
源氏の君が、光りかがやく美男子であるように、雅道も、男でさえほれぼれする端麗《たんれい》な容姿の持ち主だった。血統こそ、皇胤《こういん》ではないけれども、高官の家に生まれて天皇の信任も厚く、将来を嘱望《しよくぼう》されている青年貴族である。
夕顔の君は、軒端《のきば》に夕顔の花がほの白くからまり咲くような、あやしい賤《しず》が伏せ家《や》にかくれ住んでいたのを、光源氏に見いだされ、ひさしく荒れたまま放置されてあった某《なにがし》の院につれて来られるが、雅道の愛人も、よく似た経路をへて、別邸に囲われたのだ。
六条|御息所《みやすどころ》の生き霊《りよう》に襲われて、夕顔の君がはかなく生を終えたのと、おなじ死ながら本妻にふみこまれ、むざんにくびり殺されたのと……その点だけがちがう。現実は、物語より疎《うと》ましく、詩にも陰翳《いんえい》にも、はなはだしく欠けていた。
2
それっきり本邸へ、雅道は帰らなかった。
愛人の亡骸《なきがら》に添《そ》い臥《ぶ》して、生きていたときと変わらず口を吸《す》い、髪をなでていとおしむ。
「野辺《のべ》の送りをなさらないのですか?」
かたわらの者が見かねて訊《たず》ねても、
「葬《ほうむ》る気になれない」
かき抱《いだ》いて、離そうとしないのである。
そのうちに、死体は異臭を放ちはじめた。腐乱《ふらん》して、相貌もくずれだした。雅道はでも、憑《つ》きものでもしたような眼で、あさましい変化を見まもりつづけている。
「悲歎の極、発狂されたのではないか」
召使いたちは、ひそひそ耳こすりし合うようになった。
「愛童に先立たれた老僧が、執着《しゆうじやく》のあまり腐ったその、肉を啖《くら》い、血をすすって、ついに全身むさぼりつくし、生きながら鬼となった昔がたりもあるぞ」
などと聞かされると、多聞丸もうすきみわるく、
「あのお気のやさしい、お情けぶかいご主人さまが、鬼になったらどうしよう」
背すじに寒《さむ》けが走るのである。
やっとくちぐちに、
「仏も、このままでは浮かばれますまい。煩悩《ぼんのう》をお捨てなされませ」
いさめたのが効を奏したか、遺骸を鳥辺山《とりべやま》へ送りはしたものの、それを境《さかい》に、雅道の性格は変わりはじめた。
以前は、虫ケラさえ、やたらには踏んだりしなかった人なのに、蛇が蛙《かえる》を飲むありさまなどを、庭に出てじっとみつめたり、ささいな失策すらゆるさずに、奉公人をしばりあげて鞭打《むちう》たせ、苦悶するすがたを眺めていたりするようになった。
どこで聞いてきたのか、
「ついてまいれ」
多聞丸一人を供につれて、ある山村へ、わざわざ風祭りを見物に出かけたこともある。
風祭りというのは、五穀の豊穣《ほうじよう》を祈るために、雨の神、風の神を祀《まつ》る俗習で、猪《いのしし》、鹿など、山のけものを捕《とら》えてきて、四足を杭《くい》にしばりつけ、生きながら皮をはぐ行事だった。
「なんという、むごたらしいことを……」
と、血気《けつき》ざかりの多聞丸が眼をおおい、耳をおさえて、けものたちの苦痛のさけびを聞くまいとしたのに、雅道は顔をまっ青にしながらも、のた打つ犠牲《いけにえ》から眼をはなさず、終わりまで見通す熱心さなのだ。
(どうなさったのだろう)
多聞丸には、わけがわからない。
(ご主人さまは、やはり気が、訝《おか》しくなられたのだろうか。それとも魔物にでもとりつかれたのかしら……)
悲しかった。
なんとかもとの、柔和な、思いやり深い気質に、もどってもらいたかったが、その願いに反して雅道の嗜好《しこう》は、ますます残虐《ざんぎやく》な、血みどろな興味にかたむいてゆくようだった。
「雉《きじ》の煎《い》り煮が食べたいなあ」
と、ある日、彼は言い出した。
「新しいほどうまい。できれば生きているのがいい。さがしてまいれ」
台盤所《だいばんどころ》の者がさっそく手配して、まるまるとよく肥えた雉を一羽、求めてきた。
「すぐさま調理して、お持ちいたします」
見せただけで、さげようとするのを、
「待て」
雅道はとめて、
「庭で羽根をむしらせろ。生きながらだぞ」
と、命じた。
「生きながらでございますか?」
「そのほうが、美味と聞いた。こころみてみるがいい」
多聞丸はじめ、地獄図を予想して、ゾッと鳥肌立つ者も多かったが、中には獰猛《どうもう》な武者、郎党《ろうとう》など、
「おもしろい。われわれがいたしましょう」
すすんで仕事を買って出る者もある。
寄ってたかっておさえつけ、手あたり次第の乱暴さで羽根を抜きはじめると、雉は耐えかねて、けたたましい鳴き声を立てる。死にもの狂いの力をふりしぼって、人間どもの手からすりぬけ、地面を走ってのがれようとするのだが、翼を折られているためバタバタともがき廻《まわ》るばかりで、飛び立つことなど思いもよらない。
「こいつめ」
たちまち、また、つかまえて、むしりつづけられる苦しさに、鳥ながら血の涙を流し、断末魔《だんまつま》の悲鳴をもらすのを、
「鳥のぶんざいで、涙など、なまいきな……」
笑い興じる情けしらずもあり、さすがに眼をそむけて立ち去る侍《さむらい》もある。
(ああ、とてもたまらない)
多聞丸は物かげに逃げて、むかつく胸をおさえていたが、庭ではようやく、羽根をむしり終わったらしく、それでもまだ息のある雉の胸を、ぶつぶつ、肉刀で切り裂きはじめた。
「わあ、血がほとばしるわ」
「まだ死なぬ。しぶといものだなあ」
がやがや言う声にまじって、こんどこそ最後の、するどい、ながい絶鳴《ぜつめい》がひびき、とうとう雉の命の火は消えた。
「すぐにも煎《い》り煮して、持ってまいれ」
と調理人に言いながら、そのくせ雅道の額《ひたい》が脂汗でねばり、くちびるまで血のけを失っているのを、人々は奇異《きい》の思いで盗み見た。
(ごらんになるのが苦痛なのだ。がまんして見ておられたのだ。なぜ、それなら、こんな残酷な所業《しよぎよう》を、あえて命じられたのか)
だれにも理解できなかった。
やがて、おいしそうに料理されて、銚子《ちようし》、さかずきと一緒に、雉ははこばれてきたが、ならんで相伴《しようばん》にあずかりながら、
「やあ、うまい。殿のおっしゃる通り、生きながらおろした味は、かくべつですな」
追従《ついしよう》を言いかけた侍たちは、ひときれ、肉に箸《はし》をつけたきり、うつむいて、涙をこらえている主人のすがたに、ハッと息をのんで口をつぐんだ。
――雅道が行《ゆ》く方《え》をくらましたのは、その夜のうちだった。
3
前途を期待されていた官界の俊才である。朝廷からは大がかりな捜索隊が出された。
父大臣のおどろきとなげきは、まして深かった。心あたりという心あたりに、人をさしたて、しらみつぶしにたずね廻らせたが、それっきり、雅道の消息は絶えてしまった。
北ノ方は、親きょうだいのもとに引きとられた。
実家は受領《ずりよう》――。内福《ないふく》のきこえがたかい。八人もいるはらからの中で、北ノ方だけがたった一人、女の子だったから、手の内の珠《たま》さながら溺愛《できあい》されて育った。目鼻だちも、別邸の女より、むしろ立ちまさって見えたくらいで、その自信と誇りがきずつけられたことに、北ノ方は逆上したのだ。
人ひとり殺害した罪の重さに、しかしさほど、自責を感じている様子はない。
「わたしを、あんなさわぎに巻きこんだのも、けっく、あのかたがわるいからよ」
と、あべこべに雅道を恨んでいる。
わがままで、なんでも自分中心にしか考えられず、心に柔軟なふくらみがとぼしい。美貌ではあっても、その美しさに、匂《にお》いや潤《うるお》いがうかがえないのは、あんがいな知性のなさと、気性のがさつさに起因しているのかもしれなかった。
まだ、別邸の女が生きていたころ――。住吉の社《やしろ》に詣《もう》でた雅道は、浜辺でめずらしい貝をひろったことがある。小さな蛤《はまぐり》に、海松《みる》とよぶ海藻が房のように青々と附着しているもので、
「北ノ方にお贈りしてくるのだぞ」
と言いつけられたのに、うっかりまちがえて、多聞丸はそれを、別邸の女性に渡してしまった。
帰京してきて、雅道はけげんそうに、本邸の、北ノ方の居間を見回した。
「おもしろい土産《みやげ》をとどけさせたはずですが、どこに置いてあるのです?」
「なんですの?」
雅道は説明した。
「なあんだ、そんなもの……。いただいても仕方がありませんわ。蛤は焼くとおいしいし、海松も酢《す》のものにけっこうですけど、たった一つ、ひとつまみではね」
それにひきかえて、別邸の愛人のほうは、きれいな入れ物にうす塩の水をみたし、蛤を生かしてたのしげに鑑賞していた。
しくじりに気づいた多聞丸が、狼狽《ろうばい》して、
「ご本邸にお持ちする貝でした。お返しください」
と取りにいったときも、嫌《いや》な顔はせずに、
「めずらしいお品……。もしかしたら、あちらにさしあげるものなのではないかと思っていました」
ニコッと笑って、白い陸奥紙《みちのくがみ》に蛤を包み、
海人《あま》の土産《つと》 思わぬ方《かた》にありければ
見る甲斐《かい》もなく返しつるかな
即興に、ひと筆したためて、すぐ持たせてよこしている。海松《みる》(見る)と貝(甲斐)を詠《よ》み込んであるのは言うまでもない。こんなところにも、
「ちがうなあ」
と少年の多聞丸でさえ、双方の人がらの差を、感得せずにいられなかったこれまでなのである。
雅道の失踪後、屋敷の召使いたちはそれぞれに、あたらしい奉公先を見つけて分散して行ったが、多聞丸は、
「目はしのきく若者……」
と重宝がられ、北ノ方の実家につれもどされた。もともと、北ノ方の輿入《こしい》れにしたがって、雅道邸にやってきていた小《こ》舎人《とねり》なのだ。
「いやだなあ、このさいどこか、ほかの屋敷にかわりたいなあ」
ひそかにそう、望んでも、親の代からの奉公人では気ままはゆるされない。
まだ年も、女ざかりの北ノ方のもとには、娘のころにかえったように、やがてその美しさを慕って、男たちが文をよこしたり、通《かよ》ってきたりしはじめた。
女を殺した一件については、目撃者の口がかたく封じられ、実家の親たちがしかるべく要路に金品をばらまきもして揉《も》み消したため、罪にはならず、むろん、世間にももれていない。
北ノ方は、だが、男に言い寄られて若やいでも、心の奥底では、やはり雅道を忘れかねてい、その、自分の未練《みれん》に、自分で腹を立てているのだろう、
「なにをいつまでも、わたしを疎《うと》み、捨てて逃げた夫などに、こだわるのか」
愛情は屈折し、ゆがんで、歳月とともに頑《かたくな》な憎悪に変質してゆくようだった。
……ところが、すがたを消して三年目の秋。
北ノ方は人ごみの中に、偶然、憎い男を発見するという機会にめぐまれた。
雅道は僧形《そうぎよう》だった。それもボロボロの、ひどく粗末な黒衣をまとっていた。日に灼《や》けて、痩《や》せ緊《しま》り、しかしたくましく、健康そうには見えた。労働者の群れにまじって架橋工事の奉仕にいそしんでいるらしい。
北ノ方の眼が、獲物《えもの》をみつけた野獣さながら、ギラッと残忍《ざんにん》な光をおびた。
「つれておいで多聞丸、あの僧を、ここへ」
若者の胸はつぶれた。彼もまた、ひと目で雅道の姿に気づいていたのだ。
「なにをぐずついておる。はやくしないか」
やむなく走って、彼は僧のそばへゆき、
「ご主人さま」
おずおず、声をかけた。
「おお、多聞丸ではないか」
おぼえていてくれたのである。
「北ノ方さまが、お越しいただきたいと申されています。初瀬|参籠《さんろう》の、もどり道で……」
「あの、華やかな行列がそれか」
なんのためらいもなく、雅道は河原《かわら》から往来にあがり、ひときわ美麗な女車に近づいて、
「なに御用でござりましょうか」
ひくく、たずねた。
「ひもじそうではないかお僧、斎《とき》を布施《ふせ》しようか」
と、切りつける語気で北ノ方は言った。
「ありがとうござります。いただきます」
多聞丸に命じて、北ノ方は粽《ちまき》を出させ、犬に与えるように路上にほうり投げた。
「そこでお食べ」
おしいただいて雅道は、笹の葉をひろげ、うまそうに中の蒸《む》し飯《いい》を口にはこんだ。
「ほほほほ、多聞丸、みなもごらん。乞食《こじき》坊主がさもうれしげに、頬《ほお》ばっている図を……」
嘲弄《ちようろう》にも、眉《まゆ》ひとつ動かさずに、ほどこされた数を残りなく食べ終わると、
「おかげで満腹いたしました。感謝します」
おだやかに合掌、一礼して、雅道は工事現場にもどって行った。
いまこそ、疑問は氷解した。
すぐれた容姿、めぐまれた地位、将来の出世、ありあまる富……。社会的、家庭的な幸《しあわ》せのすべてをふり切って、出家|遁世《とんせい》し、不退転《ふたいてん》の金剛《こんごう》心をうち立てて生まれかわるためには、残虐の目撃に耐える試練が、まず、ぜひとも、雅道には必要だったのである。
(ご主人さま!)
往還《おうかん》の土ぼこりの中に、多聞丸はペタと両膝《りようひざ》を突いた。
愛人の腐乱死体、血まみれな猪、鹿、雉の悲鳴……。それらの発する強烈な力を借りなければ、現世欲の魅力をふり切れなかった雅道のあがきに、多聞丸は、人間の、もっとも人間らしい弱さを見、同時に、人間が、人間でなければ発揮できない強さを見た。
(おすこやかに! どうぞご主人さま、いつまでもおすこやかに……)
もりあがる涙にはばまれて、架橋工事の喧騒《けんそう》は、美しく、小さく、少年の眼の中に揺れてみえた。
犬がしらの絹
1
その毒薬は、ひとかかえもある素焼きの壺に入れられていた。
こわごわ雉女《きじめ》はのぞきこんで、
「ほんとに効《き》くの?」
疑わしげに李朋昌《りほうしよう》の顔を見あげた。
「試しに飲んでみますかね?」
李は笑った。
「雉女さんなんか、ひと口で即死しますよ」
「おお、いや。だれが試し飲みなんかするものですか。さきざき何年も、共《とも》白髪《しらが》まであんたと楽しもうというのに……」
「そうですとも。田畑から家屋敷、そっくりこの家の財産を乗っ取って……」
「シッ、めったな口走りをするもんじゃないわ。ひょっとして夫の安麻呂《やすまろ》に聞かれでもしたら、二人ながら命は無いわよ」
「大丈夫。つい今しがた、ご主人は鶴女《つるめ》さんの住居《すまい》へ出かけて行きましたよ」
「まあ、まっ昼間からまた、鶴女の家へ?」
うすい、形のよいくちびるを、口惜しげに雉女は噛んだ。
「あんな十人並みな、のろまな女のどこがいいのかしら……」
「のろまなのではない。鶴女さんは気だてが温いし、立ち居ふるまいがおっとりと、優しいのですよ。顔だけでくらべれば、たしかにあなたのほうが、ぐんと立ちまさっているけれどね」
「にくらしい。ぬけぬけとあんたまで、よくも鶴女の肩が持てたものね」
「だって、そうでしょう? あなたは本妻でいながら夫の目を盗んで、こうして居候のわたしと乳くり合っている」
「あんたが悪いのよ李さん、先に誘惑したのは、あんたのほうじゃありませんか」
「しかも雉女さんは、策を構えて妾をおとし入れ、やがては夫の安麻呂どのまでを亡きものにして、この家の財を奪うつもりでしょ」
「また、平気でそんなことを言う……」
男の口へ、雉女は指を押し当てた。
「あんたって人は、水もしたたる美男子だけど、二人きりの大事な秘密を、べらべらしゃべるのが玉にキズだわ」
「ほかの人間には、おくびにだって洩らしゃしませんさ。安心なさい」
「もっともその、あんたの大胆さ、ずぶとさに、わたしは惚れてしまったんだけど……」
「わたしも同じですよ雉女さん」
女の細腰《ほそごし》に、李は、手を回して引き寄せながら、
「あなたの悪女ぶりにぞっこん参って、火遊びのお相手ばかりか、悪事の片棒まで担ぐ気になったんです」
桃の花のようなその耳たぶを、そっと噛んだ。
「抱きしめてよ。もっと強く……」
喘ぎ声で、雉女もささやいた。
「一時の火遊びや浮気なんかじゃないわ。本気であたし、あんたを好いてしまったんだもの……晴れて、あんたと夫婦になりたいために、邪魔者たちを消してしまおうと思い立ったのだもの……」
「わかっていますさ」
柔かく、胸の上へ崩れかかってきた雉女の身体を、李は衾《しとね》におろし、衿の合せめから手を入れて乳房を愛撫しはじめた。
「われわれはもはや一心同体……。企《たくら》みはかならず成功させましょう」
「そうよ。手はじめにまず、夫と鶴女の仲を裂くこと……」
「毒液もたっぷり作ったし、決行は今夜です。あなたはたのしみに、成りゆきを見ていらっしゃい」
「いいえ、わたしも一緒に行くわ。見張り役ぐらい引き受けるわよ」
「そうですね、人に見咎められたら面倒だ。畦道《あぜみち》に立っていて、だれか来たら合図してください」
李朋昌の指は別物のように動いて、このまにも女の身体に、濃厚な刺激を加えつづけていた。雉女の言葉は、たちまち意味をなさなくなり、声は切れ切れな愉悦に変った。華奢《きやしや》な李の長身が、やおら、その上へ覆いかぶさった。
――その夜。
彼らが忍び込んだのは、鶴女の家の桑畑《くわばたけ》である。安麻呂の住む本宅からは二丁ほど離れた丘のすその、雑木林のかげに鶴女の家は位置していた。
李が片腕にかかえているのは毒液を満たした壺だが、何を、どのような方法で調合したものか雉女には明かさなかった。
「貿易商」
と自称するだけに、李は生糸《きいと》の鑑定にくわしく、売買の懸け引きにもたけている。安麻呂の屋敷へも、はじめ生糸の買い附けにやって来、幾度か出入りするうちに重宝がられて、長逗留《ながとうりゆう》するようになったのである。
「あんな若造が、れっきとした商人《あきゆうど》などであるものか。故国の高麗《こうらい》で、生糸問屋の手代かなんか勤めていたのだろう。どうせ食いつめて、はるばる日本へ流れてくるような異国人だ。ろくなやつではあるまいよ」
嘲《あざけ》り口調で言いながらも、安麻呂は李の風采の立派さ、もの腰の品のよさにごまかされて、嫌な顔もせず家に寄宿させ、取り引きの相談役にしていた。安麻呂の商売は、生糸の仲買いなのだ。
家でも手びろく養蚕《ようさん》をいとなんでいた。蚕の飼い立て、糸取りなどの采配は、もっぱら本妻の雉女が振るっている。
長者のくせに、吝《けち》で節約屋《しまつや》の安麻呂は、妾の鶴女をもただ遊ばせておくことをせず、蚕を飼わせ、絹糸をつむがせていた。李朋昌と雉女はこの、鶴女が預る桑畑に毒液を撒き、彼女の蚕を全滅させてしまおうと計画したわけであった。
「そんなことが、できるの?」
はじめ李に、企みを打ちあけられたとき、雉女は目をみはって言った。
「根もとに注《そそ》ぐだけなんでしょ?」
「そうですよ。それで充分なんです。日本へくる前に、わたしは中国|淮南《わいなん》の、揚州という港町にいたのですがね、そこで胡人《こじん》の薬種商から譲ってもらった毒薬です。土に沁みこませるとふしぎなことに木は枯れず、なった実や葉に効力が現れて、食べたものは人でも獣《けもの》でもばたばた死んでしまいます。蚕を殺すぐらい、わけはありませんよ」
「いまはちょうど、さかんに桑の葉を食べる時期だわ」
「大切な蚕を死なせてしまったら、えらい損失ですからね。勘定だかい安麻呂どのはきっと立腹して、鶴女さんをあの家から追い出しますよ」
「そうね、そんな落ち度を許す人じゃないわ。わたしもわきから焚きつけてやる。まちがいなく鶴女はお払い箱ね」
相談一決して、いよいよ今夜、毒液撒布の実行に取りかかったわけである。
月があかるかった。二人はごそごそ、桑畑にもぐりこんだ。
「大きな壺だけど、桑の木もずいぶん多いわ。足りるかしら……」
「ほんの小盃に一杯ぐらいでいいんです。これだけあれば余りますよ」
小さな貝杓子《かいじやくし》を、李は用意してきていた。液体を満たした壺は重い。撒きにくそうなのを見かねて、
「人通りを見張るよりも、撒くのを手伝いましょうか」
雉女は言った。
「そうですね、わたしがそれでは、壺を持つから、桑の木の根方《ねかた》へこの杓子で一杯ずつ、雉女さん、薬液をそそいで行ってください」
なかなかの根《こん》仕事だが、二人がかりならわけはない。一本一本、撒いてゆくうちに広い桑畑も、九分通り終りかけた。
うす気味わるい唸り声を聞いたのは、あと二十本ほどですっかり片がつこうという畑地のはずれだった。
「なにかしら、あの声……」
雉女がおびえて、李朋昌の腕へしがみついた。
「暗がりに、青い炎が二つ燃えている。獣《けもの》の目ですよ」
「犬だわ、畜生ッ、鶴女の飼い犬の、次郎丸よ」
うううと犬は唸り、
「あっちへ行けッ」
石くれをつかんで雉女が投げつけると、火の中の竹筒《たけづつ》が弾《はじ》けるように、突然けたたましい声で吠え立てた。
「なんて憎らしいやつだろう。顔見知りのわたしたちに、まるで盗人か仇敵《あだがたき》にでも遇ったように吠えかかるなんて……」
「良いことをしに来たわけじゃないからね、次郎丸にすれば、胡散《うさん》くさがるのも無理ありませんさ」
「吠え声を、人が怪しむわ」
「仕方がない。少し残っているけど切り上げて逃げましょう。これだけ撒けばじゅうぶん目的は果たせますよ」
畑の向うに家が見える。鶴女の住居だ。小窓の半蔀《はじとみ》がギギとあがって、
「どうしたの次郎丸、だれか来たの?」
声が聞こえた。
「しまった、鶴女が目をさましたわ」
「桑の木のかげを走れば見つかりゃしません。手を曳いてあげます。さ、おいでなさい」
次郎丸、次郎丸と女主人に名を呼ばれたためか、吠えながらも、犬は追うのをやめて窓の下へ駆け寄ってゆき、そのまに難なく二人は逃げのびた。
2
恐ろしい罠《わな》がしかけられているとは知らずに、鶴女はそれから二日のちに桑の葉をたっぷり摘み溜め、蚕に与えて、
「よい繭《まゆ》をたくさんつくっておくれ」
子供にでもしゃべる調子で語りかけた。
安麻呂の世話になって四年たつが、彼女には子がない。本妻の雉女も石女《うまずめ》なところをみると、安麻呂の側に子種がないのかもしれない。
その代り鶴女には、愛犬の次郎丸がいた。仔犬のころから貰って育てて、今年十一になる忠実な老犬である。蚕もまた、鶴女の大切な友だちだった。丹精がたのしみだし、生糸を取る作業もきらいではない。競《きそ》わせるようなことを安麻呂が言うので、知らず知らず、雉女と張り合う気持になり、糸の質や取り量を、
「本宅より良いものを、たくさんに……」
と願って、来る年ごとに心をこめて世話するのだった。
そんな鶴女だから、まるまると白く肥えて、毎日、元気いっぱいに桑の葉を食べていた上蔟《じようぞく》前の蚕が、なぜか急にぐったりし、透き通るように美しかった姿態まで枯れ枝さながらちぢまってしまったのを目にしたときの驚きは、ほとんど卒倒せんばかりだった。
「病気かしら?」
彼女は慄えた。まっ青になった。なぜ、いきなりこんなことになったのか、いくら考えても心当りはない。
懸命に、それでも手当してみた。思いつくかぎりの方法を試してみたが、蚕の異常は拡がるばかりだ。桑の葉は、むろん食べなくなり、色もどすぐろく変じて、つついても押しても動かなくなった。
「死にはじめた、ああ、どうしよう」
狂気のように鶴女は走った。安麻呂の家の、水屋口から土間へ倒れこみ、息たえだえに叫んだ。
「たいへんですッ、蚕が……蚕が……」
雉女が出てきて、
「なにをあわてているのさ」
冷ややかに框《かまち》から見おろした。
「蚕の様子が変なのです。片はしから死にかけていますッ」
水屋につづく板敷きの炉部屋で、湯漬け飯を掻きこんでいた安麻呂が、
「なんだと? 蚕がどうしたと?」
箸をほうり出して立って来た。
「急いで見にきてくださいッ、蚕が死にそうなんですッ」
「そ、そりゃ一大事だ」
突っかけ草履で土間へおり、
「来い、鶴女」
「はいッ」
もつれ合って出てゆくうしろ背へ、雉女がニヤと会心の微笑を投げかけたのを、二人は知らなかった。
蚕はもう、すっかり死滅してしまっていた。見るなり、安麻呂は棒立ちになって、
「このざまはなにごとだッ」
顔中に怒気をみなぎらせた。
「なぜ、大事な蚕を殺してのけたッ」
「殺しただなんて……」
男の足もとへ、鶴女は泣き伏した。
「あんまりです。わたし、一生懸命世話をしていましたわ。なぜこんなことになったか、見当すらつかないのです」
「なにか悪い物でも食べさせたんだろう」
「前の畑の桑だけですよ。毎年毎年、あの桑の木の葉を摘んでは、蚕に与えてきました。それでもこんな異変など一度だって起こらなかったのは、あなたもよく、ご存じのはずです」
「ええ、うるさいッ、いまさら言い訳を並べて何になる。蚕はおれの財産だ。人の宝を預りながら、死なせてしまいましたで済むと思うかッ」
「だって……わたしにも、わけがわからないのですもの」
「ばか者ッ、蚕を上手に飼い、良い生糸を取る能があるからこそ、きさまみたいなグズ女でも、いままで面倒みてやってきたんだぞ。こんなしくじりをしでかして、おれに大損かけるようではもう、勘弁ならん。今日かぎり縁を切る。とっととどこへなりと出てうせろッ」
「かんにんして……あなた、二度と失敗はくりかえしませんから……」
「いいや、許さん。その泣き面《つら》を見るだけでむかむかする。あと一刻のうちに出て行け、いいな、一刻すぎてなお、ここに居すわっていたら痛い目にあわせるぞッ」
どなり散らして安麻呂は帰って行った。
「しかたがない」
泣く泣く鶴女は身仕度した。わずかばかりな家財道具は、すべて安麻呂のものである。鶴女の私物といえば、ほんの二、三枚の着替えにすぎない。
「そうだ、次郎丸がいた」
犬は彼女が、この家へくる前から飼っていたものだ。
「いっしょについてきてくれるね」
と言うと、さっきから心配そうに女主人の顔を見あげていた次郎丸は、尾を振って、いかにも心得たようにひと声、吠えた。
出るといっても、差し当り行く先はない。むかし、まだ安麻呂の世話になる前に、老母と二人で寝起きしていた小家が、見るかげもなく荒れはてはしたものの、井出川の川岸にまだ、朽ち倒れずに残っている。
「ひとまず、あすこへ移ろう」
鶴女は思案して、履物へ足をおろしかけた。そしていま一度、未練げな視線を蚕部屋《こべや》の棚に走らせたとたん、
「おや」
その目を大きく見ひらいた。
「動いているものがある。蚕が一匹、死なずにいたのだわ」
なぜ、これだけが厄をまぬかれたのか、理由はわからない。ただ無性に、生き残ってくれていたのがうれしくて、鶴女はその一匹を着替えの包みの上に乗せ、
「おまえもおいでね」
はなしかけながら外へ出た。
次郎丸がついてくる。老母が亡くなり、鶴女もいなくなって以後、川岸の家は戸じまりされたきりだが、こじあけて入ってみると、当座必要な欠け鍋、茶わん、水甕《みずがめ》などはほこりまみれのまま残ってい、くらしにすぐ、さしつかえる心配がないのはありがたかった。
すこし川上に、水車番の小屋があり、そこの女房が目ざとく見つけて、
「鶴女さん、もどって来たのかい?」
戸口から顔をのぞかせた。
「ええ、またここに住むことになったの」
いちぶしじゅうを、鶴女は打ちあけた。
「そりゃあまあ、えらい災難だったねえ」
「いまだにまだ、狐につままれている思いだわ」
「本妻の、悪だくみじゃないだろうか」
「えッ? 雉女さんの?」
「きれいな女だけど、腹の中はわかったもんじゃないよ。ちょいと美《い》い男の高麗《こうらい》人が安麻呂さんの屋敷に居候してるだろ」
「ええ、李朋昌さんね」
「あいつと雉女さんが、出来ていると村では噂している者もいるくらいだよ」
「まさか……」
「あんたは人が好すぎるから、うまうまおとしいれられたのかもわからない。ま、しかし追い出されたものはしようがないやね。またしばらくここにいて、再縁の口でもさがすんだね」
「何かして、食べていかなければならないんだけど……」
「苧績《おう》みの内職を世話してあげるよ」
「おねがいしますね、おばさん」
母と二人ぐらししていた娘時代も、苧績みで糊口をしのいできたのだ。手慣れた稼ぎであった。
川原の土手に、野生の桑の木が一本はえている。だれも手入れをしないので丈が伸び、桑とも思えない高さに枝を拡げているが、さいわい青々と、葉を茂らせていた。
たった一匹生き残った蚕を、鶴女は小さな笊《ざる》に入れ、土手の桑の葉を与えて大切に飼った。可愛いくてならない。日なたへ出て苧をひねるあいだも笊をわきへ置き、
「おまえだけでも、どうか元気に育っておくれ」
時おり蚕にほほえみかけて、無聊な毎日の慰めにしていた。
それなのに何としたことか、ある日、これも日なたの草地で、うつらうつら寝そべっていた次郎丸が、いきなり起きあがると、笊のそばへのっそり寄ってきて、制止するまもなくぱくっとひと口に、蚕を呑み込んでしまったのだ。
「なにをするのッ」
鶴女は叱りつけ、思わず犬の頭をぶった。とたんに犬は、とほうもなく大きなくしゃみをした。すると不意に、その両方の鼻の穴から白い糸が二筋とび出した。
「おや、何だろう、これ……」
引き出してみると生糸だった。それも今まで、鶴女が見たこともないほど白く太く、きらきらと艶《つや》のあるみごとな糸ではないか。
「どういうことかしら……」
腑に落ちないまま引っぱると、するするいくらでも生糸は出てくる。
「まあ、ありがたい。夢のようだわ」
糸枠《いとわく》を持ち出してきて巻き取ったが、枠が一杯になってもまだ、糸は出てくる。
つぎはいそいで竹竿を二本渡し、そこへ巻きつけた。巻いても巻いても、しかし生糸の出るのは止まらない。とうとう竹竿も一杯になってしまった。
「うれしいッ」
鶴女は有頂天になり、こんどはそのへんに三ツ四ツころがっている空樽《あきだる》の胴へ、くるくる糸を巻きつけた。いくら繰っても、でも次郎丸の鼻の穴からは生糸が出る。ありったけの樽に巻きつけて、斤量にして五千両も繰り取ったと思うころ、犬は突然四肢をふるわして倒れ、それっきり息が絶えた。
「次郎ッ、次郎丸……」
取りすがって鶴女は呼びかけた。
「ありがとうよ。神ほとけがわたしを哀れとおぼしめし、おまえの身体に乗りうつって奇瑞を現じてくださったに相違ない。ご恩は忘れないよ」
犬の死骸を、彼女は丁重に、土手の桑の木の下に埋めて経《きよう》を手向けた。
鶴女の家のまわりにつみ重なって、まぶしく日の光を反射する白いもの……。
「雪のようだけど、いったい何だね?」
と、いぶかって、たしかめにきた水車小屋の女房は、
「あれまあ、極上の生糸じゃないか」
さけぶなり腰をぬかし、へたへた、その場へ坐りこんだ。
3
評判はたちまち村中にひろまった。
「見たか鶴女さんとこの生糸を……」
「この世のものとも思えないみごとな糸だなあ。ぎらぎら輝いて、節玉《ふしだま》一つない。量《かさ》も重みもたっぷりしている。どうしてあんな美しい糸ができたのだろう」
「犬の頭《かしら》の中から、鼻の穴を通って出てきたということだ。奇妙な話じゃないか」
「鶴女さんも、涙を流して言ってたが、まさしくこれは神仏のご加護にちがいない。追い出されたあの人を、きのどくに思って、恵みをお与えくださったのだよ」
安麻呂の耳にも、むろん噂は入ってきた。
「次郎丸の鼻から糸が出た? そんな阿呆らしい話があるものか」
半信半疑だった彼も、
「げんにこの目で見て来ました。いや、なんともかとも言いようのない立派な生糸です。あれなら都へのぼらせても、最高の値でさばけるでしょうよ」
奉公人どもにくちぐちに告げられて、
「そんなら見に行ってみようか」
ようやく腰をあげる気になった。
「雉女、おまえも行かないか?」
「いやですよ。わたしは……。そんな糸など興味ありません。どうせまやかしです。鶴女さんが何かいかがわしい手管《てくだ》でも使って、村びとたちの愚かな目をくらましただけの話でしょうからね」
「おれもそう思う。あの女の嘘を見破ってやるよ」
出てゆく背を見送って、
「癪にさわるったらないわ。ねえ李さん」
密通相手の高麗人へ、雉女はささやいた。
「あんた、見たでしょ? 鶴女の糸……」
「見ましたよ」
「じつはわたしも村びとたちにまぎれて、とっくに見届けて来たのよ。どうしてあんな凄い生糸が出来たんでしょうね」
「ふしぎというほかありませんな」
「感心してる場合じゃないわ。欲の皮の突っ張った安麻呂どののことだもの、糸がほしさにまた、がらりと気が変って、鶴女をもと通り囲《かこ》うわよ」
「承知するでしょうか鶴女さんが……。あの女《ひと》はもう今では、五千両もの生糸を持つ金持ですよ。落ち度を咎めて、叩き出した安麻呂どのの妾になんぞ、二度となるつもりはないのじゃありませんかね」
「そうね。安麻呂どのはおそらく世辞を使ったり下手《したで》に出たりして、籠絡《ろうらく》しようとするだろうけど、鶴女は内心、あの人の仕打ちをこころよく思っていないはずよ」
「それよりもう一遍、策を構えて、鶴女さんに生糸を売らせ、金を騙《だま》し取る算段をしませんか」
「なるほど。いい考えだわ。でも、どうやったら騙せるかしら……」
「当家には精巧な織り機《ばた》が一台あるでしょう。ためしにあの糸で、布を織ってみないかと鶴女さんにすすめるんです。だれだってあんなみごとな生糸を手にしたら、つむいで絹糸にして、織ってみたくなりますよ」
「そうね、鶴女はきっとそそられるわ」
「二、三反、織り上ったころ、わたしは都から織物商をつれてきます。糸のままより、たとえ白絹でも、織ってあるほうがぐんとよい値にさばけるから、商人は手附けの金を鶴女さんに渡して、買い取りの約定を結びますよ」
「残金は、織りあがってから支払われるわけね」
「鶴女さんも欲に目がくらんで、せっせと手持ちの糸で絹を織るでしょう。すっかり出来あがって商人に渡し、たいまいの残金を受け取ったころ、油断を見すましてあの家へ忍びこむ。そして水甕の、水の中へ……」
「わかったわ李さん、まだ例の毒液が、あの壺の底に残ってたわね」
「生糸で奪うより、つむがせて織らせて売らせておいて、金を取るのだから、こっちは手間いらずです。うまい思案だと思いませんか」
「あんたの悪智恵には兜《かぶと》をぬぐわ。安麻呂を始末するのは、そのあとね」
「殺《や》るのは、いつだって殺れます。あせらずに策を練りましょうよ」
……やがて安麻呂が帰って来た。
「強情っぱりな女だ」
と、ひどく不機嫌な顔で奉公人どもに当りちらしている。
雉女と李が予想した通り、安麻呂は生糸のすばらしさに瞠目し、
「よりをもどしてくれ」
と鶴女に申し出て、ていよくはねつけられたらしい。
「そうですとも。口汚なく罵《ののし》ってお払い箱にしておきながら、いまさらまた、妾になれといったって、だれが承知するもんですか」
夫の現金さを雉女はあざ笑い、かえってこれ見よがしに鶴女にしたしんで、
「機《はた》を貸してあげるから、ためしに少し、織ってごらんなさいよ。糸でさえこんなに美しいんだもの、白絹になったらそれこそ帝《みかど》のお衣装にだって召されるかしれないわ」
親切ごかしにそそのかした。
「そうですねえ、織ったらさだめし、みごとな絹地になるでしょうねえ」
鶴女もつい、ふらっと誘惑に負けて、
「機屋《はたや》を使ってよろしいでしょうか」
織る気になった。
「どうぞどうぞ。いくらでも使ってくださいな。どんな絹ができるか、たのしみよ」
「ではさっそく、糸につむいでみますわ」
「そうなさい鶴女さん。生糸で持っていても嵩《かさ》ばるばかりだし、どうせ売るなら絹地にしたほうが、ずっと割りがよいそうよ」
「ほんの二、三反、試し織りして仕上りを見てみましょう」
「待ってますよ」
ぶーん、ぶーんと、それからしばらくのあいだ、川岸の鶴女の家からは糸車を回す音が響いていた。そして十日ほどして、幾束かの絹糸ができあがった。
両腕いっぱいにそれをかかえて、鶴女は安麻呂の屋敷へやって来た。
「お約束通り、機を拝借にあがりました。使わしていただいてかまいませんか」
安麻呂はにがりきって、
「なんだ、ずうずうしい。仲なおりしようというおれの申し出を、にべもなくはねつけながら、機を貸せなどとはよくも言えたものだ」
目に角《かど》を立てたが、
「わたしが誘ったのよ。機はわたしの物ですもの、だれに貸そうとわたしの勝手でしょ」
歯牙にもかけずに雉女は機屋の戸をあけ、
「さあ、遠慮なく使ってちょうだい鶴女さん、糸を染めたければ、染料もあげますよ」
愛想よくうながした。
鶴女の、機場通いが始まった。キリ、バッタン、キリ、バッタンと小気味よい筬《おさ》の音が終日洩れ、少しずつ絹地は織りあがってゆく……。光沢といい手ざわりといい、それは鶴女本人はもとより、人々だれもの想像を上回って、この世のものとも思われないほど優雅な絹だった。
「うっとりするわねえ」
機屋をのぞきに来るたびに、うらやましげに雉女は溜め息をついた。
「こんな絹を見るの、生まれて始めてよ。世間に二つとない宝だわ。織物商が知ったら、たいまいの砂金と代えるでしょうね」
ようやく半月ほどで、二反分だけ仕上がった。さすがにうれしげに鶴女は胸に当ててみて、
「気持のよい織り上りだこと……」
目を細めた。
雉女と李が、ちょうど機屋に来合せていて、
「どれどれ、わたしたちにもさわらせて……」
くるっとそれぞれの身体へ、絹地を巻きつけた。その刹那《せつな》、まるで意志を持つもののように絹はぎりぎり二人を絞めあげはじめた。
「うわあ、く、苦しい。助けてくれッ」
ほどこうとすればするほど、絹は生き物さながらひとりでに動いて幾重にも巻きつき、雉女を絞め、李を絞めたてた。
「だれかきてくださいッ」
鶴女の悲鳴に、安麻呂が機場へ駆けつけ、奉公人たちも我れがちにとび込んで来たが、すでに手のほどこしようがなかった。
からみつく大蛇の執拗さで白絹の緊縛《きんばく》はつづき、身体中の骨が砕ける音と同時に、すさまじい血泡を口からも鼻からも噴き出して、雉女と李は悶絶した。
「わかった」
安麻呂が呻いた。
「鶴女の家の蚕を殺したのはこの二人だ。どういう手段で殺《や》ったのかはわからない。でも、こいつらの惨死は蚕の復讐にきまっている。二人は蚕の呪《のろ》いにかかって死んだんだ」
――鶴女の生糸は、やがて残らず絹地に織られ、莫大な値で都の商人に買い取られて、朝廷の御料になった。
『犬がしらの絹』
と呼んで、貴族たちは珍重したそうである。
馬にされた商人《あきゆうど》
1
村は、たいへんなさわぎになった。二年前、兄の浪方《なみかた》といっしょに元気いっぱい、奥州へ稼《かせ》ぎに出かけていった花方《はなかた》が、見ちがえるばかり痩《や》せおとろえ、おまけに左の腕を折るという大けがまでして、たった一人、帰ってきたからである。
「災難にでも遇《あ》ったのか?」
「兄貴はどうした」
「まさか、死んだのじゃあるまい?」
「いったい、なにがあったのだよ花方」
村の人たちに、くちぐちに問いつめられ、花方はその、旅焼けした頬に大つぶな涙をほろほろ流しながら、
「きいてください」
わけを話しはじめた。
「みなの衆も知ってのとおり、わたしら兄弟はみちのくへ、砂金掘りにまいりました」
「うんうん、商人《あきゆうど》稼業《かぎよう》に見切りをつけてなあ」
一人が、うなずくと、別の一人が、
「で、掘れたのか?」
花方のふところへ目をやって、
「ぺしゃんこだな。さてはおぬしら、しくじったというわけかい」
先まわりして言った。
「いいえ、砂金はみごとに掘りあてました。兄貴もわたしも、大きな皮ぶくろにいっぱいもの収穫を手にできたのです」
「ほ、そんなにたくさん!」
「大分限《だいぶんげん》じゃの」
「でも、それをもっていないところを見ると……」
「わかった、賊のために、せっかく掘った砂金をうばわれ、兄の浪方まで、殺されてしまったというわけだな」
「殺されたのなら、いっそ、あきらめもつくのです。兄は……兄は……」
花方は声をしぼった。
「馬にされてしまいましたッ」
「な、なんだと?」
「馬にされた?」
「あの、浪方が!」
「ばかな、そんなふしぎが、世の中にあってたまるものか」
村長《むらおさ》はじめ、だれも本気にしないのを、
「むりもありません」
悲しげな目で花方は見て、
「わたし自身、いまだにほんとうのこととは、信じられないほどなのですから……」
そのときの恐怖を思い出したのか、ぶるッと肩をふるわせた。
兄弟はもともと土器《かわらけ》売りだった。窯元《かまもと》から品物を仕入れては三島の市《いち》や、近郷近在の村村へ売りに出かける担《かつ》ぎ商人《あきゆうど》なのである。
零細《れいさい》なかせぎだし、いつまでたってもうだつがあがらないその日ぐらしに、苛《いら》だって、
「奥州へ、ひと山あてにゆこうじゃないか」
言い出したのは、兄の浪方である。人のうわさ話で、彼らはみちのくの谷川に砂金があることを承知していたのだ。
「ゆこうか」
花方も賛成した。二人ながら、身軽な境涯だった。親たちは亡くなり、妻や子も、まだ、なかった。
ただ浪方にも花方にも、恋している女はいた。因果なことに、兄弟で一人の娘を張り合っていたのである。
名は刀自女《とじめ》といった。十七歳――。ういういしく聡明な、そして気性も、なかなかしっかりした娘であった。
刀自女の心をつかむためにも、貧乏ぐらしから抜け出さなければならない。兄弟は村をあとにした。
「運もよかったのですね。たどりつくまでには、えらい苦労をしましたが、わたしたちはやがて、分け入った山奥の渓流でとうとう砂金を見つけたのでした」
選別の方法は教わってあった。しびれるほど冷たい水に手をひたして、網《あみ》ざるに川底の砂をすくい取り、幾度もふるい流すうちに、大つぶ小つぶ、さまざまな砂金がキラキラ下に沈んで残る。
「夢中です。たずさえていった食べものがなくなっても、里へ求めに出る気が起こりません。木の実をひろい、鳥をつぶてで打ち落としては、その生肉を食って命をつなぎながら、寝るまも惜しみ惜しみ、金をひろいつづけました」
ひと月ちかく、そうやってがんばっているうちに、用意していった大袋二つとも、口まで砂金でいっぱいになった。
「もう、これだけあれば、一生らくらくと遊んでくらせるな」
兄弟はまんぞくした。
「もどろうよ、村へ……」
刀自女《とじめ》の笑顔が目にうかぶ、あとはどちらが、彼女の心臓を射とめるか、その競争だけがのこっていた。
いそいで二人は帰路についた。災厄は、その途中に待ちうけていたのである。
「道に、迷ってしまったのです。ゆけどもゆけども里へ出られません。四日三晩というもの、山中をさまよい歩き、へとへとにつかれきったわたしたちの目に、ふと、うつったのは、夕空に青くたちのぼる炊《かし》ぎの煙でした」
助かったッ、人家があると、兄弟は狂喜した。
「まてよ弟」
安心すると欲が出た。二つの大袋を、二人は樟《くす》の老樹の下にかくし、浪方だけがほんのひとにぎりの砂金を、布につつんで懐中した。礼に使うつもりだった。食べさせてもらい、眠らせてもらい、道をおしえてもらったら、もう一度ここへ引き返し、袋を背負って里へもどるつもりなのだ。
「煙を目あてに谷をくだると、小さな平地がひらけ、五、六軒の百姓家が肩をよせ合って建っていました。山の中の隠れ里といったあんばいです」
うちの一軒へ、兄弟は近づき、おずおず案内を乞うた。主人《あるじ》が出てきて、
「道に迷った旅の者か」
じろッと見、
「あがれ」
ともあれ、家の中へ入れてくれた。
「色の青ぐろい、目の血走った、うす気味わるい大男でしたが、背に腹はかえられません。わたしと兄は、おっかなびっくり炉《ろ》の間《ま》の板敷きへ這《は》いあがりました」
――村人たちを相手に、花方は語りついだ。
2
「雑炊《ぞうすい》をふるまわれ、奥のひと間でうとうとするうちに、人声で目がさめました。そっと炉の間をのぞくと、いつきたのか、家は人でいっぱいです。どれもどれも主人《あるじ》に似て、どこか人間ばなれのした顔色の青ぐろい、気味のよくない男ばかりでした。ガヤガヤいう声も、水の中で壺をたたくように、妙にくぐもってうつろにひびきます。そのうちに主人がやってきて、『二人とも出てこい』とわたしたちを、大ぜいの前へひき出しました」
連中は、品さだめするように兄弟を見た。
「今夜は、どちらにしようか」
「こっちにしよう」
と、一人が浪方を指さした。
「よし」
主人はうなずくと、浪方の衿《えり》がみをつかんで土間へひきずりおろした。あっというまに、その衣類をはぎ、素裸《すはだか》にして、
「這《は》え」
と命じた。拒《こば》むことのできない恐ろしい顔つきだった。
このまに他の連中は、花方をうしろ手にしばりあげた。うちの一人が、どこからか運んできたのは、馬の轡《くつわ》と、粗末な鞍《くら》である。轡には縄手綱《なわたづな》がむすびつけてあった。
主人は浪方の口に、轡を噛ませ、四つ這いに這ったその背へ、鞍をのせた。
また、一人の男が、素焼きの瓶子《へいし》になにやら入れて運んできた。主人はそれをうけとり、中の液体を口にふくむと浪方の顔から首すじ、胴体、手足と、順々に霧を吹きかけ、目をとじて呪文をとなえた。
「わたしは気が狂うかと思いました。ぶつぶつつぶやくその声にしたがって、兄の身体が変りはじめたのです。だんだん大きくなり、見ているまに馬になってゆくではありませんか」
「そ、そんなばかな!」
村人たちはどよめいた。
「信じられますまい。でも、げんにこの目で、わたしは見たのです」
両手で、花方は顔をおおった。
「男どもは『さいわいな月夜だ。夜道をかけてこいつを里へ曳《ひ》いてゆき、酒と替えてこよう』といって、兄を外へつれ出そうとしました」
花方はさけんだ。
「兄さんッ、兄さんッ」
形は馬にされても、心は人間のままなのか、浪方は涙をながし、全身をふるわせて四肢を突っぱった。
「ちくしょうッ、歩けッ」
男のひとりが鞭《むち》で浪方をなぐりつけ、ひとりが手荒く手綱を引いた。たまろうはずはない。浪方は戸口から外へ曳き出されてゆき、悲しげないななきと、蹄《ひづめ》の音は、月あかりの下を遠ざかった。
「こいつは、あすの晩にしよう」
主人は花方を、もとの寝間に蹴《け》こんで板戸をしめた。連中は立ち去り、家の中はしんと寝しずまった。
花方はしかし、眠るどころではない。なんとかしてのがれたいと、身をもがいているうちに縄目がゆるんで、右手がスルッと抜けた。
「しめたッ」
あとは、よくおぼえていない。魔の家、魔の里をまろび出ると、めくらめっぽう根《こん》かぎりに走った。つまずいてころんだ。水を渡ってずぶ濡《ぬ》れになった。崖《がけ》から落ちた。腕の骨を折った。痛みも寒さも、でも、すこしも感じなかった。
朝も夜もわからずに、息のつづくかぎり走りつづけ歩きつづけ、やっと見おぼえのある街道までたどりついた瞬間、うれしさと気のゆるみから、花方は卒倒してしまったのである。
「正気づいたときには、人家にかつぎこまれて、介抱《かいほう》されていました。しばらくのあいだは、憑《つ》きものでもしたように、泣いたりわめいたりうわごとをいったり、まるで狂ったようだったそうです。ようよう落ちついて、足腰が立つと、もう一日もじっとしていられません。『まだ腕が、なおりきっていない』と引きとめるのをふりきって、あとも見ずに、こうして故郷へ逃げ帰ってきたのでした」
涙ながらの述懐に、
「世にもふしぎな話だなあ」
あらためて村びとたちは、歎息し合った。
「みちのくなどというところは、鬼の棲《す》む未開の僻地と聞いたが、なるほど奇怪なことがあるものだ」
「それにしても、哀れなのは浪方……」
「いまごろはどこに売られ、どのようにこき使われていることじゃやら……」
「さぞ、人間の身が恋しかろう」
思いやって、目をしばたたく者……。
「花方よ、砂金の袋はそのままか?」
舌なめずりする者……。
「むろん、取ってくるどころではありません。樟の老樹の下に、置いてきてしまいました」
「やれ、もったいない」
「二年間の辛労が、水の泡だな」
「なあに、生きながら畜生道に落とされた浪方の身の上にくらべれば、もとの姿のまま帰れたのはもっけの幸《しあわ》せ……。この上の欲などかいたら、罰があたるぞ花方」
取り沙汰《ざた》はあれこれ、やかましく、村の話題はこのうわさで持ちきりのありさまになったが、そんな中でたった一人、
「訝《おか》しい。人を馬にする魔のすみかなんて、ほんとうにあるのだろうか」
疑ったのは刀自女《とじめ》であった。
「もしかしたら花方さんは、砂金を独り占《じ》めしたいために、兄さんを殺したのかもしれない。そしてまことしやかな作り話で、村の人をごまかそうとしているのかもしれない」
兄弟二人に、熱烈に求愛されて、彼女は迷っていたのである。どちらも顔だちのととのった、好もしい青年だが、気だてのやさしい花方のほうに、より強く、刀自女は魅《ひ》かれていたのだ。
「でも……」
兄殺しの疑惑がわき起こった今、たまらなく花方が、彼女はうとましくなった。憎らしくもなった。
「なんという欲心のふかい、おそろしい人だろう」
おそらく帰り道、ゆだんを見すまして谷底か川に、花方は浪方を、つき落としたにちがいない。砂金の袋は二つながら、どこか近くに隠して、あとでこっそり運び込むつもりにちがいない。
「そして、ほとぼりがさめてから、私に言い寄ってくるつもりだろうが、だれが、そんな卑劣な手にのるものか」
弟の奸策にはまって、金と恋の両方を一挙に失ってしまった浪方が、刀自女はきのどくでならなかった。いままで、どちらかといえば花方に寄っていた彼女の心の指針は、急速に浪方に傾いて行った。
「かたきを討ってやりたい」
真剣に、考えた。生来、賢《かしこ》い、気性の勝った娘である。花方の話の虚偽をあばき、その面皮《めんぴ》をはいではじめて、浪方の怨魂《えんこん》も浮かばれるはずだと思いつめたのだ。
「やってやろう」
刀自女は決意すると、
「三島のお社《やしろ》へ、お籠《こも》りに行ってきます」
家の者をいつわって、伊豆、内浦の村を旅立った。はるばる奥州へ出かけるつもりだった。
3
無謀な旅といえる。
旅費も旅装もこころもとないが、十七歳の乙女心《おとめごころ》は、いざとなるといちずだし、こわいもの知らずでもあった。
それとなく花方から聞き出した街道の名、山麓の里の名を、彼女は胸にきざみこんだ。魔のすむ隠れ里。時おり馬を売りに出てくるうろんな山人《やまびと》……。見たものがあるか、うわさを耳にした者があるか、たしかめてみたい欲求をおさえかねたのである。
気持と身体とは、だが、別のものだ。気負《きお》いこんでいたにもかかわらず、足柄《あしがら》の峠を越えて相模《さがみ》の国にはいるともう、刀自女の足は痛みだした。
それでも、がまんして歩きつづけるうちに、こんどは水あたりに悩まされはじめた。奥州までの旅など、とてもむりに思えたが、彼女は浪方への哀憐《あいれん》をささえに、歯をくいしばって苦痛に耐えた。
ようやく、武相《ぶそう》の国ざかいをすぎた。多摩川を渡ると、武蔵《むさし》の国府――。
市《いち》の立つ日か、それとも祭りだろうか、往来は雑沓《ざつとう》し、店棚《みせだな》も路地売りも活気づいて、商人は声をからしている。刀自女の目は、しかしそれらを見なかった。下腹の痛みがひどくなり、額《ひたい》からは脂汗がにじみ出てきた。
歩けなくなって、彼女はとうとう道ばたにしゃがんでしまった。大きな角《かど》屋敷の門前である。
「あんた、どうしたの?」
と、召使いだろう、屋敷から出てきた若い女が、刀自女をみつけて声をかけてきた。
「おなかが……」
「痛むのかい? それはいけない。私らの寝場所で休息おし」
親切に抱きかかえて、邸内につれてはいり、台盤所《だいばんどころ》に近い婢《はした》部屋でやすませてくれた。
「くすりもあるよ、飲んでみるかい?」
「ありがとう」
いたわられているうちに、すこしずつ痛みは遠のいた。
「おかげでよくなりました。ここは国の守《かみ》のお屋敷ですか?」
「ほほほ、とんでもない。にわか長者の館《たち》さ」
召使いは、あざ笑った。
「主人のことを、わるく言いたかないけどね、つい近ごろこの府中へやってきて、田畑《でんばた》附きの角屋敷を買いこみ、色町の遊女《あそびめ》まで根引きして、北ノ方《かた》きどりでかしずいている成りあがりだよ。なにをして儲《もう》けた金なのか、どこの馬の骨かって、町の人たちも嫉《や》っかみ半分、うわさの種にしている男さ」
その、主人らしい。このとき中門廊の駒寄せあたりで、
「こらこら、出かけるというのに、輿《こし》はまだかッ」
奉公人を叱りとばす大声がきこえた。
「浪方さんの声だ」
刀自女はおどろいて立ちあがった。
廊の階《きざはし》に、ふんぞり返っているのは、まさしく彼女の想像の中で、非業《ひごう》の死をとげたはずの浪方だった。よりそって立つあでやかな女は遊女あがりの妻であろう。
なにがなんだか刀自女はわからなくなった。かきすえられた輿に、仲よく共乗《ともの》りして夫婦が出てゆくのを、ものかげから、くちびるを噛んで彼女は見送ったが、
「お世話さまになりました」
婢女《はしたおんな》へのあいさつもそこそこ、伊豆の故郷《ふるさと》さして、その足で引っ返してゆき、村に帰りつくやいなや、まっすぐ花方の住居《すまい》へかけこんだ。
「ほんとのことを教えてちょうだい花方さん。あなたの兄さんは、にわか長者になりあがって、武蔵の府中で大尽ぐらしをしてたわよ」
「え? 府中にいるのかい? 兄は……」
「知らないのね」
「知らなかった!」
「あたし、あなたが浪方さんを殺して、砂金をうばったのだとばかり、思いこんでいたの」
「じつはあべこべなんだよ刀自女さん。金をうばって、わたしを谷へつき落としたのは、兄なのだ」
「それをなぜ、かくしたの? 作り話までこしらえて、悪人の浪方さんを、なぜ、かばおうなどとしたの?」
「兄は、しんそこからの悪人じゃないよ。出来ごころなのだ。砂金の光に目がくらんだのだ。わたしが九死に一生を得て村にもどって、真相をしゃべり散らし、それが村の偵吏《ていり》や、国庁の役人の耳にはいったとしたら、うっかり帰ってきた兄は、たちまちつかまってしまうだろう。可哀そうだと思って……」
「苦心さんたん、作り話をでっちあげて村の人をごまかしたというわけね」
「うん」
「兄思いな、お人よしさん」
にじり寄って、刀自女は花方の手をとった。ギクッと花方は身体をこわばらせ、顔をまっ赧《か》にしてうつむいた。
「こんなお人よしの、おばかさんを夫に持ったら、私、この先、うんと世帯の苦労をしなきゃならないでしょうよ」
「刀自女さん」
花方の目がうるんだ。
「わたしは兄に、砂金をとられてしまったのだよ。一文なしだよ。それでもいいのかい?」
「やさしい心があるわ。皮袋いっぱいの砂金ぐらいでは、買えないほどの宝物じゃないの」
手に、にぎったまま男の手を、刀自女はそっと、その、ほてった頬にあてた。
鷲《わし》の爪
1
晩春の夜気《やき》のなまあたたかさが、左由良《さゆら》をいつまでも眠らせなかった。身体の芯《しん》が悩ましくほてる。そのくせ、ひんやりと乳房は冷たい。椀を伏せたように形がよいのは、まだ、子を生んだことがないからだろう。
若ざかりの肌はなめらかに緊《しま》って、触れる指さきを弾き返す……。力づよく抱きしめてくれる夫の手が、無性に欲しい。
(こんどの上洛にかぎって、どうしてこう、おもどりが遅いのかしら……)
左由良はじれる。展転と、独りきりの床《とこ》で寝悶《ねもだ》える……。
夫の、大宅真人《おおやけのまひと》とは、年に十五も開きがあった。村はずれの工房に、職人を大ぜい寝泊りさせ、木地《きじ》のままの椀や皿、高坏《たかつき》などを作って、都の塗師《ぬし》に卸《おろ》すのを、真人は生業にしている。長者とまではいかなくても、村では指折りの、内福なくらしを楽しんでいた。
ただ、製品の荷駄を宰領して、春秋二回、二ヵ月ほど、真人が旅に出るのが左由良にはつらい。日ごろ夫婦仲がこまやかなだけに、夫が留守するあいだ、ひとり寝の味気なさがなおのこと、喞《かこ》たれるのである。
(少し、お酒でも飲んだら眠れるかしら……)
下婢を呼んで仕度させた。ほんの一合ほど入る小ぶりの瓶子《へいし》を、枕もとに運ばせ、ありあわせの塩辛を肴に、ながい時間をかけてちびり、ちびり、舐めるように空《から》にした。
血はますます熱くなって、噪《さわ》がしく体内を駆けめぐるのに、どうしたわけか眠けは一向にきざしてこない。
(たりないらしい)
自分ではそう思った。日ごろ、さして酒に強くない左由良は、しかし実際には酔っていた。たしてくるつもりで瓶子を持って立つと、上体がふらついた。
奉公人たちは、とうに寝静まっている。起こしてはきのどくなので、左由良は足音を忍ばせて廊下を歩いた。
たった一つ、灯《ひ》の洩れている部屋がある。水屋のわきの納戸《なんど》らしい。通りすがりに、なにげなく板戸のすきまから中を覗いて、
「あら……」
左由良は思わず、あとずさった。
見馴れない若者がいた。その男の水ぎわ立った美貌に、息が詰まるほどの衝撃を受けたのである。
(そうだ、旅人が泊まっていたのだっけ……)
物持ちの家と見てとって、一夜の宿を乞う者が少くない。
「かまわんよ。どこへでも寝させて、雨露をしのがしておやり」
と鷹揚《おうよう》に、真人が許すので、召使いたちも心得て、主人《あるじ》が留守のときは妻の左由良に断りを言い、風態尋常な旅人ならば、善根《ぜんごん》を施すつもりでできるかぎり宿を貸してやるのが、毎度の例になっていた。
今日も、そう言えば日没ちかく、
「針売りの行商人が、お宿を乞うて来ましたけど、どういたしましょうか」
下婢に知らされて、
「泊めてあげなさいな」
かくべつ気にもとめずにうなずいたきり、忘れはてていたが、
(それが、この若者だったのか……)
と、改めて左由良は、男の横顔に視線を当てた。売り上げの照合でもしているらしい。薄い横とじの帳に何やら書きつけながら、針の小束を勘定している指のうごき、華奢《きやしや》なうなじの線が、言いようもなくなまめいて、しがない旅商人《あきゆうど》などさせておくには惜しいほどの、爽やかな気品を匂わしている。
左由良の官能に、いきなり火がついた。それでなくても酔いのために、感情の抑制がきかなくなっていたのである。
やみくもな、肉の餓《ひも》じさ……。目の前に、不意に出現した若者が、こうばしい獲物に見えた。男の何もかもをむさぼり食べてしまいたい……。そんな狂暴な衝動に突き上げられた瞬間、左由良の唇はひとりでに動いて、
「針売りさん」
小さく、中へ呼びかけていた。
「今夜の宿賃を払ってほしいの。廊下の突き当りの部屋へきてくださいな」
寝間の灯《あか》りは吹き消した。この家の妻であることを知られたくはない。顔も見せてはいなかった。納戸の、板戸のかげに身を隠したまま、声だけで誘ったのだが、
(宿賃を求められては、来ずにいられまい)
との、左由良の目算ははずれなかった。
恐る恐る若者は廊下を忍んで来た。
「おはいりなさい。口をきいてはだめ……。黙って、わたしの言うなりに、その身体で支払いを済ませるのよ」
灼けつくような左由良の指の動きに、男の慄えもやがて納まり、甘美な波動だけが明け方近くまで、濃い闇の底をかすかに攪拌しつづけた。命じられた通り若者は無言を守り、左由良が許すまでくり返し律義《りちぎ》に、その餓《う》えを満たすべく奉仕したのである。
2
四日後に、大宅真人が旅からもどった。前触れなしの帰宅だった。左由良は悔いた。
(あの晩わたしは、どうかしてたんだわ)
魔がさしたとしか言いようがない。
(まもなくお帰りになると知ってたら……)
行きずりの行商人相手に、不貞など働きはしなかったのだ。
「便りひとつ下さらないんですもの……。いつだってお顔を見てから、てんてこ舞いしなければならないじゃないの」
「面倒くさいのさ、筆を持つのがね。そんなひまに半日でも早く帰って、おたがい無事な顔を見せ合うほうが手っとりばやいだろ」
土産が多いのも、旅帰りの日の慣例だった。妻のよろこびを、真人は無上の楽しみにして、こんどもまた、綾だの絹だの紅おしろいなど、どっさり都から買ってもどった。
主人と一緒に、供の従者たちも帰るから、留守のあいだひっそりしていた家の中は、にわかに活気づき、人かずが増える。それでなくても真人は陽気だし、にぎやか好きだ。あけくれその声が聞こえ出すと、屋敷じゅうがいっぺんに、灯《ひ》をともしつらねたほどにも明るくなり、針売りとの一夜の記憶すら急速に、左由良の脳裏から薄れていった。
――かすかな怯《おび》えが再燃したのは、夫の帰宅後、三月《みつき》ほど経過した秋の初めであった。盛夏のころから身体の調子を狂わせて、食べ物を吐いたりしていた左由良が、
(みごもったのではないかしら……)
と気づいたとき、その怯えは始まった。
(夫の子、針売りの胤《たね》……)
どちらとも判断しかねるところに、左由良の惑《まど》いと恐怖があった。
あの晩、まだまっ暗なうちに若者はこっそり納戸部屋へもどって行き、あけると早々、下婢どもに礼を述べて、朝餉も食べずに去って行ったという。左由良の顔は、ついに見ていない。でも薫《た》き物の香りや夜着の手ざわりからも、奉公人ではないことぐらい、推量がつくはずである。
(この家の、妻女か娘御《むすめご》……)
誘われての奉仕ではあったにせよ、露見したら大ごとになるとびくついて、逃げるように立ちのいたのだろう。
それから三日のちに真人がもどり、当夜はやくも、堰《せき》を切った奔流さながら激しい愛撫に左由良は巻き込まれた。身体の不調を訴えるまで夜ごと濃密な、夫との営みはくり返された。みごもったのは、その前後……。左由良にすれば、強《し》いてでも、
(真人どのの胤《たね》にきまっている)
そう思いたいところであった。
懐妊したらしいと告げられて、
「ほんとか左由良」
真人はおどりあがった。子がないままで先妻と死別し、すでに四十に手が届きかけている。可愛くてならないのち添えの妻に、待望の我が子が生まれるとあっては狂喜するのも無理ではなかった。
宝物のように真人は妻を大事にし、月満ちて翌年の正月、左由良がつつがなく女の子を分娩すると、
「おお、でかしたぞ」
祝い餅を搗かせて村じゅうに配るほどの有頂天ぶりを見せた。
赤児は真珠《またま》と名づけられた。菩提寺《ぼだいじ》の文殊《もんじゆ》堂に安産を祈願して生まれた手の内の珠《たま》の愛娘《まなむすめ》……。父の名からも真の字を一字、もらったわけである。
乳もよく出た。余るほどだった。すくすく育ってゆく満足の中で、
(万一、両親のどちらにも似ていなかったらどうしよう。あの行商人……。美貌の若者に生き写しにでも成長したら、中には、怪しむ者も出るかもしれない)
一抹の懸念《けねん》を、やはり左由良は拭いきれない。まだ、しかし真珠《またま》の顔だちは、だれ譲りともはっきりしなかった。赤ン坊特有の、赤い、しなびたような小顔《こがお》だが、父になりたての真人には、それすらがいじらしく、もの珍しくてならないらしい。ひまさえあれば奥へやって来て、抱いたりあやしたり余念ない。
「お庭に出るか? あたたかいぞ」
今日も顔を見せるなり頬ずりして、午後の日ざしの下へつれ出した。
梅が散り、桜の蕾がふくらみかけて、但馬《たじま》の山村も春たけなわだった。広い敷地のあちこちに花樹が植えられ、野川から曳き込んだ遣《や》り水が池をめぐり渡廊の下をくぐって、涼しい音を立てている。
閉じた目にも陽光のまぶしさが反応するのか、真珠が顔をしかめるのを面白がって、
「お花をとって来てやろう」
腰かけ用の平石《ひらいし》の上にそっと仰向けにおろし、真人は池の向う側の辛夷《こぶし》の下へ行った。満開の白い花房……。その芳香へ手を伸ばしかけた刹那《せつな》、庭木のすべてを薙《な》ぎ倒す勢いで、巨大な羽音が耳を搏《う》ち、日ざしが急に翳《かげ》った。
「わあッ」
真人は絶叫した。いつのまに、どこで狙っていたか大鷲《おおわし》が矢弾《やだま》の迅さで襲いかかり、赤児をひっつかんで、やにわに空へ舞い上ったのだ。
3
それからの地獄にどう耐えたか、夫婦二人ながら覚えがない。気が狂わなかったのが不思議なくらいだった。
「畜生ッ、待てえ」
夫の怒声に驚いて拭き縁へ走り出た左由良も、とっさに鷲の姿を目に捉えて、
「真珠《またま》ッ」
夢中で庭へとびおりた。
「だれか来てッ、あの鷲をつかまえてッ」
はだしのまま追いながら声をかぎりに子の名を呼んだ。奉公人どもも仰天して、われ先に往来へなだれ出た。
「飛んでゆくッ、北の方角だッ」
村人までが畑仕事をほうり出し、手に手に鋤や棒ちぎれなどにぎって鷲を追ったが、しょせん、空中を翔ける猛禽の翼に、地上の足掻《あが》きがかなうはずはなかった。
真人はでも、あきらめなかった。召使いたちを督励して村から村へ、探しに廻らせた。鷲の飛び去った跡を慕って、自身、山越えし、美作《みまさか》、播磨《はりま》、摂津にまで足をのばしもしたけれども、それらしい噂はおろか、鷲を見かけたという情報すら手に入れられぬまま、一年余りの歳月が流れた。
「前世の因縁だよ左由良、思い切ろう」
「獲物のつもりで取っていったのだし、もう、あの子は生きていっこありませんね」
「泣くな。わしが悪かった。まさか家の庭に、大鷲が舞いおりてくるなどとは夢想もしなかったため、つい油断してしまった。そなたの歎きを見るとわしはつらい。真珠のことはあきらめて、また子が授かるよう文珠さまにお願いしよう。な?」
二年たち三年たち、四年たっても、しかし左由良の身体に、懐胎のきざしは二度と現れなかった。失った子が、ますます惜しまれる。不慮の死だけに痛恨は深く、忘れようにも忘れられないのである。
「あの子の追福のために、霊場めぐりでもしようか?」
真人が言い出し、一も二もなく左由良も応じて、夫婦は二人きりの旅に出た。
手はじめにまず、都を目ざし、東隣りの丹後に入ってしばらく泊りを重ねるうちに、ひなびた山里にさしかかった。
辻に共用の石井戸がある。子供たちが群れてわいわい水いたずらをしていたが、釣瓶《つるべ》の奪い合いから争いになって、幼い女の子を、年かさの悪童が泥溜まりへ突きころばした。
「なんだ、鷲の喰《く》い残し! お前なんか、あっちへ行け」
左由良の足がギクととまった。
「お聞きになって?」
「うん。鷲の喰い残しと、たしかに言った。どういう意味だろう」
真人の顔色も変っている……。
釣瓶をひったくられ、口々にあざけられて、幼女が泣きながら駆け去ったあと、村童どもに夫婦はわけを訊《き》いてみた。
「だってあの子は、赤ン坊のころ、鷲に拐《さら》われてこの村へ来たんだもの……」
と、一人が言った。
「あの子のうちのおじさんが裏山へ燃し木を取りに登ったら、大鷲がどこからか赤ン坊を掴んできて、巣に落としたんだって……。ほっといたら餌食にされちまう。そこで石つぶてを打って鷲を追い払って、助けおろして帰ったんだってよ」
「その家はどこだ?」
「半町ほど先の右がわ……。戸口に柳の植わった家だよ」
夫婦が走って行ってみると、小家の主《あるじ》らしい若い男が、泥でよごれた汗衫《かざみ》をぬがせ、かいがいしく幼女の全身を拭いてやっているところであった。見るなり、真人は呻《うめ》いた。
「だめだ、子供らの話はいいかげんだったよ左由良。あの二人は本物の親子だ。顔だちがまるで、そっくりじゃないか」
その、夫の声も、ろくろく左由良の耳には入らなかった。彼女の足は路上に凍りついた。男はあの、針売りだったのである。
「でも、よくごらん、ほら……」
半信半疑のおももちで真人は指さした。
「女の子の裸の背中には、むざんなきずが残っている。鷲の爪にかけられた痕《あと》だ。目鼻だちがそっくりなのは解《げ》せないが、とにかく主に、わけを話してみようじゃないか」
とめるひまもなく、真人はつかつか戸口に近づき、名を名乗った。そして急《せ》きこんだ語調で、一人娘を四年前、鷲につれ去られた事、もしやこの子がそれではないかとの疑いまでを、ひと息に喋った。
「なんですって!? あなたは大宅真人《おおやけのまひと》?」
わななき声で針売りは反問した。
「それではあの、但馬の国|七美《しちみ》の郡《こおり》で、木地《きじ》商をしている大宅どのですか?」
「そうですよ。わたしの稼業まで、よくごぞんじですな」
左由良の呼吸は止まりそうだった。旅の途中、おたくに宿を借りたことがある、そしてその晩、妻女らしい人と奥の寝間で……露骨なあばきたてを、ずばずば口にされたらどうしようと、気が気でなかったが、男は、
「そうですか」
吐息つくようにうなずいただけだった。
「あなたがこの子を助けたのは?」
「忘れもしません。四年前の如月《きさらぎ》七日……。桜がほころびかけた季節でした」
「まちがいない。わたしどもの子が鷲に拐われたのも四年前の同じ日です。北をさして飛び去ったので、見当ちがいばかり探していました。真東《まひがし》の丹後に巣があったとは、まさか、夢にも……」
あとは言葉にならなかった。顔中を涙にして、真人は幼女を抱きしめた。
「むろん、お返しくださるでしょうね。ご恩は忘れません。あなたのおかげでこの子の命は救われたのです。お礼は充分いたします」
「この子はわたしの子ですよ大宅どの」
くるしげに針売りはつぶやいた。
「顔を較べてみてください。瓜二つでしょう」
「それを先刻から、わたしもいぶかしく思っていたところです」
「この子がだんだん、わたしに似てくるのを見て、妻までが邪推しました。どこかの女に生ませた子を、鷲の巣からおろしてきたなどと作り話を構えて、家へ引き取ったとカンぐったのです。腹を立てて、妻が家を出て行ってしまったあと、男手ひとつでこの子を育てながら、わたしも不審が晴れませんでした。なぜ似ているのか、なぜこんなに、この子に情《じよう》が移るのかと……。ご事情を聞いて、でも今やっと、すべてが呑みこめた気がします」
言葉の裏にひそむ謎を、胸に痛く受けとめたのは左由良だった。我が子との邂逅に、真人はただもう、夢心地で、
「育ての親には、ふしぎに似るものですよ」
詮索も追及も、する気配はなかった。路用のありったけを彼は取り出して、
「改めて帰宅後、お礼に出直しますが、とりあえず、これだけでもお納めください」
針売りの手ににぎらせようとした。
「この子はわたしの子です」
柔軟な口ぶりで男はくり返し、静かに金を押しもどした。
「礼金など頂いては、我が子を人に売り渡したことになります。手放すのは、この子の仕合せを願うからです。どうかいつまでも、いとしんでやってください」
幼女を抱きあげて、男は左由良の腕に渡した。思慮深げなまなざしが、はじめてまっすぐ左由良の眼を射た。
固く、子供の身体を左由良は抱き緊めた。涙があふれ上った。幼い肌に刻まれた鷲の爪あと……。分け持った秘密の証《あかし》として、それは一生涯、左由良の心の、重荷となるにちがいない。彼女はでも、その重みに耐える決意だった。せめてそれを、男二人への、ひそかな罪ほろぼしと考えたかったのである。
婢《はした》 女《め》
橘《たちばな》の木の下にたくましい半裸の男どもが集まって、土を掘りはじめたのを、すこし離れた渡殿《わたどの》の、簾《みす》のかげから姫は見ていた。
力こぶというのだろうか。名さえ知らぬ重そうな道具を使って、男たちが地べたを崩すたびに、汗びっしょりの肩の肉が盛りあがり、玉になってグリグリ動くのが珍しかった。
穴は拡がり、深くなり、掘り手が中に没しても作業はやまない。抛《ほう》り上げられる土は畚《もつこ》に掬《すく》い込まれ、これも男どもに担《にな》われて片はしからどこかへ運び去られるのだ。
「おや姫、ここにおいででしたか。お湯浴《ゆあ》みの用意ができたので、あちこち、さがしていたのですよ」
うしろから声をかけてきたのは母だった。
「男たちを見ていたの。何をしているのでしょうねお母さま」
「井戸掘りです。お父さまがね、橘の下は水が清いとおっしゃって掘り子どもをお召しになったのですよ」
「とてもおもしろいの。飽きないわ」
「女の子はいつまでも、卑しい賤男《しずのお》どもの仕事など見ているものではありません。さ、お湯殿へまいりましょうね」
やさしくうながされて、渡殿の勾欄《こうらん》ぎわを離れかけたとき、
「あれれ、なんだこりゃあ」
掘り子の一人が大声をあげた。
「金物《かなもの》の碗《わん》じゃねえか。ばかにキラキラ光ってるぜ」
金か銀か、ことによったら真鍮《しんちゆう》かもしれねえなどとガヤガヤ言い合っているのを、ちょうど庭を通りかかった家司が聞きつけ、
「寄こせ」
取りあげて、当家の北ノ方――姫の母親のところへ持ってきた。
「銀碗ですね」
「そのようでございます」
「殿にお見せしましょう。掘り子たちにはこれを召し上げた代りに、米をさげ渡しておやりなさい」
屋敷の主人《あるじ》は中級の武官で、検非違使《けびいし》の尉《じよう》をつとめている。くらしは豊かすぎず貧しくもなく、ひとり娘の姫をかこんで夫婦仲はむつまじかった。
庁から退出してきた夫は、井戸掘りの現場《げんば》で銀製の碗が見つかったと告げられると、
「それはめでたいな」
ほほえんで妻に言った。
「良水が湧く吉兆にちがいない。いま少し銀を加え、提子《ひさげ》に作り直させてあの井戸の水を飲むのに用いよう」
提子とは、一方に口をつけて、酒や水を注ぐ容器である。
「それがようございますね。さっそく鋳物師《いものし》に申しつけて細工いたさせましょう」
まもなく井戸は掘りあがり、数日後には提子も出来て届けられた。
「値打ちものになった。小型だが、よい恰好《かつこう》の提子ではないか」
主人《あるじ》の尉は目を細め、
「水の性《しよう》も、とてもよい。やはり橘の下に井戸を掘ってよかったな」
適中を誇り顔に、妻に命じた。
「井戸も提子も、子々孫々までの譲り物だ。大切にするよう姫や奉公人に、そなたから言うてやれ」
しかしこの、主人の言葉は、やがて二つながら無になった。銀の提子は盗み取られ、井戸は屋敷の火災とともに埋め立てられて、もとの平地にもどってしまったのである。
提子を盗んだのは、葛城《かつらぎ》という名の婢女《はしため》だった。ただし、確証はない。彼女を下手人《げしゆにん》と知る者もいない。九歳になる姫ひとりが、
「訝《おか》しい」
と、直感しただけのことなのだ。
この日、姫は朝からはしゃいでいた。親戚の子が遊びにきたのであった。従姉妹《いとこ》ばかり三人……。双六《すごろく》に興じ貝合《かいあわ》せに興じた。年長の従姉の中には和琴《わごん》を弾く者もいて、
「あら、その手はちがうわ」
「いいのよ、これで……」
言い合ったり笑ったり、昼すぎまでさわいだが、そのうちに室内での遊戯に飽きて庭へ出た。井戸のわきの橘が、枝も撓《しな》うばかり実《み》をつけている。
「甘いの?」
「そんなに甘くはないけど、よい香りよ。とって食べましょうか」
「高くて手が届かないわ」
「召使《めしつかい》にとってもらえばいいわよ」
だれか来てよと呼び立てる声に応じて、庭先へ廻ってきたのは葛城だった。
「橘の実をめしあがるんですか? おやすいご用ですとも。とってさしあげましょう」
背のびして、よく熟れたのを幾つも葛城はもぎってくれた。まだ二十《はたち》にはまのありそうな、口のきき方などキビキビした悧巧《りこう》そうな娘である。
皮をむくと、手がよごれる。さんざん食べたあと、べとつく指の処置に窮して、
「洗いたい」
と子供たちは言い出した。
「きっとそうおっしゃると思ってましたよ。おすすぎしますからお待ちなさいまし」
葛城はそう言って対《たい》ノ屋へあがり、銀の提子を持ち出してきた。井戸から水を汲みあげ、提子に移して、少女たちの手にそそぐ。釣瓶《つるべ》でじかに、同じことをしてもよいものを、
(なぜこんな、ままごとじみた小さな提子など使うのか。お父さまが大事にせよとおっしゃっていたお道具なのに……)
と、子供ごころにも姫はいぶかった。
手巾《しゆきん》を取り出してかいがいしく、葛城は一人一人の濡れ手を拭く。井桁《いげた》の上になにげなく、提子は置かれ、
(あぶないわ、あんなところに乗せては……)
ふと、不安にかられたとたん、葛城の肘《ひじ》が触れて提子は水音とともに井戸の底へ落ちた。
「あッ、たいへん」
葛城は半泣きになった。
「とんでもないことをしてしまいましたわ姫さま、どうしましょう」
みんなで覗《のぞ》いてみたが井戸の中は暗く、どこに提子があるのやら見当もつかない。
「あたし、おりてみます」
「だめよ、そんなこと……」
「でも、しでかした失策の責めは、当人が負わなければなりません。綱を持ってきますからね」
「待って。ともかく父さまのお耳に入れるわ」
「殿は今日、宮中に宿直《とのい》です」
「じゃあ、お母さまに……」
と駆け出して、姫は北ノ方をつれてきた。このまに葛城は長い綱の束を持ち出し、腰にぎりぎり縛りつけた。着物をすっかり脱ぎすて、湯巻《ゆまき》一つになっている。夕近い冬日を反《は》ね返して、若ざかりの乳房がまぶしいほど白い。
「お前まあ、無謀なことを……」
おろおろ制止する北ノ方へも、
「ご安心ください。わたしは紀州の白浜で育ちました。親は海女《あま》です。こんな井戸にもぐるくらい、何ともありません」
葛城は豪語して、その言葉にたがわずスルスル井戸の中へおりて行った。家司をはじめ他の奉公人どもも集まってきて、綱の一方を橘の木に結びつけ、
「あったかい? え? 葛城よ」
井桁《いげた》に重なり合って覗きこむ。男たちは提子の行《ゆ》く方《え》より、娘の裸身に興味を燃やし合っている目つきだ。
「きゃあ」
と、このとき、葛城の悲鳴が井戸の内部に反響した。
「ど、どうした?」
「引きあげてッ、早く、早くッ」
「それ、ひっぱれ」
たちまち上って来たが、水の冷たさか、それとも別の恐怖からか葛城は血のけを失い、ぐったり井戸端にのけぞったきりだ。
「しっかりおし、お前、中で何を見たの?」
「北ノ方さま、とても駄目です。この井戸には怪異《あやかし》がいます」
「え?」
「提子はたしかに底に沈んでおりました。ところが手を伸ばして取ろうとしたら、なに者か小さな声でささやくのです。『これはもともと、わが物じゃ。返しはせぬぞよ』……そう言ってケラケラ笑いもしました」
男とも女とも、小児《しように》とも年寄りともつかぬ奇態《きたい》な語韻《ごいん》だったという。
翌日、宿直明けで帰邸した主人が、婢女《はしため》のそんなたわごとを信じるはずはなかった。本格的に井戸さらいが傭われ、底土まで掻き出して探したけれども、ついにしかし、提子は発見できずに終ったのである。
「はじめ、あの井戸を掘ったとき、掘り子が掘り当てた銀碗……。井戸神《がみ》か地神《ちじん》か知らぬが、碗はその所有であったのかもしれぬな」
「さらにそれに銀を加えて、提子を作らせたわけですから、もとの持ちぬしが執着するのも、致し方ありますまい」
夫婦はあきらめた。とりたてて葛城を叱りもしなかった。神か魔か、地にひそむものの超自然的な意志が働いて、提子を奪い返したのだとすれば、下婢の罪ではないはずだった。
そんなことよりも、もっと大きな災難がやがて彼らを見舞った。逮捕に馳せ向かった先で群盗の反撃に遇《あ》い、主人が斬り殺されたのだ。しかも服喪のさなか、こんどは失火から屋敷がまる焼けになってしまった。井戸はつぶれ、住みどころを失った北ノ方は、姫をともなって親類を転々としたけれども、気づまりと悲しみは増すばかりであった。
「泣いてばかりいては身体にさわります。姫さまのおためにも、もっとしっかりなさらなくては……」
ちりぢりになった奉公人のうち、葛城だけは踏みとどまって母子《おやこ》の世話をしつづけた。
「ありがとうよ。不幸に堕《お》ちたとき、人の心はわかるという。お前の親切は忘れませんよ」
「お礼などおっしゃっては困ります。それより北ノ方さま、蓮台野《れんだいの》の西のはずれに近ごろきれいな御堂ができて、霊験あらたかな観音さまがまつられたのをごぞんじですか?」
「さあ、はじめて聞いたけど……」
「お参りなさいませ。願いごとは何によらず聞きとどけてくださるとか。えらい評判でございますよ」
心細さに打ちひしがれていたやさきだ。姫をつれて北ノ方は出かけたが、徒歩《かちある》きに馴れないせいかすぐ疲れ、足が痛みはじめた。
「ちょうどよい。この先にわたしの友達が住んでいます。ひと休みさせてもらいましょう」
葛城の甘言にのせられてつれ込まれたのは、だが、人買いの家だったのである。
髭づらの亭主から、砂金とおぼしい布袋を受け取り、葛城がそそくさ出てゆくのを、偶然、見てしまったのは姫だった。
「お母さま、葛城はわたしたちを売って逃げたわ」
「なんですって!? あの忠義者が?」
「忠義者どころか悪党よ。銀の提子も、あの女が盗んだにきまってます」
「でも、あのとき葛城は裸だった。湯巻も水に濡れて肌にぴったり付いていた。いくら小さな提子でも隠す所などなかったはずよ」
「股のあいだに挟みつけていたのだと思うわ。両足をちぢめたきり、けっして膝を開きませんでしたもの」
少女の観察のするどさに北ノ方は目をみはったが、いまさら葛城の本性を見破ったところで、あとの祭りであった。
ひと間《ま》に閉じこめられ、慄えながら夜を迎えた。板戸が、そろっと開《あ》いたのは初更《しよこう》の鐘が鳴りはじめたときである。どうやって忍び込んだか、葛城が顔をのぞかせたのだ。
「まあ、お前、なにしにまた、もどってきたの?」
「シッ、何もおっしゃらずに出てください。逃げるんです。いそいでッ」
うながされるまでもなく北ノ方と姫は外へころがり出た。葛城の背について根《こん》かぎり走る。あたりは荒れ野、いちめんの闇夜……。ようやく一|宇《う》の辻堂に隠れ込んで、
「く、くるしい。もう駆けられない」
姫をかき抱いたまま北ノ方はあえいだ。
「ここまでくれば大丈夫。見つかりっこありませんよ」
「葛城お前は、あの人買いにわたしたちを……」
「売りました。ですが、それは策略です」
「策略?」
「殿に死なれお屋敷も焼け、北ノ方さまは無一文同様になってしまわれた。だから一ッとき、わたしはあなたがたを人買いの手に渡して、身《み》の代《しろ》を騙《だま》し取ったのです。これだけの砂金があれば当分、楽にくらせますよ」
「ああ、ありがたい。お前はやっぱり忠義者だったのだね葛城」
「そうですとも。さ、干飯《ほしいい》でも召しあがれ。そこらで湧き水を汲んできますからね」
竹筒《たけづつ》をさげて出て行った葛城が、辻堂の裏手へ廻りこむと、草むらから男が一人、音もなく立ち上がった。手真似で合図し合い、男は葛城に巻絹《まきぎぬ》を五本渡す。こんどは髭なしの、痩せて背の高い男だった。砂金の袋と巻絹をかかえ、葛城がどこへともなく、とぶように走り去るのを見送って、二人目の人買いは黙りこくったまま、ゆっくり辻堂の階《きざはし》をのぼりはじめた。
碁仙人《ごせんにん》
1
宇多天皇は碁《ご》が大好きだった。それも、賭け碁がお好きなのである。
腕前のほうもなかなか、ばかにできない。廷臣たちをつかまえて、
「いちばん、まいれ」
盤をかこむが、歯の立つ者はめったにない。
「みかど、ごかんべんください。どうせ勝ち負けはわかっているのですから……」
さそわれても、みな、逃げ出してしまう。なにしろ賭け碁だから、うっかり手を出すとひどい目にあうのだ。
ある朝臣《あそん》は、秘蔵していた異国渡りの水晶の水差しを、また、ある公卿《くぎよう》は、これも唐から舶載された五|斤《きん》もある香木の塊《かたまり》を、まんまと天皇に召しあげられてしまった。
「さわらぬ神に、たたりなしだよ」
「なにしろ、おつよいからなあ」
なにも廷臣たちの所有物など、天皇はほしがっておられるわけではない。
「大事な品を賭けさせないと、真剣にならんからな」
というのが、賭け碁の理由である。
天皇ご自身も、納殿《おさめどの》をあけさせて、綾《あや》だの錦《にしき》だの螺鈿《らでん》の手筥《てばこ》だの、時には大きな珊瑚《さんご》樹の枝、貂《てん》の毛皮、白銀《しろがね》の鏡といった珍品を出されるが、つい、そんな品々の魅力に目がくらんで、
(よーし、とってやるぞ)
お相手する者があっても、あべこべに餌《え》じきになるのが関の山……。ごくたまに、勝ってよろこんでも、得意はつかのまで、すぐまた、取り返されてしまうのであった。
新しく、宮中《きゆうちゆう》に召しかかえられた殿上《てんじよう》法師の寛蓮《かんれん》という老僧が、おどろくべき碁の達人で、天皇と互角にうつどころか、十局のうち七局は、勝をとるほどの腕前だと知ったとき、だから、いつもいつも、苦盃をなめさせられっぱなしだった若い公卿、殿上人などは大いに溜飲《りゆういん》をさげて、
「おもしろいぞ。あの坊主が、おれたちの仇《かたき》を討ってくれるという寸法だ」
「これでみかどの天狗のお鼻も、すこしは折れるというものさ」
かげで喝采《かつさい》した。
殿上法師というのは、交替で宮中に詰めて、みかどや后《きさき》、皇太子がたの、玉体安穏の祈祷を修する僧たちである。
たいした激務というわけでもないから、みかどは寛蓮の顔さえみれば、
「法師、いちばんまいろう」
勝負をいどまれる。好敵手の出現に、大いに闘志をかき立てられたらしい。
「よろしゅうござりますかな? みかど」
「よろしいか、とは、なにが?」
「納殿の宝ものが、すっかりなくなってしまってから、寛蓮、返してくれなどと御意《ぎよい》あそばしても、お返しはいたしませぬぞ」
「こ、こいつ、広言を吐くな。――それよりそのほう、賭け物になにを出す?」
「ごらんの通りの貧僧、帝王ご所持のお品に、匹敵するほどの宝は持ちませぬ」
「首をよこせ」
「なるほど。命ひとつがわたしめの宝物……。こりゃ、首を賭けるほかござりませぬな」
なりゆきを、若い連中がおもしろがって、
「さて、このけり、どうつくか」
さわぐのを、世にもにがにがしげなしかめつらで遠くから見ていたのは、太政大臣・藤原|基経《もとつね》だった。
「みかど、ご自重《じちよう》あそばしませ。かりにも一国の帝王として首をよこせとは何たるお言葉……。じたい、金枝玉葉《きんしぎよくよう》のおん身をもって、賭け碁をあそばすことすら、かるがるしいおふるまいと申さねばなりませぬ」
みかどにすれば、たとえ勝ったからといって、本気で痩《や》せ法師の首など、とる気ではないから、
(冗談もわからぬ固物《かたぶつ》め)
意見などに耳もかさない。
この基経は、ふしぎな人物で、むかし、子供のころ、天皇は老人たちから、
「あれはたいへんな、碁打ちでござりますのじゃ。碁を通じて仙境に悟入したも同然な男……。まず、碁仙とでも申しましょうかな」
と、聞かされた記憶が、うっすら残っている。そこでじかに、本人にたしかめたり、また膝づめで、打たせてみようとこころみたことも何度かあったが、そのたびに、
「もってのほかな! わたくしは勝負ごとは大きらい。また、大の不得手。碁石など、生まれてこのかた手にしたこともありませぬ」
基経は、むきになって否定するのであった。
――ところで、寛蓮法師だが、このほうはさすがに、命のせとぎわと思ったか、首を賭け物にしてからの碁には、いよいよ精彩が加わって、一度として負けをとらなくなった。
「はははは、またぞろ、貧道の勝でござる」
「うーん。くやしいなあ」
「お賭け物の青磁《せいじ》の香炉《こうろ》、それでは遠慮なくいただきまするぞ」
容赦《ようしや》しない。びしびし取り立ててしまう。
「いったい、そのほう、どうしてそう強いのだ? だれに習った碁なのか?」
「強いも道理。愚僧の碁は、並《な》みふつうの打ち手とはちがって、仙人からの直伝《じきでん》でござる。碁仙に遇《あ》って、習得した道でござりますわ」
「碁仙!? お前もか?」
「お前もか、とは?」
「いやいや、なんでもない。しかし仙人なんているのかね? いったいどのようなきっかけで、仙人に出遇ったのだ?」
「おはなしいたしましょうかの」
「聞かせてくれ」
「ただし、このものがたり、いささか尾籠《びろう》にわたりますが……」
「かまわん、かまわん。おもしろそうだ」
「では、申しあげることにいたしましょう」
坐り直して、寛蓮法師がしゃべり出したのは、世にも珍妙な、とうてい本当のこととは信じられない奇談だったのである。
2
寛蓮は、上総《かずさ》の片田舎で生まれた。
若いころ、土地の豪家に奉公して、召使のような仕事をしていたが、ある年の夏、主人のお供で旅に出ることになった。従者は八人。主人を入れると、総勢九人の大人数だ。
西へ西へ、炎天下を、汗みずくでたどって、ようやく武蔵の国、竹芝というところまでやってきた。
「今夜は、ここで泊めてもらおう」
土塀をめぐらしたりっぱな邸宅の前で、主人は立ちどまった。ところの郡司か、村長《むらおさ》の家らしい。
旅人に宿を借られつけているとみえて、家司《かし》とみえる老人が出てきて、
「どうぞ。……おかまいはできぬがの」
こころよく奥へ案内してくれた。
井戸端で汗を流し、夕餉《ゆうげ》をふるまわれて、さて、ぐっすり眠りにはいった真夜中、寛蓮は小用をもよおして床《とこ》を出た。
はじめての家だし、厠《かわや》はどこか、見当がつかない。長い渡廊《わたろう》を、たどりたどりするうちに、いい匂いが鼻をかすめた。空薫《そらだ》き物の香りだ。
そっと、かたわきの曹司《そうし》をのぞくと、涼しげにさがった簾《みす》の向うに、大殿油《おおとなぶら》がかすかにともり、若い、むっちりとした肉づきを持つ、おどろくほど色の白い女が、その豊満な肌を生絹《すずし》の単衣《ひとえ》の下に惜しげもなく透《す》かせて、暑さに寝もだえたのか、はたり、はたり、扇使《おうぎづか》いしていたのであった。
寛蓮はみとれた。彼もまた、若ざかり……。出家前の、俗体の青年である。
(なに者だろう。まさかこの邸の、妻女や娘ではあるまい)
にじりよって、もっとよく、のぞこうとしたとたん、女の視線とぶつかってしまった。
おどろくと思いのほか、扇をあげて、女はにこやかに寛蓮を招いた。
ふるえながら、彼は簾をくぐって曹司の中に這いこんだ。近くで見ると、女の美しさは、さらに倍加した。寛蓮は夢中で女に抱きついた。相手はされるままになっている。単衣をぬがせ、紫苑色《しおんいろ》の袴《はかま》をぬがせると、自分から、なやましげに身体を開いてきた。
寛蓮は目がくらんだ。欲情がふきあがるままに、女の上にのしかかって思うさま、甘美をむさぼろうとしたのだが、なんだかうまくいかない。あせってもあせっても、むなしく空《くう》をさぐる感じだ。あまり奇妙なので、無意識に自身の股間にふれてみた。
「ないッ!」
仰天した。まごうかたなく彼の男≠象徴するものが、痛みも痒《かゆ》みもなく、忽然《こつぜん》とその、あるべき場所から消え失せていたのであった。
「ひゃあ……」
どうやって逃げ出したか、おぼえがない。気がつくともとの寝部屋へ、いつのまにかもどっていた。
念のため、いま一度よくよくあらためてみたけれども、無くなってしまったものが、ふたたび生《は》えてくるはずもない。
悲しくなった。癪《しやく》にもさわった。
(なんでおれ一人、こんな災難にあわなきゃならないのか)
太平楽《たいへいらく》な顔で眠りこけている仲間たちを見ると、業腹《ごうはら》でたまらなくなってきた。
「もしもし」
寛蓮は主人をゆり起こした。
「なんだあ、なんの用だあ」
ねぼけまなこで、主人は頭をもたげた。
「渡廊のつき当りの曹司に、すてきな女房がいましてね、男に餓《かつ》えているらしく、いくらでも自由になりますよ」
「ほ、ほんとかあ」
がんらい好《す》き者の主人である。よろこび勇んで這い出していったが、寝たふりをして寛蓮がうかがっているうちに、なんとも合点のゆかぬ顔をして、前をおさえながらもどってきた。そしてさかんに、首をひねったり、ぶつぶつ独りごとをつぶやいたあげく、
「おいおい」
従者の一人を起こして、同じことをささやいた。人間の気持ちなんて、似たり寄ったりのものらしい。
案のじょう、しばらくすると、第三の男もへんてこりんな顔で逃げ帰ってき、やはり仲間をそそのかして這ってゆかせたのである。
こうして九人が九人、とんでもない目にあったものの、もともと非は、こちらにあるのだから、表立って宿のあるじに抗議を申しこむわけにもいかない。
「こんな化物屋敷、もう一刻もいられんぞ」
夜がしらむのを待ちかねて暇《いとま》をつげた。
ところが、小半町ほどきたとき、
「旅のひとオ……」
よぶ声がうしろでした。昨夜の宿の老家司が、息せき切って追いかけてきたのである。
「旅のひと、忘れものじゃがな」
「いや、べつに何も忘れてはきませんが……」
「これじゃよ」
白い紙包みをさし出した。あけてみると、その季節でもないのに松茸に似たものが、九本ずらり。
「ややッ」
おどろいた瞬間、老人はかき消え、あるべきものは、めいめいのあるべき場所に、いつのまにかもとどおり納まってくれていたのであった。
「いやはや、そうとはっきりわかったときの、九人の顔! 酢《す》と塩と蜜を、いっぺんに舐《な》めでもしたような、珍妙きてれつな面《つら》つきでござりました」
寛蓮のものがたりに、宇多天皇は腹をかかえて大笑いされた。
「うそを申せ。そんなことがほんとにあってたまるか。だいいち、その話と碁の上達と、なんのつながりがあるというのだ?」
「碁は、そのあとでございます。あまりのふしぎさに、わたくしはこっそり主人の一行と別れて、また、もとのところへ引っ返してゆきました。あきれたことに、しかし泊った屋敷は、かげも形もありません。ひょろひょろの松が一本……。その下にあの、老人が、ニヤニヤ坐っておりました」
「ふーん」
「妖術使いの仙人にちがいございませぬ。わたくしは一心不乱、弟子入りをたのみこみましたが、相手は首を横にふるばかり……。仙術のかわりに、お前を日本一の碁打ちにしてやろうと申しまして、わたくしのこの、右の手を、ぎゅっと両手でにぎりしめました。それ以来でございます。われながら、あれよあれよと胆《きも》がつぶれるほどの早さで、わたくしの碁が上達いたしましたのは……」
みかどのお口から廷臣たちへ、たちまち拡まったこの珍談に、
「ばかな。いつわりにもほどがある」
いよいよ苦虫をかみつぶしたのは、太政大臣・基経であった。
出まかせなウソ話で、みかどにごまをするのも気に入らないし、勝ちをよいことに、遠慮会釈《えんりよえしやく》もなく賭け物をとりあげて、ふところを肥やしているのもゆるせない。
「このままでは、やがて寛蓮めの豪語にたがわず、宮中の納殿《おさめどの》は空《から》になってしまうぞ」
基経の心配をよそに、みかどはとうとう、とっておきの宝物を賭け物に出された。一尺二寸にもおよぶ長方形の、金無垢《きんむく》の枕である。固くて、使いごこちはよくないかもしれないが、価値からいえばたいへんな品だ。
「ほほう、みごとな枕でござりますなあ」
もう、取ったも同然なほくほく顔で、寛蓮は目をほそめた。
3
打ってみた結果は、でもやはり、寛蓮の腹づもり通りになった。みかどの負けである。
「さらば、いただいてまいりまする」
枕をかかえて、退出してゆくと聞いて、
「追えッ、追いついて取りかえせッ」
基経は、若い殿上人たちをけしかけた。
おもしろがって、放《はな》ち出《い》での広縁でひっ捕え、あらがう手からむりやり枕をうばって、殿上人らはみかどのおそばへ持ってきた。
あくる日、平気でまた、みかどはそれを賭け物に出された。
「ひどい、ひどい。これは昨日の……」
「いいや、別の枕じゃ」
くやしがって寛蓮はふたたびみかどを打ち負かし、枕をとりもどした。しかし、またまたそれを、退出の途中で殿上人たちにうばい返された。
そんな、やったり取ったりを、五、六回もくりかえしたある日、寛蓮は先手をうって、やにわにそばの石井戸の底へ、金の枕を投げこみざま、走り出て行ってしまったのである。
「腹いせをしおった」
庭掃きの雑人《ぞうにん》を井戸におろして拾《ひろ》わせてみたところが、なんとこれが、木に金箔《きんぱく》を張りつけたにせもの……。用意してきた身がわり枕で、まんまと追手の目をくらまし、そのすきに本物を法衣の袖にかくして、持ち逃げしたわけであろう。
「はははは、たいした智恵者だ」
みかどは笑った。それにひきかえて、おさまらないのは太政大臣・基経の胸のうちだった。
「おのれ、目にもの見せてくれるぞ」
なにごとか、決意したのを夢にもしらずに、あいかわらず寛蓮は出仕していたが、その帰り道、一条、西ノ大宮の曲りかどで、
「もしもし」
よびとめられた。愛らしい女童《めのわらわ》である。
「日本一の碁の名人、寛蓮さまですね?」
「いかにも愚僧は、寛蓮じゃが……」
「わたしの女主人はたいそうな碁好きで、ぜひ一度、あなたさまと手合せしたいと申しております。お越したまわりませぬか」
「女人の身で、このわしに手合せとな?」
興味をそそられた。
女童のあとについてゆくと、やがてみちびかれたのは、前栽《せんざい》のませ垣など、小ぎれいにめぐらした板屋であった。
広縁のはし近く、几帳《きちよう》が出され、すそが半分ほどくくりあげられて、その下に蒔絵《まきえ》の、みごとな碁盤が置かれている。女は几帳の向こうに上半身をかくして坐っていた。
「ようこそおはこびくださいました」
声《こわ》つきから袖にこぼれる襲《かさね》の色まで、まだ華やかな若い女らしい。
碁石を白黒とも、碁笥《ごけ》ごと寛蓮のほうへ押しやって、
「はばかりながらわたくしの代りに、黒石をお置きくださいませ。置きどころは申しあげますから……」
袖口から檜扇《ひおうぎ》の先をさし出して、まず、中の聖目《せいもく》を示しながら、
「なんぞ、賭けようではござりませぬか寛蓮さま。ただ打つだけではおもしろくありませぬ」
女は提案した。
「けっこうですな。なにを出されます?」
「わたくしはこの家ごと、家具調度、召使まで、ぜんぶまるまる賭けましょう」
「ほ、こりゃ女人に似合わぬ気宇《きう》の大きさじゃ。よろしい。では愚僧も所持の財産ことごとく、みかどから勝ち取った宝物までいっさい、負けたらそもじに進上しましょう」
「ご違背あそばすな、寛蓮さま」
「なんの、違背などするものか」
勝つのは当然とたかをくくって、女の黒石は檜扇が示す筋に置き、自身は白石を手に、打ちはじめたのだが、相手の強いこと強いこと、寛蓮の石はみなごろしに殺され、あっと狼狽したときには、すでに取り返しのつかぬ大負けを喫したあとだったのだ。
呆然自失……。口あんぐりの寛蓮の前へ、
「どうだ。上には上があるものだろう。これにこりて、こののち高慢やウソ話はつつしむがよい」
出てきたのは、思いがけなく太政大臣・基経であった。
「こ、これは殿、なぜこの家に……」
「これはわしの乳母の娘の家――いや、そんなことはどうでもよい。勝負は見とどけた。わしが証人じゃ。寛蓮、賭け物はとりあげるぞ」
ウウもスウもなく屈強《くつきよう》の男たちを派遣して、寛蓮の庵室から黄金の枕をはじめ車にしこたま、宝物を運び出すと、そっくりもと通り、宮中の納殿へ、基経はもどしてしまったのである。
「寛蓮法師がやぶれた」
「しかも女に、手もなくやられたそうだぞ」
評判がお耳にはいったとき、
(女の正体は、基経だな)
みかどはたちまち、喝破《かつぱ》された。
(本物の女をそばに置いて、声だけ聞かせたのだろう。顔を見せず手先を見せず、扇でさし示すだけだったのがその証拠だ。……うーん基経め、やはり彼こそは碁仙だったのだな)
なぜ、それはどの実力を持ちながら、基経は断乎、対局を拒否しつづけたのか? 石の並べ方ひとつ、知らないふりをしていたのか?
(碁に婬《いん》している朕《ちん》への、態度での諷諫《ふうかん》、あるいは痛烈な反撥《はんぱつ》だったのだろうか)
いっぽう、みかどは、しょげきっている寛蓮を召して、とり上げられた宝物に相当するだけの、おびただしい銭《ぜに》を下賜された。そして、基経を、おだやかになだめられた。
「怒るな大臣《おとど》、賭け碁に夢中な朕を利用し、がめつく賭け物をたくしこもうとした寛蓮の真意は、私欲ではない。――まあ、見ていてごらん。やがて納得《なつとく》できるだろうから……」
みかどが予想された通りだった。
下賜された――いや、天皇相手に勝ち取った数千貫文の銭を活《い》かして、寛蓮はまもなく、貧民のための施療病棟を建て、よるべない病者の救済に挺身しはじめたのである。
「ありがたい。ありがたい……」
ひとびとはこの病棟を『烏鷺《うろ》室《むろ》』とよんだ。烏《からす》は黒く、鷺《さぎ》は白い。碁石の黒、白に、もじった名であることはいうまでもなかった。
榎屋敷《えのきやしき》の女
1
女のうしろ姿が門内に吸いこまれて、すっかり見えなくなってしまってからも、しばらく呆《ほう》けたように小次郎は道ばたに突っ立っていた。
(なんとまあ美しい女が、世の中にはいるものか)
と思う。
魂をぬかれた顔で、うかうかあとについてきてしまったものの、いったいここは都のどのへんなのか、田舎者の小次郎には見当もつかなかった。
「若い衆、なにをぼんやりしとるんじゃい」
どこからか、声がかかった。築地《ついじ》の下に荷をおろして、休息している昆布《こぶ》売りのかみさんだ。
「あのう……おばさん」
おずおず、小次郎はたずねてみた。
「この屋敷は、なにさまのお住いだね?」
「榎《えのき》の大納言《だいなごん》さまの邸宅さ」
聞き手の風態《ふうてい》を、かみさんは、ぶえんりょな目でながめ回しながら、
「ご門のわきに大榎があるだろ。それにちなんで風流な異名をつけられていなさるが、じつの名は大納言・藤原隆房卿――。泣く子もだまる検非違使《けびいし》別当《べつとう》のお館《やかた》だよ。榎屋敷を知らんとは、お前さん、よほど都馴れないポッと出だな」
黄色い歯をむき出して、からかうように笑った。
なるほど、葉をふるい落とした榎の大樹が、寒茜《かんあかね》の空に枝をひろげて、威圧するようにそそり立っている。
(そうか。するとあの女は、この屋敷につとめる奥仕えの女房というわけか)
風の中を、小次郎は歩き出した。うきうき心ははずみ、身体がほてって、日のくれ方の冷気がいっこうに苦にならない。
ずばり、昆布売りが言いあてた通り、小次郎はつい二ヵ月ほど前、北白河の左大臣家にめし使われるため、信濃《しなの》の大牧《おおまき》から京へ出てきた在郷《ざいごう》武者なのだ。
「邸内警固の用に、屈強《くつきよう》のさむらいを十人ほど、至急、さしのぼせよ」
と左大臣家から下命があったとき、
「小次郎ならば……」
折り紙をつけて、国衙《こくが》の役人がまっ先に人選に加えた若者である。
乗馬がうまい。太刀もよく使う。そのくせ体躯に似合わぬはにかみ屋で、ちょっとした冗談にさえ顔を赧《あか》くし、ムキになって抗弁する初心さを、仲間のさむらいたちは、
「いいやつだ。純な男だよなあ」
と愛していた。
「一日、骨休めの休暇をとらせる。ゆるりと洛中を見物してまいれ」
と今朝がた小次郎は、老家司《ろうかし》から言いわたされた。左大臣家に勤めるようになって以来、はじめてゆるされた外出である。
先輩の隼太《はやた》に手つだってもらって、柏《かしわ》の葉包みの弁当をこしらえ、竹筒《たけづつ》に水まで用意していそいそ出かけた。北野の天神から賀茂のやしろ、清水寺へとまわり、石段の中腹に腰をおろして、にぎり飯の包みをあけかけたとき……小次郎は、あの、榎屋敷の女を見たのだった。
観音参詣のもどりらしい。白綾《しろあや》の被衣《かつぎ》の上に塗り笠をいただき、守り袋を胸にかけて、女童《めのわらわ》をひとり、女はつれていた。
笠の下から、その顔をひと目ふり仰いだせつな、小次郎の全身を、
「うッ」
慄《ふる》えが走った。
たいせつな屯食《とんじき》の包みがころげ落ちたのにも気づかず、女の衣服が放つ薫物《たきもの》の香りにみちびかれて、雲をふむようにふらふら榎屋敷までついてきてしまったのだ。むろん、声をかけたわけではない。名も知らない。はかない片恋だが、小次郎は満足だった。
(住まいがわかったんだ。いつかまた、きっと逢うときがあるにちがいない)
理屈ぬきに、彼の若さが、こう確信する。
無味乾燥した武者づとめに、なんだか急にポチッと小さな灯《ひ》が点じた思いで、足どりもかるく小次郎は帰路についた。
しかし帰りは、さんざんな目にあった。みごと、道に迷い、老家司が飼っている鸚鵡《おうむ》の鳥さながら、
「北白河へは、どうゆくのでしょうか?」
ひとつ言葉をなん十ぺんとなくくり返したあげく、ようよう左大臣家にたどりついたときには、屋敷じゅうが寝しずまっていた。
親友の、隼太ひとりが起きていて、
「こんなにおそくまで、どこをほっつき歩いていたんだ」
叱った。
「道に迷ってしまったんだよ」
「たぶんそんなことだろうと思ってたが、夕飯は、どこかですませてきたのだろうな?」
「まだだ。……あッ、そういえば、ひる飯も食ってない」
「腰糧《こしがて》を、持って出たじゃないか」
「道で……落としちまった」
「ばか」
それでもかいがいしく、隼太は台盤所《だいばんどころ》へ立ってゆき、冷やめしに、味噌《みそ》と熱い白湯《さゆ》をそえて持ってきてくれた。
ものもいわずに小次郎は飯びつにとびつき、湯漬けを三杯、たてつづけに胃の腑《ふ》に流しこんだあげく、やっと隼太の親切に気づいた様子で、
「ありがとう。うまいや、この味噌……」
ぴょこんと頭をさげ、さらに四杯、がつがつ食ってのけた。
「おい!」
あきれて、
「ほんとうに、どこへ行ってきたんだよ」
「天神さま、かんのんさま……そのへんから道に迷って……うふふ、うふふ」
「なにがおかしい。へんなやつだな。八坂《やさか》近辺にはいかがわしい魔窟が多いが、まさかきさま、そんなところへくわえこまれて、白粉まだらの女狐《めぎつね》にたぶらかされたんじゃあるまいな」
小次郎を、ずけずけ隼太はきめつけた。
2
――三月《みつき》たった。梅は散り、桜も終って、季節は初夏にはいっていた。
小次郎も、だいぶ都の地理をのみこんできた。休暇をもらうたびに、
「名勝古跡を見てくるよ」
彼は隼太にことわって、榎屋敷へ出かけ、あの、昆布売りのかみさんが休息していた築地の下に、同じように腰をおろして一日でも飽きずに頬杖をついていた。
一度だけ、いつかの女童《めのわらわ》が門を出てきた。びっくりした顔で小次郎を見、あわててひっこんだが、それっきりだった。女に遇《あ》うことはあれいらい、絶えてなかったけれども、小次郎の心はじゅうぶん満たされていた。
「おい、お前、いつのまにかすっかり緑いろの着物で、おめかししちまったじゃないか」
大榎に、はなしかけた。榎とだけ、すっかり仲よしになっている……。
そんなある日――。
青葉どきに特有の、酒精をふくんだようなねばっこい、なまあたたかい夜気《やき》を裂いて、小次郎の勤める北白河の左大臣家に群盗が押しいった。
「出合えッ、出合えッ、盗賊だぞう」
怒号がとびかう。矢がうなる……。働くときがきたのだ。
隼太、小次郎をはじめ、いっせいに奮《ふる》い立って応戦したが、賊のかずは五十を越し、しかもどれも、血に慣《な》れた野獣の集団だった。
「ひくなッ、ひくなッ」
老家司の叱咤《しつた》にもかかわらず、さむらいたちは射たてられ斬りたてられ、そのすきに雑舎の一棟から、賊の手で放火されたらしい黒けむりが、もうもうと立ちのぼりだした。
「火事だッ」
「火を消せッ、なによりは、まず火をッ」
雑色《ぞうしき》、舎人《とねり》らの右往左往を蹴ちらして、賊どもは納殿《おさめどの》に乱入し、手あたりしだい什宝《じゆうほう》を外へはこびはじめる……。
「だめだ、とてもふせぎきれない」
殪《たお》した敵の屍体から、皮の袖なしと藁編《わらあ》みの猟師《かりゆうど》頭巾《ずきん》をはぎとって、小次郎は手ばやく身につけた。賊のむれは、すでに引きあげにかかっている。その人数にまぎれこみ、首領の面態《めんてい》、かくれ家《が》を、つきとめるつもりであった。
――二条大路をまっしぐらに西へ、賊どものあえぎに揉《も》まれながら、やがて小次郎も走り出した。
ついたのは、朱雀《すざく》門である。朽《く》ちかけたその大庇《おおびさし》の下が、彼らの溜まり場らしい。松明《たいまつ》をともして賊どもは円柱のかげに寄り合い、手きずの有無《うむ》をたしかめあう……。
「なんだ、わりゃア、左の手首を、どこへ落としてきた?」
「そういうおぬしの背も、いちめん、まっ赤だぞ」
がやがや、わめきかわす頭上を、
「むだ口をたたかずと、獲物を出せい」
破《や》れ鐘《がね》のような濁《だ》み声がひびき渡った。
さらってきた盗品を、賊どもはてんでに輪のまん中にほうり出す。あるわあるわ、砂金の袋、綾錦《あやにしき》の巻物、螺鈿《らでん》の鞍……。
(わずかのまに、よくもまあ、これだけかつぎ出したものだ)
物かげで、小次郎が目をみはったほど、それはおびただしい品かずだが、濁み声のぬしは、
「なんだ、たったのこれっぽっちか」
不満げに舌打ちしながら、盗品の山をあれこれ物色したあげく、
「今夜の圧巻は、まず、これだな」
ひとふりの、黄金《こがね》づくりの太刀をつかみあげた。
(大臣《おとど》の御剣《ぎよけん》だ。晴れの式日にお用いになる重宝まで、ぬすみ出しおったのだな)
小次郎の歯がみを尻目《しりめ》に、濁み声のぬしは腰をかがめると、かたわらに立つ男へ、
「おかしら、これをお取りなせえまし」
と、太刀をささげた。
(そうか。首領はあいつか)
のびあがって賊どもの背ごしに、小次郎は男を見やった。
頭を袈裟《けさ》で裹頭《かとう》包みにし、胴鎧《どうよろい》の上から首領は素絹《そけん》をはおっている。僧とも俗とも、見わけのつかないいでたちの異様さに加えて、なんともぶきみなのは、その顔だった。
眉《まゆ》がない。青ぐろい皮膚はテラッと光って、つりあがりぎみの血ばしった両眼だけが、夜叉神《やしやじん》さながらするどかった。
無言のまま、首領が太刀をうけとると、
「さあ、分けるぞ」
副首領らしい濁み声の男は、ふたたび盗品の山へもどった。
「犬神、てめえにゃこれをやる。おい豊前《ぶぜん》坊、おぬしの組はこれを分けろ」
ざわめきがしばらくつづき、またたくまにそれも終ると、
「では、おかしら、ごめんなすって……」
松明を踏《ふ》み消し、賊どもはわれ先に、四方の闇へ散りはじめた。
首領は一人になった。黄金づくりの太刀を腰にくくりつけ、薙刀《なぎなた》をにぎって、最後まで手下の退散を見送っていたが、やがて門の庇《ひさし》を出ると朱雀大路を南へ、べつに急ぐ気配もなく歩きだした。
見えがくれに、小次郎はあとをつけた。
(斬りふせてやろう……いや、生け捕りがいい。なんとか捕えることはできないものか)
手柄《てがら》がたてたかった。一日もはやく出世したかった。熱望の底には、あの、榎屋敷の女の、匂やかな面《おも》かげが灼《や》きついている。
(文を送ったところで、平《ひら》武者では相手にもしてくれまい。ひとかどのさむらいに、なりあがらなければ……)
その機会が、いまこそきたのだ。
(よしッ)
決意すると、小次郎はやにわに太刀をぬき、
「盗賊、まてッ」
地を蹴って、相手の背へ躍りかかった。
3
首領はふり向いて小次郎をにらんだ。血が凍るかと思う形相《ぎようそう》のおそろしさだ。小次郎はひるんだ。
そのすきに首領は走り出した。地上をすって翔《か》ける飛燕《ひえん》に似ている。
「おのれッ、にがすものかッ」
追いかけた。あやうく追いつきかけた。
「うぬッ」
刀を、小次郎は横に払った。手ごたえがあった。月あかりの中に、血が青く、霧《きり》になって散った。
首領の速度は、しかし落ちなかった。
(さすがに、気丈なやつだ)
小次郎は舌をまいた。
相手ははやい。駆けて、駆けて、とある四ツ辻に出た。ふいに右へ、首領は曲った。
「まてッ」
ほんの十歩ほどの距《へだた》りなのに、その曲り角《かど》に小次郎がのめりついたとき、あたりには犬の仔一匹、見えなかった。蒸発でもしたように首領のすがたは消えていたのである。
「しまったッ、しまったッ」
じだんだふんで小次郎は悔いた。
「そっとつけて、かくれ家を見とどけたほうがよかったのだ。――ちきしょうッ」
うろうろと、それでもみれんげに、行きつもどりつしているうちに、
「おや、なんだ、これは……」
妙なものを小次郎は見つけた。路上にしたたった血のあとだ。首領のものにまちがいない。よく見ると、血はかたわらの築地にもついている。
「あッ、榎!」
大枝が、塀《へい》を越して、路上にまでのびていた。小次郎はあっけにとられた。
「ここは榎屋敷じゃないか」
盗賊をとらえるのを職掌にしている検非違使別当の邸内で、まさか賊を飼ってはいまい。くるしまぎれに榎の枝をつたって、一時、築地の内側にひそんだのだろう……そう、判断したので、
「おあけくださいッ、もしッ、あけてくださいッ」
門扉を力まかせに、小次郎はたたきたてた。
「だれだ、こんな夜ふけに……」
門番らしい。ねぼけ声で応じる声がした。
「わたくしは左大臣家に仕えるさむらいです。今宵、屋敷に盗賊が押し入り、首領とみえる一人がご邸内に逃げこみました」
「なに、賊のかしらが、当家に!?」
「ひっくくらせてくださいましッ」
「まてまて。上司に申しあげてくる」
たちまち、屋敷じゅうがざわめきだした。
「はいれ」
門のくぐりがあき、小次郎は中へよび入れられた。
大納言隆房みずから、中門廊の駒寄せまで出てきて、
「申し立てに、いつわりはあるまいな」
小次郎をただした。
「いつわりも、まちがいもござりませぬ。外をおしらべください。路上と築地に、血痕が散っております。一太刀、あびせたのです」
ところへ、
「申しあげますッ」
召使がかけてきて、庭土に手をつかえた。
「ただ今、検非違使庁より走り下部《しもべ》がしらせてまいりました」
「おお、なんと?」
「つい一|刻《とき》ほど前、北白河の左大臣邸に盗賊が乱入。家財をかすめとって逃げうせたよし、訴えがあったと申すことでござりますッ」
小次郎の言葉の真実が、これで立証された。
「屋敷の四門をかためろッ」
大納言はさけんだ。
「蟻いっぴき外へ出すなッ、築地のぐるりに人を配し、さむらいどもは邸内をくまなく詮議《せんぎ》せよッ」
上を下への騒動のうちに、夜があけかけた。東の空いっぱい、燃えつきそうな朝焼けだった。
「見つかりません。庭にも、棟々にも……」
「そんなはずはない」
「のこるところは、女房がたの住む北ノ対《たい》ひと棟です」
血のあとをたどってゆくと、青光りするしたたりは北ノ対の車宿りまでつづいていた。
「さては女どものなかに、ぬすびとをかくまった者がいるのだな」
大納言は推量し、寝殿《しんでん》の南おもてへ、女房たちをのこらず集めさせた。ふだん、男の立ち入りを禁じている場所だが、非常の場合である。局々《つぼねつぼね》へさむらいたちをふみこませ、蔀《しとみ》、格子《こうし》をあけ放させて、しらべあげるつもりであった。
ところが、小少将《こしようしよう》という女房だけが、
「風邪のここちで、床についていますので」
言い張って寝殿へ出てこようとしない。
「あやしいやつ……」
自身、大納言は小少将の局へ出かけて行った。几帳《きちよう》をひきのけ、その寝すがたを枕もとから見おろして、
「異《い》な匂い……。塗り薬ではないか」
大納言は追及した。
「切りきずにこそいるもの……。風邪のそなたが、なに用あって塗り薬を使う」
「そ、それは……」
逃げようとする肩を、大納言はおさえつけた。
「男をかくまっているのであろう。白状せい」
このまに、さむらいたちはなだれこんで、厨子棚《ずしだな》、唐櫃《からびつ》、床板《ゆかいた》をはいで縁下までさぐったあげく、黄金づくりの太刀をはじめ、目もくらむばかりな盗品のかずかず、血にそんだ小袴《こばかま》までを見つけ出していた。
「さあ、これでもしらをきるか」
「男など、隠してはおりません。賊の首領はわたくしでございます」
観念したのか、白布で巻いた高股《たかまた》のきずを、小少将はわるびれずに見せた。もはや、まぎれもない。
念のために、賊の面態のただ一人の目撃者として、大納言家の供待ち部屋にひかえさせられていた小次郎が、よび出された。
「しかと、この女に相違ないか」
ひと目、見るなり、
「ち、ちがいますッ、私が昨夜、斬ったのは、似ても似つかぬおそろしい顔の男ですッ」
泣かんばかりに、小次郎は坐りこんでしまった。
(あの女だ!)
夢のまも、忘れぬ相手ではないか。
ここを榎屋敷と知ったときから、功名への期待と、女に再会できるかもしれない望みに、胸をおどらせていた小次郎である。
「ちがうッ、なにかのまちがいですッ」
声にも眼にも、必死の色をにじませて、
「賊のかしらは、男でございますッ」
言いつのる肩へ、小少将は近づいて、しなやかな手を、そっと置いた。
「ありがとう。かばってくださって……。清水坂からの、ご縁でしたね?」
「では、あなたは……」
「つけてこられたこと、時おり門外にきておられたこと……なにもかも知っています。うれしかった。私みたいな女にも、まだこのような、無垢《むく》な若者に慕われるすなおさが、残っていたのかと思って……」
「でも、でも、私が昨夜見たのは……」
「この顔でしょう?」
ふところから仮面を出して、小少将はしずかに顔にあてた。あの賊長の、ぶきみな相貌がそこにあった。
狩人《かりゆうど》と僧
妙楽寺の住職|覚浄《かくじよう》が、日課の写経を終えて眠蔵《めんぞう》へ入りかけた真夜中すぎ、
「和尚さまッ、大変です、来てくだされッ」
庫裏《くり》の戸を破れそうに叩きたてる声がした。覚浄はとび起きて、
「そういう声は、狩人《かりゆうど》の竜若《たつわか》どのじゃな」
いそいで板戸の閂《かんぬき》をはずした。
「はい、竜若でございます」
「この夜ふけ、息せき切って、どうなされたな?」
「えらいことが起こりました。わたくしどもの老母が、鬼になりましたので……」
「な、なんと言われる? あの、しっかり者の母刀自《ははとじ》が、鬼女に!?」
「はい、はい、気が動顛《どうてん》して、何が何やらよくはわかりませぬが、人間というものは年闌《とした》けて、老いると、妖怪|変化《へんげ》、鬼のたぐいに変じるものでございましょうか」
「古今、そのような話を聞かぬでもないが、まさか、こなたたちの母親が冤鬼悪霊《えんきあくりよう》になるなどという奇怪せんばんなことはあるまい。なにかのまちがいか、もしくは狐狸《こり》にでもたぶらかされたのであろう」
「わたくしども兄弟も、夢であってほしいと念じておりますが、どうやら本当に、母は鬼神に変じたらしゅうございます。ご足労ながら和尚さま、どうかいらしてみてくださいまし」
「行こうとも。出家の役目じゃ」
やぶれ草履《ぞうり》を突っかけてそそくさ出てみると、夜空には木枯《こがらし》が吹き猛《たけ》び、星が無数にまたたいて、肌を刺すかと思う寒気《かんき》の烈しさであった。
蘆《あし》のそよぐ大沼を半周すると、対岸に竜若の家がある。兄の虎若《とらわか》ともども、稼業は猟師だ。母親の阿児矢《あこや》は六十を二つ三つ過ぎ、痩せほそって髪がまっ白ではあるけれど、まだまだ足腰は達者だし、目も耳もさして衰えていない。苧《お》を績《う》み、機《はた》を織りなどして、くらしを助けていた。
「鬼になったとだけ、こなたは言うが、それでいま阿児矢どのは、どうしておられるのじゃ? 暴れてでもおるのか?」
と岸にそって走りながら、覚浄は問いかけた。
「わたくしども兄弟に向かって、襲いかかってまいりましたので、死にもの狂いで寝所へ突き入れ、しきりの戸をかたく閉ざして、兄が懸命《けんめい》に抑えています」
肩を大きくあえがせて竜若も言う。吐く息が凍って夜目《よめ》にも白い。
駆けつけてみると、だが家の中は静まり返って、
「うう、うう……」
虎若の身も世もなげな号泣だけが外に洩れていた。
「どうした兄さんッ」
土間へとび込みざま竜若が呼びかけた。
「母さんはどうなった? まだ寝所にいるのか?」
「い、いや……」
突っ伏していた床《ゆか》から、虎若はのろのろ上体を起こして、
「母さんは死んだよ」
うつろな視線を奥へ投げた。
「わたしが戸を抑えているあいだじゅう、あけろ、あけろと恐しい声でわめきながら、どすんどすん身体をぶつけていたが、やがて弱って声がしなくなった。そして、こわごわ戸を引きあけてみたら……ほら、あの通り倒れて、息絶えていたのだ」
「やはり死んでしまったのか」
兄にしがみついて竜若も泣き出した。
「なんというやりきれない話だろう。昨日まで――いや、ついさっきまで、見馴れた慈愛ぶかいおれたちの母さんだった人が、急に鬼になってしまうなんて……しかも、それとは知らずにおれたちが射た矢で大怪我《おおけが》して、そのきずがもとで死んでしまうなんて……信じられないッ」
歎きに沈むわきをすりぬけ、覚浄は奥の寝所へ入った。阿児矢がこときれている。亡骸《なきがら》が浮くばかり、あたりはすさまじい血の海だ。老女は右腕を失っていた。血は腕の付け根から噴出し、阿児矢の命を奪ったのだろう。枯れ木さながら、脇にころがっているのは肩を離れたその腕である。鋭い雁股《かりまた》で射切《いき》られたらしく、切断面が白く光って、骨までが鮮《あざ》やかだった。
「こう見たところ、苦悶に引きつって形相《ぎようそう》はむごたらしいが、牙《きば》が生じたの角《つの》が生えたのというわけではなし、怪我人一般の死にざまと変らぬ。なぜ、こなたたちは、母者《ははじや》を鬼などと言うのじゃな?」
覚浄の不審に答えて涙ながら、兄弟が語った森の中での出来事こそ、世にも不思議なものであった。
虎若と竜若は、こもごも次のように話したのである。
「今宵、亥《い》の刻すぎでした。わたしら二人はつれだって、山裾《やますそ》の榧《かや》ノ森へ、『待ち』を仕掛けにまいったのでございます」
『待ち』というのは、鹿道《しかみち》に作る簡単な見張り棚だ。
厳寒の到来に備えて鹿たちは、晩秋初冬の山野を群れをなしてあさり歩く。餌を食べ溜め、皮下脂肪をふやすのだが、それを待ち受けて狙うのが『待ち』を使っての猟法だった。鹿の群れの通り路を挟みつけるかたちで立つ樹木……。幹と幹の間に横木を掛け渡し、足をからめて葉かげにひそむ。そして下を走る鹿を見すまし、枝越しに矢を放って射倒すのである。
「わたくしと弟は、左右に分れて木に登り、弓弦《ゆんづる》に矢をつがえて息を詰めました。鹿というやつは、なみはずれて鼻のきく、カンのよい生きものでございます。人の気配など嗅ぎつけたら寄りつきはいたしませぬ。でも、わたしらも親代々の狩人。匂いを消し息づかいの音すら消してじっとやつらを待ちつづけました」
「森は身ゆるぎでもするように、風を孕《はら》んでどよめきます。木梢《こうれ》の透《す》きまから見あげる夜天《やてん》は、いっぱいに星屑《ほしくず》を嵌《は》め込んで、しかもしきりに、その星が流れ落ちるのでした」
と兄に代って弟の竜若が語り出した。
「ざあざあと、音たててでもいるかと思うおびただしさで、流れ星が翔《か》け交す……。鼻をかすめる風の香《か》は言いようもなく腥《なまぐさ》く、蛇穴からでも吹きあげてくるようです。なんとはなしに、総身《そうみ》の毛が粟立《あわだ》ちました。子供のころから通い馴れているはずの榧ノ森なのに、今夜ほど薄気味わるく感じたことはありません」
「わたしも同じです」
と、こんどは兄の虎若だった。
「禁を破ってつい知らず、奇妙な晩だなあと向かい側の弟に、声をかけようとした……その刹那《せつな》でした。いきなり上から髻《もとどり》を強い力で、わたしは掴みあげられたのです」
「兄が絶叫しました。竜若ッ、助けてくれ、おれの木にだれかいるッ、髻を引っぱるッ、腕のようだ、雁股で射切ってくれい……。わたしは仰天し、夢中で矢を引き絞《しぼ》ったものの、あたりは闇です。かすかな星あかり、獣《けもの》なみに見える眼力《がんりき》――。それでも手許を少し狂わせれば、あやまって兄を射てしまうでしょう。ためらうまにも引きずりあげられているらしく、兄の叫び声はじりじりと上へと移ってゆきます。ぐずついてはいられません。劫《こう》を経《へ》た古樹の梢には魔神が棲《す》みつくと聞いていたが、まさしくそれに相違ないと判断し、思いきって矢を放ちました」
「弟の射技は抜群でした。腕は射切られ、それでもしつこく髻を掴みつづけたまま、引き抜かれた古杭《ふるぐい》さながら、わたしの背にぶらさがりました。木から飛びおり、もぎとった腕をにぎりしめて弟と二人、あとをも見ずに我が家へ逃げ帰ったのです」
ところが妖怪は、先廻りして家の中に待ちかまえていた。このところ風邪気味で、臥せっているはずの老母……。兄弟が家へころがりこむやいなや、その寝所の戸がガラリとあき、
「きさまら、ようもようも……」
わめきざま阿児矢が、白髪を逆立てて襲いかかってきたのであった。
「顔つきの恐しさは、正真《しようじん》の鬼女です。口から火焔を吐くかとも見えました。しかも右腕がありません。血潮にまみれて半身はぐしょ濡れです。わたしらは惑《まど》いました。樹上に隠れていたのは母だったのか、老いさらばえると人は鬼に変じ、我が子を取って啖《くら》うようになるのか……。ともあれ無我夢中で、もとの寝所へ母を突き入れ、わたしは外から戸を抑える。弟は和尚さまを迎えに走る。そのうちに精根尽きたか物音がとだえ、ごらんの通り母は絶命したのでございます」
聞くあいだじゅう幾度となく、覚浄は法衣の上からふところを抑えた。
(うそじゃ。作り話じゃ。なんで倅思《せがれおも》いの阿児矢どのが子を食う悪鬼になどなるものか。兄弟|肚《はら》を合せて老母を殺害し、まず、このわしを言いくるめて、世間の目を瞞着しようと企《たくら》んだのであろうが、どっこい、そうはさせぬぞ)
覚浄の懐中には、阿児矢から預った地券《ちけん》の包みが、しっかりくくりつけられている。ひと月ほど前、母親は寺へきて、
「和尚さま、聞いてくだされ」
そっと打ちあけたのだ。
「まだ、十七、八のころ、倅どもの父と夫婦《めおと》になる以前にわたくしは都へ奉公に出、さる公卿さまの屋敷の樋《ひ》すましとなって、若殿のお情けをこうむりました。ひまをとって故郷へ帰るさい、頂戴したのが、尾張の笠松とやらにあるささやかな所領の地券でございます。本来なら、そっくり子供らに譲る財ではあるけれど、二人ながら腕の立つ猟師に育ち、食うにいささかも気づかいはござりませぬ。むしろ小さな地所ではあっても、財を持てば心がゆるみ、稼業はおろそかになる、独り占めの欲が出て兄弟|不仲《ふなか》の種にさえなるでしょう。いっそはじめから無かったことにし、そっくりお寺さまに寄進して、亡夫とわたくしの、死後の善根といたそうとぞんじておりましたところ、どうやら倅どもは地券の一件を、嗅ぎつけたらしいのでございます」
こそこそ鼻つき合せては相談し、欲心にぎらつく恐しい目で、近ごろ母親の挙動をぬすみ見るようになったのだ。
「もしかしたらわたくしは、子らに殺されるかもしれませぬ。家中かき回して地券のありかを探したらしいのですが、胴巻きにくるんで身につけていると知ってからは、獲物を狙う餓狼《がろう》さながら、日夜わたくしの油断をうかがうありさま……。悲しいことですけれど和尚さま、地券をあらかじめ、お渡ししておきます。お寺で預っていてくださいまし」
鬼に変じたのは老母ではない。欲心に目のくらんだ息子たちだったのだ。
覚浄は決意した。あす、夜明けを待って早々に、土地《ところ》の目代《もくだい》まで訴えて出よう……
(地券が証拠じゃ。母殺しの極悪人どもめ、許しはせぬぞ)
口ではしかし、痛ましげに悔《くや》みを述べ、枕経《まくらぎよう》を誦《ず》したあと、
「ねんごろに、今夜は二人で通夜《つや》してあげなされ。葬礼は明日、寺で執《と》りおこなうでな」
言い置いて覚浄は兄弟の住居を辞した。あいかわらず寒風が湖面を波立たせ、枯れ蘆が身もだえて鳴っている。彼は足をはやめた。岸辺の道を、風にさからってひたすら急いだ。
――覚浄はそのくせ、妙楽寺に帰りつくことができなかった。薄氷の張る水中に、上半身をのめり込ませて溺死している姿を、翌朝、通りすがりの百姓に発見されたのである。
「母の死に立ち会ってくだされたもどりがけ、足をすべらせて落ちたのでしょう。申しわけないことをいたしました」
虎若、竜若の説明を疑う者はいず、まして覚浄の懐中から、地券の包みが抜き取られてしまった事実など、だれ一人知る者はなかった。
「阿児矢さんは鬼になったげな」
「我が子をさえ啖《くら》おうとして射られたげな」
「こわや、こわや」
もっぱら、その話でもちきったが、半年もたたぬうちに噂は忘れられ、村はもとの平穏にもどった。
銅の精
1
その穴《あな》は、はいりこんでみると思いのほか中がひろく、奥行きも深かった。
「しめしめ、やっとねぐらにありついたぞ」
まんぞくそうに弥源太《やげんた》は言った。
「なあ松若、今夜はここでがまんして、寝るとしようよ」
「いいとも。野宿には馴《な》れているんだ。……でも、なんとなく、うす気味わるい穴だなあ」
まだ、松若は入り口へんでグズついている。
「この穴、大むかしの人間が掘った墓穴じゃないかしら……」
弥源太は、じれた。
「いいじゃないか墓穴だろうとなんだろうと……。いまはもう、髑髏《しやれこうべ》一つあるわけじゃなし、文《もん》なしのおれたちに、選《え》りごのみは言えないんだよッ」
叱りとばされておっかなびっくり、やっと松若も中へもぐりこんできた。
「暗いねえ、鼻をつままれたってわかりゃしないや」
「ぜいたくいうなったら……」
「あいにく今夜は、お月さまも出ていない」
「暗いのなんざ、百晩つづいたって平気だが、食い物にありつけないのにはまいったな。腹の虫があばれて、とても眠るどころじゃないぜ」
「ご同様だよ。おれも……」
「ま、しかたがない。無い袖は振れないっていうものなあ。辛抱《しんぼう》して、なんとか寝るさんだんをするか」
二人は友だちだ。弥源太は二十七、松若は二十二――。当然、弥源太のほうが、兄貴風を吹かせているし、小才《こさい》も、彼のほうがきく。
二人ながら毛皮売りの行商だったが、いつとはなしに道づれになり、いっしょに旅しはじめて、もう三年に近い。
もうけたことはある。うまいものを食べ、酒をたらふく飲み、女にちやほやされる好運に、めぐまれる日がないこともなかったが、歳月のほとんどは不遇の連続だった。
相談のあげく、何度か商売をかえてみた。
かえてもかえても、しかし芽は出ず、とうとうここへきて、無一文……。すき腹かかえながら穴の中で、一夜をしのがなければならないどんづまりにまで、追いつめられてしまったのである。
「ううッ、寒い。松若、もっとこっちへ寄れやい」
「こうかい?」
「ぴったり、抱き合ってでも寝なきゃァ、とうていしのげる寒さじゃねえが……ヘッ、おもしろくも、おかしくもありゃァしねえ、野郎同士、くっつき合ってみたところでなあ」
「それこそ、ぜいたく言うもんじゃないよ。女が抱ける身分かよ」
ボソボソ、ぐちり合っているうちに睡魔が襲ってきた。
二人は沈黙した。うとうとしかけた。
――その、やさきだ。
どこからか、足音が近づき、穴の入り口で急に止まった。爪先《つまさき》さぐりの慎重さで、そろり、そろり、中へはいってくる気配である。
目をさました弥源太と松若は、恐怖のあまり、危うくさけびかけたのを、それでも必死でこらえて、崖ぎわに身をいざった。
はいってきたものの正体はわからない。人間か、妖怪か。それとも墓穴の主《ぬし》の、幽霊だろうか。
二人はかたく手をにぎり合っていた。その手を通して、松若がぶるぶる小きざみにふるえているのが弥源太にはわかる。
どさッと何か、下におろす音がし、
「ああ……」
ため息をつくのが聞こえた。
「くたびれたな。足が棒になった。それにしても、この穴を見つけてよかった。霜に打たれずに眠れるものなあ」
人間の、ひとりごとである。二人は胸をなでおろした。やはり、行きくれた旅びとだったのだ。
「それにしても気味のよくない穴だ。えたいのわからぬ鬼神でも棲《す》みついていたら剣呑《けんのん》だぞ」
ごそごそ、包みでもかきさぐるような音がして、やがてまた、こわごわ、つぶやくのが聞こえた。
「どうか神さまがおいででしたら、お宿を借りました罪をおゆるしくださいまし。お供え物をいたしますから……」
にぎり合っている手に、弥源太はぎゅっと力をこめた。声を出すな、うまくこいつをだましてやるから……と、松若へ送った合図である。意味をさとって松若も、弥源太の手をにぎり返した。
くら闇を、弥源太はこっそりさぐってみた。やわらかな丸いものが三つ、手にさわった。餅である。いそいでつかんで、松若に一つ渡し、自身は二つ、音をたてないように弥源太は食べてしまった。
「さあ神さま、もはやおすみでございましょう。おさがりを頂戴させていただきます」
こんどは男が、闇をかきさぐっている様子だったが、
「へんだぞ、ないッ、たしかにここに置いた餅がないぞッ」
まさかと思っていた危惧が、現実になったおどろきで、声をわななかせながら、
「ほんとにいるのかしら……神か、魔が、こ、こ、この穴には……」
あとずさるのへ、弥源太はにじり寄って、冷やっこい手でその顔とおぼしいあたりを、するッと撫《な》でた。
「ぎゃあ」
男は悲鳴をあげた。
「た、たすけてくれえ」
こけつ、まろびつ、穴の外へ逃げ出して行き、あとに残ったのは大きな布包みだった。
2
あけてみて、弥源太と松若はこおどりした。丸餅がまだ、二十もはいっている。着がえも二、三枚ある。わずかだが、銭《ぜに》まである。
なによりも金目《かねめ》なのは、唐金《からかね》の、さしわたし二尺もありそうな銅鑼《どら》であろう。察するにあの旅びと、仏具|商人《あきゆうど》か鋳物師《いものし》か、それとも金銅《こんどう》の細工人《さいくにん》だろうか。
「なんにしろ、これで息が吹きかえせらあ、天の恵みというやつだぜ」
弥源太は、ほくほく目じりをさげた。
東が、ほんのり白んでいた。とっくに二人は、穴からぬけ出して、わき道の林の中で包みをひろげてみたのである。
「ねこばば、しちまうのかい? この銅鑼まで……」
さすがにちょっと、松若は気がとがめた顔つきだ。
「あたりめえじゃねえか。人がすてていったものを、ひろわねえバカがあるもんか」
「売ったら、当分しのげるね」
「そこがおめえの智恵の浅えところさ。一ぺんに金にして、使っちまったらそれっきり……。なんべんもこいつを役立てて、この先なげえこと、飯の種にしてゆこうってのが、おれの考えだ」
「どうするんだね?」
「まあ、だまって見ていねえ」
餅腹に力を得て、その日、彼らは十里ほど歩き、あくる朝、とある聚落《しゆうらく》へたどりついた。
村のほぼ、中央に、寺院の大屋根がそそり立っている。
「いいか、おめえはどこかに隠れていて、日が暮れてからこっそり、山門の下までこい。仕事のさしずはそのときする。まちがえるな、暗くなってからだぞ」
松若を追いやって、つかつか境内へ、弥源太ははいって行った。片腕には例の、銅鑼の包みを大事そうにかかえている……。
「ごめんください。わたくしは旅廻りの仏具師ですが、ご住職さまにおりいって、お目にかかりにまいりました。おとりつぎを……」
庫裏に立って案内を乞い、やがてその姿は奥へ消えた。
「わしが当寺の住持じゃが、ご用はなんじゃな?」
と、接待の間《ま》にあらわれたのは老僧である。
「はいはい、じつはわたくし、法会《ほうえ》に使います銅鑼を一個、所持しております」
布包みをひろげて、弥源太はもっともらしく住職に見せた。
「ゆえあって、こんりんざい手放せぬ品ではありますけれども、路用に詰まり、やむをえずお訪ねしたしだいで……」
「買ってくれろといわれるのか? この銅鑼を……」
「さようで……へい」
「いらんいらん。銅鑼ならあるわ。一個あればたくさんじゃ」
「それがお住持さま……」
弥源太は、得意げにそりかえった。
「この銅鑼にかぎって、そんな、そんじょそこらの出来あいのものとはちがいますんで……」
「ほう、どうちがうの?」
「桴《ばち》でつかなくても、しぜん、てんねんと鳴ります」
「やァ、ほんとかの!?」
老住職は目をまるくした。にわかに興味をそそられたふうで、
「鳴らしてみさっしゃれ、聞こうじゃないか」
膝をのり出す。
「そう、安直《あんちよく》にはゆきません」
じらすように弥源太は手をふった。
「お買い求めのあと、三日間、寺内の土中、清浄な場所をえらんで埋めておき、新しく持ちぬしとなられたこなたさまが、誠心誠意、仏前に護摩《ごま》を焚かれ、祈祷《きとう》を修されてはじめて、銅鑼には精《しよう》がはいるのでございます」
「はははは、そりゃ、うろんな話じゃ。代《だい》を渡す、そなたは去《い》ぬ……。三日たって掘り出したところが、ただの銅鑼じゃということに、なろうもしれぬわさ」
「おうたがいは、ごもっとも……。ですからわたくし、埋めるから掘り出すまで、すっかり立ち合いますでございます」
「ほほう。それでは代も、三日のちでよいか」
「いいえ、代は先にいただかぬと、持ちぬしがはっきりいたしませぬ。こなたの物やらわたくしの所有やら、中途はんぱなままでは、埋めた効果はあらわれぬのでございます」
「三日間、では当寺に、寝泊りするかの?」
「こちらさまさえ、ごめいわくでなければ……」
「よいとも。空《あ》き部屋ぐらい、いくらでもあるでな」
つかずに鳴る銅鑼。鳴らせたいと思ったとき、思う数だけ、自然と鳴る銅鑼……。
住職は食指をうごかして、言われたとおりの代金を弥源太に支払い、さっそく寺中に披露《ひろう》してこれを外へ持ち出した。
「どこがよかろうのう」
「五重の塔の下あたりでは?」
「うん、あすこなら清浄じゃ」
めずらしがって、弟子僧がぞろぞろついて出る。うちの一人に命じて、住職は地めんを掘らせた。
「おッとッとッと……。もうそのくらいでようございますよ。あんまり深く埋めると、せっかくのご祈祷の験《げん》が銅鑼にとどきません」
上にうすく、土をかぶせ、清めの塩をまいたあげく、
「三日間、この場所をのぞき見しにきてはなりませんぜ」
僧たちに念をおして、弥源太は庫裏へひきあげた。
本堂にこもって、住持は一心不乱に護摩を焚きだす。おも立った弟子もいっしょだ。
弥源太は納所《なつしよ》を相手に、精進料理をごちそうになり般若湯《はんにやとう》まで飲み、いい気持に酔っぱらったが、日がくれきったと見るなり、厠《かわや》へゆくふりをして外へ出た。山門の下に、松若はしょんぼり立っていた。
「さあ、すぐ行って、おめえは五重の塔の下を掘れ。塩で、地べたが白くなってる場所だ」
「銅鑼が埋めてあるのかい?」
「掘り出したら、人にみつからねえように村はずれまで逃げて、橋のたもとに待ってろ。おれもすぐ、あとから抜け出してゆくからな」
ふところをおさえて、弥源太はニヤリと笑った。
「まんまと金はまきあげた。銅鑼ももとどおり、こっちのものって寸法さ。どうだいおれの才覚は、すばらしいだろう。へッへ」
3
この手を使って、ゆくさきざき、二人は寺をだまして歩いた。
(悪辣《あくらつ》なやりかただ)
と、松若は身がすくむ。
(なんとか、こんな悪事の片棒からのがれる工夫《くふう》はないものだろうか)
しかし、弥源太の監視はきびしい。安易なかせぎに、松若の側もつい、馴《な》れて、いけないことだとは思いながら、ずるずるべったり旅を共にしてゆく……。
そんな彼らのあいだがらに、だが、ひびのはいるときがきた。弥源太のほうが、松若に対して、
(邪魔になった。こいつ、消してしまおう)
殺意をいだいたのである。
ことの起こりは女だった。ある村で、弥源太はひとりの娘を遠くから見染めた。
「おう、なんて縹緻《きりよう》のいい娘だろ。ひと目ぼれしちまったぜ、おれ……」
松若も、ぼうッとうるんだようなまなざしで、娘をながめている。相手は二人に気づかない。すたすた、去って行ってしまった。
この村では、大百姓の部類にはいる幸《こう》太夫《だゆう》という者の娘で、名は、八峰《やつお》というのだと、まもなくわかった。
「八峰か。ふーん、名前まですてきじゃねえか」
弥源太は、思いつめた目の色で、
「きめたぞ松若、今夜おれは、幸太夫とやらの家に泊めてもらうぜ」
と言い出した。
「お前ひとりでかい弥源太」
「ちぇッ、うらやましそうな顔をするなよ。これも策さ。いいか松若。おれは算置《さんお》きの名人だといつわって、幸太夫の屋敷に乗りこむ」
「算置きというのはあの、算木《さんぎ》を置き並べて卦《け》を立てる占い師か?」
「そうだ。そしておめえは夕方になったら、屋敷のそばに現れて、わざと幸太夫の目につくように垣根の向う側を歩き廻るんだ」
「へええ、なぜ?」
「銅の精に化けるんだよ」
「このおれが?」
「と、いったところで格別、変ったそぶりなどしなくていい。その姿のまましばらく歩いて……ほら、あすこに雑木山が見えるだろ」
「うん」
「あの山へすたすた、登ってしまえばいいのさ」
「それだけかい?」
「あとはおれが、うまくやるけど、その前に山の中に銅鑼を埋めてこよう。松若、来い」
と、つれだって二人は村はずれの雑木山へ分け登った。
「ここにきめよう。この、クヌギの木の下だ」
松若に命じて根もとを掘らせ、銅鑼を埋めて、もとどおり弥源太は落葉をかぶせたのだ。いつもとは逆なやり方だった。
「いいか、あすこに破《や》れ御堂《みどう》があるだろう。おれが幸太夫をおびき出して、この近くまできたら、おめえはすばやく、あの御堂のうしろに身を隠すんだぜ。わかったな」
「夕ぐれまで、どこにいたらいいかなあ」
「この山の中にひそんでろ。……じゃまた、あとでな。うまくやるんだぞ」
弥源太は単身、雑木山をおりてゆき、つぎには村にただ一人いる飲んだくれの猟師を酒手で抱きこんで、この男にひそひそ耳うちした。
「たのみがあるんだ爺さん、雑木山のてっぺんに破れ堂があるだろう。夕方あすこへ、男が一人忍んでゆく。そいつをばらしてほしいんだ」
「ええッ? 人殺しをしろッてんですかい?」
「おれの仲間《なかま》さ。まだ若造だよ」
「かわいそうに……。罪なことをしなさるねえ」
「なにを言いやがる。ふだん、殺生ばかりしてるくせに……。いやなら酒手を返せ」
「しますよしますよ。破れ堂の裏に先きまわりしていて、若造がきたら、絞《し》め殺しゃいいんですね」
「声を立てさせるなよ。いきなりうしろから羽交《はがい》じめして、口をおさえ、いっぽうの腕でのどをしめるんだ。つづいてあとから、おれと幸太夫が山へ登ってゆく。殺してのちも、だからおめえは、すぐ姿をあらわすんじゃねえぜ」
のみこませて、つぎに弥源太が訪れたのは、百姓・幸太夫の家だった。
自分は、都で聞こえた算置きだが、一夜の宿を貸してはくれまいか、お礼は、たっぷりするつもりだ、というふれこみである。身なりはいい。幸太夫は信用して、弥源太を座敷へ招じ、酒肴を出してもてなした。
娘の八峰《やつお》が酌にでた。見れば見るほど、近まさりする美しさだ。
(よしッ、ぜがひでも幸太夫をまるめこみ、この家へ婿《むこ》にはいりこんでやるぞ)
弥源太の決意はいよいよかたくなった。
やがて、夕ぐれ……。かねての手はずにたがわず、松若が山をおりてきて、庭さきの道を、行ったりきたりしはじめた。生垣《いけがき》ごしに、目ざとくこれを見つけたのは八峰であった。
「まあ、りりしいおかただこと! どこの殿御《とのご》かしら……。この家に用でもあるのでしょうか」
うっとりとした言い方に、弥源太は嫉妬心をかきたてられた。
「妙なやつだな。どうも面相を見るに、あれは人間ではありませんぞ、ご主人」
「ついぞ見かけぬ若い衆じゃが……。なに者であろ」
「占《うらな》ってみましょうかな」
しかつめらしく算を置いたあげく、
「わかりました。やつは、銅の精ですッ」
弥源太はさけんだ。
「銅の精!? あの、若者が!?」
「あれあれ、立ち去ってゆく。どこへゆくか、あとをつけてみましょう」
幸太夫と弥源太は、往来へとび出した。
かねての打ち合せにしたがって、松若は雑木山へのぼってゆき、あの、クヌギのそばまできて、すうッと消えた。破《や》れ堂のうら手へかくれこんだのだ。
(ふん、いまごろは、猟師の腕が、やつののど首をひと絞めにしてるはずだ。これで、婿入りの邪魔はなくなったな)
内心、ほくそ笑みながら、弥源太はクヌギの根かたをゆびさして、
「銅の精は、このあたりで見えなくなった。ここが怪しい。ご主人、掘ってごらんなさい」
と、指示した。幸太夫は掘った。そして、うしろざまに尻もちをついた。
「ひゃァ、大きな銅鑼が出た。こりゃどうじゃ」
「いかがです? まさしくわたしの占いどおり、やつは銅の精だったでしょうが……」
「いやはや、おどろき入り申した。こなたのような算置きの達人を、娘の婿に迎えたら、家の栄えは目にみえているなあ」
思う壺《つぼ》に、ストンとはまった。
「よろしい。八峰さんとなら、わたしも祝言したい。おたくの婿《むこ》になりましょう」
とんとん拍子に、話はすすみかけたが、しかし、そうそううまく事は運ばなかった。八峰が、逐電《ちくでん》したのである。
「見なれねえ若い衆と、手に手をとりあって街道を東へ、走ってゆくのを見ただよ」
と証言する村民がい、百方、手分けして幸太夫はさがしたが、娘の行く方《え》はついに知れずじまいになった。
酒手だけ巻きあげて、猟師は松若殺しを実行しなかったのだ。かえってその口から、弥源太の企《たくら》みを聞かされた松若は、仕返しするつもりで八峰をさそい出し、彼女のほうも美《よ》い男の『銅の精』に、ぽうッとのぼせて、馳け落ちする気になったにちがいない。
おいてきぼりをくった弥源太は、どうしたろう。ひとりぽっちでまた、舌さき三寸のサギ行脚《あんぎや》に、出立して行ったろうか。
それとも娘のいない幸太夫宅に、しかたなしに居すわって、お百姓になったろうか。どちらにせよ、その終りは、さだかでない。
笛を砕く
1
中原夏雄《なかはらのなつお》は酒が飲めない。体質的に、酒精分を受けつけないたちなのだろう。どうしてもことわりきれなくて、ほんの小盃に一つ二つ咽喉《のど》に流しこんだような場合も、きまってあとで気分が悪くなった。
社交上、飲めないために特に困ったり損をしたことはない。酒が駄目なら駄目で、それなりに、
「手がたい、まじめな男……」
との評価を得て、これまで順当に官途ものびてきたのである。
ここ三年ほどのあいだ、しかし大岩にでも打ち当ったように昇進が停《とま》ってしまった。従六位上・右衛門大尉《うえもんのたいじよう》のまま据え置かれて、それっきり上へ進めないのだ。
原因はわかっている。
(徳大寺どのの邪魔だてだ)
除目《じもく》のたびに、当然こうむってよいはずの叙任《じよにん》の沙汰《さた》からはずされて、夏雄は何度、歯の根に無念を噛《か》みしめたことか。
それでも、官吏の悲しさは、嫌《いや》な上司のいる役所へ出勤しつづけなければならない。妻の綾児《あやこ》が気づかうので、屈託顔をわが家へ持って帰るのすら避ける配慮が必要だった。
(つらい……)
と、つくづく思う。
(飲めたらなあ)
とも喞《かこ》たれる。たとえ一ッ時のごまかしであっても、酒で鬱気《うつき》がまぎらせるなら酔って何もかもを忘れてみたい。
徳大寺|公実《きんざね》の意地悪が、なにに根ざしているかも夏雄は承知していた。
(綾児とわたしの仲を……)
嫉妬《しつと》しているのだ。
(何をいまさら……)
と、夏雄の側こそ文句の一つも言ってやりたい。
まだ綾児が、宮廷に仕えて、小周防《こすおう》の女房名で呼ばれていたころ、好色者《すきもの》と評判の公実はその局《つぼね》に通い、まもなく、飽きて綾児を捨ててしまった。夏雄が彼女と結ばれたのはそのあとである。
身寄りのない綾児を引きとって、宿《やど》の妻とし、幼い娘にさえ恵まれて仕合せな家庭をいとなんでいるのを、公実に今ごろ妬《ねた》まれるいわれはないはずだが、自分中心の、わがままな公達《きんだち》育ちには、捨てた女の幸福さえ不快の種なのか、皮肉や嫌味でちくりちくり夫の夏雄をいじめ出したのだ。
仕事の上でのかかわりがないうちは、知らぬ顔で受け流しておけばよかった。
ところが、夏雄にとって運のわるいことに、おととしの春の異動で検非違使《けびいし》長官の更迭《こうてつ》がおこなわれ、徳大寺公実が本官の参議のほかに、新・別当を兼ねることになった。
(手ひどく、やられるのではないか)
惧《おそ》れは的中した。夏雄の前途を、公実は冷酷に閉ざしてしまったのである。
もともと中原家は、法家であった。その一門だけに、夏雄も法律にくわしい。刑法ではことに、
「右に出る者はない」
とまで折り紙つけられている専門家だから、長官とはいえずぶの素人《しろうと》の公実あたり、仕事での落度《おちど》をあなぐり立てて夏雄を窮地に追いこむことはできない。
そこで、昇進をさまたげるという卑怯《ひきよう》な手段でいびりにかかったわけだ。それでなくても情実だらけの官界だった。上司の贔屓《ひいき》や私情で部下の出世など、どうとも左右できた。睨《にら》まれたらそれっきり、おしまいということになる。
かねがね望んでいた右衛門佐《うえもんのすけ》に一人、欠員が生じたのに、序列といい実績といい推《お》して当然な夏雄を公実が推挙せず、いつまでも空席のまま放置しているのを見て、
(もはや絶望だな)
自身の将来に、夏雄は暗澹《あんたん》たる予測をいだかざるをえなかった。
いっそ官途になど見切りをつけて、出家|遁世《とんせい》でもしてしまいたいが、綾児の歎きを思うとそれもままならない。
気弱な、おとなしい夏雄は、徳大寺公実のずぬけて上背《うわぜい》のある肩幅も広い、いかつい体躯《たいく》を目にするだけで、息苦しいまでの圧迫感に襲われた。平気で人の話を中途でぶち切る威丈高《いたけだか》な、無礼な物言いにも、怒るより先に怯《おび》えが走る。大鷲《おおわし》に狙《ねら》われた無力な小鳥……。我が身のいくじなさを雀にひきくらべて情けなくもなるのである。
検非違使は武官の兼帯だから、庁舎は宮門内の、衛門府の中に置かれるのが本来の在り方だった。いつごろからか、しかし決まりは崩《くず》れて、別当の私邸が、検非違使庁として使われるようになった。
夏雄が毎日かようのも、したがって四条高倉の徳大寺家だ。いやでも主人《あるじ》の公実と、鼻つき合せて執務しなければならない。
できれば役所など休みたい。でも、何も知らない妻が、
「お加減でもわるいの?」
無用な心配をすると思うと、欠勤もしにくかった。
重い足、うっとうしい気分をむりやり励ましながら、
「では、行ってくるよ綾児」
今朝も笑顔で、夏雄はわが家の門を出た。そして、六角堂の近くまで来かかったとき、
「なんだろう」
行く手の人だかりに気づいて立ちどまった。職掌がら市中の動静に、敏感に反応する習性が身についている。
「喧嘩だあ」
「いいや、盗ッとだとよう」
そんな喚《わめ》きを投げ交《か》わしながら、なおあとからあとからヤジ馬が馳《か》け集まってくる……。
人垣のうしろに立って夏雄は中をのぞいてみた。男が二人、言い争っていた。
「たしかに七粒だ。そうとも。まちがいない。ひと粒を二|巻《まき》の生絹《きぎぬ》に替えたんだし、わしは十四巻の絹を持っていたのだからな」
小さな、うす汚れた麻袋を振り立てて、さかんに弁じているのは近郊の大百姓か、店棚《みせだな》のぬしと見える肥り肉《じし》の五十男である。
「そんなはずはない。金の粒は六ツしかなかった。七ツあったというのはあんたの思いちがいですよ」
抗《あらが》っている相手は餅《もち》売りらしい。足もとに置いた竹編みの髭籠《ひげこ》から、粽《ちまき》の笹の葉がはみ出して見える。
「ずるいやつだな、おまえって男は……」
肥っちょは罵《ののし》った。
「ひと粒、袋の中身をちょろまかしておきながら、六ツしかなかったなどとよくもぬけぬけ言えたものだ」
「そんな……」
餅売りのおろおろ声は、泣きしゃべりに近かった。
「あまりといえばひどい言いがかりです」
「言いがかり?」
「そうじゃありませんか。ひと粒盗み取るくらいなら、袋ごと、まるまる猫ババをきめこみますよ。大事な商売の暇《ひま》を欠いてまで、落としぬしのあんたを探したりはしません」
「何とぬかそうと足りないものは足りないんだ。さあ出せ餅売り。隠した金を……」
「理不尽《りふじん》です。はじめから隠しも盗みもしないのに、出せるわけはないでしょう」
「よし、あくまでシラを切るならお上《かみ》に訴えて、白い黒いをつけてもらうぞ」
「冗談じゃない。落とし物を届けてやった上に、盗みの嫌疑《けんぎ》までかけられてたまるものか」
「うるさいッ、つべこべほざくひまに、さあ歩け。一緒に靫負《ゆげい》の庁へ行くんだ」
はっきり、事件の輪郭が夏雄には呑《の》みこめた。餅売りの言い分は正しい。筋が通っている。
金の小粒が六ツ入った袋を彼は拾い、落としぬしをたずね廻ってやっと返したのだ。半分か、少なくとも三ツ割り一つ分ぐらいの礼は、するのが常識である。
強欲な落としぬしはそれを惜しんだ。そしてあべこべに、金は七粒あったはずだと難癖をつけて餅売りをやりこめ、礼金をごまかす肚《はら》なのだろう。
そこまで推量して夏雄は声をかけた。
「待て両人、使庁へなど行くには及ばんぞ」
人立ちをかき分けて前へ出た姿を、ヤジ馬の中には見知っている者もいて、
「お役人だ」
「ちょうどおあつらえに、検非違使庁の廷尉《ていじよう》さまが通りかかるとはな」
がやがや言い騒いだ。
「聞く通りだ。わたしは靫負の判官、中原夏雄という。裁きはこの場に於て、たったひとことでつけてやるよ」
検非違使が現われるとは、まさか思っていなかったのだろう、肥っちょは鼻じろんで、どぎまぎうなずいた。
したたかそうなその面《つら》がまえが、どこやら徳大寺公実に似かよっているようにも思えて、夏雄の中の憎悪をいっそうかき立てた。
「餅売りが拾ったのは金が六粒入った袋、おまえが落としたのは七ツ入った袋……。それに相違ないな」
「へい。まちがいありません」
「ならば、黒白はあきらかではないか」
肥っちょに、夏雄は言い渡した。
「金塊六粒入りのこの袋は、おまえの物ではない。いずれ七粒入りの袋を拾得し、届け出てくる者があろう。それこそがおまえの落とし物だ。出てくるまで待っているがいい」
ヤジ馬はどよめいた。落としぬしの言い分を、だれもが胡散《うさん》くさいと感じていたやさきだけに、明快な結着を耳にして溜飲をさげたのだ。
「これはおまえにやる」
餅売りの手に、夏雄は麻袋をにぎらせて言った。
「おまえは正直なばかりか親切者だ。神仏がくださった褒美《ほうび》と心得て、たいせつに使うのだぞ」
一瞬、あっけにとられた顔をしたが、たちまちその顔を、餅売りは涙でくしゃくしゃに歪《ゆが》めて、
「ありがとうございます判官さまッ」
夏雄の足もとにひれ伏した。
「盗びとの汚名をおはらしくださったばかりか、このようなお恵みまで……ご恩は忘れませぬッ」
声を聞き流して夏雄は人立ちの輪をぬけ出し、足ばやに四条高倉の使庁へ急いだ。
2
笛が届けられたのは、その日、夕刻……。
出がけよりなお、数倍も重くなった心を、わがものながら持ちあつかいかねる思いで、夏雄が帰宅してまもなくだった。
どこにも早耳《はやみみ》に類する人間はいる。この春の除目《じもく》のうわさを、
「ほぼ、内定したそうだぜ」
いちはやく聞きこんで来て、同僚のだれかれに今日、ささやいて廻った男があった。それによると、検非違使庁では空席だった佐《すけ》の補充が埋められ、しかもその名は夏雄ではなかった。ずっと後輩の、年もまだ、夏雄より七ツ八ツ若い六位の尉だったのである。
きのどくそうに夏雄を見る者が多い。
「ま、気持は察しるが、こらえるほかあるまい。徳大寺どのが別当を兼ねておられるあいだは日かげの草……。でも辛抱《しんぼう》するうちに日ざしは移るよ。それまでの我慢と思って耐《た》えることだな」
言葉に出して、慰めてくれる者もいたが、同情すら夏雄には苦痛だった。
「憎がられるのは、わたしに人徳がないからだろうよ」
強《し》いて、こともなげに笑い捨てて役所を出たものの、胸中は口惜しさに煮《に》えたぎっていた。出迎えた綾児の笑顔にも、今日ばかりは微笑を返すことができない……。
「どうかなさって? お顔色がひどくお悪いわ」
「すこし、頭痛がするんだ」
「横におなりになりますか?」
心をこめた夕餉《ゆうげ》の支度を見ると、食べずに寝所へ引きこもってしまうのも可哀そうに思えて、
「案じるほどの痛みではないよ」
結局、夏雄は箸《はし》をとった。食欲など、しかしあるはずもない。砂を噛むつらさでようやく一|椀《わん》、湯づけ飯を咽喉に流しこみ、
(こんどこそ、官を辞してしまおうか)
進退を考えているさなか、
「お食事はおすみでござりましょうか」
家宰《かさい》の老人が入り側の廊にうずくまった。
「ああ、すんだ。何か用かね?」
「佐矢太《さやた》と名乗る男が、お目通りを願い出ていますが……」
「佐矢太? 心当りがないな」
「朝がた、六角堂の門前でご恩をこうむった餅売りとやら申しております」
「おう、あの男か」
「ご存知でござりますか」
「あれならば会ってやってもよい。縁先へ廻してくれ」
「かしこまりました」
待つまもなく爺やに案内されて、餅売りは夕闇《ゆうやみ》の庭へおずおず入って来た。
「よく、ここがわかったな」
広縁へ出て、夏雄は男に声をかけた。
「はい。あのあと周《まわ》りにいた近所の衆に、お名とお屋敷を訊《き》きました」
「わざわざ訪ねて来たのは?」
「賜わりました金で、どんなに助かったかしれません。じつは手前には、六十九になる母親がおります。あすをも知れぬ重病人ですが、医師《くすし》、祈祷師《きとうし》はおろか、粥《かゆ》すらまんぞくには啜《すす》らせてやれぬ貧乏ぐらしで……」
「どこに住んでいる?」
「塩小路のはずれ、西の市《いち》の市門のきわに、小屋を借りて雨露をしのいでおります」
夏雄も知っている。貧民|窟《くつ》の集落である。潔癖な性格とみえて、佐矢太の身なりは、でも、それにしては小ざっぱりしていた。
「母はどうせ、助かりませぬ。当人もわたくしも、あきらめはとっくにつけているのですが、それだけにせめて稗粥《ひえがゆ》でも心ゆくまで食べさせたい、薬と名のつくものを一服二服のませて、あの世へ送りたいと願いつづけていたのでした」
「ささやかなその望みが、今日こそかなったというわけか」
「仰せの通りでございます。薬を買い、祈祷|山伏《やまぶし》を呼び、かねがねほしいと言いくらしていた大柑子《おおこうじ》を市で見つけて、七ツ八ツ求めてきました。切って汁《つゆ》を口に含ませたところ、甘露《かんろ》じゃ、この世ながらの極楽じゃと手を合わせてのよろこびようで……思わず手前までうれし涙がこぼれました」
「それはよかった」
「たった一人の親の臨終に、心ゆくまで尽してやれますのも判官さまのお情けのおかげでございます。せめてものご恩返しにと、じつは今宵《こよい》、このような品を持参いたしました」
にじり寄って佐矢太がさし出したのは、古びた一管の笛であった。
「いまでこそ、かように落ちぶれ果てましたけれども、昔わが家は、禁中の楽所《がくしよ》に籍を置く伶人《れいじん》の家筋であったとか……。血の正しさを証《あかし》するただ一つの、ご先祖よりの形見じゃと申して、どれほど貧苦に迫られてもこれまで手放さずに来た笛でございますが、老母も遠からず死んでゆく身……。判官さまにお持ちねがえるなら、笛のためにも心残りはないと言うております」
「いや、それはいかん」
あわてて夏雄は手を振った。
「たとえ、一件落着のあとではあっても、物など貰《もら》っては賄賂《わいろ》とみなされかねない。わたしのためはもちろん、おまえ自身のためにも世間に聞えてよいことではないから、老母の気持だけをありがたく受けておこう」
「お堅いことをおっしゃいます。たかが餅売り風情《ふぜい》のボロ家に伝わった古笛……。吹いて鳴るやら鳴らぬものやらおぼつかないような粗末な品をご遠慮なさるには及びますまい。お慈悲とおぼしめして、どうかお納めくださいまし」
ためらう夏雄の膝先へ笛を置いて、佐矢太と名乗る餅売りはそそくさ辞去して行ったが、灯《ひ》に近づけて見てみても、ところどころ漆《うるし》のはげ落ちた古色|蒼然《そうぜん》たる駄物としか思えない。
「かまどの焚《た》きつけだな」
夏雄は苦笑した。
「あの男の言う通り、袖《そで》の下《した》扱いして目くじら立てるほどの礼物《れいもつ》ではないようだ」
こころみに歌口を唇にあててみた。笛ばかりは、でも練磨しないかぎり音が出ない。すうすう息が洩《も》れるだけである。
あきらめてほうり出したところへ、居間に引っこんでいた綾児がもどって来て、
「なにやら、由緒《ゆいしよ》ありげな笛ですことね」
手に取ってしげしげ眺めた。
「そうだ、そなたは宮仕えしていたころ、管絃のお遊びには欠かさず召された笛の名手だったな」
「名手だなんて……」
「吹いてごらん」
「そうね、どんな音色か試してみましょうか」
居ずまいを正し、やおら歌口を湿して、綾児がゆるやかに奏《かな》ではじめると、まるで別物のように笛は妙音を発し出した。
「これはいい。うっとりするような音色じゃないか」
「名笛《めいてき》ですわ。おそらく稀代《きだい》の……」
「吹き手が上手なのではないか」
「いいえ、笛がすばらしいのよ」
「もっと吹いてくれ。聞きたいよ綾児」
夏雄は目を閉じた。いとしい妻、美しい調べで無聊《ぶりよう》を癒《いや》してくれる笛……。それだけをたずさえて、どこか、遠い田舎へでも行ってしまおうか。機《はた》を織り土を耕す生活にあまんじても、上司のむごさに歯をくいしばる日常よりは、心の安静が得られるだけ、はるかにましかもしれない……。
「申しあげます」
と、このときまた、老家司が走ってきてあわただしく告げた。
「雅楽頭《うたのかみ》・秦信安《はたののぶやす》さまがお越しなされました」
「え? 雅楽頭!?」
雅楽寮の長官である。
「おかしいなあ。約束はないし、かくべつ知音《ちいん》でもないのに……」
「私用でご当家の、築地外《ついじそと》を通りかかり、ただいまの笛の音を耳になされたよし……。稀有《けう》な音色、おさしつかえなくばぜひ、笛を一見させてほしいとのお申し入れでございます」
楽器にくわしい友人にでも、いずれ鑑定してもらおうと考えていたやさきである。
「お通ししてくれ」
すぐさま信安を、夏雄は邸内へ招じ入れ、笛を見せた。
「天下に二つとない宝物です」
信安は唸《うな》った。
「内部に小さく銘記があるでしょう。唐朝の初年《しよねん》、永徽《えいき》二年に作られ、高宗の御物《ぎよぶつ》となったむね、朱漆《しゆうるし》を差して彫《え》りつけられております」
「我が朝で申しますと?」
「白雉《びやくち》年間――。まだ朝廷が、大和の飛鳥《あすか》にあったころの作ですな」
どのような経路で日本に舶載されたものか不明だが、宮中の宝蔵にあっても不思議ではない名器……。くれぐれも粗末になさらぬようにと雅楽寮の長官は言った。
「まさか……」
「お疑いですか」
「いや、銘記はたしかにありますし、おっしゃることにまちがいはありますまいけれども、この笛をわたくしに贈ってくれたのは、しがない一介《いつかい》の餅売りにすぎません」
「いよいよ珍しいお話ですが、楽器にかぎらず、神品《しんぴん》には世の変転につれて、数奇な運命をたどるものがまま、あります。お手に入ったのも浅からぬ因縁でしょう。末ながくご秘蔵なされませ」
夏雄の気質とすれば、しかしみすみす名笛と知りながら、餅売り母子《おやこ》の無知につけ込んで貰ってしまうなどという図太さは持ち合せない。
翌日、退庁後――。彼はわざわざ廻り道して、佐矢太の住居へ笛を返しに寄った。
なるほど、みすぼらしいあばら屋であった。場所もまちがいなく、西の市の市門わき……。貧民集落のはずれだったが、せまい家の中は近所の者たちでごった返していた。つい今しがた、病母が息を引きとったのだという。
「ついでと言っては相すまぬが……」
弔問し、由緒を述べて、夏雄は笛を返そうとした。佐矢太はでも、
「とんでもない。いったんさしあげた上は、たとえどれほどの宝物であろうと、もはや判官さまのお持ちものです」
固辞して、どうしても受け取ろうとしない。
「そのかわり、あらためてお願いがございます。母親に死なれて、手前は独《ひと》りきりになってしまいました。もし、お許しいただけるなら、お屋敷に下人奉公させてはくださりますまいか」
こちらから言い出したいところだった。正直なこと、無欲なことは実証ずみの男である。
「野辺《のべ》送りがすみ次第、来るように……」
言い置いて、ひとまず夏雄は家へもどった。
3
笛の評判は、宮廷中に拡まった。雅楽頭が吹聴《ふいちよう》したものにちがいない。
「おぬし、えらい福運を引き当てたそうじゃないか」
検非違使庁の同僚たちからも、口々にうらやましがられた。
「どんな凄《すご》い笛か、目の法楽《ほうらく》にぜひ、おがませてくれよ」
ねだる者までいる。夏雄は恐れた。妬《ねた》み深い徳大寺公実に、これ以上、無用の刺激を与えたくない……その警戒から、
「一向に見栄《みば》えのしない塗りのはげた竹管《ちくかん》だよ。わざわざ見せるほどのことはないさ」
しいてさりげなく、はぐらかしたし、自分からはけっして笛を話題にしなかった。
吹いてみたがる綾児《あやこ》にも、
「また、ひょっとしてだれに聞かれるかわからない。うわさが下火になるまで、あの笛には手を触れないでおこうよ」
言いきかせるほど用心したにもかかわらず、夏雄の危ぶみは、やがて現実となった。
「問いただしたいことがある。庁務終了後、餅売りから巻き上げたとやらいう評判の笛を持って、いま一度、屋敷へまいれ」
と、ある日、公実からじきじきに、夏雄は言い渡されたのだ。みるみる、身体が冷えてゆくのを彼は感じた。恐怖であった。
そのころもう、佐矢太は中原家へ移って来ていたが、
「やはりおまえから笛を受け取ったのはまずかった。別当は名笛と引き替えに依怙《えこ》の裁きをしたとの理由で、このわたしを収賄の罪におとす気らしい」
と告げられると、
「それなら、笛などさし上げなかったことにすればよいではございませんか」
こともなげに言い放った。
「別当邸へはご一緒に、お供してまいります。そして当の本人の手前の口から、笛がお好きな北ノ方《かた》さまに、しばらくのあいだお貸ししただけだと申し開き致しましょう」
そんな言いわけが通るものかどうか心もとなかったけれど、いかにも自信ありげな口吻に押し切られて、その夜、夏雄は佐矢太ともども徳大寺邸へ出かけて行った。
使庁とは棟《むね》つづきの奥殿が、私用の居館に当ててある。庭の沓《くつ》ぬぎの脇にかしこまった佐矢太を指さして、
「なに者だ廷尉《ていじよう》、あの下臈《げろう》は……」
公実は不機嫌に眉《まゆ》をひそめた。
「お許しもなく、お側近くまで召しつれたのには、それなりのわけがあります。お尋ねの笛はあの男の物。あの男が所持していたからでございます」
「では、きゃつが餅売りか?」
「はい」
「あやつから廷尉が、賄賂《まいない》代りに笛を貰い、六角堂前の路上において片手落ちな裁きをしたとわしは聞いたが……」
案の定である。夏雄は陳弁《ちんべん》した。
「おそれながら、それはお聞き誤りでございます。この餅売りは欲のない男で、貧に苦しみながらも麻袋の落としぬしを探し出し、尋常に返そうとしたのでした。礼金を惜しむあまり言いがかりをつけ、正直者に盗みの汚名を着せようとした落としぬしこそ見さげはてた欲張りでございます。懲《こ》らしめのため、その言いがかりを逆手にとって餅売りに理分《りぶん》の判定を与えたまでで、笛はおろか布端《ぬのはし》ひとつ、わたくしは貰ってなどおりません」
あてはずれの落胆を表情ににじませながら、それでも未練げに、
「廷尉の申し条に、まちがいないか?」
公実は佐矢太に問いかけた。
「おっしゃる通りでございます。お心あたたかなお裁きがうれしくて、家に伝わる古笛をお贈りしようといたしました。でも、判官さまは受け取ってくださいませぬ。やむなく笛の上手な北ノ方さまに、ほんのしばらくお貸ししただけで、これ、この通り今はもう、お返しいただき、笛は手前が所持しております」
水干《すいかん》の引き合せから、佐矢太は笛を取り出してみせた。
「ふん、主従うまく、口裏を合わせおったな」
にがにがしげに公実はつぶやいたが、
「よし、それならば佐矢太とやら、あらためて貴様に命じる。その笛、わしに寄こせ」
戦法を変えて奪い取りにかかった。
「寄こせ、とは?」
「献じろということだ。譬《たと》えにも小人、玉を懐《いだ》いて罪ありと申す。貴様ごとき下司《げす》が名笛を持っていたところで、文字通り宝の持ち腐れだ。絹でも米でも砂金でも、望み次第にくれてやる。割のよい取り引きと思わんか」
「いやでございます」
「なに、いやだと?」
「今上《きんじよう》さまは管絃がお好き。ことに良い笛には目のないご性分とやら……。おそらくこなたさまは手前の笛を帝《みかど》にさしあげて、出世の蔓《つる》になさるおつもりでしょう」
「こやつ、無礼な……」
「無礼はそちらです。下臈には下臈なりの誇りがございます。万金を積まれたからといって、あげたくもない相手に家宝を売り渡すほど性根は卑《いや》しくありませぬ」
「虫ケラ同然な地下《じげ》の分際で、おのれよくも、このわしに恥をかかせたな」
座に、夏雄は居たたまれなかった。生きた空もなかった。報復はたちまち、彼の身にはね返ってくるにきまっている……。
(もう駄目だ。何もかもおしまいだ)
観念した。
夏雄の困惑になど、だが、おかまいなく、
「虫ケラにも五分《ぶ》の魂はあります」
公実に負けず劣らずの大声で、佐矢太は言い返した。
「宝物を持っていればこそ、こなたのようなお方に狙《ねら》われる。判官さまにまで迷惑がかかるのだ。悶着《もんちやく》の種など世の中から消してしまうにしくはない。こんな笛、ひと思いに打ち砕いて、虫ケラの意地を見せてあげます」
興奮の極、パッとやにわに立ちあがって庭の隅《すみ》の石井戸へ走った。
「わッ、なにをするッ、とめろ廷尉」
「佐矢太、よせッ」
追いすがろうとしたが、まに合わなかった。笛を振りあげざま、力まかせに佐矢太は井桁《いげた》へ叩きつけた。竹製である。年数もくっている。名笛はこなごなに砕けて土に散った。
――事件は人々を驚愕《きようがく》させた。
「あたら、国家の重宝を……」
惜しみ合う気持は、やがて、
「無体《むたい》に人の物をねだり取ろうとしたのが悪い。名器消滅の因を作ったのは徳大寺どのだ」
公実への非難ひとつに集中して、夏雄への、日ごろの風当りの偏頗《へんぱ》までが、やかましく取り沙汰されるようになった。
だれよりも立腹したのは笛好きの帝《みかど》である。春の除目が発表された結果、公実は検非違使別当の職を解かれ、非参議に貶《おと》されて、封戸《ふこ》を減ぜられてしまったが、夏雄はあべこべに待望の佐《すけ》に昇進し、位階も二階級とび越えて従五位の上《じよう》に叙せられた。
「おめでとうぞんじます、ご主人さま」
佐矢太のにこにこ顔へ、夏雄は言った。
「これもおまえが、思いきって笛を砕いてくれたおかげだよ。宝を失ったのは残念だが、やっとわたしの頭上にも春がめぐって来たようだ」
「宝物を、砕きなどするものですか」
もそもそ、懐中をさぐって佐矢太が取り出したのは、あの、唐帝|御物《ぎよぶつ》の名管であった。
「では、打ち割ったのは……」
「そのへんにいくらでもころがっている駄物です。おりを見て、これを天子さまへご献上なさいませ。さらにご出世あそばすこと、受け合いでございますよ」
夏雄は絶句し、まじまじただ、佐矢太の笑顔をみつめていたが、やがてようやく、
「ありがとう」
かすれ声で言い、笛ごと相手の手をにぎりしめて、そっと額に押しあてた。
指の怪
1
材料は鵜《う》ノ瀬《せ》が仕入れに行き、調理も彼女が受け持った。
「味つけは、むずかしいからね」
娘の阿紀《あき》にはそう言ってある。
売りにゆくのまで、阿紀が子供のころは鵜ノ瀬ひとりでやっていた。でも、数えで今年、十五になり、阿紀はめっきりおとなびた。おととしの暮れに月のものが始まり、胸や腰のふくらみも目立って、もう、だれが見ても一人前の女である。
四十に手のとどきかけた姥《うば》ざくらよりも、娘の愛嬌づいた笑顔のほうが、
(客の受けもよいにちがいない)
と判断して、鵜ノ瀬は近ごろ、売りさばきはもっぱら阿紀に委せるようになった。
ただし、くれぐれも娘には念を押した。
「いいね、何の煮つけか訊《き》かれたら、|※[#魚へん+完]《あめのうお》とやらの干物を、水にもどして使っていますと答えるんだよ」
「わかっているわよ母さん」
「|※《あめのうお》とはどんな魚だ、どこでとれるのだなどと、中には根掘り葉掘りするやつもいるだろうけど、そんなときは……」
「知りませんって逃げればいいんでしょ」
うるさそうに阿紀はおくれ毛を掻きあげる。たっぷりすぎるほどの髪が頬にこぼれて、肌の白さをきわだたせていた。
「わたしはよく、知りません、仕入れは母がしますからって、そう言えばいいんでしょ」
売りに行く先は、宮城内の衛門府ときまっていた。
左衛門の陣は建春門、右衛門の陣は宜秋門のわきにあり、昼夜交替でそれぞれの陣に、六百人もの兵士たちが詰めている。
夕方、食事どきに、
「飯《めし》の副《そえ》はいりませんか」
売って歩くと、奪い合いの騒々しさでみるまに捌《さば》けた。それというのも、彼らに支給されるのは飯だけで、菜《さい》はめいめいの自弁だからである。
ほんの、ひと摘《つま》みの塩をまぶして二合五勺もの飯を平らげてしまう猛者《もさ》もいるが、都ぐらしに馴れて半年もするうちに少しずつ口が奢りはじめ、田舎出の壮丁でさえ、
「塩っきりじゃ身体がつづかないや」
などと不平を並べ出す。
四年前、働きざかりの夫に不意に死なれて途方《とほう》にくれたとき、
(兵士溜りへ惣菜《そうざい》を作って持ちこんだら、阿紀と二人のくらしぐらい、なんとか賄《まかな》えるのではないか)
目をつけた鵜ノ瀬は、機敏な女と言ってよいだろう。
塗師《ぬし》だった夫が、生前、懇意にしていた六位の尉《じよう》にたのみこみ、宮門への出入り許可を取りつけて、以来、夕飯どきになると彼女は衛門の陣へ出かけて行った。
「煮売り屋のおばさん」
と親しまれ、待たれて、兵士たちとも今ではすっかり顔なじみだが、品数は多くない。蕗《ふき》やゴボウ、蕪《かぶら》など季節の野菜か、あとはたったひと色、|※[#魚へん+完]《あめのうお》と称する魚の煮つけときまっている。
味はひどくよい。骨も皮ものぞいて食べやすいように一寸角ほどに切り、醤《ひしお》でじっくり煮こんである。
「うまいなあ、おばさん。毎日でも飽きないし、それに値が安い。どうしてこんなに安く売れるんだい?」
「儲けを抑えているからですよ。きまってるじゃありませんか」
鵜ノ瀬は笑いとばす。
「欲をかかないことにしてるんです。薄利多売っていうでしょ。みなさんによろこばれるのが何よりわたしゃ、うれしいんですよ」
醤も自家製だった。大豆をゆっくり茹《ゆ》で、麹《こうじ》と塩を混ぜて搗《つ》きつぶすと、やがてぷつぷつ、音たてて甕《かめ》の中で発酵し、風味ゆたかな醤ができる。それで煮てあるのだから、野菜でも魚でも、味よく仕上がるのは当然なのだ。
たまには餅や干し柿、焙《あぶ》り和布《わかめ》なども持参した。兵士らが好むのは、しかし圧倒的に魚の煮つけであった。
「ひと皿くれ」
「おばさん、おれにもだ」
売り切れて、恨まれる日さえある。
兵士らの顔ぶれは少しずつ変ったが、番長、府生《ふしよう》、志《さかん》などやや階級が上の者は、さらにその上の昇進を夢みて衛門府にとどまり、宮から給料も支給されて、兵営ぐらしをたのしんでいたし、諸国から徴兵されてきた平《ひら》の兵士は、衛士《えじ》に編入されて宮廷の諸門を警固した。夜は篝り火をさかんに焚き立て、隊伍を組んで広大な築地のぐるりを巡邏する。
肌着まで濡れ透《とお》る雨の夜、雪の夜……。凍《い》てのきびしい霜夜の任務もむろん、つらい。粗食だと病気を引き起こしかねない。
「おばさんの魚の煮つけで、どうやらしのげたよ」
任はてて国もとへ帰るとき、そんな感謝を口にして去る兵士もいた。
鵜《う》ノ瀬《せ》の胸は、疚《やま》しさにチクチクうずく。そら恐ろしくもなる。
(|※[#魚へん+完]《あめのうお》と、言いくるめている魚肉の正体……)
それはしかし、娘と二人だけで、どこまでも守り通さなければならない秘密だった。口を裂かれても、
「いいね阿紀、この密事ばかりは洩らしてはならないよ」
くどいほど、日ごろ言い聞かせて売りに出している。
阿紀に代ってから売りあげはさらに伸びて、材料の入手が間《ま》に合わないほどだった。惣菜も目当て、だが、それ以上に娘の笑《え》くぼを目当てにして、競《きそ》い合う買い手が増え、引っぱり凧《だこ》の繁盛となったのだ。
阿紀がまた、ちやほやされるのをうれしがって、ことさらしなを作りながら、
「惣菜、いかがですかア、出来たての煮つけ、いりませんかア」
張りのある愛らしい声で触れて歩くので、たださえごった返す陣中の夕食どきが、
「押すなったら……」
「こいつ、新入りのくせにでかい面《つら》するな」
「なにを?」
喧嘩さわぎにまで発展する日も珍しくない。
そんな中で一人、阿紀に無関心な男がいた。佐伯《さえき》の小源太と仲間たちに呼ばれている左衛門府の府生である。彼はむしろ、つまらなそうな顔で阿紀を見て、
「なんだ、今日もお前か?」
と、つぶやく……。
「鵜《う》ノ瀬《せ》さんはどうした。加減でもわるいのか?」
「いいえ、そんなことないわ」
「じゃあ、なぜ来ない」
「仕入れや調理に忙しいのよ。それに、あたしが代って商売できるようになったし……」
「横着せずに、たまには顔を見せろと伝えてくれ。たずねたいことがあるんだ」
脛《すね》にきず持つ鵜ノ瀬は、娘の報告にどきッとして、
「何を訊《き》きたいんだろ」
小源太の、あさぐろい、どこか陰鬱そうな顔を思いうかべた。口かずが少ないせいか、年よりははるかに、老成して見える若者なのである。
「なにをって……いやだわ。きまってるじゃありませんか」
おかしそうに阿紀は言った。
「母さんを好いてるのよ、小源太さん……」
「ばかだねえ、この子は……。あの人を幾つだと思っているの。せいぜい二十一か二……。おふくろと悴《せがれ》ほど私とは年がはなれているじゃないか」
「年になんか、かかわりないのよ。好くって気持は……」
「知ったかぶりをお言いでない。考え深そうだけど、むっつり屋で、あの小源太って人には何となく気が許せないよ。まさか、あのことを嗅ぎつけているわけじゃなかろうね」
「あのことって、|※《あめのうお》の正体?」
娘の笑顔には屈託がなかった。
「だいじょうぶよ。一人もいやしないわ、鼻のきくやつなんか……。兵士なんてみんな、ガツガツした連中だから、安くてうまけりゃ何の煮つけだろうと、やぼな詮索はしないのよ。母さんはびくつきすぎてるわ」
「だっておまえ……」
つい知らず、鵜ノ瀬は自分の両手を見た。ぶきみな殺生を、かぞえきれないほど重ねてきた指である。
(この指でつかみあげ、首をねじり、皮を剥いだ……)
暗い戦慄が身内をつらぬいた。凄惨な地獄図だけは、娘にすら見せていない。すっかり処理し、残骸は埋めて、肉だけにして家へ持ちこむのである。正体を聞かされているにもかかわらず、阿紀が母親にくらべて、はるかにのんきな顔をしていられるのは、そのためだ。
小源太に逢うのは、気がすすまない。でも、無視もしかねて、鵜《う》ノ瀬《せ》はあくる日、娘と一緒に衛門府へ出かけて行った。
2
「心配してたぜ鵜ノ瀬さん」
顔を見るなり小源太は言った。
「病気かと思ったよ。なぜ、このごろ来ないんだ」
「娘が年ごろになりましたしね。若いお客相手には、若い者のほうがいいでしょ。婆さんは家の中に引っこんでることにしたんですよ」
「婆さんだって? あんたがか?」
小源太の口ぶりに怒りがこもった。
「つまらない卑下はよせよ。まだそんなに、鵜ノ瀬さんはきれいなのに……」
「三十七ですよ、私……」
「それが何だ。おかしいじゃないか、年になんぞこだわるのは……」
娘の言葉がよみがえった。好くってことと、年齢はかかわりない――阿紀もたしか、そう言った。
「でもね」
足もとに転がっている薪をひろって、鵜ノ瀬は篝り火の炎の中へ投げこんだ。
「四十近い上に、亭主に死に別れた子持ちの後家では、男は目もくれやしませんよ」
「自分ひとりで、そう決めこんでいるんだ」
小源太の声が咽喉《のど》にからんだ。
「若者がみんな、娘ッ子に夢中になるとはかぎらない。年上の女でなきゃ食指が動かない男だっているんだ。おれがそうだよ鵜ノ瀬さん」
炎を宿して揺れている相手の、熱い、いちずな眸《ひとみ》の燃えを、あっけにとられて鵜ノ瀬は見返した。
(そういえば、この人だけだった。いままで一度も私のことをおばさんとも、おふくろさんとも呼ばなかったのは……)
まだ、しかし鵜ノ瀬は半信半疑だった。
「ご用って何です?」
わざと改まった口ぶりで訊《き》いた。
「いや、別に、用ってわけじゃないけど……」
急に気弱げに小源太は目をそらし、こんどは彼が薪をつかんで、無意識のように炎の伸びを突き崩した。勢よく火の粉が立ち、小源太の鬢《びん》の毛をチリッと焼いた。
「用じゃないけどさ、折りがあったら、たしかめてみたいと思ってたんだ。鵜ノ瀬さんはこの先ずっと、独り身のままくらす気かね?」
「だって仕方がないでしょ。夫になってくれる人がいなけりゃ……」
「いたら夫婦になるかい? たとえば……たとえばこの、おれとでも……」
「小源太さん、本気?」
「嘘や冗談で、こんなことが言えるものか。前っからおれ、あんたが好きだった。あんたさえよかったらぜひ、一緒にくらしたいと思いつめていたんだ」
あたたかい、微妙な感動がじわじわ身内に充《み》ちてくるのを、鵜《う》ノ瀬《せ》は感じた。肉体の深奥から的確に、しかも容赦のない力で噴きあがってくる恍惚感が、心のよろこびをさらに倍加させた。夫に死別して以後、思い出すことの苦しさから、むりやり捻《ね》じ伏せ、忘れようと努力し、おかげですっかり忘れはてていたはずの快美――。肉と精神の双方に、あざやかにその感覚がよみがえったのである。
「ありがとう小源太さん」
若者の手を、鵜ノ瀬はかたくにぎりしめた。
「うれしいわ。私みたいな女を、それほど思っていてくれたなんて……」
「じゃ、いいんだね。承知してくれるね?」
「夫婦になるってことを?」
「そうさ」
「それは……」
愛されていたよろこびを確認することと、現実とは別である。世帯を持てば、食う算段をその日からしなければならない。阿紀を加えての三人ぐらしが、小源太のしがない給料でまかなえるはずはないのだ。惣菜売りはこれまで通り、つづけないわけにいかない……。
(でも、稼業をやめなければ、たちまちこの男の目に、材料の秘密は露見してしまう)
中年女の分別が、かろうじて鵜ノ瀬をふみとどまらせた。
「ほんとにありがたいことだけど、あなたと私が夫婦になるのは、やはり世間|態《てい》がおかしいわ」
「世間態がなんだ、そんなもの……」
「まあ聞いてよ小源太さん。その通りよ。二人が本気で好き合っているなら、親子ほど年が違おうと女の私が年上だろうと、一向にかまわないはずだけどね、そういかないのが世間づき合いの苦しいところなのだわ」
鵜ノ瀬は説得に懸命になった。
「あなたの若さなら、阿紀の婿《むこ》になるのが自然なのよ。それなのに娘をのけ者にして、その母親を女房にする……つむじの曲ったやつだ、変り者だと評判が立てば、あなたの昇進は止まってしまうし、私は私で色ごのみだの不しだらだのと、近所からうしろ指をさされるわ」
「譏《そし》られるのがこわいのか」
「貧乏人は近所となりとの持ち合いで、その日ぐらしの痩せ世帯を張っているのよ。世間の掟《おきて》を踏みはずして笑い者になったら生きてはゆけないわ。ね、わかるでしょ?」
「わからん。おれには……」
けたたましい柝《き》の音が、このとき不意に、広場の喧騒を截《き》った。夕食時間の終りを告げる合図であった。
「わかってちょうだい。そして、あきらめてちょうだい」
むっと不機嫌に押し黙ってしまった男の二の腕を、鵜ノ瀬はつかんだ。ゆすぶりたてた。石を埋めこんだかと思うほど固く、たくましく、そのくせ布をへだててさえ熱くほてった腕の感触が、口とはうらはらな執着を鵜ノ瀬の中に燃え拡がらせた。
「おおい小源太、何をしている。集合だぞ」
同僚が声を投げて行きすぎる……。
どこからか、空《から》になった桶を三枚、頭に乗せて阿紀も駆けて来た。
「売り切っちゃったわ今夜も……。さ、帰らない? 母さん」
大声でうながしたが、篝り火のかげの小源太に気づくと、いたずらっぽく首をすくめて、
「そうかア、邪魔しちゃ悪かったのね。私、先へ行くわ」
ばたばた阿紀は遠ざかりかけた。
「お待ち、私も帰るよ」
あわてて、
「じゃ小源太さん、またね」
娘のあとを鵜ノ瀬は追った。かたくなに若者は返事をしない。火のそばから動こうともしなかった。
(怒らしてしまった)
鵜ノ瀬は寂しかった。しかし、
(これでいいんだ。これで、終った……)
彼女の常識は、むりやりな納得《なつとく》へ、彼女自身を押しこめようとしていた。
あとも見返らずに家へもどり、それからは時おり呪文さながら、
(終った。終ったのだ……)
つぶやいて過ごしていたのだが、じつは何ごとも、終ってなどいなかったのである。終るどころか、運命は、恐ろしい破滅の淵《ふち》へ鵜ノ瀬を強引に曳きずってゆき、底深くつき落とすまで、無慈悲なその力をゆるめようとしなかったのだ。
3
左衛門府の陣で、小源太と語り合ってから半月ほどたった。もう、すっかり夏だった。
煮しめの材料が切れたので、鵜ノ瀬はいつもの場所へ仕入れに出かけた。一人である。現場を、阿紀には見せたくない。
びくに似た大きな柳編みの籠をさげ、肩にはしょいごを背負った。行く先は、おおよそ決まっている。雲《くも》ケ畑《はた》道か、鞍馬、貴船への街道にそって、北へ分け登った森かげ、山の裾などだ。
今日は静市野《しずいちの》の村落を左へ折れて、夜泣き峠の稜線がくっきり、夏空の下にきわだって見えるあたりにまで入りこんだ。
人はいない。杣《そま》にすらめったに逢うことのない草深い斜面である。鵜ノ瀬の勘《かん》は、この野の炎暑にひそんで、そこここに青いいきれを吐いている生き物の、ひそやかな気配を、無数に感じ取っていた。
草むらの中に、彼女はひそむ。風が渡る静かさで茂みを移動する……。
ぱっとその全身が跳躍し、右手が高くひらめく瞬間、獲物は捕えられて、鞭《むち》さながらなめらかな弧を、宙に描いた。
蛇であった。
さまざまな色と形……。洛北に棲む種類でないものはないが、びくの底に投げ入れられるのはやはり何といっても青大将、地むぐり、山かがし、烏蛇《からすへび》など無毒の蛇がもっとも多い。中にはしかし、蝮《まむし》のような危険な蛇もまじる。石の上にとぐろを巻くもの、頭と尾を草に隠し、太い胴体だけをぎらつく日射しに光らせているもの、すばやく穴にもぐりこもうとするもの、鎌首をもたげ、赤い糸状の舌を吐いて威嚇しかけるもの……。どれもが、でも鵜ノ瀬に狙われ、その凝視に射すくめられると、金縛《かなしば》りに遇ったように身うごきできなくなり、無造作につまみ上げられてしまう。そのような能力がいつのまに、どのようにして自分に備わったのか、当の鵜ノ瀬にも理解できない。ただ、たやすく獲《と》れ、洛北洛西の野山を歩けば、ほとんど無尽蔵に補給しつづけられる利点から、蛇に着目したにすぎない。
そうなのだ。鵜ノ瀬が調理し、阿紀に売らせている惣菜の正体は、蛇の肉であった。びくに一杯になると、鵜ノ瀬は木立ちの蔭や崖の下など、人目につきにくいところに坐りこんで、蛇の頭を放ち皮を剥《む》き、馴れた手つきで骨まで抜いて肉だけにする。それをぴっちり手籠に詰め、不用の雑物は土中に埋めて、痕跡をすっかり隠して帰るのである。
蛇を殺すおぞましさ、皮はぎの地獄図を、したがって阿紀は知らない。鵜ノ瀬を苛《さいな》んでいる呵責《かしやく》の深さも、さほど察してはいないようだ。罪があるなら、自分一人で背負ってゆく気で、鵜ノ瀬は蛇捕りに娘を同行しないのだ。
今日も日が闌《た》けて、煎《い》り鍋《なべ》の底ほどにも野面《のづら》は暑くなった。すでにずっしりびくは重い。それでもなお、草いきれの中を這い進むうちに、
「おばさーん」
鵜ノ瀬は声を聞いた気がした。
「惣菜屋のおばさーん、何やっているんだ、そんなところで……」
はっと、思わず、吐胸《とむね》を突かれた。顔をあげて見回すと、野のはずれの小高い丘に男たちの姿がひしめいている。衛門府の兵士だ。
「しまったッ」
ほてって、汗びっしょりだった鵜ノ瀬の面上から、みるみる血のけが引いた。あわてふためいて逃げ出した様子を、かえって怪しいと見て取ったのか、
「おーい、どうした、おれたちじゃないかおばさん、なぜ逃げる」
ばらばら兵士らは丘を駈けおりて来た。
鵜ノ瀬は動顛《どうてん》した。必死になった。まだ今日は、捕り溜めただけで裂いてはいない。蛇は生きたまま入っている。びくの中身を見られたらおしまいだ。魚といつわって長年月、蛇を食べさせ通したと知ったら、兵士どもはただは置くまい。鵜ノ瀬は殺されてしまうだろう……。
森にとび込んだ。朽ち木のうろがあった。
「ありがたいッ」
びくを中に押し入れ、ありあう枯れ枝で大急ぎで偽装した。足音が入り乱れ近づいてくる。鵜ノ瀬は走り、森のはずれへ抜けて、藪だたみの中へ身を潜《ひそ》めた。
「見えないぞ、どこにも……」
「まるで脱兎だ」
「訝《おか》しな女だなあ。顔なじみのわれわれを、山賊とでも見まちがえたような怯《おび》えかたじゃないか」
「木の実拾いにも茸《きのこ》狩りにも早すぎる。あのでっかい籠は不審だぜ。何を入れていたのだろう」
がやがや言い合う声が、やがて遠ざかったのは、探しあぐねてあきらめたからにちがいない。鵜ノ瀬はそっと立ち上って、あたりの気配に目をくばりながら森へ引き返し、朽ち木のそばへにじり寄った。
「あッ、無いッ」
枯れ枝が散乱し、うろの中はからっぽだった。
「びくならここだよ」
背後で声がした。ぎょっとして振り返ると、男が佇《た》っていた。
「あんたは、小源太さん!」
足もとにびくがころがっている。蓋がはずされ、蛇は一匹も見えなかった。這い出して逃げたらしい。
「仲間の衛士《えじ》どもと小鷹狩りに来た。おかげでお前の商売がわかったわけさ」
冷ややかな声だった。
「愛想が尽きたでしょうねえ小源太さん。でも、仕方がなかったのよ。いきなり夫に死なれて、貯えはなかったし、娘はまだ、小さかったし……なんとしてでも母子《おやこ》二人、餓え死だけはまぬかれたかったものだから……」
「言いわけなんぞ聞きたくない。百年の恋も醒めはてたよ」
忌《い》まわしげにびくを蹴り、背を向けて小源太は去りかけた。
「待ってッ」
「ええ、寄るなったら……気色《きしよく》がわるい。蛇捕り女になんぞ用はないんだ。惣菜の正体が何か、衛門府の連中には黙っててやるが、せめてそれを、おれの餞別《はなむけ》だと思ってくれよ」
ニベもなく言い放ったきり、男の長身はずんずん森を出て行ってしまった。
地に倒れて鵜ノ瀬は泣いた。若者の求婚をこばんだときには、惜しみながらもあきらめがついた。結びつきの無理や不自然さを、年上らしく分別して、自身の気持にケリをつけようとする理性もあったのだ。
だが、今はちがう。おぞましい商《あきな》いの秘密が白日にさらされ、口ぎたなく罵られ突き放されたとたん、やみくもな小源太への思慕が燃え上ったのである。
(失いたくない男だった。それを失ってしまった。もう取り返しがつかない……)
鵜ノ瀬は悶えた。わが身の不運を呪い悲しんだが、そんな彼女の耳へ、しかもそれから十日ほどして入ってきたのは、
「小源太さん、女と世帯を持ったそうよ」
との噂であった。
「相手はだれだと思う? ほら、うちの筋向いの小家に独り住《ずま》いしている糸繰り女……。あの、おでぶちゃんですとさ」
鵜ノ瀬に、その事実を告げたのは娘の阿紀だった。
「ばかにしてるわねえ小源太のやつ。母さんにのぼせてたくせに、いつのまにかあんな女に乗りかえるなんてさ。縹緻《きりよう》だって姿かっこうだって、母さんのほうがよっぽど立ちまさっているし、色っぽいのにね」
嫉妬に、鵜ノ瀬の血は妖しく騒いだ。
「あの女も三十すぎだろ?」
「三十四、五じゃないかしら……。よくよくの年上好きなのね。小源太って男……」
その夜、床《とこ》に入ったが、口惜しくて鵜ノ瀬は眠れなかった。
(まるでこれ見よがしの当てつけじゃないか。目と鼻の先へ、入り婿《むこ》するなんて……)
暑さも暑い。女と小源太がむつみ合っているさまを暗闇に思い描くと、身体じゅうの毛穴からどっと汗が吹き出し、胸はぎりぎり嫉《ねた》みに絞《しぼ》られた。
たまらなくなって、とうとう鵜ノ瀬は起き上った。開けっぱなしの戸口から外へ忍び出、ななめ向うの家をうかがい見た。
ぼんやり、小窓に灯《ひ》が滲《にじ》んでいる。近づいて、縁先から中をのぞくと、想像にたがわず小源太と女が、あられもない姿態で重なり合っていた。
鵜ノ瀬は目がくらんだ。激情の塊りになった。憎い二人につかみかかりたい。仲を引き裂いてやりたい……。両手が知らず知らず、前へ伸びた。指がうごめく。
「ぎゃあッ」
おのれの、その指を見るなり、鵜ノ瀬は咽喉《のど》いっぱいに恐怖の絶叫を溢《あふ》らせた。
「ぎゃあ、あああ……」
仰天して、閨《ねや》から小源太が這い出し女も出て来たが、鵜ノ瀬の目はもはや何ごとも見なかった。
叫びつづけながら、狂気のように往来へとび出し、濃い闇夜の一方へよろめき走った。
左右の手指が、十本とも蛇に変じたのである。数かぎりなくこれまで殺してきた長虫《ながむし》の怨念が祟《たた》りとなって現れたのか、鵜ノ瀬自身の嫉妬の焔《ほむら》が凝《こ》って蛇に変じたのか、どちらともわからない。
いずれにせよ、それっきり彼女の行方は知れなくなった。淵川から死骸が上ったとの、取り沙汰も聞かない。二年待って、阿紀はようやく葬《とむら》いを出した。主《ぬし》のいない葬式である。そしてその日かぎりに、阿紀の姿も裏町から消えた。男でも出来て、遠国へ去ったのだろうと近所の者はうわさし合った。
父を食った男
秋の祭りが近づいた。ふだん、ろくろく覗《のぞ》いたこともない裏の溜め池へ出かけて、
「いやあ、ふえている。ふえている。ことしの祭礼には、魚が腹いっぱい食べられるぞ」
平太夫は満足げに両手をこすり合せた。
池は泥深く、底のほうまで見透《みとお》せないが、さまざまな雑魚《ざこ》がひしめき泳いでいる気配は、岸に立つだけでよく、わかった。
本流の、三隈《みくま》川から水を曳き、溜め池を造っておくと、溝《みぞ》を伝わって生まれたての稚魚がたくさん泳ぎ込んでくる。池の入り口と出口には、粗《あら》く編んだ竹の簀《す》の子が立てかけてあり、小さな細い魚の子たちは、編み目をくぐって入ってくるわけである。
池を還流して流れ出てゆく水と一緒に、出口から、また、もとの親川《おやがわ》へ泳ぎもどって行ってしまう数も、むろん多い。残飯など、時たま抛《ほう》りこんでおいてやると、餌の豊かさに魅惑されてそのまましかし、池にすみつく魚もあり、すこし躯《からだ》が大きくなると、こんどは出口の簀の子をくぐれなくなって、いやでも池の中に閉じこめられる仕組みだった。
三隈川ぞいの農家では、平太夫の家ばかりでなく、どこもこの手の溜め池を掘って、年に一度の、祭りの馳走に備えている。大きさや深さはさまざまながら、いわば生簀《いけす》の一種といえよう。
「やれやれ、たのしみじゃ」
と厨《くりや》へもどって、平太夫は妻の三津女《みつめ》の、甘い香りのする耳たぶへ、まっ昼間というのに臆面なく、くちづけしながら言った。
「そなたはかくべつ、煮炊きがうまい。腕をふるって調理して、脂ののった池の魚ども、たんまり賞味させてくれよ」
三津女は平太夫の後添《のちぞ》えである。年はまだ、二十二……。ことし五十になる平太夫とは親子ほど開きがあるけれど、年の差など、なにほどの障害にもなっていない。縹緻《きりよう》のよさに惚れこんで、絹やら砂金やら、よろこびそうな品をせっせと運び、まず実家の親どもを陥落させて、やっと手に入れた恋女房なのだ。
中年すぎて平太夫は、顎の下の肉がだぶつくほど肥り出している。げじげじ眉だし鼻はいかついし、どう見ても美《よ》い男とはいいがたい。それなのに三津女は、
「顔ではないわ、男ってものは……」
口だけでも、そんなうれしいことを言ってくれる。貧しく育っただけに、長者ぐらしとはいかないまでも、食うに困らない婚家での明けくれを、三津女は彼女なりに感謝しているらしい。態度はいじらしく、素直だし、平太夫を頼りにしきって、まめまめしくその身の廻りに、気をくばる日常だった。
そんな妻が平太夫も、可愛くてたまらない。家長としての責任ばかりでなく、男と女に還《かえ》る夜の床《とこ》でも、ぞんぶん三津女を堪能《たんのう》させてやりたいのだが、こればかりは思い通りにならなかった。あせって、奉仕に努めようとすればするほど、萎《な》えてしまう。
「まだまだ、わしは絶倫。まして美しい女房を持てば、気力体力とも、二十代三十代の熾《さか》んさをとりもどすにちがいない」
期待して再婚した平太夫には、いささか当てはずれな、口惜《くや》しい夜ごとではあるけれど、さいわい三津女が、手入らずの未通女だったためか、
「夫婦のいとなみとは、こんなもの……」
と、思ってくれているらしく、とりたてて不足顔をしないのが、せめて平太夫には安堵《あんど》の種なのである。
気を労することなど、このほかには何もない。家族は十六になる倅《せがれ》の、小弥太《こやた》ひとり……。先妻が生み遺《のこ》して逝《い》った忘れ形見だが、おとなしい、従順な性格で、若い後妻の三津女にも、
「義母《かあ》さん義母さん」
と、したしんでくれている。
あとは作男《さくおとこ》の、痣麻呂《あざまろ》という爺《じい》やがいるきり……。これも控《ひか》え目な、口かずのすくない老人だから、すこしも邪魔にならない。村でも中農に属する田畑持ちだし、平太夫にとってはこのところ、「言うことなし」の毎日なのであった。
くちびるでの、夫の愛撫に、くすぐったそうに肩をくねらせながら、
「そうそう、その、池の魚ですけどね、わたしあなたに、申しあげようと思ってたことがありますの」
三津女は小声になった。
「うん? 何の話じゃね?」
「夢を見たんですよ、たてつづけに、三晩も……」
「ほう。どんな?」
「あなたのお父さまが現れたんです」
「死んだ親爺《おやじ》が、お前の夢に?」
「ええ。この家へわたしがとついでくるずっと前に、亡くなったかただから、顔は知らないけれど、あなたによく似た赧顔《あからがお》の、でっぷりと肥えた入道どのでしたわ、夢で見たのは……」
「まちがいない。親爺じゃよ。今ごろ嫁女の夢枕になど立って、いったい何を言いたいのかね? 親爺は……」
「おきのどくにお父さまは、生前《せいぜん》の悪業の報《むく》いを受けて、いま鯰《なまず》に生まれ変っているんですって……」
「なんじゃ? 鯰に!?」
「しかもね、あなた、うちの溜め池にまぎれ入って、狭い底泥の中で喘《あえ》ぎ苦しんでいなさるそうよ」
「なるほどな。あの無信心な親爺どのならば、前生《ぜんしよう》の報いぐらい受けてもおかしくないよ。わしの親だけあって仏おがみだの僧尼への供養など抹香《まつこう》臭いことは大嫌いじゃった。なにせ村はずれの阿弥陀堂が大風で倒れたときなど、まっ先に駆けつけてばらばらにこわれた須弥壇《しゆみだん》、経机、棟木《むなぎ》や梁《はり》までかつぎ出し、家に運んで焚きつけに使ってしまった御仁《ごじん》じゃものな」
「きっと、その罰ですわ、おかわいそうに……。そしてね、泣く泣くわたしにおっしゃるのは、どうぞ池から掬《すく》い出して、ひろびろとした三隈川へ放してほしいとのたのみごとなんです」
「息子のわしに言えばいいではないか」
「そこがお父さまの、ご心配の種なのよ。もうすぐ、秋の祭りがくる、魚料理に目のない平太夫が、もし、わしを見つけたら、かまわず食ってしまうであろう、それが怕《こわ》さに、嫁のそなたにたのむのじゃとおっしゃってたわ」
「ばかを申せ。いかにわしが食いしんぼうじゃとて、親と知ってまで食うものか。しんじつ池の底に、それらしい鯰がいたら、仰せの通り掬い上げて川へ放してやるわ」
「おねがいしますよあなた。夢の中でお父さまと、かならずお望み通りにいたしますってわたし、固くお約束してしまったんですもの……」
「よしよし、わかった。悪因悪果、善因善果――。いまさら親爺どのが、蒔《ま》いた種をどう刈り取っていようとわしの知ったことではないが、いとしいお前のたのみごとじゃ。鯰はきっと逃がすゆえ安心せい」
いま一度、平太夫はしなやかな妻の身体をひき寄せて、さくら色に血を透《す》かした葩《はなびら》みたいな耳たぶを、軽く噛んだ。
……それから四日たった。いよいよ祭りの前日である。
家々では家族総出で、溜め池の掻《か》い掘りにかかった。水をなくすのに、手間はたいしていらない。親川からの流入口をふさぎ、出口の簀《す》の子だけあけておけば、しぜんと水は流れ出て、池は干《ひ》あがってしまうのだ。
「わあ、いるいる」
倅の小弥太が声をあげた。下帯ひとつのすっ裸で、彼は生簀のへりに立ち、
「爺や、いいか、入れものの用意はできてるか?」
痣麻呂《あざまろ》老人をせきたてて魚を掬いにかかった。樽《たる》だの手桶《ておけ》だの、ありったけの容器を池のきわまで運んで、
「これだけあればたりますじゃろ」
老人も金壺眼《かなつぼまなこ》をかがやかせている。痣麻呂というのは本名ではない。顔半分に、べっとり塗りつけでもしたような青痣があるからだが、ぶきみな容貌に似ぬ主人思いの律義者《りちぎもの》で、平太夫の言いつけには何ごとによらず、そむいたことがなかった。
「ことしは大漁じゃな」
と岸に佇《た》って、平太夫は舌なめずりし、そんな夫の片わきから三津女も案じ顔をのぞかせて、
「気をつけてくださいよ小弥太さん。お祖父《じい》さんらしい鯰を見つけたら、きずつけないように掬い出すのよ」
義理の息子を指図していた。
「でも、そう言われても見分けるのはむずかしいなあ。鯰はいっぱいいますよ。柳鮠《やなぎはや》、鯉《こい》の子、鰻《うなぎ》にモロコ……。川蟹《かわがに》やドジョウまでうじゃうじゃひしめいてて、どれがお祖父さんやら見当がつかない」
タモ網をふりまわしながら小弥太は言う。
「やッ、出た出た、その、でっかい鯰じゃないか」
平太夫が指さす先に、なるほどとびきり大きな鯰が、泥水を跳ね返して現れた。群小の雑魚《ざこ》にくらべると、信じられないくらいそいつは巨大だし、髭の動かし方、眼のくばりなど、気のせいか、どことはなく意味ありげだ。
「まちがいござりませぬ。これこそはご先代さまじゃ。やれまあ、おいたわしや。なんでこのような、浅ましい姿にならしゃったか」
手桶に移した大鯰をながめて、爺やはほろほろ、青痣の上に涙をまろばせた。
「ふーん、こいつが親爺どのとはなあ」
信じかねる顔で、平太夫は鯰に目をあてた。まるまる肥えて、いかにもうまそうである。脂がのっているだろう。肉もびっしり附いているにちがいない。鶏《とり》の笹身《ささみ》に似て淡泊な、そのくせ旨味《うまみ》のこってりと深い鯰鍋……。これだけの大きさなら片身を醤《たまり》の附け焼き、あとの片身を煎《い》り煮に作らせ、残りのあらで、熱々《あつあつ》のおいしい汁がたっぷり取れる……そう思うともう、平太夫は我慢できなかった。もともと鯰が大好物なのだ。
「なあ小弥太、お前はこいつを、お祖父さんの生まれ変りと思うかい?」
「むりですねえ」
若者は笑った。
「お義母《かあ》さんの夢を茶化《ちやか》すわけじゃないけど、わたしらぐらいの年の者に因果応報だの転生《てんしよう》だのと寺の坊さんあたり、いくらお説教を垂れても、まともに信じるなんてこと、できませんねえ」
「わしだとて、同感じゃ。数ばかり多くても、どれもちっぽけな雑魚《ざこ》ばかり……。この大鯰をむざむざ川へ放つなど、宝を捨てるも同じことよ。もったいない。食ってのけよう」
「あなたまあ、何をおっしゃるの」
驚いて三津女がさけんだ。
「それではお約束がちがうではありませんか」
「夢は五臓の疲れ。信じられるものか」
「いいえ、この鯰を殺すの、わたしはいやですよ」
「息の根は、わしが止めるさ。いいか三津女、よしんばこいつが本当に親じゃとしても、息子のわしの腹に入れば成仏する。なまじ川になど逃がして、釣り人の鉤《はり》にでもかかってみい。それこそつまらぬ話ではないか」
厨《くりや》へさげていって大俎《おおまないた》に乗せ、暴れ狂うのをむりやり抑えつけて、平太夫は頭を断ち落とした。手ぎわよく三枚におろし、骨も身もぶつぶつと切り分けて、
「さあさあ、いつまでもむくれていずと、味よく調理してくれい」
妻に言いつけ、やがて大小の皿や鉢に、湯気を立てて運ばれてきたのを、
「うう、よだれが垂れるぞ」
温《ぬく》め酒の肴《さかな》にして、うまそうに食い出した。
「宵祭りの、この上ないご馳走じゃ。お前らも相伴《しようばん》せい」
すすめても、三津女は気味わるがって近づかないし、小弥太もさすがに箸を取ろうとしない。痣麻呂老人に至っては、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ」
自分の寝小屋に引っ込んだきり、大鯰の冥福を祈って念仏をとなえつづけているだけだ。
「気の弱いやつらばかりじゃなあ」
うそぶき笑ううちに、異変が起こった。平太夫の手から盃《さかずき》がポロッと落ちたのである。そして次の瞬間、
「うわッ、うわッ、うわッ」
獣《けもの》が吠えるような声をあげ、咽喉《のど》をかきむしって苦しみ出した。
「あなた、どうしたのッ、しっかりして……」
取りすがる三津女をはねとばし、炉部屋《ろべや》じゅうをのた打ち狂ったあげく、
「がああッ」
まっ黒な血を吐いて悶絶した。
――葬式は寂しかった。
「天罰|覿面《てきめん》。親を啖《くら》って死によったわ」
ひとびとは爪はじきし、ほとんど顔を見せなかったのだ。村づきあいも絶えはてた。
平太夫の遺産を守る気か、三津女はしかし、踏みとどまって、屋敷から出ようとしなかった。これまで通りむつまじく、小弥太を相手にくらしていたが、
「姉と弟のようじゃ」
と近所の者の目にうつったのは、じつは表面だけで、平太夫が生きていたころから二人は身体での結びつきを、こっそり愉《たの》しんでいたのであった。
「うまくいったわね小弥太さん」
野辺送りをすませたその晩から、彼らは抱き合って痴戯にふけった。
「あんたが町の薬種屋で手に入れてきた鴆《ちん》の毒とやら、びっくりするほど効いたじゃないの」
「それより、三津女さんの悪智恵のほうが一枚上だぜ。川で捕ってきた大鯰を、あらかじめ池にひそませておき、見もしない夢ばなしでうまうま親爺をかついだんだものな」
「鯰料理に毒を仕込んで、ただ食べさせただけでは、生き残ったわたしらがたちまち疑われるからよ。お祖父さんの化身《けしん》を食べたことにしたからこそ、天罰で通ったのだわ」
「そこがあんたの頭の切れるところさ」
「もう指はやめて……小弥太さん入れて……じらさないで!」
「こうか」
「あッ、ああ、声が出ちまう」
「目の上の瘤《こぶ》が取れたんだ。声なんか、いくら出したってかまわないだろ」
「爺やが聞くわ。痣麻呂が……」
「寝小屋は離れている。それに、まるっきり耳が遠いんだよ、あのじじい……」
いぎたなく乱れた床《とこ》の中で、だが翌朝、彼らは冷たくなっていた。枕もとに水瓶《みずびん》がころがり、爺やの姿はなかった。若い二人が寝起きに水を飲むことを知っているのは、痣麻呂ひとりである。厨《くりや》の戸棚に、小弥太がむぞうさに隠しておいた毒薬の使い残りも消え、それっきり老人の行《ゆ》く方《え》はわからなかった。
きつね妻
1
都の空が近づくにつれて、陸奥《むつ》の前司・橘有光《たちばなのありみつ》は、口かずがすくなくなってきた。妻のおもわくが、気になりはじめたのである。
「どうなさったの? すっかりだまりこんでおしまいになって……。ご気分でもわるいんですか?」
「いや。なんでもない」
「あ、そうか。ほほほほ」
有光の駒に、よりそって駒をすすめながら、小宰相《こざいしよう》は、さもおかしそうに鞍《くら》の上で上体をよじった。
「殿ったら、北ノ方さまのやきもちが、こわくおなりになったのね」
「ばかをいうな」
まだ三十前の有光は、小宰相のからかい口調に、ぱっと耳たぶまで赧《あか》くした。
「お前をつれてのぼることは、すでに手紙で、留守宅へは知らせてあるのだ」
「そうね。そしてその、あなたのお手紙に、北ノ方さまも返事をよこして、どうぞ、それほどお気にめした女ならば、都へ伴《ともな》っておいでなされませって、たいそう、ものわかりよくおっしゃったわけよね」
「いまさら、嫉《や》くものか」
「でもね、口と腹とは別かもしれませんよ。夫が任国で、土地の遊び女《め》と深い仲になって、たいまいの砂金とひきかえに、その身がらを買いとってもどるなどと聞かされたら、だれだって平気じゃいられませんもの……」
「ちょっとまて」
女のおしゃべりを、有光はさえぎって、
「妙なやつだな」
馬上から、道のうしろをふり返った。
「蹴上《けあげ》の清水あたりでも、ちらっと見かけた。色の黒い小男だ。おれたちのあとを、つけてでもくるようなそぶりだぞ」
従者たちも、いっせいにふり向いて、
「どいつです?」
「ひっとらえてきましょうか」
がやがや言い出したときには、しかしすばやく、どこへかくれたか、怪しい者のかげもなかった。
「ただの旅人でしょ。人通りの多い街道すじですもの、同じ方角へくるにんげんがあったからって、ふしぎじゃありませんよ」
小宰相は気にもとめずに、
「それより、わたしいやだなあ、北ノ方さまとひとつお屋敷に住むなんて……。さぞ、いじめられるでしょうねえ。チクチクと……」
話をまた、もとへもどした。
「その点はだいじょうぶさ。妻は気だてのやさしい女だからね。いままでだって、おれの浮気に、目をつぶり通してきたんだぜ」
「かくれてするちょこちょこ遊びと、こんどはちがいますよ。わたしは堂々とお屋敷うちに囲《かこ》われるんですからね」
「おっかながっているのは、むしろ妻のほうだろう。このおちゃっぴいに乗りこまれては、ひと騒動だろうからなあ」
「あら、おとなしくするつもりよ。せいぜいお品よくして、都の上臈《じようろう》たちに笑われないようにしなければ……」
「どうかな。すぐ地金が出ちまうんじゃないのか」
「いじわるッ」
塗り笠のぐるりに垂らしたからむしの衣《きぬ》の、端をつかんで、ぱっとほうりつけてくる。お里まるだしのはしたなさは、若く、いきいきと愛嬌づいて、夜の床あしらいが巧みというだけで、やはりどう見ても遊女あがりだ。
「お品よくする」
などと口ではりきんでも、つづきっこないのは目にみえていた。
有光はしかし、小宰相のこの、野性味に魅惑されてしまっている。遊び仲間の若殿原《わかとのばら》にかぎつけられれば、
「悪趣味な! わざわざ奥州くんだりから、泥くさい田舎娘をひっぱってくることはあるまいに……」
くさされるのはわかっていたが、脂ののりきった十八歳のまっ白な肉体が、どれほどの魔力の泉を深部に隠しているか、
(知る男だけが知ってるってわけさ)
ほくそ笑みたい気持だし、それを独りじめにしてたのしめるこれからの夜々を思えば、
(なんの、妻のやきもちぐらい……)
せせら笑ってやりたくもなるのであった。
――道は、そのまま河原にぬけて、いよいよ京の町なかへはいった。
「にぎやかねえ」
小宰相はきょろきょろする。
二条|西洞院《にしのとういん》の、屋敷が見えてきた。
「あれだよ、おれの住居は……」
「あの、築地塀のお宅? ふーん」
思っていたほどの、構えではないと、小宰相はすこし失望したらしい。任地での国司の威勢は、
「熱い雪を降らせ、青いお天道さまを昇らせることもできる」
とまでいわれるほど、たいしたものだったが、都へもどればたかが受領《ずりよう》……。内福ではあっても、官吏の階級からするとまだまだ、上には上があるのである。
「門火《かどび》を焚いてるわ」
夕風のなかに、火の色が見える。門前に立って、召使たちが出迎えているのだ。
小宰相のために、あらかじめ蹴上の里まで、牛車が回されてきていたのに、おてんばな彼女は、いままでどおり馬がいいと言いはり、有光とならんで手綱をくってきた。むつまじげな、あてつけがましいその姿を、いちはやく奥に待つ妻に、告げにはいった女房などもいるにちがいない。
有光はまたぞろ、気が重くなって、つけてくる不審な小男の存在も、いまやけろッと忘れてしまった。
2
西ノ対《たい》に、小ぎれいな部屋をしつらえて、小宰相は住むことになった。家具や調度をととのえ、女《め》の童《わらわ》などもやとい入れて、そのための用意を手落ちなくしておいてくれたのは、北ノ方の則子《のりこ》である。
「すまぬなあ」
もともと、どこといって欠点のある妻ではない。有光が陸奥の国司を命ぜられたときも、いっしょに任地へ下向するつもりだったのだ。
ちょうど身ごもっていたために、都にとどまって、分娩をすましてゆくはずのところを、流産し、いらい身体のぐあいがはかばかしくなくなった。
「旅はむり……」
との、判断から、とうとう任期が終わって帰るまで、別れ別れにくらさなければならなかった夫婦なのである。
いわば女の身にとって、なかばは夫にも責任のある災厄をしのぎ、そのために病床にまでついた妻を、都にのこしながら、いかに無聊《ぶりよう》な任地ぐらしとはいえ、小宰相にうつつをぬかしたばかりか、つれて帰ってまで来てしまったのが、有光にはうしろめたかったし、
「愛らしい娘ではありませんか。下賤の出にしては肌も声も、澄んできれいな……」
嫉妬めいた顔をまったく則子が見せなかったのにも、すまなさがつのって、
「野そだちのがさつ者だが、まあ、田舎から妹がひとりたよってきたと思って、がまんしてやってくれ」
気に入りそうなみやげの品をならべたてたり、わざと小宰相の容姿をこきおろしなどして機嫌をとった。
――ところが、帰邸してきて三日目。
小宰相の酌でしたたかに酔って、西ノ対を出た有光が、酔いざましのつもりで庭へおりてみると、夏菊がほの白く咲く籬《まがき》のすそから、ぬっと黒い影が立ちあがった。
「もし、殿さま」
ぎょっとした。
「だれだッ、なにやつだッ」
「シッ、おしずかになさってくださいまし。うろんな者ではありませぬ。馬どろぼうでございます」
言い方の、まぬけさかげんに、有光はおかしくなった。自分から馬どろぼうと名のりながら、うろんな者ではないとことわるなど、ふるっていすぎる。
「その、馬どろぼうがおれに何の用だ。厩《うまや》の馬でもねらったわけか?」
「はじめはそのつもりでございました」
釣り灯籠のまたたきの下へ、相手はもぞもぞ這《は》い出してきた。
「おッ、きさまはあのときの……」
都入りの日、行列のあとを見えがくれにつけてきた色黒の小男だったのである。
「へい、蹴上へんで殿の乗馬を見かけ、そのみごとさに欲しくてたまらなくなって、お屋敷をつきとめようとつけてまいりましたが……へい」
首すじの汗を、男は手でこすった。
「ご門がきびしくて、しのびこみはしたものの、曳き出すすきがありません。ままよッと縁の下に腰をすえて、干《ほ》し飯《いい》をかじりかじり三日というもの、お侍衆のゆだんをみすましておりました」
「ふーん。いったん目をつけたとなると、執念ぶかくねらうものだな」
「へへへへ」
「で、どうした? 盗めたか?」
「盗む前に、たいへんな企《たくら》みをかぎつけましたので、殿さまのお耳に入れようと決心してこのとおり、お声をかけたわけでございます」
「なにごとだ? 企みとは……」
「お命にかかわる一大事で……」
「命に? おれのか?」
馬どろぼうは、北ノ対の縁下にひそんでいたのだという。……すると、ついさっきだ。頭上で女のひそひそ話が聞こえた。
「天井裏の用意はぬかりなくできているでしょうね」
「はい奥方さま。迎えをやりしだいすぐ、仕手がかけつけてくることになっております」
「人もなげな殿のなされかた……。かならず思い知らせてやります」
無念げにいう女の声は、歯をかみ鳴らさんばかり、恨みにふるえてものすごかったと、気の小さそうなどろぼうは首をちぢめて語るのだった。
有光はただちに腹心の郎党をよんで、妻の寝間――彼女と共寝《ともね》する夜は、彼もまたそこに眠る部屋の、天井裏をこっそりさぐらせた。
四半刻《しはんとき》ほどして郎党はもどってきた。
「まん中へんに一枚、うごかせる天井板がございますし、そのかたわらに、このようなものが……」
さし出したのは、五、六本の矢と、半弓《はんきゆう》であった。
「よし。口外はかたく、無用だぞ」
郎党を去らせると、有光は先に立って、
「こい」
どろぼうを厩《うまや》へつれて行った。
「きさまの欲しいのは、これだろう」
「へいへい、この、奥州|黒《ぐろ》で……」
「任地を出立するさい、下役どもがはなむけに贈ってくれた逸物《いちもつ》だ。さすがに目がたかいな」
「そりゃあ、商売でございますから……」
「持ってゆけ」
「えッ、これを手前にくださるので!?」
「命ひとつ、この黒と引きかえにひろったと思えば安いものだ。くれてやる」
「あ、ありがとうぞんじます」
「盗んだのではない。もらったのだ。門番にことわって、表門から大手をふって出ていけ」
「へへへへ、そうさせていただきます」
馬をひき出すと、男はぺこぺこおじぎをして、そそくさ暗がりを遠ざかった。
3
(あぶないところだった)
有光は胸をなでおろした。
なにくわぬ顔をしながら、やはり妻の血は、夫を殺そうと思いたつほどの、瞋恚《しんに》の炎に煮え狂っていたのだ。
(さて、どうしたらよいか)
離別するのはわけない。流産してしまって、さいわい子もない。ただ、則子の実家が、官界での家力者だった。有光も、舅《しゆうと》や義兄の七光《ななひかり》で、年齢不相応の昇進をとげ、富をたくわえてきているのである。
(彼らと気まずくなるのは不利だ。なんとか穏便に、則子を去らせる手段はないものか)
ともあれしかし、それ以来、お義理の同衾はやめてしまった。食事も毒を用心して、いっさい北ノ対ではとろうとしない。
いきおい、西ノ対にばかり、有光は入りびたる結果になった。物見遊山につれて出るのも、小宰相だけだ。京をめずらしがって、彼女のほうもしきりに外出をせがむ。華やかな女車で出かけるときもあれば、壺装束《つぼしようぞく》で歩いてゆくこともある。車を、
「酔うからいやだわ」
敬遠して、ややもすると徒歩をえらぶのは、育ちの軽さを暴露《ばくろ》していた。
ある日、清水《きよみず》の観音に参詣した。宝前にぬかずいて、有光が祈願しているまに、小宰相のすがたが見えなくなったので、
「どこへ行ったのか?」
家来どもにきくと、
「あれ、あすこに……」
舞台の張り出しを指さした。欄干《らんかん》にもたれて小宰相は景色をながめていたが、そばに寄りそって、なにやらこそこそささやいている小男のうしろ姿に見おばえがあった。いつぞやの馬どろぼうではないか。
「おいッ、小宰相なにをしているッ」
怒声に、男はちらッとふり向き、たちまち人ごみの中にまぎれてしまった。
「知りあいか、いまの下郎と……」
「いいえ、ひとなつこく寄ってきて、この先が鳥辺野、正面に見える塔は歌の中山清閑寺だなんて、聞きもしないのに教えてくれたのよ。都の人はしんせつねえ」
有光は、にぶい男ではなかった。
(小宰相め、しらをきっているな)
すぐ見やぶった。
(馬どろぼうを装《よそお》っておれに近づき、則子の企みを告げた男と、小宰相が、一つ穴のムジナだとすると……)
企んだのは、むしろ小宰相の側ということになる。小娘とはいっても、世間の荒波におさないころから揉《も》まれ、男を手玉にとりつけてきた遊女あがりである。
(あらかじめ天井裏に弓矢などかくしておいて、ひと芝居うったあげく、則子がおとなしいのをよいことに、追い出して、正妻の座を奪おうと考えたわけか。……智恵をしぼったな女《め》ぎつねめ!)
いや気がさした。
こともあろうに何も知らない妻に、夫殺しの汚名をなすりつけるとは、なんという肚《はら》ぐろい女だろう。たとえわずかなあいだだけでも小宰相の奸智にひっかかり、則子をうとんじた不明が、有光は悔《く》やまれた。
(追い出してしまおう、こいつこそ……。さもないとまた、どんな新手《あらて》の悪だくみを思いつくかしれないからな)
さすがにちょっぴり、その新鮮な肉体にみれんは残ったが、いったんさしたいや気は、もはやもとへもどらなかった。
小宰相はしかし、この有光の心境の変化に、まだ気づいていないらしい。
あくる日――。
出仕した彼が、帰邸してきたのを待ちうけて、本妻|誹謗《ひぼう》の第二矢を、まことしやかに放ってよこした。
「おかえりなさい殿、まあ私、びっくりしたのなんのって、今日ぐらいおどろいたことはありませんわ」
有光は冷ややかに、
「ふん、なにをそんなに仰天したんだ」
「なにをって、今日ひるすぎよ。退屈なので世間ばなしでもしようと思って、北ノ方さまのお部屋へ出かけていったの。そしてなにげなく几帳《きちよう》の内をのぞくと、どうでしょうまあ、北ノ方、碁《ご》を打っておられるじゃないの」
「それがどうした。碁ぐらい打ってどこがわるい」
「碁はいいんですよ。相手になっている女が、なんと顔から衣裳から寸分ちがわぬ北ノ方じゃありませんか。同じ女がさし向いに、碁盤をはさんでいたんですよ。私、キャッといったきり、西ノ対へ逃げ帰ってきちゃったわ。あれは狐よあなた、北ノ方は狐の化身《けしん》にちがいなくてよ」
「ぷッ」
思わず、有光は吹き出してしまった。むかむか腹も立ってきた。幼稚な嘘をつくやつだ。こんな見えすいた作り話に、のる男だとタカをくくっていることからして、ひとを舐《な》めている。ばかにしている……。
「いいかげんにしろッ、お前のこんたんぐらい、察しないおれじゃないぞ」
「なにがこんたんよッ、げんにこの目で私は見たのよ。論より証拠、北ノ方は狐だわ」
「だまれ、狐はお前だッ」
「くやしいッ、私のどこが狐さッ」
おさだまりの大げんかになった。
「出ていけッ」
「たのまれたっていてやるもんですか、狐のすむ薄きみわるい古屋敷なんぞに……」
それっきりだった。とび出して行ったまま小宰相のゆくえはわからなくなった。
「かわいそうに、今ごろあの娘《こ》は、どうしているでしょう」
妻の気づかいを、有光は笑いとばした。
「さっそく色町にでもはいりこんで、出て行ったその日から稼《かせ》いでいるさ。食いはぐれはない女だよ。――そんなことより……なあ則子、かんべんしてくれよな」
「なにをですの?」
「あんな狐を家に入れて、お前をやきもきさせたことをさ」
「やきもきはしません。ほんのすこし、寂しかっただけですわ」
「懲《こ》りたよ。もう浮気はしない。お前ひとりを大事に守るよ」
むろん、言葉どおりにはいかなかったが、屋敷にまで、よその女をつれてきて住まわせるほどのことは、以後、けっしてしなかった。
則子はまた、みごもり、こんどはぶじに男の子の母になった。舅の口ぞえで、有光はさらに出世し、家庭は円満にさかえた。
世間ていを忌むあまり、赤児のうちから乳母の里へやられてしまった双児《ふたご》の姉を、こっそりよびよせて、巧みに利用したこと、馬どろぼうをやとって、はじめわざと夫に自分を疑わせ、つぎに眼につく場所でなれなれしく、小宰相に話しかけさせたことなど、企みのいっさいを妻のしわざだったと、もし、有光が知ったなら、結末はまったく、別なかたちになっていただろう。
「あの、女《め》ぎつねめ!」
と思い出すたびに、有光はいまいましげに小宰相をののしったけれど、ついに夫を化かしきった賢夫人、きつね妻こそは則子であった。
五位の休日
1
鎮守府将軍・藤原の利仁《としひと》は、豪快な武人だった。下野《しもつけ》の国に、群盗が二千人も蜂起《ほうき》して、都の官庫におさまるはずの貢《みつぎ》の品を、大量にかすめ取ったばかりか、国庁や庄の領所にまで押し入って役人を殺傷……。野火さながら荒れ廻ったことがある。
利仁将軍は討伐を命ぜられ、軍勢をひきいて都をうち立って行ったが、そのさい、じっと天をにらんで、六月、夏のまっさかりというのに、おびただしい数の橇《そり》を用意させた。
「気でも、狂われたか」
兵どもの、そしり口も、しかし東海道、東山道を二手に分かれて進撃するうちに、かげをひそめてしまった。天候は激変し、ひどい寒波が襲ってきて、全軍が到着したとき、なんと、関東の曠野《こうや》は、見わたすかぎり銀世界にかわっていたのである。
「真夏に、雪が降った!」
兵士らのおどろきにもまして、周章狼狽《しゆうしようろうばい》したのは盗賊どもだ。寒さふせぎの手をなにひとつ打っておかないうちに、時ならぬ雪にみまわれて手足はこごえる、進退の自由もきかない。
「しまったッ、討手《うつて》だぞッ」
気づいたときには官兵数千、用意の橇に分乗して雪原を殺到してきたのだ。賊どもはみなごろし……。ひとびとはいまさらながら、いちはやく天候の異変を察して、応変の作戦に効をあげた利仁将軍の明智に、舌をまいたのであった。
なみはずれた巨漢だし、百般の武技にすぐれ、むろん剛力《ごうりき》でもある。いったん怒れば、顔はんぶんを埋めるほどの虎ひげが逆立って、鬼神すら圧服させる威がありながら、笑うと目じりにしわがより、子供もなつく温顔になる。
おまけに将軍は、たいへんな金持だ。自身、富貴《ふつき》なばかりでなく、妻の実家がまた、越前の敦賀《つるが》で一番と羨《うらや》まれる長者だった。
朝廷の信任は、当然あつい。摂関家をはじめ、上級貴族の屋敷にもしたしく出入りして、将軍は、そのだれからも目をかけられ、愛顧をうけていた。
ある正月――。
太政《だじよう》大臣家の大饗《だいきよう》に招かれた将軍は、そこで一人の小男に目をとめた。大臣邸に召し使われる青侍《あおざむらい》で身分も五位にすぎない二十一、二の若者である。
饗宴のさい、上座の上客の食べあましは、ふつう取り食《ば》みといって、庭にはいりこんでくる貧民や乞食《こじき》に、投げてやるのが例になっているけれども、この日の残りものは屋敷に勤める侍どもに、入れものごとさげ渡された。
下座《しもざ》の板敷きに、目白おしに肩をよせ合って、わずかずつさがってくる蒸し物、和物《あえもの》、汁、鮨などのせせり荒しを、侍たちはめいめいの皿や椀に争ってとり分け、がつがつ掻《か》きこんでいたが、たまたま小用に立った利仁将軍は、外縁《そとえん》を通りかかって簾《すだれ》ごしに、
「ああ、うまいなあ」
うちのだれかが舌鼓うちながら、ため息まじりにひとりごちるのを聞いたのだ。
「芋粥《いもがゆ》って、どうしてこんなにおいしいんだろう。たまにこいつにありつく時が、おれには無上の極楽だ。ありがたい、ありがたい」
だれを相手に言っているのでもない。まったくの、独白である。それも、あたりの喧騒に打ち消されそうな小声だが、しんそこからの詠歎が、将軍の耳にしみじみ透《とお》った。
(貧しいのだなあ)
いじらしくなった。
「もしもし、大夫どの」
縁に佇《たたず》んだまま、そっとうしろから、若侍によびかけた。大夫は五位の通称である。
「は? わたくしですか?」
びっくりしてふり返った若者は、
「そんなに芋粥がお好きなら、休みのうちに一度ゆっくり、ごちそうしましょうか」
将軍の微笑に、みるみる顔をあからめた。はしたないひとりごとを、聞かれてしまった恥ずかしさ……。いまをときめく鎮守府将軍に、簾ごしの板縁などから、いきなり声をかけられた思いがけなさにも、とまどったにちがいない。
「ありがとうございます」
神妙に一礼したが、申し出《い》でそのものは、ほんの座興《ざきよう》ととったらしかった。
将軍は、しかし忘れなかった。あと少しで正月休みが終ろうとする凍《い》て夜、また太政大臣邸へ伺候《しこう》したついでに、曹司《そうし》をのぞいて、
「大夫どの、大夫どの」
例の五位を、目まぜでそっと、廊下へ誘い出した。
「東山のしるべの家で、今夜、湯をわかしたのです。ご一緒に、はいりにゆきませんか」
わざと芋粥といわなかったのは、相手にふたたび、顔を赧《あか》くさせまいとの配慮からだった。
「よいのでしょうか。お供しても……」
五位は、おずおず言った。湯浴《ゆあ》みはもてなしのうちにはいる。寒中でも庶民は、水で身体を拭《ふ》くか、半挿《はんぞう》に湯をとって手足を洗うくらいがせいぜいなのだ。五位ももう、ひと月ちかく沐浴《もくよく》からは遠ざかってい、身内があちこち、むずがゆくなっていた。
2
「きていただきたいからこそ、お声をかけたのですよ。ご斟酌《しんしやく》にはおよびません」
中門廊の駒寄せには、五位のために乗馬まで、手廻しよく用意してあった。
同道するつもりか、将軍のせがれの伊豆守時頼も、外で待っていて、
「どうぞ、これにお乗りなさい」
手綱《たづな》を渡しながら、したしみぶかく五位に笑いかけた。
栗毛の駒の、たくましい四肢のふんばりに、五位は臆したのか、伊豆守に尻押しされながら鞍《くら》によじのぼるのさえ、やっとのありさまである。おっつかっつの年ごろなのに、せがれの闊達《かつたつ》さにくらべて、五位の貧相ぶりが、いよいよ将軍の目には哀《あわ》れに映《うつ》った。
薄綿《うすわた》の下着をやぼくさく、二つかさねた上に、青鈍《あおにび》色の、裾《すそ》のすり切れた指貫《さしぬき》をはき、糊《のり》がとれて肩先がくったりしたやはり青鈍の、古狩衣《ふるかりぎぬ》を五位ははおっている。侍|烏帽子《えぼし》はいびつに曲がり、鼻の頭は寒さに赤らんで、しきりに洟水《はなみず》をすすりあげていた。
「さあ、行きましょう」
元気よく将軍はうながした。
(いい若い者のくせに、笑止せんばんな……)
少々じれったい。片腹いたくもある。なんとかいますこし、威勢をつけてやりたいものだと、荒ッけずりな武人気質で、将軍は道々、思案した。
小童《こわらわ》すら、五位は供につれていない。
将軍父子の従者も多くはなかった。胴鎧《どうよろい》に猿頬《さるぼお》をつけ、薙刀《なぎなた》をかいこんだ侍二人、松明《たいまつ》を持った舎人《とねり》ひとりという小人数で、月あかりの道をさくり、さくり、霜柱をふみながら賀茂の川原にそってくだって行った。
……いつのまにか粟田口《あわたぐち》を通過し、山科《やましな》にかかった。五位はいぶかった。
「東山へゆくのではないのですか?」
将軍はさりげなく答えた。
「じつは、もう少し先なのですよ」
関山もすぎ、三井寺の境内へはいると、やっととある宿坊の前で馬をとめて、
「ひと休みしましょう」
板戸を、舎人にたたかせた。あらかじめ通じてあったのだろう、すぐ内側から戸はあいて、中年の僧が顔を出した。
「おはいりくださいまし」
「ごぞうさになります」
坊の中には、食事の用意ができていた。見廻して、またまた五位はたずねた。
「ここで湯浴みをするのですか?」
「いや、腹ごしらえをするだけです。ほんとうのことをいうと、敦賀の、妻の実家まで、おつれするつもりなのですよ」
「えッ、えッ、敦賀ですって!?」
五位はのけぞった。
「そんな遠出をするのなら、僕《しもべ》ぐらいつれてきましたのに……」
「こころぼそくなったのですか?」
「だって、夜道をゆくのでしょう?」
「わしと、せがれは、それぞれ一騎当千のつわものです。二人がついていれば、二千人の精兵に守られているのと同じはずですがね」
言われてみればその通りだ。五位は恐縮して、うしろ首をぽりぽり掻《か》いた。
一ッ時ほどして宿坊を出発した。琵琶湖のほとり、三津ノ浜にさしかかったころ、東の空がほんのりしらみはじめた。いちめんの枯草に霜が置いて、さしそめた曙光《しよこう》にキラキラ光る。――と、その枯色《かれいろ》によく似た色が、野づらをかすめてさッとよぎった。
「狐だッ、生けどれッ」
大喝すると同時だった。利仁将軍は馬をおどらしてとび出し、伊豆守がそれを追った。侍が走り、舎人も走る。狐は逃げまどったが、馬と人に、四方から追いつめられ、すくみあがってつかまってしまった。
「かっこうの使者が見つかった。こいつをひと足さきに、敦賀の舅《しゆうと》どののところへ、注進にやろう」
うしろ足をつかんでぶらさげた狐へ、
「やい、よく聞けよ」
将軍はしかつめらしく言いふくめた。
「利仁が、客人をつれてまいるほどに、中途まで郎党どもを、迎えによこして給われと、相違なく舅どのに、お伝えするのだぞ」
そしてパッと、足を離す……。狐はまっしぐらに、枯れ草の茂みにかくれて見えなくなった。
「まず、これでよし」
そんな父の、まじめな顔を、伊豆守は腹の中で、笑いをかみころしながらながめていた。旅路の感興をもりあげるべく、無骨《ぶこつ》な父がそれなりに、腐心しているのがおもしろかったし、すっかりけむに巻かれた五位のまぬけづらも、こっけいだった。
日いっぱい、馬をあゆませて、その夜も寺に泊った。やはり懇意とみえて、僧たちは手あつく、一行をもてなしてくれたが、あくる朝……。まだ、うすぐらいうちに寺を出て小半日ほどゆくうちに、いつのまにか侍の一人が見えなくなった。狐がわりに、こっそり近道を走らせて、敦賀の屋敷へ先行させたのだとは、五位は気づかない。はじめて接する北陸路の風光に目をうばわれて、うかうか鞍上《あんじよう》をゆられて行った。
あんのじょう、しばらくすると、三十騎ほどの武者が行く手にあらわれた。
「そうら、きたぞ。迎えの者どもだ。狐のやつ、言いつけ通りやりおったな」
得意満面で、将軍はさけぶ。五位がきもをつぶしているまに、双方たちまち接近した。あらかじめ、先に着いた侍としめし合わせてきたのだろう。
「狐めの注進をきき、さっそくお迎えにまかり越しました」
と、武者どもも将軍の道化に口裏を合わせる。いよいよ、どぎもを抜かれたか、言葉さえ失っている五位を見やって、
「いかがじゃな? 獣《けもの》でも、使いようによっては役に立つでござろうが……」
将軍は、のどいっぱいに哄笑した。
3
敦賀についた。
利仁将軍の妻の実家というのは、方一町もの広さに土塀をめぐらした壮大な邸宅で、それにも五位は、あっけにとられたらしい。おびえて、
「さあ、おあがりなされ」
みがきこまれた廊の板の間を歩くうちに、二度まで足をすべらせ、ころびかけた。
通された座敷も美々しかった。そら焚《た》き物の薫《かお》りがただよい、目もあやな調度、几帳《きちよう》が、厚くめぐって、すきま風をふせいでいた。
「やあやあ、ようおいでなされたな」
陽気な老人がはいってきた。将軍には舅、伊豆守には母方の祖父にあたる額のはげあがったじいさまである。
「いや、狐の使いにはおどろいたよ婿《むこ》どの」
と、これもうまく、ばつを合せながら、
「お客人とは、このお方かな?」
五位を見る。
「さよう。芋粥をあきるほど、食ってみたいとのご希望でしてな」
「たやすいご用じゃが、はてさて、こびた物をお好みじゃわ」
笑われて、五位はもじもじうつむいた。
「ともかく、旅のほこりを落としめされ」
と湯屋にみちびかれて、ようよう待望の湯につかったが、出てみると、それまで着ていた垢《あか》じみた衣服がない。介添《かいぞ》えの女房が、
「これをお召しなされませ」
かわりに出してきたのは、厚綿《あつわた》を三枚も入れた練色《ねりいろ》の、ふかふかした下着に下袴《したばかま》……。唐花丸を浮き織りした指貫《さしぬき》に、黄絹《きぎぬ》の上衣《うわぎ》、紅梅|襲《がさね》の直衣《のうし》である。五位は目を、しろくろさせ、おっかなびっくりそれらを身につけた。
座敷へもどると菓子が出る、酒が出る……。湯のほてりと酒の酔いに、旅疲れまで加わって、やがて寝所へひきとった五位が、前後もしらず眠りかけたとき、
「おみ足を、お揉《も》みいたしましょう」
甘い声といっしょに、夜着の中へ女がすべりこんできた。五位はとび起きた。
「け、け、けっこうです」
どぎまぎ、辞退するのを、
「まあ、よろしいではありませんか。お楽にあそばせ」
女はやんわり、横にならせ、肩から背、腰から足と、しなしな揉みほぐしてくれる。五位は身体じゅう、汗みずくになった。
夜伽《よとぎ》の女だ、これも馳走の一つなのだとは承知しながら、全身が萎《な》え、わなないて、手も足も出ない。
そのうちに、どこかで鐘が鳴りだした。寺でつく時の鐘とはちがう。ごんごんごんとたてつづけに鳴るうちに、敦賀の里じゅうがざわめいて、幾十幾百となく足音が寄ってきた。
「みなの者、集まったか」
男の声で、命じるのが聞こえた。
「いまから夜あけまでに、切り口三寸、長さ五尺の山の芋を、おのおの一人、一本あて、当お屋敷まで持ってまいれ。わかったな」
「うおーッ」
山つなみのような応答だ。五位は身の毛がよだった。蔀《しとみ》を細目にあけて外をのぞくと、火事|場《ば》さながら庭はあかるい。篝火《かがりび》が五、六ヵ所に、どかどか焚かれているのである。
ま新らしい菅蓆《すがむしろ》が何枚も敷かれ、下衆《げす》男、婢《はした》らが、右往左往はたらいている。男どもは地べたに杭《くい》を打ち、磨《みが》きたてた五石納釜《ごくのうがま》を六個、その上にすえて薪《まき》を燃やす。女どもは順ぐりの手渡しで、これもまッ白な新品の手桶《ておけ》に、湯をなみなみたたえ、釜の中へつぎからつぎへあける。湯と思ったのは、よく見ればその甘さ、五位など、ひとたらしでさえ貴重に考えていた蜜煎《みせん》なのであった。
このまに里人どもが、手ン手《で》に大山芋を一本ずつにぎってやってきた。蓆《むしろ》の上にそっと横たえ、そっと帰る。みるまに庇《ひさし》にまでとどきそうな嵩《かさ》となった。
女たちがそれを洗い、皮をむく。男どもは四方から、五石納釜に梯子《はしご》をかけ、ぐらぐら煮たちはじめた蜜汁のなかへ、小刀で削《けず》ってすぱすぱ、芋をこそげ落とす……。
「うう」
五位はうめいた。五石納釜が六個。三十石の芋粥!
「どうしよう、どうしよう、こんな大げさなことになるとは思わなかった」
「おうれしいでしょ」
伽《とぎ》の女がすりよってきて、なまめかしくささやいた。
「みんなああして一生懸命、おもてなしに心をくだいているのです。どうぞあなたさまも精出して、ぞんぶんに召しあがって下さいね」
胸を、五位はかきむしった。逃げ出したかった。見ただけで吐《は》きけがこみあげてくる。
「大夫どの、お目ざめかな」
と、利仁将軍が自身、迎えにやってきた。
「さあさあ、お待ちかねの芋粥が煮あがりましたぞ。おいでなされ」
尻ごみした。足がもつれた。将軍はそれを、はにかんでいるのだと解釈したらしい。
「えんりょは無用じゃ」
抱きかかえるように、五位を広間につれてゆき、熊の毛の敷皮の上に坐らせた。
いつのまにか夜はあけて、冷たい朝風が流れこんでいたが、屋敷じゅうに充満した蜜の匂いは薄まるどころではない。吐きけばかりか、五位はずきずき、頭痛までしてきた。
敷皮のまわりには、一斗入りの銀の提子《ひさげ》が五つ置かれ、湯気がもうもうと立っていた。さしわたし五寸もある木の椀《わん》に、提子の一つから芋粥をなみなみよそって、給仕の女房が五位の手に持たせた。
むりやりに一杯だけ、胃の腑《ふ》に流しこんだものの、なんとしても二杯目ははいらなかった。遠慮ととった将軍から、さかんにおかわりをすすめられた五位は、
「助けてください。どうか、もう……か、かんにんしてください」
身をもんで、とうとう泣き出した。
ほうほうのていで、帰り仕度にかかった五位を、将軍はきのどくがって、皮籠《かわご》にぎっしり、砂金の袋を詰め、土産《みやげ》に持たせてくれようとした。
「せめて、では、好きな時に好きなだけ、これで芋粥をととのえておあがりなさい。一生、食い続けられるはずですよ」
五位は、でも、せっかくの贈りものを押しもどして、
「よくよくわたしは、貧乏|性《しよう》に生まれついているのですねえ」
情けなさそうに言った。
「椀にちょっぴりしかもらえない残り物の芋粥を、大事に大事にすするほうが、わたしにはおいしいし、そんな、さもしい生き方が、けっく一番、身に合って楽《らく》なのだと、今日という今日つくづく思い知りました。お嗤《わら》いください」
「いやいや、嗤いなどしませんよ」
五位の手を、将軍はにぎりしめた。
「若いあなたを、わしは大いに鼓舞《こぶ》するつもりで、自分流にやってみたのだが、いささか見当がはずれたようです。わしはわし、大夫どのは大夫どの、それぞれの性分に合わせて生きるのが、人間だれしも、幸せなのかもしれませんなあ」
将軍の手はあたたかく、大きかった。その手を、自分の手ごとおしいただいて、
「ご親切はわすれません」
五位は、泣き笑いのようにつぶやいた。
「あなたのご親切、わすれはしません。……また都で、お目にかかりましょう。さようなら」
あともどり谷
1
御手洗《みたらし》は、崖からしたたり落ちる清水を、苔《こけ》いっぱいな岩のくぼみに受けただけのもので、柄杓《ひしやく》が添えてなければうっかり見すごすところだった。
「やれやれ、甘露《かんろ》……」
咽喉を鳴らして塩女《しおめ》は水を飲み、ついでに埃《ほこり》まみれの顔や手足をごしごし洗って、
「ああ、さっぱりしたぞ」
柄杓を、かたわらの石の上に置きかけた。とたんにその石が、のっさり動いて、
「わああ」
思わず塩女に、とんきょうな声をあげさせた。人の頭ほどもある蟇蛙《ひきがえる》だったのだ。
「こいつめ、胆《きも》をつぶさせおって……」
ひと柄杓、ざぶりと浴びせてやったが、諺《ことわざ》通り蛙の面《つら》に水である。二、三べん、まばたいたきりで崖下の笹の茂みへ、蟇《ひき》はもぐりこんで行ってしまった。
社殿は古びて、回廊の板が朽《く》ち崩れている。正面に掲げられた額にはかろうじて、比企明神《ひきみようじん》の四文字が読めた。
「比企……、蟇《ひき》か。なるほど蛙に縁のあるお社《やしろ》だな。ご神体も蛙かしらん」
蔀格子《しとみごうし》のあいだから覗くと、塩女の推量にたがわず青銅製の巨大な蟇蛙が、うすくらがりに前肢を突張って鎮坐しており、鼠か鼬《いたち》に荒らされたらしい供物も、きたならしく宝前に散らばっていた。
狐狸《こり》や狼、蛇、蟇などが俗信の対象にされるのは珍しくない。塩女はすぐ、興味を失って格子から離れた。階《きざはし》に腰をおろし、弁当代りの粟餅《あわもち》にかぶりついた顔は、六十二という実際の年より、さらに五ツ六ツ老けて見える。垢じみた小袖の裾はすり切れて、脇に投げ出した市女笠も、縁《ふち》がところどころ欠け損じていた。
秋が深い。社を囲む雑木の林は、どれも華やかに色づいているし、夕映えの空の彼方になだらかな稜線を描く山々も、頂きが素枯《すが》れたせいか、そろって明るく澄んで見えた。人声も、こんな季節、こんな時刻にはよく透《とお》る……。
粟餅の、最後のひと切れをほおばった瞬間、女の声を聞いた気がして、塩女はあたりを見回した。
「歩けますか? 大丈夫ですかお方《かた》さま」
気づかう声にまじって、これも女の、苦しげな呻《うめ》きが近づいてくる。階をおりて社殿のうしろを見あげると、地つづきの裏山から茸狩《きのこが》りか木の実拾いか、手籠をさげた女が二人、寄り添うようにおりて来たのであった。
「どうなされたな?」
塩女は問いかけた。そんなところに他国者が――それも一人旅の姥《うば》が休息していようなどとは思いもしなかったのだろう、二人は棒立ちに足を止めたが、召使と見える年かさの女が、
「にわかに腹痛を起こされたのです」
連れを見やって案じ顔に言った。言葉づかいから推《お》して、支えられている若い方は女主人らしい。
「そりゃ、いかぬな。住居《すまい》は遠いのか?」
「下《しも》の村のはずれですから、まだ、だいぶ道のりがあります。お社で、ひと休みなさいますか?」
と、あとは主人に、問いかける口調になった。肩で喘ぎながら女はうなずく……。
商売がら、塩女はひと目で女がみごもっていると見て取った。小袿《こうちぎ》の前を掻き合せ、縹《はなだ》に染めた美しい紐でたくし上げてもいるので、さほど目に立つ大きさではないけれど、五月《いつつき》か、もしかすると、
(六月《むつき》にかかりかけている腹ではないか?)
そう、踏んだのである。
「いかぬなあ。懐妊中の腹痛は、ひょっとして流産にもつながる危ないものじゃ。手当して進ぜようか?」
主従はギクと目色に怯《おび》えを走らせた。
「どうしてあなたは、お方さまの懐妊を……」
「わしは都で鳴らした取りあげ婆《ばば》じゃもの」
「産婆どのですか。どうりで……」
「待ちなされ。痛み止めの薬をあげるでな」
肩荷を解いて取り出したのは、紙に包んだ散薬であった。
「さ、これを御手洗の水で服すれば楽になる。あげてごらん」
柄杓に汲んだ清水に添えて、召使はこわごわのように主人の唇に、散薬をあてがった。こころもち眉をしかめてそれを嚥《の》む顔だちは、こんな田舎にはめずらしいほど臈《ろう》たけて見える。くらしぶりも裕福なのか、よい身なりをしていた。
回廊に横にならせて、
「恥かしがることなどあるものか」
袿《うちき》の前をはだけ、乳の間から手を差し入れて静かに腹を撫でさすってやるうちに、薬が効きはじめたか、青白かった女の頬に少しずつ生気がよみがえってきた。
「おかげさまで痛みが薄らぎました。ありがとうぞんじます」
礼を言いながら半身を起こしかけるのを、
「まあ待ちなされ。訝《おか》しいぞ」
塩女は制した。
「外から触れてもはっきりわかる。この懐胎は異常じゃな」
「やはり普通ではありませんでしたか」
声をつつぬかせたのは召使の女だった。
「三月目《みつきめ》ごろから、おりおり鮮やかな血の塊りがおりて、そのたびにひどい目まいに襲われました。いつまでも吐き気もやまず、下腹にさしこみがくると仰せられるので、内々わたくしも気にしていたやさきだったのです」
「片田舎の村にも医師はおろう。何と診立《みた》てたな?」
「それが……」
困惑したように、女二人は顔を見合せた。
「事情があってお方さまの懐妊は、わたくしのほか奉公人のだれひとり、気づいてはいないのでございます。村人たちにも洩れては一大事ゆえ、医師にすらかかれぬまま五月《いつつき》にもなってしまいました」
「おつれ合いも知らぬのか?」
「主《あるじ》の助《すけ》どのは訴訟|事《ごと》があって、一年前から国府に出たきり……。家にはもどっておりませぬ」
「なるほど、なるほど」
塩女はうなずいた。
「つまり申さば、夫の留守に密男《みそかお》を閨《ねや》にひき入れて、あげく孕《はら》んだ。しかもその手引きは、お婢《はした》どの、そなたがしたというわけじゃな」
女たちは顔を赧《あか》らめてうなだれた。
「なんの浮気の一つ二つ、気に病むことはない。わしにはかかわりのないことじゃ。それよりもこの、腹の中身、なんとかせずばなるまいが……」
「それなのでございます」
若い、内気そうな主人に代って、もっぱら説明役を引き受けているのは召使の女だった。
「助《すけ》どのが帰宅されぬうちに流してしまおうとあせって、重い物を持ち上げたり台から飛びおりたり、水桶に腰を漬けるなどいろいろ試《こころ》みていただいたのですけれど、願い通りにいきませんでした」
「堕《おろ》せばよかろう」
「もう、今からでは遅いのでは?」
「わしに委せなされ。赤児《やや》を取り上げるだけではない。都にいたころは数かぎりなく子堕しも手がけた。わしの得手《えて》じゃよ」
洛中を追放されたのは、堕胎ばかりでなく里親を世話すると持ちかけて、養育のための物代《ものしろ》をせしめ、じつはこっそり子殺しをやっていたのが官に露見したからだった。
その旧悪を、塩女は巧みに隠して、
「これ、ごらん」
荷の中から取り出した物を回廊の床《ゆか》に並べ、さらに自分の右の手を女たちの目の前に突き出して見せた。
「わしが工夫した子堕しの道具じゃ。手も、なみの人とは違うておろうが……」
おどろくほど掌が小さく、痩せしなびて肉薄《にくうす》な上に、五指がとがって長い。
「道具を使うて陰門を拡げ、この手を差し入れて掻き出せばわけなく済む。ためしてみるかの?」
みるみる女主人の表情がよろこびに輝いた。
「ただし、安うは引き受けられぬ。砂金ひと袋……。それが礼物《れいもつ》じゃよ」
「砂金を、ひと袋も!?」
「出せぬか?」
「いえ、実家《さと》の父《とと》さまに縋《すが》れば、それくらいの算段はできるはず……。ぜひともおねがいしとうございます」
峠の向うに日が落ちて、冷気が肩さきに沁みはじめた。
「それではしばらくそなたの家に逗留し、具合を見計うて施術することにしよう。案内しなされ」
塩女は尊大に言った。さし当り宿の工面《くめん》がついた。野宿しないですむし、当分、食うに困らぬほどの大金まで手に入ると思うと、心の奥底では大声で笑い出したいくらい勇み立っていたのである。
2
長者とまではいかないにしろ、女の家は街道に沿って、ながい土塀をめぐらした立派な構えだった。櫨《はじ》の実はここら一帯の特産だが、その実から取った生蝋《きろう》の卸し、仲買いを、代々家業にしているとかで、召使も男女合せれば十人近くにもなるらしい。
うちの一人が目ざとく見つけて、
「あ、お方さま」
門から、のめり出て来た。
「はやくはやく、お入りなされませ。お主《あるじ》が帰って見えられましたぞ」
「ええッ、助どのが!?」
若い妻は立ちすくんだ。塩女が道々|訊《き》き出したところによると、彼女は安良《やすら》といい、年はまだ、十六歳にしかならない。
腹心の、利根《とね》という名の女房は、緊《しま》った、賢《さか》しげな小顔の持ちぬしだし、髪も長く、くろぐろしているため若く見えるけれど、じつは安良に乳をやった乳母で、年は三十九だという。
「前ぶれもなく、どうしてお主はとつぜん帰宅なされたのでしょう」
と、利根もうろたえて言った。
「詮議してもはじまらぬ。わしが後刻、よいように思案をめぐらすゆえ、この場はともあれ、そ知らぬ顔で対面しなされ。ぐずついていては他の奉公人どもに怪しまれますぞ」
塩女にせき立てられて、安良はびくつきながら門内へ入った。利根がつづき、塩女ものそのそ、あとに従った。
庭づたいに母屋《おもや》へ廻り込むと、助は待ちかまえていたのか、勢いよく立って縁先へ出て来た。
「おう、もどったぞ安良、ながいこと独り居させてすまなんだ。訴訟はな、国府の役人衆にばらまいた賄賂《まいない》が効《き》いて、いきなり、ばたばた片がついたよ。うわはははは、わしの勝だとも。よろこべよろこべ」
一気にまくし立てたが、ふっと、相手の弾みのなさに気づいたらしく、
「どうした、え? ひどく青ざめているじゃないか。身体でもこわしたか?」
安良の顔をのぞきこんだ。
「このところ、少し気分がわるくて……」
「そうなんです。ええ」
利根が引き取って、早口に言い添えた。
「今も茸狩りに出られた山の中で、急に腹痛を起こされましてね。さいわい旅のお医師と行き逢わせて、薬を貰ったおかげで帰れたのです」
「この婆どのが、お医師か?」
吟味するような目で、助は無遠慮に塩女を見た。
「さようさ」
ごま塩の、裾枯れしたぼさぼさ髪を、塩女は傲然とふり立てた。
「ごらんの通り、なりはうらぶれておるけれど、宋国|直伝《じきでん》の医術の上手よ」
「うははは、広言を吐く婆さまじゃ。面白い。まあ上って、安良をみとってやってくれい。わしの秘蔵の妻だでな」
物にとんじゃくしない性格らしく、助は豪放に言いはなつと、
「利根よ、安良を横にならせろ。それから今夜は勝訴の祝宴だ。長《おさ》をはじめ村の宿老《おとな》ども、親類縁者一人のこらずに触れを回せ」
上機嫌で奥へ入って行った。
馳走の用意に、家中がにわかにざわめき立つ。使いの男が片はしから、村人の家々へ告げに走る……。
日が暮れきると、はやくも二人三人、つれだって、
「助どの、帰らしゃったか」
「訴訟に勝つとは、上首尾じゃのう」
村の者たち、縁者たちが姿を見せた。
「やあやあ、よう来た。今夜はぞんぶんに飲んでくれい」
「安良どのは?」
「それ一つが玉にキズよ。だれにもまして笑顔を見せてくれねばならぬ女房が、身体をこわして寝《やす》んでおる」
「そりゃ、いかぬなあ。お乳母どのを供につれて、ひるま、気散じの山遊びに出かけるのを、チラと野良道で見かけたが……」
「その帰り道、腹痛に見舞われたそうじゃ」
「大事にさっしゃれ」
主客のやりとりが、ガヤガヤ潮騒《しおざ》いさながら揺れ返す広間を、塩女は廊下の暗がりから遠く見やって、
「乳母どの待ちなされ」
通りかかった利根を呼びとめた。
「あの客どもの中に、いるのじゃろ? 安良どのの相手が……」
「いいえ、いませんよ」
にべもなく利根は否定した。
「ほほう、招《よ》ばれておらぬのか」
「そんな詮索より、手はずの狂いをどうします? お主《あるじ》に帰って来られてしまっては、取りつくろうこともできないでしょ? 色ごのみなおかただし、安良さまにべた惚れですからね、今夜は何とか逃《のが》れても、あしたの晩はもう、駄目ですよ。一年分のおあずけを夜通しかかってむさぼるはずです。しつっこいんだから……。素裸に剥《む》かれていじり回されてごらんなさい、懐胎していることなど、ひと目で見破られてしまいますよ」
「いっそ正直に、みごもったと言うてやったらどうじゃい?」
「まあ、塩女さんたら何をねぼけてるの」
機敏に動きすぎて、どこか油断ならない両眼いっぱいに、利根はさげすみを泛かべてきめつけた。
「打ちあけるくらいなら苦労はしないわ。助どのは名うての乱暴者なのよ。自分は国府で、けっこう遊女《あそびめ》など買っていたにちがいないのに、猫可愛がりしてた安良どのが裏切ったと知れば、これはこれで、ただ置くものですか。大騒動になりますよ」
広間の中央に陣どって、しきりに大盃をかたむけている助は、なるほど虎髭の、骨組みなどもがっしりした男で、年はそろそろ五十に近かろうか。安良はおそらく、縹緻《きりよう》のぞみで迎えた後妻であろう。
「でも乳母どの、お前のようにそう、目の色変えてあわてることもないわさ。わしの診《み》るところ、どうも安良どのの懐胎は尋常ではないよ。露見を恐れるのはよいが一日二日を争って、妊婦に万一のことでもあっては、それこそ取り返しがつかぬぞ」
「だって、今夜を逃がしたら、おりはないでしょ? 塩女さんあんた、心やすげに受け合ったじゃありませんか。道具を用い、その手を使えばわけなく掻き出せるって……」
「灯火の下では暗くて無理じゃ。施術するとしてもあすの昼間よ。それまでに何とか助どのへの言いのがれを考えても、間に合おうではないか」
利根さーん、利根さんはいない? とこのとき、どこかで奉公人仲間の呼び立てる声がけたたましく聞こえた。
「はーい、ここよ、なにご用?」
「ああ、こんなとこにいたの」
ばたばた、お婢《はした》の一人が駆けてきて、
「上《かみ》の村の弓麻呂《ゆみまろ》さまがさがしてるわよ、さっきから……」
息せき切って告げた。チラと利根の表情をばつ悪そうな影がよぎった。
「わかったわよ、大声を出さなくても……。すぐ行きます」
するどい捨て目を、すばやく塩女の面上へくれて、そそくさ去ってゆくうしろ姿を見送りながら、
(ははん、そういうことか。上の村の弓麻呂……。そやつが安良の密夫《みつぷ》じゃな)
塩女もとっさに見当をつけていた。
(助どのの不意の帰宅に泡をくって、乳母とこそこそ、手だての相談でもする気じゃろ。名はわかった。あとでお婢に訊けば、どんな男か面相も知れよう。脅しをかけるのはそれからでよいわ)
母屋とは、渡廊でつながっている北ノ対《たい》の、安良の居間へ行くと、床の中で彼女はしくしく泣きじゃくっていた。
「こりゃどうじゃ。案じることなど少しもないに……」
「わたし、こわいの。助どのにどんな折檻《せつかん》をされるかと思うと……」
「こわいのは助どのより、その胎内の異物じゃ。いま一度、よく診せてごらん」
自慢の道具を使い灯《ひ》を近づけて、安良の腹中を塩女はのぞきこみ、手であちこち押したり撫でたりしたあげく、
「ううむ」
唸った。やはり危惧した通り、
(これは鬼胎《きたい》じゃ。蛙子《かえるご》じゃ。ふつうの胎児ではないな)
との、確信を得たのである。
百人に一人ぐらいの割りでぶつかることがある。異常妊娠だ。葡萄《ぶどう》の房のように粒々《つぶつぶ》が繋がっている。掻き出すと、妊婦によっては一斗もの量が受け物に溢れ、蛙の卵そっくりに見えるところから、産婆同士では『蛙子』と呼んで恐れている難症だった。
(十人が十人、蛙子を孕んでは助からぬ。きのどくに安良も……)
今日あすの命かと思うと、他人の死になど、どんな可憐なみどり児のそれにさえ動かされたためしのない石のような心が、さすがにいささかは湿った。
塩女はだが、すぐさま感傷を押しのけた。安良の胎内にあるものを蛙子と確認した以上、そのつもりで策を立てねばならぬ。
「のう、お方さまや」
ねこなで声で塩女は言った。
「わしがかならずよいように計うて、助どのへのつじつまは合わせてやろうほどに、案じなさるなや」
「おなかは? 診立てはどうなのですか?」
「これも、ていねいに調べたら、何の異状もありはせなんだ。赤児《やや》は五月目……。すんなりと育っておる。心配いらぬよ」
「堕すのは?」
「たやすい。万事まかせておきなされ。それよりも安良どの、わしは礼物が気にかかる。砂金ひと袋、まちがいなく支払うてくれるであろうな」
「今夜の祝宴に、父も招かれて来ています。ついいましがた、ここへ私を見舞ってもくれました。どうしてもお金が入用だとたのんだら、わけは訊かずに、用立ててやろうと約束しましたよ」
「おお、そうか。ではたしかに貰えるな」
「塩女さんのつごうのよいとき、いつでも受け取りに行ってください。上の村の村長《むらおさ》で、源太夫ときけばわかります」
「お固いことのう。さすが大家《たいけ》の北ノ方じゃ。これで安堵して、わしも施術にかかれるよ」
「ほんとに助どのの手前を、うまく取りつくろうことなどできるでしょうか」
「できるとも。思案が附きかけておるのじゃ。……ところで訊くがの、あんたをみごもらせた相手は、これも上の村に住む弓麻呂という男じゃないかい?」
「ど、どうしてそれを!」
「やはりそうかい。この婆の目は千里眼じゃもの」
「弓麻呂さまも今夜、宴《うたげ》によばれてはいないでしょうか」
「そこまでは知らぬが、物持ちかの?」
「村一番の、長者の家の一人息子です」
「ふふん、なるほど。さぞや美《い》い男にちがいあるまい。客にまじって来ていたら、こっそりここへつれてこようほどに、おとなしく待っていなされ」
安良の居間を出て、母屋《おもや》への廊下を渡りかけたところへ、急ぎ足で利根がもどってきて、
「塩女さん、どこへ?」
意地わるく咎めた。
「腹がすいたでな。食いものさがしじゃ」
「お社《やしろ》で餅を食べてたじゃありませんか」
「餅は餅さ。この家は客を泊めながら夕餉《ゆうげ》も出さんのかい?」
「ほしけりゃ台所へ行きなさい」
「そうさせてもらうつもりだよ」
3
煮炊きの混雑で、台所は足の踏み場もなかった。雉子《きじ》の焙り肉を、大皿に山と盛って広間へ運んで行こうとする先刻のお婢《はした》を、塩女はつかまえて、
「上の村の弓麻呂さまはどこかね?」
さも用ありげにたずねた。
「あすこよ、ほら、隅に几帳《きちよう》が寄せかけてあるでしょ。あの前に坐ってるわ」
「おう、三ツ目|結《ゆい》の狩衣を着た若者じゃの」
「そうよ。呼んであげましょうか」
「たのむ。わしはここにおるでな」
すぐ弓麻呂は立って来た。塩女を見て、不審そうな顔をしないのは、すでに利根から子堕しの件を聞かされているせいだろう。
「都から来た産婆さんですね?」
小声で言い、
「ここでは人目が多い。庭へ出ましょう」
うながした。星が降るようだった。前栽《せんざい》のかげに廻りこむと、広間の騒ぎが遠のき、終りに近い虫の声がかすかに耳を打った。
「あなたをたよりにしているのです塩女どの。あすの内に、助どのには内密に腹の子の始末をつけてくださるそうですね」
「助どのには知らせるよ。懐妊をな」
「ええッ? では、私の名までを……」
「告げるか否かは、この婆の胸三寸にある。弓麻呂どのとやら、主《あるじ》にけどられたら無事にはすまぬ密通じゃぞ。鼻を削《そ》がれるか片手片足へし折られるか。あたら優男《やさおとこ》が台なしになるは必定じゃ」
「口止めの代《しろ》は出します。綾、錦《にしき》、米でも砂金でもお望み次第あげますから、どうか穏便にはからってください」
「物わかりがよいの。では砂金を錦の袋に一杯つめて、明朝しらしらあけに上の村の、村長の家の門前へ来なされ」
「源太夫どのの家ですね?」
「それといま一つ、蟇蛙《ひきがえる》のなるたけみごとなのを生きながら捕えて、一匹持っておいで。比企《ひき》明神の境内で、げんにわしは見た。御手洗《みたらし》のきわの笹かげに大きなのがいるはずじゃ」
「あそこには蟇がたくさん棲んでます。砂金と一緒に、まちがいなく持参しましょう」
「きっとだぞ」
「神仏に誓って約束は破りません」
「素直に金をよこしたら、そなたの名は出さず、安良どのもきずつけずに、助どのを納得《なつとく》させてやろう」
「そんなうまい策があるのですか?」
「あるから受け合うのよ。……さあさあ宴席へもどりなされ。安良どのの居間へは行くな。逢うてもどうせ愚痴のこぼし合いか泣きごとの応酬じゃろ。それよりよい加減なところで家へ帰って、砂金を用意することじゃ」
「おっしゃる通りにいたします。では……」
蹌踉《そうろう》と広間の灯《ひ》へ、弓麻呂はもどって行った。
(うまくいったぞ。これで礼物《れいもつ》は倍じゃわ)
夜目にも赤い舌を、塩女はべろりと吐いた。
――あくる朝は、葛湯《くずゆ》の底に閉じこめられたかと思うほどの濃い霧だった。山は隠れ、近くの森や家々の屋根すら白い紗幕に覆われて見えない。
(うう、息が詰まりそうじゃな)
足さぐりのおぼつかなさで、それでもやっと上の村へたどりついた。源太夫の屋敷はわけなく見つかった。土橋のきわと、昨夜のうちに安良から聞いて置いたのである。
先に来て弓麻呂は待っていた。肩さきをびっしょり霧に濡らしている。
「ここです塩女さん、約束の品、二つながらととのえて来ましたよ」
「おう、早かったな。どれ、まず砂金じゃ」
袋の口をあけて中を改め、手にこたえる重みのたしかさに、
「よしよし、よう持ち出したの」
満足げに塩女はうなずいた。
「それから、これは蟇です」
と、かがんで、足もとから掴みあげて見せたのは、粽《ちまき》など入れる大ぶりな鬚籠《ひげこ》である。
竹枠《たけわく》をはずして覗いて見て、
「こりゃすごい。りっぱな蟇を捕えたのう」
塩女は目を見はった。
「こんなのは珍しいでしょう。お社《やしろ》のぬしかもしれません。いったいこの蟇を、塩女さんは何に使うおつもりなんです?」
「細工はりゅうりゅうよ。そなたは家にもどって、高見の見物を決めこんでおればよいのじゃ」
なお根掘り葉掘りしたそうな若者を、塩女は追い払うと、次は源太夫邸の門を叩いた。
「どなたじゃな?」
門番の眠むたげな声と一緒に、内側からくぐり戸が開く。塩女は邸内へ入ってゆき、まもなく出て来た。ふところの砂金が、二袋に増えていたのはいうまでもない。
下の村の、助の屋敷へ帰りつくころ、朝日が昇りはじめた。光の矢が斜めに地上を射つけると、その日ざしに蹴散らされでもするように霧は音立てて渦まき流れ、みるまに薄れ出した。
「南無、日天《につてん》大菩薩……」
強欲な日ごろにしては、稀有《けう》なことと言わねばならない。山の端《は》を離れた太陽へ、塩女はその、特色ある小さな手をぴたりと合せ、しきりにぶつぶつ口の中で祈念しはじめたのだ。これから安良に施術する。十中の十、死なせる命ではあるけれど、
「できれば冥助を垂れ給え。この手に神力を貸し与え給え」
と、一心不乱、昇る日に向かって念じたのは、塩女にすれば我れながら理解にくるしむ仏ごころであった。
奉公人はすでに全員起き出していて、竈《かまど》の焚きつけ水汲み掃除など、朝の仕事に余念なく立ち働いている。
北ノ対へ行くと助《すけ》ももう来ていて、
「まだ気分は直らんか?」
心配そうに妻の枕もとに坐りこんでいた。
髭籠から蟇を出して屏風《びようぶ》のうしろへそっと置き、焚き物用の編み籠を塩女はかぶせた。その上を、安良がぬぎすてた小袿《こうちぎ》でさらに覆うと、
「ご気分など、いつまでたっても直らぬはずじゃよお主《あるじ》、お方さまの不例は、懐胎じゃものな」
屏風のかげからにじり出るやいなや、ずばりとぶちまけた。安良の口から小さな悲鳴が炸《はじ》け、侍坐していた利根の顔面は、血の色を失って凍りついた。
「な、なんだと婆《ばば》、妻が懐妊? みごもらすわしがおらぬに、どうして子を孕むことができるのだッ」
助は虎髭を逆立てた。彼の顔は首すじまで、朱をぶちかけたほどにも赤くなった。
「さてのう、どこのだれが、どうやって孕ませたものか、わしは知らぬよ」
助の激昂とは対照的に、塩女の口ぶりはあくまで静かだ。人をくってさえいる。
妻をねじ伏せて、助はその生絹《きぎぬ》の小袖をはぎ取った。身体の線がむき出しになった。
「おのれ、男はなにやつだッ、おれの留守のまに、だれに肌身を許してこのような腹になりおったかッ」
「まあ待ちなされ。責めても無駄じゃ」
塩女はさえぎった。
「おそらくお方さまには覚えがあるまい。神や魔が美女に魅入って、夢うつつの内にまぐわうためしはまま、あるという」
「相手は人間ではないというのか?」
「わしが診るところ、腹中に宿るのはどうやら異種のもののようじゃよ」
二帖の薬を、塩女は安良に飲ませた。一種は堕《おろ》しぐすり、あとの一種は疼痛を和《やわ》らげる魔薬である。婢たちを呼び入れて、
「よいか、しっかりとお方さまの両手両足を抑えておるのじゃぞ。お乳母どの助どの、こなた衆も力を貸しなされ。暴れさせてはならぬ。一命にかかわるでな」
清浄な藺蓙《いござ》が敷かれ螺鈿《らでん》の耳盥《みみだらい》が用意されて、まもなく施術がはじまった。魔薬が効いているはずなのに、身悶えて悲しげに安良は呻《うめ》く。塩女の額に脂汗がにじみ、皺を伝わって顎から咽喉《のど》くびにまでしたたり落ちた。
「南無、日天大菩薩、守らせ給え、守らせ給え……」
助も利根も、汗びっしょりだ。いつのまにか口移《くちうつ》しに、彼らも塩女がつぶやく唱えごとを、懸命に誦《ず》していた。
微妙な指の動きにつれて、やがて腹中のものがどろどろと外へ掻き出されはじめた。
「おお、おお、これは何だッ」
肩を慄わせて助は吠えた。利根をはじめ、婢たちも口々に恐怖の声を洩らした。耳盥いっぱいに溢れた血泡状の異物は、まるで球型の寒天か蛙の卵そっくりだったのである。
「おそろしや、勿体なや」
掻き出し終った鬼胎へ、塩女はひれ伏した。
「お方さまの相手がこれで判った。やはり神であったよ助どの。お蟇《ひき》さまじゃ。比企明神が夜な夜な通われたのじゃ」
「あの、村はずれの社《やしろ》のご神体か?」
「さっそく新らしい素焼きの壺に封じ、お卵さまを社殿の縁下の、土中深く埋めなされ」
言いつつ、すきを見て塩女は伏せ籠を払いのけた。屏風のうしろから、とたんにノサノサ、大蟇が這い出したからたまらない。噂は半日のあいだに村中はおろか、一国のすみずみにまで拡まり、社殿修造の話すら持ちあがって、浄財が集まりはじめた。もっとも多額の寄進をしたのは、言うまでもなく助であった。
安良は命をとりとめた。ほとんど奇蹟といってよい。巫女に見るような神秘力を、助は塩女に感じたらしい。
「これは布施だ。受け取ってくれい」
砂金一袋に珊瑚《さんご》の珠数《じゆず》を添えて、おずおず差し出した。
「こののちとも、お方さまを大事にめされよ。神すらが見そめ給うたほどの女子《おなご》じゃ。神体に女房が寵《ちよう》さるれば、かぎりない繁栄が家門にもたらされるとやら……。主《あるじ》どの、めでたいなあ」
口から出まかせを並べて助はもとより、単純な村人どもを塩女は煙《けむ》に巻いたあげく、長居は無用とばかり別れを告げた。峠路を越えて武蔵の国へ出、都に劣らぬ賑わいと聞く相州の鎌倉めざして旅立ったのである。
――足は気持よくはかどった。
浮き浮きと、唄も出る。うろおぼえの今様《いまよう》を口ずさみながら登るうちに、峠の頂きへ抜けた。
「やれ、くたびれた。ひと休みするかな」
夏のさかりは、丈《たけ》を越す草地であったにちがいない。いまは実を結び、どれも倒れ伏して、狐色に波打ちながら谷の斜面へとなだれている。
腰にさげた竹筒を抜き出して、塩女は口にあてた。助の屋敷を出ようとするとき、
「水代りにお飲みなさい」
利根が持たせてくれたものだ。
「甘草《かんぞう》と干し柿の煮汁で、ほんのり甘味がつけてあります。おいしいし、疲れがとれますよ」
なるほど口当りがとても良い。舌鼓を打ちながら半分ちかく、塩女はひと息に飲み干した。冷たい山風に、衿首の汗がたちまちひく。
「そういえば利根と安良にはじめて逢った日も、比企明神の清水で咽喉をうるおしていたのだっけ……」
あのときの出逢いがなかったら、黄金三袋を手に入れるなどというどえらい幸運にもぶつからなかったはずである。
「吉につけ凶につけ、人間、一寸《いつすん》先は闇というのはほんとじゃなあ」
貧乏とも、すっぱりお別れだ。これだけの大金があれば、鎌倉の町なかに小家でも構えて、安楽に余生が送れる……。
「ありがたい、ありがたい」
にこにこ顔で竹筒を腰にはさみ込み、
「さて、行こうかの」
どっこいしょと立ち上りかけて、塩女はいきなり前へのめった。
「く、く、くるしいッ」
胸をかきむしり、空《くう》を蹴ってころげ回ったとみるまに、枯れ草の上にガッと吐き出したのはおびただしい黒血《くろち》だった。
「やられたッ、毒を仕込んだな利根め」
きれぎれな呪詛《じゆそ》が、断末魔の絶鳴に変るまでに、さして時間はかからなかった。ふりしぼるような苦悶の声が山巓《さんてん》に谺《こだま》し、少しずつ弱まって、尻ぼそりに消えた。
「ようやく終りか」
つぶやきながら姿を現わしたのは、見えがくれに跟《つ》けて来て、岩かげに潜んでいた利根である。四肢をかがめる形で小さく固く、その足もとに塩女の屍体は横たわっている。
「婆さんよ、たかが子堕し屋のぶんざいで、たいまいの金を独り占めとは押しが太すぎるよ。そっくり渡しておしまい」
懐中をさぐって三袋の砂金を、三袋とも利根は奪い取り、
「これでいい」
亡骸《なきがら》を曳きずって行って谷底ふかく蹴込んだ。そしてそれっきり、いちもくさんに麓の村をさしてくだりかけたが、十歩も踏み出さぬうちに彼女の足は止まり、
「あ、あ、どうしたんだろ」
上体がのけぞった。死にもの狂いで抗《あらが》おうとあがくのだが、どういう力の作用でか利根の身体は彼女の意志を無視して、じりじり、あともどりしはじめたのだ。
「助けてえ、た、助けてえ」
山腹に反響して、声は谺の大合唱を捲き起こした。ひときわ高い絶叫……。殷々《いんいん》と鳴りどよもした余韻が収まってはじめて、峠路はもとの静寂にもどった。砂金の袋もろとも、利根は仰のけざまに谷へ落ちた。黒髪を掴まれ、曳きずり込まれたとしか言いようのない不可解な転落の仕方であった。
本電子文庫版は、講談社文庫『続今昔物語ふぁんたじあ』(一九七八年五月刊)を底本としました。