杉本苑子
新とはずがたり
目 次
琵琶をひく少女
ムクリとワクワク
東二条院
春雪
鶴の毛ごろも
法皇崩御
治天の君
首をはねろ
八幡社頭
風の集団
生別死別
蒙古来たる
嵯峨野の一夜
粥杖
明石ノ上
断絃
百鬼跳梁
妙好華
弘安役
鎌倉みやげ
八条院領
散りざくら
花に問え
霜月騒動
卒寿の姥
誤算
人喰い鬼
捨て聖
権謀術数
逆転
野萩の道
跡の白露
あとがき
琵琶をひく少女
西園寺実兼《さいおんじさねかね》が、その少女をはじめて見たのは、後嵯峨院《ごさがいん》五十の御賀《おんが》の、試楽《しがく》の日であった。
年は九ツか十ぐらいだろうか。伸ばしかけた髪を背の中ほどで切りそろえ、左手に、少女は琵琶をかかえていた。
実兼が注目したのは、じつは少女よりも琵琶だった。
(破竹《はちく》ではないか?)
よくよく目をこらしたが、
(まちがいない破竹だ)
灯台の、ほの暗いゆらぎの中でも、実兼には確信できた。
それは、琵琶の名手と自他ともに許す実兼が、かねがね執心して、
「ぜひ、拝領しとうございます」
と、持ちぬしの後深草上皇《ごふかくさじようこう》にねだりつづけていた伝世《でんせい》の名器である。「破竹」の銘は、太い竹を一気に断ち割りでもするような、するどい、切れのよい撥音《ぱちおと》を出すところからつけられていた。
「だめだよ。こいつはおれの秘蔵だもの、だれに乞《こ》われたって手放すものか」
そのくせ、あとひと押しすればくれそうな、曖昧《あいまい》な笑顔で、後深草上皇が焦《じ》らすように言うのも、いつものことだ。
(おかしい。そんな破竹を、なぜ年歯《としは》もゆかぬ小娘が試楽の座に持って出たのか)
いったい、あの娘は何者かと、はじめて琵琶のかかえ手に実兼は関心を向けたが、髪で半ば、顔が覆《おお》われているし、灯火をうしろにして坐ってもいたので、正体は見きわめにくかった。
だれにせよ、まだあどけない童女でいながら、大人たちに立ちまじってむずかしい琵琶の弾奏を引きうけるなど、腑《ふ》に落ちない。
試楽というのは、宴席での演奏に先立っておこなわれる管絃の試演のことで、この晩のように、宮廷の女性ばかりで演じられるのを、女楽《おんながく》という。
五十歳の賀を祝われる当の後嵯峨院が、
「どうせなら、女人の手でかなでられる優雅な調べを聞きたいな」
と望まれたことから、特に加えられた御遊《ぎよゆう》なのである。
「だれが選ばれ、どの楽器を受け持つか」
とは、廷臣たちの口に早くから交わされていた話題で、実兼の場合、とりわけ琵琶に興味があった。
(でも、まさか破竹が使われ、それを子供が弾じるなどと、だれが予想したろう)
笙《しよう》、ひちりき、笛や琴……。居ならぶ女性が、どれも相応な年のせいか、少女はいっそう幼く見える。大きな琵琶に、小柄な全身が隠れてしまいそうだ。
(弾きこなせるかなあ、あの名器を……)
実兼が危ぶむうちに、合奏は始まった。
さすが、選びぬかれたその道の上手だけに、女楽の奏者たちは、いずれ劣らぬ技を披露《ひろう》したが、実兼をおどろかしたのは琵琶の弾奏のみごとさであった。
それぞれの楽器が持ち味を生かして、華やかな音色を響かせた中でも、きわだって琵琶の撥音は力づよく、冴えて聞こえた。
(破竹のおかげか)
とも、実兼は疑ったが、名器というものは気むずかしく、下手《へた》が扱うと本来の音《ね》を出さない。
それを自在に弾きこなしたばかりか、実兼さえ出せなかった玄妙な音を、少女はやすやす破竹から引き出してのけたのだ。
合奏がはじまると同時に、うつむいていた顔をあげて、きっと居ずまいを正したから、
(おお、あの子ではないか)
少女がだれか、実兼にもようやく見当がついた。
それは、だいぶ前から後深草上皇のおそばに仕えて、お身の回りの小間用を弁じている召使の女童《めのわらわ》だったのである。
(名は……そうだ。上皇はたしか、二条と呼んでおられたな)
足がだるい、二条、揉んでくれ、文《ふみ》を書く、二条、墨をすれ――命じられるお声に従って立ち働く少女の姿を、御所《ごしよ》に参るおりおり、実兼も見かけたおぼえがある。
もっとも、老若合わせれば、奉公人の数はおびただしい。とりたてて二条一人を記憶にとどめていたわけではなかったから、破竹の弾奏を耳にしたときは、
(まさか、あの子が……)
不意打ちにひとしい驚きを味わわされた。
試楽が終り、後嵯峨院五十の御賀が済むのを待ちかねて、実兼は御所へ出かけ、
「感服するより呆れましたよ」
さっそく後深草上皇に問いただした。
「いったい、どこの何者が、あの女童にあれほどの琵琶の弾法を教え込んだのです? 子供のくせにあんなに巧みに弾かれては、わたくしなど形《かた》無しではございませんか」
してやったりと言いたげに、後深草上皇は肩をすくめてみせた。
「二条の琵琶の師は、このおれだよ」
「えッ、上皇さまが?」
「幼女のころは叔父の源雅光《みなもとのまさみつ》に手ほどきを受けたらしい。でも去年からは破竹を与えて、おれがみっちり二条を仕込んだのさ」
「お待ちください」
あわてて実兼はさえぎった。
「いま、何とおっしゃいました? 破竹をあの少女に与えたとか……」
「ああ、やったよ。しつっこくねだるのでね、少々惜しくはあったけど、やってしまった」
「それはひどい。あんまりです」
思わず実兼はつめ寄った。けろりと言ってのけた上皇の、にこにこ顔が憎い。
「わたくしが前々から、破竹の下賜を歎願していたのを、よもやお上《かみ》もお忘れではござりますまい。口はばったい申し条ながら、現今あの名器を拝領するにふさわしい家は、わが西園寺家を措《お》いて他にないはず……。それを、相手もあろうことか、召使の小娘ごときにあっさりくれておしまいあそばすとは、余りななされ方でございます」
後深草上皇を責めたてているうちに、ますます口惜しさが増幅されてきて、実兼は涙声にすらなった。
衣冠束帯《いかんそくたい》に威儀をただし、笏《しやく》を構えてすましこんでいれば、けっこう貴公子で通るととのった目鼻立ちの持ちぬしだが、年でいえばまだ、十九の若者にすぎない。とり乱すと、年相応の未熟さが露呈してしまうのである。
時は鎌倉中期――。
国政の実際は、北条執権《ほうじようしつけん》家を軸とする幕府が、親族や配下の御家人《ごけにん》らを守護・地頭に任じて、
「いささかの、疎漏《そろう》もあらせじ」
とばかり、津々浦々にまで目くばり怠りなく取りしきっている。
公家《くげ》たちは、手が出せない。する仕事もない。せいぜいが儀式と年中行事……。あとは宮中という鼻のつかえそうな「壺中《こちゆう》の天地」で、おたがい同士、昇進競争にうきみをやつすほか、毎日のすごしようがないのだ。
そこでこのころから、彼らはそれぞれの「家の業《わざ》」を言い立てはじめた。
どこそこの家は和歌、なになに家《け》は筆蹟、どこは有職故実《ゆうそくこじつ》、ここは包丁と、各自、得意とする家業をきめ、一子相伝《いつしそうでん》的な秘密主義をふりかざして、流儀の格づけ、家の権威づけをはかろうというのが、その狙いである。
西園寺家の場合、家の業は琵琶だった。
実兼が破竹に執着したのは、天下の名品を拝領して家の飾りとしたかったからだし、そのあてがはずれて躍起《やつき》になったのも、一少女に、特権を侵害でもされたように感じたからであった。
「まあそう、むきになるなよ実兼」
はぐらかすように言いながら、後深草上皇は肘枕《ひじまくら》でごろりと寝そべった。帝位についていたころから行儀はさほどよくなかった。御位《みくらい》を弟の亀山帝《かめやまてい》にゆずり、お気楽な仙洞《せんとう》ぐらしを始めると、その傾向はいっそう顕著になり、実兼のような気のおけない相手には、ことにもだらしなくふるまって憚《はばか》らない。
むりはなかった。上皇などといえば、すでに一線をしりぞいた「ご隠居」に思えるけれど、後深草院は当時、二十五……。十九歳の実兼とは、おたがいに血のつながる従兄弟《いとこ》同士だし、君臣のへだてを越えた遊び仲間でもあったのだ。
だからこそ遠慮なく、伝来の琵琶をねだりもし、むくれ面《つら》を隠しもしなかった実兼だが、
「あの女の子はね、おれの妹なんだよ」
との、上皇の言葉には、さすがに呆気《あつけ》にとられて、二の句がつげない表情になった。
「お妹さま!? ほんとうですか?」
「だれが嘘などつくものか。もっとも血縁ではない。おっぱいでだけ結びついた縁《えにし》だがね」
「おっぱい……」
実兼は目をまるくした。上皇の言葉づかいには、時おりびっくりさせられる。
もっとも遊女・白拍子《しらびようし》ならまだしも、町を流して歩くくぐつや舞々《まいまい》など、雑芸人までが宮中に召されて、酒宴の酌取りをつとめたり、雑芸を演じてお目にかけたりする世相下ではある。
そんな手合のしゃべり交しを小耳にはさんで、得意|気《げ》に口にする癖が後深草上皇にはあった。
「つまりいえば、乳《ち》兄妹《きようだい》さ。最初あの子に琵琶の手ほどきをしたのが、叔父の源雅光だと、さっきも言ったろ」
「聞きました。なるほど、権《ごん》中納言雅光を叔父に持つ少女なら……」
「大納言|久我雅忠《こがまさただ》の娘――。そこらの町家から奉公にあがった婢《はした》ではない。れっきとした上卿《しようけい》の息女だよ」
「では、雅忠の妻がお上に乳をさしあげた乳母《めのと》、というわけですか?」
「うん。すけ大《だい》だ。二条はね実兼、すけ大の忘れ形見なのさ」
その乳母の名なら実兼も耳にしたおぼえがある。正式には、夫雅忠の官職を冠して、
「大納言ノ典侍局《すけのつぼね》」
と呼ばれていた女性であった。
「舌がよく回らなかった幼いおれには、長たらしく言いづらい名なので、大納言の『大』と典侍の『すけ』をくっつけて、すけ大と愛称したわけだがね、おれが十七になった年だ。乳母は病気にかかって亡くなってしまったんだよ」
「あの子はそのとき……」
「わずか二歳だった。だから可哀そうに、ほとんど母親の顔をおぼえていない。雅忠が男手ひとつで育てているのを見かねてね、宮中へ引き取った。四ツか五ツのころだったなあ。以来、二条はおれのそばでくらしている。女ひと通りの教養は、手塩にかけておれが仕込んだ。琵琶も、中途から雅光に代っておれが教えた。乳兄妹だし、学びの弟子でもあるわけだよ」
「破竹をねだられても、それでははねつけられませんな」
「そういうことさ。あきらめてくれ実兼」
「ところで、今さら不粋《ぶすい》な穿鑿《せんさく》ですが、すけ大がお上の寵を受けていたという噂は、本当ですか?」
実兼がずばりと言ってのけたのは、破竹を貰いそこなった腹いせである。後深草上皇は、しかし顔色一つ変えずにうなずいた。
「そうだよ。すけ大は乳母だけど、おれが男として関《かか》わったはじめての女でもあったんだ」
かくべつ珍しい例ではないし、特に目くじら立てて非難する事柄でもない。
成人し、女体に関心を持ちはじめた育ての君を、乳母が彼女自身の身体を用いて、男としての開眼をとげさせるのは、上流社会では昔からおこなわれてきた通過儀礼のごときものであった。性教育の実地体験といってもよい。
でも、赤児のときから抱き、抱かれ、あやし、あやされ、乳房を媒体として、声変りするまで密着しつつ生活してきた仲である。意識の上では、実の母と息子にひとしい。
そんな二人が、ある夜を境にいきなり腥《なまぐさ》い男女関係に変るのだから、やはりその結びつきは、あからさまにはしにくかった。
隠微な、どこかうしろめたい行為として、二人だけの暗がりでこっそり営《いとな》まれるのが常なのに、後深草上皇の場合はちがっていた。
性格もあったであろうが、万事にあけっぴろげで、人目を気にする風がなかった。
「すけ大が好きだ。好きなものを好きと言って、どこがわるい」
それはそうにしろ、二十以上も女の側が年上なのである。久我雅忠という夫までいたし、後深草上皇はそのころ十四か五の少年とはいえ、今上《きんじよう》として帝位についている身だった。
「あけすけすぎるなあ」
「ちと、ご身分柄をわきまえてくださらねば困る」
廷臣どもの耳こすりにまして、苦りきったのは父君の、後嵯峨院であった。
「もはや乳母としての役目は終った。すけ大を即刻、久我邸へ帰せ」
鶴のひと声――。
院政という形で、宮廷の内外に睨みをきかせていたこれこそが事実上の天皇≠ネのだから、逆らえるわけはない。
すけ大は、彼女もまた育ての君への断ちがたい未練から、うしろ髪をひかれる思いで宮中を出、夫のもとへもどった。そして、二条をみごもり、この女児を生み落としてまもなく病いのため、みまかったのである。
「合点《がてん》がいったか実兼、なぜ、おれが二条を身近かに引きとったか、そなたにもやらなかった秘蔵の破竹を、なぜ二条に与えたか……。すべて亡きすけ大への愛のためだ。養育の恩人、そして今なお、忘れがたい恋人でもあるすけ大への供養と思って、おれはあの子をいつくしんでいるのだよ」
それにしては二条への扱いに、きわ立ったところが少しも見えない。とりたてて衣裳に綺羅《きら》を飾らせるわけではなし、贅沢な私室を与えている様子もなかった。他の召使同様、上皇は何の手ごころも加えず、二条に用事を言いつけておられたから、実兼もこれまでこの少女に、特別な関心など払わずに来たのである。
しかし素性を知ってからは、注意して見るようになった。そして、改めて実兼は、二条の美貌に瞠目《どうもく》させられたのであった。
それは、対する者を無条件で魅了する花樹の華麗さとはほど遠かった。手に取ってはじめて、山野に咲く名もない花の一輪に、意外なほど巧みな造化の美を見つけて驚くことがあるが、二条の顔だちは、野の花に似た静かな力を備えている。
ぜんたいに小づくりな、骨細《ほねぼそ》な身体つきなので、顔の輪郭はちんまりしていた。無口なのか、話しかけてもはかばかしくは応じず、大声で笑いもしないため、印象はどことなく淋しく、儚《はかな》い。
よく見れば、しかし造作はどれも形よくととのって、名工の手に成る細工物さながら難がなかった。
実兼がことに惹《ひ》かれたのは、その名工がよく切れる小刀で、きりっと刻みつけでもしたような鮮やかな線を持つ二重まぶたであった。中に嵌《は》めこまれた大きな眸《ひとみ》は、まばたきするたびに輝いて、ふしぎな光彩を中心に宿す。まるで目を通して、少女の内奥《ないおう》にひそむ怜悧《れいり》さを、かいま見せられる思いがする。
(おとなしげな打ち見のわりに、気性は激しそうだし、度胸もよい)
あの試楽の晩の、落ちつきはらった撥《ばち》さばきが、それを証明していた。技法もさることながら、なみなみならず勝気なために、年長の奏者たちを圧倒して、一人とびぬけた評価を得たのだとも、実兼は推量している。
(ふうがわりな少女だなあ)
先ゆき、どんな娘に生《お》い立つか、楽しみにもなって、
「二条はすけ大に似ていますか?」
後深草上皇に訊《き》くと、
「そっくりだよ。母親に生き写しだ」
むぞうさな答が返ってきた。
「ただし、人柄は天と地ほどもちがうな。すけ大は陽気な、太ッ腹な女だったが、二条は子供のくせにどことなく陰《いん》にこもって、扱いにくい。気質は父親の、久我雅忠に譲られたのではないかな」
「ほんとに久我大納言の息女なのですか? お上のお胤《たね》ではありますまいな」
ぶしつけなことを言ったのは、皇居を退出して以後も乳母と育ての君が、物詣でなどにかこつけて外で忍び逢っていたと聞いたからだが、
「ちがうちがう。世間の口が何と取り沙汰しようと、それだけは誤解だよ実兼。二条の父は久我雅忠だ。あの子とおれは、乳兄妹にすぎない。血のつながりなど毛頭ないよ」
後深草上皇は否定する。
それは将来、二条を後宮に入れても、道義上いささかの問題もないと、強調しているように実兼には受けとれた。
(そうなる前に、奪ってしまおうか)
そんな競争心が、ふっと疼《うず》いた。しかし恋愛の対象と見るには、なんといってもまだ、あまりに二条は若すぎたのである。
十歳の少女が、でも、いつまでも十歳のままでいるはずはない。
十一、十二、十三と年を重ねるにつれて、地味な野の花は野の花なりに、二条の美しさには磨きがかかりはじめた。女らしいふくらみと香りが、微光のようにその全身を包みだしたのである。
無関心をよそおいながら、西園寺実兼は二条の好もしい変化を、こまやかな目で見守りつづけていた。
蛹《さなぎ》から蝶へ、少女から女へと、脱皮してゆくこの年ごろの眩《まぶし》さに、実兼は酔い、二条の変身に歩速を合わせて、彼もまた、相手への思いを深めつつあった。
言い寄る好機を、実兼はうかがった。
(後深草上皇は、かならずや二条を、寵姫《ちようき》の一人に加えられるだろう)
おぼろげだった予感が、いまは彼の中で確信に変ってきている。
王朝時代の物語は、貴族社会での教養書となり、そこに描かれた恋の種々相を、実生活での理想と思いこむ傾向がつよい。
紫式部のあらわした『源氏物語』は、ことにも宮廷の男女に愛読され、渇仰《かつごう》もされて、恋の指南書とさえ見られていた。
(さしずめ上皇は、ご自身を光源氏、二条を若紫になぞらえておられるのではないか)
そう、実兼は気づいたのである。
義理の母の藤壺と道ならぬ恋に落ち、堰《せ》かれてのちも、甘美な思い出を忘れかねて源氏の君は悩む。その懊悩を救ったのが、藤壺と瓜二つの美少女・若紫だった。
面《おも》ざしが酷似していたのも道理。少女は藤壺の姪《めい》であったが、手許にこの子を引き取って源氏は育て、成長後、二人は結ばれる。生涯、源氏のよき伴侶となり、随一の寵愛を誇りもした紫ノ上がこれである。
(つまり、すけ大が藤壺ノ宮……。おん父後嵯峨院の手で裂かれたも同然なすけ大への思慕を、忘れ形見の二条によって満たそうために、若紫と光源氏の例にならって、幼時からあの子を養育してこられたお上だったにちがいない)
実兼はあせった。後深草上皇を競争相手に擬《ぎ》したことで、彼の恋は真剣味を増した。
(先んじて、何としてでも二条を我が物としたい。手だてはないものだろうか)
この実兼の思いの底には、破竹を得たいとする打算も潜《ひそ》んでいる。
二条の所有に帰した伝世の名器――。琵琶を家の業とする西園寺家がこれを持たないのは、たてがみのない雄獅子が百獣の王座にいるようで、はなはだしく権威を損《そこな》う。
(上皇の手から二条を奪うことは、同時に、女の身についた破竹までを、こちらに取り込むことになる)
いわば欲と恋の、両天秤《てんびん》をかけたわけだが、肝腎の二条が自分をどう思っているか、今のところ実兼には、さっぱり見当がつかないのであった。
ムクリとワクワク
もっとも、ここ四、五年、西園寺実兼の身辺は公私ともに多忙をきわめていた。
年ごとにあでやかな変容をとげてゆく二条の存在が、しきりに気になって、
(上皇を、出し抜けないものか。女にまして破竹がほしい)
欲ばった望みに気を苛《い》ら立たせてはいたけれど、そのことにばかり目を向けてはいられなかったのである。
まず第一には、父との永別だった。実兼の父の公相《きんすけ》は、太政《だじよう》大臣の要職にあった人だが、後嵯峨院の五十の賀が催された年、風邪をこじらせて他界してしまった。享年、四十五――。
さらに追いかけて、祖父|実氏《さねうじ》の死である。それは公相の葬儀の翌々年……。七十六歳だから、年に不足はなかったにせよ、打ちつづく身内の不幸に実兼はうろたえた。
(まだまだ家督相続など、先の先)
権門の御曹司《おんぞうし》ぐらしを享楽できると、のんきにかまえていたのに、あにはからんや弱冠二十一歳で、西園寺家の当主の座に坐らなければならなくなったのだ。
「たいへんだぞ実兼。よほど気をひきしめてかからんと、家督と一緒に相続した関東|申次役《もうしつぎやく》を、棒に振ることにもなりかねんぞ」
後深草上皇はおどかすし、上皇の生母で、実兼には父方の叔母にあたる大宮院|※[#「女へん+吉」]子《よしこ》も、わざわざ甥《おい》を膝下《しつか》へ呼びつけて、こごとを聞かせる始末であった。
「これからは今までみたいに、ふらふら遊んでばかりいてはいけません。鎌倉の執権北条|時宗《ときむね》は、あなたより二ツ三ツ年下の若者だそうだけど、宗尊《むねたか》親王がけむたくなれば、さっさと冤罪《えんざい》をでっちあげて、京へ追い帰すような辣腕《らつわん》の持ちぬしです。公家《くげ》の若殿などとは鍛えのちがう武家育ち……。ゆだんしていると、親王将軍の二の舞を演じさせられかねませんからね。重責を自覚して、よろず慎重にふるまってくださいよ実兼」
叔母にしろ上皇にしろ、為を思っての意見だけに、実兼にすれば気が重い。
(幕府や六波羅《ろくはら》を向こうにまわして、関東申次などという気骨《きぼね》の折れる大役をこの先、やり通してゆけるかなあ)
不安にさえなった。
宗尊親王は、後嵯峨院の皇子――。
後深草上皇には腹ちがいの兄だが、北条氏に請《こ》われて少年のころ、鎌倉へくだり、お飾り将軍の地位についた。源|頼朝《よりとも》の直系が絶えてしまっていたからである。
執権の北条時宗が、ありもしない謀叛のぬれぎぬを着せてまで、その宗尊親王を追放したのは、二十五歳というもはや言うなりにはなりにくい年齢に達したためだった。
入れ代わって鎌倉入りしたのは、宗尊親王の子の惟康《これやす》皇子。年はやっと、三歳……。頭上に頂いても、この幼さならまだ当分、面倒を引き起こす恐れなどなかった。
家督相続とともに手に入れた関東申次という役目を、西園寺実兼が、やれ、気が重いの、やり通す自信がないのとぼやくのは、他の公卿《くぎよう》たちに言わせれば、
「罰あたりの骨頂《こつちよう》」
ということになる。
それほどうま味のある、人にうらやまれる職掌なのだ。
読んで字のごとく、関東――鎌倉幕府の利害を代弁して、朝廷に申しつぐ役だから、廷臣でいながら心情的には幕府寄りということになる。
むろん、朝廷側の要求を幕府に伝える場合もあるが、どちらにせよ、とかくぎくしゃく軋《きし》みがちな公武の仲を、円滑にまとめてゆく周旋役だから、どちらからも大切に扱われ、頼りにもされるかわりに、なかなかむずかしい役柄でもあった。
若い実兼に、無事つとまるかどうか、後深草上皇や叔母の大宮院|※子《よしこ》が案じるのももっともだが、こんな特権を、公家も多いのに、なぜ西園寺家が手中にできたかというと、それは一にも二にも、先ごろ亡くなった実兼の祖父――晩年、入道して実空《じつくう》と称した太政大臣|実氏《さねうじ》と、その父|公経《きんつね》の、目のつけどころがよかったからにほかならない。
「これからは武門の世の中、それも平家を倒して四海をしずめた源氏の世となろう」
いちはやく、そう見て取った公経が、まず源頼朝の義理の弟にあたる一条|能保《よしやす》の娘と結婚……。いっそくとびに関東に接近し、その腹に実氏を儲けたのだ。
頼朝の次男の実朝《さねとも》が、鎌倉鶴ケ岡八幡の社頭で右大臣拝命の式典をおこなったときも、公経・実氏父子は招かれて列席し、いかに西園寺家が幕府と親密か、世間に見せつけたほどだったが、なにごとも、とんとん拍子にはいきにくい。
実朝が八幡宮の別当《べつとう》公暁《くぎよう》に殺され、公暁もまた、北条氏の手で始末されるという騒動を奇貨として、
「いまなら成功うたがいない」
とばかり、後鳥羽《ごとば》上皇が倒幕運動を計画――。兵をあげた。
史上いうところの『承久《じようきゆう》の乱』だが、こうなると西園寺父子の立場はあぶない。
「関東と手を結んで、朝廷に弓を引きかねぬ獅子身中の虫め、目にもの見せてくれる」
後鳥羽上皇は公経と実氏をひっ捕え、宮中の弓場殿《ゆばどの》に監禁して、
「斬首せよ」
とまで逸《はや》った。
「絶体絶命だ。どうしよう」
さしものやり手も青くなった。
しかし、彼らにとって幸運なことに、後鳥羽上皇の挙兵は失敗し、怒濤さながら攻めのぼって来た鎌倉勢の手で、叛乱軍はいともかんたんに制圧されてしまったのである。
それからの、西園寺家、ことにも当主となった実氏の、栄達ぶりはめざましかった。大納言、内大臣、右大臣をへて、ついに従一位・太政大臣にまで昇りつめた。
――一方。
『承久の乱』の主謀者である後鳥羽院は、隠岐《おき》に流され、子息の土御門《つちみかど》院・順徳《じゆんとく》院も、連坐の責任を問われてそれぞれ配流《はいる》となった。
このとき、帝位にあった順徳院のお子の仲恭《ちゆうきよう》天皇は廃されて、まったく別系統から後堀河帝が立ち、ついで四条《しじよう》帝が立った。
ところが四条帝が、あとつぎもなく崩じたため、幕府は西園寺実氏と謀《はか》って、土御門院の皇子を擁立した。
「もともと、土御門上皇は討幕に反対し、父ぎみ後鳥羽院を諫められた。しかし、お聞き入れがなかったため、やむなく黙止し、乱後、みずから進んで配地におもむかれたのだ。恩誼《おんぎ》にむくわねばならぬ」
こうして、四条帝のあとをうけて、第八十八代の帝位についたのが、先ごろ、おん年五十の賀を祝われた後嵯峨法皇である。
実氏はすかさず、その後宮に娘の|※子《よしこ》を送りこみ、彼女は中宮《ちゆうぐう》に冊立《さくりつ》された。所生の皇子が二人ながら帝位を踏んだためだった。
兄宮が、いま上皇の地位におられる後深草院……。そして弟宮が、現在、帝位にある亀山天皇だが、実氏は|※子《よしこ》の妹にあたる公子《きみこ》という娘までを、後深草院の在位中、その后《きさき》に配したから、法皇・上皇の舅《しゆうと》であるばかりか、二代の皇后の父としても、ならぶ者のない羽ぶりとなった。
|※子《よしこ》は、夫帝の退位にともなって『大宮院』の院号をさずけられ、公子も同様、後深草帝が上皇となられたのをしおに、皇太后位にしりぞいて『東二条院』と称している。
|※子《よしこ》と公子の兄の公相は、これまた父実氏の余光を背に、太政大臣の顕職《けんしよく》をきわめて亡くなった。
そして今、父を見送り祖父を見送った実兼が、西園寺家の当主の座についたのだ。
二十《はたち》そこそこの若者には、この家名、いささか、
「荷が勝ちすぎる」
と感じるのも、むりはない。
ついでに言うと、西園寺の家号は、実氏の父の代に洛北の葛野郡《かどのぐん》北山荘に、別邸をかねた堂宇《どうう》を建て、ここを『西園寺』と名づけたことからはじまっている。
本姓はむろん、藤原氏――。
家格でいえば、清華《せいが》の列なのに、関東申次役を兼ねたおかげで、いまや廟堂での威勢は摂関家《せつかんけ》をしのぐ。
叔母の大宮院|※子《よしこ》に意見されるまでもなく、実兼とすれば、大いに気をひきしめてかからねばならぬところだが、そんな彼に、もう一つ頭痛の種がのしかかって来ていた。
『ムクリ』という珍妙な名の異国から、
「属国になるか。さもなければ戦争するか」
と、脅迫されているさなかなのであった。
「ムクリだと? いったいそれは、どこにある国だ? どんな人間が住んでいるのか?」
はじめてその名を耳にしたとき、実兼は首をかしげるばかりだった。
前年の冬、父の公相を亡くし、彼は喪に服していたが、法体の隠居ながらこのころはまだ、祖父の実氏が存命していたから、さっそく北山の別荘へ出かけて、
「お聞きになったことがありますかおじいさま、ムクリという国の名を……」
問いただしてみた。
「はてな」
剃《そ》りこぼちた入道頭をそろりそろり、撫《な》で回しながら、しばらく考えたあげく、
「そりゃ、蒙古のことじゃろ」
実氏が的確な指摘を口にしたのは、さすが切れ者というべきだろう。
「ははあ、もうこ……」
実兼には、それすらよく判らない。
「ムクリという呼び方は、下民どもの間におこなわれておる通称じゃ。正しくは蒙古というが、それがどうぞしたかよ」
「高麗《こうらい》の王を介して、わが国に使者を送りつけてきたのです」
「ふーむ、使いをな」
「ひとまず九州の大宰府《だざいふ》に使者を止め置き、少弐《しように》の武藤なにがしが早馬で、ムクリの国書を鎌倉にとどけてきました。執権の北条時宗はじめ、幕府の首脳が、ただいま国書を検討中とかいうことですが、とりあえず六波羅より朝廷に報告がありました。でも、いかにせん、みかどはもとより列座の月卿雲客《げつけいうんかく》一人として、ムクリ国について知る者はいません。やむなくおじいさまに伺いにまいったわけでございます」
「わしなどより、異国についての知識なら、商人や僧侶のほうがずんと豊かじゃ。ほれ、わが家にも出入りしておる唐物《からもの》商の何とやら申す男……」
「芳善斎《ほうぜんさい》の松若ですか?」
「おお、それそれ、あの松若あたりにたずねれば、高麗についてもムクリについても、くわしい話が聞けるのではないかな」
「ただし、いま洛中の店にいますかなあ。しょっちゅう九州へ出かけて、香木の買いつけをやっている交易商人ですからなあ」
「ムクリのよこした国書の内容については、まだ、はっきりせんのかい?」
「早晩、鎌倉から送附されてくるはずですが、六波羅|南殿《みなみどの》の北条|時輔《ときすけ》が申すところによれば、友好を求めているようで、そのじつ隷属《れいぞく》を強要し、いやならば干戈《かんか》も辞さないぞと、おどしをかけてきているそうですよ」
「蒙古なら、大宋国を制覇して威を近隣に振るうとる国じゃ。厄介なことにならねばよいがなあ」
実氏の憂慮が、実兼にはピンとこない。ムクリという名からして、野蛮な未開国に思えてならないのだ。
やがて鎌倉から、ムクリの国書がもたらされてきた。写しではない。
「国王の印璽《いんじ》を押した本ものだそうです」
との、使いの口上に、
「どれどれ、ムクリの文字とはどういうものか。はたしてわれわれに読めるかな」
さっそく上卿たちが集まり、亀山天皇の御前で披見したが、
上天の眷命《けんめい》せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。朕《ちん》、惟《おも》うに、古《いにしえ》より小国の君も、境土相接すれば尚《なお》務めて講信修睦す。況《いわ》んや我が祖宗は、天の明命を受けて区夏《くか》を奄有《えんゆう》し、遥かなる方の異域《いいき》にして威を畏《おそ》れ、徳になつく者は、悉《ことごと》く数うべからず……
書き出しののっけから、威風堂々たる漢字漢文の羅列に、まず、仰天させられた。
「わが国と同じ文字を用いていますな」
「りっぱな文章だ。しんじつムクリ人が書いたとすれば、なかなかのものだが、国書を持参したのは高麗の使臣だそうではないか」
「さように聞き及んでおります」
「おそらく高麗国の文官が、ムクリ王の意を受けて代筆したのだろう。大宋国の本土より、さらに西方の砂漠に興《おこ》った蛮族だという。そんな匈奴《きようど》に、文章などつづれてたまるものか」
吐いて捨てる語気で亀山帝が貶《くさ》すのは、自国に「大」の字を冠し、こちらを異域の小国扱いしている書きざまが、癇《かん》にさわったからだろう。
みかどは西園寺実兼と同年の生まれで、このときようやく二十歳になったばかりであった。でも、践祚《せんそ》は十一のときだから、在位期間はすでに九年になる。
後嵯峨院を父とし、大宮院|※子《よしこ》を母として生まれた同腹の兄弟なのに、後深草上皇と亀山帝の気質には、だいぶ差がある。
容姿も、
「これが血を分けたはらからかしら……」
と疑いたくなるほど相違していた。
自身をひそかに光源氏に擬して、あちこち、女房どもの局《つぼね》を浮かれ歩いても、
「うぬぼれていらっしゃる」
そんなかげ口をきく者がないくらい、後深草上皇はいろ白の優《や》さ男で、享楽志向のつよい趣味人だが、亀山帝は兄上皇とはガラリとちがう。
眼光するどく色浅ぐろく、顔も体躯も角ばっていかつい。玉座にいるより馬を駆って、狩り場を走るほうがぴったりしそうな精悍《せいかん》な印象を放っている。
性格も、外見に見合って剛毅《ごうき》だ。のらりくらり型ながら人のよい後深草上皇にくらべると、亀山帝は気むずかしい。廷臣や女官らを、容赦なく叱りつけたりもする日ごろなのである。
このような亀山天皇の、若者らしからぬ気ぶっせいな、きつい気性が、親の欲目には末たのもしい老成ぶりとうつるのだろう。後嵯峨院も大宮院も、子供の時分から亀山帝をかわいがり、兄息子との処遇に、ともすると段をつけた。
四歳で、後深草院が帝位につき、十七歳ではやくも弟に位を譲らされて、若隠居にひとしい上皇の地位にまつりあげられてしまったのも、父後嵯峨院の、亀山帝への偏愛からだった。
「ほんとうの親なのに、まるでおれはままッ子だ。ついぞ父君にも母上にも、倅《せがれ》らしい慈《いつく》しみを受けたことがない。いっそ山の奥にでも移り住んで、坊主になってしまいたいよ」
西園寺実兼相手に、後深草上皇はおりおりぐちる。ひがんで見せたりもする。
いかな遊び好きの楽天家でも、父と弟に実権を奪われ、一線からはじき出されている無念は、胸にこたえているのである。
兄上皇とはあべこべに、亀山帝が意欲も自信も満々なのは、両親の愛情をひとり占めしている強みからにちがいない。
ムクリの国書に、
「無礼な文面だ。まるで頭から、わが国を属国視している書きざまじゃないか」
亀山天皇が立腹したのも、日ごろの負けん気からすれば当然だが、なお読み進むうちに、
……聖人は四海を以って家となす。相《あい》通好せざるは、豈《あに》、一家の理ならんや。兵を用うるに至る、それ孰《いずくん》ぞ好むところならん。王、それ之《これ》を図《はか》れ。
という文字にぶつかったため、堪忍ぶくろの緒はたちまち切れた。亀山帝だけではない。列席の上卿ひとり残らずが、
「こんな脅《おど》しに、だれが屈するものか」
いろめき立ち、
「院は、いかがおぼしめしますか?」
玉座のうしろの簾内《みすうち》に、うかがいをたてた。
事、重大と見てとって、後嵯峨院も法皇御所から皇居へ出向いて来ていたのだ。
「返牒にはおよぶまい」
それが法皇の答えであった。
「大宰府にとどめてある高麗の使者は、即刻、立ち去らせよと、六波羅役所に伝えるがよい」
奥ノ院にひかえて、今なお睨みをきかせている院政の中心人物の、託宣である。
決議はただちに鎌倉に報ぜられ、『大蒙古国皇帝』の国書は、意向を同じくする幕府の手で、そのまま握りつぶされてしまった。
国と国との外交の常識に照らして、それがいかに無謀な、危険をともなう行為か、朝廷も幕府もが、まだこの時点では、一向に気づいていなかったのであった。
西園寺実兼のムクリ観も、他の公卿たちとさして変わらなかった。
「そうか。法皇は『返牒に及ばず』と仰せられたか。ま、叡慮とあらばやむをえんがの、はるばる寄こした国書を無視されて、蒙古国王が黙っておるかのう」
祖父実氏の心配も、取り越し苦労としか思えなかったが、それからしばらくあと、
「どうもごぶさた申しました。お召しがあったそうで、すぐにでも駆けつけねばならぬところを、あいにく手前、商用で、二ヵ月ほど店を留守にしておりましてな、参上がえらく遅れました。ごかんべんくださりませ」
言いわけたらたら顔を出した唐物商の松若に教えられ、ムクリ国への認識を大幅に改めねばならなくなったのである。
「漢字漢文で文章がつづられていたぐらいで、びっくりなさるようでは困りますなあ」
松若は、その酒焼けした赭顔《あからがお》を、まず大仰《おおぎよう》にしかめて見せたのだ。
「ムクリ国といえば殿さま、今この世で並ぶものとてない強大な帝国……。日本全土を千も万も併せたほどの、どえらい版図《はんと》を領有する大先進国ですわ」
「そんなに大きな国か?」
「大きいも何も、お話になりませんや。唐天竺《からてんじく》はおろか、その先の先の、紅毛|碧眼《へきがん》の国々までを攻め亡ぼして、一大帝国を築き上げたのですからな。わが国みたいなちっぽけな島国、いざとなればムクリの鼻息ひとつで、海の底へぷうーッとばかり吹き飛ばされてしまうでしょうよ」
少々、恐ろしくなりはしたものの、
「また、いつもの法螺《ほら》だろう」
実兼には松若の説明が、全面的には信じられなかった。
「お前の言うことは、ふだんから大げさだものな」
「本気にできなければ、しなくてもよござんす。でも相手を知らないと、あとで後悔することになりかねませんぜ」
嘯《うそぶ》くように松若は言う。名は、子供じみて愛らしいが、五十すぎのしたたかな親仁《おやじ》で、内心、実兼のことなど、
「尻にまだ、卵の殻《から》をくっつけたヒヨッ子」
としか見ていない。
五条の東の橋詰めに、『芳善斎』と名づける店を構え、手びろく唐物をあきなっている豪商である。
商品の主体は、沈香《じんこう》、竜脳、白檀《びやくだん》や薫陸《くんろく》、ジャコウ、丁字《ちようじ》といった香料のたぐいで、皇室だの富有な公家、大寺大社など、ふんだんに香を焚《た》く上得意が、その出入り先だった。
諸外国の情勢にも、商売柄くわしい。
「ムクリのことなら彼に聞け」
実氏入道が孫の実兼にそう示唆したのも、松若の知識の価値が、舶載の香料以上に貴重なのを知っていたからであった。
「法螺《ほら》と言ったのは取り消すよ。ムクリは広大な領土を持つ強国にちがいあるまい」
いそいで実兼は松若の機嫌をとった。
「でもね、人智の進んだ文明国かどうかは怪しいぞ。王の国書はりっぱな漢文で書かれていたけど、あれは高麗の文官に執筆させたのではないかな」
「ムクリの文官が書いたんですよ」
「だっておじいさまがおっしゃってたぜ。ムクリ――すなわち蒙古の民は、大宋国の西にひろがる砂漠から興ったのだって……」
「えらい。やっぱり大殿はただ者じゃないな」
あてつけがましく、松若は実氏入道をほめそやした。
「北山西園寺の別業に隠栖《いんせい》して、悠々自適の閑日月《かんじつげつ》をたのしんでおられながら、大殿は異国の事情にもちゃんと通じていなさる。たいしたもんだ」
「だけど、そんな砂漠の民が、どうやって四海を制覇したのかね」
「砂漠の民だからこそできたんでさあ。砂漠ったって、砂ばかりじゃない。いちめん馬や羊の餌になる草原ですよ。そこで牧畜をしていた連中だから、馬を自在に乗り廻すし、狩りにも堪能《たんのう》です。気が荒く、征服欲が熾烈《しれつ》ときている。騎馬兵団を組織して大宋国に攻め入り、矛《ほこ》を転じて西の紅毛人国を片はしから平げた。こうしてまたたくまに領土をひろげ、国々の文物人智を吸収して一大帝国になりあがったってわけですよ」
「王の名は、何というのだい?」
「大宋国を併呑《へいどん》してからは中華の風《ふう》にならって、世祖《せいそ》と称しているようですが、ムクリ本来の名はフビラハーとか、フビライハンとかいうようですな」
「その男が一代でつくり上げた国なのか?」
「いえいえ、そんな出来合いの新しい国じゃありません。フビラハーは四代目か五代目の王でね、なんでも初代のチギスハンとやらいう勇士が、大ムクリ国創建の功労者らしいですよ」
「くわしいなあ松若、たいしたものだ」
「なあに、博多や香椎《かしい》、今津なんぞ北九州の港町へ行ってごらんなさい。宋人だの高麗人にまじって、ムクリの商人もたくさん交易しに来てますからね。耳学問ができるんです」
「それにしてもムクリとは、変な国名だな」
「もともとはムングリとか、モンゴルとかいったらしいですな。それが訛《なま》って、ムグリ、あるいはムクリとなったわけでしょう。日本だって、異国人の口にかかればワクワクですぜ」
「ワクワク?」
「ええ、ワクワク」
「なんでまた、ワクワクなのかね?」
「むかし、日本のことを倭国《わこく》と言ったでしょ。そのワコクが訛ってワククとなり、ついにはワクワクなんて、珍妙きてれつな名になったってことですよ。ムクリの国名を笑うわけにはいきませんな」
とも、松若は図に乗ってしゃべりまくる。
「もっとも、そのムクリ族じたい、西方の紅毛碧眼どもには、タルタルと呼ばれているんだそうです」
「ワクワクにタルタル? どうも眉つばな話だなあ」
「嘘じゃありませんてば……。タルタル人とも、タタール人とも申しますがね、これは紅毛の言葉で『地獄の民』という意味ですとさ。つまりそれほど、ムクリ騎馬軍団の来襲は、西方の国の住人たちを慄《ふる》えあがらせたということでしょうよ」
「宋国と、ムクリの関係はどうなっているのだね?」
「大宋国はね、ムクリにやられる前に、北方に起こった女真《じよしん》族の金《きん》に侵略されて、華北を奪われてしまいました。そこでやむなく中原《ちゆうげん》を捨て、江南にあらためて建国し直して、いま『南宋』と称してます」
「では、さしあたり金が中華の支配者か?」
「とんでもない。金なんざ、たちまちムクリ軍団に攻められて亡びてしまいましたよ」
勢いを馳って、ムクリの騎馬隊は朝鮮半島に進攻……。猛獣さながら暴れまわり、高麗《こうらい》全土を蹂躪《じゆうりん》しつくした。
「高麗王とその親族たちは、泡をくって首都の開京から逃げ出し、江華島という島に渡って、たてこもりました。島ぜんたいを城塞にして、せめてムクリ軍に抵抗しようとしたわけでしょうが、置きざりにされた民衆こそいい面《つら》の皮でさあ。いたるところ死骸の山。村も町も一木一草残らず焼き払われた。命からがら北九州に逃げてきた高麗人の話では、つかまってムクリ国へつれてゆかれた捕虜だけでも、男女あわせて三十万人とも四十万人ともいいますからねえ」
「目もあてられぬ惨状だな」
身の毛のよだつ思いで実兼はつぶやいた。
「もう今ではむだな敵対をあきらめて、高麗王朝はムクリに降伏……。属国に甘んじることで、かろうじて命脈をつないでいるありさまだそうですよ」
「南宋はどうなった?」
「おそらく戦々|兢々《きようきよう》でしょう。大蒙古帝国皇帝のフビライハンは、高麗を服従させ、その東にあるワクワク国日本を傘下に組みこんで、南宋を包囲する作戦に出たんです。それで国書をよこしたのだと思いますな」
「ありがとう松若、おかげでおぼろげながら、近隣諸国の趨勢《すうせい》がのみこめたよ。さっそくおぬしから聞かされた逐一《ちくいち》を、みかどや院のお耳にも入れよう」
「それがいいです。いかに海をへだてているとはいっても、日本のおえらがたは他国の情勢に疎《うと》すぎます。褌《ふんどし》をしめてかからねばね」
したり顔に言いながら、脇に引きつけてある大きな浅黄《あさぎ》の布包みを、
「ところで、これをごらんください殿さま」
松若は、やおら実兼の膝先へ押し出した。
「なんだね? いったい……」
「異国渡りの珍鳥ですよ。鸚鵡《おうむ》の鳥です」
はらりと布をほどいたとたん、まず目をうばったのは台座に青貝で装飾をほどこした漆《うるし》ぬりの、豪勢な鳥籠である。
「へええ、こいつが鸚鵡かあ。名は聞いてたけど、見るのははじめてだな」
黄味がかった白い羽毛につつまれ、同色の冠毛《かむりげ》を頭上にいただく嘴《くちばし》の大きな鳥が、横に差し渡した止まり木の上で、悠然と実兼をみつめている。
「美しいでしょう。しかも人語を話しますよ」
「人の言葉をか?」
「珍鳥の、珍鳥たるゆえんです」
「だけど、異国の鳥では、しゃべるのも異国語だろう」
「買い取って半年になりますが、その間にわたしがちゃんと日本語を教えこみました」
「なんという言葉を?」
「それは聞いてのおたのしみ……」
「みやげにくれるのか?」
「冗談おっしゃってはいけません。砂金五両でお求めください。ムクリ国について、いろいろとお聞かせした代償です」
「おぬしは元来、香木商だろうが……」
「近ごろは儲けにつながるものなら何でも扱います。墨、硯《すずり》、書画や唐本《とうほん》、玉《ぎよく》のたぐい。虎の皮、豹《ひよう》の皮から生き物まで、注文に応じて取りよせますよ。唐犬、唐猫、白クジャク……お望みとあらば大角《おおつの》をふり立てた水牛だって買いつけるのが、わたしらの仕事。国の主権がどこに移ろうと、交易さえつづけられればいいというのが本音でしてね」
と、言うことはしたたかだが、愛嬌のある肥大漢のせいか、さほど耳にさわらない。
「しかたがない。役にも立たぬ買い物だが、礼ごころに引きとってやる。その鸚鵡、置いてゆけ」
「ありがとうぞんじます」
「ほんとに人語を話すだろうな」
「それはもう、受け合いますとも。面白いおしゃべりをお聞かせするはずですよ」
揉《も》み手しいしい帰って行ったあと、実兼はただちに参内《さんだい》して亀山帝に謁し、松若の話をもとに、蒙古帝国の恐るべきを説いた。
「それはだれから入手した情報か?」
「屋敷に出入りする唐物商人でございます。西国を根城にして手びろく交易をおこなっている男ですから諸外国の政情にもくわしいわけです。おかげで愚にもつかぬ異国の鳥を、たいまい五両で押しつけられました。情報を買うのも、なかなか高くつきますな」
半ばふざけて実兼は言ったのに、亀山帝はニコリともしない。冗談が通じない人なのである。眉間《みけん》に険《けわ》しい縦《たて》じわを刻んで、
「大寺大社に奉幣《ほうへい》し、国家鎮護の祈りを修させよう。実兼、おぬしはどう思う?」
それが癖の、性急な口ぶりで議《はか》った。
「至極のご思案とぞんじます。まず、おんみずから願文を草《そう》せられ、伊勢神宮に納めて、皇祖の神霊に敵国降伏のご祈念をあそばされませ」
一も二もなく西園寺実兼が同意し、防禦への配慮よりも神だのみを優先させたのは、君臣ともに、まだまだ状況の把握が甘かった証拠であった。
「六波羅を通じて、鎌倉にも用心せよと申し達しましょうか」
「いや、その必要はあるまい。執権北条時宗はじめ、幕府の首脳らはこぞって禅宗に帰依《きえ》し、宋国から僧侶を招聘《しようへい》しているという。動乱を避けて、亡命同様わが国に渡来したこれら禅僧どもの口から、故国の実情は語られていよう。われわれよりはるかに詳細に、武家たちは蒙古についての知識を得ているのではないかな」
そこで、とりあえずは伊勢に勅使をつかわし、宸筆《しんぴつ》の宣命《せんみよう》と神馬を奉献して、国家安穏を祈るにとどめたが、西園寺実兼が父の公相《きんすけ》につづいて、隠居とはいえ一家の支柱だった祖父実氏入道を失ったのは、この『ムクリ騒動』のあくる年だったのである。
東二条院
ずっしり、肩にのしかかってきた家督の重み……。それにもまして、
「弱輩のわたしごときに、背負いきれるかどうか」
こころもとない関東|申次役《もうしつぎやく》の重責……。
しかし一つことに、うじうじこだわらないのも青春の特権だった。
蒙古の件がひとまず片づき、父や祖父の服喪が終わると、実兼は生来の明るさをとりもどして、碁すごろく、管絃や蹴鞠《けまり》、歌合わせ絵合わせなど、ふたたびさまざまな遊びに身を入れはじめた。
女相手の夜歩きを再開したのも、言うまでもない。
王朝の香気はうすれ、武門の牛耳《ぎゆうじ》る荒々しい世相に変わっていたし、内実は打算や性の紊乱《びんらん》に堕して、純粋な恋などとはほど遠い男女関係でいながら、若い公卿、殿上人《てんじようびと》らの伊勢・源氏へのあこがれは強かった。
彼らは物語の世界を上つらだけ模倣し、いっぱし自分を業平《なりひら》や光源氏に見立てて、風流男《みやびお》をきどっている。
宮廷の曹司《ぞうし》、権門の局《つぼね》など、女房たちが群れつどう場所では、忍び込む男どもが彼ら同士、夜な夜な鉢合わせしかねない盛んさなのである。
忘れるともなく忘れていた「琵琶をひく少女」への関心が、実兼の中で燃え上がったのは、別人さながら成人した彼女を、ひさしぶりに参上した後深草上皇の御所で、簾越《みすご》しにかいま見たからだった。
(一段とあでやかさを増したな)
実兼は、舌をまいた。いそいで指を繰《く》ってもみたが、年でいえば、まだ二条は十三歳のはずではないか。
(十三か。それにしては、ばかに大人びたものだ)
初潮を境に、女の子はめきめき成熟の度を深め出す。固い蕾《つぼみ》がふくらみ、芳香を発して花弁を開くように、少女は女へと、まぶしい脱皮をとげる。二条もちょうど、その時期にさしかかっているのだろう。
「見ちがえましたよ」
後深草上皇に、実兼はささやいた。
「小さい時分からととのった顔だちをしていましたがね。さして目立たない野の花だったし、九ツや十の子供では、色気にとぼしいのも致し方なかった。それがどうです? すっかり垢ぬけて、きれいになったではありませんか」
「だれのことだね?」
冷ややかに、上皇は応じた。このところ機嫌がばかによくない。実兼とは少年時代からうまの合う遊び友だちなのに、その実兼にすら素気《そつけ》ないのは、上皇なりの憂悶をかかえているからである。
蒙古王から国書が到来し、後嵯峨院と亀山帝のお前に上卿たちが集まって、あれこれ審議し合ったときも、後深草上皇だけはのけ者にされた。
席に呼ばれもせず、結果についての報告さえ正式には受けなかったのだが、
「無視はかまわんさ。いまさら始まったことじゃない。おれは父上に疎《うと》まれ、弟にまで舐《な》められている嫌われッ子……。仲間はずれには馴れているんだ」
上皇は強がってみせた。
「むしろ、そのほうが責任を負わないですむからね。気楽でいいと思っている。切れ者の父上と弟にいっさい委せて、おれはのんびり日なたぼっこでもしているよ」
でも、伊勢神宮への奉幣がすんでまもなく、後嵯峨院の意向で、
「皇太子には、亀山の子の世仁《よひと》親王を立てる」
と発表されて以後は、さすが楽天家の後深草上皇も、
「ひどい。あまりといえば、依怙《えこ》ななされ方だ」
ふさぎこんで、父法皇への恨みごとをあからさまに口にするようになった。
長子相続の原則からすれば、そもそも兄の後深草から弟の亀山へ、横すべりに帝位を譲らせたことからして、順当とは言いがたい。
「おれの次は、おれの子が継ぐのが自然じゃないか。それなのに弟が即位した。でもね、そこまでは我慢するよ。弟は父上母上の愛《めぐ》し子だ。贔屓《ひいき》されても仕方がないが、弟の次はもとにもどして、おれの子を立太子させるべきだった。それをしてこそ、一時脇へそれた帝位が本来の正統に還るのに、父上は弟の息子の世仁を皇太子位につけてしまわれた。ひどすぎる。横暴すぎるよ」
相手かまわず、涙さえ浮かべて、上皇はかきくどくのだ。
この、後深草上皇の言い分には一理ある。
(ご不満もむりではない)
内心、同情はしても、あからさまに後嵯峨院の措置に異をとなえる廷臣はいなかった。
帝座にのぼって以来三十年――。院ノ庁にしりぞいて院政を執《と》りはじめてからでも、二十五年になんなんとしている。後嵯峨院の意志に逆らえる者など、だれもいない。もし、しいて探せば鎌倉の、北条執権家ぐらいなものだろう。
世仁親王の立坊《りつぼう》は強行され、帝系は、こののち亀山天皇のご子孫によって、代々うけつがれていく形勢となった。
「ああ、ああ、つまらん。生きる望みが絶えはてた。前々から山奥にでも隠遁《いんとん》して、剃髪出家するのがおれの願いだったが、それさえ、もはや億劫《おつくう》になった。いっそこの世からおさらばしてしまいたいよ」
愚痴《ぐち》られるつらさに、だれしもつい、院参《いんざん》の足が遠のく。
西園寺実兼も、祖父入道の弔いや法要にかこつけて、しばらく上皇御所へは伺わずにいたが、ひさしぶりに対面してみると、ご機嫌はあいかわらず上々とは言いがたい。
(おきのどくに……。よほど世仁親王の立太子が、こたえておられるのだろう)
気を引き立たせるつもりで、つとめて明るく、
「だれがって……ほら、あの二条のことですよ」
片づけものでもしているのか、簾越《みすご》しにチラチラ動く透《す》き影を目で追いながら、実兼は小声で言った。
「もうかれこれ、三年になりますかな。法皇|御賀《おんが》の試楽で、みごとに破竹を弾じたあの少女も、いつのまにか一人前の女房に育ち上がったではないですか」
「お前、二条に気があるのか?」
「お上《かみ》が『くれてやる』とおっしゃるなら、よろこんで頂戴するつもりです」
「やらんよ」
「これはまた、にべもない仰せですな」
「下心があるから、やらん。二条は二の次。お前が狙っているのは、じつのところ破竹だろう。女の身柄と一緒に、あの琵琶を西園寺家へ取り込んでのけたい肚《はら》なんだ。おれにはちゃんと判っているよ」
「まいったなあ」
うしろ首を、実兼は平手でぴたぴた叩いた。
「打ちあけた話、すこしは破竹への思惑《おもわく》もありますけどね。しんじつ欲しいのは二条です。誓ってもいいですよお上。試楽の晩の、いかにも賢そうな面ざしが目に灼《や》きついて離れなかったのですが、さらに美しくなったのにはびっくりしました。改めて恋着し直したってわけですな」
「ふん」
不快げに、後深草上皇は唇を曲げて、
「だれにもやらん。二条はおれのものだ」
低く言い放った。
目にしなければしないまま、忘れてさえいた二条の存在なのに、後深草上皇の口から、
「だれにもやらん。二条はおれのものだ」
挑《いど》みかかりでもするような宣言が発せられたとたん、
(そうはさせぬぞ)
実兼は、やみくもな対抗意識にとりつかれた。われながらふしぎな感情の動きであった。
「ほほう、二条の伴侶は、すでにお上と決まってしまったわけですか」
意地わるく、実兼は念を押した。
「でも、いくら乳人子《めのとご》でも子飼いでも、男女の仲となれば別ですからね。二条の側は、お上をどう見ているかわからんでしょう」
「あの子はおれを好いているさ。四ツの年から手許に引き取って育ててきた間柄だ。昨日今日のつきあいとはちがう」
「だからなお、馴れすぎて、おたがいに恋人扱いはしにくくなっているのではありませんか。お上は二条の保護者ですよ。うしろ楯ですよ。失礼ながら、年にも十五の開きがあります。二条にすれば、たのもしい叔父か兄としかお上を見てはいないでしょう」
「そんなことはない。お前なんぞに何がわかる。嫉《ねた》むのは勝手だが、嫌味を並べるのはやめにしろ」
上皇はなかなかの洒落者《しやれもの》で、服装には凝《こ》るほうだ。この日も二藍《ふたあい》の涼しげな直衣《のうし》に、唐花丸《からはなまる》を織り出した藤紫の指貫《さしぬき》という品のよいなりで小机に寄りかかっている。
ただし、その指貫の膝をつかんだ両の手は青白く筋ばって、小刻みな慄えを走らせていた。よほど怒った証拠と見て、
(わるかったな)
言いすぎを、実兼はちょっと悔いた。それでなくてさえ世仁皇太子の一件に打ちのめされ、腐りきっている後深草上皇を、
(この上、痛めつけるのは酷にすぎる)
反省し、口をつぐんだのである。
しかし、それだからといって、二条をあきらめた実兼ではなかった。
上皇の御前《ごぜん》から退出すると、その足で彼は御所の西ノ対《たい》に住む叔母の、東二条院|公子《きみこ》を訪ねた。
亡くなった実氏入道の娘……。後深草上皇が帝位にあったとき女御《にようご》として入内し、まもなく中宮に冊立《さくりつ》されて、一時はならぶ者のない寵を誇った女性である。
しかし夫帝が退位し、上皇の座にしりぞいてのちは、公子も『東二条院』の院号で呼ばれる身となり、あり余る暇をもてあまして、毎日を喞《かこ》ち顔にくらしている。
若い甥が見舞ってくれたのは、したがって公子にとってこの上ない退屈しのぎとなった。さっそく侍女たちに、もてなしの仕度《したく》を言いつけながら、そのくせ口では、
「どうした風の吹き回しなの実兼。世捨て人《びと》同然なわたしの所になど用はないでしょ」
公子はチクチク皮肉った。
「いけませんなあ、叔母上のお若さで、ご自身を世捨て人などとおっしゃるのは……」
上皇に対してもそうだが、実兼はここではなおさら、あけすけな口をきく。
「どうぞおかまいなく。客ではないのですから……」
一応、遠慮はするものの、切って出された冷やし瓜《うり》を玻璃《はり》の皿ごと手もとへ引き寄せて、さっそくむしゃむしゃやりながら、
「いま、お上の御前から退《さが》って来たところですがね、あちらで聞かされたのも愚痴ばかり……。まだ二十八か九の上皇が、隠遁したいの、いっそ死にたいのと、気の滅入るような口走りをなさるのだから閉口《へいこう》します」
実兼は、告げ口じみた言い方をした。
「世仁親王の立坊《りつぼう》を無念がるお気持はわかるけど、何もそこまで世をはかなまなくても……」
「わたしは別に、亀山帝の皇子が皇太子になられたからって、落胆などしてませんよ。世捨て人などと言ったのは、言葉の綾……。この子がいるのに、どうして尼になどなれるものですか」
と、かたわらの几帳《きちよう》のかげへ、東二条院公子はとろけそうな笑顔を向ける。生まれてまもない赤児が、宝珠さながら白絹にくるまれて乳母のふところに眠っていた。
「お肥立《ひだ》ちは、至極およろしいようですな」
「おかげさまで……。お上がもっと足しげくお越しくださったら、言うことはないのですけどね」
「姫宮のお顔を見においでにならないのですか上皇は……。はじめての、女のお子なのに……」
「わたしが生んだ初子《はつご》でもあります。三十九にもなっての初産《ういざん》ですもの。みごもったと知ったときは、うれしいよりも怖かった。無事に身二つになれたのは神仏のご加護でしょう」
「父上につぐお祖父さまのご他界でしたからね。叔母上にまで、もしものことがあったら大変だと、わたしもずいぶん気を揉《も》みましたよ」
「そうね。まわりはみな、心配してくれました。それはお上だって、加持祈祷、典薬の手配から誕生のさいの祝いまで、ひととおりのことはしてくださったわ。でも、すべて上の空……。おざなりに喜んで見せているだけでお心は世仁親王の件に捉《とら》われつづけていました。わたしにはよくわかるのよ実兼」
「やはりそれは、重大なことですからな」
ふた切れ目の瓜を、実兼はほおばった。咽喉《のど》がかわいているせいか、甘味のつよい汁気たっぷりな瓜が、ばかにうまい。
「ご自身に何の科《とが》もないのに、父法皇の偏愛から帝位を弟に持っていかれ、この先ながく、弟の子孫が正統とみなされる公算が大となった。長子でいながら、こちらは傍系に追いやられたというのでは、後深草上皇ならずとも割り切れないのは当然でしょう。ご自分一代だけの問題ではないのですからね」
「そうよ。ご自身のことではない。お子の煕仁《ひろひと》親王が不憫《ふびん》で、それでお上は、こんどの法皇のご決定に腹を立てておいでなのよ」
赤児に向けていた慈母の微笑が、公子の面上から拭い取りでもしたように消えてしまった。
顔色が嫉妬に青澄むと、それでなくてさえやや吊り上がり気味な目尻にギリッと力がこもって、肉付きの薄い骨ばった容貌に、暗い翳《かげ》りがさす。
煕仁親王や、その生母の洞院|※[#「りっしんべん+音」]子《しずこ》を話題にすると、きまって叔母の表情がとげとげしくなるのを実兼は承知していたから、
(また、はじまったな)
気にもとめずに冷やし瓜を食べつづけた。
後深草上皇には東二条院公子のほか、後宮にはべる女性が幾人かいる。
だれよりも身分が高いのは、中宮に冊立された公子だが、その公子が日ごろ極端に敵視している競争相手が、洞院|※子《しずこ》《しずこ》なのであった。
洞院家は、西園寺家から枝分かれした同族で、公子と|※子《しずこ》はいとこ同士にあたるため、近親憎悪的な心理もあるのかもしれない。
しかし敵視の最大の理由は、|※子《しずこ》が公子の持ちえないものを、三つも所持しているからである。
その一つは若さだ。十四歳も、|※子《しずこ》は公子より年下……。それこそが、公子のもっとも深刻なひけ目なのだけれど、夫の後深草上皇とくらべてさえ彼女は十一歳年長なのであった。
そして、二つ目は容姿――。
痩せ型で髪の量が少なく、女にしては背も高すぎる上に、感情の起伏がすぐカッと顔に出る公子とはあべこべに、|※子《しずこ》はふっくら肥えて、いかにもあたたかな、穏やかな雰囲気をまとっている。いろ白の、きめのこまかい餅肌《もちはだ》も七難を隠すのか、二十五という実際の年より|※子《しずこ》ははるかに若く見えた。
さらに三つ目は、|※子《しずこ》がとうに男の子を儲けているという事実である。後深草上皇の第一皇子……。いま五歳の愛ざかりに達した煕仁親王が、その生みの子だ。
入内したのは|※子《しずこ》より先なのに、なぜか長い間みごもらず、やっとこのたび、高齢出産を危ぶまれながら公子は上皇のお子を生み落とした。でも赤ン坊は女の子だし、年を考えればもう再び、懐妊も分娩も不可能に思える。つまり「皇子の母」になりそこなったという意味でも、公子は|※子《しずこ》に、おくれを取っているわけなのであった。
皇太子位が煕仁親王に渡らず、亀山帝の皇子の、わずか二歳にすぎない世仁親王に回ってしまったのを、同情するどころか、
(よい気味、これで溜飲《りゆういん》がさがったわ)
公子がひそかに喝采《かつさい》したとしても、積もりに積もった「|※子《しずこ》憎し」の心情からすれば、無理ないとも言えるのである。
冷やし瓜の最後のひと切れを、
「ああ、うまかった」
つゆも残さず胃の腑にすべりこませながら、西園寺実兼は心の奥底では、
(これだから女はだめなんだな)
こっそり、叔母の東二条院公子を批判していた。
亀山帝の側に、この先、半永久的に帝位の正統性が移ってしまうというのは大変なことなのに、単に洞院|※子《しずこ》所生の煕仁親王が皇太子になりそこねた事実にだけ目を向けて、快哉《かいさい》をさけぶ視野のせまさ……。
(夫の後深草上皇が傍系に追いやられてしまえば、叔母上、あなたやあなたの生んだこの赤ちゃんの将来にだって、日ざしは恵まれなくなるのですよ。玄輝門院《げんきもんいん》への妬みにだけくらまされて、大勢《たいせい》の把握をあやまってはいませんか)
そう、意見の一つもしてやりたい。
『玄輝門院』というのは、洞院|※子《しずこ》の院号で、彼女の宮廷での資格は、かつて正式には女御であった。
(でもまあ差し当たり、この問題は脇へのけておいていい。後嵯峨院もすでに五十の坂を越えられた。いつ何どき、どんなことになるかわからぬ。崩ぜられでもすれば、局面はまた、思いがけぬ方向に流れ出すかもしれないのだからな)
そんなことより今日、実兼が公子の私室に顔を出したのは、その嫉妬ぶかさを利用して、後深草上皇の二条への手出しを、妨害してやるためだった。
従姉妹《いとこ》であり、かりにも女御の地位にあった|※子《しずこ》に対してさえ、あらわな競争意識を捨てきれず、陰に陽に憎しみの感情をぶつけつづけている公子である。
「上皇はいま、青《あお》女房の二条にご執心ですよ。『あの女はおれのものだ。だれにもやらぬ』と、はばかりもなく言い散らしておいでですぞ」
チラとでも、そんな情報を吹きこめば、公子は火種を投げられた枯草の勢いで、たちまち燃え上がるにきまっている。
それでなくてさえ気性の勝った年上妻――。生母大宮院|※子《よしこ》の妹でもある公子に、日ごろ、ともすると押されがちな後深草上皇なのだ。
(その怒りをはね返してまで、二条を後宮に加えるかどうか)
まず、おじけづくだろうと実兼は踏んでいる。すけ大の忘れ形見だし、幼少から手塩にかけた『若紫』だから、上皇もたやすくはあきらめまい。いずれかならず恐妻の目を盗んで、ふたたび動き出すだろうが、
(そのあいだに、こちらが先手を打って、あの娘を攻め落としてしまえばよい)
というのが、実兼の立てた作戦なのであった。
春雪
東二条院|公子《きみこ》の嫉妬を煽《あお》り、その怒りを利用して、二条への、後深草上皇の求愛に水をさそうという西園寺実兼の計画は、しかし結局、失敗してしまった。
「叔母上、ご用心なさい。上皇はお側仕えの二条に、食指をうごかしておいでですよ」
ささやくやいなや、
「なんですって? お上《かみ》が二条を?」
もくろみ通り公子の血相は変わった。
「それは、たしかなことなの実兼」
「じつは二条の所有に帰した破竹を、あの娘ごと我が家に取り込んでのけようと思ってね、上皇に拝領を願い出たんです。するとどうでしょう。『二条はおれのものだ、だれにもやらん』と、けんもほろろな仰せではありませんか」
「まあ、よくもそんなことを……」
癇《かん》走った大声におびえて、几帳のかげに寝かされていた赤児が泣きだすのもかまわず、公子は立って部屋を出て行った。
この対《たい》とは、橋廊下で結ばれている正殿を、上皇は常の住居にしておられる。乗りこんでいった公子が、そこでどんななじり方をしたか、上皇が何と応じたか、実兼にはおおよそ想像がつく。
胸ぐらを掴まんばかり詰め寄って、公子はおそらく、すけ大と上皇の過去に触れ、
「母親ばかりか、娘とまでまじわりを結ぶなんて、ほめたことではございませんわお上、ご自重あそばせ」
まくしたてたにちがいない。
「わたくしは、やたらやきもちを焼いているのではありません。ご寵愛の女房がこのさき一人二人ふえたからといって、お上のご身分ならいたしかたないとあきらめています。おん父後嵯峨院が、ほんの気まぐれのお遊び相手までいれれば、二十人を越すであろう後宮を擁《よう》し、うち十五人のおん腹に、二十五人もの皇子皇女を儲けられたのにくらべれば、お上などまだまだましでいらっしゃいますわ。いまのところ、わたくしが生んだ姫宮|※[#「女へん+令」]子《れいこ》を入れて、お子はたったの十二人……。女性の数も洞院|※子《しずこ》さまとわたくしのほか、大納言ノ二位どの、御匣《みくしげ》どの、別当ノ典侍《すけ》どのなど五、六人にすぎませんものね」
「それなのに、なぜやかましくおれを責めるのだ」
「ほかの女房なら我慢します。でも二条だけはおやめくださいまし。陰気で、そのくせ芯《しん》がきつそうで、おとなしげな打ち見の下になにやら怕《こわ》いものを潜ませている気味のよくない娘ですわ。二条を寝間へお召しになることだけは、わたくし承服いたしかねます」
上皇の側は、たださえ気ぶっせいな年上妻の、この舌鋒をあしらいかねて、
「二条のことなど、はじめから乳兄妹以上に思ってはいない。何かのまちがいだよ公子」
しどろもどろ打ち消したに相違ないと、実兼は推量し、ほくそえんでいたのである。
たしかに上皇は、東二条院公子の剣幕にたじたじして、
「実兼めが、根も葉もない告げ口をしたのだろう。けしからん」
と、表面しらを切り通したようだ。
そしてひとまず、公子の攻撃をかわしておいて、かげでの工作に、俄然《がぜん》、力を入れはじめたのである。
(叔母を焚きつけ、その嫉妬深さを利用して、二条への、後深草上皇の働きかけを牽制《けんせい》しよう)
実兼のこの企みは、十中の八、九、成功するはずだった。なみなみならず上皇は、公子を恐れていたし、性格的にも弟の亀山帝とはうらはらに、執着心が薄い。
よくいえば淡白、わるくいえば飽きっぽい人なので、邪魔がはいれば、
「ええ、めんどう」
嫌気がさして投げ出すにきまっていると、実兼は安易に考えていたのだが、今度ばかりは見込みがはずれた。
むしろ恐妻に責めたてられたことで、上皇は意地になり、二条への恋情を一気につのらせてしまったらしい。
年があらたまり、文永八年の正月を迎えるとまもなく、諸儀式のあとに催された御所内での酒宴の席上、
「雅忠、雅忠」
妙に馴れ馴れしい笑顔で、上皇は久我《こが》大納言を手招きした。二条の父親だから、
(おかしいぞ)
実兼は神経をとがらせ、さりげなく上皇のそばへ寄って聞き耳を立てた。
公家たちは揃って酒につよく、宮中でのご酒宴というと、だれしも身体がふらつくほど酔いしれるのが慣例になっている。
この晩も上皇の御前というのに、はやくも放歌高吟の乱痴気さわぎがはじまっていて、実兼の動きになど注目する者はいなかった。
「は、召しますか」
久我大納言雅忠が上皇のお座近くにじり出ると、
「盃をとらそう。九三で受けてくれ」
これもしたたかに酔った上皇が、強《し》いられる。雅忠も、首筋までまっ赤に染めながら、
「とんでもない九三など……。もはやとても頂けませぬ。公《おおやけ》のお儀式で、すでに三三のご献盃をつかまつり、ごらんのごとく大酔《たいすい》いたしております。ひらにご容赦を……」
辞退するが、上皇は許さない。
「婿舅《むこしゆうと》、固めの盃だ。ぜひとも受けろ」
「えッ? 婿とは……」
「この春こそ『たのむの雁《かり》』を貰いにゆくよ」
たのむの雁――。それが二条をさすことは明白だった。喧騒のただ中であるにもかかわらず、上皇のこの一言は、深山の静けさを裂く斧《おの》の響きさながら、実兼の聴覚をしたたかに搏《う》った。
酒宴の席の、目が舞いそうな温気《うんき》にひきかえて、この日、外は雪だった。
まだまだ夜を徹して上皇も、廷臣たちもが、飲みつづける構えでいる。実兼は人々を尻目にこっそり御所をぬけ出し、車宿りに待機していた供の者に、
「五条の、東の橋詰めへやれ」
と命じた。
「ご帰邸なさいませんので?」
「帰るが、その前に唐物商の芳善斎に寄ろうと思う」
「店を開いていましょうか、この時刻……」
「かまわん。寝ていたら叩き起こせ」
言われた通り、遠慮会釈なく表の大戸をドカドカやりながら、
「西園寺公のお成りだ。あけろ、あけろ」
雑色《ぞうしき》がわめくと、しぶい目をこすりこすり使用人が出て、それでも、
「どうぞおあがりくださいませ」
あわてて実兼を奥の住居へ案内した。
「ただいま主人がまかり出ます。しばらくお待ちを……」
通された客間の上段には、名も知れぬけものの皮が敷かれ、どっかりその上に安坐すると、何やら異国の王族にでもなったような気分だ。唐金《からかね》の燭台は、竜の巻きついたこれも明らかに舶載品だし、よくおこった炭を小女《こおんな》が、山盛りについでいった金銅製の巨大な火鉢は、四方に環をさげた形が、どう見ても中国古代の祭器である。
「これはこれは殿さま、よる夜中おんみずから茅屋《ぼうおく》までお運びとは、ただごとならず。何ご用でござりますかな?」
そそくさ現れた松若は、さすがにおどろいた表情で訊《たず》ねる。
「うん、急なたのみでね、御所からの退出途上、寄ったんだが、すまなかったな。もう寝所に引きとっていたんだろ」
「どうつかまつりまして……。まだ帳付けをしていましたよ」
「はじめて奥へ通ったけど、さすが有徳人《うとくじん》はちがうなあ。店つきより、さらに住居は立派じゃないか」
「お屋敷にくらべたら馬小屋ですよ」
「この敷物は何だい?」
「豹《ひよう》の毛皮です」
「へええ、豹……。はじめて見るけものだな。染めたんじゃないのか? ほんとにこんな珍しい模様をしているのか?」
「染めたんでも描いたんでもありません。虎の仲間でしょうがね、海のかなたは広大でさあ。われわれの知らない珍奇な生き物が、まだ、いくらでもいるはずですよ」
「そうだ。生き物で思い出したが、いつぞやお前に押しつけられたあの鸚鵡《おうむ》、ひどいじゃないか」
ここへ来た目的を忘れて、
「人語なんぞ、ひとこともしゃべらんぞ」
実兼は松若を難詰した。
「なんですって? ひとこともしゃべらない? 妙ですなあ」
「ごくたまさか、癇癪《かんしやく》でも起きるのかギャギャギャアと、ぼろ布を破るような耳ざわりな声で鳴くだけで、いくら機嫌をとっても『おはよう』とも『こんにちは』とも言わない。黙りこくったきりさ」
「そんなはずはありませんぜ。苛《いじ》めたんじゃないですか?」
「たいまい五両もの砂金と引き替えた鳥だ。苛めなどしてたまるものか。水も餌も充分やって、お世辞たらたら世話しているのに、強情っぱりなやつったらないんだ」
「まあさ殿さま、相手は鸚鵡ですからな、あせってはいけません。気ながにつき合っているうちに、いつかかならず人間の言葉をしゃべりますよ。それも、とびきり面白い人語をね」
「なんと言うんだ? 勿体ぶらずに聞かせろよ」
「申しあげてしまっては、あとの楽しみがなくなります。それよりこんな時刻、何用あってご自身お越しあそばしたので?」
「うん、その件だがね」
やっと本論にもどって、実兼は切り出した。
「とびきり上等な舶来の布地で大至急、若い女向きの装束をひと揃え、都合してほしいんだ」
「ははあ、女人の召し物ねえ。作って作れないことはないけれど、少々お門《かど》がちがいませんか。手前どもは唐物商ですが……」
「だからこそ呉郡の綾や蜀江《しよつこう》の錦、天女のまとう羽衣だって調達できるわけじゃないか」
「天津乙女《あまつおとめ》の羽衣ですか。難題だなあ」
「豹の毛皮の入手より、たやすかろうが……」
「布地のことでしたらどうとでもなります。礼装ですか?」
「単衣《ひとえ》、上着、袿《うちき》、唐衣《からぎぬ》、裳《も》、袴と、三ツ小袖、それに二ツ小袖ということになるね」
「豪勢ですな。いったいどなたさまの召し料です?」
「恋人に贈るのさ。あすじゅうに……」
「あす?」
松若は目をむき、やがて笑い出した。
「冗談言いっこなし。どれほど腕っこきの縫女《ぬいめ》に渡したからって、礼装一式に小袖二組、半日や一日で仕上がるわけはありませんよ」
「そこを何とかしてもらいたいからこそ、上皇御所でのご酒宴を脱け出して、こうして夜おそく、おぬしの店へ来たんだぞ」
「むりですな。できない相談です」
「たのむよ松若、礼はいくらでもする。この通りだ」
「殿さまが頭をさげても、屁《へ》の役にも立ちませんがね、物代《ものしろ》の威光はおそろしい。つかぬ都合もつけてしまう神通力があります。ま、それにすがって、やってみますかな」
恩きせがましい言い方に、自信のほどがほの見える。金さえ出せば、けっくは動く男なのである。
豪語にたがわずあくる日、夕刻に、芳善斎から届けられた女房装束の美麗さは、ちょっと類のないものだった。
ことにも唐衣と袿に使われている舶来の綾や錦は、女という女を魅了せずにおかない異国風な文様《もんよう》の品で、男の実兼でさえ、
「すばらしいなあ」
なま唾をゴクリとやったほどだが、一日たらずで一式みごとに仕立てさせた手柄の代償も、
「なに? なんだと?」
覚悟していたはずなのに、つい、聞き返してしまったくらい高かった。
西園寺家は、しかし内福だし、若いとはいえ今や実兼は、押しも押されもせぬこの家の当主だ。家計をつかさどる老|家司《けいし》の渋面《しぶつら》に、いちいちビクついていた部屋住みのころとはちがう。右から左へ、払ってやることも可能だが、
「人語をしゃべるという触れこみで押しつけられた鸚鵡が、何ひとつ言わんのは約束違反じゃないか。そのぶん、負けろよ」
芳善斎の使用人相手に、値引きの交渉をしてのけるみみっちさは持ち合わせていた。
「望月の欠けたることなし」
と栄華を誇った王朝の公家ぐらしを、そっくり外形は引きついでいても、内実はまったく相違している。
官僚機構の頂点にいて、荘園《しようえん》をふやす手段をいくらでも持ち、そこからあがる貢物で優雅にくらせた時代は遠い昔の夢となった。
いま、公家たちは、その生活基盤をひどく圧迫されている。
西園寺家のように、関東申次役の特権を握り、鎌倉幕府と朝廷のあいだに介在して、双方からいちもく置かれている立場なら、まだしも強いが、ほかの公家衆は多かれすくなかれ、領所からの収入の減少傾向におびやかされていた。
幕府の、いわば出先機関である守護・地頭の権限と、競合し、ぶつかり合う土地では、どうしても侵害や悶着が起きやすい。
訴訟ごとにまで発展して鎌倉に訴えても、よほどの理不尽、目にあまる不正でもないかぎり、配下の守護や地頭に有利な裁断がくだるのは、これまた、やむをえなかったし、彼らの武力の前には、抵抗のすべもない。
そんななかで、やはり皇室はずばぬけた富豪だった。全国におびただしい領所を私有しているのだ。
でも、藤原氏と通婚し合い、その藤原氏が摂関政治の枢軸にいて、権力をふるっていた王朝時代にくらべると、皇室の威勢も地に落ちた。幕府の目色をうかがわなければ、何ごともなしえないほど弱体化していたのである。
したがって、西園寺家の当主が支払いを値切っても、あえて怪しむにあたらないが、
「なにぶんにもお値引となりますと、手前の一存には計らいかねます。後日、主人を伺わせますので、ご談合くださりませ」
そう言って芳善斎の使いは帰っていった。
見送って、実兼はすぐ私室に入った。小机の上に置いた文箱《ふばこ》からうやうやしく取り出したのは、朝のうちにしたためた恋文である。念入りに香を焚きしめた紅色の薄様《うすよう》には、自慢の達筆で、
「降りつもったまっ白な雪に、足跡をつけとうございます。今宵のみにかぎらず、行く末までも……」
と書かれている。
「あなたの許へ通いたい。汚れない雪に似て、まだ何びとも手を触れぬ御身を、わたしのものとすることを、どうぞおゆるしいただきたい。永久に……」
という意味が、言外にこめてある。
いま一枚は、やや厚手の奥州紙《みちのくがみ》に書いた恋歌であった。
つばさこそ重ぬることのかなはずと
着てだに馴れよ鶴の毛ごろも
「共寝がかなわなければ、せめてこの衣裳を召してくださるように……」
との歌意である。
袿の袖の上にこの奥州紙を乗せ、召使の女房に装束を包ませて、実兼は軒先をふり仰いだ。だいぶ小降りにはなったけれど、暮れきった暗い空から、雪はまだ、はらはら落ちつづけている。
勾欄《こうらん》下の遣《や》り水の、細いうねりのほか、庭は芝地も前栽も白ひと色に埋まり、手紙の文言とぴったり一致していた。
(降ってる降ってる。おあつらえだな)
晴れ上がって朝から照りつけでもしたら、雪は解けてむざんなぬかるみとなる。恋文も書き直さねばならなくなったはずだ。実兼が芳善斎の松若をせきたて、がむしゃらに装束の納入を急がせたのも、せっかく考えついた文章を、無駄にしたくなかったからにすぎない。
「兵藤太《ひようとうだ》はいるか」
「宿直《とのい》しております」
「呼んでくれ」
召しに応じてすぐさま現れたのは、子飼いの侍で、弁舌も腕も立つ実兼気に入りの若者である。
「雪の中、しかも夜道を大儀だがな。この包みと文箱を上皇御所まで持参してほしいのだ」
「御所の、どちらへ?」
「二条どのの曹司《ぞうし》へ……」
「かしこまりました。しかとお渡しいたします。ご返事は?」
「もらえたら、もらって来てくれ。ただし、御前に出ていて留守かもしれない。そうしたら 女童《めのわらわ》にでも手伝わせて、部屋の中へ置いてくればいい。人に気づかれるなよ」
「ご念には及びません」
たのもしげに受け合って出て行ったのに、兵藤太が御所から帰ってくるとすぐ、それを追いかけるように包みはもどされて来た。みごと二条に、突き返されたのである。
「おやおや、とんぼがえりか。それにしても早いなあ」
苦笑はしたものの、このくらいのことにめげる実兼ではなかった。
「ごくろうだが兵藤太、もう一遍、届けに行ってくれ」
懲りずに再び、使いを出した。
遊女・白拍子ならともかく、はじめて恋文をよこした相手から、たいまいな品物を贈られ、はい、頂きますと受けとるような娘は、深窓の育ちにはいない。いったんは返すのが常識なのだ。念のため包みを開けてみると、実兼の歌はなくなり、代わりに、
よそながら馴れてはよしや小夜衣《さよごろも》
いとど袂《たもと》の朽ちもこそすれ
二条からの返歌が入れてあった。
「ほほう。これがあの娘の筆蹟か」
手に取って、実兼はつくづく眺めた。
この正月で二条は十四……。それにしては、将来の上達が思いやられるしっかりした筆の運びだし、歌の詠みぶりもわるくない。
「まだ、よく存じあげない殿方からの贈り物を身につけ、それが肌になじみでもしたら、行く末きっと泣くようなことになるでしょう。美しい着物も、涙で袂が朽ちてしまいますわ」
とは、なかなかに小癪な言い回しではないか。実兼はいま一度、こんどは紫の薄様《うすよう》に、
契りおきし心の末の変らずば
ひとり片敷け夜半《よは》のさごろも
と走り書きし、そっと包みの中にすべり込ませた。こちらの手紙と歌を取り、返歌をよこしたのは脈のある証拠である。
「こんどは受け取るぞ。大丈夫。黙って局の口に置いてくればいいよ」
「そのようですな」
兵藤太もうなずいて出て行ったが、主従の予測は的中した。二条は装束を返さなかったばかりか、それからしばらくして後嵯峨院が上皇御所にお越しになった晴れの日、満座の中へ平然と着て出たのである。
「どうしたのだ二条、そのあでやかな袿や唐衣は……」
「色といい光沢といい我が国のものではない。異国渡りの絹地だが、いったいだれからの贈り物か?」
後深草上皇や父の久我大納言がいぶかって、こもごもたずねるのを、そしらぬふりをしながら実兼は聞いていた。二条が何と応じるか。興味と不安に胸が高鳴ったが、
「北山の准后《じゆこう》さまから頂きました」
答は静かだし、落ちつきはらって、どこやら小づら憎くさえ感じられた。
(琵琶を弾じた試楽の晩も、こんな風だったな)
度胸のよさに、実兼は舌を巻いた。
鶴の毛ごろも
新調の礼服を、
「だれからの賜り物か?」
後深草上皇や父大納言に問われて、二条がとっさに口にした人の名……。
「北山の准后さま」
とは、西園寺実兼の祖母である。
もう少しくわしく言えば、先ごろ他界した実空入|実氏《さねうじ》の未亡人で、名は貞子という。
夫の実氏が家督をせがれの公相《きんすけ》にゆずり、北山の別邸に引きこもって法体となったのをしおに、貞子も剃髪して尼姿に変わった。
父母に先立って公相が亡くなり、つづいて実氏までが薨《こう》じた今なお、貞子のみはしごく達者で、おおぜいの召使いにかしずかれながら別邸ぐらしを楽しんでいる。
「准后」
というのは、
「太皇太后、皇太后、皇后の、三宮《さんぐう》に准じる待遇」
をさす。
貞子は、里方《さとかた》の格からいえば、西園寺家よりやや下の四条家の出だが、つれそった夫の実氏が太政大臣にまで昇り、関東申次の顕職を兼ねたばかりか、その生みの娘が二人まで、中宮に冊立《さくりつ》されるという幸運にめぐまれた。
すなわち上の娘の大宮院|※子《よしこ》は後嵯峨院の后《きさき》となって、後深草・亀山の両帝を生む。
下の娘の東二条院公子も、これは姉の子の後深草院に配されて、同じく后となったわけだから、貞子は、
「法皇の姑、二帝の祖母、二皇后の母」
という世に並びない地位を獲得……。三宮に准ぜられ、従一位に叙されて、
「北山の准后さま」
あるいは、
「一位さま」
とも、ひとびとに尊称される倖《さいわ》いびと≠ニなったのである。
しかも貞子の実家の四条家は、少女二条の母の里でもあった。
二条を生んだすけ大は、大納言四条隆親の娘だが、貞子准后は隆親の姉なのだ。つまりすけ大は、准后の姪《めい》……。二条は准后の「姪の子」という関係になる。
これを言いかえれば、亡き西園寺公相とすけ大は母ちがいの従兄妹同士、そして、そのおのおのの子である実兼と二条は、また従兄妹ということになろう。
装束の贈り手を、北山の老尼公に擬したのは、したがってだれにも納得のゆく答えだけれど、同時にそれは、巧みに西園寺実兼の名を暗示してもいた。
(尼公のご嫡孫こそが、本当の贈り主ですよ)
言外に、そう匂わした二条なのに、父の久我大納言雅忠が言葉通り受けとって、
「なるほど。准后さまならば高価な綾錦をくだされても、ふしぎはないな」
うなずいたのは笑止であった。
でも、さすがに後深草上皇の読みは、久我大納言より深かった。
「ははあ、北山准后からの拝領品か」
上から下までじろじろと、点検でもするように二条の装束を眺め回したあげく、
「紅の単衣に萌黄《もえぎ》の上着、紅梅の袿《うちき》に錦の唐衣、腰に海部《かいぶ》の裳《も》を引きむすび、緋の長袴でめかしこむとは、さてさて華やかなものだ。准后もお年に似合わぬ派手ごのみでいらっしゃるな」
視線を転じて、意味ありげに実兼を見た。
北山准后は、大宮院|※子《よしこ》の息男である上皇にとっても、母方の祖母にあたる。
あべこべに准后の目から見れば、上皇と実兼はどちらも甲乙なく、いとしい孫むすこのはずだった。
二人はいわば、北山准后を楔《くさび》にしての孫同士、そして今や、二条をはさんで競い合う恋仇《こいがたき》ともなったのである。
(おのれ実兼、娘ごころを贈り物で釣るとは……。出しぬきおったな)
よし、それならこちらもと気負っても、到底かないそうにない絢爛《けんらん》たる衣裳なのだ。
二条が入って来た瞬間、女房たちのあいだに驚きのどよめきが揺れ返したことでも、それはわかる。
「唐衣も袿も、日本の絹地ではなさそうね」
「着物に着られた恰好よ。似合わないわ」
聞こえよがしの悪口は、うらやましさの裏返しだろう。降りしきる雪の道を夜おそく、実兼が芳善斎へ駆けつけ、しぶる松若をくどき落としたのも、この効果を狙ったからだった。
(上皇は破竹を二条に与えた。神品と評してよいあの琵琶を負かすには、蜀江の錦、呉郡の綾の力を借りるほかない)
そう思えばこそ大金の支出を覚悟したのだが、手ごたえは充分あった。恋文や恋歌ばかりか、いったん返してきた贈り物まで結局二条は受けとり、法皇お成りの晴れの日に、それを身にまとってさえくれたではないか。
(どうやらわたしの勝らしいな)
気をゆるめるのは、しかし早すぎた。実兼の油断の裏をかいて、上皇はいきなり直接行動に出たのだ。
「二条を、そなたの屋敷へ帰らせるよ」
大納言久我雅忠に、有無を言わさぬ語気で宣言したのである。
「娘を、わが家へ? なんぞ粗相でもつかまつりましたか?」
「そうじゃない。十五日夕刻、おれのほうから改めて久我邸へ、『たのむの雁』を貰い受けに行く。婿入りだよ雅忠。泊まるからね、そのつもりで仕度をしておいてくれ」
身体が弱く、気も弱く、人と争うのを何よりも苦手とする雅忠は、一方的な上皇の言葉に黙ってただ、頭をさげたけれども、
(妻ばかりか、娘まで閨《ねや》に召すおつもりか)
灰をかぶせておいた胸中の燠《おき》が、怒りの炎となって燻《くすぶ》り出すのを、防ぎようがなかった。
浮かぬ顔で久我雅忠が退出したあと、それを追うように娘の二条までが、一条|京極《きようごく》の父の屋敷へ返されたと聞いて、
(さては正式に婿入りの形をとり、新枕《にいまくら》を交わすおつもりだな)
立場の優位にものをいわせ、強引な実力行使に踏み切ろうとしている上皇であることを、実兼もたちまち覚《さと》った。
もはや一刻も猶予《ゆうよ》はならない。
「どうしよう兵藤太。よい知恵はないか」
「上皇がお成りあそばす前に久我邸へ忍び込んで、女君《おんなぎみ》をひっさらっておしまいなされませ」
「それは無茶だよ。いくら何でも……」
「さらうのがいけなければ、せめてひと足先に、女君のお身体に殿が手型を押してのければよろしいでしょう」
「そうだな。どちらを選ぶかはお上《かみ》とわたしを受け入れてのちに、二条自身が決めればいいんだ。しかし忍び込めるだろうか」
「おまかせください。首尾しますから……」
自信ありげに兵藤太が受け合ったのは、久我邸に勤める雑色《ぞうしき》の一人に仲のよい友だちがいるからだった。
この男に呑みこませ、男の情人の、これも雑仕《ぞうし》として屋敷に住みこんでいる女に手引きさせて、思いのほかやすやすと、実兼は二条のいる西ノ対《たい》の庭先にまでたどりつくことができたのであった。
「ご寝所はそこでございます」
雑仕女《ぞうしめ》のささやきが、たのもしい。
「掛け金《がね》は?」
「はずしておきました」
その女が妻戸のきわに、雑色が母屋《おもや》に通じる渡殿《わたどの》の詰めに、そして廊の階《きざはし》の下には兵藤太が控える。
「完璧の見張りだな」
実兼は苦笑した。彼の、これまでの経験からすれば、女の家へ忍んで来て、たとえ家人に見つかったところで、打ち打擲《ちようちやく》はもちろん、その行為を責められたり批判されたことなど、まったくなかった。
娘も親も、西園寺家の若殿との間にかかわりが生じるのを、むしろ歓迎したし、よしんば人妻が相手でも、夫はあえて目をつぶって、官界での見返りを期待した。
久我雅忠は大納言だから、現在、参議に権中納言を兼ねる実兼より官位は上である。
しかし雅忠の昇進が、大納言止まりで終わるのとはちがって、実兼の場合、すぐにでも左右大臣、最終的には太政大臣にまで行きつくのを、家格に備わった決まりとしている。雅忠にしても、表立って非難がましい言葉など口にできないはずなのである。
実兼が用心したのは一にも二にも、後深草上皇を出し抜くことへの、うしろめたさからだった。まだ多分に幼気《おさなげ》のぬけない初心《うぶ》な二条に、けたたましい悲鳴などあげさせぬためにも、事は陰密に運ぶ必要があった。
落ち縁に立って振り返ると、軒の白梅が月光を吸って、むせるほどの香りを放っている。花は盛りを過ぎながら、それでもびっしり枝を飾って、青じろく咲き鎮《しず》まり、根もとに消え残る雪の色のほうが、日かずを経《へ》たせいかくろずんで見えた。
両腕を突っ張った蟇《ひき》よろしく、縁下につぐなんで顔だけこちらに向けている兵藤太に、実兼はチラと目|合図《あいず》を送り、
「そこ……」
と教えられた二条の寝所へ、音もなく身体をすべり込ませた。萎《な》えた浮き文《もん》の小《こ》直衣《のうし》に、えび染めの指貫《さしぬき》という気楽ないでたちは、兵藤太の目にすらなまめいて、いかにも遊び馴れた貴公子とうつる。
「さいわい今宵、おそば仕えの女房は宿さがりしていますし、お乳母どのは腰痛が差し起こって、灸治のあと、そのまま下屋《しもや》で臥せっています。口実をもうけて女童《めのわらわ》も遠くにやすませましたから、お寝間には姫さまお一人きり……。お気がねはいっさいございません」
雑仕女の耳打ちにたがわず、几帳をへだてて聞こえてくるかすかな寝息は一人だけのものだった。
余寒を防ぐつもりか、さらに内側に屏風が立てめぐらされ、燭台のほの明かりを受けて、こんもりとした寝姿が見えた。
炭櫃《すびつ》の埋み火はおおかた灰になっているのに、室内はあたたかく、空《そら》焚き物の甘い香りがほのかに漂《ただよ》っている。
綿《わた》を入れた柔らかそうな夜着を顎《おとがい》近くまで引きあげ、ひさびさに親の膝元にもどった気やすさからか、屈託なげに眠りこんでいる二条の顔は、実兼が思わず見惚《と》れたほど臈《ろう》たけていた。
むざむざ散らすにしのびなくて、実兼はしばらくその寝顔をむさぼり眺めた。見れば見るほど、近まさりする端麗さではないか。
(渡せない。上皇だろうとだれだろうと……)
荒々しい独占欲が、抑えようもなく突きあげてきた。唇《くち》で唇をふさぎ、抱きしめて抵抗を封じると、いったんは驚き、もがくものの、相手を実兼と知ったとたん十人が十人、女は声を立てなくなる。
数知れない体験から実兼はそれを承知していたが、腰を浮かしかける寸前、気配を察したか二条の寝息がとまり、木の実がパチッと音たててはじけでもするように、いきなり双の目が瞠《みひら》かれた。これに出鼻をくじかれて実兼はいくじなく、その場にへたり込んでしまった。
悲鳴をあげるどころか、二条がさしておどろきもせず、逆にまじまじ実兼のうろたえぶりをみつめているのにも、いつもとは勝手のちがう戸惑いを感じた。
「お礼を申しあげに来たのです」
おずおず、実兼は弁解した。
「ささやかな贈り物をご受納いただき、法皇|御幸《ごこう》の晴れの席で、それを召してまで下さったうれしさを、ひとこと……」
やおら床の上に起き直り、幼い手つきで、それでもすばやく衿の乱れをかき合わせながら、
「わたくしこそ、お礼申します」
二条はこころもち、頭をさげた。
「高価な装束を、ありがとうぞんじました。文様も色合いも、とても気に入りましたわ」
「それはよかった」
勢いをもりかえして、実兼は二条のかたわらへにじり寄った。
「舶載品がお好きでしたら、うちに珍しい異国の鳥がいます。鸚鵡といいます。人語をしゃべるという触れこみだったので、唐物商から買い取ったのですが、少々こいつが気むずかし屋でね、いまだに黙ンまりのままなんです。でも冠毛のあるきれいな鳥ですよ。ぜひ一度、お見せしたいなあ」
男が深夜、無断で娘の寝所に闖入《ちんにゆう》したのだ。愚にもつかぬ鳥のことなど話題にしている場合か――そう、いきなり実兼は気づいて、
「あなたが好きでした」
単刀直入、核心に迫った。
「あれは法皇御賀の試楽の晩でしたな。小さなお身丈に余りそうな破竹をかかえて、大人顔負けの弾奏をなさったでしょう。あのときからです。あなたの面影が、わたしの心に焼きついて離れなくなったのは……」
さりげなく手をにぎりしめて反応をうかがうと、二条はむげに振りほどこうとせず、
「破竹ですか」
片手を預けたまま低く笑った。
「上皇さまがおっしゃっておられましたわ。『いずれ西園寺実兼が、そなたに言い寄ってくるだろう。でもそれは、本心からの恋ではない。そなたぐるみ破竹を我が物にしたいからだ。実兼の目当ては、じつは琵琶なのだよ』と……」
「そ、そんな!」
強烈きわまる平手打ちだ。目から火花が出る思いで、実兼はしどろもどろ抗弁した。
「そんな下心を隠して推参したのではありません。お上《かみ》もあんまりだ。ご卑怯きわまる」
「ご卑怯? そうでしょうか」
「そうですとも。お上こそ気の進まぬ久我大納言どのを高びしゃに説き伏せて、あなたを後宮に入れようと野心あそばしておいでなのです。家へ帰らせたのは、あすにでもここへお成りになって、あなたと契ろうためですよ。でもね二条さま、宮廷でお育ちになった以上、まさかあなたも、噂を耳にせぬことはありますまい。お上とすけ大は恋人同士でした。亡き母上の愛人だった男を、あなたは受け入れることができますか?」
二条は顔をそむけ、ひとりごちるようなつぶやきを洩らした。
「上皇も実兼さまもが、それぞれ相手を誹謗《ひぼう》し、傷つけようとして、じつはこのわたしを傷つけ、痛めつけていることに、気づいておられないのですね」
十四歳とは思えぬ鋭い指摘である。実兼はたじろぎ、
「わるかった。許してください」
そんなつもりは毛頭なかったのに、つい知らず、詫びごとを口にしてしまった。
「仰せ、もっともです。上皇もわたしも、おたがいの恋路を邪魔することにばかり気をとられて、いちばん肝腎なあなたのお心を思いやろうとしなかった。恥じ入ります。この通りです」
頭をさげさえしたが、だからといって、ここまで漕ぎつけながら手を引くつもりなど、実兼にはさらさらない。
「たしかに破竹はほしかった。上皇におねだりしたことも幾度かあります。あなたにご下賜になったと聞いたときは、情けなさの余り上皇を恨みもしました。でもね二条どの、琵琶が目的であなたに近づいたなどと思われては心外です。もし、そうおっしゃったとすれば、失礼ながらそれは上皇の邪推ですよ」
あの撥音《ばちおと》を出したとは信じがたいほど、小さく華奢《きやしや》な二条の手を、なお一層、実兼は力をこめて握りしめながら、
「信じてください。破竹への野心など、わたしはみじん、持っていません。誓ってもいいです」
熱っぽくささやきつづけた。
「あなたも、人にすぐれた琵琶の弾き手……。子供の持つ玩具《おもちや》を奪うように、やすやすその手から破竹を取りあげることなどできるわけはないし、また、男に賺《すか》されたぐらいで、せっかく我が物とした伝世の名器を、あなたが手放すはずもありますまい」
「むろんです。鬼神に乞われたって渡しはしませんわ」
かぼそいくせに二条の応答には、実兼を鼻白ませるに充分な迫力があった。
「そうでしょうとも。それが当たり前です」
室温の高さばかりでなく、額にじっとり汗がにじむ。その汗を拭うことも忘れて釈明と説得に、実兼はさらに新しく汗をしぼった。
「だれよりも、あなたのお気持に同感しているわたしが、破竹への野心など抱く道理はないのです。わたしの思いはあなただけ……。あなた一人に燃えたぎる純粋なものですけど、上皇の場合はそう言えるでしょうか」
知らず知らずまた、実兼の舌頭は、恋仇への批判に傾いた。
「亡きすけ大への未練から、上皇はあなたをいつくしみ、育てた。藤壺を恋うた光源氏が、若紫を手塩にかけたようにね。つまりあなたは母上の身代わり……。でも、それでもよいとあなたご自身、割り切っておられるなら致し方ないが、わたしにさえきのどくに思えるのは、久我大納言どののご胸中ですよ」
「父上の?」
「妻と娘を同じお人に奉る苦衷《くちゆう》を、あなたは察してさしあげたことがありますか」
取られた片手を預けたまま二条は顔をそむけ、実兼の視線を避けるようにうつむいた。
「お上《かみ》とわたくしは乳兄妹です。母とお上が恋人同士だったという噂が、もし本当だとすると、血のつながりこそなくても、わたくしはお上の……」
「そうですよ。義理の娘にひとしいわけです」
「妹であり、娘ともいってよいわたくしに、お上はみだらなお気持など抱くでしょうか」
「若紫のつもりで養育なさったあなたを、いまさら人に渡すものですか」
「でも、里に帰されましたわ。どこかへ縁づけるお考えだと思いますけど……」
「見当ちがいもはなはだしいですな」
実兼は笑った。
「熟し、甘い香りを放ちはじめた果実を、いよいよもぎとる気になられたのです」
「それならなぜ、父の家へもどれと仰せられたのでしょう」
「久我大納言どのに敬意を表したわけですよ。なみの女房なら局へ忍んで行けばよい。ご寝所に召されても、それですみます。しかし仮にもあなたは大納言家の息女。母方のつながりからいえば北山准后さまの姪の子です。いったんは父上の許へ帰し、改めて貰い受けるという手つづきを踏まなければ、さすがに礼に欠けると思われたのでしょうよ」
「父は、お受けを……」
「なさいましたとも。現にわたしは見ていました。杯盤狼藉の中でしたがね、お二人のやりとりまでしっかり聞き取りましたよ。辞退する大納言どのに『婿舅、固めの盃だ』と上皇は強引に酒をすすめ『十五日夕刻、たのむの雁をいただきにゆく』と約束あそばしておられました」
「十五日!?」
「あさってですよ二条どの。ぶしつけを承知でわたしが今宵、ここへ参上したのも、矢も楯もたまらぬ思いにせかされたからです」
「母との件を、いまなお許さずにいるとしたら、父はお上に、わたくしを与えるはずはありませんわ」
「いいや、忠良な臣下だし、気弱なお方ですからね。内心はどうあれ上皇の高びしゃな仰せに、大納言どのはあらがえなかった。つつしんでお受けしていましたよ」
「では十五日の晩、お上はここへ?」
「あなたと新枕を交わしたあと、ふたたび御所へつれて帰るおつもりなのでしょう。でもね、大っぴらにあなたを後宮に迎え入れたとなると、まわりの嫉視反感は覚悟しなければなりますまいな」
「東二条院さまや他の妃《みめ》がたの?」
「さよう。女院はとりわけすけ大を嫌い、縁につながるあなたを目の仇にしてきた。そのあなたが上皇の寵を受けたと知ったら、いびりは一層ひどくなりますよ」
公子の妬心に火をつけておきながら、そしらぬ顔で、実兼は二条をおどしあげた。
柔らかな耳にあれやこれや、さまざまなことを吹きこまれて、
「どうしましょう、わたし……」
さすがに二条は泣きじゃくりはじめた。
「おっしゃる通りなのです。女院さまはなぜか幼いころからわたくしをお嫌いあそばして、意地悪ばかりなさいました。だけど、お上の御幸をこばみ、御所勤めを辞してこの家にいつづけることもできないのです」
引き寄せられるまま、いつしか二条は実兼の膝へ打っ俯していた。
「わかっていますよ」
指貫《さしぬき》をへだてて濡れ透《とお》る娘の涙の、なまあたたかな感触を愉《たの》しみながら、実兼はせいいっぱいな優しさを手にこめて、その背を撫でさすった。
「すけ大の死後、大納言どのはのち添えをめとられましたね。あなたにとっては継母です。腹ちがいの妹や弟まで生まれた今となっては、父上の屋敷にも居づらいのは当然ですよ。落窪物語を引き合いに出すまでもなく、生《な》さぬ仲というものは、由来うまくいかないのが定法ですからな」
あと、ひと押しである。
「上皇の求めを否《いな》めばご機嫌を損じる、受け入れて御所へもどれば東二条院の瞋恚《しんに》に焼かれる。家にいるのも気まずいとなれば、ね、二条どの、身の行く末をわたしにゆだねるのが、最良のご思案ではありませんか」
抱きしめた腕に力を加え、ここを先途《せんど》とばかり実兼はくどきたてた。
「久我大納言どのにしても、昔のこだわりや恨みを思えば、上皇よりわたしのほうをあなたの婿にしたいとおぼしめすはずですよ」
「嘘よ。絵そら事ですわ、そんな仰せ……」
身もだえて男の腕を振りほどくと、いきなり二条は半身を起こした。涙の跡を残した頬は薄あかく上気し、眸《ひとみ》は炎を宿して射つけるように輝いている。掌《てのひら》の中にまるめこんでいた美しい小蛇が、不意に鎌首をもたげたような変わり方に、実兼はぎょっとし、思わずあとずさった。
「どうしてあなたが、わが家の婿君になどなれますの? れっきとした北ノ方さまがいらっしゃる。そのお腹に、男のお子まで生まれておられるではありませんか。わたしと結ばれたりなさったら女院さまに劣らず、そちらのご正室も嫉妬あそばすでしょうに……」
けぶりにも匂わせなかった北ノ方の存在を、二条が先刻、承知していたのには、二の句がつげなかった。へどもど吃《ども》ったあげく、
「政略ですよ」
やっとの思いで実兼は取りつくろった。
「祖父や父が太政大臣にまで昇った家ですからね。姻戚になりたがる上卿は無数だった。嫁御寮は子供、わたしもまだ元服前の洟《はな》たれ時分に、親の意向で迎えさせられたお飾り妻にすぎません。息子は生まれたけれど、夫婦らしい愛情などすこしも育ってはいないのですよ」
「中院内大臣家の姫君でいらっしゃるのでしょう? 北ノ方さま……」
「え、まあね」
「お子はご幼少ながら童殿上《わらわでんじよう》をとげ、叙爵あそばして、侍従に任官なさったとか……」
「まだ、からきし小児ですからな。親の七光り……。名だけの官職です。そんなことより二条さま、わたしの求愛は本気ですよ。妻の思惑が不快なら、本邸へあなたをおつれするような野暮はしますまい。北山はじめ別荘が幾ヵ所かありますから、お気に召したところへお住まいいただくよう手配しましょう」
急に悪くなりかけた旗色を、何とか挽回すべく実兼は汗をしぼる。その耳へ、
「もし、殿ッ」
兵藤太の切迫した呼びかけが飛びこんできた。
「たいへんです。上皇のお成りらしゅうございますぞ」
「な、なんだと? 上皇が?」
「渡廊《わたろう》をこちらへ、久我大納言どのがあたふた駆けてこられます。姫さまに御幸をお知らせするためと存ぜられます」
「そんなばかな……。十五日の夕刻と、たしかに上皇は仰せられたぞ」
「でも門前のさわがしさ、警蹕《けいひつ》の声などただごとではありません。ともかくお出ましくださいッ、急いでッ」
寝しずまっていた屋敷内が騒然となり、二条は立って奥へ逃げ込む……。
とり残されて一瞬、自失しかけた実兼も、
「殿ッ、何をしておいでです殿ッ」
眉毛に火のつきそうな兵藤太の声に、あわてふためいて部屋をとび出した。
廂《ひさし》ノ間《ま》から簀《す》ノ子《こ》の縁へ走りおりる……。あまりにうろたえて指貫のくくり紐を足の指にひっかけ、
「わあ」
階《きざはし》をころがり落ちてしまった。
下にいた兵藤太がからくも抱き止め、そのまま実兼の長身を肩にかついで、まっしぐらに木下闇《このしたやみ》に呑まれた。危機一髪のきわどさであった。
主従二人、ぜいぜい息を切らしながら茂みの暗がりに坐りこんで、出て来た方角を見返ると、橋廊下を渡り終わった久我大納言雅忠が小走りに、いましも西ノ対の簀ノ子にさしかかったところである。
「あッ、向こうからもだれかまいりますぞ」
兵藤太に指さされるまでもなく、手燭の揺れが反対側からも近づき、光の輪の中に小肥りの、中年の女の姿が浮かび上がった。大納言の後妻――二条の継母にちがいない。
夫婦は出あいがしらにふたこと三こと、何やら言葉を交わし、前後して娘の寝所に入ったが、すぐまた大納言だけが母屋へとって返した。
継母が居残ったのは、上皇を迎えるための身仕度を手伝うためであるらしい。
実兼にすれば、トビに油揚げをさらわれた心境である。
「あとひと息だったのに……残念だ」
上皇と入れ替わりに指をくわえて帰るのかと思うと、くやしさがこみあげてくる。
「それにしても兵藤太、お上はなぜ約束の日を勝手にくりあげて、今夜ここへ押しかけてこられたのだろうな」
「殿の抜け駆けを察知されたからでしょう。恋の成就を妨げるおつもりなのですよ」
「事、女に関しては、こわいくらい鼻のきくお方だからなあ」
「いつぞや二条さまが着て出られた晴れ装束も、殿からの贈り物だと察しをつけられたのではありますまいか」
正殿に通された上皇に、とりあえずもてなしの酒肴が供せられたのか、黒一色に見えた建物のあちこちから賑やかな灯の色と談笑の声が洩れはじめた。召使どもの行き来もせわしない。屋敷中が時ならぬ刻限、いっせいに目をさまして動きだした観がある。
遠くからうらやましげに、それを眺めて佇《た》ちつくす主従のそばへ、このときカサコソ近づいて、
「まだ、こんなところにおられたのですか」
小さく、声をかけて来た女があった。
「おう万左女《まさめ》さん、えらい目に遇ったぜ」
手引きしてくれた久我邸の、雑仕女《ぞうしめ》だったのだ。兵藤太のぼやきに、
「まったくねえ。とんだ手違いでしたよ」
きのどくそうに女はうなずいた。
「まさか今夜、上皇のお成りがあるなんて、わたしら、夢にも知りませんでしたもの」
「供奉《ぐぶ》の顔ぶれは、だれかわかるかな?」
とは、実兼の発した問いかけだった。
「大納言四条隆顕卿のお顔が見えましたね」
「ふん、二条の叔父が露払いに立ったか」
「それから勘解由《かげゆ》ノ次官《すけ》藤原為方さま」
「青二才め」
「あとは北面《ほくめん》の下臈《げろう》が少々お供してまいっただけでございます」
胴|慄《ぶる》えをこらえながら、
「いつまでこうしていても致し方ございません。凍てついてもきましたし、ひとまず今日のところはお引きあげなされませ」
兵藤太がうながす。
「そうだな。不首尾に終わった上に、風邪まで引きこんでは踏んだり蹴ったりだ。帰ろう」
「では、どうぞ、こちらへ……」
見当もつかぬ他家の庭内を、雑仕女にみちびかれて、それでも迷いもせず西園寺主従は忍び出た。一丁ほど先の四ツ辻に牛車《ぎつしや》と供の人数が待たせてある。ようやくそこまでたどりついて車の中へ這いあがると、にわかに緊張がゆるみ、どっと一度に疲れが出た。
(そこそこに酒を切りあげ、もう今ごろ上皇は美しく粧《よそお》い直した二条の寝間へ、あの継《まま》母に案内されて行かれたのではないか)
想像するだけで腹が立つ。声を荒らげ、
「のろいぞ。もっと早く走らせんかッ」
罪もない牛飼を、実兼は叱りつけた。
法皇崩御
二条はしかし、泣き悶《もだ》えてあらがい、後深草上皇の求めを拒み通したらしい。
「あぐねはてられ、けっく何のお手出しもできぬまま還御《かんぎよ》あそばした様子でございます」
と翌日、兵藤太《ひようとうだ》に聞かされた実兼は、
「そうか。よかったよかった」
まるで彼自身が危急を脱しでもしたような笑顔で、幾度もうなずいた。
「例の万左女《まさめ》とやらの密報か?」
「その情人の雑色からも、同様の知らせがありました。まず、まちがいございますまい」
いやというほど、二条の耳に入れてやった離間工作――。それが効を奏したのだと思うと、
(やはり昨夜、忍んで行っただけの甲斐はあった。無駄足を踏んだわけではなかったな)
すこしは心が慰められた。
「今宵も出かけよう兵藤太、二条は受け合い、わたしになびく気でいるよ」
「上皇に一指も触れさせなかったのが、その何よりの証拠ですな」
「今日行ったら二条を説き伏せて、とりあえず北山の別業にでも身柄を隠してしまおう」
「まるで源氏物語の『夕顔の巻』ではありませんか」
兵藤太はニヤリと笑う。光源氏が夕顔の君を見初め、有無をいわさずつれ出して、所有する荒れ御所に伴うくだりを指《さ》しているのだ。
「さしずめ手前の役どころは、源氏の腹心の惟光《これみつ》でしょうかな」
「悪くはなかろう」
「北山のご別邸には、でも、一位の准后さまがお住まいですぞ」
「建物は広い。使っていない棟もある。おぬし昼間のうちに下見しておいて、適当な部屋に調度その他、当座のしつらえをして来てくれ」
「かしこまりました。顔見知りの女房衆に呑みこませ、用意万端ととのえてお待ちするよう申します」
「老尼公はすけ大の伯母だ。二条をつれて行ってもいやとは仰せられまい」
「かえってお話相手ができて、よろこばれるかもしれません。では手前、さっそく今から北山へ……」
「うん。夕景までにはもどれよ」
兵藤太を出してやったあと、実兼は縹色《はなだいろ》の地に、絵の具で新古今の古歌を散らし書きした風雅な薄様をとり出し、
今よりや思ひ消えなむひとかたに
煙の末のなびきはてなば
と、したためて、二条のもとへ贈った。一か八《ばち》か、最後の賭《かけ》のつもりで賽《さい》を投げてみたのだが、折り返し二条からも返歌がとどき、その歌意は、
「上皇の御意に従わなかったわたくしの心の内を、お察しいただけますかしら……」
という世にもうれしいものだったのである。
実兼の喜悦は、でも、永くはつづかなかった。彼が出かけるよりもずっと早く、まだ西空に茜《あかね》の燃えが残るうちに、後深草上皇が久我大納言邸へ来られ、暮れきるまで、もてなしの酒宴に時を移されたあと、したたかに酔って二条の私室へ直行……。
昨夜とは打ってかわった荒々しさで娘の抵抗を封じ、むりやり意に従わせたばかりか、そのまま引っ拐《さら》うように宮中へつれ帰ってしまわれたという。
「あとは落花狼藉……。目のやりば、足の踏み場に困ったそうですぞ」
注進に来た兵藤太が、
「ほら、ごらんください。この通りです」
証拠物件さながら突きつけて寄こしたのは、女物の肌着の片袖だった。
「二条のか?」
「ほころびるならまだしも、力まかせに引きちぎってのけたのだからひどいでしょう。酔いにまかせての乱暴とはいえ、『殿方との、初めての契りがこのありさまでは、姫君がお可哀そうです』と、万左女《まさめ》ら久我家の召使いどもは、上皇のなされかたに腹を立てていましたよ」
「まったくだ。日ごろのご気性にも似合わない。どうしてそれほど、お上はむきになられたのだろうな」
二条はおれのものだ、だれにもやらぬと断言したときの、後深草上皇の語気の強さが、実兼の耳によみがえった。
抑制を忘れ、高貴のつつしみをかなぐりすてて、二十九歳相応の欲望をむき出しにした上皇の、行為の底には、
(この女までを、おれの手から奪おうとするのか)
当の恋仇の実兼へ、というより、もっと大きな目に見えぬ力――のしかかってくる理不尽な運命に向かって、激しく憤《いきどお》る思いがあったのだろう。
(幼時から手塩にかけて育てあげた二条……)
今という今、その二条にさえ拒否された無念を、上皇は彼女の裏切りととり、やみくもな怒りにとりつかれたにちがいない。
苛《いら》だちの原因は、世仁親王の立坊にある。嫡統の第一皇子に生まれ、世仁より年長でもある我が子煕仁が押しのけられて、弟の子に皇太子位が渡ってしまった非運……。
どれほど深く、それが上皇をきずつけ、いまなお癒《いや》しがたい痛みとなってうずきつづけているか、改めて実兼は思い知らされた。
いささか軽薄なまでに風流|公子《こうし》を気どり、のけ者、余され者の気楽さの中に安住して、権力闘争などというおぞましい修羅《しゆら》とは無縁に、のんびり生きるのが望みででもあるかのような日常だったが、案外それは、外側だけの見せかけで、上皇の本質とは実際にはかけ離れたものかもしれないのである。
韜晦《とうかい》の仮面がポロッと剥げ落ちた瞬間、隠されていた内なる思いが噴出し、二条への暴力となって顕在化したともいえるだろう。
十年もおそばでくらした二条なら、近ごろの上皇の、焦慮や苦悶を察していないことはあるまい。
しかし、祝福さるべき新床に力ずくで押し伏せられ、無体に従わされた屈辱は、二条の身体ばかりか、その誇りまでもむざんに引き裂いたのではなかろうか。
(いたましい。さぞ怖かったろうな)
兵藤太が持ち帰った肌着の片袖に、実兼は頬ずりしながら、むさぼるように残り香をさぐった。すべっこい白絹の手ざわりまでが、握りしめ、愛撫した二条の手の感触を、なまなましく思い出させる。
(あきらかに二条の気持は、わたしに傾いていた。昨夜、お上よりひと足早く、わたしがあの寝間《ねま》を訪れていたら、二条はわたしを許し、受け入れてくれたに相違ない)
そう今こそはっきり、言い切ることができる。贈り物を受けとり、返歌を寄こし、上皇の求めを初めての夜、はげしく拒んだのがその証《あかし》ではないか。
(やはり上皇は二条にとって、保護者以外のなにものでもなかったのだ。たのもしい兄、やさしい叔父か父ではあっても、恋人ではありえない。亡き母すけ大とのかかわりを思えば、それも当然といえるだろう)
ああ、しかし、手折《たお》る寸前に花は上皇に散らされてしまった。ふたたび御所の奥ふかく拉《らつ》し去られては、もはやどうにもならない。
(この恋は、終わったな)
形見の袖に目をあてて実兼は呆然となった。失ってはじめて、遊び心の下に潜《ひそ》む真剣な思いが洗い出されてきたのである。
(でも、もう遅い)
おそらく上皇は、寵姫の列に加えた二条を、これまでのようにかるがるしく廷臣たちの眼に触れさせることはすまい。なかんずく実兼に対しては警戒をきびしくして、近づくのすらままならぬ状態に置くのではないか。
「継母は、二条どのにお手がついたのをよろこんでいるそうですが、父の大納言は浮かぬ顔で、世間へは病気と披露《ひろう》し、宮中への出仕もやめてしまわれたとか久我邸の奉公人どもは申しておりました」
聞きほじってきたらしい噂のあれこれを語り分けながら、
「こんなことなら大金を払って、芳善斎に装束などお誂《あつら》えなさらねばよかったですな」
兵藤太は残念がる。
「いいさ。二条どのへのはなむけだ。せめて衣裳だけでもあの人のそばにいると思えば、心が慰められるよ」
「女君もあれを着るたびごとに、殿を偲《しの》んで泣かれるのではありますまいかな」
「泣きはしないだろう。上皇の手管《てくだ》に蕩《とろ》かされて、わたしのことなどすぐ忘れてしまうかもしれない。手を握り合っただけの淡い仲だもの。それも仕方があるまい。あきらめようよ兵藤太」
久我大納言雅忠が、病気と称して出仕も院参もしなくなったのは、
「娘二条への、上皇の粗暴なお振舞いを不快がったためだ」
つまり仮病だよと、廷臣たちはささやき合った。しかし、ここへきて急速に交わされはじめた「法皇ご不例」の取り沙汰は、憂慮すべき事態としてだれにもすぐさま信ぜられ、
「はたして院のお口から、どのようなご遺詔が発せられるか」
のこされるお言葉によっては、大きな変化をもたらすかもしれない崩後の政局への見通しまでを絡《から》めて、しきりに臆測が流れた。
「いまのままでは、あまりにも後深草上皇がおきのどくだ」
とは、だれの胸にもわだかまる実感である。
亀山帝を愛するあまり後深草上皇を退位させ、さらにはその子の煕仁親王までを冷遇して、太子位につけなかった後嵯峨法皇ではあるけれど、さすがに終わりに臨めば偏頗《へんぱ》を反省し、親らしい何らかの措置を、上皇父子に対して講じられるのではないか。
「たとえば世仁親王が帝位につかれたあかつき、その皇太子に煕仁親王を立てるとか……」
「あるいは上皇に院ノ庁を引きつがせ、亀山帝のご後見役に据えて、冷やめし食いも同然だった日陰のお立場から、日のあたる場へ引き出してさしあげるなど、院さえその気になられれば、なさりようはいくらでもあるはずだよな」
そんな会話が耳に入ってくれば、後深草上皇も、
「もしや?」
と、期待せずにいられなくなる。状況の好転にもまして上皇が切望したのは、父法皇からの愛情の流露だった。永別する前に、疎外された恨みをぜひとも消して、黄泉《よみじ》への、老父の旅立ちを気持よく送りたかったのである。
「近ごろさっぱり顔を見せないな。どうしたんだ実兼、淋しいじゃないか」
二条の件はおくびにも出さずに、西園寺家へ迎えをやったのは、女をめぐるいざこざを除けばやはり実兼こそが、だれよりも信頼できる相談相手であり、君臣の垣を越えて話し合えもする友人だったからだろう。
実兼の側も、二条への未練はもはや断ち切ったつもりだから、呼ばれるとすぐ、六条の御所へ出かけて行って、上皇に謁したが、
「どう思う? 父上とおれとの和解は、可能だろうか」
問いかけには、
「さあ、見通しは五分五分ですなあ」
ありのままな答を返すほかなかった。何ごとも、老法皇の肚《はら》一つだし、よしんば病苦に気が弱って院が軟化したとしても、かたわらには大宮院|※子《よしこ》がひかえている。
「おん母太后は院以上に、亀山帝をひいきしておられます。どのような口出しをあそばすかわかりません。楽観は禁物ですぞ」
苦言を呈されても自分に都合のよい方へと解釈したがるのは、後深草上皇という人の持って生まれた性格だろうか、
「父上のご他界を待つわけではないけれど、ご遺言の内容が気になって仕方がない。一刻も早く知りたいものだ」
そわそわ言いくらす語調からは、吉報を予測しての弾《はず》みが、ありありうかがえた。
ところがこの、上皇のあせりに反して、事はなかなかすんなりと運ばなかった。
後嵯峨院が身体の不調を訴えたのは、文永八年の夏ごろからで、風邪でもないのに咳《せき》が出る、痰《たん》が出る、その痰に血が混じるといった症状がしばらくつづき、秋口には起き上れなくなった。
胸痛の発作にもしばしば見舞われ、祈祷《きとう》僧らが次の間《ま》で焚く護摩《ごま》の煙にむせて絶息をくり返す。そのたびに、
「すわ、ご最期か」
院中こぞってあわて惑うのだが、よほど芯がお強いのか息を吹き返して、秋をすぎ冬を越し、とうとう文永九年の正月を迎えてしまった。
「このぶんでは、ことによると持ち直されるかもしれぬぞ」
典薬どもの間に、そんな意見さえ出かかった二月なかば、思いもよらぬ騒動が持ちあがった。
「一大事です殿ッ、六波羅の南役所が燃えておりますぞッ」
兵藤太《ひようとうだ》のわめきに仰天して、実兼が蔀格子《しとみごうし》を上げさせてみると、なるほど夕空の一方がうす赤く染まっている。
「どういうことだ、これは……」
「北条|時輔《ときすけ》どのが討たれました」
南六波羅を代表する探題《たんだい》である。
「な、なぜ? 襲ったのは北の連中か?」
「わかりません。現場を見て来た牛飼の急報によれば多勢に無勢、勝敗はたちまち決し、寄せ手の将とおぼしい武者が、時輔どのの首級をひっさげて疾風《はやて》さながら引きあげて行ったそうです」
後日、聞くと、南六波羅を攻めたのは北の探題北条義宗、奇襲を義宗に命じたのは鎌倉にいる執権北条時宗で、
「時輔に、宗家《そうけ》覆滅の異図《いと》あり」
というのが、討伐の理由だった。
たしかに前執権政村のあとを受けて、異母弟の時宗が得宗《とくそう》の地位についたことに、チラリチラリ、不満を洩らしてはいた時輔である。
関東申次役という職掌柄、実兼はつね日ごろ南北両六波羅としたしく、時輔とも酒の席などで冗談口をきき合う仲だっただけに、その時輔が時宗に睨まれ、あっけなく殺害された今回の事件を、ひとごととは聞き流せなかった。
「危険の排除には、血も涙もないのだな」
武門の血、北条氏の血、いや時宗という男の血の中にひそむ冷酷非情な本性に、ぞっと鳥肌立ったのである。
史上、この事件を『二月騒動』というが、一夜あけてみると、様相はいよいよはっきりしてきた。
血なまぐさい武装のまま馬を駆って、西園寺家へ乗りつけて来た北の探題北条義宗は、それでも身なりをはばかって庭へ廻り、勾欄《こうらん》下にひざまずいて昨夜の逐一を実兼に報告……。
「おそらく鎌倉でも時を同じくして、時輔の与党が誅されたはずでございます」
とも語った。
「だれだね? その与党とは……」
「かねて時輔と気脈を通じていた名越時章《なごしときあきら》、同じく弟の教時らかとぞんぜられます」
「なるほどなあ」
実兼は唸った。名越氏も北条の一門だが、時章兄弟には前科があった。晩年入道して最明寺どのと称された時頼が、まだ執権職についていた当時、彼らは時頼の暗殺を企だてて失敗――。そのときは誓紙をさし出し、かろうじて首をつないだのである。
世人はこれを、『寛元の乱』と呼んだけれど、時頼の子の時宗は名越兄弟の過去を忘れず、今回の二月騒動と抱き合わせに、二人の息の根をも、併せて止めてのけたのだろう。
(いったん疑ったらとことん不信を解かず、許しもせず、抹殺の機会を狙う執念深さ……)
北条氏のそんな体質が、実兼には恐ろしい。
執権たちは代々、質素を旨として、権力の座にいながらけっして個人の利欲をむさぼらない。美衣美食に溺れず金殿玉楼に住まず、たえず民政に心をくばって、しもじもの歎きを掬《すく》い取る努力を怠らなかった。
その意味では、まれに見る清潔な為政者であり、尊敬に価《あたい》する政権なのだが、ことが支配権の侵害にかかわってくると、俄然、鉄のごとき意志をむき出しにする。
有力な他族は幕府の草創期、片はしから殪《たお》して自家の安泰をはかった。そして、それがすむと、つぎは同族間の粛清に乗り出した。
いささかでも宗家を敵視する気配があれば、武力を用いてでも淘汰《とうた》してのける。血縁だからといって容赦はしない。むしろ近親こそが油断ならないのだ。げんに今回誅殺された時輔は、最明寺時頼のせがれの一人……。時宗には腹ちがいの兄に当たる若者である。
恐怖政治ともいってよいこの傾向は、ことに時頼・時宗父子のころから顕著になってきてい、西園寺実兼あたりも家督相続のさい、
「時宗を弱冠とあなどると、関東申次役を棒にふることにもなりかねませんよ」
叔母の大宮院|※子《よしこ》に釘をさされたおぼえがある。だから用心してむだ口はきかず、
「顛末《てんまつ》、しかとうけたまわった。天聴に達しておこう」
短く応じて、北条義宗を引きとらせた。
宮中から急使が駆けつけて来、
「即刻、法皇御所にご参集ください。後嵯峨院が危篤におちいられましたぞ」
と告げたのは、この直後であった。
「ついに法皇も、大漸《たいぜん》に臨まれたか」
公家たちにすれば、六波羅の騒動にもましてこれこそが、直接わが身に降りかかる火の粉である。
取るものも取りあえず身仕度をととのえ、西園寺実兼は牛車を法皇御所へ急がせた。
亀山殿の郭内に立つ寿量院で、後嵯峨法皇は療養しておられたが、この日はあとからあとから詰めかける廷臣たちが細殿《ほそどの》渡殿《わたどの》、庭前にまであふれる混雑ぶりだった。
ご愛子の亀山帝はすでに父君の枕頭《ちんとう》に侍してい、実兼の到着と前後して後深草上皇も駆けつけて来た。
二輛つらねた牛車の一つは、檳榔毛《びろうげ》の女車で、大宮院|※子《よしこ》と東二条院公子の姉妹が同車していたし、いま一輛からは上皇と、陪乗の女房が降り立った。扇で顔を隠しているが、実兼にはひと目でそれが、
(二条だ)
と直感できた。肥《ふと》り肉《じち》な大宮院、背丈の高い東二条院にくらべると、二条の身体つきは小柄だし、いかにも華奢《きやしや》な、かぼそげな線を描いている。哀れさに、実兼は走り寄りたい衝動を覚え、そんな自分を懸命に抑えた。
上皇と二人の女院はそそくさ病間へ通り、どこへ行ったか二条の姿も、すぐ見えなくなった。院の女房たちが居並ぶ簾《みす》の内にでも、まぎれ込んだのだろう。
このまにも見舞いの人数はふえる一方だった。仁和《にんな》寺の御室《おむろ》、円満院、聖護《しようご》院、菩提院、青蓮《しようれん》院など、大寺の門跡《もんぜき》となった院の皇子らも続々、顔を見せる。
枕上《まくらがみ》には比叡山の経海僧正《けいかいそうじよう》はじめ善知識らが坐りこんで、病人に最期の念仏をすすめ、
「この世で作られたもろもろの罪を悔い改めて、こころよく上品上生《じようぼんじようしよう》の蓮の台《うてな》にお移りあそばしますよう……」
しきりに説得するのだが、もはや言葉を発する気力さえないのか、それとも形式にすぎない紋切り型の教化に反撥したのか、院はかたくなに口をとじたきり、とうとう一言の懺悔《ざんげ》も述べず後生を願う十念もしないまま、春たけなわの如月《きさらぎ》十七日夕刻、五十三年の生涯を閉じた。
六波羅南役所の焼け跡からは、まだ煙が噴きあげ、黒焦げとなった棟木《むなぎ》や梁《はり》の残骸を風が煽《あお》るたびに焔がチロチロ伸びちぢみする。
放置されたままの屍体が、その火に焙《あぶ》られて異臭をただよわす中で、天下に諒闇《りようあん》が令せられたのである。
洛中には物売りの声も絶え、いつ咲き、いつのまに散った桜か、それすら上の空で人々は夏を迎えたが、四十九日の中陰《ちゆういん》がすぎるころになると、
「故法皇は、ご遺詔に何とおしたためあそばしたのか」
待ちに待ったその公開に、上下の関心はいっせいに集中しはじめたのであった。
治天の君
後嵯峨院は、亡くなる一ヵ月ほど前、自身が所有する荘園の譲り状を手ずから書き、封印して、鍵のかかる厨子《ずし》の中に秘めていたし、いま一通、「治天下《ちてんか》」の問題については、やはり自筆の状を鎌倉へ送って、
「朕の崩後、披見するように……」
と、執権北条時宗に託されていた。
「治天下」とは、「天《あま》が下を治めること」もしくは「治める人」をさしている。つまり、
「治天の君を、亀山帝にするか後深草上皇にするか」
という重大な決定が、その状には記されているはずであった。
厨子の鍵は、院の妻である大宮院|※子《よしこ》が預かっていたから、中陰《ちゆういん》をすぎるとすぐさま譲り状は取り出され、重臣列座の中で開封された。
それによると、おびただしい遺領のほとんどは最愛のお子の亀山帝に譲られ、残りを腹々の皇子皇女が分配相続することになっていた。
遺児のひとりでいながら後深草上皇にのみ、ほとんど故院の財産が渡らなかったのは、すでにその存命中から、長講堂領という莫大な領所が上皇の所有となっていたからである。
むろんこの領所は、後嵯峨院が上皇に譲ったものではない。後白河法皇のお子に宣陽門院という姫宮がい、長講堂領を領有する名義人となっていた。
後深草上皇は幼少のころからこの宣陽門院の猶子《ゆうし》に備わっていたため、門院の没後、自動的に長講堂領の受けつぎ手となったのだ。
皇室の子女を荘園の名義人にしておけば、政変や兵乱に巻きこまれる危険性がすくない。つまり時代の移りかわりとは無関係に、財を守りつづけてゆく用心からだが、故院が兄息子の後深草上皇に遺産を譲ろうとしなかったのは、
「この上、欲ばる必要はあるまい。そなたはもはや長講堂領の所有者なのだからな」
との、意思表示にほかならなかった。
「やむをえぬ」
と上皇も、領所の配分については納得したけれども、「治天の君」が弟になるか自分になるかは、それこそ、
「夜もおちおち眠れぬ」
と周囲に洩らすほど、気にかけ通してきた一大事であった。
いま帝位には亀山天皇がついている。しかし天皇であること、もしくは後深草上皇のように巨額な財を受けついでいることなどは、いずれも「治天の君」とは別なのだ。
「治天の君」とは、一言でいえば、「天皇家の家父長権を握った人」という意味である。財とも帝位とも関係はない。早い話が、後嵯峨院の在世中は、二人の息子が上皇であり天皇であっても、政務の実権――治天下の権は、大家父長たる院が握っていたではないか。
「その、同じ立場を、父上はおれに許してくださるだろうか」
後深草上皇の不安と期待は、ひたすらこの一点に絞られていたのである。
蓋《ふた》をあけてみると、だが遺詔の内容は意外なものだった。兄弟のどちらにも肩持ちせず、
「治天下のことは、関東の存念にまかせる」
と書かれていたのだ。
後嵯峨法皇は鎌倉幕府に恩がある。父の土御門《つちみかど》上皇が承久の乱に連座したさい、
「上皇の本意ではなかった。討幕を思いとどまらせようとして、上皇はむしろ後鳥羽院を諫《いさ》めてさえくださった」
そう言って、幕府は土御門上皇のお子の後嵯峨院を擁立――。帝位につけてくれたのである。
この負い目を終生、院は忘れなかった。重大な決定を迫まられたときは、かならず関東申次役《もうしつぎやく》の西園寺実氏と相談し、幕府の意向に添うよう留意してきた。
いまわに臨んでの「治天の君」の選択も、だから後嵯峨院とすれば、これまでのやり方に拠《よ》ったわけだし、また、だからといって無遠慮な介入の仕方をしてくる幕府でないことも、承知していたのである。
はたして執権時宗は、
「われらには、はからいかねます」
使者を上洛させて断ってきた。
「治天下」だの「治天の君」などと中華風に、大仰な表現はしても、天皇はとうに事実上、天下を治める存在ではなくなっている。民衆のくらしや哀歓に、じかに関わってきたのは政治を代行する幕府であった。
もともと天皇家は、皇室に伝わる古代信仰の司祭者だし、あとはこれも、昔からくり返されている年中行事の催行、大寺大社への奉幣、それと、皇室に依存して生きる官吏たちの叙位叙爵ぐらいが主《おも》な仕事にすぎない。
治天の君の選定も、結局は天皇家の、家庭内の事情なのであって、
(へたな口出しはうちわ揉《も》めのもと……。兄弟喧嘩の種をまくのはまっぴらだ)
とする思いが時宗にはある。そこで、
「故院のお気持は奈辺《なへん》にござりましたか。それをご存知の方がおられるならば、仰せ聞け給わりませ。幕府としてはどこまでも、故院の思し召しに従いとうぞんじます」
と逃げを打った。このとき、
「院のご内意は、亀山帝の親政にありました。まちがいございません。ご生前にわたくしが、はっきりうけたまわったことですから……」
そう言明したのは、大宮院|※子《よしこ》だった。
自身の一言が、本来一系たるべき皇統を南北両朝に分裂させ、やがて始まった百年もの長期にわたる大動乱の、禍因を作ることになるなどと、まさかこの時点で、|※子《よしこ》は思いも及ばなかったにちがいない。
法皇の未亡人であり、上皇と天皇の生母でもある女性の言葉だから、
「わかりました」
時宗も異議なく了承し、ここに亀山帝による親政が決定――。「治天の君」たる家父長権までが、すんなりその手に帰したのである。
それからの、後深草上皇の落ちこみようといったらなかった。
「亡父と同じく院ノ庁を開き、弟亀山帝の朝廷に君臨して、院政を執《と》る」
という望みが潰《ついえ》たばかりか、この先、自身の子孫に帝位が回ってくる可能性も絶えはてたのだから、落胆するのは当然といえる。
「故院はそれでも、治天の君の決定を幕府にゆだねられた。もし執権時宗が『後深草上皇は兄。治天下の権は、嫡統にこそ譲らるべきです』と進言したら、しぶしぶでもその意に従うつもりでおられたのだ。しかし母上はひどい。故院の遺言を捏造《ねつぞう》してまで弟の味方をされ、永劫《えいごう》、這い上がれない絶望の地獄へおれを追い落とした」
なあ実兼、教えてくれ、なぜ両親は、おれをこんなに憎むのだ? ないがしろにされ、嫌われるどれほどの不孝不逞を、おれが働いたというのか? ……そう男泣きに泣かれると、実兼は返事に窮する。
「青色が好き、紅色が嫌い」
と言う人に、その理由を訊ねたからといって、納得《なつとく》のゆく答えが得られないのと同様、もともと掴みどころのない愛などという感情を、親とはいえ自分以外の他者に向かって、自身の好む色に染め替えようとあがくのが無理なのである。
ただ、実兼が内心、ひそかに忸怩《じくじ》としているのは、二条を得たいあまりに叔母の東二条院公子を焚きつけ、上皇との仲を離間しようとした点だった。
むろん、それだけが今回の決定の因となったわけではあるまいけれど、なみはずれて嫉妬深く、二条をけぎらいしてもいる東二条院が、甥の煽動に乗せられ、大宮院|※子《よしこ》の耳にどれだけ激越な口吻で、上皇への非難を吹きこんだか。想像に余りある。
そして妹の、この愬《うつた》えが、ただでさえ亀山帝びいきな大宮院の心証を、
「愚兄賢弟の見本のような二人……。あの兄息子には愛想がつきた。治天下の器《うつわ》とはとても思えぬ」
とする方向へ、大きく傾かせたであろうことは否めない。
(ちと、薬が効きすぎたかな)
悔《く》やんでも、当面は静観するより仕方がなかった。
大宮院や故法皇とは逆に、実兼あたりは、
(なるほど愚兄かもしれないが、人柄は後深草上皇のほうがはるかによい。なまじ賢弟だけに亀山帝は扱いにくく、独断偏見を押し通す癖馬《くせうま》だ)
と見ている。
しかし、その癖馬が「治天の君」と決まり、家父長権を掌握して皇統の主流となった以上、実兼の立場からすれば、単に、
(むしが好かぬ)
というだけの理由で、亀山帝を敬遠してなどいられないのである。
気づまりなのは、でも亀山帝の側も同じであった。太政大臣の極官にまで昇る家柄だし、関東申次役を兼ねてもいる西園寺家だ。
(実兼は兄上皇のお気に入り……。類は友を呼ぶ遊び仲間だから、親密なのは致し方ないにせよ、将来あんなことで国家の藩屏《はんぺい》がつとまるのかな)
つねづね批判の目で見ていた相手ではあっても、そんな内奥を顔には出せない。
「よろしくたのむぞ実兼」
補佐の重臣への儀礼は、一応それなりに払わなければならなかったが、生まれつきそりが合わないというのは、どちらにとっても不幸なことだった。
まだ実氏《さねうじ》入道やその子息の公相《きんすけ》が生きていたころ、上卿の家の慣例と政略を兼ねて、西園寺家も娘を一人、亀山帝の後宮に送り込んではいる。
実氏の孫、公相の息女、そして実兼には妹にあたる嬉子《よしこ》という女性である。
ところが亀山帝の愛情は、この嬉子にすこぶる薄い。入内したのはもう大分前なのに、嬉子はまだ一度も、亀山帝のお子をみごもっていない。
先ごろ皇太子位につき、次期の帝位を約束された世仁《よひと》親王は、洞院家から入った京極院|佶子《きつこ》という女性の所生で、彼女は東宮の母となったため后《きさき》に冊立された。
このほかにも、亀山帝の後宮には寵をこうむって、皇子皇女を生んだ妃嬪《ひひん》は少なくない。
(それなのに、わが家の嬉子だけがなぜ?)
と西園寺家の人々は、実氏も公相もが生前、不満を洩らしていたし、実兼が亀山帝によい感情を持ちえないのも、性格が合わないだけではなく、妹への扱いの冷淡さが不快感となって、根雪さながら気持の底に凍りついているからであった。
(いったいみかどは、あの妹のどこがお気に召さないのだろう)
美男子の兄に似て、嬉子はだれにもひけをとらぬ美人だ。しかし兄の目から見ても極端なまでに、その表情は動きにとぼしかった。
「ここに居よと命じたら、一日でも二日でも同じ顔で、じっと一つ所に坐っていそうな気がします。従順なのはいい。おとなしいのもいいけど、嬉子を見ていると生き身の女とは思えません。人形みたいで、何やら薄気味わるくなりますよ」
母后の大宮院に、亀山帝はそんなこぼしごとを聞かせたことがあるという。
言われてみれば、嬉子の美貌は玉子に目鼻……。おもしろ味には欠けている。打っても響かぬ反応の鈍さも、いかに姫さま育ちとはいえ男の身にとれば味気なかろう。
「だからといって、お飾り妻のまま放置しておいてよいとはいえまい。妹が可哀そうだ。実家の西園寺家に対しても、失礼じゃないか」
と、かげで実兼は憤慨するのだ。
しかし実兼もまた、表立って亀山帝に楯つくことは避けている。治天の君と決まり、いまや晴れて親政を開始した亀山帝と、妹をめぐる感情のこじれから反目し合うなど、得策とは言いがたかった。
(嬉子がお気に入らなければ、それもやむをえません。いずれ代わりに、わたくしの娘をお側に献じましょう)
北ノ方との間に儲けた姫たち。――まだ幼いが、成人のあかつき、亀山帝なり世仁皇太子なりにこれを配して、現朝での足固めの一助にするぐらいな肚《はら》づもりは、実兼ももう今から持っている。
むしろ、こうなっては余され者の若隠居、長講堂領という財はあっても、廟堂での支配力、発言力のいっさいを失ってしまった後深草上皇にしたしんで、亀山帝から、
(やつは、上皇派)
と睨まれる不利をこそ、用心すべきであった。
(なまじな同情は、禁物……)
そう、承知しながら、
「上皇が、病臥されたそうでござりまするぞ」
腹心の兵藤太から聞かされると、
「どんな御様子だ? よほどお悪いのか?」
すぐにでも見舞いに出かけたくなるのは、やはりその悲歎を、ひとごととして見すごせない思いがあるからだろう。
「いいや、落胆の極、食欲を失って、歩くと目まいがなさるため横になっておられるらしいのです。まあいわば、気落ちからきた衰えですが、久我《こが》大納言どののご病状は、上皇とは比較にならぬ深刻さだと聞きました」
二条の父の久我雅忠である。
「それは誤聞だろう」
実兼は否定した。
「娘への、上皇の手荒なお仕打ちを恨んで、雅忠は病気を口実に院参をやめ、家に閉じこもってしまったのではないか」
「仰せの通り、はじめは仮病だったのです。ところが気鬱《きうつ》から、とうとう本物の病気を引き起こし、今やこの夏を越せるかどうか危ぶまれてさえおられる状態だそうですよ」
「それはいかん。何の病いだろう」
「雑仕女の万左女《まさめ》は、黄疸《おうだん》とか申しておりました。顔や身体ばかりか、白眼までが黄色に染まって、見るも痛ましいありさまだとか」
「きのどくになあ」
二条の心痛が思いやられた。
「その二条どのですが殿、どうやらご懐妊の様子だと、やはり万左女が耳打ちしてくれましたぞ」
「懐妊!? 上皇のお子をみごもったのか?」
「ほかに相手はおらんでしょう。父上の看病を兼ねて宿さがりし、いま二条どのは一条京極の久我邸におられるそうです。お里方で腹帯をなさるのが、こういう場合のしきたりらしゅうございますな」
「そうか、懐胎したのか二条は……」
吐息つくような語気で、実兼は言った。
たわむれ半分につき合った女たちの中にも、これまで妊娠した例は幾つかある。子の父がだれなのか、当の女自身、特定できない場合は言うまでもないが、
「わかりきった話でしょ。あなたのお胤《たね》よ」
はっきりそう、きめつけられた時ですら、
「仕方がないなあ」
生むだけは生ませ、貰い手を探して渡してしまっていた実兼である。彼だけが冷淡なのではない。公家たちはだれしも、相手の女をも含めて、性交を遊戯と割り切っていた。快楽をむさぼるのが目的だから、誤って子ができても処理は事務的に済ませて、おたがいの心情の中に、感傷めいたものはかけらも混じってこないのが普通だったのだ。
つけてやる物代《ものしろ》が良いのでそれを目あてに、貰い子を商売にする者がい、さらに彼らの背後には、未開墾地をおびただしくかかえた東国や奥州などで、つねに不足しがちな労働力の供給――つまり奴婢《ぬひ》の売買を、組織的にやっている人買いどもまでがうごめいていた。
自分たちの行為の結果に、しかしそこまで責めを負っていては、快楽が快楽でなくなってしまう。
「金品で解決できる事柄に、それ以上の何を考える必要があるのか」
それが公家一般の通念なのに、二条の場合は別だった。懐妊と知った瞬間、彼女への哀憐の思いが、満ちてくる潮さながら胸を浸《ひた》すのを、実兼は感じた。
失意のどん底にのた打つ後深草上皇。その上皇の後宮に、力ずくでつれ去られた二条……。女体の悲しさは、それでもみごもる。いま、どのような気持で、胎内に宿った小さな命と向き合っている二条なのか、実兼にはわかる気がした。慰めることができないのはもどかしいが、男と対等に性を愉《たの》しんで、母性とは無縁に生きる女たちとはちがう。
(二条が生む子は、彼女の中の恨みやこだわりを溶《と》かす役割りをはたすに相違ない。子の誕生によって、二条はやっと上皇と一体になれるのだ)
出産の無事を祈り、祝福したいとさえ実兼はこのとき思ったのである。
ところが、夏が去り、秋の気配が少しずつ濃くなりはじめたころ、兵藤太の口から二度目に聞かされた噂は、そんな実兼の心に泥水でも浴びせかけるような内容であった。
「宿さがりしている折りをうかがって、どうやら男が、二条どのの閨《ねや》へ通って来ている様子なのです」
兵藤太はそう、告げたのだ。
「ばかを言うな。上皇だろう、それは……」
実兼は否定した。信じたくなかった。
「雅忠を見舞いがてら、上皇がお越しになるのだよ。きまっているじゃないか」
「上皇なら大っぴらに先を追わせて来るはずでしょう。人目を恐れるのは訝《おか》しいですよ」
「こそこそ、忍んでくるわけか?」
「殿が久我邸へ行かれた晩、裏門から一町も離れた四ツ辻に車を止めておかれましたね。八葉《はちよう》のその車も、いつも遠くに止めてあるのだそうです。上皇ならそんな臆病な真似はなさいませんよ」
「そうだな。堂々と正門から入るだろうな」
湧き起こる疑念を、実兼は抑えきれなくなった。
「変でしょう。はじめのうち久我家の人々は、どこか他の屋敷への訪客だと思っていたそうです。でも、どことなく臭い。その車を見かける夜にかぎって、姫君の部屋にだれか来ている気配がする。車のほうを調べてみると、牛は軛《くびき》からはずされて近くの立ち木に繋がれてい、牛飼はじめ従者どもはいぎたなく打ち重なって、車中で眠りこけている、しかもその従者の中にいつも一人ふたり、僧形の者がまじっている、というのですからな」
「なるほど奇妙だ。坊主が供をしてくるなんて……。主人の正体は僧侶だろうか」
「わかりません。何にせよ、上皇の想い人《びと》に手を出すなど不敵な曲者《くせもの》。手引きした者がいるにちがいないと糾明《きゆうめい》しました。その結果、姫君附きの中将という青女房が怪しいということになり、脅《おど》しつ賺《すか》しつ問いただしたけれど、一向に口を割らないのだそうです」
「二条は何と言っているのだ?」
「身に覚えのない疑いをかけられ、心外だとばかり仰せられて、あとはぷっつり、口を閉ざしたきりだとか……」
その二条の言葉を、実兼は信じたい。
「久我家の人々も、万一おもて沙汰になって、上皇のお耳にまでこんな噂が入っては面倒だし、病人の容態にも障《さわ》るので、ひどく気を揉《も》んでいると、雑仕の万左女《まさめ》は申していました」
「夏を越せまいと危ぶまれていたにしては、雅忠どのはよく持ちこたえているな」
「験者《げんざ》どもを招いて、怠りなく加持させておられるからでしょう。でも、親ごころですなあ、大納言どのは我が身にまして、息女の懐胎を気づかっているとか。『一日でも多く生き永らえ、姫がつつがなく身二つになるのを見たい』と仰せられて、比叡の根本《こんぽん》中堂では泰山府君《たいざんぶくん》を七日|祀《まつ》らせ、日吉《ひえ》の社には芝田楽《しばでんがく》を七番奉納。石清水《いわしみず》八幡にも使者をつかわし、大般若経の転読を依頼されたそうですよ」
「案じるのはもっともだよ兵藤太、つい先ごろも上皇の後宮にはべる女性が一人、難産のあげく亡くなっている。御匣殿《みくしげどの》と呼ばれた女房だがね」
それにしても、上皇以外の何者かが二条のもとへ通ってくるとは、奇怪せんばんな話である。もし事実だとすれば大胆不敵なのは、男よりもむしろ、二条の側ではあるまいか。
着帯のため宿さがりしたのなら、五ヵ月にはなっていよう。自重しなければならない身重《みおも》な身体で、いったい、だれを相手に密会をかさねているのか。
腹立たしさ、ばからしさに、実兼はやりきれなくなった。
彼は、今なお後深草上皇に好意を寄せている。上皇の運命をねじ曲げた不条理、不公平を、廷臣として許しがたいものと見、心の奥底では亀山帝への不快感をくすぶらせていた。
その上皇に二条を奪い取られたのだから、
(やむをえぬ)
実兼はあきらめたのである。
(たとえばこれが、亀山帝の所行だとしたら、勘弁なりがたいところだったろう)
しかし、上皇はちがう。初恋の人すけ大の面影を忘れ形見の二条の上に描き、幼時から手許に引きとって、一人前の女になるまで育てあげたのだ。
初夜の床で抵抗され、上皇が逆上したのは無理ないが、力ずくで従わされた二条の無念も、実兼にはよくわかる。
(上皇ではない。二条が愛していたのは、このわたしだった)
そう固く、信じて疑わなかった実兼は、上皇の気持の荒廃にも、そんな上皇に屈してそのお子をみごもらなければならなくなった二条にも、ひとしく同情していた。
そして、たとえ歪《いびつ》な形でも、ともあれ結ばれた以上は、仕合わせになってほしいとさえ願っていたのだ。
(生まれてくるお子がほだしとなって、この先、二人の間に愛情がかもされてゆくことになれば、わたしが身を引いたのもあながち、無駄ではなかった)
とすら思ったのに、その実兼とも上皇ともかかわりない第三の男を、平然と閨《ねや》に招き入れていた二条だったとは……。
「あいた口がふさがらないな兵藤太」
郎従に向かってつぶやいた顔は、にがにがしい自嘲の笑いを刻んでいた。
実際、実兼は、大声で笑い出したかった。子を宿した今になっても二条は上皇を許していず、浮気という背信行為で、屈辱へのしっぺ返しをしてのけたのかもしれない。
同時にそれは、実兼のうぬぼれへも、手痛い一撃を見舞ったことになる。第三の男との情事によって、上皇と実兼を痴《こけ》にし、二条は溜飲をさげたのだろう。
「それならそれで、こっちにも考えがある。なあ兵藤太、そうじゃないか」
「そうですとも。上皇の想い者だろうと何だろうと、遠慮はいりません。今度こそ闇にまぎれて忍び込んで、殿も本望をとげておしまいなされませ」
「文《ふみ》だの恋歌だの贈り物だの、回りくどい手つづきはいっさい無用だ。二条をわたしは買いかぶっていたよ。直接行動に出てやろう」
勇ましいことを言いはしたが、このところまた、厄介な問題が持ち上がって、実兼を公務にしばりつけていた。ムクリ国から、強硬な使者が乗り込んで来たのであった。
首をはねろ
はじめてムクリ国王が親書を送りつけてきたときは、それがどの辺にある国か、正式な国号を何というのか、どのような文字を使いどの程度の人智文化を有する民族なのか、はっきり把握すらしていなかった公家たちも、以来、毎年のようにしつっこくムクリから使者がくるのに刺激されて、否応なく相手国への理解を深めはじめていたし、知れば知るで必然的に、畏怖と警戒の念を増してきてもいたのである。
朝廷も幕府もが、
「返牒に及ばず」
と評議一決して、使臣を追い帰し、無視をつづけたにもかかわらず、ムクリ国蒙古の王フビライは、けっしてあきらめなかった。
二度三度と使いを寄こし、対馬《つしま》の島民を二人、拐《さら》って行くなどの示威行動にまで出た。
あまりな執念におそれをなしたか、四度目の使者が来たときは亀山帝はじめ、態度を軟化させる公家が多く、
「返書を送ったほうがよい」
とする意見が大勢を占めた。
そこでさっそく儒家の菅原長成が起用され、草案作りに着手することになったが、命ぜられた二通のうちの一通は、
「我が国は神国だから、智をもって他国と競うつもりはない。力によって争う考えもないけれども、力に屈するものでもない」
という意味を述べたものだし、いま一通は、高麗国にあてた謝辞だった。
三度目に来たとき連行していった対馬の島民二名を、次の機会に送り帰してくれたからで、この文書の発行人は大宰府の守護所、あて先は高麗国の、慶尚道按察使《けいしようどうあんさつし》――。一方は日本の太政官から、蒙古国の中書省《ちゆうしよしよう》へあてて書かれている。
天皇から国王へ渡す書式だと「国書」となるため、巧みにそれを避けて、二通とも役所から役所へあてる体裁をとったのである。
「なかなかうまい文言だな」
「さすがは文章《もんじよう》博士」
と菅原長成の文才をたたえて、朝廷は下書きをまず、鎌倉へ送った。
幕府の思惑をたしかめ、その賛同を得た上で返牒する構えだったのに、あくまで強気な北条時宗は、
「必要ありますまい」
一言のもとに、博士苦心の草稿を握りつぶしてしまった。
俄然、フビライは怒った。国書を幾度つかわしても梨のつぶて……。使者を手ぶらで追い立てるとは何たる無礼か。この上は討伐の軍を起こすほかなしと逸《はや》ったが、
「いや待て。もしかしたら事の行き違いかもわからん。ワクワク国日本は、我が国の一省一郡にも満たぬ小国と聞いている。そんな国が、敵対してくる道理はなかろう」
腑に落ちぬままもう一度、使者を派遣し、出方をためしてみる気になったのだ。
二条が妊娠し、父の屋敷にもどっていたさなか、そのいわば、世祖《せいそ》の怒りの代弁者ともいってよい使者が、日本へ向けて船出した。
名は、趙良弼《ちようりようひつ》――。
中華の東北部に蟠踞《ばんきよ》し、かつて宋国を攻撃して南方へ遁走させた金国《きんこく》・女真族《じよしんぞく》の、趙は一員である。
金の滅亡後、蒙古王朝に仕え、陝西路宣撫使《せんせいろせんぶし》の職にあったが、世祖フビライの信任あつく、今回、特に抜擢されて日本国信使に任ぜられたのだという。
「鬼をもひしぐ髭むじゃの偉丈夫。やたら大声を張りあげるところから、高麗人たちに破《や》れ鐘と仇名された男ですわ」
西園寺実兼に、趙についての知識を披露してくれたのは、注文の香木をとどけに来た芳善斎の松若であった。
あいかわらずでっぷりと肥えて、顔面など両頬の肉が、顎《あご》の近くにまで垂れさがっている。中でもひときわ目につくのが、酒焼けした鼻の頭だ。その赤鼻をうごめかして松若が談論風発するのは、聞き手をけむに巻く快感に酔いたいからだろう。
「へええ、高麗国にまで趙の名はとどろいているのか?」
と、無知をまる出しにするあたり、実兼も松若にとって、えばり甲斐のある鴨の一羽にちがいない。
「そうじゃありませんてば……。趙は日本へくる前に、随員をひきいて高麗へ入ったんです。いまから半年――いや、もっと前になるかな。とにかく何ヵ月も一行は高麗に駐留して、国内の情勢を見て廻ったらしいですよ」
「そうか。それで民衆にまで、髭むじゃな風貌や大声が印象づけられたわけだな」
「一行の日本到着に先んじて、高麗王から牒状が送られて来ませんでしたか?」
「来たよ松若、ここのところ連日、評定《ひようじよう》が開かれているのもそのためだ」
「何と書かれていましたな?」
「幕府が届けてきたのは写しだけど、『近々、蒙古の使節趙良弼、王国昌《おうこくしよう》らが、世祖の特使として貴国に国交を求めにおもむく。どうかこれまでの頑迷な態度をひるがえし、門戸を開いて、こころよく蒙古の要請に応じてもらいたい』と、ほとんど哀願せんばかりな筆致で書いてきていたよ」
「そのはずです。粟散《ぞくさん》辺土のワクワク国のくせに、こわいもの知らずの日本が、蒙古王の国書に返事をせず、通交の求めまでをたびたび蹴とばすので、高麗はとばっちりを受けて大迷惑してるんでさあ」
「おかしいじゃないか。交際するしないは、日本と蒙古のあいだの問題だろ」
「それだから困るんですよ殿さま。世祖フビライハンは、堪忍袋の緒を切りましたぜ。高麗に命じて、日本との合戦準備にとりかかったのを、ごぞんじないんですかい?」
「合戦? そんなさし迫った状況ではなかろう。趙良弼ら蒙古使節の一行は、どこまでも平和|裡《り》に、ねばりづよく国交を求めに行こうとしていると、高麗からの牒状にはしたためてあったぞ」
「和戦両様の構えを取っているんです。趙たちが長期間、高麗に滞在したのは、各地に作られつつある屯田《とんでん》を視察して廻っていたからだと、もっぱら取り沙汰されてますよ」
「屯田とは、何だね?」
「日本征伐のための用兵を駐屯させておくきまりの場所です。動員令が発せられるまでは農耕に従事させておくわけだが、渡海のための前線基地金州をはじめとして、東寧府やら王京やら、十ヵ所もの屯田があちこちに開かれたようですな」
松若の説明はばかにくわしい。具体性もあるのが西園寺実兼にはぶきみだった。
「屯田の監督官は蒙古本国から派遣された経略使ですけど、こいつらがムクリ風を吹かしてむりやり耕地を供出させる。それだけでも苦しいのに、耕作に使う牛馬や鋤鍬《すきくわ》、成りものの種から端境期《はざかいき》を食いつなぐための糧秣《りようまつ》まで、いっさいがっさい高麗国が負担せにゃならない。つまるところ、税の取り立てとなってそれがはね返るのだからたまりませんや。百姓たちは稗粥《ひえがゆ》さえ啜《すす》れず、木の実や草の根で餓えをしのいでいるありさまだそうですぜ」
屯田の負担だけではないと、実兼の怯《おび》えに追い打ちをかける語気で、松若は語り継いだ。
「船でさあ殿さま、フビライハンはね、ワクワク国日本を揉みつぶすために、一千艘もの軍船を高麗国に造らせているらしいですよ」
「船を?」
「それも、ちっぽけな釣り舟なんぞとはけたがちがう。何万もの兵員や軍馬、兵糧を積みこんで海を押し渡るんですから三千石、四千石級の大船です」
「そんな命令を甘受できるわけはなかろう」
「だから高麗では王や宰相らが泣きついて、歎願をくり返すんですが、蒙古は取り合わない。夜を日に継ぐ督促に、高麗の国内は疲弊しきって、一揆がほうぼうで蜂起する。大変なさわぎだと、博多や今津ではしきりに噂してますぜ」
「わかったよ松若」
実兼の表情には、さすがに苦渋の色がにじんだ。
「我が国がすなおに通交に応じれば、蒙古は遠征計画をとりやめ、高麗は屯田や造船、徴兵の災厄から逃れられる。高麗王朝が日本に『世祖の要求を受け入れてくれ』と懇請してきているのは、このためだね」
「そういうことですな」
しかし実態は、通交に名をかりた隷属である。高麗の二の舞を演じさせられる羽目になるなら、勝算おぼつかぬ戦いでも、戦うほか活路を見いだす手だてはないではないか。
鎌倉幕府が外交の常識を無視し、頑迷としか評しようのない強硬姿勢をとりつづけているわけが、実兼にもやっとはっきり呑みこめてきた。
「なま殺しの苦患《くげん》の中で、苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》に喘《あえ》がねばならぬ属国の悲惨……」
亡命僧らの口を介して、執権北条時宗を軸とする幕閣の首脳たちは、いやというほどその実態を聞かされ、
「万に一つの僥倖《ぎようこう》であっても、戦いには生きのびる道が残されている。それに賭けよう」
と決意したのだろう。
「ともあれ殿さま、遠からず北九州の港のどれかへ上陸してくるはずですが、趙良弼を正使とする使節団は、蒙古皇帝のつきつけてきた最後通牒とお考えになったほうがよろしいですよ。これまで通り、すげなく一行を追い返したときこそ両国の決裂。いつ敵襲が報ぜられてもおかしくない情況に追いこまれたのだと、覚悟なさるべきです」
松若の警告に、
「その通りだな。うん」
胴|慄《ぶる》えをこらえながら実兼はうなずいた。
「対策は立てておいでですかい?」
「朝廷では大寺大社に奉幣使をつかわし、さかんに敵国|降伏《ごうぶく》の祈請をこらされている」
「神だのみですか」
「ほかに何ができる?」
「できませんなあ、お公卿さんには……」
「幕府は九州各地の守護|御家人《ごけにん》らに命じて、筑前《ちくぜん》肥前《ひぜん》の海岸警固に当たらせていると聞いたよ」
「それは手前どもも、現に見てます。要害なども、所によっては築いているようですな」
「こんな贅沢なものを衣服に焚きしめて、夜遊びになどうつつをぬかしている場合ではないな。まさに国難じゃないか」
納品の香木へ、実兼は顔をしかめてみせた。
「急にそんな、尻に火がついたような心配をなさる必要はありませんや。お気の晴れる話だって、お聞かせできるんですぜ」
ぶ厚い膝を、松若はにじり出させた。
「蒙古はなにせ、砂漠の民だから、海戦には馴れてません。馬を運んで来て上陸しようとするでしょうけど、水ぎわでくい止めて陸へあげなければいいんです。あとはいやいや駆り出されて来た属領の兵士だから、士気はあがらんし、命を的に戦う気もない」
「むしろ叛乱ぐらい起こしかねないな」
「肝腎の軍船も、高麗の工人どもが鞭でおどされながら泣きの涙で造ったものです。目いっぱい材料と労力を惜しんだ手抜き船ですよ。造船にも航海技術にも暗い蒙古の指揮官には、そんなとこまでは判りゃしません」
「なるほど。一縷《いちる》の望み、なきにしも非ずか」
「一縷どころか勝負は五分五分でさあ。しょげるのは早うござんすぜ殿さま」
景気のよい松若のお喋りは、いきなりこのとき、隣室からの異様な叫び声でぶち切られた。
「なんですか? あの声は……」
不意打ちのおどろきに、さしも胆の太い松若が逃げ腰を浮かせた。
「なんだとは、なんだ」
ようやくもどりかけていた笑いが、たちまちまた、実兼の顔面から消しとんでしまった。
「とぼけるなよ松若、あれはお前が五両もの砂金で押しつけた鸚鵡《おうむ》の奇声じゃないか」
「やッ、鸚鵡? 金具をこすり合わせでもするような耳ざわりなあの声が、いつぞやの珍鳥とは信じられん」
「もとの飼主が、やつの地声を忘れるはずはなかろう。ごまかそうとしてももう、こんりんざい、その手には乗らんぞ」
次の間へ立ち、鳥籠をさげて来て手荒く松若の前に据えながら、実兼はなじった。
「人語などひとことだって話しはしない。けたたましく、ただ啼き立てるだけだ。よくもこんなまやかし物を掴ませたな」
「待ってください殿さま、いくら何でもそりゃあ訝《おか》しい。合点がいきません。臍《へそ》を曲げているんですぜ、きっと……」
「鳥の腹に、臍があるか馬鹿者。人を舐《な》めるのもいいかげんにしろ」
「まあ、そう興奮せんと、お静かにねがいます。手前も芳善斎の松若。永年お出入りのお得意さまにご損をかけたとあっては、老舗《しにせ》の名がすたりますからな。ぜひとも人語をお聞かせするよう、こやつめを懇々《こんこん》と訓《さと》して、改心させましょう」
「鸚鵡に説教を垂れるというのか」
「異国の生まれだけに、見かけによらず気むずかしいやつで、いったん臍を曲げたとなると酢でも塩でもいかんのです。事の道理をよくよく言い聞かせ、機嫌を直すほかありません。なあ、そうだな? 鸚鵡や」
と、猫なで声で呼びかけるあほらしさに、実兼は腹を立てる気も失せて、
「勝手にするがいい」
その場に松若を置きざりにしたまま座を立ってしまった。
召使の小女房に出仕の仕度を命じ、手ばやく装束をあらためて参内したのは、趙良弼ら蒙古使節の来朝に先立って、高麗王朝の窮状、世祖フビライの底意、実兼なりに推量した鎌倉幕府の決意などを、亀山帝の耳に入れておきたかったためである。
それが癖の真剣な、険《けわ》しい表情で、実兼の報告を聞き終わったあと、
「避けられぬ戦いならばやむをえぬが、敗れでもしたら生きながらの地獄となろう」
亀山帝は歎息した。
「今のうちにこの世をおさらばしたほうが、賢明かもしれんな」
「と言って、おいそれと死ぬこともできないのが、人間のつらいところです」
「久我雅忠が亡くなったよ。朝がた、辰《たつ》の刻だそうだ。賢人はさっさと消えてゆくぞ実兼」
皮肉っぽい言い方だった。
御前を退って来ると、公卿や殿上人のあいだでも久我大納言の逝去《せいきよ》は話題になっていた。
「四十五歳だってね。老けて見えた人だったが、死因はやはり黄疸《おうだん》か?」
「そうらしい。でも祈祷が効いたのか、さして苦しまずに息を引きとったようだ」
「息女がいたろう。二条という……」
「後深草上皇のお子をみごもって、折りよく宿さがりしてきていた。大納言はその出産をひどく気にかけてね、見舞いに来られた上皇に、くれぐれも息女の行く末を頼んで亡くなったそうだよ」
雅忠の心情も二条の悲しみもが、実兼には思いやられる。生母のすけ大に幼いころ死に別れ、いままた父と永別して、二条は親無し子になりはてた。
腹ちがいの弟や妹、まま母や親戚はいるにしても、実の親とはちがう。
(身重だし、さぞ心細がっているだろうな)
だからといって自身弔問に出かけるのは、立場からも触穢《しよくえ》の懸念《けねん》からも、このさい差し控えるべきだった。
(とりあえず二条にあてて、悔やみの状を持たせてやろう)
しかし帰邸してみると他家の愁歎をよそに、西園寺家の家族たちは実兼が居間に使っている寝殿の西面《にしおもて》に妻や子供、召使までが集まって、あたりかまわぬ笑い声を炸《はじ》けさせていた。
「にぎやかだな。何をそんなに面白がっているのだ?」
「あ、お帰りなさい父さま、鸚鵡だよ、唄ったんだよ」
と立って来て、実兼の袍《ほう》の袖を引っぱるのは、ことし八歳になる長男の千代童《ちよどう》だ。
「鸚鵡が? ほんとうか?」
「ほんとうですとも。唄いましたのよ」
当歳の乳呑み児をあやしながら、これもにこにこ顔で北ノ方の顕子《あきこ》がうなずく。中院内大臣通成の息女で、千代童ら三人の子の母である。
「芳善斎の松若が、何やらくどくど言い聞かせて帰ったあと、心を入れ替えたのでしょうか。いきなり良い声で唄いはじめたのですわ」
「良い声だって? そんなはずはあるまい」
包丁の錆《さび》をこそげ落とすような、もしくはボロ布を引き裂くような、あの奇怪な地声の主《ぬし》が、美声など発するわけはない。
「まあ聞いてごらんあそばせ」
鳥籠を囲んだ全員が、手拍子を打ってうながすと、鸚鵡はさも得意げに胸を反らし、のどの羽毛を微妙にふるわせながら唄いだした。
ウマヤノ隅ナル飼イ猿ハ
キヅナヲ放レテ、サゾ遊ブ
トキワノ山ナル木々ノ葉ハ
風ノ吹クニゾ
チュウトロ、揺ルギテ裏返ル
まるで、何かに化かされた感じである。それほど鸚鵡の声は舌たるく、甘たるく、節回しまでが巧みなのだ。
「ほんとにこいつが唄っているのか?」
なかなか実兼には信じられない。若い、練達な唄い女《め》の精が、突如、やくざな鸚鵡に取り憑《つ》きでもしたように思える。
「まさに奇現象というやつだな」
しかも、それからというもの、
「始めろよ、それ、チュウトロ、チュウトロ」
手を叩いて囃《はや》すとすぐさま乗ってきて、鸚鵡は特技を開陳するようになった。
冠毛をかしげ、丸い目をいっぱいにみひらいて、止まり木の上を右へ左へ、小刻みに移動しながら唄う仕草が、また、たまらなく愛らしい。
実兼は有頂天のよろこびようで、
「砂金五両の値打ちは充分ある。安い買い物だったよ」
来る客ごとに自慢たらたら鸚鵡の今様《いまよう》を聞かせたが、ただ一つの不満はいつまでたっても「うまやの隅なる飼い猿は」の一曲しか唄わないことだった。
廐《うまや》に猿をつないでおくと、馬の罹患を防ぐと信ぜられていたから、武者の館《たち》や上卿の屋敷など、良馬を数多く所有する家では、かならずといってよいほど猿が飼われている。
西園寺家も例外ではないので、
「鸚鵡どの、いつのまにうちの廐を覗き見したのだね?」
兵藤太などは、わけて興がった。
「でもなあ、番《ばん》たび同じ唄では、飽きてくるよなあ」
「教えましょうか殿、ほかの曲を……」
「うん、やってみてくれ」
そこで腕によりをかけて、なじみの白拍子から口移しに習ったという最新流行の今様を、兵藤太がくり返し唄って聞かせたのだが、鸚鵡はうるさそうにそっぽを向く。しまいにはいつもの地声でけたたましくわめき、冠毛を逆立てて威嚇の姿勢までとる。
「やめろ兵藤太、癇癪《かんしやく》持ちの姫|御前《ごぜ》みたいなやつなんだ。またぞろ臍《へそ》を曲げて、黙《だ》んまりをきめこまれてはたまらない。こいつの好きにさせておけ」
「鳥に、臍がありますかな」
「ものの、たとえだよ」
そういえば芳善斎の松若相手に、似たような問答を交わしたことがあったっけと、実兼が苦笑しているところへ、
「ごぶさた、お許しくださいまし」
その、当の松若が訪ねて来た。
「おう、呼びにやろうと思っていたやさきだ。鸚鵡がね、やっと人語を喋ったぞ」
「人語をねえ。何と申しました?」
「唄さ。今様を唄ったのだからすごいだろ」
「それどころじゃありませんぜ殿さま、蒙古使節団の一行が、いよいよ筑前の今津へ上陸してきたそうですよ」
鸚鵡で浮かれていた鼻ばしらを、がんと一発、なぐられたにひとしい。
「趙良弼が、ついに日本に現れたか」
実兼は声を上ずらせた。髭むじゃの偉丈夫、破れ鐘の仇名を持つ鬼将軍と聞いていたからだろう、一瞬、趙その人の来朝を蒙古軍の襲来のごとく錯覚して、実兼は青ざめたのである。
「連中は、総勢百余名……。二艘の唐船《からぶね》に分乗して今津の船着き場に入り、ただちに博多の守護所へくり込んで行ったそうです。中に一人、弥四郎とかいう名の日本人がまじっていましたが、これは少しばかり唐語と高麗語をあやつるため、通辞として引っぱられて来た対馬の島民らしいですな」
口調のなめらかさに変わりはないけれども、松若の顔つきはいつもよりきびしい。それが実兼から落ちつきを奪ってしまった。
「でもまだ、六波羅からの報告はないぞ」
松若に、彼は反問した。
「趙たちの上陸を、お前はどうして知ったんだ?」
「お役所仕事は、商人より悠長です。手前どものところへは今津の出店から、状で知らせて寄こしたんですよ」
「そうか。それなら確かだ。こうしてはいられない。すぐ参内してみかどに奏上しよう」
立ちかけるのを、
「あわてたって始まりませんや殿さま」
五指の一本一本に肉の詰まったまるまっちい手をあげて、松若は制した。
「おっつけ博多の守護所から六波羅へ、早馬が到着するでしょうし、参内の召し触れもくるでしょう。それから出かけたって遅くはありますまい。いつぞやもお話した通り幕府の肚《はら》は決まっています。趙が来ようとだれが来ようと、使いは追い返される。返牒もしっこないのですからね」
「それはそうだな」
不決断に坐りこんだ実兼へ、
「たしか先ほど、この鸚鵡めが今様を唄ったと仰せでしたな」
鳥籠を指さしながら松若は話題を変えた。
「ああ、ちょっとしゃがれた悩ましげな女声でね、お前にもぜひ聞かせたいよ」
「面妖《めんよう》な話です。手前はこいつに、今様などけちりんも教えたおぼえはありませんぜ」
「えッ、ほんとか?」
「一言半句、教えてはいません」
その、とたんだった。変幻自在な変わり身を見せて、鸚鵡は即座に、まったく別の今様を唄いだしたのである。
トナリノ娘ガマツル神
頭ノ上ノチヂレ髪
指ノ先ノ手拙神《てずつがみ》
足ノ裏ノ歩キ神
鼻にかかった独特の、甘たれ調子であった。
実兼がびっくりする以上に、これには松若が肝をつぶしたらしい。
「や、や、一本やられたぞ」
秋も末というのに大汗になって狼狽《ろうばい》したのは、かねがね彼自身、彼の妻を、
「いやもう髪は癖ッ毛。手先は不器用。そのくせ遊び好きで、やれ花見だ月見だ物詣でだと、出歩いてばかりいる女なのですよ」
百年の不作といわんばかりに、こきおろしていたからだ。
鸚鵡が唄った今様の歌詞は、そっくりその女房を当てこすっている。
「まるで千里眼だ。気色《きしよく》の悪い鳥ですなあ」
ほうほうのていで松若が帰って行ったあと、さらに困ったことが起きた。毎回そうであったように、今度の蒙古使節に対しても幕府は強硬な態度を崩さず、大宰府の役人に、
「国書の返事は与えぬ。通交もせぬ。使者は全員、ただちに帰国させよ」
と命じてきたのである。
趙良弼は、しかし唯々諾々《いいだくだく》幕命に従うような、なまやさしい男ではなかった。
「返牒を受け取らぬうちは断じて帰らぬ」
髭づらに朱をそそいで吠え立てたのだ。
「すぐさま帝都におもむき、日本国王ならびに大将軍に謁見したい。それがならぬなら、わしを斬れ。生きてのめのめ大蒙古国皇帝にまみえることなどできようか。さあ斬れッ、わしの素《そ》ッ首、みごと刎《は》ねろッ」
これには博多に駐留する幕府の役人たちも手を焼いた。顎がくたびれるほど慰撫につとめたのだが、趙良弼は耳をかさない。
「首をはねろ」
の一点張りである。
やや話のわかる張鐸《ちようたく》という書状官に頼んで趙を説得してもらうやら、鎌倉に内密に多額の土産≠ととのえてこっそり渡すやら、苦心|惨澹《さんたん》のあげく、ようやく使節団を追い払ったときは、全員、蘇生の思いだった。
「引きあげて行きましたぞ」
六波羅からの報告に、
「帰ったか。ひとまず一難、去ったなあ」
公家たちも愁眉を開いたが、西園寺実兼が弱り切ったのは、じつはそのあとであった。
「趙良弼の手ごわさは、今までの使者たちとは段がちがっていたようだ。『都へ案内しろ、天皇に会わせろ、さもなければ首をはねろ』と、すさまじい鬼づらで怒号したそうだよ」
北ノ方相手に、何の気もなくものがたったのを、いつのまに聞きかじったのか、忍び歩きをくわだててある夜、ひそかに外出の支度をしていた背へ、抜き打ちの鋭さで、
「首ヲハネロッ」
大喝一声、鸚鵡が浴びせかけたのである。
「わッ」
反射的に実兼の身体は飛び上がった。今様のときとは打って変わって、ドスのきいた男声だ。しかもそれからはのべつ幕なしに、
「首ヲハネロ、首ヲハネロ、首ヲハネロ」
鸚鵡は叫び立てるのであった。
八幡社頭
言うことに事欠いて「首をはねろ」とは、禍々《まがまが》しい。北ノ方や子供たちが、
「なんという不吉な鳥でしょう」
耳を抑えて逃げ惑うさわぎに、実兼はつくづく困りはてた。
「黙れ、こら、ほかのことを言え」
兵藤太ら侍どもが籠をおっとり囲んで、くちぐちに叱りつけても効果はない。巫女《みこ》を招いて祓《はら》いをさせても無駄だった。
「やっぱりこいつは喰わせ者だ。五両の損には目をつぶって芳善斎へ返してしまおう。松若を呼べ」
その松若までが、唐物の買いつけに九州へ出かけて留守、というのでは、実兼の憤懣《ふんまん》はおさまりようがない。
「主人がおらんでもかまわん。店先へほうり込んで来い」
剣幕のただならなさを、すばやく見て取ったか、鸚鵡は急におとなしくなり、物騒な言挙《ことあ》げを撤回したばかりか、手の裏返す現金さで、媚《こ》びるように喋りはじめた。
「殿サマハ福々長者。池ノ岩ニハ亀遊ブ。庭ノ松ニハ鶴ガ舞ウ。メデタイナ、メデタイナ」
毒気を抜かれて、奉公人の末までが言葉を失った。
「いったい、どうなっているんだこの鸚鵡の頭の中は……。ほんとに鳥か? 妖怪じゃないのか?」
少ししゃがれた愛らしい女声にもどって、つぶらな目をくりくりさせ、小首をかしげながら、めでた尽しを並べるのを聞くと、つい口許がほころんでしまうのも人情である。
「返さないでよお父さま、松若がいつかしたように、麿《まろ》がよくよく言い聞かせて、嫌なことを言わせないようにするからさ」
千代童にせがまれるまでもない、
「そのかわりこの鸚鵡の前で、やたらな口走りはするなよ。すぐ覚えて、またぞろわめきはじめると厄介だからな」
「お父さまこそ気をつけてくださいね。もう二度と『首をはねろ』だなんておっしゃってはいけませんよ」
「わかっている。用心するさ」
戒め合って、もと通り飼うことにしたが、北ノ方の目をかすめて夜陰、実兼がこそこそ外出しようとすると、いかにもわけ知り顔に、
「牛ヲ曳キ出セ、オ車ノ用意」
鸚鵡が、ささやき声で言いだすのには、閉口した。
「なんとかならんか兵藤太」
「籠ごと布に包んで塗籠《ぬりごめ》の奥にでも押し込んでしまいましょう。暗くすれば眠りますよ」
苦心して、近ごろ主従が忍び出て行く先は、じつは二条の仮寓だったのである。
父の久我雅忠に死別したあと、彼女は四条大宮の乳母の家に移り、そこから、
「お目にかかって、ぜひお話しとうございます。お越しくださいませんか」
と、誘いの状を寄こしたのであった。
二条の便りが届いたときは、まだ趙良弼一行が滞在中で、日蒙、双方の言い分が折り合わず、紛糾しつづけていたさなかだった。
ひさしぶりに目にする水茎の跡は、しかしかぶせた灰を吹き払って、埋み火を一気に炎にする風に似た作用を、実兼の心にもたらした。
消したはずの恋情が、はげしく燃え上がりはじめるのを、彼は感じた。あとひと押しのところまで漕ぎつけながら、後深草上皇に先んじられた無念が、実兼の闘志を新しくかきたてた。
(こんどこそ、思いをとげてみせるぞ)
あのときは臆病にすぎた。競い合いながらも上皇に気がねし、久我家の人々の思惑や二条の感情を忖度《そんたく》する余りつい手出しを控えて、後れをとったのである。
(でももう、だれに遠慮がいるものか)
当の二条が、どこの馬の骨とも知れぬ男と不貞を働き、平気で上皇を裏切っているのだ。今さら実兼がためらったり、おじけづいたりする理由は、毫《ごう》もないのであった。
(二条は遊ぶ気なのだろう。健康な、若ざかりの身体が上皇一人を守り切れなくなったとしても、あながち二条を責めることはできない。上皇もうすうすご存知でいながら、大目に見ておられるのかもしれないな)
宮廷の後宮は院の御所も内裏も、見ようによっては性の花園である。女房たちの乱脈ぶりに二条が染まらなければ、そのほうがむしろふしぎといえた。
(けっく彼女も、まわりの仲間と同じだったのだ)
実兼は気が軽くなった。
兵藤太を先にやって下見させると、四条大宮の乳母の住居はごみごみした町なかにあって、築地《ついじ》すらめぐらさぬ板葺《いたぶ》きの小家だという。
「近所となりに較べれば、いくらかはましな構えですが、生垣の破れから犬も密男《みそかお》も自由に出はいりできそうな手軽さです」
「どうしてそんなところへ二条は移り住んだのだろう。方違《かたたがえ》かね?」
「いや、方違にしては長逗留《とうりゆう》すぎますよ。継母との間に気まずいことでも起きたのではありませんか」
「なんにせよ、誘われながら行かぬ手はなかろう。今夜にでも出かけるぞ兵藤太」
去年の、それが十月なかば……。
手入れのわるい庭は雑草が倒れ伏して、秋のさかりは溢れたであろう虫のすだきが、それでも一つ二つ、かすかに聞こえる。
鞭で払い払い兵藤太が先に立ったのに、二条の居間にたどりついたときは、指貫《さしぬき》の裾がしっとり湿るほどの露だった。
「忘れずにいてくださったのですね」
闇の中で掻きさぐる手へ、物も言わずすがりついてくる二条を、力いっぱい抱きしめることで、実兼もその無言に答えた。
それ以来、ひそかな関係は、年が明けた今なお、つづいている。そして結びつきが深まるにつれて、二条という娘の性格も、少しずつ実兼には呑みこめてきた。
ひさしぶりに再会した夜、二条は濃い鈍色《にびいろ》の衣裳をまとっていた。父の久我大納言が世を去ってまもなく、あとを追いでもするように母方の祖母までが他界したからである。
重い服喪の最中、後深草上皇という定まった夫がいるのに、あえて実兼を誘い入れた二条の行為は、つつしみに欠ける大胆なもので、常識の尺度で計れば許されないことだった。それだけに実兼にすれば、
(わたしとの淡い初恋を、忘れかねたのか)
と、都合よく解釈したいところだが、自分より先に、すでに二条のもとに通って来ているらしいあの『八葉の車』の存在を思うと、ひとりよがりな感傷など消えてしまう。
(単に男好きな、淫蕩《いんとう》な娘というだけのことかもしれない)
そのつもりで接したほうが、上皇へのうしろめたさも感じないで済む。喪服はかえって禁忌を犯す隠微なときめきをそそったし、二条がみごもっていることさえ実兼には刺激になった。
十五歳の女体はまだ、かぼそい。七ヵ月になる腹部のふくらみが、そこだけ不均衡なたくましさで目に迫まってきた初めての夜、
(上皇のお子がここに宿っている……)
そう思うだけで実兼はたじろいだ。固く巻き締めた腹帯の白さにも萎縮して、
「よいのですか二条どの、お身体に障りませんか?」
彼らしくもない懸念を口にしたのは、やはり子の父の影を、意識の上から拭《ぬぐ》い去ることができなかったためだろう。かかわり合った女が妊娠した例はこれまでにもあった。
扱い方は心得ているはずなのに、二条の場合にかぎって気おくれしたのは、久我邸でおこなわれた着帯の式に出席して、
「丈夫な嬰児《やや》を生めよ」
上皇が祝いを述べ、手ずから帯を巻いたと聞いていたからである。
実兼の逡巡《しゆんじゆん》に、
「さあ、どうでしょう。乳母や薬師《くすし》は控えるよう申しますけど……」
二条はふくみ笑いを洩らしただけだが、不敵なその表情が、実兼を鼓舞した。抑制の鍵がばらばらに砕けて四散し、五体が浮き上がりそうな解放感に、実兼は歓呼したい気持になったのだ。
上皇のお子を中に挟んでの抱擁は、かえってそれからは、愉悦以外のなにものでもなくなった。例の、『八葉の車』に触れて、
「噂は真実ですか。男はどこの何者です?」
責め立てたときも、実兼の嫉妬を楽しむかのように、二条は口もとに薄ら笑いをうかべただけであった。
四条大宮の乳母の家は、手ぜまな上に家族が多く、親族の出入りもはげしい。
二条がどう言いくるめたか、実兼が忍んで来るのは乳母も承知していて、
「ご酒など、召し上がりますか?」
ごそごそ、襖《ふすま》のきわに寄ってきたりする。
「もらおうか」
「ろくなお肴《さかな》とてござりませぬ」
言いわけしいしい運んでくる瓶子《へいし》の中身が、匂いのきつい濁り酒だったりして、そんな些事にも実兼は落ちつけなかった。
「源氏物語の夕顔のように、いっそ上皇のお手をのがれて、わたくしの山荘に身を隠してしまってはいかがです?」
申し出に、二条はきっぱりかぶりを振る。
「あなたと割りない仲になっただけでも罪深いのに、行く方をくらましたりすれば、さらにお上に煮え湯をお飲ませすることになりますわ」
そのくせに、その上皇に、
「いつまで里居《さとい》をつづけるつもりか。帰って来い二条」
きびしく催促されて、いったんは御所にもどったものの、どこへ行くともはっきりとは告げずに、すぐまた彼女は退出してしまった。
「久我邸にも乳母の家にも、お姿が見えません」
兵藤太に言われて、実兼は舌打ちした。
「駄々ッ子だな、まるで……。わたしの申し出ははねつけながら、自分勝手な雲隠れはしてのけるわけか」
「上皇も心痛あそばし、あちこち心あたりを探させておられるようです」
「お前もやってみてくれ」
「そのつもりです」
あげく突きとめたのは、醍醐《だいご》の勝倶胝院《しようくていいん》という草庵だった。そこに止住する老尼をたよって、二条は身を隠していたのである。
「真願という庵主は、亡き母すけ大どのが生前、帰依していた大徳だそうで、二条さまとも日ごろ文など取り交わしていた間柄だということでした」
「そんな尼寺にとじこもって、二条はどうするつもりだろう。もうすぐ生み月じゃないか」
「まさか寺で、身二つになるわけにもいきますまい」
「人さわがせな話だな」
前後して、上皇も二条の在り家《か》を見つけ出したらしい。自身、醍醐まで出かけてつれもどして来られたが、それから幾日もたたないうちに二条はまた、御所を出奔……。行く方不明になってしまった。文永十年の年明け早々だから、臨月といってよい身重な身体である。こんどこそ実兼はと胸《むね》を突かれて、
「ただごとではないぞ。くり返し家出するのは、何かよほど切羽つまった事情があるからに相違ない。産も気がかりだ。草の根を分けても探し出せ」
兵藤太をせき立てた。
こんどの失踪も、しかし行く先はすぐ突きとめられた。洛南の男山に鎮座する石清水《いわしみず》八幡宮の宿坊に二条はひそんでいたのである。
「姫さまは初春というときまって、源氏の氏神にご家門の栄えを祈りに行かれるのですよ」
だいぶ前、雑仕の万左女からチラと聞いた話を思い出して、
(なるほど、久我家の本姓は源氏……。源氏の守り神は八幡大|菩薩《ぼさつ》だ。とすると、方角は男山の石清水か)
見当をつけたのは、こんなことによく頭の働く兵藤太だった。
「そこで馬を飛ばして鳥羽の里、深草あたりを嗅ぎ回ったところ、それらしい手輿《たごし》が川沿いの土手道を、とぼとぼ南をさしてくだって行くのを見たと、野良《のら》仕事をしている百姓が口を揃えて申すのです」
「よし、舟で追ってみよう」
洛中から、おおよそ四里――。
桂川、淀川《よどがわ》、木津《きづ》川の合流部に位置して、石清水正八幡は古来から貴賤上下のあつい信仰をあつめている。
やしろを管理する寺は大乗院神宮寺といい、男山の山上山下におびただしく堂舎僧坊が甍《いらか》を並べていた。
鳥羽の舟着きまで馬を駆り、その先は舟を利用して山崎の渡し場近くに上陸した実兼主従が、一つ一つしらみつぶしに支院を当たってみたところ、はたして滝本坊という宿坊の一室で二条を発見した。
立てめぐらした屏風のかげで二条は大儀そうに横になり、ただ一人召しつれて来たらしい気に入りの、中将という女房にふくらはぎをさすらせていたが、実兼が入って行ってもさして意外そうな顔はせず、
「どうしてここがわかりましたの?」
懶《ものう》い口ぶりで問いかけてきた。
「そんな詮索より、お身体はどうなのです? 出産が今日あすにも差し迫まっているのに、輿になど揺られて遠道《とおみち》をなさるなんて、無謀ですな。参詣するならするでおっしゃってくれれば、きちんと乗り物の用意をさせましたのに……」
「まだ、ひと月ほど先ですわ。赤ちゃんが生まれるのは……」
「でも顔色がばかに悪い。やはりくたびれたのです。それにこの部屋は寒すぎる。もっと炭櫃《すびつ》を運ばせましょう」
女君のおみ足はわたしが代わってさするからと、中将を庫裏《くり》に走らせ、兵藤太には薬湯《やくとう》の用意をさせるなど、まめまめしく実兼が介抱するのを、ひとごとのように眺めながら、
「難産で亡くなった御匣殿《みくしげどの》のように、わたしもいっそ、産で死にとうございます」
投げやりな言い方を二条はする。
二度までも行く方をくらまし、縁につながる人々に気を揉ませながら、「死にたい」とは何事かと、実兼は心中、苦り切った。
さわぎを引き起こしはするものの、とことん雲隠れしてしまうわけではなく、さがす気ならすぐにでも見つかるような場所に潜むことからも、二条の心理は解明できる。
「死にたい」
と口走るのも、しんじつ世をはかなんでいるのではない。そういう形で、胸の奥にあるもやもやをぶつけて来たにすぎないと、実兼は察しをつけている。
「何かご不満があるようですな。上皇にですか? わたしにですか? それとも久我家のご縁者にですか? 家出などという姑息な手段をとらずに、言い分があるならだれにでも遠慮なくおっしゃればよいのです」
「家出ではありません」
二条は茵《しとね》に突っ伏し、肩を慄わせた。
「醍醐の草庵へは、真願尼さまのご法話を聴聞《ちようもん》しに出かけたのですし、この石清水へは初詣でに来たのです。まわりのかたがたが勝手にさわぎ立てただけですわ」
「それならそれでいいけど、死にたいとまでおっしゃるのは穏やかでありませんな。我慢なりがたいことがあるなら打ちあけてほしいです。お力になるつもりでいるのですからね」
いきなり上体を起こし、小さな美しい蛇がキッと鎌首をもたげるようなあの、いつもの気迫で、二条は実兼と対峙《たいじ》した。すでに幾度か体験して、こんなときの二条の凝視の鋭さには馴れもし、驚かなくもなっている実兼だが、受ける感動は、はじめての時と変わらず新鮮だった。
(何というひややかな、そして貪婪《どんらん》な輝きを発する双眸《そうぼう》だろう)
と、思う。むしろ怕《こわ》くさえある顔つきが、二条という娘の魅力になっているのも実兼には解《げ》せない謎の一つであった。
「聞いてください」
坐り直して、二条は訴えはじめた。声は低い。あたりの耳をはばかってのことだろうが、半病人のように見えたつい今しがたまでの弱り方とは打って変って、語調には激しい感情のほとばしりがうかがえた。
「お上のお仕打ちはひどうございます。わたくしをないがしろにしておいでなのです。東ノ御方|※子《しずこ》さまは洞院家の息女。東二条院公子《きみこ》さまは西園寺家のおん娘。どちらも並びない権門の出でいらっしゃいます。母方の四条家も父方の久我家も大納言止まりにすぎぬわたくしなどより、お上が大切にかしずかれるのはもっともですけど、それにしろお扱いに、差がありすぎると思うのです」
「わかりましたよ」
幼児のむずがりをなだめる要領で、実兼は二条の肩をかかえこみ、軽くその背を叩いた。
「つまりあなたへの、上皇の待遇が、他の后妃がたに比して劣っているというわけですね」
「わたくしだって上卿の家の出です。母系の縁でいえば北山准后の姪の娘……。大宮院を母后に持つお上とも、血はつながっています」
「そうですとも。准后の孫のわたしとだって縁つづきの二条どのです。地下《じげ》の家から奉公にあがった女房などと同列に見るのは礼を失していますよ」
「それなのにお上は、『二条、肩を揉め腰をさすれ、うがい手水《ちようず》の介添えをしろ』とお側仕えの女童《めのわらわ》だった昔と変わらずにわたくしを召し使って、専用の局すらくださいません。いやしくも寵をこうむって、お子までみごもった者に、あまりと申せば情けないお仕打ちではないでしょうか」
「ひどいなあ、いくらなんでも……。あなたが御所で、そんな遇され方をしているなんて夢にも知らなかったなあ」
「まだ、あります。東二条院公子さまの嫉みに、わたくし、とても耐えられませんわ。大宮院太后の妹君、あなたの叔母上でいらっしゃるけど、あんな意地悪なかたって見たことがありません。もともと亡くなった母のすけ大を、ひどく嫌っておいでだったし、その忘れ形見というだけでわたくしまでを憎んでいたかたです。そのわたくしが上皇の後宮に加えられ、懐妊したとあっては、憎悪も百倍するわけでしょう。何かにつけて苛められて、もう、つくづく御所にいるのが辛くなりました」
「上皇は間に立って、取りなしの口をきいてくださらないのですか?」
「ご生母の妹ですもの、東二条院さまはお上にとっても叔母上ですわね。中宮であり叔母でもある女院に、お上は頭があがらないのですよ」
その通りだ。東二条院公子への恐妻ぶりは実兼も先刻、承知している。彼女の妬心を煽り、上皇と二条の離間を策した過去すらあったが、心の隅では、訴えつづける二条への批判も抑えがたかった。
拗《す》ねて行くえをくらまし、心痛させることで、二条は上皇を懲らしめるつもりだったのだろう。しかしそれにしては、抗議の内容が他愛なさすぎた。二条にとっては女院の意地悪も御所での待遇の不当も、『死にたい』と口走るほどの重大事なのであろうけれど、はたから見れば拍子ぬけする。その程度の不平不満で出奔さわぎを起こすなど、幼稚というより、世間知らずな思いあがりではないか。
もっとも二条に限らず、宮廷女性の視野の狭さは、籠の中だけを天地と心得ているあの鸚鵡と大差なかった。ほかの世界を知らず、そこに生きる厖大な人間たちのくらしの実態とも無縁だから、宮廷内の揉めごとぐらいで生きるの死ぬのと思い詰めもするのである。
「おまかせなさい。上皇にも女院にも、わたしから御意見申しあげて、あなたのお立場が改善されるよう努力してみますから……」
と、この場合、実兼も当たりさわりない言葉で、二条の昂《たかぶ》りをひとまずなだめるほかなかった。
「今はひたすら出産の無事だけを八幡に念じましょう。参拝はすまされましたか?」
「一昨日ここに着くとすぐ、お参りはいたしました。でも、このような身体ですし、喪中でもあるので、坊の裏道を大楠のきわまで登って、玉垣の外から拝礼したきりですわ」
表参道にくらべるとやや険しいが、本殿の脇へ出られる近道である。
「それでは二条どのは、今まで通りこの坊で休息していてください。わたしだけ一人、急いで参詣を済ませて来ますから……」
立ちかける実兼の袂を抑えて、
「お供しとうございます。お上や女院への恨みごとを吐き出したら、気分が少しすっきりしました。ご一緒してはいけませんこと?」
二条はねだる。
胸中の波立ちがおさまると表情が柔らいで、声にまで娘らしい艶《つや》がもどった。
「いけないどころか、うれしいかぎりです。では、出かけましょう」
手を取って引き起こしかけた拍子に、袖の下に隠れていた本が一冊、二条の足許にぱたりと落ちた。
「あら」
頬を染めて、拾いあげるのを、
「何を読んでおられたのです?」
横から実兼が奪い取って、題簽《だいせん》に目を走らせると、それは西行の詠歌を集めた『山家《さんか》集』であった。
「お好きなのですか? 西行法師の歌が……」
「ええ、歌も好きですし、あのかたの生きざまにも惹《ひ》かれて、七ツ八ツのころから『西行修行之記』という絵巻を、くり返しくり返し見て育ちました。父に頂いたものですけど、今でもわたくしの大切な宝物ですわ」
若い娘にしては好みが渋い。興をそそられて、実兼はさらに質問してみた。
「その絵巻の、どんなところが、一番お気に召しましたか?」
「一方に深山、山裾にゆるく流れを描き、桜がはらはら散りかかっている景色を、旅姿の西行がじっと眺めているところです。『風吹けば、花の白波岩越えて、渡りわづらふ山川の水』と、歌が添えてありますの」
「美しい光景ですな」
「美しいというより、身に沁むような淋しさが滲《にじ》み出てはいないでしょうか。わたくしももしできたら、足にまかせて旅がしたい。そして花や紅葉を美しいと見るだけでなく、その奥にある深い意味までがさぐれたら、どんなに仕合わせかと思うときがございますわ」
繊《ほそ》い、目に見えぬ鉤《かぎ》に似たものを、キラッと投げかけられたように感じて、実兼は一瞬、絶句した。しかし、
「女西行か。風流な望みだなあ」
笑ったときにはもう、その閃光は彼の感覚の中で、跡かたなく消えてしまっていた。
「さあ、ぼつぼつ参りましょうか。お仕度はそれでよろしいですか?」
二条をうながして、実兼は元気よく宿坊を出た。
寒烈といってよいほど山中の大気は引き緊って、炭火にほてりすぎた頬を刺す。かえってそれがこころよい。
男山は、頂きを鳩ケ峰という。南は洞《ほら》ガ峠を経て生駒《いこま》山系につらなり、北は淀川の波映をへだてて天王山に対している。都と難波を結ぶ交通の要衝……。王城の南の鎮護として、皇室の尊崇もなみなみならず厚い。祭りには勅使が立ち、天皇や院の御幸《みゆき》も数しれない。
げんに最近の、蒙古来牒のさわぎにも、皇居からの奉幣使が亀山帝の宸筆《しんぴつ》をたずさえて、敵国降伏の祈願をこめに登山していた。
滝本坊のかたわらには、神号の由来にちなむ石清水が音をたてて湧き出し、余水はせせらぎとなって山の下の放生《ほうしよう》川にそそいでいる。
「おお冷たい」
「指先がちぎれそうですね」
口をすすぎ手を清めると、年頭の社参にふさわしく心まですがやかに改まった。
二条は袿《うちき》を壺折り、丈にあまる黒髪をその中に着込めて、さらに頭上から、うすものの被衣《かつぎ》をかぶっている。顔は半ばまでその被衣で覆われ、臨月の姿態の痛々しさも人目につかなかった。
もっとも、三ガ日をすぎたせいか参詣人の数は少ない。裏参道はことに閑散として、鵯《ひよ》か雉子《きじ》か、時おりキキッと山気をつらぬく啼き声のほか、石段を踏む彼らの足音しか聞こえない。
広大な神域は谷も峰も、ときわ木の黝《くろず》んだ緑に埋もれ、それをぬきん出てところどころに、大塔の相輪のきらめきが目を射た。
裏参道に沿った一基は、琴塔の愛称を持つちんまりとした多宝塔だが、それを左に見つつ登りきると、長い築地塀《ついじべい》のひとところをうがって丹《に》の鳥居が現れる。
中は回廊をめぐらす壮麗な社殿だ。内殿|外殿《がいでん》とも、これも華やかに木組みは丹で塗られ、屋根屋根の檜皮《ひわだ》、壁の白さとあざやかな対照をなしていた。
花のすくない季節ではあるけれど、瑞垣《みずがき》のきわにはところどころ梅が植えられ、ほころびそめた花の薫りにまじって、どこで焚くのか、ゆるやかに香煙が流れてくる。
寄りそって、実兼は二条の歩行を助け、そのあとを女房の中将、西園寺家の郎従兵藤太ら、双方の召使が七、八人従った。
「気持がいいこと!」
二条はうれしそうに実兼を見あげ、
「御所へなど、帰りたくなくなりました。いつまでもあなたと、こうしていたい」
目許に媚《こび》をにじませて笑う。
どことなく陰気な翳《かげ》りはあるものの、おとなしく愛らしい、いつもの二条にすっかりもどっていた。
回廊の角を折れて南側へまわり込むと、表参道に面した広前《ひろまえ》へ出る。そそりたつ重層の楼門――。うかうか中へ踏み入りかけて、
「なんだろう、あいつら……」
兵藤太が立ちすくんだ。二十人を越す乞食の群れが、くろぐろとたむろしていたのであった。
風の集団
兵藤太《ひようとうだ》のあとから門の石段を登りかけていた実兼も、
「おッ」
異形の集団にぎょっとして、思わずその場に棒立ちになった。社殿や鳥居、瑞垣《みずがき》と同じく、楼門も柱から桁《けた》まで、すべて燃えたつばかり丹《に》に塗られている。巨大な緋色の鳳《おおとり》がふわっと舞いおりでもしたような華麗な建物の中だけに、居ならぶ連中の灰色がかった衣服のかさなりが、いっそうむさくるしく見えたのかもしれない。
すでに一昨日、礼拝をすませていた二条は、服喪の身をはばかり、この日も楼門の内側へは入らずに石段の下で待っていたが、実兼があわてて、
「内庭に、胡乱《うろん》な者どもが大勢たむろしています。女性《によしよう》がたは近づかぬほうがよろしい。われわれもここで拝を捧げてすぐ引き返しますから、もと来た道を、先へもどって行ってください」
うながすと、かえって好奇心をそそられたのだろう、中将ともども、
「どんな人たちがいますの?」
臆す様子もなくあとを追って来た。
「乞食ですよ。ほら……」
「乞食?」
被衣をかかげて門内を眺めた二条は、
「いいえ、行脚《あんぎや》のお坊さんがたよ」
実兼の観察を否定した。
「俗体の男も少しまじっているけど、乞食の群れなどではないみたい……」
「でも、いずれ劣らぬ薄よごれた風態をしているなあ」
「長旅のあげく、たどりついた人たちではないかしら……」
いわゆる八幡造りの本殿は、外棟の中ほどに切妻屋根の幣殿《へいでん》が附属し、それにつづいて板敷きの舞殿《まいどの》が、縦にながく、楼門まで伸びている。
よく見ると、その舞殿の床に経机を据え、金銅の火舎《ほや》香炉と花瓶《けびよう》を置いて、群れの引率者と見える中年の僧が、高らかに称名《しようみよう》を誦《ず》しているのである。
その背後の板の間や中庭の凍《い》て土の上に、痩せ脛を折り、手を合わせて、一行中の老若すべてが、
「南無阿弥陀仏、なむあみだぶ」
と、僧の念仏につづけて唱える。ひと声ひと声に真剣な、凜《りん》とした気組みが感ぜられて、なるほど身なりこそ貧しいが、彼らがいじきたない乞食の集まりなどでないことは実兼にも納得できた。
しかるべく奉施もしたらしい。だからこそ八幡社は机や仏具を貸し与えて、ざっと見渡したところ二十名を越すほどの人数を、舞殿に招じ入れたにちがいない。
通りがかった神官に、そっと訊《たず》ねると、
「一遍《いつぺん》さんと、その同行の人たちですよ」
事もなげに教えてくれた。
「一遍? はて……」
聞いたことのない名だし、目にしたこともない集団である。
もっとも世間には、くぐつ、田楽、曲舞々《くせまいまい》など芸や色を販《ひさ》いで歩いたり、あるいは熊野巫女、勧進聖《かんじんひじり》、放下僧《ほうかぞう》といったいかがわしい僧俗の群れが、幾組となく漂泊している。
おそらくそんな仲間なのだろうと思い捨てて、実兼はさっさと楼門から離れかけた。
「さあ、そろそろ宿坊へもどりましょう。風邪を召すと大変です」
二条は、でも根が生えたようにその場を動こうとしなかった。
「もう少しいさせてください。ここに……」
念仏の唱和に耳を傾け、やがてうずくまって、どうやら彼女自身も称名をとなえはじめたらしい。
小柄な全身は被衣で覆われているので、うつむいた横顔からも、ほとんど表情を読み取ることができない。合掌している指先の細さ、青白さだけが実兼の目を捉《とら》えた。
「どうする? 冷えこんでは胎内のお子に障るぞ。むりにでもお手を取ってつれ出そうか」
中将にささやいたが、この久我家の侍女までが女主人同様、魅入られたように黒い集団をみつめたまま、
「南無阿弥陀仏、なむあみだぶ」
彼らの声に低いつぶやきを合わせて、実兼の言葉に応じようとしない。
そのうちに旅僧たちは立ち上がって、舞殿から静かに、楼門の外へあふれ出て来た。回向《えこう》が終わったのだ。
はじかれたように二条は身を起こし、最後に一遍が現れると、五、六歩、そばへ歩み寄って、ぶしつけとも思えるまなざしをじっと相手の顔にあてた。
いきなり片脇から、ぶつかりそうな勢いで人が飛び出したのに一遍もおどろいたのか、足をとめて二条を見た。うすものの被衣がうしろへなびき、二条の顔はこのとき、一遍の視線の前にむき出しになっていた。
臈《ろう》たけた二条の目鼻だちと、見なりのよさは、高貴な女性と一瞥《いちべつ》で、一遍にも判断できたはずだが、いささかもそれを意にかける気配はなかった。
ただ二条の、思い詰めた、物問いたげな目のうるみだけを看取したらしく、
「何ぞ愚僧にご用かな?」
一遍は問いかけてきた。
実兼も、はじめてここで、一遍とまともに顔を合わせた。うしろ姿を遠目に眺めていたときから首筋の痩せた、肩のとがった、いかつい身体つきが印象的だったが、面と向かうとその背丈は、並より高い実兼すら少し見上げるほどで、骨にじかに、鞣皮《なめしがわ》を張りつけたように肉付きが薄い。
灼けるだけ日に灼けて、気骨稜々《きこつりようりよう》という形容を図に描きでもしたような、ごつごつした体躯の持ちぬしなのである。
風貌も、身体つきに見合ってたけだけしい。目鼻にしろ口にしろ造作のすべてが大きく、猛禽《もうきん》の嘴《くちばし》さながらせり出した鼻梁のとがりが、わけて異彩を放っている。
左右、一文字につながりそうな太い眉の下に、がっきり嵌《は》め込まれた両眼は、目尻が吊り上がって動きがするどい。
僧侶というより、三軍を叱咤する武将と評したい顔なのに、なぜかまったく恐ろしさを感じない。それどころか実兼までが、響きの深い、西国なまりのあるその声音《こわね》の魅力に、ぐぐッと引き込まれそうな危うさを覚えた。
「あの……あの……」
二条は口ごもり、ひどくはにかみながら、内なる衝動に突き動かされでもするように、
「あなたは、どこから来られたのですか?」
問いかけた。
「四国の、伊予《いよ》からまいりました」
「どうしてここに?」
「ちと、心願のことがあって、一七日《いつしちにち》のお籠りを思い立ったのです」
「ではしばらく当社にご滞在ですね」
「いや、今日が七日目……。参籠が終わりましたので、いまから下山いたします」
「お山をおりてからは?」
と、たたみかける一本調子な質問責めは、子供の根問いにそっくりだった。
女馴れした実兼でさえ時に舌を巻くほど、したたかな成熟ぶりを示すかと思うと、いきなり年齢相応の幼稚さをまる出しにもする二条の一面が、滑稽なまでに露呈している。
一遍も、微笑を誘われたらしく、
「山をおりてからはまた一路、伊予へ帰ります」
ねんごろな答えを返した。
「伊予の、どこへ?」
「おそらくご存知あるまいけれども、浮穴《うけな》と申す郡《こおり》に、菅生《すごう》の岩屋と呼ばれる霊場がござる。そこにとじこもって修行の仕直しをいたすつもりでおります」
「お名は、一遍さまとか……」
「ははは、それは人々が、いつのまにやら愚僧につけた名でな。本来は智真じゃ」
「なぜ一遍なのでしょう」
「ただの一遍でよい、真剣に、心の底から念仏めされと、だれに向こうても、愚僧がすすめておるからでござろ」
「いま八幡の宝前でご一緒に回向《えこう》しておられた坊さまがたは、お弟子さんですか?」
「上洛の途次、いつとはなしに同行し、共に参籠をとげた道づれにすぎませぬ。このお山をおりたら散り散りに、袂を分かつことになると思います。愚僧に随従してまいったは、それ、そこにおる聖戒《しようかい》だけじゃ」
と目でさししめす参道のきわに、これも見るからに筋骨たくましい青年僧が一人、黙然とうずくまっていた。
なるほど見回すと、その法弟のほか近くにはもう人影はない。舞殿を出る前におたがい同士、すでに別れの挨拶をすませたのか、それぞれ目ざす方向へ三々五々、僧たちは立ち去ろうとしていた。
一遍智真の言う通り彼らはもとからの同行ではなく、旅の道すがら一時期、行を共にした念仏者の群れだったのだろう。
「では、われらもこれにておいとまします。いずれの上臈かは存ぜぬが、どうやらお産まぢかなご様子……。くれぐれもお身をおいといあって、すこやかなお子をお生みなされよ」
破れ頭巾《ずきん》をいただき、弟子の坊ともども行きかける背へ、
「あのう……もし、お上人《しようにん》さま」
すがりつく語気で、二条は呼びかけた。
「いま一つ、おうかがいしてよろしいでしょうか」
「おう、何なりと」
「尊い聖《ひじり》とお見受けします。この上なお、菅生の岩屋とやらで修行せねばならぬとは、解《げ》せませぬ。なぜですか?」
「わしはな、上臈どの。上人でも聖《ひじり》でもありません。煩悩具足《ぼんのうぐそく》の乞食坊主じゃ。ただ、巷《ちまた》の呻《うめ》きを聞きとる耳はある。貧苦にのた打つ人々の姿を見る目はある。微力ながらも、この人々の支えになりたいという熱意はある。しかしまだまだ、わしの力ではおぼつかぬ。そこで昔、弘法大師《こうぼうだいし》も修行された岩屋寺の嶮岨《けんそ》に身を置いて、おのれを錬え直す所存なのです」
「また、いつの日か、お目にかかれるときが来ますかしら……」
「縁あらば、再会の折りもありましょう。あなたはお若い。たとえ愚僧の現身《うつしみ》がこの世から失せても、もし衆生《しゆじよう》救済の大願をいささかなりと成就しておれば、その、わしの心に出会えるはずです」
「お心に?」
「さよう。足さぐりでおぼつかなく、闇夜の荒野をたどるに似た拠るべない人々の魂に、豆つぶほどの灯火《ともしび》でもわしが点じることができたら、小さなその明かりをあなたのお目は、きっと捉《とら》えると思いますよ」
「わかりました」
やつぎばやな問いかけは、やっと終わった。乗り移っていた憑《つ》きものが落ちでもしたように、二条はぐったり実兼の腕にもたれかかった。
「おさらば」
会釈して、一遍智真は歩き出した。その歩速は風さながら速く、表参道の石だたみをたちまち遠ざかる……。実兼は、これも呪縛《じゆばく》から解かれた感じで、
「いそいで帰って温まりましょう。手先が氷みたいに冷えてしまったじゃないですか」
抱きかかえるように二条をつれてもどると、宿坊の滝本院には後深草上皇からの迎えが大勢、手ぐすね引いて待ちかまえていた。
築地に沿って、牛車が三輛も寄せかけてある。北面の下臈《げろう》と見える腹巻姿の侍までいる。迎えというよりは、追手に近いものものしい人数が滝本坊に詰めかけてい、宰領と見える年輩の公卿が、
「どこをほっつき歩いていたのだ。そんな身体で……」
二条が門を入るなり、大声で浴びせてきた。亡きすけ大の弟――。二条には母方の叔父に当たる四条隆顕であった。
「ほっつき歩くとは大納言どののお言葉とも思えませんな。ここは八幡の神域。足をどこへ向けても大道芸一つ見物することは不可能です。二条どのはわたしを供につれて宝前へぬかずきに参られただけですよ」
実兼が腹にすえかねて口を出すと、それさえ不愉快でならぬのか、
「これは異な所でお目にかかりました。あなたさまも当社にご参詣とはぞんじませんでしたな」
隆顕は皮肉たっぷりに応酬し、
「さあ、すぐさま屋敷へもどれ」
姪の手を取って引き立てにかかった。
「臨月近い身重でいながら人さわがせな家出をくり返し、われわれ身内に恥をかかせおる。お祖父さまもご立腹だぞ」
おどろいたことに、そのお祖父さま――すけ大や隆顕の父の、四条隆親までが、宿坊の奥から姿を現した。
北山准后西園寺貞子の弟だから、実兼にとっても四条隆親は、大叔父ということになる。
さすが老体だけに息子より気が練れているのか、隆親は如才なく実兼に挨拶し、しかし孫娘の二条には容赦のない口ぶりで、同様、即刻帰洛するよううながした。
「一応、車の用意はしてまいったがの、霜どけの田舎道を四里も揺られ通しては胎内のお子に障ろう。手輿で来たようじゃが、もどりも輿にするかな?」
二条にたずね、
「馴れぬ騎馬では、いかに血気のお年ごろとは申せ鞍腰《くらごし》がだるくなりますぞ。われらの車にお召しなされませ」
実兼にも、老人はすすめたが、
「けっこうです」
にべもなく彼はことわった。そして、
「また京で逢おうな二条どの、気をつけて帰れよ」
聞こえよがしに女に声を投げ、兵藤太が曳き出してきた乗馬に鞭をあてると、四条家の一行よりひと足はやく洛中へ馳せもどってしまった。
『八葉の車』の真偽はともかく、実兼との浮気は二条の近親たちの間で、もはや公然の秘密となっている。いつ上皇に気づかれるか、薄氷を踏む思いなのに、その心痛をよそに当の実兼と、滝本坊に潜んでいたとは……。
(ふしだらな娘だ。男も男。ずぶといやつ)
と、祖父や叔父にすれば、苦々しさの極みだったにちがいない。
帰洛後、二十日ほどして、二条は後深草上皇のお子を生み落とした。うぶ声の弱々しい、並より小さな皇子であった。
産所が四条家に設けられたのは、石清水八幡の宿坊からうむを言わさず、隆親と隆顕が二条の身柄を自邸へつれもどしてしまったためである。表向きの理由は、
「生家の久我邸で産をさせるのが筋ではあるけれど、主人の大納言雅忠が亡くなって以来、のちぞえの妻とまま子二条の親子仲がどうもしっくりいっていない。そこでやむをえず、すけ大の実家の四条家で二条を引きとり、世話することにした」
というのだが、ほんとうの目的は、西園寺実兼ら浮気相手の手から二条を隔離してしまうことにあったようだ。
忍んで行こうにも警固がきびしくて、二条の私室はおろか屋敷のそばにすら寄りつけない。口に出してまで、
「親族一統の恥さらし」
と、蔑《さげす》むのでもわかるように、四条家の人々は祖父も叔父たちも、二条を持て余し者のように見ている。
上皇のお子を生んだことさえあながち慶賀してはいない。これが『治天の君』の亀山帝か、その皇太子|世仁《よひと》親王あたりに寵愛されて皇子が誕生したのであれば、一族こぞって祝福したかもしれない。
だが、いかにせん、お子の父は帝系の主流からはずされてしまった若隠居の後深草院である。
それも、第一皇子とでもいうのならまだしも、すでに総領の煕仁《ひろひと》親王はじめ腹々に、院は幾たりもの皇子皇女を儲けておられる。今さら二条が、その何番目かのお子を生んだところで、四条家や久我家がこうむる恩恵など、無きにひとしい。
でもともあれ、初めての出産をつつがなく果たした二条なのだし、仮りにも子の父は、前天皇、そして現在、上皇の地位にある人だ。四条家では安産の祈祷から産後の祝い、しきたりにのっとった諸儀式まで、やるべきことはひと通り、きちんとやった。
「家の体面を汚すでないぞ。世間にうしろ指をさされんようにせい」
隆親老人の指図に従って順序よく事を運んだのだが、ただ一つの手ちがいは、赤児のひよわさだった。産婦の二条は若ざかりの体力にものをいわせて、めきめき恢復していったのに、皇子の発育ははかばかしくない。
乳母の乳はあり余るほど出る。しかし飲む量が少なく、むりに吸わせるとすぐ、吐いたりくだしたりしてしまう。上皇も、
「肥立ち次第、御所へもどってこい」
と二条をせきたてはするものの、子供への関心は薄く、隆親や隆顕に、
「ものごころつくまで、そちらで育ててやってくれぬか」
依頼する始末であった。
もっとも、一族の女性が宮中に召されて天皇や上皇のお子を生んだ場合、里方で養育する例は珍しくない。二条は、でも別れをつらがって、
「乳母ともども御所へつれて行きます。そして、わたくしが育てます」
言い張った。しかし乳母が附いていても、若い未経験な母親の手になど到底、負えそうもない虚弱な赤児なのである。
「わるいことは申しませんから二条さん、せめて伝い歩きができるころまで、わたくしたちにおまかせなさい」
隆顕の北ノ方はじめ口々に訓されて二条はようやくあきらめ、院の御所へもどったが、それからは東二条院公子に意地悪をされたり、上皇の扱いを不当と感じるたびに、
「赤ちゃんのお顔が見たくなりました」
そう言って、四条家へ帰ってくる。
母親が子を抱きに行くのを妨げることはできないので、しぶしぶにでも上皇が退出を許すと、やがては子との対面を口実に、監視のゆるい久我邸へもどって、二条は西園寺実兼との密会を再開しはじめた。
実兼も、守りの固い四条家にくらべれば、勝手の知れた久我邸のほうがはるかに忍んで行きやすい。女房の中将や雑仕の万左女《まさめ》ら、手引きしてくれる奉公人がい、そのほかの召使たちも実兼の渡す心附けの効果か、もう今はほとんどの者が見て見ぬふりで、むしろ二人の逢う瀬を助けさえする。
ひと月ふた月と二条は実家に逗留しつづけ、よほどうるさく上皇が呼びもどしでもしないかぎりめったに御所へ帰らなくなった。実兼との情事に溺れ切ったからだが、出産のあと、急速に芳醇な熟れを深めだした女体の魅力に、実兼の側も夢中にさせられて、御所への帰参を極力こばんだ。
あげく、当然な帰結がおとずれた。
「昨夜、奇妙な夢を見たの」
と、二条が言い出したのである。
「塗り骨に、蒔絵で松を描いた扇……。そう、それですわ。いつもお持ちのその扇に、愛らしい銀の油壺をのせて、あなたがわたしにくださったので、人に見られまいと思って大急ぎでふところへ入れました。そのとたん、暁の鐘が鳴って目が醒めたのよ」
実兼は嫌な予感に襲われた。これまでも懐中に何か入った夢を見ると、かならずといってよいほど女たちは懐妊した。
(こんども、それではないか?)
恐れているうちに、
「どうしましょう、みごもったみたい……」
はたして二条に泣きつかれた。
「たしかに、わたしの子?」
指を折ってかぞえながら、二条はうなずく。
「上皇のお胤ではありません。それだと月の数が大きくずれてしまうわ」
これには二人ながら途方にくれた。何とか妊娠の事実を隠し、上皇の手前を取りつくろわねばならなくなったのだ。
生別死別
智恵をしぼったあげく、
「これしかありませんよ」
二条に、実兼が授けたのは、仮病と流産を交互に組み合わせた策だった。
ただちに彼は二条の身柄を御所へもどし、十日ほど上皇のお相手を務めさせたあと、
「体調が思わしくないのです。しばらく家で静養しとうござります」
願い出させて、ふたたび久我邸へ帰らせた。
そして、きっちり三ヵ月後に、こんどは、
「二度目のお子をみごもりましたわ」
そう、上皇に言上させたのである。
十日間、近侍するうちに受胎し、三ヵ月後に気づいて報告したことになるけれども、実際にはこのとき、すでに妊娠期間は五ヵ月をすぎている。
出仕すれば、身体つきから露見する恐れが生じるため、引きつづき、
「懐妊した上に病気が重なり、はかばかしく良くなりません」
と愬《うつた》えて、久我邸の奥ふかく閉じこもったまま産み月を迎えさせ、身二つになると同時に、
「月たらずのまま流産してしまいました」
と、上皇をいつわるつもりなのだ。
苦しい綱渡りだが、それ以外に月数のずれを糊塗する方法を、実兼は考えつかなかったのである。
いったん御所へ帰参し、上皇のお側に侍したあと、男の指示通り病気と言い立てて、ひとまず二条は生家へもどって来た。しかし、
「うまくお上を騙《だま》しおおせるでしょうか」
実兼の顔を見るたびに不安を口にする。
「女にかかわることとなると、なかなか敏感なかたですからね、奉公人の口封じその他、注意ぶかく気をくばらねばいけません。でも、いつもとちがって近ごろ上皇は、何か他のことにお心を奪われてはいませんか?」
「ええ、とても変なのです。妙にそわそわなさったり、かと思うとじっと沈みこんで、もの思いにふけったり……」
「写経生をこっそり御所に召されたとも取り沙汰されているようですな」
「十二人もですよ。それも、なるべく人目につかないよう塗籠《ぬりごめ》の中に机を運ばせてね、如法《によほう》経を書き写させておられるのです。いずれどこかの寺へお納めするのでしょうけど、心願でも立てられたのかしら……」
経生に命じて写経させるならまだしも、実兼が耳にした噂では、みずから小刀で指の先をきずつけ、したたる血を土器《かわらけ》に受けて、亡き父後嵯峨院の宸筆《しんぴつ》の裏に、上皇は法華経《ほけきよう》の普門品《ふもんぼん》を血書したともいう。
そのことを話して聞かせると、
「まあ気味がわるい。血染めの経文だなんて……。お上はなぜ、そんなものを書かれたのでしょう。ちっとも知りませんでしたわ。だれかを呪詛《じゆそ》でもなさるみたいね」
二条はこわがって顔色を変えた。
人を呪っての血書でも、納経でもない。ほのかに一筋きざしはじめた光明に、希望を見いだして、
(石にかじりついてもこの望み、かなえたい)
との一心から、指を刃物で切るなどという痛い思いにも、後深草上皇は耐えたのである。
では、その光明とは何か? 上皇が抱いた望みとは、どういうものだったのだろうか?
――それは、亀山天皇の譲位であった。去年、二月はじめに、二条は上皇のお子を生んだのだが、じつはこのころから、
「そろそろ万乗《ばんじよう》の位を、皇太子の世仁に渡そうと思う。そなたたちの意見はどうか?」
亀山帝は側近の臣僚たちに向かって、お心の内を洩らしていたのだ。
「まだ、お早いでしょう」
と言う者はなかった。自由のきく上皇の立場にしりぞき、院ノ庁を開いて少年天皇の後見役におさまりながら、実権は握りつづけて離さぬ父祖代々の形体を、亀山帝も踏襲したがっているのを知っていたからである。
「おぼし召すままにあそばしませ」
そこで、少しずつ譲位の気運は盛り上がってゆき、年の暮れには、もはや、
「正月早々にも、お代がわりがおこなわれる。まちがいない」
と、宮廷中が確信するまでに事は具体化したのであった。ちょうど二条が、銀の油壺をふところに入れた夢を見て実兼に告げたころに当たる。
後深草上皇の耳にも、むろん噂は聞こえてきた。それはしかも、万一の僥倖《ぎようこう》を上皇に夢見させるに充分な、甘美な可能性を含んでいる。さっそく実兼を召して、上皇は言った。
「世仁を新帝の座につけたあと、亀山はだれを東宮《とうぐう》に据えるつもりだろう」
「そこですな、問題は……」
たずねる上皇も、訊《き》かれた実兼も、真剣にならざるをえない話題だった。
世仁皇太子はいま、八歳……。立太子と同時に源|具守《とももり》の娘が配されて妃となったけれども、むろん形式的な婚姻にすぎない。いずれ二人ながら成人し、娘は妃から、后《きさき》に冊立されるかもしれないが、まだ夫婦の結びつきはなく、子は生まれてはいない。
と、なると世仁《よひと》新天皇の東宮は、だれかほかから持ってこなければならなくなる。
「おれの倅《せがれ》の煕仁《ひろひと》に、思いがけぬ運が向いてきた――そう考えていいだろうか」
「いいですとも。本来お上のあとを継いで、煕仁親王こそが帝位につくはずのお人だったのですからな」
「父法皇におれは嫌われ、帝位を弟に奪われて、皇太子位までを弟の子に持っていかれてしまった。不条理をただし、嫡統の手に帝冠を取りもどす今度こそ、好機ではないか」
両眼に、上皇は涙さえ浮かべ、実兼の手を握りしめて呻《うめ》いた。
「ひと肌ぬいでくれ実兼、たのむ、たのむ」
後深草上皇の手の熱さが、実兼の体内に流れる西園寺家の血≠、一気に目醒めさせた。脈打つ血管の中で、何かが突如、ざわめきはじめるのを彼は感じた。
それは父の公相《きんすけ》、祖父の実氏《さねうじ》――いや、もっともっとはるか昔から、藤原一族の特性として実兼にまで伝えられた政略への、飽くなき興味だった。その成就に伴ってもたらされる権力への、貪婪《どんらん》ともいえる渇《かわ》きだった。
武士たちが刀槍によって満たそうとするものを、公家は智力で得ようとする。智力と智力の、千年にも及ぶ苛烈な闘争に打ち勝って、朝堂での地位を不動のものにした藤原氏主流の、西園寺家も有力な一派に属する。
(関東申次役……)
この役職に備わった神通力を思うぞんぶん駆使し、局面を陰に陽に操作してのける快感は、想像するだけで実兼を酔わせた。
父に死なれ、あたふた家督を継いだ当時は、十八か九の若|公達《きんだち》にすぎなかった実兼だが、この正月で彼も二十六歳に達している。
「ご安心なさいませお上、できるかぎりのことはしてみるつもりですから……」
上皇の涙に答えた声は、闘志に溢れてたのもしかった。
それでなくてさえそりの合わなかった亀山天皇である。妹|嬉子《よしこ》への冷遇も根にある。引きかえて、後深草上皇とのまじわりは深い。二条を相手に、その目をかすめて不埒《ふらち》を働いているという負い目もあった。
(もしかしたら上皇は、わたしと二条の仲を知っておられるのではないかな。二条の妊娠の秘密、子の父の正体を見破っていながら、気づかぬふりをしているとも考えられるな)
そうだとすれば上皇の黙認は、女をめぐる悶着で実兼と今、気まずくなどなりたくないとの配慮から出たものであろう。打算や計算と、それを見るよりも、上皇の、気の弱りと実兼は取って、その涙を正視しかねた。
もともと、虫が好かぬの女がどうのといった次元で、うんぬんする事柄ではない。両親の片寄った愛情から発した帝系の混乱なのだから、本来の嫡統にそれをもどすのは、重臣たる者の当然な責務ともいえる。
(個人的な理由だけで亀山帝に敵対するわけではない)
と、みずからに言い聞かせれば、行動もしやすくなった。
『二月騒動』のあと、南六波羅には北条時国が赴任し、北はもとのまま北条義宗が検断《けんだん》していたが、実兼は彼らと密談をかさね、鎌倉の執権時宗とも幾度か書状を交わし合って、煕仁親王立坊への裏工作に動きはじめた。
――一方、亀山帝も関東申次という役儀の手前、西園寺実兼を介して譲位の意志を時宗に伝え、このほうは支障なく幕府の同意を得て、文永十一年正月二十六日、めでたく世仁皇太子への、御位ゆずりの式がとりおこなわれたのであった。
新帝は第九十一代――。『後宇多《ごうだ》』と諡《おくりな》された天皇である。
八歳の少童ながら父亀山院に似て、はかない勝負ごとなどにさえ勝たねば気のすまぬきつい性格だった。
お子を帝位につけ、院ノ庁を開いて院政をとりはじめた亀山院が、自動的に上皇となったため、後深草上皇を本院、亀山上皇を新院と称して区別したけれども、後宇多新帝の皇太子にだれを立てるか、西園寺実兼の水面下での暗躍にかかわらず、この難問ばかりはしばらく棚上げにされていた。うっかりしたことは、幕府も言えないのだ。
亡き父後嵯峨法皇と生母大宮院|※子《よしこ》のえこひいきから、兄息子であるにもかかわらず後深草上皇がきのどくな立場に追いこまれている事実は、だれの目にもあきらかだし、ひそかに同情を寄せる者も少なくない。
北条時宗も、かねがね、
「さぞ鬱々《うつうつ》としておられるであろう」
と、その心の内を察していただけに、
「十二人もの経生に如法経を写させたばかりか、おんみずから普門品を血書してまで、後深草院は神仏に煕仁親王の立坊を祈っています。遁世の決意すらおありのようです」
実兼からの書翰で、そんな実情を知らされるたびに、
「ぜひお望みをかなえてあげたいものだ」
そう思わないわけにいかなくなる。
しかし亀山院の側も黙ってはいなかった。両親のめがねにかない、『治天の君』に定まった以上、自身の子孫によって帝位は継承されてゆくべきであり、
「故院や大宮院の肩持ちは、けっして不公平でも不当でもなかった。兄弟の資質を比較し、わたしを『帝器』と認めたからこそ取られた措置なのだから、いまさら兄上に泣きごとを並べられるいわれはない」
と確信している。
それなのに、後宇多新帝の皇太子に煕仁親王を立てなどしたら、帝系はふたたび兄上皇の血筋に移ってしまう。
「そんなことは許せない」
とも、亀山院は口に出してまで言い切る。
後宇多帝の下に今のところ、男御子はないが、総計すると生涯で、三十六名もの皇子皇女を儲けた亀山院だ。
文永十一年のこのとき年は二十六――。後宮に侍す后妃も多い。まだまだ先ゆき、大ぜい生まれるであろう皇子の中から、後宇多帝の東宮を選び出しても、けっして遅くはないのである。
関東申次役の西園寺実兼に、あるいは直接、鎌倉の執権にあてて、口頭や文書で亀山院は自身の考えを述べ、一歩たりとも譲歩しないむね、伝えていたから、新院本院、双方の板ばさみとなった時宗は、
「しばらく東宮の件には触れずにおこう」
と、棚上げの挙に出たわけであった。
年迎えの諸行事に引きつづき、新帝|践祚《せんそ》にともなう儀式があれこれおこなわれる中で、あわただしく春が逝き、夏もさかりをすぎかけて、気がつくと六月……。
陽光は残暑のけだるさに埃っぽく濁りながら、いつまでも気温が高い。日中うっかり道など歩くと、煎り殺されるかと思うほどの暑熱に灼かれた。
雨が少なく、農民たちのあいだでは、早くも旱魃《かんばつ》の恐れがささやかれはじめている。
頑健を誇る者にさえ耐えがたい季節を、日ごと身重くなりつつある二条が、どんなにつらがっているか気になって、忙しい公務の合間を縫い縫い、実兼は久我邸へ出かけていたけれど、それでも予定より着帯が半月も遅れてしまった。
極上の白絹を用尺に切らせ、
「わたしの子です。ぜひわたしの手で巻かせてください」
申し出たとき、二条はすでに乳母に手伝わせて、着帯を済ませていた。
実兼はそれをほどき、持参の絹で丁寧に二条の腹部を巻き直した。
「もっと、きつく……」
「このくらいに?」
「え、え」
「こんなに締めて、苦しくないのかな」
「かえって帯をすると気持がいいの。子が育ちすぎるのを防ぐから、産も軽くすむと乳母が申していましたわ」
同じ胎内に、後深草院のお子が宿っていたおととしの秋から冬にかけては、二条との抱擁に手加減など、実兼はいっさい加えようとしなかった。上皇への嫉みが、胎児を苛《さいな》む快感にすり変わりでもしたように、貪欲に二条をむさぼり、無体ともいえる求めを平気でくり返しもした。
しかし現金なもので、みごもっているのが我が子となると、いたわりが先に立つ。
「産み月は秋の終わりごろですもの、まだ大丈夫よ。何をしたって……」
むしろ二条に笑われるくらい、行為のすべてに臆病になった。
ただし男であれ女であれ、生まれてくる子に執着はすまいと、実兼は固く心に決めていた。そして産がま近かに迫まった九月なかば、院へも朝廷へも欠勤の届けを出し、
「春日の社にしばらく参籠する」
と北ノ方はじめ家の者までをいつわって、二条のかたわらに附ききったのである。
侍女の中将や乳母、雑仕の万左女《まさめ》ら腹心の女たちが介添えし、たとえば四条家の叔父だの母屋に住む継母などが見舞いに訪れるたびに、すばやく実兼を几帳《きちよう》のかげへ隠すといった気苦労をつづけるうちに、二十一日夜半、ようやく出産のきざしが現れた。陣痛がしきり始め、産婦の腰を抱いて励ます実兼の腕に、
「くるしいッ」
二条が縋《すが》りついた瞬間、うぶ声があがったのだ。
乳母に手伝わせて実兼は臍《へそ》の緒を結び、用意してきた小刀でおぼつかなくそれを切った。
赤児は、生まれたての水子にしては色の白い、髪なども産毛《うぶげ》とは思えぬほど黒々と生え揃った愛らしい女の子であった。
泣き声を母屋の家族たちに聞かれてはまずいので、いそいで中将が身体を清め、これもあらかじめ縫っておいた白絹の産着《うぶぎ》にくるんだ。実兼が抱き取って立とうとするのを、
「待って……つれてゆかないで……」
消耗しきったわななき声で、二条がとめた。
「いまさら何を言うのです? 子の始末はわたしに委せるというはじめからの約束でしょう?」
「では、せめてお顔を……」
「いけません。未練が出て、かえってつらくなる」
「だって、これっきり二度と逢えなくなるのですもの、ひと目だけでも見せてください」
仕方なく産褥《さんじよく》の脇にひざまずいて赤児を差し出すと、二条は半身を起こしてその顔を覗きこみ、いきなり、せきあげたようにむせび泣きはじめた。
「ごもっともではございますが姫さま、心を鬼になさって、お別れあそばしませ」
中将の言葉にうなずきながら、
「久我家、西園寺家、双方ともにこの子を引き取れない事情は、これまでにもとっくり話し合って、おたがいに得心したはずではありませんか」
実兼も説得に声を絞《しぼ》った。北ノ方の顕子には、二条との関係を秘してある。そこへいきなり子供をつれこんだりしたらひと騒動はまぬがれないし、母の名を詮索され、奉公人の口からそれらが外へ洩れれば、後深草院の耳に入るのは必定であろう。
二条の血すじの久我家や四条家に預けても、結果は変わらない。やはり上皇に知られてしまう。
「この子は表向き、どこまでも後深草院のお子です。あと産がおり次第、母屋の母者に『月足らずで流産しました』と告げ、四条大納言どのを介してでも院にそのように言上しなければなりません。つまりこの子は、流れてしまった死胎児……。すこやかな姿を、われわれ以外の者の目に触れさせてはまずいのです」
それはわかっている。さんざん説明されて、納得してはいたけれど、
「でも……でも……どこへ?」
つれて行く先さえ知らぬまま生き別れる悲しさに、二条は逆上気味となって実兼の直衣《のうし》の袖にむしゃぶりついた。
「いけません姫さま、何もお聞きなされますな」
左右から中将と乳母がその手をむりやりもぎ放したすきに、実兼は産所を走り出た。入り側の廊の暗がりにうずくまっていた影が、むくりと立つ。雑仕の万左女であった。
ひと足先に産所を出て、妻戸の掛け金をはずしておいた万左女が、
「殿さま、こちらです」
実兼をみちびいて簀《す》ノ子《こ》へおりる。勾欄《こうらん》下の闇が動き、兵藤太が寄って来て赤子を受け取った。
「たのんだぞ」
「心得ております」
もろ腕にかかえて走り去る背が、たちまち夜霧に呑まれたあとも、実兼は放心したようにその場に立ちつづけていたが、産所へもどろうとしかけて我にもなく、よろッと板敷に腰を突いてしまった。
「おあぶないッ、いかがなされました?」
「案じるな。ちょっと目まいがしただけだ」
万左女の手を押しのけて庇《ひさし》ノ間《ま》に入ると、産室からはまだ二条の泣き声が洩れてい、こもごも言いなぐさめる中将と乳母の小声が、それに混じった。
実兼にしても、やり切れない気分だった。女を妊娠させたことは、真偽取りまぜて何度かある。しかしこんな、せつない思いを味わったのは初めてであった。
今までは産に立ち合ったりせず、処理は女にゆだねて出費と子の始末だけを実兼が受け持った。産婦の腰を抱いて、陣痛の喘ぎに喘ぎを共にし、刃物をにぎって臍の緒を切るなどという体験は、かつてしたことがない。
命そのものの奔《ほとばし》りにも似たうぶ声は、まだ実兼の耳の底に鳴っている。布地を透《とお》して伝わってきた赤児の体温、しっとりとしたその重みも、なまなましく腕に残っていた。
胸ぐるしいまでに赤児への愛着がきざしたのは、これまでの女たちとちがって二条が感傷を露《あら》わにしたのと、産後の処置に手を貸したせいだろう。なまじ赤児を見たのがいけなかった。抱いたりしたために未練が生じたのだと、実兼は悔いた。
貰い手の心あたりについて相談したとき、兵藤太が大乗り気で、
「ありますとも。妻の里は奈良の興福寺門前で小さな筆屋をいとなんでいるのですが、家を継いだ妹夫婦に子がなくて淋しがっています。殿と二条さまのお子ならばやんごとない嬰児《やや》さま……。素性を打ちあけずに渡しても、子柄《こがら》のよさはひと目で判るはずです。きっと大よろこびで引きとりますよ」
受け合ったのである。
(その保証と、持って生まれた子供自身の運を信じるほかない)
と実兼は思う。過分な養育費を添えたのだし、人買いの手に落ち、奴婢《ぬひ》に売られる子供らにくらべれば、まだしも行く末は明るいはずではないか。
(忘れよう。忘れなければいけない)
実兼はおのれを叱咤《しつた》した。子の存在を記憶から抹消し去ることで、せめていくらかでも、後深草院に対する心の重荷を軽くしたかったのだ。
――その後深草院は、
「月満たぬまま早産し、しかも死胎であったとか久我邸の使いは申しておりました」
四条大納言隆顕の報告に、
「母体はつつがないか?」
まず二条の安否をたずね、
「病気あげくの産とやらで、だいぶ弱ってはいるものの、産後の肥立ちはまずまずのようでございます」
と聞いて、ひとまずほっとした様子だった。
ところが、この出産から半月ほどたった十月初め、二度目の打撃が二条を襲った。去年の春、誕生し、四条家に預けられていた男の子――正真正銘、後深草院を父とする皇子が、風邪をこじらせて亡くなってしまったのである。一年と八ヵ月……。片コトながら達者にしゃべり、二条がたずねて行くと、生母と心得ているのか、まとわりついて、
「だっこ、だっこ」
と、せがむ愛ざかりの子との、思ってもいなかった別れに、
「いっそ、わたしも死んでしまいたい」
二条は床についたきり起きあがれなくなった。叔父の隆顕が、
「恨んでくれるな。そなたも知っての通り虚弱なお子でな。ひどく育てにくかった。足かけ二年、それでも生きられたのが、じつはふしぎなくらいだったのだよ」
言いわけと詫びをくどくど述べるのにも、返事ひとつせず、衾《ふすま》をかぶって泣き悶えるだけだった。
稲のみのりが心配されたほど旱天《かんてん》のつづいた夏に引きかえ、秋口から冬にかかるこの季節は雨が多く、時雨《しぐれ》と呼ぶには強すぎる降りの中で、
「軒をつたう雫《しずく》さながら、はかなく消えてしまわれた」
と聞けば、ひよわな皇子の、ひとりぽっちの旅立ちが、哀れに思え、実兼すら涙を誘われるのに、父親の後深草院はさほど悲しんではいなかった。曽祖父の四条隆親がお抱きして、生前二度ほどお目通りにまかり出、父子の対面はすんでいる。しかしあとにも先にも、顔を見たのはそのとき限りだから、愛惜の情など湧きようがないのだ。まして胎内に宿っただけで流れてしまった子のことなど、意にかけもしないのは当然といえる。
幼皇子との永別を歎くどころか、後深草院はじつのところ今、大声で唄い、飛び上がって舞いたいほどの歓喜に酔いしれていた。
新帝が即位しながら、いつまでも皇太子がきまらないというのは、異例の不祥事である。いくら板ばさみの苦境に立たされたとはいえ、棚上げのまま放置しておくわけにはいかない。両六波羅を通じて、執権北条時宗は西園寺実兼に相談をもちかけてきた。
「あなた同様、わたしも煕仁親王の立坊に賛成です。しかし亀山院が折れるとは思えません。そこで一つ、提案があるのですが、聞き入れていただけますかな」
執権時宗の提案――。それは、
「煕仁親王を後宇多帝の皇太子とはするが、やがて帝位を踏まれたあかつき、その後継者はもとにもどって、亀山院の系列から選ぶ」
というものだった。つまり、
「煕仁親王の立坊と帝位継承は、一時的なものと見なす」
というわけである。
後深草院が法華経を血書までしたと実兼から告げられ、時宗はその思いの切実さに打たれた。もともと彼も実兼と同じく、後嵯峨法皇の弟息子への偏愛に批判的だった。
(嫡統無視もはなはだしい。いかになんでも、後深草上皇がきのどくだ)
そう思っていたから、煕仁親王の立太子に、異存はすこしもなかったのだ。
「ただ、いかに偏頗《へんば》とはいえ、父なる故法皇のご遺志とあらば、子たる者、守らねばなりません。それにおん母の大宮院|※子《よしこ》さまも、まだご健在……。その愛情も亀山院に重いのですから、後深草院はご両親や弟君にご遠慮あって、このさい少々のご不満には目をつぶり、当方の案を受け入れてしかるべきかと存じます」
実兼は熟考のあげく、この時宗の申し出を後深草院に伝えて、
「ご承諾なさいませ」
とすすめた。
「煕仁さまが帝位についてしまえば、こっちのものです。約束など、どうにでもなります。この実兼が、どうとでもしてみせます」
「帝冠をこちらで独占して、弟の側に返さない、というのか?」
「お上、しっかりしてください。帝冠ははじめからこちらのものなのです。それをご両親が、兄のあなたさまから理不尽に奪って、弟宮の頭上に戴《の》せたのですよ。亀山院の側に返すのではない。こちらの手に取りもどすのです。えこひいきによって乱れた帝系を、匡《ただ》すのです。それを忘れては困りますな」
「そうだ。そなたの言う通りだ。でも約束は、鎌倉の執権とつがえるのだぞ。それが破れるか?」
「内談の段階ではそうですが、正式には亀山院とお上との約束でしょう。それも、誓紙をとりかわすわけではなし、単なる口約束にすぎません。大宮院の横槍をかわすために、今はまだ『煕仁親王一代に限って在位する』との提案をおとなしく受け入れる。そしていざとなったら約束など蹴散らしてのければよいのです」
「実兼」
手をとると、後深草院はそれを額に当てながら、
「恩に着るよ」
感きわまったような涙声を出した。
「このたびの働き、忘れはしない。六ツもおれのほうが年上なのに、そなたがまるで兄みたいに頼もしく思える。これからも助けてくれな。おれの股肱《ここう》でいてくれ、な?」
蒙古来たる
これより少し前、両六波羅を屋敷へ招いて酒をくみかわしたさい、西園寺実兼は妙な話を耳にした。北の探題の北条義宗が、
「趙良弼《ちようりようひつ》の名を、ご記憶でしょうな」
彼自身、腑に落ちかねる口ぶりで言い出したのである。
「おぼえているよ。『どうしても天皇か将軍に会わせろ、それがかなわぬならこの首を刎ねろ』と言い張って、大宰府の役人どもを手こずらせた蒙古使節だろ?」
「下民どもはあいかわらずムクリの俗名で呼んでいるようですが、蒙古は最近、国号を元《げん》ととなえはじめたらしいですよ」
「ほう、元か。皇帝のフビライハンとやらが世祖と改称したのと同じく、国の名も中華風に改めたわけだな」
「その元使の趙良弼が、またぞろ日本にやって来たと、博多あたりの町人連中がもっぱら噂し合っているそうなのです」
「また来たか。あの髭むじゃの硬骨漢が……」
「いや、元の使節として派遣されたのではなくて、髭を剃り、変装し、極秘に日本へ上陸したというのだから面妖な話ではありませんか」
「そりゃあ訝《おか》しい。どういう了見だろう」
「察するところ、わが国の国情の内偵ですな」
南の北条時国もうなずいて、
「よくやる手ですわ」
軍事に暗い実兼のために、こともなげに講釈して聞かせた。
「せっかく攻め込んでみても地理不案内だったり、民心を収攬《しゆうらん》できずにいると敵国の制圧はおぼつかない。川にはばまれ谷にぶつかり、村人の奇襲や裏切りに遭《あ》って思わぬ苦杯を舐めさせられます。われわれも、ですから戦いを仕かける前には密偵を放って、敵国の実態をつぶさに調べあげますよ」
「では元は、いよいよ日本を攻めるつもりか」
「まず、そう考えてよいでしょうな。異国異民族を攻略するのだから、調査はなおのこと綿密にせねばなりません。趙良弼はつまり偵察の目的で、事前にわが国に潜入して来たのだと思いますよ」
「引っ捕えて、それこそ首を刎ねてしまえばよいではないか」
「何に姿を変え、どこにいるのか、かいもく把握できんのだから捕えようがないのです」
両六波羅は苦笑しながら言った。
「おそらく趙一人ではありますまい。日本語が堪能な高麗人などと群れて、商人や旅芸人に身をやつし、北九州から山陽道、京にまでのぼって来たかわからない。われわれも油断なく目を光らせてはいましたがね、さすが選びぬかれたその道の巧者ですな。趙の一行が舞いもどって来たらしいとの風説は、一年も前からささやかれていたのに、ついに尻尾の先すら掴めませんでした。もう今ごろは帰国して、元帝に詳細な報告書でも提出しているのではないでしょうかな」
探題たちの指摘は、まもなく現実のものとなった。ムクリ国蒙古――元の軍勢が、ついに日本へ押し寄せてきたのである。
文永十一年十月はじめ……。ちょうどそれは幼い皇子に病死されて、二条が悲歎にくれていたころであった。
まっ先に元軍の襲撃を受けたのは、対馬《つしま》であり、つぎは壱岐《いき》の島だった。十月五日の夜明けがた、対馬の島民たちは国府に斎《いつ》かれている八幡宮の社殿から、めらめらと火柱があがるのを見た。
「たいへんだあ、八幡さまが火事だぞう」
いっせいに駆けつけると、火のけなどどこにもない。島民そろって幻覚にでも見舞われたような奇妙な体験に、
「なんぞ、不吉なことの起こる前兆ではあるまいか」
気を揉んでいたやさき、
「やッ、沖を見ろ」
蜃気楼《しんきろう》さながら忽然《こつぜん》と、海上いっぱいに大船団が出現したのだ。それを異国の軍艦であり、ムクリの来寇《らいこう》だと知ったのは、武装の兵が続々、佐須浦《さすのうら》に上陸しはじめてからだった。
地頭の宗助国《そうすけくに》は、家の子八十余騎をひきいて佐須浦に馳せ向かったが、激戦のあげく十二人を討たれ、多くの手負いを出してあえなく敗退……。島は思うまま、元軍の蹂躪《じゆうりん》するところとなったのである。
つづいて壱岐も同様の運命に落ちた。守護代平景隆《たいらのかげたか》の善戦むなしく、館《たて》は火に包まれ、一族ことごとく自害した。
島民の悲惨は言語に絶した。男はおおかた殺され、女は生け捕られて兵士らに辱《はずかし》められた。
「もてあそんだあとは掌に穴をあけ、じゅずつなぎにして船尾から海へ投げこみました。水中を曳き回してみな殺しにしたのです」
かろうじて海を渡り、急を報じて来た島民の口から壱岐、対馬の惨状を知って、北九州沿岸の警固に当たっていた地侍《じざむらい》、御家人《ごけにん》らは奮い立った。
元の軍船、九百艘。乗員兵員は合わせて約三万――。迎えうつ日本勢は少弐《しように》、大友、臼杵《うすき》、松浦党、小玉党など一万たらずだが、合戦らしい合戦がひさしくとだえていたため、武士たちは、
「功名手柄を立て、恩賞にありつくまたとない折りだぞ」
と手ぐすね引いて、敵の上陸を待ちうけた。
しかし、いざ始まってみると双方の戦いぶりには、はなはだしくずれのあるのがわかった。我と思わん武者が進み出て名乗りをあげ、一騎打ちの勝負をいどむ古式ゆかしき源平時代のやり方など、集団でわッとかかってくる野蛮な相手には、まったく通じない。
敵が太鼓を打ち銅鑼《どら》を鳴らすたびに味方の乗馬はびっくりして跳ね廻る。それを乗りしずめるのに大汗かくうちに、討ちとられてしまうのでは、てんからいくさにならないのだ。
武器も見なれぬものばかりだった。鎌槍や三日月状に彎曲《わんきよく》した蛮刀はともかく、弓矢がちがう。日本側の手練《てだれ》が、
「十三|束《づか》三|伏《みつぶせ》の矢、五人張りの強弓だぞ」
自慢しながらきりきり引きしぼっているまに、元軍のほうは半弓みたいな小型の弓に、細くて短い、すばらしくよく飛ぶ矢をつがえ、びゅんびゅん射かけてくる。
「なんだ、こんなへろへろ矢、かすり傷ぐらいしか負わせられないじゃないか」
ばかにしているうちに、そのかすり傷がものすごく痛みだし、身体中に痺《しび》れが回って動けなくなってしまう。
「毒矢だッ、鏃《やじり》に毒が塗ってあるッ」
気がついたときはあとの祭りだし、大きな鉄製の鞠《まり》のごときものが、轟音を発しながら飛来してくるのにもどぎもを抜かれた。
「やや、なにごと?」
おどろき呆れる目の前に落下……。とたんにすさまじい閃光が走り、爆音が起こってばたばた、近くにいた将兵が倒れる。あとで聞いたところによれば、火薬とかいうものを詰めた震天雷《しんてんらい》と称する新兵器で、およそ従来の、日本式兵法とはかけはなれた戦闘だったのである。
おかげで日本軍は苦戦をしいられ、あとからあとから上陸してくる新手《あらて》の敵に攻めたてられて敗退……。遠く落ちのびる者、水城《みずき》に逃げこもる者など、暮れ方には一兵も浜辺にいなくなり、夕闇の中を跳梁するのは異装の蒙古勢ばかりとなった。
彼らの放火によって博多、箱崎の随所に火の手があがり、
「あ、あ、筥崎《はこざき》八幡宮まで燃えだしたッ」
となっては、意気|沮喪《そそう》するのもいたし方なかった。敵国降伏を祈念した軍神《いくさがみ》ではないか。
そのまま押しまくってくれば一大事となったのだが、夜に入ると長追いを切りあげ、元軍はいっせいに船中へ引きあげてしまった。
日本勢にとって幸運としか言いようのない大風が吹き出したのは、夜半すぎである。元の軍船は逆まく浪に翻弄され、大半が沈没、坐礁、解体して、万を越すおびただしい溺死者を出した。
こうなっては、いくさをつづけるどころではない。生き残った将兵は命からがら逃走して行き、危ないところで日本は、国難をまぬがれたのである。
これが文永十一年の十月二十日――。しかし九州の探題から京の六波羅へ、
「対馬、襲わる」
との第一報が入ったのが、十七日。壱岐の敗戦が伝えられたのは、とっくに決着のついた二十八日だった。鎌倉へもむろん早馬が飛び、十一月一日、九州に幕府の指令が届いた。
「御家人のみならず、荘園領主の支配地からも兵員を出し、総力をあげて防戦につとめよ」
大幅に、日数がくいちがっていたのであった。
蒙古来襲の報に、朝廷や院も緊張した。亀山上皇はさっそく宸筆の願書をしたため、京都近郊の皇祖の諸陵に戦勝を念じたけれども、このころすでに現実には、博多の沖に元船の姿は一艘も見られず、浅瀬に打ちあげられた残骸が初冬の日ざしに晒《さら》されているだけだったのである。
大風による元軍の覆滅が京都に伝えられたのは、十一月六日の朝……。あらしの晩から数えて十六日も後だった。
「神風だ。神慮だ。赤誠を八百万《やおよろず》の神々が納受したもうて、奇瑞を示されたに相違ない」
あちこちの大寺大社に奉幣使を差し立てて、敵国降伏の祈願をさせた亀山院が、神仏の冥助《みようじよ》を信じたのはむりもない。
廷臣たちも揃って胸をなでおろしたが、蒙古使節来朝のそもそもから、のけ者扱いされていた後深草院だけは、敵兵の過半数が海の藻屑《もくず》となったと聞かされても、
「ほう、それはよかったな」
勝敗など、どちらでもよいと言わんばかりな、いい加減な反応しか見せなかった。
遠い九州で演じられ、わずか一日の内にけりのついてしまった攻防戦である。国難の回避をよろこびながらも、さほど今回の事件を深刻に受けとめなかったのは、公家たちも同様で、壱岐、対馬の酸鼻に至っては、情報の不足もあったとはいえ、ほとんど話題にすらのぼらなかった。
宮廷の女性たちは、まして外部の事情に疎《うと》く、十人が十人、元軍の来攻を知らなかったし、たとえ聞いたにしても後深草院と同じく、さして関心を示さなかった。
げんに女官のあいだでは、
「ムクリが貢《みつぎ》を奉ったとか言ってたのに、なぜ今ごろになって攻めて来たのでしょう」
「元とムクリは別の国でしょ、たぶん……」
とんちんかんな会話を交わす者が多く、そんな異国の噂よりも、もっぱら彼女らが興味を燃やしたのは、ここへきて急に表面化した二条と東二条院公子の確執であった。
「お聞きになって?」
「聞きましたとも。つい先ごろ、本院のお子を流産したとかいう二条どのの話でしょ?」
「とうとう東二条院さまのお怒りにふれて、女院御所へのお出入りを禁じられてしまったんですってね」
「名簡《なふだ》まで削られたそうですもの。恥ずかしくて、当分二条どのは院にも出仕できないのではないかしら……」
「平気でしょ。前々からちょっとしたことにすぐ拗《す》ねて、行方をくらましたり、宿元に引きこもって出てこなかったり、わがままばかりしていた人ですもの」
「それにしても女院のお仕置のきびしいこと」
「何でも二条どのが、許しもないのに三ツ衣《ぎぬ》や五ツ衣など贅沢な装束を着るのを、不遜だとおっしゃって怒られたのだそうよ」
と、おしゃべりは果てしがない。
嵯峨野の一夜
たしかに小さな宮廷を、全世界と心得て生きている女房たちにすれば、そこの女主人の一人に憎まれ、嫌われ、追放にひとしい処分を受けるなど、朋輩《ほうばい》の手前、この上ない恥辱にはちがいあるまい。
くやしがる二条に代わって、
「少々、酷にすぎるご処置ではありませんか」
後深草上皇が東二条院をやんわり諫めた。日ごろ頭のあがらない恐妻ではあるけれど、立てつづけに二人の子に死なれ、歎きに沈んでいる二条に、追い打ちをかけるような東二条院のやり方を、さすがに見かねての口出しであった。
「衣裳についてお腹立ちのようだが、四歳の春、二条を手許へ引きとるとき、父の久我雅忠が『わたしは位が浅いので、この子は大伯母の、北山准后の猶子《ゆうし》の格式で参らせとうぞんじます』と申し出ました。知っての通り北山の尼公は、三后にまで準ぜられた人だからわたしも雅忠の親心に感じ入って、二条に五ツ緒の車、数衵《かずあこめ》、二重《ふたえ》織物などの着用を聴《ゆる》し、大臣家の姫君の格で出仕させたのです。それを今さら三ツ衣を着るのはけしからんの、わたしと一つ車に同車するのは生意気だのと譏《そし》られては、二条がかわいそうですな」
しかし、この程度の取りなしで軟化するような東二条院ではない。夫の弁護に、かえってますますえこじになって、
「何と仰せられようとも、当方への出入りは禁じます。わたくしはあの女の顔が見たくないのでございます」
言いつのった。
「陰気な、おとなしやかな打ち見の下に、何やら為体《えたい》の知れぬ怖《こわ》い、ずぶとい本性を隠し持った二条が、わたくしは気味が悪いのです。あちらが北山准后の猶子なら、わたくしも西園寺太政大臣実氏の娘。あなたさまが帝位に在られたときは中宮に冊立され、中宮|職《しき》を賜った身分でございます。気に入らぬ者の出入りを差し止め、名簡を削るのは、わたくしに附与された権限ではありますまいか」
開き直られて、それでも押すほどの熱意は後深草院にはない。
「いいじゃないか二条、もともとおたがいにけぎらいし合って、よほどの事でもないかぎり足踏みしなかった女院御所だろ。来るなと言われたって痛くも痒《かゆ》くもないはずだ」
と、二条を慰撫し、
「それより嵯峨野の、大宮院の御所へ遊びに行かないか?」
浮き浮き誘った。蒙古の来襲も女二人の角づき合いも、じつはどうでもよいほどこのところ、後深草院ははしゃいでいるのだ。
後宇多新帝の皇太子に決まった煕仁親王……。展《ひら》けはじめた前途を思うと、他愛なく口もとがゆるんでしまう。
「な? 一緒に行こうよ二条、珍しい客人が嵯峨野の御所に来ているんだよ。ながいこと伊勢へ行っていたおれの妹なんだ」
この嵯峨野への御幸には、西園寺実兼も、
「行かないか?」
と後深草院に声をかけられ、お供に加わった。
二条の叔父の四条大納言隆顕、右少将藤原|長相《ながすけ》、左少将藤原兼行、右衛門|権佐《ごんのすけ》中御門為方ら公卿殿上人も数人、扈従《こじゆう》し、前後を厚く院の下臈や北面の武士が警固して、本院のお出ましにふさわしい堂々たる行粧《ぎようそう》である。つい先ごろまでの、失意のどん底にあった「余され者」の境遇にくらべると、はっきり威勢のちがいを見せつけている。
御所を出たときはうらうらと薄日がさして、夕近い空は淡い茜《あかね》を西に流したきり、目のゆく限り晴れ渡っていたのに、北へ北へ、野路を進むうちに曇りはじめ、大宮院の御所の築地を遠く望むころには、いちめん灰色の密雲におおわれてしまった。
風花までちらつきはじめ、あっというまに、それは乾いた粉のような雪に変わった。山から吹きおろす風に乗り、視界を塞《ふさ》いで舞い狂う美しさは、日没をすぎたこの時刻、月光とはちがう神秘な明るさをあたりに漂わして、若者ばかりの一行にむしろ歓声をあげさせた。締め木にかけでもするように、全身を絞りあげる寒気さえ、真冬の嵯峨野らしい爽やかさに感じられる。
「あ、鷹だッ」
「どこに?」
「ほら、あの立ち枯れた樅《もみ》の木の梢に……」
見定めるまも与えず、横なぐりの風が白銀の紗《しや》をサッと拡げて、それを隠す。逆方向からのひと吹きでその紗が散らされ、うす墨色の樅の屹立《きつりつ》がふたたび現れたとき、鷹の姿はもう、なかった。
騎馬の者も徒歩の者も、あとは走って門内へとび込む。一つ車に二条と共乗りして来た後深草上皇だけは、
「なんだおぬしら、全身まっ白じゃないか」
ばたばた雪を払う従者らを尻目に、大宮院|※子《よしこ》の待つ奥殿へ通った。後深草上皇には、母らしい愛情が稀薄な大宮院だし、そんな母に憎悪すら抱いている上皇だが、二人ながら面と向かえば笑顔で対する。さりげなくふるまい、普通に会話も交わすのである。
「あいにくの天気になりましたね。こんなときは温いのが何よりのご馳走です。こちらへいらっしゃい」
先に立って、大宮院は上皇と二条を炉の間《ま》にみちびく。田舎家風な大きな切り炉に、あふれるばかり炭火がつがれ、灰に埋められた素焼きの瓶《へい》から酒の香りがむせるばかり、湯気とともに立ちのぼっていた。
君臣、入《い》り込みの無礼講ということで、炉のぐるりに供の公家たちも安坐し、くつろいでまず、酒になったが、肴を運んでくるなど、この御所の女房も大ぜいいるのに、
「さあ、酌をして回れ」
後深草院は、それが当然といわんばかりな口ぶりで、二条に命じるのであった。
見ていて、西園寺実兼は二条が哀れになった。後深草院の待遇の不当を喞《かこ》たれたときは、その程度のことで人さわがせな出奔をくり返す二条の女ごころの狭さに、批判めいた感情を抱かされもしたが、石清水八幡から帰洛したあと、実兼は一応、
「お上のお子を生んだ妃嬪の一人です。二条どのの扱いに、いま少し心をくばられてもよいのではありませんか」
院に忠告をこころみている。しかし、
「余計な差し出口をするなよ」
一蹴されてしまった。
「おれと二条の仲は、他人が上つらだけで判断できるほどいい加減なものではないんだ。兄が妹をいつくしむように、四ツの時から膝に抱いて育てあげた娘だぞ。肩や腰を揉ませるのは、二条の手ざわりが肌になじんでいるからだし、酌をさせるのは二条に注がれた酒が、だれにもましてうまいからだ。つべこべ文句を並べるけれど、もしおれが身の回りの世話をほかの女房にやらせたら、二条はやきもちを焼くにきまっている。拗《す》ねる理由はほかにあるんだ。他人に何がわかる。お節介はやめてくれ実兼」
まんざらわたしだって、他人ではないと内心、可笑《おか》しがりながら、上皇のきめつけにも、
(一理ある)
と、実兼はうなずかされた。男女の機微などというものは外からはわからない。愛情の裏返しが、心にもない恨みや泣きごとの形で表出される場合があるのだし、たとえば東二条院に殿上の御簡《みふだ》を削られるといった手ひどい侮辱をこうむったときなどは、二条の側に立って抗議もした上皇ではないか。
(あまり立ち至って女の肩持ちをすると、疑念を起こされる恐れがある)
それもあぶないと用心して、実兼は口出しを控えたのだが、炉の灰の中から引きぬいた瓶子《へいし》を、重たげに傾けて、錫《すず》の提子《ひさげ》に中身のぬくめ酒を移し入れた二条が、大宮院や上皇だけならばまだしも、列座の公家一人一人にまで酌をしはじめたのを見ると、やはり平静ではいられなかった。
表情を殺しているので、二条の気持は判然しない。でも、叔父の四条隆顕は不快がっているのではないか。三十二の、血気ざかり……。さりげなく談笑に加わってはいるものの、じつは上皇のなされ方を腹に据えかねている隆顕なのではないかと、実兼が人しれず気を揉むうちに、
「今宵の主賓がまだ現れませんね。おめかしに手間取っているのでしょうけど、いささか遅すぎます。そなた、お迎えしておいで」
と大宮院までが、召使に言いつける語調で二条をうながした。
「はい」
立ちかける出合いがしら、女童《めのわらわ》に案内させて、その主賓≠ェ入って来た。背丈の高い、紅梅の三ツ襲《がさね》を着た若い女であった。
仰々しく檜扇《ひおうぎ》で女は顔を隠しながら、
「さあさあ待ちかねておりました。ここへ……」
大宮院のさし示す小几帳《こきちよう》のかげに座を占めた。たいそうもない衣ずれの音とともに、あたりを圧してくゆり立ったのは焚きしめた香の薫りである。
小几帳はうまいところに置かれていて、公家たちの目には彼女の袖の片方と広がった衣装の裾、その裾より長いみごとな黒髪の端しか見えない。姿かたち、顔だちまですべて眺めることができるのは、大宮院と後深草上皇、それに二条だけだった。
「美しいなあ、ほころびそめた桜の花のようだ」
特権を享受するかのように、いささか季節はずれな讃辞を口にし、
「おれの妹の|※子《やすこ》内親王だよ」
上皇は女性を人々にひきあわせた。
ながらく伊勢に在って、神宮に奉仕していた亡き後嵯峨法皇の皇女の一人が、先ごろ斎院《さいいん》としての任はてて上京し、仁和寺に近い衣笠《きぬがさ》に居を定めたのを、今日ここに供奉《ぐぶ》した公家で知らない者はいない。
その無聊《ぶりよう》をなぐさめるために、前斎院を嵯峨の御所へ招き、お話相手に上皇を呼び寄せた大宮院であることも承知していたから、西園寺実兼はじめ名を名乗って、それぞれ姫宮のつつがない帰着を祝った。
「まず一献、思いざしといこう」
上機嫌で上皇は盃を持たせようとし、
「いただけませんの。お酒は一滴も……」
前斎院は辞退する。言葉つきのたどたどしさが、神につかえることしか知らなかった皇女の、世馴れぬ様子をうかがわせて、なるほど春の日ざしの下で見る桜の花に似なくもない。
しかし坐り嵩《がさ》の大きさといい、青い衣《きぬ》の上に紅梅の袿《うちき》を重ねた好みといい、何よりは、むせるばかりな香の匂いのしつこさといい、実兼の受けた印象は桜の花とはほど遠かった。
後深草院はしかし、異腹のこの妹に大いに興味をそそられたらしい。
「伊勢ではお神酒《みき》をたしなんだはず……。飲めないなんて信じられないよ。二条、注げ注げ」
無理じいするやら、はやくも酔って唄い出すやら、一人でうかれだした。
楽器が運ばれ、二条の膝先に琵琶が置かれたのを、すばやく『破竹』と見て取って、
「持参なさったのですか?」
実兼はたずねた。
「今宵は管絃のお遊びで、姫宮をお慰めしようとお上が仰せられたものですから……」
長相が笛、為方が箏《そう》、兼行が笙《しよう》、隆顕が篳篥《ひちりき》、そして実兼の前にも琵琶が一面、据えられたが、
「二条どのが破竹を弾ぜられるのでは、いかに家の芸とはいえ、わたくしごときに太刀打ちはできません」
遠慮して、実兼は和琴《わごん》に回った。
手拍子を打ちながら、自慢の美声で催馬楽《さいばら》から神楽歌《かぐらうた》、今様まで、後深草院がおぼえている歌のありたけを次々に披露しはじめるころには、女院御所に仕える女房たちも一人残らずもてなしに出て、中には上皇の唄に声を合わせて唄う者まであり、申し分ない冬の夜の御遊《ぎよゆう》となった。
それぞれに面白く聞きなされた楽器の音色だが、やはり一座をさらったのは二条のかなでる破竹の撥音《ばちおと》だった。
「また一段と上達なさいましたな」
つくづく実兼が感じ入って、琵琶と弾き手を讃めそやすのを、うらやみととったのか、
「その破竹、西園寺大納言にやれよ二条」
院が声をかけてきた。
「昔々から執心しぬいている琵琶だ。お前ももう、ずいぶん長いあいだ破竹の主《あるじ》でいたのだから、この辺で実兼と交替してもよいのではないか」
「いやでございます」
打って返す早さで二条は応じた。
「どなたに何と言われても、破竹は渡しません。わたくしが秘蔵しつづけます」
こういう時に出る二条の、芯のきつさに辟易しながらも、
「とっくにわたくしはあきらめていますよお上、ただ今の弾奏を聞くまでもなく、最高の持ちぬしを得て破竹も満足しているはずですから……」
まんざら虚勢ではなく実兼は辞退した。これまでにも閨《ねや》での睦言《むつごと》の合間に、それとなく気を引いてみたことは何度かある。でも、そのたびにはねつけられた。破竹を話題にすると急に表情からも声からも甘みが消えて、
「だめよ」
二条はけしきばみさえする。名器への愛着というよりも、破竹という琵琶を所有することじたいに、何か特別な意味がこもってでもいるような、強い拒絶の仕方であった。
「そうか、いやならやむをえんな」
はじめから座興のつもりだっただけに、後深草院はすぐ前言をひるがえした。そして、
「ひさしぶりの酒宴に命が延びましたね。まもなく空が白みましょうが、それまで少し、まどろんではいかが?」
姫宮をうながして大宮院が座を立ったのをしおに、
「われわれも、ひと眠りしようじゃないか」
酔歩よろよろ、寝所へ引きあげた。
上皇はしかし、さほど酔っていたわけではない。泥酔したふりをしただけだったのだ。
眠れないまま、雪の積もり具合をたしかめるつもりで実兼が庇《ひさし》ノ間《ま》へ出、妻戸をあけようとしているところへ、背後から小刻みな足音が近づき、振り返るとそれは二条であった。
「こんな時刻に、どこへ?」
「姫宮のご寝所へ、お上の恋文を届けに……」
「恋文? 兄が、妹のところへ!?」
声を殺しながらも、思わず実兼は叫んでしまった。
父は同じ、亡き後嵯峨法皇だが、生母がちがう。後深草院は大宮院|※子《よしこ》の子、前斎院|※子《やすこ》内親王は、大炊助《おおいのすけ》藤原俊盛の娘で女房名を『二位局』と呼ばれていた女性の、所生であった。
「しかし腹はちがっても、兄妹ではありませんか。お上は本気なのですか?」
「ごらんになります? お歌ですけど……」
手に持っていた氷襲《こおりがさね》の薄様を、二条はひらひら振ってみせた。たしかにそれには、
知られじな今しも見つる面影の
やがて心にかかりけりとは
と後深草院の筆跡で書かれている。
「呆れたなあ。ただ異母妹というだけではない。つい先ごろまで清浄な乙女として、伊勢の祖神にお仕えしていた巫女さまではありませんか」
「だからなおのこと、そそられるのでしょう。『ちはやぶる神の斎垣《いがき》も越えぬべし』と、古歌にもありますわ。ましてお妹御ですもの、二重の禁忌を犯すことになります。そのおののきを、お上は味わいたいのですって……」
「それにしても、二条どのに恋文の使者をさせるなんて、あんまりだ」
「今夜に限ったことではありません。目をつけた女房衆の局に忍んで行かれるときは、いつだってわたくしが道案内を仰せつかるのですよ」
「平気ですか、あなたは……。お上の恋路の橋渡し役など務めさせられて……」
「平気ではありませんけど、『おれを本気で愛しているなら、おれの望む通りに、恋の仲立ちでも何でもしてくれてよいはずだ』と、お責めになるので……」
「身勝手な理屈ですな。先ほど二条どのに、お上が酒の酌取りをさせたのさえ、思いやりに欠けたなさり方だと、わたしは内心、憤っていたくらいなのです」
「ありがとうございます大納言さま、でも、どうせいつだって遊びですわ。この恋だって姫宮は、受け入れっこないと思いますけど」
もう一度、弄《もてあそ》ぶように手の薄様を二条は振った。その口許には、自信と自虐を綯《な》いまぜた奇妙な薄ら笑いが浮かんでいる。
「では、お歌を届けてまいります」
去って行くうしろ影を、実兼は何やら舌打ちしたい気持で見送ったが、あくる朝、
「やはり不首尾でしたか?」
そっとたずねたときの、二条の答えは、
「桜って散りやすい花ですね。『あんまり他愛なさすぎて味気なかった』と、お上も拍子抜けしておられましたわ」
というものだった。
「まさか! 本当ははねつけられたのに、それでは沽券《こけん》にかかわると思って嘘を……」
「いいえ、几帳のかげに宿直《とのい》して、わたくし見てました。契られたのはたしかですよ」
西園寺実兼も時代の子である。固くるしい道徳律をふりかざして、他人の男女関係にとやかく口を出すつもりは毛頭ない。
宮廷にかぎらず、世をあげての性の乱れは庶民層にまで及んでいる。むしろその汚染度が薄いのは、ともあれ民政への責任を負い、昔ながらの質実さを、くらしの中に保っているいわゆる鎌倉武士たちであったろう。
しかしそれとて、側女《そばめ》を幾たりも持ち、妻妾ひとつ屋根の下に同居するぐらいは当たり前なことだし、まして芸術文化の担い手をもって任じる公卿や殿上人ともなれば、その発動の源泉を恋愛に求めるのは、自然のなりゆきといえた。
宮廷での性の紊乱《びんらん》がどこよりもはなはだしいのも、そのためだが、禁忌に触れる性愛には、まだしも逡《ためら》いの感情が残っている。
神の怒り……。古代信仰に根ざす穢《けが》れへの怖れである。時代がさがるにつれて、それも次第に忘れられつつあるけれど、一方あいかわらず、迷信の跋扈《ばつこ》する世の中でもあった。占いや禁厭《まじない》、方位へのこだわり、陰陽師《おんみようじ》の託宣といったものが、まだまだ大きく人々の生活を左右している日常だけに、近親婚なる禁断の木の実を、あえて口にした後深草院の行為は、実兼の目に、
(大胆不敵)
と、うつった。|※子《やすこ》内親王の、あまりといえば他愛ないなびきようにも、
(ついこのあいだまで神に仕えた清浄な身体でいながら、兄に挑まれてろくに抵抗すらしなかったとは……。浅ましい女だ)
との侮蔑が湧く。
「桜の花は散りやすいのですね」
そう言って嗤《わら》った二条も二条だ。院と内親王の恋の橋渡し役をつとめたばかりか、宿直《とのい》と称して隣室に陣どり、兄妹の痴態のいちぶしじゅうを観察していたのだから、これもまともではない。
(三人ながら異常だな)
実兼は呆れる。舌打ちしたくもなる。
腹を痛めた実の子でいながら、後深草院を嫌い、疎外ばかりしていた大宮院|※子《よしこ》が、
(なぜ|※子《やすこ》内親王の帰洛慰労の宴にかぎって、院を呼んだのか)
今にして思えば、それも訝《おか》しい。大宮院の心情からすると愛子の亀山院か、日ごろ仲むつまじい妹の東二条院公子あたりを招きそうなものなのに、それをしなかったのは、何か魂胆があってのことではないか?
女に惚れっぽくだらしない後深草院の性癖を、母親だけに、大宮院は熟知している。そこでわざと|※子《やすこ》に会わせ、その好きごころをそそる挙に出たとも考えられなくはない。
世間に洩れれば、命取りとまではいかなくても、後深草院にとって失点には充分なりうる醜聞である。罠にはまりに、うかうか嵯峨野の奥まで出かけて行くなど、これまた、いかにも後深草院らしい軽率さといえた。
粥杖
(わたしも迂濶《うかつ》だった)
実兼は反省した。
亀山上皇の肩持ちをしている大宮院|※子《よしこ》が、煕仁親王の立坊をよろこばず、
(東宮即位のあかつき、帝系が再び兄息子の側に移る危険だけは、防がねばならぬ)
との意図のもとに、彼女なりの策を弄したとしても、何らふしぎはない。
「兄でいながら、前斎院の立場にいる妹と肉体関係を結んだ」
などという事実は、うまく使いさえすればいつかは役に立つ切り札の一つとなろう。潔癖清廉な北条執権家の体質が、この種の醜聞につよい反発を示すのを、大宮院は承知している。後深草上皇はそんな母親に、まんまと弱点を握られたわけである。
(お上の恋文を、あのとき二条の手から取りあげてしまえばよかった。そして姫宮の寝間へ行かれるのを、諫止すべきだった)
と悔いて、それとなく、
「桜の君とのおん仲は、その後、どうなりましたか?」
後深草院に、実兼はたずねてみた。
「桜の君? とは、だれのことだね?」
「薄情ですな。もうお忘れになるとは……。嵯峨野での一夜を、まさか夢だとは仰せられますまい」
「ああ、妹のことか」
屈託なげに後深草院は笑った。
「忘れたわけじゃないけど、あの晩かぎりでご免こうむりたい心境だよ。柄の大きな女だけに、大味でね、期待はずれもよいところだったなあ」
「では、あれっきり……」
「うん、切れてしまった」
と、さばさばした顔でうなずかれれば、|※子《やすこ》内親王が実兼は哀れにもなる。
(たった一度のまじわりで捨てられては、たまるまい)
自分勝手なお人だと、上皇を責めたくもなったが、だらだら密会をつづけるうちには、世間の評判になろう。女には残酷でも早いところ手を切ったほうが、まだしも傷は浅くて済む。
(ともかく大宮院にしろ亀山上皇にしろ、身内の敵が隙《すき》を狙っている現状なのだから、ゆだんはできない)
と実兼は疑惧《ぎく》する。しかし当の後深草院はすっかり生来の楽天性をとりもどして、ひところの落ちこみようが信じられないくらい顔の色艶などいきいきしてきていた。
院の、この上機嫌の反映だろう、御所中が近ごろは活気づき、毎日を遊びさざめきながら送り迎えている雰囲気である。
「のどもと過ぎれば熱さを忘れるとは、よく言ったものだ」
皮肉の一つも口にしたくなるけれど、わけてさわがしかったのは、小正月から始まった粥杖《かゆづえ》打ちの償《つぐな》いであった。
清少納言が『枕草子』の中に書きとめているように、粥杖打ちは、平安朝のむかしから宮中でおこなわれていた行事である。
正月十五日に煮るあずき粥……、
それを掻き回した木杓子《きじやくし》で、ぺたんぺたん、人の臀部を叩くといういささか猥雑な習俗だが、この日ばかりは身分の高下にこだわらない。台盤所《だいばんどころ》のお婢《はした》が、上臈を狙い打ちしても咎められないところから、逃げ走る足音、悲鳴や笑い声など、ふだん静かな奥殿までが上を下への騒動となる。
もっとも清少納言のころは、打つのも打たれるのも女ときまっていた。それというのも、
「粥杖をお見舞い申すと、やられた相手は妊娠する」
と信ぜられていたからで、さればこそ生娘《きむすめ》を打って泣き出され、後家さまには睨まれ、婆どのには怒鳴られるという滑稽な混乱が巻き起こるのだ。
中世も半ばに入ると、それがいつのまにか変わって来て、子宝授けの目的は忘れられ、男女の区別もなくなった。うっかりしている者を見つければだれかれかまわず打ち叩くという遊びに変化したのである。
文永十二年は四月に改元し、建治元年となったが、この年の小正月、本院の御所で演ぜられた粥杖打ちも、当事者の一人でいながら西園寺実兼あたり、
(ちと、やりすぎだな)
内心、眉をしかめたほど羽目のはずれた派手派手しいものだった。
当日は朝から杓子を背後に隠した女どもが御所のあちこちを徘徊し、つねづね憎いと思っている男、もしくは逆に、好いたらしいと思っている男の束帯《そくたい》の尻を、あずき粥だらけにしては凱歌をあげていたけれど、後深草院を獲物にして力いっぱい、ぺたんッとやってのけたのは二条であった。
東二条院公子に出入りを禁じられ、殿上の名簡《なふだ》まで削られて以来、二条は洞院|※子《しずこ》に接近し、その妹分のようにふるまっていた。|※子《しずこ》がまた母性的な、おだやかな人柄だから、二条とも打ちとけておたがいの局を行き来する。
生みの子の煕仁親王が後宇多帝の皇太子に定まったため、|※子《しずこ》の重みはぐんと増して、いまや東二条院を圧する観がある。
|※子《しずこ》のよいところは東宮の母となっても、少しも態度を変えない点で、夫の後深草院が冷やめしを食わされていた失意の時代も、運が向きはじめた今も、|※子《しずこ》の笑顔の明るさは同じに見える。
「ねえ二条さま、お手の杓子でお上を叩いてさしあげませんこと? 今日は格別めかしこんでいらっしゃるようですもの」
ちゃめっけたっぷりにそそのかしたのは、日ごろの|※子《しずこ》には珍しいことだが、
「手伝ってくださいね」
と、ものかげに身をひそめた二条は、最初から後深草院を標的にするつもりでいたらしい。
ほかの日とちがうから、後深草院も用心はしていたようだ。しかし自室にまで粥杖を持った者が忍びこんで来ているとは、思いもしなかったのだろう、ひと休みするつもりでうっかり中へ踏み入ったとたん、
「そら、つかまえた」
几帳《きちよう》のうしろから|※子《しずこ》がとび出して、院に抱きついた。肥りじしの、柔らかく弾みきった女体の重みが、もろに胸にかかる。
「なにをする気だ、なにを……」
おどろいて院がのけぞるまに、二条が走り寄って粥まみれの杓子をふりかざした。
「わッ、ゆるせ両人」
さけんだときはすでにしたたか、腰に打撃を受けていたのである。笑いころげながら|※子《しずこ》と二条は逃げ、院はよごれた袍《ほう》をぬいだ。
証拠物件としてそれを持ち出し、院参していた諸卿を集めて、
「見ろ、ご一同、みごとやりおったぞ」
下手人の糾明と裁判を開こうというのだ。むろん本気ではない。遊びの延長だから、公家たちもわざとしかつめらしく、
「万乗の位にあられた貴人の尻《おいど》を、容赦もなく打ち奉るとは恐懼《きようく》のきわみ……。朝敵の所業と申してよろしいでしょうな」
などと言う。いかに何でも「朝敵」よばわりは大仰すぎるので、あちこちから失笑が洩れる。
「いったい、このような不遜をあえてした痴《し》れ者は、だれでございますか?」
たずねたのは大納言四条隆顕であった。
「その名を申す前に、聞いておきたい。この罪は、打った当人だけでは償《つぐな》えんだろう。どうだ四条大納言、貴公はどう思う?」
「仰せまでもなく、罪、九族に及ぶとぞんじます」
「一門一族、連坐して罪科に服すのが至当というわけだな?」
「御意」
「ならば言おう。下手人はそなたの姪の二条だよ」
「やッ、それは……」
と絶句するおかしさに、爆笑が揺れ返した。
粥杖につきものの贖罪《しよくざい》も遊びで、結局、四条家からは、何事につけても家の体面を気にする隆親老人が宰領し、たいそうもない品々が院や上卿、女房たちにまでくばられた。
直衣《のうし》や小袖、綾や練貫《ねりぬき》など高価な布地をはじめ、飾り太刀、鞍置き馬――。中でも人目をおどろかしたのは銀製の箱に詰めた瑠璃《るり》の盃である。
女房たちに贈った絹で作った食器入れ、色糸で精巧に編んだ瓜の細工物もおもしろい。どちらもほどけば、絹地や縫糸として使える重宝な品だった。
それはいいが、四条隆顕が不服そうな顔で、
「北山准后貞子さまの縁をたどれば、西園寺家も二条どのの血族ではござりますまいか」
余計なことを言い出したのだ。
四条家だけに出費を強《し》いられるのは、不公平だとする思いが、隆顕の表情からありあり読み取れる。
(そうら、おいでなすったぞ)
連坐の罪に引きずりこんで、西園寺家にも償いをさせるに相違ないとあらかじめ覚悟し、用意万端ととのえていた実兼が、
「やむをえませんな」
顔つきだけはいかにも不本意そうに、しぶしぶ御所へ担ぎこませたのは、沈香《じんこう》の舟に、麝香《じやこう》で作った船頭を乗せるというとてつもない品だった。
「恋人のためだ。金に糸目はつけないよ」
そう言って、芳善斎の松若に注文した舶載品である。
上卿たちには黄金造りの太刀と曳き牛、女房一同には金銀の箔置きや州《す》流し、梨地など、美麗な檀紙《だんし》を百帖贈ったが、
「わが家とおたくだけで二条どのの償いをするのは片手落ちです。お上にも何ぞ出していただこうではありませんか」
実兼は四条隆顕と共同戦線を張って、後深草上皇を責めたてた。
「ばかを申せ。粥杖でぺたんとやられたのはこのおれだぞ。なぜ二条の罪科を、おれまでが贖《つぐな》わねばならんのだ」
「おとぼけなさっては困ります。お上は幼少から二条どのを手許に引きとって養育したいわば親代わり……。しかも現在は二条どのの背の君でもあられるのだから、妻のしでかした不始末の責任をとるのは当然でしょう」
「妙な理屈だなあ。それではおれは、ぶたれ損ということになるじゃないか」
首をひねりながらも不承不承、納殿《おさめどの》を開けさせて装束やら太刀やら、償いの品を上皇が投げ出すと、これを愉快がってまた、どっと御所中に笑いが炸《はじ》けた。
自分のいたずらが話題にされ、高価な贖罪の品が惜しげもなくやりとりされる毎日を、二条はさも満足そうに打ち興じながらすごしている。合い間には夜を徹しての酒宴が幾晩もつづき、管絃の催しやら白拍子を召しての乱舞《らつぷ》、曲舞《くせま》いやら、御所中に遊楽気分が満ちあふれたが、座の中心にはいつも二条がいた。
うきうきしきっている後深草院のかたわらに、彼女は夜も昼もぴったり寄り添い、いかにも得意げな、光りかがやくような存在感を、めざましいばかり誇示している。
勝ち気さを秘めていても外づらはおとなしく、時に陰気にさえ見えた少女のころの印象は、ここへ来て急速に薄れつつあった。
十七、十八、そして十九……。成熟の絶頂期にさしかかった二条の、はやばやと開かれすぎた肉体に、ようやく精神の充実が伴いはじめた証《あかし》かもしれないし、もしかしたら単にそれは、後深草院が取りもどした自負自信の、はかない投影にすぎないかもしれない。
いずれにせよ醒めた目で見れば、上皇御所の近ごろのから騒ぎは、軽薄の一語に尽きた。
小正月の粥杖のほか宮中でのはやり物は、壺合わせや花合わせ、絵合わせなど雅《みや》びのきそい合いに、賭けごとの面白さを兼ねた遊戯であった。
壺合わせというのは、箱庭を造ってそれぞれの出来ばえを較べ、優劣をきめる遊びだし、花合わせは珍しい花を、絵合わせはこれも新旧さまざまな秘蔵の絵巻を持ち出して、どちらがすぐれているかを較べ合う。
二組に分かれ、左右から一人ずつ出て勝負をあらそい、優の判定を多く勝ち取った組へ、負け組の人々が金品を差し出すのである。
女こどもにすら引ける小さな弓に、かわいらしい矢をつがえて的を射る小弓の遊びにも、蹴鞠《けまり》にも、金品が賭けられ、
「負けわざ」
つまり賠償の形で、勝者敗者のあいだにやりとりがおこなわれるのは、そうすることで勝負の興奮を、いっそう盛りあげるためだった。
男同士の競技とされている蹴鞠を、女房たちにやらせ、烏帽子《えぼし》、狩衣など男姿に装わせて興じたりもする。女の側も男たちの視線と声援に囲まれ、異装の裏におのれを晦《くら》まして、あられもない嬌声の投げ合いを演じるのを、おたがいに快感とするようになったが、やはりこれも、中世ならではの変化だろうか。
色を販《ひさ》ぐ遊女の中から白拍子と呼ばれる一派が現れ、立《たち》烏帽子に水干《すいかん》、大口袴《おおくちばかま》、腰に太刀をおびるという男装束で、舞ったり唄ったりしはじめたのが、上流階層の人々にまで好まれ、真似られたのかもしれない。しかし倒錯の美をもてはやす変態嗜好は、王朝時代にはなかったものだ。中世も半ばをすぎかけた社会の、歪《ゆが》みを示す風俗現象の一つといえよう。
むろん蹴鞠にも、負けわざはついて回る。なにごとであれ賭けごとの刺激が加わらなければ、遊びとしての興味は半減してしまうのである。
このような宮廷ぐらしに漬かり切って、死別した子、生きながら別れた子への愛惜の情さえ、日に日に二条の内部から消えてゆきつつあるように見える。
まだしも実兼のほうが、郎従の兵藤太《ひようとうだ》と顔を合わせるたびに、その妹の家に養われているはずの幼い娘を、
(かぞえで二歳……。さぞ愛らしくなっただろうな)
ふとすると思い出す折りが多い。
彼は、でも子供の近況を訊ねようとはしなかったし、兵藤太も口にしない。この件に関しては主従二人ながら忘れた顔をしていたが、ある晩、例の鸚鵡の、舌たらずなくせに悪達者な今様を肴に、実兼が独酌でちびりちびり酒を飲んでいるところへ、
「殿、だいぶ前に二条どのの許へ通って来ていた八葉《はちよう》の車……。おぼえておいでですか」
その兵藤太が伺候して来て告げた。
「乗り手の正体がわかったのです。仁和寺|御室《おむろ》の、性助《しようじよ》法親王らしゅうございますよ」
「性助法親王? あの八葉の車の主《ぬし》がか?」
「二条どのが実家にもどっておられたころ、夜な夜な久我邸の近くの四ツ辻に停めてあった車……。こっそり簾をめくって覗いてみると、折りかさなって眠りこけている従者どもの中に、きまって一人二人、僧形の者がまじっていました。これを久我邸の召使らが『奇妙なことだ』とささやき合っていたのを、殿もお忘れではござりますまい」
「うん、供の男の中に僧がいるのは、主人も僧侶だからだし、それも飼い肥らせた牛といい車の立派さといい、身分の高い僧ではないかと、あのころから想像はしていたな」
「はたして御室の門跡でした」
したり顔に、兵藤太はうなずく。
性助法親王は、亡き後嵯峨法皇の九番目の皇子で、名は省仁《あきひと》という。
母は藤原公房の娘の御匣殿《みくしげどの》――。後深草、亀山両上皇には、腹ちがいの弟にあたる。早くから御室に入り、仁和寺の門跡となって、法号を甘露《かんろ》王院と号した。年はまだ、三十そこそこ……、美僧と評判されている人物である。
「当時わたしが、八葉の車とのかかわりをいくらたずねても、二条は『何のことですの? おっしゃる意味がわかりませんわ』などと、そらとぼけていたよ」
「ずばり『出家でしょう』と、図星をさしてやればよろしかったのに……」
「言ったさ。そうしたら『継母の夢見が悪くて、母屋《おもや》で祈祷を頼みました。きっとその僧侶が来ているのでしょう』と、ぬけぬけしらを切るんだ」
「なかなかしたたかですな。まだあのころ二条どのは十四か五の小娘でしょう?」
「それでもしつこく聞きほじると、さも軽蔑したような薄ら笑いを口もとにうかべて『なぜ、そんなことばかり気になさるの?』と逆に問いかけてくる。別に車の主を嫉妬していたわけではないから、いい加減なところで追及を切りあげてしまったがね。あれ以来ずっと御室との仲はつづいていたのだろうか」
「さあ、はたしてあのときの車の主が、性助法親王だったかどうか確信はありません。あれはあれで別人だったかもしれないし、一時、切れていたのが今になって、またよりをもどしたのかもわからない。いずれにせよ、このところ後白河法皇追善の法華八講やら供華《ぐか》の法会やら、仏事のお催しが多いでしょう」
「そうだな、そしてそのたびに法親王がたが宮中に召されて、導師を務めたり供養の経を読んだりしているね」
「焼けぼっ杭《くい》に火がついても、おかしくないわけです」
「やれやれ、仏弟子を迷わすとは、二条も罪深い女だな」
さなか、実兼の耳に入ってきたのは、
「亀山上皇までが二条の色香に迷っている」
との風聞であった。
性助法親王との仲を聞かされても、さほど意外とは思わなかった実兼だが、亀山院と二条の組み合わせには、
「まさか……」
耳を疑った。
この噂を実兼に語ったのは東二条院公子である。ひさしぶりに御機嫌伺いに出向いて来た甥を、
「まさかとは何です。わたくしが嘘をついているとでも言うの?」
語気するどく東二条院はきめつけた。
「いや、そんな意味ではありません。ただ少々びっくりしただけですよ。だって後深草院と亀山院のご兄弟仲は、表づらはどうあれ犬と猿……。二条どのはその兄上皇の、お子まで生んだ寵姫の一人ですからね」
「子供は他界したんでしょ?」
「ええ、亡くなりはしたけれど、今なお二条どのが後深草院の愛人であることは周知の事実です。もし亀山院が兄上の女に思いをかけたとすれば、まさしく横恋慕ということになりますな」
「仁和寺門跡との取り沙汰は聞いていて?」
「や、叔母さまがそこまでご存知とは……」
「知っているのね実兼」
「ちらと先ごろ、小耳に挟んだばかりですがね。おどろいたなあ。もう女院御所でまで話題になっていたとは……」
「駟《し》も舌《ぜつ》に及ばず、というでしょう。人の口から口へ悪評が伝わる早さには、四頭立ての馬車でさえかなわないそうですからね」
「しかし亀山院の件は本当でしょうか。お言葉を疑うつもりはさらさら無いけれど、どうも信じかねる結びつきですな」
「まだ結びついたわけではありませんよ。でも、新院は『二条ノ局にわたしは恋してしまった。兄上皇からねだり取ってでも自分のものにしたい』と、側近の臣や女官たちに公言してはばからないそうですよ」
そこが実兼には腑に落ちない。あの口やかましくきまじめな、気むずかし屋の亀山院が、人もあろうに反目し合っている兄の愛人に懸想《けそう》する……。そんなことがあるだろうか。
もっとも公人としての顔と私生活はちがう。堅物《かたぶつ》のようでいて亀山院も、後宮は思いのほか賑かだった。上皇の地位にしりぞいてからはなおのこと解放されて、お手のついた女性たちに次から次へ皇子皇女を生ませている。現に実兼の妹の嬉子も、寵は薄いが亀山院の後宮に侍す一人だ。
(近ごろ、とみに美しくなり優って来た二条なら、新院が関心を寄せるのも無理からぬことというわけか)
納得しかけたところへ、追い打ちをかける勢いで、
「まだあるのよ実兼」
東二条院がまくしたてたのである。
「よい年をして近衛《このえ》の大殿までが、しきりに二条に言い寄りはじめているのですって……」
「近衛の大殿が!?」
「あきれるでしょう。孫みたいな二条に……それも独り身ならばともかく、痩せても枯れても本院の想い者ですよ。人目もかまわずしなだれかかったり袖を引いたりするそうだけど、当の二条というより本院に対して無礼ではありませんか」
「まったくですなあ」
立てつづけに威《おど》かされて、実兼は満足に口もきけない。
「近衛の大殿」というのは通称で、本名は近衛兼平――。関白太政大臣従一位にまで昇りつめた藤原摂関家の嫡流である。
老齢を理由に隠居して、いま照念院と号しているけれども、生来の女好きは法体となっても変わらない。剃りこぼちた入道頭のてっぺんまで、美食家のせいかてらてら脂光りさせた巨漢で、身重な海獣さながら動きが鈍い。そのくせ女にかけては手が早く、すれちがいざまに胸に触れる、抱きすくめて口を吸う……。女官や女房たちの評判は、陰ではやたら悪い。
「海坊主」
と仇名で呼ぶ者さえいる始末だ。厄介なそんな爺さままでが二条を狙い出したと聞かされて、実兼がおどろいたのは当然だが、
「ほんとに知らなかったの?」
東二条院は疑わしげな目で甥を見る。
「知りませんでした。御室の法親王だけでもいいかげん、びっくりさせられたのに、亀山上皇だ近衛の大殿だとなっては、ただただ呆気《あつけ》にとられるだけですよ」
「あなたが何も知らなかったなんて、信じられないわ。当の二条が話したはずよ」
「わたしは二条どのとさほど親しくないし、根がヤボな人間ですのでね、他人の艶聞にはからきし疎いのです」
「しらじらしい」
吐いて捨てる語調で東二条院は言った。
「わたしの目を節穴だと思っているの? あなたと二条がお上の目をかすめて乳くり合っていることぐらい、とっくにお見通しですよ」
こんどこそ実兼は、息が詰まった。二条を憎悪し、殿上の名簡《なふだ》を削ってまで出入りを差し止めたこの叔母に、彼女との関係を嗅ぎつけられては「万事、休す」である。後深草院の耳にも筒抜けになっているにちがいないと思うと、なぜ秘密が洩れたのか、問いただす気力さえ萎《な》えてしまった。
「ぐうの音《ね》も出ない顔つきね」
勝ち誇ったような冷笑から、すさまじい怒りへと、東二条院の表情は変わってゆき、
「よくも煮湯を呑ませてくれました。わたしがあの女をだれよりも嫌っているのは、あなただって百も承知のはず……。それなのに二条と恋仲になるなんて面当てですか? え? 実兼、何とかおっしゃい」
はては激昂の余りの泣きしゃべりとなった。
あれこれ実兼は弁明し、叔母の昂《たかぶ》りをしずめるべく努めはしたものの、心のどこかには、
(露見したらしたで、仕方がないさ)
ふてぶてしく居直る思いもあった。
これまでも、細心の注意を払ってまで隠し通そうとした秘事ではない。石清水八幡の宿坊では四条家の隆親老人やその倅《せがれ》の隆顕を前にして、二条との親密さを見せつけるような態度に出たし、久我家の人々にも勘づかれているにちがいないのだ。
「なにせ二条は女ざかり……。今や開き切った花ですからな。甘い芳香についつい理性をくらまされて、道心堅固なはずの法親王や亀山院、近衛の大殿みたいな爺さまさえが、煩悩の蜜蜂となり果てたのでしょう」
と、さかりの時期をとうに過ぎた東二条院相手に、当てこすりともとれる放言をあえてしてのけたのも、実兼なりに度胸を据えたからだった。彼の臆測では、
(もうずっと以前から、後深草院はわたしと二条の仲を知っておられるはず……)
であり、
(知りながら、見て見ぬふりをしてくださっているはず……)
なのである。したがってあの、院には流産と告げながら、じつは兵藤太の妹の手に渡してしまった女の子の存在さえ隠し通していれば、いまさら東二条院にどう讒訴《ざんそ》されたからといって、さして恐ろしくもないのであった。
東二条院は、しかし甥の首の根を押えつけた気でいるらしく、
「あなたもその、卑しい蜂の一匹だというわけね?」
さげすみ顔で冷笑する。
「男という生き物の浅ましさですよ叔母上、どうか勘弁してください」
「いいえ、お上に言いつけてあげます。お上の女を盗んだのですからね。蜜蜂だなんて体裁のよいことを言うものではないわ。二条とかかわった男はみんな盗人よ。獄門です」
「手きびしいなあ、それよりどういう経路でわたしと二条の一件が、叔母上の知るところとなったのでしょう。四条大納言の密告ですか? それとも久我家のだれかの差し出口かな」
「自分が品性下劣なので、人まで疑うのね。だれでもありません。鳥に聞いたのよ」
「鳥!? ご冗談でしょう」
「ほんとうです。あなたが飼っている鸚鵡の鳥……。顕子どのが持って来たあの鳥が、しゃべってくれたんです」
突然とび出した妻の名に、実兼の思考は混乱した。もっとも幼時、女童《めのわらわ》として顕子は短期間、中宮御所へ宮仕えに上ったことがある。行儀見習のためだが、いまだにしたしみはつづいていて、東二条院のもとへ時候見舞いなどに参上していた。
今様を唄う異国渡りの珍鳥――ぜひ見たい、聞きたいとせがまれて、顕子が御所に籠を持参したとしても、ふしぎはないのである。
明石ノ上
それにしても合点がいかない。いったい鸚鵡が何を話したのか。東二条院にたずねても、
「とにかく聞き出したのよ。あの鳥の口から二条のことを……」
と言うだけで、あとはうるさげに、
「知りたければ屋敷へ帰って、もう一度、鸚鵡にしゃべらせてごらんなさい」
追い立てる。
やむなく帰邸して北ノ方を問いつめると、
「悪いことって、できないものですわね」
顕子の機嫌もすこぶるよくない。二条と夫の密事《みそかごと》に腹を立てているのである。
「うるさいぞ」
実兼は高びしゃに出た。
「女の一人や二人いたからって、どこが悪い。それより鸚鵡をだしに使ってわたしに恥をかかせたそうじゃないか」
「だしになど使いはしません。鸚鵡が勝手にあれこれしゃべっただけですわ」
北ノ方の語るところによれば、仔細《しさい》は次のようなことであったらしい。
東二条院が鸚鵡の今様を聞きたがるので顕子が籠に入れてつれて行き、御所の女房たちまで群れ集まって、
「さあさあ、所望」
うながすと、はじめ、しばらくの間は拗《す》ねて横を向いていたが、やがていつもの通りつぶらな目をいっぱいに見開き、まっ白な胸毛をふるわせながら鸚鵡は唄い出した。
ウマヤノ隅ナル飼イ猿ハ
キヅナヲ放レテ、サゾ遊ブ
トキワノ山ナル木々ノ葉ハ
風ノ吹クニゾ
チュウトロ、揺ルギテ裏返ル
「やんややんや、いま一曲」
ほめそやされて、いよいよ図に乗り、これも持ち歌の「トナリノ娘ガマツル神」をご披露に及んだあと、急に事ありげに声をひそめて、鸚鵡は命令しはじめたのだそうだ。
「牛ヲ曳キ出セ、オ車ノ用意」
たぶん出仕のさい、家司が朝ごとに牛飼や舎人《とねり》に言いつけるのを覚えたのだろうと、興がって聞くうちに、
「夜道ハ暗イ、タイマツヲトモセ」
と言い出すではないか。松明《たいまつ》で道を照らしながらの出仕というのは、あまりないので、
「どこへ行くつもりでしょう」
うっかり顕子がつぶやいたとたん、
「二条サマノオツボネ」
いきなり大声で鸚鵡がわめいたのである。
「なんだ、たったそれだけのことか」
実兼は拍子抜けして妻をなじった。
「愚にもつかぬ鳥の一言を本気にして、女院やお前はわたしの素行を疑ったわけだな」
「ちがいます。鸚鵡の言葉を手がかりにして詳しく調べた結果、あなたと二条の仲が、まぎれもない事実だと判ったのですわ」
そのくせ、顕子が調べあげた事実など、たいしたことはなかった。それとなく実兼がさぐりを入れてみても、彼が二条に生ませたあの、女の子の存在すら嗅ぎつけてはいないらしい。
(子供の一件さえ知られなければ、妻の焼きもちぐらい、どうとでも躱《かわ》せる)
と、実兼はたかをくくった。
じつは今、実兼は新しい恋に夢中になっている。二条が飽きたわけではない。これまで通り逢ってはいたが、彼の心情からすれば、すでに少しずつ、二条は過去の女になりかけていた。
顕子や東二条院の関心が二条に向けられているのは、現在の浮気相手に煙幕を張る意味で、むしろ歓迎すべきことだったから、
「こいつ、いらざる差し出口をしおって……」
鸚鵡を睨みつけはしたものの、語気荒く叱り懲《こ》らすことはしなかった。
実兼にかぎらず、公家たちの女遊びは相かわらずはげしかったし、宮中の女官、召使いの家女房《いえにようぼう》、酒宴に召される遊女白拍子はもとより、中級下級の廷吏の妻などとまで、みめよい女と噂が立てば、その夫の了解のもとにこっそり逢う瀬を愉しみもする。
中には目をつけた町家の娘に、上臈風な偽装をさせて、夜陰ひそかに屋敷へ呼びこむ者まであり、後深草院の失敗などは、
「不手ぎわもよいところだ」
と、公家仲間の失笑を買った。
二条が持っていた紙張りの蝙蝠扇《かわほりおうぎ》に、見なれぬ女文字で気のきいた一筆描きの、絵と歌が書かれていたのを、院はひどく床《ゆか》しがって、
「ぜひ見参したい。首尾をしてくれ」
と例によって二条にせがみ、その手引きで扇折りの娘と一夜を共にしたのだ。
それはいいが、同じ日、別の殿上人の口ききでいま一人、町の女を御所につれて来させていたのを、後深草院はすっかり忘れてしまったのである。降りしきる雨の中、車のまま明け方近くまで庭で待たされた女が、
「よくもわたしに、恥をかかせたわね」
大立腹で引きあげて行った笑い話が、しばらくの間、退屈しのぎの材料にされたのも、廷臣らに仕事らしい仕事がなく、暇を持て余しているからであった。
しかし公家社会でのこのような風潮をよそに、鎌倉では北条政権が、蒙古に対する警戒を解かず、意識の上でも実際面でも、きびしい臨戦態勢をとりつづけていた。
それというのも、文永十一年の戦闘で敗退したはずの蒙古――元が、まったく敗れの実感を持たず、大風に翻弄されてからき目に遭ったあの日からかぞえて、わずか半年しかたたぬ翌建治元年春、むしろ大えばりで宣諭使《せんゆし》を寄こしたからである。
「貴国は負けた。向後、元に朝貢し服属せよ」
そう、ねんごろに、宣《せん》し諭《さと》す使者なのだから、認識があべこべだったといえよう。
幕府はとまどった。怒りもした。
「宣諭使とは片腹いたい。負けたのは元ではないか」
そして長門から九州の大宰府へ、大宰府から鎌倉へと護送されてきた使節五人を、ことごとく竜ノ口で斬に処し、首を獄門にかけた。
朝廷へも、いきさつは報告されたけれども、
「ほ、改めて夷狄《いてき》が降を乞うて来たのだな」
「執権時宗は断乎、勝者の意気を示さんとして、使者を誅してのけたのだろう」
と、受けとめ方はここでも逆だったし、話題も一ッとき限りで、すぐさま忘れ去られた。
そんな廷臣たちの一人として、遊興三昧な明けくれを享受しながらも、西園寺実兼の中にはさすがに醒めた部分があった。
関東申次という特殊な役職をぞんぶんに生かし、宮廷での将来の出世に利してゆくべく野心しはじめている彼は、南北両六波羅の探題と日ごろぬかりなく接触し合い、また芳善斎の松若ら世情の動きに通じている商人どもから、つねに新鮮な情報を吸いあげるのを忘れなかった。
したがってその知識は、どっぷり首まで放恣《ほうし》な生活に漬かり切っている他の公家たちにくらべれば、まだしも正確だし、京都を中心にして鎌倉、大宰府――つまり日本の三拠点を高所から俯瞰し、状況の移り変わりを判断する広角的な眼も、養われつつあったのである。
せまくるしい宮中での、さらにせせこましい昇進競争、色恋沙汰だけを生き甲斐にしている連中とは、差ができてきて当然だが、
「蒙古は勝った気でいるのですからな殿さま。宣諭使が乗りこんで来たって、ちっともおかしくはないのですよ」
と、日本中がおちいっている錯覚に、一刀両断、訂正の一閃《いつせん》を加えてくれたのも松若であった。
「だって、箱崎、博多をはじめ陸上での合戦には、まちがいなく元軍は勝利を収めたんですぜ。毒矢だの震天雷だの、ドンドンジャンジャン、銅鑼《どら》や太鼓で寄せてくるきてれつな異国兵に、勝手のわからぬ日本勢は押しまくられて、とうとう夕方には浜も町方も、元軍に占拠されてしまったじゃないですか」
「そうだな。我が将兵が軍神と仰いだ筥崎の社まで、蒙古兵の放火にあって焼亡したということだからな」
「合戦じたいは勝った。日本を制圧し切れなかったのはたまたま運わるく大風が吹いて、船が沈んだからにすぎぬと、世祖フビライは理解したわけで、だからこそ服従をすすめる使者なんぞを派遣してきたんですよ」
「それを斬ってもかまわんのか?」
「かまうも、かまわんも、外交の常識に照らせばめちゃくちゃですがね、幕府の考えも一理あります。戦いはまだ終わってはいない。両国は交戦中なのだから、のこのこやって来た敵国人ども、首を刎ねてしまえとなるのも、これまた当たり前な話でしょうな」
「まて、松若、そいつは禁句だ」
浮き腰で実兼は、隣室をうかがった。あの悪がしこく生意気な、化けものじみた鸚鵡には聞かせられない言葉である。ボロ布を引き裂くような地声で、またぞろ、
「首ヲハネロ、首ヲハネロ」
と連呼しだしてはたまらない。
「たのむから話を変えてくれ」
「では、これをお見せしますかな」
懐中をさぐって松若は紙きれを取り出し、実兼に渡した。拡げてみると一編の詩だ。
「正使、杜世忠《とせいちゆう》の辞世ですよ。彼は三十四歳。蒙古族出身の少壮官吏だそうです」
門を出《い》でて妻子、寒衣を贈り
問う、わが西行幾日にして帰る
来たる時、かりそめにも黄金の印を佩《はい》し
蘇秦《そしん》を見て機に下らざること莫《なか》れと
「ふーん、なかなかやるじゃないか」
「もう一つあります。偈《げ》ですがね。最期に臨んでこれを頌《じゆ》したのは、何文著、三十八歳。彼は漢族の出だと聞きました」
四大《しだい》、元《もと》、主なく
五蘊《ごうん》、悉《ことごと》く皆、空《くう》なり
両国生霊の苦
今日《こんにち》、秋風を斬る
「禅僧はだしだな。たいした悟境だ。それにしても両国生霊の苦とは、鋭く衝《つ》く所を衝いている」
われにもなく、実兼は表情を引き緊めた。
「元は広大な版図を有する大国だという。それなのに、さらに領土を欲して東海の果ての島国にまで触手を伸ばそうとし、戦いをしかけてくる。日本も元も、ためにおびただしい死傷者を出し、遺族は永別の苦しみに泣かなければならない。世祖フビライとやらの気が知れんな」
「とばっちりの災難で、大迷惑をこうむっているのは高麗ですよ。やれ造船だ徴兵だ糧秣の召し上げだと、いじめられ放題ですがね、ここへ来てわたしら唐物の交易商も、えらい苦境に突き落とされました」
猪首《いくび》をめり込ませ、まるまっちい肩を松若は、しょんぼりすくめた。
「どうした、何が起こったんだ?」
「宋がいよいよ危なくなりました。今日あすにも滅びるでしょうなあ」
「大宋国の終焉か?」
「大の字はとっくに消えましたよ。元に攻略されて南へ逃げたあとは、南宋と呼ばれてたけど、去年の正月、首都の臨安がとうとう陥落しましてね、皇帝の恭宗《きようそう》って人が捕虜になったって噂です。やむなく遺臣らは海上へ逃げ、はかない抗戦をつづけてました。でももう、駄目ですな。目ぼしい将軍はあらかた元にくだったそうです。命脈は尽きましたな」
「そうか。宋国は遠からず滅亡……。大陸はついに全土が、フビライ皇帝の支配下に入るわけか」
「わたしらの商売も、じつにやりにくくなりました。なにせムクリが相手となると、まともな商取り引きなど通用しません。略奪同様な目にあって、命からがら逃げ帰る交易船がやたら増えたため、損失を恐れて船を出す者は二の足をふむ。商品がばったり、入って来なくなっちまったのには大弱りですよ」
「それもここしばらくの間だろう。南宋が断末魔の抗戦をやっている最中だから、海上の安全だっておびやかされる。いずれ、けりがつきさえすれば、新規な商売筋も開けるはずだよ」
「そうなるよう、ふんばってみるつもりではいますがね。いまのところ唐物を扱う商人は博多も京も青息吐息……。いつもご注文いただいている香木なども、ほんの半年前にくらべてさえ倍に値上がりしましたぜ殿さま」
つまるところ、話をそこへ持っていきたかった松若なのだと、遅まきながら実兼は気づいた。
国がひっくり返ろうと政権がどう変わろうと、人間に物欲があるかぎり要路の役人を賄賂攻勢で抱きこみ、死中に活を求めて必ずよみがえるのが、彼ら豪商どもの習性である。事態が悪化すればするで、その困難をさええげつなく商機にすり替えて儲けようと企らむ。
(いまの松若が、まさしくそれだな)
領所からの貢物と公税の上にあぐらをかいて、安逸をむさぼる公家社会……。そこに身を置く一人ではあるが、近ごろ、ひそかに、
(いいのか? 朝廷も院も、こんな有様で)
と、批判を抱きはじめている実兼の目には、松若らの、だれの助けも借りぬ体当たり的な生き方が、かえっていさぎよくさえ見えてくるのだ。
だからといって倍もの暴利を、すなおに払う気などさらさらない。
「ご下命はなかったけれど、先ゆき品薄になるのは必定ですのでな、じつは本日少々、沈《じん》と伽羅《きやら》を持参しました。値上がりしたとはいっても、まだ今のうちに求めておかれるほうがお得ですよ」
と松若が取り出した香木を、押し問答のあげく納得できる値にまで負けさせて、
「ご身分柄に似合わない。いやはや殿さまはしっかりしておられる。笏《しやく》なんぞ持つよりも、いっそ算盤《そろばん》をはじかれたほうがよろしいわ」
「なんだ、その算盤とは……」
「宋国人が発明した計算用の道具でさあ。まだ博多あたりでも、ぽつりぽつりとしか使われてはいませんがね。しごく便利な物ですよ。殿さまなら、すぐさま上達うたがいなし」
嫌味を並べるのを聞き流して、
「言え言え、何とでも……」
どこ吹く風とばかりそらうそぶく実兼の耳に、このとき流れこんできたのは、鸚鵡の独り喋りであった。
いつものあの、いかにも事ありげなひそひそ声で、隣室に置いてあった籠の鸚鵡が、
「牛ヲ曳キダセ、オ車ノ用意」
と、おはこをやり出したのは、松若をまだ、旧主人と記憶しての接待だろうか。
「やあやあ、健在ですな。お化け鳥どの」
「健在どころか、出すぎ者で閉口頓首だ。妻の前で浮気相手の名をすっぱぬくんだぞ」
「そりゃあ北ノ方にとって、無二の忠臣です。けなげなやつじゃないですか」
「まあな、無聊《ぶりよう》の慰めには大いになるよ。砂金五両の値打ちはあった」
「今から思えば、ばか安いお買い物でした。異国渡りのこんな珍鳥、もうはや、十両が十五両でもお手には入りますまい。……なあ鸚鵡よ。お前、餌はたっぷり貰うておるか? 大福長者のわりに、当家の殿さまは金にしぶい。痩せるなよ」
と壁代《かべしろ》の向こうへ伸び上がってまで、香木を値切られた腹いせを吐きちらし、
「やれ、忙しや忙しや」
矮小《わいしよう》な肥満体を気ぜわしなくゆすり立てながら松若が辞去したあと、
「夜道ハ暗イ。タイマツヲトモセ。今宵ノオ泊マリハ二条サマノオツボネ」
小癪なおしゃべりをやめない鸚鵡の籠に、
「もう黙れ、寝てしまえ」
次の間へ立って行って実兼はすっぽり布をかぶせた。
自室の机にもどり、彼がその夜、考えつづけたのは、これからの政情の推移である。
元使杜世忠らを斬ったとすれば、今後、和平の公算は無にひとしい。世祖フビライはふたたび東征の軍を起こすにちがいない。
「降を乞うて隷属しても地獄なら、思い切って一戦し、せめて引き分けの僥倖《ぎようこう》を狙おう」
と、はじめから肚を固めている鎌倉幕府が、これを受けて立つのは必至だから、北九州はもとよりわるくすれば山陽道も、芸州備州あたりまで敵の侵攻を見るかもしれない。
「なんといっても、しかし元軍は、海を渡って来ています。深入りして背後を断たれればそれまでだし、兵員や兵器の補給もままなりますまい」
陸つづきの高麗や南宋とは地の理がちがう。たとえ勝っていたにしても九州を荒らすだけで引きあげるだろうとは、一昨日、酒席を共にしたさい、南北両六波羅の口にした予測である。
「まさか再度、大風が吹くとは思えませんからなあ。こんどこそ彼我の攻防戦は熾烈をきわめるでしょう。まさに何文著の辞世の詩句の通り、両国生霊の苦をまのあたり見ることになるわけですが、問題は恩賞です。幕府は財源の捻出に頭を悩ますことになりますよ。われわれが戦いの帰結にまして案じるのも、じつは、その点なのです」
とも、探題たちはこもごも語った。
「文永役の行賞《こうしよう》は、何とかすませました。それをしないと、来たるべき次の合戦に、身を挺して働く将兵がいなくなりますからなあ」
武士道などという目に見えない綱で、さむらいたちの心をしばりつけたのは、近世に入ってからである。
それ以前の主従関係は、むろん主君その人の、人間的魅力への心服を核にして結ばれてはいるけれど、けっしてそうした精神面での紐帯《ちゆうたい》にだけ依存したものではなかった。
もっと現実に即していた。働いたらば、まちがいなく、公正に、働いただけの見返りを与えてくれる主君。
額に汗して先祖が拓《ひら》き、あるいは流血の犠牲すら辞さずに彼自身がたたかい取った「一所懸命」の土地を、たしかに彼のものと保証し、子々孫々、「安堵」してくれる主君。
戦闘のない日は家の子郎党らの先頭に立って、田畑をたがやし荒地の開墾に従事し、牛馬の牧を監督して歩いたいわば半農半武の、朴直な農場主でもあった鎌倉武士は、そのような主君でこそ信頼し、二つとない命を投げ出しもしたのだ。
もし幕府が、文永役の論功行賞をなおざりにしておけば、ふたたび蒙古勢が攻め寄せてきたとき、将兵らは、進んで防戦する意欲を失ってしまう。
それでなくてさえ九州諸国の武士たちには、幕府の御家人はもとよりそうでない者にまで、敵襲に備えての防塁工事が義務づけられた。海岸線にそって石積みの要害を築き、水ぎわで蒙古兵を撃退しようというわけである。
「田、一反について一寸、一町について一尺の割合ですから、たとえば百町の田地を所有する領主だと、百尺の石垣築造を受け持つことになります。河口など、石積みのできないところは乱杭《らんぐい》、逆茂木《さかもぎ》を打つし、楯や矢など武器の備蓄も命ぜられていますのでね。彼らの負担はなかなかのものなのですよ」
とも、両六波羅は西園寺実兼に語った。
「そうだろうなあ、海辺にぐるっと石の塀をめぐらすようなものだからなあ、大変な距離だし、労力や出費もおびただしいわけだ」
「国」というものの概念は、一般にひどく漠然としていた。一部の禅僧や交易商などを除けば、異国とは無縁に生きる人々ばかりでいとなまれている日常である。特に「国」を意識する必要はなく、さむらいにおける忠誠心も、「国」へのそれというよりは、もっと直接的に、主君に対して抱くのが普通であった。
異賊が攻めてくるなどというかつてない異常事態への対処は、したがって彼らの所領を安堵してくれている幕府の命ずるまま、彼ら自身の生活を守るためになされる。抽象論としての愛国心より、日々のくらしに根を置いた危機への自覚こそが、さむらいたちの戦闘本能を燃えあがらせたのであった。
「それだけに、幕府は彼らに厚く報いるべきなのです。しかし、いかにせん、日本国内での合戦とちがって海を渡って来た異国の軍団が相手では、勝ってもその土地を味方の将兵に分け取りさせることができんのですよ」
「まったくだな」
軍事にうとい実兼のような公卿も、両六波羅の嗟嘆《さたん》には共感できる。
日本人同士がたたかうなら相手を負かして土地や財宝を奪い、味方の褒賞に使えるけれども、異賊を敵とする合戦では奪うべき何ものもないのだ。
「それでも与えるものを与えて士気を鼓舞しなければ、賊船を撃破できないのですから、幕府は苦しいやりくりを強《し》いられるわけです」
「けっく公領を割《さ》くほかないか」
「そうなりますなあ」
白村江《はくそんこう》の敗北、刀伊《とい》の乱など、大昔の事例を別にすれば、我が国のこれまでの歴史に、まったく類を見ない対異国戦である。二度三度四度と執拗に、蒙古の来攻がくり返されることにでもなれば、経済基盤の破綻から鎌倉幕府の土台はゆるぎかねない。
(万一、北条政権が倒れでもしたら、向後の政局はどうなる?)
朝廷も院もがそこまで見通して、対策を立てておく必要がある。
(いざとなってからあわてても、おそいぞ)
と実兼あたりは考えはじめたのに、その肝腎な院や朝廷の現実把握は、あいかわらず平安朝のままの悠長さに終始していた。
政治の実際から遊離して無為徒食していれば、おのずから視界はせばまり、長期的な展望などできなくなる。宮廷人の関心は、もっぱら遊宴の席で発揮される趣味性や知性の競い合いと、あとは位階官職の昇進競争にかぎられ、それらに勝つか、敗れるかが、彼らにとって、時とすると生き死ににもかかわる重大事となるのであった。
二条がまた、上皇御所を出奔……。行方をくらましたのも、その母方の叔父の四条隆顕が三十五の若さで突如、出家遁世してのけたのも、見ようによっては他愛ないことを、二人ながら拭いがたい恥辱ででもあるかのように、深刻に受けとめた結果にほかならない。
建治三年春――。
このころ新院亀山上皇、本院後深草上皇共に、血道をあげていたのが蹴鞠の勝負で、双方の御所に出かけたり招いたりしながら、報復戦のまた報復戦、そのまた報復戦をくり返し、事はてての乱舞、酒宴、例の「負けわざ」の償いに高価な金品をやり取りし合う毎日だったが、
「いやあ、まいった。こんどの負けわざは、ちと趣向を凝らさずばなるまい」
と、後深草院が企てたのは、女楽《おんながく》の催しである、それも源氏物語の、六条院での女楽を真似て、院みずから光源氏に扮そうというのだから、勝者の亀山院も興に入ったらしい。
「面白そうですな。わたしにも何ぞ、役を仰せつけください。夕霧大将はいかがです?」
大乗り気でいたのに、当日になって揉め事が起こり、二条が失踪してしまったのだ。
揉め事……。
それは、役不足の不満から端を発した席順争いであった。
源氏物語の若菜《わかな》の巻に描かれている女楽を、そっくり模倣して遊ぼうというわけだから、まず自身を、光源氏に擬した後深草院が、
「紫ノ上は東の御方、明石ノ上は二条の局、明石の姫君は廊の御方、そして、女三ノ宮は今参りの局……」
と役々をきめたのだが、二条はそもそもこの、自分に振り当てられた明石ノ上という役どころが気にくわなかったようだ。
「紫ノ上は源氏の君の正室、明石の姫君はのちにみかどの女御《にようご》となったおかた、女三ノ宮は上皇のご息女……。それなのに、なぜお上はわたくしに明石ノ上をやらせるのかしら」
支度《したく》部屋でも、しきりにこぼしていたのを、西園寺実兼は耳にしている。
なるほど明石ノ上は、前播磨国司の娘、受領《ずりよう》階層の出身にすぎない。しかし、その品格と美貌は、紫ノ上にさえひけ目を感じさせるほどだし、何よりは琵琶に堪能と、物語には書かれている。
女楽である以上、それぞれの役に扮した女たちは、これも物語通りの楽器を受け持ち、弾奏の妙技を披露しなければならない。
「琵琶は、二条どのにかなう人はいません。だからこそ院も、明石ノ上をあなたにやらせようとしただけで、他意はないのですよ」
実兼の取りなしにしぶしぶうなずきながら、紅の袿《うちき》、もえぎの表着《うわぎ》、裏山吹の小袿など定めの装束を身につけはじめはしたものの、二条はなお、腹に据えかねたおももちで、
「今参りの局が女三ノ宮だなんて……。おかしいとお思いになりませんこと?」
実兼相手に訴えつづける。
紫ノ上に扮して和琴《わごん》をかなでる東の御方洞院|※子《しずこ》は、日ごろ二条とは仲よしだから文句はいえない。また、明石の姫君になる廊の御方は、亀山上皇の愛人である。弟君へのお愛想のつもりで、後深草院が人数の中に加えた女性では、これも納得するほかないが、二条が今参りの参加を不快がる気持は、実兼にも理解できなくはなかった。
年は若いけれど、今参りの局は二条の叔母にあたる。つまり二条の母方の祖父――あの口やかましい四条隆親老人が、召使に生ませた末娘なのだ。
亡くなった二条の母のすけ大から見れば、腹ちがいの妹で、名は識子《つねこ》……。これが最近、本院の御所に女房勤めにあがり、さっそく後深草上皇のお手がついて、いま飛ぶ鳥落とす羽ぶりなのである。
そんな新参者に女三ノ宮の役をとられただけならまだしも、いざ席を決める段になって隆親老人がつかつか入って来、明石ノ上の並び順を、今参りの局の下座に置き替えたからたまらない。二条は憤然と席を立ち、そのまま行方をくらましてしまったのであった。
断絃
後深草院がこの場にいたら、隆親老人もまさか勝手に席次の変更などできなかったにちがいない。しかし同じころ、院は別棟で酒宴をもよおし、客人《まろうど》として招いてあった亀山上皇をもてなしていたのだ。
老人の倅《せがれ》の四条隆顕、それに西園寺実兼らが揉め事の場に居合わせて、
「むちゃをおっしゃってはいけません兵部卿《ひようぶきよう》どの、女君たちの坐り場所はお上が決められたのですから……」
制止したのだが、聞き入れる相手ではない。若い召使を寵愛し、その腹に晩年、みごもらせた娘だけに、隆親老人は今参りの局|識子《つねこ》がいとしくてならないのだろう、
「姪が、叔母の上座を占めるなど奇怪千万」
口角《こうかく》、泡をとばして言いつのる。
酒宴を終えてやって来た両上皇も、
「なんということだ。明石ノ上が欠けてしまっては女楽などできんではないか」
すぐさま二条の控え部屋へ迎えを走らせたけれども、もはや影も形もなかった。
「お机の上に、このようなものが……」
と女童《めのわらわ》が差し出したのは、白の薄様《うすよう》に包まれた琵琶の一の緒で、ぷっつり、それが二つに断ち切ってある。
数ならぬ憂き身を知れば四つの緒も
この世のほかに思ひ切りつつ
したためられた走り書きから推せば、すぐさま尼にでもなってしまいそうな切迫のしかたで出て行った、とわかる。
「かわいそうに……。さぞ口惜しかったでしょう。これは私にいただかせてください」
兄上皇にねだって、亀山院が二条の歌懐紙をふところへ入れるのを、
(噂はやはり、本当だったのだな)
こそばゆい思いで実兼は眺めた。
せっかく張り切っていたのに、後深草院の光源氏、亀山院の夕霧大将も演じるに至らぬまま、興ざめのうちに女楽の催しは流れてしまったけれども、
「どうせ二条が目ざしたのは洛中だ。心当たりを探させろ」
と後深草院が命じたのは、遊宴の場所が伏見《ふしみ》の離宮だったからである。
ところが、四条大宮の乳母の家にも、久我の実家にも二条はもどった気配がない。
そのうちに彼女の叔父の四条隆顕が、これも同様、父の隆親老人と衝突し、屋敷を出て友人宅に籠居《ろうきよ》するという事件が持ち上がった。
おととしの冬、待望の立太子式を挙げた煕仁親王が、今年、こんどは十三歳に達して元服加冠をとげることになり、理髪の役に隆親老人が選ばれたのだが、
「前大納言、現兵部卿ではまずい」
というわけで、一日だけ隆顕から大納言の職を借りた。ところが役目が済んでも、老人は息子に、大納言を返そうとしないのである。
では、老人みずから大納言でありつづけようとしたのかというと、そうではない。彼は隆顕に無断で、さっさと朝廷に、大納言の官職を返上してしまったのだ。
「はかられた、まんまと騙されたッ」
隆顕はじだんだ踏んで父の背信を呪ったが、あとの祭りであった。
隆親老人には隆顕のほかにも、息子が幾たりかいる。中でもっとも可愛がっていたのが三男の隆良《たかよし》である。
嫡男ではあるけれど隆顕は先妻腹、隆良はいまの妻の生んだ子だから、その妻にそそのかされたとも考えられる。
ともあれ老人は、詐術を弄したにひとしいやり方で隆顕から大納言の職を取りあげ、これを返還した見返りとして、現在、左近衛中将の隆良に、
「なにとぞ参議を兼ねさせていただきたい」
と願って出た。
中将に参議を兼務すると、兄の大納言を超えることになる。それはできない相談なので、隆顕本人が退官を望んでいるがごとく言いつくろい、その手から大納言の職を奪って、隆良のために道を開いてやったのであった。
噂は二条の耳にも入った。
叔父に同情した彼女は、手紙で隠れ家を知らせ、隆顕はそこへ二条を訪ねて行ったらしい。老人への恨みが、こもごも語られ、叔父と姪は手を取り合って身の不幸を歎いたあげく、
「もはや前途に望みを失った。わしは遁世しようと思うよ」
「わたくしも……」
そんな話が出たのだろう、やがて言葉にたがわず四条隆顕は出離をとげたが、その口から西園寺実兼は、二条の居どころを聞き出すことができた。
それは二条の乳母の母の家で、即成院《そくじよういん》に近い小林という所だった。実兼がそこへ二条を訪ねていったのは、
「まことに申し上げにくいことではありますけれども……」
郎従の兵藤太が、そう前置きして、
「殿のお子――二条さまがお生みになったあの、姫さまが、病気にかかられましてな。あすをも知れぬ容態になられたと、妹夫婦が知らせてまいったのでございます」
と、告げたからである。
実兼は迷った。二人の間に儲けた子のことなど、もうすっかり、二条は忘れはてたように見える。むりはない。産褥から起き上がって、産着《うぶぎ》の裾に取りつこうとする二条の手を、荒けなくもぎ離したときも、
「貰い手の詮索はしないでほしい。今日かぎりこの子は死んだものと思ってくれ」
と、実兼は言い切ったのではなかったか。
今さら真実を伝えたところで、逢いたがりも、案じもしない二条ではあろうけれど、なぜか一人、胸に秘めては置けない気がして、実兼は馬を隠れ家へ急がせたのであった。
人にたずねたずね、ようやく探し当てたその家は、曲がりくねった小路の行きどまりにある町家だったが、網代垣《あじろがき》の裾に清らかな小溝をめぐらし、枝先が水に漬かるほど、ゆっさりと卯《う》の花を咲かせていた。
夕靄《ゆうもや》をへだてて遠目に眺めると、花の白さが時ならぬ雪とも思えて、流れ寄る風までが涼しく感じられる。
「佳人の隠れ家にふさわしい風雅なお住まいですな」
あたりを見回しながら兵藤太が言い、すぐにでも訪《おとな》うつもりか茅門の前の小橋を渡りかけるのを、
「待て待て。いましばらく様子を見てからにしろ」
実兼はとめた。二条の乳母の、母の家だという。家人が取りつぎに出て、お局さまなど来ておられぬと拒まれれば、押して入るわけにいかなくなる。
「そうですな。庭のせまい、浅まな家ですから、少し待つうちには知った顔が現れるかもしれません」
「すかさずその機会をとらえて声をかければ、逃げ隠れなどできまいではないか」
主従の、この判断は正しかった。煤《すす》を吹き散らしでもするように、蝙蝠《こうもり》が無数に飛び交う空の下で、家人の気配をうかがっていると、やがて召使らしい女が出て来て、上げ蔀《じとみ》をおろしはじめた。
「しめしめ、万左女《まさめ》ですよ殿」
「待った甲斐があったな」
「もう、こっちのものです。つかまえてしまいましょう」
すばやく兵藤太は門へ駆け寄り、形ばかりの二枚戸を押し開けて庭へ入った。
「あら、あなたは……」
「お久しぶりだね万左女さん、殿をご案内して来たんだよ。二条さまはおいでだろ?」
「いらっしゃいますけど、でも、あなたがたはどうしてここを……」
「四条大納言どのに訊《き》いたんだ。ともかく殿のお馬を庭へ曳き入れるからね。お越しのよしを申しあげておくれ」
強引な言い方にうろたえながら、万左女は家の中へ走り込んで行き、入れ代わって二条の侍女の中将が出てきた。観念したのだろう、
「どうぞこちらへ……」
実兼を、中将がみちびき入れたのは、やや奥まったひと間であった。
かげろうの羽根のような薄い単衣《ひとえ》を掛けて、二条は横になっていたが、
「身体の加減でも悪いのですか?」
実兼の問いに、かぶりを振って、
「くたびれたのです。男山まで輿に揺られて行き帰りしましたので……」
ものうげな答えを返してきた。
「石清水八幡宮へ? 祈願でもこめに?」
「いいえ、上皇から拝領した琵琶の破竹を、奉納しに参ったのですわ」
実兼は驚愕した。
「嘘でしょう二条どの、冗談を言って、わたしをからかっているんでしょう?」
「なぜあなたに、嘘をつかなければなりませんの? 本当のことですよ。つい先ごろ、もどって来たばかりなので、疲れて、中将に背をさすってもらっていたところですわ」
「では真実、破竹を八幡宮に奉納してしまったのですね?」
「気持がさっぱりしました。もう、こんりんざい琵琶は弾きません。そう誓って、神前に破竹を供えて来たのです。伏見の離宮を脱け出すとき、一の緒を切って、歌懐紙に包んで残してきたのを、実兼さま、あなたもごらんになったでしょう」
「見ましたよ。でも、本気で琵琶を思い切るなんて、想像もしなかった。無茶です。ひどすぎる。あんまりななされ方だ」
くやしさに、実兼の声はうわずった。身体中が怒りに慄えた。
「何があんまりなの? 破竹はわたくしのものです。もはや一生涯、撥《ばち》を持つまいと誓願を立てて、日ごろ信仰する石清水の八幡さまに納めたのよ。あなたに恨まれる筋はありませんわ」
「しかし天下の名器ですよ。皇室の宝蔵か、さもなければ琵琶の家として許された我が西園寺家こそが、本来、伝承すべきものだったのに、後深草院のえこひいきから、寵妃のあなたの手に渡ってしまった。だけど、それはまあ我慢します。女ながら二条どのの弾奏の技は卓抜している。名器の持ちぬしにふさわしいと思えばこそ、今まで黙っていたんです」
「では破竹を、あなたに贈ればよかったわけですか?」
「ぜひ、そう願いたかった。破竹への、わたしの執心はご存知のはずなのに、なぜ一言、事前に相談してくださらなかったのです? 八幡宮の神宝となってしまっては、もはや手が届かない。残念です」
花梨木《かりぼく》の、直甲《ひたこう》の琵琶だった。転手《てんじゆ》には紫檀《したん》が使われ、豪華な赤地錦の袋に収めてあった破竹……。ほれぼれするようなその姿と、霊妙な音色が、実兼の耳目によみがえる。
神に供えるといえば聞こえはいいが、結局は弾き手もないまま神社の蔵の中で埃《ほこり》に埋まって、あたら名器が朽ちてゆくのだ。
つくづく惜しいと実兼は思う。その愛惜を、
(欲ばったかた……)
と言わんばかりな冷ややかな表情で、さも軽蔑したように見ている二条が憎い。
もとはといえば、たかが賭け蹴鞠《けまり》の負けわざから端を発した女楽の役不足、席順争いではなかったか。明石ノ上を演じるのが嫌だの、今参りの局の下座に坐るのが不満だのといった愚にもつかぬ理由で人さわがせな家出をしてのけ、あまつさえ、個人の所有に似て所有でない稀代の琵琶を、勝手に処分した二条の浅はかさこそ、軽蔑されてしかるべきなのだ。
気まずい沈黙が流れた。つきあいはじめて七、八年……。実兼がはじめて見せた怒りなのに、二条の側も柔軟な対応をしなかった。蔀《しとみ》をおろし終わった万左女が燭台を運んできたが、灯火から顔をそむけ、身をこわめて、二条はかたくなに口をとざしている。
あやまろうとはしないし、泣きもしない。むしろ実兼以上に彼女は腹を立てているらしく、やがて、
「わかりましたわ」
向き直って言い出したのは、切り口上な難詰であった。
「やはりあなたは、破竹が欲しくてわたしに近づいたのね。それだけのことだったのですね」
「誤解だな。琵琶が目的なら、上皇の目を盗んであなたとの間に子まで儲けるような、回りくどいことはしませんよ。ほかの手段を考えたはずです」
「いいえ、破竹ですわ。わたくしではなく、あなたの愛着の対象は、破竹だった。奉納したと申しあげたら、どうおっしゃるか、あなたの出方にわたくしは賭けたのです。そして、恐れていた通りの答えを得ました」
「なるほど。わたしを試したわけか」
実兼は苦笑した。
「試されるほど価値のある男と、自分を思ってはいませんでしたよ。あなたから見れば御室《おむろ》の法親王や亀山院、近衛の大殿などと同列にしか扱ってもらえない相手ですからな、わたしなど……。ちがいますか?」
「それこそ誤解ですわ。いま名前をあげられたどなたとも、わたくし、何もしていませんのに……」
「美しく生まれついた不幸です。蜂が寄ってくるのは花の罪ではないのに、世間の口は、とかく花のほうをあげつらう。嫉みでしょう。わたしも叔母の女院に言われましたよ。『二条の色香に迷っている卑しい蜂の、そなたも一匹だろう』と……」
いきなり身もだえて、二条は泣きはじめた。それは号泣と称してよい激しい嗚咽《おえつ》のほとばしりだった。
「悪評のみなもとは、みな女院御所です。あることないこと尾ヒレをつけて、東二条院が言い触らしておられるのですわ」
くやしい、くやしいと突っ伏して袖を噛むのを、中将が脇からおろおろなだめる状況では、子供のことなど言い出しても無駄な気がする。引きあげようかと思ったが、せっかく隠れ家をたずねあてながら、それも惜しいと考え直して、
「今日うかがったのは、あなたが生んだあの、姫のことなのです」
二条に、実兼は打ちあけた。
「人に預けて、いままで育ててもらっていたのですけど、重く患ってね。あすをもしれぬありさまになったと、その養い親の所から知らせてきたのですよ」
急に、二条は泣きやんだ。打っ伏していた上半身をむっくり起こし、実兼の顔をくいいるようにみつめた。頬はまだ、濡れていたが、大きく瞠《みは》った双の目は乾いている。泣きだすのが出しぬけなら、泣きやむのも唐突な、ひどく幼なげな仕草であった。
「それで?」
二条は言った。
「わたくしに、どうしろとおっしゃいますの?」
「けっして強制するつもりはありません。ただ、二人の仲に生まれた一粒種の女の子なのでね、いまわのきわに、ひと目逢いたいとおぼしめすなら、ご一緒するつもりでお誘いにまいったのです」
「いま、どこに?」
「じつは兵藤太の私宅にいます。養い親というのが、奈良の興福寺門前で筆屋をいとなむ兵藤太の妹夫婦なのですよ。子がないため、ぜひにと乞われてね。願ってもない縁なので、わたしも喜んで手放しました。以来、掌中の珠さながら慈しんで育てていたのに、病気にかかって……」
「京へは、なぜ?」
「洛中の名医に診せるつもりで、つれてのぼったそうです。しかし、定命《じようみよう》でしょうな、手当ての甲斐もなく、弱りに弱るばかりなので、兵藤太がこっそりわたしに知らせてくれたのでした」
ふらふらと二条は立った。
「お方《かた》さま、おあぶのうございます」
支えようとする中将の手に、すがりついて、
「そなたも同道しておくれ。兵藤太の家へ行きます」
二条は喘《あえ》いだ。
「いらっしゃるなら屋敷へ人をつかわして、ただちに牛車《ぎつしや》の手配をさせましょう」
実兼の言葉を中将がさえぎった。
「粗末なものでよろしければ、車はこの家にもございます。お使いあそばしては?」
「それは好都合だ。家紋など付いた車よりも、そのほうが人目に立たなくてよい。二条どの、では牛を懸けさせるあいだに、出かける用意をなさってください」
万左女や兵藤太に小声で仕度を命じるなど、てきぱき動きはじめた実兼とは逆に、二条はうつろな視線を取りとめなくあたりへ漂わせながら、あいかわらず喘ぐような語気で、
「中将、かみそりを……」
と、つぶやく。
「かみそり? どうなさるおつもりですか?」
「持って行くのです。姫のところへ……」
「そんな物騒なものを何にお使いあそばすやら……。さあ、それよりお召しかえを」
「着物などこのままでよい。かみそりを……」
うつつない口走りを、動顛《どうてん》の余りとだれもが解釈して、耳もかさずに車に乗せた。そして実兼が抱きかかえ、中将が共乗りしてひた走りに、兵藤太の私宅へ急がせたのである。
子供は発熱し、昏睡状態に陥っていた。もう二日も、呼びかけようがゆすぶろうが目を閉じたまま、浅い呼吸をつづけるだけで、水一滴、口にしないという。
日ごろつとめて実兼が問わないようにしているので、兵藤太も子の噂をしなかったが、たった一度、
「それはそれは、ごきりょうよしの姫さまでござりますぞ」
と告げたことがある。その言葉にたがわず童女はととのった、愛らしい目鼻だちをしていた。くらし向きが豊かなのだろう、妹夫婦は身なりがよく、もの腰にも品があり、実兼と二条の訪問にいたく心臆したていで、
「千寿と名をつけました。鶴の齢《よわい》にあやかって長生きしてほしいと願ったのに、大切なお預り子をわずか四ツで死なせるなど、お詫びのしようもござりませぬ。名前負けしたのでしょうか」
と、洟《はな》をすすりあげてばかりいる。
「いや、まだあきらめるのは早い。法力のある験者《げんざ》を差し向けるゆえ、祈らせてみてくれ」
はげます実兼のかたわらから、
「そうですとも。このお子を死なせてなるものですか」
二条がわななき声をふりしぼった。
「わたくしが生かします。わたくしの一念だけでも、かならず生かしてみせます」
言いざま、病児の枕上へにじり寄って、かむろに切り揃えたその額髪《ひたいがみ》を、二条はひと掴み、左手ににぎりしめた。
いつ懐中したのか、右手に光るものを、
(かみそりだッ、持って出たのだッ)
見てとったとたん、
「危いッ、何をするッ」
二条の両腕を、実兼は羽交《はがい》じめにしかけた。一瞬、それより早く、汗にねばった髪はサクッと切り取られて二条の膝に散り、彼女は子供の上へ覆いかぶさった。
なまじ実兼に邪魔されたため手許が狂って、刃先が子の額をかすったのである。
噴き出した血を舐めたのか、顔をあげたとき、乱れ髪の間から覗く二条の唇がまっ赤に染まっているのを目にして、
「あッ」
中将がのけぞった。刃物のきらめきと血の色にびっくりして、気を失ったのだ。
「千寿どのは、仏のお弟子になりました。ご加護があります。お命はきっと助かりますわ」
総立ちのさわぎの中で、当の二条一人がほほえんでいた。大役を果たしたつもりなのだろう。恐ろしいまでに顔色は青ざめ、いささか狂気じみた目の輝きに、まだ幾分、錯乱のなごりをとどめていたが、やってのけた行為にまちがいはなかった。
瀕死の病人を救う最後の手段として、額髪を少し切り、形だけの出家をとげさせるしきたりは、貴族社会にまだ残っていた。二条はそれを思い出し、童女の上にこころみたにすぎない。
百鬼跳梁
二条の熱意が通じたのだろうか、医師も験者もが見放しかけた病児が、やがて奇蹟的な恢復をとげ、
「両親に抱かれて、めでたく奈良へ帰って行きました」
そう、兵藤太《ひようとうだ》から告げられたとき、実兼はわれながら不覚と思えるほど、うれし涙に頬を濡らしてしまった。
「よかった。それは重畳《ちようじよう》だったなあ」
「生みの母君が一心こめて、出家受戒させてくださった功徳《くどく》にちがいないと妹夫婦は喜悦して、これを殿と、二条さまに……」
差し出したのは、舶載の高価な羊毛で製した大小一対の筆である。
「くれるのか?」
「せめてもの、ご恩報じと申しております」
「わるいなあ。こんな心づかいは無用だったのに……」
「店であきなっている品でございます。本来なら子供をつれて、お礼言上にうかがうべきところなれど、それも憚《はばか》り多いので、手前に託して寄こしました。お納めを……」
ありがたく受けた軽い、かぐわしい桐箱の一つを、実兼は二条の隠れ家へ持参したのだが、彼女はもう卯の花の家にはいなかった。前にも一度、身をひそめたことのある醍醐の勝倶胝院《しようくていいん》という小庵に移り、けっくは後深草院にそこも探しあてられて、上皇御所へつれもどされてしまったという。
「もともと本気ではなかったのさ。お上をやきもきさせるつもりでやってのけた失踪だから、つかまらなければどうかしているよ」
と今はもう、半ば馴れっこになっただけに、廷臣どもの口は容赦がない。
(当然だ。いいかげんに見えすいた人さわがせはやめてもらいたいな)
実兼も苦りきりながら御所の局へ、それでも筆の箱をたずさえて二条を訪ねた。
しかし琵琶奉納のさいの言い争いを、まだ根に持っているのか、
「千寿の病いは癒ったそうですよ。これは親たちからの、感謝をこめた贈物です」
珍しい羊毛筆を見せても、二条は手を触れようともしない。あれほど夢中になって抱きしめた子なのに、その軽快の報にすらはかばかしい反応を示さないのを、
(どうしてだろう。どういう性格なのだろうこの女……)
いまさらながら実兼は、いぶからずにいられなかった。たしかに生み落としたとき、
「今日かぎりこの子のことは忘れてくれ」
と言い渡したし、二条との間で子供を話題にしたことはない。彼女の、その後のくらしぶりを見ても、子の存在などきれいさっぱり、記憶から掻き消したように受けとれたのに、危篤と聞いた瞬間、別人さながら病児の枕頭へ走ったのは、衝動的な母性本能に突きあげられ、言い争いの興奮状態を曳きずったまま行動してしまったということだろうか。
いずれにせよ、二条の態度のそっけなさは実兼にとって愉快なものではなかった。破竹を失った無念も、彼の胸底には痼《しこ》りとなってわだかまっていた。これまで通り二条が所持しつづけるならそれでよいのだ。持ち手として恥ずかしくないだけの技倆を、彼女は備えている。
(ふさわしい主《あるじ》に愛蔵されるのだから、破竹も満足しているにちがいない)
淡白に、そう諦めていた実兼である。二条が罵《ののし》って言うように、偽りの恋を仕かけて琵琶を奪い取る機会を狙うつもりなど、もはやみじんもなかった。
ただ、二条の手からも実兼の手からも離れて、破竹ほどの名品が八幡宮の、数ある神宝の一つに納まってしまう無意味さだけは、どうにも我慢なりがたい。
(そこを、わたしは怒ったのに……)
二条は理解しようとしないのだ。子供の病臥をきっかけに、仲なおりできるかと期待もしたのだが、あいかわらず不機嫌さをむき出しにしている。
実兼は居づらくなった。侍女の中将相手にしばらく雑談などしてみたものの、和解のきっかけがつかめぬまま局を辞去し、それっきり三、四年のあいだ、二条との関わりはとだえてしまった。
新しく得た恋に、実兼の気は逸《そ》れかけている。北ノ方の監視、東二条院の妨害もうっとうしくて、つい二条への接近をためらううちに、足はますます遠のいたのである。
もっとも、国事も多難だった。二条との間柄が気まずくなってまもなく、元使が再度、博多に来た。世祖フビライの国書を持参し、日本に降をうながしたのは前回と同じだし、執権北条時宗が鎌倉への護送にも及ばず、博多でこれを斬殺せしめたのも、前と同様であった。
建治元年、竜ノ口で誅された杜世忠らの末路を、フビライは知らない。
「いまなお、不当に抑留されているのだろう」
と信じて、様子をさぐらせるべく第二の宣諭使を派遣してきたのだから、その使節が一度ならず二度まで斬られて、すでに土中に埋まっていると知ったら、どれほど憤激するか想像にかたくない。
「また遠からず、攻め寄せてくるだろう。そしてこんどこそ、戦闘はすさまじいものになるに相違ない」
実兼といえども覚悟しないわけにいかなかったし、そんな非常の時というのに、「親の心、子知らず」の譬《たとえ》通り、ここへきて連年、寺社の強訴《ごうそ》さわぎが都をゆるがせはじめてもいる。
あいまには日照り、水害、疫病の流行、盗賊や火事など天災人災の頻発である。
二条が隠れ家からつれもどされて、後深草上皇のおそばへもどったあと、三ヵ月もたたないうちにその上皇の住まわれる六条御所までが焼亡――。失火とも放火とも、原因は定かでなかった。
寺社の強訴は、王朝以来、ほとんど年中行事のようにおこなわれてきたが、近年では、目立った騒擾《そうじよう》だけをあげても、文永十一年、蒙古軍の最初の来攻があった年、比叡山延暦寺の衆徒どもが日吉山王《ひえさんのう》の神輿《みこし》を振りたてて入京。弘安元年夏にも同じく強訴《ごうそ》さわぎを引き起こしたし、この年は奈良の興福寺衆徒までが朝廟へ提訴に押しかけている。
あくる年の春にはまたまた延暦寺の僧兵らの神輿《みこし》振り、それにつづいては石清水八幡宮の神人《じにん》らの、これも神輿を奉じての入洛があった。
さらに翌・弘安三年には延暦寺が三井寺《みいでら》を武力で攻めて守護配下の兵と合戦に及び、敵方の支院に火を放って引きあげたし、弘安四年には再度、南都興福寺の衆徒が入京……。春日の神木《しんぼく》を振り立てて暴れ廻った。
あくる弘安五年の騒乱はなお、ひどい。一年中、強訴強訴であけくれたのだ。春、三月には石清水の神人が蜂起し、関白藤原兼平邸の門前に群れ集まって喧々囂々《けんけんごうごう》、要求を述べたてたが、そのさわぎがまだ鎮まりもしないうちに次は延暦寺の衆徒が日吉《ひえ》の神輿を先立てて入洛してきた。
それに重なって南都東大寺からも僧兵が大挙、押しかけてきたし、翌年の正月には松も取れぬ六日、またもや延暦寺の衆徒らが日吉神社と祇園八坂《ぎおんやさか》の神輿を振って入京……。禁中にまで乱入して乱暴狼藉のかぎりをつくした。
十年たらずのあいだに起こったおもだった事例だけでも、このありさまである。
いったい彼らは、何を怒って寄せてくるのかといえば、延暦寺の場合、その大部分は三井寺との確執であった。
三井寺は通称――。正しくは園城寺《おんじようじ》という。境内が隣りあっていることもあって、昔からこの園城寺と延暦寺は、犬猿もただならぬいがみ合いをくり返してきた。
たとえば文永十一年の延暦寺衆徒の強訴は、園城寺の長吏をつとめる法親王に、朝廷が高位の叙爵をしたのが、
「けしからん」
という理由から引き起こされたものだし、弘安元年のそれは、
「園城寺での金堂供養が、勅会《ちよくえ》に準じておこなわれたのはけしからん」
という理由に拠る。
俗より俗な猜《そね》み嫉《ねた》みから、神仏をだしに使って意趣をはらそうとするわけで、残りは十のうち九までが寺領や神領にかかわる境目論争のこじれなど、物欲の不満を武力で解決するのが目的であった。
それなら押しかけられる側も、弓矢で排除すればよいのだが、朝廷や院はお飾り同然な衛府《えふ》の兵か、北面の武士以外に武力らしい武力を持たない。財をたくわえ、唸るほど兵員を擁している南都|北嶺《ほくれい》の猛威の前には、手出しなどまったく不可能なのである。
しかも僧徒らには、放氏《ほうし》という奥の手まであった。公家たちは大部分、本姓は藤原氏に属しているから、氏寺は南都の興福寺だ。どんなに僧兵どもの横暴が目に余っても、批判などできないし、もし勇を鼓して抵抗すれば、憎しみを買って氏を削られてしまう。これが放氏である。
姓氏を失うと、ただの庶民と同列になり、貴族の特権までを喪失する。そんなことになってはたまらないから、
「春日《かすが》の神木が入京した」
と聞くや戦々兢々、藤原系の公家たちは衣冠を正して出迎える始末で、どのような理不尽も阻止するどころではない。
平家のように、強力な武族が本拠を京都に置いていたときは、まだ僧兵どもに対して睨みがきいた。しかし源頼朝が大寺大社との抗争を、
「めんどう」
と見、拠点を鎌倉に移してからは、風あたりはもろに朝廷や院、それにもまして非力な洛中の庶民に寄せてきている。
むろん北条政権も、両六波羅からの報告で衆徒らの近来の暴状は承知していたが、正直なところ蒙古対策に追われて、それどころではなかったのである。
禅僧らによってもたらされ、日本国内でもぽつぽつ栽培のこころみがなされはじめはしたものの、まだまだ舶載品に頼らなければ入手しにくく、したがって高価でもある茶の葉を、ほんのわずかながら小壺に詰めて、
「唐物商の芳善斎から求めました。眠けを払う妙薬でございます」
六条御所の炎上後、伏見の離宮に仮り住まいしている後深草院のもとへ持参した日、
「幕府は、征西軍の派遣を考えているらしいじゃないか。本気だろうか」
と西園寺実兼も、上皇に諮問《しもん》された。
「さあ、六波羅役所の者からチラとそのような話を耳にしましたけれど、真偽のほどはわかりかねます」
「根もない虚説かな」
「いや、そうとは言い切れんでしょう。諸国の御家人らに命じて動員できる兵士の数、船や水夫《かこ》、武具の数量などを書き上げさせたそうですからな。守る一方の消極戦法をやめて、攻めの戦略に転じる気かもしれません」
「元は大国というではないか。幕府に勝算はあるのだろうか」
「いや、さしあたっての目標は元ではありますまい。疲弊に乗じて高麗《こうらい》を攻撃し、沿岸の諸地方だけでも手に入れたいというのが、執権時宗らの肚づもりではないでしょうか」
つまりそれほど、恩賞として我が将兵に与える土地を、幕府が欲しがっているということだが、後深草院は溜め息をついて、
「出兵計画でごった返しているさなか、鎌倉へなど出かけたところで、無駄だよなあ」
奇妙なことを言い出したのである。
「え? 鎌倉へくだる? お上《かみ》がですか?」
驚いて、思わず声をつつぬかせた実兼へ、
「ばかを言うな。おれじゃないよ」
後深草院はおかしそうに手を振ってみせた。
「おぬし、冷泉《れいぜい》為家の後家が訴状をひっさげて、はるばる東国へ旅立った話は聞いているだろう?」
「いいえ、何のことですか?」
「知らなかったのか? あの女は若いころ、安嘉門院の御所に仕えて四条と呼ばれていたんだ。宮仕えを辞したあと冷泉為家ののちぞえに迎えられてね、男女二、三人の子の母となったらしい」
「ああ、冷泉家の倅《せがれ》たちなら存じています。長子がたしか、為氏でしたな」
「為氏は先妻腹の嫡男だよ」
「そういえば為家の没後、冷泉家の子息らの間で、遺産争いのごたごたが起きているとの取り沙汰は、耳にしたことがありますよ」
「それだよ。四条は夫に先立たれてから様を変えて法体となり、阿仏尼《あぶつに》と号しているようだが、まだ為家が病床についているうちに、夫の枕もとに詰め切って、『自分の生みの子にぜひ所領を譲ってほしい、遺言状を書いてくれ』と迫ったそうだ」
「なかなかしっかりした母親ですな」
「もっとも所領をすべて、というのではない。播磨《はりま》の、細川の荘といったかな、おそらく領地の中でもみいりのよい広大な荘園なのだろうけど、為氏にすれば面白くないわな。父親が亡くなってからは総領風を吹かせて、遺領ことごとくを押し取ってしまったという」
冷泉家は藤原氏の門葉に属する和歌の家である。為家の父の藤原定家は、鎌倉の三代将軍源実朝に師と仰がれた新古今集の選者だし、祖父の俊成も千載《せんざい》集の選にあずかった名だたる歌人だから、なまぐさい相続争いなど似つかわしくはない。
でも、阿仏尼にとっては愛児の浮沈にかかわる一大事である。亡夫の遺言状を楯に、継子《ままこ》為氏の横領を責めたてた。
しかし為氏側に言わせると、そもそも遺言状の信憑性《しんぴようせい》からして、
「疑わしい」
ということになる。
「卒中で倒れて理非の分別がつかなくなった重篤の父に、むりやり筆を握らせて書かせた遺言状など、証拠にはならん。病臥する前、父ははっきり細川の荘をわたしに譲ると仰せられた。そのお言葉こそ正しい」
阿仏尼は事の顛末《てんまつ》を朝廷に訴え幕府に訴えたが、埒《らち》があかない。やむなくまだ幼い生みの子らに代わって、自身、鎌倉行きを決意したのだそうだ。
「女の身で、幾百里もの道中はさぞ、こたえたろう。執権の膝もとに着いて、もうかれこれ、二年にもなるのに、合戦準備にかまけて一向に裁きをつけてくれないらしいよ」
後深草院は、そう実兼に語ったのである。
冷泉為家の後家が、我が子かわいさの一念から旅寝の苦労に耐え、やっと鎌倉にくだったにもかかわらず、訴状を受理されたきり音沙汰なく、裁決の言いわたしを待ち望んで、いたずらに長期滞在を余儀なくされているとの後深草院のものがたりは、
「いかに今、幕府が多忙をきわめているか」
その事実を、改めて実兼に痛感させた。
征西計画は、さすがに具体化するに至っていないようだが、北九州沿岸の石垣築造工事はたゆみなく続けられており、幕閣の要路らにとって、対・蒙古政策こそが最優先課題にちがいなかった。
一荘園をめぐっての、実子と継子の相続争いなど、このさい、
「捨ておけ」
となるのはやむをえないし、大寺大社の強訴さわぎも、近隣の守護地頭、両六波羅の兵員に命じてそのつど控え目に対処させるのが関の山だった。深入りし、騒乱をさらに拡大する愚を避けたかったのである。
まして民衆は、とっくに僧徒らを見かぎっていた。
「ありゃ人ではない。人の皮かぶった鬼じゃ」
とまで蔑《さげす》んで、はばからない。
我意我欲をつらぬくため神威仏力を利用し、
「それ、日吉山王が渡御《とぎよ》なさるぞ」
「春日神木のお通りだぞ」
怒号しつつ都大路《みやこおおじ》をのし歩きながら、要求を拒否されると、腹いせに道のまん中、皇居の正門、権家の門前などに神仏が憑依《ひようい》しているはずの神輿や神木を、芥《あくた》さながらほうり出して引きあげてしまう。
「さわるなよ、おのれら……。汚れたその手で触れたりすると、立ちどころに神罰をこうむるからな。覚悟せいよ」
捨てぜりふの脅しを、本気にはしないまでも、文字通り「さわらぬ神に祟《たた》りなし」と思うから、進んで片づけようとする者はいない。車馬の往来は妨げられ、人はわざわざ遠路を迂回する。門の開閉もできなくなる。さんざん迷惑したあげく、けっくは官が折れて、僧徒側の言うなりになるのであった。
白昼堂々、横行し跳梁するおぞましい鬼の群れ……。人々はもはや彼らに、仏者の慈悲や忍辱《にんにく》を求めようとはしなかった。求めても無駄なのを知っていたのだ。
法然が開き親鸞にうけつがれた念仏門、辻々に立って日蓮が獅子吼《ししく》する法華の教え、道元が提唱した曹洞《そうとう》禅……。争って民衆は祖師たちの声に耳をかたむけ、その愛の深さに信頼を寄せた。
末法《まつぽう》の世の開幕におびえ、それを裏書きするかのように引き起こされた源平二大武族による全国的規模の動乱によって、栄華のはかなさ、覇者の興亡のただならなさをまのあたりにした民衆の、無常観、絶望感にぬりつぶされた心に、ひと筋の光を与えたのが、法然ら新仏教の祖師たちだったのである。
造像起塔を否定し、僧位僧官を求めず、紫衣|金襴《きんらん》の袈裟衣《けさころも》とも一生涯、無縁に生きて、ひたすらただ、よるべなく貧しく、日々のくらしの苦しさにさいなまれている人々の、魂の救済にのみ祖師たちは没頭した。
身にまとうのは破れ衣、円頂にいただくのは破れ笠……。素足に草鞋《わらじ》をつけただけの姿は、釈尊の精神を真に具現して、かえって赫奕《かくやく》たる光明《こうみよう》を放った。
大伽藍を持ちもしない。雨露をしのぐ茅葺きの草堂が、説法の場、修行の道場であった。
ここ五、六十年のあいだに、しかし祖師たちはつぎつぎに入寂《にゆうじやく》して、残るのは甲斐《かい》身延《みのぶ》の山中に老躯をやしなう日蓮のみと、西園寺実兼は聞いている。
「淋しいことだ。いよいよ正真正銘、末法の世が訪れたというわけか」
そんなある日、彼は知人を訪ねての帰り道に、五条|烏丸《からすま》の因幡堂の脇を通りかかって、
「なんだ? あの人だかりは……」
車をとめさせた。
この御堂の本尊薬師如来は、医療や高僧の加持にあずかれない貧民たちが、病気にかかったさい唯一の頼み手として祈りすがる仏なので、ふだんから参詣人が引きも切らない。
今日はなぜかその数が、ことに多く、路上にまで溢れ出して、みな一心に手を合わせているのだ。
よく聞くと、ひとり朗々と、頌《しよう》のごときものを誦する声がする。
「十劫《じゆうごう》に正覚《しようがく》し給えるは、衆生界《しゆじようかい》のためなり」
それに合わせて群集がいっせいに、
「南無阿弥陀仏、なむあみだ」
と、となえる。
「一念をもって往生す、弥陀の国」
南無阿弥陀仏、なむあみだ。
「十と一は不二にして、無生《むしよう》を証《しよう》し」
南無阿弥陀仏、なむあみだ。
「国と界は平等にして、大会《だいえ》に坐す」
南無阿弥陀仏、なむあみだ。
「むずかしいことを言ってるな兵藤太、おぬしにわかるか?」
今日も車副《くるまぞい》に引き添って供をしている郎従に、実兼は笑いながら問いかけた。
「はて、手前にはちんぷんかんぷんです」
「劫は、時の長さだ。十劫もの遥かいにしえ、弥陀はあまねく衆生を救わんとの誓願を立てて正覚を得たもうた。一方、われら衆生も一念を凝らして、弥陀の国に往生せんと願っている」
「なるほど」
「その十劫と一念とは、二つのものにあらず。一体をなしていて、間をへだてる境界もない。われわれは弥陀の誓いの前には平等だし、ありがたい法会の座にすでにつらなっている。ただ、それを自覚していないだけだと、あの頌は教えているのさ」
「ははあ、わかるような、わからんような……」
「とにかく行って、様子を見とどけてこい」
妙好華
境内の土にじかに坐りこんでいる老若男女を、兵藤太はかき分けかき分け御堂に近づいたが、待つまもなく大汗になってもどって来た。そして、
「一遍ですよ殿、いつぞや石清水八幡で見かけたあの乞食坊主が、人垣の中心にいます」
実兼の車に向かって告げた。
「やっぱりな。どうも聞きおぼえのある声だと思ったよ」
物見《ものみ》の引き戸をあけて人々の頭越しに、実兼は御堂の方角へ目をやった。中は暗く、一遍の姿はしかし、さだかでなかった。
「わたしは声だけでは気づきませんでした。でも骨ばった頑丈そうな痩躯《そうく》、するどい、そのくせふしぎに温かなまなざしで、思い出したのです。頌《しよう》をとなえているのは一遍にちがいありません」
「八幡社頭では鴉《からす》みたいな、黒々とした集団をひきいていたじゃないか」
「いや、あれは旅の途上、いつとはなしに同行した道づれにすぎぬ、八幡に奉施の念仏を捧げたあと、ちりぢりに別れてしまうと、たしか申していたはずです」
「そうだ。そう言っていたな。最後に残ったのは法弟らしい若い僧一人だけだった」
「今日は七、八人、随従者と見える坊主が侍坐しています。弟子がふえたらしいですよ」
「二条に知らせてやろう」
「ばかにあのとき熱心に、一遍と問答を交わしておられましたからな。入洛し、五条烏丸の因幡堂で説教していると聞いたら、きっとよろこんで聴聞にこられるでしょう」
「どうかなあ。気のむらな、取りとめのない性格だからなあ。あのときかぎりの信心|渇仰《かつごう》で、今はもう、けろりと忘れてしまったかもしれないぞ」
それでも帰邸後、手紙を書き、実兼は二条のもとへとどけさせた。
使いに立ったのは牛飼いの少年だが、折り返し持ってもどった二条からの返事は、
「ぞんじております」
という、いささか実兼の意表を突いたものだった。
「一遍さまはもうひと月も前に入京あそばし、都内をあちこち巡錫《じゆんしやく》されたあげく、因幡の薬師に詣でて一夜の宿を乞われました。でもお身なりが貧しいため、堂守にことわられ、やむなく法弟ともども御堂の縁の下でやすまれたそうです」
ところがその晩、邪慳な堂守の夢枕に本尊の薬師|如来《によらい》が立ち現れ、
「わたしの客人を、なぜ泊めてやらぬ」
お叱りになったのに仰天して、さっそく一行を堂内に招じ入れ、以来、手厚くもてなしているのだと、二条は返信に記してきている。
「やれやれ、少し見どころのある坊主だと思ったのに、もう下らないご利生譚《りしようたん》が、垢みたいにくっついたわけか」
実兼は失望し、先を読むのが嫌になった。
でも、ひさびさに手にする二条からの文《ふみ》だ。女にしてはやや線の固い才気走った筆の跡を、つい、なつかしさに、実兼の視線は追いつづけた。
それによると、一遍は伊予の名族河野氏の一門に生まれ、母の死、父の出家に伴って彼みずからも浄土宗西山派の聖達《しようたつ》のもとに弟子入りしたのだという。年、十三――。
しかし事情があって二十五歳のとき、故郷へもどり、還俗し、家督を継いだ。武士にもどったのである。
「やはりそうか」
実兼はうなずいた。錬えあげた体躯、炯々《けいけい》たる眼光を、
(僧より、武者のつらだましい……)
と見たのも、一遍の来歴からすれば当然だったのだ。
妻をめとり、子を儲けもしたけれど、在俗生活の不条理、欺瞞《ぎまん》、煩わしさ虚《むな》しさを痛感し、再出家に踏み切って、ふたたび家郷を捨てたのは、すでに心に仏種が蒔かれ、萌芽が育ちはじめていた証《あかし》だろうか。このとき一遍、三十二――。
真実を求めての、若い蛇さながら新鮮な脱皮だが、別れた師聖達の膝下を目ざして一路、九州の大宰府へくだった一遍のあとに、頬の赤い少年僧が従った。まだ十歳にしかならない一遍の弟、聖戒である。兄の遁世にならってこの弟もまた、出離をとげたのであった。
「わたくしどもが男山の石清水八幡ではじめてお目にかかったさい、ただ一人、一遍さまのおそばに侍していた年少のご出家……。今にして思えば、あれが聖戒さまでした」
二条の手紙で、
(言われてみると師弟のおもざしに、どこか似かよったところがあったな)
実兼も記憶をよみがえらせた。
「あの日、一遍さまは『これからどちらへ?』と伺ったわたくしに『伊予の、菅生《すごう》の岩屋にこもって、修行します』と仰せでした。そして、このときの冥想と苦行の結果、一遍さまが得られたのは『いっさいを捨て切る』ということだったそうでございます」
禅の言葉に、
「放てば、手に満つ」
とある。
すでに家を捨て名利を捨て財を捨て、愛する妻子|眷族《けんぞく》をすら捨てて、身ひとつを岩窟に置くにすぎない一遍ではあるけれど、花を見ればその美に執し、木の実を口にすればその味わいに執し、罵《ののし》られれば怒りに執し、打たれれば苦痛に執して、心の安らぎはともすると掻き乱される。
放ち切ってこそ、手に満つる真の充足感……。捨てて捨てて、捨て切った心身の軽さ、爽かさの中でこそ、はじめて知覚できるにちがいない弥陀の存在……。でも、どうしたら放てるか。捨て切ることができるのだろうか。
「一遍さまは、捨て切ることを、我が身に課した一生の行《ぎよう》と決意して、それを保ちつづける手段に、旅を選ばれました」
そう、二条は手紙に書いてきていた。
「念仏門では『たとえ一所に住していても、遁世者はつねにつねに、漂泊の思いの中で生きなければならぬ』と教えているそうでございます。水のように、雲のように、生涯を流れ流れる行の内に、かならずや真の充実を自覚しうると信念し、菅生の岩屋を出た一遍さまが、おのれを支える杖として、暗夜を照らす灯火として、不断に唱えつづけておられるのが六字の名号《みようごう》――念仏でございます」
菅生から摂津《せつつ》の天王《てんのう》寺へ、天王寺から高野《こうや》へ、高野山から紀州の熊野へと巡歴した一遍が、やがて京を目ざし、五条烏丸の因幡堂に入ったのを、二条は雑仕女《ぞうしめ》の万左女に知らされて知ったのだという。
「なにやら尊げな聖《ひじり》の坊が、薬師に詣でる老若男女に、このようなお札《ふだ》を授けてくれておりますよ」
と万左女が二条に見せたのは、南無阿弥陀仏の名号を印板に刻んで紙に押したもので、下に小さく、決定《けつじよう》往生六十万人とも彫られている。
「どんな聖さまなの?」
様子を聞くと、どうやら一遍のように思える。そこで侍女の中将をつれてさっそく因幡堂へ出かけてみた。
「案にたがわず一遍さまでした。お目通りしたところ、わたくしのことをおぼえていてくださって、『おお、八幡社頭におられたお女中、お子は達者にお育ちか』とお尋ねでした。あのとき臨月だったわたくし……。被衣《かつぎ》でさえ隠しきれなかった身重な身体を、気にかけての問いかけと思うと、悲しさにせきあげられて『つい先ごろ重い病気にかかりましたが、さいわい治癒し、今は元気にすごしております。もっとも、よんどころない事情から人手に渡し、わたくしのそばにはおりませぬ』と懺悔《ざんげ》しましたら、わたくしにもお札をくだされ、『信ぜずともよい。肌身につけて持っておられよ』と仰せでした。すなわち、これがその一枚……。わたくしはまた、頂いてまいりますゆえ、これは実兼さま、あなたさまに進上申します」
と書かれた奥から、なるほど、ハラリとひとひらの紙片が落ちた。二条の説明によれば、決定往生六十万人の発願は、一遍の作ったつぎの頌《しよう》に来するという。
六字の名号《みようごう》は一遍の法
十界の依正は一遍の体
万行念を離るるは一遍の証
人中、上々の妙好華《みようこうげ》
句頭の文字を右から左へ読むと六十万人……。諸国をめぐって、それだけの民衆に結縁《けちえん》し、彼岸に導こうと誓ったのだそうだ。
二条から贈られた『決定往生六十万人』の札を、実兼は手筥《てばこ》に納めた。
「信ぜずともよい。持っていなされ」
札を授けてくれるさい、一遍は二条にそう言ったという。
ぜひ信ぜよと強制されたら、おそらくは一顧もせず破いてしまったにちがいない紙きれだが、信じなくてもよいと淡白に言われると、かえってむげには捨てかねた。
「万行、念を離るるは一遍の証、人中、上々の妙好華……」
頌《しよう》の、終りの一節を、実兼は口に出しておりおり誦《ず》してもみる。
「妙好華とは、どんな華だろう」
摩訶曼陀羅華《まかまんだらげ》、あるいは摩訶|曼珠沙華《まんじゆしやげ》のように、経典にしるされている想像上の天華かもしれない。
もっとも曼珠沙華は、土手や田の畦などに群れ咲く彼岸花の異称ともなっている。妙好華も天華の一つではあろうけれど、案外、現実に目にすることも可能な花なのではないか。
「だれか、その方面に詳しい者がいたら尋ねてみよう。さしずめ僧侶かな」
それとなく物色していたやさき、宮中で御斎会《ごさいえ》が催され、僧徒らによる最勝王《さいしようおう》経の転読があった。
後宇多天皇の御衣《おんぞ》を実際の玉体に見立てて息災延命の祈祷を修するわけで、奉仕したのは御室《おむろ》の門跡――。天皇には叔父、後深草、亀山両上皇には腹ちがいの弟にあたるあの、性助《しようじよ》法親王である。
美僧と評判されてはいるが、支柱をはずされたらひとたまりもなく倒れてしまいそうな、弱々しい蔓草《つるくさ》みたいな若者だから、二条の否定が真実ならば、いま人の噂にのぼっている彼女相手の恋愛沙汰は、もっぱら性助の側だけの片想いかもしれなかった。
法会の終了後、座を常御殿に移して精進の料理を肴に、ねぎらいの酒が供された。両上皇が、腹中はどうあれうわべだけはむつまじく、お揃いで酒宴に臨んだのは、どうやら門跡に扈従《こじゆう》して来た文珠《もんじゆ》丸という稚児《ちご》に興味をそそられたためらしい。
陪席した実兼さえ、
(天人が、天《あま》くだったか!?)
一瞬、目を疑ったほど眉目《びもく》すずしい少年ではあるけれど、呼吸はおろか、まばたきすらめったにしない表情の乏しさが作り物じみて、等身大の人形を据えたように見える。
この方面に趣味のない実兼には、うす気味わるいだけだから、文珠丸の歓心を買うべくおたがい同士、露骨な牽制のし合いをはじめた両上皇を、
(あいかわらず箸まめでいらっしゃる)
内心、嗤《わら》いながら眺めていた。人形顔の稚児|喝食《かつしき》などより妙好華のほうが気になるので、
「おうかがいしたいことがございます」
性助法親王のそばへ実兼はにじり寄った。
近づいただけのことにひどく怯《おび》えて、性助が逃げ腰になったのは、実兼を二条の愛人と知っているからだろう。
そういえば兄の後深草院に対しても、性助法親王は終始おどおどし通していた。もともと気弱な生まれなのではあろうけれど、さらにその上に、二条に恋着しているといううしろめたさが加わって、性助をいっそうおじけづかせているようだ。後深草院の視線を避けてばかりいるし、話しかけられてもはきはき返事すらできない。
同様、兄の寵妃に懸想《けそう》していながら、
(それがどうした。好いてしまったものは仕方がないではないか)
と言わんばかりな、傲然たる態度をとりつづけている亀山上皇とは、天地の違いである。
僧籍に在る身――それも門跡、法親王の高位に在る身で、女人への煩悩に灼かれることじたい、性助は恥じているのではあるまいか。
女犯《によぼん》はきびしく禁じられ、破戒すれば糾弾をまぬがれない。しかし同性相手の愛の交換は大目に見られていたから、塔頭《たつちゆう》支院をおびただしく擁する大寺院はもとより、貧僧一人の草庵まで稚児や喝食《かつしき》の名目で給仕の少年を置かないところはなかった。
すべてが性の道具というわけではない。たてまえからすれば稚児も喝食も、いずれは得度《とくど》する出家予備軍である。仏弟子をもてあそぶなど、本来、もってのほかなはずなのに、少し渋皮のむけた少年で夜伽《よとぎ》の務めを逃れる者はまれだった。
性助法親王と文珠丸の仲がどのようなものか、実兼は知らない。ただ、並べて二人を観察した結果は、単に身の回りの世話をさせるだけの師弟関係としか受けとめられなかった。性助の妄念は、ひたすら二条一人に向けられているように見える。
久我邸に近い四ツ辻の暗がりに、ひっそり停まっていた八葉の車の主《ぬし》が、もし性助だったとしたら彼らの馴れそめはずいぶん古い。おそらくそのころ一時、激しく燃え上りながら、二条が上皇御所へもどってしまったため仲が絶えて、いままた旧に倍する思いの種となったのではないか。
実兼のような公卿ならば、二条の身柄が御所に移ろうと離宮に移ろうと、院参《いんざん》すれば会える。夜陰に乗じて局へ忍んで行くこともたやすいが、御室の法親王では仏会《ぶつえ》に招かれでもしないかぎり院中へ顔を出す機会がない。
(なまじひと口味わった禁断の木の実……。それが忘れられず、つのる苦しさが色に出て世間の評判になったのかもしれぬ)
何にせよ、そばへ寄ってこられただけでひるみを見せる法親王が、実兼はきのどくになった。
わたしにまで気がねなさるには及びませんと、安心させてやりたいが、そうあけすけにも言えないので、
「妙好華とは、どんな花なのでしょうか」
つとめて明るく問いかけてみた。
二条の件で、何か当てこすられるか、皮肉の一つも言われるかと恐れたのに、こだわりのない笑顔で実兼が妙好華のことを尋ねたのが、よほどうれしかったのだろう、
「ああ、それはたしか、白蓮《びやくれん》の花ではないでしょうか」
ほっとした表情で性助は答えた。
「白い蓮《はちす》ですか。なるほど」
「経典には芬陀利華《ふんだりげ》とも書かれています。観無量寿《かんむりようじゆ》経だったと思います。妙好華はその異称でございます」
「さすがは仏者。立ちどころにご教示いただけるとは、ありがたいことです。じつは今、一遍という乞食坊主が五条烏丸の因幡堂で、参詣の貴賤にこんなものを配っていましてね」
『決定往生六十万人』の札を出して、実兼は性助に見せた。
「終りの二行に、万行、念を離るるは一遍の証、人中、上々の妙好華とあるでしょう」
「はい」
「この句の意味も、ついでに教えていただけますか?」
ほくろ一つない薄皮肌の、男にしては青白すぎる性助の頬に、うっすら血の色が透《す》いた。少女めいた含羞《がんしゆう》とためらいがちな口ぶりに自信のなさを滲《にじ》ませながら、
「むずかしくて、よくわかりませんけど、一遍というのはその僧の名でしょうか?」
反問してくる。
「本当は智真とかいうのです。でも日ごろ、『ただの一遍でもよい、真剣に念仏すれば、弥陀はかならず嘉納ましまし、救済のおん手をさしのべてくださる』と説いて廻っているため、いつとはなく一遍がその呼び名となったらしいのですよ」
「その通りです。『一返の称名、法界に遍ず』と経文にもございます。心をこめて唱えた称名は、たとえ一返でも十方法界に遍満するほどの力を持つと説かれておりますから、『そのような念仏者が万行すべてに執着を捨てれば、千人万人の人中《にんちゆう》にあって、それをぬきん出た上々の白蓮華ともなりうるだろう』というわけでしょう」
「ありがたい。おかげで呑みこめました」
この札は二条に貰ったものです、彼女は一遍にえらく心酔して、因幡堂に日参しているようですよと言ったら、性助がどんな反応を示すか。そのどぎまぎぶりを見てみたい悪戯《いたずら》ごころもきざさなくはなかったが、実兼は思いとどまって札を懐中にしまった。
後深草院と亀山院は、文珠丸を中に挟んで話しかけたり禄物《ろくもつ》を与えたり、まだ、こもごも機嫌取りに余念がない。そんな兄君らの多情さに較べると、二条への、性助法親王の思い詰め方が痛痛しいまでに純な、まじめなものに思えてくる。
(やっと本気で愛してくれる相手に、ぶつかったということだろうか)
二条のために、実兼は祝盃をあげたくなった。
弘安役
元の軍船が対馬《つしま》の沖に姿をあらわしたのは、弘安四年五月二十一日の明け方であった。恐れていた二度目の来攻が現実となったのである。
もっとも、このとき対馬に上陸し、島内を荒らし回って去ったのは、厳密には元兵ではなく、その一翼を担う東路軍――つまり高麗の兵士四万を乗せた九百余艘の船団だった。
これまで面従腹背の態度をとりつづけてきた高麗は、忠烈王《ちゆうれつおう》の代に至って方針をがらりと変えた。
「すでに属国としての運命が決まった以上、むだな抵抗はやめ、進んで元に協力しよう。そして国力の回復につとめ、高麗王朝の繁栄をとりもどそう」
そう決意した忠烈王は、まず政略結婚によって元王室との一体化をはかった。世祖フビライの息女の一人を、后《きさき》に迎えたばかりか、強制されもしないのに胡服を着、髪型を辮髪《べんぱつ》にした。宮廷の諸儀式、礼儀作法にまでモンゴルの風俗をとりいれ、言葉にも元語の多用を奨励するといった積極策に転じたのである。
その忠烈王が、したしく閲兵台に立って送り出した東路軍四万の軍隊だが、迎え討つ日本勢も二度目となればあわてなかった。
「毒矢だの震天雷だの、ぶっそうな武器をあやつるやつらだからな。我が方も従来の兵法では勝ち目はおぼつかないぞ」
弱音を吐く者もないことはない。しかし大方《おおかた》の将兵は、文永役の行賞をきちんとおこなった幕府を信用し、
「戦場稼ぎの、またとない好機だ。あっぱれ手柄を立てて、ご加恩にあずかろう」
と九州各地から、きそって箱崎博多の海浜に馳せ集まって来た。
文永役のさいは不意打ちにもひとしい元軍の襲来だったから、北九州の守護や御家人に戦闘を委せざるをえなかった幕府も、今回は昼夜兼行、東国から安達《あだち》盛宗を現地へ派遣してきた。いわば将軍麾下の名族が軍勢をひきいて到着したのであった。
それだけ幕府が、本腰を入れて戦いに臨んだ証拠であり、前もって筑後、肥前、肥後、本州では九州に近い周防《すおう》や長門《ながと》、石見《いわみ》、伯耆《ほうき》などの守護職を北条氏の一門、あるいはその縁故者と入れかえて、防衛力の強化をはかってもいる。
九州勢にすれば、安達盛宗の来陣によって、
「おくれを取るな、東国の兵どもに……」
競争心を煽られたし、また同時に、
「安達どのは軍監、目付――。われらの働きぶりを、しっかり見ていてくださるだろう」
と、後日の行賞に、公平な査定を期待する望みも持てたのだが、このまにも敵は壱岐、対馬を蹂躪《じゆうりん》……。博多とは地つづきの、志賀島《しかのしま》にまで肉迫して来た。激突のときが近づいたのである。
日本勢はなかなか果敢に戦った。機先を制して夜襲を計画……。小舟で敵船に漕ぎ寄せて思うぞんぶん斬って回り、あげく、火を放って引きあげる剛の者もいた。
もっとも、相手もやられっぱなしではない。船と船をつなぎ合わせ、不寝番の兵に海上を見張らせて、近づく日本軍の小舟を片はしから石弓で撃沈したから、彼我の痛手は五分五分といえた。
「ええい、じれったい。小ぜり合いはもう、たくさんだ」
元軍はあせって、ついに志賀島に上陸して来た。海の中道と呼ばれる砂洲で島と本土は結ばれているから、陸路を伝って箱崎方面へ殺到してくる前に、日本勢は敵をくいとめなければならない。
大友貞親とその手兵がまっ先かけて馳せ向かい、安達盛宗ひきいる東国勢も遅れじとこれにつづいた。
文永役では、まっすぐ箱崎博多を目ざして押し寄せた元軍が、こんどはそれをせず志賀島へ回ったのは、海岸線を囲う石塁にはばまれたためである。石積み工事に汗を流した甲斐は、やはりあったわけだ。
いったん志賀島に兵を上陸させながら、日本軍の手強《てごわ》い防ぎに遇《あ》って元軍はふたたび船へ引きあげ、なぜかじりじり肥前の鷹島辺にまで退いてしまった。
「おかしいな。なぜ後退したんだろ」
「一気に攻め込んでくればいいのに……。中だるみすると戦意をそがれるよなあ」
腕を撫《ぶ》して日本兵は苛《いら》立ったが、同様の不審は、西園寺実兼も抱いた。
元軍来攻の急報は、すでに京都にも届いてい、朝廷では例によって大寺大社に奉幣使が立てられて敵国降伏の修法がはじまっていた。戦況の推移には、公家たちも無関心ではいられなかったのだ。
「芳善斎へ人をやって、主人の松若を呼べ」
家司に、実兼は命じた。
両六波羅が入手する情報にもまして、博多の出店から洛中の本店へもたらされる報告は早い。より詳細でもあるのを実兼は知っていたからであった。
ところが使いにやった雑色《ぞうしき》がまもなく帰邸して、松若はいま、よんどころない用事で鎌倉へ出かけ、留守だという。
「手代でよろしければ、代わりに即刻、参上すると申しているそうでございます」
家司にそう、告げられて、
「北九州の状況を把握している者なら、だれでもかまわんよ」
実兼はうなずいた。そして、さっそくやって来た手代に、
「元軍はいったん志賀島とやらに上陸までしながら、はかばかしく戦わずに肥前の沖へ引き退いたと申すではないか。なぜだろう。おぬしらの推量を聞かせてくれぬか」
たずねた。
「仰せの通り、はるばる波濤をしのいで目ざす敵国にたどりつきながら、思い切って攻撃をしかけてこないのは解《げ》せませぬ」
実直そうな中年の手代は、実兼の疑問にまず、同調して言った。
「わたくしどもも、奇態《きたい》なことだと首をかしげていたのですが、博多の店の者の聞き込みによれば、どうやら元軍の船内に悪い病いがはやり出したらしゅうございますな」
「疫病《えきびよう》の発生か?」
実兼は膝を叩いた。たちまち納得がいったのだ。時は六月。炎暑のまっさかりである。対馬に敵影を見た日から逆算すれば、彼らは五月初めに故国を進発したことになる。
「しかもすぐには日本へ向かわず、しばらく巨済島と申すところに碇《いかり》をおろしておったとやら……。ですから五月六月、炎暑のさなかをほぼ二ヵ月にも亘《わた》って、何万という兵士や水夫《かこ》が船上ぐらしをつづけてきたわけでございます」
「こりゃあ、病気が出るだろうなあ」
「野菜は不足する、真水もふんだんには使えぬ、となれば、不潔はまぬがれませぬ。吐瀉発熱、腹痛を訴える将兵が続出し、はやり病いの様相を呈しはじめては士気も萎《な》えます。やむなくひとまず、肥前の沖に退いたというのが、真相ではござりますまいか」
「旗を巻いて帰国すればいいのになあ」
「それはできませぬよ殿さま、友軍の到着を待たずに勝手に引きあげたりすれば、高麗国王は元の皇帝から、どんな大目玉をくらうかわかりませぬ」
「ちょっと待て。それはどういう意味だ?」
思わず発した大声を、すばやく聞き取ったのだろう、隣室に置いてある籠の鸚鵡が、
「チョットマテ、チョットマテ、チョットマテ」
と、けたたましくわめきだしたのだ。ここがこの鸚鵡の玄妙不可思議なところで、常識通りなら根気よくくり返し教えなければ喋れないはずの人語を、聞くとすぐさま口にする。もしかしたら芳善斎が入手する前に、この鸚鵡の飼い主だった日本人が、おびただしい日本語の語彙や今様までを、すでに念入りに教え込んで置いたのではないか。鸚鵡はその記憶を小出しに披露しているのではないか。そうとでも考えなければ、辻つまの合わない化けものじみた鳥なのである。
「はじめおった。大事な話の最中というと、いきなり横槍を入れて邪魔をするんだ」
うんざり顔で実兼が立って行き、
「うるさいッ、黙れッ。言うことをきかんと塗りごめに閉じ込めるぞッ」
一喝するととたんに口を閉じ、そらとぼけて横を向く。丸い目をパチパチしばたたくつら憎さ、愛らしさに、つい笑ってしまうのだが、今日の実兼はそれどころではない。
「友軍とは何なのだ、え? いま攻めてきている敵以外に、まだ新手が来るというのか?」
詰め寄らんばかり、手代に問いただした。
「そうですとも殿さま、疫病に悩まされている兵数四万、軍船九百艘の東路軍は、高麗人を主とする混成軍で、主力の蒙古勢は別途、日本へ向かいつつありますよ」
こともなげな手代の言葉に、
「一大事じゃないか。この上さらに加勢までついては……」
胴慄えが、実兼はとまらなくなった。
「さようで……」
と手代は落ちつき払って、
「主力は江南軍と申しまして、その数ざっと十万余、兵船三千五百艘と聞いております」
すらすら、数字まで挙げながら説明する。
「手前どもが取り引き相手にしている交易船は、明州の慶元という港で荷の積みおろしをいたしますけど、いやもう、ことしの春から夏の初めにかけては、港内はもとより港の外までびっしり江南軍の兵船が埋めて、入るも出るもならぬありさま……。その偉容は、筆にも言葉にもつくしがたかったと申します」
「うう」
実兼は呻《うめ》いた。恐怖のためとは思いたくないけれど、なぜか舌が吊《つ》れて声が出にくい。
「風説によれば、五月初旬に東路軍が合浦《がつぽ》を立ち、これに合わせて江南軍も慶元を出港……。日本の壱岐に近い洋上で一手になるはずだったのに、江南軍の出立が遅れました。そのわけは蒙古人の総大将アラカンとやらが卒中を起こして倒れたためで、彼は常人の三倍も肥っていたというのです」
「うう」
「手前もね、ですからつねづね、うちの旦那に申しあげるんですよ。『肥満はいけません、卒中のもとですから、いま少し酒や食いものの量をお減らしなさいませ』とね」
「松若のことなんぞ、どうでもいい」
かろうじて、実兼は咽喉《のど》から声を絞り出した。
「で、どうなったのだ。アラカンのあとは……」
「ただちに別の将軍が主将の任につき、いま船団をつらねて日本本土を目ざしつつあるということでござります。東路軍も主力部隊の到着までには疫病を封じ込めて陣容を立て直し、両軍、合流して攻めかかってくるはず……。これからが合戦のやまばとなりましょう。ゆめゆめご油断なされますな」
おどかされても、飾り太刀すら満足に振り回せぬ公卿の身では、神だのみ仏だのみのほか、なすすべがない。南都北嶺の僧徒らが威張り返るのも当然なのである。
「松若は鎌倉へなど、何しに行ったのだ?」
「商用でございます」
「九州へ飛ぶかと思えば東国か。儲け口となると西へ東へ、小まめに走り回るなあ」
「ふところ手していても領所から貢米の届く殿さまがたとは違います。手前どもは足で稼がにゃ口が干《ひ》あがるわけでして……」
松若仕込みの嫌味を並べて手代が帰って行ったあと、邸内には意気消沈した実兼がただ一人、とり残された。
実兼の危惧は、しかし二ヵ月のちにはあとかたなく解消した。幸運としか言いようのない偶然が二度かさなり、元軍の船団ほとんどが潰滅状態に陥ったのだ。
暴風雨である。前回の文永役のときもそうだが、晩夏から晩秋初冬にかけて日本の上空へやってくる台風に関して、あまりといえば元軍は無知だった。まるで多発する季節をわざわざ選びでもしたように日本近海へ寄せて来るのだから、被害に遭わなければどうかしている。
こんどの来攻でも、江南軍と東路軍が合流した時点で決戦を挑《いど》めば、台風は回避できたのに、なぜか一ヵ月もぐずぐずと平戸、鷹島辺の洋上に停泊しつづけ、あげくのはてに台風にやられてしまったのだから、同じ石で二度ころぶ愚を演じたことになる。
文永役の経験で、日本勢は元軍の新兵器や集団戦の駆け引きの、恐るべきを知った。同時に元の将兵も、日本側の守りの固さ、戦いぶりの勇敢さを、
「あなどるべからず」
と認識した。
したがって弘安四年の今回は、むやみに上陸しようとはしなかった。世祖フビライも江南軍の出陣に先立ち、主将らに訓戒している。
「無用の流血は朕の望むところではない。異国を攻めるのは、土地と人民を奪うためであり、もし人民をことごとく殺し尽くせば、土地を手に入れても役に立たぬ。日本人が我が軍容を恐れ、講和を申し入れてきたならば、ただちに交渉に応じて干戈《かんか》を収めよ」
そこで無理押しの交戦を避け、四千艘もの大軍船団を城塞のごとく海上に浮かべて、日本勢を威嚇する戦法に出たのだろう。
ところが一向に、日本側は兜《かぶと》をぬがない。
「おそれいりました。服属いたします」
と言ってこない。
やむなく七月いっぱい、危険な海上にいて示威をつづけるうちに、暦がかわって閏《うるう》七月一日、前夜から吹きはじめた北西の風が牙を鳴らして猛《たけ》りはじめ、怒濤に揉まれてさしもの船団が八、九割がた覆没……。数万の溺死者を出す惨事となったのである。
「一兵残らず海に沈んだ」
景気のよいそんな流言も飛び交《か》ったけれど、主《おも》だった将たちは堅牢な船に乗り移っていちはやく本国へ逃げ帰ったし、士卒らの中でも運よく船の損傷がわずかだった者は、命からがらそのあとにつづいた。
船ごと海岸に激突したり、板きれなどにしがみついて浜に流れついた兵どもは、手ぐすね引いて待ちかまえていた日本勢に大方討ちとられた。降参した捕虜も、
「生かしておいて無駄飯を食わせるのは無益」
とばかり、結局はすべて斬られて、博多から今津、あるいは御厨《みくりや》の千崎辺から平戸にかかる砂浜は、ことごとく元兵の死骸で埋まってしまったのであった。
捷報は暴風雨《あらし》の日からかぞえて十四日目に、都へ早馬でもたらされた。
「よかった、よかった」
朝臣たちはさすがに愁眉をひらいたし、院や朝廷から敵国降伏の祈願を依頼された寺社の誇りようは、ましてすさまじかった。我がほとけ、我が神の冥助による勝利だとそれぞれが主張し、過分な報謝をねだり取る身がまえでいる中で、ひときわ目立ったのが石清水八幡宮の宣伝のうまさである。
祈祷を命ぜられるとすぐさま始めた別当坊での仁王《にんのう》経、法華経などの転読――。
加えて神楽《かぐら》の奉納までおこなわれ、連日のように近在の見物人を境内に集めた。
彼らをことによろこばせたのは、若い巫女《みこ》に華やかな鎧《よろい》を着せ、太刀、弓矢を帯びさせて練り歩かせた祝言の風流《ふりゆう》であった。
「いやあ、うつくしいなあ、何の真似だろ」
「きまってらあ、神功《じんぐう》皇后さまの仮装だよ」
「なるほど。三韓征伐にことよせて、異賊を退治しようというわけだな」
「見ろ見ろ、うしろにつづく白い附け髭は、武内《たけのうちの》宿禰《すくね》にちがいないぞ」
どよめくのでもわかるように、合戦現場から遠いところに住む民衆には、蒙古も三韓も一つ異国としか理解できない。
南都北嶺の持戒僧が七百人余り招かれ、八幡の宝前で経文を読誦した声も、男山の峰々谷々をゆるがすばかりだったし、わざわざ八旬に余る身を輿にゆだねて、高徳のほまれ高い叡尊が奈良の西大寺からやって来たのさえ、
「ありがたや」
見物は随喜した。
社殿の前の舞殿《まいどの》に叡尊は祈祷壇を築き、一心不乱に尊勝法を修したのだが、
「ふしぎや風もないのに神前の幡《ばん》が揺れ、バタリと大きな音を立てて鳴った。これこそ上人の祈りを八幡大菩薩が納受し給うた証《あかし》である。我が軍の勝利、うたがいなし」
というのが、直後に流布した霊験譚……。
さらに、この話に符節を合わせるように、
「栂尾《とがのお》の大明神が巫女に乗りうつり、『叡尊の修法によって神威いやちことなりたる我れ、大風を吹かせて異賊を西海に亡ぼさん』と託宣あそばしたそうじゃ」
そんな風説まで流して、あたかも台風を、八幡の神徳によって起こった神風のごとく信じ込ませたのである。
民衆にとっても、元寇そのものは二の次だった。疫神の鎮圧でも旱天の慈雨でも何でもよかった。神力仏力を証明する奇瑞奇談に彼らは酔いたがる。文永役のときもそうだが、貴賤を問わず都人には戦いの実感は薄かった。なんといっても九州は遠い。その、はるか西の果ての海上でいつのまにか始まり、あっけなく終わってしまった戦闘など、正直、日々のくらしに結びつけようがないのである。
宮廷の女性たちとなると、無関心ぶりはますます徹底してくる。元の来攻があったことすら知らずにいた者が多かったのだ。
鎌倉みやげ
西園寺実兼の妻の顕子なども、世情にはからきし疎かった。元寇についても、
「筑紫の浜に海賊が出たそうですね」
といった程度の知識しかなく、
「そんななまやさしい相手ではない。蒙古帝国の大軍船団が、洋上狭しとばかり押し寄せて来たんだぞ」
実兼が脅《おど》しても、
「蒙古って、ムクリのことでしょ? 唐天竺《からてんじく》の先にあるって聞きましたけど、うちの鸚鵡も、ムクリ国とやらの産かしら……」
とんちんかんな返事をする始末で、張り合いのないことおびただしい。
顕子がこの春あたりからしきりに話題にしていたのは、二条にかかわる噂であった。
「なんというふしだらな女でしょう、ね、あなた、とうとう大っぴらに二条は御室《おむろ》のご門主を局に誘い込みはじめたそうですよ」
元寇そっちのけ、それこそが天下の一大事とばかり実兼をとらえて告げ口をする。
「性助法親王を?」
「ええ、あの水もしたたる美僧を……」
「大っぴらにとは、どういうことだね? 後深草院が二人の仲を黙認なさったわけか?」
「黙認どころか、上皇が双方の仲を取りもたれたのですって……」
「ふーん」
さては裏取り引きがおこなわれたのだなと、実兼には見当がついた。弟君の亀山院と、御室のお稚児の文珠丸を争っていた後深草上皇である。性助法親王が二条に夢中なのを奇貨として、
「文珠丸をよこせば二条をそなたの自由にさせるよ。どうだね?」
いわば取りかえっこの提案をしたにきまっている。
「その噂、どこで聞いて来たのだ顕子」
「東二条院さまの御所ですわ」
「あいかわらずお出入りしているのかい」
「あなたの叔母さまなら、わたくしにだって義理の叔母上……。それに、むかしお仕えした旧主人ですもの、ご機嫌伺いに参上するのは当たり前でしょう」
「行くなとは言ってないよ。どうせ女院もそなたも暇を持て余して、お喋り相手に飢えているんだ。せいぜい気散じに伺うさ」
それにしても憎い二条を、女たちが舌頭で切り刻む様子は、想像するだけで総毛《そうけ》立つ。後深草院のやり方にも腹を据えかねて、実兼は事の実否をたしかめたくなった。
ひさびさに院参すると、まだ宵の口なのに、
「お上は大殿籠《おおとのごも》りあそばしておいでです」
召しつぎの女房が言う。
「お身体の具合でも悪いのですか?」
「いいえ。しごくお達者でございます」
「ならば実兼がまいったと申しあげてください」
有無もいわさず押し通ってみると、案のごとく薄ぐらい帳台の奥で上皇の腰を揉んでいるのは、生き人形のお稚児どのではないか。
「人間は物ではありませんよお上。その少年と二条どのを交換なさるとは、いくら何でもひどい話ですなあ」
文珠丸の耳もかまわず、つけつけ言ってのける実兼を、いぎたなく寝そべったまま後深草院はじろりと睨んで、
「ばか」
短くきめつけた。
「おおかた顕子か、東二条院あたりの讒訴《ざんそ》をまに受けたのだろうが、早とちりもいいかげんにしろ」
「では、どういうことなのです?」
「二条と性助は愛し合っている。それも、昨日今日の仲ではなさそうだし、性助の側ののぼせぶりは、わけて痛ましいほどだ。母がちがうとはいっても弟だからな。仕方なくおれは身を引いて、二条を性助に譲ったんだよ」
「文珠丸は、その謝礼というわけですか?」
「いらんというのに、むりやり押しつけて寄こしたんだ。生来おれには少年趣味はない」
亀山院と競争で、文珠丸の機嫌をとっていたのはだれですかと口もとまで出かかったが、実兼はその言葉を呑みこんでしまった。
性助法親王の恋がまじめな、真剣なものであるのは実兼も知っている。二条もまた、性助を好いているのなら、彼女のためにこの恋の成就を祝福してもよいではないか。
性助とは対照的に多情で、移り気で、異母妹の前斎院にまで食指をうごかし、二条に閨《ねや》への手引きをさせるような自分勝手な後深草院とは、このさい思い切って絶縁するほうが、彼女の仕合わせにつながるとさえ実兼は思う。
「わかりました。諫言《かんげん》じみたことを申しあげてすみません。おゆるしください」
口先だけであやまって、立ちしなによくよく観察すると、帳台の暗がりに砥粉《とのこ》を塗り固めたような白い顔がぼうっと浮き、いつもの通り無表情なまま両手だけを動かして文珠丸は上皇の腰を揉んでいる。どう見ても機械《からくり》仕掛けの人形である。
(こんな化けものの、どこがいいのか)
逃げ出したその足で宮中に伺候すると、
「おう西園寺卿、よいところへ来られた」
亀山院も居合わせていて、
「じつは折り入って話がある。いや、頼みがあるのだ」
日ごろにはないねんごろな口ぶりで実兼を一間《ひとま》へ招き入れた。ご子息の後宇多帝が同席しているほか、人払いしたらしくあたりには女童《めのわらわ》の影さえない。
「院じきじきのお頼みとは、何ごとでしょうか?」
「安嘉門院が病臥されたという。ご存知か?」
「いや、初耳でござります」
さりげなく言いながらも、実兼は全身にさっと緊張感が走るのを覚え、亀山院の面上を思わず凝視した。容易ならぬ発言があとにつづくことを、とっさに察知したのであった。
それは、廷臣ならば折りにふれて、
(どなたのものになるのだろう)
と、帰属の行方を気にせずにいられなかった皇室の所領問題であった。
全国に分散してはいるが、『八条院領』と呼ばれるその領地は、総計すると広大なものとなり、年貢の量もおびただしい。さればこそ、
(だれに譲られるか。何びとのお手に帰すか)
思惑や疑心が生じ、これまでもしばしば、政争だの武力衝突の物騒な火種となってきた。
もともとは、院政はなやかなりしころ巨万の富を擁し、専制君主としての恣意《しい》をほしいままにした鳥羽法皇が、一代にして集積した御領なのである。
それを法皇亡きあと、寵妃|美福門院《びふくもんいん》の生んだ八条院|※子《あきこ》という皇女がそっくり相続したわけで、さらにその上に美福門院自身の遺領、平家の没官《もつかん》領まで加わったため、百数十ヵ荘にもおよぶ莫大な財にふくれあがったのだ。
八条院のあとは後鳥羽院のお子の春華門院昇子へ、昇子のあとは彼女の弟の順徳帝へ、そして順徳帝の次は後高倉院の皇女安嘉門院邦子へと受けつがれて、こんにちに至っているのだが、
「その安嘉門院が病床に臥した」
となれば、ただごとでない。実兼ならずとも、
(八条院領の行方はどうなる?)
すぐそこへ考えがゆくのは当然だった。
「で、わたくしに、折り入ってのお頼みとは何でござりましょうか」
問いはしたものの、実兼には亀山上皇の答はわかっている。予期した通りそれは、
「ぜひ、このわたしに八条院領を相続させてほしい。関東申次の重責にある卿を介して、わたしの望みを鎌倉幕府に、よしなに伝えてもらいたい」
というものであった。
「安嘉門院のご病状は、よほど重いのでございますか?」
「いや、ほんのかりそめの風邪|心地《ごこち》らしい。しかし門院も、すでに七十三のご老齢だ。いつ何どき重態に陥られるか、予断は許さない。いささかでもゆとりのあるうちに、打つべき手は打っておきたいと思ってな」
「仰せ、ごもっともと存じます。ただし、なにぶんにも事は重大。後深草院のご意中もうけたまわらぬことには……」
「兄上は、すでに父法皇ご存生《ぞんじよう》のころから長講堂領を所有しておられるではないか」
語気するどく、亀山院はさえぎった。このさい、実兼の気分をそこねては不利と知りながらも、つい性格の激しさが出てしまうのを、
「二つ取るのは欲ばりだよ」
いそいで亀山院は苦笑いにまぎらせた。
「そうだろう? 長講堂領は八条院領を上回る巨大な荘園群だ。兄上や煕仁皇太子の足場は、もうしっかり固まっているはずだぞ」
八条院領の相続が許されたら、そのときをしおに自分は恩愛の絆《きずな》をいっさい断ち、出家入道するつもりだとも、亀山院は誓う。
それは裏返せば、そうまでしてでも八条院領を手に入れたがっている亀山院の、世俗的野心の熾烈さをものがたるものだった。
亀山院はいま、西園寺実兼と同年の、三十三歳――。そのお子で、今上《きんじよう》天皇の位に在る後宇多帝は十五歳である。
皇太子位に、後深草院の皇子の煕仁親王を据えてはいるけれども、あくまでこれは、一代限りの変則にすぎぬ。いずれ煕仁皇太子が即位し、天皇となっても、
(退位したあとは、ふたたび後宇多帝の子に帝位を返すのが、当初からの約束ではないか)
そう、亀山院父子は信念してゆずらない。
「つまり八条院領は、『治天の君』たるわたしの子孫によって、先ゆきながく継承されてしかるべき帝系の富なのだ」
とも、亀山院は主張する。
帝室の経済基盤は、それをしてはじめて強固なものになるのに、現在の状況はどうか。
(傍系の立場にはじき出されたはずの後深草院が、長講堂領というしたたかな資産で、逆に治天の君たるわれわれに無言の脅威を与えている。この不公平は是正しなければならない)
とも、亀山院は考える。
むろん亡き父後嵯峨法皇の遺産は、ほとんど亀山院に譲渡されたが、これに八条院領が加われば鬼に金棒だった。将来、後深草院の系列と子孫同士、どのような抗争が生じても、最終的にものを言うのは、
(財力だ)
と思えばこそ、いま切実に、八条院領に望みをかける亀山院なのである。
でも、実兼にいわせれば、後嵯峨法皇と大宮院|※子《よしこ》の偏愛によって、長子相続の原則がふみにじられ、弟が兄を抑えて治天の君に定まったことじたい、不公平、不条理に思えてならない。
若いころから反りの合わなかった亀山院ではあるけれど、そうした私的な感情とは別に、実兼の中にはつねにつねに、
(親がえこひいきして頭上に載せた帝冠ではないか。嫡統にもどして帝系の乱れを匡《ただ》すべきだ)
との公憤がわだかまっている。
かといって、後深草院のぐうたらぶりを許容するつもりは、まったくない。むしろ公人としての生き方で較べれば、元寇に対する憂慮の仕方からいっても、亀山院のほうがはるかに真摯だし、責任感もつよい。だから実兼は表向き、どこまでも慇懃《いんぎん》に、
「仰せ、しかとうけたまわりました」
亀山院の気持に添った言い方をした。
「ただし幕府はいま、戦後の処理に忙殺されております。また、安嘉門院のご病状についても、なおしばらく、静観の要ありと愚考いたしますが、いかが思し召しますか?」
「もちろん一日一刻を争うつもりなど毛頭ない。老女ではあっても安嘉門院は、日ごろから丈夫なご体質と聞いている。たかが風邪ぐらい苦もなく治して、まだまだ長命なさるかもしれないのに、薨去《こうきよ》を待ってでもいるように八条院領についてうんぬんするのは、失礼だろう」
内心のあせりを押し隠して、亀山院も実兼の言葉に同調した。
「わたしとしてはこの件について、関東申次役の卿が、それなりに当方の意中を呑みこんでいてくれるだけで今のところ、満足なのだ。どうかくれぐれも、よしなに頼む」
「ご安心あそばしませ。極力、働いてみる存念でございます」
と実兼が受け合ったのは、亀山院の要求を、結局は「通る」と踏んだからだった。
弘安役のあと始末ばかりか、三度目の外患にも備えて、幕府はいま、多忙をきわめている。それでなくてさえ皇室の私事には、できるかぎり関わりたがらない北条執権家だ。承久の乱後、懲罰の意味でいったん没官してのけた長講堂領さえ、すぐさま返還し、後高倉院の所有と認めた前例もある。
(今回、亀山院が、出家遁世を条件にしてまで八条院領の相続を望めば、反対など、おそらくしないはずだ)
実兼はそう読んだ。と、すればこのさい、その線に添って行動し、亀山院に恩を売っておくことも得策であった。
これまでどちらかといえば実兼は、後深草上皇派と見られてきたが、政情というものはどう変化するか、予測しがたい。げんに着々、得宗《とくそう》政治の根固めを進め、宗家《そうけ》の権力強化をはかってきた北条時宗ですら、元寇などという思いもよらぬ痛手をこうむれば、せっかく築きあげた土台のゆるぎを、懸命に修復しなければならない苦境に、いやでも追い込まれてしまうではないか。
しかも北条宗家の力の消長、運命の変動は、すぐさま院や朝廷にも影響を及ぼす。
「鎌倉がくしゃみをすれば京が風邪を引く」
といってよい微妙な連帯構造の中で上手に身を処してゆくためには、派閥の一方に偏していると見られるのは不利だった。
関東申次役という役職に、両上皇がいち目《もく》も二目も置き、実兼を自分の手の内に取り込もうとしている状況を利用しながら、彼もまた、いわば両天秤をかける形で自身の出世昇進を意図しはじめている昨今である。
八条院領の相続問題は、その意味からすれば実兼をして、より亀山院の側に接近せしめる一つの機会かもしれなかった。
――ところでこの日、屋敷へもどってみると、いま一つ、
「ぜひ、お力をお貸しくださいませ」
という別口の歎願が、実兼を待ち受けていた。
「持参したのは、芳善斎の松若でございます」
と家司の告げる女文字の手紙である。
「ほう、松若め、帰洛したか」
「一昨日夕刻、つつがなく五条橋東詰めの店に立ちもどったそうでございます」
「会おう。どこにいる?」
「人にことづかったとか申して今日ひるすぎ、その書状を持参かたがた、無事京着の挨拶にまいったのですが、殿がご不在と聞き帰りました。留守中の用が山積し、身体が幾つあっても足らぬ忙しさ……。またいずれ、お伺いすると言い置いて、せかせかと去りぎわに、これなる二品を状に添えて手前に渡してまいったのでございます」
家司が差し出したのは、打ち紐でとじた草稿と見える冊子と、精巧な彫りをほどこした堆黒《ついこく》の小箱である。
「何が入っているのだろう。ばかに軽いぞ」
あけてみると、中に納めてあったのは淡紅色の、薄い、小さな十枚ほどの貝殻だった。
「やあ、きれいだな。さくら貝ではないか」
「由比《ゆい》の浜辺とやらで、松若が拾い集めた鎌倉みやげでござりましょう」
「見かけによらず風流なことをするやつだ。でも、太くて短くて、まるまっちいあの、松若の指で、こんな華奢《きやしや》な貝が摘まめるかなあ」
「奉公人を四人ほど引きつれてくだったようですから、彼らに拾わせたのかもしれません」
「鎌倉などで、商売が成り立つのだろうか」
「いまあちらは、谷々峰々に禅寺を建てる槌音が谺《こだま》しておるそうで、高名な宋僧の渡来は引きも切らず、香炉、胡床、敷物のたぐいから禅室を飾る掛軸、筆硯、坐禅のさい心気を澄ますために焚く香木、睡魔を払うのに用いる茶など、唐物全般の需要は京以上とか……。おかげで北条執権家をはじめ、諸侯諸大寺にお出入りを許され、半年たらずの滞在ながらよい商売をさせていただいたと、ほくほく顔で話していました」
書状の封じ目を切って裏を返すと、『阿仏』と二字、署名してある。
「阿仏? 阿仏尼じゃないのか」
実兼は家司と目を見交わした。
「せがれどもの所領争いを裁いてもらいに、鎌倉へくだった冷泉家の後家どのですな」
「若いころ、安嘉門院に仕えて四条と呼ばれていた女だそうだよ」
つい今しがたまで亀山上皇と、その安嘉門院が伝領している八条院領について話し合っていた偶然を、ひそかに驚きながら、
「その阿仏尼が、面識もないわたしに何を言ってよこしたのだろう」
さっそく封を切って読んでみると、やはり内容は、関東申次役という実兼の立場にすがって、訴訟に勝てるよう口添えを頼んできたものであった。
たまたま冷泉家も、松若の得意先だったため未亡人の仮寓へ顔を出し、この状を託されたらしい。建治三年の初冬、都を立って以来、はや足かけ五年もの歳月を、鎌倉で送り迎えたと書かれているのにも、実兼は驚かされた。
「そうか。まだせいぜい二、三年ぐらいと思っていたが、もう五年もの長年月、阿仏尼は寓居ぐらしを余儀なくされていたのか」
「継母の側の訴えだけで裁断されてはたまらぬというわけでしょう、前妻腹の嫡男も鎌倉へくだったとか聞きましたよ」
「冷泉為氏がか?」
「呉越|同舟《どうしゆう》しての訴訟合戦ですな。でも、殿が関東申次役でおられるのに目をつけて、帰京する松若に愁訴の状を託すあたり、後家どののほうが一枚、うわ手ですなあ」
「そういうことだ」
冊子については手紙の奥に、恥かしながらこれは婆《ばば》が、鎌倉逗留中のつれづれに書きつづった海道くだりの道の記……おひまの折りにでもご笑覧いただければ、光栄に存じるむねの説明があった。
表紙には『十六夜《いざよい》日記』と題簽《だいせん》が貼られ、冒頭はやや固くるしく、
むかし、壁の中より求めいでたりけむ書《ふみ》の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも身の上の事とは知らざりけりな。
と、古文孝経の由来から説き起こして、それとなく継子《ままこ》為氏の不孝を諷しながら、和歌の徳、その和歌の家である冷泉家の誉れを述べ、亡夫の遺領にからまる紛争に触れる。あげく、鎌倉下向を決意し、京の住居を出立……。道中の見聞を和歌まじりの和文で記述しているのである。
ぱらぱらめくっているうちに、中に挟まっていた薄様《うすよう》が膝先へ落ちた。それには、芳善斎が宿舎へ持って来て見せた売品の中に細工こまやかな堆黒《ついこく》の小箱があったので、ほんのお慰みにお贈りする、と書かれていた。
「なあんだ。この箱は松若がくれたのではない。阿仏尼からの贈り物だぞ」
「では中に入れてある貝殻だけが、きゃつの鎌倉みやげということでしょうか」
「吝《しわ》ン坊のやりそうな手だよ。一文も金のかからぬ浜辺での拾い物で、ごまかしおった」
「わたしもこの堆黒の箱は、松若にしては気ばり過ぎだと思っていました」
笑い出す家司とはうらはらに、
「しかし、弱ったな」
実兼の口ぶりは苦《にが》かった。
「鎌倉幕府が、五年も冷泉家の裁許を引きのばしているのは、単に元寇さわぎにかまけてのことだけではない。為氏、後家どの、双方の申し条にそれぞれ理があるため、かるがるしく断がくだせないのだろう」
「なるほど」
「高価な舶載品を贈られたから、あるいは泣きついて来たのが女だから老人だからというだけで同情し、一方聞きに肩持ちするのは不公正だ。為氏にだって言い分はあるはずだよ」
「仰せの通りですな」
深く、幾度も家司はうなずいた。
「だから物など送りつけられては迷惑する。まさか鎌倉まで、突き返しにも行けんしな」
「お固く考える必要はありません。たかが小箱一つ、初対面の挨拶でしょう。こんな物ぐらいで、もし殿のお口添えを期待したとしたら、少々後家どの、厚かましすぎますよ」
と諸々方々から貰いつけている権家の家司だけに、鼻息はなかなか荒い。
「うん。気にすることなどないな」
納得して家司をさがらせたあと、
「そうだ。二条に贈ろう」
恰好《かつこう》の貰い手を思いついて、実兼はつい、にっこりしてしまった。若い女に堆黒は、ちょっと地味だが、中に詰めたさくら貝の愛らしさは喜ばれるにきまっている。
『十六夜日記』も、少女のころから西行法師の絵巻物をくり返し見て、
「諸国の風光にあこがれていました」
と語ったことのある二条なら、きっと興をそそられるにちがいない。
すぐにでも手渡すつもりで、後深草上皇の御所にうかがうと、顔見知りの女房が、
「二条どのは宿願の仔細《しさい》あって、嵯峨の法輪へお籠《こも》りに行かれましたよ」
と耳打ちする。いかにも、いわくありげな言い方なので問いただすと、
「みごもられたのですわ」
案の定、大仰に肩をすぼめてみせた。
「上皇のお子を?」
「何をおっしゃるやら……。御室《おむろ》にきまっているではありませんか。お上が仲を取りもたれて、このところ上手に逢う瀬を作ってさしあげていましたもの」
「そうか。御室のなあ」
弾み切った気分が、紙袋の中味を抜きでもしたようにみるみるしぼんでゆくのを実兼は感じた。夭逝した皇子は上皇のお子、筆屋の娘として育ちつつあるのは実兼の子、そしていままた、性助法親王の子を胎内に宿した二条だというのか……。
「ですけど、お上は今さらながら困惑しておいでですのよ。仁和寺の御門主が女犯《によぼん》して、相手をみごもらせたなどと表沙汰になっては大変です。当の法親王さまはまして恐れおののいて、二条どのの平産を念じるやらご自身の破戒を仏に詫びるやら、これも夜ひるとなく仏殿に籠《こも》りきっておいでだそうですわ」
ところへあの、お稚児の文珠丸がどこからか、足音も立てずに現れて、
「お上が、お腹立ちです」
平べったい口調で告げた。表情と同じく、声にまで抑揚や強弱がちっともない。
(うちの鸚鵡のほうが、まだ、ましだな)
実兼はそう思いながら、少年の背について御前へ出た。
「どこで道草をくっていた。大事な話があるのに、出仕しながらぐずぐず女房どもの局になど寄り道しておる。おれを避けたいのか」
と上皇の癇癪筋《かんしやくすじ》は、なるほど膨《ふくら》んでいる。
八条院領
「早耳でいらっしゃいますなお上」
先手を打って実兼は言った。
「八条院領の件について立腹あそばしておられるのでしょう。でも、これは防げません。むしろ快《こころ》よく亀山院のお望みを許容してさしあげるほうが、あとあとのためかとぞんじます」
断言されて、
「そうか。防げぬか」
気勢を削がれたらしい。がっくり後深草上皇は肩を落とした。
「おれはすでに、長講堂領を継いでいる。だから八条院領までを我が物にするつもりはない。弟の手に渡したくないだけなんだよ」
「お気持はわかります。しかし無理ですな。北条執権家は亀山院の要求を受け入れますよ。よしんばわたくしが仲介の労をとらなくても、亀山院のご気性なら親書や特使を鎌倉に派して、時宗にじか談判なさるにきまっています。そして結局、八条院領は亀山院のお手に入る。ならばこのさい、進んで協力はしないまでも、妨げなどせぬほうが賢明です。将来のために、貸しを作っておくことになりますからな」
「そうだ。そうだな」
今の今まで、実兼が自分を出しぬき、亀山上皇と密約でも結んだがごとく曲解して怒っていたのに、たちまちその怒りを忘れて、
「今上《きんじよう》ももう、十五歳だ。煕仁に譲位する時期が近づいてきている。いざこざなしにそれをさせるためには、八条院領であれ何であれ、弟の望むままかなえてやるほうがよい、ということだな」
他愛なく軟化したのは、後深草院の甘いところであり、人のよさの表れでもあった。
六、七歳で帝位を踏み、十六、七から二十歳そこそこで退位して上皇の地位にしりぞくという慣例が、院政の基本になっている現状からすれば、後宇多天皇の治世はもはや終わりに近い。長く見つもってもここ四、五年の内には、煕仁皇太子への御位譲りがなされてよいはずだった。今はその実現一つに絞って、工作を進めてゆくべきではないかとする実兼の意見に、後深草院が一も二もなく賛同したのはいうまでもない。
「八条院領を相続できたら、自分は俗世への妄執をいっさい断ち、出家遁世するつもりだと、亀山上皇は誓われました」
との、実兼の言葉も後深草院を魅了した。煕仁皇太子の即位と同時に院ノ庁を開き、院政の枢軸に君臨したい院にとって、口うるさい弟の出家は何にもましてありがたかったのである。
それから十日ほどあと、冬の初めにしては暖かな一日を選んで、後深草院が亀山上皇を嵯峨の離宮へ誘い出したのも、さりげない懐柔策の一つであったかもしれない。
兄弟打ちそろってひさびさに、母の大宮院|※子《よしこ》を見舞うという名目だが、後深草院の真の狙いは、別のところにあったのだから……。
嵯峨への御幸には西園寺実兼も息男の公衡《きんひら》ともども供奉《ぐぶ》したが、意外だったのは、法輪寺で参籠しているはずの二条までが、酌人《しやくにん》に召されて、離宮へ来ていたことであった。
しばらく会わぬまに、二条のおもざしが別人さながら窶《やつ》れて見えたのにも、実兼はとむねを突かれた。
もっとも今、二条は懐妊している。それも、男の目にさえ臨月と判るほど身体つきは重くるしく、袿《うちき》を着かさねていながら腹部のふくらみは隠せなかった。
大宮院のお側にも女房は多数お仕えしているのに、なぜ妊婦の二条をわざわざ呼び寄せ、酒席の取り持ちなどさせるのか。はじめのうち解《げ》せなかった実兼にも、やがて、
(そうか。弟君への、馳走のおつもりだな)
見当がついた。
稚児の文珠丸を亀山院と争って、後深草院は勝を制した。二条と性助法親王の仲を認める代償として美少年を手に入れたのである。
(そのかわり、今宵はそなたに二条を貸そう。文珠丸を奪った詫びのつもりだよ)
暗黙の、そんな了解が、ご兄弟の間に交わされていたのだろう。
大宮院|※子《よしこ》は脚気《かつけ》の気味で臥せっていたが、両上皇の見舞いをひどくよろこんで、さっそく水入らずの酒宴となった。実兼父子のほか、権中納言洞院公守、右中将藤原兼行ら若い芸達者な廷臣が供に加わっていたから、それぞれの手に琵琶や琴、笛、篳篥《ひちりき》など得手《えて》の楽器が配られると、すぐさま管絃の御遊もはじまる。
公衡は千代童《ちよどう》の幼名で呼ばれていた実兼の長男。母は正室の顕子――。このため童殿上《わらわでんじよう》をとげ、元服加冠してからの昇進は早かった。まだ乳の香の失せぬ若|公達《きんだち》でいながらすでに正三位左中将に叙任されている。あきらかに親の七光り、西園寺という家格のおかげなのに、感謝するどころか笙《しよう》に熱中し、
「家の業は琵琶だぞ」
実兼が叱っても、
「絃をはじくのは苦手なんですよ」
聞き入れようとしない。まだまだ下手《へた》なのに、この日もいっぱし笙を受け持ち、家の鸚鵡がつむじを曲げたときに出す金切り声そっくりな耳ざわりな音響を、平気な顔で撒《ま》きちらして実兼を恥入らせたが、夜半すぎ、ようやく御遊の興も尽きて、定めの寝所へ引きとることになったとき、
「そなた、新院の足腰を少しさすっておあげ」
後深草院が二条をうながした。思った通りの展開になって来たのである。
「それはありがたい。わたしも脚気かなあ、ちょっと遠出をすると近ごろすぐ、足がだるくなる。お言葉に甘えて、では暫時、二条を拝借させていただきますよ」
えたりとばかり亀山院が二条の手を掴んで、強引に引き立てにかかるのを見て、
「しばらく。二条どの、しばらく……」
我れしらず実兼は、声をかけてしまった。
そのくせ、はたと困惑した。人身御供《ひとみごくう》にされる二条への哀れみにゆすぶられて、思わず声を発しはしたものの言葉がつづかない。亀山上皇が振り返りざま、
「何かご用か? 西園寺卿」
咎《とが》めるように言った。その語調への反撥から、わざと上皇の視線を無視して、
「法輪寺にお籠りと聞いたので、今日ここへは持参しなかったけれど、二条どの、あなたにさしあげたい物があるのです」
苦しまぎれに実兼は述べ立てた。
「さる女人の筆になる『十六夜日記』という道の記と、これも知人から貰ったきれいな貝殻ですよ」
自分でも小娘じみた内容に気がさした。でも、ほかに言うことがないのだから仕方がない。
二条は思いのほか明るい、どこやら媚《こび》さえ含んだ笑顔で、
「まあ、うれしい。楽しみですこと。わたくしまだ、満願までに日にちがありますの。あとしばらく法輪寺の虚空蔵《こくうぞう》菩薩のおそばにおりますから、兵藤太にでも届けさせてくださいませね。ぜひ……」
これもあきらかに、亀山上皇の感情を掻き乱すような言い方をした。やむをえない。こうなればもはや騎虎の勢いである。
「兵藤太ですって? 水くさい。何をおっしゃる。わたくしが伺いますよ」
実兼としても応じざるをえなかったが、心中すくなからず、しらけてしまっていた。またもや後深草院の身勝手の犠牲に供されて、無理無体に亀山上皇の腕力に屈服させられる二条なのだと思いこみ、同情までした馬鹿らしさ……。まさか嬉々とはしないまでも、二条はさほど悲しんでもいない。形でいえば亀山院の直衣《のうし》の片袖にすっぽり包まれ、拉《らち》し去られて行くようでいながら、表情は案外なほど平然としているのを、はぐらかされた思いで実兼は見送った。
そうなると、にわかに嫉みも湧き起こる。臨月の二条と共にした歪《いびつ》な悦楽の思い出が、なまなましくよみがえったのである。
(あのときみごもっていたのは後深草院のお子だった)
その院のお目を盗んで不埒《ふらち》を働くうしろめたさを、胎児への苛虐の快感にすりかえて、荒けなく二条のすべてをむさぼり尽くそうと逸《はや》った夜々……。そして今は二条の胎内に、性助法親王の子が宿っている。一歩、異母弟に先んじられた無念を、亀山院が存分に二条の身体ではらすであろうとは、自身の過去の行為から照らしても実兼には容易に想像できた。
さすがに母体への影響を懸念し、
「いいかな。こんなことをして……」
ためらう実兼を、
「まだ大丈夫よ」
うながした二条の不敵さまでが、記憶の底から泛かびあがる。おそらく亀山院とも似たような会話を、彼女は交わし合うのではないか。
しかし翌月はじめ、東宮御所に顔を出した実兼は、下僚たちの噂ばなしから二条の出産を知った。生まれたのは男の子、それも、死胎児であったという。表むきは、
「後深草院が、お子の父……」
となっているけれども、じつは仁和寺|御室《おむろ》の性助法親王のお胤《たね》であることを、知らない者はいない。
「死産でよかったな」
「だれの手に渡るにせよ、女犯の証拠にすくすく育っていられては門跡たる者、世間に顔向けできぬ。死児と聞いて、ほっとしたろう」
「それにしても、罪深い話だよなあ」
そうだろうか。実兼は首をかしげる。僧侶ゆえに破戒を指弾され、子の死の責めまでを性助は負わされたが、愛欲のおもむくまま身重な二条を抱き、もしかしたら死産の因を作ったかもしれない亀山院の罪はどうなる? 強く拒みもせずその亀山院を受け入れた二条の罪はどうなる? 文珠丸ほしさに性助と二条の仲を取り持ったばかりか、亀山院を籠絡《ろうらく》する手段にまで二条を使った後深草上皇の罪は、どうなる?
――ところが御所からの帰路、この日もぴったり車副に引き添って供をしてきた兵藤太に、小声で実否をただすと、
「とんでもございません。上皇のおはからいで死産と触れてはいるものの、じつはまっかないつわりです」
これも声をひそめて言う。
「生きているのか? 赤児は……」
「元気よく誕生されたのを、同様、上皇のご指示を受けて、取りあげた老女が産湯《うぶゆ》もそこそこに、いずれへかつれ去ったと申すことでござります」
「だれに聞いた?」
「例の、雑仕女《ぞうしめ》の万左女《まさめ》からです」
「たしかだな。それなら……」
「こんどこそ手許に置いて育てたいと、二条どのは老女にかきくどいたそうですが、なまじ顔など見ては情が移るとの判断から、母子のご対面もないままお別れになったと、万左女は申しておりました」
「筆屋につかわした娘のときもそうだったな」
「姫さまの身のふり方は、でも、はっきりわかっています。お行く末も……」
「婿《むこ》を迎えて、裕福な商家の妻に納まるわけだ。お前のおかげで、あの子は仕合わせになれたよ兵藤太」
「もったいない仰せです。妹夫婦こそ、ご恩を忘れぬとつねづね申しております」
それにしても二条の体力の、何という強靭さか。並より小柄な、骨細なからだつきをしているのに、父を異《こと》にする子を三度みごもり、出産まぎわまで複数の男との情事を楽しみながら、三度ともやすやす生み落としている。
産褥《さんじよく》でのむごい別離にも、三度ながら耐えたと聞かされると、その気性のつよさにも改めて実兼は舌を巻かずにいられなかった。
それに較べて男は弱い。いや、性助法親王の心身がかくべつ脆《もろ》くできあがっていたのかもしれないが、二条が床上げにこぎつけたころ、まるで入れ替りでもするように病床につき、油切れした灯明が音もなく消えるに似たはかない終り方で、生を閉じてしまったのだ。
父を同じくする兄弟でいながら、そこへゆくと亀山上皇の現世欲はどこまでも、たくましかった。取り沙汰された風邪ごこちから一時、恢復し、しばらく小康状態を保っていた安嘉門院が、ふたたび病臥して、
「こんどこそ、いよいよお危ないのではありますまいか」
側仕えの女たちが不安げなまなざしを交わしはじめたと聞くと、もう、じっとしていられなくなったらしい。
「八条院領の件、よもや忘れてはいまいな西園寺卿。幕閣への橋渡し、よしなに頼むぞ」
うるさく催促しはじめたし、直接、使者を鎌倉に派して、執権北条時宗の意中を打診するなど、熱心な裏面運動を開始しだした。
実兼もむろん、亀山院の動きを黙って見ていたわけではない。彼は後深草院の皇子|煕仁《ひろひと》が後宇多帝の皇太子に決定するとすぐさま、大納言に東宮大夫《とうぐうだいぶ》を兼ねた。つまり、現職のほかに、東宮職の長官を兼務しつつこんにちに至っている。
当然、煕仁皇太子の一日も早い即位を願う立場ではあるけれど、これまでその実現に向かって、あまり積極的になれなかった裏には、じつは彼なりの理由があった。
洞院家に対する不快感である。
西園寺家と洞院家は、つい四代前までは根を同じくする一家だった。それが、実兼の祖父の代に二家に分かれた。祖父は太政大臣にまで昇りつめたあのやり手の、西園寺実氏……。その弟で別家を立てたのが、世に山階《やましな》左大臣とも呼ばれた洞院|実雄《さねお》である。
兄の実氏が関東申次役としてさかんに公武の間を周旋し、威をふるっていたあいだは、実雄も鳴かず飛ばずの状態だったが、実氏が他界し、その息男の公相《きんすけ》も早死して、西園寺家の家督を当時まだ弱冠だった実兼がついだころは、長老格にのしあがり、隠然たる睨みを廟堂の内外にきかせはじめていた。
実雄の娘に、京極院|佶子《きつこ》という女性がいる。この佶子が亀山院の後宮に入って世仁《よひと》親王を出産……。世仁がやがて帝位につき、後宇多天皇となる一方、いま一人の娘玄輝門院|※子《しずこ》が、これは後深草院の寵を受けて煕仁親王を儲けた。そしてその煕仁が、後宇多帝の皇太子となったのだから、洞院実雄の勢力が嫡統の西園寺家を圧倒したのもむりはない。
(仕方がないさ。大叔父だものなあ)
若かったし、欲がなかったのだろう、実雄に小僧ッ子扱いされてもあきらめていた実兼だが、その鬱陶しい大叔父が死去すると、
(勢力逆転のときがきた。やり返すぞ)
がぜん、闘志を燃やしだしたのである。
当面、洞院家を目標として争われる権力闘争――。それは結局のところ、娘を皇室にとつがせて天皇の外戚となることに尽きた。
藤原氏は、五摂家に分裂しながら同族とも他族とも、代々その地位をめぐって激烈なたたかいをくり返してきたわけだが、この闘争の困るところは、多分に運、不運、つまり偶然性にたよらねばならぬ点だった。
いかな将棊《しようぎ》の名人も、持ち駒がなければ勝負は争えない。それと同じで、娘を持っていてもまだ幼少……。それなのに相手の天皇なり皇太子なりがすでに成年に達していたとしたら間《ま》に合わない。娘が女としての成熟をとげるまで待っているうちには、他家から入内した后妃らに男御子が幾人も生まれてしまう。
その逆もまた、悲劇だ。賢く美しい適齢の息女がいても、婿《むこ》候補《がね》のほうがおむつをあてていたり、よちよち歩きの皇太子や幼天皇では、どうしようもない。一人前の男性に成長するころには、肝腎の娘のほうが四十、五十の老嬢となってしまうのである。
王朝時代、栄華をきわめた藤原道長あたり、その点は幸運だった。娘たちと相手方との年齢差が、ほぼ釣り合うという偶然に恵まれたからこそ、望月《もちづき》の欠けたることなき権勢の座に昇りつめることもできたのだ。
もちろん、すべてが都合よくいったわけではない。行く手に立ちはだかる障害を力ずくで、あるいは酷薄な詐術を用いて、一つ一つ排除していった道長の辣腕《らつわん》が、人為ではいかんともしがたい偶然を側面から助けたのだが、たとえば西園寺実氏の場合、彼が源頼朝と姻戚の縁をむすび、上手にそれを利用して関東申次役の特権を手中にしたからといって、その威力だけでは浮上はおぼつかなかった。
娘の大宮院|※子《よしこ》……。彼女を後嵯峨院の後宮に入れ、しかも所生の皇子二人までが万乗の位について、後深草院、亀山院になるという幸運が重なったからこそ、外戚としての権威を不動のものとなしえたのである。
うまく娘を皇室に送りこんでも、つまり男御子を生まなければ何にもならない。さらに男御子を生んでも、その子が皇太子位につき、順当に帝位を踏まなければ、やはり何にもならないのだ。同じく実氏の息女ではあっても、後深草院とめあわせた東二条院|公子《きみこ》は失敗例だった。父や姉の七光りで中宮位には昇ったものの子供運が悪く、三十すぎてやっと|※子《れいこ》内親王を生んだきりだから、東二条院自身の苛ら立ちはもとより、西園寺家にとっても期待はずれな入内であったといえる。
実氏の孫、公相の娘の嬉子も同様、亀山院のお側に侍しながら寵薄く、今なお子がない。
洞院実雄はこのような間隙《かんげき》をたくみに縫って佶子と|※子《しずこ》を両上皇の後宮へ送りこみ、生まれた 皇子の一人が帝位について後宇多天皇、もう一人が東宮に冊立されて煕仁皇太子となる幸運を獲得……。嫡流の西園寺家を凌駕《りようが》するにいたったのであった。
その意味からすれば西園寺実兼には、現在、適当な手駒の持ち合わせがなかった。娘は今のところ二人いる。でも二人とも、まだ幼い。
目の上の瘤《こぶ》にひとしい洞院実雄の死を、勢力逆転の好機と見はしたものの、駒がなくては将棊はさせない。
後宇多天皇の母が洞院佶子、煕仁皇太子の生母もまた、洞院|※子《しずこ》――。二代つづけて洞院家腹の帝王が立つのは、実兼にすれば何とも腹立たしいことだった。
したがって父こそ後深草上皇でも、母の実家が洞院家だ、との理由から、煕仁皇太子の擁立にこれまでさほど、熱意を持てずにきたのだが、八条院領の相続を意図して亀山院側の活動が目立ちはじめたとなれば、やはりこのさい、交換条件としても後宇多帝の譲位問題には、しっかり釘をさして置く必要が生じる。
実兼の思惑は、娘たちの成長を待った上で、まず長女の子を即位後、煕仁皇太子の後宮に入れることにあった。
新帝の東宮にだれが立つか、それは不明にせよ、次女はその東宮の妃に配する。
そうした図式で、次の世代に命運を賭けざるをえないとすれば、煕仁皇太子の即位は、母親の出自《しゆつじ》がどうあれ、実現に漕ぎつけねばならぬ重要な課題であったのである。
両六波羅と談合をかさね、鎌倉にも何度か密使を派遣して執権はじめ幕閣要路との綿密な打ち合わせをとげたあげく、西園寺実兼は後深草上皇立ち会いのもとに、つぎの二ヵ条を亀山院父子に提示した。
「まず、その第一はここ両三年内、おくれても四年を出ぬうちに、後宇多天皇は煕仁皇太子にご譲位あるべきこと」
「待て、実兼」
さえぎって、亀山院は念を押した。
「煕仁を太子位に据えた以上、その約束は履行する。ただし、煕仁一代限りで、帝位は治天の君たる我がほうにもどす。この取り決めも忘れまいぞ」
後深草院のばか正直な怯《ひる》みに、わざと気づかぬ顔で、
「仰せまでもありませぬ。お預かりした帝位は、まちがいなくお返しいたします」
実兼は平然とつづけた。
「条件の第二は、後宇多帝ご在位のあいだに|※子《れいこ》内親王を立てて皇后となさるべきこと。右、二ヵ条をご了承の上は、異議なく八条院領のご相続に賛同。ご出家ご遁世にも及ばぬむね、関東より申し越して来ております」
「なに、|※子《れいこ》の身分を皇后に!?」
亀山院が、けしきばんだのにあわてて、
「呑んでくれ弟、たのむよ」
いくじなく後深草院は低頭までした。|※子《れいこ》は東二条院公子が、院との間に儲けたたった一人の姫宮だ。三十をすぎての初産に苦しみながら、やっと得た手中の珠だけに、東二条院が|※子《れいこ》をいつくしむこと一通りではない。
後宇多帝がまだ太子位に在ったころから、東二条院がつよく|※子《れいこ》内親王の入内を希望し、夫の後深草院を説き甥の西園寺実兼を責めて、その望みを貫徹させたのは、
「是が非でもわたしの生みの娘を天皇の伴侶とし、后《きさい》の宮と呼ばせたい」
とする一念からだった。
溺愛が言わせる東二条院のこの望みは、実兼の利害とも後深草院の打算とも合致する。そこで二人はこもごも亀山院を説得……。まず|※子《れいこ》を皇太子妃とし、後宇多帝の即位と同時に中宮位に冊立することに成功したのだ。
もっとも、当座はまだ、後宇多帝も|※子《れいこ》もがほんの子供であった。即位式の日、雛《ひいな》さながら高《たか》御座《みくら》に並んだほか、共寝《ともね》はおろか共棲みもせず、それぞれ別の御殿でくらしつづけている。名だけの夫婦にすぎないのは、母の東二条院が猫かわいがりして|※子《れいこ》を手放したがらないことにも原因があった。
「おそばにあげなくては、お子は恵まれません。石女《うまずめ》の中宮では、ご身分がいくら高くても後宮での影は薄くなるだけですよ」
実兼が口を酸《すつ》ぱくして叔母を諫めるのは、だれよりも彼こそが、|※子《れいこ》に皇子を生んでもらいたいからにほかならぬ。
いま後宇多帝の皇太子は、煕仁親王だが、さらにそのあとがどうなるかは予測がつけがたい。万一また、亀山院側に帝位を奪い返されるような事態となっても、|※子《れいこ》の腹に皇子が降誕していれば、中宮所生の重みにものを言わせ、後継の地位に押し上げることは可能である。
(すなわち、西園寺系列の天皇が出現する。そうなったあかつきは後深草院との提携を断ち、亀山院側に与《くみ》すればよいのだ)
実兼の肚はそこにある。いわば両天秤をかけたのであった。
あべこべに、亀山院はその点を警戒していた。|※子《れいこ》の入内にも、したがって気乗りはしなかったが、三つ違いの従兄妹《いとこ》同士、しかも上皇を父とし、中宮を母として出生している姫宮では、条件にこれ以上かなった相手はない。拒む理由が見つからず、内心しぶりながら認めた入内なのである。
(|※子《れいこ》が男御子さえ生まなければ、実兼の野望は防げる)
と、亀山院は見ていたし、さいわいなことに後宇多帝は、その点ひどくおくてだった。蒲柳《ほりゆう》の質でもあったから、在位すでに十年に及び、年齢も十六歳に達しながら後宮にはべる女性たちのだれにも、まだお子が誕生する気配はない。
実兼に忠告されてやっと東二条院も、姫宮と離ればなれに住むことを承知し、|※子《れいこ》は皇居に移って来たけれども、これも胸や腰の平べったいまったくの少女である。妊娠どころではないのに、その|※子《れいこ》中宮を皇后に格上げすることを、条件の一つとして実兼は亀山院に提示してきたわけであった。
中宮も皇后も、ほとんど同義語に扱われてはいる。しかしいざとなるとその差に微妙な影響力が生じた。
たとえば後宇多帝の後宮には、内大臣源具守《とももり》の息女基子《もとこ》が早くから侍していた。|※子《れいこ》中宮など足もとにも及ばない豊満な美人で、年も少し、みかどより上らしい。弟が姉を慕うように、後宇多帝も基子には甘えているから、もしお子をみごもるとなれば彼女あたりが最初であろう。
ほかにも女御は幾人もいるから、つぎつぎにやがて皇子皇女の誕生を見た場合、身分こそ上ではあっても|※子《れいこ》が後れをとるのは必定であった。
宮中に移ってのちも、ややもすれば母の許へ帰りたがり、そんな愛娘をいとしがって東二条院がまた三月《みつき》半年と|※子《れいこ》を長逗留させる。そんな状況でみかどとの睦み合いを期待するのは、むりというものである。
したがって|※子《れいこ》がお子を生むのは、先の先と見なければならない。しかし、いざ男御子を儲けたさい、切り札となるのは母の地位だった。中宮より、さらに上位と考えられている皇后位……。|※子《れいこ》が前もってそれを手中にしていれば、たとえ末の子でもその所生の皇子は兄宮たちを抑えて、皇太子位へ駆け登ることができるのだ。
実兼の狙いも、後深草上皇の狙いも、そこにあるのを知っているから、亀山上皇とすれば愉快ではない。
(|※子《れいこ》を押しつけたばかりか、その格上げまで求めてくるとは……)
舌打ちしたい気持だが、今や手を伸ばせば掴める近さにまで来ている八条院領である。そっくりそれを相続する魅力に、亀山院は勝てなかった。
「よろしい。条件は二つながら受け入れよう。そのかわり、そちらも当方との契約を、違背せぬようにな」
「ご念にはおよびませぬ。ではただちに関東へこのよしを申し達し、安嘉門院のご永眠に備えて事務上の手続きを進めるよう、領所の預かりその他、諸役人に命じましょう」
「よしなにたのむぞ西園寺卿」
そうは言いながら、どこか浮かぬ顔の亀山院にくらべると、
「やれやれ、これで一段落だな」
後深草院の笑顔には、翳《かげ》りがまったく感じられなかった。
八条院領の件が片づけば、次はいつ、煕仁皇太子への譲位がなされるか、議題はいやおうなく、その一点に絞られてくる。
そして、いったん帝冠を奪取さえしたら、
「もう、こちらのものですよお上《かみ》、亀山院がどれほど違約を責めようとも、絶対にお返しなさる要はありません。悶着は、わたくしがうまく処理します」
実兼の言葉を鵜《う》のみにし、その保証を、単純に信じ切っていたからであった。
散りざくら
性助法親王の子を生み、やがてその性助とも死別したあと、二条が病み臥したと西園寺実兼は人の噂に聞いた。
(さすが、重なる痛手に耐えられなかったのだろう。見舞いに行ってやりたい)
そう思いながら八条院領の件に手をとられ、一年近く逢わずにすごすあいだも、心にかかっていたのは約束の鎌倉みやげであった。
(堆黒《ついこく》の小箱に入った薄べに色のさくら貝……。まだ、あれすら渡していない)
二条はおぼえているだろうか。それとも、あの場かぎりのこととして聞き流してしまったろうか。
(病気は何なのか)
とも、実兼は気づかった。
子に別れ、法親王にまで先立たれた打撃から、たぶん気落ちしたのであろう。心身共に強靭な二条だし、一時的なものならいずれ恢復するにきまっているが、弘安五年は、ひどい勢いで疫病がひろがった年でもある。
秋口に始まりながら、霜がおりてもまだ、蔓延はやまず、洛中を中心に近畿一円、患者の出ない家はないほどで、院や朝廷の臣にすら病欠する者が目立った。
(もし、二条の病臥がそれだったら、猶予はならない)
案じて、兵藤太に様子をさぐらせたところ、実家の久我家にも母方の実家の四条家にも、二条は帰っていないという。
「ならば四条大宮の乳母どのの家か、もしくは例の、卯の花の家かとぞんじましてな。両家に当たったのですが、どちらにもおいでにならぬのです」
「また始めたのか、お得意の雲隠れを……」
「いや、今回は行方をくらましたわけではありません。卯の花の家の住人が申すには、東山の南ふもと、月ノ輪の里に住む吉田のなにがしとやらいう医師の家に身を寄せておられるよしでございます」
「病躯を、医師のところで養っているのなら安心だ。暇ができ次第、訪ねてやろうではないか」
「それがよろしゅうございましょう」
心づもりをしていたやさき、足もとに火がついた。西園寺家の水仕《みずし》の中から疫病の罹患者が出たのである。はげしい下痢と、発熱嘔吐をともなう痢病だから、隔離の意味ですぐさま病人は親許に帰したけれども、そのあと、家族への伝染をくいとめるため神符を受けてくるやら巫女を呼んで竈《かまど》や井戸の祓《はらい》をさせるやらごたごたがつづき、けっく月ノ輪へ出かけたのは年が明けてからだった。
寄寓先の主人はもと宮中の典薬寮に所属していた医師で、二条の侍女の中将の、遠縁にあたる家だという。それはよいが、通された奥まったひと間を屏風で囲い、生後まもなくと見える赤児に、二条が乳を飲ませていたのには驚いた。目を疑って、思わずその場に、実兼は棒立ちになってしまった。
「疫病ではなかったのですな二条どの」
「まあ、いやな。疫病だなんて……。産をしましたのよ」
「それは聞きました。世間には後深草院のお胤《たね》、そして死産と披露したあの、性助法親王のお子でしょう?」
「ちがいます。その次の子供ですわ」
「次の!?」
実兼は絶句した。道理で小さい。二条のふところにいる子は、まだほんの赤児に見える。
「だけど五ヵ月にはなるのですよ。ためしに手を叩いてごらんあそばせ実兼さま、そちらを向いて笑いますし、お手を伸ばせば掴もうともしますから……」
いとしくてならぬもののように、二条は子を抱きしめる。一方の乳房をむき出しに灯《ひ》にさらしながら、はじらう気色もない。まぶしさに、実兼のほうがどぎまぎ、目のやり場に窮して、
「一心不乱に飲んでいますなあ」
複雑な声を出した。かつては彼自身が愛撫した乳房を、赤児の小さな両手がぐいぐい押している。我がもの顔なその動きが、可愛くもあり憎くもあり、嫉ましくも思えて、つい苦笑まじりの嗟嘆になったのだが、
「乳は出ませんの。乳首をふくませておくと機嫌よく甘えて……飲んでいる気になるのでしょうね。そろそろおまじりを食べ出しましたし、乳母を傭ってもいるので、おなかはくちいのですよ」
と二条の表情は、どこから見ても母親そのものだった。
「男の子? 女の子?」
「着せている物の色目でもおわかりでしょ? 男の子ですわ」
おそるおそる実兼はたずねた。
「お子の父はどなた?」
「生き別れた前の子と同じ、性助さまです」
「亡くなったかたが? まさか……」
「他界あそばす直前に、人目を忍んでお見舞いにあがりました。別れを悲しんで性助さまはお泣きになり、最後の気力をふりしぼって激しくわたくしをお求めになったのです」
死神も二人の縁《えにし》は断てぬ。自分はあなたの胎内によみがえって、いま一度、この世での対面をとげるつもりだ。かならずあなたは懐胎するだろう、自分の臨終の一念だけでも……。
「そのお言葉にたがわず、わたくしはみごもりました。そして生まれたのがこの子なのでございます。性助さまの忘れ形見……。いえ、生まれ変わりにちがいありませんもの。こんどこそ、だれが何と言おうと手放しません。わたくし、育てあげるつもりでいますのよ」
「でも、どこで? まさか上皇御所へもどれぬとすれば、親里で育てるわけですか?」
久我邸も四条邸も、しかし子連れの二条をけっして、あたたかく迎え入れてはくれまい。実兼は、そこを懸念したのであった。
実家の久我家は、当主の雅忠が亡くなって以後、すっかり後妻の天下となり、継子《ままこ》の二条など邪魔もの扱いだし、母方の縁戚の四条家は、これも嫡男の隆顕が出家してしまってからは、異母弟の隆良が家督をついで、あるじ然とふるまっている。
彼らの父の隆親老人は、女楽《おんながく》の催しで明石ノ上に扮するはずだった二条の席次を、独断で下座に置き替えるなど、もともと冷淡な性格である。
じつの娘なのに、早死したすけ大を嫌っていたから、孫の二条にまで、ともすると辛《つら》く当たったのだろうが、その隆親老人もつい先ごろ歿し、いま四条家を牛耳っているのは、未亡人であるこれも後添えの妻だった。
(父方、母方、どちらにしろ行き場のない二条だからこそ、侍女の親許で産をするなどというみじめなありさまにもなったわけか)
憐憫の思いを、強《し》いて押しかくして、
「そのお子のおもちゃには、ちと似つかわしくありませんな」
実兼は直衣《のうし》の合わせ目から、堆黒《ついこく》の小箱と『十六夜日記』を取り出した。
「いつぞや、チラとお耳に入れた知人からの鎌倉みやげです。公務にとりまぎれて、ながいことお渡ししそびれていましたけど……たぶん二条どのはおぼえておられますまい」
「忘れるものですか。いつ頂けるかとわたくし、心待ちにしていたのですわ」
いそいそ、箱の蓋をあけてみて、
「まあ、きれい」
さくら貝の一片を二条はつまみあげた。
「由比の浜とやらいう遠浅の海辺が、鶴ケ岡八幡の宮前に横たわっているそうです。そこで拾い集めた貝殻らしいのですよ」
「気のせいか、かすかに磯の香りがします」
灯《ひ》に透かして、しみじみ眺めながら、
「わたくし、生まれてこのかた、まだ一度も海というものを見たことがありませんの」
二条は言う。
「四ツのときから上皇のお手許で育てられ、洛中のほか、遠出といえばせいぜい男山の石清水八幡ぐらい……。海にそっくりと聞いている琵琶湖にすら行ったことがないのです」
「海の大きさは琵琶湖とは比較になりません。目路《めじ》の限り、はてしもない水の拡がりですからな。うねって寄せてくる大浪が、泡立ちながら沖へ引いて行ったあと、このようなさまざまな貝殻が濡れた砂浜に残るのですよ」
心得顔に語って聞かせはしたものの、実兼とて海を見たのは少年のころ、父の公相に伴われて須磨・明石へ歌枕を訪ねたときだけだった。都びと――取りわけ宮廷の人の見聞の少なさ、行動圏の狭さが、こんなとき露呈するわけだけれども、海そのものに憧れる二条にくらべると、実兼の関心は現実的だった。上簇《じようぞく》前の蚕《かいこ》に似て青白く、ほっそりとした二条の指……。うす紅色のさくら貝をその爪に擬して、思わず見惚れていたのである。
『十六夜日記』にも、なみなみならず二条は興味を示して、
「お偉いことねえ。冷泉家の未亡人は女の身で、はるばる鎌倉にまでよくぞおくだりになりましたわ」
筆者の阿仏尼の、男まさりな行動力に感じ入ったおももちだった。
「それで今もまだ、鎌倉に滞在しておられるのですか?」
「訴訟の片がつかんのです。亡夫の遺領を我が子に渡したい一心からとはいえ、この正月で足かけ七年にもなる長期間、仮寓ぐらしの不自由に耐えていることのほうが、旅よりも遥かにきついですよ。見あげた辛抱づよさですな」
「お子への愛が、苦労を忘れさせているのでしょう。わたくしもこの岩君のためなら、どんなつらいことでもしてのける覚悟ですわ」
と抱きしめる手もとを、覗き込んで、
「岩君というお名なのですか」
実兼はたずねた。
「ええ、父の性助さまは短命でいらっしゃいました。この子は、ですから丈夫に、たくましく育ってほしいと願って、岩の字のつく名にしたのです」
「しかし、四条家とも久我家とも絶縁状態のまま、どうやってお子と二人、生きてゆくおつもりです? 中将がいくら忠実だといっても、しょせん召使にすぎません。先ゆきいつまでも、ここに厄介になっているわけにはいかんでしょう」
二条はうなだれた。そして、ひどくおぼつかなげな口ぶりで、とぎれとぎれに言った。
「亡くなった父さまが、わたくしのために、残してくださった財が少しはあるはずですけど……」
「たとえば領所ですか? それとも家に伝わる何か大切な品々でしょうか?」
「よく、それはわかりません。でも、お形見にいただいた唐渡りの硯《すずり》やら、母さまの遺愛の蒔絵の手筥などが、実家の、わたくしの部屋に置いてあると思います」
歯がゆさに、実兼は舌打ちしたかった。硯や手筥が何になる? よしんば黄金で作った品にせよ、そんな物ぐらいで母子二人の生活がどれだけ支えられるというのか?
「それこそ阿仏尼の例ではないけれど、父上の遺言状とか、臨終のさい遺族に伝えられた地券など、お持ちではないのですか?」
「ちけん?」
「領所がまさしく、久我家のものであることを公《おおやけ》に証明する証書ですよ」
「そんなもの、持ってはいませんわ」
あっけらかんと言われると、その他愛なさが、いっそ実兼はいじらしくなる。ものごころつくかつかぬ幼時から上皇御所に引き取られ、後深草院に育てられた二条なのだ。市《いち》へ出て買い物ひとつしたことのない半生では、経済観念が欠如するのも致し方なかった。
久我家は、二条の父の大納言雅忠が逝去したあと、嫡男の雅顕が家督をついで、現在、当主の地位についている。
すけ大の死後、雅忠が家に入れた後妻の所生だから、雅顕は二条には、母を異《こと》にする弟ということになる。
(おそらく二条の無知につけこんで継母がぬけ目なく立ち回り、領所の地券その他めぼしい財はすべて、雅顕に相続させてしまったにちがいない)
そう、実兼は判断した。
もっとも二条は、後深草院の猶子《ゆうし》にひとしい扱いを受け、成長後はその愛人として自他ともに許す存在だった。夭折はしたものの皇子を生みさえした寵姫の一人である。後深草院以外の男とも、幾度か浮き名を流したし、その男たちの子を生みもしたけれど、裏にはすべて、院の暗黙の了解があった。
「したがって二条の衣食の面倒は、生涯、上皇御所で見るべきだ」
と、久我家の側は考えているのだろう。
もっともだと実兼も思うし、万一、後深草院が二条を突き放すような冷酷なことをしたら、
(わたしが引き受けよう)
とも、実兼は思う。なんの、女の一人二人、世話するのにやぶさかではないが、さし当たって困るのは岩君と名づけられた子供の処遇だった。
性助法親王の忘れ形見まで、養育する責任は実兼にはない、ましてや瀕死の床《とこ》で二条を抱き、
「かならず、そなたの胎内に宿り、いま一度この世での対面をとげる」
と誓って亡くなった性助だというではないか。二条も確信ありげに、
「法親王さまの生まれ変わりです」
断言する子供など、何やらぶきみで、とても父親役をつとめる気にはなれない。
「やはりひとまず、上皇御所へお帰りなさい」
二条に、実兼はすすめた。
「とりあえず当家に出させた入費については、ご心配いりません、後日じゅうぶんに、わたしが手当てしておきますから、あなたはもと通り御所の局へもどられることです」
「子をつれて?」
「そんなことはできませんよ。初めのお子のときも性助法親王は女犯の罪をあげつらわれ、世間の批判を浴びたではありませんか。二番目のお子までつれて帰ったら、亡きお方のお名に、また疵《きず》をつけることになります」
「でも、岩君と離ればなれになるのは嫌です。こんどこそ手塩にかけて、わたくしが自身、成人させるつもりでいるのですから……」
「ここに置いて、育ててもらうのです。乳母も傭ってあるし、家業は医師……。中将の縁からいっても案じることはありますまい。二条どのは時おり当家へ宿さがりして、お子との絆《きずな》を深めればよいではありませんか」
子供の養育費、乳母に払う物代《ものしろ》なども、いっさい西園寺家で負担するし、後深草上皇にはわたしから話をしておく――そうまで実兼に言われては、承知しないわけにいかない。二条もやっと、その気になり、
「では、御所へ帰ります」
約束して、弘安六年の正月末、数ヵ月ぶりに単身、上皇のおそばへもどった。
その前に実兼は院参し、二条の置かれた状況について、くわしく上皇に説明した。性助法親王のお子をふたたびみごもり、岩君と命名したその子供を今、侍女の縁者の家で育てていることまで隠さず奏上し、
「しばらくのあいだ、そこに預けておくとしても、いずれはお手許に引き取り、院のご養子として成人させるほかあるまいと存じます。いかがおぼしめしますか」
とも、議《はか》った。
「またぞろ、性助の子を生んだのか? 二条は……」
上皇の反応はよくなかった。
「しんじつ、性助の子なのかな」
疑わしげな言い方に人ごとながら実兼はむっとして、つい知らず語気を強めた。
「由来、子供の父などというものは、それがだれか、本当のところは母親にしかわからんものです。しかしあの岩君という男の子にかぎって言えば、まさしく故法親王のお胤《たね》ですな。幼童ながら眉目秀麗……。性助さまに生き写しですよ」
「ふーん」
膝先に引きつけている炭櫃《すびつ》を、さらに胸もと深くかかえ込みながら、上皇は不服そうに鼻を鳴らした。春とはいえ余寒のきびしい日で、すき間風が胴慄いを誘う。でも、それにしてもだれのものか、派手な女の袿《うちき》を幾枚も背に重ね、その背をじじむさく炭櫃の上にかがめた図は、光源氏を自認していた往年の風流公子とも思えない。
もっとも実兼の前ではしゃれ気もみだしなみもかなぐり捨てて、地のままにふるまう癖が上皇には、昔からある。君臣であると同時に、大宮院|※子《よしこ》を介して、同じ血を共有し合う従兄弟《いとこ》同士でもあるわけだから、おたがいに私的な場では遠慮がないのだ。
「まちがいなく性助の胤なら、その岩君とかいう子供、おれの甥《おい》ということになるな」
「そうですよ。腹ちがいではあれ故法親王はお上のご舎弟です。二条どのの女手だけに、忘れ形見の養育を押しつけておいてはきのどくでしょう」
「引き取ったっていいさ。世間|態《てい》が悪ければ、父親はおれだと触れてもいいがね、そうなると初めの子が不憫《ふびん》だなあ」
「性助さまが二条どのとの間に儲けた第一子ですな。生まれ落ちるとすぐ、お上の意を受けた介護の老女が、つれ去ったとか聞きましたが、どこへつかわされたのですか?」
「わからんのだよ。それが……」
「わからない? どういうことです?」
「だからさ、どこの何者にあの赤児を渡したのか、おれは知らんのだ。もともと性助の不始末の尻ぬぐいをしてやったわけだから『表向き父親はおれ、子は死産ということにし、だれでもよい、貰い手があり次第くれてしまえ』と、あの老女に命じておいた」
「で、仰せの通り産褥から、ただちにいずれかへつれ去ったわけですな」
「ただし、貰い手の名や素姓は、かならず告げるよう言い含めた。なにせ性助の手もとから養育費はたっぷり出ている。それに仮りにも父は御室の門主、母は久我大納言の息女、両上皇を伯父とし今上を従兄に持つ赤児だ。まさか人買いなどの手には渡らぬまでも、みじめなくらしに落ちるようなことだけはさせたくないと思ったからだよ」
ところが、二条の床あげが済まぬうちに、老女の家族から知らせが入った。跡とり息子が病気だという。
「しかも危篤だと急《せ》かすので、二条の侍女の中将があわてて老女を家へ帰らせたのだが、これが行ったきり、もどってこない。それも道理、倅《せがれ》の病気が嫁にうつり孫にうつり、しまいには母親の老女にまで感染して、一家四人、ばたばた死に絶えてしまったのだそうだ」
「洛中洛外を席捲した例の、はやり病いですな」
「うん、疫神《えきじん》の手に引っ拐《さら》われたわけだよ。子供の件は老女一人に呑み込ませ、こっそり事を運んでいただけに、いきなり死なれてみると手がかりがプッツリ切れた。だれに赤児を渡したのか、皆目《かいもく》わからなくなってしまったのだ」
「そうでしたか」
実兼の歎息に、
「岩君とくらべて、どう思う? ちがいすぎるよなあ」
上皇も、暗いうなずきを返した。
「父は同じ、母も同じ兄弟に生まれながら、一方は都塵に埋もれて庶民の一生を送り、片方は院の御所に引き取られて皇子となる。たとえ様を変えたにしても上皇の猶子《ゆうし》、法親王の子だ。どこぞ大寺の宮門跡《みやもんぜき》と仰がれるのはまちがいない。出生のさいの、ほんのわずかなつまずきが、子供二人の将来を大きく変えてのけたのかと思うと、何やらそら恐ろしい気がしてくるよ」
ただし、幸せの実感は主観的なもので、かならずしも身分の上下に依らない。その生をどう生きたか、充足感を真実、噛みしめ得たか否かにかかってくる。むしろ実兼が注目したのは、後深草上皇の変化だった。
女との交渉にしても、快楽の追求には熱心なくせに、副産物として生まれた子になど、これまでおよそ関心の薄かった人である。それが甥たちの運命に言及し、声を湿らせている。それだけ上皇が年をとった、ということだろうか。
心の中で実兼はかぞえてみた。後深草院は実兼より六歳、年長である。
(ことし、わたしは三十五。と、すると上皇は、この正月で四十を一つ越えられた勘定だな)
男の四十一――。まだまだ壮年といえる半面、人生五十年を定命と考えれば、すでに晩年に足を踏み入れたことにもなる。
どことない疲労の影は、酒色に耽溺してきたこれまでの、上皇自身の生活態度にもよるけれども、大きく見れば、貴族社会全体の無気力の、反映でもあった。統治者としての実権を失い、その代わり民政に対する責任もいっさい負う必要がなくなって、あり余る暇と富を享受するだけの日常……。肉体や精神に、それは不健康な影響をおよぼさずにいない。
貴族たちの心身に澱《よど》む頽廃《たいはい》が、後深草上皇の面上にも、忍び寄る老化のきざしと共に、うっすら現れはじめたということだろう。
そこへゆくとさすがにまだ、三十代だけに、実兼の内奥には野心の熱気が保たれていた。それは彼が、公卿仲間からは異端とも見られている関東申次役――つまり意識の半ばは武家寄りというきわめて特殊な、それだけに新鮮な立場に身を置くせいでもあった。
宮中という限られた、ごく小さな天地でのせめぎ合いではあっても、そこでの昇進競争、権力闘争に打ち勝ち、祖父や父が手中にした太政大臣の極官に、彼もまた昇りつめたい。そして皇室の外戚となり、ぜひとも廟堂に君臨したい。その目的の達成に向かって、智嚢《ちのう》を絞るのはこれからである。
六歳の年の開きとは別に、後深草院にくらべて実兼の印象が、目のかがやきにしろ立ち居にしろ、はるかに小気味よく、きびきびして見えるのは、気持の張りが、しぜんと外へ出るからにちがいなかった。
「お行方を探す手だてが絶えたのでは、いたしかたありますまい。老女に渡されたお子の行く末は、神仏の加護にゆだねるほかないでしょう」
と、この場合も決着をつけたのは実兼であった。
「人間に限りません。牛馬の蹄《ひづめ》に踏み潰される虫一匹を例にとっても、生き物の運命には不条理、不公平がついて回っています。お上のご養子に納まる岩君どのだって、幸不幸は未知数です。あるいはひょっとして、不慮の最期をとげるかもしれないのですよ」
むろん冗談に言ったのだ。それだけに、何の気もなく口にした言葉通り、這い歩きもおぼつかぬ岩君が池にはまって死んだと聞かされた瞬間、実兼はとっさに声も出なかった。
「ま、まさか……。信じられん」
呆気《あつけ》にとられ、つぶやくようにそれだけ言ったが、幼児の溺死は事実だったのである。
先にまず、二条が御所へもどり、一ヵ月ほど遅れて岩君が引き取られて来たのだが、災難はその直後に襲ったのであった。
あいにく場所が悪かった。岩君は母親の二条が留守をしている間に、東二条院公子の住む中宮御所の庭で命を落としたのである。
二月中ごろ……。花ざかりの桜を賞《め》でがてら後深草院と亀山院は、この日、打ちつれて嵯峨の離宮へおもむいた。
「彼岸のご懺法《せんぼう》をとりおこないたいと思います。お揃いでお越しなされませ」
母后の大宮院に誘われたためで、二条は両院のお車に供奉《ぐぶ》して行ったのだが、あとに残された岩君をあやしに来たのは、後深草上皇の退位後、玄輝門院の院号で呼ばれている洞院|※子《しずこ》であった。
皇太子煕仁親王の生母なのに、その地位をすこしも鼻にかけぬ柔和な、あたたかな人柄は、ふっくらと肥えた母性的な外容と釣り合って、昔から敵が少ない。二条とも東二条院とも|※子《しずこ》は円満につき合っていた。
岩君が上皇御所に引き取られてくると、
「なんて愛くるしいお子でしょう」
夢中になり、日がな一日、二条の私室へ入りびたって、遊び相手をつとめるようになった。
「わたくし、上皇のお供で嵯峨へまいらねばなりませんの」
と二条に打ちあけられたときも、
「ごくろうさまですね。でも若宮は、しっかりお守《も》りしてさしあげますわ。安心してお出かけあそばせ」
たのもしく受け合った|※子《しずこ》なのだ。中将や乳母も御所に残っていたのだが、まるでその機会を狙いでもしたように、東二条院付きの女房が|※子《しずこ》を迎えにきた。
「二条が上皇のお子を生んだとか……。見てみたいので、つれて来てくださいな」
嫉妬と興味にかられての求めなのに、人のよい|※子《しずこ》は我がことのように自慢して、
「末が思いやられるごきりょうよしでしょう?」
隣り合って建つ東二条院の御殿へ、庭づたいに岩君を抱いて行った。
「まあ、これが上皇のお子ですって? 亡くなった性助法親王にそっくりではありませんか」
「姪《めい》は叔母に似、甥は叔父に似ると申しますからね」
と観察眼も、|※子《しずこ》は甘く、東二条院はきびしい。
それはいいが、帰りは趣向を変えて水路を使うことになり、|※子《しずこ》やその侍女、中将も乳母もが岩君ともども彩色うつくしい舟に乗った。両御所の庭園にまたがって大池が掘られ、境の橋廊下をくぐると自在に往来できる仕組みになっている。
珍事はこの舟中で突発した。竿をあやつっていた小《こ》舎人《とねり》が誤って舳《みよし》を橋脚にぶつけ、大きく舟が揺れたのである。これに驚いて総立ちとなったため、いきなり一方へ重みがかかり、悲鳴もろとも舟は転覆した。
「大変ッ、お舟が……だれか来てえ」
見送りに出ていた東二条院側の召使が大声で叫んだが、池は泥深く、水温も低かった。
泳げる者は、死にもの狂いで岸に泳ぎついたし、駆けつけた女院御所の人々の手で、救い上げられた者も多い。しかし乳母は溺れ、その腕に抱かれていた岩君も道づれの死をとげた。
池に散ったさくらの葩《はなびら》を、髪に、頬に、ふた片《ひら》三片《みひら》貼りつかせたまま目をとじた幼な顔は、まつげ濃く、臈《ろう》たけて、眠ってでもいるように見える。これも濡れそぼって引きあげられた玄輝門院|※子《しずこ》は、
「息が、ないッ」
その絶命を確認したとたん、気を失って倒れてしまった。
嵯峨へも急使が飛び、血相変えて帰って来た二条は、
「どうして、こ、こんなことに……。岩君ッ、岩君ッ」
冷たいなきがらを抱きしめ、ゆすぶり立てて号泣した。何としても、子の死が信じがたい上《うわ》ずりようで、
「祈祷を……いま一度、加持を……」
尽くせる手段のことごとくを試したあげく、絶望と知ってからは泣き声が、激しい呪詛《じゆそ》に変わった。
「中将、そなたが付いていながら、なぜこの子を女院御所になどつれて行かせたの? わたくしを、東二条院さまが前世からの仇《あだ》がたきのように憎んでいるのは承知のはずなのに……玄輝門院さまもひどい。ひとの子を、ご自分のおもちゃみたいにいじり回して……。ああ口惜しい。胸が張り裂けそうよ」
「お気持はお察し申します。でも……」
いっそ若宮や乳母もろとも溺れ死すればよかったと言いたげな、身も世もないおろおろ声で、それでも一心に、中将は弁解した。
「どなたの作意でもございません。まったくの不幸なあやまち……。竿を握っていた小舎人が橋廊下の脚に舳を打ち当て、舟がかしいだのにびっくりして総立ちとなったために……」
「お黙りッ」
火のような語気で、二条はさえぎった。
「その小舎人はだれの召使? 女院御所に所属する男ではありませんか。わざと舟をぶつけたのです。岩君は殺されたのよッ」
「では、東二条院さまに?」
「言いふくめられてやった事だわ。ひどいッ、ひどいッ。あんまりだ。そんなに憎いならわたくしを殺せばよい。罪もない岩君の命を奪うなんて、悪鬼|羅刹《らせつ》の所業です」
ひと足おくれて御所へもどって来た後深草上皇も、あまりといえばたけだけしすぎる二条の口走り、その悩乱に眉をひそめて、
「証拠もないのに、当て推量の誹謗《ひぼう》はよせ」
たしなめた。
「公子はかりにも中宮位にあった者。人殺し呼ばわりは穏やかでない。不慮の災難とあきらめて仏事追善の用意にかかってはどうか」
慰めにも訓戒にも、だが二条は耳をかさない。東二条院による謀殺だ、と言い張り、恨みつづけて食事すらとろうとしないのである。
花に問え
この噂に、東二条院公子が平静でいるはずはなかった。二条以上に彼女は立腹した。
「なんという恐ろしい女でしょう。事もあろうにこのわたしに、人殺しの嫌疑をかけるなんて……。許せません」
事故が起こった場所は我が庭――。責任の一半はこちらにもあると思うから、供養の品を贈る心づもりまでしたし、下手人の小舎人は引っ捕えて、司直の手に渡しもした。
「企らんで命じた殺害かどうか、小舎人を糺明《きゆうめい》すればわかることです。それを、何でしょう失礼な……。二条こそわたしを逆恨みして、よい折りとばかりあらぬ濡れ衣を着せにかかったのですわ」
おそばに、あのような女がいては、気の安まるときがありません、このさいぜひ、御所から追い出して下さいませと詰め寄られて、後深草院は公子の扱いにも手を焼いた。
とっくに二条は、女院御所への出入りを差し止められている。この上、上皇御所からも放逐されれば、宮廷とのつながりはまったく絶えてしまうことになる。
(かわいそうだ。いくら何でもそれでは……)
惻隠《そくいん》の情をもよおしはするが、二条の逆上のはなはだしさを、上皇はうとましくも感じはじめていた。
いかに愛児に死なれたにせよ、積年の不満怨恨を一《い》ッ気に爆発させでもしたような取り乱し方は、どう見ても常軌を逸している。
女にしては冷静で言葉かずが少なく、声なども低い日ごろの二条からは、想像もできない狂乱ぶりなのである。
とりもなおさずそれは、亡き性助法親王と二条との、愛の深さをものがたるものであり、その恋人の再生とまで信じた岩君を、どれほど二条がいとしんでいたかの証明でもあった。
しかし後深草上皇にすれば、しょせん岩君は人の子にすぎぬ。非業の死を悼みはしても、涙までは流れない。むしろ子との永別に、二条が悲しみ悶えれば悶えるほど、心は索莫《さくばく》と乾いてくる。
(いい加減、思い切れないのか)
苦々しくもなってきていたやさきだから、
「そうだな、少し里居《さとい》させているうちには、気も鎮まるだろう」
東二条院の要請を容《い》れ、二条を御所からさがらせてしまった。四条権中納言隆良が召され、二条の身柄を預かるよう上皇じきじきに命ぜられたのだ。母方の実家――。亡きすけ大の異母弟の屋敷である。
「二条ノ局が院の御所から追い払われた」
との取り沙汰は、実兼を心痛させた。
東二条院の性格を、彼は熟知している。まさか子供を溺死させる気はなかったにせよ、故意に舟をくつがえし、二条の心胆を寒からしめるぐらいなたちのよくない悪戯《いたずら》は、
(あの叔母ならば、やりかねない)
と思う。二条の疑いを、邪推とばかり蔑《おとし》めて言うことは、実兼にはできないのだ。
単刀直入に、実兼はこの自分の考えを、後深草上皇の前で開陳した。
「惨事の因を作った小舎人は司直の手に渡した、彼を糺明すれば自分が背後で糸を引いていたかどうか、はっきりすると、女院は大見得を切ったそうですが、これとて裏から手を回せば、調べをゆるくすることぐらい、いくらでもできます。本気で刑吏が拷器にかければ、小者などすぐ真相を白状してしまいますからね。それをさせないためにあらかじめ手を打っておいたのでしょう。たぶん今ごろは釈放されて、小舎人は日なたで鼻毛でも抜いているはずですよ」
「それぐらい、おれにだって推量はつくさ」
ものうげに、上皇は言った。
「憎い二条の小倅《こせがれ》、水雑炊をくらわせ、風邪を引かせてやろうぐらいの思いつきは、すぐにでも実行に移す女だよ、公子は……」
「そこまでごぞんじなら、二条どのを召し返しておやりなされませ。女院の言うなりに追放しておしまいになるのは、酷にすぎます」
「おれはなあ実兼、つくづく面倒くさくなったんだ」
右の手を、握っている箸ごと上皇はゆらゆら振った。この日、実兼が伺候していたのは朝餉《あさがれい》の間《ま》……。上皇の膝先には塗りの懸盤《かけばん》が据えられ、さらりと炊きあげた白粥、鮎《あゆ》の酢《す》押し、瓜の塩漬けなど初夏の朝食らしい献立が並んでいる。
もっとも時刻は、かれこれ正午《ひる》に近い。日がたけるまで寝ていたらしく、上皇は宿酔気味の目を充血させているが、食欲は旺盛のようだ。ばりばり音立てて瓜を噛み、粥の椀に口をつけてせわしなく啜《すす》りこみながら、
「若いころは女どもの啀《いが》み合いが面白かった。刺激も受けた。でももう、この年になると悶着は願いさげにしたい。あっちで喚《わめ》かれこっちで泣きつかれる煩わしさが、たまらんのだよ」
と、愚痴《ぐち》る。そういえば、給仕人の顔ぶれもいつもと違う。お湯殿から寝所まで、べったり上皇につき切って、『おそば去らずの文珠丸』と仇名されていたあのお稚児に代わって、今日は七、八歳の女童《めのわらわ》がはべっている。
「どうしました? お気に入りの少年は……」
「お払い箱だ。仁和寺へ帰らせた」
「それはまた、いかなるわけで?」
「聞かんでもよかろう。くだらん理由さ」
「そううかがうと、なおさら根ほり葉ほりしたくなりますな」
「身の回りの品物が、ちょくちょく紛失するのだ。たとえば使いかけの唐墨とか爪切り鋏とか、懐中鏡といった小物がな」
「ははあ」
あいた口がふさがらない。美童と盗癖の組み合わせを、笑っていいのか歎いていいのか、応対に苦しんで、実兼は早々退出してしまったが、二条への擁護までをなおざりにするつもりは、まったく無かった。
ただし困ったのは、二条と連絡がとれなくなったことである。久我邸ならば万左女《まさめ》がいる。その夫の雑色《ぞうしき》もいる。手引きさせれば、こっそり訪れることも可能なのに、四条家が相手では文《ふみ》のやりとりすらむずかしかった。
こういうことには、ひどく目はしのきく兵藤太《ひようとうだ》に様子を見に行かせても、
「屋敷の、よほど奥に引きこもっておられるのか、消息がてんで掴めません。でも先ごろ、性助法親王の三回忌に併せて、若さまの追善法要をいとなまれたらしく、邸内の持仏堂に、盛装の僧侶が幾人か招かれて行くのを目撃しました」
といった程度の報告しか得られない。
「ともかく、達者ではいるのだろうな」
「さあ、どうでしょうか。落胆のあまり、病いなどひき起こさなければよいのですが……」
「医師や祈祷師、相人《そうにん》のたぐいが出入りしてはいないか?」
「今のところ、そんな気配はありません」
「侍女の中将はあいかわらず、二条に召し使われているのだろ?」
「岩君さまの件でえらく叱られたあと、自責の念から一時、中将どのは例の月ノ輪の遠縁の家で謹慎していたようです。でももう、いつもの通りにお側にもどっているのではないでしょうか。元来が姉妹みたいな、仲むつまじい主従ですからな」
「支えになってほしいものだ。中将にまで去られたら、二条は生きていけないだろう」
宮中で四条隆良に会うたびに、それとなく実兼は、二条の近況をたずねてもみる。しかし返事は、
「お変わりありません」
木で鼻くくるような一言にきまっていた。
(つれない男だ。こんな家の懸人《かかりゆうど》では、二条もさぞ、肩身がせまかろう)
思いやって、上皇にもしばしば、
「いつまで二条どのを、あのままにしておくおつもりです? そろそろ御所へ召し返してあげてもよいではありませんか」
実兼は慫慂《しようよう》をくり返したが、
「幾つになった? いま、二条は……」
はぐらかすような言い方をするだけで、帰参については応とも否とも、上皇の態度は煮え切らない。
「二十八かな。九かな。三十にはまだ、手が届いておらんだろう」
「まさか……。わたしよりたしか二条どのは、九ツか十、年下のはずです。二十六、七ではありますまいか」
「そろそろ身を固めて、人の妻か、特定の男の愛人になればよいのだ。実兼おぬし、二条の世話を買って出る気はないか?」
「それはお上の役目でしょう」
「とぼけるな。子まで儲けた仲のくせに……」
「子供のことまでご存知とは……」
「おれの目は節穴じゃないぞ。奈良の筆屋へ養女にやった娘の父親は、どこのだれだよ」
二条との文通がとだえたまま年は改まり、さくらの季節がまた、めぐって来た。
そして、そのさくらも散りはてて、飴色の若葉がいっせいに枝々を飾りはじめた四月初旬、兵藤太が耳よりな情報を仕入れてきた。一遍が再度、入洛してくるらしいとの風評であった。
「いつぞやの乞食坊主ですよ殿、わたくしの知人が所用で近江の大津へ出かけたところ、関寺の池の中ノ島に、あの坊主が近辺の老若をおおぜい集めて、何やら催し物をやっていたというのです」
「催し物? 乱舞《らつぷ》、曲舞《くせまい》のたぐいか?」
「知人は先を急いでいたので、覗いては見なかったそうですが、唄う声、囃す声、鉦の音まで混じって、たいそう賑やかだったと申していました」
「関寺まで来たなら、次の目的地は都だな」
「そう思います。そして一遍が入京したことを知れば、その立ち回り先へきっと二条どのはお出かけになるでしょう。だいぶあの僧の説法に心酔しておられたようですからな」
「その判断は正しいぞ兵藤太、でも、それにしても催し物とは、解《げ》せんなあ。何を演じていたんだろう」
「人垣のうしろから遠目に見ただけだけど、屋根つきの板屋のごときものを中ノ島に建て、その中で踊って見せていたようだと、知人は話していましたがね」
「還俗して、旅稼ぎの芸人にでも宗旨替えしたのかな」
「そんなことかもしれませんよ」
『人中、上々の妙好華』の頌句は、実兼の脳裏にくっきり刻まれている。二条がくれた『決定《けつじよう》往生六十万人』の札も、さがせばまだ、どこかにしまってあるはずだった。
衆生救済の悲願に燃えていたあの、炯々《けいけい》たる眼光の持ちぬしが、簡単に芸人に転業するとは、どう考えても腑に落ちない。
(なにかのまちがいだ。この目ではっきり確かめてみよう)
待つうちに、予測にたがわず、やがて一遍は枯れ木のごとき痩躯を都の一角に現した。墨染めの麻の僧衣は脛《すね》の半ばにも達せず、むき出しの足には二枚歯の高足駄がうがたれている。手首に数珠《じゆず》。円頂をおおうのは日よけの布をうしろに垂らした手縫いの粗末な頭巾である。
ほんのわずか猫背気味になったほか、乞食すれすれなその風態は以前と寸分、変わらない。ただ一つ、大きな変化は、随従する僧尼の数がおびただしく増えたことだった。
「来ました来ました。まず、四条京極の釈迦堂へ入り、関寺のときと同様、仮り屋のごときものを境内に建てて、何やら芸能をはじめたもようですぞ」
息せき切っての報告に、
「行こうじゃないか。すぐ、車を出せ」
兵藤太を、実兼はせきたてた。
おとついから今朝にかけて、どしゃ降りの雨がつづいていたせいか、賀茂川は土手の下まで幅を拡げ、濁り水がすさまじい勢いで渦巻き流れていた。河原にまで、沼さながら水が漲《みなぎ》り、小魚が打ち上げられているらしい。白鷺やシギにまじって、すっ裸の子供がそれを漁《あさ》る光景があちこちに見られた。
実兼主従が唖然としたのは、へたすれば洪水さわぎが起こりかねない雨あがりの、ぎらぎら照りの下を、我れがちに人が走るのを目撃したからである。
「連中はみな、釈迦堂を目ざしているようだぞ兵藤太」
「これは、ただごとではありません。われわれも急ぎましょう」
牛飼いの鞭が唸り、車は飛ぶように四条大橋を渡る。ガラガラ、橋板に鳴る輪《わだち》の音がやかましい。
橋詰にそそりたつ朱の鳥居は、祇園社の西の大門だが、もう、ここからは牛車《ぎつしや》では先へ進めない。とはいえ実兼の身分では、汗臭い下民どもに揉まれながら徒《かち》歩きもできないので、兵藤太をはじめ扈従《こじゆう》の侍や舎人《とねり》らが、
「どけどけ、道をあけろ」
躍起《やつき》になって車を押し込みにかかる。
釈迦堂は、正しくは十住心院|敬礼寺《きようらいじ》といい、四条大路と東京極《ひがしきようごく》の大通りが交叉する東北《うしとら》の角地に位置していた。
まわりを上げ土の板築地《いたついじ》が囲い、その根方を犬が走る、乞食がひしめく。洛中にかぎらず、人の集まるところというとかならず見かけるのは、おびただしい病者、物乞い、野良犬や鴉の群れだった。混雑にはおかげで輪がかかり、足を踏んだの踏まぬのと、ささいなことから口論もはじまる。
簾《みす》のすきまから実兼が覗くと、男はもちろん女もいる。僧形童形、供の者に腹巻を着せた馬上の武士もいる。狩衣《かりぎぬ》水干、折り烏帽子《えぼし》に立て烏帽子、種々雑多な人々が釈迦堂の門前に溢れ返って、中へなど到底、入れそうもない。
門がまた、やけに狭い。角材を左右に二本立て、上に貫《ぬき》を渡しただけのすこぶるお手軽な造りだから、人渦に押されてぐらぐら撓《しな》う。境内はそれこそ、針の立つすきまも無かろうし、上臈風な女はみな、からむしの垂れ衣をさげた市女《いちめ》笠や被衣《かつぎ》で、深々と顔を隠している。たとえ二条が来ていたにしても、これでは見つけ出すのはむずかしい。
「だめだ兵藤太、あきらめて帰ろう」
「ですけど、お車を廻すことすらできません」
「にっちもさっちもいかんなあ」
牛車が二、三台鉢合わせし、揉み返すうちに、興奮した牛どもが鼻息を荒らげて喧嘩をはじめた。双方の牛飼いの汗みずくの叱咤もものかは角づき合い、こわれんばかりに車は上下に躍りあがる。
「わああ、助けてくれえ」
実兼はとうとうこらえ切れず、仰向けざまに尻餅をついてしまった。
車の外へ、ほうり出される醜態をまぬがれただけでも、めっけものといわねばなるまい。
「おやおや、そのお声は西園寺家のお殿さまではござりませぬか」
と人ごみを掻き分け掻き分け、このとき近づいて来た短躯肥満の町人がいる。芳善斎の松若であった。
「牛車などというあがきの悪いものは、とっととお捨てなされませ。手前が本堂へおつれします」
「入れるか?」
「裏門へ廻りましょう」
「ありがたい。案内をたのむぞ」
時にとっての救いの神だ。牛車からおりて実兼は松若の背に従った。
京極大路に面した側には、草鞋《わらじ》や笠をぶらさげたり干物を並べたり、桶ひしゃく、鉢や木皿を積みあげるなど、日用品を販《ひさ》ぐ小さな棚店が軒を接している。そこを曲がって、寺の裏手へ出ようとしたとたん、
「西園寺卿、おひろいで、どちらへ?」
頭の上からまた、大声が降ってきた。
「や?」
ふり仰ぐと、物見櫓《ものみやぐら》のてっぺんから見おぼえのある顔が覗いている。南六波羅の北条時国だ。
繁華な町角にはところどころ、市中警固のための櫓が設置され、楯をめぐらした最上層には見張り小屋が造られて、常時、探題役所の兵が詰めている。しかし、探題その人が櫓の上に登ることなど、まず、ありえない。
「時国どの、あなたこそ、どうしてそんなところにおられるのだ?」
実兼の問いかけに破顔して、
「ここからだと釈迦堂の境内が見おろせると思いましてね」
築地の内側を時国は指さした。
「でも、当てがはずれました。仮り屋の屋根と見物人の頭だけしか見えんのです」
「おりていらっしゃい探題どの」
松若が手まねきした。
「わたしが本堂の、よい席へおつれします。西園寺の殿さまとご一緒に、さあ、どうぞ」
裏門も、しかし表に劣らぬ人だかりである。松若は意にもかけず、
「ごめんよ、どいてくれ。お偉がたのお通りだあ」
持ち前の厚かましさでぐいぐい人を押し分け、本堂正面の庇《ひさし》ノ間《ま》へ実兼と時国を招じ入れた。敷き畳五枚分ほどの面積を、寺と交渉してあらかじめ買い取っておいたらしい。
実兼がおどろいたのは、芳善斎の上得意とみえる先客二、三人の中に、土御門《つちみかど》前内大臣通成の顔があったことだ。
「やあ、入道さま、あなたもお越しでござりましたか?」
あわてて挨拶する実兼へ、
「わしは一遍上人の帰依者でしてな」
法体の前内大臣は、にこやかに応じた。
ようやく落ちついて、あたりを見回すゆとりも生まれた。
(二条は来ていないだろうか)
それとなく前後左右に、実兼は目を配ったが、本堂も境内も人、人、人で埋まり、探し出すどころではない。
見ると、なるほど兵藤太が告げたように、ふだんは参詣人がちらほら行き来する程度の、ガランとした境内の中央に、今日は板葺きの小屋が立てられ、僧尼がぎっしり詰め合っている。
小屋の周囲は、まして身動きもできぬ混みようだ。その熱鬧《ねつとう》の中を一遍が、こごみ背を丸めて歩き廻る。ずぬけて丈が高く見えるのは、弟子の僧が肩車に乗せているからだろう。例の『決定往生六十万人』の札をねんごろに、一遍は一人一人に手渡す。争ってそれを受ける群衆の眸《ひとみ》が、結縁《けちえん》を望んでキラキラ輝く。いっせいに差し出す手の動きは、芦のそよぎを思わせる。
弘安二年の入京では、これほどのさわぎは起こらなかった。堂守りに追われて一遍は、因幡堂の縁下に一夜をあかしたくらいなのに、わずか五年後の今、慕い寄る人々の数は爆発的にふえている。前内大臣までが帰依者になったのは、いかなる理由によるものだろうか。
自己にきびしく、他者にあたたかく、まじめな、真剣な求道者であることは、実兼もみとめる。辺幅をみじんも飾らぬ気骨稜々とした外容に、ふしぎな魅力も感じるけれども、教義となるといま一つ、はっきりしない。まして何やら、芸能まがいの催しを始めたなどと聞いては、いよいよ首をかしげざるをえなかった。
「あの板屋で、なにをするのですか?」
土御門通成に、実兼はたずねた。官職を辞したあと通成は剃髪し、性乗《しようじよう》の法号を名乗っていた。屋敷の在り場所から、三条坊門入道どのとも呼ばれ、温雅な人柄を敬愛されている老人である。
「踊り念仏がおこなわれます」
「踊り? ではやはり、芸能を演じて見せるわけですか?」
「いやいや、空也《こうや》上人の流れを汲む念仏|行《ぎよう》じゃ。光勝空也をごぞんじかな?」
「むかし、六波羅蜜寺のあたりにいて、貧民の救済に生涯を捧げた市《いち》の聖でしょう」
「一遍さまは、『空也上人こそ我が先達なり』とつねづね仰せられています」
「ははあ」
どうも、よくわからない。隣席の一方に座を占めた北条時国に、
「探題も一遍に帰依したわけか?」
小声で訊《き》くと、
「わたしはヤジ馬ですよ。あんまり評判が高いので、覗きに来ただけです」
と、首をすくめる。待つうちに札の配布が終わったようだ。肩車からおりた一遍が板屋へ入ると同時に、待ちかまえていた僧俗の口から、いっせいに称名《しようみよう》の合唱が湧きおこった。
それは初めのうち、ただ坐して念仏をとなえるだけで、かつて因幡堂で実兼が耳にした形と変わらなかった。
「六字の名号は、一遍の法」
頌を誦する一遍の、朗々たる声に合わせて、
「南無阿弥陀仏、なむあみだ」
と、人々がとなえる。
「十界の依正は、一遍の体」
南無阿弥陀仏、なむあみだ。
「万行、念を離るるは一遍の証」
南無阿弥陀仏、なむあみだ……。
やりとりは、だが次第に切迫し、高揚してくる。打ち鉦の乱調子がそれを煽り、念仏は巨大なつむじ風となって人々の頭上を旋回しはじめる。
板屋にいた僧尼らが立ちあがる。輪になってぐるぐる回り出す。一遍もその中の一人だ。つられて民衆が行動を起こす。僧尼らと一緒に彼らも回る。念仏の掛け合いはいよいよ急となり、大合唱が四隣を圧倒する。
僧尼らが跳躍しはじめた。手を振り、足を踏みとどろかし、急造の仮り普請は床《ゆか》が抜け落ちんばかりな音響を発する。どんどん、どどん、どんどん、どどんと、それは太鼓の役目をはたし、だれの表情も無我の陶酔に満たされる。
実兼は怕《こわ》くなった。彼は酔えない。醒めた目で眺めると、渦まく熱気が異様な、猥雑なものにしか感じられず、狂気の中に、ひとり正気でいるような孤絶の思いを味わわされた。
そっと、となりをうかがうと、しかし北条時国も呆れ顔をこわばらせている。松若はニヤニヤ笑っているし、背後に控えた兵藤太の口もへの字に曲がって、あきらかな反撥をにじませていた。冷静な批判者は、実兼だけではなかったのである。
「これが踊り念仏というものか探題どの」
「そのようですな」
「いつまで続ける気だろう」
「くたびれて、へたり込むまでやるのでしょうよ」
と時国は、やけくそじみた言い方までする。
まもなくピタと、鉦の音がとだえ、足拍子がやむ。同時に人々も恍惚状態から抜け出し、憑《つ》きものでも落ちたように日ごろの表情に返る。
さも用ありげに、そそくさ門外へ出て行く男、汗みずくな僧尼らのために井戸へ走って、手桶に何杯も水を運んでくる女、境内に散らかったゴミを拾う童子など、ありふれた市井人の姿を取りもどしながら、揃って湯浴みでもしたあとのようなさっぱりとした顔つきなのが、実兼の印象に強く残った。
人ごみにすきができたので、兵藤太は駆け廻って二条を捜したが、今日は来ていないのか、やはり見つからない。
「みなの衆、我が家へお立ち寄りなさらぬか。枇杷《びわ》が熟れごろじゃで、馳走したい」
と土御門性乗入道が、実兼らを誘った。
咽喉《のど》が乾ききっていたので、遠慮なく三条坊門の土御門邸へお供したが、招待の口実にしただけあって、枇杷のみごとさは類がなかった。
肉厚な、濃緑の葉を白木の折敷《おしき》に敷き重ね、その上にもぎたての実が山なりに積まれて出て来たのだ。清水でさっと洗いあげたのだろう、うぶ毛の水滴に日ざしが反射して、手に受けるとずっしり重みを感じるほど、粒が大きい。
「こんなのが、お庭になるとはうらやましい」
「よく熟れているので、するすると気持よく皮がむけますなあ」
「うん、甘いッ。じつにおいしい」
と実兼も北条探題も、芳善斎の松若までが褒めちぎる。
通された泉殿がまた池に臨んで、吹き渡る風の涼しさといったらない。水蓮の浮き花を眺めながら、
「どうぞ、いくらでも召し上がってくだされ。たわわに実をつけた大木が、裏庭に十本もありますで、な」
すすめ上手な主人《あるじ》の言葉にまかせて、思う存分、甘露さながらな枇杷のつゆをすすりこんでいると、釈迦堂での暑さが嘘のようにすら思えてくる。
でも、枇杷は魚をおびき寄せる餌で、性乗入道の目的は、『縁なき衆生』ともいえる三人に、一遍の人格を語って聞かせることにあったようだ。
「いかがでしたかな? 先ほどの踊り念仏」
おもむろに、問われて、
「正直、どぎもを抜かれました。なぜあんなふうにどかどかどんどん、跳ね踊らねばならんのですか。群衆の熱狂ぶりも正気の沙汰じゃありませんな」
関東武者の率直さをまる出しに、北条時国が言ってのけた。実兼や松若も、腹の中で同調している。性乗入道は逆らわずに、
「その疑問は、だれもが抱くようですな」
彼もまた、おだやかにうなずいた。
「釈迦堂でも申したように、融通《ゆうずう》念仏、踊り念仏は光勝空也が、むかし洛中の市屋《いちや》や町の辻々ではじめたものでな、その後、ながらく絶えていたのを、一遍上人が再興なされたわけでした」
伝えによると、空也は醍醐帝の皇子だという。尊貴の身に生まれながら、深く民衆の憂苦に思いを致し、貧民窟に住んで、病者や孤老の支えとなった。薬を調じて飲ませ、その悩みを聞いてやり、死ねば額に「阿」字を書いて、ねんごろに葬った。疫病や飢饉などでおびただしい犠牲が出、葬地の鳥辺野《とりべの》に収容しきれなくなった遺棄死体が、鴨川の河原までを累々《るいるい》と埋めて、水の流れがとどこおるほどの酸鼻を現出したときも、死臭腐爛の地獄図の中で何万体もの亡骸《しかばね》に「阿」字の引導を授け、彼岸への往生を祈念して廻ったのは空也であった。
「死者の供養にまして大事なのは、生きておる者の心身の救いじゃ。なしうる限りの慈善福利……。その一助として光勝空也がお創《はじ》めなされたのが踊り念仏でござりました」
苦労ばかりが肩に重くのしかかって、楽しみというものの少ない底辺の人々が、隣り近所、知りびと同士誘い交わして聖を中心につどい集まり、声を合わせて称名をとなえる。
「それだけでも話し合いの場が生まれ、くらしのつらさ、生き身の悲しさがまぎれる上、思いきり声を張りあげて念仏に打ち込むうちには心がしぜんと解き放たれて、忘我の法悦にひたれてまいります」
すると無意識に手があがる、足があがる、信仰のよろこびに身体が打ちふるえ、いわゆる歓喜踊躍《かんぎゆやく》の境地に踏み入ってゆく。
「踊り念仏の功徳《くどく》、醍醐味はここですのじゃ」
土御門入道性乗の説明に、
「酒を飲んで酔っぱらうのと同じですな」
ぶしつけな横槍を入れたのは、芳善斎の松若である。上顧客だろうと永年のお出入りだろうと斟酌《しんしやく》なしに、小憎らしい口をきくのはこの男の習癖だが、さがり目尻のえびす顔がさいわいして、ふしぎに耳にさわらない。
「まあ一種の酩酊状態ゆえ、酒の酔いと大差ないかもしれぬな」
と気の練れた老入道はうなずきながら、
「ただし酒毒は用いすぎると身体をそこない、心を荒らす。一《い》ッ時のごまかしにはなっても憂悶そのものの根を絶つ力はない。醒めてののちに残るのは悔いばかりじゃ」
諄々《じゆんじゆん》と説く。
「そこへいくと念仏の酔いは尊いよ松若。心身をすがすがしく清め、苦労に耐える強さを培《つちこ》うてくれる。一ッ時かぎりのごまかしではない。忘我の法悦をくり返し体験するあいだに、貧苦病苦、もろもろの苦痛を超えて、その先に在る大きなものが見えてくるのじゃ」
「蒙昧《もうまい》な下民層が市《いち》の聖を渇仰する気持はわかります。しかし先ほどの釈迦堂では、貴人の微行《びこう》らしい牛車も七、八輛見かけました」
と、代わって質問したのは実兼だった。
「入道どのはどういう機縁から、一遍上人に帰依するようになられたのですか?」
「それを語るためには、恥を明かさねばなりませぬ」
性乗の頬に、はにかみ笑いが泛かんだ。
「何年か前、入京されたさい、人々の間に『一遍さまは勢至《せいし》菩薩の化身じゃ。あのかたが洛中へ来られた日、天に紫雲たなびき、地に花が降った』とのささやきが拡まりました」
本当ならすばらしい。聖者の出現だと感激して、性乗は一遍に会いに出かけた。
「このとき、一遍さまはきびしい口調でおっしゃったのです。『菩薩でなければ信じられぬか。乞食坊主が説いても仏法は同じじゃ』と……。また、紫雲や散華《さんげ》についても『雲のことは雲に、花のことは花に問われよ。一遍は知らぬ。奇瑞奇蹟にはかかわりない』と叱られましたわ」
霜月騒動
人は、えて死人が生き返った足|萎《な》えが立った、天から甘露が降った花が舞った、といった話をふしぎがる。奇蹟だといってひれ伏す。
一遍はしかし、土御門入道性乗を、こう訓《さと》したという。
「仏法に、ふしぎはない。もし強《し》いてそれを求めるなら、毎日かならず、東から出て西へ沈む日輪、高きより、かならず低きへ流れる水、あやまたず巡《めぐ》りくる四季、寸毫《すんごう》の狂いもない宇宙の運行――。人が当り前と思うて見すごしておるありのままなる眼前の実相《じつそう》をこそ、大神秘、大不可思議と申してよろしかろう」
この言葉に、性乗入道はつよく搏《う》たれた。末法の世の聖《ひじり》の出現と、随喜もした。
「甘露もな、奇蹟によって天から降るものではござらん。自然の恵みを受けてみごとにみのったこれ、この枇杷のつゆの清澄なしたたりこそが、真の甘露なのでござるよ」
入道に言われて、はじめてなるほどと、西園寺実兼は合点した。北条時国も、
「なかなかの坊主ですな」
大幅に、一遍への認識を改めたようだった。空也上人の精神を汲む踊り念仏も、集団での没入がもたらす歓喜踊躍《かんぎゆやく》の表れであり、狂気や憑《つ》きもの、飲酒による酩酊状態とは似て非なる法悦境なのだと説かれれば、これもどうにか納得がいく。
「山林や庵中など、幽邃《ゆうすい》の境に身を置いて、ひたすら自己をみつめ、真理に至る一筋の道をさぐり求めるのが、仏者本来の在り方だとわたくしあたり、思い込んでいたのです」
実兼は述懐した。
「つまり孤独、静寂な姿ですな。ところが釈迦堂で目にしたのは大群衆だった。静寂どころか、耳を聾《ろう》する念仏の唱和だし、熱狂的ともいえる舞踏でした。孤と群れ、静と騒のあまりな落差、従来の思い込みとの違いの大きさにとまどって、理解する前に嫌悪してしまったということなのでしょうな」
「さよう。あのそうぞうしいカンカン、どんどんには、だれしもびっくりし、眉をひそめるのは当然ですのじゃ」
どこまでも柔和な微笑をたやさずに、性乗入道はうなずいた。
「わけて今、西園寺卿が仰せられたように、宗教を静なるもの孤なるものと捉《とら》えておる知識層の、踊り念仏への反撥ははげしい。しかしなあ、弱い者、貧しい者は、孤では生きられませぬ。頼りになる芯棒のもとに群れつどい、同じ求め、同じ思いの中に個々の苦痛を溶かし合うてはじめて、強くなる。わしの言う弱者貧者とは、無知貧困な下民だけをさすものではござらんよ。身分が高うても、富んでいても、心よわく、支えを欲している者なら同様、一遍上人のごとき無我無欲の覚者《かくしや》、その口から告げられる弥陀の誓願に、すがり寄らねば生きられぬ。わしなどもそれ故に、人々の仲間入りしに出かけますのじゃ」
やがて三人は、土御門邸を辞去した。
睡蓮を渡る泉殿の涼風、歯に沁むほど冷たく爽やかだった枇杷の味わい。それらにまして心を洗われたのは、性乗入道の口を介して一遍の人格の一端を知りえたことだった。
「おかげですっかり、汗が引きました」
「気持よく、家路につけます」
「また、ぜひ寄らせてくださいませ」
くちぐちに謝意を述べて座を立ったのだが、門を出るととたんに俗界の俗気がむッと全身を押し包んでき、引いたはずの汗がみるみる噴き出すと同時に、彼らはふたたび、元のもくあみにもどってしまった。
松若が、欲にぎらつく商人眼《あきゆうどまなこ》を取りもどし、
「では、手前はここでお別れいたします。唐紙の出物が格安に、さる大寺から払いさげられることになりましてな。同業に嗅ぎつけられぬうちに手を打たねばなりませぬ」
やれ忙しや忙しやと、いつもの口癖とともにせかせか立ち去って行ったあと、
「西園寺どの、おりいってお話がございます。お屋敷へお供させていただけませぬかな」
北条時国が、これもいかにも事ありげに、実兼の耳もとへ口を寄せてきた。
「よかろう。牛車に共乗りしていこう」
「いや、それは憚《はばか》られます。馬で来ましたから、お車に添ってまいります」
「暑かろうが……」
「かまいません。いざ、お供を」
と気負い立つ顔は、もう、すっかり権謀にたけた六波羅探題のそれにもどっている。
実兼にも、北条時国が何を言おうとしているのか、およその意図は推察できた。
じつはひと月ほど前、執権北条時宗が他界した。享年三十四――。
二度にわたる元寇に心身をすりへらしての早世といってよく、病床に臥した期間もごく短い。最期まで、それでも気丈さを失わず、円覚寺の開山無学祖元を招いて戒を受け、その日のうちに卒したという。
十四歳になる嫡男の貞時を執権職とし、北条重時の五男|業時《なりとき》を加判《かはん》に据えて、お飾り将軍|惟康《これやす》親王を推戴しつつ幕政をとってゆくという体制は、病臥するとすぐ、周到にととのえて亡くなった時宗ではあったが、あまりにも呆気《あつけ》なさすぎ、早すぎもしたその死に、実兼でさえ愕然としたほどだから、直後の今、鎌倉がどれほど混乱しているか、想像にかたくない。
宗家嫡統の勢力強化につとめ、いわゆる得宗《とくそう》支配の根固めのためには、冷酷なまでに邪魔者排除の挙に出た辣腕《らつわん》の執権である。
しかし院や朝廷にとって、時宗はけっして扱いにくい男ではなかった。関心の大部分を対蒙古策にふり向けねばならなかったためもあろうけれど、京都に対して、うるさく干渉してくるようなことは避け、
「すべて、思し召しのままに……」
と、何事につけても距離を置いていたのだ。
それだけに、
「相州、薨去《こうきよ》す」
との急報に接したとき、後深草・亀山両上皇はもとより、廷吏のことごとくが、
(どうなる? この先……)
不安に駆られたのは当然だった。
関東申次役の西園寺実兼は、ことにも執権家の権力交替には敏感にならざるをえない立場にある。
ただちに彼は南北六波羅の探題から状況の詳細を聴取し、院や朝廷の重臣たちとも話し合った。そして、
「当面、注意ぶかく、鎌倉の動向を見守っていこう」
というのが、そのとき出た結論だったから、六波羅南役所の北条時国に、
「おりいって、お耳に入れたいことがございます」
ささやかれたとき、
(さては内紛が惹起《じやつき》したな)
すぐさま察しがついたのである。
炎暑の道を汗まみれになって屋敷へもどり、土御門家での接待を真似て、
「ここがいちばん風通しがよいぞ」
泉殿に時国を案内したが、池に睡蓮はなく、もてなしに甘露の枇杷もない。
「冷酒をふるまおう」
と運ばせて、酌取りの女も近づけず、主客二人きりの密談に入った。しかし話そのものが実兼の推量にたがわず、暑くるしい幕閣内部のごたごただったから、汗は引くどころかますます噴き出して、双方とも顔がまっ赤になった。むろん酒気のほてりもある。
「どうもいけません。法光寺どのの歿後、秋田城介《あいだじようのすけ》の専横が、ますます目に余りはじめたのです」
というのが、北条時国の訴えであった。『法光寺どの』は、前執権時宗の法号、『秋田城介』は、安達|泰盛《やすもり》の通称で、彼は時宗の妻の父――つまり舅《しゆうと》である。
安達氏は、源頼朝以来の功臣として、代々、幕政の枢軸につらなってきた有力御家人だが、その娘が時宗の室に迎えられてからは、ことにも泰盛の発言力はつよくなった。
『秋田城介』の呼び名も、奥州の蝦夷《えぞ》にそなえるため、古代もうけられた秋田の柵《さく》の守将をさすもので、すでに現在は、該当する官職は存在しない。ただ、武門の名誉の証《あかし》として、呼称だけが残った。それを許されている一事からも、安達氏の威勢がどれほどのものか、実兼にすら推《お》しはかれるのである。
泰盛自身は将軍家の近習をふり出しに、引付衆《ひきつけしゆう》、評定衆《ひようじようしゆう》、越訴《おつそ》奉行などの要職を歴任……。蒙古来襲のさいは、せがれの盛宗を守護代として北九州へ派遣し、自身は恩沢《おんたく》奉行となって将兵らの首の根をおさえた。論功行賞の権限を一手ににぎる最高官なのだから、その睨みが、全軍を圧したのはいうまでもない。
あれはたしか、弘安五年の秋ごろだったと記憶している。執権北条時宗から、
「安達泰盛を、陸奥守《むつのかみ》に任じたい。朝議へのおとりなし、よろしくたのむ」
と依頼されたときも、西園寺実兼はその書状の文面に、内心じつは、目をうたがったものだ。
「陸奥守は従来、北条一門にかぎられた官職ではないか。それを泰盛に許すとは……」
時宗の、舅への信頼の厚さにおどろいたのではない。猜疑心がつよく、一門や有力御家人の勢力の肥大化を、つねづね極端なまでに警戒した時宗が、安達泰盛にだけは心をひらいている……。時宗ほどの男を、そこまで懐柔しえた泰盛の、対処のうまさ、幕閣内における遊泳術の巧みさに、瞠目させられたのである。
権力志向にこりかたまった武辺一点張りのわからず屋というのではなかった。関東申次役の西園寺家はもとより、関白職の鷹司《たかつかさ》家はじめ上卿たちには、時候の挨拶を欠かさないし、陸奥守任官が実現したあとも、
「分にすぎたる栄誉、感謝にたえません」
丁重な口上に添えて、砂金、駿馬《しゆんめ》、矢に矧《は》く極上の鷹の羽根など、奥州の特産品をさっそく泰盛は贈ってきている。
信仰心も相応に持ってい、紀州高野山の金剛三昧院で、灌頂《かんちよう》を受けているし、参道に建てる丁石の寄進などにも、すすんで応じたと実兼は聞いた。
「いいや、見せかけですよ。あの俗臭ふんぷんたる野心家に、本ものの信仰心などあってたまるものですか」
と、北条時国の否定は、しかしニベもない。
「法光寺どのが急逝されたあとも、そら涙をこぼしながら柩《ひつぎ》のかたわらでもとどりを切り、法体になって見せたそうですが、以後の専断ぶりが彼の本心を暴露しています」
新執権の北条貞時は、まだ十四歳の少年……。しかも安達泰盛の外孫である。おのずから後見《こうけん》役を買って出ることになった泰盛が、中心となって幕政を切り回しはじめたとしても、それはやむをえぬ成りゆきであった。
しかし、この現実に危機感をつのらせて、
「なんとか今のうちに、安達一族の勢力伸張を抑え込まねば、北条宗家の存続すらあやうくなるのではありますまいか」
と、時国は言いつのるのだ。
「ことわざにも『双葉のうちに刈らずんば斧《おの》を用うるの憂い生ず』とございます。泰盛入道ばかりか、せがれどもの増長ぶりも近ごろ目に余るありさまとか……。率先して法を守らねばならぬ立場にいながら、ほしいままに禁野を狩り廻り、腕自慢のあぶれ者どもを大勢めしかかえて、縦《たて》の道を、横にのし歩く傍若無人さとも聞き及んでおります」
「つまり……」
実兼の語調は重くるしかった。
「安達一族を誅《ちゆう》してのけたいということか」
「仰せの通りです。拙者、泰盛入道の素ッ首を打ち落とす決意でおります」
腕を叩いて、時国は吠えた。思慮はさして、深いとは思えない。ただ、血の気《け》の多さでは人後に落ちぬ坂東武者の一典型であった。
「でも、そこもとはいま、六波羅南方の重責を奉じて在京の身だ。おいそれとは動きがとれぬのではないか」
「そこです。おりいってのお願いというのは……」
膝先に据えられた白木の折敷《おしき》を、ぐいッと押しやった拍子に酒の瓶子《へいし》が倒れ、つまみ代りに出してある塩豆の皿が吹っ飛んだが、そんな些事には目もくれぬ思い詰め方で、時国は実兼の片脇に身体をすり寄せて来た。
骨太な、四角ばった体躯から、残暑のほてり酒気のほてりをむらむら立ち昇らせているので、近づいてこられただけで暑くるしい。
「何とか口実をもうけて、拙者を鎌倉へ行かせていただけますまいか。関東より召還の達しでもこぬかぎり、自儘《じまま》に離京はできないし、押して帰れば怪しまれます。しかし関東申次役の西園寺卿の、特命をこうむって密々に下向したとあれば、すこしも訝《おか》しくはないわけです」
「飛脚がある。使者に書状を持たせてもすむことなのに、わざわざ探題を煩わせるとなると、よほどの理由づけが必要だぞ」
「ちょうど執権の代がわりでもあります。今上陛下から煕仁皇太子へのご譲位問題が浮上しはじめている現在、それについて極秘裡に、幕閣の要路と打ち合せをするといった内容ならば、事はすこぶる重大……。拙者がじきじきお使者をうけたまわっても疑われる恐れはないはずです」
「なるほどな」
実兼は微笑した。時国にしては、なかなかの思案だが、自分の義憤に実兼が共感し、安達泰盛の暗殺計画を、すぐさま支持してくれるものと決めてかかっている単純さが、いかにも幼稚に思えた。
「北の探題には議《はか》ったのか?」
「北条時村ですか? いや、彼はだめです。老体ですしね。刀槍を握っての蹶起《けつき》など思いもよりません。六波羅づとめすら億劫《おつくう》になってきたらしく、近々、辞職したいような口ぶりでしたからね」
安達一族の威勢が突出し、内紛の種になりかかっているとの風聞は、実兼も耳にしていたし、公武の結びつきに、それがどのような結果をもたらすか、懸念してもいたやさきではあった。だからといって、時国一人の手でやすやす倒せる相手とは、考えにくい。いま少し日かずをかけ、泰盛打倒の気運がもりあがったところで決行しないと、成功はおぼつかなく思われた。それだけに実兼は、
「よろしい。密書を書こうじゃないか」
語調だけはいかにもたのもしげに、時国の依頼を、表向き応諾したのであった。
「ありがたい。西園寺卿の密命をおびて下向するのだと言えば、北の北条時村はじめ六波羅役所のだれ一人、不審する者はいません。やすやす都を離れることができます」
よろこぶ時国へ、
「で、いつ立つ?」
実兼は問いかけた。
「御書《ごしよ》を頂き次第、離京することにします」
「わかった。ここ十日以内にしたためよう」
「お待ち申しております」
帰って行くのを見すまして、実兼はただちに腹心の兵藤太を泉殿へ呼び寄せ、時国の計画と自身の役割りについて話して聞かせた。そして日がくれるのを待って六波羅の北役所へ走らせ、北条時村に委細を密告させたのである。
「しかと、うけたまわりました。ただちに善処いたすむね、西園寺の殿にお伝えください」
兵藤太に時村は答え、その夜のうちに早馬の使いを派して、安達泰盛に急を知らせた。
この北の探題は、時国が侮《あなど》って言うほど老耄《ろうもう》してはいず、退嬰《たいえい》的な人物でもない。むしろ時国などよりはるかに世故《せこ》にたけ、敏腕な実務家だと実兼は見ていた。
こうして、約束の十日後――。実兼は時国に渡す書状を書き、巻き終りを蝋《ろう》で封じた。それを状箱に納め、紐の結び目に、さらに固く封印をほどこしたのであった。
受け取るとすぐ、その場から東下するつもりか、時国は旅装をととのえて西園寺家へ現れたが、
「殿、今生《こんじよう》のお別れでございます。幾千代までのお栄えを、念じております」
武骨な両眼に、涙を泛かべたのは笑止だった。
「斬り死でもするつもりか?」
「元凶をしとめても多勢に無勢。家の子郎党に取りこめられ、たぶん生きては帰れますまい」
「ばかだな。時と場所を選べばいくらでも脱出は可能だし、志を同じくする友人や親族が、鎌倉にはごまんといるはずだ。深刻がるなよ」
「そうですな。ははは、おっしゃる通りやりようによっては、死ぬと限ったものでもない。こりゃあ負うた子に、浅瀬を教えられましたなあ」
いま泣いた鴉《からす》が、もう笑って、勇ましく出立して行ったが、鎌倉の町なかへまだ一歩も印さぬうちに、待ち伏せていた安達の手の者に、極楽寺坂の切通しで主従八人、あえなく捕縛されてしまった。
家来どもをその場で斬り、時国だけを常陸《ひたち》へ流したのは、ともあれ北条相模守時房の曽孫だからである。しかし、すぐさま配所で誅して、安達氏は事件の拡大を防いだ。
荷の中に、時国がしっかり包みこんで所持していた西園寺実兼の書状は、泰盛入道の許へとどけられ、披見された。でも、そこには時国が予想していたような文言など、一行半句もなく、代りに古歌が一首、濶達な筆づかいでしたためられていただけだったのである。
それは、新古今和歌集の釈教の部に収めてある素覚法師の詠歌で、
草深き狩場の小野を立ちいでて
友まどはせる鹿ぞ鳴くなる
というものだった。鹿を、その二文字から刺客に通じさせ、京都を立っておっつけ、物騒な殺し屋がそちらへまいりますよ、と暗に告げている。一種の駄じゃれ、言葉の遊びにすぎないのに、
「おかげで命を拾い申した。西園寺どの、この通りでござる」
泰盛入道は京の方角に向かって、ふかぶかと頭をさげたばかりか、千両もの砂金を荷駄に積ませ、すぐさま上洛させた。実兼へ贈った謝礼であることは、いうまでもない。
北六波羅を介しての密告も、時国の誅殺も、この賄賂《まいない》まがいの贈り物まで、いっさいが闇から闇にひとしい隠密行動でなされたものだから、当事者のほか、ほとんど知る者はなく、実兼もむろん口をぬぐって、そしらぬ顔をしつづけた。
安達一族の専権は、しかし、わずか一年ほどで終止符を打った。出すぎた杭を、打とうと画策していたのは、北条時国だけではなかったのだ。
前執権時宗の死後、父のあとをうけて執権職を継いだ貞時が、
「平左衛門よ、左衛門尉よ」
と、ふたことめにはその名を呼んで、頼りにし、無二の相談相手にもしていた人物に、平頼綱という男がいる。
代々、北条|宗家《そうけ》に仕えてきた家柄だが、頼綱の妻が、貞時に乳をあげた乳母、という関係から、とりわけ主従のよしみは深く、貞時の執権職就任とともに、頼綱は内管領《うちかんれい》の要職についた。これは、北条宗家の、家宰と称してよい地位である。
安達入道泰盛にすれば、頼綱の擡頭《たいとう》はすこぶるおもしろくなかったし、頼綱の側も安達一族の権勢の増大に、
「なんとかせねば……」
警戒をおこたらず、それどころか、進んでこれを倒す機会をうかがいはじめた。
「内管領のうごきが怪しいぞ」
泰盛入道も用心し、ひそかに兵を集めて応戦の準備にかかったから、鎌倉は、まさに一触即発の危機下に置かれた状態となった。
すばやく立ち廻って機先を制したのは、平頼綱であった。執権貞時に、彼は讒言《ざんげん》したのである。
「近ごろ、安達入道のせがれの宗景が、源氏を僭称しはじめた事実を、ごぞんじですか?」
「いや、知らぬ。なぜだ?」
「父祖の安達景盛は、右幕下《うばくか》頼朝公の落胤であった、それゆえ源姓を名乗って当然だというのが表向きの理由ですが、その底意は、将軍職を狙っての布石にちがいありませぬ」
源氏・平氏の二大武族は、交互に国家守護の任につくという言いならわしがある。
平清盛が平家政権を打ち立てたあと、これを倒した源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ、彼は征夷大将軍に任ぜられた。
その源家の血統が絶えた今、皇室から宮殿下《みやでんか》の東下を請《こ》い、名目だけの将軍位につけているけれど、実際には平姓の北条氏が実権を握って、幕政を切って回している。
したがって、北条氏に取って代わって次にのし上がってくるとすれば、それは源姓を冠する者にほかならないから、
「安達入道の子息が源氏を名乗りはじめた狙いは、将軍位の簒奪《さんだつ》にあります」
とする平左衛門尉頼綱の讒言は、思慮未熟な少年執権の耳に、じゅうぶん効果を発揮する毒液として、そそぎこまれたのである。
それでなくても手塩にかけて、愛育してくれた乳母と、その夫の言葉だ。貞時はたちまち動かされ、安達一族への憎しみを燃えあがらせた。
安達氏は貞時の生母の里方だが、北条氏にかぎらず、上流階層の母親は子を生んでも、ほとんど育児にたずさわらない。乳母まかせだから、成人し、権力の座についたとき、子は母よりも、乳母の言いなりになるのが普通だった。
それに、後深草院とすけ大の例がそうだったように、乳母は育ての君の、性の指南役を兼ねる場合が多い。擬似母であると同時に、初恋の対象でもあるわけだから、他人行儀なよそよそしさでしか接する折りのない生みの母などより、子ははるかに、乳母を慕う。愛情も抱く。乳母の夫が野心家だと、妻と育ての君の異常な親愛関係を、とことん利用する。新執権貞時も、頼綱夫婦の自家薬籠中に取りこまれて、
「けしからん。安達氏の大それた下ごころ、いまのうちに挫《くじ》かねば厄介なことになるぞ」
その誅伐を決意した。そして、
「相談したいことがある」
なにくわぬ顔で泰盛父子を呼び寄せ、殿中のあちこちに潜ませていた武者どもに、いきなり襲いかからせたのであった。
つまりこれは、貞時をめぐる母親と乳母の激突だが、それだけで片づけるわけにいかない側面も持っていた。
安達氏は、御家人層の利益を代弁する立場にある豪族だし、平頼綱は北条宗家の譜代として、その家臣団を代表する有力者である。
彼らの争いは、だから御家人層と北条氏直属の家臣との対立抗争にまで拡がる恐れを孕《はら》んでいた。
「安達入道どのご父子が謀殺されたぞッ」
絶叫が走ると同時に、鎌倉の町々は大混乱に陥り、各所ではげしい戦闘が始まった。火の手もあがった。浜風に吹きちぎられて、焔が将軍の御所にまで燃え移る騒ぎとなったのである。
戦火はまたたくまに関東一円にひろがり、九州にまで飛び火して、全国的な動乱のきざしを見せはじめた。
九州で合戦が起こったのは、安達泰盛入道の子息の一人が、守護となって肥後に赴任していたからである。
このように、あっというまに諸国へ波及したわりには、終熄するのも早かった。平頼綱の手の打ちようが迅速をきわめ、終始、安達側を圧倒しながら戦いを進めて、勝敗を決してしまったからであった。
そのかわり、殺戮のおびただしさ容赦のなさは、言語に絶した。鎌倉の市街は辻も路も、討ちとられた将士の死骸で埋まり、行き来もままならぬありさまとなった。
阿鼻叫喚の中を火に追われ矢に追われながら、家財を背負った町民らが右往左往、逃げまどう。
「安達、討つべし」
と号令した張本にもかかわらず、執権北条貞時までがやがては身の危険を感じて、邸内から逐電するほどのさわぎになったのも、頼綱の掃討ぶりが苛酷をきわめたからである。
安達の与党はいわずもがな、まったくかかわりのない者までを、
「このとき……」
とばかり頼綱は攻撃して、私憤をはらした。目の上の瘤《こぶ》、邪魔と思う相手を、安達側と否とに関係なく無差別に殪《たお》し、民心を恐慌のどん底に突き落としたのだ。
猜疑ぶかく、冷血無情な頼綱の本性が、はからずも露呈したわけで、貞時が一時、鎌倉から逃げ出したのも、その体内に流れる安達の血を憚《はばか》ったためだった。
弘安八年十一月に勃発したので、この戦乱は『霜月《しもつき》騒動』と呼ばれた。そして、それ以来、幕府の実権をにぎったのは、いうまでもなく平頼綱と彼の子息や弟たち、また、頼綱と身分立場を同じくする工藤、大瀬、小野沢ら北条氏|譜代《ふだい》の家臣団である。
彼らは自分たちを『御内方《みうちかた》』、御家人らを『外様《とざま》』と呼んで区別し、幕府の内外に睨みをきかせて一種の恐怖政治を断行した。
京都では、院も朝廷もが鳴りをひそめ、首をすくめ合うようにして暴風雨《あらし》のすぎ去るのを待った。
西園寺実兼は、ことにもその職掌柄、騒動の推移を注視しつづけ、両六波羅を介して情報の入手を怠らなかったが、
(専横とはいっても、まだ安達泰盛入道のほうが、頼綱よりましだったのではないか)
というのが、実兼の観察だった。
(これからは外様の力が衰退し、北条|宗家《そうけ》と、その一門による守護国が、増大の一途をたどるにちがいない)
そうした新しい局面が、院と朝廷にどう影響を及ぼすか、さし当たっては後宇多帝の譲位問題に、どんな形でひびいてくるか、実兼にすれば気にかかるところであった。
卒寿の姥
同じ年の春、西園寺家の所有する北山の別邸では、『常磐井《ときわい》の准后』とも『北山の尼公』とも尊称されている実兼の祖母が、めでたく九十の齢《よわい》をかさねて、卒寿の賀宴が開かれた。
名は貞子――。切れ者と評判された故西園寺実氏の、未亡人である。
実兼の父の公相は別腹だが、貞子は実氏との間に、大宮院|※子《よしこ》を生み、さらに東二条院公子を生んでいる。
その上、|※子《よしこ》が後嵯峨院の皇后に冊立されて、後深草・亀山の両上皇を儲け、公子もまた、後深草院の中宮に配されたから、貞子への、世人の崇敬はひとかたでなく、女ながら三后に準じる待遇を受けて、実氏の歿後も悠々と、北山での閑日月をたのしんでいたのであった。
しかも、ならぶ者のない長命……。七十歳ですら「古来、稀《まれ》なり」と、たたえられるのに、それよりなお、二十年も多く永らえながら、ほんのわずか耳が遠くなったほか、身体に故障は一つもない。
堆黒《ついこく》の小箱に封じたさくら貝に添えて、自作の道の記『十六夜日記』を、はるばる実兼のもとへ贈ってきたあの、冷泉家の阿仏尼《あぶつに》は、おととし、訴訟の結果も待たずに、鎌倉の仮寓ではかなくなった。享年七十五と聞いたとき、
「さして、歎くには当らぬ年齢……」
と実兼は思ったけれど、それとて北山准后の九十歳にくらべれば、まだまだ惜しい。
去年の、ちょうど桜のころには、前斎宮の|※子《やすこ》内親王が他界した。異母兄後深草上皇の気まぐれから、一夜かぎりの夢の記憶を抱きつづけて、わずか三十六年の短い生を閉じたのだし、その二ヵ月あとに世を去った執権北条時宗も、三十四歳の若さである。
彼らのほぼ、三倍近くも生きて、まだまだ矍鑠《かくしやく》としているというのは、もはや人間|業《わざ》とは思えない。
「神仏の冥助《みようじよ》をこうむったお方だ。祝って、寿福にあやかりたい」
そこで、卒寿の宴が催されることになったのだが、息女の大宮院・東二条院はじめ、おん孫の後深草・亀山両上皇、曽孫にあたる後宇多帝や煕仁皇太子、そのほかの宮々まで、こぞって北山への行幸啓を仰せ出《い》だされたから、供奉《ぐぶ》の文武百官、女房たちの数はおびただしく、主催者の立場に立たされた実兼の多忙ぶりは、
「あなた、すこしお痩せになりましたよ」
妻の顕子が案じたほどであった。
二泊三日にわたる賀宴の皮切りは、尼公の、この上の延命健勝を祈る法会《ほうえ》、そのあとで舞楽が演じられる。翌日は、管絃の御遊《ぎよゆう》に歌合わせ、蹴鞠《けまり》。三日目は船遊び……。しかし実兼にはいま一つ、今回の機会をとらえて、ぜひとも、やってのけたい計画があった。それは、いまなお勘当《かんどう》同然な仕打ちを受けている二条を、上皇御所へ復帰させることだったのである。
一遍が二度目の上洛をはたし、四条京極の釈迦堂で踊り念仏の大群集をあつめた日、二条をさがしあぐねた実兼は、その後も三条の悲田《ひでん》院、蓮光寺、雲居寺《うんごじ》、六波羅蜜寺など、一遍と彼の従僧らが巡歴した寺々に兵藤太をつかわして、
「もしや、来てはいないか」
と、根気よく二条の動静をたずねさせた。しかし一遍の行くところ、どこも念仏衆の熱狂でごった返し、とうとう見つけ出すことはできずじまいに終ってしまった。
手紙をやれば、まわりの者が握りつぶして渡さないのか、返事はこないし、思いきって訪問してみても、四条家の親族どもに、
「病中ですので、お目にかかれません」
ていよく門前払いをくわされる。
生死のほどさえ不明な状態だったから、北山尼公の卒寿の祝宴は、実兼には逃がせない好機に思えたのだ。
彼は叔母の大宮院|※子《よしこ》に申し入れた。
「二条どのを、いつまで里居《さとい》させておくおつもりですか。このたびの御賀に召し出して、帰参させるお気はございませんか」
「さあ」
大宮院はそらとぼけた。
「わたしには判断がつきかねます。二条は本院の想い者。許す許さぬは、本院のお気持しだいでしょうからね」
「いったい二条どのが、何をしたというのです? ご勘気をこうむるような罪を、いつ犯したのか、それを伺いたいものですな」
「まるで詰問口調ですね実兼。でも、そのへんもわたしには一向にわかりません。女房どもの噂では、性助法親王の忘れ形見を水死させ、まるでそれを東二条院の奸策ででもあるかのように騒ぎたてたために、本院にうとまれて、二条は御所を放逐されたと聞きましたが、つまりは本院が、あの女に飽きたということでしょうね。男と女の仲ですもの、罪だ罰だと固くるしく言うより、おたがいに飽きて別れたと考えるほうが自然でしょう。他人が余計な口を出すのはお節介というものです」
「上皇はどうあれ二条どのは、御所から出たいなどと思ってはいないはずですよ」
「それは虫がよすぎますね。二条は、あなたと浮名を流した。性助とは子までなした。近衛の大殿にも抱かれたし、新院ともあらぬ評判を立てられています。そんなふしだらな女に嫌気がさすのは、当たり前……。本院の御所を追われたのも、みずから蒔いた種ですよ」
「しかし北山尼公は、二条どのの母のすけ大には伯母に当るお人……。その賀宴から二条どのを閉め出すなんて、ひどすぎはしませんか」
「それならじかに、北山尼公にお頼みなさい。わたしはごめんこうむります。わたしの口ききで、二条の帰参がかなったなどと聞いてごらんなさい、妹の東二条院がどんなに腹を立てるか……。ほほほ、夜叉《やしや》みたいな怒り顔、思っただけで身の毛がよだちますよ」
年がちがう。貫禄もちがう。叔母・甥という立場からして大宮院|※子《よしこ》には歯が立たない。実兼は仕方なく北山へ出かけて、祖母の尼公に愁訴した。
「なになに、二条のお局とな?」
「はい。おばばさまのお里方の縁者です。姪御のすけ大が久我家へとつぎ、大納言雅忠との間に儲けた娘でございます」
「ふん、思い出したわ」
揉み紙細工の人形さながら小皺の寄ったいろ白な頬に、尼公は薄い笑みを浮かべた。
「すけ大に先立たれたあと本院のお手許に引きとられて、御所で成人したあの、二条であろ。亡き母によう似たきりょうよし……。琵琶の上手じゃ。いま二条は、どうしていやる?」
「御所を追われ、母方の実家に引きこもっております」
「四条家にか?」
「本院のご寵愛を、東二条院さまに憎まれたのです」
「童女の昔から、公子はやきもち深い子であったよ。はかないもて遊びの品や菓子などでさえ、姉の|※子《よしこ》と同じに与えなければ、かならず機嫌を悪くしたものじゃ」
「しかし、このたびの御賀にまで、二条どのをのけ者にしては、いかにも気の毒とぞんじまして……」
「よしよし、わかった」
卒寿の姥《うば》にしては呑み込みが早く、指示も適切だった。
「二条を、わしのかしずきにして宴席に伴えば、どこからも苦情は出まい。すけ大の、わしは伯母、二条の大伯母じゃ。縁から言うても、わしの片脇に二条が侍すは当たり前……。公子にも本院にも、文句は言わさぬよ」
「ありがとうございます。では、二条どのの召し出しは、おばばさまの仰せということで押し切らせていただきます」
「それでよい。主賓たるわしの意向に、だれが逆らえるものかよ」
さすがに威がにじんで、歯のない口から出たとは思えぬ声音《こわね》であった。
実兼はさっそく宮中で四条左少将隆良をつかまえ、北山准后のお言葉と称して、賀宴への、二条の出席を要請した。
「つつしんで、お受けせねばならぬ御諚《ごじよう》ですが、二条はただいま屋敷にいません」
隆良は、いささか困惑の態《てい》で答えた。
「五百日|参籠《さんろう》の宿願を立て、祇園の社《やしろ》にこもっております」
「いつぞや伺ったとき、病中とかおっしゃったのは、嘘というわけですな」
「どなたにもお目にかからぬ、文を頂いても返事もせぬ、宿願の成就にのみ専念すると、当人が固く言い置いて出たものですから……」
「では直接、わたくしが祇園社へ出向いて、准后さまの思召しを伝えましょう」
実兼は、勇んで応じた。二条の居どころが判明しただけでも、ほっとする思いだった。
祇園へ行く前に、実兼は五条の橋詰めへ牛車を廻させ、芳善斎の店先に立って、
「あるじはいるか」
松若を呼び出した。
「これは西園寺の殿さま、じきじきのお出ましとは恐れ入ります。何やらひどく浮き浮きしたお顔色ですが、さてはどでかい儲け口でもころがりこみましたかな」
「儲け口?」
「たとえばごっそり、砂金の献上……」
「なにを言う」
実兼は内心、ぎょっとした。霜月騒動の数ヵ月前――。南の探題北条時国が、常陸《ひたち》の配所で誅殺されてまもないころである。安達泰盛からの謝礼が千両、ひそかに運び込まれて来た直後でもあったから、
「さ、さ、砂金など、だ、だれが寄こすものか。おおおれごときに……」
舌をもつらせて、大いに吃《ども》った。
「そりゃ、そうですなあ、このせち辛い世の中に、よい儲け仕事などざらにあるものじゃございません。殿さまのとこだって、領所からの献上品といえばせいぜいが山の芋か雉子《きじ》の二、三羽、鮎か鮒の籠ぐらいでしょう」
「そそ、そんなものだ」
「ところで、手前へのご用向きは?」
「衣装をあつらえたい。女物のね」
ようやく頽勢を立て直し、快活な、もとの気分にもどって実兼は喋りはじめた。
「いつかも注文したことがあったろう。あれと同じような晴れ装束《しようぞく》を一式、たのむ」
「なァるほど。新しく通う相手ができたのですな。それで殿さま、にこつきながら入っていらしたわけだ」
「色恋の沙汰じゃない。もう、おれも年だからな。女とは縁切りだよ」
「何をおっしゃる。中年からがまた、ひと盛りと言うではありませんか。ソレ、牛ヲ曳キ出セ、オ車ノ用意」
と、とっぴょうしもない金切声を、いきなり張りあげたのは、例の出すぎ者の鸚鵡の口真似にちがいない。
「とにかく急いで調えてくれ。豪華絢爛、人目をおどろかすようなやつをな」
「この前のときも申しあげたはずですぜ。芳善斎は唐物商。衣装のご注文はおかどちがいでございますと……」
「金に糸目はつけないよ」
「ははん。そううけたまわれば、致しようがなきにしもあらず。作らせて頂きましょう」
たちまち豹変する現金さがつら憎い。
祇園社は牛頭《ごず》天王をまつる社だが、比叡山延暦寺の支配をうける末寺の一つでもあるため、境内には支院が幾つか建っている。
二条が寝起きしていたのは、神殿の西北に位置する宝塔院で、この院の裏にある小庵が正確にはおこもりの場所だった。
「実兼です。おられますか?」
訪《おとな》う声に応じてまず、姿を見せたのは、侍女の中将である。
「や、中将、そなたも一緒か?」
思わず実兼は、声を詰まらせた。どのような運命が女主人を見舞おうと、心かわらず、一筋に仕えつづけてくれている忠実な侍女の存在が、菩薩さながらありがたいものに感じられて、瞼《まぶた》がじんわり熱くなったのであった。
「はい、ともども参籠させていただいております」
と中将もなつかしげに、実兼を振り仰ぐ。
「じつは、お目にかかってぜひ、申しあげたい用件ができてな。おこもりの邪魔をしにまいったのだが、お取りつぎ願えるだろうか」
迷って、中将が立ちかねているまに、
「こちらへ、どうぞ……」
うながす二条の声が聞こえた。やりとりが筒ぬけに奥へ届くような、手ぜまな住いなのだろう。
暮れ近かったせいか仏間は暗く、几帳《きちよう》が立てめぐらしてもあったため二条の容姿はさだかでなかった。ただ、声に力がなく、沈んでもいるのが気になって、
「水くさい。今さら他人行儀はやめてほしいですな」
わざと乱暴に几帳を押しのけ、実兼は二条の膝先へ座を占めた。急いで顔をそむけ、扇をかざしてその顔を二条は隠そうとする。かまわず手を掴んで扇をもぎ離すと、
「実兼さまッ」
やにわに直衣《のうし》の胸にむしゃぶりつき、悲鳴ともとれる声をあげて二条は泣き出した。溜まりに溜まっていた鬱情《うつじよう》が、堰《せき》を切って噴出したような激しい泣き方なのに、抱きしめた背や肩は肉がそげて、衣服を透してさえ痛々しいほど痩せ細っている。
「病気をなさいましたか?」
「え、え、しばらく病み臥して……」
「どうりで小柄なお身体が、また、ひとまわり小さくなった」
抱擁しつづけたまま静かに背をさするうちに、少しずつ気持が鎮まってきたのか、
「ごめんなさい」
二条は顔をあげて、
「お召しものを濡らしてしまいましたわ」
くいいるように実兼の眼をみつめた。
「永いこと、心ならずもごぶさたしました。かれこれ二年になりますかな、二条どのが上皇御所を退去されてから……」
「はい、おととしの、秋の初めでしたもの」
「便りは何度もさしあげたのです。宮中で左少将隆良に安否をたずねたこともありますし、四条家へ出向いたことさえあります。でも、あなたのお目や耳には達しなかったようですね」
「知っておりましたわ。一遍上人が入京あそばしたとき、釈迦堂へも、わたくしを探しにお越しくださいましたでしょう」
「あれをごぞんじでしたか?」
「いましたの。わたくし、踊り念仏の群集の中に……」
「聞いたか? 兵藤太」
浅まな草庵は、こんなとき便利だ。蟇《ひき》の身構えで庭につぐなんでいる郎従に、実兼は声を投げた。
「われわれが出かけた日、京極の釈迦堂に二条のお局もおられたそうだぞ」
「おどろきましたなあ」
落ち縁の板敷に両腕を突き、上半身をせりあがらせた恰好で、兵藤太はぼやく。
「上臈とみえる女性《によしよう》には片端から近づいて、笠の内、被衣《かつぎ》の内を一人一人、ぶしつけに覗き廻ったのですが、うまく二条さまには逃げられたわけですな」
「なぜ、そうまで、わたしを避けつづけたのです? 手紙を見たのなら、せめて返事ぐらい頂きたかった」
恨みがましい実兼の言葉に、二条はうつむいて、
「わたくしはもう、世捨てびと――いえ、世に捨てられた人間ですから……」
つぶやくように言った。いかにも可憐な、たよりなげな語調が、たまらなく実兼にはいじらしいものに思えて、
「ばかなことをおっしゃってはいけません」
励ましにもつい知らず、真剣味がこもった。
「今日ここへ伺ったのも、北山准后のお使者としてなのです。卒寿の祝いが催されるのは、ご承知ですね?」
「四条家の叔父たちから聞きました」
「尼公さまは四条家から西園寺へ嫁せられたお方……。すけ大どのの伯母、あなたの大伯母に当たられます。『その、わしの賀宴に、二条が欠けては寂しい。ぜひとも参るように』との仰せを受けて、わたくしはお迎えに来たのですよ」
「でも、本院のお許しがないのに……」
「北山尼公は両上皇のおん祖母です。『介添えを二条に頼みたい』と、祖母尼公が御意あそばしておられるのを、たとえ本院でも拒むわけにはいきますまい」
本当は、打出《うちい》での人数に二条を加えようと、尼公は言ったのである。打出でとは、打出衣《うちいでぎぬ》のことで、押出しともいう。簾《みす》の下から大ぜいの女房たちが、めいめい重ねの色を競《きそ》って衣装の袖口や裾を出す。目も綾《あや》なその数が、多ければ多いほど、召し使う女房がおびただしい証拠で、御殿の晴れにも、主人の誇りにもなるのであった。
実兼はしかし、単なる打出での人数の中に、二条を並ばせるに忍びなかった。二条は召使ではない。准后の近しい血縁であり、現在はどうあれ、後深草院の寵姫であった女ではないか。芳善斎の松若に命じて、特別りっぱな装束を調製させることにしたのも、二条を目立たせ、扱いのちがいを、衆目の前に明らかにしようとの下ごころからだった。
(いま一度おばばさまを口説いて、二条を介添役に昇格させてやろう)
とも、実兼は決意していたのである。
二条の表情が明るまない理由も、実兼にはわかる。もっともだとも思う。北山尼公の招きであれ実兼のすすめであれ、それだけでは二条は納得しがたいのだ。
いちばん肝腎なお人――。後深草院が、
「いつまで拗《す》ねているのだ。出てこい二条」
ひとこと、声をかけてくださったのなら、何をおいても召しに応じるのに、
(いったい、どう思召しておられるのか)
そこのところが判らないのが、二条には悲しく、焦《じ》れったくもあるのだろう。
しかし実兼にすれば、へたに後深草院に相談して、もし、
「よせよ。二条を呼ぶのは……」
拒絶されたらそれまでだとの、懸念がある。東二条院あたりに嗅ぎつけられれば、妨害される恐れも生じるから、このさい少しばかり二条が不服顔をしようとも、押し切って賀宴へ引っぱり出し、否応なく後深草院に対面させて、双方のこだわりを溶かしてのちに、帰参の段取りにとりかかろうと目算したのだ。
「差し出がましいようですが、芳善斎に寄ってお召し物もあつらえてきました。おもだった皇族貴族が、残らず参列する晴れの席でも、けっして見劣りせぬ立派な衣裳ができあがるはずです。ね、二条どの、それを着て堂々と、尼公の介添え役を務めてください」
「うれしゅうございます実兼さま、そこまでお気づかい頂いては、わたくし……」
「遠慮など、ご無用です。ともかく承知してくださいますね?」
「いえ……」
「だめですか? お気が向きませんか?」
「身に余るお誘いですけど、当社におこもりして、まだ三月《みつき》にしかなりません。せっかく思い立った参籠を、中途でやめるのも心残りな気がして……」
「わずか三日の祝宴ですよ。代人を立てればよいでしょう。五百日、千日といった長期の参籠の場合、だれだってしていることです」
かたわらから、侍女の中将にも、
「お受けあそばしませ。御意にそむいては、尼公さまに失礼ですし、ひさびさに賑やかな御遊に出れば、お気鬱もどれほど薄らぎますことか……」
すすめられて、ようやく二条はその気になったらしい。
「よかった。お使者に立った甲斐がありましたよ。衣裳が仕上がりしだい届けにまいりますし、当日はつい先ごろ新調した女車に、選りぬきの牛を懸けてお迎えに来ましょう」
できるだけ朗かな調子で実兼は約束し、ひとまずその日は辞去したが、心の中では、二条の窶《やつ》れのひどさにとまどっていた。
賀宴の催される日までに、せめていますこし頬などふっくらしてくれないと、後深草院を翻意させ、二条の召し返しを実現させるのは困難なのではないか。
――でも、気を揉む必要はなかった。二条自身、容色のおとろえを自覚して体力の回復につとめたのか、それとも中将がかたわらから、それとなく心を砕いたのだろうか、仕立てあがった装束を持参し、さっそく試着させてみると、着映えのしたことは思いのほかだった。
紅梅の襲《かさね》が八領、単衣《ひとえ》は深紅、表着《うわぎ》は裏山吹、それに唐衣《からぎぬ》が芳善斎あつらえの特色を生かして、舶載の高価な錦……。もっとも目につく袿《うちき》は地が紅色、その上に花鳥の彩色画をほどこし、金銀、玉《ぎよく》などをちりばめた彩物《だみもの》置きという珍しい意匠で、
「生まれてはじめてでございますわ。こんな結構なお召し物を拝見するのは……」
中将ならずとも、おどろきの声をあげたくなるほどの出来ばえだし、二条の立ち姿が、華麗な色目や紋様にいささかも負けていないのも、実兼を内心、ほっとさせた。
盛りのころにくらべると、まだ痩せは目立つものの、かえってそれが凄艶に見えて、
「わたしは馬鹿な男ですな」
実兼を自嘲させた。
「あなたを御所にもどそうと骨を折るなんて……。もどればまた、あなたはみすみす上皇の所有に帰してしまうのにね」
「いいえ、お召しにもあずからぬわたくしが御宴に出れば、たとえ北山尼公の附き人であっても、お上は不快がられるにきまっています。わたくしは、飽きられました。すっかりお上《かみ》に、嫌われてしまったのですもの……」
「そんなことはありません。東二条院さまの嫉妬、女同士の角づき合いが、うっとうしくなられただけのことですよ」
にじり寄って、実兼は二条の手を取った。そしてその手の甲に頬ずりしながら、
「しかし万一、宴席でのおあしらいが冷ややかだったら、二条どの、これ限りの縁と思い捨てて、院ときっぱり手を切られてはいかがですか?」
提案した。
「失礼ながら四条家・久我家の懸人《かかりゆうど》では、どちらにしても行く末は知れています。わたしがよく話しておきますからそのまま尼公のお側に仕えつづけて、御所でくらすのが一番ではありますまいか。あの御殿はもともと西園寺家の別邸……。わたしの所有です。尼公ご他界ののちも気がねなく、あなたは北山にお住まいください。そして、時おり訪れるわたしを、また昔のようにこころよく、私室に迎え入れていただきたいのです」
つまり天下はれて、自分の愛人の一人に加わらないかと誘ったわけだが、実兼の愛撫に片手をまかせたまま、
「ありがとう。あなたはいつもいつも、お優しいのね」
二条は小声で礼を述べたきり、申し出については、そうするともしないとも答えなかった。ともあれ卒寿の宴に出て、上皇がどのような態度をとるか、その反応を確かめたいと思いつめている目の色であった。
誤算
賀宴の開催が近づくにつれて、西園寺実兼の多忙ぶりは、
「なに、注文した懸盤《かけばん》の数が、足らぬと? そんなことは納品した商人に言え。いちいち下らん些事まで、おれの耳に入れるなッ」
家司どもに、つい八ツ当たりの怒声を浴びせたくなるほどすさまじいものとなった。
それでもどうにか乗り切ったのは、三十七歳の体力と、
(当の北山尼公はもちろん、西園寺家にとっても一世一代の盛儀だ。みっともないことはできぬ)
との、自覚に支えられた結果であった。
しかし、この忙しさに災《わざわ》いされて、実兼はうっかり女たちの動静に目を配るのを怠った。おかげで、いよいよ始まった祝宴当日、思いがけぬ番狂わせが起こり、
「いったい、どうしてこんなことになったのです?」
けしきばんで、実兼は叔母の大宮院|※子《よしこ》に詰め寄らねばならぬ羽目に陥った。介添え役として尼公の片脇に侍すはずだった二条が、いつのまにか大宮院付きの女房に格下げされて、大勢のうしろに並ばされているのに気づいたからである。
「たって母上にお願いして、わたくしが二条をこちらへ譲っていただきましたのよ」
「なぜですか? なぜ、そんなことを……」
「まばゆいばかり贅《ぜい》を尽くした晴れ装束――。聞けば実兼、そなたから二条への贈り物だそうですが、人目に立つほど美しく装った女房をそばへ置けば、わたくし自身の面目だし、座の華やぎにもなりますのでね」
「それならもっと、前へ出すべきでしょう」
「帰り新参の身を恥じて、二条が自分から隅っこへさがってしまったのですよ」
東二条院公子が、この問答をおもしろそうに聞いているのを見て、
(ああ、抜かった。まんまと足をすくわれた)
いまさらながら実兼は、誤算を覚った。芳善斎からあつらえの衣裳が届いたのを、召使のだれかが妻の顕子に告げ口し、顕子がさっそく東二条院に注進に及んだにちがいない。
「そういえば実兼は、二条を賀宴に出したがって、わたくしの所へ相談に来ましたよ。ですからそんなことは、じかに尼公さまに願って出よと、突っぱねてやりました」
大宮院の証言から、
「さては新調のその装束、二条に着せるつもりですわ」
たちまち見当をつけて、東二条院は言葉巧みに、母の尼公に掛け合ったのだろう。
「なに、|※子《よしこ》が二条をほしがっておると? おお、よいとも。だれ付きの女房であれ、賀宴に出られる資格さえ得れば、実兼も二条も満足なはず……。|※子《よしこ》の好きにするがよいわ」
女たちの確執や暗闘とは、日ごろまったく無縁にくらしている老尼公が、簡単に承知したであろうことは、実兼にも想像がつく。
(こんなはずではなかった、出てこなければよかったと、二条はさだめし、わたしを恨んでいるだろう。それにしても叔母たちの、何という意地の悪さか)
煮え返る胸を抑えかねた。しかし実兼がいくら怒っても気づかっても、両院はじめ主上、皇太子、宮々、供奉《ぐぶ》の月卿雲客がすでに定めの席につき、楽人が鳥向楽《ちようこうらく》を奏し出してはどうにもならない。
鶏婁鼓《けいろうこ》を先立てて舞人も入場し、法会の開始を告げる乱声《らんじよう》が、ものものしく起こる。導師が講座にのぼり、衆僧が居流れて、読経がはじまったが、それとなく実兼がうかがったかぎりでは、大宮院付き東二条院付きの女房たちだれ一人として、二条に関心を示す様子はなかった。
故意に無視し、冷淡にふるまっているのが手にとるようにわかる。かえってこうなると、豪華な衣裳が二条のみじめさを際立たせ、実兼をいたたまれぬ思いに駆り立てた。
(泣いているのではないか)
最後列の薄くらがりに押しやられているので、姿は判然しないけれども、二条の無念は察するに余りある。
後深草院は何も知らないらしいので、舞楽に移ってから折りを見てそばへ寄り、
「二条のお局がまいっております」
実兼は耳打ちした。
「二条が? だれの許しを受けて……」
「尼公のお招きです。あすは管絃の御遊に歌合わせ、蹴鞠……。ぜひとも二条どのを役々の中に加えてあげてくださいませ」
高びしゃな言い方に抗し切れず、
「琵琶も和歌も二条の得手《えて》だ。来ているならむろん、座に出させるよ」
院はしぶしぶ承知したのに、結局これも、
「二条を歌会や管絃の席にお召しになるのは、おやめくださいませ」
東二条院公子からの強硬な申し入れで、とりやめとなった。二条が出るならば、即刻、わたくしが退席。帰らせていただきますと言われては、後深草上皇も折れざるをえない。
もう、このときは二条参会の噂は拡まっていたから、亀山院など、
「久我大納言雅忠の忘れ形見は、なかなかの歌詠みなのに、彼女の詠草が見えないのは、なぜですか?」
不服そうに兄上皇にたずねたほどで、だれが持ち出したか、二条が涙ながら書き散らしたという恨みの歌懐紙が女房たちの手から手へ回され、二つ三つある墨のにじみまでが、
「涙の跡ですよ。きっと……」
好奇の目に晒《さら》された。
かねてより数に洩れぬと聞きしかば
思ひも寄らぬ和歌の浦波
と記された懐紙を実兼も見たが、二条の筆跡とも偽筆ともとれる書きざまが、怪しげだった。
管絃、歌合わせ、蹴鞠など二日目の御遊《ぎよゆう》が終わると、主上の還幸が触れ出され、大宮院・東二条院の両女院も引きあげて、北山御所は急に静けさをとりもどした。
おびただしい女房らのざわめき、警固の武官や衛士《えじ》の姿が消えただけでも、内々《うちうち》だけの、くつろいだ雰囲気となり、西園寺家の人々は一様に、
「ともあれひと山、事なく越したな」
盛儀のつつがない終了をよろこび合った。
そんな中で当主の実兼だけが、眉間《みけん》に縦じわを刻みつづけていたのは、二条の処遇について考えあぐねたからである。
しおれきって退出しようとする袖を、
「お待ちなさい。上皇がたも東宮も、あと一泊あそばします。あすこそ無礼講のお遊びに加わって、きのう今日の憂さを散じましょう二条どの」
むりやり実兼は抑え、妹の嬉子の手に、ひとまず二条の身柄を預けた。
亀山院の後宮に入り、中宮位に備わりはしたものの院の寵が薄く、失意のまま嬉子は飾りをおろして、三十三歳の現在、今出川《いまでがわ》院の称号で呼ばれる身となっている。
「もし後深草院が二条を召されたら、すぐさま人に送らせて、ご寝所へおつれください」
言わでもの念押しまでしたのに、あくる朝それとなく嬉子付きの女房らに聞くと、院からはお召しも訪れも、ついに無かったという。
三日目は尼公御所とは地つづきの西園寺へ、両上皇うち揃って参詣し、寺内の妙音堂でひと休みして、管絃と朗詠の会が催された。
春はようやくたけなわをすぎ、桜もおおかた散りはてているのに、妙音天をまつるこの御堂のそばの一本だけが枝も撓《しな》うばかり花をつけて、御幸《みゆき》を待ってでもいたような風情に見える。
二条は今出川院の侍女たちにまじり、日よけ代わりの被衣《かつぎ》で上半身を覆いながら供をして来たが、この遅咲きの桜を見あげて佇《たたず》んでいるところへ、四条家の叔父の隆良が近づいて、
「お上からです」
文《ふみ》らしきものを手渡した。遠目に、それと心づいた西園寺実兼が、急いで寄って行って二条の手許をのぞきこむと、筆蹟はまさしく後深草院、書かれていたのは一首の即詠であった。
かき絶えて在《あ》られやすると試《こころ》みに
積もる月日をなどか恨みぬ
「あれほど仲むつまじかったお前との縁を、おれが断ち切ってみせたのは、お前なしでも生きながらえていけるものかどうか、自分を試したかったからだ。そして、そんな状態のまま二年もの歳月が経過してしまったけれど、お前も強情な女だね。恨みごと一つ言わず、泣きすがってもこないのだからね」
実兼は苦笑した。二条の側が折れて出るのを、待ってでもいるような歌意ではないか。
二条がどのような返歌をしたか、そこまで実兼は詮索しなかったが、夕近く、今出川院嬉子とその侍女たちが西園寺本堂の内陣で休息しているところへ、後深草院がつかつか入って来て、大声でせきたてた。
「さあ、これから舟遊びだ。みんなおいで」
「これからでは暗くなりますでしょう」
「舳《へさき》で篝火を焚く。月も出る。暗くなんぞあるものか。さあさあ、立った立った」
一人離れて柱のかげにいた二条を見つけ、いやがるのをかまわず曳きずり出す強引さは、酔っていたからにちがいない。
寺域から尼公御所にかけて拡がる大池は、海と見まごうほどで、茜《あかね》の下をすべり出した三艘の舟は、三羽の優雅な水鳥に似ていた。
後深草院、亀山院、煕仁皇太子とその妃、今出川院付きの女房数人がそれに分乗……。廷臣らも笛、笙、琴や琵琶など、楽器をたずさえて乗船して、漕ぎ出すとすぐ、管絃の合奏が流れはじめた。
皇太子妃は西園寺子……。やっとどうやら少女の域を脱し、先ごろ念願の入内を果たした実兼の長女である。
今出川院嬉子が岸に残ったのは、舟をこわがってのことで、岩君溺死の思い出は、二年後の今なお、人々の記憶から消えていない。
二条も顔を青澄ませていたが、両上皇は上機嫌で、
「山また山、いずれの工《たくみ》か青巌の形を削り成せる」
「水また水、たれが家にか碧澗《へきかん》の色を染め出《い》だせる」
朗詠の掛け合いに打ち興じ、やがて、
「連歌をしよう。一句、詠じた者が次の者を指名して付けさせる。歌の思いざしだよ」
と、まず亀山院が、初句を吟じた。
雲の波煙の波を分けてけり
次を、どうしても二条に渡すと言ってきかないのは、ひさびさの対面を珍しがり、その顔から目が離せずにいる亀山院とすれば、むりからぬ要求かもしれない。
行く末遠き君が御代とて
そう、二条はおざなりな祝意を表し、
「次はぜひ、東宮の大夫さまに……」
と、実兼を指名してきた。やむなく、
昔にもなほ立ち越えて貢物《みつぎもの》
平凡に実兼は逃げて、あとを源|具顕《ともあき》という廷臣に渡したが、具顕から皇太子妃子へ、子からふたたび亀山院へ、そしてまた、執拗に亀山院が二条へ、さらに二条が、
「どうぞ次は、本院さまお付けあそばしませ」
後深草院に渡すころは、連歌の様相はどことなく、緊迫の気配をおびはじめてきた。
それは亀山院が、皇太子妃子の、
九十《ここのそ》になほも重ぬる老いの波
という北山尼公卒寿の賀をことほいだ前句を受けて、まったく慶祝の場にそぐわぬ付け句を、あえてしたことから始まった。
立ち居くるしき世の習ひかな
とは、当の祖母尼公には聞かせられない礼を失した内容だが、
「次は二条の局に渡そう。あとを、どう付ける?」
しきりに強《し》いたのも、酔余の戯れとばかりはいえない口ぶりだったし、それを受けた二条の句がまた、
憂きことを心一つに忍ぶれば
というもので、もはやまったく、賀宴のめでたさとはかけ離れてしまったのだ。しかも、二条から、次の詠み手に指名された後深草院が、皮肉たっぷりに、
絶えず涙に有明《ありあけ》の月
と付けたからたまらない。船中の浮き立ちはみるみる鎮《しず》まり、だれの表情も異様に白けて、ぎごちない沈黙が拡がった。
『有明の月』というのは、亡き性助法親王をさす陰での呼び名である。宮中では、ことに女房たちの間に、おもだった皇族や貴族の名をあからさまに口にするのを避け、耳ざわりのよい隠語で呼び合うしきたりがあった。
西園寺実兼も、自分が彼女らに『雪の曙《あけぼの》』と仇名されているのを知っていたし、『有明の月』が性助であることも承知している。
亀山院が祝歌の約束を無視して、二条の憂悶を刳《えぐ》り、その痛みに耐えかねた形で二条が胸中の思いを吐き出したのを、待ちかまえてでもいたように後深草院が受けて言った。
「わかっているよ二条、お前の悲しみの種、涙の種は、今なお性助にある。どれほどお前が儚《はかな》く消えたあの、有明の月を愛していたか、察しることのできないおれだと思うのか」
激しいきめつけであり、あからさまな不快感の表出である。
あとをつづける者はいず、連歌の遊びはそれなりに終わって、気まずいまま三日目のもてなしの幕がおりた。
夜道を、両上皇はそれぞれの御所へ引きあげて行き、煕仁皇太子と妃の子も、一つ車に共乗りして帰ったが、今出川院嬉子ひとりは、
「宴《うたげ》のあとは淋しいものです。せめて私だけでもいま少し滞在して、尼公さまのお話相手をつとめましょう」
と居残った。実兼が二条を、再び今出川院の手に託したことは、いうまでもない。
正味二日、付けたりが一日――。合わせて三日にすぎぬ賀宴に、何ヵ月もの準備期間を要したのと同じく、終わってからも用は多かった。
北山尼公から主上、両上皇、両女院、東宮その他、宮々へ祝いの返礼がなされたし、臨時の除目《じもく》もおこなわれた。宴席で巧みに舞った者、吹奏もしくは弾奏した者、歌会で秀逸な詠歌を披露した者などに、位階が授けられたのである。
もっともこれは、正規の除目ではなく、本院|給《きゆう》、東宮給の中からくだされたご褒美だった。上皇や女院、皇太子らには、売官売位の権利が認められている。官位をほしがる者を一定数、推挙し、その者が叙位任官したさい、任料や叙料を取って所得とする権利だ。
これを年給といい、後深草院のふところから出たのなら本院給、煕仁皇太子が支出した分は東宮給となる。
つまり今回の賀宴の勧賞《けんじよう》は、本院と東宮の収入を裏づけとしてなされたもので、見方を変えれば、後深草院の院政、煕仁皇太子の即位が、いよいよ具体化しかけた証左といえなくもない。
西園寺実兼はその立場上、そうしたさまざまな相談にあずかり、賀宴の終了後もなかなか暇がつくれなかった。
二条の安否を気づかいながら、妹の今出川院嬉子の監視下にゆだねたきり、五、六日というもの訪れる折りさえなかっただけに、
「出て行ってしまいましたよ、二条が……」
との、今出川院からの知らせには、さすがにぎょっとして、書状を持つ手が慄えた。とっさに浮かんだのは、行方不明の四文字だが、さいわいその心配は杞憂《きゆう》に過ぎたようだ。
「二条は祇園社に参籠中であったとか。五日の契約で代人を立て、一時、抜け出して来たわけだから、ぜひとも帰りたい、帰らねばならぬと申すのです。困って、いろいろ説得はしたのですけど、人ひとり、まさか一室に監禁はできません。そのうちふと、姿が見えなくなったので、あわてて祇園社へ人を走らせたところ、言葉にたがわず宝塔院とやら言う支院附属の庵室にもどって、二条はおこもりを始めていたよし……。居どころについては、ですからどうぞ、ご安心くださいませ」
それでも念のため、実兼はその夜のうちに祇園社へ出かけてみた。そしてもと通り、草庵内の仏間で侍女の中将と二人、経を誦《ず》している二条を見いだしたのである。
自分の誤算から、恥をかかせにつれ出したような結果になった。二条がそれを、どんなに恨んでいるか。何と言って詫びたらよいか。萎縮しきって対面した実兼は、案外なほど相手の態度が平静なのにおどろかされた。
「りっぱな衣裳まで調えていただき、尼公さま一世一代の盛儀につらなることができたのは、一期《いちご》の思い出でございます」
礼まで言われ、返す言葉に窮しはしたものの、胸をなでおろしたのも事実であった。
北山尼公の卒寿の賀を、
「後深草上皇の許へ二条を復帰させるまたとない好機」
と実兼は思った。だからこそ気のすすまぬ二条に、宴への出席をすすめたのだが、その親切は、かえって仇となってしまった。
「船上での連歌が示す通り、上皇のお気持は、もはやあなたから離れたと判断するほかないようです。それがわかっただけでも収穫とあきらめて、二条どの、北山御所へ住まいを移してはいかがですか。尼公に近侍しつつわたしの訪れを待つ……。平穏な、そんな明けくれも、中年にさしかかった二人の交際としては、まんざら不似合いではないはずですがね」
そう、実兼は二条を説いた。前に口にした提案の、むし返しである。
うつむいて聞いていた二条は、厨子棚《ずしだな》ににじり寄って、何やらこのとき取り出してきた。厚手のみちのく紙を折りたたんだもので、
「お上の、お文《ふみ》でございます」
と言う。
「上皇の?」
「宴がはてて還御あそばす直前に、四条隆良卿を介して渡して行かれました」
「拝見してよろしいですか?」
「どうぞ、ごらんくださいませ」
拡げてみると、細字でびっしり書かれた情味溢れる手紙である。つれない態度をとりつづけて悪かった、そなたの方から折れて出るのを待っていたのだが、もう待てない、すぐにでも上皇御所へもどって来てくれ、と求めている。
「そうでしたか」
安堵と落胆の入りまじった複雑な感情にゆすぶられて、実兼は我れながら、間《ま》の抜けた声を出した。
「宴席での院のよそよそしさは、東二条院の目を恐れてのことだったのですね。あなたと院の絆《きずな》は、やはり容易に切れるものではなかった。むろん、仰せに従うつもりでしょうな」
「いいえ、御所へ帰る気はありません」
「帰らない? なぜです?」
「もとのくらしがくり返されるだけですもの。ひさかたぶりの対面がもの珍しくて、このお手紙では恋文めいた書きざまをなさっていますけど、お側にもどり、目馴れてくればまた、お上は浮気をはじめるでしょうし、東二条院さまの嫉妬にも悩まされなければならなくなります。以前とそっくり同じことですわ」
「では、わたしの誘いを受け入れて、ぜひ北山の別墅《べつしよ》へ引き移ってください」
「もったいのうございます。ありがたいお言葉ともぞんじますが、今わたくしは参籠の身……。ここを動くわけにはまいりません」
「行《ぎよう》が満じるまで、あと四百余日とかおっしゃいましたね。一年を越すほど長いおこもりを、なぜしなければならないのかなあ」
「この先、どう生きていったらよいか、じっくり考えてみたいのです。だれにも、何事にも煩《わずら》わされぬ参籠中に……」
「考える? この上、何をですか二条どの」
きまじめな相手の言い方がおかしくて、実兼はつい、笑ってしまった。
「男の目から見ると、あなたはじつに一途《いちず》だし、いじらしい。それはあなたの頭が、自分の事だけに占められているからです。ほかの事には関心を持たない。ひたすら自分について、自分とかかわった男について、その男との愛の在り方について考え、悩むだけで生きている。たとえば二条どの、文永・弘安の二度にわたって、蒙古の大軍が日本へ攻め寄せて来たのを、知っていますか?」
「あ、ムクリとやらのことですね。噂には、ちらと……」
「聞いた程度でしょう? つい先ごろ、南六波羅の探題が誅殺された騒ぎなど、ましてごぞんじありますまい。でも、女はそれでよいのです。自分以外に興味も関心も抱かず、自分と恋人の事だけしか念頭にない狭さ、一心不乱さが、男にすれば何ともいとしく、哀れに思えるわけでしてね。手をさしのべずにいられない気持にさせられます。女はね二条どの、しちむずかしい考えになど捉《とら》われなくてよろしい。さしのべた手に、しっかりすがりついて来てくだされば、それでよいのですよ」
「それでよいと、思えなくなったのですわ」
二条のまなざしに、強い輝きが宿った。
「男のかたの庇護が、信じられなくなった――というより、それに寄りかかる仕合わせが信じられなくなったのです。わたくし今、自分が少しずつ変わって行きそうな予感に、怯《おび》えています。どう変わるかわからないだけに、とても不安ですけど……。でも実兼さま、あなたのお誘いや上皇のお招きに応じて、ご庇護の袖にくるまれながら老いてゆく気持は、なぜかすっかり消え失せましたの」
「では、これからは一人で……自力で生きてゆくつもりですか? どうやって?」
実兼の口ぶりに、二条の眼光に劣らぬ強さがこもったのは、怒ったためではない。少女のころから時おり不意に、二条は掴みどころのない存在になった。二条の中に幾人も別の二条がいて、どれが本当の二条か、実体が判らなくなるもどかしさを味わわされたものだが、いま、その現象が起きたのだ。
(いったい、何が言いたいのだ? この女は……)
とまどいと焦らだちに、思わず語気が激しくなりかけるのを、実兼は抑えながら、
(駆け引きか。それとも自信をとりもどして、驕慢な拒絶を口にしたくなったのか)
とも疑った。しかし、結局のところ、
「先ゆきどうするか、まだ自分でもはっきりしません。ですから、おこもりの間に、静かに考えるつもりでいるのです」
二条の言葉にうなずいて、
「わかりましたよ。一時の迷いに取りつかれたのでしょう。まだ四百日もあるのだから、冥想でも何でも存分にしてみることですな」
実兼は彼なりに、結論づけるほかなかったのである。
人喰い鬼
帰邸後、実兼はもう一度、二条の言ったことを反芻《はんすう》してみた。他の女たちとの情事にかまけて、忘れるともなく忘れていたくせに、ひさびさに逢えば逢うで後深草院は、表向き冷淡な態度を装いながら、そのじつ陰へ回ると、
「おれのそばへもどってこい二条。別れてくらせるかどうか試してみたけれど、やはりとても耐えられない。もと通り一緒にくらそう」
女ごころをくすぐるような歌や手紙で、帰参をうながしてきていた。
(対面させれば、かならずそうなる)
と目算して、実兼も二条を卒寿の賀席につれ出したわけだから、もくろみは図に当たったといってよい。
ところが二条は、上皇の召しに応じるつもりはないと言う。それなら北山尼公の侍女となり、実兼一人に身を委すか、と訊《き》けば、この誘いにも気乗り薄な口ぶりで、男の庇護のもとにぬくぬくくらす仕合わせが、信じられなくなったのだ、と答える。自分が変わって行きそうな予感に、怯《おび》えているとも不安げに言うので、どう変わりそうなのか、自力で生きぬく自信はあるのか、と問えば、まだ、それは判らない、参籠中に考えてみたいと言う。
なんとも他愛のない、雲をつかむような話なので、実兼はしまいにはばかばかしくなった。禁苑の秘花も同然な宮中育ちの上臈が、父方も母方も、そろって後楯《うしろだて》が頼りにならない現在、強力な男の庇護なしに、どうやってくらしていけるというのか。
世間を知らず、生活の苦労も知らず、贅沢な衣食住を当たり前とする感覚の中で生きて来たのなら、一生そのように生きるほかないし、また、そう生きたいと願うのが自然なのに、片腹痛い反抗をこころみようとしかけたのには、理由がなければならない。
(何がきっかけだろう)
首をひねるまでもなく、
(そうだ、一遍だ。あの乞食坊主の影響だな)
すぐさま実兼には、見当がついた。
(石清水八幡宮での最初の出会いから、二条は一遍に魅入られたようだ。入京して来たときは、さっそく因幡堂へ出かけて『決定《けつじよう》往生六十万人』の札を頂いているし、再上洛のときも釈迦堂の人ごみの中に、じつはこっそり混っていたと語ってもいた)
おそらく性助との永別、岩君の不慮の死、上皇御所からの放逐など、二条はあれこれ悩みを打ちあけ、一遍はそれに対して、
「弥陀の救いを信じなさい」
とでも訓《さと》したにちがいない。厭離穢土《おんりえど》、欣求《ごんぐ》浄土の思想を説いて聞かせもしたろう。
(それにかぶれて、気持がふらついたのだ)
と、ごく浅い、ありきたりな解釈で片づけてしまったのは、実兼の性格にもよるが、賀宴の数ヵ月後には霜月騒動が勃発……。それが一段落するとすぐ、今上の退位問題が浮上し、身辺にわかに、あわただしさを加えはじめたせいでもあった。
亀山上皇は鋭い人だから、煕仁皇太子の即位を、その父の後深草院が、いくら、
「一代限りのことだ。煕仁が位をおりたら、ふたたび帝位はそちらへ返すよ」
と約束しても、はたして言葉通り実行するかどうか、疑問視していた。
そこで、ちょうどそれは北山尼公卒寿の賀宴の、二日目、蹴鞠の遊びが催されているさなかだったが、宮中から使いが駆けつけ、
「たった今、若宮ご降誕にござりますぞ」
告げられたとき、
(よし、ただちにこの子を親王にしよう)
決意し、すぐさま実行に移したのである。
若宮、おん名は邦治《くにはる》――。いうまでもなく今上《きんじよう》後宇多帝の第一皇子だ。おくてな帝《みかど》は、年十九にしてようやく子供の父となったのであった。
後深草院と東二条院公子の間に生まれた|※子《れいこ》内親王はじめ、後宇多天皇の後宮には早くから幾人も女人が侍していた。それなのに、そのだれもに妊娠の徴候が見られず、
「まだか? どうしたことだ帝……。気に入った相手なら下づかえの雑仕女《ぞうしめ》でもかまわぬ。寝所へ召せ」
とまで、亀山院をやきもきさせたあげくの朗報である。しかも男御子。第一皇子の誕生だから、院中をあげて、よろこびの声に包まれたのはいうまでもない。
お手柄の女御は源|具守《とももり》の息女で、基子《もとこ》という。邦治と名づけられたこの赤児が、まだ襁褓《むつき》にくるまっているうちに、祖父亀山院の強い要請で親王宣下を受けたのは、
「たとえ煕仁皇太子が天皇となっても、その東宮には邦治を立て、まちがいなく次期の帝位を譲るべし」
との、意思表示にほかならなかった。
東宮となるためには、まず親王の地位に昇らなければならず、母親の身分も高いに越したことはない。
女御の源基子にくらべれば、|※子《れいこ》内親王は中宮だし、尊貴の出である。そこで兄上皇の内諾を得て、おもてむき、
「邦治親王のおん母儀《ぼぎ》は、|※子《れいこ》中宮」
ということにしたのも、すべて愛孫の将来のために、亀山院が打った布石であった。
細心、周到にすぎたこうした配慮が、しかしかえって引き金の役をはたし、煕仁皇太子の即位は一気呵成に実現してしまった。
のちに『伏見天皇』と諡《おくりな》された新帝の治世が、開始されたのだ。
新天皇は二十四歳――。りっぱにひとり立ちできる年齢に達していたが、この日の到来を切望していた父の後深草院がさっそく院ノ庁を開き、朝廷の頭上に君臨して院政を執るという従来の形を踏襲したから、実際には、伏見帝の出る幕はなかった。いや、よしんば新帝による親政がおこなわれたところで、政務らしい政務じたい、無きにひとしいのが、院・朝廟を通じての実情だったのである。
それでも後深草院の満悦ぶりは、笑止なほどで、西園寺実兼を相手に、
「辛抱の甲斐があったよ、なあ」
つくづく述懐した。
「父の後嵯峨院に疎まれ、母の大宮院にすら嫌われた冷やめし食いのおれが、とうとう院ノ庁に坐った。お前の助力のたまものだよ実兼、礼を言う」
「お望みがかなった上に、いま一つ吉事が重なりましたぞ」
「なんだ? 何ごとだ? じらさずに話してくれ」
「かねて懐妊中の五辻《いつつじ》どのが、つい今しがた五体すこやかな男児を出産あそばしました」
「おッ、男の子を生んだか?」
「すなわち新帝の第一皇子。お上にとっても初めての、男のおん孫にわたらせられます」
伏見新帝は皇太子時代、すでに中納言藤原公宗の娘英子、参議源具氏の娘権大納言ノ局ら、腹腹に何人か子を儲けていたが、早世や死産が多く、どうにか育ちつつあるのは姫宮ばかりという状態だった。
五辻どのと呼ばれている女性は、参議五辻経氏の娘で、本名を経子という。彼女の懐胎は、したがって夫の伏見帝はもとより、近臣ことごとくに、
「今度こそ健康な男御子を生んでほしい」
と期待され、臨月に入った昨日今日は、安産を念じての加持祈祷はもちろん、万一、胎児が女の子の場合、男に転じ変えるべく変生男子《へんじようなんし》の秘法まで修されて、産所近くで焚き上げる護摩《ごま》の猛煙に、産婦がむせ返るありさまとなっていたのだ。
西園寺実兼は、たまたま様子を見に来て皇子誕生の瞬間に居合わせ、
「院へはわたしがお知らせしましょう。これから院参するところですから……」
と、吉報の使者役を買って出たのである。
「そうか。皇子出生とはめでたいな」
一応よろこびはしたものの、後深草院の眉はいま一つ、晴れなかった。
「後宇多院にも退位直前に、邦治とかいう男の初子《はつご》が生まれたそうではないか。しかもその子に生後いくばくもなく、親王|宣下《せんげ》をしたという。いずれ亀山院の指し金であろうけれど、これは明らかに、次の皇太子位に邦治親王を据えるべく画策しはじめた証拠だろう」
「仰せの通りです。新帝のご治世は一代限りのはずですからな」
「たしかに約束はそうだよ。でも嫌だ。今上の後宮に男の子の誕生を見た以上、皇太子にはぜひこの子を立てたい。実兼、力を貸してくれ。たのむよ」
「お待ちください」
後深草院の性急な求めを、実兼は笑いながらさえぎった。
「わたくしの娘の子をお忘れになっては困りますな。早晩、子も男の子を生むでしょう。皇太子位は、このお子のものですよお上《かみ》」
いったん帝位を、こちらが握ってしまったら、もはや再び、亀山院側に渡す必要はない。もともと亀山院は弟、後深草院は兄……。嫡統系列の子孫こそが、受け伝えてゆくべき帝位を、後嵯峨法皇・大宮院ご夫妻のえこひいきから亀山院へ横すべりさせたのが、事を誤らせた根元なのである。
伏見天皇の即位によって、ようやく帝系は、嫡統相続という本来の、正しい姿にもどった。奪ったのではない。兄が、弟から返させたのだから、「伏見新帝の在位は、一代限り」などというばかげた約束など、守らなくてよろしい。向後、帝冠は永久に、伏見帝のご子孫が頭上に戴きつづけてゆけばよいのだという従来からの主張を、西園寺実兼はくり返し口にした。
「その通りだ。兄息子より弟が可愛い。たったそれだけの私情で、帝系を乱した両親を、いまなおおれは憎む。でもなあ実兼、約束を踏みにじられて、あの気の勝った弟が黙っているだろうか。二十《はたち》か二十一の若さで譲位に追い込まれた後宇多院だって、『伏見帝の次は、我が子邦治へ』と、かならず望んでいるはずだぞ」
「それは当然でしょう。しかし、だからといって、のめのめ亀山院側に帝冠を渡すわけにはいきますまい。こんど放したら、もう二度とこちらへもどっては来ませんよ」
「そんなことになったら大変だ」
「今が大事なときです。けっく皇室内部のごたごたは、継嗣問題にせよ統治財政にかかわる悶着にせよ、最終的には幕府の判断と助言によって解決するのが、後嵯峨法皇以来の慣例ですからな。鎌倉対策こそがすべての鍵なのです」
「霜月騒動で安達一族を殪《たお》した平頼綱とやら……。あれはどういう男なのだ?」
「文通してみての感じでは、むしろ安達泰盛より扱いやすい印象でした。亀山院も抜かりなく、按察使《あぜち》の藤原頼親を鎌倉へ派遣して、頼綱とのよしみを深めるなど、しきりに画策なさっているようですが、ご安心ください。頼綱は、幕府草創このかた関東申次役をつとめるわが西園寺家と、ぴったり密着しておりますから……」
「たのもしいなあ実兼、そなたの労にはどんなことをしても報いたい。さし当たっては子の処遇だ。あの子と主上の間に皇子が生まれれば、一も二もなく皇太子に立てるのに、どうもいつまでも子はねんねえで困るなあ」
後深草院の嗟嘆が、実兼にもじつは悩みの種なのだ。伏見帝は子を愛してくれている。しかし二人のむつまじさは兄と妹のそれに似て、子の未成熟ぶりがいかにも歯がゆい。
(この調子では男御子はおろか、懐妊すら当分おぼつかない。他の女御たちにたぶん先んじられるだろう。弱ったことだ)
焦慮しているまに案の定、五辻経子の腹から第一皇子が誕生してしまったのである。
皇子は、胤仁《たねひと》と命名された。そして降誕後七ヵ月目に、親王宣下を受けた。
後深草院がいくら厚意を示し、父の西園寺実兼がいかに焦《あせ》ったところで、子の妊娠ばかりはいかんともしがたい。天運にまかせるほかないし、よしんばここ一、二年の内に懐胎に漕ぎつけたにしろ、生まれたのが女の子では、これまた何にもならないのである。
一方の亀山院側に、後宇多院のお子の邦治親王が誕生している現実を思えば、ぐずぐずしてはいられなかった。
とりあえず胤仁を、親王の地位に引きあげる代わりに、西園寺子を同じく女御から、伏見帝の中宮に格上げし、
「いずれ、胤仁親王の立太子を強行したあかつき、子中宮をその母儀とする」
との密約が、後深草院と実兼の間に交わされた。
このまにも、後宇多院の後宮では、またまた男御子が生まれていた。名は尊治《たかはる》……。邦治親王につぐ第二皇子である。
邦治はのちに即位して、後二条天皇となり、尊治もさらに後年、帝位を踏んで後醍醐天皇となるわけだが、まだこの時点では、だれ一人そんな遠い将来に思いをいたす者はなかった。
亀山・後宇多父子は、後深草・伏見父子の動きに神経をとがらし、胤仁の出生と親王宣下にも気がかりを隠しきれぬ様子だが、双方の暗闘がもっぱら水面下で行われ、うわべだけでもかろうじて、平静さを保っていたのは、ここ二、三年来の世情不安に起因する。
一時、洛中を死者で埋めた疫病が、ようやく下火になったと思うと、つづいて襲ったのは洪水であった。
近畿の河川は、大小となく氾濫して田畑や人畜を押し流し、痩せ細った地味《ちみ》を旱天《かんてん》が痛めつけて凶作を招いた。
飢餓はほとんど慢性化して人々を苦しめ、貧民は片はしから餓死に追いやられた。守護地頭、国司らの年貢はたりに耐えきれず、村を捨てて百姓は流亡する。都へ入りこんでくるこれら逃散民《ちようさんみん》が、食うに困って夜盗、引き剥ぎ、かどわかしの常習になるため、治安の悪さは話のほかだった。
伏見帝の即位にともなって年号が改まり、弘安十一年は四月の末に、正応元年となったが、それから二ヵ月もたたぬうちに京を直撃したのは地震である。
大寺大社、皇居にまで倒壊個所が出るほどの激震に数回にわたって見舞われたのだから、まして掘ったて小屋も同然な一般家屋が無事にすむはずはなかった。つきものの火災も発生……。圧死者、焼死者の亡骸《なきがら》が山をきずく中で、奇怪な流言まで飛び交った。
「鬼が出たぞッ、人喰い鬼だぞッ」
昨日は鳥辺野で見た、今日は朱雀大路《すざくおおじ》をまっすぐ北へ走って行ったなどと噂する者がいて、女こどもを慄えあがらせた。
弓矢取る身が、鬼に臆してはいられない。六波羅役所から兵が駆け向かって捕えてみると、結局それは狂女であった。餓えのあまり気がおかしくなり、所きらわず打ち棄てられている腐爛死体にのしかかって、内臓をむさぼり啖《くら》っていたのだ。
手足も顔面も朱に染まる。髪ふり乱し、異様な叫び声をあげながら走り廻っていたため、鬼と見誤まられたわけで、古老たちの記憶によれば、
「飢饉のさいは、この手の発狂者がかならず出る。正元元年、やはり日本国中が凶作と悪疫にみまわれ、都大路が死骸で埋まったときも、十四、五の小冠者《こかんじや》が生きながら鬼となって人の臓腑を啜《すす》り歩いたものじゃ」
と言う。
鬼に襲われないまでも、食べ物をめぐっての闘諍《とうそう》や押し込み強盗など、ぶっそうな噂が絶えなかったから、
「二条どのの安否が気づかわれる。中将のほかは下仕えの小女が一人ふたりいるばかり……。戸じまりもろくにしていない小庵だ。時おり見舞って、足らぬ物があったら差し入れてこい」
腹心の兵藤太に、西園寺実兼はそう命じて、参籠の終了をこころ待ちにしていた。二条が俗界へもどって来たら、こんどこそ、じっくり話し合って、上皇の召しに応じるか自分に身をまかすか、二つに一つの選択を迫まろうと、実兼は意を決していたのである。
そして、五百日にも及んだお籠りが、いよいよあすは終わるという日、迎えの時刻をいつにしたらよいか、その打ち合わせのため、また兵藤太を祇園社へ出向かせたところ、
「殿ッ、一大事でござりますぞ」
二時《ふたとき》以上もたってから、ただならぬ血相で帰邸して来た。
「どうした、顔がまっ青じゃないか。まず、落ちつけ」
飲みかけていた白湯《さゆ》の碗を渡すと、
「いただきます」
ぐぐッと一気に飲み干して、それでも喘《あえ》ぎ喘ぎ兵藤太は語り出した。
「祇園社の境内を横切り、かよい馴れた宝塔院裏の庵室へまいりますと、奇妙なことに中はすっかり片づけられ、二条さま主従のお姿が見えませぬ。宝塔院の僧が申すには、二日前に出ていかれたとのこと……。それは訝《おか》しい、満願の日はあすのはずだと争ったのですが、僧は二日前が正しいと言い張ってききません。どうやら二条さまはわれわれに、わざと違う日を教えたらしゅうございます」
「では、行くえをくらましたわけか?」
「いえ、いつぞや身を隠されたあの、勝倶胝《しようくてい》院へ引き移ったと申すので、馬をとばして醍醐まで訪ねて行ったところ、なんと殿、二条さまも中将も、二人ながら惜しげもなく黒髪を剃りこぼち、墨染めの尼姿になっておられたではありませぬか」
捨て聖
「尼に!? 二条主従がか?」
即座には信じかねた。が、意識の片隅では、とうとうやった、やはり、やりおったとうなずく思いもなくはなかった。
「行こう。勝倶胝院へ……」
仕度もそこそこ、実兼は醍醐への道を騎馬で急いだ。そうは言っても、直接たしかめぬことには納得《なつとく》できない。
以前からしたしんで、身の上の相談相手にしていた真願という老尼の草庵を、こんども二条は隠れ場所にし、得度《とくど》の望みも、真願を戒師にしてとげたらしい。
なかば覚悟して出かけたはずなのに、粗末なその庵の一室で、二条と中将の変わりはてた姿と向き合ったとたん、
「どうして……なぜ、こんなことを……」
我れにもあらず、実兼は落涙してしまった。剃りこぼちた円頂の、匂うばかりな初々《ういうい》しさ、こころ細げに寄せ合った黒衣の肩の、痛々しさ、しおらしさ……。見るなり胸が迫まって、言葉をつづけることができなくなったのである。
「ごめんなさい。でも、遅かれ早かれ、いずれは出家するつもりでいたのです」
二条の対応のほうが、はるかに冷静だった。目を、うるませもしないのが、たまらなく憎くなって、
「取り返しのつかぬことをなさいましたな。後深草院も、どれほど驚愕あそばすか……」
実兼は二条の膝先へ詰め寄った。
「こうなる前にどうしてひとこと、われわれに打ちあけてくださらなかったのです? 上皇にしてもわたしにしても、そんなに頼みにならぬ男ですか?」
「打ちあければ、止められるのはわかっていましたから……」
「尼になるのがあなたにとって、最善最良の道ならば、止めはしませんよ。しかし、とてもそうは思えない。世間知らずな気まぐれ、一時の激情に駆られての行為でしょう。若いころからあなたには、並《なみ》の女とはちがう奇矯《ききよう》なところがあった。ささいな不満からすぐ御所を出奔して行方不明になったり、帝室重代の珍宝とも言ってよい破竹の琵琶を、一存で石清水八幡に奉納してしまったり……。おとなしやかな、時に陰気にさえ見える外貌のひと皮下に、思い立ったら何をするか、あなた本人ですら制し切れぬきつい、強情な性格を隠し持っていた。こんどのこの、突飛《とつぴ》としか評しようのない遁世も、おそらく卒寿の賀宴のさい意地悪な仕打ちをしてのけた東二条院や、見て見ぬふりでそれを許した上皇への、あなたらしい、思い切った当てつけではありませんかね」
まさか真実、そう信じて口にしたわけではない。二条は二条なりに、五百日にも及ぶ参籠の期間中、考えぬいたあげくの決断であろうとは察しながら、つい腹立ちまぎれに、実兼の語調は辛辣《しんらつ》になった。
あっけにとられて、二条は実兼の顔をみつめた。男のくせにはじめは泣き、声を詰まらせたと思うと次は興奮して、とめどなく攻撃し出した実兼の悩乱ぶりを、むしろ憐れむかのように、
「お怒りはごもっともですけど、ごらんの通り、もう様《さま》を変えてしまったのですから……ね、実兼さま、これまでのご縁と思いすてて、今日かぎりわたくしのことは忘れてくださいまし」
二条はあべこべに慰めにかかった。
「なるほど。忘れろというなら忘れましょう。ですがね二条どの。上皇ともわたしとも縁を切って、この先あなたは、どう生きて行くおつもりです?」
「出家した上は、出家として生きる覚悟でおります」
「さしあたっては?」
「剃髪させて頂いた当庵に身を寄せ、真願尼さまに師事して仏道の修行に励もうと考えています」
「せめて約束してください。ここから離れぬ、京から外へは一歩も踏み出さぬ、と……。真願尼には前にわたしも会ったことがあるが、信頼の置ける長老でした。あの老尼の監督下にあなたと中将をゆだねるなら、安心できます。さっそく上皇にも報告し、くらしに困らぬよう、物代《ものしろ》は月々たっぷりお贈りすることにしましょう。なんなら一宇《いちう》、風雅な、住みごこちのよい庵室を建ててさしあげてもよい。そうだッ、北山の西園寺境内にある妙音堂……。あれをあなたに提供します。かしずきの侍女を置けば、日常にご不自由はありますまい」
「実兼さま」
さえぎって、二条は微笑した。男のむきな、一人よがりな饒舌が少し滑稽《こつけい》に思えたらしい。
「お気持、うれしゅうございます。でも、お受けするわけにはまいりませんわ」
やんわり拒絶した。
「禁足のお約束もいたしかねます。独り立ちできるめどがついたら、わたくし、諸国の寺社を巡拝して廻るつもりでおりますから……」
「ははあ、巡拝ね」
意気ごんでいた鼻先を、いきなりねじ曲げられた不快さが、実兼をふたたび不安と不機嫌の袋小路に曳きずりもどした。
「やはりあの一遍とかいう風来坊主にかぶれたのですな」
「はい。一遍上人の教えのままに、あらゆる執着を捨て切って乞食《こつじき》の境涯に堕《お》ちてみようと決心したのでございます」
「ばかなことを……」
実兼は笑った。むりに作り笑いしたのではない。しんそこ可笑《おか》しくなったのである。
「あなた、食を人に乞うて放浪するとはどういうことか、知ってますか? 知らないからこそそんな夢みたいな言葉を、恐れげもなく口になさるのでしょうな」
次の間《ま》に控えていた侍女の中将の、これも女主人に殉じてか思い切りよく僧形《そうぎよう》になってしまったのを呼びつけ、
「よく聞きなさい」
二人ながら並ばせて、実兼は言い訓《さと》した。
「あなたたちは世の中を舐《な》めてかかっている。貧苦の実態を甘く見すぎている。つい先ごろ、洛中に鬼が出没した噂は聞きましたか? 鬼ではない。空腹のあまり発狂した女が、腐りかかった道ばたの死骸を食い散らして歩いたのです。そういうすさまじい餓えがあるなんて、あなたがたには想像もつかんでしょう。元軍の来襲を知らず、鎌倉の政変も知らず、院や朝廷の政権交替をめぐるごたごたにすら関心を持たずに、室《むろ》咲きの花さながらおっとり育った姫|御前《ごぜ》たち……。室の温かさの中で生きつづけるならそれでよいのです。なまじ女が、むずかしい男の世界の修羅《しゆら》になどかかわる必要はないけれど、室を出て行けば外は寒風吹きすさぶ荒野ですよ」
旅がどんなに苦しいものか知りもしないで、諸国を巡歴するなど、のんき千万な話だとも、実兼はずばずば言ってのけた。
「まず一里も行かぬうちに、ならず者どもの餌食となり、思うさまもてあそばれたあげく歌比丘尼《うたびくに》の群れにでも叩き売られるのがおちでしょう。そんなひどい目に遭わぬまでも、たちまち食に窮します。おのれの口すぎもままならぬのに、だれが旅の僧尼の托鉢《たくはつ》になど応じるものですか。現に一遍の徒輩は日本中を行乞《ぎようこつ》しつつ旅していると、あなたがたは言いたいだろうが、一遍ほどの宗教家ともなればおのずから有力な外護《げご》者ができてくるものです。前内大臣の土御門性乗入道どのが、熱心な帰依者なのはわたしも知っているし、後日、耳にしたところではそのほかにも公家衆の中に、一遍を尊崇する人が幾人かいるようでした。国々の守護や地頭、領主らが大檀那《だいだんな》になってもいるはずで、それらの供養を受けながら歩くのだから、飢饉のさなか、集団をひきいての漂泊だって可能なのです。あなたがたが主従二人きりで旅するのとは、大ちがいなのですよ」
熱弁をふるっているうちに、実兼は不意に空《むな》しさに突きあげられた。底なしの井戸に吸い込まれ、いくら叫んでもわめいても声が消えてしまうような手ごたえのなさ……。二条の表情からそれを感じ取って、ぞっと鳥肌立ったのである。
「聞いているのですか? え? 二条どの」
「うけたまわっておりますとも」
と応じながら、水さながら冷やっこい無機質な言い方をするのが苛ら立たしく、
「いいや聞いてはいない。耳には入れていても肚《はら》の中で、わたしの説得に反撥している」
実兼はきめつけた。しかし二条は、
「反撥などしてはいませんわ。ただ少し、あなたさまは誤解していらっしゃるのではないかしら……」
相手の激昂を、やんわり躱《かわ》した。
「実兼さまもご承知のように、わたくしは幼いころ母のすけ大と死に別れ、後深草院のお手許に引き取られて成人しました」
一語一語、吟味する口ぶりで、二条は慎重に語りはじめた。
「すけ大は院をお育てした乳母ですけど、院を男として目醒《めざ》めさせた初恋の人でもあったわけで、忘れ形見のわたくしは、すけ大の身代わりとして院のいつくしみを受けたのです。母親と契《ちぎ》り、娘とも契る……。それは始めから歪《いびつ》な交わりでしたし、母と娘はしょせん、同じ人間ではありません。わたくしに満足できなかった院は、後宮の女性をつぎつぎにふやしつづけました。もともと、とりとめのない浮気なご気質なのはぞんじています。ご身分柄からも、お寝間のお相手が夜ごと変わるのはやむをえないことなのに、わたくしは苦しみました。嫉みました。院をしんそこ、お慕い申していたからでございます」
まだ、しっくり身になじまない法衣《ほうえ》の袖を、二条はぎごちなく掻き合わせながらつづけた。
「今だから打ちあけます実兼さま、あなたの愛情を受け入れていた間も、心のどこかでいつもいつも、わたくしが気にかけていたのは院の思惑《おもわく》でした。露見しはしないか、もし気づかれたら院は怒って、実兼さまとの仲を裂こうとなさるだろうか、許して、添わそうとおっしゃるだろうか……そんなことばかり考えていたのですが、院はとっくに勘づいておられて、だいぶあとになってから、事もなげに仰せられました。『実兼はわたしの大切な股肱《ここう》だ。時おりそなたと逢うぐらいのことは、見て見ぬふりをしていてやる』と……」
「まるであなたは、打算の具ですな。亀山院や近衛《このえ》の大殿のときも『いま彼らの心証を害してはまずい。二条、目をつぶって抱かれてくれ』とでもお命じになったのでしょう」
「打算だけで、わたしをお使いになったのではありません。亀山院にせよ近衛の大殿にせよ、意に染まぬ男にむりやりわたくしが従わされるのを、こっそり隙見《すきみ》あそばすのが、院の無上の快楽でもあったのです」
それは実兼も想像していた。妹の前斎宮に懸想《けそう》し、その閨《ねや》への手引きを二条にさせたばかりか、几帳一つへだてたものかげに宿直《とのい》させて、夜通し痴態を見せつけるといった異常さも、上皇にすれば苛虐の快感でしかなかったのだろう。
「性助法親王の恋を取り持ったのも、それですね」
「いえ、性助さまのことは内心、恐れておいででした。あのかたと、はじめて関わりを持ったのは、わたくしがまだ十代の昔……。実兼さまが久我家の近くで、八葉の車を見咎《とが》められたころからです」
「やはりあれは性助法親王の召し料でしたか」
「車の主《ぬし》は、継母の病気の祈祷に来た僧ですが、性助さまはその従者にやつして、わたくしの許へ忍んで参られたのでございます」
「御室《おむろ》の法親王ともあろうお方が、供の僧に身をやつして?」
「はい。宮中でおこなわれた法会《ほうえ》のさい、わたくしを見そめられ、以来、片時も忘れられぬ思いの種になったとか……。夢にもわたくしは存じませず、継母の看病に疲れてうたた寝しておりましたところを、狙いすましてでもいたように抱きすくめられてしまいました。仏道三昧にすごしてこられた清僧が、それからは煩悩の虜《とりこ》となり、わたくしなしではいられぬほどの、浅ましい夜々をすごされましたが、母のいたつきが癒り、祈祷僧が来なくなると、逢う手だても絶えて、性助さまの恋ごころは、狂気じみた昇りつめかたをしはじめたのでございます」
あらゆる神仏の名を書きつらね、なにとぞいま一度、二条の局にまみえさせ給え、女犯の罪によって無間《むげん》地獄に堕ちようとも、現身《うつそみ》の妄念をはらさせたまえと誓詞血判し、なまなましく血の香の匂うそれを送りつけて来たり、やがては、
「この恋、お許しなくば憤死して悪霊となり、玉体に取り憑《つ》いて祟《たた》りをなそう」
といったうす気味わるい呪詛《じゆそ》までを口にするようになったと聞いて、
「すさまじい執着ぶりだな」
後深草院はおぞ気をふるった。そして、打算ぬきの恐怖心から、
「弟の心焔《しんえん》を鎮めてやれよ二条」
進んで橋渡し役を買って出たのだという。
「あの気弱そうな、始終おどおどと周囲の目色をうかがっておられるように見えた法親王が、実際には兄上皇を怯《おび》えさせていたとは知りませんでしたなあ」
実兼すら初めて耳にする裏話である。
「つまり院がお命じになるまま、心ならずも二条どのは、性助法親王を受け入れた。上皇の犠牲となられたわけですね」
「それもあります。ありますけど、性助さまの恋情の烈しさに曳きずられて、わたくしも燃えました。二度まで子をみごもった仲ですもの、嘘いつわりの愛ではありません。わたくしという女の因果な性《さが》でしょうか、実兼さま、あなたとの秘めごとにも真剣でしたわ。あなたの側からすれば、ほんのかりそめの遊びだったのかもしれませんが……」
「とんでもない。本気だからこそ今なおこうして、迷惑がられながらもお世話を焼きに来ているのではありませんか」
「亀山院や近衛の大殿のときですら、はじめはいやいや従ったのに、いざ抱かれてみればそれぞれの魅力に抗しきれず、その愛撫にわたくしは溺れてしまうのです。でも、男たちの手管《てくだ》に我れを忘れている瞬間ですら、心のどこかでは後深草上皇を思いつづけていました。目に見えない絆で、固く固く上皇とつながれてしまっている自分を感じていました。そのくせ上皇の打算や多情、あしらいの冷ややかさを、たまらなく憎悪してもいたのです」
東二条院公子との確執、後深草院をめぐる女たちへの、絶えまない瞋恚《しんに》と嫉妬にも疲れはてた、と訴える二条に、
「ごもっともです」
実兼は、同情しないわけにいかなかった。
「数え年十三か四で、あなたは院の寵を受ける身となり、同じころからこの、わたしとも、ひそかな逢う瀬を重ねてきた。その後、亀山院や近衛の大殿、性助法親王など幾たりもの男を知り、子を四人まで生んで、生別死別の苦しみを味わいもしておられる。二十代半ばになるやならずの内に、ほかの女の何十年分もの体験をし尽くしてしまわれたのですからな」
「先ほどのお訓《さと》しにもありました通り、たしかにわたくしは世間知らず……。室《むろ》咲きの花にちがいありませぬ。でも、狭い院の中だけの鬩《せめ》ぎ合いながら、それなりに地獄の淵《ふち》を覗いて、つくづく人まじわりが疎《うと》ましくなったのでございます。院の不実を恨み、しかもそのような院に執着せずにいられぬ心を、我れながら持て余しはじめていたやさき、わたくしは一遍上人の教えにめぐり合ったのでした」
「六字の名号を贈ってくださった、あのころですね。添えてあったお手紙に、『いっさいを捨て切る』とありました。捨てて捨てて、捨て切ってはじめて、心は真の充足を得る、大いなるものの存在を知覚し得る、と説く故に、一遍は人々から『捨て聖《ひじり》』と呼ばれているそうではありませんか」
「ええ、みながそのように申します。でも捨て切るのは本当に難しいことです。あのときの手紙にも書きました通り、捨て切ることを、おのれに課した一生の行《ぎよう》と決意したときから、一遍さまはそれを保ちつづける手段として、漂泊の道を選ばれました」
「おぼえていますよ。『たとえ一所に住しても、遁世者はつねにつねに、漂泊の思いの中で生きねばならぬ』……そう、念仏門では教えていると、あなたの手紙にもありましたな」
「一つところに住みつづけるうちには、どうしても人に執し財や家に執し、その郷《さと》のくらしに執する気持が生まれます。一所にとどまることなく旅から旅へ遊行《ゆぎよう》する人には、執する対象が生じません。ですから一遍さまは、『一所不住、捨家棄欲《しやけきよく》』をまず、実践することで、他のいっさいの欲望をも捨て切ってゆけと説いておられるのでしょう」
「二条どの、あなたも、ではいつかは行《ぎよう》としての旅に出て行くおつもりですか?」
「ご懸念はよくわかります。ありがたいとも思いますけど、やはり行かねばなりません。実兼さまに、はじめわたくしが、『あなたは誤解なさっておられる』と申しあげたのは、この、旅についてでございます」
胸中のものを、あやまたず相手に伝えたいとする熱意が、二条の語気にあふれ、それは静かな力となって実兼の胸にも迫った。
「じつをいえば、わたくしは旅に出るのが怕《こわ》いのです。怕くて怕くてたまらないのです」
「それが当たり前ですよ二条どの。怕くなければどうかしています」
わが意を得た思いで、実兼はうなずいた。
「少女のころから座右に置いて愛読しつづけたという西行の行脚《あんぎや》絵巻、いつぞやわたしがお贈りした阿仏尼の『十六夜日記』など、道の記のたぐいに触発されて、旅への憧れを抱きつづけてこられたのでしょうが、現実はそんななまやさしいものではありません」
「誤解と申しあげたのは、そこのところでございます」
かたわらの文筥《ふばこ》から二条は何やら折りたたんだ紙をとり出した。見せるのかと思うとそうではなく、それを手に握ったまま、
「たしかに若い時分は、絵物語からの空想で、夢さながら他愛ない憧れを、旅というものに描いていました」
二条は語り継いだ。
「でも、今はちがいます。どんなにそれが恐ろしいものか、頭でだけでも理解しているつもりでございます。けっして浮わついた気持で旅に出ようとは思っていません。打ちあけて申しますと実兼さま、祇園に参籠中あなたが雑色《ぞうしき》の兵藤太に持たせて、おりおり届けてくださった衣類や食べ物も、すべて近隣の貧者に分け与え、わたくしと中将は口にしませんでした」
「それは意外だ。いったい何を召し上がっておられたのです?」
「庵のそばの空地をたがやして青菜など育て、粟《あわ》や稗《ひえ》の粥《かゆ》に入れて五百日間、空腹をしのぎました。雑穀は持ち物を売って求めたのでございます。出家の意志を固めた以上、身につける衣裳など、いっさい不用と思い定めましたので……」
「知らなかった。そこまでの心用意を、すでにしておられたとは……」
「ここでの修行中にも、厠《かわや》掃除から炊事洗濯、畑での耕作など、院主の真願尼さまにきびしく錬《きた》えていただくことになるでしょう。二年、三年、そうした明けくれに耐えるうちには、少しは心身がたくましくなるとぞんじます。まっ黒に日灼けし、比丘《びく》か比丘尼《びくに》か見わけのつかぬむさくるしい姿に変じて旅に出たとしても、やはり女の身……。仰せの通り一里も行かぬうちに悪党どもの餌食となり、死にまさる屈辱を強《し》いられるかもしれません。よしんばそれほどの災厄に遭わないまでも、寒暑や飢えの苦しみは一生ついて回るでしょうし、山中では熊、狼、毒蛇の危難、病いにかかれば路傍で野垂れ死するほかありますまい」
「そうですとも。それでもあえて、苦痛の底に身を投じるおつもりですか?」
「苦痛を伴うからこそ行《ぎよう》とぞんじます。はじめから捨身《しやしん》の覚悟で踏み出す旅なら、この身体は無きにひとしく、どのような暴慢な力や辱しめを受けたところで、それを行と観じ切ることもできるのではないでしょうか」
何と言われてもなお、二条の先ゆきが、実兼には案じられてならなかった。自分の目のとどく洛中に置きたいが、どうしても旅を行《ぎよう》として生きるというのなら、せめて中将のほかに屈強の男を両三名、荷持ちとして随従させたい。しかし二条には、中将すら伴って出る気がなさそうに見える。
「一遍上人に帰依して、共に飾りをおろしはしましたけれど、出家すれば同じ仏弟子……。もはや中将はわたくしの召使ではございません。同行するか否かは中将の自由に委せるつもりでおります」
そう言って、手に持っていた紙片を拡げ、二条ははじめて実兼に見せた。
「わたくしの乞いにまかせ、一遍さまがおしたためくださったご自作の歌でございます」
おのづから相逢ふときも別れても
一人はいつも一人なりけり
暢達《ちようたつ》な筆跡で粗末な紙に、さらさらと無造作《むぞうさ》に書かれた一首は、深い、明澄な水底からの声のように、熱した実兼の心に冷んやり沁《し》みた。
「再入洛あそばしたとき頂いたご自詠ですが、そのお歌を拝見したせつな、なぜかとても気持が軽くなりましたの」
と、二条も言う。
「そうなのだ、愛憎の縄に繋《つな》がれ、がんじがらめの息ぐるしさに喘《あえ》いでいるけれど、相手も自分も、もともと人間は一人ではないか……。そう気づいたら、ふっと縄がほどけて、息がつける感じを味わったのです。この先、捨身《しやしん》の旅をつづけてゆけば、わたくしの容姿は老い、衰え、醜く垢《あか》づくことでしょうが、きびしい風雪にこそげ削られて、執着、嫉妬、利己心や慢心など、心を厚く覆っていた垢も、少しずつ欠け落ちてくれるのではないか、そうしたら、気持はもっと軽くなるのではないかとの、希望が持ててまいりました」
元来、人間は一人――。個に徹し、附属しようとするものを捨てて捨てて、捨て切った果てに展《ひら》けるのは、無常の自覚であり、
「よろず生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも念仏ならずということなし」
と観じられる充足の境涯にちがいない。
到底、そこまでは至りえないにしても、遥か行く手にほの見える平穏な光――。それを目あてに歩み出したいとまで言われては、もはや実兼には、二条を翻意《ほんい》させる手段はなかった。
「ともあれ二、三年は、ここを動きませんね? 当庵に身を置いて、真願尼の鉗鎚《けんつい》を受けるおつもりですね?」
「そのつもりでおります」
「きっとですよ」
くどくど念押しして、ひとまず別れはしたものの実兼は宙を踏む思いで、兵藤太の助けを借りなければ馬上になることすらおぼつかなかったのである。
権謀術数
正応二年、四月の末に、胤仁親王の立太子式があげられた。後深草院のおん孫、伏見新帝のお子、そして西園寺実兼の娘の子中宮を母儀とする皇太子である。
つまり後深草上皇の系列と、西園寺家が手を結び合って、がっちり固めてのけた新体制の発足だから、
「約束がちがう」
亀山院は驚愕し、腹を立てた。
「伏見帝の治世は一代限り……。後継の皇太子にはわたしの孫の邦治を立て、次期帝位はこちらにもどすと取り決めたはずではないか」
西園寺実兼も後深草院父子も、しかし亀山上皇の怒りなど徹底的に無視し、
「すべて鎌倉の意向」
ということで押し切って、胤仁親王の立太子を強行してしまったのだ。
しかも、それからまもなく、その鎌倉で騒動が持ちあがった。町中を武装の兵が駆けめぐり、近国からも馬に鞭打って御家人たちがはせ集まって来たから、
「すわ、合戦がはじまるぞッ」
雑人《ぞうにん》らは家財をかついで逃げ惑う。親にはぐれた子供、置きざりにされた病人、ころぶ老婆、泣きわめく女どもなど、上を下への大混乱となった。そのうちにだれの口からともなく、
「将軍家、ご謀叛」
との叫び交わしが起こり、さわぎの根元は宮将軍の惟康《これやす》親王御所と判明した。
だれよりも仰天したのは当の惟康親王であった。後深草・亀山両上皇の兄の息子――つまり甥にあたるこの、お飾り将軍に、与党を語らって幕府に弓を引く度胸などあるはずはない。ぬれぎぬにきまっていたから、
「御所にご座あってはお命にかかわりましょう。お逃げあそばしませ」
近習たちのそそのかしを鵜《う》呑みにし、あわてふためいて輿《こし》に這い込んだ。
「それ、行けッ」
飛ぶがごとく走り出したはいいが、あまりに狼狽したため輿|舁《か》きどもが輿をあべこべにかついだまま二里も来てしまい、息せききって追いついた従者らに、
「ええい不吉なッ、逆《さかさ》輿は罪人を乗せるときにすることだ、とっとと向きを変えんか、うろたえ者ッ」
一喝され、ようやくまちがいに気づくという笑えない喜劇までおまけについた。
なぜ、この時期、毒にも薬にもならない惟康親王を、架空の謀叛事件まででっちあげて幕府は京へ追い返したのか?
その疑問は、すぐさま氷解した。待っていましたとばかり元服をとげ、一品式部卿《いつぽんしきぶきよう》に征夷大将軍の顕職を兼ねて、行粧《ぎようそう》美々しく鎌倉へ赴任したのが、後深草院の第二皇子・久明《ひさあきら》親王だったのだ。
ごり押しにひとしいこの、将軍交替人事によって、院・朝廷の主《あるじ》はもとより鎌倉幕府の首長までが、ことごとく後深草院とそのお子たちで占められる結果になったのであった。
惟康親王の引きおろし、久明新将軍の実現という放れ業をやってのけた陰での立役者は、むろん関東申次役の西園寺実兼、これと密接に気脈を通じ合っていた北条貞時執権のふところ刀、内管領の平頼綱である。
皇室の惣領《そうりよう》権、『治天の君』の地位までが、必然的に後深草院側に移ったから、
「なんということだ」
亀山院は憤懣《ふんまん》の極、手ずからもとどりを切り払って出家入道してしまった。
弟に惣領権を奪われ、失意のどん底に落とされたとき、やはり後深草院も、
「おれは、坊主になるッ」
と言い立てた。それと同じで、様《さま》まで変えて見せれば幕府もきのどくがり、事態の緩和を図るのではないかと期待したわけだが、亀山院の場合、期待はむざんに裏切られた。相手の弱体化につけこみ、実兼はさらに容赦ない一撃を加えたのだ。
将軍廃立のごたつきから、まだ半年も経過しない正応三年三月十日の早暁、突如、奇怪せんばんな刃傷《にんじよう》事件が勃発した。
夜通し篝火《かがりび》を焚いて皇居の警固にあたらなければならないのに、門を守る衛士《えじ》などというものは、たいてい役目をおろそかにして眠りこける。そのすきをついて内裏《だいり》の西面《にしおもて》に位置する宜秋門《ぎしゆうもん》から三人の荒武者が甲冑《かつちゆう》に身を固め、馬を煽《あお》って乱入したのである。
彼らは甲斐源氏の流れを汲む浅原八郎為頼とその息子たちだった。かねがね自国の内で領民の財をかすめ、人妻を犯すなど狼藉《ろうぜき》の限りをつくし、咎《とが》によって領地没収、追放の憂き目を見させられていた札つきの牢人どもである。
連中は土足のまま殿上へ走りあがり、悲鳴をあげて逃げ散る女官の一人をひっとらえて、
「主上のご寝所はどこだッ」
赤鬼さながらな形相《ぎようそう》でどなった。
「はるか北の彼方の、夜のおとどに……」
慄え慄え、それでもとっさに嘘を教えると、そこが地の理に暗い地下《じげ》の悲しさ、本気にして駆け出す間に、伏見天皇は女房姿にやつして子中宮とともに常《つね》御所へ避難する。三歳になったばかりの胤仁皇太子は、乳母がお抱きしてこれも祖父上皇の御所へ逃げた。
一方、浅原父子は主上を探しあぐねて御殿のあちこちをうろつき廻っているうち、宿直《とのい》の侍どもがおっとり囲んで斬り合いとなった。
急報で駆けつけた六波羅の兵も、五十騎を越す人数で御殿の御格子《みこうし》を引っぱずし、
「神妙にしろッ」
おめいてなだれ込んだからたまらない。
「天皇を討ちそこねて、残念だッ」
為頼は歯がみしながら夜のおとどに引き返し、主上の茵《しとね》の上に立ちはだかって咽喉《のど》笛を掻き切った。
長男の頼資は、これも紫宸殿《ししいでん》の御帳台《みちようだい》の上にとびあがって自害――。次男の頼堅《よりかた》一人はしぶとく抵抗し、清涼殿にたてこもってしまった。
夜あけにはまだ、ほど遠い。まっ暗な中からびゅんびゅん矢を射かけてくるので、二条京極の篝屋《かがりや》に詰める六波羅えりすぐりの精兵どもも、
「敵は幾人いるかわからんぞ」
「油断するな」
用心して、うっかりとは近寄らない。二手《ふたて》にも三手《みて》にも分かれ、袋の鼠にしたあげく、どっと襲いかかったから、矢種《やだね》を射尽くした頼堅は観念したのだろう、物具《もののぐ》をかなぐり捨て、大床子《だいそうじ》の上に片足かけて、腹一文字にかっさばいた。
死骸は父子三人ながら板戸に乗せ、六波羅の南役所へ運んで検分したけれども、彼らがなに故に伏見帝の命を狙うなどという突っぴょうしもないことを企てたのか、さっぱり理由がわからない。
ところがよくよく調べていくうちに、首魁の為頼が所持していた太刀が、三条宰相中将実盛の屋敷に代々伝わる名刀と判明した。
そこでたちまち三条宰相は捕えられ、六波羅に引っ立てられる。しかもこの三条卿が亀山上皇の信任厚い側近だったことから、事態は俄然、ややこしくなった。
「利で釣ったか位階で釣ったか、ともあれ単純な猪武者を三人手なずけ、亀山院が邪魔者の伏見帝・胤仁皇太子らを殺害させようとなさったにちがいない」
「日ごろから気性の激しいお方だ。まして自暴自棄に陥られた現在、思い切った手段を取ってもおかしくはないな」
明け放れたころにはもう、京童《きようわらんべ》の口にまであけすけに、こんな嫌疑《けんぎ》が語り交わされはじめたし、院ノ庁や宮中では緊急に公卿僉議《くぎようせんぎ》が開かれて、
「前代未聞の不祥事……。しかも帝《みかど》が御寝《ぎよし》あそばすお茵、儀式の際ご座所とする紫宸《ししい》殿の御帳台、食膳に用いられる大床子など、清浄神聖な場所やお道具をわざとのように血で穢《けが》したのは見すごせぬ」
「そうせよと命じたお方の、帝や東宮への憎しみの表れと解せば解されるな」
そんなやりとりの中でも、ひときわ激越だったのは西園寺|公衡《きんひら》の発言だった。童形のころ、千代童と呼ばれていた実兼の嫡男も、もう今は、いっぱしの若|公家《くげ》に成長し、中宮大夫の要職にあって妹の子中宮を側面から支えている。大夫は、中宮|職《しき》の長官である。
その公衡が、亀山・後宇多の両院をはっきり名ざしで非難し、
「帝位の乱れが匡《ただ》され、嫡統相続の本来にもどったのを逆恨みあそばすとは心得ません。承久の乱の例にのっとり、どこぞ遠隔の地へ両上皇をお移ししてはいかがでしょうか」
恐れげもなく議《はか》った裏には、もちろん父実兼の意志が働いている。
剛腹な亀山院もさすがに色を失い、鎌倉に誓紙を送って、今回の怪事件に、自分ら父子はまったく関わっていないむね、言葉をつくして陳弁した。
亀山院・後宇多院父子を配流《はいる》するなどということは、むろん、ありえない。単なる威《おど》しにすぎない。それどころか、暴漢による禁中乱入事件を仕組んだ張本人は、じつのところ後深草院側――もっと端的にいえばその参謀格の、西園寺実兼かもしれないのだ。
浅原八郎為頼の背後にいて、彼をあやつった人物はだれか? 真相はついに不明のまま終ったけれども、この事件が亀山院父子に与えた打撃の大きさは計り知れなかった。もし実兼が陰で企らんだ術策だとすれば、目的は充分に達せられたといってよい。
伏見帝の即位、胤仁親王の立太子、後深草院の院政開始という優位な状況の中で、実兼の官位もめざましく累進し、正応四年にはついに待望の、従一位・太政大臣にまで昇りつめた。
西園寺家は摂家の次に位置する清華《せいが》の家だから、摂政・関白にはなれない。しかし家格とすれば最高の官を極め、祖父実氏、父公相と、初めて肩を並べたのである。年、このとき四十三――。権謀に見せる腕の冴えも、切れ者と恐れられた祖父をさえ凌《しの》ぐほどになったが、そんな実兼がここ二、三年|来《らい》の怱忙《そうぼう》からようやく脱け出し、ひさかたぶりに醍醐の勝倶胝院を訪ねてみると、二条の姿は草庵から消えていた。
「旅に出ましたぞ」
庵主の真願尼の事もなげな言葉に、
「どこへ?」
つい知らず実兼は急《せ》き込んだ。
「わかりませぬ。行雲流水の身となられたのじゃ。雲や水に行方《ゆくえ》を問うても詮《せん》ないで、の」
「中将は?」
「共に旅立ちました」
一人きりではなかった、せめてもの、それが救いだと実兼は自身に言い聞かせた。
弥生《やよい》なかばなのに、夏を思わせる暑い日だった。夜来の雨があがり、二条主従が耕していたであろう菜畑も、それを囲う疎らな竹垣、垣の向こうに広がる野や森までが、陽炎《かげろう》の燃えを透《す》かしてゆらゆら揺れている。実兼の目にはそれが、いきなり安定を失ってしまった彼みずからの心象風景としか捉えることができなかった。
「眩暈《めまい》がする。地面が動く……」
兵藤太ら随身どもの肩を借りて、よろめきながら車上に移ったいくじなさは、天皇の交替劇に凄腕《すごうで》を発揮した権臣《けんしん》らしくもなかった。
目を閉じると、いずことも知らぬ地平の果てを、空いちめんの夕映えに向かって、二条と中将の黒衣姿が小さく小さく歩み去って行くのが見える。まなうらのその幻覚も、車の振動に合わせるかのように揺れていた。
(いま、どこをどう旅している二人なのか)
消息を掴めなくなってしまったのが、不安だし、もどかしい。漠然と理解はしたつもりだが、求めてまで苦労しようとする女たちの気持が、やはりどうしても、実兼には肯定しにくかったのである。
――以来、心にかかっていた二条主従の居どころが、正応四年の秋のはじめ、思いがけず知れた。このところ半年ほど、顔を見せなかった芳善斎の松若が、
「そろそろ焚物《たきもの》が切れておる時分とぞんじましてな。ご機嫌伺いかたがた参上いたしました」
西園寺邸へ注文取りに現れたのだ。
「九州の出店から、極上の伽羅《きやら》が入荷したのですよ殿さま、お値段も手ごろでございます。少々ふんばって、多量にお求めになりましてもご損はありません。いかがさまで?」
揉み手しいしいすすめるのへ、
「伽羅は甘ったるい」
気のない口ぶりで実兼が突っぱねたのは、ずる賢いこの唐物商を相手にするとき、彼が好んで弄《ろう》する懸け引きであった。
「この年になると、もっときっぱりとした爽やかな香りのほうが似合ってくる。伽羅は願いさげだな」
「またまた、年寄りくさいことをおっしゃって……。焚物などというものは、相手に合わせて用いるものですぞ。若い女人は例外なく甘い匂いに魅《ひ》かれます。伽羅を焚きしめて忍んで行かれたら、院中宮中、局々の引戸は女のほうで待ちかねて開けますよ」
「もう億劫《おつくう》でね。夜遊びはやめた。だれにも相手にされなくなってしまっては、切りあげどきだろうが……」
「嘘ばっかり。殿さまの艶聞は、わたしらの耳にまで入ってますぜ。いまや飛ぶ鳥落とす相国《しようこく》のご身分。若いころから男前でいらしたけど、お年とともに貫禄と渋みが添って、女房どもをますます迷わせておられるそうではありませんか」
「おだてたって伽羅は買わんよ」
「では、白檀《びやくだん》はいかがで? これも質の良いのが入荷してますがね」
「元と戦っても、民間の交易船は絶えることなく往来しているらしいな」
「そうですとも。国と国の合戦と商売人同士のかかわりは別です。元もね殿さま、日本征服をくわだてたあの世祖フビライが病床についてからは、ひところの勢いが衰えましたよ」
「フビライが倒れたか」
「亡くなっちゃいませんが、病気だそうです。世祖が元気なころは、二度の敗退を無念がって、性懲りもなく軍備にかかっていたとかでね。征東行省という役所まで設けたらしいけど、国内で叛乱や紛争が起こって、そのつど計画はつぶれ、もう今は、すっかり日本遠征をあきらめてしまったようですよ」
「やれやれ、やっと彼我をへだてる海上に平穏がおとずれたというわけか」
「どっこい、そうはいきません。弘安役のあと日本の海賊どもが、やたら跋扈《ばつこ》して、大陸沿岸を荒らし廻りはじめたんです。元寇じゃなくて倭寇《わこう》ですな。そいつらから盗品を買い叩くから、安い焚物が手に入るのですよ」
「なに、盗品だと? そんないかがわしい伽羅や白檀など、いよいよもってご免だぞ」
「冗談じゃありません。品は確かでさあ。海賊だ倭寇だといっても、本来はやつらも交易商なんです。ただ、ちっとばかり取り引きの仕方が荒っぽいというだけでしてね」
「いったい今日、持参した焚物は幾らなんだ」
値を訊《き》くと、なるほど安い。
「ほんとに品質は大丈夫か?」
「なんなら試してごらんなされませ」
ほんの爪の先ほど小刀で削って、松若が香炉《こうろ》のぬく灰に落とす。とたんに伽羅特有の、甘美な香りが嗅覚をかすめて、
「ああ、思い出すなあ」
実兼を涙ぐませた。
「お前はわたしを、いかにも艶福家のように言うけどね、げんに伽羅が好きだった女に、逃げられてしまった。情ない話じゃないか」
「殿さまを振る女なんて、いますかね?」
「いるのさ。お前の店であつらえた豪華な衣裳……。あれを贈った二条の局が、一言の相談もなく出家したばかりか、わたしの知らない間に旅に出て、行方すらいまだに判らんのだ」
「待ってください殿さまッ」
けたたましく松若がさえぎった。
「それ、まちがいありませんか?」
「ああ、中将という侍女も一緒に、様を変えたよ。醍醐のさる草庵でね」
「では、やっぱりそうか」
「松若、見かけたのか? 二人を……」
「去年の夏ごろです。手前が鎌倉に出店を開いたのは、ごぞんじでしょう。商用で出かけて、二、三ヵ月鎌倉に滞在していたとき、店先に佇《たたず》んだ二人づれの尼さんがおりました。托鉢の途中だったようだが、内の一人に見覚えがあります。『二条さまに似ているけど、訝《おか》しいなあ。まさかあの方が、遁世などなさるはずはない』と、その時は思ったんです」
「そうか。鎌倉にいたのか」
かすかながら手がかりを得た。しかし去年の夏というのでは、まだ鎌倉にとどまっているか否か、おぼつかない。それでも実兼は、
「達者そうだったか? 施しは受けたのか?」
膝を乗り出して、やつぎばやに尋ねた。
「いえ、その尼さん方は手前どもの店へ食を乞いに来られたのではありません。こちらさまにもお納めしましたなあ、鸚鵡《おうむ》の鳥を……」
「おう、鸚鵡。やつは健在だ。隣室にいるよ」
「人語をしゃべるのが珍らしがられて、高値で捌《さば》けるものですから、あれから三羽ほど仕入れましてな、お大名相手に売ったんですが、残った一羽を鎌倉の店の軒先に出しておきました。二人の尼さんはその鸚鵡の籠を通りすがりにごらんになって、なつかしそうに足をおとめになったんですわ」
「なつかしそうにか?」
二条主従にまちがいないと、実兼は確信した。小ましゃくれた我が家の鸚鵡の話を二条に語って聞かせ、笑わせたことがあったのを、彼もまた、なつかしく思い起こしていた。
結局、言い値で伽羅を売りつけた芳善斎の松若が、政所《まんどころ》の家司《けいし》から金を受け取って、
「毎度ありがとうぞんじます殿さま、唐物ご用のせつは、またお申しつけくださいまし」
いそいそ帰って行ったあと、実兼はもう一度たっぷり香炉に伽羅をくべ直して、二条のおもざしを偲《しの》んだ。彼女が好んで用い、ほとんど体臭ともなっていた芳香である。
「甘ったるい」
わざと松若には気のないそぶりで、けなすように言ったけれど、ひさしぶりに嗅いだ伽羅の燻《くゆ》りは、じつは物狂わしいまでな二条への思慕へ、実兼を駆り立てたのだ。二人きりですごした濃密な夜々を、艶冶《えんや》なその香りがいっそう味わい深いものにしてくれたのを実兼は忘れない。抱きしめている二条の身体の奥処《おくが》から、それは立ち昇ってでもくるような錯覚に実兼をいざない、彼を恍惚とさせるのが常だった。
いまなお唇が記憶している二条の肌の熱さ、まさぐる手指に沁《し》みた黒髪の冷たさ……。そのどちらからもふくよかな伽羅の匂いを放っていた女なのに、
(ああ、黒髪……)
みごとな、かぐわしいあの髪を失ってしまった二条なのかと考えただけで、実兼は新たな無念に突き上げられる。
(ばかなことをしたものだ)
鎌倉にいたという。たぶん中将と思える尼と二人づれで、なつかしげに軒先に吊るされた鸚鵡の籠を見あげていたともいう。
立って、実兼は次の間《ま》から我が家の鸚鵡を運んで来、書斎の机上に据えた。覆い布をハラリと取ると、灯火の輝きがまぶしいのか丸い目を鸚鵡はしばたたき、
「殿サマハ福々長者。池ノ岩ニハ亀遊ブ、庭ノ松ニハ鶴ガ舞ウ。メデタイナ、メデタイナ」
おはこをやりだしたのは、寝ぼけたのか、それとも餌をねだっての世辞だろうか。
「おい、聞けよ」
実兼は鸚鵡に語りかけた。
「お前の仲間が一羽、鎌倉の芳善斎の出店に飾られている。二条の局が通りすがりに、それを眺めていたそうだぞ」
話しているうちに、実兼はたまらなく淋しくなった。人語を喋りはしても、たかが鳥……。それを相手に、二条の噂をするしかない現実が、いまさらながら胸を緊めつけてくる。
二条はもはや忘れられた。院の御所を放逐されて、すでに足かけでは九年になる。当座は何かと話題にしたがった口さがない女房や女官たちも、もう二条への関心などとうに失ってしまったらしい。
いきなり院中で様を変えでもしたのなら、大さわぎになったであろうが、宿へさがり、祇園社での長期に亘《わた》る参籠のあげく、ひっそり得度《とくど》し、旅に出たため、暁の星が夜明けと共に消えるに似た自然さで、二条はいつのまにか人々の脳裏から消え去ったのだろう。
あれほど二条を憎み、後深草院との仲を嫉妬して、その離間を策した東二条院公子ですらが、二条のにの字も口にしない。彼女の場合、まさか忘れ去りはしないだろうが、院中から追い払ってのけたあとしばらくは、堪能《たんのう》するほど噛みしめたにちがいない勝利の快感も、今は薄れてしまったかに見える。
(ことによると東二条院は、二条が出家したことさえ知らないのではないか。母方の里の四条家か、父方の久我邸のどちらかに引きとられて、肩身の狭い懸人《かかりゆうど》ぐらしに甘んじているとでも思っているのではないか)
そう実兼は想像する。その四条家も久我家もが、いかに現在、継母や後妻の子らに乗っ取られたも同然なありさまとはいえ、まるで二条の存在が両家の恥部ででもあったように、ぷっつりとその消息に関して口を閉ざしているのが実兼には奇怪だし、
(冷淡な親族どもだ)
と、不愉快にもなる。
「可哀そうに……。なあ鸚鵡。お前は忘れはしないだろ? 二条の名を……」
籠に顔を近づけて、語りかけるともなくつぶやいたとたん、
「牛ヲ曳キ出セ、オ車ノ用意」
勢いこんで鸚鵡が喋り出したのである。
「おッ、始めたな」
知己を得たように実兼はうれしくなり、
「その先は? え? 何というのだね?」
うながした。
「夜道ハ暗イ。タイマツヲトモセ」
「ともしたとも。で、どこへ行く?」
「二条サマノ、オツボネ」
笑おうとしたのに、逆に涙がこみあげてきた。妻の監視を躱《かわ》し、後深草上皇の目を盗んで、院の、二条の私室へ忍んで行った夜々の粘《ねば》っこい情感が、満ちてくる潮さながら身内を浸《ひた》した。
籠のすきまから指を差し入れて、実兼は静かに鸚鵡の胸毛を撫《な》でた。白い羽毛はすべっこく、押すと指先に、強靭な弾力を伝えてくる。その指を軽く噛むのは、この鸚鵡が示す親愛の表出であった。
「お前は雄か雌か? 年は幾つになる?」
実兼は言った。
「どこから来たんだ? 生まれ故郷はきっと、遠い遠い熱暑の国なんだろうなあ」
珍鳥ゆえに捕えられ、売られ、人の手から手へ渡される間に、鸚鵡が辿《たど》ったであろう旅路の遥けさが、二条主従の行脚《あんぎや》と重なって思いやられた。
「お前、一羽でつまらなくはないか? 仲間が欲しければ芳善斎に注文して、鎌倉の店の鸚鵡を買い取ってやってもいいんだぞ」
語りかける実兼の口許を、鸚鵡はまじまじみつめていたが、唄の催促と勘《かん》ちがいしたのだろう、愛らしく首をかしげながら、
「ウマヤノ隅ナル飼イ猿ハ、キヅナヲ放レテ、サゾ遊ブ……」
お得意の今様を披露しはじめた。
逆転
正応三年春、例の浅原為頼父子の禁中乱入事件が突発するひと月ほど前に後深草上皇は出家して、法皇となった。法名、素実――。年齢は四十八歳であった。
弟の亀山院のように、窮地に追い込まれたのを怒ってもとどりを切ったわけではなく、仏に帰依《きえ》して一念発起したわけでもない。
白河院、鳥羽院、後白河院ら、専制君主としての恣意《しい》を思うままに振るった院ノ庁の主《あるじ》が、法皇の地位に在ったのにならって、入道したにすぎないのである。
しかし、富と政治権力とを左右の手に握って、文字通りこの国の頂点に立ったかつての法皇たちの時代とは、百年余のへだたりがあり、政情や体制は根本から変わってきている。
藤原摂関家の衰退に乗じ、入れ代わって政権の枢軸に坐った平安朝末のしたたかな法皇たちは、自身、実力を持っていたから、たとえば保元《ほうげん》・平治の乱、もしくは源平の合戦といった武力衝突が起こり、皇統が分裂の危機に瀕したときも、巧みに源平両武族をあやつり、抗争の渦を利用して自家に有利に、政局の流れを操作した。
そして、天皇親政を基本とする歴史の本道から見れば、狂い咲きの徒花《あだばな》にもひとしい院政の黄金期を現出し、栄華と権威をほしいままにしたのであった。
ところが、今はどうか。旧院政時代に匹敵するほどの財力を、後深草院側も亀山院側も擁してはいる。でも、肝腎の政治権力を持たない。日本の実質的な統治者は、鎌倉幕府であって、政権を担当する者が負うべき苦労や責任はないかわりに、国政の中核にあって自在に武族を駆使する力もまた、天皇・上皇・法皇ともに、まったく失ってしまっている現状なのである。
だから後深草院父子、亀山院父子が両派に分かれ、一つの帝冠を争って紛糾している現在、どちらの側もが相手の息の根までを、一気に、びしッと止めることがなかなかできにくい。保元の兵乱のときは、若き日の平清盛と手を組んだ後白河天皇方が、源義朝らを傘下に引き入れた崇徳《すとく》上皇派を、源平両氏の代理戦争的な形に持ち込んで、完膚《かんぷ》なきまでに叩きつぶしたではないか。
でも今は、それができない。後深草院側にしろ亀山院側にしろ、相手を圧倒するためには鎌倉幕府に接近し、これと手を結ばなければ勝ちを制するのはむずかしいのである。
そこで陰《いん》にこもった懸け引きや裏工作、双方の実力者同士の、打算だの思惑などで、践祚《せんそ》・立坊・皇室の所領問題といった重要な議題が左右されることになる。
関東申次役の西園寺実兼を味方につけたおかげで、いまのところ勝者の優越を味わっている後深草院だが、院ノ庁を開き、法皇となって院政を布《し》いたところで、それは形の上のことにすぎず、百年前の法皇たちがおこなった専制政治とは、似ても似つかぬうわべだけの模倣なのであった。
それでも後深草院にすれば、望みのことごとくがかない、満足この上ない昨今らしい。いささか鉢の開いた入道頭を気持よさそうに撫でながら、
「洗ったり結《ゆ》ったりする手間がなくなって、じつにさっぱりした。髪の毛なんてものは、世捨て人には無用の長物にすぎんな」
脱俗しきったようなことを言う。そのくせ供御《くご》に、魚鳥の肉は欠かさないし、酒量や夜ごとの局歩きまで、若ざかりのころに較べて衰えを見せない。うす紫の素絹《そけん》の直垂《ひたたれ》、金襴《きんらん》の袈裟《けさ》、裾をゆったりふくらませた唐花丸《からはなまる》の指貫《さしぬき》に、男にはややなまめかしすぎる珊瑚《さんご》の数珠など持ち添えたおしゃれぶりも、僧形なりに気くばりが行き届いて、なかなかに自信ありげなのである。
そんな法皇も、西園寺実兼から二条の出家を告げられたときは、
「まさか……」
意表を衝《つ》かれたか、二の句のつげない面《おも》持ちだった。
「事実か実兼、おれを担ぐのではあるまいな」
「この目で見たのです。墨染め姿を……」
「ふーん」
眉をしかめ、しばらく押し黙っていたが、
「どうせ一時の気まぐれだろう。抛《ほう》っておけ」
吐きすてるように言ったのは、二条の行動を、冷遇への反抗、もしくはつら当てと取ったからにちがいない。
それっきり話題にもしないので、実兼も二条の名には触れずにすごして来たが、芳善斎の松若から「鎌倉で見かけた」と聞いたあと、院参のついでにこのことをお耳に入れた。
ところが後深草院は、
「鎌倉にいたと? いつごろの話だ?」
さして驚きもせず質問する。
「去年の夏だそうです」
「なんだ。それならもう鎌倉になどおらんよ。今年の正月、おれは二条に会ったもの」
「えッ? どこでです?」
「石清水八幡へ社参したさい、偶然、参道の脇にたたずんでいるのを、輿《こし》の内から見かけてね、供の者にたしかめさせた。だいぶ様子が変わっていたけど、やはり二条だったよ」
「存じませんでした。会われたのなら、すぐにでも知らせてくださればよかったのに……」
恨みがましい言い方を、
「話したつもりだぞ。それともうっかり忘れたかな」
小意地わるく院ははぐらかした。
「なに、ほんのわずかなあいだ、本坊のひと間《ま》で対面したにすぎん。おれは『待っていよ』と命じたのだが、参詣をすませてもどってみると、もう二条はいなかったんだ」
「様子が変わったとは、どのように?」
「日に灼《や》けてな。たくましくなったよ。受け答えなどもはきはきして、ひさかたぶりに会ったのに、涙一滴こぼさなかったぞ」
(錬《きた》えられたのだ)
実兼は思った。旅を、おのれに課する行《ぎよう》として、捨身《しやしん》に徹すべく歩きつづけると断言した二条である。
(修行の成果が表れたにちがいない)
その想像は実兼を安らがせ、わずかながら気持を明るくもさせた。
「一人きりでしたか?」
「同じ年ごろの尼が従っていた。この尼の顔にも見おぼえがあったな」
「そのはずです。召使の中将ですから……」
「そうか。昔、局に仕えていた侍女か」
「どこぞで病んではいないか、飢えて、野垂《のた》れ死でもしはすまいかと案じ通していました。たくましくなったとうけたまわって、胸の痞《つか》えが取れた感じです」
「でも、なりはみすぼらしかったぞ。春とはいえ雪もやいの、ひどく底冷えする日だったから、見かねてな。下に着ていた物を二、三枚ぬいで、めぐんでやったよ」
「それはよいことをなされました」
「二条はおれの寵を受けた女だ。亀山院とも性助とも関わりを持ち、お前や近衛の大殿にも抱かれている。かつて帝位に在り、今は法皇となった兄と弟――。そして、もう一人は仁和寺|御室《おむろ》の門跡。法親王だ。さらに実兼、お前は太政大臣だし、近衛兼平は関白にまで昇った人物だよ。位、人臣をきわめた貴紳や十善の尊位を踏んだ皇親皇族ばかりを愛人に持つという稀有《けう》な星の下に生まれた女が、一転、乞食尼に落ちぶれて諸国をさまよい歩いている。ただ放浪するだけならよいが、過去の栄光をこれみよがしに吹聴《ふいちよう》などされてみろ。われわれの恥さらしだと思わんか」
「二条どのは、そんなことを口にする性格ではないはずです」
むっとして、実兼は反駁《はんばく》した。
「よしんば何を喋ったからとて、事実は事実――。いたし方ありますまい」
「おれは迷惑だ。で、二条にも釘をさした。『どう生きようとそなたの勝手ではあるけれど、御所での事を世間に触れ回るな』とね」
「ひどいおっしゃりようだ。二条どのは泣いたでしょうな」
「泣きはしない。『わたくしは過去を捨てました。今さら捨てたものを拾い上げて誇るつもりなど毛頭ありません。誇りとも思っていませんから』と、気づよく言いおったよ」
笑いながら後深草院はつづけた。
「言い草が小憎らしいので、『いま、男はいないのか』とも訊《き》いてやった。梵論師《ぼろんじ》とか、ぼろぼろとか呼ばれている有髪《うはつ》の破戒坊主が、色を販《ひさ》ぐ歌比丘尼《うたびくに》などと夫婦になって旅をする例は、よくあるそうじゃないか」
「いよいよもって、ひどいお言葉ですなあ」
怒るより、実兼は呆れはてた。若いころから自己中心にしかものを考えないわがまま坊ちゃんではあった。しかし、ここまで無神経な人とは思っていなかったのである。
「そうかなあ、そんなにひどいことを、おれは言ったかなあ」
軽侮と非難をこめた実兼のまなざしに、むしろ後深草院はたじろぎながら、
「たとえ尼だって、女が一人で生きるのは容易じゃない。夫を持ったってかまわんのだよ」
ますますそれが、二条を蔑《おとし》めることになるとも気づかずに、弁解がましく言った。
「ただ、おれやお前との昔の関係を、自慢げに口にしなければいいんだ。二条はでも、むきになって『男などいない。久我家は源氏。守り神の鶴ケ岡八幡、当石清水八幡に誓詞を奉ってもよい』とまで言い切る。まんざら嘘とは思えなかったがね。日に灼けても相かわらず下民の中では目立つ縹緻《きりよう》だ。これまではかろうじて潔白だったにせよ、先はわからんよ。だからおれは、すすめたんだ。『もういいかげんに旅など切りあげて、おれの庇護の下に帰ってこい』と……。『寺でも堂でも、ほしければ建ててやる。みじめなそんな姿でうろつかれては、気がかりでたまらん』とな」
「何とお答えしました?」
「黙りこくったまま、じっとおれの面上をみつめていたよ。そして神拝《じんぱい》をすましてもどってみたら、いなくなっていた。もっとしっかり扈従の者どもに見張らせておけばよかったと臍《ほぞ》を噛んだがね。あとの祭りだった」
院の言う「庇護」が、もはや愛情から発したものでないことは、二条も知ったであろう。去って行くとき、その耳の底で、金鈴《きんれい》さながら鳴り響いていたのは、
おのづから相逢ふときも別れても
一人はいつも一人なりけり
一遍の、あの自詠の一首だったのではあるまいか。めぐまれた肌着のあたたかさだけを抱きしめて、二条はいっそ、すがすがと八幡宮の本坊をあとにしたのではないかと、実兼は想像する。
(西へ去ったか。東へ行ったか)
ことによると一遍の奥城《おくつき》にぬかずくべく、その葬地を目ざして旅立ったのかもしれない。
実兼が一遍の遷化《せんげ》を知ったのは、雑色の兵藤太が巷《ちまた》で聞き込んで来た噂からだった。
正応二年秋のさなか、一遍は兵庫|大輪田《おおわだ》の泊まりに近い小さな観音堂で、五十一歳を一期《いちご》に入寂したのだ。
「禅定に入るがごとき、端然とした最期であったとか……」
そう、兵藤太は実兼に告げた。
「したしく臨終の枕辺に侍した信者の話によると、一遍上人は亡くなる二十日《はつか》ほど前に、ながい遍歴のあいだ肌身はなさず所持しつづけた経文、書籍、書留めや日誌のたぐいを、手ずからすべて焼き捨て、惜しんで制止しようとする法弟たちに『一代の聖教《しようぎよう》みな尽きて、南無阿弥陀仏になり果てぬ』と、歌うように仰せられたそうでございます」
重態に陥り、いよいよ終わりがせまったとき、介護につめかけていた人々の目は、中空にたなびく紫雲を見た。
「あッ、奇瑞だ、上人が極楽へおもむかれる前兆だぞッ」
一遍は苦笑して、
「それならば今日、わしは死なんだろう」
そうも言ったという。
「わしの臨終に、奇瑞などあろうはずはないし、また、けっしてあってはならぬ。みなの衆は不思議好き、怪異や奇蹟好きゆえ、ただの夕焼けを紫雲じゃなどと騒ぐが、ありのままに眺めてこそ、夕焼けは美しく、大宇宙、大自然の神秘を示してくれておるのがわかる。真の仏法に、不思議はないよ」
亡くなった直後、法弟六、七人が観音堂の前浜から海へ向かって走り、入水したとも、兵藤太は実兼に語った。
「自殺か?」
「今回に限らず、一遍上人に随従する僧俗の中には、五人六人、時には十人もの集団で川や海に身を投じる者が、時おり出たらしゅうございます。しかも、そのいずれもが合掌し念仏しつつ、いささかの乱れもなく覚悟の往生をとげたそうで、上人はじめ仲間の衆徒らも、あながちにそれを止めることはしなかったとか聞きました」
一遍の行くところ行くところ、歓喜踊躍《かんぎゆやく》の熱気が渦まき、人々は無我の恍惚に、濁世《じよくせ》の苦労をしばし忘れた。その高揚感のきわまりが、自死にまで直結するのかもしれない。
実兼もかつて、ある遁世者から、
「自分はひたすら、死ぬことのみを考えつづけてきた。死を急ぐ心ばえこそ、後世《ごせ》第一の助けと信じるからだ」
そう聞かされたおぼえがある。
「二条主従も、もしかしたら一遍の最期を見とどけに行っていたかもわからん。まさか入水者の中に混じってなどいないだろうな」
「さあ、何ともそのへんは推《すい》しかねます」
以来、どこであれ、無事にすごしていてくれるよう願っていただけに、
「今年の正月、石清水の社頭で二条に出会ったよ」
との、後深草院の言葉には、おどろかされもし、ひとまず安堵もした実兼だが、それから先は、再び消息はぷっつり絶えた。
「院にめぐまれた肌着を身につけ、どこへ行くとも告げずに立ち去った二条……」
歿後、弟子たちの手で入滅の地に建てられたという一遍の墓にでも、あるいは詣でたか。それともまったく別な旅路を、いま、たどっている主従なのか。
かいもく行方が知れぬまま二年たち、三年たち、五年十年と月日はむなしく経過して、
(もはや二条は亡くなったのかもしれない)
否応なく実兼も、あきらめざるを得なくなった。便りはおろか、それらしい二人づれを見かけたとの噂さえ耳に入ってこなくなったのである。
十年間には、実兼の身の上にも幾つかの波瀾が生じた。中でも大きな浪は鎌倉の政変と、帝室内部の力関係の逆転である。
まず、鎌倉での事件だが、これは北条|得宗家《とくそうけ》の内管領《うちかんれい》として、並ぶ者のない威勢を誇っていた平頼綱の失脚だった。
父時宗の死後、わずか十四の弱年で執権職についた貞時を補佐し、当時、幕閣の頂点にあった安達泰盛一族を『霜月騒動』で亡ぼして、一挙に幕政の実権をにぎった頼綱も、その、あまりに仮借《かしやく》ない恐怖政治によって次第に人心を失い、ついにみずから墓穴を掘るに至ったのだ。
「頼綱に、異心あり」と訴えて出たのは、彼の嫡子の宗綱である。
「父は次男の資宗を将軍位につけ、執権家を追って、その地位に取って代わろうと野心しております」
むろん、事の真偽はすこぶる怪しい。内管領の職を、すでにこのとき頼綱は、宗綱に譲り渡していたけれども、専権はあいかわらずだし、宗綱以上に次子の資宗を愛しているのも事実ではあった。
成人するにつれて執権北条貞時も、頼綱の苛烈峻厳にすぎる気性に畏怖を感じ、つよい警戒心を抱きはじめていた。
頼綱は、貞時の乳母の夫だが、霜月騒動の犠牲となった安達氏は、貞時の母の実家――。泰盛入道は母方の祖父に当たる。
(わたしの体内に流れている安達氏の血……)
それを頼綱がけむたがり、いずれは自分を廃して、だれか別人を執権職に据えるのではないかと疑っていたところへ、宗綱が訴人して出たのだから、
(好機、逸すべからず)
と、貞時にすれば、こおどりしたい心境だったのではあるまいか。
宗綱は宗綱で、執権が頼綱に隔意を持ち出しているのに気づいていた。弟への、父の偏愛ぶりにも不快をつのらせ、
(早晩、執権は父の排除に立ちあがるだろう。巻き添えになるのはごめんだ。その前にきっぱり、父や弟と手を切ろう)
決意して、密告という非常手段に訴えたに相違ない。
あとはお定まりの手順だった。兵力を擁しているだけに武将同士の争いは、結着のつくのが早い。貞時執権の差し向けた討手に急襲され、さしもの頼綱もなすすべなく一門九十余人、鎌倉経師ケ谷《やつ》の自邸に火をかけて自尽した。
「子として、父を訴人するとはけしからぬ」
一応、人倫を楯に取り、貞時は宗綱を佐渡へ配流したが、すぐさま罪を許して召し返し、内管領職に復させた。この結果によって推量すれば、あるいははじめから両者、腹を合わせ、気脈を通じ合って作りあげた『頼綱追い落とし劇』の筋書きだったのかもしれない。
波瀾の第二は、皇統の勢力逆転である。
乱暴武者が、伏見天皇と胤仁皇太子のお命を狙って、禁中へ斬り込むという奇怪な事件のあと、
「背後に隠れて糸を引いていたのは亀山法皇ご父子だ」
との、あらぬ嫌疑をかけられ、一時は、
「承久の乱の先例にまかせ、配流遠島に処し奉るべし」
といった激語までとび出して、釈明に躍起《やつき》となるなど、亀山院側の旗色はひどく悪かった。もはやこの打撃から立ち直ることは不可能なのではないかとさえ囁《ささや》かれたのに反し、対する後深草院側の勢いは隆々たるもので、その優位はゆるぎなく見えた。
ところがそれが、いきなりひっくり返ったのだから、堂上堂下、天空が落ちかかったほどの驚きに見舞われた。
永仁六年、伏見天皇は帝位をお子の胤仁皇太子に譲り、胤仁は践祚《せんそ》して後伏見帝となったのだが、なんと、その東宮に、亀山院の孫、後宇多院の息男の邦治親王が立てられ、帝冠はふたたび、亀山院側の手に渡ることとなったのである。
表向き、この措置は、幕府の介入によってなされたことになっていた。
「嫡統による帝位の継承こそ、正当とはぞんじますけれども、亡き後嵯峨法皇のおぼしめしによって、いったんは亀山院が治天の君に定まり、おん子後宇多院ともども二代にわたり、万乗の尊位に登られたわけであります。そのあと、帝系は後深草院方に移り、おん子伏見院を経《へ》て今上《きんじよう》後伏見帝に至るまで、三代の登極が実現しました。臣ら、愚考いたしまするに、向後はご兄弟むつまじく、交互に帝位を踏まれてはいかがでしょうか。そのためには、後伏見今上の後継として、亀山院側から邦治親王を立て、皇太子とあそばすのが順当とぞんじます」
執権北条貞時、連署北条|宣時《のぶとき》の意見とあれば抵抗はできにくい。
「亡父後嵯峨法皇のえこひいきから、弟の手に不当に奪われた帝位だ。兄であり嫡統でもある自分が、それを取りもどすのは当然……。ふたたび亀山院の側に返すことはしないし、返すべきでもない」
そう信念していた後深草院にすれば、寝耳に水の横槍であり、なんとしても承服しがたい理不尽な干渉であった。しかも院を、いっそう呆れさせ、怒らせもしたのは、じつはこの逆転劇が、西園寺実兼の、亀山院側への寝返りによって仕組まれたものだったからである。
(おのれ実兼、裏切りおったな)
心中、歯がみしたものの、幕府という虎の威≠借りられては、手のほどこしようがない。
くやし涙にくれながら後深草院は提案を呑んだが、なぜ実兼は今になって、四十年来の盟友を捨て、もともとそりが合わなかった亀山院の側に走ってしまったのだろうか。
ここで一人、京極為兼という男に登場してもらわねばならない。
彼は弱年から西園寺家に仕え、目から鼻へぬける怜悧さを当主の実兼にみとめられて、家司《けいし》の一人にまで出世した。邸内の政所《まんどころ》に詰め、使用人の束《たば》ねをはじめ家政万端をとりしきる家宰・家令といった重い役どころである。
同時に京極為兼は、朝廷の臣でもあった。
こうした例は、平安朝以来、いくらでも見ることができる。役人が、権門勢家の召使を兼ねるわけで、公私混同が当たり前だった当時、そのほうが出世の早道でもあったのだ。
京極為兼も、主人実兼の推挙をうけて、官吏として順調に昇進してゆき、正二位・権中納言にまでのぼりつめた。
切れすぎる頭脳、立ち回りの機敏さ、驕《おご》った、人もなげな言動が、このころから目につきはじめる。
元来、京極の家系は、和歌を業とする家筋で、代々歌人を輩出《はいしゆつ》していた。為兼も十六、七のころから祖父為家にみっしり歌道を仕込まれ、成長するにしたがって、
(われこそは京極派歌壇の重鎮。宮廷歌人らの指導者……)
といった自負が強まったらしい。
性格を反映してか、歌風は新しく、歌論も革新的で、同じく和歌の家ながら穏健古風な二条派の代表者・二条為世と、ことごとに対立し、反目し合った。
建長六年の生まれだから、西園寺実兼より五歳若い。目をかけてやっていた家司の一人ではあり、この程度の増長ぶりなら、
(為兼め、近ごろ生意気になりおって……)
苦笑まじりに実兼も、見のがしていたかもしれないが、次第にその動きが癇《かん》にさわるようになったのは、為兼が後深草院父子の眷顧《けんこ》を笠に、あたかも院のふところ刀のごとく振舞いはじめたためだった。
ことにも為兼を愛し、あけてもくれてもそばに引きつけて放さなかったのは、伏見院である。
むりもない。まだ伏見院が皇太子のころから為兼は、和歌の師としてかたわらに近侍し、天皇・上皇となられた現在なお、親密な師弟関係がつづいている。
伏見院の中宮として入内し、院が帝位をしりぞいた今は、永福門院の院号で呼ばれている西園寺実兼の娘の子までが、夫君にかぶれてか、わが家の家司だった為兼を、
「先生先生」
と、うやまって、実兼に、
「二条派はだめよ父さま、和歌の本流は京極派ですわ」
押しつけがましい口をきくのが片腹痛い。
しかし、それくらいならまだ、堪忍できる。西園寺実兼が、為兼の存在を、
(分をわきまえぬ男……。許しがたい)
と本気で憎み出したのは、政界でのその暗躍が目に余りはじめたからである。
はじめのうち実兼は、京極為兼が何を野心し、何をもくろんでコソコソ動き廻っているのか、はっきりその意図が掴めなかった。ただ、
(どうも、臭い)
とだけは勘づいて、それとなく注視していたやさき、珍しく亀山院から、
「坪庭のしだれ桜がみごとに花をつけた。夜景がことによい。見にまいられぬか」
招かれたのである。むろん桜は口実にすぎない。招待の目的はほかにあると察したので、すぐさま法皇御所に伺候してみると、案の定、亀山院の口から出たのは、
「飼い犬が、手を噛もうとしているぞ西園寺卿、早急に対処されるがよい」
との忠告だった。
「歌詠みの先生ですか」
「うむ。おとなしく三十一文字《みそひともじ》をひねっておればよいのに、どうも覇気《はき》がありすぎてあの男、歌人の枠《わく》には納まりきれぬようだな」
「わたくしの手を、どう噛もうとしているのでしょう」
「卿に取って代わって、関東申次役を手中にしたいらしい」
「なるほど。もっともな望みですな」
言われてみれば合点がいく。永年、西園寺家の家司を務め、主人の代弁者となって鎌倉との公私にわたる折衝を引き受けてきた為兼なのだ。幕閣の内情には通じているし、両六波羅とも親しい。なによりは、関東申次役なる役職の、旨味《うまみ》と権威を知りつくしている。
「伏見院の寵をたのみ、主家からこの特権を奪おうと企らんでも、彼ならば訝《おか》しくはありませんな」
「そういうことだ」
「後深草院ご父子のご心底は、奈辺《なへん》にあるとお思いですか?」
「兄上のお気持ははっきりせんが、伏見院はすっかり歌詠み先生の弁口にまるめこまれ、尻押しの身構えでいるようだよ」
そこまで聞けば充分だった。
「ありがとうございます。仰せに従い、しかるべく手を打つことにいたします」
礼を述べて辞去しようとする実兼を、
「桜を見に来たんだろう。飲もうじゃないか」
亀山院は引きとめ、さかんに酒を強《し》い出した。挫折の苦汁《くじゆう》を味わったせいか圭角《けいかく》が取れ、生《なま》な鋭さを、つとめて笑顔の下に晦《くら》まそうとしている昨今の亀山院である。
「卿の息女は、いずれ劣らぬ美人揃いだな」
「お気に召したのがおれば差し上げますよ」
「ねだってもよいか」
「子の妹の瑛子が、ちょうど、この花の年ごろになりました」
三ヵ所で焚く篝火のゆらめきに、満開のしだれ桜は、嵩高《かさだか》な全姿をぼうと浮かびあがらせている。この世ならぬ美しさだ。
「ぜひ、ほしい。大切にかしずくよ」
新たな提携が、こうして、暗黙の内に成り立ったのである。
調べさせてみると、たしかに京極為兼には不審な行動が多かった。
西園寺実兼が中でも関心をそそられたのは、為兼の、鷹司《たかつかさ》関白家への接近である。
鷹司家は近衛家から枝分かれした家で、前当主のあの、『近衛の大殿』と呼ばれていた関白兼平が、つい三、四年前に薨《こう》じたあと、息男の兼忠が永仁四年以降、関白の顕位にあった。
しかし、摂政といい関白といっても、現状ではしょせん、お飾りにすぎない。実権は関東申次役の威光を背負う西園寺実兼に握られていたから、摂関家の不満は積もりに積もっていると見てよかった。
京極為兼が鷹司兼忠に近づいたのは、そうした背景があってのことだし、伏見上皇がひそかに為兼に肩入れしているのも、
「これ以上、西園寺実兼の力を増大させてはならぬ」
とする用心にほかならぬ。
でも実兼に言わせれば、伏見院の警戒は的はずれだし、恩知らずもはなはだしい。
「だれのおかげで帝位につけた伏見院か」
そう、難詰してやりたいくらいだった。
亀山院側に圧迫され、父の後深草院ともども冷やめし食いの悲境に泣かされていたのを、一転、万乗の御位に押し上げてさしあげたばかりか、おん子の胤仁親王が皇太子に、弟君の久明親王が鎌倉八代の将軍位に備わり、一陽来復のよろこびに浸《ひた》れたのも、すべて、
「わたしの功、わたしの奔走に拠《よ》るものだ」
との自負が、実兼にはある。
伏見院は、その実兼の絶大な力を恐れるあまり、疎外の動きを見せはじめたわけだが、なお探らせたところでは、どうやら後深草院までが京極為兼の離間策に乗せられ、西園寺家の権勢をけむたがりだした気配だという。実兼にすれば、心外せんばんな隔意であった。
「よろしい。そちらがその気なら……」
こちらにも致しようがある。
そもそも事の根元は、京極為兼の身のほど知らぬ野望にあったのだから、まず、この獅子身中の虫を退治することから実兼は始めた。ささいな落度をあなぐり出し、もっともらしい罪名をつけて、
「なに、ぬれぎぬ? 冤罪《えんざい》だと? それも歌詠みのそのほうには、よい体験ではないか。罪なくして配所の月を見るのを、古人は風雅の極致と言っているぞ」
必死の愁訴を冷ややかに斥《しりぞ》け、為兼を佐渡ケ島へ配流してしまったのである。
つづいて後伏見帝の皇太子に、亀山院の孫の邦治親王を立て、ご在位わずか三年で後伏見帝を退位に逐い込んだあと、ただちに邦治皇太子の践祚《せんそ》を実現させた。
新帝の諡《おくりな》は、後二条天皇。宝算十七。上皇となられた後伏見院は、わずか十四――。
鷹司兼忠は職を辞して籠居《ろうきよ》し、日ごろ西園寺実兼と気脈を通じ合っていた二条兼基が、はなばなしく関白の地位に昇った。
後深草院の周章狼狽ぶりは、痛ましいほどだった。
「自分も伏見院も、京極中納言の野望になど加担する気はみじん、無かった。彼に目をかけてやったのは、歌才を愛したからにすぎぬ」
大わらわになって陳弁につとめたが、西園寺実兼が取り合わないと知ると、側近の臣を追いかけ追いかけ鎌倉に派遣し、
「せめて後二条新帝の後継は、当方から選んでほしい」
と訴えた。もう、こうなっては嫡統相続の正当性になど、こだわってはいられない。
幕府も世代交替し、執権職は北条貞時から同族の師時へ、連署も北条宣時から同じく時村へと引きつがれていた。貞時は出家入道し、崇暁の法名を名乗っていたけれども、発言権の強さは現役のころと変わらず、
「お歎き、ごもっともと存じます」
後深草院に同情し、調停案を持ち出した。後二条帝の皇太子に、後伏見院の弟の富仁《とみひと》親王を立ててはどうか、との提議である。
富仁は伏見院のお子、後深草院の孫だから、
「先にも申した通り、両統むつまじく、交替で帝位を踏まれてはいかがでしょうか」
とする幕府の主張に、添った形となるわけだった。
実兼にも異存はなかった。両統の迭立《てつりつ》は、もはや避けられないと彼は判断していた。ただ、富仁皇太子の即位がいつになるか、五年先か十年先か、もしくは二十年も先に延びるかは、関東申次役の特権を西園寺家が保持しつづける限り、後深草院側には予知のしようがないことになる。
こうして後二条帝の朝廷は発足した。父の後宇多院が院ノ庁にあって後見し、さらにその奥に祖父の亀山院が君臨するという体制だが、それにしろ天皇一人の頭上に、後深草院、亀山院、後宇多院、伏見院、後伏見院と、五人もの、いわば『ご隠居』が居並ぶというのも、古今めずらしい例といえよう。
後深草院方は、伏見上皇が持明院《じみよういん》の里内裏を仙洞としたため『持明院統』と称され、亀山院方は後宇多上皇が嵯峨の大覚寺《だいかくじ》を再興した縁で『大覚寺統』と呼ばれた。
しかし、かろうじて守られた両統迭立の約束が、後醍醐帝の叛乱によって破られてからは、持明院統を北朝、吉野山中に亡命した大覚寺統を南朝と号して、区別することになったのである。西園寺実兼は正応五年の暮れ、太政大臣を辞し、京極為兼を佐渡へ追い払ったあくる年、暑いさなかに剃髪して、家督と関東申次役の双方を、嫡男の公衡にゆずり渡した。年は五十一歳。法名を空性という。
北山|第《だい》の西園寺内にしりぞき、百歳を越えてなお、病み臥しもしない祖母の北山准后にかしずきながら、悠々自適の毎日を送ったが、折りにふれて思い出すのは、いまだに行くえのわからぬ二条主従の面影であった。
野萩の道
二条が世捨て人となって、すでに十五年余りたった。石清水の社頭で後深草院の御幸《ごこう》とめぐり会った日からかぞえてさえ、十年におよぶ歳月が流れ去っている。風の便りにすら消息を聞かず、生死のほども不明だが、
「おそらく、もう生きてはいまい」
自身を納得《なつとく》させるように、実兼は時おり独りごちる。
あきらめることは、心の平安につながった。今もまだ二条が、苛酷《かこく》な旅をつづけていると想像するのは、いかにもつらい。
それなのに、年号が嘉元と改まった年の霜月はじめ、目通りに出た兵藤太に、
「どうやら二条さまは、つつがなくご存生《ぞんじよう》の模様でございますぞ」
と実兼は告げられた。
「噂でも耳に入ったか?」
「奈良の筆屋が、お姿を見かけたと言ってよこしました。二条さまのお腹に宿った殿のお胤《たね》……。あの姫さまを頂戴した妹夫婦の店でございます」
「現れたのか? そこへ、二条が……」
「筆を求めに立ち寄られたそうで、はじめは店の者も、通りすがりの行脚《あんぎや》の尼としか思わず、二条さまのほうも応待に出た若い内儀を、まさか我が子とは気づいておらぬご様子だったとか……」
「たしか娘は、千寿といったな?」
「それはそれは縹緻《きりよう》よしに生《お》い立って、いま三十の女ざかり……。親どものめがねにかなった実態《じつてい》な男を婿にとり、あきないを切り回しております。子も二人、生まれましてな」
「どうして尼の正体を、二条と知ったのだ?」
「千寿の顔だちが、そっくりなのですよ殿。鏡を合わせでもしたように似ているので、目を見交わすなり二条さまは、とむねを突かれたらしいのです。代価を払い、筆を受けとるとすぐ、店を出て行かれたそうでございます」
「かわいそうになあ」
二条の心の内を、実兼は思いやった。
「さぞ名乗りたかったろう。抱きしめもしたかったろうに……」
「それはなさりますまい。千寿は妹夫婦を実の親と信じ切って育ちました。いまさら真相を明かされても、とまどうばかりでしょう」
娘ではなく、たまたま外出先から帰宅した妹夫婦が、二条と気づいてあとを追った。兵藤太の口から、かねてその出家を知らされていたので、一瞥《いちべつ》で察しがついたのだが、大仏詣での人波にさえぎられ、姿を見失ってしまったのだという。
「そうか」
実兼は目を閉じた。二条の無事をよろこぶ半面、新たな気がかりに胸が塞《ふさ》がった。
「中将はどうしたろう」
「妹からの便りでは、おつれはなく、二条さまお一人きりだったとか……」
奈良まで来たのなら、今ごろは入洛しているかもしれない、それとなく心当たりを捜してみてくれと、実兼は兵藤太に言いつけた。
二条の所在は、しかし一向に掴《つか》めぬまま年が暮れ、嘉元二年の正月を迎えた。そして、その正月も終わりに近づいた二十一日夕刻、旧冬から病床にあった東二条院公子がみまかった。
姉の大宮院|※子《よしこ》は、すでに十二年前に他界し、不死身とまでささやかれていた姉妹の母の北山准后も、おととし十月、百七歳という稀代の長寿を完《まつと》うして、亡くなっている。
公子の病間には夫の後深草院、娘の|※子《れいこ》内親王、甥の西園寺実兼ら近親が詰めて、最期を見守ったが、
「お母さまッ、死んでは嫌ですッ」
泣きさけぶ|※子《れいこ》の取り乱しようが哀れだった。高齢で生んだ一人娘だけに、公子は|※子《れいこ》を溺愛し、後宇多院の皇后に冊立されて以後も、入内前と同じように女院御所に入りびたらせていたから、|※子《れいこ》はついに帝のお子をみごもるに至らず、いま太皇太后の地位にしりぞいて、遊義門院の院号で呼ばれている。後二条帝の、名だけの母儀なのである。
「泣くのはおやめ|※子《れいこ》、女院は准后や姉上の待つあの世へ旅立とうとしておられるのだ。涙は成仏の妨げとなる。静かに見送ってあげたほうがよい」
小声でたしなめる後深草院の手を、病人の片手が握りしめてい、もう一方の手は|※子《れいこ》の片手と、固く結ばれていた。終生、愛着の対象でありつづけた夫と娘……。意識はとうに混濁してしまったのに、いまわのぎりぎりまで二人を引きつけて離すまいとする叔母の妄執が、その両手にだけ生きて、燃え残っているように実兼には見える。
病気による衰えもあろうけれど、痩せ細って、骨と筋ばかり目立つ手の甲は、公子の、七十三歳という年齢をまざまざ語ってもいた。後深草院より十一歳年長だった僻《ひが》みから、二条ら若い愛人たちへの嫉妬に苦しみ、憎悪の炎に心を爛《ただ》らした一生だが、
「痛いッ、爪をお立てになっては痛いわ母さま、やめて」
|※子《れいこ》内親王が悲鳴をあげた瞬間、公子の両手は左右とも、不意に力を失い、だらりと下に垂れた。死が、その呪縛《じゆばく》を解いたのだ。
葬儀万端は、実兼が軸となって取りしきらねばならなかった。公子は西園寺家から入内した人だし、肝腎の後深草法皇が腑抜けたようにぼんやりして、相談相手にできなくなったためでもある。
奪い返したはずの帝冠が、ふたたび亀山院側に渡ってから、後深草院は急に老《ふ》けた。反応が鈍くなり、動作もよろず懶《ものう》げになって、ともすると近ごろ、寝込む日が多い。
「よくも裏切りおったな」
と、当座は恨み、口に出してまで罵《ののし》りやまなかった実兼にさえ、もはや怒りを忘れたか、耳ざわりな言葉を投げつけなくなった。
(どこかお身体に故障が生じたのではないか)
実兼の疑惧《ぎく》は的中した。東二条院公子に先立たれてまもなく、後深草院もまた、病いに倒れたのであった。
いわゆる卒中の発作《ほつさ》である。さいわい症状は軽く、多少舌がもつれ、右半身が痺《しび》れる程度ですんだのだが、夏に入って猛暑の日がつづきはじめると、余病を併発した。一定の間隔を置いて、はげしい痙攣《けいれん》と高熱に襲われるようになったのだ。
「瘧《おこり》とぞんじます」
典薬の診《み》たては一致していた。さして心配はなさそうな口ぶりだし、投薬|灸治《きゆうじ》、加持《かじ》や祈祷まで怠たりなく修している。
「暑気さえ薄らげば、ご病気も峠を越すであろう」
と、おん子の伏見院、おん孫の後伏見院はじめ廷臣だれもが楽観していたのに、秋風が立ちそめても軽快の兆《きざし》は現れない。それどころか、じりじり体力は弱まってゆき、人々が気づいてうろたえはじめたときは、もはや手おくれの状態に陥っていた。
(なまじ伺ったりせぬほうが、院のお気持を乱さんだろう)
と見舞いを差しひかえ、北山第に暑を避けていた西園寺実兼も、
「ついに大漸《たいぜん》に臨まれました」
と知らされたので、急遽、洛中へもどり、衣服を改めて法皇御所へ参ったが、二条とおぼしい尼僧が訪ねて来たのは、彼が北山の別邸を出た直後であったらしい。
「昔、院のお側近くお仕えしていた者です。前相国さまにお目通りさせていただきとうぞんじます」
申し入れたものの、旅装のみすぼらしさをあなどられ、
「たわごとを吐くな。物乞いの分際で大殿に面会を求めるなど、正気の沙汰か」
施《ほどこ》しが受けたいなら裏門へ回れと、すげなく追い立てられた。
「ではせめて、これをごらんに入れてくださいませ」
何やらしたためた紙を差し出したけれど、
「しつこいぞ尼。ただいま大殿は院参されて、当|別墅《べつしよ》にはおられぬ。お取り次などかなわん。さっさと失《う》せおれッ」
叱りつけられ、よんどころなげに立ち去ったとあとで聞かされて、
(二条にちがいない)
実兼は直感した。
後深草院の病状がいくらか持ちなおしたため、三日後にまた、彼は北山第へもどって来たのである。
「惜しいことをした。ここへ二条が現れたらしい。留守を預かっていた者どもが、それとは知らずに追い帰したそうだよ」
兵藤太に告げると、
「手前がいれば、お顔が判ったのに……。奈良の時といい今回といい、ほんのわずかな行き違いでしたなあ」
残念そうに肩を落とした。兵藤太は重用され、いま武者溜まりの預かりにまで出世して、肉付き貫禄とも申し分ない五十男に変貌している。
実兼は、でも必ずもう一度、二条が訪ねてくると確信していた。
正直、会うのが怖い。二人を距《へだ》てていた年月のおびただしさが、改めてかえりみられた。
(はや二十年に及ぼうとしている……)
さぞ老いたであろう、変わりもしたであろう。それはお互いのことだと思いながらも、懐かしさと逡《ためら》いが入り混じって、実兼の気持を波立せる。八幡社頭でも、
「神拝をすませてもどるまで、待っていよ」
そう言い置いた後深草院の言葉を振り切り、別れも告げずに立ち去った二条だし、奈良の筆屋では、応待に出た若妻を娘の千寿と気づいたとたん、逃げるように店を出て行ってしまっている。
そんな二条が、自分からここへやってきた。おそらく後深草院の罹患を知り、病状を案じる余りに、仔細《しさい》を尋ねる気になったのだろう。
この、実兼の予想は、二つながら当たった。二条は再度、北山第へ現れた。そしてその訪問の理由も、実兼が思った通りやはり院の病臥を気づかって、様子を訊《き》くためだったのである。
「性懲りもなくまた、来おったな。乞食尼め、痛い目に遭《あ》いたいか」
門番のわめき声を聞きつけるやいなや、兵藤太が飛び出したおかげで、こんどは事なく邸内へ入ることができたし、実兼の私室にもすぐさま通された。
絶えて久しい再会であった。
「二条どの」
呼びかけたきり、実兼はとっさにはあとの言葉がつづかなかった。
「お一人ですか?」
とだけ尋ねたのは、背後に従ってくるはずの中将の姿が見えなかったからである。
「はい、わたくし一人でございます」
しとやかに設けの座について、二条は言った。
「旅の空で、中将は病み、みとりの甲斐もなく入寂《にゆうじやく》しました。足かけでは四年になります。西国を巡拝し、安芸《あき》の厳島《いつくしま》に詣でたすぐ、あとでした」
「では、それ以来、供もつれずに?」
「道づれには、阿弥陀仏をおたのみ申しております」
「お気強いことだ。よくまあ一人で……」
歎息する実兼を、まぶしげに見やりながら、
「僧形が、よくお似合いでございますね」
二条は笑顔になった。出家してからの二条を実兼は知っているが、二条の側は実兼の俗体姿しか記憶にない。珍しがるのももっともなのである。
「いやあ、あなたと違って、形だけの生臭坊主。中身はちっとも変わりませんよ」
照れ笑いに気分がほぐれて、
「ともあれ、よかった。おたがい達者で対面できたなんて夢のようです」
やっと実兼の舌は、なめらかに動きはじめた。
二条が去ってからの院中宮中の変遷を、実兼はあらまし語って聞かせ、この正月、東二条院公子が病歿した話も伝えたが、
「ご他界は、人の噂で知っていました」
と、さりげなく二条はうなずいた。
「わたくしとは、なみなみならず縁の深いお方……。あの女院さまに御所を逐われたのが出離《しゆつり》のきっかけになったと思えば、ありがたい善知識でございます。恩讐《おんしゆう》を越え、せめて道の辺《べ》に立ってご葬列をお見送り申そうと、奈良から入洛してまいったのでした」
「奈良では筆屋に立ち寄られたでしょう? 兵藤太の妹の、とつぎ先の……」
「どうしてそれをごぞんじですの?」
二条は目をみはった。
「所持していた小筆の穂先が、すっかり磨《す》り切れてしまったので、行脚《あんぎや》の途上、あの店へ求めに入ったのです。ご承知の通り奈良には墨や筆をあきなう店が多く、つい、うっかり千寿の養家が興福寺門前にあることを失念していましたけど、お内儀と顔を合わせた刹那《せつな》、たちまち思い当たりました。わたくしに瓜二つの目鼻だちをしていましたので……」
「で、そそくさ逃げ出された……」
「はい。いまさら親だなどと、どうして名乗れましょう。後深草院の皇子、性助法親王のお子たちなど、この胎《たい》を借りて出生した男の子は三人ながら、夭折や水死、行方知れずなど、悲惨な宿世《すくせ》を負いました。ただ、筆屋に貰われていった千寿だけは仕合わせそうで、いささかはわたくしも、罪の重荷が軽くなった気がしたのです」
「じつはあなたが出て行くのと入れ違いに、養父母の筆屋夫婦が帰宅して、すぐ、おあとを追ったらしい。でも、残念ながら見失ったとか、兵藤太が申していました」
「千寿の肌は、白絹のように美しく、黒子《ほくろ》ひとつありません。それなのに実兼さま、額にポチと、惜しい傷跡が残っていたのです」
「そうだッ、思い出しましたよ」
思わず実兼は膝を打った。
「あの晩の傷ですね? 重病にかかった千寿を助けようとして、あなたが子供の額髪《ひたいがみ》を切ったとき……」
「仏の加護を願ってのことでしたけど、手がすべって……」
「血の色と剃刀《かみそり》の刃のきらめきに肝をつぶし、中将が失神しましたなあ」
「二歳まで手許で育てた岩君のほかは、生み落とすやいなや産所からつれ去られ、どの子のときも、ろくに顔すら見ていません。ただ、あとで乳が張って、苦しみぬいた記憶ばかり残っていますのに、ふしぎですね、筆屋の若妻を娘と知ったとたん、双の乳房に同じ痛みが走りましたの」
法衣《ほうえ》の胸を押え、「母と覚《さと》られまい、血縁の愛に惹《ひ》かれまい」と、ひたすら思いつめ、夢中で筆屋の店から走り出たその時の二条の切なさは、男の実兼にも実感できる気がする。
旅の辛酸を、二条はほとんど口にしなかったが、中将の死についてだけは、いまなお惜別の思いに耐えないのか、
「病みついたのは安芸の宮島……。厳島のお社ともほど近いわびしい漁村でございました」
と、こまごま語った。
「出家すれば同じ仏弟子、主でもなく従でもないと、わたくしは考えていたのですけど、中将は終始まめやかに、旅中の苦労を助けてくれておりました。息を引きとるまぎわまでわたくしの身の上を気づかって『生をへだててもおそばを去らずに、ご守護申します』と言いのこしてみまかったのです。静かに、乱れなく、往生の素懐《そかい》をとげてくれたのが、せめてもの慰めでございました」
なきがらは村人の厚意で裏山に埋め、しるしの石を置いた。
「袈裟《けさ》、帷《かたびら》、帯、紙衣《かみこ》、手巾《しゆきん》、念珠、肌着、足駄、頭巾、網衣《あみごろも》、碗鉢と箸筒の十二具のほかは僧尼たる者、所持してはならぬと一遍上人は生前くり返し、申されていたとか……。十二の品々を十二光仏になぞらえ、大切に使いつづけよとも教えられたと、法弟のお一人からうけたまわって、わたくしと中将はその戒めを守りつづけました。ですから、はかばかしい形見といっては何もありません。手首に掛けていたもくろじの、粗末な念珠をはずし、こちらへうかがう前に中将の身寄りを訪ねて渡してまいっただけでした」
「洛東月ノ輪の、老医師の家ですな。あなたがあの家に身を隠しておられたとき、こっそりあそこへ、わたしは忍んで行ったことがありましたっけ……」
「中将の、唯一の縁者だそうで、さいわいまだ、生きながらえていたご老人は、形見の念珠を手に泣きむせんでおりました」
二条主従の旅は、北は奥州から南は九国にまで及ぶもので、時にはひとところに二ヵ月、三ヵ月も滞在し、病人の介護、孤老の世話、たのまれれば畑仕事や塩焼き、荒布《あらめ》干し、道普請などの労働まで手伝ったようだ。
民衆の大多数は貧苦に喘いでいたが、踏まれ強さからくる底力も、雑草さながら貯えて生きている。それは領所からあがる貢税をいたずらにただ、浪費し、贅沢三昧なくらしと性の乱れによって、心も身体もが蝕《むしば》まれつくしている宮廷人などには、想像もつかぬ強靭な、しぶとく土臭い活力であったろう。
やみくもにそこへ飛び込んで行った二条は、否応なく民衆に学ばされ、彼らの強さに錬えられて、彼女もまた、強くなっていったにちがいない。石清水八幡宮で偶然、出会ったときの印象を、かつて後深草院は実兼に、
「二条は日に灼けてたくましくなった。久しぶりに会ったのに涙一滴こぼさないのが、小づら憎かったよ」
と、語ったことがある。たしかにたくましくはなっていたけれど、二条のどこからも実兼は、憎々しい感じなど受けなかった。
むしろ昔にくらべて、二条は謙虚になったとさえ、実兼は思う。たとえば北九州沿岸の村や町を行乞《ぎようこつ》して歩き、今なお元寇の後遺症が随所に濃く、残っているのをまのあたりにしたことで、万一、暴風雨が吹かなかったら大国難に発展したであろう合戦の実態を、二条はようやく理解したらしい。
「世間知らずな室《むろ》咲きの花と、あなたさまに叱られたのも、いま思えば当然でした」
恥じ入る表情一つにも真実味が溢れていた。
幕府は引きつづき異賊の来攻を懸念して、防塁の整備、海岸線の警固を命じており、在地武族の間には御家人・非御家人を問わず、負担にあえぐ声が少なくない。
恩賞として与える敵地を奪えなかった戦闘だけに、幕府の苦慮もわからなくはないが、働きに対する見返りが潤沢に行き渡っていないことへの、武士たちの不満はつのり、公辺への、根深い不信を潜在させてしまっている。
抑えこむ力があるうちはよいけれど、国防対策に追われて幕府の財政が疲弊し、じりじり弱体化の方向に進めば、わずかな煽動ですらその不満不信は、一気に倒幕の炎となって燃えひろがる恐れもなくはなかった。
そこまでの洞察が、二条にできたかどうかは疑問としても、上陸した元軍に家を焼かれ、家族を殺されたり自身が怪我をして、心身の痛手を曳きずりながら生きている者は、あのとき焼け野原と化した博多の町人はじめ、随所にまだ、おびただしい。多かれすくなかれ、戦いによる被害はだれもが受けており、わけて悲惨なのはもろに敵軍の矢玉を浴びて、その足下に島内を蹂躪された壱岐《いき》や対馬《つしま》の住民たちであった。身一つで命からがら逃がれて来、
「またいつ、異国の兵船が攻め寄せてくるか……。それを思うとこわくて、島へもどる気が起こらぬ」
と、そのまま本土へ居ついてしまった旧島民らの口から、みな殺しに遭った男たち、手あたりしだい凌辱され、けっくはこれも、むごたらしく殺された女たちの話を聞かされて、二条は衝撃を受けたという。
「まるでそれらの仕返しのように、暴風で難破して、やっと浜に泳ぎついた元の兵士らを、日本人も片はしから引っ捕らえ、命乞いするのもかまわず首を刎《は》ねてのけたとか……」
合戦がもたらしたむざんな傷痕は、敵味方を問わず現在なお、なまなましく消えずにいるのに、それほどの大事件をほとんど聞き流し、ムクリが高麗《こうらい》やら蒙古が元やら、区別もできずにいたあのころの、自分たち宮廷女房の無関心ぶりを、
「恥ずかしい」
と、しんそこから思い知ったのは、二条の成長というものだろう。苦しい漂泊の過程で事にぶつかり、学ばされ、目を開かされ、慚愧《ざんき》するたびに二条の心の丈《たけ》は、すこしずつ、しかし確実に、伸びていったのだと実兼には想像できる。
「たとえ尼でも、女がひとりで生きてゆくのはむずかしい。梵論師《ぼろんじ》などを夫に持っているのではないか二条」
そう、むきつけに、後深草院が問い質《ただ》したと聞いたとき、実兼は院の無神経さに呆れたが、同じ疑いを、じつは彼も抱かないではなかった。しかし二条の述懐によれば、当初、恐れていたよりも、旅の実態ははるかに安らかなものであったようだ。
「吹雪に閉じこめられ、野原のただ中で中将と二人、抱き合ったまま凍死しかけたことがありますし、道に迷って崖から落ち、足首をくじいたまま動けなくなったこともございます。でも運よく災厄に出くわすたびに杣人《そまびと》や農民、漁夫など親切な人々に助けられ、今日まで命をながらえてきました」
病みもした。餓えは日常だった。山犬に囲まれて立往生するという恐ろしい経験もしたけれど、女体ゆえに蒙《こうむ》る荒くれ男からの危害は、なぜかこれまで皆無だったと二条は言う。
「われながら奇態でなりませんでしたが、中将もわたくしも不断に心中、仏菩薩《ぶつぼさつ》を念じ、はじめから身を捨てる気でいたために、かえって何ごともなく済んだのではないかとぞんじます」
それはうなずける言葉だった。現身《うつそみ》を芥《あくた》と観じ切り、どのような汚辱の前にも、殺害者の前にさえ惜しげなく投げ出せる覚悟を持てば、心に別の風光が開け、恐怖の対象はなくなる。放ち捨てた充足が、内部からの支えとなって、その者を毅然と立たせる。卑しい獣欲など、おのずと寄せつけなくなるのではあるまいか。
二条の双眸《そうぼう》には、かつての病的な頽廃《たいはい》の翳《かげ》りに代わって、静かな輝きが宿っていた。四十七、八になるはずなのに、三十代そこそこの若さに見えるのも、心の張りと、行《ぎよう》としての旅と、粗衣粗食とに錬えられた結果かもしれない。
たしかに一見、たくましくはなったけれど、それは外形上の変化ではなかった。身体つきは昔通り、華奢《きやしや》な、骨細《ほねぼそ》な二条である。たくましく印象されるのは、落ちついた、控え目な物腰の中に、しぜん、にじみ出る威のごときものが、目に見えぬ力感となって対する側に作用するからであろう。
童形のころから、どこか風変わりな少女ではあった。陰気で口数が少く、おとなしそうでいて強情な、しぶとい芯《しん》を内蔵していた。成年の男でさえ扱いにくい破竹の琵琶を、自在に弾きこなして、思うままな音色を出させた気性の烈しさ……。それが、出家という破天荒な行為と結びついたとき、どうなるかは、当初まったく実兼には予測がつかなかった。
(すぐ還俗してしまうか。それとも耐えぬいて、みごとな結実《けつじつ》をとげるか)
危ぶんでいたのに、どうやら良い方に裏切られたのがうれしい。願わくばもうこれ限り旅を切りあげ、洛中にとどまってほしかった。
「後深草院のご容態を案じて、わたくしを訪ねてこられたそうですね」
と、やがて実兼は、話題を本来の、二条訪問の目的にもどした。
「はい。巷《ちまた》での取り沙汰では、瘧《おこり》を患われ、はかばかしく軽快あそばさぬとか……」
「一時はご重態ということで、一線をしりぞいたわたしのような老体までが、とるものもとりあえず御所へ駆けつけるありさまでした。しかしその後、持ち直され、ご病状が安定したため、また、こうして北山の隠居所へもどって来た次第です」
「そうでしたか。うけたまわって安心いたしました。やはり、こちらへお伺いしてよかったと思います。ずいぶん、ためらった末のお目もじではありましたけれど……」
「まだまだ、積もる話は山ほどあります。今夜はゆっくりここに泊まって長旅の疲れを休め、よろしければあす夕刻にでも御所へおつれして、院をお見舞いできるよう取り計らいましょう」
「ありがとうぞんじます。もう今さらお目通りしたところで、わたくしのことなど覚えてはいらっしゃりますまい。でも、物越しなりとお顔を拝して、ご病気の平癒を祈念しとうございます。お供させてくださいませ」
「承知しましたとも。どのようなことであれ、また、二条どののお役に立てるなんて、うれしいですよ」
夕餉《ゆうげ》にはまだ、だいぶ間《ま》のある時刻であった。二条を誘って、実兼は庭へ出てみた。西園寺の堂塔を地内に取り込んだ広大な林泉は、昔のたたずまいをそのまま保っている。
「思い出しますなあ」
「つい、昨日のことのように……」
それだけで通じ合える感情が、溢れあがる真清水《ましみず》さながら二人の胸を満たした。
北山准后九十の賀宴――。
祇園社に参籠《さんろう》していた二条を、代人を立ててまで実兼は宴席につれ出し、芳善斎仕立ての豪華な衣裳で衆目を圧倒しようとこころみた。
結果はしかし、二条に屈辱を与えただけで終わった。このときすでに、遁世《とんせい》の決意を半ば固めていた二条は、
「帰って来てくれ。もと通り、おれの許へ……」
後深草院が求め、実兼もまた、
「北山尼公のお側に仕えて、わたしの訪れだけを待つ身になってほしい」
と乞うたにもかかわらず、そのどちらをも拒《こば》んで祇園社へもどり、願《がん》はててのち醍醐の勝倶胝院へ移って、人知れず剃髪出家をとげたのである。
賀宴の三日目、三艘の舟を浮かべて連歌を詠み合った大池は、あのときと同じく静まり返って、森の片影をくろぐろと水面に映してい、妙音堂前のあの、桜は、黄ばみかけた葉を初秋の風に、かすかに鳴らしていた。
「おぼえていらっしゃいますか二条どの、この桜を……」
差し交わす枝々を実兼は見あげた。
「尼公の賀宴は弥生《やよい》に入っていたので、桜はどれも散り透《す》いて、わずかに八重が残るばかりだったのに、妙音堂の前のこの一本《ひともと》だけは美しく咲きさかっていましたな」
「ええ、まるで両上皇や女院がたの御幸を、お待ち申していたようでした」
「あなたがこの木の下にたたずんで、花を眺めていたお姿……。今も目に残っています」
「でも、これがあの日の桜でしょうか。幹のさしわたしが、ほんの四、五寸ほどの、ほっそりとした木でしたのに……」
「二十年たてば若木も老樹になりますよ。実をつけるころには小鳥どもが、たくさん啄《ついば》みに集まって来てね、賑かな囀《さえず》りを聞かせてくれます」
池をめぐり築山の麓を廻って、亭や仏堂をつなぐ庭内の細道は、両脇にところどころ野萩が植えられ、小さな深紅《しんく》の蕾をふくらませていた。花のない季節、可憐なその彩《いろど》りは実兼の浄衣の裾、二条の墨染めの袖に触れてこまかく揺れる。
「二条どの」
思いきって実兼は言ってみた。
「中将も亡くなったことだし、今回かぎりで旅は切り上げて、この西園寺の妙音堂に止住なさいませんか。苦行としての遍歴の功は、もはや充分積まれたのだし、これからはお年を召してゆく一方です。ごらんの通りわたしも法体――。ここでご一緒に、すがすがと仏にお仕えしながら過ごすのも、二人に似合わしい晩年と思うのですがね」
「かたじけのうぞんじます。どなたもみな、背を向けてしまわれたのに、実兼さまだけはいつまでもわたくしの身の上を気づかって、援助の手を差しのべようとしてくださる……。どうしてそう、お優しいのでしょう」
口先の謝辞ではない。二条の語調にはしんそこからの詠歎がこもっていた。
そのくせ実兼の申し出を、受けるとは言わないし、きっぱり断りもしない。ただ黙然とうなだれているきりなので、
「即答なさるには及びません。しばらく当家に滞在して、じっくり先ゆきのご思案をめぐらしてほしいのです」
実兼は譲歩した。
あたりはいつのまにか暮れかけ、冷たい夕風が、大池の面《おもて》にさざ波を立てはじめた。母屋《おもや》の方角から、このとき召使の少童が手燭を袖で囲いながら近づいて来て、
「夕餉《ゆうげ》のお仕度がととのいました」
小声で告げた。
豪華な精進《しようじん》の斎《とき》である。少量ながら酒も出て、酌取りには、昔なじみの兵藤太が呼ばれた。よもやまの話が弾み、
「お座興に、珍しい鳥をお見せしましょう」
鸚鵡の籠までが運び込まれた。
「これですか? 『今様を唄う珍鳥を飼っている。聞かせてあげるよ』とおっしゃったきり、それなりになってしまった鳥は……」
「二十年越しの約束を、今宵ようやく果たすことができます。唄だけでなく二条どの、あなたのお名前まで喋る小癪なやつですぞ」
「わたしの名までを?」
「鎌倉の唐物商の店先で、あなたと中将らしい旅の尼僧が、売り物の鸚鵡を見ていたとの取り沙汰も耳に入っているのですがね」
「何もかも、本当によくごぞんじですこと」
「じつはあの店は芳善斎の出店なのです。あるじの松若が知らせてくれたのですよ」
このまに兵藤太が籠のそばへにじり寄って、
「鸚鵡どの、得意の芸を披露してくれ。まず『牛を曳き出せ、お車の用意』……。さあさあ、その次は?」
しきりに誘いをかけはじめた。人見知りするように鸚鵡は小首をかしげ、渡り木の上を右へ左へ、小刻みに動きながら、それでもやおら胸を反らして、兵藤太の誘いに応じかけた。
跡の白露
あわただしい足音が近づき、
「申しあげますッ」
先刻の少童が手をつかえたのは、鸚鵡がまさに発声しようとした瞬間である。
「にわかにご容態改まり、一院が危篤に陥られたよし、御所からの急報にござります」
「なにッ、院がおあぶないと?」
信じかねるおももちで、手の盃を実兼は下に置いた。
「持ち直され、『この分では、いずれお床上げに漕ぎつけよう』と、典薬どもも愁眉を開いていたのだぞ」
「しかし使いの者は『はや頼み少なく、おん息すら止まりかけている』と告げております」
「わかった。すぐ出かけよう。二条どの、あなたも同道なさるがよい」
うながされるまでもなく二条は座を立ちかけていたし、兵藤太は中門廊の駒寄せに走って、てきぱき供揃えを命じていた。
法皇御所は富小路にある。
実兼は出がけに、侍女の一人から小袿《こうちき》を借り、二条を自分の車に共乗りさせて北山第をあとにした。
途中、北野の社《やしろ》近くにさしかかったとき、
「申しわけないのですが、ほんのわずかなあいだ、車をとめていただけませんか」
二条は言い、実兼の命令でただちに動きを停止した車の中から、社殿の方角へ向かってひれ伏した。
「院のご恢復を願われたのですね?」
それならばこの場合、当然の祈念なのに、二条の返事はちがっていた。
「いいえ、お身代わりに、わたくしの命を召させ給えと祈ったのでございます」
「身代わりになって死んでさしあげても、せっかくのあなたの犠牲が報われますかな。院はだれに贈られた余命とも気づかず、のうのうと長生きなさるだけでしょうよ」
我れながら棘《とげ》のある言い方だと、実兼は苦笑した。言葉そのものよりも、嫌味を言わせた自身の感情の腥《なまぐさ》さにおどろいたのである。
(何をいまさら……)
二条は比丘尼、形だけにしろ自分は出家――。嫉む相手の後深草院も死に瀕した重病人ではないか。それでも吹く風次第では蛇の舌に似て、チロッと胸底の炎が燃えあがる。
一人の二条を挟んで、男二人がつねにその愛の軽重を計り合ってきた過去の、残り火のゆらぎであろうが、院の退場によってやっと今、その暗い相剋《そうこく》も終わろうとしていた。
(北野の天神に、二条は院の延命を祈ったけれど、たぶん願いは納受されまい)
実兼の予感は狂わなかった。
二条京極から車を曳き入れ、御所に参入すると、内部は下屋《しもや》までが騒然としていて、
「はや、ご臨終か」
ささやきが、あちこちで交わされていた。
焚きたてる護摩《ごま》の煙のおびただしさは人の行き来が霞《かす》んで見えるほどだし、閻魔天供《えんまてんぐ》の修法だろうか、ふりしぼる加持僧の声々、打ち振る鈴《れい》のそうぞうしい響きに混じって、近侍の女房たちの泣き声が禍々《まがまが》しい。
「二条どの、これを被《かず》いてください。そして、急いで……」
持ってきた袿《うちき》で実兼はすっぽり二条の全身を覆い、その手を掴んで小走りに奥を目ざした。御所中があわて惑い、平常心を失ってはいるが、前太政大臣が黒衣の尼を伴《ともな》って走るのはやはり人目につく。女房姿に紛《まぎ》らしていれば、さほど訝《おか》しくはないとの配慮からだった。
ご病間近くはさすがに静まり返っていた。伏見、後伏見の両上皇、東宮の富仁親王などお子や孫、玄輝門院|※子《しずこ》ら妃嬪のすすり泣きが時おり忍びやかに洩れるほかは、当の病人の切迫した喘《あえ》ぎだけがあたりを領している。
灯台を置く余地もないほど人が詰め合って、室内は薄ぐらい。闇の澱《よど》む四隅はことに識別しにくく、だれがいるのやら見分けがつかなかったが、目が馴れるに従って亀山院、後宇多院父子、後二条帝までがくろぐろと参りつどうているのがわかった。
これらいわば、大覚寺統系列の皇族が遠慮ぎみに、病床からやや離れて控えたのは、終焉まぢかな後深草院の気持を、いたずらに刺激しまいとの心くばりからであろう。
同じ怯《ひる》みは、実兼も抱かされた。彼が寝返って亀山院と手を結んだために、皇室の勢力図は逆転し、帝冠はふたたび持明院統から、大覚寺統へと奪い返されてしまったのである。
幕府の取りなしによってかろうじて、両統|迭立《てつりつ》の約束が成り、富仁親王が皇太子位につきはしたけれども、即位の実現がまちがいなく履行されるかどうかはおぼつかない。その不安にさいなまれながら失意の中でたった一人、冥府へ旅立とうとしている院なのだ。
しかし、逡《ためら》ってばかりはいられなかった。二条の背を押しながら、実兼は強引に前へ進み出た。
「恐れ入ります。お側にまいらせて頂きます。少々お膝送りくださいませ」
遅れて来ながら、ずぶとく割り込みにかかる実兼へ、幾つもの視線が咎《とが》めるようにそそがれたが、彼は意に介さなかった。臣下とはいえ、後深草院と実兼は母方の従兄弟《いとこ》……。哀歓を分かち合った永年の盟友であり、現在は利害の対極に立つ仇《かたき》同士でもある。
(万感の思いをこめて、最後の別れを告げたいのだろう)
と、だれもが察して場所をあけようとし、
(それにしても何者だ? この女は……)
あとにつづく二条の被衣《かつぎ》姿に、目をそばだてた。実兼は、その目もいっさい無視して、垂死《すいし》の法皇のかたわらに二条を坐らせ、
「お上《かみ》」
呼びかけた。低い、力のこもった声音だった。昏睡の底から、その声がむりやり病人を引きずり出した。呻きがやみ、重い瞼がわずかにみひらかれた。
「お上ッ、二条どのです。二条のお局をおつれいたしましたぞッ」
あたりにざわめきが起こった。忘れ果てていた名、その名に繋がる思いのさまざまを、人々はいっせいに過去のくらがりにまさぐったが、尊貴のお前ににじり出ながらなお、かぶり物を取ろうとしない眼前の女と、記憶の中の二条とがなかなか重なり合わなかった。
後深草院の顔貌は、むくんで表情を失い、眸《ひとみ》はどんより濁っている。実兼の呼びかけに反応して、かすかに唇が動いたのは、何か言おうとしたのだろうか。言葉はしかし、まったく聞きとれず、それでも周囲の肉親から見れば、
「あ、正気づかれたッ」
「お目をおあけあそばしたぞ」
信じられない現象だったらしい。総立ちのさわぎに押しやられて二条があとずさるまに、院の覚醒は瞬時に終わった。瞼も唇もふたたび閉じられ、それっきり二度とひらかなかったのである。
「崩ぜられました」
脈をとっていた典薬の宣告に、号泣が湧き立ち、混乱が襲った。右往左往する人波を掻き分けながら、どこからか嫡男の公衡が、
「父上、主上がお召しですよ」
駆け寄って来たのをさいわい、
「この女性《によしよう》を西園寺家の車に乗せて、北山第へおつれするよう手配してくれ。供待ちにいる兵藤太に、すべて呑みこませてあるから……」
実兼は、二条の身柄をひとまず預け、
「お聞きの通りです。わたしは還御の行列に加わって内裏《だいり》へまいり、ご葬儀その他、向後のお打ち合わせをすませてすぐ、退出します。ひと足先にあなたは山荘へもどって、わたしの帰邸を待っていてください」
言いふくめた。
それなのに、一刻ほど遅れて実兼が帰ってみると、広い邸内のどこにも二条の姿はなかった。煙さながら消えていたのである。
責任を感じてか兵藤太は目をつりあげ、くまなく邸内をさがし廻ったあげく、
「夕餉を共にされた客殿に、ひとまずお通しして、厨《くりや》の者に茶菓の用意をさせるべく手前は少しのあいだ中座いたしました。そのすきに出て行かれたにしても、門は裏表ともしまっていたと番人は申しております」
もしかしたら院との永別に逆上し、池に身を投ぜられたのかもしれぬ、屋敷中の男どもを動員して底さらえさせようとまで逸《はや》るのを、
「いや、やはり生垣の隙間からでも外へ抜け出したのだろう、捜索は中止しろ」
実兼は制した。鸚鵡の籠の下に、懐紙が一葉差し込まれているのを見つけたのである。
君ゆゑに我れ先立たばおのづから
夢には見えよ跡の白露
歌を一首したため、
「ひさびさのお目もじ、うれしゅうございました。手引きしていただいたおかげで、院のご最期に参り合わせることもでき、もはや思い残すことはありませぬ。この腰折れは北野の神に『命を召させ給え』と祈念したさい、車中で詠んだものでございます」
そう、余白に走り書きしてあった。
「お身代わりに立ったとしても、先に逝ってしまっては、あなたが犠牲になったことを院に知っていただく手段がありますまい」
実兼の、あの時の反撥に、
「たとえ夢にでも、草に置く白露をごらんになって、わたくしの死を覚《さと》ってくださるなら、それでよいのです」
と、二条は歌で答えたのだろう。
「跡の白露か……」
つぶやいて、実兼は二条の置き手紙を短檠《たんけい》の火にかざした。たった一枚の白い懐紙は、あっけなく燃えあがり、煙さえ立てずにひとつまみの灰と化した。
張りつめていた思いがゆるやかにほぐれ、言いようのない虚《むな》しさが入れ代わって、心身を満たすのを実兼は感じた。淋しくはあったが、その淋しさはふしぎなほど実兼を安らがせ、解き放ちもした。
後深草院と、二条――。二人の存在が、これまでどれほど自分にとって、重い、苦しい桎梏《しつこく》だったか、実兼は思い知らされた。愛し、憎み、執し、離れるくり返しの中で、二人にこだわりつづけた歳月は、しかし今日で終わった。すべてが過去となり果てたのだ。
簀《す》ノ子《こ》の縁へ歩み出て、
「兵藤太、まいれ」
気に入りの腹心を庭先へ呼び寄せ、
「ご葬送の日、二条はかならず現れる。案じることはないぞ」
実兼は笑顔で言った。
「でも、声はかけるな。知らぬ顔でおれよ」
兵藤太はうなずいた。ふたことか三ことで今は充分、意志の通じ合える主従だったのである。
二条富小路の法皇御所でしめやかに葬儀がいとなまれたあと、後深草院のご遺骸を納めた柩車《きゆうしや》は、翌夕刻、京極|面《おもて》の御門から外へ曳き出された。二度とふたたび、御所へも洛中へももどられることのない御幸である。
沿道には扈従《こじゆう》の貴顕や女房たちの行列を見ようとして、下民らが集まって来てい、南北両六波羅の兵がその押し合いへし合いを、
「静かにしろッ、道のまん中にとび出すなッ」
声を嗄《か》らしながら整理している。
うす水色に暮れかけた夕風の中で、ところどころに焚かれた篝火《かがりび》の、炎の伸びちぢみが、ひときわ鮮やかに目を射た。
南の探題はいま、北条貞顕、北は北条時範だが、床几《しようぎ》に腰をおろしていた彼らが葬列の接近と同時に立ちあがり、柩車に拝をささげた姿が、半武装のせいか、西園寺実兼にはひどくものものしく感ぜられた。
(二条はどこにいるだろう)
定めの位置につけた牛車の簾《みす》越しに、路上へ目を配るけれども、群集のおびただしさに紛《まぎ》れてそれらしい尼僧を見つけ出すことができない。
しかし南へ南へとくだるにつれて見物人の数は急激に減ってゆき、大覚寺統系列の皇族や公卿、殿上人らも洛中を出はずれるあたりまででお見送りをやめて、ぽつりぽつり、歯が抜けるように引き返して行ってしまった。
光明橋をすぎ、宇賀塚辺にさしかかるころには故法皇のお子や孫、近臣のほかつづく者はなく、御所を出たときの半分にも満たぬ牛車が疎《まば》らに従うだけとなった。日がとっぷりと暮れ切り、風が強まりはじめたせいもある。
「殿、二条どのが見え隠れについて来られますぞ」
車副にいる兵藤太に心づけられて、
「やはりお供してまいったか」
車中からのびあがって実兼は背後を眺めた。点々と暗がりにともる松明《たいまつ》が、風に吹き乱されて火の粉をうしろへ流してゆく。その、ほの明るさの底に青い輝きがチラと見えた。実兼が二条に貸し与えた袿《うちき》の色だ。法皇御所でしたようにそれを頭から被《かず》き、二条は徒歩で追ってくる。
車馬の数が少なくなるにつれて、葬列の進行は速度が早まり、二条の歩速も、ほとんど駆け足に近い。さいわいの月夜だし、それも十六夜《いざよい》だったから、松明《たいまつ》の余光にだけ頼る必要はないにせよ、竹藪や畠、川に沿った畷《なわて》などひどく歩きづらい田舎道ではあった。
目ざすのは深草の真宗院――。柩《ひつぎ》の主《ぬし》の後深草法皇が、在位中その本願として開創した浄土の仏刹で、父君の後嵯峨院も山門や経蔵など幾宇《いくう》かを寄進されたゆかりがある。
この寺の裏山でご遺骸を荼毘《だび》し、境内の法華堂にお骨を収めて、陵《みささぎ》を築きしだい埋葬する手はずだが、稲荷山のまっ黒な山容を行く手右側に望むころには、風はますます強まり、列のはるか殿《しんがり》を一人、懸命に走りつづける青い被衣《かつぎ》は、煽《あお》られて今にも飛ばされそうだった。
実兼ははらはらしながらそれを見守った。二条の華奢《きやしや》な身体は烈風に揉み立てられ、とうとう被衣が拐《さら》われかけた。押えようと抗《あらが》うはずみに足を踏みはずし、土手道をころがり落ちる……。夢中で這いあがったものの路上にうずくまったきり、立とうとしない。どこかを痛めたにちがいなかった。
「お助けしましょう。そして、この車に……」
あともどりしかける兵藤太を、
「行くな」
あえて実兼は制止した。彼の両眼に涙が溢れあがった。緒を切ったか、追ってくるまに脱げてしまったのか、二条は履物すら失って、横坐りに投げ出した素足が月明かりに白い。左右の手を土に突き、呼吸が苦しいのか肩を激しく上下させながら、それでもしっかり顔をあげて葬列を見送っている。追うのをあきらめたのだろう。みるまに遠のき、小さくなってゆくその姿へ、
(さようなら二条。これで本当にお別れだね)
声にならない声を、実兼は投げた。
夫婦の絆《きずな》……。その強さふしぎさを、実兼は今さらながら思い知らされた。四歳から膝に抱かれ、長じてしぜん、育ての親も同然な後深草院と結ばれた二条である。彼女が夫と信じていたのは、だれでもない、結局は後深草院だけだったのだ。
それなのに二条は、院の不実に泣かされ、院の愛情のうつろいを恐れ、夫婦らしい一体感をつねに求めながら満たされなかった。
(まして私をはじめ、院以外の男たちに、二条の苦悶が埋められるはずはない)
やむなく彼女は、院との絆をみずから断った。安逸な宮女生活からも自身を切り離し、孤独な旅の中で、新しく生き直そうと試みた。しかし、捨てて、捨てて、捨てようと願う気持までを捨てて、二十年間、行《ぎよう》としての漂泊をつづけながらも、ただ一つ最後まで捨て切れなかったもの……。それが後深草院の存在だったのではあるまいか。
(でも、死の手が執着を断ち切ってのけた。あと一ッ時《とき》もすれば院の亡骸《なきがら》すらが、一筋の煙となって虚空に消えてしまう。二条どの、あなたは今こそどこか見しらぬ国、見しらぬ地の果てにかるがると、捨身《しやしん》することができるのだよ)
とめどなく涙が頬を伝いつづけたが、実兼の口もとには微笑が泛かんでいた。二条の残生の平穏に、心からな祝福を贈りたかった。
伏見の路上の、この月光の下での別れから、西園寺実兼はさらに十八年の歳月を生き、元亨二年九月十日、七十四歳で権力者としての生涯を閉じた。
そのあいだ、彼はつねにつねに、二条の消息に注意を払ってきた。どのようなささいな噂さえ聞きのがすまいと気をつけていたにもかかわらず、行方はついに知れずに終わった。
(それでよい。それがよいのだ)
実兼はうなずいた。静かな肯定の仕方であった。
あとがき
『新とはずがたり』は平成一年一月から十一月まで、東京・中日・西日本・北海道新聞などに連載した小説で、後深草院二条の回想録『とはずがたり』に拠《よ》っていますが、内容は、原典とはだいぶ異《こと》なっています。
『とはずがたり』の発見は比較的あたらしく、昭和十五年、はじめて世に現れた時、二条自身の性愛体験の赤裸々な告白によって、学界はもちろん、一般にも衝撃を与えました。
二条が生きたのは鎌倉幕府の中・末期で、北条執権家が事実上、政権を担《にな》っていた時代です。しかし二条の生活の場はごく限られてい、交渉を持ったのも身近な男性だけでした。ただ、それらが天皇、上皇、法親王、あるいは太政大臣、関白といった超一流のエリートばかりだった点と、皇族たちが兄弟であり、太政大臣もまた、その従兄弟であった点――つまり一人の女を、近親の男たちが共有し合った点に、読み手はおどろかされたのです。
上層階級の性の紊乱《びんらん》は、この時代に限りませんが、相手の女性の側がその実態を文字に書きとめた例は珍らしく、それだけに反響も大きかったわけでしょう。
普通の女性が一生かかって経験する哀歓を、二条は二十代後半までに味わいつくし、三十代の初めに出家して、放浪の旅に出ます。彼女の人生での、重大な転機であったはずなのに、『とはずがたり』ではその部分が欠落していて出家の動機は不明です。
不明といえば、政治も軍事も、背景となった社会情勢もが、原典ではほとんど語られていません。しかし当時は、鎌倉幕府の内訌《ないこう》、たびかさなる元使の来朝、二度にわたる元軍の襲来、末世思想の弥漫《びまん》など世相は激しく揺れ動き、人心も安定を失って、迫りくる動乱期の予兆に怯《おび》えていました。
古典『とはずがたり』に接したとき、私はこれら原文にない部分を大幅に取り入れ、新らしい作品を生み出してみたい意欲に馳られました。私の『とはずがたり』、私の二条を創り出したいと思ったのです。
たとえば当時、踊り念仏の集団をひきいて精力的に全国を布教して廻っていた一遍上人の存在と、二条の精神の再生を、重ね合せるといった試《こころ》みなどがその一つですが、さいわい『新とはずがたり』を書く上で、じつに適切な人物が実在していてくれました。原典に「雪の曙《あけぼの》」の仮名で登場する西園寺実兼です。
彼は清華の家に生まれ、最終的には太政大臣にまで昇りつめた権臣で、当然、朝廷の内情にくわしく、さらには関東申次《もうしつぎ》といういわば京と鎌倉のパイプ役をも兼ねていましたから、幕府との関《かかわ》りも深い人でした。しかも二条の恋人として、最後まで彼女の生の軌跡をあたたかく見守りつづけてもいます。『新とはずがたり』を書く上で、これほど打ってつけの人物はいません。
西園寺実兼の目を借りれば、原典とはまた別な、広い視野に立って書き進めることができる――この確信が得られたおかげで、古典の創作化という私にとって初めての挑戦に踏み切る勇気が持てたのでした。
鎌倉末から南北朝初頭にかけては、歴史小説不毛の世紀ですが、政界の分断という異常事態に引きずられて、人々の心の亀裂までが拡大していった状況や、「捨て聖《ひじり》」に徹した一遍の行動など、物質的な豊かさに浸《ひた》りながらつねにつねに、不安の実感を拭いきれない現代の日本人に、さまざまな示唆を投げかけている時代だとも言えそうです。
戦前戦中の歴史教育で、大覚寺統(南朝)を正統・正義と教えられ、その史観が太平洋戦争をたたかう上での精神的支柱にまでなった世代を生きてきた一人として、なぜ両朝は迭立《てつりつ》するに至ったか、原因を書いておきたい思いも私の中にはありました。
論にすればややこしくても、小説の形に砕いて書けば、一人の父の次子偏愛という皇室内部の家庭の事情≠ノ端を発した分裂であり抗争であったと理解できますし、その理解にもとづけば、やがては四統にも枝分かれした弟の側の、さらに弟の系列に属する後醍醐帝の立場や正統性の主張が、理にかなったものかどうか、おのずから判断がつくわけです。
単行本の時と同様佐多芳郎画伯の彩管で、文庫の表紙カバーを飾ることができたのは望外の幸せでしたし、清原康正氏から懇切な解説を頂き、また講談社文庫出版部の中澤義彦氏、佐藤瓔子・川俣真知子さんにもひとかたならぬお世話になりました。心から御礼申しあげます。
平成五年七月
杉本苑子
単行本 一九九○年三月小社より刊行。
講談社文庫版 一九九三年九月刊。