杉本 苑子
今昔物語ふぁんたじあ
目 次
峠の道
怪 力
髪
鷲《わし》の森
待ちぼうけ
猫をこわがる男
毒茸と女
蘆《あし》刈りの唄
家 族
瓜ひとつ
釣 る
落 花
白い蓮《はちす》
紐の先
釜の湯地蔵|譚《たん》
かぶら太郎
峠の道
1
その腫物《しゆもつ》は丹波守|平貞盛《たいらのさだもり》の腰のうしろに、ぶきみな口をあけていた。まわりは固く、紫色に腫《は》れあがり、膿《うみ》があふれ出て悪臭を放っている。
痛みがひどく、熱もあるらしい。日ごろ剛強を誇る荒武者の丹波守も、さすがに床の上にうつぶせに臥《ふ》し、枕をかかえて唸《うな》り通しだった。
――ひと目、見て、
「これは、容易ならぬご容体でござりますな」
医師の和気康元《わけのやすもと》は首をかしげた。
彼はまだ、若い。二十四歳にしかなっていない。治療の経験は浅く、むろん技法も練達しているとは言いがたい。しかしそんな康元にさえ、丹波守の腰部にとりついている腫れものが、命取りの悪瘡《あくそう》であるとは判断できた。
「なんとかならぬか? 助かる工夫はないか?」
病人はうめく。髭《ひげ》づらは苦痛に歪み、眼は血走って、狂暴な風貌《ふうぼう》がなお一層、鬼の面《めん》のように見える。康元は慄《ふる》えた。
「どうした。なおせるか? なおせないのか? はっきりしろッ」
襲いかからんばかりな丹波守の語気だ。医者を頼るのではなくて、威圧して従わせようとする傲慢《ごうまん》な武人気質の持ちぬしなのである。
「妙薬が、無いことはございません」
思わず康元は言ってしまった。そしてあわてて、口を抑えたが遅かった。
「なに、効く薬があると?」
「は、はい」
「なんという薬だ」
「児肝《じかん》と申します」
「児肝!?」
病床から、丹波守は半身を乗り出し、
「申せ康元ッ、その薬、どこで売っている? どうすれば手にはいる?」
身悶《みもだ》えて叫んだ。
「いや、児肝は売っている品ではありません。それだけにすこぶる入手しがたい秘薬でございます。お館《やかた》さまのご威勢をもってしても、こればかりは……」
「ば、ばかなッ、わしの武力財力をもってして、手に入れ難い品などあろうか。まして一命にかかわる霊薬、丹波一国はおろか日本国中、草の根を分けても求め出してみせる。正体を言えッ、その薬の正体を……」
のっぴきならなくなって、康元は打ちあけた。
「児肝とは、腹ごもりの赤児《あかご》の肝《きも》のことでございます」
「なんだと? 赤児の肝?」
「それも、五カ月から八カ月までの……」
でたらめではなかった。亡き師から、どのような悪性の腫物も児肝さえ用いれば快癒《かいゆ》すると、康元は教えられていたのであった。
「ふふ、ふふふふ」
腐肉《ふにく》のような唇をひきつらせて、丹波守は笑い出した。
「もったいぶって申すゆえ、火ねずみの皮ごろも、蓬莱《ほうらい》の玉の枝にも価《あたい》する珍品かと気を揉んだが、たかが胎児の肝ぐらい、なにほどのことがあろう。今夜ただいまにも、手に入れてみせるわ」
大声で丹波守は召し使いを呼び、息子の左衛門ノ尉《じよう》維衡《これひら》に病室まで来るよう命じた。
「お召しですか父上」
待つまもなく、左衛門ノ尉ははいってきた。これも眼つきのギョロリといかつい、父におとらず性急残忍な武将である。
「おお維衡か。ほかでもない。そちの妻は身重《みおも》とかいったな」
「はあ。懐妊中です」
「女房の命、その腹の子ごとわしにくれい」
「な、なんと仰せられます?」
唐突《とうとつ》な申し出に、左衛門ノ尉は眼をむき、父の口もとを注視した。
「胎児の肝は、瘡《かさ》の妙薬だそうだ。康元がそう申した。ぜひくれい」
カッと、左衛門ノ尉の面上に血の色がたぎった。
「無法な! いかに父上のお求めとて、みごもった妻ばかりか、腹の子までを……」
「ええい、つべこべ逆らうなッ」
丹波守は大喝《だいかつ》し、それが腫れものに響いたのか、はげしく眉《まゆ》をしかめた。
「女など、いくらでも新しいのを持てばよい。子もまた、孕《はら》ませることができようが、親はかけ替えがないのだぞッ。天にも地にも一人しかない父の命と、妻や子のどちらが大事か、較べるまでもないことだッ」
言い出したらあとにひかない父の気性に、左衛門ノ尉は沈黙し、恨みに燃える眼で医師の康元を睨んだ。
康元は青くなった。結局、泣き寝入りさせられて、左衛門ノ尉は妻を提供することになるだろう。しかしそのあと、自分を生かしてはおくまい……そう思うと、眼の前がまっ暗になるほどの絶望におそわれた。
(児肝の話などしなければよかった。なんとかこの災難を切りぬける方法はないものか)
死にもの狂いで康元は考えた。
(……そうだ!)
とっさに、名案がひらめいた。
「申しあげますッ、お館さま。維衡さまもお聞きくださいませッ」
病父とその息子のあいだへ、若い医師はいそいで割ってはいった。
2
「たしかに児肝は悪瘡に効きます。それはまちがいございません。ただし、病人と血のつながっている胎児では薬効はないのでございます」
われながらうまい言いぬけが、すらすら口をついて出た。
「維衡さまのお子ならば、まさしくお館には直系のおん孫……。あかの他人の孕《はら》み児でなければ……」
丹波守の表情から、みるみる気負いが消え、あべこべに左衛門ノ尉の顔面には、抑えようもない喜悦の色が泛かびあがった。
「それを早く申さぬか、それを……」
苦りきる父を、左衛門ノ尉は口ばやに慰めて言った。
「残念なことです。しかし、ご安心ください。代わりの胎児は、わたくしがかならず探して来ますから……」
「見つかるだろうか」
「この広い領内に、妊婦のひとり二人、いないことはありますまい。明日《あす》とはいわず今夜のうちにも、きっと取ってまいります」
勇んで左衛門ノ尉は出て行ったが、豪語にたがわず二刻《ふたとき》にもならないうちに、意気揚々と引きあげてきた。
「父上ッ、まんまとせしめてまいりましたぞ」
病室へ足を踏み入れるなり、小脇にかかえていた壺《つぼ》を丹波守の枕《まくら》もとへドカッと置いた。
「村々をしらみつぶしに当たってみようと思っていたところが、思いのほか早く、国府の町の南のはずれで孕み女を見つけました。で、さっそく出向いて国庁からの召しだといつわり、人通りのない藪《やぶ》かげへおびき出して一刀のもとに斬《き》り殺したのです」
「何カ月になっていた?」
「わたくしの妻同様、六カ月の身重《みおも》ということでした」
「死骸は始末したか?」
「見つかってはあとがうるさいので、腹をたち割って子を取り出したあと、土中深く埋めてまいりました」
「部下はつれて行ったのか?」
「腹心の者、二人だけです」
「よし、よく口止めをしておけ」
そして、座敷のすみにちぢこまっている康元を、じろりと見かえり、
「さあ、尻《しり》ごみせずと、処置にかかれ」
丹波守は冷ややかに命じた。
「はい……はい」
逡巡《しゆんじゆん》は許されなかった。康元は肚《はら》を据え、水干《すいかん》の袖《そで》をうしろで結んで、屏風《びようぶ》囲いの内側へいざり入った。
用意の板の上へ、壺の中身をこわごわあける……。
(なむあみだぶ、なむあみだぶ)
一心に成仏を念じながら、もうすっかり人間のかたちをととのえている小さな肉塊に小刀を入れて、肝の臓を取り出した。丹砂《たんしや》と鬱金末《うこんまつ》を加えて乳鉢《にゆうばち》でよくよくすりつぶし、布に伸ばして患部に貼りつける。
「ううむ。気のせいか、つけたとたんに何やら痛みが軽くなったようにおぼえるぞ」
丹波守は声をあげ、
「おどろくべき薬効ですな」
左衛門ノ尉もふしぎそうに父の腰のうしろを覗きこんだ。
やがて鼾《いびき》をかいて、丹波守は眠りはじめた。ここ五、六日苦痛に責められてろくろく瞼《まぶた》も合わなかった疲れが、一時に出たのだろう。……見とどけて、別室にさがろうとする康元の背へ、
「まて、――まて康元」
声をかけてきたのは左衛門ノ尉だった。
「きさま、おれの急場を救うつもりで、血縁の児肝は効かぬと申したのだろう」
康元はうなずいた。左衛門ノ尉はニヤリと笑って言った。
「よくぞ智恵をはたらかせてくれた。おかげで女房子が助かった。礼をいうぞ」
「とんでもない。ご会釈など無用でござります」
「この借りはかならず返す。待っていろ」
「いえ、借りなどとおっしゃるほどのことではござりませぬ。それよりも薬のききめが現われた今、もはや私を家に帰らせていただきとうぞんじます」
「それはだめだ。父上が承知すまい。まあ、いましばらく屋敷にとどまって、看護《みとり》をつづけてやってくれ」
うんざりした。用があって都へのぼろうとしていた仕度さいちゅう、他の、どの医者にも匙《さじ》をなげられた丹波守に康元は呼びつけられ、むりやり治療をさせられたのである。
(旅立ちも当分は見合わせか)
当てがわれた宿直《とのい》部屋へひきとって、その夜は寝た。
だが、さいわい、丹波守の病状は一日ごとに快方に向かい、児肝を用いて十日目には、床の上に起きあがれるまでになった。
やっと、康元は解放された。
「ごくろうだった。帰宅してもよいぞ」
日ごろ吝嗇《りんしよく》で有名な丹波守だが、命拾いできたのが、さすがにうれしかったのだろう、栗毛の鞍置《くらお》き馬を一匹、それに砂金をひと袋添えて、餞《はなむけ》にしてくれた。
康元はいそいそ家へもどった。
彼はまだ、独り身である。傭《やと》い人の老爺《ろうや》と二人きりでくらしている。
「おい、帰ったよ、開けてくれじいさん」
表戸をどんどん叩《たた》いた。
「あ、おかえりなさいませ」
かすかな返事が聞こえ、老爺が立って来て戸の掛け金をはずした。
「どうも、えらい目にあった。国司の館に閉じこめられてしまってね」
そのかわり、こんな仰々しい引き出物を貰った、厩《うまや》があるわけでなし、仕方がないから水屋の土間にでも繋いでおいてくれ……そう言って、馬の手綱を爺やに渡し、康元は奥へ通った。
ひさしぶりに居間の円座《えんざ》にくつろいで、ふところから砂金の袋を取り出し、
「さてと……。都へのぼったら、これで何を買おうかな」
楽しく思いめぐらしているところへ、
「さぞ、お疲れでございましたろう」
白湯《さゆ》を椀《わん》に満たして、爺やが持ってきた。なにげなくその顔へ眼を向けて、
「どうしたんだねじいさん。おれの留守中に、病気でもしたか?」
康元は声をつつぬかせた。老人の顔色はそれほど悪く、しばらく見ないまに窶《やつ》れはてて、実際の年よりさらに十も、老《ふ》けてしまっていたのである。
3
主人に問いかけられて、
「いえいえ、病気ではありませぬ」
爺やは骨ばった両手で顔を覆い、我慢を切らしたように嗚咽《おえつ》し出した。
「病気ではございませんが、いっそ、重い病にでもかかって死んでしまいとうございます」
「なにかあったのか? 悲しいことが……」
「娘が殺されました。国庁の使いといつわって、侍姿の男が二、三人やってき、有無もいわさずつれ出したそうでございます」
つい知らず、康元は口走った。
「じいさん、お前の娘は、みごもってはいなかったか?」
「六カ月の身重でした。それっきり帰ってこないので婿《むこ》が案じてさがしましたところ、無残や、腹をたち割られ、藪の片かげに埋められていたそうでございます」
なぐさめの言葉も出なかった。ただ全身で、康元は戦慄《せんりつ》した。老人のこの悲嘆は、自分が招いたものである。左衛門ノ尉の妻でもよかったのに、彼の怒りを恐れるあまり口から出まかせの思いつきを言って、保身をはかった。その結果、罪もない町女房と腹の子が殺され、夫や父親を歎きのどん底に突き落としてしまったのだ……。
(すまぬ! かんにんしてくれ!)
慚愧《ざんき》に、灼《や》きたてられる思いであった。
「いったいだれが、なんのためにあのようなむごいことをしたのでしょうか」
泣き沈みながらも、老人はきれぎれに疑いを口にした。康元にはしかし、真相を打ちあけ、老人に向かって許しを乞う勇気はなかった。
「親思いの娘でございました。婿も気持ちのやさしい男で、私を引きとり、養ってくれるとたびたび申していたのですが、どちらも劣らぬ貧乏ぐらし……。ましておっつけ嬰児《やや》も生まれることですし、やがて一つ世帯になるのをたのしみに、働けるうちは働こうと、こうしてこちらさまに私は奉公していたわけでございます」
「……それで、葬《ほうむ》りのことや何かは?」
かろうじて、康元はたずねた。
「お留守のあいだに、すっかりすませました。婿は気が抜けたようになってしまい、稼《かせ》ぎの仕事も手につかぬありさま……。私ももうこの上、生きて行く張りをなくしました」
表の戸が、がたがた鳴り、
「康元、いないか? おれだ」
近所の耳をはばかるように、このとき、呼びたてる声が聞こえた。
そそくさ康元は外へ出てみた。星空を背に、左衛門ノ尉維衡が立っていた。
「おぬし、京へのぼるとかいっていたな」
小声で、左衛門ノ尉は切り出した。
「はい。二、三日中にも旅立とうかと考えております」
「供はつれて行くか?」
老爺しかいなかった。悲歎にくれている今のありさまでは、無理かとも危ぶんだが、一応、
「つれて行くつもりでございます」
と、康元は答えた。
「ならば一言、告げておく。老《おい》ノ坂の峠にかかったら、そのほうは馬からおり、供の者を馬に乗せろ」
「なぜでございます?」
「父上は、おぬしの射殺を家来に命じた。領民を殺し、その腹の子を治療に用いたことが万一、おぬしの口から都びとのあいだに知れ渡ったら、これはうまくないからなあ。口を塞いでしまおうと考えたにちがいない」
怒りが、身体の芯《しん》をつらぬいた。
「あんまりですッ。それは無慈悲というものだッ」
左衛門ノ尉はせせら笑った。
「なあに、父上の気性とすれば、ごく当たり前な思いつきさ。でも、おれはおぬしに借りがある。で、こっそり知らせに来たのだ。よいか。命が大事だと思ったら峠路では馬に乗るな。馬上の者目がけて射手は矢を放つ手筈《てはず》になっている。まちがえるなよ」
ささやき捨てるやいなや、身をひるがえして去ってしまった。
三日目の朝、和気康元は爺やをつれて、丹波の国府をあとにした。
彼は決意を固めていた。老人一家の悲劇は、彼の口から起こったのだ。償《つぐな》いは、しなくてはならない。天の咎《とが》めがもし、あるならば、それは自分が受くべきものだ……そう、覚悟をきめていた。
老ノ坂の峠路に、いよいよかかり出すと、しかし康元の決意は崩れはじめた。死への恐怖が理性を捻じ伏せるのだ。彼は喘《あえ》いだ。肌着《はだぎ》がぐっしょりするほど全身に脂汗が吹き出てきた。
(いま矢がくるか? 射かけられるか?)
気が気でなくなった。馬の歩みのひと足ごとに、狂いそうなほどの緊張にとらわれた。たまらなくなって、ついに康元は鞍からすべりおりた。そして乾いた声で言った。
「じいさん、馬に乗ってくれ」
「めっそうな。ご主人を歩かせて、召し使いの私が楽をするなど……」
「いや、乗りつけないものに乗ったので、腰が痛くなったのだ。たのむ。代わってくれ」
そろそろ峠路は暮れかけていた。爺やの手から松明《たいまつ》を受けとり、手綱をにぎって康元は先に立ったが、こんどは当然、良心の呵責《かしやく》に苛《さいな》まれなければならなかった。
(娘を殺し、孫を殺したばかりか、哀れなこの老人までを犠牲《にえ》にする気か?)
恐ろしい声が、しきりに耳の中を響き交す……。康元は混乱し、鞍脇《くらわき》にすがって叫んだ。
「おりろ、じいさん。やはりおれが乗るッ」
若い主《あるじ》の取り乱しように、けげんな顔をしながらも爺やは素直《すなお》にまた、交替し、そのまま五、六歩行きかけた。
瞬間、木立《こだち》の闇を截《き》って、するどい矢唸《やうな》りが馬上の康元めがけて集中した。
「わッ」
のけぞって、彼は地べたにころげ落ちた。
「ど、どうなされましたッ?」
その身体へ、爺やがしがみついた。康元の耳はこのとき、目的をはたして逃げ去ってゆく襲撃者二、三人の、入り乱れた足音をしっかり捉《とら》えた。
「じいさん」
老人の手を、彼はにぎりしめた。
「おれのふところに砂金の袋がある。馬も……じいさんにあげる。婿と二人で余生を……せめて余生だけでも、しあわせに……」
つぶやいて、康元の息は絶えた。
「死になさるな、ご主人さま、ご主人さまあ」
悶《もだ》え泣く老人の声だけが、峠路の夜風に吹きちぎられながら、いつまでも聞こえていた。
怪 力
1
「あぶないッ、逃げろッ」
「突かれるぞッ」
とつぜん湧きおこった大声に、『腹くじり』の春王は、驚いてうしろを振り返った。
暴れ牛だ。荷運び用のまっ黒な大牛が、なにを怒ったか、背に青竹の束を山なりに積んだまま、引きちぎった手綱を曳きずり曳きずり街道をまっしぐらに狂奔してくる。
「とめてくれえ、……だれか、おさえてくれえ」
牛飼いであろう、わめきながら追ってくるが、手を出す者など一人もいない。店棚《みせだな》の中、曲がり角《かど》……。われさきに逃げこむのに、通行人はだれもが精一杯なうろたえぶりである。
(とっつかまえてやろうかな)
日ごろの腕自慢、力自慢が、とっさに頭をもたげた。春王はでも、
(ばかばかしい。大事な勝負を目の前にひかえた身体じゃないか。万一、角《つの》にかけられて怪我《けが》したからって、だれが褒めてくれるもんか)
思いつくとすぐ身をかわして、彼もまた他の旅びと同様、かたわらの路地へ飛びこんだ。
刹那、ダダッと土煙をあげて猛牛は路地口を横切っていった。
(通りすぎたぞ)
往来へ出て行く手を見ると、しかし牛は、道のまん中に立ちどまっている。
そのうしろに女が一人いた。茜色《あかねいろ》の小袖《こそで》の背が見える。髪を桂《かつら》包みにたばね、頭に魚籠《さかなかご》を戴《の》せて、右手をそれに添えただけのへんてつのない姿だ。ちょっと見は、何をしているのかわからない。
「とまったぞう、牛がとまったぞう」
ともあれ牛飼いはじめ、通行人がよろこんで駆けつけてみると、とまったのも道理であった。足半草履《あしなかぞうり》をはいた女の足が、牛の手綱の先端をしっかり踏みつけていたのである。
「いやあ、あねさま、おかげで助かりました。この通りじゃ」
ぺこぺこお辞儀しぬく牛飼いへ、
「なんの、礼などおっしゃるにはおよびません」
女はニコッと笑顔を返して、なにごともなかったように歩きだした。
牛は? と見ると、これも憑《つ》きものが落ちた顔だ。巨大な腹をまだ、いくぶん波打たせているけれども、もう道ばたの草へ寄って、もぐもぐ口をうごかしている。
春王が目をむいたのは、土に残った草履の跡だった。ぐいッと深く石ころ道にくい込んで、女の力の、尋常でない強さを、それははっきり証拠だてていた。
(へええ、世の中は広いや。とんでもない女もいるもんだ)
舌を巻いたが、このくらいの力なら、おれにだって朝めし前に出せると、たかをくくった。力よりも女の顔だちの美しさに、春王は興味をそそられたのである。
大力なだけに、並《なみ》よりやや背丈は高い。むっちりと肉も付いている。髪が黒く、たっぷりして、肌はぬけるほど白い。
魅力的なのはその眼の表情だ。なんともいえず情《じよう》の濃い愛嬌あふれるまなざしに、春王の好《す》きごころはそそられずにいなかった。
「ねえさん、お待ちよ」
女を、彼は追いかけた。
「たいした力持ちだねえ。このあたりの人かい?」
「もっと北よ。私の村は……」
「ご亭主や子は、むろんあるんだろう?」
「いいえ、独り身」
女は首を振った。微笑している。どこやら淋《さび》しげな笑顔だが、独りと聞くととたんに春王の心中には侮《あなど》りが芽ばえて、
「そいつはもったいないや。こんなべっぴんさんをさ」
女の左の二の腕へ、するッと手をさしこんだ。振り払うと思いのほか、
「ホホホホ、いやらしい。なにをするのよ」
脇《わき》の下を、女はじんわり締めつけてきた。
(気があるな。こいつはまんざらじゃないぞ)
春王は舌なめずりした。
うららかな小春つづき――。道中、思いのほかはかどって、もうここは琵琶湖の南岸、大津の宿駅である。十日以上のゆとりを蹴《け》出して、あすは都入りできる勘定だった。
(三日四日、道草くったってじゅうぶん間《ま》に合う。ひとつこの女、ものにしてゆくとするか)
並んで歩きながらもうきうきと、春王の胸は弾《はず》んだ。
「名はなんというのかね?」
「高島の、大井子《おおいこ》」
「おれは人呼んで『腹くじり』の春王というんだ。『腹くじり』は角力《すもう》の手さ。ねえさんにおとらず、おれも故郷の越後では名を知られた力持ち、角力の達者でね。こんど国衙《こくが》の長官に選び出されて、宮中で催される角力の節会《せちえ》に参加するため、はるばる都へのぼる途中なんだよ」
「まあ、あなた、力士なの?」
「そうとも。晴れの勝負に打ち勝って、日本一の誉《ほまれ》を獲得するつもりさ」
それはいいが、挟まれた手が抜けない。大井子はずんずん歩く。
歩幅《ほはば》も歩速も合わない苦しさに、どうかして手を抜こうと春王はあせる。しかしだめだ。脇の下を締めつけている女の力は恐ろしいほどだった。
はじめてゾッと、春王は鳥肌《とりはだ》立った。
「はなしてくれ」
口もとまで出かかった哀願を、それも口惜《くや》しいので呑みこんで、仕方なく手を挟まれたまま、とうとう女の家まで曳きずられて来てしまったのである。
2
さほど広くはないけれども、豊かそうに住みなした百姓家だ。
「森女《もりめ》、いまもどったよ」
召し使いにちがいない。大井子の声に、
「お帰りなさいまし」
十三、四の少女が、洗足の水を汲《く》んで小走りに出てきた。
「とりたての鮒を見かけたので買ってきた。塩を振っておいておくれ」
魚籠を少女に渡して、やっと大井子は脇をゆるめた。
「さあ、足をゆすいであがりなさい。遠慮はいらないのよ。家族はこの森女と私の二人きりですから……」
女の力に圧倒された春王は日ごろの傲慢《ごうまん》もけし飛んで、神妙に板敷きの炉《ろ》の間《ま》へ通った。
大井子も、その向かい側に坐《すわ》って、
「春王さんとやら、あなた越後ではどれほどの力士かしらないけれど、あれくらいの力で都へのぼったからって到底、日本一の呼称など得られやしないわよ」
訓《さと》すように言い出した。
「だめだろうか」
さしもの天狗《てんぐ》の鼻も、折れまがった。
(女でさえ都近くなると、これくらいの化け物が現れる。まして国々から選ばれて、われと思わん剛の者が競《きそ》い集まる宮中角力……。日本一の最手《ほて》どころか、ろくに勝ち目もないかもしれないなあ)
こころぼそげなその顔へ、
「あきらめるのは早いわ。及ばずながら私が加勢して、あなたに力をつけてあげます」
たのもしげに大井子は約束してくれた。
「まだ、日にちはあるわね」
「ある。十日の余もあるよ」
「しばらくこの家に逗留《とうりゆう》しなさい」
森女を呼んで、飯びつと塩の小壺《こつぼ》、半挿《はんぞう》に汲んだ冷水を大井子は運ばせた。よくよく手を清め、さくら色の爪《つめ》がきれいにならぶその手でキュッキュッと結んでくれたのは、一個のにぎり飯である。木皿にそれをのせて、
「さ、食べるのよ」
彼女はすすめる。なんの気もなくパクリとやりかけて、
「うッ」
春王は唸《うな》った。歯が立たないのだ。たかがにぎり飯、米の飯ではないか。そんな馬鹿な……と苛《い》ら立つのだが、どうしても、何としても噛《か》み割れない。つくづく呆れた。兜《かぶと》をぬいだ。
「その屯食《とんじき》がすらすら食べられるようになるまで、がんばるのよ」
翌日も一つ、大井子はおにぎりを作った。やはり歯が立たない。
五日目になって、ようよう噛み割れた。
「わあ、割れたぞ割れたぞ」
「あとひと息よ」
八日目――。どうやら普通に食べられるようになり、九日目にはもうまったく、ただのにぎり飯同様むしゃむしゃ味わえるまでになった。
「これで百人力だわ。あなたはかならず勝ちぬくわよ」
「ありがたい。恩にきるよ」
「ただしその力、けっして悪用しないでね」
「わかっているさ。――それより、ものは相談だがね」
春王は、思いきって切り出した。
「あんた、おれと夫婦になってくれないか」
大井子の力に恐れをなして、はじめて出会った当座の、みだらな欲望から遠ざかっていた春王も、にぎり飯の威力で自信を取りもどすと、やはりこのままその豊満な身体に、指ひとつ触れずに別れるのが惜しくてたまらなくなったのである。
「あなた、年はいくつ?」
問い返してきた女の、ながし目の仇《あだ》っぽさに、脈があると春王は弾《はず》んで、
「二十四さ」
にじり寄った。
「あんたは? 大井子さん。おれとおっつかっつだろ?」
「三十二よ。八ツも年上だわ」
「ふーん、とてもそうは見えないけどなあ。なぜあんたほどの美人が独り身でいるのさ」
「力がありすぎるのもよしあしね。気味わるがって、並《なみ》の男は寄りつかないのよ」
「おれならちょうどいい。釣り合うよ」
「私もねえ……」
しみじみ大井子は言った。
「力のある男が現れるのを、じつはながいこと待ち望んでいたんだわ」
「じゃ、承知してくれるね?」
「帰ってきてくださいよ。晴れの勝負が終わったら、かならずここへ……ね?」
「帰らずにいるものか。力の強い子供を生もうよ。おれたちの子なら、きっと鬼ガ島を征伐するほどの力持ちになるぜ」
「親ゆずりの田畑や宅地を、私すこしは持っているのよ。くらしに困ることはないはずだわ」 ――その夜、二人は結ばれた。
そしてあくる朝、逢坂《おうさか》の関まで大井子に送られて、春王はいさましく都入りして行ったのであった。
3
宮中の角力は、馬場殿の広庭でおこなわれた。
全国から選抜されて集った力士たちは籤《くじ》引きで左右に分れ、控え所には幕が張られる。
念人《ねんにん》――つまり応援団の公卿《くぎよう》・殿上人《てんじようびと》らも左方・右方にそれぞれ陣取り、正面、寝殿の簾《みす》のうちには天皇はじめ皇族や高官たちが威儀《いぎ》をただして居流れた。
力士は、裸《はだか》になどならない。
衣服をつけたまま土俵にあがり、力と技《わざ》を競うのだが、取り組みが五番すむごとに伶人《れいじん》どもの詰める幕舎から、ピーロロ、ドドドンと笙《しよう》や笛、羯鼓《かつこ》や太鼓の楽《がく》がひびきわたるという悠長《ゆうちよう》な競技ぶりなのである。
勝ち力士には念人たちから、あらそって纏頭《はな》がさずけられる。
にぎり飯を仲だちにして、天賦《てんぷ》の力の上に、さらに大井子の怪力を併せ持つことのできた春王は、まさに向かうところ敵なし……。出る相手、出る相手を片はしから倒して勝ちすすみ、とうとう女の予言にたがわず優勝の栄冠を勝ち取ってしまった。
「どんなもんだい」
彼の得意や思うべしだ。
帝《みかど》から天盃と、日本一の折り紙が下賜される。そのほかの被《かず》けもの、くだされものにいたっては、絹・綾・米・太刀《たち》・馬・砂金……。とても持ちきれるものではない。
「屋敷へまいれ。馳走《ちそう》してとらせよう」
招宴も、連日連夜……。あかぬけた都|上臈《じようろう》のもてなしに、酒びたり、色びたりになり、春王はすっかり思いあがった。大井子のおかげで勝てたてんまつなど、けろッと棚《たな》にあげて、
「へん、あんな薹《とう》のたった姉さん女房に、一生、飼い殺しにされてたまるもんか」
帰るといった約束を勝手に破り、洛中《らくちゆう》に家を借りて、気まま三昧《ざんまい》な日を送りはじめた。
もともと春王は、男ぶりのよい若者である。勝負に勝ったおかげでひと財産でき、おまけに力はありあまる。三拍子そろっているから、こわいものなしだ。
酔っぱらって人に喧嘩を吹っかける。怪我をさせる。器物をこわす……。
しまいには色町の女をむりやり手ごめにしようとして、窒息死させるという大それた事件まで引きおこしたが、召し捕る側の役人たちに贔屓《ひいき》が多く、顔もきくため、事はうやむやに葬られて被害者は泣き寝入りとなった。
ますます春王は驕《おご》った。肩で風を切ってのし歩くが、
「それ、『腹くじり』だぞ。言いがかりつけられて痛い目をみるな」
逃げまどうばかりで、懲らしめようとかかる者など一人もいない。
たった一度、あまりに腹をすえかねて、蹴り癖のある荒馬を春王の通る道筋につないでおいた者があった。うしろを通過しかけたとたん案の定、馬はしたたかに春王を蹴った。しかし足を折ったのは馬の側……。蹴られた人間は痣《あざ》一つ負わなかったのである。
「不死身じゃ」
ひとびとは慄えあがった。魔神のように春王を恐れ合った。それをよいことに、ほんのすこしでも気にくわぬことがあると、彼はたちのよくない腹いせをして溜飲《りゆういん》をさげるようになった。
大石を運んできて用水を塞ぎ、あたりを水びたしにしたり往来を止めたり、力をたのんでの悪行《あくぎよう》をほしいままにするばかりか、取りのけ作業に人々が大騒ぎをするのを、
「ざまアみろ。人夫や馬力を百人前使おうと、おれ一人の力に及びはしまい」
そらうそぶいて眺めているといったありさまなのだ。
――月のうつくしいある晩。
そんな春王が例によって大酔《たいすい》して、都大路をわがもの顔にあちらへよろよろ、こちらへよろよろ、猪熊《いのくま》の色町から宿所へ向かってもどりかかった鼻さきへ、
「お待ちッ」
大手を拡げた人影があった。
「やッ、そなたは大井子!」
春王の背すじに寒けが走った。
「あなたを見そこなったわ。噂《うわさ》は村まで聞こえています」
大井子は、じりじり寄ってきた。
「力を善用できない愚か者に、力をあたえたのは私の落ち度……。責めは私にあるし、いまや天下に、あなたのその力を封じられる者も、私一人しかないと知って迎えに来たのよ。――さあ、帰りましょう」
「どこへ?」
「私の家へ……」
「しゃらくさい。おれはもはや、あのときのおれじゃないぞ」
肩ひじを、まんざら虚勢でもなく春王は怒らせた。彼自身の力に、大井子の力が上積《うわづ》みされている今なのだ。
(較べるまでもない。おれのほうがずんと優勢なはずではないか)
大井子は、だが春王の言葉になど耳もかさなかった。いきなり近づきざま、その二の腕をむんずと掴んだ。
「おのれ、なにをするッ」
満身の力をふりしぼって春王は暴れた。地ひびきが立つ。かたわらの小家が震動する……。大井子はしかし、ビクともしない。春王を取って引き寄せ、身をひるがえすと、あっというまもなくその背へおぶさってしまった。
「さ、歩き出しなさい」
「ちきしょう、おりろッ」
ふりもぎろうといくら猛《たけ》っても、大井子は落ちない。あべこべにすごい力で、その両足は春王の腰を締めつけてきた。
「あッ、痛ッ、いたたたッ」
思わず悲鳴をあげた。腰骨がくだけるかと思う股《もも》の力である。
「前非を悔いた? 怪我させた人、殺した人、迷惑のありったけをかけた世間さまに、心から詫びる気持ちになった?」
「なったよ大井子、だから勘弁してくれ、ゆるめてくれこの股を……」
大井子は力をぬいた。観音さまの緊咒《きんそうじゆ》から一《い》ッ時《とき》のがれた孫悟空にひとしい。
「やろうッ」
隙《すき》を狙ってまた、春王は振り落とそうとし、大井子の股はその腰を、ふたたび猛然と締めつけてきた。
「ひゃア、助けてくれッ、肉がちぎれる、腰骨が折れるッ、おれが悪かった、許してくれえ」
「本心ね?」
「しんそこ悔いた。誓うよ、誓うよッ」
力はゆるんだ。春王はもう抵抗しなかった。底知れない相手の力に、いまこそ一言もなく、屈服しきったのであった。
「では、もどりましょう、わが家へ……」
「このままそなたを、おぶってか?」
「お月さまがきれいねえ。琵琶湖のほとりは、なお素敵でしょうよ。あなたの背中でお月見して行くことにするわ」
春王はうなだれた。
(女じゃない。おれの背中に乗りかかり、首筋をしっかり抑えつけているのは、たぶん……たぶん、運命≠ニかいう得体《えたい》の知れない怪物なんだろうな)
青い月光の下を、彼はとぼとぼ歩きはじめた。
髪
1
もう、ひと足も歩けなかった。
四郎次はよろめいて、とうとう道ばたにへたり込んでしまった。これでまる四日、食べものを口に入れていない。都を中心に近畿《きんき》一帯、ひどい凶作なのである。
おまけに四郎次は、そろそろ秋も終わろうという寒空《さむぞら》に、裸同然のみじめな恰好《かつこう》をしていた。博打《ばくち》に負けて身ぐるみ剥《む》かれたのだ。
馬に踏みつぶされたような、ひしゃげた揉《も》み烏帽子《えぼし》、あとはよごれくさった褌《したおび》、脛《すね》きりしかない下袴《したばかま》一枚……。まず、乞食と大差ないが、四郎次自身はこのざまになりさがってもまだ、自分を物乞いとは思っていない。
「おらア博打《ばくち》うちだ」
それも、くろうとだと信じている。ろくさま、そのくせ勝ったためしがない。
「いまにみてろ、いまに……」
口癖だが、たまに芽が出てもたちまち打ち返されて、ふところはつねにぴいぴいしている。
年はまだ、若ざかりの二十三――。
父に早く死なれ、母親の手ひとつで甘やかされ放題に育った一人っ子だ。その母も亡くなると、だからたちまち遊び仲間にそそのかされ、賭《か》けごとの魅力にのめり込んで、田畑や家屋敷をきれいさっぱり無くし、今のこの、ていたらくにまで落ちぶれたわけである。
たまに意見めいたことを言われても、
「だからよう、巻きあげられたものを取り返したい一心で、博打にうちこむんじゃねえか。親どもへ詫《わ》びのつもりだぜ」
屁理屈《へりくつ》をならべて耳をかそうとしない。つまりは意志薄弱ななまけ者なのだ。
そんな四郎次が、こんどというこんどは困りはてた。ねだろうにも借りようにも、飢饉《ききん》のとばっちりで、わる仲間すらめいめいの命をつなぐのが精一杯……。まして、まっとうな世間さまが、だれ一人相手にしてくれるはずもなかった。
「来るな来るな、お前なんぞに分けてやる粥《かゆ》など、一椀《ひとわん》もあるものか」
追い出されるくやしさに、
「ちきしょう、火をつけてやるぞ」
捨てぜりふを吐きちらしても、腹が背に貼《は》りついては仕返しの気力さえ湧いてこない。路傍にのびて、
「ああ、なにか食いてえなあ。餓え死はまっぴらだ、だれか、食いものを恵んでくれよオ」
唸りながら、ふと見ると、泥に埋まって五、六つぶ、籾米《もみごめ》が落ちているではないか。
「おや」
目を疑った。草も木の皮も、食べられるものは争って飢民《きみん》どもにあさりつくされた今である。ためしにほじり出して籾をむいてみると、中にはちゃんと米が入っていた。
「うめえ」
片はしから口に抛《ほう》りこんで噛みしめた。生米《なまごめ》がこんなに甘いものだとは、ついぞ知らなかった。
四郎次はきょろきょろあたりを見回した。道の一方にそそり立っている大きな建物は、そういえば蔵《くら》らしい。ためしに、
「おい、じいさん、こりゃあ何だね?」
通りすがりの老人に訊《き》いてみた。
「お上《かみ》の米蔵じゃよ」
なるほどそれで、籾米のこぼれも落ちていたのだろう。
「詰まっているのかなあ、米が……」
「いるのじゃろ。巷《ちまた》には餓え死が出かかるさわぎじゃに、役人はおのれらの食い扶持《ぶち》は抑えこんで、離しくさらぬわ」
盗んでやろう……四郎次は奮い立った。
老人が立ち去るのをみすまして蔵の錠前《じようまえ》に手をかけたが、もとよりビクともするはずはない。窓は固くしまっている。ぐるぐる周囲を見て廻るうちに、空気ぬきの切り窓が一つだけ開いているのに気づいた。
「べらぼうに高いなあ。登るなア無理だ」
桐の木が、蔵に寄り添って生えていた。うまい具合に枝の一本が伸びて、切り窓に届いている……。
「そうだッ、あれを伝わって……」
しかし弱った身体での木登りは困難をきわめた。息が切れる。幾度もずり落ちかけた。どうやら切り窓に取りつけたのは、胃の腑《ふ》のあがきに押しあげられた結果である。
半身を乗り出して、四郎次は覗きこんだ。中はまっくらだ。穀物のあまずっぱい匂《にお》いが、もうっとなまぬるく顔を包んだ。腹がぐぐぐと鳴り、目が回った。
「わあッ」
のめって四郎次は蔵の底へ落ちた。
「いててッ、いてッ」
腰骨をしたたか打った。目から火が出た。でも食欲が先だった。埃《ほこり》まみれになりながら彼は床を這い回った。手に触れるものは、だが、何もない。空蔵《あきぐら》だったのである。
「し、しまったッ」
戸口に飛びついた。窓をゆすぶった。頑丈《がんじよう》な錠前が外からかかっている。あきっこない。入る工夫に夢中になって、四郎次は出る算段を忘れていたのだ。
「いやだよ、いやだよう、ねずみの死骸みてえにこんなところで餓えて、ひからびて、ミイラになるのはごめんだよう、どうせ死ぬならお天道《てんと》さまの下で死にてえよう。出してくれえ、助けてくれえ……」
内側から戸を、がんがん叩《たた》いた。
「なんだなんだ、蔵の中で声がするぞ」
「盗人《ぬすびと》だッ、はやく役人に知らせろ」
通行人か、近所の者か、聞きつけて人が集まってきた。
「ちきしょう」
四郎次は鬢《びん》の毛をかきむしった。何ひとつ盗まなくても、官庫に忍びこめばそれだけで罪になる。出ることは出ても、待ちかまえているのは刑罰か牢屋だ。どっちにころんでも、ろくなことのない運の悪さを、自分の無思慮を棚《たな》にあげて四郎次は呪《のろ》った。
2
案の定、役人は四郎次を外へ曳きずり出すと、
「こいつめ、からっぽを知らずに米を盗みにはいったな、百叩きにしてやる、来いッ」
腕をねじあげて引っ立てて行こうとした。
「もし、お役人さま、お待ちくださいませ」
と、このとき、群衆のうしろから声をかけた者がある。七十に近そうな白髪の老婆であった。
「見れば痩《や》せさらばえた浮浪人……。この飢饉に施《ほどこ》しも受けられず、つい餓えにせまってお蔵にはいったのでござりましょう。どうぞお慈悲に、見のがしてやっていただきとうぞんじます」
すり寄って、持っていた麻の小束《こたば》を役人の袖《そで》の中へそっとすべりこませた。
「む? そのほう、この男の知りあいか?」
「いえいえ、通りすがりの近所の者でございます」
「せっかくのとりなし。米ひと粒盗んだわけではないのだから、では老人の顔に免じて堪忍《かんにん》してやろう」
役人はふんぞり返って、しかしさすがに人々の視線にちょっと照れながら、のそのそ去ってしまった。
「へッ、袖の下の効きめは、てきめんだあ。欲の皮の突っ張った野郎だな」
「それにしても、この若造もまぬけだぜ。空蔵にはいって泣き吠《ほ》えるなんざ、とんだお笑い草だあ。はははは」
口々に嘲《あざけ》って、群衆も散ってしまう。
「おかげで命びろいいたしました。ご恩は忘れません」
老婆の足もとにうずくまって、四郎次はぺこぺこ頭をさげた。餓えきったこの身体で杖打《じようう》ちの刑などくらったら、まちがいなく息の根は止まってしまったろう。
「なんの、礼にはおよばぬ。それよりそなた、えろう腹をすかしているらしいの。ばばの家も貧しいが、粥ぐらいならふるまえぬことはない。くるかや?」
「かさねがさね、ありがとうぞんじます」
ひょろつく足を踏みしめて、あとにしたがった。官庫の裏手へ老婆は廻り込んだ。
「ここじゃよ」
言葉どおり荒地の隅にぽつんと建つ貧寒なボロ家であった。
「病人がおるのでな、上へあげるわけにはゆかぬ。そこに平たい石があるじゃろ。それにでも腰をおろして待っていてくりゃれ」
庭ともいえない竹垣の内の空地に、さし渡し一尺ほどの石がなかば土に埋まっているのを老婆は指さして、奥へ消えた。
四郎次はそれに腰かけた。
家の中には古び、ほころびてはいるけれども、几帳《きちよう》が立てまわしてあり、垂れ布のすそから長い、みごとな艶《つや》を持つ女の髪の毛が、流水さながら外にまではみ出していた。
「病人は若い女だな。おばばどのの娘かしら……」
待つまもなく、老婆が大ぶりの椀に粥をたっぷり入れて運んできてくれた。干し菜や大根などを刻みこんだ雑炊《ぞうすい》だが、いまの四郎次には天の恵みにひとしかった。
「腹がすききっているとき急に入れると胃の腑が痛むぞよ。すこしずつすすりなされ」
「はい、はい、頂戴いたします」
ふうふう吹いて食べながら、四郎次はいつのまにか湯気の中へ涙を落としていた。死んだ母親……なめるように可愛がってくれた母親の記憶が、よみがえってきたのだ。
「そなた、泣いていやるな」
「おばばさまが、おふくろのように思われて、つい……」
「かわいそうに。生まれついての宿なしじゃあるまい。生国はどこじゃ? 名はなんといやるの?」
ごく都合の悪いところだけごまかして、あとはほぼありのまま、四郎次は身の上を打ちあけた。博打うちだということも隠さなかった。老婆の情けが身に沁《し》みたのだ。甘えたいような、素直《すなお》な気持ちになっていた。
「そうかそうか」
聞き終わって、老婆も目がしらをおさえた。
「若いうちの放埒《ほうらつ》は、だれにもあること。あの世のかかさまを安堵《あんど》させるためにも、これからは心を入れかえて働きなされ。――こんな今様《いまよう》がある。博打うちを子に持った母親の、歎《なげ》きの唄《うた》じゃ。そなたの、かかさまの声と思うて聞くがよいぞや」
ひくく、老婆は歌いだした。
わが子は二十《はたち》になりぬらん、
博打してこそ、歩《あり》くなれ、
国々の博党《ばくとう》に、
さすが子なれば憎《にく》かなし、
負かい給うな王子、住吉《すみよし》、西の宮
いつのまにか、椀はからになっていた。
「さあ、もう一杯食べやれ」
「いただけますか?」
「ふるまおうとも。ごらんの通りの貧しさじゃが、麻や苧《お》を績《う》んで、ばばは懸命にかせいでいるでな。粥ぐらいはすすれるのじゃ」
「ご病人は、お娘御でございますか?」
「いいや、むかしばばが、お乳をあげていた姫《ひい》さまじゃよ」
こんどはほろほろ、老婆が泣く番だった。
「世が世なれば、后《きさい》候補《がね》にものぼられるやんごとなきお生まれのおかたが、父上が公《おおやけ》の罪を得て遠流《おんる》されたばかりに、痛ましや、落ちぶれ果てられてなあ。おまけに業病まで病まれ、とうとうこの乳母《うば》の世話で、ほそぼそ露命をつなぐ始末になられたのじゃ」
「それはそれは、おきのどくでござりますな」
「さ、粥をよそうてこよう。椀を出しゃれ」
とぼとぼ老婆は厨《くりや》へもどった。
しょざいなさに、四郎次はうなだれたまま、
「わが子は、はたちに、なりぬらん……」
老婆の口|真似《まね》をして唄いながら、小石をひろってコツンコツン、腰かけ石を叩いていたが、不意に、
「おやッ、どうしたんだ、こりゃあ」
突っ立った。
「叩いたところだけ、いやに光り出しやがったじゃねえか」
飛びついて、ためつすがめつ腰かけ石の疵《きず》を眺めまわしたあげく、
「こいつはただの石じゃねえ。銀塊だぞッ」
四郎次は唸った。
「ばあさん、気づいているのかしら……。うんにゃ、知らねえからこそこんな空地に、ほうり出したままなんだ。しめたぞッ、なんとかうまく巻きあげちまう手はねえもんか」
胸がどきどき鳴りだした。もとのもくあみである。しおらしさを取りもどしかけながら、たちまちまた四郎次はもとの与太者根性にもどってしまったのだ。
にぶく輝く疵口《きずぐち》へ、泥をなすりつけてごまかしているところへ、
「待たせたの。さあさあ、おあがり」
老婆が二杯目の雑炊を持ってきた。
3
食いけどころではなかった。でも、つとめてさりげなく四郎次は椀を受け取って、うやうやしくすすりながら、
「この石は腰をおろすのにちょうどいいけど、前からここにあるのですか?」
訊《き》いてみた。
「まだ、ばばが家《や》移りしてこぬ以前から、あった石じゃ。邪魔でのう。夜など、ついするとつまずくので、掘りのけたいのじゃが、女の力ではどうもならぬわ」
内心、四郎次は躍りあがった。
いそいで二杯目を食べ終わると、彼はいきおいよく申し出た。
「おかげで力がつきました。ご恩返しに、このじゃまっけな石を私が取りのけてあげましょう。鋤《すき》を貸してくださいませんか」
「やれ、それは大助かりじゃ」
ヘン、なにを言いいやがる、大助かりはこちとらじゃねえかと、ほくほくしながら銀塊を掘り出し、四郎次は両腕にかかえこんだ。粥腹には、べらぼうに重い。足が少々ふらついたが、欲と二人づれである。
「おばばさま、えらいお世話をかけました。真《ま》人間になって、やがてお礼にうかがいます」
「行きゃるか」
「はい。この石はどこぞ道ばたの藪《やぶ》にでも捨ててしまいましょう」
「達者でなあ」
――あとは書くまでもないだろう。思いがけない福運に有頂天になり、四郎次は銀塊を、欠いては賭《か》け、欠いては賭け、一年たたないうちにすっからかんに無くして、もとのすかんぴんに逆もどりしてしまったのだ。
「あーあ、こんなことならすっぱり足を洗って、あの銀を元手《もとで》に商売にでも取りついてりゃよかった。惜しいことをしたなあ」
下司《げす》の智恵《ちえ》はあとから出る。悔《く》いても遅かった。
「また、ばあさんのとこへ行ってみようか」
庭に銀の塊が埋まっていた家だ。さがせばまだ、何があるかわかったものではない。そう思うとむらむら欲心が湧いた。
裸同様のあのときよりは、布子《ぬのこ》一枚でも着ている今のほうがましだったが、相かわらず尾羽打ち枯らしたていたらくは、面目なかった。
さいわい、しかし老婆は留守だった。
「しめしめ、帰らねえうちに、なにかかっぱらってドロンしてやろう」
こっそりあがりこんで、まず、病人の様子をうかがった四郎次は、
「げッ」
几帳のすきまから中をひと目見て、腰をぬかした。老いているのか若いのか判然としないほど痩せおとろえた女が、隈《くま》の浮いた目をぽっかりあけて仰臥《ぎようが》していたのだ。
「死んでるッ」
つい今しがた息を引きとったばかりらしい。
「そうか、ばあさんあわてて、坊さんでも呼びに行ったんだな」
大いそぎであたりを物色してみたが、目ぼしい品などなに一つない。
「ちえッ、しけてやがらあ」
ふと、死人の髪の毛が目にはいった。全身の、恐ろしいほどの衰弱にもかかわらず、黒髪だけが豊かに、生きものの艶《つや》を放っているのが、かえってたまらなく無気味であった。
「どうしよう。こいつをかもじ屋に売ると、いい金になるんだがなあ」
思いきって厨《くりや》から菜っ切り包丁を持ち出し、髪の根もとに手をかけた。
「ええッ、くわばらくわばら」
死人の目が、ぎょろッと動いたように見えたのである。髪は女の命だった。ながいこと親身の看病をしつづけた旧主人の頭が、葬《ほうむ》りをするどたんばで、その、ただ一つ残った美しい黒髪を根もとから失ったと知ったら、老婆は半狂乱になって悲しむにちがいない。
「むごいな。いくらなんでもむごいや」
でも、欲には勝てなかった。目をつぶってザクリ、ザクリ、四郎次は死人の髪を切り放した。とたんに切り口からくるッと持ちあがって、髪の束は大蛇《だいじや》さながら腕に巻きついてきた。無我夢中だった。
「なむあみだぶッ、なむあみだぶッ」
腕ごとその髪を、布子のふところに押しこんで老婆の家を飛び出し、またたきはじめた町の灯《ひ》へ向かって走った。
知りあいのかもじ屋へころがりこんで、
「買ってくれ、亭主、こいつを……」
ひきずり出した四郎次は、つぎの瞬間、
「白髪だッ、ばあさんとおなじ、まっ白になっちまったッ。……ぎゃあああ」
殺されそうな声で絶叫するなり、
「堪忍してくれ、ばあさんッ、許してくれ、許してくれえ」
髪をその場にほうり出すと、まっしぐらに店から駆け出した。
「なにをねぼけているんだ四郎次さん、黒い、りっぱな髪の毛じゃないか――おい、危ないッ、どこへ行く。そっちは川だよッ」
おりからの長雨で、道の片側の掘り割りは増水していた。かもじ屋をのめり出た四郎次は、亭主が止めるまもなく岸から足を踏みはずして、吸いこまれるように濁流の渦《うず》に転落した。
「あッ、あッ、落ちたッ」
崖《がけ》っぷちまで追って出たとき、二十|間《けん》も下流の水面に、白い腕が一本つき出たが、みるみるそれも沈んでしまった。
「溺《おぼ》れ死におった。が、まあいいや。あんな穀《ごく》つぶしの一匹や二匹、消えたからってどうってこともあるまい」
亭主は店へもどって、つくづく髪を見た。
「これを白髪だなんて、やつめ、目が狂ったのかしらん。どうせ、どこかの女に泣きを見せて、切ってきた髪だろうが、それもまあ、どうでもいいことさ。こっちはおかげで、とんだ大儲けだ。ありがたいありがたい」
きれいに梳《す》きそろえて紐《ひも》でくくると、亭主は手ばやく髪の束を、かもじ箱にしまいこんだ。
鷲《わし》の森
1
もの思いに沈みながら、天羽《あまは》は浜辺へ出てみた。磯の香がつよい。秋の深まりを感じさせる海の色である。
「おお、よしよし、ねんねおし。今日はどうしてそう、いつまでも寝ないのか」
背中でシクシクぐずる子を、あやしあやし波打ちぎわをさまよっているうしろから、
「おーい、姉ちゃん、なにしてるだ」
声をかけてきた者がある。弟の千代童《ちよどう》だった。
尻切れ草履《ぞうり》をぴちゃぴちゃ鳴らして、彼はまっしぐらに走ってき、
「なあんだ。赤ン坊の守《も》りかい」
姉の背中へ伸びあがった。
「お前こそ、もう泳ぎでもあるまいに、浜へなど何の用があって出てきたの?」
「貝拾いさ」
赤ちゃけたボウボウ頭を振りたてて、千代童は笑った。
「おっ母アに言いつけられたんだよ。晩の汁の実《み》を拾ってこいって……」
「お前でも、おっ母さんの手伝いができるようになったんだね」
「もう七ツだもの、おら……」
姉の顔を覗き込みながら、
「なんだか元気ねえなア姉ちゃん、うちでも父っつぁんやおふくろが心配してるよ。天羽は近ごろ、ひどく屈託ありげだが、どこぞ身体でもこわしているんじゃあるまいかッて……」
目にも口ぶりにも肉親の情愛を溢《あふ》れさせて、少年は言った。
「ね、千代童」
そんな弟の小さな肩に手をかけて、天羽はたずねた。
「お前、うちの義兄《にい》さんをどう思う?」
「義兄さんッて、但馬《たじま》さんのことかい?」
草履の爪《つま》さきで千代童は砂を蹴った。
「姉ちゃんのご亭主だけど……、おら、あの人好かねえなア」
まっすぐな言いかただった。
「おらだけじゃねえよ、みんな、陰《かげ》じゃ評判してらア」
「何て?」
「見損なったって……。はじめて村へやって来たときは、男ぶりはいいし如才はないし、まっとうな水銀《みずがね》商人《あきんど》だと思ったけど、天羽さんを女房にしてこの土地に居すわってからは、高利の金を貸す、騙して人の田畑を取る、目代《もくだい》どのに胡麻《ごま》すって権柄風《けんぺいかぜ》を吹かせる……。欲ばりの、情け知らずの、いやな若造だ、あんな男だとは思わなかったってくちぐちに譏《くさ》してらア」
「そんなこと、言ってて?」
「ああ、鼻つまみだぜ。おら、姉ちゃんが可哀《かわい》そうでなんねえや」
天羽はうなだれた。村人たちのかげ口以上に、つれ添う妻の天羽には但馬の性情の疎《うと》ましさが、骨身にこたえてきている近ごろなのだ。
(別れたい。……思いきって、今のうちに別れよう)
何度、決意したかわからない。しかし、いざとなると但馬の怒りがこわくて言い出せないうちに、彼女はみごもり、赤ン坊が生まれてしまったのである。
(もう、だめか。あきらめるよりほかないのだろうか)
子供は男の子だった。
父の性格、日常のふるまいに影響されて、第二の但馬に育ってゆくかもしれない子の行く末を思うと、天羽はたまらなかった。
「あ、ごらんよ姉ちゃん、いつのまにか赤ン坊、眠っちまったよ」
おぶい紐《ひも》を前に廻《まわ》して、天羽は赤児を岩の上におろした。
たたみ二畳敷きもありそうなすべすべした平たい岩は、午後の日ざしにぬくもって恰好《かつこう》の休み場だった。
「おら、貝を掘ってくら」
笊《ざる》を小わきに、千代童は干潟《ひがた》へしゃがみこみ、天羽は子供のかたわらへ横すわりに坐って、
「ねんねんよ、よいややじゃ、めんめさめたら、なに進上《しんじよ》、お手てん手|鞠《まり》に犬|這子《ぼうこ》……」
子守り唄をうたいはじめた。ひろい砂浜には彼らのほかに人影は見えない。
千代童は貝をあさりながらだんだん遠ざかり、ずずーん、ずずーんと浪音だけが、子守り唄に合わせて天羽の耳を打った。
「姉ちゃーん、すごいぞゥ」
突然、千代童の叫びがした。ただならない声の調子だ。おどろいて天羽は振り返った。前のめりに千代童は駆けてくる。
「なあに? なにかあったの?」
「来てごらんよ、猿《さる》だよ」
「猿?」
「ほら、ずっと向こうの波うちぎわに、黒い岩みたいに見えるだろう、あれ、猿だぜ」
山ぎわが、ちかぢかと迫っている海浜なのだ。崖《がけ》から、森から、猿の群れがつながって遊びに出てくるのはよく見かける光景だった。
「でもね、あの猿は違うんだ。生け捕りにできるよ。大きなカラス貝に手をはさまれて、抜けなくなっているんだよ」
「まあ」
「行ってごらんよ姉ちゃん、はやく、はやく……」
「だって赤ちゃんが……」
「大丈夫だよ寝かしとけば……。見える近さじゃないか」
弟にむりやり手を曵っぱられて、天羽は岩をおりた。
「待って! そんなにどんどん走っては苦しいわ」
「遅いなア」
近づいてきた人間の姿に猿は恐怖して、キイキイ啼《な》きたてた。死にもの狂いで逃《のが》れようと身をもがくのだが、大きな貝はますます固く蓋《ふた》を閉じ、じりじり砂へもぐりこもうとする。挟まれた左手は抜けるどころか、このままでは貝の力がくい込んで、はさみ切られてしまうかもしれなかった。
2
千代童は、どこからか木切れを拾ってきた。
「さ、姉ちゃん、これで貝を掘り起こしておくれ。おれが猿をつかまえるから……」
「どうするの?」
「生け捕って飼うんだよ。芸を仕込むとおもしろいぜ」
「可哀そうに……。こんなにこわがっているじゃないの。助けて、山へ帰しておやり」
「つまんないなア」
「あれあれ、挟まれた手に血がにじんでいる。どんなに痛かろう。ね? 千代童、お前だって人買いにさらわれて、お父っつぁんやおっ母さんと離ればなれにさせられたら、悲しかろう?」
「うん」
「逃がしておやり」
惜しそうな顔をしたが、それでも聞きわけよく千代童はあきらめた。
木ぎれを挿《さ》しこんで、天羽は貝の口をこじあけた。さッと、猿は手を引き抜いた。千代童とおっつかっつの大猿である。
一、二瞬、姉の顔、弟の顔に目をとめて、及び腰に立ちどまったとみるまに、いきなり、まっしぐらに走りはじめた。
「あッ、山のほうへ行かないぞッ」
波打ちぎわを猿は駆けて行く。そして、パッと平岩に飛びあがりざま寝かせておいた赤ン坊をかかえて逃げだした。
「きゃあ」
天羽は悲鳴をあげた。
「だれか来てえ……、だれか来てえ……」
「ちきしょうッ」
歯がみして千代童は追いかけた。
「待てえ、恩しらずッ、待たねえか」
猿は迅《はや》い。山の中へずんずん分け入って行く。
「坊やッ、坊や……」
天羽も追った。茨《いばら》に絡《から》まれて幾度となくころび、手も足も泥まみれ血まみれになった。
「姉ちゃん、だからおいらが言ったとおり、生け捕っちまえばよかったんだよ。おいらは得をするし姉ちゃんの赤ン坊も拐《さら》われずにすんだんだ。面《つら》に毛のはえているやつらには、しょせん、人の情けなんぞ通じやしねえんだよ」
あえぎあえぎ、千代童は責める。一言もなかった。天羽は悔いた。
「ほんとうに……恩を仇《あだ》で返しおった」
まるで嘲弄《ちようろう》でもするように猿はときどき立ちどまって、姉弟《きようだい》の遅れを振り返る。歯をむき出してキキッキキッと笑う。
「こんちきしょうッ」
石を抛《ほう》りつけようとする千代童を、
「やめて、赤ちゃんに当るといけない」
天羽はおしとどめて、懸命に猿のあとを追いかける。
深い森へはいった。猿はするすると木の上に登った。大きな楡《にれ》の老樹である。太い枝が縦横に突きでている。猿はてっぺんに近い枝の一本に腰かけて、きょときょとあたりを眺め回した。
「ここで見張っててくれ姉ちゃん、おら、但馬さんを呼んでくる」
「呼んで、どうするつもり?」
「矢で射落としてもらうのさ」
「でもそんなことしたらあの高さから、赤ちゃんもまっ逆さまに落ちてしまうわ」
「困ったな、どうしよう」
「なんとかうまく賺《す》かして、取りもどす工夫はないかしら……」
「とにかくおら、但馬さんをつれてくるよ。二人きりじゃ手におえないもの」
「家にいてくれるといいんだけど……」
このところ毎日のように目代《もくだい》屋敷に入りびたり、追従《ついしよう》たらたら雑用を弁じては、領民泣かせの片棒かついで、うまい汁にありついている但馬である。
「猿がおりて来かけたら、下で脅《おど》かして、この木に釘《くぎ》づけにしておいておくれ。いいね姉ちゃん。すぐもどってくるからね」
言いすてて千代童は走り去っていった。
「返しておくれ猿や、あのまま貝にはさまれていたら、やがて潮が満ちてきて、お前は溺れ死にしてしまったところじゃないか。命を助けてやったわたしを、どうしてこんなに苦しめるのだい? ねえ、おねがいだから赤ちゃんを返しておくれ」
うろうろと、天羽は木の根方をまわって哀願したが、猿は耳もかさない。小ざかしいうそぶき顔で、かえって腕の中の赤児を邪慳《じやけん》に揺りうごかした。
蜂《はち》にでも刺されたような激しさで子供は泣き出した。天羽は両手を揉《も》みしぼり、地べたに坐りこんで、
「かわいそうに……坊やッ、坊やッ」
これも心痛のあまり涙をこぼした。
子供が泣きやむと、猿はまた、その全身をゆすぶる……。わッと泣き声があがる。天羽は気が気でない。木登りなどしたことはないけれども、一尺でも一寸でも子に近づこうとして楡の幹にしがみついたとき、すさまじい羽音が頭上をかすめた。
3
鷲《わし》だった。
人肉を啖《くら》うという猛禽《もうきん》が、泣きしきる声にさそわれて、赤児を奪おうとやってきたのだ。
「ああッ」
天羽は足ずりした。身を悶えた。翼を拡げた大きさが五尺にあまる大鷲である。鋭い爪《つめ》、かがやく嘴《くちばし》は、黒漆《くろうるし》をかけて磨いたようだ。木の上をゆっくり旋回しながら、攻撃のすきを狙っている。
大声をあげ、手あたりしだい石を投げて天羽が追い払おうとしても、鷲はビクとも驚かない。狙いすまして、やがてサッと襲いかかった。天羽は地上に昏倒《こんとう》した。てっきり猿も赤児もひと掴《つか》みに拐われてしまったと思いこんだのだが、倒れた彼女のすぐそばに、ものすごい地ひびきをたてて落ちてきたのは、なんと、鷲の死骸であった。
それに気づいた瞬間、天羽は目を疑った。鷲は頭を砕かれ、血まみれになってこと切れている。
「猿は?」
と見ると、あいかわらず楡の梢《こずえ》にいて、赤児を揺りうごかしては泣き声を立てさせていた。
ふたたび羽音が接近してきた。別の鷲が飛んで来たのである。
猿は片腕に赤児を抱いたまま、ちょろちょろと四つ這《ば》いになって大枝の先へ出、先端を握ってもとの付け根にもどった。枝は撓《たわ》んで、弓なりに撓《しな》う。猿は鷲の旋回に注意し、襲いかかってくる一瞬を待つもののようだった。
天羽にもやっと合点がいった。子供を泣かせ、おとりにして鷲をおびき寄せたあげく、枝|弾《はじ》きで打ち落として天羽に与えるつもりなのだろう。
手に汗をにぎって見るうちに、電光のはやさで猛禽《もうきん》は攻撃をしかけ、舞いくだってきたその頭めがけて猿は大枝を打ち放した。
梢の陽光に青い血しぶきが散り、羽根を散乱させて鷲は落ちてきた。バラバラと枝や木の葉が一緒に降った。
「わかったよ猿よ」
天羽は声をしぼった。
「けものの智恵《ちえ》で、精一杯の恩返しをしようというのだね。でも、もういい。もう、鷲を捕《と》るのはやめにしておくれ。そしてどうぞ、わたしの子を無事にこの手にもどしておくれ」
猿はだが、聞こえない顔で、また大枝の先を握りなおし、赤児を泣かせながら空の一方を睨んでいる。
ここは『鷲の森』と地名にも呼ばれているほどの鷲の棲息地《せいそくち》だった。野生の猿も多く、彼らは日ごろから仲がよくなかった。しばしば餌食《えじき》にされるところから、自衛のために猿の中でも、ことに利口な猿が考え出した撃退法にちがいない。
それにしても、この大猿は仲間の王なのか、狙いをあやまたず二羽まで打ち殺した手ぎわは、みごとというほかなかった。
またまた羽唸りが近寄ってきた。大鷲の来襲である。
「うまくいかなかったらどうしよう」
見ている勇気がない。天羽は固く目を閉じ、一心不乱にわが子と猿の安穏を神仏に祈った。
ビインと森の静寂を裂いて枝の跳ね返る音がし、大音響をあげてまた、鷲が落下して来た。今度も命中したのだ。
「もう、よしにしておくれ、鷲とて生きもの……。殺生は見たくない。お前のこころざしはよくわかったよ。どうかそれ限りにして、赤ちゃんを返しておくれ」
猿にはしかし、猿なりの目的があるらしい。天羽の頼みを空耳に聞きながしたまま同様の手段でとうとう五羽、巨大な鷲を打ち落として、はじめてやっと楡の梢からおりてきた。
泣きぬいていたが、赤児の身体にはすりきず一つなかった。猿の手からそれを受けとるやいなや、
「おお、おお、こわかったであろ」
天羽は乳ぶさをふくませて、うれし涙をほろほろこぼした。満足げに猿はもとの大枝に登って、腹など掻いている。
――ところへ、息せききって但馬と千代童が駆けつけてきた。
「やッ、赤ン坊は取りもどしたのか?」
「猿が返してくれたのです。恩返しするつもりで、一ッとき、この子を借りる気だったのですわ」
いちぶしじゅうを、天羽は夫に話した。
「すごいじゃないか、こいつは……」
五羽もの鷲の死骸に、但馬は顔をかがやかせた。
「目代さまから、矢に矧《は》ぐ鷲の羽根を調達してくれと頼まれていたんだ」
「そりゃ、おあつらえ向きだったねえ義兄《にい》さん、猿にお礼をいわなくっちゃ……」
千代童が無邪気に梢を見あげて、
「エテ公、ありがとう」
大声をあげるのに、天羽もいっぱいな感謝のまなざしで声を合わせた。
「ありがとうよお猿さん。お前の恩返しは忘れないよ」
目をパチパチさせて姉と弟を見おろしていた猿が、なにに怯《おび》えたか、このとき不意にキキッキキッと歯をむき出して騒ぎ出した。枝から枝へ、身をひるがえして飛び移ろうとした瞬間、その首へ狩り矢が一本グサッと突き立った。
空中で一回転し、矢を抱きかかえるかたちで猿は墜落すると、鞠さながら地上にもんどり打った。
「あなたッ、なにをなさるの」
天羽の血相が変わった。
「見るとおりさ。猿を射殺したんだ。目代さまはかねがね靱《うつぼ》に張る猿皮もほしがっておられた。矢羽根に添えてこのみごとな猿の皮を進上したら、どんなによろこばれるかわからない。ご褒美はたんまりだぜ」
靱というのは矢を入れて背に負う武具である。
まだ、ひくひく手足を痙攣《けいれん》させている猿の咽喉《のど》くびに情け容赦なく山刀の刃をあてて、その生き皮を剥《は》ぎ取った但馬は、次は鷲の死骸に近寄って、同じ手でいそいそ尾羽根を切りはじめた。
燃えるような怒りの目で夫の動作をみつめていた天羽は、やがて、
「千代童、帰ろう」
赤児をしっかり抱きなおし、猿の亡骸《むくろ》へ手を合わせると、そのまま、すたすた歩き出した。
「帰るって、家にかい? 姉ちゃん」
「ああ、家に帰るのだよ」
家――。それはしかし、二年間、但馬とすごした家ではない。両親や弟の住む実家であった。
いまこそはっきり、離婚の決意がかたまったのだ。
「おいおい、なにをそんなに急ぐんだ。すぐ終わるよ。待ってくれたっていいじゃないか天羽、……天羽ったら!」
夫の声が追ってきたが、振り返らなかった。一方の腕に赤児を抱き、いま一方の手で千代童の手をひいて、天羽はまっすぐ森の小道をくだって行った。
待ちぼうけ
1
行列は暮れがたの街道を、京へ向かって帰ろうとしていた。
一日じゅう歩き廻ったせいか疲れきって、隊列はだらしなくくずれ、弁当運びの下人《げにん》までが、いまや一本のこらず中身の粽《ちまき》を食べつくして軽くなった鬚籠《ひげこ》を肩に、ぐんにゃりと、立ち眠りでもしかねないありさまで足をうごかして行く……。
列の中ほどに馬を進めているのは一行の宰領《さいりよう》、大納言安倍安仁《だいなごんあべのやすひと》である。
これもこくりこくり、鞍《くら》の上で舟をこぎながら深草の里にさしかかったとき、
「もしッ、大納言さま、もしッ」
うしろに従っていた陰陽師《おんみようじ》の滋岳川人《しげおかのかわひと》が、こっそり列を出て、大納言の馬に自分の馬の鼻づらを並べてきた。
「う?」
ねぼけ声で、大納言は問いかけた。
「川人か。……なんだね?」
「たいへんなしくじりをしでかしました」
「しくじり?」
川人は乗馬を寄せかけ、大納言の耳へ口を寄せて、せかせか囁《ささや》いた。
「陵《みささぎ》の選定を誤ったのです。土地《ところ》の地神が怒って、追いかけてきますッ」
「ほ、ほんとか?」
大納言は目をみはった。
半月《はんつき》ほど前、帝《みかど》が亡くなった。文徳と諡《おくりな》された天皇である。墓所をきめて遺体を埋葬しなければならない。
その役目を命じられたのが安倍の大納言……。地相を占い、適当な浄地を選び出す直接の係りには、陰陽寮《おんみようりよう》の下っぱ滋岳川人が任ぜられて、あちらこちら見て歩いた末に、やっと今日、木幡《こばた》の里の山ぎわによい場所を見つけ、
「ここに決めようよ川人。故障が出れば第二案の、葛野郡田村ということにして、ともかく一応、奏上してみよう」
朝廷に報告すべく、帰路についた今なのである。
「ではその、おれたちの土地選びになんぞ手落ちがあって、地神どもが腹を立てたというわけか?」
眠けもなにも、吹っとんでしまった顔で大納言は訊《き》いた。
「そういうことです。天子の玉体といっても亡骸《なきがら》となれば不浄ですからね。つまり平《ひら》たくいえば、土地の神々へのわたりのつけかたがまずかったということですなあ」
「どうしよう。一同みな殺しの憂《う》き目にでも遭《あ》うのだろうか」
たそがれの街道すじを大納言は馬上から振り返って、身ぶるいした。
「いや、地神どもが狙《ねら》うのは、おそらく責任者であるあなたさまと、この私の命だけでしょう」
「なんとか助かる工夫《くふう》はないか。とり殺されるのは怖《こわ》い。命が惜しい……」
大納言の声は泣き声に近くなった。
「お静かになさいませ。下人どもが聞き耳をたてます」
むりやりのように落ちついて見せ、
「命のせとぎわです。自信はありませんが、切り抜ける算段をいたしましょう。供の者を先へ行かせてください」
川人は要求した。
「みんな、聞いてくれ」
あぶなっかしく鐙《あぶみ》を踏んばって、大納言は鞍から腰を浮かせた。
「おれと川人は、急な用事を思い出した。寄り道をするから、おぬしらは先に洛中へもどってくれ」
変なことを言い出したものだと、だれもが怪訝《けげん》な顔をした。里はずれの、刈り田の中の一本道……。日も、もうすぐ落ちきるだろう。下人どもは、しかしくたびれはてていた。一刻もはやく舎人溜《とねりだま》りへもどって、手足をのうのうと伸ばしたかった。
「かしこまりました。では、お先へ……」
しちめんどくさい詮索《せんさく》など二の次に、帰れといわれたのをさいわい、さっさと道を急いで行ってしまった。
「さあ、どうする? これから……」
大納言の表情は、にわかに心ぼそげになった。
「まず馬を隠しましょう。あの森のかげがいいでしょう」
口取りの小者もいない。二人はやむなくてんでに乗馬の手綱を握って畦道《あぜみち》へおり、田のはずれの森を目ざした。
「急いでください。地神どもの足音が迫ってきたようですッ」
杉の根方に馬をつなぎ、走ってまた街道へもどると、こんどは反対側の刈り田の畔《くろ》へ飛びおりる……。
「隠れなければならないが……さて、これといって隠れ場はないなあ」
川人はきょろきょろあたりを見回し、
「仕方がない。ここにもぐってください」
干し並べてある藁堆《わらにお》の山の一つへ、大納言を押し込んだ。
「こんなもので、隠れおおせるのか」
「ほかになにもないのだから、我慢するほかありません。まあなんとか、見つからないように術をほどこしてみます」
手に印をむすび、口の中でなにやらぶつぶつ呪文《じゆもん》をとなえながら、川人は堆《にお》のまわりを廻りはじめた。
日は、とうとう西の山に没した。師走《しわす》のはじめというのに、地震でもきそうなむし暑い夕ぐれである。藁の束は、まして昼間からの日を吸って蒸《む》れきっている。
「たぶん、これでいいでしょう。隠形《いんぎよう》の術をほどこしましたから……」
ごそごそ川人も、堆《にお》の中へもぐりこんできた。
「大丈夫か。見つかる恐れはないか」
「まず、大丈夫と思いますがねえ」
こころもとなげな言い方である。
「藁のやつが、やけに甘ずっぱく匂《にお》うなあ。鼻の奥が痛くなりそうだ」
「辛抱《しんぼう》なさい。命にはかえられませんよ」
「それに暑い。なにやら乞食にでもなりさがったような浅ましい心持ちがするなあ」
「辛抱なさいったら。それくらい……」
「お前、そう身体をすり寄せてくるなよ川人、ますます暑苦しくなるじゃないか」
「シッ、だまって!」
川人の全身に、ぶるッと戦慄《せんりつ》が走った。
「いよいよ近づきましたよ。あなたがた俗人の耳にも、もはや聞こえるでしょう? 魔性の者の足音が……」
なるほど、かすかな地ひびきがする。
どどどど、どどどどと、それは地の底で大太鼓でも打つぶきみさで、すこしずつすこしずく大きくなり、街道をこちらへ、まっしぐらに接近してくる気配だった。
暑がっていたのを忘れて大納言は川人にしがみつき、川人も大納言にかじりついた。三十|面《づら》さげた男二人、いまや息をひそめ声を殺して、藁堆《わらにお》の中に抱き合ったのである。
2
足音は、百人千人と思えばそう聞こえ、たったの五人十人と思えば、そうも取れた。
刈り田の脇をいったん通り過ぎ、ほっとするまもなくまた、もどって来て、今度は森へ向かった様子である。
「しまったッ、馬の隠し場所が近すぎたぞ」
思うまもなく走りもどってきて、刈り田の中へどどどどッと踏み込み、くちぐちに地神どもはつぶやきはじめた。
「隠れている。隠れている。このあたりにきっといる……」
なんとも奇妙な、鼻にかかった気味のわるい声だ。
「馬が森にいた。蹄《ひづめ》のあともここへきて、急に浅くなっている。近くにいるぞ。探し出せ、探し出せ」
足音が散る……。陰々滅々、声は夜風に乗って遠のき、また、近づく……。
「堆《にお》を見よ、藁の内をあらためよ」
片はしから、藁の山が突き崩される音がする。大納言と川人は汗みずくになってますます固く、おたがいの身体を抱きしめ合った。
「訝《おか》しいぞ。訝しいぞ」
怪しい声は、ついに二人がひそむ堆《にお》のぐるりを取り囲んだ。
「人くさい。そのくせ何もない。触《ふ》れてもさわらぬ。見ても見えぬ」
ふしぎそうに、しばらくがやがや言っていた声は、たちまち怒りの叫びに変わった。
「おのれ安倍の大納言、滋岳の川人! 汝ら今宵《こよい》こそ、まんまと隠れおおせたが、あとわずかな命だぞ。師走、大《おお》晦日《つごもり》の夜には地を掘り、天を掻きさぐっても見つけ出して、五体、八つ裂きにしてくれるぞ」
しばらくのあいだ無念げに、刈り田を踏み鳴らしていた足音も、しかしだんだん、もときた街道を遠ざかり、やがてまったく聞こえなくなった。
「行ってしまったようです」
藁の束の下から、まっ先に川人が顔を出した。
「もういいか。出ても大事ないか?」
「もう、かまいませんよ」
大納言も外へ、よろばい出てきた。
「やれ恐ろしや。寿命がちぢむ目にあった」
「ひとまず、でも、目前の難儀はやりすごしました」
「つぎは大《おお》晦日《みそか》の晩だな」
「それさえ切りぬければ、あとは襲って来ません。地神の祟《たた》りは、二度が限りと決まっているものなのですが、さて、二度目の襲撃、うまく躱《かわ》せますかなあ」
「頼むよ川人。陰陽師としてのおぬしの腕のたしかさは、今日という今日、はっきりわかった。どうか助けついでに、あとひと踏んばりやってみてくれ」
「そうしましょう。八つ裂きになどされてはたまりませんからね」
森へ走って馬を曳《ひ》き出し、二人は鞍へ這《は》いあがった。
「さあ、大いそぎで帰りましょう」
鳥羽の里にかかって、はじめてほっと息をついた。
「おいおい川人、おぬしのざまったらないぜ。烏帽子《えぼし》は歪《ゆが》み、汗と土ぼこりで顔はまっくろ……。狩衣《かりぎぬ》はどこもかしこも藁屑だらけだ。とんと、穴から飛び出した鼬《いたち》だぜ」
「あなたさまだって同様ですよ」
「えッ? おれもかい?」
「宮廷一のしゃれ者が、狸《たぬき》ムジナのご一類」
やっとおたがいのていたらくを笑い合うゆとりが出た。
「困ったなあ、そんな面《つら》で、都の灯の中へははいれないなあ」
「ご安心なさい。九条に知りびとの家があります。むさくるしいのさえお厭《いと》いなければ、湯浴みぐらいおさせ申しますよ」
「そいつは好つごうだ。ぜひ、たのむ」
九条は京も、南のはずれの場末であった。
皮なめし、瓦《かわら》焼きの職人だの、なにやらジュウジュウ獣肉を焼いてひさぐ屋台だの、修験者《しゆげんじや》、歩き巫女《みこ》、鉢《はち》たたきの小屋などが、ひしめき並んでいる貧しげな一画である。
川人の知人の家は、中ではいくらかましなひと構えで、入り口には柳が植わり、目隠しの簾《すだれ》越しに、結び灯台のあかりがチラチラもれていた。
「おい、おれだよ。客人《まろうど》をおつれした」
ずかずか土間に踏み込んで、川人は大声をあげた。
「あら、いらっしゃい」
飛んで出たのは十二、三の、小袖《こそで》など小ざっぱりした童髪《わらわがみ》の少女だった。
「おねえさん、川人さまよ」
呼ばれて一人、なまめいた女が、つづいて出てきた。
「まあまあ、どうなさったのその顔」
と、川人を見て呆れ顔に言う。
「なにね、ちょっとわけがあってね。ともあれ湯は沸いていないかね」
「沸いてますよ。おあがんなさい」
「表に客人を待たしてあるんだ。――さあ、あなた、どうぞ。遠慮なさるには及びませんよ」
うながされて土間にはいりながら、
「つまりここは、川人の隠し女の家ってわけだね」
大納言は小声で言った。
「まあね。わたし相応というところでしょう」
「なあに、こういう賤《しず》が伏せ屋に、思いがけない珠玉が埋もれていることもあるのさ。――美人じゃないか。え?」
奥へはいった女のほうへ、大納言は顎《あご》をしゃくってみせた。
「そのくらいにしておいてくださいよ。あなたは公卿《くぎよう》の中でも、手が早いことでは有名な好《す》き者なんだから……」
「ばかをいえ。川人はおれの命の恩人。まさかその想い者にちょっかいを出すほど、あこぎじゃないよ」
女がふたたび迎えに出てきて、
「さあ、用意ができました。お客さまからどうぞ……」
水屋の板敷きへ案内した。
少女と二人、手ばしこくととのえたらしい。几帳《きちよう》・屏風《びようぶ》が立てまわされ、角《つの》だらい・半挿《はんぞう》などに湯がたっぷり満たしてあった。
「これはこれは雑作《ぞうさ》をかけます」
大納言は裸になった。
「お客さま、どちらさまかはぞんじませんが、りっぱなお召し物が藁屑だらけ……」
「いや、なに、刈り田でころびましてね」
髪を耳にはさみ、小袖の袖を二の腕までたくしあげて、女も介添《かいぞえ》のため囲いの内側へはいった。
「お背《せな》をお湿《しめ》しいたしましょ」
「や、恐縮。なんとも痛みいる。はははは」
「おほほほ」
すばやく手でもにぎったか、袖の脇から乳房にでもさわったか、しきりに何やら愉快がる様子に業《ごう》を煮やして、
「もし、あなた」
几帳の上から、川人はぬっと顔を出した。
「まだ大晦日の晩があるんですよ。ふざけてる場合じゃありませんぜ」
すきま風が濡《ぬ》れ身に沁《し》みたか、
「そうだ。そ、そのとおりだな」
大納言は身ぶるいし、にわかにきまじめな表情にもどった。
「これからが正念場だったんだっけ……。まったくだ。うかうかしてはいられないぞ」
3
――その、大晦日。
日が暮れてまもなく、二人は家族や家人にも告げずに、こっそりめいめいの屋敷を出て二条西の大宮の辻で落ち合った。
「けどられませんでしたか? だれにも……」
「心配無用だ。門番の目さえ、くらまして出てきたよ」
「今夜こそ必死です。私の隠形《いんぎよう》の術が勝つか、地神どもの顕現《けんげん》の法がまさるか。万一、敗れたあかつきはこれまでのお命と、憚《はばか》りながら覚悟してください」
「遺言状を書いてきた。は、腹は、据えている。おれも男だ」
そのくせ大納言の声は、みじめにわなないていた。
大路小路《おおじこうじ》は新春《はる》迎えの仕度をする人でごった返しているが、二人はその雑沓《ざつとう》に逆《さか》らって西へ西へ急いだ。
川人が目ざしたのは嵯峨野の大覚寺であった。さすがにここまで来ると人通りはまったく絶え、夜空も地上も見わけがたい濃い闇《やみ》が、いちめんに拡がっているだけである。
土塀《どべい》を乗り越え、二人は本堂の天井へあがって、蜘蛛《くも》の巣だらけな隅《すみ》っこに膝を寄せ合った。
一心不乱に川人は神呪《しんじゆ》を唱え、大納言も口の中で三密《さんみつ》の偈《げ》を誦《ず》した。
そのうちに、いやな風が吹き出した。今夜もまた、あの日に似て、雨でも来そうに湿っぽく、なまあたたかい夜である。
広沢の池を渡ってくるせいか、天井裏の塵を飛ばして吹き抜ける風は腥《なまぐさ》く、ぬるまっこく、首すじや顔にべとべとねばりついた。
刻一刻、風は強さを増した。
「来ましたッ」
川人が呻《うめ》いた。口ぜわしく絶えまなく、彼は呪文を念じつづけ、大納言は恐怖に髪をそそけ立たせて川人の膝に打っ伏した。
ごうッと風が吠《ほ》えた。堂がみしみし揺れた。いまにも倒れるかと思うすさまじさである。あのときと違って足音も人声も聞こえなかった。ただ、天のきわみ、地の果てまでを掻《か》きさらって二人を求めるかと怪しまれる風の凄さだった。
――と、とつぜん、足の下で梵鐘《ぼんしよう》がとどろいた。大納言は思わず飛びあがった。
「除夜ですッ、除夜の鐘ですッ」
川人が叫んだ。
「助かりましたッ、もう安心です。年が明けますッ、夜が明けますッ、われわれは命拾いをしたんですッ」
その足もとに大納言はひれ伏した。
「忘れないよ川人、この恩は忘れない。万倍にして返すつもりだよ。ああ、ああ」
ごおん、ごおんと遠く、近く、寺々の鐘がいっせいに、新しい年の始まりを告げ出した。
「万倍にして恩は返す」と、大納言はたしかに言ったはずである。
つがえた約束の実現を、今か今かと川人は待った。だが、待っても待ってもそれっきり、大納言家からはなんの吉報ももたらされなかった。
川人の望みは陰陽寮の頭《かみ》になることだった。安倍大納言は女好きだが、政治にも練達した切れ者で帝《みかど》の信任があつく、その口ききとなれば昇進など思いのままなはずなのだ。
もし寮の長官がだめなら所領でもいい、黄金でもいい。命の恩人と、大納言みずから言ったではないか。莫大《ばくだい》な褒賞《ほうしよう》が授けられるのは、当然なはなしであった。
川人はじりじりしながら、それでも、
「もしや?」
と期待して、秋の官召《つかさめし》まで待った。しかしやはり音沙汰ない。
「おのれ、とうとう待ちぼうけか」
よくないことはつづくものだ。
やがては九条の女にさえ、逃げられてしまった。うだつのあがらない川人に愛想《あいそ》をつかしたのだろう。堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が、ついに切れた。川人は大納言の屋敷へ出かけて行った。
「よう、ひさしぶりだな」
相手はのほほんと酒を飲んでいた。
「むくれっつらして、どうしたんだ? まあ一杯やらないか?」
川人はなじった。
「あなたは恥知らずの恩知らずだ。よくもわたしを騙《だま》したな」
「騙したって? おい、……おい川人。なにを言う」
相手は盃《さかずき》を下に置いた。微笑していながら、その眸《ひとみ》には刺《さ》すような鋭さがあった。
「恥知らずとはだれのことだ。騙したのはどちらだ?」
大納言はゆっくり言った。
「陰陽師の職を利用して祟《たた》りもせぬ地神を祟ったといつわり、おためごかしに恩を売って、出世を企《たく》らんだおぬしの肚《はら》ぐらい、察せぬおれと思っているのか」
川人の顔面からみるみる血のけがひいた。
「おぬしが傭ったならず者・あぶれ法師ら、地神の声いろを使った一味の名もねぐらも、いちいち検非違使庁《けびいしちよう》の放免に命じて調べさせてある。お望みなら対決させてもよいのだぞ」
逃げようとした。しかし腰がぬけて川人は立てなかった。
「大納言の高位にある者を、でくのぼう扱いにした不埒《ふらち》なやつ。ひっくくって当然だが、まあ、こっちも面白ずくで、わざと二度までつき合ってやった猿芝居《さるしばい》だ。勘弁してやるかわりには、断《ことわ》りなしに頂いたぜ」
「……とは、いったい、な、なにを?」
「見たければ見せるよ。おいッ、いないか小宰相《こざいしよう》、昔なじみの御入来《ごじゆらい》だぞ」
妻戸の向こうで、
「ハーイ」
かんだかい返事が聞こえ、はいってきたのは袿《うちぎ》あでやかな、あの、九条の女であった。
「おひさしぶり川人さま、ごきげんいかが?」
女房勤めがすっかり板についたそぶりで女は扇をかざし、にっこり川人に笑いかけた。
猫をこわがる男
1
勝尾|明神社《みようじんじや》の社司たちのあいだに、近ごろ、おかしな噂《うわさ》がささやかれだした。
「禰宜《ねぎ》の大中臣助友《おおなかとみすけとも》は、どうやら猫が苦手らしいぞ」
でも、だれもがはじめのうちは、
「まさか」
本気にしなかった。
「可愛らしい生きものじゃないか。猫の、どこがこわいのだろう」
「わからんさ。おれにも……。しかし中には変わった人間もいるぜ。蛇《へび》・百足《むかで》・蟇《ひき》などを毛ぎらいするなら話はわかるが、蝶《ちよう》を気味わるがったり、流れる水に目まいを起こしたり、兎《うさぎ》の耳の長いのを見ただけで、ゾッと鳥肌《とりはだ》立つという奇妙なやつも、広い世間にはいるくらいだからね」
「猫が、助友をひっかきでもしたのかな」
「なあに、ただニャゴウと鳴き鳴き、身体をこすりつけただけさ。それなのに助友め、まっ青になって飛びあがった」
「ほんとうか?」
「ほんとうとも。なんなら、ためしてみろよ」
巫女溜《みこだま》りで飼っている『讃岐《さぬき》の御《ご》』という名の牝猫《めすねこ》を借りてきて、大中臣助友のそばへ放つと、案の定、
「ぎゃッ」
彼の口から悲鳴がほとばしった。顔色を変え、ぶるぶる慄《ふる》えながら、それでも中腰《ちゆうごし》になって猫と睨み合っていたが、たちまち我慢が切れたのだろう、
「助けてくれえ」
こけつまろびつ逃げ出してしまった。
「これは面白い。あんなやつにも泣きどころがあったんだなあ」
手をたたいて人々はよろこんだ。
神職にたずさわる者にあるまじき、助友は守銭奴《しゆせんど》であった。親譲りの田から穫《と》れるわずかな米を知人友人に貸し廻《まわ》って、倍にして返済させる……。
ながいあいだに、そんなあこぎなやり方で万石《まんごく》もの米を貯えたので、世間の口は彼を『万石の助友』と呼び、爪《つま》はじきして憎んでいたのだ。
「よし、吠《ほ》えづらかかせてやれ」
というわけで、それからは悪戯《いたずら》好きの若い禰宜・祝《はふり》・神人《じにん》など、すきさえあれば猫をけしかけて助友の狼狽《ろうばい》ぶりに溜飲《りゆういん》をさげるようになった。
評判は、巫女たちのあいだにもすぐ拡まった。
「人は見かけによらないって、ほんとうね」
「こんどから『万石の助友』じゃなくて『猫|怖《お》じの助友』って呼びましょうよ」
「それがいいわ」
染め供御《くご》をつくりながら巫女たちは笑いころげる……。洗米《せんまい》のひと粒ひと粒を青・赤・黄などに染めて、筒《つつ》型にした生漉《きず》き紙のぐるりに貼りつけ、きまりの文様を浮き出たせる神饌《しんせん》の一種だ。
うつむいて、巫女の左由良《さゆら》も染め供御づくりに精出していたが、
(猫怖じの助友? 訝《おか》しいなあ)
朋輩《ほうばい》たちの談笑に、ふっと疑いを持った。
彼女は助友を憎悪していた。恋人との仲を裂き、助友は強引に左由良の姉を宿の妻にしながら、その妻が病死すると、待ちかまえていたように次は義妹の左由良に挑《いど》んだ。油断を襲われて、左由良は男の力に屈した。十四にしかならない骨細《ほねぼそ》な、小柄な身体は、相手の猛《たけ》りの意味をとっさには理解できなかったほど、まだ幼かったのである。
気性の勝った左由良は、しかしそれ以後は二度と助友を許さなかった。同じ社《やしろ》に勤める身だし、杉や檜《ひのき》のおいしげった神域は、ひるまも薄ぐらく危険だったが、彼女はたえず男の動静に注意し、つけ入るすきを与えなかった。
さすがに神のみそなわす浄地では助友もはばかって、無謀なふるまいには出なかったけれども、
「男に汚されながら口をぬぐって、神前に奉仕しつづけるとはずぶとい女だ。大宮司《だいぐうじ》に事実をばらすぞ」
威嚇《いかく》した。清浄な処女《おとめ》であることが巫女の資格の第一条件だったのだ。
「おお、どうとでも言うがよい。斎《いつ》き女《め》を汚した男こそ万石の助友ですと、私も大宮司に告げてやるから……」
左由良は応酬し、けっして怯《ひる》みを見せなかった。それを憎んだ助友は、こんどは彼女の両親を責めて、うるさく貸し米の催促をはじめた。
左由良の父は、萎《な》えた烏帽子《えぼし》によれよれの白|水干《すいかん》、袴《はかま》のくくりを膝《ひざ》まであげて、寒中でも痩《や》せ枯れた空脛《からすね》をむき出し、境内の落葉を掃いたり灯籠《とうろう》に油をさして廻るしがない仕丁《しちよう》の一人だ。母が病身なため生活は苦しく、米の返済はながびいていた。
「婿舅《むこしゆうと》の義理も妻が生きていてこそだ。やもめになった今、そんな遠慮はなくなった。貸したものは返してもらおう」
と、助友はすごむ。
「それがだめなら左由良を後添えに……」
とも、あからさまに申し入れてきている。
両親にすれば、亡くなった姉のあと釜に妹むすめが坐るのを、あながち不都合とは思っていない。
「なぜ合点《がてん》できぬのじゃ、左由良よ」
もどかしげにたずねるが、じつは彼女には、ひそかに想っている相手があった。小宮司《しようぐうじ》をつとめる佐伯《さえきの》師純《もろずみ》である。
位階を持ち、昇殿さえ許されている貴族の子弟だから、彼女とは身分が違いすぎる。とげる当てのない片想いだとはじゅうぶん承知していた。おくびにも、だから左由良は想いを外にあらわさなかった。巫女仲間は知らない。当人の師純も、むろん気づいてはいない。鼻のきく助友すら左由良の胸の内を嗅《か》ぎつけてはいないのだ。
神事の夜、燎火《にわび》の揺れに、若々しい束帯姿を浮かびあがらせて祝詞《のりと》をあげる師純のうしろで、倭琴《やまとごと》を弾き、鈴《れい》を振り、神楽《かぐら》が舞える巫女づとめの、身のひきしまる充実感……。同じ神に共に仕えるよろこびに、さわやかに酔うだけで左由良は満足していたのに、助友とのあいだにあやまちを犯してからは、そのよろこびに翳《かげ》がさすようになった。
なにもかもを見透《みとお》しておいでの神のおん眼は、むしろ恐くはなかった。罰せられるべきは助友の側ではないか。
左由良が悲しんだのは、小宮司の明澄な挙措進退に、ひけ目を隠している怯《おび》えから、もはや気持ちの上で彼女一人が、ついてゆけなくなってしまったことだった。遠かった恋人とのへだたりが、さらに遥かなものになりはてたのを左由良は感じ、
(おのれ、助友……)
煮えたぎる思いに、歯をくいしばっていた昨日今日なのである。
猫をこわがる男――。
猫怖じの助友と、人々は笑うけれども、亡くなった左由良の姉は生前、猫を飼っていた。助友もそのころは平気で頭など撫でてやっていたのを、左由良はおぼえている。
(なぜ急に猫ぎらいになったのだろう)
その疑問を、彼女は口にしてみた。
「そういえばずっと前、助友どのは昼餉《ひるげ》の残りを『讃岐の御』に食べさせていたことがあったわ」
と、巫女の一人が言い出した。
抱いた、じゃらしたなどと、つぎつぎに思い出して言う者が現れ、たちまちだれもが左由良と同じいぶかりを、やかましく話題にするようになった。
2
噂はすぐ、助友の耳にはいった。
「もっともな疑いだ。私自身、いままで何とも思わなかった猫が、なぜこの年になっていきなり恐ろしくなったのか、ふしぎで仕方がないのだから……」
そう前置きして、彼は禰宜仲間を相手に、次のような打ちあけ話をはじめた。それはなんとも凄惨《せいさん》な、身の毛のよだつ見聞だった。
「半年ほど前だ。みなも知っての通り私はすこし身体をこわし、大宮司に申し出て十日の休暇をもらった。紀州の温泉《いでゆ》に、湯浴《ゆあ》みに出かけたのだよ」
その、途中のことである。
ある村里を通りぬけ、山路にかかってまもなく、助友は農民とみえる五、六人が一枚の平板の上に何やら乗せて、こちらへ近づいてくるのに出遇《であ》った。
道幅はせまい。やりすごすつもりでかたわらによけながら、見るとはなしに板の上に目をやって、彼は思わずあとずさった。まだ八ツか九ツぐらいにしかならない切りさげ髪の少女と、その少女の身長とおなじくらいにみえる黒毛の大犬とが、組み違う形《かたち》で板に乗せられていたのだ。
少女の口は犬の片耳を噛《か》みきり、両手は犬の咽喉首《のどくび》をかたく緊めつけている。そして犬の口は、少女の顎の下を深く咬み裂いて、双方ともが血まみれのまま、すでに息絶えている様子だった。
あまりのふしぎさ、少女と犬の形相《ぎようそう》のすさまじさに助友は行きすぎかね、一行のあとについていま一度、里へ引き返した。
村道には、いつのまにか里人たちが大ぜい立ち群れてい、呆れ顔に、
「やはりやられた!」
「けっく、こうなる宿業だったのか」
二つの死骸を取り囲んだ。うちの一人の袖を引いて、
「どうしたわけです?」
助友はたずねた。相手は首を振り、嘆息まじりに言った。
「前世は仇《かたき》同士ででもあったのかなあ。この小娘は村長《むらおさ》の家の召し使い、犬は隣家の飼い犬だが、おたがいに嫌《きら》いあうこと、ひと通りではなかった。綱を放たれていれば、犬はつけ狙って娘に襲いかかろうとし、つながれているとみると娘は娘で、願《がん》にかけて犬を苛《さいな》みぬいた」
そのうちに少女が疫病にかかった。医者も匙《さじ》を投げる重症だった。こんな場合、どこの主人もがするように、村長の家でも少女に少量の食物を持たせて山の中に捨てた。家族や他の召し使いへの感染を恐れたのである。
「お願いです。どうぞ聞いてください」
立ち去ろうとする主家の人々の裾《すそ》をとらえて、少女は哀願した。
「捨てられるのは恨みません。ただ、私が息をひきとるまで犬を放さないでくれるように、隣の人に頼んでください。こうして身動きもできずに草の上に打ち臥《ふ》しているのを知れば、あいつはきっとやってきて私を咬み殺すでしょう。病死するのは厭《いと》いませんが、あの犬にやられて死ぬのだけは我慢できないのです」
日ごろの仲の悪さを主家の人々も知っているから、少女の頼み通り隣家に申し入れて、犬を厳重につないでもらった。
ところがその翌日、綱を咬み切って犬は姿をくらました。
「すわこそ!」
と、村びとたちが棒ちぎれを掴んで、山へ駆けつけたときは遅かった。両者は死闘のあげく、血海の中にこと切れていたのである。
「なんという憎しみの深さだろう、犬と娘のあいだには、目に見えないどんな悪因縁が結ばれていたのだろうと気味わるくなったけれども、なに、これだけのことならば旅の土産《みやげ》話にすぎなかったのさ」
助友は語りついだ。
「紀州の温泉《いでゆ》に着いて湯治《とうじ》しているうちに、行脚《あんぎや》の乞食坊主に遇《あ》った。観相の術にたけているという。そいつが私の顔をつくづく見て『お前は前世、ねずみだった』と言うのだ」
聞き手の禰宜たちは、ここで、いっせいに吹き出した。
「いや、笑いごとじゃないぜ」
助友の表情は、しかし深刻だった。
「お前はねずみだと言われてみると、どうも真実のように考えられてくる。小娘と犬の、あの容易ならぬ関係を思い出してみても、人間には、生まれながら相容《あいい》れない仇敵《きゆうてき》というものがあるのかもしれないという気になる。……と、とたんだ。なにやらおれは、猫が恐ろしくてたまらなくなった」
「はははは」
「笑いごとじゃないってば……。おぬしらにはわからないのだ。自分をどう、はげましてみても、猫への恐怖が取りのぞけない苦しさ……。つくづくあの乞食坊主が恨めしいよ」
ばかげた妄想だ、湯治に行って、かえって脳をこわして来おったと、譏《そし》る者がいる。いやいや、あんがい世の中には、そんなふしぎもあるかもしれぬと助友の述懐に共鳴する者もいる。
「毛虫がこわいところをみると、おれは前の世で桜の葉っぱだったのかな」
などと、しばらくは神社中がこの話で持ちきったが、やがて申し合わせでもしたようにぴたッと、だれもが猫とも助友とも言わなくなった。それどころではない災難が、とつぜん神官たちの身の上にふりかかってきたのだ。
いきなりある日、検非違使庁《けびいしちよう》から召し捕りの役人が乗り込んできて、境内をくまなく捜査した上、大宮司・小宮司をはじめ、おもだった神官を一網打尽につれ去っていってしまったのである。
3
勝尾明神社は京都の西郊に位置し、祟《たた》りするどい荒神ということで洛中《らくちゆう》の人々の畏敬《いけい》をあつめていた。
その奥宮に人形《ひとがた》を立て、神職たちは呪詛《じゆそ》の祈祷をおこなった。呪《のろ》った相手は関白と、いま堂上に勢力を持つ関白の一族。呪術を依頼したのは、彼らとは政敵の立場にある某有力公卿というのが、逮捕の理由だった。
身におぼえのない濡《ぬ》れぎぬだ。老大宮司は必死になって弁疏《べんそ》したが、じきじき取り調べにあたった検非違使|別当《べつとう》は、
「うごかぬ証拠がある」
と、あとにひかなかった。
「庁に投げこまれた落とし文《ぶみ》にしたがって、走り下部《しもべ》・放免らを神域にはなち、密々、探索させたところ、奥宮の祠《ほこら》のうちより毎夜、怪しい灯火が洩《も》れ、祈祷の声が聞こえたばかりか、召し捕りの当日踏みこんで祠を調べた大尉《だいじよう》の手で、呪法《じゆほう》に使う品々まで押収された。のっぴきならぬ証拠――。この上はすなおに、事実をみとめたがよかろう」
胸に釘を打たれた人形《ひとがた》・幣《ぬさ》・灯明皿《とうみようざら》・生きながら蠑※[#虫へん+原]《いもり》を封じこめた壺など、ぶきみな法具を突きつけられても、知らぬものは知らぬと言い張るほかない。
別当は業を煮やして、
「看督《かど》の長《おさ》に命じ、拷器《ごうき》にかけても白状させるぞ」
と息まいた。
さすがに身分をはばかって、大宮司・小宮司には手を出さないが、下っぱの禰宜・祝《はふり》らから、まず責め問うてみようということになったのを放免の一人が聞きつけて、耳よりな進言をした。
「猫怖じの助友と仇名されている男が禰宜の中にいるそうです。猫を使って、この男の口から割らせてみてはいかがでしょうか」
「よし、ためしてみろ」
さっそくあちこちから猫が集められたが、効果はなるほどてきめんだった。
素裸にされ、全身にまたたびの粉をなすりつけられて、大猫が十匹も待機する小部屋に閉じこめられるやいなや、助友は殺されそうな声をあげ、
「申します申します。なにもかも逐一、申しあげますから、どうぞ外へ出してくださいッ」
板戸を叩いて号泣したあげく、
「某公に依頼され、神官一同、関白家呪詛の秘法をおこなったに相違ありません」
すらすら白状してしまった。
抗弁は、もはやきかない。罪が決定し、大宮司は隠岐《おき》へ、小宮司の佐伯師純は佐渡ガ島へ配流《はいる》された。
禁獄、追放など、以下の神官もそれぞれ処罰された中で、大中臣助友ひとりは、
「猫におどされて口を割るとは可笑《おか》しなやつ。手間ひまかけずに事を落着させた功に免じて、連坐《れんざ》の罪は許してやれ」
関白家の鶴の一声で赦免となった。
いそいそ助友は自宅へもどって来たが、思いがけず待っていたのは巫女の左由良であった。
「ごめんなさいね」
恥ずかしそうに彼女は言った。
「いままで、私は頑《かたくな》でしたわ。どうか亡き姉と同じように、これからはいとしんでくださいましね」
「ほうほうほう。この固い木の実は、やっと熟したな」
風向きの、とんとん拍子の変わりように助友はすっかりやにさがった。そして、いつとはなしに気をゆるして、左由良がおずおず飼いはじめた猫にも、さほど注意を払わなくなった。
彼の役割は終わったのだ。面倒な『猫怖じ』の仮面など、いつまでもかぶっている必要はなかったのである。
助友のこの、態度の変化を、左由良はじっと観察しつづけた。
共棲《ともず》みの二年間――。
もういくら猫が近づいても、一向に助友がこわがらなくなるまで見とどけたあげく、忠実な召し使いを幾人も証人に立てて、
「いま一度、勝尾明神社の呪詛事件、調べ直しをねがいます」
と、要路に訴えて出たのであった。
政局は、二年前とはちがってきていた。
天皇が交代し、官界の情勢はそのころ、大きく逆転しつつあった。関白家の一族は先帝時代の権勢を失い、かわって、敵対関係にあった某公卿とその一派が、ぐんぐん廟堂《びようどう》に勢力を伸ばしはじめてきていたのである。
検非違使別当も更迭《こうてつ》した。新別当は左由良の訴えを取りあげ、ふたたび助友を逮捕して今度は本ものの拷器にかけた。
「く、くるしい。鞭《むち》をとめてくれ。枷《かせ》を、ゆ、ゆるめてくれい」
苦痛にたえかねて、助友はついに企《たくら》みのいっさいを白状に及んだ。政敵を蹴落《けお》とすため、罪もない神官たちを巻きぞえにしてまで呪詛事件をでっちあげた張本人――関白家の人々の名を、片はしから並べあげて、
「片手落ちをするなよ。黒幕はこいつらなんだ。おれはほんの手先にすぎない。罰するなら忘れずに、大物のほうこそ罰してくれよ」
わめきたてた。
それにしても、利にさとい『万石の助友』を褒美《ほうび》の金銀で釣り、ふだん人の行かない奥宮の祠の中に、あやしげな呪法の品を置かせたばかりか、半年も前から『猫怖じ』の演技をさせて、まんまと偽りの自白にまで持ちこませた関白家派の周到さ、根気のよさに、あらためてだれもが眼をみはった。
二カ月のあいだ助友は北堀川の獄屋につながれていたが、性のわるい牢湿《ろうしつ》に身体中をむしばまれ、斬罪をまたずに獄死した。
配所へは、赦免の使が差したてられた。
老大宮司は、しかし隠岐で病歿し、天下晴れて都へ帰ってきたのは小宮司の佐伯師純ひとりであった。
「あなたの冤罪《えんざい》がはれたのは、助友の後添えになった左由良が、夫を訴えたからなのですよ」
と赦免使に、師純は告げられた。
「ひとこと、礼を言いたい……」
つれ添う夫を罪に落としてまで、なぜ自分たちを救ってくれたのか、その理由も聞きたかった。
左由良はだが、師純の帰洛と入れちがいに都から姿を消していた。さがしてもさがしても、それっきり、とうとう行くえはわからなかった。
「なぜだ、なぜ、いなくなったのだ左由良」
師純はつぶやいた。
おぼろげな記憶の底から彼はかろうじて、愛らしく悧発そうな一人の巫女の面輪《おもわ》をよみがえらせたが、その内奥《ないおう》にひそむ女ごころにまでは、ついに一生、理解は届かずに終わったのである。
毒茸と女
1
大和《やまと》吉野の金峰山《きんぶせん》に、年はまだ三十二、三にすぎないが学識ふかく、行法《ぎようほう》修行にも熱心な慶範《けいはん》という僧がいた。
「見どころのある男……」
と、別当にもとくべつ目をかけられ、三十代では異例な三臈《さんろう》に抜擢《ばつてき》されて、ゆくゆくは別当職を継ぐのではないかとさえ囁《ささや》かれている昨今である。
慶範自身も男ざかりの、この年ごろにありがちな野心家で、
(かならず将来、一山|大衆《だいしゆ》の上に立つ身になってやる。加持・祈祷の功を積み、都の貴顕に近づいて、やがては天子の帰依《きえ》を得るほどの出世をとげてみせるぞ)
なみなみならない望みを、胸中ふかく漲《みなぎ》らせていた。
彼にはしかし、たった一つ他人に言えない恐ろしい秘密が過去にあった。僧の身にあるまじき人殺しの罪を犯したのである。
――それは今から十年ほど前の、ある夏の夕ぐれだった。
用事があって、ふもとの上市《かみいち》まで出かけて行った慶範は、町の四ツ辻《つじ》で見知らぬ老人に呼びとめられた。
色の灼《や》けた萎烏帽子《なええぼし》に生麻地《きあさじ》の水干《すいかん》。しわだらけな四幅袴《よのばかま》の下から老人は痩《や》せ枯れた脛《すね》をのぞかせている。供には瓢《ひさご》をさげた小童《こわらわ》ひとり……。お世辞にも立派な風体とはいいがたい。
「いや、わざわざ足をとめさせてすまぬが、じつはお僧の面上に、きのどくな相があらわれておるのでな。ついつい声をかけてしもうたのじゃ」
白い顎鬚《あごひげ》を夕風にそよがせながら、歯ぬけ声で言う老人の言葉に、慶範はいぶかった。
「きのどくな相とおっしゃいますと?」
「女難じゃよ」
なんだばかばかしい、そんなことか……思わず口もとが苦笑に歪《ゆが》んだ。彼は目鼻だちのととのったなかなかの美僧であった。里へ出るたびに女たちに流し目されたり、露骨に言い寄られたりした体験は無数に持ち合わせている。でも、そのたびに鼻であしらって、まともに取り合ったことすらなかったのだ。
「私には、あっぱれ名僧知識と仰がれ、時のみかどの尊崇さえ受けたいという大きな望みがあるのです。女を見れば、そりゃあ人並みに欲望を感じますけれど、なにくそと歯をくいしばって、これまで清らかに身体を保ってきたのでした。いまさら羅刹外道《らせつげどう》が絶世の美女に化けて誘惑したからって、蕩《とろ》かされる恐れはありません。女より出世のほうが、私にははるかに強い魅力なのですからね」
老人は痛ましそうに、
「その気質ゆえ、わしはなお、お僧がきのどくに思えるのじゃ」
目をしばたたいた。
「相好《そうごう》にあらわれておる女難は、そこらの里おんなや村むすめに袖ひかれる手をにぎられる類《たぐい》の、なまやさしいものではない。お僧がどう克己心をふるい起こそうとその肉の深みにはまりこみ、堕落の烙印《らくいん》を押させて、法界の出世から脱落させねばおかぬ宿縁の持ちぬしなのじゃ。いわば前世からの約束を、お僧も相手の女もが背負って生まれたということよ」
そう聞くと、うす気味わるくもあり、また、むらむら慶範は腹も立ってきた。
「いったいそれは、どこの何という娘なのです?」
詰問した気持ちの底には、
(おのれ魔性の女め! 行く手をさえぎろうとしても、そうはさせぬぞッ)
はやくも、ひそかな殺意が芽ばえていた。
「さてなあ、住みどころや名まではわからぬが、乗りかかった舟……。できるかぎりは見て進ぜよう」
山鳥の羽根で飾った蒲扇《かばおうぎ》を目のふちにかざし、老人はいま一度、慶範の顔を凝視した。小さいくせによく光る、するどい眼だった。
「この町の、ほとりを流れる川……その川の下《しも》に……川の字のつく町がある……」
やがてぽつりぽつり、託宣《たくせん》に似たことばが老人の口からこぼれ出した。
「相手はその、町に住む……まだ七ツ八ツ……童《わらわ》髪の少女……家に燃ゆる猛火……名は……飛ぶ鳥にゆかりがあろう」
上市の町のほとりを流れるのは吉野川――。川下へ順にたどってゆくと、下市、五条、橋本、妙寺……そして粉河《こがわ》。
(そうだッ、粉河だッ)
見当はついた。
「ありがとうございます。それだけうかがえば充分です」
慶範の気負いへ釘《くぎ》をさすように、老人は低く言った。
「なにを考えているかはしらぬが、しょせん、のがれられぬ業因なら、いらざる罪は作らぬことじゃ。いっそ還俗《げんぞく》して娘とちぎりを結び、貧しくとも平穏に、夫婦助け合うて世を渡ってはいかがかな」
内心、慶範はせせら笑ったが、顔には出さずに、慇懃《いんぎん》に礼を述べて老人のそばを離れた。
(なに者だろう。口から出まかせの嘘を並べて、おれをからかったのではあるまいか)
――疑いは、しかし、まもなくはれた。
斎《とき》をよばれに立ち寄った知るべの家で、彼は偶然、老人の素姓を聞き出すことができたのである。
「ああ、そのお方ならば壬生浄観《みぶのじようかん》と申して、都で隠れもない相人《そうにん》とか……。この上市の町に姻戚《いんせき》をたずねてこられたのを、聞きつたえ聞きつたえ、いやもう滞在中ひっきりなしに観相依頼の人々が押しかけますが、旅の空、せめてゆるりとくつろぎたいと仰せられ、片はしからお断わりなされておられるそうでございます」
その浄観のほうから進んで声をかけてきたという事実が、いまさらながら慶範を緊張させた。
「なにせ、あなた、浄観さまが羅城門とやらの脇を通りますとな、下に休ろう乞食《こじき》・浮浪人・旅びとなどの面体《めんてい》に、揃うて死相が現れておる。こりゃふしぎじゃ、変事の起こる前兆《まえじらせ》かと見回しても、日はうらうら、闘諍《とうじよう》、辻風《つじかぜ》の気配さえござらぬ。そうじゃ門じゃ、門が倒れるにきわまったと気づかれて『逃げよ逃げよ』と声をかけ、遠くへ避けられた。とたんじゃ、地震《ない》も揺《ゆ》らず白蟻《しろあり》の害もきかぬに堅固な楼門がゆらり、かしいで、大音響とともに崩《くず》れ落ちた。指図に従って逃げた者は命をひろい、本気にせなんだ輩《やから》は押しつぶされて、むざんな死にざまを晒《さら》したよしでござりますわ」
知人の話は、慶範の決意をいよいよ固めさせた。金峰山の別当から数日の暇《いとま》をもらって出たのをさいわい、彼は用事を抛りだしてその夜のうちに上市を発《た》った。
2
十二、三里の道のりを休みなく歩いて、翌日ひるすぎに粉河に着きはしたものの、さて、どうやって目ざす相手を見つけ出してよいかわからない。
ひろくもない町の中をあちらこちらあてもなくうろついているうちに夕ぐれ近くなり、足はいつのまにか聚落《しゆうらく》のはずれにかかっていた。――と、疲れはてた慶範の目に、いきなり突き刺さってきた朱色のゆらめきがあった。仕事場の暗がりに伸びちぢみする鍛冶《かじ》屋の火の色である。
(……家に燃ゆる猛火!)
老人の暗示が脳裏をかすめた。
裏手へ、慶範はそっと廻ってみた。貧弱なあばらやだ。わずかな空地に濯《すす》ぎ物が干してあり、その下で少女がひとり、しきりに青菜を選《よ》りわけている。
近づいて慶範はささやいた。
「この家の娘さんかね?」
少女はうなずいた。糸切り歯に虫くいのある、まだあどけない面《おも》ざしだった。
「名はなんというね?」
「鶴君《つるき》」
慶範の胸は高鳴った。
(飛ぶ鳥にゆかりの名……。まちがいない)
僧衣のふところをおさえてみせて、
「托鉢《たくはつ》してくる道々、蜜《みつ》でからめたおこし米をどっさりもらったんだ。あの林へ行って、一緒に食べないか」
彼は誘った。少女はよろこんでついてきた。空腹だったにちがいない。
家の裏手につづく青田……。畦道《あぜみち》の先にくろずむ雑木林が大小二つのうしろ影を呑《の》み、やがて、うちの一つだけを吐き出した。
いうまでもなく慶範である。細くびに両手をかけて、力いっぱい彼は鶴君を絞め殺したのだ。
(これでいい。これで悪縁の根を断ち切った!)
躍りあがり躍りあがり畦道を駆け、町すじを走り去る姿には、呵責《かしやく》も悔《く》いも、みじん見られなかった。
――十年たった。
慶範の刻苦、修行はすすみ、三十を幾つも出ないのに三臈《さんろう》に推《お》されて、別当はじめ一山の嘱望をあつめるところにまで漕《こ》ぎつけた。
加持、祈祷の効も年を追ってあらわれはじめ、近ごろでは長老たちに代わって都の貴族の邸宅へ行法を修しに行くのは、ほとんど慶範の受け持ちになった。
中でももっとも大切な大檀那《だいだんな》は、世に野宮《ののみや》の左府と呼ばれている左大臣藤原|公継《きんつぐ》の屋敷である。
一生の持病とあきらめていた頑固な頭痛が慶範の加持で根治したことから、左大臣の信用は絶大なものとなり、ふた月に一度は使者がきて、やれ護身の経を読めの、凶事退散の護摩《ごま》を焚《た》けのと、はるばる洛中《らくちゆう》まで呼び出される始末だが、そんなある日、行法を終えて控えの間《ま》にしりぞき、袈裟《けさ》をたたんでいるところへ、
「おつかれでございましょう。み湯など召してくつろがれるようにとの、大臣《おとど》よりのお申しつけにござります」
小女房が告げに来た。
なにげなくその顔を見やった刹那《せつな》、慶範は自身の深部に、火口の爆出さながら噴きあがってくる動物的な衝動を感じてうろたえた。
醜くはない。しかし美人でもない。十七、八の平凡な顔だちのこの女に、なぜ狂おしいほどひと目|惚《ぼ》れしたのか理解できないまま、内なる欲望に揉《も》みたてられて彼は夢中で立ちあがった。
大殿油《おおとなぶら》を吹き消し、闇《やみ》に変じた小部屋の中で、女房の華奢《きやしや》な肩を抱きすくめるまで、ほんの瞬《まばた》きのあいだだった。
「あッ」
叫びかけた女の口を、慶範はつよく唇《くちびる》で塞《ふさ》いだ。自分のものではないように手足は荒々しく、しかも巧みに動き、血管を搏《う》ってたぎり立つ力を一点に向かって奔騰させた。生まれてはじめて知った甘美な、めくるめくばかりな体験であった。
「慶範さま、好き……好きでしたッ」
小さく、きれぎれに女も呻《うめ》いた。
「お屋敷へ来られるたびにかいま見て、お慕い申していたのです。捨ててはいや……どうぞいつまでも……」
思いは慶範も同じである。
「おっしゃるまでもありません。またご当家へ召される日、かならずお逢いしましょう。あなたのお名は?」
「鶴君《つるき》と申します」
「つる……!」
彼はのけぞった。絡《から》みついてくる相手から、身をいざって起きあがりながら、それでも懸命にさぐりを入れた。
「お生まれは京ですか?」
「紀州の粉河でございます」
喘《あえ》ぎ喘ぎ慶範は言った。
「粉河寺にいる法友の口から、昔あの里で、いたいけな鍛冶職のむすめが殺された話を聞かされたおぼえがあります」
「それが私です。もう、何もかもさだかではありませんけれども、旅の僧につれられて林へ行ったまでは、ぼんやり記憶しています。首をしめられ、気を失って倒れているところを焚き木拾いのお百姓に見つけられ、家につれてこられて息を吹きかえしたのだそうです。ごらんなさい、ほら……」
上蔀《うわじとみ》を細くあげて、さしこんできた月光の下に女はその白い咽喉《のど》を曝《さら》した。
「うっすらと赤|痣《あざ》が残っているでしょう? 旅僧の指のあとです。なぜそんな恐ろしいことをしたのか、だれにもわからないまま十年もの月日が流れてしまったのでした」
3
おろかな失敗をしたものだと、慶範はみずからを嘲《あざけ》った。危うさに、肌が粟立《あわだ》ちもしたのである。
この破戒が左大臣の耳へ万一はいったら、たちまち庇護《ひご》は打ちきられ、寺からも追い払われてしまうだろう。ようようここまで築きあげてきた足場――。崩壊からそれを守るためには、是が非でもいま一度、鶴君には死んでもらわねばならぬ。
(こんどこそ、しくじらないようにやらなければ……)
方法を慶範は考えたが、よい思案は浮かばなかった。ともあれどこか、山の中にでもつれ出し、人知れず始末してしまうことだ。
左大臣家での十七日間の修法がすみ、あすは都を離れるという日、彼は文《ふみ》をやって、こっそり女を外へ呼び出した。
「しばらくお別れですからね。閑静な山路でもそぞろ歩いて、おなごりを惜しみたいと思って……」
いそいそ鶴君はついてきた。
町なかは用心して離れてあるき、東山|鳥辺野《とりべの》の墓地をぬけて、清水寺の裏山ふかく分けのぼってはじめて、二人は手をつなぎ合った。
「ああ、たのしい。いつまでもこうしていられたらねえ」
鶴君はため息をつき、慶範の手に前歯をあてて、そっと噛《か》んだ。
ふところを、慶範はさぐった。刃物を用意してきたのだが、仏の前に合わす手を、血のりで濡《ぬ》らすのはさすがにためらわれた。
(また、絞めようか)
前回のやりそこないを思い起こすと、それも不安だった。
「あらあら、りんどうが咲いててよ。つるばみの実もこんなに熟れて……きれいだこと」
秋草や木の実を摘み溜めてよろこぶうちに、鶴君はブナの倒木にはえるおびただしい茸《きのこ》を見つけ出した。
「平茸《ひらたけ》でしょ。ね? 平茸だわね」
似ているが、それはしかし平茸ではなかった。和太利《わたり》、熊へら、月夜茸ともよばれる毒茸の一種だった。
(そうだ、こいつを食わせればまちがいなく死ぬぞ)
思いつくとすぐ、慶範はかがんで、和太利を摘《つ》みにかかった。
「よく知ってるね。平茸だよこれは……。焼いて食うとうまいんだ」
「ここで宴《うたげ》をひらきましょうよ」
鶴君ははしゃいで落葉や枯木を集め、慶範は手ごろな石でそれをかこって燧《ひうち》を打った。小枝の先に和太利を差し、遠火で焙《あぶ》る。
「おなか、ぺこぺこ……」
焼けるのが待ちきれないといいたげな、鶴君の他愛ない笑顔である。
ふっと、哀れになった。その肉体への、断ちがたい執着だったかわからない。慶範はだが根《こん》かぎり自分の中の逡《ためら》いを捻じ伏せ、火加減を見る作業に没頭した。
和太利はじゅうじゅう汁をしたたらせ、香ばしい匂《にお》いをたてはじめた。
「焼けてきたよ。さあ、おあがり」
「あなたから、どうぞ」
「いや、腹のへっている人が先さ」
小枝ごと取って渡してやると、鶴君はすぐ口へいれ、
「おいしい。なんておいしいんでしょう」
歓声をあげて、二つめ三つめと食べつづけたあげく、
「召しあがらないの? ほら、どんどん焼けだしましたよ」
男にもすすめながら言った。
「ねえ、こうして同じものを分け合って食べて……子供らにまといつかれて……そんなくらしができたらどんなに幸せでしょうね」
「俗体にもどるよ。一つ家に住もう」
「まあ、うれしいッ。夫婦になってくださるのね?」
「仏罰覚悟で犯した女犯《によぼん》じゃないか」
「あ、こげはじめたわ。召しあがれよ」
「食うさ。でも、その前にちょっと……ね」
小用に立つふりをして焚火をはなれ、そのままあとも見ずに麓《ふもと》めざして駆けおりた。
(いまごろは血へどを吐いてのた打ち回っているか。それとも息が絶えたか)
念のため、ふところに忍ばせてきた茸を取り出し、いま一度よくよくしらべた。平茸に酷似しているが、短い柄《え》のつけねに鐔《つば》がある。傘を裂くと、柄の中肉にまぎれもなく濃《こ》紫色の汚《しみ》があった。
(まちがいない。和太利だ)
ほっとした。のしかかっていた肩の重荷が、今こそすっぱり脱《ぬ》け落ちた爽快《そうかい》さだった。
慶範は宿所へ帰り、手ばやく旅仕度をととのえた。予定より一日くりあげての出立である。長居は無用の思いにせきたてられ、戸口をひと足、踏み出した瞬間、
「ひどい人! おいてきぼりにするなんて」
女の姿が前をふさいだ。鶴君であった。
「そ、そなた、生きていたのかッ」
つい知らず、慶範は口走った。
「生きてますよ、なぜ?」
けげんそうに反問したが、すぐ、
「そうだったの。やはり私の推量通りね」
鶴君はうなずき、はてはおかしそうに笑い出した。
「あの茸は、毒茸だった、あなたは中途でそれに気づき、すまなさに動顛《どうてん》して逃げ出した……そういうことでしょ?」
「う、うん」
肯定するほかに手はなかった。
「ご安心なさい。万人に一人という私はめずらしい体質でね、どんな毒茸にも当たったためしがないのよ」
「万人にひとり! あの……そなたが!?」
「可哀そうに、よほど心配なさったのね。お顔の色がまっ青だわ。でも、ごらんのとおり私はぴんぴんしていてよ。――さあ、それよりご一緒に左大臣さまのところへいって、婚姻のお許しを願い出ましょうよ。お叱りになるかしら。それとも祝って下さるかしら」
目まいに襲われて、慶範はひょろッと土間へ膝を突いた。
(だめだ、逃げきれない。どうあがいたところで、結句《けつく》こうなる宿業《しゆくごう》だったのだ!)
相人《そうにん》壬生浄観のしわがれた声が、あざやかに耳によみがえった。
「いわば前世からの約束を、おまえがたは二人ながら背に負うて生まれたということよ」
助け起こされ、膝の泥を払われて、左大臣邸への道をとぼとぼ歩き出しながらも、
(一つ鍋《なべ》のものを食って、子を生み散らして……うう……ざ、ざんねんだ……うう、うう)
鶴君の腕の中で、瘧病《おこりや》みさながら慶範は唸《うな》りつづけた。
蘆《あし》刈りの唄
1
狛直方《こまのなおかた》は宮中の楽所《がくしよ》に所属する伶人《れいじん》である。笛・笙《しよう》・琴・琵琶《びわ》、それに舞まで、一応はくろうとの水準に達しているけれども、特に何かぬきん出た技《わざ》があるかといえば、それは無かった。
まじめで気だてはおとなしく、口べた社交べたなため、楽所でも目だつ存在とはいえない。上司にも同僚にも、かくべつ憎まれもしないかわりに目をかけられ可愛がられて、出世してゆく型からは遠い。
よく見れば、顔だちはわるくない。緊《しま》った、なかなか凜《りん》とした風貌《ふうぼう》なのだが、局《つぼね》歩きをするわけではなく、たまになまめいた歌など渡されても、どぎまぎして返歌もできない無器用さだから、ことし二十四という若ざかりのくせに、女との噂さえ、ろくに立たない男なのである。
――そんな直方が恋をした。
しかも相手は選りに選って、ひとの家の畑仕事・厨《くりや》仕事に追い使われている婢《はした》であった。
そのころ直方は軽い瘧《おこり》を病んで、半月ほど勤めを休んだ。そしてちょうど、近所に住む虫麿《むしまろ》という扇折り職人が有馬の温泉《ゆ》へ出かけるのに同行して、保養がてらの湯治をたのしんだが、恋の相手には、この、有馬からの帰り道、摂津《せつつ》の国|生瀬《なまぜ》の里のはずれで、はじめて会《あ》ったのである。
秋の気配が濃くなりだした七月末だが、日中はまだ日ざしが強く、だいぶ軽快したとはいっても病みあがりの直方には、道中がつらかった。
「大丈夫かね? すこしそこの木かげで休んでいこうか」
虫麿はいたわってくれた。
大きな槐《えんじゆ》が枝を拡げ、道ばたに涼しげな蔭《かげ》をつくっている。その下に腰をおろして、竹筒の水を分けあって飲むうち、
「なんだろう直方さん、変な声が聞こえるじゃないか」
「女の、うめき声のようですね」
二人は異常に気づいた。
かたわらの桑畑《くわばたけ》の中だった。踏みこんでみると案の定、桑摘み娘であろう、籠《かご》を背に負った十六、七の少女が、土にうずくまってみぞおちのあたりを抑えていたのだ。
「腹痛かね?」
虫麿が声をかけた。
「はい……」
振り仰いだ顔にはいちめん脂汗がにじんで、死人さながら血の色がまったくない。
「こりゃひどそうだ。直方さん、なんぞ薬の持ち合わせはないか」
「あります」
肩荷をほどいて丸薬を取り出し、竹筒と一緒に娘に渡した。
「申しわけございません」
押し頂いて口へ入れる手が、痛々しいほど慄《ふる》えている。直方はにじり寄って娘の背中を押してやった。胃が痛むときそうすると、ふしぎなほど楽になるのを直方は知っていたのである。
「比左女《ひさめ》ッ、比左女はどこだッ」
畦道《あぜみち》をこのとき、わめき声が近づいてきた。粗末な麻の労働着を通して、直方の手に、ぶるッと娘の戦慄《せんりつ》がつたわった。
「ここだよ、娘さんならここにいるよ」
虫麿が応じた。
「なんだお前ら、どこの者だ」
畑の持ち主にちがいない。鞭《むち》がわりのつもりか、片手に弓の折れをにぎった見るからに憎々《にくにく》しい髭男《ひげおとこ》だ。
「どこの者でもない。通りがかった旅びとさ。この娘さんが腹痛を起こしていたので、いま薬を飲ませたところだよ」
礼を言うと思いのほか、男は苦りきった仏頂づらで、
「ちッ、またぞろ病気か」
舌を鳴らした。
「役立たずめ、頭《ず》が病《や》めるの腹をこわしたのと、年がら年じゅう弱音《よわね》ばかり吐きおって、ひとの半分も仕事をしくさらぬ。――さあ、とっとと桑の葉を運ばんかい」
娘を追いたてたあと、聞こえよがしに、
「金で買った婢《はした》を姫さま扱いしていたら、こちとらの顎《あご》が干《ひ》あがるわ」
うそぶき散らして去ってしまった。
「無慈悲なやつだなあ。田舎《いなか》地主には、えてあんなのが多いんだ。あの娘も可哀そうに病身そうだが、ろくに食い物も貰ってはいまい」
虫麿の同情も、しかしそこまでで終わりらしい。けろッと気をかえて、
「とんだひまをつぶした。――行こうぜ直方さん」
先を急ぎはじめ、やがてそのままつれだって、京都四条の自宅へ帰って来てしまったけれども、直方の比左女に対する感情は、もうとても、そんな通り一遍の行きずりなものではなくなっていた。
彼は娘が愛《いと》しくてならなかった。あの年ごろにしては肉づきが薄く、骨ぐみなども驚くほど華奢《きやしや》だったが、身分の卑しさに似合わぬ気品が身体ぜんたいから匂《にお》い立っていたし、女らしい血のあたたかみも、ほんのりと手に感じられた。心より先に触覚が、魅《み》せられてしまったのだといえるかもしれない。
母や乳人《うば》の思い出は、直方の記憶に残っていない。じつをあかせば女の肌《はだ》に、衣服をへだててでも手をふれた経験など、生まれてはじめての直方なのである。ふだんの彼なら、できっこはない行為だ。それがあの、比左女にかぎって何のためらいもなく触れられ、触れた瞬間、前《さき》の世からの約束ででもあったように、すうっと脈搏《みやくはく》がひとつに溶け合って、なんともいえない安らぎに浸《ひた》れた。恍惚《こうこつ》とさえなったのだ。
「恋と、これをいうのだろうか」
直方には判断がつかない。ただ、比左女をむざんな境遇から救い出したい、そばに置いて、いとしんでくらしたいと、憑《つ》かれたように願望しただけだ。
さいわい彼には、故障を言い立てる親兄弟・親戚《しんせき》など一人もなかった。日ごろ、したしくしている虫麿にさえ黙って、直方はいま一度、摂津にくだり、因業《いんごう》な傭《やと》い主に面会して、
「比左女を譲ってください」
交渉した。
足もとにつけこんで髭男は法外な値を吹きかけた。それは到底、直方の手に負える値段ではなかった。
2
彼はしかし、くじけなかった。
親からゆずられたたった一つの財産である住居を、人に売り、たりないぶんは楽所の同僚三人に頼んで借金してまで、砂金三両という傭い主の要求を通した。
虚弱な比左女の体質に業《ごう》を煮やしつづけていた髭男は、買い値より高く彼女を売り渡せたことに内心ほくほくしていながら、いざつれて出るときには渋面《じゆうめん》をつくって、いかにも惜しそうに比左女と直方を送り出した。
「ありがとうございます。おかげで地獄から救われました」
泣いてよろこぶ娘を見ると、
(三両ぐらい何だ。借金がなんだ)
苦にならないどころか、むしろ砂金ひと袋が生き身の女に変わったふしぎさに、直方は呆然《ぼうぜん》とするのである。
(買える相手だからこそ、とげられた恋なのだ)
ありがたかった。運がよかったとさえ彼は思った。
虫麿は目をむいた。宮中での伶人の身分は低い。俸給も多くはない。しかし天皇・皇族はじめ、公卿《くぎよう》・殿上人の面前に出て仕事をする特殊な技能の持ち主たちである。市井の職人や労働者などとは、世間も同列には見ていない。
「それに直方さんの男ぶりなら、もうちっとましなところから縁の話もあろうじゃないか。なにも好きこのんで婢《はした》奉公の女などを、借金してまで引っぱってくることはあるまいになあ」
こっそり、妻にだけは譏《そし》って言った。
――比左女をつれて帰洛《きらく》したものの、住む場所に、直方はさっそく困った。
「わしの家でよかったら、来ていいよ」
虫麿が助け舟を出してくれた。一介の扇折りだが、虫麿は下職《したじよく》を四人も使い、大きな仕事場、間《ま》かずの多い家、妻子|眷属《けんぞく》をたくさんかかえて毎日をにぎやかに、食うにはもちろん事欠かずにくらしている男であった。
空《あ》いている西のはじの部屋を厚意に甘えて直方は借り、比左女とつつましい新世帯を持った。
「私にも、こんな日がめぐってきたのか」
信じがたい思いでつぶやくほど、毎日が直方は幸福だった。贅沢はできない。でも、人なみに食べさせ、着せているうちに、土中に埋もれていた白珠が研磨師の手に渡って光芒《こうぼう》を放ちはじめるように、比左女の天性の美しさはめきめき磨き出されてきた。彼女自身は人が褒《ほ》めるほど、それを自覚していない。誇り顔も、だから当然、しようとしない。
なによりは性質が温順なのだ。じつは没落したある富農の娘だったのである。父母の死後、田畑を親類の者に横領されたあげく、人買いの手に渡って婢《はした》の身分に堕《お》ちたのだが、その悲境から救い出してくれた直方を、たんに夫とだけ思うことはできないらしい。
「一生の恩人……」
口にこそ出さないけれど、感謝を身体中にあらわして、慕い、縋《すが》ってくる様子は、いじらしいばかりだった。
「いやあ見そこなった。顔だちといい気だてといい、比左女さんは掘り出し物だよ。砂金三両でも安かった。どうしてどうして直方さん、あれで思いのほか目が高いや。隅におけない眼力だぜ」
自分の妻に、やがては虫麿も訂正して言うようになった。
帥《そち》ノ宮《みや》から調律を依頼され、楽所の楽器置場の戸棚《とだな》に大切に保管してあった高麗《こま》笛が、何者かに盗まれて消え失せたのは、そんなさなかだった。
この夜、陣《じん》の宿直《とのい》に詰めていた不運から、直方にまず嫌疑《けんぎ》がかかった。責任を問われ、追及されたのだといってもよい。
どう、糺《ただ》されても、しかし覚えのないことは知らぬと言い張るほかなかった。
紛失した高麗笛は唐《とう》から舶載された高価な名器で、その価値は伶人がいちばん知っている。いっさい他の、楽器類には手をつけず、荒らしもせずに、高麗笛の戸棚だけを狙った点も、内部の事情にあかるい者の仕業《しわざ》とみられた。
調べてゆくうちに、同僚三人に直方が少なからぬ借金をしていることもわかって、立場はますます不利になった。好事家《こうずか》にたのまれて金ほしさに盗み出したのではないかと、上司にあたる楽所の預りは疑った。
帥ノ宮の意見もあり、事件はだが、外部には伏せられて、楽所の中だけで処理された。
直方の住居《すまい》――虫麿の家の一室を、床板まではがして捜しても笛は出ない。直方自身の身柄を内密に帥ノ宮の屋敷に移して、侍たちの手で拷問させもしたが、
「ぞんじません、宿直しながら大切なお品を賊に奪われた責めは、私にございます。そのための罰ならば極刑もいといはしませんけれども、盗人の汚名だけは承伏しかねます。まったく身に覚えのないことでございますッ」
彼は白状しなかった。
「強情なやつ……」
うしろ手にしばった両腕のあいだへ棒をさし込んで、骨にひびがはいるまで捻じあげた。背中が血みどろになっても、打ちすえる革鞭の手を休めなかった。苦痛に耐えかねて幾度も気を失いながら、しかし直方は犯行を否認しつづけた。
上司はあぐねた。はっきりした証拠もないまま、結局、宿直としての責任だけを負わせて彼を楽所から追放したのであった。
3
「ざんねんだ。賊はかならず仲間の中にいるはずなのに、その糺明《きゆうめい》もせず、私ひとりに浅ましい疑いをかけるとは……」
男泣きする直方の背を、やはり涙で頬《ほお》を濡らしながら、桑畑であの日、自分がされたように比左女はただ、精一杯の愛情をこめて撫《な》でさするほかなかった。
同僚三人からの多額の借りが疑惑の根になってい、その借りは、彼女自身を買い取るために直方がつくったものなのだと思うと、比左女はすまなさに胸が凍った。
……生活はみるみる窮迫した。
直方は衰弱して寝たきりになったが、回復してももとの身体にもどることは不可能だった。情け容赦のない拷問の結果、左腕が、常人の半分も曲がらなくなってしまったのである。
「あんたたちの口すぎぐらい、私がまかなってあげるとも。家族のつもりでいていいのだよ」
虫麿の善意によりかかって、しかし夫婦二人、いつまで居候しているのも心ぐるしい。
楽器を鳴らし、舞を舞い、唱歌するほかの能力を、直方は持たない男だし、腕が不自由になっては、まして肉体労働など無理だった。
比左女は女房勤めの口をさがしてきた。
「身体を使っての仕事には、私のほうが慣れています。なんの、お屋敷奉公など昔の苦しさにくらべれば、極楽でしょうよ」
大納言藤原|行成《ゆきなり》の邸宅――。
その北ノ方のそば近くつかえる青女房の一人に、比左女は採用されたのだ。
「月に一度はおひまをいただいて、かならず帰ってまいります。あなたもどうぞ訪ねて来てくださいね」
言い置いて大納言邸へ移って行ったが、約束通りには、なかなかもどってこられなかったし、直方のほうも人目がはばかられて、妻の曹司《ぞうし》まで忍んで行く勇気は出ない。
『でも女房たちはだれでも、夫や愛人を局《つぼね》にひき入れて夜をすごしていますよ』
便りの端に、邸内の略図まで描いて比左女はうながしてくる。逢いたかった。
はなればなれにくらしはじめて、すでに二カ月近くになる。
とうとう、たまらなくなって、直方はある雨の夜、大納言の屋敷に出かけていった。
男たちが利用するという築地《ついじ》の崩れから、図が教えるとおり彼も邸内へはいって、菜園をぬけ庭をよこぎり、前栽《せんざい》のささ流れを廻《まわ》りこんで比左女の部屋のそばに出た。
遣《や》り戸をすこしあけてのぞいたが、まだ退《さが》っていないとみえて、中は暗い。仕方なく軒の雨だれを避けながら、中門廊の階《きざはし》の脇にたたずんでいるうちに、北の対《たい》の渡殿《わたどの》をもつれ合って人が二人、走り出てきた。
男と女である。振り切って逃げる女を、男が追っているらしい。
「いけませんッ、お離しあそばせ少将さま」
比左女の声だ。直方は息を呑んだ。
「何度も申しあげたはずです。わたしには夫がございますッ」
「いてもよい。たとえそなたが帝《みかど》の女御《によご》であろうと、これほどまで思いこんだ恋、とげずにはおかぬ」
その声を、大納言家の次男、左近衛少将行径《さこんえしようしようゆきみち》と知った瞬間、直方は気力のすべてを失って泥濘《ぬかるみ》の中へ膝《ひざ》を突いた。
「いえ、いえ、いけません」
比左女は必死にあらがっていた。
「夫を持つ身に挑むなど、ご無体というものです」
「いいや、私は真剣だ。夫が望むなら、男らしく剣に訴えてもよい。頭をさげろというなら、地べたに額をこすりつけてもかまわない。そなたが欲しい。誇りに代《か》え、名に代えてもそなたを自分のものにしたい」
「お離しなさらなければ人を呼びます。声を立てますが、ようござりますか?」
さすがに怯《ひる》んだすきをついて、比左女は相手の手を振り切り、夫がひそむ廊の上を、それとも知らずに走りぬけると、自室に飛びこんで掛け金を内から閉めた。
「あんまりだ。あまりといえば冷たい。あけてくれ、せめて話だけでも聞いてくれ」
あたりの耳を気にしながらも、低く、叫びつづける行径の声に、嘘では出ない涙が混じっているのを直方は聞き、自由のきく右腕を目にあてて、彼も懸命に、こみあげる嗚咽《おえつ》をこらえた。
『私のことは忘れて、自分自身の幸せを掴んでほしい。今はもうそれだけが、ただ一つの願いだよ比左女』
妻にあてて一通――。虫麿へも、世話になった礼手紙を残して、直方はまもなく行くえ知れずになった。
八方、手をつくして探したけれども、消息は不明のまま年月がたってゆき、今は、
「死んだのだ。それにきまっている……」
あきらめて、虫麿も手を引いた。
親木をうしなった蔦《つた》かずらにひとしい。二年後、辛抱づよく待っていた行径の腕に、比左女はついに抱かれた。
正妻に準じる扱いを受け、少将どのの想い人《びと》とうやまわれ羨《うらや》まれる華やぎの中に身を置きながら、しかし一日として彼女は直方の上を思いやらない日はなかった。
(ほんとうに死んでおしまいになったのだろうか。……どこかで、生きておられるのではないか)
住吉|詣《もう》でを思い立ってはるばる出かけた車の中でも、摂津の生瀬から、夢のようなよろこびに酔って直方とともに上京した旅の日の記憶ばかりがよみがえった。
「ちと、景色でもごらんあそばしませ。難波《なにわ》の入江にさしかかりました」
ふさぎがちなのを見かねたのか、同乗していた供の女房が、物見《ものみ》窓の外を指さしてうながした。
「あれあれ、蘆《あし》刈りたちが、脛《すね》まで水に漬かりながら蘆を刈り取っておりますよ」
男ばかりであった。呻《うめ》きに似た低い声で、蘆刈りたちは何やら唄《うた》をうたっていた。淋《さび》しい、陰鬱な節まわしであった。
車をとめさせて、比左女はしばらくその光景に見入っていたが、ふと、うちの一人に目を据《す》えると、
「ああッ」
いきなり、顔色を変えた。
「どうなさいました?」
「あの人を……あの蘆刈りを呼んでください。ここへ……この、車のそばへ……」
侍が駆けて行き、岸に立って男を招いた。
左手をぎごちなくうしろへ回して腰紐《こしひも》に鎌をはさみ、男はいぶかしげな顔で岸に上がると、侍の背について歩きかけた。
ほんの二、三歩で、しかしその足はとまった。こけた頬《ほお》、おちくぼんだ眼……。やつれきってはいても、男は直方にまぎれもなかった。女車を見、前後にしたがう行列を目にして、彼の直感は待つ相手を、とっさに覚《さと》ったらしい。たちまち横へ飛んで、姿は蘆原のかなたに掻《か》き消えてしまった。
「こら、どこへ行くッ、なぜ逃げるッ」
追おうとする侍を、
「いいのです。もう……いいのです」
比左女は制止し、袂《たもと》を噛《か》んで、そのまま簾《すだれ》のかげへ泣き倒れた。
蘆刈りたちの唄は、重く、にぶく、つづいていたが、よく聞くとそれは、
月のおもてを、さ渡る雲の、
まさやけく見ゆる、秋なれば……
一節だけの、単調なくり返しにすぎなかった。
ただ一人、欠けている声を――直方の声を、比左女の耳は幻聴の中で捉《とら》え、いつのまにかくちびるは、嗚咽とともにきれぎれに、同じ旋律を追っていた。
家 族
1
洪水は、一瞬のまに起こった。二丁ほど先で川の堤防が切れたのである。
時刻は真夜中――。しかも、風雨のさなかだった。
村はたちまち濁流に浸《ひた》された。おそろしい勢いで嵩《かさ》の増してくる水に、ひとびとは逃げ場を失い、木の枝、屋根の上に這《は》いあがった。
御厨宮成《みくりやのみやなり》とその家族たちも、例外ではなかった。
「おっ母さん、大丈夫ですかッ」
「おお、せがれよ。わしはなんともない。それより嫁女は?」
「わたしは、ここにいますッ」
叫ぶ妻へ、
「すべるなよ島女《しまめ》、しっかり屋根をまたいでいろッ」
宮成も声をふりしぼる……。
「あなたッ、坊は? 文殊丸《もんじゆまる》は?」
「安心しろ、抱いてるよ」
「落とさないでくださいよ、水の中へ……」
「ばか言うな、手の内の珠を離してたまるか」
風が猛《たけ》る。雨がたたきつける。目の下で水はごうごうと唸《うな》りをあげる……。
「こわいよう、父さん、こわいよう」
しがみつく幼い息子を、
「もうちょっとの辛抱だ。夜さえあければ……」
びしょ濡《ぬ》れのふところ深く、宮成はかかえこんだ。
「あれえ……」
「た、たすけてくれえ」
村人たちの絶叫、悲鳴が、風雨を縫って交錯する。登っていた木が根こそぎ流れ出したのか、それとも家が浮きあがったのだろうか。
「おそろしや。南無、ほとけ、なにとぞ一家の危急を守りたまえ」
死にもの狂いな老母の祈念もむなしく、やがてグラッと宮成の家も動きはじめた。
「きゃあ」
島女が、殺されそうな声をあげた。
「家が……家が流される!」
もともと小さな板屋なのだ。柱は細い。根太も細い。抉《えぐ》りつけてくる水の力に抗しきれるはずはないのである。
「あぶないッ」
大小四個の人かげが、闇の一方にかしいだとみるまに、空箱《からばこ》さながら家はふわッと漂《ただよ》い出し、安定を失って家族は残らず、
「わッ」
黒いうねりのまっただ中に投げ飛ばされた。
あとはもう、無我夢中だった。文殊丸の小さな身体を左腕に掻《か》いこんで、片手泳ぎに宮成は必死に泳いだ。
家のうしろに高い石垣《いしがき》がある。そこまでなんとかたどりつこうとあせるのだが、水に押されて下流へ下流へ、こころならずも流されてしまう……。
「くそうッ」
幾度も水を呑んだ。息が苦しい。漂流物がごつんごつん、ぶつかる。大きな調度や流木などにもろにぶち当たったら、それでおしまいだ。
「だめかッ」
萎《な》えそうになる気力を、しかし息子のために宮成は奮《ふる》いおこした。
「あッ、おっ母さんッ」
目の前を、六十になる老母が一枚のボロ布さながら、ふわりふわり流されてゆく。
反射的に宮成の手はその衿《えり》がみをつかんだ。右手は水を掻《か》いている。出したのは左手だが、当然それは同じ手にかかえていた息子の身体を、離した結果になった。
「しまったッ」
一|刹那《せつな》の忘失だ。
「文殊丸ッ、文殊丸ッ」
狂気のように彼は右手で水をかきさぐった。なにもない。今の今まで、たしかに腕にあった幼児の肉の感触は、瞬間の乖離《かいり》を境に、永遠に宮成から去ってしまったのだ。
「ああ!」
老母はなかば、意識をうしなっているらしい。自分を掴み止めてくれた力をだれのものとも知らずに、しゃにむにしがみついてきた。
親子は絡《から》まり合ったまま水に沈んだ。宮成自身の命さえ、いまは危うかった。
最愛の息子との、とつぜんの離別……。
死の恐怖……。
彼の頭はからっぽになった。じーんとただ、耳が鳴る。
すでに泳ぐというより、めちゃめちゃに水を引っかき、掻き廻《まわ》すにすぎなくなった片手が、このとき、まぐれ当たりに何かつかんだ。杭《くい》だった。
同時に足が、土にさわった。崖《がけ》の斜面に知らぬまに押しつけられていたのである。
母を曳《ひ》きずったまま宮成は地べたに這いあがった。手あたりしだい、木の根を握り草をつかみ、這いずって水面から遠のいたが、
「助かったッ」
つぶやいたとたん気がゆるんで、打っ伏した老母の背に彼もまた、おおいかぶさるかたちでのめったきり、なにもわからなくなった。
2
出水《でみず》のあとの荒涼《こうりよう》にも増して、すさみきったのは、それからの宮成の家庭だった。
さいわい妻の島女は家の裏の石垣に自力で泳ぎついて、一命を拾ったけれども、
「こんなことになるなら、いっそ死んでいたほうが、どれほどよかったかしれない」
文殊丸の死を悲しみ、夫をののしった。
「なぜ、手を離したのよ。なぜなのよ。ひどい人だわあなたは……。父親じゃない。あの子にすれば、みすみす自分を見殺しにした仇《かたき》よッ」
「すまない島女。お前にはなんと詫《わ》びてよいか……。いきなり目の前におふくろが流れ寄った。つい、それに気をとられて、腕をのばしたひと瞬《またた》きのすきに……」
「知らないッ、知らないッ、聞きたくないッ。老い先みじかい老人と、行く末ながい息子の、どっちがあなたは大事なの」
宮成にとっては、どちらも血を分けた親であり子である。島女には、でも姑《しゆうとめ》との血のつながりはない。文殊丸こそが彼女自身の分身なのだ。村の文殊堂に願掛けまでし、結婚後、十年たって、やっとめぐまれた一つぶ種のいとし子なのである。逆上は無理ないにしろ、責め立てられる宮成にすれば、身を斬《き》り刻まれるほどつらい。
まして老母は、ほろほろ泣いて、
「なぜ、わしを助けた。恨めしいぞよせがれ。いたいけざかりの孫を身代わりにして生きたとて、このばばは、なんのうれしいことがあろう」
これもまた宮成をとらえて、かきくどく……。立つ瀬がない。子への哀れさ、すまなさに慚愧《ざんき》するほかないのだった。
貧しくてもそろってすこやかに、幼児の成長をたのしんで、田畑をたがやし、機《はた》を織り、苧《お》を績《う》んでくらしていた一家の和気《わき》は、あとかたなく消え去り、毎日が陰惨な言い合いと悲泣に、まっ暗に閉ざされてしまった。
死人は村からも無数に出た。行くえ不明も多かった。文殊丸の死体は海へでも流れ出て行ったか、ついにあがらなかったから、これも正確には行くえ不明というべきだろうが、
「たった、六歳のいとけなさ……生きてなど、いっこない」
とは、だれもの一致した意見であった。
「あきらめなされよ、なあ島女さん」
村びとたちは、慰めて言った。
「おらとこの二番目むすめも、死んでしまっただ」
「わしのとこじゃ働き手を二人もなくしたよ」
「親きょうだいを水に奪《と》られたのは、あんたばかりじゃない。喞《かこ》っても、詮《せん》ないことじゃ」
島女はだが、はげしく首を振って、
「ちがいますッ、うちの坊やはちがいますッ」
抗弁する……。
「助けようとしても助からなかったのなら、村中を襲った同じ災難……。わたしだってあきらめます。でも文殊丸はそうじゃない。父親の腕にしっかり抱かれていたんです。そして父親は助かった。手さえ離さなければだから坊やも、当然、助かっていたはずでしょう? 水に奪られたんじゃなくて、あの子は捨てられたんです」
彼女の痛恨《つうこん》はこの一点に根をおろして、なんとしても離れない。したがって村びとたちも、しまいにはなぐさめきれなくて口を閉じてしまう。
「くやしいッ、お姑《かあ》さんさえいなかったら、こんなことにはならなかったのに……」
はじめは憚《はばか》って、かげで言っていた呪詛《じゆそ》のありたけを、やがて島女は、老母の前で聞こえよがしに吐き散らすようになった。
「顔を見てさえ腹が立つ。早く死んでくれればいいのに、孫を殺してのうのうと、のさばり返っているんだから……」
涙で爛《ただ》らかした老いの目に、さらに新しい涙を泛《う》かべて身も世もなげに隅《すみ》の暗がりに、うなだれている母を見ると、
「島女、なんという口をきくのだ」
宮成は、たしなめずにはいられないが、
(こんな女ではなかった。不幸が、妻を毒したのだ)
その狂乱が哀れだったし、やがては彼にも島女の憎しみが乗り移って、
(そうだ。その通りだ。あのとき母を見なかったら、おれは子供を失いはしなかった)
あからさまに言いはしないまでも、母への態度は冷たくなった。
――一年たち、二年たち、村はどうやら立ち直って、肉親を死なせた者も悲しみの記憶を次第に薄めてゆきつつあるのに、宮成の家庭だけはかえって逆に、不和は深刻になるばかりだった。
そして、洪水から三年目。
とうとうある日、
『許してくだされ。わしがいては一家の浪立ちはおさまらぬ』
にじり書きの紙片を残して着のみ着のまま、夫婦が薪拾《まきひろ》いに行った留守のまに老母は家を出てしまったのである。
3
さすがに宮成は狼狽《ろうばい》した。
「いたたまれなくなったんだわ。ああ、せいせいした」
小気味よさそうにうそぶく島女を叱《しか》りつけ、村びとたちにも頼みこんで八方、行くえをさがしたが、どこへいったか、老母の消息はそれっきり絶えた。
悔《く》いが、宮成を緊《し》めつけた。
(わるかった!)
考えてみれば母親に、なんの罪があるというのか。彼女が強制して宮成の手から孫をもぎはなさせたわけではない。非難はいわば、八つ当たりというものだ。
愛孫の死に、だれよりももっとも苦しんだのは老母自身ではなかったか。夫婦の悶情《もんじよう》の千倍も万倍も、老母こそが苦しんでいたはずではなかったか。
その心の暗澹《あんたん》を知らず、地獄を察せず、死ねよがし、出て行けよがしにふるまった無情さに、おくればせながら宮成は戦慄《せんりつ》した。
(どこに、どうしておられるか)
朝ごとに、霜がまっ白におりる冬のさなかだった。
(この寒空《さむぞら》……)
物乞いし、流浪しているか。それとも凍《こご》えて、今ごろは、もうこの世に亡《な》い人だろうか。
居ても立ってもいられない思いは、じつは島女にも湧《わ》いているのだろう、彼女もそわそわ落ちつかなくなった。
しんそこ悪性なたちではないのである。愛児の死に取り乱し、自制をなくして、持ってゆきばのない怨嗟《えんさ》を無抵抗な老人に向かって、つい、爆発させたにすぎない。
平和だった昔は、助け合い、かばい合う仲のよい嫁姑であった。
(でも、もう、おそい……)
傷の上に、さらに加わったいま一つの傷痕《しようこん》……。
(一生それは、夫婦の心に疼《うず》きつづけて癒《い》えるときがあるまい)
罰だ。
(甘んじて、しかしこの罰を、おれたち二人は負ってゆかねばならない)
宮成は覚悟したが……。
老母が家を出て、ちょうど一年すぎたやはり冬の朝、この日もあのときと同じように、焚《た》き木拾いに行こうとして戸口を五、六歩、離れかけた彼は、生垣《いけがき》のきわにたたずんでこちらをうかがっている少年を見つけ、はッと、思わず息を止めた。
(似ている!)
いまなお、はっきり記憶に灼《や》きついて消えない文殊丸の幼顔《おさながお》に、少年の目鼻だちはそっくりだった。
あのとき、文殊丸は六歳――。少年は、十ほどに見える。過ぎ去った年月は、そのあいだ四年……。
(もしや?)
宮成の両眼が、すさまじく光った。
「お、おまえは……」
問いかけたと同時に、
「あのう……」
少年も口をひらいた。
「ここは御厨宮成どのの家でしょうか」
「そうだよ。おれだ、おれがその宮成だ」
低い生垣を、少年は躍り越えた。飛びついてきたのだ。
「お父さんッ」
胸にすがって叫んだ。
「では、あなたですね。あなたが父さんですねッ」
「文殊丸ッ、お前、生きていたのかッ」
声を聞きつけて、家の中から島女が走り出てきた。
母親の勘《かん》は、父のそれよりもするどく、直截《ちよくせつ》的だった。ひと目で彼女はいっさいを諒解《りようかい》し、とたんに前へのめった。激情に、身体がついてゆけなかった。霜柱の中へ島女はザクと双膝《もろひざ》を突いた。
「母さんッ」
むしゃぶりつかれ、
「おお!」
抱きしめ返しても、言葉は出なかった。ほとばしる涙に目が塞がれ、咽喉《のど》が塞がれ、島女はただ、
「おお、おお……」
子を胸に、身悶えるだけだった。
興奮がやや、おさまり、親子三人、家の炉べりにくつろいではじめて、
「わたしがもどれたのは、旅びとの情けのおかげなのです」
文殊丸自身の口から、夫婦は事のゆくたてを知らされた。
大水の日、仮死状態で流された子供は、はるか下流で救いあげられ、人買いの手に売りとばされた。つれてゆかれたのは海の向こうの讃岐《さぬき》である。
ある村の長者の屋敷に、奴僕《ぬぼく》奉公させられ、小さな手に子供用の鎌をにぎって、毎日毎日、草を刈らされた。かぞえきれないほどいる牛馬の飼料にするためだ。
奴僕仲間は多かった。幼い者も文殊丸だけではなかった。すべて人買いの手で、一生飼い殺しの奉公につれてこられた子供ばかりである。
つらい労働に文殊丸は四年間、耐え、十歳になった。生家を知らない。父母の名もおぼえていない。洪水の夜の恐怖と文殊丸という自分の名だけを、頭の底に刻み込んでいた。
「ところが、ひと月ほど前、あいかわらず山へ出て草を刈っているところへ、痩せさらばえた旅姿の老尼《ろうに》が通りかかり、わたしをじっと見て名を問うのです」
文殊丸と、少年は名乗った。素姓を訊《き》かれ、大水以来の話もした。
老尼は泣き、
「このばばは事情あってお前の両親を知っている。かならず親もとに帰してあげよう」
と、受け合った。
傭《やと》い主の長者に頼みこみ、子供の代わりに自分の身を奴婢《ぬひ》の群れに加えてもらって、文殊丸の自由をあがなってくれたのだ。
「おっ母さんだよ島女、その旅の老尼は、おっ母さんにきまっているッ」
宮成は叫んだ。
「え、え、そうですとも!」
夫の膝を、島女もはげしくゆすぶりたてた。
「まちがいありません。姑《かあ》さんですッ。あなた、なんとか算段してつれもどしてあげてくださいッ」
祖母は、それとは打ちあけずに孫に持ち合わせの路用をあたえ、くわしい道順を図に書いて海山八十里の道を、はるばる帰らせてくれたのだという……。
その図をあべこべにたどって行けば、長者の屋敷に行きつけるはずではないか。
「すぐにでも、迎えにいってこよう」
田畑を抵当に入れて村長《むらおさ》から、老母を買いもどすための金を借り、宮成は取るものもとりあえず讃岐へ出かけていった。
――母親はしかし、死んでいた。
「よぼよぼの婆さんだしなあ。使いでがないのはわかっていたが、取りかえる相手がやはり半人前の役にしか立たない子供……。たっての願いゆえ、まあ、たいして損のいかない相談だと思って言うなりになったのだ」
と、長者はだらだら宮成に愚痴《ぐち》をこぼした。
「ところが、どうだい。入れかわって十日もしないうちに足をすべらして婆め、草刈りのもどり道、谷底へ落ちおったのさ」
「谷へ!?」
目の前が、宮成はまっ暗になった。
「首の骨を折って、即死だよ。おかげで大損だ。子供ならやがて大きくなる。いくらでもこの先、こき使えたのになあ」
老母の亡骸《なきがら》は奴婢仲間の手で荼毘《だび》に付され、小さな骨壺《こつつぼ》に納められてあった。
宮成はそれを受けとって、帰路についた。
(おっ母さん、ありがとう。おかげで坊やが手にもどりました。せめて親子三人の感謝を手向けに、あの世とやらで眠ってください)
よかったのう、せがれや、わしもこれでやっと安堵《あんど》して目がつぶれる、仲むつまじゅうくらしなされや、と、老母の声が、冬空のどこかでしたように思えた。
宮成は目を閉じた。とめどなくその頬《ほお》を、熱い涙がしたたり落ちた。
瓜ひとつ
1
朝からじりじり油照りする暑い日だった。
那木《なぎ》の長者の屋敷では、家族も奉公人もきりなく咽喉《のど》を乾かして、
「爺《じい》や、水だよ。冷たい水を持ってきて」
「はいはい、ただいま……」
かわるがわる井戸端へ走っては、がたがた、手桶や柄杓《ひしやく》の音をひびかせていた。
ところへ裏口から、小作人の余五《よご》という百姓が、
「お暑うごぜえます。これ、初なりなもんで、召しあがっていただこうと思いまして」
手籠《てかご》にみごとな真桑瓜《まくわうり》を盛りあげて抱《かか》えこんできた。ちょうど十個ある。汁たっぷりによく熟《う》れて、見るからにうまそうだ。
「わあ、すてき! 食べよう食べよう」
長者の息子たちは太郎も次郎も、九歳になる末ッ子の阿字丸《あじまる》までが、おどりあがってよろこんだ。
「皮をむいて、すぐ切っておくれ爺や。十個ぜんぶだよ」
さわぎを聞きつけて、このとき奥から父親の那木の長者が顔を出した。
「ほう、これはりっぱな瓜だ。だれの贈りものだね太郎」
「小作の余五が、たった今、置いてゆきました。初なりだそうです」
「うちでも瓜畠《うりばたけ》を作ってはいるが、まだろくに実《み》が入らぬ。余五めは瓜作りの名人だな」
満足そうに一つ一つ手に取って眺めながら、暑さに茹《ゆ》だっている息子たち、奉公人どもの眠気《ねむけ》をさますつもりか、長者はおもしろい話をはじめた。
「若いころ、用があって京へのぼったときのことだ。やはり今日のようにばかげて暑い日だったが、宇治《うじ》の里近くまで来たとき、ちょうどこの瓜に似たみごとな瓜を大籠に山盛りに積みあげ、馬五頭の背にそれぞれ背負わした男どもが、木蔭《こかげ》で休んでいるのに出くわした。人からの頼まれものを運ぶ下衆男《げすおとこ》であろうが『なあに、多いうちだ、すこしばかり食ったとて知れはしまい』などとほざきながら、籠の瓜を取りおろしてむしゃむしゃ頬ばっている。歩き疲れて同じ木かげに腰をおろしたわしは、うらやましくてならなかった。咽喉《のど》がひりついていたのだ。『一つくれないかしらん。乞うてみようか』……思案しているうちに、どこからともなく貧しげな爺さまがあらわれた」
うすよごれた帷《かたびら》の袖《そで》を肩で結び合わせ、歯のちびた平足駄《ひらあしだ》を履き杖にすがって、老人はよろよろ近づいてき、いかにも弱々しい、力のない手つきで破れ扇を使いながら、
「その瓜一つでよい。わしにめぐんでくれぬかのう。咽喉が乾いてたまらぬのじゃ」
そっくり同じようなことを言い出した。
「だめだめ、おことわりだよ。こいつは大和のさる大寺から、前《さき》の内大臣に奉る貢《みつぎ》の瓜だ。一つだとておれたちの勝手にはできねえよ」
「でも、そうやってお前がたは食うていなさるではないか」
男どもはせせら笑った。
「こりゃ役得《やくとく》というもんさ。おれたちは通りすがりの乞食とは、わけが違わあ。しつっこくねだりやがると向こう脛《ずね》をかっぱらうぞ」
あきらめたらしい。老人は持っていた杖で地面に幾筋も筋を引き、
「しかたがない。くれぬとあらばわしの瓜を、わしが成らして食うまでじゃ」
ひとりごとを言い言い、男どもが吹き散らした種をひろって筋のくぼみに蒔《ま》きはじめた。
「わはははは、このじじい、狂気しとるわ」
いっせいに男どもは笑いこけた。
「かわいそうに、暑さにやられて頭がおかしくなったのだなと、わしも見ていて気の毒になった。しかし爺さまは平気の平左だ。くぼみの上に薄く土をかけ、そのままじっと地面をみつめている」
長者はニコニコ語りついだ。
「ふしぎやそのうちに、いま蒔いた種からみるみる芽が出た。あっというまににょきにょき伸びて、葉を茂らす蔓《つる》がのたくる、またたくまにあたりいちめん、青々とした瓜畠になったのには、男どももわしも肝をつぶしたな。蔓にはたちまち花が咲き、実がなった。いや、りっぱな真桑瓜だ。老人は一つ取ってかぶりつく。甘い香りが散り、汁がぽたぽたたれる。『おい、そこな旅の若い衆、遠慮はいらぬ、お前さんも食いなされ』と言われて、わしも大きいやつに歯をあてたが、そのうまいこと! 五臓六腑に冷たさが沁みわたって生き返る思いがしたよ」
街道に面していたから、なにごとだろうと旅人が足をとめる。老人はだれかれかまわず、
「さあ食いなされ、代は取らぬぞ」
すすめるので、炎天に喘《あえ》ぐ人々は先を争って畠へ飛びおりる。さしもたくさんの瓜が、とうとう残らずなくなってしまった。
「ごちそうさま、おじいさん」
「なんのなんの。――さて、それではわしも帰るとするか」
人が去り、老人もいなくなると同時に、瓜畠は青い布を巻き取るようにかき消えた。
「あっけにとられて口あんぐりだった下衆男どもが、やっとわれに返って馬の背を見ると、なんと、大籠はどれもからっぽだ。老人が術を使って掠《かす》めたわけだよ。かさねがさね、これにはわしも驚いたなあ。瓜を見るといまだに、あの日のふしぎを思い出すよ」
年かさだけに太郎は半信半疑だ。
「そんなこと、ほんとうにあるかなあ。お父さまの作り話でしょ」
次郎のほうは抜からぬ顔で、
「きっと仙人だよ。瓜をならせる術をお父さま、教えてもらえばよかったのに……」
欲ばったことを言う。末の弟の阿字丸ひとりは、話すより食べるほうに気をせかして、
「はやく切ってよ。余五の瓜を……」
爺やにせがむ。
父の長者はしかし、手籠をさげて立ち上がった。
「これは我慢しなさい子供たち。智光寺の長老さまのところへ土産に持っていってあげたいからな」
「ひとにやってしまうの? この瓜……」
阿字丸の表情に不満がみなぎった。
「つまらないや、せっかく食べようと思ったのに……」
「長老さまはね、暑気当たりで病み伏しておられるのだよ。初ものの瓜を見舞いにさしあげたら、どんなに珍しがられるかわからない。やがてうちの瓜がなり出したらお前たちはいくらでも食べられるのだから、今日はお年寄りをよろこばせてあげることだ」
面白い話などしてくれる磊落《らいらく》な父だが、いったん、こうと決めたらあとへひかない厳しさも持つ日ごろであった。
太郎と次郎はすぐ、納得したけれども、阿字丸だけはいつまでも腹をたてて、泣いたり暴れたり、爺やをはじめ奉公人たちを手こずらせた。
2
長者はその日、知人のせがれの元服に立ち会わなければならなかった。烏帽子親《えぼしおや》を頼まれていたのだ。
居間の厨子棚《ずしだな》の中へ瓜の籠をしまって、
「夕方までには帰って来て智光寺さまへ出かける。留守のあいだ、だれもこの瓜に手を触れてはならないぞ」
言い置いて出かけて行った。
「お父さまもやさし気《げ》のないかたね」
長者の妻は不機嫌《ふきげん》な口ぶりで言った。
「あんなに欲しがっている子供たちを、出まかせの嘘話《うそばなし》でごまかして、あかの他人の長老さまに瓜をさしあげてしまうなんて……」
「嘘話かはぞんじませんが、老人の乞いを容《い》れて始めに一つ二つ瓜をくれてやれば、ことごとく捲きあげられるはめには立ち至らなかったはず……。けっく人は、思いやりがたいせつ。情け心を忘れるなとのご教訓でもござりましょう」
帚木《ほうき》の手をとめて、爺やが庭からとりなした。
「余五の瓜も、数でいえば十ばかり……。和子《わこ》さまがたが三人で食べつくしてしまいます。しょせん足りない数ならば、召し使いたちをうらやましがらせるよりは、長老さまに供養してしまおうとおぼしめしたにちがいありませぬ。こまかくよく、お気のつくご主人さまでございますからなあ」
――まもなく、長者は帰宅してきた。
「どうもえらい暑さだ。すっかり汗になってしまった。湯浴《ゆあ》みして、夕風が立ったら智光寺へ行く。着替えを出しておいてくれ」
妻に言いつけて居間へはいり、厨子棚から瓜の籠を取り出して改めたところ、九つしかない。一つ減っていたのである。
「盗んだ者がいる。だれだ?」
家族・奉公人、全員を集めて長者は糺《ただ》した。
「あれほど固く言っておいたのに、だれが盗んだのだ」
下座《しもざ》から飯炊きの女が煤《すす》だらけな顔をあげて、おそるおそる告げた。
「竈《かまど》のかげで、阿字丸さまが瓜を食べておられるのを見ました」
「ちがいないか? 阿字丸」
父の問いかけに、少年はずぶとく応酬した。
「いいじゃないか一つぐらい……。老いぼれ坊主なんぞに十もやるのは多すぎらあ」
その顔を長者はしばらく凝視していたが、やがて爺やを呼んで言いつけた。
「主《おも》だった親類・村の宿老たちに、ご足労ながら寄ってくれるよう触れて廻《まわ》ってくれ」
爺やは出て行き、待つほどもなく、
「なにか用でござりますかな」
ひとびとは集まってきた。
「じつはお願いがあるのです。この書類にお名を書き、判を据えてくださいませんか」
いつしたためたのか、差し出したのは阿字丸を勘当するという縁切り状である。見るなり、長者の妻は取り乱して、
「あなたはまあ、狂気でもなさいましたか」
夫にくってかかった。
「お前はだまっていなさい」
取り合わずに、長者は呼び集めた人々に向かってくり返した。
「仔細《しさい》あって阿字丸とは、今日かぎり親子の縁を切りました。証人になっていただきたいのです」
理由はともあれ、九歳の童子にすぎない。とりなす人も多かったけれども長者は承知しなかった。これまで何ごとにつけても誤りというものを犯さなかった人である。親戚《しんせき》も村の宿老たちも結局は長者の求めにまかせて、離縁状に署名・捺印《なついん》するほかなかった。
衣類二、三枚に乾飯《ほしいい》の袋、銅銭少しばかりを阿字丸に持たせ、
「さあ、もう二度とこの家に帰るな。親兄弟は無いものと思え」
長者は外へ追い出した。
「なんだい。たかが瓜一つで子を勘当する親なんて、こっちこそおさらばしてやらあ」
年に似合わぬふてぶてしい捨てぜりふを吐き散らし、小さなつむじ風を巻き起こして飛び出したきり、子供の行くえは、その後まったくわからなくなった。
――七年たった。
那木の長者の屋敷で長男の嫁迎えがおこなわれ、それを機会に長者夫妻が隠居して家督を新夫婦にゆずったほか、とりたてて何の話題もないまま村の月日は平穏に経過していた。
智光寺の長老も、あいかわらず夏負けするほかは障りなく、朝夕の勤行《ごんぎよう》にはげんでいたが、ある晩春の夕ぐれ、咲き残る桜の梢《こずえ》を見あげているところへ、
「もし、お住持さま」
うしろから、しゃがれ声で呼びかけた者があった。
年老いた旅の僧である。
「私は西国から、京のしるべをたよってまいる者でございますが、どうも近ごろ身体が弱って、旅しつづける気力がおとろえました。恢復しますまで、当寺の片隅に置かせていただくわけにまいりますまいか」
「さてなあ」
長老は小首をかしげた。
「僧房には修行中の弟子どもがおるし、片隅というても、適当な場所を思いつかぬが……」
「いかがでございましょう鐘楼の下は……」
智光寺の鐘楼は二層の楼《やぐら》型につくられ、山なりにひろがった板囲いの裾《すそ》は、物置きに利用されている。この階下から梯子《はしご》で階上に登って、鐘|撞《つ》き役は鐘を撞くわけである。
「なるほど、思いつきじゃ。あすこならばだれの邪魔にもならぬ。ゆっくり身体を休めて、旅立てるまで養生しなされ」
「ありがとう存じます。ご恩報じに毎日、まちがいなく私が時の鐘を撞くことにいたしましょう」
「そうしてくだされば助かりますて……」
鐘楼|守《も》りの僧を呼んで箕《み》やら蓑笠《みのかさ》やら熊手やら、楼の下に抛《ほう》り込んであるがらくたを片づけさせ、古蓆《ふるむしろ》を敷いて住まわせた。
ゴーン、ゴーンと翌日からは、旅僧の撞く鐘の音が村人の耳に時刻を告げたが、それも三日しかつづかなかった。
「た、たいへんでございますッ」
四日目の朝、長老の部屋へ走りこんできたのは、三度三度、旅僧に粥《かゆ》を持っていってやっている厨房《ちゆうぼう》係の僧である。
「あの老法師、頓死《とんし》しておりますッ」
「なんじゃと?」
「来てごらんなされませ。前夜のうちに急病でも差し起こりましたやら、死骸《しがい》になっておりまするッ」
3
とんでもないことになった。
「なまじ慈悲をほどこされたばかりに、寺中《じちゆう》一同、えらい迷惑をこうむるはめになったわ」
口に出して、長老を非難する僧もいる。
と、いうのも、あと三、四日でこの村は、鎮守の祭りを取りおこなうことになっているのだ。社《やしろ》は智光寺の支配下にあるから神事には長老はじめ、僧たちもこぞって参加する。死人の穢《けが》れに触れるわけにはいかないのである。
「そばへも寄るな」
だれ一人、鐘楼の下に近づかないので、やむなく長老が戸をあけて薄暗い内部をのぞきこんだが、それらしい姿が仰臥《ぎようが》しているばかりで老眼にはさだかに見さだめもできない。
「ともあれこのまま放置もなるまい。葬りの段取りなど村人たちに議《はか》ってみよう」
しかし、こればかりは長老さまの仰せでも、だれも手を貸そうとはいわない。やはり村の人々も、穢れを受けて祭りを祝えなくなるのはごめんなのだ。
困りきっているうちに日が暮れ、山門の扉《とびら》をしめる時刻になって、どやどや走りこんできた三人づれがあった。
「卒爾《そつじ》ながらお尋ねします。もしやこのお寺に、年のころ六十なかばの旅僧がお宿を乞うては来ませんでしたか?」
おそらく主人であろう。椎鈍色《しいにびいろ》の水干《すいかん》に裾濃《すそご》の袴《はかま》をはき、頭に綾藺笠《あやいがさ》、腰には太刀を佩《は》いた三十がらみの侍ていの男が、僧房の入り口に立って口ばやに問いかけた。
「似た僧が三日ほど前に来たは来たけれども、思いがけず昨夜、頓死をとげて、遺骸はあれ、あそこに……」
指さされて鐘楼の下へ主従は走っていったが、たちまち大声で、
「父上ッ、あさましいお姿になられましたな」
叫ぶ声、男泣きに泣く声が聞こえた。
「さては息子だ。やれやれ、引き取り手があらわれたぞ」
僧たちが胸をなでおろしているところへ涙をおさえおさえもどってきて、男は語った。
「隠居して様を変えて以来、どうも父は、ことごとに僻《ひが》みっぽくなり、気に入らぬことがあるとすぐ、ぷいと家を飛び出す癖がつきました。こんどもまた、姿が見えなくなったので、手分けして探していたところなのです」
「この村には近く神事があるのでな。われわれは触穢《しよくえ》を忌み恐れていますのじゃ」
「ご安心くださいまし。いま家来を在所まで走らせました。おっつけ人を傭《やと》ってもどってくるはず……。亡骸《なきがら》は今夜のうちに運び出します」
――まもなく馬のいななき、松明《たいまつ》のあかり、牛車の轍《わだち》の音などが境内へはいってきた。
「そら、死人が曳《ひ》き出されるぞ」
僧たちはあわてて戸を閉めきり、外の気配に息をころした。弔《とむら》いの鉦《かね》を打ち鳴らし、ひとしきり称名《しようみよう》をとなえていたが、そのうちにガラガラと車の出て行く音が聞こえ、
「どうもいろいろと父がお世話になりました。あらためてお礼にうかがいます」
あの、主人とおぼしい男の声が外でしたきり、ひっそりとまた、もとの闇《やみ》にもどった。
「よかったよかった。無事にすんだ」
よろこび合った僧たちは、しかし翌朝、鐘楼を見あげて、
「釣り鐘がないッ!」
腰を抜かさなければならなかった。
一味のひとりを老僧にしたてて囮《おとり》に使い、ひと芝居打ったあげく、まんまと鐘を盗み去った賊の一団だと気づいたときは、すでにあとの祭りであった。
――那木の長者の屋敷へ検非違使《けびいし》庁の尉官《じようかん》が、部下の放免・走り下部《しもべ》らを引きつれて乗りこんできたのは、この盗難事件から五カ月ほどのちのことである。
都を荒し廻っていた盗賊団の首領がつかまり、正体がばれた。まだ十六にしかならない白面《はくめん》の小冠者《こかんじや》ながら、火つけ人殺し盗み拐《かどわか》し、あらゆる悪事を働き、大の男どもを手下にしたがえていた大胆不敵な痴者《しれもの》だ。
名は那木の三郎。
那木の長者の三番目の息子と名乗ったために、父母・兄弟を追捕《ついぶ》すべく、尉官ははるばる村までやってきたわけだった。
あわて惑う家人たちを制して長者がこのとき取り出したのは、七年前、在地判《ざいちばん》を貰《もら》ってしたためた離縁状である。
「このとおり、三男の阿字丸とはとうの昔、親子の縁を切りました。調べの庭で何と申し立てようと、那木の三郎とやらと我が家とは、毛すじほどの関《かか》わりもございませぬ」
検非違使庁の役人たちも、これには一言もなくひきさがるほかなかったが、彼らの口から智光寺の梵鐘盗難事件まで、那木の三郎が手下にやらせた仕業《しわざ》とわかった。
「おそろしや、余五の瓜を長老さまにさらわれたを恨んで、お寺へ仇をなさったのじゃろ」
爺やをはじめ長者の家の召し使いたちは、少年の執念深さに、こっそり舌を慄《ふる》い合った。
……堀川の獄屋につながれていた三郎は、まもなく病気にかかって牢死した。
その噂がとどいたとき、村は鐘供養の施《ほどこ》しに、祭りの日さながらにぎわっていた。
賊どもの手で運び出され鋳《い》つぶされた鐘の代わりに、劣らぬりっぱな梵鐘を那木の長者が独力で、智光寺へ寄進したのであった。
銘にはただ、三界万霊成仏のためとだけ記《しる》されていたけれども、竜頭《りゆうず》の下に小さく阿の字が一つ刻まれているのが、村人たちの涙をさそった。
「縁は切っても親ごころ……。阿字丸さまの冥福《めいふく》を祈るお心じゃろ」
だれともなくそれからは、瓜の初なりを鐘の下に供えるならわしが生まれ、いつまでもいつまでもそれは続いて、やがては他郷の者にさえ、智光寺の鐘は『瓜鐘《うりがね》』の異称で呼ばれるようになったという。
釣 る
1
そこはいつも、おれが一人で釣りをしに行く場所だった。
両岸に森が迫り、大きなブナの枝が流れに影を落として、見あげると空は狭い。その、わずかな空の一方から、夏も頂きに雪を残した山々がかさなり合うように水面を覗きこんでいる。
村からは三十町ちかく分け登った谷川の上流なのに、その日、おれが釣り場に行ってみると、ほんの二十|間《けん》ほど下《しも》に寄った向かいの岸に、人が先に来て何かしていた。
女である。
「ああ、あれは粉碾《こなひ》き小屋の真名児《まなご》だな」
すぐ、わかった。
洗濯《せんたく》をしているのだ。たくさんな洗い物を真名児はかたわらの大岩の上に置き、流れの中にはいって余念なく一つ一つ、すすいではしぼり、すすいではしぼる。
思わず、おれはみとれた。その、手足の白さ……。
水は冷たい。真名児は着物の両袖《りようそで》を結び、裾《すそ》もたかだかと太股《ふともも》の付け根までたくしあげて、じゃぶじゃぶやっているのだった。
「あんなに色の白い娘だとは、いままで気がつかなかったなあ」
水につかったところが薄紅《うすべに》色に染まって、まるで花芯《かしん》にだけ紅《くれない》のぼかしを刷《は》いた白桃《しらもも》の花を見るようだ。
「すばらしいじゃないか」
おれは釣りを忘れた。
いままで泥くさい村の娘たちなどに目もくれる気はなかったのに、かいがいしい真名児の洗濯姿に接したとたん、彼女自身というより、その露《あら》わな股《もも》の魅力に、いきなりわしづかみにされてしまったのだから、われながらだらしがない。
おれは真名児と話がしたくてたまらなくなった。さほどの深さではないのだし、まっすぐ向こう岸へ渡るのがいちばん手っとり早いが、まん中へんは流れが急であぶない。用心して、すこし上《かみ》の丸太橋を迂回《うかい》しようと、おれは岸を離れかけた。
道へもどるために五、六歩、森へ引き返しかけた瞬間、ザブーンとひどい水音がし、
「きゃあ……」
悲鳴がひびいた。
てっきりおれは、真名児が足をすべらせて水中に尻《しり》もちでもついたのかと思った。水ぎわに走りもどってみると、しかし娘は、もとの浅瀬に呆れ顔で突っ立っている。
いつ、どこからやって来たのか、そのそばの深みに仰向《あおむ》けざまにころがって、
「た、たすけてくれッ」
しきりにバシャバシャ水をはねかしているのは、見たこともない大男なのであった。
溺《おぼ》れる気づかいはない。真名児はでも、見かねたか、川底の石を踏《ふ》んで男に近づき、片手をさしのべた。
「ありがとう」
相手はその手にしがみつく。引っぱりあげられて起きあがる……。と、こんどは真名児が水苔《みずごけ》にすべってよろめいた。
「おっと、あぶない」
つなぎ合っていた手に力をこめて、男が娘の姿勢の崩《くず》れをとっさに支《ささ》えてやる……。遠目《とおめ》にそれを眺めて、いきなりカッと、身体じゅうの血がおれは熱くなった。嫉妬《しつと》したのだ。
わざわざ迂回して丸太橋を渡るゆとりなど、消しとんでしまった。おれは流れに踏みこんだ。半身、水びたしになり、何度か足をさらわれかけもしたが、岩にしがみつきしがみつきしながらやっと対岸にあがり、二人のそばへ近づいて行った。
降って湧いた見知らぬ男の出現に加えて、こんどはおれが、やみくもに急流を渡って現れたのだから、
「まあ!」
真名児が目をみはったのも無理はない。
「お前はだれだ。どこから来たんだ」
おれは男に詰問した。
「わしかね?」
濡れねずみの衣服を男はぬぎ捨て、下帯ひとつの裸になって、ざんばら髪の滴《しずく》を手でしごきながら、
「わしは空から来たんだよ」
けろッと答えた。
「空? 空から来たって!?」
おれはむかむかした。
「ひとを、からかう気かッ」
「からかうもんか。気持ちよく空を飛んでいたところが、運の尽《つ》きというやつだなあ、この娘さんの脛《はぎ》の白さが目にとまった。わッ、すごいッ、抱きしめたい……。煩悩《ぼんのう》がむらむらッと湧き起こったとたん、神通力を失って下界へズデーンと落っこちてしまったというわけさ」
「そんな阿呆な話があるものか。人間が空を飛ぶなんて……」
なじりはしたものの、まるでそっくり自分と同じく、この男も娘の股《もも》の魅力のとりこになったのかと思うと、おれはうす気味わるく、また、心中すくなからずばかばかしくもなった。男というものの欲望の共通点を、見せつけられた気がしたのだ。
「わしは人間じゃない。仙人なんだ」
教えさとすような口ぶりで、相手は説明した。
「もともとは久米麻呂《くめまろ》という名の百姓さ。どうしても仙人になりたくて十六の年に山にこもり、十年間、一心不乱に修行を積んで、空中を自在に飛行《ひぎよう》できるまでなったのだが、もはや、もとのもくあみ……。この娘さんのおかげで苦行の功もいっぺんに消滅してしまった。ただの人間に逆もどりだよ。やれやれ」
2
男の歎息《たんそく》に、
「おきのどくねえ」
真名児は同情をそそられたらしい。
「あたしがわるかったのだわ。もっと裾《すそ》をおろして濯《すす》ぎものをしていれば、こんなことにならなかったのにねえ」
「あやまることはないさ。あんたのせいじゃない。煩悩を起こしたわしが未熟だったのだ。恥かしいよ」
男は頭をかく。
なるほど言われてみれば、どこかこの男、人間ばなれしていた。身の丈《たけ》六尺を越す偉丈夫だし、裸の筋肉はりゅうりゅうと盛《も》りあがって、いかにもたくましく、鍛《きた》えぬいた感じである。
眉《まゆ》は濃く鼻もたかく、両眼は眸《ひとみ》が金茶色をおびて、猛禽《もうきん》類のするどさを連想させるが、しょげたり笑ったりすると、よく焦《こ》げた皮膚を割って白い歯がのぞき、思いがけなく素朴な、邪気のない童顔に返るのだ。
「どうする気? これから……」
なりそこないの仙人の、身の振りかたを心配して真名児がたずねる。
「どうもこうもないさ。帰るにも、故郷は遠いし、いまさら仙術の修行をしなおすのも根《こん》が尽きたしね。落っこちたのも他生の縁とやらだ。この土地で百姓か樵夫《きこり》になるよ」
「村に住むつもりね」
「どうだい娘さん。おれを可哀《かわい》そうだと思ったら、女房になってくれないか?」
「ま、気の早い!」
真名児は赧《あか》くなり、チラッとすばやい視線をおれに投げた。
胸がまた、ふつふつ滾《たぎ》るほどおれは熱くなった。こんないかがわしい風来坊に勝手なことを言わせて、黙ってはいられない。
「おい、久米麻呂とやら……」
おれはきめつけた。
「かんたんに百姓になるの樵夫になるのといったって、耕地も森も、持ちぬしはきまっているんだぞ」
「小作に傭《やと》われるさ。人の家に奉公するぶんなら口ぐらいいくらでもあるだろう。村長《むらおさ》に事情を話して泣きついてみるよ」
「このかたは日高の豊雄さまとおっしゃって、村長のお屋敷のお跡取りよ」
と、わきから真名児が口をはさんだ。
「へえーッ、あんた、そんな身分の人だったのか。どうりで身なりが立派だし、男ぶりもきりッとして品があると思ったよ」
まんざら世辞でも、追従《ついしよう》でもない。おれの家はむかし罪を得て、この土地に配流されて来た公卿《くげ》の子孫である。根っからの百姓とは血すじがちがう。容姿にそれが現れるのも当然なのだ。
自分でいうのもおかしいが、だからおれは村中の娘たちの、いわば憧《あこが》れの星だった。
(高嶺《たかね》の花の御曹司《おんぞうし》……)
なかば、あきらめながらも、
(もしや?)
と目にとまる僥倖《ぎようこう》を、どの娘もが願っている。それを知りながらおれ自身は、
(自分に釣りあった妻を……)
高望みして、それまで村娘になど一向に関心を示さずにきたというのに、あの太股《ふともも》の白さを見、久米麻呂と名乗る奇妙な男の臆面《おくめん》なしな求愛を耳にするやいなや、たまらなく真名児の存在が貴重なものに思えてきて、まるで手の内の宝珠を横取りされでもするような焦《あせ》りと口惜《くや》しさをおぼえたのは、どうしたことだろう。
「たのむよ豊雄さんとやら……」
久米麻呂は、馴れ馴れしく言った。
「あんた、村長の息子なら、どうかおやじさまに口きいて、わしを住みつかせてくれよ」
「そんなにこの村の住人になりたいのなら、父上に申しあげて奉公先の世話ぐらいしてやってもいいが、真名児さんをはじめ娘たちに今みたいなずうずうしい口をきくと、承知しないぞ。おれはともあれ、村の若者たちにふくろ叩きにされると思えよ」
すかさず、おれは釘《くぎ》をさした。
「わかった。いまのは冗談だよ」
相手は神妙にうなずいた。
じつは久米麻呂のような男に打ってつけの働き口があったのだ。皇居の修理がおこなわれるとかで、
「官の持ち山から、木材を切り出せ」
と、国司《こくし》が命じてきていたのである。
わずかな賃銭で、百姓たちは伐採や運搬にかり出され、
「田畑に草がはえてしまうわ」
ぶうぶう、ぼやいていたさなかだった。
おれは父上に事情を話し、この人夫仲間に久米麻呂を加えてやったのだ。
「あの新入り野郎、せっかく仙人にまでなりながら、女の脛《はぎ》に目がくらんで凡夫《ぼんぷ》に逆もどりしたのだとよ」
たちまち人夫小屋でも久米麻呂の閲歴《えつれき》は、笑い話の種にされ『久米仙』という仇名《あだな》がついてしまった。
「からかってはきのどくよ」
自分のために神通力を失った男だ。
真名児が久米仙をかばってもふしぎはないが、いささか肩入れの度がすぎて、小屋に食べものを運んでやる、衣服のほころびを縫ってやるといった風評まで耳にするようになると、おれは平静でいられなくなった。
3
乙女ごころは微妙なものだ。同情が恋に変る恐れは大いにありうる。あれ以来、真名児のことを忘れられなくなってしまったおれは、
「いっそ久米仙などに先を越されない前に、結婚を申しこもうか」
とも逸《はや》ったが、万にひとつ断わられる恥辱《ちじよく》を考えると、迂闊《うかつ》には切り出せない気がした。
「あの男、村に入れなければよかった」
おれは悔《く》いた。
「なんとか久米仙を追い出す工夫《くふう》はないものだろうか」
思案しはじめたやさき、耳よりな噂《うわさ》がつたわってきた。
「へッ、だらしのない話だ。こんな材木の山ぐらい、仙術を使えばひと晩のうちに国庁のある町まで運んじまえるのによ。蟻《あり》が粉ッ粒でも曳《ひ》くみたいにもたもたしてるんだから見られたざまじゃないや」
と久米仙が、人夫仲間の百姓にせせら笑って放言したという取り沙汰《ざた》である。
「あきらかに官のやり方を譏《そし》っています」
役人を、おれは焚《た》きつけた。
「けしからん」
案の定、役人どもは腹をたてて、
「きさま、そんな大口をたたくなら、みごと言葉通り術で木材を動かしてみろ」
久米仙を責めた。
「いや、いまはもう神通力を無くしたので……」
「黙れッ、はじめから仙人でも何でもないくせに、出まかせを並べて愚民を煙《けむ》に巻きおったのだろう。この、大かたりめが……」
ののしられて、久米仙はむッとしたらしい。
「嘘じゃない。わしはほんとに仙人だった。い、い、いまだって、もしかしたら……」
「もしかしたら、なんだ?」
「がんばれば、ほ、ほ、法力を取りもどせるかもしれない」
どもりどもり、むきになって抗弁した。
「おもしろい。もし、きさまが材木を国庁の空まで飛ばして運んだら、いさぎよく兜《かぶと》をぬいでその足もとに這《は》いつくばろう」
役人は約束した。
「そのかわり、やりそこなったらただは置かんぞ。かたりと官憲|誹謗《ひぼう》の罪で、ひっくくるからそう思え」
「三七、二十一日間、猶予《ゆうよ》をくれないか」
「なにをするんだ」
「断食|行《ぎよう》にはいって心身を浄《きよ》めるのだ」
「いいとも。そのあいだに材木をどしどし切り出させて、いまの倍にもしておくからな。覚悟しろよ」
必要な法具を揃えるのだと言って、やがてそそくさ久米仙は町へ出かけて行った。
「逃げたな」
おれは内心、快哉《かいさい》をさけんだ。
「お役人の言う通りだ。あいつが仙人なんかであるもんか。形勢不利と見て逐電したにちがいない」
――ところが久米仙は帰ってきた。肩に大荷物を背負っている。
村はずれの荒れ御堂《みどう》を掃除すると床に白木の小机を据え、幣《ぬさ》やら灯明皿《とうみようざら》やら、出来合いの法具をごたごた飾りたてて、
「さあ、いよいよ断食をはじめるぞ」
宣言した。服装もいつのまにか行者めいた白衣《びやくえ》にかわり、首から胸へ三重にも、胡桃《くるみ》の実をつらねたほどの大|数珠《じゆず》を掛け垂《た》らしている。
村の若い者に言いつけて一人一晩ずつ、おれは交代で久米仙の挙動を見張らせた。宣言どおり食物を断《た》って、二十一日間がんばるかどうか監視させるのが目的だった。
「どうだ? 様子は……」
「日がな一日、わけのわからぬ呪文《じゆもん》をとなえながら祈りつづけていますよ」
「寝ないのか?」
「ほんのすこし、うたた寝するだけです」
「食いものは?」
「ひとかけらも見あたりません。ときどき水は飲みますけどね」
そんな状態のまま三日たち五日たら七日たち、十日を経過しても、久米仙がいささかも衰えず、
「元気いっぱい、つやつやした顔色をしてますぜ。ふしぎな男ですなあ」
と報《し》らされて、おれは無気味になった。
ことによると豪語にたがわず、彼はかつて本物の仙人であり、いまや失った神通力を取りもどしつつあるのではあるまいか。米ひと粒、口にしないのに平気でいるのが、その何よりの証拠に思えた。
「あの男がふたたび仙術を身につければ、それでなくてさえ傾きかけている真名児の心は、一ッ気に燃えあがるに相違ない」
久米仙も娘を好いている。
「真名児の手をとってどこか遠くへ、彼は飛行《ひぎよう》していってしまうかもしれないぞ」
居ても立ってもいられなくなった。
とうとうあと、二日で行《ぎよう》があけるという晩、おれはずっしり重い砂金の袋をふところに忍ばせて破《や》れ堂へ出かけて行った。
「今夜の見張りはおれがするよ」
番の若者を追い払い、
「久米麻呂、精が出るな」
堂の中へあがりこんだ。
「おや、村長のとこの御曹司か。なに用か知らんが行法の邪魔はごめんだぜ」
「頼みがあって来たんだ」
砂金の袋を、おれは相手の膝《ひざ》さきへ置いた。
「どうかこれを持って、こっそり村から出て行ってくれ」
「真名児のことが心配なんだな」
ズバッと久米仙は図星をさした。
「その通りだ。おれはあの娘にすっかり参ってしまった。お前が見た白い脛を、じつはおれもあのとき見たんだよ」
「なアるほど」
「ぜひ妻にしたいんだ。ゆずってくれ。たのむ久米麻呂」
「そうさなあ」
相手はニヤニヤ笑った。
「行も十九日までこぎつけて、すっかりおれには材木を飛ばせる自信がついた。ここで退散するのはちょっと惜しいが、役人どもをあやまらせたからって一文の得にもなりはしない。これだけの金があれば一生らくらく過ごせるんだから、それじゃあんたの頼み、聞いてやるか」
砂金の袋を久米仙はつかんだ。そして、立ちあがると、
「あばよ、あの娘と仲よくくらせよ」
夜風の闇《やみ》へ飛び出して行ってしまった。
その、とたんだった。入れちがいのすばやさでこんどは真名児が、堂内へ走り込んで来た。おれと久米仙のやりとりを外で立ち聞きしていたらしい。
「豊雄さまッ」
ほてった全身を、ぶつけるようにおれの胸に崩れこませて、
「妻にするとおっしゃった今のお言葉、よもやでたらめではございますまいね」
喘《あえ》いで言った。
「そうとも!」
その気息のはげしさに、いささかたじろぎながらも、
「おれはお前が好きだ。でもお前は、あの仙人に心を寄せていたんだろ?」
おそるおそる、おれは訊《き》いた。
「まあ、いやだ。あの男がなんで仙人なものですか。はじめから私、勘づいてましたわ」
さげすみ顔に、真名児は肩をすくめてみせた。
「空から墜落したのではなくて、登っていた木の枝からあの男、落ちてきただけですよ」
「しかし十九日間も断食しつづけて平気でいられるのは、やはり尋常ではあるまい」
「これでしょう、命の綱は……」
堂の隅から、久米麻呂がちぎり捨てていった大数珠の切れはしを、真名児はつまみあげて来た。五、六粒残っている珠をよく見ると、おどろいたことにそれは、干《ほ》しかためた肉の塊《かたま》りだったのである。
「こっそりこいつを齧《かじ》っていたのか!」
おれは頭がくらくらした。川瀬の音が耳の底で鳴った。
――あの日。
おれがいつも行く釣り場に、先廻りして、これ見よがしに裾をまくりあげ、洗濯していた真名児……。
もしかしたら彼女は、旅の風来坊を相棒《あいぼう》に引き入れて、あらかじめ木の上にひそませておき、川にとびこませたあげく、でたらめなその、仙人譚《せんにんたん》に口裏を合わせ、うまうまおれという大魚を、釣りあげたのかもわからない。
「ああ、うれしい。ああ、うれしい」
呆然《ぼうぜん》自失するおれの胸に真名児はぐいぐい、頬《ほお》をこすりつけながら、
「私こそ、あなたが大好きだったのよ豊雄さま。競争相手の村の娘たちに、とうとう勝ったわ。もう離さないわよ、こんりんざい……」
ククク、クククと咽喉《のど》の奥から、まんぞくげな笑い声を洩らしつづけた。
落 花
1
掃《は》いても掃いてもきりなく舞い落ちる桜の花びらに、
「ちえッ、ばかばかしいなあ」
雑色《ぞうしき》の小弁はとうとうあきらめて、帚木《ほうき》の手をとめてしまった。
「まるでこれじゃ、いたちごっこだ。無駄な汗をかくのはやめて、ずる休みでもするか」
桜の御坪《みつぼ》とよばれている奥殿の庭である。名のとおり桜の木が、ばかに多い。どれも根まわり二かかえもありそうな老樹だが、毎年枝も撓《たわ》むばかりみごとな花をつけた。
今年はもう、さかりをすぎて、花|吹雪《ふぶき》の季節に移っている。風流とそれを見るよりも、庭掃きの身にすれば、
「とんだ骨を折らせやがる」
舌打ちの一つもしたくなる落花のおびただしさ、絶えまなさなのだ。
「うつくしいなあ」
若い小弁の眼は、むしろ寝殿・対《たい》ノ屋などの、華やかな色彩に吸い寄せられた。
目もあやな、壁代《かべしろ》、几帳《きちよう》……。夕靄《ゆうもや》がすこしずつ濃くなりはじめて、細殿《ほそどの》の局々《つぼねつぼね》にはチラチラと灯がともりだした。軒さきの釣り灯籠《とうろう》にもつい先刻、女童《めのわらわ》が火を入れて廻っていた。屋敷じゅうが晩春のこの夕べ、どことなく活気にあふれ、遠い召使たちのざわめきまでが浮き立つように聞こえるのも、吉事を一カ月後にひかえているからにちがいない。
帚木を手に小弁はふらふらと、回廊の階《きざはし》の下まで寄って行った。簾《みす》が高く巻きあげられ、目の前の部屋には人影がなかった。
「まるで宝の蔵みたいだぞ」
小弁は胸をどきつかせた。
厨子棚《ずしだな》がある、二階棚がある。匣《くしげ》・手箱・香の壺《つぼ》……。唐櫃《からびつ》・長櫃・根こじ型の鏡台にまでつやつやと漆《うるし》がかけられ、梨子地蒔絵《なしじまきえ》の装飾が美々しくほどこされていた。
「お姫さまが宮中に持ってゆかれるお道具だな」
この屋敷のあるじは小一条の左大臣藤原|師尹《もろただ》という。時の関白の五番目むすこである。
苦労知らずのわがまま育ち……。公卿《くげ》に似合わぬはげしい気性の持ちぬしで、奉公人など虫ケラ同様にしか見ていない。ほんのささいなあやまちにすら思いきって苛酷《かこく》な体罰などをみずから加えるところから、『鬼左府《おにさふ》』と仇名され、こわがられている人だった。
ところが、この正月――。
左大臣家に、たいへんなよろこびごとがもたらされた。
「うつくしい娘をお持ちとか……。宮中に入れる意志はないか?」
帝《みかど》からの、じきじきなお尋ねだ。つまり姫ぎみを女御《によご》にくれぬかとの、お申し込みなのである。
ひそかに望んでいたことだし、鬼左府は二つ返事でお受けした。みかどにはまだ、男|御子《みこ》がいない。姫が入内《じゆだい》し、皇太子を生めば、そのお子が帝位についたあかつき左大臣師尹は皇室の外戚《がいせき》……。並ぶ者のない権勢を約束されたも同じこととなる。
「さあ、仕度だぞ」
それからの、騒動といったらない。
あらゆる職方に注文が出され、高価な調度や衣裳《いしよう》のたぐいが、夜を日についで作られはじめた。
費用にあてるために荘園の預《あずか》りどもへも厳達が飛び、税や貢《みつぎ》がびしびし取り立てられた。
代々家につたわる宝物……。唐《から》わたりの青銅の香炉・銀製の花瓶・珠をちりばめた釵子《さいし》・名だたる画家の手になった絵屏風《びようぶ》・絵巻物など、門外不出の珍品まで惜しげもなく納殿《おさめどの》から取り出された。
宮中へ運びこまれる日を待つばかりに、それらが目の前にぎっしりならんでいる今なのである。
「いい匂《にお》いだ。装束《しようぞく》に香が焚《た》きしめてあるのだな」
いつのまにか階《きざはし》をにじりあがり、廊の板敷を這《は》って小弁の身体は部屋の中に坐《すわ》りこんでいた。夢ごこちだった。
「すごろくの盤だぞ」
碁盤《ごばん》もある。貝覆《おお》いの桶《おけ》もある。ふんだんに嵌《は》めこまれている螺鈿《らでん》の青貝が、うすくらがりに妖《あや》しく光った。
「いったい、これはなんだろう」
文机《ふづくえ》の上の硯《すずり》箱……。そのかたわらにいま一つ塗りの箱が置かれてい、蓋《ふた》をあけると、中からはものものしく幾重にも錦《にしき》でつつんだ品物があらわれた。
「ひゃあ、べらぼうにきれいなもんだ」
小弁は歓声をあげた。
それは硯を使うさい、そばに置いて、机上の飾りにする硯屏《けんぺい》だが、小弁には品物の名はわからない。ただ、その冷たい、芯まで澄み透《とお》った青磁の肌《はだ》ざわり、唐風《とうふう》な女官風俗をこまかく浮き出した彫りのみごとさに、うっとり見とれるばかりだった。
「暗いなあ」
廊下の釣り灯籠の下でよく見ようと、両手に持って部屋を出かけたとたん、小弁は敷居につまずいた。硯屏は手から落ち、勾欄《こうらん》の角《かど》にぶつかってガチャッと二つに割れてしまったのである。
「わッ」
呆気《あつけ》にとられた。
わななく手に拾いあげて、割れ目を合わせてみたが、二つになった硯屏がいまさら一つにもどるはずもなかった。
「どうしよう」
小弁は逃げようとした。しかし膝が萎《な》え、腰のつがいがはずれて、走るどころか立つこともできない。
廊下のはずれの妻戸があいて、人影が近づいてきた。うろたえきっていざりながら、逃げようとあせる哀れな姿を灯籠のまたたきの下に透《す》かして見て、
「そこにいるのは小弁じゃないか」
相手は声をかけてきた。従兄《いとこ》の大刀禰夏樹《おおとねのなつき》であった。
2
「ああ、夏樹さんッ」
男の胸へ、小弁はしがみついた。
「お、おれ、たいへんなことをしてしまった。この、青磁の置物を……」
「割ったのか」
ひと目見て、夏樹もさッと顔色を変えた。
「いったい、どうしたのだ。どうしてこんな、大それたことを……」
「庭を掃いてたんだ。あんまりきれいな物ばかりなので、つい、ふらふらと、あがってしまって……」
「盗もうとしたわけではないのだな」
「ちがうッちがうッ、見たかったんだ、それだけだよッ」
「この硯屏はご重宝の中でも、第一番のお品とか聞いている。小弁お前、とんでもないことをしてくれたな」
夏樹の声音《こわね》には憂《うれ》いがみなぎった。途方にくれた顔で彼は考えこんだ。
名だたる鬼左府である。いままでも、もっと小さなあやまちに激怒して、召使にひどい制裁を加えた例は無数にあった。
「まして、この過失……」
へたすると小弁の命は、ないものと覚悟しなければならなかった。
「助けてくれ夏樹さん、おれはこわい。死にたくない」
小弁は泣き出した。
彼は十七……。夏樹は四ツ年上の二十一だ。同じ屋敷に勤めているが、小弁は雑色、夏樹は武者溜りに詰める侍である。
顔だちが似ていた。よく兄弟とまちがえられた。二人ながら鼻すじの通った、目もとの涼しい、きりッとした男前の若者だった。
性格はしかし、だいぶちがう。小弁は片親育ちの甘えッ子……。意志が弱く、女好き酒好き賭《か》けごと好きで、ひとりっきりの母親にしょっちゅう心配ばかりかけている。夏樹のほうは両親ともいない。はやくから人中へ出て苦労したせいか、思いやりぶかく、気性もしっかりしていた。
「どうか夏樹さん、弟と思って小弁の面倒を見てやっておくれよ」
叔母も日ごろから口癖のように、やや不良ッ気のあるわが子の監督を、夏樹に頼んでいたこれまでなのだ。
「助けてくれといっても、わたしの取りなしぐらいで許される罪ではないからな」
夏樹は、沈痛に言った。
「あとの始末は、どうとでもしよう。ともかくこの場は逃げることだ」
「屋敷にいたら殺されるだろうか」
「まず、命はあるまい。逃げろ小弁」
「おふくろが……お、おふくろが……」
「叔母さんのことは心配するな、はやく行くんだ。一刻もはやく……」
判断を行動に移しかけた一瞬、庭と、廊下の一方から、同時に人が現れた。
「しまった」
夏樹は観念した。
「おや、おぬしらそこで何をしておる」
家司《けいし》の声だ。鬼左府の気質を反映して、この老人も口やかましく情《じよう》の薄い男だった。
庭を横切ろうとしていた五、六人は、やはり小弁とおなじく熊手や帚木を肩にかついだ雑色どもだが、家司のわめき声に、これもいっせいに立ちどまった。
口ばやに夏樹はささやいた。
「いいな小弁、罪はわたしがひっかぶる。お前はなにも言うな」
「夏樹さん!」
「わたしは孤独な身の上だ。でもお前には、お前一人をたよりにしている母御がいる。身代わりになろう。母御を大切にするんだぞ」
このまに老家司は寄ってきて、
「やッ、硯屏が割れている!」
躍りあがった。
「わたしです。つい、あやまって取り落としました」
夏樹は手をつかえた。
「お、おのれ痴者《しれもの》――ひっとらえろッ、者ども、こやつを搦《から》めとれッ」
騒ぎにおどろいて、局《つぼね》のあちこちから女房たちが顔を出し、おっとり刀で侍どもも駆けつけてきた。たちまち高手小手に夏樹は縛りあげられてしまった。
家司の注進で鬼左府もその場にやってきたが、二つになった硯屏をひと目、見るなり、カッと両眼から火を噴《ふ》いて、
「仔細《しさい》を申せッ」
大喝した。
「お許しください」
うしろ手のまま、その足もとに夏樹は突っ伏した。
「このお廊下を通りかかり、庭を見ますと、従弟《いとこ》の小弁が掃除をしておりました。遠慮するのを無理に勾欄ぎわへ呼びよせて、お調度をあれこれ見せておりますうちに、うっかり硯屏を手から取りはずして……」
「うぬッ」
足をあげて、鬼左府は夏樹を蹴《け》った。庭へころがり落ちるのを追って、階《きざはし》を一ッ気に走りおりると、
「こやつが!」
なお飽きたらない面持ちで、ところきらわずその身体を踏みにじった。
「世に二つとない舶載の珍品を、おのれ、よくも……」
みかどのお耳にも達し、再三、懇望《こんもう》されながらも、惜しんで献上を見合わせていた硯屏である。今度の入内《じゆだい》を機に婿引出《むこひきで》のかたちで差しあげれば、およろこびのあまり、娘へのご寵愛《ちようあい》もひとしお深くなるだろうとひそかに目算していただけに、左大臣の落胆と怒りはひどかった。
「成敗するッ」
息まいて、
「ただし、ひと思いには死なせぬ。腹が癒《い》えるまで苦しめてくれるぞ」
侍たちに命じ、革鞭《むち》、割り竹、弓の折れなど思い思いのえものを持たせ、力のかぎり夏樹の背を打ちすえさせた。
呵責《かしやく》も死も、もとより覚悟して身代わりになったのだ。歯をくいしばって夏樹はこらえたが、衣服が破れ皮膚が裂けて、背中が血に染まり出すと、さすがに、
「あッ、ああッ」
ひと打ちごとに悲痛な叫びをあげはじめた。
人立ちのうしろに隠れこんで小弁は耳をふさいでいた。指を耳の穴に突っこんでも、肉を打つ鞭の音、割り竹の音、夏樹の声は、彼の鼓膜にズキズキひびいた。
やがて正座にも耐えられなくなったか、前のめりに夏樹は倒れ、打撃が身体に加わるごとに、自身の鮮血にまみれながら地上をのたうった。肩の骨が折れ、腕の骨も折れた。夏樹は声を立てなくなった。
「うう……ううむ……」
噛《か》みしめたくちびるのあいだから、かすかな呻《うめ》きをもらすだけになった。
「やめろ」
やっと、鬼左府は侍たちに言った。
「この上打てば、息が絶える。水でも与えて、どこかに押しこめておけ。まだまだこれしきのことでは責めたりぬ。あすの晩、いま一度ここに曳《ひ》き出せ」
3
雑人《ぞうにん》長屋のあき部屋に、夏樹はほうりこまれた。
侍たちの中には夏樹に同情を寄せている者もすくなくないが、左大臣の意をうけて、
「こそこそ労《いたわ》ったりする者は同罪と断じるぞッ」
睨《ね》めつける家司や武者|頭《がしら》の威圧の前には、手も足も出なかった。
あき部屋からは夜通し苦悶《くもん》の声が聞こえていた。それがとだえたときは苦痛の極、夏樹は一時的に気を失っていたのだ。あいかわらず、うしろ手に固くいましめられているが、たとえ縄《なわ》を解かれても身うごきすら不可能だった。
夜があけて、朝の日ざしが戸のすきまから細く射《さ》しこんできたとき、夏樹は、
「今夜、また……」
つぶやいた。また、むごい仕置きがくり返される。まちがいなく今夜は息が絶えるだろう。あとしばらくの命……。いっそ一刻も早く、終わりを迎えたかった。
遠くでガヤガヤしゃべりかわす声がしていた。
「おどろいたろう、え? 小弁よ。目の前でポカンと宝物が二つになった時は……」
雑人たちが日なたぼっこに、暇をつぶしているらしい。
「おどろいたのなんのって……」
陽気に応じているのを小弁の声と知って、思わず夏樹は耳をすませた。
「あいつは馬鹿だよ。夏樹ってやつはな。そんなもの見たくないって、おれがさんざん止めたのに聞きもしないで、持ち出したとたん落っことしやがった。もしかしたらあの時あんなところに、あいつがうろうろしてたのは何か一つ二つ、盗もうとでも企《たく》らんでいたのかもしれないぜ」
くらがりの中で、夏樹の眼が燐火《りんか》さながら青く光った。
――その夜。
ふたたび始まった情け容赦のない笞《しもと》の下で、
「お願いですッ、ひと目、従弟《いとこ》の小弁に会わせてくださいッ」
絶息寸前の気力をふりしぼって夏樹は叫んだ。
そして、つれてこられた小弁に、
「わたしの目を見ろ」
喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。
「ひるま、雑色仲間に話していたおぬしの言葉……。あれは本心からではないのだろうな」
小弁はギクッとあとずさった。
「わたしは死んでゆく……」
きれぎれに夏樹はつづけた。
「この、わたしの死を、どうか無駄《むだ》にしないでくれ。軽薄なその性根を入れかえて、母親を安心させる人間になってくれ。たのむよ小弁」
「それだけかい言うことは……」
全身でぶるぶるふるえながらも、強《し》いて平気をよそおって小弁は夏樹のそばをはなれた。
「なにをうわごとをならべてるのか、さっぱりわけがわからないや」
口の中でぶつぶつ独りごちたのは、周囲の疑いから懸命に身を守ろうとする小心者の、せいいっぱいな虚勢だった。
――その背へ、
「お待ちなさい」
と、このとき南面《みなみおもて》の簾《みす》のかげから、低い、静かな声がかかった。
「おお、姫、こんなところへ……」
左大臣の呆れ顔へ、姫ぎみは言った。
「父上、わたくしは見ていました。硯屏を割ったのはその雑色でございます」
逃げ隠れするひまはなかった。憎しみをこめた侍たちの手が、あっというまに小弁の肩を、衿《えり》がみを、八方からひっつかみ、地べたに押し伏せた。
簾をかかげて姫は庭へおりた。
「許してください。夏樹とやら……」
瀕死《ひんし》の若者の血まみれな身体を、たおやかな袖《そで》に掻《か》き起こしながら、
「せっかくのお前の志《こころざし》を、わたくしは無にしてしまいました」
小声で詫びた。
「でも、わたくしは言わずにいられなかったのです。あの雑色の、ふてぶてしい捨て言葉を耳にしたとき……お前が可哀そうで、どうしても黙ってはいられなくなったのです」
「姫さま」
夏樹はつぶやいた。
「そのお情けを、なにとぞ、小弁の上にも……」
最期だった。姫の腕の中で夏樹の息は絶えた。
「わかっています。安心してお眠りなさい」
亡骸《なきがら》を横たえ、小袿《こうちぎ》をぬいで上に覆《おお》うと、姫は立って、
「父上」
左大臣の眼を凝視した。
「お聞きの通りでございます。いまわのきわまで、従弟の身をかばいながら逝《い》った夏樹の気持ち、汲《く》んでやってくださりませ」
「ふーむ」
左大臣は唸《うな》った。
「堪忍《かんにん》しがたいやつではあるが、やむをえぬ。その雑色、一命を助けて追い払うことにしよう」
ううッと土に喰《くら》いついて、小弁は嗚咽《おえつ》し出した。
「すまないッ、成仏してくれ夏樹さんッ、心を入れかえるッ、お、おれは生まれかわるよ。見ていてくれッ」
桜は今日も散っていた。
波打つ小弁の肩に、夏樹のむくろに、姫の黒髪に、花びらは音もなく、舞い乱れた。
白い蓮《はちす》
1
冬にはめずらしいほどあたたかな、眠くなるような昼さがりだった。
村はずれの阿弥陀堂《あみだどう》では孫をあやしがてらやってきた婆《ばば》さま、隠居ぐらしの爺《じい》さまなど老人ばかり十人ほどが集まって、堂守《どうも》り法師の説教に耳をかたむけていた。
左近丞《さこのじよう》だけがそんな中で、たったひとり若い。まだ二十六にしかならない。
彼は病弱な上に、不具なのである。右の手が肩のつけ根から取れていた。乱暴者に斬《き》り落とされたのだ。あやうく命は取りとめたものの、それでなくてさえ病気がちな身体は、出血のためめっきり弱った。
もともと、ひどく貧しかった。ひとの畑の草取りなどに傭われて、かつかつ、くらしをたててきたのだが、肝腎のきき腕を失ってからは、労働さえままならなくなった。生まれもつかぬ悲境に、自分を突き落とした相手が憎い。
「おのれ、源太夫め……」
無念の涙を呑んだところで、多度《たど》の源太夫は近郷きっての土地持ち屋敷持ち……。左近丞ごとき、とても歯は立ちっこない。腕を斬られてすら泣き寝入りしなければならない憤懣《ふんまん》を、せめて仏の慈眼で癒《いや》してもらおうと、こうして老人たちにうちまじって法座の隅に膝《ひざ》をそろえているのである。
でも、それにしろ堂守り法師の話術はうまくなかった。説教の内容も退屈だった。左近丞はじめ、聴衆のほとんどがうつらうつら舟を漕ぎかけたやさき、
「なんだこりゃア、汚ない履《は》きものがたくさん散らばっとるが、中でなにをやっとるのじゃ?」
胴間声《どうまごえ》の猛々《たけだけ》しいわめきが堂の外に響いた。爺さま婆さまの居眠りはハッと醒めた。
「源太夫どのじゃ。多度の、源太夫どのの声じゃぞ」
恐ろしそうに首をすくめ合う……。
まして左近丞は、血のけの薄い顔をさらに青くした。腕を斬られた瞬間の恐怖と苦痛は忘れられない。
「今日は説法日――。村の年寄りどもが集まって坊主の話を聞いているのでしょう」
供の郎党であろう、源太夫の問いに答える声がする……。
「説法かア。どんなことをぬかすか、聞いてやろう」
堂内の聴衆は慄《ふる》えあがった。
板戸を蹴《け》とばして源太夫は土足のまま、ずかずか中へ踏みこんできた。
身の丈《たけ》六尺を越す大男……。虎髭をさかだて血走ったぎょろ目を光らせて、吠《ほ》えるようにものをいう姿はさながら鬼だ。気性が荒く、腕力も強い。ちょっとでも気にくわないことがあると容赦《ようしや》なく村びとたちに暴力をふるう。左近丞なども、草刈りの帰り道で行き合わせたさい、うつむいていたためうっかり土下座し忘れて、
「無礼なやつだッ」
抜きうちに斬りつけられたのだ。
威勢をはばかって、しかしだれ一人反抗する者はいない。戦々兢々《せんせんきようきよう》逃げ隠れるのをおもしろがって、源太夫はいよいよ人もなげにふるまう。
殺生《せつしよう》が好きで、ひまさえあれば野山を狩りくらしているが、今日もそのもどり道にちがいない。郎党どもは矢を負い弓を持ち、源太夫自身もいかめしい狩り装束《しようぞく》……。勾欄《こうらん》に馬をつなぎ、血にまみれた鹿《しか》や猪《いのしし》を、仏のお前もはばからず、階《きざはし》の下に積み重ねていた。
いっせいに通路をあけた聴衆のあいだを、源太夫は傍若無人に突き進んで説教壇に近づくと、
「やい坊主ッ」
腰の大太刀《おおだち》をひねくりまわした。
「じじばば相手にしゃべっていた説法とやら、おれにも聞かせろッ」
堂守り法師は口がきけなかった。でも、からくも心をはげまして、
「今日はみなさまに、往生《おうじよう》についてお話していたのでございます。あなたさまも聴聞《ちようもん》なさりたいならば、どうぞお静かに坐《すわ》ってお聞きなされませ」
たしなめた。
「往生? それはいったい、どういうことだ」
「われわれの住むこの穢土《えど》より、はるかへだたった西方に浄土と申して、阿弥陀仏《あみだぶつ》のおわす清浄世界がございます。阿弥陀の慈悲は深く、広大で、どのような罪悪|重畳《ちようじよう》した人間も犯した悪業を心から悔いあらため、阿弥陀のお名をとなえるならば、かならずおききとどけくだされて、西方極楽浄土に引接《いんじよう》あそばすとか……。これを凡夫にして、往生の素懐《そかい》をとげると申すのでござります」
「ふーん」
源太夫はじろじろ法師の顔を眺めた。
「阿弥陀とは、そんなに気の広い、心のやさしいやつなのか?」
「衆生を視《み》たもうこと愛児のごとしと、教典には説かれております」
「おれなんぞが名を呼んでも、答えてくれるじゃろうか?」
「誠心誠意、み教えに帰依《きえ》し、純一無心に名号《みようごう》を呼びたてまつれば、かならずやお答えあそばさぬことはござりますまい」
「おそらく阿弥陀は、俗体の者どもより坊主をいとしいと思うておるであろうな?」
「一人《いちにん》出家すれば、九族《くぞく》天に生ずといわれるほど遁世《とんせい》の功徳は大きいもの……。もとより阿弥陀仏のみ心にわけへだてはありますまいが、僧は俗人にくらべて身を清らかに、悪事にも遠くいる者ゆえ、より多くみほとけの慈愛をこうむることができるかとぞんじます」
「よしッ、わかった」
源太夫はうなずくと、やにわに脇差《わきざし》を鞘《さや》ごとぬき出して堂守り法師の目の先に突きつけた。
「さあ、これでおれのもとどりを切れ。おれは出家する。弥陀のお弟子になる。ぐずぐずするなッ、切れといったら切らんかッ」
2
法師はあわてた。困惑した。
「そうはおっしゃっても、遁世をとげるのは容易ならぬ大事……。まして、こなたさまのように財を持ち家の子郎党を多くかかえたご身分で、とっさの思い立ちはちと、かるがるしゅうございましょう。ご家族ご縁者とも、よくよくご相談の上……」
「黙れッ」
「はッ」
「黙れ黙れ、この二枚|舌《じた》めッ」
いきなり腕をのばすと源太夫は法師の衿《えり》がみを掴み、壇上から曳きずりおろして膝下《ひざした》に組み敷いた。
「たったいま、出家の功徳を述べたてたと同じ口で、なぜおれの思い立ちを妨《さまた》げるのかッ」
「か、かんにんしてくだされ、命ばかりはお助けくだされ」
騒ぎを聞きつけて「なにごと?」とばかり弓に矢をつがえ、おっとり刀で、外に待っていた郎党どもまで堂内へ混《こ》み入ってきた。
「しずまれッ」
源太夫は彼らを叱りつけた。
「おれは出家する。邪魔だて無用じゃ。肚《はら》を決めたら最後、一歩もひかぬぞ。きさまらには暇《いとま》をやる。屋敷にもどって女房や倅《せがれ》どもにおれの遁世を告げ、あとはどうともよいようにはからえと伝えろ」
「お待ちを……まず、お待ちを……」
「ええ、うるさいッ、止めだて無用じゃ。ひっこんでいおろう」
脇差を抜きはなつと、もとどりを自分でズバと切り捨て、
「さあ剃《そ》れ、くりくりに剃ってくれい」
堂守り法師を源太夫はせきたてた。
仕方がない。あとでどんな騒動になろうとも、ここのところはこの一徹者の要求を容《い》れるしかあるまいと法師は観念した。
「では、得度《とくど》することにいたしましょう」
かみそりを持ち出して経文を唱えながら、源太夫の髪を剃り落として、戒を授けた。
「はははは、愉快愉快、これで望み通り坊主になれたわ。でも、このなりではおかしいのう」
「愚僧の法衣をさしあげまする」
よそゆきの袈裟《けさ》ころも一重《ひとかさね》に、もくろじの数珠《じゆず》、打ち鉦《がね》まで添えて法師は与えた。
「こりゃありがたい」
大よろこびで源太夫は法衣に着かえ、
「かわりにこれを布施《ふせ》するぞ」
脱ぎすてた狩衣《かりぎぬ》・太刀・袴《はかま》・弓胡※[#竹かんむり+祿]《やなぐい》などを押しやって、
「さあ、まんまと出家しすました。こんにちただ今から、おれは阿弥陀仏のいる浄土とやらへまいる。一同、さらばじゃ」
首にかけた打ち鉦をカンカン鳴らしながら、おどろき呆れる人々をしりめに、
「阿弥陀仏よやア、おおい、おおい」
呼びたて呼びたて、まっすぐ西へ向かって歩きはじめた。
それまで小さくなって堂の隅にちぢまっていた左近丞は、ひとびとが源太夫に気をとられているすきにこっそり這《は》い寄って、ぬぎちらした装束の中から脇差《わきざし》を盗んだ。
勇気が出たのである。源太夫からこうむった理不尽な暴行を、災難とあきらめていた左近丞だが、いま、身にいっさい武器をつけず、まる腰の鉢《はち》たたき坊主になりさがって、ただ一人出かけて行った相手を見たとたん、
「殺してやるッ」
猛然と復讐心《ふくしゆうしん》が湧き起こったのだ。
どうせ生きながらえたところで食うや食わず……。乞食《こじき》にひとしい身ではないか。
「恨みをはらして自害しよう」
とっさに決意がかたまったのであった。
見えがくれに左近丞はあとをつけた。ゆめにも源太夫はそれを知らない。
「阿弥陀仏よや、おおい、おおい」
カーン、カーンと鉦を打っては、やみくもに西へ西へ、わき目もふらずに進んで行く。
「まさかあいつが浄土へ行けるはずはあるまい。あんな悪人が……」
左近丞は思う。
「でも、仏の慈悲は広大だそうな……」
ひょっとしたら出家した功徳で源太夫のような男でも、弥陀の救いにあずかるかもしれない……。
「そんなことになっては大変だ」
とも左近丞は歯がみする。
「どうしてでも、やつの往生を妨げなければならない。あべこべに地獄の底へ、まっさかさまに叩《たた》きおとしてやらなければならない」
何度、うしろから突きかかろうとしたかわからない。しかしさすがに源太夫の鍛《きた》えあげた全身には、すきというものがまったくなかった。刃物をにぎりしめながら、寸鉄をおびない相手に左近丞はどうしても歯が立たなかった。
まる一日、歩きづめに歩いた。飲まず食わず、休まず眠らず、源太夫はまっすぐ西へ、ただただ一心不乱に進みつづける……。
その行き方も無茶そのものだ。道など念頭にない。川があればぼしゃぼしゃ渡り、森があれば分け入り、山があれば登り、谷に打ちあたればくだる……。ひたすら西へ西へ、まっすぐ歩きつづけるだけなのである。
左近丞は疲れた。苦しくてたまらなくなった。どうにもこれ以上ついて行けそうもない。
「ままよ」
脇差を握りなおした。しくじって、あべこべに撲り殺されるはめになったら、それまでの運とあきらめよう……そう、ほぞをかためて、あわや襲いかかろうとした一|刹那《せつな》、
「待たっしゃれッ」
ビーンと耳を痺《しび》らすほどの大声が、あたりいっぱいに炸裂《さくれつ》した。
3
思わず、脇差を取り落とした。
声のぬしは、だが左近丞の襲撃を止めたのではなかった。源太夫の前に姿を現わし、大手を拡げてその行く手をさえぎったのだ。
「おぬし、多度の源太夫じゃな?」
髯《ひげ》の白い、眼光するどい老僧である。気押《けお》されて源太夫は猪突《ちよとつ》をやめた。
「なにやつじゃ、おのれは……」
「だれでもよい。わしのことより、おぬしのそのていたらくこそどうしたわけじゃ?」
「見る通りよ。出家したわさ」
「なにゆえに?」
「西方浄土とやらに行ってみとうなったからよ。阿弥陀仏に逢《あ》い、無性《むしよう》にその声を聞いてみとうなったからよ」
「それだけか?」
「それだけじゃ」
「ばか者ッ」
またあの、空気をびりびりふるわすほどの雷声《かみなりごえ》が鳴り響いた。
「虫がよいにもほどがあるぞッ。きさまのような悪党が、たとえ千日万日歩きつづけたとて、浄土へは着けぬ。咽喉《のど》が破れるまで呼び奉ったところで、阿弥陀仏は応じてはくださらぬわ」
「堂守り坊主は、ほとけは分けへだてせぬと言うた。まして出家すれば、凡俗よりもいとしんでくれると受け合うたぞ」
「ははは、いい気なものよ。一見、単純率直、発心《ほつしん》するやいなや利害をかえりみず、まっすぐまっ正直に求めぬく姿に見えるが、じつはこのような信仰をこそ、利己心の塊りというのじゃ。源太夫、なんじはおのれ一人の求めに急なあまり、これまで一度として、うしろを振り返って見たことなど、あるまい」
「うしろ?」
「その手で殺し、大|怪我《けが》をさせ、泣きを見せた人や獣《けだもの》、幾十幾百の怨恨《えんこん》と悲嘆を錘《おもり》さながら曳《ひ》きずって行くかぎり、浄土は遠いわ。してのけた悪業をしんそこ懺悔《ざんげ》し、おのれ自身の恐ろしさ、むごさ、恥ずかしさ、救われがたさに、絶望しきったときにこそ、はじめて信仰はなんじの心に生まれるのじゃ。絶望のないところに救いもあるものか」
「では、無駄か?」
源太夫は、くたッと地べたに膝をついた。
「かたちだけ僧になっても、心はもとのまま……。狩りの獲物を欲するように弥陀のみ声を欲したとて、それは駄々《だだ》ッ子《こ》の乳ねだりにすぎぬ。求めるからには苦しむがよい。怖《おそ》れがなく悔いもなく、悶《もだ》えもしない心で、何を求めたとて与えられはせぬわ」
吐きすてると、そのままスタスタ老僧は立ち去ってしまった。木立ちの蔭にひそむ左近丞になど、目もくれない。いずれどこかの古刹《こさつ》をあずかる智識であろうが、刀でおどされて安易に源太夫を出家させた村の堂守り法師などとは、だいぶ人間の出来がちがってみえた。
「そうだ。その通りだ」
源太夫は呻《うめ》いた。
「おれはとんでもない外道《げどう》だ。悪鬼だった。往生を望むなど、考えてみれば虫がよすぎた。浄土どころかこの先、行く手に待ちうけているのは、まっ暗な地獄でしかあるまい。……恐ろしい。行きたくないが、してのけた悪事を思えば罰は当然かもしれぬ」
土をかきむしって源太夫は泣きはじめた。老僧の一喝は、強情者の我意を打ち砕いたのだ。直情なだけに、おのれを責めるとなると源太夫は素直だった。彼の目は一転して、まっすぐ、まじろがず、犯した過去の罪にそそがれ、悔いの炎で彼自身を焼きたてた。
「ああ、ああ、悪かった。みんな、許してくれい。阿弥陀さま、許してくだされ。もはやわしは、大それた望みは捨て申した。行く先は地獄、わしにはそれが相応と覚悟をきめたが……。そうときまればきまるほど、阿弥陀仏よ、あなたが慕わしい。ひとことでよい。おられるなら答えてくだされ、せめてひとこと、お声だけでも聞かせてくだされ」
立ちあがりかけて源太夫はのめった。石の角《かど》ででも裂いたのか、おびただしい血が膝から流れ出たが、彼は痛みを感じない様子で、よろよろとまた、歩きはじめた。
「阿弥陀仏よやア、おおい、おおい」
これまでの傲岸《ごうがん》さはあとかたなく消え、そのうしろかげには後悔と、いたましい苦悶《くもん》がにじみ出ていた。
里へはいると犬が吠えた。子供たちは、
「こじき坊主よ、狐|憑《つ》よ」
石をぶっつけ、おとなまでが嗤《わら》った。
もとの源太夫なら黙っていないところであった。彼はしかし、石も嘲罵《ちようば》も念頭にない顔で、ひたすら鉦を叩き叩き、
「地獄へ落ちる前にたったひとこと……。阿弥陀仏よ、お声を……お声を……」
うわごとさながら言いつづけて歩いた。
あきらかに源太夫は弱ってきていた。餓《う》えよりも、膝の疵《きず》だった。ひどく化膿《かのう》し、腫《は》れあがって、熱もあるらしい。片脚を曳きずり曳きずり、それでも、
「阿弥陀仏よやア……、おおい、おおい」
呼びかけをやめずに西へ西へ、よろよろ進んで行った。
ふるさとの村をあとにして、四日目――。
とうとう海ばたへ出てしまった。行こうにも、もはや先へは行けない。源太夫は渚《なぎさ》の松によじのぼった。大枝のひとつにまたがって、
「阿弥陀仏よやア……、おおい、おおい」
あえぎあえぎ、しゃがれ声を振りしぼる……。
左近丞も松の根もとにペタと坐った。よくここまでついてこられたものだと思う。疲労の極、彼はかえって空腹を感じず寒さを感じず、足腰の痛みすら感じなくなっていた。
老僧と別れて以後、源太夫の身体はどこもここもすきだらけだった。うしろから刺そうと思えば機会はいくらでもあったのに、左近丞の気持ちの中から怨讐《おんしゆう》の炎はいつのまにか消滅していた。
源太夫の慚愧《ざんき》、その、ほとけへの呼びかけのせつなさに巻き込まれ、しらずしらず、
「こたえてやってください、阿弥陀仏!」
念じてさえいる自分に、左近丞は気づいたのだ。
――松の枝に、源太夫はなお、二日いた。
声はしだいに細り、打ち鉦の音も間遠《まどお》になった。
左近丞も砂に坐ったきりだったが、西風の吹きすさぶ真夜中、
「あみだ、ぶつよや……おおい、おおい……」
ちぎれちぎれな源太夫の呼びかけに応じて、まっ黒な水平線のかなたから、
「ここにあり」
微妙《みみよう》な声で、答えるのを聞いた気がした。
左近丞は飛びあがった。錯覚か? 浪《なみ》の音か? それともしんじつ、弥陀のみ声か?
ドサッとこのとき、地ひびきたてて源太夫が松の上から落ちてきた。われしらず走り寄って、
「聞きましたか、今のみ声を!」
左近丞はその半身をかかえあげた。熱がひどい。源太夫の身体は燃えそうだった。
自分を抱いている者がだれなのか、すでに源太夫には認識できないらしい。うつろな視線を宙にただよわせて、かすかに、
「あみだぶつ……あみだぶつよや……」
つぶやくと、それっきり動かなくなった。
冬の夜の寒気《かんき》に凍って、源太夫が吐いた最後の息は、くちびるからひとすじ咲き出《い》でた白い蓮華《れんげ》の花のように、左近丞の目には見えたのである。
紐の先
1
大弐《だいに》の官舎に召し使われる青女房の綾縫《あやぬい》が、女だてらに大それた姉殺しを思い立ったのには、二つの理由があった。
綾縫は姉の夫と密通していた。
「もし、この事実を知られたら……」
と思うと、姉の目が無性にこわい。
「でも、もう義兄《にい》さんとははなれられない。たとえどのように姉さんに責められても……」
男の肌《はだ》の熱さをチラと知覚の奥によみがえらせただけで、綾縫は身体中がほてるほどの、羞恥《しゆうち》と快感にくるまれる。抱きしめてくる腕の力のたくましさを思い起こすたびに、乳房の芯《しん》にチチッと痛みが走るに似たせつなさ恋しさに、灼《や》きたてられるのだ。
「ああ、逢いたい。義兄さんに……」
男の住む都へ飛んででも帰って行きたいけれども、そのためにはまず、姉をこの世から抹殺《まつさつ》しなければならない。
姉妹の主人は、つい先ごろまで中央の官界に羽ぶりをきかせていた高官だが、政敵との争いに破れて筑紫《つくし》の大宰府《だざいふ》に左遷させられた。官職も、大宰《だざいの》大弐《だいに》に貶《おと》されてしまったのである。
いままでの飛ぶ鳥おとす都ぐらしにくらべれば、まるで囚人同様なわびしい官舎生活がはじまって、かれこれ一年になろうとしている。
男女合わせて、召しつれてきた奉公人は十人あまり……。絹縫《きぬぬい》・綾縫の二人も大弐の乳母《うば》をつとめていた母親に、
「ご主人さまの不遇をよそ目に見すごすわけにはゆかぬ。年老いた母にかわって、お身の廻《まわ》りのお世話をしにまいれ」
と、むりやりのように言い訓《さと》され、しぶしぶ供《とも》の人数に加わって九州下りしてきたのだ。
官舎でのあけくれは単調だった。
物もとぼしく、着るもの食べものすら足《た》らぬがちなのに、主人の大弐は前途を悲観してろくろく庁へも出仕せず、ひと間《ま》に引きこもったきりふさぎこんでばかりいる。毎日毎日が十六歳の綾縫にはまるで牢獄の味気なさである。
政敵におとし入れられ、その讒言《ざんげん》に遇《あ》って中央の官界から逐《お》われた主人は、なかば公《おおやけ》の罪人だから、つきしたがってきた召し使いたちにも自由気ままは許されていない。
都に残っている男が恋しい。義兄の愛撫《あいぶ》が、ぜひとも欲しい。
渇《かわ》きに耐えられなくなって、そう切実に綾縫が望んだところで、おいそれと帰洛《きらく》するなど不可能に近かった。
抜け道はしかし、たった一つある。肉親の死である。
『近親が亡くなった場合にかぎり、服喪《ふくも》し、忌《いみ》にこもるために、骨《こつ》を葬りにもどってよろしい』
と、きめられていた。
「姉さんが死ねば帰れるのに……」
願望が、夏の雨雲さながらむくむく育って、
「いっそ、殺してしまおうか」
恐ろしい決意にかわるのに、時間はさほどかからなかった。
綾縫は機会をうかがった。
義兄が、こっそり便りを寄こして、
『毎晩のようにお前の夢ばかり見ている。なんとか口実をつくって帰洛するわけにいかないか』
そそのかしてきたことで、綾縫の殺意にはいよいよ拍車がかかった。
「どうしても姉さんに、死んでもらわなければならない。もう一度、義兄さんの腕の中へ帰るために……帰ったあとの、二人の幸せのためにも……」
ちょうどそんなさなか、山賊《やまだち》に殺された旅人の噂が綾縫の耳にはいった。
「姉さんも、山で……」
賊に襲われたように見せかければ、犯行は隠せるのではないかと思いついた。
秋はそろそろ終わりにかかって、山奥では栗の実がぽとりぽとり、地に落ちはじめている。
「栗拾いにいかない?」
綾縫は、姉を誘った。
「小粒でも、茹《ゆ》でるととても甘いそうよ。たちまち手籠に一杯になるほど拾えるんですって……」
「行きましょうか」
それがあるために、かえってやや陰気にさえ見える淋しい片えくぼを刻んで、絹縫はうなずいた。
2
なんという野草の実か、のぼってゆく顔をかすめて穂絮《ほわた》がしきりに飛ぶ。深山《みやま》の秋は里よりさらに深かった。
「ね、まだ?」
歩き馴れない絹縫は、すぐ疲れて、先を行く妹へ息を切らせながら声をかけた。
「まだ、だいぶあるの?」
「もうすこしよ」
振り返って、綾縫は言った。
「大きな野生の栗林なんですって……。厨《くりや》の水汲《みずく》み男が話していたわ。道はくわしく訊《き》いてきたから、迷う心配はないわよ」
体力も気質も、妹のほうがぐんと強い。日ごろから絹縫は病《やまい》がちだし、骨組みはほっそりと華奢《きやしや》だった。
「あたし、わるいけどもうへとへとなの。足が痛くて痛くて……」
やっと登りつめた尾根の草地に、絹縫は我慢を切らして坐《すわ》りこんでしまった。
「だめねえ姉さんたら、弱虫ね」
さげすむように綾縫は姉を見おろした。
「あとちょっとで栗林なのに……」
「あなた行ってよ。ひと休みしたら追いつくわ」
「まもなく夕ぐれよ。日が落ちはじめたら暗くなるのは早いわ。ぐずぐずしてはいられないのよ」
粟の林など、実際にあるわけではなかった。口実をつくって綾縫は姉を山奥へおびき出したのである。
ふところには、武者溜りからこっそり持ち出した刺刀《さすが》を一本しのばせてきていた。だれの物か知らないがよく研《と》がれて、斬《き》れ味はよさそうだ。あたりを綾縫は眺め回した。
(見通しが、よすぎる)
もっと奥へ誘いこんでしまいたい。
(ここではひょっとして、尾根道をたどる杣人《そまびと》や猟師に見られる恐れがある)
歩けないと言いだした姉が、憎かった。
「しようがないわね」
つい、舌打ちが出た。やむをえない。これ以上、場所を選んではいられない気がして、
「姉さん」
綾縫は呼びかけた。
「話があるの」
「なあに?」
無心に絹縫は応じた。
「わたし、都へ帰りたいのよ」
「そりゃあ、わたしもよ。でも、当分その望みはかなえられそうもないわね」
「かなえられるのよ。あなたが死ねば……」
「死ぬ? この、わたしが?」
「そうよ。妹のためだと思って観念してちょうだい」
意味がよく、呑みこめないらしい。冗談とも受けとったのか、絹縫は目じりに笑いをにじませて、
「なにを言うの? 物怪《もののけ》でも憑《つ》いたようなこわい目をして……。ふざけるのはやめてひと休みなさいな、あなたも……」
妹の裾《すそ》をひこうとした。
「ふざけてやしないわッ」
飛びずさって、綾縫は右手をふところに入れた。刺刀《さすが》の柄《つか》をにぎりしめたのである。
「姉さんが死ねば、喪に服すためにわたしは都へもどれるのよッ」
「まあ」
はじめてただならない妹の語気、死ねと、自分に強制するわけをさとったか、
「あんまりだわ」
絹縫も顔色を変えて立ちあがった。
「こんなご奉公を切りあげたいのは、だれの気持ちも同じよ。帰洛したいのはあなたばかりじゃないわ。それを……血を分けた姉を殺してまで、もどる算段をするなんて、いくらなんでも身勝手すぎるわ」
「なんとでもおっしゃい」
綾縫はきめつけた。
「こうなったら、じたばたするだけ無駄よ。なにがなんでもきめた通り、わたしはやりぬくつもりですからね」
ギラッと妹の手に刃物が光ったのを見て、思わず絹縫は、
「あなた、本気なのねッ」
恐怖の声をあげた。
「やめてッ、おねがいよ綾縫、わたしは死にたくないの。夫の待つ都へ、いま一度わたしも、なんとしてでも帰りたいのよ」
嫉妬《しつと》に、綾縫の目は吊りあがった。
「教えてあげるわ姉さん、その、あなたの大事な義兄さんは、もうとっくにわたしのものなのよ」
「な、なんですって!?」
「あきらめなさい。義兄さんはわたしに首ったけなんだから……。姉さんへの愛は、醒《さ》め果てたと言ってるわ」
「ああ、綾縫、お前はそのために、こんな恐ろしい思い立ちをしてまで都へ帰ろうとするのね」
「これで得心いったでしょ? さ、いいかげんに年貢《ねんぐ》をおさめてしまいなさいッ」
刺刀をふるって綾縫は突きかけた。さながら悪鬼の形相《ぎようそう》だった。
「ひいッ」
絹縫は逃げた。
「助けてッ、だれか来てッ」
塗り笠が落ちた。立ち枯れた雑草の波を絹縫は掻き分けて走り、綾縫はめくらめっぽう姉のあとを追った。
二人ながら壺《つぼ》装束をしていたが、いつのまにか綾縫は袿《うちぎ》をぬぎすて、小袖《こそで》ひとつの身軽ないでたちになって、ながい黒髪を夕風に吹きなびかせながら地を蹴《け》った。
ひきかえて絹縫には、そんな才覚すら泛《う》かばなかった。袿の背に髪を着込めたまま杖もはなさずにまろび走った。暴風雨《あらし》に追われ、しぶきに叩《たた》かれて、羽毛をふくらませながら逃げまどう雀《すずめ》の姿に、それは見えた。
おまけに絹縫はくたびれていた。足の痛みにも悩んでいたさなかであった。たちまち追いつかれ、衿《えり》がみをつかまれた。必死に振りもぎりはしたものの、横によろめいた。綾縫は斬《き》りつけてきた。
「やめてッ、やめてッ」
踏みしだかれた草の下からキチキチキチとするどい羽音をたてて、虫が無数に飛び立った。
しゃにむに振りまわす切ッ先を、右に左に、絹縫はかわした。無我夢中だった。
「死んでよッ、死んでッ」
妹の叱咤《しつた》が耳をつんざいた。
とたんに絹縫はのめった。突きとばされたように前に倒れ、
「ああーッ」
悲鳴をあげた。
3
「しめたッ」
姉の背めがけて襲いかかった綾縫は、しかし右手首をしたたか何かで打たれて、にぎりしめていた刺刀を思わず落とした。かろうじて上体をねじりざま、絹縫が杖で、転倒したまま目の先を払ったのだ。
「ちッ」
その肩に、綾縫はつまずいた。タタッと姉の身体をとびこえてたたらを踏み、二、三|間《げん》、前へ泳いだ。
「わあッ」
瞬間、綾縫の咽喉《のど》をすさまじい絶叫が裂《さ》いた。崖《がけ》に落ちたのである。
あやうく、だが綾縫は笹の根に取りついた。両足は宙に浮いてしまっている。棚《たな》のように崖は突き出し、笹の根が垂《た》れていた。反射的に両手はそれを掴んだものの、いたずらにあがくだけで、あがることもおりることもできない。見おろすと下は十丈ほどもある絶壁だ。
「きゃーッ、姉さん、なんとかしてッ」
あべこべにこんどは、綾縫が助けを求める始末になった。
「腕が抜けるッ、はやくッ、はやくッ」
ムシがよすぎる要求とも、綾縫は思わなかった。降って湧いた災難に動顛《どうてん》し、いまのいま、どんな仕打ちを姉にしていたか、記憶が消しとんでしまったのである。
絹縫はでも、崖の上にあらわれなかった。
「姉さーん、姉さーんッ」
腕がしびれる。身もだえるたびに土くれがばらばら落ち、笹の根がゆるんだ。
「あ、あ、もうだめだッ、ちくしょう」
見殺しにする気だと、やっと気づいた。綾縫は歯をくいしばった。姉の恨みは当然なのだ。立場が逆転し、いまや報復の快味にほくそえんでいる姉なのかと思うと、綾縫はくやしさに、はらわたが煮え返った。
「待っててよ綾縫、いま紐《ひも》を投げるからねッ」
と、しかしどこからか絹縫の声がし、バサッと音たてて頭上になにか降ってきた。袿をたくし上げておくために使うひらたく縫った紐だった。
「それにつかまってちょうだい綾縫ッ。手首を絡《から》めるのよッ、結ぶのよッ」
「もっと垂《た》らしてッ」
「だめよ、それでせいいっぱいなの」
「崖の上に出てきてよッ、なぜ姿を見せないの? 引きあげてくれなきゃ、あがれないじゃないのッ」
「わたし、片足を罠《わな》に挟まれてしまっているのよ」
「罠に!?」
不意に姉がのめったのは、猟師が仕掛けておいたけもの罠に足首を喰《く》われた結果なのだと、ようよう綾縫にも合点がいった。
「動けないのねッ」
紐を見て、いったん生気をとりもどした声が、ふたたび気落ちに打ちひしがれた。
「姉さん身うごきが、できないのね?」
「倒れたままなのよ。紐をほどいてあなたの声をたよりに、いっしょうけんめい見当をつけて投げたんだけど、もう腕いっぱい、それでぎりぎりの長さよ」
「そっちの紐の端《はし》はどうしてあるの?」
「わたしの左手首に固く結びつけてあるわ。あなたも結びなさい。そして、苦しいだろうけど、ぶらさがっていてちょうだい。大声で呼ぶうちにはきっと聞きつけて人が来ます。猟師も罠を見廻りにくるはずよ」
絹縫の足は固定した罠にはさまれて、妹の体重がかかっても谷に曳きこまれる恐れはないが、草の上に身体も腕もを伸ばしきって、人ひとりの重みに耐える苦痛は、これも言語に絶するものにちがいなかった。
(こらえきれなくなって、姉はやがて紐を切るにきまっている)
そのときが綾縫の最期だった。
(義兄《あに》を寝取った自分だ。姉を殺そうとまでした自分だ)
ゾッと全身が、綾縫は鳥肌立った。
姉妹《きようだい》愛の前に、憎しみをうち忘れて、いま懸命に妹を助けようとしている絹縫だが、憎悪がむらむらよみがえれば、どんな挙に出るかわかったものではない。
(どうしよう!)
命の綱は、文字通り姉の手ににぎられてしまっているのだ。
「ね、綾縫」
姉の声がした。
「さっき言ったこと、ほんとうなの? ほんとうにわたしの手から、あなた、あの人の愛を奪ってしまったの?」
罠に噛《か》まれている足首の痛み、片手にくいこむ紐の痛みにまして、はじめて知った夫と妹の裏切りに絹縫は打ちひしがれているのか、問いかけは弱々しく、みじめに慄えていた。
「姉さん聞いてッ!」
死にもの狂いな声を、綾縫はふりしぼった。
「わたしが誘ったんじゃないのよ。義兄さんに力ずくで挑《いど》まれて、つい、気はとがめながら従わされたのよッ」
事実はあべこべである。誘惑したのは綾縫のほうだが、いまや自己弁護に、彼女は躍起《やつき》にならざるをえなかった。
「姉さんには、ほんとうにすまない。あやまります。わるかったわ。義兄さんの甘言に負けたばかりか、姉さんを邪魔者あつかいにして殺そうなどとしたわたしは、人非人《にんぴにん》よ。帰りたい一心とはいえ魔がとりついたんだわ。堪忍《かんにん》してッ、ね? どうか許して……」
姉は返事をしなかった。すすり泣く声がきれぎれに聞こえていたが、いつのまにかひっそりと、それもと絶えた。
不安に、綾縫はいても立ってもいられなくなった。いまにもプツンと姉の手で紐が切られそうな怯《おび》えに、髪の根が逆立つ思いだった。
(刺刀《さすが》をひろったはずだ)
刃物に誘惑され、手首の苦痛に耐え切れなくなれば、無意識にでも一方の手がうごいて紐を切りはなす恐れがあった。
「姉さんッ、どうしたの姉さん」
綾縫は呼びたてた。
「なぜ、黙ってしまったの? なにか言ってよッ、返事をしてよッ」
崖の上は、でも、しずまり返ったままだ。
「ねッ、わたしが悪かったわ。紐を切らないで! おねがいッ、おねがいよッ」
日が暮れかけた。谷底から冷気が吹きあげてき、簔虫《みのむし》さながらぶらさがったまま綾縫の身体は知覚を失いかけた。
紐がくいこんで手首は切れそうだ。あげっぱなしの腕は血行が止まり、痺《しび》れて丸太のようになっている。
「ああ苦しい。だれか来てえ、助けてえ」
声も嗄《か》れた。意識が薄れ、短い失神に時おり襲われては、また、はッと我れに返った。
「はれまあ、獣《けもの》じゃのうて、若いおなごが罠にかかっとるわ。こりゃ、どうじゃ」
猟師のだみ声が夢うつつの耳にとびこんできたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
「た、たすけてッ」
崖の中途にも一人、宙吊りの娘がいると知って、仰天しながらも、
「待ちなされや」
猟師は綾縫を引きあげてくれた。
「姉さんは?」
息もたえだえに綾縫はたずねた。
「あすこじゃ。かわいそうに罠に喰われて、あれ、あの草むらに倒れとるわ」
松明《たいまつ》を振り振り猟師はもどって、片手起こしに絹縫の上半身を抱き起こしたが、
「やあやあ、自害しとるぞッ、このおなご……」
叫ぶなり腰をぬかした。
「自害!? 自害ですって?」
綾縫も這《は》い寄った。
左手は、結んだ紐をあくまで固く握りしめたまま、右手で乳の下を刺刀でつらぬき、絹縫はこと切れていた。夫との愛の破局に絶望したのだ。
紫いろに腫《は》れあがった姉の左手を……自分の命を繋《つな》ぎとめてくれていた紐の結び目を、綾縫はみつめた。
「とうとう、切らなかったわね姉さん。その紐……その紐……」
みるみる両眼にもりあがった涙を、だが、彼女は振り払うと、
「これでいい。これでいいんだ」
ふるえ声でつぶやいた。
「これで帰れる、義兄さんの待つ都へ……」
歯が、ガチガチ鳴った。
「勝った。やはりわたしは、勝ったんだわ」
そして、ふらッと、うしろに倒れた。こんどこそほんとうに、綾縫は気を失ったのである。
釜の湯地蔵|譚《たん》
1
朝からうろうろ湯にはいったり出てみたり、巨勢大笠《こせのおおがさ》は落ちつかなかった。
(いよいよ今日、小笠《こがさ》のやつが地蔵さまになりすまして、やってくるぞ)
そう思うと、ちょっと可笑《おか》しいし心配だし、じっとしていられないのであった。
大笠と小笠は、兄弟分のコソ泥である。
村から村へ旅かせぎの泥棒|行脚《あんぎや》をつづけて越《こし》の国まで来たのだが、ここで耳よりな噂を聞きこんだ。地獄谷の、釜《かま》の湯の評判だ。
「名前はおっかねえけど、熱い、まっ白な硫黄《いおう》泉が、ぷくりぷくり湧いている湯治場《とうじば》でね、このあたりの者は身体を悪くするてえと、みんな煮炊きの道具を持って釜の湯へへえりに行くんだよ」
と、里の者は言うのであった。
なんでもむかしむかし、脚を折った鷺《さぎ》だの矢きずを負った鹿だのが、沐浴《ゆあみ》しに集まってくるのを見て廻国修行中のえらい聖《ひじり》さまが、その薬効を発見したとかいう霊泉なのだそうである。
「ひとかせぎ、やらかそうじゃねえか。え? 小笠。釜の湯とやらへ乗りこんでよう」
大笠は、弟分に相談を持ちかけた。
「なにかもくろみがあるのかね?」
「あるから言うんだ。おめえ、お地蔵さまに化けてみろ」
「あの、くりくり頭で錫杖《しやくじよう》ついてる地蔵|菩薩《ぼさつ》かい?」
「そうだよ」
「よせやい。坊主になんぞされてたまるかい」
「なりはそのまんまでいいんだよ。まあ耳を貸せったら……」
大笠はひそひそ小笠に一策を授けた。
そして三日前、ひと足先に釜の湯へやってくると、
「あーあ、くたびれた。ちっとのあいだ横にでもなるかな」
ごろと手枕でうたた寝したあげく、目をこすりこすり、やがて起きて、
「いま、奇妙な夢を見ましたぜ」
そばにいる湯治客に手あたり次第、話しかけたのだ。
「へええ、どんな夢かね?」
退屈しているさいちゅうだ。寝そべったり雑談したりしていた連中が、みんな大笠のそばへ寄ってきた。
「とろとろッとしたと思ったらね、夢の中に、すてきもなくこうごうしい、頭から後光《ごこう》のさしている人があらわれてね『われこそは、地蔵菩薩であるぞよ』って、おっしゃるんでさあ」
「なんじゃあ? おぬしの夢にお地蔵さまが現れたと?」
「ええ。『釜の湯に集まる病者どもに、結縁《けちえん》してとらせたい。いまから三日のち、正、午《うま》の刻《こく》に、人間の姿を借りて出現しようぞ』と言われるのでね『いったい、どんな恰好《かつこう》で来られるのですか』って、あっしゃあ訊《き》いてみたんですよ」
「ふんふん」
「そしたら『紺《こん》の綿入れの水干《すいかん》に侍烏帽子《さむらいえぼし》。鹿の毛の行縢《むかばき》をはき、弓矢を手にした二十二、三の若者になって行くだろう。そういうなりをした者が湯治場に現れたら、この地蔵と思えよ。ゆめゆめ疑うことなかれ』って、なんともいえねえ尊いお声でおっしゃったとたん、すーッとお姿は消えて目がさめたってわけでさあ」
「ひゃあ、そりゃおどろいたこんだのう」
と、だれもがいっせいに、顔を見合わせた。
今は冬の農閑期――。泊まりがけで入湯にきているのは、ほとんどが近くの淳朴なお百姓たちである。
「そういえばここは地獄谷の釜の湯……。地蔵さまちゅう仏さまは、地獄に堕《お》ちた人間どもを救うて極楽往生させてくださるおかたじゃげな」
「わしらはみな、怪我人《けがにん》か病《やまい》持ちじゃ。それを哀れんで、助けにきてくださるおつもりじゃあるまいか」
手もなくコロッと騙《だま》されてしまった。
「まあ、お待ちなせえ。夢は五臓の疲れなどともいいますからね。あんまりみなさん、雲を掴むような夢物語など本気にしねえでくだせえよ」
わざと大笠は、そのとき気の無い顔をしてみせたのだが……。
今日が、いよいよ約束の三日目。あらかじめ打ち合わせてある正、午《うま》の刻に、もはや間《ま》もない。
小笠を地蔵さまに仕立てて乗りこませ、口から出まかせを並べさせてお百姓連中をけむに巻いたあげく、賽銭《さいせん》や供え物をごってりせしめてドロンしてしまおうというのが、大笠の考えついた悪企《わるだく》みなのであった。
内心そわそわしながら、しかし表づらはあくまで落ちつきはらって、湯治宿の炉ばたで大笠が飯をかきこんでいるところへ、
「たいへんじゃあ」
わめきたてる声が聞こえた。
「みなの衆、来てみろよう。地蔵さまがほんとにござらっしゃったぞう」
大笠は、ほくそえんだ。
(やってきたな、小笠め)
彼は、だが、
「ほ、ほ、ほんとかあ」
びっくりして外へ飛び出した人々のあとにつづいて、自分もいかにも肝をつぶしたといわんばかりな顔を作りながら、
「どこだどこだ、地蔵さまはどこだ」
駆け出した。
釜の湯をぬけて、越後の国府へ達する一本道……。
なるほどその谷底のうねうね道を、紺の水干、侍烏帽子、鹿の行縢をつけた若者がすたすたこちらへやってくる。手に弓矢を持っているところまで地蔵菩薩のお告げそのままだ。
「やれ、ありがたや」
「お迎えにいけ、それいけッ」
とばかり若者めがけて湯治客は殺到した。
釜の湯は、野天|風呂《ぶろ》である。もうもうと噴《ふ》きあがる湯気の中から、素裸のまんま飛び出して走りはじめた男や女もいる。
いそいで大笠も近づいたが、
「あれれ?」
相手の顔をひと目見るなり、棒を呑《の》んだように立ち止まってしまった。服装はまぎれもなくしめし合わせた通りなのに、当の若者が仲間の小笠とは似ても似つかぬ別人だったのだから、無理もない。
2
いきなりわッと裸ン坊までまじえた湯治客に取り囲まれて、仰天したのはその若者である。
「なむ、地蔵大菩薩さま」
ひざまずかれても、おがまれても、何がなんだか一向にわけがわからない。
「どうしたのですみなさん。私は国府まで行く旅人です。田辺《たなべの》真人《まひと》という者ですが……」
「お地蔵さま、おとぼけなされてはいけませぬ。ま、ま、こちらにご鎮座あそばしてくださりませ」
湯宿《ゆやど》の中へむりやり招じ入れられるのを、大笠は横目で睨んで、
「ちえッ」
舌打ちした。手違いが起こったにきまっている。
「小笠め、なにをしていやがるんだろう」
みんなとはあべこべに宿を出て、街道筋を見張っているうちに、
「来たッ」
やっとこさ相棒の小笠が現れたが、どうしたことか、荷運び馬の背に米俵と一緒におぶさって、海鼠《なまこ》さながらグニャグニャ揺《ゆ》られてくるではないか。
「この馬鹿野郎、なにをぐずついていやがったんだ」
鞍脇《くらわき》へ寄って行って、大笠は腹だちまぎれに小笠を馬から引きずりおろした。
「いてててて」
小笠は悲鳴をあげた。馬子はそのまま、
「はいよ。おさきに……」
馬を曳《ひ》いて行ってしまう。
「痛いとは、どこがいったい痛いんだよッ」
「足だよほら……。朝がた、ゆんべ泊まった辻堂を出ようとして釘《くぎ》を踏み抜いちまったんだ」
右足だ。ぎりぎりしばったぼろ布に、なるほど血がにじんでいる。
「それで正、午の刻の約束が、こんなに遅れちまったのか」
「ごめんよ兄貴。なんしろ痛くて歩けやしねえ。馬に乗っけてもらってここまで来るあいだも、ウンウン唸《うな》り通していたんだぜ」
「まぬけめ。ドジを踏みやがったおかげで、とんだ番狂わせが起こっちまったぞ」
偶然にしても、まったく呆《あき》れかえった一致だが、そっくりそのまま同じなり、同じ年ごろの若者が先に来たために、お百姓連中はてんからその男を地蔵菩薩と信じこんで、
「いま、下にも置かねえちやほやの、まっさいちゅうなんだよう」
と、いまいましげにかたる大笠の言葉に、
「へーッ、おったまげたなあ」
小笠もあんぐり口をあけた。
やむをえぬ。彼は肩荷の中から別の衣類を出して着かえ、痛む足を曳きずり曳きずり大笠の背について湯治宿へはいっていった。
中はえらいさわぎだった。いっさい弁明に耳をかさなかったらしく、人々は田辺真人と名乗る若者を炉部屋の正面に据《す》え、その頭上に注連縄《しめなわ》、膝《ひざ》さきに香や花を供えて、すっかり地蔵さまにまつりあげ、
「お助けくだされ。脚気がひどうて畑仕事も思うにまかせませぬのじゃ」
「わしゃ、頭《ず》が病《や》めるのでござります」
「この子の瘡《かさ》が三年越し、癒《なお》る気配も見せませぬでなあ」
あらそって願いごとを訴えているのであった。
困りきりながらも気だてのやさしい若者とみえて、真人は脚気の老人の足を、
「どれどれ、ここですか?」
撫でたり、さすったりしてやったが、なにしろしんそこ地蔵さまと信じ込んでいる相手だから、指が触れただけで、
「うう、もったいない」
びりりと慄《ふる》えて、病《やまい》は気からの諺《ことわざ》にたがわず、たちまち気分だけで痛みが軽くなってしまったし、頑固な頭痛に悩まされていた婆さまは、
「きのどくに……。なんとかすこしでもよくなるといいのですがね」
自信なさそうに言いながら、それでも真人が一心こめてその頭を揉みほぐすうちに、
「おうおう、ありがたや。痛みがすっきり取れましたぞ」
叫びだしたのだから、気というものは恐ろしい。
瘡《かさ》に苦しむ十二、三歳の男の子は、これはいかになんでも急に癒るわけはない。でも真人が温泉のかたわらへつれて行って、
「せめて痒《かゆ》みだけでも、うすくなってくれますように……」
念じながら懸命に、硫黄の湯をその肌《はだ》にそそぎかけてやった結果、わずかながら痛みや痒みが消えてきたのである。
「けッ、ばかばかしい」
人垣のうしろにたたずんで、大笠は小声で悪態《あくたい》をついた。
「あいつがなんで地蔵さまなんぞであるもんか。ちきしょう。こうなったら賽銭はあきらめて、湯治客の持ち物をかっぱらってずらかろうじゃねえか。なあ小笠」
だが、それにしろ小笠の足の怪我が、いますこし良くならなければ動きがとれない。
「まったく癪にさわるなあ」
ぼやきながらも大笠は弟分に付き合って、しばらく釜の湯に泊まりつづけなければならなくなった。
3
人々の素朴な信仰に熱く取り巻かれているうちに、田辺真人は自分自身も、
「もしかしたら私には、ほんとうに地蔵菩薩がのりうつってお手を貸してくださっているのではなかろうか」
なかば疑い、なかば信じるようになった。
そしてそうなると、ますます使命感のごときものにとりつかれたらしく、国府への用事を二の次にして彼は専心、病人の介護に没頭しはじめた。
気でなおる病《やまい》は、なおる。
しかし、気だけではどうにもならない病気も多い。でも、そういう病人たちも、
「地蔵さまに結縁《けちえん》できた。たとえこの世では病苦にさいなまれても、死後は往生うたがいないにちがいあるまい」
と、よろこんで心に張りを持つのである。
――そんなさなか、旅の侍《さむらい》が一人、釜の湯へ湯治にやって来た。見るからに勇猛そうな髭《ひげ》武者だ。
「なんだと? あの若造が地蔵の化身? わはははは、愚にもつかぬことをぬかしおる」
一笑に付《ふ》したばかりか、どうやら、
「世間を瞞着《まんちやく》し、油断させて、悪事でも働こうとたくらんでいる痴者《しれもの》ではないか」
とさえ彼は勘ぐったようだった。
大笠は、この侍の太刀と持ち金に目をつけた。
「砂金だぜ。にぎりッこぶしぐれえの革巾着《きんちやく》に、ぎゅうぎゅう詰めて持ってやがら……。太刀もおめえ、銀蛭巻《ぎんひるまき》だあ。売っとばしたらいい値になるよ」
小笠にささやき、
「それにしても、しようがねえなあおめえの足……。ちっともよくならねえじゃねえか」
じれったがる。
冷淡な仲間よりも、はるかに親身になって小笠の足を心配してくれたのは、むしろ真人だ。
「痛そうだなあ。ずいぶん腫《は》れましたね」
巻き布をほどいて眉をひそめた。はじめの手当てが雑だったせいか、踏み抜きした個所は膿《う》んで熱を持ち、ここ二、三日、小笠は寝たきりのありさまなのである。
「でももう見たところ、膿みきっているようです。口があいて膿汁《うみ》が出てしまいさえすれば、きっとたちまちよくなりますよ。私が吸い出してあげましょう」
「およしなせえ、きたねえや」
あわてて足を引こうとしたが、真人のくちびるが疵《きず》口に近づくほうが早かった。
「だいじょうぶ。膿汁ぐらい口にはいったって、きたないことはありません。みなさんに心から敬愛され、信じ、慕《した》われているうちに、私はほんとうに自分が地蔵尊であるような気がしてきました。菩薩の口に入れば膿汁も膿汁ではなくなるはず……。気がねや遠慮は無用ですよ」
腫《は》れあがった足をかかえこんで、吸っては吐《は》き吸っては吐き、とうとう一滴のこらず膿汁を出してくれたのである。
「ありがとう真人さん」
小笠の目は、涙でいっぱいになった。
現金に熱はひき腫れがひき、痛みもとれて、歩き出せるまでに小笠が恢復したのを見ると、
「さあ、それじゃ早いとこ、ひと稼ぎしてずらかろうぜ」
さっそくある夜、大笠は盗みにかかった。
「仕事はおれがする。おめえはおれが合図したら、すぐ外へ逃げ出す用意をしとけ」
かねて目をつけていた泊まり客の持ち物……。中でも金目の品は、侍の巾着と太刀である。
浜に並んだ鰹《かつお》さながら板敷きにごろごろざこ寝している人々の枕もとを、手さぐりで這《は》い廻《まわ》って大笠は盗品をかきあつめ、大きな布包みにまとめあげた。そして最後に抜き足さし足、侍のそばへ忍び寄って太刀に手をのばしかけたとたん、
「ううん」
呻《うめ》いて寝返った相手の脛《すね》のあたりに、いやというほど蹴《け》つまずいてしまった。
「なにやつだッ」
おっとり刀で侍は跳ね起きた。大笠はうろたえ、布包みをかかえたまま奥へ走って突き当たりのひと間《ま》に飛び込んだ。そこは、みんなが掃《は》ききよめて、
「地蔵さまの御座所じゃ」
真人ひとりを寝泊まりさせている塗籠《ぬりごめ》だった。
「助けてくれッ、殺されるッ」
灯《ひ》のそばで、つくろい物をしていた真人が、
「ここにかくれなさいッ」
いそいで大笠を壁代《かべしろ》のかげに押しこんだ瞬間、
「ぬすびと、待てッ」
侍が躍りこんで来た。さわぎに驚いた湯治客たちも、
「なんじゃ、なにごとじゃい?」
ねぼけまなこで駆けつけた。
うなだれて、何もいわずにその場に手をつかえた真人を見、布包みを見た侍は、
「さてはやはり、貴様は愚民をたぶらかすまやかし地蔵。しかも化けの皮の一枚下は盗賊ですらあったのだなッ。勘弁ならんッ、成敗してくれるぞッ」
喚きざま太刀をぬき、やにわにその肩さきを割りつけた。血がしぶき、
「わッ」
空《くう》をつかんで若者は倒れた。
「やや、地蔵さまを斬《き》りおったッ!」
「この外道《げどう》ッ、罰《ばち》あたりッ、叩《たた》き殺せッ」
と興奮し、息まいて、群衆は侍めがけて突進しかけた。多勢に無勢だ。さしもの髭武者もたじたじして色を失った。
「待ってくださいッ」
と、このとき、断末魔の息の下から人々を制したのは真人だった。
「お侍さまの推量はただしい。私は地蔵尊なんかじゃなかった。もったいなくも地蔵のお名を騙《かた》った泥棒です。ご成敗はあたり前……。どうかみなさん、気をしずめてください。乱暴はしないでください。たのみますッ」
それだけで気力が尽きたのか、血海の中にのめったきり真人はうごかなくなった。
ぬすびとの濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着たことで、壁代のかげに慄えている大笠の命を助け、同時に殺気立った群衆の棍棒《こんぼう》から侍の命を救って死んだのだ。
「どいてくれ、おがましてくれッ」
人立ちをかき分けかき分け灯《ひ》のそばへにじり出て、
「あんたは地蔵さまだ、地蔵さまだよう」
亡骸《なきがら》にすがりついたのは小笠である。
ただの人間にちがいないが、真人の行為は菩薩の慈悲と同じだ。ほとけは遠くにいるものではない。人間めいめいの、愛の心に宿るのだと悟りはしたが、口でうまく言える小笠ではなかった。彼は、ただ、
「地蔵だ地蔵だ。やっぱりあんたは地蔵さまだったんだよう真人さん」
まだ、ぬくもりの残る若者の身体をゆすぶり立て、身を揉《も》んでいつまでも、泣きじゃくりつづけた。
かぶら太郎
1
京都への出はいり口は七つある。
その一つ、粟田口《あわたぐち》の往還を、二人づれの尼が東へ向かって歩いていた。ひとりは若い。いま一人は年のころ七十に余る老尼である。そのくせ若い尼僧のほうがくたびれたのか、顔いろも青ざめ、うつむきがちに、足を曳きずり曳きずり老尼のあとにしたがってゆく……。
「どうしたのじゃ善信、いつものそなたらしくもないのう。どこぞ加減でも悪いのではないか?」
いたわる老尼へ、
「い、いえ、なんともありませぬ」
あわてて首を振ってみせるが、そのまにも善信と呼ばれた若い尼は、苦しげに肩で息をしているのだ。
愛くるしいいかにも悧発そうな尼だった。年もまだ、十六か七らしい。花ならほころびかけた蕾《つぼみ》の年ごろを、墨染めの僧衣に清々《すがすが》とつつんでいるのが、なまじ着かざった在家の娘よりかえって立ちまさって魅力的に見える。
「ひる日中を歩きつめたので、暑さあたりをしたのであろ。寺はもうじきじゃ。辛抱しなされ」
「はい」
辛《つら》そうに伏し目になるのを、老尼は単純に暑気にやられたと解釈し、また先に立って足を運びはじめたが、じつはそれどころではない悩みに善信はひとり、胸を痛めていたのである。
月のものが止まって、もう四カ月になるのだ。
(信じられない。……信じたくない)
身体に起こった変調を、はじめ懸命に否定していた善信も、どうやら悪阻《つわり》まではじまっては、
(みごもってしまったのだ)
認めないわけにはいかなかった。口惜《くや》しい。女体とは、なんと哀《かな》しく、そして呪《のろ》わしいものなのか。
油断と責められれば、たしかに油断ではあったけれど、善信の妊娠は堕落でも破戒でもなく、まったくの災難からひき出された二重の災厄であった。
石山の観世音にお籠《こも》りに行った夜――。
うとうとまどろんでいる身体の上に、重いものがのしかかってきた。はじめは夢の中のことと思っていた。くり返し知覚される異様な感覚に、はッと本当に目が醒《さ》めたとき、
「さわぐんじゃねえよ尼さん、もう、こうなったら、されるままになっているほうが身のためだぜ」
聞いたこともない男の声が耳もとでささやいた。あたりはまっ暗だった。叫ぶまもなく口は、口で塞《ふさ》がれ、息がつまった。
恐怖になかば、気をうしなった善信を、飽きるまでむさぼると、
「あばよ」
闇《やみ》のどこかへ、男はすばやく消えてしまったのである。
たった一度きり……。それも善信にとって、苦痛しかおぼえなかった交わりでも、子というものは出来るものなのだろうか。
(どうしよう。こんなこと、長老尼《ちようろうに》さまには申しあげられない)
弟子仲間の尼たちにも、むろん、打ちあけられる話ではなかった。老尼に目をかけられている善信を、日ごろから嫉《ねた》んでいる尼たちなのだ。
「どこかで、いたずら事をしてきて、うまうま嘘をついているのでしょうよ」
としか受けとられないのは、わかりきっていた。
善信は捨て子だった。小さいときから老尼の手許にひきとられ、学問仏典、尼としての修行をきびしくしつけられた。生まれつき聡明《そうめい》だったためかめきめき素質は伸び、
「ゆくゆくは寺の跡をつがせよう」
と、この若さで老尼にも期待されているまじめな、勝気な尼僧なのである。
「なんじゃろう善信、あの人だかりは……」
いきなり老尼は足をとめた。
(いっそ、死んでしまおうか)
考えあぐねながらあとについて歩いていた善信は、あやうくその背につき当たりそうになった。
「ほんに、人がたくさん集まっております。なんぞあったのでございましょうか」
行く手の往来……。それも道のまん中に通行人が垣をつくって、ガヤガヤさわいでいる。
「なにごとでございますかな」
近寄ってたずねる老尼へ、
「やあ、浄泉寺の尼公さま、行き倒れでごぜえますだ」
顔見知りの馬子《まご》が、したり顔に教えてくれた。
「ごらんなせえ。まだ屈強の男ざかりだが、頓死《とんし》だねえ。身体のどっこにも、かすり疵《きず》一つねえのに死んでまさあ」
なるほど体躯《たいく》堂々とした偉丈夫が、炎昼の日ざしにさらされたまま仰向けざまにころがっている。ふしぎなことに下帯ひとつの裸だった。
「つついてみろやい」
「さんざ、つついただ。でも、ピクリともしねえよ。卒中にやられたのじゃあんめえか」
「そんな年じゃなかろうが……」
「なんにしても行き倒れにまちがいねえ。やれやれ気の毒に……。なんまみだぶ」
口々に勝手なことを言い合う見物人のうしろから、
「どけどけ、ご通行のじゃまだぞ」
郎党らしい権柄声《けんぺいごえ》を先立てて馬に乗った立派な侍が近づいてきた。
2
狩りに出かける中途らしい。身分もなかなか高そうな武者にみえる。
六布《むの》の小袴《こばかま》の下をくくり、鎧《よろい》直垂《ひたたれ》の片袖をぬいで生絹《すずし》の綾《あや》の射籠手《いごて》をかけ、左右の手には革の|※[#「弓へん」+「蝶のつくり」]《ゆがけ》をはめている。折り烏帽子《えぼし》の上にいただくのは、これも革でふちどりした綾藺笠《あやいがさ》……。黄金《こがね》作りの太刀をはき、腰に弦巻《つるまき》、背に箙《えびら》、片腕に重籐《しげとう》の弓をかいこんだいでたちはものものしいし、なにより人目をそばだたせたのは物射沓《ものいぐつ》の先までをおおっている行縢《むかばき》の、鹿皮のみごとさだった。
下民どもはおそれをなして、先を払う郎党の叱咤《しつた》にいっせいに逃げ散った。
「なに者じゃな、あれなる男は……」
馬をとめて遠くから、侍は死人を見やった。
「行き倒れらしゅうございます」
郎党の答えに、
「ううむ」
なお、目をこらしてじっと死人を凝視していたが、なにを思ったかいきなり馬から飛びおりると、侍は弓に矢をつがえた。
射るのかというと、そうではない。狙いすましたまま用心ぶかく、死人からできるだけ遠ざかって道のはじっこを抜き足さし足、通りぬけて行くのである。
主人のこの、警戒ぶりに、供の郎党たちもおっかなびっくり足音をしのばせて、死骸《しがい》のかたわらを通過する……。
だいぶ行ってから、やっともとどおり馬に乗り、あとも見ずに立ち去るのを遠巻きに眺めて、
「なんだ、ありゃア」
「臆病な侍もあったもんだな」
「いくらこけおどしななりをしたからって、死人を見て慄《ふる》えあがるようじゃア肝ッ玉も知れてらあ」
「ばかばかしい」
ヤジ馬はわいわい笑い、もう、それでひまつぶしにも飽きたのだろう、三々五々どこかへ見えなくなった。
老尼はだが、一人、小首をかしげて、
「いまのお侍さまのそぶり、なんとしても腑《ふ》に落ちぬ。いましばらく様子を見ていようではないか」
弟子の善信尼をうながすと、道のほとりの木立ちのかげに隠れた。
――まもなく、また、おなじ京の方角から、馬に乗った武者がやってきた。これは旅姿だ。供は一人もつれていない。前の侍にくらべると太刀も馬もだいぶ劣るが、ひととおり武具を身につけ、路用とみえる砂金の皮袋まで腰にぶらさげている。
「なんだ、こいつは……」
やはり死人に目をとめたものの、
「行き倒れだな」
この侍のほうは用心もなにもなく、うかうか馬からおりてそばへ寄り、
「やい、もう息はないのか」
持っていた弓の先で死体をこづき廻した。
その瞬間だ。やにわに死人の腕がのびた。弓をひっつかむと、
「やッ」
おどろいて引こうとする侍自身の力を利用してぱっと飛び起き、相手の腰から差し添えを抜くやいなや横一文字に高股《たかもも》を割りつけた。
「ぎゃア……」
悲鳴をあげて侍はうしろへ尻《しり》もちをつく。
おどりかかって、その身体から胴鎧《どうよろい》をはぐ直垂《ひたたれ》をむしり取る太刀をうばう……。熟練した料理人が筍《たけのこ》の皮をむく手ぎわである。またたくまに身ぐるみ強奪したあげく、馬にとび乗ってどこともなく、死人≠ヘ一散に逃げて行ってしまったのだ。
「にせ死人じゃった。あれは音にきこえた盗賊の、袴垂《はかまだれ》じゃよ善信」
老尼は身ぶるいして言った。
「先刻の武者はさすがな者じゃ。ひと目で胡乱《うろん》な死人と見破ったからこそ、あれほど用心したものを、ひきかえてこのお侍の考え無しなことはどうじゃ。同じ武人《もののふ》とは言い条、こころがけは天地の違いじゃの」
それにしても、怪我人はうんうん唸っている。
「仕方がない。寺へつれていって疵《きず》の手当てをしてやりましょう。仏者の勤めじゃ」
ちょうどさいわい、さっきの馬子が空《から》馬を曳いてもどってきた。
「やあ、尼公さま、まだこんなところにござらっしゃりましただかい」
「よいところにきてくれました。このお侍、寺まで運んでくださらぬか」
「はれまあ、えらい血じゃ。目を廻してござらっしゃるの。こりゃまた、どうしたことじゃ」
かいつまんで事情をはなし、馬にかき乗せて寺へもどった。
「薬はないか」
「それより、医者どのを呼びましょうか」
「なんの、それにはおよぶまい。思いのほか浅手じゃ。血止めを出しなされ」
「尼公さま、お召しものがよごれます。わたくしどもがいたしましょう」
と、寺では尼たちが総出で一時、ごった返したが、善信尼ひとりはさわぎも一向に身に添わなかった。
(お腹の子……このままずんずん大きくなっていったら……)
その心配一つをめぐって、心はどうどうめぐりするばかりなのだ。
(死ぬほかない。とても生きてはいられない。尼の身で、だれともわからぬ男の種を孕《はら》むなんて、この上の恥はないもの……)
でも、いざとなると実行はなかなかむずかしかった。
(首をくくろうか。それとも川へ……)
とつおいつ考えあぐねているうちに日かずがたち、怪我人の疵のほうはめきめきよくなってきた。
3
侍は、名を三善小太郎信光《みよしのこたろうのぶみつ》といった。用があって駿河《するが》の国府までくだる途中なのだという。
「なんともわれながら不覚をとりました。あの死人が盗賊の袴垂とは……」
「これからもあることじゃ。のほほんと、なんの用心もせず面妖《めんよう》なものに近づきなさるなや」
老尼に意見されて頭をかきかき、
「ご教訓、肝に銘じました。以後はくれぐれも気をつけます」
誓うけれども、どれほど肝に銘じたかは予測のかぎりではない。まのびのした馬面《うまづら》は、おでこと顎《あご》が出ばってしゃくれて、人は好《よ》さそうだが、およそ威厳に欠けていた。若い男の逗留《とうりゆう》なら歓迎しそうな尼たちまでが、さっそく『馬さん』だの『三日月さま』だのと仇名《あだな》をつけて、
「はやく出立してくれないかしらねえ」
爪《つま》はじきする始末である。善信尼だけが小太郎の存在にまったく無関心だった。
床あげにこぎつけ、足ならしの散歩がてら境内をあちこち、小太郎が歩き廻れるまでになったある宵《よい》、いよいよ善信は死を決意した。
庫裏《くり》の裏には尼たち手づくりの菜園がひらけている。その向こうは松林だ。善信はこっそり林の中へはいって行き、松の木の枝の一つに紐《ひも》をかけた。
「仏さま、長老尼さま、おいつくしみは忘れません。どうぞわたくしをお許しください」
小さな踏み台を下に置き、しばらく瞑目《めいもく》合掌して先立つ罪を詫びた。さすがに、とめどなく頬《ほお》が濡れた。でも善信は涙を払うと、台に乗って、輪にした紐をその細い首に二重にかけた。
「南無!」
あわや台を蹴ろうとした瞬間、
「なにをするッ」
大声あげて抱きついてきた者があった。男の手だ。小太郎の声だ。
「はなしてくださいッ、死なしてッ」
もがいたが、
「だめだ、その若さで死ぬなんて、とんでもないはなしだ」
小太郎はしゃにむに、あらがう善信を地上へおろしてしまった。
「わけをきかせてくれないか尼さん。――あんたは善信と呼ばれている尼さんだね」
「なにも言いたくありません。長老さまにさえ申しあげられないわけを、行きずりのあなたなんぞに……」
「風来坊のおれにだからこそ、かえってこだわりなく話せるんじゃないのか? ここの尼公さまにおれは命を助けられた。その恩返しに善信さん、無い智恵をしぼってでも、あんたを助けたいよ。相談に乗ろうじゃないか」
口ぶりはあたたかかった。兄が妹にいうような親身の情があふれていた。四カ月ものあいだ秘密をかかえて、一人、悩みつづけていた善信の胸の氷が、すうっととけた。
「聞いてくれる?」
声がうるんだ。
「あたし……あたし……」
参籠《さんろう》の夜の出来ごとを、善信は打ちあけた。
「それで……赤ちゃんができたらしいの」
「なんという畜生だ。こんな清純な尼さんを、汚すなんて……」
歯がみして、宙を睨んでいたが、
「そうだッ、名案を思いついたぞ」
小太郎はいきなり立ちあがると、松林を走り出て行き、しばらくしてもどって来た。片手に、菜園から抜いてきたらしい大蕪《おおかぶら》、一方の手には包丁をにぎっている。
借り着の袖で蕪の泥を落とし、まん中からすぱッと割って中央をくりぬいた。
「さ、これを持って厨《くりや》へお帰り。そして仲間の尼さんたちにこう言うんだ。『だれのいたずらか、こんな穴あき蕪を畑で見つけた。もったいないから食べてしまおう』そういって善信さん、汁にしても煮てもいい、一人でこいつをたいらげておしまい」
とっぴな進言だ。善信は目をまるくした。
「食べて、どうするの?」
「どうもこうもない、それだけさ。あとはおれがよいように、かならず始末をつけてあげる。あんたは身体をいたわって、だれがなんと訊《き》こうと知らぬ存ぜぬの一点ばりを押し通し、月が満ちたら子を生めばいいのだ」
「生むの? 赤ちゃんを!」
「生むのさ。だいじょうぶ。……いま四月とか言ったね善信さん」
「え、四月……」
「あと半年のうちにきっとまた、おれはこの寺にもどってきて、あんたの名誉を挽回《ばんかい》してあげる。親船に乗った気で待っていなさい」
馬面が、ふしぎにたのもしく緊《しま》って見えた。
善信は信じた。小太郎の救いを信じて厨にもどり、言われたとおり、
「ほら、ごらんなさい。半分にたち割った上、穴まであけた大蕪が畑の畔《くろ》に抛《ほう》り出してあったのよ」
仲間の尼たちの見る前で蕪を煮つけて食べてしまった。
小太郎が全快し、駿河へ旅立っていったのは、それから五、六日あとだった。旅仕度の一切《いつさい》を老尼はととのえて出発させたのである。
さすがに心細かったが、善信は耐えて、なりゆきにまかせた。
腹部はしだいに目だちはじめ、
「善信さん、あんたまあ、そのお腹はどうしたの?」
案の定、非難攻撃の嗷々《ごうごう》が善信をとりまいた。老尼も案じぬいて、
「相手はだれじゃ。かくさずに、わしにだけは話してみやれ」
根ほり葉ほりしたけれども、これも小太郎の言いつけを守って、
「知りません。なぜこのようなお腹になったのか、まったくわたしには身におぼえのないことでございます」
善信はかぶりを振りつづけた。
そのうちに産み月がき、男の子が生まれた。
(どうするの? 小太郎さん、約束を忘れたの? 助けに来てくれないの?)
気が気でなかったが、そんな善信の不安が通じでもしたように、赤児の誕生から半月ほどしてひょっこり小太郎がたずねてきた。
「おかげさまで駿河での用は残りなく片づきました。これから都へもどります」
すっかり日やけして、歯ばかり白い。
「それはよかった」
「ですが長老さま、尼寺には似合わぬ泣き声がいたしますな、あれはどこの赤児です?」
いぶかしそうに、小太郎はきょろきょろあたりを見まわした。
「困っておるのじゃ」
老尼はそっと、ため息をもらした。
「じつはそなたの留守のまに、弟子|尼《あま》の善信が、だれの種ともわからぬややを生み落としてなあ」
「ほう、あの道心堅固な尼さんが……」
しかつめらしく腕を組んで考えこんだあげく、その腕をいきなりほどいて、
「こいつはしくじった。その子供の父親、かく申すわたしにちがいありませんよ」
小太郎は笑い出した。
「なんじゃ。ではそなたが善信を……」
「いえいえ、長老さま、早合点なさっては困ります」
いそいで小太郎は手をふった。
「指一本、善信さんにわたしは触れてはいません。――ただし、凡夫のあさましさ……。寺とはいえ若い尼僧がたに怪我の介護をされているうちに、どうにも煩悩《ぼんのう》がさし起こりましてな。歩けるようになったある日、裏の畑へ出て大蕪をひっこぬき、穴をくりあけて……」
「前へ、押しあてたと申すのか」
「ははは、お恥ずかしい。でも、それでさっぱり身体が軽くなりましたが、もしや善信さん、その蕪を召しあがって懐妊されたのではありますまいかな」
蕪を犯した男……。
その蕪を食べてみごもった尼……。
「なるほどのう」
感に耐えた顔で、長老尼は幾度もうなずいた。
「世の中にはそのようなふしぎも、あるものなのじゃのう」
謎《なぞ》はとけた。疑惑もはれた。
「と、わかれば、この子はまさしくわたしの子。かぶら太郎とでも名づけて育てましょうよ」
馬面《うまづら》をニコつかせ、大事そうに赤児をかかえて小太郎は都へ帰って行った。
本作品(単行本)は、一九七二年一月読売新聞社刊。講談社文庫版は一九七八年一月刊。
本電子文庫版は、杉本苑子全集第十九巻(中央公論社・一九九八年四月刊)を底本としました。