杉本 苑子
続々今昔物語ふぁんたじあ
目 次
打ち臥しの巫女
穴に落ちた花嫁
歯がゆい男
陰火の森奇譚
板きれの謎
女と山伏
雨夜の声
浄願坊の一日
万志良
小百合の床
空を飛ぶ首
花かげの井戸
打ち臥《ふ》しの巫女《みこ》
1
犬の笹丸《ささまる》がけたたましく吠え立てるのをいぶかって、嘉門《かもん》は外へ出てみた。甘い、濃密な花の薫《かお》りが、夕ぐれ近い初夏の大気を、重く染めている。西の小門のわきに、朴《ほお》の、見あげるばかりな古木《こぼく》があり、枝々に今、象牙色の大きな花が幾輪も開きはじめていた。
こわれて、扉が片方とれかかった小門は、村民の耕地に面しているため、ふだん、めったに使われていない。門扉の外は畦道《あぜみち》になっていて、みすぼらしい身なりの少女が一人、怯《おび》えながら、それでも懸命に吠えかかる犬を睨みつけていた。
「こら、やめろ笹丸」
飼犬を制して、
「何か用かね?」
嘉門は娘に声をかけた。
「ここ、東三条の大臣《おとど》のお住居《すまい》ですね?」
「そうだよ。ときたまお越しになるご別邸だ」
「あなたは?」
「お留守を預る下家司《しもけいし》さ」
「なんという名?」
こちらの問いに答えようとはせず、根掘り葉掘り聞きほじる臆面なさに、むっとしながらも、
「嘉門という」
ぶっきらぼうに応じる顔を、娘はじろじろ、ぶしつけな目でみつめて、
「美《い》い男! こんな町はずれの古御所にとじこめておくのはもったいないわ」
年に似合わぬあばずれた口をきいた。
「いったい何の用だい?」
嘉門は声を荒らげた。小娘の嘲弄《ちようろう》口調に我慢が切れたのである。
「手紙を届けてほしいのよ」
「だれに?」
「きまってるでしょ。当家のお主《あるじ》によ」
狂女かもしれないと嘉門は思った。
冷泉帝、円融帝の伯父、一条天皇、三条天皇の祖父、そして中宮《ちゆうぐう》超子《ちようし》、同じく詮子《せんし》の父に当る東三条の大臣《おとど》藤原兼家は、公卿《くぎよう》で二十年、大臣の位にあること十二年、摂政を五年、太政大臣を二年勤めた官界きっての実力者である。
盛夏の季節、天皇や皇太子の前ですら肌着一枚になって、女房どもに四方から扇の風を送らせるなど傍若無人な振舞いが目立つが、威勢を恐れてか、だれひとり非難めいた口をきく者はいない。
兼家にすれば、
「帝《みかど》といい東宮《とうぐう》といっても、すべてわしの甥《おい》や孫……。はばかる必要があろうか」
という肚《はら》らしい。
東三条の本邸は、西ノ対《たい》を内部のしつらえから調度まで、そっくり皇居の清涼殿《せいりようでん》に模して造ってある。兼家がそこで天皇と同じ日常を享受しても、僭上沙汰《せんじようざた》だと譏《そし》る声はいっこうに聞かれない。
いわば天子の、さらに上に君臨して、この国の政《まつり》ごとを切って回している兼家なのだ。
(そんなお方を相手に、まるで隣り家の爺《じじ》にでも物をことづける気やすさで、書状を届けろとは……)
気が触れているとしか思えない。
娘はかまわずに小さくたたんだ奥州紙《みちのくがみ》を突きつけて、
「さ、これよ。持っていってくださいな」
有無をいわさぬ言い方をした。
「正気かね?」
嘉門はにがりきった。
「どこの馬の骨ともわからぬ小娘の手紙など殿にお取りつぎできるかどうか、考えてみるがいい」
「馬の骨ですって?」
精悍《せいかん》な表情に、さっと閃光に似た怒りが走った。息まいて少女はきめつけた。
「ばかにしないでよ。娘が父親に便りをさしあげてどこが訝《おか》しいの」
「娘だって?」
「そうよ。わたしは太政大臣家の息女の一人よ。あの朴の木をごらんなさいな」
小門の屋根を見上げて、娘は唄うような調子になった。
「やがて花が散る、赤い実になる、実からぱらぱら種がこぼれる……。わたしはつまり、兼家卿の落とし種ってわけね」
「そんな……証拠もなしにそんな大それたことを……」
「証拠があるからこそ名乗って出たんじゃないのさ。つべこべ言うひまに、このうるさい犬を黙らせて、わたしを中へ入れたらどうなの? 一日じゅう歩きつめておなかは空《す》いているし、足も棒みたいになっているのよ」
わるびれずに命じる態度が、いかにも自信ありげだ。
老境にさしかかった今なお、兼家には関わりのある女性が多い。まして若ざかりから壮年にかかるころは、好き者揃いの上卿《しようけい》の中でも、箸《はし》まめと評判を取った漁色家だ。思わぬときに思わぬ場所から、子供と称する者が現れてもさして不思議はないのである。
やむなく嘉門は、吠え狂う笹丸を叱りつけて、
「ともあれ、ではおはいりなさい」
邸内へ娘を招じ入れた。
「手紙、すぐ届けてくれる?」
「お持ちします」
「上《うえ》つがたは、花の枝だの草花の茎なんぞに文《ふみ》を結びつけるそうじゃない? わたしも少し気取ったほうがいいわね」
恋文ではあるまいし、文箱《ふばこ》に入れればよいではないかと思ったが、小づら憎い口ぶりが腹に据えかねたので、嘉門が知らぬ顔で状箱すら貸さずにいると、
「どう、こうしたら……」
手を伸ばして娘は朴の葉を一枚むしり、くるくる粽《ちまき》のように書状をくるんで、
「しゃれてるでしょ」
得意然と渡して寄こした。今まで、どういう生活をしてきたのか、つき合いの常識さえ知らないのに嘉門は呆《あき》れながら、これも不意の闖入者《ちんにゆうしや》に驚いて出てきた小女房の若狭《わかさ》に、
「空腹なのだそうだ。果物でも上げてくれ」
と言いつけた。
「どなたですの? この娘さん……」
「殿のご落胤《らくいん》だとさ」
「まあ」
みはると、張りのある目がいっそう冴《さ》え冴《ざ》えと大きくなって、若狭の容貌《ようぼう》を引き立てる。
「美人ねえこの人も……。そうやって嘉門と並ぶと似合いの一対だわ。憎らしい」
いつのまにか呼び捨てにする高慢さにも、開いた口がふさがらない。
台盤所《だいばんどころ》に近い下屋《しもや》の放出《はなちで》に案内すると、娘はさっさと井戸へ走って手足を洗い、半濡れの素足をべたべた鳴らしながら勾欄《こうらん》ぎわに坐りこんで、口上を述べたてた。
「いいこと? 手紙のほかに口で伝えるのよ。わたしの名は加々女《かがめ》、年は十三。むかし雑仕《ぞうし》としてご本邸に奉公していた命婦《みようぶ》の御《ご》の忘れ形見です、みごもって母がお暇を頂くさい、殿から拝領した二品《ふたしな》は、大切に身につけていますって……」
「その品物は?」
「あんたなんかに見せてどうなるのさ。詳しいことは手紙にしたためてあるから、とっとと持参すればいいのよ」
言いざま、舌の先をチロッと出して、
「もっともわたし、字ってものは読めもしないし書けもしないからね、筆の立つ友だちに代筆してもらったのよ」
けらけら笑った。そして、これでひとまず安心と見たのだろう、
「ぼんやり突っ立っていないで、果物でも餅《もち》でも早く持ってきたらどうなの」
若狭を顎《あご》で追い立て、大の字なりに板の間に寝ころがった。
2
もしこれが騙《かた》りならば、大胆至極な痴《し》れ者だし、本物のご息女であったにしても、なお困る。
太政大臣家の、とんだ恥さらしではないか。
雑色《ぞうしき》や小《こ》舎人《どねり》などもいることはいたけれど、使いでは埒《らち》があくまいと判断して、嘉門は東三条の本邸へ自身、馬をとばして駆けつけた。
年はまだ、二十三だが、彼は曾祖父の代からの譜代で、かげ日向《ひなた》のない勤めぶりを兼家に信頼され、目をかけられている若者であった。
来てみると屋敷には、いま『打ち臥しの巫女《みこ》』どのが伺候《しこう》していて、おん占問《うらど》いの最中だという。
「それならば暫時《ざんじ》、お次にひかえさせていただきます。わたしが参っておるとだけ殿にお聞こえ上げください」
召次ぎの女房に申し入れて、嘉門は入り側の妻戸の裾にかしこまった。
打ち臥しの巫女の年齢はだれも知らない。本名や素姓を知る者もいない。兼家がまだ血気ざかりの昔、兄の堀川の摂政兼通と不仲になり、ことごとに意地悪く当られて、官位の昇進も停め置かれたまま、逆境に沈んでいた一時期があった。
このとき兼家は、奇妙な夢を見た。兄の屋敷から夜天を切り裂いて、おびただしい数の矢が、金色の光芒を放ちながら飛んでくるのだ。しかもことごとくそれが、我が家の屋根に突き立ったのだから面白くない。
「わしを憎んで、兄者が呪詛《じゆそ》でもさせているのではないか」
まさかそれほどのことはないまでも、啀《いが》み合いのさなかではあり、どうせ凶夢にきまっている。
「占わせて、凶を吉に転じ変えねばなるまい」
ということで、はじめて召されて来たのが打ち臥しの巫女だったのである。
そのとき彼女は三十前後に見えた。二十年近い歳月が以来、流れている。本来なら、だから五十歳にはなっているはずなのに、相変らず三十そこそこ、せいぜい三十なかばにしか見えない。化粧も濃いことは濃いけれど、陶器さながら肌は緊《しま》って青白く、切れながな、吊《つ》り上り気味の両眼はつねに半眼にふさがれて、老化の気配がみじん、うかがえないのである。小皺《こじわ》ひとつ白髪ひとすじ、その姿態の上に現れてこないのだ。
「人魚を食う者は不老の霊力を得るそうな。あの巫女ももしかしたら、何ぞその手の仙薬を喫して、常若《とこわか》の秘密を保っているのかもしれぬぞ」
そんな噂《うわさ》さえささやかれている。
打ち臥しという変った呼び名は、賀茂の若宮――別雷神《わけいかずちのかみ》が憑《つ》いて託宣を述べるさい、かならず彼女が横向きに寝る姿勢をとるからだった。
どんな貴人の前でも原則は崩さない。兼家の夢を占ったときも、打ち臥したまま、
「これは禍事《まがごと》の兆《しら》せではありませぬ。あべこべに大相な吉夢でございます」
と巫女は予言した。
「矢は財を現わし権力を現わします。遠からずお立場は逆転し、堀川の大臣《おとど》がお持ちのご威勢はことごとく、こなたさまの上に集まりましょう」
そして、その言葉通りになったことから、兼家は、打ち臥しの巫女にひじょうな尊崇の念を抱いた。なにかにつけて彼女を呼び、占わせては行動の指針にする。また、それがこわいほど何事によらず的中したから、巫女への傾倒はますます深くなった。
女には手の早い兼家が、打ち臥しの巫女にだけは慎んで、人払いした密室に二人きりでいても、指ひとつ触れない。どころか、天皇の前ですら装束の入れ紐《ひも》をはずし、半裸の非礼を意に介さぬ男が、巫女と対座するさいは衣冠束帯に身を正す。賀茂の若宮のご神示を、神のお口からじかに承る気になるのだろう。
やがては巫女に膝を貸し、彼女の頭を上に乗せさせて占問いを聴くまでになった。飛ぶ鳥おとす高官の膝枕で、ものを言う女は天下広しといえどもほかに居ない。打ち臥しの巫女の存在は、だから今や、一般には畏怖なしで語れなくなった。この国の政治を牛耳《ぎゆうじ》る者は兼家、その兼家を動かす力が打ち臥しの巫女にあるからである。
彼女には、しかし摂関家の威光を笠に着るけぶりはまったくない。鼻筋の通った凄艶《せいえん》な美貌だが、極端に口かずが少く、挙措《きよそ》も静かで、むしろ印象は沈んで見える。
かえってそれが、滲《にじ》み出るような怕《こわ》さとなって、彼女をめぐる奇怪な風説を無数に生んだ。嘉門が耳にしただけでも、たとえばこんな話がある。
若いころ山中でたった一人、滝に打たれて修行していた巫女を見て、山畑をたがやす農民や木樵《きこり》など、荒くれた里人どもが十数人、ある日その食事どきを狙《ねら》って取り囲んだ。淫《みだ》らな口を叩《たた》く。肩や腕にさわる。とうとう目交《めま》ぜでしめし合せて、力ずくの蛮行に及ぼうとした。このとき破籠《わりご》の弁当を食べかけていた巫女が、口に含んだ飯粒をいきなり男ども目がけて吹き出した。
ひと粒のこらず、飯は獰猛《どうもう》な熊《くま》ン蜂《ばち》と化し、飛びかかって所きらわず刺しまくったからたまらない。悲鳴をあげて逃げ散ってしまったという信じがたい伝説である。
また、同じ巫女が目の前で、大風を止めてのけたのを見た者もいる。なにやら呪文を唱え、彼女が一枚の神符を空中に投げあげたとたん、翡翠《かわせみ》に似た青い小鳥が飛来し、神符をくわえて東北の方角へ翔《か》け去った。
風はその直後にぴたっと吹きやんだので、人々がわけを訊《き》くと、
「近江の琵琶湖へ行けばわかります」
とだけ言う。
もの好きが早馬をとばして見とどけに出かけてみると、陰陽師《おんみようじ》を一人乗せた帆船が、湖中に立ち往生していた。帆走するための風が欲しくて、神通力を用いて陰陽師が吹かせたのを、それに上回る呪術を使って巫女が止めてのけたのだと評判された。
「目に見えぬ式神《しきじん》や地神《ちじん》を自在にあやつり、朝夕、住居の蔀《しとみ》を上げおろしさせるとよ」
「それしきの事は、意のままであろう。あの女の法力ではな」
と、いまなおその、謎めいた日常をめぐって、巷《ちまた》にはひそひそ話が絶えない。
――やがて占問いがすんだとみえて、召次ぎの女房が嘉門を主人《あるじ》の居室にみちびき入れた。今日もものものしく、兼家は衣冠に威儀を正し、打ち臥しの巫女に膝枕させながら託宣に耳を傾けていたようだ。
嘉門を見るなりそば近く招き寄せて、何ぞ急な用でもできたかと問いかけた。
「じつはたった今、年は十三、名は加々女と名乗る娘御が法興院《ほこいん》のご別墅《べつしよ》に来られ……」
言いかけて嘉門はちょっとためらった。隠し子が現れたなどと、巫女の前で告げてよいか悪いか……。兼家は、だが、
「かまわぬ。打ち臥しの御許《おもと》は身内も同然。遠慮なく申せ」
とうながす。そこで目にしたまま聞いたままを残らず話し、
「これが加々女どのとやらより託されたお文でござります」
朴の葉包みの一通を差し出した。
3
「これはまた、ふうがわりな状の寄こしようだな」
兼家は朴の葉を捲《ま》き取って笑いながら、娘の手紙を一読して、
「おぼえはある。命婦の御の腹にあのとき宿った赤児が、はや十三にまで育ったか」
感慨深げな顔をした。
「殿の側におぼえがおありになっても、姫君じたい、本物かどうかはわかりませぬ」
「それはそうだ。悪辣《あくらつ》な手段を弄《ろう》して証拠の品を手に入れ、ニセ者が乗り込んでくる公算も充分ありうる。しかし真実、予の生みの子が出現したのならこの年になって、思わぬ拾い物、天与の賜物《たまもの》を授かったともいえよう。早速これから法興院へ出向いて真贋《しんがん》を見届けることにする。打ち臥しの御許も同道してくれぬか」
「お供つかまつります」
別邸へのお成りにすぎなくても、太政大臣の他出となれば供廻りだけでも仕度に手間どる。
嘉門は迎えの用意をすべくひと足先に帰ったが、見るなり、
「早く行ってやってください、お厩《うまや》へ……」
小女房の若狭がとび出してきて告げた。
「あの娘が、笹丸をひどい目に遇わせています。打ち叩いているんです。助けてやらないと死んでしまいますわ」
嘉門は仰天した。仔犬から丹精しつづけて我が子のようにいとしんでいる愛犬である。厩へ走って行ってみると、笹丸の悲鳴にまじって、
「畜生ッ、畜生ッ」
殺気立った加々女の怒声が聞こえていた。弓の折れを振りあげ、めった打ちに犬の躯《からだ》を打ちすえているのであった。
「なにをするッ、おやめなさいッ」
割って入った嘉門の顔までを、燃えつきそうな憎悪の目でみつめて、
「飼主のしつけがなってないのよ」
娘はののしった。
「あんたの犬ですってね、こいつ……。わたしが横になってるところへまた、やって来て、しつっこく吠え立てるんですもの、雑色《ぞうしき》どもに言いつけて厩の柱に縛《しば》りつけてやったんだわ」
「むやみに吠えかかる犬ではないんだ。よほどあなたとは、性が合わないらしい」
「折檻《せつかん》してでもおとなしくさせてみせるわよ。わたしはあんたの主人。犬にとってもご主人さまなんだからね」
「そうなるかどうか、まだ判りはしない。おっつけここへ大臣《おとど》がお見えになります。まちがいなくご息女だと、大臣《おとど》がお認めになるまでは、あなたはただの旅の娘ですよ」
「いらっしゃるの? ここへ父さまが……」
弓の折れを加々女はほうり出すと、もとの放出《はなちで》へ息せき切ってもどり、
「髪をとかさなくては……。若狭、若狭、櫛を貸してよ」
大声でさけびたてた。
……二輛の牛車が中門廊《ちゆうもんろう》の車寄せに曳《ひ》き込まれて来たのは、それからまもなくだった。
着たきり雀なのだろう、父子の対面というのに垢じみた布子《ぬのこ》を、加々女は着替えるけぶりもない。舎人《とねり》や随身《ずいじん》らの数の多さに、さすがに気押《けお》されたか、にょっきりはみ出した手首や脛《すね》を、それでもなんとか隠そうとして袖口だのすり切れた布子の裾だのを、しきりに引っぱっている。すれからしに見えても、そんなところはからきし子供であった。
(下品な娘だ)
嘉門は笑止でたまらない。まやかしに決まっている、殿は巫女どのの観察に信を置くであろうけれど、一刻も早く化けの皮をひんむいて叩き出してやりたいと手ぐすね引く思いで経過を見守った。
彼の期待は、しかしみごとにはずれてしまった。加々女が煮しめたような布包みをほどいて、大切そうに取り出した証拠の品――それは珊瑚《さんご》の珠数《じゆず》と小さな肌守りの観音像だったが、二つながらはっきり兼家は記憶していて、
「予が手ずから、命婦の御《ご》に与えたものだ」
なつかしさの余り涙をこぼしたし、何よりも打ち臥しの巫女が、
「疑いありませぬ。このお方は殿のお子でござります」
ひと目見るなり、きっぱり断言したからである。
「ああ、うれしい」
緊張しきっていた加々女の表情が、ぱっと喜びに輝いた。にわかに饒舌《じようぜつ》になり、母の死後、傀儡《くぐつ》の群れに貰われて国々を放浪したことまでしゃべってしまった。
「なに、舞々《まいまい》稼ぎをしていたというか?」
「だから唄がうたえます」
自慢げな言い方に辟易《へきえき》して、
「苦労させたのは可哀そうに思う。が、今日からそなたは太政大臣家の息女だ。昔のことは忘れて、行儀作法や手習、琴、敷島の道など、身分にふさわしい習いごとを身につけねばならぬ」
兼家は訓戒を垂れた。
こういう結果になるかもしれないと予想して、本邸から心きいた女房たちが衣服、化粧の道具などを持参してきていた。加々女は湯殿につれてゆかれ、磨き立てられた。髪を洗われ梳《くしけず》られ、紅おしろいで彩られると、野性味がかくれて、愛らしい姫君ができあがった。白綾の小袖に蘇芳《すおう》色の袴、単衣《ひとえ》に幸菱《さいわいびし》の袿《うちぎ》を重ねた夏姿は、もとの加々女と同一人とは、とても思えない。
「おお、きれいになった。見ちがえたぞ」
目を細めはしたものの、野育ちな娘をいきなり人出入りのはげしい本邸へつれて行っては、どんな恥さらしを引き起こすかわからぬと判断したのだろう、
「この法興院の別邸をそなたにやろう。当分ここに住んで、姫さまぐらしに慣れるがよい」
と兼家は言った。
「こんな淋しい御殿に、ひとりぽっちで寝起きするんですか?」
「今宵つれてきた五人の女房を一緒に泊らせるし、嘉門や若狭をはじめ別邸附きの召使も大ぜいいる。あすになれば娘らしい華やかな調度、女童《めのわらわ》なども回してやるから、淋しいことなど少しもないぞ」
「お父さま、ときどき来てくださいね」
「来るとも」
約束して帰る道すがら共乗りした牛車の中で、打ち臥しの巫女が低く言い出した。
「おきのどくながら殿、姫君のご寿命はお永くはありませぬ。この秋の末ごろまでと、明らかにお相に出ております」
兼家は息を呑んだ。
「それはまことか? 若ざかりの精気に満ちて、死病にとりつかれているとは、とても見えぬが……」
「病歿ではなく、不慮の横死でございます。どのような災厄かは今のところ、わたくしにもわかりませぬが、獣《けもの》の害に遭《あ》われるような予感がいたします」
「むざんきわまる。何とか助かる工夫はないか?」
「命数ばかりは定まったもの……。せいぜいご別墅《べつしよ》を訪ねて、ご親子《しんし》の情を深めておあげなされませ」
4
自身の運命に、ぶきみな翳《かげ》りがさしていることなど夢にも知らない加々女は、生まれてはじめて味わう贅沢の醍醐味に目の色を変え、しばらくは狂気のように食べたり着散らしたり、欲望の充足に躍起《やつき》になった。食べても食べても着ても着ても、尽きもしなければ減りもしない現実に、でも、やがては飽きて、好奇心を失いかけた。そして、そうなると上流生活の窮屈さ退屈さばかりが目につき、女房たちによる躾《しつけ》や勉学、趣味的な習いごとのなにもかもが、たまらなく苦痛に感じられ出したのである。
加々姫と呼ばれるようになった彼女は、興味を嘉門に向けはじめ、この若い家司と若狭とが、どうやら恋仲らしいと知るとひどく嫉妬して、ことごとに二人に辛《つら》く当った。
無理難題を吹きかけて若狭を泣かし、下僕同様な使い方をして嘉門を侮辱するのだが、主君の息女ときまった以上、彼らは加々姫に口ごたえ一つできない。
放縦な漂泊のあいだに、傀儡仲間の男たちと接しただけでなく、どうやら売春まがいのことまでして生きてきたらしい。十三や四の小娘の口から出るものとは信じられないような、野卑な悪態を吐く。兼家の前では猫をかぶっていても、来ない日には地金《じがね》がむき出しになり、気弱な若狭など慄《ふる》えあがってしまう。
「とてもあのようなお方にお仕えはできないわ。逃げて、別の奉公口を探しましょうよ」
かきくどくが、譜代の恩顧を思うと嘉門にはおいそれと勤め替えする決意もつかない。
なにより気がかりなのは、嵩《かさ》にかかって加々姫が笹丸を苛《さいな》むことだ。犬小屋を、嘉門は菜園の隅に移し、少女の目に触れさせないよう常時、気をくばったが、耕作を請け負っている農夫のほかは入りこみもしない裏庭のはずれまで、わざわざ姫はやってきて犬をいじめる。
「こいつとわたしは、前世にきっと仇《かたき》同士だったのよ」
と言うだけあって、加虐の執拗《しつよう》さは呆れるばかりだ。笹丸のほうもけっして加々姫に馴《な》れようとしない。歯をむき出して唸る。吠える。日ごろの従順さからは想像もつかないたけだけしい変貌ぶりを示す。それが憎らしいと言って、姫の側もいよいよ攻撃の仕方がむごくなる。
(彼らはもしかしたら、本当に仇同士だったのかもしれない)
と嘉門もなかば、信じるようになった。
彼が制止すれば、その目をぬすみ油断を見すまして、姫は菜園に忍びこむ。綱を短くし、杭にしっかり結びつけてあるので、長い棒で叩かれると笹丸は抵抗できない。
だが、ある日、うっかり行動圏内に踏み込んでしまった姫を、笹丸は前肢《まえあし》で引き倒し、肩に噛みついた。
悲鳴をあげて跳ね起き、逃げのいたけれども、袿には歯の跡、爪の跡、点々と梅の花に似た泥肢の跡までついてしまった。
「やられっぱなしですごすごひっこむわたしじゃないからね、おぼえておいでッ」
捨て科白《ぜりふ》を投げつけて走りもどったその晩、兼家の来訪を待ちうけて彼女は肩の傷を見せ、顛末《てんまつ》を都合よく潤色して訴えた。
「仲よしになりたくて、餌を持って行ってやったのです。わたし、犬が大好きですから……。それなのに笹丸にいきなり飛びかかられ、あぶなく噛み殺されそうになりました」
そうか、災厄の正体は犬だったのかと、兼家ははじめて合点のいった顔になった。森や田畑の拡がる郊外である。狐たぬき、劫《こう》を経た野猪《やちよ》のたぐいなど、人に祟《たた》りそうな獣類ばかりをそれとなく警戒していたが、邸内の飼犬とわかれば処理はかんたんだ。
打ち臥しの巫女は、定命《じようみよう》を変えることはできないと言ったが、兼家の親ごころからすれば何とか凶運を回避させてやりたい。父らしい庇護を加えず、幼時から少女期にかけて世俗の苦労を舐《な》めさせた娘に、罪ほろぼししたい思いもあった。
「大難が小難にすんだのはさいわいだった。襲われたおかげで、厄神《やくじん》の正体が判明した。進んでこれを除けば、姫の未来にも延命の望みが生じるかもしれぬ」
嘉門を呼びつけて、すぐさま犬を殺せと兼家は命じた。抗弁はできなかった。嫁入り前の息女の玉の肌に、歯型をつけた笹丸である。非は姫にあるにせよ成敗はやむをえない。泣く泣く嘉門はあきらめた。
侍どもは笹丸の四肢をくくってその頭を斬り落とし、皮を剥《は》いだ。
「鞣《な》めせば犬の皮はいろいろな物に利用できる。土中に埋めてしまうのはもったいない」
というわけだ。
赤裸にむかれた愛犬のむごたらしい屍体に、頭部を添えて、嘉門は朴の木の根方に葬った。いつのまにか夏が去り、秋はたけなわを迎えていた。白い、肉厚な花弁の重なりの奥から、蜜に似た芳香を濃く燻《くゆ》り立たせていた大輪の、朴の花も、あとかたなく今は散って、赤いつややかな実が熟れかけている。秋が終るころ、殻は弾け、まっ黒な種が笹丸の墓に降りこぼれるにちがいない。
(お屋敷を去ろう)
ようやく嘉門の肚も決った。
(若狭もそれを願っている。振り売りの行商をしてでも、助け合って二人で生きよう)
この、嘉門の失意にくらべて、勝ち誇ったのは加々姫であった。
厩のわきの駒つなぎの杭に、侍どもが洗って干した笹丸の皮……。彼女はそこへ出かけて行き、さも気持よさそうに高笑いしながら、
「ざまはないね」
痛罵した。
「けだものの分際で、小癪《こしやく》な反抗ばかりしていた罰だよ。こうなってはもう、手も足も出まい。いい気味だ」
風もないのに、杭の横木を離れた犬の皮が、ふわっと空中に舞いあがり、まるで意志を持つもののように大きく拡がって、一直線に加々姫の頭上に落下してきたのはこの瞬間だった。すさまじい絶叫が娘の口から溢《あふ》れ、たちまちその声は呼吸ごと、咽喉《のど》を塞《ふさ》いだ。
嘉門をはじめ、駆け集まって来た召使たちが目にしたのは、皮にすっぽり包みこまれ、骨がばらばらに砕けるほど緊めつけられて、鼻や口、耳の穴からまで血を噴き出し、こと切れて倒れている加々姫の亡骸《なきがら》であった。
*
太政大臣邸からの急報を、打ち臥しの巫女は落ちつき払って聞いた。
「獣害に遭って、秋に命を終る」
予告した通りである。したがって驚きもしなかった。巫女ははじめから、少女がニセ者であることを見破っていたのだ。それなのに、
「まことのお子に相違ありませぬ」
と保証して、つかのまの姫さまぐらしを味わわせてやったのは、流浪の苦しみに打ちひしがれた彼女自身の遠い過去を、加々女の現在にかさね合せて、ふっと、哀れをもよおしたからだった。
「愉《たの》しかったか? 娘よ」
どことも知らぬ虚空の一点を見すえて、巫女はささやいた。
「証拠の品々を、どのような径路でそなたが手に入れ、だれにそそのかされて不敵な悪事をたくらんだのか、そこまではわたしにもわからぬ。ただ、そなたの顔貌に鮮明に現れている死相を見たとき、あえて、騙《だま》されてやる気になったのだ。朴の花が散り、実となるまでの短かい間にすぎなかったが、傀儡《くぐつ》の子には眩《まぶ》しすぎるほどの思い出ができたにちがいあるまい。満足して、あの世とやらへ旅立ってゆくのだよ」
つぶやいているにもかかわらず、巫女の唇はまったく動かず、その表情も、凪《な》ぎ渡った水面さながらいささかの変化も泛《う》かべなかった。
穴に落ちた花嫁
1
野鍛冶《のかじ》の左近丞《さこのじよう》が三十四になるまで結婚しなかったのは、縹緻《きりよう》望みが強すぎたからだ。女は美しいのが一番だ、根性なんか少々わるくたってかまわない、醜い女房と一つ屋根の下に鼻つき合せて生きる地獄より、
「そのほうが、どれほど増《ま》しかわからぬよ」
と、かねがね左近丞は言っていた。
だから、とうとう独りぐらしに別れを告げて、左近丞が嫁さんをもらうことになったと知ったとき、村の人々は、
「どんな美人がくるだろう」
「きっと月世界の仙女みたいな、すてきな娘をさがし当てたにちがいないよ」
寄るとさわると茶飲み話の種にして、
「婚礼の日はいつだい?」
「早く顔を見たいものだね」
待ち遠しがった。
隣り近所の者たちの、前評判を耳にするにつけても、左近丞は内心うれしくてたまらない。月宮殿に、どんな仙女が住んでいるか知らないが、
(おそらく峯羽《みねは》ほど、きれいじゃあるまい)
と、得意の鼻をうごめかしていた。
三日路《みつかじ》かけなければ行かれない花の都から、峯羽ははるばる嫁入ってくる京|上臈《じようろう》である。仲立ちをしたのは薬の行商人だが、
「無類とびきりの目鼻だち……。美人揃いの洛中《らくちゆう》にも、あんな女はめったにいませんよ。お頼まれしていた責任上、わたしも根《こん》よく探し廻った甲斐がありました」
と自慢たらたら、胸を張った。
「そんな美人を、なぜ今までまわりの者がほうっておいたんだろう」
「ほっときゃしませんさ。縁談は降るようだし、中にはやんごとないお公卿さんの屋敷からさえ人づてに噂を聞いて、奉公に出ぬかと誘いがかかったが、当人はともあれ、兄貴ってのが固い人でね、なかなか首を縦に振らなかったのだそうです」
「そりゃそうだろう。公卿奉公といえば体裁いいが、内実は側女《そばめ》だものな」
「身内というのはこの兄貴ひとり……。ほかに親戚やら何やら、小うるさく口を出す係累《けいるい》がいないのも助かりますよ」
そのかわり兄妹仲は、人もうらやむほどむつまじい。兄さんが左近丞どのとの祝言を承知したのは、鋤《すき》、鍬《くわ》、鎌《かま》など農具専門の野鍛冶とはいえ、腕に技術を持つ職人であること、賭けごとも酒もやらずに金を溜めこんで、日ごろ裕福なくらしぶりであること、自分たち同様、親兄弟や伯父伯母といった面倒な血縁がいないことなど、妹のための好条件がすべてそろっているからだと言う。
「兄さんの名は?」
「伴部水主《とものべのみぬし》というんです。左兵衛府《さひようえふ》の少志《しようさかん》だそうですから、まあ、下っぱの軍人ですね。給料は安いし、豊かな生活とはいえない。そこで、せめていとしい妹だけでも、ちっとはましなくらしをさせたい、田舎へ嫁にやるのはかわいそうだけれど、腕一本で食っていける職人や工人なら、浮き草稼業の商人などより行く末が安心だろうと、兄さんは判断したのでしょうよ」
こうして、とんとん拍子に話はまとまり、いよいよ八月なかば、仲秋名月の晩に水主が附き添って、峯羽は輿入《こしい》れしてくることになったのだ。
2
見ぬ恋に憧《あこが》れて左近丞は夢ごこちだが、ちょっぴり不安でないこともなかった。仲人口《なこうどぐち》を信じて約束を取り交してしまったものの、
(もし、行商人が褒《ほ》めそやすほどの美人じゃなかったらどうしよう)
との気がかりは去らない。
(よしんば美しくはあったにしても、わしの好みの顔だちでなかったら、これも困るなあ)
ときめきと危惧を、半々に抱《いだ》いて兄妹の到着を待ち受けたのだが、やがてやってきた峯羽は、
「おお!」
思わず左近丞が感嘆の声をあげたほどの、美貌の持ちぬしだった。
「ありがたい、ありがたい」
期待を上回る花嫁の出現に、左近丞は有頂天になって、
「よくもまあ、こんな草深い鄙《ひな》に、嫁入ってきてくだされたな」
下へも置かずに兄妹を歓待し、手回しよく調えておいた婚礼のための料理を、さらに倍にもふやして村中の者にまでふるまった。
「ほんとに天女が舞いおりた」
「今夜はお月さまもまん丸だし、きっとあの花嫁は、空からやって来たかぐや姫だよ」
と宴席に招かれただれかれが、こぞって目をみはるのも、左近丞には誇らしくてならない。さっそくにもその晩、峯羽を抱きたかったけれども、
「いや、それは遠慮してください」
同行して来た兄の水主にさまたげられてしまった。
「都から三日にすぎぬ旅ですが、歩き馴れぬ道を歩いて妹はたいそう疲れています。そのうえ当家に着くと早々の、挙式とあっては、心身ともにくたくたなはずです。二、三日はそっと休ませて、ここでのくらしになじんでから同衾してほしいですな」
犬ではあるまいし、お預けはひどい。でも、見るからに軍人|気質《かたぎ》の、いっこくそうな兄貴である。機嫌をそこねて、
「このまま妹を、つれて帰るッ」
などと言い出されてはたまらない――そう思って、左近丞は譲歩した。
「おっしゃる通り無理はいけません。峯羽さんの緊張がほぐれるまで、わしは幾日でも待ちますよ。盃を交した上は、もはやれっきとした宿の妻です。邪魔の入る気づかいはないのだから、おたがいに打ち解け合ってから一つ寝するほうがよいでしょう。兄さんもどうか、ゆっくり滞在していってください」
と心にもなく、大まかなところすら見せたのである。
3
峯羽はひかえ目な、おとなしい性格だった。掃除や煮炊きなども、なかなかうまい。
「もっと寝ていらっしゃい」
すすめたのに、翌朝はもう、しらじら明けから起き出して左近丞と水主のために食事作りをしてくれた。
(こいつはめっけものだぞ)
縹緻《きりよう》がとびぬけているばかりか、一家の主婦としての勤めまで、りっぱに果たせる女だったと知って、背すじがゾクゾクするほど左近丞はうれしくなった。峯羽の口のきき方、はにかみ笑い、咳もクシャミも何もかもが愛らしくてたまらない。三日目の晩にとうとう辛抱を切らして、
「もう、くたびれは治《なお》ったかい?」
恐る恐る顔色をうかがってみた。
「ええ、もう、すっかり……」
「では今夜あたりから、そのう……夫婦らしい寝かた……つまりだな、一つ臥処《ふしど》で抱き合ってもいいだろうか?」
赧《あか》くなって、峯羽はうなずいた。
「やれやれ、やっとお許しが出たか。ではさっそく……」
「ちょっと待って。厠《かわや》へ行ってきますから」
「よいとも。外後架《そとごうか》だし、足もとが暗いから気をつけるのだよ」
「様子はわかっていますわ」
わくわくしながら左近丞は待ったが、いつまでたっても峯羽はもどってこない。しびれを切らして迎えに行ってみたが、厠にも姿はなかった。仰天して、
「大変だ兄さんッ、起きてください」
別室に眠っていた水主《みぬし》を呼び立て、二人がかりで家中くまなく探し廻ったけれども、徒労であった。
狂気の血相で二人は外へとび出した。
「峯羽ァ……峯羽ァ、どこへ行ったあ」
咽喉《のど》が裂けんばかりに呼び立てると、
「たすけて」
かすかな声がどこかで応じた。
「家の裏手の、山の方角だッ」
夢中で坂道を分け登ってゆくうちに、助けを求める声はいよいよはっきりしてきた。穴の中に峯羽は落ちていたのである。
むかし、この小山は、あたり一帯を領する豪族の砦《とりで》だったとかで、水の涸《か》れた古井戸が残っていた。危険なので蓋がかぶせてあったが、板が腐り、三丈もの闇の底に峯羽は転落してしまったのだ。
厠からここまで、ふらふら出てきたのは、狐にでも化かされたと思うほかない。白い手が招くのに釣られて、足がしぜんに動いたらしい。片田舎ではよく聞く怪異だった。
「左近丞どの、ひと走り家へもどって、長い綱と籠を持ってきてくれ。妹を引き揚げるんだ」
「承知しました」
すぐ、言われた品々を用意して左近丞はひき返したが、峯羽は全身を強く打ち、身うごきもままならないと、心細い声で訴える。
「よし、私が穴におりて、籠に乗せましょう」
「そうしてくれ。穴は狭い。籠も小さい。まず先に峯羽を引き出すから、次に綱を投げ込んだら左近丞さん、あんたがあがってこい」
「重いですよ。大丈夫ですか?」
「渾身の力で引っぱるよ」
綱を結びつけた草刈り籠……。左近丞はそれに乗り、そろそろと闇の底へおりた。ぐったりうつ伏している峯羽の身体を、手さぐりで籠に掻き乗せ、
「さあ、引いてください」
大声で合図すると、地上では水主が懸命に、綱をたぐりはじめたらしい。揺れながら籠はあがってゆき、やがて峯羽は外へ助け出された。手はず通り、次は左近丞のために綱と籠が投げおろされるはずだった。
しかし、見あげている左近丞の顔面へ、ばらばら打ち当ったのは泥土《どろつち》である。
「わッ、何だ、なにをする水主さんッ」
月光を負って、まっ黒に見える水主の上半身が、穴の縁《ふち》から下を覗いた。
「何もしないよ。お前を生き埋めにするだけさ。観念して、念仏でも唱えることだな」
死にもの狂いで這い上ろうとしたが、手がかりは何一つなかった。瀑布が落下する勢いで泥は降りつづけ、左近丞の悲鳴をたちまち消した。あらかじめ用意しておいたらしい土の山を、手押し車に盛りあげてせっせと林間から運び出しているのは、薬の行商に化けて左近丞を口車にのせた男である。水主と峯羽が泥を手ばやく掻き落とし、古井戸をすっかり埋めてしまった。上をよくよく踏み固め、
「さあ、吝《しわ》ン坊の野鍛冶が爪に火をともして溜めこんだ金袋、かっ拐《さら》ってずらかるんだよ」
峯羽は男どもを叱咤《しつた》する。貞淑の仮面をかなぐり捨てた女賊の正体がそこにあった。
歯がゆい男
1
その男が召し抱えられて、武者溜りに詰めるようになったとき、
「ごらんになりましたか」
「見ましたとも。ほれぼれするほどの筋骨《きんこつ》ですわねえ」
「あのような殿方をこそ、男の中の男と言うのでしょうよ」
女房たちの局《つぼね》には、口々の賞讃が渦巻いた。それというのも、つい半月ほど前、大納言家に群盗が押し入って、納殿《おさめどの》を荒らし、あらかた財宝を拐《さら》ってゆくという事件があったばかりだからである。
悲鳴をあげて女たちは逃げ惑い、縁の下やら塗籠《ぬりごめ》の奥やら、めいめい死にもの狂いで隠れ場所をさがした。慄えながらそこに潜んで、かろうじて助かった体験を持つだけに、
「優男《やさおとこ》は、ものの役に立ちません」
批判は断乎としているし、当然、迫力にも満ちている。
「ふだん、月よ花よなどと歯の浮くようなことをおっしゃっている公達《きんだち》がたの、あの晩の腰ぬけぶり……」
「ほんにほんに、情《なさけ》のうございました」
「三十一文字《みそひともじ》がいくら巧みに綴れても、舞いが舞えても笛が吹けても、そんな才はいざというとき、何の足《た》しにもならないことが、ようくわかりましたね」
女房たちばかりではない。同じ苛だちは、屋敷の主《あるじ》の大納言も痛切に抱いたらしい。さっそく家司の老人を呼びつけて、
「二度と不祥事が起こらぬよう、屈強の武者どもを召しかかえる算段をせよ」
厳命した。
こうして傭われてきた中に、ひときわ目立つ髭男《ひげおとこ》がいた。顔はこわげだし、丈《たけ》こそずんぐりとはしているけれども、見るからに骨組みがたくましい。しかも額《ひたい》に、大疵《おおきず》まである。盗賊に入られる以前なら、
「まるで、蟹《かに》みたい……」
鼻であしらったであろう女房連中が、がらりと評価を変えてこの男を褒めそやすのを、
(いささか軽薄ね)
女童《めのわらわ》の園生《そのう》は、内心、同調しかねる思いで見ていた。
男は名前からしてすさまじかった。渡辺《わたなべ》鬼九郎源掴《おにくろうみなもとのつかむ》というのだ。
「強そうなお名ねえ」
「名は体《たい》を現わすというのは、このことですよ。それに男の向う疵。立派だわァ」
「源氏武者の中でも、定《さだむ》だの信《まこと》だの透《とおる》だの代々一字名を名乗る渡辺党は、豪勇をもって鳴る一族だそうではありませんか」
寡黙なのも、鬼九郎掴の信用を倍加した。能ある鷹は爪をかくす、隅にばかり引っこんで出しゃばろうとしないが、武者としての力倆が問われるとき、おそらく鬼九郎はめざましい働きをするにちがいないと、だれもがたのもしがった。
(どうも、そうではなさそうよ)
園生だけが屋敷中の信頼を疑問視していた。女童とはいっても、年はもう十五である。半分おとなの領域に踏みかけているし、ずぬけて怜悧な、目はしのきく少女であった。
(爪を隠した鷹ではなくて、はじめからあの人、ただの阿呆鳥じゃないかしら……)
髭にごまかされ口かずの少なさを買いかぶられているけれど、髭なんてものは剃《そ》らなければ自然と伸びる。めったに喋らないのも鬼九郎の場合、豪勇の証明どころかあべこべに、臆病、気弱《きよわ》、いくじなしなど反・武者的気質のあらわれなのではないか――そう、園生は観察していた。
ためしに園生が、厨《くりや》から雉子《きじ》の股肉《ももにく》の焙《あぶ》り焼きなどをくすね、
「いかが? 鬼九郎さん、退屈でしょ。一杯召しあがれ」
宿直《とのい》の夜など持っていってやると、髭面《ひげづら》を彼は茹《ゆ》であげたほどにもまっ赤に上気させ、脂汗までにじませて、
「い、いやいや、わし、一滴も酒ちゅうものは飲めまっせん」
尻ごみする。
「斗酒を辞さないお人柄に見えるけど……」
「それが、生まれつきの下戸《げこ》でごわして……」
「じゃあ仕方がないわ。焼き肉だけでもお食べなさいよ」
「はッ、はッ」
「どうしたの? 遠慮は無用よ。わたしの厚意なんですから……」
「では、いいい、いただきます」
と差し出す手が、瘧病《おこりや》みさながらわなないているのである。こんなだらしのない鬼武者が世間にいるだろうか。
(訝《おか》しいわ)
ひそかに首をかしげているうちに、案外な早さで、その化けの皮が剥がれる日が訪れた。また一人、新参の武士が召し抱えられて来たのだ。
こんどの男は徹頭徹尾、鬼九郎|掴《つかむ》とは対照的だった。なによりはまず、名前がやさしい。花野井《はなのい》左馬介平《さまのすけたいらの》恒光《つねみつ》という。平家武者なのである。
容貌や体躯も名に釣り合って華奢《きやしや》にできている。大納言家には美男で聞こえた跡取りの若殿がいるけれど、左馬介の目鼻だちには遠く及ばない。群盗どもが闖入《ちんにゆう》した晩、邸内では管絃の宴《うたげ》が催され、それぞれに才芸自慢、顔自慢の貴公子たちが集まってきていたが、そんな中ですら左馬介恒光と太刀打ちできるほど、男ぶりの立ちまさった者はいなかった。風に吹き散らされる木の葉のみじめさで賊の泥足に蹴とばされ、命乞いの醜態をさらけ出したにすぎない。
「左馬介とやらもその口ではないかしら……」
「弱むし然としてますよねえ。見るからに」
しかし左馬介恒光は、自分から大納言邸へやってきて、弓は強弓を引き馬は悍馬《かんば》を乗りこなし、太刀|業《わざ》は鞍馬山の天狗に劣らぬそれがし、しかも無類の博学にて、およそこの世に、知らぬものとてござらぬと、弁舌たくみに売り込んだのだという。
「それが本当なら、願ってもない逸材じゃ。殿にうかがってみるゆえ、しばらく待て」
老家司が奥へ行き、大納言に左馬介の広言を伝えると、
「おもしろい。さいわいここに、何とも得体《えたい》の知れぬものが届いておる。そやつに名を問うて、答えられたら召し抱えてやれ」
取り出してみせたのは、竹編みの小さな籠だった。中には青い藻《も》が敷いてあり、その上に奇妙なものが一個、乗っている。鶏卵ほどの丸い薄茶いろをしたもので、目も口も尾も鰭《ひれ》もない。表皮はぬめりを帯びて、突《つつ》くとクナクナ、くるめき動く。生き物であることはまちがいないが、魚やら貝やら虫やらさっぱり見当がつかない。
「ははあ、今朝がた明石《あかし》の御領所から、漁民どもが献上してまいった品でござりますな」
と老家司は中門廊の駒寄せまで竹籠を持って出て、
「これは何と言うものじゃ。存じておらば名を申せ」
左馬介に見せた。
「やれやれ、こなたさまはよいお年をしながら、こやつをご存知ありませぬか?」
「恥かしながら初めて見た。海辺に住む漁師も知らぬ。殿をはじめ屋敷の者だれ一人、このものの正体を言い当てることはできなんだ」
「これは『くぐるぐつ』と申して、海の底深く棲む海鞘《ほや》の一類でござる」
「なんじゃ? くぐるぐつ?」
「さよう」
「可笑《おか》しな名の生き物じゃなあ」
「珍中の珍物と申せましょう」
「はてさて広言にたがわずそなたは博識な男じゃ。その上、武技にも堪能とあらば一段と重畳《ちようじよう》。傭い入れてつかわそう。奥へ通れ」
この日、客殿では、若殿と某高官の姫君との間に婚約がととのったのを披露する目的で、一族門葉だけの内輪《うちわ》の招宴が開かれていた。
老家司は、その席へ左馬介をつれて行き、お目見得《めみえ》させるつもりでいたのだが、
「ささ、わしがご一同さまに引き合せるゆえ、ここにかしこまって平伏せい」
はるか下座《しもざ》を指《さ》し示したにもかかわらず、目もくれずに左馬介は、つかつか上座に進み、若殿と一の宿老《しゆくろう》と呼ばれている大伯父|御《ご》の間に、むんずとばかり割り込んで坐った。あまりな臆面のなさ、傍若無人さに、一瞬、だれもが呆気《あつけ》にとられて、咎める声も出なかった。
しかも、たまたま左馬介が座についたとき、若殿は手の盃を次席の大伯父へ回そうとしていた。左馬介が平然とそれを受け取って目の先へ突き出したので、酌取りの少童は気を呑まれ、提子《ひさげ》の酒をなみなみ満たす。
ぐうーっとひと息に呷《あお》っておいて、左馬介は盃を大伯父どのへ回した。すべてが手順よく、とんとん拍子に進行したため口出しのすきすらなかった。しかしようやく遅まきながら、若殿がわれに返り、
「なにやつだ狼藉者ッ、ことわりもなく一の宿老《おとな》の上《かみ》になど坐りおって……」
怒り心頭に発して中啓扇《ちゆうけいおうぎ》を取り直すと、左馬介の横面《よこつら》を思いきり撲った。そのとたんである。間髪を入れずに左馬介も、左隣りの大伯父御の頬に、蝙蝠扇《かわほりおうぎ》の一撃を力いっぱい喰わせた。そして驚く人々に向かって、涼しい顔で言ってのけたのだ。
「盃が順送りゆえ、面《つら》を張るのも順送りにいたすのが、ご当家のしきたりかとぞんじました。わはははは」
ふつうなら命がないところだが、強盗騒ぎで懲《こ》りはてていたあとだけに、
「大胆不敵なつらだましい。物の役に立つこと疑いあるまい」
主《あるじ》の大納言にかえって気に入られ、御衣《おんぞ》を引出物に頂きなどして、新参のほやほやにもかかわらず左馬介は面目をほどこしたのであった。
2
両雄は、でも併《なら》び立たない。
鈍重、無口。おまけに髭むじゃの醜男《ぶおとこ》にもかかわらず、鬼九郎|掴《つかむ》がその、もっさりぶりによって、局々の女房たちにたのもしがられ、敬愛されてまでいるのを、左馬介恒光は不快がっているらしい。
たとえ数日のずれがあっても、あとから奉公に出たのなら、それなりに後輩としての礼を執《と》るべきなのに、武者溜りに詰め出すと早々、鬼九郎ひとりに的をしぼって、チクチク挑発の矛先《ほこさき》を向け出した。
「おぬし、ごたいそうな髭だなあ」
「うう」
「犬なら尻尾を巻いて逃げ出すかもしれんが、人間には髭など威《おど》しにもならんぞ。ものものしく、なぜそんなものをはやしておくんだい?」
「毛深いたちでのう。それに、剃るのも面倒くさい」
「武術は、何業《なにわざ》を得意とするな?」
「とりたてて、得意といえるものはない」
「のそっとしていては腕がなまる。お的場《まとば》へ出て、射技を競ってみようじゃないか」
「弓は……だめじゃ。ち、ちかめじゃで……」
「なんだ、ちかめとは……」
「遠くが見えんのよ」
「近眼か。では馬の乗りくらべをやろう」
「馬!?」
さっと鬼九郎の表情に怯《おび》えが走った。
「かんべんしてくれ。馬は苦手中の苦手じゃ。いななく声を聞いただけで寒《さむ》けがする」
「武者が、馬を嫌ってはご奉公が勤まるまい」
「うう」
「だいいち、渡辺鬼九郎源掴だなんて偉そうな名の手前、恥かしくはないのか」
「恥かしいよ」
詰め寄られて、大きな図体をちぢめている鬼九郎を、左馬介はつくづく眺めた。そして、
「おぬし、ニセ武者だろう」
喝破した。
「いや、武者は武者じゃ」
「しかし、ろくな武辺立《ぶへんだ》てもできぬ腰ぬけというわけか」
鬼九郎はもじもじ、うつむいた。喧嘩になるか、居丈高《いたけだか》な左馬介の言い草に我慢を切らして、大喝一声、鬼九郎が反撃に出るかと、かたずをのんで見守っていた仲間の武者たちも、
「なあんだ。言い返し一つできないじゃないか」
案に相違した成りゆきに、いっせいにガヤガヤ嘲弄《ちようろう》し出した。
「馬をこわがるくせに、鬼九郎掴が聞いてあきれらあ。お前ほんとうに、渡辺党の出身なのか?」
「わたなべはわたなべでも、字がちがう」
「どう、ちがうんだ」
「綿《わた》の鍋《なべ》と書く」
「ちぇッ、だらしのない苗字《みようじ》だなあ。綿で作った鍋など煮炊きの用に使えるものか」
「わしに言うても仕方がない。ご先祖からの姓じゃもの」
「では、摂津の渡辺党ではないのだな」
「生国は丹波の篠山《ささやま》じゃ」
「山猿か。それが鬼九郎とは、片腹痛いぞ」
「わしがみずから付けた名ではないよ」
「だれが付けたんだ?」
「お寺の門の下で、雨やどりしていた童《わらんべ》どもが付けおったのじゃ」
「曰《いわ》くありげだな。ぜひとも由来《ゆらい》を聞こうではないか」
「語るほどのことはないのじゃが……」
と口ごもるのを、寄ってたかって責め立てた。左馬介の追及が、中でももっとも急だった。
「はじめて都へ出て来たとき……」
抵抗しきれなくなって鬼九郎はどもりがちに打ちあけた。
「なんともはや、すさまじい夕立に遇《お》うた。わしは生来、雷が大嫌い……。馬をはやめて、近くに見ゆる大寺の、仁王門の下へ駆けこんだ」
「馬に乗ってきたのか?」
「そのときは、まだ乗れたのじゃ」
悲しげに、鬼九郎は首を垂れた。
「門の下に入っても、雨はやまぬ。雷鳴もやまぬ。やまぬどころかますます繁くなってくる。稲妻が天を裂き、とりわけ大きな雷が頭上にはためいたとたん、わしは無我夢中で、仁王の御足の下に踏まえられている木彫りの鬼に掴《つか》みついた。気を失うたのじゃよ」
「いやはや、あきれてものも言えぬなあ」
「同じ場所に雨やどりしていた子供らも、笑いおった。そして言うたよ。『おじちゃん、鬼に掴みついたから、今日から鬼九郎|掴《つかむ》と名乗りな』とな」
「顔の大疵もそのときつけたのか?」
「あわてふためいて、鞍《くら》から飛んでおりたために、こけて転《ころ》んだ。馬のやつめが胆をつぶして蹴りおった疵の痕《あと》――それ以来じゃ。恐ろしゅうて恐ろしゅうて、こんりんざい馬に近寄ることもできなくなったのは……」
腹の皮がよじれるほど、武者どもは笑いころげた。噂はたちまち屋敷中に拡まり、女房たちは幻滅の極、
「ばかをみましたわ」
「買いかぶりも、よいところでしたねえ」
手の裏返すように鬼九郎信仰を撤回してしまった。
老家司も、むろん立腹した。主人の居間へ出かけて行って、
「まやかしものに、扶持《ふち》を与えてはおけませぬ。暇を出しましょう」
と息巻いた。大納言は、だが、さすがに鷹揚《おうよう》だった。
「まあ、よいではないか。一人二人に無駄飯を食わしたとて、まさか当家の米倉にひびくわけではあるまい」
「仰せではござりますが、盗賊どもに目ぼしい宝を奪われたげんざい、財政の立て直しにはことにも意を用いねばなりませぬ。役立たずは追い出すにかぎります」
「そもそも鬼九郎は、奉公を望んでみずから当家へ参ったのか?」
「さようなわけではござりませなんだ。三条大橋の欄干にもたれ、所在なげに川面《かわも》を見おろしておった肩つきが、いかにもたくましげでござったゆえ通りすがりに手前が声をかけ、勤める気はないかと誘うたところ、いそいそついてまいったまでで……」
「つまり左馬介のように、武芸百般を言い立てておのれを売り込んだのではないのだな」
「外づらの偉容にくらまされ、手前の側の独り合点で、剛の者と思いこんだにすぎませぬ」
「綿鍋の姓にしてもそうだ。一字名の掴《つかむ》から、当方が早呑みこみに、渡辺党ときめてしまった。きゃつのあずかり知らぬことよ」
「ま、それはそうでござりますな」
「飼うておいてやれ。武者勤めが無理ならば、雑色《ぞうしき》仕事なりと、あてがっておけばよかろう」
情深い取りなしで、からくも首がつながったわけだが、以来、邸内での鬼九郎株が、ガタ落ちとなったのはいうまでもない。
「おい、ぼやぼやしてねえで水でも汲んでくれよ鬼さん」
牛飼いにまでこき使われる始末である。なまじ名前が勇ましいので、かえって滑稽味がきわ立つのだろう。
「やっぱり私の推量が当ってたわ。あの人、見かけ倒しの弱虫だったのね」
園生は、自身の観察眼に満足し、するとふしぎに、鬼九郎を憐れむゆとりが生まれた。他の女房たちとは逆だった。鍍金《めつき》の剥《は》げた豪傑、地べたに落ちた偶像……。
「だからって、なにも鬼九郎さんの罪じゃない。あの人は自分から、ひけらかしなど一つも口にしなかった。問いつめられれば正直に、恥かしい打ちあけ話だってしたんですものね。買いかぶっていた連中のほうが悪いのよ」
と、その意見は、大納言の言うことと酷似していた。
でも、それにしてもじれったい。やることなすこと、鬼九郎は不器用だし、まが抜けている。水汲みひとつ庭掃きひとつ、そばにいてガミガミ注意してやらなければ満足にはできない。当人は大疵の額から湯気を出し、骨身惜しまぬ懸命さで働くのだが、せっかく満たした水桶を、蹴つまずいて倒したり落葉を焚いて垣根の裾を焦がしたり、ドジばかりふんでいるのである。
「あなたって、よくよくとんまな人ねえ」
歯がゆくて見てはいられない。園生はつい、手伝ってしまう。
「すまんのう園生さん」
鬼九郎は恐縮しきって頭をさげる。
「お屋敷のだれもが、わしを馬鹿にしとるのに、あんた一人どうしてそう、やさしいんじゃね?」
「やさしいのではないわ。じれったくてたまらないからよ。もう少し目はしをきかせなさいな」
叱りつければ叱りつけるほど、鬼九郎はどぎまぎうろたえて、へまな事をしてしまう。あげく、市へ使いにやらされ、持って出た金を失うという大しくじりまで演じたのには、園生もあいた口がふさがらなくなった。
3
「今夜、二人ほどお客人がまいられる。酒の肴に極上の鵠《くぐい》か雁《がん》を一羽、求めてこい」
と言いつけたのは、老家司であった。
「かしこまりました」
金袋を渡されて出てゆく鬼九郎の、狩衣《かりぎぬ》の背を園生はものかげから見送って、
「大丈夫かしら……」
不安になった。
「なにをしているのだね、そんな所で……」
声をかけられて振り向くと、馬上姿の左馬介が立っていた。
「あら、あなたも外出?」
「若殿にご代参を命ぜられてね、北野の天神社へ行くのだよ」
「それならすまないけど、鬼九郎どのの買物につき合ってあげてくださらない? 商人にごまかされて、粗悪な品をつかまされたりしては困るから……」
「よしきた。おれが見張っていれば安心さ」
請け合って左馬介は、鬼九郎のあとを追ったが、せっかくの園生の心づかいも、結果的には裏目に出た。協力するどころか小意地わるく、左馬介は鬼九郎を騙して、わざと失策の罠《わな》に追いこんだのである。
あいにくその日、市の棚店《たなみせ》にはどこをさがしても、雁、鶴、鵠はおろか雉子《きじ》さえ見当らなかった。弱りはてている鬼九郎の目の前を、男が一人、大きな鵠をぶらさげて通りかかった。
「あんた、鳥売りかね?」
せきこんで鬼九郎は訊《き》いた。
「ちがうよ。ついさっき、市のはずれで猟師が一羽売ってたのを、やっと見つけて買い取ったんだ。おれが晩に食うんだよ」
「たのむ。譲ってくれ。おねがいだ」
たちまち男はつけこんだ。鬼九郎が差し出した金袋の、中身をかぞえ、こんな値段では話にならぬと突っぱねた。
「では、わしの着ている狩衣を添えよう」
「だめだだめだ。おことわりだな」
ところへ左馬介が追いついて来たのであった。彼は鬼九郎を手招きし、その耳へ口を寄せてささやいた。
「あの男なら、おれは知っている。地蔵の牛麿《うしまろ》といって、地蔵信仰にこり固まった箔置《はくお》きだよ。家の中から庭先まで、集めた地蔵で足のふみ場もないほどだ」
「なんとか掛け合って、鵠を売ってもらえないかなあ」
「手はあるさ。ほら、あすこに、鉢叩き坊主がお厨子《ずし》を背負って歩いてるだろう。中にまつられているのは小さな金銅の地蔵尊だが、おれの見るところ、あのお像は稀代の名作だぜ。よほど古いものに違いない。坊主に金袋をそっくり渡し、地蔵を買い取って牛麿に見せれば、やつはとびついて鵠と交換するよ」
じつは嘘だった。口から出まかせの、でたらめだったのに、鬼九郎は真《ま》に受けて三文にもならぬ地蔵を有り金はたいて手に入れ、
「この尊像となら、鵠と替えてくれるじゃろ?」
あらためて男に申し入れたのだが、相手は地蔵信者でも箔置きの牛麿でもなかったから、
「けッ、ばかばかしい。寝言をほざくなッ。そんなクソ地蔵などだれがほしいもんか」
腹を立てて行ってしまった。むろん、とうの昔、左馬介は姿を消していたのである。
「烏を求めてこいと申しつけたのに、汚ならしい金仏を買ってくるとは何たる阿呆か!」
家司にどなりつけられ、
「ひどいじゃないか」
あとから、ケロリとした顔で帰邸して来た左馬介に、鬼九郎は泣きついたけれども、
「おやおや、やつは牛麿じゃなかったのか。そいつは悪かった。おれの見まちがえだな」
相手はしゃあしゃあと言ってのけ、心の中では、鬼九郎の愚直ぶりをあざ笑っている様子だった。
「なんて性悪《しようわる》な男でしょう」
人ごとならず園生は憤慨した。責任の半《なか》ばは彼女にもある。なまじ左馬介などに助力を頼まなければよかったのだ。
「鬼九郎さんになり代って、いつかきっと、仕返ししてやりますからね」
機会はやがてやってきた。
正月元旦――。めでたい新春の祝宴で、海鞘《ほや》の二杯酢に箸をのばしかけながら、
「そういえば、あれはどうなったでしょう」
若殿が、父の大納言に話しかけたのである。
「いつぞや明石の領民が献上してきた奇妙な生き物。海鞘の一種ということでしたが……」
「おお、どうなったかな。爺《じい》にたずねてみよう」
老家司が呼ばれて、うやうやしく答えた。
「あのままでは腐りますゆえ、日に乾かして、お蔵の内に納めてあります」
「名は、何というたかなあ」
「申しわけありませぬ。失念いたしました」
「若はおぼえておらぬか?」
「はあ、わたくしも……」
座中だれ一人、名を記憶している者はいない。あのとき正体を言い当てたのは花野井左馬介恒光であった。
「左馬介を呼べ」
ということで、取るものも取りあえず彼は遠侍《とおざむらい》から駆けつけてきた。
「いつぞやの珍物じゃが、一同はたと、名を忘れた。なんと申す物であったかな?」
その場かぎりの思いつきで、いい加減なことを言っただけだから左馬介自身にもおぼえがない。内心すくなからず狼狽はしたけれど、そしらぬふりで応じた。
「あれは『ひひりひつ』でござりまする」
「ちがいますッ」
大声でさえぎったのは給仕の一人に混っていた園生だった。
「なんといったか私も忘れましたけれど、たしかあのとき左馬介さまは、もっと違う名をおっしゃった気がしますわ」
「いいや、『ひひりひつ』です」
「わたくし毎日、克明《こくめい》に日記をつけております。あの日のことも書きとめました。日記を見ればわかるはずですよ」
「これはでかした」
若殿が褒めた。
「持ってまいれ園生」
私室へ園生は走ってゆき、すぐさま日記をかかえてきて若殿に渡した。
「あれは私の、婚約が調った日だったな」
日付を繰って、若殿はただちに該当箇所を見つけ出し、声に出して読みあげた。
「ええと、なになに……『明石より珍物到来。大殿さまの御下問にまかせ、新参の武者左馬介どの、くぐるぐつと返答せらる』か」
左馬介は赤くなり青くなり、また赤くなり、青くなった。
「そ、それは、かような次第でござる。つまり生《なま》のときは『くぐるぐつ』、干物になれば『ひひりひつ』と申しまする」
広間中が爆笑に揺れた。苦しまぎれのこじつけであることは、もはや明白だった。
居たたまれずに左馬介は逃げ出したが、腹の中は煮え返っていた。
(もう、この屋敷にはいられない)
彼は思いつめた。美男で腕が立つ。頓才もきく。女たちにちやほやされつけているだけに、わずかな屈辱にも敏感にきずついた。
(即刻、退身しよう。奉公口なんぞ、どこにだってある)
それにしても憎いのは園生だ。
(あの女、鬼九郎と仲がよかった。近ごろ妙にあいつを庇《かば》っていた。男になり代って、おれに腹いせしたにちがいない)
まさか女に暴力をふるうことはできないが、行きがけの駄賃だ、鬼九郎を叩き斬って溜飲をさげてやろうと決意した。
(どこにいるか、あの腰ぬけ鬼めは……)
血まなこで邸内をうろつくうちに、厨口《くりやぐち》の石井戸の脇でようやく見つけた。鬼九郎は霜夜の地面にしゃがみこんで、燃し木を割り裂いていたのだった。
どんなに人使いの荒い屋敷でも、元日から奉公人を働かせる無茶はしない。大納言家でも三日は屠蘇《とそ》が振舞われ、酔って唄うぐらいは大目に見られている。
鬼九郎が暗がりの底にかがまってごそごそやっていたのは、例によって手のろいために、大晦日のうちに片づけておかなければならなかった薪割りを、半分近く残してしまったためである。
酒は飲めない。唄もうたえない。することがないので餅腹をこなしに裏へ出て、コツンコツン鉈《なた》を動かしている背後から、左馬介はいきなり無言のまま斬りつけた。
「わッ、だれじゃア」
仰天して立ちあがりかけた鬼九郎が、薪の束に踵《かかと》をぶつけて尻もちをつく。
「助けてくれえ、人殺し……」
ひっくり返された亀さながら手足をあがいてばたつく胸もとへ、必殺の一撃を左馬介は振りおろした。
「ぎゃああ」
鬼九郎の口から悲鳴が溢れ、
「変な声が聞こえたぞ。どこだどこだ」
厨《くりや》からも牛飼い部屋からも、争って人がとび出して来た。さっと左馬介は門外へ消える。逐電したのである。
騒ぎにおどろいて園生も駆けつけたが、倒れている鬼九郎にすがりついて、
「しっかりするのよ。どうしたというの?」
ゆすぶり立てた。
「胸を、まっ二つに断ち割られた。おれは死ぬよ園生さん。あんたが好きじゃ。惚れとったのじゃが……それも空《むな》しゅうなった。さようなら」
「なにを寝ぼけてるのさ。血なんか一滴も出てないじゃないの」
「そういえば、痛くも痒くもないな」
こわごわ起きあがって、胸もとへ手を入れてみた鬼九郎が、
「わかったッ、命びろいできたわけが……」
懐中から引きずり出したのは、そんなもの、貴様にやる、と老家司におこられて、すごすご受け取った金物《かなもの》の地蔵尊だった。安置する場所もないまま、ふところに入れて持ち歩いていたおかげで、危いところを助かったのである。
――桜の蕾《つぼみ》がふくらみはじめるころ、鬼九郎と園生は夫婦になった。典型的な嬶《かかあ》天下だが、
「そのほうが、うまくゆくじゃろ。あの組み合せでは、な」
仲立ちしてくれた家司はニコニコ顔で保証し、じじつ家庭は円満であった。
陰火の森|奇譚《きたん》
1
わたしが、この目で見た世にも奇怪な出来ごとを、どう話したら、あなたに信じてもらえるだろう。わたし自身、旅から帰った今なお、なかば惑《まど》い、なかば疑っているくらいなのだから……。
でも、あの事は、けっして夢でも幻でもない。まちがいなく、わたしが体験した真実なのだ。人里はなれた山奥などでは、まだまだ、人智でははかり知れない不思議が、息づいているということか。
うら若いその尼に、わたしがはじめて遇《あ》ったのは、越中の国から越後へぬける海ぎわの、洞窟の中でだった。
おそらくあなたも、名だけは耳にしているにちがいない。北陸道《ほくりくどう》のうち一番の難所と恐れられている『親《おや》不知《しらず》』の険……。
三月の下旬というのに、北風が吹き荒れ、寒さもきびしかった。青海《おうみ》という村で、わたしはじゅうぶん仕度した。蓑笠《みのがさ》で身をつつみ、さらに下半身を腰蓑、両腕を袖蓑で覆って、寒気《かんき》を防いだが、それでもわたしに、雨具のたぐいを売り渡した店棚の主人は、
「お気をつけて行きなされやお役人さま」
くどくど念を押したものだ。
「なにせ、親は子をかえりみるいとまなく、子もまた親に、かまってはおれぬ急場ゆえ、親知らず子知らずと名づけられたほどの難所じゃ。見ればまだ、お若いが、血気にまかせて無理をしなさるなや」
「わかっている。くれぐれも気をつけよう」
うなずいて、わたしは青海の村落を出た。ここから一里少々で、歌という名の村落にかかり、村をはずれると第一の難関、駒返しの岩場となる。
一方は海、一方は大岩の鼻……。その岩をわずかに削って、幅一尺ほどの小道がつけてある。馬ではとても通れない。東から来ても西から来ても、ここで馬を帰さなければならないため、駒返しと呼ばれている場所だ。
でもまだ、細くても道があるだけましなのである。駒返しから先、二里半ばかりのあいだこそ難場であった。のしかかるばかりな断崖絶壁が、頭上にたかだかとせり出していて、岩礁の裾を波が洗っている。
打ち寄せては引く波の間合《まあ》いを見はからいながら、岩をとび越し濡れ砂を踏んで、懸命に崖の下を走るのだ。
波はまた、すぐ寄せてくる。身の丈よりも高い北海の巨浪だから、ぐずついていればたちまち、沖へさらわれてしまう。断崖のところどころに、避難所代りの洞穴《ほらあな》がうがってあって、旅人はそこにとび込むわけだけれども、海の荒れる季節など、どうしても次の洞窟まで行きつくことができず、食い物も水もないまま浪にとじ込められて、五日も十日も穴の奥にひそんでいなければならないことすら、珍しくないという。
二里半のうち、ことに危険な五、六丁ほどのあいだを『親不知』と呼ぶわけだが、いよいよこの難所にさしかかってみると、時おり風花か霰《あられ》か、白いものの舞う曇天に恐れをなしたらしく、旅人の姿はだれひとり、夕近い磯辺に見かけなかった。
(自分だけか)
ちょっと心細くもある。まさかしかし、波に呑まれるようなへまをすることはあるまい。
(思い切って走ろう)
度胸をすえ、ぶつかって来た大波がざあーと引く瞬間を見さだめて駆け出した。
最初の洞窟へ、かろうじてとび込む。波が襲いかかって、穴の口をふさいだ。蓑も草鞋《わらじ》も一度でぐしょ濡れである。二里半ものあいだ濡れつづけて走るうちには、バリバリに凍りつくかもわからない。
(なるほど、大変な難所だな)
これでは親子の仲でも、相手を気づかうゆとりはあるまい、身ひとつを無事に渡すのが精一杯だろうと、しんそこ合点いったとたん、寒さ、恐ろしさが身に沁みた。
ここまで来てしまった以上、まさかでも、引き返すわけにはいかない。覚悟をきめて穴からとび出す……。波が引けた渚《なぎさ》は、やや幅を持つ砂地もあるけれど、大方は岩のごろごろする荒磯だ。
ふと目をこらすと、足場の悪いそんな波打ちぎわを、平地を行くように駆けてゆく旅人のうしろ背が見えるではないか。
(や、お仲間がいたぞ)
にわかにわたしは心づよくなった。どうやら僧らしい。黒い法衣が風にひるがえって、まるで蝙蝠《こうもり》でも飛ぶに似た身軽さである。
(ようし、負けるものか)
こちらも武官。しかも若い。道づれになるつもりでやみくもに走った。
洞窟をひとつとばし、三ツ目にとび込んで波を避けたが、次を目ざして出てみるとどこへ行ったか、僧の姿は消えている。
(いくら何でも、波に持っていかれたわけではなかろう)
穴の一つに入ったまま、ひと休みしているにちがいない……そう判断して四ツ目、五ツ目とたどるうちに、案のじょう追いついた。僧は僧でも、年のころ十七、八――。匂うばかりな美貌の尼僧だったのだ。
正直、わたしは呆れかえった。男ですらためらう『親《おや》不知《しらず》』の難所。それも日没にまもない荒天の下を、いかに修行とはいえ女の一人旅で突破しようとくわだてるなど、大胆を通り越して無謀ではないか。
とび込んで来たわたしを見てさえ、さして驚く気配もなく、
「すっかり濡れてしまいましたので……」
言いわけめいてつぶやきながら、しきりに法衣の袖や裾をしぼっている。
「お達者ですな、足が……。岩礁をものともせず走ってゆくお姿を、遠く見かけたときには、てっきり男と思いましたよ」
「旅馴れていますから、足だけは強うございます」
ニコと笑うと、糸切り歯が愛らしくのぞいて、年相応のあどけなさが身体じゅうににじみ出た。
わけもなく、わたしの胸は躍った。ひと目で可憐な、そしてけなげなこの、廻国|行脚《あんぎや》の尼に、魅せられてしまったのである。
二人は名乗り合った。
「わたしは佐伯《さえきの》真依《まより》。やはりあなたと同じく、諸国を歩いて見聞をひろめようとこころざしている者です」
「わたくしは琅澄《ろうちよう》と申します。能登《のと》のさる尼寺に籍を置く身。ひとを訪ねる用があって、信濃までまいる途中でございます」
「あてのある旅だったのですね」
「はい、母を訪ねに……」
「お母さんを?」
「生みの母の居どころが、おぼろげに知れたものですから……」
琅澄尼はそれだけ言って、あとは言葉を濁したが、聞くなりわたしは、胸がいっぱいになってしまった。若い身そらで出家するなど、いずれ入り組んだ事情があるにきまっている。どこといって、わたしの旅には目的がないのだから、生母の家とやらまでぜひ、送って行ってやろうと、とっさに心に決めたのである。
「そんなに濡れては寒いでしょう?」
「ええ、少し……」
「いっそのこと法衣をぬいで、下の白衣だけになっておしまいなさい。そして、これを着たらいい」
自分の上衣《うわぎ》を、わたしは琅澄尼に与え、ついでに三つの蓑《みの》を三つともぬいで、これも尼に着せかけてやった。
「こんなことをなさったら、あなたが濡れてしまいますわ」
「大丈夫。わたしは剣で鍛えた身体です」
「わたくしだって、修行中の身ですよ」
「はははは、男と女では、鍛え方がちがう。風邪を引いたら困るでしょう?」
遠慮するのをむりやり、承知させて、
「では、行きましょうか」
洞窟の外へ出た。
うす墨色の曇り空は、いよいよ濃さを増し、吹きつける風の力、波の烈しさも一段と強くなったが、それからの二人は手をつなぎ合って、穴から穴へ、むしろ嬉々として走りつづけた。
引く波の呼吸をはかり、寄せてくる寸前に次の穴へとびこむ緊張も、二人でならば何かの競技さながら楽しく、たまに逃げそこなって飛沫《しぶき》をかぶるたびに、
「ひゃあ、やられたッ」
「こんどはじくじらないでね」
笑い合い、はげまし合って、難所がいっこうに苦にならなかった。
あっというまに二里半の道のりをこなし、市振《いちぶり》の駅についたころには、琅澄尼とわたしのあいだには兄妹のような親密さが生まれていた。
その夜は市振の豪農の家に泊ったけれど、家の者はわたしらを、何と見たろう。一人は若い武官、一人は尼僧……。
「ただの道づれだよ」
との説明に、納得《なつとく》したかどうかはわからない。お連れさまということで、一つ部屋に二つ、床をのべてもらって寝たが、むろん、なにごとも起こるわけはなかった。
はじめから琅澄尼は、わたしの良心を信じきっていたし、愛らしいと思えば思うほど、わたしもまた、彼女の信頼を裏切ることができなかったのだ。
「きたない洗い場だが、湯が沸いている。潮を浴びて、身体がべとついたろう? あたたまって来たらどうかね?」
すすめても、
「いいんです。井戸端で手足を拭いたから」
琅澄尼はかぶりを振ったし、特にたのんで調えてもらった精進の膳にも、あまり箸をつけなかった。
「おなか、すいていないのかい?」
「おいしいわ」
「もっと食べたらいいのに……」
「なんだか落ちつかないの。ふつうの家なんかに泊ったので」
行脚の旅では、よくて寺々の庫裏《くり》に寝させてもらう。それがかなわなければ村はずれの辻堂、破れ堂……。木の下での野宿すら珍しくない。水解きのそば粉や干し飯《いい》、粟《あわ》の粥《かゆ》、そんなものに馴れている日常だと聞かされて、琅澄尼の若さが、わたしはいっそう痛々しくなった。質素な修行の明け暮れでさえ、壊《こわ》すことの出来ない肌の艶《つや》、表情の張り……。美しければ美しいなりに、娘ざかりを墨染めに包んでいる現実が、哀れまれてならなかったのだ。
――床を並べて、やがて寝た。
難所を馳け通した疲れが、さすがにどっと出たのだろう、横になるとまもなく、わたしは熟睡してしまったが、明け方、人の騒ぐ声で目がさめた。どうやら裏の空地らしい。
琅澄尼はもう、起きてい、わたしに背を向けて小さな肩荷をくくっていた。そして、
「なんのさわぎかね?」
わたしの問いかけにふり返って、
「あ、お目ざめ? おはようございます」
あかるい声で挨拶した。いかにも爽かな、朝の笑顔だった。
「どこかでガヤガヤ言い合ってるな」
「そうねえ、なんでしょう」
手巾《しゆきん》をつかんで、わたしは井戸へ洗顔に行き、ついでに背戸へ廻ってみた。鶏《とり》小屋のまわりに羽毛が散乱し、咬《く》いちぎられたにわとりの、血まみれの首を手に取って、
「イタチじゃなかろうか」
「いや、この荒らしようは野良犬ですぜ」
家の主人と下働きの奴婢どもが詮議し合っているさなかであった。珍事はどうやら、夜中に起こったようだ。固くしぼった手巾で衿もとを拭きながらわたしは部屋へもどったが、中へ入りかけて、ふと、棒立ちになった。
まだ、せっせとうしろ向きになって、荷をしばっている琅澄尼……。その法衣の裾に一枚、血のついたにわとりの羽根がひっかかっていたのである。
2
訝《おか》しいと、一瞬、思った。しかしすぐ、きざしかけた淡い疑いを、わたしは脳裏から振り払った。風にとばされて、部屋へ舞い込んで来た羽毛かもしれない。わたしより先に顔を洗いに出た琅澄尼に、井戸端で附着したものかもしれないではないか。
「お待たせしてすみません」
と下婢の一人が、朝餉を運んできたころには、にわとりの一件など、もう、どうでもよくなっていたし、まして宿を出て歩きはじめると、昨日とは打ってかわった上天気に心がはずんで、きれいさっぱり、わたしは疑念を忘れてしまった。
「信濃のどこであれ、あなたの行くところまで送ってゆくよ」
との、わたしの申し出に、琅澄尼は目をまるくして、一応、
「だめだめ、道草を食っては……」
辞退したけれども、聞き入れそうもないと知ると笑い出して、
「もの好きねえ」
けっきょく同行を承知した。
姫川に添って北に折れ、五、六里行くと越後、信濃の国ざかいである。安曇野《あずみの》を縦につらぬいてまっすぐのびる山峡の道……。海は背後に去り、春のいぶきにあたりは薫《かお》っている。『親不知』の荒天に、胆《きも》を冷やした思い出が嘘のようなのどかさ、うららかさだ。道中は気持よくはかどった。
「琅澄の琅の字は、きれいだね。青い宝石……琅※[#王へん+干]《ろうかん》の琅だろう?」
「そうよ」
「それがしかも、澄み透《とお》っている。あんたに似合うよ。だれがつけた法名なの?」
「お師匠さまだわ。わたしを拾って、これまで育ててくださった老尼さま……」
「拾った、とは?」
「捨て子だったんですって、わたし……。長野の善光寺へお参りするつもりで、お師匠さまはたった一人、山越えしかけて道に迷ったそうよ。そして陰火の森と里人が呼んでいる森の奥で、泣きしきっていた赤ン坊のわたしを見つけ、法衣のふところに抱いて来てくださったの」
「陰火というのは、人やけものの屍体から燃える燐《りん》の焔だろう? そんなうす気味わるい名がついた森の中などに、なぜ赤児が捨てられていたのかなあ」
「わたしにはわからない。もしかしたら狼がくわえて来て、餌食にしかけていたのかもしれないわね」
「人の足音がしたので、離して逃げたか」
「だからお師匠さまも、当座、里へおりてあちこち、赤ン坊を拐《さら》われた家はないか訊《き》き合せて廻ったそうよ。でも、一軒も名乗り出る者などなかったので、仕方なく能登の庵室へわたしを抱いてもどったんですって……」
「それなのに、今になって生みの母親がわかったわけか」
「たしかではないの。風の便りに聞いた噂だけど、陰火の森にほど近い戸隠《とがくし》の山ふところに、滝麿《たきまろ》という猟師がいて、どうもその猟師ののち添えの妻が、わたしの母親らしいと告げてくれた旅人がいたのよ」
「たしかめにゆくわけだね」
「ええ、お師匠さまがすすめるので……」
「もし、しんじつ、滝麿の女房が生みの母だったら、能登へは帰らずに、そばでくらす気?」
「わからないわ、それも、どうなるか……」
深い、謎《なぞ》のような澄んだ眸《め》で、空の一点を琅澄尼は凝視した。あどけなさが消え、いきなり表情に凄みが添ったが、それはほんの、ひとまたたきの翳《かげ》りにすぎなかった。すぐ、もとの無邪気な微笑にもどって、
「戸隠山のいわれ、ごぞんじ?」
話題を変えた。
「大むかし、天照大神《あまてらすおおみかみ》が天の岩戸に隠れたことがあるでしょう?」
「うん、神話に出てくるね」
「そのとき手力男命《たぢからおのみこと》という神さまが、岩戸を力いっぱい引きあけて、思いきり戸を遠くへほうり投げた。それが落ちたところが、信州の戸隠山なんですってよ」
「こじつけたもんだなあ」
笑い合うたのしさが、一日すぎるごとに一日ずつ減っていくのが、わたしには情けなかった。いつまでも琅澄尼と一緒にくらしたい。生母との邂逅をきっかけに彼女が還俗し、妻になると約束してくれたらどんなにうれしいか。旅などすぐさまとりやめ、都へわたしはとんで帰って、両親や兄の許諾をとりつけるだろう。万一、家族のゆるしが得られなかったら、官途への望みを捨てて滝麿とやらの入り婿《むこ》になり、山里に、猟師としての一生を朽ちさせたって惜しくはない……。そんな思いつめ方をするまでに可憐な尼への恋情は、わたしの中で育ってきつつあったのだ。
――戸隠の村を目ざして、わたしたちは旅をつづけた。森上という村落から、街道を左にそれて、峠をひとつ越えると、まもなく小川のせせらぎ伝いに、戸隠への道があらわれる。どこまでもたどれば、やがて善光寺へも行きつくひとすじ道だと教えられて、
「もうじきらしいね」
わたしたちはうなずき合った。
師匠の老尼に、琅澄は道順を示す絵図を書いてもらってきたけれども、十数年前、それも迷い迷いたどった記憶がもとでは、たよりないことおびただしい。
やっと戸隠村にたどりつきはしたものの、
「陰火の森? はてなあ」
そこから先が、かえってだれにたずねても、要領を得なかった。
「滝麿という狩人なら、名は聞いたことがある。もっともっと、家は奥だろうよ」
「奥というと?」
「戸隠|権現《ごんげん》の、奥宮が鎮座するあたり……。お山のふところよ。木樵《きこり》も入らぬ深い森が、あのあたりならたんとあるでな」
戸隠の神をまつる社《やしろ》は、天台宗の寺院に管理され、修験道の道場でもあった。
わたしたちは宿坊に泊めてもらい、あくる日まず、中宮さして登ったが、ここまでは参詣人の姿なども見えて、道はさほどけわしくない。しかし中宮をすぎ、奥ノ院にかかると木立は鬱蒼と頭上を覆い、昼なお暗い急坂となる。
むかし役《えん》ノ行者が、九頭の怪竜を封じこめたと伝えられるぶきみな洞穴……。社人の語るのを聞けば、毎朝、清浄な火で調理した神供《しんぐ》を穴の口にそなえ、あとをけっして振り向いて見ずに帰るのだという。
「あくる朝、行くとな。お供物はあとかたなく無くなっておりますのじゃ」
「竜神が食べるのでしょうか」
「むろんじゃ。わけて好まれるのは梨の実でな。穴の中へころがすと、まっ暗な闇の底からバリリ、バリリ、梨を噛み砕き給う音が聞こえますじゃ」
社人が去ったあと、琅澄尼はうす笑いを片頬に浮かべて否定した。
「いまどき九ツ頭のある竜神なんかいるものですか。供御《くご》を食べるのは、きっと狼よ」
「まず、そんなところだろうね。狼か、さもなければ狐たぬき、ムジナなどが狙ってかすめ取るのだろうよ」
奥ノ院の背後から、戸隠山への登り道が細くうねってのびている。切り立つような懸崖《けんがい》や奇岩怪石がつらなるけわしい山で、『蟻の門渡《とわた》り』『剣《つるぎ》の刃渡り』など、山伏の行場だけに難所が多い。
「ここからは、女人禁制」
と聞かされるまでもなく、わたしたちは道を横にそれて、陰火の森を目ざした。猟師滝麿の家……。訊こうにも、もうこのへんまで分け入ると、人には遇《あ》わないし人家もない。
うろうろ、歩き廻っているうちに、
「おかしいなあ」
「迷ったのではないかしら……」
不安は少しずつ濃くなった。森をぬけると視界が展《ひら》け、なだらかな斜面がひろがるが、その向うはまた、森……。そしてそれをぬけると再び草地のくり返しで、どれが陰火の森か見当もつかぬうちに日がくれかけた。
「たいへんだ。こんな山奥で野宿したら、まちがいなく狼の群れに襲われるよ。もと来た道を、奥ノ院まで引き返そう」
だが、どこでどう方向をまちがえたか、行けども行けども奥ノ院に帰りつけない。日は落ちて、あたりは闇に包まれてしまった。
「どうしよう琅澄さん」
「あせってはだめよ。けものは火を恐れるというでしょう。焚火をして夜が白むのを待ちましょうよ」
恥かしい話だが、いざとなるとはるかに、年下の彼女のほうが落ちついていた。指図に従ってわたしは枯れ枝を集めにかかったけれど、いくらもまだ、拾わないうちに、
「わッ」
手の枝をとり落として、思わずその場に尻もちをついた。
「燐光だ。青い火が点々と燃えている。琅澄さんここが陰火の森だったのだよッ」
「火じゃないわッ」
琅澄はさけんだ。
「狼の目よ。目が青く光っているのよッ」
「狼だって!?」
わたしの驚愕を察してほしい。いつのまにか、おびただしい餓狼の群れに、音もなく取り巻かれていたのだ。
焚火を作るひまはなかった。手をとり合って、近くにそそり立つ樟《くすのき》の大木へ、わたしたちはよじ登った。
それと見るなり、狼どもは包囲の輪をちぢめて、どっと木の下にむらがり寄る。足もとに燃える無数の青い光芒……。
「陰火の意味がやっとわかった。燐が燃えるのではない。狼の目のかがやきを、火と見ちがえたにちがいないよ」
犬と同じで、狼は木に登れない。わたしたちを見あげて、無念そうにただ、幹の根方をぐるぐる回っている。
そのうちに、訝《おか》しなことが起こった。
「滝麿の嬶《かか》を呼んでこい」
人間の言葉で、たしかにそう、命じる声が聞こえたのだ。
「だれかいる」
わたしは琅澄にささやいた。
「狼どものうしろに、人がひそんでいるらしいぞ」
いくら目を凝《こ》らしても、でも、凶暴なけものの犇《ひしめ》きのほか、何も見えない。
「滝麿の嬶と言ったようね」
「猟師の滝麿……。その妻なら、探し求めているあんたの母親じゃないか。いったいこれは、どういうことだろう」
一匹が、いっさんに馳け去って行ったと思うまもなく、新たにいま一匹、どこからか仲間をつれてもどって来た。面《つら》つきたくましい、とびぬけて巨大な、四肢もがっしりと太い牝《めす》狼であった。
3
狼群《ろうぐん》中の、さしずめ支配者と見えるその、牝狼は、樹上のわたしたちをしばらく睨みあげていたが、やがて、
「わけはない。つぎつぎに肩車を組めば梢まで届く。わしをまず、肩に乗せろ」
と、低い、しゃがれ声で仲間に言った。
わたしは耳を疑った。聞きちがえではない、まさしく牝狼は、人語をしゃべったのである。なんという奇怪さ……。夢ではないかと、呆然、下を見おろしているまに、一匹の狼が彼女のうしろ脚を肩に回した。そいつのうしろ脚をまた、次の狼が肩に乗せて立つ。みるみるうちに梯子《はしご》状に、狼の鎖《くさり》が幹に添って伸びはじめた。
「えらいことになった」
統率力ばかりでなく、巨大な牝狼は悪智恵も抜群なしたたか者なのだろう。
「もっと上へ登れ琅澄さん」
次から次へ、肩車の丈を伸ばしてくる狼に追われて、わたしたちも樟の大樹の、枝から枝へよじ登ったけれども、しょせん、木の高さには限りがあった。狼群の数の多さには、とてもかなわない。
「追いつかれるッ」
恐怖に、わたしの全身は粟立《あわだ》った。肩車の、一番上に乗っているのは、当然のことながら、あの牝狼だ。
深紅の舌、するどい牙をのぞかせた大きな口……。らんらんと光る両眼が、最下段に一匹、狼が加わるごとに、じりじり足もとへ迫ってくる無気味さは、気が狂うかと思うばかりだった。
これ以上、もう逃げ登るせきがないところまで、ついにわたしたちは追いつめられた。
牝狼の前肢の爪が、わたしの足にかかろうとする……。たまりかねて、わたしは抜刀した。
「やめてッ」
琅澄尼の悲鳴が炸裂したが、それより早く、白刃の切先は牝狼の眉間《みけん》を突き刺していた。
「わおうッ」
おそろしい絶叫とともに狼の梯子は崩れ、よろめき逃げてゆく牝に従って、さしもの群れが四散した。
「助かったッ、いなくなったぞッ」
木の上にぐずぐずしていたら、また引き返して来て肩車を組むかもしれない。
「今のうちに逃げよう」
尼をせき立ててわたしは樟の大木をすべりおり、無我夢中で森のはずれまで走った。
草地の向うに、ポツンと灯が見える。
「しめたッ」
人家があったのだ。
「あすこに、とびこみさえすれば……」
まさか狼も追っては来れまい。火があろう。防ぐ道具もあるにちがいないと狂喜して、琅澄尼の手を曳っぱりながら、足のつづくかぎり野を馳けた。
近づいて見ると、それはみすぼらしい一軒家だった。煤《すす》けた蔀障子《しとみしようじ》をすかして、うすぼんやりした柑子《こうじ》色の灯が滲《にじ》み、パチパチと榾火《ほだび》のはぜる音もする。
「助けてください。旅の者です。狼に狙われて、やっとここまで逃げて来ました」
わたしの声に、にぶく応じる男の声がして、蔀障子が中から開いた。
「はいりなせえ」
五十なかばと見える髭むじゃの、しかし、人は好さそうな男である。粗末な野良着の上に毛皮の袖なしを羽織り、髪はひとまとめに、藁《わら》しべでくくっていた。
「狼に襲われたと?」
尼と武官の組み合せに、けげんそうな目をじろじろ当てながら、男は言った。
「はい。あやうく命を落とすところでした」
「そりゃ難儀な目にあったのう。まあ、掛けなされ。炉端に湯も、沸いているけに……」
「ありがとうございます」
蘇生の思いとは、このことだろう。すすめられるまま上り框《がまち》に腰をおろし、ようやく人ごこちを取りもどして、わたしは家の中を見回した。
土間の羽目板に、古ぼけた弓矢、はじき罠《わな》などが立てかけてある。けものの皮も幾枚か、天井から吊りさげられていた。
(さては……)
と、わたしは思い当った。
「あなたはもしや、猟師の滝麿どのではありませんか?」
念のためたずねると、
「おう、滝麿はわしでござるよ」
朴訥な、うなずきが返ってきた。わたしと琅澄尼は、つい知らず顔を見合わせてしまった。
「滝麿の嬶《かか》を呼んでこい」
狼どもが口にした、あの奇怪な人語の謎……。猟師の妻に会うことで、それは解けるのではないか――そう思ったとたん、
「ううむ」
どこからか、苦しげな呻《うめ》き声が聞こえてきた。框からわたしは腰を浮かして、
「ご病人でもいるのですか?」
奥をすかし見た。
「なに、怪我人《けがにん》じゃ。女房でござるよ」
「ご家内が?」
「寝しなにひっかけた粕酒《かすざけ》が効いてな、わしは前後不覚じゃった。いつ女房が起き出したか、気もつかずに高いびきかいとったが、不意に『痛いッ、痛いッ』とわめく声がしたでびっくらして裏へ出てみた。するとな、眉間《みけん》から血を出して、女房が倒れておったのよ」
「!?」
「厠《かわや》へ起きてつまずいて、縁から下へ落ちたのじゃという。運悪く、切り石にでもぶつけたか、なにせ、えらい怪我じゃ。胆がつぶれたなあ。ようようかつぎ入れて、つい今しがた、炉部屋の奥の塗り籠《ごめ》に、横にならせたところでござるよ」
このとき、土足のまま琅澄尼が、いきなり炉端へとびあがった。
「母さん」
さけびながら塗り籠へ馳けこむ……。
「母さん、母さんッ」
あわてて追いすがったわたしと滝麿が、くらがりで目にしたのは、四十がらみの、ぼうぼうと髪をふり乱した大柄な女に、すがりついている琅澄尼の姿だった。
「おまえはだれじゃい?」
「娘よ、あなたの……」
「娘?」
臥所《ふしど》から女は起きあがって、吟味するようなまなざしを、尼の面上にあてた。するどい、射つけるに似た眼光である。まさしくそれはけものの目……。闇夜に青く燃える狼の両眼であった。
「はるばる能登からやって来たの。わたしはあなたの仔《こ》――。あなたたちの仲間にもどりたいのよ」
「なるほどのう。思い出したわ」
女はニヤと笑った。額にこびりついている血糊が、険悪な形相《ぎようそう》を、いっそう凄みのあるものにしていた。
「むかしむかし、まだ、わしが滝麿どのの女房になる前じゃ。森の中で、一匹の牡《おす》狼に襲いかかられ、組み敷かれた。抗《あらご》うて、かなう相手ではない。ずたずたに着物を裂かれ、慰《なぐ》さまれた。あげく孕《はら》んで、女の子を生んだが、父《てて》狼に返すのが順じゃと思うて、森の口に捨てて来た。そのときの赤児が、大きゅうなったというわけか」
「証拠を見せましょうか」
「おう、見せい」
琅澄尼は法衣をぬいだ。わたしの視線――いや、わたしの存在すら、いまはもう、まったく眼中にない様子で、下着まで、一枚も残さずくるくる、剥ぎ取ってしまった。
「あッ」
わたしは息を詰めた。こんもりと、二つの乳がもりあがった胸、なだらかな肩から腹にかけての前面は、透きとおるばかり美しい娘ざかりの肌なのに、琅澄尼の背中には腰までくろぐろと、狼の剛毛《ごうもう》が密生していたのであった。
「まちがいない」
満足げに、女は目をほそめた。
「わしの仔じゃ。たしかにおまえは、森の仲間の一人じゃ」
「迎え入れてくれるのね?」
「ようここまで、大きゅう育ったな」
「帰りましょう母さん、仲間のそばへ」
「よしよし」
あっけにとられて、わたしは口がきけなかった。滝麿も同様だ。
ほとんど腰をぬかしたにひとしい男たちのかたわらを、一陣の魔風さながらすりぬけて、母と娘は戸外へ走り出た。
「まてッ、まってくれ」
わたしは土間へよろめきおりた。
「どこへゆくだ女房、おめえ、遠くへ行っちまうだか!」
滝麿もおろおろ、女を追って戸口を出たが、わたしたちの呼びかけにも制止にも、母と娘は耳をかすそぶりさえ見せなかった。
外はいちめん月光に濡れていた。躍り出た女二人は、
「おう、うおう」
歓喜の声をあげると、そのまま、もつれ合うように草地を馳け出した。黒い巨大な影が、横ひろがりに野のはずれを隈《くま》どっている。陰火の森だ。
まっしぐらに、森蔭を目ざす母のあとを、おくれじと琅澄尼もついて走る。吸いこまれるように二人の姿が消えたせつな、
「わおう、うおう……」
森ぜんたいをゆるがすほどの、狼群《ろうぐん》の咆哮《ほうこう》が湧き起こった。
これがわたしの、目撃のすべてだが、おそらく信じてもらうことは、むずかしいにちがいない。
わたしの恋は壊《つい》えた。世にも不思議な秘密と共に、森の闇に呑まれてしまったのだ。可憐な尼僧の背を、いちめんに覆っていたおぞましい狼の毛……。その出生の秘事を推量していたものは、生み落とした母親と、拾って育てた老尼のほか、当の琅澄尼のみだったろう。
今にして思い当る。人なみすぐれた足の迅さ、入浴をこばんだ理由、そして、にわとりの生き身を啖《くら》った無残さまで、すべて狼の性《さが》がなせる業《わざ》だったのだ。さすがにはばかって|琅※[#王へん+干]《ろうかん》の琅の字を法名に与えはしたけれども、じつは老尼の本心は、けもの偏にあったのではあるまいか。
都へもどった現在、戸隠での目撃をふり返ると、幻覚としか思えない。しかしこうして、あなたを相手に打ちあけ話をしている今の今、あの信濃の山奥、陰火の森では、おびただしい狼群にまじって、今宵、中天にあると同じ月を、彼女らもかならずや、仰ぎ見ているに相違ないのだ。わたしにはわかる。吠え声まではっきりと、耳に響いてくるのである。
板きれの謎
1
丹波路の秋は深い。ひるさがりの村は静まり返って、トン、カラリ、トン、カラリと小奈手《こなで》の織る蓆機《むしろばた》の音だけが、のんびり、あたりに流れていた。
「おるかあ、小奈手さんやあ」
と、遠くで声がし、みるみるその声は近づいて、
「たいへんじゃぞう」
庭さきへ廻りこんで来た。
「真船《まふね》どのが馬に蹴られた。大怪我《おおけが》じゃ。すぐ行ってあげなされ」
村はずれの、水車小屋の爺さまであった。
「夫が怪我を!?」
「おう、蹴られたばかりか、したたか胸を踏みつけられた。ことによったら命にかかわるかもしれぬぞ」
老爺のわめき声で犬が吠え出し、伏せ籠の中で鶏までが、ばたばたいっせいに騒ぎ立てた。つい、今までの、眠けがさすような静寂は、たちまちどこかへ吹きとんでしまったのである。小奈手は往来へ走り出た。
「どこです? うちのひとは……」
「ひとまず、おらの小屋に担ぎ込んである」
駆けつけてみると、なるほど夫の大宅真船《おおやけのまふね》は、なかば気を失って小屋の板の間に横たわってい、顔見知りの村人が五、六人、
「先生、しっかりしなせえよ」
応急の手当をしてくれていた。
真船は貧しい医生《いせい》だった。宮中の典薬寮《てんやくりよう》で医法を学び、優秀な成績で式部省の試験にも合格して、順当にいけばりっぱに、官に所属する医博士にもなれたのである。
それが、こんな片田舎に流れ住むようになったのは、盗みの疑いをかけられたからだった。禁裏の宝蔵《ほうぞう》が破られ、ある晩、砂金の袋ばかりが五個、何者かによって持ち去られるという事件が起こった。
たまたまこの日、宮中に宿直《とのい》していた真船を、宝蔵の近くで見かけたという者が二人まで現れ、家宅捜索など受けたため居づらくなって、辞表を呈出し、自分から官医としての前途に見切りをつけたのであった。
「おれは盗みなど働いてはいない。一緒に宿直するはずだった同僚が、運わるくあの晩、頭痛を訴えて家に帰ったため、宿直室から出なかったことを証明してくれる者がなく、申し開きを聞き届けてもらえなかったのだ」
無念げに言う夫の言葉を、小奈手は信じた。人のものに手を出すどころか、少し融通《ゆうずう》がきかなさすぎるくらい彼女の見るところ、真船は正直|一途《いちず》な性格の持ちぬしなのである。
「嫉《ねた》みよ」
小奈手は推量した。
「それと、あなたの能力をひそかに恐れている者たちの、讒言《ざんげん》にきまっているわ」
医術のかたわら、真船は陰陽道《おんみようどう》に凝《こ》って、易《えき》と天文を学んだことがある。もちろん本業ではなく趣味としてだが、このため常人にはない予知能力と、不思議な咒禁《じゆごん》の術とを身につけることができた。たとえば、
「あすは雨だろう」
と真船が予測すると、かならず雨が降る。大風が吹くと言えば、まちがいなく風が吹き荒れた。
この程度のことなら、かえって重宝がられたかもしれない。しかし、
「だれそれの屋敷の上に、妖しい火気が立っている。火災に遭《あ》わねばよいが……」
そんな口走りが、言葉通りの結果をもたらしたり、人の死期をあらかじめ言い当てたりするようになると、
「うす気味わるい男だ」
次第に仲間うちから敬遠されはじめた。
決定的な隔意は、薬園《やくえん》へ薬草を採取に出かけたさい、葉かげから大きな蟇《がま》が五、六匹這い出し、それを見つけた医生の一人に、
「咒術《じゆじゆつ》で、あいつを殺せるかね真船」
と訊かれて、
「できないことはないよ」
うっかり応じたことからはじまった。
面白い、ぜひ、やってみせてくれとせがまれ、つい断り切れなくなって真船がかたわらの笹の葉を一枚むしり、咒文をつぶやいて蟇の群れに投げると、それが当って、クルリと腹を見せるなり一匹、即座に死んでしまったのである。
2
「あいつは魔神に魂を売り渡した。へたに憎まれて、呪い殺されてはたまらない。近づくな」
と同僚たちに恐れられ、
「宝蔵の鍵だって、真船なら何の造作《ぞうさ》もなく開けるだろう」
との、濡れぎぬになるまで増幅したのだ。
それに懲《こ》りたのか、田舎ぐらしを始めてからの真船は、易学や咒術の能力をひたがくしにして、村人のだれにもけどらせなかった。
ただ、妻の小奈手にだけは、
「なにやら不吉な予感がする。ことによるとおれは、思いがけぬ災難にぶつかって死ぬかもしれないぞ」
と、ひと月ほど前から、こっそりささやいていた。
「いやですよ、あなた。私のお腹にはいま、赤ちゃんが宿っているのですからね、片親になどさせたら一大事ですわ」
「でも、運命ばかりは枉《ま》げられない」
「もし本当に災厄がくるなら、あらかじめ避ける算段をなさるべきでしょう?」
「やってみるさ、むろん、必死でね」
しかし、とうとうかわしきれずに、真船はまだ、二十七の若さで命を落とすはめになったのだ。病人を診《み》に、隣り村の患家まで出かけ、帰途、街道すじで、狂奔してくる暴れ馬の蹄《ひづめ》にかけられたのである。
人々に手伝ってもらって大怪我をした夫を家へ運び、備えつけの薬という薬を取り出して調合を聞きながら、小奈手は懸命に患部に塗布した。痛み止め、熱さまし……。あらゆる試《こころ》みに神経をすりへらしたけれども、内臓が破裂でもしたらしく、病状は重《おも》るばかりであった。
「ざんねんだ。たまらなく気がかりでもあるよ小奈手」
死を覚悟したのだろう、真船は妻の手をにぎりしめて、声をうるませた。
「おれには見えるんだ、先のことがね」
「赤ちゃんは無事に生まれるでしょうか?」
「それは生まれる。案じることはない。たぶん玉のような女の子だよ」
「では、何が気がかりなのですか?」
「子供が三つになった年、ここら一帯はひどい飢饉《ききん》に見舞われるだろう。おまえは女の細腕に幼な子をかかえて、食うや食わずの辛酸を舐めるに相違ない。でもなあ小奈手、ここが肝心なところだから、よくよく耳にとめて聞いておけよ」
苦しい息の下から真船は遺言した。
「いくら飢えても、困っても、この住居《すまい》だけはこんりんざい、手離してはならないぞ」
「家を、売るなとおっしゃいますか?」
「そうだ。つつましい日常の中でたった一つ、われわれの資産といえば、いま住んでいるボロ家しかない。金にかえたところで幾らにもなりはしないだろうし、他に、売ってはならぬ理由もある。どれほどの窮地に落ちても、けっして家だけは人手に渡すなよ」
「わかりました」
涙ながら小奈手はうなずいた。
「それほどまでにあなたがおっしゃる事ですもの、なんで破るものですか。家は手離しません。どうか安堵《あんど》してください」
「よしよし、それでこそおれの妻だが……まだ、ある」
「守らねばならぬお約束がですか?」
「そうだ。飢饉の翌々年――つまり腹の子が五歳に達した年、越前の国府《こくふ》へくだる役人の一行が、村を通過するにちがいない。その中に安倍晴明《あべのせいめい》というなだかい陰陽師がまじって来るはずだよ」
「安倍晴明さまならば、私もお名前はぞんじています」
「むかし、都にいたころ、おれはあの人にたいまいの金を貸した。これがそのときの借金証文だから、大切にしまっておいて晴明どのに見せるがよい。きっと金を返してくれるだろう。子供もその金で、育てられるよ」
枕の下をさぐって真船が取り出したのは、一枚の板切れであった。
受け取って眺めてみたが、何が書いてあるのか小奈手にはさっぱり判らない。文字ではなく、絵でもなかった。天文の記号に似て、小さな点やら線やらが、やたら交錯している不可解きわまる板きれなのだ。
「こんな妙なものをお見せしても、はたして晴明さまに、読んでいただけるでしょうか。ねえ、あなた、……あなた……あッ」
顔色を変えて、小奈手は夫の身体に縋《すが》りついた。
「あなた、しっかりして!」
叫んでもゆすぶっても、反応はいつのまにかなくなってしまっていた。気力ひとつで、かろうじて持ちこたえていた命の灯《ひ》が、真船の体内でついに燃え尽きたのである。
3
――こころぼそい未亡人生活が始まった。夫の葬式を出し、忌日々々の法要を涙ながらいとなむうちに、産み月がめぐってきて、小奈手は赤児を分娩した。予測にたがわず、愛くるしい女の子であった。
そしてその子が、かぞえ年三歳になった秋のはじめ、これも亡夫の予言通り飢饉さわぎが起こった。開花期の長雨にたたられて稲の穂付きが思わしくなかった上に、ウンカがおびただしく発生して、百姓たちの田ンぼは、どこもみじめに枯れ果ててしまったのである。
あらかじめ小奈手は手を打ち、豆や雑穀を買い入れておいたけれど、たいした量でもなかったためたちまち底をつき、毎日を湯に近い薄い粥《かゆ》でしのがなければならなくなった。
自分は我慢するにしても、子供が不憫《ふびん》だった。腹をすかせて、
「母さま、まんま頂戴よう」
泣かれると、小奈手も一緒に泣きたくなる。おそろしい勢いで米や麦、稗《ひえ》、粟《あわ》までが値上りし、わずかな貯えはおろか衣類、髪道具のたぐいまで食べものに代える惨状だった。
「どうしよう、もう売る物がない」
小奈手はボロ家の中を見回す。
「この家……」
どんなに窮迫しても手離すなと言いのこして逝《い》った真船の言葉が、耳に痛く蘇《よみがえ》る。
「でも……」
背に腹は替えられない。目ぼしいものといっては、もはや家しかないのだ。
「このままでは母子《おやこ》二人、飢え死してしまう。遺言にそむくのは心ぐるしいけれど、思いきって……」
と、何度、逸《はや》ったかしれないが、そのたびに小奈手をためらわせたのは、やはり真船の臨終の警告だった。
「夫が私たちの為にならぬことを言うはずはない。家を売るなという以上、かならず何か意味があるのだ。いずれ安倍晴明どのから貸し金を取り立てれば、息がつけるのだし、それまでは歯をくいしばってでも耐えぬこう」
こうしてやっと、飢饉を切りぬけてさらに二年目――。子供が五歳にまで育ったとき、最後の予言が現実のものとなった。越前の任地へおもむくべく、国司の行列が村を通りかかったのである。
街道すじの駅舎で、腰糧《こしがて》を使いながら彼らが休息していると知って、小奈手は例の、奇妙な符号が書かれた板きれを手に出かけて行った。
「ご一行の中に、陰陽師の安倍晴明さまはおられるでしょうか?」
「晴明はわたしだが……」
と駅舎の奥の床几《しようぎ》から立って来たのは、色の青白い、見るからに陰気な五十がらみの痩せた男だった。
式神《しきがみ》という目に見えない鬼を、奉公人さながら自在に使って、晴明は屋敷の蔀戸《しとみど》をあげさせるなどと、都にいたころ小奈手も噂に聞いたことがある。
(いまもこの人のそばには、式神がお供に附いてきているのかしら……)
そう思うと気味がよくない。
「あのう、じつは私は、大宅真船の妻でございます。亡夫が生前、あなたさまにたいまいの金をお貸ししたとのこと……。それを返していただきたくてお訪ねいたしました」
「大宅真船? 訝《おか》しいなあ、はじめて聞く名だし、その人からわしは、借金などしたおぼえもないが……」
カッと胸さきが、小奈手は熱くなった。育ちざかりの幼児をかかえて、あいかわらず生活はくるしい。貸し金を踏み倒されなどしてはたまらないと、せきこんで、
「でも、証拠がございます。これです」
と晴明の、どこか爬虫類を連想させる暗い、沈んだ眼の先へ板きれを突きつけた。
「ほほう」
興味深げに晴明は、謎めいた記号に視線を当てていたが、ニヤリと笑って、
「これは借金証文などではないよ」
板きれを返してよこした。
「おたくの台所土間の、水甕《みずがめ》のとなりに、竈《かまど》が築《きず》かれているはずだ。その真下《ました》、二尺の地の底に金が隠してある、そこを掘れと板の面《おもて》には書いてあるぞ」
「まあ、そんなことが!?」
「真船どのとやらを、わしは知らない。おたがいに一面識もない間柄だが、天下にこの暗号を解読できるものは、わし一人と見越して、板ぎれをこなたに託したのだろう」
「なぜ妻の私に、じかに打ちあけなかったのでしょう」
「ひどい飢饉が襲ったではないか。それでなくても夫に先立たれ、遺児をかかえて悲歎にくれている未亡人だ。俄分限《にわかぶんげん》になれば悪いやつに狙われる、騙される……。悲しみや昂《たか》ぶりが沈静し、世間のさわぎも鎮《しず》まって落ちつきを取りもどした時期に、遺産が手に入るよう配慮したからにちがいないよ」
いまさらながら真船の愛情と、こころづかいの細心さが小奈手は身に沁みた。
晴明に礼を述べて家へもどり、夜ふけを待ってこっそり台所の土間を掘ったが、
(こんりんざい、家を売るな)
と言い残した意味も、今こそ解けて、ひろがる土の香に期待が弾んだ。カチッと鍬《くわ》の先に当ったのは、蓋《ふた》代りにかぶせた銅盤である。小奈手の鼓動がはげしくなった。青い大きな壺が出てきた。女手には持ち余るほど重い。とびつくように蓋をあけてみて、しかし小奈手は、
「ああッ」
へたへたと泥山の上へ尻もちをついてしまった。
壺の中身は砂金だった。錦《にしき》の袋にぎっしり詰まって、数は五個――。
「禁中の宝蔵から盗まれた金にまちがいない。やはり……やはり賊の正体は、真船どのだったのか!」
これだけの財があれば娘と二人、一生、安楽にくらしてはゆける。そのかわり小奈手は、分け持たされた罪の意識と、夫への幻滅とを背に負って、命ある限り歩きつづけなければならなくなったのだ。
「なにしてるの母さま、それ、なあに?」
ねぼけまなこで子供が出てきた。
「何でもないの。お寝間へもどりなさい」
あわてて小奈手は両腕を拡げ、袋の上へ覆いかぶさった。
女と山伏
1
叔母の家へ初《はつ》なりの柿を届けに行った妻の比呂女《ひろめ》が、いつまでたっても帰って来ないので、
「どうしたんだろう、いったい……」
葛麻呂《くずまろ》は不安でたまらなくなった。
「こんなに暗くなってしまった。飯の仕度ができているというのに……。どこで比呂女のやつ、道草をくっているのか」
都の内とはいっても、比叡《ひえ》の山裾《やますそ》に寄ったこのあたりは、夕近くなると人通りがばったり途絶《とだ》え、引き剥《は》ぎの噂《うわさ》すら珍しくない。山犬が群れをつくって出没し、往来の者を襲うなどという物騒なさわぎも、時おり耳にするほどであった。
「もしや、もどり道で、何ぞ災難にでも遭《あ》ったのではあるまいか」
居ても立ってもいられなくなって、
「迎えにゆこう」
と、框《かまち》をおりかけた出会いがしら、
「あ、あんた、どこへ?」
比呂女がそそくさ走りこんで来た。
「どこもここもあるものか。あんまり帰りが遅いから、そこらまで様子を見に出ようと思ったんだよ」
「あいかわらず気が小さいのねえ男のくせに……」
じれったげに比呂女は舌打ちした。
「余計な心配なんかするひまに、智恵を働かせなさいよ智恵を……。叔母さんがいよいよ危《あぶ》ないらしいのよ」
「なんだって?」
こくッと葛麻呂は、なま唾《つば》を呑みこんだ。
「なんでまた、そんなに急に、病気が重くなってしまったんだね?」
「なぜだか私が知るもんですか。とにかく今朝がたから水も咽喉《のど》を通らなくなって、うんうん苦しそうに唸《うな》りはじめたのよ」
「そりゃあ大変だ。見舞いに持っていった柿など、食べるどころではなくなったわけだな?」
「そうよ。私もね、ここが気持の見せどころだと思ったから、召使の女たちに手を貸して、一生懸命みとりをしたの。それで帰宅が遅くなったのよ」
「そうか。わかった。では入れ代りに、こんどはおれが看病に行こう」
「まあ待ちなさい。あわててとび出さなくたって大丈夫。医師を呼んで一応、手当してもらったし、今日あすってことはなさそうなのよ」
「でも、大事な叔母さんの命だ。召使まかせにはできないだろ」
「だめねえ、あんたって人は……。すぐ、度を失っておろおろしちまうんだから……。それより、これからの相談よ。なにせ叔母さんは家屋敷、田や畑をたくさん持ってるし、そのくせ相続人の子がない独り者なんですからね」
出ようとする夫の胸を逆にこづいて、比呂女は家の中へ上ってきた。炉端の鍋から、うまそうな湯気がふきこぼれている。葛麻呂の作った葱雑炊《ねぶかぞうすい》である。
「ああ、お腹がすいたわ。ともあれ、ご飯にしましょうよ」
と、当り前な顔で椀に盛り分け、さっそく比呂女は箸《はし》を取りながら、
「子供はいないけど、叔母さんには甥《おい》や姪《めい》がたくさんいる。あんたもその一人……。遺産はしたがって、だれの手にころがりこむか、わからないってことよね」
目を光らせた。
「うむ」
気重く、葛麻呂はうなずいた。
「みんなが叔母さんの財を狙っている。虎視|眈々《たんたん》というやつだ。一日も早く死ねばいいと内心、思っているくせに、親切ごかしの見舞いは欠かさない。うわべだけの世辞に囲まれている叔母さんが、おれはきのどくでならないよ」
「何を言ってるの、馬鹿ねえ」
比呂女はきめつけた。
「そんな了簡《りようけん》だから、いつまでもうだつがあがらないのよ。貧乏ぐらしから抜け出せる願ってもない機《おり》じゃありませんか。大ぜいの従兄弟《いとこ》どもをなんとしてでも蹴落として、叔母さんの遺産を独り占めする算段をしなければ……」
「やっぱり、それには真心《まごころ》さ。誠心誠意、看病してあげた者に、叔母さんは『財を譲る』と遺言するはずだよ」
「だれだって、そんなことは考えるわ。ながくもない間ですもの、夜っぴて寝なくったって介抱しますよ」
「じゃ、どうすりゃいいんだ?」
「策を構えるのよ」
「策?」
「智恵を絞《しぼ》れとは、ここを言うのよ。従兄弟たちと同じことをしてたら、競争には勝てっこないでしょ」
立てつけの悪い表戸が、がたぴし開いて、
「ごめんよ」
と、このとき、土間に入ってきた巨大漢がある。近くに住む禅応《ぜんおう》坊という山伏であった。
2
「あら禅応さん、ちょうどよいところへ来てくれたわ」
比呂女の声に、弾《はず》みが走った。あきらかな媚《こび》を目尻に滲《にじ》ませて、彼女は言った。
「相談に行こうと思ってたとこなのよ」
「何だね、比呂女さんのためならこのおれさま、ひと肌でもふた肌でも脱ぐぜ」
なれなれしく炉端に胡坐《あぐら》をかいて、
「いい匂いだなあ、葱入りの雑炊かあ」
山伏は鼻をヒコつかせた。
「食べる?」
「ふるまってくれるかい? まだ晩めし前なんだ。このところ祈祷《きとう》禁厭《まじない》の依頼がさっぱりなくてね。金詰まりなのさ」
「片棒かついでくれれば礼はしますよ。じつはね、下京《しもぎよう》に住む葛麻呂どのの叔母さんが、重態に陥《おちい》ったの」
かいつまんで、比呂女は事情を打ちあけた。二杯、三杯と、立てつづけに雑炊をすすりこみながら、
「ふんふん、なるほど」
禅応は耳をかたむけていたが、
「手段が、ないことはないぞ」
これも、ぎょろ目を光らせて言った。
「わしを霊験あらたかな修験者《しゆげんじや》と触れこむのだ」
「叔母さんの家に呼び入れるのね」
「あんたがた夫婦にも、ひと役買ってもらわねばならぬ」
「何でもするわ。うまく口裏を合せるわよ禅応さん、私たち、どうしたらいいの?」
「こういう思案さ」
思いついた企みを、ひそひそ声で禅応はしゃべった。
「なるほど。さすがに頭の回りの早い人は違うわねえ。それならきっと、うまくゆくわ。ねえ葛麻呂どの」
「う? うん……」
「どうしてそう、煮え切らないんでしょう。しっかりしてよ。親類のやつらなんかに、甘い汁を吸われては口惜しいじゃないの」
「そりゃあ、そうだ」
「金がほしくないの?」
「ほしいさ、金は……。わしだって……」
「なら、踏んばってよ。一世一代の賭けなのよッ」
比呂女の鼻息は荒かった。欲に干《ひ》りついて、声までが癇走《かんばし》っている。
よくよく手はずを打ち合せて、
「じゃあ、明日《あす》また、逢おうな」
山伏がやがて帰っていったあと、雑炊の土鍋は底までからっぽだったが、
「ほほほ、よく食べるわねえ禅応さんて……」
それさえ、好《この》もしくてならないように比呂女は笑った。そして、
「さ、行くのよ、もう一度……」
手の裏返す邪慳《じやけん》な口ぶりで夫をうながし、夜道をものともせずに、再び叔母の家へ出かけて行った。
「おう葛麻呂、よう来たな」
病人はいささか持ち直していた。
「いかがです叔母さん、ご気分は……」
「朝がたから胸が差し込んで苦しくて、今にも死ぬかと思うたが、医師の投薬が効いたか、少し痛みが薄らいだようじゃ」
「それはよかった。比呂女から様子を聞かされ、びっくりしてやって来たんです」
「気づかいさせてすまなんだ。でもな葛麻呂、わたしももはや定命《じようみよう》じゃよ。ながいことはあるまい」
甥たち姪たちも遠近を問わず、すでに残らず駆けつけて枕辺《まくらべ》に詰めていた。押しのけるように比呂女はその中へ膝を割りこませながら、大声で病人を励ました。
「叔母さま、縁起でもないことをおっしゃってはいけません。私ども夫婦の知り合いに、たいそう験のある山伏がいるのですけど、ものはためし、呼んで加持《かじ》させてみてはいかがでしょう」
病人は乗り気になった。
「それはよいことを聞かせてくれた。たのんでみてはくれまいかの」
思う壺である。観念し切ったような口をきいても、やはり命は惜しいのだ。
「では、あしたの朝にでも、まちがいなく来てもらうことにしますわ」
と比呂女は受け合った。
3
洗濯したての行衣《ぎようい》に、兜巾《ときん》、篠懸《すずかけ》……。いらたかの大数珠《おおじゆず》をにぎり笈《おい》を背に負うという仰々《ぎようぎよう》しいいでたちで、翌日、禅応は乗り込んできた。吉野山中で修行し、貴顕の召しにもあずかる大先達《だいせんだつ》という触れこみであった。
「たいへんな荒行をやったお方だそうでしてね、重い病気も、二日三日のご祈祷ですっきり治ってしまうと評判なんです」
あらかじめ、病人はじめ居ならぶ親戚たちを煙《けむ》に巻いておいたのは比呂女である。
「ほほう、ここが病間か」
じろりと禅応はあたりを見回し、やおら笈を開けた。よくもまあ、これだけ入ったと呆れるくらい、さまざまな物が中から出てくる。組み立て式の、白木の壇――。その上に幾つもの法具を並べ、香水を満たし、蔵王権現の尊像を安置して、まず印《いん》を結び咒《じゆ》を唱え、もっともらしく真言《しんごん》を誦《ず》したあと、数珠を揉みあげ揉みおろしながら肝胆を砕いて祈祷をはじめた。
大先達などという宣伝は、まっ赤な嘘で、禅応の正体は外見だけのニセ行者、ほんの下っぱの霞《かすみ》山伏にすぎない。効験など、いくらがんばったところで現れっこないのは、だれよりも当人が承知している。治らないのは予定の内なのだが、いかにもしかつめらしく半刻ばかり、鈴《れい》を打ち鳴らし独鈷《どつこ》を振り立てて祈ったあげく、
「うおう」
突如、奇怪な呻《うめ》き声をあげて彼は悶絶した。激しく手足が痙攣《けいれん》する。神憑《かみつ》きに似た状態に入ったとみるまに、やがて夢から醒めた顔で起き直って、
「たったいま、数瞬のまに十万億土へ行ってまいった」
と言い出した。
「あの世でござる。冥府《めいふ》の冥官《みようかん》に会って病者の命数を訊《き》き合せたところ、今宵のうちに消える命じゃと申したわ」
「ええッ、ではわたしは、今晩死ぬのでござりますか?」
叔母は身もだえて泣き出した。
「閻羅王《えんらおう》の命帳《めいちよう》に今日までの寿命と記載されていては、いかにわしが祈ったとて験はござらん。残念至極じゃ」
「なんとかなりませぬか先達さま、助けてさえくだされば、お布施《ふせ》は惜しみませぬ」
「たった一つ逃《の》がれる方法がある」
「そ、それは、どのような?」
「身代りを立てるのじゃ。こなたに代って死ぬ者があれば、当面、命は延びる。その者の寿命分だけ長生きするであろうと、冥官どもも受け合うておったわ」
たちまちさっと、凍りついたような緊張が病間に流れた。甥たち姪たちの顔はこわばって、だれの表情もしらけ切ってしまった。
叔母の遺産はほしい。しかし身代りになって死ぬのはまっぴらである。
救いを求めるに似た病人のまなざしに、そろってもじもじ、うつむいた中で、葛麻呂一人が比呂女に背をこづかれながら進み出た。
「わたしでよければお役に立ちましょう」
「葛麻呂ッ、そなたが!?」
「何やかや、これまで可愛がっていただきました。せめてものご恩報じに、わたしが死にます」
「ああ、ありがたい。拝《おが》むぞよ葛麻呂、この通りじゃ」
掌を合せる叔母の、痩せしなびた手を取って、汗びっしょりになりながら下手《へた》な演技を、教えられた通りに葛麻呂は演じつづけた。
「そのかわり、あとに残る比呂女の身が、曲りなりにも立ってゆくように……。叔母さま」
「わかっているとも。そなたの恋女房じゃ。路頭に迷わせなどするものか」
筆、硯《すずり》を取りよせ、病人はその場で即刻、譲り状をしたためた。
「ほれ、ごらん葛麻呂、比呂女も読んでみるがよい。まだまだ先のことではあろうが、わたしの歿後、この家《や》の財はひとつのこらず、比呂女に相続させるむね、明記してある。だれにも指一本させぬわけじゃ。こうしておけば安心であろう」
「ありがとうぞんじますッ」
異口同音にさけんで、夫婦は病人の枕もとに突っ伏した。
だが、その晩おそく叔母は二度めの発作《ほつさ》に襲われて、あっけなく死亡し、代りに冥途《めいど》へ行くはずだった葛麻呂が、ぴんぴんしているのを見て、はじめて、
「騙《だま》された、山伏と夫婦は同類だったのだ」
従兄弟《いとこ》たちは歯がみしたが、あとの祭りであった。譲り状がものを言ったのである。
比呂女はすんなり、故人の財産を手に入れてしまったけれど、葛麻呂は直後に家から追い出され、入れ違いのすばやさで新夫《しんぷ》の座に納まったのは、山伏の禅応坊であった。
雨夜の声
1
大宅真楯《おおやけのまたて》は顔をあげた。
「風ではない」
しきりに戸をたたく音がする。
「こんなに遅く、しかも雨夜だというのに……。だれだろう」
学んだところで、生かす当てのない虚《むな》しい読書に、目は疲れている。文字を逐《お》いながら頭もかすんで、眠けのためにどんよりと、理解力が鈍りはじめた矢先であった。
「待ってください。いま、あけます」
立ちぎわに、チラと机を見た。戸が鳴る音で、否応なく覚醒させられた視神経が、一瞬、無意識に書物の文字を捉えた。
『爾《なんじ》より出《い》ずるものは、爾に反《かえ》るなり』
ひろげられた個所には、そう書かれていた。孟子《もうし》――。梁恵王の下編である。
真楯は戸口に寄り、
「どなたですか?」
相手をたしかめた。
「旅の者でございます。まことに申しかねますけれども、白湯《さゆ》を一椀、頂戴できますまいか」
女の声だ。若くはない。
「この先の辻堂で雨宿りをしておりますうちに、主人が腹痛を起こしました。薬は持っているのですが、湯で服用せねば効《き》きませぬので……」
「それはお困りでしょう」
掛け金をはずして、立てつけの悪い戸をなだめなだめ、ようやく一尺ばかり真楯が引きあけると、どっと吹き込んでくる風雨に押されるように、声のぬしがよろめき入って来た。推量通り、五十がらみの旅装の女であった。
「さいわい湯は、沸いています。容《い》れ物をお貸しなさい」
「ありがとうぞんじます」
と差し出したのは、小さな錫《すず》の提子《ひさげ》である。炉端の釜《かま》から、それへ湯を移しながら、
「どちらへいらっしゃるのですか?」
真楯はたずねた。
「商《あきな》いをしに、都へまいります」
「遠路、難儀なことですな」
「女ばかりの二人づれ……。ほかに従者とてつれぬ心細い道中で、主人に病まれては途方にくれます。ご親切、忘れませぬ」
礼を述べて、提子を受け取る手が、寒さのためか赤くかじかんでいる。真楯はきのどくになった。
「こんなあばら家《や》だが、住んでいるのは私ひとり……。気がねはいりません。破《や》れ堂よりいくらか風がしのげるでしょう。炉には火もあるし、ここで夜をあかしてはいかがですか?」
よろこぶと思いのほか、女はかぶりを振って、
「お気持、身に沁みます」
辞退した。
「でも、荷物がございますし、病人をかかえて雨中、ふたたび引き移るのも、いささか億劫《おつくう》……。やはり御堂で、空が白むのを待つことにいたします」
強制はできない。去ってゆく簑《みの》の背を見送って戸口をしめ、もと通り机にもどったが、真楯は気が散って書物に集中できなくなった。
女二人きりだと言った。荷を持っている、とも言った。おそらくそれは商品だろう。地方にも聚落《しゆうらく》はある。国府などには市《いち》も立つ。それなのに田舎では販《ひさ》がずに、わざわざ都にまで運ぶのは、高級な品だからではなかろうか。都の目効《めき》き、貴族や金持相手に、高価に売りさばく目的で旅に出たにちがいない。
「品物は何なのか?」
なんであれ、それが女たちにとって、莫大な財産であることはたしかだった。寒さにふるえながらも断乎《だんこ》、家の中で寝られる恩恵を拒否するほど、用心しなければならぬ大切な荷なのだ。
真楯は机上の灯火をみつめた。欠けた小さな灯皿の中で、灯芯《とうしん》が一筋、かぼそい炎をあげている。不安定なその、またたきにつれて、削《そ》ぎ取ったような真楯の顔の輪郭が、影の部分をいっそう濃くした。
食べものを充分|摂《と》っていま少し肥え、衣服もましな物を身につければ、受け合い、人目を惹《ひ》くであろう俊秀な風貌であった。しかし真楯の眸《ひとみ》は暗く、陰鬱な表情の裏にいつも薄い苛《い》らだちを刷《は》いて、時とするとそれは、凶暴な輝きを両眼に添えた。
九割がた農民で構成されている無学な村の者たちが、かげで、
「秀才」
と真楯を呼び、敬して遠ざける態度に出るのは、二十四という実際の年よりはるかに老成してみえる彼の、静かな挙措と、ふとするとその眼光をよぎる内面の怕《こわ》さに、ひそかな警戒を抱いているからである。
「なにせ、咎人《とがにん》の子じゃものなあ」
ひそひそ声で村人たちは言い合った。
真楯の父は、中央の官界で中宮職《ちゆうぐうしき》の大進《だいじん》を勤め、位も従五位下にまで昇った中級官吏だが、権力者同士の争いに巻きこまれ、この村に配流されて四年前、不遇を喞《かこ》ちながら病歿した。
政敵の罠《わな》に落ちたための冤罪《えんざい》であり、いわば政争の犠牲者だった。しかし複雑な権力闘争の実態など、百姓たちに理解できるはずもない。父にともなわれて九ツのとき、配所へくだって来た真楯を、表づらは、
「大宅《おおやけ》の若さま」
と、うやまいはしても、しんそこでは罪人の縁者と見て、心を開こうとしなかった。
真楯の側もまた、草深い鄙《ひな》になど朽ちはてる気はない。独学ではあるが書物にもしたしんで、苦境からの脱出に備えていた。
父の死によって罪はおのずから消滅し、真楯はいま、自由の身ではあったけれど、かつての政敵があいかわらず権力を握りつづけている現状では、中央官界への復帰はむずかしい。
それに、真楯は恋をしていた。到底かなう見込みのない片思いだが、この春、所用で越前の国府まで出かけたおり、侍女たちを大ぜい引きつれて汐干狩《しおひが》りに来ていた国司の一人娘を、渚《なぎさ》での遠目に見染めて、一刻も忘れられなくなったのである。
(せめてあの女《ひと》の近くでくらしたい。下っ端でもかまわない。国衙《こくが》の役人になれないものか)
願望しながらも、衣服ひとつ新調できぬ困窮ぶりでは動きがとれない。まして、金で官職を買うことなど思いもよらなかった。
(残念だ)
このまま村の者どもの白眼と、貧乏ぐらしの中で、二度とない青春をむざむざ腐らせてゆくのかと思うと耐えがたい気がする。
真楯は焦《あせ》っていた。咽喉《のど》から手が出そうなほど金に餓《う》えてもいたさなかに、思いもよらぬ獲物が目の前に現れたのだ。
(そうだ。獲物だ)
灯火を反射して、真楯の眼が妖しく燃えた。彼は呻《うめ》いた。
(天の与うる好機! 逡巡《しゆんじゆん》してこれを逃がせば、却《かえ》って禍《わざわい》を受けるかもしれぬ)
突っ立って厨《くりや》へ走り、麻縄の束を掴《つか》んで真楯はもどった。戸棚の奥の古葛《ふるつづら》からさぐり出したのは、父の形見の短剣である。
ボロ水干《すいかん》のふところにそれをひそめ、破れ笠で雨をしのぎながら辻堂へ急いだ。
女たちは床板《ゆかいた》の隅に、抱き合う形でうずくまっていたが、
「あ、あなたは……」
ずぶ濡れのまま階《きざはし》を上ってきた真楯の姿に、息を呑んだ。
「気がかりでしたのでね、様子を見にきたのです」
つとめてさりげなく彼は言った。
「お主《あるじ》の腹痛は、もう、おさまりましたか」
「おかげさまで癒《なお》りました。先ほどは阿古女《あこめ》がお湯を頂きにあがったそうで、ほんとうにありがとうぞんじます」
会釈《えしやく》したのが女主人にちがいない。召使よりさらに老けた、六十を越していそうな皺枯《しわが》れ声の老女であった。
「お供のかたにもおすすめしたのだけれど、うちに来られませんか。火があるし、空腹ならば粥《かゆ》も煮てしんぜますよ」
「どうぞおかまいくださいますな。二人ながら野宿には馴《な》れております。干飯《ほしいい》を食べましたゆえ、ひもじいこともござりませぬ」
女たちがともしたのだろう、本尊観世音の宝前《ほうぜん》に、灯明が献ぜられていたが、吹き入ってきた風に煽《あお》られて、それが消えた。
「や、こまった。真《しん》の闇だ」
「火打ちがあります。わたくしがつけましょう」
と腰回りをさぐって、召使が台座の下ににじり寄る気配をうかがい、真楯はやにわに身体ごと、相手の身体へぶつかっていった。鞘《さや》を払った短刀が、柄元《つかもと》までその左胸に突き立った。
「ひッ」
引き息に、鋭い悲鳴があがる……。
「阿古女ッ、どうしましたッ?」
刳《えぐ》っておいてすぐ、引き抜き、女主人にとびかかった。
「なにをなさるッ」
揉《も》み合いの中にきれぎれの絶叫が炸《はじ》け、すさまじい断末魔の唸りが尾を曳《ひ》いた。
幾度刺したか、どこを刺したか、真楯には記憶がない。掴みつかれるおぞましさから、やみくもにただ、刃《やいば》を叩《たた》きつけ、腕の中のものがまったく動かなくなってはじめて、どっとうしろざまに尻もちをついた。
「のぼせるな、あせるな」
呪文《じゆもん》さながら彼は自分に言い聞かせた。よろめき立って灯明を点じ、女たちがすっかりこと切れているのを見すますと、持参した麻縄で二人を一つにくくしあげた。
辻堂の裏手は谷になり、川瀬の音が耳に響く。幅はさほどでもないが、登り坂にかかって勾配がきつい。三日つづきの豪雨で水嵩《みずかさ》も増し、どうどうと岩を噛んで犇《ひしめ》き流れている。
半丁たらず登ると涯《がけ》ぎわに、底知れぬ深い淵《ふち》があり、ここばかりは水が澱《よど》んで、
「大蛇《おろち》が棲《す》むぞ」
と釣り人も近づかぬ魔所だった。
汗みずくになりながら真楯は死骸を涯までひきずってゆき、重石《おもし》を附けて淵へ押し落とした。
「これでいい」
身を投げた者が過去にあったし、斃死《へいし》した牛馬などを、
「大蛇の貢物《みつぎもの》に……」
と淵に沈めても、浮き上ったためしは絶対にない。底にさらに巨大な横穴でもあって、そこへ吸い込まれてしまうのかもしれなかった。
2
死体を始末すると、真楯は御堂へとって返し、御《み》手洗《たらし》に溢《あふ》れる雨水をぶちまけて床の血を念入りに洗い流した。
馬は軒下につながれ、積み荷はおろされて堂内に置かれている。舶載品らしい極上の錦《にしき》であった。油単《ゆたん》の端をめくって、中身をたしかめた真楯は、
「すごい……」
胸が躍った。女たちが用心したのも無理はない。売ればたいまいの金になる荷である。抜けめなく懐中をさぐって、女主人の亡骸《なきがら》から路用の金までを真楯は奪っていた。
馬の背に荷を移し、水濡れせぬようしっかり油単をかぶせ直して辻堂から曳き出すと、惨劇の痕跡はどこにも残らなかった。
いったん家へもどり、手ばやく真楯は持ち物をまとめた。粗末な着替えとわずかな書籍……。そのほかに目ぼしいものは何ひとつない。欠け茶わん、ひびの入った土鍋や水甕《みずがめ》は捨ててゆくつもりである。
「そうそう、これを忘れるところだった」
古机の上に拡げっぱなしになっている孟子――。ふところに捻《ね》じこもうとして、真楯は思わずたじろいだ。顔色が変った。
『爾《なんじ》より出《い》ずるものは、爾に反《かえ》るなり』
彼はしかし、強《し》いてのように危惧《きぐ》をかなぐり捨てた。栄光に満ちた未来ばかりを、前途に見ようとしたのだ。
簑笠に身を固め、厳重に足ごしらえして外へ出る。二度ともどらぬ父の配所……。松明《たいまつ》がなくても、街道を南下すればいずれ、琵琶湖の北岸にたどりつく。そしてさらに進むうちに、九歳の昔、泣きながらあとにした花の都へ、いやでも到着できるはずだった。
「錦を売りさばいたら、越前の国府へ直行しよう」
その望みに支えられて旅寝をかさね、入洛するとただちに市に立って、荷をひろげた。
あらかじめ絹売りの一人に品物を見せ、附け値の見当を心得てそれより大分、掛け値で売ったのだが、値切る客はなく、とぶようにはけて一日の内に売り切ってしまった。
ずっしりと重い砂金の革袋……。
ついでに馬市に廻って馬も売り、鞍《くら》つきの乗馬と買い替えた。身なりを調えると男ぶりがきわ立つ。見ちがえるばかりな貴公子に変身したのである。
越前の国府へ行き、じかに国庁へ出かけて介《すけ》の某《なにがし》に面会を申し入れると、袖《そで》の下の効き目はすぐ現れて、
「史生《ししよう》ならば欠員があるぞ」
採用された。職員中、最下位の書役《かきやく》だ。能力にも容姿にも、いまは強い自信を持ちはじめた真楯は、
(役職など低くたってかまわぬ。国司の姫君を籠絡《ろうらく》させることさえできれば……)
と意に介さなかった。
それはしかし、予想以上の難事であった。国司の館は国庁の郭内に建てられている。国の守《かみ》の官舎の表部分が、隣接して役館の機能を果しているといってもよい。
史生や雑色《ぞうしき》、馬飼いの下衆《げす》など軽輩たちは、したがって国司邸の雑用も弁じさせられる。公私混同は高官の常だから、奥勤めの女房たちまでが私用に役所の下吏を使って、当然な顔をしていた。
真楯はそんな女たちに、たちまち目をつけられた。文《ふみ》を寄こすもの、露骨に言い寄ってくる者すら少くなかった。
青女房の玉音《たまね》という少女だけが、そっけない顔をしているのを、
(まだ、未熟だからか)
と、小づら憎く眺《なが》めていた真楯は、ある日ものかげから、玉音がこっそり自分を手招きしているのに気づいた。
役館の裏手――。守《かみ》の私邸の厨口《くりやぐち》に接した網代《あじろ》垣のきわだった。寄って行って、
「なにか用かね玉音さん」
微笑すると、少女もニコッとえくぼを刻んで、
「贈り物ですよ」
なにやら檀紙《だんし》に包んだ軽いものを、真楯の手に握らせた。紙には香《こう》が焚《た》きしめてあり、梅花に似た芳香をほのかにただよわせている。
「玉音さんがくれるの?」
「まあ、いやだ。姫さまからじゃありませんか」
「え? 姫さまってあの……」
「きまってるでしょ。守《かみ》のお一人子《ひとりご》。宝の君の愛娘《まなむすめ》さまが、あなたに夢中なのよ。果報なお方ね真楯どのって……」
「ほんとうか?」
「文も秘めてあるはずよ。あけてごらんなさい」
檀紙をひらくと、小さくたたんだ浅黄《あさぎ》の薄様《うすよう》と、桜貝が五つほど出てきた。可愛らしい、そして初々《ういうい》しい贈り物であった。
「この貝殻はね、いつぞや磯遊びに出られたとき、姫さまが手ずからお拾いになったものですよ」
「そうか」
胸を熱くして真楯は言った。
「あのかたと私との間には、縁《えにし》の糸がきっとその時から結ばれていたのだよ。じつをあかせば私も浜で、姫さまの一行をはるかに見かけ、それ以来、思いがつのって抑《おさ》えきれなくなっていたのさ」
「お聞かせしたら、どんなによろこばれるでしょう」
「伝手《つて》をたよって国庁に勤めたのも、あのかたに逢いたい一心からだった。お近づきになることはできるだろうか」
「任が果てて都へ帰ったら、守は姫さまを東宮《とうぐう》のおそばへ上げるつもりで、風にも当てじとかしずいておいでですわ。北ノ方はじめ古参の女房たちが、きびしく見張ってもいるから、仲だちするのはむずかしいけれど、すきを狙えば手引きできないことはないはずよ。まかせておいて……」
「たのむよ玉音さん。この恋、かなえてくれたら、一生涯恩に着る」
「とりあえず、お文の返事を書いてね。夕方また、私ここへ忍んで来ますから……」
「書いておくとも。真楯が夢ごこちでおりましたと、どうか姫さまに申しあげておくれ」
さっそく記録所へ駆けもどって、同僚の視線を気にしながら薄様をひろげてみた。お定まりの恋歌だが詠みくちは巧みだし、十六、七の若さにしては筆跡もなかなか美しかった。真楯はすぐ、筆をとって、これも取っておきの奥州紙《みちのくがみ》に返歌をしたため、約束の時刻を待ってそっと玉音に手渡した。
「首尾はいつ、つけてくれる?」
「いずれ、よいおりをつかまえて知らせますからね、たのしみに待っていらっしゃい」
事は半《なか》ば、成就したにひとしい。
気分の高揚を抑えかねて、その夜ほとんど、真楯は眠れなかったが、明け方近く、とろっとしかけたところをいきなり数名の武者に踏みこまれ、
「起きろッ」
うしろ手に縄をかけられてしまった。
「理不尽なッ、わたしが何をしたというのです?」
逮捕の理由は武者たちも知らない。
「守の命令だ」
と言うだけで、まだ暁闇の残る庁の白洲へ引ったてられた。
真楯は動顛《どうてん》した。姫への思慕が露見したのだと思った。でも、それが罪人扱されるほどの悪事だろうか。たかがおたがいに文のやりとりを、たった一通しただけではないか。
(たしかに私は姫を好いていた。しかし先に、恋情を打ちあけ、桜貝を贈ってよこしたのは姫の側だ。私のほうから誘ったのではなく、ましてやまだ、手ひとつ握り交したわけでもない。玉音を問いただせばわかる。あの少女が証言してくれるだろう)
そう考えて気を落ちつけた。
国司は出てきた。そこは盗賊や火つけの容疑者などを取り調べるひと構えで、いかめしく拷器《ごうき》が並べてある。走り下部《しもべ》の手で篝火《かがりび》が焚かれ、噴き上る火の粉が、引き据えられた真楯の横鬢《よこびん》を、チリッと時おり焼きこがした。
「そのほうが大宅真楯とやらか?」
守はつくづく若者をみまもった。
「虫も殺さぬ顔をしながら、大胆不敵なやつだな」
やはり姫との仲を指しているのだ、陳弁しなければ、と膝を乗り出しかけたとき、守は意外なことを言い出した。
「昨夜、まどろんで間もなく、わしは奇怪な夢を見た。全身ぐっしょりと濡れそぼった女が二人、帳台《ちようだい》の裾《すそ》のあたりにうずくまって、われわれ主従は大宅真楯に殺害され、亡父の、ただ一つの遺産であった大量の錦を奪い取られたと、涙ながら訴えたのだ」
3
顔面から血が引くのを真楯は感じた。
(夢!)
それも第三者の夢の中に亡霊があらわれ、旧悪を暴《あば》くなどという怪異が、しんじつ起こってよいものだろうか。
「わたくしには覚えがありません。何かの間違いでございます。おそれながら守は、夢のようなはかないものを信じて、関《かか》わりのない人間に殺人の汚名を着せるおつもりですか」
「もとより夢だけを信じて、そのほうを罪に落とすつもりはない。二人の女は、殺害された場所をくわしく語った。もと、そのほうが住んでいた村だという。早速そこへ、部下の掾《じよう》を調べにつかわすことにする。立ちもどってきしだい事の真偽は判明するだろう」
それまで窮命申しつけると言い渡されて、真楯は牢へ入れられた。
(調査したところで、証拠はあがるまい)
彼は確信していた。あの日は豪雨だった。日が暮れてから村へやって来た旅の主従を、目撃した者は皆無か、いても、ごく少数だろうし、まして彼女らが山ぎわの辻堂に泊り、殺されて淵の底ふかく沈められた事実までは、だれ一人知らないはずである。荷駄も、その夜のうちに真楯が曳いて出て、村人の目に触れさせていない。売りさばいた錦は砂金に化けて、いま私物入れの奥に隠してあるけれど、万一これを見つけ出されたら、
「父譲りの遺産です。貧に苦しめられてはいましたが、この一袋の砂金のみは、いざという時のために代々伝えて、手を附けずにきたのでした」
とでも言いのがれるつもりであった。
むしろ、あと一歩のところまでゆきながら、壊れてしまった恋の結末が真楯には無念でならなかった。
(もう逢えない)
絶望感が、姫への恋情をいよいよつのらせた。一度でよい。たおやかなあの身体を、心ゆくまで貪《むさぼ》り味わいたかった。そのあとでなら捕われても、最悪の場合、首を刎《は》ねられることになったにしても、どうにか諦《あきら》めはつく。姫が求め、自分も烈しく求めながら、生殺《なまごろ》しのまま断ち切られることになってしまった欲望……。真楯の身内に、それが荒れ狂った。もし、国の守の夢ばなしが本当なら、彼らの中を裂いてのけたのは亡霊どもである。
(おのれ……仕返ししおったのだな)
旅の主従が真楯は憎かった。その執念が恨めしかった。
漆喰《しつくい》固めの狭い獄内には、真楯のほか牢囚はいない。寒夜の星明りが淡く射しこみ、目を閉じると姫の姿が、妄想のくらがりに浮かびあがった。全裸であった。奔放な、あられもない姿態に真楯は挑発され、抑えようもない情念の高まりの中で、息を荒くして身悶《みもだ》えた。
「あ、あ……」
姫と、現実に交《まじ》わりでもしているような陶酔に、頭が痺《しび》れ、光彩が散ったと見た瞬間、彼はのけ反《ぞ》って、にぎりしめた手の中へ激情の凝《こご》りを放射していた。
「お察ししますよ」
声に驚いて振り向くと、いつ来たのか、格子の外に玉音の顔があった。
真楯はうろたえた。カッと身体中が熱くなった。
「恥かしい。あさましい有様を、あなたの目に曝《さら》したな」
「いいえ、それだけ深く姫さまを好いておられる証拠ですわ。殿方なら当り前なことです」
見張りの下部《しもべ》を買収したのか、あるいは人影のないのを見すまして忍んできたのだろう。玉音は周囲に目を配りながら、姫がどれほど歎いているか、案じているかを、口ばやに伝え、
「手が汚《よご》れたでしょう真楯さま、さ、おすすぎあそばせ」
小ぎれいな塗りの木鉢をさし示した。水が満たしてある。周到さを、真楯はふと、いぶかった。唐突な玉音の出現も不思議といえばいえたが、ともあれ厚意である。邸内での、ただ一人の味方なのだ。ささいな不審など、口にするのは憚《はばか》られた。
羞恥《しゆうち》にくるまれながらも、精液にまみれた両手を格子の狭間《はざま》から差し出して、真楯は入念に洗った。ま新らしい手巾《しゆきん》で玉音はそれを拭くと、なぜか水を捨てもせずに木鉢をかかえ上げ、
「ぬれぎぬですもの、きっとお許しが出るはずですわ」
ささやき捨てて去って行った。
――その予測にたがわず、五日後に真楯は牢から出された。掾《じよう》の調査でも、犯罪を立証することはできなかったのである。
夢は、たんなる夢として片づけられた。
「それにしてはいかにもまざまざと、真に迫っていた。どう思い返しても、怨魂の告知としか信じられぬ鮮明さだったなあ」
庁の役人たちを相手に、国司は未練げなつぶやきをくり返したが、
「五臓の疲れというやつでしょう」
と、いうことで、真楯には咎めがなく、そのくせ、
「迷惑をかけてすまなかった」
との、一言の詫《わ》びすら聞かされなかった。もと通り史生の職に返り咲けたのを、恩に着せてでもいるような横柄な上役どもの態度なのである。
「まあ、いいさ。非を認めたがらないのは高官の通弊だよ」
えらい災難だったじゃないかと、同情してくれる仲間の史生たちに、真楯は苦笑してみせたけれど、じつは内心、ほっとしていた。大それた犯行が露見せず、危うく首がつながって再び自由の身になれた、姫との語らいも復活できる――そう思うと、唄い出したくなるほど浮き浮きした。幸運を、ひそかに感謝したい気持でいっぱいだったが、たった一つの不満は、あれ以来、玉音から何の連絡もないことであった。
(どうしたのだろう)
出牢したと知ったとたん、姫からの祝意をまっ先に、もたらしてきてよい相手ではないか。それとなく守の屋敷の奉公人たちに訊《き》き廻ったあげく、意外な事実を聞かされた。
「姫さまはご病気ですよ」
と言うのだ。
「では、玉音どのも……」
「看病に忙しくて、おそばを離れられないのでしょう」
国司の心痛はただならぬものがある、とも、やがて表の政庁にまで噂《うわさ》は流れてきた。
真楯の気がかりも国司に劣らなかった。どこが悪いのか、病状はどうなのか、判然しないままじりじり日を過ごしているうちに、新らしい取り沙汰が口から口へ交されだした。
「病気ではない。姫さまはみごもられたのだそうだ」
「懐妊だと!? 相手はだれだね」
「それが、はっきりしないらしい」
「こっそり閨《ねや》へ、男をひき入れていたわけだな」
「守《かみ》は烈火のごとく怒っておられる。東宮御所に宮仕えさせるつもりが、これで駄目になった。男が何びとか、わかり次第たたき斬ってしまうと息巻いている」
氷片を差し込まれでもしたように真楯の胸は冷えた。鉢の水……。玉音に命じて取り寄せたあの水を飲み、姫は妊娠したのではないか? ――と、すれば、
(子供は、わたしの子ということになる)
そんな奇怪な話が、この世にあるとは信じられない。
(わたしのほかに男がいたのだ。みごもったのは、肌身を許したその男の胤《たね》なのだろう)
真楯は結論した。玉音からのおとずれが、ぷっつりと絶えてしまったのも、通《かよ》ってくる男が別にできたからだと解釈すれば、納得《なつとく》がゆく。
嫉《ねた》みが、どすぐろく真楯を浸した。
(忘れてしまおう、あんな女など……)
守の激怒もこわい。成敗すると断言したら、その通りやりかねない気質なのだ。
……月満ちて、やがて姫は女の子を産んだ。子の父がだれか、ついに明かさぬまま母となったわけだが、この子がおぼつかなく這《は》い廻るようになったある日、もはや退庁時刻をすぎた深夜だったが、
「相手の男は、役所の者です」
姫は、はじめて守に打ちあけた。
「なにッ、庁の吏員だと?」
「はい」
「名を申せッ」
「わたくしの口からは申せません。子供にさがさせればわかるはずです」
妙なことを言うと思いながらも、守は幼児を抱いて役館へ出かけた。大屋根の庇《ひさし》をしぶかせて、風まじりの雨が降りしきっていた。
守は、職員を残らず広間に呼び集め、
「おのおのの中に、姫を犯した不届き者がいるはずだ。非を悔いて、今のうちに名乗り出ればよし、さもないとわしにも考えがあるぞ」
血走った眼で睨《にら》みすえた。返事をする者はいない。正直に名乗って出る者も、むろんなかった。
「よし、あくまで口を拭《ぬぐ》うておる気だな」
床板の上に、守は子供をおろした。母親似の色白な額に、切り揃えた前髪がかぶさって、人形さながら愛らしく見える。それだけに、カサッカサッと衣摺《きぬず》れの音を立てながら人々の列に向かって這い進み出した姿が、かえってたまらなく無気味でもあった。
だれもが息を詰めて子供を凝視した。あたりは静まり返り、雨の音だけが大笠をかぶせたように、暗く、すっぽりと役館を包んだ。
まっすぐ幼女は進んだ。いっせいに大人たちは退《すさ》る。吸い寄せられる速さで子供が近づいたのは真楯の足許だった。小さな腕を思いきり拡げて、袴《はかま》の裾にしがみつく……。
「わあッ」
真楯の髪が逆立った。ふり仰いだ子供の顔面が、殺してのけた旅の老女と寸分、同じものに変じたのだ。恐怖に揉《も》みたてられて、真楯は子供を蹴り放した。もんどり打って子供は跳び、床に落ちた刹那《せつな》、姿は消えた。木鉢一杯分の水だけが、同じ場所にギラッと光った。
「そういうことか」
腰の太刀を、守は引き抜いた。
「わしの娘……手の内の珠《たま》とも思うておった姫を、砕いてのけた痴者《しれもの》は真楯、きさまだったのだな」
雨音がたかまり、灯火が揺れた。真楯の耳に、この時どこからともなく皺枯《しわが》れた老女の声がしのび入ってきた。
「爾《なんじ》より出《い》ずるものは、爾に反《かえ》るなり」
かえるなり、かえるなり、かえるなり……。谺《こだま》を呼び夜天《やてん》を圧して、声はみるみる巨大さを増し、殷々《いんいん》と真楯の意識の中に鳴りどよもした。彼は膝をついた。哀願するように、目に見えぬ何ものかに向かって両手をさし出した。その頭上へ、守が太刀を振りおろした。
浄願坊《じようがんぼう》の一日
|丑ノ刻《ごぜんにじ》から|寅ノ刻《ごぜんよじ》まで
ばかげて忙しい一日だった。紆余《うよ》曲折に富んだ一日、したがって、やけに充実した一日だったと言ってもよい。
洛東、清水《きよみず》の観音さまは、人間の欲ばった願望を嫌なお顔もなさらず相当程度、かなえてくださる仏ということで、日本国中から参詣人が絶えない。
寺の僧たちは四季にかかわりなく、それらの応対に追い回され、修行どころではなかったが、賽銭《さいせん》がおびただしく投げ込まれ般若湯《はんにやとう》にありつける機会もおのずから多いのに免じて、だれも取りたてて不平は並べずに毎日の雑務をこなしている。
「しかし、それにしてもちと、飽きた。何やらいささか虚《むな》しい気がしてきたなあ」
納所《なつしよ》坊主の浄願《じようがん》は、うんざり顔で喞《かこ》つ。
くる日もくる日も朝、起きぬけから夜、寝るまで、判で押したように同じことのくり返しでは、いいかげん嫌気がさすではないか。
夜中に一度、交替で勤めるお籠《こも》り堂の見廻り……。ひるまはお札《ふだ》作りに迷子《まいご》の親さがし、押し合いへし合いの雑沓の中で、やれ塗り笠を紛失したの革巾着《かわきんちやく》がすられたの、足を踏んだの踏まれたのといった紋切り型の悶着をさばき、本坊へ引きあげれば井戸の水汲み薪割り庭掃き、五十人を越す同宿の飯の仕度に、漬け物石のあげおろしから大擂《おおす》り鉢での味噌|擂《す》りまで、ねじり鉢巻きでこなさねばならぬ。
平《ひら》の納所なら、だれもがやっていることだし、
「それも修行じゃ」
と長老さまは訓《さと》すけれど、八歳の幼さで頭をまるめて以来、二十五年――。三十三の今日まで、ろくに経ひとつ読めぬ味噌擂り坊主では、我れながらいかにも腑《ふ》がいない。
「いっそ俗世間へ飛び出して……」
商売をするか勤め奉公に鞍替えしても、単調な寺ぐらしよりは増しな気がする。
「だいいち、坊主をやめれば女が抱けるじゃないか」
それも魅力だ。
僧形のまま邪淫戒を犯せば破戒|堕落《だらく》だから、小ずるくはあっても根が小心な浄願など清水坂下へ夜発《やぼち》を買いに出かけた晩も、そのつどうしろめたさにさいなまれ、しんそこからは愉《たの》しむことができないのだ。
「妻と名のつく女となら何をしようと公明正大。閻魔《えんま》の面《つら》など気にかけなくてすむ」
思い立つともう、矢も楯もたまらず、蝋燭《ろうそく》立ての真鍮《しんちゆう》磨きなどに根《こん》を疲らせるのが嫌になってきた。
でも、俗体にもどるとなれば、さっそく当惑するのは金の工面《くめん》である。商売に取りつくにしろ元手《もとで》がいるし、着る物ぐらい調えなければ奉公口にもありつけない。
「頭の毛は、ほうっておいても伸びるが、金というやつはそれ相応に、智恵を働かせねば手に入らぬというわけだなあ」
いまさらながら僧侶生活の安易さを、思い知らされた。大寺院に寄生して生きるかぎり、たとえ干葉《ひば》だくさんの雑炊《ぞうすい》でも食うに事は欠かない。凍《こご》えて死ぬ憂いもないのだ。
だからといってせっかくの決意を、ご破算にする気は起こらなかった。「沈香《じんこう》も焚かず屁《へ》もひらず」の諺《ことわざ》を地でゆくような温《ぬる》ま湯的平穏にたまらなくなって、思い立った脱坊主≠フ計画ではないか。
「手はじめにまず、少々まとまった金を掴む算段をしよう」
どうしたらよいかと、さして慧敏《けいびん》とは言いかねる頭脳で考えめぐらしていたやさき、浄願は耳よりなつぶやきを聞いたのである。
当番にあたっていたため、それは籠り堂への見廻りに出た明け方だった。春たけなわ……。陽気は暑からず寒からず、ごろ寝していても苦にならない季節だから、あたりはいちめん鼾《いびき》の洪水だ。盛大な歯ぎしりや寝言《ねごと》もまじる。
籠り堂とはいっても、特別にそのような堂宇が建っているわけではない。本尊を安置する本堂の、内陣のあきま外陣《げじん》の空間に思い思いに陣取って、参詣人はお籠りをする。物持ちや上臈《じようろう》女房などは持参の几帳《きちよう》、屏風《びようぶ》などをめぐらし、夜着まで用意して風を防ぐけれど、一般庶民は手枕の雑魚寝《ざこね》だから、時おり若い娘の声が、
「いやらしいッ、何するのよ、この人……」
闇をつんざいて響き渡ることがある。
男の側の弁解やら開き直っての怒声やらで、堂内の安眠が妨げられるのを警戒し、寺側は、定時に当番の僧を巡回させるのだ。
足音を立ててはならないから、足には藁編《わらあ》みの半切れを覆き、紙燭《ししよく》を手にしてそろりそろり歩く。
耳よりなつぶやきは、本尊の宝前《ほうぜん》近くから聞こえてきたのであった。
「南無、大慈大悲の観世音菩薩、なにとぞ我が子に会わせ給え」
一心不乱に念じている老いた女の声……。
「ひとり子の隼太《はやた》が家出してから、はや七年もの歳月が流れました。生きているやら死んだのやら……。都で見かけたとの噂をたよりに、はるばる信濃《しなの》から出てはまいったものの、雲をつかむような按配《あんばい》でどこをどう捜してよいか見当もつきませぬ。どうぞ居どころをお教えくださいませ。田舎へつれてもどるのが無理ならば、せめて生き死だけでもたしかめとうござります」
浄願の脳裏に、日ごろの鈍《にぶ》さに似合わず上々の策がひらめいた。
(あの婆さまだな)
昨夕、まだ明るいうちに荷かつぎの従者を三人ほどつれてやってきて、たいまいのお布施を寺に喜捨した老人である。
(田舎長者の後家さまか何かだろう。たんまり路銀を持って上洛したにちがいない)
とっさに浄願は、手燭を吹き消した。お厨子《ずし》の前にともるかすかな灯明のほか、あたりはまっくら闇となる……。
息をひそめて窺《うかが》ううちに、しばらくなお、何やらくどくど掻きくどいたあげく、老女は宝前に伏して身動きしなくなった。うたた寝しはじめたのだ。
浄願はそっとそばへ近づき、耳もとへ口を寄せて、おごそかにささやいた。
「哀れや老母、そなたのせがれは瘡《そう》を病んで三年前に命を落とし、いま牡馬《おすうま》に転生して、轆轤町《ろくろまち》の福足《ふくたり》と申す紺掻《こんか》きの家に飼われておるぞよ。ゆめゆめ疑うことなかれ」
はっと老女は顔をあげた。すばやく身をいざって浄願は物かげにひそむ。
「ああ、ありがたやありがたや。あらたかな夢のお告げをこうむった。――これ、目をさましなされ、お前がた」
籠り場へ這い込んで供の下男どもを叩き起こすと、
「隼太の行方《ゆくえ》がわかったぞい」
感きわまったか、両手を揉みしぼって老女はむせびあげた。
「かわいそうに、もはやこの世のものではなかった。病死して馬に生まれ変り、福足とやらいう紺屋どのの家に飼われておるそうな」
「母刀自《ははとじ》さま、そりゃ、まことでござりますか?」
「嘘いつわりなどあってよいものか。たった今、とろとろとまどろんだわずかなひまに、微妙《みみよう》な御声で示現なされてくだされたのじゃ」
「それはそれは、ありがたいことでござります。聞きしにまさる広大なご利生……。夜が明けるのを待って、さっそくその紺屋どのを訪ねてみましょう」
「まだ暗いのう。はよう白まぬかのう」
ここまで聞きすまして、浄顧はこっそり本堂を脱け出した。まっしぐらに知り合いの博労《ばくろう》の住居へ駆けつけたのだ。
|卯ノ刻《ごぜんろくじ》から|辰ノ刻《ごぜんはちじ》まで
「志斐麻呂《しひまろ》さん、いるか。おれだおれだ」
近所迷惑などかまってはいられない。どんどん表戸を叩きたてた。
「うるさいなあ、だれだよ」
博労が寝ぼけ声で応じる。
「清水寺の浄願だ。たのみがあって来たんだ。しんばり棒をはずしてくれ」
「なんだ、お寺の納所《なつしよ》さんかい。わかったよ。むやみと叩くなってば……」
がたぴし、立てつけの悪い戸を、それでも志斐麻呂はあけてくれた。
「どうしたね? 朝っぱら……。たのみとは一体、なんだね?」
「おたくに病馬が一匹いたろう?」
「うん。いるよ。あいつにはあぐねはてた。みすみす金になるものを、死なしちまっちゃあ惜しいから薬を与えたり介抱に手をつくしてもみたんだが……」
「癒る見込みはなさそうか?」
「だめだろうなあ」
「死んだらどうする?」
「皮屋行きさ」
「おれに譲ってくれないか。今のうちに皮の値で……」
「坊さんのあんたが、病馬なんぞ手に入れてどうする」
「ど、どうするといって……そのう……不憫《ふびん》じゃないか。看病してみてそれでも駄目なら、ねんごろに供養してやろうと思ってね」
「へええ、供養ねえ」
酒焼けした鼻の先に、意地のよくない皺を寄せて志斐麻呂はあざわらった。
「あんたらしくもねえな。殊勝《しゆしよう》なことを言うじゃねえか」
「葬式は坊主の役目だからね」
「おい、浄願さん」
いきなり面上から笑いが消えた。代りにギラと志斐麻呂の両眼に燃えあがったのは、餌《えさ》の匂いを嗅ぎつけた餓狼の凶暴さである。
「おれを舐《な》めるなよ。儲け仕事を独り占めしようなんてのは、押しが太いぜ」
「儲けだなんて、そんな……」
「シラを切ったって顔に書いてあらあ。そうだろう? 病馬を哀れんで引きとるなら、なにも町中が寝しずまっているしらじら明けから、あたふた飛んでくるこたァねえんだ。寺の用が一段落したとき、ゆっくり相談にくればいいんだし、それに埋めるったって馬の図体じゃあ大穴を掘らなきゃならねえ。人間さまの墓地なんぞ使やあ長老から大目玉をくらわあ。もの好きにも程があるじゃねえか、え? 魂胆《こんたん》は何なんだ。なにをたくらんで皮の値にっきゃならねえ荷厄介なしろものを、ほしがるんだよ」
返事に詰まった。
浄願には島女《しまめ》という名の姉がいる。たった一人の身寄りである。この姉の夫が、紺掻き職人の福足なのであった。
博労の志斐麻呂は、福足とはガニ打ち仲間の飲み友だちで、いっぱし市井の小悪党をきどっている。そんな男に凄んでみせられると、浄願ごとき、束《たば》になっても歯は立たない。観念して、
「じつは……」
老女の一件を打ちあけてしまった。
「なるほどな。うらなりの瓢箪《ひようたん》坊主にしてはうまい手を考えた。あの馬を、おれがうっちゃりたがっているのに目をつけて、二束三文で引き取り、福足の家へ曳いて行って婆さんに押しつけたあげく、巻きあげた礼金を、やつと山分けしようって肚《はら》だったんだな」
「いや、義兄貴《あにき》はいま、家にいないんだ。藍玉《あいだま》の仕入れとかでね、旅に出ている」
「じゃあ婆さん相手の掛け引きは、だれがするんだ?」
「姉さんに頼むつもりだった。俗にもどって独り立ちする、そのためにほしい元手なのだと言えば、姉さんは一文も分け前なんぞ取らずに片棒かついでくれるはずだからね」
「つまり金は、福足にもやらずに、おめえがまるまるふところへ入れちまおうって寸法か。虫がよすぎるぜ」
志斐麻呂は宣言した。
「姉貴じゃなくて、片棒はおれに担がせろ。嫌とぬかすなら馬は渡さねえ」
やむをえない。馬がなければ成り立たない企てなのだ。このまにも東の空はぐんぐん白みはじめている。老女は待ちかねて、轆轤町へ出かけてゆくだろう。先廻りして待っていなければ、もくろみは水の泡……。すべて食い違ってしまう。
「あんたを仲間に入れるよ」
浄願はしぶしぶ折れた。
「だから急いでくれ。連中より先に姉さんの家に着いていなくては何にもならない」
「そこにぬかりがあるものか。待ってろ」
決まったとなると早い。志斐麻呂はたちまち裏手の厩《うまや》から栗毛の馬を一匹曳き出してきた。歩くのさえ大儀そうな痩せさらばえた病馬だ。二人がかりでそれを追いたてながら、轆轤町へ急いだ。
「おれが福足のつもりで、婆さんの相手になればいいわけだな」
「法体の者がうろうろしていては訝《おか》しいから、わたしは家の中に隠れているよ。うまくやってくれ」
「まかせておけって……。島女さんなんぞより、値の釣り上げはおれのほうが得手《えて》にきまっている。わけもわからずに口を出されるとかえってやりそこなうから、姉貴もなるべく家から出すなよ」
さいわいまだ、老女は来ていなかった。
「おや、どうしたの志斐麻呂さん、それに浄願までがこんなに早く、馬なんか曳いて来て……。うちの人なら留守ですよ。今日、夕方までにはもどるはずだけど……」
目をまるくする島女へ、
「なあに、ちょいとした儲け仕事なのさ。ほんの一ッとき、あんたのご亭主になりすますから悪く思わんでくれよな」
志斐麻呂はことわって、家のわきの空地へ馬をつれて行った。ひょろりと伸びている柳の幹に手綱を結びつけ、湯を汲んできて馬の裾を洗ってやりはじめたところへ、
「ぶしつけながら物をお尋ねいたしまする」
老女の一行が現れた。
「このあたりは轆轤町でござりましょうか」
「そうだよ」
ふり返りもせずに志斐麻呂は答える。
「紺屋の福足さまとやらのお宅へ、参りたいのでござりますが……」
「福足は、おれだがね」
「やれまあ、あなたさまが!? では、その馬が、せがれの隼太でござりますかッ」
薄い鬣《たてがみ》にしがみついて老女はおいおい泣き出した。下男たちも、
「浅ましや。変りはてたお姿……」
涙にくれる。
「どうしたってことです? なぜ、この馬があんたの息子なんだね?」
百も承知でいながら、そらとぼけて問いかける志斐麻呂に、最愛の独り子の家出から清水寺での観音のお告げまでを、老女はくどくど語り分けた。そして、
「かような次第でござりまするゆえ、どうぞ福足さま、馬をわたくしどもにお渡しくださりませ」
地面に手をついて哀願した。
「弱るなあ、いきなりそんなことを言われても……」
わざと志斐麻呂はベソをかいてみせた。
「ごらんの通り病み衰えているが、こいつはおれの秘蔵なんです。なんとか病気をなおしてやりたくて、こうして朝はやくから手当に精を出している我が子同然な馬なんだ。夢みたいな仏のお告げをとっこに取って、渡せの寄こせのと言われても、おいそれと応じるわけにはいきませんよ」
「お礼はたっぷりいたします。いくらでこの馬、お求めになったのでござりますか?」
「たいまい砂金で、二両も払ったな」
せいぜい吹っかけたつもりなのに、
「では、その倍額、四両でせがれを引きとらせていただきましょう」
ためらいもなく老女は切り出した。
「えッ、四両も!?」
もともとが、コソコソ稼ぎのごろつきにすぎない。思いがけない金高にどぎもを抜かれて掛け引きを弄するどころか、
「売ります、渡しますともこの馬、どうか遠慮なく持って行ってください」
だらしなく志斐麻呂は軟化してしまった。
|巳ノ刻《ごぜんじゆうじ》から|午ノ刻《じゆうにじ》まで
戸口の陰で聞いていて、浄願も胸がどきどき鳴り出した。四両とはまた、どえらい大金がころがりこんだものではないか。一両ほど志斐麻呂に、骨折り賃をくれてやったとしても、三両は労さずして手に入る。
(すぐさま商売に取りつけるぞ。目ぬき通りに棚店《たなみせ》を出すことだって夢じゃない)
我れながら、我が才覚に、ほとほと感じ入るばかりであった。
「さあ、それでは、金をお受け取りなされ。これは砂金二両入りの布袋……。二個お渡し申しまする」
と老女は志斐麻呂の両手に一つずつ、袋を乗せ、
「お前がたは隼太をいたわって、先に宿へもどるのじゃ」
下男たちに馬を曳いてゆくよう言いつけた。
「母刀自さまは、これからどちらへ?」
「知れたこと。いま一度、清水寺へ引き返し、観音さまにお礼を申さねばならぬ」
「ごもっともでござります。それではわれわれは、ご子息さまのお供をしてひと足さきに宿へまいっておりまする」
「そうしてくだされ」
寺と宿、それぞれの方角へ消えて行くのを見届けて、
「さてそれでは、おいらも退散するかな」
志斐麻呂はすたすた立ち去りかけた。
「あ、どこへゆく、待てッ」
驚いたのは浄願だ。姉と一緒にころがるように家からとび出して、博労《ばくろう》の行く手をさえぎった。
「ずるいじゃないか。金を寄こせッ」
「なんだと?」
赤鼻をぴくつかせて志斐麻呂は吠《ほ》えた。
「こいつは馬の代金だぞ。つまりそっくり、おれさまのものだ」
「何をほざく。あの婆さんの寝耳に、ニセ観音のお告げをわたしが吹き込んだからこそ、始末に困っていた病馬を四両もの砂金と引き代えられたんじゃないか。あんたの取り分は、皮の値段で充分なんだ」
「そうよ、弟の言う通りだわ」
島女も加勢してさけび立てた。
「だれのおかげでお婆さんに一杯くわすことができたのさ。浄願があらかじめ、うまく手を打っておいたからこそ、連中はやすやすここまでおびき出されて来たんじゃないの。もうじきうちのひとが帰ってくるわ。あんまりあこぎな真似をすると、福足どのに言いつけて白い黒いをつけてもらいますからねッ」
この決めつけは効果があったらしい。日ごろ博打《ばくち》で負けが込むたびに、ちびちび福足から小遣い銭を借り、ろくに志斐麻呂は返してもいないのだ。面と向かうと、だから頭があがらない。下手《したで》に出て、安酒のおごりにあずかっているいわば弟分なのである。
「しようがねえなあ、島女さんにわめかれちゃあ折れねえわけにもゆくめえ。浄願坊には一両やろう」
「何をとぼけているの。こっちに三両、あんたの取り分が一両よ」
「いくら浄願が観音のご示現を吹き込んだからって、馬がなければ動きはとれめえ。その馬の持ちぬしはおれだったんだぜ」
「いいわ。それなら半ぶん分けといきましょう。恨みっこなしに二両ずつ。それで言い分はないでしょ」
「ちぇッ」
いまいましげに舌打ちすると、志斐麻呂は布袋を一つ投げ出して、足音荒く行ってしまった。
「あとひと押しだったじゃないか姉さん、半々なんかで折れ合うことはなかったのに……」
不満顔する弟へ、
「思いついたことがあるからよ」
口ばやに島女は言って聞かせた。
「あのお婆さんは裕福だわ。いま一度、金を騙し取る工夫《くふう》をすればいいのよ」
「へええ、策はあるの?」
「あるから急いでいるんじゃないの。お礼参りに清水寺へもどるって言ってたでしょ、お婆さん……。そこをつかまえて、うまく讃岐《さぬき》に泣きつかせるのよ。耳を貸しなさい」
姉にささやかれて、
「そいつは妙案だなあ」
浄願は思わず横手を打った。
「すぐ寺へ引っ返して乞食の讃岐《さぬき》を仲間に抱きこもう。この砂金入りの布袋は、姉さんしばらく預っていてくれ」
「こんどこそ上手にやりなさい。讃岐になんぞ、ほんの少し鼻ぐすりをくれてやればいいのだからね」
「合点だよ」
いちもくさんに走って浄願は清水寺へ舞いもどった。日は頭上に近づいて、空はうらうらとかすみ渡っている。桜は満開だし、今日も参詣人は引きも切らず寺を目ざして押し寄せはじめている。
暁闇の巡廻いらい浄願は駆けまわりつづけて朝飯を口に入れていない。定めの仕事も抛り出したままだ。仲間の僧たちは腹を立てているだろうし、
「どこへ消えちまったんだ、あいつ……」
中には心配して探している者もいるにちがいないが、
「かまうものか」
今日あすにも脱坊主≠敢行して寺をおさらばするのだと思えば、同宿の思惑など一向に気にならなかった。
楼門の下へ来て見回すと、讃岐はあいかわらず汚ない飯桶《はんつう》を前に置いて、襤褸《ぼろ》の塊りさながらな姿を、地べたにはいつくばらせている。どういう事情でか片腕のない四十がらみのお菰《こも》である。貰いの少ない日など、
「おめぐみを……」
情けない声で寺の厨口《くりやぐち》へやってきて、残飯をねだるので浄願とも顔なじみだ。生国が讃岐だとかで、僧たちは讃岐々々と呼んでいるが、本名も素性も、むろんわからない。
「相談があるんだ。わたしの言う通りにやってくれれば、丸餅を二十に酒を一升おごるぜ。どうだね?」
と持ちかけると、讃岐はとたんに目を輝かせて、人殺しすら辞さない身構えを見せた。
「朽葉色の掻練《かいねり》を壺折って、市女笠《いちめがさ》のぐるりに青摺《あおず》りの、からむしの垂れ布をつけたのを持っている、六十なかばの婆さまだよ。黒檀《こくたん》の数珠《じゆず》を手首にかけ、寒竹の杖をついてたな。かならず本堂のどこかにくるはずだから、見つけたら近寄って、こう言うのだ」
ひそひそ声で口上を授け、
「ぬかるなよ」
と背を押すと、讃岐は呑みこんで、境内の雑沓《ざつとう》へたちまちまぎれ入った。さりげなく浄願もあとを追う。
老女は宝前にぬかずいて、うやうやしく祈念をささげていた。讃岐はのっそり近づき、
「もし、旅のご老体。あなたは亡くなった隼太のおふくろさまではありませぬか?」
教えた通りに、何くわぬ顔でやり出した。
「これはたまげた。なんでまた見ず知らずの物乞いどのが、このわたしを隼太の母とお当てなされたな?」
老女は呆れて讃岐を見あげる。
「やっぱり、ではあなたは、隼太のおっ母《か》さまでしたか?」
「さようじゃ。あの子を尋ねて信濃からはるばるのぼってきたのでござりますよ」
「明け方わしは、あらたかなご霊夢をこうむりました。朽葉色の袿《うちき》を着た老女が今日、われを拝しにくるであろう、それが隼太の母じゃと、観音さまがおっしゃいましたでな」
「はれまあ、こなたも観世音のお告げを?」
同じ体験である。一も二もなく老女は、讃岐の言葉を信用したらしい。
(うまくゆきそうだぞ)
すこし離れた場所に佇《たたず》んで様子をうかがっていた浄願は、内心、にんまりほくそ笑《え》んだ。
|未ノ刻《ごごにじ》から|申ノ刻《ごごよじ》まで
隼太という名をご存知のところをみると、生前せがれは、あなたと知り合いででもあったのか? との、老女の問いかけに、
「そうなんです。知り合いでしたがね、あいつとわしの結びつきは、さしずめ坊さんがたの説く悪因縁《あくいんねん》とやらいうやつでしょうな」
訥々《とつとつ》と讃岐はこたえている。
(なかなか巧みな言い回しじゃないか)
浄願は感心しながら、そしらぬ振りで脇を見ていた。三人の周囲は人の行き来が織るようだが、都びとの冷淡さか、チラチラと視線を投げるだけで、かくべつ関心を示す者はいない。
「なぜ悪因縁かってえと、隼太とわしは喰らい酔って往来ばたで愚にもつかぬ口論をおっぱじめ、あげく取っ組み合いの喧嘩になった。さるお公卿さんの屋敷の雑色《ぞうしき》部屋で、二、三べん顔を合せただけのガニ打ち仲間だったんです」
「そ、それで?」
「組み敷かれた隼太が懐中に呑んでいた刺刀《さすが》を引っこぬき、やにわに下から薙《な》ぎあげやがった。こわいものですな、刀法も何も心得ぬ素人《しろうと》というやつは……。これ、ごらんの通りわしの左手は、二の腕から先っぽが大根を投げでもしたように宙にふっ飛びましたわ」
「ひええ、恐ろしいことを、あの隼太が……」
「いやいや、おふくろさま、恨んじゃいません。片輪にされたおかげでまっとうな働きもできず、とうとう乞食にまで落ちぶれはしたけれど、わしも悪かったんです。さんざん隼太をぶん撲ったんだものね、カッと逆上して刃物を振り回す気になったのも、隼太の若さからすれば無理はなかった。非はおたがいのはずなのに、今朝のご夢相《むそう》で、観音さまは変なことをおっしゃいましたぜ。隼太は病歿後、そなたを不具にしてのけた悪業の報《むく》いで、いま、畜生道の苦患《くげん》を受けておるって……」
「お告げの通りなのでござりますよ。わたくしも暁にご示現をいただき、つい先刻、馬になったせがれを引き取ってまいりました」
「転生なんて不思議が、ではほんとに、世の中にはあるものなんですな」
「あなたとこの婆《ばば》を、観音さまがお引き合せくだされたのは、せがれになり代って罪ほろぼしをさせ、次の世には幸せな人間に、あの子を生まれ代らせてやろうとのおぼしめしからでございましょう」
持ち荷をさぐってまた、さっきと同じような布袋を一つ、老女はつまみ出した。砂金である。使いやすいように二両ずつ小分けに秤《はか》って、幾つも袋に入れてきたに相違ない。
「些少ではござりますが償《つぐな》いの代《しろ》……。どうかお納めくださりませ」
「へいへい」
狐に化かされたおももちで讃岐は小さな布袋を掌にのせた。根っからの乞食だから金《かね》といえば、縁《ふち》の欠けた銅のビタ銭しか思い泛かばない。砂金など見たことはないし、その存在すら知らないのである。
「婆さんの言うことにバツを合せて、教えた通りの口上を述べると、やがてかならず何かくれるから、そいつを受け取ってあとは無用の口をきかず、とっとと引きあげてこい」
というのが、あらかじめ浄願から指示された手はずなのだ。
(罪ほろぼしの償いにしちゃあ貧弱なものを寄こしゃがったなあ。吝《しわ》ン坊な婆アめ)
心の中で悪態つきつき、
(それでも、わしの知ったことか。浄願坊は役目さえ果たせば、わしには丸餅を二十個と酒一升、たしかに寄こすと約束したんだ。そっちのお恵みのほうがよっぽど大きいわい)
目尻をさげながら、
「では、おふくろさま、お達者で……」
「こなたも物乞いなどから足を洗い、どうぞ立ち直ってくだされや」
「そうするつもりでございます。馬の隼太に、わしからもよろしゅう言うていたと、お伝えを……」
珍妙な挨拶を残して、すばやく人渦の中にもぐり込んでしまった。
息せき切って楼門までくだり、石段下の稼ぎ場に坐るか坐らないうちに、
「上出来だったな」
浄願が追いついて来て鼻の先にしゃがんだ。
「さあ、婆さんから渡された品を、こっちへ寄こせ」
「あいよ。小っぽけな軽い袋だぜ。中身は何なのだい?」
「お前には用のないものさ」
「約束の餅と酒を、忘れなさんなよ」
「坂下の店にそう言って、まちがいなく夕方までには届けさせるよ。お前の塒《ねぐら》は雀ノ森だろう?」
「夕方ったって、もうあんなにお天道さまは西に傾きかけてらあ。暗くならないうちに頼むぜ」
「わかってるよ」
と、うなずいたのも、じつは上の空だった。讃岐と喋っている片脇を、この時、えもいえぬ佳《よ》い香りがすうっと通りぬけたのである。
女童《めのわらわ》を一人、供につれた女だ。その、あまりな美しさ、物腰のやさしさ品のよさに、浄願は口あんぐりとなって、乞食のことなど、とっさに念頭から消し飛んでしまった。
無我夢中であとをつける……。
行き先は、しかし判りきっている。石段を登り楼門をくぐった以上、寺詣でにきた参詣人の一人にきまっていた。
浄願は犬みたいに、風に乗って流れてくる女の体臭――薫物《たきもの》と化粧の料と、女じたいの肌の香《か》がまざり合った甘やかな匂いを、むさぼる思いでくんくん嗅いだ。
空のなかばを彩《いろど》りはじめた華やかな茜《あかね》のせいかもしれない。埃っぽい参道に、はらはら散りかかる桜の葩《はなびら》の、淡い紅色《べにいろ》のせいかもしれない。しきりに悩ましく、やるせなくさえなってきたのは、万年|納所《なつしよ》の味噌擂り坊主風情には奇怪な思い上りだが、
(おれはもはや、大金持ちなんだぞ)
沸々《ふつふつ》湧き出したその自信が、もしかしたら三十三年|来《らい》、人後に落ちることを身に釣り合った分《ぶん》≠ニ信じこんで生きてきたいくじなしの浄願を、今ようやく、男らしい男≠ノ変身させたのだとも言えるだろう。
法衣のふところを、彼はしっかり抑えた。砂金二両――。姉の島女《しまめ》に預けた金と併せれば、脱坊主の望みは明日《あす》にでもかなえられる。そして、
(そうなったあかつき……)
すぐにでも欲しいのは女房だ。しかもその、女房なるものは、
(絶世の美人でなければならぬ)
と、いまや胸張って、浄願は豪語したい心境にまで気分が高揚してきていた。
(おれには金がある。金持ちは美人を妻に持てる。そしてその美人は目の前にいる!)
足がふらついた。吸い寄せられるように女二人のあとについて、浄願は本堂までのぼってしまった。
名にしおう清水の舞台である。主従は欄干のきわに立ちどまって、
「まあ、きれい」
夕映えと桜の照り交しに、無邪気な歎声をあげた。
(自分のほうが、よっぽどきれいなのに……)
焦《じ》れったい。せめて娘か人妻か、屋敷勤めの上臈《じようろう》か、素性だけでもつきとめたい。
ごった返しにまぎれてうろうろと、浄願は二人のまわりを徘徊しつづけたが、こんなとき墨染めの衣《ころも》は都合がよい。僧が寺中を歩き廻っているぶんには、つきまとっていても目立たないのである。
|酉ノ刻《ごごろくじ》から|戌ノ刻《ごごはちじ》まで
景色を見飽きたのか、女はやがて本尊のお前に膝をつき、
「さあ、あんたも一緒に祈るのよ」
女童をうながして願いごとを唱えはじめた。
聴覚を研《と》ぎ澄ましていたからだろう、喧騒のまっただ中にもかかわらず、つぶやきに近いその小声は、針の先に似た鋭さ、痛さ、あざやかさで、浄願の耳に突き立った。
「慈愛ふかい観音さま、お願いでございます。わたくしに夫をお授けくださいませ。独りぽっちのあけくれが、しみじみ耐えがたくなりました。選りごのみをしすぎたのを、いまは後悔しております。男ぶりなど少々劣っていてもかまいませぬ。わたくしをしんそこ、いとしんでくれる殿御ならば、よろこんで妻になりとうございます。良縁を、なにとぞお授けくださいませ」
足をもつらせて、危く浄願は、賽銭箱に尻をぶつけるところであった。
(女は未婚だ。しかも夫を求めている!)
頭がくらくらした。お供え物が波のように揺れた。目が回るのだ。
(なんとしてでも掴まえねばならぬ。よその男に奪《と》られてはならぬ)
死にもの狂いで浄願は思案した。
(妙策はないものか?)
このまに主従は、ながい祈念をやっと切りあげて、
「くたびれたねえ」
回廊の隅にしゃがみこんだ。
「おなかがすきませんか? 腰糧《こしがて》を出しましょうか」
「今夜はお堂にお籠りをするつもりだけれど、ご利益はあるだろうか」
「きっとありますよ。霊験あらたかな観音さまだそうですもの……」
「夢のお告げなりと頂ければうれしいねえ」
女の、この何げないひとことが、天啓のように浄願を搏《う》った。
(そうだッ、婆さんはお告げで騙せた。女にも同じ手を使ってみよう!)
主従は小さな髭籠《ひげこ》の中から粽《ちまき》めしを取り出して頬ばりはじめた。こまごまと吸い筒《づつ》まで用意してきている。それは、どうやら酒だったらしく、やがて柱の根に背をもたせかけたまま抱き合ってうっとりと目を閉じた。よほど疲れているらしい。日が落ちて参詣人の数もめっきり減り、回廊には夜の冷気が忍び寄ってきている。
「もしもし、そこは風が吹きぬけて寒うござるぞ。お籠りならば堂の中へ入りなされ」
浄願に声をかけられて二人は起きあがり、夢うつつの顔で立ちあがった。
「ここがよい。人通りが少のうござるからな」
と案内したのは、策をほどこしやすい外陣の端の塗り籠めである。仕切りの板が一ヵ所破れているのを、浄願は知りぬいているのだ。
「ありがとうぞんじます。胸につかえていた願い事を観音さまに打ちあけたら、なんだかいきなり気がゆるんで、眠くてたまらなくなりました。ここをお借りして、しばらく臥させていただきます」
「ゆっくりおやすみなされよ」
思う壺である。
女たちばかりではない。重くるしい闇が降《お》りてきて堂内が暗くなると、参籠者はいっせいに横になりだし、咳の音、私話し合う声なども、しぜん低くなった。
塗り籠めから、主従二人の安らかな寝息が洩れているのをたしかめて、仕切り板の破れへ浄願はやおら口を寄せ、
「娘よ娘、よう聞けよ」
ささやき声で、観世音の声色を真似はじめた。
「なんじの願いをかなえてつかわす。いますぐ目をさまして清水坂をめざせ。坂の中途で遇《あ》う最初の男こそ、法体であれ俗体であれ、なんじの求める生涯の好伴侶であるぞよ」
びっくりして、跳ね起きる気配……。
「聞いた? お前も」
「聞きましたとも! さあ急いで坂へまいりましょう。素敵な殿御がいるはずですわ」
切迫したやりとりを耳朶《じだ》にしっかり捉《とら》え、
(しめたッ、うまくいったぞ)
抜き足で浄願は堂の外へ出た。近道を先廻りして韋駄天《いだてん》走りに駆けだす。うれしさに身体中が弾んで、踵《かかと》は宙を蹴る。
この時刻になると昼間の混雑が嘘のように人通りが絶え、野良犬がうろつくほか清水坂に、動くものの影が消えてしまうのを浄願は先刻、知っている。突っ立っていればよいのだ。それだけであの美しい小鳥は自分のほうから、ひろげた腕の中へ飛んでくるのだ。
(ああ、ありがたい。金ができた。妻も持てる。脱坊主計画、みンごと、ここに完了!)
有頂点になるのは、だが、いささか早すぎた。とんでもない邪魔者がいきなり行く手に立ちはだかったのだ。
「どこにいやがった、やい浄願、やっと見つけたぞッ」
讃岐である。仲間の乞食を五人も語らって、いっせいに詰め寄ってきたのを目にしたとたん、
「あッ、すまん」
浄願は棒立ちになった。
「うっかり忘れていた。約束を破るつもりはない。餅と酒は今すぐにでも……」
「うるせえッ」
讃岐が大喝した。
「子供だましを言うな。よくもわしを痴《こけ》にしたな」
「そうよ、讃岐をダシに使っておめえが婆さんから巻きあげたのは、砂金じゃねえか」
乞食仲間も口々に罵《ののし》り出した。
「ふてえ野郎だ。餅や酒ぐれえでごまかされてたまるもんか。礼はそっくりこっちへ寄こせ」
「堪忍してくれ、袋の中身は砂金じゃない」
「じゃ何だ、見せろ」
言いざま一人がなぐりかかると、あとは落花狼藉、踏んだり蹴ったりの修羅場《しゆらば》となった。
「やるよやるよ。さあ、持ってゆけ」
浄願は悲鳴をあげた。金は惜しい。でも、女はもっと惜しい。歯をくいしばってでも連中に金を渡して、血路を開かなければ女の歩速に遅れてしまう……。
蹴とばされた腰が痛い。袋をひったくられた無念も、身体中の血を煮え立たせたが、やむをえない。金と引きかえに乞食どもを振り切って、びっこをひきひき浄願は走った。
ようやく清水坂が見えてきた。急な下《くだ》りだ。暗がりに息づいて四つほど、松明《たいまつ》の炎が夜風になびいている。どうやら十人ほどの人数が、ひと塊りになって坂を下りかけたところらしい。
「なに者だろう、あいつら……」
近づいて目をこらすと、娘がいた。女童《めのわらわ》もうれしげな笑顔で引き添っている。娘の肩に手を回して、何やらにこにこ語り合いながら歩いてゆく後背《うしろぜ》は、狩衣《かりぎぬ》姿の恰幅《かつぷく》堂々とした武士である。半武装の従者が七、八人、彼らのまわりを囲んでいる。
「どういうことなんです? これは……」
駆け縋《すが》って、最後尾の郎党に浄願は慄え声で訊《き》いてみた。
「奇縁というやつですな。わがお主《あるじ》は滝口の武者だが、いまだ独身――。よき妻を授からんと今宵、参籠にまいる途上、観音の示現をこうむったあの上臈が、同じく夫を求めて坂をおりて来られたのに、ばったり出遇ったというわけですわ」
美男と美女……。ひと目で意気投合して、あれ、あの通りむつまじく、お屋敷へ引きあげて行くところだと聞かされ、
(なむ三宝! ひと足おくれたッ)
へたへたとその場に、浄願は膝を突いてしまった。遠ざかる松明……。
(ええ、情けない。乞食どもの妨害にさえあわなければ、今ごろは女のたおやかな手を、おれのこの手が握っていたはずなのに……)
掻きむしろうにも、坊主頭には毛さえない。あきらめて浄願はよろめき立った。
(二度目の砂金は奪われてしまった。でもまだ、姉さんに預けておいた二両がある)
せめて、それを支えに生きようと、疼《うず》く腰をさすりさすり轆轤《ろくろ》町を目ざした浄願だが、もし同じ時刻、姉の家で演じられている夫婦喧嘩の実態を知ったら、彼は今度こそ正真正銘、腰をぬかして、一歩も踏み出せなくなってしまったにちがいない。
「弟に、なんて言いわけしたらいいのよッ」
ぐでんぐでんに酔っぱらっている夫の胸先に、島女はむしゃぶりつき、金切《かなき》り声をあげていたのだ。
「旅から帰ってくると早々すぐプイと出かけたと思ったら、まあ、どうでしょう、預り金の袋を目ざとく持ち出して、またたくまにガニ打ち場で、すってしまうなんて……」
「それが悪いか。浄願はおめえの弟。すりゃあ、おれにも義弟《おとうと》だ。兄《あに》さんが弟の金を使ったからって、目くじら立てるこたァあるめえ。えッ、文句あるか女房、げえーッぷ」
それにしても忙しい一日だった。紆余曲折に富んだ一日、したがって、やけに充実した一日とも言えるが、それだけのことにすぎなかった。あすからまた浄願の、ながい、変哲《へんてつ》のない納所《なつしよ》ぐらしが、えんえんと始まる……。
万志良《ましら》
1
西の市は今日も混雑していた。せまい通路を、両側から挟みつける形で棚店《たなみせ》がぎっしり並び、うまそうな煮炊きの匂いにまじって売り声が威勢よく交錯する。押し合いへし合いしながら人ごみを縫って歩くのも、出雲《いずもの》豊麻呂《とよまろ》にはたのしかった。
目的の獣肉店は、八条大路に面した市門《いちもん》の近くにある。豊麻呂が入ってゆくと、
「や、京職《けいしき》のだんな、お見廻りごくろうさまです」
肥った主人《あるじ》が愛想よく声をかけてきた。
「仕事ではないのだ。肉を少し分けてもらおうと思ってね」
「そいつはよかった。なにね、つい今しがた極上の猪《しし》が入荷したんでさ。霜がおり出すと、一日増しに猪は脂が乗ってきます。ごらんなさい、鮮やかなもんでしょう」
と切り分けて見せてくれた肉の塊りは、なるほど冴えた赤身に、白い脂肪が網状に走って、大輪の花が開きでもしたように美しく、みごとであった。
「召しあがってみるとなお、わかりまさあ。とろりと舌の先に、絡《から》みつくようなおいしさですぜ」
妻や子らのよろこぶ顔が目に泛かぶ。肉など口にするのは、何ヵ月ぶりだろう。
「ではその猪を一斤くれ」
思わず声が弾んだ。
「たっぷり、おまけしときましょう」
ドサッと秤《はかり》に乗せる手を、豊麻呂は笑顔で眺めながら、
「めずらしく、休暇をくれたのさ」
問われもしないのに喋った。口も軽くなっていた。
「ふだん口やかましい上司だが、今日は見直したよ。日ごろの精勤に免じて、昼すぎから帰っていいと言うんだ。案外、話のわかる人物だと思ったなあ」
口やかましいどころではない。貪欲《どんよく》で小意地悪く、上にはへつらう、下にはえばりちらすという典型的な小役人根性の持ちぬしなのである。職は大属《だいさかん》。名は巨勢岩国《こせのいわくに》という。
二ヵ月前、豊麻呂は官から金を借りた。長わずらいのあげく老母が亡くなり、葬式代が臨時支出となったため背に腹はかえられず、高利と知りながら銭で三百文、証文を入れて借入したのだ。
担保には住居《すまい》を提供した。板葺《いたぶ》きの、つぶれかかった小家《こいえ》だが、日歩二文もの利子を取りながら、担保がなければ官は借金の申し込みに応じてくれない。保証人まで立てろという。巨勢岩国には、
「けっして迷惑をかけませんから……」
おがみ倒して、このとき保証人になってもらったのである。
一家をあげてそれからは、返済に努力した。もともと質素だった食事を、さらに切りつめ、内職に精を出した。豊麻呂には薬剤の知識が多少ある。野山を走り廻って草根木皮を集め、乾燥して生薬《きぐすり》屋へ卸《おろ》したし、妻の黒刀自女《くろとじめ》は苧績《おう》みに励んだ。ことし十八になる息子の浄水《きよみ》も、これは筆跡が巧みなところから経師《きようし》の下請け仕事を手伝い、夜ふけまで目を赤くしてがんばった。
一日も早く返さないことには、雪だるま式に利子が嵩《かさ》んで、しまいには動きがとれなくなってしまう。おかげで、でも、そんなことにはならずに今朝、元利ともに耳を揃えて役所へ持参できたばかりか、
「些少《さしよう》ですけれど……」
元金の一割が相場とささやかれている保証人への謝礼を、岩国の前にさし出すと、いつもなら当り前な顔でふところにさらえ込む男が、なぜかかぶりを振って、
「まあ、よい。わしへまで心附けなど持ってくるには及ばん。その金でたまには女房子に、うまいものでも食わしてやれ」
意外な情けを示したあげく、
「退庁時刻まで勤務していては市門が閉まってしまう。今日はもう仕事を切りあげて、市場での買物をすませたらそのまま家へ帰れ」
とまで言ってくれたのである。
豊麻呂は耳を疑った。欲ばり上司の豹変ぶりが何やら薄気味わるくさえなったが、受け取らぬ金を強《し》いて渡すこともない。
「では、ご厚意に甘えさせていただきます」
いそいそ乾門《いぬいもん》の詰所をとび出して、まっしぐらに西の市の肉屋へ駆けつけたのであった。
予期していなかった金だ。稗粥《ひえがゆ》を、野菜屑で薄めてすすりこんでばかりいた家族ども……。その空《す》き腹の前へ肉の塊を抛り出したら、目を回して驚くだろう。歓声が聞こえるようだ。
(わるかったな)
仲間の史生《ししよう》たちと一緒になって、巨勢岩国の強欲ぶり酷薄ぶりに、非難の目を向けてきたのを、豊麻呂は内心、愧《は》じた。
(あの人への評価を、これからは改めねばなるまい)
肉屋は大きな蓮《はす》の葉に、手ぎわよく肉を包んだ。
「へい、お待ちどおさま」
と、渡してくれながら、
「弥勒《みろく》寺の塔を、今日これから、いよいよ検分するそうじゃありませんか」
露骨な好奇心を漲《みなぎ》らせて言う。
「ほう、やるのかね、やはり……」
風評は豊麻呂も耳にしていた。寧楽《なら》京内の五条三坊に、帰化人の集団が建立《こんりゆう》した一|宇《う》がある。最近、境内に九重の塔がそそりたったが、塔の九輪《くりん》や水煙《すいえん》が、青銅製ではなく、どうやら革で造ったまがい物らしいと評判が立ったのだ。
「とんでもない。正真正銘の銅ですぞ」
鋳金工は怒り、
「はっきりさせねば気がすまぬ」
寺側も息巻いて、おたがいに争ってきたのであった。
「たしかめるとはいっても、おいそれとは埒《らち》があくまい。なにせ九層もの巨塔だ。いま一度、足場でも造ったのかね?」
豊麻呂の問いかけに、
「またぞろ足場なんぞ組み直したら、入費だけでもたまりませんや」
肉屋は大仰に手をふった。
「坊主ども、智恵を絞ったんですよ。東大寺から万志良《ましら》のやつを借りてきたんです」
「ましら? 猿かね?」
「どんなに高い所にでも、するする登っちまうのでましらの異名で呼ばれているけれど、人間は人間でさあ。東大寺に飼われている男奴《おやつこ》ですよ」
「そうか。そいつを塔に追いあげて、革か銅か真偽を見届けさせようというわけか。うまい手段を考えついたものだな」
「窮すれば通ずってやつですな」
笑い合って外へ出た。金はまだ、ある。米を買い、醤《ひしお》を買い、二合ほど自分のために酒も買った。蜜《みつ》でからめた|※[#米へん+巨]米《おこしごめ》を忘れなかったのは、甘い物などめったに口にしたことのない三歳になる娘の、はしゃぎ声を聞きたかったからである。
肉屋ばかりでなく、どの店へ寄っても塔の話で持ちきりだし、
「もうじき始まるぜ。見に行こう」
連れ立ってそそくさ、市場を出て行く物好きも少くない。
弥勒寺は帰り道に当っていた。通りすがりにながめると、門内はすでに黒山の人だし、あとからあとからヤジ馬が駆けつけてくる。西に寄りはじめてはいるが、日ざしはまだ明るく、夕飯|時《どき》にはだいぶ間《ま》もあった。
「ちょっと覗いてみようかな」
気まぐれを起こして、豊麻呂も中へ入ってみた。
晴れ渡った初冬の空を背後に流して、九重の塔の全容は截《き》り取った金属の稜《かど》さながら眩《まぶ》しく、鋭い。はじめて目にする者も多いのか、
「りっぱだなあ」
感嘆の声がしきりにあがっている。大方の見るところ、相輪《そうりん》がいかさまとは、とても思えない。
「革だなんて噂が、なぜ立ったのだろう」
「鋳工に悪意を持つやつが、わざとばらまいた流言かもしれぬな」
そんな会話もあちこちで交されていた。
人垣の一方がどっと割れて、僧たちの黒衣が現れた。俗体が五、六名、それにつづく。でっぷり肥えた五十がらみの鉤鼻《かぎばな》が、鋳金師の八束《やつか》だろう。とり囲んでいるのは工房で働く弟子の工人どもにちがいない。
「万志良《ましら》だッ」
「東大寺の猿奴《さるやつこ》がやって来たぞ」
と、人々はどよめく。工人の一団よりわずかにおくれて、丈の高い男と低い男が塔のそばへ歩み寄った。低いほうは奴《やつこ》の長《おさ》とみえて、手に鞭を握っている。万志良は背丈が、その倍ほどもあり、しかも金剛力士の像を見るように腕も胸も、筋肉がりゅうりゅうと盛りあがって、見るからにたくましい。眼つきは猛禽《もうきん》を連想させるし、唇が厚く、肌もあさぐろい。強健を誇示したいのか、この寒空《さむぞら》に袖なしの、麻の布衫《ふさん》、脛までの短袴《たんこ》しかつけていない。半裸に近い身なりだった。|※[#巾へん+「僕のつくり」]頭《ぼくとう》とも何ともつかぬ奇妙な布切れを頭に乗せ、ちぢれた褐色の毛髪を耳の両脇からはみ出させている。
寧楽《なら》の都は人種のるつぼだ。漢人、新羅《しらぎ》人、高句麗《こうくり》人、渤海《ぼつかい》人……。炎を呑んでみせる天竺《てんじく》渡りの魔術師もいれば目の青い回鶻《ういぐる》商人までが、我もの顔に朱雀大路をのし歩いていた。毛色の異《こと》なる外国人を、いまさら珍らしがる者など一人もいない。
(親の代あたりに、どこか熱暑の国から売られてきた混血の奴隷《どれい》だな)
と万志良を見て、豊麻呂もチラと想像したにすぎない。
むしろ興味は、みごと巨塔へ万志良が攀《よ》じ登ってのけられるかどうか、その成否にそそがれた。衆目のまっただ中で主演できる得意さが、万志良の表情を尊大なものにしている。彼は群集をじろじろ見回し、輿望《よぼう》を担って起《た》つ英雄然とした態度で、八束の面前に腕組みしたまま突っ立った。
(貴様の面皮《めんぴ》を、たったいま剥《は》いでくれるぞ)
そう言わんばかりな傲慢な面《つら》つきである。鉤鼻を憎さげにしかめ、負けず劣らずの眼光で鋳金師も万志良を睨み返した。
(黒ン坊の奴《やつこ》め、出しゃばりくさって……。登れるものなら登ってみろ)
しかし八束の顔色は、酒焼けした日ごろの血色にくらべて心なしか悪かった。
2
動きはじめると万志良の動作は敏捷だし、骨が無い者のように柔軟ですらあった。勾欄《こうらん》に立つが早いか軒垂木《のきたるき》に飛び移り、たちまち屋根にあがって次の層の勾欄に手をかける。名の通り、まるで猿《ましら》だ。見物の声援は地鳴りとなって境内をゆるがす。豊麻呂もほとほと舌を巻いた。南方の密林に、自由に生活していたころの先祖の野性が、いきいきと今、万志良の血の中に蘇《よみがえ》ったらしい。
(あの調子なら、苦もなく最上階まで登りつめるな)
八束はいまやまっ青だった。顔をこわばらせ、猪首《いくび》をうしろへのけ反《ぞ》らせて、一心不乱に塔を見上げている。
このまにも日は傾き、茜《あかね》の光彩が片空を華やかに染めはじめた。少しずつ紅《くれない》は濃さを増し、巨塔は静かな白金《はつきん》の炎に包まれる。その中に動くのは、五層目に移り六層目に達し、ようやく七層目にかかろうとしている万志良と、輪を描いて舞う夕鳥の群れだけだ。逆光を浴びて万志良の姿は黒く、豆粒ほどにもすでに小さい。
ついに彼は九層目に立った。あと一層で相輪の真偽は判明する。九層目の軒先めがけて跳躍しかけた万志良は、しかし|斗※[#木へん+共]《ときよう》の出ばりを掴みそこなって、回廊の床へもんどり打った。見物は肝を冷やす。万志良の位置から見おろせばおそらく地上との距《へだた》りは、目もくらむばかりに相違ない。
それでも怯《ひる》まずに、彼はふたたび九層目の屋根に挑んだが、なぜかまた、やりそこなって今度は隅木《すみぎ》にぶらさがり、
「ぎゃああ……」
さすがに身の毛がよだったか引きつったような恐怖の叫びをあげ出した。
「助けてくれえ、こわいよう、もう登れねえ、かんべんしてくれえ」
下では僧たちが怒声を張りあげる。口々に群集もわめく。あと、ひと踏んばりじゃないか、登れ、見届けろッ、おりでもしたらおのれ、許さんぞッ……。
万志良はでも、身体を振子さながら振りはじめ、勢いをつけて九階の廻り縁にとびおりると、気絶でもしたか、それっきり音沙汰なくなった。やむなく僧や工人たちが塔の内部へなだれ込む。梯子を伝って最上層まで登り、万志良の怠慢を責め立てたが、
「もう駄目だ。ここまででやっとだったんだ。てっぺんになど追い上げたら目がくらんでおらァ手足が萎《な》える。おっこっちまうよう」
勾欄にしがみついて叱ってもなだめても言うことをきかない。とうとう仕方なく梯子を利用して曳きずりおろしたが、地上で待ちうけていたのは手ひどい制裁だった。
「猿の生まれ代りのくせに、こわいが聞いて呆れる。嘘をつきやがってこの、横着者め」
奴頭《やつこがしら》の鞭が情け容赦もなく裸の背に打ちおろされ、僧たちの足蹴までがそれに加わった。
「嘘じゃねえよ。高くなるにつれてがくがく身体が慄えて、どうにも登り切れなくなっちまったんだ。けど、検分はしたよう。相輪は金銅だあ。竜舎《りゆうしや》から宝珠まで、ちゃんとこの目で見届けたよう」
「いいかげんな出放題をほざくなッ」
鞭や棒切れの乱打の下で、痛え、痛え、許してくれえと頭をかかえて転げ回るころには、
「なんだ、つまらん」
「やりそこなうとはなあ。見ていて損をしたよ」
文句たらたら見物は散りはじめ、改めて対策を協議するつもりか、僧たちも八束らをうながして僧坊へ引きあげてしまった。
わざわざ東大寺から出張《でば》って来てくれた労をねぎらうつもりだろう、奴頭も酒を振舞われに、庫裏《くり》へ案内されて行き、基壇《きだん》の裾の石畳には万志良の呻吟《しんぎん》だけが取り残された。
豊麻呂も帰りかけたが、背中じゅうを血だらけにして苦痛の声を洩らしている万志良を、奴隷とはいえ放置しては立ち去りかねた。寄って行って、
「しっかりしろ」
抱き起こすと、
「うるせえッ、かまうなッ」
興奮の余波か、豊麻呂の手を払いのけて万志良は暴れた。でも、動物的な勘ですぐ、害意のない相手だと見ぬいたのだろう、
「なんとかしてくれえ、痛くてたまらねえよう」
泣き声まじりにしがみついてきた。大仰な、馴れ馴れしいそぶり、強い体臭に辟易《へきえき》しながらも、水場へつれていって傷口を洗い、
「まてまて。ざっと手当しておくからな」
豊麻呂は手ばやく腰の袋をはずした。薬が数種類、常時入れてある。血止めを出して塗ってやる手へ、さも気持よさそうに身体を委《まか》せながら、
「あんた医師《くすし》か?」
万志良は問いかけた。
「いいや、下ッ端の官吏だ。右京職《うけいしき》の史生さ」
「おれは奴隷だぞ」
「知ってるよ」
「なぜ、優しくしてくれるんだ」
「優しくはない。人間同士なら当り前だろう。お前は怪我をしているのだ」
「怪我させたやつらだって人間だぜ」
「人間にもいろいろある。立場にも依る。打つのが役目なら打たねばなるまいし、介抱できる立場にいれば介抱もしよう。それだけのことだ」
「もしかしたらあんた、出雲豊麻呂と言いはしねえか?」
「よく知ってるな。おたがい、逢ったのははじめてなのに……」
「おれの仲間が、石運びのさいちゅう腹痛《はらいた》を起こし、道ッぱたで唸ってたところを、やっぱり助けてもらったそうだぜ」
「そんなことがあったかな」
「薬をくれた、飲んだらけろりと癒《なお》ったって話してたっけ……」
覚えがなかった。近所隣り、役所の同僚、行きずりの他人でも困っている場合、応急の手当をほどこすのは豊麻呂にすれば当然な行為だった。感謝されれば気持があたたまる。それだけの報酬に充分、満足して、薬袋をつねに持ち歩いているのである。
「さあ、すんだ。血が散ったわりには浅手だよ。やがて痛みもとれるだろう」
布衫《ふさん》を着せかけてやっているところへ、酒の匂いをぷんぷんさせながら奴《やつこ》の長《おさ》がもどってきた。
「野郎、よくも恥をかかせやがったな」
まだ打擲《ちようちやく》し足りないかのように怒鳴る。
「帰るんだ、とっととついてこいッ」
よろりと立って、万志良は豊麻呂の手をにぎりしめた。
「ありがとよ。親切にしてもらって、うれしかったよ」
生まれ落ちるから奴隷として飼われ、牛馬以下にしか見られない日常の中だけに、こんな無知な、野育ちな男でも、人の温かみに餓《う》えているのかと思うと、ふっと豊麻呂は哀れになった。
いつのまにか残照は輝きを失い、西空をいろどっていた緋《ひ》色の燃えは、どすぐろい紫に変っていた。塔の影が長く伸びて、境内の四隅に夕闇を澱《よど》ませはじめている。
(とんだ道草をくってしまったな)
悔いがかすめた。
革鞭を振り振り、万志良を追い立てて去ってゆく奴頭《やつこがしら》とは逆に、我が家へ向かって豊麻呂は走り出した。土産《みやげ》の重さが腕にこころよい。チラチラ灯《ひ》のともりはじめた町筋を急いで、路地裏へ踏みこむと、どういうわけか家の戸口に人だかりがしている。
(何かあったのか?)
いぶかりながら近づく夫を、目ざとく見つけて黒刀自女《くろとじめ》が土間をまろび出てきた。
「あなた、大変ですッ、わたしと子供ら二人、東大寺につれてゆかれて、奴隷にさせられるんですって……」
豊麻呂は棒立ちになった。たった今、東大寺の男奴《おやつこ》と口をきき合った、きずに薬を塗布してやった、それとこれと関係があるのか? いったい何の話なのだ? 奴隷にされるとは、どうしたわけか?
「わしらも仰天しておるのじゃよ豊麻呂さん」
説明役を買って出たのは向いに住む老人だ。
「腑に落ちかねるのも無理はないがの、黒刀自女さんの言う通りあんたの妻や子は、東大寺へ施入されたそうなのじゃ」
「施入? ひとの女房子を、だれが勝手に寺になど施入したのですか?」
「三輪のあたりに広大な所領を持つ大宅《おおやけの》朝臣《あそん》可是麻呂《かぜまろ》とやらいう豪族じゃそうな」
「ばかなッ、どこのどいつか知らないが縁もゆかりもないあかの他人に、大事な家族を左右されてはたまりません。そんなことができる道理はないでしょう」
「それができるのじゃ。黒刀自女さんの実家は昔、摂津にあったそうではないかい」
「妻の、祖父母のころですよ」
「なんでも当時、その村は可是麻呂朝臣の父御《ててご》の領地であったそうな。山背《やましろ》にも同様、飛び地を持っておるのじゃが、養老年間に公《おおやけ》に訴えて、二ヵ村の村人は我が支配民、大宅家の奴婢なりと申し出た。そして官から、それを認証されたというわけじゃ」
村人たちは驚愕した。寝耳に水の凶報である。刑部省からの令達で、
「向後、汝らの身柄は奴隷として、大宅家の戸籍に編入されるものとする」
と申し渡されたとき、彼らは怒って控訴した。
「三代四代前の遠祖にまでさかのぼれば、あるいは大宅側の言う通り、村の者はその隷属民であったかもしれぬ。しかしすでに天智天皇の御代、庚午年籍《こうごねんじやく》が作成された時点で、村民らは五比、ならびに七比を経《へ》た者、つまり品部《しなべ》の血の薄まりを認められ、全員、良民としての新戸籍を獲得したはずである。いまさら大宅家の奴婢になど身を堕《おと》すことはできない」
筋の通った主張だったにもかかわらず、父の歿後、家督を継いで大宅家の当主となった可是麻呂は承服せず、要路の役人に賄賂をばらまいて、勝訴の判決をかちとってしまった。
「だからというて、遠く離れた摂津や山背から、代々その地に住みつき、耕作もし機織《はたお》り土器作りなどしておる人々を、無態《むたい》に引っ立てて来るわけにもまいらぬ。言うてみりゃ宝の持ち腐れじゃ。勘定高い可是麻呂にすれば、なんとも惜しゅうてならなんだのであろう。村民どもは、それっきり官からも大宅家からも沙汰がないゆえ『訴訟に勝ったところで実際にはどうとも出来ぬ事柄ではないか。戸籍面では大宅の所有であろうと、わしらの身分はもとのまま……。これまで通り平穏にくらしてゆける』と安心しきって、中には黒刀自女さんのように他国へ嫁入る者もおった。だが、どっこい可是麻呂めは、投げ出してはおらなんだのじゃ。たいまいの袖の下まで使って手に入れた利得《りとく》……。何としてでも生かしてのけようと折りを狙うておったのじゃよ」
3
その好機はきた。去年――天平勝宝元年十二月二十七日、聖武上皇と光明皇太后夫妻は、愛嬢の孝謙女帝と鳳輦《ほうれん》をつらね、東大寺に行幸して礼仏供養したが、五千人もの僧侶が読経し、さまざまな異国の舞楽が奏されるなど、未曾有の盛儀を現出した。
これを記念して、東大寺には朝廷から、封四千戸が寄進され、男奴隷百人、女奴隷百人の施入を見た。官奴司《かんぬし》の支配下に属する官奴婢の内から、選り出された者たちである。
天皇家にならってこのとき美濃、近江、丹波、但馬の国司らも国内の奴隷を買い上げて東大寺に貢進したし、諸国の富豪たちまでが同調した。信仰心の発露からでは、もちろん無い。朝廷におもねり、東大寺に媚びることでより多くの利権が約束される。それを期待したのであった。
可是麻呂も、この機会を逃がさなかった。財産でいながら、自力では邸内へ移すことのできない二ヵ村の村民――。しかし彼らも、東大寺の力には歯向かえっこない。所有権を替えるのだ。そして奴隷を欲しがっている東大寺の、印象をよくする。
「信心ぶかい大檀越《だいだんおつ》……」
見返りは、たっぷり恵まれるはずだと、可是麻呂は踏んだのだ。飛び地の住人六十一人を、彼は一括して東大寺に献納してのけた。添え状の『貢賤解《こうせんげ》』には、六十一人の姓名、年齢と現住所、血縁の場合は続柄《つづきがら》が記載され、黒子《ほくろ》の部位、痣《あざ》の有無など、いつどうやって調べたか逃亡に備えて、身体的な特徴まで明記してあった。
「一ッ刻《とき》ほど前じゃ。解《げ》の写しを手に東大寺の使僧がやって来てな、黒刀自女さんは村の出身……。大宅家の戸籍に載せられた者ゆえ、奉納された現在、身柄は寺へ移して婢とする、その血を享《う》けた二人の子――伜の浄水《きよみ》、娘の黒君《くろき》も同様、寺の所有とすると言い渡したのじゃよ」
豊麻呂は自失した。
「無茶だッ」
声をしぼり出すのがやっとだった。
「如らぬまに妻子が奴婢にされ、物品同様やり取りされて、夫の手、父親の手からもぎ放されるなんて……そんな非道が許されるものかッ」
土産の包みを、彼は土間へ叩きつけた。なまじ団欒《だんらん》のたのしさを描きつづけて帰っただけに、憤りは胸中に沸き返った。
「わたしは嫌ッ。家族ばらばらに引き離され、子供らまでが奴隷にされて、一生涯、笞《しもと》の下で追い使われるなんて……そんな惨《みじ》めな目に遇うくらいなら舌を噛み切って死んでしまいますッ」
狂ったように黒刀自女は悶《もだ》え、その母の背にとりすがって、息子の浄水も、
「どうしよう母さん、なんとかこの理不尽な申し渡しを、拒否できないだろうか、ね、父さん」
声を慄《ふる》わせた。幼女の黒君《くろき》までが事情はのみこめぬながら、父が怒り母が泣き、兄が歯をくいしばっているのを見て、おろおろ、しゃくりあげはじめた。
「物の道理のわかる人に相談してみよう。役所の上司にでも……」
と踵《きびす》を返しかけて、
「あッ」
いきなり霹靂《へきれき》にでも遭《あ》ったように豊麻呂は居竦《いすく》んだ。常になく大属《だいさかん》の巨勢岩国が寛容だった。礼金を受け取らず、鬼と仇名されている男が市場の門限にまで気をつかって、早退をすすめ、妻子にうまいものでも食わせてやれなどと日ごろにない仏顔《ほとけがお》を見せたのも、当の豊麻呂よりひと足はやく、東大寺からの連絡で、貢奴婢《こうぬひ》の件を知ったからにちがいない。
「だめだッ」
豊麻呂は喘《あえ》いだ。
京職は左京、右京に管轄が分かれて管内の戸口《ここう》、田宅《でんたく》、道路、橋梁の整備、商工業者の監督、司法や警察の任務をつかさどる。長官の下に亮《すけ》、大進、少進、大属、少属の職階があった。豊麻呂ら史生たちは机上事務のほか、羅城十二門の詰所に配属されて、京内外への人の往来、荷駄の出入りを見張るほか門の開閉をも仕事にしている。人数こそ多いが、下部《しもべ》の上に位置する下吏にすぎない。だれに縋《すが》り、いまさらだれに哀訴してみたところで、すでに事情を知りながら、成りゆきまかせに突き放してしまった上役たちが、救いの手など差しのべてくれる気づかいはないのだ。
――宣告だけをくだしていったん帰った東大寺の使僧が、こんどは寺奴《じぬ》数人とその長《おさ》を引きつれてやって来た。
「嫌ッ、行くのは嫌ですッ、助けてッ」
黒君を抱きしめ、泣きさけんで土間に打っ伏す黒刀自女の、髪をつかみ腕を捻じって曳きずり出す……。
薪《まき》を振り回して抵抗しようとした浄水は、叩きのめされて縛りあげられ、これも家の外へ引っ立てられた。鞭をふるって息子を打った小男を、弥勒寺で見かけた奴頭《やつこがしら》と知って豊麻呂も逆上した。
「渡さぬッ、どこへもやらぬぞ」
躍りかかろうとする腰を、肩を、
「気持はわかる。口惜しさも察するが、抗《あらが》ってかなう相手じゃない。こらえろ豊麻呂さん、夫婦の縁、親子の縁が、今日かぎり尽きたのだ」
寄ってたかって抑えつけたのは近所の者たちだった。
「疫病に犯されて、妻子がいっぺんに死ぬこともある。その手の不幸に見舞われたのだとあきらめろ。無念を断ち切るのじゃ。な? 相手が悪い。東大寺ではしょせん、わしらの歯は立たぬ」
「いっそあれたちが、病死してくれたほうがよい。がんぜない黒君までが四ツ五ツから追い使われ、一生を地獄の責め苦の中で送るのかと思うと居ても立ってもいられない。離してくれッ、つれもどしに行かせてくれッ」
悲鳴、怒号、鞭の唸りや足音が、入り乱れて路地を遠ざかり、もうふたたびこの家へ働き者の黒刀自女、学問好きの浄水、愛ざかりの黒君らがもどってくることはないと確信しながらも、向いの老人はじめ近隣の人々は去らなかった。豊麻呂の激昂が鎮まるのを待ったのだ。彼らの足許に豊麻呂は倒れ、男泣きに泣き沈んだ。
4
役所へ出るのを豊麻呂はやめてしまった。無届け欠勤である。右京職の本庁は朱雀大路の西、三条三坊の角地《かどち》にあるが、豊麻呂の職場は城壁の四囲十二ヵ所にうがたれた門のうち、北西の隅を守る乾《いぬい》門の詰所で、史生五人、下部七、八人の指揮をとるのが巨勢岩国であった。
いつもなら、断りなく休むことなど絶対に許さない岩国が、さすがにしばらく見のがしていたのは、
「へたに叱りなどすると豊麻呂め、怒り狂って、何をしでかすかわからぬからな」
ふだん、温和と見られている男の思い詰め方を、ひそかに恐れたからだった。
「がんらいが小心|律儀《りちぎ》……。いつまでも怠けつづけてなどいられぬ気質だ。そのうちに出てくるよ」
この予測は当った。やがて従前通り、豊麻呂は出勤しはじめたけれども、陰鬱な顔をしてろくに口もきかない。
「むりはない。おれだって妻や子をいきなり奴隷になどさせられたら気が変になるかもしれないものな」
仲間の史生たちは同情し、筆を執りかけたまま時おり豊麻呂が、放心したように壁をみつめていたりしても、腫れ物にさわる思いでそっとしておいた。
役所が退《ひ》けると、豊麻呂は毎日のように東大寺へ出かけて行った。門鑑きびしい官寺である。長大な土塀に添ってうろうろ廻り歩いても、奴婢長屋がどこにあるのか、黒刀自女や浄水たちがどのような酷使のされかたをしているのか、詳しい状況は知りようがない。
おびただしい寺領と僧徒をかかえ、写経所や鍛冶場、仏像仏具の修理所まで寺内に持つ寺だから、数百人もの奴隷を使ってなお、人手は足りないようだ。婢は糸をつむぎ布を織り、幡《ばん》や袈裟《けさ》、厨子《ずし》の覆い布などを縫う。刺繍や染め物に従事する者、工人たちの衣服の仕立、炊事や洗濯も彼女らの受け持ちにちがいない。
奴《やつこ》は畑を打つ。鍛冶職の叱咤のもとで鞴《ふいご》を踏む。馬を飼い牛を飼い木を伐り草を刈り、紙漉きの労働にも使われるのだろう。
「浄水よ。病気になどなってくれるな」
力仕事には向きっこないひ弱な、それだけに親思いだった息子の微笑が、胸さきを絞りあげるような苦しさで豊麻呂の眼裏《まなうら》に明滅した。
そんな彼に、東大寺から呼び出しがかかった。妻子がつれてゆかれて以来、二ヵ月近くたっている。年は明け、暦の上では春がめぐってきたけれども、朝晩の凍《い》てはまだ、きびしく、土塀のかげの霜柱は午後になっても白いままだ。
ようやく入れた門内なのに、そこで豊麻呂が渡されたのは、菰《こも》にくるんだ黒君《くろき》の死体であった。
「くると早々から腹をくだしていたそうだ。子供はいかん。半人前の役にも立たぬし、死ぬ率がやたら多い。もっとも市での売り値も安いけれどな」
係りの僧は無表情に言い、すぐ持って帰れと顎の先で命じたきり、妻のこと伜《せがれ》のことを豊麻呂がいくら訊《き》いても、
「知らんよ。奴婢ひとりひとりの動静など奴頭《やつこがしら》のほか把握してはおらん」
と、とりつくしまもない。
抱いて帰って菰をあけると、小さな身体は痩せこけて、垢《あか》にまみれ、愛くるしかった面《おも》ざしは跡かたなく消えうせていた。
「黒君ッ、可哀そうに、辛《つら》かったろう」
下痢からの衰弱死だという。水が変り食物が変り、病んでののちも、ろくに手当すらしてもらえなかったのだ。衣服は汚れきっている。
湯を沸かし、幼女の全身を豊麻呂は洗い清めた。左手にボロ布が巻かれ、血が乾いてこびりついているのは、怪我でもしたのだろうか。いたわり深く布をはがし、血を落としてやろうとして、
「おや?」
子供の掌を豊麻呂は凝視した。むざんな切りきず……。そこがしかも、異様に膨《ふく》らんで、何やら固い物が覗《のぞ》いている。骨かと思ったがちがう。おそるおそる引き出してみると、薄く削《そ》いだ木の皮であった。こまかくたたんだ麻布の切れはしが間に挟まってい、拡げると見覚えのある浄水の字で、
「母さんをつれて逃げます。乾門を目ざすから、どうか父さん、門扉が開けられる工夫をしておいてください」
と書かれていた。
豊麻呂は戦慄した。奴婢の脱走は絶えない。しかし逃げおおせる者は百人に一人もなかった。追手につかまり、半殺しの刑罰に遇《あ》わされたあげく、また、もとの奴隷溜りへ追い落とされる。
同じ轍を踏ませないように、額に焼き印を押したり、入れ墨をほどこす場合もあるし、田畑や山へ作業に出すさいは、奴隷同士、足を鎖《くさり》でつないでしまう主人もいた。
そうまでされながら二度、三度と、懲《こ》りもせず逃亡をくり返す者もいる。
「石にかじりついても自分だけは、逃げ切ってみせる」
自信が彼らをうながすのか、それとも刑罰の恐怖を上回って、故郷や家族、自由への執着が抑圧の苦痛をゆすぶり立てるのか。
「うまくゆくかなあ」
危惧に、豊麻呂は青ざめた。でも、浄水は決意してしまっている。十八歳の若さが、のしかかった運命の不条理を、なんとしてでもはね返そうとあがくのだろう。
「よしッ」
豊麻呂も肚を固めた。黒君の亡骸《なきがら》を葬るとすぐ、彼は家を売り、当座の食糧、雨具、衣類などを調えて三つの包みに分けた。住み古した小家なので、手に入れた売り代《しろ》はおどろくほど少なかった。新鋳の銅銭で二百文にしかならず、物を買いこむと残額は百文を割った。銭も三分して緡縄《さしなわ》を通し、豊麻呂は詰所の宿直《とのい》部屋に移った。妻子の思い出がしみついている家に、独りでくらすのは淋しくてやりきれない、貸し室を探して越すつもりだが、そのあいだ泊り番を引き受けようと申し出ると、だれもが嫌《きら》う夜勤だけに、
「そいつは助かる。たのむよ」
二つ返事で同僚たちは承知した。
正申《さる》の刻には皇居の諸門がしめられ、鼓楼《ころう》で打ち鳴らす閉門鼓を合図に、寺々の鐘がいっせいに鳴り出す。東西の市は市司《いちのつかさ》の手でとじられ、商人は引きあげた。一刻のちには都城の十二門もしまる。公用の使者のほか夜間の通行は禁止されているから、更《ふ》けてくると大路小路には、三、四人ずつ組んで巡邏《じゆんら》する衛府《えふ》の兵士以外に、人かげは絶えてしまう。聞こえるのは犬の遠吠えだけだ。
(今日、来るか、今夜こそ決行するか)
待ちつづける緊張に、豊麻呂は消耗した。
(監視の目をうまくくぐりぬけることができるだろうか。失敗して、残忍な体罰を受けているのではあるまいか)
案じ出すと一睡もできない。かすかな物音にも豊麻呂は跳ね起きたが、烈風の吹きまくるある夜、ついに待ちわびていた声を彼の聴覚は捉《とら》えた。板戸が小さく叩かれ、
「父さん、わたしです」
浄水が呼んだ。ささやきに近い。
「おう、来たかッ」
あわてて開けた戸口から風に押されて妻と伜がよろめき入って来た。髪が乱れ、唇にまで血のけがない。二人を豊麻呂は抱きしめた。二度と触れることができないと諦めていた肉親の感触……。甘美な情感の通《かよ》い合いが肌のぬくもりと溶《と》け合って切迫した号泣の底に、彼らを否応なく叩きこんだ。泣いてなど、しかしいられなかった。下部《しもべ》溜りが隣りにある。嗅ぎつけられたら一大事だし、逃げ出すさいに、寺側の見張りにも見つかってしまったのだと浄水は言う。
「追手がくり出してきます。ぐずぐずしてはいられませんッ」
「用意はできている」
三分した荷を取り出して内の二つを妻と子に渡し、ひと包みを豊麻呂はしっかり自身の身体にくくりつけた。万一、途中ではぐれても、荷をめいめいが持っていれば、すぐさま路頭に迷う惧《おそ》れはない。
「さあ、こっちだ」
手をつなぎ合って乾門へ走る。鍵をさし込んで重い扉を押しあけ、都外の闇へとび出した。譫言《うわごと》のように黒刀自女が口ばしる……。
「やっとまた、もと通りになれた。もうこんりんざい離れない。もし追いつめられたら、捕えられる前に三人一緒に死にましょう」
忿怒に、豊麻呂の足ももつれた。夫婦ではないか、親子ではないか、一緒にくらすのが当然な者たちを無態《むたい》に引き裂き、死によってしか寄り添うことを許さぬ権利が、いったい、だれにあるというのか!
……山越えして山背《やましろ》へぬける坂道を、彼らはやみくもに駆けつづけた。息が弾む。荷も重く、胸がくるしい。振り返って京内の方角へ目をやると、無数の松明《たいまつ》が同じ道をうねり登ってくるのが見えた。
「追手だッ、東大寺の捜索隊だッ」
「僧徒どもと、奴頭《やつこがしら》にひきいられた男奴《おやつこ》の一団だよ父さん、連中は武器を持っている」
「まっすぐこの道を行けば、たちまち追いつかれてしまうな。山の中へもぐりこもうか」
迷って、血走った目をあたりへ配った刹那《せつな》、頭上の枝がざわめき、人がひとり、音もなく路面へとびおりてきた。黒い肌が暗がりに滲《にじ》んで、歯の白さだけがきわだって見える。
「おぬし、万志良《ましら》ではないか」
「追手に加えられて出て来たんだが、たぶん、ここを通ると見当つけたんでね、先廻りして木の上にひそんでいたのさ」
「われわれをつかまえる気か?」
「あべこべだよ。ここで追手を防いで、みな殺しにしてやるつもりだ」
背の矢壺を、万志良はゆすり上げた。手には素朴な、樫《かし》の弓を握っている。
「そうかッ、ありがたい。恩に着るッ」
「それよりあんた、路用を持ってるか?」
「銭《ぜに》を百文、三つに分けて所持しているが……」
「役に立つもんか官鋳《かんちゆう》の銭なんぞ……。都の内でだけは無理やり通用させているけど、一歩、地方へ出たら稗《ひえ》一合にも代えられねえぜ」
「そんなに信用ないのか」
「重くて嵩《かさ》ばって、しかも糞《くそ》の役にも立たねえ銅銭なんぞ、ほっぽってしまえ。これを餞《はなむけ》にやるからさ」
突き出したのは赤児の頭ほどもある麻袋だ。
「砂金だよ。津々浦々どこへ逃げたって、金なら馬とでも米とでも、百姓たちはよろこんで代えてくれらあ」
「奴隷のおぬしが、しかしどうして砂金みたいな貴重なものを……」
「鋳金師の八束から召し上げたのよ。おらァ見破っていた。弥勒寺の塔は、受花《うけばな》も九輪も水煙も竜舎も、つまり相輪ぜんぶが革で作ったまやかしだぜ。塔に登れる者はおれしかいねえ。八束は冷汗かいてたな。さんざんビクつかしておいて、でも、わざとおらァしくじってみせた。おかげで仕置きはされたけど、代償に金を強請《ゆす》り取ってやったわけだ」
「すまない。おぬしだって欲しかろうに……」
「介抱してくれたお返しよ。さあ早くしろ。松明がほれ、すぐそこまで追いついて来たじゃねえか」
せきたてられるまま三人は銅銭をはずし、道の脇の草むらに捨てた。腰回りがそのぶん軽くなる。袋を受け取り、急いで豊麻呂はふところにねじこんだ。
「追手はかならずくいとめてくれるね」
「気づかい無用だ。一人も通しゃしねえよ。安心してまっすぐこの道を進みねえ」
礼を口にするひまもなかった。豊麻呂たちは手をとり合って駆け出した。――直後、捜索隊が同じ坂道を分け登って来た。
「おや、万志良、抜け駆けしやがってこんなとこまで来てたのか? 相変らずすばしこい野郎だな」
奴頭のあきれ顔へ、
「みんなの足がのろすぎるんだよ」
ニヤニヤ笑いを万志良は投げた。
「でも間違いねえ。豊麻呂一家はこの道を行ったぜ。つい今しがただ。あとひとっ走りすりゃアわけなく追いつくよ」
「なぜ手前《てめえ》、見のがした」
「足を狙って矢を放ったんだが、射はずしちまったのさ」
「ドジめ、さっさと隊に加われ」
犇《ひしめ》き合いながらまた、追跡し出すのを見送って、
「けッ、ごめんこうむらあ。ひと足先に寺の奴婢長屋へ引きあげて、おらァ寝るよ」
独りごとを言い言い銭の束を三つ、茂みの中から万志良はうれしそうに拾い上げた。
「百文ありゃ当分ガニ打ちが楽しめるな。へへ、豊麻呂め口から出まかせを真《ま》に受けやがった。麻袋の中身をただの砂と知ったら、さぞがっかりするだろうぜ。でも、もう今ごろは取っつかまってるにちげえねえ。女房や伜は奴婢に逆もどり、やつはたぶん打ち首……。知ったこっちゃねえよ。人のことなんざ、な」
鼻唄まじりの長身が踊るように風に乗り、山の斜面を野猿《やえん》さながら翔《か》けて、みるみる闇に呑まれた。
小百合の床《とこ》
1
夏は、終りに近づいていた。あと半月もすると暦の上では、新涼の秋に入る。でも一向に、地上にはその気配がおとずれてこない。いまも見あげると、金色の残照に縁取《ふちど》られた雲の峰が、そそり立つ巨大さで空の半ばを覆い、炎昼の暑さのまま日は西に没しようとしていた。
汗みずくの身体を、一刻も早く冷たい水で洗いたくて、秦犬麻呂《はたのいぬまろ》は織部司《おりべつかさ》の石井戸へ急いだ。今日は午後になって、はるばる肥後《ひご》の益城郡から、貢物《こうぶつ》の生綿《きわた》がおびただしく届いた。俗に筑紫綿《つくしわた》と呼ばれる質のよい真綿《まわた》である。ようやくそれを、所定の蔵に運び終ってひと息入れているところへ、こんどは越中の国|羽咋《はくい》郡から、これも幾頭もの馬の背に揺られて叺詰《かますづ》めの塩鯖《しおさば》が搬送されてきた。
やはり調《ちよう》の貢《みつぎ》だが、蔵部《くらべ》所属の官奴《かんど》どもと一緒に叺を担ぎながら、省役所と倉庫のあいだを幾往復もするうちに塩臭さ腥《なまぐさ》さが肌にまで沁みつき、それは汗とも入り混じって犬麻呂の気分を、日暮れどきになるとかならず彼を襲う憂鬱の底に曳きずり込んだ。
(つらいなあ)
と、つくづく思う。故郷の夕映え、その紅《あか》みを頬に受けて無邪気に笑う阿也児《あやこ》の面《おも》ざしが、目の先にちらつくのはこんな時だ。
(でも、もうあと、二ヵ月たらず辛抱すればいい)
八月の末には国へ帰れる。存分に阿也児を抱ける……。
(夫婦《めおと》になろう。村へもどったら、すぐにでも……)
その望みが犬麻呂を支える。励ましもしている。
走って、井戸へ行ってみると、しかし飯時《めしどき》のせいか洗い場は混み合っていた。米を磨《と》ぐ者、鍋底をこする者、中には染め糸を晒す者までいて、見渡したところどれも女ばかりである。縫部、織部に所属する婢《はした》や、下級の女嬬《によじゆ》たちにちがいない。犬麻呂がもっとも苦手とする手合いだ。
めいめい、抱《かか》えこんで来ているはずの用を、彼女らはそっちのけにしてお喋りに興じ、立ち去る気《け》ぶりもない。井戸端へおりる石段は、枝に並ぶ四十雀《しじゆうから》さながら、押し合いへし合い腰をおろした女たちで一杯だった。
(あれでは、井桁《いげた》のそばへ寄るのさえむずかしいなあ)
犬麻呂は困惑した。漆部《ぬりべ》や蔵部、典鋳司《てんちゆうし》の職員だの工匠《たくみ》たちがふだん使用している井戸は、大蔵省の東庁舎の裏手にあるが、現在、井戸替えの最中で水は干《ひ》あがってしまっていた。投身自殺した者があるからだ。遺体の引きあげ騒ぎを犬麻呂も人立ちのうしろから覗いたけれど、まだ若い小作りな男だった。大安寺の経所《きようしよ》にかがまって日がな一日、筆をにぎっている写経生ということだが、外部の者がふらふらとどうやって、平城宮内の官衙《かんが》にまぎれこめたのか、しかも選りに選ってなぜ、
「おれどもの使う井戸になど、とびこみやがったのか」
と、だれもが舌打ちして濡れねずみの亡骸《なきがら》に毒づいた。
「飲み水も汲むんだぜ、この井戸からはな。おまけに残暑のまっさかり……。まったく他《はた》迷惑な話だよなあ」
仕方がない。金工の配下からさっそく、屈強の男奴隷ばかり二十人ほどが回されて来、井戸替えがはじまった。底まで浚《さら》ってみて今さらながら呆れたのは、沈んでいた品物の雑多さである。錆鎌《さびがま》、瓦《かわら》、小刀や釘の折れ、碗だの皿の欠けらだの女の釵子《さいし》だの、呪いの人形《ひとがた》まで出てきたのには、
「うす気味わるいなあ」
いっせいに、見ていた者はたじろいだ。
何者が、だれを呪詛《じゆそ》したのか、写経生の死の原因も借金か失恋かいっさい不明のまま、貰い水の不便だけが喞《かこ》たれる結果になったのである。
(ほかへ行こう)
犬麻呂はあきらめた。縫部司や織部司の女どもにはすれからしが多い。自分たちだって吹けば飛びそうな軽輩のくせに、地方から徴用されて来た農民あがりの仕丁《しちよう》と見ると、
「田舎っぺ!」
言葉|訛《なま》りまでを嘲弄の種にする。犬麻呂も幾度、彼女らにからかわれて、恥かしい思いをしたかわからない。
大蔵省所管の井戸はいま一つ、典鋳司の資材置場の隣りにも掘られていたが、鋳造工房で働く工匠どもがまた、意地が悪く、
「邪魔だ邪魔だ、ここの水は仕事用だぞ」
と素直にはなかなか、使わしてくれない。しかし織女《おりめ》や縫女《ぬいめ》どもの、退屈しのぎの餌《えさ》にされるよりはましだと判断して、せっかく来た道を典鋳司役所の方角へもどりかけたとき、
「どうした」
いきなり声をかけられた。漆部《うるしべ》司の令史《さかん》――犬麻呂には直属の上司に当る男が、脇道から出てきたのにぶつかったのだ。
「織部司の井戸へ行くつもりだったのだろう、犬麻呂」
「はあ、でも今、えらく混雑しているようなので……」
「なるほど。女どもが集まっているな。かまわんじゃないか。おれも汗を流しにきたんだ。追っ払ってやるから一緒に来いよ」
「けっこうです。わたしは鋳物工房の井戸を使わせて貰いに行きます」
「辟易することはないぜ。あんな連中、おれが一喝して退散させてやる」
ずかずか先に立って行き、水舎《みずや》の天井に反響しそうな大声で、
「さあ、どいたどいた。男の裸がぜひ見たいなら居すわっていてもよいが、その代り押し倒して口を吸うぞ」
広言にたがわず女たちを立ち去らせ、心ゆくまで水浴びをたのしんだあげく、
「やっとさっぱりした。暑かったからなあ、やけに今日は……」
ニヤと男は、白い歯を見せた。司吏の中では最下級に位置する下っ端で、位階は従八位上――。名はたしか、丈部路《たけべのみちの》忌寸《いみき》石勝《いわかつ》という。先祖からの氏名《うじな》や姓名《かばねな》がごたごた付くため、木っぱ役人でも犬麻呂あたり、一度でおぼえきれないほど正式には、長たらしい呼び名になるのだ。
ふだん犬麻呂は、令史《さかん》どのとか石勝さまとか、端折《はしよ》って相手を呼んでいた。年のころ三十がらみ……。筋肉質の、がっしりした体躯の上に、美男ではけっしてないが一応は目鼻だちのととのった、血色《けつしよく》のよい顔をのせている。適度に働き、ほどほどに怠け、上役には愛想よく同僚とも取り立てて摩擦を起こさず、可もなく不可もない勤務ぶりは、いわば小役人の典型だが、ふしぎに犬麻呂には目をかけてくれていた。
直丁《ちよくてい》という犬麻呂の身分は、各官庁に配属された雑用係りで、十七歳以上、六十五までの男子なら逃げることのできない徭役《ようえき》なのである。全国の郷村ごとに二人ずつ割り当てられ、都へつれてこられて二年間、官舎で寝泊りさせられる。
嫌なら税で肩代りするわけだけれども、資力の乏しい者は徴用に応じるほか義務を回避する方法はない。家族と別れ、恋人のある者は恋仲を裂かれて、泣く泣く平城京へやってくるのだ。慣れない都会ぐらし、役所仕事……。当座はびくついて、しくじりばかりしでかしてしまう。犬麻呂もずいぶん怒鳴られ、撲られもしたが、石勝にだけは荒い言葉ひとつ浴びせられた記憶がなかった。
「おかげさまで汗が流せました。ありがとうぞんじます」
ぺこぺこ頭を下げながら、ついでにざっと濯《すす》ぎ洗いした布衫《ふさん》をかかえて、井戸端を離れかけるのを、
「もう今日は、これでお前も用済みなんだろう」
石勝は引きとめたばかりか、
「よかったら一杯やりに、家へ来ないか?」
思いがけない誘いまで口にした。
下っぱでも役人は役人である。徭役《ようえき》の役民《えきみん》などとは身分がちがう。
「とんでもない。東国育ちの丁《よぼろ》風情がお屋敷になどあがりましても、奥さまに満足なご挨拶すらできませぬ。まっぴらご容赦くださいませ」
反りかえって石勝は笑った。
「はははは、どんな立派なお屋敷か奥さまか、くればわかるよ」
言う通りだった。
ことわりきれずにあとについて、おずおず来てみると、つれこまれたのは西《にし》ノ市《いち》に近い七条三坊の場末である。軒ごとにひるがえる洗濯物をくぐりくぐり、小溝を走るドブ鼠の、犬の仔ほどもある巨大さに気をとられながら歩くあいだも、何を焼く煙か、夕餉の匂いが鼻をかすめるし物売りの担い籠にはぶつかるし、ともあれ、庶民生活の喧騒がわんわん五官にぶち当ってくる裏町なのであった。
都へ来るとすぐ、所轄の役所に割りあてられて、たった一度、羅城門外の薬園《やくえん》へ使いに出されたおり、朱雀大路の裏通りを行きもどりしたほかは二年近くというもの、私用の外出などしたこともなかった犬麻呂なのだ。
南面する宮城の真っ正面――朱雀門から、直線に伸びる朱雀大路は、しばしば外国使節の行列が練り、近衛兵による観閲《かんえつ》式をおこなっても狭くるしくはないほどの幅員を持っていて、両側には桜と柳の、美しい並木まで植えられている。
建ちつらなるのも緑釉《りよくゆう》の瓦で屋根を葺き、丹塗《にぬ》りの柱列、白壁で構成された目も綾な唐風の豪邸ばかりだし、通行人がまた、白馬《はくば》に銀鞍《ぎんあん》を置いて打ちまたがった貴公子、輿の帷帳《いちよう》をかかげさせてすずしげに揺られてゆく貴婦人など、まともには仰ぎ見るのも憚《はばか》られるような人々ばかりなのである。
胆がつぶれて、往復とも小走りに、あたふた通ってしまったけれども、一人の貴族に栄耀《えいよう》を許すためには、千人万人もの犠牲が供されるのが普通であった。首都の表玄関――美人の顔ともいってよい目ぬき通りの裏側に、その日ぐらしの貧民街が犇《ひしめ》いても、さして異《い》とするには当らないと、犬麻呂もあとでは思ったものだ。
「ついたよ。ここだ」
石勝が立ちどまって、顎をしゃくってみせたのも、あたり近所に遜色ない小家で、
「や、父さんだッ」
「お帰りなさい」
横路地から躍り出てきた子供らまで、三人が三人泥ンこ遊びでもしていたらしく、手足をまっくろによごしている。はずみで蹴倒された伏せ籠の鶏が、けたたましく啼き立てるのさえ、この場にふさわしい眺めに見えた。
2
食べ物が上等だったわけではない。酒は酔いざめの頭痛を覚悟しなければならない安酒だし、断ち落としの鹿のこま切れ肉を、豆と一緒にくつくつ煮込んだ惣菜《そうざい》も青菜の漬物まで、たっぷりあるのが取り得《え》というだけの変哲もない手料理だが、親子夫婦、がやがや喚きながら飲み、かつ喰らう団欒の中に、たとえ一ッときでも身を置かせてもらえた解放感が、犬麻呂には忘れがたかった。
ふるさとの、彼の家にも、祖父《じじ》さまがい祖母《ばば》さまがい、父《と》ッさまがいお袋さまがいる。兄貴夫婦は男女合せて六人もの子持ちだから、炉を囲んでの、飯どきの騒ぎといったらない。賑やかな夕餉に馴れていただけに、都につれてこられ、一日中こき使われたあと話し交す友もない宿直《とのい》部屋で、たった一人、ぼろぼろの冷や飯に塩をかけて掻きこむわびしさがたまらなかった。
同時に徴用され、旅を共にしてきた同郷の丁《よぼろ》は、着くととたんどこへ配属されたか、姿が見えなくなり、それっきり別れ別れになってしまった。
「あら、お客さまをつれて来たの?」
と最初の日、出迎えた妻に、
「おれの部下だよ。秦犬麻呂というんだ」
見栄《みえ》っ張りな引き合せ方を石勝はしたが、職員令《しきいんりよう》の規定では漆部司の直丁は、定員が一人であった。話し合える仲間がいない上に、手もたりないせいか、同じ大蔵省管内の役所同士、すこし忙しいとすぐ、
「丁を貸してくれ」
連れに来て、こき使う。蔵部の奴《やつこ》どもに混じって干物塩物、貢納の穀類などを運搬させられるのもそのためで、疲労は毎日ひどい。しかし支給されるのは一日三合五勺の米と、一勺の塩だけだから、飯の菜《さい》がほしければ買うほかないのである。
二十一歳から五十九歳までの五体壮健な男を正丁という。彼らには賦役令にしたがって一日あたり楮布《こうぞぬの》二尺六寸が、労賃として支払われる。
六十以上、六十五歳までの次丁には、その半分、十七から二十《はたち》までの中男《ちゆうだん》だと正丁の貰い分の四分の一しか支払われない。
今年十九歳になる犬麻呂は、したがって毎日、六寸五|分《ぶ》相当の布を三ヵ月に一度ずつ、まとめて官から受け取っている。でも、上戸《じようご》なら疲れ直しの酒、下戸《げこ》なら蜜に絡《から》めたおこし米、そのほか着るもの、夜の衾《ふすま》、繕《つくろ》いのための縫い糸から針まで日用品のいっさいが自弁では、とうてい足りるはずはなかった。
たとえわずかでも貯められるものならば、阿也児と世帯を持つときの足《た》しに、貯めて帰りたいと思ったこともある。物価の高い都でくらしてみて、だが、すぐこの不可能をさとらされた。
借金せずに、どうやらしのいで来ただけでも上出来なのだ。官から借りる金にはべらぼうな高利がつく。三ヵ月も返済がのびるとたちまち元金の倍にもなるから、いったん借りたが最後、身うごきがとれない。二年の正役《しようやく》を勤め終っても、借金に縛られて国へ帰れず、やむなく留役《りゆうやく》を願い出て泣く泣く勤務しつづける庸民が少なくなかった。
(ごめんだ。それだけは……)
と、歯をくいしばって不自由に耐えている明けくれだけに、安酒でもこま切れ肉のごった煮でも、たらふく馳走になれたのはありがたい。ひさかたぶりで、家族的な食卓を囲めたのさえ涙ぐまれるほど、犬麻呂にはうれしかった。
「今夜も来いよ」
と誘われれば、
「え? またお邪魔していいんですか?」
飛び立つ思いでついて行ったし、二度三度とよばれるうちには家の者とも、冗談口が叩き合えるほど打ちとけてきた。
石勝の妻は多伎女《たぎめ》といい、夫より四ツ五ツ年上の、痩せて機敏な女である。立居《たちい》が小まめなばかりでなく、頭の回転もすばやい。働き者、そして、しっかり者……。この家の事実上の芯柱《しんばしら》は多伎女であった。
子供は男の児ばかりだが、十二になる長男の祖父《おおじ》麻呂《まろ》、九歳の次男|安頭《あず》麻呂、末ッ子の七ツになる乙麻呂まで三人が三人、口つきははきはきと、いかにも賢《さか》しげだし、上卿の家の若殿といっても通りそうなほど品のよい愛くるしい顔をしていた。
石勝は、この子らが可愛くてならないらしい。楽ではない家計の中から、無理をしてでも祖父麻呂と安頭麻呂を近くの学塾に通わせ、
「ふたりとも出来がいいんだ。先生の褒め者なんだぜ」
と自慢する。犬麻呂も子供たちにしたしんで、せがまれるたびに腕角力の相手をしたり、
筑波嶺《つくばね》の
小百合《さゆる》の花の
夜床《ゆとこ》にも
愛《かな》しけ妹《いも》そ
昼も愛しけ
盃を手に、低い声で唄ったりした。濃い眉が曇り、せつなげな、何とも苦しそうな表情になるのを、
「どうしたのさ、犬麻呂さん、あんた酔い泣きするたちなの?」
多伎女は揶揄《やゆ》する。小意地のよくないところは、井戸にたむろするあの、織女どもによく似ていて、
「それに、さゆるの花のゆとこって何よ。どこの言葉?」
と、田舎訛りを笑う。
「小百合《さゆり》の花だよ多伎女、ゆとこじゃなくて本来は、これも夜床《よどこ》のつもりなんだろうよ」
説明しながら石勝もニヤニヤし、犬麻呂は耳の裏まで羞恥で赤くなる。
「なるほどね、そう聞けばわかるわ。可憐な歌ね」
「土の匂いがする。素朴な恋だ。犬麻呂お前なかなか上手に詠むじゃないか。隅に置けないぞ」
「い、いや、わたしの作ではありません。防人《さきもり》に上番《じようばん》されて村を出てゆく男が、なじみの女に贈った歌らしいです」
「でも、良い歌なので、東国の広野で畠を耕す若者たちの口から口へ唄い継がれて……」
「そうなんです。筑波山での歌垣《かがい》の夜も、この歌はかならずみんなに愛唱されます」
「犬麻呂さんにも好きな人がいるんでしょ?」
と、これは祖父麻呂の、こましゃくれた質問だった。へどもどしながら、
「そんなもの、いやしません」
否定したのが、かえって家族らの好奇心を刺激してしまったようだ。
「なんて名前? 年は幾つ? 同じ村の女《ひと》なの?」
多伎女の追及がもっともしつっこい。名は阿也児《あやこ》、年は十七、隣りの家の三番目娘とまで白状させられ、しかしその夜を境に、相互の親密度はいっそう深まった。
それだけにある日、人けのない役所の、倉庫裏の空地に呼び出されて、
「ひとつ、頼まれてほしいんだがな」
石勝から切り出されたときには、
「どうぞ、おっしゃってみてください令史《さかん》どの、わたしにできることなら何事であれ、お引き受けしますよ」
多少は背伸びしてでも、犬麻呂は応じないわけにいかなくなった。
「じつは漆《うるし》をね、こっそり外へ運び出したいんだが、手を貸してくれないかな」
「漆って……どこの漆です?」
「きまってるだろう。ここのだよ」
目まぜで石勝は、傍らに建つ蔵をさした。
「役所の漆を? いったいどこへ?」
「お前も鈍《にぶ》い男だなあ、持ち出して売りとばすんじゃないか、西ノ市の漆商に……」
「じゃ、盗むんですか!?」
「シッ、大きな声をするなったら……。いいか、今夜だぞ。手筈はすっかりつけてあるんだ。いまさら嫌とは言わせないよ」
「勘弁してください。前言は取り消します」
犬麻呂は慄えあがった。
「わたしはしがない丁《よぼろ》です。とてもそんな大それた仕事の、片棒をかつぐ力はありません。もうじき国へも帰るのだし、万一、発覚して獄に繋がれることにでもなったら、悔やんでも追いつきませんからね」
「ばれる気づかいはない。妻や子をかかえているんだ。杜撰《ずさん》に事を運んで、一生を棒に振るのはおれだって、まっぴらだからな」
「ですから、そのご家族のためにも、官物に手を出すなんて恐しいことは、思いとどまったほうが……」
「あいつらのために、おれは欲を出したんだ。どうあがいたからって小役人勤めを続けているかぎり、昇給の高《たか》は知れている。ここは一つ、いちかばちかの危ない橋は渡っても、大金を掴んで妻子らに楽《らく》をさせてやろう、ついて回る貧乏ぐらしと縁切りにしてやろう……そう、肚《はら》を固めたんだよ」
「でも、わたしには……」
「分け前はむろん、たっぷりやる。運び出す手伝いだけでいいんだ。お前だって金はほしかろう。国へ帰るったって、着たきり雀の今のままでは、土産どころではあるまい。官はこすっからいからね。来るときの費用は沿道の国々に課して支給させるけど、衛府の兵士にしろ役夫にしろ、帰国の路用までは面倒を見ない。中途で野垂れ死するならしろ、と言わんばかりな冷淡さだ。はるばる筑波の山裾の村まで、たどりつける目算がお前にはあるかい?」
「それは……物乞いしても草の根をかじってでも、死にもの狂いで旅をつづければ……」
「みじめすぎるじゃないか。つらい徭役を勤めたあげく、乞食になって村へもどるなんて……。ほんの一ッとき力を貸してさえくれれば、砂金で分け前が貰えるんだぜ」
「金?」
「そうさ。見たこともあるまい。新鋳の銅銭なんぞ重いばかりで、都の外へ出れば百姓は苧麻《おあさ》一束にだって代えてくれやしないよ。むりやり流通させているのは京内《きよううち》だけだが、砂金なら津々浦々、どこでだって通用する。ひと摘みで上等の絹裳《きぬも》が買えるぞ。象牙の櫛、刺繍をほどこした女沓《おんなぐつ》、何とでもよろこんで商人は交換してくれるからね。阿也児とやらに買って帰ったら、どんなによろこぶかしれないよ」
頭がぼうと霞みかけた。石勝のささやきが甘く、妖《あや》しく、耳朶《じだ》をくすぐる。宮中の女官たちが身につけているきらびやかな衣装や髪飾り……。阿也児に着せてやったら、さぞ映《は》えるだろうと時おり夢想し、しょせん、夢にすぎない味けなさを自嘲まじりに噛みしめていたのに、それは思いきって手をのばせば、確かに応《こた》える現実となったのだ。もし派手な使い方が怪しまれるというなら、大事に国へ持って帰って、なしくずしに二人の新婚生活を、潤《うるお》したっていい……。
「そのほうが上分別だな。お前らのくらしなら一生涯、一袋の砂金は支えになるぞ」
「それで……わたしの役目というのは?」
つい、訊《き》いてしまったのは、世間知らずな犬麻呂の若さが、誘惑に負けた証拠であった。
「手伝ってくれるんだね」
「今夜ですか」
「うん。戌《いぬ》の刻、初更《しよこう》の鐘が鳴ったらいま一度、ここに来てくれ。指図はおれがする。お前は黙って、おれの言う通り動けばいいんだ」
3
無我夢中だった。あらかじめ周到に、合鍵を作っておいたのだろうが、たかが令史《さかん》にすぎぬ石勝が、漆蔵の厳重な扉を、難なく開けてのけたのがまず、犬麻呂には驚異だったし、車に積み込んだ五樽もの生漆《きうるし》に油単《ゆたん》をかぶせ、がらがら轍《わだち》の音を立てて曳き出しながら、幾つもの宮門を、何やら門番に手形のごときものを示しただけで、堂々と通りぬけてしまったのも不思議というほかなかった。
――じつは省の長官が某大寺と結託して、野鼠が巣穴へ落穂《おちほ》を曳くように時おり密々に、漆部《ぬりべ》司の漆を横流しし、私腹を肥やしていたのだ。しかもこの悪事は、知る人ぞ知る公然の秘密だった。諸門を固める衛門府の門部《かどべ》たち、衛士たちは、それぞれの上官から、
「省印の据わった通行証を、提示する荷車があったら、いついかなる時刻でも門を通せ」
と通達されてい、上官どもへはあらかじめ長官から、口封じの袖の下が潤沢に行き渡っていたという寸法である。石勝はこの事実を嗅ぎつけ、通行証を偽造してまんまと長官の悪事に便乗した。門衛の慣れと間隙を縫い、同様の手段でまんまと盗みに成功したのだといってよい。
石勝が目ざしたのは西ノ市だ。官営の公設市場だが泥棒市場の性格も帯びている。空巣やかっぱらいにやられた被害者が、東西いずれかの市へ行ってみると、ちゃんと盗品が並んでいたりする。この夜ふけ、市司《いちのつかさ》の下役の手で閂《かんぬき》が掛けられて、市門《いちもん》はもちろん開いてはいない。市門どころか、都邑を囲む羅城の諸門まですべて閉ざされて、公用の使いででもないかぎり一般人は通行禁止だった。
巡邏しているのも、二人ずつ組んで火災その他、夜間の警戒に当る兵衛《ひようえ》の兵士だけだ。石勝は彼らの歩く道すじや見廻りの刻限までを事前に調べてかかったらしい。路地から路地へ巧みに車を曳きこんで行き、ついに一度も巡回の兵に遇《あ》わずに市場についた。
塀外《へいそと》の暗がりにたむろしていた四人づれの黒い影が、漆の買い手にちがいない。積み荷と金の受け渡しは手早く、無言のうちに済み、
「終ったぞ、ついてこい」
石勝の短い合図に従って犬麻呂も走った。車を曳いていたときよりも、身軽になった今のほうが足が縺《もつ》れる。恐怖に髪の根がさかだち、たまらなく胸もくるしい。
どこをどう駆けているのか、見当はまるでつかないが、やがてつれ込まれたのは何神を祀《まつ》るとも知れぬ社《やしろ》の森だった。
「ここまで来れば安心だ。金を分けよう。近くへ寄ってくれ」
社殿の階《きざはし》に並んで腰をおろし、
「うまくいったじゃないか、え? 犬麻呂。案ずるより産むが易しとは、このことだな」
はじめて満足げに石勝は笑った。
ふところから曳きずり出したのは、ずっしりと重そうな革袋である。漆の価《あたい》はひどく高い。いまの相場だと、一斗で働きざかりの男奴隷が三、四人は買える。それがしかも、二斗樽で五個もだ。
「さあ、お前にはこれだけやる」
前もって用意してきたのだろう、次に石勝は布の袋を取り出すと、慎重な手つきで四半分ほど、革袋の中身をその中へ移し替えた。闇の底でさえ、キラキラ目を射る砂金の輝きに、犬麻呂は息が詰まった。口もきけなかった。
(たいへんな宝だ。わたしは大金持になれたんだな)
渡された袋をにぎりしめ、つい知らず頬ずりしかけた刹那、強烈な棍棒の一撃を後頭部にくらって、
「わッ」
前のめりに犬麻呂は、階《きざはし》から地べたへ伸びた。間髪を入れずもう一撃、とどめでも刺す容赦のなさで痛打が飛び、
「ぎゃあ、な、何者だッ、この金を、どうする気だッ」
同じく襲われたらしい石勝の、悲痛な絶叫を、かすかに耳の端に捉《とら》えたきり意識を失ってしまったのである。
――身体のどこかを強く蹴とばされて、われに返ったとき、両腕はうしろに回され、きびしく縛りあげられていた。
頭がずきずき痛む。どうやら出血もしているようだ。背中にべっとり袖なしの布衫《ふさん》が貼りつき、ふた筋三筋、項《うなじ》を伝わって胸のほうにまで血が流れてきている。犬麻呂は呻《うめ》いた。目をあけると、東の空がうっすら白んで、ぐるりに立ちはだかる幾人もの、半武装した男の足が見えた。
石勝も脇に転がっている。やはり高手小手にいましめられ、頭から血を出して低い唸り声を洩らしていた。
「気がついたか」
男の一人がどなった。
「不届きな痴《し》れ者どもだ。立てッ」
刑部省の走り下部《しもべ》であった。目の前が、犬麻呂はまっくらになった。金の袋はどこにもない。盗賊に殴打され砂金を奪われて、石勝ともども気絶しているうちに、事が露見し、逮捕されてしまったのだろう。恐らく漆を買った闇商人どもが、先につかまりでもしたに相違ない。
衿がみを掴まれ、引っ立てられて行きながらも、結末のあまりなみじめさ、あっけなさに、犬麻呂は涙すら出なかった。漁夫の利を占めたのは、金をかすめ取って消えた盗賊だけである。犬麻呂が見たのは束《つか》の間の、悪夢にすぎない。
石勝の慚愧が、いま、どれほどのものかわからないが、使部《つかいべ》どもの笞《しもと》に追われ追われ、よろめき歩いてゆく後背《うしろぜ》が、汗と血と泥にまみれで、これもいかにも情けなかった。
取り調べは、別々におこなわれた。ありのまま犬麻呂は尋問に答えた。石勝を恨みはしないまでも、かばう気は起きない。洗いざらい正直に喋ってしまうと、いささかは胸が軽くなり、そのかわり欲に釣られて、不敵な企てについ、うかうか加担した愚かさが、灼《や》けつくばかりな悔いとなって自身を責めた。もう国へは帰れない。
(阿也児とも逢えない……)
涙が噴きあがり、声を放って、犬麻呂は泣いた。殺されるのか。死刑だとすれば縛り首か。どんな惨刑に処せられるのだろうか。
囚獄司は刑部省の管轄に属し、右京と左京に、それぞれ右獄左獄と呼ばれる獄屋があった。取り調べがすむと犬麻呂の身柄は囚獄司の手にうつされ、左獄に収容された。
残暑はまだ、しつっこく続いてい、不潔な獄内には、風通しが悪いせいか胸がむかつきそうな臭気と、湿気がこもっている。食べ物も咽喉《のど》を通らない。賊はとうとう逃げおおせたという。うまい目を見たのは結局、この賊徒だけだった。犬麻呂はしばらくのあいだ獄にぶちこまれ、やがてまた、刑部省の白洲に曳き出された。判決を言い渡されるのである。
はじめてこの日、犬麻呂は石勝と顔を合せた。廷吏が出揃う前の、短い時間だったが、石勝はすり寄って来て、
「すまなかったな」
小声で詫びた。
「お前にはとんだ迷惑をかけた。あやまるよ」
あやまってすむことではない。おたがいに首が飛ぶのだ。
「いいや安心しろ。窃盗罪に死刑はないんだ。一番重くて流刑までだが、犬麻呂よ、いいか、仮病を構えてできるかぎり、左京の獄から動かぬ算段をするんだぞ」
「牢屋ぐらしをつづけていろとおっしゃるんですか?」
「そうだよ。都の内に居さえすれば、また必らず生きて会える。大事なことだ。忘れずにおぼえておけよ」
これだけの私語を、縄尻を取る下役が制止しないばかりか、聞かぬふりで横を向いていたのは、石勝の妻――あの利《き》け者の多伎女あたりが、賄賂《まいない》でもつかませて置いたからではなかろうか。
やがて刑が宣告されたが、石勝の言う通り二人に課せられたのは流刑であった。
賊盗|律《りつ》は、盗品の価格に準じて刑罰を決めている。鞭は十打から五十打までの五階、杖《じよう》は六十打から百打に及ぶ五階で、もっとも重いのが布三十|端《たん》ぶんの盗みに相当する流罪である。漆を五樽も官庫から運び出すなどという言語道断な犯行は、布三十端ぐらいの窃盗とは比較にもならないが、さいわい買い取った者どもが即座につかまり、現物がもどったのと、流刑以上の刑罰がないため、石勝は出雲へ、犬麻呂は能登へ、それぞれ配流と決まったのだ。
ふたたび獄へもどされ、改めて配地への出立を待つあいだに、しかし犬麻呂は、思いがけない噂を耳にした。
「同類の石勝が罪を免ぜられて、出獄したぜ」
と典獄が言うのであった。
「えッ、令史《さかん》どのが!? なぜですか?」
「やつには幼少の伜《せがれ》がいるそうじゃないか」
「祖父《おおじ》麻呂さん安頭《あず》麻呂さん乙麻呂さんの三人です」
「その伜どもが上訴したのだ。どうか父の罪をお許しください、代りに私ども、身を奴隷に堕《おと》して、死に至るまで公《おおやけ》に捧げます、とな」
「あの、お子たちが!?」
「けなげだよなあ。流刑と死刑は重罪だから、太政官が審査したあと天皇のお手許まで、判決文は回される。減免の決定も、最後は天皇が下されるのだ。知っての通り今上陛下は女の天子さまだからな。ほろりとされたのだろうぜ」
布袍《ふほう》の合せ目から典獄は詔《しよう》の写しを取り出し、しかつめらしく読みあげた。
「いいか、よく聞けよ。『詔に曰《いわ》く。人の五常を稟《み》るに仁義|斯《か》く重く、士の百行有るは孝敬を先と為《な》す。いま祖父麻呂ら身を没せられて奴《ぬ》と為《な》り、父が犯罪を贖《あがな》いて骨肉を存せんと欲す。理、矜愍《きようみん》に在り。宜《よろ》しく請う所に依りて官奴《かんぬ》と為さしめ、即ち父石勝が罪を免ずべし』とさ」
「で、この、わたくしめは?」
「お前はだめだよ。『但《ただ》し犬麻呂は刑部の断に委せ、配所に発遣せしめよ』とあるもの。ま、観念して能登へでも加賀へでも、おとなしく流されて行くんだな。はははは」
事件の裏の裏までが、濃霧が霽《は》れるように犬麻呂にははっきり見えてきた。はじめから石勝は、計画の成功を危ぶんでいたのだ。贓品《ぞうひん》買いの故買《こばい》商どもが、うまく逃げ切ってくれればいいが、恐らく彼らはつかまるだろう――そう見越しをつけて、
「万一、おれが逮捕されたら、子供らを使って身代りの訴状を出させろ」
と、あらかじめ妻子らに、言い含めていたにちがいない。悧発な息子たちは、上手に演技した。今上は元正女帝……。女性の涙もろさ優しさまでが、手回しよく計算されていたのかもしれない。ひとまず官奴司の手に渡されても、
「なあに、孝心に免じて子供らはすぐ、両親の手に返されるよ。賤《せん》から良《りよう》へ、身分も復すのが、こんな場合の通例さ」
と典獄は保証していた。つまりは伜どもの身にも、実害は及ばないわけである。
(と、すると、あの砂金の奪われ方も……)
いかにも唐突だし符節が合いすぎる。
(金はどこかに隠してあるのではないか)
仮病を構えてでも都を離れるな、と刑部省の白洲でささやいた石勝の言葉が、ひどく暗示的に耳の底によみがえった。
配所への出発当日、犬麻呂は腹を抑え、痛い痛いところげ回った。その日から苦しみ通して、重病人を装ううち日数《ひかず》は延びてゆき、八月一日の朝、案の定、許されて出獄できた。かねて「病《やまい》、篤《あつ》し」と取り沙汰されていた右大臣藤原|不比等《ふひと》が、いよいよ重態におちいり、いっせいに大赦《たいしや》がおこなわれて、右獄左獄の囚人どもが解き放たれたのであった。
(ここまで、見通していたんだな)
いまさらながら石勝の狡智に、犬麻呂は舌を巻いたが、もっと驚いたのは、獄の門前に祖父麻呂ら三人兄弟が迎えに来てくれていて、そのまま七条三坊の、あのボロ家につれて行かれたことだった。手作りの馳走を並べ、
「祝盃だ。まず一杯、グウーッと干《ほ》せや」
石勝夫婦も待ちかまえていた。
「やはり、では、社殿に潜《ひそ》んでいた賊は……」
「多伎女さ。示し合せてあったんだ。刑吏どもに、狎《な》れあいがバレてはまずいから、手加減するなとは言ったものの、思いきり撲りやがったなあ女房のやつ……」
「ほほほ、ごめんなさい。気絶までさせて」
「でも、すばやく隠匿してくれておいたおかげで、金は無事、手に入ったんだ。さあ犬麻呂、あの時の分け前だぞ。大切に使えよ」
渡された布袋を、夢見ごこちで受け取りながら、秋たけなわな東国の野、阿也児の待つふるさとの村に、すぐにでも飛んで帰ろうと犬麻呂は気負い立った。石勝も愉快げな顔で、
「おれは免職されたが、小役人勤めになど未練はないさ。一家をあげて筑紫《つくし》の太宰府に移るつもりなんだ」
と抱負を語った。
「なにせ遠《とお》の京《みやこ》だからね、平城京をしのぐ繁栄ぶりだそうだよ。この金を元手に、韓国《からくに》との交易商に転身するのも悪くはなかろう」
そして、はやくも酔ったのか家じゅうが、
「筑波嶺《つくばね》の、小百合の花の夜床にも、愛《かな》しけ妹《いも》そ、昼も愛しけ」
うろおぼえの鄙歌《ひなうた》を子供らまで、声を揃えて唄い出した。
空を飛ぶ首
1
釜を洗い終えてふと、目をあげたとたん、小さな青い光の粒が水面をよぎった。
「蛍《ほたる》かな」
濡れ手で三津麻呂《みつまろ》は、瞼《まぶた》をこすった。年《とし》である。立ちあがるたびに腰骨がギクッと鳴る。目も近ごろ、かすみだした。
「でも、まちがいない」
よく見ると芦《あし》の茂み、水の淀《よど》みのあちこちに、点々と涼しげな光が明滅している。
「やはり蛍だ。昨日までは一匹もいなかったのに……いつのまにか今年もまた、蛍の季節がめぐって来たのだなあ」
三津麻呂は溜め息をつき、片手に釜をさげたままぼんやりあたりを眺め回した。夕闇が濃くなりはじめた野づらは、風が凪《な》いで、かすかな水のせせらぎのほか何ひとつ物音が聞こえない。
「あのときの景色にそっくりだ。多万女《たまめ》の亡骸《なきがら》を葬ったのも、そよりとも風のない静かな夏の夕ぐれだったな」
もう、かれこれ三十年になる。三津麻呂にはしかし、亡くなった先妻の俤《おもかげ》が忘れられない。許されぬ恋のあげく逃げ走って、苦しい旅寝を重ねる道々、多万女はみごもり、難産のため命を落とした。武蔵の国府に近い野中の辻堂だった。
ぶこつな男手でようやく取り上げた赤児を、布にくるみ、息絶えた妻をかたわらの野川へ運んで、汚血にまみれた下半身を灑《すす》ぎ清めてやりながら、
「なぜ死んだ多万女よ。わしと赤児を残したまま、どこへ行ってしまうつもりだ」
男泣きした日の悲しさは今もまだ、昨日のことのように三津麻呂の胸底に疼《うず》く。辻堂の横手に穴を掘り、多万女を埋めたが、その夜も川岸に、蛍はおびただしく群れていて、寂しい土の盛りあがりの上を、灯明さながら燦《きらめ》き飾ってくれたのである。
「でもなあ多万女、安心しておくれ。人さまの情けに縋《すが》ってではあるが、忘れ形見の赤ン坊は立派に成人して、ほれ、あの御寺《みてら》にいるよ」
川下《かわしも》へ、三津麻呂は目をやる。半丁ほど先に榧《かや》の森が、こんもりと見え、豆つぶほどの灯《ひ》のまたたきも望見された。唯念《ゆいねん》の預かる五行庵《ごぎようあん》だ。
本尊を安置する茅葺《かやぶ》きの御堂のほか、ちっぽけな鐘楼と雨漏りだらけの庫裏《くり》が建つきりの、みすぼらしい破《や》れ寺である。
唯念は不満でならないらしい。
(棄児《すてご》あがりの孤児ではないか。年もまだ、二十六……。修行途上の身なのだし、たとえ村はずれの小庵でも、一ヵ寺《じ》の住持になれた今の仕合せを、感謝せねばならぬ)
と、三津麻呂は思う。
彼はしかし、その思いを口には出さない。唯念はまごうかたなく多万女が生み残していってくれた彼自身の子だが、親子の名乗りはしていなかった。
三年前、ふらっと村へやって来てそのまま寺に居つき、飯炊き洗濯、掃除から菜園の手入れまで引き受けて、小まめに働いてくれだした老人を、
「無給の、重宝な寺僕……」
と見るだけで、唯念の側も父親だとは夢にも知らない。
(それでよい。そのほうがよいのだ)
三津麻呂はひとり、うなずく。背に腹はかえられぬ窮状だったとはいえ、他人の手に子を押しつけて去った父に、いまさら親顔《おやがお》などする資格はない――そう、とうの昔、思い切っていたのである。
去年の冬、世話焼き好きの村長《むらおさ》にむりやりすすめられ、仕方なく小弁《こべん》という名の水車番の後家《ごけ》を、三津麻呂は後添《のちぞ》えの妻にした。
美しく、しとやかだった多万女とは雪と墨《すみ》ほども差のあるお喋《しやべ》りでがさつな婆さまだが、
(牛は牛づれ……。破《や》れ寺の居候にすぎぬわしには、それもいっそ、似合いであろ)
と、三津麻呂はあきらめている。
多万女に先立たれたあと、それでも数ヵ月間は旅をしながら懸命に、三津麻呂は赤児を育てたのだ。ここ、筑波《つくば》の山裾《やますそ》の村にたどりついたときには、だが精も根《こん》も尽きはてていた。五行庵にはそのころ、年老いた尼と、やはり同じ年ごろの弟子尼が住んでいて、
「やれまあ、きのどくに……。痩《や》せ細っているではないか」
泣く力もない赤児に同情してくれた。
「貰い乳ができぬ日は、麦の焦《こ》がしを水に解いてあてがうだけですので……」
「それでは到底、ながらえることはできまい。何も人助けじゃ。この庵《いおり》で育ててやるゆえ置いてゆきなされ」
「ありがたいことでござります。ではお言葉に甘え、お預けしてまいります」
「成人ののちは仏弟子にするぞよ」
「それはもう、仰せまでもありませぬ。この子の母は産がもとでみまかりました。菩提《ぼだい》を弔らわせてやってくださりませ」
重荷をおろして出たあとも、三津麻呂の半生には不運がつきまとった。しがない針売りの行商でかつかつ命をつなぎながら、老いてゆくほかなかったのだが、三年四年に一度ぐらいはかならず村へやって来て、よそながら我が子の日常をうかがい、その成長をよろこんでひそかに立ち去るのを習わしにしていた。尼僧たちは手塩にかけて子供を育て、読み書きを教え経文をおぼえさせてくれた。
九歳で得度《とくど》したときには、だから少年は、いっぱし愛らしい雛僧だったし、それから十年後に庵主が遷化《せんげ》し、弟子の老尼も亡くなって以後は、引きつづき五行庵を預って、新庵主としての務めを、まがりなりにも果たしていたのである。
そのかわり寺は古びた。尼たちがすこやかなころでさえ質素な草の庵《いおり》だったのだ。年数をくって荒れはてた破《や》れ御堂に、たった一人寝起きしている唯念を見たとき、
(せめて少しでも、あの子の役に立とう)
三津麻呂は腹を決めた。
もはや先の見えた人生――。
すっかり身についてしまった放浪の明けくれに、終止符を打ち、余生を子のかたわらで過ごすことで、はじめて三津麻呂にも、貧しいなりに老境の安息が訪れたといえる。
(ただし……)
蛍の野路を、榧《かや》の森に向かって歩き出しながら彼は苦笑した。
(小弁にだけは手を焼くなあ。小弁どころか、まさに多弁だ。人の噂やかげ口となると、ことにもぺらぺらよく動くあの舌を、死なぬ先に閻魔《えんま》が抜いてくれたら、どれほど助かるかしれないなあ)
馬蹄の響きを耳にしたのはこのときだった。月の出汐《でしお》が近づいて地平はぼうっと明るんでいる。疾駆してくる人かげは、三津麻呂の目にもはっきり捉《とら》えられた。
「お館《たち》の若殿ではござりませぬか」
「おう、爺《じい》か。こんなところで、暗くなるまで何をしていた」
「あすの米とぎと、釜洗い……」
「女の仕事ではないか。おぬしが片づけてしまうから、小弁婆ァの横着がつのるのだよ」
せかせか言う口つきに若さの驕《おご》りがあふれている。大領の屋敷の二男坊で、馬にも打ち物にも達者な、次郎丸という暴れ者である。
「若殿こそ、いま時分どちらへ?」
「五行庵へ行くのだ。唯念坊は在宿か?」
「おられます。さあ、どうぞ……」
手綱を取って先に立ちながらも、三津麻呂は心中、にがりきっていた。この若者が来ればきっと酒になり、唯念は殊勝《しゆしよう》げなうわべの仮面をかなぐり捨てて、未熟な本性をさらけ出すのである。
「庵主さま、次郎丸ぎみのお越しですぞ」
告げると、看経《かんきん》の打ち鉦《がね》がやみ、上げ蔀《しとみ》のすきまから唯念が顔をのぞかせた。
「これはこれは……。ご自身まいられるとは何ごとですか? 迎えをくだされば、すぐにでも参上しましたのに……」
「いや、館ではまずいのだ。なんともじつに、奇ッ怪な事が起こったのでな、懺悔《ざんげ》がてらご坊に相談したくてやってきたのさ」
「人に聞かれたくはない話なのですね」
「ひとまず口止めはして出たけれど、召使どもはもう知っている。でもまだ、外へは洩らしたくない。その点、ここは森の中の一軒家……」
言いさして、三津麻呂の存在に気づいたのだろう、
「庵主と密談するあいだ本堂に近づくな。いいか、つれあいの婆さんにも厳重に申しつけておくんだぞ」
居丈高《いたけだか》に次郎丸はきめつけた。二人ながら、そのくせ口ぶりや表情に、何となくわざとらしさが匂う。
三津麻呂がそそくさ馬を曳きながら遠ざかるのを見送って、
「さあ、どうぞ」
本堂の扉を開ける唯念の仕草も、どことなく芝居じみていた。
「老人夫婦にさえ釘をさしておけば、犬の仔一匹ここらには立ち廻りません。心おきなくお話しください」
安心するのは、しかし早すぎた。人の隠しごとを穿鑿《せんさく》し、噂にして村中に触れまわるのを生き甲斐にしているお喋り婆《ばば》の小弁が、次郎丸の大声をいつのまにか聞きつけてしまっていたのである。
馬繋ぎの杭《くい》に次郎丸の乗馬をつなぎ、ついでにたっぷり水を飼ってやったあと三津麻呂が庫裏へもどると、老妻は納戸《なんど》の暗がりで横になっているように見えた。
「おい嬶《かか》よ、おい」
声をかけても返事がない。夕餉《ゆうげ》を食べてしまうと早々に宵のうちから寝込むのは毎度のことだ。水屋との、境の板戸が一尺ほど開いてい、身体の形なりに盛りあがった上掛けの小衾《こぶすま》が見える。だからてっきり、寝入ったものと思いこんで三津麻呂は莚《むしろ》土間にあぐらをかき、夜なべ仕事の縄綯《なわな》いをはじめたのだ。
奇怪な話とは何なのか、見当もつかないけれど、どうせたいしたことではあるまい。大げさな物言いは、ふだんからあの若殿の口癖だからなと、三津麻呂は腹の中で嗤《わら》い捨てた。高慢な次郎丸の態度もつねづね、気にくわない。
おくびにも、だがそんな感情を出さないのは、ろくに檀家ひとつない五行庵の、次郎丸が唯一最大の庇護者だからである。と言っても格別、物質的援助をしてくれているわけではなかった。大領の家の二番目息子ではあっても、次郎丸は庶腹《しよふく》の、冷やめし食いにすぎない。父親の前大領が若いころ、樋澄《ひす》ましの婢《はしため》に手をつけて生ませた伜《せがれ》なので、継母に当る正室には当然、嫌われていたし、性格の粗暴さから父にも疎《うと》まれて、邸内で孤立していた。
前大領の愛は、正室|腹《ばら》の長男にはなはだしい。その妹の姫も正室を母として生まれたので、両親の寵愛をあつめている。次郎丸が父を恨み母を憎み、兄と妹を嫉妬してひがみ根性になるのも、むりないと言えば言えるのだ。
なぜかそのくせ、唯念とだけはうまが合う。屋敷にいてもつまらないのか、小鷹狩りだ遠馳けだと外出《そとで》の口実をつけては、しょっちゅう五行庵へ遊びにくる。そして顔を合せれば二人ながら、まるで失意の四十男のように不平を言い合い愚痴をこぼし合う。家督を兄に継がれ、財は妹に取られて、捨て扶持《ぶち》の飼い殺し同様、隅っこにかがまりながらくらすことになるであろう将来を、次郎丸が歯がみして罵《ののし》ると、唯念も負けずに、ボロ寺の庵主で朽ちさせねばならぬ我が身を喞《かこ》つ。
双方ともに、分際をわきまえぬ思い上った不満なのだが、彼らにすれば口惜しくてならないのだろう、来れば酒になり、狩りの獲物を切り裂いての焙《あぶ》り喰いとなる。俗体の次郎丸はまだしも、唯念の場合は飲酒も肉食《にくじき》も仏前を憚《はばか》る破戒だ。はては酔いしれて、双六《すごろく》の賽《さい》の目を夢中で争う。口論から掴み合いの喧嘩まではじめることさえある。友人に善悪があるならば、さしずめ唯念にとって次郎丸など、
(悪友の最たるものではあるまいか)
と三津麻呂には歎かわしい。
せめて双六だけでもやめさせたいとの親心から、遠慮がちに諫《いさ》めたことがあるが、
「ほかに何の楽しみがある。奉公人のくせにいらざる指図をするな。追い出すぞ」
叱りとばされたのに懲《こ》りて、口をとじてしまった。
しかもここ半月ほど前からは庵に現れても打たず飲まず、なにやら次郎丸は唯念と鼻つき合せて、しきりに密談している気配だった。
(悪事でも企らんでいるのではないか)
ひそひそ話をしていればいるで、三津麻呂には不安だが、あげく今夜の、単騎、供もつれずに馳けつけ、人払いまでするという大仰な訪問につながったのである。
2
昼の過労の疲れが出て、縄を綯《な》いかけたままとろとろと、つい、うっかり居眠ったようだ。いきなり肩を掴まれ、
「おじいさん、起きてくださいよッ」
ゆすぶりたてられて、三津麻呂は我れに返った。
「小弁、どうしたのだ。おまえ納戸で、寝てたのではないのか?」
「寝てなんぞいませんよ。本堂の裏手の小窓から、館《たち》の若殿のお話を盗み聞きしてたんですよ」
「ばか、お堂のそばへ近づいてもいけないと固く止められていたのに、おまえってやつはどうしてそう、もの見だかいのだ?」
「でも、おかげで世にも恐ろしい秘密を聞き出すことができたんじゃありませんか」
よく見ると老妻は慄《ふる》えている。灯《とも》し油は尽き、開け放ったままの戸口から月光が流れこんでいたが、そのせいばかりでなく日ごろ渋紙色の小弁の顔は、血のけを失ってまっ青だった。
「恐ろしい秘密? どんなことだね?」
つい急《せ》きこんで、三津麻呂も訊《き》いてしまった。
「びっくりしないでくださいよおじいさん。前《さき》の大領さまの北ノ方《かた》は、夜な夜な首の飛ぶ妖怪ですって……」
「なんだと?」
「北ノ方ばかりじゃない。ご総領のお跡つぎ、一人娘の姫君までがお袋さまの血を享《う》けて、やっぱりふわふわ、夜中になると首が宙を飛び回るんですとさ」
「そんな阿呆なことがあるものか」
「庵主さまもそう言いましたよ、初手《しよて》はね。でも次郎丸さまの話を聞くうちに、だんだんと納得《なつとく》した様子で、あの奥方のお血筋を考えれば、首の飛ぶ怪異も起こるかもしれぬとおっしゃってでした」
怕《こわ》そうに声をひそめ、そのくせ好奇心に燃える目を薄くらがりにぎらつかせながら、老妻が語った盗み聞きの内容は、ざっと次のようなものだった。
――継子《ままこ》扱いの次郎丸は、いつも邸内の、西ノ対《たい》に家族と離れて一人でくらしている。眠るのも、むろん自室につづく板敷きの塗籠《ぬりごめ》である。いかにも虐待されているようでいて、じつはそうではない。夏涼しく冬あたたかな土蔵造りを、当の次郎丸が気に入り、
「こちらにおいでなさい」
と言われても、両親や兄妹の住む北ノ対にはめったに足ぶみしないのだ。
ところが十日ほど前から、西ノ対に番匠どもが入りはじめた。白蟻に荒らされて土台が腐り、一棟そっくり建て替えることになったのである。
そこでしばらくのあいだ、次郎丸も北ノ対でくらさなければならなくなり、しぶしぶ身の回りの調度を運ばせて家族と同居した。寝間は長兄の、太郎|雅澄《まさずみ》と隣り合っている。
怪異を目撃したのは、引き移って三晩目の蒸し暑い日だった。真夜中に、尿意をもよおして目をさまし、備えつけの便器《おまる》を手《た》ぐり寄せようとして、
(おや?)
思わず聞き耳を立てた。奇妙な音がする。コトコトとかすかな、骨と骨を叩き合せるような軽い軋《きし》みだ。
(なんだろう)
雅澄の部屋かららしい。読書好きの兄が、本のおもしろさに惹《ひ》きこまれて遅くまで寝ずにいることがあるのを次郎丸は知っている。今年十九の弟と、雅澄は年齢がだいぶ離れていて、三十二歳になっていた。一度結婚したが妻に死なれ、独身のいま、再婚の話が持ちあがってこの秋には挙式する予定という。
自分の周辺には、気《け》ぶりにも起こらぬそんな華やかなさざめきも、
(嫡統の、世つぎなればこそだ)
と思うと、次郎丸は腹が立ってたまらない。武芸自慢の弟とはうらはらに、雅澄が学問に身を入れ、
「みやびた御曹子《おんぞうし》」
と召使の女房どもばかりか、国の守《かみ》のお覚えまでめでたいのも不快の種だ。東国は四、五年以前に、やっと平将門の乱が平定したばかりで、武力がどれほど大事かは、八州の在庁官人だれもが痛感させられたはずなのに、兵火がおさまればたちまちまた、都かぶれの旧に復してしまう。
(月よ花よなどと浮わついていられるのは、中央の貴族だからこそだ。郡の司《つかさ》の大領風情が、三十一《みそひと》文字をひねくったところでどうなるものか。えせ才子め)
と腹ちがいの兄の文雅《ぶんが》を、つねづね苦々しく見ていた次郎丸だから、隣室からの物音にも舌打ちして、間の絵襖《えぶすま》をそろッと一|寸《すん》ほどあけてみた。
燭台は、しかし消えている。読書していたのではないようだ。廊下に面した戸障子は風を入れるためところどころ、一枚ずつはずされ、蔀《しとみ》も何ヵ所か上げられて月の光がさし入っていた。寝間の中はあきらかに見える。異状もしたがって、即座に次郎丸の目に映じた。
「うッ!」
彼はのけぞった。押しつぶしたような悲鳴が咽喉《のど》を塞《ふさ》いだ。雅澄はいる。たしかに茵《しとね》に横たわってはいるが、その首がないのだ。
「賊にでも襲われたか?」
と一瞬、惑《まど》った。でもそれならば叫び声ぐらいしてよいはずではないか。聞こえたのはコトコトという骨の鳴るような、はずれるような……。
「そうだッ」
あれは首の骨がはずれて、胴体から抜けた音だ。では、その首はどこにある? と見回してみても、何もない。血も一滴もこぼれていないのである。
父の前大領は去年の冬、中風《ちゆうぶう》の発作《ほつさ》に見舞われ、全身不随で床《とこ》についたきりだから変事を告げたところで意志は通じ合えない。とりあえず継母に急を知らすつもりで、その寝所へいそいだ。
ここも簾《みす》や几帳《きちよう》を立てめぐらしてあるだけだから、忍び込む気ならすぐ入れる。召使どもを起こさないよう用心しながら床を覗くと、なんと、母親もまた胴体だけになっているではないか。横に寝ている妹の、首もない。
「こ、これは何としたことだ!」
次郎丸はあぶなく、腰をぬかしかけた。悪い夢を見ているにちがいないと瞼をこすり頬を思いきり抓《つね》ったが、正真正銘の現実だ。
ほうほうの態《てい》で彼は廊下へよろめき出た。そして、なにげなく庭へ目をやって、今度こそその場に腰をぬかしてしまった。首≠見つけたのだ。三つながら夏の夜空を、あちらへ飛びこちらへ飛び、さも気持よさそうに游泳していたのである。
「あ、あ、あ」
呆然自失した。空を見あげてただ、次郎丸は喘《あえ》ぐだけだった。女二人の首は長い黒髪を風に吹き流し、くるりくるり宙に反転する。象牙色の月光をちりばめて、彗星《すいせい》の尾のように輝くその二筋の髪の流れを追いながら、雅澄の首も自在に飛行《ひぎよう》した。
もつれ合う。たわむれ合う。ささやき交してさえいるかに見える。高く高く、飛びあがったかと思うと池の面《おもて》すれすれまで降下する。広い庭園をしばらく翔《か》けめぐり、やがて築山を越え土塀を越えて、邸外の闇に消え去ってしまった。
這《は》って次郎丸は兄の寝所へもどり、ぶきみさをこらえながら胴体に触れてみた。体温はいくらか冷たいが、脈はかすかに打っている。首は帰ってくるだろうか。
(もし、そのとき、胴に繋がることが出来なかったらどうするだろう)
恐怖にまして、猛然と興味が湧いた。ぬぎすててある常着《つねぎ》の直衣《のうし》を取り、次郎丸は兄の身体にかぶせて自室へ隠れた。二寸ほどあけた襖のすきまから、直衣の裾の端を引き入れ、息を殺して待つうちになまあたたかな、腥《なまぐさ》い風が吹き込んで来、木の葉のざわめきに似た微音を発しながら雅澄の首がもどってきた。
胴体に附着しようとする。でも、直衣に妨げられて附くことができない。床《とこ》のぐるりを飛び回り、二度三度、胴体に近づいては離れ、また近づいては離れるうちに力尽きたのか、どさッと畳に落ちてしまった。悲しげに表情が歪《ゆが》む。吐息をつき、唇を舐め、やがて息づかいが荒く、早くなった。
ここまで見届けて、次郎丸は襖のすきまから強く直衣の裾を曳いた。胴体が現われ、附け根も露出する。
畳にころがっていた首はとっさに歓喜の目をかがやかせ、三尺ばかり飛び上ってぴたッと胴に繋がった。そして目をとじ、何ごともなかったようにすぐ、軽い寝息を立てだしたのである。
「おれは考えたんだ」
唯念相手に、次郎丸は熱っぽく語りつづけた。
「いったいこの怪異は、何に由来するのだろうか、とね」
「それで何か、思い当ることがありましたか」
「あったんだよ。日ごろから物を考えるのが大の不得手ときているだろ、脳みそが絞《しぼ》られそうに苦しかったけど、どうやら見当がついた。継母者《ははじや》の家系さ」
「奥方さまの?」
「うん、ご坊も知っての通り将門の乱を平げたのは、その従弟《いとこ》の平貞盛だ。継母者の実家は貞盛将軍の遠縁にあたる。ということは、将門の門葉でもあるということだぜ」
「なるほど」
唯念は膝を叩いた。
「都へ送られ、梟首《きようしゆ》されながらも、将門の首は虚空を飛んで、坂東へ舞いもどって来ましたな」
「つまり血の中に、生来、不思議な能力を秘めた一族だったんだ」
「中国にもあります。『捜神記《そうじんき》』という奇書に載せられている実例ですが、かの国の南方に落頭民《らくとうみん》と呼ばれる種族がおり、彼らも首だけになって夜天を飛翔する奇怪な能力を、生まれながら持っているそうです。三国の呉の時代に、朱桓《しゆかん》とやら申す武人の家で傭《やと》っていた婢女《はしため》が、やはりこの、落頭民の一員だったため大騒ぎになったとの、記録もありますよ」
「我が家も同様だ。万一こんなことが外に洩れたら、家門の恥になる。化物の家すじだ妖怪の家系だと爪はじきされ、大領の職はおろか人づきあいも絶えてしまうだろう。兄の嫁迎えは破談となり妹を娶《めと》る男もいなくなる。よしんば事実を秘し隠ししたところで、生まれてくる子らに忌《い》まわしい血は伝わるのだ。思ってもみるがいい。将門の子孫が蕃殖《はんしよく》したあかつき、東国の野づらを幾十幾百もの首が、夜ごと飛び交うようになるであろうぶきみな光景を……」
「身の毛がよだちますな」
「おれは決意した。禍《わざわい》の芽は、双葉のうちに摘み取るほかないじゃないか」
「では……」
「昨夜――いや、正確には今暁だ。また三人の首は外へ出た。そのすきに三個の胴体に衣服をかぶせ、とうとうそれを、おれは取りのけてやらなかったんだよ」
しゃくり上げて次郎丸は泣き出し、
「附け根に附くことができずに、では首は……つまりお三方は、死んでしまわれたわけですな」
唯念も呻《うめ》いて顔を伏せた。
「おれは母殺し、兄妹《きようだい》殺しだ。でも、憎くてしたんじゃない。世間の口が何と非難しようと、ご坊にだけは信じてもらいたいのだ。それでやって来たんだが、打ちあけてさっぱりしたよ。腹を切る。仏前を汚す罪は許してくれ」
「お待ちなさい。自害はいつでもできます。落頭民の古例、将門の新例を挙げて私も国の守に陳弁しましょう。兄上とお妹ぎみが亡くなられた今、あなたまで腹を切ってはだれが郡司邸の家名を継ぎますか。ご病父のみとりはだれが引き受けますか」
「そこなんだ。口がきけず、手足も動かない父上のことを思うと、死ぬに死ねない」
「お三人の亡骸《なきがら》は?」
「召使どもが見つけて、上を下への混乱におちいっている。渦中をぬけ出して、やっとここへ馳けつけてきたんだよ」
「ひとまずお館へお帰りなさい。私もまいります。そしてご一緒に国庁へ出頭し、ありのまま陳弁すればわかってもらえないことはありますまい」
ここまで盗み聞いて、小弁は庫裏の莚《むしろ》土間へ走りもどって来たわけであった。
3
三津麻呂は怯《おび》えた。とても本当とは思えない薄気味わるい話だが、嘘と断じる根拠も持ち合さない。彼にできる役目といえば、
「けっして人に洩らすなよ」
せめて老妻の口を封じることだ。耳よりな話題を胸におさめて、人に語らないなどという困難な抑制が、しかし小弁にできるはずはなかった。
「あんただけに話すんだからね、とっときの秘密だよ。いいね、だれにも喋っちゃいけないよ」
との但《ただ》し書きつきで、お館《たち》の妖異は一刻のちにはもう、村中に知れ渡り、疾風の迅《はや》さで国のすみずみにまで拡がった。
国庁の白洲で審議が開かれるころ、尾鰭《おひれ》のついた取り沙汰のなかで、次郎丸の行為はすっかり美化され、魔性|変化《へんげ》のたぐいを退治した英雄とまで、いつのまにか褒めそやす声も聞かれるほどになっていたのである。
おまけに国の守は、ひどく迷信ぶかい男だった。将門の祟《たた》りを恐れて、常陸《ひたち》への赴任を当初、尻ごみしたような臆病官僚の一人だから、
「飛び首の血脈を、断ち切ってのけました」
と呼号する若者の存在を、たのもしい片腕とも見たにちがいない。罪を問うどころか、かえって家督の相続を許し、次郎丸を新大領に任じさえしたのであった。
思いもかけぬ幸運の到来だ。童名のままで呼ばれていた名を、次郎|雅景《まさかげ》と改め、館の主《あるじ》に納まって彼は領民の頭上に君臨しだした。
「英雄豪傑には、祟りもおよばぬとみえるな」
舌を巻いて、だれもが目ざましすぎるその出世を新しい噂の種にし合ったが、やはり不相応な栄光には魔がさすものらしい。次郎雅景は病気になった。それもいきなり、枕もあがらぬ重態に陥ったのである。
「割れそうに痛む」
と頭をかかえ、
「息がくるしい」
と胸をかきむしる……。屋敷中があわてふためいて医師を呼び、薬を求めて走り廻ったが、だれに診せても何を服用しても、少しも良くならない。苦悶はつのるばかりだ。
「さればこそ、祟りおった。首で虚空を泳ぐような奇体《きたい》な化物を、三人まで仕止めながら、無事に済む道理はなかったのじゃ」
したり顔に言う者が多い。
「怨霊かのう、北ノ方さまや姫さまの……」
「せっかく舞いもどってきたに、もとの胴体を隠されたとあっては、こりゃ恨むのももっともじゃわ」
「将門の怨念も、ついでのことに取り憑《つ》いたかもしれぬぞ」
「恐ろしや。さわらぬ神に祟りなしとはこのことじゃな。けっく要《い》らざる武辺立《ぶへんだ》てなどせねばよかったのじゃ」
と、新大領の評判も病魔にねじ伏せられて下落しかけた。
医薬で効験が現れぬなら神力仏力にたよるほかない。さっそく主立《おもだ》った寺々から高徳の聞こえ高い僧侶たちが集められた。
中でも人目をそばだたせたのは香巌寺の住職のいでたちで、きらびやかな袈裟《けさ》を掛け緋《ひ》の法衣をまとい、従僧二十人の先頭に立ってものものしく乗り込んできた。大領邸の旦那寺《だんなでら》だけに、香巌寺は堂塔の偉容備わった近辺屈指の大寺院である。
病人の枕上《まくらがみ》に壇をきずき、不動明王の画像を掲げて彼らが加持を開始すると、他の寺々の僧たちも競い合って祈祷を修しはじめ、護摩《ごま》の煙がもうもうと邸内に立ちこめた。
むせ返って次郎はどなり出した。
「やめろやめろ。祈れば祈るほど胸ぐるしくなるばかりだ。咳が出る。咽喉《のど》が灼《や》ける。狐ではあるまいし、こんなに燻《いぶ》し立てられては治る病いも治らなくなるぞ」
家司がおろおろ問いかけた。
「では、どうしたらようございましょう」
「一心に経文を読めと言え。坊主の数も、もっとふやすんだ。寺の大小、僧位の高下は問わぬ。片はしから験のありそうな法師を呼び集めて読経させろ」
おかげで邸内は泉殿、渡殿《わたどの》、庇下《ひさしした》の板縁にまでぎっしり僧が詰まって、めいめい口々に、さまざまな経を読誦《どくじゆ》し出したため耳がつぶれそうな喧騒となった。
「まるで大鐘《おおがね》の下にでもいるようだ。かえってこれでは、お身体に障るのではないか」
召使たちの心配も、もう次郎雅景には通じなくなってきはじめたようだ。胸をかきむしって唸りつづけ、どうやら少しずつ意識も薄れだした気配である。
「すわ、ご臨終はまぢかいわ」
「やれやれ、運を掴んだとたん、このお若さであっけなくあの世行きか。三日天下のはかなさであったなあ」
ひそひそ気ばやに、葬《とむら》いの相談までささやきはじめたやさき、病人は昏睡の床からいきなり大きく目を見ひらいて、
「ああ、助かった!」
声をあげた。
「いま、ありがたい霊夢を見たぞ」
「夢を?」
「妖魔の首が三つ、どこからともなく飛んで来て左右の腕を咥《くわ》え衿がみを咥えて、おれを冥府《めいふ》へ曳きずって行こうとする。あらんかぎりの力で抗《あらが》ったが駄目だ。いよいよ死ぬのかと覚悟しかけたとさ、髪をみずらに結《ゆ》った端正|微妙《みみよう》な童子が現れ、宝杖をふるって首どもを追い払ってくれたのだ」
「何者でしょうか、その童子は……」
「ひれ伏して、おれもお名をたずねた。すると仰せられるには、『われこそは仁王経《にんのうぎよう》の守護神である。汝の屋敷の中門廊に伺候して一心不乱、一文一句に心をこめ、他念なくいま、仁王経を誦《ず》す僧がいる。その者の誠意と経の功徳を嘉《よみ》し、汝が命を助くるぞ』と、うるわしいお声でおっしゃったとたん、夢が醒めたのだ」
「ご不調は、では……」
「すっきり良くなった。拭《ぬぐ》い取りでもしたように病苦はなくなってしまった。これも中門廊にいるとやらいう僧のおかげ……。いそいでさがし出してつれてこい」
「かしこまりました」
ひしめき詰めている大勢の中から、やがて家司が引っぱって来た相手を、ひと目見るなり、
「おッ、こなたは五行庵の唯念坊ではないか」
次郎雅景は声をつつぬかせた。
「経をあげに来てくれていたのか」
「はい。お鷹狩りの帰るさ、おりおりご休息がてら草庵へお立寄りくださった縁《えにし》を思うにつけ、じっとしていられずに馳せつけましたが、なにぶんにも弱輩の下法師《げほうし》……中門脇きのお廊下の端に坐って、仁王経を誦したてまつっていたのでござります」
「ありがたいぞ唯念坊。これだけたくさん僧が参っていながら、真実おれの病いを案じて、経文の諷誦《ふじゆ》に心をこめてくれたのはおぬし一人ということになる。至誠が上天の、諸仏諸神に通じたのだ。おぬしこそはおれの延命の恩人。りっぱな袈裟衣《ころも》に上つらばかり飾ったとて、法力のない坊主は木偶《でく》にひとしい。香巌寺の長老を追い出して、今日から唯念坊をあの伽藍《がらん》の住持に据えるぞ」
「身に余る恩命でござります」
こうして二人の若者は、一方が大領の権職を握り、一方もまんまと、大寺院の院主に成りあがることができたのである。
五行庵を引き払って、唯念が香巌寺へ移る日、寺僕の三津麻呂はあと片づけをすべて済ますと、
「おいとまをいただかせてくださりませ」
願って出た。ついてくるものと信じきっていたのだろう。意外そうな顔で、
「なぜだね爺や」
唯念は反問した。
「あちらは大寺《おおでら》。人手はあり余っているでしょう。老いぼれがうろうろしてはお僧がたの邪魔になるばかりでござります」
「そんなことはないさ。お前と小弁の二人口《ふたりぐち》ぐらい、いくらでも養ってやれるよ」
「ありがとうござりますが、もう、お別れ申そうときめました」
「無理にとは言わないよ。でも、ここを出て行って、この先どうするつもりだね?」
「一生を、旅から旅の根無し草で過ごしてきました。やはりわたしには、放浪ぐらしが性に合っているようでござります」
「そんなら好きにするがいい。達者でな」
それっきりだった。新らしい門出《かどで》に気もそぞろなのか、盛装した身体いっぱいに意欲と熱気をみなぎらせて、唯念は迎えの輿《こし》に揺られながら去ってしまった。
「なんてことですよ、え?」
小弁が舌打ちして言った。
「ここみたいな貧乏寺とはちがうんですよ。何十石もの寺領を持つ裕福なお寺だもの、くっついて行けばわたしらだって楽《らく》ができたのに、なぜ断《ことわ》ってしまったんです?」
烈風の中の紙に似て、めまぐるしく翻《ひるが》える老妻の二枚の唇を、三津麻呂はつくづくみつめた。まんまとこの口が、利用されたのだ。
(人の首が、虚空を飛び回る……)
そんな妖異などあるわけはない。あらかじめ継母と異母兄妹を殺しておき、切断した首と胴体の血を洗い落としてそれぞれの寝所に横たえたあと、もっともらしい目撃談を次郎は捏造《ねつぞう》したのだろう。
懺悔を装って五行庵へ来たのは、かならず盗み聞きし、そこらじゅうに吹聴して廻るにちがいない小弁の性癖を、計算しつくしていたからである。あらかじめ唯念と二人、奸智をしぼって策を練り、国庁では将門の首、落頭民の例を引いて唯念が次郎の弁護をしてのけた代りに、つぎはニセ病気ニセ霊夢をでっちあげて次郎が唯念の労に報《むく》いたのだ。
(親兄妹を殺してまで、家督や財を奪いたいのか。そんな悪事に加担して大寺院の主《ぬし》になることに、唯念も呵責《かしやく》を覚えぬのか)
三津麻呂は情けなかった。若者どものむき出しな欲望の熾烈さが浅ましくもあり、怕《こわ》くもあった。破れ寺の預りが何の恥だろう。襤褸《ぼろ》に包んでも、珠玉の光彩は布地を透《とお》してかがやき出る。僧侶の値打ちは、堂塔の偉容などとは関わりないのだ。
(生涯、草庵の庵主でよいではないか。仏者としての修行を怠らず、慈悲心を深めて人々の悩みを救う姿を、唯念よ、父はお前の未来に描いていた。亡き母の多万女《たまめ》も、きっとそれを望んでいたにちがいない)
身近くくらせばくらすほど、しかし唯念の生きざまは親たちのひそかな望みとは乖離《かいり》しはじめ、期待もむざんに、打ち砕かれてしまう気がする……。
(うまく世間を瞞着《まんちやく》しおおせたかに見えながら、今度の企らみもいかにも粗雑だ。若さの無鉄砲で押し切って、いったんは欲を満たしても、いずれかならず躓《つまず》くだろう。それを見るのがつらい。別れような唯念……)
まとめておいた小さな旅荷《たびに》を、三津麻呂は腰にくくりつけた。
「お嬶《かか》も一緒に行くか」
と訊《き》くと、老妻は猛《たけ》り立って、
「冗談じゃありませんよ。知らぬ他国をあてもなくさすらうなんて……。野垂れ死が関の山でしょう」
ニベもなく拒絶した。
「お前とも、では別れるほかないわけか」
「生まれ育った土地だもの、わたしはここに残ります。村にいるかぎり食ってくだけのことはできるはずですからね」
「よい分別だ。この庵だって、無住になるのだし、いままで通りお前が住んでいてもだれも追い立てはしないだろう。じゃあ、わしは行くよ」
とりあえず西を目ざした。日が沈み、空をいろどっていた茜《あかね》も褪《あ》せて、野道は暗くなりかけている。いつのまにか夏は闌《た》け、蛍の数は減りはじめていたが、野川の岸に近づくと、翡翠《ひすい》の細片を撒きちらしたような涼しい、可憐な息づきが、それでもまだ、無数に眺められた。
とぼとぼと、せせらぎに沿《そ》って歩きはじめた背を、このときカンだかい声が追って来た。
「待ってくださいようおじいさん」
小弁であった。旅姿をしている。
「なんだお嬶、ついてくるつもりか?」
「やっぱり一人ぽっちでくらすのは、いやですからね。お供することにしましたよ。足手まといだなんて言わないでくださいよ」
「言うものか、だれが、そんなことを……。わしだとて一人より、夫婦むつまじく旅するほうがずっといいさ」
三津麻呂は微笑し、
(ゆるしてくれ多万女よ)
心の中で、そっと先妻に詫びた。
(赤児のときに捨て、いままたわしは、あの子を捨てて去る。それなりの罰は蒙《こうむ》るはずだ。浄土にいるそなたとは、もはや会えまい。この女との余生を終えたあとは、ひとりで地獄の門をくぐるよ)
耳を澄ましても、こたえる声など聞こえるはずはなかった。
「行こうかな」
小弁を、三津麻呂はうながした。
「まいりましょう。草むらに露がおりないうちにね」
二つの影は、蛍の野を寄り添いながら遠ざかった。
花かげの井戸
1
いたたまれなくなって則光《のりみつ》は外へとびだした。六月、残暑のまっさかり……。暑いことも暑いが、噴き出した汗は冷や汗である。
(なんという鼻っぱしの強い女だろう)
我が妻ながらつくづく呆れた。座中のどよめきがまだ、追いかけてくる気がする。
夢中で駒繋ぎの杭まで走り、門番の雑色《ぞうしき》どもがけげんな顔で見まもるのもかまわず、乗馬に鞭打って大納言邸を出てしまった。
そのまま四、五丁も疾駆したろうか。ようやく少し気持がしずまり、馬の歩速を|※[#足へん+包]足《だくあし》にもどしはしたけれども、家に帰るのは、
「まっぴらだ」
と言いたい心境に陥《おちい》っていた。
あてもなく、馬の行くにまかせて歩かせながら、則光は溜め息をついた。
「ああ、恥かしい。あんなことをされては、あしたからもう、出仕もできないなあ」
たんに恥かしいで、済むならばいい。
「どこの馬の骨ともわからぬ若女房なんぞに、満座の中でやりこめられたんだ。義懐《よしちか》卿は腹を立てて、おそらく今ごろは、火の玉みたいになっているにちがいない」
それが気になる。
なにしろ中納言義懐は、花山《かざん》上皇の伯父である。外戚中、だれにもまして羽振りをきかせている官界きっての実力者だ。
「あの無礼な女は、何者じゃ?」
「則光の妻でござります」
「則光? 左衛門尉橘則光か?」
「さようで……」
たちまち身もとは割れるだろう。直属の上司ではないまでも、義懐に睨まれるのは相当にうっとうしい。
「まったく仕様のないやつだ。夫の立場になんぞ、いささかも考慮を払わんのだからなあ」
――小白河にある某高官の別邸で今日、催された法華八講《ほつけはつこう》の講座は、説法上手なうえに美男と評判の、清範という僧が講師を勤めたため、早朝からぎゅう詰めの盛況となった。則光の妻も、
「聴聞《ちようもん》に行っていいでしょ?」
と、せがみ、
「信心なんて柄《がら》にもないじゃないか。お目あては美僧の講師だろ」
すっぱぬいても、
「じつはそうよ。たまには目の法楽《ほうらく》がしてみたいの」
けろりとしていた。童女さながら、天真爛漫な一面も持ち合せている女なのである。
「行ってもいいけど、朝座《あさざ》だけにしといてくれよ。おれは午後から出番だし、夜は宿直《とのい》だからな」
「わかってますよ。昼前にはもどるわ」
そのくせ行ったきり、待てどくらせど帰宅する気配がない。子供は腕白ざかりの男の子ばかり三人いる。母親が留守だと駄々をこねて、乳母や婢女《はした》の手に負えない。小《こ》舎人童《とねりわらわ》の千寿丸《せんじゆまる》が見かねて、
「わたくし、北ノ方さまをお迎えしてまいりましょう」
と言いだした。
「いや、帰る気がなければ召使のたのみになど、耳をかす女じゃない。おれが行く。首に綱をつけても曳っぱって来てやる」
腹立ちまぎれに馬腹を蹴って小白河へきてみると、ちょうどひとくぎりついたところとみえて、講師は仏前に礼拝し、やおら法座からおりかけたところであった。
回廊脇の妻戸からおそるおそる、則光は中を覗いた。案外なことに女の姿などほんのわずかしか見えない。それも法体の老女がほとんどで、若い女はどうやら彼の妻だけらしい。派手な山吹色の小袿《こうちぎ》が、したがって嫌でも目につく。
聴衆の大部分はこの屋敷の主人《あるじ》である高官に、胡麻《ごま》をするのが目的でやってきた公卿、殿上人……。地下《じげ》の侍もたくさん詰めかけているが、むずかしい講筵《こうえん》に退屈すると、男どもは視線を山吹の袿《うちぎ》にからませる。
さすがに薄ものの単衣《ひとえ》をかずき、顔を露出させないよう気をくばってはいるけれども、満座の注視を浴びるのはそれなりに、小気味のよい緊張なのだろう、背すじをしゃんと伸ばし、わるびれた風《ふう》もなく坐っている後姿からも、則光には妻の勝気と、快感の度合いがわかるのである。
(いい気なものだ。美人でもないくせに……)
鼻が低すぎるのが第一の欠点、眉と眉、目と目の間隔がいささかまのびして見えるほど離れているのが第二の欠点で、強《し》いて探せばくくり顎《あご》の愛らしさに、娘時代の俤《おもかげ》が残る。自慢の種だった髪の量も、子供らを生んでからはげっそり減って、背中つきが何となくうそ寂しい。
講師は壇をおりた。それでも立とうとしない妻に則光は業《ごう》を煮やして、御堂の側面に廻り込んだ。上げ蔀《しとみ》のすきまから目くばせすると、ようやく夫の迎えに気づいたのか、しぶしぶながら彼女は立ち上り、人々の膝先をすりぬけて外へ出ようとした。
壁ぎわに沿った一段高い横座から、中納言義懐がからかい口調で声をかけてきたのはこの瞬間である。
「おやおや帰る人がいますな。ま、それもいいでしょう。縁なき衆生というわけだ」
山吹の袿がキッと動きをとめ、間髪を入れぬ応酬が中納言の面上へ叩き返された。
「そんなことをおっしゃるあなたこそ、五千人の内のお一人ですわね」
御堂中がどよめいた。血気ざかりの殿上人のなかには、痛快がって思わずパチパチ、手をたたいてしまった者もいる。
むかし、おびただしい聴衆をあつめて釈尊が説法しておられるさなか、五千人の増上慢《ぞうじようまん》が席を立って退出した。怒る弟子たちに、
「かまうな、彼らのような外道《げどう》は、むしろここにおらぬほうがよいのだ」
と、釈尊がさとされた話が、法華経の方便品《ほうべんぼん》に載せられている。
凡俗《ぼんぞく》のくせにその故事を踏まえ、いかにも釈尊になりあがりでもしたような高慢な口ぶりで、義懐が揶揄《やゆ》を投げたのは、彼もまたひときわ目立つ袿の色にそそられ、
(若い女だな)
と、推量していたからにちがいない。
「えばっていらっしゃいますこと。退席してゆく私よりも、あなたのその、思い上りのほうが外道《げどう》そっくりですわよ」
つまりはそう、しっぺ返しをくらわしたわけだから、義懐は赤面して二の句が継げない。方便品を咀嚼《そしやく》しているだけでなく、とっさに知識を活用し逆手に取ったのは、頭の回転のはやさ、胆っ玉の太さの証明といえよう。
感嘆と畏敬のまなざしに送られながら、小柄な身丈《みたけ》を反りかえらせ、得意満面、外へ出て来かけた妻を見て、則光は矢も楯もたまらず逃げだしてしまったのだ。
才気ばしっているのはよい。気性の強いのも承知で結婚したのである。縹緻《きりよう》など二の次、家政を取りさばいてゆく能力こそが大事だし、そのためには頭脳優秀でなければならぬ、気質もしっかりしていなければならぬというのが則光の持論だった。
妻の父は清原元輔《きよはらのもとすけ》といい、梨壺《なしつぼ》の五人に入れられている歌詠みだが、
「ご息女をいただきたい」
と申し入れに行ったら、
「あれと一緒にくらすのは、骨が折れるぞう」
目をむいて脅《おど》かした。がらがら声の、磊落《らいらく》な爺《じい》さまである。賀茂の祭りの勅使に選ばれ、都大路を練ってゆく途上、落馬して冠を落としてしまったときも、爆笑する見物を相手にあわてず騒がず、古今東西、晴れの場所で馬から落ちた者がいかに多いか、滔々《とうとう》と例をあげて弁じ立て、そのあいだじゅう、むき出しの禿頭に夕日をぎらぎら反射させていたという滑稽な逸話の持ちぬしだ。
娘よりも先に、親の元輔に則光は魅惑されてしまった。
(こんな爺さまを舅《しゆうと》に持ったら、たいていの苛々《いらいら》など吹っとんでしまうだろうな)
もっとも彼が娘と結婚してまもなく、元輔は八十近い高齢で肥後守に任ぜられ、九州へくだって行ったきりいまだに帰ってこない。
三度目の妻に、娘を生ませたのが、五十九歳のときだったというのだから、その絶倫ぶりはなかなかのものだ。父娘《おやこ》というより、だから則光の妻と並ぶと、祖父と孫のようにも他目《はため》には見えた。
肥後に赴任するときも、
「夫婦喧嘩などするなよ」
隣家にでも行くような気軽さで発《た》っていったが、金物で鋳《い》た羅漢《らかん》さながら矍鑠《かくしやく》として、足どりは軽快だった。
この爺さまの血を享《う》けているだけに、則光の妻も朗らかな、邪気や腹ぐろさの少しもない女ではあった。あけっぴろげで、夫にも奉公人にもずばずば、やり込めるような口をきくかわりに、あと腐れを残さない。頭も切れる。たて板に水の流暢さで白氏文集《はくしもんじゆう》ぐらい端から暗誦してみせる。
ただし困るのは、教養がややもすると、鼻の先にぶらさがることだ。清原家は元来が、学者の家筋である。老境に入って生んだ子なので、元輔|親爺《おやじ》は娘を溺愛し、呑み込みがひどくよいのをよろこんで四書五経のたぐいを幼時から、ぎゅうぎゅう詰めこんだらしい。おかげでいっぱしの女博士ができあがってしまった。ふたことめには漢学仕入れの難解な譬喩《ひゆ》や箴言《しんげん》が日常会話の中に出没する。
「一犬、虚《きよ》に吠《ほ》ゆれば万犬、実を伝うと『潜夫論』にありますわ。むやみな噂ばなしはおつつしみあそばせ」
だの、
「そういう一人よがりを遼東《りようとう》の豕《いのこ》と申すのです。『朱浮伝《しゆふでん》』をお読みになったこと、ございませんの、あなた」
と言った調子で、則光あたり、しばしば閉口させられる。
顕示欲がやたら強く、何ごとにつけても自分が中心となり、花形となっていなければ承知できぬたちなのだ。夫につながれ子らにつながれて、煩瑣《はんさ》な雑事にあくせく追われ通しの日常が、彼女自身も慊《あきたら》なくなってきているらしい。
則光にはまして、強烈すぎる妻の個性が、近ごろいよいよ重荷に感じられはじめていた。共棲《ともず》みして八年――。おたがいに倦怠期のまっただ中にさしかかったということかもしれない。
(せめて舅どのでも、近くにいてくれたらなあ)
ある種の癖馬《くせうま》≠ノ、娘をつくり上げてしまった責任からも、調停役を買って出て、危機を回避させてくれまいものでもないではないか。
肥後と京都では、しかしおいそれと逢いに行くわけにもいかない。
(どうしたものかなあ)
弱りきっていたやさきに引き起されたのが、小白河での『義懐卿やり込め事件』なのであった。
2
鞍《くら》の上の主人が、ぼんやり物思いにふけり出してしまったため、馬も|※[#足へん+包]足《だくあし》から並足《なみあし》にもどり、とうとう立ちどまって路ばたの草を食いちぎりはじめた。
「や、どこだろ、ここは……」
我に返って則光はあたりを眺め回した。
「日ノ岡近辺じゃないか」
めくら滅法とばしつづけたとはいえ、家からも御所からもかけ離れて、とんだ方角違いへ来てしまったものだ。
もう今ごろ、妻は意気揚々と帰宅して、先にもどったはずの夫の姿が邸内のどこにも見えないのを、いぶかっているにちがいない。帰る気にはとてもなれないし、役所へ出仕する意欲も則光はとっくに失っていた。法華八講の席には左右衛門府の同僚どもも幾人か、おそらく聴聞に来ていただろう。
「則光の出しゃばり女房が、義懐中納言の鼻柱を、こっぴどくへし折ったぞ」
と口から口へ、評判はたちまち伝わって、茶のみ話の材料にされるにきまっている。
(恥かしくてそんなところへ、のこのこ顔が出せるか)
暗くなったらこっそり出仕しよう、宿直《とのい》の番を狂わせては仲間に迷惑がかかる、泊りにだけ行こうときめて、さらに半丁ほど馬を歩ませた。日ざしは真上にさしかかり、路面も灼《や》けて暑さがひどい。咽喉《のど》がからからに乾いている。
(どこかに湧き水か井戸はないかしら……)
目を配りながら進むうちに、崖沿いの道の一方に井桁《いげた》が組まれ、洗い物に精出す女たちの嬌声がにぎやかに聞こえてくるのに気づいた。
(これは好都合だ)
寄って行って則光は洗濯女の群れの中へ割りこんだ。崖清水《がけしみず》を竹樋《たけどい》で引き、溜めて使っているのだが、水量が豊富なせいか井桁を越して水は溢れ、ゆるい傾斜にしたがって道の端《はし》をせせらぎ流れてゆく。
手巾《しゆきん》を絞って汗みどろの首筋を拭き顔を洗い、ついでに手足まで冷たい水に浸してごしごしやると、はじめて全身のほてりが取れ、則光は人ごこちをとりもどした。
ついでに馬にもたっぷり水を与え、女たちの仕事の妨げにならぬよう少しはなれて、崖下の木蔭に腰をおろした。おあつらえの平石《ひらいし》が置いてある。涼しい風も吹き通り、何の花か、甘い香りが鼻腔をかすめた。
見あげると、頭上の雑木《ざつぼく》に絡《から》みついて、凌霄《のうぜん》かずらの花がびっしり咲き盛《さか》っている。橙《だいだい》色に紅《べに》をにじませたヒルガオに似た愛らしい花だ。水場にむれる女たちは、でも、花の美しさになど目もくれない。さっきからさかんに関心を示して、彼女らがきゃあきゃあ騒いでいるのは、内の一人が演じて見せている手先の芸であった。右の掌に縫い物用の指抜きをのせ、三尺ばかり投げ上げて宙返りさせる。落ちてきたのを受けとめてまた、投げ上げるだけの他愛ない遊びだが、百回以上も続けられるのは初老の、この女だけで、他のお嬶《かか》たちはたいてい中途でしくじってしまうし、高さもせいぜいが一尺どまりなのだ。
「百六、百七、百八、百九……」
と皆が声を揃えて数取りする中で、くるりくるり小さな指抜きが空に舞うさまは、単調ではあるが見ていて飽きない。
(うまいものだな)
胸中の鬱屈をふっと忘れて、則光も思わず女の芸に見惚《みと》れた。
「水を飲ましてもらうぞ」
と、このとき横柄《おうへい》な声と一緒に、旅の侍が湧き水のほとりへ寄って来た。山科《やましな》から大津へ抜ける街道すじである。旅人の行き来は多い。侍は女を一人つれていた。どうやら夫婦者らしい。
市女笠《いちめがさ》のぐるりに苧麻《からむし》の布を垂らし、袿《うちぎ》を壺折って、足に藁《わら》草履をゆわえつけた旅装束だから、女の顔を見ることはできない。ただ、いかにも身体つきが華奢《きやしや》だし、肩など撓《しな》いそうに痩せているため、炎天下の旅姿が痛々しく目にうつる。
よほど遠くからやってきたのか、笠の塗りはところどころ剥《は》げ落ち、垂れ布の染め色も褪《あ》せて、袿の裾《すそ》は織り糸がすり切れかかっていた。夫の身なりも貧しげである。
年は三十がらみ……。骨組みはたくましいがこれも痩せて、肌は青ぐろく日灼けしている。無精髭だろうか、顔中もしゃもしゃに埋もれた中で、両眼だけは血走って鋭い。
無地の葛袴《くずばかま》に、洗いざらした紺の単衣《ひとえ》を着、鹿皮の沓《くつ》をはいている。尻鞘《しりざや》に猪の逆毛《さかげ》をつけた太刀の好みが、いささか荒々しく、もしこの男に山の中で遇《あ》ったら、山賊とまちがえそうな風態であった。
妻には、それでもいたわりを見せて、
「さ、そなたも飲めや」
備えつけの柄附《えつ》きの瓢箪《ひようたん》に水を満たし、手渡したりしている。妻の側も半裸になった夫の背を、絞った手巾で拭いてやるなど甲斐々々しく世話をやきながら、それでもつつしみ深いたちなのか市女笠をぬごうとしない。
ほんのわずかのあいだ、闖入者に好奇の目をそそいでいたお嬶《かか》たちも、すぐ興味をなくした様子で、ふたたび指抜き投げに熱中しはじめた。
髭の侍はそれを見ていたが、やがて我慢を切らしたらしく、
「そんな子供だましに感心してるのか?」
遊びの輪の中へ入っていった。
「でもよ、こうまで続けてはやれるもんじゃないよ。なんならためしにお侍さん、投げてごらん」
むっとした顔で、濯《すす》ぎ女の一人が言う。
「わしは生来、手先は不器用だ。そんな曲技まがいの遊戯はできん」
「できないなら人のすることをけなすんじゃないよ」
と、お嬶連中の鼻息は荒い。夫婦の身なりのみすぼらしさに、無意識の侮《あなど》りが出るのだろう。
「わしはできぬ。が、妻は特技の持ちぬしだぞ。おがませてやろうか」
闘志をむき出しにしてにじり出る袖を、女がうしろからしきりに引いた。よしない自慢はやめて、先を急ごうと、小声ですすめる……。
「まあ待て待て。たかが指抜きの宙返りぐらいで大きな面《つら》をしおるのが片腹いたい。おぬし、笄《こうがい》を踊らせて見せてやらんか」
「そんなことを競って、何になるでしょう。みなさんはご自分たちの楽しみに興じているのですから、それでよいではありませんか」
「お前のその、引っこみ思案には毎度のことながらじりじりする。無用の遠慮は抜きにして、この者どものど胆を抜いてやれ、さあ、早く……」
挑発するような言い方にお嬶たちもいきり立って、ぜひ見せろと口々に責めたてる。
仕方なしに女は井桁のそばへ寄り、中をのぞきこんだ。夫が刀の鞘《さや》から赤銅《しやくどう》造りの笄を抜いてその手に渡す。右の人さし指に妻は笄を立ててのせ、パッと空中に跳ね上げた。高くそれは舞いあがり、くるくる何度も反転しながら指におりる。目にもとまらぬ早技でまた飛ばす。舞いおりる。投げる。百回はおろか二百回三百回、切れ目なく続くみごとさは、なるほど指抜き投げなどの比ではない。しかも差し伸ばした手の下は井戸だ。やり損って落としでもすれば笄は水の底に沈んでしまうだろう。
「ひゃあ、こりゃあ大したもんだ」
「上には上があるんだねえ」
と濯ぎ女たちはたじろいで、いっせいに嘆声を洩らした。髭侍は誇らしげに肩をそびやかし、際限なく続けさせたい素振りだったが、妻はいいかげんなところでやめてしまった。
「なんだ。落としもしないのに中止するのか」
「もう、まいりましょう」
恥かしそうにうながしたのは、凌霄《のうぜん》かずらの下の則光の、驚き顔に気づいたからだった。
あわてて則光も目をそらし、馬を引き寄せてとび乗った。夫の虚栄心にひきずられ、往来ばたで演じたくもない隠し芸をむりやり演じさせられた女が、たまらなく哀れになったのである。
3
嫌でもいったんは、帰邸しなければならない。妻の部屋へは行かずにこっそり湯浴みをすませ、干魚《ひうお》の煮びたしと瓜の漬け物だけでザクザク水飯《すいはん》を掻きこんで、則光は大急ぎで家を出た。着替えを持って小《こ》舎人童《とねりわらわ》の千寿丸が一人、供をする。
ながかった夏の日もすっかり暮れた。御所への道のりは遠く、人通りもめったにない。寺の土塀ばかりがどこまでもつづき、聞こえるのは主従の足音とかすかな犬の吠え声だけだ。
「さびしいなあ」
「なにやら物騒な気配でございます」
「今宵は月もない。星あかりだけがたよりだな」
「松明《たいまつ》を持って出ればようござりました」
「それも大仰だよ。毎日、通い馴れた道じゃないか」
放火、強盗、追剥ぎ、人拐《ひとさら》い、婦女暴行……。近ごろ巷《ちまた》には恐ろしい事件が頻発している。極端に治安が悪く、検非違使庁《けびいしのちよう》などあってなきがごとき有様なのだ。自衛はめいめいでしなければならない。
千寿丸は、でも則光のそばにいるかぎり安心していた。橘家も、清原氏同様もともとは左大臣|諸兄《もろえ》を祖とする文官である。則光の父の敏政は、蔵人《くろうど》から駿河の国司、中宮亮《ちゆうぐうのすけ》を歴任し正五位下で亡くなったが、打ち物業《わざ》などは生涯、不得手のままだった。
しかし則光はちがう。むやみと他人にひけらかさないので知る者は少いけれど、弓は五人張りの強弓《ごうきゆう》を引き、太刀を巧みに使う。なによりは胆が太く、思慮も深いのを、千寿丸はつねづねたのもしく見ていたのである。
行く手の築地《ついじ》ぎわに、雲つくばかりな大男が四人、ガニ打ちでもするようにしゃがんでいて、則光主従が近づくやいなや、のそっとおもむろに立ち上ったのには、だが、足を竦《すく》ませずにいられなかった。
「何者でしょう、あ、あいつら……」
「わからんな、盗賊だろうか」
「いまじぶん、こんなところにいて通行人を待ち受けているのですから、どうせろくなやつらではありませんね」
「千寿丸、お前は逃げろ」
「そんな……ご主人さまを置きざりにするなんて……」
「おれは大丈夫だ。なんとかこの場を切りぬけて御所へ走りこむよ。お前も回り道して左衛門府の陣へこい」
ささやき交すあいだにも四人の巨漢は、じりじり間合いを詰めてくる。けなげなようでいても、やはり子供だ。歯が鳴るほど千寿丸は慄えだし、
「逃げないか、早くッ」
則光に叱咤されると、とたんに、
「わあ」
泣き声をあげながらどこかへ走って行ってしまった。
男どもの手に、刃物が光っているのを見て則光も観念した。役職は武官である。腰ぬけ揃いの公卿、殿上人の中では腕も立つが、生えぬきの武士ではない。凶器を持つ相手と渡り合った体験はないし、まして人を斬ったことなど一度もないのだ。
「やい、若造」
巨漢のひとりが咆《ほ》えた。
「身ぐるみぬいで置いてゆけ」
やはり盗賊だった。よほど言うなりに、裸になろうかと思ったが、それも業腹《ごうはら》だ。
「だまれ悪党ども、成敗してくれるぞッ」
さけびざま機先を制して、則光はやにわに太刀をぬき、先頭の男の胴体めがけて横に払った。
「ぎゃッ」
怪鳥《けちよう》さながら絶叫を曳いて男はのめる。あとはもう無我夢中である。
「野郎ッ、よくも相棒を……」
飛びかかってくる第二の男の胸板に、太刀を突っこみ、引きぬきざま上体を沈めて第三の巨漢の両脚を薙《な》いだ。
四人目がそれを見て逃げ出しかける。追いすがって袈裟がけに、肩から背へ思いきり割りつけた。虚空を掴《つか》んでこれも倒れる。
「片づけたッ」
ほっとすると同時に、急に怕《こわ》くなった。血刀《ちがたな》をにぎりしめたまま則光はあとも見ずに駆け出し、中御門《なかのみかど》から衛門府の庁舎の軒下へ走り込んだ。
柱のうしろに身をひそめて様子を窺《うかが》ううちに、小さな足音がうろうろ近づいて、
「殿、殿……」
あたりを憚《はばか》りながら呼ぶ。
「千寿丸、ここだ」
「あ、ご無事でしたかッ」
「しがみつくな、返り血がつく。この上衣《うえのきぬ》や指貫《さしぬき》の汚れをどうしよう」
「ご安心ください。召し替えを持ってきています。あすの出仕のお仕度は朝はやく、いま一度持参しましょう」
うれし泣きしながら宿直用の常着《つねぎ》を取り出す。則光はこのまに御溝水《みかわみず》のせせらぎで念入りに手を洗い、太刀にこびりついた血もすすぎ落とした。
「今夜のことは、固く口外無用だぞ」
「心得ております。では、手前はこれで……」
「まさかまた、賊に出遭《であ》うことはあるまいが、くれぐれも気をつけて帰れよ」
「おやすみなされませ」
小走りに立ち去るうしろ影をしばらく見送って、陣の宿直部屋へ入ったが、気が昂《たか》ぶって眠るどころではない。やっと明方近く、とろとろとしたと思うまもなく外の騒ぎで目が覚めた。
「大宮大路の、大炊御門《おおいのみかど》へんで大男が四人、斬り殺されているぞ」
「かねて探索中の盗賊どもだそうだ。だれがやったか知らないけれど、えらい大手柄じゃないか。一太刀で仕止めてのけた手ぎわも、水ぎわ立ったものだというよ」
「見に行こう、さあ……」
がやがや言い合っている。ちょうどそこへ出仕用の衣服を持って千寿丸がやってきた。現場はまだ、昨日のまま手がつけられていない、検非違使庁の走り下部《しもべ》が縄を張り、検屍を待っているが、あたりはヤジ馬で一杯だと、ひそひそ声で告げる……。
「そしらぬふりをしていろよ」
着替えをすませて千寿丸を帰し、何食わぬ顔で役所へ出ると、同僚たちが牛車《ぎつしや》を一輛仕立てて、見物にくり出すところだった。
「則光もこい」
「だって、車は満員じゃないか」
「まだ乗れるさ一人ぐらい……。詰めろ詰めろ」
行きたくはない。しかし拒むのも怪しまれるもとだと判断して、しぶしぶ同乗した。
現場は黒山の人だかりだ。若公卿や殿上人を鈴なりに乗せた牛車がほかにもたくさん来ている。四個の、獰猛《どうもう》そうな男どもの死体を、まっ昼間の日ざしの下で目にして、
(ほんとにやったことか? このおれが……)
則光は信じられない気がしたが、さらに驚いたのは人垣の中央に、昨日、日ノ岡の清水のほとりで逢った旅の侍が傲然と立ちはだかっていたことだった。
腕を振り回し唾《つば》を飛ばして、彼はさかんに弁じ立てている。どうやら賊を仕とめた英雄を自分に擬して、だれかれかまわず手柄話を聞かせているようだ。
「へええ、あいつの仕業《しわざ》だったのか」
と面白がって、同僚が牛車のそばへ呼ぶと、侍はやって来て地べたにひざまずき、
「昨夜、二更《にこう》のころ、所用があってこのあたりを通りかかりましたところ……」
すでに何十遍もくり返したにちがいない武勇伝を、得々としゃべり出した。
「まず斬りつけてまいったのがそれ、あすこに転がっておるあの賊です。引っぱずして一刀のもとに薙ぎ倒し……」
則光はあっけにとられた。腹の底から可笑しさがこみあげてきた。
(こりゃあ助かった。人殺しの呵責《かしやく》を、こいつが肩代りしてくれるというわけか)
安堵と一緒に、ふしぎなもの悲しさにもゆすぶりたてられた。尾羽打ち枯らした姿を衆目にさらしながら、身ぶり手ぶりをまじえての自己陶酔に、どっぷり漬かりきっている髭男……。悲哀と、彼自身は感じていないのが、則光には浅ましい。人の所行を、おのれのそれにすりかえてまで吹聴《ふいちよう》したがる顕示欲のすさまじさに、圧倒される思いもあった。
(夫がいるなら、近くに妻も……)
物見《ものみ》の小窓から外を見やると、案の定、人立ちのはるかうしろに、ひとり離れて、市女笠の女がしょんぼり佇《た》っていた。
羞恥に塗りつぶされているであろうその胸の内を、則光は思いやった。
(わが家の女房どのが、髭の侍みたいな夫を持ち、おれはあの市女笠の女のようなのを、妻にすればよかったのだ)
世の中はままならない。大方の夫婦が組み合せをまちがえながら、今さら取り替えもきかぬ人生を、それぞれ違和感を抑えつけつつ生きているのだろうか。
暑くるしい牛車の隅で、則光は大きく吐息をついた。
*
けしきばんだ妻の口から、
「離婚していただきます」
切口上で申し渡されたのは、事件後まもない秋の初めだった。
「いつかの賊どもは、あなたがやっつけたのだそうではありませんか。みすみす人に手柄を奪われながら、黙りこくっているなんて本当に歯がゆいお方ね」
「千寿丸を責めて聞き出したのだな」
「だれから聞いたっていいでしょう。とにかくあなたみたいなお人好しと一緒にいると、苛《いら》ついて気が変になりそうです。お別れするのがおたがいのためですわ」
「やむをえまい。言い出したらきかないお前だものな。――再婚の相手はいるのか?」
「もう結婚はこりごりです。宮仕えにあがるつもりで、じつは勤め口もきめました」
「そいつは早手回しだな。どこだい?」
「中宮さまの御殿ですわ」
時の帝《みかど》は一条天皇……。定子中宮は関白藤原道隆を父に持ち、いま、だれよりもときめいている后《きさき》である。
「子供たちはどうする?」
「あなたのところへ置いてゆきます。子づれでご奉公はできないでしょ?」
愛着はないのかと言いかけて、やめた。
「ところで、つかぬことを訊《き》くけど、凌霄《のうぜん》かずらって花にはなぜ、あんなむつかしい字を当てるんだろう」
「中国渡来の花だからよ。本来は、ですから凌霄《りようしよう》と呼びます。紫威《しい》とも書いた本があるわ」
則光は感心した。女博士を妻に持つと、こんなとき重宝この上ない。字引きの代りになるが、ま、利点といえばそのくらいのことだろうと、則光はあきらめた。何だか腹の底から、さばさばした気分になった。
――宮仕えにあがった妻が、『清少納言』の女房名をもらい、その学力や才智を定子中宮に愛されて、水を得た魚さながらいきいきと宮廷ぐらしに適応しはじめ、ひまをぬすんで書き出した『枕草子』なる短文集までが引っぱりだこで、女房たちの間に読まれていると聞いても、
「よかったなあ」
かげながら祝福はするものの、もはや則光は未練など感じなかった。
凌霄かずらが花をつける季節になると、むしろ瞼裏《まなうら》に明滅するのは、あの市女笠の女の姿だった。清水の井戸に倚《よ》って、羞《は》じらいがちに笄《こうがい》を宙に舞わした手首の細さ……。
「髭男につれられて、いまごろ、どこをさすらっているのだろうか」
思いやるたびに胸が痛んだ。甘い、ほのかな花の香までが感覚され、則光はそっと涙をぬぐった。