杉本苑子
影 の 系 譜 豊臣家崩壊
目 次
宿 命 の 血
わが子ひとの子
浅井三姉妹
小田原留守陣
色は匂えど
味よしの瓜めされ候え
小今ガ淵
砂 利
熊 野 牛 王
本来、東西なし
夢のまた夢
あ と が き
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宿 命 の 血
荒々しい夕焼けを全身に浴びて、|とも《ヽヽ》は佇《た》っていた。白髪まじりの蓬髪《ほうはつ》が烈風に吹き乱され、それじたい、悪意を持つ別の生き物ででもあるかのように上半身に纏《まと》いつき顔を打つ。本来、旗を支えるために立てられた竿が、風を孕《はら》む布の力に翻弄されて、倒れかかろうとする危うさに似ている。
|とも《ヽヽ》の、女にしては上背のあるがっしりと張った骨太な体躯は、五十四歳という年齢相応に肉が落ち、脂気を失って、あさぐろく乾きはじめてきたが、舞いもつれる髪に引きずり倒されるほど、まだ、しかし弱ってはいない。こころもち足を左右に踏んばり、風に抗《あらが》って石垣の突端に立つその、うしろ背《ぜ》には、どのような心に沁む呼びかけにさえ揺らぐことのなさそうな拒絶の意志が、鋼鉄の板さながら張りつめていた。
声をかけかねて、小一郎秀長は足を止めた。ひき返そうかとも一瞬、迷った。
(しばらくこのまま、そっとしておいたほうがよいのではないか)
勁《つよ》さを漲《みなぎ》らせながら、じつはいま姉の内奥が、外見とはうらはらな悲しみと恐れに、まっ黒に塗りつぶされているのを秀長は知っている。ひと声の慰藉にすら崩れかねない気の弱りが、逆に懸命に|とも《ヽヽ》を支えて、骨ばった怒り肩をいっそういかつく見せているのだし、それは同様、血を分け合った肉親として、秀長自身もまた、共有しなければならぬ不安であり恐怖であった。
|とも《ヽヽ》が見おろす石垣の下に、すでに一人も人はいない。小今《こいま》の遺骸は片づけられ、可憐なその顔面を打ち砕いた石のかど、脳漿の飛び散った地面も清掃されて、惨劇の痕跡はもはやどこにも残ってはいないはずである。少女にはたったひとりの身寄りに当る兄の幡《はた》利一郎は、一言の問い質《ただ》しも口にせずに妹のむざんな屍体を引きとった。相《あい》長屋の者たちが手伝って、いまごろはささやかな葬いの用意がすすめられているにちがいない。
何かに急《せ》かされてでもいるようなあわただしさで、小今墜死の事実が覆われ、城中に住むだれかれの記憶から大いそぎで消し去られたとしても、それは無理な取りつくろいでしかなかった。|とも《ヽヽ》は傷つき、少女がその、小さな身体から流した鮮血よりも、さらにおびただしい血の量に心をまみれさせた。きずは深く刻まれて、生きつづけるかぎり|とも《ヽヽ》を怯《おび》えさせ、苛《さいな》み通すだろう。
「姉上」
たまらなくなって、小一郎秀長は呼びかけてしまった。そしてすぐ、悔いた。緩慢な動作でふり返った|とも《ヽヽ》は、秀長の予想以上に深刻な打撃を、顔面にありありと刳《えぐ》りつけていた。それでなくてさえ老《ふ》けて見える目鼻だちが、晩秋の冷気にそそけだって、いきなり五ツ六ツ、さらに年取ったかとさえ怪しまれた。落ちくぼんだ眼窩《がんか》の底に、双の眸《め》ばかりが異様に光って、能面の泥眼《でいがん》を思わせる。怕《こわ》さよりも、むしろ言いようのない痛ましさに秀長の胸は緊めつけられた。
「えらい風ですな」
つとめてさりげなく彼は言った。
「お風邪《かぜ》を召すといけません。屋形へおもどりなされませぬか」
「うう」
のろのろと|とも《ヽヽ》は近寄って来た。二人のぐるりを囲うのは、そのまま本丸の敷地につづく雑木の疎林である。枝がざわめき、病葉《わくらば》が吹き散った。|とも《ヽヽ》の姿は、碾《ひき》茶色のひどく地味な打掛けのせいか、それじたい一枚の朽ち葉のようにも見える。
「八幡山《はちまんやま》城からの夕映えは、茜《あかね》の照り返しが湖面を染めて華やかだが、そんな景色を見馴れているお目には野の拡がりばかりで、ここ、郡山《こおりやま》の落日は退屈でしょう」
と、秀長が話題にした八幡山城は、近江の琵琶湖畔に位置する羽柴秀次の本城である。|とも《ヽヽ》と、|とも《ヽヽ》の夫の三好《みよし》武蔵守《むさしのかみ》吉房は、せがれ秀次と同居して現在、八幡山城に住んでいる。
聚楽第《じゆらくだい》が完成し、
「見にこられよ姉者」
と、いま一人の弟藤吉郎秀吉にすすめられるまま、|とも《ヽヽ》が居城を発《た》ったのは四日前だった。まっすぐ入洛《じゆらく》せずに、宇治川を南下して奈良へ出、末弟小一郎秀長を大和の郡山にまず、訪ねたのは、かねがね、
「聚楽第へまいられるさいは、同道いたしましょう」
と申し合わせていたからである。
(せがれの秀保とも、逢いたい)
目的のなかばは、そこにもある。
三好吉房とのあいだに、|とも《ヽヽ》は男の子を三人生んだ。長男が、ことし二十になる秀次、次男が実子のない秀吉の、養子に迎えられた十九歳の秀勝、三男は、これも女の子しか持たぬ小一郎秀長に請われて、叔父の家の跡取りとなった秀保だ。
|とも《ヽヽ》が四十六のとき出産した子だから、秀保は二人の兄たちとは年がだいぶ離れている。今ようやく、九歳の少年にすぎない。ひさしぶりに母の顔を見て大よろこびし、双六《すごろく》の相手をしろの、新しく自分のものになった青毛《あお》の鞍《くら》置き馬を見ろのとはしゃいだあげく、興奮の余波であろうか、滞在二日目の今日になってとんでもない事件を引き起こした。召使の小今を石垣の上から突き落としたのである。
原因はとるにたらない。かがり鞠《まり》の取り合いから始まった口喧嘩だった。召使とはいっても、小今も秀保と同じ年の九ツだから、遊び友だちにひとしい。おたがいの駄々が昂じて、
「おのれ、よこせというに、よこさぬかその鞠……」
とうとう秀保が暴力沙汰に出た。小今に撲《なぐ》りかかったのだ。
「いやですッ、こんどはわたしがつく番ですもの」
強情を張って少女も鞠をはなそうとしない。秀保の拳《こぶし》をかいくぐって逃げ出した。
「待てッ」
みるみる秀保の顔から血の|け《ヽ》がひいた。目がつりあがり、子供ながら、悪鬼にでも憑《つ》かれたかと思う猛々《たけだけ》しい兇相となって、いきなり腰の脇差を抜いた。はじめのうち、狎《な》れの余りの埒《らち》もないいさかいと取って笑いながら遠目に眺めていた|とも《ヽヽ》も、息子の顔つきのただならなさに、
「やめなされ秀保ッ」
仰天して座敷を走り出た。はだしで庭へとびおりるあとを、侍女たちまでが、
「若さま、ご短慮はなりませぬ」
くちぐちに叫びながら追い廻したが、秀保は耳をかそうともしなかった。悲鳴をあげて逃げ惑う小今を、石垣のきわに追いつめ、首すじめがけて一刀をふりおろした。刃先は届かなかった。
少女はでも、足をふみはずし、三丈もの高さから転落して命を絶ったのである。
騒ぎを聞きつけて秀長が駆けつけ、見さかいなく叔父にまで斬ってかかる秀保を取り抑えて、ひとまず一室に押しこめた。小今の|屍 《しかばね》は、このまに家臣らの手で幡利一郎の家へ運ばれた。兄は十三──。これもまだ、小姓勤めがせいぜいな前髪であった。
|とも《ヽヽ》の姿が見えなくなったのに気づいて、秀長が探しに出たのはこの直後だ。夕焼けの逆光の中にひとり、風に揉まれながら佇《たたず》んでいるのを見て、当りさわりなく、湖水に臨む八幡山城の、落日のみごとさを秀長は口にしたのだが、|とも《ヽヽ》ははかばかしい応答を返さなかった。落葉降りしきる林の中は、はやくも暮れ色を濃くしはじめている。風が強いのに遠雲《とおぐも》は動かず、茜は急速に輝きを失って、そのまま夜に移ろうとする空の気配だった。
「さ、もどりましょうか」
うながすのを、|とも《ヽヽ》は聞き流して、
「小一郎どの」
呻《うめ》くように呼びかけた。
「わたしは恐ろしい。今日の秀保めの、小今への仕打ちで、いよいよはっきりしたが……まぎれもなく我が家には、狂気の血が流れておる。のう、そうは思わぬか?」
秀長は足許に視線を落とした。檳榔《びんろう》の葉で編んだ緒太《おぶと》の草履《ぞうり》の、爪先のなかばが埋まるほど林中の落葉は厚い。
「同じ疑念を、じつはとうから、わたしも心中に抱いていました」
と、姉の目を見ずに秀長は言った。暗い、押し殺したような小声であった。
「では、こなたも前々から?」
「言い辛いことです。まして旭日昇天の勢いで天下取りへの大道を驀進《ばくしん》しつつある兄者の耳に、一族間の血にかかわる忌《い》まわしい疑いなどささやいたら、どれほどの不興をこうむるか……。お怒りのすさまじさを思いやると、つい気持が萎《な》えて、これまで黙っていたのでした」
「その藤吉郎からして、わたしには健やかな精神の持ちぬしとは受けとれぬ。芯のどこかに蝕《むしば》みのある樹──そう見てきた。小猿と呼ばれていた幼少のころから、陽気と陰気の差がいちじるしい子でな、先刻の秀保同様、カッと激すると手のつけられぬ暴れ方をしたものじゃ。継父《ままちち》の竹阿弥《ちくあみ》どのを困らせぬいたのを、小一郎どの、こなたも憶えておろう」
「さよう。まるで昨日のことのように……」
おもくるしく秀長はうなずいた。忘れようにも忘れられない。啀《いが》み合いが嵩《こう》じて家をとび出し、それっきり三年ほど、音信不通になってしまった藤吉郎秀吉なのだ。
(どこへ去《い》んだのか兄《あに》さま)
当時、小竹《こちく》と称していた秀長は、日に幾度となく戸口に立って、小猿の名をそっと呼んだものだ。ずいぶん泣かされもしたけれど、彼は兄が好きだった。家は貧しい。空腹にあと押しされての柿盗み栗盗みにも抜け目ない成果をあげ、追いかけられれば村人の怒号|打 擲《ちようちやく》から、時には楯《たて》になって弟をかばってもくれた小猿なのである。
出ていかれたあとの淋しさが、小竹にはこたえたが、いっぽう、家じゅうがほっとしたのもたしかであった。小猿の存在はつねにつねに、家族のあいだで悶着の種となった。争い合う相手はほとんどの場合、竹阿弥である。
織田家につかえて勝手もとに近い茶所《ちやしよ》に詰め、城内の将士らへの湯茶の給仕をおもな仕事にしていた竹阿弥は、女こどもでも間に合うそんな気軽な奉公にすら耐えられず、故郷の尾張中村にもどって寝たり起きたりの生活をつづけていた半病人だ。口やかましく、気むずかしい男だったとは、小一郎秀長も認める。しかし連れ子の遠慮も、病弱な日常へのいたわりもなく、ことごとに継父を挑発しくってかかって、しまいには喘息《ぜんそく》を生涯の宿痾《しゆくあ》にしていた竹阿弥が発作を起こし、胸をかきむしって苦しむのを、小気味よさそうに見ていた小猿の酷薄さ、意地の悪さ……。さすがにそこまでは許しがたかった。
加虐の快味──
相貌が猿に似、動作もすばしこかったため小猿の愛称を名にしていながら、じつは兄が、性格的にはけっしてとぼけた小動物の|それ《ヽヽ》とは類似していない事実を、小竹がいやというほど実感するのはこんなときである。継父の苦悶をみつめる小猿の目の、冷ややかなかがやき、への字に曲げた唇のはしに、苦しめることを楽しんでいるかのように湛《たた》えられた薄ら笑い……。巧みな韜晦《とうかい》の、一枚下に隠された兄の本質が、ギラと表面に露出するのを見て、そのたびに小竹は背すじに悪寒《おかん》を走らせた。
弱いものいじめは悪童のつねだ。いたずらにかけては人後に落ちなかった小猿が、無類の機敏さを発揮して年も図体もはるかに大きなガキ大将や、ときとすると大人とまで渡り合いながら喧嘩にひけを取らないのを、
「臆病者、それでもおれの弟か」
と番たび、嘲けられながらも小竹は、畏敬の思いで見ていた。強いあんちゃんが、この上ない拠《よ》り所であり誇りでもあったのである。
蛙の太股を裂き、くるりと生き皮を剥《む》いて、
「うめえ」
ピクピク動く肉を食べたり、鳥けだものを罠《わな》で捕る、土竜《もぐら》を突つき出していじめ殺すといった性情は、土民の子ならだれもが持つ自然さであろう。春さきの田ンぼでトカゲの大きなのを鋤《すき》の刃にかけ、あやまって胴切りにしてしまったとたん、
「ひッ」
泥の中に腰をぬかした小竹の弱気のほうが、むしろ、その育ちからすれば場ちがいだったといえる。ただ、
「さあ喰え、おめえも……」
と、つきつけられる蛇や蛙の生肉を、どうしても口に入れることができず、餓えているくせに小竹が尻ごみするのを憎がって、
「喰えったら喰わねえか。ひとがせっかく捕ってやったのに……」
衿《えり》がみ掴んで押し倒し、馬乗りの乱暴さで所きらわず、ぎゅうぎゅう顔中になすりつけてくる兄の眼光の、執拗なゆらぎの中に、小竹はやはり、他の村童との相違を感じないわけにいかない。狂的な燃えを青く、冷たく、燐火さながら射かけている目なのである。
茶坊主あがりだけに竹阿弥は、文盲ぞろいの村人の中では四角い文字の拾い読みぐらい、どうやらできる男であった。継子《ままこ》の反抗に手こずりきりながらも、
「こいつ、馬鹿じゃあない」
学ばしたら、あるいは一カ寺《じ》の跡式をつげるぐらいの知識にはなるかもしれぬと踏んで、光明寺という寺に小猿を預けた。
叩き出されるようにそこから返されたのは、仲間の雛僧《すうそう》、喝食《かつしき》の少年らを苛《いじ》めて、二人もの腕を折ったのが直接の原因だし、そのほかにも手のつけられぬ悪業をいやというほど演じたらしい。家から追い出された鬱屈を、寺での八ツ当りではらしたのだ。
本尊の御首《みぐし》をはめこみの胴体から引っこぬき、肥料溜《こやしだ》めに投げ入れるといった所行には、もはや腕白のいたずらでは片づけられぬ毒々しい悪意があった。日ごろ竹阿弥とはしたしかった和尚が、たまりかねて破門してまもなく、小猿はこんどは自身の意志で、親もとをとび出してしまったが、継父との、大衝突のもとになったのは隣家の犬だった。鶏小屋に忍びこんで卵を呑み、見つけられて小猿は主人《あるじ》になぐられた。それを恨んで、飼い犬が生んだ六匹もの仔を、六匹ことごとく踏み殺してのけたのである。母犬の乳房に吸いつく姿が可愛くて、毎日のように隣へ見に出かけていた小竹だから、眼球をとび出させ、鼻からも口からも血塊をほとばしらせて潰れている仔犬の亡骸《むくろ》を示されたときには、三晩もつづけて悪夢に襲われるほどおびえた。
「猿なものか。魔物じゃ、鬼じゃ」
竹阿弥は痩せひすばった肩を慄わせ、ぜいぜい咽喉《のど》を鳴らしながら、
「出ていけッ、やがては親のこのわしの寝首さえ掻きかねぬ童《わつぱ》……。もうもう家には置けぬ。どこへなりと失《う》しょう」
さけび立てた。
「おさらばするとも」
妙に静かな、落ちつき払った語気で小猿は応じた。
「そっちが嫌ならこっちも嫌なんだ。たのまれたってこんな家に、この上、居すわってなどいるもんか」
いつものあの、冷やっこい薄ら笑いを口もとにうかべたまま、ぷいと出てゆくうしろ影を追って、母親の|なか《ヽヽ》が戸外へ走った。
「お待ち、猿ッ」
水屋の塩壺から掴みあげた汚ない布袋……。小猿の手にそれを握らせ、
「永楽銭だよ。一貫文ある。前のお父っつあんの弥右衛門さんが、形見に遺して逝《い》った金だ。実の子のお前にやる分には竹阿弥どのも文句はいうまい。さあ、せめてこれを支えに、どこででも踏んばって生きておゆき」
口ばやにささやいた。
「ふん」
礼は言わなかった。でも、嬉しいことは嬉しかったのだろう、小猿は鼻|めど《ヽヽ》をふくらませ、大急ぎで布袋をふところにねじこむと、
「おっ母ァ、達者でな」
その母の片わきになかば隠れて、こわごわ見送っている小竹の額を、
「あばよ」
指でこづいて去っていったのだが、
「ああ、やっとこれで、疫病神が退散したなあ」
気落ちから、かえって竹阿弥は死期をはやめ、まもなく他界してしまった。
出奔したとき小猿は十五、小竹は十一──。その下の妹の|きい《ヽヽ》は九ツ、総領の|とも《ヽヽ》は十八歳になっていた。継父に死に別れたあくる年、|とも《ヽヽ》は光明寺の下僕だった弥介という若者を婿《むこ》に迎えたのだから、村の娘たちの中では晩婚といえる。
寺にいたころ和尚に読み書きの手ほどきを受けて、弥介はめずらしい本好きだった。|とも《ヽヽ》と祝言すればその日から、わずかな畠地にしがみついてくらす百姓の仲間入りだが、野良への行き帰りにも和尚から借りた仏典など懐中し、飯どきの畦《あぜ》で読みふけった。貧弱な光明寺の蔵書など、やがて一冊のこらず読了してしまった気質を、かねがね竹阿弥にも見こまれて、その生前から、
「|とも《ヽヽ》のつれあいに、ぜひ……」
と和尚に約束してあった。これが現在の三好武蔵守吉房である。
夫婦仲はむつまじく、子供もつぎつぎに三人生まれた。孫七郎秀次、小吉秀勝、三吉秀保……。彼らはいま、それぞれに身分を保証され、他目《はため》には倖せな、言うことなしの若殿ぐらしを享楽している。
そしてそれは、並はずれた小猿の才覚、努力と運とその出世とに、おぶさって齎《もたら》された夢のような変転であった。
でも、|とも《ヽヽ》にしろ弥介にしろ、小竹や|きい《ヽヽ》にしてからが、よろこびと同量の苦痛を、じつはひそかに、噛みしめつづけてきた歳月なのだ。貧しいなりに平穏ではあった尾張中村での百姓ぐらし……。それに終止符が打たれたのは、
「母者、姉者、来い。小竹や|きい《ヽヽ》も、もうこんりんざい、ひもじい目にはあわせぬぞ」
木下藤吉郎と名を替えた小猿の、りっぱに屋敷と呼んでよい門構えの住居に、一家をあげて引き取られたときだった。
竹阿弥の歿後、いったん帰郷した小猿はすぐまた、村をはなれ、清洲の城主織田信長に仕えて草履取りとなった。最下底から踏み出した第一歩だが、小人頭《こびとがしら》、足軽組頭と順調に昇進してゆき、故郷の家族をよび寄せたときには、すでに織田家中のお弓衆浅野又右衛門の養い娘を妻に迎え、美濃《みの》攻めに功をあげて、もういっぱし属将の一人になりあがっていたのだ。
権勢への急坂をまっしぐらに登りはじめたそれからの、藤吉郎秀吉……。息せき切る思いで背後に従いながら、親きょうだいが舐《な》めつくしたのは、じつのところ衣食の栄華とはおよそかけ離れた地獄の実態だったのである。
小一郎秀長の自覚の中に、その思いはことに深かった。姉婿の弥介──三好吉房の本心も、
(おそらく自分と、大差あるまい)
そう秀長は推量している。
小竹と呼ばれていたころから繊細だった秀長の神経は、武人として生きねばならぬ運命の到来に、おののき、竦《すく》んだ。
生まれてはじめて彼が、重い甲冑《かつちゆう》を身につけ、戦場という名の修羅場へ出たのは、稲葉山城に斎藤勢を攻めたときだった。
馬の乗りよう槍の持ちようぐらいは、弥介ともども兄の藤吉郎に教えられて、どうやらこなせるようになりはしたものの、それも二人ながら、かろうじて落馬しなくなったという程度で、いざ実戦に臨むとたちまち槍はからめ取られ、夢中で引きぬいた陣太刀までどこかで失って、鞍の前輪《まえわ》にしがみついているだけの醜態となった。
「おたがいに百姓あがりだ。初手《しよて》はおれだってビクつき通したぜ。なにせ足軽からの振り出しだものな。お前らなどまだ、のっけに騎馬武者なだけ|まし《ヽヽ》なのだ。何でもいいから手の得物をふり廻し、固く両眼をつむって敵中を駆けぬけろ。ぬけ出したらまた、馬首をめぐらして叫喚の渦に突っこむ。それをくり返しているうちに戦いのほうでいつのまにか終ってくれる。馬まかせさ。駆けぬけ駆けぬけしているだけでいいんだよ」
事もなげに藤吉郎は言うが、小一郎や弥介にすれば、敵にしろ味方にしろ斬り合いの騒擾《そうじよう》の中にいる武士なる男どもは、じたい人間とは思えなかった。血に餓えた化生《けしよう》の者であり悪鬼|羅刹《らせつ》であった。叩き落とされて吹っとぶ腕、はぜる血肉、ころがる生首……。何度も何度も小一郎は馬上で失神しかけ、苦い胃液をげえげえ吐いた。落馬をまぬがれたのは、あらかじめ兄が、鐙《あぶみ》と足を革紐でしっかりくくりつけてくれておいたのと、
(落ちたら最期だ。膾《なます》のように、わたしもやつらに斬り刻まれてしまう)
必死におのれを励ました結果である。
あとで聞くと弥介は、なまじ革紐が仇になって、あぶなく窮地に陥りかけたのだそうだ。片方がほどけたため仰向けに鞍からすべり落ち、片足を鐙にのせたまま奔馬のあがきに曳きずられてしまったのだという。この不様《ぶざま》を、敵が見のがすはずはない。どっとむらがって来かけたのを、切先そろえて防いだのは、これも藤吉郎が附けておいてくれた手下《てか》の雑兵連中だ。おかげでからくも一命を拾いはしたが、殪《たお》れた敵の一人の太股の、ざっくり割りつけられたきず口がまくれ上り、黄色い脂肪層のあいだから生乾きの血がどろりと青光りして流れ出したのを見た瞬間、髪の根がぞっと逆立ち、小一郎同様こらえようもなく弥介もやはり嘔吐して、それっきり死骸のまっただ中に昏倒してしまった。
「のう、小一郎さん、戦場稼ぎというやつは、どうにもわしらの性には合わぬなあ」
「このさき一生、あれを続けてゆくのかと思うと生きる|そら《ヽヽ》はありませぬなあ」
「弱ったのう」
彼らは彼ら自身の手で、不適格者の烙印をみずからの額に押さなければならなかったけれど、斬り口に血泥をこびりつかせ、目くちをカッとはだけた見るもおぞましい生首が、将兵たちには一個一個、恩賞につながり勝利の美酒につながるこの上ない珍宝とも受け取れるらしい。
「もしも村の畦道《あぜみち》に、人間の手首ひとつでも落ちていたら、どうなるであろう」
「大騒動になりましょうよ、おそらく……」
「合戦場《かつせんば》では手首足首、そんなものは瓜畑に瓜がころがっているほどの眺めでもない」
人が、人を害《あや》める……。
その行動心理を、異常と恐れる目から見れば、武士たちとは、異常を異常とも感じぬうす気味わるい人殺し集団であった。
否応なく、彼らの一員に組みこまれてしまったとまどいと、困惑……。しかし懸命に、それをねじ伏せて、藤吉郎の命じるまま働き通してきた小一郎秀長であり弥介吉房である。いわば不肖の弟だし義兄だが、そんな彼らとは違って天性武人にできているのか、藤吉郎の功名はめざましかった。着々、主君信長の信任をかちとりながら、戦場を馳駆して立身してゆく過程で、だが、羽柴筑前守秀吉と名乗るまでになった兄が、折りにふれてかいま見せた残忍性は、殺人集団の中でさえ目立つ狂的なものだったといえよう。
家系に潜む狂気の血を恐怖し、
「藤吉郎の資質にも、わたしははっきりそれを見る。弟は、芯に蝕みを持つ樹じゃ」
と、|とも《ヽヽ》が指摘したのはこの点であった。
たとえば浅井長政を滅ぼしたとき、織田勢の主将となって戦闘を指揮した秀吉は、八方、探索して長政の遺児をひっとらえ、串刺しの惨刑に処している。女の子は問題にしない。しかし敗将の血筋を享《う》けた男の子は、殺す。これは当然な戦国乱世の掟《おきて》で、ことさら秀吉一人が特異な行動に出たわけではない。むしろ自分勝手な判断で、浅井家の男児を助けなどしたら、それこそ他の武将から秀吉は奇異な眼で見られ、主君の信長にもその忠誠を疑われる結果になったであろう。
ただ、殺すにしても、殺し方が問題である。浅井長政の息男は、万福丸という名からしてまだ幼い、母のお市御寮人に酷似したいたいけな美少年だった。お市への屈折した片思いが、かえって逆に、その生みの子への陰湿な加虐となって現れたのかもしれないが、浅井家を根だやしにする気なら、尋常に首打ってもすむことである。|磔 柱《はりつけばしら》に大の字|形《なり》に縛りつけ、肛門から顔面にかけて、槍で刺し貫くなどというむごたらしい処刑に価するような、どれほどの罪を、万福丸が犯したというのか。
まだある。三木城攻め、鳥取城攻めに見せた冷厳さ……。いまなお、それは諸将の口に、『三木の干殺《ひごろ》し』『鳥取の渇《かち》泣かし』と呼ばれて語り草になっているが、思い描いただけで秀長あたり、身の毛のよだつ地獄図を現出したのであった。
兵糧攻めの悲惨は、この世からの餓鬼道だ。城内の草木を、皮や根まであさりつくし、忌《い》みものの随一であるはずの斃馬の肉までむさぼり食った果てに、鳥取城にこもる兵士らが目をつけたのは人間の肉《しし》|むら《ヽヽ》だった。女子供がまず、狙われ、抵抗力の弱い負傷者が、次に犠牲に供された。
秀長はこのとき西丹波の攻略に参加していて、直接、目撃したわけではないけれども、降伏して出てきた城兵どもの姿は、踏みはずせないぎりぎりの禁忌を、背に腹はかえられず犯してのけた悖徳《はいとく》の|腥 《なまぐさ》さに、どれも生きながら青ぐろく染まって、さしずめ餓狼か、幽鬼の形相であったという。
戦略上、やむをえぬ措置として干殺し作戦をとるのは致し方ない。秀長が不可解なのは、長陣《ながじん》の幕屋にわざと遊女を呼び商人芸人のたぐいまで寄せ集め、愉快げな囃子《はやし》や嬌声をことさらに聞かせるばかりか、これみよがしに炊煙を上げさせ、城兵の飢渇感に拍車をかけてよろこぶ兄の性癖であった。
加虐を快感とする薄ら笑いが、病父竹阿弥を挑発した少年のころと同じく、三木城、鳥取城の酸鼻を見据えるとき、やはり秀吉の口辺にただよっていたのではないか?
「おれは血を見るのが嫌いだ」
と、ことあるごとに秀吉は言う。
本能寺の変後、またたくまに乱世を収拾して関白の極階にのぼり、豊臣姓を名乗りはじめた彼は、九州の平定も終らせて今や名実ともに天下|人《びと》である。言動を意識して闊達《かつたつ》に、陽気にのびやかに、大きく大きく見せようとつとめているのは、体躯の矮小《わいしよう》、立ち居のせせこましさ、こればかりは抜きさしならぬ早飯、早口、早|雪隠《せつちん》など、生まれの卑しさに根ざす生来の弱点を、せめていささかなりと糊塗《こと》したい心情からだ。
しかし肉親きょうだいに見せる掛値なしの素顔には、もともとその、血の中に持っている怕さ、冷たさ、残忍さが時折り露《あらわ》になった。末妹の|きい《ヽヽ》に、|仰 々《ぎようぎよう》しく『旭姫《あさひひめ》』なる名を冠して、徳川家康のもとへ嫁入りさせ、それでも強情に、家康が臣礼を取らないと見てとると、さらに追いかけて七十四にもなる生母の|なか《ヽヽ》──大政所《おおまんどころ》を人質にくだした事実にも、非情な本質を秀長は見る。
|きい《ヽヽ》は村にいたころ、嘉助という百姓の女房になった。小猿が踏み殺してのけた仔犬どもの飼いぬし……。あの隣家の主人《あるじ》の、二番目息子であった。無口でおとなしい、実直者の嘉助と、|きい《ヽヽ》が恋仲になったとき、
「ぜひ、貰ってもらえ。兄《あん》にゃが掛け合ってまとめてもよいぞ」
けしかけてまで祝言に漕ぎつけさせた小一郎秀長である。父を同じくし母を同じくする間柄だけに、やはりだれよりもこの妹が、秀長にはいとしかったのだ。
はじめて城持ちとなり、美濃の墨俣《すのまた》に身内の者を呼び寄せたとき、だが秀吉は、
「泥田を這い廻るほか能のなさそうなやつだな。昔の面影をうっすら記憶しているけれど、あの時分からのろまなガキだった」
と、嘉助の鈍重ぶりが気に入らぬ様子で、
「せめてわしの義弟にふさわしく、風態だけでも調えろ」
嘉助を侍に取り立てた。
弥介や小一郎以上に小心で、順応性にもとぼしかった嘉助には、しかし環境の激変は拷問にひとしかった。
「おらにゃできねえ。土を揉み、種を掴むために親さまに授かったこの両手を、生血にまみれさせ、人の首を刃物で掻き切るなどというおっかねえことは、到底できねえよ」
妻女の|きい《ヽヽ》を相手に泣きくどいても、すでに長浜二十万石の領主に出世していた秀吉の命令とあっては、そむくわけにいかない。
嘉助は食事が摂《と》れなくなり、眠っても魘《うな》されて夜中に叫び声をあげる有様となった。強度の鬱病にかかり、長浜城下に移ってまもなく、痩せおとろえて死んでしまったのである。
「ばかが!」
秀吉の語気には愚直な義弟が、背負わされた重荷に耐えかねて早晩、つぶれるとの計量をあらかじめしていた冷淡さがあった。
|きい《ヽヽ》の歎きが、秀長には哀れでならなかったが、
「尼になりたい」
と訴えるのを、
「気ままは許さぬぞ」
一喝して、秀吉がつぎに取りもったのは、副田《そえだ》甚兵衛という家中の侍との縁談だった。
「女房に先立たれて甚兵衛はいま、独り者だ。やもめ同士、ちょうどよかろう」
双方の意向など|てん《ヽヽ》から無視して結びつけたのも、あとから考えれば一ッとき副田に、|きい《ヽヽ》の身柄を預けた気だったのである。
それが証拠に、|きい《ヽヽ》に利用価値が生じると、秀吉は情け容赦もなく夫婦の仲を裂いた。副田甚兵衛の手から、父ちがいの妹を取りあげてしまったのだ。
肉親を政略に使うのは武将の常である。だれもがしていることだし、身寄りが多いとはいえない秀吉にすれば、父は異なるにせよ末妹の|きい《ヽヽ》は、効率よい上にもよく動かさねば損な貴重な手駒であった。
小牧・長久手《ながくて》での戦いで、引き分けの分の悪さに手こずりはしたが、政治的には優位に立った秀吉が、上洛しようとしない家康に業を煮やして、
「それでは……」
とばかりとったのが強引な婚姻政策である。天くだりの押しつけではあったが、相性がよかったのか副田甚兵衛との再婚はうまくいって、嘉助との死別の悲しみもようやく薄らぎ、|きい《ヽヽ》は家庭生活の安らぎの中に、つつましい倖せをつかみかけていたやさきだった。
降って湧いた輿入《こしい》ればなし……。旭姫などという娘じみた名は、秀吉の正妻北政所の、母方の祖父の出身地尾張の国愛知郡朝日村にちなんだだけのものにせよ、|きい《ヽヽ》の身になれば気恥しさは否めない。四十を越した花嫁である。母親の大政所|なか《ヽヽ》に似て、きりょうよしとは欲目にも言いにくい|きい《ヽヽ》が、いまだに泥くささの抜けぬ百姓女然とした顔に、どれほどの厚化粧をほどこしたら目尻の皺《しわ》が隠せるというのか。
むざんさに、秀長の胸は詰まった。
「女房を返せ」
秀吉のひとことで、飽きも飽かれもせぬ夫婦の語らいを押しつぶされた副田甚兵衛が、恥と憤りにたえきれず故郷に奔《はし》り、そのまま寺へ入って剃髪出家をとげてしまったとの情報も、秀長にはきのどくで、ひとごととは聞けなかった。
「ばかな男だ」
と、このときも嘉助の場合と同じく、秀吉は、だが吐いてすてる語調で嗤《わら》っただけだ。
「代りに五万石ぐらい、くれてやるつもりでいたのに……。あたら加増の好機を棒に振るとはな」
築山《つきやま》どのを失って以来、家康には本妻はいない。格からすれば旭姫|きい《ヽヽ》は、徳川家の正室に納まった形だが、まったくのお飾り妻であろうことはあきらかだった。側女《そばめ》の多い家康である。子も幾たりも生まれている。いまさら人のお古の中年女に、食指などうごかしはすまい……そう思うと、|きい《ヽヽ》を囲繞《いによう》した花嫁行列の、美々しさ、ものものしさまでが、秀長には愛妹への、許しがたい侮辱に思えてくるのだ。
それでも家康が、腰をあげないと見て取って、つぎに秀吉が打った手が母親の提供である。さすがにこのときは、
「もしものことでもあったら、どうなさるおつもりか」
政治、軍事の駆け引きの前には一片の仮借すらしない兄のやり口を、秀長はなじったが、
「案じるな。母者に指一本、させる家康かよ」
と、歯牙にもかけぬおももちで秀吉は言い放った。
結果はなるほど、秀吉の予測通りになったけれど、一つまちがえばかけ替えのない老母の命を、妹の一命ともども彼らは失う羽目にもなりかねなかったのだ。後日、わかったことだが、家康がようやく承知して臣従の礼をとりにやってきた留守中、鬼作左《おにさくざ》の異名で鳴らした本多作左衛門重次はじめ、硬骨ぞろいの徳川家家臣団は、大政所と旭姫を岡崎城内の一つ棟に閉じ込め、居室のぐるりに柴薪《しばまき》を積みあげて、
「万が一わが殿が、大坂城で不慮の災厄に遭われるようなことでもあったら、無事には置かぬぞ」
報復のため、ただちに火を放って母娘を焼き殺そうと、手ぐすねひいていたという。
さいわい、そのような破局に至らずに、秀吉との会見を済ませてつつがなく家康は領国へ帰り、人質の役目をはたして大政所|なか《ヽヽ》も、入れちがいに大坂へもどった。しかし旭姫|きい《ヽヽ》は婚家に残り、駿河御前《するがごぜん》の尊称の蔭で、あじきない日々を今なお送り迎えている。
「輿《こし》の轅《ながえ》に取りすがってなあ、かかさま、お供して去《い》にとうございますと泣かれたときは……|きい《ヽヽ》が可哀そうで可哀そうで、わしも思わず涙がこぼれた。藤吉郎はむごい兄よ。わしはええ。母じゃもの。伜のために使われたとて厭《いと》いはせぬ。|きい《ヽヽ》は、でも、かよわい女子《おなご》じゃ。言いたいことが咽喉もとまでこみあげても、百に一つ、口に出せぬおとなしい生まれつきじゃ。それでも感じる心はある。物ではないに、おのが意のままに扱うて、藤吉郎は妹を、息をする土偶《でく》、生きながらの屍にしてのけた。いずれ遠からず、|きい《ヽヽ》はあの世へ旅立つであろ。もうはや、半病人のていたらくであったものなあ」
農婦あがりの忍耐づよさで、めったに愚痴めいた言葉を吐いたことのない大政所が、このときばかりは憤ろしげに、秀吉のやり口を非難したものだ。
そんな母に、秀長はまさか打ちあけはしなかったけれど、一行を岡崎へ下向させたさい、それをきっかけに秀吉は、三河、尾張の山河のたたずまい、そこで遊んだ幼時のあれこれをいきなり、思い出したらしい。
「そういえばガキ大将の一人に、仁王と仇名《あだな》のついた暴れん坊がいたな小一郎」
回想しはじめた。
「おりました。こっぴどくいじめられたものですよ」
「さすがのおれも、あいつの腕力にはかなわなかった。いつもいつも、ぎゅうという目にあわされた」
「だいぶわたしらより、年が上でしたから、もう白髪の老爺《おやじ》でしょう。達者でいますかなあ」
と微笑した秀長の情感の中には、恩讐をとっくに超えたなつかしさだけしかなかったのに、秀吉は歯をくいしめ、
「ぬかったな」
さも残念そうに宙を睨んで言ったのだ。
「もっと早く、やつに受けた仕打ちを思い出して報いてやるべきだった。いまからでも遅くはない。小一郎、かかさまの行列を宰領してゆく武士どもに命じて、ついでに仁王めを、搦《から》め捕ってこいと伝えろ」
「どうなさるおつもりですか?」
「おれを蹴ったあの足、おれを打ちたたいたあの手を、一本一本へし折って、なぶり殺しにしてやる。知れたことではないか」
秀長は戦慄した。他愛ない子供じぶんの取っ組み合いを、五十年もの長年月、どぶ泥の滓《おり》さながら怨恨の底に沈澱させていたばかりか、関白殿下と呼ばれる人が、いまさら田舎の老農夫相手に、復讐までをこころみようとする……。本気でそれを考え、実行を命じる眼の奥に、めらめら青く燃える炎を、秀長は常人のものと思えなかった。狂人が見せる偏執であり、平衡感覚の傾きである。
(能力の核に、狂気の素質を持つことで一介の土民から、異常なまでの栄達をとげた兄なのか?)
とも疑えてくる。
(父ちがいとはいえ、まぎれもなくこの人の弟……。同じ素質は、わたしも享《う》けて生まれてきているのだ)
思いがそこに至るたびに、他人には言えぬ陰惨な萎縮に、小一郎秀長は捉えられてしまう。諸侯家臣らとはまた、別種の恐れを抱きながら、絶大な権力者となった秀吉の一|顰《ぴん》一笑に、気を使う自分を見出さねばならないのだ。
姉の|とも《ヽヽ》は、しかしゆっくりと首をふる。小一郎どの、こなたは正気じゃ、狂人の血すじは、こなたや旭姫|きい《ヽヽ》どのの体内には流れこんでおらぬ……。
「わたしが思うに、どうやら災いの根元は、木下弥右衛門どのにあったのではあるまいか」
大政所|なか《ヽヽ》の先夫──|とも《ヽヽ》と秀吉の実父に当る弥右衛門は、織田家に仕える徒士《かち》衆だった。錆槍《さびやり》かついで駆け廻る雑兵である。
戦場で重傷を負い、|なか《ヽヽ》と世帯を持ったころは中村在にひっこんで、百姓ぐらしに甘んじていた。とは言え、|がせい《ヽヽヽ》に働ける身体ではない。暑さ寒さ、雨にも雪にも、背骨の古きずがじくじく痛む。侍になりそこねた口惜しさが、不自由な明けくれへの呪詛《じゆそ》となって激発するとき、ふだんの陰気さからは思いもよらぬ恐ろしい血相になるのだった。
「湯浴《ゆあ》みをおさせ申すから、侍女たちは知っていよう。おふくろさまのうしろ腰にはべっとりといまもまだ、皺んだ肌に貼りついて火傷のひきつれが残っているはずじゃ。弥右衛門どのが、煮えたぎる汁ごと投げつけた鍋……。もうもうと立つ灰かぐら、母者の悲鳴と父御《ててご》の怒声の中で、乳のみ子の小猿を背に、あのとき四つ五つだったわたしまでが、狭い家の土間を逃げ廻ったよ」
すっかり暮れきって、林中の闇は深い。ごうごうと風は衰えずに、なお梢をざわめかせつづけているが、向き合って立つ秀長の目にさえ、|とも《ヽヽ》の顔は、残像として瞼にあるにすぎぬほど周囲は暗かった。
「それから五、六年して弥右衛門どのは亡くなった。もし狂気の根がこの父御にあるとすれば、血はわたしと、藤吉郎の体内に流れたはず……。竹阿弥どのを父として、のちに生まれた小一郎どのや、|きい《ヽヽ》どのには、かかわりのない懸念であろう」
「そう信じてかまいませぬかな」
「かまわぬと、わたしは思う。竹阿弥どのも病身にありがちな、気むずかしい鬱《ふさ》ぎ屋だが、常軌を逸してまで振舞うことはなかった。その|け《ヽ》はむしろ小猿にこそ見られた。まして小一郎どの、こなたと|きい《ヽヽ》は穏やかな、しごくまともな生まれ性《さが》ではないか」
|とも《ヽヽ》の不安は、彼女の胎を通して木下弥右衛門の血を享け継いだ秀次、秀勝、秀保ら三人の子息の性情にある。
幼少から秀次は、生き物にも召使にも、平気でむごたらしい仕打ちをする子であった。小吉秀勝の片目を、秀次が突き潰してのけた日の愕きは、いま思い出しても胸の動悸が早まるほどだと、歎息まじりに|とも《ヽヽ》は述懐した。
それはまだ、秀勝がよちよち歩きのころだった。入り側の廊下に立って、ほんの一寸《いつすん》ほど障子をあけ、片方の目で、兄の部屋を覗いたのである。
「化けものがきたと思ったんだ」
と、あとで秀次は抗弁したという。一つ目の妖怪……。|えたい《ヽヽヽ》の知れぬ怯えに駆られて、すきまから、じっと座敷の中をみつめた目の玉へ、幼い秀次は夢中で指を突立てたのかもしれないが、おかげで秀勝は、一生を隻眼《せきがん》のひけめの中で過ごさなければならなくなった。
「化けものが覗いた。こわくて、だから突きのけたんだよ」
言いわけが幼稚な嘘であることを、|とも《ヽヽ》はしかし見破っている。弟と知りながら秀次は突いたのである。たまぎるような泣き声に|とも《ヽヽ》がびっくりして駆けつけたとき、庭からの西日をいちめんに受けて、入り側の廊下は明るかった。障子には秀勝の、芥子《けし》坊主に剃りあげた頭から袖なしを羽織った肩つきまで、上半身の影がくっきりと映ったはずなのだ。たどたどしい足音からも、おどけ半分な気配からも、それが弟のすき見であることは秀次にもわかっていたろうに、承知していて彼はいきなり指を出した。
「あのとき秀次の心中を占めていたのは、ただ残忍な興味だけだったに相違ない」
そのくせ事後に、何くわぬ顔で言いつくろう計算のしたたかさを、|とも《ヽヽ》は恐怖するのである。
いま、子のない秀吉の膝下に引きとられて、養子の待遇をうけている秀勝も、
「小一郎どの、こなたの子となって当城に住む三吉秀保までが、しかもけっして尋常な気質に生まれついてはおらぬ」
兄秀次に劣らぬ驕激な、異様な言動に出ることが多いのが、|とも《ヽヽ》を圧《お》しつけてはなさぬ不安の因子なのだ。
「こなたも知っての通り、わたしのつれあいの弥介吉房どのは温和な人柄……。戦場かせぎは今もって不得手な学者肌の読書好きじゃ。子らの狂質は、母なるわたしを|媒 《なかだち》として祖父の弥右衛門どのから貰いうけたものであろうが、藤吉郎をもひっくるめて、家系の一部に伝わったこの、禍々《まがまが》しい黒い血が、やがては子らの身の上に取り返しのつかぬ不幸をもたらすのではないか、今日の小今の惨死にも、予兆は現れているのではないか……。そう思うと気がかりでのう」
「わかります」
寄り添って、小一郎秀長は姉の肩に手をかけた。
「お案じなさるのはもっともだが、度はずれな乱暴も男の子にはありがちなことです。秀次はまして、名族三好家の名跡《みようせき》を継ぎ、近江八幡山二十万石の領主。秀勝は関白殿下の、そして秀保もまた、かく申す従二位大納言秀長の養嗣子とあってみれば、襁褓《むつき》の中からの天下人、その藩塀《はんぺい》……。少々のわがままや思いあがりは、彼らの若さでは致し方ありますまい。先ゆきの心配をしすごしてみたところで、定まった運命ならば、変えることはできないのですから……」
木立ちの向うにチラチラ灯《ひ》が動き、
「どちらへ行かれたのであろう」
「殿、……殿」
さがしあぐねているらしい幾人もの、声が聞こえた。
「家来どもです。すっかり暗くなってしまいました。もはや入りましょう屋形の中へ……」
と背を押して、本丸の客殿へもどると、ここでは|とも《ヽヽ》に扈従《こじゆう》して八幡山城からやって来た三好家の侍女たちが、
「奥方さまは、どこに?」
同様、女|主人《あるじ》の姿を求めて右往左往していた。塗《ぬ》り籠《ごめ》に押しこめておいた秀保が、空腹と無聊《ぶりよう》に腹を立てて、
「出せッ、はやく出せ、ここから……」
喚きはじめているのだと訴える。格子のはまった土壁の、文字通り乱心者などを一時入れておく牢づくりのひと間なので、秀保にすれば心外でならぬのか、なだめようとしてうっかり近づいた乳母の髪をひっつかみ、唾を吐きかけなどして荒れ立てる騒ぎに、侍たちまでが辟易《へきえき》して手を出せずにいたのだ。
「小今を死なせながら、後悔もしておらぬのか? 秀保めは……」
「すまぬとすら仰せられませぬ」
「けしからぬ」
秀長が立って行き、腕を引ったててつれてくると、燭台のあかるさ火桶のあたたかさに、たちまち秀保は機嫌を直して、
「かかさま、ご膳をいっしょに食おう」
|とも《ヽヽ》の膝へ甘えかかった。
「飯などひとかたけふたかたけ、食わぬでも大事ない。そんなことよりそなた、小今にすまぬと思わぬのか?」
「思うよ」
「あの子は死んだ。ふたたび逢うことはかなわぬのじゃぞ」
「うん」
「取り返しのつかぬことを、そなたはしてのけた。しんじつ小今に、詫びる気か?」
「詫びる」
「ならば母と同道して、幡利一郎とやらの長屋へまいろう。亡骸《なきがら》に手を合わせて許しを乞わねばならぬ」
「その前に、二つ三つ結び飯が食いたい。ひだるうて、目が回りかけているのじゃ」
「なにをほざく。阿呆が……」
叱りつけて幡の住居へ出かけてみると、小今の遺体はすでに柩《ひつぎ》に納められ、相長屋の者が詰めて通夜《つや》の|枕 経《まくらぎよう》を誦《ず》しはじめたところであった。
若君とその生母の弔問に人々はうろたえ、褥《しとね》を直して霊前に座を設けた。
幡利一郎に、|とも《ヽヽ》は陳謝した。はずみから生じた成りゆきであった。悪意や殺意を本気で抱いて、少女を追い廻した秀保ではないと、取りつくろって言ったが、
「はあ」
釈然としかねる顔で利一郎は浅く、頭をさげたきりである。なまなかな詫びなどでは消しがたい青白い怒りが、その面上に炎《ほむら》しているのを見て、|とも《ヽヽ》は満身が総毛立った。なにがなし不吉な予感に、胸が塞《ふさが》ったのだ。
それなのに肝心の秀保は、視線をあちこちに漂わして一向に落ちつかない。下級武士の住居になどついぞ足を踏み入れたことがないため、もの珍しいのかもしれない。浮き腰のもったて尻で、きょろきょろあたりを眺め回している。焼香、合掌も上の空のまますませ、そのくせ柩の蓋を払って変りはてた小今の死顔に対面させると、いきなりあとずさって、さけぶように泣き出した。喜怒哀楽のめまぐるしさ、感情の流露のとりとめなさは、|とも《ヽヽ》の目にさえ、やはりどう見ても|まとも《ヽヽヽ》ではない。
もとの客殿につれてもどると、いま泣いた鴉《からす》が早くもけろりとして、侍女たちが調えておいた膳部を前に、にこにこ顔で箸を取る。母にも義父にも、痛めつけた乳母にさえはしゃいで話しかけ、その関心はたちまち小今の死からそれて、あす、打ち揃って出かける聚楽第の豪壮へ逸《そ》れた。
「大坂のお城より立派だって……。ほんとだろうか、母《かか》さま」
「………」
「関白さまのお寝間には、大きな銀|無垢《むく》の南蛮時計が置かれて、刻限がくるとひとりでに、ボーンボーンって鳴るんだそうだよ。でも、このお城の書院に飾ってある櫓《やぐら》時計だって、そんなに大きくはないけどポルトガル商人の献上だよねえ養父《とと》さま、いつかそう言っておられたでしょ」
と、のべつ喋って飽きる気色もない。
(この子が格別、変り者なのではなく、人ひとり死なせても、八ツや九ツの少年ならどこのだれもが、さして深刻に悲惨を受け止めなどしないということだろうか)
強《し》いてのようにそう思い捨てて、|とも《ヽヽ》はいったんの打撃から立ち直ろうと努めた。小一郎秀長の言う通り、くよくよ思い悩んだところで行く手に何が待ちうけているか、そのときになってみなければだれにもわかりはしないのである。
聚楽第は秀吉が、関白職にふさわしい居館として、大内裏跡《だいだいりあと》の内野《うちの》に造営したもので、天正十五年のことし、九月はじめに竣工し、すでに十日前の十三日、母の大政所、妻の北政所らとともに彼は引き移りを終えている。空城《あきじろ》となった大坂城には九州征伐のさい、留守将をうけたまわって居残った秀次がひきつづき詰めて、あとを守備していた。
したがって、|とも《ヽヽ》も、こんどの上洛では秀次に会えないが、次男の秀勝は、秀吉にともなわれて、聚楽第に先着しているはずだった。
ひさびさに、別れ別れにくらしていた親子きょうだいが、華麗な新造の第邸で顔を合わせる……。せめてその弾みを力綱に、寝苦しい最後の一夜を、|とも《ヽヽ》は郡山城内であかしたのだが、あくる朝はやく、秀長・秀保らと輿をつらね、京都をさしてのぼる道すがら白昼の路傍で、また、いやなものを見てしまった。
だれがぶちまけたか、それは籠に一杯もありそうな桑の実であった。車の轍《わだち》、行き来の草鞋《わらじ》に踏みにじられて、赤むらさき色の汁がべたいちめん流れ出し、青蠅《あおばえ》が無数に群れている。
|とも《ヽヽ》の顔色が変った。ほとんど力ずくの強引さでその光景は、小今の惨死体を彼女の眼裏《まなうら》に明滅させたのだ。
「ああ、嫌な……」
思わず恐怖の声をあげて、輿の引戸を、荒々しく|とも《ヽヽ》は閉めた。
三吉秀保も輿には共乗りしていた。
「母者が、ご窮屈であろう。せまくるしい中にそなたまで割りこんでは……」
と、郡山城を発つさい秀長は制止したが、
「いやだあ、どうしても母《かか》さまに抱かれてゆく」
幼児に還りでもしたように秀保はだだをこね、はては地団駄まで踏んで、叔父であり今は義理の父でもある人の言葉に逆らったのだ。
「聞きわけのない子じゃなあ」
あきれながらも、
「それほど乗りたいのなら、乗るがよい」
結局|とも《ヽヽ》が譲歩したのは、手離した子への憐憫からである。好き放題に振舞っているように見えても、やはり親戚の家庭は親許《おやもと》とはちがう。子供なりの遠慮や気疲れを、心の底に溜めながらくらしているところへ、ひさびさに生みの母が訪れた。秀保にすれば思いきり、わがままが言いたい、甘えもしたいところだろう……そう察して、一つ輿の中へ抱きかかえる形で乗ったのだが、城を出てまもなく、いきなり叫び声をあげて|とも《ヽヽ》が物見の戸を閉めたのには、
「どうしたの?」
秀保もびっくりしたらしい。
「何か、こわいものでもいたの? 外に……」
上体をねじって母の顔を見あげた。
「桑の実がな、おびただしく路上に潰れておったのじゃ」
「へええ、そんなもの平気じゃないか」
「青蠅がいちめんにたかっておった」
「そうか。だから気持がわるかったんだね」
蠅を厭うたわけではない。熟れた桑の実の、血にそっくりな汁の色、酸味をおびた|腥 《なまぐさ》い匂いから、小今のむごたらしい屍体を思い起こして、反射的に戸をとざしたのだとまでは、|とも《ヽヽ》は打ちあけなかった。
ただ、膝の上の秀保を抱きしめて、
「のう、三吉よ、もう二度と小今にしてのけたような恐ろしい仕打ちを、召使の女どもや侍たちにしてはならぬぞよ」
と、言い聞かせた。
「わかっているよ」
「そなたは関白どのの甥御《おいご》──。天下人の跡取りを実の兄に持つ身じゃ。くれぐれも自重して、人に憎まれぬよう心せねばならぬ」
「わかっているってば……」
じれったげにゆすぶる骨ぼそな身体を、
「いいや、わかってなどおるものか」
回した両腕に力をこめて抑えつけながら、耳に口を寄せて一語一語、にじりつけるように|とも《ヽヽ》はささやいた。
「小今の兄──あの、幡利一郎とやらいう小姓の目をおぼえているか秀保、妹を殺された口惜しさに、血走っておったであろうが……。いったん怨みを結んだら、主従の間柄とて容赦などだれもせぬ。ましてその怨みの根が、主君の理不尽にあったとあればなおさらじゃ」
「………」
「よいな。母が申すことを、しかと心にとめておくのじゃぞ。そしてこの先、幡利一郎には油断すな。小今への償いと思うて情けをかけ、氷さながらな怨恨を少しなりとも|※[#「さんずい+解」]《と》かす努力をせねばならぬ。わかったな」
「………」
「これ、秀保、返事をせぬか。案じて言う母の言葉が、そなたの耳には入らぬのか?」
「入ってるよう。だからさ、引戸をあけてよ母さま、あつくるしいし、外の景色が見たいもの……」
岩か木を相手に説得をこころみているようなもどかしさが、輿の間断ない揺れからくる背すじの凝《こ》りとともに、はやくも重い疲労を、|とも《ヽヽ》の全身に澱《よど》ませはじめた。
「やあ、お寺の塔が見えらあ。ここはどのへんだろ、ねえ母さま。おれ咽喉がかわいた。柿が食いたい。おりて歩いてもいいかしら……」
と、少年一人は屈託ない。
「歩きたければお歩き。気に入りの青毛《あお》を曳かせてきたようじゃ。男の子は、駒にも乗り習うておかねばならぬ」
「じゃあ、おりよう。ねえねえ、とめておくれよ」
と切り窓から、輿舁《こしか》きの男たちに向かって叫ぶのを、|とも《ヽヽ》は聞き流して目をとじた。にがにがしい徒労感が、鈍痛を伴って|こめかみ《ヽヽヽヽ》に不快な脈動を伝えてくる。中年すぎて以来、頭痛は|とも《ヽヽ》の持病となっていた。
(父の木下弥右衛門どのから、このわたしも、享けついでいるにちがいない恐怖の血……。頭の痛みは、予兆というものの一つかもしれぬ)
そんな母親の胎を借りたおかげで、それぞれ、どこか異常性をおびて生まれついた三人の子らが、|とも《ヽヽ》には痛ましく、哀れでならない。秀保が小今を死なせた責めも、結局はおのれへの慚愧《ざんき》に、彼女は回帰させてしまうのであった。
──その夜は岡屋津の民家に泊まった。郡山と京都を結ぶ中継ぎ場所として、小一郎秀長も行き来のたびに、しばしば利用する大きな廻船問屋である。
「ようお越しくださりました」
と、あるじの井筒屋了意《いづつやりようい》が出迎えて一行を奥の間にみちびいた。柱や梁《はり》ががっしりと太く、城郭を思わせる頑丈な造りだ。磨きこまれて黒びかりした木肌にも、旧家の風雪がしのばれる。
じじつ、数百年もの昔から岡屋津は、淀川、宇治川水路の要《かなめ》の役を果たし、物産の積みおろしに賑わう良港であった。町すじにはびっしり民家が建ち並び、貸し倉庫の納屋《なや》、商品の卸し問屋など豪商が多い。井筒屋は中でも、町衆の筆頭をつとめる富家で、法体《ほつたい》すがたのあるじ了意は、秀長とは同様、千宗易《せんのそうえき》(利休)を師匠とする茶の上での相弟子だった。
絵襖《えぶすま》の銀箔が灼《や》けくすんだ二十畳の座敷は、それでもこの家では最上の客間らしく、書院構えにつくられていて、鍵の手にめぐらされた廊下に佇《た》つと、巨椋《おぐら》ガ池《いけ》の波映がひと目で見渡せた。
「おお、よいながめじゃ」
思わず、|とも《ヽヽ》は声に出してつぶやいた。
「八幡山城からの眺望にそっくりでしょう」
と秀長も目を細めた。
「ほんに、池などとは信じられぬ。琵琶湖の拡がりにも較べられる広さではないか」
「計ればむろん、琵琶湖に遠く及びませんが、これはこれでなかなか巨大ですし、水は宇治川を仲立ちとしておたがいに通じています。琵琶湖とこの池は、つまり兄弟と申せましょうな」
「洛中からは鴨川《かもがわ》、桂川が一つに併《あわ》さり、名張《なばり》、笠置の山中からは木津川が歩み出て、ともにここ、巨椋ガ池へそそいでおるそうな」
「水甕《みずがめ》ですよ。洛南の……」
「四通発達した水利の便……。航路の要衝として往古から、ご当地岡屋津が栄えつづけてきたのももっともじゃな」
ところへ了意とその老妻、嫡男の四郎兵衛らが改めて挨拶にまかり出た。こまごまと、女らしい心くばりを見せて、湯浴みのしつらえが出来ていること、お口に合うものは何もないが、とれたての魚介をふんだんに使ってもてなしの用意も調っていることなど、妻女は愛想よく告げてやがて引きさがった。了意と息子は、でも、もの問いたげな顔を揃えてなぜかいつまでも座を立とうとしない。
新装成った聚楽第のうわさ、つい先ごろ勝ちいくさの歓呼の中で結着した島津征伐の経緯などとりとめない話題を幾つか、儀礼的に口にしたあげく、
「ところで大納言さま、例の槇島堤《まきしまづつみ》の件でございますけれども……関白さまはやはりどうでも、築堤工事を強行なさるおつもりでござりましょうかな」
それこそが話の眼目と言わんばかりな真剣な面ざしで問いかけてきた。
「いやいや、当分、そのような心配はなかろうと思う」
と、日ごろの彼らしくもない口ぶりの強さで、やや、うろたえぎみに否定した秀長は、井筒屋父子とはうらはらにこの話題を避けたい顔つきだった。
「当分──ということは、では、いずれはお取りかかりあそばすわけで?」
「なにぶんにも兄者の肚《はら》の内だ。毛頭そのようなご思案はないと、わたしには言い切れぬ。しかし槇島に添って堤を築き、宇治の流れを東岸に迂回させたところで何の益もなく意味もない。むしろ岡屋津の町を死滅に追いやる暴挙だ。まさかそんなことを、あの兄者がなさるはずはあるまいではないか」
「ではなぜ、築堤計画などという埒《らち》もない取り沙汰が、このあたり一帯に流れたのでござりましょうなあ」
「不可解だな。なにものかが、故意に言いふらした謀略ででもあろうか」
「槇島堤だけではござりませぬよ大納言さま」
と父の片わきから、膝をにじり出させたのは四郎兵衛であった。
「もっともっと恐ろしい噂すら近ごろでは囁かれております」
「ほう、どんな?」
「槇島堤よりさらに西側、池のほぼ、まん中に長大な堤を南北に築き、堤上を新しく大和街道として、伏見の聚落にまっすぐ結びつけようとの腹案も、関白殿下はお持ちとか……」
「まさか」
言いさして秀長は絶句し、はげしく咳込んだ。異父弟の、衣服の外からさえ虚弱とわかる肉薄《にくうす》な背を、|とも《ヽヽ》があわててさすりながら、
「大丈夫か小一郎どの、横になったほうがよいのではないか?」
ことさら大仰に言ったのは、一日行程の旅とはいえ馬に揺られつづけて、ようやく到着した客人をいつまでもくつろがせようとしない井筒屋父子への、淡い腹立ちからであった。
「姉上、お気づかいなく。香煎《こうせん》にな、ちと噎《む》せたまでで……」
と、秀長はしかし、せっかくの|とも《ヽヽ》の労《いたわ》りをしりぞけたし、了意や四郎兵衛にも腰をあげるけぶりはなかった。
「わたしらにはわかりませぬ。何としても納得がゆきかねるのでございます。大量の人夫を投じ巨費をかけて土木工事にとりかかるについては、それなりの成算がなければならぬはず……。せぬよりは、したほうがよければこそ人力や金を使われるわけでござりましょう。でも、巨椋ガ池を長堤で断ち切るお企てからは、何の利得も生まれませぬ。どころか逆に、えらい損失を招くだけでござります」
「わかっている」
苦しげに秀長はうなずいた。
「おぬしに指摘されるまでもなく、槇島堤を造ればその日から、岡屋津の港町としての働きは止まってしまう。堤に封じこめられてあたら良港が枯死する結果になるわけだし、ましてさらにその外側に、いま一本、堤を築き立てなどしたらもはや終りだ。岡屋津は二重格子の牢獄に入れられたも同然なことになってしまうからな」
「わたくしどもは、岡屋津港のみの命運を案じているのではありませぬ。いまさら申し上げるまでもないことですが、築堤によって巨椋ガ池を分断すれば、そのまま水上運輸の大幹《おおみき》を断切る大事につながるからでございます」
近江、美濃、尾張、北陸道の物産や資源は、琵琶湖の船便によって大津、膳所《ぜぜ》など湖南の波止場まで運ばれ、つぎは瀬田川、宇治川の流れに乗って当地岡屋津に着到……。南|大和《やまと》への売却品がここで陸上げされ、大坂方面へは巨椋ガ池を横切って、淀川の水運を利用しつつ南下してゆく。
いわばこの水路は、北陸東海の諸地方と、摂津、河内、和泉など大坂を中心とする諸国とをつなぐ重要な大動脈であった。
そして巨椋ガ池は、諸川の流入をいったん緩和し、さばいて再び西へ送りこむ遊水池、その大池の管理および入り船の采配、物資の集散を受け持ってきたのが岡屋津港なのである。
「井筒屋、おぬしの申す通りだ。人間が山城、大和の野に住むようになってこのかた、連綿と利用しつづけ、限りなく恩沢を受けつづけてきた港と池を、叩きつぶすなどという突飛《とつぴ》な企ては、|なみ《ヽヽ》の頭では思いつかぬ」
「さよう。狂人の発想、狂気の所産……。もし流言が真実ならば、憚《はばか》り多い申し分ながら関白さまは、発狂あそばしたとしか、わたくしどもには受けとれませぬ。何ともかとも、理解にくるしむお企てでござりますからな」
吐胸《とむね》を突かれる思いで、|とも《ヽヽ》は男たちのやりとりを聞いた。藤吉郎秀吉の行動を、はっきり狂気の二字に結びつけて危ぶんだ第三者として井筒屋了意の皺の深い顔を、|とも《ヽヽ》は畏怖の目でみつめたのであった。
「兄者はな井筒屋、発狂などしておらぬ」
秀長はしかし、きっぱり否定した。
「狂人が関白の極階に昇れるはずはなかろう。兄者は正気。正気の者が狂気の企てを強行するはずはない。つまり噂は、たんなる噂にすぎぬ、と言うことだ」
「そう信じてよろしゅうございましょうか」
懸命な語気で了意は念押しした。
「よいとも。断言する」
「安堵いたしました。大和大納言さまは温厚篤実な長者……。そのおかたのお口から出た保証ならわたくしども、大盤石の重みを持つものとご信用申します。じつはな、今日こなたさまが当家にお泊りあそばすと聞いて、町の宿老ども勝手もとに相詰め、かたずをのんで首尾を案じておる始末で……」
「言うてやれ、その者どもへも……。根もない風説になど惑わされず、これまで通り稼業に励めと……」
「ありがとうぞんじます。──やれやれ、お疲れのところを長ばなしいたし、ご無礼つかまつりました。風呂も沸いておるそうな。ともあれ、汗をお流しあそばして下さりませ」
と息男ともども、ようやく出て行ったあとに残ったのは、ぎごちない沈黙だった。
秀長は潔癖だ。小さな嘘をやたらつかないのを、|とも《ヽヽ》は知っている。が、武将として為政者として、やむをえず大きな嘘を口にしなければならぬ苦境──。時にはそこへ追いこまれることも、|とも《ヽヽ》はじゅうぶん心得ていた。
夕餉《ゆうげ》のもてなしがすみ、三吉秀保を寝間に、供の者もそれぞれ別室に引きとらせて、やっと二人きりになれたわずかな、くつろぎの時間を捉《とら》え、
「小一郎どの、先刻、井筒屋父子につがえた約諚を、この姉も真実のものと思うてよいか」
こわごわ、|とも《ヽヽ》は訊いてみた。秀長は答えなかった。夜の水上をいろどる釣り舟の灯へ遙かな視線を投げていたが、やがて、
「兄者は伏見に、築城なさるおつもりです」
ぽつりと言った。
「街道を兼ねた長堤は、おそらく池の上に築かれるでしょう。城にともなって城下町が造られれば、新道はこれに直結します」
「では、岡屋津の命脈は絶えはてるわけか」
「伏見を港町として新しく整備し、岡屋津を見捨てる。一見、計算は合っているようですが、了意らが憂える通り池を切れば、宇治川、淀川を結ぶ水路の、大動脈としての使命までが同時に断ち切られてしまいます。狂気の沙汰です」
「な、なぜ藤吉郎はそのような企てを……」
「わかりません。解釈のしようがないのです」
向き直って秀長は、まっすぐ姉の目を見た。
「大小さまざまな工事を、近ごろやつぎばやに兄者は命じはじめました。もともと築城など大好きな人ですし、この傾向は今後ますます強まると見なければなりますまいが、命令はどれもばらばらで、腹案にいささかの脈絡もありません」
衝動的な思いつきだけで着工させ、たちまち飽きて放置してしまう……。
「たとえば伏見に城を築き町を造ったとしても、さて、いつまで保つでしょうか。権力者の、まるでたわむれ事にもひとしい下命のかげに、厖大な犠牲が払われ、泣く者が無数に出るとしたら……これはもう道楽や遊びではすまされませぬ。近ごろ側近の間には、ひそかに兄者を『普請狂い』と呼ぶ声すら聞かれます」
|とも《ヽヽ》は身ぶるいした。とりとめなく、意味も意義もない力の行使は、やはり秀吉の、脳の病変からくるものであろうか。
「あす、われわれが目にする聚楽第──。美の極致とまで噂される殿閣も、あるいは三年、ないし五年といった短時日のうちに、ふたたび跡かたなく消え失せる七色の虹かもしれませぬよ姉上」
声を立てずに秀長は嗤った。兄の内部で、すこしずつ増幅の度を拡げつつある歯車の狂い……。それを止めることのできない自身の無力が、岡屋津町衆への同情と綯《な》いまぜになって、いま秀長の良心に、自嘲の針を突き立てているであろうことはあきらかだった。
「翻意されぬかのう、築堤の企てとやらを……」
|とも《ヽヽ》は呻いた。
いつのまにか漁火《いさりび》は消え、油を流したように水面は暗い。殺される前から、はやくも死相を呈しはじめた池に見えて、果てしない水の黒さが、|とも《ヽヽ》にはたまらなく無気味であった。
あくる日、正午《ひる》ちかく、郡山からの一行は洛中へ入った。
都の空をいっとき飾って、たちまち掻き消える虹に似たはかない未来図を、秀長は聚楽第の上にまで描いてみせたけれど、実際にそれを目にしたとき、|とも《ヽヽ》の心中をよぎったのは、(いくら何でも、さようなことはあるまい)
否定の感情だった。
四季おりおりの楽しみを聚《あつ》める……。聚楽なる命名が示す通り、ここは秀吉の関白としての京屋敷だから、おなじく居城とはいっても軍事的機能を優先させた大坂城にくらべればはるかに優美だし、享楽気分も横溢している。
しかし従来の、公卿長袖《くぎようながそで》連中の無防備な家つくりから見れば、第宅というよりむしろ聚楽城と呼ぶほうがふさわしいほど、やはり構えはいかめしかった。まず何よりは、堀が深い。造りたて掘りたてを証明するかのように、水は澄みきってまんまんと漲《みなぎ》り、浮き雲の静かな影を映しているし、敷《しき》の幅だけでもたっぷり一丈を越しそうな堤、それを支える蔭積みの石垣も、秋の日ざしを反射して目に痛いほど明るく、まぶしい。
なにげなく堤上にめぐらされた土塀にすら、よく見れば|ねば《ヽヽ》土を芯にして両側から瓦を差し重ね、すきまをしっかり漆喰《しつくい》で固めるといった堅牢な細工がほどこされているのである。
濠《ほり》の岸には若木の柳が、等間隔に整然と植えられ、路上も掃き清められて塵ひとつない。そんな周辺の環境だけに、聚楽第の正面──長者町口に通じる大通りの手前|角《かど》に、物売りだろうか、うす汚い風態の人だかりが、何ごとかわいわい言い合っている異様さは、ことさら目についた。並木の柳……。うちの一本をかこんで彼らは騒いでいるらしい。
「見てまいれ」
秀長に命じられるまでもなく近習《きんじゆう》の一人が走ってゆくと、気づいて、群集はたちまち散った。柳の幹に白いものが貼りつけてある。紙だった。はがして、近習がそれを持ってくる。馬上のまま受け取って秀長は黙読した。何者の仕業か、達筆にしたためてあるのは三首の落首であった。
押しつけて言へば言はるる十楽の
都の内は一楽もなし
末世とは別《べち》にはあらじ木の下の
猿関白を見るにつけても
十分になればこぼるる世の中を
ご存知なきは運の末かな
怒りが、カッと胸さきを熱くしたが、一方に、背筋を伝う氷に似た不快な戦慄の自覚もあった。十楽は、いうまでもなく聚楽にひっかけての語呂合せだろう。
関白ひとりは強引に、天下人の権威と栄華を聚楽第の偉容に凝集させたけれども、それを羨み仰ぐ民衆のくらしの中には、楽しみとよべるものは一つもないと呪い、猿よばわりをされた土民あがりが、極階にまで経上《へあが》る今をこそ、末世といわなくて何だろうとも嗟嘆《さたん》している。
三首のうち、わけて秀長がこたえたのは、十分に器《うつわ》のふちまでそそげば、水は溢れ、こぼれてしまう、わかりきったこの道理にさえ眩《くら》んで恣意《しい》をほしいままにしだしたとき、盛運は下り坂に向かうのだぞとの、冷ややかな警告であった。王朝の昔、この世をば我が世とぞ思う望月《もちづき》のと誇って詠んだ御堂《みどう》関白道長の驕《おご》りに、兄の昨今をだぶらせて危惧していた秀長にすれば、この一首こそは『天に口なし、人をもって言わしむ』の箴言《しんげん》とも受けとれる気がかりなものだった。
「なあにそれ……何が書いてあるの?」
秀保の問いかけにも、
「歌だよ」
短く応じたきりで、手ばやく秀長は紙片をたたみ、ふところに入れてしまった。
下手人の探索など特に命じるつもりはないし、輿であとにつづく姉の|とも《ヽヽ》にも、彼は何ごとも告げようとはしなかった。
厚く漆《うるし》を塗り、惜しげもなく金金物《きんかなもの》を施した豪奢な正門に近づくと、警固の番卒が居並んで八文字に門扉を開く。いちはやく奥へ注進に走る者もいたが、郭内《かくない》へ踏みこむと敷地の広大さ、殿楼の立派さはいよいよはっきりしてきた。諸侯の邸宅がこれも新築のきらびやかさで妍を競い、塗りたてのまっ白な築地がどこまでもつづく。肉厚彫りの欄間に、丹青うつくしく彩色した門、鋲《びよう》打ちいかめしい鉄門など幾つかくぐるあいだも、
「すごいなあ、ねえ母さま」
振り返り振り返り|とも《ヽヽ》の輿に、秀保は弾み声を投げてくる。義父に倣《なら》って、今日の彼は馬上だった。年少ながら鞍腰は安定し、手綱さばきにもさして危げはない。
花筐《はながたみ》と名づけた気に入りの青毛《あお》を、たくみに御しながら奥へ奥へと進み、いよいよ本丸の手前へさしかかったとき、行列はゆるやかに進行をとめて、
「おお、これは加賀の少将どの、奥方までがお出迎えくだされたか」
秀長の声が響いた。
切り戸から|とも《ヽヽ》が覗くと、なるほど、唐破風《からはふ》をつけた入母屋《いりもや》造りの、屋根を檜皮《ひわだ》で葺《ふ》いた品のよい四脚門の下に、前田利家夫妻がにこやかに立っている。供廻りの者に命じて輿をおろさせ、|とも《ヽヽ》は外へ出た。
「道中、お疲れになりましたろう」
と寄って来て、利家はねぎらった。
「ごらんの通り子づれ女づれゆえ、飛ばせば一日で埒《らち》のあく道を、のんびり岡屋津泊りでまいりました。くたびれてはおりませぬ」
秀長もほほえんで言い、|とも《ヽヽ》は利家夫人お松を相手に、無沙汰の詫びを交し合った。
まだ、おたがい織田家に仕え、利家が前田犬千代、秀吉が木下藤吉郎と名乗っていたころから、両家は親密につき合っていた。信長の歿後、秀吉の急速な擡頭からしぜん、臣従の礼をとらざるをえなくなった利家だが、秀長や|とも《ヽヽ》の心情からは、昔のよしみは消えていない。
口が重く、社交|下手《べた》な|とも《ヽヽ》の耳には、時にいささか、かしましすぎて聞こえるほど前田利家夫人お松はお喋り好きな、それだけに人のよさをまる出しにした気さくな女だった。
「おやおや、郡山の若さまも、ちっと見ぬまにたいそうお身大きくおなりあそばしました。お馬は逸物《いちもつ》の若駒じゃが、何という名でござりますな?」
と問われて、
「花筐だよ」
鞍上《あんじよう》に反りかえったまま応じる言葉づかいは、だれかれかまわぬ粗雑さである。母親としてのしつけの至らなさを見せつけられる思いで、|とも《ヽヽ》は恥じ入った。
「これ秀保、加賀宰相の奥方さまに、何という口のききかたをするのじゃ」
目かどを立てるのを、
「お元気な証拠。このお年ごろの腕白は、むしろたのもしゅうござります。お叱りあそばしますな」
と、あべこべに、お松はなだめて、
「一服なされませぬか。若君もお咽喉がかわきましたろう。わが家は、それ、そこ……。粗茶などお振舞い申そうと存じて、夫《つま》ともども、ご入来《じゆらい》をお待ちしていたのでございますよ」
すぐかたわらの邸宅を指さした。
「おう、これが前田どののお屋形でござりまするか」
釣られて、大屋根の重厚な曲線に目を走らせる|とも《ヽヽ》へ、
「さよう。国許から番匠どもを呼び寄せ、せき立てて造らせた間に合せ普請……。他家にくらべてはなはだしく見劣りいたすが、古女房とそれがし、どうやら雨露がしのげればよしとして、去年《こぞ》の冬から仮り住みいたしております」
利家は謙虚な説明を口にした。
「どうして、みごとな造作じゃ、内堀の向い側、右|下手《しもて》につづく築地塀は?」
「浅野長政どのの居宅……。ご一行が先ほど入ってこられた長者町口の、正門をくぐって右に折れると、蒲生氏郷《がもううじさと》どの細川忠興どの、羽柴秀俊どのの屋敷が並び、そのほか奥州の伊達どの最上どの南部どの、また西国の毛利輝元どの三河の徳川どのまで、すでにそれぞれ、木の香新しい居館を造り終えて、中にはぽつぽつ、妻子らを住まわせはじめた御仁《ごじん》もおります」
そういう利家自身、加賀の本拠から夫人の松を呼び寄せた一人だ。
もと、内裏だった広大な内野に、その後、町家《まちや》が造られていたのを、強制的に立ちのかせ、あるいは取りこわしなどして、秀吉は聚楽第の縄打ちを敢行──。本丸を囲むかたちで諸大名にも、いっせいに屋敷を建てさせたのだが、
「女中衆、三年間在京ある可《べ》き事」
と触れ出し、妻子愛妾らを住まわせたのは、人質の確保を目的とする京都集中政策の現れであった。
ほんの間に合せ、と利家が言う通り、聚楽第内の前田家は能登、加賀から人夫を動員し、一カ月たらずで仕上げた突貫工事であったらしい。それというのも秀吉は、聚楽第の造営と併行して方広寺大仏殿の建立《こんりゆう》を目ざしており、浅野長政、千宗易らとともに利家も、普請奉行を命ぜられて、自邸の建築になど手を割《さ》いていられなかったのである。
島津征伐のさい前田家は八千人の兵員を負担した。しかし嫡男利勝に引率されて九州へくだったのは三千人にすぎず、残り五千名は京都に残留した。利家に指揮され、聚楽第、大仏殿の造立に参加したのだ。
つまり去年から今年にかけて、利家はほとんど国許へ帰らなかった。上方《かみがた》で越年し、正月の祝い膳すら洛中で摂《と》った。夫人のお松は、多忙な夫の身の回りの世話をすべく上洛し、半づくりのうちから新居に入ったのだが、同時にそれは、人質召喚に応じることを意味している。人後に落ちぬ迅速さで前田夫妻もまた、忠誠の証《あかし》を秀吉に示したのだ。
|とも《ヽヽ》は、豊臣家の幕僚としての、利家の赤心を疑ってはいない。ただ、だれにも増したすばやさで夫妻が上洛し、聚楽第内に居を構えた理由を、あながちに、それだけではないと察知はしていた。
さりげなく、お松に彼女は問いかけた。
「摩阿《まあ》姫さまは、その後お障りのう過ごしておられますか」
「はい、ありがとうござります」
ふくぶくしく肥えた頬に、年にそぐわぬ童女めいた笑《え》くぼを刻んで、お松はこころもち頭をさげた。
「おかげさまで、すこやかにいたしておりますよ。関白殿下のお渡りにともなわれて、お摩阿も十三日に大坂から引き移ってまいりましたが、ご存知の嬰児《ねんねえ》ゆえ、かえってひとしおご不憫が加わりますのか、聚楽第の中でもことに善美を尽したご天守に居室を与えられ、はた目にすらのびのびと、屈託なげにくらしております。いずれお暇の折にでも訪《と》うてつかわしてくださりませ」
「天守とは、あの高楼のことでござりますか?」
と見あげる視線を、前田夫妻も目で追いながら、
「はい。娘め、高みの見物としゃれこんで、日ごと親どもを見おろしています」
おどけ口調で言った。
なるほど天守は、前田邸の斜めうしろに、ひときわ艶《あで》やかな姿をそそり立たせている。
勾欄《こうらん》に出ればおたがいに、顔を見交すこともあるいは可能かと思える近さであった。
「さようでござりますか。摩阿姫さまは、あのご天守に……」
ひとごとならぬ安堵をふと語気に滲《にじ》ませて、|とも《ヽヽ》も微笑した。ささやかながら弟秀吉の、前田夫妻への心くばりをお摩阿の処遇に感じ取って、|とも《ヽヽ》は気持がなごんだのである。
父の領国にちなんでか、近ごろ『加賀殿』と呼ばれはじめている摩阿姫が、いたいけな少女の身で秀吉の閨《ねや》にはべらされてから、はやくも三年の歳月が経過している。
織田家の宿将であったころ、すでに越前を領有して近隣に武威を張っていた利家は、秀吉が北ノ庄に柴田勝家を攻めたとき、
「さて、お摩阿をどうするか?」
戦国武将ならだれもが生涯に一度や二度、かならず逢着するであろう悩みにぶつかって、奥方のお松ともども頭をかかえこんだ。
柴田勝家は利家の僚友だった。できれば援軍を差し立て、協力して秀吉に当りたいところだ。しかし慧敏な利家には先が読めていた。前田家の延命を計るならば、このさい、柴田に与《くみ》してはまずい……。だが、勝家の手許には三女のお摩阿を送り込んである。人質とは、双方ともが言ってはいない。
「佐久間一族に、末たのもしい若ざむらいがおる。わしの甥だが、伜にもまして目をかけてやっている十蔵という男……。これに摩阿姫をめあわせたい。くれぬか利家どの」
と勝家は申し出、
「よかろう」
承知して、利家も娘を北ノ庄へ旅立たせたのだから、表向きは輿入れであった。でも、両者が手切れとなれば、佐久間十蔵の妻であるよりは、敵対国からの人質としての暗影が、お摩阿の運命に濃くきざしはじめる。政略結婚には附きものの、当然な帰結であり破綻であった。
「やむをえぬ。娘を一人、捨て殺しにしよう」
涙をふるって利家は決断した。やはり二者択一を迫られれば、人の子の親であるより先に、彼もまた、非情な素顔をむき出しにする乱世の武人だったのである。
お松の観測は利家にくらべると、しかしはるかに希望的だった。禅学にしたしんでいる彼女は、女ながらなかなか肚のすわった女丈夫だし、肥満体にありがちな楽天性の持ちぬしでもあったから、
「むざむざ摩阿を死なせはしません。打つ手はぬけめなく打ってあります」
|ぶ《ヽ》厚い胸を叩いて受け合われると、利家ならずとも何となく安心感に満たされる。
「それはたのもしい。どのような手だな?」
「乳母の|あちゃこ《ヽヽヽヽ》を附けてやりました。あれは人いちばい心きく女……。万一の際は身に代えても、姫を助け出すと申しています。よもやしくじりはいたしますまい」
その通りだった。賤《しず》ガ嶽《たけ》の合戦で、柴田勝家の甥の一人であり佐久間家の総帥でもあった玄蕃允《げんばのじよう》盛政が敗れると、ひきつづいて勝家の軍も総崩れの悲境におちいり、なだれを打って北ノ庄の本城に逃げこんだ。
これまでのよしみから一応、越前|武生《たけふ》の府中城を守備し、柴田側に味方すると見せていた前田利家を、勝家追撃の怱忙《そうぼう》さいちゅう、秀吉は説得して自陣にひき入れ、そのまま進んで北ノ庄を制圧。勝家と後添えの妻お市御寮人を、落城の炎の中に自殺せしめたが、十五歳の若武者だった佐久間十蔵も、このとき果敢にたたかって討死をとげた。
どさくさにまぎれて、|あちゃこ《ヽヽヽヽ》は無事お摩阿を脱出させ、府中城につれもどしたけれども、ほっとしたのも束の間だった。北ノ庄からの帰路、城に立ち寄った秀吉がお摩阿の可憐さに目をつけ、
「くれぬか? わしに……」
ぬけぬけ所望したのだ。形だけでも緒戦で抵抗のそぶりを見せたおぬし、娘の身体で罪科を帳消しにしてやろうとの恫喝が、言外にこめられている。その程度の代償は利家も覚悟していたから、
「ごらんの通りの幼なさ……。いましばらく親の膝下に置いてのち、熨斗《のし》を附けてお贈りいたそう」
条件つきで承諾した。
摩阿はこのとき十二……。満でかぞえれば十歳とすこしの少女である。それでも佐久間十蔵と夫婦の契りは結ばさせられていた。母のお松が従兄に当る利家と結婚したのも、十二歳の春だったから、かくべつお摩阿一人が早すぎたわけではないが、体格が段ちがいに母より劣り、女としての成熟度も見るからに低そうな、骨の細い|ひ《ヽ》弱げな育ちなのであった。
もっとも、似ないのも当然で、お摩阿はお松の所生ではない。利家が侍女の一人に手を附けて生ませた庶子である。難産のあげく侍女が死んだため、襁褓《むつき》の内からお松が手塩にかけて成人させた。しぜん情が移って、愛着の質は実子たちに抱くものとまったく変らない。
咲けば美しい花ではあっても、まだまだ香りが薄く、蕾《つぼみ》も固い身体に、娘がむりやり佐久間十蔵を受け入れさせられ、しかもようようなじみかけたその若い夫にすら先立たれて、ふさぎこんでいるのを見ると、お松は哀れさに胸が塞った。|あちゃこ《ヽヽヽヽ》に訊けば、十蔵は容姿|凛々《りり》しい青年武将であったという。ひきかえて秀吉は、そろそろ五十に近い。十二歳の少女の求婚者としては、猿に似て皺深いその老醜ぶりが、なんとも浅ましく不釣り合いですらあった。
「二、三年先にのばしてほしい」
との要望は、お松や|あちゃこ《ヽヽヽヽ》ら女たちが利家を突ついた結果である。
「よいとも。待つわさ」
寛容さを誇示するつもりだろう、秀吉はあっさりうなずいたばかりか、利家の本領を安堵し、加賀の石川、河北二郡を婿引手《むこひきで》代りに宛て行って、そのときは鷹揚《おうよう》に引きあげた。
これを機に、利家は本拠を金沢に移し、お松やお摩阿もともなわれて府中を去ったのだが、翌々年、天正十三年|閏《うるう》八月、佐々《さつさ》成政を越中に攻めて凱陣する道すがら、
「また来たぞ利家どの」
金沢城へ現れたときは、秀吉の欲求に容赦はなかった。
「ぜがひでも今度は貰い受ける」
と言い切り、拉《らつ》し去る強引さでお摩阿を大坂へつれて行ってしまったのである。
十四になっていた。側室の一人に加えられても、もはや年からすればおかしくはない。身体の稚さはしかし、相変らずだし、手荒に扱うとこわれてしまいかねない華奢《きやしや》な手足は蜻蛉《かげろう》に似て、血管が青く透けて見えるほど肌なども薄い。人形じみたその顔には、先夫の仇敵《かたき》に身をまかせながら喜怒が泛かばず、寡黙なせいもあって何を考えているのか、お摩阿の内奥が一向に掴めないのも謎めいていた。おとなしいくせに底冷たく、素直に見えながら強情なのだ。いっそ、それを興がって、
「頭が痛む」
と、ふさぎこめば、医者よ、薬よと機嫌をとり、
「京見物したい」
といえば供廻りにまで気をくばって、言うなりに秀吉が出してやるのも、つまり父である利家の実力を憚《はばか》ってのことなのだが、
「関白殿下のご消息でございますよ」
いつであったか、|あちゃこ《ヽヽヽヽ》に見せられた手紙からも、お松にはお摩阿の、陰気なわがままぶりと、舌打ちしながらもそれを許容せざるをえない秀吉の、苦笑いが髣髴《ほうふつ》するのだ。
[#2字下げ]一日は義理の文、給いて候。さだめて京中見物に隙《ひま》入り候についてと、思し召し候えば、恨みとも存じ申さず候。
よほどそっけない、通りいっぺんな京着の報告を、それも|あちゃこ《ヽヽヽヽ》の代筆で出したのだろう。宛名は『まあめの』とある。
「お摩阿の乳母《めのと》」の意味だが、『義理の文』のひとことに、秀吉の失望が集約されているし、「さだめてそれも、京見物に夢中でひまがないためだろうから、恨みとは思うまい」との書きざまにも、孫と祖父ほどの年の開きに、さすがにこだわらずにいられない男の側の、照れと皮肉がちらついている。
「どうしているか、あの子は……」
とは、手離して以来しばしば前田夫妻の口に交された懸念だった。ここへきて急速に、秀吉の側妾はふえつつある。娘を犠牲《にえ》にしたとは思いたくない。見染められ、懇望されて与えたと解釈するほうが、お摩阿自身のためにも救いにちがいなかろうけれど、後宮の数に加わった上は、やはり負けさせてはならぬとする親ごころも、夫妻の真情の一面なのだ。
聚楽第の郭内に居館が建ち、娘とも自由に逢えるようになったのを、利家とお松はよろこんだ。お摩阿にあてがわれた豪奢な私室が、いわば聚楽第の威風の象徴ともいってよい天守の二層目に位置していたことにも、秀吉の、彼女への寵愛の深さを見る思いで、ともあれ夫妻は満足したのであった。
十六歳に達して、お摩阿の美貌にはやっとどうやら、柔軟なふくらみと匂いが添いはじめた。女らしい羞いや表情の変化にはあいかわらず乏しく、無口ももとのままな、活気に欠けた娘ではあるけれど、雪国育ちの肌の白さがほんのりと輝きを帯びて、開花期の絢爛《けんらん》にさしかかった風情である。
父親の目でそれを眺めるとき、利家の心情は人知れぬ苦渋に揺らぐ。血族すら知らぬ秘奥へ分け入って、肉体の内部から娘を変えようとしている男。掌中の珠とも思うお摩阿を、夜ごとほしいままに弄ぶ手……。それを秀吉のものと思うことは耐えがたかった。佐久間十蔵には感じなかった不潔感が、自身に加えられた汚辱ででもあるかのように利家を総毛立たせるのだ。
「犬千代どの」
「猿どの」
と気やすく呼び合い、織田家の侍長屋を行き来して、浅野家の養い娘お寧々《ねね》を藤吉郎がめとるとき、頼まれ仲人まで引き受けさせられた若き日、その藤吉郎の寝所に愛娘《まなむすめ》を捧げるなどという未来を、利家は夢想もしなかった。
(だが、現実はそうなった。眼前の勝負はついたのだ)
力の論理──。なによりはそれが優先する乱世に、かなわぬ抵抗をこころみる愚も、利家は知りつくしている。
「寄って、ひと休みしてゆかれませぬか」
と、小一郎秀長の到着を迎えて、わざわざ声をかけたのは、そうは言っても秀長の人となりに、兄秀吉に見るような思い上り、俄《にわか》権力者の恣意《しい》の卑しさが認められないからだった。
(この人は天性の徳人だ。同じ土民の出身でも、関白どのとは人間の質がちがう)
そう、つねづね評価していたし、秀長の側も利家を信頼していた。年甲斐もないお摩阿への、強面《こわもて》な求愛を、当の兄になり代って心中、愧《は》じてもいたのである。
「お気持はありがたいが……」
したしみをこめて彼は言った。
「母者が焦《じ》れきっておられるはずです。ひとまず対面をすませてから、ゆっくり久闊を叙しに伺いましょう。なあ、姉上」
同意を求められて、
「あすにでも、改めてまた……」
丁重に、|とも《ヽヽ》も誘いをことわった。
四脚門をくぐると敷石の奥に、本丸の玄関雨落ちがひろびろと展《ひら》け、出迎えの近習、小者らの跪坐する姿が眺められた。
岩やこわ、ごさ、レンなど大政所、北政所附きの侍女たちまで十人あまり、式台に笑顔を並べている。郡山からの一行は、
「さ、さ、みなさま首をながくして、お入《い》りをお待ちでございます」
たちまち大仰な嬌声に押し包まれ、流れに運ばれる浮き花さながら奥へ奥へみちびかれた。
あたりに目をとめるいとまもないが、行きずりのあわただしさで瞥見しただけでも、花鳥を描いた金襖《きんぶすま》、ひと枠ごとに極彩色の文様をほどこした組上げ格天井《ごうてんじよう》など、内部の細工の美々しさは外観からの想像をさらにはるかに上回っていた。
勾配ゆるやかな反り橋を渡り、大政所の起居する別殿にかかると、だが様相はいかにも地味な、質朴な造りに一変した。いかめしい瓦や檜皮《ひわだ》を避け、わざと屋根屋根を茅《かや》で葺《ふ》きあげた個所さえある。
「あのあたりが、大政所さまのお居間です」
と鍵の手に曲る廊下の一方から、お岩に指さされた|ひと《ヽヽ》棟は、土庇《どびさし》が深々と秋の陽をさえぎって、その下に張り出した涼しげな、広い、露台めいた拭き板敷など、民家そのままな皮付きの黒木なのであった。
「落ちつきますな」
弟のささやきに、心からな同意をしめして、
「ほんに、ここへ来て何やらほっとしました」
|とも《ヽヽ》もうなずいた。
奇岩奇石、泉水築山の人工を排し、庭もこの一画ばかりはごく自然なまま萩、芒《すすき》の草むらを残してある。おそらくもとから、あたりを潤おして環流していたであろう野川が生かされ、さらさらと軽やかな水音を立てているのもこころよい。
聚楽第の造営には茶頭《ちやがしら》の千宗易が参画した。ここら一帯は宗易が、農婦ぐらしのながかった大政所|なか《ヽヽ》の意向を汲み、好みというよりはもっと根深い、その生きざまの本来の波長に、彼もまた共感しながら造りあげたものではあるまいかと、|とも《ヽヽ》は推量した。
宗易の、老母への心づかいのこまやかさ、温かさが|とも《ヽヽ》はうれしい。
──大政所は待ちかねていた。
「おう小一郎、|とも《ヽヽ》もよう来た。三吉までが一緒とは、こりゃにわかに賑やかになったぞ」
ほくほく喜んで、
「弥介どのは達者かの? 持病の腰痛が治らぬとやら聞いたが、灸《やいと》は据えておるのか?」
と、まず|とも《ヽヽ》に、つれあいの三好吉房の近況を訊く。祖母の片脇には、これも|とも《ヽヽ》の伜の小吉秀勝が侍坐してい、ひさしぶりに顔を合わせた弟に、隻眼をじっと当てていた。
「三吉も小吉も、何をじろじろ睨み合うておるのじゃ。岩やレンが、朝から大さわぎして煎《い》りあげた青|海苔《のり》まぶしの真盛豆《しんせいまめ》、食わぬか二人とも……。そうそう、アルヘトとやらコンペトとやら、珍妙な名の南蛮菓子もあったはず……岩よ、ギヤマンの入れ物ごと持って来やれ」
と大政所はひとり、気を揉むけれども、今年十九になる小吉秀勝にすれば、十も年下の弟につき合って、いまさら独楽《こま》回しなどする気はないのだろう。生みの母や郡山の叔父にも不器用な、通りいっぺんの辞儀をしたきり、ぎごちなく押し黙ったままでいる。
幼時、長兄の孫七郎秀次に片眼を潰されて以来、不具の|ひけめ《ヽヽヽ》を鬱積させて、気むずかしい自己中心的な若者に育ってしまった秀勝である。秀吉の養子に迎えられ、順当にさえゆけば将来、天下人の座を約束されながら、だれもが渇望して得がたい幸運に、さして感謝するけぶりも見せない。
こちらは臆面なく、高坏《たかつき》の真盛豆に手を出して、ボリボリ歯の音を立てはじめた三吉秀保に、それでも不承不承、
「自慢の花筐に乗って来たのか?」
秀勝は声を投げた。
「そうさ。もう早馳けだってできるよ」
「青毛《あお》なんて、にやけている。おれのは黒の二歳駒……。夜鴉《よがらす》というんだぞ」
「見たいな」
「厩《うまや》へこい」
のっそり立って出てゆくのにかまわず、
「寧々《ねね》どの、大坂からのお引き移りで何やかや、さぞご心労でござったろう」
大政所とは直角に、やや下座《げざ》にさがって坐っている北政所を、|とも《ヽヽ》がねぎらったのは、弟の嫁というよりやはり相手の、天下さまの妻≠ネる地位に、敬意を払ったからである。
「いいえ、一向に気疲れなどいたしません。囲りの者たちが万事、よいようにやってくれましたから……」
それは、そうに決まっている。関白の正室みずから、引越しの采配など振るはずはないが、それにしろ応答の、愛想のなさはどうだろう。喧嘩腰の切り口上とも、取れば取れると、|とも《ヽヽ》は呆れる。別に義姉に、悪意を抱いているわけではない。これが寧々の、口調の癖なのだ。
小男の秀吉に似つかわしく寧々も痩せぎすな、身丈の小さい女だった。あさぐろく引き緊った小粒な顔に、小刀で刻みでもしたようにキュッと筋の通った鼻、薄い、一文字の唇、機敏にうごく双の眼がはめこまれ、これといって難はどこにも見出せない。そのくせ美人の範疇《はんちゆう》から遠いのは、癇《かん》の強そうな早口、勝気をむき出しにした挙措動作の、ゆとりのなさ、鋭さが、どこか夜行性の小動物めいた油断ならぬ印象を、対する側に与えるからだろう。
若いころは、それも一つの魅力となった。働き者の旺盛な活気を、きびきび振りまく小気味のよい女房だったが、動きを抑制せねばならぬ貴婦人ぐらしには、活力や回転のはやすぎる頭は、むしろ邪魔なのである。
欠落している教養面への、死もの狂いな背伸びの裏で、蓋をされた本来の野性は、とげとげしい苛立《いらだ》ちに変った。
(これでは藤吉郎も頭があがるまい。まして足軽のころからの、糟糠《そうこう》の妻とあってはな)
辟易のおももちで義妹の相貌を、つくづく|とも《ヽヽ》が見まもったとき、
「いゃあ、揃ったな」
先触れの小姓も追いつけぬせわしなさで、秀吉がせかせか入って来た。
姉と言い弟とは言っても、おたがいの身分が身分だし、住みどころも距《へだた》っている。まして気軽には出歩けない女の身の|とも《ヽヽ》が、秀吉に会うのは二年ぶりだった。
しかし顔をあわせればどちらからともなく、
「姉者、ずいぶんと白髪がふえたな」
「こなたこそ、その歯はどうしたものじゃ」
挨拶ぬきに声を掛け合って、それがしぜん、挨拶がわりになるのが肉親の狎《な》れというものだろう。
「この歯か」
薄い唇の端に、てれかくしの微苦笑を泛《う》かべながら、さも当然といわぬばかりな大風《おおふう》な態度で、侍女たちが手早くしつらえた上座の褥《しとね》へ、母親への会釈もなく、ドカと秀吉は胡坐《あぐら》をかいた。
「見ればわかろうが……。お歯黒だよ」
「ああ、鉄漿《かね》をつけたのか」
そうらしいとは|とも《ヽヽ》も思ったが、ところどころ汚らしく剥げかけているため、歯を欠きでもしたか、それとも齲《むしく》い歯かと一瞬、錯覚したのであった。
「ほら、ごらんなさい、義姉《ねえ》さまだって目をまるくしていらっしゃる。公卿衆の真似などみっともないと、あれほどとめたでしょう」
寧々の非難を、
「何度、言って聞かせたらわかるのだ。おれは関白殿下。堂上の、最高位にある雲上人だぞ。公卿が、公卿のする化粧を顔にほどこして、どこがわるい。どこが真似だ」
秀吉は理詰めに封じようとする。
「いいえ、あなたは武将ですよ」
と、寧々はしかし負けていない。
「聞いてください義姉《ねえ》さま。よい年をして近ごろ急に、めかしこみはじめましてね。九州征伐のさいのいでたちなど、お見せしとうございましたわ」
開き直る言い方で、|とも《ヽヽ》を相手にまくし立てた。
「赤地|錦《にしき》の直垂《ひたたれ》に緋《ひ》おどしの鎧、鍬形《くわがた》打った兜。馬印はご承知の通り金の千成|瓢箪《びようたん》でしょ。まっかっかの金きらきん。しかも膠《にかわ》で、顎に附け髭まで貼りつけましてね、先っぽを油でピンと尖らかしてのご出陣ですの。長袖まがいのお歯黒も、そのときから始めたのですよ」
真顔の寧々にわるいとは思いながらも、|とも《ヽヽ》はこらえ切れずに笑いこけ、
「まあ、よいわさ。五十をすぎればだれでも歯は悪うなる。鉄漿でごまかすのもやむをえまい。見のがしてやりなされ嫁女」
大政所もおどけ顔で取りなした。母や姉の笑い声には他意がない。ひとり、寧々の口調にだけ夫を刺すような、冷侮の気配がにじむのは、派手やかな軍装につづいて幾挺も、側女《そばめ》たちを乗せた輿が供をしてくだっていったからだった。
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わが子ひとの子
正室という立場の重みゆえに、大坂城に留守しなければならなかった寧々が、しかも一行の凱旋後、お節介なだれかれの告げ口で知ったのは、同行させた側女だけでも足らずに、秀吉が出陣先でまで土地土地の女を漁ったという事実である。予想外に島津氏の抵抗がもろかったせいもあり、たたかいは蜂須賀、毛利、黒田の大軍をひきいて豊後《ぶんご》から日向《ひゆうが》へと進み、根白坂の一戦でついに島津勢に致命的な打撃を与えた小一郎秀長の、主力部隊にほとんど委せきって、秀吉自身はあわてずさわがず肥後路を南下──。薩摩の出水《いずみ》に入り、そのまま鹿児島とは目と鼻の先の泰平寺に本陣を据えた。
抗戦の無意味をさとり、この時点で島津家の総帥義久は剃髪|染衣《ぜんえ》し、名を竜伯と改めて降人に出ている。
秀吉は義久はじめ島津氏一門の罪を許して大隅、薩摩、日向の領有を認め、九州の平定を天下に宣してのち帰路についたのだが、筑前の筥崎《はこざき》までもどって以後、十日余りも一つ場所を動かず、神谷宗湛ら茶匠豪商を呼びつけて茶の湯を催したり、博多の復興を命じたりしてぐずぐず日かずを延ばした。その裏には、それなりの意図があったからだと、告げ口する者たちは言うのである。
「美女狩りでござりますよ、政所《まんどころ》さま」
「美女狩り?」
「はい、医者坊主の施薬院全宗」
「おお、あの男が……」
「もっぱら関白さまのご内意を承り、みめよい娘どもを五人十人、あちこちから狩り立ててはご陣所の、筥崎八幡までつれてまいった模様で……」
神域は、つまり夜ごと、戦勝気分も手伝っての酒池肉林と化したらしい。滞陣中、ポルトガル船で来航したイエズス会の準管区長クエリヨを引見し、博多での、天守堂の建設をこころよく許したばかりか、その船に案内され、博多港内を巡航してたのしみさえした秀吉が、十日もたたぬうちにいきなり手の裏返して、キリシタン宗門の布教、入信を禁じさせたのも、彼らに言わせれば、
「大村、有馬など、わけて美人の多い土地柄なのに、キリスト教の貞潔の教えが徹底しているためか、脅してもすかしても教義を楯に、娘どもが召しに応じようといたしませぬ。それに腹を立てられて、上さまは禁教令を発せられたわけでござりますよ」
と言うことになる。
人間、だれしも煩悩《ぼんのう》の子だ。秀吉は特に色欲にかけては、妻ひとりをすら扱いかねている秀長あたりから見ると、同根の兄弟とは到底思えぬほど旺盛な好奇心をいまなお持続している男だった。解放されるのか、戦陣ではなおさら羽目がはずれ気味にすらなる。
しかし、だからといって美女狩り不首尾の八ツ当りが、キリシタンの禁令に短絡したなどとは、いくらなんでも秀長には考えられない。
ながいあいだ帷幄《いあく》にあって、兄の覇業の道程を見つづけ、ことにもこんどの九州討伐では、一心同体といってよい働きぶりで戦況を有利に導いた秀長である。対キリシタン政策の変化に伴う秀吉の、心情の推移は、彼なりに理解しているつもりであった。
旧主君信長のやり口を引きついで、秀吉はキリスト教に寛大だったが、一方、仏教徒にも高圧的には臨まなかった。南都北嶺、一向一揆の勢力の強大さに、既成の権威を叩きつぶす意気ごみで立ち向かった信長にくらべると、かえって秀吉のほうが、打算的だし老獪《ろうかい》だともいえる。
小牧・長久手のたたかいで敗色を囁かれたとき、秀吉は比叡山延暦寺の僧たちに、
「かねて願い出ていた根本《こんぽん》中堂の再建を、このさい許可してやるゆえ、引きかえに我がほうの、大勝利を鋭意、祈祷せよ」
と臆面もなく命じているし、近くは九州攻めに、一向宗門徒の兵力を思うさま活用して秀長をおどろかした。仏教を、害あって益なき過去の亡霊と見て斬り捨てにかかった信長にくらべると、秀吉の側はまだまだ充分、その利用価値を心得ていたのだといえる。
むしろ秀長の見るところ、秀吉は九州の征野で、キリスト教の浸透を野放しにしておく弊害のほうにこそ、目を向けたようだ。ちょうど去年の春、キリシタン大名の大友宗麟が、
「島津氏の豊後侵略、目に余るものがござります。なにとぞ援軍をお差し向けください」
と乞うてきて、それが九州出兵のきっかけとも口実ともなったわけだが、同じころ、やはり大坂にガスパル・コエリュの一行が来合わせていたのを、秀長は思い出す。
これもキリシタン大名の高山右近が、宗麟ともども斡旋の労をとり、コエリュを城中につれて来たとき、こころよく引見して、
「日本を平定したこのわしを、天下人と人は言う。だがな、わしの意図する天下とは、日本一国などという小っぽけなものではないぞ。本朝、唐《から》、天竺《てんじく》、朝鮮はもとより南蛮までをふくめた広大なものだ」
秀吉は言ってのけた。
座興か、と取った秀長は、大まじめな兄の顔に思わず息を呑んだ。戦乱の収拾が終ったあと、荒れはてた山河に緑をよみがえらせ、疲弊した民のくらしを豊かにするなど国内の立ち直りに意をそそぐ型と、飽くなく攻撃の対象を求めつづけて、貪婪《どんらん》な鷲さながら侵略の目を外へ向ける型の二つが、覇者にはある。
(兄は、後者か!)
そう知った瞬間、秀長の空想の中にきれぎれに明滅したのは、波濤を蹴立てて進む軍船団、酷吏の鞭の下に税物の稲束を運ぶ自国の百姓、兵馬の蹄《ひづめ》に追われて逃げまどうどことも知れぬ異国の民衆の姿だった。きわだって最近、脈絡を欠きはじめた諸計画の実施に、誇大妄想狂的な自負と野望が加わると、どうなるか? 結果の重大さは目に見えていた。
ルイス・フロイスが、このとき通詞をつとめていたが、なめらかに動くその唇を介して秀吉の抱負が語られたとたん、コエリュらも唖然とした表情を隠さなかった。しかし大唐国や天竺、南蛮国を手の内に収めたら、いたるところに天守堂を建てさせ、異国人ことごとくを予の威光をもって、キリシタン宗に改宗させてやるぞなどと言われると、話はんぶん、いや百分の一、千分の一と内心はみくびっても、表情は大げさに、
「殿下ならそれは可能でございます。神のご加護もかならずやあるはずです」
両腕を拡げ、十字を切る仕草までして感謝した。そのころには日本国民も、九分九厘キリシタンに帰依しているに相違ない、なんじら専一に、これからも宣教に励めとまで言ったはずの秀吉が、九州陣のさなか唐突に、キリスト教を邪法視し、禁令を発する心境に追いこまれたのは、有馬晴信、大村純忠、大友宗麟らキリシタン大名の領国で、ほしいままに仏教寺院が破却され、僧侶の迫害、領民への入信強制がおこなわれているのを知ったからにほかならない。
「従わぬ日本人をくくしあげ、バーデレどもは紅毛の国に運んで、奴隷として売りとばすそうでございます」
とは、仏僧らによる事実無根な中傷としても、げんに大村領、有馬領などで、秀吉自身の布告した法度《はつと》が守られず、それに優先してキリシタンの法が信奉されているのを見ては、心おだやかでいられなかった。ことにも秀吉を激昂させたのは、
「長崎が、すでにポルトガル領となっております」
との通報である。
「たわけたことを申すな。このわしが関知もせぬまに、いつ、そのような……」
「軍資金をポルトガルより借り入れるさい、大村純忠どのが担保としてかの地を渡したもので、商人は長崎を交易の、バーデレどもは布教のための、それぞれ基地として使うつもりのようでございます」
「けしからぬ。たかが一国郡の、給人《きゆうにん》にすぎぬ純忠ごときに、そのような権限をだれが許したかッ」
放置しておけば先例として見習われ、第二第三第四第五の長崎が生じかねない。異国人に、ついには国土を乗っ取られてしまうであろうとの驚愕が、抜き打ちの禁令となって具体化しただけの話で、
(美女狩りの失敗の、とばっちりなどであるものか)
と秀長は心中、嗤ったが、やすやす人の告げ口を信じ、しかもいったん信じたら嫉妬の心炎にそれを結びつけて、考えをほかに拡げようとしないお寧々の、見解の狭さ、|頑 《かたくな》さを、
(やはり女……)
困ったものだとも嘆じていた。
美女狩りの噂は、火のない所に立った煙ではない。筥崎滞在中、給仕女の名目で町家から娘を差し出させ、かくべつ縹緻《きりよう》のよい三、四人に、秀吉が手をつけたらしいとは秀長も聞いている。しかしこの程度の狼藉は戦陣にはありがちなことで、秀吉にかぎった逸脱ではなかった。
(美女狩りより、いま兄者の頭の中に渦巻いているのは、刀狩りの構想だろう)
乱世の乱脈の中で、いやがる百姓の手にまでむりやり掴ませ、戦力に仕立てあげた刀槍──。天下掌握が成った今、それはすでに邪魔であり、文字通り無用の長物だった。さかさまに刃《やいば》を擬して、百姓たちが蜂起してからでは遅い。権力の座をおびやかす獲物はもぎ放させてでも取りあげて、鋤鍬《すきくわ》だけになじんだ土民本来の姿に引きもどさねばならぬ……。
「それと、検地だ。本主《ほんしゆ》の没落をよいことに、勝手気ままに百姓どもがかすめ取り、拓《ひろ》げこんだ隠し田……。検見《けみ》を厳重にし戸籍をととのえて、年貢の増収、軍役|夫役《ぶやく》の増強をはかろうと思う。石田佐吉にも、まず検地の基準尺をきめろと申しつけておいた。小一郎、相談に乗ってやれ」
とも筥崎の陣中で、秀長は兄に言われている。石田佐吉三成は経理にあかるい。これからますます、営中に必要な人材として、秀吉に重用されるであろう子飼いからの能吏である。
「はい」
おとなしく、そのとき秀長はうなずきはしたけれども、隣国への侵略にしろ検地、刀狩りの実施、キリスト教の禁令にしろが、慎重に勘考されたあげくの発言なのか、衝動的な思いつきの延長か、けじめがつきかねるところに言いしれぬ不安があった。正常な思考に入り混って、脳の病変から発した無埒《むらち》なたわごと、横紙破り、感情にまかせての激語としか受けとれぬ言葉が、近年とみに、秀吉の発言の中で増えてきつつある。
いったんの怒りに駆られて、
「即刻、バテレン坊主どもを国外に追い払え。キリシタン宗を信ずるやつばらは棄教させろ」
猛《たけ》ったが、
「商人も同様でしょうか。彼らは天守教の門徒だし、キリシタン国との交易までを禁止すれば、銃砲や弾薬《たまぐすり》はもとより、葡萄《ぶどう》の酒、ルソンの壺、捲きネジ一つで時を告げる正確な南蛮時計、ラシャやビロードのような品々も輸入できなくなります」
と秀長に言われれば、とたんにけろッと、
「そりゃ困る」
妥協案を口にするとりとめなさ、現金さなのだ。
「黒船商売の儀は、別立てでゆくことにしよう。つまり、商人の往来は、従前通りというわけだよ」
贅沢に馴らされた日常に、いまや新しい皮膚さながら貼りついて、欠くことができなくなってしまった珍奇で便利な舶載品……。それへの執着にひきずられて、キリシタン宗を奉じる商人どもの入港を認め、キリシタン国との交易を許せば、けっくは禁教の布令までが、竜頭蛇尾に終るはずである。
怒るにまかせて放置したり、無責任に迎合して煽ったりすれば、あべこべに火はとめどなく燃えさかって、たとえば棄教をこばむ信徒、国外退去の命令にさからう宣教師らに、どれほどむごたらしい拷問、刑罰の嵐が襲いかかるか、はかり知れなくなる。兄の内部にひそむ残忍性……。怕い焔の伸び上りを、ともあれひとまず、手桶一杯の水にひとしい一言で秀長は鎮静させ、ひそかに胸を撫でおろした。
女ばかりの奥殿に生活し、穿鑿《せんさく》好きな耳目にとりかこまれて、夫の行動の何もかも、近ごろは女との関り合いにひっかけてしか解釈できなくなった寧々に、美女狩りも刀狩りもキリシタン狩りも、ごちゃまぜにして怒る滑稽さを説いたところではじまらない。
なまじ頭がよいだけに寧々は自信が強く、義弟の言うことになど、若いころから耳を傾ける性格ではなかった。独占欲が昂じると見さかいなくなり、思いきった行動に出て、秀吉をうろたえさせたことも一再ならずあった。機嫌の照り曇りの烈しさで、臣僚たちだれもが腫れ物にさわる思いでいた主君の信長に、夫の浮気を逐一ぶちまけ、
「どうか叱りつけてやってくださいまし」
膝詰めで直訴した一件などにも、
「なんとまあ、大胆な!」
その恐妻ぶりに、まわりじゅうが舌を巻いたものである。まだ秀吉が近江長浜の城主だったころの話だが、かえって信長は、こわいもの知らずなお寧々の猪突猛進ぶりを、興がったらしく、後日、土産物の礼状の端に、
[#2字下げ]藤吉郎、連々《れんれん》不足のむね申すのよし、言語道断、曲事《くせごと》に候か。何方《いずかた》を相尋ね候とも、それ様ほどのはまた再び彼《か》の禿鼠《はげねずみ》、相求め難き間、これより以後は身持ちを陽快になし、いかにも内儀《かみ》様なりに重々しく、悋気《りんき》などに立ち入り候ては然るべからず候。
と書いてきたのを、当の寧々に見せられて、秀長も読んだ記憶がある。
藤吉郎が、つべこべ女房の欠点をあげつらい、女漁りを正当化しようとするのはけしからぬ話だけれども、そなたもまた、正妻相応の貫禄を持つようこころがけ、これからは焼きもちなど、あまり焼きなさるなという誡《いまし》めであるのに、お寧々自身は、
「やっぱり上さまのお目は高い。わたしほどの女房をうちの禿鼠どの、二度と娶《めと》りはできまいとおっしゃってますよ小一郎どの」
都合のよい個所ばかりを拡大して誇ったものだ。
「ばかなやつだ。主君の前でまで亭主をこきおろして、それが何で女房の手柄になるものか。つまりはおたがいの恥、家の恥さらしなのに、そのへんの道理がわかっておらぬ」
と、にがりきったものの、内心、秀吉も寧々の向こう見ずに恐れをなしたらしい。もともと小者長屋のじぶんから首の根を抑えこまれていた古女房だし、苦楽を共にするあいだには、その内助におぶさってもきている。頭はあがらないし大の苦手だ。そのくせ寧々がいくら責めたてても、女好きの性癖を秀吉は矯《た》めようとはしなかった。
目を忍んでの行為が、いつしか大っぴらなものとなり、やがては矛《ほこ》を逆しまにしての居直りとなった。
「石女《うまずめ》と添っているんだ。子供ほしさに他の女に手を出すおれに、文句があるなら言ってみろ」
気性が勝っているだけに、この侮辱がどれほどこたえたかは、小一郎秀長にも、また|とも《ヽヽ》にも、我がこと以上に察しがつく。夫も妻も三十を越えながら、そのときまだ、子宝に恵まれない原因を、秀吉の側に押しつけることはできなかった。
長浜時代、彼は侍女の一人に手をつけて男女二人まで子を儲けている。近江の地侍の娘で、本名を|いつ《ヽヽ》といったその侍女は、たちまち子らの母にふさわしい待遇を受けて城中本丸の南棟に住居を与えられ、南殿《みなみどの》と尊称された。寧々が修羅の炎を燃やして信長にまで暴露したのは、じつはこの女の存在だったのである。
先に生まれた女児が、惜しくも誕生前に夭折したのに懲《こ》りて、
「石のように頑丈に、松の齢《よわい》の千年も生きよ。運勢はこの、秀吉に勝《まさ》れ」
との願いをこめて、石松丸秀勝と名づけた男の子は、しかしこれも七歳で亡くなり、かねがね病弱だった南殿までが、子らのあとを追うように他界してしまったとき、召使のあいだには、
「奥方さまに呪い殺されたのじゃ」
物騒な取り沙汰がささやかれた。じじつそんなことがあったとは、秀長も|とも《ヽヽ》も信じたくはないけれど、呪詛したと言われても訝《おか》しくはないほど当時の寧々の、母子に射向けた憎悪はすさまじかったのだ。
秀吉は悲しんだ。しかしまだまだそのころは、希望があった。|いつ《ヽヽ》をみごもらせたのだから、またかならず、側女のだれかに子を生ませることができる──そう楽観していたのである。
でも、なぜかこのあと、いくら女を替えてみても赤児誕生の奇蹟は訪れてこなかった。秀吉は主君に乞うて、その第四子|於次丸《おつぎまる》を猶子《ゆうし》に迎え、亡くなった実の子、石松丸をしのんでこれにも同名の『秀勝』を名乗らせた。本能寺の変後、二代目秀勝は丹波亀山の城主となり、賤ケ嶽、小牧・長久手役に加わって、血こそ他人だがいずれ秀吉の、たのもしい後嗣となるであろうと見られていたのに、つい二年前、天正十三年の師走十日に、十八歳の弱冠でこれも病歿してしまった。
|とも《ヽヽ》の伜の小吉が、叔父の膝下に引きとられたのは於次丸秀勝の歿後である。
「三代目を継げよ小吉」
そのとき十七になっていた甥に、秀吉は言った。どこまでも初代秀勝への愛着を捨てきれなかったのだろう。せめてつぎつぎに、養子たちに同じ名を名乗らせ、失った手の内の珠への回想を、絶えず、追憶の奥所《おくが》の中で、新しくしてゆきたかったにちがいない。
『三代目・秀勝』となりはしても、それですぐ、関白の跡目が継げるわけではなかった。
兄の孫七郎秀次も、羽柴姓を許されて近江二十万石を領し、八幡山城主となっている。しかも当然、年は上だし、小吉よりは秀次こそが、やがていずれは、叔父秀吉のあとを享けて天下に君臨するものと、世間の目は見ていた。
秀吉は腹の中で、
「どちらにせよ、わしの目がねにかなった器量人を……」
と、兄弟の出来を天秤にかけていたし、
「いやいや、まだ、わしはようやく五十を一つ越したばかり……。実子の誕生をあきらめるのは早い」
とも思うのか、未練がましく側室の数をふやしつづけ、嗣子を得るための大義名分に本来の好きごころまでを|すり《ヽヽ》替えて、
「石女の妻に、口出しの資格があろうか」
と言わんばかりな、居丈高な態度を崩さない。これでは、
(寧々どのとしても、たまるまい)
とは、|とも《ヽヽ》のひそかな同情であった。
子供らのうち二人までが、秀吉の養子となったことで、それでなくてさえ|とも《ヽヽ》は、義妹の思惑を憚《はばか》っている。
(ひがんではいまいか。憎んでは?)
と、その勝気を怖れるのだ。
お歯黒に絡《から》めての嫌味から、へたすればまた、いつもの尾張|訛《なま》り、生まれ育ちをむき出しにした喧《いさか》いにまで発展しかねなかった夫婦の応酬である。さいわい女|右筆《ゆうひつ》の幸蔵主《こうぞうず》が、
「できましたぞできましたぞ上さま」
持ち前の早口でわめきながら、ずかずか入ってきたおかげでそれは中断された。
何ができたというのか、小柄な法体が隠れるほどの奉書を、幸蔵主は両手に拡げている。衣に染みついた香の匂い、なま乾きの墨の薫りが、追い風に送られて爽やかに流れこんだ。
「おう、できたか? 見せい」
胡坐を組み直して、秀吉は身を乗り出す。
「仰せらるる通りに書きました。ごらんぜられませ」
と手の奉書を拡げながらも、せわしなく口は動いて、
「ようこそご入来《じゆらい》あそばしました郡山の殿さま、三好どのの奥方さま、お障りも無うて恐悦にぞんじます」
小一郎秀長や|とも《ヽヽ》への挨拶まで、ぬけめなくしてのける幸蔵主なのである。
畳の上に紙は置かれ、侍女たちが左右から端を抑える。秀吉の目が文字を追い、
「なになに、『北野の森に於て十月|朔日《さくじつ》より十日の間、天気次第、大茶湯《おおちやのゆ》あそばさるる御沙汰に附きて、御名物ども残らず相揃えられ、数奇《すき》執心の者に見せなさるべきため、御催しなさるる事』か。よし、よう書いたぞ尼前《あまぜ》」
声に出して、満足げに読みくだした。
「いよいよ細目のお触れ出しですな」
と、秀長も草稿を覗きこむ。
東山山麓の祇園八坂《ぎおんやさか》が、東のにぎわいの要とすれば、北野天神の境内は西の繁昌の中心地だった。
祭礼の日はむろんのこと、ふだんでも何かしら北野の森では、催し物を演じている。放下《ほうか》の簓摺《ささらず》り、蛇使い、曲技まがいの品玉高足《しなだまたかあし》、幸若や傀儡《くぐつ》廻し猿廻しなど猥雑な辻立ちの雑芸から、蓆《むしろ》囲いの掘建て舞台ではあっても、ともあれ小屋掛けしての歩き巫女《みこ》どもの|ややこ《ヽヽヽ》舞いまで、一年中、破《や》れ鼓《つづみ》、笛、太鼓の音律が流れていない日はない。
室町将軍のころから勧進猿楽はおりおり北野で張行《ちようこう》され、その伝統はいまもつづいて、素人ばかりの女房能、稚児《ちご》能、降誕祭の夜などは扮装をこらした門徒たちが禁令以前にはキリシタン能すらやってのけた。
見物の群衆目あてに茶売りが出、酒売りも出、夏は冷やし瓜、秋は焼き栗、粽《ちまき》や粟餅《あわもち》の担ぎ屋台までひしめいて、人々の羽根のばしに手を貸している遊興の場所なのである。
「貴賤老若、だれでもかまわん。日本中の茶好きを北野へ集め、大茶湯を催したいな」
とは、島津征伐にとりかかる前から秀吉が口にしていた肚づもりだが、凱旋すると早々にわかに計画が具体化して、おおまかな触れはすぐさま出された。
境内ではすでにもう、公卿や武将、寺々の僧侶、神官、豪商たちが打ち混って茶湯座敷の造作にとりかかっているはずである。秀長も一軒受け持たされ、茶の心得のある家臣らを先発させて、茅葺きの小庵をつくらせている。どこまではかどったか、図面通り仕上りそうか否かを検分するのも、こんどの上洛の主目的の一つであったのだ。
大茶湯などというものは、賭け茶、闘茶、茶寄り合いの流れを汲むそうぞうしい娯楽にすぎず、秀吉の場合も、しょせんは富に飽かして蒐集した名器名物の、ひけらかしがしたいわけで、黄金の茶室の自慢も、むろん、その中に入る。
官位の権威で身辺を飾りたがった秀吉は、従二位・内大臣に叙任された前後から禁中へも公卿衆へも金をばらまき、所領の安堵、加増、献金、仙洞御所の築造などでさかんにその歓心を買い出した。──とは言っても、がんらいが氏素性とて無い土民の子である。強引に、近衛|前久《さきひさ》の猶子となり、藤原姓を冒して従一位・関白の極階に登りつめてはみたものの、心理的な負い目からはのがれようがない。堂上まじわりが繁くなればなるほど、言動の粗野や学問のなさに向けられる陰湿な嘲笑の気配に、人しれず傷つく機会が多くなった。
大村|由己《ゆうこ》ら側近どもの口を介し、ほんのこぼれ話のさりげなさで秀吉が流したご落胤《らくいん》説は、かげ口ヘの、彼らしい抵抗だったといえる。名のつけざまからして絵|そら《ヽヽ》事じみた萩中納言≠ネる雲上人が、讒《ざん》に遭《あ》って尾張の国村雲の里に隠れ棲んだことがある。息女がすなわち我が母だが、若ざかりのころ宮中に仕え、やんごとなきお方のお手がついて身重のまま村雲の里にもどった。生まれたのが何をかくそうこの、わしであると言うのでは、いくら表現をぼかしたところで、
「天皇の子」
と明言したにひとしい。
二間《ふたま》しかないボロ家に寝起きし、夜の交わりだけを唯一の慰安にして、子供らの見る目をさえ、かくべつ憚らなかった典型的な貧農ぐらし……。どっぷり、それに漬かって育ったせいか、ときに組打ちかと思い誤った両親の、あられもない姿態、濃密な闇を、いっそう重く染めた呻きまでが、|とも《ヽヽ》の聴覚の襞《ひだ》に、いまだにこびりついて離れない。あげく妊娠し、井戸端で苦しげに嘔吐しながら、
「食い扶持は増えずに食いつぶす餓鬼ばかり増える。こんどこそ水にしちまおうか」
愚痴ったり迷ったりしていた|なか《ヽヽ》の言葉までが、珍しくもない生活苦の一部として記憶に灼きついているのだ。
小猿──藤吉郎秀吉が、そのようにして母の胎内に宿り、そのような環境の中で生み落とされたのを、したがってだれよりも、|とも《ヽヽ》は知っている。痩せこけた背に、これも痩せこけて軽い、癇《かん》の強い小猿をくくしつけられ、襁褓《しめし》を通して伝わってくる|なま温《ヽヽぬく》い尿《しと》の臭気を嗅ぎ嗅ぎ少女期をすごした彼女には、
「なんで弟が、帝《みかど》のお胤なものか」
呆れるよりも馬鹿らしい。
「見栄を張りたがる子ではあったよ。若いころからな」
にがりきって、|なか《ヽヽ》も言った。
「したが、外聞も見栄も事に依る。気がふれたのとちがうか、藤吉郎めは……」
誇大妄想の懸念を口にするあたり、親兄弟の反応は正常だったが、|とも《ヽヽ》が案外に思ったのは、このとき見せた寧々の素振りである。
日ごろの気性からすれば、
「へたな作り話はおやめなさい。みっともない!」
冷笑まじりの一言で情け容赦なく夫の口を封じるはずなのに、
「天皇の落とし胤《だね》かどうかはともかくとして、あの人、日吉《ひえ》山王の申し子であることはたしかなようだよ」
曖昧な、いかにも気をもたせるような小声で侍女たちに打ちあけたのだ。
「藤吉郎どのは天文六年|丁酉《ひのととり》の生まれということになっているけれど、ほんとうはその前の年、丙申《ひのえさる》の誕生なのだと……」
「おやまあ、お猿さんのお年ですか? 小猿のご幼名も、では……」
「そうなのだよ。猿に似ていたわけではない。織田右府さまもあの人を、禿鼠の仇名で呼んでおられた。母御が日吉山王に祈誓をこらし、日輪が体中に入ると夢みて藤吉郎どのを孕《はら》んだのだが、山王権現の使い姫はお猿だからね。小猿の名はご霊夢と、生まれ年の干支《えと》にちなんでつけられたものなのさ」
こじつけである。いずれ秀吉自身の口から出た奇瑞譚《きずいたん》ではあろうけれど、それを|ま《ヽ》に受けた顔で吹聴する寧々の心情には、やはり同様、土民あがりの者の女房づれとは思われたくないとする虚勢がひそむ。
「夫は常人ではない。神格を附与されて乱世を統一した神の申し子、そしてわたしは、神の子の妻なのだよ」
言外にそう、いくら匂わしてみたところで、秀吉が酉年生まれなのは動かしがたい事実だし、いすぎるほど証人もいる。顔貌や動作のすばしこさが、猿そっくりだったから小猿──。命名の由来も、しごく平凡な理由に拠るものなのだ。禿鼠とも、たまに信長は罵ったが、「猿」と呼ぶ時のほうがはるかに多かった。だれの目にも、それこそが納得できる自然な愛称だったのである。
百も承知でいながら、しかも夫の背伸びに、こんなときに限ってだけ、むりやりにでも歩調を合わせようとあがくお寧々が、|とも《ヽヽ》にはいささか浅ましい。
生来の勝気と、異常なまで恥辱に敏感な気質にわざわいされて、目が曇ったのかもしれないが、夫婦揃って虚妄の滑稽を演じれば演じるほど、かえって成り上りの卑小さがきわだつのを、まさか知らないお寧々ではあるまい。
「わしは生まれが生まれ、昔のくらしがくらしじゃで、読み書きがようできぬ。目を持ちながら明きめくらじゃ。そなたたち、助けてくだされや」
と、わるびれず侍女たちに言い言いして、書状の代筆からお伽草子の代読までいっさい委せきっている母大政所の肚の据え方が、むしろ|とも《ヽヽ》にはたじろぎのない、堂々としたものに受けとれる。
百姓弥介の時分から学問好きだった夫三好武蔵守吉房に手ほどきされて、|とも《ヽヽ》自身は手紙ぐらい、書きもし、読めもするけれど、少しむずかしい字になるとやはり手も足も出なくなってしまう。
「しかたがない。一合の器には、一合の水しか入らぬ道理じゃもの……」
大政所にもお寧々にも、そのおしゃべりの他愛なさ剽軽《ひようきん》さを愛されて、重宝に使われている女右筆の幸蔵主が、だから大茶湯の触れ書きなどを達筆にしたためてきたりすると、
(たいしたものじゃ)
ひきくらべて、おのれの字の拙《つたな》さを恥じはするが、羞恥の質は、秀吉夫妻の内蔵するものとはちがっていた。
「ええと次に……『茶湯執心に於てはまた、若党、町人、百姓によらず釜一つ釣瓶《つるべ》一つ呑物一つ、茶なき者は焦しにしても苦しからず候あいだ、提《さ》げ来り仕るべき事。座敷の儀は、松原にて候あいだ畳二枚、ただし侘者《わびもの》は、とち付にても稲掃蓆《いなはき》にても苦しかるまじき事』か。うん、よしよし」
秀吉は声に出して読み続け、
「日本の儀は申すに及ばず、数奇、心懸けこれある者は、唐国の者までも罷《まか》り出づべきこと」
とある個所では、
「天竺人、南蛮人も書き加えようか小一郎」
秀長に、真顔で議《はか》った。
「紅毛碧眼の輩《やから》には、茶の心得を持つ者などおりますまい。唐国人とだけ触れ出されても、ご威勢の広大は徹底するはずでしょう」
それもそうだとうなずきながら、
「肝心なのはここだぞ」
さらに一段と秀吉は声をはりあげた。
「かくの如く仰せ出《い》ださるるは、侘者不憫に思し召す儀に候あいだ、このたび罷り出でざれば、向後に於て焦しをも点《た》て候こと無用との、ご意見にて候。罷りいでざる者へ参り候者も、同然たるべきこと」
本気で言っている咎めだてではあるまいと、秀長は思った。人には都合がある。日本全土、蝦夷《えぞ》奥州から琉球沖縄、唐国の者にまで呼びかけておいて、
「今回の大茶湯に不参したら、米煎りの焦しを代用にして茶を点てる事をさえ禁じる。北野の催しに参加しなかった茶人の茶会に、出席した者も同罪とみなすぞ」
というのでは乱暴すぎる。出来ない相談と知りながら無理難題を吹きかけているのと同じであった。
(冗談はんぶんの威嚇であろう)
まさか、本心からの発言ではないはずだと強《し》いて笑い捨てながら、一抹の疑惧も拭いきれなかった。兄の理性を、近ごろ秀長は信じきれなくなってきている。たとえば座興の戯《ざ》れ言《ごと》でも、関白殿下のお触れ出しとなれば、刑吏、司法吏の末端へまでそれが到達するあいだに、どのような歪みと威力を加えてゆくか、わかるものではない。
最高位にいながらその予測がつかず、無思慮な思いつきを触れ書きにさせ法文にさせ、そのくせ朝令暮改のめまぐるしさで変替《へんがえ》しはじめている秀吉……。異常とそれを見て、ひそかに恐れ、危ぶみながらも、面と向かうと直諌しにくくなるのは、性格的な弱さと同時に、前半生に見せた兄のめざましい戦いぶりへの、傾倒と畏敬を、まだまだ秀長が失っていないからである。
げんに今も上機嫌で、
「さっそくこの下書きをもとにして、写しを幾枚か作らせろ尼前、当聚楽第の正門前、それに北野の社前、洛外|七口《ななくち》の高札場に貼り出すのだ」
と幸蔵主相手に命じているのを見ると、触れ書きの内容をあげつらって、秀吉の気分に水をさすのはためらわれてしまう。
井筒屋了意とそのせがれ四郎兵衛に、計画実施の有無を質されたさいも、つい気のどくさに、
「ないと誓ってよい」
とまで言いきった巨椋ガ池の築堤工事……。後刻こっそり、姉の|とも《ヽヽ》に打ちあけた通り、しかし秀吉が、〆切り堤を池中に築かせ、岡屋津を廃港に逐い込む悲惨など意にも介さずに、ひたすら伏見の町づくりを強行する肚でいるのを秀長は知っている。
諌止《かんし》するなら今の内だし、こんどの上洛が、残された最後の機会であることも秀長はよく、心得ていた。
(いつ、どのように切り出そうか)
重くるしい懸案として、それは胸を圧《お》しつづけながら、やはりなめらかには口にしづらい。怒りやすく苛立ちやすく、感情の起伏が目立ちはじめた兄を、へたに刺激してはかえって事をこわすおそれがあった。
草稿を持って幸蔵主が退出したあとも、ひとしきり、にぎやかに交されたのは大茶湯にかかわる話題である。だれが、どんな趣向の茶亭を建てるかは、秘密にされている。当日まで、お預けをくっているところに、あれこれ人《にん》に当てはめて推量し合うたのしみがあった。
秀吉の自慢は金の茶室だ。二年前、関白職を手に入れたとき、その喜悦を彼は黄金で顕示した。折りたたんで運べる三畳|台目《だいめ》の茶室は、柱はもちろん壁や天井、障子の桟まで金でつくられ、置かれた茶碗、釜、茶杓、水こぼしから火箸まですべて金無垢……。語呂合せめいて袱紗《ふくさ》も金襴という派手派手しいものだった。
禁中の小御所《こごしよ》にこれを持ちこみ、正親町《おおぎまち》天皇はじめ公卿衆に茶をふるまって、
「さても豪奢!」
おどろく顔を自己満足の糧《かて》にしたわけだが、北野でも同様、この黄金の茶室を組み立ててこんどは散集する庶民らの|どぎも《ヽヽヽ》を抜こうということらしい。
金目のかかり方に目をみはりはしても、趣味性の高下《こうげ》から論じれば内々公卿たちが、どのような批判を抱いたかは想像にかたくない。この日の茶堂《さどう》を勤めた千宗易《せんのそうえき》が、だれよりも先に、権勢を金ピカ茶室に象徴させようとする秀吉を、心の底の底で非難したであろうことは秀長にすらわかる。
無位無官の庶士では、参内の資格がない。そこでこのとき、
「禁裏より賜わる」
という形で、宗易みずから『利休』の居士《こじ》号を選んだ。『利』は鋭利の利だ。尖《とが》り錐《ぎり》のするどさを放下して休心の安きにつき、先の鈍《にぶ》った老古錐《ろうこすい》の円熟境を目ざしたいとする願望の現れである。逆に取れば、そのような戒めを自身に課さねばならないほど、つまり宗易の本質は激しく、戦闘的だということになろう。
そうした気性の勁《つよ》さを支えにして、飽くなく宗易が追求しつづけているのは、草庵侘び茶の風光だった。
「茶はただ、湯を沸かして飲むまで……」
と言い切れる冷え枯れた軽やかな境涯は、じつは強靭きわまりない生命力と闘志によって、おのれの茶を鍛冶《たんや》しぬくところにのみ生まれるのだと、秀長にも、宗易は語ったことがある。
黄金の具備する世俗的な価値、目にはっきり見うる光彩──。そんなものに頼らなければ誇ることのできぬ茶などというものは、したがって宗易の主張からすれば、邪道以外のなにものでもないにちがいない。
彼はしかし、黙って金色《こんじき》茶室に坐り、金無垢の道具を使って天皇や諸卿に献ずる茶を点てた。
「北野へもまた、持ってゆこう」
と秀吉が言い出したときも、
「けっこうですな」
おだやかな語調でうなずいただけだ。
相手に劣らず勁く、より以上に慧敏な一面を持つ秀吉は、だが、とっくに嗅ぎつけている。黄金の茶室に向けられている宗易の、軽侮と憫笑の気配を……。だからこそいっそう意地になり、嵩《かさ》にかかって、金ピカな炉べりへ宗易の膝を、押しつくねさせてやりたい欲求に駆られるらしい。
一方は権力の世界での王者、一方は美の世界での王者──。おたがいに自己の領域内では一|毫《ごう》も譲らず、親愛の表づらの一枚下で、火花を散らす押し合いをたのしんでいるうちはよい。
(緊張が高まり、突如、力の均衡が崩れる日が来たらどうするか)
それもこのところ、宗易の力倆を愛している秀長の胸に、人しれずきざしはじめた気がかりであった。
やがて雑談を切りあげて、秀吉は政務所ときめている表座敷へ立ってゆき、あとについて秀長も去ると、入れちがいに厩から小吉秀勝、三吉秀保の兄弟がもどってきた。まるで秀吉がいなくなるのを、ものかげに潜んで待ってでもいたような現れ方だった。
「辰之助はどこへ行きました?」
侍女のお|ごさ《ヽヽ》に、寧々がたずねた。子のない彼女が手許に引きとって養育している甥である。
「長慶院さまのお部屋でございましょう」
「呼んでおいで。せっかく郡山から三吉どのもみえたのだし、一緒にお遊びと、そう言って……」
「かしこまりました」
お|ごさ《ヽヽ》は出てゆき、待つまもなく辰之助を伴って帰ってきた。少年は実名を秀秋といい、今年十一になる。むっつりやの秀勝、わがままで人みしりのつよい秀保にくらべると、
「近江のおばさま、ようお越しなされました」
手をついて、きちんと口上を述べるところなど、才はじけて、はるかに愛らしげに見える。
うしろから長慶院もついてきた。お寧々の姉、俗名はお久万《くま》──。十代のむかし、清洲城下で開業していた由島三雪という鍼医《はりい》にとついだが、夫に死に別れて以後は髪を切り、本体に添う影さながら妹お寧々の日常に密着して、その愚痴の聞き役、癇癪のなだめ役、万端の参謀役を買って出ている無二の身寄りである。
同父同母の姉妹だけに体質に共通したものがあるのか、お寧々と同じく、長慶院お久万も石女《うまずめ》だった。
「だれぞ一人、われらが実家《さと》方から男児を呼びよせ、こなたの子供|分《ぶん》になされたがよろしかろう」
と寧々にすすめて、辰之助秀秋の養子縁組みを実現させたのも、どうやら長慶院の指し金らしい。
お寧々にはいま一人、お弥々《やや》という名の妹がいる。これはでも、義理で結ばれた同胞《はらから》で、血のつながりはまったくない。
お久万と寧々の祖父杉原七郎兵衛家利は、もと播州竜野の住人……。尾張の国愛知郡の朝日村に移りすんで一男二女を儲けた。長男が家次、長女と次女をお|あさ《ヽヽ》、お|こひ《ヽヽ》という。
お|あさ《ヽヽ》に迎えた婿が、杉原助左衛門定利──つまりお久万、お寧々の父なのだ。
少女のころ、寧々は口べらしのために叔母お|こひ《ヽヽ》の嫁入り先へ、養女に出された。織田家に仕えて、お弓衆の一人にとりたてられていた浅野長勝という者の家である。
長勝には妾がいた。樋口|某 《なにがし》という部下の娘で、この女の腹にお弥々が生まれている。正妻のお|こひ《ヽヽ》にすれば面白くない。そこで姉のお|あさ《ヽヽ》に請うて、その娘の寧々を家に入れたというわけだろう。
母親同士の反目が尾を曳いて、寧々と弥々も娘時代、さして仲よしとはいえなかった。ましてお|こひ《ヽヽ》が亡くなり、弥々の生母が後妻に直って大っぴらに浅野家へ乗り込んできてからは、寧々の肩身はいっそう狭くなった。
結婚にも、それが反映した。年下の妹でいながら弥々は家附き娘の格で婿を迎え、寧々は軽輩の弓衆よりさらに一段、身分の低い木下藤吉郎の女房にさせられてしまったのだ。
泣いて、そのときは口惜しがった。しかし、持って生まれた人の運というものはわからない。藤吉郎はぐんぐん出世し、つられてお寧々も、いまや天下人の妻である。
小なまいきだった弥々はすっかり下手《したで》に出て、夫の浅野長政ともどもご機嫌うかがいを怠らない。実直さを信用して、寧々もこの妹婿を、何かにつけて相談相手にしている。
ただし、いまだに寧々がかなわないのは、弥々が身体に持つ子供運だった。父がちがい母がちがうだけに、体質もまったく寧々とは別ごしらえに出来ていて、弥々は長政との間に跡取りの幸長《よしなが》はじめ、息子三人むすめを三人まで生んでいる。
ところで、お|あさ《ヽヽ》のつれあいの杉原助左衛門定利は、これも外に囲い女を持ち、男の子を一人儲けた。のちに藤吉郎秀吉から木下姓を譲られた孫兵衛家定である。彼はつまり、お久万お寧々ら姉妹には異腹の兄に当るわけだ。
家定は、叔父・家次の娘をめとって、その腹に男の子を三人生ませた。利房・延俊、そして三番目が辰之助秀秋……。甥とはいっても、だから秀秋は、寧々とはさほど濃い血を分け合っているわけではない。腹ちがいの兄の子にすぎない。
孫兵衛家定もまた、なかなかの発展家で、正妻のほかに側女を二人持ち、そのそれぞれに、さらに俊定、俊勝という男児まで生ませている。
子なしの寧々の心ぼそさ、足場の脆《もろ》さを、城壁代りに守るものとして浅野長政お弥々夫婦の息子たち、木下孫兵衛家定のせがれどもがずらりと控えている図は壮観だし、これらいわば、若手親衛隊を巧みに組織したのが、長慶院お久万の方と聞かされては、|とも《ヽヽ》あたり、ただただ感服するほかなかった。
彼女は彼女で、秀次の先ゆきを思う。秀勝の将来も気にかかる。はっきりとはまだ、関白の継嗣は決定していない。子らの競争相手に擬した場合、辰之助秀秋はあなどりがたい敵手といえるのではあるまいか。
(恥ずかしながらわが子らは、資質が劣る)
落胆まじりの評価を、ひそかにくだしていたやさきだけに、
「小吉めにも、困ったものよのう」
その夜、二人きりの寝所で母大政所から聞かされた秀勝のしくじり話が、盤石の重みで|とも《ヽヽ》にはこたえた。
夕食は賑やかだった。出ていったきり、秀吉だけがもどってこなかったが、親思いの小一郎秀長は、政庁での用をすませると再び、大政所の居室に顔を出し、姉や|嫂 《あによめ》、甥たちと並んで、老母を中心とする食膳を囲んだし、寧々も心のうちはどうであれ、
(どうせ、どこぞ女の局《つぼね》で、差し向かいの一酌をたのしんででもいるのでしょう。来ぬ人は来ぬ人……。むりに呼びたてることはありますまい)
と言わんばかりな平静さで、料理の皿かず、塩梅《あんばい》などをいかにも聚楽第の女主人らしく、てきぱき侍女たちに指図していた。
子供らは、まして天下さまとの気ぶっせいな同席など好まない。秀吉は身内に口やかましく、ことに甥たちには箸のあげおろしに叱言《こごと》を言った。
「豊臣家の藩屏となる者どもだ。錬えに手ぬきがあってはならぬ」
秀長も|とも《ヽヽ》も長慶院お久万も、秀吉のいる窮屈さよりは、気のおけない女子供だけで、じつはのびのびと食事がしたい。大政所|なか《ヽヽ》だけが、
「まさかまだ、藤吉郎は政務所におるわけじゃあるまい。一家中が寄り集うなど、めったにないことなのに、なんぜ夕餉に顔を出さぬ」
歯のない口を不満げに、すぼめたが、幸蔵主がいま一度伺候して得意の饒舌を弄しはじめると、とたんにその口に巾着《きんちやく》さながらな皺を寄せて、他愛なく笑いころげだした。
三吉秀保と辰之助秀秋は、馬の話に夢中だった。初対面ではない。もっとおたがいに幼なかったころ、祝いの席などで二、三回顔を合わせているはずである。でもまったく、双方ともにおぼえていず、そのくせ、この年ごろの気やすさからたちまち打ちとけて、友だちづき合いを始めていた。
「そんなに逸物か? 小吉の黒は……」
と、秀長もときおり口をはさむ。
「うん、馬場に曳き出して鞍を置いてみたら、厩で見たときよりなお、立派なんだ。梨地の金|蒔絵《まきえ》だから毛の色に映えるんだよ」
おれもほしい、あんな鞍が……と、秀保の甘えは例によってまた、義父へのねだりごとになった。自身の黒を羨望されながら、
(チビどもの馬談義など片腹いたい)
と言わんばかりな仏頂|づら《ヽヽ》で、小吉秀勝は、しかし話に加わらない。隻眼を灯にそむけ、黙りこくって膳のものをつついているだけだ。
侍女たちが総出で給仕をつとめ、これはあべこべに、鳥籠を七ツ八ツも持ちこんだほどの喋り交しだったが、談笑のさなか宗易の妻の千宗恩《せんのそうおん》までが機嫌うかがいに顔を出した。食事も終りに近づき、
「そろそろ、茶を……」
と、なりかけたところで、そのへんの呼吸をピタと計っての現れ方は、控え目な品のよい微笑とともに、宗恩の賢さを端的に表明していた。手づくりの|わらび《ヽヽヽ》餅を、こうばしい煎りたての黄粉《きなこ》にまぶして持参したのさえ心憎い。
堺の本邸、洛中紫野の別宅のほかに、千家の控え家も聚楽第内に建てられ、宗易ごのみの茶室を持つところから、そこは特に『利休屋敷』と呼ばれて秀吉の休息場所の一つに使われていた。
宗易が、秀吉に茶の手ほどきをしたと同じく、北政所お寧々の師は、宗恩がつとめている。長慶院お久万、それに前田お摩阿ら側室たちの中にも、宗恩に茶を習う者は多かった。そのせいかだれとも親しみながら、立ちいった話には一線を劃して、宗恩はけっして乗ってこようとしない。女には珍しいそんな|けじめ《ヽヽヽ》の確かさにも、
「あれは悧口者……」
だれもがしぜん、いちもく置く結果になるのである。
そんな宗恩の、静かでいて、しかもさらさらと、岩間を走るせせらぎさながらな、少しも渋滞のないきれいな点前《てまえ》で、香りのよく立ったお薄を供されると、
「おお、おいしい」
わらび餅のほんのりとした甘味とともに、口じゅうに爽涼感が拡がり、|とも《ヽヽ》はつい二服目を所望してしまった。
やがて大政所の寝所に引きとって、母娘《おやこ》ひさびさに、床を並べて横になったのだが、茶のせいか目が冴えて眠れない。
「やっとそなたと水入らずになれたな」
寝つきのよい日ごろに似合わず、大政所も小声でささやきかけてきた。
「ちょっとのあいだ、話をしてかまわぬかや?」
そして、そのあげく、
「小吉めにも、困ったものじゃ」
との、溜め息まじりの述懐となったのである。
「秀勝が、なんぞしでかしましたか?」
「こっぴどく、藤吉郎に叱り懲らされた。勘当じゃ、所領も官位も召し上げる、どこへなりと出てうせいとまで怒鳴られおったのよ」
胸がつぶれた。|とも《ヽヽ》はとっさには、口もきけなくなった。何が原因で、そうまで叔父を怒らせてしまった秀勝なのか?
「そなたも知っての通り織田家から養子に迎えられた於次丸秀勝さまが、おととし師走、十八のお若さで他界あそばすとすぐ、小吉めはご遺領の丹波を受けつぎ、まあ、名だけのものではあっても亀山のご城主さまに納まって、禁裏《きんり》からもそれにふさわしく、|左近衛権 少 将《さこんえごんのしようしよう》とやらなんとやら、たいそうもない位を賜わったげな」
小吉秀勝が、世間から『丹波少将』と呼ばれているのはそのためだし、こんどの九州征伐にも、彼は兄の秀次ともども従軍して、筑前の巌屋城攻めには主将にまで抜擢された。そして蒲生氏郷ら、いくさ巧者の諸将に掩護されたとはいえ、ともかくもこれを陥落させたのである。
「その功名を鼻にかけたのであろう。丹波一国では不足じゃと言い出し、叔父御の関白どのに|じか《ヽヽ》談判で、知行増しを願って出たのよ」
「十八や九の分際で、なんとまあ、呆れた欲を……」
|とも《ヽヽ》は愧じ入った。情けなさに泣きたくなった。
「藤吉郎もそう言うたよ。|嘴 《くちばし》の黄いろ味も失せぬ小童《こわつぱ》のうちから、身の程をわきまえぬ所領望み……。そんなやつには丹波もやれぬ、郡山の叔父に預けて謹慎させるゆえ、さよう心得よ、とな」
辰之助秀秋などとちがって孫七郎秀次や小吉秀勝、三吉秀保らは大政所から見れば血のつながる孫だ。
寧々や長慶院の前では|おくび《ヽヽヽ》にも出さぬよう気をつけているけれど、可愛さでは秀秋より秀次、秀勝らが当然まさる。懸命に取りなして、ようよう秀吉の激怒を抑え、勘当の申し渡しをひとまず撤回させたのだが、
「それがつい、昨日のことなのじゃよ」
という。
どうりで日ごろの無愛想に輪をかけて、秀勝は口かずが少なかった。叱られて、要求の不当や思い上りに気づいたのではなく、逆に不平を内攻させ、しぶしぶ沈黙した結果が、たまさか会った母の|とも《ヽヽ》にすら、ろくな挨拶も返そうとせぬ苦虫づら、むくれ面となってあらわれたのであろう。
先ゆきが、思いやられた。
「母《かか》さま、聞いてくだされ、三吉は三吉で、えらい騒ぎを引き起こしました。これも同様、郡山を発つ前日のことでござります」
老いた親を心配させたくはなかったが、やりきれなさに押しあげられて、胸中に詰まっていた小今惨死の一件を|とも《ヽヽ》も思わず打ちあけてしまった。
「刃物をふりかぶって召使を追いまわし、石垣の上から落として死なせたと!?」
「それもまだ九つにしかならぬ女の子を……」
「やれまあ、秀保までが、何ということをしでかしたのじゃ」
「どうぞ藤吉郎には告げずにおいてくださりませ」
「言うたら大ごとじゃよ|とも《ヽヽ》。昔からその気《け》はあったが、年とって気みじかくなったせいか、近ごろますます藤吉郎め、カッと怒ると取り抑えがきかなくなった。秀勝秀保、両名ともに勘当じゃなどと言い出されてみい。ほくそ笑むのは、あれらの後釜を狙うておる秀秋と、うしろで糸を引くお寧々姉妹じゃでな。小今とやらを殺した沙汰は、侍女どもにも口止めして、藤吉郎の耳へは入れぬことじゃ」
「それとなあ母さま」
こころもち大政所の寝床の側へ、身をにじり寄らせて|とも《ヽヽ》は訊いた。
「ひさびさに会うておどろきましたのじゃ。お歯黒への非難といい附け髭への嘲弄といい、寧々どのの、藤吉郎への素振り口つきは、また一段ととげとげしゅうなってきたようじゃが、やはり九州征伐での女狩りを、肚に据えかねているわけでござりましょうか?」
「なんのお前……」
寝所の薄くらがりに、大政所の笑声が流れた。破れ鞴《ふいご》を踏むに似たふおッふおッと聞こえる歯抜け声であった。
十九や二十の若女房ではあるまいし、いくらお寧々が焼きもちやきでも、戦陣での、退屈しのぎの女漁りにまで、うじうじこだわってはおるまい……。
「しもじもの者が言うじゃろ。物は伊勢もの、女陰《つび》は筑紫|つび《ヽヽ》と……」
「あれ、いやらしい母さまじゃ」
思わず誘われて、|とも《ヽヽ》も笑った。さすがにつつしんで、侍女たちの前などでは品よくふるまおうと努めているけれども、内々の者が相手だといまだに平気で、土の匂いのぷんぷんする卑猥な俗語など舌に乗せる大政所なのだ。
「あいにく藤吉郎の持ち物は、伊勢男のそれとは太刀打ちできぬ小道具ではあるが、この上なしと譬《たとえ》にも言い囃される筑紫|つび《ヽヽ》、九州へ出かけたついでにちょびと|ひと《ヽヽ》箸、味おうてみたいとだけの好きごころから女狩りとやら娘狩りとやら、試みてみたにすぎまい。寧々がこのところ、ことにもツンケンいたしておる仔細は、別にあるのじゃよ|とも《ヽヽ》」
孫や子に関わらぬ話題に移れば、大政所も|とも《ヽヽ》も、嫁の瞋恚《しんに》には興味しか燃やさぬ意地わる姑、小姑に、たちまち還元してしまう。
「へええ、して、その仔細とは?」
「側女がふえたのよ」
「いままでにも増して、まだ?」
「大坂城からここ、聚楽第へ引きうつってきたさいの、女行列のきらびやかさを、そなたに見せたかったな。ほれ、もと武田の嫁女だった権高い若後家さま──何というたかな」
「京極どのですか」
「そうそう、本名を竜子とか申す美人。それから蒲生忠三郎の妹の、三条のお局……」
「前田のお摩阿さまもおりましょう」
「それに古なじみの姫路どの」
「わたしの存じておる女人はこれだけじゃが、まだ、おりますか?」
「近ごろ故右府さまの五番目の姫君が、藤吉郎の伽《とぎ》の相手に加わったそうな」
「なるほど。寧々どのの角目《つのめ》立ちは、その姫さまゆえでござりますな」
「ちがうよ|とも《ヽヽ》。この姫君はわしも見たけれど、玉子に目鼻、造作のチョボチョボとした愛らしいだけが取り柄の小娘じゃで、恐るるにたらぬ。寧々が心中、おだやかならぬほど悋気《りんき》の煙をいぶり立てておる相手は、浅井の茶々という女だわさ」
「浅井家のお娘御?」
「おうよ。いよいよ聚楽第ができあがった、引越しじゃ、繰り込めということで、女行列が大坂城から練って出た。まず先頭が、順序から言うても正室の寧々じゃな。その輿の美々しさ……。道すじは物見だかい人の垣じゃで、せいいっぱい寧々とすれば、本妻さまのご威光を見せつけねばならぬところじゃわ。なんでも職方の者どもに、別あつらえのやかましさで造らせた輿とか聞いた。みごとな細工がほどこされておったが、すぐそのあとに引き添うてぎっしり詰めこんだ衣裳|長櫃《ながびつ》が五棹、小櫃が五十棹も続いたのには、沿道の衆も口あんぐり……。羨みのため息が潮騒《しおざい》さながら揺れ返したよ」
「得意顔が見えるようでござりますな、寧々どのの……」
「次が側室がたの輿、調度……。供の女どものぶんまでかぞえると、百挺もの行列が蜿蜒《えんえん》とくねって、とんと、大蛇《おろち》が進むようであったげな」
「警固のお侍がたも、さぞやおびただしゅうござったろう」
「おうさ。いずれ劣らず装束に綺羅《きら》を競い、今日を晴れと出で立って、馬の飾りにまで贅を尽したみごとさ……。ほんにほんに、見せたかったが、大さわぎして乗りこんでみると、なんと先廻りして、とびきりの美人が聚楽第に鎮座しとったじゃないかい」
「それが茶々さまとやらですか?」
「そうよ。寧々の身になってみい。すこぶる面白うはあるまい。面白うないどころか、頭にカッカと血がのぼった。まっ|さら《ヽヽ》の新御殿──。だれもまだ踏み込まぬ初雪の面《おもて》に、女子《おなご》ではおのれこそ、最初のひと足を印しようと意気揚々やって来てみれば、もはや履物の跡がついておる。藤吉郎の胸ぐら掴んで『あのおかたさまは、どこのどなたじゃ』と息巻くのも無理はないわさ」
「浅井の娘御ならばあの、絶世の美女とうたわれたお市御寮人の、忘れ形見では?」
「さようじゃ。織田右府のお妹さまお市どのが、浅井長政どのの室となって生み落とされた二男三女の子宝のうちの一人よ」
「ならばお市さまゆずりの……」
「女の目にさえ非の打ちようのない美人」
「で、ござりましょうなあ」
「藤吉郎はかねがねお市御寮人に首ったけじゃった。主君の御連枝……。高嶺の花とは承知しながらも、もし頂けるならば生々世々の御恩とばかり、上さま存命中、しつこく泣きついてもみたらしい。そちには妻がいるではないか、なんの薹《とう》の立った古女房、追い出してのけますると言うたぐらいで、あの上さまが首を縦にふらるるものか」
「ほんに、血縁の女子という女子を、とことん政略の手駒に使うた右府さまじゃ。一文の利得にもならぬ藤吉郎になど、お妹御をくれる気づかいはありませぬなあ」
「さっさと浅井へ嫁入らせてしまわれたが、そなたも知っての通りやがてお手切れ……。浅井は右府さまに亡ぼされ、お市御寮人は子づれの後家になってしまわれた。浅井攻めの先鋒をうけたまわった藤吉郎が、あらかじめ城外へ逃がしておいた長政どのの嫡男万福丸を、血まなこの探索で引っ捕え、まだ九ツか十か、いたいけざかりの身体を磔柱にかけて、串刺しにしてのけたと聞いたときは身の毛がよだったなあ」
信長が生きているかぎり、しょせんはかなわぬ片思いである。長政とお市の愛の結晶を、無残に打ち砕いてやることで、せめては溜飲をさげた藤吉郎秀吉であったかもしれない。
「本能寺で上さまが落命なされたあと、だから今度こそは、と手に唾《つば》する思いでいたであろうが、どっこい、織田家のご子息がたが、女ざかりの叔母ぎみをむざむざ独り身で置きはせぬ。連れ子なされて、つぎは柴田勝家どのに再縁ときまり、お市御寮人は越前の北《きた》ノ庄《しよう》とやらに去《い》んでしまわれた」
「あげく、柴田どのの敗れに殉じて、落城の炎の中で自害あそばしましたな」
「浅井家で生んだ女の子三人だけが、またまた助けられて城外へ出た。藤吉郎は待ち構えていて親切に、世話を焼いたようじゃ。中むすめと末むすめは縁づき先を見つけて嫁にやり、上の娘御一人をこっそり養うておいたのは、ついにかなわなんだお市どのへの恋を、忘れ形見のこのお子で、せめても遂げようとしたわけであろうな」
「その姉むすめが、お茶々さまとやらですか」
「中がお初どの、下がお督《ごう》どのというそうな」
「でも、浅井家三姉妹の側から申せば、藤吉郎は二重三重もの仇《あだ》ではありますまいか。ご主君信長公の仰せつけとはいえ、浅井長政どのを自刃に逐いやったのは藤吉郎じゃもの」
「兄の万福どのを串刺しにしてのけた張本人でもあるし……」
「義理の父の柴田どの、生みの母のお市どのを死なしめた相手でもござります」
「孤児にひとしいお身の上ではあろうけれど、父母兄弟の仇敵《かたき》に囲われねばならぬお茶々どのの胸中も、思いやれば不憫よの」
「お年は?」
「十九か二十じゃあるまいか。北ノ庄攻めは三、四年ほど前じゃった。そのあと引き取って、どこぞへこっそり住まわせておき、藤吉郎は気ながに茶々どのの、気のほぐれるのを待っておったらしい。聚楽第へもな、見物にござれ新邸を、と賺《す》かしてつれて来たそうじゃよ」
一つ屋根の下に住むだけに、女たちに関するかぎり大政所のかかえる話題の量は豊富だった。
小者時代の劣等感を、高貴の女体を征服する過程で、懸命に拭い去ろうとでもするかのように、世が世なら憧れるだけで終わったであろう対象ばかり秀吉は、閨《ねや》の花に選んだ。
糟糠《そうこう》の妻の寧々と、長浜にいたとき子を生ませた南殿|いつ《ヽヽ》だけが例外で、天下取りの上り坂をひた走りはじめてからは、ことにも、名家の子女のほか目もくれぬ嗜好の片寄りとなったのである。
京極局竜子がそうだ。
近江源氏佐々木氏を祖とする名族の出で、長門守高吉を父に持ち、浅井久政の息女を母として生まれている。とついだ先も若狭の守護武田家だが、夫の孫八郎元明が秀吉の攻撃に遭って殺されたあと、その側室にさせられた。仇敵に肌身を汚された悲哀は、竜子も茶々と同じだった。
若狭の武田家は、甲斐、安芸の武田同様、新羅《しんら》三郎義光を遠祖とする守護大名で、九代、百三十年の歴史を誇った旧家である。孫八郎元明の拠る近江の海津城を攻めたさい、降伏して出たにもかかわらず秀吉がこれを斬ったのは、竜子夫人の美貌に目をつけたためだと当時、もっぱら評判された。殺しておいてその愛する女を奪い、女自身の恨みをすら捻じ伏せて自由にすることに、秀吉は残虐な快感を見出していたのかもしれない。
主筋の女性たちを屈服させることも、たんに劣等意識の充足などといった下手の欲求だけではなく、得がたい獲物に挑みかかる猛禽の、血なまぐさい征服感に裏打ちされた行為であった。三ノ丸どのが織田信長の五女、姫路どのはその姪……。茶々が新しく側妾の仲間入りすれば、これも姫路どのとおなじく、やはり信長の姪だし、京極局竜子とは、浅井長政とその姉を、それぞれ父や母に持つ従姉妹《いとこ》同士の間柄でもある。
蒲生左衛門大夫賢秀を父とし、忠三郎氏郷を兄とする三条局お虎、前田利家の娘お摩阿まで、一人として身分卑しい女性はいない。
越えがたい血統、教養の差──それへの歯がみも、勝気な寧々を苛だたせる原因だったが、|とも《ヽヽ》はいま少し柔軟に、
「いずれ劣らぬ歴々のご息女──。もはやおたがいに面識もあり、同席も幾度かしている京極どの、姫路どの、三条どの、前田の摩阿姫さまがたにも、一応の挨拶いたさねばなりますまいが、わけて新参の茶々さまとやらには、故主《こしゆう》のお身内でもあり、聚楽第滞在中に一度お目通りいたしておかねば、失礼に当りましょうなあ」
と、母に議《はか》った。
「さてのう。そなたのほうから辞を低うして、女子衆の局々へ顔出すのも、卑下がすぎるかもしれぬのう」
大政所の答は、しかし歯切れが悪かった。
「もとの身分はどうあれ、藤吉郎の妻妾となった上は、女子衆はわしが嫁女、こなたの義理の妹どもではないかい。鬼千匹とも威張ってよい小姑さまじゃに、ぺこついては可笑《おか》しかろう」
「では、知らぬ顔がようございますか?」
「寧々の思惑がこわいでな。まあ前田のお摩阿どのあたりならば、親からの古なじみ、身内にひとしい姫さまゆえ見舞うてあげても気を悪うはすまいが、へたにこなたの側から茶々どのの部屋へ機嫌伺いになど出向いてみい。寧々がむくれて、えらいことになろう」
「よい顔はしますまいな」
「と言うて、ひとことの挨拶もなくこなたが八幡山城へ引きあげてしもうては、これも|そっけ《ヽヽヽ》なさすぎる」
「ほんに、それでは角が立ちます」
「よい思案があるぞ。北野で催される大茶湯……。向う十日ものあいだには藤吉郎の気性じゃ。側女たちを引きつれて行く日があろうし、こなたやわしにも一緒にこいと誘うであろう。茶屋めぐりの混雑の中で、さりげのう辞儀し合えばすむことよ」
「さすが母さま、智恵者じゃな」
「ざっと、こんなものじゃわ」
笑い合ってその夜は寝たが、日本国中はおろか唐国人にまで、
『茶の湯を好むならば参集せよ』
と、呼びかけ、
『北野の茶会に不参の輩は、向後、茶を点てること固く無用。この者どもの茶会に出席する者も同罪とみなすぞ』
頭ごなしに触れ出して仰々しく始めた催しにもかかわらず、たった一日で大茶湯は中止されてしまった。
九州役後、肥後の支配をまかされて入部した佐々成政の、性急な検地に反対し、国人《こくじん》五十二人が結束して一揆を起こしたとの急報が、黒田|孝高《よしたか》、小早川隆景らからもたらされたためである。
放置していては、やがて近隣諸国にまで火の手が波及し、せっかくの島津征伐も水の泡となる恐れが生じる。
だからといって、遠い九州での兵乱だ。それも、国人衆の反抗にすぎない。せっかく開催にまで漕ぎつけた大茶湯を、一日きりで終らせねばならぬほどの、何ら切迫した理由などないのである。
衝動的に思い立ちながら、具体化するとたちまち、憑《つ》き物が落ちたように醒めはてて、興味を失う……。秀吉の言動に、近ごろ顕著になり出したこれも病的な|むら《ヽヽ》気のたぐいかも知れないが、当日、天神社境内の経堂《きようどう》から、松梅院のあたりまで一間のすきまもなく、びっしり八百余カ所もの茶亭を建てつらねた公卿や武将、僧侶や茶人連中にすれば、私財をついやし番匠を連日せきたててまで何をやらされたのか、狐につままれた思いで、
「ばかばかしい。人騒がせもいいかげんにしてくれ」
舌打ちしたくなるのであった。
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浅井三姉妹
大茶湯の催しが、一日かぎりで中止になったと聞いて、|とも《ヽヽ》も、
「ひょんなことになりましたなあ母さま」
大政所と顔を見合わせた。遊楽気分の浮き立ちにまぎれて、秀吉の愛妾たちと、久闊の叙し合いやら初対面の挨拶やら、一応はせずにすまぬ儀礼を、果たしてしまう心づもりでいたのに、当てがはずれたわけである。
茶亭の建てぬしたちはそのくせ、一方に、
「一日で終って助かった」
胸をなでおろす思いでいた。
「大がかりな茶振舞いを、向う十日間も続けてみろ、それでなくてさえ番匠どもへの支払いが痛ごとなのに、えらい出費となるわ」
というのが、じつは本音で、だから、
「お取りやめ」
との達しを耳にすると早々、二日目の朝には人夫をくり出し、
「さあ急げ。御意の変らぬうちに……」
せっかくの茶亭をどしどし、取りこわさせてしまった。
馬鹿を見たのは、路用と手間|ひま《ヽヽ》を使ってはるばる地方からやって来た人々、それと、洛中洛外に住む茶好きの一般庶民である。さぞや初日は、混雑するだろう、まだ日数はたっぷりある、中日《なかび》を過ぎてから出かけても大事あるまいと、のんびり構えていた連中は、中止と聞いて、
「しまった。関白さまと秋の空……。今に始まった気まぐれではないが、晴れたと思えば曇り、降ったと思えば晴れるあのお方のご気性を呑みこんで、とっとと初日に行っておけばよかった」
落胆し合った。
見かねた小一郎秀長が、
「せめて、では、一亭だけでも……」
と一日延期し、同じ北野境内の同じ場所に、家来を出張させて茶を点てた。午前中は秀長みずから炉前に坐り、利休直伝の点前を見せたけれども、
「郡山衆のお催しだけはあるそうだ」
聞き伝えて集まってきた者たちも周囲に響く取りこわし、あと片附けの槌音《つちおと》や車の出入りに落ちつきを失って、せっかくの厚意をおちおち味わえもせずに散ってしまった。
その秀長に、あとで|とも《ヽヽ》が聞いたところによると、十日分の愉しみを一日に圧縮しただけあって、初日の賑いは非常なものだったという。
「茶屋が、七、八百も建ちつらなったというではないか」
「いやいや、それではききますまい。千を越していたのではありますまいかな」
「ようまあ、建ったものよのう」
「兄者は利休、宗及、宗久ら茶堂どもと北野の社殿で点てられました。座敷を四ツに仕切りましてな、入り口で鬮《くじ》取りをいたすわけです。だれにせよ、関白さまのお点前で頂戴したいのは人情……。他の囲いに当っても、天下一の茶頭の茶ではあるのに、がっかりする顔が笑止でな」
「お道具なども、さぞ見事なものがいろいろと出たであろう」
「例の黄金の茶室を組み立てて、名だたる名品をずらりと並べましたゆえ、ひと座敷に二人ずつ、計八名を一度に入れても拝見に手間取って、なかなか埒があきませぬ。あらかじめ入り口と出口を別に作り、履物はおのおの懐中させて、六尺棒を手にした小者が多数、声が嗄《か》れるほど整理に肝を焦《い》ったのに、それでもえらい混雑でしてな。気を失う者まで出る騒ぎでした」
「人の気に、のぼせたか」
「そうではなくて、せっかく来たのに鬮にはずれ、仕切り門の中にすら入れなかったために、逆上して倒れたのだそうです」
昼食をすましてからは近習をひきつれて、一軒一軒、秀吉は茶亭を見て廻った。朱塗りの大傘の下に一枚、緋毛氈《ひもうせん》を敷いただけで、他に趣好らしい趣好を凝らさなかった山科《やましな》の丿貫《へちかん》を、
「逆もまた、真というやつだな」
褒めたり、美濃の一化《いつか》の松葉囲いに目をとめるなど、秀吉がともあれその日いっぱい、上機嫌で過ごしたと聞くにつけても、
「たかが九州の一揆ぐらいで、なぜ金に飽かしたお催しを、一日こっきりにやめてしまわれるのか」
不審し合う声は絶えなかった。
聚楽第の女中たちの中にも、
「あと一日、延ばしてくださればよかったのに……」
残念がる者は多かったが、秀長は彼なりに、|むら《ヽヽ》気や移り気とだけでは片づけきれない危険な徴候を、兄の心理の奥に読み取って、
(大事にならねばよいが……)
姉や母にすら言えぬ憂いを、一人、深めていた。
豪華趣味、享楽嗜好が、ここへ来てますます強まりはじめた秀吉の茶だ。上手にそれと妥協しながらも、草庵侘び茶に象徴される冷え枯れた閑寂境を、これもまた頑として追求しつづけてやまぬ千利休である。
無理な折れ合いが、双方の心の|ひずみ《ヽヽヽ》をじりじり助長し、いずれ決裂を招くのではないかとは、かねて秀長が抱きつづけてきた暗い予測であった。
しかし北野の茶会に参加し、その日の有様を仔細に目撃した結果、秀長が得たのは、
(たんに茶の上での、好みや主張の相違ではない。兄者はもっと現実に即して、利休の利用価値を計量しはじめているのだ)
との、より不幸な、新しい発見だった。
島津征伐を終え、筥崎に滞陣していたさい兄の口から、秀長が幾度か聞かされたのは、
「さて、次はいよいよ唐御陣《からごじん》だな」
たのしげにさえ受けとれる遠征計画だが、そのたびに彼は、
「まだ小田原に、北条氏が蟠踞《ばんきよ》しております。婚姻のよしみを通じている徳川どのの去就も、しんそこのところは計りかねる現在、異国よりは国内での、ご威光の浸透にこそお心を用いるべきでしょう」
不興を承知で、あえて反対しつづけた。
しかしそれ以前から、キリスト教の宣教師あたりに、唐、天竺、朝鮮はもとより、南蛮国までを統一するつもりだなどと広言していた秀吉だ。朝鮮半島とは一衣帯水の北九州沿岸に立って、侵略への欲望は、はっきりした図式にまで具体化したらしい。
博多の復興に異常な熱意を示し、神谷宗湛、島井宗室らかの地の豪商茶人と連日のように接触して、親交をあたため合った裏には、武器糧秣の提供者、朝鮮半島への足がかり、兵員の積み出し港としての博多および博多商人に対する心くばりが、つよく働いていたと思われる。
(戦塵を洗いたい。ひさびさに、何ぞぱっと大がかりな遊びをしてのけたい)
ふとした思いつきから命じてしまった北野の大茶湯だが、いざ蓋をあければこれは当然、堺衆が主役である。千利休が企画のいっさいを委され、膳立てした以上いやでもそうなる。津田宗及、今井宗久ら助演者まで、すべて堺出身の茶湯者《ちやのゆしや》で占められるのもやむを得ぬ成りゆきだった。
(はなはだしくそれが、兄者の興を削いだのではないか)
利休に命じてやらせたからには、堺色で統一されるのはあらかじめ、秀吉も予想していたはずである。もともと好きな茶だし、|もの《ヽヽ》珍しさも手伝って一日目は嗾《そそ》られたが、ひとわたり見るものを見てしまうと気持は冷えて、一揆勃発の報らせをさいわい、
「やめよう」
ということになったのだろう。
軍需物資の供給をはじめ、おたがいに持ちつ持たれつ、役に立たせもし儲けさせもして来た堺商人との関りだが、国内平定のメドがつき、目が国外へ向くととたんに、博多の地の利に比重が傾く。不用になったものに、無駄な費えをかけないのは武将の常としても、秀吉の割り切り方はその点、特にはっきりしていた。一見、人情味ありげな笑顔の下に、感傷をいっさい受けつけぬ冷淡な打算があった。おのれの美意識や、茶の理念の前には、これも柔軟な表面|づら《ヽヽ》とはうらはらに、関白殿下といえども譲ろうとしない利休への、潜在的な憎しみ……。一日一日、それが根深くなりつつある今日このごろ、商港としての堺、商人としての堺衆を、秀吉が、
「もはや無用」
と断じて、突き放す気になったらどうするか? 堺そのものの具象化と見てよい利休の存在が、目ざわりになることは必定ではなかろうか。
一日で打ち止められた北野の大茶会に、秀長はひそかに利休の未来を予見し、おののいた。禍々しい破滅の気配しか、敬愛する茶頭の上に、彼は見ることができなかったからである。
|とも《ヽヽ》にはそこまでの眼識はなかった。もともと茶そのものに関心が薄い。彼女が閉口したのは、茶会でするはずの側妾たちへの挨拶が出来なくなった──それだけの理由であった。
「いっそ知らぬ顔で引きあげまする」
と、母の大政所に|とも《ヽヽ》は言った。
「聚楽第はすみずみまで、幸蔵主に案内されて見物し終えましたし、国許への、うれしい土産話もできました。そろそろおいとま申しましょう」
国への土産とは、せがれの孫七郎秀次に、
「従三位に叙し、権中納言に任ず」
との内意が、朝廷からもたらされたことをさしている。正式の補任はひと月ほどあとになるが、
(吉房どのがよろこぶであろう)
と思うと、|とも《ヽヽ》の胸もほのぼのと満たされた。三吉秀保の小今殺し、小吉秀勝の勘当未遂騒ぎなど、次三男のしでかしたろくでもない事件だけを、八幡山城に留守する夫の耳へ入れるのでは、いかにもつらい。
「もう去《い》ぬのか?」
大政所|なか《ヽヽ》は心外な顔をして、
「老いぼれ婆の親といるより、やはり亭主のそばがいいか?」
ひねくれた言い方をする。
「祝言したての花嫁ではなし、もう今さら、そんな初々しい仲ではござりませぬが、わたしが世話を焼かぬことには飯の固い柔かいさえ遠慮して、よう召使どもに言えぬお人じゃ。気弱いだけでなく身体も弱い。しょっちゅう痛みどころがある上に、やれ熱が出た咳がとまらぬなどと訴えばかり……。一人では到底、抛《ほう》りだしておけぬ御亭《ごてい》どのなのでござりますよ」
「ほんに、むつまじいことよのう」
歯のない口をすぼめて、いつもの、ふおッふおッふおッと聞こえる破れ鞴《ふいご》を踏むに似た笑い声を、大政所は立てた。
「そなたと吉房どのの仲を見るにつけても、岡崎へつかわした|きい《ヽヽ》の身の上が気づかわれてならぬ。徳川どのとは、夫婦というても名ばかりの味気ない毎日を、あの子はどう過ごしておるかなあ」
妹|きい《ヽヽ》──家康の室となって遠く親もとを離れている旭姫の明けくれを思いやると、|とも《ヽヽ》も哀れさに目がしらがうるむ。
政略の犠牲だ。その意味では秀吉の側室たちも、一人として乱世の不幸な落とし子でない者はない。
(そこへゆくとわたしは……)
百姓弥介、機織《はたお》り女の|とも《ヽヽ》だったころから、ともあれ好き合って一緒になった昔通りに、裂かれもせず死なれもせず、二人仲よく今なお、くらしつづけている。
(感謝しなくては……)
と、|とも《ヽヽ》は自分に言い聞かせるのである。
「出て来たついでではないかい。せめて正月をここで迎えてゆけばよいに……」
「いえ、とてもそんなには……」
「では前田のお摩阿さまにだけ、ちょいと挨拶して去《い》になされ」
「そうしましょう。聚楽第へまいった日、お松さまご夫妻がわざわざ出迎えてくださりました。そのお礼のためにも摩阿姫ぎみのお局には、顔出しして帰るつもりでおりまする」
天守に部屋を与えられているということだった。
出かけるつもりで仕度をしているところへ、
「お聞きになりましたかお二人さま」
寧々の姉の、長慶院お久万が入って来た。法体でいながら隠し化粧が濃い。寧々に似て、陶製の人形さながら固い、ちんまりと調った、どこといって難のない目鼻だちをしているのに、女らしい柔かみや香りには、なぜか乏しい。口ぶりが乾いてせかせかと早く、表情態度に、むき出しな勝気が露呈するのが姉妹に共通した欠点だった。
「聞くとは、何を?」
「年があけてあたたかくなったら、関白さまはこの聚楽第へ、天皇をお迎えなさるのですと……」
「はれまあ、そりゃまた、騒ぎじゃなあ」
うんざり顔を、大政所は隠さなかった。時のみかどは後陽成《ごようぜい》帝と|諡 《おくりな》された天子である。事大主義、派手好みな秀吉の性情から推《お》して、私邸へ行幸を仰ぐとなれば馳走の用意だけでも、どれほどことごとしいものになるか……。
「母者はご隠居。出しゃばらんでよろしい」
とは言われるであろうけれども、いざとなれば決してそういかなくなるのは、目に見えている。もてなしの成否は、結局客を迎える場合、それが天皇であれ地下《じげ》であれ、女たちの気働きいかんにかかってくる。正室としての体面からも、また負けずぎらいな気性からも、寧々は躍起になって采配を振るであろうし、その熱気に煽られれば老人の大政所といえども、高みの見物ばかりきめこんではいられまい。
「つぎからつぎへ藤吉郎めは、厄介な大仕事を思いつく男じゃなあ」
大坂城での日常に、充分、満足していたのに、
「京に新しく、広壮な屋敷を建てた。母者のための、田舎家風な一棟もある。お移りなされ」
と、うながされれば、きしむ腰骨をやっこらしょと伸ばして、引越しの煩忙にも耐えねばならぬ……。
「ほほほ、義母《かか》さまのお口にかかると関白殿下も形なしでござりますな。天子をお迎えし、諸卿諸大名に改めて忠誠を誓い直させることで、関白さまのご威光はいや増すのでございます。ただの客寄せとは、意味がちがうのですよ」
と、さすがに寧々をあやつる軍師だけに、長慶院お久万の指摘はするどい。
首都である京都に、豊臣政権の政庁として聚楽第を完成させたあと、秀吉が大名たちに求めたのは、絶対服従の証《あかし》であった。天皇の名を笠に着ての、誓紙の強要……。行幸はそのための手段にすぎないのだ。
華やかな儀式の背後にひそむ政治目的、秀吉の真の狙いを、あやまたず見て取っているお久万の眼光は、男顔負けのものといえる。大政所や|とも《ヽヽ》ごときの及ぶところではないのである。
「さぞ目も綾な盛儀でござりましょう。お|とも《ヽヽ》さまもいま一度ぜひ、みかどのお成りを拝見しに上洛しておいでなされませ」
すすめるのへ、
「はい、来られたらばまた、まいらせていただきます」
|とも《ヽヽ》が応じて、立ちあがりかけると、
「どちらへ?」
お久万はぶしつけに問いかけてきた。
「お摩阿さまのお部屋へ、おいとま乞いに」
「わたくしも、お供いたしましょう」
「でも、それでは恐縮……」
「いいえ、天守への登り口は、わかりにくうございます。ご案内申します」
と、押しつけがましいのは、|とも《ヽヽ》の聚楽第内での動静にお久万もお寧々もが、注視を怠るまいとしているからであった。
(滞在中、かならず姉妹のどちらかがつきまとって、それとなく見張っておったな)
秀次、秀勝、秀保──。それぞれに叔父たちと養子縁組して、順当にさえゆけば後嗣の座も夢ではない息子の、母である点が、|とも《ヽヽ》への嫉みとなっている。その言動に、無関心ではいられないのである。
(子を生まねばこその、養子縁組……)
無念がる気持の底に、
(甥であることに変りはないはず……。それならば天下びとの|あと《ヽヽ》釜に、辰之助秀秋はじめ実家の縁につながる若者を、据えてやってもよいではないか)
との不満を、つねにくすぶらせている姉妹なのだ。野心がなく、策略も弄せぬ|とも《ヽヽ》にすれば、しかし寧々やお久万の睨《ね》めつけは恐ろしい。秀次はともかく、親の欲目で見てすら出来がよいとは言いかねる秀勝や秀保などに、能力以上の出世は望みたくない。
(むしろ親子兄弟、水入らずの倖せを噛みしめながら、身につり合った一生を、しずかに送りたいのに……)
というのが、|とも《ヽヽ》の本心であり歎きですらあった。
お摩阿の私室には母親のお松が来合わせていた。継母だが、じつの親子同様お松は摩阿姫をいとしんで、目と鼻の先の前田邸からほとんど毎日、入りびたりに娘の世話をしにやってくる。お摩阿の側も何かというとすぐ、両親のそばへ甘えに行き、五日十日と泊りつづけて、局を空けることが多い。
「いつまでも嬰児《ねんねえ》め」
秀吉は匙《さじ》を投げている。寵妃の中でたった一人、独り占めできない特殊例と見て、お摩阿のわがままを許していた。はじめから、くれたともくれぬとも判然しがたかった前田夫妻の態度なのだ。金沢にいたころと同じく、側女となってのちも親たちが面倒をみるのを、条件のようにして引きとられてきた娘だったのである。
|おくて《ヽヽヽ》だし、なよなよと身体は細い。乳の盛り上りなども掌に入ってしまいそうなほど小さく、青い果物に似ていつまでも固いが、年を重ねて根《こん》よく愛撫するうちにそれなりに熟れ、まるみや芳香を増しかけていた。ほかに、この種の女体を持たぬ秀吉には、だからお摩阿を、
「そんなに親もとが恋しいなら、帰れ」
と追い出す決断は持てない。といって、やみくもな執着も近ごろ薄れたのは、新しくふえた側女たちに興味がそれたからだった。
沼地の藻の花のように陰気で、口かずの少ないお摩阿だけだと、|とも《ヽヽ》も半時と間が持たないが、引きうけてその分、お松が舌を動かし、お久万まで座に加わったため取りとめなく話がはずんで、気がつくと冬の日ざしは、いつのまにか西へ傾きかけていた。
「長居いたしました。また、しばらくのお別れでございます。どうかお松さま、お達者で……」
腰をあげかけて、|とも《ヽヽ》は気づいた。肝心のお摩阿がいない。五十女三人のお喋りに辟易してそっと逃げ出したのだろう。
「お廊下の勾欄に倚《よ》って、庭をごらんあそばしておいでです」
侍女が言うまま出てみると、なるほどお摩阿の、蜻蛉《かげろう》に似たうしろ姿が夕光《ゆうかげ》に滲んでいる。
「なにを見ているの? 寒いでしょうに……」
お松に声をかけられて、ふり向きざま、
「上さまと茶々さまが、庭をそぞろ歩いていらっしゃるのよ。ほら……」
指さした声《こわ》つきは、外見の華奢からは思いもよらぬ芯のきつさを現わして、妙にきっぱりと三人の耳に届いた。
「お茶々ってあの、浅井どのの姫さまですか?」
思わず小走りに、|とも《ヽヽ》は勾欄ぎわへ出た。目通りしようか、するまいか、頭を悩まして大政所とも相談し合い、けっく北野の茶会が流れたため寧々の思惑を勘案して、
「挨拶せずに去のう」
ときめた相手である。新参のご愛妾、生母お市の方ゆずりの美貌の持ちぬしということで、いま聚楽第じゅうの噂の的になっている娘だ。思いがけず天守の高楼から、その茶々どのをかいま見られる……。女らしい好奇心に、|とも《ヽヽ》の動悸ははずんだ。
「どれどれ、どこに?」
「あの築山の、小松のかげに……」
「おお、あのお方ですか、茶々さまとは……」
花のない季節であった。手入れはみごとなまで行きとどいているが、目を楽しませる色彩には欠けた霜枯れの庭園である。それだけになお、茶々の艶《あで》やかさはきわだつのかもしれない。染みつきそうな茜の下に、秀吉と寄り添って佇みながら、何ごとか語り合い、ほほえみ合っている姿は、豊穣な若ざかりの気品に溢れて、そこだけが白い静かな円光にでも包まれているかと疑ったほど美しかった。
秀吉の顔つきにも、穏やかな安息がたゆたっている。それは新婚の当初といえども、お寧々との間には醸《かも》せなかった貴重な、しかし女と共に居る男としては、ごく当り前であるはずの、明るいくつろぎの表情であった。
いま秀吉は、五十一だ。茶々は十八か九に見える。それでいて年の差が示す不自然さがどこにもない。先の世から決められていた結びつきとでもいいたげに、二個の立ち姿はしっくりと、夕風の中に※[#「さんずい+解」]け合って見える。
|とも《ヽヽ》は搏《う》たれた。名状しがたい、不思議な衝撃を受けたのである。
(茶々どのはきっとみごもる。藤吉郎の子を、あのお方だけが生むにちがいない)
肉親の勘、そして同性としての直感が、|とも《ヽヽ》の心をゆさぶり動かす……。
(そうなったあかつき、秀次や秀勝の身の上には、どのような変化がもたらされるのか)
不安はなかった。失うものを惜しむ気も起こらなかった。
(息子もわたしもが、解き放されるのでは?)
その期待のほうが、よろこびを伴って一瞬、|とも《ヽヽ》の胸をかすめた。
彼女は他の三人の顔を偸《ぬす》み見た。お摩阿の目に針の細さで燃えているのは、幼い嫉妬だし、お久万のそれはあきらかな憎悪と警戒であった。福々しいさがり目尻の奥に、お松一人が本心を晦《くら》ましているのは、
(側女同士の葛藤《かつとう》の渦になど、いつまでもお摩阿を巻き込んではおかぬ。助け出してやるよ。親の手で……)
その確信があるからに相違なかった。
八幡山城へ帰りつくと、|とも《ヽヽ》はほっとし、にわかに疲れが出た。夫の三好弥介吉房も待ちかねていたらしい。
「姑者人《ははじやびと》はお障りのう過ごしておられたか? 関白殿下のご気色はいかがであった?」
都の様子を、あれこれ聞きたがった。
「みなさま、上々のご機嫌でござりました。子供らも揃って元気でな、父《とと》さまによろしゅう伝えてほしいと申しておりましたよ」
「おお、伜どもに逢うたか」
「秀次にだけは対面できませなんだ。大坂のお城の、留守を仰せつかっておるとかでな」
「でも、達者で、職務に精出しておると聞けばひと安心じゃ。小吉や三吉も変りないか?」
「三吉はもう、すっかり養い父の秀長どのになつき、立派な青毛の鞍置き馬など頂いて、いっぱし郡山城の若殿ぐらしを楽しんでいますし、小吉も領国の仕置きは手練《てだ》れの宿老どもに委せ、もっぱら聚楽の新邸に詰めて、関白さまの御用を勤めております」
と、正反対な取りつくろいを口にしたのは、さすがに帰城早々、気弱な夫を悲しませたくなかったからである。
「これはな、母《かか》さまが手ずから縫うて、御亭どのへとことづけられた南蛮ラシャの首巻き、この壷は寧々どのが、施薬院に命じて特別に調合させた痰《たん》切りの水飴でござります」
荷の中から都みやげのくさぐさを取り出すと、吉房は他愛なくよろこんで、
「大政所さま、北政所さまじきじきのご配慮、もったいない」
律義をまる出しに押し戴いた。
聚楽第の華麗さ、北野の茶会の評判など、語り分ける話はたくさんあったが、
「くたびれたであろう、ゆるゆる聞かせてくれればよい」
と吉房は気づかい、いたわられると|とも《ヽヽ》の側も、
「わたくしの留守中、持病のお腰は痛みませなんだか? くれぐれも申しつけて出たはずじゃが、厨《くりや》の者どもはこなたのお歯に合わせて、飯を柔こう炊きましたか?」
夫の健康を気に病んだ。
「大事ない大事ない。腰元たちが、灸《やいと》を朝夕据えてくれたし、飯の塩梅《あんばい》も上々であった。でもなあ、やはりそなたがおるとおらぬとでは、天地の違いじゃ。毎日が所在のうてならなんだ」
かたわらに子でもいればまぎれるのだが、三人の内の二人までが養子に取られ、長男の秀次も戦野に大坂にと席のあたたまるひまはない。初老の夫婦は殺風景な城住いのなかで、おたがいの身の温もりだけを頼りに、ひっそりと年を重ねてきたのである。
「淋しゅうはあっても、こなたとのここでのくらしが、わたくしにも何よりのくつろぎでございます。湖水の色を目にしてはじめて、我が家にもどった気がしました」
「都帰りの目には鬱陶しかろう。相も変らず、わしの身の回りは書籍の山じゃで……」
「お身体にもこの部屋にも沁みついた古書の匂い……。嗅ぎ馴れたカビ嗅さが、いっそ安気なのじゃもの、我ながら可笑《おか》しゅうござりますな」
と窓に倚《よ》ると、琵琶湖の波映は一望にひろがり、向いの山なみに日が落ちた直後であった。空いっぱいの夕映えがそのまま湖面を彩って、こまかな波頭が炎さながら揺らめき立つ。城内にまで届くかすかなきしみは、帰りを急ぐ漁舟の櫓音《ろおと》だ。対岸の聚落にはすでに灯がともり、城下の家々からも夕餉の煙が立ち昇りはじめた。杭にとまって羽をやすめる黒い鳥かげは、鵜《う》か、それとも鳰《にお》ででもあろうか。
本能寺の変後、安土城は棄却されて町は荒れはてた。秀吉の命令で住民はいっせいに八幡山城下に移転させられ、商家の活気は、安土での旧観をしのいでいる。
城主の実権は秀次にあるが、父としての補佐を、
「関白さまへの、これもご奉公」
と信じている吉房は、時おり町筋を巡廻して町民の訴えに耳を傾け、可能なかぎり助力助言を惜しまなかったから、老幼貧富、さまざまな階層に、
「気さくな、おやさしい大殿さま」
と、慕われていた。そんな夫の気くばりのこまやかさ、身分がどう変っても失わない小|てい《ヽヽ》なくらしへの共感が、|とも《ヽヽ》にはうれしい。
「今日は日和《ひより》もよい。ちと近郊にまで足を伸ばそうかな」
意欲を示す日は、だから焙《あぶ》り|もろこ《ヽヽヽ》やら昆布の煮しめやら、好物の惣菜をたっぷり重に詰め、甘い物から吸い筒の香煎までを供の小者に担わせて、
「お気をつけておいでなされや」
いそいそ送り出すのが常だった。
それだけに、|とも《ヽヽ》が留守だと、見廻りに出る気も萎えるらしい。吉房は読書でだけ無聊を慰めていたようだ。
湖畔の残照は、巨椋ガ池の芦《あし》に鳴る風の音を|とも《ヽヽ》の耳に|蘇 《よみがえ》らせ、さらには、聚楽第での夕庭でかいま見たお茶々御寮人の容姿までを、あざやかに思い起こさせた。
「伏見に城を造るとかで、巨椋ガ池を弟は、なかば潰すつもりだそうでござります。堤を兼ねて、池のまん中に街道を通すとか……。そのようなことをされては岡屋津の港が岸の一方へ封じこめられてしまう、生き死の瀬戸ぎわじゃと歎きましてな、町人衆が小一郎のもとへ哀訴して出たが、どうつきましょうなあ結着は……」
茶々の美しさ、匂うばかりな挙措のけだかさについても黙ってはいられずに、
「藤吉郎との相性のよさは、寧々どのはもとより、これまでのどの側女にもないものと、わたしは見て取りました。あの姫は、まちがいなく弟の子を生みますぞ」
と話すと、吉房は興ありげに聞きながら、
「もし、茶々どのとやらが懐胎すれば、関白さまと養子縁組した我が家の伜どもは、お払い箱となるやもしれぬなあ」
|とも《ヽヽ》が抱いたと同じ予測を、やはり口にした。
「よろしいではありませぬか。子を三人《みたり》まで持ちながら一つ屋根の下でくらせぬなど、わたくしには悲しゅうござります」
「それもそうじゃ。しょせん我らが息子風情に、天下人の跡目相続など荷が勝ちすぎていよう。茶々さまが浅井どの、織田どのの血を享けた娘御なら、これを越す資質はあるまい。豊臣のお家にとっても大慶なわけじゃ」
と、吉房の言葉も恬淡《てんたん》としていた。
彼らの息子たちになると、しかし両親の無欲ぶりとはほど遠い。若いだけに、むき出しな警戒心を秀吉の側室たちに燃やしている。
年があけてまもなく、孫七郎秀次が前触れなしの唐突《とうとつ》さで八幡山城に姿を見せた。城主の、不意の帰城である。吉房夫婦をはじめ留守を預かる家臣らは、よろこびのうちにも一様に、とまどいを隠せなかったが、
「すぐまた、発たねばなりません」
|のっけ《ヽヽヽ》から秀次の態度には落ちつきがなかった。
「なんぞ公務を帯びての帰国かな?」
「人夫の徴発を割り当てられました。支配地内から都合《つごう》五千名ほど差し出すことになったので、その指図のために帰って来たのです」
「またぞろ工事か?」
「城造りですよ。関白さまは山城の淀に築城を仰せ出だされました」
「ほ、淀城か。どなたが住まわれるのであろう」
「女です。去年あたらしく愛妾の一人に加わった茶々という女性のために、城を一つ造ってやる気になられたらしい。なみなみならぬご寵愛だと、北政所はじめ関白殿下の周辺では、女房がたが焼き餅の角を振り立てています」
脇から|とも《ヽヽ》も膝を乗り出して、
「では茶々さまは、懐妊でもあそばしたわけか?」
思わず声をつつぬかせた。
秀次はにがりきりながら、
「そんな風聞もなくはないが、まさかみごもりなどしないでしょう」
嫌な予想から、強《し》いてのように回避したい口ぶりで言った。
「関白殿下には子種がないはずですからな」
「そんなことはない。長浜の領主であったころ、侍女あがりの南殿というお側女に、男女一人ずつの子を生ませておるよ」
「でも、それから後はあれほどいる嬖妾《へいしよう》のだれ一人、懐胎した者はないではありませんか。お茶々御寮人だけが特例というわけにはいきますまい」
「母は聚楽第を離れる前日、茶々どのと関白さまが、庭をそぞろ歩くお姿を天守からかいま見た。いかにもむつまじい、しっくりとした仲合《なからい》と受け取れたなあ。正妻の寧々どのにも、そのほかのお局がたにもない相性のよさ……。子を生んだ女の勘で、そのとき母は思うたよ、ことによると茶々どの一人は、お腹さま、お袋さまと呼ばれる身分になられるのではあるまいか、とな」
「まるで、そうなってほしいようなお口ぶりですな母上」
苛だたしげな棘《とげ》が秀次の語気に現れた。
「茶々どのがご実子を生みなどしたら、私や秀勝はどうなります? 邪魔者、余され者の悲境に転落するだけですよ」
「それは僻《ひが》みすぎであろう」
聞きかねて、吉房が口をはさんだ。
「ご実子がないからこその養子縁組……。関白直系のお子がもし、誕生なされたら一族たる者、盃をあげて宗家の慶事を祝すべきではないか。いさぎよく身をしりぞいたところで乞食《こつじき》浮浪になりさがるわけではない。近江二十万石。押しも押されもせぬ大大名だし、しかも豊臣家の、そなたは有力な連枝でもあるのじゃ。宗家のお跡取りをお援けして、柱石となるだけの自覚とゆとりを持たねばならぬ」
「わたしには納得しかねますな」
癇癖の発作をむりやり抑えているのか、秀次の顔色はすさまじいまでに青ざめた。
「ゆくゆく天下人の座を譲ると、叔父上は約束されたはずでしょう。状況がどう変ろうと、男なら一諾を重んじていただきたいものです」
「確たる約束など交したおぼえはない。ここ数年、殿下のお気持はゆれ動いてきた。まだまだ五十そこそこ……。実子の誕生が望めるのではないかとの迷いと、もはや未練は断ち切って後継ぎをきっちり定め、後日の悶着を防がねばならぬとする理性との間を、ゆきつもどりつしておられたのじゃ。そのような混迷の中から生じた養子話……。いつ何どき変替えされたところで、当方とすれば恨む筋合いはなかろうではないか」
「自分一人の権勢欲で、関白の|あと《ヽヽ》釜を狙いたいわけではありません。万一いま、茶々どのの腹にお子が生まれたとしても、関白殿下のご余生あと十五年とみて、せいぜいが十四、五にしかならぬ少童の内に、永別の歎きを見るわけでしょう。それこそ再び、天下騒乱のもととなります」
「まあさ孫七郎、計算ではそうなるが、父性の情はまた、別なものよ。ことにも近来、ご気色の照り曇りが常ならぬと聞く関白さまじゃ。お怒りを引き出して身の破滅になどならぬよう、くれぐれも自重せねばいかぬぞ」
しぶしぶ口を閉じはしたものの、承服しがたい思いは顔に出ていた。両親のどちらにも似ぬ中高の、鼻筋すずしい美男子である。年はまだ、ようやくこの正月で二十を一つ越したばかりだが、大坂の私邸にすでに側室を三人かかえ、うちの一人に男の子を生ませていた。どちらかといえば、やや陰気にさえ見える静かな生まれ性《さが》で、こればかりは父の譲りか学問の習得に身を入れている。一つには、無学を終生の|ひけ《ヽヽ》目にしている秀吉が、せめて甥たちには学びを奨励したためもある。
京・大坂にいるときは五山の学侶を招いて漢籍や仏典の講義を受け、八幡山城に帰った日は父の書斎に入りびたって、新刊書の読後評を交し合ったり、詩を作って時をすごすのを秀次はたのしみにしていた。
夫役《ぶやく》集めにもどった今度も、四、五日、両親とくらすうちに昂ぶりはおさまったのだろう、
「また、まいります。日ましにこれからは陽気がよくなりますが、どうかお二人ともご油断なく、養生につとめてください」
尋常な挨拶をのこして上洛していったが、神経の鋭敏さを如実に現す肩の尖りが、|とも《ヽヽ》の目にしばらく焼きついて消えなかった。おとなしいとはいっても秀次の内奥にも、異常性はひそんでいる。少年時代、弟秀勝の片目を突きつぶしてのけた残忍さを、|とも《ヽヽ》は忘れることができない。
(不相応な欲は禁物じゃぞ秀次、父御《ててご》の戒めをよう守って、関白どのの御意に逆らうような真似はしなさるなや)
城門を遠ざかるうしろ背に、心のうちで呼びかけていた。
──淀の築城と併行して進捗しつつあるのが、大仏殿の建立だった。なにかしら土木工事を起こし、地車の轟きや人夫曳き子の|えいえい《ヽヽヽヽ》声、手斧《ちような》、槌音《つちおと》を耳にしていなければ不安でたまらないとでも言いたげな、近ごろの秀吉だが、四月もなかばをすぎると、近江にまで喧《かしま》しく聞こえて来たのは、聚楽第行幸の取り沙汰である。
「いま一度また、おいでになって、嫂《ねえ》さまもぜひお成りの模様を拝観なされませ」
とお寧々は言い、その姉のお久万にもすすめられはしたけれども、|とも《ヽヽ》は出かける気にならず、人づての噂だけで満足していた。
行事は後陽成帝のお成りから始まり、饗宴に引きつづく管絃の御遊《ぎよゆう》、和歌の御会、舞楽のお催しなど五日間にわたったという。
中でも人目をそばだてたのは、献上品の豪華さだった。さまざまな品物のほかに、洛中の地子銀《じしぎん》五千五百三十余両を、御料所として秀吉は、天皇に贈呈した。そのほか正親町上皇と陽光院の六ノ宮に地子米八百石、他の諸王、廷臣らにまで近江の私領から総計八千石にも及ぶ地所を頒《わか》つなど大盤振舞いの鷹揚さを見せたが、いっぽう、この機会を利用して皇室との抱き合せに、内大臣織田|信雄《のぶかつ》、権大納言徳川家康ら諸大名から、絶対服従を求める誓紙を出させるのも忘れなかった。
表向き、尊皇を名分にふりかざしながら、じつは豊臣家の権力基盤を|より《ヽヽ》鞏固にしようとの狙いである。紙きれ一枚の偉力が、しかしどれほど信頼の裏づけになるものか、家康あたりの肚の内までさぐってみれば、効果のほどは保証しかねた。秀吉の立場から言えば北野の大茶会と並んで、でも、ともあれ聚楽第行幸はその覇業の頂点を示す盛儀であった。全国統一の達成を、形によってあまねく天下に知らしめた記念碑的行事でもあったわけで、それなりに意味のないことではなかった。
当面、残る厄介はただ一つ小田原北条氏の存在だが、家康はじめ諸大名から、誓紙を徴した事実は、討伐の軍旅を起こす下準備として、やはり必要な手つづきだったともいえるのである。
|とも《ヽヽ》には行幸に絡めての秀吉の自己保全、政治目的などわかるはずもなかった。しかしお寧々の甥の辰之助秀秋が、左衛門督《さえもんのかみ》に任官し、唐名の左金吾《さきんご》を名の上に冠して、意気揚々|供奉《ぐぶ》の行列に加わったとの風評だけは、折れ針の先さながらチクリと耳朶《じだ》に突きささった。お茶々懐胎の予感には、嫉みも動揺も起こらないのに、秀秋ら寧々一族の若者たちの噂にだけは、なぜか|とも《ヽヽ》は平静でいられない。不快な刺激に心が騒ぐのだ。われながら、そんな気持のばらつきが不可解だし、不思議でもあった。
行幸の興奮が下火になると、つぎは大仏殿の建立におおかたの関心がどっと移った。
五月十五日、真夏の青葉照りの中で据礎の式がものものしく取りおこなわれ、夜を日についで巨材の搬入が開始された。淀城の築造も急速に進められているが、同時にここへきて、いよいよ徹底しはじめたのは刀狩りの指令である。
「百姓に武器はいらぬ。大仏殿に用いる釘や|鎹 《かすがい》の料に、槍刀の穂を鋳溶《いと》かすのだ。毘盧遮那仏《びるしやなぶつ》への、結縁《けちえん》の好機と思って、一本のこらず差し出すように……」
そう触れ出されてはいるけれども、実態は農民への武装解除であった。
「鞘《さや》もそのままと命じて来ているのは訝《おか》しいではねえか。釘にするなら刀身だけでよいはずだものな」
「大仏殿に使うなんてのは嘘の皮さ。ほんとうは刀をわんさと調達して、唐御陣に役立たせるおつもりなのだよ。関白さま、ずるがしこく考えとるわい」
と、庶民の嗅覚はいつもながらするどい。
秋もなかばに近づくころ、はやくも大仏殿は洛南の空の一角に半造りの偉容を現わし、まだ足場囲いが取り払われぬうちから、秀吉は待ちきれず毛利輝元らをともなって参詣におもむいた。
淀城はそれよりも前に完成に漕ぎつけていた。人々の口から口ヘ、野火の迅《はや》さ烈しさで同時に伝わったのは、
「お茶々御寮人が、どうやら関白さまのお子をみごもったらしい」
との、ささやきである。
「やはり懐胎なされたか」
予期していた事だけに、|とも《ヽヽ》はさして驚かなかった。うろたえもしなかったが、秀次の焦りを思いやると、やはり我れ関せずの心境ではいられなかった。
「自棄《じき》になど陥って、関白殿下のお怒りを蒙《こうむ》りなどしてみよ。孫七め、聚楽第の番衆どもの、二の舞を演じさせられるぞ」
と、吉房も気を揉んだ。
お茶々の妊娠を、まっ先に知ったのはむろん秀吉であったろう。淀城の建造を遮二無二いそがせて、壁などまだ、生乾きのうちに彼はお茶々の身柄を、宝物のように城中に移した。
「まちがいないか? しんじつ赤児《やや》を宿したのか?」
狂喜したのは当然としても、それからは情緒の振幅が極端に大きく、不安定になり、ささいなことに激怒するかと思うと泣き、あるいはよろこぶなど、侍女も近習もが、腫れものにさわる状態となった。
その、一つのあらわれが、御番衆十七名に課した七条河原での極刑である。聚楽第の番衆詰め所に、だれの仕業か、墨くろぐろと落首の紙が貼り出されたのだ。
千早振《ちはやぶ》る神も敷地を落とされて
思いのほかに十穀《じつこく》を絶つ
と、神社神官の困窮を歌ったもの……
法華経《ほけきよう》の裏打ち紙の法《のり》(糊)すぎて
おりおり捲《め》げば経(京)ぞ破るる
と、厳しすぎる法の施行を皮肉ったもの、また税物の誅求を諷して、
村々に乞食の種も尽きすまじ
しぼり取らるる公状の末
と詠んだもの……
よしやただ今年はかくも過ぎぬべし
また来《こ》ん春の行方《ゆくえ》知らずや
と露命のつなぎがたさを歎き、それとなく豊臣政権の未来を暗示したものなど数首だが、落首に託しての鬱憤ばらしは、今にはじまったことではなかった。げんに|とも《ヽヽ》が、舎弟の小一郎秀長、末むすこの三吉秀保らとはじめて聚楽第の正門をくぐった日、やはり堀端の柳の木に落首の紙が貼られ、人だかりがしていたではなかったか。
家来に命じて、いちはやく秀長が破り取らせ、さりげなく懐中してしまったために|とも《ヽヽ》は気づかなかったけれども、こんどの騒動は八幡山城にまで聞こえて、夫婦を慄えあがらせた。ある意味では、人の口を借りて天が警告する秕政《ひせい》への批判なのだが、秀吉は歯がみせんばかりに立腹して、
「わたくしどもではありません」
必死の抗弁に耳をかたむけず、
「番所の壁に貼ってあった以上、そこに詰める者全員の咎《とが》だ」
と、当日の番に当っていた番衆ことごとくを捕えさせた。七条河原に曳き出しての処刑は、しかも残酷をきわめていた。うしろ手にくくりつけておいてまず、第一日目には十七名すべての鼻を削ぎ、二日目に耳を切り、三日目に目を刳り抜き、四日目に至って逆さ磔にかけるという言語に絶したものだったのである。
見物は矢来《やらい》の外に垣をつくった。女こどもの中には、しかし酸鼻に耐えかねて卒倒する者が無数に出たし、大の男でも四日つづけて見に出かける勇気はなかった。
「不穏の徒を、取りしまる役目にある侍どもが、ところもあろうに番所の壁を使って、小癪な世相諷刺をおこなうなど許しがたい。厳罰に処して余類へのみせしめとせよ」
猛り狂って命じた舌の根が、ろくにまだ、乾かぬうちに、次に秀吉がしてのけたのは、公家衆や諸侯への金六千枚、銀二万五千枚にもおよぶ豪勢きわまる金配りであった。昨日の忿怒が、今日はがらりと笑顔に変わる。
(明日はまた?)
となると薄気味わるいが、くれるものは貰っておくに越したことはないのだ。
金銀の産出は、ここ五、六十年来いちじるしかった。全国いっせいに金山銀山が開発され、精錬の技術も目をみはるばかり進歩した。大判小判の鋳造を請け負った金座の後藤、銀座の常是座《じようぜざ》からは莫大な運上が秀吉のもとにはこびこまれ、金蔵ははち切れんばかりの詰まりようを見せている。
「人の生死は定めがたい。目の黒いうちに形見分けをしておこう」
縁起でもない言い方は、じつは自信の逆説的表現かもしれなかった。聚楽第南門の内がわ二町ほどの広場に秀吉はおびただしい台を置き並べ、その上に金貨銀貨を山積みさせて、
「さあ、持ってゆけ」
諸卿諸大名に分け与えた。
腥い血の雨と、光り輝く黄金の雨──。交互にそれが降ったのも、根をたどれば茶々の懐妊がもたらした高揚の、喜怒両様のめまぐるしい表出であった。
淀の新城で、茶々がつつがなく男児を生み落とした瞬間、人さまざまな受け取り方にもよるけれども、日本中を声なき声──いわば衝撃波に似たものが鋭く走った。
豊臣のお家も、お跡取りに恵まれてこれで安泰と、単純に喜悦する者、いやいや、かえって将来の禍根が芽ばえた、なまなか今になって関白殿下が子の親になるなど、事をややこしくするもとだと憂うる者、利害に絡んでの、母子への憎しみ、正反対な彼らへの愛着など、それぞれの思いが津波さながら、巨大なうねりとなって津々浦々までを揺りうごかしたといってよい。
手ばなしなよろこびようの中に、秀吉すらが不安の翳《かげ》りを拭いきれないのは、やや月たらずで生まれたせいか、赤児が小さく、並みよりも軽く、いかにも|ひ《ヽ》弱げな印象を纏《まと》っていたからである。
「お案じなされますな。小さく生んで、大きく育てよと下世話にも申します。小柄というだけでどこに一つ、難のない宝の君の若さま、わたくしどもが受け合って、まるまるとお肥らせいたしましょう」
取りあげた老女や乳母が言い、医師どもも胸を張って保証するが、秀吉の恐れは去らない。
「棄て子は育つ」との俗信にまで縋《すが》って、赤児を「棄《すて》」と命名した。
しばらくは錦繍《きんしゆう》に包まれた天下人の世継ぎが、於棄《おすて》さま、棄丸ぎみなどと路傍の浮浪児じみた呼ばれ方で、当人は、でも無心なまま過ごしたあげく、一応の納得ができた時点で「鶴松」と、次はめでたずくめの名に変った。
千年うちつづく鶴の齢、松の緑……。いついつまでもすこやかに、長命してくれよとの、切ないまでの秀吉の願望がこめられた名であった。
誕生は天正十七年五月二十七日──。さみだれがちの薄ら寒さから、一転して暑熱に移った夏のさかりである。笠なしでは強すぎて、霍乱《かくらん》でも起こしかねない日ざしの下を、諸卿諸大名の祝使が引きも切らずつづいた。淀城の大広間は豪奢な贈り物で足の踏み場もなくなり、かえってそれを見ると、何ごとかさらに一層、大きな欠落が生じでもしたような焦燥感に、秀吉は悩まされるのだ。
「わたくしどもも、祝詞を述べにまいらねばなりますまいな」
夫の弥介吉房に、|とも《ヽヽ》は言った。
「むろんじゃ。ほかのこととは違う。夫婦そろって御賀《おんが》を申さねば礼を欠こう」
「でも、こなた、炎天下の旅に耐えられましょうかなあ」
と、|とも《ヽヽ》が気づかったのは、ここへ来てまた、吉房の腰痛が悪化しかけていたからであった。
「案じるな。長年の持病ゆえ、扱いには慣れておる。淀までなら船で水路を行く手もあるしな」
家老を先行させ、取りあえず祝意を表させてはおいたが、それだけでは済まされぬ思いが吉房と|とも《ヽヽ》をせき立てた。秀次にしろ秀勝にしろが、なまじ秀吉の養嗣子に準じているだけに、実子生誕のよろこびを言上し遅れたりすれば、
(内心、不服なのであろう)
と、誤解されかねない。
お茶々懐妊の取り沙汰を耳にしたときから、松竹梅、鶴亀を描かせた絵屏風、彩色華やかな犬這子《いぬぼうこ》など決まりきったものながら心をこめて、祝いの品を用意させていた|とも《ヽヽ》だった。吊り台にそれらを載せ、病夫をいたわって八幡山城を出たときには、年のせいか、
(やれやれ、またぞろ、城を留守にせねばならぬのか)
億劫《おつくう》さが先に立ったが、歩きはじめるとそれも消えて、
(帰りにいま一度、聚楽第へ寄り、母さまや|きい《ヽヽ》を見舞わねばなるまい)
と思いつくまでに、|とも《ヽヽ》の足どりは確かなものになっていた。
後陽成帝のお成りが済んでまもなく、気疲れからか、大政所|なか《ヽヽ》が病床につき、さいわい軽快はしたものの、その看護を口実に上洛してきた徳川家康夫人旭姫──|きい《ヽヽ》が、老母と入れ代りに病気になって、これは岡崎へも帰れぬ容態だという。
気にしていたやさきだし、ひさびさに|とも《ヽヽ》は、ぜひ妹の顔を見たい。鶴松との対面よりも、むしろその期待のほうに心が傾いた。
水の上だけに船旅は涼しく、宇治の流れに乗って岡屋津の港につくと、町衆が総出で迎えてくれて、あのときと同じく井筒屋了意が、
「ぜひ、手前どもへ……」
と、一夜の泊りを提供してくれた。小一郎秀長から、あらかじめ指図がきていたらしい。
巨椋ガ池が、まだ元のまま平穏な水の拡がりを見せているのに、|とも《ヽヽ》は何がなしほっとさせられたが、遙か対岸にかすむ淀の水辺は、城が築かれたせいか様相が大きく変って、葦原に風が鳴るだけだった淋しい川岸に、日ましに人家が建ちはじめているという。
築城の采配は秀吉に委されて、もっぱら秀長が振るったと、|とも《ヽヽ》は聞いていた。あくる朝はやく岡屋津を発って淀に近づくと、なるほど華奢な、うら若い母と子が祝福に包まれて起居するにふさわしい美しい白堊の城である。
入りびたりにこのところ、淀城に居つづけていた秀吉が、
「おう、よう来たな、弥介どのまで……」
さすがに手ばなしの上機嫌ぶりで、
「見てくれ、秘蔵のせがれを……」
紋切り型の祝い言葉になどろくさま耳をかさず、みずから先に立ってつれて入った奥の間に、当の赤児がいるのは驚かぬとしても、茶々までが無造作に胸をはだけて、その口に乳房を含ませていたのには吉房も|とも《ヽヽ》も、不意うちの狼狽《ろうばい》を隠せなかった。
よそながら、かいま見たことはあっても、表向きは初めての見参である。派手やかな織物の袴の膝を、秀吉は|むず《ヽヽ》と組んで安坐すると、
「こりゃ、わしの姉貴とそれのつれ合いじゃ。孫七郎や小吉、三吉らの親どもじゃよ」
姉夫婦を茶々に引き合わせた。
目のやりばに|とも《ヽヽ》は困った。抜きうちは茶々も同じだ。羞恥を察して、うつむきがちに挨拶を述べるのを、
「お目にかかれてうれしゅうございます」
ゆったりと受ける茶々の側に、しかし周章のけぶりはみじんもなかった。
絖《ぬめ》を張りでもしたように、咽喉もとから胸にかけての肌は白く、まばゆいばかり若ざかりの凝脂《ぎようし》に輝いている。やおら赤児を乳母に渡して衿をかき合わせる仕草にも、こせついたところがなく、天性の気品が滲んでいた。
大声で秀吉は喋る。何百回、何千回、それは繰り返しながらけっして彼自身、飽きることのない話題なのだろう。生まれた直後の、鶴松の小ささ、しばらく産声《うぶごえ》をあげず、手に汗にぎって周りの者がやきもきするうちに、炸《はじ》けでもしたような第一声を、元気よくあげてくれた刹那の安堵……。
「何であれ、よいと聞かされたことは片はしから試みる気でな、城門の外につれ出した。ほんの型ばかりじゃが往来に置き、すぐ抱き上げて、これでいったんは、棄てたつもりよ。丈夫に育つとの縁起かつぎを、笑うてくれ姉者、親馬鹿とはこのことであろうな」
そのくせじつは、はかない俗信をすら頼りにせざるをえない真剣さが、秀吉の哄笑を虚勢まじりの、騒々しく、不自然なものにしていた。
茶々はそんな言葉のいちいちに、うれしげにうなずき、柔らかな微笑を送っている。口かずは少なく、秀吉のはしゃぎようにくらべると、はるかに落ちついて見えるのまでが、はやくも身に添いはじめた母性の貫禄に思えて、|とも《ヽヽ》にもほほえましい。
天守からの遠目でさえ美しかった目鼻だちは、距りがちぢまるとなお一層、近まさりして、|とも《ヽヽ》を見惚《みと》れさせた。言いようもなく雰囲気が優しい。身に備わった威がありながら、声《こわ》つきや表情にあたたかみが溢れて、|葩 《はなびら》がその芳香で虫を包みこむように、対する者の情感をふんわり安らがせる。
抱き取って覗き込むと、幾重にも重なり合った錦の襞に、小さな顔を埋もれさせたまま鶴松はあくびをした。
「なんとまあ、可愛ゆい若さまであろう」
思わず|とも《ヽヽ》は歓声を洩らした。世辞ではなく、おもねりでもない。我が子らの未来を閉ざす存在などと、まして憎む気は毛頭起こらなかった。産後の熟れと甘やかな乳の香の中で、しっとり潤っている母と子の姿に、藤吉郎秀吉が五十をすぎてはじめて、掴んだであろう充足の実態を、|とも《ヽヽ》も今、手ごたえ明らかに実感し得た気がした。
(弟も、やっと人なみな倖せにめぐり会えたということか)
茶々のためにも、|とも《ヽヽ》はよろこばずにいられない。実父母の仇、兄弟の仇、養父の仇……。秀吉への、怨恨にまみれた過去を切りすて、茶々にもまた、新しく、女として母としての倖せを、築きあげていってほしい思いがしきりだったのである。
この日の訪問で、吉房と|とも《ヽヽ》は茶々の妹のお初、お督《ごう》とも近づきになった。慶賀の意を表しに、妹たちも淀城に来ていたのだ。
二人ながら、茶々と並んで遜色ないあでやかな容色の持ちぬしだが、同じ美しい花であっても牡丹と蘭と藤の美がそれぞれ異なるように、彼女らの味わいには、おのずから特色と個性があった。
お初は中娘《なかむすめ》によく見るように、姉に寄りかかり妹に寄りかかり、いかにも無邪気な、他愛なげな口ぶりや態度で、対する側の保護本能をくすぐりながら、じつはなかなかに計算高くもありそうな女だし、お督はきわだって、三人の中では様子ありげに見える。母のお市どのの、水晶さながらな明澄な美貌を、あるいはもっとも濃く受け継いだのがお督なのかもしれない。瞼の張りがきりっと強く、切っ込みの深い濡れ濡れとした双眸は、彼女の怜悧さの象徴ではなかろうか。一の姉らしい大らかさ、ふくよかさを湛えた茶々の持ち味を、好もしいと見る向きには、お督の目鼻だちは暗く、寂しい。そのくせ昂然と項《うなじ》をあげ、めったなことでは笑いもしないのが、驕慢な感じを人に与える。彼女自身、わざわざそこを強調して、姉たちにはない魅力をつくり出そうとしているようだ。痩せぎすな、すっきり緊った身体つきも、どちらかといえば肥り肉《じし》の、見るからに豊潤なお茶々御寮人の餅肌とは、対照的といってよい美少年じみた印象なのである。
妹たちは二人とも夫と同伴で淀に来ている。お初のつれあいは、近江の溝口に一万石の所領を持つ京極《きようごく》高次、お督を妻にしているのは尾張大野の城主佐治与九郎だが、佐治は織田信雄の家臣だから、小なりといえども大名の列に入る高次とくらべると、大禄は食《は》むものの陪臣ということになる。
三人姉妹の中では、だれよりも容姿に自信ありげな、冷たく、取りつきにくくも見えるお督が、夫の身分にいささかの|ひけ《ヽヽ》目もこだわりも見せず、着替えにも湯浴みにもつききって世話を焼き、咳こめば懐紙を、汗をぬぐえば水《みず》団扇《うちわ》を、すばやく取って渡すまめまめしさが、
(この女《ひと》にも、こんな一面があったのか)
吉房夫婦には案外とすら受けとれたが、
「そのはずよ」
秀吉に言わせれば、苦笑まじりに、
「あいつら、膠《にかわ》でひっつけたほどの恋仲じゃでな」
と、|にべ《ヽヽ》もない。
「知っての通り、織田右府さまはお督らの伯父御。信雄どのも親族ゆえ、家来の佐治めはやれ使いの主君の供のと、しげしげ姉妹に会う折りがあった。お督のやつがいつのまにやら見染めてな、人の口の端にものぼる騒ぎじゃ。そこでやむなくわしが仲立ちして、祝言させてやったというわけよ」
「だいぶ、ご亭どのが年上のようじゃの」
「上も上、四十近いのではあるまいかな。お督はたしか今年十九──。似合いの夫婦《めおと》とは思えぬよなあ」
「何を言やる。こなたと茶々どのの年の開きは、それどころではあるまい。でもまんまと、子宝を授かった。男女の仲は、年などでは計れぬものよ」
「いや、同感同感。姉者の申す通りじゃな。茶々の若さにたじろがなんだからこそ、五十をすぎて、子の親にもなれたわしじゃ。男は頭頂《ずちよう》の毛が少々薄くなったとて、老け込んではならぬ。この教訓、吉房どのあたりも耳をかっぽじって聞いておかねばいかんぞ。わっはははは」
と話題が鶴松の上にもどれば、たちまち目尻はさがってしまう。
佐治は地味な、年相応に重厚な感じの侍だが、京極高次は薄皮肌の、背のすらりと高い優男《やさおとこ》で、なめらかすぎる口のききようが、|とも《ヽヽ》の耳には軽佻に聞こえる。
つまらぬことにもコロコロ笑いこけ、お茶々の無口、お督の沈黙を一人でおぎなうようにお初が饒舌をふるうのを、たしなめるどころか助長する賑やかさで、いっしょに笑ったり喋ったりしつづけるところは、しかし、いかにも単純そうだ。肚ぐろい企みなどとは縁遠い人柄に見える。年も二十六──。二十そこそこのお初とは、ちょうど釣り合っているのである。
「あれどもの仲人も、おれが買って出て祝言に漕ぎつけさせたのだわ」
と、秀吉は言う。亡君信長、お市どのらへの忠誠心から、よるべない浅井の遺児たちの、面倒をみてやったのだといわんばかりな恩きせがましい口ぶりであった。
「京極どのは、お家柄からすれば佐々木源氏の流れを汲む名族でしょう」
「そうじゃよ吉房どの。元来が京極家は、出雲、近江に威を張った守護大名じゃが、高次の曾祖父《ひいじじ》のころから屋台骨がぐらつき出してな、まず出雲を尼子《あまこ》に奪われ、近江の支配地までを浅井に喰い荒されてしもうた」
「高次どのにはわたしども、煮え湯を呑まされた苦い記憶がございます。なあ、お|とも《ヽヽ》」
夫の呼びかけに、
「おお、本能寺での凶変のとき、長浜を襲おうとした裏切り者は、そういえば京極高次どのでござりましたなあ」
目から鱗《うろこ》が落ちた思いで、|とも《ヽヽ》もうなずいた。
「浅井の威勢に押しまくられ、長浜とは目と鼻の先の観音寺へんにかがまり隠れていたのを、藤吉郎どのが見つけ出して織田右府さまの幕下にお取り立てとなったのじゃに、本能寺で上さまが落命なさるといなや、たちまち矛《ほこ》を逆しまにして長浜の城へ寄せてこようとしやった」
秀吉の母の|なか《ヽヽ》、妻の寧々、姉の|とも《ヽヽ》、その伜やつれあいなど羽柴家の血族老弱を捕え、土産がわりに明智の陣中へ曳いてゆこうとの魂胆だったらしいが、疾風迅雷、光秀を討って反撃してきた秀吉の鋭鋒にたまりかね、結局は手出し一つできずに、柴田勝家をたよって越前北ノ庄へ遁走してしまった高次である。このとき一時、長浜城内を吹き荒れた恐怖は、しかし女たちに、死を覚悟させたほどのものだった。
寧々と|とも《ヽヽ》は、老齢の|なか《ヽヽ》をはじめ、まだ幼かった子や甥の手をひき、命からがら大吉寺さして逃げ走ったし、留守を仰せつかっていた吉房ら少数の男たちも、責任感に青ざめながら|殿 《しんがり》を勤めて、敵の追尾に備えたのであった。
「いま会うても、ぬけぬけとして、あのときの恩知らずな仕打ちなどどこ吹く風のお顔つきじゃ。すまなんだ、魔がさしたとの詫びごと一つ言わず、女房のお初どの相手に、そのくせべらべら、役にも立たぬ無駄口ばかり叩いてござる」
と興ざめて、高次への非難を口にする|とも《ヽヽ》へ、なぜか秀吉が、
「過ぎたこと。若げのあやまちというやつじゃ。もはや堪忍してやれよ姉者」
取りなし顔に言ったのは、それなりの理由があるからだろう。
北ノ庄が秀吉に攻められ、勝家とお市夫妻が自尽して柴田家が滅びると、京極高次はいよいよ頼む木蔭を失ってしまった。
しかたなく次に身を寄せたのは、姉の竜子の嫁ぎ先である。若狭の守護武田義統の子の、孫八郎元明に迎えられて、竜子は当時、その妻になっていたのだ。
武田家は領国を朝倉に侵され、さらに織田勢にも攻略されて、昔日の威勢はまったくなかった。孫八郎元明が明智の呼びかけに応じて蹶起したのも、信長の横死に乗じて父祖の故地を回復しようとの悲願からだった。
でも、その望みはあえなく潰れた。光秀の自滅にひきずられて武田も敗れ、降を乞うて出た孫八郎元明は、北近江の寺で斬られてしまったのである。命を断つまでもなかった敵を、秀吉が殺させたのは、妻の竜子に目をつけたためだ。
それほど竜子は美しく、この姉の口ききで京極高次は助かった。勝者に恋慕されるほどの女を持ったおかげで夫は殺され、弟は巻き添えの死から逃れられたのであった。
いま聚楽第に住んで、京極局と呼ばれている竜子……。彼女への寵が、恩を仇で返しかけた高次への、秀吉の憎悪をにぶらせる。日ごろの性情からすれば八ツ裂きにしてのけても不思議はないはずなのに、
「若げの無思慮からじゃ」
と、長浜攻めの失策をかばい、姉の背について面目なげに、軍門にくだって来たあとは、旧怨を水に流して近江の田中郷に、二千五百石もの知行を与えたばかりか、浅井家のお初との、縁談までを取りまとめてやった。高次の母は、浅井長政の妹だから、お初と高次は従兄妹同士で結ばれたわけである。
その後さらに、義理の姉の茶々までが秀吉の側室に加わり、しかもここへきて鶴松を生んだのだから、高次の足場はいまや大盤石といえる。竜子の縁、茶々の縁──。秀吉の閨閥に結びついた二本の太綱に支えられて、びくりとも揺らぐ心配はなくなったのだ。
加増されて、食禄もげんざい一万石……。これからの働き次第では、大国の大守に封ぜられるのも夢ではない。舌のすべりがよくなるのも当然なのであった。
(好かぬ若者……)
と、|とも《ヽヽ》は高次を嫌いはじめたし、同じ思いは、弥介吉房も抱いたようだ。二日ほど淀城に滞在すると、先着していながらなお、だらだらと、まだしばらくは居坐るつもりでいるらしいお初夫婦、お督夫婦を尻目に、
「おいとまいたそうかな女房どの」
と、|とも《ヽヽ》をうながした。
「若君ご誕生の祝詞言上もめでたく済んだ。つぎは京へ赴いて、聚楽第とやらの結構を拝見し、わしもぜひ余生の|寿 《ことぶき》を延ばさねばならぬ」
「|きい《ヽヽ》を見舞うてもやりとうござります。よほど容態が悪いとか聞きました」
案じるのを鼻で嗤って、
「旭の病気は嘘じゃぞ。わがまま者めが虚病を言い立てて、岡崎へ帰るまいと、ごねておるにすぎぬ」
秀吉は憎さげに舌を鳴らした。
「では、床につくほどのことではないのじゃな?」
「寝たり起きたりぶらぶらしながら、わしが叱ると母者の袖に隠れて泣きくさる。大政所がまた、旭には甘いからのう、つけ上って、どうもならぬのじゃ」
いま一度、茶々の居室に出向いていとま乞いし、生後いくらもたたぬ赤児の鶴松にも、一人前の大人に対するよううやうやしく別辞を述べて、こんどは陸路を、乗物にゆられながら上洛すると、聚楽第では母の|なか《ヽヽ》が待ちかねていた。
「また逢えたなあ|とも《ヽヽ》よ。吉房どのもようござった」
「おいたつきと承りましたが、もうすっかり御本復でござりますか?」
「はい、はい。わしゃ見る通り癒りました。ただ、|きい《ヽヽ》の塩梅が、一向にすきとせぬで弱っております」
「でも母《かか》さま、藤吉郎が申しておりましたよ。旭の病いは嘘じゃ、わがまま病気じゃぞと……」
脇から口をはさむ|とも《ヽヽ》へ、
「なんの、虚病でも仮病でもあるものか。見てみればこなたらも納得しよう。来やれ」
憤然と先に立って大政所は|きい《ヽヽ》の病間へ、娘夫婦をみちびき入れた。
「やあ、|きい《ヽヽ》よ、こなた窶《やつ》れたなあ」
愕いて|とも《ヽヽ》はさけんだ。力を落とさせてはならぬとみずからいましめながら、つい、それを忘れて視覚からの衝撃を口にしてしまったほど、妹の面変りはひどかったのである。
「姉さまか」
つぶやく声もかぼそい。枕もとには寧々がい、長慶院お久万も詰めていたが、二人とも陰気な顔をしている。鶴松を芯に、のべつ秀吉の笑声がひびき、若やかな三姉妹のさざめきが和気を醸していた淀城とくらべると、花園の裏手の荒地にも似て、炎暑のさなかというのに聚楽第内の殿楼は、どこもひっそりと|うそ《ヽヽ》寒い。
大政所が健康を害したとき、その見舞いを口実に旭姫|きい《ヽヽ》は上洛して来、それっきり母の住む棟で寝ついてしまった。顔を見せたときからすでに半病人の弱りかたで、まもなく恢復した大政所とはあべこべに、日ましに症状は重るばかりなのだという。
「病名は何なのですか?」
「気鬱がひどいと医師どもは申します。どこといって、とりたてて故障は見当たらぬが、食気《しよくけ》がない上に、なだめすかして食べさせても吐いてしまうので一向に精がつかず、衰えてゆくばかりなのです」
寧々の、持ち前の早口にも、さすがに義妹への憐れみがこもっていた。
「なんぼ床の間の飾り物でも、形だけは徳川どのの、|きい《ヽヽ》は妻じゃでなあ、ちっとでも気分が持ち直したら、帰るがよいと、わしも初手は、口を酢くしてうながし立てた。どうも、でも、岡崎と聞くだけで|きい《ヽヽ》の容態は悪うなる。よほど、もどるのが辛いのであろ」
と、まして大政所の述懐は、娘の傷《いた》みを傷まずにはいられない母親の、気づかい一色に塗りつぶされている。
「わたしは母さまのおそばで死にたい。どうか姉さま、ここにいさせてくださるよう兄さまに、あなたからも取りなしてください」
姉との、足かけ三年ぶりの再会に昂ぶったか、|きい《ヽヽ》は泣きながら膝にしがみついてきた。枯れ枝かと一瞬、|とも《ヽヽ》が目を疑ったほど、その腕は痩せ細って痛々しかった。
[#改ページ]
小田原留守陣
残暑きびしい秋をしのぎ、かろうじて冬を越しもしたが、体力気力の、そこまでが限界だったのだろう、年が明けてまもなく、天正十八年の正月十四日に、旭姫|きい《ヽヽ》は母や姉、|嫂 《あによめ》ら身内の女たちの慟哭に送られて永眠した。四十八歳であった。
|とも《ヽヽ》は夫の弥介吉房が、先に近江八幡山の居城へ帰ったあとも、妹をみとるためしばらくのあいだ、聚楽第に残った。鶴松誕生の祝詞を述べに、腰痛をおして出てきた吉房である。
(疲れはせぬか。城へもどるといなや、寝込むなどということにならねばよいが……)
|とも《ヽヽ》は案じたが、夫にまして気がかりな|きい《ヽヽ》の容態を、どうしても見すごしては帰れなかったのだ。
せめてもの、|とも《ヽヽ》の心やりは、病状の悪化に逆比例して、|きい《ヽヽ》の気持が安らいでいったことだった。枕もあがらなくなると、
「もう、こうまで弱っては、いかな兄者も岡崎へもどれとは仰せられますまいなあ」
その安堵から、表情にまで穏やかさがもどり、うつらうつら眼を閉じている時間が多くなった。年のわりに小皺の目立つ老けても見える|きい《ヽヽ》の寝顔は、いかにも半生の心労に、
(くたびれはてた)
と言わんばかりで、
「哀れやの」
大政所をしきりに泣かせた。
この老母はせがれの秀吉に利用され、やはり岡崎の城ヘ一時、人質同様に下向させられた体験を持つ。「旭姫訪問」が表向きの理由だが、着くとすぐ娘ともども、一つ棟に軟禁され、軒先にとどくまでぐるりに柴薪を積みあげられて、
「上洛中の主君家康公に万が一、秀吉が危害を加えたら遠慮はいらぬ。火を放って中の二人を焼き殺せ」
徳川家の家来どもに監視された怕さは忘れられない。正妻とは名ばかりな、冷え冷えとした岡崎での、|きい《ヽヽ》の日常も、このときの滞在で大政所は痛いほど看取した。直接|きい《ヽヽ》に歎かれもしている。だからもう、二度と再び婚家へは帰りたくないと言い張る娘の心情が、だれよりも理解できた。針の筵《むしろ》に坐る辛さであったろう徳川家での歳月が、胸に迫って思いやられるのである。
「死ぬのはいやではござりませぬ。かくべつ恐ろしくもありませぬけれども、さだめしあの世で、嘉助どのが待ちわびておられるであろ。甚兵衛どのも待っておるかもしれぬと思うと、どちらへ行けばよろしいやら……。冥途でまで、落ちつき先に迷わねばならぬのが、悲しゅうござります」
喞《かこ》たれると、|とも《ヽヽ》も返答に窮してしまう。尾張中村での幼なじみ……。おたがいに好き合って、世帯を持った最初の夫が嘉助であった。木下藤吉郎の立身にともなって、
「水呑み百姓を義弟に持っては、外聞にかかわる」
との理由からむりやり武士にさせられたものの、人殺しの技など到底、身につかぬ嘉助は、戦場稼ぎを強いられるつらさから、ついに重症の気鬱を引き起こし、あっけなく他界してしまった。
|きい《ヽヽ》もふさぎ込んだ。三十を越すか越さぬ年で後家になったのだから無理もない。
「亭主でも持てば、また元気になろう」
と秀吉は男の無頓着さで家来の副田甚兵衛に妹を押しつけた。妻に死なれて、甚兵衛も当時、寡夫《やもめ》だったので、ちょうどよいと考えたのだろう。|きい《ヽヽ》の意志、甚兵衛の感情を|てん《ヽヽ》から無視した強引さだが、さいわい再婚同士うまくいって、夫婦仲はむつまじく、大政所も|とも《ヽヽ》も内心、ほっとしたのに、家康との提携が必要となったとたん秀吉は甚兵衛の手から|きい《ヽヽ》を召しあげ、さっさと岡崎へ嫁入らせてのけた。
女房を奪われて甚兵衛は恥じ、もとどりを払って出奔……。まもなく亡くなったと伝えられた。憤死であったかもわからない。
冥途へゆけば、待っているであろう二人の夫……。どちらとも飽きて別れた仲ではないだけに、
「あの世でまでも、行きどころに迷うのか」
との|きい《ヽヽ》の嗟嘆が、女たちにも身につまされるのだ。
臨終の枕辺に秀吉は居合わさず、ご逝去と知らされてやっと駆けつけてきた。さすがに死顔に目をそそいで、憮然とした面持ちだったが、それは妹への哀悼というより、徳川家との|きずな《ヽヽヽ》の切断、いま大童《おおわらわ》で準備中の小田原征伐に、葬式など重なっては、
「さいさき悪い」
とする舌打ちが根になっていた。
喪は秘せられ、旭姫|きい《ヽヽ》の亡骸《なきがら》はまるで人目を憚るように、ひっそり東山の東福寺に送られた。それさえ憐れでならないのに、さらに、
「あんまりな!」
身内の女たちを立腹させたのは、まだ|きい《ヽヽ》の初七日もすむかすまぬうちに、足許から鳥の立つ性急さで秀吉が用意をいそがせ、同じ聚楽第内で、かねて養女に貰っておいた織田信雄の娘小姫と、家康の嗣子秀忠との婚儀を取りおこなわせたことだった。
小田原北条氏の存在だけが、いまはただ一つ、潰し残した目ざわりだが、旧冬、北条氏直に宣戦の布告状を叩きつけて以後は、妹の生死などじつはそっちのけで、秀吉は出撃の用意にかかりきってい、北条氏と姻戚のつながりを持つ家康の、どたんばでの去就を気にしてもいて、
「旭が死んだのなら、つぎは小姫で……」
とばかり、徳川家との婚礼を強行したのである。政略であり軍略的示威でもあったから、はなやかな上にもはなやかに華燭の典は挙げられ、女たちは仕度に駆り出されてだれもが心中、むっとふくれた。
「|きい《ヽヽ》どのを踏みつけにするにもほどがあります。血もつながらぬ他家の息女を養女分にして嫁入らせたところで、形だけの結びつきにすぎぬ。目に入れても痛くない愛娘を、徳川どのは北条家の子息の妻にしているそうではありませんか。親の情愛で計ったら、そちらのほうが重いはず……。|きい《ヽヽ》どののときも同じじゃが、押しつけ嫁をくれてやって安心したがるなど、藤吉郎どのも甘いお人でござりますな」
と、中でも寧々の舌鋒には容赦がない。お茶々御寮人が秀吉の寵姫《ちようき》の列に加わり、淀城まで造ってもらって、そこで待望の男児を生んだ事実に、だれよりも深くきずつけられたのは当然、寧々である。
挙措にも顔つきにも、戦闘的とさえ言ってよいほどの負けん気がみなぎり、秀吉と対坐するとき、それはことにもバリバリと火花を発して、電光さながら相手を射すくめるのだ。
いまさら嫉妬でもあるまいと、人は言い、寧々自身も思うのだが、つきつめればやはり嫉妬にまぎれはない。茶々と秀吉の仲──。それを妬くのではなく、二人の間に子ができた事実が、寧々の胸を刺すのである。長浜時代、南殿|いつ《ヽヽ》に燃やしたと同質の、焦りであり瞋恚《しんに》であった。子を生めぬ身体……。その相違ばかりは、どうあがいたところで埋めようがない。取りかえ引きかえ、夫が幾人側室を持っても、浮気への対処は今はある程度、気持の上で出来あがっているお寧々だ。一ッとき華やいでも、女の容色などというものはすぐ、衰える。若さも去ってしまうが、子供はそうはいかない。年々成長する。愛らしさを増す。幼児から少年へ、青年へと変貌してゆく過程すべてで、父親を魅了しつづけてはなさない。
子供と、その母を中心に血縁の家族が形成され、家庭としての団欒はそこへ移ってしまう。茶々と鶴松の立場が、今、これに当てはまる。名ばかりの正妻の座に坐りながら一日一日、否も応もなく深まるであろう寂寥の気配に、寧々は怯え、怒るのだ。しかしこれは、運命に向かって怒るのと同じで、どうしようもない現実だった。
もともと寧々は働き者である。織田家中の小者長屋で藤吉郎と新所帯を持ったころから、家事万端、苧績《おう》み機織りの賃かせぎまで一刻の手ぬきもなくやってのけ、
「ご亭どのは|はげ《ヽヽ》鼠、女房どのはコマ鼠……。一日中くるくると、ほんによう動き廻る内儀《かみ》さまよな」
隣り近所の目をそばだたせたものだ。
城持ち大名の奥方に出世してもその気性は変らず、|姑 風《しゆうとかぜ》、小姑風を吹かすどころか遣り手の嫁に押しまくられて、|なか《ヽヽ》や|とも《ヽヽ》、|きい《ヽヽ》までが小さくなってすごした。百姓女の習性から、つい、下に着るものなど幾日も替えずにいて、
「おぬぎなされ姑《かか》さま、洗って進ぜます。ここは中村在のボロ家ではありませぬよ。人手にも肌着にも不自由はせぬに、汚《むさ》い|なり《ヽヽ》をおさせ申していては私が人に笑われます」
侍女たちの聞く前でガミガミ叱言をいわれるときは閉口しても、一国一城の切り盛りにたじろがず立ち向かって、内助の手腕をりっぱに発揮しているのを見れば、
「えらい嫁女よのう」
「ほんに、藤吉郎も、寧々どのがしっかり者ゆえ、外での働きが存分にできるというものでござりますな」
兜をぬがないわけにいかなかった。
天下人の妻となった今は、さすがにいくらかは動きを抑えているけれども、大事な人寄せや祝い事などとなれば献立に目を通し、みずから厨房《ちゆうぼう》に出向いて膳椀の指図、包丁人への口出しもしてのける寧々である。|きい《ヽヽ》の看護にも、昼夜つききって手を貸し、
「そんなことは、召使にさせては?」
大政所の制止をふりきって、
「腰元どもになどやらせては|きい《ヽヽ》どのが気がねでしょうから……」
下の世話まで甲斐甲斐しく引き受けてくれた。|きい《ヽヽ》が涙ながら、
「嫂《ねえ》さま、すみませぬ」
礼を述べて逝《い》ったのを見れば、|とも《ヽヽ》もむろん、寧々の献身を感謝しないわけにいかない。北条攻めと鶴松にかまけきっている秀吉への、反感と当てつけがさせる義妹への肩入れではあろうけれど、やはり底に流れているのは、ながいこと苦労を共にし合ってきた身内意識、女は女同士の愛憐であった。
その点、それぞれが由緒正しい家系から天くだりに集まってきた他の側室たちと、寧々はちがう。一家の大黒柱であり大刀自《おおとじ》である。大政所や|とも《ヽヽ》にすれば他家から嫁入った女であれ、いまや寧々はすっかり同化しきった同族の女の一人なのだ。その人柄を、好もしくは眺めても、織田右府の姪御という身分からして、|とも《ヽヽ》など主君同様の遠慮や距りを、お茶々御寮人には感じないわけにいかない。
(北政所の腹に世つぎが誕生してさえいれば、何のいざこざもあるまいに……。ままならぬものじゃなあ)
寧々の無念を思いやると、人ごとならず溜め息が出た。
寧々の姉の長慶院お久万は、妹とはあべこべに小まめに身体を動かすことをしない。もの静かに坐ったきりだが、侍女や薬師《くすし》らに時おり与える指示は適切で、これも|きい《ヽヽ》の枕もとをほとんど離れずに、最期まで容態を見まもってくれた。
鶴松が生まれてから、|とも《ヽヽ》への姉妹の態度は、微妙に変化しはじめている。秀次、秀勝らが秀吉の養嗣子扱いされていたことへの、憎しみが消えたのである。寧々がもり立ててやろうとしている実家の若者たち……。たとえば金吾侍従秀秋あたりから見れば、これまで対立関係にあったはずの|とも《ヽヽ》の伜たちも、鶴松の出現によってその将来を閉ざされる恐れが出てきた。昨日の敵が、今日は友となったのだ。鶴松なる新手の、しかも強力な敵を前にして、味方争いするなど愚の骨頂にちがいない。共同戦線を張らねばならぬとする危機感が、お久万と寧々の、|とも《ヽヽ》への気持を軟化させ、ひいては|きい《ヽヽ》への、親身のみとりともなったといえよう。
南明院光室総旭大姉と|きい《ヽヽ》は、|諡 《おくりな》されたが、寧々はその法号にちなむ南明院なる一院を、東福寺境内に建立するよう手配させた。
絵師に命じて、実際よりははるかに見栄えのよい肖像まで描かせ、|きい《ヽヽ》への追善法要をいとなませたのも、秀吉の冷淡さへの、反撥の現れであったろう。
|きい《ヽヽ》の歿後まもなく、北条氏討伐の軍法が定められ、朝廷では聖護院《しようごいん》に勅して豊臣方の戦勝祈願が修された。恩賜の馬や太刀が、勅使に託されて聚楽第にもたらされたのは、二月|晦日《つごもり》である。
そして翌、三月一日にはいよいよ秀吉の京都出陣であったが、これより先、二月三日に彼は大坂へ下向し、八日、鶴松をともなってふたたび上京してきた。
「そうれ、これがこのたび、淀の女房が生んだ宝の君の和子じゃぞ」
と誇らしげに、しかし充分、ある種の覚悟を腹中に秘めて秀吉が鶴松を抱いて現れたとき、聚楽第に住む女たちの表情には、いっせいに複雑な緊張が走った。大政所、北政所のほかこのとき第中には、前田の摩阿姫、京極局竜子、蒲生氏郷の妹三条局、姫路時代から秀吉の寵を得て、いまなお姫路殿の名で呼ばれている織田信長の姪|真児《まこ》、つい先ごろ新しく側室の一人に加わったやはり信長の、これは五番目の息女にあたる弥伊《やい》など妻妾数人がくらしていたが、だれもがこの日、生後八カ月になる鶴松をはじめて目にしたのである。
広間に、秀吉は側妾たちを集め、上段の、自身の席に並べて母大政所、妻北政所の座をしつらえさせた。茶々の妊娠、出産以来、
「まさか! いまさら関白殿下にお子ができるなど、信じられぬ」
「いや、真実、お茶々さまとやらはみごもられたそうな……」
「でもはたして、殿下のお胤《たね》であろうか」
「もしかしたら不義のお子かも……」
嫉視、誹謗、ありとあらゆる臆測、女にありがちな邪推がとび交い、京と淀のあいだの雲ゆきははなはだしく険悪だった。秀吉にすれば、
(ばかな!)
お茶々の姦通など許すはずもなく、
(おれの子に決まっているわ)
ゆるがぬ自信がある。みごもらせた年を逆算すれば、五十二歳の秋だ。それでなくても下層から浮上して、目から鼻へぬける鋭さに研《みが》きをかけてきた秀吉であった。脂の乗り切った男ざかり、老い朽ちても耄《ぼ》けてもおらぬと自負しきっている日常の中で、最愛の寵姫を、むざむざ密男《みそかお》に慰ませるわけはないし、近習や小姓も、秀吉の内奥にひそむ残忍さ非情さを知りつくしている者どもばかりである。露見してのちの刑罰を思えば、茶々の側に、よしんばいかほどの油断があろうとも、手を出すなどという大胆不敵な行為に踏みきれるはずはなかった。
(それに茶々自身、忍び男《お》につけ入られるような女ではない。小娘のころはどうあれ、結ばれてのちはわしに縋《すが》り、しんそこ、わし一人を頼りにして生きぬこうとしている日々ではないか)
うぬ惚れではなく、そう言い切れた。閨《ねや》を共にしはじめてしばらくたったころ、お茶々みずからの口から彼はしみじみと、こんな述懐を聞かされたことがある。
「あなたはわたくしには、両親の仇、養父の仇、兄弟の仇です。正直、いままではお恨み申しておりましたが、愛情こめて、そのわたくしの中の、石か氷の塊りにも似た怨恨を※[#「さんずい+解」]かそうと努めるあなたの根気に、少しずつほだされ、とうとう許す気にまでなったのでした」
「ありがたい。そのひとことを、どれほど待ち望んでいたわしであったか……」
「肉親たちの死に、あなたが関わったのは乱世というものの不幸な回り合せ、運命と観じて、思い切ることにしたのです」
「よう言うてくれた。さすがに茶々は賢い。浅井攻めも万福丸どのらの死刑も、わしの意志ではなかった。主君織田どのの命令でやむをえず働いたにすぎぬ。柴田勝家とは、何としても雌雄を決せねばならなかったが、お市さままでを死なすつもりは、ゆめ無かった。なぜ勝家づれに殉じて自刃して果てられたか、いまなお残念でならぬくらいじゃ」
「わたくしは天下人の威光に屈したのではありませぬ。親兄弟の仇敵に、力で圧服させられて泣く泣く身を委せたのでもありませぬ。愛する者たちの恨みをはらすために、あなたと結ばれたのでございます」
「こりゃまた、怕いことを言う。寝首でも掻いてのける算段か?」
「いいえ」
大輪の花が、おもむろに開くあでやかさで、このとき茶々の顔面に拡がった誇らかな微笑を、秀吉は心魂に刻んで忘れることができない。
「わたくしはあなたのお子を生みます。その子は豊臣家の跡取り、襁褓《むつき》の内からの天下人──。でも、わたくしの胎を介して、子供の体内には織田の血、浅井の血も流れ込んでいるはずです。あなたが粒々辛苦の末、やっと手に入れた権勢の座に、子供の代になれば浅井も坐り、織田も坐る……。つまり半ばは、織田や浅井もまた、天下を取ったわけではありませんか」
「これはまいった」
秀吉はからから笑った。
「なるほど言われてみれば、まさしくそなたの申す通りじゃ。げに、女子とはしぶといものよの。胎を駆使しての城取り国取り天下取りとは、いやはや考えたなあ」
「あなたへのこれがわたくしの仇討ちでございます」
「面白い。みごとな復讐じゃよ茶々。女体を持つ者にのみ可能な方法を用いて、そなたはわしの天下を奪った。親兄弟の仇を報じてのけたのじゃ」
「お気が早い。お世継ぎを生み、そのお子が家督を譲られてのちの話でございますものを……」
「そなたは生むさ。わしにはわかる。わしに子種が無いなどと、寧々をはじめ女どもは譏《そし》って言うが、長浜の城主であったころ手をつけた侍女に、二人までわしは子を生ませた。女の子と男の子であった。事なく育っていさえすれば、いまはもう花のさかりの、娘と息子であったろうに、幼いうちに死なせてのけたのが今もって、残念でならぬ」
「子をみごもるのも、相性でござりましょう」
「そうとも。そなたとわしは相性がよい。肌を合わせておらぬ時ですら、身も心も一つに溶け合う思いがする。他の女どもとではこうはいかぬよ」
なまじよそよそしく衣服を着けた昼間の顔ではないだけに、密室での睦言《むつごと》には真実があった。茶々にかぎって、かならずわしの子を孕む、まちがいないと、このとき秀吉は確言したし、報復などという物騒な言葉をわるびれず口にしながら、かえって男を納得させてのけた相手の、人間としての成熟度にも、内心ひそかに舌を巻いた。憎むにしろ愛するにしろ、袋小路さながら狭い、出口のない煩悩《ぼんのう》の底に好んで自己を追いつめ、そのくせ息ぐるしさに喘ぐのが、女おおかたの性《さが》である。カラリと大きく、発想を転換させることがなかなかできない。
そこへゆくと茶々の考え方には、女ばなれした闊達さと弾力があった。おおらかな外容に見合って、精神の丈が高く広い。秀吉の炯眼《けいがん》はそれを見て取り、まして茶々が、揚言にたがわず鶴松を生んでからは、
(いとしいやつ……)
傾き寄る心の比重を、いかんともしがたくなった。その存在を思っただけで涙ぐまれるほど、母と子への愛着がつのってならない。
堅城に拠《よ》る北条勢を、短兵急な力押しで攻める不得策を、秀吉ははじめから計算していた。気ながに押し包んで、城中の弱りを待つつもりでいる。長陣の無聊に耐えるためには、ぜひとも茶々が必要だが、呼びよせる前にしておかねばならないのは、女たちの感情の処理だった。
広間の上段に、秀吉は銚子を運ばせ、
「まず一献、鶴松から大政所へ奉れ。このお方はな、そなたの祖母《ばば》さまじゃぞ」
老母の手に盃を持たせて、なみなみと親族固めの酒を満たした。
「おお、おお、こなたが鶴松どのか?」
はじめて目にする孫である。顔じゅうを笑い皺の渦にして大政所|なか《ヽヽ》は赤児を抱き取ったが、寧々の気持をはばかってか歯のない口をむぐむぐさせるだけだ。早う逢いたかったとも可愛らしいお子じゃとも言わなかった。ただ、とろけそうな目の和《なご》みが、大政所のよろこびを如実に表わしている。娘の|とも《ヽヽ》から聞かされて、じつは対面を、一日千秋の思いで待っていた老母なのだ。
つづいて鶴松は、北政所寧々の腕に渡された。側室たちだけではない。広間にはそのそれぞれに召し使われる老女や腰元どもが、物見だかく詰めかけている。|かたず《ヽヽヽ》をのんで見守る女たちの視線の、矢|ぶすま《ヽヽヽ》さながらな集中に晒《さら》されて、さすがの寧々がいささか戸惑い気味に、ぎごちなく赤児を胸に受けた。探るような凝視の中に、むきつけな好奇心がするどく覗いている。
「さあ鶴松よ。これはお前の母《かか》さまじゃ。口がきけるようになったらばそなた、このお方を政母《まんかか》さまと呼びゃれ」
秀吉の大声を、ぎりっと刳《えぐ》りつけるような目をあげて、寧々は皮肉っぽくさえぎった。
「無理はよしなされ。お袋が二人いては、お子が困りましょう」
「困りはせぬ。生んだのは淀の者にまちがいないが、腹は借りもの。わしの跡取りであるからは鶴松の母は、どこまでも公には、そなた一人ではあるまいか」
「よう言うた藤吉郎、その通りじゃ」
大政所がすかさず同調し、幸蔵主はじめ北政所側近の女たちも、口々に同意を述べた。
けじめが、これでついたのである。満座のなかで嫡母たる立場の重みを正式に認めさせたことで、寧々の敗北感は救われ、自尊心も一応はみたされた。
「めでたいめでたい」
ほくほく顔で大政所は言った。
「母子《おやこ》の契りがこれで結ばれた。茶々どのとやらはまだ、お若いそうな。せいぜいこれからも、赤児を生んで貰ろうて、子育ては祖母《ばば》や政母が引き受けよう」
「そのつもりで、つれてまいったのでござるよ母者。さし当たってはわしが小田原に下向する留守の間だけでも、聚楽第で鶴松を預かってくだされ」
側室たちの中には危ぶんで、それとなく目を見交す者もいた。かつて南殿の子が二人ながら天折したときも、
「奥方さまに呪い殺されたのじゃ」
と取り沙汰された寧々である。
秀吉はしかし、賭けるつもりだった。茶々や鶴松を愛せば愛すほど、寧々と彼らとのあいだに対立の溝を、これ以上深めたくない思いに駆られるのだ。木下、杉原、浅野ら実家の縁につながる諸将、加藤、福島ら子飼いから目をかけた大名たちが寧々のぐるりを取り囲んでいた。──一方、茶々にもまた縁戚のうしろ楯が附こうし、鶴松が成長するにつれて、それに随従する勢力も生じてこよう。
すえずえ党派争いにまで発展する恐れを避けるためならば、鶴松を今、寧々の膝下に渡し、いわば毒をもって毒を制するやり方で、敵愾心の牙を抜いてしまうのも一法だ、とする考え方である。
小田原陣の展望についてはむしろ少しも、秀吉は不安を抱いてはいなかった。
妹|きい《ヽヽ》の野辺送りをすますとすぐ、|とも《ヽヽ》は夫弥介吉房の待つ近江八幡の城へもどった。鶴松を、秀吉が聚楽第へ抱いて来て大政所、北政所らに対面させたときは、したがって、すでに洛中を引き払ったあとだった。
「そうか。亡くなられたか、旭姫さまも……」
吉房は目をしばたたいた。
「おきのどくな一生であった。関白殿下も、さぞやお力落としのことであろうの」
「それがな」
臨終の枕辺にすら居合わせなかったこと、小田原攻めのさいさきを憚って喪を秘したばかりか、初七日もすむかすまぬうちに養女の小姫と徳川家の跡取りとの、祝言の式を急がせたことなど、見たままを語り分けて、
「あまりと申せば|きい《ヽヽ》をないがしろにしたなされかたじゃ。それまでして徳川どのと姻戚のきずなを結ぶことはあるまいし、血もつながらぬ養い娘を嫁に押しつけられたとて、両家のしたしみがどれほど深くなるものでもなかろうにと、寧々どのあたり、えらく腹立てておりましたよ」
|とも《ヽヽ》もまた、息まきながら言うのを、
「そりゃ、見当ちがいじゃ」
かえって呆れ顔に吉房はたしなめた。
「旭姫さまの岡崎下向も同様じゃが、仲良うするためだけで双方の縁を、関白さまは結ばれたわけではないわ」
「では、何を狙うて……」
「花婿を、人質に取るためよ」
「弟が、徳川どのから?」
「たしかいま、徳川家のお跡取りは十二歳になる秀忠どの……。通称、長丸《ちようまる》ぎみと仰せられるお方であろう」
「そうそう、その若殿でございました」
「帰りは致されまい。式を挙げたあとも長丸ぎみは、国許へは……」
「小姫さまともども、当分は聚楽第にご滞在あそばすとやら……」
「それ見い。婚礼に名をかりて、大事な伜どのを関白さまは、徳川どのの手から召し上げたのじゃ。百も承知で徳川どのも、長丸ぎみを手放して寄こした。『娘婿ではござれども、北条への加勢は誓っていたしませぬ。豊臣のお家に忠誠を尽します』との、証を示されたわけじゃよ」
「なるほど」
思わず、|とも《ヽヽ》は膝を打った。
「それなれば貰い子であろうと養い娘であろうと、花嫁の素性など一向にかまわぬ道理でござりますな」
「名目だけ、殿下のお子であればよいのさ」
「小田原陣のはじまる前に、ぜひとも手中にしてしまわねばならぬ人質……、妹の喪中などかまっていられなかった気持も、そう聞けば納得できます」
「長丸ぎみが十二歳なら、小姫さまとやらは、まだ、人形遊びに余念もない幼さにちがいあるまい。婚礼というたところで形ばかり……。ままごと夫婦も同じよ」
「よくわかりました」
さすがに男、書籍に埋もれて隠居ぐらしをしていても、目のつけどころが違うと、|とも《ヽヽ》は夫がたのもしかった。
孫七郎秀次は小田原攻めの主将を命ぜられている。大坂からは連日のように指令が届き、中村|一氏《かずうじ》、堀尾吉晴、一柳直末ら武将たちの出入りもはげしくなって、八幡山城はにわかに騒然としはじめた。中村、堀尾らはいずれも秀吉から、若年の秀次の補佐を命ぜられている附家老である。家臣とはいえ城持ち大名に匹敵する万石取りの宿老ばかりだし、吉房夫婦などへりくだって、けっして日ごろ彼らの仕置きに、差し出た口をきくようなことはしなかった。
秀次も表づらは、宿将どもに逆らう素振りは見せない。指図に服してはいるけれども、内心そろそろ、自身の意のままになる腹心を作り、頭上の掣肘《せいちゆう》をはねのけて一人立ちしたい様子だった。
こんども秀次は、秀吉に先行して海道をくだって来、八幡山城に立ち寄った。本格的な軍備を居城で調え、
「帰路にゆっくりお目にかかることにいたします」
両親への挨拶もそこそこ、二日後には発って行ったが、
「あれは何者であろうのう、|とも《ヽヽ》」
ついぞこれまで見かけたことのない中年の侍が、形に添う影さながら秀次の側近にいて、しかもひどく信頼されているらしいのを吉房はいぶかる表情で言った。
「さてなあ、だれでござりましょう」
「木村|常陸介《ひたちのすけ》――。そう呼んでいたな」
「いずれ、新規に召しかかえでもした者ではありますまいか」
「いいや、どこかで見た顔じゃ。面ざしが誰ぞに似ていると思わぬか?」
「わたくしには心当たりがありませぬ」
「実直げな打ち見の裏に、どことのう油断のならぬ鋭さの覗く男じゃ。秀次も弁口にたぶらかされて、胡乱《うろん》な浪人者になどむやみと扶持《ふち》を与えねばよいが……」
三日夕刻には秀吉の本隊が八幡山城に入った。城門まで出迎えた姉夫婦へ、
「や、腹がへった。さっそく湯漬けなりと所望したいな」
馬上から無遠慮に秀吉は言い、これもたった一晩、城中に泊っただけの気ぜわしなさで、翌早朝にはもう柏原、尾張清洲をさして出立してしまった。顎に附け髭を貼りつけ、歯はくろぐろと鉄漿《かね》で染めている。金小札緋縅《きんこざねひおどし》の鎧に緋ラシャの陣羽織、馬廻りの近習が捧げ持つのも唐冠《とうかん》の兜、朱漆《しゆうるし》で塗りあげた重籐《しげとう》の弓という派手やかさだ。馬を飾る厚総《あつぶさ》まで燃えたつばかりな朱、鞍もまばゆい金梨地だから、春たけなわの日ざしを反して、秀吉の全姿は炎そのままにさえ見える。
「公卿の真似してお歯黒などつけて……」
と面と向かっていつぞや、寧々がくさした行粧がこれかと、|とも《ヽヽ》は内心すこし可笑しく、でも茶々を得、その腹に鶴松を得て、できるかぎり若返ろうとつとめる気の張りを、弟のためによろこぶ思いもあった。
前夜はやく、秀吉は設けの寝所に引きとって|ろく《ヽヽ》に吉房夫婦と話も交さなかったが、茶頭の千利休は目通りにまかり出て、しばらく隠居所でひまをつぶした。
「こなたまで戦場へお供なさるのか?」
意外そうに言う吉房へ、
「幸若《こうわか》の太夫、連歌の宗匠、碁打ちの床林《しようりん》どのまで召しつれてのご下向でござりますよ」
それが癖の、もの静かな口調で、利休はにんまり笑ってみせた。
「合戦に参るのじゃ、長袖の茶坊主でも、装いだけは凛々しゅうせよとのご下知でな。わたくしも指物《さしもの》を作らせました」
「は、どのような?」
「あす朝、おいとまいたすとき、お供揃えに混じってたかだかと掲げてごらんに入れましょう。何もお笑い草、とくとごらんくださりませ」
と、そのとき言ったが、なるほど城を出てゆく華麗な軍装のうねりの中で、利休の背後に従う荷持ちの少童は、いささか|てれ《ヽヽ》臭げに金の茶筅《ちやせん》を飾った機竹《はたたけ》の指物を振り立てていた。
隠居所の隅にしつらえた茶室で、吉房夫婦のために天下一の点前≠無造作に披露し、利休は前夜、茶を点ててもくれたが、
「お寝み前ではあり、少々|茶杓《ちやしやく》の盛りを控えました」
と出された大ぶりな茶碗の中身の、うまさ……。やや薄くはあるけれども、ふんわり浅緑《さみどり》の泡が盛りあがって、口中にひろがるふくよかな甘みが何ともいえない。利休も自服で一碗、喫しながら、もっぱらそのとき話題にしたのは羽柴小一郎秀長の近況だった。
旭姫|きい《ヽヽ》の病臥と前後して、秀長もまた、病床についたのは|とも《ヽヽ》も知っていた。もともと病弱な体質だったのである。しかし長期間、寝込むなどということはなく、各地に転戦して兄の名代としての任務を、そのつど立派に果たしてきた秀長だし、島津攻めでも先鋒として九州に渡り、功績をあげていた。
結局は、それら長年の戦野での酷使が、じりじり健康をむしばんでいたわけであろうけれど、郡山に|とも《ヽヽ》が滞在したころは一応、見かけは元気だった。三吉秀保ともども聚楽第まで、馬で送ってくれもしたほどなのに、|きい《ヽヽ》のみとりのために再度、|とも《ヽヽ》が上洛したときはすでに秀長は、病中とのことで、妹の臨終にも来合わさなかった。その死を悼《いた》み、心のこもった弔詞と供養の品を、老臣を介して届けさせてきたにすぎない。
|きい《ヽヽ》の症状に劣らず、|とも《ヽヽ》には秀長の容態も気づかいだったが、男のことではあり、まだ五十そこそこの体力を、心のどこかでは恃《たの》む思いもあって、
「遠からず本復するに相違ない」
と、知らせを待ち望んでいた昨日今日だったのである。だから利休から、
「いやいや、楽観は禁物らしゅうござりますぞ」
と聞かされていまさらながら仰天した。
「備前の宇喜多家へ嫁につかわした長女が、懐妊したとかで、その平産を祈願して大和の長谷寺《はせでら》に、金の燈籠を寄進したむね便りがあったばかり……。加減がよくないなどとはひと筆も書いて寄こさなかったので、安心していたのは迂闊《うかつ》でした」
「思いやり深いお人柄でござります。ご病苦であれ何であれ、ご自身のお苦しみはできるかぎりこらえて、まわりの者に心配かけまいとあそばされます」
「で、いまは郡山に?」
「聚楽第内のお屋敷が建ちあがりましてからは、ご本城と洛中をおりおり行き帰りなされておいででしたが、関白さまご出陣の前にも例の律義さからお見送りのため上洛なされました。しかしこのときのご無理が祟《たた》ったかして、どっと寝込まれ、けっく門出の朝は関白さまの側からおいとま乞いかたがた、大納言さまのお屋形へお見舞いにお越しあそばすありさまでした」
「まあまあ、それほどの大事を藤吉郎は、先刻もチラとではあるが顔を合わせながら、わたくしに告げもしませぬ。|きい《ヽヽ》に死なれた上に、小一郎にまで先立たれては心細うて……。きょうだい思いの、優しい弟なのに……」
はやくもおろおろ、涙ぐみさえしかけるのに利休はちょっと言い過ぎを悔いた顔で、
「まだ、けっしてさし迫ったご容態ではござりませぬ。大和の寺社はあげてご病気平癒の修法をはじめておりますし、春日の社頭では金春太夫が、これも郡山ご家中の依頼にてご祈祷法楽の能を奉納したとやらうけたまわりました。あのような温厚な君子人を、むざむざ神仏が見捨て給う道理はありますまい。かならずやご快癒あそばすはずでござります」
「母さまがさぞかし、ご心痛なされてであろう。きのどくに……」
あふれかかる涙を不吉と自省して、それでも懸命に|とも《ヽヽ》は抑えた。
秀吉の本隊は、軍列の先頭が沼津に着いたころ、最後尾はまだ尾張附近にいるほどのおびただしい兵員を誇っていたし、兵糧も米二十万石を清洲に集結──。軍船を用いてどしどし駿河の清水港に送っている。一万枚もの黄金で東海地方の粟を買いつけ、先着の兵站《へいたん》部に輸送させているとも風聞されていた。
大いくさと聞くたびにいつもそうして来たように、|とも《ヽヽ》は弟秀吉の勝利、子息秀次、秀勝のつつがない凱陣を祈って今度も蔭膳を供えたが、小田原攻めそのものについてはすこしも心配はしていなかった。力を過信し、天下の大軍を向うに回して、かなわぬ抵抗をこころみようとしている北条家の当主氏直とやらの心情こそが、かえって不可解に感ぜられた。
孫七郎秀次からは、留守将に宛てて頻繁に戦況報告がもたらされ、吉房や|とも《ヽヽ》にもおかげで伜のたたかいぶりが、よくわかる。いちはやく敵国に打ち入った秀次は、北条方の重要拠点である中山城を攻めてこれを陥れ、さいさきよい緒戦の功を飾ったという。
「まずは安堵」
「けなげに努めておりますなあ孫七郎も……」
むしろ夫婦の心がかりは、小一郎秀長の病状にあった。母の大政所にあてて|とも《ヽヽ》は詳細を問い合わせた。返事はやがて来た。無筆の大政所に代って、気に入りの侍女お岩が、口述筆記してくるのもいつものことである。
その文面によると、さいわい秀長の病気は奇蹟的に好転し、床を払った。京都の邸宅から郡山の本城へ、引きあげて行ったと書いてある。
「これもひとえに神仏の冥助と、だれもだれも胸なでおろし、当の大納言さまはわけても喜悦あそばしてご帰城と同時に南都の社寺へ、お礼参りにおもむかれたよしでござります。興福寺、春日神社にもそれぞれ五十石ずつのご寄進があり、深く大明神のご神徳を謝し奉ったとか聞き及びました」
とは、お岩自身の附けたし書きである。さらに加えて、
「関白さまも海道を無事にご下向。相模の湯本とやらにご着陣。北条の軍勢を袋の鼠同様にあそばされたとやら……。ご陣中のつれづれに、淀におわす若ぎみのお袋さまをお呼び寄せあそばすご意向とかで、一昨日、北政所さまよりその旨、淀の茶々御寮人さまへお達しがあったとかうけたまわりました」
とも、お岩は知らせてきた。
九州陣にも側室をつれてくだった秀吉である。まして北条攻めは、長陣になると聞いている。小田原城は郭内に、町人町をかかえこんだ特殊な城であるため、籠城する将士の気分にゆとりが生じる。それへの対抗意識から秀吉も、じっくり腰をすえてかかる気構えをみせて、小田原城の西の石垣山に城を築き、書院や数寄屋《すきや》はおろか菜園まで作らせ、豆、瓜、茄子《なすび》の苗を植えさせた。
商人たちは棚店を掛けて商売をはじめる。茶屋が建つ。旅籠屋《はたごや》ができる。寄せ手の将兵相手に遊女たちも集まってくる。他方では連日、支城つぶしの戦闘がおこなわれながら、一方では新城を囲んで、城下町まで出現しかける有様で、
「一年二年はおろか、一生ここにくらしてもよいな」
とさえ言い出す兵も多い。
気に入りの側女を国許から呼ぶがよいと、秀吉は諸将に触れ出し、自身も茶々を召しくだすつもりで急使を差し向けたのだろうが、相手もあろうにそれを寧々に命じたこと、宝物の鶴松を母のふところから離し、寧々の手に託したことなど、|とも《ヽヽ》にはいちいちが驚きの種だった。そのへんの事情を、
「さすがに関白さまは、ご苦労人でいらせられます。北政所へのお便りにも『そもじこそが大切なる我が家の女房どの。その、そもじに続いては、淀の者がわしの気に入りゆえ、身の回りの小間用など何くれと申しつけたい。そなたから淀の者へ、下向するよう言うてつかわしてくれ』と、まあ、このように北政所さまのお立場を立てながら、しかも|否や《いなヽ》を言わせぬ書きぶり……。大政所さまもえろうお褒めなされてでござりました」
と、噂好きの性癖をそのまま、ことこまかにお岩は報じてきている。
「なるほど、いつもながら女の扱いがうまい男じゃ」
と|とも《ヽヽ》も感心しながら、やたら達筆めかして続け字が多く、読みよいとは言いにくいお岩の手蹟を、それでも丹念に拾っていった。
「鶴松が恋しい。くれぐれも寝冷えなどさせぬように……」
とも、くり返しくり返し、秀吉は母や妻宛ての書状で言ってきているらしい。もともと筆まめな|たち《ヽヽ》なのだが、それに対して寧々の側も、三日にあげず返事をしたためているようだ。
小田原城は七月はじめに陥落し、北条氏直は降人となって合戦は終結したが、秀吉はさらに驥足《きそく》をのばして奥州征伐の挙に出、宇都宮から奥州白河の関を越え、会津《あいづ》の黒川城に入った。
寧々の手紙はそこまで夫を追って行き、しかも手縫いの小袖その他、文箱に添えて贈り物の心くばりも欠かさなかったという。秋口に入っての、老母からの二度目の便りで|とも《ヽヽ》は知ったのだが、鶴松や金吾侍従秀秋、小姫などの生御魂《いきみたま》までを、わざわざ寧々は、奥州の陣所へ贈ったらしい。
七月、盂蘭盆会《うらぼんえ》の期間中に、子供らがまだ生きている父母祖父母に供養の金品を捧げて、その寿命の、いやが上にも長からんことを念じる風習を、生御魂と呼ぶ。内心はどうあれ鶴松は、寧々にすれば夫からの大事な預かり子、小姫はこれも、徳川長丸秀忠と祝言させたばかりの養女だし、辰之助秀秋はいとしくてならない血つづきの甥だ。その三人の名で届いた心をこめた生御魂……。品物は錦の袋にそれぞれ五枚ずつ納めた黄金だったが、秀吉はことにも鶴松からのそれをよろこんで、その場に居合わせた将たちに、
「福分けじゃ。若ぎみの孝心をめでておことらも、予の長寿を祝してくれ」
手ずから一枚あて分け与えたという。
がんぜない赤児に何がわかるわけでもない。生御魂の贈り物は、つまりは寧々の心くばりである。嫉妬ぶかく気むずかしくもある妻が、茶々母子への憎しみを越え、政母《まんかか》なりの自覚に立って鶴松の世話を焼いてくれている事実が、何にも増して秀吉はうれしかったのだろう。
秀秋の名まですかさず中に加えて、夫の心証をよくしようと計る寧々の抜け目なさの前に、|とも《ヽヽ》はひそかに恥じ入った。秀秋が関白の養子なら、小吉秀勝も立場は同じ養子ではないか。
(あの子は今、関東の戦野にいる。なり代って生御魂を贈るどころか、それをせよと、心づけてやることすら母でいながら、わたしは忘れていた)
みずからのうっかりさ加減を、秀勝に|とも《ヽヽ》は詫びたかった。
奥州平定を切りあげ、秀吉はやがて帰洛の途についた。茶々はすでに、利休らにつき添わせて先に立たせてある。
「一刻もはやく鶴松を抱きたい……」
帰心にせかされてか、こんども暮れに及んで着き、あくる朝早く出立するというあわただしさではあったが、やはり八幡山城へ秀吉は立ち寄っていった。
懸案を片づけ終ったくつろぎもあるのだろう、行きとはちがって、帰路は姉夫婦と夜ふけまで話しこみ、しばしば機嫌よく笑いもした。
「小一郎の病気にはわしも吐胸《とむね》を突かれた。弟に、いま死なれなどしてはたまらん。知っての通りの気質だからな。わしの短をよくおぎなって陰に陽に仕事を助けてくれている。諸大名の人望もわしより小一郎に厚いくらいだよ」
「病名は?」
「労咳ではなかろうか。前から時おり熱を出した。咳こむことも多かったが、血を吐いたのは今回がはじめてではあるまいかな」
「血を!?」
「なに、たいした量ではなかったらしい。手当が早かったし、それにやはり、神仏の加護もあったにちがいない。すっきりと癒ったのは|重 畳《ちようじよう》だった」
「春日のお社《やしろ》へ礼参りに出かけるまでに恢復したとか……」
「お参りといえば姉者、わしはこんどの軍旅のもどりがけに、駿府城中に泊り、安倍郡の瑞竜寺という寺に詣でてきたぞ」
「なんぞ、わけのあるお寺か?」
「徳川家の室だったころ、旭がしばしば参って住職の法話など聴問し、本尊を拝したゆかりの寺と聞いたからよ」
「おお、それでこなた、わざわざ詣でてくれたのか」
「そうとも。母者も姉者も、旭へのわしの仕打ちを不満がって、文句を並べていたようだが、瑞竜寺の境内に追福のための供養塔を建て、寺領寄進の朱印状まで与えてきたわ」
「それはそれは、ようしておくれであった。泉下で|きい《ヽヽ》も、どれほどありがたがっておるかしれぬよ」
父はちがってもやはり同胞《きようだい》……。不倖せな道を、むりやり歩ませた妹へ、兄としてそれなりの慚愧《ざんき》を、秀吉も心の隅では抱いていたのかと|とも《ヽヽ》は見直す思いであった。
秀次、秀勝らの話も出た。
「小吉めはありゃ馬鹿じゃ。よほど念を入れて叩き直さねば性根が直らぬぞ。いつぞや所領の不足を言い立ててこっぴどくわしに叱りとばされたことがあるだろう。ろくな働きもできぬ弱輩でいながら、丹波を領し亀山城を預かり、左近衛少将の高位に任ぜられただけでも上々なのに、まるで当り前な面《つら》をしおる。言うては何だが、姉者の育て方がちと甘かったな」
生御魂の一件で、金吾侍従秀秋におくれを取らせた無念が、いきなり|とも《ヽヽ》の母性を突きゆるがせた。幼時、兄の秀次に潰された片眼──。不具の身を恥じて、しぜん口重くなり無愛想にもなり、叔父の秀吉はじめややもすると、周囲のだれかれに嫌われがちな小吉秀勝が哀れで、弁護する口調もつい、強くなった。
「でも、九州陣では筑前の巌屋城とやらを陥れて、ひとかどの手柄を立てたというし、こんどの北条攻めにも従軍してはいる。なにぶんにもまだ、二十一か二の若者、小吉は小吉なりにせいいっぱい踏んばってはおるのじゃ」
「だからこそ、ただついて来ただけの者に、甲斐、信濃の地を与えたではないか」
「小吉に甲信の二国を?」
「まだ知らなんだか姉者」
「聞いてはおらぬ」
「おっつけ言うて寄こすであろうが、あのようなうつけ者でも親族を配しておけば、いささかは関東への抑えになると思えばこそよ」
「やれやれ、甲斐の府中とは……」
「いやか?」
「いやと言うて聞くこなたではあるまいけれども、山の中にくらす小吉が不憫《ふびん》じゃなあ」
「これ、これ女房」
たまりかねて弥介吉房が口をはさんだ。
「いかに遠慮のない仲じゃとて、関白さまに対し奉りわがまま口が過ぎよう。小吉|づれ《ヽヽ》には身に余るご加賞。ありがたくお受けせねば罰が当たるぞ」
「いやなに武州どの」
気にかける様子もなく秀吉は言った。
「こなたも姉者もめっきり老いた。甲府にいては、いざどちらか一方が病みでもしたさい、秀勝を気がるに呼び寄せることもできまい。いずれいま少し、近国に所替えしてつかわそうが、秀次の新領については承知しておるか?」
「御礼言上が遅れまして相すみませぬ。家老どもを介してうけたまわりました。さしたる功もなき孫七郎にまで過分のご沙汰がありましたよし……」
「秀次はよく働いたよ。知っての通りこのたび徳川どのを関東に移した。そこでその故地の三河、遠江、駿河を織田|信雄《のぶかつ》にくれてやったところが、あの仁こそ秀勝そこのけのわがまま者、尾張、伊勢に執着してつべこべ駄々をこねるゆえ、わしも肚に据えかねてな、下野《しもつけ》の那須野に放逐してのけた」
佐竹|義宣《よしのぶ》に信雄は身柄を預けられ、その旧領の尾張および北伊勢五郡が、秀次の所領ときまったのである。
「引き移りの仕度をせねばならぬぞ。こなたたちも……」
と秀吉に言われ、|とも《ヽヽ》はいっそう気が重くなった。目になじんだ琵琶湖の夕映え……。風光の美しさと別れるのもつらい。
大儀なのをこらえて、身の周りの手道具などをまとめはじめたやさき、奥州での戦後処理を終えて秀次がもどって来た。
あいかわらず木村常陸介が、ぴったりかたわらに引き添っている……。
なにはともあれ、吉房夫妻は息子の労をねぎらった。戦場灼けして秀次の精悍な顔だちはいっそう引き緊まり、男ざかりの生気をみなぎらせている。春の終りに出てゆき、すでに今、冬の初めだ。こんどの小田原攻めでは徳川家康と並ぶ主将の地位にあったとはいえ、奥州にまで足をのばして一応の仕置きを成しとげ、名実ともに叔父秀吉の天下に『統一』の功をもたらした秀次である。
従軍の諸将、留守をまもった老臣らが大広間に集うての慰労の宴とは別に、親子水入らずの小酒盛りを隠居所で開いたが、このときも秀次がつれてはいって来たのは、山本|主殿《とのも》、不破伴作《ふわばんさく》、山田三十郎ら気に入りの小姓のほかには木村常陸介ただ一人であった。
この者たちに囲まれているかぎり秀次はしんそこのびのびと、くつろげるらしい。大役を果たし、手柄を賞されてもどったよろこびが挙動をいきいきさせ、
「おかげで無事、立ち帰りました」
挨拶する声にも張りがあった。
「やれやれ、心労なことであったな。ひさびさに今夜は手足を伸ばして、みちのくの土産ばなしでも聞かせてくれ」
「話だけではなく、実際に父上には、奥州から珍しい土産の品を持ち帰りました。でも、それをごらんに入れる前に……」
と木村をさし招いて、
「下向のさいは軍旅の中途ではあり、あわただしさにまぎれて改まっては目通りもいたさせませんでしたが、この者は木村常陸介|重茲《しげもと》と申し、現在わたくしの帷幄《いあく》になくてはならぬ男でござります」
誇らしげに両親に引き合わせた。
「今参《いままい》りの不つつか者。なにとぞお見知り置きを……」
と、木村は礼儀ただしく手をつかえる。
「新参と申されるが、どこやらでわしは、そこもとにお会いいたした気がする。先般お見かけして以来、心にかかっていたのじゃが……」
弥介吉房のいぶかりを常陸介は事もなげに解いた。
「おそらくそれは、兄との混同でござりましょう。木村|隼人《はいと》は、それがしとは双児の兄弟──。年は同じ、容貌も酷似しておりました」
「や、それではあの木村|隼人正《はいとのしよう》が、そこもとの……」
「兄でござります」
「なるほど左様か。どうりで見おぼえがあったはず……。血縁でござったか」
はじめて吉房も膝を叩いた。
いつのころからか木村隼人は、秀吉の部下となり、山崎合戦のさいは、いま秀次の附家老を勤める中村式部少輔一氏らと一手になって、右翼川ノ手を進撃し、明智勢を破って戦功をあげたし、賤《しず》ガ嶽《たけ》の合戦では堂木山の陣を守備した。
このとき敵将の柴田勝家と通じ、事あらわれて柴田方へ奔った山路正国という者の、母親と子らを捕え、木村隼人は逆さ磔に処している。
上将たちの許可をえず、独断でおこなった惨刑が、敵はもちろん味方からも非難され、以来いつとはなく隼人の姿は陣中から消えた。かげ口を憤って出奔したのだとも、侍奉公に嫌気がさして町人になったのだとも、また中には、憎まれて乱戦のさなか味方の兵に後矢《うしろや》を射かけられ、殺されたのだとまで言いふらす者もいたが、
「すべて、あやまりでござります。隼人正は病いを得、故郷に引きこもって亡くなりました」
落ちつき払って常陸介は通説を訂正した。
「さればこそ小牧・長久手の役《えき》のころには、もはや勇名を聞かなんだのじゃな」
「仰せの通りでございます。それがしは元来が武辺《ぶべん》立てを好みませぬ。できれば戦乱を避け、どこぞ山中の禅院にでもこもって筆硯《ひつけん》を友としつつ生涯を送るつもりでありましたのに、なにとぞ風雲に乗じ、家名を挙げてくれよとの兄の遺言……。やむなくご麾下《きか》の一将として関白殿下にお仕えいたした次第で……」
「では、そもそもは殿下のお旗本となられたわけか」
「九州役より従軍し先鋒をうけたまわって働きました。戦火おさまってのちは洛中にもどり、大仏殿普請の助役《すけやく》のひとりに選ばれて出精いたすうちに、さいわいにも秀次公のお目にとまり、家宰としてご当家にご奉公いたすこととなったわけでございます」
秀次も誇り顔に、
「むりに願って、叔父上のお手許からむしり取ってきた逸材です」
と口を添える。とことん、常陸介の人物に惚れこんでしまっているようだ。
痩せぎすで小づくりな、貧相にさえ見える体躯からも血なまぐさい戦場稼ぎよりは、智謀の才に長じた策士と受け取れる。秀次の側近には欠けていた型の将であることはたしかだ。ニヤリと笑うと、しかし並より長い、鋭い犬歯が覗き、腐肉に似た上唇がめくれあがるのが、言いようもなく吉房夫婦の目にはぶきみに印象された。
(いやいや、みめかたちで人を推しはかってはならぬ)
自戒しながらもつい、逆さ磔の件ばかりでなく、挙動につねに不可解な翳《かげ》を纏い、味方の将士らにさえ、
(油断のならぬやつ……)
と警戒されていた亡き隼人正が、そのまま蘇りでもしたような気分に陥る。双生児の片割れとはいえ、じつによく似ているのだ。
(ほんとうに隼人は死んだのか? 目の前にいるこの男……。隼人正と同一人では、まさかあるまいな)
あらぬ妄想にまで取りつかれそうになる。
「それではさっそく奥州土産とやら、見せてもらおうか」
疑念を振り払うように吉房は言った。
「ご披露せよ」
秀次に命じられて、小姓たちがしとやかに次の間へ立つ。これは三人ながら女にみまほしい美童である。そろって特別な寵愛を秀次から受けているとも親たちは聞いていた。
そのつもりで見るせいか彼らのほっそりとした袴腰《はかまごし》が、|とも《ヽヽ》には何ともなまめかしく、目のやり場に困るような眩しいものに感じられる。やはりこれも、老夫婦の想像力をもってしては理解できかねる妖美の世界での|きずな《ヽヽヽ》であるようだ。
それでは男色一辺倒かというと、案に相違して秀次には側女も少なくない。正室は堂上家から迎えている。菊亭|晴季《はるすえ》の息女で、この女性にはまだ子供は生まれていないが、庶腹ながら嫡男の、仙千代丸という世継を儲けた日比野下野守の娘、次男の於百丸《おひやくまる》を生んだ尾張の地ざむらい山口|松雲《しよううん》の娘など、急速にここへきてその数はふえて、いまはもう、三十名を越す嬖妾を大坂城内に住まわせていた。
二人の子供はどちらも愛ざかりのがんぜなさと聞けば、直系の内孫たちではあり、|とも《ヽヽ》も吉房も抱いてやりたい。常時そばに居させて声を聞き、遊び相手などしたいのだが、なぜか秀次は八幡山城へは妻妾や子らをつれてこない。人質の意味で諸大名の妻子を洛中、もしくは大坂の第邸へ置かせるのは、秀吉の意向であった。
率先して秀次は範を垂れているのであろうけれども、ぷっつりとも子らの噂を聞かせようとしない日ごろが、老父母にすれば寂しい。しびれを切らしてたずねても、
「達者でおります」
|そっけ《ヽヽヽ》なく、ひとことで済まされては言葉の継ぎ穂すら失ってしまう。
多すぎる側室の数を、親たちの手前、恥ずかしがっているのではないか、照れくささがさせる無愛想ではあるまいかと、|とも《ヽヽ》は善意に解釈していた。げんに中村一氏であったか、宿老の一人に、
「ちと近ごろ、ご閨房が華やかにすぎますな。精力あり余るお年ごろとは申せ、荒淫の風評までささやかれる夜ごととあっては、お身体に障りましょう。おん母儀さまから、それとなくご諌言あそばしてはいかがですか?」
注意され、顔から火の出る思いをしたこともある。
しかし年こそまだ、二十三にすぎないけれども、従二位権中納言に任ぜられ、四十数万石の大封を領して関白の軍代をすらつとめるまでになった嫡男が自身の判断でやることに、母ではあっても、|とも《ヽヽ》はもう今となると意見めいた口は出せない気がする。
(側女がたくさんおれば生まれる子の数も多かろう。子孫繁栄の基と思えばすむことじゃ)
納得しようと努めるたびに、気がかりな遠稲妻にも似て心の暗がりを、キラッとかすめる怯えがあった。
(祖父の木下弥右衛門どのから、秀次が享けついでいるらしい狂気の血!)
それが秀次の体《たい》を介して、幼い子供らに伝わったらどうなるか?
(現に平然と、弟秀勝の片眼を突きつぶした過去がある)
いまのところ、でもまだ、異状はどこにも認められない。むしろ今日など上機嫌で、
「ごらんください。これです」
小姓たちがやがて運びこんできた広蓋の覆いを、秀次は手ずから払った。
出てきたのは古びた十数巻の経文である。源平抗争のむかし、奥州に覇をとなえていた大武門藤原一族──。
「彼らの帰依をうけて建立された名刹《めいさつ》中尊寺の名は、父上もご存知でしょう?」
「おお、承知しておるとも。この経巻は、では中尊寺の……」
「蔵経の一部なのですよ」
と、秀次は目をかがやかせて言う。
「召し上げたのか?」
「献上してきたのです。坊主どもが……」
吉房と|とも《ヽヽ》は思わず顔を見合わせた。
好学を標榜するのはいい。吉房自身、いまはささやかなこの書斎を、唯一無上のくつろぎ場所ときめ、書物に埋もれてくらすのを生き甲斐にしている本の虫だ。農家に生まれ育ち、基礎的な学問こそさせてもらわなかったけれども、菩提寺の寺僕となってからは住持に読み書きの手ほどきを受け、文字に目をさらす面白さを知った。
妻の弟の、めざましすぎる出世に曳きずられ、武将などというおよそ肌に合いかねる名を、表むき冠する仕儀に立ち至ってはしまったが、弥介吉房の本心からすれば、女房の|とも《ヽヽ》と二人、かつかつ食べてゆける程度の田畑を耕しながら、雨の日雪の日はひきこもって本を読み、気に入った詩歌など書写したりして静かに一生を終るのが望みだったのである。
嫡男の秀次がそんな父の日常に感化され、武への偏重をみずから戒めて、文雅の道に関心を示すのはそれじたい悪いことではけっしてない。一族に欠如した教養面を、秀吉あたりも吉房父子の存在でわずかに補おうとしている気配さえある。
ただ、吉房が見るところ秀次のそれは、日本の古典にしても漢籍仏典にしても、読むこと知ることの真の魅力に動かされて、むさぼり漁るというのではなさそうなのだ。
官位が高まれば宮廷づきあいが多くなる。正室は上卿の息女だし、宮中での儀式遊宴にも時には参加しなければならない。有職故実の知識、和歌管絃のたしなみにくわえて学問の素養は必須だった。
公卿や殿上人どもの小意地悪さは、姑根性|なみ《ヽヽ》である。うわべを取りつくろいながら、言外の態度で暗に嘲《あざけ》る。
(無知無教養な成上がり者の殿上まじわり……。片腹痛い)
秀吉には背伸びがあり負けん気の焦りがあるけれど、居直りの強さも人一倍だった。
(いまさらドロ縄で三十一《みそひと》文字の並べ方を学んだとて、はじまるまい)
側近に民部卿法印の前田玄以、尼の幸蔵主など心きいた者どもをかかえ、肩肘張る書翰や歌などはさっさと代書代作させて、むしろ茶だの能だの、それまで宮中では禁断だった自分ごのみの娯楽へ公家たちばかりでなく、天皇や上皇までを否応なくひきずり込み、
「新例を開いたとおぼしめせ」
うそぶくふてぶてしさを持っている。
そこへゆくと若いだけに、秀次には千年の伝統を|まる《ヽヽ》呑みに呑んでかかるほどの気宇がない。やかまし屋と定評されている前左大臣|近衛三藐院 信尹《このえさんみやくいんのぶただ》、烏丸《からすまる》大納言光宣らに箸のあげおろしにチクチク皮肉られ、
(くそッ!)
反撥から突っ走った附け焼き刃の好学≠ネのである。読んで血とし肉とするまだるこしさよりも、秀次の熱意は、だから集書写本にもっぱら振り向けられた。寺々の僧たちの中から能筆を選りすぐり、特別に漉《す》かせた上紙に源氏物語を書き写させているのもその現れだし、どこそこに珍籍がある、稀覯本《きこうぼん》が蔵されていると聞けば、関白さまの威光を笠に着、金に糸目をつけずに我がものとしてしまうから、天下の奇書はやがてことごとく、秀次の所有に帰すのではないかとさえ囁かれている昨今なのだ。
弘法大師空海の手になる風信帖《ふうしんじよう》──。もと五章あったのが南北朝争乱のどさくさに一章紛失し、現在、四章残った中から、
「ぜひ、一章だけ頂きたい」
と高野《こうや》の木食興山《もくじきこうざん》上人にげんに今、秀次がしつっこくねだりぬいている事実を吉房は知っているし、前田利家の夫人お松にも顔向けならぬ不義理をしでかした。紀貫之の真蹟ということでこれも名だかい桂《かつら》万葉集を、むりやり借覧し、あげく、もっとも値打ちのある巻頭と末尾を切り取って自分のものにしてのけたのである。身勝手きわまる暴挙だが、さいわい相手が、なが年家族ぐるみでつき合ってきたお摩阿の母親だから、
「かまいませんとも。秀次さまがそれほどご執心ならば、全巻そっくり差し上げてもよろしいのですよ」
吉房夫婦の詫びを、こころよく受け入れてくれたのだ。でも、このときも、
「他家の重宝にみだりに鋏を入れ、ことわりなしに取ってのけるなど賊の所行ではないか」
見かねて難詰する父へ、
「花|盗人《ぬすびと》は、盗人にあらず、竊書《せつしよ》も同様、盗みとは申さぬそうです」
けろりと秀次は言ってのけている。
素眼の軸物《じくもの》が、揃って十巻も洛中の某質店に入質され、流れかかっているとの取り沙汰を耳にしたときの秀次の興奮ぶりも、到底まともとは思えぬものだった。素眼は、書聖と称された尊円法親王の高弟で、世に聞こえた世尊寺《せそんじ》流の能書家である。真筆となれば、軸物の価値ははかりしれない。しかしそれにせよ、
「は、はやく行け」
尻を蹴とばさんばかりに家臣どもを質屋へ走らせ、
「どこぞへ転売したあとではなかろうか。うまく手に入ったか」
やきもき気を揉みつづけたのはいささか常軌を逸している。そのくせ、大枚の黄金と引き替えに首尾よく持って帰れば、ほんのお義理のように一見したきり、蔵に仕舞いこんでしまう。
手に入れた満足……。
それが満たされれば素眼だろうと貫之だろうと、蒐集への興味は色|褪《あ》せるのか、こんどは惜しげもなく宮中や女院御所、仙洞御所、堂上諸家などへ珍書を贈りつけるのだ。
(わたくしには集書のごとき高尚な趣味と、書籍の値打ちを見分ける眼識があるのです)
と、暗にひけらかすことで日ごろの劣等感を癒やし、二重の満足を味わいたいのだろう。
げんに目の色かえて入手した素眼の軸物など、四条の金蓮寺という寺から、
「もと当院の寺宝でござりました。どのような経路でか門外へ持ち出され、以来、手を尽して行方を探索していたやさきでございます」
訴えられると、
「よしよし、古巣へもどしてやれ」
これも玩具《おもちや》に飽きた小児さながら、未練げなく渡してしまっている。
中尊寺の蔵経も、召し上げたのではないと秀次は言うけれど、奥州平定の軍勢をひきいて乗り込んで来た天下人の甥に、ほしそうな顔をされれば寺僧らは拒否できまい。いやいやながらも献上≠ケざるをえないわけで、
(困った性癖じゃなあ、いつもながら……)
こころ重い土産に、吉房も|とも《ヽヽ》も内心、吐息つくのであった。
[#改ページ]
色は匂えど
尾張犬山への引き移りは冬のあいだに終った。織田信長の旧領に北伊勢の五郡を加え、秀次はつごう百万石もの大領を食《は》むことになったのである。
それはいいが、年があけてまもなく吉房夫妻が耳にしたのは、大和大納言秀長の重態を告げる知らせであった。郡山からの急使は、
「即刻、ご来城くださいますように……」
と小一郎秀長の意志を伝えた。息のあるうちに自身の娘と、養子に貰いうけた三吉秀保の祝言を、とりおこなっておきたい……そう秀長は希望し、秀吉も諒承したのだという。
取るものも取りあえず|とも《ヽヽ》は郡山へ駆けつけ、移転の疲れで床についていた吉房も腰痛をこらえながらあとから来たが、二人ながら秀長の窶《やつ》れのひどさに声も出なかった。
侍女のお岩に書かせて寄こした大政所からの書状には、すっかりよくなって、春日大社へ礼参りにまで出かけたとしたためてあったはずではないか。
(なぜ急に、こんなことになったのか)
信じられぬ思いで、こみあげてくる嗚咽《おえつ》を|とも《ヽヽ》はこらえた。
諸大名が続々つめかけた。秀吉も病床を見舞い、このところ老衰で立居がままならぬ大政所は、
「わしが身代りになりたい。なんで永らえても詮ない婆が生きて、小一郎が死なねばならぬのじゃ」
神も仏もないと身を揉んで恨みながら、それでも春日の社頭に神馬を寄進し、病魔退散の神楽《かぐら》を奉納させるなど必死の祈念をつづけているという。
いったんは恢復したものの冬に入って再発……。師走に重態に陥り、天正十九年の正月を迎えて、やや持ち直した秀長だった。姉夫婦の来城を知ると安堵した様子で、すぐさま挙式の仕度をさせ、息女と秀保を並べて固めの盃を交させた。
花嫁五歳、花婿十三歳……。婚礼といっても形ばかりのものにすぎないが、
「よいか、父が死んだらその日からそなたは当城の主《あるじ》……宿老《おとな》どもの教訓をよく守り、兄の秀次、秀勝らとも仲ようして、淀におわす鶴松ぎみを補佐し、豊臣家の藩屏とならねばならぬぞ」
と秀長は、秀保をさとした。
旧冬、秀長の危篤が伝わるとただちに、朝廷からは養嗣子秀保に、
「従四位下・参議に任ず」
との特旨がもたらされ、それを機《しお》に童形を改めて元服……。正式に叔父の家督を相続もしたのである。
礼服に改まって家臣らの祝詞を受ける姿には、でも相変らず落ちつきがない。遺言とも聞いてよい秀長の言葉にさえ、上の空な表情でいるのが|とも《ヽヽ》には情けなく、十三という実際の年齢よりさらに下廻って見える幼稚さ、ふがいなさが腹立たしかった。
郡山に滞在するとなると、嫌でも記憶の淵から泛かび上ってくるのは、秀保に追いつめられ、石垣から落ちて死んだ童女小今の、むざんな血みどろ屍体である。
(兄がいたな)
幡利一郎とかいう十三、四の前髪であった。妹の柩を守りでもするように、わびしい小者長屋の一室にむっつり坐りこんでいた通夜の晩の、頑なそうな顔だちも|とも《ヽヽ》には忘れられない。
(まだ奉公をつづけているのか?)
逢うのは怕い。しかし見ずにいるのも気にかかって、出入りする小姓たちの面ざしへ、それとなく|とも《ヽヽ》は目を走らせていたが、利一郎らしい少年はいなかった。足かけ、あれから四年たつ。幡利一郎も元服し、一人前の青年武士に変貌していたために|とも《ヽヽ》は気づかなかったのである。うっかり歳月の経過を失念し、無意識に視線は、前髪の小姓ばかり追う結果になったが、じつはそんな|とも《ヽヽ》へ、背後から射ぬくような凝視を、利一郎は黙然とそそぎつづけていたのだ。
……挙式の日を境に、小一郎秀長の容態はさらに悪化した。懸案の一つを片づけたことで、張りつめた気がゆるんだのかもしれない。
喀血をくり返し、一日一日、段がつくように体力は弱りはじめた。気力ははっきりしていて、熱の引いたあとなど姉夫婦や、これも見舞いに駆けつけたまま城中に詰めて介護役の一人に加わっている茶頭の千利休ら、気ごころの知れた者だけを相手に、
「慢じて申すわけではけっしてない。しかし、わしがいることで、かろうじて均衡を保ってきた力の振り合いが、死後、あちこちで歪《ひずみ》を生じ、やがて一気に崩れ出すのではないか?……そんな不安にさいなまれてなあ、冥府とやらへ旅立つにも、うしろ髪を引かれる思いがするよ」
ぽつりぽつり述懐めいた言葉をつぶやく日もあった。
利休は声もなくうなだれていた。あとから思えば、彼はこのときすでに秀長の歿後、つづいてかならず我が身に襲いかかるであろう破局の日を、予感しつくしていたのかもしれない。
正月二十二日早暁、小一郎秀長はついに永眠した。五十一歳──。まだまだ惜しい年齢である。篤実、温和でもあった人柄が慕われ、二十九日におこなわれた葬礼には、沿道にうずくまって柩車を送る下民たちまで数えると、二十数万という弔問者が参集……。
「野モ山モ、人ニテ埋メラレタリ」
と記録される盛儀となった。
洛中はもちろん、大和、紀伊、和泉の諸大寺からおびただしい僧徒が参列したが、総導師は利休を介して、生前、秀長と昵懇《じつこん》だった紫野大徳寺の古渓《こけい》宗陳がつとめた。
戒名は大光院殿春岳紹栄大居士……。墓は郡山城内の三ノ曲輪に建てられ、相続人の三吉秀保には秀吉から、ただちに襲封の朱印が交附されて、老臣の一庵良慶はじめこれも秀長としたしかった藤堂高虎ら、補佐の大名が後見役に任じ、ともあれ大和一円、紀州にまで及ぶ広大な遺領を統治することとなったのである。
|とも《ヽヽ》は悲しんだ。帰路、聚楽第に立ち寄り、旭姫|きい《ヽヽ》につづいて今また、頼りにしていた弟に先立たれた不幸を、大政所ともども嘆き合ったが、
「そなた、聞いたか?」
涙に腫《は》れた顔をあげてふと、老母が洩らしたひと言は、一瞬、さすがの悲泣を忘れさせるほど|とも《ヽヽ》を驚かした。
「鶴松のお袋さまには、たしかお督どのと申す妹御がおったであろ?」
「はい。尾張大野の城を預かる佐治与九郎さまのご内室。それはそれは美しい方でござりますよ」
「その佐治とやらからお督どのを取り上げて、どうやら藤吉郎め、そなたの家の二番目息子にあてがうつもりでおるらしいぞ」
「何ですと? 小吉秀勝の嫁にあの、お督さまを?」
あいた口が塞がらなかった。からかわれているのかと疑って、|とも《ヽヽ》はまじまじ母をみつめた。
自身、大病を患ったあげく、二人の子にまで立てつづけに死なれた気落ちから、老い惚けの度合いが進んだ大政所なのだと、|とも《ヽヽ》は解釈した。
(お督どのが、小吉秀勝の女房になる!)
ありようはずがないことだし、また、あってはたまらぬとも、|とも《ヽヽ》は思う。
淀城で、はじめて会ったときのお督の印象は、浅井三姉妹の中ではもっとも親しみにくいものだった。さすがに鶴松の母だけあって、豊満な柔かみの中にも、落ちつきと貫禄の備わった長姉の茶々、むじゃきな見せかけの裏に小ずるさと、図々しさをひそめた中むすめのお初……。そのどちらともちがう暗い、冷ややかな美貌が、お督の中の、芯のきつさを想像させて、|とも《ヽヽ》にはだれよりも気がおける相手に感じられた。いちばん年若な末妹でいながら、見ようによっては二人の姉よりも老けてさえ受けとれるお督なのである。
|あか《ヽヽ》の他人の妻ならば、それもよい。冷たかろうと驕《おご》っていようと、
(そういう女)
と眺めていればすむことだが、これが次男の伴侶となる、我が家の嫁となる、というのでは、話は別だ。ひとごとと笑ってはいられない。
|とも《ヽヽ》は急《せ》きこんで老母を問い詰めた。
「佐治どのという歴とした夫を持つお督さま……。藤吉郎は二人を、夫婦別れさせると申すのですか?」
「そうらしいの」
「どういうわけで?」
「はて、わけまではわしも知らぬよ」
「いかに天下さまじゃとて、いきなり『そちの女房をよこせ、甥にやる』などと言うても、佐治どのが承治しますまい」
「でも、抗うことはできなかろう。なにせ、天下さまの仰せじゃでな」
「理不尽じゃ。なんぼ何でも……」
「そなた、お督どのを嫁に迎えるのは、気がすすまぬか?」
「すすまぬではなけれども、母《かか》さまも知っての通り小吉めはむっつり屋の偏屈者……。不具の|ひけ《ヽヽ》目もあるところへ、お督ご寮人がこれまた口かずの少ない気ぶっせいなお人柄でな。どうやらしかも、縹緻《きりよう》自慢を鼻先にぶらさげて、ツンと澄ましたお方のようじゃ。あれでは一緒にさせたところで、しっくりゆく道理はござらぬ。小吉の不満がつのるのは目に見えておりますよ」
と、|とも《ヽヽ》の危ぶみは、母親の痴愚に晦《くら》んで小吉秀勝への哀憐にばかり傾く。お督の不幸、佐治の不幸も同様なのに、さほど痛切には、彼らの立場を思いやってはいないのである。
「小吉は当年、何歳じゃの?」
「たしか二十三のはずでござります」
「まさか生《き》息子ではあるまいの」
「さあ、いつもいつも親子はなればなれにくらしているゆえ、くわしい日常はわかりませぬが、二十三にもなれば手をつけた侍女の一人二人、おらぬことはござりますまい」
「わからぬぞ。この聚楽第で祖母《ばば》たちと共ぐらしをしていたときも、小吉にかぎって浮いた噂ひとつ聞かなんだ。そなたも言う通り気むずかしい変わり者……。女どもも小吉を避けていたようじゃ」
「ならば祝言する相手が、小吉にははじめての女になります」
「初婚の生息子に、人の食い荒らした古女房を押しつけられては割りに合わぬ。小吉めが不憫じゃなあ」
と大政所の歎息も知らず知らず、身内|贔屓《びいき》の弊に陥っている。
「藤吉郎に、そんな労りごころなどあるものか。|きい《ヽヽ》がよい例じゃ。嘉助どのとの仲を裂かれて副田甚兵衛の妻にさせられ、つぎは甚兵衛の手から取り上げられて品物でも渡すように、徳川家に嫁入らされた。藤吉郎の目には男も女も、将棊の持ち駒でしかありませぬのじゃ」
腹立ち声で言いながら、|とも《ヽヽ》は座を立った。何はともあれ、事の実否をたしかめねばならぬ。老耄した大政所が僻耳《ひがみみ》に聞きちがえた話を、本気にして騒ぎ立てなどしたら、とんだ|もの《ヽヽ》笑いの種ではないか。
(弟に、じかに訊こうか)
とも思ったが、高びしゃに出られると反対はしにくい。北政所にまず、それとなくたずねてみようと、小走りに義妹の住む棟へ出かけた。
取り次ぎ役の侍女に案内されたのは、居間に続く稽古用の茶室である。ちょうど利休の後妻の千宗恩が指南しに来ていて、姉の長慶院お久万の方ともども、寧々は干菓子を口にしかけているところであった。
「よいところへお越しになりました。嫂《ねえ》さまもご一緒にどうぞ」
と誘われ、|とも《ヽヽ》もひさしぶりに宗恩の点てた馥郁《ふくいく》と香の立つ一服を昧わった。
大和大納言秀長の逝去を悼んで、宗恩は|とも《ヽヽ》に、丁重なくやみを述べた。その青白い顔ぜんたいに、痛ましいまでに滲んでいる哀傷の色は、けっしてなおざりなものではなく、秀吉以上に、利休の芸術を高く評価し、力添えを惜しまなかった秀長の死が、千家にとってどれほどの打撃であるか、まざまざとものがたっていた。
「ありがとう」
あきらめたはずなのに、|とも《ヽヽ》の目はまた熱くなり、涙があふれた。
「小竹の幼名で呼ばれていたころから、風邪だの腹くだしだのと、とかく病みがちな弟でしたが、まさか五十一やそこらで永の別れになろうとは思うてもおりませなんだ」
「ですが不幸中の、せめてものお慰めは、忘れ形見の姫さまと侍従さまの、ご婚儀が挙げられたことでござります。さぞやおん仲むつまじくおすごしのことと拝察いたしております」
「それがあなた、まだ双方ともに幼なすぎて、歯がゆいほどの他愛のなさ……。雛遊《ひいなあそ》びを見るようなありさまでしてな」
「宿老がたがご後見あそばしておられる上は、ご懸念はいささかもございますまい。ご成長のあかつきが、私どもにまで楽しみでなりませぬ」
と、いつもながら|そつ《ヽヽ》のない、しかも真実味のこもった挨拶をして、やがて宗恩は聚楽第内の利休屋敷に退って行ったが、彼女を目にするこれが最後の機会になろうとは、そのとき夢にも気づかなかった|とも《ヽヽ》だった。
居間へもどるとすぐ、寧々がその性急な気質をまる出しに、
「嫂さま、何ぞご用でしょうか?」
と問いかけてきたのは、茶室に入って来たときの|とも《ヽヽ》の様子のただならなさに、機敏な感知能力がとっさに反応したからにちがいなかった。
「ほかでもありませぬ。たったいま、母者から聞きましたが、浅井のお督どのとうちの小吉秀勝を夫婦《めおと》にさせようとのおもくろみは、まことでござりましょうか?」
「なんですって!?」
寧々が驚愕し、
「わたしは存じません。はじめてうかがいましたが、たしかなことなのですか?」
あべこべに問い返してきたのをみて、|とも《ヽヽ》は心中、
(しまったッ)
臍《ほぞ》を噛んだ。
(寝た子を起こしたことになった)
後悔しても追いつかない。寧々は口ぜわしくお久万に問いただし、
「初耳ですね、わたしも……」
姉が眉をひそめるのを見るなり、けたたましく幸蔵主を呼びつけて難詰した。日ごろ早耳を誇りながら、なんという怠慢か、まっ先に知らねばならぬ情報を、自分が姑《かか》さま嫂さまの口を介して知るなど、落度もはなはだしいと責められて、法体の女右筆は剽軽《ひようきん》に首をすくめた。
「恐れ入りました。まったくこの婆めの出遅れ……。皺腹かき切ってお詫びいたさねばならぬところなれど、それにしても魂消《たまげ》ましたな。お督ご寮人が、甲斐の少将さまのお内方におなりあそばすとは!」
「呆れ返った尼だね。そうやって目をむくほどの一大事を、わたしから聞かされておどろくなんて……」
「大政所さまのお側には、お岩という名うての鼻効きがおります。あの女中が嗅ぎつけたに相違ありませぬ」
「感心している場合ではあるまい。とっとと調べておいでッ」
叱りとばされ、きりきり舞いしながらどこかへ飛んで行ったが、さすがに口八丁手八丁と評判されている尼だけに、四半時にもならぬうちに正確な情報を仕入れて駆けもどって来た。
「わかりましたわかりました。やはり虚説ではありませぬ。関白さまのご意向は、お督どのと少将さまの縁結びにあるようでござります」
寧々が口を開くより早く、|とも《ヽヽ》がさえぎって質《ただ》した。
「では佐治どのはどうなる? お督どのには夫がいるに、不縁にしてまで小吉と夫婦にさせようというのか?」
「さようでござります。ご承知の通り小田原陣の行賞のさい、織田信雄さまはご加封の新地を嫌い、旧領に固執して関白殿下のお怒りに触れました。たしか下野の、那須野とやらにご追放──。佐竹どのに身柄を預けられたとうけたまわっております」
「読めた」
さけぶように寧々が言った。
「佐治は織田どのの臣……。主《しゆう》が囚人《めしゆうど》になりさがっては、家来も禄を離れるほかない。浪人になったのを機《しお》に、女房を取り上げて秀勝どのにあてがうつもりであろう。藤吉郎どのはもとから、『鶴松の叔母御前が、陪臣風情につれ添っていては外聞にかかわる』と申しておったからな」
旭姫|きい《ヽヽ》の過去と、まったく同じである。水呑み百姓を妹婿に持つなど、自分の名折れだと言い張って、いやがる嘉助を無理無体に武士に取り立て、重症の気鬱に追いこんだあげく死なせてしまった秀吉ではなかったか。……幸蔵主はしかも、尾張大野の城を預っていた佐治与九郎が、主君の罪に連坐して城を逐われたという事実さえ併せて聞き出して来ていた。
「そりゃ、まことか? まちがいないか?」
「正真うたがいなしの真実でござります」
「お督どのは?」
「佐治と別れるのは何としてもいやじゃと言いはって、不如意な浪々ぐらしを頑なにともにしておらるるとやら」
これも|きい《ヽヽ》の、二度目の夫とそっくり同じだ。副田甚兵衛は妻と別れさせられ、屈辱に耐えかねて出奔してしまった。菩提寺に入って|もとどり《ヽヽヽヽ》を切ったとも、憤死したとも言われている。
まして佐治とお督は、秀吉みずから、
「あいつら、膠《にかわ》でひっつけたほどの恋仲じゃよ」
と、嫉みまじりに|とも《ヽヽ》にささやいたほど、琴瑟《きんしつ》相和していたおしどり夫婦である。二十近い年の開きをものともせず、お督のほうからやいやいのぼせて、祝言に漕ぎつけた仲なのだし、
「取りもってやったのも、このわしよ」
とも、恩きせがましく言っていた秀吉なのに、その膠を、無慈悲に引き剥がそうとするなど、身勝手もきわまったというほかない。
「美人なだけに権高くすら見えるお督さまが、佐治どのの身分に、こだわりも|ひけ《ヽヽ》目も抱かず、それこそ痒いところに手の届く世話女房ぶりでしたが、うちの小吉づれがそのあと釜に坐ったとて、うとまれこそすれ、いとしがられるわけはありませぬ」
どう考えても不自然な結びつき、佐治の恨みの上に築かれる呪われた婚礼である。
「なんとか白紙にもどしてはもらえますまいかな、寧々どの」
と、義妹を前にして、|とも《ヽヽ》の哀願に変りはなかった。
寧々の瞋恚は、しかし、まったく別のところに潜んでいた。陪臣であることが気にくわないなら、浪々した今こそ好機ではないか。何万石でも何十万石でも、鶴松の義理の叔父にふさわしい食禄を与えて、佐治与九郎を大名に取り立て直してやればすむことである。
それをせずに|つれ《ヽヽ》なく見放したのは、他人より身内に信を置いたからだ。日ごろ阿呆の、出来損いのと罵りながらも、やはり血縁の情の濃さが、秀吉をして小吉秀勝を選ばせる動機となったのだろう。
「年ごろも、ちょうど釣り合う」
秀勝とお督を結婚させることで、茶々たち三人姉妹を、秀次、秀勝、秀保兄弟に接近させ、鶴松を軸として一つの勢力圏を確立させようと意図した秀吉なのだ──そう、お寧々は解釈したのであった。
子を生まぬ妻の心細さ、足場の弱さ……。せめて幾らかでもそれを補強しようとして、杉原家、そこから枝分かれした木下家など、実家の若者たちを翼の下にかかえこみ、中でも気に入りの辰之助秀秋あたり、赤児のうちから手許に引き取って愛育してきたわけだけれども、茶々の腹に秀吉の実子が誕生し、豊臣家側の青年たちがこれを囲んで結束すれば、政権の中心はそこに据わる。名ばかりの正室の座にいくらしがみついてみたところで、次第次第に寧々の影は薄くなり、彼女の血族たちは圏外に押し出されてしまうだろう。
(その手はじめが、お督と秀勝の縁談という形でまず、現れてきたのだ)
寧々は唇を噛んだ。まなじりが吊り上がり、表情の鋭さに凄みが添って、|とも《ヽヽ》を思わず戦慄させた。
満一歳と八カ月に達した鶴松は、人形に生命が吹きこまれたようで、片コトを喋る。巧者に歩く。鬼の目をさえ和《なご》ませずにいない愛らしさの盛りであった。
小一郎秀長に先立たれた衝撃を、鶴松への惑溺でせめて埋めようとでもするかのように、葬儀が終るといなや淀に直行し、茶々と愛児の肌の香にくるまれつづけている秀吉である。
「聚楽第に引き取り、母者とそなたに育ててもらおう。のう鶴松、北政所を政母《まんかか》と呼べよ」
などと耳ざわりのよいことを言って、小田原攻めのさなかだけ子供を押しつけたのも、茶々を陣中に召しくだしたいための口実であった。凱旋するととたんに、やれ乳が張って痛むの寂しいのと茶々に責められ、けっくは淀城へ返してやらざるをえなくなった鶴松だが、預かっているあいだに病ませでもしたら、あらぬ疑いをかけられると意地になって、寧々は養育に神経をとがらせぬいた。
それなのに淀では、留守中の世話を感謝するどころか、侍女たちが寄ってたかって、
「お可哀そうに、痩せられました」
と騒ぎ、お初やお督までが尻馬に乗って、さも鶴松が虐待でもされたかのような言いざまをしたという。
為にする離間策、中傷だとは思うものの聞けば聞き腹がむらむら立つ。子供の誕生以来つもりにつもっていた不快が内攻し、増幅して、寧々に癇走った怒声をあげさせた。
「すぐさま淀城に書状をおやり。こんどのご縁、小吉どののお袋さまは肯《がえん》じておられませぬと……」
|とも《ヽヽ》はうろたえた。危惧を口にし、白紙にもどせぬものかともたしかに言ったけれど、寧々の激発の、隠れ蓑に利用されてはたまらない。
でも、いったん燃え上ると、|とも《ヽヽ》ごときに有無を言わせぬお寧々であった。幸蔵主がたちどころに一通をしたため、早馬の使者がそれを持って淀へ飛んだが、立ち帰って来ての口上は、
「もはや決めたことだ。まかりならぬ」
との、取りつくしまもないものだった。
「甲府に打診したところ、よろこんでお受けするむね、秀勝も返事してきた。当の本人が乗り気でいる縁談に、いかにお袋とて口出しは僭越。かねての願いにまかせ、近く、甲斐から岐阜へ秀勝を移封してとらそうと目算しておったが、我意を張るならそれもとりやめるぞ」
姉への恫喝にかこつけて、寧々へも釘をさしてきたわけだが、親が知らぬまに、伜の同意をとりつけてしまうなど、いつもながら秀吉のやり方は、抜け駈けのすばやさだ。
恋夫《こいづま》と無体に別れさせられようとしているお督の気持、姉の茶々や初がどう思っているかなど、知りたい事柄には何ひとつ触れていない。
寧々は寧々で|とも《ヽヽ》の手前、面目をつぶされたばかりか、日ごろ糟糠の妻扱いして愚にもつかぬことには持ちあげながら、重大な相談にはけっして与《あずか》らせず、独断でどしどし事を運んでしまう秀吉のやり方に、いよいよ怒りをつのらせた。
お久万の方の白眼にも居たたまれぬ思いで、|とも《ヽヽ》は早々に聚楽第を辞去した。犬山城へもどって弥介吉房にさっそく縁談の件を告げると、これも一瞬、呆然としながらも、
「お受けせねばなるまい」
気弱く言った。
「若い内は気力の盛り返しが早いものじゃ。今はかぶりを振っていようが、お督どのとていつまでも先夫を慕うてばかりはおるまい。小吉と夫婦になればまた、心をとり直して新しいくらしになじもうと努めるにちがいない。先案じはせぬことじゃ」
「それにしろ、あのむっそり者の小吉が、一も二もなく、なぜ、承知したのでござりましょうな」
「おそらく人づてに、お督どのの美しさを|ほの《ヽヽ》聞き、見ぬ恋に憧れでもしたのであろう。思えばいじらしい男よ。お督どのも木石ではなし、やがてはほだされて、きっとよい女房になってくれるよ」
よいほうに考えるのも救いかもしれないと、夫を見習って|とも《ヽヽ》はみずからを励ましたが、とりあえず、秀勝に手紙で、
「はたして真実、応諾したのか否か」
問い合せだけはしてみた。
その、息子からの返事もこないうちに、犬山城下に伝わって来たのは、千家を襲った悲劇であった。利休が罪を得て、堺の本宅に蟄居《ちつきよ》を命ぜられ、あげく、切腹させられたのだ。
表向きの罪科は、茶道具の売買に私利をむさぼったこと、勅使がくぐり、関白殿下も通る紫野の大徳寺山門に、雪駄《せつた》ばきの自像を刻ませて安置したことなどが挙げられたが、臆測が乱れとんで真相はだれにもわからなかった。
「鵙屋《もずや》に嫁して後家になった利休の娘に、関白さまが懸想して、はねつけられたのを根に持たれたげな」
面白ずくの、そんな俗説までささやかれた中で、吉房夫婦が納得したのは、黄金の茶室の顕示でこそ遊びの解放感を満喫できても、結局は草庵侘び茶の冷え枯れた境地など、秀吉には無縁だったという現実である。
「利休屋敷の垣に、ある夏、みごとなまでに朝顔が群れ咲いたそうじゃ」
と、人からの|また《ヽヽ》聞きを、吉房は妻に語り分けた。
「何ごとによらず関白さまは、たくさんがお好きゆえ、あす朝、見にゆくぞよと約束された。そしてお運びなされてみると、なんとお|とも《ヽヽ》、おびただしい数の朝顔がことごとく刈り取られ、茶室の床の間にたった一輪だけ、形よう活けてあったというわ」
自己の美意識に根ざした利休の意地、それを不遜と見て憎む秀吉の鬱情が、火山の底の熱泥さながら、やがては噴出しないはずはないのだ。不幸な破局へ向かって、じりじり対立を深めていった二人だったのだろうとは、|とも《ヽヽ》にもかろうじて想像がつく。
「公のことは秀長どのにたのみ、内々の訴えは利休にすがれば何とかなる」
とまで諸大名に畏怖されていた情況……。茶室という名の密室の中で、本来、それに関わるべきではない茶頭《ちやがしら》ごときの胸三寸に政局が左右されるのを、変則とうけとめて指弾していた石田三成、増田長盛ら官僚肌の武将たちが、秀長の死を契機と見て利休を殪《たお》したのだとか、あるいはまた、九州征伐のころから胸中に芽ばえさせていた半島、大陸攻略の夢想が、鶴松を得た気負いからにわかにここへ来て膨れあがり、秀吉の心象の中で具体化しはじめた結果、これまで国内統一の戦いに、武器弾薬を供給しつづけてきた堺商人よりも、朝鮮とは一衣帯水の地の利のよさから、博多の軍需商人に切り替えをはかった、利休を抹殺することは堺衆の利用に終止符を打つことであり、このあくどい交替劇の裏面には、秀吉自身の非情さ、冷酷さもさることながら、神谷宗湛、島井宗室らしたたかな博多商人の暗躍もあったといった風説になると、あまりに政治的すぎて、|とも《ヽヽ》の理解からは遠ざかってしまう。
宗恩に点ててもらった茶の味わい、その慟哭の深さを思いやり、持仏のおん前に香を捻《ねん》じて、
「南無……」
せめて遙かに、死者の冥福を祈ったのも、
提《ひつさ》ぐる我が得具足《えぐそく》の一太刀《ひとつだち》
今このときぞ天に抛《なげう》つ
という烈しい辞世を、しかも鳴りとどろく雷鳴、降雹《こうひよう》の中で利休が詠み、切先を腹に突き立てたと聞いたからだった。
読みようによっては、怨念の凝《こご》りとも取れる一首に身の毛をよだて、
「どうぞ豊臣の一族に祟らぬように……」
との願いをこめて|とも《ヽヽ》は仏前に手を合わせたのだが、三月に入ってまもなく、小吉秀勝の岐阜転封が本ぎまりになると、お督の件はひとまず措《お》いて、目の前がいささかは明るくなった。山また山をへだてた甲斐や信濃などとはまったくちがう。国こそ尾張と美濃に分かれているけれども、犬山城と岐阜城は五、六里ほどしか離れていない。隣家に引越して来たようなものだ。
両親の老いを考慮し、ともあれ約束をはたしてくれた秀吉に、|とも《ヽヽ》は感謝した。引き移ると、さっそく、小吉秀勝はやって来て、
「縁談について問い合わせたに、なぜ返事を寄こさなんだ」
|とも《ヽヽ》のこごとに、うしろ首など掻きながら、
「何と書いてよいかわからなかったので……」
ニヤリと笑う。照れているのである。やはり吉房の推量にたがわず、見ぬ恋に憧れているらしい。
(この子がそれほどまでに望むなら、成りゆきに委せよう)
と、|とも《ヽヽ》は肚をくくった。
一人、近くにもどると、入れ代りにまた一人、軍旅についた。前年、平定されたはずの奥州南部領に叛乱が起こり、鎮圧のための軍割《いくさわ》りがきまって、秀次が再び総大将に任ぜられたのである。
「こんどこそ、中尊寺の蔵経をことごとく召し上げてまいりましょう。下野の足利学校にも珍籍が多数、納まっているはず……。土産に持って帰りますから父上、たのしみに待っていてください」
と、例の癖を発揮して発って行ったが、秀次がみちのくの再仕置に奮闘しているまに、淀では大凶事が持ちあがった。
千利休の賜死どころではない。ほとんど病むひまもない儚《はかな》さで、鶴松が夭折してしまったのだ。日本中が声を呑み、手に汗にぎる思いで息を凝らし合った。秀吉の絶望を、さすがに土民の末までが、痛ましく思いやったのであった。
吉房夫妻の驚愕もはなはだしかった。月たらずで生まれたとは聞いていたし、淀城で初めて対面したさいも、
(なみよりやや、小さな赤児……)
とは思ったが、傅人《もりびと》や乳母、医師や召使、なによりは両親である秀吉とお茶々御寮人の愛撫の垣に、厚く守られながら育っていたはずの鶴松ではなかったか。
この春、ほんの軽い食傷とかで四、五日わずらったときすら奈良の春日神社に三百石もの寄進をしたのをはじめ、大寺大社に大盤振舞いの寺領を寄せて平癒祈願の加持祈祷を依頼したくらいだし、まさか手の内の玉のひとり児を、むざむざ死なせる愚は犯すまいと安心していたのに、
「なんとしたことでござりましょうな」
「もしや誤伝ではあるまいか」
とっさには信じられない思いであった。
|とも《ヽヽ》が恐れたのは、待望の実子を得てこのところ、いささか躁状態のはしゃぎは見せこそはすれ、残虐、陰惨な鬱症状をまったくといってよいほど現わさなくなっていた秀吉が、手ひどい打撃の極、精神の安定をふたたび失って言動に円満な均衡を欠きはじめることだった。
(弟の体内にひそむ異常の血!)
亡父木下弥右衛門から、同じ素質を享け継いだ姉弟《はらから》として、その危惧は、火傷の爛《ただ》れさながら、|とも《ヽヽ》の心に烙印され、消える時がなかった。
秀次は奥州に下向中である。次男の小吉秀勝をただちに親たちの名代《みようだい》として弔問に赴かせたが、帰って来ての報告によると、秀吉の悲歎は、目も当てられぬものだったという。
「お袋さまにはお会いしたのか?」
「いえ、お気落ちのあまり半病人の|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》にて、深くお引き籠りとか。面会はだれともなさらぬということで、もっぱら弔使の取りさばきには、後見人の伯父御が当たっておられました」
「故右府さまのご舎弟じゃな」
「織田長益どのでございます」
「茶々さまのおなげき、察するに余りある。なあ|とも《ヽヽ》」
「ほんに、この腕に抱き取ったら、小さな、花の蕾《つぼみ》ほどの口をあけて、あくびをしやった。可愛ゆい顔が今も目に残っております」
「わしどもが誕生祝いに伺ったときは、まだ錦繍にくるまれた赤児であったが、鶴松ぎみもいまは三歳……。片コトまじりに話もし、がんぜない遊戯にも興じたであろう。親御にすればあきらめ切れまい」
こんども春日の社に千石の寄進を約し、興福寺の八講屋《はつこうや》では同音論の修法、紀州の高野山、霊験あらたかな地蔵尊をまつるということで近江木ノ本の浄信寺など、八方手を尽して神仏の加護を祈らせたのだが、幼い命を、冥府の使者の手から取りもどすことはできなかったのである。
逝去と聞くと同時に、秀吉は東福寺の一室で、
「無念!」
さけびざま|髻 《もとどり》を払った。徳川家康、毛利輝元はじめ扈従《こじゆう》して来た諸大名が哀悼の意を表し、いっせいにこれにならったので、境内にはたちまち髻の塚が築かれたとも、秀勝は語った。
「そなたは切らなんだのか?」
と、息子の頭上を案じ顔で|とも《ヽヽ》が見あげたのは、万事に気のきかぬ日ごろの性癖を、親の目にさえ焦《じ》れったいものと見ていたからだが、
「わたくしは東福寺に居合わせていません。京着したのはいま少しあとでしたから……」
秀勝は平然と釈明した。
その次男の表情から、鶴松の死がもたらした情勢の変化を、|とも《ヽヽ》の鼻も嗅ぎつけないわけにいかなかった。悲しんでいる者ばかりとは限らない。げんに口にこそ出さね、北政所のお寧々と彼女をめぐる一派一族は、
(ざまを見よ)
茶々の不幸に、凱歌をあげているはずである。
(我が家の伜どもも……)
たとえば秀次にしろ秀勝にしろが、鶴松の出生によって失いかけた養嗣子の地位を、またもや復活できたわけではないか。しかしそのような過度な栄光を、凡人なみな息子たちの生涯に期待する気のない|とも《ヽヽ》や吉房にすれば、幼児の夭折を、
(心の底ではよろこんでいるにちがいあるまい)
などと臆測されるだけでも心外だし、不愉快だった。
世間の口というものは、だが、あくどく辛辣なものだ。鶴松の死が伝わるともう、犬山城下でも、
「千利休の恨みじゃろ」
興味本位な噂がとび交いはじめている。
「奇怪なことに、一条|戻橋《もどりばし》の橋詰めに庶人への見せしめのため磔された利休の木像がの、カッと柘榴《ざくろ》にも似た口をあけて、ほど近い聚楽第の大門を睨み、怕《こわ》らしい声で呪ったそうな。『たのしみに待ってござれ関白さま、半年とたたぬうちに、死にまさる苦しみを味わわせてさしあげますぞよ』とな」
なるほど言われてみれば、利休の切腹からまだ、半年そこそこしかたっていない。彼の母や娘が、捕えられて蛇責めの拷問にあわされ、獄中で悶死した、などという根も葉もない妄説までが、まことしやかにささやかれたほどだから、若君の死に、千家の怨念が結びついても不思議はないわけであった。
葬儀は洛中花園の妙心寺でおこなわれた。鶴松の傅役は石川伊賀守光重だが、住持の南化玄興《なんげげんこう》に深く帰依していた関係から、
「濁世《じよくせ》にはめずらしい高徳の師家《しけ》でござります。あのような老師に引導をお渡しいただけば、幼君のみ魂も迷わず成仏あそばすに相違ありませぬ」
と秀吉にすすめ、葬場は妙心寺と決定したのである。
南化和尚の択んだ祥雲院殿|玉巌麟公《ぎよくがんりんこう》なる戒名は、いたいけな亡者には不似合ないかめしさだが、導師は東林院の直指《じきし》、捻香《ねんこう》は大雲院の九天《きゆうてん》ら塔頭《たつちゆう》の院主《いんす》がそれぞれつとめ、禅林らしい清《すが》やかな雰囲気の中で式典は終った。
伯父の織田長益、幼少から仏門に入っている末弟の、蒼玉寅首座《そうぎよくいんしゆざ》、妹のお初夫婦など身内のだれかれに支えられ、茶々も秀吉と並んで焼香をしたけれども、柩の前に泣き倒れて、他目《はため》にさえむざんだったという。
「お督どのは列席せなんだのか?」
|とも《ヽヽ》の問いかけに、
「見えませんでした」
素気なく応じながら、秀勝はふっと隻眼の瞼をひきつらせた。母以上にじつはそのことに、こだわりつづけていた秀勝だったのかもわからない。ごった返し最中ではあっても縁談が持ち上っている者同士、初見参の機会くらいは与えられてもよかったろうにと、息子に劣らず、|とも《ヽヽ》も残念だった。
お督には甥、秀勝には従弟にあたる鶴松である。二人ながら喪に服さねばならず、婚約は、そのあいだ延期となろう。思わぬことで、お預けをくわされる羽目になった秀勝が、いま、どんな気持を抱きながら鶴松の死を語っているのか、|とも《ヽヽ》にはそれも察しがつく……。
法号にちなんで秀吉は、造立中の大仏殿の近くに祥雲寺なる一宇を建立させ、
「南化和尚を請じて開山とする」
と触れ出した。
彼もまた葬儀の席で泣きに泣き、茶々に負けぬ愁歎を演じたが、|そら《ヽヽ》涙ひとつこぼさぬ北政所の、立つにも居るにも毅然としすぎる進退にくらべて、それはあまりにも対照的であった。
(泣けぬものは泣けぬ。出せぬ涙を出たごとく見せかけて、袖を目に当てるなど嘘っぱちじゃ。そんなわざとらしい真似をわたしはしません)
と、やせた、小柄な肩をそびやかした姿は、いっそ寧々らしい正直さの現れかもしれない。
守り刀や小鎧、かぞえきれないほどの玩具など、形見の品々も、
「見れば煩悩の種になる」
ということでいっさい寺へ納められた。守り刀は満一歳の誕生日に伊勢松坂の城主蒲生氏郷が献上したもので、金銀宝珠をちりばめた美麗さは、小型ながら神具の宝剣ともいってよかった。鶴松が生まれたときは、やはり、
「遠祖|俵藤太秀郷《たわらとうだひでさと》が、近江の三上山に棲む大|百足《むかで》を射とめたさい、用いたと伝承されている家宝でござります」
と巨大な矢の根を、紅白の奉書にうやうやしく包んで持参した氏郷である。産衣だの犬張子など、ありきたりな祝いの品々の中で勇武を象徴する鉄の鏃《やじり》は、ひどく目立ちもし、秀吉をよろこばせもした。
憎しみの針を、うまく真綿でくるむことを知らない寧々あたりに比較すると、若いが氏郷の取り入り方はなかなかに老獪といえる。
妹のお|とら《ヽヽ》をいちはやく、秀吉の閨門に差し出している抜け目なさなども、所望されてのこととはいえ諸大名個々と豊臣政権との、抜け駆け的むすびつきを排除しようとしている石田三成ら臣僚たちからは、
「汚いやり口……」
と嫌われていた。
玩具の中でも、ことに人々の涙をさそったのは船車である。奈良奉行の横浜一庵が、腕っこきの細工師を総動員して作らせた屋形船で、子供なら乗せて曳き廻すこともできる大きなものだ。艫《とも》と舳《みよし》に御殿が建ち、堀川夜討のからくり人形が船の移動につれて太刀をかざし長刀《なぎなた》をふりあげて立ち廻りを演じる仕掛けになっている。馬にも人形にも御殿にもふんだんに金物や丹青がほどこされ、その精巧さといったらない。鶴松はこの船車がひじょうな気に入りで、生前も機嫌よく曳かせて遊んだ。そこで人形や作り花など飾りを取り去り、胴ノ間に鶴松の木像を坐らせて寺へ納めることにしたのである。弘誓《ぐぜい》の船に愛児を乗せ、彼岸《ひがん》へ渡らせようとの、親たちの願いがこもっているのは言うまでもない。
「で、いま関白さまは?」
「がっくりと窶《やつ》れられ、茶々御寮人を伴って有馬へ湯治にまいられました」
温泉で、心の痛手が癒やせるならよい。悲しみがやがて怒りに変ったとき、胸中にぽっかりあいてしまった空洞を、秀吉が何によって埋めようとしはじめるか、見当がつかないだけに小吉秀勝が岐阜へもどって行ったあと、いつまでも|とも《ヽヽ》は不安だった。
恐ろしいほどの早さで、|とも《ヽヽ》の怯えは現実となった。鶴松が亡くなったのは天正十九年八月五日。葬儀を終え、九日に有馬温泉へ出かけた秀吉は、十三日にはもう、立ちあがったのである。それは手負い獅子の咆哮に似ていた。
鶴松を奪われた憤怒、寂寥……。死神が相手では解消できぬ無念を、秀吉は唐入り御陣の具体化でやみくもにはらそうとしたのだ。仕掛ける理由も口実もない戦いであり、まったく一方的な、領土的野心だけをむき出しにした侵略だが、もともと覇者気質の塊りにひとしい秀吉に、力ずくの非を説いたところで通じるはずはない。
日本国内の切り取りが終れば、目はしぜん、外へ向く。
前々から秀吉は、朝鮮王の|李※[#「日+公」]《りえん》に、
「来朝せよ」
と求めていた。しかし対等につき合っている国同士、片方の王だけが、海を渡ってまで挨拶になど出向く必要はない。使節団の派遣は友好の表明にすぎず、
「我が国は日本の、朝貢国ではないのだ」
と朝鮮側は考えていた。
秀吉も、出来ない相談を承知で難題を吹きかけているのは、出兵のきっかけをそこに結びつけようとの肚からである。
幾度か使者の往復がなされ、五月には僧玄蘇と、対馬《つしま》の宗義智の家臣が、朝鮮国王の返書を持ち帰ったけれども、内容を不満として秀吉は再度、使いを送り込み、李※[#「日+公」]に要求をつきつけている。あまりといえば暴慢な態度に、
「あるいは侵略戦争をしかける前提なのではないか?」
と危ぶんだのだろう、全羅道、慶尚道などの諸城に命じて、朝鮮政府は防備を厳にするよう呼びかけ、それにこたえて城郭の増築、修理が半島の各地でも急がれてはいた。
でも、まさか本当に攻め寄せてくるとまでは思っていなかったらしい。秀吉にしても、鶴松に死別した悲しみを、一刻も早く振り払いたい、他の何かに没頭することで忘れ去りたいとの、火のような願望が燃え立たなければ、あるいは、実行には踏み切らなかった計画かもしれないのである。
加藤清正ら九州の将たちに、まず、来春出兵の指令が飛び、それまでに、
「肥前の名護屋に新城を築け」
との達しがくだった。
諸大名に唐入り御陣の令達が発せられたのは、これよりほぼ一カ月後の、九月十六日、そして十月十日には、はやくも名護屋での普請始めがおこなわれている。
渡海に不可欠なのは軍艦だが、進行中の大仏殿築造を一時中止させ、資材や労力を造船に振り替えよ、との命令も出された。
|とも《ヽヽ》はおののいた。黒い疾風《はやて》の禍々しさで、まっ先に思念をかすめたのは息子たちの安否だった。天下取りの道程で無数におこなわれた合戦でも、夫の討死を気づかい、秀次や秀勝らの負傷を気づかって、無事を祈らぬ日はなかった|とも《ヽヽ》だ。
三男の三吉秀保はまだ子供だし、夫の吉房は老いて隠居したから、心配の対象からははずれたけれど、長男と次男は働き盛りである。げんに秀次は、まだ奥州平定の軍旅から引きあげて来ていない。その身分上からも「関白さまのご軍代」として、総軍を指揮せねばならぬ立場にたつのだろうが、見当もつかぬ異国での、異国兵相手の戦闘となると|とも《ヽヽ》の懸念はいっそう深まる。
「どのようなお役を仰せつけられるのでしょうなあ」
「せめて早々に奥羽での一揆とやらに片をつけて、もどって来てほしいものじゃが……」
吉房と二人、首をながくして待っているところへ、両親の焦りが届きでもしたように秀次は帰還してきた。九戸《くのへ》城を降して叛徒を鎮圧……。奥州諸郡の巡察をおこない境界を定め標識の榜示《ぼうじ》を打ち、軍兵たちの功を賞し領民には賦役を課すなど、仕置のすべてを完了してもどったのだ。
いったん秀吉に報告するため京へ直行し、犬山の居城に入ったのは冬の初めだったが、軍装のまま庭づたいに、
「あいかわらず仲がおよろしゅうございますな」
灸をすえ合っていた両親へ、からかい口調で言いながら秀次は近づいてきた。
彼は笑っている。かつてないほど足どりが軽い。何よりも吉房と|とも《ヽヽ》がおどろいたのは、その陣羽織であった。平織《ひらお》りの絹地に丹念に羽毛を植えつけたもので、身じろぐたびにきらきら光る。
「すばらしいでしょう」
自慢げに前を見せ、うしろを見せたあげく、秀次は言った。
「常陸介から取り上げてやったんです。惜しんでなかなか渡そうとしないのを、力ずく同様にね」
木村常陸介重茲は今日も形に添う影さながら秀次に随っていたが、
「作り話はいけませぬな、上さま。寄こせと、ひとこと仰せられただけで、すぐさま手前、その羽織を献上したはずでござりますぞ」
と、これも笑顔で訂正する。戯《ざ》れごとの言い合いにも主従間の親密度が、さらにいっそう深まっているのが感じられた。
親たちは、でも内心、
「またか」
と眉をしかめ合った。
古書珍籍の蒐集と同様、他人の秘蔵する持ち物をねだり取るのも、秀次の性情に近年、加わった悪癖だった。
柴田勝家が生前、出陣のたびごとに馬前に押し立てた金幣の纏《まとい》の旗じるし……。どういう経路でかそれを手に入れて、大切にしていた大名から、
「ぜひとも譲ってほしい」
秀次は強制的に召し上げてしまったし、日野根備中守所有の唐冠の兜もそうだ。世に名だかい逸品だったのを、やはり執拗にくいさがって、とうとう自分のものにしてのけている。
人の旗じるし、人の兜、人の陣羽織を得意になって着用し、戦場に臨むなど、吉房や|とも《ヽヽ》には浅ましいかぎりだが、他家の宝で身を飾ることが秀次には優越感をくすぐる快事なのかもしれない。
不破伴作、山本|主殿《とのも》ら、例のお気に入りの美童たちのほか、重臣の駒井|中務 少輔《なかつかさしようゆう》重勝が扈従《こじゆう》して来たのは、隠居夫婦へ、何か重大な知らせがあるからではないかと思われた。
しかし秀次が、まず、これこそが先決と言わんばかりな急きこみかたで父を相手に喋ったのは、下向のさい約束していった奥州平泉中尊寺の蔵経を、首尾よく、すべて入手したとの手柄ばなしであった。軍功にも匹敵する誇りであり、この種のよろこびを共通して分かち合えるのは、書斎人である父親と舅《しゆうと》の菊亭晴季、公卿仲間の日野輝資──せいぜいこの三人ぐらいだと秀次は思っている。強面《こわもて》な古書集めに、ひそかな批判を父が抱いているとは知らない。
「帰路、宇都宮にさしかかったとき、足利学校の校主が戦勝の祝詞言上にやってきました。閑室元佶《かんしつげんきつ》という禅僧ですがね、かねがねあの学校にも宋版の珍本や明《みん》渡りの貴重な什器《じゆうき》がいろいろあると聞いていたので、さっそく申しつけて献納させてしまいました」
と、うれしそうに語る。
「よいのか? そんなことをして……」
「私したわけではありません。ひとまず洛中相国寺の塔頭に保管させておきましたからな」
いずれはしかし、聚楽第にでも運び込ませるのは目に見えていたし、ついでに鎌倉の金沢文庫にも立ち寄って、蔵本中めぼしいものを取って帰ったとも得々と秀次は言う。
ほうっておいたら際限なく動きつづけそうなその口を、
「さて、古書ご蒐集のお土産ばなしはひとまず措き、重職どもより、大殿さまのお耳に、あらかじめ達しておきたき一儀がござって、それがし、本日、まかり出ましたわけで……」
と、駒井重勝がしびれを切らした顔で封じた。
「うむ」
弥介吉房もすぐ、居ずまいを改めて、
「老人夫婦の住む隠居所へお手前がわざわざお越しあったは、さだめし大切な用件ゆえと、先ほどよりお察しいたしておりました。何ごとでござろうかな?」
丁寧に言った。
秀次の補佐役に任ぜられている附家老、老臣たちは、陪臣とはいえ、いずれもが大禄を食む一国一城の主である。家来だなどと吉房も|とも《ヽヽ》も思ってはいない。至らぬ伜どもを、
「よろしくおたのみ申す」
と口に出し、へりくだった物腰にもその気持をあらわしていたから、隠居夫婦への彼らのあしらいも礼儀正しかった。
「さよう。夙《つと》にご承知のごとく鶴松ぎみの逝去にて、いったんは得させ給うた関白殿下のご後継も、再び無に帰し、幼君ご誕生以前の状況にもどりました。――と申すのは、とりも直さず秀次さまの、豊家《ほうけ》ご嗣子《しし》としてのご身分が従前に復したということでござります」
駒井の表情に喜怒はいっさい泛かんでいない。むしろ眉は、きびしく引き緊まっていたが、それとはうらはらに、胸中の弾みを隠し切れない様子は、秀次や木村常陸介らのそぶりに出ていた。
老夫婦はやっと覚った。羽毛の陣羽織に綺羅を飾り、闊歩して庭づたいに入ってくるなり、秀次がいきなり余裕ありげに古本の話などはじめたのは、じつは本心の、率直な表出を、さすがに憚ったからだということを……。鶴松の出現によって、ぐらつきかけた天下人の座が、こんどこそ確実に、また秀次の手にもどったのは、しかし幼童の死と両親の悲嘆の引き替えとしてである。うれしくて仕方がない気持を、めったに外に現わしてはまずい。秀次とその側近たちにすれば、心境は複雑であったろう。
「われが有力なる筋より洩れうけたまわったところでは、遠からず秀次さまに関白職のご移譲、世子《せいし》ご決定の申し渡しが行われるとのこと……。唐入り御陣のお目論見もいよいよ本決まりとなり、国事多難の折から、重責を継ぎ給うわけで、当の秀次ぎみはもとより大殿さま、お袋さまにも、いちばいのご覚悟あらんことを、老職一同よりお願いいたす次第でござります」
吉報と受け取ってよいはずの駒井の言葉が、老夫婦には鉛の玉をかかえ込まされでもしたような、重くるしい負担にしか感じられなかった。
でも、ひとまず型通り、
「おめでとう」
と秀次に祝いを述べ、重臣たちの願いを補足するつもりで心得のあれこれを言って聞かせたが、親たちの|しち《ヽヽ》くどい意見にも秀次は従順にうなずきを返し、機嫌は最後まで上々だった。
──十一月二十八日、秀次は叔父の譲りを受けて関白職につき、翌年正月早々には左大臣に任ぜられて、拝賀の式をおこなった。このとき年、ようやく二十五。
それなりに、しかし衣冠に威儀をただした姿には貫禄が附き、中高の秀でた容貌と相まって、力量のほどはともあれ、外見はなかなか堂々と見える新関白ぶりであった。
身内の目は、でも違う。甘い半面、他人以上にきびしい面も持っている。秀吉は右筆に口述して四カ条にわたる訓戒をしたためさせ、秀次に手渡して、
「よいか。この条々をきっと守れよ」
固く申しつけた。
第一条は武備への心がけ、第二条は賞罰の公平、第三条は朝廷への奉公、第四条では平素の嗜《たしな》みについて触れてあるが、
「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候こと、秀吉の真似、こはあるまじき事」
と、自身を悪しき例にあげてあからさまに戒飭《かいちよく》し、邸内に置くならば側女を何人持ってもよいけれども、外での淫事は厳禁する、鷹も鶉《うずら》鷹、鳥鷹のたぐいのみ許す、といったこまかな内容であった。
秀次はこれに対して、上《かみ》は梵天帝釈《ぼんてんたいしやく》から下《しも》は大小の神祇に至るまで、思いつくかぎりの神仏を引き合いに出して違背せぬことを誓い、万一それを破ったら、なによりもまず、
「上さまの御罰を深く蒙り、この世に於ては天下の厄難を受け、来世に於ては無間《むげん》地獄に堕ちるでありましょう」
と明記した請け書を差し出している。何をどう誓約しても恐れず、意に介さぬほどのはればれとした高揚感に、秀次の若い肉体は、浮き上がるばかり満たされていたのである。
思えばこのころが、秀次の運勢の最盛期であった。関白、左大臣の重職につき、聚楽第の主となってまもなく、後陽成天皇の行幸が触れ出され、秀次は木村常陸介はじめ気に入りの家臣らを指図して、奉迎の準備に趣向を凝らした。陣頭に立って兵を指揮するよりも、はるかに彼の気質に合った、たのしい忙しさだった。
後陽成帝の学問好きは定評がある。日ごろから五山の学侶を召して書を選ばせ、また西洞院《にしのとういん》 時慶《ときよし》ら有職故実に精通した公卿に命じて、職原抄《しきげんしよう》、弘安礼節といった宮中行事に役立つ実用書を木版印刷させて官吏らに頒《わか》つなど、書物とかかわり深い明けくれを送っておられた。秀次が古書の蒐集に熱心なのも、献上してみかどに褒められたい、日ごろ碩学|づら《ヽヽ》をひけらかす公卿どもの、鼻をあかしてやりたいとの、子供っぽい稚気に根ざしている。
聚楽第へは二度のお成りである。前回の例が踏襲されるのはもちろんであろうけれども、自分が主催する今度の行幸では、おのずから秀吉の饗応ぶりとは、
「異なる特色も出てよいのではないか」
気負って、そう常陸介あたりに秀次は言い、妻の父の菊亭晴季、仲よしの日野輝資までを相談役に加えてさまざまな案を練った。
「五山に名だたる詩僧どもを招き、詩筵《しえん》を開いてはどうでしょう」
「至極の思いつきですな。翌日はやや砕けて、月次《つきなみ》の連句の会なども、興をもりあげるとぞんじます」
かねがね能書どもに依頼して、写筆を急がせていた実了記、百練抄、|類聚 《るいじゆう》三代格《さんだいきやく》、 令《りよう》三十五巻など、よろこんでいただけそうな写本類も献上品に入れ、みかどご自身の内奥はどうあれ、秀次は大満足なまま、ともかくも成功裡に、お成りの日程は消化されたのであった。
もてなしの表面に秀吉は立たなかった。こんどの聚楽第行幸は秀次の関白職就任を天皇を頂点とする公的機関が認承し、祝賀した事実を、天下に表明すべくなされたものだから、
「わしはかまわぬ。そのほうの宰領で、何ごとであれ、いたすがよかろう」
と秀吉ははじめから突き放した言い方をしていた。
「唐入り御陣の用意に、わしは力をそそがねばならぬ。余事をかえりみる暇などないのじゃ」
冷淡な口調の裏に、抑えがたい痛憤が滲《にじ》むのを、このところ有頂天つづきの秀次は看取できない。
昼間見せる秀吉の顔は、愛児に先立たれた悲しみから、たとえむりやりにでも、立ち直ったらしい力を漲らせていた。
諸大名には、
「朝鮮国をまず一撃に帰服させ、ついで彼の国の軍兵に案内させて大明国にまで攻め入る所存ゆえ、みなみなその心づもりにて武者どもを油断なく調練せよ」
との令につづいて、大坂城中に人質を出すよう達しがくだった。
肥前名護屋までの宿駅の新設、整備は、大軍の下向や兵站の手配を考慮してのことだし、一般の庶民には身分の固定法ともいってよい法令が布《し》かれた。
「兵役のがれは許さぬ」
というわけだ。
大名家に召しかかえられている侍や中間《ちゆうげん》、小者、足軽などが農工商人層の中に逃げ込むこと、兵糧の供給源である百姓が、耕作を放棄して商売などに取りつき、町衆になるといった行為を法で規制し、農兵分離、商農分離をはっきり押し進めることで兵員、夫役《ぶやく》、糧米の確保を狙ったものである。
基本的な進言や立案は、石田三成ら官僚群の頭脳から出たが、秀吉自身もどしどし意見を逃べ、片はしからそれを実現化させていった。笑いを忘れた、見ようによっては悪鬼ともとれるすさまじい意欲が、皺の多いその顔面に燃えたぎっている。
しかし夜、ぽつねんと思いふけっているときの表情は、昼間とはまったくちがって、秀吉の中の孤愁をむざんなまでに露呈していた。
大坂城と淀城との間を、このところ行き来する日常だが、さすがに若ざかりの強さか、茶々御寮人の回復力は早く、
「また、かならず、わたくしは上さまのお子を生んでみせます。いつまでもくよくよと思いやっていても詮ないこと……。鶴松の成仏の妨げとなりましょう。元気をお出しくださらねば……」
慰める側に回っても、
「どうであろうなあ」
秀吉の口ぶりは暗い。
「この正月でわしは五十六になった。そなたの身体がいかにみずみずしくとも、わしの体力が衰えては子供は作れまい」
「そんなお気弱なことで、大明国の都にまで金瓢《きんひさご》のおん旗じるしを進められるでしょうか。わたくしのこの柔肌《やわはだ》を、敵の大軍と思うてお攻めあそばせ」
暦の上では早春である。余寒はしかし、きびしく、霜の降る凍《い》て夜がつづいていた。侍女たちに言いつけて茶々御寮人がこしらえさせた炬燵《こたつ》へ、ずっぷり小柄な全身をもぐりこませながら、
「昨夜なあ、鶴のやつの夢を見た」
くぐもり声で秀吉はつぶやき、
「船車を曳いて来て、ととさま、乗りゃれとしきりにすすめるのじゃ。そんな狭い胴の間に坐れるものかと断わっても、いっかなきかぬ。仕方なしに乗ってみると船が奇体に大きゅうなってな、かるがるとそれを鶴が曳くのじゃ。うれしかった。思わず叩いたおのれの手の音に、ふっと目醒めたがそのあとの虚しさ……。とうとう朝までまんじりともできなんだよ茶々」
言いざまいきなり、突っ伏して秀吉は慟哭し出した。上掛けの下まで濡れ透り、炬燵のくぼみに溜まるほど涙のほとばしりはおびただしかった。
「上さま上さま、そのようにお歎きなされますな、お身体に障ります」
ただ一人詰めていたお伽衆の竹田永翁という老人が、見かねてにじり寄り、茶々も、
「お泣きあそばすと、懸命に忘れようとつとめているわたくしまで、ほれ、このように涙が溢れてまいります。どうぞお心を取り直してくださいまし」
おろおろ背をさすったが、秀吉の痛恨はおさまらなかった。
「鶴めはむごいやつじゃ」
喘ぎ喘ぎ彼は罵った。
「涙などという益体《やくたい》もないものを、この父《てて》に形見によこして、現身《うつそみ》はどこぞ空のかなたへ去《い》んでしまいおった。生きて、鶴松がおると聞けば、唐天竺はおろか青い目の商人どもがふるさとポルトガル、イスパニヤ、どこへなりと探しに行くわ。兵馬の蹄にかけても拒むやつばらは蹴散らして通るが、冥界とやらではいかんともしがたい。残念じゃ」
頬を伝う涙を、なおしばらく流れるにまかせていたが、
「爺よ」
いささか落ちつきを取りもどした声で、秀吉は竹田永翁に呼びかけた。
「わしのこの、今の気持を歌に詠んでくれい。そしてだれぞに──そうじゃ、幽斎がよい、細川玄旨老人に見せてやってほしい」
「かしこまりました」
料紙をとり寄せ、ほんのわずか思案して永翁はありのまま一通の書状をしたためた。
[#2字下げ]太閤さま、若君さまを過ぎし夜、おん夢にごらんなされ、お炬燵の上におん涙落ち溜まり申すにつき、一首の御詠歌あそばされ候。納心ありて、御返歌もっともに候。
亡き人の形見に涙残し置きて
行方知らずも消へをつる哉《かな》
太閤とは、摂政関白の上に位置し、それらの職を子息に譲った人物への敬称である。出家した場合は禅閤という。
秀次を正式に養嗣子とし、関白職を渡した現在、秀吉は自動的に太閤の尊号で呼ばれることになったのだ。自作の歌を、秀吉の詠歌としたのは、お伽衆である永翁にすれば当然の儀礼で、
「このようにつかまつりました」
手紙を見せられた秀吉も、
「おお、よしよし、よう詠んだ」
慣例と割り切って、当り前なうなずきかたをしたにすぎない。
状箱に納められ、すぐさまそれは届けられて、その夜のうちに幽斎細川藤孝からの返書がもたらされた。
[#2字下げ]御詠歌拝見つかまつり候。及びなきわたくし沙汰《ざた》の者までも、涙の袖、雨にまさり候。惜しからぬ老の身を幻となしても、若君さまの魂の在りか、尋ねまほしき心の底を、いささか申し述べ候。よろしきようにお取りなし御披露仰せらるべく候也。
惜しからぬ身を幻となすならば
涙の玉の行くえ尋ねん
鎮静しかけていた感情をいくじなくゆすぶり立てられ、幽斎玄旨と署名された書翰を掴んで秀吉はふたたび号泣しはじめた。
茶々はもう止めなかった。
秀吉の膝にすがりついて彼女も嗚咽《おえつ》し、永翁や侍女たちまでが声を放って泣いた。
当事者の一人でいながら、夜、淀城の私室で見せる秀吉の、痛憤に歪《ゆが》んだ顔を、さほど深く思いやってみようとしなかったあたりにも、やがて破局にまで育つ恐ろしい芽が、秀次の運命の中に小さく一つ、吹き出していたといえるのである。
秀吉の出陣は、当初、三月一日に予定されていた。軽いはやり目を病んだことなどもあって、だが延期に延期を重ね、その間、小西行長、宗義智らを再度、朝鮮につかわして最後の帰服工作をこころみさせたあげく、二十六日にようやく京を発した。
異国との合戦を不安がり、自身、
「朝鮮はおろか唐にまで渡る」
と広言する秀吉の身を案じて、老母の大政所|なか《ヽヽ》がくどくど愚痴めいた繰りごとを口にし、別れを辛がったのが一日延ばしの大きな原因となったのである。
「いやあ、母者を説き伏せるのに手を焼いた。人間も八十になると赤児同然じゃな。駄々|こね《ヽヽ》にひとしいかきくどきをめさるので、しまいにはちと、叱りつける語気で黙らせたよ」
と、近臣の木下半介吉隆に秀吉は言ったが、大政所にすれば虫の知らせというものであったかもしれない。
兵庫、姫路、岡山をすぎ、晩春の山陽道を広島へくだって、四月なかば、青葉に衣がえした九州路にかかった。小倉、名島を経由、まだ普請途上の肥前名護屋城に入ったのは二十五日の夕刻である。
さすがに畢生《ひつせい》の大仕事にかかった今、すくなくとも外づらは、鶴松死去以来の惑乱をきっぱり秀吉は断ち切り、新しい意欲に燃えて、立ち直ったかに見える。持ち前の大声を取りもどし、眼光にも独特の勁《つよ》い輝きがよみがえってきた。
馬上で、あるいは輿でくだる道々にもするどいその目を四方に配り、
「何里進んだか、どこまで来たか、ずんべらぼうとして判らぬのは不便きわまる。一里塚を設けよう」
毛利領の河辺から名護屋まで、三十六丁をひと区切りとする塚じるしを築かせたり、
「このさい、朱印制度をしっかり定めねば、諸事に不都合を生じるな」
思いつきをすぐさま実行に移させるなど、小気味よい日ごろの敏速ぶりを見せつけた。半島、大陸と日本の間に横たわる海洋には、足利将軍家時代から倭寇《わこう》の出没がはなはだしい。目を海のかなたに向けるとなると、海上のいざこざや通商にかかわる悶着が、にわかに気になってきはじめる。カンボジャ、ルソン、シャム、交趾《こうち》シナ、トンキンなど日本人が渡り住み、物資の売り買いをしている国々は多かった。
ひとつには交易権を独り占めしようとの意図からだが、秀吉は公認の貿易船に朱印を捺した渡航免許状を交附し、いかがわしい海賊船、もぐりの密貿易船でないことを証明させようと思いついたのだ。
このまにも小西、松浦、有馬、宗氏らの諸軍勢は、七百余艘の兵船に分乗……、対馬の大浦港を発して朝鮮の釜山に押し渡り、敵前上陸を敢行していた。
秀吉が名護屋城に入る前日、
「釜山城は陥落。城主の鄭撥は討死しました」
景気のよい捷報《しようほう》がもたらされた。
「緒戦でまず、大勝か。さいさきよいぞ」
従えてきた全軍に秀吉は勝鬨《かちどき》をあげさせ、勢いを駆ってみずから朝鮮へ渡ろうとまで逸《はや》った。
頭の中で彼が描いていた大陸占領後の夢想図によれば、明《みん》の首都北京に後陽成天皇を迎えて国主とし、秀次を在明の関白とする。日本の関白には羽柴秀勝か秀保、日本の帝位には八条宮|智仁《ともひと》親王、あるいは若宮の良仁《よしひと》親王を据え、朝鮮の統治は織田秀信か宇喜多秀家に委せるといったもので、彼我の国力の差を念頭から消しとばした誇大妄想的計画であった。
一面の地図軍扇を秀吉は肌身はなさず所持している。イスパニヤの商人が贈ってくれた世界地図を、扇に貼らせたものだ。色分けされ、団子をくっつけたような粗雑さで描かれた大ざっぱな図面を見れば、なるほど世界四大部州などといってもさほどの広さとは考えられない。海も山もひと跨ぎ……。遊戯の陣取りではないけれど、自在に兵を進めて侵略し国土とすることも、まんざら不可能ではないような錯覚を抱かされる。
「げんに紅毛人どもは、帆前船をあやつって、はるばる東海の果ての日本にすらやって来ているではないか」
やつらのすることが、当方にできないわけはない……。勘とひらめきにたよって大掴みに即断し、しかもこれまでに、ほぼその勘が狂わなかった自信を根にして、国盗り好きな覇者気質と愛児の死の打撃から遮二無二のがれようとする焦りが結びつき、鬱から躁へ、やみくもに秀吉を突っ走らせたともいえるのである。
また、じじつ、あすにでも大陸への乗り込みができるかと思えたほど、半島上陸後の戦闘状況は順調だった。まさかと危ぶんでいた日本兵による侵攻が現実となった驚きから、朝鮮国側が立ち直れずにいる隙をついて、小西行長隊、加藤清正隊、黒田長政隊、毛利吉成隊、島津義弘隊、小早川隆景隊など第一軍から六軍にまで編成された上陸軍は、破竹の進撃をつづけ、たちまち、首都の京城を占拠……。最前線は平安道の平壌に達する勝ちっぷりを見せたのだ。
総勢およそ十六万──。禄高一万石につき、だいたい六百人の軍役を諸大名は負担させられていたわけだが、武将の常で、彼らも勝ったと聞けば気負い立つ。
追いかけ追いかけもたらされる戦地からの報告は、
「支配下におさめた郷村に、貢納の義務を負わせました。唐国お討ち入りのさいの兵糧は、朝鮮国での調達で確保できるのではないかとぞんじます」
「加藤虎之助どのが咸鏡道の咸鏡を制圧。自慢の鎌槍をふるって大虎をしとめ、毛皮と内臓、背肉の塩漬けを上さまに献上いたすとのこと。猛虎の肝は不老長生、若返りの妙薬だそうでござります」
そんな勇ましいものばかりだし、中には増田長盛のように、捕虜にした朝鮮の民衆に強制的に、何兵衛だの何助だの、日本名への改名を命じたり、毛利勢の軍僧安国寺|恵瓊《えけい》に至っては町々村々の子供らを集め、
「よいか汝ら、これからは日本の言葉を話し、日本の文字を知らねば生きてゆけぬぞ」
はやくも駐留軍の驕りをむき出しに、
「いろはにほへと、ちりぬるを……」
これもむりやり、教えこもうとまでしはじめたという。
どのような知らせにも、
「名を改めさせるなら着るものや髪型も、日本式にさせねばなるまい。長盛に言いつけて向後《こうご》、朝鮮風俗は厳禁、衣食住すべて日本人にならえと触れ出させろ」
と、秀吉は満悦顔だ。
ことに彼をよろこばせたのは清正が送ってくるという虎の肝だった。名護屋の城へ、秀吉は茶々と京極局竜子の二人を伴って来ていた。もと武田孫八郎元明の妻……、京極高次の姉にあたる竜子は、ぬきん出たその美貌で茶々につぐ寵愛を秀吉から受けている。北条攻めのさい、小田原へ召しくだされたのも彼女ら二人だが、側室同士、角づき合いは見られなかった。浅井家と京極家はもともと姻戚だし、竜子と茶々は従姉妹の関係にある。高次はしかも、茶々の妹お初の夫でもあり、かくべつ仲よくもないけれども、血つづきの親しみはおたがいが持っていた。
秀吉もそのへんを考慮して、
「小田原陣の吉例に従おう」
もっともらしい口実のもとに、今回も茶々と京極局を同伴したのである。
それでなくても解放感を満喫できる旅の空だし、戦いは支障なく勝ち進んでいる。黄金の茶室をわざわざ運ばせ、神谷宗湛ら博多の茶人らを招いての茶の湯、連日に及ぶ能の催しなど遊山気分は小田原のときに劣らない。
女体への挑みにも、ひさびさに旺盛さを取りもどしていた。ことにも共通の悲しみを分け合って以来、いよいよ密度を増した茶々との語らいは、一層こまやかなものとなっている。それだけに、回春に効ありと聞く虎の肝に、秀吉の好奇心は疼《うず》くのであった。
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味よしの瓜めされ候え
|とも《ヽヽ》が大政所|なか《ヽヽ》の死の知らせを手にしたのは、お督との祝言をすませ、小吉秀勝が異国の戦野目ざして出立していった直後であった。
どうしても佐治与九郎との離縁を承知しなかったお督も、秀吉の強制にとうとう抗しきれず、一旦姉お茶々のもとに引き取られた。佐治はこの後、行方を晦《くら》まし、人の噂によれば割腹して果てたという。旭姫|きい《ヽヽ》の夫副田甚兵衛の場合とまったく同じ末路をたどったのである。
華燭の式は岐阜城でごく質素に挙げられ、吉房と|とも《ヽヽ》は揃って出席した。
お督の身内では、次姉のお初がつれあいの京極高次とともに席につらなったのと、名護屋へ下った茶々の名代として、姉妹らの伯父に当る織田長益が顔を見せたにすぎない。
秀勝側は両親のほか、郡山の三吉秀保が老職らに介添えされながらはるばるやって来た。長兄の秀次は留守役を仰せつかって京にとどまってはいるものの、軍需物資の調達輸送、後続部隊の簡閲や見送りなど連日多忙をきわめているとかで、祝いの品と祝詞を家来に託して届けさせてきただけだった。
式は古式にのっとって床しく、奈良蓬莱、亀甲台《きつこうだい》、置き鳥、置き鯉などを飾った祝いの間で、待上臈《まちじようろう》と酌取りの女蝶男蝶の立ち合いのもとにおこなわれた。
三々九度の盃がすみ、調台の間に座が移されると、つぎは親子兄弟固めの献酬である。はじめてこのとき、|とも《ヽヽ》は今宵の花嫁と対面したわけだが、白綾の打掛けに白小袖、緋の袴の礼装に改まったお督の、こうごうしいまでの美しさに息を呑んだ。それはでも、蝋人形さながら表情のない死者の美であり、
「ふつつかな伜なれどお督さま、なにとぞ末長う添いとげてやってくださりませ」
しみじみ頼む|とも《ヽヽ》へも、
「はい」
浅いうなずきが返っただけだった。大紋《だいもん》、烏帽子のぎごちなさに、初心まる出しの羞みを見せて男のくせに頬を赧くしている秀勝が哀れで、予想していたとはいえ|とも《ヽヽ》は席にいたたまれなかった。新枕《にいまくら》の索莫が思いやられる……。
たった十日ほどの共棲みで、秀勝は日本を去ることになり、犬山城へ出陣のいとま乞いに来た。|とも《ヽヽ》はその顔へぶつけて言った。
「嫁御とはうまくいっているか?」
「うまくいくとは?」
「知れたこと。夜の床で、いとしんで貰うておるかと訊いておるのじゃ」
隻眼を情けなさそうに秀勝は伏せ、
「佐治与九郎の一周忌がすまぬうちは、抱かれては寝ぬと申しますゆえ、まだ今のところ寝所を別にいたしております」
口の中でもぞもぞ言った。
「そのような仕儀になるのではないかと気に病んでいたのじゃ。そなた、生死《いきしに》も知れぬ戦場に、お預けくったまま出かけてよいのか?」
「あっぱれな貞節ではありますまいか。それに、このようなものを手ずから縫ってもくれました」
と大事そうに取り出してみせたのは、唐織の裁ち落としで作ったらしい守り袋である。あけると中には、渡海の守り神住吉の護符《ごふう》が納められてい、ほんの十筋《とすじ》ばかりではあるが、絹糸で一つにくくった長やかな毛髪も巻きこめてあった。
「お督どののおぐしか?」
「髪まで切って持たせたところをみれば、しんそこ嫌うているわけでもありますまい」
「ま、そう思うて征《ゆ》くのじゃな」
吉房も膝を乗り出して、
「日本人同士の合戦とはちがう。さいわいの勝ちいくさとは聞き及んでおるけれども、戦略も兵器も異なる異国の敵を相手にたたかうのじゃ。人におくれをとってはならぬが、無謀な功争いはするなよ」
気づかわしそうに訓《さと》した。
同じ我が子にも、微妙な愛情の軽重はある。幼時、兄に片目を潰され、不具の|ひけ《ヽヽ》目を背負いながら生《お》い立ったことで、若者らしい暢達《ちようたつ》さを失い、人づき合いに、とかく円滑を欠きがちな秀勝が、吉房は不憫でならないのだろう。三人の伜のうち何かにつけて、秀勝には目をかけ、庇う態度に出るのであった。
「大丈夫ですよ父上。先発の諸軍勢が総舐めに蹴ちらしてくれたおかげで、あと勢は、平地を行くようなものだというではありませんか。それにめでたく唐入り御陣が終われば、わたしは日本の関白に任ぜられるかもしれないのです。お督もそうなれば惚れ直してくれるでしょう。凱陣までの辛抱です。あとでの楽しみを支えにして、必ず帰ってまいりますよ」
と慈父には、秀勝の語気も優しい。口の重い日ごろには珍しく、冗談めかした言い方をして辞去した。
大手の城門まで老夫婦は次男を送って出たが、名ごりが惜しまれたのか、残暑に弱っている身体を輿にゆだねて、さらに一里ほど吉房だけは同行した。秀勝も馬には乗らず、父の輿に引き添って、なお何やかや話し交しながら歩いた。
「土産に、なにをぶんどってきましょうか」
「いらぬいらぬ。ぶんどりの品などよりも、その命一つをしっかりと保って帰ればよい」
手を握り合って別れてから一カ月ほど経過したろうか。もはや小吉は名護屋へ着いたか、今ごろは海を渡っている時分かと夫婦で噂し合っているさなか、聚楽第から早馬の使いが駆けつけてきた。
「大政所さま、今暁ご急死あそばしました」
との知らせである。
召次ぎの口から、短いそれだけの報知を聞き取ったとたん、|とも《ヽヽ》は膝の番《つが》いがはずれたようになり、どう足掻《あが》いても立てなくなった。腰が抜けたのであった。
召使たちに介添えされ、夫の弥介吉房にもつきそってもらって、とるものもとりあえず上洛した|とも《ヽヽ》が、まっ先に口にしたのは、
「せめて半月でも十日でも母さまのそばにいて、看病がしたかった。なぜ、いま少し早く知らせてくれなかったのか」
との愚痴であり、恨みごとであった。
「まさか亡くなるとは思っていなかったのです」
秀次は弁解した。
夏のあいだ、暑さ負けして寝たり起きたりの状態だったが、八十の老齢ではそれが当り前だし、食気もあり、よく眠れもして、当の大政所はもとより医師たちまで、
「特にお悪いところは、いささかもありませぬ」
と太鼓判を押していたのである。
これまでにも、何度か病気はしたけれども、農婦育ちの芯の強靭さを発揮して、そのつど本復祝いに漕ぎつけた大政所だし、今度もたぶん、大事には至らぬだろうとの油断はだれにもあった。
名護屋の陣中に、五月の節句には帷子《かたびら》ひと揃え、六月に入ってからは道服や袴などを自身、見たてて贈り、
「姑《かか》さま、この金襴は、いささかけばけばしすぎはしませぬか?」
眉をしかめるお寧々にさからって、
「なんの、これでもくすみすぎるくらいじゃ。藤吉郎は派手好みじゃでな」
布地の選択一つにすら我意を通すほど気はしっかりしていた大政所なのだ。
秀吉も老母の心づかいをよろこんで、
[#2字下げ]節句の帷子とり揃え給わり候。幾久しくと祝い入り候。はやはや高麗《こうらい》の城々取り申し、高麗の都へも取り委せに、人数つかわし申し、唐をも九月ごろには取り申すべく、九月の節句の御服は、唐の都にて受け取り申すべく候。一段とわれわれ息災にて、飯もあがり候。心やすくおぼしめし候べく候。唐を取りて、そもじ様の迎えを参り上《のぼ》すべく候。
意気さかんな礼状をよこした。
九月の節句の贈物は、北京で受領するだろうだの、やがて母者をも、明国へ迎え取ることにしようなどという言葉は、秀吉にすれば元気づけのつもりだった。しかし結果的には、唐御陣にかかわるいっさいが、大政所には心痛の種となり、その健康をむしばむことにもなったのである。
武将を子に持てば、討死の不安は避けられない。やきもきしつづけた半生の、総決算に、でもまさか、異国相手の戦争などという途方もない心配が待ちうけていようとは思ってもいなかった。
それでなくてさえ次男の小一郎秀長に死なれ、娘の|きい《ヽヽ》や孫の鶴松にも先立たれて老少|不定《ふじよう》の歎きを深くしている昨今だから、
「いよいよ太閤さまおんみずから、渡海あそばすそうな……」
と聞くたびに大政所の胸は凍りついた。
「そなたまでが、はるばる高麗とやらにまで出かけることはなかろう。後生じゃ、やめてたもれ」
筆の立つ|こわ《ヽヽ》、岩、宰相など侍女たちの代筆手紙がひっきりなしに名護屋城中に届けられ、強気の秀吉もそのつど出鼻をくじかれた。
太閤が一石米《いつこくまい》を買いかねて
今日も五斗《ごと》買い明日も五斗買い
御渡海と五斗買いの語呂合せ──。からかいまじりの落首が民間に流布したのも、そんな事情を踏まえてのことだから、
「よしないいくさを企てて、藤吉郎どのが姑《かか》さまのご寿命をちぢめたのですよ」
寧々の放言に、|とも《ヽヽ》も内心、大いに同調した。その通りだと思うが、面と向かって秀吉を難詰するだけの胆力は到底、持ち合わさない。千利休の賜死の原因も、蔭でのひそかな唐御陣批判を、お節介にも通報した者があり、それが秀吉の激怒に結びついたからだと、ささやかれている。
いま天下に、公然と口に出して朝鮮攻略を非難できるのは北政所寧々だけだ。織田家の軽輩だった昔から、この女房にかぎって頭が上らない癖が秀吉には附いている。猛り出すと、怕いもの知らずになる性情に、幾度これまでも手を焼かされたか知れない。黙殺するか、苦笑にまぎらして嵐をやりすごすのが最良の策と心得ているから、寧々は言いたいことを言いたいだけ、憚らず言う。
もっとも朝鮮役批判にしたところで、政治、戦略、外交の次元で出兵不可論を唱えるほど高度なものではなかった。流血のむごたらしさを忌避せずにいられない女の本能と、あとは名護屋にまで伴われていった茶々や京極局竜子への、相も変わらぬ嫉妬──。たかだかその程度の視野の狭さから口に出す八ツ当り気味な悪態であればこそ、秀吉にも聞き流す度量が持てるのである。
大政所|なか《ヽヽ》の様子が訝しい、どうも単なる暑気当りとはちがうようだとまず、秀次が気づき、医師たちもにわかに首をかしげ出した七月はじめ、
「いいえ、まだ名護屋へも犬山へもお知らせするほどの容態ではありません」
制止したのは寧々だった。
嫁姑の間柄ではあるが、|やり《ヽヽ》手の寧々に押しまくられて、同居したそもそもから、姑風など吹かせなかった大政所だ。ことごとに嫁を立て、自身は下手に出るように努めてきたから、風波は起こらず、大政所の側の我慢の上に築かれていた平穏ではあるにせよ、ともあれ表面だけでも、円満な歳月が流れてきていた。
もう今は、じつの母娘《おやこ》同様、遠慮のない仲になっているし、がみがみ寧々は姑を叱りもする。女狂いのやまない夫よりも、夫の母親のほうにはるかに親身な、深い情愛を寄せてもいたから、
(少しぐらいの弱りを大仰にさわぎたてて、遠方から縁者など呼び散らす必要はない。わたしが介抱していさえすれば、またきっと、もと通り元気になられるだろう)
との、自信と勝気に支えられ、どこへも知らせずに姉のお久万ともども看病に手を尽した。それは義妹の旭姫|きい《ヽヽ》をみとったときと同じであった。|きい《ヽヽ》はしんそこ、寧々の献身に感謝しつつ逝ったし、大政所も、
「すまぬなあ嫁女」
あけくれつぶやいて、心の底では呼び寄せてもらいたい秀吉や|とも《ヽヽ》など、実子たちの名さえ口には出さなかった。
祖母のそんな心中を察して、ひとり人しれず気を揉みぬいていたのは秀次である。母の|とも《ヽヽ》はまだしも、秀吉への通報が遅れ、万が一、臨終に間に合わないようなことになったら、
(大目玉は必定《ひつじよう》だ)
と彼は彼で恐れていた。
しかし血を分けた叔父よりも、そのつれ合いの寧々のほうが秀次には苦手な相手であった。はらはらしながらも経過を見守るばかりだったが、とうとうたまりかねて七月十一日、名護屋の本営へ急使を差し立ててしまった。
でも、それも叔母の意向をはばかって、
「諸将擬議の上、太閤の上聞に達すべきか否かは、よろしくご判断いただきたい」
と秀次は逃げた。宛名も側近の木下半介吉隆にし、最終的な責任を回避する書きざまを取ったのである。
[#2字下げ]大政所殿、御|煩 《わずらい》に付きて一書を以て申し遣わし候。御耳に入れられ候て能《よ》く候わば、各々《おのおの》相談候て披露あるべく候。御陣中の儀に候あいだ、如何《いかが》かとは存じ候えども、まず皆々までかくの如くに候。よくよく相談の上をもって申し上げらるべく候こと肝要にて候也。
一方、彼は、関白の資格で洛中洛外、伊勢、高野にまで及ぶ神社仏閣に祈願文を納め、奉加の寄進をおこなった。
老いかがまった今なお、尾張の田舎訛りをまる出しに、水呑み百姓だった過去を隠そうともせず、在るがまま大らかに振舞ってだれにも親しまれ、うやまわれている祖母が、秀次も好きだった。恢復させられるものならばさせたいと、必死になった。
高野山へは、日ごろ昵懇にしている木食上人|応其《おうご》に依頼し、大塔を建立するとまで申し送ったのだが、奔走むなしく、七月も終りに近づいた二十二日、大政所|なか《ヽヽ》は八十年の生涯を眠るように閉じたのである。
木下吉隆は秀次からの知らせを受けとると即座に、前田利家、徳川家康らに諮《はか》って書状の内容を秀吉に告げた。
「なに、母者の病状が思わしくないと?」
眉を、いったんはひそめたものの、
「なあに、持ち直すさ。生まれつき頑健なお人だ。百歳までは生きるよ」
当初、楽観していた秀吉だった。寧々の手当の周到さを彼もまた恃《たの》んでいたわけだが、やはり捨てては置けぬとの思いに駆られはしたのだろう、二十二日に乗船し、下関から急遽、上洛の途についた。しかしこの日、大政所は聚楽第で息を引き取っていたのであった。
それとも知らずに七日後、大坂城へ入った秀吉は、はじめてここで母逝去の報に接し、旅疲れも重なって一時、たちくらみの発作を起こした。
医師の投薬で、やっと人ごこちを取りもどしはしたけれども、しばらくは呆然として涙を浮かべもしなかった。むせびあげて泣き出したのは、さらに四半時《しはんどき》ほどたってからだ。悪戯《わるさ》をするたびに、手ひどく折檻し、口汚く罵りもした母|なか《ヽヽ》……。継父《ままちち》竹阿弥と争うたびに、しかし蔭になり日なたになり庇ってもくれた母である。ついにこらえ切れずに家を飛び出しかけたとき、追いすがって、
「せめて、これを持ってゆけ猿よ、実の父っさまの弥右衛門どのが遺してくれた形見だ」
と、銭の袋を握らしてくれた遠い過去が、走馬灯さながら秀吉の脳裏を走りぬけたにちがいない。
直接、聚楽第に駆けつけた|とも《ヽヽ》も、悲歎は同じであった。姉弟には、他人にはうかがい知ることのできない母親との思い出がある。年が年だし、二人ながら心のどこかで覚悟していた事態ではあったが、死なれてみると大政所|なか《ヽヽ》の、大黒柱としての役目がいかに大きかったか、いまさらながら思い知らされるのだ。
死目にあえなかった無念さを、秀吉は妻に向かって激発させ、それをまた口惜しがって、
「帯紐解いて寝もせずに看病した私の苦労を、ねぎらってもくれず、よくもまあ帰るといなや、知らせの遅れを責めたりできるものですね」
と寧々は応酬した。そうなるとおたがいに、これも尾張弁の昔に返って際限なく、自制を忘れた夫婦諍《めおといさか》いに発展しはじめる。
「みっともない。侍女たちが聞き耳立てているではないか。いいかげんにしなされ藤吉郎、寧々どのも……」
なだめ役に廻りながら、じつは気持の底の底に、
(臨終になど間に合わさせてやるものか)
との意地悪ごころを潜めていた寧々であることを、|とも《ヽヽ》も承知しているから、同じ被害を蒙った者として秀吉の立腹に、ひそかな共感を持つのである。
葬儀は紫野の大徳寺で執行された。秀吉になり代って采配を振るったのは秀次だった。五山の僧侶のほとんどが参列し、遺骸は蓮台野で荼毘《だび》に附された。
在京の諸大名はむろん残らず焼香したが、朝廷からも特に勅使が差し立てられ、准三后の追贈があった。
遺骨は寿塔の下に埋められた。天瑞寺殿預修大功徳従一位春岩宗桂大姉昭儀寿塔と彫られた六尺三寸にも及ぶ五輪の石塔である。生前に造立されていたもので、さらに上に、丹青うつくしい霊堂が覆い屋として造られた。
|とも《ヽヽ》は絵師にたのんで母の画像を描かせた。黒い禅衣をまとい、青帽をかぶって右手に数珠をさげた晩年の法体である。
天瑞寺二世の|宝叔 宗珍《ほうしゆくそうちん》に請うて絵の余白に讃をしたためてもらったのは秀次だが、
「お祖母さまに、ちっとも似ていないや。もっと痩せてただろ。この絵の顔はほっぺたが丸すぎるよ」
遠慮会釈なくこきおろしたのは郡山から出て来た三吉秀保だった。かぞえで今年、十四になり、背丈だけはめっきり伸びた。態度や言葉つきの傍若無人さは、しかし子供のころのまま一向に成長が感じられない。秀吉にすれば、それでも有力な門葉の一人として、いまのうちから、ひとかどの責任は負わせておきたい肚らしい。にわかに、
「兄の秀勝は朝鮮へ渡ったぞ。お前もわしが名護屋へ下向するさい、同道して九州まで来い」
と言い出し、
「まだ頑是《がんぜ》ない三吉までを、出陣させるおつもりか?」
|とも《ヽヽ》を悲しませた。
「なに、異国兵と戦わせるつもりはない。戦地へは軍代として、後見役の藤堂高虎をつかわしてある。秀保は名護屋城に詰めるのだ。わしのかたわらにいるだけで、形だけは帷幕《いばく》の将となるわけだからな」
そう聞いて|とも《ヽヽ》は胸をなでおろし、当の秀保はまして、いくさごっこにでも加わる顔で、
「物具《もののぐ》はどれにしようなあ兄者、養父《とう》さまが生前お召しになった鎧や兜が幾つもあるけれど、みんなおれには地味すぎて似合わない。陣羽織も、南蛮ラシャのが欲しいんだが、いまから誂えたんじゃ間に合わないねえ」
と、長兄にのんきな相談をもちかける。
「おれの羽毛の陣羽織を借りたいんだろう」
先廻りして秀次ははねつけた。
「あれは駄目だよ。お前みたいなチビにはもったいない」
「だって、兄さんはいくさに出かけないんじゃないか」
「名護屋城中にいる限り、お前だって兵火とはかかわりない。ろくすっぽ弓一つ引けもしないのに軍装に綺羅を飾ったって始まるまい」
と秀次の決めつけ方に温かみはなかった。
ふくれつらする秀保も秀保だが、喋り合っているのを脇から聞くかぎり、一方が関白・左大臣、一方が従四位下・参議の官位官職を帯びる兄弟とはとても思えない。駄々ッ子時代のわがままが双方ともにむき出しになっている。|とも《ヽヽ》にはでも、ひさしぶりに聞く息子たちの声が、もうそれだけで耳にこころよく響いたし、秀次の妻や子に対面できたのも、老母との永別の悲しみの中で、たった一つ拾い上げた宝珠ともいえるよろこびであった。
関白職を受け継ぐと同時に、その政庁である聚楽第も、自動的に秀吉の所有から秀次の手に譲り渡された。
それを|しお《ヽヽ》に、大坂に住まわせていた妻妾や子らを、秀次は聚楽第内に引き移らせたのである。
これまで何とはなしに、ふた親の目にさえ見せしぶっていた女たちを、ようやく秀次は引き合わす気になったのか、書院に呼び集めて一人一人、
「右はじの上臈はお|わこ《ヽヽ》と言います。日比野下野守の娘、仙千代丸の生みの母で、年は十八歳……。その隣り、段唐織《だんからおり》の打掛を着ている女性《によしよう》は尾張の郷士山口松雲の娘、お|とや《ヽヽ》の前。於百丸の生母です」
名や素性を披露した。
そのたびに羞しげに、あるいはなよやかに誇らしげに、それぞれの特色を示しながら吉房夫婦に側室たちは辞儀をする。
|とも《ヽヽ》も礼を返しはしたけれども、三十人にも及ぶ数の多さにとまどい、圧倒されて、満足な口がきけなかった。吉房も目をしろくろさせている。いずれ劣らぬ美女ばかり化粧を凝らし装いに妍《けん》を競って居並ぶと、匂いの濃い花園にでも迷い込んだようで、老いの生理には刺激が強すぎた。
でも、|とも《ヽヽ》はうれしかった。嫁たちである。血のつながりこそないにせよ、娘とも呼んでよい身内が、いきなり増えた思いで、気持が華やぎ、豊穣な手ごたえに満たされた。耳で聞いて知っていたのと、実際に目で見てたしかめ得た存在感の違いであろう。
孫はまだ、いまのところ三人──。
嫡男の仙千代丸が五歳、次男の於百丸が三歳、女児の亀姫が当歳にすぎぬ幼さだが、初見参にひとしい|とも《ヽヽ》には、抱きしめてこのまま犬山城へつれて帰ってしまいたいほどいとしいものに感じられた。
秀勝にも秀保にも、孫の出生など当分望めそうもない。秀次の子らこそが、はじめて老夫婦に恵まれた内孫であった。めいめい腹は違うが、どれも愛くるしく縹緻《きりよう》のよい子ばかりで、宝物のように乳母や生母にかしずかれている。
「おお、おお、かわいい子らじゃなあ」
かわるがわる受け取って、親たちが頬ずりするのを、秀次もしごく満足そうに見ていたが、その夜、二人きりの寝所へ引き取ってからの吉房の表情は、かならずしも晴れやかなものとはいえなかった。
「のう|とも《ヽヽ》。ああして囲まれてみると、やはり何としてもたった一人の秀次には、多すぎる側女の数と思わぬか?」
「色好みと、世間の口が嗤《わら》うのも、あれでは無理からぬことかもしれませぬのう」
「女色ばかりではない。いつもいつも身近に附き従うておる山本|主殿《とのも》、不破伴作ら|みめ《ヽヽ》形すぐれた小姓ども……。彼らも秀次の、夜伽《よとぎ》の相手であろう」
「較べるまでもなく、さすが高貴の出だけあって、正室の菊亭どののご息女がとびぬけてけだかく、美しくもあるのに、あれほどの妻を持ちながら、なぜつぎからつぎへ、秀次は女漁りに手を出すのでございましょうな」
「出自《しゆつじ》を聞けば、どれも家臣、郷士、坊官や浪人などさしたる家の出でもない女ども……。婢《はした》あがりまでいるようじゃな」
「あの気に入りの木村常陸介が、どこやらから探し出してきて、秀次の閨の花に奉った娘まで混っておるとか聞きました」
「太閤殿下や北政所さまは、秀次の色狂いを、何とごらんあそばしておろうか」
「よいこととは思うておられますまい」
「じつは大政所さまご葬儀の当日、大徳寺|塔頭《たつちゆう》に設けられた控えの間で休息していたさい、おしゃべり尼の幸蔵主から、チラと気がかりな噂を聞かされての」
「悪い話でござりますか?」
「秀次め、正室が先夫とのあいだに生んだ宮御前とやらいう連れ子の、たった十三にしかならぬ姫にまで手を附けたそうな」
「あの御台所は、では、出もどりなので?」
「そのようじゃ。年も秀次より三つ四つ上。三十を越しておるらしい」
「二十そこそこにしか見えませぬが……」
「何にせい、妻の連れ子ならば秀次とのかかわりも義理の父娘《おやこ》──。母と一つ寝し、娘とも婬《たわ》けるとはもってのほか、畜生道の振舞いではないかと、この一条には太閤もいたく憤られたという」
目の前が、|とも《ヽヽ》は暗くなった。情けない。なんという浅ましいことをしてくれたのか。好色どころか、これではもはや乱行ではないか。実家の菊亭家の思惑も恥かしいと、歯ぎしりしたい怒りに、彼女も突き上げられた。
「その宮御前とやらは、先ほど書院におりましたか」
「いいや、それとなく気を配ってみていたが、おらなんだようじゃ。さすがに親たちに何と引き合わせてよいか、秀次めも困って、宮御前ばかりはどこぞに隠しておいたのであろう」
それにつけても思い浮かぶのは朝鮮へ渡った次男の小吉秀勝である。長男とはうらはらに、秀勝は女に関しては偏屈者と評判されるほど身持ちが固い。おかげで浅井のお督という日本一の美女を妻に持てたのではなかったか。
腹かっさばいて果てた佐治与九郎に操を立てて、婚礼をしながら共寝を拒むお督に、力ずくで踏みこんでゆくこともせず、切って寄こしたわずかばかりな鬢《びん》の毛を後生大事に守り袋に秘めて、戦場へ出かけていった秀勝――。
「どうか一日も早く凱陣して、恋女房とのあいだにあの伜こそが、幾たりも孫を儲けてほしいものじゃ」
と親たちは願わずにいられない。
大政所の初七日まで聚楽第にいて、秀保は郡山へ引きあげてゆき、弥介吉房も二七日《ふたなぬか》の法要をすませたあと、秀吉や北政所に暇《いとま》を乞うて犬山の居城へ帰っていった。秀保は名護屋下向の用意のため、吉房は押して出てきた持病の腰痛が、在京中の疲れで悪化しはじめたためだった。
|とも《ヽヽ》は居残り、仙千代丸ら孫たちの居室を訪ね歩いて無聊をなぐさめた。老母が逝ってしまったあとの聚楽第は、彼女には味気《あじき》ない場所となったが、ぽっかりあいた空洞を秀次の妻妾と子供たちが埋めてくれるのはありがたく、楽しくもあった。
宮御前にまつわる風評については、聞くまいと強いて努めた。|とも《ヽヽ》には秀吉も嫌味は言わない。
八月に入ると早々、加賀局お摩阿、三条局お虎ら名護屋在陣中、孤閨を守らせていた側室たちの機嫌をとりに、彼もまた大坂へ下って行ってしまったけれど、当てつけがましいこの行為には、葬儀直前の夫婦|諍《いさか》い以来、いまなお続いているお寧々との冷戦状態に、くさくさしきった感情がこもっている。
しかも大坂への下向途上、秀吉は伏見に立ち寄り、
「そうだ。前々からここに城を築こうと考えていたのだったな」
突然、言い出して、聚楽第へすぐ、着工を命じる使者を差し立てた。
秀次が総責任者、京都町奉行の前田玄以が普請奉行を兼ねることになり、
「当分のあいだ、これからは、洛中と伏見の間をわたしも行き来する日が続きそうです」
と聞かされて、
「そなたが伏見の城を築くのか秀次」
またもや|とも《ヽヽ》の気分はおもくるしく塞がってしまった。
「巨椋ガ池が潰されるとか聞いた。城造りが始まればな」
「そんなことはありますまい。あの大池を埋め立てるなどということは……」
「まるまる埋めてのけるのではない。池中に長堤を築き、堤上に街道を通して伏見の城──いや、城下の町につなげるのじゃという……」
「母者がどうして、そのようなことを……」
「小一郎が生前、話してくれた。岡屋津の港に一宿したときにな」
眼前の湖水を南北に遮って、長大な堤が伸びなどしたら、巨椋ガ池の、水路としての機能はもとより、岡屋津港の命脈まで断ち切られてしまう。
理解に苦しむ暴挙……。なにとぞお企ては撤回ねがいたいと、町衆を代表して歎願した井筒屋了意・四郎兵衛父子の、思い詰めた目の色が|とも《ヽヽ》の記憶にまざまざ蘇ったのである。
秀次は、だが、
「聚楽第をわたくしに譲られた以上、太閤殿下には隠居所が必要です。伏見の城は、そのつもりで造られるわけでしょう」
こだわる|とも《ヽヽ》を、むしろ不思議そうに見た。築城に伴う犠牲の大きさになど、一向にまだ、思い至っていなさそうな口ぶりの軽さであった。
秀次の無関心ぶりとは正反対に、
「なるほど。まだ大和大納言さまご在世のころから、巨椋ガ池の築堤工事をめぐって、周辺住民のあいだにはそのような懸念やら臆測やらが、ひそかに渦巻いていたのでござりますな」
興深げに膝を乗り出したのは、この日もすぐ片脇に附き添って来ていた木村常陸介重茲であった。
「琵琶湖と宇治川──。この二つの水運を介して、太古より北陸、東山《とうさん》、東海の物産は西へもたらされ、また西国の品々も淀の流れをさかのぼって東へと運ばれた。双方の船便の、中継ぎ役をながいこと果たしてきたのが巨椋ガ池、そして、その岸に開けた岡屋津の港なのに、池を殺し、港を長堤のかげに封じ込めてしまうがごときお企てがもし、実行に移されるとならば狂気の沙汰じゃ、恐れながら太閤殿下の思召しとも信じられぬ、伏見のご築城に併せて、しかしどうやら堤普請も始まるらしいとの噂じゃが、なにとぞお取りやめいただけまいか、とな。小一郎ばかりかこの婆にまで、膝詰め談判の懸命さで訴えるのじゃよ常陸介どの」
「岡屋津の、町人どもが?」
「中でも当夜の宿主であった井筒屋了意、息子の四郎兵衛が総代格で弁じたなあ」
「井筒屋の名はぞんじております。岡屋津きっての豪商……。回船問屋でござりましたな」
「で、彼ら町衆の愁訴に対して郡山の叔父上は、そのとき、どうお答えになっておられましたか」
と、これはようやく、この話題に気を向け始めた秀次の質問だった。
「案じるな、大池を堤で分断するなどという暴挙を、まさか思い立たれる太閤さまではない、流言じゃ、惑わされずに稼業に励めと、躱《かわ》しはしたがの、後刻、姉弟二人きりの夜話では溜め息ついて、おそらく岡屋津港は助かるまいと言うておった。臨終《いまわ》のきわまで、このことを気がかりの一つにしながら小一郎は逝ったのではあるまいか」
「しかし、わたくしが普請奉行の前田玄以から見せられた作事の諸|控《ひかえ》には、湖水の埋め立てや築堤のお見つもりまで入っていません。どのような経路でそのような話が流布したのかはぞんじませんが、ちと井筒屋らの先案じが過ぎるのではござりますまいかな」
「そうかもしれぬ。まあ何にいたせ、伏見の城造りの、そなたが総指揮を取ることになったのなら、岡屋津町衆の歎きを忘れず、むざむざ良港を潰さぬよう心を配ってやってくりゃれ」
「わかりました。できる力添えは、惜しまずしてやることにしましょう」
「それを聞いて安堵した。──母はもう、そろそろ暇乞いしようかの」
「犬山にお帰りなされますか」
「留守がこころもとない。孫や嫁女らと別れるのはつらいけれども、また折りを見て上洛しよう」
「父さまに、くれぐれもよろしく」
──尾張にもどってみると、弥介吉房は病臥していて、妻の帰城を待ちわびていた。残暑のさなかの京上りが、やはりだいぶ、こたえたらしい。
「山の神がそばにいなくては、なにごとにも埒があきませぬな。あなたは遠慮深うて、召使どもの不手際にさえ、こごと一つ、よう言えぬお方じゃもの」
「百姓あがりの卑屈癖が、この年になってもまだ、抜けぬということかのう」
「いやいや、お気が優しいのじゃ」
と、他愛なく笑い合えたのも数日にすぎなかった。
犬山城中に急報が入り、小吉秀勝の戦病死が伝えられたのである。
「死んだと申すか?」
「伜めが……!」
老夫婦は耳を疑った。戦場へ出してやったのだ。惧《おそ》れは、心のどこかに明けくれわだかまっていたが、お味方圧勝とばかり信じきってもいたやさきだけに、不運な死の手に、選りに選ってまさか我が子が引き拐《さら》われてゆくとは思っていなかったのである。
日本軍が唐島《からしま》と呼び、朝鮮の人々は巨済島と呼んでいる島で、秀勝は病気にかかり、幾日も患わずに他界したのだという。
秀吉は十月一日、大坂城を発し、ふたたび名護屋への軍旅についていたけれども、それと聞くや、ただちに悔やみの状をよこし、北政所からは弔使が差し向けられてきた。
諸卿諸大名の弔問も相つぐ中で、吉房はどっと寝ついた。それでなくてさえ病中の身体に、気落ちが重なったための弱りであった。
|とも《ヽヽ》もいっとき、痴呆のようになった。食べものに味がなくなり、やがてはるばる遺骨が帰還して、葬儀が執行されるあいだも、自分の心身が自分のものと思えない状態が続いた。悪夢でも見ているようなうつつなさの中で、人が言うままに動いたにすぎない。
やむをえず、多忙な用務を犠牲にして秀次が万端の采配を振い、秀保も九州下向の途中から引き返して兄の手助けやら両親の介護に当らなければならなくなった。
京都から名医と評判されている寿命院|秦宗巴《はたのそうは》を、犬山に招いて治療に当らせたのも秀次だが、吉房の病状は軽快のきざしを見せなかった。
菊亭家から輿入れしてきた秀次の正夫人さえ、舅の病いを気づかって聚楽第に僧を招き、安鎮法の祈祷を修させたと聞いたのに、岐阜城のお督からは、はかばかしく見舞いの手紙さえ届かない。秀勝の葬儀の日も、涙ひとつこぼさなかった嫁なのである。
「むりもない。泣けぬのも……」
理性では許しながらも、|とも《ヽヽ》はどうにも釈然としない。まもなく唐島から、最期まで秀勝のそばにいてその終焉を見とどけた近習が二人、形見の品々を持ち帰って来たが、彼らの報告によると、好調とばかり信じきっていた戦況もこのところ思わしい展開を見せていないという。戦線が拡がりすぎ、兵糧の補給がままならなくなったのである。
「なにも遠方から送らんでもよかろう。高麗人の田畑から、彼らの食うものを徴発すれば事足ろうに……」
吉房のいぶかりを遮って、
「朝鮮全土が、未曾有の凶作に見舞われ、召し上げようにも田からも畑からも、収穫が無いのでございます」
侍どもは前線の困窮ぶりをものがたった。
「それに、朝鮮の一般民衆──老人や女こどもまでが武器を取って、日本軍に抵抗しはじめました。各地で義勇軍が蜂起し、伸びきった輸送路をずたずたに断ち切るものですから、送っても送っても食糧は味方の陣中に届きません。あたら敵を利するのみにて、日本勢は粥《かゆ》をすすり笹の根をかじりながら飢えをしのぐ有様……。これでは士気は落ちるばかりでございます」
「でも、大明国から沈惟敬とやらが朝鮮の平壌へやって来て、和議の交渉を始めたとも聞いたぞ」
「はい。小西行長どのが、もっぱら事に当られたようですが、朝鮮半島を半ば、我が方に割譲し、王子を一名、人質として差し出せ、大明国からは皇帝の息女を、これも日本の朝廷に女御《によご》として入内《じゆだい》させよと太閤殿下は言いやったとか……。こんな強気な条件を、明国も朝鮮王室もが呑むはずはありますまい。和議は不調に終り、沈使節は本国へ引きあげたよしにござります」
「寒うもなるしなあ」
「大敵は、冬将軍の来襲でございます。日本では想像もつきかねる積雪の深さ、寒気の厳しさ……。しかも水軍に、李舜臣《りしゆんしん》と申す猛将が現れ、我がほうの輸送船団を片はしから迎え討って、海の藻屑《もくず》としております。わたくしどもも渡海してもどるさい、敵方の兵船に見つかりはせぬかと、じつのところびくびくものでござりました」
「いやはや、聞けば聞くほど風説と実際の喰いちがいに驚くばかりじゃ。前途多難もよいところではないか、なあ|とも《ヽヽ》」
あきれ顔を、夫婦は見合わせた。
小吉秀勝はそんなさなか、細川忠興のひきいる精兵と一手になり、第九陣の将として朝鮮に渡った。
「兵力三千。唐島に陣していざ、進撃というまぎわに、船中から下痢ぎみだった腹中がにわかに痛み出し、嘔吐、発熱まで伴う大患となられました。医師は水当りと診断いたしましたが、風土病であろうと申す者もいて、わたくしども家臣一同の必死のみとりも空しく、ついに陣中にて歿せられたのでございます」
享年、わずか二十四──。
遺骨は嵯峨の亀山に葬り、両親は涙ながらその菩提のために、一宇を建立することとした。それやこれや、何かと相談をしたいし、半月と添わぬうちに再び夫に先立たれ、若後家となってしまった嫁の行く末をどう思案したものか、意向を訊く必要もあった。
「ともあれ一度、ゆっくり話合わねばなるまいと吉房どのは申しております。唐島から届けられた形見の品もお見せしたい。ご足労ながら犬山の城へお越したまわるまいか」
と、|とも《ヽヽ》はお督に言いやった。
その招きに応じて、文禄と改元されてまもない師走はじめ、お督は舅姑の住む木曾川べりの城へやって来た。輿の物見の目庇《まびさし》を氷雨《ひさめ》が濡らす肌寒い夕ぐれであった。
「これは愛用の太刀、具足、この守り袋は手ずからお督さまが縫うて渡してくだされた品……。絹糸でくくったお髪《ぐし》と住吉の御符が、あのときと変らず納めてあります。胸に抱きしめてこと切れたとやら……」
泣きながらの、|とも《ヽヽ》の述懐にも、お督は眉ひとつうごかさずに低い、静かな持ち前の口調で、
「お名残惜しゅうはございますけれど、これまでのご縁……」
きっぱりと言った。
「わたくし、姉のもとへ帰らせていただく所存でございます」
「つまり離縁を望まれるわけじゃな」
「はい」
「もとより、当方にも異存はありませぬ。まだ年若いそなた、十二分に美しくもあるそなたを、縛りつけておく気はさらさらない。お茶々御寮人のおそばにもどって、良縁をお探しなされ。秀勝の身にすれば不本意なことであったろうが、さいわいまだ、祝言の式のみにて枕は交さぬそうな……。内々太閤殿下にもこの事実は、わたしら夫婦からお耳に入れておきましょうな」
「枕を交さぬ?」
守り袋にあてていた視線を、お督はゆっくり姑の面上へもどした。奇妙な、謎めいた微笑が、内側から盛りあがりでもするようにその口許に拡がるのを、|とも《ヽヽ》は何がなし、総毛立つ思いでじっとみつめた。
「異なことを仰せられますな姑《はは》上」
お督は否定した。
「秀勝どのとわたしは、婚礼の式を挙げたその夜から衾《ふすま》を共にいたしました」
「なんといわれる!?」
「出陣してゆかれる前夜まで、夫婦のまじわりをつづけたからこそ、わたしは秀勝どののお胤をみごもったのでございます」
「みごもった……あの、こなた、懐妊したと言やるのか!?」
「五月《いつつき》目になりました」
「そ、そんな……」
|とも《ヽヽ》は頭が混乱した。吉房もあっけにとられた顔で、言葉をはさむことすら忘れている。
「まことなら……めでたい」
かろうじて|とも《ヽヽ》は言った。
「わたしらにしても夢としか思えぬ吉報じゃが、秀勝自身、九州下向の直前、当城へ別れを告げに来ての話では、そなた、先夫の佐治どのに操を立て、一周忌がすむまでは肌を許さぬと申したそうではないか」
「ほほほほ」
さも可笑《おか》しそうにお督は笑った。
水晶の鈴でも打ち振るような冴えた、冷ややかな高笑いであった。
「男の照れが言わすそのようなでたらめを、姑さまがたは本気にしておられたのですか」
「では、まじわりを結んだのが定《じよう》か」
「定ですとも」
老夫婦は首をかしげた。秀勝の性格を、だれよりも熟知している親たちである。こんなことに、いくら気羞しいからといって虚言を吐かねばならぬ理由はないし、二十四にもなる男が、そこまで初心とも思えない。
なにやら腑に落ちかねる成りゆきではあるけれども、まさか妊娠などという重大な話を、お督もいい加減には口にすまい。その証言通りなら|とも《ヽヽ》や吉房にとって、この上のよろこびはない。思いもよらぬ形見を、秀勝は|ふた《ヽヽ》親の手に遺していってくれたことになるのだ。
「ありがたい、ありがたい」
目を幾度も|とも《ヽヽ》はしばたたいた。
「身体をな、いとうてくだされよお督どの、そして必ず、すこやかな子を生んでくだされ」
懐胎していながら、お督は婚家と縁を切る気でいるのだろうか。生まれた子は、彼女が引き取って育てるつもりなのか?
|とも《ヽヽ》は不安に駆られて、その点も質さずにいられなかった。
「身二つになってから、離縁するならばしたらどうであろうな。男児であれ女児であれ、子供はわたしらが手塩にかけて成人させるつもりじゃが……」
「いいえ、産は姉のもとへ帰ってからいたします」
「赤児は、渡してはくださらぬのか」
「わたくしは母でございます。母の手許で育つのが子の仕合せとぞんじますゆえ……」
「でも、秀勝に死なれ嫁女にまで去られる老人どもの淋しさを、察してほしい」
「この、お腹《なか》の嬰児《やや》だけが孫ではないはず……。関白どののお子たちも、あなたさまがたにとって愛孫《ういまご》ではござりませぬか」
「あの子らは離れておるでのう」
「では、こういたしましょう。もし生まれた子が女なら、わたくしが育てます。男の子であれば舅《とう》さま姑《かあ》さまにさしあげて、行く末、秀勝どのの跡目を継がせていただく……。太閤殿下もおそらくこの取り決めを、よしと思召されるのではありますまいか」
これ以上、なまじ不服をとなえて、|つむじ《ヽヽヽ》を曲げられては元も子も失う。妥協するほかないと|とも《ヽヽ》はあきらめた。
「いずれ、そなたは再婚するであろう。そのときもし、連れ子が憚られる相手であったなら遠慮のう当城へ姫を送り届けなされよ。祖父《じじ》と祖母《ばば》が母御に成り代って、ぞんぶん慈しんでとらせるゆえに、な?」
「ありがとうござります」
と、岐阜へ引きあげて行ってまもなく、お督は手回りの荷物をまとめ、迎えに来た京極家の家臣らにともなわれて淀の城へと去ってしまった。別れの挨拶にくるではなし、便りひとつ、以来とだえてしまっている。これまでの馴染みの薄さ、婚礼のさいのいざこざからすれば無理もないこととは思いながらも、にわかに深まった寂寥を老人二人はもてあました。胸のまん中に大きな穴があき、冷風が吹きぬけでもするような頼りなさ、もの悲しさであった。
「せめてもの慰めは、たとえわずかな夜ごとでも秀勝が恋女房の柔肌を堪能し、子までみごもらせていた事実が、はっきりしたことでござりますなあ。お預けを喰ったまま戦地へ駆り出され、異国の土となったのでは、伜もいつまでも念が残って、浮かばれぬところでござりました」
老妻のこの言葉に、しかし吉房は懐疑的だった。
「|とも《ヽヽ》よ。お督どののあの言いぐさ、まことと思うか?」
つらそうに枕の上で、吉房は眉をしかめた。
「わしには小吉の打ちあけ話こそ、本当のことに思えてならぬが……」
|とも《ヽヽ》は声を呑んだ。同じ疑いを、じつはうすうす彼女も抱いてはいたのである。
「懐妊が、もし事実なら、子の父はだれでしょう」
「それを知る者はお督どののみじゃが、わしの推量では、先の夫の佐治与九郎ではなかろうかな」
ありうることだ。仲の良い夫婦であった。佐治の自裁後いくばくもなく嫁いできたお督なら、亡夫の胤を胎内に宿していたとしても不思議はない。
(そうだったのか。……いや、そうにちがいあるまい)
|とも《ヽヽ》は奥歯を噛みしめた。あらためて秀勝への不憫さが突きあげ、きりきりと胸が軋《きし》んだ。
「いま、五月と申したが、二十日や|ひと《ヽヽ》月、生み月が狂うたとて早産と披露すれば済む。月足らずで生まれる例は、世間にまま、あることじゃでな」
「死人に口なしとは言いながら、|だし《ヽヽ》にだけ使われたとあっては、いよいよ秀勝が哀れでござります。なぜお督どのは正直に、前夫の子じゃと言うてはくれなんだのか……」
「夫婦仲を裂かれたのを恨んで、面当てがましく腹切ってのけた佐治ではないか。いわば天下さまに楯ついて死んだ男……。そのような者の子では末の不幸は目に見えておろう」
「なるほど。秀勝はそこへゆくと、太閤殿下の押しも押されもせぬ甥御でござりますな」
「唐御陣に勝利を納めたあかつきは日本国の関白に据えようとまで叔父ぎみに約束されながら、あたら若ざかりの命を戦地で散らしたのじゃ。その忘れ形見とあれば悪うはだれもせぬ。子の将来は大盤石と踏んだからこそ、ありもせぬ閨ごとをあったと偽って嫁女はわしらを瞞《だま》したのじゃ」
密室での睦み合いばかりは他人には窺い知ることができない。生き残った一方の言うなりに、承服するほかないのだ。お督の虚偽と作為をくつがえせるのは秀勝一人なのに、その証人が死んでしまった。|とも《ヽヽ》の無念だけが青じろい燐光を発して、意識のくらがりに貼りつく結果になったのである。
文禄元年は二十日余りで暮れ、二年の新春を迎えたが、朝鮮での戦況は泥沼の様相を濃くするばかりだった。鴨緑江を渡って怒濤さながら、明国の救援軍が半島へなだれ入ってきたのだ。
李如松将軍のひきいる明軍は各地で日本勢を撃破──。またたくまに平壌を奪還してしまった。四万に及ぶ包囲軍の猛攻を支えきれず、小西行長ら平壌守備軍が敗走したため、日本勢は兵員を京城に結集せざるをえなくなったのである。
朝鮮義兵の抵抗もはげしい。飢寒にも打ちのめされて日本側の士気は急速に低下し、休戦を望む声が強くなった。
たまたま京城城外|碧蹄館《へきていかん》の合戦で小早川隆景らが明軍を敗走させたのを機に、
「今を措《お》いて、対等の交渉はできぬ」
にわかに和議への動きが具体化しはじめた。
負傷兵、病兵の発生も日本側にいちじるしい。名護屋の本営からは聚楽第の秀次に宛てて、
「至急、洛中洛外、南都にまで手を拡げて外科、本道の医師をかり集め、名護屋へ下向させよ」
と命じてきた。戦場へ派遣するつもりであることはあきらかだが、そんなごった返しのまっただなか、しかもまずいことに秀吉からの急使が到着したその日、秀次は京都西郊へ忍びの狩りに出ていて第邸にいなかった。
隠しても、勢子《せこ》を四、五十名近く引きつれた狩猟では下民らの口の端にすぐ、のぼる。
「不謹慎な!」
問題になったのは、諒闇《りようあん》中のせいもある。
正月五日、正親町上皇が崩じたのだ。戦局の前途ばかりでなく、鳴り物|停止《ちようじ》、初春の諸行事がいっさい取りやめとなった暗さが、都の空気を湿っぽいものにしていた。
関白という官職からも、秀次は率先して喪中のつつしみを表すべき立場にいる。それが事もあろうに鳥獣を狩りに出た。故上皇の冥福を祈って念珠を繰《く》らねばならぬ手に、弓矢を握り、殺生をしに出たとあってはおだやかでない。
病中の吉房を犬山城に見舞いに来て、この始末を告げたのは木村常陸介である。
「なんという莫迦《ばか》なことを! 戦地の苦労を思いやれば、いかに好きな狩りとはいえ、おのれ一個の娯《たの》しみにうつつは抜かせぬはずじゃ。ろくにお役にも立ちはせなんだが、ともあれ舎弟は戦歿しておる。院への|慮 《おもんぱか》りだけでなく秀勝の追善のためにも、このさい殺生など控えるべきではないか」
お手前が附いていながら、なぜ秀次の落ち度を見すごしたのかと、言外に非難をこめられて、
「ご自身の愉楽で狩り場へおもむかれたのではござらぬ」
常陸介重茲はけしきばんだ。
「失礼ながらご隠居、あなたさまのためでござりますぞ」
「なに、この老父のためじゃと?」
「さよう。さきに差し向けた寿命院宗巴の報らせにて、関白さまはこなたのご病状をひどく心痛しておられます。手前、お見舞いに持ってまいったはあの日、関白さまがお手ずから射とめられた猪鹿《しししか》の肉の塩漬け……。養生喰いに召し上って、一日も早く体力をご回復いただきたいとの、孝心から発した狩猟でござりました」
「欲しゅうはない。獣《けもの》の肉など……」
「それはわがままと申すもの。南蛮人は肉を常食とし、牛の乳までを湯茶代りに飲むせいで身丈《みたけ》があのようにすぐれております。千里の波濤をしのぎ、東洋の果てにまで航海してまいる体力気力は、獣肉の精より出たものであろうとの関白さまのご意見、ありがたく頂戴いたさねば罰が当りましょうぞ」
初対面のころの慇懃《いんぎん》さは、いつのまにか影をひそめ、寵を笠に着ての思い上りが常陸介の言動に露骨に出ている。
温厚な吉房もつい、むっとして、
「人の世話より我が身の火の粉じゃ。世捨て人にひとしいこのわしの耳にさえ、近ごろ秀次の行状をめぐってかんばしからぬ風評が入ってきておる。どうやらしかも、それはお手前の指し金と聞いた」
木村への批判を口にした。
「ほほう、何ごとでござりましょうな」
「高利をとって、朝鮮役の出費に苦しむ諸大名に、秀次め、金を貸しておるそうではないか」
「貸しています。そしてそれはご推察の通り、拙者の方寸より出た秘策でござります」
相手は一向に動ぜず、あべこべに反問してきた。
「ところでご隠居には、先頃、茶々御寮人が、単身、名護屋から淀城へおもどりなされたを、ごぞんじでしょうかな?」
「いや、知らぬ」
「健康をそこなわれたとの触れこみであったが、巷《ちまた》の風説に依ればどうやらおめでたらしゅうござる」
「なに? 茶々どのが再度、ご懐妊じゃと?」
「もしまた、ご男子《なんし》ご出生ということになれば、関白さまの、豊家ご継嗣としての行く手に好ましからぬ翳がさします。われら側近が大名貸しに腐心するのも、秀次公のおん身安泰を願えばこそでござりますぞ」
恩に着てほしいと言わんばかりな、嵩高《かさだか》な口のききようだった。
木村常陸介にきめつけられるまでもなく、
「茶々どの、ご懐妊」
と告げられれば、世事に疎《うと》く名利に淡白な弥介吉房にも、さすがに秀次の立場への懸念がきざす。
鶴松の早逝以来、実子の誕生をあきらめて、内心大いに不満ながら甥の秀次を後嗣に決めた秀吉なのだ。もしまた、お茶々が男児を生みでもしたら狂喜して、
「是が非でも、この子に再び天下人の跡目を……」
と願望しだすのは火を見るより明らかであった。そうなれば早晩、秀次の地位は影響を受ける。避けられないそれは運命かもしれない。
「われわれ関白さまのお側に侍す者どもは、しかし何としてでも、ご運の弥栄《いやさか》を念じ、そのための努力を惜しむまいとひそかに誓っておるのでござる。諸大名はいま、軍費の捻出に四苦八苦の態たらく……。無利子、無担保、無期限にて金を用立ててつかわせば恩に着るは必定とぞんじますがな」
「申さば人心収攬のためか?」
「有力なる諸侯を金の威力と恩義で縛り、着々お足許を固めておかぬことには、ご運の安泰はのぞめませぬ。金貸しはその布石の一つ。われらは棄て金と称しておりますが、あたらドブに投じる益なき金ではござらん。行く末かならず芽を吹き実を成らせる種と信じて、ただいま惜しげもなく蒔《ま》いておるのでござるわ」
「だれだれじゃの? 借り頭は……」
「さよう」
にやりと常陸介重茲は笑った。
「伊達どの毛利どの浅野どの。細川侯などはさしずめ、借り手の筆頭と申せましょうかな」
「忠興どのか?」
「ご承知の通り当家の重臣前野出雲守長重は、細川家の息女の一人を妻に迎えております。いわば忠興どのの女婿《むすめむこ》でござる。この縁故をたよって細川家の老職松井佐渡守が泣きついてまいってな」
「松井佐渡……」
「康之《やすゆき》でござるよ。そこで二百枚の黄金を、気前よく貸してやり申したわ」
「そりゃまた、たいまいな……」
「海老《えび》を餌《え》にして鯛を釣れと世俗にも申すではござらぬか。ご隠居などはごぞんじあるまいけれど、太閤さま帷幕《いばく》の軋轢《あつれき》もなかなかのものでな、油断は微塵、なりませぬのじゃ」
たとえば秀吉の片腕さながら今、重用されている石田治部少輔三成、石田に同調している増田右衛門長盛らは、千利休を失脚させ賜死に追いつめた一事からも察せられるように、太閤の執政機関に権力のすべてを集中せしめることを理想としているいわば集権派、これに対するに徳川家康、前田利家ら元老連中を軸とする分権派ともいうべき勢力がある。
「石田らはまた、武よりは文、経理にたけた官僚肌ゆえ、武弁一方の加藤、福島、黒田、脇坂、浅野などとも反《そ》りが合いませぬ。そのくせ一方では加藤清正が、同じ武将仲間ながら町人出の小西行長あたりと、異国兵相手の戦場ですら啀《いが》み合うて、ことごとに対立するありさま……」
なお加えれば加藤や福島ら太閤子飼いの将どもは、
「虎之助よ、市松よ」
と幼名で呼ばれた洟《はな》たれ時分から、北政所お寧々に小袖のカギ裂き、袴の繕いに至るまで親代り姉代りの世話を受けている。
「後宮での派閥で分ければ、こりゃ当然、北政所派でござろう」
ところが石田三成の冷徹な官僚気質、何ごとにつけても豊家のお為第一、支配機構の完《まつた》き整備を大眼目にすえた考え方からすれば、子飼いだろうと縁戚だろうと、べたべたした人情論など入りこむ|せき《ヽヽ》はない。むしろそのような繋りを豊臣政権づくりの障害とみなして、排除しようと彼はかかっている。利休の存在が忌まれたのも、茶を介してあまりに深く彼が秀吉と密着し、政治の機密に関与しすぎたからにほかならない。
名分を正すことが好きな三成が、
「太閤の天下は、太閤のお子に……」
と割り切るのも、日ごろの主張からして不思議ではないし、そうなればしぜん、三成は鶴松派、言い変えればお茶々ご寮人派と見られざるを得ない。北政所や、彼女をめぐって結束しつつある武将どもとは反対の側に廻るわけである。
「このように、正室、側室の反目までが絡んで暗黙の衝突がくり返されている現在でござる。ここだけの内輪話じゃが、おまけに無益無謀な外征まで起こし、諸侯の怨嗟はくすぶっております。太閤のお目が黒いうちは、それでもどうにかご威勢で抑えきれましょう。しかし薨去《こうきよ》とでもなったあかつきは混乱は必至と見ねばなりますまい」
「秀次は石田|治部《じぶ》らに、どう思われているのであろうな」
吉房は訊かずにいられなかった。
「むろん、北政所派と目されております」
「なぜじゃな? 一門ではあっても秀次は、三成が忠誠を捧げておる太閤殿下の連枝ではないか。寧々どのとは血筋のかかわりはない。金吾秀秋ら実家の甥たちに豊家の跡を継がせたがっている寧々どのとすれば、秀次や秀保は目ざわりな邪魔者ではあるまいかな」
「そこが面倒なところでしてな。金吾侍従らの肩持ちをすればまさしく仰せの通りなれど、茶々ご寮人所生のご実子を目の仇《かたき》と見れば事態はおのずから違ってきましょう。当家のご子息がたも北政所の甥御たちも、同じ利害の上に立たされることになるわけですからな」
それが証拠に、五奉行の中でもことに三成の態度が、秀次によそよそしく、傲慢ですらあると常陸介は無念げに言うのである。
「実権の所在はどうであれ、職務上から申さば太閤殿下は、世を譲られたご隠居──。関白職こそが行政の責任を負う首長ではござるまいか」
「むむ、まあな」
「五奉行も関白どのの命令に従って動かねばならぬはずのもの……。それなのに石田治部少らは従前通り太閤殿下と結びつき、ややもすると秀次卿の頭越しに事を運ぼうと致しております。関白職など、これでは在って無きがごとし。なんら執行権を持たぬお飾りにすぎません」
それは秀次の不満である以上に、彼を補佐して存分に政権を切って回したい常陸介ら関白の側近に仕える者たちの、深刻な不平であり不満でもあるにちがいない。
「こんなこともござった」
と、三成への常陸介の誹謗はなお、つづいた。
「毛利輝元どのの家中に児玉三郎右衛門と申す者がおりましてな、貞宗の脇差を所持しておった。名だたる名刀でござる」
薄く、吉房は眉をひそめた。
「そこまで聞けば推量がつく。他人の持ち物をやたら欲しがる例の癖を出して、秀次がその一振りを所望したのであろう」
「いやいや、ひと足ちがいで治部めに引っ拐われてしまいましたよ」
「ほう」
「知らずに取ったならまだ、我慢できますがな、後日、事情にくわしい者が告げてまいったところによると、治部のやつ『関白どのもあの貞宗に執心しておられるそうな、出し抜かれるのはくち惜しい。一刻も早く当方にお渡しいただきたい』とせきたてたよしでござる。毛利侯も治部の心証を害してはまずいと判断されたか、児玉に因果を含め、早々秘蔵の一腰を届けさせたとか……」
「それでよい。貞宗を秀次が召し上げれば、やはり同様、権勢を笠に着ての強奪と譏《そし》られよう。三成が顰蹙《ひんしゆく》を買うのは三成の勝手……。脇差など、手に入れ損ねてかえって重畳ではなかったか」
「拙者が申し上げたいのは、事ほど左様に石田らが関白さまをないがしろにしている事実でござる。ましてそこへ、茶々ご寮人の再度の出産が重なれば、予断はいよいよ許せなくなりましょう。棄て金ならぬ生き金で大名どもの歓心をつないでおけば、他日かならず関白さまのお足場固めとなるは必定──。もの好きにわれら、金貸しになど精出しているわけではござらぬ」
と、振り出しにもどって釘をさす常陸介に、吉房は返す言葉がなかった。
文禄二年も五月に入ると、和議の話はいっそう具体化してきた。
はるばる大明国から講和使として謝用梓《しやようし》、徐一貫の両名が名護屋へ来、二十四日、秀吉に謁した。かつて寧々に嗤われた特別あつらえの附け髭でせいいっぱい威厳を誇示しながらも、この日、秀吉の機嫌が上々だったのは、
「嬰児《やや》さまをまた、わたくし、みごもったらしゅうございます」
と淀の茶々から知らせが届いていたからである。
「本当か!? おう、茶々よ、しんじつ懐胎にまちがいはないか?」
はるか東──淀城の空へ向かって秀吉は叫ばずにはいられなかった。
彼は五十七……。さすがにもう、鶴松の後を望むのはあきらめていたのだ。
「よくやった。だれの軍功にもまさる大手柄じゃぞ。願わくは男児を生んでくれよ。そういえばそなた、世嗣ぎを儲ければその子の体内を流れる母方の血を介して、織田も浅井もが豊臣の天下を、なかば分け取ったにひとしいと申したことがあったな。武器など手にせずとも、女子は子を生むことで、国取り城取り天下取りができますと笑いおった。あっぱれしたたかな考え方じゃとあのとき舌を巻いた覚えがあるが、そのような天下取りなら大いにやってほしいぞ茶々。これからもどしどし生んでくれよ、この、わしの子を、な」
折り返しすぐ、喜悦満面な返事をしたためて淀へ持ってゆかせたのに、北政所寧々からの正式な報告には、わざとそっけなく、
[#2字下げ]この間は少し咳気《がいき》いたし候まま文にて申さず。文の書き初めにて候。また二ノ丸殿、身持ちのよし承り候。めでたく候。われわれは子欲しく候わず候まま、其の心得候べく候。太閤が子は鶴松にて候つるが、他所《よそ》へ越し候まま、二ノ丸ばかりの子にてよく候わんや。
と、すこぶる気がなさそうに言いやった。わしが今なお忘れずにいるのは夭折した鶴松のみ。もはや子など欲しくはない。こんど茶々が赤児を生んでも、茶々一人の子と思って育てればよかろうと突き放している。
一にも二にも石女女房の不快を気づかい、その妬心を助長させまいと苦慮した書きぶりだが、外づらのつくろいが、けっして長つづきしないであろうことは、当の寧々がだれよりも承知していた。
「なにが『二ノ丸ばかりの子』か」
慰撫されることに、かえってたまらない屈辱を感じ、寧々もまた、淀の方角を燃えつきそうな憎悪の目で睨み据えた。
こんどもまた、聚楽第内に住む女たちの間には、
「はたして太閤のお胤でしょうか」
「名護屋のご陣中で妊まれたらしいけれど、まさか間男されたのではありますまいね」
かげ口がさかんに飛び交った。
「流産すればよい。いっそ難産で、腹の子ぐるみ茶々どのが死ねばよい。そのどちらもかなわぬならば、せめて女の子が生まれてほしい」
つのる腹立たしさのやりばがなく、愛宕《あたご》の巫女に依頼して、ひそかに呪術を修させた侍女たちさえあった。
「姉者ばかりか、出もどりのお督どのまでおめでたとか……」
「妹御は生みましたよ、この夏はじめに姫さまを……」
「おや、お督どのは出産されましたか」
「赤児の父親はだれでしょうねえ」
「こちらは決っています。再嫁先の岐阜宰相さまですよ」
「祝言するとまもなくご渡海あそばし、あっけなく唐島とやらで陣歿されたが、出立まぎわのごった返し最中、女房どのの腹に嬰児《やや》を仕込んで出られたとは、すばやいことをなされましたなあ」
「聚楽第にいたころは、のろくさと歯がゆい若殿でした。でも、どんな男でも閨ごととなると別ですね。お督どのもとんだ厄介な置き土産を持たされて、おきのどくな」
と直接、利害にかかわらない話題には嘲り混りの笑いも湧いた。
「なんという愚か者なの、お前たちは……」
お寧々は苦りきった。
「半月やそこらの共棲みで終れば、仮祝言も同然……。離縁を境いに|あか《ヽヽ》の他人になるが、子が生まれた以上たとえ女児でも、秀勝どのの忘れ形見ではないか。犬山におわす吉房どの夫婦には孫、関白どのから見れば姪に当る子供が絆《きずな》となって、あの一族と浅井の姉妹は、いついつまでも縁が切れずにいるのだよ」
叱りとばされて、
「ほんに、おっしゃられてみれば笑いごとではすみませぬな」
ようやく、そこに気づくのもいれば、
「ですが、果たしてお督どのの生んだお子、岐阜宰相さまの置き土産でしょうか」
吉房や|とも《ヽヽ》が抱いたと同じ疑惑を、憚らず口にする幸蔵主のような勘の鋭い女もいた。
「秀勝どのの胤ではない? とすればだれなの? 相手は……。お督ご寮人までが間男したと言うのかい?」
「まさか。姉妹揃って不貞を働きはしますまい。佐治どのでございますよ先夫の……」
「なるほど。それなら辻褄は合う。死に別れを目前にしての睦み合い……。|こむら《ヽヽヽ》返りもしよう妊みもしようよ」
「世間態は、でも、どこまでも再嫁してからの妊娠のように言い触らしているとか。岐阜宰相さまこそよい面の皮でござりますな」
「ほほほ、幸蔵主、いつもながらお前の鼻はよく効くねえ」
と、ついお寧々も笑ってしまったが、彼女の周辺ばかりでなく大坂城内で留守させられている側室たちの間でも、茶々の再度の懐妊はやかましく取り沙汰された。どれも似たり寄ったりの嫉妬に根ざした悪口である。
「男のお子でも誕生してごらんなさいよ。太閤さま、朝鮮征伐どころではなくなりますから……」
とも女たちは言い合ったし、これは一般の予想でもあった。
「鶴松|君《ぎみ》の死を忘れようとして思い立たれた唐御陣じゃ。代りのお子を授かったなら、どうぞそれを機《しお》に、埒もないいくさはやめてくださらぬかのう」
軍事費の支出にくるしむ領主らから息つくひまもなく年貢をはたり取られている百姓、働き手の夫や息子、兄だの弟だのを軍夫に徴発された家族らの嘆きも同じだが、秀次の側室たちが抱いた思いはまた、別なものだった。秀次の、後嗣としての身分が、この先どう保証されるのか、確答は、だれにもできない。
「案じることはありますまい。茶々さまがたとえ男の子をお生みなされても、成人するまでには向こう二十年もかかります。関白さまを廃嫡になどなされたら、その間の空白をつなぎようがないではありませんか」
楽観はするものの、すでに仙千代丸ら秀次の跡取り息子を儲けているお|わこ《ヽヽ》御前などは、
(この子に父の天下が、無事、譲られるものかどうか……)
湧きあがる不安を抑えきれない。
(女児であってほしい。姫ぎみならば、あるいは仙千代と夫婦《めおと》にして、豊臣のお家の末繁盛を太閤殿下は策されるかもしれぬ)
と、これはこれで、こっそり女児の誕生を祈るなど、四方八方に波紋を投げかけた茶々の妊娠だったのである。
寧々にやった返書の中で、秀吉はこうも書いていた。
[#2字下げ]大明国より詫び事に勅使、この地まで越し候あいだ、条数《じようす》書きをもって申し出で候。それに従い、存分に請け候わば、いよいよ許し、大明国朝鮮国、存分に任せ凱陣申すべく候。但《ただ》し高麗国に普請ども申しつけ候あいだ、いま少し隙《ひま》入り候あいだ、七、八月のころかならずかならず御目にかかり申すべく候。心安く候べく候。
つまり秀吉は、謝用梓、徐一貫の両使節を講和の交渉に来た者とはとらず、降伏を申し入れに来朝した使者と解釈したのだ。
(ともかくも外征は有利に終結しようとしている。おまけに茶々がみごもった!)
上機嫌にならなければどうかしている。
おりから五月雨《さみだれ》の季節に入っていたが、秀吉は日本晴れのにこにこ顔で使節一行を歓待し、みずから能を舞って見せるやら、茶会を開くやら、連日もてなした。
名護屋城は松浦の入江を見おろす小高い丘の上に築かれ、地取り、縄打ちのいっさいを加藤主計頭清正が受け持った。五層七階もの威容を誇る天守閣をはじめ、堅牢な楼《やぐら》、武器庫、兵糧庫、軒をつらねる諸将の陣屋など朝鮮出兵のための前線基地としてさかんに機能している半面、長陣に備えての諸設備もつぎつぎに建て増された。
お伽衆を集めて夜咄《よばなし》など聞くための書院、茶を点てる数寄屋、能を舞う舞台……。金春流の暮松《くれまつ》新九郎が下向して能の指導に当っていたし、茶は神谷宗湛ら博多の茶人らがお相手をつとめに来たが、ふっとそんなとき、秀吉はかえって利休を思う折りが多くなった。
大ぶりな茶碗にたっぷりと、少しぬるめに、湯の量にくらべれば茶杓の盛りを控えて、さらっと点てた茶を秀吉は好んだ。
しかしそれも、天候の照り曇り、咽喉のかわき具合、胃のもたれよう、その日の気分のよし悪《あ》しで微妙に変化する。濃く、苦いのをグイと干して眠む|け《ヽ》やむしゃくしゃを吹き払いたいときもあるし、うまい菓子など摘まみながら心のどかに喫したい日もある。
秀吉の、権力者特有の恣意ともいえる生理、精神の状況に応じて、達人の放つ矢よりも適確に、最高にうまい茶を点ててくれる者は千宗易──あの、利休のほかになかった。
茶だけにとどまらない。
行き詰まって相談すれば、へりくだった表現ながら、これもぴしっと的を射る小気味よさで、返ってきた打開策のかずかず……。
失ってみて、助言者としての利休の、いや何よりは茶頭としての利休の、真価の大きさを認識し直した秀吉なのだが、だれでもない、無二の、あるいは宝だったかもしれない男を、殺してしまったのは、
(この、わしだ)
と思うと、われながら我が所行にとまどって呆然とする。
(惜しかった)
悔やんでもあとの祭りだし、悔やみ顔を石田治部あたりに見られるのも嫌だった。
しかしまずい茶、打っても響かぬ受け答に焦ら立つたびに、利休を恋う思いが深くなるのをいかんともしがたい。
老母の大政所がまだ、存命のころ、名護屋の城から書いて送った書状の中でも、つい、うっかり、
[#2字下げ]返す返す、一段と息災。昨日利休の茶にて御膳もあがり、面白くめでたく候ままお心やすく候べく候。
と口述してしまい、筆記していた右筆に怪訝《けげん》な顔をされて、
「あ、いや、この世におりもせぬ利休に、茶を点てさせたというわけではない。利休坊主の流儀で飲んだ茶、と申すつもりであったのじゃ」
いささかうろたえ気味に、言いわけしたことさえある。
城中の空地には畑も作られていた。これは足軽小者らの退屈しのぎだが、六月、炎暑のさなかになると瓜畑の瓜がみごとにみのった。太い緑色の縞のある汁たっぷりな真桑瓜《まくわうり》だ。井戸で冷やして四ツ割にして、
「召し上りませぬか」
根来《ねごろ》の大盆に盛って京極局竜子が運んできたのへ、
「おッ、大きいの」
早速かぶりついて舌を鳴らしたあげく、
「いや、うまいのなんの、甘露《かんろ》とはこのことじゃな。そなたも食え」
秀吉は顔中、汁だらけにしてよろこんだ。小猿と呼ばれていた昔から瓜の盗み食いにたけていて、その味は天下人になった今なお、無二の好物の一つだったのである。
堪能するまで詰めこむと、
「そうじゃ、瓜売りの真似をして遊ぼうではないか」
はしゃぎ出した。
「明使どもにも来いといえ」
すぐさま畦道《あぜみち》に茶店がしつらえられ、床几には緋毛氈《ひもうせん》が敷きつめられた。
竜子と、彼女附きの腰元たちが茶屋女に扮して接待し、秀吉自身は柿色の帷子、頭に黒い紗《しや》の頭巾《ずきん》、菅笠《すげがさ》を背にくくりつけ籠をかたげて、
「瓜はいかがじゃの、味よしの瓜、召され候え」
畑の中をあちらへゆらり、こちらへゆらり、大声をあげながら触れ歩いた。寧々の甥の金吾秀秋、徳川家康までがこれは迎合のつもりか、同じく百姓に扮装して、
「買われよ、買われよ、二つで一文じゃ」
「こちらは漬け瓜、粕漬けの瓜にて候ぞ」
と呼んで廻り、見物の喝采を浴びた。
争ってみな、一文差し出し、瓜を買ってかじる。謝使節、徐使節もご愛嬌に竜子から文銭を借り、瓜を求めはしたものの不可解でたまらない。
仮装行列か、それとも園遊会のつもりか知らないけれども、悠長きわまる。いつまで足どめさせる気か。善美を尽した饗応の膳も、毎日食べていては飽き飽きする。茶会や能の催しなど珍しかったのは初回だけだった。なぜ、てきぱき和議の調印に入らぬのか。べんべんと日数を延ばしているのか。
瓜売りの次には旅僧と鉢叩きの高野聖《こうやひじり》が現れ、
「坊さまはお伽衆の織田信雄どの、鉢叩きは前田利家どのでござりますよ」
竜子に説明されても、内心ばかばかしくて明使たちは笑えもしない。
じつはこの日も舞台裏では、謝、徐両名と共に今回も使節団に加わった沈惟敬と、彼らを伴って釜山経由で帰国して来た小西行長との間に、苦肉の折衝がおこなわれていたのだ。
朝鮮半島を南北に分断し、南半分を日本が領有するだの、明国の皇女を我が皇室に入内させろだの、高麗国の王子、大臣を一名ずつ人質に差し出せ、同国の重臣一同からも、累代にわたって違反せぬむね誓紙を出させろなどといった秀吉の要求に、朝鮮も明もが応じるわけはない。両国は戦勝国のつもりでいる。
まずいことにしかし、秀吉もまた、互角の引き分け──というよりは、日本側が勝ったつもりでいるのだ。話合いが難航するのは当り前であった。
[#改ページ]
小今ガ淵
小西摂津守行長も、直接の交渉相手である沈惟敬が、明国の正規の官人でないことは承知していた。仮りに遊撃将軍なる曖昧な職名を与えられているけれども、元来、沈は民間人なのである。
「弁口の立つ男……。しかも押し出しが堂々として説得力もあるな」
と、兵部|尚書《しようしよ》の石星《せきせい》という官吏が惚れこみ、要路に推挙して和議の折衝に当らせたもので、素性も、じつは定かでない。浙江の産。つい先ごろまで市井の無頼《ぶらい》とまじわって、いっぱし顔をきかせてさえいたといういかがわしい閲歴の持ちぬしだった。
中国では、しかし昔から官に仕えず、諸国を巡歴して藩侯の食客となり、時局について献策したり天下の趨勢《すうせい》を論じたりする遊説の士≠ネる一群があった。
戦国乱世の日本では、僧侶がその立場の自由さから起用されて諸将の間を周旋し、和睦の使者を勤めるなど目に立つほどの働きをしている。さしずめ沈惟敬も、明朝の信任をかちえた遊説士のたぐいなのであろうと小西は理解し、閣下の尊称で呼ぶなど、それなりの敬意を払っていた。
「そもそも閣下、輳奏《そうそう》を以て天使を日本に遣わし、和親の験をなし給わらば、臣らの幸い、これより大なるはなし」
文書にも言動にも、つねにこのような慇懃《いんぎん》さを失わずにきたから、沈の側が、秀吉の望みは和を講じ勘合貿易を復活して、かつての足利将軍家同様、日本国王に封じられることだと解釈したとしても、かくべつ不遜とはいえなかった。
だから名護屋へやって来て、朝鮮南部の割譲だの王子を人質に寄こせだの、明の皇女を入内させろなどという秀吉の要求の実態を知ったとたん、沈は目を剥いて叫んだ。
「そんなばかげた約定を、朝鮮王室も明の朝廷もが呑むと思っているのか太閤は……」
はじめてはっきり、彼我の状況判断の食い違いを認識し、仰天したわけだが、そこは生えぬきの廷臣でないだけに、やたら腹を立てて秀吉の傲慢を責めるような狭量さは示さなかった。
小西と沈は条項の訳語を、双方が満足し得る線まで歩み寄って解釈するという融通性を発揮した。おたがいに暗黙の妥協をし合うことで、曲りなりにも講和を成立させようと腐心したのである。
豊臣秀吉なる権力者の精神状態が、生まれつき、はなはだしく均衡を欠いている事実を沈は小西の打ちあけ話から掴んでいた。喜怒の表出が極端だし、熱しやすく冷めやすい。老化の進行とともにその傾向に拍車がかかって、いったん激発すると理非の判断を失ってしまう。
「抑えがきかなくなるのですな」
暗い口ぶりで小西が語った最近の例証に、船頭の成敗事件というのがあった。
「太閤殿下の母公を尊んで、大政所と申しましたが、このかたが危篤に陥ったとの報せを受けて、名護屋のご陣中より急遽、都へ帰りのぼられたときのことです」
豊前の小倉を出てまもなく、どうした櫓櫂《ろかい》のあやまりか秀吉の乗船が岩場に乗り上げ、舳を大きく割り損じた。坐礁である。あっというまに浸水し、みるみる沈没しかけたので、供の者はあわてて秀吉を助けようとしたが、とっさのことなので手段を思いつかない。うろうろする間に衣服をかなぐり捨て、佩刀だけを手にして秀吉は岩礁に飛び移った。身軽さは、六十に近い現在も猿と仇名された往時と変らない。
「おりよくこの珍事を、毛利宰相どのの軍船が見ていました。いそいで漕ぎ寄せ、太閤を岩場から陸地へおつれしたのでしたが、えらく憤られましてな、すぐさま船頭をご穿鑿《せんさく》の上、詫びも取りなしも聞かばこそ、お手ずから首を刎ねられたのです」
「やれ、きのどくに……。なんという名の男ですか」
「播州明石の、与次郎と申す老船頭で、太閤さまの御座船の采配をもっぱら振っておった手練《てだれ》でした。運の尽きる時というのは、しかし致し方のないものですな。これまでの忠勤も無になり、あたら一命を失いました。仲間の船頭が哀れがって、お船を乗りかけた岩の上に供養の石塔を建ててやったとかで、だれともなくいつのまにか、与次郎塔と呼びはじめ、沖を往来する船どもの目じるしになりだしているということです」
母堂はけっく死去した。しかしいま、寵愛する側室が懐胎し、世嗣ぎの出生に望みが持てはじめてきたことから、秀吉の機嫌はいつになくよい、という。
沈や小西ら事にたずさわる者たちが、上手に工作しさえすれば、面倒なごたつきなど起こさずに和睦の調印に持ってゆけそうな気配である。
沈は、でも知っている。覇者の非情さ、残忍さを……。食うか食われるかの乱世を寸刻の油断もなくのし上って、天下の権を掌握した男たちに共通して見られる怕さである。沈の祖国の歴史にも同じような例は少なくない。生まれながら体内に持つ血に餓えた豺狼《さいろう》さながらな性格が、覇者をつくるのか、それとも卑賤から身を起こし、覇者となってゆく過程で冷酷無情な性格が後天的につくりあげられるのか、沈にはどちらとも判じかねる。
いずれにせよ、秀吉の上機嫌なるものが、たとえ寵姫が世子を生んだところで、
(いつまで持続するかわかるものか)
というのが沈の推測だった。明の朝廷へは、したがって秀吉の側から貢物を献じ和を求め、日本国王に封ぜられんことを乞うているかのように報じるなど、詐謀を弄してまで講和の締結を急いだ。
むろん小西行長も、沈の考えを黙許していた。
「明へ使者を派遣し、秀吉の降表を持参させることが打開への急務です」
と言われれば沈と内密に評議し、降表の仮作も拒まなかった。秀吉が示した七カ条の高姿勢な条件などひそかに握りつぶして、腹心の家臣内藤|如安《じよあん》を京城から|じか《ヽヽ》に明国へ旅立たせ、降表を受納してくれるよう働きかけるなど、ひたすら合戦の終熄めざして努力しつづけていたのである。
──国内では、そんな内実など夢にも知らない秀吉が、瓜売りの真似をして興じたあと、ついに待望の吉報を手にして躍り上っていた。茶々ご寮人が、大坂城の二ノ丸で、またもや健やかな男児を安産したとのしらせが急使の早馬によってもたらされたのであった。
正妻の寧々からも、当の茶々からも追いかけてくわしい書状が届き、秀吉は歓喜してそのどちらもへ懇切な返書をしたためた。
「赤児は『拾《ひろい》』と名づけよ。お拾さまなどと呼んではならぬ。天下人の一人子じゃ。栄耀《えよう》栄華は望みのまま……。末の仕合せを約束されて生まれた子ゆえ、鶴松の二の舞いにならぬよう念には念を入れてほしいぞ」
運命の神は嫉み深い。この子は秀吉の子ではない、そこらの下民の、しかも棄て子にすぎないのだからどうか憎んでくれるなとの、願いをこめて、わざといったんは路傍に置き棄てよ、と指示したあげく、
「棄て児はつつがなく、丈夫に育つと世俗にも言うであろう。鶴松のときもそうしたのに、あえなく夭折してしまった。棄《すて》と名付けたのが悪かったのじゃ。このたびはあべこべに『拾』と命名して凶運を躱《かわ》せ」
くどくど書き添えてくる執着ぶりだ。
わしが愛してやまぬのは、今なお亡くなった鶴松のみ……。次の子が、たとえ生まれても、わしの子とは思いたくない、茶々ひとりの子として育てればよいなどと、突き放したような言い方をしたことを、いつのまにか秀吉はけろりと忘れはててしまった顔つきであった。
領土的野心のほかに、鶴松との死別の悲しみを忘れたいとの思いも、なかばは占めていたからこそ始めた朝鮮出兵である。
拾の誕生によって胸にあいた空洞が埋まると、もともと確固とした目算も大義名分もなかった侵略戦争を、これ以上つづける意欲は、秀吉の中から急速に薄れてしまった。
「後嗣《あとつ》ぎのお子が生まれれば、唐御陣などしぜん、ご中止となるにちがいない」
一般のこの予想は、的を射ていたといえよう。
明使の渡来、日本使の明国派遣など和平交渉が議せられているあいだも、その交渉を有利に展開させようとの目的から在朝鮮の日本軍を督戦して、秀吉は晋州城の攻略はじめ各地で戦闘を続行させていた。
根っからのいくさ好き、武人気質の塊りみたいな加藤|主計頭《かずえのかみ》清正など、
「和を講じて何になる。乗りかかった船ならば、どこまでも力ずくで押しまくるべきではないか」
虎髭《とらひげ》を逆立てて息巻き、
「軟弱きわまる」
小西外交を非難していた急先鋒だから、晋州城の攻撃には宇喜多勢、毛利勢らと一手になって取り組み、これを陥落させたあとは沿岸の要地をつぎつぎに攻めて城のない所には新たに築城するなど行動はだれよりも積極的だった。
清正ら現地の武将らのこうした動きを、秀吉が制止するどころか、むしろ督励したのは、彼は彼で飽くまで朝鮮の南半分を割譲させる肚《はら》づもりで、
「領有したさいの足場づくりを、いまからしておいても、けっして無駄にはなるまい」
と判断したからにほかならない。
だが拾の出生は、将士百万の生き死、国の存亡にかかわる一大事への関心に増して、強烈、新鮮な興味を秀吉の心中に掻き立てた。合戦も講和も、正直、二の次になってしまった。よろこびはそれほど深く、大きかったのだ。
拾が生まれて十日後には、はやくも朝鮮から諸軍勢を引き揚げるべく、
「船の手配をさせよ」
秀吉は命じているし、その翌々日には名護屋を発ち、飛び立つ鳥のせわしなさで大坂へ帰ってきている。
二ノ丸の、母子の部屋に駆け込むやいなや両手を子供の寝顔に差し出して、
「おう、拾か。これが拾じゃな」
顔中を秀吉はくしゃくしゃな泣き笑いの渦にした。
抱きあげたい、力いっぱい抱きしめたい、ごしごしと存分に頬ずりし、小さなその口を吸ってみたい、が、こわくて何もできなかった。淀どのは二十七、秀吉自身は今年、五十七──。まだまだ二人ながら子供づくりは可能といえるものの、一方に、
(もはや、無理)
とのささやきも、己れの内部から聞こえなくはない。虎の胆を戦地から送らせて食べ試みるなど苦心惨憺しつつ保持に努めている体力精力であることは、当の秀吉がだれよりも知っていた。
(血を分けた我が子……)
それを持てるのも、この子で最後かと思うと、こわれやすい真珠に対するように抱くのさえ恐ろしい気がする。
さも可笑《おか》しそうに茶々は秀吉の怯えを見ている。鶴松のときもそうだったが、産後の熟れに輝いて、華やかな笑顔がまぶしいほどだ。盛装しているせいもある。
「美しいなあ茶々」
子を見、若い母親を見る秀吉の目は、とろけそうになった。
「加減がようないなどと申して、名護屋の城にわしを一人置きすてて去《い》におったのが五月はじめ……。わずか三月《みつき》の別れじゃったが、また一段と女ぶりが上ったぞ」
化粧の料の品のよい薫りに、甘い乳の香がほのかに混り合って、母と赤児の居間にふさわしい温かな匂いを漂わせているのさえ、秀吉には涙ぐまれる。
(鶴のときとそっくりではないか)
拾が鶴松の生まれ代りに思えてならない。ただ一つ違うのは、秀吉と茶々の決意だ。
「こんどこそ、無事に育てあげようなあ茶々」
「仰せまでもありませぬ。石にかじりついてもこの和子をすこやかに成人させようと、わたくし、諸天に誓いました」
「よう申した。拾には鶴松の轍を断じて踏ませまい。見ればくりくりとよう肥えて、いかにも丈夫そうな子ではないか」
「はい」
秀吉が臆して手すら出しかねている赤児を、茶々はいともやすやすと抱き上げ、
「鶴のときよりもずっと重うございます」
自信ありげにうなずいた。
「産も二度目のせいか軽くすみましたし、産声の元気のよさ……。あたりに響き渡るほどでござりました」
「そうかそうか」
身体つきも大きく、鶴松のような|ひ《ヽ》弱さは感じられない。伺候していた医師や乳母、片脇にはべる老女たちにまで、
「このお子ならばわたくしどもも安心してお育てできます」
千年万年のご寿命と祝われて、秀吉の笑い皺はいっそう数を増した。
「ご帰還」
と知れ渡ると同時に、諸卿諸大名が引きも切らず祝辞を述べにやってくる。在陣中の武将らは留守を守る家臣を名代として差し向け、これも揃って賀詞を寄せてきた。
拾はよく泣き、旺盛に乳を飲む。乳母の助けが必要ないほど茶々の乳房からは乳がほとばしり、与えなければ張って痛んで、夜の安眠を妨げた。白絖《しろぬめ》のように底光るなめらかな母の胸を、赤児が小さな手で押し鼻|づら《ヽヽ》で押して、汗びっしょりになりながら乳をむさぼり飲む姿は、けなげの一語に尽きる。
「そうじゃ、その調子その調子」
|ひと《ヽヽ》吸い|ひと《ヽヽ》吸いが血肉となるのだと思うと、見ている秀吉もつい、我れを忘れて一心不乱になった。握りしめている両のこぶしが、知らぬまに赤児の額に劣らず汗に濡れていたりする。
「まるで角力《すもう》の声援でもなさっているようですこと」
茶々が笑い侍女たちも笑って、大坂城二ノ丸のこの一劃にいるかぎり硝煙とも流血ともまったく縁がなかった。
朝鮮役は、忘れ去られたわけではないまでも、すっかり秀吉の念頭から押しやられ、講和の全権は小西らに全面的にゆだねられて、前線の兵火は|と《ヽ》絶えてしまった。事実上の休戦状態に入ったのである。
京極家のお初が姉の世話を焼きにきているのも鶴松のときと同じだったし、末妹のお督は出もどって以来、これも茶々のそばを離れなかった。姉が淀にいたときは彼女も淀城に身を寄せ、大坂へ移れば一緒に大坂に移り住んで、出産も茶々に見守られながらどうやら済ませた。
童名《わらわな》を小完《こみつ》と附けられた女児は、もう這い歩きしはじめ、母親似のととのった目鼻だちに育っている。かむろに切り揃えたつややかな髪を、はらりと白い額に散らし、首をかしげて見あげる目つきの、愛らしさ、あどけなさ……。人形が生きて動き出しでもしたような印象は美しすぎて妖しくさえあった。
お督に抱かれて初お目見得のためつれてこられたとき、
「秀勝の形見か? この姫が……」
秀吉も絶句して、しばらくみとれてしまった。
「縹緻よしじゃのうお督、そなたにそっくりではないか。小吉めに似て生まれたら片方の目が損じておったかもしれぬところじゃ。桑原桑原」
そんな冗談を言い、なにがしかの化粧田を小完にくれたが、この対面が誘い水になったのだろう、
(さて、どうしたものか)
継嗣問題の先行きを思案して、ふとすると考え込む日が多くなった。
伏見城はまだ半造りにも達していない。秀吉はここへきてにわかに普請をせかせはじめ、ともかくも住めば住めるだけの仮り屋敷を強引に城内の一郭に建てさせて、書院で茶事を催した。招かれたのは徳川家康、前田利家、蒲生氏郷ら元老格の諸大名である。
席上、秀吉の口から何が諮られ、家康や利家がそれについて、どのような意見を述べたか、外部からはうかがい知るべくもなかったが、まもなく聚楽第に使者がとび、秀次が呼ばれた。
「そのほう、子はいま、幾たり持っておるな?」
「は」
秀次は目を伏せた。氷を押し当てられでもしたように、背筋に悪寒《おかん》が走った。叔父の語調の冷ややかさから、
(来た。いよいよ来たな)
否応なく、覚悟めいた思いを抱かされたのである。
「ただいまのところ、男児二人、女児をひとり……」
「む。長男は目通りに出たことがあった。たしか於仙《おせん》とかいう名であったな」
「仙千代丸。当年とって六歳に相なります」
「女の子は何という?」
「亀と申します」
「母は?」
「小浜の某寺の坊官の娘にて、実名お辰。中納言局と呼び馴れて、そば近く召し使っていた女でござります」
「お袋と子の年は?」
「亀は数え年二歳、母親は……」
言いさして秀次は赧《あか》くなった。彼は二十六。中納言局は三十一──。五歳年長の姉女房だとは、まさか口にしづらくて、
「幾歳か、年はぞんじませぬ」
言い逃がれた。
「知っての通り二ノ丸が男児を生んだ。かけ替えのないわしの嫡男……。そこでそなたに相談がある。どうであろう、拾の嫁に亀姫とやらをくれぬか?」
「はい」
秀次は頭をさげた。相談とは言い条、実際はのっぴきならぬ厳命であった。拒むことはできない。
「ありがたくお受けつかまつります」
くぐもり声で秀次は応じたが、仙千代丸、於百丸ら息子たちの前途が、
(これで閉ざされた)
との実感の前に、さすがに気持は重く塞ってしまった。甥の表情の、どのような微細な動きをも見のがすまいとするかのように、秀吉は視線に力をこめている。昔から鋭いことで定評ある眼光は、刺すような輝きを帯び、猛禽の凝視に似て対する者を射竦《いすく》めずにはおかない。こんなときの秀吉の目を、まともに仰ぎ見る胆力はだれにもなかった。
「不服そうじゃな」
言い当てられた狼狽を隠さなければならぬと焦って、
「い、いえ、滅相もない」
秀次の受け答えはしどろもどろになった。
「お拾さまに貰っていただくなど、む、娘にとってこの上ない栄誉でござります」
言いながらも、その言葉の滑稽さに秀次はいっそうあわてた。首もまだ、ろくに坐らぬ生まれたての赤ン坊と、よちよち歩きがやっとの幼女の婚約──。
(娘もやはり、姉女房になるわけか)
栄誉などと阿諛《あゆ》してのけた。馬鹿な、なにが栄誉か。亀姫の父のこのおれとて、関白・左大臣の印綬《いんじゆ》を帯する者。太閤の小伜に娘をやるのに、へいつくばらねばならぬ理由がどこにある、と内心、大声で喚き出したい衝動にすら突き上げられた。
でも、一方に、
(その関白にはだれのおかげでなれたのか。尾張中村在の百姓で終るのが定であったおのれごとき菲才を、左大臣の顕位にまで押し上げた力は、だれにあったのか?)
耳の底でささやく声も絶えず聞こえる。父の声であり母親|とも《ヽヽ》の声のようでもある。いや、だれよりは秀次の胸の奥の奥にひそむ彼みずからの、それは本音といってもよいものだった。
この声に秀次は弱く、この声が耳朶《じだ》に鳴るかぎり叔父の前に卑屈にならざるをえない。圧迫感をはねのけたくて、彼も彼なりの努力はしてきた。借り物ではなく、叔父からの|おこぼれ《ヽヽヽヽ》でもない自力の権威……。その蓄積の上に立って、諸将にも公卿たちにも関白相応の尊敬をされたいと願い、学問や武技に精出しているつもりだが、思うようにはなかなかいかない。内面の充実がともなわないうちに、秀吉の飛躍に引きずられて位階官職があがってしまい、気がついたら秀次は、二十代の弱冠で関白・左大臣などという途方《とほう》もない地位に昇りつめていたのだ。
嫉視、反感も加わって、そうなるとますます世間の風当りは強くなる。
(ふん、叔父御の七光り……。太閤の操り土偶《にんぎよう》のくせにえばった口をきくなよ)
まともな発言までが、まともには評価されず、むしろ悪口の種になることが多かった。
「一度お袋ぐるみ、亀姫とやらをつれてきて見せい」
そう言われて、秀次はすすまぬ気持を無理に励まし、中納言局に幼女を抱かせて秀吉の目通りに出した。正室のほかは、どこまでも侍婢扱いにして、これまで秀次の側妾たちを無視しつづけてきた秀吉である。いや、正室の菊亭家の息女にさえ、その連れ子の娘までが秀次の閨の花になったと知って以来、不快をつのらせて、
「汚らわしい女ども、見たくだもないわ」
対面を許そうとはしなかったのだ。
拾の婚約者ともなれば、しかし知らぬ顔はできない。どのような母娘《おやこ》か検分する必要も感じてつれてこさせたのだが、
「たいとうたま、ごちげんおろちゅう」
前夜、乳母たちにでも教え込まれたにちがいない、小さな両手をつかえ、回らぬ片コトで挨拶する亀姫の可憐さにひとたまりもなく魅せられたらしく、
「なんじゃ、『太閤さま、ご機嫌よろしゅう』と申すか。うわはははは、巧者な子よの」
咽喉ぼとけが|まる《ヽヽ》見えになるほど大口あいて笑み崩れた。盛りを過ぎた姥桜《うばざくら》とはいえ中納言局は肉置《ししお》きゆたかな、大柄な美人である。
「子も可愛いが、お袋さまの色香もこぼるるばかりじゃの」
ぶしつけな目で舐《な》めるように見られても、三十女の貫禄か、臆した色もなく、
「お口がお上手でいらっしゃいますこと」
局ははぐらかして、にっこり笑う。
秀次は気が気でない。叔父の女好き、手の早さには定評がある。つぎは何と言い出すか内心はらはらしながら聞き耳を立てていたが、息子の許婚者の母親に戯れかかりなどしたら、秀次の行状を咎めだてできなくなると、さすがに自省したのだろう、
「そなた能は好きか?」
好きならば一番、舞って見せてやろうと秀吉は目尻をさげるだけにとどめた。馳走のつもりであった。
「まあ、うれしい。上さまのお能は玄人《くろうと》はだしとやら……。何を演じてくださいますの?」
と、局の言い回しはどこまでも|そつ《ヽヽ》がない。
「新作の『明智討ち』じゃよ。面白いぞ。さあさあ、みんな見所《けんしよ》に集まれ」
大声にびっくりして、抱きあげた父の首筋へ亀姫はかじりつく。幼女の手の、柔らかな感触をいとしみながらも、秀次の心情は複雑だった。
茶の湯についで秀吉が近ごろ、
「淫している」
と評してよいほど夢中なのが能である。
役者どもが演じるのを、見るだけでは満足できなくなって、自身、謡い出し、舞い出したが、謡いにしろ仕舞にしろ、習い事の中ではむずかしいものの随一だ。
まして能を演じるとなるとこれはもう、一朝一夕では埒があかない。多忙な日常の合間を縫って即席に上達しようとしても無理なのに、その無理を秀吉は、性急に押し通そうとする。教える師匠こそ、
「さぞ、迷惑であろう」
と、だれもが同情しているのに、呉松《くれまつ》新九郎、金春八郎、どちらもけろりとした顔で、
「ま、上つがたのお稽古などというものは、おおむね、そんなものですよ」
笑う。
「太閤さまなど、ましなほうです。間拍子をはずそうが手を忘れようが、一向平気で演じ切ってしまわれる。大らかで結構ですな」
「筋がよいということですか?」
「いや、筋をうんぬんしたところで、お素人の場合はじまらない。しょせんは遊びですからな。はははは」
つまりは下手の横好き……。おめず臆せず大声はりあげるだけが取り柄ということらしい。
主君の信長は、相撲《すもう》を好んだ。安土城内にも土俵を造らせ、何かというと武将たちを裸にして、取り組ませたものだし、芸能では幸若舞を愛した。足利将軍家に密着してきた能とちがって、幸若は民間の、それも地方から起こった歌舞である。素朴だし、野趣がある。剛毅な信長は、そのへんを魅力と感じたのだろう、ほろ酔い機嫌での|ひと指《ヽヽさ》しというときまって、
※[#歌記号]人間五十年
下天《げてん》のうちをくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を得て
滅せぬもののあるべきか
お気に入りの『敦盛《あつもり》』を舞った。
そこへゆくと秀吉は一にも二にも能だった。幸若の太夫を招く日もあるけれど、やはり三日にあげず見るのは観世、宝生、金春、金剛の諸座──。どの流儀にもまんべんなく目をかけたが、ことに金春を贔屓《ひいき》して援助を惜しまなかった。
信長と比較して趣味が高尚、というのではない。足利将軍家が消滅した今になると、もはや能も幸若と大差なくなっていた。大衆化が急速に進み、世阿弥出現以前の状況にもどって、気楽に庶民たちが演じ楽しむいわゆる町衆|手猿楽《てさるがく》の勃興期に入っていたのである。
洛中を歩くと、たいてい毎日、町すじのどこかで素人能の囃子《はやし》が聞こえてくる。子供の演じる稚児《ちご》能、女たちだけでやる女房能、禁令以前にはキリシタン宗徒らがゼス・キリストの降誕やら十字架にかけられての昇天やらを劇に仕組み、布教目的を兼ねて見物を集めるキリシタン能まであって、活気はなかなかのものだった。
もともと庶民層の出だけに辻能、手猿楽の流行は秀吉の嗜好にぴったりした。そのくせ能は、質的には高度だし洗練されているから、他の猥雑な民間芸能など、追随を許さぬだけの品位を保ちつづけている。貴族がもてあそんで恥ずかしいどころか、身の飾りになり、茶に劣らぬ社交上の潤滑油ともなった。
謡いを数十番あげ、ぜんまい仕掛けの人形さながらぎくしゃくした足運びではあっても、ともあれ仕舞までを相当数、習いおぼえると、素人の熱中が行きつくところは必ずきまっている。
「能が舞いたい」
と言い出し、女物も修羅物も区別のない武張り方で、肩ひじ怒らした能を、これも十数番、やみくもに秀吉は消化したあげく、次はお伽衆の大村|由己《ゆうこ》を呼んで、
「ものは相談じゃがの」
切り出した。
「そのほう能を作ってみぬか」
「新作を、このわたくしめが書きますので?」
「おうよ」
「そりゃ、ちと怕もの……。どう仕組んでよろしいやら見当がつきかねますな」
「わけはあるまい。種さえあれば……」
「種? たとえばどのような?」
「このおれを、シテにして作るのよ。天正記を著わしたそのほうならば、やれぬことはなかろうが……」
由己は右筆《ゆうひつ》も兼ねている。『天正記』は秀吉の口述をもとにして彼が書いた太閤殿下のご一代記であった。
「なるほど、上さまの生い立ちをお能に仕立てて……」
「いやいや、わしの半生のうちの、|さわり《ヽヽヽ》とも申してよい華やかな出来ごとを能にするのじゃ。明智を滅ぼした山崎合戦な? それから柴田勝家を相手の賤ガ嶽、小田原の北条攻め……」
「つまり切り組みを見せ場に据えた四番目物、直面《ひためん》物ですな」
「そういうことよ」
「それなら書けぬこともござりますまい。演じる役者は?」
「この、わしじゃわ」
「え? 上さまご自身を、上さまが!?」
「だれにやらせるよりも、一番たしかだし、はまり役でもあろうが……」
「ごもっともで……」
うなずきはしたものの由己は内心、あいた口がふさがらなかった。
生きている当人を劇中の人物に仕立てるのさえ、あるまじき例なのに、その人物を当人みずから演じるなど空前絶後の珍事である。勝ちいくさにばかり材を取っているのだから、立ち回りの切り組みとなったさい、シテ役の秀吉が、明智や柴田などワキの扮する敵将を斬って捨てるのであろうけれど、
(直面のまま、よう照れもせずにおのれでおのれが演じられることよ)
呆れ返って、まじまじと顔をみつめてしまった。仮面を付けず、素《す》の顔をさらして演じるのを直面という。能組の四番目に据えられる現在物に、この形式が多い。
秀吉はしかし、臆面ない口ぶりで、
「よいか由己、すぐ取りかかれ」
押してくる。
「はあ、かしこまりました」
拒むことはできない。うんざりしながらも引き受けざるを得ないのは、由己がいわば、秀吉の宣伝係りだからである。
元来が大坂|中嶋《なかのしま》の、天満宮の神官で、外典《げてん》第一と評判された博識であった。学力を買われて秀吉の側近に召し出され、右筆の筆頭を勤めながら、由己が著わした『天正記』……。これも一応は誕生から説き起こし、秀吉の覇業の足跡を追った伝記ではあるけれども、例の皇胤説を採用するなど、作為のつよい宣伝文書のたぐいと言える。
明智攻めや柴田との合戦、小田原攻略を能に仕組むとなれば、やはり同様、けっくは宣伝というわけで、由己の立場からすれば、
(仕事じゃ。仕事……)
割り切るほかないのだ。
気が重いのは、いやというほど『天正記』を書いたさい、あちこちに駄目押しが出たからで、おそらく新作能の詞章も秀吉の気に入るまでには、
(何度となく手を入れさせられ、書き直させられることだろう)
と思うと、筆をとる前から意欲が削げる。
秀吉ぐらい自己宣伝に熱心な人物は、他にないのではないかと由己あたり、これまでにもしばしば苦笑を噛み殺していたけれど、自分を主役にして能を作らせ、自演するに至っては、熱意もきわまれりというほかない。
そこでまず、『明智討ち』の一番を書きおろし、おそるおそる見せると、詞章の中でさんざんシテを持ち上げ、仕どころを多くするなど花を持たせたせいか、秀吉はすんなり得心して、さっそく金春太夫に節と型を付けさせた。
稽吉はもっぱら名護屋在陣中におこなわれたが、そのあいだにさらに由己は『柴田』を書き『北条』を作った。
諸将もお相伴を命ぜられ、シテヅレの役を習わされた。劇中の人物を当の本人が勤めたり、親しい友人が勤めるというのも前代未聞の配役である。『北条』にむりやり登場させられ、家康役を演じなければならなくなった徳川家康など、近ごろ|とみ《ヽヽ》に肥りはじめたせいかいっそうずんぐりと見える短躯をさらにちぢめて、いかにも恥ずかしそうに橋掛に現れる。秀吉役の秀吉と並んでの連吟《れんぎん》も、口の中でモソモソ唸るだけだからやたらカン高いシテの声と、合うはずはない。
見物は吹き出したいのをこらえるのに四苦八苦する。とても褒め上げるどころではないのに、
「喝采せねばいかん」
秀吉は図々しくも要求し、お手打ち衆なるゴマすり集団を結成させた。公認の八百長であり世間周知のサクラである。
見せ場にくるとこのお手打ち衆が、
「やんや、やんや」
いっせいに手を叩き、
「太閤さま、日本一の手練《てだれ》じゃ」
「寿命が延びまする。眼福眼福」
褒めそやす手はずになっているのだ。
秀次の愛妾中納言局お辰の、人をそらさぬ愛想のよさ、口つきの|そつ《ヽヽ》のなさが意にかなったのだろう、最高のもてなしのつもりで、
「能を見せてやる。見所へこい」
秀吉が誘ったときも、地謡《じうたい》や囃子方だけでなく手打ち衆にもすぐさま動員がかけられたらしい。賑やかに彼らが集まって来、お定まりのやんややんやを連発しはじめたのに調子を合わせて、秀次も表づらは感嘆を装いながら手を叩きはしたものの、心中ばかばかしくてならなかった。
だいぶ稽古を積んだせいか、この日の『明智討ち』は、さしてとんちんかんな出来ではなかったし、ワキやワキヅレはもちろん、シテヅレまですべて玄人の能役者が勤めたおかげでその演技力にも助けられ、大過なく秀吉は舞い終ったが、それにしろ小柄な身体に厚織りの装束《しようぞく》は嵩ばりすぎ、ちょこちょこ走りの仕草まで加わってやはり見よいとは、お世辞にも言えない舞台であった。
中納言局が、でも懸命に、興ありげな顔をとりつくろい、
「ほら、ごらん、お上手でしょ太閤さまは……。手を叩くのよ亀も……」
退屈して、ともするとむずかりかける幼女をなだめすかしながら秀吉の熱演に、彼女なりに応えようとしている姿が秀次には痛々しく、けなげに思えてならない。
阿諛《あゆ》も追従《ついしよう》も、つまるところは夫の安泰、子の行く末の仕合せを念じればこそである。
(すまぬ)
と、人目さえなければ、亀姫もろとも中納言局を、秀次は思いきり抱きしめてやりたかった。
自分の手柄話を自分で演じ、喝采係りまでを任命して自身の舞台を褒めそやさせる……。一見、無邪気な、子供っぽい顕示欲にすぎないようではあるけれど、秀次には無邪気などとは受け取れない。むしろ怕い。秀吉の心理の核をなすものは絶対君主の自信ではないか。自分こそが天であり真理であり、国家そのものだとする考え方が、いまや秀吉の場合、あらゆる行動の基軸となってしまったのだ。巨大な権力、しかも無制限な権力が、
「このわしの一身に附与され、体現されている」
と自負するところから生ずる盲目状態ともいえよう。平清盛は、西空に没しかける太陽を、扇をあげて招き返そうとしたという。同じ心理である。落日を引きもどすことすら、おのれの権威をもってすれば、
「できる!」
と思いこむ覇者気質の恐ろしさ……。
外に、それが向くと、他国へのやみくもな侵略戦争となり、能のような他愛ない遊び事に向けば、自己中心の自画自讃となる。根は一つなのだ。
(もし、それが、このおれに向けられたら……)
どうなるか?
秀次は怯えずにいられない。お拾が生まれたことで、いつ爆発するかわからぬ危険な地雷を秀次は抱えこまされた結果になった。そしてその導火線は、絶対君主である叔父の、老いてますます激しさを増しはじめた感情の振幅に繋がれている。
(一触、即発……)
物騒な、そんな言葉がチラチラし出すと、もてなしの酒肴も咽喉をなめらかには通りにくい。
「いかがでござりますな関白さま、一向にお盃を手に取られぬが、お流れをひとつ、頂戴させてくださりませぬかな」
これも文筆の立つことで織田信長に召し出され、秀吉の天下となってからも引きつづきその側近に仕えて重宝がられている太田|牛一《ぎゆういち》という老人が目通りに出て、
「明智討ち、由己苦心の作だけによう出来ておりますじゃろ。太閤殿下もめきめき舞の手を上げられたが、いずれ四座の太夫どもを尻目に、豊臣流なる一座を開かれるおつもりでがなござろうかの」
屈託なげな歯抜け声で笑うのにさえ、相槌を打つ気になれない。お能拝見など中途で切り上げて、できれば妻子もろとも聚楽第へ逃げ帰ってしまいたいほどの苛立たしさにつきあげられた。
でも、じっと耐えて秀次は見所に坐りつづけ、手打ち衆らの拍手に合わせてうつろに手を叩きつづけた。
この年──文禄二年の冬から翌三年にかかる一年余の歳月は、しかし薄氷を踏むに似た不安と絶えず背中合せであったとはいえ、秀次のぐるりを、ともあれ穏やかにめぐりながら過ぎていった。
秀吉も、拾と亀姫の婚約を成立させたことでひとまず気持が落ちついたのか、朝鮮役のあと始末すら忘れた顔で諸侯の屋敷を訪ねたり、湯治や遊山《ゆさん》に出かけたりしはじめた。
中でも人目を驚かせたのは、秀次と共同主催の形でおこなった吉野山での花見である。
「ことしはことに花の付きがよく、色も冴え冴えと見受けられます。ここ十日ほどが見ごろの中の見ごろ……。ご賞翫にお越しあそばしませぬか」
私邸へ遊びに行ったさい侍医の施薬院全宗にすすめられ、また吉野|吉水院《きつすいいん》の僧徒らからも誘いの花便りが届いたため、
「では、行ってみようかな」
秀吉は腰をあげたのだが、
「同道めされぬか?」
菊亭、中山、飛鳥井ら公卿たちにまで声をかけたのを、秀次は虚心には受け止められなかった。中山権大納言らはまだいい。秀次が気になるのは、右大臣菊亭晴季に対する秀吉の感情だった。
晴季は言うまでもなく、秀次の正室の父親である。息女は秀次とは再婚だが、先夫の某親王との間に生んだ女児を、連れ子にして嫁入って来た。
実夫とのゆかりから「宮御前」の通称で呼ばれていたこの女児が、見とれるばかりな美少女なのに、
(よくないことだ)
猛省しつつも、つい秀次は迷ってしまった。妻の連れ子なら、秀次にとっても義理の娘にちがいない。道ならぬ関りなど持つべき相手ではないと抑えれば抑えるほど心猿は狂って、とうとうしたたかに酒に酔ったある宵、理性の垣を踏み越えてしまったのである。
宮御前はこのとき、まだ十三にすぎなかった。特に異例といえるほど早い婚姻ではないけれども、結ばれた相手が義父では正常な輿入れとはほど遠い。
ひた隠しに秀次は隠した。この種の噂はしかし洩れやすい。秀吉の知るところとなり、その激怒を買って、秀次の首尾は一時、さんざんな有様となった。
「畜生同然な女ども。見る目の汚れじゃ」
憎んで、母と子にも対面を許さずにいる秀吉が、彼女らの父であり祖父にも当る菊亭晴季を花見になど誘って、はたしてどのような顔を見せるつもりか。
もっとも晴季個人にかぎっていえば、彼は過去に、秀吉に貸しを作っていた。氏素性≠ノ箔《はく》をつけたくてたまらない秀吉のために、右大臣の職権を利用して晴季は百方、奔走し、これを近衛|前久《さきひさ》の猶子とすることに成功したのだ。
近衛といえば、藤原摂関家の錚々《そうそう》たる一員──。前久自身、太政大臣の要職にある公家《こうけ》の筆頭である。
もっとも乱麻の世のご多分に洩れず、前久は上杉謙信に招かれて関東|公方《くぼう》の職に就くべく東国に下向したり、事成らずして帰洛してからも足利将軍義昭との確執がもとで摂津、丹波方面を流浪するなど去就が定まらなかった。徳川家康を頼って浜松へおもむいたこともある。
腐っても鯛……。秀吉にすれば、でも摂関家の猶子となって藤原姓を冒せるなど、夢のような話だ。彼はとびついた。菊亭晴季の働きに感謝し、羽柴姓をさっそく藤原に改めて、
(やれやれこれで、天皇の落胤と言い触らしても、いささかはつじつまが合うというものじゃ)
ひと安心したわけだけれども、近衛前久は天文五年の生まれ……。秀吉とは一歳しか年齢に開きがない。いくら仮のものとはいえ、父と息子の年の差が一つというのは異なものだし、水呑み百姓の出が、
「藤原朝臣秀吉」
と名乗るのも、何やら尻こそばゆく、落ちつかぬ気もする。そこで関白に補されたあくる年、
「源平藤橘の四姓のほかに、新たに姓を作ればよいわ」
宣言し、豊臣の新姓を創設。その初代に納まって豊臣秀吉と号した。
「万機《ばんき》、巨細《こさい》となく、その人に与り白《もう》す役」
と称され、太政大臣の上に坐して一の人、一の所と呼ばれるのが関白職である。いわば執柄《しつぺい》の極官だから、秀吉もそれに任ぜられたことで彼なりの度胸がついたのだ。もはや藤原姓にこだわる必要はなかった。
しかし、その度胸を彼につけさせたのは関白職への就任であり、関白になるためには手続き上、摂関家の猶子として、一時的にもせよ藤原姓を冠さなければならなかったわけだから、菊亭晴季の功績は、やはり秀吉の場合、負い目となって消えるときはないのである。
──秀吉が吉野をさして行装美々しく出立したのは、春たけなわの如月《きさらぎ》二十五日であった。
細川幽斎ら供奉《ぐぶ》の諸将らもそれぞれ衣装に贅を凝らし、大坂から当麻《たえま》を経由。宿舎に当てられている山上の吉水院に入った。
秀次は聖護院門跡の道澄准三后や菊亭、中川、飛鳥井など上卿たちと車駕をつらねて京を立ち、二日後の二十七日、秀吉の一行に吉野で合流したが、来る道々も、
「太閤殿下はまだ、いまだに、宮御前の一件を不快に思召しておられるのでしょうか」
「たぶん、今なおお怒りは解けておらぬと思います」
「関白どの、あなたもまずいことをなされましたな。咎めだてするわけではないけれども、このわしまで堂上仲間から、目ひき袖ひきされましたぞ」
牛車《ぎつしや》に共乗りしながら菊亭晴季と、ぼそぼそ浮かぬ顔で囁き合った。
「相すまぬとは思っています。でも舅どの、わたしは正直、宮御前に恋してしまったのです。父親でいろと言われても無理だった。抑えようにも、自分が抑えきれなくなったあのときの燃えに、嘘いつわりは微塵もありません」
「お気持はわかる。わが孫ながら、妖しいまでに臈《ろう》たけた娘じゃものな」
「世間の指弾はもとより、太閤殿下のお怒りさえが、宮御前を手に入れるよろこびの前には小さなものに思えました。いまとなれば、しかし悔いてもいます。人倫の道に背《そむ》くなどと非難されるような行ないは、いかに苦しくとも、やはりつつしむべきでした」
「わしが思いやって哀れなのは、娘に夫を奪われた母の心の内でござるよ。資子《ともこ》はあなたを責めませぬか?」
と秀次の正室の名を、晴季は口にした。
「いや、口に出しては何も申しません。舅どのの前ですが、妻は陰気なくらいおとなしい、口かずも少ない女ですから……」
「ま、なんにいたせ母と娘が、一人のあなたをめぐって啀《いが》み合うなどという浅ましい姿だけは、見せてほしくありませぬな」
「住む棟は別だし、おたがいに行き来もさせておりません。そのご心配だけは無用に願います」
「いまだからこそ申しますがの」
従者たちの耳を懸念してか、低い声を、晴季はいっそう低めて打ちあけた。
「先夫と別れて屋敷へもどっておった娘を、太閤殿下が冗談のように、わしに所望されたことがござったのじゃ」
「叔父上が、資子を!?」
「すでにこなたのもとへ、再嫁するとの内約束も調うていたことではあり、お断わり申したが、甥の妻と決めた女に、たとえその場かぎりの好きごころにせよ食指を動かすとは、どういうおつもりか、いまもって殿下のご真意がわしには解せませぬのじゃ」
石ころだらけなでこぼこ道が続き、車の振動がはげしい。秀次は酔って胸をむかつかせていた。顔色も青い。晴季の打ちあけ話を聞いたことで、表情はますます暗くなった。
(そうと知っていたら資子など、はじめから叔父上に譲ったろうに……)
そして宮御前だけを貰い受けていたならば、母娘を姦したなどという忌まわしい誹謗も浴びずにすんだであろうにと思うと、残念でならなかった。
(宮御前の件で見せた叔父上の、度はずれた怒りも、あるいは資子に絡む嫉妬の変型であったかもしれぬな)
厄介な重荷をまた一つ、背負わされた気がして、花見の弾みも萎えた。秀吉の前へ出るのが、秀次は恐ろしい……。
桜はしかし、さすがにすばらしかった。
下《しも》の千本、中の千本、上の千本と咲き移って、宿坊の吉水院あたりから眺め渡すと、うす|紅 《くれない》の雲の衾《しとね》に乗ってでもいるような豪奢な気分に浸される。
「いやはや見事じゃ。咲きも残らず散りもはじめず……。鞍馬天狗に『今日見ずば、口惜しからまし花盛り』とあるのは、このような眺望をさすのであろうな」
と謡いの一節など口ずさみ、対面したかぎりでは秀次にも菊亭晴季にも、秀吉はかくべつ不機嫌な様子を見せはしなかった。僧たちの案内で山内をゆっくり見て廻り、金峰山寺《きんぷせんじ》の仁王門をくぐって蔵王堂の前へ出てみると、風雅な茶店が一軒建てられ、
「お掛けなされませ、団子なと上がりませ」
郡山の羽柴秀保が亭主の|なり《ヽヽ》で迎えていた。当然、弟も来るものとは予期していたが、茶屋をしつらえるなどという趣向には意表をつかれて、秀次は目をみはった。
「やあ三吉め、板についた亭主ぶりではないか」
瓜売りの仮装を思い出したのか、秀吉は大いに興をそそられた顔で、
「よしよし、弁当はここで食おうぞ」
ずかずか大股に、奥の床几へ通った。
三吉秀保は、ことし十六になる。雨後の|筍 《たけのこ》に譬《たと》えていうほど、この年ごろの背丈の伸びはいちじるしい。
(しばらく見ぬまにまた少し、大きくなったようだな)
と秀次は、板につかない弟の亭主ぶりを可笑しく眺めた。
いずれ、どこかで借りてでも来させたのだろう、粗末な木綿布子の上に袖無しを羽織り、裾を共紐でくくった|たっつけ《ヽヽヽヽ》様の袴に、前垂れ掛けという扮装だが、裄《ゆき》や丈が寸足らずなせいか、手足の先がにゅっと突き出て見える。
秀保はそれでも大まじめで竃《かまど》の燠《おき》を煽ぎ立てている。間口のわりに茶店の造りは奥が深く、据えられた幾つもの床几には厚手の緋毛氈が敷かれて、坐りごこちがよいよう配慮されていた。
お膳立てはすべて郡山城の老職重臣らが調え、秀保は人形よろしく、言うなりに亭主役を勤めているにすぎない。
蒔絵《まきえ》の提げ重がくばられ酒が注がれる。弁当は料理方が吉水院の僧坊に詰め、納所《なつしよ》らを指図して朝、暗いうちから用意した山海の珍味だ。それでなくても山路を歩き廻って、秀吉はじめだれもが適度の空腹感をおぼえている。
「いや、うまい」
「満開の桜を肴にくみ交す御酒の酔いは、また格別でございますな」
舌鼓を打っているけれども、もてなす側はてんてこ舞いを演じ通しだった。
たかが座興の茶店である。食べものも酒もたっぷり運び込まれて来ているのだから、郡山衆のやることといえば茶を煎じて出すだけなのに、それがうまくいかない。
(大掴みのしつらえだけしておけば、あとは造作なかろう)
と判断し、老臣たちは陰へ隠れてしまった。亭主に扮した秀保を助けて給仕役を受け持っているのは六、七人の小姓である。年|ばえ《ヽヽ》は主君と大差ない。いずれも十四か十五の小童ばかりなので、
「太閤さま、お成り……」
と聞くととたんに、あがってしまった。
湯は沸いているか、たぎっております、ばかッ、ぬるいじゃないか、そんなはずはありません、今までぐらぐらしてたのに……だれか水をさしたのでしょうか、詮索はいいから早く薪をくべろ、あッ、やたら煽がないでください殿、灰が立って……わあ、上さまにお出しする天目《てんもく》茶碗がまっ白に……とっとと洗い直せ、水はここにあるじゃないか、いえ、その手桶はお茶の水です、滌《すす》ぎの水はあちらのあの甕……。
まごまごするひまに秀吉の側近が、
「お茶はまだかと仰せられておられます」
催促しにくる。
「すぐお持ちする。すぐ……」
のぼせ上るとなお、不手際の連続となり、淹《い》れた茶の葉がたりなくて薄すぎたり、あわてて足そうとして茶壺を倒すなど散々な態たらくとなった。
水屋口が騒々しいので秀次が案じて、
「どうした、一向に茶が出ぬが、何をぐずついているのだ?」
覗きに来たとき、秀保は柄杓《ひしやく》を振りあげて小姓の一人を滅多打ちに打ちすえてい、いま一人は煮え湯を浴びせられたのか濛々《もうもう》と立ちこめる湯気の底に顔を抑えて、七転八倒していた。
「やめろッ、この|ざま《ヽヽ》を殿下に知られたら何とするッ」
制止しかける秀次にさえ、
「畜生ッ、畜生ッ」
秀保は打ちかかって来、柱に当って柄杓の柄が折れると脇差の柄頭《つかがしら》に手をかけた。
「狂ったか、こいつ……」
呆れるよりカッと秀次は腹を立てた。
「兄に刃《やいば》を向けるとは言語道断な痴れ者だ。ひっくくれ」
蹴倒したところへ飛びかかって、
「お鎮《しず》まりなされ大和中納言さま」
羽交いじめにしたのは続いて入って来た木村常陸介である。
郡山の家臣らも駆けつけて手取り足取り水屋の外へ曳きずり出したが、秀保は顔面蒼白、目は吊りあがり口の端《はた》に泡を溜めて、ほとんど狂気の血相であった。
「何がもとで逆上されたのですか?」
小声で訊く常陸介に、
「わからん」
秀次は苦り切って言った。
「ごたついている様子なので来てみたら、この有様だ。茶一つ満足に供せぬくせに茶屋の趣向など、片腹痛い。愚か者めが!」
「まあ、まだ失礼ながら黄口児《こうこうじ》ですから……」
「子供なものか、図体《ずうたい》からしてもう一人前の男だ。人望厚かった秀長叔父の跡を継ぎながら、あいつにはいまだに重責への自覚がいささかもない」
「ご舎弟の悪口は言いたくないが、どうも評判はよくありませぬな。粗暴癇癪、むら気など重職どもも中納言さまのお守《も》りには手を焼いているようです。身丈がいくら伸びても、中身の成熟が伴わなければ腕白坊主と変りませんからな」
このまに火傷を負った小姓はつれ去られ、家臣らの手で茶も運ばれて、どうやら水屋での騒ぎは秀吉のいる奥の床几にまで届かずに済ますことができた。
そのくせ同じ夜、吉水院で開かれた歌筵《かえん》には、昼間の狂態など忘れたかのように平然と出席し、桜にちなんであらかじめ誰かが作っておいてくれたらしい和歌を、秀保はおめず臆せず、
「ご披露ください」
稚拙な字で短冊に書いて差し出した。
けろりと憑《つ》き物の落ちた顔である。
秀吉は、これも細川幽斎に手を入れてもらった一首を、得意気に高吟した。
吉野山たれ止むるとはなけれども
今宵も花の蔭に宿らん
この歌の通り吉野には二日滞在し、三月二日に高野山へおもむいた。亡母大政所|なか《ヽヽ》の冥福を祈って、三回忌の追善法要をいとなむためであった。
高野山|金剛峯寺《こんごうぶじ》の山内には、すでに秀次が奔走して大伝法院跡の空地に青巌寺《せいがんじ》という大政所の剃髪寺が建てられていた。
秀吉はここへ入り、母の遺髪を仏前に納めて拈香《ねんこう》礼拝したが、高野には四日間もいて、斎《とき》振舞いやら百韻連歌の興行やら、はてはみずから本堂の板敷きに立って能を見せまでして、一山の衆徒を堪能させた。
寺務|検校《けんぎよう》以下、身分の軽い行人《ぎようにん》や新発意《しんぼち》にいたるまで二千五百石もの施物《せもつ》が与えられ、青巌寺の開基興山上人には特に千石、その侍者《じしや》の僧どもにも百石の米の贈り物があった。
大斎会《おおときえ》も、金碗銀盤に百味《ひやくみ》の飲食《おんじき》を盛る豪華なもので、茶は自身、秀吉が点てた。興山上人にはこの日、素性《そせい》法師の墨蹟一軸、唐物の茶入れなども贈られたが、のちに人づてに耳にしたそれらの噂を、秀次は不快まる出しな面持ちで聞いた。
素性の墨蹟は、例の蒐集癖からかねがね秀次自身、執心していたものである。それとなく機会を捉えては、叔父にねだっていたのに、耳をかしてすらくれなかった。
「そして高野の坊主などに与えてしまわれたのは、欲しがっているのを知っていて、わざとおれに、当てつけてなされた仕打ちに相違ない」
ひがんだ言い方をするのを、
「掛軸の一つや二つ、だれの手に渡ろうとよいではありませんか」
たしなめたのは木村常陸介である。
軸物になどこだわって、太閤のなされ方に非難めいた口をきくのは、このさい厳につつしまねばならぬと常陸介は言うのだ。
「亀姫さまとお拾ぎみが、許婚者《いいなずけ》になられたぐらいで気を許すのは危険です。どうも拙者の見るところ、なにやらやはり、しきりにキナ臭い。くれぐれもご油断は禁物でござりますぞ」
「叔父上には、けっくどこまでも、このおれが目の上の瘤《こぶ》に見えるということか?」
「ご推量の通りです。太閤は五十八……。往年の溌剌さにはさすがに及ばぬにせよ、まだまだ体力気力とも衰えてはおられません。これといって、お身体に故障があるわけではなし、ご寵愛の茶々どのをみごもらせまでしている元気さからすれば、この先、どう内端につもっても十年はご存命確実でしょう。まして人間、だれしもうぬぼれはあります。当の太閤さまご自身は、二十年三十年も生きるおつもりでいるにちがいありますまい」
「おそらくな」
鬱陶しげに秀次はうなずいた。
「気を張りつめて二十年、睨みをきかせつづけるあいだに、お拾は成長していっぱしの若者になる……」
「つまり中継ぎ役としてのあなたさまの存在など、無用どころか、むしろ在っては邪魔なはずです」
「おれを芟《のぞ》こうとする企てがどこかでたくらまれているわけだな」
「まだ、そこまでの動きはありませんが、太閤のお気持を先取りして、あなたさまの失脚を策す者がかならず出ます。くれぐれもその点をご用心なさらねばいけません」
「たとえば石田治部か?」
「さよう。あのちょこざいな先走り者あたりが、忠義顔して当方の落ち度に目を光らせていることは充分、察せられます。いかな名筆とて、お命やご地位には替えられますまい。欲しがるどころか、あべこべに素性法師の軸など献上しても、ここ当分、太閤殿下のご機嫌を損ぜぬことです」
「わかった。前言は取り消すよ」
あやまったが、常陸介はなお不安げに眉間の縦皺をゆるめようとしなかった。こなたさまはさすがにご長兄……、お年嵩でもあるだけに意見すればすぐ、そのように非を悔いて反省なさるけれども、困るのは大和中納言どのだ、あのご舎弟が取り返しのつかぬしくじりをしでかして、ご自身の墓穴を掘られるだけならまだしも、こなたさまにまで思いもよらぬ迷惑をかけるのではないか、それが心がかりでならぬと常陸介は言うのであった。
秀次も、これにはまったく同感だった。高野山へ登る秀吉の一行を、太田まで見送って秀次、秀保兄弟は袂《たもと》を分った。はじめは直行して京へもどるつもりでいたのである。しかし秀次は中途で考えを変えて、弟と一緒にその領地へ行き、郡山城内に一泊した。
木村常陸介はじめ家臣らもむろん同行したわけだが、この日の印象の異様さは主従の脳裏に刻まれていまなお、なまなましく息づいている。
何がどう異様だったのか?
問われてもはっきりと指摘はできない。
桜の季節というのに城内は|うそ《ヽヽ》寒く、古井戸の底のような陰惨な湿りがじっとり澱《よど》んでいた。それは人の怨念がかもしだす禍々しい瘴気《しようき》ともいってよいものだった。
「暗い」
本丸の屋形へ踏み込むなり、駒寄せの式台から秀保は喚《わめ》いた。
「兄者がお越しになると、前もって知らせておいたのに、なぜもっと燭台を増やさないのかッ」
それはしかし、無理な注文に近い。廊下にも部屋部屋にも燭台は多すぎるほど置いてある。軒先の釣り灯籠にまで灯が点ぜられ、庭燎《にわび》もところどころに焚かれている。明るいはずなのに秀保は暗いと言う。もっともっと、あるだけの燭台を出せと要求し、
「ことごとく城内の点火器は使ってあります。もはや余分はございません」
断わられると、
「日ごろから足りぬと申しておるではないか。陰気なのが何より嫌いなのを承知しながら、貴様ら、おれの言いつけをいっかな、きこうとせぬ。楯つくつもりか、主君に……」
地団駄踏んで叫び出した。またもや癇癖の発作である。みるみる血の色がひいて唇まですさまじく青ざめ、顔じゅうが引き攣《つ》れたように歪んだ。
「暗くなどない。この上、燭台をふやしてどうするつもりだ」
語気するどく叱りつけはしたものの、秀次もじつのところ、
(不思議に暗い)
と、訝かしむ目で前後左右を眺め回していたのだ。
灯の数は、たしかにおびただしい。そのくせ、なぜか明るさが虚しく、いたずらにキラキラ目に眩しいばかりで、あたりが白けて見えるのである。光明というものに附随する功徳《くどく》──華やぎや豊かさや安らぎに欠け、明るいくせに妙に淋しい。
(なぜなのか?)
少し観察しているうちに秀次には理解できた。君臣のあいだに、和気が微塵も醸《かも》されていないのだ。居城に帰ってきたはずなのに、秀保の態度には一向にくつろぎが見られない。家臣らに射向ける彼の目は、憎悪に光っているし、主君に対する家来どもの素振りも敵意でも含んでいるようによそよそしい。
(小一郎叔父さまがご存命のころは、こんなではなかった)
人望あつく、
「有徳《うとく》の長者」
と諸大名にまで慕われて、長兄秀吉の無二の片腕だった小一郎秀長……。領国の治政にも恩沢はよく行き渡り、家臣ばかりか領民たちにすら父さながらなつかれていた叔父の城ではないか。
どうしてこうなったのか?
なぜ、これほどまでに人心が離れてしまったのか?
灯火の多寡《たか》ではないのである。城ぜんたいに漂っている陰鬱な荒廃の気配が、あたりの空気をうす暗く翳らせているのだ。
(けっくは弟に、人徳がないからだろう)
秀次はそう結論せざるを得ない。
げんに今も、吉野で火傷を負わされた小姓、手ひどい|打 擲《ちようちやく》を受けて額を割られた近習らが共に帰城してきている。
彼らの家族や同僚たちは、秀保の横暴を怒り怨むにちがいない。でも相手は主君だ。怒りは内攻し、いずれ冷ややかな離反に繋がってゆくはずであった。
秀吉から補佐を託されている重臣、秀長以来の譜代の宿老たちまでが愛想をつかし、若い主君を見放してしまった様子が見える。秀長叔父の息女──ことし七歳か八歳に達しているはずの秀保の幼な妻も、乳母を介して、
「ご気分、すぐれませぬゆえ……」
目通りできぬと告げたきり、夫の帰城を出迎えもしない。まだ、しんじつ、夫婦の契りを交したわけではないのだから、妻らしく振舞う必要はないが、一つ城に共棲《ともず》みしている従兄妹《いとこ》同士なら、それなりの親愛は培われてよいはずなのに、少女と少年の間にはそんな心の交流さえ無いようだった。
木村常陸介も奇異の思いを抱かされたらしい。郡山城中に泊った晩、宿直《とのい》するつもりか、秀次の寝所のすぐ隣り部屋に夜具をのべさせ、そのくせそこに身体を横たえるでもなく、そっと枕もとににじり寄って来て、
「うす気味わるい城でございますなあ」
ささやいた。
「眠れぬか?」
「殿は?」
「眠れぬ。何やら目に見えぬ魔魅《まみ》のごときものが、闇のそこここを徘徊しているような感じだな」
「燭台の油がおおかた尽きて、暗さが増したせいもありますが、手前こっそり、当城の者から訊き出したところによると、奇怪な取り沙汰がだいぶ前から流れているよしでございます」
秀次も思わず床《とこ》の上に起き直って、
「どのような?」
声をひそめた。
「ま、何者か、為にする流言ではありましょうけれども、この城には小今とやら申す侍女の亡霊が、時おり現れて人を脅《おびや》かすとか……」
「小今?」
「秀保さまに追われ、本丸の石垣から空堀《からぼり》の底へ落ちて死んだ娘だそうでございます」
「そうだ、思い出した。太閤殿下のお口ききで弟と小一郎叔父の間に養子縁組が結ばれてまもなくのころだから……六、七年前になる。ささいな鞠の取り合いから無残な墜死事件が起こった。しかもそれは、犬山の母上が当城に来ていた|さなか《ヽヽヽ》のことだったと、おれも母上から聞かされた覚えがあるよ」
「六、七年以前といえば、秀保さまがまだ八ツか九ツのころでございますな」
「小今も同じ年ごろの、召使であったそうだが、白刃を振りかぶって少女を追い廻したそのときの秀保の形相は、子供ながら悪鬼のようであったという」
「小今が落ちて亡くなった空堀は、その後どのような地質の変化でか、じくじく水が滲《し》み出し、現在は|みどろ《ヽヽヽ》に覆われた湿地になっておるとのこと……。城の者は、だれ言うとなくここを小今ガ淵と呼び慣わして、昼間もめったに近寄りませぬ」
「亡霊は、その淵から現れるわけか?」
「はい。頭蓋が砕け、脳漿にべっとり染まったむごたらしい姿で、時には城内にまで侵入してまいるよし……」
「それに怯えて、秀保は灯火を増やせと騒ぐのだな」
「暗がりを何より恐れ、夜ごと煌々《こうこう》と燭台をともしつらねるので、このところ当城内でついやす油の出費は莫大なものになると、これは老職どものこぼし言でござりました」
腕を組んで、秀次は考えふけっていたが、
「妖異の出現など、本当にあると思うか常陸介」
不意に問いかけた。
「まず、ござりますまいな」
にやりと常陸介は笑った。
「死人はおとなしく、無力なもの……。それを操って踊らせるのは、生きている人間の口と悪意でござります」
「小今には身寄りはいるのか?」
「おります。姓は幡、名は利一郎と申す兄が一人……。両親ははやく亡くなり、兄妹二人きりのくらしであったそうで……」
「妹の歿後、利一郎とやらはどうしている?」
「ご当家に仕えつづけております」
「秀保に仇《あだ》を報ずることはせなんだわけだな」
「幼君とはいえ相手が主君では、あきらめぬわけにまいりますまい」
「しんじつ、あきらめたかどうか……」
「さよう、刃を用いるばかりが報復とはかぎりませぬからな」
「おぬしもそう思うか」
秀次は腕組みを解いて、
「小今の幽魂なるものを出没させているのは、幡利一郎の舌頭だ」
言い切った。
「臆病者の秀保ごとき、噂だけでぞんぶんに縮み上らせることができるよ」
「家中《かちゆう》の者もひそかに利一郎に同情し、幽霊話に加担して、だれが見た、おれも目撃したなどと言い触らしているようです」
猟奇的な噂話には、それでなくても尾鰭《おひれ》がつく。実態のない小今の亡霊が、いまや郡山城内には生き身の人間同様、はっきり実在するものとして人々の口から口へ、語り交わされているのだろう。
「利一郎はいま、秀保からどんな扱いを受けている?」
「かくべつ優遇もされず、といって冷やめしを喰わされているわけでもないようです。お馬廻り役を勤め、亡父と同額のお扶持を頂戴しておるとやら老職どもは申していました」
「できすぎているではないか。秀保にしては……」
「犬山におわすお袋さまが、小今惨死の直後、『くれぐれも幡利一郎には油断すな。恨みを解くよう努めねばならぬぞ』と教訓あそばしたらしゅうございます」
「母上らしい。いかにもこまやかなお気の遣いようだな」
「わざわざ秀保ぎみ同道にて、小今の通夜にまでお袋さまはお越しあそばしたよしでした」
「一応、それらに免じて矛《ほこ》を納めはしているけれども、利一郎め、怨恨はいまなお抱きつづけているというわけか」
「幽霊話をでっちあげ、秀保さまをじりじり恐怖の迷路に追いつめて、やがては悶《もだ》え死でもさせてやろうとの魂胆かもしれませぬな」
秀保ならば効果はまちがいなく期待できる。生まれつき飽きっぽく落ちつきの足りない、情緒不安定な|たち《ヽヽ》なのだ。思春期にさしかかってその傾向に拍車がかかれば、たださえ悔いている小今殺しである。幽霊話の暗示にかかって、神経症ぐらい、たやすく起こしかねなかった。
「げんにささいなことから、癇癖の発作を起こしている。感情の波立ちが激しくなり、常軌を逸しはじめてきたのだ。暴力を振うから家臣らの心はますます離れ、すると孤立の寂しさから一層あせって、暴慢な言動に出るようになる」
「なまじ温情に浸っているため、家来の分際でかえってつけあがって隠微な復讐を企むのです。いっそのこと、災の根を断ち切ってしまえば、もともとありもせぬ亡霊話も立ち消えてしまうのではないでしょうか」
「幡利一郎を斬れというのか?」
「はい」
「それはまずかろう」
盗み聞きを懸念して、主従のささやき交しはいよいよ低くなった。
「妹ばかりか兄までが始末されたなどと万が一、洩れでもしてみろ、家中の同情はなおのこと彼らに集まり、秀保を憎む思いは募る一方となろう。利一郎を亡きものにしても、かならずや第二、第三の利一郎が現れて、秀保の命をつけ狙い出すにきまっているよ」
それよりも、やはり母者の言う通り情けをかけて、恨みの氷を根気よく溶かすにしくはない、ひとまずここのところはおれの措置に委せておけ、と常陸介の矯激な提案を秀次はしりぞけた。
そして翌朝、秀保を通さずに直接、幡利一郎を膝下に呼んで、
「小今ガ淵とやらの掻い掘りを、そのほうに命じる」
言葉を飾らずに切り出した。
「聞けば夜な夜なあの淵から、小今の亡霊が現れるとか……。さもあろう。そのほう兄妹の無念は幾重にも察しるが、秀保も深く慚愧している今、妹が祟《たた》るなどと風評されては、兄として面目が立つまい。足軽小者を指揮して湧き水を断ち、もとのからりと明るい空堀にもどして、小今ガ淵の汚名を返上してはどうかな」
否とも応とも利一郎は答えない。見るからに頑なそうな仮面じみた顔を、無表情ながらそれでもうつむけて、両手をつかえたところをみると、承知したと言うことだろうか。
「掻い掘りを奉行する功として、いくばくか加増してやれ」
弟に言い置いてその日、秀次は京の聚楽第にもどったけれども、自身の頭越しにおこなわれたこの兄の仕置きが内心、不服なのか、秀保からは以後なんの報告もなく、しびれを切らした常陸介が細作《さいさく》を放ったあげく、
「堀の水は干上りました」
ようやく結果がわかった。
「ただし空堀となっても相変らず、城中の者は執拗に小今ガ淵とあの堀を呼びつづけているようでございます」
とも苦笑まじりに、細作は言うのであった。
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砂 利
秀次や秀保ら息子たちの身の上が曲りなりにも安泰であるならば、両親の日常にもしたがって穏やかな歳月が保たれていた。
犬山城本丸奥の隠居所に引き籠ってくらしていても、見舞客が時おりあるので子らと離れて住む淋しさはまぎれる。弥介吉房の腰痛も春の訪れにつれて少しずつ快方に向かい、近ごろは杖にすがってなら庭歩きを楽しめるまでになった。
徳川家康などはその律義な性情から上洛、下向のたびごとに、
「いかがでござるな武蔵守どの、よく効く灸《やいと》のご伝授をいたそうか」
立ち寄って、それとなく慰めてくれるし、北政所お寧々も使いに持たせて、時候うかがいの書状やら仕立ておろしの衣料やらを、しばしば届けてくれた。義理の姉への、嫁の立場からの儀礼であることはもちろんだが、家康にしろ寧々にしろが、たんに形式だけのつき合い以上な、親身な思いやりを見せるのは、権位にいて驕《おご》らず不相応な野心を抱かず、だれにもつつましくへりくだって、けっして表立とうとせずに生きてきた老夫婦へ、彼らなりの厚意を寄せているからである。
寧々の代理でやってくる女中どもは、すべて北政所派の枢軸といってよい口八丁手八丁の女ばかりだから、もてなしの酒に酔うまでもなく京、大坂、淀の近況を喋り立てて|とも《ヽヽ》を居ながらの事情通にしてくれた。
秀吉が吉野へ花見に出かけたのも、秀次秀保兄弟がそれに同行したいきさつまで、|とも《ヽヽ》や吉房は寧々の侍女に聞かされて知ったのだ。心痛させまいとの配慮からよくない取り沙汰にはだれも触れない。秀保が茶店を設け、亭主に扮して太閤一行をもてなした話など、そのまま花の山にふさわしい気働きとだけ受け取って、
「やれやれ、三吉めも小賢《こざか》しゅう振舞うではないか、のう|とも《ヽヽ》」
「どのような茶を淹《い》れて出しましたやら……」
親たちは微笑を誘われたにとどまった。
前田利家の正室お松も、国許と京・大坂の控え屋敷を行き帰りするたびごとに、わざわざ駕《が》を枉《ま》げて犬山の城に顔を出してくれる。加賀の海からあがった寒鰤《かんぶり》、旬《しゆん》の蟹《かに》の、雪白《せつぱく》の身どころを味よく醤《もろみ》に漬けたものなど、そのつど、うれしい土産を持参してよもやま話に花を咲かせてゆくので、|とも《ヽヽ》もだれにも増して利家夫人の訪来を心待ちにしているのであった。
文禄三年五月はじめに、彩りよく檜割籠《ひわりご》に詰めさせた京菓子を持ってたずねてくれたときには、しかしなぜか、お松の顔つきは暗かった。
「このほど茶屋四郎次郎、亀屋|栄任《えいにん》と申す町人両名が、京都での菓子の司に任ぜられましてね。これはその亀屋に誂えて作らせた打ち物……。召し上ってみてくださいませ」
披露する口ぶりも、いつもと違って屈託ありげな翳りを帯びている。
「どこぞ、お加減でも悪いのではござりませぬか、お松どの、お顔色が冴えぬが……」
案じて訊く吉房夫婦に、
「少し疲れたのでござりましょ」
強いてのようにお松は笑顔で応じた。
「このほど伏見の新宅がようよう建ち上り、家具調度などの運び込みに采配を振うたあげく、四月八日には太閤殿下のお成りを迎えて、そのおもてなしにいささか立ち働きましたゆえ、くたびれが出たのではないかとぞんじます」
お拾と秀次の娘の亀が、婚約を結んださいも、ほんの形の上でのことではあるけれども秀吉が命じて、仲人役を勤めさせたのは前田利家・お松夫妻であった。
改めて礼を述べたあと、
「伏見の城のご普請は、もう前田家はじめ諸侯が屋敷を構えるまでに進みましたか?」
|とも《ヽヽ》は驚きを口にした。
「進みましたとも。あのあたりは、まるで見ちがえるほど変ってしまいました。お城下も道筋が縦横につけられ、町割りができかけて、蒲生どの宇喜多どの徳川どのなど、諸大名の邸宅も大方は建ち揃っております」
「池はどうなりましたか? 巨椋ガ池は……」
「築堤工事が始まったおかげで、大池のまわりも昔の面影を失いました」
「池中に、では、堤が?」
「茶々どのおん母子のためにせっかく建ててさしあげた淀の城まで、なぜか惜しげもなくお毀《こわ》しあそばし、今はもっぱら伏見の築城に、太閤殿下は力を入れておられるようでございますよ」
衝動的に思い立ち、思い立つと熱中して、ぐんぐん計画を膨ませてしまう秀吉の、建築はじめ様々な土木事業に見せる異常性癖──。そしてそれは、新しい熱中の対象が現れると、加虐の快感をむさぼりでもするかのように前に手がけた対象を壊《こぼ》ち棄てるところに、いよいよ不可解な|むら《ヽヽ》気の特色を露呈した。
普請狂い≠ニ呼んで世人は秀吉の、修築と破却のくり返しに首をかしげ合った。やつぎばやに出される新工事の命令に、それぞれの奉行らが戸惑うのも、工事と工事の間に一貫性がなく、納得のゆく脈絡も見いだせないからである。
白壁の照り返しをまぶしく川水に燦《きら》めかせて、いかにも天下人の寵姫とその愛《めぐ》し児の住みどころにふさわしい優雅さを誇っていた淀の城……。せっかく出来あがった城下町もろとも、わずか五年の寿命で跡かたなく、それもまた、消滅してしまったのを見せられると、
「戯《ざ》れごとか? 城づくり町づくりまでが……」
工事のたびに年貢をはたられ労役を強いられ、時には生活の基盤すら奪われる庶民層の疑問は深まった。国の存亡を賭けた朝鮮役さえが、秀吉の|むら《ヽヽ》気の延長線上に引き起こされた大事であることを、彼らはすでに嗅ぎつけていた。新しい玩具に好奇心を燃やすと、古い玩具に見向きもしなくなるだけでなく、憎いものででもあるかのように無慈悲に、冷酷に、それを毀《こわ》してのける子供に似て、建てては破却し、建ててはまた、破却する国費の無駄遣いも、秀吉の場合、国内での道楽にとどまっている内はまだよい。異国相手の合戦にまで小児病的な性癖を発揮されてはたまらぬと、心ある者は下々までが、戦局収拾のなりゆきを不安がっているのに、当の秀吉はもはや飽きたのか、兵馬のことは口にすらしなくなった。
「関白職を秀次に譲れば、聚楽第は政庁ゆえこれも秀次に渡すことになる。大坂城はお拾にやる、とすると、わしの住む場所が無くなるな」
当初はそんな発想から、隠居所を建てるつもりで始めた伏見の城づくりであった。
しかしここへ来て、計画はにわかに拡張され、規模壮大な、本格的な城郭の築造となった。秀次が、はじめは普請奉行を仰せつかっていたのだが、いつのまにか彼は圏外へ押しやられ、新しく佐久間政実らが指揮官として現場に乗り込んで来た。
諸大名へのお手伝い下命も、のめり込むと待てしばしの無くなる性急さから、いきなり度数が増した。秀吉自身、進み具合を見にしばしば伏見へやってもくる……。
築城計画の、異様なまでの強化を、
(もしかしたら秀次公への、牽制ではないか。聚楽第を念頭に置いての備えではあるまいか)
と木村常陸介ら、慧敏な関白側近の謀臣たちが勘ぐったとしても不思議はない。
巨椋ガ池の様相も、堤の築き立てに伴って激変した──そう聞かされて、
「では、岡屋津の港はどうなりましたか?」
|とも《ヽヽ》は質さずにいられなかった。被膜さながら意識の裏に貼りついて、消えるときのなかった気がかりであった。
「出口入口が閉ざされては、港としての役に立ちませぬ。岡屋津の町はさびれ果て、問屋場《といやば》は軒並みつぶれて、町衆はちりぢりに分散したらしゅうございます」
と、松は言い、
「それにつき、じつは恐ろしい噂を耳にいたしました」
声をひそめた。
秀吉が、なに者かに狙撃されたというのである。吉房も|とも《ヽヽ》も、思わず息を呑んだ。
「それで、お命に別条は?」
「ござりませぬ。よほど遠くから撃ったのでしょう、的は大きくはずれ、三|間《げん》もさがって従っていたお草履取りの小者に、それでも命中して、この者は即死したそうでございます」
場所は伏見の、大手前に近い町通りであった。秀吉は高野から大坂へ帰城したあと、普請を督励しに伏見へ赴き、その足で次は京へ出て施薬院全宗の屋敷に泊まった。
洛中にいるあいだ、参内して天皇はじめ宮中の人々に、例の『明智討ち』など自慢の新作を演じて見せるなど、うわべは無邪気に振舞いながら、同じ日、前左大臣近衛信輔の薩摩配流を、秀吉は朝廷に強制している。
信輔は藤原姓を冒すさい、秀吉が一時、名だけの養嗣子となった前摂政|前久《さきひさ》の子で、年もまだ、やっと二十歳の弱冠にすぎない。
「軽佻浮薄な才子」
と、かげでは嗤う者も多い一種の跳ね返り気質で、朝鮮役が起こるととたんに興奮し、秀吉への阿《おもね》りもあってか名護屋の陣中に馳せくだって来た。
武装し、諸将とともに渡海して戦うと言い張るのを、秀吉は翻意させるのに大骨を折ったが、
「呆れ返った馬鹿じゃ」
にがり切って、こんどの上洛を機に、
「従一位左大臣の重責を自覚していないからこそ、弱弓《よわゆみ》ひとつ満足に引けぬ公卿の身で出征しようなどという愚かな気を起こすのです。軽忽《きようこつ》を戒める必要があります」
と進言……。
板挟みの苦境に立たされておろおろする後陽成帝を圧服し、信輔の流罪を決定してしまったのであった。
「つい、四月はじめ、近衛公はしょんぼりと薩摩をさしてくだって行かれたよしでございますけれど、これまでかげで、卿のお身状《みじよう》にとかくの批判を加えていた人々も、処罰の思いの外な重さを見ては、『やれ、きのどくや』と、手の裏返す同情ぶりであったとか……」
「それはそうでござりましょ。天下人への追従《ついしよう》もいささかはあったにせよ、従軍を願って出たはいわば若げの勇み足……。九州の南の果てに流してのけるほどの悪事ではありませぬよ」
「まして近衛家に仕えるご家来衆の中には、太閤さまのこのたびのご処置を恨む者も少なくござりませぬ。そこでな、お|とも《ヽヽ》さま、殿下を鉄砲で狙い撃ちした曲者は、破産没落の憂き目を見させられた岡屋津の町の者か、もしくは近衛家の禄を食む家従どもにちがいあるまいと、世上ではこそこそ耳こすりし合っているのでござりますよ」
岡屋津町衆──。
回船業をいとなんでいた井筒屋了意、せがれ四郎兵衛らの面影が火箭《ひや》の痛さで|とも《ヽヽ》の良心を刺した。
伏見築城の可能性、築堤工事の実現を心配し、まだ、まったく着工のけぶりもなかった風説の段階で、早くも阻止への奔走をはじめていた井筒屋父子ではなかったか。
町衆筆頭としての責任感からも、羽柴秀長の来邸をこの上ない好機と見て、
「万にひとつ、そのようなお企てが現実のものとなれば、岡屋津のみならず太古以来、水運の機能を果たしつづけてきた巨椋ガ池までが、命数尽きはてて死に至ります。なにとぞ大納言さま、ご賢察のほどを……」
熱心にかきくどいた夜のことを、|とも《ヽヽ》も忘れることはできない。
「堤を築いて大池を分断し、水路としての命脈を損うなど暴挙にひとしい。兄者がそんな計画を実行に移されるはずはないし、もし強行なさるようならばお諌めして、かならず取りやめていただくゆえ、根もない風評になど惑わされず稼業に励めと、町家のめんめんにそのほうたちから伝えてやれ」
そう、いかにも頼もしく受け合いながら、そのくせ、姉弟《きようだい》二人きりとなった仮り寝の一室では、
「おそらく伏見城の造営ははじまり、堤の築き立てもおこなわれるはずです。わたくしには兄者の思い立ちを食いとめる力などありません」
吐息とともに述懐していた秀長であった。
(小一郎は、でも、岡屋津町衆の没落をまのあたりにせぬうちにあの世へ逝《い》んだ……)
破約を責められることはもうないが、秀吉を殺すことで、廃港に追い込まれてしまった岡屋津町衆の無念を、あの、見るからに|いっこく《ヽヽヽヽ》そうな了意や、町人ながらきかん気を両眼に燃やしていた四郎兵衛らが、
「はらそう」
と思い立つのは自然の成りゆきではあるまいか。
「で、下手人はつかまりましたか?」
「供奉のご家臣がたが百方走り廻ったにもかかわらず、まんまと取り逃がしたらしゅうございますよ」
伏見の城池は東西五十町、南北もほぼ五十町に及ぶ広大な地域を占めている。本丸、二ノ丸、三ノ丸のほか築造を受け持った諸将の名を冠して、たとえば石田三成の治部少丸、浅野長政の弾正丸、長束正家の大蔵丸、前田玄以の徳善丸など堅固を競う曲輪《くるわ》のほかに、名護屋丸、松ノ丸、山里丸など幾棟もの櫓《やぐら》を構え、五層の天守閣に威容を見せた堂々たる城である。
学問所や数寄屋、滝の座敷と名づけられる予定の風雅な休息所も建ちかけ、いま、大和|多聞山《たもんやま》城から苔むした古塔をその奥庭に移築して、景観をさらに増やそうとの相談まで庭師らのあいだには練られているという。
大名屋敷もつぎつぎに出来はじめていた。いずれも京大坂の控え家に劣らぬ壮麗さを競っているから、秀吉はよろこんで、
「中を見せてもらおうか」
片はしから訪問して廻っている。
狙撃事件は、そんなさなかに惹き起こされた兇変であった。
急速に、城下町づくりが進んでいるとはいえ、まだまだ途上だけに現場は足の踏み場もない。道路は掘り返され土砂、木材、砂利や畚《もつこ》や荷車の山が通行をあちこち妨げていた。
銃声と小者の絶叫に驚愕し、兇漢の逮捕におっとり刀で駈け向かった将士らも、半づくりの町すじの走りづらさに阻《はば》まれてむざむざ相手を見失ってしまった|ふし《ヽヽ》がある。
「そればかりではありませぬ」
憂い顔を、お松はさらに曇らせて言いにくそうに声をひそめた。
「気がかりな取り沙汰も、近ごろ洛中には囁かれております」
「取り沙汰とは、どのような?」
「もとより下民どもの耳こすり……。根も葉もない当て推量にすぎますまいが、近衛家の家士にしろ岡屋津の町人にしろ、太閤に恨みを含む何者かを、蔭にひそんで焚きつけた張本は、関白さまではあるまいかとの噂が、ひそひそ交されている気配なのでございます」
吉房夫婦の顔色が変った。
対岸の火事と見ていた火の粉が、いきなり頭上に降りそそぎ出した狼狽に、満足な口もきけなくなった。
「まさか……」
吃《ども》りながら、|とも《ヽヽ》はそれでも懸命な否定を絞り出した。
「まさか秀次が、そんな不敵なくわだてなど……」
「そうですとも。関白さまは夢にもご存知ないことでございます。ただ……」
いったん、口ごもりはしたものの、お松はすぐ決意したように言い出した。
「お側近くには、お為を思うあまり先ばしった企みに逸《はや》る家臣も、あるいはおらぬとは限りませぬ。むつかしい世の中……。取るにたらぬ巷説とは申せ、お名が出ている事態を手をつかねて見過ごして、万一、取り返しのつかぬことになってはとの気苦労から、あえてお耳に入れました。文字通りの老婆心でございます。たとえば北政所さまにでも書状を差し上げ、関白どのの潔白、こなたさまがたにも二心《ふたごころ》のないことを、それとなく太閤の上聞に達していただくのも、このさい一つの手だてではございますまいか」
時ならぬ訪問の目的が、ようやくはっきりした。屈託ありげに見えたお松の顔色の謎も、これで解けたのである。
胸に痞《つか》えていた案じ事を吐き出してしまったためか、それからは幾ぶん日ごろの調子を取りもどして、息女のお摩阿が相変らず嬰児《ねんねえ》で困ること、聚楽第でも伏見に来ても、両親の屋敷でばかり甘えくらしていること、そんなわがままをお心ひろく、太閤がお許しあそばし、過分な賜り物を他のご愛妾同様、へだてなくお摩阿にもお届けくださることなど、口の動くままお松は喋ったが、|とも《ヽヽ》の側にはそれを傾聴するゆとりが吹き飛んでしまっていた。
やがて暇乞いして客人が辞去したあと、
「どうします、あなた」
膝詰めの血相で、
「すぐ寧々どの宛てに、手紙を出しましょうか?」
|とも《ヽヽ》は夫に議《はか》った。
慎重な弥介吉房は、だが、
「まあ待て」
妻を制して中村式部少輔一氏を隠居所へ呼んだ。ほとんど聚楽第に詰めきりの主君に代って、犬山城中の仕置きに目を光らせている篤実な老臣である。
前田お松から聞かされた逐一を、吉房は一氏に告げ、
「どう判断なさるかな? お手前は……」
助言を求めた。
伏見で太閤が銃撃された一件は、表向き箝口令が布かれているにもかかわらず、すでに洛中洛外の評判となっていたし、細作にでも報告されたか一氏も承知していて、
「容易ならざる事態と受けとめております」
沈痛なうなずきを返してきた。
「下手人が何者か、めったな推察はくだせませぬが、正直な話、太閤さまをお恨みしている人間は無数にいるはず……。捕虜となってむりやり日本へつれてこられた朝鮮の民だけでも、もはや今となればおびただしい数にのぼります。中には九州に着くと早々、逃亡して京大坂、伏見あたりにまで潜入して来た者もあり、彼らだけでも充分に暗殺者たりうる危険を孕《はら》んでいるはずです」
「こののちも、太閤のお身に不測の災厄が降りかかる恐れは、多分にあると申されるわけじゃな?」
「ござりますなあ。民政ひとつ取ってみても、刑罰は過酷ですし、作事、戦費の負担がかさなって百姓は重税に喘いでいます。軍夫兵役に駆り出される苦痛も、耐えがたいところでしょう。せっぱつまっての逃散《ちようさん》が相つぎ、それをまた、見つけ次第捕えては牢にぶち込むので、京も大坂も獄屋は罪人ではち切れんばかりと聞きました」
「近く検地が始まるとも風聞しておるようじゃの」
「近畿、東国、山陰山陽、九州にまで及ぶ大がかりな検地でございますが、どうやら石田治部少あたりの献言にて、親子親類、一家に二世帯以上の同居まできびしく禁ずる方針らしゅうございます」
「検地で締め上げるだけでは足らず、一軒ごとに課す諸役の高を、世帯別けさせて増やそうとの魂胆じゃな」
「その通りです。いよいよ百姓は苦しむことになり、底辺の怨嗟は積もるばかり……。いつ何どき、第二、第三の狙撃者が出るか予断はできぬ有様でございます」
「それらをいちいち、秀次の指し金じゃなどと言われてはたまらぬ。とんだ濡れ衣《ぎぬ》ではないか」
「ご隠居さま」
中村一氏の眉間に、千|斤《きん》の重みに耐えてでもいるかのような苦しげな縦皺が刻まれた。
「ご病気がちな昨今、いたずらにお心を労させるのもいかがかと存じ、差し控えておりましたが、このほど来《らい》の太閤殿下のお仕打ち、われらには何とも腑に落ちかねることばかりなのでございます」
じつを明かせば去る三月二十日、諸大名の第宅を作らせるに当って、地所割りの邪魔になるとの理由から、すでに建ち上りかけていた秀次の伏見邸が、急遽、取り毀しの命を受け、もとの平地《ひらち》に引きもどされたし、同じ日、前田玄以、増田長盛、長束正家ら奉行連署の差し紙が到来し、
「関白支配の蔵入地《くらいれち》に於ては、いかなる算用の仕方にて年貢の取り立てを行なっているか、詳細をお聞かせいただきたい」
とも申し入れて来た。あきらかに、関白の職権への干渉であった。
「このような一連の動きを踏まえて眺め直せば、狙撃事件なるものも何やら|うさん《ヽヽヽ》臭く思えてきます。はじめから関白さまに濡れ衣を着せる気で仕組んだ罠か、しんじつ発砲した痴《し》れ者がいたとすれば、それを奇貨としてけしからぬ噂をばらまき、あたかも関白さまを事件の張本のように見せかけたか、どちらかではありますまいか」
「いずれにせよ、では、太閤殿下の側にこそ胡乱《うろん》な動きがある、と申されるのだな?」
「水差の蓋にまつわる怪事も、近ごろしきりに人の口の端《は》にのぼっております」
「水差の蓋? なにごとじゃなそれは……」
あっけにとられて吉房は反問した。
大坂城内の秀吉の寝所に、その首級を狙って賊が忍び込んだ。しかし幸運にも、秀吉は当夜、側室某女の寝部屋に行っていたため難をのがれ、賊は目的を達せずに引きあげたけれども、手ぶらでは帰らなかった。秀吉秘蔵の水差の蓋を盗み、刺殺を命じた依頼主に、
「まちがいなく城中に潜入した証拠でござる」
そう言って見せた、というのである。
秀吉は怒った。堀深く、石垣高く、難攻不落の堅城と信じていたはずの城へ、やすやす忍び入った賊の手腕にも、
「あぶないところであった」
おぞ毛を慄《ふる》ったが、さし当り困ったのは紛失した水差の蓋である。とりあえず黄金で代替えを作らせて用いることにしたけれども、
「なんとご隠居さま、もとの蓋を、秀次さまのお居間で見かけたものがあると、評判が立ったのでございます」
と、一氏は言うのであった。
男同士のやりとりに遠慮して、口をつぐんでいた|とも《ヽヽ》が、このときたまりかねて、悲鳴に近い声をあげた。
「式部少輔どの、それでは秀次が刺客を傭い、叔父殺しをたくらんだことになるではありませぬか」
「もとより、お居間のどこを探しても蓋など出るはずはござりませぬ。為にする者が、故意に流した誹謗なのに、噂ばかりは面白おかしく拡まって、下民どもの茶のみ話に語りつがれているとやら聞き及びました」
老夫婦は、もはや声も出なかった。
(秀次はおとしいれられる……。まちがいなく、いずれは殺されてしまうに相違ない)
風前の灯火《ともしび》のようにその一命が危うく思われて、居ても立ってもいられなくなったのである。
|とも《ヽヽ》は出かけることにした。
大坂へ……。
前田利家夫人お松の助言に従い、北政所お寧々の袖に縋って、秀次の足許にじりじり掘り拡げられつつある破滅への落とし穴を、
(なんとしてでも、埋めてやらねばならぬ)
そう思い詰めたのである。
「わしも行こう」
弥介吉房が、これも憂慮を目に滲ませながら言ったが、ひところより良くなったとはいえ杖を支えに、隠居所の庭先を歩き廻るくらいが精一杯の恢復ぶりでは、たとえ輿ででも旅は無埋だった。
「あなたは休んでいてくだされ。わたくし一人でも、誠心誠意言い解けば伜《せがれ》の身の潔白は証できるとぞんじます」
「たのむぞ」
老妻の手を取って握りしめはしたものの、秀次排除の動きが秀吉の意向に根ざしたものであるならば、弁明も哀訴も──それがたとえ、秀吉の姉であり秀次の母でもある|とも《ヽヽ》の口から出たところで、通じはしないことを吉房は知っていた。
父として、ただ、ひたすら吉房が願うのは、秀次にしろ秀保にしろ、息子たちのつつがない延命であった。三人の子のうち、すでにかけがえのない中の一人を死なせている。
(恋女房お督との、蜜月の甘味すらろくろく味わわぬうちに、あたら唐島《からしま》とやらで命を失ってしまった小吉秀勝……)
|とも《ヽヽ》に、吉房は言い含めた。
「くれぐれも自重せいと、秀次に伝えてくれよ。そこまでの器量|骨柄《こつがら》でもない身が、叔父御のお引き立てを蒙ってともあれ関白の顕職につけた。一期《いちご》の思い出、ありがたい恩寵と感謝して、身のほど知らぬ欲など、ゆめゆめ起こしてはならぬ。我が子が可愛いはだれしも同じこと。太閤殿下がたった今、ただちにお拾に関白職を譲れ、と仰せられたところで理の当然なのじゃ。けっして逆らわず、持つもののすべてを差し出しても、一つある命を保つ算段が肝心じゃと言うてやれ。な? |とも《ヽヽ》」
「わかりました」
「怒りにまかせて意馬《いば》を狂わすな、挑発に乗るな、落度を狙う者どもに、つけ入られる隙を作るなとも、訓すのじゃぞ」
「心得ております」
旅には適さない時期だった。
湿度が高く、気温もむんむんあがる梅雨明けである。風らしい風がないせいか衿もとは汗でねばつき、やたら咽喉が乾いた。めぼしい家来もつれていない。若ざかりのころから使い馴れて、いつのまにかおたがいに、半白の婆になってしまったと笑い合う老女どもの中に、由津《ゆつ》という名の才覚者がいる。
輿脇に附き添って来たのはこの由津と、いま一人は前髪の少年武士にすぎない。木村|寿助重成《じゆすけしげなり》といい、常陸介|重茲《しげもと》の妾腹の子である。秀次の正室|資子《ともこ》が、実家の菊亭家からつれてきた侍女の一人に|宮内卿 局《くないきようのつぼね》と呼ばれた女がい、やがて木村常陸介に想われてその忍び妻となった。
「いっそ宿へつれて帰って、手活けの花にせい」
と秀次も仲をみとめ、資子に乞うて常陸介に与えたが、その腹から生まれたのが寿助であった。
ことし九歳の少童でいながら、|とも《ヽヽ》はこの子に、年並みの幼稚を感じたことが一度もない。目から鼻へぬける悧発さ、仕え方の私心の無さは、いいかげんな大人たちよりはるかにたのもしく、信頼が置けた。
独断的で傲慢な常陸介の態度を、
(好かぬやつ……)
爪はじきして憎む家中の者も、寿助重成には目を細める。進退正しく、よく分をわきまえて、こまかいところに賢い気配りを見せながら、少しも出しゃばろうとしない。
母の宮内卿局はどういう事情でか、寿助を生むとまもなく常陸介と仲たがえし、周囲の失笑を買うほど派手な夫婦|喧《いさか》いをしでかしたあげく、
「お暇をいただきますッ」
「おう、望むところだ。とっとと出て失せろ、顔を見とうもないわ」
「それはこちらが言う科白《せりふ》ですわ。もう一日もあなたみたいなお方とはくらせません」
焼き継いだ茶碗が、ぽろりと二つに割れたような呆気《あつけ》なさで、木村家から出て行ってしまった。
風の便りに聞いたところによると、後日、彼女は面当てがましく、これも自分から三下り半をつきつける形で婚家を出てしまったお督をたより、その口ききでお茶々ご寮人の許へ侍女勤めにあがったという。
常陸介ら関白の側ちかく仕える寵臣たちから見れば、お拾ぎみと茶々どのこそ、秀次の安泰をおびやかす最大の癌腫だ。旧主人資子のもとへでももどるならばまだしも、人もあろうに、
「茶々どのなどに召使われるとは、許しがたい女……。いっそ、あと腐れなく斬ってしまえばようござった」
と、いかにも口惜しげに、その当座、常陸介は刀の柄頭《つかがしら》など叩いて見せていたけれども、
「彼一流の、深謀ではあるまいかな」
こっそり弥介吉房は、|とも《ヽヽ》にささやいたことがある。
「申さばニセ喧嘩じゃ。追い払うたがごとく見せかけて、じつは宮内卿局を茶々どのの膝もとへ送り込んだともいえるではないか」
「諜者としてでござりまするか」
目をまるくして|とも《ヽヽ》も言った。
「こりゃ図星かも知れませぬなあ」
「口外すなよ|とも《ヽヽ》。このような臆測は、だれにも、な」
「ご念には及びませぬが、それにしても木村常陸介、驚き入った策士でござりますな」
「策士、策に溺れねばよいがのう」
おかげで伜の寿助重成は、母なし子になってしまった。本妻が引き取って育ててはいるものの、嫡出の子供らの間に挟まって肩身せまげな様子が、いかにも不憫に見える。
父の常陸介は聚楽第に詰め切りの日常だから、ほとんど肉親の、親身の愛情からは縁のなくなった寿助である。それを憐んで、
「召使うてやろう、隠居所で……」
手もとに呼び寄せたのが吉房夫妻であった。去年の春ごろからだが、まめまめしく寿助は働き、いまはもう隠居所には無くてはならぬ奉公人の一人になっている。
今回の上洛にも、弥介吉房は、
「ぜひとも供させよ」
と、なかば強いる語調で妻に言った。
「由津と寿助をつれて行けば安心じゃ。二人ながら心きいた者ども……。なまなかな家来どもより、いざというときの役に立とう」
「こなたさまはかまいませぬか? 寿助がお世話申さいでも……」
「あり余るほど人手はある。ながい間ではなし、留守宅への懸念は無用じゃが、それよりも|とも《ヽヽ》、京のぼりするならばこのたびは善正寺へ詣でて、応分の寄進などおこない、わしの代参を勤めてきてくれい」
小吉秀勝の遺骨は遺品とともに随兵らの手で戦場から持ち帰られ、いまは洛北嵯峨の亀山に、両親の発願《ほつがん》で善正寺なる菩提所が建てられて、境内の廟墓に眠っている。
夫に言われるまでもなく|とも《ヽヽ》は次男の墓に参るつもりでいた。
秀次を聚楽第に訪ね、事の実否を確めるのはもちろんだが、大坂では寧々に会い、その口添えを頼まねばならぬ。できれば秀吉にもこのさい面会の要があろう。
(前田のお松どの、お督どの……。亡き秀勝の忘れ形見に相違ないと、お督どのが言いきっていた孫むすめの小完《こみつ》も、どのように愛くるしく育っているか)
ひと目、できれば顔が見たいし、もし寄れたらば郡山の城にも立ち寄って、三吉秀保の最近のくらしぶりを把握してもおきたい……。
あれやこれや心づもりを抱えながら、油照りの道中を輿の揺れにまかせていると、気ばかり急いで、老躯はぐったり疲れてしまう。
「ようやく蹴上《けあげ》の里を過ぎましたぞ、お方さま。洛中は、もはや目の前でございます」
由津に励まされて、ほっと息をつき、汗みずくの衿もとへ風を入れるつもりで|とも《ヽヽ》は物見の簾《す》を捲きあげさせた──と、やにわに目に映じたのは往来のただならなさだ。忙しげに人が走る。家並みが混み合う町筋に入るとなおさら人数は多くなって、争うようにだれもが西をさして駆けてゆくのだ。
「なにごとであろ、のう由津、えろう町の者が罵り騒いでいるようじゃが……」
とっくに訊きに行っていた木村寿助が、これも汗びっしょりの顔でこのとき、走りもどって来て、
「盗賊の処刑だそうにござります」
呼吸を弾ませながら告げた。
かくべつ珍しくもない縛り首、打ち首風景……。そんなものになぜ、おびただしい数の老若男女が、目の色かえるのか。
「三十一名にも及ぶ悪党が、数珠《じゆず》つなぎに牢から出され、磔、獄門に掛けられる中で、賊の張本がその子もろとも、釜|茹《ゆ》での極刑に処せられるとか……」
「子供までを釜茹でとは、むごたらしい」
眉を、思わず|とも《ヽヽ》はひそめた。
「前代未聞の刑罰なので、さしも処刑に馴れた京の者どもも胆をつぶし、われ先にと三条河原の刑場へ押しかけているのでございます」
賊魁《ぞくかい》の名は石川五右衛門──。
三好家の旧臣石川|明石《あかし》とやらいう武将の子で、体躯長大、三十人力を有する剛の者だそうだとも聞かされた瞬間、
「なに、三好家ゆかりの者と申すか?」
ぎくッと|とも《ヽヽ》の顔色が変った。
秀次は、父の弥介吉房ともどもはじめ木下姓を冠していたが、秀吉の出世に伴い、やがてその口ききで阿波の名族三好|康長《やすなが》の仮養子となり、三好姓を継いだ。
現在は、さらに転じて羽柴姓に変っているけれども、旧姓はもと通り吉房が受けつぎ、彼は正式には今なお三好武蔵守吉房の名で呼ばれている。
姓を冒したにすぎぬ養子縁組にせよ、ともあれ三好の二字に縁の繋がる立場からすれば、賊の首領が、その旧臣の子だなどという忌まわしい事実は耳にしたくなかった。
しかも釜茹での惨刑とはただごとでない。|とも《ヽヽ》の胸を、
(もしや?)
恐れがかすめた。
「石川なにがしとやらは、どのような大それた悪事をしでかしたのじゃな寿助」
「はい。大坂城内に忍び入り、不敵にも太閤殿下の寝首を掻かんとして、果さなかった男とやら……」
やはりそうだったのか。
(水差の蓋!)
激しい目まいが|とも《ヽヽ》を襲った。
秀次に依頼され、刺客を買って出た賊魁《ぞくかい》だからこそ、秀吉の忿怒は、刑法史上かつてない残忍な手段を選ばすところにまで一気に昇りつめたのだろう。
暗殺者と、それを使嗾《しそう》した者の接点にあるのは、三好家との縁故である。
(でも……石川五右衛門とやらは、秀次の名を口にしたのだろうか。噂を裏づけでもするような自白を、調べの庭でしてのけたのか?)
ちがう。そんなはずはない。盗賊を使って叔父殺しを企むほど、まさか秀次は血迷っていまい。ありもせぬことに重刑を科すのは、老臣の中村一氏も指摘した通り、たまたま大盗を捕えた機会を逆手に用いて、水差の蓋にまつわる風説に結びつけようとする反秀次派の、卑劣な陰謀に相違ない……。
(また一つ、秀次の足もとに陥穽が掘られた!)
白昼というのに、|とも《ヽヽ》は目の前がまっ暗になった。
「お顔の色がひどくお悪うございます。旅寝を重ねて、お疲れも積もっておりましょう。このまま急いで聚楽第にお入りあそばしませ」
由津をはじめ供廻りのすすめを退けて、|とも《ヽヽ》は頑なにかぶりを振った。三条河原へ行ってみよう。処刑される者どもの罪状書き……。石川五右衛門の犯行について高札の面《おもて》に何と書かれているか、それをたしかめなければ立ち去れぬと判断したのだ。
刑場には矢来《やらい》が組まれ、すでにびっしり見物人が囲りをかこんでいた。
石は灼け、水は細って、炎天の河原には日ざしを遮る蔭ひとつない。大きな羽釜《はがま》が据えられ、烈々と下で火が焚かれて、黒煙が地を掃きながら時おりどっと風下に吹きつける。焔をかいくぐって柴薪を投げこむ刑吏たちの形相が、地獄の獄卒そっくりに見えた。
青竹を編んだ唐丸籠が並び、三十一人の盗人どもはうしろ手にくくられたままその前に曳き出されている。
ひときわ目につくふてぶてしげな巨漢が、石川五右衛門であろう。高札を読むと十人が掏摸《すり》、窃盗、脅しなどの常習犯で、これは打ち首、十九人が火附け強盗、殺人などの兇悪犯で磔に掛けられる、とある。
五右衛門は三好の旧臣──。十六歳の弱冠で早くも主家の宝蔵に忍びこみ、黄金《こがね》造りの太刀を奪って出奔した。これを悪事の手はじめとして近畿一円、西国・四国までを股にかけて盗みを働き、人を害したことも数しれない。このたび悪運尽きて捕えられ、小伜と共に釜|煎《い》りの刑に処せられるのも、世のみせしめとせんがためである……そんな趣旨の罪状書きが打ちつけてあり、どこを探しても大坂城潜入に関しては触れていない。
まして太閤の暗殺だの、関白秀次がそれを石川に命じたなどといった不穏な文言は、ただの一句も見当らないのに、だれが流す取り沙汰か、ここでもしきりに交されているのは、水差の蓋にまつわる風説だった。
濛々と湯気を噴く大釜の脇に、十九本もの磔柱が横たえられた異様さは、もうそれだけで|とも《ヽヽ》の全身を総毛立たせた。胸がむかつき、一滴の血すらまだ目にしないうちから吐き気をこらえきれなくなった。
床几《しようぎ》に腰をおろしていた武士が立ち、手の采配を一閃させて何やら喚いた。刑執行の開始を告げるそれが合図であったらしい。罪人のうち十九人が追い立てられ、磔柱の上に大の字|なり《ヽヽ》にくくりつけられた。麻縄が曳かれると、次々に柱は起き上り、あらかじめ掘られていた穴に根もとが差し込まれて固定される。
囚衣を着た人間が、屏風を立て回しでもしたように高々と地上三尺の空間に並ぶ。見物はどよめき、重なり合う頭が波のうねりさながら揺れ返した。
打ち首の罪人が、これも兵卒どもの笞《しもと》や棒にこづかれながら中央へ進み出た。彼らの前には円型の大穴が掘られている。その縁《ふち》に添って囲むように|跪 《ひざまず》かされたところを見ると、首も胴体をも、斬り放つと同時に穴の底へ蹴込むつもりであろう。
けたたましい泣き声が、いきなり川水に跳ね返った。石川五右衛門の子供である。輿が土手に据えられていたため、近ごろ霞みがちな|とも《ヽヽ》の老眼には、刑場の俯瞰《ふかん》が遠く望まれるだけだった。刑吏らのかげにでも隠れていたのか、承知しながら、うっかり姿を見落としていた幼い存在……。それだけに、不意打ちにもひとしい泣き声は|とも《ヽヽ》を愕かした。衝撃が、乱紋のように胸中に拡がる……。
八ツか九ツと見える男の子であった。木村寿助と同じぐらいの年かっこうだ。身につまされてか、息をつめ、とび出しそうに両眼を見ひらいて寿助も少年をみつめている。
斬首から始まると思ったのに手順は逆で、重刑から行なわれるらしい。まっ先に殺されるのは子供であった。ぐるぐる巻きにされたその身体を横抱きにかかえて、屈強の兵卒が一人、大釜への足場をあがり出した。
五右衛門はすこし離れた場所に両足を踏んばって立ち、阿修羅の血相で我が子のもがきに視線を凝《こ》らしていたが、釜のきわまで登りつめた兵が、両手で子供を掴み、頭上にたかく持ちあげた刹那、
「泣くなッ」
臓腑を吐きでもするような悲痛な声をふりしぼった。
「泣くな、見ぐるしいぞ小若ッ」
父性の慈愛の最後の奔出であった。子供がハッと気をとり直したとたん、その全身は宙に舞って、煮えたぎる熱湯の底に没した。
噴出する水柱、悪鬼の咆哮じみた轟々《ごうごう》たる釜鳴り……。五右衛門が突如、走り出した。縄尻を取っていた警吏が仰向けざまに転倒する。五右衛門は足場を駆けあがり、たった今、子供を呑み込んだ釜の中へみずから身を躍らせて飛び込んだ。阿鼻叫喚の地獄を、まっ白な湯気がたちまち覆う。
暑熱の河原が、一瞬、凍りついた。物音がまったく絶えたのだ。釜鳴りさえが止まった──と感じたのは、|とも《ヽヽ》の知覚が麻痺したせいかもしれない。
「もうよい。磔も斬首ももう見とうはない。輿をやっておくれ由津、早う輿を……」
床の敷物に突っ伏して、こみあげてくる苦い胃液を|とも《ヽヽ》は溢らせまいと身をよじった。口に当てた手巾《しゆきん》を、それはみるみる黄色に染めた。
聚楽第に到着したとき、しかし秀次は不在だった。
「狩りにお出ましあそばしました」
告げたのは、木村常陸介とならんで秀次の股肱と目されている前野出雲守長重である。雀部《ささべ》淡路守、阿波|杢之助《もくのすけ》、日比野下野《ひびのしもつけ》、羽根田|長門《ながと》、渡瀬左衛門佐《わたらせさえもんのすけ》ら入れかわり立ちかわり挨拶に出てくる重臣は多い。
いずれ劣らず秀次に信任され、関白を頂点とする豊臣政権の、実際の運営に手腕を発揮している者どもらしい。|とも《ヽヽ》にはでも、なじみの顔は一つもない。黙々と主《あるじ》の留守をまもりつづけている犬山城内の宿老たちこそを、頼み甲斐ある臣僚と見ていたのに、いつのまにか素性あやしげな新参者が幾たりも召しかかえられ、秀次に寵されて、洛中での帷幄に参画している事実が、なにやら不安に思えてならなかった。
「ご母公さま」
と彼らは|とも《ヽヽ》をうやまって、下へも置かぬ丁重な扱い方をする。侍女たちに命じてすぐ、湯浴みの仕度をさせ、汗を流して座敷にもどれば腰を揉ませ扇の風を送らせるなど、気をつかった。
「ちとご疲労ぎみに拝されますが……」
「路次でいやなものを見てしまいました。親ばかりか、いとけない者まで釜茄でに……」
「おお、盗賊どもの処刑ですな。あんなものをごらんあそばしては、気分が悪くなられるのもむりはござりませぬ」
と前野はなぜか、石川五右衛門の名には触れたがらない顔で、膳部の用意を言いつけ、
「念のため、のちほど典薬を差し向けましょう。疲れなおしの酒《ささ》など召して、ごゆっくりおくつろぎなされませ」
退ったが、あくる日は正室の菊亭資子をはじめ、秀次の妻妾たちがそれぞれの子をつれて目通りに出た。
子の数はまた一人、増えている。於十丸《おとまる》と名づけられた三男坊で、母は北野の松梅院の娘|おさご《ヽヽヽ》御前であった。
まだ生まれてまもない乳児だが、
「よしよし、よいお子柄じゃ」
乳母の手から|とも《ヽヽ》は抱き取って、あやしたり頬に頬をすりつけたり、しばらくは心の痞《つかえ》を忘れた。
「仙千代どの、於百丸どの、お亀上臈までが、また一段と愛くるしゅうおなりじゃな」
孫たちに笑いかけると、もじもじ羞《はにか》む男の子たちを尻目に、中納言局お辰を母に持つ亀姫が進み出て、
「祖母《ばば》|たま《ヽヽ》、今日はようお越|ち《ヽ》」
例のこましゃくれた片コトで愛嬌を振りまいた。
「なんとまあ巧者なことよの。こたびは前田利家、お松夫妻の媒酌にて、大坂におわすお拾ぎみと|許 婚《いいなずけ》の約を結ばれたそうな。めでたいのう亀どの。いずれ祝言のあかつきは幾千代までも、むつまじゅう栄えめされよ」
祝福されても意味はわからず、ただニコニコ、蝕歯《むしくいば》を覗かせて甘え寄る様子が、たまらなくいじらしい。
嫁たちとも話を交して、その日はまぎれたけれども、翌日もまだ、秀次は帰館して来なかった。
「日が惜しい。先に秀勝の墓参をすませよう」
嵯峨の善正寺に詣で、仏前に供養してもどっても、なお秀次帰邸の気配はない。
「まるで母との対面を避けてでもいるようではないか」
|とも《ヽヽ》は焦《じ》れ、さすがにむっとして訊ねた。
「いったい、どこへ狩りにまいったのじゃ。重責にある身を忘れ、政務を人まかせにして遊びくらすなど、太閤への聞こえも憚かられる。連日狩って狩りつくせぬほど獲物のおる野山が、洛外のどこにあると申すのか」
口を濁して、聚楽第の者は秀次の行く先を明かさない。機敏な木村寿助が、
「どうやら比叡《ひえい》のお山らしゅうござります」
さぐってきた。
「なに、延暦寺《えんりやくじ》の境内とな?」
「はい」
「何を血迷うて秀次は、そのような人もなげな振舞いをするのであろう。比叡山は都の艮《うしとら》、王城鎮護の霊場として上下の尊崇あつい潔戒の地じゃ。殺生も、固く禁ぜられているはずではないか」
「故にこそ鹿いのしし、狐狸《こり》や兎などが数多く棲むわけでござりましょう」
由津も片脇から、言いづらそうに口を添えた。
「先のみかどの諒闇《りようあん》中にも、関白さまは北山あたりにて狩をあそばし、何者かの手で一条の札ノ辻に、『先帝の手向《たむけ》のための狩りなれば、これぞ殺生関白という』との、落首を貼られたとやら承りました」
「いや、あれは父への孝養のためであった。院への服喪さなか、獣《けもの》を殺したは考え無しな愚行にちがいないが、吉房どのの病|篤《あつ》しと聞き、精をつけてさしあげたいとの一心から鹿肉を求めたのじゃ。養生喰いの代《しろ》に、との伝言ともども常陸介に持たせて、犬山の城へ届けさせて寄こしたは由津も知っていよう」
「存じておりますとも。ですが世間の口はさがないものでございます。摂政と殺生の語呂合せを面白がり、以来かげでは秀次公を、殺生関白と呼び奉っておるとか……」
「禍々しや。仇名もあろうに、殺生関白とは……」
耳を、|とも《ヽヽ》は塞ぎたかった。その手を、指を、こじあけるように京にいると、聞きたくもない噂が、しかし強引に、耳に入ってくる。狩り場からの帰途、不猟に癇を立てたのか、畑仕事に余念のない百姓を、秀次がいきなり狙い撃った、とか、芒《すすき》の原を行く旅人を遠目に見て、
「猪にまちがいない」
言い張り、近習たちの制止もきかず射殺した……あるいは路傍にうずくまる乞食を、
「醜く、汚い。生きていたところで詮ない奴ばら……。いっそあの世へ送ってやろう」
抜き打ちに斬って捨てた、といったたぐいの巷説である。誤射ぐらいは、或はあったかもしれない。でも、針ほどのことを棒にして秀次の暴慢ぶりをきわだたせたのは、『殺生関白』の仇名に、むりやりにでもその行為を結びつけたいための作為としか推量のしようがなかった。
「下民どもの口こそが、むごい」
|とも《ヽヽ》は恨んだ。誤解と誹謗の渦に巻き込まれかけながら、身を慎んで災厄を逃がれようともせず、相変らず狩猟にうつつをぬかしつづけている秀次のうかつさが、たまらなく歯がゆくもあった。
ようやく、それから二日後に秀次は聚楽第へもどって来た。
「ご帰館あそばしたようでございます」
侍女の由津に告げられて|とも《ヽヽ》が迎えに立とうとしているまに、秀次はもう、棟と棟を結ぶ渡り廊下のはずれにその長身を現わして、つかつか大股に近づいて来た。
我が子である。
それなのに|とも《ヽヽ》は、ぎょっとして思わずその場に居竦《いすく》んだ。
(見も知らぬ|あか《ヽヽ》の他人が、しかも狂暴な害意を剥《む》き出しにして自分のほうへ突進してくる……)
一瞬、そんな恐怖に、わしづかみされたからだ。
秀次の相貌はそれほど怕かった。すさまじいまでに顔色は蒼《あお》ざめ、眼は二つながら血走って挑みかかるような光を放っている。
「ご上洛を、すこしもぞんじませんでした」
言いわけする声も老人さながらしゃがれて、一歩一歩、床板を鳴らさんばかり足つきは強いのに、そのくせ、のめりそうに上体はふらつき、蹌踉《そうろう》と、宙を踏みでもしているような危なかしい印象を受ける。
(酔っているのではないか?)
それも、泥酔に近い酔い方でもしているのかと、|とも《ヽヽ》は怪しんだ。
(どう考えても普通ではない)
声にしろ様子にしろ、聞き馴れ、見馴れた息子の|それ《ヽヽ》とは、到底、思えなかった。
殺伐とした憔悴の気配──。
(秀次が纏っているものは、その移動につれて共に移動し、潮を含んだ海霧が音もなく鉄材を腐蝕し尽すように、周囲のすべてを荒廃させてゆくのではないか?)
母親でいながら|とも《ヽヽ》が、そんな恐れをさえ無意識に抱いたほど、全身から秀次が放っている雰囲気は、歪《いびつ》な、異様なものだったのである。
母親の来訪を、知らなかったという。これも嘘だ。京着したその日のうちに、
「狩場へ使者をつかわしました。おっつけご帰館あそばすはずです」
と重臣たちは言っていた。
早速にも飛んで帰ってよいはずのところを五日も六日も顔を見せず、あげく、やっともどれば、別人でもあるかのような違和感で、こちらを戸惑わせるとはどうしたことか。
「秀次、自重してたもれ。気にかかる取り沙汰が犬山の城にいてさえ聞こえてな、父上もこの母も、日夜、心痛のし通しであった。じっとしておられず来てみれば、そなたは狩りに出かけてもどらぬ。それも比叡のお山、殺生禁断の浄域に勢子《せこ》を入れての遊猟という。そのような無茶をなぜしやるのじゃ」
「下民どもは近ごろわたくしを、殺生関白と言い囃しておるとやら……。摂政の二字をもじって殺生とは、秀逸な語呂合せではありませぬか。この異名の手前だけでもせいぜい勢出して、鳥けものを狩ってみせねばなりますまい。近ごろ狩場に入りびたるのはそのためでございます」
笑う声までが狂気じみて、しかも蝕《むしく》った古木《こぼく》でも叩くように虚《うつろ》に響く。
思わず|とも《ヽヽ》は、きっとなった。
「なにが可笑しい。なにを笑うのじゃそなた。忌まわしい仇名などつけられたら、それを打ち消すよう努めねばならぬのに、ますます殺生に精出すなど上《かみ》に立つ者のすることか」
語気をはげましたとき、
「申しあげます」
座敷の敷居ぎわに近習とみえる若侍がうずくまって、
「仰せの通り|賄 方《まかないがた》の者両名、お的場《まとば》の裏へ引き据えました」
と告げた。
「よし、いま行く」
立ちかける秀次の袖を捉えて、
「行くとは、どこへ?」
いまは|とも《ヽヽ》も、怒りを隠さなかった。
「ようよう顔を見せたと思えばそわそわと、母の意見を空耳に聞き流し、またぞろ、いずこへ参るつもりじゃ秀次」
「どこへも行きはしませぬ。邸内の的場ゆえ、おっつけもどります」
と、取られた袖を振り払って出て行くのを、木村寿助に命じてすぐさま|とも《ヽヽ》は追わせた。なにやら様子が訝しい、伜に気づかれぬよう仔細を見届けてまいれと言いつけたのである。
ところが待っても待っても寿助は帰らず、秀次もそれっきり姿を現わさない。
「いつもの寿助には似合わぬ仕方じゃ。由津、探してつれて来てたもれ」
女|主人《あるじ》に劣らず、少年のもどりの遅さを気にしていた由津が、言下に立って入側《いりかわ》の廊に出てみると、寿助は意外にも廊下のはずれの妻戸のきわに、ひとり膝をかかえてつぐなんでいた。尻を蔀《しとみ》の桟《さん》に乗せ、落縁《おちえん》に両足をおろして庭へ視線を投げているのだが、横顔からもまざまざ、屈託ありげな様子がうかがえる。
「どうなされた寿助どの、こんなところで……」
走り寄って由津は問いかけた。
「お的場とやらへは行かれたのか?」
「まいって、恐ろしいお仕置きを目にいたしました」
「お仕置き?」
「入洛なされたその日は、盗賊石川なにがし父子の釜煎りの刑をごらんあそばし、輿の内にて吐きけに襲われたお方さまです。いま、わたくしが見た惨刑の逐一を、ありのままお耳に入れたら、お身体の不調がぶり返すに相違ありません。どう言いつくろったらよいか途方にくれて、考え込んでいたところでした」
「いったい何をそなたは目撃したのです?」
「お的場の裏の空地にうしろ手にくくられて、一方は六十がらみ、一方は四十半ばと見える男が二人、ひき据えられていました。二人ながら料理人の頭らしく、彼らの前に床几を置かせ、じきじき訊問なされたのは関白さまでした」
詳細はわからない。前後の状況から判断すると、狩場での今朝の食事に不都合があったらしい。飯米に小石が混じってい、運わるくそれを秀次が噛みあてて、烈火のごとく怒った、そして帰館すると早々、賄方の責任者二人を呼びつけ、落度を難詰しだした、と言うことのようだ……。
「汝らはこのおれに、石を食わせた、どんな味のするものか、おれも汝らに食わせてやるとおっしゃって、むりやり口をこじあけさせ、近習衆に命じて庭前の小砂利を、関白さまはそそぎ入れさせました。抜刀あそばし、噛み砕け、そして呑めと、しきりにお責めなされます。男どもの歯は折れ歯肉はやぶれ、口中からおびただしい血泡が溢れ出ました。苦悶しながらも命惜しさにか、ようよう砂利を呑みくだすと、さらにまた彼らの口いっぱいに、同じく砂利を詰め込ませて噛め噛めとお責めになるのです」
老いたほうの料理人頭が、ついにたまりかねて血まみれの砂利を吐き出し、斬るならお斬りめされ、と叫びはじめた。飯の中に、たったひと粒、小砂が混じっていたぐらいのことで、このような情け容赦のない仕置きをなさるこなたさまは、人間ではない。鬼じゃ、魔じゃ、いずれにせよ胃の腑に砂利が詰まって悶死に至る命……、とっととご成敗なされよ、あの世とやらで、ご運の末をとっくり眺めておろうほどに──そう罵られ、
「おのれ、猪口才《ちよこざい》なその舌の根、たったいま封じてやるッ」
秀次は激昂して太刀を振りおろした。
「断末魔の絶鳴とともに、男二人の首は地に落ちました。手前、そこまで見届けて急ぎもどってきたのですが、とてもお方さまに申しあげる勇気はなくて……」
「もっともです。けっしてそんなことをありのままお耳に入れてはなりません。なんとかうまく、取りつくろわねば……」
思案にくれるうしろで、
「二人とも、気づかいには及ばぬ。悉皆《しつかい》、ここで聞きました」
弱々しい声がした。
「あッ、あなたさまは……」
はじかれたように由津と寿助は振り返った。沮喪《そそう》しきった肢体を、かろうじて柱に寄り縋《すが》らせて、ものの影ででもあるかのようにひっそりと、|とも《ヽヽ》が立っていたのであった。
もはや諌めるとか、意見して翻意させるといった段階ではないのを、|とも《ヽヽ》は知った。
(秀次は狂っている!)
そうとしか思えない。もともと幼少から、常軌を逸した言動を時おり見せる伜たちではあった。孫七郎と呼ばれていた少年時代、秀次が弟秀勝の片目を、平然と突きつぶしてのけた日の驚愕は、|とも《ヽヽ》の脳裏に刳《えぐ》りつけられて消えるときがない。
侍女の小今を空堀の底に逐《お》い落とした三吉秀保──。末息子の情緒不安定も昔からだし、戦歿した秀勝はそのむっつりぶり、偏屈ぶりが、夙《つと》に有名だった。
「扱いにくい変り者……」
と、口さがない召使どもに蔭でこそこそ譏《そし》られているのを、どれほど辛い思いで|とも《ヽヽ》は聞いたことか。
秀吉などは、まして遠慮のなさを|まる《ヽヽ》出しに、面と向かってさえ、
「姉者の子ではあるけれど、どうも三人の伜ども、三人ながら出来がよいとは世辞にも言えぬなあ」
こきおろしたことが一再ならずあった。
なまじ叔父、甥の間柄だけに、ささいなしくじりや落度にも腹が立つのだろう。鶴松やお拾が生まれる前は、数少ない肉親ではあり、後継者ともみなしていたから、なお不満は募るのか、しばしば癇癪を爆発させ、
「勘当する、知行を召し上げる、押し込めに処する」
といった激越な叱責も叩きつけられた。
そのたびに間にはさまって、|とも《ヽヽ》ははらはらし通してきたのだが、秀吉とも子供らとも、同じ素因を分け合っている|とも《ヽヽ》とすれば、自身の負う血の宿命にも怯《おび》えが常につきまとう。
(秀次たちを人の屑のごとくおとしめるけれども、藤吉郎よ、そなたとて尋常円満な気質の持ちぬしとは、ゆめ、言えぬのじゃぞ)
そんな弟への批判も、消えるときはなかった。普通人とはちがう。その非凡さゆえに成就した天下取りの偉業であったかもしれないが、正常な判断を逸脱すると、非凡さは時に目を覆う残酷行為となって人心を慄えあがらせた。
「わしは人殺しは大嫌いだ」
秀吉の口癖を、|とも《ヽヽ》はいつも奇妙な思いで聞く。人殺しは武将の表芸ではないか。商売ではないのか。戦場での秀吉の殺戮ぶりが、どのようなものか|とも《ヽヽ》は知らない。あるいは言葉の通りできれば極力、無意味な流血を避けるべく努めているのかもしれないが、いったん、その意に逆らうような事態が生じると、残虐性は常人の常識を越えて、狂的なまでの凄みを帯びた。
過去、幾つもの事例を、|とも《ヽヽ》は耳にしている。つい先ごろ三条河原でおこなわれた石川五右衛門父子の釜茹での刑など、もっとも記憶になまなましいものだし、聚楽第の番所の壁に何者かが政道をあげつらう落首を貼り出したのを怒って、番衆すべてを捕え、一日目に鼻を削ぎ、二日目に耳を切り、三日目に目をえぐり、四日目に至って逆さ磔にかけたと聞いたときは身の毛がよだった。
天正十七年、大坂の町民どもが叛乱まがいの騒動を起こしたさい、秀吉が見せた憤怒の形相も、|とも《ヽヽ》には到底、普通とは思えなかった。悪鬼を連想させるすさまじさであった。大坂は、いわば膝元……。そこの住民に背《そむ》かれた意外さが、秀吉の激発を一層、煽ったのではあろうけれど、石田三成に命じて彼は天満《てんま》町、森町の町家ことごとくを打ちこわさせ、火を放って焼き尽させた。そして老若男女、百数十人もの町民を逮捕し、数珠つなぎに洛中へ曳きずって来て全員、磔柱にかけさせたのである。縄附きの中には八十すぎの老婆もあり、七歳に満たぬ小童まで混じっていたし、たまたま商用で天満に来ていて、巻き添えの厄に遇った他国者さえいたという。
「人殺しは嫌いだ」
この秀吉の言葉は、だから|とも《ヽヽ》にすれば疚《やま》しさの糊塗《こと》か、じつは好きな殺戮を、裏返して表現しているとしか思えない。
「世の侘び者、唐人までも茶をたしなむ輩はやってこい」
と触れ出して、北野の小松原で催した大茶湯……。あるいは京の町筋を通りながら、
「これからわしは、内裏へ能を舞いにゆく。お前らも見に来い来い」
往来の|女 童《おんなわらべ》にまで呼びかける気さくさから、親しみやすい庶民的な人柄と錯覚されがちだが、秀吉の本心は、むしろ逆だとつねづね|とも《ヽヽ》は見ていた。
大茶湯も能も、自身が点《た》て、演じるのを、見せびらかしたい顕示欲の現れだし、富に飽かして集めた茶道具のさまざま、黄金の茶室に凝縮されている権勢を誇りたいためである。
「侘び者哀れと思し召し、お手ずから茶をくだされる」
と言いながら、その口の下で、
「これほどのご憐憫を無視し、北野へ参らぬ者は向後、茶はおろか焦《こが》しさえ点てること罷《まか》りならぬ。不参加の茶人の茶席に招かれた者も、同罪と断ずるぞ」
と、冷ややかな本心を覗かせている秀吉なのだ。
日本中がこのお触れ書きに驚きあわて、片田舎からですら暇と路銀を費してはるばる参りのぼったのに、いざ来てみれば向う十日間催されるはずだった茶の湯は、初日たった一日きりで中止されてしまっていた。
「九州で一揆が起こったからだ」
というのが取りやめた理由だが、天下さまの武力をもってすれば辺土の国人一揆など蚊に食われたほどの痛みでもあるまい。
つまりは例によって、衝動的に思い立ち、たちまち飽きて投げ出した……それだけのことにすぎないのである。しかしいったん、天下人の口から発せられた令達となれば、茶の湯のような遊び事でも波紋は大きい。甚大な影響を津々浦々にまで及ぼす結果になるのだが、恣意を通しつづけ、驕りに馴れてしまった秀吉の感覚には、それがどれほどの人騒がせか理解できなくなっているのだ。
(本当に侘び者に不憫をかけ、彼らと倶《とも》に茶を楽しむつもりなら、一日こっきりでやめてしまうなどという自分勝手はしないはずではないか)
と、|とも《ヽヽ》はいぶかる。
(十日間、興行されると思えばこそ南の果て北の果てから旅寝を重ねて来たのじゃ。それなのに、やっと北野へたどりついてみれば、はやばやと茶席は取り払われ、すでにもとの小松原……。狐につままれた顔で帰って行った者が無数であったと聞いている)
秀吉はまた、何かというとすぐ、大きな作り髭を附けたがった。
「およしなさい、みっともない」
遠慮会釈なくきめつけて、夫婦喧嘩も辞さないのは正室のお寧々だし、
「よいではありませんか、たかが附け髭ぐらい……。稚気《ちき》がおありになるからですよ。髭薄の太閤さまが、せめて附け髭で威厳を保ちたいお気持、察しておあげになってもよいのにねえ」
と侍女たちなど、ひそかにそれをあげつらうが、|とも《ヽヽ》は秀吉の作り髭を稚気とも無邪気とも見ていない。
尾張中村での貧農ぐらし……。その苦しさ悲しさを、骨髄に徹して思い出の中に共有し合っている姉弟《きようだい》だけに、秀吉の劣等意識がどれほど深刻なものか、|とも《ヽヽ》にはよくわかるのである。
附け髭をしてまでも自分を大きく見せずにいられない心情は、この虚勢を嗤う者に苛烈な攻撃となってほとばしる。
武将たちは時に敵に回り味方となっても、利害を共にし、同じ戦列を共に戦い歩んできたいわば仲間だ。しかし彼らの浮上のかげに蹂躪されつづけた庶民層はちがう。
ひどい目に合わされ、搾《しぼ》り取られた分だけ貧乏人たちは権力者に反感を抱く。潜在的に、浮上した者たちとは相容れない敵なのである。過去の貧しさを憎悪し、自身の出自《しゆつじ》を嫌悪して皇胤説までを世に流布したがっている秀吉が、作り髭に象徴するものは、日輪の申し子とまであがめられねばならぬはずの、権威である。それに対して楯つく者への、髭は無言の恫喝であり威嚇なのだ。
ところが庶民らは、附け髭をたんに滑稽な作り物としか受け取らない。成り上り者への反感と嫉妬が、嘲笑となって虚像のこきおろしの中にあらわれる。
敏感な秀吉は、先刻それを嗅ぎつけている。彼がもっとも忌み嫌うのは、だから、彼自身の恥部ともいえる出身層──庶民どもなのであった。
下剋上の世の中という。
水呑み百姓の小伜から太閤にまで昇りつめた秀吉は、下剋上の範を身をもって示したわけである。それだけに同じような底辺の階層から、上《かみ》を剋《こく》す者が出てくるのを極端に警戒した。第二第三の彼自身の出現……。それを恐れたのだ。
一般への締めつけは、だからこそ前例がないくらいきびしかった。「厳世《げんせい》の厳法《げんぽう》」と嘆じて言う者がいるほど、検地にしろ貢物の取り立てにしろ、課役の割りあてにしろが過酷をきわめた。
(しかも老来ますます、事を処するに当って判断に歪みが生じてきている……)
|とも《ヽヽ》にはそれが気がかりでならない。
(秀次や秀保を、愚物の骨頂のように蔑《おと》しめるけれども、そう言うこなたとて、まともではなかろうが……)
とは、しかし秀吉に、面と向かって言える抗議ではない。
(狂気と狂気のぶつかり合い……)
それを回避する算段こそ急務だと判断して、|とも《ヽヽ》は木村常陸介、前野出雲守らをこっそり居室に招いた。潔戒の地での、ほしいままな狩り、賄方に加えた責め苦のむごたらしさなど、すでに重臣たちも承知しているはずの異常を語って、
「可哀そうに、秀次は病んでいるとしか思えませぬ。関白の職責が、あの子の荷には勝ちすぎているのじゃ。辞職させ、犬山の城に引き取って保養させたいが、お手前がたのお考えはいかがなものか?」
諮った。
「とんでもない」
と、木村も前野もが、しかし異口同音に反駁した。
「関白さまは心身ともにご壮健です。連日このところ狩場に赴かれながら、お疲れの気配も見えぬのがその何よりの証拠……。ただし、少々苛らつき気味には拝されます。それも、でも当然ではありますまいか。根も葉もない中傷が囁かれ流言が飛び交い、まるで太閤殿下とのおん仲を、一触即発の瀬戸ぎわででもあるかのように風評されては、平静を欠かれるのも無理からぬことと申せましょう」
まくしたてる常陸介に同調して、
「なぶり殺しにされようとどうされようと、たかが料理人風情……。いささかでも、それでお気が晴れるならば、結構ではござりませぬか」
と、前野までが言ってのけるのを、|とも《ヽヽ》は呆れ顔でさえぎった。
「これは歴々のお言葉とも思えぬ。殺生関白などという聞くだに忌まわしい仇名で、近ごろ呼ばれはじめた秀次ではありませぬか。むごたらしい成敗が噂となって流布したら、それこそ仇名を裏書きするようなもの……。叔父御の逆鱗に触れてお咎めを蒙るより先に、奇矯な振舞いのすべては脳病ゆえと披露して犬山につれてもどれば、なんとか世間を取りつくろうこともできるはずじゃ。今はひたすら、秀次の身の安泰のみを心にかけよと国許を出しなに、夫の武蔵守吉房どのもくり返し念を押しておられましたぞ」
「失礼ながらそのお気弱が、かえって災厄を招き寄せる因《もと》となるのでございます」
木村常陸介がきっぱり言い切った。
「もとはといえば関白さまを窮地に陥れんがために、石田治部らが故意に流している中傷です。われわれもはじめは打ち消そう、事実無根であることを証しようと躍起になりましたが、昨今は考えを改めました」
石田らの挑発を受けて立って、あべこべにこれを叩きつぶすほか、活路は見いだせない、積極戦法に転じて、むしろ石田派をこそ窮地に逐い込むべきだと常陸介は息巻くのであった。
だが、三成らの背後には、お拾に全権を渡したいとする秀吉の意志が働いている。石田派への敵対をむき出しにすることは、太閤の意志に刃向かうことになるのではないかと、|とも《ヽヽ》は言い返した。
「では、這い這いがやっとの幼児に政治がとれますか?」
独特の皮肉っぽい調子で、常陸介が反問した。唇の端がめくり上り、持ち前の白い、鋭い犬歯が覗く。一種の兇相と、|とも《ヽヽ》の目はそれを見るけれど、常陸介の言い分|じたい《ヽヽヽ》には聞く耳を捉える説得力があった。
「家督はおろか、何もかも太閤が、お拾ぎみに譲りたいお気持はわかります」
と、彼は言う。だが、今すぐその希望を具体化はできない。お拾が成人するまでの中継ぎとして、秀次の存在はぜひ必要なのだ。たとえ早急に秀次の手から関白職を奪ったところで、一歳や二歳のお拾にそれが与えられないことぐらい太閤は心得ているはずである。
「にもかかわらず、石田治部らが不穏な策謀をこころみだした蔭には、彼ら自身の野心が潜んでいます。お拾ぎみの成長を待つあいだ、その後見《うしろみ》と称して思うまま政権を左右せんとの野望──。それあればこそ目の上の瘤と見て、秀次卿を彼らは除きたがっているのでござりますぞ、ご母公」
「太閤とは本来、関白職を退いて隠居したお方の呼称でな、それじたい何らの権限を持つものではないのです」
と前野長重の口ぶりも強かった。
「石田三成、増田長盛ら五奉行どもは、したがって秀次卿の配下につき、関白の執行機関に属して働くのが当り前なのに、彼らは太閤の手足となり、その意志の代行者のごとく振舞って関白さまをないがしろにしています。沙汰のかぎりではござりますまいか」
秀次の側近に仕える聚楽第家臣団の、この憤懣は、|とも《ヽヽ》にもわからなくはないが、
「このさい石田らの野望をくじき、将来違背なくお拾ぎみに一切を渡すむね、太閤殿下に誓いを立てて時を稼ぐうちには、やがて殿下のご寿命も尽きます。太閤さえいなくなれば秀次さまのお一人天下……。大きな声では申せませぬがお拾ぎみなど煮て食おうと焼いて食おうと意のままになるはずです」
と囁かれれば、やはり無性に恐ろしい。
「ご案じなされますなご母公。石田らの専横を憎む大名は少なくありませぬ。朝鮮役の出費にも苦しんでいる彼らに、われわれ、如才なく金を貸し、ひそかにお味方につけるなどそれなりの手を着々打ってきたのは、ご承知の通り……。伊達どの細川どのは中でも借りがしらです。しかもこの前野あたり、細川忠興侯の側室腹の息女を、あらかじめ妻に申し受け、姻戚のよしみまで通じておる周到さでございます。ま、あまりやきもきなさらず、成り行きを見守っていていただきとうぞんじますな」
と胸を反らせて常陸介は笑った。いかにも勝算ありげな、確信に満ちた哄笑であった。
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熊 野 牛 王
石田治部らを野心家ときめつけるけれども、木村常陸介や前野長重など関白帷幕の武士たちもまた、彼らなりの権勢欲の虜《とりこ》となっているとしか、|とも《ヽヽ》には思えない。
(おお、嫌じゃ、嫌じゃ)
政争の渦の、どちらもから秀次を引き離し、犬山の父母の手許へつれもどしてしまってこそ、はじめてその、一身の安泰だけは計れるが、
(それをするにはどうしたらよいか。秀次をどう説き伏せれば、関白職はじめ一切の権威を、投げ出させることができようか?)
心をいくら労しても適切な方法は思いうかばない。
いま前田利家の妻お松は、大坂の屋敷にいるという。女は女同士、お松に会い北政所お寧々にも対面して、相談してみようと|とも《ヽヽ》は思い立った。二人ながら頭の切れる女たちである。
「悩みごとのあれこれを打ちあけて話せば、かならずやよい智恵を貸してくれるにちがいない。のう由津、そなたの考えはいかがじゃな?」
「至極のご思案とぞんじます」
由津もうなずいてくれたので、早速、下坂《げはん》の仕度にかかりかけたやさき、大和郡山の城から使者がやって来た。年のころ二十前後と見えるいかつい体躯の侍である。
その顔に目をとめて、
「そなたは、たしか……」
思わず|とも《ヽヽ》は息を呑んだ。三吉《さんきち》秀保に殺された少女小今の、兄ではないか?
「はい」
旅装のまま廻り込んだ庭先の土に、わるびれず膝を突いて、
「幡利一郎にござります」
と、相手は名乗った。
「やはり小今の兄者であったか。あのころはまだ、前髪だち……。でも面ざしはさすがに変らぬ。立派な侍におなりじゃな」
「ありがとうぞんじます」
「して、使いの口上は?」
「中納言さま、この春ごろよりご不例にて、昨今は枕もあがらぬおん有様となりました」
「なに、秀保が病気とな?」
「しきりに母君に会いたいと仰せられておりますゆえ、老臣一庵良慶どのの宰領にて、犬山へ急使を差し立てるべく評議していた折りも折り、ご上洛のよし承り、手前お迎えに罷り越した次第にござります」
「それは心もとない。病名は何じゃ?」
「しかとはぞんじませぬ」
奇妙な返答であった。
春からの病臥といえばすでに四、五カ月になる。病篤《やまいあつ》しと告げに来た家来が、主君の病気が何なのか知らぬはずはない。
小今の通夜に列した晩も、無愛想な若者とは思った。妹がむごたらしい死をとげたのである。その因を作った秀保はもちろん、秀保の母である|とも《ヽヽ》にもこころよい接し方などできないのも無理はないが、しかし、ともあれ非を悔いて、領主|母子《おやこ》が軽輩の長屋へわざわざ詫びを言いに訪れたのだ。心中、恨んでいるにせよ、いま少し態度に、家臣としてとるべき慇懃さ、つつましさが滲んでもよいはずであった。あのとき|とも《ヽヽ》は、
「すまぬ、利一郎とやら。許しがたいことではあろうけれど、頑是《がんぜ》ない者同士のあやまち……。この母に免じてなにとぞ不承してたまわれ」
と、しんそこから謝罪した。その誠意に対しても、怨恨など本来、抱くべきではないのではないか。
それなのに今なお、幡利一郎の挙措からは底冷たい隔りが消えていない。声は抑揚に乏しく、鋳型《いがた》さながら顔つきも無表情なのに、内奥に燃える怒りだけははっきり看取できるのである。
それが|とも《ヽヽ》には無気味でならない。
(執念ぶかい男じゃ)
とも、つくづく思う。
(当然かもしれぬ。いたいけざかりの妹を、むざむざ殺された兄の身とすれば……)
肯定する一方に、味方|身《み》贔屓《びいき》の感情が、
(痩せても枯れても、しかし秀保はこの者どもの主君──。家来のぶんざいで、あまりといえば怨念が深すぎよう)
幡利一郎への批判となって、|とも《ヽヽ》の側にも噴き出すのであった。
「異なことを申すのう」
と、だから知らず知らず、語調は鋭くなった。
「ただ不例じゃと言われても、見当がつかぬ。咳病《がいびよう》ごこちで熱でもあるのか? それとも腹くだし、胃の不調を訴えておるのか?」
この春、太閤が吉野へ花見に出かけたときは、市之坂に茶屋をしつらえ、亭主に扮してもてなした秀保だし、母親の耳には、
「ご首尾、上々」
と報《し》らされてきている。健やかだとばかり信じきっていたのに、枕もあがらぬなどといきなり言われても、納得しがたい。
「もしや?」
口もとまで出かけた問いかけを、|とも《ヽヽ》は急いで嚥《の》みくだした。秀次同様、弟の秀保にもはっきり脳病の兆《きざし》が現れたのではないか──そんな疑念が、ふと、かすめたのだ。
「咳病でも胃腸の障りでもありませぬ。言えと仰せられるなら申しましょうが、下々のこそこそ話によれば、殿は白癩《びやくらい》にかかられたよしでございます」
「な、なんじゃと!?」
|とも《ヽヽ》は呆れた。とっさには事の理解もできなかった。
「そなた今、癩とやら言うたな」
「はい」
「秀保が、癩者になったと申すのか?」
「あくまで城下の町民どもの耳こすりにすぎませぬ。なれど世間の口は、もっぱらそのように囁き交しております」
あいかわらず表情のない幡の顔面に、そのくせひそかに相手の反応を娯《たの》しむ気配があるのを見て取って、
「ばかな!」
むらむら、|とも《ヽヽ》は腹が立った。
「言うに事欠いて、癩病とは……」
同時に、たまらなく悲しくもなった。三人持った伜のうち、中の一人は戦病死し、長男は狂気、末の子は癩などと噂されている。
(何の因果か)
と、つい、|とも《ヽヽ》の思いは愚痴に堕《お》ちた。残った二人の子が二人ながら、人々の悪意≠ニいう目に見えぬ敵にとり巻かれてしまった口惜しさである。
大坂行きはひとまずとりやめ、郡山へ様子を見に出かけることにしたが、
「供せずともよい。仕度もあるゆえ、そなたは先へ去《い》にゃれ」
幡利一郎を帰したのは、たとえ一日半日の行程でも、陰気で頑なそうなその顔と、顔つき合わせて旅するのが耐えがたかったからだ。
──癩と聞かされて、由津は仰天し、木村寿助も、
「まさか……」
絶句した。しかしすぐ、彼らも、
「何者かが故意に流した悪声ではありますまいか」
指摘した。
「ご病気ではござりましょうけれども、大和中納言さまのお身体に癩などという業病が取りつくとは、到底、信じられませぬ」
「行けばわかろう」
と、すぐさま郡山城へ出かけてみると、秀保は頭にまですっぽり引き被《かず》いていた夜着をやにわに跳ねのけ、
「母さまッ」
泣き声あげながら|とも《ヽヽ》の腰にしがみついてきた。
数え年、いま十六歳──。
手足も背丈も年相応に、ひょろりと伸びはしたものの精神構造にはからきし成長は感じられない。やんちゃ坊主のころのまま位階や一国の領主としての責任ばかりは重くなって、その不均衡に、だれよりも当の秀保自身、とまどっている|ふし《ヽヽ》がある。
いかに久しぶりに逢った母、待ちわびていた母の訪れとはいえ、その母親を見おろすばかり図体だけは大きくなった息子が、泣き泣き抱きつくというのも、みっともよいとはいえない図だが、
「そなたは、まあ!」
何より彼《か》により秀保の面相に、|とも《ヽヽ》は二の句がつげなくなった。
「どうしやった。なぜまた、そのような浅ましい顔になったのじゃ」
|たち《ヽヽ》の悪い湿疹──俗に湿、皮癬《ひぜん》、などとも呼ばれる皮膚病にかかっていたのである。
疥癬《かいせん》ダニがたかることで起こるこの病気は、普通、脇の下、下腹部、股や腕の内側、指と指の間など柔かい肌に多発するのが例なのに、秀保の場合はなぜか顔面にも首にも胸や背中にまで、つまり身体中ところきらわずできていて、上に薬が塗りたくられているため、まるで化けものじみた様相を呈していたわけであった。
医師をはじめ一庵良慶ら宿老どもの話を綜合すると、吉野の花見時分からじつは目につかぬ個所にぽつぽつ発していた疥癬らしい。でも、そのころは|たか《ヽヽ》をくくって、痒《かゆ》ければ痒いなりに、かまわず秀保は掻きちらしていたのだそうだ。
症状は、おかげですっかり悪化してしまった。それでなくてさえ伝染性の皮膚疾患である。掻けば新しく肌にきずができ、疥癬ダニはつぎつぎに侵蝕領域を拡げてゆく。
ついには全身に及び、気が狂わんばかりな痛さ痒さに秀保は輾転反側、夜も眠れなくなったのだという。
「掻いてはなりませぬ。お辛うはござろうがご辛抱くだされ」
くちぐちに諌めても、生まれつきこらえ性のないわがまま気質である。火に焙《あぶ》られてでもいるような猛烈な痒みを、秀保が我慢するはずはなかった。十指の爪は昼夜、間断なく患部を掻きむしり、とうとう老臣らはあぐね果てて主君の両腕を縛りあげてしまった。
それからの狂態と言ったらなかった。
「解けッ、無礼者ッ、この紐を解けッ」
秀保は喚き、ごろごろ病室内をころげ廻って、
「痒いッ、苦しい……。死んでしまうよう」
食膳も湯茶も受けつけず、近寄る者を蹴倒し踏みにじった。あまりの悩乱ぶりを見るに見かねて紐をほどくと、とたんに佩刀をひっ掴み、
「おのれッ、貴様らが無能なために、おれがこんな苦痛に遭うのだ」
医師を二人まで斬ってのけた。
腕がなまくらだから命に別条はなく、両名とも怪我で済みはしたけれど、それからは怕がって近習さえ寄りつかない。今年ようやく八歳に達した幼な妻──むろんまだ、衾《しとね》を共にするまでには至っていない故秀長の息女も、
「おお、気味わる!」
乳母の口から容態を聞かされただけで病夫を忌み嫌って、形式的な見舞いにも顔を出そうとしなかった。
奥の|ひと《ヽヽ》間に秀保は閉じこもり、盛夏のさなかですら戸を立て切って、獣じみた唸り声をあげつづける始末に、
「癩病じゃそうな」
領民のあいだにあらぬ風説も流れたわけである。
癩はともかく、この疥癬を、
「小今女郎の祟りにちがいない」
と、ひそひそ言い合う声は城内にも絶えない。いつもの敏捷さで、木村寿助重成が噂の根をさぐってきたが、それによると七年前、少女が墜死した空堀の底には、いつのまにか湧き水が溜まった。青みどろの浮く小暗い湿地を、以来、城の者は、小今ガ淵と呼び、だれ言うとなく、
「夜な夜なぼうと、白い姿が現れる。小今の幽霊じゃ」
とも、まことしやかに耳こすりし合った。
「中納言さまは、この幽霊ばなしにひどく怯えられたそうでございます。城中くまなく灯りをともさせ、ひところ油の費《つい》えは、おびただしい量にのぼったとやら聞きました」
吉野からの帰途、郡山の城へ立ち寄った秀次が、この異常に気づいた。そして、
「怪しからぬ流言をばらまき、弟に陰険な報復をこころみている元兇は、幡利一郎であろう」
見破って、
「いっそ、あと腐れのないように成敗したほうがよいのでは?」
との、木村常陸介の進言をしりぞけ、あべこべに幡を登用して小今ガ淵の掻い掘りを申しつけた|てんまつ《ヽヽヽヽ》まで、寿助はすばやくさぐり出してきていた。
「で、堀はどうなったのじゃ?」
「すっかり干上り、もと通りの空堀にもどったよしでございます。しかし執念ぶかく亡霊の呪詛だけは語り継がれ、殿が湿にかかられたをさえ、堀底の湿《しめ》りがこんどはお身体に引き移ったのじゃ、小今の恨みは消えぬなどと言いはやす輩がおるとやら……」
「やはりそれも、幡の仕業じゃな?」
「さあ、わたくしには、何ともそこまでは判じかねますが、怨霊出没の恐怖から不眠にかかられ、そこへ病苦までが加わって、近ごろますます殿は落ちつきを失われたらしゅうございます」
罪もない医師を二人まで傷つけたように、癇癖の発作にもしばしば襲われ、興奮の極、だれかれの見さかいさえつかなくなって、抜刀し追いまわす騒ぎを演じる。かと思うと鬱ぎ込み、はては子供みたいに泣きじゃくりはじめて食事も咽喉を通らなくなるのだ。
|とも《ヽヽ》を呼び寄せた今は衰弱しきったのか、|囈 《うわごと》めいた喘ぎ方で、
「母さま……母さま」
取り縋るだけなのが、親の目にはいかにも痛々しい。
掻きこわした瘡《かさ》の跡がじくじく膿《う》み、乾きかけて|かさぶた《ヽヽヽヽ》となった個所までを爛《ただ》らしているのも、見るからに汚らしかった。それでも母が来たことで安堵したのだろう、喪神したようにやがて眠りこけたのは、秀保なりの孤独な戦いに緊張しきっていたこれまでだったとも、想像がつく。
母に抱かれ、ようやく気をゆるめて寝息を立てだした顔の、老人さながらな痩せと窶《やつ》れに、|とも《ヽヽ》は胸が一杯になった。
(なぜ、これほどになるまで犬山の城へ告げてこなかったのか。家臣とはいえ、他人ばかりの冷ややかな城中で、たった一人、呻吟していることはなかったろうに……)
いまとなってはそれも繰《く》り言《ごと》にすぎぬ。病気を治してやることこそが先決であった。
老臣らと議り、医師たちの意見も聴いて|とも《ヽヽ》は秀保を有馬の湯へつれてゆくことにした。万病に卓効ありと評判されている温泉である。湿疹、疥癬のたぐいにも効くに相違ないとの、周囲の奨《すす》めを信じて、秀保を輿に乗せ、|とも《ヽヽ》はもちろん由津、寿助らも附き添い、湯治場へ急いだのだが、やはりすぐには験《げん》が現れなかった。
思いのほか衰弱がはげしい。湿そのものの頑固さにもほとほと手を焼いたが、
(死なせてなろうか。むざむざ、これしきのことで秀保を……)
との一念に支えられて|とも《ヽヽ》はたゆまず看取《みと》りをつづけた。
夫や長男にも事情を知らせ、助力を求めた。名医と折り紙付きの延寿院|玄朔《げんさく》を、秀次はただちに有馬へ差し向けてきたし、弥介吉房はこれもさっそく、三河の国賀茂郡の狭投《さなげ》大明神に、安鎮法《あんちんほう》の祈祷を依頼したむね、報じて来た。難病平癒に、ことに霊験あらたかと信じられ、吉房がむかしから信仰している社《やしろ》である。
もう、このころになると多分に儀礼的なものであるにせよ、見舞を寄こす諸将も増えた。癩病らしいとの風評を信じて、それとなく真相を問い合わせてくる大名も多い。
北政所お寧々が侍女のお|ごさ《ヽヽ》に、南蛮渡りの高貴薬とかいう壺入りの、どろりと黒い練りぐすりを持参させてくれたのも|とも《ヽヽ》にはありがたかった。効くものならば何によらず試したい。藁《わら》でもよい、すがりつきたい思いでいたさなかだったのだ。
秋から冬いっぱい、病状は一進一退をつづけていたが、年が明けて、文禄四年の春を迎えると、急速に好転のきざしを見せはじめた。何を材料にして製したものかわからない。見た目も匂いも、気持がよいとは言いにくい|しろもの《ヽヽヽヽ》なのに、南蛮薬がすばらしく効いて、これを塗布し出して以降、めきめき秀保の皮膚病は範囲をせばめはじめたのであった。
「白癩に犯され給うたとの取り沙汰は、根もない虚説だったのですね?」
と、|ごさ《ヽヽ》も言った。
「そう見誤られても不思議はないほど、一時はひどい有様となった。首すじから両の手足、どこもかしこも瘡《かさ》だらけでなあ」
よい機会なので、|とも《ヽヽ》は秀次の立場の危うさを話し、誤解や誹謗に二重三重に取り囲まれ、足もとには陥穽を掘られながら、権臣に担がれて自重する気ぶりもない我が子の近況を歎いた。それに答えて、
「かげで石田治部たちをけしかけているのは、淀におわすお拾ぎみのお袋さまです」
ずばり、名ざしで|ごさ《ヽヽ》は言い切る。北政所を中心とする腹心の女たちの間に、いかにお茶々への反感が燃えさかっているか、その口ぶりからも察せられるのである。
「関白どのみずからが、職を辞したいと仰せ出されたのならともかく、親御さまの先案じて犬山へお引き取りあそばそうなどとは、あまりにお気弱にすぎましょう。太閤殿下はお拾可愛さから茶々御寮人に鼻毛を読まれているだけのこと……。このさい進んで、石田一派の死命を制してしまえば、茶々どのもあきらめて、しばらくは鳴りをしずめるはずです。叔父、甥のおん仲も、もとの円満さに復するのではないかと、北政所さまはおっしゃっておられますよ」
挑発を受けて立ち、石田治部らの動きを封じてのけよ、とは、木村常陸介らの主張と同じではないか。勝気な寧々が取りそうな積極策だが、いずれ劣らぬ切れ者の言である。
「あるいはもはや、そのほかに、秀次を生かす活路は見いだせぬのかもしれぬなあ」
と、|とも《ヽヽ》までが、彼女らしからぬ迷いに気を昂らせるのであった。
──同じころ。
秀吉は忙しく京坂と伏見を結ぶ線上を往来していた。
鶴松の夭折を引き金にして、ほとんど衝動的に企てられた朝鮮侵略の軍事だから、それに代るお拾の出生によって秀吉の戦野への関心がみるみる薄れたとしても、これまた自然な帰結といえる。膠着状態のまま彼我の陣営は一年の歳月を送り迎え、戦意はどちらも低下しきった。
「このまま停戦となるのではないか」
朝鮮も明《みん》もそう予測し、日本との間に改めて和平交渉を開始すべく準備にかかった。
明の朝廷では、
「豊臣秀吉を、日本国王に封ずる」
との線で朝議が一致し、李宗城という者を冊封《さつぽう》正使に任命──。日本へ派遣することにしたのだが、海の向うでの情況の進展を、秀吉はすこしも知らなかった。
年が明けると早々彼がいそがせたのは、お拾の伏見|移徙《わたまし》の用意である。惜しげもなく淀城は破却され、お拾は生母のお茶々に抱かれて伏見の新城に移った。目も綾な行粧の美々しさ、豪勢さであった。
天皇からは祝儀として、黄金造りの剣ひと振り、鞍置きの駿馬一頭が贈られ、それは暗黙のうちに、
「お拾こそが、太閤の相続人」
と皇室もまた、認めたことの証左となった。しかも折り返し、秀吉はお拾のために叙爵を奏請……。公卿の中には、
「わずか三歳の幼童に、早くも官位とは!」
顰蹙《ひんしゆく》する者がいたにもかかわらず、強引に勅許を取りつけてしまっている。片コト喋りの愛ざかりを迎えたお拾と、その母お茶々の甘肌のほかに、いま秀吉の心を惹くものは何一つなかったと言えよう。
「大和中納言秀保どのが湿を病まれ、犬山のご母公に附き添われて有馬へ入湯におもむかれました」
と聞かされても、
「ようようこのほど快癒あそばし、郡山城にもどられたよしにございます」
と報告されてさえ、
「そうか」
浅いうなずきを返したにすぎない。
むしろ二月はじめ、会津からもたらされた訃報のほうが、秀吉を驚かせた。たけなわの春にそむき、まだ四十歳の働きざかりでいながら蒲生氏郷が急逝したのだ。
「や、忠三郎が死におったとな」
氏郷の妹の|とら《ヽヽ》は三条局と呼ばれ、秀吉の側室となってこのとき京にいた。
小まめに秀吉はくやみの状をしたため、|とら《ヽヽ》の傷心を慰めたけれども、民衆の口から口ヘ伝播したのは、
「尋常に病死したのではない。蒲生どのは石田治部らの手の者に毒を盛られて殺されたのだそうな」
という物騒な流言だった。
石田三成・増田長盛らお拾をこそ太閤嫡統の世嗣であるとし、たとえ幼弱ではあってもこの君を軸に、官僚機構をしっかり調えて、豊臣政権の支配体制を固めようと意図しているいわゆる集権派から見れば、徳川家康・前田利家ら分権派は、いずれ豊家《ほうけ》の土台をおびやかすことにもなりかねない油断ならざる強豪である。
その前田家と、氏郷は親しい。利家がお松夫人との間に儲けた次男の利政に、氏郷は息女のお籍をめあわせてさえいる。派閥で分ければ、あきらかに石田派とは相容れない立場に立つ一人だし、病気で死ぬにしても年は若すぎた。
限りあれば吹かねど花は散るものを
心せわしき春の山風
辞世と信じられて一般に拡まった和歌がまた、何やら意味ありげな内容である。
「自分は宿痾《しゆくあ》をかかえている。ほうっておいても早晩は命を失う運命なのに、殺害に及ぶとは何とまあ、性急な人々であろう」
と取れば取れなくもない。はたして真実、この一首が氏郷の辞世かどうかもはっきりしないほどだから、
「ばかな。取るにもたらぬ妄説……」
石田らは毒殺の噂を無視したが、流言の出どころについては、
「秀次卿の側近──聚楽第に巣食うあの、奸物どもにきまっている」
いちはやく見当をつけていた。
「けしからぬ攪乱工作です」
と告げられて、秀吉は苦りきったが、それからまもなく、彼はまた一つ、人の死の知らせを受けた。甥の羽柴三吉秀保がにわかに落命したとの、郡山からの急報であった。
「病気は治ったはずではないか」
駆けつけて来た宿老の一庵良慶に、秀吉は言った。
「何であったか……そうじゃ、疥癬とやら皮癬とやら、厄介な病いにかかり、どこぞへ入湯にまいってこのほどやっと快気したと、つい先ごろ、知らせてよこしたように記憶しておるが……」
「仰せの通り、お身体はもとにもどりました。ご他界は、不慮の災難によるものでございます」
一庵良慶の報告に、
「不慮の死──と申すか?」
秀吉は眉をしかめた。大仰な、どことなく事さらめかした渋面《じゆうめん》の作り方である。
「ぜんたい、そりゃ、どうしたわけじゃ? かねがね人望の薄い主君とは聞いていたが、家来にでも殺されおったか?」
ふしぎそうに、郡山の老臣は秀吉の面上を振り仰いだ。まだ一言も言い出さないのに、あまりといえば的確に秀吉の指摘が、図星を射ていたからであった。
秀保は大和の十津川《とつがわ》で命を終ったのである。それはしかも、母|とも《ヽヽ》の眼前で突発した惨事だった。
有馬の湯と、北政所から贈られた南蛮渡りの高貴薬……。さらに何よりは献身的な|とも《ヽヽ》の丹精のおかげで、さしも頑固な湿疹も九分九厘、治癒し、秀保は蘇生したように元気になって郡山の居城へもどったのだが、
「皮膚病というものは、気を許してはなりませぬ。見た目だけきれいになっても皮下に根が残って、気候の変り目や梅雨どきなどに、えてして再発することがござります。このさい徹底して根を断ち切る心がまえをお持ちくださりませ」
と医師の延寿院玄朔に進言され、仕上げのつもりで十津川へ出かけたのだ。
有馬ほど著名ではなく、効験は弱いが、十津川にも温泉の湧く場所があって、鄙《ひな》びた湯宿が一、二軒建っている。山稼ぎの猟師や木樵《きこり》、近在の百姓などが農閑期の疲れ休めにやってくる粗末な湯治場だから、とても従三位中納言の位階を持つ郡山城主が、そのまま泊まれる宿ではない。
「すこしはましなかたちに、急いで造り直させろ」
秀保は、家臣らをせきたてる一方、
「お願いです母者、もうしばらくそばにいてください」
|とも《ヽヽ》に連日、ねだりぬいた。
「母もできればいましばらく世話を焼いてやりたいが、そうそうそなたにばかり、かかずろうてはおられぬ。秀次の身の上が気がかりでならぬし、寧々どのや前田のお松どのに対面して、取りなしを頼まねばならぬとも、じつは内々焦っていたのじゃ」
「ではござりましょうけれど、母さまに行かれては心細くてなりませぬ」
「ばかなことを!」
つい知らず、|とも《ヽヽ》は笑ってしまった。
「そなたももはや十七歳ではないか。太閤のお供をして名護屋の御陣中まで出かけた身が、嬰児《ややこ》さながらメソついたとあっては、いよいよ家来どもに侮《あなど》られようぞ」
「では、せめて十津川の湯にだけでも、ついて来てください。大坂へは十津川から廻られてもよいではありませんか」
「そうよのう、お医師も最後の仕上げが肝心じゃと言うておるゆえ、では十津川まで、同道いたそうか」
「うれしい、うれしい」
跳びはねるのも子供じみている。親の欲目には、ただ、
(他愛ない)
と映《うつ》るだけのことが、老臣たちにはにがにがしさの極みらしい。
(これでは補佐の仕甲斐もない。天性、将器とは申せぬおかたじゃな)
匙《さじ》を投げた顔でおたがいに、蔑みの目を見交しながらも、口に出しては何も言わず新装成った湯宿へ従った。
応急に修理させただけに雑な造りではあるけれども、木の香がすがすがしく、気持はよい。なによりは谿谷の巒気《らんき》が、血を浄化させるかと思うほど冷《ひ》んやりと澄んでいた。朝夕湧きあがる川霧に、岩を畳んだ野天風呂の湯気が、濛々《もうもう》と混ざり合う風景さえ|とも《ヽヽ》には珍しい。
簗《やな》を掛けると、手を切りそうな飛沫《しぶき》とともに銀鱗が躍る。岩魚《いわな》、ヤマベなど早瀬に揉まれ淵に憩うて、小気味よく身の引き緊った川ざかなである。
掴み捕りに幾匹も捕ってもどって、
「晩めしの菜に焼かせましょう母者」
秀保も目を輝かせる……。
めきめき体調を恢復させ、むしろ十津川へ来てから病気の前よりも秀保は丈夫になったようだ。
それと同時に、粗暴や|むら《ヽヽ》気、わがままや自分勝手など、よくない性癖もぶり返して、山歩き中、弁当持ちの小者が遅れた、といっては撲る、乗馬の裾《すそ》の濯《すす》ぎようが悪いといっては厩番《うまやばん》を|打 擲《ちようちやく》する、はては、並んで釣り糸を垂れていた近習が、自分よりも多く獲物をあげたというだけの理由で、
「気にくわぬやつ……」
立腹し、|びく《ヽヽ》を川へ蹴落とすといった乱暴を働くのであった。
さすがに見かねて、
「よいかげんにせぬか秀保、そなたがいつまでも、心の丈を伸ばそうとせず、頭の抑え手がないままに弱い者苛めを楽しんでいるかぎり、君臣の和合は望めぬのじゃ。なぜもっと、家来どもをいたわらぬのか」
|とも《ヽヽ》が訓しても、
「鈍なやつばかり揃っているから、つい、わたしも打ち叩きたくなるのです」
うそぶいて、いっかな秀保は反省の色を見せようとしない。
あげく、急速な破局が来た。川べりへ遊びに出かけ、累々と重なり合った岩石のあちこちに敷物を拡げて、酒宴を催していたさなか、秀保がまた、いつもの無理難題を口にしはじめたのだ。
平たい大岩はいくつもあるが、人が坐れる面積はどれもせいぜい畳二、三枚分──ほんの一畳敷ほどしかないものがほとんどだった。秀保が小姓たち数人と陣取ったのは、そんな中ではひときわ目につく大きな平石で、そのかわり半ばせり出した目の下は、川の水が泡だち猛ぶ急流である。
|とも《ヽヽ》は由津や木村寿助ら、気に入りの従者と一緒にそれよりやや下の岩の一つによじ登り、酒肴の提重《さげじゆう》を開いたけれども、
「おお、こわや。目がくらむぞ由津。寿助もけっして下を見るな」
激しい瀬音に首をすくめた。
「でも、天下の絶景でございますよ。青磁を溶かしでもしたような水の碧《あお》さ……。岩にぶつかって砕ける勢いは、すさまじさのひとことに尽きます」
と、女ながら由津は恐れる気ぶりもない。少年の寿助は、まして平気な顔で、
「なんという風の涼しさでしょう。汗がすっかり引いてしまいました。お方さま、なんなら一枚、召物を上に羽織られますか? お風邪をめすといけませぬ」
包みの中から、単衣《ひとえ》の打掛を取り出したり、塗りの小皿に煮物を取り分けるなど、いつもながらかいがいしい気の配りようを見せた。
「ほほほ、ごらんあそばせ。中納言さまの無邪気なこと。お小姓衆と腕角力をお始めなされましたよ」
と大岩の上を指さして由津が笑う。
家臣らはところどころに分散し、これも盃のやりとりに興じている。流れの音に消されながらも、鼓が鳴り、謡い囃す声も聞こえ出した。
ほほえんで、伜どもの戯れを見ながら、
「あぶない、あぶない」
|とも《ヽヽ》はそれでも、制止するつもりで手を振った。
「岩の上で、力くらべなどやめなされ。ひょっとして押しこかしでもしたら、川へ落ちますぞ」
声が届いたのか、腕角力は切りあげたが、次は何やら言い合いとなり、秀保が怒声を発して急に岩の上に突っ立った。
酔っているらしく顔が青い。笑いさざめいていたこれまでとは別人かと思うほど表情も険悪なものに変わっている。小姓の一人を捉え、衿をつかんで曳きずりあげた。右手がひらめき、平手打ちが立てつづけにその両頬を見舞った。
「またいつもの癇癖の発作じゃ。やくたいもない。寿助、母の言いつけじゃと言うてあの折檻、止めてきてたもれ」
「はいッ」
しかし平地を走るようにはいかない。岩から飛びおり、岩を跨ぎ、岩をよじ登り回り込んで、寿助が主従のいる平石のそばへ近づきかけた刹那、打ちすえられていた小姓がいきなり立ちあがり、
「こなたのような暴君は世の中からいなくなるほうが、城中城下のためになりますッ」
叫びざま秀保にむしゃぶりついた。
「何をするッ、な、なにをするつもりだ貴様ッ」
劣らぬ大声で秀保が喚いた。悲鳴ともとれるこの絶叫が、|とも《ヽヽ》には息子の肉声の聞き納めとなったのである。
抱きすくめる形で小姓は秀保もろとも、十津川の奔流へ身を躍らせた。一個の鞠《まり》さながら少年二人の身体は水面に落下し、まっ白な水しぶきが薄い布のように、|とも《ヽヽ》の視野をぱっと覆った。
「あ、あ、あ」
悪夢を見ている思いであった。
だが、次の瞬間、
「秀保が水に……だれか、だれか助けて!」
彼女自身、手足をあがいて川へ転落しかけた。
「お方さま、あぶないッ」
由津が金剛力をふりしぼり、背後から羽交《はが》い締めしなかったら、それっきりあとを追うかたちで|とも《ヽヽ》もまた、磐上からのめり落ちていたにちがいない。
大騒ぎになった。でも、進んで逆まく水の中へ飛びこもうとする者はいない。
思いがけぬほどの下流で、一度、秀保は浮き上り、片手を水面に突き上げた。空をつかんだだけで、しかしすぐ、その手は沈み、それっきり行方がわからなくなった。
小姓のほうは、よほど水練が達者だったのだろう、落ちると同時にぽかっと全身が流れの上に乗り、斜め下流に押され押されしながらも抜き手を切って泳いで、どうにか対岸へたどりついた。
「源之丞は助かったッ」
と、こちら岸からどよめきがあがった。
この小姓は、顔半面にべったり火傷の引きつれを持っていた。
何ともない片側だけで見ると、色じろの、目鼻だちもととのった美少年なのに、
(惜しいものじゃ。なぜ、あのようなむごたらしい顔になったのか)
と、遠目に|とも《ヽヽ》も同情していたのである。
宮原源之丞という名のこの小姓は、じつは吉野での太閤花見のさい、余興にしつらえた茶店を手伝って秀保の不興を買い、釜の煮え湯をしたたか浴びせられ、生まれもつかぬ醜貌に変じてしまった少年であった。
一年前のその恨みを、今こそはらしたのだと、家中の者はだれもがとっさに察しをつけていた。そこまでの事情を少しも知らないのは|とも《ヽヽ》だけである。
向う岸に這いあがった小姓が、ほんのわずかな間、河原の石の上にうつ伏せになって気息をととのえたあげく、こちら岸を振り返って見ようともせず、濡れねずみのままそそくさ森の中へ走り込んで、これも行方がわからなくなってしまったのは、むろん、主殺しの刑罰から逃がれたいためだが、|とも《ヽヽ》が苛立ったのは、扈従の家来たちが宮原の追捕にすこぶる不熱心だったことだ。
一庵良慶はじめ郡山に留守居していた老職どもは、
「変事|出来《しゆつたい》」
と聞くなり一応、色めき立って、ただちに山狩りの兵を十津川へ急行させては来たけれども、けっく兵どもも宮原を捕えることはできず、うやむやのうちに取り逃がしてしまったのである。
「みすみす秀保の、当の仇なのに……」
|とも《ヽヽ》は残念がった。末期《まつご》の恐怖を思いやって、両眼が腫れ塞がるほど泣きもしたけれども、同じ岩場にいた小姓たちの証言をつなぎ合わせれば、非はやはり、秀保の側にあったようだ。
「飛べ」
と小姓たちに、彼は命じたのだそうである。
「そのほうらの胆力が、どれほどのものか試してやる。この岩から河中へ、みごと飛びおりてみろ」
宮原源之丞のほかは水泳不鍛練な者ばかりだった。
「ご無体です。溺れ死ぬか、岩に激突して五体みじんに砕けるか、どちらにせよ助かりっこありません。ご勘弁ください」
尻込みするのに腹を立てて、
「日ごろ何のかのと広言をほざきながら、その|ざま《ヽヽ》はなんだ。飛んでみせぬとおのれ、叩き斬るぞ」
例によって佩刀の柄に手をかけた瞬間、源之丞が秀保にむしゃぶりつき、強引に水の中へ曳きずりこんだのだという。
どさくさにまぎれて、事件とは関係ないはずの近習が一人、姿をくらましたのも不可解だった。
──その名を、幡利一郎と知って、しかし、|とも《ヽヽ》には合点がいった。
(源之丞の無念を焚きつけ、秀保殺しを決行させた黒幕は幡だ。妹の惨死に、いまこそ幡は恨みの一矢を報いたのだな)
だが、郡山からの急報に接して、秀次はじめ聚楽第の帷幕らがただちに細作を放ち、調べあげたところによると、さらに奇怪なことに宮原と幡は、共に大坂城中に逃げこみ、太閤の膝下に直接、かくまわれたと言うのだ。
「まさか!」
|とも《ヽヽ》には信じられなかった。
「では弟が──藤吉郎が、あの者どもを使嗾《しそう》して秀保の命を狙わせたと申すのか?」
「その通りです」
頷いたのは秀次だった。彼の両眼は忿怒に燃えていた。
「細作どもの報告に断じてまちがいはありません。秀保を殺害した張本人は、だれでもない、叔父上です。太閤その人なのですよ母上」
秀保の葬儀が終った晩である。
二里も川|下流《しも》からその屍体はあがったが、岩にぶつかり激しい水勢に翻弄されて、見るも無残な傷つきようだった。|とも《ヽヽ》は嗚咽しつつ我が子の全身を清め、乱れ髪を櫛けずって柩に横たえた。
葬儀は高野山でいとなまれ、青巌寺の興山上人が導師となって遺骸を奥の院の千手院谷に葬った。法号、瑞光院花岳好春──。
秀吉は、弔使を寄こしたのみで、むろん参会せず、父の弥介吉房もこれは悲歎のあまり病臥してやはり列席できなかった。
諸大名からの、ほんの儀礼的な弔問のほか、身内といえば母と兄だけの寂しい葬式だったが、かえってそのほうが|とも《ヽヽ》にはよかった。ただひたすら今は、慰めであれ同情であれ、人に煩わされたくない。口をきくのがつらいのである。葬儀の執行中は一山の衆僧が雲集し、読経の声、打ち鉦《がね》の響きがひっきりなしに林間に谺《こだま》した山内も、更けるにつれて静まり返って、|梟 《ふくろう》か青葉|木菟《ずく》か、夜鳥の啼き声のほか耳に入るものはなくなってしまった。
秀次と二人、|ま《ヽ》新しい秀保の位牌を中に、しみじみ香を捻《ねん》じていると、
(親子兄弟が寄り添うて、何ひとつ言わいでも、おのずと心の通い合う安らかなひととき……。たとえば今宵の、このような一刻を乞い求めながら、ついに満たされぬまま三人《みたり》の子のうち、二人までを失ってしまった自分なのか)
たまらない悲しみが|とも《ヽヽ》の胸にひろがる。
よい機会と思って彼女は秀次に、顕位権職のすべてをなげうち、犬山の両親のもとへ立ち帰って、積年の疲労を休めるようすすめた。
「そなたが聚楽第を明け渡し、関白職を返上して京を去れば、太閤の嫌疑は必ずや解けよう。妻妾たち子供たち……あの愛しい者どもを引き具して領国にもどり、風光美しい犬山の城でささやかな和楽《わらく》を愉しむのも、これはこれで人間の至福じゃぞ秀次」
口を酸くしての説得に対して、だが、秀次が投げつけてよこしたのが、
「小姓どもの怨恨をかげで操り、秀保を死に至らしめた黒い手の正体こそ、太閤ですよ」
との、痛烈な暴露だったのである。
「女子《おなご》だけに、母上の読みは甘い。関白職を辞そうが犬山へ引きこもろうが、そんなことで安堵して、わたくしを許す叔父上ではないのです。老いる一方の我が身にひきくらべて、お拾はまだ、いかにも幼い。ご自身の死後、わたくしが復権を望み、挙兵してお拾を討つことを太閤は極度に警戒し、いっそ目の黒いうちに禍根を除いておこうと決意したのでしょう。つまりわたくしが生きているかぎり、太閤は安んじて目をつぶることもできぬ、というわけです」
「秀保を殺させたのも、では……」
「いずれ弟が、わたくしの扶翼となり、お拾の敵に回るであろうことを恐れて始末させたにきまっています」
「叔父、甥の仲でそのようなことを……鬼ではないか、まるで、それでは……」
「叔父、甥の仲だからこそ疑いもし、果ては殺す気にもなるのですよ」
のけ反《ぞ》って秀次は笑った。ひからびた、どこか音程の狂った高笑いであった。
「主殿《とのも》、伴作ッ、──だれでもよい。茶を持ってまいれ」
声に応じて次の間から、
「はい、ただいま」
すぐさま答が返ってきた。不破伴作、山本主殿、山田三十郎ら気に入りの寵童たちは、今夜も秀次の側ちかく詰めて、影のようにひっそりと、しかも敏捷に、その小間用を弁じている。
「われわればかりではありません」
運ばれてきた高麗《こうらい》茶碗を、作法も何もなく片手掴みに秀次は口ヘ持ってゆき、ぬるめに点てられた大服の茶をぐぐっとひと息に、咽喉を鳴らして飲み干しながら、
「北政所の甥もやられています」
唇を荒っぽく横にこすった。
「おお、金吾秀秋どのか?」
「一時は太閤のおぼえめでたく、北政所も夫の親族たるわれらを差し置いて、あわよくば秀秋を、豊家の後釜に推したい素振りであったが、どうです、その秀秋までがつい五カ月か半年前、まんまと他家へ追いやられてしまったではありませんか。家督を継ぐどころか、あの男も厄介払いされたわけですよ」
そういえば|とも《ヽヽ》にも記憶がある。秀保の湿《しつ》の看護に忙殺されていたさなか、
「丹波中納言どのが小早川隆景の相続人に決定……。備後《びんご》の三原にくだられたそうな」
と小耳にはさんだが、そのときは何の気もなく聞き流した処遇も、なるほど改めて考えれば、秀次の指摘通りかもしれなかった。
「寧々どのは不快がっているであろう。えらく目をかけていた甥じゃもの……。でも、秀保のように命を奪われるよりははるかによい。西国の雄藩の、ともあれ養子に迎えられたのじゃからな」
|とも《ヽヽ》の羨みを言下に否定して、
「わかるものですか」
にじり寄ってきた不破伴作の膝先へ、秀次は抛り投げるように茶碗をもどした。
「縁組の話は、はじめ毛利本家に持ちこまれたらしい。態《てい》よくしかし、輝元は逃げた。そして支族の小早川家に肩代りさせたわけですけれども、結束心の固さでは定評のある一族です。欲しくもない天くだり養子を押しつけられ、みすみす血の薄まるのを黙止しているはずはありますまい」
いずれ、病死の名のもとに秀秋は密殺されるか、そこまでにもいたらぬうちに太閤自身に難癖つけられ、何らかの落度を言い立てられて、左遷閉門、悪くすれば切腹といった事態にすら追いつめられかねない。
「生かしてはおけぬ」
とする太閤の決意は、われら兄弟にも秀秋にも、同じ強さで射向けられているのだと秀次は言う。
「ともあれ、将来、豊家の藩屏となるはずの甥どもの存在を、お拾可愛さの一心から危険視して、陰険悪辣な術策を弄してまで葬り去ろうと企てるような叔父御に、肉親の情誼など通じるはずはないでしょう」
秀保、秀秋らの轍《てつ》を踏まされぬためにも、降りかかる火の粉は進んで払わねばならぬと意気込む秀次に、
「それでもおとなしく、犬山に帰れ、ひたすら太閤に恭順の意を示せ」
とは、|とも《ヽヽ》も言いかねた。
寧々に縋《すが》ったところで、結果はおそらく同じではあるまいか。鶴松に引きつづくお拾の誕生……。茶々どの母子にのめり込み、思考のすべてが、今やそれだけを軸にして回転し出している秀吉の実情を、寧々がどれほどの口惜しさ、片腹痛さで見ているかは、|とも《ヽヽ》にも嫌というほど推量はつく。
まして秀秋追い出しの|おまけ《ヽヽヽ》まで附いた昨今、寧々の怒りは頂点に達しているにちがいない。なだめるどころか秀次を煽動して、太閤への叛意をいよいよ助長させかねないと思うと、大坂へくだる気も失せた。
炎暑のさかりにかかって、心身ともに|とも《ヽヽ》は消耗しきってもいる。看病疲れのあげく、目の前で息子のむごたらしい死を見せつけられたのである。
「ひとまず、犬山へ引きあげよう」
由津と寿助に、歎息まじりに|とも《ヽヽ》は言った。
「吉房どのの病状も気になる。このままではわたしまで寝込むことになりかねない。在京しつづけたところで、もはや老母の細腕では何ごとであれ、くいとめることはかなわぬようじゃ」
輿に揺られて夫の待つ城へもどってみると、吉房も痩せおとろえて、
「あさましや。まだ花のつぼみの若木でいながら、三吉ははや、このような姿に変りはてたか」
分けて持ち帰った骨の壺、遺髪の束を抱きしめ、めっきり皺のふえた頬に、ほろほろ涙をまろばせた。
そんな夫に、|とも《ヽヽ》は口が裂けても、「秀保の死の裏には太閤の意図が働いている」などと打ちあけられなかった。
あと四、五日で、七月に入ろうとする雨もよいの昼さがり、前田利家の妻お松が訪ねてきたことで、しかし洛中の情勢が、さらに一段と悪化した事実を、否応なく吉房も|とも《ヽヽ》もが、認識させられる羽目《はめ》になった。
「お逢いしとうござりましたお松どの」
泣き沈む老夫婦に、ねんごろな悔みを述べたあと、
「お聞きでござりましょうか、蒲生鶴千代どのの跡目相続のごたごたを……」
お松は小声で言い出したのだ。
「まずいことになりましたぞお二人さま」
「えッ、それは……秀次の身の上にかかわる不祥事でござりますか?」
「ご承知のようにこの春はじめ、氏郷どのがお国許の会津でみまかられました」
石田派の手による毒殺説など、不穏な噂が流れ、それをまた、
「けしからぬ誹謗だが、火元の見当はついている。聚落第に巣くう奸物ども……。関白側近の木村常陸介、前野出雲守らが故意に流した中傷にきまっておるわ」
石田治部少輔が名ざしで非難したりして、あちこちに波紋の及んだ死だったけれども、家督はともあれ、嫡男の鶴千代が継ぐことになり、徳川家康の息女をこれにめあわせる条件で関白の許可がおりた。
ところが五月になって突如、蒲生家の老職らによる不正が摘発され、跡目相続の資格はもちろん、鶴千代は知行までを失って、わずかに近江に、
「二万石の堪忍分《かんにんぶん》を与える」
と沙汰される悲境に堕《お》ちたのである。
言うまでもなく不正の摘発は、石田ら五奉行の手でおこなわれ、蒲生家取りつぶしの決定も太閤の朱印状でなされたものだ。いわば真向《まつこう》から秀吉は、関白秀次の権限を否定する挙に出たのであった。
秀次の側も、秀吉のやり方を指をくわえて見てはいなかった。
ただちに蒲生鶴千代に対し、
「家督相続の件は、もと通り認める。まったく別儀はないゆえ、安堵するように……」
との通達を発したのだ。
「太閤が蒲生家に、何を命じようとも、関白に諮ってなされない命令ならば、それは無効である。太閤の朱印状は、関白の同意があってこそ、はじめて法的な実効力を発揮するものなのであり、今回の蒲生家への沙汰にはその手続きがなされていない。よって鶴千代への処分も、白紙にもどすものとする」
と、言外に、それは言い切っているのと同じであった。
秀吉によって否定された関白職としての権限を、秀次はさらにもう一度、はね返してのけたわけである。
蒲生鶴千代──この、氏郷の遺児と遺領を火種にして、つまり秀吉と秀次の対立は、一挙に燃えあがったのだが、
「ごぞんじの通り我が家の次男利政は、鶴千代どのの姉のお籍を、妻に迎えております。婚姻を通して蒲生家と前田家は、|よしみ《ヽヽヽ》を通じ合っている間柄でもあり、夫の利家どのも『氏郷どの、病い篤し』と聞いたときは、ことのほか心痛いたしましてな、名医と評判の曲直瀬道三《まなせどうさん》をわざわざ差し向けたほどでござりました」
と、あたりを憚る小声でお松は語り継いだ。
「ですから蒲生家の家督についても、わたくしども夫婦はもとより、伜どもまでが気を揉み、なんとか穏便に相続のお許しが出るよう願っていたのでござります」
「ごもっともじゃ」
人ごとならぬ思いで、吉房と|とも《ヽヽ》はうなずいた。
「聞くところによると鶴千代どのとやらは、徳川家から息女を娶《めと》られる約束じゃそうな。さすれば、いずれは|婿 舅《むこしゆうと》となる相手……。家康どのも鶴千代どのの譴責には、さぞ胆をつぶされたことでござろう」
弥介吉房の言葉に、
「それはもう、なみなみならず気遣うておられます。おたがいに蒲生家とは姻戚同士。相続の成否も心にかかるが、鶴千代どのの一件が引き金となって、関白秀次卿と大閤殿下のおん仲に、取り返しのつかぬ亀裂でも入っては一大事じゃ、何としたものであろうか、とな。密々書状をもって我が夫《つま》とも、徳川どのは談合なされている様子でござりました」
と、お松は打ちあけた。
「ああ困った。困りましたのう、あなた」
骨ばった吉房の膝に、思わず|とも《ヽヽ》は手を置いて、その膝を強く押し動かした。苛立ちを、お松の目に隠そうとする配慮など、どこかに消し飛んでしまっている。ゆすぶられて吉房は、上体をひょろつかせながら、これも、
「どうしたらよかろうのう」
途方にくれた顔つきだった。
「気がかりは、まだあるのでござりますよお二人さま」
お松はさらに声を低めて、うす暗い燭の下、彼女もまた眉の翳りを一層、濃くした。
「細川どのをご存知でござりましょう」
「おお、忠興どのがどうぞなされましたか」
「関白さまから、黄金二百枚にも及ぶたいまいの借金をしておるとやら……」
「金を借りておられる?」
「秀次卿のご信任あつい謀士に、前野長重と申す仁がいますが、細川忠興どのの庶腹の娘御が、この前野に嫁しているところから、金の拝借もすらすらとお聞き届け願えたそうな……」
その話なら吉房や|とも《ヽヽ》も、木村常陸介から聞かされた覚えがある。
「無益な朝鮮出兵のお企てに、諸大名の怨嗟は声にこそならね、積もりに積もっております。軍事費の支出に苦しんで、勝手もとはどこも火の車……。この機を捉え、金子《きんす》を用立てて人心を収攬しておけば、いざというときかならずや関白さまのお役に立つはず。捨て金と、われらはこれを呼んでおるけれども、いずれは生きて働く金ゆえ、|どぶ《ヽヽ》に捨てたとは同一に論じられませぬ」
そう得意気に常陸介は胸を反らし、|とも《ヽヽ》が京のぼりしたときなどは目通りに出た前野を指さして、
「この男の妻室は、細川忠興どのの妾腹《めかけばら》の息女でな、縁故を頼って泣きつかれ、少なからぬ金を用立てました。奥州の伊達家と並ぶ細川家は借り頭……。聚楽第には足を向けて寝られぬ一人なのです」
とも言っていたが、秀吉と秀次の関係が円滑さを欠きはじめると、借金の有無は大名たちの存亡に、致命的なかかわりを持ってくるはずである。
(いまさらながら細川家は、金の返済に苦慮し、あわててもいるのではないか)
と、老夫婦にすら想像がついた。
「しかも、かさねがさねまずいことに、わが家の千世《ちせ》が……」
「なるほど。太閤のお口ききで……」
「つい先ごろ忠興どのの嫡男忠隆どののもとへ輿入れいたすこととなり、婚約の儀が調うたばかりなのでございます」
蒲生家からはお籍を、細川家へは千世を、嫁に取ったりやったりという関係の中に、忠興の借金、前野長重とのつながりまでが複雑に絡み合って、前田家の立場も危くなりつつある、ということらしい。
そして、つぎつぎに波紋を拡げはじめた渦の中心に秀次がい、当然、その秀次の身こそ誰よりも危機を孕んでいるわけだから、吉房夫婦にすれば一刻も安閑とはしていられない場合であった。
──でも、それならば早急に、どのような手を打つか、どんな手段を講じたら破局を防げるか、まかりまちがえば天下を二分する大乱にも発展しかねない叔父、甥の反目……。どうしたらもとの円満さに、それを引きもどせるか、となると、吉房にも|とも《ヽヽ》にも、もはやまったく方策は思いつかなかった。
岩肌の一カ所に、爪の先だけでも懸けたいとあがきながら、むなしく深い谷の底に落ち込んでゆくに似た徒労感、絶望感が|とも《ヽヽ》を浸《ひた》した。親の手に負えぬところにまで、すでに急転直下、事態は悪化したのである。
けっして、でもまだ、大坂と聚楽第の紐帯《ちゆうたい》が断ち切られてしまったわけではない、血族だからこそ憎みもし、警戒もするけれども、一方また、血のつながった者ゆえに、許しもし、判《わか》り合えもするのだ、あきらめるのは早い、わが家にも降りかかった火の粉なのだし、この先、夫の利家や息子らともども、太閤と関白どののおん仲の回復に、自分も微力を尽す覚悟でいる、お手前がたも最後まで、何ごとであれ投げずに打開の道をさぐってゆかれるように……そう、心からな励ましを述べて前田お松は帰っていった。
老職たちの動きも思いなしか、ここへきて何やらにわかにあわただしくなった気配である。
隠居所にまで伝わってくるその波動に、不安をかきたてられながらも、利家夫人の助言を力綱にして、老夫婦は連名の書状を秀吉宛てにしたためた。それは犬山城主としてではなく関白の親としてでもなかった。秀吉の親族──姉弟《きようだい》の立場から情誼にすがって、秀次へ向けられている悪感情を解こうと願った文面であった。
聚楽第には秀次帷幕の近臣らがいる。彼らは関白の権限を擁護し、その伸張をはかろうとの一心から、太閤のご裁可に時に逆らうなど、身分を逸脱した行為に走ることがあるけれども、世間の口が譏《そし》って言うように、おのれ一個の権力欲に出たものではないと信じる。聚楽第は、太閤の意を受けた執行機関なのだし、その基礎をしっかり固めて諸侯庶民に臨むことは、とりも直さず太閤のご威光の顕現と思うが故に、叔父御お代官としての秀次の補佐に、力を入れる気にもなるのであろう。
彼ら近臣どもの人となりは暴戻驕恣《ぼうれいきようし》、その主人たる秀次の振舞いも『殺生関白』の異名にそむかぬ残虐なものとの世評が、さかんに流布しているようだ。もとより我が子秀次、すべてに至らぬ乳臭児であり、それにもかかわらず叔父御の引き立てをこうむって、不相応な権位に在る危うさは、だれにも増して両親《ふたおや》たるわれわれが四時《しいじ》、薄氷を踏む思いで見守っているところである。
当の秀次自身、おのれの不徳はよく弁《わきま》えており、学問にせよ武技にせよ政事《まつりごと》にせよ、太閤の信任にこたえるべくそれなりの努力を払っているが、未熟はやはり、いかんともしがたい。お拾ぎみの誕生を機に、いっさいの官位、権職を返上し、一武将の本来に立ちもどって、豊家の固めたる本分をつくすよう太閤より秀次へ、お申しつけ給わるまいか。
帷幕の家来ら──なかでも木村常陸介重茲、前野出雲守長重、栗野|秀用《ひでもち》らの風評はかんばしからず、太閤ご朱印をすらないがしろにすると噂されている。秀次がまた、これら謀臣のそそのかしに乗り、恣意をたくましくして世人に指弾されているとの風評がもっぱらであるけれども、為にする誇張も少なくない。彼らとて犬山城中に詰めるお附家老らが出向いて意見し、親どももまた説得すれば、太閤の仰せに背くなどということはゆめゆめ、ありえない。なにとぞ誤解があらばそれを解き、秀次の不敏はご宥恕《ゆうじよ》をたまわって、その身柄ひとつ、老父母の手にお返しいただきたい。
太閤ご側近にも石田三成、増田長盛ら辣腕有能な五奉行たちがい、木村や前野らの仕置きに反撥している。太閤と、その直系のお子たるお拾ぎみを軸に据え、官僚支配の、一糸乱れぬ枠組みを作り上げようと腐心している石田治部らの努力は、われわれ世事にうとい老骨をすら納得させるものだし、その達成を願いこそすれ反対する気は毛頭ない。
ただ、太閤の周囲にも秀次のまわりにも、それぞれ帷幕の臣がいて、彼ら同士の競り合いから、あらぬ讒口《ざんこう》も飛び交いかねない状態となったのは憂うべきことだと思う。
介在する者どもの口入をしりぞけ、叔父と甥、姉と弟、昔ながらの情愛に立って事を見直せば、不自然な緊張は一瞬のうちに霧消するのではあるまいか。
戦場で一子を病死させ、また先ごろ一子を不慮に失って、秀次のみを余生の頼りとしている両親の哀訴を、どうかお聴きとどけいただきたい……。
大要、このような意味の文字をつらね、
「使者に立ってくださらぬか」
老臣の中村式部少輔一氏に託して、急遽、秀吉のいる伏見の城へ旅立たせたのだが、否とも応ともその結果さえわからぬうちに、急坂をころがる石の勢いで秀次の運命は破滅の淵に落ち込んでいったのであった。
きっかけは、まず問罪使らによる詰問のかたちで始まった。
「そのほう厚恩をも謝せず、予に対し謀叛を企らみ野心をさしはさんで、諸大名を糾合──、挙兵せんとす、と聞き及ぶ。実証なりや?」
というのが、秀吉の問いただしの内容である。
石田治部少輔三成、増田右衛門長盛、富田左近|知信《とものぶ》、徳善院前田|玄以《げんい》、宮部善祥坊|継潤《けいじゆん》ら使者の面上を睨みすえながら、秀次は乾いた声で、
「ばかな!」
吐き出すように言ってのけた。
「この秀次を邪魔者扱いし、除こうと企らんでいるのは汝らではないか。おれのほうから事を構えて、叔父上に弓引くつもりなどあるはずはない。何を証拠に謀叛だ挙兵だなどと言い立てるのか?」
秀次の逆《さか》|ねじ《ヽヽ》をやんわり受けて、
「先ごろ来、関白さまは、莫大な金子を無利子無担保無期限という好条件にて、諸将に貸しつけておられるようではござりませぬか」
懐中から数枚の紙片を取り出したのは前田玄以だった。
宮部継潤と並んで、青々と剃りこぼちた坊主頭が異彩を放つ僧侶上りである。丹波の亀山に、五万石を領する民部卿法印──。天台の教学をまなび、徳善院と号した。目が右ひだりとも離れすぎ、眉合いの伸びた顔の中央に、だんご鼻ばかりのさばって見えるいささか魯鈍な風貌だが、智力胆力ともにずばぬけて、太閤のふところ刀と目されている石田治部にさえ、なかなか負けてはいぬ男と恐れられている。
その前田玄以が、やおら押し拡げて見せたのは最上義光《もがみよしあき》、浅野幸長はじめ伊達、細川の書き判もある借用証文であった。
「いかにも貸した。財政の逼迫《ひつぱく》を理由に泣きついてこられれば、突っぱねるわけにもゆくまい。朝鮮役の出費が重なって大名どもの金蔵は近ごろどこも……」
腹立ちまぎれの舌頭が出兵批判になりかねないのを、さすがに恐れたのだろう、
「たとえ金を少々貸したとて……」
木村常陸介がいそいで脇から言いつくろった。
「それで諸将をお味方に附けられるなどとは、われわれ一人として思ってはおりませぬ」
前野、栗野をはじめ熊谷大膳、雀部《ささべ》淡路、阿波杢之助、白井備後ら秀次の股肱《ここう》と囃されている侍たちも、伏見からの使者に負けじとばかりこの日、肩肘怒らせながら対決の場に居流れている。
「さよう。無利子無担保無期限にて用立てたのも、すこしなりと大名どもの負担を軽くし、朝鮮役を我がほうに有利に導きたい存念からにほかならぬ。形を変えての、いわばこれも太閤へのご奉公でござるわ」
と白井備後が、得意の弁舌にものをいわせて木村の言を補足した。昂然とした言い方である。
「なるほど。お手前がたはそのようなおつもりで、お手許金を貸し出されたのであろうけれども、借りた側はかならずしも、同じ理解を持ち合わせておらぬ」
どこまでも穏やかな前田玄以の受け答えに較べると、秀次の側近たちはあきらかに激していた。
「その借用証文に、縛られてでもいると申されるか?」
「金はまさしく旱天の慈雨……。急場をしのいで|ひと《ヽヽ》息つきはしたものの、さて当分のあいだ返済の当てはなし、万が一その内に、関白さまご謀叛お旗揚げなどとなったあかつき、同心せいと求められたら何といたそうか、まさか諾々とお味方に馳せ参じるわけにはいかず、と言って借財の手前、|むげ《ヽヽ》に誘いを蹴りも出来ぬ。戦々兢々というのが本音でござるよ」
「何たる言い草!」
いっせいに色めき立つ聚楽第の臣僚たちの中で、秀次の怒声がもっとも大きく、四方の壁を震わさんばかりあたりに響いた。
「謀叛の挙兵のと、もうまるで頭から我れらを叛徒と決めつけたような言い方をしおる。五枚や十枚の借金証文を証拠呼ばわりし、賢《さか》しら顔におれを難詰するならちょうどよい折りだ。汝らが雁首《がんくび》揃えたいま、当方も問いたださせてもらおう。なぜ秀保殺しの下手人を大坂に匿《かくま》ったのか? いやさ、幡利一郎、宮原源之丞ら近習どもの怨恨を焚きつけ、土偶《でく》よろしく彼らを陰で操って、秀保を殺害させたのは何のためだ? 悉皆《しつかい》、兄たるおれの前で述べてみろ」
秀次は興奮し、両眼をすさまじく吊りあげて問罪使の一人を指さした。
「徳善院、おぬしではない。そしらぬ顔でさっきから横を向いている石田治部、貴様だ。貴様に訊きたい。なぜ弟を殺してのけた。よもや叔父御の本意ではあるまい。太閤の膝下にうごめく貴様ら猪口才な謀臣策士めらが、事を煽り流言をばらまき、人と人を離間させたあげくの果てに、秀保までをまんまと亡きものにしたのだ。図星であろうが……」
文禄四年七月三日――。
暦の上だけでは秋に入ったが、残暑はきびしい。三方、山に囲まれた洛中の午後は、夜来の雨が日に蒸されて、まして耐えがたいほどの熱気だった。
袴《はかま》の前半《まえはん》にたばさんだ扇を、石田三成はパチと音たてて開き、打ち見には汗の粒一つ浮かしていない衿もとへ風を送りながら、
「幡、宮原……。一向に聞かぬ名でございますな」
静かな語調で反問した。
「その者どもを嗾《そその》かし、われらが大和中納言さまを害しまいらせたとは奇怪至極なお言葉……。吉野の湯宿にて病歿あそばしたと、公式には承ったが、さてはご落命は、変死によるものでござりますか?」
「しらじらしい。その口ぶり……」
舌打ちして秀次は三成を罵った。
「いまさらどう責め問うても正直に泥を吐くはずはなし、強いて黒白をつけたところで死んでしまった弟が生きてもどるわけでもない。不問に附してつかわすけれども、つまり言えば事ほど左様に、騒動の元兇こそおのれらなのだ。うしろ暗い企らみに日を偸《ぬす》む獅子身中の蠱害《こがい》ども……。太閤の威を笠に着てそんなやつばらがぬけぬけと、このおれの非を鳴らしにくるなど片腹いたい。早々立ち帰って言上せよ。『秀次に於ては天下をくつがえす異図《いと》など、針の先ほども持たぬ。叔父御こそ讒言に惑わされず、このさい君側の奸を一掃なさるが肝要でござろう』とな」
秀次のこの言葉が終らぬうちに、
「いいや、帰さぬぞッ」
絶叫した者がある。太刀の柄頭に手をかけた雀部淡路守だ。短慮で聞こえた男であった。
「害虫の成敗は、天意を代行して拙者がつかまつろう」
と飛び出しかけた出鼻を、
「推参なり雀部、鎮まらぬかッ」
一喝のもとに抑えたのは広間に走り込んで来た中村式部少輔一氏だった。すぐうしろに、これも犬山の老職田中筑後守が従っている。吉房夫婦の書状をたずさえて中村は伏見をさしてくだる途上、問罪使の派遣を耳にして急ぎ聚楽第に馳せつけたのだが、田中筑後は河内から馬に鞭打って上洛して来たのだ。
堤の築き立てと川底の浚渫《しゆんせつ》──。
河川修復の御手伝いを命ぜられ、犬山の家士たちを指揮していた田中は、同じく、
「事、急……」
と見て取って工事現場から、泥|草鞋《わらじ》のまま疾駆してき、聚楽第大玄関の雨落ちで中村とぶつかった。そして取り次ぎを待つまももどかしく座敷へ通ったおかげで、間一髪の急場に間に合ったわけである。
「爺か。なぜ今という今、こんなところへ……」
秀次は鼻じろみ、暴発寸前の緊張に殺気立っていた雀部らも気勢を削がれて、湯をそそがれた霜柱さながら伸ばしかけた背筋を縮めてしまった。
日ごろは蟄居同様、犬山城の留守居を命ぜられ、関白政庁の吏務から遠ざけられている老臣たちだが、いざとなればやはり、秀次の未熟な好みで掻き集められた新参者──浪人あがりの側近などとは格がちがう。
底力のこもった戦場声で、
「お使者、ご大儀にぞんじます」
まっ四角な挨拶をされれば、問罪使らも居ずまいを正して礼を返さないわけにはいかなかった。
増田右衛門長盛が、改めてこれまでの経緯を語り、
「かようの次第ゆえ、まことに申し上げにくいことながら太閤のご嫌疑をはらすため、関白さまお直筆にて誓紙にご署名ご血判をいただきたい」
借金証文を収め、代りに、折りたたんだ|ぶ《ヽ》厚い書類を取り出した。三本足の鴉《からす》を刷り込み、すきまもなく宝印を押した熊野|牛王《ごおう》の起請文《きしようもん》である。
「七枚つなぎとは、さても大仰な!」
不快げにつぶやきはしたけれども、
「七枚が十枚なりと、誓紙でお疑いが解けるものならば書きなされ」
左右から膝詰めで老職二人にせきたてられると、秀次には抗う力がなかった。
「筆……」
声に応じて小姓の不破伴作が硯箱を持参し、山本主殿が墨をすりおろした。筆の先にそれを含ませはしたものの昂りの極、手が慄えて、秀次は文字を記すことができない。木村常陸介が見かねて手を添え、ようよう七カ所に署名し終ったが、血判はなお困難をきわめた。容易に指先に小柄の刃を当てられないのだ。
「いかがなされた殿、女わらべではあるまいし、まさか臆されたわけではござるまいな」
中村一氏に叱咤され、指を傷つけはしたけれども眉をしかめ、歯をくいしばって紙面を睨み据えている。
あきらかにそれは、内心の疚しさの表出であった。呪符《じゆふ》にも似た無気味な起誓文……。誓いを破ったさい、くだるかもしれない神罰への畏怖が、秀次を逡巡させるのだ。裏返せばそれは、彼の内奥に秀吉への憎悪と叛意が音を立てんばかり渦巻いている証左でもある。
目を澄ませて、苦悶とも取れる秀次のためらいを石田三成はみつめていた。前田玄以、増田長盛、富田左近、宮部継潤……。だれの視線も射るようだった。
「殿」
不意に中村式部少輔の語気がなごみ、ささやくような小声になった。
「犬山におわす親御さまがたが、身も細るばかり案じてでござりますぞ。爺は今日、お二方ご連名の書状をたずさえて、伏見へくだる途中でござった。おそらくは、太閤殿下に宛てて切々と衷情を吐露なされた文面でござろう。老い先みじかいご両親のためにも……な? そのお命一つを、かけがえない珠と思し召せよ」
こくんと縦に、秀次は首を振った。子供の仕草を思わせるうなずき方だった。
口惜し涙を混ぜでもしたように血の色は薄く、たよりなくもあったが、秀次が眼前で捺《お》したものにまぎれはない。
石田らは七枚つなぎの起請文を検《あらた》め、中村一氏と同道して伏見へ去った。田中筑後は、しかし河内の工事場にもどらなかった。聚楽第に居残り、看視の目を八方に配りつづけたのは、
(必定、これきりでは終らぬ)
と判断したからである。
ところがその田中すらが見落としたのは、問罪使の一行が到着する直前、ほんの半刻ほどの|ずれ《ヽヽ》で同じ日に、関白秀次による白銀の献上がなされた事実であった。
今上《きんじよう》に三千枚……。ほか、准三宮《じゆんさんぐう》藤原晴子に五百枚、女御の近衛|前子《さきこ》に五百枚、聖護院道澄法親王に五百枚、式部卿智仁皇子に三百枚といった大盤振舞いで、吹き立てのまぶしく輝く銀子を、これも腹心の日比野下野、渡瀬左衛門佐《わたらせさえもんのすけ》の二人に命じて御所に運び込ませた真意は、いわずと知れた朝廷の懐柔である。ごく隠密裡におこなわれたにもかかわらず、このことはいつのまにか伏見に洩れ、再度の詰問となった。
なか五日置いて七月八日に、聚楽第へやって来た上使は、先の顔ぶれとは多少異なり、宮部継潤、前田玄以ら僧形両名のほかに、堀秀政、山内一豊、そして中村一氏がこれも人数に加えられていた。別人さながら窶れはてた顔で、足運びももつれがちに、中村は引き返して来たのであった。
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本来、東西なし
二度目の問罪使が突きつけたのは、秀次がひそかに毛利輝元から徴した誓書の案文である。
初回の使者たちにはどこまでも強気な姿勢で臨もうとした秀次も、こんどばかりは、
「なぜ、これがそこもとらの手に……」
声を詰まらせたきり、しばらく、あとの言葉がつづかなかった。
「毛利どのみずから、太閤のお手許に提出したものです」
「輝元が!?……お、おのれ、裏切りおったな」
思わずほとばしった|ひと《ヽヽ》言は、不穏な胸底をさらけ出したも同じであった。
秀次が天皇や皇族らに白銀を献上したことも、すでに問罪使らは承知していて、
「いかなるご真意か、とくと質してまいれとの太閤殿下よりのお申しつけでござります」
口ぶりは丁重だが、一歩も退かない気構えを見せた。ひとり、苦しげにうつむいて前田玄以らの背後に控えているのは中村一氏である。取りなしも哀訴も、ことごとく聴き入れられなかったばかりか、吉房夫妻が心をこめて書いた手状さえ、
「親どもの愚痴など煩わしい。披見するに及ばぬ」
投げ返して寄こした秀吉なのだ。
「秀次がまわりの佞臣《ねいしん》どもにたぶらかされ、わしに楯つくような不埒者になりおったのも、もとはと申せばそのほうらの教導がなまぬるかったからじゃ。何のための附家老か」
叱責され、
「とくと謀叛の吟味、しとげてこい」
聚楽第へ追い返されてきた中村だが、もとより前田らの尻馬に乗って、主君を難詰する気など微塵もなかった。
ただ、彼の胸中は、
(秀次公の命運も、きわまった。じたばたしたところですでに遅い!)
その見きわめにだけ、まっ黒に閉ざされていた。
補佐の老職といったところで、君臣間の情は薄い。中村一氏や田中筑後、あるいは駒井中務少輔重勝など重臣らの監督を煙たがり、忠言にも諌止にもろくろく耳を傾けようとしなかった秀次なのだ。
「もりたて甲斐のないお方じゃ」
とは、だれもが見ていたこれまでだから、窮地に陥りかけている今も、
(身から出た錆……)
とする思いは否定できない。
秀次自身の行く末よりも、その息災一つに老いの望みを繋いでいる吉房夫妻の心情こそが、中村にはしきりに気づかわれた。
「何のための附家老か」
と責められて、彼が愧《は》じ入るのも、犬山城中で成りゆきを案じぬいているであろう親たちへの、済まなさからである。
書状は状箱ごと、そっと召使の幸蔵主《こうぞうず》に渡し、
「ご機嫌のおよろしい折りを見はからい、なにとぞいま一度、ご前に差し出していただきたい」
頼み込んではきたものの、うまくゆくかどうかはおぼつかない。
毛利氏だけでなく、有力な武将のだれかれに、忠誠を証《あかし》する誓書を秀次は求めていたが、
「このこと、かたく他言無用」
と念押しまでしたにもかかわらず、ほとんど筒抜けに、事実は太閤の側に洩れてしまっている気配だった。したがって、よしんば明白に謀叛と断じ切ることはできないにせよ、彼が朝廷を抱きこみ諸大名と結んで、なんらかの計画を、
(実行に移すつもりでいたらしい)
との嫌疑は、動かしがたいものになったわけである。
秀次は青ざめながら、それでも、
「ご式微《しきび》を見るに忍びず、手もとにあった銀子をいささか奉ったにすぎぬ」
しどろもどろ、献納金については弁明をこころみたけれども、輝元から徴した誓紙の写しについては、ついに一言の申し開きもできなかった。
「なんの他意もござらぬ。関白さまと太閤殿下は一心同体──。どちらに差し出させた誓書であっても、つまるところは豊臣のお家に忠勤を尽せとの謂《いい》にほかなりますまい。お手前がたはどうあれ、拙者どもはそのように解しております」
木村常陸介が、取りあえず助言をこころみたけれども、いかにも苦しまぎれの言い逃れじみて聞こえた。
「皇室の式微、見すごしがたしとの仰せも、失礼ながら諾《うべな》えぬ。再三再四にわたり太閤殿下による金銀献上がおこなわれ、御所の修復もくり返されて、いま今上はもとより女御后妃、皇子皇女がたに至るまで朝夕《ちようせき》の供御《くご》には飽き満ちておられるはずじゃ。なぜ、この期《ご》に及んで莫大な銀子を、関白どののおん名を以て奉らねばならぬのか、とんと腑に落ちぬと太閤さまは申されておる」
きめつける調子で前田玄以は言い、
「ともあれ、追ってのご沙汰がくだるまで謹慎して命を待つように……。念を押す要もござるまいが、その間、乱舞《らつぷ》、放鷹、堂上諸卿との文通往来など固く禁ずるとの仰せでござる。しかとお守りいただきたい」
釘をさしたあげく、前回の熊野牛王の起請文だけでは納得ゆきかねる、吉田侍従を召し寄せ、神おろしして異心ないむね、重ねてお誓い願いたいと申し入れてきた。
「神おろしまで、せよと言うのか?」
「太閤殿下の仰せつけでござる」
吉田家は代々神祇を司る神職の家柄で、当主|兼治《かねはる》は秀吉の信任あつい老|巫 《かんなぎ》である。
中村一氏の、懸命な目くばせにも折れて、秀次は命じられるまま祭壇をしつらえさせ、吉田兼治を招いて神明の降臨を祈らせた。
打ち振る幣《ぬさ》、高く低く神主の口をついて出る呪文めいた祝詞《のりと》のつぶやきにつれて、ゆらゆらと冥府の火さながら灯明《とうみよう》の炎がまたたく。
やがて憑《より》|まし《ヽヽ》に神が乗り移って、さまざまな神託を宣《の》りはじめた無気味さは、
(こういうもの……)
と承知しながらも身の毛がよだった。
秀次は両の拳を力いっぱいに握りしめ、抉《えぐ》りつけでもするようにそれを膝に当てて、恐怖の目を巫《かんなぎ》らの姿態に凍りつけていたが、初秋にふさわしい薄物の直衣《のうし》の背は、噴き出た汗に一面に濡れて、喘ぎに似た息を吐呑するたびに荒々しく波打った。
出来合いの誓紙を持ってこられ、署名し血判した、というだけのことではない。今回の誓いは、憑|まし《ヽヽ》を媒体として眼前に出現した神の、尊厳を賭けておこなわれたのだ。
「わたしはけっして、叔父太閤に対し奉り、二心《ふたごころ》を抱く者ではありませぬ」
声はわななき、絶え入らんばかり語尾は細った。秀吉に向けていた憎しみ、反抗心を支えていた芯柱《しんばしら》のごときものが、神威の透視の前にいくじなくぐらつきはじめたのを秀次は感じていた。
叫び出したい衝動を、かろうじてではあっても、抑えきることができたのが、われながら意外に思えたほどだった。秀次は意気沮喪した。
「神おろしごときに怯えるなど、あまりと申せばお気弱にすぎます。誓いを破った者は数かぎりなくおりますが、神罰が彼らに当ったなどという話は、かつて一度として聞いたためしがありませぬぞ」
木村や白井ら側近たちの励ましにも、
「うう」
生返事を返すだけで、以来、ともすると、うつろな眸《ひとみ》を呆然と宙に漂わせていることが多くなった。
おしゃべり尼の幸蔵主が秀吉の密命を受けて──そのくせ表向きはどこまでも、彼女一個の思い立ちという触れこみでせかせか聚楽第へやって来たのは、前田玄以ら第二の問罪使が引きあげてまもなくであった。
幸蔵主は秀次に面会し、
「案じられてなりませぬのじゃよ関白さま、この婆はな」
持ち前の早口で言いながら掬《すく》い上げるような目つきで相手の顔色をじっと窺った。小柄な法体の背がこんもり丸まり、陽気な外見の底に隠された狡さが表情に現れて、そんなとき幸蔵主の全姿は、獲物の油断を狙う鼬《いたち》そっくりな印象となる。
「案じられてならぬ、とな?」
無反応な薄笑いが、秀次の口許を歪ませた。
「そりゃ当然だろう。いまおれは叔父御から、謀叛の嫌疑をかけられている。そなたならずとも気を揉むのはあたりまえだ」
「いえいえ、めっそうな。あなたさまにそのような大それた野心があるなどと婆は夢|さら《ヽヽ》思いませぬ。太閤殿下も同様に思召しておられまする」
「そんなはずはない。まっ先に疑っておられればこそ二度までも、太閤はおれに誓紙血判を求められたのだ」
「ご本意ではありませぬよ上さまの……。まわりじゃ、まわり……」
「まわり?」
「石田治部やら前田の徳善院やら、お膝回りに近侍するだれかれが、やれ、ああでもないこうでもないと、あなたさまの悪口を吹き込むゆえ、聞けば聞き腹でむかむかもなさりょうなれど、お独りきりのお寝間などで、足腰さすらせながらこの婆に見せられるのは、『信じられぬぞ幸蔵主、治部らの申すこと、まことであろうか』との、ため息まじりのご不審顔じゃ」
「では……」
秀次の目もとに赤みがさし、双眸にはわずかながら輝きが|蘇 《よみがえ》った。
「では叔父上は、しんそこのところではまだ、おれの誠心を信じておられるわけか?」
「血を分けた甥御さまではござらぬか。『孫七郎は純なやつ。尻に襁褓《しめし》を当てていた時分、尿糞《ししばば》の世話までしてやったこのわしに、弓引く気など起こすはずはない。治部や徳善院は事を大げさに申しておるのではあるまいか』とな、半信半疑の面持ちで述懐あそばす夜がおりおりござりまするわ」
曙光が、東の空を染めてゆく静かさで、秀次の目のまわりに赤みが拡がり、よろこびは音声の張りとなって彼の膝をつい知らず、茵《しとね》の縁にまで乗り出させた。
「やはりそうか」
あわただしく、幾度も秀次はうなずいた。
「訝《おか》しいと思ってはいたのだよ尼前《あまぜ》。いかにお拾可愛さの一念に凝り固まったにせよ、あの子自身のためにも無くてはかなわぬ支えとなるはずのおれや秀保や、小早川にやられた秀秋ら一族の若手どもを邪魔者扱いし、殺したり追い出したり謀叛人呼ばわりするなど正気の沙汰ではないものなあ」
「太閤のご本心から出たご処置じゃござらぬ。もっぱら讒口に惑わされてのお疑いじゃ。このたびの、二度に及ぶ問い質しについても治部や徳善院の報告は、針のものを棒にしての申しようでな、片脇に侍して聞くこの婆あたり、心中はらはらのし通しでござりますわ」
「あやつら、ここ聚楽第での見聞を相変らず、よいように捻じ曲げてお耳に入れているというのだな?」
「婆が案じるのもその辺でござる。抛《ほう》っておいては叔父、甥のおん仲は疎まるばかり……。掘り拡げればいずれ小溝も、越しがたい大河となる道理じゃ。たかが京と伏見──。目と鼻の近さではござらぬか。なぜ関白さまおんみずから参られて、釈明あそばされぬのか、歯がゆうてなあ。老人の出しゃばりは見よいものではなけれども、こうしてこっそりお奨めに来た次第でござりますわ」
「わかった。なるほど年の功……。お会いして|じか《ヽヽ》にこの胸の内を披瀝すれば、いかなお疑いも氷解しないはずはないのだ。そうであろう尼前」
「ご合点いったなら善は急げじゃ。言うては何じゃが関白さまのぐるりにも、木村なにがし前野なにがしなど頭の黒い鼠どもが取り巻いておるそうな……。これがまた、なにやかや伏見大坂の取り沙汰に色つけて、こなたさまのお目を曇らせる手合いでござるゆえ、どちらの妨げも入らぬうちにさっさとお身軽に出で立ちなされ。供などお気に入りのお小姓衆、それと、この婆だけでたくさんでござろうがの」
「よしッ、まだ日が高い。すぐ参ろう。ちょうど折りよく医師の曲直瀬道三、延寿院玄朔らが診察がてら伽《とぎ》をしに来ておる。尼前も申す通り、とかくの悪評を立てられている木村常陸介らをつれるより、武具を帯さぬ長袖を従えてゆくほうが穏便でよい。あとは……そうだ」
あたりを見回して、
「隆西堂《りゆうさいどう》、汝も供をせい」
打ちさしていた碁の相手へ、秀次は顎をしゃくった。
東福寺の僧である。碁|将棊《しようぎ》、双六など何によらず勝負ごとに才のあるところから秀次の意にかない、時おり相手をしに聚楽第へやってくる。法名、玄隆西堂──。それをつづめて、だれもが隆西堂と呼んでいる気さくな老体であった。
「おやおや、これから伏見までお供せよとは、空腹《すきばら》にはちと、こたえるお申しつけでござりますな。台所へさがって愚僧、大いそぎで握り飯などぱくついてまいりましょう」
そそくさ立って行くのに目もくれず、不破伴作ら小姓たちに命じて秀次が外出《そとで》の装束に改めかけたやさき、
「父さま、どこへお出かけ?」
カン高い声を先立てながら、嫡男の仙千代丸、異腹の弟の於百《おひやく》丸、お拾の許婚者と決められている亀姫が姿を見せた。
子供らはそれぞれ手に、幼女の亀姫までがいっぱし大きな曳き玩具《おもちや》の綱をにぎりしめて、がらがら、やかましい音を立てながら廊下を走って来たのである。
「ころびますぞ姫さま」
「あぶない、あぶない」
乳母や侍女たちが追いすがるが、仙千代丸は八歳、於百丸は六歳に達して、男の子だけに動作はすばしこい。母親の手にすら負えなくなってきつつある。口答えも駄々こねも、しかし愛ざかりの邪気のなさに覆われて憎めない。まして秀次は、この一瞬、憂さや気がかりのいっさいを忘れたかのように、蕩《とろ》けそうな目になった。
「お、よい物を持っておるな、何だそれは……船か? お仙」
「ええ、車を附けたお船。とっても早く走るんですよ」
「お百のは春駒、お亀女郎が曳っぱっているのは鳩車だな。みんな巧者に曳くじゃないか」
おかげで磨きぬかれた奥殿のお廊下が、どこもここも疵《きず》だらけになりかけておりますと、笑いさざめきながら乳母たちが言う。
「よいとも、たとえ黄金の延べ板だとてたかが廊下──。張り替えれば済むことだ。伸びざかりの活力を、制しすぎて矯《た》めてはならぬ」
と、子には甘い本性が秀次の父性にも潜んでいて、
「おいてきぼりは嫌、嫌ッ。坊たちも一緒に行くよ父さま」
於百丸にねだられると、とたんに彼のほうがベソを掻きでもしたような表情になった。
「弱ったなあ、今日はむずかしい御用で伏見のお城まで出向かねばならぬ。またこんど、もっと面白いところへつれて行ってやるから、我慢して玩具で遊べ於百」
「さようさよう」
距てるように間へ割り込んだ幸蔵主が、
「あす、早々にはご帰館あそばしますぞ。そうしたら嵯峨へ野遊びにまいろうか。それとも河原で、魚釣りがよろしかろうか。何ごとであれ若さまがたのお好きな場所へ父ぎみはおつれくださるそうな。それ楽しみに、今日はおとなしくお留守番をなされませ」
背を押さんばかり秀次を座敷の外へつれ出した。
「しばらくッ、殿、しばらくお待ちくだされ」
と、このとき、血相変えて駆けつけて来たのは熊谷大膳、雀部淡路守の両名であった。
(しまったッ、まずいことになったぞ)
たじろぐ秀次の鼻先へ大手を拡げんばかりに立ち塞がって、
「どちらへお出ましでござりますかッ」
雀部は息を弾ませた。
「どこでもない。──そうだ、東福寺へ……東福寺の隆西堂の自坊へまいる」
と秀次は言いまぎらした。腹ごしらえをすませたのだろう、入り側の廊をこちらへ、小走りに近づいてくる玄隆西堂を認め、とっさに嘘をついたのだが、
「何用あって?」
と、雀部は追及をやめなかった。
「珍しい舶載の碁盤を手に入れたそうな。唐代の何とやらいう棋聖が著わした棋譜までを併せて入手したと慢じて言うゆえ、一見させてもらいに行くことにしたのだ。……な? そうだな隆西堂」
「は、はい」
意味はよく解せぬながら噛みかけの飯粒ごと、玄隆はごくッと生唾《なまつば》を呑みこんで、
「仰せの通りでございます」
|ばつ《ヽヽ》を合わせた。
「まことか? 偽りを申すとその分には捨て置かぬぞ」
「偽りではござりませぬ」
雀部淡路の短気を知っているだけに老法師はうろたえながら、それでも必死に、
「思い立つと待てしばしのない関白さま……。どうでも見たいとおっしゃるのでやむをえず、これから自坊までおつれするところでござりました」
言いくるめる……。
「幸蔵主がまた、何用あってまいられたのか? 太閤殿下の差しがねで洛中の様子でも探りに来たというわけか?」
「埒もない」
と、こちらは数等、玄隆などより上手《うわて》であった。落ちつき払ったニタニタ顔で、
「ご機嫌うかがいでござりますよ」
幸蔵主はとぼけた。
「ご好物の鮎|うるか《ヽヽヽ》を少々、小壺に詰めさせてな、持参しましたのじゃ。だれに命じられたわけでもない。婆一人の思案でござるよ」
「どこにある。あるなら出してみせい。その|うるか《ヽヽヽ》……」
「早速、酒の肴にあそばし、ぺろぺろと舐め尽してしまわれましたわ。いつもながら関白さまの健啖なことよ。そうと知ったらいますこし、大きな壺に入れてまいればよかったものを……。残り多いことをいたしました。ほッほッほ」
さあ、もうよかろう、道を開けてくれと苛立ち顔に秀次がうながした。
気圧されて雀部は二、三歩うしろへ退《しさ》ったが、
「わたくしどももお供つかまつります」
と、こればかりは梃《てこ》でも動かぬ語気で言う。ならぬとでも叱ろうものならなおのこと怪しんで、出すまいとするのは目に見えていた。
「と申しますのも、なにやら町なかが騒がしいからでござります。下民らが右往左往、大路小路を走り廻って、罵り交しているのはどうしたことかと、門々を守る番卒もいぶかっておりました」
「あ、それは、乞食《ほいと》どもの喧嘩でござりましょ」
横から口を入れたのは幸蔵主である。
「こちらへまいる道すがら、婆めも見ました。ありゃたしか、八条の橋下でござりましたな。諍いのもとはどうせ取るに足らぬことでござろうが、いやも、幾十幾百か数も知れぬほどの乞食の群れが向かいの岸、こちら岸に集まって、雑言し合うやら石投げるやら、はては河中に踏みこんで撲り合う始末……。それを見ようとて駆けつけるヤジ馬もおびただしく、えらい騒動でござりました」
でも、もはや市中見廻りの役人が制止に繰り出したはず……。喧嘩は鎮まっているだろうと立て板に水の弁口で幸蔵主はまくしたてた。
「ならば大事ない。出かけよう」
歩きはじめた秀次の背を、
「父さま、早く帰って来てね」
子供らの声が追った。振り向いて、
「おう、あす朝にはもどるぞ」
手をあげたのが、まさか今生《こんじよう》での、姿の見納めになるとは、父も子も夢想もしなかったのである。
──式台には輿が舁《か》き控えられ、侍、小者が二十人ほど居流れていた。弓矢、長道具のたぐいなども、
「持って出るな」
と、あらかじめ小姓を介して達してあったので、ほんのかりそめの宮参り、寺詣でに近い軽装であった。叔父の心証を害したくない、刺激は禁物だとの用心から供廻りの人数までできるだけ抑えて、聚楽第の総門をさりげなくあとにしたのを、のちになって洛中の町人どもは、
「ご運の尽きた証拠であろう」
口々に嘆じ合ったのだが、そのときは幸蔵主のほか、だれ一人として待ち伏せの有無にまで気を回す者はいなかったのだ。
「おかしいぞ、おい大膳」
まっ先に異常を察知したのは、さすがに雀部淡路守だった。五条大橋を渡り、大仏殿の前を通過しようとして、前後のざわめきに気づき、
「乞食の喧嘩などではない。鎧武者だ。見えかくれに跟《つ》けてきているッ」
鋭い視線を八方へ配った。熊谷大膳も徒歩《かち》立ちのまま行列の外へ出て、
「囲まれたな」
呻《うめ》いた。
「路地路地に甲兵どもの犇《ひしめ》きが見える。はかられた! 何といたそう雀部どの」
「援軍をたのもう。心きいた小者を走らせ、木村、前野、白井のめんめんに急を告げて、外囲りから攻め込んでもらうのだ。同時にこちらも抜刀し、助勢と一つになってこの場を切りぬければ、聚楽第にもどれぬことはあるまい」
「心得たッ」
しかし木村常陸介、白井備後、前野出雲守、阿波杢之助、渡瀬左衛門佐、日比野下野ら日ごろ股肱とたのんでいた秀次の腹心たちは、おのおのが宿所、あるいは第中の諸役所から巧妙な手口でおびき出され、一人ずつばらばらに捕えられて、蹶起《けつき》するどころかすでにこのとき、幽所に押しこめられてしまっていたのだ。
木村は出仕の途上、菊亭家の家臣と名乗る侍に遇い、
「お宅へお伺いするところでした。主人|晴季《はるすえ》卿が折り入って、ご内談申し上げたき一儀これあり、急ぎお越し給わりたいと申しております」
口早やに告げられた。御台所資子の父である。政情不安な昨今、何ごとか急遽、密談せねばならぬ事態でも生じたのだろうと推量して、木村はうっかり馬首を枉《ま》げ、むざむざ敵の手中に落ちたのだし、また、前野や白井らは非番で家にいたところを、関白さまよりの、急のお召しと偽られてこれも自宅の門を出るやいなや縄かけられた。目にもとまらぬ個別撃破といえよう。何も知らずにうかうか聚楽第を出たのは、秀次と、殿中に詰めていた雀部、熊谷の両人だけだったのである。
外の気配のただならなさに、秀次も気づいたらしい。
「なにか事でも起こったか雀部《ささべ》」
引きむしるように簾《すだれ》をはねあげ、輿の物見から顔を覗かせた。
「無念でござる殿ッ、われらみんごと、敵の術中に陥りましたぞッ」
「なに!」
「おびただしい武者どもが、いつのまにやらぐるりを囲んでおります。熊谷大膳とも急ぎ相談し、たった今、小者を聚楽第に走らせましたが、うまく包囲を突破できるかどうか……」
「さては幸蔵主めに謀られたな。ひっ捕えろあの婆、皺首《しわくび》この手で捻《ね》じ切ってくれるッ」
「風を喰って逃げおったとみえ、もはや姿は見えませぬ」
「おのれ」
地団駄ふんでみても、あとの祭りであった。秀次は目を血走らせ、
「不覚だった」
喘《あえ》ぎともとれる語気で言った。
「武将たる者、かりそめにも輿などに乗るべきではなかった。馬上ならばたとえ鉄壁をもって囲んでも、蹴破ってのけたものを……」
行列は糊付けしたように大仏前の路上で停まってしまい、曲直瀬道三や延寿院玄朔ら丸腰の医師たちは慄えあがって、ひとところに寄り固まった。
「汝らごとき長袖が幾人いたところで、ものの役には立たぬ。かえって足手まといだ。どこへなりとも勝手に失せおれ」
睨みつけられ、
「では、お言葉に甘え、これにてお暇つかまつります」
ほうほうの態で二人は大仏の境内へ退散して行ったが、けろりとした表情で、玄隆西堂だけは輿脇《こしわき》を離れようとしなかった。
「なにをぐずついておる。隆西堂、汝も去らぬか」
「去《い》にませぬわ」
「情強者《じようごわ》め、とばっちりの怪我でもして泣き吠えられては、われらの恥だ。とっととこの坊主、つまみ出せ」
下知《げち》一下、小姓どもに行列の外へ曳きずり出されて、玄隆西堂はしぶしぶのように、これも大仏殿の裏へ姿を消してしまった。
「さて、どうする?」
「待ったとて早急には、外からの助勢など望めますまい。べんべんと立ちつくすあいだに、武者どもの数はふえるばかりです。拙者の乗馬を殿に奉りますゆえ、手薄なところを斬りやぶって、なんとしてでも聚楽第に駆けもどりましょう」
雀部淡路守の逸《はや》りに、熊谷大膳も同調して、供の小姓、草履取りらを、
「聞く通りだ。ぬかるなッ」
叱咤した。
女にもみまほしい前髪立ちの美少年だが、不破伴作、山本主殿ら秀次寵愛の小姓たちは、いずれ劣らぬ打ち物技の達人である。一丸となって切っ払えば、通って通れぬことはないはずだった。
「よし、おれも戦う。なんの雑兵の二百や三百、疾風《はやて》の前の木の葉同然だ」
と勢いこんで、秀次が輿をおりようとしかけたとき、
「殿ッ」
老職の田中|筑後《ちくご》が駆けつけて来た。
「おう、爺か。どうやってこの囲みをすり抜けて来たのだ?」
用を構えてあらかじめ田中を、秀次は聚楽第内の勘定役所へ釘づけにしておいたのである。
「どうもこうもござらぬ。殿こそ、いつお出ましあそばしたのじゃ? そしてどこへ行かれるご所存でござるか?」
嘘をつく気はなくなっていた。秀次はありのまま、
「じつは幸蔵主めに騙《だま》されて、叔父上を伏見の城に訪ねるつもりだったのだ」
打ちあけた。
「石田治部らの讒に惑わされ、このおれを疎んじておられる太閤殿下──『じかにお目通りし、叛意など持たぬむね陳弁すれば、そこが肉親の情じゃ、かならずや疑念を解いてくださるにちがいない』とあの婆にすかされ、うかうか出てきたおかげでこの|ざま《ヽヽ》よ」
「寄せ手の将は増田右衛門尉でござるぞ」
「長盛か」
「たった今、右衛門尉みずから聚楽第へ馬を乗りつけてまいり、『関白さまお迎えのために、甲兵を少々ひきいて上洛いたしたなれど、ゆめゆめ他意あってのことではござらぬ。路次《ろじ》の警固ゆえ、お手向かいなどあそばさず、穏便に伏見へお成りあるよう田中どの、関白さまをご説得くだされ』と申しますのじゃ」
「伏見へ来い、と言うのか?」
「行こうと思召していた伏見なら、ご異論はござるまい。増田らに前後を守護させてお渡りなされてはいかがじゃな?」
秀次は雀部や熊谷と目を見交した。
どうしても囲みを破れなければ、東福寺へ奔《はし》って心しずかに、仏殿で腹を切ろうとまで、今の今、思い詰めていたやさきなのである。
増田が言う通りならば、やみくもな抵抗などかえって不利だ。誤解の上に、さらに誤解を重ねることになると秀次は判断した。
「爺《じい》はどう思う?」
「幸蔵主の申し条、至極とぞんずる。太閤殿下にお目にかかり、腹蔵なく丹心を披瀝《ひれき》めされ。誠意をもって言い解けば、どのようなお疑いも晴れぬ道理はないはずじゃ」
「では、まいろう。主殿、武者どもにこのよし伝えよ」
「かしこまりました」
と山本主殿が遠巻きの兵に向かって走ってゆくまに、熊谷大膳は乞うて、田中筑後の乗馬を借り受けた。秀次が輿、雀部が馬できたほかは、すべて徒歩立ちの軽装だったのである。
田中は一人残って、動き出した行列を見送り、やがて聚楽第へ引き返したが、秀次の一行が藤ノ森にさしかかったとき、別の道を先廻りして待ちかまえていたらしい増田長盛が、街道わきの疎林からにこやかな表情で立ち現れた。
「いざ、露払いつかまつります」
先導して馬首を進めはじめると、それまで小半町も離れて従って来た武者どもが、少しずつ距離をちぢめ、伏見の町にさしかかるころには前後左右を、びっしり封じる形で取り囲んでしまった。
秀次の新邸も、諸大名のそれと同じく伏見の大手門近くに建ちかかっている。
当然まず、そこに入って休息するものと信じていたのに、
「こちらへ……」
有無を言わさず増田がつれて行ったのは、木下|大膳亮 《だいぜんのすけ》吉隆《よしたか》の屋敷であった。
「なぜ、こんなところへ案内するのだ。おれ自身の館があるのに……」
難詰には答えずに、
「おっつけ、上使がまいるはずでございます。茶など喫せられて、ひとまず、ゆるりとおくつろぎなされませ」
言い捨てて増田はいなくなった。
入れ代って家の主の木下吉隆が挨拶に出る。茶堂《さどう》らしい法体《ほつたい》も天目《てんもく》を捧げて従っていたが、秀次は茶碗になど目もくれず、
「ただちに登城し、太閤殿下にお目通りいたすぞ。さいわい殿下も、この身をお召しとか。遅滞しては悪かろう」
せきたてた。
ところへ入って来たのは、石田三成、前田玄以、堀尾吉晴、宮部継潤ら先ごろ再三、聚楽第に現れた使臣らである。
「まことにおきのどくなことになりました関白さま」
前田徳善院が慰め顔に言った。
「われら、さまざまにお取りなしいたしたなれど太閤のお怒り解けず、対面はかなわぬと仰せられております」
「では、増田右衛門尉をなぜ迎えによこされたのか」
「迎えではござらぬ。これよりただちに紀州の高野に登り、関白職を拝辞して蟄居謹慎せよとの御意。増田はすなわち、お送りのために差し遣わされた者でござります」
さりげなくこのとき、熊谷大膳が席を立った。小用にでも行くような面持ちだったし、はじめから人々のはるかうしろ──廊下に近い襖ぎわに座をしめていたため、ほとんどだれもが気づかなかったが、石田治部は、半眼に細めた目の隅からじっとその背を見送っていたし、雀部淡路も、これは気づかわしげな視線を、それとなく熊谷の立ち居にそそいでいた。
「どうも臭い。もし上さまが捕えられ、どこぞへ押し込められるような事態が生じたら、大膳、おぬしはこっそり脱出しろ」
雀部はそう、あらかじめ熊谷に言いふくめておいたのである。
「脱け出して、どうする?」
「知れたこと。お味方を糾合し、伏見の城に攻めかかるのよ」
「おぬしらは?」
「上さまを擁して大手の門矢倉《もんやぐら》に閉じこもる。いま、このまにも白井備後、木村常陸介らお味方のめんめんは、上さまのお身柄を奪取すべく出撃の用意を急いでいるにちがいない。聚楽第の鉄砲千挺、兵員はおよそ五百。大仏すじと竹田街道を|ひた《ヽヽ》押しに寄せてくるあいだ、何としてでもわしは時を稼ぎ、上さまの安泰を守りぬく所存ゆえ……」
「石田治部と前田徳善院あたりを、事のついでに矢倉の内へ引きずりこんで、人質に取ってしまってはどうだろう」
「良策だ。やつらの一命が脅かされるとなれば、城兵どももむやみとは攻めかかれまいからな」
この手筈にしたがって熊谷は座敷を出て行ったのだが、知っていて石田三成が知らぬ顔をしつづけたのは、すでに木村常陸介はじめ秀次の股肱らの、おおよそを捕え尽していたからであった。
聚楽第にも将卒が派遣され、留守をあずかる田中筑後に、第邸と妻妾|公達《きんだち》ら秀次の家族の引き渡しを要求しているはずである。
つまりすべて、秀次側は後手に回ってしまったのだ。それだけ秀吉の出方が周到迅速だったといえるかもしれない。
高野山への追放を申し渡すと同時に、
「お腰のものをお預かりいたす」
太刀、脇差を取り上げ、目録にして前田玄以らは退去した。いつのまにか庭にも廊下にも隣室にまで、びっしり甲冑武者が湧き出し、秀次主従を袋の鼠さながら取りこめていたのであった。
石田治部らを人質にして大手の門矢倉へ走りこむ隙など、まったく見出せなかった。
石田も前田もが用心深く、すこしも油断をしていないし、なだれ入って来た兵どもに一瞬のうちに制圧されて、さすがの雀部が手も足も出ず、のめのめ武装解除させられてしまったのである。
(これでは大膳も、うまく木下邸をぬけ出せたかどうか)
心もとなかった。
木村常陸介らの就縛に気づいていない雀部は、しかしまだ、望みをつなぎつづけていた。ふたたび秀次が輿に乗せられ、叔父がいるはずの伏見城を横に見つつ南をさしてくだるあいだも、護衛の武士どもの目をぬすんで、
(援軍はまだか?)
それとなく四方へ気をくばった。
翌日の泊りは奈良であった。興福寺の中坊を宿としたが、雀部の期待もむなしく、何の気配もないままついに高野山に到着──。青巌寺に身を寄せなければならなくなった。
大政所|なか《ヽヽ》の追善のために、秀吉が建立したのが青巌寺だし、木食上人|興山応其《こうざんおうご》とはかねがね秀次も親しい。
「どうぞお気づかいなく、今宵は湯浴みなどあそばして旅の疲れをお癒しくだされ」
ねんごろにすすめられるまま一室にくつろいだが、秀次は意気消沈し、
「出家したい」
そればかりを願うようになった。
「お気弱な! 頭をまるめたぐらいで軟化する太閤ではござりませぬぞ」
雀部の励ましにも力なく首を振って、
「もう、叔父御の心証などどうでもよくなった。反抗の気力も失せたよ。死ねというならば死んでもよい」
秀次はつぶやく。
「剃髪も、命への未練からするのではない。せめて末期《まつご》を安らかに、仏のみ弟子となって迎えたいからだ」
「いましばらくお待ちください。熊谷大膳に命を含めてあります。木村、白井、前野ら君の羽翼となって働いてきた臣僚らが、のめのめ指をくわえて、この有様を眺めているとは思えません。諸卿諸大名、犬山におわす親御さまがたから、かならずや助命の歎願もなされるはずです。死ぬの、末期のと口走るのは、いささかご性急にすぎましょう」
ここでも、だが雀部の読みは甘かった。
同じ日、秀吉は朝廷に奏請し、関白・左大臣の官職を秀次から剥奪……。ただちに高野山に沙汰触れを出し、総山の責任をもって秀次を看視すること、登山口すべてに番所番僧を置き、与類の下山、潜入を取り締ることなど数カ条を厳達してきた。
そして、その沙汰触れを追いかけるように、三日後──文禄四年七月十四日にはもう、上使を急派し秀次に、
「切腹すべし」
と伝えさせたのである。
福島左衛門大夫正則、福原|右馬助《うまのすけ》直高、池田伊予守秀氏の三人が、その使臣らだが、見るなり、さっと色青ざめて、
「汝ら、討手としてまいったかッ」
さすがに秀次は、声を上ずらせた。
「お早まりあそばすな、腹切れとの御諚でござる。われらは不肖ながらご介錯、また、検分役としてまかり越しました」
いったん、血の気を失った顔面が、みるみる怒気を帯びてまっ赤に染まった。年長の福島正則、池田秀氏の両人を差しおいて、若輩の福原直高が小ざかしげな口をきくのに、秀次は激昂したのであった。
「介錯とは片腹いたい。いやしくも前《さき》の関白・左大臣の顕職にあったこのほうが首骨、貴様ごときの|なまくら《ヽヽヽヽ》で斬れるものなら斬ってみよッ」
罵りざま、不破伴作を見返って、
「佩刀《はかせ》をよこせ」
秀次は命じた。
「はッ」
と答えて伴作がにじり寄る。その手にみごとな黄金造りの太刀が捧げられているのを見て、上使たちは一様に息を呑んだ。
よくよく目をつけてみれば雀部淡路守以下、小姓たちまでが全員、脇差ながら立派な一腰を袴の前半にたばさんでいるではないか。
(刃物は取りあげてあったはずだが……)
おじけづいたその顔をここちよげに見おろしながら、
「右馬助、さあ、介錯するならば、みごと予の首、この太刀で打って落とせ」
するっと秀次は刀身を鞘走らせ、福原直高の鼻先へ突きつけた。
福原は、その鼻の頭に汗の粒を噴き出させて、
「しばらくッ」
浮腰にあとへ退《しさ》った。もし秀次の手が動き、一閃して太刀が福原の肩を斬りさげるようなことになったら、
(われらとて、手を束《つか》ねてはおらぬ)
残る二人の上使も、生きては帰さぬぞとの意志を現《あらわ》に、山本主殿、不破伴作、山田三十郎ら小姓たちまでが目を怒らせ、いっせいに脇差に手をかけたのである。
「しばらく、しばらくッ」
必死の弁明を福原はこころみた。
「けっしてわれら、差し出た振舞いに及ぶつもりはござらぬ。介錯人は上さまのお心に委せますゆえ、なにとぞその佩刀、お納めくだされ」
危機一髪ともいってよい張りつめた空気の中へ、おりよく、影のように入って来た僧形の人物があった。
「や、ご坊、どうしてここへ……」
見るなり秀次は、手の太刀を脇へ抛り出した。大仏前から逃げ去ったはずの、玄隆西堂だったのだ。
「碁をな、打ちさしたままお別れしたのが心残りゆえ、続きをやろうとて、はるばるご上使の一行につき従ってまいりましたのじゃ」
「そういえば聚楽第を出るまぎわまで、そのほうと碁盤を囲んでいたのだな」
「勝負はついておりませなんだ」
「それで来たとは、しつこい男よ」
秀次は笑った。寂しい笑声であった。曳き玩具の綱を握ったまま、あとを追って来た子供らの|俤 《おもかげ》が、隆西堂の出現でくっきり眼裏《まなうら》によみがえったのである。
「せっかく来てはくれたが、もはや烏鷺《うろ》など戦わすゆとりはあるまい。見る通り、閻羅王《えんらおう》の使いが三人まで、迎えに来ておる」
地獄からの使者と皮肉られながらも、福島正則は年の功か、温厚な口ぶりで、
「夜陰に及んでも今日の内ならば、苦しゅうはござりませぬ。碁はもとより、お書置その他、お仕度の余裕はまだまだ、たっぷりござります」
礼儀正しく応じた。
「そうか、それならばまず二つ三つ、文をしたためよう」
硯を取り寄せ、次の間に入って秀次は文机《ふづくえ》に料紙をのべた。犬山の父と母、北ノ方の菊亭|資子《ともこ》、そのほか子を儲けた側室たちへも、
「幼き者どもの養育をこそ、専心につかまつれ。われへの供養、追福のいとなみなどいっさい、無用ぞ」
と書き置き、それぞれに封をして玄隆西堂に渡そうとしたが、
「いや、このおん文はお預かりできませぬ」
こばんだ。
「なぜだ、ご坊。なぜ届けてはくれぬのだ?」
「愚僧もおん供申すつもりだからでございます」
「供とは、どこへ?」
「あの世へじゃ」
「ばかな!」
われしらず、秀次は声をつつぬかせた。
「そなたは僧侶。聚楽第の扶持人《ふちにん》ではなし、冥途にまで同道する要がどこにあろう」
「ありますじゃ」
隆西堂の微笑には、一点の翳りもない。たんに碁将棊の上手なお伽坊主とだけ見せていたこれまでとは打って変って、梃でも動かぬ信念が、語調の落ちつきに漲っていた。
「上さまと愚僧とは、無二の碁がたき。お腹を召す前のあわただしさの中では、おそらくじっくりと勝負など愉しめますまい。極楽とやらへまいり、蓮《はす》の台《うてな》に盤を据えて、心ゆくまでお相手いたそうとぞんじたまででござるわ」
「ならぬ、ならぬ」
涙声になり、
「伊予、来てくれ」
秀次が池田秀氏を呼び立てたのは、隆西堂と縁者であることを承知していたからだった。
「出家のくせにこの男、あの世まで供をすると言い出した。とめてくれ伊予守、お願いだ」
「お仰せまでもなく、洛中にて覚悟のほどを打ちあけられたそもそもから、長袖にはふさわしからぬ死様、おあとに残ってご菩提を弔うことこそ、こなたの役目であろうと威《おど》しつ訓《さと》しつ諌めたのですが、いっかな耳を傾けませぬ。頑固は玄隆坊の持ち前……。どうか当人の、好きにさせてやってくださりませ」
と、池田はしかし、匙を投げたらしく、あべこべに口を添える。
「困ったやつだ」
わざと乱暴に舌打ちしながらも、秀次は咽喉に、こらえ切れぬ嗚咽を絡《から》ませた。
外がしきりに騒がしい。不安げに立って行った福原直高が、すぐ、そそくさ引き返して来て、
「一山の衆徒どもがおびただしく金堂、根本《こんぽん》大塔の周辺に蝟集《いしゆう》し、なにやら嗷々《ごうごう》と評議しておりますぞ」
福島、池田の両名に告げた。
三上使は青巌寺へくる前に五奉行連名の沙汰書を木食《もくじき》興山上人宛に手渡し、秀次への賜死の命令を伝えている。
それに対し、山中の学侶、衆徒、行人《ぎようにん》らが大挙、集まって反対を唱え、気勢をあげはじめていたのであった。
「高野山は弘法大師の開き給う霊場。むかしから守護不入と定められた結界の地だ。秀次卿はいわば大師の慈悲にすがってお山に逃げ込んで来た窮鳥──太閤の威勢に屈し、唯々諾々これを自裁せしめては、われら、仏者としての真価を問われようぞ」
「その通りだ。上使どもを追い帰し、一山結束して秀次卿を守りぬけ」
と長刀《なぎなた》、弓矢などを手ン手に掻《か》いこんだ僧兵いでたちのまっ黒な集団が、しきりにわめき立てているとの、福原右馬助の通報に、うなだれていた顔をキッとあげたのは、雀部淡路守であった。
全神経を耳に集中していた雀部は、福原の口早やなささやきを聞きのがさなかった。今となれば彼も、木村常陸介らの逮捕とその援けを待ち望むことの無意味さをさとり、
(あと、たのみの綱はただ一つ、衆徒らの動きだ)
ひそかに山中の気配に耳目を研《と》ぎ澄ませていたのである。
どうやら様相は、雀部の思う壺にはまりかけたようだった。丸腰の主従に同情し、惜しげもなく宝蔵を開いて、獅子の正宗、やげん藤四郎、則重郷《のりしげごう》はじめ、国光、貞宗、中当来など業物と折り紙つきの太刀脇差を取り出し、贈ってくれたのも一山の僧たちなのだ。
(しめたぞ)
心中、雀部はほくそ笑みかけたが、
「あわてめさるな右馬助どの」
福島正則は落ちつき払って言った。
「三千の兵力が当山を囲んでおる。烏合《うごう》の集の大衆ごとき、いかに猛ろうと物の数ではござらん。知らねばこその空えばり……。いずれ伏兵の存在に気づけば、日ざしの下の霜じゃ。黙っていても消えてなくなり申すわ」
この、福島の予測に誤りはなかった。
「比叡山延暦寺を焼き尽した織田右府の例もある。叔父甥のおん不和に介入し、一山滅亡の悲運を招いては取り返しがつかぬぞ」
興山応其の懸命な説得と、埋伏《まいふく》の兵のおびただしさに出鼻をくじかれ、やがてこそこそ、僧徒らはおのおのの自坊へ引き上げて行ってしまったのであった。
(そういうことか)
雀部は吐息をついた。打開延命の手段は、すべて失われたといってよい。──いや、はじめからそんなものは無かったのかもしれない。
引きしぼっていた弓絃《ゆんづる》が切れるに似て、雀部の五体から不意に力が抜けた。耳にしながら聞いてはいなかった満山の蜩《ひぐらし》が、いきなり涼しく聴覚を充《みた》した。
初秋の残暑──。それも去り、改めて見回せば座敷の隅々には、早くも夕闇が忍び寄ってきていた。
書院の庇《ひさし》へ、雀部は視線を投げた。淡い茜《あかね》が西空をわずかに明るませている。
(聞き納めの蜩、見納めの夕焼けか)
爽やかな風が、心の空洞を吹き通った。アクが強く執着も深く、短気矯激と評されていた雀部自身、ふしぎに感じたほど、それは澄み切った諦観の訪れであった。
秀次の面上からも、苛つきや動揺が次第に消えた。感情の、烈しい波立ちが静まるにつれて、夕暮れの沼が翳りを深めてゆくようにそのまなざしを覆いはじめたのは、暗い、沈鬱な恐れの色だった。
「お越しいただきたいと応其上人に伝えてくれ」
山本主殿に、彼は言った。
「かしこまりました」
立って行くのと、ほとんど入れ違いのすばやさで、
「お召しでございますか?」
興山応其が姿を見せたのは、様子を案じて、すぐ近くの座敷に控えていたからである。
「飾りをおろしたいと思う。剃刀《かみそり》を当ててくださらぬか上人」
求められて、
「御意なくば、申し上げようと思うておりました。殊勝なるご発心《ほつしん》……。ただちに用意を申しつけますゆえ、仏殿にお渡りあそばしませ」
応其はうながした。
本尊のお前に香が焚かれ、経が誦《ず》せられて、得度の式が厳修された。通常の衣服の上に掛絡《から》を掛けただけの法体だが、髪の毛が剃りこぼれたことで、ひとしお秀次の孤影には寂しさが添った。
もともと豊臣一族の中では、きわだって容姿のすぐれた若者であった。涼しく通った鼻梁、引き緊った唇の線……。切れながの目は眸がやや小さいため狂的な光を放つ折りなど、対する者に冷淡な、怕い印象を与えもしたけれども、すらりと背は高く、ものごしに気品があったから、甲冑にしろ束帯にしろ着映えがして、
「外|づら《ヽヽ》だけで見れば、押しも押されもせぬ清華《せいが》の公達《きんだち》だな」
口の悪い公卿たちまでが嫉《や》っかみ半分にしろ、認め合っていたものだ。
不破伴作、山田三十郎、山本主殿ら、これも名だたる美男と折り紙をつけられている寵童たちは、様変りした主君を前にして、彼らもまた一様に、死への観念を据え直したようだった。
「仏弟子となられた上は、何ごとであれ、現世での罪のいっさいは消滅いたしました。お心やすくあの世へ旅立たれてよろしいかと存じます」
応其の慰撫に、
「いや」
秀次はかぶりを振って、
「犯した罪を逃がれようために出家したのではありません」
灯明のゆらぎへじっと視線を凝らした。
まだ幼児だった弟秀勝……。障子の隙間から覗いた片目へ、衝動的に突き出した右の人さし指……。秀次は今、左手で固く、それを握りしめる。あのとき、小吉秀勝の口からほとばしったたまぎるばかりな悲鳴と、指先を通して電流さながら、全身をつらぬいた加虐の快感が、おぞましく秀次の感覚によみがえった。
駆けつけた母や乳母、父吉房の動顛に、はじめて結果の重大さを覚り、泣きながら「あやまちだった」と弁解し、詫びもしたけれども、じつは障子の間に光るものを、弟の目と、最初から知っていて、故意に秀次は突き潰したのである。
狩り場からの帰路、畦道《あぜみち》をゆく農民を遠矢にかけて射殺したときも、
「獣と見誤った」
そう表向き、取りつくろって言いはしたが、ほんとうは不猟のむしゃくしゃから、人と承知していて射てのけたのだ。
子供のころから二十八歳の今日まで、秀次は時おり自分が、制御しがたい血の狂いに理性を灼かれるのを知っていた。病的な発作といってもよかった。その激情に憑かれているあいだは、正常な判断力を失って頭は空白になり、憎いと思い込んだ一点に──たとえば弟の目に、獲物の不猟に、錐《きり》さながら怒りがぎりぎり喰い入ってゆく。どこまでもそんなとき、秀次は残酷になれた。むごく当ることが快くさえあったのである。
料理人どもを悶死させたときも、彼らを憎悪したわけではなく、弁当の飯にまじっていた小さな砂粒が原因でもない。それらは引き金にすぎなかったのだ。叔父秀吉との不和、それを助長する要因のすべてに、秀次は腹を立てていた。八ツ当りの的にされた料理人こそ災難であった。
口中いっぱいに詰められた砂利を、むりやりに噛まされ、嚥まされながら、
「鬼め、魔めッ、こなたを呪うて死ぬぞッ」
あふれる血泡と一緒に吐き出した料理人らの絶叫──。そのときは耳をくすぐる甘美な快感でしかなかった呪詛《じゆそ》が、あと数刻の命ときまった今、まざまざ記憶の襞《ひだ》からよみがえり、思いがけない力で秀次の恐怖心を締めつけはじめたのである。
戦場で殺した無数の敵──。
馬上からくり出す槍の穂先から、生き身の肉の、断末魔の収攣《しゆうれん》が手に伝わる瞬間の陶酔は、武将ならだれもが味わっているものにちがいないが、末期のいまとなるとそれら数かぎりない死者どもの怨霊までが、冥府の闇の底から群がり起《た》って、秀次を煉獄の呻吟へ曳きずりこもうとするのであった。
「せめて彼らに詫びたいのです。悔いたところで許されるとは思えない。しかし心を形に現わさなくては済まぬ気がする。僧形になったのはそのためでした」
おののきながらの述懐に、
「いいや、許されますとも」
応其は静かな語調でさとした。
「心から悔いて、許されぬ罪など、およそこの世にはないのです。得度の功力《くりき》と懺悔の涙をもってするかぎり、あらゆる罪障は消滅します。もろもろの怨嗟、憎しみや呪いから解き放たれて、あなたさまもかならずや、彼岸《ひがん》に到達されるはずでございます」
大師廟に参詣され、最期のご思念を澄まされてはいかがか、とも応其はすすめた。
「大和中納言さまの奥城《おくつき》にもおみ足を運ばれ、最後のお別れを告げられては?」
心づけられるまでもなく、高野山に登って来たそもそもから、秀次の思念をしきりにかすめたのは三吉秀保の、葬儀の日の記憶であった。
同じ道を、母親の|とも《ヽヽ》と歩き、同じくここ、青巌寺の仏殿で法要をいとなんで、末弟の柩を奥ノ院の千手院谷に葬ったのは、つい、三カ月前のことではなかったか。
文禄元年には中《なか》息子を唐島で失い、三年後の今また、立てつづけて残る二人の伜までを死なさねばならなくなった老父母の悲嘆……。胸を抉る切実さで、秀次はそれを思いやっていたのである。
「参詣いたしましょうかな」
うなずいて秀次は書院を出、暗さを増した杉木立の参道を、灯火に導かれつつ奥ノ院まで辿《たど》った。
三人の小姓と雀部淡路守が供をした。熊谷大膳はついにもどって来なかったが、寄せ手の兵に捕えられ、おそらく疾《と》うにこれも、どこかへ曳かれて行ってしまったにちがいない。
入寂後、幾星霜を閲《けみ》しながら弘法大師空海の肉身は、即身仏となって生前と変らず、廟中に在ると信じられている。その龕《がん》の前にひれ伏して秀次が何を念じたかは、雀部らにも知るよしがなかった。
千手院谷の、秀保の墓にも詣で、心経一巻を手向けてのち、秀次は端坐の膝を北へ向け直して、犬山城の両親、嵯峨の善正寺に眠る小吉秀勝の霊に別辞を述べた。
木下闇《こしたやみ》は、帰路、いよいよ深く、かしましいほどだった蜩に代って、時おり梟《ふくろう》が、ぼッぽうと梢から声を投げてくるのも淋しい。石だたみの両側にびっしり並ぶ墓石群も漆黒《しつこく》の山気に塗りこめられて、月はあるはずなのに足許は暗い。
部屋へもどると、十二、三の雛僧《すうそう》が待ち受けていて、
「夕餉のご用意ができました。お運びいたしてよろしゅうございますか?」
礼儀ただしく手をつかえた。
「せっかくだが、食わぬことにしよう。掻《か》っ捌《さば》いた腹から食いものなど出ては見苦しいからな」
秀次はことわり、
「それよりも湯に入りたい。沐浴の仕度をしてくれ」
と命じた。
「わたくしがいたしましょう」
声に応じて立ったのは、庭先にかしこまっていた吉若《きちわか》という傘持《かさもち》である。
「湯舟に水は張ってございます。すぐさま焚きつけますゆえ、暫時、ご猶予を……」
「よしよし、湯が湧くあいだに、では隆西堂、碁でも打って暇をつぶそうではないか」
雛僧はしかし、当惑した顔で、
「あいにくここには、将棊盤しかございませぬ。どこぞ他の僧坊から借りてまいりますゆえ、しばらくお待ちくださいませ」
と、これもそそくさ座を立ちかけた。
「かまわぬぞお小僧、将棊盤しかないならばそれでもよい。なあ、ご坊」
「碁であれ将棊であれ、上さまごときに負ける愚僧ではござらん。いざ、お相手つかまつりましょうかな」
笑いながら、床《とこ》の違い棚から玄隆西堂は将棊盤をおろした。
「いつもながら自信の強い男だ。その天狗の鼻、へし折ってくれるぞ」
ようやく、普段の調子にもどって秀次は駒を並べはじめたが、中盤近く打ち進んだあたりで、吉若がもどって来た。
沓ぬぎ石の脇に、影のようにうずくまったのを、秀次は目ざとく見つけて、
「湯が、沸いたのだな」
声をかけた。
「はッ」
「では、勝負なかばではあるけれども、これでやめよう。お小僧どの、この駒、崩すな。隆西堂とあの世で続きを指すのだからな」
「かしこまりました」
うやうやしく盤を床の間に置くのを見て、秀次は湯殿に赴いた。隆西堂が介添えに立つ。
「ご酒を運ばれよ」
と検視役の福島左衛門大夫正則が言い、雛僧が冷酒の提子《ささげ》、土器《かわらけ》、精進の挟《はさ》み肴《ざかな》などを白木の台に据えて持って出た。
このまに小姓たちは脇差の鞘《さや》と柄をはずし、切先を三寸ばかり出して懐紙《かいし》で巻き緊《し》めた。それぞれに獅子正宗、則重郷、やげん藤四郎、貞宗、国光、中当来の銘を書きつけ、三方《さんぼう》の上に揃えて並べる。
湯浴みをすませて座敷へ入って来た秀次は、しつらえを一瞥するなり、
「さあ、それでは別れの盃を汲み交そうか」
衾《しとね》にくつろいで一座を見回した。さすがにもう、恐れても怯えてもいなかった。
三人の検視は次の間に退り、木食上人興山応其もさらにその背後にしりぞいて仏名《ぶつみよう》を口の中で唱えながら数珠《じゆず》をつまぐりはじめた。
全山、鳴りをひそめ、息を凝らして気配をうかがう中で、主従のいる青巌寺の書院だけは銀燭はなやかに、むしろ、どこよりも明るく見える。
秀次の左どなりに雀部淡路、右に玄隆西堂、その次に山田三十郎、山本主殿、不破伴作の順序で居流れ、雛僧の酌で最後の酒宴がはじまった。
まず秀次が土器を取り上げたが、傘持の吉若が庭の白州につぐなんでいるのを見ると、
「許す、縁へあがれ」
声をかけた。
「かたじけのうぞんじます」
一礼して、吉若は板敷きにあがる。
「そのほう、名字《みようじ》はあるか」
問うたのは雀部であった。
「服部と申しまする」
「なるほど」
うなずいて、秀次はさらに言った。
「ならば名を改めて、ただ今より服部吉兵衛と名乗れ」
「ありがたき仕合せにござります」
と三十がらみの、体躯屈強の傘持は広縁に平伏した。
手の土器を、秀次はまず、一つ干し、玄隆西堂に差そうとした。が、手を振って、
「かようのときは、第一番に介錯人にお盃をくださるるのが、ならわしとやら承っております」
玄隆はこばんだ。
「おお、そうか。それならば……」
だれに差そうかと、一瞬、迷った隙を衝《つ》いて、
「では、わたくし、そのお盃を頂戴いたしましょう」
間髪を容《い》れず進み出たのは、山田三十郎だった。
「あいや」
雀部淡路がいそいで制止した。
「最初のお盃は拙者がいただく。ご介錯はこの雀部がつかまつる所存じゃ」
「お言葉なれど、先んじて言上《ごんじよう》申したはわたくしでござる。ぜひともご介錯役はわたくしにお命じいただきとうござりまする」
「大切なお役目。こればかりはあとへ引けぬ。三十郎どの、お控えめされ」
と争いになりかけたのを見て、秀次は土器を手にしたまま思案にくれてしまった。三世《さんぜ》の縁あればこそ、冥途にまで供をしてくれる家臣らである。甲乙なく、だれもがいとしい。だれの心も傷つけたくなかった。
「介錯人は、譜代の家から選ぶものと聞いている」
秀次は、やむを得ず裁断した。
「雀部は新規召し抱えの家来。三十郎は父の代から予のそばに仕えてくれてきた家柄の者だ。定めの通りならば三十郎に申しつけるところであろうけれども、雀部は重職。また、はるかに三十郎より年嵩《としかさ》でもある。ここは枉《ま》げて介錯役を雀部に譲れ。な? 三十郎」
「はい」
いささかのためらいも、不平顔も見せず、三十郎はすぐ了承した。
「御意のごとく、雀部どのは年長者。弱輩のわたくしが遠慮つかまつるのは当然とぞんじまする」
「神妙に申した。では雀部、この盃、まず汝が受けよ」
「かたじけのうござる」
と膝行して、雀部は秀次の前に進み、土器の酒を押しいただいて飲み干した。
「ご返杯つかまつる」
返す盃を、つぎに秀次は玄隆西堂に差し、つづいて山田三十郎、山本主殿の順に差した。終りが、中では最年少の不破《ふわ》伴作だったが、ニコッと口許をほころばして、
「お色付けに、いま一つ召し上りませ。わたくし、お座興をつかまつりましょう」
少年は座を立った。
ひとさし舞うのかと、だれもが思った。謡にも小舞にも、人にぬきん出て堪能《たんのう》な日ごろだし、酒宴にはなくてはならぬ小鼓の名手でもあったからである。
伴作はしかし、扇の代りに三方の上の脇差を一振り取り、双肌ぬぎとなって庭の白州に走りおりた。
「待てッ」
秀次の声が飛んだ。
「愛《う》いやつ……。冥途の先駆けをしようというのか」
「おん露払い、お許しくださりませ」
「介錯は予がいたそう。三途の川のほとりにてかならずまた、逢おうぞ」
「お待ち申しておりまする」
秀次が庭上へおりるのを見て、雀部らもいっせいに庭へ廻り、三人の検視も席を白州のかたわらへ移した。
広縁の端に讃岐《さぬき》円座《えんざ》を敷き、端坐合掌したのは木食応其である。いまやはっきり聞き取れるばかりに、その口からは仏名の声が洩れていた。
波およぎの銘を持つ黄金造りの業物《わざもの》を、秀次が引きぬくと同時に、不破伴作は脇差を腹に突き立てた。ぞんぶんに引き回し、十文字に切る。秀次の手の太刀が一閃し、少年の首級は前に落ちた。
屍体を庭隅に片寄せたのも秀次であった。雀部が手を貸し、用意の白絹で覆ったとき、早くも山田三十郎が脇差をつかんで白州に直っていた。
みごとに、これも十文字に切り裂き、臓腑を手で繰り出したところを、秀次が、
「まいるぞ三十郎」
声を掛けざま、一刀を振りおろした。
おくれじと、山本主殿があとにつづく。これも人手にかけず、秀次が介錯して雀部と二人、二つの亡骸《なきがら》を隅に運んだ。伴作の|それ《ヽヽ》と並べて白絹をかぶせ、
「汝ら、先をいそぐなよ」
ささやきかけた目に、さすがに涙が燦《きらめ》いていた。
隆西堂の介錯は、服部吉兵衛がした。出家のことではあり、腹を切りはしなかったが、白州の床几に腰かけたまま、
「では上さま、ただいまの将棊、浄土にて続きを指しましょうぞ。おそらく勝は、愚僧と決まっておりますがな」
からからと笑って、首打たれた。
もう、このころになると白砂《はくさ》は浮くばかり血を吸って、戸外であるにもかかわらずあたりには腥《なまぐさ》い血臭《けつしゆう》が満ちた。夜鴉《よがらす》であろうか、黒々とそそりたつ杉の穂末に、匂いを慕って群れつどいはじめた幾羽もが、ぶきみにはばたく気配がする。
「吉兵衛、いったん座を浄めよ」
秀次に言いつけられるまでもなく、どこからか服部吉兵衛は|ま《ヽ》新しい菰《こも》を運び白砂を運び込んで、白州の上に平らに敷きつめた。
「それでよし。見ちがえるようになったぞ」
惜しげもなく、青磁の大香炉に白檀《びやくだん》をくすべ、血の匂いを払ったのは応其である。
「ああ、よい薫りだ。居ながらに、はや極楽に遊ぶ気がする」
満足げに秀次は微笑し、
「いざ……」
これも床几に倚《よ》ったなりで、白綾の小袖の胸もとを大きくくつろげた。心の臓から|みぞおち《ヽヽヽヽ》、臍の周囲にかけてゆっくり揉みほぐす……。応其が小さく、
「上さま、おん向きを西方にお替えあそばしませ、それでは東でござります」
と注意した。
「十方、仏土と申すではないか。方角など、これでよろしかろう」
取り合わずに、口の中で、
「迷いの故に三界は城なり。悟るが故に十方は空なり。本来、東西なし、いずくんぞ南北あらんや」
二度、くり返しつぶやき終るといなや、左脇腹にグサと秀次は切先を突き立てた。短刀は獅子正宗であった。
雀部淡路が波およぎの刀身を拭《ぬぐ》ってうしろに回る。弓手《ゆんで》から馬手《めて》へと引き回した切先が、腰骨に食い込んだらしいと見て取って、雀部が太刀をおろそうとするのを、
「まだまだ……」
秀次は抑えて獅子正宗を引き抜き、いま一度取り直すと、つぎは改めて胸先から臍下まで縦に一気に断ち割った。
「さあ、打てッ」
声にうながされて初太刀をおろしたが、雀部は目がくらみ、手許を狂わせて、秀次の肩に切りつけてしまった。
「うろたえるな、心気を鎮めてかかれッ」
励ましの叱咤にいっそう逆上し、雀部は彼らしくもなく二ノ太刀もまた、仕損じた。こんどは高すぎて、左耳の下を割りつけたのである。
全身、秀次は血だるまとなった。それでも微動もせず、脇差を支えてまっすぐ上体を起こしている。哭《な》き声とも、獣の咆哮ともつかぬ喚きと一緒に、三たび、波およぎが振りおろされ、秀次の首はようやく前へ落ちた。
ゆっくりと、胴体が倒れかかる。雀部はそれを抱きかかえ、白砂の上に仰向けて、首級を新しい首桶に納めた。
「しかと、見届け申した」
福島正則が進み出て桶を受け取り、蓋に封印をつけて広縁に置く。柩が運ばれ、首なしの遺体は雀部、吉兵衛、興山応其らの手で中に横たえられた。錦で包まれた屍《かばね》の胸に、手首の数珠をはずし、応其がそっとのせる……。
三人の検視役に向かって雀部は言った。
「大切なご介錯を仕損じたる条、さだめて心中、お蔑みとぞんずるが、古来、主《しゆう》の首は打てぬものとやら聞き及ぶ。心乱れ、お恥かしき仕儀でござった」
「それでこそ臣下の情……。ご卑下には及ばぬ。ご心底、お察し申す」
福島の挨拶に、雀部はうなずいて、吉兵衛に水を持ってこさせ、手水《ちようず》うがいしたあと秀次の首桶を拝した。
「上さま、不調法のお詫びは冥途にてつかまつります。それがし、臆したには非ず、たった今、その証拠を検視のめんめんにお目にかけ、ただちに追っついて、浄土はおろか八寒地獄の底までもおん供いたしまするぞ」
言うやいなや脇差を取り、腹十文字に切り破って臓腑を雀部はつかみ出した。両股の間にそれを強く挟み、胸を二刀《ふたかたな》、切先が背へ突き出るほど刺しつらぬいたあげく、三たび取り直して次は首筋に押し当て、左右の手をかけてみずから前へ掻き落としたのである。
膝先へ首が落ち、胴体がどさっと上へ折り重なった凄さに、福原右馬助直高は顔面蒼白になり、他の二検視は福島正則も池田伊予守秀氏もが、思わず扇を開いて、
「あっぱれじゃ雀部どの、大剛《たいごう》の死様よ。のちのちまで腹切る侍の手本として語り継ごうぞ」
はなむけの言葉を贈った。
服部吉兵衛も小者ながら、あとを追って割腹しかけた。その手から刃物をもぎ取り、
「そなたは死なずともよい」
止めたのは福島正則であった。
「秀次卿ならびに家臣らのご最期を、そなたはただ一人、目撃した生き証人じゃ。あと始末、また供養などねんごろにいとなみ、都に立ち帰って田中筑後どのをはじめ前関白家の老職らに委細を告げねばならぬ」
もっともな忠告にちがいない。
吉兵衛は納得し、応其上人とも議って高野山中の墓地に主従の亡きがらを埋葬……。心ばかりな法要をいとなんだあと、それぞれの形見を笈《おい》に入れて、もとどりを払った。法体となったのである。
応其について受戒し、
「また再び当山に立ちもどり、生涯お主《しゆう》のご菩提を弔う覚悟でござります」
誓って、ひとまず山をくだった。
洛中へたどりついた彼が、まず目ざしたのは三条河原であった。検視役の手で先に伏見へ持ち帰られた秀次の首級は、秀吉の実検に供されたあと、
「河原に晒せ」
との|ひと《ヽヽ》声で、梟首《きようしゆ》されたのだ。
人だかりで、場所はすぐ、知れた。
吉兵衛は近づき、見物の頭越しに横板の上の秀次を仰いだ。五日へだてての再会である。
残暑の日ざしに凍《し》み乾き、半眼に閉じた目も引き結んでいたはずの唇もが、むざんに縮んで、歯が上下とも現れている。鳥の害に遭ったか腐って溶け流れたか、眼球は二つながらもはや無く、皮膚もどすぐろく変色して美丈夫の俤は消え失せていた。
ふしぎに吉兵衛の気持は安らいだ。
「これは関白さまではない」
そう思った。
側面に廻ると、肉がひからびてまくれ上ったせいか、割腹の夜、さほどとも感じなかった耳の下の疵《きず》が、はっきり目に映じた。雀部が打ち損じた二ノ太刀の痕《あと》だ。秀次の首級の、あまりな変容に、かえって達観できたはずの吉兵衛が、この疵を見たとたん嗚咽に咽喉を塞がれてしまった。
雀部の、悲しみの深さ……。生前の専横をだれからも嫌われていた男だけに、冷酷な打ち見の下に雀部がひそませていた血の熱さが、かえってたまらなく、吉兵衛には哀れに思えたのである。
石に坐って、たどたどしく経を誦する今道心《いまどうしん》に、ことさら目をとめる者など一人もなかった。群集は絶えまなく来ては去り、来ては去りながら、彼らも声高にはだれも喋らす、あたりは妙にひっそりして、加茂川の瀬音だけが耳についた。
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夢のまた夢
御台所の菊亭資子をはじめ関白家の妻や子、側室たちは、秀次が高野へ移される直前に聚楽第で残らず捕えられ、いったん、徳永寿昌邸に集められたあと、寿昌の持ち城である丹波の亀山城内に押し込めとなった。
京都に移され、ふたたび徳永邸にもどったのは秀次の切腹がすんだのちである。
「関白さまはご謀叛あらわれ、高野山にてご自害あそばされました。おのおのがたにも、おあとを追い奉れとの、太閤よりの御諚《ごじよう》でござる。ご辞世、あるいはお書置きなど、心しずかにおしたための上、死出のご用意をなされまするように……」
と、徳永邸へ来て告げたのは、前田玄以であった。
「若ぎみ姫ぎみなど、幼いお子たちのご助命すらかないませぬのか?」
必死の自制を声に漲らせて、嫡男仙千代丸の生母がにじり出た。日比野下野の娘お|わこ《ヽヽ》御前である。
「かないませぬ」
ニベもない前田の応答に、於百丸、於十丸《おとまる》、お亀ら子供たちの母親は一様に、顔色を変えた。
「徳善院どの」
たまりかねたか、語気するどく詰め寄ったのは、中納言局お辰の方であった。秀次よりも五歳年長──。ことし三十三になる気丈な女だけに、息女の肩を抱きしめながら、
「このお亀は、太閤じきじきのお声がかりにて、お拾どのの許婚と定められた姫……。そのような誓約まで反故《ほご》にしてお亀の命を奪うおつもりかッ」
息を弾ませて難詰《なじ》った。
「謀叛人のお子を、お拾ぎみの室とすることなどできませぬ。どのような取り決めも、関白さまのご成敗を機に、白紙にもどったものとご理解いただきとうぞんじます」
「わかりました」
うなずいて、中納言は側女《そばめ》たちを見回した。
「お聞きの通り、関白家のお血筋を、太閤殿下は根絶やしにするおつもりのようじゃ。わたくしどもも、聚楽第の主と仰がれたお方の想われ人……。女ながら、いさぎよく最期を迎えようではござりませぬか」
「はい」
青ざめながらも、いっせいに、だれもの口から明瞭な声が返った。
「よう言うてくれました」
満足げな微笑を洩らしたのは、正室の菊亭資子であった。
「けなげなお志──。亡きお方になり代って、わたくしからも礼を申します」
「もったいない一ノ台さま、お手をおあげくださいませ」
中納言局が資子の会釈《えしやく》を押しとどめた。
「関白さまに、大それた逆心など露ほどもないことは、だれにもまして、おん身近くお仕えいたしていたわたくしどもこそが、ぞんじております。お拾ぎみへの盲愛から、関白さまを邪魔者扱いし、ありもせぬ叛意を口実に、お命を縮めまいらせた非道は、天下周知の事実……。胸張って、わたくしどもも刑場へ曳かれてまいろうではござりませぬか」
死を覚悟すれば、怕いものはなかった。これまでながいこと、心の底では思い屈しながら、秀吉への聞こえを憚って口にできなかった言葉を、今こそ局は存分に舌に乗せた。
前田玄以の存在を無視し、いや、彼がそこにいるからなおのこと、撓《た》めに撓めていた怒りを叩きつけた中納言局だったのだ。
「その通りです」
と、爽かに資子も言った。
「謀叛の嫌疑など、根も葉もない作りごとにすぎません。では、なぜ濡れぎぬまで着せられ、春秋に富む身空で関白さまは血を分けた叔父御に殺されなければならなかったか、理由の第一は、いま中納言局のおっしゃったお拾可愛さからの猜疑心ですが、いま一つ、太閤さまのお気持の底には、醜い嫉妬も潜んでいるのです」
陰気ともとれるほど、無口な日ごろにしては、珍しく資子は饒舌だった。前田の耳を意識し、これも同様、胸中の鬱情を洗いざらい吐き出す気になったせいかもしれない。
「関白さまの室として迎えられる以前、わたくしはさる皇族の屋敷にとつぎました。女の子を一人生みながら、事情あって不縁となり、父の膝下にもどっていたところへ、関白さまから妻に、と所望されたのでございます」
縁談はととのった。
難をいえば資子は再婚、側女はすでに幾人もいたが、秀次は表向き初婚であった点である。しかも資子は年も上だ。中納言局よりさらに二歳も年嵩だから、秀次とは七つちがいの姉女房ということになる。その上、子連れ……。でも、なお、
「ぜひに……」
と秀次が望んだのは、資子の美貌が、群をぬいていると評判されていたからである。
「ところが結納が交され、祝言の日取りまできまってから、太閤さまが父に申し入れて参られました。『息女を、わしにくれぬか』と……」
「まあ、呆れた」
お|わこ《ヽヽ》御前が舌打ちせんばかりに言った。
「甥御の妻と定まった女性《によしよう》に、脇から手を出そうとするなど、なんというふしだらなお方でしょう」
「わたくしはきっぱりお断わりしました。太閤殿下のご威勢を恐れ、父は板ばさみの苦境に悩みましたけれども、これも意を決して、もはや遅きに失したむね、言上したのでございます」
「わかりましたわ」
肉感的な唇の端に、中納言局はほろ苦い笑いを刻んで、
「仰せにたがわず、焼きもちですわね」
言い放った。
「太閤さまならやりかねません。公の理由の一枚下に、思う女を取られた腹|いせ《ヽヽ》を隠して、甥御に仕返しをしてのけたのですわ。ご卑怯ななされ方ですよね」
「でも、困ったことに、輿入れしてのちにわたくしの連れ子──そこにいる宮御前と関白さまがあやまちを犯すという事件が起こりました。ごらんの通り、女親の目にさえほれぼれとうつる娘です。関白さまの意馬が狂ったとしても、あながちには責められますまい。血のつながりはないのですから……」
「それなのに、仮りにも父子《おやこ》の縁を結んだ相手と交わるなど、畜生も同然……そうおっしゃって、太閤さまはひどくご立腹なさいましたね」
「宮御前の一件以来、関白さまへのお憎しみが一層つのったと申せましょう」
「でも、これも御台さまにすげなくされた八ツ当りですわ。甥御の許婚者を横取りしようとなさったお方に、人倫を説く資格があろうとは思えませんもの」
「ただ、わたくしや宮御前へのお腹立ちが引き金の一つとなって、関白さまを破滅の淵に逐いやったのかもしれぬと思うと、申しわけなさで一杯でございます。巻き添えの厄に遭わす皆さまにも、何とお詫びしてよいかわかりません」
涙を抑える母のかたわらで、宮御前もうつむいた。公式の席はもとより、内輪《うちわ》のどのような集まりにさえついぞ顔を出したことのなかった少女である。
母まさりの、妖しいまでな美しさを側室たちの目に晒したのは、徳永邸に移されてからだった。
「こうなるのも運命……。一ノ台さまや宮御前さまを、わたくしども、夢々お恨みなどいたしませぬ」
中納言局の双眸に気性の激しさが燃えゆらいだ。
「生まれどころは違っても、同じ日に同じ場所で命を終るのは、浅からぬ縁《えにし》とぞんじます。のう、皆さま、関白さまのお待ちあそばす浄土とやらへ、打ち揃って旅立てると思えば、いっそ、うれしゅうはござりませぬか」
「おっしゃる通り、いまはもう、一日も早うおそばへ参りとうぞんじまする」
言いながらも、さすがにたまりかねてか、手を取り合ってすすり泣く姿があちこちに見られた。
傘持の吉若──秀次に名字を許されて名を改めた今道心の服部吉兵衛は、主君の首級の下に坐って経文を誦しつづけていたが、番卒とおぼしい男どもの手で、河原の一劃に二十間四方はあろうと思われる四角な穴が掘られはじめたのに、やがて気づいた。
(何をするつもりだろう)
審《いぶかし》んで見ているうちに、三条大橋の橋下にこんどは一基の塚を築きだしたのである。
残りの番卒は三条河原に竹の矢来を組みかけて、
「どけどけ、いつまでそんな所につぐなんでおる。邪魔だぞ」
吉兵衛を怒声と共に追い立てた。
「そうじゃ。刑場を作っておるのじゃな」
土手の高みから見おろして吉兵衛はつぶやいた。
「それにしても大きな穴じゃ。何びとを処刑するつもりか」
すぐうしろで、このとき低く、答えた者があった。
「知れたこと。関白家の公達や妻妾がたよ」
「えッ?」
驚いて、吉兵衛は背後を見た。夕靄《ゆうもや》に滲むように、男が一人|佇《た》っていた。編笠で面態を隠しているが、土手にしゃがんでいた吉兵衛の位置からは、鰓《えら》の張ったがっしりした顎と、まだらに伸びた無精髭を目にすることができた。
「関白さまを弑《しい》しただけではたりず、お子や女房衆までを害そうおつもりでござりまするか?」
「ご坊、関白家にゆかりの者か?」
どう見ても役人とは思えない。着流しの小袖はうすよごれ、腰にも粗末な脇差を一本帯しただけの相手である。尾羽打ち枯らした牢人《ろうにん》か、浮浪の徒と見て、
「しがない傘持ではござれども、つい先ごろまで、わしは聚楽第に奉公しておりましたのじゃ」
ありのまま吉兵衛は打ちあけた。
「なにゆえに、様を変えた?」
「高野までお供したおかげで、ご最期を見奉る羽目となり、無常の思いにせかされて飾りをおろしたのでござります」
「太閤は狂気に憑かれておる。殺さずともよい眷族《けんぞく》を殺し、その妻子までを血祭りにあげる報いは、やがて命じた者の身に返ってこよう。善因には善果、悪因には悪果……。手をださずとも、天が豊臣家を滅ぼす日は、かならず来るはずだ」
「公達がたのお仕置はいつのことでござりましょう」
「知らんのか。今日ひるごろ高札が立った。処刑はあす早朝、卯《う》の正刻《しようこく》と書かれてあったぞ」
暗さを増しはじめた河原には、点々と篝火《かがりび》が焚かれ、この間にも矢来は急速に組まれてゆく。梟首されていた秀次の首級を、板からおろし、番卒が橋桁《はしげた》の下の塚に据え直したのは何のためか、吉兵衛には呑みこめなかった。
男に訊くと、
「高札の表には、さすがあからさまには首打つとも殺すとも、書いてはおらぬ。幼児妃妾らに秀次卿の首を拝させるため、三条河原へつれて来させる、とあるけれども、斬首することは明白だ。あの巨大な穴は死骸を埋めるためのものよ」
嘲笑う語調で言った。
「お痛わしや」
思わず吉兵衛は瞼《まぶた》を抑えた。いずれ眼前にくりひろげられるであろう地獄図を思い描き、
「南無ッ、南無ッ」
数珠を押し揉んで祈念する|ま《ヽ》に、どこへ去ったのか、男の姿は土手を離れ、夕風にまぎれて消えてしまっていた。
吉兵衛はしかし、その場を動かなかった。兵士らは夜っぴて篝火を燃やし、刑場を警固していたけれども、吉兵衛もまた土手草の上に端坐して夜通し読誦《どくじゆ》しつづけた。
──もの見だかいヤジ馬が集まりだしたのは、東の空がうっすら白みはじめてからである。みるみるその数は増え、卯の上刻には、川を囲んで三方にめぐらされた矢来のどこも、三重五重に打ちかさなった見物人で身うごき出来なくなった。
川向うの河原、土手の上も、むろん黒山の人だかりだ。
「来たぞう」
「来た来たッ、あの車がそうじゃ」
どよめきが起こり、揺れ返す人波の一方が、兵卒どもの叱咤に押し分けられた。
華やかな糸毛の女車なのが、なおさら心ある者の哀情を誘った。一輛に五、六人も詰め込んだらしい。
それでも秀次の妻妾は二十数人、遺児たちは男児三人、女児一人……。逃げる者はとうに逃げ散ったが、女主人や公達の供をして、一緒に死ぬ気の乳母や侍女たちまで加えると三十七、八人にも及んだから、牛に曳かせた車は六輛もつらなって、軋《きし》みながら刑場へ入って来た。
検視役も到着──。別の入り口から幔幕の中へ入り、床几に腰をおろす。増田右衛門尉、石田治部少輔の顔が見えたし、刑の執行はじめ、刑場のしつらえその他、この日、いっさいの指揮は前田玄以がとった。
すでにここまでくるあいだも、牛車《ぎつしや》の簾《みす》はことごとく捲き上げてあったから、事実上の引き廻しにひとしかった。下賤の目に触れることなどなかった上臈《じようろう》たちが、車からつぎつぎにおろされ、さまざまな衣裳の彩りを河原の石にこぼしながら、裸足《はだし》で所定の場所まで歩かされるのを、好奇にぎらつく幾千の視線が執拗に追った。
彼女たちがひざまずかされたのは、塚の前である。変わりはてた秀次の首級……。
「最後のお別れを告げられよ」
と、それに対面させたのを、むごいお仕打ちと譏らぬ者はなかった。
「関白さま!?」
「このお首が?」
子供たちは父と認識できず、怯えてそれぞれの母にしがみつき、女たちの中からも悲鳴に近い泣き声が炸《はじ》けた。在りし日の面影とは、あまりにもかけはなれたむざんな肉塊がそこにあった。
ひれ伏した首塚の前から、一人一人引き剥がされて、つぎに女たちがつれて行かれたのは穴に近い流れのきわだった。
東山の稜線を金色に縁取って日が昇りはじめ、今日の秋晴れを予兆するかのように朝の河原には風が出はじめた。
前田玄以が床几《しようぎ》から立ち、何やら叫んだ。刑の執行を宣言したのだろうが、風に吹きちぎられて声は鮮明にはだれの耳へも届かなかった。
数人の太刀取りが同時に刀を抜いた。中でも荒武者と見える大兵《たいひよう》の髭男が、鉄の仮面でもかぶったかと思う無表情さで、ずかずか女たちの群れに近づき、まず御台所菊亭資子の腕を掴んで引き立てた。
「おのおのがた、お先へまいりますぞ。おさらば……」
振り返って、ニコッと御台所は笑顔を見せた。
「一ノ台さまッ、お心静かに……」
口々に叫ぶ声にまじって、宮御前の、
「お母さまッ」
万感を、ひとことに籠《こ》めた呼びかけが、人々の耳朶《じだ》を搏《う》った。同じ男に、身をまかせた母と娘……。その宿業は、しかし彼女らが好んで招いたものではなかった。抗えない力によって、おぞましい一つの絆《きずな》に結びつけられてしまったのだ。でも、二人が秀次の首級のうしろに見たものは、おそらく秀吉の意志によって建てられたものにちがいない|ま《ヽ》新しい白木の角塔婆《かくとうば》だった。墨痕あざやかに、そこには『畜生塚』と書かれてあった。秀吉の嫉妬、一ノ台母娘への憎しみがくろぐろと三個の文字に凝縮している。
かえってそれを目にした刹那、宮御前の心は解き放たれた。秀吉の卑小さを憐れむゆとりが生まれたのである。母に抱きつづけてきたこだわり、秀次に向けていた痛恨のいっさいが、この日の朝風にこころよくほぐれて、まっ青な天空のどこかに吸い込まれてゆくのを彼女は感じた。宮御前は母を許し、素直に母に詫びたかった。でも、もう、そのゆとりはない。せめて、最期の座に直る母に、咽喉いっぱいな声を投げた。一ノ台はうなずき、くい入るような娘のまなざしを、慈母の微笑で受けとめた。本来の親と子に還って二人は一つに融合した。ばらばらだった心と心が、しっかり結びついたのである。
資子は穴のほとりに坐り、懐中から短冊を取り出して小さく詠じた。
ながらえてありつるほどを浮世ぞと
思えば残る言の葉もなし
はればれと、一点の濁りすらとどめぬ眉の色だった。いざ、と言いたげに西の空を仰いだ一瞬、髭男の太刀が一閃し、くるくると黒髪を巻いて首は宙に飛んだ。どっと、斬り口から血を噴出させる胴体を、間髪を入れず男は穴に蹴込む。
「つぎは、わらわを……」
走り出た宮御前も、母の血糊を拭いもせぬ太刀で斬られた。
覚悟はしていたはずなのに、やはり女であった。眼前の酸鼻に、
「わッ」
おたがい、かじりついて臥しまろぶ者、気を失う者も出たが、毅然と上体を起こしたまま合掌しつづける女性も多かった。
他の太刀取りが動き出し、一人が仙千代丸の衿がみを掴んで宙に吊り上げた。犬の仔でも殺すように無造作に、そのままの形で胸もとを二刀刺し、まだヒクヒク痙攣しているのもかまわず穴へ抛り投げる……。
同じように於百丸が殺され、於十丸も刺されて穴の底に投げ棄てられた。
「母さまッ、こわいッ」
中納言局の胸に、幼女のお亀がむしゃぶりつく。残る子供は彼女一人だ。
「泣くなお亀、父さまがそれ、そこまで迎えに来ておられる。母もすぐゆく。さ、ひと足先へ……」
と、気丈な局は、太刀取りの手に進んで我が子を引き渡した。一刻も、もはや恐怖をながびかせまいとする母の情《じよう》である。
側室たちの上に恐慌が見舞いはじめていた。仙千代丸の生母、於百丸、於十丸らの母たち乳母たちは狂乱し、
「わたしも早く、殺してッ」
刃《やいば》の下に殺到した。ばたばたと、彼女らが斬られ、屍体が穴に蹴落とされてゆく。
「この有様は何としたことじゃ」
突如、立ちあがりざま、前田、増田、石田ら列座の武将たちを血走った眼で睨み据えたのは中納言局お辰であった。
「これが関白家の公達、御台所にしてのける所行かッ。芥《あくた》でも捨てるようにご遺骸の上に、屍を重ねて投げ入れるなど、鬼畜といえども目をそむけようぞ。奉行は木偶《でく》じゃ。案山子《かかし》じゃ。何のためにそこにおるやら……」
痛烈な一喝だ。
「そうだッ、その通りだッ」
「悪鬼め、外道め、せめて斬るならば、それなりの礼儀を尽せッ」
見物の中にも局に同調して、罵る声が嗷々《ごうごう》と湧き上る。
前田玄以はさすがにうろたえて、武者頭らしい一人を手招きし、何ごとか急いでささやいた。いささかの抑制を命じたらしく、暴慢をきわめていた太刀取りの態度が幾分あらたまったが、それでも物に憑かれたようにつぎつぎと、女たちの生首は絶鳴を曵きながら宙に舞いつづけた。
小溝を伝って流れる血は川水を赤く染め、日ざしも黝《くろず》むばかり、鳶《とび》、鴉《からす》の大群が上空を翔《か》け交しはじめた。血の香に酔って穴の底にまで舞いおりてくる不敵なものまでいる。
「ああ、ああ、来なければよかった」
怕いもの見たさのヤジ馬根性を悔いながら、目を覆って逃げ帰る者、老人や女こどもの中にはあまりな凄惨さに、
「やめてッ、もう、やめてッ」
昏倒したり、嘔吐する者が続出……。矢来の外は大混乱に陥った。
ぐるりの阿鼻叫喚に、非情な太刀取り連中も平静ではいられなくなった。冥府の羅刹《らせつ》さながらな血相に変じて、彼らは血刀を振るい、幔幕の中の将たちも蒼白となった顔面を、いっさいが終ったあとまで引き攣ったようにこわばらせてしばらく無言だった。
吉兵衛は正視に耐えず、土手の土に喰らいついて懸命にただ、仏の名号を唱え通した。ふり絞る声が嗄《か》れはて、人が散って、ようやく刑の終了を知ったが、腰が萎えたか、容易に立つことができなかった。
しばらくじっと、居竦《いすく》んだあげく、よろよろと彼が起き上って、次に目ざしたのは聚楽第であった。重臣の田中筑後に面会し、秀次ら高野で自刃した人々の形見の品を渡して臨終の模様をものがたったあと、
「では、ご堅固《けんご》で……」
暇を告げると、筑後守吉政は惟悴しきった老いの頬に涙をまろばせながら、
「上さまがたのご菩提、弔うてくれよ」
ねんごろに依頼した。
高野山での日々──。この先、吉兵衛を待つものは、修行僧としての明けくれである。見納めの京に未練はないが、主君の首級にいま一度、別れを述べるつもりで三条河原にもどってみると、朝がたの血腥さは嘘のように消え、穴も埋められて、暮色の冷えの底に、『畜生塚』の塔婆だけが白々《しろじろ》と泛《う》かんで見えた。
「ご無念、お察しいたしまする」
手を合わせる吉兵衛の頭上で、カサカサとこのとき、風に鳴る紙の音がした。橋の下から出て見あげると、男が一人、何やら欄干《らんかん》の擬宝珠《ぎぼし》に貼りつけている。
「そなたは昨夕の……」
土手で言葉を交した、あの牢人態の男だと気づいた。
「おう、ご坊、また遇ったな」
悪びれぬ態度に誘われて橋上にあがり、吉兵衛は貼りつけたばかりの紙面を見た。
『天下は、天下の天下なり。関白家の罪は関白の例を引きて行わる可《べ》き事、尤《もつと》も理の正当なるべきに、平人《へいじん》の妻子なんどのように今日《こんにち》の狼藉、甚《はなは》だ以《も》って自由なり。行く末めでたかるべき政道に非ず。吁《ああ》、因果のほど御用心候え御用心候え
世の中は不昧《ふまい》因果の小車や
善《よ》し悪《あ》しともに巡《めぐ》り果てぬる』
達筆にしたためた落首ではないか。
「こなたのご思案じゃな?」
「いいや、天の声だ」
男は嘯《うそぶ》いた。
「怨嗟は国中に満ちている。わしも太閤に苦汁《くじゆう》を呑まされた一人だが、いま、天に代って、豊家の末路を暗示したまでよ」
どこか虚に響く哄笑を残して、男はすばやく去ってゆき、吉兵衛の黒衣もやがて夕闇のかなたに没した。一枚の、無気味な紙片だけが、三条の東の橋詰に残されたのである。
悲報が犬山にもたらされたのは、秀次が切腹した直後であった。つづいて公達、妻妾ら三条河原での惨刑が知らされ、櫛の歯を引くように前後して連日、それからは秀次の眷顧《けんこ》を受けた人々の不幸な死や処罰の報が相継いだ。
木村常陸介、白井備後、前野長重、阿波杢之助ら生前、聚楽第の謀臣と目されていた秀次の股肱らは、その妻子とともにつぎつぎに捕われ、有無をいわさず自害させられたし、大名の中にも最上義光、浅野|幸長《よしなが》など、秀次と親交があったというだけの理由で譴責された者が少なくなかった。
御台所資子の父菊亭晴季、あるいは医師の延寿院玄朔、連歌師の紹巴《じようは》といった長袖までが、連坐の憂き目に遭って流刑に処せられたのである。
伊達政宗の場合は、大枚の金子をこっそり秀次から借りていた事実が、咎めの対象になったわけだが、同じ弱みを持つ諸将らの狼狽ぶりは伊達家に劣らなかった。
細川忠興など、わけて息女の一人を前野出雲守長重に嫁入らせ、その|よしみ《ヽヽヽ》を通じて二百枚もの黄金を融通してもらっていた間柄である。秀次や前野らの失脚は家の断絶にもつながる一大事であった。
聚楽第をめぐる雲行きが怪しくなったころから細川家の重臣松井康之あたり、金の返済に百方腐心したけれども、もともと不如意だからこそ頼み込んだ借財なのだし、おいそれとは調わない。走り廻ったあげく万策つきて、徳川家康に泣きつき、二百金、貸してもらって急場をしのぐ有様だった。
ひとつひとつ、それらすべての報告が犬山の老夫婦を打ちのめした。
悲歎のあまり、弥介吉房は|もとどり《ヽヽヽヽ》を払った。入道し、三好一路と名を変えたのである。
|とも《ヽヽ》も出家した。戒師は京都本円寺の第十六代住持|空竟院日禎《くうきよういんにつてい》だが、法名日秀となり、一路と名乗ったところで、夫婦の傷心が癒えるものではなかった。
たださえ病気がちだった一路は、床についたきりとなり、|とも《ヽヽ》も胸痛のひどい発作に見舞われて起つことができなくなった。
そんな一路に振りおろされたのは、
「讃岐《さぬき》に配流する」
との、無情な鉄槌《てつつい》である。
謀叛人の父──。その責任を問われたわけだが、中村一氏、駒井重勝、田中吉政ら老臣たちの必死の歎願で、せめて刑地への出立は、
「病いが癒えてから……」
と、緩和された。
「いや、まいる」
一路は言った。
「中途で死ねれば本望じゃ。この身はもはや息をする屍……。いつ、どこで終ろうと惜しい命ではない」
「わたくしもお供いたします」
泣いて泣いて、腫《は》れ塞《ふさが》った|とも《ヽヽ》の目が、秀吉への恨み一つに支《ささ》えられて、かろうじて生き身の輝きを宿していた。それがなければ涙で潰れて、彼女は盲目となってしまったかわからない。
「三人儲けた息子を三人ながら、ことごとく殺され、可愛い嫁たちやいたいけな孫までを、むごたらしゅう死なしたわれらに、さらに加えて生き別れの苦痛を味わわせようとしておる藤吉郎は、鬼じゃ、魔じゃ」
|とも《ヽヽ》は呪った。
「この腕に抱きしめた於百丸、於十丸、お亀ら幼い者どもの肌身……」
狂おしく、左右の掌を|とも《ヽヽ》はみつめる。
「ありありとまだ、その柔かさも温さもが手に残っておるものを、すでにどこにもあの者たちはおらぬ。とりどりに美しかった子らの母たちも、二度とふたたび我れらの目に、花のようなあの笑顔を見せてはくれぬのじゃ」
髪を掻きむしって彼女は悶えた。
「藤吉郎も、お拾の口を吸うであろう。淀の女房はじめ側女どもの柔肌を、撫でいとしむ夜もあろうに、際限なく、おのれには許す愉楽を、なぜ人には許さぬのか。人の倖せを突き崩し、人の歎きと涙の上におのれの倖せを築いたとて、なんのそれが、長つづきするものぞ」
妻の痛罵を、一路もいまは制止しようとしなかった。
「覇業《はぎよう》というものの、本来の姿がそこにある。覇者はのう|とも《ヽヽ》、おびただしい犠牲の血の上にのみ、おのれ一個の寿福を夢みるものじゃ。万人と共には愉しもうとせぬ。愉しめもせぬのが覇者の宿命よ」
自分たちの不幸は、ごく近い身内に、そのような稀有《けう》な存在を持ってしまったところから胚胎していると、一路は歎いた。
「尾張中村の小猿どのが、針売りの日吉か、せいぜい足軽の藤吉郎で終っていたら、われらも一介の百姓のまま、ささやかな生を閉じることができたであろう。それを、よしとするわけではないが、そなたやわしの気質からすれば、小態《こてい》な百姓ぐらしこそが安気《あんき》であったのじゃ。安気なりに苦労はしたにちがいない。でも今、夫婦して舐《な》めさせられている地獄の思いにくらべれば、はるかに増しではなかったろうか」
出世街道を、秀吉が独走しはじめたときから──いや、そもそも秀吉という人物に、縁戚の絆で結びつけられた劫初《ごうしよ》から、こんにちの運命は決まってしまったのだと一路は言った。
「わしらは愚かだった。この事実を胆に銘じ、子というものをつくらねばよかったのじゃ。秀次にも秀勝にも、秀保にもすまぬ。孫たち嫁女たちにも申しわけない。罪の根元は、わしら二人の不明にあったのじゃよ」
いかにも一路らしい自責の吐露《とろ》だったが、さすがに病躯を押しての配所行きは、周囲の諌止で実現しなかったし、|とも《ヽヽ》の随行もしたがって見送られた。
このまに秀吉の近くでは、北政所お寧々、前田利家夫妻らによる熱心な減刑工作がくりひろげられたらしい。讃岐への流罪は撤回され、改めて一路吉房の配地は下野の足利に変えられた。
しかしそれも、結局は一路の病状が日に日に重ったため見送られ、実際には執行されないまま彼の死によって終止符が打たれたのである。
建性院殿三位法印日海大居士──。
|とも《ヽヽ》は洛中村雲の地に、一宇《いちう》を建立し、夫や子ら、縁につながる一族すべての菩提を弔う目的で、永代法華《えいたいほつけ》の道場とした。
このときも、かげながら義姉のために奔走して、
「なにとぞ寺号をお撰び給わりますよう……」
後陽成帝に願って出てくれたのは、お寧々であった。
お拾とその生母お茶々の前途に、いささかの不安をも無からしめようとの配慮から、甥の秀次を除き、血つづきの男児ことごとくを根絶やしにした秀吉であることを、だれよりもお寧々は知っている。それだけに一路にも|とも《ヽヽ》にも、彼女は同情を寄せていたし、可能な助力は惜しまなかったのだ。
寺にはおかげで『瑞竜寺』の号が下賜され、代々、住持には皇女の入室を見て、村雲御所と尊称されるようになった。
|とも《ヽヽ》もこの寺の一棟を住居とし、病いがちな日々を忠実な侍女の由津、小姓の木村寿助らにみとられながら、ひっそり過ごした。
季節のくだもの、手のこんだ干菓子、蒸し菓子などをお寧々から贈られても、
「世捨て人の口に、このような贅沢なものは合わぬ」
仏前に供えさせて、いっさい賞味しようとしなかった。
すこしでも気分のよいときは床から出て、看経《かんきん》にだけ打ちこむ日常だったが、そんな|とも《ヽヽ》が時おりそっと、手文庫から出して眺めるのは、秀次の妻妾らが処刑されたその夜のうちに、三条大橋の欄干はじめ京の町のあちこちに貼り出されたという捨て札の写しであった。「天下は天下の天下なり」ではじまるあの、無気味な予見である。
「天下国家は、権力者一人の所有ではない。民衆をも含めて、この国に生きるすべての人のものだ。政治が、独裁者の恣意私情によって左右され、いやしくも関白職にある公人にすら、下人《げにん》と等し並みの侮辱を加えて憚からぬようでは、行く末かならず、よくないことが起こるだろう。因果の理をわきまえ、用心の上にも用心すべきだ」
と、警告の文字をつらねたあとに、
世の中は不昧因果の小車や
善し悪しともに巡り果てぬる
の一首を添えて、豊臣家の将来を暗示した一文は、いまなお何者の筆か、書き手がわからぬまま探索は打ち切られたという。
この文字面に目を走らせるたびに、だが、|とも《ヽヽ》の脳裏には、ある一人の男の顔が浮かび上る。岡屋津の回船問屋井筒屋……。当主了意のうしろで、きかん気そうな口もとをキッと結んでいた伜四郎兵衛の面ざしは、つねにつねに、|とも《ヽヽ》の意識の隅から消えたことがなかった。
岡屋津の港はついにつぶされ、町の繁栄は過去の幻となりはてたが、半造りの伏見城下を視察中、秀吉が鉄砲で狙撃された事件も、下手人は何びとか、わからずじまいに終っている。
(あの男ではあるまいか)
と、そのときも|とも《ヽヽ》は思ったけれど、口に出してはぷっつりとも四郎兵衛の名など洩らさなかった。
だれにしろそれは、権力者の気まぐれや怒り、猜疑や野望の贄《にえ》にされて、無念の涙を呑んだ民衆の中の一人にきまっている。
豊臣家への怨嗟も、井戸底にいつとはなく水垢が溜まるように、目に見えぬ滓《おり》となって人々の胸中に積もりつつあった。元来が、敵を──人を、殺すという行為によって成り立っている武将の生活である。斬り取った首の数が勲功の基準となる殺人者の生涯に、罪と罰が伴わないはずはない。踏みにじられ、殺された側の、呪詛が射向けられぬはずはないのだ。
たとえば井筒屋四郎兵衛にしろが、ひそかな同情者であるにもかかわらず豊臣一族につらなる一人として、|とも《ヽヽ》を憎み、恨んでいるのは目に見えていた。
(そのくせ、そのわたしもまた、藤吉郎を憎み、恨んでいる。子らを殺された母として、許しがたい思いを沸々《ふつふつ》、心に滾《たぎ》らせているのだ)
呪われた一族の内部で、血族同士が、さらに呪い合わなければならなくなった宿業のおぞましさが、|とも《ヽヽ》にはたまらなかった。
(いっそ何もかも、壊れてしまえばよい)
とさえ、思う。
水呑み百姓の伜が太閤になった、日本という国の、実質上の支配者となった事実からして、そもそも異様ではあるまいか。強運の星がついて回ったとはいえ、異常な時代が生んだ異現象ともいえそうである。秀吉の命もろとも、その権威のいっさいが崩壊してしまえば、憑依《ひようい》していた狂気が落ち、世の中の歯車は、むしろ正常な軌道にもどるのではないか。
|とも《ヽヽ》には、そのようにも思えたのだ。
(弟が生きていればいるほど、世間のひずみはひどくなる。計りしれない暴慢が、支配の名を借り、攻略の名目を借りて他国の民の安息までを、奪い尽すことになるのではないか)
秀次を死なせ妻子らを屠殺した直後、善美をきわめて造らせた聚楽第を、秀吉は取り毀してしまったが、講和交渉が破れ、朝鮮役が再開されたのはそれからまもなくだった。
耳と鼻──。
首級では嵩ばるという理由から、人間一人の顔面に必ず一個、もしくは一対ついている耳か鼻を削ぎ取って、諸将らが送りつけてくる酸鼻も、また開始されたのである。
「腐らぬよう塩漬けか酢漬けにし、樽や甕など手当り次第の容れ物に詰めて、あとからあとから船出ししているそうですが、なんとお方さま、その数は十万を越えたとやら……」
侍女の由津に聞かされても、|とも《ヽヽ》はもはや耳をふさがず、顔色も変えなかった。
歪んだ軸を中心に、日本中が狂った独楽《こま》さながら、とめどなく歪んだ回転をはじめた以上、狂気の波動が拡がるのは当然と思えた。
「鼻だけ耳だけならば、男女老若の区別はつきませぬ。日本の軍兵たちは女こどもはもとより、生まれたての赤児の鼻まで削いで、血眼《ちまなこ》の戦功を競い合っているそうでございます」
捕虜にされた無辜《むこ》の民衆もおびただしい。うしろ手にくくし上げられ、船底に押し込まれて九州へ運ばれてくる間に、皮肉に喰い入った縄目から膿んで、高熱にのた打ちながら死ぬ者、さいわい落命を免れても、腕が彎曲したきり、もとへもどらなくなる者など悲惨は数しれなかった。
「キリシタンの弾圧も、目を覆うほどだとか……。長崎ではフランシスコ派の宣教師はじめ、日本人信者多数がむごたらしい処刑にあわされたと聞きました」
四方に満ちる苦悶の呻《うめ》きの中で、たった四歳にしかならぬお拾の元服が強行され、
「秀頼と、おん名を改めたよしにござります」
とも、由津に告げられたとき、はじめて、
「恐ろしい」
身ぶるいして、|とも《ヽヽ》は目を閉じた。宙を飛ぶ一ノ台の首、於百丸の首、於十丸の首、お亀の首……。三条河原の叫喚にお拾の幼な顔が重なって、善《よ》し悪《あ》しともにめぐる因果の小車の、禍々しい軋みを、たしかに聞いた気がしたのであった。
秀吉の死を知った瞬間、だから|とも《ヽヽ》は正直、ほっとした。にわかに気力が萎え、虚脱したように一時、五感の反応が鈍ったが、悲しみよりも、|とも《ヽヽ》の全身をじんわり浸したのは、むしろ安らぎの感情だった。
(あとは黙って、亡びを待つだけじゃ)
亡びとは何か?
自身の肉体の消滅と、豊臣の家の消滅──。その双方に抱かされた予兆である。
それはしかし、|とも《ヽヽ》が願うような静かな形でくるとは限らなかった。少なくとも豊家の亡びには、|ひずみ《ヽヽヽ》の大きさに比例した反動を覚悟しなければならなかったし、何よりもその前に、日本国じたいに滅亡の危機が切迫していた。
「朝鮮の軍勢がもり返したげな」
「明国の大軍が、加勢に馳せつけたというぞ。日本兵は寒さと兵糧の不足に悩まされ、蔚山《うるさん》はじめ、各地で苦戦を強いられだしたとか……」
ささやき交しが、やがて声高な風説となって人々の不安をかき立てはじめたのだ。彼我の戦況は逆転──。いたるところで民衆による義軍が組織され、日本軍は神出鬼没なその攻撃にも甚大な痛手を受けて、退却を余儀なくされている、このまま敗けが打ちつづけば、破竹の勢いに乗じた明と朝鮮の連合軍が、海を渡って日本本土に攻め込んでくるかもわからない、ゆゆしい事態となった。元寇このかた、かつて見ない国難の招来だと、噂は噂を呼び、朝鮮に接近している壱岐《いき》、対馬、北九州沿岸の住民はことにも恐慌状態に陥った。
戦端を開かなければならない理由もなく、口実もないのに、不意討ち同然な侵攻を一方的にしかけ、しかもその結果が、国家の存亡にかかわる重大事となったことに、だれよりも深刻な悔いと責任を感じてよいのは、秀吉である。|とも《ヽヽ》は思いやった。
(秀次を殺しても、おそらく秀吉の心に平穏はもたらされておるまい。戦いの始末をどうつけるか、目前の危急をも含めて、心痛の種はつぶしてもつぶしても、つぎつぎに芽を吹く。一人のお拾への盲愛に眩《くら》み、血族さえも信じられなくなった秀吉自身の心象に、疑いは絶えまなく暗鬼を映し出してゆくのではあるまいか)
この、|とも《ヽヽ》の想像は当っていた。
焦慮のいっさいを振り払いでもするように、秀吉は亡くなるすこし前に醍醐寺の三宝院におもむき、大がかりな花見を催したが、いままでにない警備の仰々しさは、内心の不安の現れともいってよいものだった。
「下醍醐《しもだいご》と上醍醐のあいだに、桜の並木がいまを盛りと花をつけております。いつぞやの、吉野でのお花見、あるいは北野での大茶会のときと同じく、道の両側にお茶屋が建ち、店棚なども設けられて、そぞろ歩きをおたのしみいただけるよう趣向を凝らしてあるのですが、ひと足裏へ廻ればご警固の厳しさ……。戦陣さながらであったと申します」
どこで仕入れてきた情報か、|とも《ヽヽ》に語ったのは木村寿助重成である。
「山々谷々、五十町四方に柵を結いめぐらし、二十三カ所もの見張り所を置いて、総構えの奥はわけても犬の仔一匹通させぬ警戒ぶりであったとやら……。弓、鑓、鉄砲など兵具を手にした将兵らが幔幕の外側に犇《ひしめ》き、お馬廻りの近習衆も近来になく多数、配備されたよしにござりました」
「北野の茶会とは、大きに違うのう」
冷ややかに、|とも《ヽヽ》は言った。
「あのときは、辺土に住む侘者《わびもの》、茶を好くやからならば唐天竺《からてんじく》の者も拒まぬ、集まり来たれ、手ずから茶を点てて振舞おうぞと、太閤は高札を建てられた。下々の入り混みを許し、数寄《すき》の道を倶《とも》に楽しもうとする|ゆとり《ヽヽヽ》があったということじゃな」
「もはや国土に住む何びとをも、猜疑の眼《まなこ》なしに、太閤殿下はごらんになれなくなったのではありますまいか」
「心は民衆とも、離ればなれになってしもうた。愛児秀頼とその母西ノ丸殿お茶々のほか、気を許して語る相手すら秀吉は失ったわけか」
病臥された、との噂が耳に入ったのは、醍醐の花見から五十日ほど経過した夏のさかりであった。
痢病《りびよう》と、はじめは取り沙汰され、いや労咳じゃ、腎虚《じんきよ》じゃ、どうやら癌腫《がんしゆ》との見たてらしいぞなどなど、病名もはっきりとは定まらぬうちに秀吉の病状は急速に悪化して、慶長三年八月十八日、六十二年の生涯を伏見城中に閉じたのである。
死は、交戦国への思惑からしばらく秘せられたが、
「薨《こう》じられたが定《じよう》らしゅうござりますぞ」
早耳の報告をこっそり仕入れてきたのは、やはり木村寿助だった。
つづいて北政所お寧々からも、非公式の知らせがあり、|とも《ヽヽ》はさすがに強い衝撃を受けた。
六十二歳──。
老い朽ちたといえる年ではない。戦局の収拾、秀頼の行く末など、気がかりが山積して死ぬに死ねなかったのではないか、とは、容易につく推量である。寧々の書状を瑞竜寺まで持参した侍女お|ごさ《ヽヽ》の話によれば、諸大名に命じて秀吉は、秀頼への忠誠を誓わせ、起請文を提出させたほか、特に徳川家康と前田利家の二人に慫慂《しようよう》し、石田、前田、増田ら日ごろ反目しがちな五奉行との間に、
「向後は双方ともが異心をさしはさまず、秀頼公のお為専一に、ご奉公に励みます」
との誓紙まで取り交させたらしい。
お|ごさ《ヽヽ》の口ぶりに、
「それはもう、他目《はため》にも涙ぐましいほどの懊悩ぶりでござりました」
どことなく皮肉な調子がこもるのも、お茶々嫌いの日ごろからすれば無理からぬところだろう。
一応は五大老を召して、置目《おきもく》の形で亡きあとの戦争処理を依頼したけれども、刻々、死期が迫るにつれて秀吉の中に絞られてきたのは、ただ一点、秀頼可愛さの妄執だけだったようだ。
改めてまた、五奉行が誓紙に血判し、相互に姻戚の約を結んで軋轢《あつれき》など起こさぬむね、誓ってみせるなど、ひたすら病人の懸念の除去につとめたけれども、紙きれに託す信頼がいかに虚しいものか、当の秀吉はじめだれもが承知していた。それでも、
「誓紙……誓紙を出せ」
囈言《うわごと》のように秀吉は求めつづけ、実態のない神威に縋ろうとした。そのほかにもう、縋り得る何ものも秀吉にはなかったのだといってよい。
徳川家康、同じく秀忠、前田利家と利長父子、宇喜多秀家ら言われるままに再び三たび、誓書を差し出した諸大名らの心の裏側が、どのような思いに塗り分けられていたかは窺い知るべくもない。
五奉行らも重ねて幾度となく誓いを立て直し、秀頼母子への誠意の持続を保証してみせたが、もはやこのころになると病人の精神はしばしば混濁して、眠るでも醒めるでもない朦朧とした時間が長くなった。
[#2字下げ]返す返す秀頼こと、たのみ申し候。五人の衆、たのみ申すべく候。委細、五人の者に申し渡し候、名残り惜しく候。
五大老を名宛とする遺言の口述は、ふっと正気にかえった短いあいだになされたものである。|とも《ヽヽ》はしかし、この書置きを知らなかった。秀吉の歿後、それも大分たってから、
露と置き露と消えにし我が身かな
難波《なにわ》のことも夢のまた夢
の一首を、
「ご辞世と披露された詠歌でござります」
と、風の便りに聞いたにすぎない。
訪れる者もない明けくれの中で、|とも《ヽヽ》は静かに老いを重ねた。歳月は、老躯に降りつもる落葉に似て、|とも《ヽヽ》を柔かく包み、その心情の昂りを鎮めてくれた。激動する世情は、一人の尼の存在など片隅に置き捨てて前進したが、|とも《ヽヽ》もまた世間を捨て切って生きつづけた。
──とは言え、世外《せがい》の寺域にも世の波動は伝わってくる。さいわい朝鮮役はうまく日本兵の撤収が完了し、国難|惹起《じやつき》の危険は避けられたものの、やがて次第に徳川家康が威勢を強め、太閤|法度《はつと》を平然と犯すなど不遜な態度が目立つようになって、遺臣らの対立も日ましに尖鋭化しはじめたという。
そんなさなか、お松からの便りで、前田利家の死を知らされたのが|とも《ヽヽ》には悲しかった。織田家の侍だった昔から、したしく行き来していた遠い日々が、しきりに思い出された。
「いまわのきわまで、豊臣のお家の行く末を案じていたようでございます。経帷子《きようかたびら》を着せかけるわたくしの手を払いのけ、新藤吾国行《しんとうごくにゆき》の脇差を鞘ながらしっかと胸に押しあてて『往生など願わぬぞ』そう言い残して目を閉じました」
夫に殉じて、お松は飾りをおろし、かねて私淑していた紫野大徳寺の春屋《しゆんおく》宗園から、芳春院の法号を授けられた。
「おしたしくしていただいた三女のお摩阿は、醍醐での花見のあとお暇を乞うて、万里小路充房《までのこうじみつふさ》卿のもとへとつぎ、さいわいに琴瑟《きんしつ》、相和したか、先ごろ男児を生み落としました。利家どのに、この孫を抱いてもらえなんだのが、一つの心残りでございます」
とも綴《つづ》られた文面に、|とも《ヽヽ》はつくづく目をあてながら、
(とうとう取り返したか愛姫《まなむすめ》を……。やはりしたたかよの、お松どの)
人しれず、忍び笑いを洩らした。
(太閤の側室であったあいだは、みごもるけぶりすらなかった病弱そうな摩阿姫が、お公卿の屋敷に再嫁するとたちまち、子宝に恵まれたとは……。うれしかろ)
おそらく心身ともに、真実、女の開花を迎えた結果にちがいないが、お祝の凱歌が聞こえる気がして、こればかりは、はるかに祝福すら送りたかった。
しかし、一方、政情のほうは、利家という抑え手が無くなったあと、家康と反家康派の間にかろうじて保たれていた和平の均衡が一挙に崩れた。秀吉の死の翌々年には、もう美濃の関ケ原で、天下分け目といわれる戦端が開かれ、石田三成ら秀頼母子を軸として結束した西軍が、あえなく敗れ去ったが、互角と見えた戦況をどたんばでひっくり返したのが、
「なんと、小早川秀秋どのであったげにござりますぞ」
と由津に知らされて、
「あの、寧々どのの甥御が東軍に奔ったか!?」
|とも《ヽヽ》はつい、声をつつぬかせてしまった。
「福島正則、加藤清正ら、北政所子飼いの武将たちも、いっせいに徳川方に味方したとやら……。言うてみりゃ関ガ原の合戦は、お寧々さまお茶々さまがた、女の修羅のぶつかり合いとも申せましょうな」
「思えば鶴松ぎみの誕生以来じゃ」
吐息つく語気で|とも《ヽヽ》はうなずいた。
「いや、茶々御前を秀吉が側女に加えたそのときから、隠忍に隠忍をかさねていたお寧々どのであったとは、わしにさえ見てとれたものなあ」
「悧口なお生まれつきだし、正室の体面からも、表向きはどこまでも糟糠《そうこう》の妻らしく振舞っておられましたが、それだけに内に籠る瞋恚《しんに》は、すさまじゅうございましたろう」
「あの気性じゃでな。秀吉が死んだのちにこそ、淀の女房に目にもの見せてくりょうと、心に期していたにちがいない」
「それにしろ、はっきり徳川どのの麾下《きか》に走って、甥御に裏切りまでそそのかすとは怕い女子じゃ。この先、どうなりゆく世の中でござりましょうな」
西軍が潰《つい》え、石田らが殺された以上、おぼろげにも予測はつく。茶々母子がどうあがいたところで、家康の擡頭を抑え切れるものではなかろう。さればこそ、天下の分け目と、関ケ原合戦を世人は呼んだのだ。勝敗を決定づけた小早川秀秋の裏切りも、それ故にいよいよ重要な意味を帯びてくる。
「江戸の内府は、ですから陣中の幕屋で秀秋どのの両手を握りしめ、額に押しいただいて謝意を表わされたそうでござりますよ」
とは、木村寿助の報告であった。
「徳川どのが押しいただいたのは、秀秋の手ではない。じつは寧々どのの手じゃ。そうであろうが……の? 寿助」
「仰せの通りと申せましょうな」
怕い女子じゃと由津は言ったが、しんそこ、|とも《ヽヽ》もその言葉に同感を抱いた。鶴松を憎みお拾を憎み、茶々を憎むあまりに、彼らを溺愛した秀吉までを、心の底では憎悪しきったに相違ない寧々の、怨念の深淵が、今こそ|とも《ヽヽ》の目にも、ありありと覗ける思いであった。
(正妻の立場で、嫡子を生んでいたら、勝気で怜悧な天性からも、全力を挙げて豊臣の社稷《しやしよく》擁護に立ち上がったであろうお寧々……)
本来、それがもっとも自然であり、正統でもあるはずの情熱のはけ口を、夫の遺志に背き、徳川の野心に与《くみ》して、豊家の亡びに手を貸すという形の中に求めなければならなくなったのは、寧々の不幸といわざるをえまい。疚《やま》しさを糊塗しようがために、おそらくもっともらしいさまざまな理由づけを、寧々は用意するであろうけれど、建て前の底の底に青白く沈んで見えるのは、天下人の妻と呼ばれながら、ついに子という者が生めなかった妻の、無念であり、孤影である。
寧々の性格とすれば、耐えがたかったにちがいない敗北感──。関ケ原合戦は、家康にとって天下取りへの大博打《おおばくち》であったばかりでなく、北政所寧々にとっても、積年の屈辱に|けり《ヽヽ》をつけるために必要な大博打であったのだ。
的確無比に、彼女は賽《さい》を振り、みごと勝った。その思い込みの一途《いちず》さ、判断のたしかさに|とも《ヽヽ》は舌を巻く。恐ろしいとも思う。
案の定、関ケ原以後は、坂をころがる石に似ていた。豊臣家の命運は破局の谷へ向かってみるみる傾き、正比例して徳川氏の基礎は鞏固《きようこ》さを加える一方となったのである。
家康は征夷大将軍に任ぜられ、大坂城からの秀頼の、年頭の賀詞に、答礼すら返さなくなった。主従関係の、それは解消を意味していたし、あべこべに何かにつけて、江戸への出府、徳川家への挨拶を秀頼の側に要求してやまなくなった。拒むと知っての難題である。
小吉秀勝の恋妻だったお督……。茶々の妹のあの、お督が、徳川秀忠の正室に迎えられたのは、まだ秀吉の存命中だった。
旭姫|きい《ヽヽ》の歿後、徳川家との紐帯が切れるのを恐れて、秀吉は織田信雄の娘|小姫《こひめ》を養女に貰い受け、秀忠との間に許婚の約を結ばせたが、その手駒の小姫が死ぬと、次はお督に白羽の矢を立てて、
「ちと、年はいっておるがの、きわめつけの美人じゃよ」
徳川秀忠に押しつけたのである。人づてに、この婚礼を知ったとき、|とも《ヽヽ》の胸をかすめたのは、
(小吉の忘れ形見じゃと、お督自身は言い張っていた姫。内実は先夫|佐治《さじ》与九郎の胤《たね》と陰口きかれていたあの小完は、どうなったか)
との懸念であった。
これも人の口から聞いたところによると、小完は伯母の茶々ご寮人に引きとられ、すくすくとその手許で生《お》い育っているという。
それならそれで、また、お督も、江戸に入輿《にゆうよ》するならばするで、せめてひとこと、もとの舅姑に手紙でなりと、いきさつを知らせてくれてもよいはずではないか。
(つれない人たちじゃ)
と、当時|とも《ヽヽ》は、屈折した思いを味わったものだが、やがてお督は、秀忠との間にも男女幾たりかの子を儲けた。
その内の一人──千姫と名づけた息女を、家康がはるばる大坂へ送り、秀頼にめあわせるなど、恫喝だけではなく、あれこれ懐柔の策まで用いて、豊臣退治に手間取ったのも、
「秀頼の行く末、たのむ、たのむ」
と涙ながら、臨終の秀吉に依託された手前、さすがにうしろめたかったからである。
もはやしかし、時勢の推移は明らかだった。家康が意を決した瞬間、豊臣家は倒れる。何びとにも、それは防ぎようがない。豊家に恨みを抱く者たちに言わせれば、一代にして興り、一代こっきりで亡びさるものも、まさしく天意というものであったろう。
滅亡は必至──そう見られている大坂城へ赴くことは、換言すれば死にに行くのと同じであった。
それなのに、元服し、凛々しい青年武将に成長した木村寿助重成が、
「ぜひとも大坂に、馳せ参じとうぞんじます」
願って出たとき、|とも《ヽヽ》はあえて止めなかった。
「母の|宮内卿 局《くないきようのつぼね》は、承知しておるのか?」
念のため、ひとこと訊ねただけである。
「むろん、承知しております。大坂へ罷《まか》りくだって、秀頼公を扶翼し奉れと言って寄こしたのは、茶々ご寮人にお仕えする母宮内卿でござりました」
「そうか。それならばよい。行きなされ。草葉のかげで父御《ててご》の常陸介どのも、おそらくは許して下さるはずじゃ」
こころよく送り出した。
息子や孫たちを殺された憤り……。秀吉の覇業に振り回されて、意に添わぬ人生をむりやり歩まされた苦悩の思い出は、年とともに|とも《ヽヽ》の心からも薄れつつあった。
「そういえば、近ごろ頭痛を忘れたぞ由津」
ふしぎなことのように|とも《ヽヽ》は言う。
「なぜであろう。中年すぎてよりこのかた、頭蓋の内側にべたりと貼りついて、悩ませぬいた持病であったに……」
「お心が平らかになられた証拠でござりましょう」
「なんの、平らかであるものか。関東と大坂、あすにも手切れと申すではないか」
「でももう、そのどちらとも、お方さまは関りありませぬ。結着がどうつくか、お心しずかにお見守りあそばせばよいのでございます」
「いいや由津よ」
かぶりを振ると、我れながら思いがけぬ熱さで、涙が膝にこぼれ落ちた。
「弟をわしは恨んだが、よしんばそれが不幸であったにせよ、豊太閤の姉として、豊臣家の命運と歩みを共にして生きた一生にまぎれはないのじゃ。一族の一人として、豊家の亡びを見るのはやはり耐えがたい。茶々どのや秀頼が、せめていさぎよく散ってくれるのを願うばかりじゃ」
「茶々どの母子は、でも、自害などあそばすでしょうか。江戸の将軍家に恭順の意を表わすなら、一大名として取り立ててつかわそうと、徳川どのは仰せられているとやら……」
「口とはうらはらなそのような約束が、永代つづかぬことぐらい、茶々どのは先刻察しておろう。織田右府の姪、浅井どのお市どのの息女じゃ。わしらや寧々どのあたりとは生まれざまからして違う高貴の姫君……。同じく亡びるならば、一ッときにすぎぬ延命よりも、城を焼く紅蓮《ぐれん》の中での散華を選ぼう」
秀頼が死に、|とも《ヽヽ》自身がみまかれば、木下弥右衛門を根として広がりかけた呪わしい狂気の系譜にも、終止符が打たれる。由津にさえ打ちあけられぬこの予測は、悲しみの中での|とも《ヽヽ》のただ一つの慰めであった。
(宿痾の頭痛が軽快したのは、安堵のためかもしれぬ)
と、|とも《ヽヽ》は思う。
そして元和元年五月、|とも《ヽヽ》のひそかな期待にたがわず大坂は落城し、豊臣家も秀頼母子もが、いっさい地上から姿を消した。木村重成の奮戦と、兜の内に香を焚きしめていた奥ゆかしい死様とが、女主人に劣らず、めっきり老いた由津の口から語られるのを聞きながら、皺んだ瞼の裏に|とも《ヽヽ》が描いたのは、鮮麗な茜《あかね》の拡がりである。
白堊の天主から噴きあがる透きとおった紫色の炎が、夕映えの朱とまざり合って、この世ならぬ美しさに彩られた天空──。淀どの母子が上へ上へ、手に手を取って飛翔して行くのを、金に縁どられた雪白《せつぱく》の雲から、身を乗り出すようにして待ち受けているのは、これも幻想の中の秀吉であった。
鶴松もいる。その脇に温顔をほころばせて立つのは大政所|なか《ヽヽ》ではないか。小一郎秀長、旭姫|きい《ヽヽ》……。|きい《ヽヽ》の先夫の嘉助がい、弥介吉房がい、そして|とも《ヽヽ》の願望の中には秀次、秀勝、秀保ら息子たちまでが、恩讐のすべてを超えて同じ雲の台《うてな》に笑顔を並べていた。
(わたしも、いずれ行きますぞ。半坐を分けておいてくだされや)
いっせいにうなずく親族たち──。
でも、寧々の居場所だけはそこにない。他家からとついで来、最後は敵の庇護のもとに去って行った女である。徳川氏は寧々を厚く遇し、河内に一万三千石もの化粧田を与えて労に報いたが、どのような思いで彼女がその米を食《は》んだかは、|とも《ヽヽ》にもおおよそ想像がつく。どこまでも上べは昂然と勝者の優越を誇示して生きたに相違ない。しかし寧々の晩年の心情は、孤寥に満ちたものではなかったか。子の母となってこそ、交わることの出来た豊臣一門の血の流れだ。ただ一人その外側へ、ころんとはじき出されてしまった石女《うまずめ》の嫁の悲哀を、|とも《ヽヽ》は今こそ思いやった。はじめてはっきり、寧々の胸に鳴る木枯《こがらし》の音を聴いた気がする。
(不倖せな人なのに、飽くまでそれを認めようとしなかった生涯……)
いっそ、その気性の烈しさがすがすがしく、|とも《ヽヽ》自身の救いにすら感じられた。
大坂落城後まもなく、家康は亡くなり、さらにそれから八年後、出家して高台院尼公と呼ばれていた寧々が世を去った。徳川将軍家は三代目家光の治世下に入っている。
|とも《ヽヽ》の死は、そのあくる年──寛永二年の四月二十四日に訪れた。弟秀吉が築きあげた栄光への道の、第一歩の踏み出しから、一塵もとどめぬ消滅の果てまでを、逐一、見とどけて目を閉じたのである。享年九十三。
枕辺に侍したのは、これも九十の老媼《ろうおん》となった由津だけであった。
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あ と が き
この小説は昭和五十三年の八月から五十六年四月まで、二年九カ月にわたって雑誌「歴史と旅」に『北政所お寧々《ねね》』の題名で連載した。
一冊にまとめるにあたって『影の系譜』と変えたのは、たまたま今春からNHKで『おんな太閤記』というテレビドラマがはじまったため、実際のスタートはこちらのほうが早かったにしろ、便乗のように受け取られるのが嫌だったことと、それに何よりは、お寧々を書くつもりがいつのまにやら路線変更をきたし、|とも《ヽヽ》中心の作品になってしまったことに由《よ》る。
ところで、ひとこと、書きとめておかなければならないことがある。登場人物の名前である。秀吉の異父妹旭姫は、前半生がほとんどわかっていない。副田甚兵衛という武士と夫婦になったらしいが、いつ結婚したのか不明だし、副田と佐治日向守を混同している史料もあり、どこで、どのような生活をしていた女性なのか、まったくその生きざまは霧の中に没している。
彼女の実像が、いくらかでもはっきりしてくるのは中年すぎ──。旭姫という仰々しい名を冠せられ、政略的に徳川家康のもとへ輿入れさせられて以降である。したがって少女時代、娘時代の名も、将来、新史料でも発見されないかぎり、今のところ不明と断じるほかない。
でも小説の場合、名無しでは書き進められないので、私は彼女に|きい《ヽヽ》と名をつけ、村のお百姓と夫婦にさせて、男を仮りに嘉助と名づけた。つまり大政所|なか《ヽヽ》、北政所|ねね《ヽヽ》、あるいはこの小説の主人公|とも《ヽヽ》、淀どの|ちゃちゃ《ヽヽヽヽ》のような実の名の中に、虚の名を一つと、虚の人物を一名混ぜたのであった。
|きい《ヽヽ》と嘉助は、つまりフィクションの名なのに、困ったことに『おんな太閤記』のスタッフたちがこれを実名と思いこみ、ドラマの中で使ってしまった。私はあまりテレビドラマというものを見ないので、うっかりしていたが、人から注意されてこのことを知り、当惑した。
一年間、それもNHKの放送網を通じて放映される大河ドラマの影響力は、はかりしれず大きい。しかも、さらに困ったことに『ドラマ・ストーリーおんな太閤記』なる本が、日本放送出版協会からテレビの放映開始とほとんど同時に全国に発売され、二十七万部という厖大《ぼうだい》な刷り部数のほぼ全冊を、売り尽《つく》す事態まで生じたという。
映像や音声は、一瞬々々消えてゆくが、書籍は残る。『ドラマ・ストーリー』には豊臣家の系図まで紹介され、|きい《ヽヽ》の名、嘉助の名が堂々と記載されてもいる。二十七万の家庭に、電波とともに本が届けられ、保存≠ウれてしまう結果になったのである。
ご存知の通り、大河ドラマの作り出すフィーバーは、数かぎりない|あやかり《ヽヽヽヽ》現象も生む。私の小説を原作としたテレビドラマなら問題はないが、私の小説は小説として別個に存在し、一方にドラマはドラマで独り歩きしていて、そのくせその双方ともが、秀吉の妹を|きい《ヽヽ》、|きい《ヽヽ》の夫を農民あがりの嘉助≠ニして登場させていたら、一般の読者、視聴者が、
「この二つの名は、史実に基《もとづ》き、二人の人物は実在の人物にちがいない」
と思いこむのは当然であろう。
たとえば津々浦々の神社仏閣、教育委員会や図書館、国鉄私鉄の案内所、児童向け歴史読物を出版する会社、少々ふざけた言い方をすれば藤吉郎せんべい、おねね饅頭《まんじゆう》の製造元にいたるまでが、
「当寺には秀吉の妹旭姫|きい《ヽヽ》の念持仏《ねんじぶつ》、おん丈一寸の観音像が寺宝として伝わっております」
「公園中央には太閤伝説にちなむ見返り松がある。秀吉には|とも《ヽヽ》という姉と、のちに旭姫とよばれた妹の|きい《ヽヽ》、大和大納言秀長となった弟の小竹ら三人のきょうだいがいるが……」
といった由緒《ゆいしよ》書き、掲示板、パンフレット、案内書のたぐいを、孫引きの、また孫引きで末広がりに作ってゆくという状況も、起こりかねない。想像するだけで、私はぞっとした。
歴史の虚実を洗い出し、骨格をできるだけ事実で組み立てた上で、なお埋め切れない空白部分にのみ虚を充填してゆくのを、歴史小説を書く上での基本姿勢と、日ごろ私は考えてきた。それなのに、その私自身の頭からひねり出した架空の名前が、あずかり知らぬまに日本中にばらまかれ、二十年三十年、五十年後には歴史上の実≠ニ誤《あやま》られて、定着してしまうかもしれないのである。そら恐ろしいことだし、歴史に対するそのような不遜《ふそん》は、犯したくないと切実に思った。
さいわい『おんな太閤記』の作者橋田寿賀子さんとは面識があったので、
「われわれが、それぞれの立場から、このことをひとこと、活字にしておきましょう。そうしないと後世、過ちが生じるから……」
と話した。ところが『おんな太閤記』のチーフプロデューサー伊神幹氏が、
「まったくこれは、NHK側のミスで、橋田氏には関係ございません」
と釈明──。代って謝罪されたため、今後どうするかは、NHKとの話合いになったのである。
同時にNHK側は、著作権を侵害したとの見地から、
「杉本氏にしかるべく、誠意を示す所存であるけれども、お考えはどうか」
と、日本文芸著作権保護同盟に相談したようだ。保護同盟を通じて、NHK側の意向を打診された私は、もちろん、きっぱり申し出をことわった。
はじめから「|きい《ヽヽ》・嘉助」問題は、私個人に対する著作権や創作権の侵害などということとは、別次元の論である。私の思いはただ、ひたすら、「史実でない名が、史実として定着しかねない危険を、当事者一致して防がねばならぬ」とする、一点にあった。
したがって、金銭的な解決など念頭になかったし、一銭一厘、私が受け取る筋合いではないと理解していた。謝罪にしても同様、私がNHKにあやまってもらう必要はない。詫びるならば、「ひとの小説から、歴史上の人物名を流用するなどといういささか安易すぎた取材態度」を、公器としての責任にのっとって、むしろNHKは秀吉の妹≠ノ、あやまってもらいたいのである。
この、私の気持を、NHK側も虚心に受け止め、保護同盟への打診はすぐさま白紙撤回して、問題の焦点をもと通り、一本に絞り善処を約束──。
オブザーバーとして、日本文芸著作権保護同盟事務局長の夏目裕氏の参加をお願いし、三者で話し合ったあげく、
1『おんな太閤記』のチーフプロデューサー伊神幹氏が、三大新聞のいずれか一紙に「|きい《ヽヽ》、嘉助の名はフィクションである」むね、書く。
2 保護同盟も同じ趣旨を要約して同盟ニュースに載せる。
3 杉本は『北政所お寧々』(『影の系譜』と改題)のあとがきに、杉本の立場から書く。
ということで合意。その通り実行された。
すなわち伊神氏は、昭和五十六年五月十一日付『毎日新聞』夕刊の文化欄と、いま一つ日本放送出版協会刊『放送文化』の七月号とに一文を寄せ、また著作権保護同盟は『同盟ニュース78』昭和五十六年六月号に、やはり一文を掲げてくださった。
そして残る一つが、いまお読みいただいているこの、私の文章である。
なお、附記すれば、話合いのさいちゅう、やはり橋田寿賀子氏作の『小説・おんな太閤記』が、これも同様、日本放送出版協会から刊行された。そして|きい《ヽヽ》と嘉助は、ここでは急遽《きゆうきよ》、削除され、はじめから|あさひ《ヽヽヽ》と甚兵衛に書き替えられたそうだが、私はこの小説は読んでいないし、何万部売られたかも知らない。
それにしろ、映像ばかりでなく『ドラマ・ストーリー』、さらにこの『小説・おんな太閤記』までが側面から加わって、競合し、発揮した巨大な力の前に、訂正の文章の何と弱々しく、かぼそいことか。三者、束《たば》になっても、大オーケストラに対する蚊の鳴き声にひとしい。でも、それでも、活字化してさえおけば、後世、とめどなく広がるかもしれない誤りへの小さな歯止めにはなるだろうし、心ならずも虚の種《たね》≠蒔《ま》く|はめ《ヽヽ》に立たされた歴史小説書きの、良心の証明にもなると思って、あえてペンをとった次第である。
最後に、いま一つ、『影の系譜』の文中に登場する巨椋ガ池築堤工事については、京都大学助教授足利健亮氏の御研究を全面的に参照させていただいた。ここに明記し、あつく御礼申しあげたい。
昭和五十六年八月
[#地付き]杉本苑子
単行本 単行本 昭和五十六年八月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年三月二十五日刊