杉本苑子
絵島疑獄(下)
目 次
返り花
藤枝という女
陥《かん》 穽《せい》
八丈つむぎ
風渡る
島便り
山河寂光
返り花
返り花
一
平田彦四郎との逢う瀬を気ままに楽しむどころではない。来客や招待に追われて絵島は一人にすらなかなかなれなかった。
兄の白井平右衛門とは逆に、しかしもともと賑やかなことの好きな、明るく、さっぱりした気性だから、来る者を強いて拒むわけではなかったし、
「たかが菓子折りぐらい、貰ったからってどうということはありませんよ嫂《ねえ》さま。人のうちを訪ねるのにだれだって当節、手ぶらというわけにはいかないでしょう。当り前な礼儀ですもの」
そう言って、客の持参する手土産などにも、ことさら気を兼ねる様子がない。
物のあり余る大奥でご下賜の品々に埋もれてくらすうちに、知らず知らず物への有難みが稀薄になり、贈ったり受け取ったりする行為にきちっとけじめがつけられなくなったとも言えるが、生まれつき絵島には、些事《さじ》にかかわらない太っ腹なところがあった。気骨の折れる奥勤めを永年《ながねん》つづけてこられたのは、こまごました心くばりの裏に男まさりな気宇《きう》をひそめていたからだし、水汲みの婢《はした》までいれれば千人に近い女中たちの頂点に君臨しながら、ひどく人望が厚かったのも、江戸ッ子肌のこだわりのなさ、親分気質の包容力によるのである。
落度は叱る。しくじりにもきびしい叱言《こごと》が飛ぶが、うじうじ、いつまでも尾を曳かない。非をみとめて素直にあやまりさえすれば、たちまちもとの笑顔にもどるし、まして陰《かげ》日向《ひなた》なく働く者には目をかけて、褒めたり引き立てたりしてやったから、
「話のわかるお局《つぼね》さま」
と慕われて、愚痴や悩みごとの相談まで絵島のところへ持ちこんでくる腰元たちが少くなかった。ほとんどが仲間同士の感情のゆきちがい、上司の無理にたまりかねての訴えだが、中には裁き方一つで縄つきが出かねない面倒な悶着《もんちやく》も起こる。
「大事にしていた櫛《くし》がなくなったのであちこち捜したら、なんと、同じ部屋に寝起きしている朋輩《ほうばい》の行李《こうり》の底にあったんです。どうかご詮議《せんぎ》の上、取り返してくださいまし」
こんなときのけりのつけかたも、いかにも絵島らしい淡泊なものだった。
「それはおっ母さまの形見とか叔母さまからの譲り物といった特別な品なの?」
「いいえ、この前の宿さがりのとき通り二丁目の三津輪で買った塗り櫛です。二分二朱もしたんです」
「それならまた買えるじゃないか。盗《と》ってまで欲しがる櫛など、いさぎよくその子にくれてやっておしまい。人の念のかかった物を惜しむより、新しい櫛で装ったほうが気持がよいよ」
そう言いながら懐紙に幾らか包んで渡す……。しかし、このような解決方法が妥当かどうかは論の分かれるところであろう。集団生活の中で、盗み癖のある者を放置しておいてよいのか、盗みそのものについても、はたして本当にあったことかどうか、もしかしたら朋輩を陥《おとしいれ》るための悪質な作意かもしれないではないか、そのへんの糺明《きゆうめい》をしっかりしてのけるのが監督官の立場にいる絵島たちの責務ではないか、とも批判はできよう。
だが、そこが江戸育ちに共通した大ざっぱさ、思考のきめの荒さであった。こまごまと真相をほじくり出して縄付きなど作るより、見て見ぬふり、知っていて知らぬ顔の裁きのほうがかえって当人たちを恥入らせ、反省させる効果がある、だいいちしち面倒な詮議などお歯に合わない。べとつきがちな女ばかりの集まりだからこそ、粋《いき》な、さらりとした裁きのつけ方が必要なのだとは、月光院からしてその気性の中に持っていた好みの傾向なのだ。
ほとんど京女ばかりで構成されている天英院|煕子《ひろこ》の奥向きとは大きく相違するのびのび活き活きとした雰囲気のなかで、現将軍家を手の内に擁している安心感から、いささか思いあがり、気を緩めもしつつ、さざめき合って過ごしていたのが絵島をはじめとする月光院派の女中たちの、正徳二年から三年にかけての明け暮れだったといえよう。
「おっしゃる通りですわ美喜さん、あなたと少しでも近づきになりたくて、勝手に押しかけてくる客たちですよ。当方が頼んでお越しねがったわけではなし、応対の手間ひまを済まながって持ってくる手土産ぐらい、お辞儀なしで頂いてしまったってちっともかまわないのに、うちの殿さまときたひにはご存知の堅物《かたぶつ》でしょ? やれ、うるさいの、物など受け取ることまかりならんのと、ガミガミ言いつづけですの」
我が意を得た顔で絵島に同調する佳寿《かず》は、これも義妹の権勢に酔って浮き浮きしすぎている一人であった。
「なにも文句など言っとらん。ただ美喜にもお前にも、ちやほやされるのを当り前に思っていい気になるな、とだけ申しておるのだ」
白井平右衛門の諫めこそが、あるいは当を得たものだったかもしれないのだが、
「すぐカッとのぼせて、相手かまわず喧嘩沙汰を引き起こすくせに、あなたってかたは見かけによらず小心なんだから……」
佳寿は歯がゆげに一蹴《いつしゆう》したし、
「別にわたくし、いい気になどなっていませんけれど……」
と兄の言い方に、絵島も不快げな顔をした。
「そうですよ失礼な。美喜さんにあなた、意見がましいお口などきけた義理ですか? 大坂での不始末が『遠慮』ぐらいですんだのも、このほどその『遠慮』を解かれたのだってみな、美喜さんの取りなしのおかげではありませんか」
「そんなことを恩に着せるつもりもわたくしにはございません」
「わかってますとも。美喜さんの男まさりな、竹を割ったようなご気性はだれよりもわたしが存じあげてますし、こんどのお骨折りに感謝しているんです。だからせっかく宿さがりなさって、のんびりくつろいで頂こうというやさき、なるべく嫌なことなどお耳に入れたくはないんですけどね、ほら、例の豊島の平八郎さん」
「弟が何か……」
「先妻のお艶《つや》さんが亡くなったあと、お雪って側女《そばめ》を後添えに直しましたでしょう。子までありながら、どうもだいぶ前から夫婦仲がまずくなっているようなのですよ」
「どうりで春の舟あそびのとき、二人とも何となく素振りがぎくしゃくしていましたわね」
「美喜さんもお気づきになって?」
「わたしどもには尋常に挨拶などしてたようですが、あの雪って人、平八郎とはろくに口もきいていませんでしたよ」
「そうなんです。なんですか出るの別れるのという騒ぎだそうなので、わたし、手紙で言ってやったんですよ。昔ならともかく、美喜さんが出世なさった今、身内のごたごたはあのかたの名折れになる、お気をつけなさらなければいけませんって、ね」
何を言っても佳寿の言葉は義妹への追従に結びつく。あべこべに白井平右衛門はいよいよ苦り切った表情で、
「町人に訴えられたこのおれだって、妹にすれば恥さらしな兄だ。兄弟で、血のつながりもない美喜に迷惑をかけているのだから世話はないな」
自嘲した。
「まあまあ兄さま、そんな僻《ひが》んだような言い方をなさるものではありませんわ。それよりいかがでしょう、雪さんとやらをしばらくのあいだ、わたくしがお城に預かるという手は……」
佳寿に、絵島は提案した。
「しばらく別れ別れにさせておくと、おたがいにのぼせが引きさがって、自分の非を反省するようになるものです。そのあいだ、子供らの世話を召使まかせにしておくのが不安心だったら、ご面倒でも当家に寄宿させるなり何なりして……」
「それはかまいませんけど、できますの? 雪さんをお手許に預かっていただくなんてことが……」
「できますよ。私用の部屋子《へやこ》という名目でわたくしの手許に置いてあげればいいのです。もっとも雪さんが承知すればの話ですけれどね」
「渡りに舟のお申し出ですね。どうしても仕方がないとなったらぜひ、お願いしとうございますけど、その前に美喜さんから意見してやってほしいんですよ。わたくしどもが何を申したところで効き目はありませんが、美喜さんのおっしゃることなら恐れ入って傾聴するはずですから……」
じつはこの春の舟遊山《ふなゆさん》を、美喜さんがとても気に入ってくれた様子なので、
「こんどは大川筋の秋の風情を楽しんでいただこうじゃありませんか」
と平八郎どのが言い出し、また親戚知友が集まって内々にその用意をととのえている、言い出しっぺだし、豊島夫婦もむろん参加するはずだから、船中で不仲の仲裁をしてやってはくれまいか――そう佳寿は言うのであった。
二
「舟あそび? それはまあ、ありがとうぞんじます。ぜひつれて行ってくださいましな嫂《ねえ》さま。さくらの時はまだ、遠慮差し控え中で兄さまがお見えになれませんでした。こんどはご一緒できますね」
絵島の誘いに、しかしやはり白井平右衛門は重くるしい顔で、
「うん。まあな、行けたら行くよ」
生《なま》返事をしたにすぎない。前回の費用はどこか知らないが、
「借りるあてがある」
とかで弟の豊島平八郎がいっさい賄《まかな》い、後日それに対する礼が、実費を差し引いて釣りがくるぐらい絵島から届けられたと聞いている。味をしめたのだろう、したがって今回も平八郎が、
「兄貴にはこんなことは無理だ。おれがやるから委せておいてくれ」
と買って出て、どうやら百合の父親の奥山|喜内《きない》を相手に、船宿や仕出し屋の手配など小まめに駆け廻っているらしい。
それはいいとしても、前回同様こんどだって、いずれたっぷり絵島から金が行くにきまっている。礼を言いながらつまり絵島は、自分の支出で遊ばせてもらっているのだし、親類どもはそれにおぶさって一日の歓を尽すのだ。
(たかりじゃないか)
と思うから平右衛門は気がすすまないのである。佳寿など、陰では、
「いいんですよあなた、何から何までご主家持ちの結構なご身分じゃありませんか。ご扶持の使い道に困っていらっしゃるんですからね。わたしらにおごるのは美喜さんにとってもいい気分にちがいございませんよ」
身勝手な理屈をつけているが、名だけでも兄だけに、平右衛門の心情の底にはもっと親身《しんみ》なあたたかみがあった。
なるほど女にしては高給取りだ。でも一生奉公を誓って諸侯将軍家などの奥向きに仕える上《かみ》女中たちは、結婚を犠牲にしている。働けるあいだに貯めた金で、老後の一人ぐらしを支えなければならないのである。
(大事なその金を、寄ってたかって食い散らそうとするなど、さもしい)
美喜が可哀そうだと思いながら、口下手なため佳寿の舌に言い負かされて、平右衛門は結句《けつく》、不機嫌そうな、煮え切らぬ態度のまま黙りこんでしまう。そんな夫に気を揉んで、佳寿は佳寿でしきりに苛ら立った。
「なんですねえあなた、その顔は……。美喜さんの、たまの骨休めが台なしになります。はっきり行くとおっしゃいまし。せっかく誘ってくださっているのに……」
「舟あそびか?」
「そうですよ」
「行くさ。行きゃあいいんだろう」
と、果ては喧嘩腰の気まずさにも陥るのである。
しかも当日、集合場所に決められた江戸橋ぎわまで出て来てみると、遊山の規模は前回の比ではなかった。川一丸、若松丸と船腹に船名を記した主船が二艘――。それに五艘もの茶舟、供舟が附いて掘割りづたいに大川へ出、ゆっくり流れをさかのぼって言問《こととい》、三囲《みめぐり》へんの秋色を満喫しようというもくろみらしい。
江戸橋は房州の木更津《きさらづ》はじめ下総《しもうさ》、上総《かずさ》、相模《さがみ》の諸港と往来する舟着き場なので、西側の岸は木更津河岸とも呼ばれ、問屋問屋の商標や家紋を打ち抜いた白壁の土蔵が、まぶしく日ざしを反射している。
北岸は朝夕、魚市の立つ魚河岸……。
南の橋詰めには船宿が並んで、中でも大構えな巽屋《たつみや》という店の軒先に豊島平八郎がたたずんでいた。
「やあ美喜さん、お待ちしてました。兄貴もお出ましとは珍しいな。佳寿さんに曳きずられて来たんでしょう」
と、日ごろ仲のよくない平右衛門にまで平八郎は愛想がいい。
それはいいが、二、三歩さがって小腰をかがめている町人|態《てい》の二人に絵島は見おぼえがあった。大奥出入りのご用達商人、呉服所の筆頭に任ぜられている後藤家の奉公人どもではないか。
「はい、手代の清助、同じく次郎兵衛と申します。主人|縫殿助《ぬいのすけ》がご接待にまかり出るところでございますが、目立ちましてはかえってご清遊の妨げと存じ、わざと手前どものみ差し向けました。どうぞ何なりと御用を仰せつけられとうぞんじます」
「平八郎さん」
と弟へ向き直って、
「これはどういうこと?」
絵島は詰問口調になった。
「ぜひにと言ってきかないんですよ。今日の催しを手伝わせてほしいって……。むろん私が洩らしたわけじゃないんだが、商人なんてものは早耳ですな。いつのまにか聞きつけてきて何から何まで、さっさとこの連中がお膳立てしてくれちまったんです。おかげでこっちは助かりましたがね」
「この前の坂東梅之丞座のときもそうでした。あなたって人は万事なにもかも自分が引き受けて取りしきるようなことを、初手《しよて》は言いながら、いざとなると栂屋《つがや》だの後藤だの、商人たちに肩代りさせるのですね」
「だから申し上げたでしょう。私が押しつけたわけじゃないと……。連中がむりやり割り込んでくるのだから仕方がありますまい」
「断ればすむことでしょう」
「勤めがあるのですよ、私にも……。やりたい者がいるなら、たのんだってよいではありませんか」
人立ちしかねない往来ばたである。口論になってはみっともないのでその場はひとまず打ち切って、絵島は巽屋の中へはいった。
二階座敷にはおびただしい人数が詰めかけていた。廊下の敷居ぎわに手を突いて迎えているのは奥山喜内と妻の兼世《かねよ》だし、背後には豊島のお雪が子づれで控えている。
絵島がおどろいたのは、孫の吉十郎をつれて平田伊右衛門が来ていたことだった。
「まあ、平田さま、ようこそお越しくださいました」
思わず駆け寄って、絵島は老人の膝先すれすれに手をつかえた。彦四郎との縁談にかつては難色ばかり示した伊右衛門だが、恋しい人の父と思えば、恨みより懐しさが先に立つ。
「吉十郎どのも大きくなって……。わずかなあいだですのに見ちがえるほど成人なさいましたね」
亡きお艶の俤《おもかげ》を少年の目鼻だちに色濃く見いだして、ふと、涙ぐむ絵島へ、
「どうぞお手をおあげくだされ。絵島さまにそのようなご丁重なご会釈《えしやく》を頂いては、このおいぼれ、身の置きどころがござらぬ」
伊右衛門は恐縮しきってあとずさった。
「いや、じつはな、豊島どのから吉十郎にお誘いがまいってな」
「平八郎から?」
「絵島さまの宿さがりをお慰めするため舟あそびのお企てがある、そなたには伯母御……、ご挨拶がてら、ひさかたぶりに顔を見せにこぬかとご親切に言うてくだされたが、なにぶんにも年歯《としは》のゆかぬ小倅《こせがれ》でござる。不調法があってはならぬと気づかって、祖父《じじ》めが附き添ってまいりましたのじゃ」
「あの、それで……」
つい、絵島は訊《き》いてしまった。
「彦四郎さまは?」
「愚息は今日は出仕日でな。まだ下城しておりませぬ。よしんば在宅していたにせよ、三人も押しかけてまいるのは厚かましい。それでなくてさえにぎにぎしいお催しに、世馴れぬ老人と孫がのさり出るのは何やら場ちがいじゃ。こなたさまへのご挨拶だけでお暇《いとま》しようと思うておったところでござるよ」
「何をおっしゃいます。舟あそびはこれからではありませんか。せっかくお出ましくださったのですからご酒《しゆ》でもあがって、今日は一日ゆっくりおくつろぎ頂きとう存じますわ」
引きとめながらも、絵島の語気には淡い落胆の色が隠しようもなく滲《にじ》んだ。
(ご老体ではなく、彦四郎さまが同行してこられたのなら、どんなにかよかったろうに……)
残り多さが、顔にまで出かかるのを、かろうじて絵島は抑えた。
酌取りの芸妓や燗番《かんばん》、料理人など供舟に乗る人数のあいだを、平八郎はこのまにも目まぐるしく動き回って、何やら指図したり打ち合わせたり、しきりに忙しがっているが、すぐそばに坐りながら幼な児を右ひだりに引きつけたまま、お雪は固い表情で脇を向いている。
追い出したも同様なつれなさで平田家へやってしまった嫡男……。いまさら薄情な仕打ちを悔いて、吉十郎への接近をはかろうとしだした平八郎にお雪が腹を立てたのか。それとも後添えの妻と不仲になったために、面当《つらあて》がましく亡妻の子に父らしい情味を見せはじめた平八郎なのか。どちらともそのへんは絵島にも判断しかねたが、ともあれ弟と平田伊右衛門の間に吉十郎を絆《きずな》にして、お艶在世当時と変らぬ融和の気配がもどったことはたしかであった。
三
それからあとも、つぎつぎに絵島の前へ挨拶に出る者がつづいた。
「手前は日ごろ、奥山|交竹院《きようちくいん》先生に昵懇《じつこん》ねがっている今井六右衛門と申す浪人者……。倅が医師志望でござってな。ただいま交竹院先生宅に内弟子に住み込んでおります。そのよしみに縋《すが》って、今日はぜひとも絵島さまに御意《ぎよい》得たくまかり越しました。これをご縁に、どうかなにぶんともよろしく」
と低頭する侍……。
「お久しゅうござるな美喜どの、拙者はそれ、杉山平四郎じゃが、お忘れか。母御がそこもとを連れ子にして白井家に再縁された時分お訪ねし、抱《だ》っこなどしてさしあげたことがござったよ」
三十年も昔の、たった一度の接触をしきりに強調する五十四、五の武士は、公儀の御《お》徒士《かち》で、本人に言わせれば白井平右衛門兄弟の伯母方のつれ合いの、従兄《いとこ》とかはとことかに当るらしい。つまり遠縁の一人ということだけれど絵島には一向おぼえのない顔だった。
そのうしろから躙《にじ》り出たのはこれも初老の幕臣――。御勘定方に勤める西与一左衛門と名乗った。
「うちの地主さんなんですよ美喜さん。あなたとお近づきになりたいそうでね、ちょうどよい折りだと思っておつれしました」
豊島平八郎に引き合わされて、
「いや、かねての望みがかない恐悦至極にぞんずる。これはほんの手土産じゃが、お納めを……」
西は馴れ馴れしく酒の角樽《つのだる》を差し出す。どうやらだいぶ、地代を溜めているのだろう、平八郎が樽を捧げでもするように受け取りながら、
「すみませんなあ西さん、こんなご配慮にあずかっては……」
いそいで礼を述べたのが絵島の目には卑屈に映った。
そのほかにも商人態の男や女など幾人もが進み出て、よしみを通じようと犇《ひしめ》いた。口にする世辞や挨拶のいちいちに、
「はい、はい」
と絵島はにこやかなうなずきを返しながら、しかし耳に止めては聞いていない様子である。奥山喜内夫婦にだけ、
「よく出てきてくれました。でも今度の宿さがりには、百合さんをつれてこられなくてねえ。残念でしたよ」
内輪《うちわ》らしい言葉をかけて、そう言えば交竹院先生のお顔がまだ見えないが、今日の舟遊山にはご欠席か、と訊ねた。
「いえいえ、まいらせていただくのを兄も楽しみにしております。ただ今朝がた、目の離せない患家から急に呼ばれたとかでな、往診を済ませ次第、あとからうかがうと申して寄こしました」
喜内の説明に、
「すこしぐらい遅れてでも先生にはぜひ、駆けつけてもらいとうぞんじますわ」
このときばかりは心のこもった口ぶりで、絵島は応じた。
――やがて仕度ができて、一同は巽屋を出たが、ここまでで帰る者もあり、舟着き場は一ッときまた、ごたごたした。
平田伊右衛門も騒ぎにまぎれて辞去しかけたのを、すばやく絵島が見てとって引きとめた。
「どうしてもお気がすすみませぬか? 舟あそびなど……」
「もったいない。気がすすまぬわけではござらんが、やはり少々、老骨には晴れがましすぎるご遊興に思えましてな。それに恥かしながら、わしはどうも舟には弱うござるのじゃ」
「ではお孫さまだけでも……ね? 吉十郎さん。あなたはご一緒してくださいますね?」
もともと誘われた当人は吉十郎だし、祖父は江戸橋の船宿まで送り届ける気で来たのだろう、
「そうするか?」
と、とろけそうな目で少年を見た。
礼儀ただしく、言葉つきなどもはきはきしたいかにも怜悧《れいり》そうな子供だが、そこが年相応の頑是《がんぜ》なさか、吉十郎は多分に舟あそびに未練を残した表情に見える。
「ご安心なさい。帰りはお宅までわたしが送ってまいりますよ」
平八郎も脇から口を添えたので、
「お言葉に甘えて、それではお前だけ仲間に入れていただくがよい」
つなぎ合っていた手を、老人は放した。
ぱっと吉十郎の顔に喜色が漲《みなぎ》ったが、走り寄ったのは平八郎ではなくて絵島のかたわらであった。亡き母お艶に、やさしかった伯母……。それに引きかえて父の平八郎は、母に火傷まで負わせ、ろくに医者にもかけずにその臨終を放置した非情な男である。平田家に引き取られ、別れてくらすようになった現在、吉十郎の態度が父に対していっそうよそよそしくなったとしても致し方ないことだった。
平八郎は苦笑し、関知しない顔で脇を見ながら、じつはこちらのやりとりにお雪も聞き耳を立てている。
「さ、いらっしゃい吉十郎さん、伯母さんの舟へ……」
と、かまわず絵島は少年の手を取って二艘目の若松丸に乗り込んだ。
どやどやと、さまざまな種類の人間がつづいて乗船しはじめる。それを捌《さば》く船宿の女将、後藤の手代らにまじって、
「お茶番とお燗番は炭箱を積んだかい? おいおい、巴家《ともえや》から来てる芸者衆、お前さんがたは四人ずつ親舟に分れて乗ってくれなきゃいけないよ。料理人さん、七輪の火種は大丈夫だろうね、だいぶ前に仕込んでたけど尉《じよう》になっちゃいまいね?」
忙しく走り廻っているのは喜内夫婦だ。こんなことが得手《えて》だし、何より好きでもある喜内は、働きぶりを印象づけるつもりかことさら声が大きい。もと吉原の引手茶屋にいた兼世も、むかし取った杵柄《きねづか》だろうか、水を得た魚さながら指図はてきぱきと抜かりなかった。
春の舟あそびはありふれた川舟一艘に、舟頭ひとりという小ぢんまりしたものだった。集まった顔ぶれも内輪だけの、鳴り物も唄もない地味な、ごく家庭的な催しにすぎなかったが、今回は舟の大きさからして段がちがっていた。屋形舟の庇下《ひさしした》に紫ちりめんの幔幕《まんまく》を回し掛け、ひろびろと取った胴の間の床にはいちめん緋《ひ》ラシャの毛氈《もうせん》が敷きつめられている。
高く捲き上げてある御簾《みす》の内側には、一方に風よけの金屏風《きんびようぶ》が立てられ、梨地蒔絵《なしじまきえ》の脇息《きようそく》、酒器、菓子を詰めた房付きの提《さ》げ重《じゆう》まで、すべて後藤家からの持ち込みであろうけれど、豪奢の一語に尽きた。
櫓《ろ》や竿を取る者たちも手だれを選りすぐったとみえ、船団は川一丸を先頭にまもなくすべるように動きはじめた。さして幅があるとはいえない堀の水である。江戸も、目ぬきの町なかだったから、
「見ろやい、供舟が五艘もついてるぜ」
「ごたいそうもない遊山だな。どなたのお出ましだろ」
橋からも岸からも通行人の視線が集中した。
絵島の美貌が人目をひいたし、その風俗がまた、派手やかだった。白井佳寿、豊島家のお雪、奥山喜内の妻の兼世ら同船している女たちも今日を晴れと着飾って来ている。
大川筋へ入り、酒や料理が行き渡って唄、三味線、太鼓などの賑やかな調べが川面にひびくころには船中はすっかり浮き立ったが、土手にひろがる秋景色が何にもましてすばらしかった。春、花の霞《かすみ》を見せてくれた桜が、葉を錆朱《さびしゆ》に染めているし、堤の傾斜は穂薄《ほすすき》で白銀の紗を綴《つづ》っていた。澄み透《とお》って、ギヤマンの青い天蓋《てんがい》のようにさえ感じられる空の下を、光の破片をぶちまけたかと思う眩《まぶ》しさで燦《きらめ》き翔《か》けるのは蜻蛉《あきつ》の群れにちがいない。
吉十郎が、この子にしては珍しくはしゃいで、
「あ、見えるッ。魚がいますよ伯母さま、掬《すく》えないかなあ」
舷側から乗り出して明るい水の底を指さすのを、
「あぶないあぶない。手では無理よ」
袴腰《はかまごし》を掴んで引きとめながら、
「それより、召しあがれ玉子焼き……。おいしそうだこと」
料理を小皿に取り分けてやる絵島は、吉十郎のそぶりに平田彦四郎の少年時代を重ね合わせているのかもしれない。いかにも楽しげな、まめまめしい世話の焼きようだった。
四
そんな絵島の態度にまわりの人々もすぐ気づいて、吉十郎をちやほやしだした。
「おい、お手代さん。船頭にそう言ってタモ網を持ってきてないか訊いておくれ」
奥山喜内に言われるまでもなく、後藤家の奉公人が急いで立って網の有無をたずね廻る諂《へつら》いぶりに、お雪の表情が、これもまた敏感に反応し、苛々《いらいら》と落ちつきをなくすのは、やはり夫婦喧嘩の、吉十郎こそが大きな原因の一つであるらしかった。
「不仲を直してやってください美喜さん。舟あそびの時にでも……。あなたのおっしゃることなら聞くでしょうから」
と佳寿にたのまれてはいたけれども、仲裁する自信など絵島にはないし、強いて、それをしなければならぬとも思ってはいない。ただ、弟の若い妻に、
「心配はいりませんよ雪さん」
とだけは言ってやった。
「平八郎さんがたとえ思い直して、吉十郎を取りもどし、ふたたび豊島家の跡目にしようとしてもそれはわたしがさせません。吉十郎は平田家にやった子ですからね。さいわい祖父の伊右衛門どの伯父の彦四郎どの、みなさん平田家のかたがたは吉十郎をいとしんでくれているようですし、この子自身、もはや実父の手許になど帰るつもりはありますまい。豊島の家の家督を継ぐのは、あなたの生んだ倅どのです。いくら嫡出の長男だからといって、いったん追い出すも同様なくれてやり方をした息子を、いまになって再び返せなどと言えた義理ではありませんからね。――平八郎さん、兄さまや佳寿|嫂《ねえ》さまのいらっしゃる前で、このさいはっきり、あなたにも念を押しときますよ。お艶さんへの、生前の仕打ちをも引っくるめて、あなたにはもう今さら吉十郎に父らしい顔などする資格はないのです。まして、何が気に入らないのか知らないが、お雪さんへの嫌がらせの種に、他家の養子にしてしまった子を使うなんてもってのほか……。吉十郎は迷惑でしょうし、雪さんの生んだ子供らだって可哀そうではありませんか」
「手きびしいおっしゃりようですな。だいいち、これから興が乗ろうという汐先に野暮《やぼ》なご意見とは恐れ入ります。わたしはね美喜さん、なにもお雪のやつに当てつけて吉十郎にかまったわけじゃないんですよ」
むっと、反抗を顔に燃やして平八郎は言い返した。
「お艶の子にしろ雪の子にしろ、可愛い味は同じです。わたしだって親ですからね、それなのに、おっしゃる通り追い出すも同様なつれなさで吉十郎を平田へやってしまった。すまないと思えばこそ二、三度、手習いからの帰り道むりやりのように誘って、一緒に飯を食ったんです。と言ってもこの小倅、まるで亡母の仇《かたき》ででもあるかのようにわたしを憎んでいますからね、小遣銭を与えたって突きもどすし、ろくすっぽ口すらきいてくれなかった。なあ吉十郎、そうだな?」
と同意を求める父を、少年は睨みつけて返事もしない。
「ね、ごらんの通りです。なのにお雪め、ひとりで邪推して、がたがた御託《ごたく》を並べるから、ついわたしも声を荒らげることになる」
「もの好きねえ平八郎さん」
佳寿が口をはさんだ。
「肝腎の吉十郎が嫌がり、お雪さんも不快がるのに、あえて争いの種を蒔くことなどないでしょう」
「だからそれっきり……。最近は吉十郎に逢っちゃいませんよ」
「だって現に、こうして今日だって誘ったじゃないの」
「いけなかったですか? 誘っては……」
「そういう意味ではないわ。ひさびさに吉十郎の元気そうな顔が見られて、わたしらもよろこんではいますよ」
「だったら、いいじゃないですか。後藤が一枚噛んでの豪勢な舟遊山……。めったにない機会だと思うから呼んだんです。吉十郎だってさっきから大はしゃぎで、ご馳走をぱくついているじゃないですか」
「その後藤ですけどね」
引き取って、また絵島が弟の相手になった。こころもち声は低めたが、きっぱりと、
「入費までを、まさかおぶさっているのではないでしょうね?」
質《ただ》すのを、
「そりゃあ菓子や酒ぐらいは現物で持ちこませていますよ」
平然と平八郎は受けた。
「当り前じゃないですか。さきほども申し上げた通り、大奥お取り締りの絵島どの、ふだん何かとお世話になっている礼ごころに、せめてささやかなお手伝いをしたい、雑用いっさい、手前どもが引き受けさせていただきますとしつっこく後藤のほうから申し出て来たんですからね」
「つまりこの前の栂屋のときと同じく、手伝いだけ頼んだ、ということですね?」
「そうですよ」
と平八郎は川面へ目をやる。さすがにまともには絵島の視線を受けとめかねたからだが、
「手伝いと、菓子の贈り物ぐらいならいいでしょう」
と、それ以上の追及までは絵島もしなかった。
「とにかく費用は春の舟遊山同様こんどもいっさいわたしが持ちますからね。かかった分は平八郎さん、かならずあとで報《し》らせてくださいよ」
弟と絵島のこのやりとりに、苦い顔で口をはさんだのは白井平右衛門であった。
「前回ばかりか、今日もまた美喜の懐中を当《あて》にして親戚知友ならまだしも、どこのだれやらわけもわからん者どもまでが集まって来ているのは感心せんな。じたい平八郎がよくない。横着して後藤の奉公人などに宰領させたからこんな贅沢な遊山になってしまったのだ。支払いを全額、美喜におぶさるなど酷《こく》だぞ。おれとおぬしとで幾らかでも出さんことには……」
「いいんですよ兄さま」
平右衛門の気づかいを笑顔で絵島はさえぎった。
「お金のことなら、ご斟酌《しんしやく》には及びません。それにわたくしは賑やかなことが好きですから幇間《たいこ》末社を乗り組ませての遊山、大歓迎なのですよ。――さ、盃をお取りあそばせ。せっかく羽根伸ばしに来たのに、いつのまにかすっかり話が世帯じみてしまったじゃありませんか、ねえ、お嫂《ねえ》さま」
「ほんと。川一丸では、ごらんなさい、芸妓たちの手踊りがはじまりましたよ。こんなところで入費の話など、いくら身内の集まりだからってそれこそ野暮の骨頂《こつちよう》……。こちらも負けずにやりましょうよ」
佳寿の音頭取りで若松丸からも陽気な囃子が流れはじめ、平右衛門をはらはらさせるほど絵島は飲みだした。
「吉十郎をつれもどすようなことはさせない。豊島の家督はそなたの生みの子に継がせる」
と義姉の口から保証されたのが、お雪を安堵《あんど》させたらしい。無口な女なりに眉《まゆ》の曇りがいささか晴れたのを、
(これでよし)
責任の半ばを果たした思いで絵島も気分よく眺めた。ほかにどのようなごたごたの原因があろうとも、あとは夫婦で解決すればよい、ここまででお役ご免だと割り切って、それからはまわりの騒ぎに溶けこみ、心ゆくまで舟あそびの快味を味わったが、夕ぐれ近く、今戸橋のきわに着岸するととたんに、
「いかがです? わっと景気よくくり込みましょうや。吉原へ……」
だれかれかまわず誘い出したのは奥山喜内である。大型の屋形舟は山谷《さんや》堀へは入れない。酔いざましに土手八丁をそぞろ歩き、廓内《くるわうち》をひとめぐり見物してのち解散しようとの提案に、
「おもしろい。行きましょう皆さん」
まっ先に絵島が乗り気になった。
五
立ちあがりかけて、そのくせふらっとよろめいたほど絵島は酔っていた。
「あぶないじゃないか美喜、陸《おか》にあがるのはよせ」
舌打ちしながら白井平右衛門が妹の腕を掴んだ。
「足がふらついているし、それに遊里をぞめき歩くなど女だてらにみっともない。船を江戸橋まで漕ぎもどして、このまま帰宅したほうがいい」
絵島が何を言うより先に、
「そんなお堅いことを……」
笑いとばしたのは奥山兼世であった。
「女だって近ごろは町方のお内儀《ないぎ》衆あたり、つれ立って廓見物にくり込みます。なにせ喜見城《きけんじよう》・不夜城の異名を持つ歓楽郷ですからね、女が見てもけっこう目の保養になる場所でございますよ」
「しかし美喜は、町女房とはちがう。身分に差し障るようなふるまいは感心せん」
「箸のあげおろしにこの調子なんですからねえ、たまらないのよ兼世さん」
うんざりしたように佳寿が手を振った。
「さあさあ、お説教は切り上げて土手へあがりましょうよ。身分に障るといったって、なにも大奥御年寄でございと触れて歩いているわけじゃなし、それに美喜さんは今、お宿さがりのさなかですもの、公用で外出した帰りとでも言うならともかく、天下晴れて頂戴している休みの日ぐらい、何をしようと勝手ではありませんか」
「さよう、さよう」
奥山喜内もしきりにうながし立てた。絵島に劣らず佳寿や兼世は酔っていたが、喜内の酩酊ぶりは呂律《ろれつ》が怪しいほどだった。
「肩のこる勤めからせめて幾日でも解き放ち、のびのびさせてやろうとの思し召しでくだされる休暇ですからな。帰って来てまで身分の何のとお妹さまをしめつけては、せっかくの息ぬきが息ぬきになりません。西にはまだあの通りたっぷり夕焼が残っている宵の口です。酔いざましに吉原をひと廻りするくらい大目に見てさしあげてくださいよ」
先に上陸していた豊島平八郎が、このとき小走りに引き返して来て、
「交竹院先生がいらしてますぜ」
と告げた。これも酔いのせいか顔が赤い。
なるほど見上げると、堤上の馬踏《ばふみ》に立って奥山交竹院が小腰をかがめている。急患の往診に時間をとられ、舟あそびには間に合わなかったが、夕刻、今戸橋に到着すると聞いて先廻りしていたのだろう。
「まあ先生、よくおいでくださいましたこと……。お待ちしておりましたのよ」
やや、はしたなく聞こえそうな嬌声を、絵島は土手へ投げた。
「いま、そちらへまいりますわ」
と兄の渋面《じゆうめん》を無視して舟着き場への踏み板を渡るのを、左右から手をとって佳寿と兼世が支えた。
「わざわざお越しになったのに、とたんにお開きでは申しわけありません。交竹院先生へのお愛想のつもりで、せめてひと口ぐらい吉原で召しあがっていただこうじゃありませんか。ねえ嫂《ねえ》さま」
「そうですとも。ご酒《しゆ》だけで引きあげてもいいんでしょ兼世さん。お茶屋なら……」
「かまいません。殿方はそれだけではご不満でしょうけど、遊女を呼んで酌を申しつけることもできます。ま、廓でのあれこれはわたくしと宿《やど》にお委せくださいまし」
胸を叩かんばかりに兼世は請け合うが、
「そうだわ。まさか子供を色里へつれてゆくわけにはいきませんねえ」
吉十郎の存在に気づいて、当惑気味に絵島はつぶやいた。
「わたくしが舟に残ります。うちの倅たちも、もう眠そうですから……」
幼児を二人、膝にもたれかけさせたまま胴ノ間からお雪が言った。
「吉十郎さんは、ですからわたしが見ていましょう。どうぞ安心してお出かけくださいまし」
先妻の子への敵視をむき出しにしていた先ほどの表情に較べると、別人さながら声まで和《なご》んでいる。
「おれも行かんぞ。大川の夕景を眺めているほうが性に合う」
と、これも船中に坐ったきり動こうとしない平右衛門を嗤《わら》って、
「どうぞ、お好きにあそばせ」
佳寿はさっさと歩き出した。
廓へは行かずに、ここで暇乞《いとまご》いして帰る者もいるし、料理人や船頭など平右衛門のほかにも舟に残る者は少くなかったが、
「ほほう、吉原へまいられますか?」
交竹院はちょっと驚いた顔をした。
「先生は粋人《すいじん》でいらっしゃるから大籬《おおまがき》にもお馴染《なじみ》が多うござんしょう」
佳寿の揶揄《やゆ》に首をすくめて、
「それがどうも、一向に不案内でござってな。弟の喜内がそこなお兼を百合の母親のあと釜に据えたときも、『吉原の引手茶屋で働いていた女を妻に直すなど、とんでもないやつじゃ』と正直な話、初手《しよて》は叱りつけたようなありさまでござった」
「でも今は……」
「千之介も生まれたことではあり、お兼も兼世と名を改めて懸命に武家のくらしに溶けこんでくれておりますでな。むしろ放蕩者の喜内には過ぎたしっかり者の女房どの……。よい後添《のちぞ》えを貰ってくれたとよろこんでおりますのじゃ」
目の前で褒《ほ》められながら、そういう性格なのか兼世はさしてうれしそうな顔もせず、
「ではわたくしども、ひと足お先へ行かせていただきます」
土手道を、豊島平八郎や夫の喜内、後藤の手代らと一緒に駆け去ってしまった。茶屋の手配をするつもりだろう。
彼らが用意したのは仲之町の山田屋という茶屋の二階座敷で、絵島の一行が着いてみるとすでに銀燭まぶしい広間に遊女が三、四人、禿《かむろ》や新造など引き舟を大勢はべらせて待ちかまえていた。
「美人揃いだこと……」
「いずれ太夫とかお職とか呼ばれている遊女たちでしょうね」
「わたし、おいらんというものをはじめて見ました」
と好奇心に佳寿はきらきら目を輝かせて女たちの華美な仕掛《しかけ》に指を触れる……。芸者も来て踊りを見せ、遊女の酌でまた、ひとしきり賑やかな酒宴となったが、
「御年寄さま」
背後に躙《にじ》り寄って、そっと絵島に声をかけたのは後藤の手代の清助であった。
「ご入興のところをまことに恐縮でございますが……」
「何か用?」
「白井の旦那さまが階下《した》にお見えでございます」
「兄さまが?」
「美喜を呼んでくれとの仰せなので……」
「わかりました」
急いで段梯子《だんばしご》をおりて行くと、店のあがり框《がまち》に平右衛門が立っていて、
「彦四郎が舟着き場へ来たぞ」
と低く告げた。
「えッ、平田さまが?」
「吉十郎を迎えにきたんだよ」
「で、おつれしたのですか? ここへ……」
「いや、廓へは遠慮したいと言うので、堤に待たしてある。逢いに行くか美喜」
「まいります」
それとなく様子をうかがっていた清助が、茶屋の者に言いつけてすぐ駕籠《かご》を呼ばせたが、舟着き場へ絵島と平右衛門がもどってみると、もう平田彦四郎はいず、むろん吉十郎も去ったあとだった。
「お引き止めしたのですけど、今日はおそばにお人も多いことだろうし、折りを見てまたちかぢか、お目にかかることにするとおっしゃってお帰りなさいました」
と雪が告げるのを聞きながら、
「兄さまの仰せに背《そむ》いた罰ですわ。吉原見物になど行かなければようございました」
絵島はくちびるを噛んだ。
六
「では、いま一度もどるか? 山田屋とやらへ……」
平右衛門の問いかけに、
「いいえ、もうまいりますまい」
力なく応じながら、舟着き場とは反対側の土手の縁《ふち》に絵島は歩み寄った。柳の大木が、ほとんど枯葉ばかりになった枝の束を重たげに揺らしているほか、人影はない。舫《もや》ってある舟からも、ここまでは目が届かなかった。
「主客のお前が抜け出して来てしまっては、座がもたんだろう。いいのか? 帰ってやらんでも……」
と女の絵島より、平右衛門はこんなときはるかに小心|律義《りちぎ》だった。
「どうせ長くいるつもりはないのです。平八郎さんが地借りしている幕臣だとか交竹院先生のお宅に息子を弟子入りさせている浪人者だとか、わたくしにはだれが何やらよくわからない人たちがぞろぞろ取り巻きについて来ていますから、中には遊女屋に登楼してしまう殿方も出るかもしれません。でも佳寿|嫂《ねえ》さまや交竹院先生はすぐ引きあげて来なさるでしょうし、喜内さん、平八郎さんたちもご家内がいてはそうそう羽目もはずせませんからね。おっつけ一緒にもどってくるでしょうよ」
「わからんぞ、あの蕩児《とうじ》どもが色里にしけ込んだら猫に鰹節だ」
つぶやいて、平右衛門は斜面の草地に腰をおろした。
「いつのまにか、暮れきったなあ」
と見上げる空は、ひと刷毛《はけ》濃い茜《あかね》を残すだけで、あとは暗い。未練がましいその朱色も、だが、ずんずん褪《あ》せて周囲の黝《くろず》みに吸い取られてゆく。河口に近い大川は潮が満ちてきたのか、盛りあがるばかり岸まで水を漲《みなぎ》らせ、対岸はいちめん墨を流したような闇だった。
それにひきかえて目の先に拡がる今戸、瓦町、鳥越《とりごえ》の町並みは、宵の明星をただ一つ嵌《は》めこんだ夜空より、はるかに灯《ひ》の数が多い。おびただしく川沿いに築かれている窯場《かまば》の煙か、夕飯の炊煙だろうか、磯臭い匂いにまじって冷んやり燃し木の香りがただようのも秋の深まりを感じさせた。
「彦四郎は妻女を離別したそうだな」
平右衛門が、やがてぽつりと言い出した。
「そのように伺いました」
「お前、あの男とまた、つき合いはじめたのか?」
「時おり文《ふみ》のやりとりをしています。二、三度、墓参のさいに寺でお逢いしたこともございますわ」
ありのまま答える絵島に、
「もともとおれには、お前と彦四郎の祝言を拒むつもりは微塵《みじん》もなかった」
ぶっきらぼうな調子ながら気持のこもる言い方で平右衛門は応じた。視線はそのくせ、足もとの掘割りの水にそそがれている。妹が相手でも、男女のことを語るとなると何となく照れて、ぎごちなくなる性格なのだ。
「山村座で喧嘩したから貶《くさ》すわけじゃないが、稲生《いのう》文次郎とかいったなあ、ばか殿然としたあの、腰ぬけざむらい……。大身《たいしん》の旗本の舎弟かは知らんけど、あんなやつよりははるかに美喜には平田彦四郎のほうがふさわしいと見ていたよ」
稲生との縁談は文次郎の友人だった関係から豊島平八郎を介して白井家へ持ちこまれ、だれより先に佳寿が飛びついただけで、平右衛門ははじめからさして乗り気ではなかったのだという。
「年下だろうが貧乏御家人だろうが、いいじゃないか。当人同士、好き合っているのが一番なんだ」
口に出してまでそう言っていたにもかかわらず佳寿に押し切られ、妹を一生奉公に追いやった心の負い目は、今も消えていない。
「お前なあ、もし彦四郎と一緒になりたいなら勤めなど思いきって、やめたらどうだ?」
あいかわらず水面をみつめたまま平右衛門は言った。
「彦四郎が妻帯し、子でも持っているなら論外だよ。でも、あの男も、結句《けつく》は妻とうまくいかずに別れてしまった。――ということは、お前をあきらめきれなかった証拠だろう。そしてお前のほうも、好きこのんで奉公に出たわけじゃない。このあいだ交竹院先生のところへ碁を打ちに行って聞いたんだが、お前、桜田御殿への口を頼むさい『恋に破れた自棄《やけ》勤め……。そうお取りくださって結構です』と先生に申しあげたそうじゃないか」
「ええ」
「つまり双方ともが心を残しながら、仕方なくまわりの反対に屈したんだ。よくないことだよ。人の力でむりやり撓《た》めても、いざ洪水となれば川はかならず堤を突き崩して元の川筋へ流れ込むという。それと同じじゃないのか。ひそかな交際が復活し、しかもいま、おたがいが独り身だというのは、お前と彦四郎との間に結ばれるべき宿縁がある、ということだとおれは思う。逆らわずに宿縁に従うほうが、行く末の仕合せにもつながる選択ではないかなあ」
口が重く、話|下手《べた》なせいか、カッとするとつい手が先に出てしまう日ごろなのに、珍しくそんな平右衛門が、訥々《とつとつ》とではあるが熱心に舌を動かしてくれている。
「ありがとう兄さま」
身に沁みてその一語一語を絵島は聞いた。
「わたしもね、じつは迷っているんです。月光院さまのご信任を思うと、お側を去るのは身を切られるほど辛《つら》いし、だからといって自分の気持を詐《いつわ》ってまでご奉公しつづけるのがはたして本当の誠意かどうか……」
「おれはながいこと大坂へ行っていたし、帰府してからは遠慮差し控え、それを許された現在も小普請《こぶしん》入りを仰せつかって家に引きこもりがちな毎日だから、柳営の情勢にはとんと暗いのだが、ご先代|家宣《いえのぶ》公のご在世中にくらべれば、大奥はいま、月光院さまの天下ということですっきり纏《まと》まっているように見えるよ」
「その通りですわ。御台《みだい》さまやお部屋さまがたが、それぞれに所生のお子を後嗣の座に据えるべく鎬《しのぎ》を削っていたあのころとは違います。鍋松ぎみが七代目の大権を継がれたことで、勝負はついてしまいましたもの」
「月光院さまはご当代のおん母儀《ぼぎ》――もはや押しも押されもせぬ地位におられる。お暇《いとま》を願っても大事ないのではないか」
「そうなのです。ふつつかなわたくしでも、お側にいれば少しはお気強くおぼしめしたであろうあの当時なら、大奥を去るなど、考えられもしませんでした。でももう、いまならば……」
「お許しも出よう。お前へのお慈《いつくし》みがひときわ深い月光院さまだし、好いた男と世帯を持ちたいと申し上げれば、むしろ祝福してくださるにちがいないよ」
「だからなおのこと、心ぐるしいのですわ」
「鍋松と仰せられたころからお身弱とか承っていたが、家継将軍のご健康は近ごろどうなのだ?」
「やはり頑健とは申せません。油断するとすぐ、お風邪を召しますし、下痢、腹痛など、どきっとさせられることが時おりございます。でも侍医の交竹院先生がすっかり上さまのお身体癖《からだぐせ》を呑みこんでいて、そのつど適切な手当をしてくださるので、先生がお附きしているかぎり何ごともなく成長あそばしてゆくとぞんじますよ」
「七ツ八ツ九ツと年をかさねるにつれて、男の子はぐんぐん丈夫になってゆくものだ。間部《まなべ》どの新井白石どのなど補佐の良臣もいることだしな。上さまがたくましい青年|公方《くぼう》となられるのも、ほんの一ッときの間だよ」
「まだ、お約束だけのことですけど、御台さまをどこからお迎えあそばすか、もうぼつぼつお年回りのよさそうな姫ぎみがたの銓衡《せんこう》まで始まっているのですよ」
「月光院さまの御代は万々歳じゃないか。お前がこのへんで自分の仕合せを掴むために身を退《ひ》いたからって誹《そし》る者はいないはずだ」
「兄さまにそうおっしゃっていただくと、わたくしも迷いがふっ切れます。まあ急にお暇を頂くわけにもゆきますまいけれど、いずれ願って出るつもりで、この宿さがりのあいだにでも彦四郎さまとじっくりさきざきの相談をしてみますわ」
「それがいいよ美喜」
幾つもの提灯《ちようちん》の揺れに混じって、声高《こわだか》な話し声、笑い声がこのとき土手道を近づいて来た。
「やっぱりここに帰って来てらしたのね。芯棒がいつのまにか消えてしまったので酒席も気が抜けて、ずるずるとお開き……。いったい中座なさったご用は何でしたの?」
と寄って来て佳寿が絵島の肩を叩いた。なじるように言いながら顔色には満足感が溢れている。じゅうぶんに吉原見物を愉《たの》しんだ気配であった。
七
奥山百合は、こんどの絵島の宿さがりに随行しなかった。前回は部屋子あがりの養女――いわば身内も同然ということで特に許されて一緒に宿元へ帰れたのだが、朋輩たちの手前もある。そうそう気ままは通らなかったし、また、強いて通して憎まれるのは百合も嫌だった。
お直《じき》勤めの奉公人は、お目見得以下でも三年たってようやく年に六日間、六年目から十二日間の休暇がもらえる。
上級役人だと、
「ご用のひまを見て……」
となるので、いつ、幾日と格別きまってはいないが、期間は年に合計して十六日間である。
百合たちのような御次《おつぎ》階層の腰元の場合は、大城《たいじよう》も大名家も、宿さがりは弥生《やよい》が多く、それでなくてさえ桃の節句で浮き立つ江戸の町々に、御殿風俗の若い、きれいな娘たちがどっと一時に溢れ出すのであった。
呉服や小間物を扱う店などは、だから彼女たちの旺盛な購買力をあてにしてこの月はことに最新流行の仕入れ品をたっぷり並べるし、芝居町ではこれまた、娘ごのみの演目を掲げて一人でもたくさん宿さがり中の腰元連中を小屋へ吸収すべく、役者も座元もが腕に縒《よ》りをかける。
供をしなかったかわりに、百合は帰城して来た絵島から笄《こうがい》だの筥迫《はこせこ》、香袋《こうぶくろ》など、市販の愛らしい土産をいろいろ渡されたし、その口を介して父や母の様子を聞くこともできた。
「また舟遊山のお催しがあったそうですね」
「そうなの。百合さんにも見せたかった。桜のみごとさにまして、隅田川は秋の風情が美しいのね。一日のんびり遊びくらしたおかげで寿命がだいぶ延びましたよ」
と語る顔は、なるほど気のせいか宿さがりの前よりふっくらと、いくらか肉附きが豊かになったように見える。
「ついでに吉原見物もなさったとか……」
「ほほほほ、よく知っているのね。山田屋とかいう茶屋にあがって芸妓の手踊りを肴《さかな》に、遊女の酌で御酒《ごしゆ》をたべました。百合さんのご両親が奔走してくれたのよ。おかげで話の種がひとつふえたし、とてもよい気保養になりました」
半ば、まじめに感謝されると、百合は返答に窮する。絵島は交竹院からでも訊いたのだろうと推量したらしいが、舟遊山のあと廓にまでくりこんだてんまつを手紙で百合に知らせてきたのは、異母弟の千之介だった。
「音頭取りは父さん、おいらんの手配など我がもの顔に取りしきったのは母さんらしいです」
と、舌打ちが聞こえそうな文面ではあったけれど、書状を寄こすたびに千之介の筆蹟が上達してゆくのが、百合にはたまらなくうれしい。ガクンと半身を傾かせ、片足を曳きずりながら前へ出る歩行は、他目《はため》には痛々しいが、当人はすっかりそれにも慣れて、
「平気だよ。くたびれもしないし、苦しくも何ともないんだ」
と言う。道通りの者の露骨な視線や悪童どものからかい……。そんなことぐらいには傷つかぬ強靱な気性に鍛えられて、千之介は近ごろ、どこへでも臆さず一人で出かけてゆく。
「おれはね姉さん、こんな身体だし、父さんの跡を継いで水戸家の御《お》徒士《かち》を勤めるのは無理だから、できれば医術で身を立てたいんだよ」
「お医師になるの?」
「伯父に、本道《ほんどう》小児科の泰斗《たいと》と折り紙つけられている名医がいるんだもの、学ばなければ嘘だろ?」
こんなやりとりのあげく、交竹院の屋敷へ通い出したのが二年ほど前だった。
ほかにも住み込みの医生や内弟子が幾人かいて、非番の日、交竹院は彼らに医術書を講じ、診療の実際を教えている。その仲間に千之介も加わったわけだが、
「最年少にしては熱心だし、なかなか筋もよい。近くの学塾に通って医術以外の学問にも精を出しておるしな、いずれかならず千之介はものになるよ。及ばずながらわしもそのつもりで指導してやるつもりじゃ」
太鼓判を押されると、わがことのように百合の胸は希望にふくらむ。
「人間の幸、不幸などというものは、だから判らんのさ。『百合の不注意で足萎《な》えになった、生涯の不仕合せを背負いこまされた』と、あのときは兼世ばかりか喜内までが逆上しおったが、なまじ五体満足ならば千之介は変哲もない凡児に育って、水戸家の軽輩で終るかもしれん。医業であれ何であれ志《こころざし》を立てて、精励する気を奮い起こしたのは片足不自由なればこそよ。人生の勝負は、ながい目で見ねばいかんなあ百合」
この伯父の言葉も弟のけなげな努力もが、百合自身の慚愧《ざんき》をむしろ労《いたわ》ってくれているようにすら思える。ありがたくて、百合はそのたびに涙ぐみたくなるのだが、
「それにしろ百合も千之介もがトビ鷹じゃよ。喜内のような遊び人の子に、どうしてお前らみたいな賢い姉弟が生まれたのかなあ」
と交竹院は首をひねる。
その代り頭がいいだけに、もういっぱし千之介は親たちへの慊《あきたら》なさを口にするし、姉への手紙にもずかずかその気持を書いてよこした。
「いくら好き勝手の許される宿さがり中といっても、われわれ下々と地位のあるお方はちがいます。おのずから言うことすることに抑えが働かなければならないはずなのに、うちの親どもがそそのかして絵島さまご一行を遊所におつれするとは、なんという不謹慎な話でしょう。交竹院伯父さまがそばにいながら、なぜお止めしなかったのか不思議でなりません」
と訴えてきたのも、批判の現れと見てよいだろう。こんなとき調子に乗って、忠義顔を誇示したがる喜内の軽薄ぶりがどんなものであったか、百合にも想像はつく。
不快になり、心配にもなって出仕して来た伯父に質《ただ》すと、
「なに、たいしたことではないよ」
はぐらかしでもするように交竹院は笑いとばした。
「吉原見物などといっても仲之町の本通りをほんの一、二丁|素見《ひやか》して歩いたばかり……。すぐ茶屋にあがって酒宴となったのじゃが、肝腎の絵島どのが中途で雲隠れしてしもうたのでな。しょうことなしに一同、ぞろぞろとまた、もとの舟着き場へ引きあげて来た。半刻《はんとき》いたか、いないか。わしなどでさえ何やら心残りなほどあっけない遊興じゃったよ」
やっといくらか、この伯父の説明で百合は納得したものの、では面白いさいちゅうに絵島はなぜ、中座などしたのか、それっきり茶屋へもどらなかったそうだが、いったいどこへ行ったのか。
(また、平田彦四郎さまとこっそり逢われたのだろうか)
と、こんどはそれが気になった。
絵島の素振りにそれとなく注意してみたけれど取りたてて変化はない。
ところが正徳三年も終りに近づいた師走《しわす》はじめ、
「火桶の炭火が強すぎて頭痛がする。ちと外気を吸ってこよう」
ひとりごちて絵島は詰め所を出た。夕|靄《もや》のただよう冬ざれの庭である。まわりにいた腰元たちがわれがちに供に立とうとするのを、
「いえ、よいよ。そのへんをそぞろ歩いてくるだけだから百合ひとりでよい」
制したのは、やはり盗み聞きされる恐れのないところで内密に、百合と差し向かいで話したいことがあったからだった。
八
吹上御殿の庭には花樹が多い。さすがにしかし、職方の者が丹精して育てた鉢植えの菊のほか、今は山茶花《さざんか》がわずかな彩りを滾《こぼ》しているにすぎない。一年中でもっとも花の乏しい季節なのに、絵島の背について園《その》の奥の亭《あずまや》までくる道々、百合は幾度となく躑躅《つつじ》の植込みにほの白く咲く花を目にした。
「冬なのに、なぜ今ごろ躑躅の花が……」
「返り花でしょう」
「ああ、狂い咲きですね」
「例年にくらべて、今年は冬があたたかかった。霜も雪も、ろくに降らなかったからね」
こころみに手をのばして一つ摘み取ってみると、正真正銘、躑躅の花にまちがいない。ただ、なぜか狂い咲いたのはどれも白く、夕闇の中だけに儚《はかな》げな姿に見える。
「わたしね百合さん、ここ一、二年の内にお暇《いとま》をいただこうと思うの」
と、やがて立ち止まって絵島は言い出した。亭の前である。陶製の榻《とう》が置かれていたが絵島は中へ入らず、ふり返って百合に笑いかけた。大輪の返り花がまた一つ開きでもしたように、その顔が百合には白く感じられた。
「平田彦四郎さまと祝言をあそばすおつもりですね?」
「それが自然だと兄にも言われました。こんどの宿さがりのあいだに彦四郎さまとも話し合って、おたがいの気持をたしかめもしたのだけれど、百合さん、どうしてお前、あのかたのことを……」
「勘がよろしいでしょ?」
首をすくめて百合はおどけた。
「お艶さまを見舞いに行かれたころから、じつは平田彦四郎というお名に絶えず気をくばっていたんです。律成院《りつじよういん》のお艶さまの新墓《あらはか》へつれだってお詣りなさったお姿を、立ち木越しにチラと拝見もしましたよ。旦那さまにはお似合いの、凜々《りり》しい、すてきなお武家さまでしたわ」
「からかわないでよ百合さん」
白く浮いて見えた絵島の顔に、ぱっと鮮かな血の色がさした。美少年じみた、すっきりした印象の女だけに、羞《はじら》いや嬌態《しな》に嫌味が伴わない。むしろ三十すぎとは思えぬほどの初々《ういうい》しさがむき出しになって、百合の目にさえこんなときの絵島は可愛らしく映るのであった。
「からかいなどするものですか。でも、あんな立派な殿御と、まあ言ってみれば縒《よ》りがもどったわけでしょう? それなのにお二人ながら別れ別れにくらすなんて、白井のお兄上がおっしゃる通りわたくしも不自然だと思いますよ」
「ただねえ」
絵島の表情がまた、沈んだ。
「一生奉公を誓いながら中途でお側を去るなんて月光院さまに申しわけない。すんなりお許しをいただけるかしらねえ」
「いただけますとも。病気やしくじりなど良くないことで職を辞するわけではありませんもの。好いた同士がようやく結ばれるのですよ。それを邪魔だてなどなさる月光院さまでしょうか」
「まだ当分、このことは口外しないでね百合さん。歳末から年頭にかけては諸儀式が重なって何かと御用繁多だし、それについ先ごろ、月光院さまに従三位授与のご沙汰がくだったでしょう。正月あけには勅使の下向やら答礼やら、ごたごたがつづくはずだから、自分ごとの言上は何もかもが一段落してから申し上げるつもりだけど、わたしが辞めたあと、あなたはどうする?」
訊かれて、ちょっと百合は迷った。絵島のいない大奥――。取り残される索莫さが胸をかすめた。千之介が家を継げない以上、やがては百合が、両親の老後を見なければならない立場にある。
(いっそ、絵島さまがお引きなさるのを機《しお》に、わたしも辞めようか)
瞬間、そう思いもしたが、すぐ動揺は消えた。なるべくなら帰りたくはない親の家だ。喜内夫婦も、まだまだ老人と呼ぶにはほど遠い年齢なのだから、面倒を見るにしても先の話である。
「せっかくお直勤めに変ったことでもあり、わたくしはしばらく今のままご奉公をつづけさせていただきます」
「そうしてもらえると、わたしもうれしい」
ほっとしたように絵島はうなずいた。
「月光院さまのご威勢はもはや大磐石――。家継将軍の御代《みよ》がつづくかぎり、それはつづくわけだし、わたしがいなくなっても宮路どの梅山どのをはじめ、おそばには心きいた忠義者がきら星さながら揃っているのだから、何ひとつ御用に欠けることはありますまい。でもね百合さん、これからはあなたたち若い御次や三ノ間の中からずんずん新しい人材が伸びて、将軍家おん母子の大奥を支えていってほしいのよ」
「わたしなど、とても……」
「いいえ。あなたは陰日向のない働き者だし、悧発でもあります。交竹院先生の姪《めい》、わたくしの養女ということで月光院さまも格別お目をかけてくださっている様子だし、すえずえきっと出世しますよ。百合さんがお側にいてくれれば、わたしもどんなに安心かしれません」
「旦那さまのお身代りのつもりで、一生懸命ご奉公に励みます」
「そうしてね」
と取られた手が、おたがいに温《ぬく》みを感じないほど冷えていた。息も白い。躑躅が狂い咲く暖冬だが、日が落ちきるとさすがに寒さが身に沁みた。
「もどりましょう部屋へ……。風邪を引きそうよ」
「はい」
「おお、寒む寒む」
肩をすくめながら奥庭を出る足どりは、そのくせ軽かった。百合と話し合ったことでまた一つ絵島の気持は片がついたのだろう、煤《すす》払い、お餅《もち》献上、年越しの豆|囃子《ばやし》など歳暮から歳旦にわたるさまざまな行事の采配も、いつもの彼女らしくてきぱきと振って、いささかの滞《とどこお》りもなく正徳四年の新春を迎えた。
あたたかさは年を越しても変らず、巷《ちまた》では老人たちのあいだに、
「気味がわるいねえ、ぐらぐらッとくる前兆ではなかろうか」
懸念し合う声も聞かれたが、季節はずれの暖気がつづいたあげく大地震に見舞われる確率は、たしかに高い。
「蒸しあつい晩は気をつけろ」
と俗間には信じられても来たこれまでである。若い町人連中は、しかし、
「べらぼうに寒くなくて、助かったじゃねえかなあ、この冬は……」
「そうよ、暦の上では一陽来福、春になったんだし、ぽかぽか陽気のまんま花便りが聞けりゃあもっけのさいわいだよ」
と気にする風もない。
七草がすぎると、吹上御殿では月光院から、上野の寛永寺、芝の増上寺の二ヵ寺にご代参の触れが出された。双方とも徳川将軍家の菩提寺《ぼだいじ》――三縁山増上寺には文昭院殿《ぶんしよういんでん》家宣、東叡山寛永寺には常憲院殿《じようけんいんでん》綱吉が埋葬されている。月光院にとって先代家宣は夫、その夫と不仲ではあったが先々代綱吉は、ともあれ義父にちがいない。
年初の祝詞言上は年ごとの恒例で、今年は文昭公御廟所に御年寄筆頭の絵島、常憲公の廟所には同じく御年寄の宮路が差し向けられることになり、
「正月十二日」
と期日も決まった。
浮き世の風にあたれる好機だし、われもわれもと競い合うので上女中の外出というと、供につく腰元どもの人選に毎回、難渋する。屠蘇《とそ》気分の抜けきれぬ新春のご代参は、わけて息ぬきの要素がつよく、帰路の芝居見物などもよほどの支障がないかぎり大目に見てもらえる慣《ならわ》しだったから、
「選にはいりますように……」
と願《がん》掛けする者さえ出る始末だ。
「かわいそうですから、できるだけたくさんつれていってやりましょうよ絵島さま」
太っ腹な宮路の提案に、
「わたしもそのつもりです。さいわいこころよく、月光院さまも芝居町への立ち寄りをお許しくださいましたし、使番の藤枝《ふじえだ》がさんざんそそるようなことを言ったらしく、腰元たちはだれもが生島新五郎見たさにのぼせ返っていますわ。置いてきぼりをくったらそれこそ、恨んだり泣いたり大さわぎでしょうよ」
一も二もなく絵島も応じた。
役々の女中を引きつれて外出し、歌舞伎狂言を見るなどという華やかな体験も、
(これで最後になるかもしれない)
とする思いが絵島にはある。
日ごろ、まめまめしく働いてくれているご褒美に、一人でも多く娘たちをよろこばせてやりたかったし、絵島自身も楽しい思い出がそれで作れるなら、さしたる金額ではなし、支出など少しも惜しくはなかったが、
「わたし附きの腰元の分は、わたしが賄いますよ」
宮路はむきになって言い張った。やはり江戸ッ子気質の、富有な商家の育ちだけに、宮路も金銭には恬淡《てんたん》だったのである。
藤枝という女
一
ご代参当日――。すこし風はあったが空はよく晴れて、それでなくてさえ浮き浮きしきっている女中たちの気持を、いっそう弾ませた。
奥山百合も朋輩のお勢以《せい》ともども、この日の供に加えられた一人である。朝から念入りに身仕舞いして、出立の触れを待つばかりでいたやさき、まるでその鼻先を意地悪く引きこすりでもするように耳ざわりな噂が口から口へ拡まってきた。
「妙な歌《うた》反故《ほご》が、中奥のお廊下に落ちていたそうだ」
というのであった。
「歌反故が?」
「わざとらしい落首だよ。『いわけなき鶴の子よりも色深き、若むらさきの後家《ごけ》ぞえならぬ』と書かれた紙だとさ」
腹立たしげな顔で百合たちに語ってくれたのは、御次頭《おつぎがしら》のお曾和《そわ》だが、
「どういう意味ですか?」
と、お勢以は他愛《たわい》ない。
「わからないの? にぶいねえお前さん、鶴の子は上さま、若むらさきの後家というのは月光院さまをさした当てこすりじゃないか。『いとけない家継将軍よりも、残りの色香に匂い立つご後室こそが、えもいえず美しい、だれかさんのお目当ては、つまり月光院さまだ、上さまへの忠勤など二の次だ』と貶《くさ》したわけだよ」
「ははあ、ではまた例によって、間部《まなべ》さまへの誹謗《ひぼう》ですね」
ようやくお勢以にも呑みこめたらしい。
「なんてしつっこいやつらでしょう。ねえ百合さん、つかまえて、ぎゅうという目に遭せてやりたいわねえ」
口惜《くや》しがったのは、同じ手の嫌がらせがこのところ二、三度たてつづけに起こっていたからである。
側用人の間部|詮房《あきふさ》は独り身だし、男の目にさえほれぼれ映るほどの美男だ。もと能役者だっただけに、立ち居ふるまいもおのずから作法にかなってきれいであった。若い未亡人の月光院とは、好一対の組み合わせとも見れば見える上に、ほとんど連日、彼は城内に宿直《とのい》して上州高崎の居城はもとより、江戸市中の私邸にすら帰らない。
「職務熱心」
と、感服する者がほとんどだが、
「熱心すぎる」
とも勘ぐって、月光院と間部の間をあらぬ疑いで結びつけたがる手合いもいる。
しかし、どう色眼鏡で見ようとしても、間部にはつけ入る隙《すき》がなかった。そのくせ間部は、幼将軍にひどく慕われている。亡父家宣が生き返りでもしたように家継は間部になついて、朝、政務所へ出るのも、夕方、吹上御殿へ帰るのも、間部の肩車でなければ機嫌はよくない。
月光院も新井白石と間部詮房を、だれにも増してたよりにしていた。彼らは母子のために、家宣将軍がのこしていったいわば貴重な遺産である。
なにごとも、月光院は白石と間部に相談したし、二人もまた母公を先君の形見と見て、その生前同様、誠心誠意つかえつづけている。幼将軍の後見という共通の立場から、彼らはしばしば月光院と膝を交えて話し合いもした。吹上御殿へは毎日のように出向いて、こまごました日常の哀歓にも親身《しんみ》に接してきていたのだ。
陥《おとしいれ》るつもりなら、だから間部の足もとに、罠《わな》ぐらいすぐにでも仕掛けられると思う者もあったにちがいない。
ところが案に相違して、いくら狙っても間部の側に、毛すじほどの隙も見いだせないのである。そしてこれは、月光院にしても同様だった。ごく自然にふるまっているように見えながら、彼女には油断がなかった。狙う者がいても、乗ぜられる隙をやはりまったく与えようとしないのであった。名君のほまれ高かった家宣に弱年から取り立てられ、信任されてきただけに、さすがに彼らはこの点、亡き人の遺託を裏切らない器量の持ちぬしだったといえよう。
業《ごう》を煮やしたのか、恋文めかした意味ありげな薄様《うすよう》を、人目につくところに故意に落としておいた者がある。それも一度ではない。つづけざまに三度ほどあちこちにばら撒いた拙劣さから、かえってだれの目にも罠であることが歴然としてしまった。
細心、沈着な間部が、他人の手に渡ったら大事《おおごと》になるのは知れきっている文殻《ふみがら》を、一度ならまだしも、二度三度落とすような愚を演じる気づかいはなし、「越どのまいる、月より」とした署名も、いかにも稚拙だった。
「月光院から間部越前守に宛てたものだ」
と、これでは子供にすら推察がつく。たとえば真実、恋文のやりとりがあったとしても、こんな不用意な書きざまをするほど月光院もまた、馬鹿な女ではなかった。
「どうせする悪戯《いたずら》なら、いま少しうまくやればいいのにねえ」
怒るよりも呆れて、絵島や宮路らは笑ってしまった。艶書を偽造してありもしない醜聞をでっちあげようと意図するなど、手口が陰湿だし、汚い。
「御台さまのまわりに巣くう御所育ちの古狸の仕業《しわざ》ですよ」
と、見当もすぐついたが、それを相手方の焦《あせ》りと受けとめたあたりが、江戸女の浅はかさ、単純さだった。
「負け犬の遠吠え……」
と嗤《わら》って、月光院側の上女中たちは、むしろ勝者の優越をかみしめたくらいだから、
「こんどは歌反故が落としてありました」
と聞かされても、かくべつ動じもしなかった。
「やかましく取り沙汰すればするほど、あちらの思う壺にはまりますからね」
と騒ぎ立てる腰元どもを抑え、若むらさきうんぬんの一首もまた、黙殺してしまったけれども、御台所派を甘く見すぎていたこの驕《おご》りが、じつは致命傷につながる結果になったのであった。
落とし文《ぶみ》や落首……。
さして効力はないまでも、このような挑発が引きつづきなされているということは、御台所にせよ他の側室たちにせよ、まだけっして、敗北を認めていない証拠である。表に出た現象は、言ってみれば氷山の一角にすぎず、反感、反撥の根は裾野さながら広く深く、裏面に潜んでいたと見てよい。
「現将軍家を擁している」
という事実が、絵島をはじめ月光院派の女中たちの唯一絶対ともいえる安心の拠りどころとなっていたが、それは本当に、彼女らの権勢保持を、半永久的に保証するものだろうか。
たしかに家継は、正二位内大臣に右近衛の大将を兼ね、淳和院《じゆんないん》・奨学院《しようがくいん》の両別当、源氏の氏《うじ》の長者に補されもしている徳川家第七代目の将軍ではあった。しかし実態は、ようやく六歳の少童にすぎない。
身体も頑健とは言いがたかったから、腹ちがいの兄弟たちと同じく、いつ何どき病魔の犠牲になるか予断できにくい状況にある。
いや、ほかの公子公女がたは、どなたもみなせいぜい二、三歳か、はなはだしい場合は当歳、中には生まれ落ちると即日、息を引きとられた。家継将軍は、でも危険な幼児期を切りぬけ、つつがなく六年目の新春をお迎えになったし、小児科の名医と折り紙つきの奥山交竹院先生がお身体癖をすっかり呑みこみ、心血をそそいで健康管理に当っておられるのだから心配はない、上さまはかならずつつがない成長をとげらると、月光院派の女中たちは口を揃えて言い切る。
しかし、この力《りき》みの中身は半ば以上、
(そうあってほしい。是が非でも、そうあらねばならぬ)
とする彼女らの願望によって占められていた。このため、元気な面は実際よりずっと大きく受け止めたし、あべこべに気がかりな面からは、無意識に目をそらそうとする傾向がつよく、適切な判断を欠く憾《うら》みがあった。身贔屓《みびいき》による眼の曇りといってよい。
反・月光院派の観察は、それにくらべるとはるかに冷静だった。
(どれほど気をつけて育てても、しょせん虚弱な室《むろ》咲きの花……。妻室をめとり、嗣子《しし》を儲けるまでには到底、至らぬのではないか)
と家継の体質を予見していた。
跡つぎの子をつくらぬまま亡くなる公算が大きいとすれば、たちまち次に問題となるのは、八代将軍の人選である。
空白の権位――。
それをめぐって争うのは、さしずめ尾州家と紀州家だが、この点についても、
(ご先代文昭院さまのご遺言がある。新井どの間部どの、また老中がたをご臨終の枕辺《まくらべ》に召して、『万一、家継が早死した場合は尾張家から後継者を迎えるように』と、家宣将軍は言いのこされた。ご直筆のお書き置きにまで明記してあるご遺志を、まさか踏みにじる者はいまい)
との楽観論が、もっぱら吹上御殿の人々を支配していたのだ。
二
ご代参の行列は、したがってこの日の空におとらぬ晴れやかさで、定刻に城を出た。
大年寄絵島、年寄宮路、梅山、表使《おもてづかい》吉川、御中臈|伊与《いよ》ら上級役人のほか、御次頭《おつぎがしら》、御使番、御三ノ間、御茶ノ間に附属する女中たち、その腰元や陸尺《ろくしやく》、中間《ちゆうげん》、御小人衆《おこびとしゆう》など男もふくめて総勢百三十人ほどだが、怪しいあの落首が道々、話題になったのも、それを警戒するというよりせっかくの出がけの気分に、水をさされた不快さからだった。
「もってまわった嫌味な詠み口よねえ」
「どうせ、ありもしない他人さまの行状をあげつらった歌ですもの、嫌味にきまってますよ」
「それにしても、三十一文字《みそひともじ》をひねくるところが京女の集まりらしいわ」
「では、やっぱり御台所派のだれかがやったことなの?」
「きまってるでしょ。今日のご代参にけちをつけたくて仕組んだ企みよ」
「卑怯ねえ」
と百合やお勢以ら、若い供廻りのこそこそ喋《しやべ》りはきりがない。
「もう、お控えなさい、町中《まちなか》での私語は……」
乗物の引戸越しに絵島に叱られて、
「今年の、おこごとの頂きぞめ!」
こっそり首をすくめ合う仕草も、つまりは心の弾みの現れであった。
吹上御門から西ノ丸の大手御門へ出るとすぐ、行列は東西に分れ、絵島を頭《かしら》とする一手は芝の増上寺へ、宮路ひきいる一手は上野の寛永寺へ向かった。
百合はむろん、絵島組であったが、月光院から増上寺へもたらされた布施は黄金一枚……。寛永寺にも同額が、香華料として宮路の手に託された。
うやうやしく衆僧が出迎えて、まず仏殿での供養の読経がおこなわれ、つづいて文昭院殿の御霊屋《みたまや》に絵島が参詣――。龕《がん》の前にぬかずいて拝をささげた。
「予の歿後、遺骸は三縁山に納めよ」
とは、病床にあったころからの家宣の遺命である。
それというのも、台徳院殿《だいとくいんでん》二代秀忠のほか三代家光、四代家綱、五代綱吉まで、このところ代々、将軍の埋葬は東叡山寛永寺においていとなまれており、両寺を徳川家の菩提所とする建て前からいえば、いささか片寄りすぎた観があったからだった。
公平、律義な家宣の性格が、死後の配慮ひとつにも滲《にじ》み出ていたわけだが、ひさかたぶりに、
「ご葬送は芝へ……」
と決定した直後、増上寺の役僧から寺社奉行にあてて申請が出された。
「このたびのご沙汰、まことにもって恐懼《きようく》のきわみでありますけれども、それにつき、お願いがござります。従来、上野寛永寺の法親王が大城に参りのぼらるるさいは、お乗物ごと玄関まで横づけされるのが例となっております。皇族ゆえに、一段、差をつけてのお扱いと心得ますが、今回のご葬儀の導師をつとめるのは増上寺の大僧正|祐天《ゆうてん》……。故になにとぞ、この機会をもって、向後、当寺の住持にもお玄関までの乗りつけ、ご許可たまわりますよう……」
この訴えににがりきった寺社奉行が、
「それはならぬ。たとえ僧位が大僧正であろうとも、出自《しゆつじ》は平民――。祐天を上野の宮と同列にはできぬ」
と、いくら諭しても増上寺側は聞き入れない。再三再四、同じ願いをくり返すのにあぐねはてて、
「いかがいたしましょう」
老中の秋元但馬守|喬知《たかとも》に諮《はか》った。
「俗よりもなお俗な、体面への固執ではないか」
秋元は怒り、間部詮房に相談した。
「言語道断なつけあがり方ですなあ」
間部も眉をひそめて、すぐさま寺社奉行に申し達した。
「増上寺を葬りの場所と定められたのは、先君かくべつのご恩情である。それをありがたいとも思わず、横車にひとしいねだりごとを口にするとは僧侶にあるまじき所業……。まさかご当代を、幼君と侮《あなど》っての事ではなかろうが、もし玄関への乗りつけがかなわず、導師が勤まらぬというならばやむをえぬ。ご葬送は東叡山寛永寺に振り替え、増上寺には後日、ご愁傷ご諒闇《りようあん》のさなか嗷訴《ごうそ》がましき請願をおこないご法会を妨げたる罪科をきびしく申しつけるであろう」
これには役僧たちも慄えあがって、
「いえいえ、ぜひともというわけではけっしてござりませぬ。どうかご容赦の上、お聞き流しいただきとうぞんじます」
汗みずくの弁明でやっと切り抜けたいきさつがある。
懲りはてたのだろう。絵島たち一行へのもてなしぶりは丁重をきわめ、客殿での斎振舞《ときぶるまい》にも神経の行きとどいたものが出されたが、手をいくらかけても所詮《しよせん》は精進料理だ。
「こんにゃくや蓮根《れんこん》でおなかをくちくすると、あとで悔やむことになるわよ」
お勢以のめくばせに、
「承知、承知」
くすくす笑いで百合も応じた。
四、五日前、絵島が役部屋へ、使番の藤枝を呼び、金子《きんす》らしい袱紗《ふくさ》包みを渡して、
「これで桟敷の予約だの弁当の手配などをお願いしたいのですが、正月興行はいま、どこが面白いかしら?」
と訊《たず》ねていたのを、百合たちは目撃している。
「さようでございますねえ、初春《はつはる》は曾我物で賑々《にぎにぎ》しく幕をあけるのが各座の吉例でございます。中村勘三郎座は二ノ替りが、たしか『寿《ことぶき》菖蒲《あやめ》曾我』、山村長太夫座は『東海道大名曾我』、市村座と森田座は、ええと……」
「そんなに並べられてもわたしにはわからない。中村座と山村座だけでよいけど、若い人たちはどちらを見たがるでしょう」
「山村座のほうがよくはございませんか。立役《たちやく》を上々吉の生島新五郎が勤めますし、やはり上々吉の市川団十郎、若《わか》女形《おやま》では上々|白吉《しろきち》の中村源太郎、同じく上々白吉の玉沢林弥《たまさわりんや》などが出演しておりますから……」
「いつもながら藤枝どのは、芝居のことにおくわしいのねえ」
目を丸くしながら、
「なんですか? その、上々吉とか白吉とかいうのは……」
もの珍しげに絵島は質問した。
「番附に載る役者の位でございます。同じ吉でも、墨色のまま黒く刷《す》られている吉よりは、白抜きで書かれた吉のほうが上の位というわけで……」
「そういうことですか。では、山村座にきめましょう」
「ただし、わたくしが外へ出るわけにはまいりません。御広敷《おひろしき》に詰めている後藤|縫殿助《ぬいのすけ》の手代どもに、この金子を渡して、桟敷の用意を申しつけてよろしゅうございますか?」
「そうねえ」
ちょっと考えていたが、
「やむをえますまい。舎弟に手紙で言ってやってもよいのだけれど、横着な男でしてね、結句《けつく》大奥出入りの商人どもに依頼してしまいますの。同じことですからね」
と藤枝の申し出を絵島は許した。
百合もお勢以もが、このやりとりを耳にしていたから、山村座に着きさえすれば小ぎれいな弁当が出るのを知っている。
(お寺のもてなしなんか、可笑《おか》しくて食べられるものですか)
と、忍び笑いを噛みころしたのも当然なのであった。
ほんの申しわけに箸をつけただけで、絵島もすぐ、次の間へ立ち、百合たちに手伝わせて衣裳《いしよう》を改めた。先君の墓参に着用した御城装束《おしろしようぞく》のまま、まさか芝居町へなど足踏みはできない。不謹慎の譏《そし》りを避けるために、町家ふうな小袖に着替えたのである。
三
日ごろの絵島の好みからすれば、色数《いろかず》を控えた、やや地味にすぎる柄行《がらゆ》きではあったが、それはやはり、庶民層の女たちには手の届きかねる最新流行の風流小袖だった。
「わあ、粋《いき》だこと!」
「よくお似合いですよ絵島さま」
表使の吉川、中臈の伊与ら他の上級女中たちも同様、着物を替えはしたけれども、砕けた、町人ごのみの衣裳がもっとも馴染《なじ》んで見えるのはやはり絵島の顔立ちである。
伯父の家の庭ではじめて会ったとき、百合がとっさに、
「菖蒲の花、そっくり……」
と受けとめた印象は、いまも変らない。女っぽさよりは、若衆肌の爽《さわ》やかな持ち味が絵島の美の、身上《しんじよう》だから、堅くるしいお局《つぼね》姿よりも、どちらかといえば町家風俗のほうがその溌剌《はつらつ》さを引き立たせるのだろう。
「いつもの絵島さまとは、また別のおきれいさですわ」
「見ちがえました」
介添《かいぞえ》役の百合やお勢以の、お世辞ぬきの嘆声に、
「町育ちの地が出たのよ」
わざと蓮《はす》っ葉《ぱ》な答え方をしたのは、絵島自身、脱皮した蝶の身軽さを味わったからに相違ない。身を包むものが変ると、気分も変る。
「お仕度がよければまいりましょう吉川さま、伊与さま。若い人たちが待ちかねているようですから……」
と、うながす調子ものびのびしていた。
腰元たちのはしゃぎぶりは、まして抑えようもないほどだった。僧たちに見送られて増上寺の山門を出ると、
「これで、お役ご免ね」
「あとはお芝居を愉しむだけ……」
羽根があったら飛んで行きかねない上気の仕方である。
汐留橋《しおどめばし》までで絵島や吉川は乗物を棄てたが、宮路ら東叡山寛永寺に出向いた一行もすでに先着していて、
「遅い遅い」
しきりに手招きする姿が、遠くから見えた。
「おやおや、あちらはお早かったことね」
「宮路さま、梅山さまがたも、風流小袖に着替えていらっしゃるわ」
橋詰めで合流し、木挽町《こびきちよう》まで、ここからは全員が歩いて行ったのだが、山村座では座元の長太夫はじめ主立《おもだ》った座員が中途まで出迎えて、
「ともあれ、ひと休みあそばしてくださいまし」
と一行を茶屋に案内した。柿色の暖簾《のれん》に海老屋《えびや》の三文字を染めぬいた芝居茶屋である。
二十七歳にしては長太夫は、思慮ありげながっしりした身体つきの男で、
「今日はご光来、ありがとうぞんじます。役者どもも張り切って役々、相勤めますれば、なにとぞごゆっくりご高覧くださいますよう……」
落ちつき払って挨拶した。
そのうしろに控えた老人は、みずから名乗ったところによると長太夫の舅で、山村|友碩《ゆうせき》という。いまはすっかり戯場《げじよう》の経営を婿に委せて、楽隠居の身分だが、
「離別したわたくしの女房が、絵島さまをよくぞんじあげておりましたよ」
にこにこ打ちあけた。
「それはまた、どういうご縁でしょう」
「むかし絵島さまは、紀州家の江戸屋敷にお勤めあそばしておられましたな?」
「はい。お輿入れなさった先々代将軍家のお姫《ひい》さま鶴姫ぎみにお仕えして、当時は本名のまま美喜と呼ばれておりました」
「その美喜さまにおしたしくして頂いた朋輩の孝《こう》が、わたくしめの先妻なのでございます」
「まあ、お孝さまは、あなたのご家内になられたのですか?」
驚きとなつかしさに、つい知らず膝を乗り出す絵島へ、
「さようでございます。縹緻《きりよう》望みでむりやりめとった恋女房……。でも、なにぶんにも年に開きがありすぎました。ずいぶん機嫌をとったのですが、爺《じじ》イは嫌じゃと愛想をつかされてな、お孝のほうから亭主のわたしに三下り半をさげ渡され、夫婦別れとなった次第でございます」
と、そんな過去さえ、たのしいことのように友碩は言う。
「で、いまお孝さまは?」
「武州八王子の、油屋と申す大きな旅宿のお内儀《ないぎ》に納まって、新しいつれあいと仕合せにやっているとのこと……。このお孝がな、絵島さま、わたくしとくらしていたころ、折にふれてお噂申しておったのは、あなたさまのお優しさでございました」
「こちらこそ、仲よくしていただいた思い出が忘れられません。そそっかしいわたくしが、しくじりをしでかすたびに、お孝さまは上手にかばって、ご老女がたの手前を取りつくろってくださったものでしたよ」
「しかも今ひとつ、お耳に入れたいことがあるのでございます。これからごらんあそばす狂言に、生島新五郎と申す役者が出演しておりますが、この新五郎の妻が、お孝の妹でございましてな」
「えッ? 和事師《わごとし》ではいま、江戸一番と評判されている新五郎とやらの?」
「さよう。名はお良《よし》と申します。新五郎はのちほど、幕間《まくあい》にでも、桟敷にまでお目通りにまかり出るはずでございますが、お良もたぶん、ご挨拶に参上するのではありますまいか」
「それはうれしゅうございますこと。お妹御にお会いすれば、お孝さまの近況もうかがえますわね」
と、話は尽きない。
軽い酒肴が運ばれ、
「ささ、どうぞ。お口しめしに一献《いつこん》……」
すすめ上手な長太夫の酌で盃が回されたが、お勢以や百合たちは一刻もはやく芝居が見たくて、気もそぞろだった。
気配を察して、やがて絵島も友碩との会話を切りあげ、
「では、ご案内いただきましょうか」
と座を立った。
山村座では木戸口に、後藤の手代らが出迎えていた。舟遊山のさい、舟や船宿、芸妓その他の手配に骨を折ってくれた次郎兵衛、清助、七兵衛などいずれも顔見知りの男たちである。
それはいいが、彼らの背後にあの、『牛蒡《ごぼう》』の異名を持つ栂屋善六のへつらい笑いを見いだして、
「藤枝どの」
絵島の表情がこころもち、険《けわ》しくなった。
「なぜここに、栂屋が来ているのですか? 今日の雑用は後藤の店の者に頼むようわたしはあなたに、申しつけたはずではありませんか」
「仰せの通りでございます」
いそいで藤枝が言いつくろった。
「御広敷にまいりまして、わたくしは絵島さまのお言葉を伝え、そこにいる清助にお預かりの金子を渡しました。栂屋善六とは口もきいた覚えはありませぬ」
「強引に割り込んできたのでございます。はい」
憎らしげな横睨みで清助は善六を見やりながら、これも口ばやに、藤枝の申し開きに説明を加えた。
「栂屋さんも当日、御広敷の手すり下に詰めてはいましたけれど、それにしろ早耳なのには呆れ返りました。藤枝さまと手前どものやりとりを、いつのまに嗅ぎつけたか、『ぜひとも自分にも、お手伝いさせてくれ』と言い張ってきかないのでございます。『それは困る。このたびのご観劇は桟敷の予約から何から、いっさい後藤家がご依頼を受けたのだから、手出し口出しは無用にねがいたい』とはねつけましたのに、図々しい御仁《ごじん》でございますなあ。さっさと海老屋に手を回し、先ほど手前どもがまいってみますと、蒸し菓子のたぐいを用意させて待ちかまえているではございませんか」
この訴えのさいちゅう、いかにも閉口した様子で両手をこすり合わせたり、うしろ首を掻いたりしていた栂屋善六は、そのくせ一歩も退かない身構えで、清助が言い終らぬうちに押しかぶせた。
「まあまあ、そう熱くなりなさんな後藤のお手代さん、たかがまんじゅうに有平糖《あるへいとう》、蜜柑《みかん》ぐらいのことに、めくじら立てるようなしみったれたお方は、ここにおいでなさいませんよ」
四
「そうですとも絵島さま、菓子の差し入れなど多寡《たか》がしれています。栂屋が勝手にしていることなのですから、好きにやらせておけばよいではありませんか」
と、脇からせきたてたのは宮路だった。
「芝居はとうに始まっているのですよ。まごまごしていると見そこないますわ」
やむなく切り上げて中へ入ったが、しばらく絵島の眉からは不快げな曇りが消えなかった。
たしかに善六みずからも言う通り、ささいな贈り物にちがいない。葉つき柑子《こうじ》の一籠や二籠で、籠絡《ろうらく》される気づかいはだれにもなかったが、なんのかのと口実をもうけては狎《な》れ寄ってくる善六のねばっこさが絵島の気性に合わないのだ。
(座持ちがうまく、腰も軽く、遊興には面白い男……)
とは思うけれど、市ケ谷八幡の宮芝居でも諸事、慎重な梅山に、
「あのような者はお近づけなさらぬほうがようございます」
と、絵島は注意されている。その意見に同意しながら、今日また栂屋に出しゃばって来られては、梅山の手前も面目なかった。
座席は二階正面の桟敷が、九|間《けん》ぶっ通して確保してあった。膝が沈むほど厚い、上質な緋毛氈《ひもうせん》の上に、さらに繧繝錦《うんげんにしき》で縁《ふち》取りした茵《しとね》が敷かれ、蒔絵《まきえ》の脇息《きようそく》が上級女中の頭かずだけ揃えてあるのは、舟遊山のときと同じく後藤家からの持ち込みであろう。
風よけの金屏風がうしろに立て回され、手焙り、煙草盆なども適当な間隔に配置されて、見るからに居ごこちよさそうな空間をかたちづくっていた。
「本日はようこそお運びくださいました。さ、どうぞ敷物をお当てくださいませ」
と敷居ぎわにいて、一人一人を定めの席へ案内した中年者の面体《めんてい》にも、見おぼえがあった。市ケ谷での芝居見物のさい、座頭《ざがしら》の坂東梅之丞ともども挨拶に出た狂言作者の中村清五郎だったのである。
「その節はお世話さまでしたね、わたくしと扇子の取り替えっこをしたあの色っぽい若立役――何と言いましたっけ……そうそう、皆川初之助は、あいかわらず梅之丞座に出ていますか?」
宮路の問いかけに、腹の中はどうあれ口では如才なく、
「またのお越しはいつであろうと、初之助め、拝領の扇《おうぎ》を眺めては言いくらしておりますそうで……」
と、清五郎は愛想よく応じた。
「今日はそなた、なぜ、ここに?」
「わたくしはもともと、中村座の座附作者でございますが、梅之丞座で一度、絵島さま宮路さまがたのお取り持ちをしたと話しましたところ『それは好都合じゃ。ぜひお話相手に来てくれ』と山村長太夫さんにたのまれましてな」
「そうでしたか。ごくろうさま」
坐ろうとして宮路も絵島もが、ふと廊下を見返ったのは、女の声でこのとき、何やら声高《こわだか》に罵《ののし》るのを聞いたからだった。
「あれはだれ?」
「藤枝のようですけど、いったいどうしたのでしょう」
「見ておいで」
と言われて、百合が立ちかけるより早く、当の藤枝が小走りに屏風の裾を廻り込んで来た。
「供の御小人《おこびと》どもが、当り前な顔をしてはずれの桟敷に入ろうとしますので、ただいまきびしく叱りつけてやりました」
と息をはずませながら告げる。その藤枝の背について、追いかけるように上座の外廊下までやってきたのは中島久左衛門という御小人衆の中では年嵩《としかさ》の侍であった。
「いや、当り前な顔などはいたしておらん。空《あ》いている桟敷ゆえ、われらにも見物をお許しいただきたいと申し上げたのだ。それをまるで、犬でも追い払うような高びしゃな言い方ではねつけられるとは心得ぬ。藤枝どのお一人の存念で、勝手なはからいをなさる前に、絵島さまなり宮路さまに伺ってみてくださるのが筋合ではないか」
と、これも劣らぬ興奮ぶりでまくし立てる。
「なにを言うのです、あつかましい」
藤枝は負けていない。
「男のお供衆が女中がたと同じ席に居並んで芝居を見るなど、許されてはいません。茶屋の供待ち部屋で、お帰りまで待機しているのが当然ではありませんか」
噛みつきそうな口ぶりできめつけた。
「われらは中間《ちゆうげん》や陸尺とはちがう。ご身辺から離れてはならぬ警固役でござる」
「何であれ男の同席などもっての外――。どうしても芝居が見たいなら下の枡《ます》席にでもおりて見物したらいいでしょう」
と、諍《あらそ》いのむし返しをはじめるのを、
「まあまあ、双方とも気をお鎮めなさい」
梅山が制した。そして、
「どうせ空いている桟敷なら堅くるしいことは言わずに、御小人がたを入れてあげてもよいではありませんか。いかがでしょう絵島さま、宮路さま」
と年寄たちに諮《はか》った。
舞台では狂言が演じられている。簾《すだれ》はまだ、さがったままだが、二階桟敷に御殿女中らしいきらびやかな一団がはいってきたのは透き影やさざめきからも察知できた。
階下の観客たちは、だから好奇心をむき出しに上を見あげているし、声を抑えてはいても言い合いなど続ければ、舞台の邪魔になるのも知れきっていた。
「ええ、よござんすよ。一緒に隅のほうで見物なさい」
うるさそうに宮路が許したが、
「もはや結構でござる。お女中がたのお情けにすがって芝居を見たところで、面白くはござらん。藤枝どののお指図通りわれらはこれにて引きあげ、海老屋の店先でお帰りをお待ちします」
感情を害して中島はつっぱねた。顔がどすぐろく紅潮している。舞台に気をとられて苛々《いらいら》しきっていた宮路は、この返答にむっとしたのだろう、
「そうですか。それなら好きにするがいいわ」
釣られて甲《かん》走った声をあげた。
「ごめん」
と袴を蹴立てて中島は立ち、稲川惣右衛門、竹沢勘助、久野金五右衛門ら、この日、供についた御小人四人が、四人とも足音荒く小屋を出て行ってしまった。
とたんにするすると目隠しの簾が捲き上げられ、舞台の絢爛《けんらん》がぱっと眼前に拡がった。若い腰元たちの興味は、たちまち役者の動きに集中した。
「ほらほら、あれが生島新五郎よ」
「きれいねえ」
と口々に、溜め息が洩れる。贅《ぜい》を凝らした料理がつぎからつぎへ運びこまれ、手から手へ、盃も巡りはじめた。塗りの高坏《たかつき》に、杉形《すぎなり》に盛られた腰高まんじゅうは、栂屋の持ち込みであろう。持ち重《おも》りがするほど大きな桐箱にぎっしり詰めてある落雁《らくがん》や飴のたぐいも、食べざかりの女たちが寄ってたかって手を出しながら、到底かたづけられそうもない量に見える。
(どうせ余るのに……)
梅山はそっと、絵島の表情を窺《うかが》った。
御小人たちを怒らせたのが、梅山は気になって仕方がない。薄給の小吏である。僻《ひが》みが強く金品に卑しく、無類に小意地も悪い。
それでなくても公《おおやけ》には、ご代参帰りの芝居見物など認められてはいなかった。直属の主人である月光院から、暗黙の許しを得て山村座へやってきているのだ。御小人であれだれであれ、扈従《こじゆう》の男どもに表立って告げ口をされれば、弁明に苦しまなければならない。できるだけ彼らの心証をよくし、芝居が見たければ一緒に見せて、いわば同罪意識を持たせたほうがよいのであった。
「このままでは、やはりまずうございましょう。中島たちを呼び返そうではありませんか」
と梅山に言われて、絵島もすぐ、その気になった。同様の懸念を、彼女も抱いていたのである。
中村清五郎が旨を含められて、海老屋へ御小人たちを迎えに行っているひまに、後藤の手代や山村座の者たちの手で仕切りの屏風が立て回された。おたがいに気まずいまま目を合わせたくはない。続き桟敷ではあっても、姿が見えないようにとの配慮からだが、それにしても、
(なぜ一存で、あんなに威丈高《いたけだか》に、藤枝どのは御小人衆をやりこめたのか。まるでわざと、喧嘩を売りでもしたような猛々《たけだけ》しさではなかったか)
と百合はいぶかった。日ごろ、人ざわりの良さで定評のある藤枝にしては、なんとなく腑に落ちかねる激昂ぶりに思えたのである。
五
御小人たちは、なかなか桟敷へもどってこなかった。芝居は見たい、咽喉《のど》から手が出るほど酒肴のもてなしにも与《あずか》りたいが、席を蹴立てて出て来てしまった行きがかり上、体面にこだわって、おいそれとは帰りにくいのだろう。
「どうしたのでしょう」
しきりに梅山は気を揉《も》んだ。
「吉川どのに様子を見てきてもらいましょうか」
「そこまで下手《したで》に出ることはありませんよ。じたい御小人たちは生意気です。わたくしどもを女だと思って、内々は侮《あなど》っているのですわ」
と宮路の機嫌はまだ、なおらない。絵島も宮路の憤懣に同調して、
「中村清五郎に委せておきなさい。気の練れた男ですから、きっと上手《じようず》に言いくるめて、つれて来ますよ。心配は無用です」
と、梅山をたしなめた。
この予測にたがわず、御小人たちはやがて清五郎に伴われて、こそこそ引き返してきた。
彼らのほうを見ないようにと言い含められているので、女中たちは腰元の末までが気づかぬふりをしていたが、やはり幾らか照れくさくはあるのか、御小人連中も足音を忍ばせ、大いそぎで屏風《びようぶ》囲いの内側へ廻り込んだ。後藤の手代らが酒や料理、菓子などを彼らの席へ運ぶ。小声ながら一生懸命、取り持っている気配が手に取るようにわかった。
ところで、その料理だが、舟遊山のときをさらに上回るほど内容は豪華であった。藤枝の手を介して、絵島はあらかじめ今日の入費を後藤の手代に渡してある。人数分の弁当や芝居の木戸銭なら、それだけで充分なはずなのだ。しかし料理の皿数や贅沢さから推せば、足が出ているにちがいなかった。
桟敷にしても、後藤は二階正面をぶっ通してぜんぶ借り切ってしまったし、座元の山村長太夫はもとより当日出演する主《おも》だった俳優たちに、
「絵島さまからだよ」
と言い添えて、じつはたっぷり纏頭《はな》までばら撒《ま》いてある。すべてゆったりと、快適に、半日の観劇を愉しんでもらおうとの配慮からだが、役者への心付けなど、こんな場合の常識でもあった。
絵島にしろ宮路にしろ、江戸の町育ちではあるものの下情には疎《うと》い。籠の鳥同然な御殿勤め、大奥ぐらしを長年月つづけてきているので、物価に対する知識に少しずつ、ずれが生じていたし、みずから金を払って買物をするなどという体験にも乏しい。そういう意味では、深窓の姫ぎみに劣らぬ世間知らずなのである。
絵島はまして、芝居町でのしきたりになど通じていない。纏頭をやることに気づいてすらいなかったが、栂屋善六の菓子やくだものと同じく、料理に後藤の援助が加わっているらしいとは察しがついた。
宮路も金子《きんす》を出している。絵島にならって、これも藤枝に渡してあった。しかし、それにしろ豪勢すぎる。後藤が、たんなる手伝いにとどまらず、それなりに金を使っているのは明白だった。
(でも、そのくらいは、して当り前……。さしてもよかろう)
と絵島も宮路もが思っていた。呉服所《ごふくどころ》の筆頭をつとめ、奥、表で使用される厖大な布地反物の、納入の大半を受け持つ豪商である。目先のそろばん勘定など、けちくさい下心からではなく、日ごろ何かと世話になっている礼のつもりで芝居見物や宿さがりのおりに、もてなしをしようというなら、
(好意を受けたところで、よいではないか。後藤の身代《しんだい》……。蚊にくわれたほどの痛みでもあるまい)
とも多寡《たか》をくくった。
日ごろ殿中で、美味には飽き満ちている。どれほどの佳肴が並ぼうと、いまさらそんなことに驚きはしなかったし、
(ともあれ、費用の大部分は出しているのだ。後藤の奢《おご》りに、すべておぶさったわけではない。たかりでも、けっしてない)
とする自尊心も、絵島たちを支えていた。
藤枝に預けた金――。まちがいなく、後藤の手代たちに、
(それは渡されているはず……)
そう信じて疑わなかったところに、絵島や宮路の過誤があった。
じつは金など、ビタ一文清助たちは受け取っていない。したがって栂屋が受け持った茶菓子のほか、この日の支出は全面的に後藤家が引き受けたのだが、行き違いのからくりを洞察する眼が、絵島にはなかった。藤枝という女を信用しきっていたせいである。
御小人たちとの悶着も、酔いが回りはじめるにつれて忘れてゆき、だれの気持もこころよい解放感に浸された。若い腰元たちは舞台を見るのと食べるのと、両方に忙しく、役者たちのちょっとした仕草にさえ夢中になって喝采した。
『東海道大名曾我』という狂言は一般には不評であった。よろこんでいるのは、めったに戯場になど足を踏み入れる機会のない奥女中だけで、
「つまらない。不出来な芝居だ」
というのが大方の評言だったのである。それが証拠に、階下は枡席も土間も、入りは半数に満たない。
「正月興行にこの客足では、末つぼまりになるばかりだ。狂言を差し替えよう」
と表方、裏方とも衆議一決し、演目の選定にかかっていたやさきだけに、華やかな女性客が大人数で見物に来てくれたのを太夫元《たゆうもと》はよろこんだ。
後藤が金主《きんしゆ》だけに、金もふんだんに出ている。福の神の降臨のようにも思うのか山村長太夫は入れ代り立ち代り、幕間に役者をつれて出て絵島たちに引き合わせた。
出番の終った者は化粧を落としているが、こってり紅《べに》白粉《おしろい》をつけた舞台顔のまま罷《まか》り出る者も多い。中には扮装を変えずに走ってくる役者もいて、そのたびに腰元たちは歓声をあげた。舞台と桟敷、虚構と現実が入りまじって、夢幻世界に遊ぶような気持にさせられるのだ。
生島新五郎をまのあたりに見た瞬間、百合はしかし、ひそかな失望を味わった。遠目には、なるほど水もしたたる二枚目立役かもしれない。でも近くだと、四十四歳という年齢が皮膚のたるみ、手の甲のちりめん皺《じわ》などにはっきり出ていて、なまじ目鼻だちがととのいすぎているだけに、かえって痛ましく見える。
作法正しい挨拶の仕方に、浮いた稼業に似合わぬ謙虚な、まじめそうな人柄が現れ、新五郎は感じのよい男ではあった。渇仰《かつごう》者たちの熱い視線、甘い讃美の言葉に取り巻かれつけている人気絶頂の大名題《おおなだい》なのに、たかぶったところも少しもない。
うしろに、隠れるように坐って、つつましく手をつかえた女を、
「妻のお良でございます」
ほほえみながら新五郎は見返った。
「先ほど友碩隠居が、チラとお耳に入れたよしですが、絵島さまにむかし、おしたしくしていただいたお孝どのの妹でして……」
「そうだそうですねえ。お姉さまにそっくりですよ。ひと目でわかりました」
絵島もうれしげにうなずいて「達者でいるか、宿屋のお内儀になられたと聞いたが、お子は生まれたか」などと、あれこれ古朋輩《こほうばい》の近況を訊《たず》ねた。内気なたちらしく、頬を赧《あか》らめて口ごもるお良を、新五郎がそれとなく庇《かば》って、返事をおぎなってやる姿にも夫婦仲のむつまじさが読み取れる。
「お近づきのしるしに何ぞ差しあげたいけれど……」
絵島はいまさらのようにそこに気づいて、身の回りを見まわした。でも町家の女たちとはちがう。紙入れや財布のたぐいを身につけてはいない。何ごとによらず、金の支払いなど自身でする必要はなかったから、いざ祝儀を包もうとすると鳥目《ちようもく》一枚、所持しないありさまなのであった。
「さて、困った。どうしたらよかろう」
と、あわてる片脇から、
「おみ帯をおつかわしあそばしませ絵島さま」
すかさず、こころづけたのは使番の藤枝であった。
六
「この帯を?」
「はい。町方の女房なら涎《よだれ》のたれるはやりの柄でございます。お良どのとやらへ贈られるには、うってつけとぞんじますよ」
どのような品が、いま江戸や上方で流行しているのか、絵島はよく知らない。大奥には身分職種、夏冬の変化によって衣裳に決まりがあり、自分の好みで勝手なものを着ることはできなかった。
たとえば中臈に例をとると、式日の小袖は綸子《りんず》、夏は辻模様《つじもよう》、春は絹縮《きぬちぢみ》、盛夏にかかると越後縮というように地質まで一定している。辻模様にしても、茶屋辻か後藤家で納める本辻の二種……。そのほかは禁じられていた。
しかも、その本辻の場合、中臈以上の上女中では表地はかならず晒麻《さらしあさ》、金銀、色糸で繍《ぬい》をほどこした総模様となり、下襲《したがさね》は袖口に紅羽二重《べにはぶたえ》、衿芯《えりしん》には白羽二重を用いるといった微に入り細にわたる規式《きしき》に、がんじがらめにされている日常なのである。
儀式、行事、衣更えや公的な外出などのたびに、決まり通りの服装にいっせいに着替えるという作業を、いかに正確に、まごつかずにやるかが、御殿女中の重大な仕事といってもよいくらいだから、町ぐらしの女たちのあいだに何が流行しようと、関心はさしてないのであった。
だれもが貯えは潤沢なので、宿さがりのときに着る町着などは、よいものを惜しみなく買うけれども、それとて城中出入りの呉服商に、
「いまのはやりは、これでございますよ」
とすすめられて、言いなりに求めるにすぎない。
お良がよろこぶなら、絵島も帯ぐらいやるのに、やぶさかではないが、
「わたしの着物がはだけてしまいますね」
と、笑った。藤枝も笑顔で、
「代りにそれ、そこな御亭《ごてい》どのの帯を召しあげておやりなされませ」
そそのかすように言う。
さすが綺羅《きら》を飾る人気商売だけに、生島新五郎は綴《つづ》れ錦らしい上質の帯をしめていて、色合いや織り柄の趣味もよかった。
「ではお良さま、これを……」
くるくると無造作に解いて、絵島はこれも、見るからに高価そうな女帯をお良の膝先へ押しやった。
「当座の引出物です。今日はじめて締めたおろしたて……。ご普段着に使ってください」
「もったいない。姉のお孝に見せたあとは家宝とも思って、末ながく大切にいたします」
と、まだ絵島の肌のぬくもりが残るそれをお良はおしいただき、新五郎も自身の帯を解いて絵島に渡した。
「お城へもどられるまでの紐《ひも》がわりでございます。ご用が済み次第お捨てくださいまし」
男物だけに幅がやや細めだし、地味でもあったが、新五郎の帯は絵島の風流小袖によく似合って、
「まあ、うらやましい」
女中たちの間にどよめきを起こさせた。
贔屓と役者が、持ち物を交換するのは、親愛の度合いがそれだけ深い証《あかし》とされており、ことに相手が大名題ともなると、金を湯水さながら使う上客にだけ限られた愉悦《ゆえつ》だった。
「生島新五郎の帯なら、それこそが宝物ですわ絵島さま、今日の観劇の、よい記念になりましたね」
「そう言う宮路さまだって、いつぞや坂東梅之丞座を見物したとき、きれいな若衆と扇の取り替えっこをなさったではありませんか」
「皆川初之助ね。ですけどあの子より、この座の若《わか》女形《おやま》の……あれは何という役者ですか新五郎どの。化粧坂《けわいざか》ノ少将に扮した美男……」
「玉沢林弥でございましょうか」
「そうそう、林弥林弥。あの役者のほうがずっといいわ」
気の多いことを宮路は言う。
「おやおや、初之助が聞いたら焼きもちをやきますよ宮路さま」
「わたしは花車方《かしやがた》の、袖岡政之助と口をききたい」
「わたしは富沢半三郎。赤ッ面の朝日奈役が、男らしくて素敵ですもの」
「ほほほほ、吉川どののお好みは渋いのねえ」
がやがや言い合って、あたりかまわぬ派手な笑い声など立てるのは、だれもがしたたかに酔いはじめた証拠であろう。和事師では天下一品と世評の高い生島新五郎の生身を、手のとどく近さで目にしているたかぶりも、女たちの心理を酩酊状態の妖しさに誘い入れたのかもしれない。
「絵島さま、新五郎のその帯、黄金三枚で買いましょう」
つねづね行儀を崩したことのない梅山までがふざけかかるのに、絵島も釣られて、
「いいえ、千両箱を山と積まれても、この帯は譲りませんよ」
小娘のようにはしゃいだ。
「わたくしは舞台のつづきがございますので、これにて失礼いたします。どうか打ち出しまでごゆるりとご見物くださいませ」
身だしなみのために焚きしめた香《こう》の薫りだろうか、さわやかな匂いを残して新五郎はやがて座を立ち、妻のお良もその背について階下へ去って行ったが、次の幕間には玉沢林弥や袖岡政之助、市川団十郎ら売り出し中の若手が揃って挨拶にやって来たので、桟敷にはいっそう賑やかな弾みがついた。
「そらそら、百合さんのお目当ての成田屋が現れたわよ。もっとそばへ寄りなさい」
お勢以に突きとばされた百合が、
「知らない知らない」
ムキな口ぶりで否定しながら腰元仲間のうしろへ隠れこんだので、
「あら、百合は団十郎に熱をあげてるの?」
「すみにおけないわね」
と宮路や梅山、絵島たちにまで、からかわれる結果になった。
それでなくてもさまざまな思い出にふけって、百合はさっきから半ば夢見ごこちだったのだ。もう足かけで言えば、十年も前になる。百合は八歳だった。伯父の奥山交竹院に引き取られてまもなく、絵島に誘われて、この山村座にやって来た。生まれてはじめて入った芝居小屋――。白井平右衛門と佳寿夫婦、白井家の女中や家士も供をして一階の枡席に陣取ったけれど、
(場所は、あのあたり……)
と、いまでも指さすことができる。
(そして二階の、ちょうど真上に当る脇桟敷に、稲生家の人たちがいて……平右衛門さまと喧嘩になったんだっけ)
おかげで芝居見物などどこかへ吹きとび、稲生文次郎との見合いも毀《こわ》れて、百合は絵島と一緒に中途で山村座を出てしまったが、この日見た団十郎の舞台姿は、はっきり記憶に刻みついている。
(父親を楽屋で殺された若者……)
哀れみながら聞いたので、ことに鮮明に、二代目襲名の披露口上が耳に残っているのである。
たしかあのとき、十七歳だったはずだから、十年たった現在、市川団十郎は二十七になっている勘定だ。お勢以からのまた聞きによれば、好調だったのはすべり出しだけで、その後、団十郎の評判はいま一つぱっとしないらしい。
「実力の世界ですからね、同情や親の七光りは通用しないのよ」
とお勢以の評価も手きびしい。
「初代を刺して、自分も自害した生島半六って役者は、新五郎の門弟でしょ。けっく乱心ということで片がついたようだけど、半六の罪を償うつもりで、新五郎はずいぶん二代目団十郎に肩入れしてやったそうよ。でも、なぜか人気がもりあがらないのね」
「下手なの? 芸が……」
「若手の未熟は仕方がないわ。団十郎には、つまり花がないのよ」
初代の未亡人は夫の横死後、法体となり、栄光尼と号していたが、
「これが気の強いお婆さんでね、二代目に訓誡を垂れたんですって……。『亡くなったお前の父上は、年に八百両も取る役者だった。その倅がペエペエ役に甘んじているのが辛《つら》い。わたしはお前が、せめて百両の給金を貰うほどの立役になるまで、けっして舞台を見に行かないよ』って……」
「へええ。きびしいおっ母さんねえ」
そんな話に重ね合わせて眺めるせいか、団十郎の今日の舞台は百合のような物知らずの目にも、なんとなく大根じみて映る。「成田屋と並ぶとお似合いよ」などと朋輩どもに囃《はや》されると、だから百合は無性に恥かしく、腹立たしくさえなるのであった。
七
団十郎のほうは、けろりとしていた。若い女客にはもてない自分なのだと、はじめからあきらめてしまったような超然とした顔で、玉沢林弥や袖岡政之助ら人気者の背後に落ちつき払って控えている。卑屈な様子はすこしもないし、僻《ひが》んでもいない。あべこべに、年中ちやほやされつけて、それを、
(当りまえ……)
と心得ている林弥たちが、精いっぱい世辞や愛嬌をふりまきながら腰元連中の差し出す女扇に紅筆などで下手《へた》な発句を書きとばすのを、よそごとのように見物している図は、坐り背が高く、筋肉質のがっしりした体躯と相俟《あいま》って、これはこれでいっぱし晩成型の大物に見えた。
そんな団十郎も、百合がまわりの女中たちにしきりに冷やかされ、しかもどうやら、その対象が、
(自分らしい)
とは、やがて気づいたのだろう。めったにない艶《あで》やかなご贔屓さまの出現を、役者|冥利《みようり》と感謝して、にっこり笑いかけると、
「わあ百合さん、成田屋があなたを見てるわよ。さあさあ、もじもじしてないでもっとそばへお寄りなさいったら……」
と、嬲《なぶ》り声はひときわ高くなった。
居たたまれなくなって百合は逃げ出し、階下への段梯子《だんばしご》を、いっそく跳びに駆けおりてしまった。われながらお転婆《てんば》だと思ったが仕方がない。足が縺《もつ》れ、胸もどきどきする……。
(十年前と同じだ。絵島さまが、あのしたたかそうな稲生次郎左衛門夫婦を向こうに回して、啖呵《たんか》を切った。そして、呆気《あつけ》にとられている稲生家の人たちを尻目に、わたしの手を掴んでとっととこの階段から、小屋の外へ出ておしまいになったんだっけ……)
あのときも、今に負けないくらいひどい動悸《どうき》が打っていた。
(でも、胸はすっとしたわ。『あなたと祝言する気はありません』……そう、きっぱり絵島さまにきめつけられて、ベソをかきそうになった文次郎どのの顔! 見ものだったな)
未練たらしく、それでも絵島を思い切れずに、百合が使いに出る折りを一ツ橋御門の堀のきわ、御蔵の土塀のかげなどに佇《たたず》んで、じっと待ち伏せていた稲生文次郎である。
(どうしているか)
いくら何でもあきらめて、もう妻をめとったのではないか。もしかしたら子も生まれているのではないか。
――そんな想念が、とりとめなく湧きあがっていただけに、
「あッ、あの人……」
動悸どころか、心臓そのものが止まるかと思うほど百合は驚愕した。稲生文次郎そっくりな横顔を、チラと人混みの中に見かけたのである。
「まさか……」
信じられない。
幕間なので廊下はごった返している。溢《あふ》れ出てきた観客のあいだを、茶屋の奉公人や中売りの小《こ》商人《あきゆうど》が、斜《はす》かいに身をねじりながら縫って歩いていた。すばやく百合は、階段下の暗がりに潜んだ。顔だけを、ほんのわずか覗かせていま一度、よくよく見定めてみたが、やはり文次郎にまちがいない。
偶然だろうか。稲生文次郎も芝居好きで、今日たまたま、山村座へやってきた、そして絵島たちの観劇にぶつかった、ということだろうか。
(でも、それにしては符節が合いすぎる)
文次郎はよそながら絵島の姿をかいま見たくて、わざわざ山村座へ来たにちがいない。
(では、だれがそれを報せたのだろう)
不審が晴れぬままその動きを目で追ううちに、百合はさらに、意外な情景を目撃してしまった。
何者かに向かって、文次郎が小腰をかがめたのだ。
(知人にでも遇ったのか)
と近づいて行く人間の後背《うしろぜ》へ視線を射つけた瞬間、百合はあぶなく、声をあげそうになった。ほんのふた言《こと》か三言だが、文次郎のかたわらへ寄って、なにごとか話を交したのは藤枝であった。
(ご一行が今日、芝居見物をなさることを、稲生文次郎に耳打ちしたのは、さては藤枝どのだったのか)
二人は知り合いなのか。と、すれば、どのような関わりを持つ間柄なのだろうか。考えだすと、あとからあとから疑問が湧きあがってくる。
(とにかくこのことは折りを見て、絵島さまのお耳に入れておかなければ……)
藤枝はすぐ、人ごみにまぎれてどこかへ行ってしまったが、文次郎はもとのところに立ったまま所在なげにあたりを見回していた。
(あの人の居場所はどのへんかしら……)
勘づかれないように、そっとあとをつけてみようか――そんな思案をめぐらしていた百合は、
「隠れんぼでもしていらっしゃるんですか?」
声をかけられて、ギクと振り返った。市川団十郎の長身が、二、三歩の近さに立っていたのである。
「なんだ、あなたでしたの」
「なんだとは、ご挨拶ですな」
団十郎は笑った。まっ白な歯並びが爽やかな、人なつこい笑顔であった。
「女客で『成田屋が好き』などとおっしゃってくださる変り種は、めったにいません。ましてあなたみたいな、若い、可愛らしいお腰元に立て引いていただけるなんて、身に余る光栄ですのでね、ひとことお礼を申そうとさっきからお探ししていたんです」
「冗談ですわ」
困って、百合は弁解した。
「わたし、お芝居なんて、生まれてからまだ三度しか見たことがないんです。今日のこの、山村座でしょ? それからこの前、絵島さまのお供で行った市ケ谷の坂東梅之丞座でしょ? いま一回は小さいころ、やっぱり絵島さまにつれて来ていただいた山村座ですわ。そのときの狂言が、成田屋さんの二代目団十郎襲名興行だったと話したら、朋輩たちがからかって、勝手にあなたを、わたしの贔屓役者にきめてしまったんですよ」
躍起になって言えば言うほど、相手を傷つける結果になるのに百合は気づかない。
「やあ、うれしいな、襲名のときの芝居を見てくださったんですか?」
と、団十郎は意に介さない顔で、率直なよろこびを口にした。
「あれはたしか『平安城|都定《みやこさだめ》』でしたね。わたしは竜虎之助荒王に扮して、大立ち廻りを演じたっけ……」
「そうよ。亡くなった先代が、十四のとき初舞台で着て出たという形見の衣裳をつけて……。伝教大師になって出た老役《ふけやく》がいたでしょう?」
「宮崎伝吉さん」
「あの人が大師の扮装のまま、あなたの襲名披露口上を述べたときは、あちこちで見物が貰い泣きしていましたよ」
「よく覚えていてくださったじゃありませんか。ありがたいなあ」
「わたしも、子供ごころに、ほろりとさせられましたもの」
「まったくあのときは親爺《おやじ》に急死されて、途方にくれたもんです」
そう言いながら頭上へ目をやって、
「それにしても、なぜこんな階段下なんぞに身をひそめておられるんです? まさか本気で、隠れんぼしてたわけではありますまい?」
団十郎は首をすくめた。みしみし、がたがた、ひっきりなしに登りおりする足音が響き、耳ざわりなことおびただしい。
「隠れんぼだなんて、ずいぶんね。あなたとのことを朋輩たちに、なんだかだ冷やかされるのが嫌で逃げ出して来たんじゃありませんか」
と百合は膨《ふく》れた。
「すみませんねえ。でもさ、瓢箪《ひようたん》から駒という譬《たと》えもあるでしょう。事のついでにもうひと踏んばりして、本当に成田屋のうしろ楯になってくださいよ。きれいなご贔屓がついていると思うと、わたしも舞台に張り合いが出ますからね」
「いやよ。あなたを好くってことは、とても風変りなことらしいわ。友だちに変人扱いされるのは、まっぴらですものね」
「まいったなあ」
気の練れたたちとみえて、無遠慮な百合の言葉に団十郎は腹を立てる気配もない。お茶っぴィな妹の悪態《あくたい》を、面白がって聞いている兄貴みたいな口ぶりで、
「とにかくここはうるさい。楽屋の、わたしの部屋にいらっしゃいませんか」
誘った。
「楽屋?」
ちょっと興味をそそられたが、
「だめだめ、わたし、用があるからこそ、ここにいるんですもの」
にべもなく百合はことわった。
「何のご用?」
「人を……」
見張っているのと言いかけて、思わずあんぐり、百合は口をあけてしまった。団十郎とのお喋りに気をとられているまに稲生文次郎の姿を見失ったのだ。
八
「そうですか。どうしても、階段下がいいとおっしゃるなら待ってくださいよ」
隅に積み上げてある縁台|床几《しようぎ》を団十郎は一脚、かるがると取りおろし、
「埃《ほこり》だらけだな」
紋のついた羽織を惜しげもなく拡げて、
「さあ、お掛けなさい」
と百合にすすめた。一方は壁、一方は廊下――。あいかわらず廊下には人の往き来が絶えないが、物置きじみた薄暗がりに床几を据え、壁に向かって腰をおろすと、若い男女がいるのは見えても、その一人が成田屋だとまで気づく者はいない。
「役者には位があるんですって?」
「そう。角力《すもう》の番附みたいなね」
「あなたは下のほう?」
「いいえ、上のほう。上々吉ですよ」
「おみくじなら吉か大吉を引けば良いわけでしょ? 上吉の、もひとつ上の上々吉なら名人ね?」
「ところがもっと、上には上があってね、上々|白吉《しろきち》というのもあるし功《こう》上々吉、極《ごく》上々吉、至《し》上々吉、白至《しろし》上々吉なんて位まであるんです」
「まあ、ややこしい。そんなに細かく分かれているの?」
「一寸《いつすん》刻みにしか上へあがれない。役者って稼業も、これでなかなか辛気《しんき》なものなんですなあ」
「他人《ひと》ごとみたいにおっしゃるのね。しっかりなさいな。あなたのおっ母さんは、年に百両の給金を取るようになるまで息子の舞台を見ないって、口惜しがってるそうじゃありませんか」
「ますますまいった。お袋のことまでご存知とはね」
「友だちが話してくれたのよ」
「何をやっても先代と較べられてしまうんです。偉すぎる親爺を持つのもよしあしですな。並以上にがんばらないと世間さまが承知しない。ところがわたしの出来は、ごく並ひと通りときています」
思わず百合は笑ってしまった。まじめな表情でとぼけたことを言う団十郎が、どうにも憎めない。
「お父さんは災難でしたねえ、狂人の刃《やいば》にかかってお果てなされたなんて……」
「それがね、そうじゃないんです」
声を低めると、周囲の喧騒で聞き取りにくくなる。ならんで腰かけていた間合《まあ》いを、頬と頬が触れあうほど双方が無意識に詰めたが、団十郎も百合も話に夢中だった。
「取り調べが面倒になるのを避けて、乱心ということで片をつけてしまったけど、下手人の生島半六は正気でしたよ。父を刺し殺したのは遺恨からなんです」
百合は目を瞠《みは》った。
「ほんとう?」
「芝居町の者なら、呼び込みの河童《かつぱ》だって知ってることですよ」
「半六とやらは、何を恨んだの?」
「まだ七ツか八ツの半六の小倅をね、親爺が家に預かってやっていたんです。ほんとなら、自分の師匠の生島新五郎さんに仕込んでもらうのが筋なんだが、半六は子供の下地《したじ》が、荒事に向いていると判断したんでしょうね。ところが、ある役者の後家さんと半六め、いい仲になってしまった。よくあるやつです。もともとその役者と半六は、兄弟分同様のつき合いをしていたから、病中の世話から死後の始末まで、なにかと後家さんの相談に乗ってやっているうちに、つい、両方ともが情にほだされたってわけでしょう。それをうちの親爺さん、烈火のごとく怒って、『汚《けが》らわしい男だ。不義者の息子を預かるのはごめんこうむる。師弟の縁も切る』……そう言ってね。子供を追い出してしまったんですよ」
「半六さんには、おかみさんがいたんでしょう?」
「いいや、二、三年前に別れちまって、半六のほうも独身でした」
「それなら不義でも密通でもないじゃありませんか」
「そうですとも。やもめ同士、ちょうどいい組み合わせなのに、初代団十郎という人にはそのへんの道理が通じないんです。なにせ酒は一滴もやらぬ煙草はのまぬ、妻女のほかは女道若道《によどうにやくどう》、一生|不犯《ふぼん》で通しますと神仏に誓紙を捧げるような気質ですからね、男女のこととなるとただ、やみくもに汚らわしいの一点張りなんですなあ」
「役者さんには珍しく堅いかただこと」
「堅いの堅くないのって、出来そこないの岩おこしですよ。まるっきり歯が立たない。霙《みぞれ》の降る夜だというのに、お袋やわたしが止めるのもきかずに罪もない小倅を叩き出した。子供はずぶ濡れになりながら泣いて帰ったんですが、風邪を引き込んであくる日から囈《うわごと》を口走るほどの高熱です。とうとう死んでしまいました」
「可哀そうに……。その恨みで演じた凶行だったのね」
廻りの柝《き》が、このとき聞こえた。開演がま近いことを告げる合図である。
「あら、はじまるわ。成田屋さん仕度をしなくていいの?」
「わたしは次の幕には出ません。でも、あなたは芝居をごらんになりたいのでしょう?」
団十郎ともっと話をしていたい。舞台よりそのほうがよいと百合は思いはじめていたが、桟敷へもどらなければ怪しまれて、お勢以をはじめ腰元仲間に根掘り葉掘りされるのは知れきっていた。
「行きたくないけど……やっぱり行きますわ。二階へ……」
「どうぞそれでは、これをお持ちください。お近づきのしるしです」
と団十郎が差し出したのは、紫地に白で三升《みます》を染め抜いた縮緬《ちりめん》の小袱紗《こぶくさ》であった。
百合はうろたえた。たった一人でもいい、変り者と嗤《わら》われたってかまわない、及ばずながら成田屋を応援しようと決めただけに、袱紗を贈られて困惑してしまった。
贔屓をもって任じるなら、客のほうこそ、たいまいな祝儀とやらを、ぱっと景気よく役者にくれてやるのがこの世界でのしきたりではないか。
(扇子ではお粗末だし筥迫《はこせこ》には紅《べに》やら懐紙やら、小物がごたごた詰めこんであるし、挿し櫛がなくなれば目ざとい朋輩たちにまた小うるさく穿鑿《せんさく》されるだろうし、お金の持ち合わせもないわ) 何をやったらいいだろうと、いまさらのように身の回りを眺めまわしたとき、その狼狽を見すかしでもしたようにいきなり現れて、
「これをあげますよ百合さん」
助け舟を出してくれた人物がいる。今の今まで、所在を見失っていた藤枝であった。
「まあ、藤枝さん、どこにいらしたの?」
「そこよ、廊下の曲り角……。成田屋さんとあんまりむつまじそうに話しこんでおられたので、声をかけそびれてしまいました」
見張ってやるつもりだった相手に、あべこべに監視されていたというのは緊《しま》らない話だが、渡してくれた紐付きの塗りの小箱の美しさは、百合を無条件によろこばせた。
「いただいていいのかしら……」
「どうぞ。わたしは頭痛持ちなので、薬をそれに入れて出歩くんです。印籠《いんろう》では男っぽいでしょう」
「時にとっての救いの神ですわ。では遠慮なく頂戴します。……はい、成田屋さん、これがお袱紗のお礼にさしあげる引出物よ」
右から左へ渡されて、
「無邪気な人だなあ、百合さんて……」
団十郎は愉快そうに笑った。藤枝の呼びかけを小耳にはさんで、すばやく百合の名をおぼえたらしい。小箱には金漆《きんうるし》で杏葉牡丹《ぎよようぼたん》が描いてあるが、
「さる高貴なお方からの、拝領品です」
と藤枝が言う通り、それはいかにも由緒《ゆいしよ》ありげな紋どころに見えた。
九
二階の正面桟敷にもどってみると、栂屋善六の取りもちで座は浮き立っていた。たったいま演じた役者たちの声色や身振りを、臆面なく真似てみせるのだから図々しい。へたくそなのも、ご愛嬌であった。
「玉沢林弥の化粧坂ノ少将は、そんなガラガラ声じゃないわ」
「ちっとも似てなんかいないじゃないの栂屋さん、それで声色だなんて、よく言えたものね」
容赦なくやりこめられながら、
「では林弥は引っこめて、ぐっと渋く、親仁方《おやじかた》の四ノ宮源八とござァい」
口三味線まで添えての熱演をやめない。絵島までが笑いころげるさわぎに、後藤の手代らも負けてはいられないと思ったのだろう、次郎兵衛の口上附きで清助が林弥の物真似をやり直し、これはどうやら女形になっていて、
「いよッ、日本一」
女中たちの嬌声を浴びた。
飲みすぎ、食べすぎて、中には苦しそうに帯紐をゆるめる者もいるし、宮路と吉川がいないのは悪酔いしたため、作者の中村清五郎ら芝居関係者が茶屋に附きそって行って、座敷で休ませているのだとも聞いた。
もどって来た百合を目ざとく見つけて、
「どこへ雲隠れしてたのさ」
お勢以が訊《き》きほじりかけたが、
「木戸口で外の風に当ってたのよ。みんなに嘲弄されて、のぼせたから……」
何くわぬ顔で百合は衿の合せ目を抑えた。団十郎から貰った紋入りの袱紗が、宝物さながら懐中に納まっている。
「階下《した》であの人と話をしていたこと、みんなに言い触らさないでくださいね」
こっそり念を押す百合に、
「黙ってますとも。袱紗のことも小箱のことも……」
受け合ってくれた顔は、いつもの通りたのもしげな藤枝であった。
「高貴な方から拝領した箱だとおっしゃってたけど、わたしが頂いてもよろしかったのでしょうか? それをまた、ごらんになっていたように、わたしは成田屋にやってしまいましたが……」
「かまわないのよ百合さん。むしろ、あなたと成田屋の恋の橋渡しに役立って、あの小箱は満足してるはずですわ」
「いやだ、藤枝さんたら恋だなんて……」
「ほほほほ、赧《あか》くなった。正直ね」
「困ります。今日はじめて口をきいた人なのに……」
「嘘よ。冗談よ。ただ団十郎に肩入れしてやる気を起こすのは、百合さん、なかなか見巧者だわ。あれはいずれ伸びますよ」
「百両取れる役者に、いつかはなれるかしら……」
「なれると思います。受け合うわ。げんに二、三年前だったかしら、『傾城《けいせい》雲雀山《ひばりやま》』という狂言で久米《くめ》八郎に扮して、艾《もぐさ》売りの長《なが》科白《ぜりふ》を音吐《おんと》朗々やってのけたときなどは、大向こうを唸らせたそうだし、去年、やっぱりこの山村座で三ノ替《かわり》の『花屋形愛護桜《はなやかたあいごのさくら》』の助六を演じたときも評判だったようね」
「さすがは藤枝さん、芝居|通《つう》だこと」
「見たわけじゃないのよ、わたしだって人からの聞きかじりだけれど、華魁《おいらん》の総角《あげまき》が林弥、白酒売り新兵衛が生島新五郎、花川戸の助六が団十郎なのだから、きっとよい芝居だったにちがいありませんよ」
「どんな狂言なの?」
「筋は他愛ないのよ。『愛護若』の焼き直しだから……。ただ廓《くるわ》での鞘当《さやあて》は、新しく書きたしたらしいわね」
作者は津打治兵衛――。
元禄年間に、髭《ひげ》ノ無休と仇名された髭男の遊民がい、戸沢なにがしというこれも男|伊達《だて》相手に吉原で撲り合いを仕出かした。
実際にあったこの事件を種にして、無休を意休、戸沢を花川戸の助六と変え、遊女はそのまま総角の名で登場させて津打治兵衛が書きおろした二番目狂言だが、もともと団十郎の人《にん》に当てて作った場だから、助六が引き立つよう工夫してある。仕どころや見せ場も多い。団十郎自身、いろいろ新趣向を凝らしもした舞台だけに、玄人《くろうと》すじには、
「見ごたえがある。こののち助六は、成田屋の持ち役になるのではないか」
と好評であった。
「だからさ、その気になって励めば、やがては団十郎も、百両が千両だって取れる役者になれるはずですよ。殺された初代はね、当時八百両の高給取りだったんですって……」
「そうですってね」
「前代未聞の待遇だったらしいわ。だって百合さん、いま江戸一番の和事師と讃めそやされている生島新五郎が、いくら給金を貰っていると思う? 年に二百両かそこらよ」
「へええ」
「それから坂田藤十郎……。この人は上方で、不世出と折り紙つけられていた名優だけど、一生涯、とうとう五百両で頭打ちだったそうですものね。どれだけ初代団十郎の給金が破格だったかわかるでしょう」
「二代目がいくらがんばっても、到底、お父さんほどの高給取りにはなれないわね」
「それはわかりませんよ。でも母親の栄光尼が、『せめて百両貰える役者になるまで、お前の舞台を見ない』と言った話は、お勢以さんから聞いたでしょう? と、すると、二代目団十郎の今の給金は……」
「つまり百両にすら、遠く及ばない……」
「そういうこと」
と可笑《おか》しそうに藤枝は言う。百合はしかし、団十郎が哀れで笑えなかった。
「親が偉すぎると苦労しますよ」
そう喞《かこ》ち顔に述懐したのも、なるほど、これでは無理もないと、ひそかに同情したい気持になった。
二度目の柝が入り、次の場の幕がこのとき引かれた。だれもの目がたちまちまた、舞台に吸い寄せられたが、手すりから身を乗り出して百合が階下をいくら見回しても、どこにいるのか、稲生文次郎らしい武士の姿を捉えることはできなかった。
そのうちにいつのまにか百合も役者たちの動きに惹《ひ》き込まれ、文次郎の存在など意識の外へ追いやってしまった。差し替えを検討中の、つまらない曾我物なのに、二階桟敷の女中たちだけはくい入るような視線を新五郎の十郎|祐成《すけなり》、林弥の遊君がくりひろげる濡れ場に、ぴったり当てつづけて、
「いいわねえ」
「なんてきれいなんでしょ」
手ばなしの礼讃を溜め息まじりに口にする。座元にとっては、ありがた涙がこぼれそうな熱心な見物だが、その陶酔をいきなりぶちこわしたのは、
「そろそろご帰城なさいませ」
促《うなが》しに来た御小人の無情な一言だった。
「おや、もうそんな時刻ですか?」
絵島は眉をひそめた。
「せっかく佳境にはいりかけた所なのに……」
感興を醒《さ》まされた味けなさが、語調にありあり滲《にじ》んでいる。腰元たちもいっせいに、
「残念だこと」
「ここで立つなんて……」
不満を口にした。
廊下の敷居ぎわにかしこまったのは、桟敷に同席する、させぬで、宮路や藤枝相手に諍《あらそ》った中島久左衛門である。
十
中島はじめ四人の御小人も芝居をもっと見ていたい。中途で打ち切って帰りたくなどなかった。しかし刻限すぎるまで黙っていて、万が一、
「当方がうっかりしていたら、心づけてくれるのがそなたたちの役目ではないか。なぜ、そしらぬ振りをしていたのか」
などと叱責されてはまずい。
(言うだけのことは言わねば……)
そう思って催促したのだが、絵島はあきらかに舞台に執着しているし、腰元どもに至ってはさらに未練たっぷりな顔で、中島を恨めしげに睨みつけさえする。
「いや、念のために申しあげたにすぎませぬ。まだ、じゅうぶん間に合うと思召せば、急ぐ必要はございません」
言い捨てて、さっさと中島は屏風囲《びようぶがこ》いの内側にもどって行ってしまった。
(一応、注意はしたのだ。あとは門限に遅れようとどうしようと、聞き入れなかった連中の咎《とが》だからな)
と目まぜでうなずき合って、むしろそれからは腰を据えて御小人たちは飲み出した。しかし絵島は、中島が現れてから役者の演技が身に沁《し》まなくなったらしい。
「惜しいけれど、やはりこのへんで打ち切って引きあげることにしましょうか」
相談されて、
「それがよろしゅうございます」
気の小さな梅山は一も二もなく同調した。
「宮路さまがたのご容態にもよりますが、だれか、ご様子を見てきてくれませんか」
その言葉が終るか終らぬうちに、
「わたくし、まいってみましょう」
立ったのは藤枝であった。そして、待つまもなく引き返して来て、
「吉川どのはともかく、宮路さまはまだ、だいぶご大儀そうでございますよ」
と告げた。
「それは弱った。乗物にも耐えられぬほどですか?」
「いま揺られたら、胸のむかつきがぶり返すと仰せられております。でも梅山さま、じつはそれは口実でして……」
「口実?」
「わたくしがお見受けしたところ、宮路さまはどうやら、次の幕間を待っておいでのようでございますわ」
子供のいたずらを、こっそり母親に打ちあける乳母のような口ぶりで、藤枝はおもしろそうにすっぱぬいた。
「お気に入りの袖岡政之助を、見舞いにこさせるよう申しつけたそうで、山村長太夫がさっそく仰せの趣きを伝え、出番が終り次第、政之助を海老屋へつれてまいるよし……。ひと目、逢ってから帰りたいというのが、宮路さまの本音のようでございます」
「他愛ないことを……」
梅山と顔を見合わせて絵島は苦笑した。
「十六、七の小娘みたいなのぼせかたですね。この幕は、まだ当分つづくでしょうに……」
「いいえ、じき終るそうでございますよ。わたくし、念のために作者の中村清五郎にたしかめました」
「すぐ終るのですか」
「全場《ぜんば》を通して、いちばん短い幕だと申しております」
「それなら待ってさしあげましょう。ねえ梅山さま、観劇の機会など、いつまた、おとずれるかわかりませんもの。ご執心の役者にしみじみ暇乞いもさせなかったと、のちのちまで宮路どのに怨《えん》じられるのは辛《つろ》うございますからね」
「はい」
うなずきはしたものの梅山は苦りきっていた。宮路のわがまま、それを許す絵島の態度にも批判が疼《うず》いたが、口返しは控えて、やきもきしながら幕の引かれるのを待った。舞台への興味は薄れ、酒の酔いも醒めてしまった。ただ、ひたすら門限ばかりが梅山は気にかかる。すぐ終ると、藤枝が受け合ったはずなのに、次の幕間もなかなかこない。
(まだかまだかと焦るから、長く感じるのだろうか)
いや、そんなことはない、この幕はけっして短くなどない、さっきからもう四半|時《とき》もたったのに、袖岡政之助はまだ、舞台に立って犬坊丸を演じつづけているではないか。
(訝《おか》しい)
と思いはじめたやさき、中島久左衛門がまた、やって来て、
「かまいませぬか絵島さま。もし帰城が遅れて目附に詰問された場合、申し開きはもとより、責任もいっさい、こなたさまに負うていただくことになりますが……」
なじるような言い方をした。さすがに心配になって、いざというときのために言質《げんち》を取ろうとしたのだろう。保身に汲々としている小役人根性が、癇にさわったらしく、
「案じるには及びません」
冷ややかに絵島は言い放った。
「病人が出たために遅れたと申しあげれば、お許しいただけるはずです。あなたがたに迷惑はかけませんよ」
「ほほう、宮路さまがたはご病気でござりますか。女だてらに酒を飲みすぎて、反吐《へど》を突かれただけとぞんじておったが……」
言葉に棘《とげ》があるのは、すんなり芝居見物を許可してくれなかったことを今なお根に持っているからだが、とたんにカッと激して、
「無礼なッ、何という口のききようでしょう。それが御年寄に向かっての返答ですか」
またもや割り込んだのは藤枝であった。
「お詫びしなさい中島どの、こなた衆の分際で、絵島さまに毒づくなど沙汰のかぎりです。そのぶんには捨て置きませぬぞ」
眦《まなじり》を吊りあげたのは、これも先刻の喧嘩の余憤が収まり切っていなかった証拠だろう。中島は酔っていたから、
「捨て置かぬならどう召さる? なるほどわれらは、女中がたにすら顎《あご》で使われる微臣じゃが、両刀を帯びる者の端くれ。たかが使番にすぎぬ藤枝どのに、嵩《かさ》にかかった物言いをされるおぼえはない。無礼はどちらじゃ」
と青筋を怒張させた。
開演中だから、どなり声は階上階下に筒抜けに響く。お帰りらしいと聞いて飛んで来た山村座の者たちがあわてて仲裁に入ったが、藤枝と中島はのぼせあがって掴み合いも辞しかねぬ血相となった。
「いいかげんになさい二人とも……」
たまりかねて絵島が一喝した。
「子供ではあるまいし、場所柄をわきまえたらどうですか。言い争いなどしているまにも時刻は移る。ますます帰城がおそくなるではありませんか。さあ、急いで供揃いを申しつけなさい」
不承不承、これで双方が引き分けたが、お勢以や百合が走って海老屋へ迎えに行ってみると、宮路は盃を含んでいて、こんどは彼女が、座敷に根を生やしでもしたように動こうとしなかった。
「お立ちくださいませ宮路さま、もう皆さま、小屋の木戸口をお出ましあそばしました」
吉川ともどもなだめても賺《すか》しても、
「あら、次の幕間まで待ってくださる約束でしょ? 袖岡政之助が見舞いにくるのよ」
と坐りこんだままだ。
「それまでいては御門の刻限に遅れます。ご酒はおつもりになさいまし。ご気分が悪いのに、どうしてまた、召しあがりはじめたのか……」
非難口調になるのを笑って、
「ひと休みしたらすっきり癒ったのよ」
宮路は気持よさそうに手を振った。
「その代りせっかくの酔いがどこかへ行ってしまったので、清五郎に相手をさせて、新規まき直しに飲みはじめていたところなの」
「もう、お立ちにならなければいけません。清五郎さんも手を貸してください」
「いやよ、帰らない。力ずくで、どうしようというのさ百合、お勢以まで……」
もがくのもかまわず、後藤の手代たちにも手伝わせて手取り足取り、ようやく茶屋の表口へつれ出したが、
「政之助はどこ? なぜ見送りに来ないの」
と宮路は正体なかった。上体はふらついているし、両脇にしっかり寄り添っていなければ足も縺《もつ》れて、満足に歩けない。乗物は汐留橋のきわに置かれてあったから、そこまでは来たとき同様、徒歩である。すでに道の前後には絵島たちの姿は見えず、吉川も宮路の酔態に辟易《へきえき》したか、
「お先へ……」
と、そのあとを追って行ってしまったので、介抱役に回された百合やお勢以は、いっそうあせった。曳きずられて歩きながらも、
「政之助を呼んでよ。よう、清五郎」
駄々をこねつづけるので、往来のはげしい芝居町の夕風の中、人垣ができるほど宮路の姿は目立つ。
橋ぎわに先着していた人々は、はやくも乗物に移っていたが、梅山の苛《いら》つきに較べて、絵島ははるかに悠然としていた。開け放してある引戸の中から、ここまで送りに出て来た山村長太夫、その父友碩、生島新五郎の妻のお良などに、
「おかげで堪能《たんのう》しました。ありがとう」
ねぎらいの言葉をかけ、宮路にも、
「たいそうなご機嫌だこと。お城へ着くまでに、でも、酔いを醒ましてくださいよ」
笑顔で言って、ゆらりと乗物を上げさせた。よしんば門限に遅れても、奥女中の外出にはよくあるしくじりだし、月光院にあやまれば済む。その自信に支えられてのゆとりであった。
陥《かん》 穽《せい》
一
それでも道を急いだせいか、かろうじて平河御門の門限にはまに合った。
あとは御錠口《おじようぐち》と七ツ口の通過だが、七ツ口はもう、いくらあせったところでどうなるものでもない。平河門は暮れ六ツ(午後六時)、御錠口も六ツに閉《し》まる。七ツ口はしかし、その名の通り夕七ツ(午後四時)にはとじられてしまうのである。
絵島たちも、したがって七ツ口では、
「ひと問答しなければなるまい」
と、はじめから覚悟していた。
芝と上野で法要を終え、合流して木挽町《こびきちよう》へ出かけながら、七ツ口の門限までに帰るとなると、まだ日ざしの明るい八ツ(二時)には山村座を出なければならず、まんぞくに狂言など覗く暇はない。だから月光院も、
「平河門と御錠口が開いているうちにおもどり。あらかじめ勤番所の役人たちには通じておくから、七ツ口のことは気にかけなくてよいよ。せっかく大勢が楽しみにしている芝居見物なのだから、なるたけゆっくりしておいで」
と、出かける前に言ってくれていたのだ。
ただし、これはどこまでも、月光院の思いやりであり、目こぼしである。表向き、今日の外出の名目はご代参なのだから、帰城が遅れたについては、それなりの言い訳を用意しなければならなかった。
「途中、急病人が出たため、寺で休息し、手当していた」
ということで、あらかじめ全員の口裏を合わせてあったが、まんざらでたらめでもない。宮路と吉川が、酔って気分を悪くしたし、若い女中たちの中にもきつく緊めすぎた帯紐をゆるめたり、手水場《ちようずば》へ立って行ってこっそり吐いた者が三、四人いる。羽目をはずして食べたり飲んだりした報いだが、まったくの嘘を口にするより言葉にはしやすかった。
絵島の説明を、詰所の諸役人もまじめくさった顔で聞き、
「出先にて病者|出来《しゆつたい》とは、お気づかいなことでござった。くれぐれもお大事に……」
と異議なく通してくれた。
着替えるひますら惜しんだため上女中らは風流小袖の上に裲襠《うちかけ》を重ねたままだった。うす暗がりではあり、前をかき合わせていたため、男の目にはその違いもはっきりとは見て取れなかったらしい。咎められもせず七ツ口を通過して、それぞれの部屋に無事、帰りついたのである。
すぐ絵島や宮路、梅山、吉川らはもと通りきちんと出の装束に改めて、月光院の御前へ報告とお礼の言上におもむいた。
「どうでした? 芝居は……」
ほほえみながらの月光院の問いかけに、
「おかげをもちまして、一同、この上ない気散じをさせていただきました」
百三十数人になりかわって絵島は謝意を述べた。
あれほど酔っていたのに、大城が近づくにつれて宮路は正気を取りもどし、足取りがたしかになった。御門の番士や御錠口詰めの番士たちにも尋常に会釈《えしやく》したが、月光院の前へ出ると、かえって日ごろの狎《な》れから甘えが出て、ふたたび気がゆるんだようだ。訊《たず》ねられるまま、あれこれ、見て来たばかりの狂言の仕方話《しかたばなし》に打ち興じる熱中ぶりは、昂《たかぶ》りの余韻というより、まだ多分に身体そのものに酒気を残している証拠である。
身分が重くなるにつれて、戯場《げじよう》へなど足踏みできなくなってしまったし、格別それを残念がるほど芝居好きなわけではないけれど、町医者の娘に生まれ、江戸の市井の自由な空気の中で成人した月光院が、親や兄につれられて中村座、市村座、山村座などへ出かけた娘ざかりの昔を、ふっとなつかしむのはこんな時だった。
「宮路の話を聞いていると、舞台の様子が眼前に泛《う》かぶようです。わたしまで、そなたたちと一緒に芝居小屋へ行ったような気分になりましたよ」
と面白がって、
「その、滝井半四郎とかいう立役は、何に扮したの?」
よい暇つぶしとばかり聞きほじった。
「いえ、半四郎は市村座に出演中の役者ですので、目通りにまいっただけでございます。山村座の座員ばかりでなく、他座からも座頭だの主だった役者どもが幕間に挨拶にやって来ましたが、滝井半四郎はことのほか優男《やさおとこ》ですので、絵島さまのお気に召したようでございます」
「おやまあ、ご前でとんだすっぱ抜きを……。いったい半四郎とやらは、どんな役者でしたか。あまりおおぜいなので、わたくしは覚えてさえおりませんが……」
絵島が首をかしげると、いよいよ図に乗って宮路はおどけた。
「おとぼけなさいますな。絵島さまは半四郎をうっとりとごらんあそばし、盃をおつかわしになったばかりか、お手ずから肴を箸に挟んで、口に入れておやりになったではありませんか」
「そんなことまでを、まさか……」
「いいえ、なさいましたとも。ねえ梅山さま、お伊与さま、生島新五郎のほかに絵島さまのお心を虜《とりこ》にしたのは、滝井半四郎にちがいございませんよ、ねえ」
と困らせにかかるのも、時にとっての座興であろう。
「両手に花とは、隅に置けないこと……」
月光院にまで冷やかされては、絵島も黙っていられない。
「もう一度、袖岡政之助の顔を見てから帰る」
と宮路が駄々をこねて、腰元どもを手こずらせた顛末《てんまつ》を負けずに披露に及ぶと、
「ひとの事は言えないではないか」
月光院は笑いころげ、
「そのときの宮路さまのやんちゃぶり、目に見えるようですわ」
勝瀬や松坂、浦尾ら、留守していた上女中たちのあいだにも、ひとしきり遠慮のない笑声が湧いた。
女主人の気性が捌《さば》けて、さっぱりしているから、月光院の周辺にはつねに明るさが絶えなかった。権勢に伴って生じる弾力かもしれない。主従間にぎすぎすした距《へだた》りがなく、会話にも江戸者らしい活溌さが漲っている。見ようによっては親密の度合いが過ぎて、
「あれでは上下の礼を失する」
との批判も起こりかねないが、打ちとけた、ざっくばらんな雰囲気は、月光院みずから作り出したものなのであった。
菓子をつまみながらの芝居ばなしも、新春の宵にふさわしい華やかな愉悦だが、
「さあ、もう今日は引きとって休むがよい。くたびれたであろう」
労《ねぎら》われて、絵島たちが月光院の居間から退出してくると、役部屋の外廊下に使番の藤枝がしょんぼりうずくまっていた。
「おや、どうしました? そんなところで……」
「先ほどから、みなさまがたのおさがりをお待ち申していたのでございます」
「何か、ご用?」
「じつはお願いがございまして……」
「ともあれ中へお入りなさい。板敷に坐っていてはこごえてしまいます」
火桶の置かれた座敷に坐ると、藤枝もあとについて入って来て、
「お許しくださいまし」
いきなり平伏した。
「許せ、とは、何をですか?」
「中島久左衛門を相手に、言い争いをしでかすなど、まことに、短慮でございました」
「ああ、あの件ね」
絵島をはじめ、年寄たちは眉をしかめて、おたがい同士、苦笑まじりにうなずき合った。
「一度ならず、二度までも罵《ののし》り合うとは、ふだんのあなたらしくもない。よほど虫の居どころが悪かったのでしょう」
宮路の言葉に、
「お恥かしゅうございます。自分でも、なぜあんなに腹を立てたのか、いまとなれば不思議でなりません」
殊勝《しゆしよう》げに藤枝はうなだれた。
二
前々から、御小人どもの卑屈さ、そのくせ内実はこちらを女と見て、舐めてかかる尊大さを、不快には思っていたのだと藤枝は打ちあけた。
「ことに今日、お供頭《ともがしら》に立った中島久左衛門は嫌なやつでして、道々もこそこそと仲間の御小人ども相手に、こなたさまがたの悪口を喋り散らしていたのでございます」
「ほう、どのような?」
「何百石の高給取りか知らぬが、奥女中などだれでも務まる稼業……。毎日ろくな仕事もせずぶらぶらしながら、ご代参の帰りに芝居見物とは呆れた栄耀《えよう》じゃ、役者相手にいちゃつきでもしたら現場を抑えて、後日、ゆすりの種にしてやるなどと、まあ、頤《おとがい》が動くまま勝手な熱を……」
「くだらない」
感情の強い宮路までが、ばからしさについ、吹き出してしまった。
「羨《うらや》みが言わせる雑言ですよ。譬《たと》えにもごまめの歯ぎしりと申すではありませんか。あんな軽輩どもの、かげでの譏《そし》り口にいちいち目くじら立てるなど愚かなことです」
「まったくもって、おっしゃる通りなのでございます。聞き流しておけばよいものを、なぜかしきりに腹が立ちまして、やり込めてやりたくてたまらなくなっていた折りも折り、二階桟敷に坐らせろなどと中島が思い上った要求をしてきたものですから、前後の見境もなく、わたくし、逆上いたしまして……」
「やり合ってしまったというわけですね」
「申しわけありませぬ。お城へもどってから考えまして、御小人どもを怒らせたのはまずかったとつくづく後悔いたしました。僻《ひが》みっぽい連中ですし、わたくしとの喧嘩を根に持って、こなたさまがたにまでどのような仇をするかわかりません」
「藤枝どの」
さえぎって絵島が呼びかけた。
「あなたが何を言いたいか、見当はついていますよ。あの者どもに、幾らか袖の下をつかわせということでしょう?」
「それは慣例ですわ」
と宮路もうなずいた。
「ねえ梅山さま、あなたはどうお思いですか?」
「仰せまでもなく、やらねばならぬとぞんじます。七ツ口の刻限に遅れ、いわば嘘をついて通ったわけですし、御小人どもに、もし正面切って訴えられれば、いかに月光院さまのお許しを得た芝居見物とは申せ、いささか事は面倒になりましょう」
公用で外出した帰り道、狂言座へ立ち寄るのは今はじまったことではなかった。大城にしろ諸侯の奥にしろ、むかしから女中たちがやっていた息ぬきである。ただし、あくまでそれは、仕える主人の暗黙の了解のもとにひそかにおこなう隠れ遊びの域を出ない。御小人どもに芝居を見せ、馳走し、さらにいくばくかの口止め料を渡すのは、これまで長年月、くり返されてきたしきたりだったのだ。
「それをご存知ならば、いまさらわたくしごときが何を申し上げる要もございません。若干金、おつかわしいただきとう存じますけれど、その使者に、わたくしを立たせていただくわけにはまいりますまいか」
と藤枝は申し出たのであった。
「啀《いが》み合った当の本人のわたくしがまいって音物《いんもつ》を渡し、中島らに言い過ぎを詫びれば、しこりは解けるはずでございます」
「よい思案です」
梅山がほっとしたように言った。
「口惜しくはあろうけれど藤枝どの、ぜひ御小人たちにあやまってください。打ちあけたところ、山村座での争いがわたしは気がかりでならなかったのです。そなたさえ堪《こら》えてくれれば、あの者どもの気持も和《やわら》ぎます。いかがでしょう絵島さま、宮路さま」
「ぺこぺこすることはないが、申せばこちらにも弱みがあります。憎い鷹《たか》には餌《えさ》をやれなどとも言いますからね、藤枝どのが詫びてもかまわぬというなら折れて出て、こだわりを水に流してしまうほうがよいでしょう」
と絵島は言い、宮路も同意して、御小人四人に、小判を一枚包んだ。
「では、これを……」
「たしかにお預かりいたします」
すぐ、藤枝は立って行ったが、半刻もしないうちにもどって来て、
「黄白《おうはく》の効き目は大きゅうございますね。先ほどまでの渋面《しぶつら》が、金を受け取ったとたん、ころッと恵比寿顔に変りましたよ」
軽蔑しきった口調で報告した。
「わたくしが口先だけであやまりますと、中島も、『いや、拙者こそ申しわけなかった。生来がつむじ曲りの癇癪持ちゆえ、そもじはもとより、御年寄がたにも心にもない憎まれ口など叩いたが、いまさらながら恐れ入っておる。どうぞよしなにお取りなしいただきたい』としきりに頭をさげるのです」
「それでよい。形だけでも和解すれば、こだわりは残りませんからね」
「わたくしの不調法から余計なご心労をおかけし、まことに申しわけなくぞんじます。あらためてお詫びつかまつります」
「人なかでの口論など、向後はくれぐれもつつしむことですね」
一応、誡めて藤枝を引きとらせ、
(これで一段落――。いっさい、いざこざは解決した)
と絵島は思った。
前年の冬、月光院に朝廷から従三位《じゆさんみ》が贈られている。現将軍の生母ということで、それなりの敬意を表してきたものだが、年が替ると、位記《いき》を授けるための勅使が下向するし、その饗応や答礼の準備で、吹上御殿の明け暮れはにわかに多忙になった。めでたく、うれしい忙しさである。
先代家宣が薨《こう》じても、御台所近衛|煕子《ひろこ》の支配する大奥は、引きつづき城内に置かれてい、毎月|朔日《さくじつ》、あるいは五節句など式日には、幼将軍家継は准母であり後見の立場にもある煕子のもとへ、ご機嫌伺いにまかり出る。月光院が手をとり、絵島ら上女中たちが扈従《こじゆう》してのお渡りであった。
月光院は年頭の対面のさい、答礼使の派遣について御台所の教示を仰いだ。関白家の息女に生まれ、濃く皇室の血もひく煕子を、こういう場合に疎外したら、どれほど感情を害すかわからない。有職故実《ゆうそくこじつ》、朝廷関係の慣習に通暁し、それを職分としている者は高家《こうけ》をはじめ幾たりもいたけれども、たとえ儀礼的にでも月光院にすれば、煕子の助言を聴くかたちで事を運ばねばならなかったのだ。
内心、どれほどの瞋恚《しんに》を燃やしているにせよ、表面どこまでも煕子は柔和な、京育ちらしい品位を崩さなかったし、月光院の側もつねにへりくだって、正室へ畏敬を捧げてきたから、双方の交際は見た目にはなめらかに、なんの支障もなくつづいている。
「このたびの慶事、まことに祝着にぞんじます」
と、従三位叙任の沙汰があったときも、いちはやく御台所から祝詞が寄せられたし、
「身にすぎた光栄――。それにつけても庶人の間に人と成った無知が愧《は》じられます。よしなにお引き廻しの上、ご指南のほど願わしゅうぞんじます」
と月光院もつつましく応じて、誇り高き相手への迎合を忘れなかったのである。
勅使饗応の次第、こちらからの答礼使の員数、供揃えの規模。参内のさいの服装、進退。堂上公卿家への挨拶廻りから土産物の目安《めやす》まで、ことこまかに訊き出せば参考になる話はいくらでもあり、
「おかげでよく、わかりました」
感謝して月光院は煕子の居館を辞した。
こうして正月二十日――。
非公式にではあるが、正副両使の人選がとりあえず決まった。正使は大年寄の絵島、副使には年寄の松坂と宮路……。そのほか供につく役々五十名ほどの人数が追って発表されようとしたやさき、だれの口からともなく、不穏な噂が流れはじめた。
「この月はじめに、ご代参につかわされた人々が、お取り調べに遇うそうだ」
との、ささやきである。
「お聞きなされましたか絵島さま、妙な取り沙汰が耳にはいってまいりますが……」
梅山に言われるまでもなく、絵島もいぶかった。あの件は済んだはずではないか。取り調べるというけれども、だれが、何をいまさら蒸し返して調査するつもりなのか。
正月は行事が多い。七草のお雑粥《ぞうがゆ》、十一日の鏡開き、十五日の御歯固めなど用にまぎれて、しかし実否をただすまもないうちに、月が変って二月となった。
そして、二日……。絵島と宮路の両名だけが広座敷に呼び出され、
「東叡山寛永寺に引きこもり、謹慎せよ」
と申し渡された。去月十二日、帰城のさい、七ツ口の門限に遅れたことを咎められたのである。
三
月光院も納得のいかない面持《おもも》ちで、
「訝《おか》しいではないか。番の者とのあいだに話はついているはずなのに……」
と、すぐさま詳しい事情を聞きにやらせたが、さっぱり要領をえない。
しかし七ツ口の門限に遅刻したことはたしかだから、そこを衝《つ》かれ、引率者としての責任を問われれば、承服しないわけにいかなかった。
ただ疑問は、従来、慣例として見逃されて来たことを、なぜ今回にかぎってことごとしく問題にするのか、それも、すぐにならともかく、二十日間も経過したいまになって、あなぐり立てはじめた意図は何なのか、という点だった。
「だれの指し金か知らぬが意地の悪い仕方……糺明《きゆうめい》してやろうではないか」
珍しく気色ばんで月光院は言った。絵島は、でも、
「藪をつついて、かえって蛇を出す結果になりかねませぬ」
と主人の立腹を抑えた。
「表向きは許されていない公用帰りの寄り道……。それも百人を越す同勢で、賑やかに芝居見物などしてまいっての遅れですから、弱みは当方にございます。ここはわたくしと宮路どのが責めを引きかぶり、しばらく引きこもって、穏便に事態をやりすごしてしまうのが上策ではござりますまいか」
言われてみれば、その通りにちがいない。多人数で派手に遊び、しかも二時間も門限に遅れたのだから、奥はともあれ、表役人のあいだで非難めいた話題になったであろうとは、じゅうぶん察せられる。
番所の下役たちは突き上げを喰いそうになってやむをえず、遅ればせながら番頭《ばんがしら》に事の次第を訴え、形式的な『お咎め』の達しとなったのではないか。……そう、月光院は解釈し、
「仕方がない。それではきのどくながら、そなたたちに寺へ行ってもらいましょう」
折れた。
「なに、ながいことはない。上さまに申しあげ、間部どのにも耳打ちして、すぐにでも処分が解けるよう裏から働きかけます。勅使のお下《くだ》りももうすぐだし、従三位叙任の答礼準備にとりかかった今、正使、副使として上京してもらうつもりだったそなたたちに抜けられなどしたら手順が狂って、こちらも困るからね」
その、自身の言葉で、不意に一つの想像に打ち当ったらしい。月光院は声をひそめて、
「絵島」
そっと呼びかけた。
「ことによったら、この奇妙な処罰は、そなたと宮路を嫉んでの、何者かの工作ではなかろうか」
「なるほど。お使者の役を羨望し、わたくしどもに取って代りたいと願って、門限に間に合わなかった事実をこっそり触れて廻った者がある……そう、おっしゃるわけでございますね」
「おもて沙汰になるはずのない事柄を、忘れたころになって咎められるなど、なんとしても腑に落ちぬ。灰をかぶせた燠《おき》を煽り立てて、焔にした者がいるのかもしれない」
「と、すれば、おおよその見当はつきますけれど……」
絵島は首をかしげた。御年寄格の職にある者は宮路と梅山のほかに四人いる。老女席の勝瀬はじめ松坂、浦尾、花沢らである。だが、どう考えても、卑劣な手段を講じてまで使節役を奪い取ろうと画策するような腹黒い女を、同僚の中からは指摘しにくい。どれもみな、絵島と仲が良かったし、月光院を中心にむつまじく結束し合っている日ごろではないか。
「それに、上洛はまだまだ先……。三月中旬から四月のはじめに出かけてもらうつもりでいます。たとえいま、ささいな科《とが》でそなたたちが譴責《けんせき》されたにしても、使者の顔ぶれを替えねばならぬほどの瑕《きず》には、なるまいと思うが……」
「さあ」
どうであろう。朝廷や公家が相手だと万事がややこしく、勝手もわかりにくい。五日か十日の謹慎処分でも、使節としての資格審査に、あるいは影響してくるかもしれず、人選の仕直しとなることもあり得る。もし、絵島と宮路の失格を策した者がいたとすれば、その者の狙いもそこにあるといえよう。
絵島の気持とすれば、晴れのご奉公を立派に務め、有終の美を飾ってお暇《いとま》を願い出たかったが、かならずしも上洛に固執していたわけではない。だれであれ、答礼使としての役目をつつがなくはたして来てさえくれるなら、それはそれでよかった。
年が明けたら、よい折りを見てそっと月光院の意向を打診してみるつもりだった退職の件も、使者の下命を受けたことでさしあたり、口に出せなくなっている。平田彦四郎との約束、月光院の信頼……。板ばさみの苦しみの中で、人知れず焦りに苛《さいな》まれもしていた時だけに、たとえば使節役が他の者に回ることになっても、さして残念とは思わなかった。
むしろ一刻も早く指定の場所におもむき、謹慎期間を終えて、大年寄の職に復帰することこそ急務である。京都派遣の顔ぶれが変れば変ったで、多忙は同じだし、それより以前にもう一つ、勅使を迎える大役もある。いま、このさなか、絵島と宮路が戦列から離れては痛《いた》ごとなのであった。
「では、まいらせていただきます」
「せいぜい、十日間……。それ以上そなたたちを上野の山になど居させはしませんからね」
月光院の言葉に感謝しながら、絵島と宮路は東叡山寛永寺に身柄を移した。それぞれの部屋子が、身の回りの世話をするため二人ずつ従ったが、絵島に附きそって行ったのは相ノ間の若江とお小僧の俊也《しゆんや》であった。
重箱の隅をほじくるような咎め方をされたのは心外ではあるけれど、門限を守らなかった罰とすれば特に重くはなく、と言って軽くもない。まずまず妥当な処置だったから、絵島も宮路もがおとなしく命令に服し、所在ない宿坊ぐらしに入った。
ところが寺内に移ってまもなく、絵島たちは意外な風聞を耳にした。俊也が僧徒らの噂ばなしを聞いて来て、
「芝居町はひっくり返りそうな騒ぎだそうでございますよ」
息せき切って告げたのだ。
「どうしたの? 火事でも起こったの俊也」
「いいえ、そうじゃないんです。狂言作者の中村清五郎だの山村座の抱え役者の生島新五郎だの、海老屋とかいう芝居茶屋の主人なんぞが町奉行所に呼び出されてお取り調べを受けたんですって……」
すべて正月十二日、絵島一行の芝居見物に関わった者たちではないか。
「どういう事でしょう。清五郎や新五郎にまで門限の咎めが及ぶわけはないのに……」
首をかしげ合っているうちに突如、絵島たちにも召喚の達しが届き、大城内の御広座敷に出頭するよう命じてきた。
謹慎処分が解かれるのか。それにしては、訝《おか》しな呼び出しの仕方だが……といぶかりながら出かけてみると、同じ広間に年寄の梅山、中臈|伊与《いよ》、表使《おもてづかい》の吉川、使番の木曾路、藤枝、そのほか御次頭《おつぎがしら》、御三《おさん》ノ間頭《まがしら》、御茶ノ間の支配ら、あの日、絵島や宮路と行動を共にした役付きの上女中ばかり十人ほどが、やはり召されて来ていて、御留守居《おるすい》列座する中で申し渡された。
「正月十二日、御代参のため上野・芝|両山《りようざん》へ罷《まか》り越し、直ちに遊山所《ゆさんじよ》へ越し、晩景に及び罷り帰り候段、みだりなる仕方、不届きに思召し候。之《これ》に依り御暇《おいとま》下され、其の宿々へ御預けなされ候もの也」
申渡書を読みあげたのは、留守居役の一人|松前《まつざき》伊豆守|嘉広《よしひろ》である。
青天の霹靂《へきれき》にひとしい宣告だった。正直、女たちは茫然自失した。
大城と城外をへだてる平河御門は、支障なく通った。つぎの御錠口――。ここは大奥と表を区分する重要な関門で、将軍すら、みだりに行き来はできない。表から中奥を経由し、大奥に入る者たちは、まず御広敷という役所に見張られる。ここに詰めているのは御広敷番頭以下すべて男の役人だが、御広敷を出たところにあるのが御錠口だ。明け六ツ(午前六時)の太鼓で開けられ、暮れ六ツ(午後六時)の太鼓を合図に重い戸口が閉まる。
この御錠口の表側に詰めて、開閉や通過する人々の改めに当るのは男役人、内側にいて同様の役目をするのは女役人と決まっている。戸口の開閉にも、したがって奥と表、双方の役人が立ち会う。表側には御広敷|添番《そえばん》や伊賀者、奥からは表使と使番の女中が出、内と外、両側から確認し合うのである。
四
絵島たちの一行は、かろうじてこの御錠口の門限にもまに合った。
あとは夕七ツ(午後四時)に閉じられる七ツ口だが、ここはもう長局《ながつぼね》への出入り口だった。大奥内部に組み込まれていると考えてもよいいわば内々《うちうち》の通用門だけに、城門や御錠口に比較すればはるかに気は楽だし、この日もはじめから、
「七ツまでに帰城するのはむりであろう」
そう判断して、あらかじめ月光院が、
「どうぞ、よしなに……」
と、番の者に申し入れておいてくれていたのである。だからこそ、
「ご菩提所にて、病人が出来《しゆつたい》したため」
という見えすいた嘘が難なく通り、百三十余名もの大人数が、刻限外にそれぞれの部屋へ帰りつけたのだ。
月光院附きの女中たちだけではない。七ツ口の閉鎖に遅れることは、たとえば天英院煕子をはじめ他の側室の召使にも時おり見られる失敗であった。そして、そのつど番の係りと女主人のあいだに暗黙の了解が交され、表立っての咎めになど至らずに済んできていたのである。
なぜかしかし、今回は処罰された。絵島と宮路が七ツ口遅刻の責任を問われ、不本意ながらも寛永寺に引きこもらざるを得なくなったが、そこまでで一件落着のはずではなかったか。
申渡書にも、門限に遅れた科《とが》はもはや除外してある。こんどの処断の眼目は、「遊山所に越し」た件だ。つまり芝居町への寄り道が問題にされているのである。
女たちが耳を疑ったのはその点だった。これも七ツ口の通過同様、女主人と当事者である召使連中、その供に附く御小人衆、門々を守る番の者、もっと拡げれば両山の僧徒や芝居関係者らまでも含めて、やはり暗黙の了解のもとに成り立たせた公然の秘密ではないか。
知っていて、知らぬ顔をするのが通例だし、これまた、月光院附きの女中たちにかぎらず、どこの部屋でもやっている目こぼしにすぎない。
念のため、それでも表沙汰にされる面倒を考慮して、御小人たちに口止めの金を与えてある。つまり公《おおやけ》には、「芝居見物の事実など、どこにもなかった」ことになるのだ。それなのに、「なかったはず」の遊興が今、ここへきてつづくり出され、
「まさしく、あった事」
とされて、咎められた。咎めも咎め、『御暇《おいとま》』そして『御預け』の厳罰である。
御暇とは、お扶持を召し放たれて解雇されることだし、御預けとなると、さらにその上に重いご詮議が加わる。
そもそもご代参帰りの芝居見物が、それほどの重科に値《あたい》するのか? 黙認が慣行となっているはずの息ぬきを、なぜ公の沙汰にまでしてのけたのか? だいいち、抜き打ち的なこの処置を月光院は承知しているのか? 絵島や宮路、梅山らは月光院の側近に無くてはならぬ存在である。大年寄の絵島は、まして身分柄からすれば老中格に匹敵する重職ではないか。それを寛永寺から直接、呼び出し、月光院に会わせもせずに処罰の申し渡しをおこなった。
松前伊豆守が読みあげた『覚《おぼえ》』に依れば、絵島は兄の白井平右衛門宅、宮路は町医師の山田|宗見《そうけん》宅、梅山は幕臣の江山郷助宅、吉川も小普請手代の高見新六宅、中臈の伊与は仮親の春日次郎太夫宅へ預けられることになっている。了承すれば、この場からただちにそれぞれの宿元へ移らなければならない。大奥へもどることはできないし、へたすればこれっきり、月光院との対面さえかなわぬ恐れが生じかねなかった。
(あまりといえば理不尽だし、短兵急にも過ぎる)
得心《とくしん》しかねた。疑問も多すぎる。訊《き》きただしたいことは幾らでもあったし、
(裏に、何か隠されているのではないか?)
と勘ぐりたくもなったが、「遊山所へ越し、晩景に及びて罷《まか》り帰った」事実は、まぎれもない。それを「みだりなる仕方」と咎められては、抗弁はしにくかった。
(ご詮議の段階で申し開きするほかあるまい)
そう肚《はら》を決めて、絵島も宮路もが一応、宣告に従うことにした。
しかし、いざ承服し、御広敷からじかに乗物に移されてみると、事態の容易ならなさがすぐさま看取できた。乗物には褥《しとね》がなかった。側面の引き戸は右ひだりともはずされ、中がまる見えになっている。見せしめであることは言うまでもない。
それが担ぎ出されたのも、俗に不浄門と呼ばれる平河口である。取り調べが始まりもしないうちから、すでに重罪人扱いなのだ。なかでも絵島の目をひいたのは、自身の乗物に附き添って来た警固役人であった。
(この男は、たしか一位さま附きの御広敷添番ではないか)
姓は高橋。
(名は……そうだ、次郎兵衛とか言ったはずだ)
そこに思い至った刹那《せつな》、われしらず絵島は戦慄した。一位さまとは、前将軍家宣の正室――従一位に叙せられている天英院近衛煕子の尊称である。
(御台所の息がかかった護送役に、いま宿元へ送られて行く自分なのか)
と気づいたことで、おぼろげにではあるが事件の裏に潜む者の正体を、絵島は察知した。すでに芝居町の関係者は逮捕され、町奉行所で吟味を受けているという。もしかしたら今度のこの不可解な、一連の仕打ちは、意外に奥深い企みに結びついているのかもしれない。そこに気づいて、絵島は思わず表情をこわばらせた。
あらかじめ通知はいっていたはずなのに、門内に担ぎ込まれてきた乗物を目にするなり、
「いったい、どうしたというの美喜さん、このありさまは……」
白井家では、嫂《あによめ》の佳寿《かず》が玄関式台に走り出て、絵島に取りすがった。
どうしたのかと訊かれても、絵島自身、明確には答えられない。宮路や梅山、吉川らの宿元でも、囚人《めしゆうど》扱いされて帰宅して来た姿を見て、似たような愁歎場が演じられたにちがいないが、さらにこの直後、絵島たちの供をした腰元連中、部屋子として召し使われている奉公人まで、百五十名を越す大人数が御広敷に集められ、
「正月十二日、上野・芝、両山参詣の節、木挽町見物所へ立寄り、下々迄《しもじもまで》不届の事これ有り候に付き、追放仰せ付けらるるもの也」
と言い渡された。このときも申渡書を読み上げたのは、松前伊豆守嘉広である。
もう大奥の役部屋にも私室にも、だれ一人、もどることはできない。
「立ちませい」
大音声の叱咤とともに広間を追い立てられ、履物も与えられずに不浄門から叩き出されてしまった。
不穏な耳こすりが、だいぶ前から交されてはいた。いざ現実のものになってみると、しかしやはり、驚きは大きい。恐怖のあまり一人が泣き出し、たちまちそれは伝播して、混乱の渦を巻き起こした。
「何だ、あれは……」
「大奥の女中衆じゃないか」
泣き叫びながら、色彩のある雲の塊のように、それも素足のまま若い女たちの一団が平河口から溢れ出て来たのだから、通行中の町人どもが呆気《あつけ》にとられたのも無理はない。
往来へは出たもののどちらへどう歩いてよいか戸惑い、迷い犬さながらしばらくは方角もわからずにうろうろしたあげく、やがてはだしを気にしいしい三々五々、散って行った中に、奥山百合がい、相ノ間の若江がい、お小僧の俊也もまじっていた。
彼女らは、でも涙など一滴もこぼさなかった。それぞれの親もとを知らせ合い、
「旦那さまがこの先どういう目にお遇いなさるか、成りゆきに気をつけて、できるかぎりお力になろう。いいね二人とも……」
「むろんよ若江さん」
そう固く、言葉をつがえて別れたのであった。
五
着のみ着のまま帰宅して来た百合を見て、
「どうしたんだねえ、そのなりは……。裸足《はだし》じゃないかお前」
奥山家でも、継母の兼世が目をむいた。一家は小鍋を囲んで夕餉《ゆうげ》のさいちゅうだったが、
「あ、姉さん、いらっしゃい」
不自由な足を曳きずって千之介がとび出して来、
「お使いの途中か?」
膳の向こうから父の喜内も声を投げてきた。道で鼻緒を切らし、それで裸足になったとでも単純に解釈したらしい。
「まあ上れよ百合。ちょうどねぎまが煮えてるぞ」
と箸で招くのを、兼世が苦笑いしながらたしなめた。
「なんですねえ、あなた。この娘《こ》の舌は、御殿のご馳走に慣れちまっているんですよ。ねぎまなんて貧乏たらしい……ねえ百合ちゃん、急いで玉子でも焼いてあげるけど、まず、その泥足をなんとかしなければね。待っておいで。いま水を汲んであげるから……」
気味わるいほどのちやほやぶりである。絵島が出世し、羽ぶりがよくなるにつれて、百合に対する両親のあしらいは現金に変ってきた。ことに兼世の追従《ついしよう》ぶりははなはだしい。あれほど可愛がっている実子の千之介を、近ごろは、
「役立たず!」
などと口汚なく罵《ののし》り、金蔓《かねづる》ででもあるかのように手の裏返して、百合には愛想を並べたてた。それだけに、
(今日、絵島さまやわたしの身の上に何が起こったか、話して聞かせたら……)
どれほど驚き、失望し、腹を立てるか。百合には見当がつく。はては災いが一家に及ぶのを恐れて、また以前のように百合を邪慳《じやけん》にしだすかもしれない。
「けっこうです。足は井戸端で洗って来ますし、それにわたし、おなかはすいていません。ご飯の仕度などなさらないでください」
雑巾《ぞうきん》だけ借りてお長屋の共同井戸へ行き、足を清めてもどると、なるほど狭い茶ノ間にはねぎまの匂いがぷんぷんしていた。
鮪《まぐろ》は下魚《げうお》として卑しまれ、下賤の者しか口にしない。脂の強い腹側の肉などは馬方や立ちンぼうすら見向きもせず、むなしく捨てられていたのだが、世の中がせち辛くなるにつれて棒手振《ぼてぶ》りの魚屋などで切り売りするようになり、いまでは一般化して武士でも下層の軽輩はこっそり食べる。また事実、とろけそうに柔かな、煮るとほんのり甘みの出る霜どきの葱《ねぎ》と一緒に、醤油味《しようゆあじ》であっさり鍋仕立てにした鮪のぶつ切りは、なぜ今までこれを、惜しげもなく捨てていたのか不思議になるほどうまかった。
ひるまから白湯《さゆ》ひとつ飲んでいない百合は、言葉とはうらはらに空腹だった。ねぎまの匂いに生唾《なまつば》が出たけれど、これから聞かせる話に親たちがどのような反応を示すか、語り出さないうちからわかるだけに胸が詰まって、とてものんきらしく箸など手にする気にはなれないのである。
「いいのかい? 食べないでも……」
「ええ、何もいらないわ母さん」
「それじゃ菓子でもおつまみ。到来物の草だんごを出すから……」
「おだんごより何より話があるの。大変なことが起こったのよ」
兼世は茶を淹《い》れかけていた顔を、喜内は鍋の湯気に落としていた視線を、共に不審そうに上げて百合を見た。
「大変なこと?」
「そうなの。旦那さまが御暇《おいとま》を申し渡され、宿元預けになったのよ」
「絵島さまが!?」
「お代参の帰路、月光院さまのお許しを得て木挽町の山村座へ新春《はる》狂言を見に寄ったこと、そのさい七ツ口の門限に遅れたことの二ヵ条が、お咎めの理由だけど、処罰されたのは旦那さまだけじゃなくて、宮路さま梅山さま吉川さまなど、当日芝居町へ同行した役附きの上女中がた、それにわたしたち下ッ端の腰元連中やそれぞれの部屋に附いている私用の召使まで総勢百五、六十人もが、今日一日のうちに揃って御暇を言い渡されたの」
「なんだって?」
音を立てて、兼世は急須《きゆうす》を盆に置いた。
「それじゃ絵島さまもお前も、今日かぎりお払い箱になったというのかい?」
「そうよ。旦那さまは兄上の白井平右衛門さまの屋敷へおもどりになったし、わたしたちは不浄門から身ひとつで叩き出されたわ。履物も許されなかった。素足のまま帰って来たのはそのためよ」
「なんてこったい、まあ」
案の定、兼世の口ぶりはたちまち険《けわ》しくなった。
「八年にもおよぶ今までのご奉公は、ではどうなるんだい? ぜんぶ無駄骨折りだったというのかい?」
「そうね。そう言うことになるわね」
「なんだい、その言い草は……。まるで他人《ひと》ごとみたいじゃないか。冗談じゃないよ百合。だれだって大名や将軍さまの奥勤めを八年もつづけりゃ嫁入りのときは衣裳だけでも箪笥《たんす》に三棹《みさお》四棹、長持にまでぎっしり拝領品を詰めてさがってくるのが相場だよ。それを着たきり雀《すずめ》、草履もはかずに追い出されてくるなんて、あいた口がふさがらない。いったい、どうしたってことなんだよッ」
「まあ、待てよ兼世」
さすがに男だけに、喜内は激昂する妻を抑えて、
「訝《おか》しいじゃないか百合」
疑問を口にした。
「芝居見物だって七ツ口の遅刻だって、珍しいことではあるまい。どの部屋の女中衆にも許されてきた目こぼしだろ? それなのになぜ、いまさら月光院さまの奥向きだけを槍玉にあげるんだ?」
「そこなのよ父さん。わたしたちにも腑に落ちないことだらけなの」
「どうも臭い。妙な雲行きだぜ」
「妙とは?」
「裏があるような気がするが、いずれにせよお前を絵島さまの養女にしたのはまずかったなあ」
「養女であろうとなかろうと、芝居のお供をした者や処罰されたお局がたの召使は、残らずお城から出されてしまったのよ」
「いいや、いずれ絵島さまのご詮議がはじまれば、縁者近親のお取り調べはまぬがれまい。養女の件も明るみに出るだろうし、それにわしらは、白井さまご夫婦や豊島のご舎弟などに少々|昵近《じつきん》しすぎたよ。なあ兼世、そうは思わんか?」
「まさか、わたしらのところにまで累《るい》が及ぶ恐れはありますまいけど、風向き次第では火の粉が降りかかってくるかもしれませんねえ」
「剣呑《けんのん》だ。何とか今の内に手を打てぬものか」
と、はやくも考えめぐらすのは自分たちの保身なのであった。
「大奥御年寄の筆頭として権勢第一の絵島さま……。そのご兄弟に取り入っておけば損はないとの打算から、父さんや母さんがわたしの知らないところで白井、豊島の両家と親交を深めていたのなら、そこまでの責めは負えません」
腹を立てて百合は言った。
「だけど、わたしを絵島さまの養女にやった件は心配ご無用です。今からだって遅くはない。親子の縁を切りましょう。そうすれば奥山家と私とは関わりなくなるでしょ?」
「親子の縁ならとっくに切れてるよ」
兼世が甲《かん》走った声できめつけた。
「七ツのとき、お前は伯父さんの家に貰われて行ったのだからね。名義上、とっくに交竹院先生の養い子になっているんだ。そして伯父貴のところから、さらに絵島さまの養女格で部屋子勤めに出たのだもの、わたしらとは十年も前から親でも子でもなくなっているはずだよ」
「おっしゃる通りですよ。お母さんとは、まして血のつながらないわたしです。懸念なさるには及びませんし、当家に居坐るつもりもありません。今日うかがったのは、ともあれご報告しなければと思ったからで、もう、おいとましますわ」
「どこへ行くの姉さん」
いままで沈黙していた千之介が、たまりかねたように口をはさんだ。
「かまわないからここにおいでよ。名目がどうあれ、この家は親の家、姉さんの生まれた家じゃないか。だれに遠慮がいるもんか」
「いいのよ千ちゃん。はじめからわたしは交竹院伯父さまの屋敷へ帰るつもりでいたのですもの。用があればまた来ます。千ちゃんだって医術を学ぶために伯父さまのところへ通っているのだから、三日にあけずわたしとは逢えるわけでしょ」
「そうだね。おれが双方の連絡役を引き受ければいいね」
と張り切るのを、
「だめだめ」
ニベもなく兼世がさえぎった。
「交竹院先生は格別、絵島さまとしたしい人だ。ほとぼりがさめるまで伯父さんの家になど出入りしてはいけないよ千之介」
この母親の制止に、素直にしたがう異母弟《おとうと》ではないことを、百合は承知していた。弱々しく、おとなしい一方だった少年期とはちがう。千之介は背丈も伸び、足に欠陥はあるもののいっぱし、たのもしげな若者に変貌しつつあったのである。
六
履物も、百合は千之介の草履を借りた。
そして逃げるように水戸家の役宅をあとにしたのだが、外へ出たとたん、いきなり泣けてきた。功利的な親たちの態度、冷たいその仕打ちに、口惜し涙がこみ上げたのであった。
今日は非番のはずなのに、伯父の家へ着いてみると、迎えに出てきた孫七爺やが、
「急のお召しで、先生はご登城あそばしました」
という。
「上さまが、また、どこぞ具合を悪くなさったのかしら……」
非番の医師が緊急に呼ばれるなど、良いことではない。そういえば四、五日前から風邪気味で、床《とこ》につくほどではないまでも煎薬を服用していた家継幼将軍だった。
「はい、夕近くから、じりじりお熱があがりはじめたそうでな。そのお手当のほか、月光院さままでが、にわかのお癪気《しやくけ》とか……」
「では、お二方《ふたかた》のご看護に?」
「さようでございます。奥鍼医《おくはりい》の須磨良川《すまりようせん》先生はじめ、当番のお医師がたが懸命にご介抱申したが、お苦しみがやまず、『交竹院を呼べ』との、たっての御意《ぎよい》にて駆けつけてゆかれましたようなわけで……」
絵島、宮路、梅山らが御預けの処分を受け、その下に働く女中たちまでが大量に追放を申し渡された衝撃――。おそらく月光院の不例は、その驚愕と憤《いきどお》りに起因しているものと思われた。
孫七爺やは、でもまだ、今日の騒動について何も知らないらしい。宿さがりの時節でもないのに、しかも暗くなってやって来た百合をいぶかって、
「提灯《ちようちん》もなしに、嬢さまお一人でお越しなされましたのか?」
路上の夕闇を透《す》かすように見た。お使いに出ての寄り道なら、かならず供の中間《ちゆうげん》か五斎が附いていないはずはないからである。
「わたしね爺や、御暇《おいとま》になってもどって来たのよ」
「な、なんですと?」
「いまごろ吹上御殿は、大変なさわぎだと思うわ。わたしたち軽い身分の者たちだけでも百五、六十人……。それはいいとして、大年寄の絵島さま以下、月光院さま附きのご重職がたが何人も一度に宿元へ帰されてしまったんですものね」
「そりゃまあ、えらいことじゃ。なぜ、そんな目にお遇いなすったのか……」
仰天する孫七老人に、かいつまんで百合はこれまでの経緯を話して聞かせた。
「では交竹院先生も、当分ご帰邸はなされますまいな」
「お取り込みさなかの、上さまおん母子《ぼし》のご病臥ですもの。人手はいくらあっても足りないのではないかしら……」
「やれやれ、胆のつぶれる話じゃ。宮仕えなどというものは、じつもって恐ろしいものでござりますなあ。嬢さまがたは、とんだそば杖を喰いなされたわけじゃ」
「わたしみたいな下ッ端はどうなったってたかが知れてるわ。それより旦那さまのお身の上が心配で心配で……」
「いや、いずれご詮議が始まれば、筋道たてて申し開きなされましょう。何かの間違いじゃで、かならずお許しは出るはずでございます」
「そうなればいいけれど……」
「これはしたり! お玄関先に立たせたまま、ついうっかり長ばなしをおさせしてしもうた。さあ嬢さま、奥へお通りなされませ。お夕餉はまだでござりましょ?」
「まだよ。おなかがさっきからグウグウ鳴いてるの」
と、親の家では意地にも言えなかった甘えが、孫七相手だとすらっと口に出せた。
「ぽんぽばかりじゃござりますまい。どうやら道々、ベソをかきながら来られたようじゃ。お顔にも泣いた痕《あと》が残っておりますぞ」
それ、湯浴みの仕度、それ膳ごしらえと、他の奉公人や内弟子たちまでが世話を焼いてくれる。伯父の家にいるかぎり百合は文字通りお嬢さまで暮らせたが、肝腎の交竹院が城中に泊まりきりになって幾日たっても帰邸してこないのが不安だった。
(手が離せないほど、上さまや月光院さまのご容態が重いのだろうか)
もし、そうなら、これはこれで絵島の問責に劣らぬ心痛の種だ。
(旦那さまのお身の上も、どうなったか)
じっとしていられぬ思いに突きあげられて、
(白井平右衛門さま宅へ、そっとご様子を見に行ってみようか)
百合は思い立った。
孫七に相談すると、でも、
「いけませぬ。お叱りを蒙《こうむ》り、嬢さまは宿元へ帰されたのじゃ。しばらくはこのご邸内に鳴りをひそめておられるほうがようござります。世間の取り沙汰は、わしらが聞き集めてきてお耳に入れますでな」
と、止められてしまった。
もう、このころになると、事件の噂で江戸中が沸き返りはじめていた。
最初に呼び出されて訊問を受けたのは、大奥出入りの呉服商・後藤|縫殿助《ぬいのすけ》と、後藤家の手代の清助、次郎兵衛、七兵衛らであった。
それはまだしも、胸が凍りつくほどの恐怖を百合に与えたのは、取り調べ役人の顔ぶれの中に稲生次郎左衛門正武の名があったことである。
「稲生ですって!?」
どこからか、このことを聞き出して来てくれたのは孫七爺やだが、
「へい、お目附だそうでな、後藤家の主人や奉公人衆は、稲生さまのお役宅に呼びつけられ、同じくお目附仲間の丸毛《まるも》五郎兵衛さまお立ち合いのもとに、お吟味を受けたそうでございますよ」
告げながらも、百合の顔つきのただならなさにびっくりしたのだろう、
「稲生さまが、どうぞしましたかな?」
逆に問いかけてきた。
「爺やは聞かなかった? だいぶ前だけど、稲生家と旦那さまのあいだに縁談があったのを……」
「絵島さまの嫁入り話でござりますな?」
「稲生家は大身のお旗本ですってね。当主が次郎左衛門正武さま……。その弟御の文次郎|正祥《まささだ》というかたと、旦那さまは山村座でお見合をなさったのよ」
「思い出しましたぞ。白井家のみなさまが迎えに見えて、百合嬢さまも一緒に行かれたじゃござりませぬか」
「そうなの。でも芝居小屋に着くと早々、白井平右衛門さまが稲生のご家内相手に喧嘩をはじめるやら、絵島さまがご自身、きっぱり縁談を断ってしまわれるやら、さんざんなていたらくで、結句なにもかもお流れになってしまったのよ」
「気まずくなったわけでござりますな。つまり、それ以来、稲生家とは……」
「文次郎どのはあきらめきれずに、いまだに独り身でいるらしいけど……」
稲生夫妻の心証が、白井家の人々に対してよいはずはない。江戸の仇《かたき》を、長崎でとられる結果になりはしないか。
目附は多いのに、選りに選って稲生次郎左衛門が取り調べ役人に加わっていたとは、なんという不幸な偶然であろう。絵島のために百合は悲しんだ。これからの成りゆきが、いっそう気がかりにもなった。
七
奥山交竹院は、あいかわらず帰邸してこない。大城の大奥に詰めきったままだが、伯父がいなくても百合にはその後の事件の経過がよく、わかった。孫七爺やをはじめ邸内の奉公人たちが気をつけて、市中に飛び交う風評を聞き集めて来てくれたからである。
それらをまとめてみると、どうやら絵島を頂点にして、召喚、拘引される者の数は、底しれぬ拡がりを見せはじめているらしい。
だれよりも多く、しかも正確な情報を百合に提供してくれたのは、香椎《かしい》半三郎という青年だった。交竹院に師事して医術を学んでいる内弟子の一人だから、百合の弟の千之介ともしたしい。日ごろ、おたがいに、
「千ちゃん」
「半さん」
と呼び合っている門人同士だけに、半三郎ははじめから百合には隔てのない態度で接してきた。
中村清五郎や生島新五郎ら芝居町関係者が町奉行所に呼ばれたのは、百合も承知していたけれど、
「連日、ひどい責め問いを受けているそうですよ」
と教えてくれたのも、また取り調べ役人の顔ぶれを、月番老中は阿部豊後守、年寄は水野|監物《けんもつ》、大目附が仙石丹波守、町奉行は坪内能登守、目附は稲生次郎左衛門、同じく丸毛五郎兵衛。さらにそれらの下に大平弥五兵衛ほか御《お》徒士《かち》目附《めつけ》が七名、御小人目附が十名附属することまで、詳細に聞き出してきてくれたのも香椎半三郎であった。
「わたしの父が町奉行所の与力なのでね。何かと噂が耳に入るのです。もっともおやじは、坪内どのの配下ではないけど……」
「あら、半三郎さんは町与力の息子さん?」
「そう、貧乏人の子沢山で、兄弟が上下合わせて八人――。口べらしのために一人ぐらいは医者にでもなれってね。家を追い出されてしまいました。厄介者扱いですよ」
わざと閉口したように言う口許に、男には珍しく笑《え》くぼが寄る。それが甘さにはならず、むしろ半三郎の印象を清潔な、したしみ深いものに見せるのは、もともと持って生まれた人柄のせいかも知れなかった。
年は十九――。百合より二つ年長だし、千之介とはさらに開きがある。そのせいか兄貴ぶって、足の悪い千之介を何かにつけて庇《かば》ってくれてもいる日ごろなのである。
「責め問いだなんて可哀そうに……。いったい奉行所のお役人は、芝居町の者たちに何を白状させようというのでしょう。隠しだてしなければならないような悪事なんて、だれ一人働いてはいないのに……」
過酷な詮議を、中でも集中して受けているのは狂言作者の中村清五郎だという。五十年輩の、温厚な面《おも》ざし……。如才のない、行きとどいた清五郎の気くばりを、百合はいまさらのように思い返した。
「大きな声では言えませんがね、こういうことは時おりあるんです。つまり清五郎には何の科《とが》もない。しかし別の目的から、あらかじめ奉行所の側が一定の罪状を作っておく。そしてその筋書き通り白状させるというやり方ですね」
「だって、犯してもいない罪を認めるわけにはいかないでしょ?」
「だから拷問という手段に訴えるんですよ。これこれしかじかの事実があったろう、正直に『あった』と言えと責める。はじめはだれだって否認する。でも笞《しもと》打ち、石抱き、そろばん責め、吊るしだの海老責《えびぜ》めなどと立てつづけにやられれば我慢できる人間なんていません。なかった事でも何でも、苦しまぎれに『あった』と言ってしまう。それが口書《くちがき》に取られ、証拠に使われて、芋蔓《いもづる》を手繰《たぐ》るように連坐者が逮捕されてゆくわけですね」
百合は青ざめた。そんな理不尽な調べが許されてよいのだろうか。苦痛から逃がれたい一心で、役人の言うなりに口にした嘘の自白……。そのようなものを証拠にして役人たちは、何を裁こうとするつもりなのか。
男だし、与力の家に育っただけに、半三郎はわりに平気な口調で拷問の実態を説明した。
「まず笞での叩きですよ。左右の腕を折れそうになるまで背中に回して緊《し》め上げるから、それだけでも苦しいのに、皮肉が破れて血がしぶくまで拷問杖で打ちすえる。きず口には砂をすり込んで血止めして、百回も百五十回も打ちつづけるんですからひどいものです」
それでも身に覚えのないことは言えない。責め苦を堪《こら》えていると、次は石を抱かされ、そろばん責めに移る。
「石は伊豆石ですがね、俗に弁慶の泣きどころというでしょう。正坐させた脛《すね》の下に、三角にとがらせた松の木を五本並べる。そして白状を迫りながら石を膝の上に重ねてゆく。しぶとい囚人にはわざと積み上げた石をゆすったり背を打ったりもするから、脛は松の木の角《かど》にくい込んで……」
「やめてッ、やめてよ半三郎さん」
聞くに耐えなくなって百合は両手で耳をふさいだ。中村清五郎がそんなむごたらしい目に遭わされていると想像しただけで、身体じゅうに鳥肌が立つ。
悲鳴に近い百合の声にびっくりしたのだろう、半三郎はそれっきり拷問の話を打ち切ったが、あくる晩、こんどは実家の奥山家から異母弟《おとうと》の千之介が息せき切ってやって来た。その顔色の悪さに百合はとむねを突かれながら、
「どうしたの? 中途でころびでもしたの?」
庭からじかに居間へあげて、問いかけた。
「いや、ころびなどしない。じつは今日、父さんが評定所に呼び出されてお取り調べを受けたんだ」
「父さんが?」
「口上書を取られたらしい。いったん家へ帰されはしたけれど、尋問は相当きびしかったようだよ。父さんはすっかりおどおどしてしまったし、母さんは例によってキンキン声で喚き立てている。居たたまれないから『姉貴に知らせてくる』とことわって、出て来てしまったんだが、父さんも罪におとされるようなことになるだろうか」
「わからないわ。どうも訝しいの。父さんもこないだ言ってたでしょう? 『この事件には裏がありそうだ』って……。香椎半三郎さんに聞いたんだけど、芝居町の人たちが手ひどい拷問を受けているそうよ」
「何を喋らせるつもりだろう」
「何もありはしないの。身分の高い女中衆が大勢で見物に行ったのだから、出演中の役者は幕間《まくあい》に挨拶にくるし、座頭や狂言作者など手のあいている者は酒席の取り持ちをする……。当り前なことでしょ?」
「纏頭《はな》などもたっぷり貰っただろうしね、入れ代り立ち代り桟敷にきて、礼を述べるのはふしぎでも何でもないよ」
「だからその通り、陳述したと思うのよ。それなのに役人側は満足しない。中村清五郎という作者に的を絞って、連日痛めつけている様子なの」
「なるほど。裏があるね」
「武士などとはちがって、芝居町の連中ならどんな理不尽な吟味の仕方をしたってかまわないし、役者なんてものは臆病ですものね、清五郎の苦悶の声、血みどろ姿を見ただけで慄えあがって、役人どもの言うなりに、事実無根のことも片はしから『ありました』と認めてしまうと思うのよ」
「そして、それを動かぬ証拠としてほかの人たちを罪におとすつもりだね」
「父さんだって、だからどうなるかわからないわ。わたしを絵島さまの養女にしたこと、舟遊山《ふなゆさん》のお供をしたことぐらいだって、結びつけるつもりなら重罪に結びつくかもしれないもの」
「そんなことじゃ納まらないんだよ姉さん」
千之介の顔色はますます暗くなった。
「父さんと母さんは、月光院さま腹の若君が将軍になられてからこっち、絵島さまの身寄りに喰《くら》いついてさえいれば際限なくうまい汁が吸えると思ったんだろうな。水戸家の家来なのに御徒士頭の仕事なんかそっちのけで、暇さえあれば白井、豊島の両家に入りびたっていたんだ」
「自分でもそう言ってたわね、こないだの晩……」
「おべっかを使いに行ってただけじゃない。どうも父さんは、絵島さまのご舎弟の――何といったっけ? あのかたのお名……」
「豊島平八郎どの?」
「うん、豊島の旦那という人と組んで、商人どもにたかったりもしていたようだよ」
「たとえば、どんなことを?」
急《せ》きこんで百合は千之介をうながした。父の奥山喜内に詮議が及ぶのは、ある程度、覚悟していた。だから評定所へ呼ばれたことじたい驚きはしなかったが、豊島平八郎に取り入って悪事の片棒をかついでいたなどということになると、ただでは済まない。彼らの不始末が、絵島の取り調べにまで影響したら一大事である。
「商人というのは、つまり大奥呉服所の後藤だの、御用達商の仲間入りしたがって目の色かえている栂屋善六などね?」
たしかめる語尾が、つい知らず慄えた。
八
「そう、栂屋だの後藤だのという名が、父さんや母さんのやりとりの中によく出たし、善六という男はちょくちょく家にもやって来たよ。そのたびに手土産を置いていったけど、あいつは、姉さん、豪商の奈良茂《ならも》の取り巻きで『腰巾着《こしぎんちやく》の善六』って仇名されてるそうだね」
「へええ、『牛蒡《ごぼう》の善六』とも言うのよ」
「二つも仇名があるのか。なぜ牛蒡なの?」
「どこかの堤防工事を請け負ったとき、水漬《みずづ》いてお百姓が捨てた何百把もの牛蒡の束を、木材がわりに土手に突っこんでごまかしたからですって……。奸商《かんしよう》よね。絵島さまも栂屋を嫌っておられるわ」
「じゃあ、やっぱり絵島さまはご存知ないんだ。父さんも母さんも、それから豊島さまご夫妻や白井家の奥方……」
「ああ、佳寿奥さまね」
「つれだってぞろぞろ、何度も芝居見物に出かけてたよ。いつの場合も栂屋や後藤の奢《おご》りだったようだ」
「ひどいわ」
百合はさけんだ。
「では絵島さまの知らないところで、ご親族やうちの両親などが、いい気になって商人どもにたかってたわけね?」
「芝居の招待ぐらいなら、五、六人で出かけたところでたいしたことはなかろうけど、たとえば去年の春と秋に豪勢な舟遊山があったでしょう? あんなとき、絵島さまがお出しになった入費が、世話役を引き受けた商人の手に本当に渡っていたのだろうか。わたしはそれも気になるんだ」
「間に入って豊島のご舎弟あたりが、ご自分の懐中にたくしこんでしまったとしたら……」
「お金を出したにもかかわらず、絵島さままでが商人どもの負担におぶさって、図々しく遊山を楽しんだことになるよね」
「そうよ。栂屋にしろ後藤にしろ、絵島さまの機嫌をとりたい一心で、ご親族にまで何やかやよしみを通じて来ているんですもの。だけど絵島さまにしてみれば、船宿だの桟敷だのの手配を頼んだだけで、費用はご自分が出しているのだと思うから、彼らの下心《したごころ》になど取り合うおつもりはないわ」
「しかしその金は、中途でどこかへ消えてしまって、実際には商人どもが入費の全額を賄《まかな》ったのかもしれない。にもかかわらず、絵島さまにそれが通じていないとなると、連中だってむくれるよ。むだ鉄砲を打たされたことになるものね」
「おそらく豊島のご舎弟は『おれにまかせておけ、かならず姉貴に渡りをつけてやる』などとうまいことを言って、栂屋の欲心につけ込んでいたにちがいないわ。絵島さまをだしに使って、渡された金子の着服ばかりか、商人どもをいたぶっていたのよ。きっと……」
「いたぶらなくったって、彼らのほうからよろこんで御用に立たせてくれと申し出たのだと思うよ。だから白井の奥さまやうちのお袋まで平気の平左で、芝居の誘いに応じたんだろう」
「将を射んとすれば馬を射よ、ね」
「商人どもの胸算用では、いずれ何倍にもなって利益はもどる、損のゆく投資ではないと踏んだんだろう」
「もし千ちゃんの推量通りなら、いちばんたちが良くないのは絵島さまと商人のあいだに介在して、漁夫の利を占めた豊島平八郎どのよ」
「その豊島さまの手先になって、実態もない見せ餌《え》で栂屋を釣ったり、後藤からせしめた袖の下のおこぼれにありついた父さんだって、一つ穴のむじなだ。だから司直の手が伸びて来たと知って、うろたえているんだよ。お袋もね、累《るい》が我が身に及ぶのを恐れて今や逆上しきっている」
「どうなるかしら、この先……」
「わからない。ただ、いろんなことがほじくり出されれば出されるほど、絵島さまの迷惑になるのは必至だろうね」
「それが私には何より心配なの。父さんたちは身から出た錆《さび》よ。でも絵島さまはご存知ないことですもの。責任だけを取らされるなんて酷《こく》だわ」
「とにかく、もう少し成り行きを見ていよう。変ったことがあったら、また知らせにくるからね」
言い置いてあわただしく千之介が帰って行った直後、外出していた香椎半三郎が新しい風説をどこからか仕入れてもどって来た。
「千之介がいままでここに居たんですよ」
と告げると、
「惜しかったな、ひと足違いだった。逢いたかったのに……」
残念がりながら、
「こんどのこの、事件だけど、表沙汰になったきっかけは御小人たちの上訴にあるようですな」
と教えてくれた。
「御小人って、あの日ご一行の供をした中島久左衛門たちですね?」
「やつら、何かよほどお女中衆に恨みを含んでいたらしい。上司の御小人目附に書附を提出し、さんざん文中で、絵島さまがたの当日の行状を中傷したそうですよ」
「それはいつのことでしょう? 帰城してすぐですか?」
「いや、二月に入ってからです」
「では、ご代参の日から二十日《はつか》もたってのちに、書附を差し出したことになりますね」
百合は考えこんだ。御小人たちは、何を恨んでいたのだろう。腹いせする気なら、なぜ帰ってすぐにでも訴えなかったのか。二十日間も経過してから行動に出たのは、なぜなのか?
たしかにあの日、山村座で悶着が起きた。空《あ》いている二階桟敷の端に、御小人どもが坐らせてくれと要求し、それを独断で、使番の藤枝が手きびしくはねつけた。梅山が取りなし、絵島たちが折れて、でも御小人は四人とも結局は桟敷で芝居を見物した。
ところがさらに、帰りぎわになって再び藤枝と中島久左衛門のあいだに口論の蒸し返しがはじまり、双方ともしこりを残したまま城へもどった。
それを反省したのだろう、藤枝は、年寄たちの役部屋へ謝罪に出向き、金子を託されて、その夜のうちに中島らの詰め場へ届けに行っている。鼻ぐすりである。現金に御小人どもは機嫌を直し、あやまる藤枝に、彼らの側も過言を詫びたという。
和解は成立したのだ。気がかりはいっさい消滅したと、絵島たちが考えたのもむりはないが、もし豊島平八郎の場合と同じく、渡すべき金を中途で握りつぶして、藤枝が四人の御小人に渡さなかったとしたらどうなるか? あやまりに行くと言って出ながら、じつは中島らの詰め場など覗いても見なかったとしたらどうなるか。
御小人たちの怒りは解けず、それは生木《なまき》の燃えさしさながら、ぶすぶす、いぶりつづけたにちがいない。それでも欲の皮の突っ張った彼らは、
「いずれ何とか、御年寄がたから色よい挨拶があるにきまっている」
と、しばらくのあいだ待ちつづけるはずである。公用の帰路、芝居町へ寄り、七ツ口の門限に遅れなどしたさい、同類に引き入れる必要からも、大奥女中が供の御小人一同にいくばくかの口止め料を渡すのは慣例であり、常識でもあったからだ。
それなのにいつまでたっても、贈られてくるはずの金がこない。ついに辛抱を切らし、燻《くすぶ》りが怒りの炎となって燃え上った。二十日も経過してから訴えたのは、そのためではなかったか。と、すれば藤枝の行為こそ奇怪きわまる。
(あの女は、いったい何者だろう)
山村座の廊下で、稲生文次郎と立ち話していた謎も、まだ解けていない。百合の内奥で、藤枝への疑問がぐんぐんと膨《ふく》れあがりはじめた。
九
思い返すと、奇妙なことばかりである。しきりに若い腰元連中を煽動し、
「その、おねだり」
という形で、雑司ケ谷鬼子母神参詣の帰途、宮芝居への立ち寄りを実現させたのは藤枝だし、味をおぼえて、また行きたがる娘たちの気持を、役者の噂ばなしなどで、さらにそそり立てたのも藤枝であった。
正月の山村座見物は、つまり芝居通をもって任じる藤枝によって、そもそも火を付けられた結果なのに、弾みきったみなの気分に水を差しでもするように着くと早々、藤枝は御小人《おこびと》相手に諍《いさか》いを仕出かした。それも一度ならず二度まで、癇癪玉をぶつけでもするようなはしたない声をはりあげて言い合ったのは、いささか異常ではないか。まるでわざと、彼らを刺激したようにすら思える。つねづね気さくで、愛想のよい人と評判されている藤枝にしては、これも首をかしげたくなる行為だ。
まして、絵島に託された金すら渡さず、
「いさぎよくあやまってまいります」
と約束しながら、中島久左衛門らに詫びごと一つ言わなかったのが真実だとすれば、はじめから藤枝の胸中には、芝居見物にことよせて御小人どもと揉めごとを起こし、彼らの怒りに火をつけて事件に持ってゆこうとの邪悪な意図が隠されていたことになる。
(しかも、その藤枝が、稲生文次郎とこそこそ耳こすりし合っていたのは、いよいよ胡乱《うろん》ではないか)
事件の調査官に目附の稲生次郎左衛門がい、その稲生目附の弟が文次郎である以上、彼らに繋《つなが》りを持つ藤枝は、どういう立場の人間ということになるのだろう。
脈絡の詳細はわからぬながら、
(うさん臭い女!)
との疑いは、百合の中でいよいよ濃くなった。
市川団十郎に贈った梨地|蒔絵《まきえ》の小箱……。藤枝にもらったものだが、考えてみれば、あれも何やら符節が合いすぎる気がする。
「ね、聞いてよ」
香椎半三郎の膝先へ、百合はにじり寄った。
「成田屋って役者がいるでしょ?」
「うん。二代目団十郎ね。お家芸だけに、荒事をやらせるとなかなかうまい。どうかしましたか? その団十郎が……」
「わたし小さいとき、あの役者の二代目襲名披露の舞台を見ましたの。で、なんの気もなく御殿で仲よしの朋輩にその話をしたんですよ」
「そうしたら、からかわれた……」
打てばひびく察しのよさに、
「そうよ。その通り。どうしてわかるの?」
百合は目をまるくした。
「奥勤めの若い腰元衆なんて、だいたい、そういうものだからですよ」
「すっかりわたし、『団十郎に夢中』ということにされてしまったんですけど、面白おかしくみんなを焚きつけたのは、使番の藤枝という人でした」
「いいじゃありませんか。成田屋の贔屓《ひいき》をもって任じていれば……。それともほかに、好きな役者でもいるんですか百合さん」
「いませんわ。お芝居なんてろくに見たことすらないんですもの。でも団十郎はお父さんを不慮の災難で死なせたでしょ?」
「そうそう、だいぶ前だが江戸中、えらい評判でしたね。役者仲間に刺し殺されたんだっけ、初代団十郎は……」
「だから気の毒だなとは思ってましたよ。それだけのことなのに、藤枝さんが音頭取りで、『ほら百合さん、成田屋の噂をしたら赧《あか》くなった』だの、山村座の桟敷でも団十郎が挨拶にくれば『もっとそばへ寄りなさい、盃をおやりなさい』などと口々に冷やかすんです。居たたまれなくなって逃げ出してしまったんですけど、そんなわたしの素振りが可笑《おか》しかったんでしょう、階下《した》まで追って来てね」
「だれが?」
「ですから成田屋が……」
「わあ、お安くないなあ。焼けますね」
「いやねえ、あなたまでからかうの?」
相手の笑顔を百合は睨んだ。半三郎が、冗談めかしながらも妬《ねた》みを口にしたことで、百合の平静はふっと、掻き乱された。
「それで手でも握りましたか?」
「そんなことしません。階段下で少し話をしただけよ。でもそのとき、成田屋が三升《みます》の紋を染めぬいた縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》をくれたんです」
「ますます焼けるなあ」
「ふざけるのはよして。どの客にだって渡す名入りの配り物ですわ。それにあたし、お城を追い出されるとき、大奥の私室に、袱紗ばかりか交竹院伯父さまから頂いた大切な三絃まで置いてきてしまったんです。取りにもどることすら許されなかったんですもの」
「惜しいことをした。……いや袱紗じゃなく、三絃が、ですよ」
「とにかく、芝居にくわしい藤枝さんやお勢以さんなんて朋輩に言わせれば、団十郎はまだ大根で、人気がいま一つ、ぱっとしないんですって……。成田屋自身、『若い娘さんで肩入れしてくれるかたなんて、めったにいません』と白状してましたもの。わたしみたいなにせ物のご贔屓でも、うれしかったんでしょう」
「百合さんが可愛らしい人だからですよ」
「わたし、芝居町のしきたりには暗いけど、たとえ袱紗一枚でも役者に物をもらって、もらいっぱなしはいやですからね、何か纏頭《はな》をやろうとしたの。でもお鳥目《ちようもく》の持ち合わせはないし、困っているところへ藤枝さんが来てね。どなたか高貴なかたからの拝領品だといって、小さな美しい蒔絵の箱をくれたんです」
「それを団十郎にやれ、というわけですか」
「ええ。渡りに舟と思って、遠慮なくわたし、小箱をいただいて、右から左へ成田屋にあげました。金漆《きんうるし》で杏葉牡丹《ぎよようぼたん》の紋が描いてある由緒《ゆいしよ》ありげな品なので、成田屋もよろこんで受け取りましたわ」
「いったい、そんなものを藤枝という女は何に使ったんでしょうな」
「持病に頭痛があるので、薬を入れていつも持ち歩いていたんですって……。印籠では男っぽいというわけでしょうけど、この藤枝さんについて、わたし、いろいろと腑《ふ》に落ちないことが多いんです。それでね半三郎さん、小箱の出所を念のために調べてみたいと思うんですが、力を貸していただけません?」
「わけはない。杏葉牡丹というのは、ちょっと珍しい紋ですからね」
こころやすく引きうけた半三郎が、中一日置いてもたらした報告は、百合をしんそこ驚かした。
「近衛家の御紋章ですよ」
と彼は言ったのだ。
「近衛ってあの、天英院一位さまのお里方《さとかた》の?」
「そうです。先代将軍家宣公がまだ、ご存命中に江戸くだりあそばし、そのまま長いこと滞在なすったあげく、つい先ごろ、ようやく帰洛の途につかれた老太閤|基煕《もとひろ》公のお家の、紋どころですな」
「では、御台さまが先代将軍のおんもとへお輿入れなされたとき、ご実家から持っておいでになった調度、お手廻りの品々には、杏葉牡丹の描き紋が入っていてもおかしくないわけですね」
「おかしくなどありませんよ。つまり藤枝とかいう女は、近衛家か御台所、もしくは御台所派の女中たちと何らかの関わりを持っていた、と推量できます」
「それなのに、身分は月光院さま附きの御使番よ」
「そこが変なんだなあ」
「しかもね半三郎さん、藤枝さんはもしかしたら、目附の稲生次郎左衛門どのとも繋りがあるらしいんです」
「こんどの事件の、取調べ役人の一人ですね?」
稲生目附の弟の文次郎正祥が、絵島との縁談をつよく望み、そのくせ手きびしく断られてしまったこと、見合の席での、稲生家の内室と白井平右衛門の喧嘩沙汰、同じ山村座で、文次郎と藤枝が密談めいたささやきを交し合っていた事実まで、ことこまかに百合は半三郎に語って聞かせた。
御小人たちを挑発し、無用の諍いを引き起こしたのも藤枝だし、絵島から預かった口止めのための鼻ぐすりを中間で握りつぶして、彼らの憤懣《ふんまん》に火をつけてのけたのも、どうやら藤枝らしいと百合に言われて、
「なんとなく、わかりかけてきたなあ」
半三郎は唸《うな》った。
「藤枝は、何者かの手で吹上御殿へ送り込まれた間諜ではないかなあ」
「間諜!?」
「罠《わな》を仕掛けて廻ったんですよ。絵島さまはじめ主《おも》立った女中衆の足許にね」
「では、月光院さまのご威勢を削《そ》ごうとして……」
「中でも絵島どのに的をしぼり、巧妙にその失脚を企んだのではないかな。宮路、梅山、伊与や吉川など働きざかりの側近までを連坐の罪に落として一掃したら、吹上御殿の勢力はたちまち、がたがたになるはずですからね」
百合は呼吸を忘れた。化石したように居竦《いすく》んで香椎半三郎の口許をみつめた。
十
その夜――。
伯父の屋敷を抜け出して百合が訪ねて行ったのは、相ノ間の若江の家だった。
絵島に召し使われていたため、百合たちお直奉公の腰元たち同様、御暇《おいとま》を申し渡されて平河口から追い払われた若江は、四谷左門町の妹のとつぎ先に一時、身を寄せていた。想像していたよりはるかにみすぼらしい、それでもかろうじて一軒建ての、戸口に注連《しめ》を張った小家である。
「妹の亭主はね、おがみ屋なのよ」
と路上での別れしなに、苦笑まじりに言った若江の言葉を百合は思い出しながら、頭上の注連をくぐって、
「ごめんください」
うすぐらい土間の奥へ声を投げた。
「はい」
冴えた返事といっしょに、前掛けで濡れ手をふきふき出て来たのは若江自身であった。
「あら、百合さん。よくここがわかったわねえ」
「お話したいことがあって……」
「おあがんなさいよ。妹夫婦はちょうど出かけてね、いま、だれもいないから……」
好都合だ。他人の耳があっては困る。
「では、お邪魔させてね」
と、とっつきの六畳間にあがりはしたが、百合はどことなく居ごこちが悪かった。壁に寄せかけて、粗末な白木の祭壇がしつらえられている。幣《へい》や供物があげてあるのはいいとして、上段中央に鎮座しているのが陶製の蟇《ひき》なのであった。
「あれがご神体?」
首をすくめて訊ねる百合に、
「そうなの。大まじめで蛙をおがむんだもの、脇で見ていて吹き出しちゃうのよ。でも客をひきよせるとか、男の心をひきつけるなんて語呂《ごろ》合わせじみた縁起をかついで、ぽつぽつ水商売の女たちがお参りにくるわ。おかげで妹たちもほそぼそ食いつないでいるようよ」
と若江は笑った。
又者奉公の相ノ間ではあったけれど、絵島の部屋にいたころは若江もそれなりに御殿風俗だった。しかし、いま見ると、暇を出されてまだ幾日にもならないのに、すっかり町女房の姿にもどってしまっている。かえってそれが、手器用で働き者だった若江を、いっそうかいがいしく見せていた。おそらく妹の家でも、洗い物や水仕事などを受け持って重宝がられているのではないかと思われる。
「そうなの、帰ってくると早々おさんどんよ。ばかばかしいし、いつまで貧乏世帯の懸人《かかりゆうど》でもいられないから、いずれまた、どこか奉公口を探そうとは思ってるけれど、旦那さまのお身の上が心配でね、成りゆきがはっきりするまで、しばらく様子を見てるつもりなの」
「それなんですよ。じつはね」
洗いざらい、百合は藤枝への疑いをぶちまけ、近衛家や天英院派の女中たち、稲生兄弟との接触にまで及んで、
「香椎さんという交竹院伯父の内弟子は、『藤枝って女は間謀だったのではないか。御台さま一派の意を体し、巧妙に立ち廻って絵島さまがたを罠に嵌《は》めたのではないか』と言うのだけれど。なるほど、そう見れば何もかも合点がいくのよね」
どう思うか若江さん、あなたは、と相手の意見を求めた。
茶を淹《い》れてくれながら、
「その内弟子さんの推量通りでしょうね。たぶん……」
若江もうなずいた。
「わたしたち部屋の者には、はっきりおっしゃらなかったけど、旦那さまには意中の人がいたようね」
「さすがに若江さん、勘がするどいわ。平田彦四郎さまよ。ほら、いつかお宿さがりが終って帰城なさる道すがら、駿河台下の律成院ってお寺へ墓参に立ち寄ったことがあったでしょう?」
「おぼえてます。あのとき書院からの遠目に、チラとお見かけしたお侍――。たしか絵島さまのご舎弟の、亡くなったおつれあいの兄上だと百合さん、わたしや俊也に教えてくれたわね」
「そうだわ。思い出したッ」
大声で百合はさけんだ。
「彦四郎さまの父上の、平田伊右衛門どのと、絵島さまは近ごろ時おり文通しておられる、その文使いを引き受けているのが、藤枝だって、若江さんや俊ちゃんもあの日、わたしに話してくれたわ」
「おそらくご当人同士、じかに恋文のやりとりするのを憚《はばか》って、父上の名で偽装したのでしょうが、平田伊右衛門どのの娘婿《むすめむこ》に、児玉主馬という人物がいる。この男が、藤枝と絵の同門だそうだとも、たしかわたし、言ったはずよ」
「市助や角三たち部屋附きの五斎を使いに出したりすると、下郎は口さがないからどんな評判が立つかわからない。そこで用心して、仲介役を引き受けようとみずから申し出たのをさいわい、絵島さまは藤枝に文箱を託すことになすったのでしょうね」
「でも藤枝も大奥の使番だし、自儘《じまま》にお城の外へ出ることはできないわ。そこでいま一人、児玉主馬を間に入れた、ということではないかしらね」
「何者なの? 児玉って男……」
「それがね百合さん。辰《たつ》ノ口《くち》の伝奏屋敷に詰める幕臣だそうよ」
「伝奏屋敷?」
「しかも、御台所の父君の、近衛老太閤――。あの小うるさい爺さまが、三年ものあいだ江戸に逗留《とうりゆう》し、宿舎の伝奏屋敷と御台所の住む大奥の間を、毎日行ったり来たりしていたころ、児玉主馬はいたく近衛老公に気に入られて、まるでその家人《けにん》のように日常の雑事を弁じていたんですって……」
「ほんとう!?」
「だから、鍋松ぎみが将軍職を継がれたとき、勅使として関東へ下向なさった老太閤のご子息……」
「摂政近衛|家煕《いえひろ》さまね。御台所の弟御の……」
「あのお公卿さんにも当然、目をかけられて、滞在中、児玉はいろいろ近衛家ご父子の私用の相談などにも与《あずか》っていたらしいわ」
「そうか」
人と人とのつながり……。こぐらかっていた糸がみるみる整然と、頭の中でほどけてゆくのを百合は感じた。
「近衛家の家紋の杏葉牡丹が描かれていたあの小箱は、つまり老太閤か天英院さまか、あるいは摂政どのの手を介して児玉主馬に渡され、主馬から藤枝へ、そしてわたしへと贈られたわけね」
「それを百合さんは、二代目団十郎に、あの女の目の前で引出物としてくれてやった……」
「何か、このことにも作意が働いているのかしら……」
「いるかもしれない。養女のあなたの不始末は、絵島さまの足をひっぱる材料になりかねないからね」
「小箱を成田屋へあげたのが、不始末呼ばわりされるほどの悪事なの? 近衛家の紋のついた品を役者風情に渡したのがいけないなら、藤枝も同罪でしょ?」
「藤枝ははじめから泥をひっかぶる気でこちら側の陣営に入りこんできている廻し者よ。だからあの女は、旦那さまがたと同じく御広敷で、御暇の申し渡しを受けたじゃないの」
詮議が始まれば裁きの庭で、絵島たちに不利な証言をし、形だけは連坐の罪におちるだろうが、天英院派が裏から手を回して、藤枝一人をひそかに救い出すのも目に見えていた。
春の夜の暖気ばかりではない。百合は全身が、怒りと不安で熱くなった。
(成田屋もお咎《とが》めを受けるのだろうか。中村清五郎のように拷問の苦痛を舐めさせられるのだろうか)
藤枝の行動に不審を抱きながら、うかうかその企みに乗せられ、団十郎までを事件に捲き込むことになった軽率がいまさらながら悔やまれた。
妹夫婦がもどって来たのを機《しお》に、やがて百合は若江の家を辞したが、伯父の屋敷に帰ってみると、留守中に届いていたのは、父の奥山喜内が再度、評定所に呼び出され、口書きを取られたこと、いよいよ明日、絵島の取調べがおこなわれることなどを告げる千之介からの、走り書きの書状であった。
八丈つむぎ
一
絵島の吟味は、その宿元である白井平右衛門宅へ、稲生次郎左衛門、丸毛《まるも》五郎兵衛の両目附が出向いておこなわれたという。
どういう調べかたをされたのか、何に的を絞って尋問したか、百合たちにはうかがい知るべくもなかったが、香椎半三郎が父の町与力から訊《き》き出して来た情報によると、稲生と丸毛がかわるがわる執拗に、絵島に自白させようとしたのは、
「生島新五郎との間に、不義の事実があったかどうか」
という点だったそうだ。
「そんなことはないと、きっぱり絵島どのは否定したらしい。しかし目附たちは承知しない。それというのも、不義密通を証拠だてる品があるからで、それは双方が取り交した帯だ、というのですがね」
「帯!?」
「絵島どのは新五郎の、新五郎は絵島どのの帯を、それぞれ所持してるそうじゃありませんか」
ひどい力で、百合は頭を撲られでもしたような衝撃を受けた。
「それも藤枝が仕掛けた罠《わな》ですわ半三郎さん。ああ口惜《くや》しい。どうしたらいいでしょう」
山村座での見聞を、逐一、百合は語った。
「お芝居はおもしろいし、お弁当もおいしいし、みんな浮き浮きはしゃいでましたの。絵島さまや宮路さま、梅山さまがたも酔って、いいご機嫌でしたよ。宮路さまなんか召し上りすぎて茶屋へ休息に行かれたくらいです。入れ代り立ち代り、幕間には役者たちが挨拶にまかり出る。生島新五郎も来たけれど、素顔は白粉焼けした、舞台での二枚目ぶりに較べるとだいぶ見劣りのする四十男でしたわ」
そのかわり人気稼業には似合わぬ実体《じつてい》な、遠慮ぶかい男で、折り目も正しかった。むしろ役者にしては分別くさく、華やぎや面白みに欠ける嫌いがなくもない。だからかえって絵島あたり、酔余の興味は、市村座の座元につれられてやって来た若立役《わかたちやく》の、滝井半四郎にそそられたらしい。盃を交したり、戯《ざ》れ言《ごと》など言い合って笑ったりしていたが、それとて、その場かぎりの浮かれごころにすぎず、帰城したときには忘れてしまったほど他愛《たわい》ないものだった。
生島新五郎に、
「纏頭《はな》をやりたいが……」
と言い出したのも、当代一の和事師《わごとし》と折り紙つけられている大名題《おおなだい》への敬意である。
「それにね、新五郎と絵島さまとの間には、思いがけない絆《きずな》が結ばれていたんです」
半三郎に、百合は説明した。
「山村座の座元は山村長太夫って人だけど、その舅の友碩《ゆうせき》と名乗る隠居が、挨拶にきて、離別した先妻の話をしたんですよ」
友碩のもとから去って、現在、武州八王子の旅宿に再嫁したお孝という女は、紀州侯の奥勤めをしていたさい、絵島とは仲のよい朋輩《ほうばい》だったが、新五郎の家内のお良は、じつはお孝の妹なのだ――そう言って、隠居が絵島に引き合わせた話を、百合は半三郎に語って聞かせたのであった。
「奇遇に、絵島さまも驚いておられました。近づきのしるしに、何ぞやりたいとお思いになったのも、新五郎へというよりはお良さんにしたしみを感じたからでしょう。お孝どのの消息を、あれこれ、なつかしそうに聞きほじっておられましたもの」
贈り物がしたくても、団十郎の場合における百合と同じく、適当な品がみつからない。腰元たちの中には取り巻きの町人に百疋なり二百疋なり鳥目《ちようもく》を借りて、好きな役者にやった者もいたくらいで、外出にも金など持って出ないのが奥女中一般のならわしだったのである。
筥迫《はこせこ》には必要な小物が入れてあり、髪の物も、笄《こうがい》など引き抜けば髷《まげ》が崩れる。櫛なしで歩くのは目立つし、異様だった。
「さて、どうしたらよいか」
身の回りを眺めて困惑する絵島へ、
「帯をおつかわしなされませ」
すすめたのが藤枝である。
「ご代参の帰りでしょ? ご廟所を拝したままのなりで芝居町へ行っては恐れ多いので、お局がたはどなたもお寺の庫裏《くり》を借りて町家風《まちやふう》な小袖に着替えて出られたの。帯も、それに合わせた流行の品だから、お良さんにやれば受け合い、よろこぶだろうというわけよ。お良さんのと取り替えればいいけど、これが粗末な締め古しなのね」
「なるほど。そこでまた、藤枝のやつが口を出して、新五郎の帯と交換させた……」
「そうなの。世帯を切りもりする女房どのが、つましいのは仕方がないわ。でもさすがに商売柄、新五郎は渋い、金目のかかった織り物の帯をしてました。男ものだからちょっと細めだが、ご帰城なさるまでの間ご辛抱くださいということで、帯のやり取りをなすった。それが真相なんですよ」
「そうでしょう。句を書いた扇子、着ている羽織、口紅のついた手拭でも何でも、役者の持ちものなら欲しがって手に入れたがる女客は無数ですからね。役者の側も物の取り替えっこに慣れてしまっている。しかし後日、問題にされた場合、帯というのはまずかったなあ」
男と女が衾《ふすま》を共にすることを俗に「帯紐解く」というくらい、帯にまつわる連想はなまめいている。
「稲生目附らが絵島さまを尋問するために白井邸へおもむいた日、山村長太夫、友碩父子も評定所に召喚されて、いろいろ問いただされたようですよ。彼らはおそらく、いま百合さんが言ったと同じことを――つまりお孝さんお良さん姉妹と絵島さまとの関係や、帯のやりとりなど、あの日の桟敷での経緯をくわしく話したにちがいありません」
すでに逮捕され、取調べを受けている生島新五郎も、そして絵島もが、密通の事実など断乎、否定しただろうし、友碩らもそれを裏附けたとすれば、公正な裁判ならありのまま認められてよいはずである。
「ですが、はじめから無実を承知で、むりに罪状をでっちあげようとかかっているとしたら、だれの証言も通りはしません。二筋の帯は、のっぴきならぬ証拠として使われてしまう。そのための伏線を張った藤枝なのに、うっかり口車に乗せられて言うなりになったとは……。絵島さまも重責を担われるかたに似ず、軽はずみでしたな」
と香椎半三郎に歎息されても、いまさら返す言葉がない。
それにしろ、なんと周到に、そして巧みに網を張りめぐらしていた相手だったことか。
(まるで奸智にたけた蜘蛛《くも》ではないか)
あらためて百合は舌を巻いた。
彼らにくらべると、現将軍家を手の内に擁している勝利感から、いつとはなしに気をゆるめ、思いがけず虚を衝《つ》かれた月光院派は、当の絵島をはじめ、あっけらかんと無防備ぶりをさらけ出していたことになる。
(油断だった)
覚《さと》っても、もう遅い。
天英院側――と決めつけるのは速断にしろ、とにかく反・月光院派の出方ははやかった。絵島が目附らの問いただしを受けた日、山村長太夫と友碩を評定所へ呼び出す一方、町奉行所は市村座、中村座のほか、控え櫓《やぐら》の森田座の責任者までを拘引――。中村勘三郎、市村竹之丞、森田勘弥の三座頭はもとより、それぞれの座に所属する袖岡政之助、市川団十郎、滝井半四郎、山下かるも、岸田妻菊ら多数の役者を逮捕して厳重な詮議をおこなった。
すでに木挽町の山村座は、断絶お取りつぶしの処分に遇っていたが、さらにこの日、堺町の中村座、葺屋町《ふきやちよう》の市村座が芝居興行の差し止めを命ぜられた。わずか一日の内に、一挙にこれだけの片をつけてのけたのである。
二
市川団十郎が奉行所に曳かれ、お取調べのあげく町預けになったとの知らせは、百合の胸を凍りつかせた。
「ほかの役者どもはみな、座元預けで済んだのに、成田屋だけが町役人に引き渡され、押し込めの厳達をこうむったそうでございますよ」
と教えてくれたのは孫七爺やだが、
(杏葉牡丹の小箱が祟《たた》ったにきまっている)
百合はそう思った。
さしあたり逃亡の恐れのない被疑者を名主か家主、もしくは月行事、五人組などに託して監視させておくのを町内預けという。
「団十郎に詫びたい。わたしの不注意から、とんだ災難に捲き込んでしまって……」
気を揉む百合を、
「とんでもない。とてもいま、芝居町近辺へなど寄りつけるものじゃござりませぬ」
爺やは制止して言うのだった。
「いやもう、江戸中が煮えくり返るさわぎでな。それでなくてさえ役者の噂には目のない連中じゃで、女こどもまでが泡をとばして口から口へ、あることないこと喋りちらし、仕事も何も手につかぬありさま……。一日さんがい、今度の事件で持ち切っておりますわ」
娯楽のすくない江戸市民にとって、唯一最大の愉しみは観劇である。だれもが熱中するのは芝居話であり、着物の柄にしろ櫛かんざし、履物の意匠にしろ、はなはだしい場合は帯の結び方、頭巾《ずきん》や手拭のかぶり方に至るまで流行の源《みなもと》は役者であった。
「どうやら、その役者どもと、大奥女中衆の醜聞が発覚したらしい」
と評判が立ったのだから、人々が熱狂したのも無理はない。
ふだん、窺《うかが》い知ることのできない雲の上――。将軍さまの居城や諸侯の奥向きなどというものは、それだけに庶民層には、尽きることのない好奇心の対象なのだ。
かくべつ不思議な風習があるわけでも、特に変ったことがおこなわれているわけでもない。将軍家は将軍家なりの、また大名家は大名家なりの格式慣例に従った日常生活がくり返されているにすぎないが、妙に捻《ね》じ曲げて、おもしろおかしくそれが巷間に流布するのを防ぐため、奉公にあがる者は上女中からお婢《はした》まで、はじめにみな、誓紙を差し出す。
「みだりにご内情について、口外はいたしませぬ」
との契約のもとに採用されるのである。だからなかなか、大奥の実態など外へ洩れにくい。
秘されれば、しかしいっそう知りたくなるのは人情だ。ことに女たちのくらしぶりに、だれもが興味|津々《しんしん》でいたし、行列を組んでものものしく練り歩く外出姿には、
「ちぇっ、揃いも揃って、高慢な面《つら》つきをしてやがるぜ」
「濃化粧で乙に澄まして……。まるで狐の嫁入りじゃねえか」
畏怖と同量の反感を抱いた。高嶺《たかね》の花への潜在的なやっかみである。
それだけに、権勢の座からころがり落ちて、ベソをかいたであろう女中たちの噂には、溜飲がさがったし、ましてその罪状が役者相手の淫行にあったらしいというのでは、風評の片々にさえ夢中になるのも当然だった。
絵島とは父が違い、母も違うが、系譜上では兄であり、弟に当るということで、白井平右衛門、豊島平八郎の両名も取調べられ、口上書を取られた。吹上御殿に詰めきっていた奥医師の奥山交竹院が、憔悴《しようすい》しきって帰邸してきたのは、平右衛門らが評定所に呼ばれた日の夕刻である。
「伯父さま、大丈夫ですか? お顔の色がすぐれませんけど……」
走って玄関まで出迎えた百合は、何を言うより先に愕きを口にしてしまった。それほど交竹院は、疲れ切った様子で乗物からおり立ったのである。
内弟子の香椎半三郎がその場に居合わせたし、ちょうどこの日は、母の目を盗んで千之介もやって来ていた。式台から足袋《たび》のまま飛んでおりて、若い彼らが支えても、居間までの長い廊下で幾度かよろめいた交竹院だが、敷き馴れた茵《しとね》に坐り、手ばやく半三郎が湯呑に注いで出した振り出しの煎じ薬を口にふくむと、
「やれやれ、どうやら人ごこちがついた」
やっと少し、くつろいだ表情になった。
「連日のご看護で、ろくに眠るひまもおありにならなかったのでしょう。爺やにお床をのべさせますから、おやすみになったら?」
百合のすすめには、しかし、かぶりを振って、
「身辺の整理をするために帰らせていただいたのじゃ。わしにもな百合、明日《あす》にも罷《まか》り出よとのお達しがくるにちがいないよ」
交竹院は言った。
「伯父さまにまで?」
「弟の喜内は、すでに二度にわたって吟味を受けている。白井さま豊島さまがたも今日、評定所へ呼ばれたそうじゃでな。わしだけが無事でおられるはずはなかろう」
「何を訊かれるのでしょう」
「わからぬ。が、百合もわしの身の上について、覚悟だけはしておいたほうがよいぞ」
「覚悟って……伯父さまが罰せられるのですか? 何も悪いことなどなさらないのに」
「落とすつもりなら、どうこじつけても罪に落とせる。わしの一身など、でも、どうなろうとかまわんのじゃ。気がかりなのはただ一つ、上さまおん母子のご容態じゃよ」
「先生が、ずっと御殿に泊まりきりでおられたので、われわれもそれを懸念しつづけていました。よほど重くていらっしゃるのですか?」
と半三郎が眉をひそめた。
「いや、いつものお風邪気《かぜけ》ゆえ、上さまはさいわい持ち直された。はかばかしく良くおなりにならぬのは月光院さまじゃよ。今度のこの騒動に心痛がつのられ、口にはあそばすのじゃが薬も粥《かゆ》も、胃の腑が受けつけぬ。医師どもの必死の療治にもかかわらず痩せ衰えられてな、無念じゃとばかり、夢うつつのように口走っておられるわ」
「そんなさなか、もし伯父さままでがおん母子のおそばにいられないようなことになったら……」
「そこなのじゃよ百合」
手の湯呑を盆へもどしながら、交竹院は沈痛な口ぶりでうなずいた。
「月光院さまはまだしも、上さまのご健康がこの先、ひどく案じられてくる。逆子《さかご》で誕生あそばし、育つか否か、周囲をはらはらさせ通した虚弱なご体質じゃ。広言めくが、主治医のわしが丹精こめてお守りいたしたからこそ、六歳までどうやら無事に成長なされたと申してよい。お身体癖《からだぐせ》を知りつくしているわしが、おそばからいなくなるのは、風にも耐えぬ若木から支えをはずすのと同じことじゃでなあ」
万一、そこまで計算しつくして、交竹院を幼将軍の身近からもぎ離すとしたら、企んだ者の腹ぐろさは言語に絶する。
(やりかねない)
と思うと、怒りに、百合の息づかいは荒くなった。
「いや、まだ先生までが罪に落とされるかどうか、わかりませんよ」
半三郎はそう言うが、やはり口ぶりはこわばっていた。
薬湯《やくとう》を一碗喫しただけで交竹院は書斎に入り、書状や日記、心おぼえを書きとめた古|反故《ほご》などを庭に持ち出して焼き捨てた。なまあたたかな春の夜気《やき》の中で、うずたかい紙の束は鮮かな炎をあげて燃えあがり、あっけなく灰に変った。
水を打ちながら、百合は泣いた。くやし涙である。あばき立てたくても、漠《ばく》として正体が掴めず、しかしたしかに、事件の裏に見えてはいる巨大な影……。それが片はしから、味方を呑みこんでゆく怖《こわ》さ、無気味さは、目醒めていながら悪夢でも見ているようだった。
予測にたがわず、それから三日後に、奥山交竹院は評定所への出頭を命ぜられた。
栂屋善六、杉山平四郎、西与一左衛門ら舟遊びのさい同行した人々もやはりこの日、呼び出されて、それぞれ口書きを取られたし、彦四郎の父の平田伊右衛門、絵島の父母の菩提寺《ぼだいじ》である雑司ケ谷の法明寺、また時おり、月光院に代って参詣した鬼子母神の別当坊大行院の住持らまでが喚問された。
「あちこちから他借なさっていると仰せられるのでござりますか? 絵島さまが? それで手前どもにも同様、金の借用を申し入れてこなかったか、とのおたずねでござりますな? ご用立ていたしましたとも。大枚百両もの金子を証文なしの無利息で……。使いに来られたご舎弟の豊島平八郎どのに、期限だけを三月《みつき》と限ってたしかにお渡し申しました。旧冬、師走の二十四日でござります」
とも、大行院は答えたと、真偽はともあれ口上書にはこのとき、記載されたのであった。
三
被疑者全員が評定所、あるいは町奉行所に呼び出され、判決の言い渡しを受けたのは正徳四年三月五日である。
何らかの形で今回のこの騒ぎに関係し、司直の手で取り調べられた者の総数は、千五百人を越した。
徳川法制史上、かつてない大事件であったにもかかわらず、三年、五年、時にはだらだらと七、八年にも及ぶのが通例とされている裁判を、発覚から結審まで、わずか一ヵ月たらずで終らせてしまったことじたい、異常であり、奇怪でもあった。まるで満を持して射放《いはな》した矢が、空中を引き裂いて通りでもしたように、何びとにも口出しの隙《すき》を与えぬ疾風さながらな詮議の仕方である。
この日、絵島は白無垢《しろむく》の二枚重ねの上に、八丈|紬《つむぎ》の裲襠《うちかけ》を羽織って評定所に出頭した。懐中していたのは水晶の数珠《じゆず》一連、ふところ紙一帖、差し替えの笄一本、懸香《かけこう》一包み……。そして金襴《きんらん》の守袋のなかには祖師の名号二枚、法華経一巻、血脈《けちみやく》一枚、小さな厨子《ずし》入りの不動明王像一体、九重守《くじゆうまもり》、伊勢、石清水《いわしみず》、賀茂の社《やしろ》の護符《ごふ》おのおの一枚ずつを納めていたにすぎない。
読みあげられた判決文は、
「絵島こと、段々お取り立て候て、重き御奉公をも相勤め、多くの女中の上《かみ》に立ち置かれ候身にて、内々にてその行《おこなひ》正しからず。お使ひに出候をりをり、または宿下《やどさが》りの度々に貴賤をえらばず、よからぬ者どもに相近づき、さしたる所縁《ゆかり》なき家々に泊まりあかし、中にも狂言座の者どもと年ごろ馴れしたしみ、その身の行、かくの如くなるのみならず、朋輩の女中をすすめ道引き遊び歩き候ことども、その罪重く候へども、お慈悲をもつて命を助け置かれ、永く遠流《をんる》におこなはれ候もの也」
というもので、だれが聞いても無期限の『遠流』に該当する罪など、具体的には何ひとつ明記されていない説得力に欠けた内容であった。
逮捕者の中ではもっとも弱体な芝居町の者たちの、それもほんの一人二人に、拷問による自白を強いただけでは、さすがにこれ以上の書き方はできなかったのだろう。
「上に立つ者として、行状が正しくない」
と言い、その理由として、お使いや宿下りで外へ出たさい、身分の上下をえらばず良からぬ者と交際し、さして縁故もない家に泊まったことを挙げているが、これだけではいかにも根拠が薄弱すぎる。
そこで「狂言座の者ども」を登場させ、いわくありげに取りつくろいはしたものの、無い事実は、どうつついても無い。やむなく「年ごろ馴れしたしみ」というだけの数文字で片づけねばならなかった。
「自分ばかりか、朋輩の女中たちにまですすめて遊び歩いた」
というのも、いかにも苦しい。ご代参その他、主人の使いで外出した場合は、芝居見物にしろ私的な物詣でにしろ、すべて事前に許可を得ているのだ。
まして宿下りで家に帰ったあいだは、天下晴れての自由時間である。極論すれば、いくら羽目をはずそうと勝手なのだ。貴賤を問わず会いたい人々に会い、その家々に泊まるぐらいなことは、どの奥女中だってしている。
観劇は、ましてこの上ない息ぬきであった。見に行くうちに贔屓《ひいき》の役者ができ、仮に百歩ゆずって艶っぽい関係に陥ったとしても、これまた、どこからも非難される筋合はない。商家や武家の若後家、金回りのよい売れっ子の芸妓、あるいは有夫の人妻でも金持ちの有閑婦人など、なかば公然と役者買いを楽しんでいた。
芝居者とは元来が、そのような稼ぎで生計を立てている職能者であり、遊女を買うのが、ある意味では、
「男の甲斐性《かいしよう》」
であったと同じく、番頭手代、家扶《かふ》や家士など素人《しろうと》の男を相手にすれば大問題になる女の密事《みそかごと》も、役者が対象なら「売りもの買いもの」で、大目に見られてもいたのである。
まして絵島たち奥女中は、ふだん禁欲生活を送っている。一年に一度、二年に一度の休暇ぐらい、どう堪能《たんのう》して過ごそうと咎《とがめ》ることはできないし、まして『永遠流《えいおんる》』などという重罪の理由附けとしては、いかにも無理なこじつけなのであった。
絵島はしかし、一言の抗弁もせずに判決の言い渡しを聞いた。もともと陶器を思わせる引き緊った、青白い頬は、紅をさしたようにうっすら染まり、唇は固く結ばれている。判決文を読みあげる大目附仙石丹波守の額のあたりに、まっすぐ視線を射つけたまま身じろぎ一つしなかった。
さすがにもう、この時点では事件の全容が、裏に潜むものの正体や意図まで、すべて絵島には洞察できていたにちがいない。
(反駁したところで無駄だ)
と思えばこそ、自若として流刑の宣告を受けたのだが、口で何を言うより雄弁に、八丈紬の裲襠が配流《はいる》への彼女の覚悟を現していた。
申し渡しがすむと即座に、絵島は板縁から白州へ曳きずりおろされ、うしろ手に縛りあげられて伝馬町の獄舎に護送された。揚屋《あがりや》へ入れられる前にそれまで身につけていた絹物を脱がされ、上着、下着、帯などいっさい、木綿の囚衣に着替えさせられたのである。
同じくこの日、処罰の言い渡しを受けた被告人の中で、もっとも刑の重かったのは絵島の兄の白井平右衛門、百合の父親の奥山喜内であった。
二人にくだったのは死罪の判決で、それも、せめて武士らしく切腹仰せつけられたのならまだしも、喜内は主家の水戸家に引き渡されて打ち首、平右衛門は二百石取りの幕臣でいながら小塚原の刑場に曳かれ、夜盗追い剥ぎのたぐいとえらぶところのない斬首に処せられたのである。
絵島の詮議のために、自邸へ乗り込んで来た二人の目附――。うちの一人を、
(稲生だ)
と気づいた時から、じつはいさぎよく、肚《はら》をくくってしまっていた平右衛門だったのだ。
目と目を見合わせた瞬間、双方の脳裏に火花の激しさで炸《はじ》けたのは、あの日の憎悪であった。十年の歳月を経《へ》ながら、不快感がすこしも薄まらず、つい昨日の体験ででもあるかのようになまなましく蘇《よみがえ》ったのを、われながら平右衛門はふしぎに思った。
(稲生次郎左衛門の心中も、おそらく同様なのではないか)
そう推量し、いまや完全に生殺与奪の権を握った相手が、この報復の好機をどう活用するか、
(じたばたせずに見守るほかあるまい)
とも、観念したのである。
四
取り調べが進むにつれて、白井平右衛門の気持の中にはいよいよ諦《あきら》めの色が濃くなった。
裁判の責任者は表向き町奉行の坪内|能登守定鑑《のとのかみさだかね》だが、坪内は六十すぎの老人で身体も弱い。お飾り人形よろしく吟味の場にただ坐っているだけで、実際に裁きを切って回している中心人物は、稲生、丸毛の両目附――なかんずく稲生次郎左衛門正武だということが、はっきりわかってきたからであった。
仕返しの快味に、いまや舌なめずりしているらしい稲生……。脂を浮かせたその、肉厚な顔に、抑えようもなく滲み出る加虐のうすら笑いは、生け捕った獲物を前に、どう屠《ほふ》るか料《りよう》るか、思案する猟師の冷ややかさを連想させた。
「なんてことでしょう。人も多かろうに選りに選って、稲生さまがこんどの事件の裁き手とは……」
当初、夫にも絵島にも、佳寿《かず》はかきくどき、
「ひどい目に遭わされるのではないかしらねえ」
怯《おび》えた。
「じたい、あなたがいけないんですよ。稲生のご内室が二階桟敷から落とした女扇……。頭に当ったか肩に当ったか知らないけれど、たかがそれだけの粗相にカッとのぼせて、あとさき見ずに喧嘩を売った。そりゃあね、あのご婦人も礼儀知らずな、虫の好かぬ女でしたよ。ですがあなたも大人げない。場所柄もわきまえず大声あげて罵《ののし》り合い、危うく抜刀さわぎにまでなりかけたのですからね。わたしが駆けつけて取り鎮めなかったらどうなったか。しかも言い争った二階の客がお見合相手の稲生のご家族だったのですから、そのばつの悪さ……。詫びの言葉すら思いつけないほどでしたわ」
と心痛さなかでも、持って生まれた多弁癖はぬけない。
「美喜さんも美喜さんよ。縁談をことわるなら、ことわりようがあったでしょうに、当の文次郎さまはもとより兄上ご夫妻にまで赤恥をかかせるような決めつけ方をして……。稲生家側が立腹するのは当然です。それでもよくよく未練があったのでしょうね、美喜さんが御殿奉公にあがってからも文次郎さまはほかの縁談に耳をかさずに、豊島の平八郎さんあたりに頼みこんで、何とか翻意してはくれまいかと、かきくどいていたようです。あのときもし、美喜さんが首を縦に振っていたら、こんどみたいな災厄に巻きこまれることもなかったでしょう。稲生家は千五百石ものご知行を食《は》むご大身ですからね、分家して一家を構えれば文次郎さまも、すぐにでもしかるべきお役職につけるはずです。罪人にされかねない今の惨《みじ》めさにくらべたら、それこそ雲泥の違いですわ」
愚痴られると、そのころお預け中の身を兄の邸内に置いていた絵島も、
「申しわけありませぬ」
嫂《あによめ》の前に手を突いて詫びるほかなかった。
「おっしゃる通り、もっと穏便に言えば言えたものを、若気《わかげ》の至らなさから、はしたない断りようを致しました。あのときのことが尾を曳いて、万一お兄さまがたに迷惑が及ぶようなことがあっては一大事ですけど、稲生どのも武士です。職権を利用して私怨をはらすなどという卑劣な振舞いは、まさかなさりますまい」
この絵島の期待は、結果としてはみごとに裏切られた。白井平右衛門は極刑の中でも屈辱はなはだしい縛り首を宣せられ、ほとんど弁疏《べんそ》のいとまもなく刑場に曳かれて、四十三年の生涯を閉じたのである。
太刀取りは坪内能登守配下の同心土橋次郎左衛門――小山与右衛門以下、五人の御《お》徒士《かち》目附《めつけ》が検視として立ち合い、あっけなく処刑は終ったが、
「白井平右衛門こと、大坂に於て御役相勤め候に附き、不調法の事どもこれあるに附き大坂の町人ども当地まで罷《まか》り越し、度々に及び訴へ出《い》で候といへども寛容のご沙汰をもつて、御糺明をも遂げられず、御役のみ召し放たれ候。然《しか》る処、妹絵島こと重き御奉公を相勤め候ところに、内々に於てその行跡正しからざる事どもこれ有りといへども制止に及ばず、或《あるい》は傾城町へ相伴《あひともな》ひ、遊女どもと参会せしめ、或は狂言座に相伴ひ、役者どもと参会せしめ候条、犯すところの罪科挙げて数へがたし。これに依り、急度《きつと》その罪を正して死罪に行はれ候もの也」
というのが申し渡しの全文だった。絵島への判決文に劣らず、これも抽象的な文言《もんごん》の羅列である。大坂勤番中ひき起こした町人相手の諍《いさか》いは、文中にもある通り平右衛門自身が、お役ご免の上、江戸へ召しもどされ、小普請入り仰せつけられたことでとっくにけりがついている。処罰が済んだ事件をいまさらまた蒸し返して、罪状に加えるのは訝しな話だし、吉原へも芝居町へも、平右衛門は行っていない。
舟遊山の流れが酔いざましのそぞろ歩きに、吉原見物へと繰り出したとき、いつもの偏屈ぶりを発揮して、
「おれはいやだ。大川の夕景色を眺めていたほうがずっといい」
と平右衛門だけは舟中に残った。
あとから茶屋へやって来たのは、平田彦四郎が甥の吉十郎少年を迎えに現れたのでいそいで絵島を呼びに行ったためで、すぐ、もとの舟着き場へ引き返してしまっていた。商人どもに招待されるまま、いそいそ芝居町へ出かけたのはもっぱら妻の佳寿で、
「人いきれがたまらん。だいいち歌舞伎狂言など、おれの性に合わんよ」
と平右衛門は、そんな誘いにすら腰をあげようとしなかったのだ。
それでなくてさえ帰府後しばらくのあいだは、閉門謹慎の身で家に引きこもってばかりいたし、出歩けるようになってからも下戸《げこ》で口の重い彼は、女たちのおしゃべりや商人どもの世辞笑いに気軽な対応ができず、
「そんな苦行を我慢してまで、だれが芝居になんぞ行くもんか」
と、手枕のごろ寝をきめこむのが常だった。
判決文には、
「妹の絵島を遊女どもと参会せしめ役者どもとも参会せしめた」
とあるが、参会とは明確に言ってどういう行為をさすのか、肝心な個所なのに一向に要領を得ない。
もし十年前、稲生家との見合が目的でしぶしぶ同行した山村座での観劇を「狂言座に相伴い」というのなら、それこそ噴飯ものである。絵島は当時、大奥勤めになどあがってはいない一介の町娘だったのだから……。しかし狂言座がどこをさし、相伴ったのがいつなのか、場所や日時すら明記してない文章では捉《とら》えどころもないのである。
こんな取りとめのない漠《ばく》とした理由附けで、いやしくも二百石取りの幕臣を縛り首になど処してよいものかどうか。心ある人々は眉をひそめたけれども、そのときは捜査官側の一瀉《いつしや》千里の勢いに押されて、うっかり口出しもできなかったのであった。
奥山喜内の場合は水戸藩士なので、身柄は水戸家の江戸上屋敷に引き渡された。捕縄《ほじよう》をかけたまま、羽太《はぶと》半左衛門という公儀目附がつき添って小石川の水戸邸に送りとどけたのである。
累《るい》が上層部にまで及ぶのを恐れて、水戸家ではただちに喜内の死刑を執行……。遺族を役宅から追い払った。
兼世と千之介は行きどころを失い、神田小川町の奥山交竹院邸へ身を寄せた。ここには百合がいる。みなし児同然に育って、親類というもののまったくない兼世は、一時にせよ百合と同居せざるを得なくなったわけだが、交竹院の罪名が確定し、
「伊豆の御蔵島《みくらじま》へ流罪《るざい》」
ときまると、小川町の屋敷は召し上げられ、官給の地所もろとも没収されることになった。立ちのきまでの、わずかな猶予期間は、だから屋敷中がごった返すありさまで、百合は父の死、伯父の配流に泣くひまもなかったのだ。
やむなく兼世だけが、もと仲居勤めをしていた吉原の山田屋という引手茶屋に移り、水仕事の手伝いなどすることになった。それでもお内儀《かみ》は露骨なしかめつらで、
「勝手もとに引っ込んでいておくれよ。店先になんぞ当分、顔を出すんじゃないよ」
口うるさくきめつけた。重罪人の縁者など家に置いて、もし面倒なことになったら困るとびくびくしているのである。
「まっぴらだ。わたしはそんなところへ行かない」
遊女町と聞いただけで千之介は同行を拒否したし、それどころか、
「伯父さまと一緒に島へ渡る」
とまで言い出した。下人を一人召しつれることが許されてい、千之介はぜひともその役を買って出たいと言い張るのだ。
「それはだめだな。失礼だけど千ちゃんは足が悪い。島の生活は想像を絶する苛酷さだと思う。身体強健な者でなければ先生の介添えは勤まらないよ。お供はおれがする」
香椎半三郎が名乗って出たことから、いいや、わたしだ、おれだと、日ごろ仲のよい二人が掴み合わんばかりな口論となった。
獄中の交竹院から、あとの始末についてこまごまと指図が届き、
「孫七さえ承知してくれるなら島へは爺やを伴いたい」
とも伝言してきたことから、しかし言い合いには終止符が打たれた。
「ほうら見なされ。年寄りは年寄り同士がしっくりゆくのじゃ。先生さまは、ちゃあんとこの爺《じじ》をお名ざしくだすったではござりませぬかよ」
花見の供でも仰せつかったようなにこにこ顔で、忠実な老僕は胸を反らせたが、随行願いの競い合いの中へ百合は口を入れようとしなかった。交竹院と別れるのは辛い。できれば行きとどいた女手で伯父の身の回りの世話をしたいけれど、
(わたしは絵島さまのご先途《せんど》を見届けるのだ。たとえ火を噴く島、鬼の棲む島でもかまわない。旦那さまに従って渡るのだ)
と百合はひそかに心を決めていたのであった。
五
『永遠流《えいおんる》』に処せられた者は、絵島のほか、四名――。奥山交竹院が伊豆の御蔵島、狂言作者の中村清五郎が伊豆の神津島、後藤縫殿助の手代清助が伊豆の新島、そして彦四郎の父の平田伊右衛門が六十歳の老齢にもかかわらず、これは伊豆の利島《としま》に配流ときまった。
『永』とつくと終身を意味する。一生、島から出ることができない。しかし単に『遠流』というだけならいつかは赦免の望みがあった。
浪人の今井六右衛門が八丈島、山村座座頭の山村長太夫が伊豆大島、抱え役者の生島新五郎が三宅島、栂屋善六が同じく三宅島、また父に連坐して平田彦四郎が、やはり伊豆の大島に流されることになったが、彼らは『遠流』である。
そのほかには白井平右衛門の長男|伊織《いおり》、次男平七郎が『遠流』を宣せられたけれども、兄弟はまだ上が八ツ、下が六ツの幼さなので、十五歳に達するまで母佳寿の遠縁に当る河野という親戚に預けられた。父とは死に別れ、母親ともまた、生別の憂き目を見ることになったのであった。
平田伊右衛門、彦四郎父子が捲き添えの厄に遭ったと知ったとき、百合の脳裏に明滅したのは稲生文次郎の気弱そうな、そのくせ執念深げな面《おも》ざしだった。次郎左衛門夫婦の勝ち誇った高笑いさえ、現《うつつ》に百合の耳は聞いた気がした。
絵島の愕《おどろ》き、その悲歎を、胸がひき絞られるような苦痛の中で百合は思いやった。
(文使《ふづか》いと称して彦四郎さま絵島さまの仲を探った二人……)
藤枝はともあれ、児玉主馬は平田伊右衛門の娘婿ではないか。姉の夫だと思えばこそ彦四郎も児玉を信用したのだろうし、伝奏屋敷詰めの役人と知りながらも、恋人の保証を絵島もまた、信じ切って、書状を幾たびもことづけたにちがいない。そんな迂闊《うかつ》さを、かげで嘲笑《あざわら》っていたであろう藤枝と児玉……。
(殺してやりたい)
とさえ百合は思い詰めた。
『重追放《じゆうついほう》』に処せられたのは絵島の舎弟の豊島平八郎、幕臣の金丸四郎兵衛、今井六右衛門の倅六之助――。
また『追放』を申し渡されたのはこれも公儀|御《お》徒士《かち》で、高田忠右衛門組に所属する杉山平四郎、後藤家の手代次郎兵衛、市村座の抱え役者滝井半四郎、金丸四郎兵衛の子又三郎、三十郎、直之助、今井家の幼少の息子たち三人、平田家の次男|舎人《とねり》、それに山村長太夫の長男長太郎五歳、次男長次郎三歳、生島新五郎の倅久米次郎六歳、栂屋善六の子の伊助十四歳ら……。
ほかには御勘定方の幕臣西与一左衛門が『改易《かいえき》』、後藤家の当主縫殿助が『閉門』、御代参に扈従《こじゆう》して藤枝との間に悶着を起こした中島久左衛門ら四人の御小人《おこびと》が『遠慮』の処分を受けた。
亡母お艶の実家へ引き取られて行き、のちに疋田彦十郎正則という者と改めて養子縁組した吉十郎少年が、やはり『遠慮』を言い渡されたのは、実父である豊島平八郎の罪に、連坐させられたためだ。
少年の祖父の平田伊右衛門、伯父にあたる彦四郎らは、絵島の取り調べがはじまるとすぐ、累《るい》が及ぶのを防いでやろうとして少年を疋田家に再縁させた。
疋田は絵島の実父の家である。絵島の母親は最初、疋田家にとついで絵島を生み、夫の死後、これを連れ子にして白井平右衛門、豊島平八郎兄弟の父と結婚したのであった。
祖父や伯父の配慮は、しかし効を奏さなかった。豊島から平田へ、平田から疋田へと姓が変ったにもかかわらず、九歳にすぎぬ吉十郎までが処罰の対象にされてしまったのだ。
平田伊右衛門が『永遠流』、彦四郎が『遠流』、その弟の舎人が『追放』というのもいかにも酷《むご》いが、表向きの理由としては職務の怠慢があげられていた。伊右衛門は公儀の留守居番を勤め、彦四郎は大井豊前守の組下に属する御書院番士である。
書院番はともかく、御留守居役の職責はなかなか重い。営中に寝泊まりすることが多く、広汎には大奥までを含む大城内の警備をつかさどっている。
今回のごとき不祥事の惹起を、役儀の手落ちとして咎められ、責任を問われるなら、弁明の余地はないわけだけれども、今井六右衛門父子や金丸四郎兵衛父子、杉山平四郎、西与一左衛門といった人々は、奥山交竹院の知人だったり豊島平八郎家の地主だったり、もしくは絵島の遠縁といった稀薄なかかわりしか持たず、事件とのつながりにしても舟遊山に同行したとか、豊島、白井の妻女らの芝居見物につきあった程度にすぎない。
むろん彼らには、絵島と絵島の縁戚によしみを通じ、権勢のおこぼれにあずかろうとの下心があった。
「いやしい欲をかいたればこそ、とばっちりの災難をひっかぶる羽目になったのだ」
と言ってしまえばそれまでだが、処罰者を見渡してみて、百合あたり、何としても納得しかねたのは、豊島平八郎|泰尚《やすなお》の『重追放』である。
(軽すぎはしないか?)
というのが率直な感想だった。
平八郎と組み、その子分きどりで商人たちにたかったり、時にはこっそりいたぶったりもしたらしい奥山喜内の場合は、有無を言わさず処刑されたし、監督の不行届きを問われて白井平右衛門も斬首されてしまった。
父の死は、まあ身から出た錆《さび》にせよ、
(白井の旦那さまこそおきのどくだ)
と、百合でさえ思う。
癇癪持ちの人嫌い……。社交べたで物欲にも恬淡《てんたん》だった平右衛門にすれば、妹の出世などむしろ困惑の種ですらあったにちがいないのだ。兄貴の特権をふりかざして甘い汁を吸おうなどという気働きは、生来、持ち合わせていない。損な、狷介《けんかい》な性分なのである。
そこへゆくと、同母同父の兄弟でいながら豊島平八郎のほうは世馴れすぎている。不身持ちで博打好きな蕩児《とうじ》だし、気質にも多分にいいかげんな、そのくせ芯《しん》に冷たいところがあった。
百合の推量では、絵島の義弟だという立場をとことん利用し、奥山喜内を手足に使って栂屋や後藤から金を引き出した張本人は、豊島平八郎である。檀那寺《だんなでら》の法明寺はもちろん、筆頭御年寄の信用を隠れ簑《みの》にしてあちこちから借金をしちらし、あるいは渡された入費を中途で着服するなどといった悪事をはたらいて絵島の立場を不利にしてのけた獅子身中の虫も平八郎なのだ。
(あの人こそ、命が幾つあったって足りないはずなのに……)
島流しにもならず、『重追放』で済んだのは解《げ》せない。
『追放』より重いけれど、関八州および山城、大和を中心とする近畿四ヵ国、九州では肥前、東海地方では甲斐、駿河の二ヵ国以外どこに住んでもかまわないのが『重追放』である。むろん役儀は召し上げられ、家屋敷は官没されるけれども、命に別条なく、この先のうのうと生きてゆけるのが百合には不公平に思えてならないのであった。
香椎半三郎が入手してきた平八郎への判決文の写しによると、
「姉絵島こと重き御奉公相勤め候ところに、処々遊興の場に相伴ひ候こと、尤《もつと》も然《しか》るべからざる事に候。然りと雖《いへど》も近来に及び、奥山喜内|誘引《いういん》により絵島行跡正しからざる事ども多く出来《しゆつたい》候を以《もつ》て、絵島をも諫め喜内をも制し候事これ有るに附きて、其の罪を宥《ゆる》められ、追放の重科に行はれ候もの也」
とあり、都合のわるいことはすべて喜内に押しかぶせてしまっている。
「あんまり派手に舟あそびなどするなよ」
と、絵島やその取り巻き連中を制止していたのはむしろ白井平右衛門だし、
「喧嘩っ早いくせに兄貴は気が小さいなあ。ちっとぐらい奢《おご》らせたって構わんじゃないですか。商人どもだって、抜け目なく収支の算盤《そろばん》を弾いているんだ」
いつの場合もたかをくくって、遊興の急先鋒に立ったのは平八郎なのに、判決文では立場が逆転していた。絵島や喜内を諫めた点が酌量され、平八郎は命が助かっているのである。
稲生文次郎と友だちづき合いをしていた過去……。絵島との仲を取り持とうとしたことなどが、稲生目附の心証に微妙に影響したのだろうが、事情を知る者の目から見れば明らかに情実であり、公私を混同した依怙《えこ》の裁きであった。
(生きてさえいれば、どうともなる。時勢が変って、もう一度江戸へ帰ることだってできたかもしれないのに……)
そう思うと、まるで平八郎の悪事の肩代りをさせられたにひとしい父の喜内や白井平右衛門が、百合は哀れでたまらなくなった。
六
『永遠流』を申し渡されはしたが、絵島の行く先は発表されなかった。
遠流《おんる》、中流《ちゆうる》、近流《きんる》の差異は、正式には都からの距離できまる。でも、それがはっきり区別されていたのは律令制度下での話で、近年はすべて島流しのことを遠流とひと口に呼ぶようになった。
評定所へ出向いたさい、八丈|紬《つむぎ》の裲襠《うちかけ》を着ていたことでもわかるように、絵島は、
(どこぞ、離島へやられる身……)
と内々、覚悟していたらしい。
平田伊右衛門が『永遠流』される伊豆の利島は、江戸から海上を約四十三里、奥山交竹院が残生をそこで送ることになる御蔵島は江戸からおよそ六十五里――。そして中村清五郎が流される神津島が五十一里、後藤の手代清助が行く伊豆新島は、江戸から四十六里の彼方にあった。
悲惨な流人生活……。その境涯に落ちるなら、せめて奥山交竹院のいる御蔵島か、さもなければ利島に配流されて、舅に仕えると同様、平田伊右衛門にかしずけたら、
(絵島さまのお気持も少しは慰められるだろうに……)
と百合は願った。
万難を排してでも、絵島の流謫地《るたくち》へついてゆくつもりでいる百合にすれば、これまで通り交竹院伯父や絵島と三人でくらせるなら、苦痛どころか、だれにも煩《わずら》わされない島での明けくれは、いっそ楽しいものにすら感じられてくるのである。
判決から七日目の三月十二日になって、ようやく決定した絵島の配流先は、しかし離島ではなく信州の高遠《たかとお》であった。
同じ『永遠流』ではあっても江戸とは陸つづきだし、内藤駿河守|清枚《きよかず》に預けられるという措置も検察側の譲歩といえなくはない。ごくわずかながら、実質的には減刑と評してよいこの決定を見たのは、裏面での、月光院の必死の運動のたまものだった。
内藤家は小藩ながら格式が高く、京都所司代を勤める資格を持つ家柄だし、藩主の清枚は、尾張藩から迎えられて養嗣子となった人物である。
亡夫の家宣将軍が叔父の綱吉にさんざん苛められ、不当な冷遇を受けたくやしさは、月光院もいまなお忘れてはいない。
早死した兄から一時、預かる形で、将軍位を手にしたにもかかわらず、いざ大権を握ってみると、それを何としてでも綱吉は我が子に譲りたくなり、ひと粒種の夭折後も跡取りの男児を欲するあまり祈祷修法に狂奔し、あげく妖僧の妄言にまどわされて生類憐み令を公布……。
「天下の悪法」
と、のちのちまで指弾される結果を招いたのだが、どう腐心しても世つぎの息子が生まれないとわかると、つぎは一人娘の鶴姫のとつぎ先――紀州侯|綱教《つなのり》に目をつけて、六代将軍の座に据えるべく画策した。
わが子わが娘への愛に目がくらみ、約束を踏みにじってまで自分を疎外しようとする叔父に、当時、甲府宰相|綱豊《つなとよ》の名で呼ばれていた家宣が好感を持てるはずはない。
綱吉のそそのかしをよいことに、これと手を結んで後釜《あとがま》への野心を燃やした紀州家の態度にも、不快をつのらせたのは当然であった。
だから将軍となったあと、死に臨んでの遺言も、
「予の歿後、息男家継までが世を早くする事態が生じたら、後継はかならず尾張家から選ぶように……」
というもので、これまた、家宣にすれば、自然な感情の流れだったといえよう。
月光院はよく亡夫の心情を理解している。それだけに、尾張家と血のつながりを持つ内藤清枚の藩中に、できれば絵島の身体を託したかったのだ。でも、そこまでが絵島にしてやれる月光院の、せいいっぱいな心くばりであった。
去年十一月、彼女は家継幼将軍の生母ということで従三位に叙せられ、今年三月にはその位記《いき》を持って、勅使が下向してきた。右大将徳大寺|公全《きんあきら》、前大納言|庭田重条《にわたしげえだ》の両名だが、絵島事件が、ちょうどこの怱忙《そうぼう》さなかに摘発されたという事実にも、百合など、天英院派の底意地わるさを感じないわけにいかないのである。
勅使の接待。祝賀式の準備。引きつづく答礼使の、京都派遣――。土産物の選定やら何やかや、正月なかばごろからはじまった仕度のいっさいが、事件の突発でめちゃめちゃに狂ってしまったのだ。
絵島や宮路、梅山や伊与ら腕ききの上女中を根こそぎ失ったばかりか、表面いかにも役者がらみの醜聞、政商がらみの収賄の摘発であるかのごとき不純不潔な印象づけがしてあるため、主人たる月光院はもとより、家継将軍の名誉さえ泥まみれにされた無念さ……。しかも、直感的にはどこまでも、
(事実無根!)
と信じられることだけに、月光院の受けた心の傷は深く、一時は神経性の胸痛胃痛から立つことさえできなくなった。
それでも予定されている勅使の江戸くだりを、まさか中止させるわけにはいかない。勝瀬、松坂、浦尾、花沢ら絵島や宮路にくらべれば格段に能力の劣る老女たちを病床から指図して、かろうじてつじつまを合わせたのだが、死ぬ思いで参列した祝賀式典のあくる日、絵島の「高遠配流」が公表されたのも皮肉であった。
しらじらしく祝詞を贈ってよこした天英院|煕子《ひろこ》が、よろず不行届きだらけな惨憺たる祝宴に、
「ざまを見よ」
と、かげで溜飲をさげたであろうことは、百合ならずとも想像にかたくない。
勅使が帰るまでは連日その応接に忙殺されて、月光院の周辺はてんてこ舞いを余儀なくされ、裁判の成りゆきに目を光らせるどころではなかった。この隙を狙って、ばたばたと一ッ気に断罪にまで持っていってしまった迅速さにも、勅使下向の混雑にあらかじめ焦点を合わせ、わざと同じ時期に事件の摘発をぶつけてきた意図が見えすく。
つまり経過、結果の何もかもが、百合などの目には天英院派の悪意の表出と映《うつ》るのだが、いちいちそのようなことにこだわったり怒ったりする時間すらなかった。
「高遠行き」と決まると、まるで足許から鳥の立つあわただしさで、その日のうちに神田小川町の内藤家上屋敷へ公儀からの通達が届き、老臣が一名、月番老中阿部豊後守の私邸に呼び出された。そして口頭と書面で、絵島受け渡しについての心得が示されたのである。
一、軽き下女附け置き申すべく候。
一、食物の儀、一汁一菜に仕り、朝夕両度のほか無用に候。
附《つけたり》 湯茶は格別、そのほか酒菓子、何にても給させ申すまじく候。
一、衣類は木綿着物。布《ぬの》帷子《かたびら》のほか堅く無用に候。
さらに口頭では、今回の処置はけっして『御預け』ではないこと、どこまでも判決通り『永遠流』である点がくり返し、強調された。月光院の心づもりでは、内藤家に預けるはずであったのだが、阿部老中の念押しによって、以後、高遠での絵島の日常は島流しと何ら変らぬ、いや見ようによってはそれより厳しいものとなってしまったのだ。
もとより百合には、そんな先のことはいっさいわからなかった。
「旦那さまの配流地は、伊那《いな》の高遠……」
と知るとすぐさま、内藤家に駆けつけて、
「お身の廻りの世話をする下女には、なにとぞわたくしをお召しかかえくださいませ」
玄関式台に打っ伏して歎願したのである。
すでに内藤家からは小伝馬町の牢獄へ人数が出向き、町奉行坪内能登守立合いのもとに絵島の身柄の引き渡しがおこなわれていた。受書《うけしよ》を提出するととたんに大工を多数、上屋敷に入れ、座敷牢を作らせてもいる。ごった返しのまっさいちゅうだったから、
「ならん。附き添いの下女は藩中で人選する。どのような縁故の者か知らんが、とっとと帰れ」
一喝した。時刻はすでに真夜中に近い。罪人を乗せた網掛け駕籠《かご》が、今の今、到着するかもしれないのだ。百合は足軽に両腕をつかまれ、手荒く門外へ突き出された。
七
のめって、両手と膝を泥だらけにしてしまったが、小兎の敏捷さですぐ、百合は跳ね起きた。門番の口ぶりや足軽どもの剣幕、どこもそろそろ寝しずまる時刻なのに内藤家だけが定紋入りの高張りを掲げて、藩士らしい侍が出たりはいったりしているあわただしさから、
(旦那さまのお着きはまだにちがいない)
と、すばやく見て取ったのである。
待ち伏せるつもりで見回すと、門の両脇はながながとつづく土塀だし、向かい側も寺の築地《ついじ》だった。身を隠す暗がりはいくらでもある。ただし絵島を乗せた駕籠がどちらから来るか、そこまではわからなかった。
交竹院伯父の屋敷は同じ神田内の小川町、父の喜内が役宅ぐらしをしていた小石川の水戸邸も、この内藤家の上屋敷とはさほど離れていない。うろ覚えにでも界隈《かいわい》の地勢は呑みこんでいるつもりなので、百合は懸命に道順をたどり、頭の中で大ざっぱに図面を描いてみて、小伝馬町のおおよその見当をつけた。そして寺の門のきわに潜んで、祈るような気持で待つうちに、案の定、百合の思惑通りの方角から提灯《ちようちん》の明かりが七ツ八ツ、揺れながら近づいてきた。
宰領《さいりよう》とおぼしい麻裃《あさがみしも》の武士が一人、徒士四、五人、それに足軽が十人ほど網掛け駕籠の前後を固めている。
百合はとび出して、
「旦那さまッ、絵島さまッ、奥山百合でございますッ」
せいいっぱいな声を張りあげた。屋敷町の濃密な闇を、それは引き破るような鋭さで響いたから、
「何者だ、こやつ……」
仰天して走り寄った幾人もの手で、百合はたちまち抑えつけられた。
「聞こえますか旦那さま、お気をしっかり持っていてくださいまし。いずれかならず、百合はおそばへ行きますッ、どんな手だてを講じてでも旦那さまのそばにまいりますッ」
口を塞がれ、小半町ほど力まかせに曳きずられて行くまに、
「急げ、お屋敷はもはや目の前だぞ」
叱咤する声が聞こえ、乗物は傾《かし》ぎそうな早さで内藤家の門内に吸い込まれた。
「きさま、絵島どのの血縁か?」
と足軽どもがくちぐちに詰問を浴びせたが、百合はたじろがなかった。
「いいえ、召し使われていた部屋子です」
「路傍に待ちかまえて大声を発するなど、正気の沙汰とは思えん」
「はい、気が触れております。旦那さまがひどい目にあわれてからこっち、われながら逆上して何を言うやらするやら、取りとめがなくなりました」
人をくった釈明なのに、腹も立てず、
「どういたしましょう。ご邸内へ引っ立てて糺明しますか?」
問いかける足軽へ、
「まあ、いいだろう。追っ放してやれ」
徒士の一人が苦笑まじりに顎《あご》をしゃくったのは、たかが十六、七の小娘だし、みずから言う通りいささか乱心の気味なのだろうと見てとったからに相違ない。
虎口を逃れる思いで百合は夜道を駆け出したが、気分はひどく昂《たかぶ》っていた。いまの呼びかけが、絵島の耳に届いたことは確実である。
(旦那さまに伝えることができた。わたしの決心を……)
そのよろこびに足が弾んだ。肌にべとつくほど晩春の夜気はあたたかく、いまにもひと雨きそうな重くるしい空模様だが、裾を蹴立てる勢いで百合は走った。
家の門口が近づくと、でも歩速は急ににぶりだした。赤ぐろく垂れこめた空に劣らず、気分が暗く沈みはじめたのである。
内藤家がそうであったように、奥山交竹院邸も外にまで灯《ひ》の色を流して、忙しげに動き廻る家人の気配が洩れていた。隣り近所が寝静まってしまったので一軒だけ起きているのが目立つのだが、物音はひそやかだし、まるで世間を憚《はばか》って夜逃げの仕度でもしているように見える。
土地家屋の明け渡し期限は、三月十五日ときめられていた。あと正味三日しかない。家具調度、書画骨董のたぐいは売り払い、金に替えて、そのほとんどを孫七爺やの家族に渡した。老人には葛飾《かつしか》在で百姓をしている倅と、本所|横網《よこあみ》の小商人にとついだ娘がいる。主人ともども島で朽ちる気になってくれた償《つぐな》いに、
「せめて子供らにできるかぎりの恩恵をほどこしてやってほしい」
と、獄中から交竹院が言って寄こしたのだ。
他の奉公人や内弟子たちにも、それぞれ幾らかの金をやって身の振り方をつけさせねばならなかったし、それより何より百合が心を砕いたのは、交竹院自身の持ち物だった。
きびしい制限が附されていたが、不自由な島ぐらしをしのぐための夜具や衣類など、できるかぎりの品々を百合は用意したかった。縫ったり買い調えたり、かぎられた日数の中で躍起《やつき》になっている姉へ、
「爺やに託せる数量なんかたかが知れてるよ。あとからわれわれが持っていけばいい」
千之介が言い、香椎半三郎までがニヤリとうなずいた。どうやら二人はしめし合わせ、ほとぼりがさめるのを待って御蔵島へ渡るつもりらしい。流人だけではない。土着の島民も生活している島だから定期的に便船は通っている。何とかそれに乗せてもらって、
「交竹院先生のあとを追おう」
と彼らは密々に計画を立てているようだ。
「行ったきりになるの? あなたたち、島に……」
「いや、帰るさ。本土と御蔵島のあいだをこっそり往来して、連絡係りを勤めようというわけだよ」
「先生は気性のあたたかなかたですからね、あちらでも手を拱《こまぬ》いてばかりはいませんよ」
半三郎も口を添えた。
「おそらく島民や他の流人のために、怪我の手当や病気の治療などまめにしておやりになるでしょう。当座、必要な薬種は爺やが運ぶようですが、そんなものはすぐ底をつきます。われわれが薬だの医療器具など持っていってさしあげればきっとおよろこびになりますし、島での薬草採取など千ちゃんと二人でお手伝いすれば、けっこう日常のお役に立つと思うんです」
それが実現すればどんなによいか。孫七も助かるだろうが、何よりは交竹院自身の島ぐらしが若い活気に支えられて、ぐんと様相を違えてくる。辛さや乏しさにも耐えぬく力が湧くだろうと思うと、百合までがうれしくなった。
「姉さんは絵島さまの配地へお供するつもりでいるようだけど、これも行ったきりになるわけじゃないだろ? どういう目論見《もくろみ》を立ててるの?」
弟に訊《き》かれても、百合のほうはまだ、このときは一向に考えがまとまっていなかった。ただ、絵島ほどの身分なら、女性《によしよう》のことではあり、かならず召使いの婢《はした》が一人二人、そばに附くにちがいないとは推量していた。どんな困難をしのいででも、百合はこの、絵島附きの女中になるつもりでいたのである。
「旦那さま本人は罪びとかもしれないけど、お婢なら自由ですからね、外にだって出られるし、あなたがたとも手紙その他、連絡し合おうと思えばいくらでもできるわ。つまりわたしたちが仲立ち役を引き受けていれば、千里離れていたって旦那さまも交竹院伯父さまも、おたがいの安否がわかるわけよ」
海という阻害物がなく、陸つづきで行ける高遠――。配流先がそこと決まった今は、なおさら可能性を百合は信じる気になった。
玄関式台にしがみついて愁訴するのも無茶なら、網掛け駕籠を待ちぶせて中の囚人《めしゆうど》に大声で呼びかけるのも無法きわまる。縛りあげて、きびしく問いただしてもよいところを、内藤家の家来たちは不問に附した。追い払うだけで済ましてくれたのだ。そこに百合は、足軽の末にまで行き渡っている内藤家の、絵島への温情を感じた。一種の勘だろうか。苦笑まじりに、
「さあ、行け」
と、うながしてくれた若いお徒士――。その語調にも、手応えの、何とはない柔らかさが看取できたのであった。
八
当面しかし、百合と千之介は住みどころを失ってしまう。絵島を追って信州へ行くにしろ、御蔵島に渡るにしろ、それなりに準備が要る。おいそれとはいかない。だが交竹院邸を出なければならない日時は、眼前に迫っていた。
(どうしたらいいか)
その屈託《くつたく》が、百合の気持をふさがせている。
「医業の修業をつづけるつもりなら、千之介と半三郎は桂川|甫筑《ほちく》法印宅へ内弟子として住み込むがよい。桂川医師はわしとは日ごろ別懇にしていた奥医師で、鍼術《しんじゆつ》の技倆は抜群……。外科、本道にもくわしい。請け合い、両名の身柄は預かってくれるはずじゃ」
と交竹院は、獄中からの伝言の中で言ってきているし、
「おれのうちに居候しちゃどうです百合さん。千ちゃんと二人ぐらい、おふくろは苦もなく世話するはずですよ」
そう香椎半三郎も申し出てくれた。子供の数がやたら多い家庭なので、少々減ろうが増えようが痛痒《つうよう》を感じないのだという。だからといって死罪人を父に持ち、流刑の宣告を受けた者を伯父に持つ姉弟がころがりこむ相手ではない。半三郎の父は町奉行所の与力だというではないか。職掌柄からいっても当惑するのは当然と百合は思った。
百合の分として、伯父から譲られた金子がすこしはある。さしあたりそれで小家でも借りて、吉原の山田屋から継母の兼世を呼びもどし、千之介と三人ぐらしをはじめるほかあるまいが、家主への敷金、差配への樽《たる》代、近所へのくばり物など出費を強いられながら、ひと月か、せいぜい二月ほどで引き払わなければならない。その面倒を考えると借家住まいにも気が乗らなかった。
すっかり弾みを失って、百合がとぼとぼ交竹院邸の門をくぐったとたん、
「どこへ行ってたんです? こんなに遅く……」
咎めだてする香椎半三郎の声がとんできた。
「ごめんなさい。内藤家のお上屋敷へ、駆けこみ訴えに行ったの」
「むちゃするなあ、何を訴えたんです?」
「私を、絵島さま附きのお婢《はした》に傭っていただけまいか、って……」
「そりゃ無理だ。追い出されたでしょう」
「でもね、かならず貫くつもりよ、この望み……」
目ぼしい家具があらかた運び出された邸内は、がらくたが散らかって足のふみ場もない。半三郎もまだ、昼間のままの襷《たすき》がけで、
「出るなら出るで、一言ことわって行ってほしいや。居間の片づけをしてるのかと思ってたら、いつのまにか姿が消えちまったんだもの、千ちゃんも心配してますよ」
と状箱を突きつけた。
「留守のあいだに届きました。黄鶴堂《こうかくどう》の奉公人と名乗る小女《こおんな》が持ってきたものです」
「黄鶴堂ですって?」
お小僧の俊也の家だ。平河口での別れしなに、
「わたしんとこは本屋よ。黄鶴堂といってね、場所は芝の金杉――。お寺の坊さんだの学者先生相手のしちむずかしい書物ばかり扱ってるの。訪ねて来てくれてね」
と百合の手を握りしめた俊也である。
「めずらしいこと。あの子が便りをよこすなんて……」
あわてて開けてみたが、これが稀代の悪筆で、平仮名ばかりが古縄をよじりでもしたようにつながっている。読むのに、苦心惨憺している百合を見かねて、
「どれ、貸してごらんなさい」
半三郎が手を出したものの、これも、
「まいったなあ、下手くそも、ここまで徹底すれば見事ですなあ」
音《ね》をあげた。
「こういう字を目にすると、なんとなく書き手の風貌が浮かんできます。いかつい、泥くさい、毛深いような年増でしょ」
「大ちがい。俊ちゃんは少々色くろだけど、無邪気で生《いき》のいい娘ですよ。仇名は田螺《たにし》さん。年はまだ、十四か五……」
「へええ、見当がはずれたなあ」
「目はしもきくし、悧巧だし、ただお手習いが大嫌いで、ご奉公していたころも、絵島さまがいくら叱っても賺《すか》しても、何のかのと逃げ廻って学問や習字に身を入れようとしませんでした。その結果が、これよ」
「仕方がない。なんとか判読しようじゃありませんか」
千之介もやって来て三人で智恵をしぼったあげく、どうやら、
「家へ来い」
との、誘い状だとわかった。
「お父さんが死罪、伯父さまが流罪では百合さん、行きどころに困ると思うの。うちは間かずがうんとあるし、離れもあいてるから、遠慮なくいらっしゃい」
そんな意味の文字が書きつらねてあったのである。
渡りに舟だ。千之介も、
「姉さんの朋輩のところなら居候してもいいよ」
承知したので、百合はほっとした。これで身の振り方は決まったのであった。
折り返し、厚意に縋《すが》りたいむね百合は返事をしたためて、あくる朝早く下男に持たせてやったが、
「本屋の娘がさ、手習いをきらって、ミミズがのたくったみたいな字を書くなんて可笑《おか》しいね。赤ン坊のときから固くるしい漢字ばかり見てたので、かえって反抗したくなったんだろうか」
と、千之介は寸評した。
内藤家では折あしく藩主の駿河守清枚が病臥中であった。大城の諸門のうち、和田倉門の警備を担当させられてもいるさなかである。藩財政にも、けっしてゆとりがあるわけではなかったから、降って湧いた『絵島お預け』の命令に重職たちは内心、うんざりしきった。囚人《めしゆうど》の扱いにも、
「万にひとつ、手落ちがあってはならぬ」
と苦慮し、たとえば、夏場の団扇《うちわ》、楊枝《ようじ》、歯みがき、髪道具や爪切り鋏《ばさみ》、毛抜きの使用にまで、いちいち公儀に伺書を提出したし、病気になったさいの処置、台風、地震などの場合の避難方法などについても指図を仰いだ。
刃物に類する道具に、ことに神経をとがらせたのは絵島の自害を恐れたからだし、懐胎を懸念して藩医にその身体を調べさせもした。知らずにいて、もし配所で父のわからぬ子を出産されたりしたら責任を問われて一大事となる。さいわい医師の報告は、
「ただいまちょうど、月のものの最中でした」
ということで、これも即刻、阿部老中にまで伝えられた。
高遠へは、甲州街道を選んで行くことになったが、道中についても護送役人、宿所、持ち物、問屋場や関所の手続き、さらに到着後、絵島を収容する囲み屋敷の見取り図まで詳細な伺いを立て、いちいち老中の指示にしたがって万全を期した。
藩内では旅中附き添いの給人《きゆうにん》一名、侍二名、足軽八名、下女二名の人選もすすめられ、各人から忠実に勤務を遂行するむね、起請文《きしようもん》まで差し出させた。
道中の所要日数は、五泊六日――。
錠のかかる絵島の乗物は、江戸から配所まで一貫して同じものを用いるけれども、荷運び用の馬や下女を乗せる駕籠は道筋の問屋場が駅ごとに宿継《しゆくつ》ぎで用意することに決まり、駕籠二梃、本馬二疋、軽尻馬《かるしりうま》五疋の調達が、これは直接、宿役人らに下命された。
百合と千之介は俊也の家へ移った。わずかな荷物は先に運びこみ、官収される伯父の屋敷から最後に出るときは、二人ともが小さな油紙の包みを片手に一つずつさげただけであった。池のほとりから根分けしてきた菖蒲《しようぶ》である。百合は高遠へ、千之介は御蔵島へ、それぞれ菖蒲を持ってゆき、花を咲かせて、絵島や交竹院の目を、せめて愉しませようと計画したのだ。
黄鶴堂は想像していたよりずっと間口の広い、堂々たる店構えの地本《じほん》問屋で、奉公人も多い。笑い上戸のお転婆に見えながら、俊也が親なし子である事実も、同居するようになってはじめて百合は知った。
「母さんはわたしが二つのとき亡くなったの。父さんは養子なので、離縁されてね、お祖父《じい》さんとお祖母《ばあ》さんがわたしを育ててくれたのよ」
祖父母といっても、まだ五十代の働きざかりで、てきぱき店の采配をふるっている。愛孫の俊也にも、しつけはなかなかやかましい。大奥勤めに出したのも礼儀作法を学ばせるためだったようだが、効果のほどはいささか疑問だ。
百合たちの身の上には同情していて、
「自分の家のつもりでくらしなさいよ」
と静かな離れを提供してくれた。居ごこちは、だから悪くない。
「ありがとうぞんじます。お言葉に甘えて、しばらくの間ご厄介になります」
そう言いはしたけれども、じつは移ると早々、百合は旅仕度にかかっていた。絵島の出立を、三月二十六日と知ったからである。見えがくれに一行のあとについて高遠入りするつもりでいる百合は、急いで関手形を申請した。甲州街道には幾ヵ所か関所があり、ことに小仏峠の手前に置かれている駒木野関所は、お改めのきびしさで知られた街道一の関門であった。
風渡る
一
関手形の交附は、しかし手間取った。黄鶴堂の老夫婦は、百合を、
「遠縁の娘でござる」
と近所隣りに披露し、自分らがその保証人になって手形の申請をしてくれたのだが、店の者の口からチラッと素性が洩れでもしたのだろうか、
「断罪人の遺族だそうな」
後難を恐れた町役人たちが、手形を書くのをためらっているまに日にちは切迫し、絵島の出立までには到底、間に合いそうもなくなった。
江戸中がこんどの事件で揺れ返しているさなかである。さまざまな風聞に尾鰭《おひれ》がついて人々の口の端《は》にのぼっている時だけに、関わりを持つ者に好奇と警戒の目がそそがれるのは致し方ないことかもしれない。
絵島の部屋子であった俊也なども『御暇《おいとま》』を申し渡されて帰った当座、興味本位な質問攻めの矢面《やおもて》に立たされたが、
「うるさいわね、大奥のことは何によらず口外しませんって、ご奉公にあがるさい誓紙を出しているのよ私たち。喋りませんよ、だから何を訊《き》かれたって……」
片はしからはねつけて取り合おうとしなかったし、
「当分、家の中に引っこんでいるがいい」
と祖父母にも外出を止められてしまった。
百合はまして、絵島の養女であった。父親は中心人物の一人とみなされて斬首。伯父は流刑を宣せられたいわば渦中の人である。
「そのような娘が、何用あってはるばる信濃《しなの》まで旅立つのか」
むやみに関手形を交附して、もし後日、問題にでもなったら迷惑するのは目に見えている。町役人らが逡巡したのも無理はなかった。
「いや、わしのやり方がまずかった。なまじ遠縁の娘だなどとごまかしたために、かえって事がややこしくなったのじゃ。戦法を変えような」
と黄鶴堂の主人《あるじ》――甲賀屋伝蔵は、赤銅色《しやくどういろ》に抜けあがった額をごしごしこすりながら孫娘の俊也に議《はか》った。
「泣き落としはどうじゃろう、お俊《しゆん》」
「ご馳走とお酒で、籠絡《ろうらく》しちまうという手もあるわよ」
「元手がかかるぞ、その戦法は……」
「私が出します。それくらい……。お給金を貯めて持ってるもの」
「はははは、冗談じゃよ。たかが婆さんの手料理。さしたる費《つい》えではないわ」
相談一決するとすぐ、町役一同に集まってもらい、老妻と俊也の酌で一献ふるまったあと、百合自身を座敷へつれ出して、
「けなげな娘でござる」
正直に旅の目的を黄鶴堂は打ちあけた。
「幼少からお側につかえ、養母ともなってくれている絵島さまが、長い半生を、これからどのような所で過ごされるのか。せめてひと目でも、土地柄や幽所のありさまを見ておきたい――そう一心に思いつめてな、女の足で、おあとを慕って行くつもりでおりますのじゃ」
でも、それだけでは漠然としすぎている。流され人《びと》を追うという行為じたい、おだやかではない。若い娘の細腕でよもや中途での奪還、あるいは配所破りなど企てているわけではあるまいけれども、いま少し、もっともらしい理由がなければ関手形の交附はしにくいと町役たちは言うのである。
「なあに如才はござらん。高遠の先に伊那と申す峡《かい》の町がござって、そこにわしの知人が住んでおります。儒者でな。中嶋|篠斎《じようさい》と仰せられる仁《じん》じゃが、かねがねご注文を受けておる書籍数部に、江戸みやげ、無沙汰を詫びた音信など添えて、百合さんに届けさせようと思うていますのじゃ」
「それは名案ですな」
いっせいに町役連中はうなずいてくれた。馳走にあずかったせいばかりではない。ふだんから黄鶴堂とは仲よく交際している町内の旦那衆である。
「どうぞ行かせてくださいませ」
手を突いてたのむ百合の態度に同情をそそられ、伝蔵老人の侠気にも共感して、手形の発行を承知してくれたのだが、それでも実際にそれを手にすることができたのは三月二十九日――。三日前に絵島の一行は江戸を発《た》ってしまっていた。
「いいじゃないの百合ちゃん、なにもそれほどあわてふためいて、あとを追わなくったって……。行く先は高遠ときまっているんですもの。跟《つ》けたりすると怪しまれて、護送の役人にとっつかまるかもしれないわよ」
俊也は言い、千之介までが、今になってふっと、別れが辛《つら》くなったのか、
「やみくもにすっ飛んで行って、途方にくれることになったら困るだろ」
分別くさい顔で意見を述べた。
「高遠藩の警備はきっと厳重だよ。絵島さまのおそばはおろか、幽閉されている場所に近づくことすら困難かもわからない。あらかじめめどをつけてから出かけたって遅くはないと思うけどな」
絵島の出発に間に合わなかったかわりに、百合は伯父の奥山交竹院を見送ることができた。
中村清五郎、山村長太夫、生島新五郎、栂屋善六、後藤の手代清助、平田伊右衛門、彦四郎父子などと一緒に、三月十六日、奥山交竹院も配所の御蔵島さして船出することになったのだが、船底に水漏れ個所が見つかったため二十五日に延期――。この日も風波が高くて、さらに四月二日に延びた。
二日も、でも押送役《おうそうやく》の水手《みずて》同心に支障が起こり、結局、出帆したのは四月十一日の早朝であった。
島まで供をする孫七爺やに附き添って、百合や千之介、香椎半三郎らが小伝馬町の牢舎へ届けに行った交竹院用の持ち荷の内訳は、ひと針ひと針心をこめて百合が縫いあげた衣類と夜着の包み、いま一つは薬種を入れた薦《こも》包み、それに金子三十両、米二十俵など、制限ぎりぎりいっぱいの金品である。
清五郎や長太夫、新五郎らの家族からもそれぞれ島送りのための品物が持ちこまれていて、
「ここへ置け」
と命ぜられた詰所前の土間に、幾つも叺《かます》が積み上げられ、名を記した木札が差し込まれてあった。交竹院の荷物も、百合たちの目の前で叺に入れられ、名札が附けられた。面会は、むろんできない。
指定の出帆日も延びたため百合たちはひとまず帰ったが、孫七はその日から近くの旅籠《はたご》に泊まって主人の出牢に備えた。
いよいよ明日と決まると、囚人たちは手鎖《てぐさり》、腰縄つきで引き出され、髭月代《さかやき》を髪結いに剃ってもらう。頭髪にも櫛が入ってさっぱりしたところで、牢役人から島送りの申し渡しがなされ、出立当日の早朝、駕籠に乗せられる。青細引《あおほそびき》で、俗に羽交《はが》い締《じ》めとよぶ縛り方がしてあるから両腕の自由はまったくきかない。
獄屋の裏門から担ぎ出されると牢奉行の手から伊豆代官の所管に移り、代官所の手附たちに守られて船手番所に着く。ここからは水手同心が附き添い、小舟で永代橋ぎわ、もしくは万年橋、霊岸島へ運び、本船に移乗させるのである。
見送りの親族が、ほんのつかのま囚人たちの顔を見ることができるのはこの時だった。百合や千之介、半三郎らは同囚の家族たちに混じって永代の橋詰めに立ち、交竹院の到着を待ち受けた。
小舟は牢造りだから頑丈な格子がはまっている。狭い隙間からの瞥見《べつけん》にすぎないが、交竹院が思いのほか窶《やつ》れていなかったのが百合には救いだった。
「伯父さまァ、お達者でいてくださいよう」
咽喉が裂けそうなほど百合は大声で呼びかけた。千之介が叫び、半三郎も叫ぶ。その声に答えて、幾度も交竹院はうなずきながら、口もとに微笑すら泛《う》かべている。孫七爺やまでが遊山にでも出かけるようなにこにこ顔なのに、入牢中、病気でもしたか、あるいは拷問による痛手から恢復しきっていないのだろうか、生島新五郎、中村清五郎らの面《おも》変りはひどかった。家族たちの悲歎は、まして目も当てられない。百合にも見覚えのある新五郎の妻のお良《よし》が、夫との別離に耐えかねたか、気を失って地べたに倒れ、芝居町の者らしい同行の男女に、
「しっかりしておくんなさい、おかみさんッ」
介抱されているのが痛々しい。
平田彦四郎には子飼いの若党の信藤《しんどう》清八郎という者が、自分から願って出て配地の伊豆大島まで供をするという。父親の平田伊右衛門には、しかしなぜか従って行く者がなく、半白の老体でいながらたった一人、舳《みよし》に寄って端坐している姿が、これもたまらなく百合の目に痛ましく映った。彦四郎は奥に引っ込んでいるのかよく見えない。見送り人も平田家にはいなかった。四十がらみの武家女房が泣きながら、
「父上ッ、彦四郎どのも、ご堅固で……」
呼びかけているだけだったが、他家へ嫁した娘とすれば、この女こそ児玉主馬の妻ということになる。
(舅と義弟を陥《おとしい》れた男……)
来ているか、と燃えつきそうな視線を百合はあたりに配った。さすがに面《おもて》伏せなのか児玉らしい姿は、でも、どこにも見当らなかった。
二
本船は船牢つきの五百石船で、品川沖に錨《いかり》をおろしている。囚人たちが乗り移ってもなお、一昼夜、同じところで風待ちしていたが、あくる十二日、やっと帆をあげて洋上を遠ざかった。神奈川、網代《あじろ》の港湾に船がかりしつつ大島、利島、新島、三宅島、御蔵島、八丈島に流人を送るのである。
これが今生《こんじよう》での別れだと千之介や半三郎は思っていない。
(あとから行きます交竹院先生、待っていてください。またかならずお目にかかりますよ)
口には出さないまでも、そう心の中では呼びかけもし、誓ってもいた。
百合の場合は、だが、もしかしたら永代橋での別れが伯父の顔の見納めとなるかもしれなかった。高遠は信州の山奥と聞いている。無鉄砲に絵島のあとを追って行ったところで、周囲が懸念する通り今のところ謫所《たくしよ》へ近づける成算さえない。夏にさしかかって、旅には適した気候になるにせよ、山道の多い甲州路である。娘の一人歩きだし、高遠へ着くまでの間にどのような事故や災難にぶつかるか、予測はできなかった。
「それでもまいります」
と百合が言い切るのを聞いて、
「わたしが送りましょう。せめて百合さんの身の振り方がきまるまで高遠にいてあげますよ」
香椎半三郎が申し出てくれた。願ってもない頼もしいつれだが、百合はことわった。
「大丈夫です。わたしは何とでも自分で智恵を働かせますから、半三郎さん、どうか千之介の相談相手になってやってください。弟があんな身体になったのは、わたしの不注意からです。ほんとなら一生、千之介の面倒は姉のわたしが見なければならないのだけれど……旦那さまのお身の上を思いやると居ても立ってもいられないんです。御蔵島に渡るにしろ、桂川法印に師事して医術を学びつづけるにしろ、半三郎さんがわたしになり代って千之介の支えになってくだすったら、どんなに心づよいか……」
それなら店の手代を附けてやろうと言い出したのは黄鶴堂の老主人だったが、関手形の交附で骨を折らせたばかりか、まだ当分のあいだ千之介の身柄を預かってももらう家である。多忙な奉公人を自分の護身用に借りるなど、申しわけなくて百合にはとても出来なかった。
ちょうどそんなとき、もと相《あい》ノ間《ま》の若江が訪ねて来た。俊也が例の悪筆にもめげず、
「百合ちゃん姉弟《きようだい》が住みどころを失《な》くして、いま、うちの離れに寝泊まりしてます。つもる話をしたいから若江さん、来てください」
と手紙をやったのだ。
百合が絵島の配地へ居を移し、何とか伝手《つて》を求めてその附き女中になるつもりでいると打ちあけると、
「えらいわ」
若江は涙ぐんで、しっかり百合の手を握りしめた。
「前々から気丈な娘《こ》だとは思ってたけど、百合さん、よくそこまで決心したわね。及ばずながら私たちも力を貸します。ねえ俊ちゃん、さし当っては何をしたらいいかしら……」
「うちの祖父《じい》さまが百合ちゃんの一人旅を心配してるのよ。手代を附けてやると言うのに百合ちゃんたらばか遠慮ばかりするので、ああだこうだ揉めてるの」
「それならいいことがある」
ぱっと若江の表情が明るんだ。
「わたしが一緒に行くわ。諏訪《すわ》というところを知ってる? あなたがた」
「お諏訪さまの元締《もとじめ》が鎮座してるとこね」
と俊也が奇抜な返答をする。若江はうなずいて、
「諏訪湖という大きな湖水もある土地だそうよ。諏訪|因幡守《いなばのかみ》さま三万石のお城下……」
と補足したが、そういえば分社であろうか、江戸にも『お諏訪さま』と愛称される社はあちこちにあった。
十代の終りから二十代のはじめにかけて若江はある男と湯島の天神下に世帯を持った。呉服屋の通い番頭だったこの夫が労咳《ろうがい》を病んで亡くなったあと、絵島の部屋へ奉公にあがったのだという。
「その亭主の生家が上諏訪の桑原町とかいうところなのよ。なんだか、のろけるみたいだけど仲むつまじくくらしてた相手なので、死なれたときはひどく気落ちしてね。二、三年は半病人のありさまでした。でも、いつまでぼんやりしてもいられないでしょ。口をきいてくれる人があったのをさいわい、絵島さまのおそばに勤めるようになったの。亭主の兄さんは生家を継いで、いまも機屋《はたや》をしてるのよ」
「じゃ若江さん、お墓参りにでも行くつもりなのね」
「去年が十三回忌だったわ。兄さんとは時候見舞いのやりとりをずっと続けてたので、年回の誘いも来たのだけど、奉公中の身体では行くわけにもいかなかった。百合さんが高遠へ出かけるなら、わたしもぜひ絵島さまの配所をこの目で見ておきたいし、ついでに亭主の生まれ故郷へ足をのばしてみます。寝物語に聞かされたばかりで、ついぞ一度も訪ねたことがなかったんですもの……」
兄なる人とは、夫の葬式のとき一度だけ対面している。骨壺は若江の檀那寺に葬ったが、一部、分骨して兄が上諏訪に持ち帰り、先祖代々の墓に納めた。その墓にも詣でたいと若江は言い、話はたちまちまとまったのであった。
若江は絵島よりさらに二つ年長で、ことし三十六歳になる。俊也や百合の母親といってよい年齢だし、人柄も落ちついて思慮深かったから、
「恰好《かつこう》のつれではないか婆さん、これで百合さんの道中は安心じゃ」
伝蔵夫婦もよろこんだ。
念のために、それでも暦を持ち出してきて老妻が旅立ちに吉《よ》い日をきめ、若江は別個に寄宿先の妹の家から、その町内の家主、町役らにたのんで関手形をさげ渡してもらった。
出立したのは四月十九日――。日ざしはすでに夏である。内藤新宿まで千之介、半三郎、俊也の三人が送って来たが、高札場《こうさつば》の前を横ぎりかけた瞬間、
「百合!」
声と一緒に走り出てきた二人づれの女があった。待ちかまえていたらしい。
「まあ、宮路さま……梅山さままで……」
びっくりして、百合と若江はその場に棒立ちになった。
「どうしておわかりになったのですか? 今日の、わたくしどもの出立を……」
「わたしがこっそりお知らせしたのよ」
首をすくめたところをみると、俊也はまたぞろ、臆面もなくミミズ流の筆をのたくらせたのだろう。
「礼を言います百合、わたしたちの気持を汲んで、よくぞ山深い高遠まで出かける気になってくれました。どうか首尾よく絵島どのに逢えるように……。江戸の空から無事を祈っていますよ」
宮路も梅山もが、薄い単衣《ひとえ》の被衣《かつぎ》で日ざしをよけている。浅葱《あさぎ》の染め色のせいか宮路の顔色は病人のように青ざめて見えたし、梅山の双眸にも涙がもりあがっていた。
事件に連坐して城を追われた女たちは、絵島のほか、全員が後日、『おかまいなし』の申し渡しを受けた。つまり言えば、絵島一人に罪のすべてを肩代りさせる形で審議をまぬかれたのである。その慚愧《ざんき》が、日ごろ活溌な宮路を別人さながら萎《しお》れさせているのだろう、
「梅山どのとわたしの、せめてもの志《こころざし》です。納めておくれ」
餞別らしい袱紗《ふくさ》包みを差し出したが、小刻みにその手は慄えていた。
三
「荷になってはわるいので……」
そう言いながら宮路と梅山は、いま一つ小さな布包みを、
「絵島どのにお贈りして……」
と百合に託した。
「はたして目論見《もくろみ》通り旦那さまのおそばに近づけるかどうかわかりません。でも運よくお目にかかれたら間違いなくこのお品、お渡し申します」
言葉をつがえて、百合は一同に別れを告げた。
「若江や、あなたもまあ、よく幾百里もの山坂を旅する気になってくれました。おかげでわたしらも心づよい。どうか百合を頼みます。道中、水当りなどにくれぐれも用心してくださいよ」
宮路の慰藉《いしや》に、
「あまりたのもしい後見ではありませんが、お袋さんのつもりで同道すれば少しは虫除けの役に立つでしょう。ご安心くださいまし」
笑顔で若江は受け合った。
ほんもののお袋――継母ながら百合が母さんと呼んでいる兼世は、昨夜いとま乞いに行ったとき、あいにく吉原の山田屋にいなかった。
「使いに出したんだよ」
店の上り框《がまち》に立ちはだかったまま内儀は言い、
「あんたがお兼のまま娘かい?」
ぶしつけな視線を、じろじろ百合の全身に這わせた。
「なさぬ仲の娘が一人いる、気が合わないので伯父貴のところへくれてやってしまったとお兼が話してたけど、もったいない。いい縹緻《きりよう》じゃないか。いくつだね?」
「十七です」
「蕾《つぼみ》の花が開きかかったとこだ。磨けばもっときれいになるよ。こんどの騒ぎでは、うちも舟遊山の帰路、絵島さまご一行を客にしたってことで、何だかだ奉行所に呼ばれてさ、とんだ災難だったが、あんたもとばっちりの厄に遭って大奥から追い払われた口だろ?」
「ええ」
「うちで働く気はないかい? お兼もいることだし、母娘《おやこ》で勤めりゃ気骨は折れないよ。知っての通り、あんたのお父つぁんの奥山喜内さん――斬首とは哀れな末路をとげたもんだけど、あの人と世帯を持つ前、この店でお兼は仲居をしてたのさ。もとの古巣にまた、逆もどりしたわけだから吉原の水には馴染《なじ》んでいる。あんたさえその気になりゃあ芸事でも何でもうちで仕込んで、一人前の芸妓にしてやるよ」
百合はむっとして、
「ご斟酌《しんしやく》はご無用です」
つい、語調まで切り口上になった。
「母はどうあれ、私には遊所の水など合うとは思えません。芸妓になるつもりもありませんからあしからず」
「ほほほほ、ふくれっ面がまた、可愛い。美しく生まれついた娘は得だよ。お兼も目のないやつだ。こんな金蔓《かねづる》をみすみす人にくれてやっちまう阿呆があるもんか。帰って来たら説教してやるから、まあ、おあがりな。使いったって、ほんの近所さ。おっつけもどってくるからね」
猫なで声にいよいよ腹を立てて、
「あしたの朝はやく、私、旅に出るんです」
懐中から百合は手紙を引き出した。逢えないこともあろうかと懸念して、あらかじめしたためてきた一通である。
「これっきり生き別れになるかもしれないので、ひとこと、さよならを言いに来たんですけど、留守では仕方がありません。この書状を渡してください」
「それならなおさらだ。逢って、別れを言ってお行きよ」
「待ってるひまがないんです。失礼します」
言い方のにべのなさに、
「ふん、勝手におし。ひとが身のためを思って言ってやっているのに……」
お内儀の側も腹を立てたらしい。手荒く手紙をひったくって奥へ入ってしまったから、はたしてお兼にそれが渡ったかどうか保証の限りではない。
自分は高遠へ行く。千之介も交竹院伯父さまのあとを慕って、いずれ御蔵島へ渡航するつもりでいるようだ。でも血を分けた実の親子だし、もし、しばらくのあいだ千之介と一つ屋根の下にくらしたいとお思いなら、山田屋さんにことわって芝の黄鶴堂という書肆《しよし》の離れに引き移ったらどうか。屋号は甲賀屋。主人《あるじ》は伝蔵といい、私の古朋輩《こほうばい》の祖父である。家人はみな親切な人ばかりで、おっ母さんを呼び寄せることに同意してくれている――ざっと、そんな意味の内容だったが、はたして読んだにしても兼世が誘いに応じるかどうかは、これもおぼつかなかった。
百合にすれば、しかし一応、母と名のつく人と別れの言葉を交して出たかったし、それがかなわなければ、せめて千之介との水入らずの生活を用意して行きたかった。
反抗期にさしかかって、親たちの性格や生き方にここ一、二年、批判をつのらせていた千之介は、だが、
「べつに母さんとくらさなくったって、自分の始末ぐらい一人でつけられるさ。水商売が、やはり母さんには一番ぴったりしてるんだ。たとえ軽輩でも侍の女房でいた今までの年月はきっと息苦しいものだったにちがいないよ。無理な背伸びをしてたと思う。このさい、もとの水に放してあげたほうがいいんじゃないか」
と割り切って、独り立ちする身構えでいる。
「それならそれでいいわ。食事や洗い物の世話は黄鶴堂の女中さんがしてくれるそうだし、俊ちゃんも着物のほころびぐらい縫ってあげると言ってるからね」
「どうかなあ、お気持はありがたいけど、あの仮名文字ののたくりようじゃ針目のほうもクネクネとひん曲っていそうだぜ」
「口の悪い人ね。御蔵島へ渡りでもしたら何もかも自分でやらなければならないのよ。千ちゃんも半三郎さんも、縫い物ぐらい今のうちに練習しときなさい」
「雑巾《ぞうきん》刺しだのほころびぐらいなら、いまだってお茶の子だ。飯だって炊けるんだよ姉さん」
自慢するのを、悲しむべきかよろこぶべきか、百合はちょっととまどいながらも、
「安心したわ。とにかくしっかりおやりなさいよ」
励まして、今朝の出発となったのだった。
「では、まいります。みなさまご機嫌よう」
「身体に気をつけてねえ」
踏み出す足の一歩ごとに宮路や梅山、手を振りぬく半三郎、千之介、俊也らの姿が小さくなってゆき、車馬が舞い上げる砂ぼこりにかすんで、やがて見えなくなると、さすがに鼻ばしらがキュッと沁《し》みて百合の目は涙でいっぱいになった。
笠の下なので泣き顔を若江に見られる気づかいはないが、甲州街道と青梅街道の起点だけに、旅立つ者と見送り人が別れの挨拶を述べ合う図は、随所に見られた。茶店の茶わん酒で景気をつけて、陽気な冗談口を投げかわす仲間もいるし、愁歎場を演じている女づれも多い。ベソをかいたのは百合だけではないのである。
道ついでにすこし迂回して堀ノ内の妙法寺に寄ったのは、法華信者である絵島のために余生の安穏を祈願したからだった。俗に『堀ノ内のお祖師さま』と呼ばれるこの寺は、厄除けの信仰でも知られている。
「わたしらの道中の安全も、ついでにお願いしときましょうね」
と若江は言い、守り札を頂いて帯の間に納めた。
「どうぞ旦那さまに逢えますように……。もう一度ぜひとも、この花をお目にかけることができますように……」
伯父の家から根分けしてきた菖蒲の束を、藁苞《わらづと》にくるんで百合は背にくくりつけている。祖師の尊像をまつる内陣の御灯《みあかし》にひれ伏して、ひたすら百合が祈ったのは絵島との再会であった。
四
日中の陽光は強かったが、夏も序の口のせいか風が涼しく、道ははかどった。
でも一ッ|時《とき》を争う旅ではないので無理は避けて、第一夜は府中で泊まった。血気ざかりの男などは八王子までのすという。
途中、それとなく様子を訊くと、絵島らしい一行の通過を問屋場や立場《たてば》にたむろする馬子、茶店の女など記憶している者は街道筋にまだ、たくさんいた。
予定通り三月二十六日に神田小川町の内藤家上屋敷を出発――。水道橋通りから四谷へ、そして新宿を振り出しに甲州街道へと踏みだした絵島たちだったとすれば、百合と若江はいま、ほぼひと月たらずの差を置いて同じ道を辿《たど》っているわけである。
「ええ、おぼえていますとも。いかめしく錠をおろした女乗物のあとを、駕籠が二梃……。これはおそらく供の女中衆でしょうね。なんでも公儀のお咎めをこうむった重罪人、それも大奥の御年寄まで勤めた女囚が護送されて行くとかで、うちあたりにも早くから村役の触れが回ってきましたよ」
と盆を持ったまま話してくれたのは、玉川べりの渡し場に葭簀《よしず》を張った茶店のおかみさんだった。
「挟箱《はさみばこ》やら箱提灯《はこぢようちん》やら、道中道具をかついだ足軽のほか、お侍さまが幾人も前後を囲んで、ものものしい警固ぶりでしたけど、渡しを待つあいだここでお休みになりました」
「えッ? この店で?」
絵島も休息したのかと、百合はなつかしさに胸が躍ったが、路次《ろじ》などで錠をあけて罪人を外へ出すはずはなかった。問屋場の役人が特別に舟をしつらえるのを待ちながら床几に腰をおろして茶を啜《すす》ったのは、内藤家の武士たちだけだったようだが、
「上臈《じようろう》さまのお乗物はあのあたりに舁《か》き据えてありましたよ」
と店の奥を指さされると、そこに絵島の姿をありあり見る思いがする。
第二夜は駒木野に泊まって、翌日の小仏越えに備えたけれども、案じていた御関所は意外なほどたやすく通してもらえた。別々に手形を差し出し、行く先と目的を告げて、
「知りびと同士、たまたま同じ方へまいりますので、中途まで一緒に道中しております」
若江が説明すると、武家奉公で身についた折りかがみのよさが滲《にじ》み出るのだろう、
「よし、通らっしゃい」
何なく百合までが通行を許された。
むしろ日ざかりに越えた小仏峠の坂道のほうが女たちにはこたえた。江戸市中からも山は見える。西に富士、足柄、丹沢の山脈《やまなみ》、北に日光連山、東に独立して筑波の孤峰……。しかしどれもみな、山容は遠く、目路《めじ》のはるか彼方につらなっていた。
甲州路を歩きはじめると、でも山はずんずん近づき、嵩《かさ》や丈を増して、三日目にはもうぐるりを取り巻きでもするように迫ってきた。
町育ちの百合にはそれが怖い。山深くなるにつれてすくすく伸びた杉や檜の樹林が、頭上にのしかかるように感じられ、空が狭まってくるのにも息が詰まった。五街道の一つといっても、旅人がと切れることもある。若江と二人きり、ひたひたと土に響く足音のほか鳥の囀《さえず》りしか聞こえない山中の静寂に、ふっと怯《おび》えもした。
(絵島さまもこの道を通られたのだ)
その思いだけを支えにして麓の立場から登り二十六丁の急坂を歩き、ようやく峠の頂きにたどりついたが、山巓《さんてん》の風が甘味を持つように、乾いた咽喉にこころよかった。
「武蔵と相模の、ここが分れ道よ」
若江に教えられて見回すと、なるほど国境を示す石柱が半ば夏草に埋もれている。
くだりは十二丁。――喘ぎ登ったつらさが嘘のように、走りおりる百合を、
「足の達者な姉《ねえ》やじゃのう」
たまにすれちがう旅人が呆気にとられた顔で見送った。
くだりきったところは小原の村落だった。軒の低い、ひしゃげたような街道沿いの民家の裾に、いまにも迫りそうな勢いで桂川が流れてゆく。相模川の源流である。
百合と若江は河原へおりて汗まみれの手足を洗い、固くしぼった手拭で首すじから胸もとまでごしごし拭きあげた。浸していると、指先がしびれてくるほど水は冷たい。
「ああ、さっぱりした」
「通りがかりのお百姓に聞いたんだけど、この先の与瀬ってとこから吉野の宿駅まで、川を上下する舟があるんですって……。街道を行くよりずっと近道だから、ぜひ乗って行けってすすめられたわ」
「舟賃、ぼられるかしら……」
「一人四文の決まりだそうよ」
「それなら乗りましょうよ若江さん。涼しいし、楽ができますもの」
娘の一人旅にまとまった金を持たせては危ない。必要な路用だけを身につけさせ、伯父からの譲り金は金飛脚にことづけて、ひとまず百合が草鞋《わらじ》をぬぐことになっている伊那の中嶋篠斎宅へ黄鶴堂が送ってくれる約束であった。
「篤実な学者じゃで、篠斎先生は信用してよい。何によらず思案に余ることは先生に相談しなされ。力になってくださるはずじゃ」
伝蔵老人は太鼓判を押したが、そんなわけで百合の懐中にはさほどゆとりがない。仲よく若江と半分わけしてしまったけれど、宮路や梅山に貰った二百疋ずつの餞別が、したがって当座の小遣となった。
同乗の旅人が六、七人溜まるのを待って、川舟は岩かげの舟着き場を離れる。下りは水鳥が翔《か》けるかと思う速さ、流れにさからって漕ぎあがる側は、二人の船頭が水竿を午後の日ざしに燦《きらめ》かせ、あるいは根《こん》かぎり櫓を押すなど四文では割りに合いそうもない行程である。それだけに初めて旅する百合などには珍しく、しぶきに濡れるのさえよける気は起こらなかった。
「目が回る。おっかない。尋常に陸路を行けばよかった」
と、舷側《ふなべり》にしがみついたのは若江で、それからの連想だろう、
「交竹院先生や中村清五郎、生島新五郎たちはもう配所に着いたかしら……」
流人の噂を口にした。
「船は大きくても、外海ですものね、もっともっと揺れたでしょうよ」
「だけど、今ごろはみんな、それぞれの島に上陸してるはずよ」
「妹の亭主が話してたけど、大島、三宅島、八丈島は住民が多く、島じたいも大きいために流人もわりにくらしやすいんですってね。壱岐《いき》ってとこなども昔から流されびとの極楽と言われて、ご赦免になっても『どうかこのまま島に永住させてください』って、お上に歎願する罪人までいたそうよ」
「伯父の行った御蔵島はどうなの若江さん」
「御蔵島や、利島、伊豆の新島、神津島などは不便な小島だけに、流人には辛いところらしいわねえ。交竹院先生はおきのどくだわ」
平田伊右衛門は利島、中村清五郎は神津島、後藤の手代の清助は新島が配地である。『永遠流《えいおんる》』を宣告された彼らは、生涯、赦免の望みを断たれたばかりでなく、謫所《たくしよ》の中でもとりわけ苛酷な島に逐《お》いやられたのだ。
(平田のご老人が何をしたというの? 狂言作者の清五郎が、いったいどんな罪を犯したというの? 清助だってそうよ。強いてあなぐりたてれば、絵島さまに取り入りたい下心から金を出した後藤|縫殿助《ぬいのすけ》が悪いのに、張本人の主人は閉門だけで済んでしまった。そして、言いつけ通り働いたにすぎぬ奉公人の清助が、生きながらの地獄に突き落とされたなんて、ひどすぎるわ)
旅に出たことで幾らかまぎれていた不条理への怒りが、谷間《たにあい》の空の一方に伸びあがって見える入道雲さながら、百合の胸中に再びぐいぐい頭をもたげてきた。
(くやしい!)
絵島はいまごろどうしているか。伯父たちも環境の激変にさぞかしとまどい、身の不運を呪っているだろうと想像すると、青葉照りの明るさの下なのに百合は目の前がすうっと黝《くろず》んで、一瞬、気が遠くなりかけた。若江同様、あるいは舟に酔ったのかもしれない。
「着いたよう」
ザクッと舳《へさき》が小砂利を噛んで、動きはまもなく停止する。吉野|宿《じゆく》は家かず百軒ほどの、このあたりにしては大きな宿場で、本陣、脇本陣などもある。まだ日は高く、峠越えをしたにしてはさほどくたびれもしていないので二、三十丁先の関野までのして百合たちは古ぼけた商人宿にその晩の泊まりを求めた。
畳は灼《や》けてけば立っているし、行灯《あんどん》も煤《すす》けているけれど、野天の据え風呂には蛍が飛んでき、夕餉の膳には走り鮎の田楽がついた。味噌の焦げた匂いがこうばしく、焼きたての熱々《あつあつ》を串ごと横咥《よこぐわ》えすると舌がとろけそうにうまい。
村のはずれに流れる堺川《さかいがわ》は、名の通り相模と甲斐の国境いだが、川向こうにいかめしい門を構えて、甲州路第二の関門といわれる堺川関所がそそり立っていた。
五
駒木野関所を越えたことで、百合たちはしかし、少し関所馴れしたと言えよう。橋を渡り、登り坂の彼方に堺川関所の門を望んでも、もう胸の動悸が高まるほど緊張はしなかった。ひとつには、昨夜の泊まりを出るとき、宿の主人から、
「手形を見せなくてもよいのですよ。居並ぶお役人さまがたに挨拶だけしてお通りなさいまし」
と教えられていたせいもある。
この関所の場合、江戸から甲州へ入る女には手形調べがない。逆方向――つまり甲府の方角から江戸へくだる女の旅人だけが『出女《でおんな》』と見なされて、調査の対象になるのだという。
「男衆は?」
「上りも下りも、男の人は無手形で通れます。女子《おなご》衆よりもっと監視はゆるやかですな」
そう聞かされていた気楽さが、若江にも百合にも度胸をつけた。
「お役目ごくろうさまでございます」
かぶりものを取って頭をさげると、山中の無聊《ぶりよう》を喞《かこ》っているのか、
「この先は道がけわしい。座頭《ざとう》ころばしなどという難所もあるゆえ、足許に気をつけてまいれよ」
役人たちは笑顔で応じてくれさえした。
なるほど、あたりはいよいよ山ばかりとなり、道は左右の崖に挟みつけられるように谷底をうねる。時には峰を越えなどして西へ西へ、それでもとぎれることなく延びてゆくのであった。
猿橋という村落の入り口では、その名にちなむ珍しい橋を見た。谷が深すぎて橋脚を立てることができない。切り岸の両側から順ぐりに支えをせり出させ、その上に橋板を渡して右岸と左岸を繋げているのである。
「だれが考え出したか知らんが、うまい橋の架け方じゃな」
「猿がつぎつぎに仲間の背中にとりついて向う岸に渡るのを見て、考えついたのだとよ。だから猿橋と名づけたのさ」
そんなことを言いながら旅人はだれもがここで足をとめる。橋詰めには茶店もあって、
「このあたり、水の深さは三十三|尋《ひろ》、橋から水面までは三十三|間《げん》ございます」
と茶汲み女までが説明してくれる。
百合たちも全長十七間あるという橋の中央に立って下を見おろした。小原、与瀬あたりではまだ、じゅうぶん幅があり、大河のおもむきを呈していた桂川が、このへんまでくると痩《や》せ緊《しま》って、ごうごうと岩を噛む渓流に変貌している。景色はよいけれども、橋上からの俯瞰《ふかん》は目がくらみそうだった。
「駒木野と堺川のほかにお関所はもう無いの?」
「ありますよ百合さん、まだ二つも……」
懐中から書附を取り出して、若江は示した。
「鶴瀬という宿場の手前に一ヵ所、甲斐と信濃の境にも一ヵ所」
旅の心得として関所の所在地や宿駅の様子などを、事前に何くれとなく若江に話してくれたのは関手形の交附をたのんだ家主であった。
「大家さんはね、幾度も商用で甲州路を往来したことがあるのよ。上方《かみがた》へも行ったとかで、道中記というものを見せてくれたわ」
「本なの?」
「ふところに納まるくらいの、小さな横綴《よこと》じの冊子だけど、里数はむろんのこと宿屋の名から名所から、駅路のことなら何によらず絵入りで詳しく書いてあるの」
「便利ねえ」
「近ごろ刷り出されたものらしいわ。甲州路のがあれば買おうと思って大家さんに訊いたら、まだ五街道のうち、東海道の分しか作られていないんですって……」
やむなく家主の話から参考になりそうな部分をぬき出して、若江は自分で紙きれに書きとめてきたのである。
そんな周到さを持ちながら、甲府を過ぎ、韮崎《にらさき》を過ぎ、泊まりを重ねて金沢の宿場までたどりついたとき、若江はうっかり足首を捻挫してしまった。放れ馬を避けようとして転んだのだ。
山ばかりだった眺めも、勝沼へんからひらけはじめて、いわゆる甲府盆地の拡がりが視野いっぱいに入ってくる。緑の濃さに息が詰まりそうだった百合は、ようやく圧迫感から解き放たれて町筋の賑やかさに歓声をあげた。さいわい賊に遭わず雲助にもたかられずに突破したが、山道を女二人で歩くのはやはり気味悪かった。侍の道中姿を見かけるとなるべくあとについて行くよう心がけ、山深いところでは人のくるのを待って登りにかかるなど、それなりに用心を怠らなかったのである。
四月も終りに近く、甲府の町々には家紋や武者絵などを染めたまっ白な幟《のぼり》が幾すじも立ち、さつき晴れの風に小気味よくはためいていた。菖蒲《しようぶ》のみずみずしい葉を、軒に差した家も多い。
「そういえばもうすぐ、端午《たんご》の節句ね」
気づいて、百合は手にさげた包みに目を落とした。交竹院邸の庭から根分けしてきた菖蒲の株……。宿につくたびに水をやるなど気くばりを怠らなかったせいか、炎天下を運びながらこれも青々と勢いがよい。
さすがに幕府直轄の大都会だけに、甲府の目ぬき通りには江戸に劣らぬ菓子司などもあり、若江と百合は粽《ちまき》を求めて舌鼓《したつづみ》を打ったが、韮崎から台ガ原、蔦木、金沢と分け登ると、八ケ岳の偉容が右手の空を塞ぎ、裾野のみどりが波打ちはじめて、国名も甲州から信州にかわった。
金沢という宿駅は、甲州街道のどんづまりに近く、上諏訪へあますところ三里十四丁……。高遠への分れ道に位置する聚落《しゆうらく》であった。ここで若江と百合は放れ馬にぶつかったのである。
「あぶないッ、逃げろッ」
問屋場の脇の噴き井戸で口をすすいでいた二人が、叫び交す人声を聞きつけて顔をあげると、街道の一方から何に驚いたか、片輪だけになった荷車をがらがら曳きずりながら駄馬が疾走してくる。鬣《たてがみ》を振り立て、口には白泡を噛んで、目まで血走らせていた。
「暴れ馬よ若江さん」
身をひるがえして百合は問屋場の土間に飛び込み、若江もあわててあとにつづこうとした。そして敷居につまずいたのだが、瞬間、足首を不自然に捻《ねじ》ったらしい。
「痛ッ」
倒れざま悲鳴をあげた。どッどッどッと地響きを立てて馬は通りすぎ、七、八|間《けん》あとから、
「抑えてくれえ、止めてくれえ」
馬子にちがいない、汗まみれの男を先頭に、口々の喚《わめ》きが土煙をあげながら追いかけて行った。
百合はそれどころではなかった。
「若江さん、しっかりして……」
抱き起こしたが、
「足をくじいたようよ。ああ痛い。どうしよう」
若江は身もだえて苦悶する。問屋場に詰めていた宿役人らが応急の手当をほどこし、とりあえず外科の医者をつれて来てくれたけれども、しばらくするうちに若江の右足首は腫れあがって歩くことができなくなってしまったのである。
六
「三日ばかりこの金沢|宿《じゆく》に宿をとって、安静にしていれば痛みは薄らぐ。そのあと、道中するなら駕籠《かご》にしなされ」
と医者も言う。問屋場の小夫《こぶ》が屈強の男だったので、松崎屋という旅籠《はたご》まで若江をおぶっていってくれたし、百合もむろん快癒しきるまで介抱するつもりでいた。でも若江は、
「わたしにかまわず行ってちょうだい」
と百合をうながした。
「高遠へはもう、じきだし、諏訪のお城下にもあとひと息のところまで辿りついているんですもの。百合さんまで捲き添えの足止めを食うことはありませんよ」
「だって練り薬の取り替えだの、手水場《ちようずば》への行き帰りだの、一人では大変だわ」
「たかが片方の足首ですもの、薬なんか自分で塗れるし、宿の女中さんの肩を借りてでも厠《かわや》ぐらい行けます。それより一日も早く百合さんに絵島さまのご様子をさぐってもらいたいのよ」
「かまわなくて? 若江さん」
「わたしのことなら心配しないで……。義兄《にい》さんには手紙で知らせてあるから待っていてくれてるはずです。駕籠に乗れるようになったら、だからひとまず上諏訪へ行って、打ち身やくじきに効く温泉に浸《つか》って養生するわ。そして良くなりしだい高遠とやらへわたしも百合さんを追いかけていきます。
諏訪湖の周辺にはさまざまな薬効をうたった良質の温泉が数多く湧き出してい、湯治宿《とうじやど》もたくさんあるという。高遠を眼前にするところまで来て、正直、百合も焦っていたから、若江の申し出に従うことにした。
ただし高遠へは、これから松倉峠を上下するなど険阻な山越えの道となる。行程は約六里――。
「そんな道中を、百合さん一人きりでは歩かせられない」
案じる若江に、
「ちょうど恰好《かつこう》の連れがございますよ」
助け舟を出してくれたのは旅籠の番頭であった。峠路をくだりきったあたりに、御堂垣外《みどうがいと》と呼ばれる家かず五十軒ほどの聚落がある。そこに住む農民で、もとこの宿屋に奉公していた男が、次男坊の倅に荷を背負わせて来ている。今日これから家へ帰るので、彼らと一緒に行ってはどうかという申し出であった。
「名は、親爺が治郎兵衛、息子どんは仙太といいます。二人ながら正目《しようめ》の知れた、ごく実体《じつてい》な百姓ですからお気づかいはございません。それに御堂垣外まで出れば、あとは街道すじを目をつぶってでも高遠の町へまいれますよ」
幸運といってよい。
「助かります。ぜひお願いしますわ」
よろこんで百合は番頭に頭をさげた。
「じゃあ若江さん、なんだか怪我人のあなたを見捨てて行くようで悪いのだけど、出立させていただきます」
「けわしい山道だそうだから気をつけるのよ。転んで、わたしの二の舞いなど演じないように……」
「若江さんこそお大事にね」
亡夫の兄の住まいは諏訪城下の桑原町、名は千石屋磯右衛門というのだと若江は言った。百合も取りあえずは伊那の中嶋篠斎宅を目ざすので、おたがいに手紙その他、連絡場所はそこと決めて袂《たもと》を分かったのだが、なるほど旅籠の軒下に先回りして待っていた治郎兵衛父子は、朴訥そのものの山賤《やまがつ》であった。昔のよしみを忘れずにはるばる峠越えして炭や薪《まき》、猪、山鳥の肉、栗だの茸《きのこ》といった山の物を旧主家に届けに来てくれるのだという。百合にも、
「お供しますだ。へい」
小腰をかがめて挨拶したきり、ほとんど口らしい口をきかずに歩き出した。もともと父も息子も無口なのだろう。そのかわり、それとなく気を配って、百合の歩速に合わせて歩くなど山家《やまが》の人らしい地味な労《いたわ》り方をしてくれる。
おかげで三里余の坂道を難なく登りおりし、御堂垣外に行きつくことができた。感謝して、百合が駄賃を渡そうとしても、治郎兵衛は固辞して受け取らない。どうせ帰り路だったのだし、まだこの先、高遠のお城下まで三里はある。仙太を送って行かせようとも言ってくれた。
茅野《ちの》から杖突《つえつき》峠を経て高遠入りする杖突街道と、金沢宿から松倉峠を越えて入る金沢道の、御堂垣外は合流地点に当っている。それだけに家並《やな》みはなかなか立派だし、本陣、脇本陣などもあって、白壁造りの店屋の庇《ひさし》を、燕《つばめ》が腹を反しながら軽やかに出たりはいったりしていた。
あたりはまだ、明るく、分れ道の角に建つ『右、江戸道、左、諏訪道』の石標が日に蒸されて、触れると熱いほどだった。杖突街道は諏訪道とも言い、金沢道は延長してさらに進めば、これもいずれ、江戸にまで達する。『江戸道』とも、だからこそ呼ぶのだろうが、佇《たたず》んでその文字を眺めていると、捨てて出た生まれ故郷の殷賑《いんしん》が瞼《まぶた》に浮かんで、いまさらながら道中の遥けさがかえりみられた。
(はるばる来たものだ)
と、つくづく思う。峠越えで汗ばんだ肌も、立ちどまるとすぐ、気持よくほてりが醒めて、夏のさかりなのに吹き通る風が秋を思わせるほど冷たい。大気のかすかな流れひとつにも百合は高原の里の特異さを感じた。
江戸との距《へだ》たりの長さ……。それはそれだけ、高遠への接近を語るものだった。すでに手を伸ばせばとどく近さに、絵島がいるのだ。
(あと三里!)
駆け出したいとすら心が逸《はや》る。仙太はしかし、太い猪首《いくび》をかしげて、
「夏の日が、いくら長くても、刻限はかれこれ七ツ過ぎだで、高遠のお城下に着くころには暮れきってしまうにちげえねえです」
と予想した。
「じたい、金沢宿から峠越えして高遠まで行くなど女子《おなご》の足にはきつすぎますだ。御堂垣外か、せめて一里少し先の四日市場でお泊まりなすったほうがよいがなあ」
口べたな若者が、重い舌を動かしてこれだけ言うのはよくよくの思案だが、
「無理してでも行きます。そして高遠で宿をとります」
百合は強情を張った。
「そんなら仕方がねえ」
あきらめて仙太はついて来た。もう大丈夫、一人で行けると辞退してもきかない。はじめてのお城下に夜着いて、娘がうろうろ宿さがしなどしたら怪しまれる。知り合いの旅籠があるからそこへ案内してあげると、どこまでも親切な助言だった。
「すみませんねえ、仙太さんだってくたびれているでしょうに……」
「なあに、おらたちは五里や六里の山坂、歩きつけていますだでな」
道の片側には水路が掘られ、透明な水がかがやきながら流れている。往還の撒き水にも駅馬の飲料にも使われる水だが、台村、栗田の村々をすぎ、四日市場の聚落に達するまで水のせせらぎは聞こえて、百合の耳を楽しませた。
しかしその水面に夕焼の赤みが映りはじめると、峡《かい》の道は暗くなるのが早かった。中条、中村、板山、弥勒《みろく》といった聚落を縫うように道はのび、その道に沿って谷川が一筋走りくだって行く。右になり、時には左手に移るなど瀬の音は変り、少しずつ幅を増した。城下に入って三峰《みぶ》川と合流する藤沢川という川だと仙太が語るのを、身に沁みて聞けないほど百合は疲れはじめていた。仙太の危惧が的中したのである。
暮れきると、山が迫っているせいか闇はいきなり濃くなり、瀬音も高まる。夜の旅人のために常夜灯が設置されているのは御堂垣外や四日市場など主《おも》な宿駅だけだから、里々をつなぐ道はどこも暗い。仙太の松明《たいまつ》に先導されなかったら百合など途中で立ち往生したにちがいない。
右手に妙法山蓮華寺の石段が現れ、ようやく行く手、目の下に、高遠の町の灯がチラつき出すと、しんそこほっとして、百合は路上にへたり込みそうになった。仙太はそんな百合を眩《まぶ》しいような、困惑したような目で見おろして口をむぐむぐさせた。おぶってあげようと、咽喉まで出かかりながら言葉が声にならない。江戸風俗のきれいな娘とつれだって歩いた今日一日の体験が、この山家の若者には夢の中のできごとさながらいまだに信じがたく、人形が動いて、息をして、物を言っているのを見るような不思議さを拭いきれないのだ。
目あての旅籠に送りとどけ、
「では、わしはおいとましますだ」
「ほんとにご苦労さまでしたねえ。お父さまにもどうぞ、よろしくね」
ねぎらわれて帰路についても恍惚感が持続し、仙太はなかば酔いごこちであった。宿屋の主人は、金沢宿での若江の災難など、若者からざっと事情を聞かされたせいか、
「峠越えしてここまで来なさるとは、男顔負けのご健脚じゃ。さぞおくたびれであろ」
同情してくれたが、ひと風呂浴び、夕餉《ゆうげ》をしたためたあと、
「当お城下につい先ごろ、大奥御年寄まで勤めた女のかたが流されてこられたそうですけど、押しこめ場所はどこでしょう。これからぶらっと見に行くことはできますか?」
さりげなく百合が訊ねると、
「酔狂な。なぜまた、そんなところへ……」
急に不審《ふしん》そうに眉をひそめて、
「道のりもあり、しかもこの夜道……。女子《おなご》の足では無理じゃ」
首を振った。
七
「そんなに遠いのですか?」
百合の問いかけにうなずいて、まだここから一里はたっぷりあると宿屋の主人は言う。
「一里も?」
「非持《ひじ》村の火打平《ひようじだいら》――。三峰川沿いの道をさかのぼった人家もろくにない山の中でございますよ」
「そんなところに大奥ぐらしをしておられた上臈《じようろう》を……」
「公《おおやけ》の咎《とが》をこうむった人じゃで、いたし方ありませぬ。お客人はまた、なぜ罪人の居場所などをごらんになりたいのでござりますな?」
穿鑿《せんさく》するような視線にも、
「わたしだけではありませんよ」
百合はたじろがなかった。
「杣《そま》の仙太さんからお聞きの通り、わたしは江戸から伊那の知り合いのところへ用があって行く者ですけど、ひとしきり江戸でも、それはえらい評判でしたわ」
「あの流されびとの件が?」
「ええ。ご主人はお名前を存じませんの?」
「何でも、絵島さまとやら……」
「事件に連坐して人気役者だの縁者だの、大勢の処罰者が出ましたから、寄るとさわるとその噂で持ちきりでした」
「なるほど。それで配所を見たいとおっしゃったわけで?」
「絵島さまが流された高遠のお城下――。どうせ通り道ですからね、もし拝見できるものならば、どんなところか、よそながらあたりの様子を目におさめて江戸への土産《みやげ》話にしたいと思っただけです。ヤジ馬根性というやつですわ」
疑念を解きはしたものの、興味本位に近づいたりはできぬ場所だと、主人はこんどは訓《さと》すような口ぶりになった。
「非持の先にも幾つか小さな村はありますが、道はすぐ尽きて山になりますのでな、ごくたまに往来するのは顔見知りの里人ばかり……。旅のお方がまぎれこみなどしたら番人に見咎められること必定じゃ」
「行き止まりなのですね?」
「さよう。戸倉山というてな、伊那富士の別名を持つ三角山がござります。どんづまりに近い市野瀬の村から右に折れて、この山の裾をめぐりながら伊那谷の宮田、太田切、赤穂へんへ出る道があると聞きましたが、土地の者でなくてはわからぬ難儀な杣道《そまみち》じゃそうな。娘御が一人でそんなところを通ると言うても信じてはもらえますまい。夜道をかけて出るなど滅相もないし、よしんばあす、明るくなってからにせよ非持へなど行くのはおやめなされ」
「そうします」
と、その場はすなおに、百合は相手の忠告に従った。我《が》を張ると怪しまれる。どうやら高遠の町民は旅籠の主人ばかりでなく、
「お預かりの流人について、むやみな取り沙汰を口にしてはならぬ」
とでも、藩家から釘をさされているようだ。
早寝することに決めて百合は床に入ったが、翌日、目がさめると、
「お世話になりました」
朝食もそこそこに宿をとび出し、伊那へ行くと見せかけて非持を目ざした。主人の昨夜の言葉から、
「三峰川の上流」
とだけは見当がついている。川沿いの道を流れにさからう形で登って行くと、一里ほどで右手の岡の疎林の間に、それらしい建物の屋根がチラと見えた。左側は高い崖――。はるか下に三峰川が光る。岩が多く、|琅※《ろうかん》を|※《と》きでもしたような青い水が、ところどころすさまじい白泡を立てていた。
道のきわに細い峡田《かいだ》が作られ、稲苗が強い西風に傾《かし》いでいる。ここまでくる間にほとんど人には逢わなかったが、たずねなくても、
(あすこが謫所だ)
と百合には直感できた。
(ここまでで帰ろうか)
場所はわかった。番士らに見つからぬうちに引き返して、ひとまず初めからの目的通り中嶋篠斎を訪ね、黄鶴堂に託された品物を渡すのが順序かもしれない。
「篠斎先生には洗いざらい事情を打ちあけてある。どういう手だてを講じたら絵島さまのお側に近づけるか、先生とよく相談さっしゃれ」
と黄鶴堂にも助言されている。
(伊那を目ざすのが先決だ)
とは承知しながら、そのくせ地面に糊附けされたように百合の足は硬直していた。
(絵島さまがあそこにおられる。あの屋根の下に……)
そう思って見回すと、人里から離れすぎた谷間の荒涼としたあたりの風景が、いまさらながら胸を締めつけてくる。鳥の囀《さえず》りひとつせず、町なかでは耳にした蝉の声すらなぜかここでは聞こえない。淡い朝の日が斜めにさしこみ、乾いた路上には百合の影だけが伸びている。その身じろぎのほか動くものの気配さえなかった。
(絵島さまは三十四……)
百合は呻《うめ》いた。くちびるを噛んだ。
(どれだけ生きられるにせよ、これからの半生を、この山の中であのかたは過ごされるのか)
悲しみは百合を打ちひしがず、むしろあべこべに戦闘的なまでの血の昂《たかぶ》りをその体内に掻き立てた。
(わたしもいよう、絵島さまと共にここでくらしつづけよう)
改めて自身の内なる決意を、百合はみつめ直した。
「あッ」
小さく叫んで、いきなりこのとき百合が道の端に身を伏せたのは、岡の上に派手な彩りを認めたからである。
「だれか出て来た」
女だ。
「旦那さまではないか?」
一瞬、破れそうに胸が鳴ったが、絵島に気ままな外出など許されているはずはなかった。
そっと首だけあげて窺《うかが》うと、どうやら若い女らしい。小間用《こまよう》を弁じるために絵島の身辺に置かれている下女《しもおんな》だと、とっさに百合は判断した。松の、まばらな茂みを抜け、女は岡の傾斜をおりて来ようとしている。
中嶋篠斎宅さして立ち去るつもりだったのに、たちまちその考えは吹き飛んでしまった。腹を抑えて、百合は地べたにうずくまった。
ぴたぴたと土を叩く草履の音が近づき、女は斜面から道におり立った。
「あら、あなた、だれ?」
寄って来たのを見ると、百合と同じ年ぐらいの娘である。
「旅の……旅の者ですけど、おなかが……」
「痛いの?」
「ええ、なぜか急に……水当りかもしれません」
「それはいけないわ。待ってらっしゃい。薬を持ってきてあげるから……」
「薬はいましがた、持薬《じやく》を嚥《の》みました。ただ、尾籠《びろう》な話ですけどくだりそうなので……厠《かわや》を拝借できないでしょうか」
「厠ねえ」
娘の表情に逡《ためら》いが走ったが、
「いいわ。それぐらいのことなら大目に見てくれるでしょ。歩ける? あの松林の中だけど……」
岡の家を指した。
「歩けますとも。這ってだってまいりますわ」
「つかまりなさい。遠慮なく……」
寄せかける肩に、喘《あえ》ぎながら百合がしがみつくと、髪の匂いにうっすら汗のまじった鄙《ひな》びた体臭が鼻をかすめた。頬が赤く、骨組みのがっしりしたいかにも健康そうな娘なのであった。
八
そばへ行くと、門のいかめしさ板塀の高さ、竹の先を鋭く尖らせた忍び返しなど、家ぜんたいが牢造りなのがわかった。
「こちらよ」
裏手の戸口をくぐって、娘は台所の土間へ百合をみちびき入れる。その声を聞きつけたのだろう、
「なんだなんだお満紀《まき》さん、だれをつれて来たんだ?」
脇の小部屋から中間《ちゆうげん》と見える男が二、三人出てきて咎めた。
「旅の人よ。病気なんです」
「いかんじゃないか。ご番士がたに無断で旅人などを引き入れては……」
お満紀と呼ばれた下女は、しかしなかなかの気性者とみえて、
「だって、仕方ないでしょ。いまにもくだりそうだと言うんだもの。娘っ子が原っぱや畑の中に裾をまくってしゃがみこむわけにはいかないわ」
と男たちをやりこめた。さあ、早くあがりなさいあんた、このお廊下の突き当りが厠よと指さされて、百合は前こごみに走った。痛そうな身ぶりにごまかされて、
「何ごとか?」
遅ればせながら顔を出した番士らも、阻止はしなかったし、また本気で、阻止するつもりもなかったようだ。単調なあけくれの中へ、思いがけず迷いこんで来たきれいな小鳥……。そんなふうに百合を眺めたらしく、やがて手水《ちようず》をすまして出てくると、
「旅の者だそうだが、どこからどこへ行くのか?」
手ごろな退屈しのぎとばかり取り囲んで尋問をはじめた。
「江戸から伊那へまいります」
「たわけたことを言う。それでは方角が逆ではないか」
「この岡の下の道ではいけませぬか」
「行き止まりだぞ」
「えッ」
大仰に百合は驚いてみせた。
「高遠の町なかで通りすがりの人に訊きましたら、川上へまっすぐ、どこまでも行けと教えられました。その通りに歩いてまいったのでございます」
「ばかばかしい。騙されたのだ。旅馴れぬ若い女とみて悪戯《いたずら》半分、でたらめを申したに相違ない」
「どうしましょう。ではもう一度、お城下へもどって……」
「そうするほかあるまい。そして今度こそ、よくよく人にたずねて西の方へまいるのだぞ。三峰川が流れくだって行く方角だ。上流《かみ》へ来てしまっては、あべこべだからな」
「わかりました。どうもいろいろとご親切に……」
と頭をさげながら、苦しそうに百合は上半身を折り曲げた。
「あんた、まだ痛むの?」
抱きかかえるように満紀が顔をのぞきこむ。
「さっきよりだいぶ楽にはなったけど、どうしてだかお薬がなかなか効かなくて……。下腹がひっきりなしに吊《つ》れるんです」
「冷えたのよ、きっと……。どうでしょう、しばらくわたしの部屋で休ませては?」
番士たちも同情はしているとみえて、
「そうさなあ」
おたがい同士、目を見交した。
「横にならせるだけなら差しつかえあるまい。ただし、声は立てるな」
「では、こちらにいらっしゃいあんた。口をきいてはだめよ。静かにしてるのよ。そして痛みが遠のいたらすぐ出て行ってね」
と満紀が下女部屋へつれていってくれたが、そこは西側の壁ひと重で、絵島の居室と隣り合っているようだ。それとなく百合はあたりに目を配ってきたが、建物はどうやらあまり広くはないように思える。
満紀の部屋の北側は板戸で、その先は番士らの詰め所である。南には障子がはまり、鉤《かぎ》の手の廊下になっていた。
押し入れから満紀は自分のものらしい木綿の蒲団を引き出し、もの音一つ立てずに薄ぐらい部屋の片隅にそれを敷いて、「ここで寝よ」と手真似で百合に示したあと、抜き足で出ていった。
無言で百合もうなずき、それに横たわるふりをしながら、満紀がいなくなるととたんに起き出して廊下側の障子をそっと開けた。次の絵島の部屋へ、ここからなら行けると見てとったのだが、案に相違して間には仕切りの板戸がはめられ、錠がおりていた。百合は懐紙と女物の矢立を取り出し、
「ゆりがまいりました」
と手早くしたためて、廊下と板戸の隙間から向こう側へすべりこませた。そして急いで下女部屋へもどり、息を詰めてじっと次の間の気配をうかがった。壁の彼方からは、でも衣ずれの音すら伝わってこない。
(うたた寝でもしておられるのか。それともご書見か)
何にせよ絵島が懐紙に気づかず、いずれ板戸の錠をあけてその居間に入ったさい、満紀あたりが拾ってしまったとしたら、せっかくの苦心も水の泡になる。
(どうしても、わたしがここまで来たことを旦那さまに知っていただかねばならない)
一計を案じて、横になったまま百合は大声をあげた。
「こわいッ、だれか来て、こわいッ」
たちまち満紀が駆けつけ、叫びたてる百合の口を掌で塞ごうとした。
「シッ、口をきいてはいけないと言っておいたでしょ。夢でも見たの?」
押し殺した相手の音声とはうらはらに、
「百合の花なのよ。大きな樽《たる》ほどもある百合の花がいっぱい咲いている谷底へ迷いこんで、出るに出られなくなったの」
と普段より声を張って百合は喋り立てた。
「シッ、シッ、黙りなさいってば……。困った人ね寝ぼけて……」
叱りつけて満紀は百合の腕を取り、牛蒡《ごぼう》抜きの要領で下女部屋から台所の土間まで、一気に曳きずり出してしまった。
騒ぎを聞きつけて番士や中間たちがまた集まって来たが、はじめてはっきり目が醒めた顔で、
「すみません。勘弁してください」
百合は一同にあやまった。
「とろとろッとしたら変な夢を見て……。つい、うっかり大声を出してしまいました。腹痛もおさまったようですので、もうお暇《いとま》いたします」
とんでもないはぐれ鳥の闖入《ちんにゆう》だったと呆れながらも、百合の態度が無邪気なためか、
「二度と迷うなよ」
番士らは苦笑まじりに送り出してくれた。
「高遠から伊那へ抜けるには鉾持《ほこじ》の桟道《さんどう》を通らねばならぬ。岩の中腹に掛け渡した木の橋だ。踏みはずすと命がないぞ」
「用心して渡ります」
百合の声を、絵島が忘れるはずはない。しかも事ありげに、百合の花、百合の花と叫び立てたのだ。訝しいと、おそらく気づいたにちがいないが、なお、それでも、
(あの紙きれに目をとめてくださるように……。わたしの走り書きを読んでくださるように……)
祈るような思いで百合は岡をおりかけた。
「気をつけて行きなさいよ」
人恋しげな顔で追って来たのは満紀である。
「ご厄介をおかけしました。お礼かたがた、もう一度かならず伺うつもりでいますけど、あのお宅にはどういう方が住まっておられるのですか?」
「流人《るにん》よ。女の……。あすこは囲み屋敷なの」
「でも咳ひとつ聞こえませんでしたわ」
「静かなお方でね、一日中ほとんど物をおっしゃらないから、わたし、所在なくて寂しくて……。勤めにあがったのをつくづく悔いているのよ」
前途に光明を見いだした思いで、
「たしか満紀さん――とおっしゃいましたね」
相手の手を百合は握りしめた。
「失礼ですが、お父上は内藤家のご家中ですか?」
「いいえ、お城お出入りの町人よ。だから父さんは、『娘を奉公に差し出せ』というご老職のたのみをお断りできなかったのね」
「わたしでよければ入れ代りましょうか」
「なんですって?」
満紀は目をまるくした。
「だってあなたは、用があって伊那へ行くんでしょ?」
「やはり女中奉公をしにね。だけど気がすすまないんです。こういう閑静な所が、わたしの性分には合っているみたい……」
「あなたが肩代りしてくれれば助かるけれど、おそらく駄目ではないかしら……。大事なお預かり人《びと》だそうですもの、たとえ下女でも、身許の不確かな者はお召し抱えくださらないと思うわ」
それでもお先まっ暗なまま旅寝を重ねてきた昨日までに較べれば、希望が持てた。
満紀と別れたあと、翼がはえたように心も足も軽くなって、百合は伊那へ急いだが、待ちくたびれていたのか、
「遅いではないか。どこで道草をくっておったのだ」
初対面なのに、いきなりがみがみ中嶋篠斎はこごとを浴びせてきた。見るからに気むずかしげな、一国《いつこく》そうな男であった。
島便り
一
叱られながら百合が少しも不快に感じなかったのは、中嶋|篠斎《じようさい》の顔つきや語調に、こちらの身を案じる真剣さがあふれていたからである。
篠斎などという年寄りじみた号を用いているが、まだせいぜい四十六、七にしか見えない壮年で、妻女も眉《まゆ》の剃りあとの青い、しとやかな婦人だった。
「まあ、あなた、着くと早々、頭ごなしに雷を落とされては、百合さんがめんくらいますよ」
取りなしてくれた口ぶりもやさしい。
子供のいない夫婦とかで、通された書斎をはじめ家の中はどこもきちんと片づいている。香《こう》の燻《くゆ》りに、さわやかな墨の匂いがほのかに入り混じる部屋の空気は、学者の住まいらしい落ちつきを湛《たた》えて、百合を安らがせた。
「すみません。ご心配かけまして……。じつは高遠のお城下に昨夜おそく泊まるはめになったものですから、今朝、宿を早立ちして絵島さまの押し込め場所まで行ってみたのです」
ありのまま告げると、
「なに? 囲み屋敷へまいったと?」
篠斎夫婦はおどろき顔を見合わせた。
「いったい、何のために……」
「よそながらどんなところか、一刻も早くこの目でたしかめたくて……」
「で、絵島さまに逢えたのか?」
「いいえ、お居間のすぐ隣りあたりまで入れましたけれど、お目にかかることはできませんでした」
仮病を使って厠《かわや》を借り、しばらくの間、下女部屋に横にならせてもらった顛末《てんまつ》を、百合は手短に話した。
「さてさて、大胆なことをする」
篠斎は舌打ちし、妻女の妙《たえ》も、
「素性が露見すれば、面倒なことになるところでしたよ」
ほっとしたように言った。
「でも思いきって忍んで行ったおかげで、おぼろげながら配所の様子が知れました。城下から南へ、一里ほども距《へだた》った淋しい隠れ里で、道もやがては尽きてしまうのだそうです」
「非持《ひじ》の火打平《ひようじだいら》とか聞いたが、あのあたりなら人家もろくにあるまい。旅人が通る往還でもないのにうろうろ入りこんで、よく怪しまれなかったものだ」
「伊那へ行くつもりが、まちがえて見当ちがいの道を歩いて来てしまった振りをしたんです」
「なるほど。智恵もなかなか回る。しかし黄鶴堂からの書状で、そなたの望みは承知しておるゆえ、当方は当方なりに方策を講じていたのだ。向後は独断で勝手な真似をしてはならん」
「わかりました。お指図に従います」
詫びながら肩荷をほどいて、百合は伝蔵老人に託された土産の品、注文の書籍などをあわてて取り出した。『黄鶴堂』の名が出なかったら、まだしばらく、うっかりしつづけていたところであった。
篠斎が打ってくれている手というのは、高遠在住の知人を通して空《あき》があり次第、百合を囲み屋敷に送り込もうというもので、
「身許はわたしが引き受け、そなた自身の素性は黄鶴堂甲賀屋伝蔵の、妹の末むすめと披露してある。まんざら作り話ではなく、黄鶴堂の姪の一人につい先ごろ十八、九で亡くなった娘さんがいるのだそうな。その身代りになったつもりでそなたは藩側の問いただしに答えればよい」
と助言する。
「名前も、では、その娘御の名を名乗るのでございますか?」
「そこまで化けきる必要はあるまい。なまじ馴れもせぬ他人の名を継ぐと、うっかり返事をしなかったり、絵島さまもまた、まちがえてそなたの本名を呼んでしまう恐れが生じる。怪しまれるもとだから、名はこれまで通り『百合』でよかろう。たかが附き女中一人の採用ゆえ、藩もそれほどやかましく身許の究明などせぬはずだ」
むしろ当の本人よりも、仲介者、保証人の信用度を藩は重視する。
その点、伊那の住人ではあるが中嶋篠斎は高遠にまで聞こえた碩学《せきがく》だし、口添えを依頼した知人は、これまた藩士らに尊敬されている学者であった。
「松崎|娥山《がざん》といってな、わたしの莫逆の友だ。高遠藩は小藩なので、建議はされながらも、まだ藩校を設立するまでに至っていない。家中の子弟は城下の寺子屋に分散通学しておるけれども、松崎先生の学塾では特に上級藩士の家の子が多く学んでいる。その松崎どのの仲立ちなら、まず文句なしに召し抱えられるだろうと思うよ」
篠斎は言い、現在、絵島附きの女中をしている満紀という少女が、山里ぐらしの寂しさに耐えかねて、しきりに罷めたがっていたと百合が告げると、
「それは好都合だな」
気むずかしげな表情をはじめて和《なご》ませた。鋭い、怖らしい大目玉も笑い皺《じわ》に囲まれれば、別人のようにしたしみやすくなる。
ただし、満紀のわがままは、たやすくは通らなかったとみえて、その辞職が正式に許可され、入れ代りに百合の採用が決定したのは、それから五ヵ月も経過した秋の終りであった。
篠斎につれられて百合は高遠へ出かけ、城中本丸の役部屋で老職の尋問を受けた。松崎娥山も附き添って行ってくれたため篠斎の予測通り、問いただしはごく形式だけですみ、お受け書を差し出してその日から百合は囲み屋敷に勤務できることになったのである。
松崎娥山は篠斎が言うままに、百合を、
「黄鶴堂という江戸の書肆《しよし》の縁者」
と信じきっている。百合もしたがって、娥山の前ではどこまでもそのつもりで振舞ったが、
「ながいあいだご厄介になりました」
と、篠斎夫妻には真情を隠さなかった。
「おかげで絵島さまのおそばへ参れます。先生がたのご恩は忘れません」
「わたしらへの謝辞などどうでもよい。そんなことよりも、もと大奥であの方の部屋子だったこと、養女養母の約束まで交した昵懇《じつこん》な間柄であること、今度の事件で父は刑死、伯父が流人となったことなどを、番士らに覚られぬようくれぐれも用心せねばならんぞ」
くり返し篠斎が注意したのはその点であった。百合の熱意と行動力に曳きずられ、黄鶴堂も篠斎もが力を貸しはしたけれども、考えてみればこれは無謀不敵な企てともいえる。万が一、公辺に事実が知れたら、当の百合ばかりではない、篠斎や黄鶴堂はもとより、松崎娥山にも高遠藩にも迷惑が及ぼうし、もしかしたら事に直接あずからなかった絵島までが、さらに重科を課せられる羽目になるかもしれないのである。
「けっして勘づかれるようなへまはしません。言動にはじゅうぶん気をつけます」
百合は誓ったが、
「悧発ではあってもそなたは若い。少々軽はずみなところもあるようだしなあ」
篠斎はなお、不安そうだった。
「まさか行ったきりになるつもりではありますまいね」
妻女のお妙もくどくど念を押した。
「この家はあなたの親もと、わたくしどもはあなたの親代りなのですからね。お宿さがりの日はもちろん、身体をこわしたときなども無理をせずに、かならずここへもどってくるのですよ。入り用な物はまた、折りにふれて送り届けてあげますけどね」
世話になっているあいだに、妙は百合を呉服屋へつれて行ってあれこれ柄を選び、奉公に必要な着物や夜具などを手ずからせっせと縫ってくれたし、そのほかこまごました日用品などもすっかり調えてくれた。
費用には黄鶴堂の手から金飛脚にことづけて送られてきた百合自身の金子を当てたが、労力はすべて中嶋夫妻の持ち出しで、それをことに妙など、よろこびとしていたふしさえある。親代りというより、しんじつ母親のあたたかさであれこれ気を配ってくれたのが、百合にしても、どんなにありがたかったかわからない。
「仰せまでもありません。帰る家はここしかないわたしですもの、時おりお暇を頂いてお顔を見にまいりますよ」
と、これも誓った。
二
下男兼用の学僕が大風呂敷の肩荷にして夜具を運んでくれたし、中嶋篠斎も衣類の包みをさげて囲み屋敷まではるばる送って来てくれたので、百合が手にしていたのは江戸から持参した根付き菖蒲《しようぶ》の束と、所縁《しよえん》の人々に、
「絵島さまへ……」
と託された品々だけだった。
その中には相ノ間の若江が諏訪から寄こした書状も入っている。金沢宿で放れ馬を避けそこない、足首の一方を捻挫した若江は、高遠への寄り道をあきらめ、通し駕籠《かご》で目ざす義兄の家に着いたが、ここでまた、災難に遭った。肩を貸して、若江を店の中へ招じ入れてくれた千石屋磯右衛門家の手代が畳の縁《へり》につまずいてのめり、二人がかりで抱え上げた若江を、框《かまち》から土間へ落としてしまったのだ。このため、悪い方の足をもう一度痛め、どうやらくじきどころか、今度は筋を切ったらしい。瞬間、息が詰まるほどの激痛に襲われ、それっきり若江は身うごき一つできなくなったのだという。
「さいわい、義兄《にい》さんの磯右衛門さまがよいかたで、手代らの粗相をたいそう気に病み、婢《はした》や婆《ばあ》やまで附けて手厚く看護してくださっているので、少々気がねではあるけれど奥のひと間で養生させてもらっています。でもそんなわけなので百合さんのあとを追って高遠へ行くことは当分できなくなりました。同封の品は、もし絵島さまにお逢いできたらお召しいただくつもりで、旅に出る前にひと針ひと針、心をこめて縫ったものです。どうか百合さんからお渡ししてください」
大略、そのような便りに添えて、見るからにあたたかそうな真綿《まわた》の胴着が贈られてきた。
(まあ、若江さんたら、たてつづけに怪我をするなんて、きのどくに……)
百合は同情し、折り返し当方も無事、伊那に着いたこと、中嶋夫妻が親切に世話してくれていること、目ざすお方へのご奉公もうまく段取りがつきかけていることなど、他人に見られても大丈夫なようにぼかした書き方ながら、事こまかに報じておいた。
しかしまだ、それについての若江からの返事は来ていない。むしろ江戸から弟の千之介と香椎《かしい》半三郎の連名で手紙が届いたし、俊也までが例ののたくり筆法ながら長々としたためた状をよこしていた。
いずれも、百合たちが去ってのちの江戸での情勢を知らせて来たものだが、内容は一つ一つ百合の気持を衝《つ》きゆるがした。判読しにくい俊也の仮名文字を、それでも克明《こくめい》に拾ってゆくと、
「江戸市中ではいま、『物は附け』『物揃え』が大流行しています」
と言う。『物は附け』というのは、たとえば、
「長い物は?」
との問いかけに応じて、
「うなぎの寝床」
などと答えるもので、子供同士の遊戯だが、同じ問いかけに二つの物を並べて答えれば『物揃え』となる。
「長い物は?」
と問われて、
「痔《じ》持ちの雪隠《せつちん》とうなぎの寝床」
と当意即妙に応じたらそれは『物揃え』だし、さらに一味《ひとあじ》、社会諷刺の辛辣《しんらつ》さが加われば、これはもう立派な大人の遊びであった。
江戸の町なかで今はやっているのは、
「死んでも人の惜しまぬものは? 鼠《ねずみ》とらぬ猫と井上河内守」
「吝《しわ》いものは? 金借り浪人と彦坂|壱岐守《いきのかみ》」
といった幕閣批判で、その中に、
「人に嫌われるものは? 喰いつき犬と仙石丹波守」
「風向き次第に飛ぶものは? 糸の切れた凧《たこ》と坪内|能登守《のとのかみ》」
「人を嵌《は》めるものは? 落とし穴と稲生次郎左衛門」
という批判が混っているところに、俊也は注目せよと書いて来たのである。
「百合さんも知っての通り仙石丹波守は絵島さまがたを摘発した大目附、坪内能登守は事件を担当した町奉行、そして稲生次郎左衛門はお飾り奉行を押しのけて、実際に裁きのすべてを取りしきった目附よ。その稲生を、『落とし穴』に譬《たと》えたということは、鼻のきく江戸の町民たちが、絵島事件のうさん臭さを嗅ぎつけた証拠でしょ? はじめのうちはまんまと踊らされ、『大奥女中と役者の醜聞』という幻術《めくらまし》にとびついて、興味本位に騒ぎたてた大衆も、すこし頭が冷えてくると訝《おか》しいなと気づきはじめた。そして、事件をむりやりでっちあげた連中の本当の目的、裏側にひそむ罠《わな》に気づいたのよ。稲生の言うなりになった坪内奉行、うしろから稲生のやることを支えた仙石丹波守らも一蓮托生、憎しみの対象にされたわけだけど、もう、それも今となっては遅いわ。判決はくだされ、事は終ってしまったんですものね。でも私は、江戸の町民たちが騙《だま》されつづけていなかったのがうれしいの。おぼろげながらも真相を察知し、『物は附け』『物揃え』の形ででも事件の裁き手どもを当てこすってくれたと知ったとたん、胸の痞《つかえ》がいささかはおりたわ。百合さんもおそらく同じだと思うので、ご報告します」
と俊也は書いてきていたのだ。
千之介や香椎半三郎の手紙は、なおいっそう具体的に事件後の上下の反応を伝えていた。それによると、判決の申し渡しをおこなった翌月早々、坪内能登守|定鑑《さだかね》は、
「流人の扱いに手違いがあった」
との咎《とが》で、家継将軍から譴責《けんせき》処分を受け、目附の稲生次郎左衛門も同様、出仕、拝謁を止められたという。
「何とも奇妙な話ではありませんか。二年三年、時には四、五年もかかるのが従来の裁判の通例でした。審議を尽くし、原告、被告ともに証拠を揃えて、それぞれの言い分を主張するとすれば長期に亘るのも無理からぬことですが、日なたの水飴さながら余りだらだらと日数をくいすぎるのも考えもの……。悪弊の一つゆえ改めるようにとは、前将軍家宣公のご治政時代から新井白石先生あたり、しばしば建白していた事項です。このたびの絵島事件は、その意味からすれば前代未聞、異例と称してよい即決裁判でした。千五百人というこれもおどろくべき大量の連坐者を出しながら、たった一ヵ月たらずの内に調べを済ませ、結審にまで持っていってしまったのですからね。罰せられるどころか褒められてよいはずの取り調べ役人が、事件直後に罰せられている。なぜでしょうか?」
まだ、ある。手代の中から二人までも処罰者を出し、みずからも閉門を仰せつけられた御用達商の後藤|縫殿助《ぬいのすけ》が、絵島事件後いくばくもなく許され、この秋、発足する新銭鋳造の責任者に返り咲いているのである。
「われわれ思うに、これはようやく、新井どの間部詮房《まなべあきふさ》どのら前将軍家の股肱《ここう》たちが捲き返しに出たことの現れではありますまいか。清潔な政治、私曲のいっさい無い理想政治を標榜し、また事実、家宣将軍を戴いて『正徳の治《ち》』を推進してきた側近たちです。こともあろうにその膝もと――月光院さまの奥向きから一大疑獄が発生した。しかも真偽はともあれ、前面に押し出されたのが女中衆と役者どもの密《みそか》ごと、出入り商人らの利権を狙っての贈賄などというもっとも忌むべき罪状なのだから、新井どの間部どのらが驚愕し、呆然自失したのも当然でしょう。その虚を突いて天英院派は一気呵成に押し切ってのけた。口出しの隙《すき》を新井どのらに与えなかったわけですが、仔細《しさい》に検討すれば無理だらけ疑問だらけな裁判だったことがわかる。そこで遅まきながら、新井どのらは反撃を開始した。それが坪内、稲生らの譴責、後藤縫殿助の登用という形でまず、噴出したのだと思いますよ」
絵島が高遠へ流されて二ヵ月ほどして、もと町医者だった月光院の実父勝田|玄哲《げんてつ》が死去した。月光院にすればかさねがさねの不幸だが、その百ヵ日法要の日、諸大名、幕臣からの弔問の使者が引きも切らず、仏前が供養の品で埋まったのも、
「月光院さまへの、同情の現れと見てよいでしょう」
とも、半三郎らは報じてきていた。
状況は変りつつある。もしかしたら犠牲者たちは放免され、罠を仕掛けた側が罪に落ちる逆転も起こり得るかもしれない。そう思うと一刻も早く、これら江戸からの便りを百合は絵島に読ませたかった。
火打平に着き、木の間がくれに囲み屋敷の屋根が見えはじめると、
(今日こそお目にかかれるのだ)
息苦しいほど百合の鼓動は早くなり、
「そう急《せ》くな。番士らがいぶかるではないか」
中嶋篠斎の叱責を背に浴びながら、足は止めようもなく岡への登り坂を走り出してしまった。
三
待ちかまえていたのは前任の女中の満紀である。今日、火打平へやってくる百合に仕事の引き継ぎをしたら、すぐそのまま城下の我が家に帰ってよいとでも許されたのだろう、すっかり手荷物をまとめ、囲み屋敷の勝手口の土間に満紀は待機していたが、
「あんた、約束通り来てくれたのね」
百合を見るなり叫んだ。
「まさかと思ったわ。『こういう静かな所が性に合っている。身代りになってご奉公してもよい』ってあのとき言ってたけど、本当にくるなんて信じてなかったのよ」
番頭《ばんがしら》は小森甚五兵衛という五十がらみの、ひどく日に灼けた人物で、両刀を帯びていなかったら百姓|親爺《おやじ》としか見えない風体《ふうてい》をしていた。
「さあさあ、朝、起きぬけからお袋どののところへもどりたくて、じりじりし通していたのじゃろ。おしゃべりはいいかげんにして、早う引き継ぎを済ませてしまわんかい」
こごとを言いながら満紀の持ち物らしい布包みを土間に抛《ほう》り出し、
「遠路ごくろうでござった。ひとまず、ここにお置きくだされ」
中嶋篠斎には慇懃《いんぎん》に一礼して、その手の荷物をはじめ、学僕が背負ってきた嵩《かさ》のある夜具の包みまでを上り框《がまち》におろさせた。
何をされても気にならないのか、満紀は浮き浮きと、
「ここが炭部屋、あすこに見えるのが外井戸よ」
百合を案内して廻った。
「井戸はもうひとつ、家の中にも掘られているし、台所も中にいま一つあるの。賄方《まかないがた》の中間がお番士用の煮炊きをするのが裏手のお勝手、あんたが絵島さまの召し上りものを調えるのが中のお勝手よ」
「旦那――いえ、あの、絵島さまとやらのお食事づくりは、では附き女中に委されているのね?」
つい知らず百合の気息は弾んだ。
「きまってるのよ一汁一菜って……。献立もお城からの指図に従ってほとんど番士たちと同じものを上げるから特に作るものなんて無いわ。ご飯を別炊きにするのと、小鍋に取り分けた汁を温め直すくらいのことね」
これは味噌入れ、こちらが塩壺……。そして蓋《ふた》のあるこれが水甕《みずがめ》だが、かくべつこの辺は寒気がきびしい、冬期は凍りつくにちがいないから菰《こも》でも巻きつけて防ぐようにと、満紀はこまかく心づけてくれた。
「今日も風が強いでしょ。年中、西風が吹きまくってる荒々しい土地なのよ。耕しても稔りの薄い痩地《やせち》ばかりだし、これからの寒さはこたえると思うわ。あんたみたいなもの好きが入れ代りに来てくれたから、わたしは非持村で冬を越す苦患《くげん》を免れたけど、小森さまはじめ番士や足軽たちは今からびくついているようよ」
満紀にいくら脅かされても百合はうれしさに気もそぞろだった。相手に劣らぬ上機嫌で、
「よくわかったわ。大丈夫、あとは引き受けますから、もうお引取りくださいな」
せきたてた。
「ではよろしくね」
上司たちへの別れの挨拶もそこそこに迎えの下男を従えて去って行くうしろ姿は、籠から放たれた小鳥さながらいきいきしている。よほどこの、山間の侘び住まいが耐えがたいものだったにちがいない。
百合は深呼吸を一つした。彼女の気分も、満紀とは逆な意味でやはり浮き立っていた。いよいよ絵島に逢えるのだ。毎日の生活を共にできるのだ。達成の困難さを予想していただけに、あっけないくらいたやすく望みがかなった事実が、いまなお百合には信じがたい。夢の中のことのように思える。
あと、たった一つの気がかりは絵島の反応である。百合を目にした瞬間、驚きのあまり絵島が声をあげたりしたら双方の繋りを怪しまれるのは必定だった。
中嶋篠斎もしきりにそれを心配しているが、満紀の様子から見ても、仮病を使ってはいりこんだ日、仕切りの板戸から百合が差し入れた紙片は、首尾よく絵島の手に渡ったらしい。寝ぼけたふりをして、わざと大声で、
「百合の花、百合の花」
と連呼してのけた作戦も、おそらく図に当ったに相違ないと百合は確信した。
(聞きおぼえのある声……)
それだけでも、すぐ近くまで奥山百合が来ていることを絵島が察しないはずはない。女中の交替をそれに結びつければ、さらに明瞭に百合の側の意図を看取できるはずであった。
(旦那さまも、きっと待ちわびておられるだろう)
そう思うだけで口許がしぜん、ほころびてしまう。笑顔を抑えるのに百合は苦心した。やたら、うれしそうな素振りを見せては、これまた不審されるもとである。
いつぞや休ませてもらった下女部屋に、まず、つれてゆかれ、
「よろしいか。ここがそなたの寝起きする場所じゃよ」
小森|番頭《ばんがしら》がひそひそ声で聞かせてくれた心得も、過日城中で老職が口にした個条とほぼ同じものだった。
これからそなたがお仕えするお方は、公辺よりお預かりの大切な囚人《めしゆうど》。粗略な扱いは禁ずるが、出すぎた親切もしてはならぬ。万事、きめられた通りにおこなって余計な私語をせぬこと。ことにそなたは江戸の住人であったそうな。たとえ問いかけられても、事件にかかわる巷《ちまた》の風評などお耳に入れぬように……。口数はできるだけ少く、命ぜられた御用のみ弁じ、食欲の多寡、睡眠の深浅など眼《まなこ》こまやかに気をくばって、わずかな異常でも見つけたらただちに告げること。われわれ男の番士らはよほどの事がないかぎり女囚のそばへ近寄ることはできぬ。日常の監察はそなたの役ゆえ怠りなく勤めよ、といった訓示である。
「心得ました」
うなずく百合の顔つきが賢《さか》しげなのに、安心したのだろう、
「では、ついて来さっしゃい」
番頭は先に立って廊下へ出た。例の板戸が今日もぴったり閉じられている。その裾に坐って、「これはそなたに預ける。紛失してはならんぞ」
懐中から番頭は鍵を取り出し、板戸の掛金をはずした。
「小森甚五兵衛でござる。新参の女中を召しつれました」
「はい」
と、かすかな応答《いらえ》が聞こえ、
「ごめん」
戸を押して小森番頭はにじり入《い》った。百合もつづいてはいる。
内側にも廊下が伸び、それはしかし、すぐ鉤の手に曲って、右手は立て切った障子だった。小森がその障子を引きあけると、正面に絵島が端坐しているのが見えた。
目と目が合った。
恐れていた動揺は絵島の表情には現れなかった。かえって百合の側が激しく惑乱した。それほど絵島の窶《やつ》れはひどかったのである。
おそらく無意識に、その胸めがけて飛びついてゆきそうな気配が、百合の全身を走ったのかもしれない。
(落ちつくのよ百合、泣いてはいけない。声を立ててもいけません。落ちついて……落ちついて……)
目顔《めがお》で懸命に制してきているのは、むしろ絵島のほうだった。どっと溢れ上った涙を、番頭に気づかれまいとして百合は平伏した。
「かねてお耳に達しておきました通り、本日をもって満紀は退職。代りにこれなる女中が新規に召し抱えられ、お身の廻りの世話をいたすこととなりました。名は百合、年は十七歳でござります。何なりとお気がねなく御用を仰せつけくださりますよう……」
小森の引き合わせに、静かにうなずいて、
「お心入れ、かたじけのうぞんじます。ご主君駿河守さま並びにご老職がたに、なにとぞよしなに申しあげてくださりませ」
絵島は礼を述べたが、百合を退《さが》らせまいとの配慮からか、
「ちょうどよいところへ来てくれました。先ほどからみぞおちのあたりが差し込んで困っていたのです。百合とやら、さっそくですまぬけれど、背をさすってくれませぬか」
さりげなくうながした。
「かしこまりました」
うつむいたまま百合は答え、絵島のすぐ近くへ進み寄った。
「では、拙者はこれにて……」
板戸の鍵を置いて番頭は出て行く。足音が消えるのを聞きすまして、
「旦那さまッ」
「百合、逢いたかった……」
二人は抱き合った。声を殺してはいるが、いまこそ存分に百合は泣いた。箆《へら》でこそげ取ったかと思うほど肉の落ちた頬に、とめどなく絵島も涙をしたたらせながら、
「そなたの声、走り書き……。近くまで来たとは知ったものの、まさか一緒にくらしてくれるとは思っていませんでした」
肩を慄わせた。
「来ずにいるものですか。どんな手だてを講じてでも旦那さまのおそばへ行こうと、わたくし、誓ったのですもの。宮路さま梅山さま、相ノ間の若江さんがたからお預かりしてきたお品があります。お小僧の俊也さんやうちの弟たちが寄こした江戸からの便りもお見せしとうございます。取ってまいりましょう」
「まあ、お待ち。これからは毎日、顔が見られる。話も交せるのです。番の者にけどられるといけない。少しずつ、様子を見い見いすることですよ百合」
娘の興奮を絵島はたしなめた。
「そうですね。用心せねば……」
それにしてもお痩せになった、どこかお身体が悪いのではないか、と問いかけたいのを我慢して、握り合った手に百合は唇を押しあて、頬をこすりつけた。母親に甘える幼児に似た、無我夢中ともいえる喜悦の表現であった。
四
お婢《はした》生活が始まった。
百合がまず目を配ったのは、番士らの一日の動静、一人一人の気質、絵島に対する好悪《こうお》の感情である。
内藤家の感触の柔かさは、神田小川町の江戸藩邸に駆けこんだときから百合には何となく察知できていた。気骨の折れる囚人のお預かりを命ぜられ、諸出費を余儀なくさせられる迷惑は迷惑として、絵島へのひそかな同情は抱いていたらしい。徒士、足軽の態度にすらそれは現れていたが、ここ非持の囲み屋敷にただよう雰囲気も、同じであった。
奉公に出たその日、炉ノ間に集まっての晩飯のあと小森番頭は茶をすすりながら、
「どうじゃな? 長つづきしそうかな?」
百合に訊《たず》ねた。
「はい、とてもお優しいかたですのでほっとしました。わたくしのようなふつつか者でも、あのようなご主人なら勤まるとぞんじます」
「そなたもそう思うか? いや、じつを申すと、われわれも初手《しよて》は恐れをなしていたのじゃ。詳しくは知らぬが当将軍家のご母公に仕え、飛ぶ鳥落とす権勢を誇った御年寄というではないか。しかも御用商人をあやつって賄賂を取りこみ、ご代参にかこつけて芝居小屋に入りびたるなど、罪状から推しても唾棄《だき》すべき女性《によしよう》……。罰せられて当然だし、たとえ当地に流されてきてもそのような人物ではさぞかし扱いにくいことであろう、われらなど田舎侍と見くだして、わがままを言いつのるのではあるまいかと思うておった。ところが案に相違してもの静かな、礼儀正しいお人柄じゃ。これが真実、役者相手に浮き名を流したおかたか、驕《おご》った素振りなど毛筋ほどもないが、もしや人ちがいではあるまいかと首をかしげたくなってなあ」
ここぞとばかり百合は弁明した。
「たかが町人の娘ですから人の噂でしか存じませんけど、わたくしが江戸で聞いたところでは役者買いみたいな淫らな行跡など、皆目《かいもく》なかったそうですよ」
「やはりそうか」
「前将軍家の御台さま、お部屋さまがたの対立など、大奥には女同士の根深い鬩《せめ》ぎ合いがあって、絵島さまはその犠牲《にえ》にされたのだ、罠にかかったのだと江戸ではもっぱら評判されておりましたわ」
「なるほどな。そう聞けば合点がゆくわ。あまりに当人と罪状とがかけ離れておるゆえ、一同、狐につままれた思いであったが、計られて罪に落ちたのならお気のどく千万じゃな」
この小森番頭の嗟歎が、番士らすべての心情を代表していた。はじめ好奇と、かすかな嫌悪の目で見ていた彼らは、半年たった今、絵島の日常とその人となりに畏敬の念を抱きはじめている。監視も、したがってゆるやかだが、囲み屋敷の造りじたいは名の通り二重の塀に囲まれて厳重そのものだった。
高遠へ護送されて来た当座、絵島は一時、城中三ノ丸の長屋の一つに入れられた。正式の囲み屋敷がまだ出来あがっていなかったからである。非持村の火打平、字平栗《あざひらぐり》と呼ばれるこの地に、それが完成するまでには、
「城下からどのくらい距離を置いたらよろしいか」
「建物の規模、様式はいかがすべきか」
「番士の身分、人数、不寝番《ふしんばん》常置の有無についてはどう取り計らったらよろしいか」
など、ことこまかな伺書《うかがいしよ》が内藤家側から提出され、いちいちそれに公儀の附札《つけふだ》が貼られて返されて、ようやく指図通りの家が仕上がったわけだけれども、百合あたりが見て胸が潰れたのは、板塀の高さ、ものものしさだった。
絵島の部屋は床ノ間も何もない八畳敷きで、廊下の外はすぐ目囲《めがこ》いの塀である。総丈《そうたけ》八尺――。峰には鋭い削ぎ竹を打ち違いに組んだ三尺の忍び返しが取りつけてあり、いま一重、さらに菱垣がそれを囲んでいるから、外を眺めることなどまったくできない。しかも廊下には太い牢屋格子が嵌め込まれてい、狭い庭先にすらおりられない仕組みになっていた。
晩秋の季節、谷間《たにあい》の木々は櫨《はぜ》、ウルシ、楓《かえで》の紅葉がいちめんに燃えたち、芒《すすき》の穂波が風にうねって、それなりに美しく、人里はなれた寂しさを忘れるほどなのに、塀の上からわずかに覗く空のほか絵島が目にできるものは皆無だった。ぐるりが山なのに山が見えず、林の中に建つ一軒家なのに樹木を見られず、三峰《みぶ》川が近くを流れているのに水の泡立ちを見ることも不可能なのである。
それが無念でならない百合は、ダケカンバの黄葉にまっ赤な実をつけたナナカマドの枝を添えて、あり合わせの甕《かめ》に挿し、せめて絵島の部屋に飾ったが、小森甚五兵衛はじめ目くじら立てて咎める番士はいなかった。
逃亡のおそれのない女囚よりも、急ぎ足で近づいてくる冬将軍に彼らは恐怖して、いまから薪づくりに懸命だった。百合を囲み屋敷まで送ってくれた中嶋篠斎も、江戸育ちの娘の初めての越冬が、何にもまして気づかいなようで、
「もう一枚、お妙に掻巻《かいまき》を縫って送らせよう。綿入れでも袖無しでも、入り用と思ったら遠慮せずに状を寄こすのだぞ。すぐ調えて届けてつかわすからな」
くれぐれも言い置いて帰って行ったが、番士らの関心が寒さ防ぎの用意に逸《そ》れているのは百合にすればありがたかった。
朝食もそこそこ、彼らは足軽を引きつれて燃し木集めに出かけるし、残りは空地利用の畑を手入れする。必要品は城下から荷駄が運んでくるけれども、食料などは半ば以上自給自足のくらしであった。いま畑には秋野菜が作られ、地味の薄い寒冷地を少しでも改善すべく肥壺や堆肥溜《たいひだめ》まで掘られている。鶏が飼われ、粗朶《そだ》拾いの片手間に茸《きのこ》だの栗だの通草《あけび》だの、山中の幸をぬかりなく採取してくる小者もいた。
そんな彼らの明けくれを見ている間に、一日のうち、いつならば気がねなく絵島と話ができるか、どれくらい長くその部屋にいても疑われないか、たとえば決められた食膳に、どうすれば心づくしの菜《さい》が一品でも多く附けられるかといった抜け道のコツが、たちまち百合には呑みこめてきた。
私物の中に忍ばせてこっそり持ち込んで来た鮎《あゆ》のうるか、するめや海苔、胡麻のたぐいを番士らの目を盗んで手早く焙《あぶ》ったり炒《い》ったりし、細い食気《しよくけ》をいくらかでも増させようと躍起になったが、
「ありがとう百合、でも、こういうことはしないでおくれ」
肝腎の絵島が、せっかくの心尽しに、なぜか頑《かたくな》に箸をつけようとしないのである。
五
百合は焦った。気がかりでもあった。
「召し上ってください旦那さま。正直いってわたし、お目にかかったときギクッとしたんです。あんまりお窶《やつ》れがひどかったんですもの。たとえうるかの小皿、海苔の一枚でもご飯に添えて食べていただければ、それだけ精がつくはずですわ」
いくらすすめても、決められた一汁一菜のほか絵島は口に入れない。
宮路が託した品は銀の覆輪《ふくりん》をほどこした豪華な塗り櫛、櫛と対《つい》になっている笄《こうがい》だったし、梅山が百合にことづけたのはこれも見るからに高価そうな梨地蒔絵の小箱で、中にひと揃え、すべて小さめに、しかし精巧に作られた硯《すずり》、墨、水差しや細筆など筆記用具が納めてあった。
どちらにも贈りぬしからの手紙が添えられてい、くり返しなつかしげに絵島はそれを読みはしたが、やはり品物を使うことは拒《こば》んだ。
若江がひと針ずつ丹精して縫いあげた真綿の胴着にさえ、朝夕、冷えこみが強くなりはじめたにもかかわらず手を通そうとしない。
お小僧の俊也は旧主のつれづれを慰めるつもりか、書状を寄こしたとき伊勢、源氏、古今、新古今など幾種もの古典に、新刊の草紙を取りませて中嶋篠斎宅に送りつけて来ていた。祖父の黄鶴堂甲賀屋伝蔵ともども、あれこれ選んで寄こした書籍であろうのに、これにも絵島は、
「ありがとうよ若江、俊也も……」
感謝しながら、同様、手を触れようとしなかった。
「なぜですの? それぞれに心のこもった品なのに……ご用に立たないと知ったらみな、どんなに落胆するかわかりませんわ」
いぶかり、怨じもする百合に、絵島はだが、苦しそうにかぶりを振りつづけた。
「心をこめた、あたたかな贈り物だからこそ使うことができないのですよ、それに百合、ご公儀からのお達しで、わたくしは読書や書きものを禁じられています」
「ぞんじていますわ。ですけど、こっそり読んだり書いたりするくらい、だれも咎めはしません。番士たちはみな、心中、旦那さまをおきのどくに思っているのですもの」
そう、いくら百合がすすめても、
「わたくしは囚人です。規則は守ってくらさなければね」
言い張るばかりか、
「雪が降り出さぬうちに百合、あなたも江戸へお帰り」
と、うながすではないか。びっくりして、
「お邪魔ですか? わたしがいては……」
思わず百合は詰め寄ってしまった。
「どういうおつもりでしょう旦那さま、わたしに帰れだなんて……。一生涯、おそばにいるつもりで来たんですのに」
「そんな莫迦《ばか》な!」
涙声で絵島は叱った。
「許しませんよ。まだうら若いそなたが、春秋に富む一生を山深い流刑地に朽ちさせるなど……そんな惨《むご》いことをさせてよいものですか。気持はうれしい。言葉で言い現せないほどうれしいけど、それだけになお、そなたの幸せをこわしたくないのです。もう二度とふたたび会える日はないとあきらめていたのに、こうして会えただけでもありがたいとしなければ……」
「わかりました、わかりました」
子供をあやすような口ぶりで百合はうなずいた。
「雪は越路《こしじ》にくらべて少いそうですが、寒さはむしろ雪国よりきびしい土地だと聞いてます。辛抱できなくなったらお暇を頂きますし、もし嫁にほしいと言ってくれる人でも現れてその気になったら、やっぱりさっさと帰らせて頂きますよ。ね? そうお約束すればしばらくの間おそばにいたってかまわないでしょ? 旦那さま」
もちろん本心からの言葉ではない。絵島が何と言おうと百合はその身辺から離れるつもりはなかった。それだけにかえって、ふっと眼裏《まなうら》に泛かんで消えた香椎半三郎の面影が、やるせなく胸を緊めつけた。
百合はうろたえた。頬に血ののぼるのを意識して一層どぎまぎしてしまった。
(ばかなわたし……)
これまで恋人めいた語らいなど少しもしたことのない相手である。半三郎の側がどう思っているかわかりもしないのに、冗談めかして口にしたひと言から心の奥底に潜んでいた感情が、はからずも露《あらわ》になった。それが百合には恥かしく、われながら意外だったが、
「仕方がない。それではいましばらく一緒にいておくれ」
赧《あか》らんだ娘の顔から、痛ましげに絵島は目をそむけた。
――どうして人の厚意を受け入れようとしない絵島なのか?
共棲《ともず》みを重ねるうちに、百合にはその理由が呑みこめてきた。贖罪《しよくざい》の気持だったのである。
「わたしはね百合、大変な罪作りをしてのけた。兄の白井平右衛門どのは幕臣でいながら縛り首、そなたの父の奥山喜内どのも、斬首の刑に処せられたそうではありませんか」
「はい」
「どんなに無念だったか。お二人の臨終《いまわ》の心情を思いやると胸が引き裂かれるようです。交竹院先生までが島流しの憂き目に遭われたとか……。勘忍しておくれ百合、そなた一人にさえわたしは何と詫びてよいかわからない。父親と伯父の仇《かたき》だもの、恨んでおいでだろうねえ」
「水臭い。なにをおっしゃいます。そりゃあ恨んでますよ。でも旦那さまではない。わたしが殺してやりたいとさえ思っているのは、ささいな咎《とが》をとっこに取って罪をでっちあげ、旦那さまはじめ大勢の人たちをおとし入れた天英院一派です。父の仇、伯父の仇はあいつらですわ。旦那さまがお詫びなさるのは門《かど》違いですよ」
「いいえ。すべてわたしの至らなさから起こったことです。事件の遠因近因について、よくよくわたしなりに考えましたが、せんじつめてゆくと結句、自分の軽率から端を発して罪もない人々を災難に捲き込んだのだということがわかります。卑劣な罠を仕掛けた側……。むろん、それも悪い。いまにして思えば藤枝というあの、使番の女なども敵方の手先でした。しかし月光院さまの権勢を嫉《ねた》み、ご母公としてのお立場を、なんとかしてゆるがせてやろうと狙っていた執拗陰険な勢力の存在を承知しながら、彼らの動きに意を用いず、たとえば藤枝にしてもその正体を見破れずに、うかうか足をすくわれてしまったのはわたくしの油断です。奥をたばねる大年寄のくせに何という浅はかさだったか。悔やんでももはや追いつきません。驕《おご》っていたのですね。将軍家を手の内に擁している安心感から、知らず知らず気がゆるんでいたのです。その隙を衝《つ》かれた……。でも、我が身ひとりのことならば一寸刻みの苦痛にだって耐えられます。申しわけないのは……ねえ百合、月光院さまはじめ四方八方に、取り返しのつかぬ迷惑をかけてしまったことですよ」
袂《たもと》を噛んで絵島はむせび泣いた。その、あまりな慚愧の深さに、度を失って、
「旦那さま、旦那さま」
百合はおろおろ言い慰めた。
「そんなにご自分を責めてはお身体に障ります。済んだことですもの。もう、どうぞ泣くのはおやめあそばして……」
「済んではいません。長い長い苦しみが、だれもみな、これから始まるのです。後藤の手代や芝居町の者たちまで流刑に処せられたと聞きましたが、可哀そうに……。中村清五郎とか言いましたね、狂言作者……。酒席を取りもってくれただけなのに……」
「河原者という立場の弱さから、彼らが一番ひどい目にあわされたのです」
「生島新五郎や山村長太夫――あの人たちにもきのどくなことをしました。新五郎は四十四、五。長太夫はまだ……」
「三十前ではありますまいか」
「二十六か、せいぜい七ぐらいにしか見えませんでしたね。新五郎はこれからが円熟期にさしかかる大事なときだし、長太夫も座頭としての働きざかりなのに島流しとは……。父親の友碩《ゆうせき》隠居、新五郎の妻のお良《よし》どのなど、あのとき挨拶にきた家族たちがさぞ悲しんでいるだろうと思うと辛くて、辛くて……。それにねえ百合、平田の彦四郎さまや父ぎみの伊右衛門さままでが、それぞれ遠流《おんる》、永遠流《えいおんる》の重刑に処せられたというではありませんか」
「平田ご父子を罪に落とした張本人は目附の稲生次郎左衛門です。あの悪党が公《おおやけ》の裁きを隠れ簑《みの》にして、舎弟の恋仇に腹ぐろい仕返しを企んだのですわ」
稲生次郎左衛門正武、文次郎正祥の名を思い起こすたびに百合は腸が煮え返った。
六
文次郎に取り入り、絵島へのその恋情につけ込んでさいさい金品を巻きあげたばかりか、最終的には稲生とのよしみに縋《すが》って、罪科までを軽減してもらった豊島平八郎……。
彼こそは姉の名を利用し、商人どもをいたぶって収賄した当人であり、兄の白井平右衛門、百合の父の奥山喜内に不利な点は何もかも押しかぶせて、二人の命と引き替えにうまうま生きのびた獅子身中の虫である。稲生への憎悪を口にすれば、それと結んで巧みに立ち回った豊島平八郎への憎しみに、しぜん言及することにもなる。
父が違い母も違う名ばかりの姉弟《きようだい》でも、絵島の弟は弟だから、百合は遠慮してなるべく話題にすることを避けたが、稲生兄弟にも増して内心、憤《いきどお》っていた相手は、じつは豊島平八郎だった。
芝居見物にしても、舟遊山にしても、出したはずの入費が世話役の商人たちに渡らず、平八郎に中途で着服されてしまった事実……。別当坊の大行院はじめあちこちから金を借りまくり、博打《ばくち》につぎこんでもいた平八郎である。貸したのは、絵島の弟だからであり、言いなりに商人どもが費用をまかなったのも、やはり絵島に阿《おもね》りたい下心からだが、いざとなると平八郎の不始末の尻ぬぐいは、ことごとく絵島の罪名の上に汚点となって降りかかった。
もう今となれば絵島も弟の悪事に気づいている。重追放を宣せられたあと、妻女の雪や子供たちをつれて平八郎は行方をくらました。どこをさして行くとも言わずに江戸を出てしまったらしく、その後の消息はだれひとり知らないし、絵島も訊《き》こうとはしない。口にするさえ不快な名なのだろう。
「どうしておられるか」
と、気づかわしげに洩らす相手は、むしろ嫂《あによめ》の佳寿《かず》だった。夫の平右衛門が縛り首の屈辱刑に処されたあと、佳寿は実家にもどったが、忘れ形見の息子たちは親類預けを言い渡されて、母の手から引き離された。いま総領の伊織は八歳、次男の平七郎は六歳――。二人とも十五歳に達し次第、遠島仰せつけられることになっている。
「そうなる前に様を変えさせて、平右衛門どのの菩提を弔わせたい」
と里の両親に佳寿が訴えているとも、風の便りに百合は耳にしていた。僧になれば、あるいは流刑をまぬかれる僥倖もありうることから思いついた窮余の手段にちがいない、と語ると、
「それにしろ、いたいけな子供らを出家させねばならないとは……」
嫂上《あねうえ》に申しわけない、甥たちにも済まないと絵島はまた、涙を新たにした。
その日常の、驚くほどのつつましさ、有髪《うはつ》の尼とえらぶところのない厳しさは、つまり言えば、事件に連坐して厄に遭ったすべての人への、衷心《ちゆうしん》からの詫びの現れだったのである。
一汁一菜のきまりながら、せめて少しでもおいしく食べてもらおうと百合が苦心して作った食事も、汁と香の物のほか箸をつけようとしないし、こっそり皿数をふやしなどしたらかえって機嫌を悪くする。
湯茶は供せたが、酒や菓子は禁じられている。それでも栗を焼き、柿をむけば、それを絵島の部屋に持って行こうとする百合を、番所の侍たちは制止しなかった。番頭の小森甚五兵衛など、
「飼鶏《かいどり》めがようやく玉子を生みよった。まだ温《ぬく》といぞ。ほら……」
百合の掌にのせ、食べさせてさしあげろと絵島の部屋を目で指《さ》すことさえある。さがってくる膳には、しかし柿も玉子もが手つかずのまま残されていて、百合をそのたびに落胆させた。
霜がおり出し、谷を揉み立てて木枯《こがらし》が吹き荒れると、枝々にしがみついていた紅葉黄葉が一夜にして払い尽くされ、目のゆく限り裸木となって恐れていた冬がとうとうやってきた。
「上下とも、帯まで、木綿ものを着用させよ」
とは、これも公儀からの指令である。だからといって間《あいだ》に着重ねるくらいのことは、やはり番士だれもが大目に見ていることなのに、
「我慢にも限りがあります。お召しくださらないと凍え死んでしまいますよ」
泣かんばかりに若江の縫った胴着を百合が着せようとしても、絵島はきかなかった。定められた通りに、火桶すらほんの手焙り程度の小さなものを、それも一つしかそばへ置かない。
読書を禁じられ、筆硯のたぐいを備えることも禁じられているから、たとえ俊也が書籍を送って寄こし、梅山が華奢《きやしや》な文具ひと揃えをことづけてきたところで使用できないのは、なるほど絵島の言う通りだ。
しかしそれとて公儀役人がこの山深い僻地まで見廻りにくるわけはないのである。読んでも使っても、番士らが見て見ぬ振りをするのは明白なのに、絵島はどこまでも規則を守りつづけて毛すじほどの愉しみも息抜きをも、おのれに許そうとしない。花鳥を描いた二枚引戸の物入れ、引き出し一つない質素な小机……。その前に座布団を一枚敷き、これだけは許されて江戸から持参した祖師の名号《みようごう》、厨子《ずし》入りの小さな不動尊像に向かって終日、低く法華経を読誦《どくじゆ》するほか、あとはじっと頭《こうべ》を垂れているだけの毎日だった。
やむなく百合は雨戸や障子に目貼りをし、すきま風の侵入を防ごうとした。絵島の居間を鉤形《かぎなり》に囲っている廊下は、細い女の腕がかろうじて出るくらいの間隔で牢屋格子がめぐらされてい、外は高い塀だから障子を立て切ると室内は暗くなる。燭台をふやし、火桶の炭火を切らさぬように気をくばるほか、百合は終日風呂を沸かして、できるだけ絵島を入浴させようと腐心した。湯ざめは怖いが、湯に浸れば身体は芯からあたたまって、しばらくのあいだ寒さを忘れることができる。
辞めていった女中の満紀が、
「水甕に菰《こも》でも巻かないとカチカチに凍るわよ」
と言っていたにたがわず、非持村の風の冷たさは肌を噛み裂かれるかと思うほどで、雪が降れば一ッ時《とき》のまに地上は氷の盤に変じた。
「うう、たまらない。炉端のほかはどこも寒いけど、このお部屋はとりわけ氷室《ひむろ》みたいですね」
わざと首を竦《すく》めながら百合は自分用の掻巻《かいまき》を押し入れから引きずり出し、どてらさながら背にかぶって絵島のそばへ行く。
「お肩を揉みましょう」
と、その背後に取りつくのは、せめてうしろからの冷気を身体ごと遮断しようとの苦肉の策だった。
さすがの絵島も、百合のそこまでの配慮を無にするにしのびないのだろう、黙って肩に取りつかせながら、
「すまないねえ。そなたにばかり苦労させて……」
あかぎれだらけになりはじめた百合の手を握りしめる。ぽたぽたとその手に涙が落ちると、百合もたまらなくなって、
「旦那さまッ」
すっかり薄くなった絵島の背に、しがみついて泣きじゃくった。
「平田さまご父子はご無事だろうか。交竹院先生も慣れぬ島ぐらしを、どう凌《しの》いでおいでだろう。わたし一人、百合にかしずかれて……もったいない」
口癖のように歎くのを、
「ご心配いりません。平田彦四郎さまには信藤さまとおっしゃる忠実な若党がお供して行きましたし、交竹院伯父のいる御蔵島へは香椎半三郎という門弟が、千之介ともども渡航する計画なんですよ」
百合は打ちあけた。
「それにしても、うまく島に渡れたかどうか、もうそろそろ連絡が来てよいころなのに、どうしたのかなあ。わたし毎日、首を長くして待っているんです」
その便りは、冬が去って、余寒はまだまだ続きそうだが暦の上だけでも春を迎えた正徳五年の正月、ようやく届いた。伊那の中嶋篠斎宅から雪沓《ゆきぐつ》を履いた学僕が、わざわざ囲み屋敷まで持って来てくれたのである。
状箱の紐を解くまももどかしく百合はそれを掴んで絵島の部屋へ駆けこんだ。
「きましたよ、弟たちからの書状が……」
上包みの裏に記された名は連名だが、中の文字は半三郎の筆蹟だった。見ただけで百合は頬がほてった。封じ目をはがそうとするのに、気がせいてうまくいかない。そんなあわてぶりを絵島に見られるのが照れくさく、百合は乱暴に蝋封《ろうふう》を引き破った。
七
男だけに、手紙の文面は溌溂としていた。香椎半三郎が筆をとり、脇から千之介があれこれ口をはさみながら両名合作の形で書き上げたものらしい。
どういう手だてで便船に乗れたのか、そのへんの詳述ははぶかれているが、いったん三宅島へ渡り、島同士をつなぐ小舟に乗りかえて彼らは目的地の御蔵島へ上陸したようだ。
「二人とも干物《ひもの》問屋の下働きに身をやつして行きました。三宅島では風待ちするあいだに生島新五郎に会い、同じ島に流された栂屋《つがや》善六の様子なども聞くことができたわけです。小伝馬町の牢獄に入れられていたころから新五郎は病み、治りきらぬうちに島送りとなったせいかひどく弱っていました。栂屋はそんな新五郎を見捨てて、さっさと別の場所に住みつき、しかも持参した金をさかんに袖の下に使って島役人の歓心を買っているそうです。抜け目のない、生活力旺盛なやつにはかないませんな」
そんな文面を読むにつけても、和事師《わごとし》として鳴らした新五郎の、水のたれそうな舞台姿が目に泛かんでくる。芸に打ち込むほか世間を知らなかった役者が、苛烈な取り調べに締めあげられ入牢で痛めつけられ、あげく刑地での流人ぐらしに泣かされているのかと思うと哀れだ。
「しかし妻女をはじめ家族や芝居町関係者らの仕送りは、伝手《つて》を頼ってしばしばもたらされてくるとかで、かろうじてそれらの励ましが新五郎を支えているようでした」
そう若者たちは書いても来ていた。
――御蔵島へ渡った彼らは、まず何よりも奥山交竹院の息災なのを見て胸をなでおろした。生島新五郎の衰弱ぶりをまのあたりにしたあとだけに、その老体を案じたのだが、環境の激変にもめげず、さっそく交竹院は持参の薬種を使って島民たちの怪我や病気を診てやっていたという。
「もともとの痩躯《そうく》がさらに細くなり、白髪もふえてはいたけれども、肌など潮風に灼《や》けて前より精悍になられた感じです。われわれの渡島に驚愕し『むちゃをするな』と口ではこごとを言いながらも大よろこびされました。百合さんの高遠行きに話題が及ぶと、『さすがはわしの姪じゃ。やりおるわ』とこれにも大満足の態《てい》でしたが、実際に接してみてわれわれが暗澹としたのは、島ぐらしの悲惨さです。御蔵島はね、伊豆七島の中でももっとも貧しい島で、流人も島人《しまびと》もさして差のないみじめな明けくれを送っているのですよ」
方一里にみたぬ小島だし、ぐるりは切り立った断崖である。耕地はほとんどなく、島の西北にわずかに村落を形成して人が住んでいるにすぎない。舟入りも一ヵ所だけ可能だが、水夫が目じるしにするのは中央にそそりたつ御山と呼ばれる火山だった。
漁《すなどり》のほか、島でとれる産物は山の斜面を覆う黄楊《つげ》で、これは印材や櫛の材料としてどこよりも上質と折り紙つけられている。
「島民の数は百名――。それ以上はふえません。なぜだかわかりますか百合さん、母親の胎内にいるうちに、あるいは生まれても水子《みずこ》のうちに、臼《うす》転がしというやり方で間引いてしまうからです。それというのも、昔から伊豆七島には『御蔵島、百人越えたら油断すな』という言い伝えがありました。百人までなら米麦を送るけれども、一名たりとも人口が増えたら超過分の主食は支給しないという意味で、御蔵島を代々管理してきた三宅島の島役人の、これは令達なのです。行政の管轄権が三宅島の地方《じかた》役所にあること、つまり三宅島の支配下に属することが、永いあいだ御蔵島の住民を生活苦に喘《あえ》がせてきた最大の禍因でした」
役人どもの横暴は目に余った。まるで隷属民にでも対するように威張りちらし、貢租の名で絞り放題に、島の人々の零細な収入を召し上げた。
「なんとかして三宅島役所の桎梏《しつこく》から逃れたい、独立したいというのが島民すべての悲願です。公儀への陳情もしばしばくり返してきたが、そのつど地方役人らに邪魔されて不成功に終っているとか……。交竹院先生はたいそうそれを不憫《ふびん》がり、『なあ千之介、半三郎、よい智恵はないか』とわれわれにまで議《はか》られる打ち込みようなので、島民たちから絶大な信頼と尊敬を受け、いまや何によらず相談ごとを持ちこまれて、その聞き役となっておられるありさまです」
村内には稲根《いなね》の明神と俗称されている社がある。伊太祇和気命《いたぎわけのみこと》をご神体に祀る古社で、平安朝初頭の嘉祥三年に、はやくも式内社《しきないしや》の社格を授かったという由緒《ゆいしよ》を持っている。
伊豆一ノ宮の三島神社の末社に当り、そもそも『御蔵島』なる島名も、三島の大神《おおがみ》が神宝を収めておかれる宝蔵《たからぐら》の意味から附けられたものなのだそうだ。
「この社の神主に、加藤|蔵人《くらんど》という地役人を兼務する熱血漢がいましてね、交竹院先生とたちまち肝胆相照らす仲になりました。島民思いの、これもじつにたのもしい男ですが、そこへ若造のわれわれまでが加わって策を練った結果、公儀奥医師の桂川|甫筑《ほちく》法印どのに実情を訴えてみようということになったのです。『桂川どのとわしとは日ごろ懇意にしておった。このたびの流罪についてもいたく同情してくれている御仁《ごじん》ゆえ、要路への口ききぐらいかならずいやとは言うまい』との、交竹院先生の保証に賭けたわけで、『鬼神も哭《な》かしむるほどの訴状を綴《つづ》ってみせる。わしはこう見えてもなかなかの文章家じゃでな』と先生は大張り切り……。このところ日夜、筆をにぎってウンウン唸っています。名文ができあがり、船の便があり次第わたくしが携帯し、こっそり江戸表へ舞いもどって桂川邸に届けに行く段取りだけど、百合さんもどうか可哀そうな島民たちのために、訴訟の成功を祈ってやってください」
熱気が伝わってくるような、こんな書状を読まされると、
「よかった。ほんとによかった。伯父さまには流人の悲境を忘れさせられるほど夢中になれる目当てができて……」
と、百合までが鼓舞された。
「でも、それにつけても交竹院先生ほどのお人を、月光院さまのお側から引き離してしまった今度の事件が悔《く》やまれる。お身弱《みよわ》な家継将軍にとって、先生は無くてはならぬ大切な主治医だったのに……」
絵島の、この不安は、百合にも共通していたが、
「大丈夫ですよ。幼将軍こそは月光院さまのお心の拠りどころです。もう今となっては、ただ一つの生き甲斐ですもの、むざむざお命を失うようなことはさせますまい。たしかに交竹院伯父をはじめ、ご誕生このかた手塩にかけて家継将軍をご養育申しあげてきた旦那さまや宮路さま、梅山さまら、お側づかえのお局がたに去られたのは痛手でしょうが、残りの女中たちがみな、死にもの狂いで、ご健康の保持には気を配っているはずです。間部さまや新井白石先生もお附きしていることだし、心配は無用とぞんじますけどね」
強《し》いてのように慰めて言った。
ただし、藤枝の例もある。天英院派が腹心の手先をこっそり味方めかして、幼将軍の身辺に送り込んでいないともかぎらない。まさか置毒《ちどく》などという悪辣な手段に訴えることはあるまいけれども、絵島らをおとしいれた奸智からすれば、家継将軍の口にはいる物は食膳であれ、湯茶や菓子であれ、厳重な注意が必要だった。しかし、そういうこまかい点に気くばりの行き届く絵島や宮路など、有能な女中たちはすべて一掃されてしまっている。主治医の交竹院までを離島に逐《お》いやってのけた周到さから推しはかると、天英院派が次に狙う目標は、
「幼将軍のお命ではあるまいか」
との推測も成り立つ。百合は背すじが寒くなったが、
(まさか……まさかそこまでは……)
不吉な想像を懸命に打ち消した。
「そうね、将軍家さえつつがなくご成長くだされば、月光院さまのお立場はかろうじてでも安泰なはずです。新井さまや間部さまも、おそらくこれまで以上な努力で、補佐の任に当っておられるでしょうからね」
うなずきはしたものの絵島の表情は暗かった。
山河寂光
一
いきなり海中に抛《ほう》り出され、巨浪に翻弄されつづけたような数ヵ月間……。それがようやく終り、山里での謫所《たくしよ》ぐらしにもどうにか馴れて、心に静かさがもどってくるにつれて、絵島には事件の背景が隅々まではっきり見えてきたようだ。番士らの耳を憚《はばか》って、彼らが野良仕事に出ていたり炉部屋に集まって雑談などしているとき、小声で語ってくれた内容は、さすがに百合あたりの想像力を超えて、幕閣の暗流の深部にまで及ぶものだった。
容疑者千五百名をかぞえる空前の大疑獄の、火附け役を、これまで、
「天英院とその一派」
としか、百合や千之介、半三郎たちは見ていなかった。亡夫家宣将軍の生前の愛を、ほとんど独り占めしていた月光院お喜代ノ方への、天英院近衛|煕子《ひろこ》の嫉妬……。みずからも二人まで子を生みながら、惜しくも夭折させてしまった無念を、月光院所生の家継に射向け、
「かならず、いつかは……」
と、京女らしい辛抱づよさで母子の足許に陥穽《かんせい》を掘りつづけて、その勢力を失墜させるべく機会を窺《うかが》っていた天英院に、まんまとしてやられたのが今度の事件の真相だとばかり単純に考えていたのだが、
「それだけのことではありませんよ百合」
絵島はかぶりを振る……。
「もっと奥深いところに、幾つもの根が絡《から》まり合っているのです。大奥にいたころから、わたしも確執のあることは知っていました。でも、それらをばらばらにしか見ていなかった。遅まきながら今になってはじめて、対立、抗争のすべてが一つ根っこで通じ合っていたのだと判ったのです」
いったい、では、一般の耳目《じもく》には触れにくい柳営内部での、暗闘とは何か?
その一つは、閣僚同士の反目だと、絵島は指摘した。
「百合も知っての通り、本来、成人と同時に譲られる約束の六代将軍位を、家宣公は叔父の綱吉将軍に邪魔されて、なかなか手にすることができませんでした。『亡き兄に代って一時お預かりしたにすぎぬ政権である。忘れ形見の甥が大人になったあかつきは、すぐさま渡す存念だ』などと、はじめのうちはきれいごとを並べておられたのに、いざ顕位についてみると我が子徳松どのに、ぜひとも六代目を譲ってやりたくなった。妖僧どもの妄言に迷わされ、犬公方の譏《そし》りをものともせずに生類憐み令なる悪法を公布したのも、徳松どのに死なれたあと、何としてでもいま一度世継ぎの男児に恵まれたいと熱望なさったからです。そのあいだ、二十代、三十代の働きざかりを、むなしく家宣公は空費させられた。じっと、冷やめし食いの境遇に耐えてこられたわけですが、おかげで世情に通じることもできました。お忍びで江戸市中を徘徊し、若き日の月光院さまとめぐり会って恋をみのらせたのもこの時期です」
町の寺子屋師匠にすぎなかった新井白石、能役者の弟子の間部詮房《まなべあきふさ》――。二人が秘めている能力の非凡さに着眼し、四十八歳に至ってやっと将軍位につけたとき、一ッ気にこれを登用して家宣が左右の腕とすることができたのも、見ようによっては、下積み時代が長かったおかげと言えるだろう。
都塵に埋もれていた彼らは珠玉であった。家宣将軍の知遇に応《こた》え、革新政治の理念を高くかかげて彼らが踏み出した第一歩は、当然のことながら前将軍綱吉の秕政《ひせい》の、全面的な否定からはじまった。
そしてそれは、たしかに一応は『正徳の治』と讃えられるだけの成果を収めはしたけれども、一方に幕臣たちの反撥《はんぱつ》を助長させもしてきている。
新井や間部は、いうなれば在野の新人である。徳川家の柱石として、三河以来の家柄を誇る保守派の閣僚たちから見れば、どこの馬の骨ともわからぬ寺子屋師匠あがり、能役者あがりに幕政を切って回されている現状など、愉快なはずはない。
前将軍の在世中は、その睨みを恐れて口を閉じていたが、在位四年にも満たずに家宣が薨《こう》じ、引きつづき家継が七代将軍位を継ぐと、彼らの憤懣《ふんまん》はじりじり表面化しはじめた。
白石や間部にすれば家宣将軍の遺託を奉じ、変らぬ忠誠を家継に捧げているつもりであろうけれど、閣僚たちの目には月光院の信任を笠に着て幼将軍の後見におさまり、政局をほしいままに左右しつづけていると映る。
老中筆頭の秋元但馬守|喬知《たかとも》は年かさでもあり、家宣の人格に心服してもいたから、大久保、土屋、阿部ら他の老中たちの敵視をなだめ、双方の間に立って緩衝地帯の役をはたしてくれていたが、秋元但馬守の死去によって対立感情は一挙に噴き出してしまった。いわば保革の激突である。
先代以来くすぶりつづけてきたこの、幕閣内部の不平不満も、今回の疑獄事件の引き金の一つに数えられる――そう絵島に絵解きされてはじめて、百合の眼識は大きく展《ひら》けた。
「このほかにも、まだ……」
「ありますよ。林家《りんけ》と白石先生の不和です」
と絵島は吐息まじりに語り継いだ。
代々、大学頭《だいがくのかみ》の地位を継承することでもわかるように、林家は官学の総帥をもって任じている。現在の当主は林信篤《はやしのぶあつ》といい、官立大学の最高峰たる昌平黌《しようへいこう》の学頭であった。
遠祖の林|羅山《らざん》が徳川家康に仕え、学問ばかりでなく、政治顧問として重用されだして以降、改元や法令の制定、公文書の起草、旧記の校訂といった文教政策全般にたずさわり、門弟数千――。その権威はいまや学界で並ぶものがないまでになっている。
幕臣の教育はもちろん、将軍家の侍講としても重きをなしていたのに、林家の誇りは信篤の代に至っていちじるしく傷つけられた。言うまでもなくそれは、家宣将軍が新井白石を抜擢登用したからである。
同じく朱子学ではあったが、白石が師と仰いだ木下順庵は、官学崇拝の時流からいえば正統派には属さぬ私学だった。
「家宣公がまだ甲府宰相綱豊の前名を名乗っておられた時分、甲府家の老職がたは儒臣を召しかかえようとして林家に推薦を依頼されたそうです。やはり官学を重視していたからでしょうけれど、このときニベもなく林家は申し出をことわりました。綱吉将軍に憎まれている綱豊ぎみ……。そんな人にかかわって、捲き添えの不興を買ってはたまらぬと判断したからですね。でも、もう綱豊ぎみは、このころ白石先生とひそかに町で出会っておられた。そして『林家が当家を袖にするならば、木門《ぼくもん》に新井白石という俊秀がいる。白石を招聘《しようへい》せよ』との鶴のひと声で、先生の甲府家お召し出しが決まったのでした」
しかし林家のとったこのときの、打算的な仕打ちを、綱豊は忘れなかった。
将軍位につき、家宣と名を改めて白石を重用しはじめると、林信篤の立場は必然的にみじめなものにならざるをえない。間部詮房は、
「玲瓏、玉の如き人物」
と評され、政敵ですら陰では褒めるほど円満な人格者だが、白石は『鬼』の仇名が示す通り信念の前には一歩も退かぬ直情の持ちぬしである。木下順庵の学殖に傾倒し、官学偏重の世相につね日ごろ批判を抱いていたから、地位を得るやいなや竜が雲に昇る勢いでことごとに林家と衝突しだした。
前代綱吉将軍の柩《ひつぎ》に納める石槨《せつかく》の銘文――。その草案の書式をめぐって烈しく林信篤と渡り合った一件は、いまなお幕閣での語り草だし、武家諸法度の新令を公示するさい、文案の選定でやはり両者は論争した。
このほか、こまかい意見の対立は枚挙にいとまない。そして、そのたびに信篤は苦杯を喫し、大学頭としての面目をまるつぶれにされた。たまりかねて提出した辞表さえ、白石の取りなしで撤回されるという恥辱に遇い、怒りを内攻させていたこれまでだったのである。
「でも、ご先代さまが亡くなると、老中たちに後押しされて林家は勢いをもり返したようね。服忌令《ぶつきりよう》を楯にとり、白石先生の厳重な抗議をわざと無視して、家宣将軍の喪中に日光東照宮への奉幣使派遣を強行したことがあったけど、これなどあきらかに、林家が攻勢に転じはじめた証拠でしょうね」
つまりいえば閨閥《けいばつ》の争いに、閣僚同士の保革の反目、官学と私学を代表する学閥の暗闘まで加わっていたわけだが、
「まだ、あるのよ百合、いま一つ考えられるのは、尾州家と紀州家の、八代将軍位をめぐる対立です」
と聞かされて、百合は言葉を失った。
「尾張さま紀州さまのせめぎ合いですか?」
「そうなの。いま思えば世人の目の届かぬ底の底に、先代以来のさまざまな私怨や欲望を、根深く潜《ひそ》ませていた事件だったのね」
気のつきようが遅かったと今さら絵島に喞《かこ》たれても、もはや百合ごときには返事のしようもなかった。
二
ご代参の帰りに芝居町へ寄り、城の門限に遅れたなどという表向きの処罰理由は、氷山の、ほんの一角にすぎない。水面下に隠されている広大な裾のひろがり……。それこそがこの疑獄事件の、真の正体だったのだと百合にもようやく合点がいった。
先代将軍家宣――。いや、先々代綱吉のころから、すでに播かれていた種なのである。たとえば絵島が挙げた「紀州、尾州の抗争」にしても、溯《さかのぼ》れば根元は、綱吉将軍の治政時代にまでゆきつく。
「何としてでも我が子に、次期の将軍位を渡したい」
と熱望し、男の独り子の徳松に死なれたあとも、生類憐み令にしがみついて実子の誕生を希求した綱吉の狂奔ぶりは、すでにさいさい百合も耳にしていたが、このとき綱吉将軍に肩持ちされ、娘婿の特権をふりかざして六代将軍位を狙ったのが紀州家である。
当事者の綱教《つなのり》が病歿したため、野心はあえなく漬《つい》えたけれども、そのあと、紀伊和歌山五十五万石の屋台骨は、弟の頼職《よりもと》が相続した。しかし、あっけなく同じ年の秋、兄のあとを追ってこれも病死――。現在はさらにその弟の、吉宗が家を継いでいる。
「綱吉将軍はご在世中から、吉宗さまを贔屓《ひいき》しておられました。このかたはね百合、母御の身分が賤《いや》しかったし、上に幾たりも兄上がおられたため十四、五になるまで家来の家で育てられたのよ」
絵島の話に興味をそそられて、
「お婢《はした》か何かだったのですか? 母上は……」
百合は膝を乗り出した。
「お湯殿の垢掻《あかか》き女だったらしいわね。月光院さまのお側にいた当時、わたしも人伝てに紀州さま尾州さまがたのお噂を耳にしたにすぎないけれど、新之助とおっしゃった前髪時分から吉宗公は大層な酒豪でね、身の丈も六尺を越す大男……。色のくろい、いかついお顔立ちで、お抱えの力士と角力をとってもめったに負けなかったそうですよ」
その偉丈夫ぶりが目にとまったのだろう、元服し、頼方《よりかた》と名を改めたあと、綱吉将軍のお声がかりで吉宗は大名に取り立てられ、越前|丹生《にう》三万石の支配を任された。一生涯、部屋住みを余儀なくされたかもしれない劣り腹の庶子《しよし》とすれば、小藩でも一国の領主になれたのは望外の仕合せだった。
「ところが好運はまだ、つづいたのよ百合、先にも言った通り兄さまがたが相ついで世を去ったため、吉宗どのは本国に呼び返され、紀州家の跡目を継いで、押しも押されもせぬ親藩《しんぱん》のご当主になられたのですものね」
以来、頼方の前名を改めて『吉宗』と称することになったのだが、吉の字は、綱吉将軍の諱《いみな》から一字、拝領したものであった。
一方――。
尾張家側の事情はどうだったかというと、これは当然のことながら家宣将軍に気に入られ、藩主の吉通は幕閣の政治顧問として、しばしば将軍家の諮問にもあずかった。年は若かったが藩政にも意を用いたなかなかの名君だったのである。
薨じるさい、だから臨終の枕辺に閣老たちを集め、
「まだ鍋松は小さい。わたしの死後、七代将軍の位は尾州の吉通卿に譲ろうと思う」
とまで、家宣は遺言した。しかし、この言葉は、老中の秋元但馬守や新井白石の、
「たとえご幼少とは申せ、ご世子がおわす以上、将軍位は鍋松ぎみにお渡しあそばし、尾張さまにはご後見役をお願いいたしてこそ至当とぞんじます」
との意見が通って、撤回された。
「ただし、わたしの体質を継いでか、鍋松は虚弱に生まれついている。万が一、早死するような事態が生じたら、そのときは躊躇なく、尾張家から吉通どのを迎えて、次の将軍位に据えるように……」
くれぐれも、そう念押しして家宣は亡くなったのに、その歿後、わずか七、八ヵ月しかたたぬ正徳三年初秋、吉通は二十五歳の若さで突如、急死してしまったのだ。
「そうでした」
思わず百合は叫んだ。
「わたくしもおぼえてますわ。大奥でもひそひそ取り沙汰されましたもの。奇妙な死に方だ、尾張侯はもしかしたら毒殺されたのではないかって……」
「饅頭《まんじゆう》を召しあがって食傷され、それがもとで亡くなったと公表はされたけれど、お苦しみようの激しさ、吐血のおびただしさから、毒を盛られたにちがいないとささやかれていましたね。吉通公のご生母の本寿院《ほんじゆいん》さまと一部老臣の仲たがいから端を発した騒動らしいのですよ」
母の肩持ちをしていた吉通は、老臣側にすれば邪魔な存在である。わが身の安全を保つためにも、抹殺しなければならぬ藩主だったのだろう。
そこで置毒《ちどく》がおこなわれ、吉通はあえなく落命して、嫡男の五郎太《ごろうた》が五代目藩主の地位につくのだが、三歳のこの幼藩主も、在位期間二ヵ月たらずで死んでしまう。父ばかりか子までが消された、と見てよい。
「恐ろしいことですね」
百合は慄えた。
「では今、尾張家は……」
「吉通公の弟の継友《つぐとも》さまが継いでおられます。だけど明敏だった兄上にくらべて、このかたはただただおとなしい一方の、はっきり言って凡庸な君主……。家継将軍のおん後見《うしろみ》としても、どれだけの力が出せるか心もとないお生まれ性《さが》なのよ」
大それた主殺しをやってのけた反本寿院派の老臣どもは、自分らの行為を正当化するため本寿院を悪女のごとく言いふらし、吉通までを、
「酒色に溺れ、母の言いなりに操られて、忠臣を迫害しようとした暗君だった」
と、さかんに貶《おとし》めているそうだ。
勝利者が、負けた側を『藩家の蠱害《こがい》』ときめつけるのは、お家騒動の常套《じようとう》だが、このごたごたで、幕閣内部での尾州家の勢力がにわかに後退し、代って紀州家が、再び浮上してきたのはたしかであった。
三
幼将軍の後見役というだけでも尾州吉通の発言権は強い。しかも七代家継にもしものことがあれば、八代将軍の座を受けつぐ約束までとりつけてあったのだから、紀州侯吉宗が吉通を羨《うらや》み、立場の逆転を狙ったとしてもふしぎはなかった。
この吉宗の野心を焚きつけ、家宣将軍の遺言を破棄に逐い込もうと画策する『黒い意志』が、本寿院との対立に目を奪われている尾州家の老臣たちの背後で、こっそり働いていた可能性は大いにありうる。
流人の境涯に落ちた絵島が、
「永遠流《えいおんる》ですら罪が軽い。わたしという女は、もっともっと罰せられてよい愚か者です」
と百合に向かって掻きくどき、痩せ細るばかり、我と我が身に禁欲を課して、苦行僧さながらな明けくれを送ろうとしているのも、こんどの事件がどれほど広汎な影響力を持ち、月光院と家継将軍の立場を、どれほど危くしたか、母子を支え、先代家宣の治政を継続させるべく寝食を忘れて努めている新井白石、間部詮房らに、どれほど深刻な打撃を与えたか、どんなにその活動をやりにくいものにしてしまったか、いまさらながら痛感した結果であった。
「つくづく自身に愛想が尽きます。天英院派の怨恨、林家の鬱屈、紀州家の野心、老中たちの憤懣……。敵対勢力に取り囲まれていながら、結束して彼らが捲き返しを計ろうとしている事実にわたしは気づかなかった。いえ、うすうす気づいてはいたけれど、その企みの周到さ、怕《こわ》さ、あくどさにまで思いが及ばなかったのです。迂闊《うかつ》でした。大年寄の地位にある者が恥かしい。芝居見物だの舟遊山だのと浮かれ歩いていたなんて……。どう責められても、弁明のしようがありません。詫びて済むことでもない。この身を八ツ裂きにしてやりたいとさえ思いますよ」
泣かれると、百合はつらい。
「旦那さまは陥れられたのですもの、政争の、おきのどくな犠牲者だと心ある者は見ているはずですわ」
「いいえ、隙《すき》があったればこそ標的にもされたのです。それも役者相手の乱行、商人からの附け届けの取り込みといった、あられもない罪名で処罰されるなど……面目ない。さぞ新井さま間部さまがたは苦々しく思われたことでしょうね」
「でも柳営内部に、たとえどのような角逐《かくちく》や陰謀が渦巻いているとしても、幼将軍さえご健在ならば月光院派がむざむざ敗退することはありますまい。たしかに意表を衝《つ》かれた今度の事件は、月光院さまおん母子にとっても白石先生がたにとっても、取り返しのつかぬ痛手でしたが、家継将軍がすくすく育ってくださりさえすれば、敵方が何を企んだところで手出しはできないわけです。まさか天英院派も、家継公の弑逆《しいぎやく》を実行に移すほど大胆不敵ではないとぞんじます。尾張侯の例もあることですし、月光院さまはじめ、用心の上にも用心あそばすでしょうからね」
一心不乱な励ましに、
「そうね、百合の言う通りね」
絵島は弱々しくうなずく。
「こうなったらあとはただ一つ、家継将軍がおすこやかに成長なさるよう祈るほかありません。いまのわたしにできる、それだけがせめてささやかな罪ほろぼしですね」
肉断ちの精進も、法華経の読誦《どくじゆ》も、したがって単なる日課の域を越えた真剣なものだったが、遅い山里の春がやっとたけなわになり、道路ぞいの草地にたんぽぽや菫《すみれ》が咲き出したある一日、思いがけない客の訪れがあった。
「百合の叔母」
という触れこみで、相ノ間の若江が囲み屋敷へやって来たのである。
一人ではなかった。四十がらみの、でっぷり肥えた町人|態《てい》の男と、従僕とみえる十四、五の少年が若江に同行していた。その背に担がれてきた酒樽と肴は、ぬかりなく番士らに贈呈され、
「や、時ならぬご馳走。盆と正月が一緒に来たようじゃ」
彼らを有頂天にさせた。
「さっそく、では頂戴いたそうかな」
と炉部屋に集まって、燗《かん》をするまも待てず湯呑みでのやりとりを始めたすきに、板戸の鍵をはずし、百合はこっそり若江を絵島の居間に忍びこませた。
「旦那さま、お窶《やつ》れあそばして……」
初対面で百合が受けたと同じ衝撃を、若江も思わず口にして、あとは声にならずにむせびあげた。絵島とは逆に、若江は色艶もよく、頬にまるまると肉がついて江戸にいたころより達者そうだった。
「足をくじいたとか……。もうすっかり良くおなりか?」
絵島に問われて、いそいで涙をふきながら、
「上諏訪のお城下から、こうして旅してこられたのでもおわかりとぞんじます。もはや痛くも何ともございません」
と若江は、諏訪湖畔のところどころに噴出する温泉の効用を話した。諏訪一帯は、地を掘りさえすれば湯の出る土地柄で、水中からですら温泉の湧く場所があるという。
「湯だけでなく、沼気と申しまして、匂いのする湯気を噴き出すところもございます。火を近づけると明るい焔となって燃えるので、この沼気を板囲いの内に溜めておき、樋《ひ》で家の中や台所に引いて、煮炊きの用、灯火の用に使う者も多いとか……」
上諏訪には千野湯、小和田湯、土湯など、また下諏訪には旦過湯《たんかゆ》、綿湯その他、有名な温泉が幾カ所となくあり、双方合わせると数十軒もの湯宿がひしめき並んでいる。自分も足首の捻挫を、湯治の効き目で癒すことができたと語ったあと、
「じつはわたくし、ひょんなことから人の女房になりました」
若江は顔を赧《あから》めて打ちあけた。
「亡くなった先夫の兄が、お城下の桑原町というところで機屋《はたや》をいとなんでおります。つれあいに先立たれた、これも男やもめ……。先夫の墓参りに来ながら、思わぬ怪我で床についてしまったわたしを親身に介抱してくれましたが、つい、その情けにほだされて、後添えの妻になってほしいとの申し出を受け入れてしまったのでございます」
「それはめでたい。わたしまでうれしいよ若江」
「おたがいさま、よい年をして、いまさら祝言でもないのですけど、まあ割れ鍋に閉《と》じ蓋《ぶた》と思って……」
「願ってもない良縁ではないか。して、その人の名は?」
「わたし知ってますわ。千石屋磯右衛門さんと言うんです」
口をはさんだのは百合だった。
「いま玄関式台で小僧さんと二人、茶を振舞われているあの人がそうでしょ? 若江さんはね旦那さま、鴛鴦《おしどり》よろしく夫婦そろってここへ来たのですよ」
「いやあね百合さん、道不案内なので、ついて来てくれただけなのに……」
はじらう若江に、微笑しながら、
「仲むつまじいのはよいことです。どうか末ながく添いとげておくれ」
心からな祝福を絵島は贈った。
「ありがとうございます。だれに祝われるよりも、旦那さまによろこんでいただけるのがわたしには冥加《みようが》……。杖突峠という難所はありますけど、諏訪と高遠は隣り町も同じです。これからは時おりお見舞いにあがらせていただきますよ」
「近くにそなたがいると思うだけで心強いが、見る通り百合は、帰れと言うのもきかずにとうとうこの里で冬を越してしまいました。花も実もこれからという若木を、いつまでも配所に縛りつけておくことはできません。どうか似合いの縁を見つけて、身を固めさせるようそなたも骨を折っておくれ」
このまにも炉部屋での酒の回し飲みが終りはせぬか、ひそひそ話が番士らの耳に入りはしないかと百合は気が気でなかった。
同様の懸念を絵島も抱いたのか、
「怪しまれるといけない。もうお帰り」
立ちがたい思いでいるらしい若江を、そっとうながした。
「またまいります旦那さま、くれぐれもお身体をおいといくださいまし」
去ってゆく若江に寄り添うように、千石屋磯右衛門と従僕の姿が、咲きさかる山桜の下をくぐって、やがて見えなくなるまで百合は門口に立ちつづけた。
着るもの食べものなど、置いていった土産の嵩《かさ》はおびただしく、どれも心のこもった品ばかりだった。見せられて、
「千石屋とやらも、親切な人のようだね。若江はきっと仕合せな月日に恵まれるにちがいない。百合の名で礼手紙を出しておいておくれ」
感謝はしたものの、相変らず絵島はそれらを口にせず、身に纏《まと》おうともしなかった。
春が逝《ゆ》き、非持村での初めての夏を迎えて、江戸から持参した菖蒲が咲くと、
「交竹院先生のお庭にあったあの、菖蒲なの? これが!?」
さすがに、心を動かされた様子で、濃紫《こむらさき》のその花弁に、くいいるように絵島は見入った。
「はるばる根分けして持って来たんです。中嶋篠斎先生のお宅にいったん移し、ここでは水甕の大きいのに植え替えたんですけど、丹精した甲斐がありましたわ」
絵島の目が濡れている。わざとそっぽを向いて、百合は元気よくしゃべった。切り花にして五つしか咲かなかった菖蒲だが、根ついてくれた感動に、じつは百合の涙腺もしきりに刺激されていたのであった。
四
壺に活けて、しばらくのあいだ絵島の目をたのしませた菖蒲の花……。それが散り、夏が終って、櫨《はぜ》やウルシ、楓《かえで》だのダケカンバの葉が黄に紅《くれない》に、山肌を燃え立たせる秋がまた、めぐってきた。奥山百合が非持村の囲み屋敷に奉公しはじめて、一年たったのである。
そのあいだ幾度となく、
「もう、よい。そなたの志《こころざし》はよく、わかった。ありがとうよ百合。でも父親の喜内どのを刑死させ、伯父の交竹院先生を島流しの憂き目に逐いやったこんどの事件の、わたしは元凶です。そなたには仇敵《あだがたき》も同然な女……。そんなわたしが、配所ぐらしの苦労の中にそなたまでを閉じこめつづけるなど、そら恐ろしい。どうか江戸へ帰っておくれ。そして若い人らしい仕合せを掴んでおくれ」
絵島はくり返したが、
「おっしゃるまでもありません。いやになったらこんな浮き世ばなれした山里に、一日だっているものですか。さっさとお暇《いとま》いたしますよ」
そのたびにはぐらかして百合は動こうとしなかった。
ごく、たまに、身もと引受人になってくれている伊那の中嶋篠斎宅へ出かけるのは、江戸の知りびとたちからの便りを受け取るのと、つねづね、
「達者でいるか? なんぞ身の回りの品で足りぬ物はないか?」
と心配してくれている夫妻に、無事な顔を見せたいためだった。
たとえ絵島がなんと言おうと、その身辺から離れる気など百合にはなかった。交竹院邸から庭の菖蒲をはるばる根分けして運んできたのも、咲き静まっていた花の群落の中で、淡い残照を斜めに受けて佇《た》つ絵島の姿に、息を呑んだ少女の日の記憶を、一生、大切に守りつづけてゆきたかったからである。
夕映えにきらめく大池の水――。
はじめて会ったとき、築山の亭に寄り添って腰をおろしながら、女らしい甘やかな体臭、化粧の匂いすら絵島の身体から嗅ぎとれないのを百合はふしぎに思った。美青年じみたさわやかな容姿が、眼下に拡がる濃紫の花の印象と重なって、
(まるで、菖蒲の精のようなおかた……)
子供ごころにも陶然となったのを、いまなお忘れることができない。
罪を得て、囚人生活にはいってからは、紅おしろい、髪油とすら絶縁したし、日のささぬ牢格子の中での日常は、絵島の肌を透きとおるほど青白いものにしてしまっていた。身にまとう香りはいよいよ感じられなくなって、厳しい懺悔《ざんげ》と祈りの明けくれは、その存在じたいを透明な、あるかなきかの影に似たものにしつつある。たまらなく、そんな絵島が百合はいとしい。初対面の日、熱く胸に響いた憧憬《しようけい》の思いは、おとろえるどころか、ますます百合の中で強まっている。
事件の背景の大きさ、原因の絡《から》まりの深さ複雑さを知れば知るほど、みずからつくづく述懐する通り絵島をはじめ、月光院側近の上級女中たちの現状認識は、
(甘かった)
と、今は百合にもうなずけてくる。
天英院近衛煕子を中心とする侍女集団の、京女らしい辛抱づよさ、隠忍自重ぶりにくらべて、考え方がはるかに浅い。政争というものの実態に対しても、優位に立つ者の驕《おご》りから上すべりな把握しかしていなかった憾《うら》みがある。
月光院はもとより、絵島を頂点とする上《かみ》役人のほとんどが江戸女だった点も、対照的といえる。ものごとにこだわらぬさっぱりした気風……。月光院の大奥の、それが特質ではあったけれど、
(幼将軍とその母公を頭上に戴くかぎり、我が世の春は永久不変……)
と油断して、企《たく》みに企んだ敵対勢力の一撃に、もろくも足を掬《すく》われてしまった軽率さはやはり非難されてよいものだろう。
気づきようが遅かったにせよ、しかし絵島は、充分すぎるほどいま、自身の至らなさを悔いている。多くの人々に、はかり知れない迷惑をかけ、悲惨な地獄を味わわせた責任……。それを痛感し、おのれを責めに責めつづけているのだ。
百合は忘れていない。はじめて出会った少女の昔、菖蒲の咲きさかる大池のほとりで、
「悔いて消えない罪なんて、この世にはありませんよ」
と絵島が励まし、慰めてくれたことを……。
「弟さんを、生まれもつかぬ身体にしてのけはしたけれど、あなたはそのことで苦しみ、悩んだ。まだ、こんなに幼いのに、自分で自分をぞんぶんに罰したのです。償《つぐな》いはすんだのよ百合さん、女の子らしく、これからはもっと明るく過ごさなければね」
同じ言葉を今、百合は絵島に返したい。法的にはもちろん、自身の良心からも、もはや十二分に罰せられた絵島ではないか。
(なぜこうまで手ひどく、みずからを鞭打ちつづけなければならないのか……)
百合には絵島の苦しみようが、痛ましくてならない。見捨てて去って行くなどという冷淡な仕打ちはこんりんざい出来なかった。
伸びざかりの活力だろうか。馴れれば非持村の風の烈しさ、闇の深さも平気になった。疎林の小道をくだって丘の裾まで出ると、三峰《みぶ》川の瀬音がにわかに高まる。水の色は翡翠《ひすい》を砕いたようだ。視線を西に放てば幾重にも打ちかさなる尾根のあいだに、小高くもりあがった森が見える。
「五郎山というてな、仁科五郎盛信《にしなのごろうもりのぶ》どののお墓所《はかしよ》じゃよ」
指さして教えてくれたのは番頭《ばんがしら》の小森甚五兵衛だ。
「武田信玄公のお名を、百合は聞いたことがあるか?」
「知ってます。甲斐の国の勇将でしょ?」
「城を持たぬのが、武田氏の信条であった。『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇《あだ》は敵なり』の詠歌通り、主従の和を最大の武器にして戦った武族じゃが、たった一つ、その武田氏が伊那の抑えとして築いたのが、高遠城よ」
「お城下にある、あのお城ですね?」
「さよう。ここへくる道すがら百合も目にしたであろう。三峰川の流れを天然の堀とし、切り立った崖を石垣として造られた難攻不落の堅城じゃよ。仁科五郎どのはこの武田方でも、大剛のほまれをほしいままにした武人じゃそうな……」
戦国乱世の、そんな昔ばなしが夢のようにさえ思えるほど、あたりの風景は鄙《ひな》びている。五郎山もみどり一色のはずなのに、杉か檜《ひのき》か、四季の移ろいにつれて梢の色が微妙に変化し、背を丸めて眠る獣《けもの》の愛らしさで百合の無聊を慰めてくれた。
江戸からの音信も、待たれるものの一つであった。中嶋篠斎の手を経てもたらされる便りの中で、だれよりも多いのはお小僧の俊也が書いて寄こすそれである。
あいかわらず、縄がよじれでもしているような悪筆なのは困りものだが、百合も近ごろはコツを会得《えとく》して、俊也の文字をさして悩まずに読めるようになった。
絵島ともども菖蒲の花を賞《め》でた日から、さらに一年ほど経過した正徳六年夏の初めに届いた一通など、とりわけ百合をよろこばせた。
「去年九月、秋の終りに将軍さまは、帝《みかど》の姫ぎみ八十宮《やそのみや》さまとご婚約あそばしました。宮さまは三歳、将軍さまも数え年やっと八ツの幼さですから、むろん約束だけのことでしょうけど、お結納《ゆいのう》の品々を捧げて、老中の阿部豊後守さまが京へおのぼりなされたとか……」
帝とは、先々代の霊元上皇をさしている。今上《きんじよう》中御門天皇のおん祖父だが、その姫宮と、形だけのことではあってもご縁談がととのったという知らせは、絵島にも百合にも、じつにひさびさの朗報だった。
霊元院には腹々に三十人を越す皇子皇女が生まれている。八十宮はおん名を吉子といい、生母は右衛門佐局《うえもんのすけのつぼね》と呼ばれる女官で、局の父は宮中に仕える上北面《じようほくめん》の侍であった。
家継将軍さえつつがなく成長してくれれば、たとえどのような悪意や策謀に囲まれていても、月光院母子の未来はかならず展《ひら》ける。月日は逆もどりしない。子供というものは雨後の若竹さながら、一年たてば一年分、まちがいなく身丈《みたけ》を伸ばしてゆくものだ。それを楽しみとし、唯一の生き甲斐ともして、ひたすら幼将軍の生命力の長久を念じているのは、絵島だけではない。月光院はもとより間部詮房、新井白石ら近臣たちはだれもが死もの狂いな心くばりで、その健康管理に力を尽しているにちがいないのである。
八歳の新春を待ちかねたように、天皇家との婚約を取り決めたのも、絵島疑獄によって大きく突き崩された月光院派の足場を、なんとかして補強し、将軍の権威の回復を計ろうとの、側近たちの焦りの現れにほかなるまい。
形式だけでも、妻と名のつく女性を持つことになった少年……。ここまで漕ぎつけたらあとは絵島も百合もが、ご婚儀の実現の、一日も早からんことを願うだけであった。
五
ところが、慶《よろこ》びのしらせを追いかけて、夏も終りに近い六月はじめ、同じく俊也からもたらされたのは、家継の病臥を報じた書状であった。
「ご病気ですって!?」
あわてて筆をとったのだろう、ふだんに増して判じにくい字づらへ、絵島と百合は目を凝らし、巻紙の両端を引っぱり合うようにしながら幾度も読み返したが、
「四月なかばごろから江戸市中にはしきりに将軍家ご重態の噂が流れています。真偽のほどは、しかとはわかりかねますけど、はっきりし次第またお知らせ申しましょう」
とある文面に、まちがいはなかった。
書きものを禁じられている絵島に代って、百合は大急ぎで詳細を問い合わせる手紙を、宮路宛に出した。
「ちょっと私用の買物に行かせてください」
そう小森番頭にことわって高遠の城下へ走り、江戸への飛脚便をたのんだのだ。
返事は半月ほどして、中嶋篠斎宅へ着いた。俊也の後便も一緒だったが、学僕が届けてくれた二通の書状は、二通ながら、家継将軍の薨去を報じたものだったのである。
「お亡くなりあそばした。上さまが……」
絵島は虚脱した。
月光院だけではない、母子を守《も》り立て、その政権の持続に心を砕いていた人々だれもの希望の星が、ついに消え失せてしまったのであった。
俄然、天英院派は攻勢に出はじめた。宮路の寄こした手紙によれば、幼将軍の具合が悪くなるととたんに、
「ご後見《こうけん》つかまつる」
と称して、紀州吉宗が大城の二ノ丸へ乗り込んで来たのだという。
宮路も現在は、親元に引きこもっている身分だが、かつて朋輩だった梅山や、かろうじて連坐をまぬかれて、いま月光院の部屋を支えている勝瀬、松坂、浦尾、花沢ら現職の年寄たちと連絡をとり合い、ひそかに文通をつづけているらしい。書肆《しよし》の娘にすぎなくなってしまった俊也にくらべると、同じく町住みながらさすがに情報は的確だし、くわしくもあった。
「絵島さまもご承知の通り、ご先代文昭院家宣公がご臨終のみぎりくれぐれも仰せ置かれたのは、『われ亡きあと、家継の後見《うしろみ》役には尾州吉通卿を据えよ。そして家継にもしものことがあったあかつきは、八代将軍の位は尾州侯に継がせよ』というご遺言でした。このお言葉は老中はじめ、新井どの間部どのら閣僚すべてが居並ぶおん枕辺で、はっきりお口になされたものです。老中筆頭の秋元|但馬守《たじまのかみ》さまが一同を代表し、違背なきむね、神明に誓ってお答え申し上げたあきらかな事実ではありませんか」
それにもかかわらず、
「家継将軍ご不例……」
とのささやきが交されはじめるやいなや、紀州吉宗が我がもの顔に登場して来た背景には、天英院近衛煕子の強力なあと押しがあったのである。
「御台さまは公言しておられるそうです。『臣僚たちに何とおっしゃったかは知らぬが、亡き夫《つま》はじつは中奥のご病床に妾《わらわ》をひそかに呼ばれ、月光院の所生ながら家継は予の跡目をつぐたった一人の男児。正室たるそなたが母代りとなって諸事、指図をしてくれるように……。また、生来病弱な家継に万一のことがあれば、八代目の大権は紀州吉宗どのに渡すようはからってくれと、涙ながらご遺言あそばした。息を引きとられたのはその直後である。つまりこのお言葉こそが、文昭院さまの嘘いつわりないお気持と見てよい。それゆえ仰せにまかせ、いま紀州侯吉宗卿に家継将軍の後見役を依頼したのだ』と……」
横車もはなはだしい。あきらかな捏造《ねつぞう》であり、理を非に枉《ま》げての妄言である。新井白石は怒り、
「当方には、文昭院さまご直筆のご遺言状がござる」
色をなして反論した。
「よしんばおっしゃるごとき仰せごとがあったにせよ、それはご病勢さし迫ってのおん譫言《うわごと》のたぐい……。耳にされたのも御台さまとお附きの女中衆のみでは、真実を証《あかし》することはできませぬ。まだ意識が明らかでおられたときに、閣僚列座の上で口にあそばしたお言葉、お手ずからご判までほどこされた遺言状――何びとといえども、この二つを否定はできぬはずでございます」
その通りなのだ。しかし肝腎の尾州吉通が毒殺まがいの変死をとげ、あとを継いだ弟の現藩主継友が弱気一方のお人よしとあっては、白石らも戦いづらい。
「白紙にもどして検討し直すべきだ」
と天英院側に押し返されれば、白石の気性をもってしても頑張り通すことはむずかしいのである。
しかもこんなとき、証人となるはずの老中どもが、こぞって反白石・反間部の旗じるしのもとに結束していた。まだしもいくらかは考え方が柔軟だった秋元但馬守|喬知《たかとも》が、絵島事件のごたごた直後、六十六歳を一期に逝去してしまったのも、白石らの抵抗をやりにくくした。公正な取りなし手が欠落し、
「成りあがり者に幕政を切って回されてたまるか」
との一念に凝り固まっている大久保加賀守|忠増《ただます》、土屋相模守政直、阿部豊後守|正喬《まさたか》ら、保守派の閣僚が全員、敵に回ったのだから勝ち目はなかった。
譜代の臣下である自分らを疎外し、どこの馬の骨ともわからぬ白石や間部を登用して、革新政治を断行しかけた先代家宣への積年の鬱憤を、遺言の正当性を証明しなければならぬ大事なときに、彼らは一挙にはらしたのだと言ってよい。
「それでも家継将軍のご病状が持ち直せばよかったのです。一っときの危機で済んだはずなのに、母ぎみの必死の看護もむなしく、上さまは浄土に旅立たれてしまいました。せっかくの八十宮さまとのご婚約も画餅に帰したわけでございます。息をお引とりあそばしたのは四月|晦日《つごもり》、小さな柩《ひつぎ》が城を出られたのが五月七日――。父将軍家の眠る増上寺に埋葬されました。朝廷からは二十五日に、贈正一位、太政大臣のご沙汰があったとやら……。ご法名は有章院殿と申しあげるよしでございます」
ただちに紀州吉宗は大権を掌握――。天英院ならびに保守派閣老の全面的な協力をうしろ楯にして、八代将軍の位を継いだ。
「抗《あらが》いようのない時の流れ……。あの事件によって大きく力の後退を強いられたばかりか、家継公までを失ってしまった以上、これも致し方ないことかもしれませぬ。ただ、松坂どの花沢どのら、月光院さま附きのお局がたから洩れ聞いて、たまらなくわたくしが腹を立てたのは、新将軍吉宗どのの仕打ちのつれなさでございます」
とも、宮路は手紙の中で訴えてきていた。
「将軍位につくといなや、まだ家継公の亡骸《なきがら》が城内に安置されているうちに、まず、まっ先に吉宗さまがなさったのは間部どの新井どの、また亡き秋元但馬守さまと心をあわせて、ご老職の一員ながら陰になり日向《ひなた》になり新井どのらの政局刷新に力を貸してきた本多|中務《なかつかさ》大輔《だゆう》忠良《ただよし》どのなど、ご先代に信任されていた良臣たちを、この際とばかりしりぞけたこと、代りに、勘定奉行の職にあったころ民事への依怙《えこ》の裁きを咎《とが》められて、先代のご治政《ちせい》中、逼塞《ひつそく》を余儀なくさせられていた伊勢|貞勅《さだとき》どのらの罪を許し、いっせいに復職させたことなど、つら当てがましい人事の手直しです」
さらに、手塩にかけてお育てした君臣間の情誼からいっても、当然、家継将軍の石槨の銘文は新井白石が書くべきところなのに、吉宗はそれすら妨げた。そして、わざとのように、かねがね白石とは対立関係にある林大学頭に命じて草案を作成させたばかりか、柩を運ぶ輿にまで口を出し、
「ぜいたくだ」
との理由で、でき上っていた装飾のすべてを取りはずさせてしまったという。
「八歳のいとけなさで永眠されたいとし子ですもの、月光院さまはお輿の四方を囲む垂簾《すいれん》を金銀や珠玉でせめて美しく飾られました。真珠も|琅※《ろうかん》も、母ぎみの涙のしたたりなのに、引きもぎって捨てさせるとは……。なんという冷酷ななされ方でしょう。寂しいお輿が城を出てゆくのを見送って、女中衆はみな口惜《くや》し涙にむせんだそうでございます」
この、宮路からの書状をにぎりしめて、百合もまた声を放って泣いた。番士らの思惑《おもわく》など、もはや意に介さなかった。
吉宗の言動の裏に見え隠れするのは、天英院の嗾《そそのか》しである。勝利の美酒を呷《あお》りながらなお、それでも慊《あきた》らず、死んだ少年とその母に鞭を振りおろすむごさ、意地の悪さ……。泣くまいとくいしばる歯の間から声が洩れて、百合をいっそう無念がらせた。
六
感情の起伏を失ったのだろうか、それからの絵島は、虚《うつろ》な視線を宙に据えて、塑像《そぞう》さながら牢座敷の暗がりに坐りつづける日が多くなった。眸《ひとみ》の奥に燃える燐火に似た青い焔……。小さな怨念の凝《こご》りだけが、わずかに生きている証《あかし》にすぎない。表情は乏しくなり、ただでさえ少かった口かずが極端にへった。
目に見えて食も細り、恐ろしいほど痩せてきたのに狼狽《ろうばい》して、
(くよくよしてもはじまらない。せめてわたしだけでも、しっかりしなくては……)
百合は気力を奮い起こした。
江戸のだれかれから、その後、送られてくる書状は、しかし気の滅入る内容のものばかりであった。
家継将軍が他界して二ヵ月のちに、改元がおこなわれ、正徳六年は享保元年に変ったが、大城内の本丸に移った紀州吉宗に正式に将軍宣下の沙汰があったのは、八月に入ってからである。
新井白石は退隠し、ふたたび市井《しせい》の一学究にもどった。もっぱら今は、著述と読書にあけくれる日常だそうだし、間部詮房も台閣から遠ざけられて雁《かり》ノ間《ま》詰めに貶《おと》され、禄高こそ変らないが、これまでの高崎城主から、越後の村上に左遷されてしまった。失脚させられる前に、いちはやく詮房の側が辞表を提出……。受理されたのだともいう。
いずれにせよ、連坐者千五百名にも及ぶ一大疑獄――絵島事件を引き金にして、水面下にくりひろげられた政界、学界、閨閥の暗闘は、八代将軍位の継承問題までをふくめて、一応ここに終止符を打ったのである。
吉宗が君臨しはじめた以上、公儀の諸記録がその意に添って書かれるのもやむをえない。『徳川御実紀』の記載の中に、絵島らの容疑が摘発されたさいの、月光院の言葉として、
「自分への遠慮は無用。女中たちの処断はきびしく取りおこなってほしい」
とあるのも、また、
「月光院も間部詮房もが、紀伊家から吉宗侯を迎えるべきだとする天英院さまのご意見に、はじめから賛同していた」
とあるのも、すべて為にする曲筆といえる。裁判を、死刑、流罪、追放など頑是ない小児までをふくむ大量処罰によって結審した政府だ。絵島たちを「悪」として位置づけなければ、公的な記録のつじつまは合わない道理であった。
天英院の父の近衛|基煕《もとひろ》の場合は、しかし日記の中で、露骨な味方|身《み》贔屓《びいき》の感情、勝利の凱歌を、もっと赤裸々に謳いあげていた。
「公方《くぼう》、慈悲あまねし。諸人武士、数をつくして歓喜す」
と将軍吉宗の徳をたたえ、
「並びに天英院、陰徳日々に増長し、諸人これを感歎す」
と、娘の煕子までを褒めちぎっている。すべて江戸での評判を京にいて伝聞した形になっているわけだが、敵への攻撃は、
「月光院こと、奢《おご》りの仔細言語に絶す。諸人の悪口、耳目に余りあり」
と容赦がない。
私的な家の記ではあっても、摂関家の書きとめは公文書の性格を持ち、後世、史料として価値を発揮する。じゅうぶん、それを計算に入れての記述でもあるのは論を俟《ま》たない。
思えば、三年の長期に及ぶ江戸滞在のあいだに、天英院の不満、家宣・家継父子の虚弱体質、月光院の威勢、紀州家の野心、閣老同士の反目、林家と白石の対立など大城内にくすぶる火種のさまざまを、一見、柔和そうにみえる目袋《めぶくろ》の奥からじっくり見きわめ、万端の布石をほどこした大策士こそ、元《もと》太閤の顕位にあったこの、したたかな老人かもしれないのだ。
帰洛後も、子息の家煕《いえひろ》相手に智恵を絞り、江戸の天英院派と緊密に連絡をとり合いながら、大疑獄をでっちあげて見事、政局の流れを好もしい方向に変えてのけた黒幕は近衛基煕だったとも言えるのである。
「老獪、陰険……」
白石あたりが、たとえば事の終った今になってようやくそこに思い至ったとしても、文字通りあとの祭りと言えよう。
それまでも、百合の苦心の調理に、ほんの申しわけ程度にしか箸をつけなかった絵島が、法華経の大精進に入って、まったく肉断ちの誓願を立てたのは、家継将軍永眠の悲報に接してからだった。
あまりといえば厳格にすぎる自己規制……。その生活態度のつつましさ、敬虔さに、内藤家の人々が君臣こぞって感じ入って、
「なんとかあのお預人《あずかりびと》の身柄を、いま少しましな場所に移してあげられぬものか」
凝議《ぎようぎ》の末、江戸表へ伺書《うかがいしよ》を出したのは享保四年の秋である。待遇改善と解されては許可がおりない恐れもあるので、
「絵島どの居所の儀、寒国の上、山方につき、冬に至り殊《こと》のほか寒く、壁なども崩れ、段々破損つかまつり候」
と、家屋の老朽を表立っての理由にあげ、なにぶん城下から一里余もへだたっているので食糧その他、日用雑具の運搬に手間どり、家来どもが難渋していると訴えて、さいわい移築の許しを得た。
内藤家は駿河守|清枚《きよかず》が亡くなり、大和守|頼郷《よりのり》の代に替っていたが、さっそく城下の、名からしてやさしい花畑というところに、同じ規模の囲み屋敷を建て、冬には引き移りを完了した。
百合もむろん供をしたけれど、非持村の火打平とは打ってかわって風当りの少い、ほっかりと暖かな平地《ひらち》である。うしろにゆるく山の斜面を負い、前には三峰川の流れを控えて、日溜まりには野梅の莟《つぼみ》もふくらみはじめている。家中《かちゆう》ぜんたいの心の温《ぬく》みが、身に沁《し》み通って感じられるような土地柄なのがうれしくて、
「よかった」
絵島のために、しんそこ百合は内藤家の処置に感謝した。
三十四歳で高遠へ流されて、満五年……。絵島は三十九歳になっている。十七だった百合も、すでに二十二歳だが、思いがけず香椎半三郎の訪問を受けたのは、花畑でのあけくれにようやく馴染《なじ》んだころだった。
中嶋篠斎につれられ「遠縁の者」との触れこみで囲み屋敷の、見あげるような板塀の内側へつかつか廻り込んできた半三郎をひと目、見るなり、
「夢じゃないの!?」
その旅装の胸へ、百合はとびついた。われながら意識のほかの動作である。
「半三郎さん、どうしてあなた、こんな遠くまで……」
「来る気さえあれば、足があるかぎりどこにだって来るさ。高遠はまして、江戸から地つづきの信濃じゃないか」
潮灼《しおや》けだろうか、まっ黒な顔の中で、笑うと歯ばかりがやけに白い。畑《はた》打ち、漁《すなど》り、島民相手の診療など島ぐらしの労働にも鍛えられて、胸の厚みにしろ肩幅にしろ、見ちがえるほどたくましくなっている半三郎だ。
炉部屋に招じ入れられて、小森|番頭《ばんがしら》から篠斎が茶を振舞われているあいだに、二人は裏の背戸へ出て、切り株に並んで腰をおろした。遠目《とおめ》での一瞥《いちべつ》をニヤリと投げはしても、近づいて邪魔をする無粋な番士はいない。
(好き合っている仲だな)
と察してくれたのだろう。
半三郎がわざわざ訪ねて来たのには、だが、悲しいわけがあった。享保四年八月二十二日、奥山交竹院が病歿したのである。
「卒中《そつちゆう》だと思う。突然、倒れてね、昏睡から醒めぬまま息を引きとられた。孫七爺やや千ちゃん、わたしだの稲根明神社の神主の加藤|蔵人《くらんど》どのだの、島の者までが大勢見守る中での大往生だったけど、病気の遠因はやはり家継将軍の薨去だよ」
お身体癖《からだぐせ》をよくよく呑みこんでいる主治医のわしが、あのままずっとおそばに附き添っていたら、十中の十、防げた不幸ではなかったか……訃報を耳にして以来、そう言いくらしては残念がっていた交竹院だったと、半三郎は語った。
「それから百合さん、いつか手紙で知らせた御蔵島の独立ね」
「ええ、どうなりました? あれから……」
「これも最後まで、先生の気がかりだったにちがいないが、島を引き払っていったん江戸へもどったとき、例の桂川法印どのの私邸に出向いて、わたしは確かめてみたんだ」
「そしたら?」
「うまくゆきそうだって……。『期待してもらっていて大丈夫だ、亡き交竹院どのの追福のためにも、向後ひきつづき、自分も尽力を惜しまぬつもりでいる』と法印は請け合ってくれたよ」
千之介は元気だし、孫七爺やも口は達者で、二人ながら高遠まで同行すると言い張った。
「でも千ちゃんの足で旅は無理だし、爺さんも腰がすっかり曲っちまったのでね、長い間、忠実に仕えてくれた労をねぎらって、娘夫婦の家に引き取ってもらった。千ちゃんはね、桂川先生宅へ寄宿して、内弟子になったよ。伯父さんの遺志を継いで、将来、医師になるつもりだと言っている」
「あなたはどうなの半三郎さん、これからの身の振り方を、どうつけるおつもり?」
微笑を含んだ相手の目を、百合は真剣なまなざしで、まっすぐみつめた。
「江戸へ帰るほかあるまいけれど、ここはよいところだねえ。百合さんさえわたしを邪魔にしなければ、高遠に住みつきたいなあ」
「本気なの!?」
百合の目が大きくみひらかれた。星を宿しでもしたように眸《ひとみ》が輝いた。
「じつは中嶋先生とも相談して、囲み屋敷へくる前に松崎娥山先生を訪ねたんだ。百合さんの身もと引受人になってくださっているあの、碩学《せきがく》だが、お二人ともが『城下で医家を開業しろ』というご意見なんだ。高遠では今、本道にしろ外科にしろ、町医師がひどく払底しているんだってね。わたしは若造だし、まだまだ修業途上だが、交竹院先生にしごかれながら五年間、御蔵島で実地に島民の治療にたずさわった実績はあるんだ。両先生はその辺を買ってくれているらしく、『手ごろな空家を見つけてやるから世帯を持て』とおっしゃるんだよ」
「世帯!?」
「女房が囲み屋敷に奉公して、ときどき顔を見せに帰ってくるなんてのも乙だろう? 煮炊き洗濯なんか、島で鍛えたからこの亭主、お手のものだしね」
「ひどいわひどいわ。早手廻しに自分だけでずんずん事を決めてしまうなんて……」
口ではおこりながら、身をよじって百合は笑った。その肩へ、そっと手を置いて、
「承知してくれるかい?」
あべこべに、こんどは半三郎がまじめな表情になった。
「通い女房でよければね。わたしの旦那さまは絵島さまよ。あのかたがご存命なかぎり、あなたはご飯ぐらい自分で炊いて食べてちょうだい」
「結構結構。そうでなくては嘘だよ。では我が妻ときまったところで、これを見せるか」
肩荷をほどいて半三郎が取り出したのは、役者の舞台姿を刷った錦絵であった。
「あらァ、なつかしい。二代目団十郎ね」
「嫉《や》けるなあ。とたんに目の色が変るんだもの……」
「どうしたの? これ……」
「わたしが高遠へ行くことを、どうやって嗅ぎつけたのか、団十郎のやつ、男衆にこの絵を持たせて来てね、『百合さんとかおっしゃった可愛らしいあのお腰元に、ぜひ差し上げてください』というんだ」
「黒羽二重の衣裳に紫ちりめんの鉢巻……。何を演じたときの扮装かしら?」
「わたしは島ぐらし、百合さんは高遠にいて知らなかったが、享保元年の二月、中村座の春興行に『式例和曾我《しきれいやわらぎそが》』という芝居が出たんだそうだ。団十郎が扮したのは花川戸の助六――。初演のさい好評をはくした『花屋形愛護桜《はなやかたあいごのさくら》』という狂言から、鞘当《さやあ》ての部分だけをぬき出して曾我ものの中に嵌めこんだ芝居らしいけど、よく見るとほら、印籠《いんろう》にも着物にも、帯の織り柄にまで杏葉牡丹《ぎよようぼたん》が使ってあるだろう?」
「近衛家の紋どころね」
「百合さんに贈られたあの小箱のおかげで、絵島事件のときはぎゅうぎゅう奉行所に油を絞られたが、『わたしも意地っ張りだから、ほとぼりがさめるとすぐさま、三升《みます》のほかに杏葉牡丹を替紋《かえもん》として使いはじめました。贔屓してくださった百合さんのお気持を、子々孫々まで伝えたいからです』というお安くない口上附きさ」
「うれしいわ。でも、安心してねご亭主どの、もう一生、江戸芝居とは縁切りよ。この成田屋の絵姿だけを、小娘のころの思い出に大事にしまっておくことにします」
七
二人の結婚は、まもなく実現した。花畑の囲み屋敷から二丁とはなれていない町角に、小ぢんまりした借家を借りて半三郎は医院を開いたのである。
ささやかな婚礼には中嶋夫妻、松崎娥山のほか、諏訪から若江も駆けつけてくれたし、千之介や俊也、宮路、梅山ら昔なじみのだれかれが祝詞を贈ってきたが、いちばんよろこんだのは絵島であった。
「ほっとしました。胸の痞《つかえ》がようやくおりた思いですよ。わたしの世話はいいから、できるだけ多く半三郎どののそばにいてあげておくれ」
耳もかさずに百合は従前通りの勤めぶりをつづけ、夜も五日に一度、七日に一度ぐらいのわりで帰宅するだけだった。
もっとも目と鼻の近さだから、わずかな暇を見てはとんで行き、手ばやく食事の仕度、夫の身の回りの用を片づけてもどることはできる。
もう今では、番士らも見て見ぬふりが普通になっていたし、小森番頭などどうやら初めから百合と絵島の関係を、
(大奥以来の主従)
と、睨んでいたようだ。万事、呑みこみながら、知らぬ顔をしてくれていた心の広さに、百合はひそかに手を合わせている。
小森甚五兵衛らの寛容さは、つまり言えば内藤家上下すべての、絵島に寄せる同情の反映だが、享保七年五月、事件に連坐して追放に処せられた者ほとんどが罪を免ぜられたとの報に接して、
「あるいは絵島どののご赦免も、願えば許されるのでは?」
と藩侯はじめ、家臣らは望みを持った。
野木多宮《のぎおおみや》、三好清左衛門ら江戸詰めの重職たちと、在藩の国老のあいだに幾度となく書状が交され、
「ねがわくば尼になりたい」
との絵島本人の意向も打診されて、やがて公儀に歎願書が提出された。それを受理した月番老中・安藤|対馬守《つしまのかみ》の態度は、好意的であった。にもかかわらず、高遠藩にもたらされた老中連署の返答は、「不許可」のひと言だったのである。
もっとも、庵《いおり》を結んでの遁世《とんせい》も現在の囚人ぐらしも、絵島にとって大差はなかった。質素な、禁欲に徹した贖罪《しよくざい》のあけくれは、なまなかな尼僧よりはるかにすがすがしく、かいま見る者の衿を正さずにおかぬ犯しがたい気韻を放っていた。
牢造りの八畳間から一歩も外へ出ぬ絵島のために、蓮華寺の住職が時おり法話におとずれた。それを聴聞《ちようもん》すること、法華経をひくく誦することだけを唯一の心やりとして、四十代、五十代の歳月を奥山百合にかしずかれながら、絵島は花畑の囲み屋敷で過ごしたのである。
そのあいだに耳にしたのは、間部詮房の死であり、新井白石の死であった。詮房五十四歳、白石六十九歳。すべて百合宛に届いた江戸の知人たちからの音信によるが、そんな中で、千之介が寄こした一通だけは、
「万歳万歳、半三郎さんも姉さんも祝盃をあげてください。御蔵島が独立しましたよ」
という喜色あふれるものだった。
「永年の悲願がかない、三宅島役所の横暴から逃れることができたのも、交竹院先生、桂川甫筑法印、それと神主の、加藤蔵人どののおかげだというわけで島民たちは木像を刻み、三宝神社と称する社を建てて三人を神に祀《まつ》ったそうです」
驚いて、百合は夫に言った。
「いやねえ、神さまですって。伯父さまあの世で、きっと恥かしがってますよ」
「いや、恥《は》じてしかるべきは、絵島事件を裁いた役人どもだろう。神に祀られるような人物を彼らは平然と、流刑に処したのだからね」
三十をなかばすぎて半三郎はどっしりと肉がつき、患家も増えて、医師らしい貫禄をそなえつつあった。子はないが、それだけに百合との夫婦仲はいつまでもみずみずしく、むつまじい。町民たちにも信用され、この静かな城下町に、二人ながらすっかり根をおろしたくらしぶりだった。
「一度ぜひ、おたずねしたい。旦那さまにも百合さんたちにもお会いしたい」
と便りにはしばしば書いてよこしながら、一向に俊也が高遠へやってこないのは、祖父母の歿後、子飼いからの忠実な手代を養子に迎えて、黄鶴堂の屋台骨を切り回しているからである。本屋の内儀が板についたばかりでなく、こちらは年子《としご》の目まぐるしさで六人もの子持ちとなり、子育てにも追いまくられているらしい。かなくぎ流の手紙も絶えがちになったが、さすが弟だけに、千之介は筆まめに近況を知らせて来ていた。
桂川法印の薫陶を受けて千之介も一人前の医師になり、交竹院伯父の旧居近くに一戸を構えて、医院の看板を掲げたという。
「吉原の引手茶屋から母の兼世を引き取り、一緒にくらすようになった」
との知らせは、百合をほっとさせた。心の隅に、いつもいつもひっかかっていた気がかりだったのである。
いま一つ、気がかりといえば、百合には絵島に言えない秘密があった。伊豆の利島に流されてまもなく、平田伊右衛門が島の土となり、倅の彦四郎も赦免の知らせを手にする直前、配流地の大島で永眠したのだ。
捲き添えの厄に遭《あ》わした恋人への慚愧に、絵島がどれほど苦しんでいるか、ぷっつりともその名を口にしないだけになお一層、百合にはわかる。
「父子ともに、亡くなった」
と千之介から知らされはしたが、とてもありのまま報告する気持にはなれなかったのである。
――絵島が病臥したのは、年号が寛保と改まった夏の初めだった。前年の秋ごろから手足にむくみが現れ、気分のすぐれぬ日がつづいたが、百合の必死の看病でかろうじてこの時は持ち直した。
しかし年あけ早々、風邪を引き、それが軽快しないまま衰弱が加わって、青葉の季節を迎えるころには寝返りすら打てなくなった。
内藤家がすぐさま派遣してきた藩医、百合がこっそり診《み》させた半三郎のどちらもが、
「むずかしいようだ」
揃って絶望を口にした。百合は、でも諦めなかった。是が非でももう一度、すこやかな身体にもどしてみせると、寝食を忘れて絵島をみとった。しかし結句、百合の努力は徒労に終った。高熱がつづき、浮腫が全身に拡がって、四月十日の夕刻、
「お別れだね百合、ながいあいだ、本当にありがとうよ」
縋《すが》りつく手を握りしめたまま絵島は息を引きとったのである。享年六十一――。
足かけ二十八年に及ぶ流人ぐらしは、その死によって、やっと幕を閉じたのであった。
検屍のあと、亡骸《なきがら》は蓮華寺に葬られ『信敬院妙立日如大姉』の法号がささやかな墓石に彫られた。
山村長太夫と生島新五郎が『遠流《おんる》』を解かれ、江戸へもどって来たのは、絵島の死の翌年だった。二十七で流された長太夫は五十六、四十四歳で罪を得た新五郎は、七十三歳の老人に変貌していた。二人ながら男ざかり働きざかりを、むざむざ棒に振ったのである。
帰府後いくばくもなく新五郎は小網町二丁目の寄寓先で亡くなったが、百合夫婦の後半生については記録がない。おそらく絵島の墓を守って、高遠の地に骨を埋めたのではあるまいか。
(下巻 了)