TITLE : 武田勝頼(二)
講談社電子文庫
武田勝頼(二) 水の巻
新田次郎 著
目 次
佐久間信盛変心
機密書類入手
奸謀好餌
武田信実よりの使者
鳶ノ巣山城の血戦
馬を狙えとの下知にて候
旗幟《きし》ひらめく設楽ケ原
山県昌景の死
敗 走
落武者哀れ
高坂弾正の献策
木曾馬献上
諏訪原城明けわたし
岩村城信長の背信
腹が減っては戦ができぬ
築城、葬儀、西東
大坂表海上木津浦沖大海戦始末
十四歳の花嫁御寮
梟雄《きようゆう》松永弾正最期の日
越中五箇山の塩硝製法探索の次第
御館《おたて》の乱
黄金二万両
景虎の最期
武田勝頼(二) 水の巻
佐久間信盛変心
鳥居《とりい》強《すね》右衛《え》門《もん》が処刑されたころから、武田軍の長篠《ながしの》城攻撃は急にゆるやかになった。強右衛門が長篠城を脱出した十四日の夜には、あと二、三日で落城という情勢であったのに、強右衛門が処刑された十六日以後から武田軍が積極的に攻撃しなくなったのは何故であろうか。
長篠城址史跡保存館館長丸山彭《まるやまほう》氏はこの問題について、
「城兵五百が、一万五千の大軍に囲まれながら、よくこれを守り通した要因は何であったか。武田軍は一週間の猛攻で、城兵を周囲五百メートルほどの小区域に押しこめてしまった。もう一押しで落城したであろうのに、それができなかったほんとうの理由は何か」
と『歴史読本』昭和五十年六月号の特集「長篠の戦い」の中で述べている。氏は現地において長篠城攻略戦及び設楽《しだら》ケ原の戦いの研究にその生涯をかけている郷土史家である。丸山氏が指摘しているとおり、長篠城は落城寸前であった。それなのに落城しなかったのは、
(長篠城が落城すれば、織田勢はこの前の高天神城のときと同じように、援軍の使命を失ったと称して、さっさと岐阜へ引き揚げてしまうだろう。そうなれば、織田軍と戦うことができなくなる。この際織田、徳川連合軍に大打撃を与えなければ、彼等はますます増長し、ついには手に負えぬものになるだろう)
これが武田方の部将たちの総合した見解であり、
(織田信長を引き寄せるためには長篠城をもうしばらく生かして置く必要がある)
という結論に達していたからである。
急に武田方の攻撃が弱くなったので、長篠城内の将兵はむしろ奇怪にすら感じたであろう。
武田軍が長篠城攻撃の手抜きをしているという報は直ちに、織田軍及び徳川軍の知るところとなった。
「勝頼は飽くまでやる気なんだな」
織田信長はその情報を十六日の夕刻牛久保城で聞いたときつぶやいた。勝頼が全軍を挙げて迎撃に来るならば、それこそ味方にとって有難いことで、この時点で既に戦略的に連合軍が有利に立っているのだと思った。
織田信長は丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城警固のために置き、その翌朝、野田に向った。
(信長は敗戦となったときのことを考慮して、丸毛兵庫と福田三河守を牛久保城に入れたらしい)
という情報が武田の陣営にもたらされた。このような風説をばらまかせたのは、織田信長自身であった。織田信長はおっかなびっくり、それでも徳川家康との盟約の手前、軍隊を引き揚げることもできずに、長篠へ向って進軍中であるというふうに武田軍に思わせるため、あらゆる手段を用いたのである。
棒と縄束《なわたば》を持たせられた織田軍三万五千の軍兵もまた、直径三寸長さ六尺の棒に嫌気がして、士気がさっぱり上がらなかった。
「合戦の前から馬塞ぎの棒をかついで歩くなどというばかばかしい戦《いくさ》があるものか、これでは初めっから逃げ腰と云われてもしようがあるまい」
と洩らす兵もいた。こんなことが部将の耳に入ったらたいへんなことになるのだが、兵ばかりではなく、その上に立つ多くの者も同じような気持でいるから、信長の命令を批判するようなこの言葉も平然ととおり、はては、
「そのうち長篠城が落ちるさ。そうしたら棒を捨てて身軽で帰れる」
と私語する兵もいた。これらの兵の中には武田方からの廻し者がいた。情報はそのまま武田陣に、
(織田軍の兵は戦意全くなし)
と伝えられた。
十七日、織田信長が野田ケ原に陣を敷いてからは警戒は異常なほど厳重になった。武田軍の奇襲に備えての見張り、物見もまた多く放たれた。
十七日の夜、信長は織田掃部《かもん》忠寛を呼んで密談した。
織田掃部忠寛は、永禄八年(一五六五年)信長の使者として、古府中に武田信玄を訪問して以来、武田家との外交を一手に引き受けていた人物である。信長の養女(信長の姪)雪姫と勝頼との結婚にも一役買ったし、元亀三年(一五七二年)十二月、信玄の部将秋山伯耆守《ほうきのかみ》信友が伊奈衆を率いて美濃へ侵入し岩村城を攻め落とし、城主遠山景任の未亡人ゆう女(信長の叔母)と結婚した際も、仲介の労を取ったのは掃部であった。武田家の使者が岐阜に行ったときもその嚮導《きようどう》役をつとめたし、織田と武田との関係が危機に瀕してからも、しばしば信長の内意を帯びて武田家の要人と会っていた。
信長は掃部のような武田通を置いて、いざというときに備えていたのである。
信長と掃部との密談の内容については誰も知ることができなかったが、掃部が信長のところを辞したその足で、佐久間信盛の陣を訪れたことからみて、掃部が信長の命をひそかに信盛に伝えたもののようであった。
十七日から十八日にかけて織田軍、徳川軍の移動は急で、織田軍、徳川軍の物見、大物見は野田から設楽ケ原の間を間断なく往復し、更に連吾《れんご》川、五反田川を越え、寒狭《かんさ》川の近くまでおもむき、しばしば武田軍の物見と衝突した。
「敵は設楽ケ原の東、高松山付近に馬塞ぎの柵《さく》を設けております」
という第一報が武田の本陣についたのは十八日の朝であった。そのころ、織田軍の陣営に潜入していた武田方の間者、望月正九郎は佐久間信盛の供の一員として、信長の本陣に向っていた。軍議に列するための信盛は馬上にあって雨に濡れていた。
望月正九郎はもともと駿河の関口氏に仕えていた。後、徳川家の家臣となり、元亀三年三方ケ原の戦いの折には、佐久間信盛の陣営に加わっていた。徳川軍が敗戦となって敗走中に、武田方に捕われたが、望月正九郎を知っている者が武田の陣営にいたのでその者の口添えで生命を助かり、武田家のために働くという誓紙を入れて許された。彼は一日遅れて佐久間信盛の陣に到着した。鎧《よろい》の袖は千切れ、全身返り血を浴びていた。誰も彼を疑う者はなかった。
望月正九郎と同じような状態のもとに織田軍、徳川軍に潜入している者は数十人もいた。武田信玄は将来のことを考慮して、敵中に間者を置くことに非常に熱心だった。その効果がこの際現われて来たのである。敵中深く潜入している者がいても、得られた情報を速《すみや》かに伝達する役目が要る。これは武田家自慢の諸国御使者衆の組織に負うより仕方がなかった。
連日の雨だった。その日も朝からかなり強い雨が降っていた。信長の本陣設楽村極楽寺山に伺候した佐久間信盛等は、折から雨が激しいので本陣は一時的に八剣《やつるぎ》社に移動したと聞いて、その方へ廻った。その朝の諸将の召集目的は、強敵武田勝頼を前にしての軍議であった。部将は既に全員が集まり、信長は未だに現われない佐久間信盛をいらいらしながら待っていた。
「信盛はどうした」
と家臣に三度目に訊いたとき、信盛が現われた。
「遅いぞ信盛、肥り過ぎて身のこなしが大儀なら、牛久保あたりまでさがって、城の番でもするがよい」
信長は信盛を大声で叱った。部将が居並ぶ中で大声で叱るほどのことはなかった。信盛は一瞬顔色を変えた。
この信長が大声で信盛を叱りつけた声を、八剣社まで信盛を送って来た望月正九郎が聞いた。間もなく軍議が始まったから、彼等はその場から遠ざけられたが、信長に面罵されたあとの信盛がどうなったか気になってしようがなかった。
軍議が始まったが、それは軍議ではなく信長の作戦命令の伝達であった。軍の配置は信長が決めた。それぞれの軍隊が南は川路村の連吾橋から北は丸山あたりまで二十余町の間に、馬塞ぎの柵と、乾堀《からぼり》を設けるように信長は諸将に命じた。
連吾川を前にして連合軍の配置は右翼が徳川軍、左翼が織田軍であり、その織田軍の最左翼が佐久間信盛の指揮する約四千の軍勢であった。
「果して武田軍は攻撃して来るでしょうか」
信長の独断的作戦命令に対して、部将を代表して羽柴筑前守秀吉が発言した。
「必ず突っ込んで来る」
信長は自信ありげに云った。馬塞ぎの柵が設けられ、乾堀を掘られてしまえば、武田軍に不利である。しかも連合軍には三千梃の鉄砲がある。果して武田軍が決戦に出るであろうか――そう思っているのは秀吉一人ではなかった。信長が必ず突っ込んで来るといった自信はいったい何から得られたものだろうか、諸将はそれを考えていた。座がしんとなった。
「信盛、そちは三方ケ原の合戦の時も最左翼を守った。今度もまた最左翼である。武田の騎馬隊の強さを知っているそちのことだから防ぎようも攻めようも心得ているだろう。充分に働くがいい。ただ一つ、注意して置くが、今回は絶対に逃げることは許さないぞ」
三方ケ原の合戦の折、武田の騎馬隊を見て、一戦も交えず逃亡した佐久間信盛の率いる一千余の部隊の敗走の様相をつぶさに調査した信長は、それを持ち出して皮肉を云ったのである。信盛に満座の中で恥をかかせたのである。
部将たちははっとした。信長の性格を理解しているつもりでも、このようなことを平気でいう信長にいささか反発を感じた。冷酷な人だと思った。自分を信盛の立場に置いて考える者もいた。
信盛は一言も発せずに黙っていた。たまりかねて秀吉が話題を変えた。
「武田が攻め寄せて来るのは何時《い つ》でしょうか」
「それは馬塞ぎの柵ができ上がってからだ」
「それでは武田に損ではございませんか」
「そうだ。武田が決戦を挑むならば今だ。われらがまだ布陣を完全に終らない今、突撃に出て来たら、手強《てごわ》い敵になるだろう。しかし、武田はそうはしない。勝頼が攻撃をしかけて来るのは柵を設けた後である」
はてなという顔で秀吉は信長の顔を見た。その顔に信長は答えて云った。
「余は猿智慧《さるぢえ》の戦《いくさ》はせぬ、人間の頭を使った戦をしたい。その意味が分からぬか」
だが秀吉には信長の心を覗くことはできなかった。
「軍議はこれで終る。各自部署について柵の組み上げや乾堀掘りに精を出すように」
信長は立ち上がった。
佐久間信盛は悄然として、八剣社を出た。秀吉が傍に寄って行ってなぐさめた。
「お館様はぽんぽん云われるけれど、心の中ではそれほどことにこだわってはおられない。そのうちまた景気よく讃《ほ》められることもあろうから、あまり深くお考えにならぬように」
「深く考えるなと云われても、……忘れよと云われても、武士たる者が満座の中で恥をかかされてこのまま黙っておられようか。……いったい、貴公ならばこんなときどうなさる」
そう反問されて秀吉はびっくりして答えようがなかった。
「こういうときは、腹を切るか、裏切るか、どっちかだ」
信盛はかなり大きな声で云った。秀吉があわてて、信盛の口を制した。軍議は終った。各部将はそれぞれ供にかこまれて、自分の陣地へ帰ろうとしていた。その付近にはあまりにも人の目が多すぎた。
佐久間信盛は降りしきる雨の中で、馬に乗った。思いつめている顔だった。望月正九郎は、信盛が信長に叱られた声をはっきり聞いたし、信盛と秀吉との会話も聞いた。信盛が部将たちの前で、信長に面罵されたばかりではなく、恥をかかされたことは明白だった。
正九郎はこの新しい情報を速かに武田の陣営に伝えたかった。彼は佐久間信盛の陣中に役夫として雇われている人数の中に諸国御使者衆の者が数人まぎれこんでいることを承知していた。役夫とは軍の移動に追従しながら働く雑役夫である。荷を運んだり、穴を掘ったりの軍夫で、戦闘に参加することはなかった。正九郎はそれらの数人のものが誰の配下となってどこで働いているかをおおよそ知っていた。彼等には共通の目印《めじるし》があった。笠に南無《なむ》八幡、八幡大菩薩、八幡太郎、八幡神社など八幡にちなんだ字が書かれていることが目標の一つ、笠をかぶっていないときは着物の左裾《すそ》に焦跡《こげあと》を残しているのが目じるしだった。その目じるしは上部からの指令で時々変わった。
馬塞ぎの柵作りと乾堀掘りの仕事が始まるので陣中は騒然としていた。望月正九郎はその混雑にまぎれて諸国御使者衆を探した。その一人に間違いなしとかねて目をつけていた男が鍬《くわ》をかついで歩いていくのを見掛けた。
「ちょっと待て、どこかで会ったような顔だな」
その正九郎の呼び掛けに男は立ち止まって答えた。
「へい、私もどこかであなた様にお会いしたことがあるように存じます」
男は頭を下げて、笠に書いてある八幡大菩薩の字を正九郎に向けた。
「会ったのは遠州井伊谷《いいのや》ではなかったか」
「たしかに井伊谷でございました」
男は更に近づいて来た。
「そちの生れはどこだ」
「郡内の生れでございます」
男はそう云って正九郎の足元にひざまずいた。正九郎は男を指して、なにかその男の過失をとがめるような、そぶりを見せながら早口に云った。
「名乗るがいい」
「諸国御使者衆奥山組の古屋惣兵衛」
と男は云った。
「よし、すぐ走れ、確実に伝えろ」
そう前置きして、今朝本陣で見たこと耳にしたことを手短に伝えた。
人が近づいて来た。正九郎は威丈高になって叫んだ。
「行け、再び粗相《そそう》があったら許さぬぞ」
惣兵衛は何度も正九郎の前に頭を下げてからその場を去った。望月正九郎と惣兵衛との会話は自然に出たのではない。見たことがある顔、井伊谷ではなかったか、そちの生れは、郡内の生れですまで、すべて一連の合言葉であった。こうして念入りに相手を確かめてから用向きを伝えた。
惣兵衛は間もなく陣中から姿を消した。一度姿を消せば、あやしまれて、その場にはおられなくなる。正九郎は今朝方知ったことを重大事と見て惣兵衛を走らせたのである。
医王寺の武田勝頼の本陣では惣兵衛によって伝えられた望月正九郎からの伝言を重視した。
「佐久間信盛が信長にひどく叱られたらしい。信盛はこれに腹を立てて、秀吉に、腹を切るかそむくかどっちかだとまで云っていたそうだ」
勝頼は穴山信君に早速この話を伝えた。
「望月正九郎からの情報ならば、確かなもの、だがその信盛をどうやって味方に引き入れるか……」
信君は頭をひねった。
それまでにも、信長と家康の仲がうまく行っていないとか、信長は参戦してはいないなどという風説が次々と入って来たが、取り上げられるべきものはなかった。信長と信盛との間がうまく行っていないという風説はことさら新しいものではなく、三方ケ原の戦いがあった直後から、信盛改易《かいえき》の噂は流れていたが、今朝のような生々しい情報が入ったのは初めてだった。
軍議が開かれた。
連合軍の意図がはっきりした以上、武田軍として為すべきことは、馬塞ぎの柵ができないうちに攻めかかるか、それとも馬塞ぎの柵が出来るのを待って設楽ケ原へ兵を進めるかどっちかであった。
真田昌幸や曾根内匠《たくみ》等若手参謀たちは、柵や乾堀ができてはどうにもならぬ、直ちに出撃すべきであると主張したのに対して、武田信玄以来の宿将や御親類衆は、相手は四万を越す大軍、馬塞ぎの柵を作ったり、乾堀を掘らせているのは、武田軍を誘うためである。うっかり手出しはできない。もうしばらく敵の出方を見るべきだと主張した。
勝頼は真田昌幸や曾根内匠等と同意見だったが、軍議の性格上、強いて自説を強行できなかった。彼は御親類衆のうちの実力者、穴山信君に意見を求めた。
「はや、軍議は決したも同然、ここは自重して敵の出方を見るべきでしょう」
信君は勝頼の心の中を百も承知の上でそう云った。
「むざむざと俎上《そじよう》の魚を逃がせよと仰せられるのか」
真田昌幸は絵図面上の連合軍を鉄扇で叩きながら云った。
「ひかえよ、昌幸、言葉が過ぎるぞ」
真田昌幸の兄の信綱が昌幸を制した。
昌幸が沈黙すると、もはや誰一人として発言する者はいなかった。
「では、しばらくこのまま、模様を見ることにするが、各部隊は寒狭川を渡って設楽ケ原に一気に出られるよう、その工夫に油断なきこと」
勝頼は結論を云った。
もし、この時勝頼が昌幸の説を入れて、攻撃に出たとしたら、設楽ケ原の戦はまた違ったものとなったであろう。連合軍は雨が降っているから鉄砲は使えない。馬塞ぎの柵は不完全だから、打ちこわされるに違いない。武田の騎馬隊はこぞって信長の本陣に突進したかもしれない。
梅雨のために増水した寒狭川を一万五千の軍が一気に渡ることは困難であったので、武田勝頼は連合軍が近づいたという情報を聞くと、各部将に命じてただちに、渡河作戦に兵力を集中した。
筏《いかだ》を岸につなぎ止めてこれを浮き橋にして渡河する方法。川幅のせまいところは吊り橋をこしらえた。激流をさけての浮き橋作りや、断崖にかけられた吊り橋作りは十八日までには略〓《ほ ぼ》完成されていた。渡河点は数ヵ所設けられていた。渡河しようとすればすぐできた。
十八日の夜になって、穴山信君が医王寺の武田勝頼の本陣を訪れた。百姓姿の男を連れていた。雨の中を遠くから来たらしく男は濡れていた。
「この者は佐久間信盛殿の家臣佐久間三左衛門と申すもの、織田掃部《かもん》殿より拙者あての書状を持ってさきほどわが陣中に至りましたので、早速ここに連れて参りました」
信君は佐久間三左衛門を連れて来た事情を簡単に説明し、織田掃部から穴山信君にあてた書状をそこに置いた。
勝頼はそれに目を通した。佐久間三左衛門を信君に紹介し、この者は佐久間信盛の書状を持参しているから、速かに勝頼公にお引き合わせ願いたいと書いてあった。勝頼はその書状を信君に返すと、
「しばらく会わないが、掃部は元気か」
と三左衛門に訊いた。
「はい、お元気でおられますが……」
後は云わなかった。
「岩村城のこと以来、信長殿にうとんぜられているとのことだが」
というと三左衛門は、
「さようでございます。ようやく息をしているような有様で見るもお気の毒……」
と後を濁した。
勝頼にとって織田掃部はなつかしい人であった。雪姫との縁談の使者以来、彼はしばしば甲斐へ来ていた。結婚式のときも信勝が生れたときも、高遠城へ来た。雪姫が死んだときには、勝頼以上に嘆き悲しんだ男である。織田家きっての武田通である。秋山信友と遠山景任の未亡人ゆうとの結婚は、こうすれば織田と武田の間が将来ともうまく行くだろうと思ってしたことだが、後でこれを知った信長はひどく怒って、織田掃部を罵倒したということを聞いていた。
「さて、掃部がなにを云って寄こしたのかな」
彼はそう云いながら、佐久間三左衛門が差し出した二通の書状のうち、まず織田掃部の書状を開いた。
織田掃部は型通りの挨拶文をしたためたあとで、信長にうとんじられて以来の身の不幸を嘆き、願うことなら武田家へ奉公をと考えていると心情を吐露し、同じようにつらい立場にいる佐久間信盛に触れ、
「佐久間殿は今朝方、いささかの遅刻を理由に諸将の前でお館様に面罵されたばかりでなく、このたびの武田との戦いでは三方ケ原の合戦の時のように逃亡まかりならぬときめつけられた。佐久間信盛殿はこれほどの恥をかかされて尚且つ、信長に奉公するつもりはなくなったから、この度の戦いには、武田方に味方して、必ず武田勝頼殿を勝将軍にしたいからぜひ味方に加えていただきたいと云っている。織田方重代の部将の佐久間信盛殿が決心したことだから、疑う余地はない。よろしくお願いしたい」
と書いてあった。
次いで勝頼は佐久間信盛の書状を開いた。内容は意外に簡単だった。
「くわしくは織田掃部殿からの知らせのごとくである。意を決して誓書をしたため、武田に味方することにした。もう後に引き返すことはできぬ。よろしくお引き廻し願いたい」
という意味のことが固い字で記されていた。書状の他に誓書があった。
勝頼はそれを穴山信君の方に廻し、彼は、この夢のような話をどう解釈したらいいのか考えた。
(あまりにも、虫がよすぎるような知らせである。裏になにかありはしないか)
勝頼はそう考えながら穴山信君に目をやった。穴山信君は、信玄時代から外交問題を引き受けていた。他国の情勢にくわしいし、このような機密に属することも、幾つか手掛けている。信君のほんとうの腹を訊いてみようと思った。
勝頼は、家臣を呼んで使者の佐久間三左衛門を別室に引き取らせて、食事をすすめるように云いつけたあとで、穴山信君を近くに呼んで聞いた。
「信じてよいであろうか」
「この書状だけならば、疑いもいたしますが、今朝ほどの、望月正九郎よりの通報が裏付けとなります。まずは信じてよいのではないかと存じます」
そう云われてみるとそうであった。望月正九郎が諸国御使者衆の古屋惣兵衛を伝令に使っての情報と、佐久間信盛、織田掃部等の云っていることとがぴったり一致していた。
「だが……」
と勝頼は危うんだ。
「これが、信長が考え出した謀略だったらたいへんなことになるぞ」
「信長という人間は、深慮遠謀型ではなく、思いつきで仕事をする男です。相手を許すといつわって降参させて首を切るというような理不尽なことは平気でやるが、このような手のこんだ策を弄《ろう》したことはいままで一度もありません。また信長ほどの大名ともなれば、合戦に先立ってこのような姑息《こそく》な手段は取れますまい。それこそ世人の物笑いの種にされます。それを考えぬような愚か者では天下は取れないでしょう。これは信長が考え出した芝居とは思われません」
信君は断言した。
「そうだな。たしかに」
勝頼は信君のいうことがもっともだと思ったが、念のため真田昌幸と、曾根内匠を呼んで、この件について問うた。
曾根内匠は熟考していて、はっきりした返事をしなかったが、昌幸は次々と理由を上げて、これは信長自身が考えた謀略だろうと断言した。
一 信長が、浅井久政、長政父子と朝倉義景の髑髏《どくろ》を新年宴会の酒の肴として諸将の前に出した一事をみても、信長が常人であるとは考えられない。彼は気狂いと天才の境界にいる人間である。
二 信長は本能的に武田軍を恐がっている。高天神城救援をわざと遅らせたのも、武田軍とまともに戦っては勝てないと考えたからである。
三 信長が今度、岐阜を発つ時から既に、馬塞ぎの棒と縄を全軍に用意させたのは、武田の騎馬隊に備えることが一つ、もう一つは、その棒と縄を利用して武田軍を誘引しようと考えたからである。
四 信長は武田軍を馬塞ぎの柵まで誘い出し、三千梃の鉄砲によって致命的な打撃を与えようと考えている。
五 信長がその考えを実現に移すためには、なにがなんでも、武田軍に突撃を敢行するようしむけねばならない。信長は常人ではない。勝つ為には、いかなる策でも取る男だ。武士の体面だの、人の噂など気にする男ではない。おそらくこれは佐久間信盛の弱味につけこんで、彼を利用しての信長の謀略に違いない。
六 信長の謀略だという証拠の一つは、軍議が終った後で、佐久間信盛が秀吉に向って、切腹するか裏切るかのどちらかだと云ったということである。信長は常人ではないが、信盛はきわめて平凡な部将である。その信盛が、そんなことを他人《ひ と》前で大きな声でしゃべる筈がない。これは明らかに、信盛と信長との間に亀裂が入ったように見せかけるためである。
七 この件については佐久間信盛を信用してはならない。表面上は佐久間信盛の裏切りを許したような顔をして、敵の動きを監視すべきである。
曾根内匠は昌幸の話をうなずきながら聞いていたが、積極的に支持しようとはしなかった。
穴山信君は昌幸の弁説を初めは苦々しい顔で聞いていたが、あとになると、いくらか昌幸の説に動かされたようであった。勝頼は昌幸の説を素直に受け入れていた。佐久間信盛をうっかり信用できないぞと思っていた。
勝頼は佐久間三左衛門を呼んで、表面的には織田掃部と佐久間信盛の申し入れを快く許すと告げた上で、すみやかにくわしい敵の情報をよこすように命じた。
設楽ケ原の合戦は疑問だらけの戦いである。その疑問の最大なるものは、馬塞ぎや乾堀を掘って待っている連合軍になぜ武田軍が自殺的な突撃を繰り返して潰《ついえ》たかということである。これに関して、信長が佐久間信盛を使って武田軍を誘い出したという俗説がある。『三州長篠合戦』『紀伊国物語』『長篠実戦記』等である。何れも史書として扱うには問題の多い本である。これ等には佐久間信盛が信長の命を受けて、武田方の跡部、長坂等と秘かに通じ、合戦のその日には、必ず武田方に寝返るからといつわって武田勢を設楽ケ原に誘い出したと書いてある。ちなみに、長坂長閑斎はこの戦いには参戦していない。
機密書類入手
十九日になって武田軍は寒狭川を越えて設楽ケ原へ移動を開始した。連合軍が柵を作り、乾堀を掘っているのを黙って眺めていることもなかった。連合軍は防備の姿勢でいるかぎり柵を出て攻めて来る気配はなかった。
「いよいよ敵は出て来たな、だが、この柵まで引きつけるのはなかなかむずかしいぞ」
信長はひとりごとを云った。信長は情況変化に応じて次々と指令を出した。特に軍議らしいものは開かれず、ほとんど信長ひとりの指図によって連合軍は動いていた。
「馬塞ぎの柵が出来たら、各部隊は、鉄砲隊のために雨除けの庇《ひさし》を作るなり、小屋掛けするなり、各鉄砲隊長の指示に従いそれぞれ協力せよ。雨除けは本日いっぱいに作ること」
という命令が出た。
野原である。小屋掛けを作れと云ってもそう簡単にはできない。庇を作れなどと云っても、そのあたりに板はない。だが、信長の命令は絶対的であった。軍監や目付の眼もある。やれと云ったら、なんとしてもやらねばならぬ。織田軍三万五千、徳川軍八千、合計して四万三千人が、三千梃の鉄砲にこだわるとすれば十四人が一組になって、一梃の鉄砲の雨除けを工夫するということになるのだが、そうは行かない。総人員の三分の一が雨除けに取りかかったとすると、鉄砲一梃について五人の人手が要るということになった。
要領のいい奴は、無人の小屋を担いで来て、そのまま鉄砲隊の雨除けとした。それを見て民家に押しかけ、屋根をもぎ取って来る者もいた。戦争を前にしての調達だから、いやも応もなかった。葉のついた枝を重ね合わせるようにして、雨除けを作った者もあるし、筵《むしろ》類をたくみに利用した者もいた。変わったのは桶の底に銃身が通るだけの穴をあけて、桶そのものを鉄砲の火口覆《ほくちおお》いにしようと考えた者もいた。
鉄砲には火口を覆う、雨覆いがついてはいたが、強い雨風の時は使いものにならなかった。
折から梅雨の末期であった。豪雨が続いた。信長が雨除けの工夫を全軍に命じたのはこの状態でも尚且つ鉄砲を有効に使いたいがためであった。
雨除けが出来ましたという報告を受けると、それぞれの隊のしかるべき者が検査して歩き、良くないものは作り変えを命じた。
柵作り、乾堀掘り、そして鉄砲のための雨除け作りの様子は、武田側の物見によって逐一武田陣営に報告された。
(連合軍は飽くまでも防戦に出る覚悟らしい。しかも鉄砲に頼る以外に策はないとは……よほどわが軍を恐れているらしい)
設楽ケ原に出陣中の武田軍の諸将の多くはこのように考えていた。兵の数から行くと三対一である。それなのに、初めっから武田軍を恐れ、防ごうとして懸命になっている連合軍の様子はなにか哀れでもあった。裏になにかがあるとはどうしても考えられなかった。
織田、徳川連合軍が、鉄砲隊の雨除け作りに懸命になっているという情報を聞いた勝頼は、武田隊のうちで、もっとも鉄砲に明るい、山県昌景の配下の鉄砲隊長志村長道を山県昌景ともども呼んで、連合軍の急作りの雨除けが役に立つものかどうかを聞いた。
志村長道はこれに対して立ちどころに答えた。
「このように強い雨の降るときは、いかにあがいても鉄砲は思うように使えません。小屋掛けにしようが、庇をかけようが、湿《しめ》り気《け》を防ぐことはできません。雨しぶきや、霧は、隙さえあればどこからでも入りこんで、火薬を湿らせてしまいますし、火縄の火を消してしまいます。鉄砲が、鉄砲として充分な威力を発揮するのは、城の中から、寄せ手を撃つときか、さもなければ、晴天における野外の合戦でございます」
勝頼はさもあろうと頷《うなず》き、志村長道と共にやって来た山県昌景に訊いた。
「梅雨が晴れぬうちは、敵の鉄砲は役に立たないということらしい。すると……」
「さよう、敵は柵を作り、乾堀を掘り、梅雨明けを待っているものと思われます」
「信長はそう注文通りになにもかも行くと思っているのだろうか」
「解《げ》せませぬ、常人では考えられないことです」
昌景は雨足の激しくなった空を見ながら云った。
「わが軍が寒狭川を渡り切って、敵陣を攻撃できる態勢を取れるのはいつごろになるかな」
その昌景に、勝頼は志村長道をさがらせた後で訊いた。
「今直《す》ぐにでもやろうと思えばできます。しかしここまで来たら急ぐことはございません。きょう(十九日)と明日(二十日)にかけて悠々と陣の移動をしながら敵の動きを見たらよいかと思います。その間に攻撃の機があれば攻めるべきです。また敵の馬塞ぎの柵を破るのは梅雨が上がらないうちがよいと思います。雨と鉄砲とそして馬、このかかわり合いの中に攻撃の策がひそんでいるかとも思われます」
昌景は答えた。
「雨が降っておれば、鉄砲はあまり当てにならぬ。しかし馬も強い雨の中では充分に使いこなすことはできぬと云いたいのだろう」
昌景は攻撃そのものに反対ではないが、なにかを虞《おそ》れているらしい。それはいったいなんであろうかと勝頼は考えていた。
「そのとおりです。その上《うえ》敵と戦うならば、人数の差は問題になりませぬが、柵や堀と戦うことは味方にとってまことに不利でございます。もし味方が攻撃に出るというならば、いかなる犠牲を払っても必ず勝てるという目算が立っての上のことでございましょう」
昌景は理を通して云った。
「その目算がいまのところまだ曖昧《あいまい》だと申すのか」
勝頼は昌景が口にしている目算とは佐久間信盛のことだなと思った。
(佐久間信盛は誓書までよこした。信長が裏であやつる寝返りとは思いたくはないが真田昌幸やこの昌景の考え方も無視はできぬ)
勝頼はしばらく考えたあとで、
「戦《いくさ》には機がある。その機を掴《つか》むには……」
その勝頼の言葉を押さえるように昌景が云った。
「進んで掴むか、待っていて掴むかどっちかです。今のところは待つ以外に手はありません。敵も待っています。こちらも待てばいいのです。やがて敵のほんとうの心が分かるでしょう」
昌景が云った。同じような見解を馬場美濃守信春も抱いていることを勝頼は思い出した。佐久間信盛の寝返りを、「あまり話がうま過ぎる」として疑っている部将は多い。勝頼自身も一夜明けてみると佐久間信盛の誓書について一抹の疑念を持つようになっていた。
信長は雨の中を最前線を見て廻った。馬塞ぎの柵や乾堀はほぼ完成していたが鉄砲隊の雨除けは不完全であった。野原の中で完全のものを作れと云っても無理であることを知りながら、命令したのだが、やはり思うとおりに行かなかった。それでも、その急造の雨除けで、鉄砲隊が少なくとも予定の三分の一の活躍ができるだろうという、家臣たちの言にほぼ満足したようであった。
「あとは、なんとしてでも、武田軍を誘い出すことだ。敵が攻めて来なければ、こんなものはなんの役にも立たない」
信長は柵を眺めながらつぶやいた。
(尋常の手段では駄目だ。佐久間信盛の寝返りだって、敵がそう簡単に信用するかどうか疑問だ。敵には山県昌景や馬場信春などの軍上手《いくさじようず》の武将がいる。容易のことではだまされぬぞ)
信長は前線から本陣に帰ると織田掃部を呼んで、密かに伝えた。
「味方の兵備についていささかなりとも偽りのないよう、絵図面を添えて、今宵のうちに勝頼の手許に届けるよう佐久間信盛に伝えよ」
信長は口で云っているだけではなく、手許に置いてあった、全軍の配置図、兵力、装備、荷駄隊、役夫の数にいたるまで、軍の機密に属するような細かい資料をそっくり掃部に渡して、佐久間三左衛門の手を通じて武田軍へ届けるように云いつけた。
「これでは、こちらの手の内をそっくり敵に知らせるようなものではございませんか。これを得た敵は喜ぶでしょうが、味方はまことに不利になります」
掃部が云った。
「いや、かまわない。この期《ご》になると、敵にとってもこんなものは大して役に立つものではない。だが、これを敵の手に渡すことによって、佐久間信盛が敵に信用されることができさえすればそれでよいのだ。敵を柵まで誘い出すためには、手段にこだわってはならない」
信長は自信を持って云った。
掃部をさがらせた後、信長は丹羽長秀を呼んだ。丹羽長秀は信長の家臣の中でも特に信任厚い部将の一人であった。
「直ちに現在の陣を取り払って、佐久間信盛の陣のうしろに移動し、そこに柵を設け、乾堀を掘れ」
信長は絵図面を指して云った。
「なにゆえ、柵を……」
後詰めの形を取るのはかまわないが、柵を設けるわけが分からなかった。これでは、味方の佐久間軍を背後から監視する督戦部隊のようなものである。長秀は信長の顔を見た。
「命ぜられたとおりにやればいい。尚今後とも、佐久間隊の動きにくれぐれも気を配るように」
それで長秀は信長が信盛を疑っているらしいことを知った。考えられないことだった。だが、三方ケ原の合戦以来、信長は佐久間信盛を白い眼で見ていることは事実だし、十八日の軍議の席で信盛が信長にきめつけられたことから推し量って、或いは信盛自身の考え方に大きな変化があったという推測が成り立たないことはなかった。
丹羽長秀はそれ以上なにも云わなかった。へたなことを云えば信長に怒鳴られることを知っている彼は、この際は信長の命令を忠実に聞くことこそ専一だと考えた。
丹羽長秀の陣は中央後部にあった。その陣をそっくり、左翼の佐久間隊の後方に移すことはそう簡単ではなかった。ましてや、新しく馬塞ぎの柵を作れと云っても、岐阜から持って来た棒と縄は既に前線に持ち出して使ってしまっている。丹羽長秀は止むなく陣を移動してから、前に乾堀を掘ることにした。
丹羽隊は合計三千余である。この大軍の移動は武田軍の目を牽《ひ》いた。
(連合軍はなんらかの新しい策に出るらしい)
と、その動きは注目されたが、結局は中央の後詰め隊を左翼陣に移したということで、見方によっては左翼を強化したという以外に軍移動の意味はないように思われた。しかし、その丹羽隊が前面に堀を掘り出したのを見て、武田方は、不審の念を持った。
信長は寸刻たりともじっとしてはいなかった。次々と人を呼び命令を与え、また報告を聞いていた。
安達天地之助が呼ばれた。
「梅雨は何時上がる」
信長は天地之助の顔を見るといきなり訊いた。
「さよう、明日にも上がるのではないかと思います。遅くとも明後日にはきっと上がります」
天地之助は即座に答えた。
「なぜそう思うのか」
「雨の降り方です。このような強い雨が降ればまもなく梅雨は上がるものです。きのうあたりから急に蒸し暑くなったのも、梅雨の上がる前兆だと思います」
「梅雨が上がるのは、明日なのか明後日なのか」
「明日上がらねば、明後日の二十一日には必ず上がるでしょう」
「これはそちだけの考えなのか」
信長はやや、語勢をやわらげて云った。天地之助はその質問の意味が分からぬらしく妙な顔をした。
「つまり、敵方の天文方《てんぶんかた》の者も、同じように思っているかどうかと訊いているのだ」
信長は外の雨を気にしながら云った。
「おそらくは拙者と同じ意見だと思います。ここ二、三日中に梅雨は止むという表現を使うか、ここ三、四日中に梅雨は上がると云うかは、その人によって違ってまいります」
信長は深く頷いた。彼は酒井忠次に武田方の事情に詳しい、心利いたる者を連れて来るように命じた。
酒井忠次は間も無く鳥居助左衛門を連れてやって来た。
「この者は三日前まで武田の陣中に忍ばせ置いた者でございます」
忠次が助左衛門を信長に紹介したあとで、鳥居助左衛門と鳥居強右衛門の関係について説明しようとすると、
「いや、その要はない。余の問いだけに答えればよいのだ」
と忠次を制したあとで助左衛門に直接訊ねた。
「武田軍の天文方《てんぶんかた》は誰だか知っておるか、また勝頼は天文にくわしい土地の者を誰か雇ってはおらぬか」
信長の問いに対して助左衛門はおそるおそる答えた。
「天文方の名前は存じませぬが、長篠近くの村の作左衛門という者が時折、本陣に召されて天気のことなど申し上げているようでございます」
信長はその答え方に大いに満足したようであった。
「忠次、その作左衛門と申す者の口を通じて、勝頼の耳に、梅雨の上がりは、四、五日先であると云わせるようにせよ、今宵のうちにやるのだ。手荒なことはせず、上手にやるのだ。よいな」
一方的な命令であった。なんでそんなことを云わせる必要があるのか、忠次は理解しかねていた。
「なにを驚いたような顔をしているのだ」
信長は忠次に云った。
「梅雨の上がりが……」
忠次は首をひねった。
「鉄砲だ……」
と信長に云われたが、忠次はまだよく解せない顔をしていた。
「梅雨は明日か明後日には上がる。それはもうはっきりしている。もし作左衛門が、そのとおりのことを云えば、武田軍は恐らく、陣を退くだろう。梅雨が上がれば三千梃の鉄砲が思う存分使える。鉄砲の前には馬塞ぎの柵がある。武田軍といえどもむざむざ死地に飛びこむようなことはしないだろう。必ず陣を退く」
分かりましたと忠次は膝を叩いて云った。
「いや、いや、まだ分からないぞ。敵も、こちらの兵力をよく知っている。戦ったら必ず勝てるという自信を裏づけるなにかがなければ、攻めては来ない」
信長は忠次をたしなめて、とにかく、その作左衛門については、よくよく慎重にやれと命じた。
その夜、鳥居助左衛門は作左衛門の家を密かに訪れた。武田の家臣だというので家の中に入れて面談している間に、助左衛門は徳川方の者であることを名乗った。
「武田の本陣へ行って天気のことを話しているそうだが、最近は何時行ったか」
助左衛門の問いがきびしくなった。云い逃がれをしようとすれば一太刀で斬り伏せられそうな気配を感じたので作左衛門は、
「十七日に本陣に呼ばれて、梅雨はいつごろ上がるかと聞かれましたから、はっきりしたことは申し上げられませぬが、数日後には上がるでしょうとお答え申しました」
「おそらく、明日あたり呼ばれるだろう。その時は、梅雨が上がるのはあと四、五日かかると云って貰いたい」
「嘘を申せと云われるのですか」
「そうだ。そうしないと、戦《いくさ》が終らないのだ」
助左衛門はそう前置きして、話し出した。
長い間の戦乱のために日本中の農民は困り果てている。なんとかして国が一つにならねばならない。織田信長様は、日本のほぼ三分の一をその勢力下に収められている。今の形勢から云えば武田が亡びるのは時の問題である。できることなら今のうちに織田、徳川連合軍に心を寄せたほうが将来のためになる。
「なに、よくよく天文《てんぶん》を案じたら、この梅雨はあと四、五日は続くことが分かったと云えばいい。どうせ天気のことだ、当らないのが当り前で、当る方がおかしい。万一、お前が云ったことが事実と合わなくっても、とがめられることはあるまい」
そう云って置いて、助左衛門は居住いを正して、
「もし、拙者のいうことを訊いて貰わねば、ここで切腹するつもりだ」
と云って、その支度にかかろうとした。それではあとが困るという作左衛門に、
「では、頼みを聞いてくれるか、そうしてくれれば、戦いが終ったあと恩賞は思いのままである」
と酒井忠次の印判を押した恩賞沙汰の書き付けを出して誘った。作左衛門はとうとう負けて、助左衛門の前で誓書を書き、酒井忠次の書き付けと交換した。
すべてが終ったあとで、天文屋作左衛門が云った。
「ほんとうに、これで戦は終るのでしょうか」
その日(十九日)、暮れて間も無いころ、設楽ケ原に陣を敷いた武田軍の右翼、馬場美濃守信春指揮の軍団の前線で連合軍と武田軍の前衛隊の小競合いがあった。場所は浅木《あさき》のあたりである。
馬場軍団の物見数名が敵情を窺《うかが》いに出たところ、連合軍の陣の方から走って来る人影を見た。雨が止み、雲が切れ、まだいくらか残っていた空の明るさが、その影にさしかけていた。影を影が追っていた。追手は数名である。その距離が次第にせばまってゆく。
馬場隊の物見頭の土橋武兵衛は五人の部下に云った。
「味方かもしれない。よく確かめてから、助けてやろう」
敵に追われているのだから味方だと考えるのは妥当であるが、そうでない場合だってある。大合戦になると、野盗が戦線に入りこんで武具をかっぱらうことがよくある。そういう者に加勢をする必要はない。
「追手は四人だ」
と土橋武兵衛は草叢《くさむら》から頭を上げて云った。味方は六人である。追手が敵であることはほぼ確実である。六対四ならば勝てる。敵の一人か二人生け捕りにできるかもしれない。武兵衛はふとそんなことを考えた。
追手の四人のうち一人はひどく足が速い男だった。こっちへ向って逃げて来る男を追い越して前に出ると、くるりと振り返って刀をかまえた。激しい斬り合いが始まった。後の三人が追いついた。逃げる男は四人にかこまれた。
「武田方に通ずる者だ。生け捕れ」
という声がした。
四人は一人を囲んで、じりじりと迫った。男は腕が立つらしく、四人を相手にしきりに刀を振り廻しているのだが、まず、足に傷を負い、次いで、肩先に槍を受けた。
「危いぞ、助けてやれ」
土橋武兵衛が叫んだ。六人は一気に草叢を飛び出して、四人に斬りかかった。土橋武兵衛の槍が、敵四人のうちの頭と思われる者を一突きで倒すと、後の三人は逃げ去った。
「武田殿の家中か、かたじけない」
と傷ついた武士が土橋武兵衛に云った。おかしなものの云い方だったので、武兵衛は警戒した。
「御大将武田勝頼公への書状を持参しておる者でござる。丹羽長秀の手の者に追われて、もう少しで捕われるところだった。すみやかに本陣へ……本陣へ連れて行って下され……」
そう云って男は草叢に倒れた。
「使者か」
武兵衛は訊いた。
「さよう火急を要する書状をたずさえておる使者でござる。はやく、はやく……」
男は気がせくらしかったが、それよりもまず、彼の傷の応急処置をしないと動かすことはできなかった。武兵衛はそこにかがみこんだ。
「はやくしないと、追手が……」
と使者は云った。
武兵衛は手下の二人を、近くの武田陣へ走らせて応援を求め、あとの四人で、使者と称する者を助けて武田陣へ運ぶことにした。雲の切れ間が閉じて真っ暗闇となった。武田の陣の灯が目印となった。背後に人の声がしたが、その暗さでは、まず発見されることはなさそうだった。
武田の陣からも二十名ほどの兵が繰り出されて来た。闇の中で、敵と味方が互いに相手の悪口を云い合ったがそれ以上は互いに近づくことはなかった。
武兵衛は傷ついた使者を連れて、馬場美濃守信春の陣に戻り、信春の前に出頭した。
「土橋武兵衛と申したな。あっぱれである」
と信春はまず武兵衛とその部下を讃めてから、改めて使者と称する者に向ってその名を問うた。
「佐久間信盛殿の使者、佐久間三左衛門でございます」
三左衛門は苦しそうな顔でそう云ったあと、
「火急の書状、なにとぞ勝頼公へ……」
と、懐中深く抱いていた一包みの書状をそこに出したあと気を失った。出血が多いせいだった。
美濃守はことの重大性を知ると、三左衛門の手当てを医者にまかせ、自らその書状を持って、医王寺の本陣に勝頼をたずねた。
勝頼は美濃守に会ってその書状の包みを開いた。それは連合軍の機密書類いっさいを網羅したものだった。佐久間信盛からの勝頼あて書状には、
「手短に用件のみ申し上げます。別包みは現在の連合軍の陣容及びその細部にわたる資料であり、ごらんになればお分かりになると存じます。ただ丹羽長秀の陣は今日の午後になってから突然吾《わ》が隊の背後に移動して参り、堀をかまえております。これは、信長殿が吾が隊に対して疑いの目を持っているなによりの証拠と思われます。こうなれば、ただことを急ぐのみであります。武田軍がいっせいに攻撃に出た折こそ、日ごろの怨念《おんねん》を晴らすときと心得ます。吾が隊は貴軍の騎馬隊と戦うと見せかけつつ後退し、機を見て、背後の丹羽隊及び隣の羽柴隊に襲いかかります。こうなれば連合軍は混乱の極に達するかと思われます。貴軍が中央を突破し、徳川殿、織田殿の首級を挙げるのはおそらく、二刻ぐらいの間のことに思われます。問題はその合戦開始の時機ですが、それについてはよくよく御熟考下されるよう願います」
勝頼はその書状を美濃守に渡した。
「美濃守はどう考えるか」
勝頼が云った。佐久間信盛の寝返りを本気にするかどうかという質問であった。
「佐久間三左衛門を追っていたのは、丹羽長秀の手の者でした。情勢は、この書状のとおりで、佐久間信盛殿は離叛するしかないところまで至っているように思われます。それにこの機密書類です。何百人の間者や物見を使っても、これだけ完全に探り出すことはできません。これこそ連合軍の嘘偽りのない裸の姿です。これだけのものをこちらに洩らしたということだけで、まず信盛殿の心は確かめられたとみるべきでしょう」
美濃守が云った。
勝頼は、真田昌幸と曾根内匠の二人を呼んで、信盛の書状や、送られて来た機密書類を見せて、
「これでもまだ信盛を疑うか」
と問うた。勝頼は美濃守の言を受け入れようとしていながらも念のため、うるさ型の二人の使番衆(参謀)に訊ねたのである。
「ほとんど疑う余地がないほど、材料は整いました。だが拙者は疑っています。これは私の勘のようなものです。織田信長という異常な人間の頭の中から出た異常な謀略だと考えるのです」
昌幸は云った。
「勘か、なるほど」
勝頼は昌幸の答えにはあまり好感を持っていないようだった。
「そちの勘はどうか」
勝頼は曾根内匠に訊いた。
「あまりにもよくでき過ぎている点では、まだまだ疑わしいと思っております。例えばこの機密書類ですが、これが今、わが軍に入ったところで、わが軍の利はどれほどのことがありましょうや。合戦にはことこまかな資料など要りません。おおよその軍勢とその配置、そしてもっとも知りたいのは敵の心です。本気で戦う気があるかないか――それがもっとも知りたいところです。いかにも軍勢の比率では三対一です。だが敵兵に戦う意志がなければ、この比率は逆転することもあります。佐久間信盛殿からの通報にはそのことが書いてない」
曾根内匠は答えた。
「敵兵に戦意がないことは、物見からの報告でほぼ分かっておる」
と美濃守が云った。
「それが、信長一流の見せかけであったらどうなるでしょうか。織田殿、徳川殿は兵農分離の政策を取り進めています。兵たちの多くは戦《いくさ》を職業としている者です。そういう連中ですから、上からの命令とあらば、自ら相手をたぶらかすような虚言を吐くことも平気でできるでしょう。戦をいやがっているとか、武田の騎馬隊を恐れているなどという情報をそっくりそのまま受け取ることはできません」
曾根内匠は佐久間信盛自身にはふれず、遠まわしに、昌幸の言を支持した。
「要するに連合軍は吾が軍を馬塞ぎの柵まで引き寄せて鉄砲で打ち取りたいのです。そのためには、考え得る、ありとあらゆる策を取るでしょう」
曾根内匠にかわって、真田昌幸が云った。勝頼はいささか困惑したようだった。重臣美濃守の観測が当っているか、若手参謀の二人の勘が当っているか、そしてそのどちらの意見を採用するかは総大将の自分のなすべき仕事だと思うと、なにか心が重かった。
雨がまた激しく降り出した。
「明二十日の午前中には布陣は終る。そのころになればまた、情勢は変わって来るであろう。できることなら、戦機を得て戦いたい。退きたくはない。われわれは信長と家康とが首を揃えて戦場に現われることを長い間待っていた。そして、今吾々は連合軍と何時でも決戦できる状態にいる。今にして、連合軍に痛打を与えなければ、彼等は益〓増長し、われらは日を追うて疲弊《ひへい》の一途をたどるだろう」
勝頼の言葉を、真田昌幸と曾根内匠は俯《うつむ》いたまま聞いていた。
奸謀好餌
五月二十日の朝、雨の中を勝頼は医王寺の本陣を出て寒狭川を渡り設楽ケ原に出陣し、清井田に本陣をかまえた。
武田の各部隊の多くは十九日中に移動を終っていたが残余の部隊も二十日の朝には移動を終り、連吾川をへだてて織田軍と対決する姿勢を取った。
北から南に向って流れる連吾川は馬で飛び越えられそうな小川であるが折から梅雨の最中なので水量が増しており、一気に飛び越えるのは無理だった。
連吾川を挟んで両側は草原だった。当時は肥料のほとんどを堆肥《たいひ》(つみごえ)に負っていた。農家は、朝草刈りと云って、まだ暗いうちに馬を曳いて家を出、遠くの草原で草を刈り取り馬の背につけて日が出るころには家に帰る。その草は馬小屋に投げこみ、馬に食べさせ、残りは馬の足で踏ませる。そして、馬の糞尿と共に踏みかためられたものは、定期的に馬小屋からかき出されて、前庭に積み上げられる。これが堆肥となる。一年間積み上げられた堆肥は人家の二倍にも三倍にもなる。田畑を多く持っている人ほどこの堆肥は多く必要とする。夏草は馬に食わせるものばかりでなく、一番草、二番草、三番草と年三度に分けて、刈り取って乾燥させ、牛馬の冬の食料にすると共に、前に述べたような堆肥の材料にする。従って、農家にとっては、この草があるかないかが農業が経営できるかできないかの境目になる。だいたい耕地面積の少なくとも五倍の草地がなければ、やって行けないと云われていた。
当時、採草地の多くは私有地ではなく村の共同財産であった。採草地の入会権《いりあいけん》をめぐって血の出るような争いが諸所に起こったのも当然なことである。化学肥料の登場しない時代は、この採草地は日本全国に渡っており、森林は人里離れたところでないとなかった。現在森林となっているところの多くが採草地であった。
連吾川は北は須長《すなが》に発し南は豊川に至る、長さ約三十町余(約三キロメートル)の小川である。
連吾川をはさんで両側は狭い帯状の平地になっているが、その西側はなだらかな丘陵地帯になり、東側はやや起伏の多い、地形がこみ入った丘陵地帯に入る。当時このあたりは全面的に採草地であった。ずっと北の方に行って初めて森林を見ることができた。
勝頼は清井田の本陣からはよく敵陣が見えないので、旗本を率いて、西進して才ノ神まで来て、小高い丘の上に登った。眼下に連吾川と南北に延びる帯状の平地、そして連吾川の向うに物々しく張りめぐらした柵、そして後方の織田、徳川連合軍の陣容が手に取るように見えた。雨が降っているので視界は遠くまでは届かないが、どうやらその馬塞ぎの長さは二十余町(約二千五百メートル)に及んでいるようであった。その背後に四万三千の軍勢がひしめき合っている様子はなにか異様であった。
「敵はあの馬塞ぎの柵を飽くまでも固守し、わが軍が攻撃に出るのを待っているらしい。三倍の軍勢を擁しながら、守勢に出るとはまことに愚かなことだ……それほど馬が怖いのだろうか」
と勝頼は真田昌幸に向って云った。
「馬も怖がっていますが、山も怖がっています。信長は木曾と美濃との国境で木曾衆と戦ってひどい目に会っています。彼は山の中での合戦は好まないのです。連吾川から西は平坦な丘陵が続いていますが、連吾川から東は、地形が複雑となり山が多くなります。大軍が行動するのは不利と考えるのはもっともだと思います」
真田昌幸はそう答えると、空に眼をやった。黒い雲が垂れ下がっていた。
「梅雨はなかなか上がらないらしいな」
と勝頼は昌幸の眼を追いながら云った。
「梅雨はもう上がります。おそらく明日あたりには上がるのではないでしょうか」
「いや、今朝ほど初鹿野《はじかの》伝右衛門を作左衛門のところにやって聞かせたら、もう四、五日は続くだろうということだ」
「あと、四、五日……」
昌幸はつぶやいた。おかしいな、たしかに作左衛門は数日前に同じことを云ったのに。昌幸は空を見た。黒い雲が垂れ下がって豪雨になりそうな気配だった。今朝方も一度豪雨が降り、雷を聞いた。雷が鳴るのは梅雨の上がるしらせである。あと四、五日とはおかしいと思った。だが昌幸はそれ以上このことにこだわらなかった。まさか敵の手が天文屋作左衛門にまで廻っているとは気がつかなかった。
「天気というものは分からないものだ」
昌幸はそう云いながらも、なにか、心の底にこだわるものを持った。
「軍議を開くぞ」
と勝頼が云った。はじめの一言は小さい声だったが、二度目は大きかった。傍にいたむかで衆(伝騎)が勝頼に近寄って来た。
勝頼は、清井田の本陣に引き返し、すぐ軍議を開くことを各部将に伝えるように命じた。
油紙で屋根覆いをした本陣の幕舎も、雨には完全ではなかった。強い雨が降るとところどころに雨漏りがした。
軍議には馬場信春、山県昌景、跡部勝資、真田信綱、内藤昌豊、原昌胤、土屋昌続、小幡信貞等の部将、御親類《ごしんるい》衆の穴山信君、一条信龍、武田信廉、武田信豊等の他に側近の真田昌幸、曾根内匠等が加わった。
「まず情報を整理した上で、敵を攻めるべき作戦を練ることにする」
勝頼が云った。軍議を始めるに当って、敵を攻めるべき作戦と云ったのは、攻撃を前提にした設楽ケ原進出だからであった。退却するならば長篠城の包囲を解いてさっさと伊奈街道を北上すればいいのだが、いままで待ったのは織田信長を引き寄せるためであり、連合軍に痛打を浴びせるためだった。
攻撃という前提のもとに軍議が始まってもあやしむ者はなかった。ただ居並ぶ部将たちも目前に見る敵の大軍にいささか驚いているようであった。良策あれば攻撃もいいが、むざむざ敵の罠《わな》に陥るようなことはしたくないと内心思っている者もいた。敵の大軍を前にして全体として慎重になっていることは事実だった。
「まずいままでの状勢をつまびらかに話して貰いたい」
勝頼は穴山玄蕃頭《げんばのかみ》信君に云った。なんと云っても、信君が御親類衆を代表する大将であり、実力者だったからであった。
勝頼が穴山信君を指名したことによって、軍議は一層緊迫したものに見えた。それまでも軍議に入る前に情報が述べられることが多かったが、それには側近衆が当った。曾根内匠か或いは真田昌幸がこれに当り、情況説明が終ると、勝頼自身が軍議を進めた。勝頼が情報の整理を信君に任せたのは、この軍議が重大なものであるからだった。
信君は絵図面を前にしてまず敵軍の配備を説明したあとで云った。
「この絵図と実際の敵の軍の配備といささかも違っていないし、物見や間者等によって得た情報ともぴったり合っている。この機密の絵図をわが方に届けて寄こしたのは佐久間信盛殿である。軍議に入る前に、この佐久間信盛殿をお味方に加えるかどうかについて諸将の意見を聞く必要があると思うから、その経緯を申し上げる」
信君はそのように前置きして、佐久間信盛が織田掃部の仲介で、内通の誓書を勝頼にさし出し、そのあかしの一つとして敵の機密書類を送って来たことを披瀝《ひれき》した。裏付けとして望月正九郎と古屋惣兵衛がもたらした情報も話したあとで信君は、
「昌幸は、あまりにもよくでき過ぎておるからあやしいと申しておるが、拙者はそうは思わない。佐久間殿が三方ケ原の敗戦以来信長にうとんぜられていた事実とも思い合わせてみた上で、まず間違いないと思うがどうであろうか」
と真田昌幸の口をまず最初からふさいだ。諸将から、この問題について色々と質問が出た。土屋昌続は、佐久間信盛の誓書がほんものかどうか確かめてみたかと質問した。
「至急誓書の文字について調べてみたが佐久間信盛殿の自筆に相違ないことが分かった」
と信君が答えた。戦乱中にはこういうことがしばしばあるので、敵味方の筆跡については特に厳重に調べられた。筆跡鑑定《かんてい》の専門家も軍に同行していた。
部将たちはそれぞれ絵図面を覗きこんだり、機密の書類に目を通していたが、特に佐久間信盛を疑うような質問をする者はいなかった。重臣たちには既に佐久間信盛とのいきさつが知らされており、ほとんどは佐久間信盛が本気で武田方に味方すると思うようになっていたから問題ではなかったが、この場ではじめてこの話を聞いた部将たちは、やはり異様な感じを受けたようだった。
上野《こうずけ》衆を率いて出陣した小幡信貞が、
「真田昌幸殿の御意見をお聞かせ願いたいが、いかがなものでしょうか」
と信君に訊いた。信君としてもそれをことわることはできなかった。
「思う存分云うがよい」
信君は昌幸に云った。
「まず敵の総大将の織田信長という人物を考えるべきです。彼は常人ではない。むしろ気狂いに近い天才であることをお考え願いたい」
昌幸は前に穴山信君の前で云ったことより更にはげしい口調で、信長が常人ではないという実証を次々と挙げたあとで、
「その常人でない人間が考え出す策略もまた尋常ではないでしょう。おそらくこれは信長が佐久間信盛に強請した策かと思います。その証拠はなにもありません。強いて云うならば、できすぎているということが甚《はなは》だ不自然に考えられるということだけです」
昌幸の弁説に動かされた者はかなりいたようだった。そうかもしれないと思った者は確かにいた。
「いかに信長に強要されたとしても、織田家重代の部将の佐久間信盛が心にもない誓書をしたためるであろうか」
と武田信豊が云った。それに同調する者がいた。佐久間信盛は多くの家臣の反対を押し切って織田信長を擁立し、織田家の跡を継がしめた人である。いかに信長でも、その佐久間信盛に、偽りの誓書をかかせたり、偽りの裏切りをせよということはできないだろうし、また佐久間信盛にしても、そんなことを云われて、はいそうですかと引き受ける筈がない。これはまさしく信盛自身の意志によるものだろうと云う者が多かった。昌幸はそれには敢て抗弁せず、唇を固く結んでいた。その昌幸に小幡信貞が訊いた。
「真田昌幸殿は織田信長の心底をどのように見られておられるか」
「いかなる卑劣《ひれつ》な策を用いてもいいから、武田軍を馬塞ぎの柵まで誘い出そうと考えているでしょう」
昌幸の答えに信貞はたたみかけるように、
「して、その勝算は」
と訊ねた。
「あるからこそ、このような卑劣きわまる策を取ろうとしているのです」
「すると、このままの状態でわが軍が、攻撃をしかければ、わが軍は敗《ま》けると申されるのか」
「さよう、必ず負けます」
昌幸はそう云い切ると、絵図面を指さし、
「敵が送ってよこしたこの絵図面にそのことはちゃんと記されてあります。だからこそ敵は、その柵を破るためには佐久間信盛の離叛がなければだめだと誘っているのです」
昌幸は激しい口調で云った。
「昌幸、そちの云い分は、佐久間信盛殿のことはすべて信長が考え出した策であるという仮定に立っての推論であって、なにひとつとして確固たる証拠はないではないか、軍議の席で想像をたくましゅうした勝手放題の発言は許されない。もう少し地に足をつけた見方はないものか」
昌幸の兄の真田信綱が弟を叱った。昌幸は沈黙した。軍議の席が一瞬静まった。
「わしは、ほとんど信じておる。さようだな、十のうち八か九までは佐久間信盛殿を信じている。しかし、あとの一分か二分の不安を拡大すると昌幸の言がもっともらしく聞こえても来るのう……」
武田信廉《のぶかど》が発言した。信玄公の弟であり、勝頼の叔父である信廉は軍議の席であまり発言したことはなかった。すべてに鷹揚《おうよう》で、こまかいことには気を廻さない人であった。戦争より絵が好きだと云っていながら、いざ戦争となると、結構上手に采配《さいはい》を振った。さすが信玄公の弟だと云われていた人であった。
信廉の発言が、軍議の場の空気を代表するものだった。穴山信君、馬場信春、山県昌景、内藤昌豊らの宿将のほとんどは、佐久間信盛の内通を疑ってはいなかった。しかし、昌幸の云うことを聞くと、確かに一分か二分の不安が後に残った。
(信長は常人ではない)
と昌幸が叫ぶように云った言葉が気にかかった。
軍議は佐久間信盛の身辺にこだわって先には進まなかった。
「いかがいたしましょうか」
と信君は勝頼に意見を求めた。もう少し、形勢を静観しようという腹が信君の顔に現われていた。信君もまた、信長が常人ではないという証拠を挙げられると、やはり一分か二分の不安がないではなかった。
極楽寺山から茶臼《ちやうす》山に本陣を移した信長は、そこから武田の陣容を飽かずに眺めていた。小高い丘のような弾正山のすぐ向うに設楽ケ原が見えた。武田軍は布陣を終ったようである。初めて見る武田の陣がまえを遠く眺めながら、さて、ここまで進出して来た敵を柵までおびき出すにはどうしたらよいだろうかと考えていた。
(柵を出て攻撃に出たらどうか)
と考える。
(敵はわが軍を柵まで追いつめて来るであろう。その時を見計らって攻撃に出るのだ)
そう考えてからすぐ信長は、
(ばかな……)
と自分を叱った。
(武田軍は日本一の戦《いくさ》上手、誘いの兵を柵の前に出したら、それこそ、これ幸いと、その誘いの兵の後に追従して柵を越え、たちどころに本陣に迫るだろう。つけこみ戦術は武田軍のもっとも得意とするところだ)
信長は考えをもとに戻して、
「飽くまでも敵から攻撃をしかけさせねばならぬ、柵を離れたらわが軍の勝算はない」
信長はひとりごとを云いながら、幕内に入った。家臣が酒井忠次が参りましたと迎えに来たからである。
(敵はまだ佐久間信盛を疑っているかもしれない。彼等をして攻撃に踏み切らせるためには、更にもっと大きな餌を投げ与えねばならないだろう)
信長が考えごとを始めると怖い顔になる。そうなれば何人《なんぴと》も寄りつけなかった。
「勝頼め、勝頼め、勝頼め、忠次め……」
信長は三度続けて勝頼の名を呼んだあとで忠次めと云った。しかめっ面をして待っている忠次のことがふと思い浮かんだからであった。
「家康にしろ、忠次にしろ、ほんとうの石頭でさっぱりたよりにならぬわい。こういう時にこそ、策というものが必要なのだが……」
信長はひとりごとを云った。藪蚊《やぶか》が彼の額を刺した。
「勝頼め……」
彼はそう云いながら自分の額を平手で打った。死んだ蚊が手の平に残った。それを信長は左手の指ではじいた。蚊は空を飛んで絵図面の上に落ちた。そこにごく小さい血の汚点《し み》ができた。そのかすかに血がにじんだ地点が鳶《とび》ノ巣《す》山だった。
信長の頭の中で、なにかが光った。
「そうだ鳶ノ巣山という、よい餌があったぞ」
信長の顔に笑いが見えた。彼は侍臣に、酒井忠次を直ぐ呼び入れるように云った。
「これで勝てるぞ、必ず勝てる」
信長は入ってくる忠次に向って云った。
穴山信君に、いかがいたしましょうかと云われたとき勝頼は、もうしばらくは敵の動きを静観したらどうかと云おうと思った。その言葉が咽喉《の ど》のあたりまで出かかったとき、急に幕外が騒がしくなった。
「勝頼様に直接申し上げたいことがあると申しておる者を連れて参りました」
男は百姓の身なりをしているが、眼つき身ごなしから武士であることは一見して明らかだった。豊川のほとりで山県昌景の組下にある者にとがめられると、相手が武田方であることを確かめた上で、勝頼様のところへ行く使者だと名乗ったが、主人の名や自分の名は勝頼様の前でなければ云えないというので、そのまま連れて来たのである。
男は軍議の場の末席に坐らされたが、いささかも臆《おく》することなく、
「佐久間信盛様の家臣山下亘之介、主命を伝えに馳《は》せ参じました。緊急のことゆえ、また、もしもの場合のことを案じて、書状は持参いたしません、すべて口頭で申し上げます」
と云った。
「よろしい。申してみよ」
勝頼は、期待のほどを膝の上に置いた拳《こぶし》にこめて耳を傾けた。
「一刻《ひととき》ほど前に軍議がなされ、鳶ノ巣山城奇襲が決定いたしました。大将は酒井忠次殿、従う者三河衆二千、織田衆二千と、織田の鉄砲隊五百梃、軍勢併せて四千余、目付として金森長近殿、佐藤六左衛門殿、青山新七父子殿、戌《いぬ》の刻(午後八時)に出発し、豊川を越え、船着山《ふなつきやま》の麓を大きく迂回し、山中に踏みこみ、明二十一日、明けるを待って鳶ノ巣山城を一気に攻め落とす所存でございます」
山下亘之介は息もつかず一気に云った。
鳶ノ巣山城は長篠城東方約十町(約一キロメートル)のところに、武田軍が設けた砦であって、本式な城ではない。南方から山を越えに来るであろう敵軍に備えての、見張り所を兼ねた砦で、ここには武田信実(信玄公の弟)を大将として約一千の軍がおり、この近くの姥《うば》ケ懐《ふところ》、中山、久間山《ひさまやま》等にも見張りの山砦《さんさい》が設けられていた。
長篠城を救援するための唯一の山道であり、敵が来援した場合、この方面にやって来る可能性が多いから、御親類衆武田信実を将としてここに置いたのであった。
「出発は戌の刻と申したな」
勝頼が時刻を確かめた。
「さようでございます。何分にも奇襲は隠密を要しますので夜を選びました」
山下亘之介が云った。
「そのほかに、なにか云われたことはないか」
「武田軍が連合軍に対して総攻撃にかかられた時は、ころ合いを見計らって、お味方申すべきこと、神仏にかけてお誓い申し上げたとおりでございますと、伝えるよう申されました」
そう云って、亘之介は平伏した。
山下亘之介が下がったあとで軍議が再開された。
「もはや疑う余地なきこと、この機を逃がしたら決戦の日はござらぬ。すべからく攻撃の策を議するべきではないでしょうか」
穴山信君は、敢て決戦の日と云った。敵の一部が鳶ノ巣山へ動いたその機を狙って、明日早々に攻撃をしかけるべきだと云ったも同然であった。
部将たちは次々に賛成した。佐久間信盛に対して持っていた十のうち、一分か二分の心配は鳶ノ巣山城攻撃の秘密を前もって知らせてくれたことによって霧消した。軍議に列する部将の顔が緊張し、乗り出すようにして、絵図面に見入る姿は明朝こそ総攻撃の好機と思いこんでいるようであった。
「敵軍四万三千のうち、四千が減ったとすれば、敵は三万九千、味方は一万三千ということになる」
穴山信君が云った。武田軍一万五千のうち一千は鳶ノ巣山城に、一千は長篠城の備えとして残されているから、設楽ケ原に進出した実兵力は一万三千だと云ったのである。
「こうなれば数の差は問題ではない」
と原昌胤が云った。こうなればと云ったのは佐久間信盛が味方についたからという意味であった。佐久間信盛は四千の軍団を持っている。これが味方についた場合、敵は信盛に備えるために四千か五千を向けねばならない。そうなれば、敵の陣営に大きな混乱が起こることは必定《ひつじよう》だった。
「明朝早く総攻撃をかければ、敵の奇襲隊が鳶ノ巣山に着かないうちに決着はついているでしょう」
原昌胤は、はっきりと明朝攻撃を口にした。それに賛成する部将が多かった。反対論は見当らなかった。部将たちの気持は揃っていた。
「原殿の云われるとおりだ。敵の別働隊が戌の刻に出発するとして、四里(約十六キロ)の道は長すぎる。それにこの雨だ。山の中では困難するだろう。鳶ノ巣山に夜明けまでにたどりつけるかどうかもあやしいものだ。敵が鳶ノ巣山に取り掛かる前に総攻撃に掛かるとして、さてその段取りをどうするかそれがこの場で議すべきことであろう」
内藤昌豊が具体的な発言をした。諸将の心はそれまでの間に既に決していた。敵が動いたときに、こちらも動くのが戦略の常套手段であった。佐久間信盛の離叛が確実になったいまになってなんで躊躇《ちゆうちよ》することがあろうぞ。明朝の一番槍はわが隊ぞ、という気持で、諸将たちは軍議のまとめ役信君や勝頼の顔を時々窺っていた。
「明日の天気はどうでしょうか」
山県昌景が勝頼に訊いた。
「今朝、初鹿野《はじかの》伝右衛門を、作左衛門につかわして、そのことを尋ねさせたら、あと四、五日は降るだろうということであった」
勝頼はそう答えながら、さきほど昌幸も同じようなことを訊いたことを思い出した。やはり、鉄砲と雨のことを気にしているのだなと思った。
「それでは、敵の自慢の鉄砲も役には立ちませぬな」
と一条信龍が横から口を出した。笑い声が起こった。笑い声が起こるほど、武田の本陣は明るかった。いつものような緊張しきったものではなく軍議の表情に余裕があった。
「だが敵は、鉄砲に雨除けを設けて備えている様子、けっして油断はできません」
と山県昌景が云った。笑いはおさまり、再び部将たちの目は絵図面にそそがれた。
「鳶ノ巣山に援軍を出さないとすれば、結局鳶ノ巣山は落ちるでしょう。鳶ノ巣山を守る味方の損害も決して少なくはないと思いますが――」
馬場信春が云った。
「止むを得ないだろう。大事の前の小事だ。三倍の敵を攻撃して、勝利を収めるにはこれ以上本隊の兵をさくわけにはゆかぬ、弟の信実には、わしから書状をつかわそう」
と武田信廉が云った。その言葉の中には、いくばくかの悲壮感がこもっていた。
(叔父、信実を見殺しにしていいのであろうか)
勝頼は叔父の信廉が自分にかわって発言してくれたことを感謝しながらも、なにかその言を聞き捨てできないような気がした。彼は部将たちが総攻撃の手立てについて論議するのを黙って聞きながら、
(これでいいのか、ほんとうにこれでいいのか)
と自分自身にしきりに問いかけていた。いままでにないことだった。常に積極戦を主張し、実行して止まなかった自分が、この場に来て、なぜこのような沈んだ気持になったのか分からなかった。
(もし、これが昌幸が云うように常識を破った信長の謀略であったならば……)
勝頼は総身に水を浴びたように感じた。
(誰でもいい、今誰かが、明朝の総攻撃は止めよと云ってくれたら、自分は真っ先にその意見を取り上げて、今日中に陣を退き、古府中に帰るだろう。そうすれば鳶ノ巣山も殺さないで済むのだ)
彼は昌景を見た。信春を見た。二人とも議論に熱中していて勝頼の方をふり向かなかった。佐久間信盛からの第二の使者があった。
「前の使者に、もしものことがあってはと思い、再度使者をさし向けます」
という佐久間信盛の口上から始まって、鳶ノ巣山城奇襲戦略の通報だった。前の使者山下亘之介の云ったことと、ただ一ヵ所違っていた。奇襲隊の目付の一人に加藤市左衛門が加えられたことと、夜行軍に備えて、奇襲部隊の兵たちは仮眠《かみん》を命ぜられたという情報だった。前と後との違いが、かえってその情報の確かさを示すものであった。
軍議は穴山信君を中心として進められて行った。明二十一日朝卯の刻(六時)に総攻撃を行うことに決定した。総攻撃の陣立ても突撃の順序も決められた。信君は結論を取りまとめたあとで、勝頼に向って、
「ひとことお言葉を」
と云った。武田軍の総統にひとこと適切なことを云って貰って軍議を締めくくりたいと思ったのである。
勝頼は、さっきからほとんど一言も発しないでいる真田昌幸を振り返って云った。
「昌幸、なんぞ云うことはないか」
昌幸が、総攻撃に飽くまでも反対したら、もう一度軍議をもとに戻すこともできようかと考えて云ってみたのであった。
「この期《ご》になってなにも申すことはございません、ただお館様の仰せに従うのみでございます」
昌幸は、衆議が決したこの場においてなにを云っても無駄だと思った。鳶ノ巣山城奇襲攻撃の情報を通報して来たのは、実は信長自身であるとしたならば、この時点で武田は織田に破れたのだと思った。
「総攻撃開始は明朝卯の刻、その手筈《てはず》、手立てについては玄蕃頭が申し述べたとおりである。余は、明夕刻の勝鬨《かちどき》の席において再び諸将らと相見ることを楽しみにこの軍議を終る」
勝頼はひどく固苦しい挨拶をした。総攻撃の手筈、手立てにもほとんど口を出さず、信君にまかせ切っていて、その締めくくりだけをしたのも、今度がはじめてだった。勝鬨の席で諸将と再見しようなどと気障《きざ》なことを云ったのもいままでにないことだった。
勝頼は軍議の席を立ってそれぞれ陣地へ向う部将たちの後姿をじっと眺めていた。なんとも云えない不安が勝頼の身をその場におし倒そうとしていた。
勝頼は医王寺の本陣から設楽ケ原に出陣するに当って寒狭川の猿橋《さるはし》を渡った。ここは両岸が木曾山脈系の花崗《かこう》岩と青い色をした結晶片岩(俗に青石)とが混り合ったところで、青石をけずって流れて来る水は淡青色に濁っている。川幅三・五メートルほどの渡河点には現在しっかりした橋がかかっている。橋の下を岩を噛むような激流が音を立てている。当時もここに橋をかけて渡ったであろうが、地勢から見て、それほど大きな橋だったとは思えない。多人数、特に馬が短時間に、多数通過するのは困難だったと推察される。
設楽ケ原の合戦は武田側の大敗北に終ったことは歴史上明らかであるが、その原因については、「武田勝頼が、宿将たちの献言をしりぞけ、跡部勝資、長坂長閑等の佞臣の言を取り上げて、馬塞ぎの柵に向って総攻撃をかけたがためである」と云われている。素人ばかりでなく、錚々《そうそう》たる歴史家がこのように書いているのを見掛けることがある。これはすべて『甲陽軍鑑』に載っている次の字句をそのまま信じたがためである。問題の部分を現代文に直してみよう。
「馬場美濃守信春、内藤修理(昌豊)、山県三郎兵衛(昌景)、小山田兵衛尉《じよう》(小山田信茂)、原隼人(昌胤)等の宿老重臣たちが口を揃えて、設楽ケ原で戦うのは味方に不利である、お止めなされと云ったのに、お館様の勝頼公は長坂長閑斎、跡部大炊助(勝資)の二人の言を取り上げて、武田家の宝物の御旗(武田の軍旗)、楯無《たてなし》(武田家重代の鎧)に誓っても明日の合戦を中止することはできないと云われたので、その後は物を云う者はなくなった」
この短文が元《もと》になって、その後、種々様々の本に少しずつ内容が変えられ、尾鰭《おひれ》がついて書かれるようになり、終《つい》には、これこそ設楽ケ原合戦の真相のように云われるようになったのである。『甲陽軍鑑』は史書ではない。徳川時代に入ってから発売されて、ベストセラーになった所謂《いわゆる》兵軍書の類である。資料としての価値は低い。現にこの戦いには長坂長閑は参戦していないし、小山田信茂もどうやら参戦してはいないらしい。跡部勝資は参戦してはいるが、この人はもともと文治《ぶんち》派の人で、信玄以来、ほとんど戦には口をさし挟んでいない。勝頼は父信玄の戦を真似ている。軍議制もそのまま踏襲《とうしゆう》している。重臣宿老達がこぞって反対したとしたら、攻撃命令など出せる筈がなかった。信玄公が死んで満二年しか経っていなかった。勝頼は武田家の統領として認められてはいたが、まだまだ、彼の一言によって、家臣団を自由に動かせるような立場にはいなかった。また武田家には小姑的御親類衆がわんさといた。この人達を思いのままに動かすことも勝頼にはできなかったのである。特に穴山信君は自他共に見る実力者であり、高天神城攻撃には攻城軍の総大将として活躍し、長篠城包囲作戦においてもほぼ同様な立場にいた。設楽ケ原の合戦は、武田軍の諸将の心が勝算ありという点で意見一致したところで攻撃を開始したのである。だからこそあれほど激しい合戦が展開されたのである。そして、彼等に勝てるという自信を持たせたのは信長の謀略であったと解釈する以外に、このまことに、不思議な合戦設楽ケ原大会戦の謎を解く鍵は、今のところないのである。
武田信実よりの使者
鳶《とび》ノ巣《す》山城攻撃に向った酒井忠次が率いる四千名は徳川勢と織田勢との連合部隊であり、その総指揮官が酒井忠次であった。織田勢と徳川勢とは距離的にも離れていたので、別々に行動を起こしたのが酉《とり》の刻(午後六時)、広瀬の渡《わたし》で豊川を越したのが戌《いぬ》の刻(午後八時)であった。この日、五月二十日は太陽暦に直して七月八日、日が長いころだったし、これだけの大軍が移動して、武田軍の情報網にかからぬことはなかった。軍の動きは次々と武田陣営へ通報された。
織田信長も、その命を受けて出動した酒井忠次も、この情報が武田方に知られたほうが、誘いこみ作戦の成功につながるものであるから、わざと夕刻から行動を起こして、鳶ノ巣山城攻撃の意志を武田方に知らしめたのである。
豊川を渡河した酒井軍はそこで陣容をととのえて、豊川の支流大入川に沿って南下し、小一里歩いたところで、方向を北東に変え、船着山《ふなつきやま》に踏みこんで行った。
ここまでは大入川沿いの勾配《こうばい》のゆるい道でもあったから、たいした困難もなかったが、いざ山道に入ったとたんにそのけわしさに酒井軍は当惑した。それは樵《きこり》や猟師が通る山道で、大軍が通る道ではなかった。どんな道かは、おおよそ聞いてはいたが、いざそれにぶつかると、さてこんな道を鳶ノ巣山まで行けるかどうか、という疑いが酒井忠次の心の中に浮かんだ。
(鳶ノ巣山城攻撃は武田を決戦に誘い出すための作戦であって、鳶ノ巣山城を落とすことは第二義的なものである)
と考えながらも、できることなら、城を落とし、敵の大将武田信実《のぶざね》の首を頂戴したいものだと考えていた忠次にとっては、最初からのきつい山道はあまりうれしいことではなかった。彼は奥平貞能《さだよし》、菅沼定盈《さだみつ》等の案内役を呼んでその前途を問うた。奥平と菅沼は案内役というのは名ばかりで、実は自らの手兵を率いての先遣部隊であった。武田軍に遭遇したら真っ先にやられる先手《さきて》衆としての立場を案内役という形で与えられたのである。
奥平貞能はこの付近の道にくわしい、熊五郎という猟師を連れて来た。
「わが軍がこの道を鳶ノ巣山まで行きつくのにはどのぐらいかかるか」
忠次は直接熊五郎に訊いた。
これは既に出発前に調べてあったのだが、現地に臨んで改めて確かめたのである。
「さよう、この雨の中では五刻《とき》(十時間)あまりはどうしてもかかるでしょう」
「そんなにかかるのか」
忠次は雨の音に耳を傾けながら云った。それでは遅すぎると云ったところで、どうしようもないことだったが、もう少しなんとかならないものかと思った。
「夜明けまでに行きつけぬか」
「山に馴れた足の速い者だけを集めれば、行けないことはありません。だが……」
と熊五郎は答えて言葉を濁した。その足りない部分を奥平貞能が補足した。
「行きついても戦いはできぬほどに、疲労困憊《ひろうこんぱい》してしまうだろうと申しているのでございます」
よく分かった、下がったらよいと忠次は云った。行きついても、戦《いくさ》ができないことになれば、いくらこの軍事行動が敵を誘うためだとは云え、人聞きが悪い。なんとかして、武田軍と戦って勝ちたいものだと考えていた。
ひどい雨になった。ほとんどどしゃぶりに近い降り方だった。道が川となった。山麓の吉川村から入って半里足らずの松山観音堂まで登るのに、小半刻《こはんとき》(約一時間)を要するありさまだった。将兵共に濡れ、士気は上がらなかった。鼻をつままれても分からないような暗夜の中に、松明《たいまつ》の火だけがたよりだった。
酒井忠次は観音堂を仮の本陣として、松平真乗《さねのり》、本多康重、松平伊忠《これただ》、松平家忠、松平康定、牧野康成、西郷清員《きよかず》などの諸将のほか、奥平貞能、菅沼定盈《さだみつ》等を集めて軍議を開いた。
「このままでは、いたずらに、時間を取られ、兵達を疲労させるばかりで、いざという場合に充分な働きもできぬだろう。兵を疲れさせず、もっと速く歩かせるいい案はないか」
忠次は諸将に問うた。
菅沼定盈が進み出て云った。
「この山の麓の吉川に住む郷士近藤秀用と豊田藤助の二人をお召しになって、策を問うたら如何かと存じます。二人はかねてから山の中を多人数の兵を率いて駈け通る方法について調べております」
多人数という言葉が気になったので忠次が訊くと、
「多人数と申しても、二十人、三十人の集団でございます」
と定盈は答えた。
豊田藤助と近藤秀用は直ちに忠次の前に呼ばれた。二人は大入川上流から中流にかけて住んでいる住民たちの上に立つ郷士であり、いかにも山にかけては自信のありそうなたくましい面構《つらがま》えをしていた。
「この雨の中を味方四千の人数を速やかに移動させるについてなにかいい案はないか」
との忠次の問いに対して豊田藤助がまず口を開いた。
「御大将自ら、馬から降りて歩いていただくことが第一でございます」
その云い方があまりにも、ぶしつけであり、非礼に思えたので菅沼定盈があわてて制した。
「言葉をつつしめ、場所を考えよ」
酒井忠次は東三河衆を統率する大将で、西三河衆を統率する石川数正と並んで徳川家康の片腕ともいうべき人であった。織田信長は、この忠次を家康に準ずる人物として扱っていた。その忠次の前でずけずけと物を云う豊田藤助に定盈が注意を与えたのは当然であった。
「いや、かまうな、思ったとおりのことを云わせるがいい、大将自ら馬を降りよというならば馬を降りよう、それで……」
と忠次は先を問うた。
「山道はどこもかしこもけわしいというのではありません、けわしいところがところどころにあって、そこで難渋し、そのため通行がとどこおるのでございます。まず道作りの人数を先に出し、道を補修し、ところによっては、階段を設け、またところによっては、木から木へ綱を渡して、それにつかまって登るように、それ相応な手立てを行えば、軍はとどこおることなく進むようになります」
豊田藤助は平然として答えた。
「なるほどよい考えだ。してそちは、いま申したほかになにかいい思案があるか、あったら、遠慮なく申すがいい」
と忠次は近藤秀用に問うた。
「できることならば、その道作りの指揮を拙者共にお命じいただければ幸いと存じます。ただし、私共の指揮下に入った兵たちは、一言たりとも文句を云わずにわれら両名の申すとおりにしていただかないと困るのでございます」
困るのでございますという云い方がおかしかったので忠次は微笑した。
「よろしい、そのとおりにさせよう。それで、道作りの兵はおよそどのくらい」
「力が強くて足の達者の者、およそ、五百人ほど貸していただきたいと思います」
近藤秀用はおくせず云った。
「よし、ただちにその五百の兵を出させよう、うまくやれよ」
忠次はどうやらこれで、なんとかなりそうだと思った。彼は、そこに居並ぶ部将たちに道作りの人数を割当てようとした。
「もう一つだけ云い残したことがございます」
近藤秀用が云った。なにかと問う忠次のきびしい目の光を松明の光の中に見ることはできなかったが、語気は少々荒かった。
「五百人の道作りの衆は半刻《はんとき》ごとに交替致しますから全体で八組ほど作っていただきたいと思います。八組目が道作りにかかるころには鳶ノ巣山も間近になっていることと存じます」
近藤秀用はそう云って、平伏した。
暗夜の中で呼び合い、怒鳴り合う声がした。各部隊から選出された、第一班道作り隊五百人は、二百五十人ずつに分かれて、豊田藤吉と近藤秀用の指揮下に入った。近藤秀用は二百五十名を率いて先発した。道作り隊が編成されたことによって、部隊の進行は前よりも楽になった。と云っても暗夜で豪雨の中だからそう容易なことではない。
急坂の滑るようなところに来ると、綱が張られた。馬が通る道が作られた。鎧を着、甲《かぶと》をつけていてはよじ登ることのできないようなところでは、近藤秀用や豊田藤助が自ら出向いて、鎧、甲を身からはなして、登るように指導していた。
忠次は行軍の半ばにいた。前後を彼の旗本が守っていたが、せまい一本道だし、真っ暗闇の中だから伏兵が現われたらどうしようもなかった。そのような場合のことをおそれて、忠次の前後には忠次と同じような身なりの武者が並んだ。
行軍の先頭の方でなにか騒ぐ声がした。間もなく、百姓姿の一人の男が縛られて忠次の前に引き出された。
忠次は家来に命じて、道のわきの藪をきり開き、仮の本陣を作り、そこで捕えられた男を取り調べることにした。行軍はそのまま遅滞なく進められて行った。
「物陰に隠れているのを見付けたところ、逃げようとしたので捕えて参りました。おそらく武田のまわし者と思います」
最前線を歩いていて、この男を捕えた鳥居助左衛門が云った。
「面《おもて》を上げよ」
と忠次は捕われた男に向って云った。何本かの松明《たいまつ》が、その男の顔の周囲に集められた。いかにも、このあたりの百姓らしい姿をした、眼光鋭い男だった。忠次は一目見て、こやつ武田の細作《さいさく》だなと思った。しかし忠次はその気持を言葉には出さずに、
「どこに住んでいて、名は何というのか、またこの深夜になぜこの付近をうろついているのか答えよ」
と云った。男は、へえへえ、と続けて二、三度云ってから、
「私は長篠の生れで百姓の吉右衛門と申すものでございます。吉川村の百姓文左衛門の娘、まつの婿養子《むこようし》となり、現在吉川村に住んでおります。長篠にいる母が急病だと聞いて出向く途中で捕えられました」
答弁の仕方は明瞭で筋が通っていた。母が急病だから豪雨を冒して生家へおもむこうとしている孝心に疑いを挟む余地はなかった。
「急病の母が心配ならば、さっさと道を急げばいいものを、なぜ愚図愚図《ぐずぐず》していたのだ」
男はそれに対して、またへいへいと続けて云った。どうやら、へいへいと云っている間に答えを考えているようだった。
男は顔を上げて云った。
「母のことが心配なので夢中で急ぎました。あまり急ぎすぎたので横腹が痛くなり、休んでおりましたところ、麓の方から松明が見えました。いささか心細くなっていたところでしたので、丁度よい一緒に山越えをしようと待っているところへ三十人ほどの御武家様が参りました。急に怖くなり、藪の中に隠れこんだところ、そのような御武家様が次々と登って来られるので、つい出られなくなり……」
男はそこまでしか云わなかった。後はお察しくださいというふうな顔だった。
「近藤秀用か豊田藤助を呼べ」
と忠次は家来に命じた。この男が吉川村の者かどうか確かめるためだった。
豊田藤助がやって来た。
「この者は吉川村の百姓と申しているがそれに偽りがないか」
と忠次が訊いた。
豊田藤助は百姓吉右衛門を覗きこんで、
「お前は吉右衛門ではないか、こんなところでなにをしているのだ」
と云った。豊田藤助が吉右衛門を疑っているのは確かなようだった。
「その者が吉川村の吉右衛門であればそれでよろしい。解き放してやれ。一刻も早く長篠へ行って生母の病を見舞ってやるがいいぞ、豊田藤助、この者をつれて行ってやれ。また捕えられては困るからな」
忠次が云った。
「それはどうかと思います。この者が申すとおりのことがほんとうだとしても、この者は間もなく、武田軍の関門に引《ひ》っ懸《かか》っていろいろ訊かれるでしょう。この者の口からわが軍の行動が洩れたらたいへんなことになります」
松平真乗が云った。
「かまわぬ、四千の大軍を率いての隠密行動などできるものではない。おそらく武田方もわが軍の動きを探知しているだろう。そうなれば、むしろわが軍の行動を彼等に充分に知らしめ、敵に恐怖心を与えたほうがよいだろう。今来るか、今来るかと敵を待つ気持は、敵を攻めるよりはるかに恐ろしいものだ。わが軍四千、うち鉄砲隊千人という大軍が鳶ノ巣山へ出向いていると聞けば、敵兵はおそらく眠れないだろう。それでよいのだ」
忠次は、四千のうち鉄砲隊五百人のところを千人と偽って云った。それは、この吉右衛門という百姓が武田方に雇われている細作だという前提のもとに、武田軍に精神的圧迫を与えるにはなるべく誇大な武備をひけらかしたほうがよいと思ったからである。
松平真乗は不満そうな顔で、軍目付《いくさめつけ》の金森長近の顔を見た。金森長近は織田信長から派遣された軍監である。金森の一言は重い。たとえ忠次でも金森にそうしてはならぬと云われたら考えを変えねばならなかった。
「これについて金森殿の考えをお伺いいたしたい」
と松平真乗は黙っておられずに云った。
「酒井殿の御処置はまことに当を得たものと思います」
と金森長近は答えながら、軍目付として鳶ノ巣山へ行けと信長に云われたとき、
〈忠次がなにをしようとも口を出すな。ただ、軍《いくさ》の様子をことこまかに見て参れ、いいか、忠次の采配に口を出すではないぞ〉
と云われたことを思い浮かべていた。武将を武勇派と知能派に強いて分類するならば、金森長近は後者に属する人物であった。長近は、その信長の一言で、信長と忠次との間に秘められたことがあると思っていた。
信長から派遣された軍目付は金森長近の他に佐藤六左衛門、青山新七父子、加藤市左衛門がいたが、金森がはっきりと、まことに当を得たものと云った以上、それに反対するようなことは云えなかった。
百姓吉右衛門は、豊田藤助がつれて、最前線まで行ったところで放された。そのとき藤助が吉右衛門に云った。
「お前に貸しを一つ作ったぞ」
それに対して吉右衛門ははっきりと答えた。
「たしかに借りました。この借りはいつの日か必ずお返し申します」
二人は前後に別れた。
豊田藤助は吉右衛門が武田の細作をやっていることを知っていた。知っていて、それを口に出さずにこらえていたのは、彼が最後に云ったように、武田方に貸しを作って置いたほうがいいと考えたからだった。変転きわまりない戦国の世である。地方の郷士は常に支配者への去就を頭に置かねば生きては行けなかった。徳川が強くなれば徳川につき、武田が勢力を盛り返せば武田につく、そのようにしていないと、自分の身が亡びてしまうのである。
吉右衛門は豪雨の中を走って、丑《うし》の刻(午前二時)には鳶ノ巣山の武田信実の本陣に着いた。深夜だというのに、処々に篝火《かがりび》が燃え上がり、見廻りはいままでになく厳重だった。
鳶ノ巣山城といっても、正式の山城ではなかった。急ごしらえの砦《とりで》のようなもので、山の頂きに土居を設け、周囲に堀をめぐらせ、その内部にどうやら人が住めるだけの小屋を建てて、守備隊が住んでいた。
長篠城を救援するために織田、徳川連合軍がやって来る間道としてはこれ以外にはなかった。だからここに監視をかねた砦を設けてあったのである。
武田信実は起きていた。いつでも出撃できるように武装をととのえた姿で、百姓吉右衛門に会った。
吉右衛門は酒井忠次に会ったときのことをつまびらかに語った。
「なるほど、酒井忠次らしい心のおごりがそのまま出ているわい、しかし……」
と信実は云って考えこんだ。考えこんでから、金森長近、金森長近、と二、三度口に出した。信実の顔が篝火《かがりび》のあかりに赫々と輝いて見えた。
(軍目付の金森長近が忠次の処置を当を得たものだと云ったのはおかしい……もしかすると)
信実は吉右衛門を下がらせてからも、しばらく考えこんでいた。どうしても不安でならなかった。
彼は小沢長左衛門を呼んで使者として、勝頼のところへ走らせることにした。
「よいか、そち自らがよくよく理解した上で、このことをお館様に告げるのだ」
そう前置きして、信実は、酒井忠次が四千を率いての鳶ノ巣山城攻撃は、攻撃そのものが目的ではなくて、酒井忠次軍移動を餌として、武田軍本陣に総攻撃を決意させようとする誘い出し作戦ではなかろうかと云った。
「忠次が当然斬るべき吉右衛門を斬らずに、わが方へ向けて放したのも、鳶ノ巣山城攻撃を強調するためであり、金森長近が軍目付でありながら、当を得たものであるなどと云ったのは、おそらく、鳶ノ巣山城攻撃の真の目的を知っていたからであろう」
信実はこのことを使番の小沢長左衛門に繰りかえし説明したあとで、
「急を要することゆえ、書面ではなく口頭で申し上げますとお館様に云うのだ」
「よく分かりました。そのとおりお伝えいたします。ただ、少々もの足りないように思われることがありますが、その点お伺いしてもよろしいでしょうか」
長左衛門は丁寧にことわったあとで、
「鳶ノ巣山城攻撃が、本隊を敵の鉄砲柵へ誘いこむための作戦だとお思いになるならば、本隊の出撃は断じてなさるべきではないと、お館様になぜ意見具申をなさらないのですか、その点が歯がゆくてなりません」
と云った。
「それは云ってはならぬ。それこそ、本陣の帷幄《いあく》の中にいる諸将たちが口にすべきことであって、出城《でじろ》を守る大将が申すべきことではない」
信実は、はっきりと云った。
小沢長左衛門が雨の中を山を降り、設楽ケ原の武田軍本陣に到着したのは午前三時ころであった。勝頼は就寝中であったので、眼覚めるまで待った。彼自身も仮眠を取った。寅《とら》の刻(午前四時)を過ぎたころ、勝頼は眼を覚ました。侍臣から小沢長左衛門が待っていると聞いてすぐ面会した。
小沢長左衛門は武田信実に云いつけられたとおりのことを話した。
「よくぞ知らせてくれた、勝頼有難く思っておる。ただちに主なる者を集め、緊急軍議を開く所存である。そのように伝えて貰いたい。尚、今日の合戦がどうなろうとも、こちらは手不足にて、鳶ノ巣山城へは援軍をさし向けられないゆえ、すべて心にまかせて、しかるべき処置を取られるようお願いすると叔父上に申し伝えてくれ」
勝頼はそう云った。すべて心に任せてしかるべき処置というのは、思うようにやれということであり、取りようによっては、四倍の敵を受けて玉砕しろとも聞こえる言葉であった。
勝頼の傍に曾根内匠、真田昌幸が控えて、勝頼の話すのを聞いていた。
小沢長左衛門は、そのお言葉間違いなくお伝え申し上げますと答えてその場を去った。外は激しい雨だった。
勝頼は、武田信廉、穴山信君、山県昌景、馬場信春の四将を帷幕に呼んだ。総攻撃開始を前にして、部将全員を呼び寄せることは困難だったから御親類衆の代表として二人、家臣団代表として二将を呼んだのである。
雨の中を馳せつけて来た四将は、鳶ノ巣山からの新しい情報を聞くと一応は首をひねった。まず武田信廉が真田昌幸に問うた。
「わが方にその後入った情報をかいつまんで申すように」
決戦を前にして夜間といえども武田方は間者、細作、物見等あらゆる手を尽して敵情を探っていた。その情報は本陣で待っている情報参謀ともいうべき、真田昌幸、曾根内匠等のところに集められていた。
「織田軍及び徳川軍双方とも、明日、つまり今朝の合戦に備えての準備をかためております。敵はわが武田軍が今朝総攻撃をかけて来るものと思いこんでいるようでございます。鳶ノ巣山へ四千の兵が移動してから後の敵の動きの中に、必死の構えのようなものが見えています」
そして昌幸は地図を前にして鳶ノ巣山城攻撃隊についての情報を説明した。
「徳川軍織田軍が別々に広瀬の渡を越えて、豊川の南岸に集結したのが、戌《いぬ》の刻(午後八時)、大入川沿いに南下して吉川村に到着し山道にかかり、観音堂に着いたのが亥《い》の刻(午後十時)です。さきほどの鳶ノ巣山城からの通報によると子《ね》の刻(午前零時)には松山越えを通り過ぎて菅沼山のあたりまで達していますから、この速度で進むと、鳶ノ巣山城にかかるのは早くても今朝の辰《たつ》の刻(午前八時)ころになるのではないかと思います」
真田昌幸はそこまで話してから頭を下げた。質問があったらどうぞと云いたげであった。誰も質問はしなかった。それぞれが考えこんでいた。武田信実が新しい情報に寄せて云いたいのは、(鳶ノ巣山城攻撃の裏には、武田軍本隊誘い出しの罠《わな》が設けてあるから気をつけよ)
ということであり、さらにそれを強調すれば、
(本日の総攻撃は中止せよ)
ということであることは、そこにいる誰にも分かっていた。
「信実は、自分だけが死ねばそれでよい。本隊は決戦に出ずして引き揚げよと云いたいのだな」
信廉が云った。その後をついて穴山信君が発言した。
「信実殿はすこしばかり考え過ぎているのではござらぬかな、たしかに、鳶ノ巣山城攻撃の裏にはそのようなふしが見えないことはない。忠次が間者を殺さずに放したことも、金森長近が軍目付でありながら知らんふりをしていたのもおかしい。だが、もともと酒井忠次という男はどこか太っ腹のところがある。間者を斬らずに放して、鳶ノ巣山城守備隊に恐怖を与えたほうがよいと、本気で考えたのかもしれぬ」
信君はまず、信実からの情報そのものについて批判したあとで、
「鳶ノ巣山城攻撃が武田軍本隊誘い出しの作戦だとすれば、敵はわが武田軍の総攻撃を見事に受け止めて、しかもわが軍に勝てるという勝算があっての上のことである。もし佐久間信盛殿がわがほうに味方するようなことがなければ、その勝算もあり得ないことではない。佐久間信盛が合戦の真中に叛《そむ》くなどということは絶対あり得ないと信じている信長だからこそ、或いはそのような策を弄したのかもしれぬ。このように考えれば、特にその情報一つで今朝の総攻撃の作戦変更の要はないだろう」
信君は云い切った。武田陣内において信君は勝頼につぐ実力者である。その信君がそう云ってしまうと、あとの者は口の出しようがなくなる。山県昌景も馬場信春も黙っていた。
「信実は、佐久間信盛の本心をもう一度確かめようと云いたいのだろう。だがその時間はないし、既にいままでのことで、佐久間信盛殿の心は充分に確かめられている。われわれは佐久間信盛殿を信じて戦いに臨むべきである」
信廉が云った。御親類衆の二人までがそう云うと、もはや決定的なものになっていた。
勝頼は山県、馬場二将の意見を聞きたかったが、直接に聞いてはかえって答えにくいだろうと思って真田昌幸と曾根内匠の二人に、
「大事な折なので、特にそちらの発言を許す、意見があったら云って見よ」
と云った。
昌幸は勝頼から特に発言の機会を与えられたのを名誉のことと思った。彼は武田陣営内の四巨頭の前で胸を張って云った。
「前々から申し上げておりましたように、織田信長は常人ではありません、常識では考えられないことを平気でやってしまう人です。佐久間信盛に対して、武士としての名目をいっさい投げ出して、武田に内通したように見せかけろと命令することも信長にとってはなんでもないことだし、酒井忠次を呼んで、鳶ノ巣山城攻撃の策を与え、その内容を佐久間信盛を通じて、わが武田方へ洩らすことによって佐久間信盛が武田方へ転《ころ》んだものと思わせようとするのも、いかにも信長らしいやり方だと思います。鳶ノ巣山城の信実様はそこまでお見通しの上、あの使者を寄越したのだと思います。お館様、このたびはひとまず退くことにしたらいかがでしょうか。今ならば、鳶ノ巣山の信実様ほか千名の味方の命を救うことができます。長篠城は取ろうと思えば何時でも取れます。ひとまず退いて、その後のことはまた考えることにしたらよいかと存じます」
昌幸は軍議を無視して直接に勝頼に云った。勝頼は大きく一つ頷いたあとで、曾根内匠の意中も訊いた。
「問題は佐久間信盛殿の叛《かえ》りが本心か見せかけかということにかかっています。いままでは、種々の証拠によって佐久間殿の叛りは本心だと判断されて参りました。叛りが見せかけだという証《あかし》がなかったからです。だが、信実様からの情報は、叛りは見せかけであるということを間接に示している証かと思われます。第二の証は、敵が今朝のわが軍総攻撃を予期して準備していること、第三の証はわが軍自体が、三倍の敵と、馬止めの柵と、三千梃の鉄砲に対して、いささかも恐れを抱かず、攻めれば勝てると信じこんでいることです。このようにわが兵の心をおごらせたのも、煎《せん》じつめれば、信長の埋言《まいげん》、流言策にひっかかったものだと思います。合戦はせず、このまま堂々と引き揚げたらよいかと存じます。鳶ノ巣山城の将兵にも至急退くように伝令を出すべきだと存じます……」
曾根内匠の言葉が終らないうちに、
「黙れ……」
という言葉の大鉄槌が内匠の頭に下った。穴山信君が真っ赤な顔をして曾根と真田の二人を睨みつけていた。
「云いたい放題を申し立てているその方等両名は、実際に槍を取って合戦の場に臨んだことが何度あるか? 実際に敵の首を取ったことがあるのか? 先代様以来、お館様の恩顧をいいことにして、使番衆として側近にあったという以外に実際の合戦に臨んだこともないそちらに、いったいなにが分かるか。今朝の総攻撃は既に昨夕の軍議で決まったこと。いまさら容易に変更できるものではない」
穴山信君は大声で云った。
「たとえ武田が亡ぶるとも敢て敵の策の前に身をさらそうというお考えですか」
昌幸は信君に向って云い返した。武田興亡の分かれ目だと思ったからであった。
「おのれ無礼もの」
信君が太刀に手をかけた。山県昌景と馬場信春が止めた。穴山信君は魁偉《かいい》な顔をしていた。怒るとものすごい形相になった。既に信君は冷静を欠いていた。こうなると、山県昌景と馬場信春の発言はいよいよできなくなった。二人は顔を見合わせたまま黙っていた。山県にしても、馬場にしても、信実よりの情報に聞き耳を立て、昌幸と内匠の言にかなり動かされていた。総攻撃は見合わせた方がいいかもしれないと、考え始めていた。だが、信君が怒り出してしまうと、若手参謀のこの二人の意見に簡単に賛成できない立場になった。両将はいよいよ固く口をつぐんだ。
夜は明け放たれていた。開戦の時刻は迫りつつあった。
鳶ノ巣山城の血戦
酒井忠次の率いる四千の大軍は遅々として進まなかった。雨はずっと降り続いており、時折、滝のような豪雨になった。
そのたびごとに松明《たいまつ》が消えた。部隊は真っ暗闇の山道の途中で風雨に打たれたまま、立ち往生をするしまつだった。
丑《うし》の刻(午前二時)になってようやく牛蒡椎《ごぼうじい》まで達した。そこには落雷のため、立ち枯れとなった椎の大木があった。遠くから見るとその恰好が牛蒡に似ていたから牛蒡椎の地名が生れたのである。
ここまで来ると、吉川から山に入って鳶ノ巣山へ至る山道の行程の半ばを過ぎたことになる。
忠次は全軍を尾根に集結した。狭い尾根道だから部隊を一ヵ所に集めることはできなかった。かなりの長さになった。各部隊からの報告によると、兵たちはおおむね元気だということだった。昼寝をさせたことがよかったと報告した者もいた。だが、兵たちの疲労がいちじるしいから、休養させ食事を摂《と》らせたほうがよいだろうと進言した部将もあった。見かけは元気のようでも、雨と風と泥にやられて、将兵ともかなり疲労していた。
忠次は火を焚《た》き身体を温め、各自食事を摂《と》るように全軍に命じた。牛蒡椎の前には山があり、それがかげになって、鳶ノ巣山の方からは焚き火は見えない。忠次にしてはむしろ敵にこの火が見えた方がよいと思っていた。だが吉川村の百姓吉右衛門を解き放した以上、酒井軍の行動は敵に知られている。これでよしと考えていた。
兵たちは焚き火に当りながら、糒食《びしよく》(乾飯《ほしいい》・焼き米)を食べた。餅を焼いて食う者もいた。だが雨が激しくなると焚き火が消えそうになるので、木の枝や草などで急造の屋根を作り、どうにか、焚き火を持ちこたえる者もいた。
使番衆が雨の中を走り抜けながら、忠次の言葉を各部将に伝えていた。
「身体にさしつかえがある者は申し出よ、まとめて後備に廻す。敵陣に近くなったから、大声で話さないように。敵の伏兵に気をつけて、なにか異常があったら、直ちに報告せよ」
敵前にあるということを強調して兵たちの気を引き立てるためだった。
牛蒡椎で食事を摂り、部隊はそのままの編成で再び山道を歩き出した。急な上りがあるかと思うと下りがある。尾根伝いではあるが平坦ではなく起伏に富んだ道だった。
本多康重の部隊の後尾が、伏兵に襲撃された。本多康重隊の次には松平伊忠《これただ》の部隊がいた。本多隊後尾の十名ほどが遅れ、二、三十間離れて松平隊の先頭が続いていた。武田方の伏兵はこの隙間に斬りこんだのである。
暗夜に叫び声が起こり、刀と刀と打ち合う音がした。
「敵の伏兵が現われたぞ」
と松平伊忠の先頭の兵が叫んで、駈けつけたときは、武田の伏兵は本多隊の十名に重傷を負わせて森の中へ逃げこんでいた。
後方に叫び声を聞いて本多隊は引き返し、暗夜に槍や刀をさげて突き進んで来る松平伊忠の先頭隊を見て、てっきり、伏兵と見て斬りかかった。本多隊の後尾と松平隊の先頭とが激しく斬り合って、かなり多くの死傷者が出たところで、ようやく味方どうしであることが分かった。本多隊、松平隊の双方を合わせると死傷三十余りになった。全軍がかなり動揺した。
伏兵近しとなればうっかり前進はできなかった。
「各部隊間の隙間を無くせよ。斬りかかる前には必ず合言葉を使うようにせよ」
などと使番衆がふれて廻った。
酒井忠次はにがり切っていた。武田の本隊を誘い出すための陽動作戦が功を奏したかどうかは分からなかった。分かっていることは、待ち受けている武田信実と一戦を交えなければならないということだった。四対一の勝負であるから、圧倒的に勝ちたいと思っていた。それなのに途中で伏兵に襲われ、死傷者を出したことは、なにか、先行きに暗いものを感じさせた。
伏兵はそれからもしばしば現われて酒井隊を混乱させた。道造り隊が襲われたり、暗い森の中から、松明を覘《ねら》って鉄砲が打ちかけられたりした。
伏兵は少数であったが、森の中へ逃げこむと捕えることはできなかった。なにしろ、暗いので、刀を振り廻すと同士討ちの可能性があって、敵よりもそのほうが危険だった。何時《い つ》、森の中から伏兵が現われるかも分からないというような疑心暗鬼の雨中の行軍はさっぱりはかどらなかった。
「夜明けを待つよりいたし方がないわい」
忠次はひとりごとを云った。
夜明けは間近い、夜明けを待って天神山から一挙に敵陣に攻撃をかけよう。それまではあまり動かないほうがいい――忠次はそのように判断した。
彼は部隊を天神山の下に集めて、厳重な警戒態勢を敷いて夜明けを待った。
「明朝卯《う》の刻(午前六時)を期して、天神山より、四手に分かれて、姥《うば》ケ懐《ふところ》の砦、鳶ノ巣山の本陣、中山の砦、久間山《ひさまやま》の砦を攻撃する」
と使番衆によって各部将に、その攻撃目標が示された。
天正三年(一五七五年)五月二十一日の朝は来た。雨は依然として降ってはいたが、その降り方は昨夜のようではなかった。雲の動きが速く、風が出た。
「晴れるかもしれないぞ、梅雨が上がるかもしれないぞ」
酒井軍の将兵はそれぞれ天を仰いで云った。夜明けと共に大物見(将校斥候)、小物見(下士官斥候)が出て行った。武田側の物見と衝突して斬り合いになって、負傷して来るものがいた。肩を深く斬り下げられて、隊に戻ると同時に出血多量で死ぬ兵がいた。合戦近しと兵隊は武具をととのえ、糒食を口にして命令を待った。
鳶ノ巣山城の武田信実は、千名の守備兵で四千の大軍に当るには、兵力を分散すべきではないと考えていた。姥ケ懐、中山、久間山の三つの砦の兵を鳶ノ巣山城に集めて、一丸となって敵に当るつもりでいた。
物見が次々と帰って来て、酒井軍が天神山より四隊に分かれてそれぞれの砦を攻撃に出て来るらしい気配を報じた。
武田信実は、酒井軍が四手に分かれて行動を起こすと同時に、各砦の兵力をすべて鳶ノ巣山城に集めるよう手配をした。
一時霽《は》れそうな空がまた曇ってはげしい雨になった。
その雨の音を聞きながら、設楽ケ原の本陣では、武田勝頼、穴山信君、武田信廉、山県昌景、馬場信春、そして勝頼の使番衆の真田昌幸と曾根内匠が最後の決定の場に立っていた。
穴山信君が腰の刀に手を掛けたほど、むき出しの怒りを真田昌幸に示したのは、それだけの理由があった。
信玄は御親類衆より家臣団を重く見ていた。能力ある者はその家柄がどうであろうが、いっさい気にせずに取り立てた。馬場信春がそのような経歴の大将だった。真田昌幸もまたその能力を認められて、常に信玄の側近にあった。真田昌幸は甲斐の人ではない。信濃小県《ちいさがた》の真田幸隆の子である。いわゆる譜代《ふだい》の家来ではなかった。信玄はその昌幸と、そして曾根内匠の二人を指して『余の二つの目』と云った。一度や二度ではなかった。二人が信頼されていたのはそれだけ、二人の智能が抜群だったからである。信玄が二人を重く見れば見るほど、御親類衆を代表する立場の穴山信君にはにがにがしく思われてならなかった。勝頼は父信玄の『二つの目』の遺産をそっくり受け継いだ。これがまた信君には我慢できないことだった。
信君が昌幸を叱ったとき、彼は御親類衆すべての力を背に負っていた。もし、勝頼が、昌幸の肩を持つようなことになれば、刀の柄にかけたその手の肘《ひじ》は勝頼に向けられることになるかもしれない。そうなれば武田家は分裂崩壊することになる。あってはならないことだ。
信君はそこまで勘定に入れて、自説を押し通そうとしたのである。この場合、家臣団の代表、山県昌景と馬場信春の立場が重大だった。勝頼が内心、昌幸の言を入れようとしていることは明瞭だし、昌幸や内匠の云うとおり、信長の謀略が目の前にちらつき出したのだから、山県、馬場が口をそろえて昌幸の言を支持すれば、勝頼をして、作戦中止に踏み切ることもできた。だが、昌景も、信春も黙っていた。
穴山信君と武田信廉の意見が合一したところで、二人は発言できなくなっていた。信君が刀に手を掛けて昌幸を叱ったとき、両将は、御親類衆の勢力が勝頼を圧倒したのをはっきり見た。両将の発言によって、力の均衡を破ることはむずかしいと思った。それに両将とも誓書までさし出した佐久間信盛の行動がすべて信長の指図だとは思いたくなかった。武士とはかくあるべきものであるという定義の中には、武士たるものが偽りの誓書をしたためることなどあろう筈《はず》がなかった。神明に誓って、武田殿にお味方すると書いて、血判まで押したその誓書が信長の強請によるものだとは考えられなかった。その一事が両将の頭にあったから、疑わしいと思いながらも、昌幸の言を積極的に支持せず、長い沈黙となったのである。
「黙っていたのでは分からない、そこもとたちの意見を申してみよ」
勝頼は昌景に云った。乞うような眼《まな》ざしだった。真田昌幸の意見を支持してくれと頼みこむ目つきだった。すがりつくような勝頼の目を振り切って、
「今ここで作戦を変更すると、混乱が生じます。すでに、その時は経過しました。なにとぞ出陣のおふれを……」
昌景は云った。その言葉の中には自ら心の底まで浸みこむようなむなしさがあった。昌景は自ら慄然《りつぜん》とした。
「そちはどうか」
勝頼が馬場信春に向けた目には最後の懇願があった。その目に打たれたように信春は目を伏せたままで云った。
「総攻撃に出るならば、雨が降っている間のほうがよいかと思います。敵の鉄砲は、この雨では、ものの役には立ちますまい」
信春はそう云って顔を上げたとき、勝頼の冷やかな目に当った。その目は、あの時の信玄の目に似ていた。川中島の合戦の時、迂廻して敵を討つべしという策を持ち出したのは馬場信春(当時は民部)だった。そして、その作戦の裏をかかれて味方は大損害を受けた。その時の軍議の席上で、馬場信春の発言が大勢を制したとき、信玄が信春に向けた目が、いま勝頼が信春に投げかけた冷やかな目であった。
(われ誤てり……)
信春はそう思った。だがもう遅かった。勝頼の目は信春から去っていた。
「今朝卯の刻(午前六時)総攻撃を開始する。御旗《みはた》、楯無《たてなし》に誓って余は織田信長、徳川家康の首を申し受けるであろう」
勝頼の声の中には、幾許《いくばく》かの淋しげな余韻があった。そこに居ならぶ者のことごとくが平伏して、御旗、楯無の武田重代の宝物にかけて戦うことを誓った。武田家の統領が、御旗、楯無に誓うと云った以上、いかなることがあっても、それに従わざるを得ないのが武田家の掟であった。
武田信実は長篠城の方角から坂道を雨に濡れながら駈け登って来る人影が見えるという報告を受けたとき、おそらく本陣からの使者だろうと思った。
信実の予想は当った。勝頼から派遣された使者、土屋昌恒は武田信実の前に手をつかえて勝頼の言葉を伝えた。
「卯の刻(午前六時)を期して、総攻撃に移る。鳶ノ巣山城守備軍はよきように敵をあしらいながら機を見て長篠城包囲隊と合流せよ」
という伝言であった。昨夕の命令には、戦のやり方はすべて信実にまかせるとあったが、今度の命令は暗に敵を支えることが無理だったら、退いて、長篠城を包囲中の味方と合流せよという命令に変わっていた。
「御苦労であった。休んで行くがよい」
と信実は土屋昌恒に云ったが、土屋は、
「間も無く合戦が始まります。遅れを取っては末代までの恥……」
そう云って、再び坂を駈け下り、坂の下に繋いであった馬に乗って設楽ケ原に馳せ帰って行った。弱冠二十歳の昌恒の頬は紅でも刷《は》いたように輝いていた。
酒井忠次は卯の刻(午前六時)に攻撃を開始しようと思ったが、雨が激しく降っているし、風も強く、とても鉄砲隊を使えるような状態ではないので、半刻(一時間)ほど待って、雨の小降りになったころを見計らって、四手に分けた軍隊をそれぞれの砦に向わせた。酒井軍が鳶ノ巣山城の各砦に鉄砲を撃ちかけたのは辰の刻(午前八時)であった。雨は止んでいた。
酒井忠次は鉄砲を重視していた。鳶ノ巣山城を落とすには鉄砲の偉力を充分に発揮するしかないと思っていた。そのために五百梃の鉄砲を用意したのであった。
姥ケ懐、中山、久間山の三砦からは応戦しては来なかった。満を持して、近づく敵を待ちかまえているように思えたので、うっかり突撃はできなかった。攻撃隊は砦を遠巻きにしてじりじりとその包囲の輪を縮めて行った。
砦から応戦して来ないのは不気味であった。恐る恐る近づいて、門をこわして、砦の中に突入したが、誰もいなかった。砦を守る兵はすべて鳶ノ巣山城へ退いていた。
攻撃隊は砦を焼いて景気をつけてから、鳶ノ巣山城に向かった。
姥ケ懐、中山、久間山の山城を攻撃したが蛻《もぬけ》の殻《から》だったという報告を受けた忠次も、もしかすると、鳶ノ巣山城そのものにも、武田軍はいないかもしれないと思った。
(設楽ケ原の武田の本隊も、長篠城包囲の武田軍も、織田、徳川連合軍との衝突をさけて引き揚げたかもしれない)
忠次はふとそんなことを思った。だとすれば、わざわざ苦労して、ここまでやって来た意味がなくなる。
忠次は天神山に本陣を設け、後備軍に守られながら約八町(約九百メートル)先の鳶ノ巣山城を見詰めていた。雨が上がったので鳶ノ巣山城はよく見えた。
忠次は鳶ノ巣山城をまず二千の兵で包囲した。そしてじりじりとその輪を縮めながら、鉄砲隊の射程距離に入ったところで、奥平貞能、菅沼定盈等の先手《さきて》衆三百あまりが鬨の声を上げて攻め登った。
攻撃隊はまず、乾堀《からぼり》で行きどまり、乾堀に梯子《はしご》を掛け渡しその上に盾を並べて橋とし、やっと渡ったところで、その上の土居に待ち設けていた武田軍の鉄砲隊と弓隊の反撃に合い、たちまち、二、三十人の死傷者を出して退いた。
忠次は鉄砲隊に攻撃を命じた。鉄砲隊は、土居に拠っている武田の弓隊鉄砲隊を狙い撃った。双方の鉄砲隊の激しい応酬があったが、圧倒的に数が多い、酒井隊の鉄砲の前に、武田軍の鉄砲は制圧された。土居に拠っていた武田の鉄砲隊の射手は狙撃され、狭間は酒井隊の集中射撃のために、打ちこわされた。二番手の攻撃隊は松平伊忠《これただ》が指揮して乾堀を越え、土居に迫った。こうなるともう鉄砲隊の出る幕ではなかった。土居を乗り越え、その内部の砦に迫ろうとする攻撃隊とそうはさせまいとする守備隊とが土居のあたりで激しく争った。双方が傷ついた。攻撃隊は次々と新手を出した。一ヵ所ばかりではなく数ヵ所から攻め立てた。急造の砦は、敵を長いこと支えることはできないから、土居を敵に取られたらそれが最後だった。守備軍は懸命に防いだ。雨が止むと、風が出、風が出ると雨雲が吹き払われて、幾日かぶりの青空が出た。
梅雨は上がったようである。太陽が顔を出し、濡れた大地から濛々《もうもう》と水蒸気が立ち昇った。松平康定の指揮する三番手の軍が攻め登ったが、らちが明かなかった。
酒井忠次は牧野康成に四番手の攻撃を命じた。牧野軍はよく戦った。かなりの死傷者を出したが、それにも屈せず、西の土居を占領し、そこから数十人が中になだれこんだ。
(すわ、鳶ノ巣山城落城)
と攻撃軍は誰でもそう思った。だが次の瞬間、土居には武田軍が立っていた。土居を越えた数十人の兵は砦の内に取りこめられてことごとく討死した。武田信実の上手な作戦だった。
鳶ノ巣山城は山砦である。一押しで落ちそうだが、山の頂きにあるので足場が悪く、四千の兵を一度に動員できないもどかしさがあった。周囲を囲んで、一ヵ所に集中攻撃をかけるとしても、せいぜい三百か四百の軍勢しか使えない。ところが、城兵は千人いて、その千人をどこへでも動かすことができるから守り易い。このような場合は、ひっきりなしに攻撃をしかけて城兵を疲労に追いこみ、機を見て、一ヵ所を破って突入するしか、攻め方はなかった。
酒井忠次は松平家忠に五番手の攻撃を命じた。
松平家忠の組下に戸田半平という槍の達人がいた。半平は背に晒首《しやれこうべ》の指物をさして、長柄の槍を持って土居に向った。
戸田半平の槍によって土居を守っていた武田軍の一角が崩れた。武田信実の家臣で『槍の貞成《さだなり》』とうたわれていた、五味与三兵衛貞成が戸田半平と槍を合わせた。五味は土居の上から突きおろし、戸田半平は下から突き上げるという妙な試合となった。
二人の槍の名人が槍を合わせたので、合戦は一時中止され、二人の槍の試合を全軍が見守った。日は高く上がっていた。
「どうせ試合をするなら、土居の上でやれ」
と攻撃軍の中から声が掛かった。それを聞いた五味貞成は槍を引き、戸田半平を土居の上に招き上げた。
両者の槍の試合が土居の上で始まった。遠くから見ると、戸田半平の晒首の旗指物が残月の輝きに似て見えたので、
「よう残月、しっかりやれ」
と酒井軍から声が上がった。
始めは互角だったが、腕の差は間もなく明瞭となった。五味貞成の槍に追われて、戸田半平は一歩二歩と後ずさりを始めた。
「槍貞《やりさだ》もう一突だ。それやれ、それやれ」
と武田側から声が掛かった。
「危い……」
と酒井軍から声が上がった。戸田半平は突き落とされるか、自ら土居の下にころがり落ちるか、いずれかの道を選ばねばならないところに来ていた。
酒井軍の中から銃声が上がり、同時に土居から、五味貞成がころがり落ちた。戸田半平危うしと見て、彼の郎党で鉄砲をよくする者が狙撃したのである。
「卑怯だぞ……」
という声が武田軍から起こった。驚いて呆然として土居の上に立っている戸田半平に向って武田軍の兵が物を云わずに横槍を入れた。その槍を受けそこなって、戸田半平は土居から転落したが、直ぐ槍を持ちかえ、土居へ向って駈け上がった。
「かかれっ!」
と松平家忠の号令で、攻撃軍は戸田半平の後を追って、いっせいに土居に殺到した。土居の一角が占領され、そこを突破口として、わっしょ、わっしょと土居を越えた。だが土居は二重になっていて、内側の土居を守っていた武田軍は外側の土居と内側の土居の間に酒井軍が充満したのを見て反撃に出た。せまいところに押しこめられた酒井軍は身の自由が利かずに、武田軍の猛攻にあって崩れた。外側の土居は再び武田軍のものになった。
このような土居の争奪戦が、四時間に渡って繰り返された。双方に死傷者が出たが、こうなると人数の少い守備軍の方が不利であった。五味貞成、飯尾弥四郎などのかけがえのない勇将がつぎつぎと戦死してからは、次第に押され気味になり、午《うま》の刻(正午)には外側の土居は落ち、武田軍は内側の土居によって戦わねばならなくなっていた。
「あとはわれ等が引き受けますから、どうぞ長篠城に落ち延びて下され」
三枝《さえぐさ》守友が云ったが、武田信実は首を振って、
「ばかなことを云うな、味方を犠牲にして大将が先に落ちたとなれば武田の名にかかわることだ。余はここを動かないぞ」
三枝守友が何度、信実に落ち延びるようにすすめても信実は首を横に振り続けた。勝つことは絶対にない戦いだった。踏みとどまれば必ず死ぬ戦いだということが分かっているのにもかかわらず、信実がそこに止まろうとする気持が三枝守友にはよく分からなかった。
「死守せよという命令ではございません、機を見て退いて長篠城を包囲する武田軍と合流せよというお館様の伝言ですぞ」
と云ったが信実はそこを動こうとはしなかった。その顔には、城と運命を共にする覚悟がありありと窺われた。
「殿、なぜでございます。なぜそのように命を粗末になさいます」
三枝守友の問いに対して信実は微笑を浮かべながら、
「武田家の名を大事にしたいと思うからこそ、わが身を捨てようと思っているのだ。設楽ケ原では、決戦が行われている。いまもし、われらが此処を退けば、図に乗った敵は、山を下って長篠城救援に殺到するばかりではなく、その一部は設楽ケ原の武田軍の背後に廻りこむ可能性がでて来る。お館様の命令がどうであろうが、われらはできるかぎりこの城で敵を支えていなければならないのだ」
信実の言葉にはおかしがたい威厳があった。三枝守友は返すことばがなく、信実が踏みとどまる以上、自分もそうしなければならないと決心した。
「さようならばまず浪人衆から先に落ちて貰ったほうがよいと思いますが……」
その守友の言葉を名和重行が聞いて憤然として云った。
「浪人には浪人の心掛けがある。いままで武田家の知遇を受けていたのは、このような合戦のとき働くためである。戦いは勝つときもあり、負けるときもある。負け戦《いくさ》だと云って、戦場を離れたら、われら浪人衆の名にかかわること。御大将が此処を動かぬかぎり、われ等とて動くわけには行かぬ」
名和重行ははっきり云った。名和重行が統率する浪人衆は二百人ほどだった。浪人は正式に武田家には属さず浪人衆として抱えられていて、戦争で手柄を立てた場合などに、正式に武田軍に加えられる者が多かった。中には、二十人三十人という手下を率いて、一戦ごとに主を変えて諸国を渡り歩く浪人衆もいた。これ等の浪人衆のうち名の知れた者は、多額の手当を貰って各地の領主に抱えられた。大きな合戦がある前には浪人衆の移動は激しかった。武田家にも信玄の時代から常に二、三百人の浪人衆がいて、その世話は武田信実にまかされていた。川中島の合戦のときも小田原城攻撃のときも、三方ケ原の合戦のときも浪人衆はよく働き、それぞれ恩賞を貰っている。そのまま武田家に居残ったものもあり、浪人としての旅に出た者もあった。
信実は信玄の弟であったが、信玄があまりに偉大であったことと、信玄の異母弟であるがために、目立った活躍はなかった。河窪の塁《るい》によって、信州北佐久郡に睨みをきかせていたので、河窪兵庫信実とも云った。合戦の度に出陣したが、多くの場合浪人衆の大将としてであった。勝頼の代になっても、以前と同じように、決して恵まれた待遇ではなかった。信実はそれを不服に思ったことはなかった。分《ぶん》相応なことをしているのがもっとも正しい生き方だと思っていた。温かい人柄だったから浪人衆の間に絶大な人気があった。名和重行が、信実とともに死ぬ決心をしたのも、信実という人間に惚れこんでいたからだった。
死守と心を決めてからの城兵の働きは目ざましかった。特に浪人衆を指揮しての名和重行の戦いぶりは見事なものだった。名和重行は太刀をかざして、敵の真っただ中に斬り込み、内側の土居に迫っていた敵兵をことごとく追い落とした。
名和重行の奮戦ぶりがあまりに見事なので敵も味方もかたずを飲んで眺めている場面もあった。だが、名和重行も不死身ではなかった。繰り返し、繰り返し、攻め寄せて来る敵の新手と戦っているうちに次第に疲労した。手傷をあちこちに受けた。
「それ今だ。名和重行の首を挙げて恩賞にあずかる者はいないか」
名和重行は、その声を聞きながら五人の敵を向うに廻して戦った。彼は流れる血が目に入り、そのために敵の槍を受け損じて倒れたところをおり重なるようにして首を取られた。
名和重行の死によって、浪人衆は崩れて退いた。三枝守友が残りの兵を率いて戦ったが、支え切れなかった。一人、また二人と兵は死に、もはや如何《いかん》ともしがたくなった。重傷を受けた三枝守友は、砦の中に引き揚げてもはや最後であることを信実に告げた。信実は残余の兵に、活路を開いて、落ち延びるよう指図をしてから、切腹しようとしたが、真近に殺到して来る敵を見て、
「武田武士の死にざまを見よ!」
と云い残して見事に立ち腹を切って死んだ。その後を三枝守友が追った。落城は未《ひつじ》の刻(午後二時)であった。
鳶ノ巣山城落城と同時に酒井軍はなだれのように坂を駈け下って長篠城を包囲する武田軍に斬りこんだ。
長篠城を包囲していた小山田昌行は、鳶ノ巣山城に上がる火の手と逃げ落ちて来る兵を見て、やがて攻め降りて来るだろう酒井軍をどのように迎え討つかを考えた。彼は一策を案じてそれを実行した。小山田昌行は調子に乗って攻め降りて来る松平伊忠《これただ》の軍に対して、戦わずして逃げると見せかけ、深追いをしたところを取りかこんで、殲滅《せんめつ》的な打撃を与えた。小山田軍は松平伊忠の首を槍の先に高々とかかげて、酒井軍に示した。
酒井軍はその生々しい松平伊忠の首を見て進撃を一時中止した。陣容を建て直して戦わないと、同じような目を見ることは明らかだった。長篠城外の戦は午後になって始められた。武田軍はよく戦った。敵は、長篠城兵を加えると味方の数倍になる。その敵と互角に戦った。この戦いで武田軍の高坂昌澄ほか多くの将兵が死んだが、酒井軍に与えた損害もまた大きかった。
鳶ノ巣山城の攻撃と長篠城外の合戦のことは徳川側資料に散見せられるけれど、味方の武勇のみ誇大に書かれて、損害について詳細に記されたものはほとんどない。この戦いで死んだ大将級の人物は酒井軍では松平伊忠ただひとり、それに比較して武田軍は武田信実以下数名の大将が死んでいる。それだけを見れば酒井軍の一方的勝利のように見えるけれど、人員の損害の総数は酒井軍と武田軍とはほぼ同様、それぞれ五百人近くであったのではないかと考えられる。
結果的にみれば、酒井軍の鳶ノ巣山城攻撃は酒井軍の勝利に終ったけれど、これは当り前のことであり、この奇襲攻撃が、設楽ケ原における武田軍敗北の原因になってはいないことは確かである。もっとも、鳶ノ巣山城攻撃を前もって武田軍に知らせるという信長の謀略に引っ掛かって、武田軍は設楽ケ原に出撃して大敗したのだから、その意味では鳶ノ巣山城奇襲作戦は設楽ケ原合戦の勝利の主因だったかもしれない。鳶ノ巣山城攻撃について、書いてある書物の中で、もっとも信用の置ける『信長公記』の一部を次にかかげる。
「坂井(注・酒井の誤記であろう)左衛門尉を大将として、二千ばかり、并《ならび》に信長の御馬廻鉄砲五百梃、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、加藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻《いぬのこく》、もりもと川(注・現在の豊川)を打ち越え、南の深山を廻り、長篠の上、鳶ノ巣山へ、五月廿日辰刻《たつのこく》、取り上げ、旗首《きしゆ》を擁し立て、凱声《ときのこゑ》を上げ、数百梃の鉄砲を〓《どつ》とはなち懸け、……」
『信長公記』の著者太田和泉守牛一は信長に長く仕えていた人である。おそらくこの日記は軍目付として派遣された金森長近等の報告を聞いて書き残したものであろう。
馬を狙えとの下知にて候
設楽ケ原の合戦について記述したものは多いが、多くは徳川時代に入ってから書かれたものでその史実性がとぼしい。設楽ケ原の合戦の原典を大別すると『原本信長記』と『甲陽軍鑑』の二つである。史料としては『原本信長記』が良質であり、『甲陽軍鑑』は史料としては劣る。ところが『原本信長記』の記述は短くて、この合戦の細部については書かれていないし、『甲陽軍鑑』は間違いだらけで全面的には信用できない。江戸時代になって書かれた多くの俗書は原典を『甲陽軍鑑』によっているものが多いのであまり当てにはならぬ。『松平記』『三河物語』、成瀬家の『長篠合戦図屏風』などが比較的信用が置ける文献であろう。
設楽ケ原の合戦を解析した教科書的な著述としては、旧陸軍参謀本部編纂《へんさん》になる『大日本戦史』の中の「長篠役」がある。また高柳光寿氏著の『長篠之戦』がある。私は高柳光寿氏が『長篠之戦』の文中で指摘している「長篠役」の誤謬《ごびゆう》を認め、高柳光寿氏の『長篠之戦』の説を支持する。従って、この小説の骨子も『長篠之戦』によるところが多い。もっともこれは小説であるから、下敷きには『長篠之戦』を用いたが、内容はかなり違ったものになることをまず読者にお断わりしてから、日本の合戦の歴史中もっとも謎が多く、もっとも悲惨な大会戦を描くことにする。
天正三年(一五七五年)五月二十一日、寅の刻(午前四時)、信長は本陣の弾正山に、佐々《さつさ》成政、野村三十郎、前田利家、塙直政、福富平左衛門の五人を呼んだ。五人のうち、佐々成政と前田利家は柴田勝家の与力《よりき》であった。この合戦には柴田勝家は参戦せずこの二人だけが出陣していた。野村三十郎、塙直政、福富平左衛門は、信長の旗本であった。
信長はこの五人に鉄砲奉行を命じていた。約三千梃の鉄砲とそれを扱う約三千人の鉄砲足軽を指揮するために、この五人が選ばれたのである。三千梃の鉄砲は五つの部隊に編成され、それぞれ五人の奉行の命によって動くように準備されていた。
信長は五人の鉄砲奉行を前に置いて、
「夜が明けたら敵は必ず攻め寄せて来る。その時こそそちたちが手柄をたてる時であると同時に日本の歴史を変える時である。心してわが云うことを聞け」
信長はいつになく緊張した顔で云った。信長の眼は鋭く、その眼に見詰められると誰でもすくんでしまうとさえ云われていた。
しかし、まだ暗いうちに本陣に呼びよせられた五人は、薄明りの中で輝く、信長の眼を怖いとは思わなかった。怖さを超えた神がかりの人の眼に見えた。
「この戦いにわが織田、徳川連合軍が負ければ、日本は東西二つに分かれて、尚長いこと戦国時代は続くであろうし、また、わが連合軍が勝てば、この時点で日本は一つにまとまる道がはっきりと決まる。それほどこの戦《いくさ》は重要であり、その勝負の鍵は鉄砲隊にかかっていることをまず肝に銘じて置くように」
信長は五人の顔を一人ずつ確かめるように云った。
「敵は卯の刻(午前六時)ころになると必ず攻撃に出て来るであろう。敵をわが柵の近くまで引き寄せ、充分に射程距離内に入ったところで発砲すること。雑兵に眼をくれずに、馬上の大将のみを狙って射撃せよ。鉄砲隊十五人を一組とし、十五人のうちの五人が射撃手となり、五人が撃ち終ったら、次の五人が交替し、更に次の五人が交替できるよう三段構えの攻撃法を取るように。五人が射撃の姿勢を取っている間は、他の十名は弾薬をこめているようにすれば、ほとんど間断なく鉄砲を使うことができる。この理わかったかな」
信長は五人の奉行たちに云った。
五人はいっせいに、承知つかまつりましたと答えた。
「五人ずつ三交替の十五名を一組として一番隊、二番隊、三番隊と名付け、各隊は必ず同一目標を狙うようにせよ、五人がばらばらの目標を狙うよりも、五人が同時に一人の人間を狙ったほうが当る割合は高くなると思う。従って、奉行の下で各鉄砲隊を指揮する者は目標を的確につかむよう心掛けねばならぬ」
さて、そこでと信長は一息ついて云った。
「手柄は個人ではなく、各鉄砲隊毎に与えられるであろう。鉄砲隊が撃ち取った敵の首を、もしも味方の者が盗もうとしたら、そやつを撃ち殺してもさし支えない」
雨が音を立てて降り始めた。信長はそのほうにちょっと気を取られたのか言葉に間を置いて、「雨のため、鉄砲が思うように使えぬ場合は、敵が柵を破っておしかけて来ることも考えられる。そうなった場合は、鉄砲隊は退くがよい。あとは刀と槍で戦わねばならないだろう。だが、雨が止んで、鉄砲が思う存分使えるようになれば、鉄砲隊は再び最前線に立つことになる。この駈け引きを誤るなよ」
さて、と信長はいよいよ結論らしきものを云おうとしているようだった。五人の鉄砲奉行は姿勢をただした。
「本日の勝ち負けはそちら鉄砲隊の働き如何《いかん》によって決まる。そちらが、個人の手柄を立てようなどと考えればわれらの負けとなり、各鉄砲隊が一つになって、余の命令通り働くならば、わがほうは必ず勝つ。決して迷うことがあってはならぬ」
信長が結論を云い終ったとき、物見が帰って来て前線の状況を報告した。
「敵の右翼陣が各隊ごとに人馬をまとめております」
次いで、
「敵の左翼隊、人馬の動き尋常ではありません。おそらく出撃かと思われます」
更に、
「敵の中央隊より、物見が数名現われ、連吾川の水深を測っております」
「敵の大物見、連吾川に接近、わが方の陣地を探索中……」
などと大声で報告した。
「ようし、鉄砲隊はそれぞれの部署につけ。ぬかるなよ」
と信長は大きな声で云った。
五人の鉄砲奉行はそれぞれの持場へ帰って行った。
夜は明けかけて来たが、雨は依然として降っていた。かなり激しい降り方で、風までも混えていた。鉄砲隊には不利であった。
信長は各部隊へ使番衆(参謀部員)を飛ばして、
「敵を柵の近くまで近寄せて戦え。本陣よりの命に従わずして、抜け駈けの功を得ようとする者あれば、たとえその手柄が勝頼の首であったとしても、許すことはできぬ。命令違反者として重く処罰する」
と伝えた。
そして、左翼陣の大将、佐久間信盛に対しては、
「かねての打ち合わせどおりに敵を支えよ、本日の合戦の勝負は、そちの動き如何にかかっている。充分、落ち着いて采配を振るように」
と命令した。
各部隊は、雨の中で立ったまま、焼き米をほお張り、塩をなめた。炒り豆を朝食がわりに食べる者もあったし、この朝のために、にぎり飯を用意していた者もあった。炊爨《すいさん》の焚火は何処にも見当らなかった。連合軍、三万九千の軍勢は、この日武田軍の攻撃あるものと、ことごとくが予期していた。
連合軍は武田軍に対して三倍以上の圧倒的兵力を有しているが、武田軍の強さをかねてから聞いている連合軍に取っては、その来襲こそ恐怖であった。黒い雲となって襲《お》し寄せて来る武田軍団を果して支えられるかどうか将兵ともに自信はなかった。
開戦の期が近づきつつあることは誰もが知っていた。連合軍の将兵は柵によって、来るべきものを待っていた。全員が死の恐怖に襲われつつあるような顔だった。
前線を見て廻って来た織田信長の使番衆は、この事実を卒直に報告した。
「味方三万余の軍勢が、一度に臆病風にかかったように震えております」
と、いささか、誇張して報告した者もいた。確かに一度も武田軍と戦ったことのない将兵たちは相手を必要以上に怖れていたし、佐久間信盛の部隊のように三方ケ原の戦で敗走した経験のある部隊もまた武田軍の騎馬隊を魔神のように怖れていた。
信長は前線の将兵の士気が上がっていないと知ると、徳川家康の本陣へ伝令を走らせて、徳川家康の使番衆、成瀬正一を本陣へ召し出して訊いた。
「そちは武田軍にいたことがあるから、武田軍のことをよく知っているであろう。いまわが連合軍は合戦を前にして、一種の恐怖状態に陥っている。戦わずして、敵に呑まれた恰好だ。このまま合戦に持ちこむとなにが起こるか心配だ。このことについてそちによい思いつきがあったら話してくれぬか」
信長は性急な口調で成瀬正一にこの重大問題の即答を求めようとした。
成瀬正一は、永禄四年(一五六一年)の川中島大会戦の折、武田軍の大将諸角《もろずみ》豊後守の同心として参戦した。午前中は、甲軍の旗色が悪く、諸角豊後守は戦死したが、午後情況が逆転して甲軍が越軍を追撃した際、成瀬正一は、長野のあたりまで、敵を追って行き、主人、豊後守の首級を取り戻して来た。彼はそれほどの豪《ごう》の者だった。
成瀬正一は信長の質問に対して悪びれずに答えた。
「武田軍は負けることを知りません、少しぐらい味方が不利になっても終局的には必ず勝つと信じて絶対に引こうとはしません。武田の強さはそこにあります。だから、武田を破るには、彼等のその自信を打ちくだかないかぎり、わが軍の勝利とはなりません。敵の自信をくだくには、緒戦において思いがけない打撃を与えることです。こんな筈がなかった。これはいままでと違ったと思わせることです。敵が一度でも引けば、味方の気持は安定するでしょう」
信長はその言葉を深く頷きながら聞いていた。
成瀬正一が家康の本陣へ帰着するかしないうちに、信長からの命令が全軍の鉄砲奉行に伝達された。
「騎上の大将を狙えという命令は変更する。まず馬を狙え、敵の馬は一頭たりとも無事には返すな」
「なにっ! 馬を狙えとな……」
鉄砲奉行はまず声を上げた。
「将を射んとすればまず馬を射よ、という俚諺《りげん》は知っているが、そのとおりにせよとはいかなることか」
そう訊き返す鉄砲奉行に対して、馬上の使番衆は、
「お館様の命令でござる。違反する者あらば厳重に処罰すると申されておられる」
使番衆はそう云って引き返して行った。
鉄砲奉行は、その信長の奇怪な命令を全鉄砲隊の射手に伝達するのに一苦労した。
「おれはわざわざ馬を撃ちにここまで出向いて来たのではない。馬など撃つのは誰にでもできることだ。われらは馬上の大将を撃ち落とすために来たのである」
鉄砲隊は、信長麾下《きか》の者だけではなく、この合戦に参加しない各大名から差し出された鉄砲足軽も加わって編成されていた。細川藤孝や筒井順慶などからも腕自慢の鉄砲隊が加わっていた。
鉄砲隊にとっては馬を傷つけずに馬上の敵を撃ち取ることが腕の見せどころであった。その彼等に馬を狙えという命令はなんとしても解《げ》しかねることであった。
続いてまた、信長の命令があった。
「もう一度、念を押す。なるべく多くの馬に、鉄砲を打ちかけて狂奔《きようほん》させ、緒戦において敵を混乱に陥れよ、五人一組で一将を狙うことを止め、銃手一人が一頭の馬を狙え、馬は殺さずともよい。奔走《ほんそう》させればいいのだから、必ずしも、引き寄せずともよい」
この命令によって、信長が、なんのためにこのような策を取ろうとしているかが、銃手たちには読めたが、不満であることにおいてはいささかも変わらなかった。
信長からの第二の命令が前線の鉄砲隊に通達された直後に武田軍の攻撃が始まった。
武田全軍は必勝の意気に燃えていた。この日の決戦を前にして、火を焚き、湯を沸かして朝食を摂《と》っている風景があちこちに見えていた。乾飯《ほしいい》に湯を流しこんで、椀の覆《ふた》をして置けば、間もなく炊き立てのような飯になる。現在のインスタントラーメンほどには行かなかったが、当時の非常食としては最高であった。これにゴマ塩を振りかけて食べた。食べ終ると椀を拭ってしまいこむ。簡単な食事だけれど、各所であげる炊爨《すいさん》の煙が、低い雲の下に棚引いて、連合軍の陣地から見ると、武田軍では合戦を前にして悠々と食事を摂っているように見えた。連合軍の将兵が武田軍を怖れた理由の一つは、この武田軍の人もなげな振舞いにもあった。
武田軍としては、こそこそ食事を摂る必要は全然なかった。連合軍は始めっから柵を設けての守備態勢に居るのだから、何時攻撃するかは武田軍の気持次第であった。また攻撃を敵に隠す必要もなかった。むしろ、攻撃を誇示して、連合軍に恐怖を与えたほうが有利であった。
武田軍が陣を敷いている連吾川東側の高地から、雨雲の下を流れ降りて行く炊爨の煙が連吾川のあたりで停滞しているころ、武田の本陣から法螺《ほら》貝の喨々《りようりよう》たる音が響きわたり、同時に鉄砲の一斉射撃の音が山間にこだました。突撃開始の合図であった。各部隊は一斉に押し太鼓《だいこ》を打ち鳴らしながら連吾川に向って前進を開始した。
北から南に流れる連吾川を中に挟んで対陣している両軍の戦線は約半里(約二キロメートル)である。二千メートルの戦線に一メートルごとに一人ずつの兵を置いたとしても二千人になる。そんな狭いところへ両軍合わせて五万人以上の大軍が入りこんでいったら戦争どころか身動きもできないだろうと考える人があるのは当然である。
しかし、これは現在の戦争の様式を頭に置いて過去のことを考えるからであった。当時の戦争様式から推しはかると、この人数は多いには多いがそれほど矛盾したものとは思われない。
連吾川を中心とした設楽ケ原一帯は農業用の採草地であった。連吾川のまわりの南北にかけての細長い平地も、両軍が陣を張った東西の丘陵地帯も草地であった。
そして、両軍の陣は、幾重にも厚みを持った縦隊によって形成されていた。設楽ケ原一帯は人馬によって埋め尽されたかに見えた。
全軍が衝突して一挙に勝負を決するという形式の戦争ではなく、双方から次々と部隊を繰り出しての、云わば入れ替わり立ち替わっての隔時集団格闘方式の戦いだったから、多くの人間が比較的狭いところに集まり、そして勝負がつくまでに長い時間を要したのである。
武田軍は全戦線に渡って進撃を開始した。だがこれは武田軍一万三千が火の玉となって連合軍の陣地に攻めこんだというものではなかった。それぞれの部隊から第一番隊が繰り出し、連合軍の柵に迫ったのである。連合軍もまたそれぞれの部隊から一番隊を前面に出して防備に当ったのである。
ただ両軍を通じて、それまでになかった軍の配置は連合軍側が、信長の命令によって鉄砲隊をこぞって前面に出したことであった。
武田軍は全線に渡って動き出した。押し太鼓を打ち鳴らしながら連吾川まで来たとき、それまで降っていた雨が止んだ。
連合軍にはまことに幸なことであり、武田軍にとっては悲劇の幕開けであった。それまでのように雨が降っており、しかも、風でもあったら、鉄砲隊はその能力の半分も発揮できなかった。豪雨にでもなれば、鉄砲の利用価値は更に落ちることになる。
鉄砲隊を指揮する大将たちは、それまでの間に各自思い思いに作った、雨除けの囲いや、屋根や、覆いなどの下から鉄砲隊を前面に出し、最前線の柵に拠って武田軍を迎え撃つ姿勢を取った。
武田隊は、騎馬武者が先頭になり、その後から足軽が追従する、武田軍得意の進軍隊形で一気に連吾川を越えた。
連吾川を越えると、連合軍の射程距離内に入ることになる。
連合軍の鉄砲隊が一度に火を吐いた。と、同時に先頭集団の馬がいっせいに棒立ちになり、或いは倒れ、或いは狂奔《きようほん》し、多くはその騎馬武者を振り落として奔走した。
武田軍に取っては全く思いもかけないことだった。弾丸は馬だけを狙って飛んで来た。人には当らなかったが、馬に振り落とされて怪我をした者が多かった。
武田軍の先頭に混乱が起きた。指揮者の乗った馬が狂奔したことによって指揮を取る者が無くなった。騎馬隊に後続して行った足軽隊は馬から落ちた指揮者を収容するのがせいいっぱいだった。そのまま前進できる状態ではなかった。
武田隊は引いた。引かねば、更に多くの混乱が生ずるおそれがあったからである。
武田隊は堂々と引いた。引き方にも法則があり、引くと見て付け入って来る敵に何時でも振り返って戦うことができるような訓練ができていた。この引きは負けたがための引きではなく、戦いの駆け引きの引きであった。連吾川を越え、連合軍の射程距離外に出ても、連合軍は付け入って来る模様はなかった。
各部隊で損害が調べられた。馬の損害が多かったが将兵の損害は比較的に少なかった。
「卑怯なり信長、勝たんがために武道の誇りまで捨てるとはなんたることぞ」
武田軍は怒ったが、
(敵の鉄砲隊は怖いぞ)
と印象づけられたことによって、二番手の攻撃法は変更された。前と同じようなことをすれば、同じような目に会うだけのことである。武田軍は戦争に馴れていた。無茶苦茶な自殺的突撃はしなかった。
「敵の鉄砲をかわす算段をせよ」
と勝頼からの命令が出た。
鉄砲を防ぐ方法は、盾と竹の束《たば》に隠れての前進であった。
盾と竹束に隠れて接近し一気に突っ込む方法であった。
第二番隊はその準備を終り、粛々として前進した。押し太鼓は前と変わりはなかった。
連吾川の東岸で、馬から降りた武者たちはそれぞれ盾にかくれて連吾川を渡った。
武田軍の動きを山の上から眺め下《おろ》していた信長は伝令を鉄砲奉行のところへ走らせて、
「かねて申しつけて置いたように、できるかぎり引き寄せて置いて敵の将とおぼしき者の盾一つに対して五人が一組となって鉄砲を撃ちかけよ。雑兵には目をくれるな」
鉄砲奉行はこの命令を各銃手に命じた。鉄砲隊の銃手たちも、馬を狙えという命令に心おだやかならないものがあったが、実際、馬を狙ったことによって、敵が引いたのを見て悪い気持ではなかった。しかも、今度の命令は盾であった。五人で一つの盾を狙えば、盾は破れ、相手を撃ち取る可能性はあった。鉄砲隊はそれぞれ目標を選び狙いをつけて待っていた。
武田軍の第二番隊が連吾川を渡った。そのときになって、雨が降り出した。鉄砲隊はあわてて、前から用意していた、囲いや屋根の下に位置を変えた。
押し太鼓の激しい乱打の音と共に、武田軍の鬨の声が上がった。手に手に長い槍を持った武田の兵が、まっしぐらに柵に殺到した。鉄砲を放ったが、その効果は不充分だった。鉄砲隊に変わって、連合軍の将兵が、柵に寄って防いだ。柵を越えようとする武田軍とそうさせまいとする守備軍との間で激しい殺し合いが始まった。
二番隊が疲労したころには三番隊が連吾川を越えて来て二番隊と交替して戦った。連合軍も次々と兵を交替した。
武田軍の右翼隊の総大将馬場信春は、連合軍の左翼陣水野信元、佐久間信盛の両隊のうち、まず水野隊に向って攻撃を開始した。水野信元軍と武田軍とが戦うのはこの時が初めてではあるが、武田軍は水野信元がどういう人間かをよく知っていた。元亀三年(一五七二年)三方ケ原の合戦のとき、水野信元は予備軍として二千を率いて浜名湖の今切の渡しあたりまで来ていた。水野信元は、佐久間信盛隊が武田軍に追われて逃げて来るという報を聞くと、まるで自分が武田軍に追われてでもいるように、浜名湖の渡し船をそっくり使って対岸に逃げそのまま岡崎まで走ったという、履歴の持ち主だった。
「佐久間隊には目をくれず、水野隊にかかれ!」
というのが馬場信春の下知であった。
佐久間信盛は武田勝頼に誓書まで出して、合戦が始まったら、機を見て、織田方に叛くと約束している。だから、佐久間隊は味方も同然、攻めることはないと考えたのである。
水野信元隊を最左翼に置いたのは、織田信長の計略だった。水野隊と佐久間隊を並べて置けば、佐久間隊の裏切りを信じている馬場隊は、佐久間隊を攻めず、水野隊を攻めるだろう。そうなれば水野隊は持ちこたえられずに、下がるだろう。水野隊が下がれば、それにつられて、佐久間隊も下がらせる。つまり、連合軍の左翼陣が後退することになる。
これは、武田軍の右翼隊を戦線深く、誘いこむ策であった。武田の右翼隊が進出すれば、中央隊も左翼隊もそれにつられて連合軍の陣内深く突入して来るだろう。そのとき反撃に出て武田軍の息の根を止めてやろうと云うのが信長の計略だった。
馬場隊は、水野隊前面の鉄砲隊に馬を撃たれて一度は退いたが、二度目の攻撃には、見事最前線の柵を破って水野隊の陣内に攻めこんだ。
水野隊を一の柵から二の柵に追いこんで置いて、佐久間隊の動きを見ると、佐久間隊は戦わずして徐々に退き始めた。
(やってるな)
と信春は思った。約束どおり、佐久間隊は行動しているなと思った。更に更に後退して三の柵あたりまで下がったところで、いきなり、方向を逆にして、信長の本陣に向って攻めかかるのだろうと思っていた。
だが、佐久間隊は二の柵の丸山のあたりまで下がったところで止まった。そこからは動こうとしなかった。
信春はへんだなと思った。武田隊に追われて後退する水野隊に歩調を合わせて、佐久間隊も戦線を後退して行けば問題はないが、丸山に佐久間隊が止まって動かないということになると、武田隊も水野隊を深追いできなくなる。或いは、ということがあるからだ。
(もし佐久間信盛の誓書が偽りであったとすれば……)
と馬場信春は考えた。
(もしそうだったとすれば、水野隊を深追いした馬場隊は佐久間隊に退路を断たれて袋の鼠となり全滅の憂目を見ることになる)
多年の戦争経験者としての馬場信春の勘であった。
(もしものことを考えれば、佐久間隊を水野信元の戦線まで下がらせて置くべきである)
と考えた馬場信春は、水野隊を追って、三の柵に攻めかかろうとする味方を二の柵まで退かせると同時に、それまで待機していた馬場隊麾下《きか》の精鋭五百に、丸山の佐久間隊攻撃を命じた。
辰の刻(午前八時)のころであった。雨は止み、薄日さえ洩れるような天気になっていた。
(攻めればきっと退くだろう。誓書まで交わした彼のことだ)
と信春は思った。また、
(佐久間信盛殿は、上手な芝居を打ちたいがために丸山に拠《よ》って動かないのだろう)
とも考えた。
丸山は設楽ケ原の最北部にある、小高い文字通り丸い形をした丘であった。佐久間信盛はここに居て佐久間隊四千を指揮していた。
馬場隊が丸山に向って攻めかかると、佐久間隊もまた、人の壁を厚くして防いだ。容易に落ちそうではなかった。
(佐久間信盛殿が武田と内通していることを知っている者は、ごく数人の旗本だけであろう。他はそれを知らないから一所懸命防いでいるのだ。そのうちきっと信盛殿は引けの命令を出すに違いない)
信春はそう思っていたが、佐久間隊が引く気配はいささかも見えなかった。
(これはへんだ)
と信春は思った。
彼は伝騎を後方の穴山信君と本陣の勝頼に飛ばして、このことをいち早く報告した。
「佐久間信盛殿の動き、まことに奇妙、まるで、御約束ごといっさい無きがごとくの振舞いにございます」
伝令は、勝頼の前に片膝をついたまま、馬場信春の言葉をそのまま伝えた。
「分かった。さもあらんかなと思っていた。かまうことはない。佐久間信盛の首、第一に挙げるよう心掛けよ」
勝頼はそう命じた。佐久間信盛の誓書が信長の謀略だと分かったところで、いまさらどうしようもないところに来ていた。既に全戦線に渡って死闘がくり拡げられていた。こうなれば勝つしかなかった。
信春は、勝頼が「さもあらんかなと思っていた」と云ったという報告を受けると、自分の不明を恥じた。早朝の緊急軍議の席で、勝頼は、真田昌幸、曾根内匠の二人の意見を取り上げ、決戦見送りを決議したい腹であったが、御親類衆に押し切られてしまった。あのとき自分が、もし二人の言を強力に支持したら、御親類衆といえども、あれほど強硬な態度には出なかっただろうと思った。
「だが、悔いてもせんなきこと、こうなれば、お館様の命令通り、佐久間信盛の首を真っ先に挙げずばなるまい」
信春は、自分に向ってそう云った。
信春は太鼓の鼓手、小林五郎兵衛《ごろうびようえ》に寄せ太鼓を打つように命じた。寄せ太鼓とは、押し太鼓のうち総攻撃に掛かれの合図の太鼓であった。この太鼓が打ち続けられている間は退却できなかった。死んでも後退は許されなかった。
小林五郎兵衛の押し太鼓は武田陣営内でも有名だった。よく響くだけではなく、音に偉力があった。小林五郎兵衛の太鼓を聞くと、全身に力がみなぎり、槍の扱いも軽くなると云われていた。
馬場信春は現代流に云うと聯隊長《れんたいちよう》格であった。その下には大隊長、中隊長、小隊長に擬せられる侍大将がいて、それぞれの部隊を統率していた。太鼓も各部隊にあった。各部隊の鼓手は小林五郎兵衛の太鼓が終ると同時に、寄せ太鼓をいっせいに打ち出した。
寄せ太鼓は乱打である。間隔を短くして、限りなく音が続く打ち方であった。しかもその乱打の波が上がり調子になって行くように打つところに特徴があった。限り無く登りつめたところで、再びもとに帰り、また登りつめて行くのである。
馬場隊は犇々《ひしひし》と丸山一帯に向って攻めかかって行った。鉄砲の戦いではなく、槍と槍、刀と槍、刀と刀との合戦であった。
馬場隊は一歩も下がらずに、佐久間隊を攻めた。三方ケ原で佐久間隊に勝っている馬場隊は必勝を信じていたし、負けて敗走した経験のある佐久間隊は、
(とてもかなわぬ)
という潜在《せんざい》意識があった。
丸山の頂きに馬場隊の旗が立ったとき、佐久間隊は算を乱して三の柵あたりまで退いていた。
巳《み》の刻《こく》(午前十時)であった。久方ぶりで顔を出した太陽が大地を照らし、設楽ケ原一帯からは濛々《もうもう》と湯気が立ち昇っていた。
旗幟《きし》ひらめく設楽ケ原
武田軍の最右翼の丸山に馬場隊の旗が立った。白地の縦長《たてなが》の旗に描かれた二本の黒すじはいくらか蛇行しているので、「よろけ二条」または「山道の旗」と呼ばれていた。近くから見ると、二条の山道はよく見えるが遠くから見ると白く見える。
この旗が丸山の上に立ったから、敵からも味方からもよく見えた。最左翼の山県昌景隊から見ると丸山に白雲がたなびいているようだった。
「やったぞ、馬場隊は、はや敵の前線を突破したぞ」
武田軍は全線にわたって勇気づけられた。おくれてなるものかという気持になった。
武田軍の陣容は図のようであったが、統率系統から見ると、穴山信君が右翼陣の諸将を掌握し、中央陣の諸将の指揮は武田信豊が取り、左翼陣は山県昌景が指揮し、総指揮は本陣の勝頼が執《と》っていた。
武田勝頼の陣は才ノ神にあった。全戦線くまなく見おろせる高地だった。
勝頼の本陣には白地の四角旗に大の字が黒々と書かれた旗竿が立てられていた。勝頼は床几《しようぎ》に腰をおろしたままで戦線を観望していた。勝頼の周囲には真田昌幸、曾根内匠等の使番がひかえ、更にその隣には何時でも飛び出せるように用意した使番衆が、むかでを描いた旗指物を背にして待機していた。
「小幡衆が出過ぎておる。左右をよく見て行動を取るように小幡信貞に伝えよ」
と勝頼は使番衆の一人初鹿野伝右衛門に云った。伝右衛門はその命令を伝えるため、ただちに馬上の人となった。
小幡隊はほぼ中央にいた。右隣が武田信豊、左隣が武田信廉の部隊だった。小幡隊は西《にし》上野《こうずけ》衆の精鋭五百人によって編成された。槍の柄も赤く塗り、鎧の紐も赤、旗指物も赤という、赤一色の部隊で、赤武者として連合軍からもっとも恐れられていた部隊だった。
赤備えは小幡隊だけではなく、最左翼の山県昌景隊も小幡隊と同様、旗も槍の塗りも赤だった。
小幡隊の右隣の武田信豊の部隊は、黒備えとして有名だった。
小幡信貞の旗は軍配団扇《うちわ》に竹葉を六つ並べ描いたものである。軍配団扇の旗を中心として、赤備えの一団が動き出した。
「いざ、赤武者の槍を受けて見よ」
小幡信貞は馬上で叫びつつ、連吾川に向って襲《お》し寄せて行った。第一回の攻撃で馬を狙撃されたから、連吾川の手前で馬を降り、盾や竹束を並べ立てて、密集部隊を組み、
「えいやあ、えいやあ」
と掛け声をかけながら、連合軍の石川数正隊に向っておし寄せて行った。ゆっくりと一歩一歩を確実に踏まえながら、いかなることが起ころうとも引く気配もなく進んで行った。既に雨は上がっていた。
連合軍に取っては鉄砲を最大限に使用できる状態だった。鉄砲隊が狙いを定めた。攻撃軍は射程距離に入る前に分散した。間もなく予期したように、いっせいに銃撃が始まった。と、それまで、盾にかくれてゆっくりゆっくりと行進していた部隊が突然走り出した。
各自が間合を取りながらいっせいに柵に向って突進した。鉄砲の弾に盾を破られ、竹束を射抜かれて倒れる者があったが、柵に攻めこみ、鉄砲隊を一度に三人も槍にかけて討ち取った赤武者もあった。
「鉄砲隊引け!」
の号令と共に鉄砲隊が退くと石川数正隊の槍足軽隊が出て来て赤武者隊と槍を合わせた。だが、赤武者の槍にはかなわなかった。たちまち突き崩され、新手が出るとまた突き崩された。赤武者隊は一の柵を越えようとした。初鹿野伝右衛門が駈けつけたときには、赤武者の先頭隊は一の柵を乗り越えようとしていた。
小幡信貞は勝頼の命令を受けて、左右を見た。左右の武田の部隊は連吾川の東側にいた。まずいなと思った。
(今、引けの号令を掛けるのはまずい、掛けても聞くものではなし、下手に掛けると部隊が混乱する)
小幡信貞はそう思った。号令はむやみやたらに掛けられるものではなかった。ころ合いを見計らって掛けないと失敗する。
そう思って見ているうち、敵兵がいっせいに退いて、二の柵に隠れこんだ。一瞬小幡隊は呆然とした。柵の向う側の敵が突然いなくなったからだ。
(今だ。今こそ一の柵を越えて二の柵に取り掛かるべきだ)
と一の柵を乗り越えて前に出たとき、二の柵に並んだ敵の鉄砲隊の一斉射撃を喰った。それまで、槍と槍との戦いをしていたから、盾や竹束は手元にはなかった。赤武者隊は鉄砲に当って多くの死者を出した。
「退《ひ》け、退け!」
の命令で小幡隊は安全圏まで退いた。その間にも背後から狙撃されて死傷者を出した。
「敵の柵は互い違いに設けられてあり、その隙間が通路になっております。通路は通り抜けられるものとそうでないものとがあり、それを知っていないと、柵の途中で行きづまってしまいます。敵は、その柵の通り抜け方をかねてから練習していたものと思え、まるで、鼠《ねずみ》か兎《うさぎ》のような敏捷《びんしよう》さで柵をくぐり抜けて、鉄砲隊と交替しました。槍足軽隊の姿が消えたと同時に鉄砲隊が二の柵に現われて鉄砲を打ちかけて参りました」
たまたまその場に居あわせた使番衆の初鹿野伝右衛門は、勝頼にそのとおりのことを報告した。
「敵は柵と鉄砲を使って、わが軍に出血を強いるつもりだな」
勝頼はそこに居並ぶ者に云った。
真田昌幸がそれに答えた。
「そのとおりでございます。徒《いたず》らに出撃を繰り返すは愚策かと思います」
「では、そちの策を申して見よ」
「佐久間信盛が叛《かえ》らぬときまったからには、このまま戦えば、時間と共に、わが軍の損害は多くなる一方です。退くべきです。今退けば、味方の損害は少なくてすみましょう。最後の機会です。味方が退けば、敵は柵から出て来るかもしれません。そうしたら反撃すればよい。敵は自ら作った柵にはまって、自滅するでしょう」
いざ御決心をお館様、と真田昌幸は云った。だが、勝頼は迷った。迷ったと云うよりもその下知を全軍が素直に聞いて退くかどうかについて危うんでいた。
勝頼の頭に穴山信君の魁偉《かいい》な顔が浮かんだ。おそらく信君は承知しまい。他の親類衆もそうであろうと思った。
(彼等は未《いま》だに佐久間信盛を信じているに違いない。丸山に馬場隊の旗が立ったのも、佐久間信盛の予定の行動によるものと見ているであろう。そうではないと説明しても、彼等には分かるまい)
「困ったことだ」
勝頼が洩らした。総大将がこの合戦の最中に困ったことだなどと云うべきではなかった。しかし彼はそう洩らした。
(昌幸の云うように、本陣から、各部隊長に向って、退けの命令を発した場合、こぞって、それに従うだろうか)
勝頼は父信玄を思った。今もし信玄がここに居たとすれば、信玄の一言で武田全軍はいっせいに退くだろう。しかし、この自分にはそれができないのだ。
(合戦と決定し、戦《いくさ》を始めて、まだ二刻余しか経っていない。しかも、全体的には武田軍は押している。それなのに退けの命令を出しても、各部隊長はおそらく承知しまい。命令を聞いて、退く部隊と命令を聞かずに戦う部隊がいたら、それこそ大混乱に陥ってわが軍は負ける)
勝頼は頭を上げて昌幸に云った。
「手遅れだ。そのような命令を出すことはかえって混乱を招くことになる。退くにしても、まだその時機ではない」
と云い切った。
そして、勝頼は、むかで衆に、各部隊長に対して、敵が柵と鉄砲を利用して、わが軍の消耗を狙っているから、その策にかからぬよう注意するように伝えた。
日は高くなり、戦いはいよいよ激しさを加えて行った。緒戦に鉄砲でひどい目に会った武田軍は、みだりに鉄砲隊の前に馬を乗り入れて、弾丸の餌食になるような愚かなことはしなかった。各部隊とも、それぞれ、鉄砲を避けながら、敵の柵を乗り越えることを考えていた。
信長は弾正《だんじよう》山の本陣から戦線の動きを凝視していた。
武田軍の機先を制するために馬を狙って鉄砲を撃ちかけたことは大成功だった。武田軍の戦線は混乱して退いた。
連合軍の将兵はほとんど迷信的に怖れていた武田軍が退いたことで、
(武田軍も、噂ほどのことはない)
という気持になった。これは大軍を統率する信長にとってはたいへんありがたいことであった。
(つぎには、武田軍に勝てるという自信を全軍の将兵に与えることだが、その前に、もっともっと武田軍を痛めつける必要がある)
信長はそう考えて、第二の鉄砲隊と槍隊との交替作戦を取ったのである。この策は、連吾川に沿って馬塞ぎの柵を設けたときから信長の胸中にあったことで、
〈鉄砲隊と槍足軽隊との交替を敏捷にするための訓練に余念なきように〉
と各部隊長に命令し、軍目付《いくさめつけ》を派遣して、その練習ぶりを監督させていたほどであった。しかし、この柵寄り交替作戦も一度は成功しても二度目は武田軍の方が警戒して、易々とこの手には乗らなかった。
武田軍は鉄砲に対する用意を充分にして押し寄せて来る気配が濃厚だった。
中央隊の一条信龍隊が、盾と竹束を前に押し立てて、前進して来た。連吾川を渡ると駈け足で柵に迫り、柵の鉄砲隊を追い払って、鉄砲隊と交替した羽柴秀吉の槍足軽と槍を合わせた。
羽柴秀吉の槍足軽隊が頃合いを見計らって、鉄砲隊足軽と交替しようとしたとき、一条隊は、隠し持っていた縄の付いた掛け鉤《かぎ》を柵に引っ掛け、盾と竹束に隠れて退いた。連吾川まで退くと同時に、連吾川の川ぶちにいた兵たちが力を合わせて綱を引いた。柵は音を立て引き倒された。
鉄砲隊は、その綱を引く一条隊の兵を狙ったが、兵たちは連吾川の中に下半身を浸して、背を低くしているので、なんとしても撃ち取ることができない。いたずらに無駄玉を放つだけだった。
鉄砲隊と交替して、足軽隊が出て来て、柵にかかった綱を切り落とそうとすると、今度は武田の鉄砲隊が前に出て、羽柴隊の足軽を狙撃した。羽柴の足軽隊から多数の死傷者が出た。
「武田軍にも鉄砲があることを忘れていたのでもあるまいに」
信長はすぐ眼の下で行われているこの戦いを見ながら云った。
信長は使番衆の青木一重《かずしげ》を呼んで、
「いかなる犠牲を払っても柵を取られぬよう算段せよと秀吉に伝えよ」
と命じた。人数は敵の三倍以上ある。味方に損害があってもかまわぬから、柵をこわされないようにせよという厳命だった。信長流の一方的なきびしい命令だった。
青木一重が、うけたまわって候と立ち上がろうとするとき、更に信長が云った。
「筑前(羽柴筑前守秀吉)にもあるまじき、醜態《しゆうたい》よ……余がそう申していたと云え」
と叱るような口調で云った。
青木一重は黒ぐるみの母衣《ほ ろ》串《ぐし》を背にしていた。元来、母衣は矢を防ぐために背に負う大きな袋であったが、信長の使番衆の使う母衣は一種の飾りであり、標識であった。母衣を串にさしたような恰好だから母衣串と呼ばれ、黒母衣をつける使番衆は黒《くろ》母衣《ほ ろ》衆《しゆう》、赤い母衣を背にして走る使番衆は赤母衣衆と云われていた。母衣を背にして、馬に乗り、戦場を駈けめぐる使番衆は若い武士たちのあこがれであった。人間と生れた以上、一度は母衣衆になりたいと若者たちは誰でも思っていた。
青木一重は、
「あい、あい、ようよう」
と特徴ある掛け声を馬上から発しながら、羽柴陣に来て、信長の言を伝えた。
「承知つかまつった。二度と柵をこわされるようなことはいたしませんとお館様に伝えられたい」
秀吉は、その瞬間、新しい手を考えていた。
秀吉は羽柴隊の使番衆を集めて、麾下《きか》の各隊長に次のように命令した。
「鉄砲隊と槍隊との交替はしばらくやめる。敵が柵の近くに居る限りは槍隊にて応戦し、いかなることがあっても、柵を引き倒されないように防げ」
秀吉の使番衆は黄色の母衣串をつけていた。黄色の母衣串をつけた騎馬武者がさっと散った。
信長は全戦線に隈《くま》なく眼をやった。武田軍は一条信龍隊が一の柵の一部引き落としに成功したのを見て、各隊ごとにこれと似たような方法を取って柵の引き落としにかかっていた。
連合軍はその柵を取られまいとして防いでいた。
持久戦《じきゆうせん》の様相がはっきりして来た。このまま時間が推移して行くと、両軍は次第に、この戦いに倦怠感を覚える。そして夜になれば、どうなるだろうか。
(武田軍は消耗戦を回避して必ずや撤退するだろう。この地形では追撃戦はできない。武田軍を全滅させるには、なんとしても、この設楽ケ原で、袋の鼠としなければならない。逃がせば禍根《かこん》を後に残す)
信長は苦慮した。
信長は緊張すると眉間の縦皺《たてじわ》が深くなる。癇癖《かんぺき》の人だから、心のいらだちはそのまま面に現われる。その次に言葉となって人を叱るか、または策となって人を動かすかどちらかである。そんじょそこらの癇癖性の人ならば怒ると自制心を失ってしまうけれど、信長は怒れば怒るほど、頭の働きがよくなって、次々と妙案を考え出す。そこが凡人とは違っていた。天才と云われるところはそこにあった。
側近にいた布施藤九郎が竹筒の水を信長に向って、さし出した。水を飲んで落ち着いて貰いたいという心からであった。
信長はその竹筒を取り上げると、布施に向って投げつけた。こういうときはよけてはいけない。そのままじっとして、主人の投げつけた物を身を以て受け止めねばならぬ。布施藤九郎の額に竹筒の節《ふし》が当り二寸ほど離れて二ヵ所から血が吹き出した。
信長はそれをじっと見ていた。尋常の眼ではない。狂ったように見える眼である。だが、どんより曇った狂った眼ではない。行き過ぎたところで、更にその先を考えている眼であった。
「見えたぞ、布施藤九郎!」
信長は絶叫した。なにが見えたのか布施にはいよいよ分からなかった。
「藤九郎、そちはただちに信盛のところへ行き、いかなる犠牲を払ってもよいから、丸山を取り返せと伝えよ」
急げと云った。信長は藤九郎の額から出血した二点のへだたりを見て、味方の左右両翼に出血作戦を命ずることによって、敵を柵に引き付けようと考えた。
布施藤九郎は信長の側近にいたが使番衆ではなかった。近習として仕えていた彼に使番衆としての役が云いつけられたのである。布施は役目の重大さを感じた。信長の心中は読み取れなかったが、なにやら信長が新しい作戦を考え出したことだけは確かだった。次いで信長は赤母衣《ほ ろ》衆の一人、団平八郎を呼んで云った。
「家康に柵を出て戦えと伝えよ、敵が攻めて来たら、柵内に入り、退けば、柵を出て追え。山県昌景に密着して戦えと伝えるのだ」
団平八郎は赤母衣串を背に負うと、家康の本陣にまっしぐらに走って行き、信長の命を伝えた。
「御苦労」
と一言、家康は答えて床几から立ち上がると、使番衆を呼び集めて云った。
「各隊長に告げよ。柵から出て戦え、柵に拠って、駆け引き自由にせよ。深追いはするな」
家康の使番衆は紺地に白く五を染め抜いた旗指物を背にしていた。
五の旗を背負った騎馬武者が颯爽《さつそう》と戦場を駈け通って行った。
信長は膠着《こうちやく》状態に入ろうとしている戦場に波乱《はらん》を起こそうとしていた。左翼陣の佐久間隊と右翼陣の徳川隊に積極的な攻めを命令することによって、武田軍を、合戦の坩堝《るつぼ》の中に引きずり込もうとした。
馬場信春と山県昌景は、天下の名将である。おそらく、この意図を察知するだろう。だが、彼の麾下は挑戦されて退きはしないだろうし、戦線の右翼と左翼が、激戦となれば、中央も黙ってはいないだろう。
(柵を挟んで全面的な戦いが始まる。そして相互に死傷者が出るだろう。だが、味方は人員には不自由はしない。たとえ一万死んだとしても後に二万は残っている。敵は一万三千のうち、五千を失ったら、もはや集団としての戦力を喪失したも同然、おそらく退かざるを得なくなるであろう)
信長はそのように考えていた。
勝頼の本陣才ノ神からは、連合軍の右翼と左翼が動き出したのがよく見えた。
佐久間信盛の旗印は白の吹きぬきであった。佐久間隊はその白の吹きぬきを押し立てて反撃に出たのである。
同時に連合軍の右翼隊(武田軍から見ると左翼隊)の前にいる大久保忠世隊と大須賀康高隊、榊原康政隊がいっせいに柵を出る気配を示した。
「敵は決戦に出るつもりだろうか」
と勝頼はつぶやいた。柵から出て来るならこっちの思うままになる。しかし、そう考えてよいだろうか。
「それとも味方を柵の際に誘いこもうとする策であろうか」
真田昌幸に訊いた。
「御意《ぎよい》。敵はこの戦いが持久戦にもつれ込むのをおそれ、御味方を誘いこみ、飽くまでも柵を砦として、御味方に出血を強いるつもりでございましょう。つまり、わが方を刺戟するための積極策と考えられます」
真田昌幸は答えた。勝頼は頷きながら曾根内匠にも同じことを訊いた。
「まさに誘い込み策です。これに引っ懸って、駆け引きを繰り返していると、味方の損害は次第に多くなり、やがては退かざるを得なくなります。そうなった時を見計らって敵は柵を出て追撃に移る所存と見受けられます」
曾根内匠の答えも真田昌幸と同じであった。
「しからば、そちたちの策は」
と勝頼は一度は口に出したが、すぐ両手で二人を制して、
「余は、敵の作戦の裏を掻き、味方の予備隊を左右両翼に繰り出して、敵の左右の柵を一気に突き破り、敵本陣を衝くべきだと思うが、如何に」
と訊いた。
「そのとおりでございます。今となれば、それ以外に勝つ道はないと思います」
曾根内匠が云った。
「右翼の馬場隊には、穴山隊を全軍投入し、左翼の山県隊には、中央の武田信豊隊の予備隊と、お館様の旗本隊を投入して、両翼が心を合わせて一気に攻めれば必ず敵の柵は破れるでしょう。こうなれば、敵の中央隊はすかさず柵を越えて、わが中央隊を攻めること必定。武田軍の両翼隊はいち早く敵の本陣に迫るか、それとも、敵の中央隊がわが中央隊を破って、この才ノ神の本陣に迫るかの勝負となるでしょうが、こうなれば、一種の混戦状態になり小廻りの利くわが方が有利となり、大軍を擁している敵は相互の連絡が悪くなり不利となります。わが精鋭部隊五百ほどで、敵の本陣を突き崩すことはいとたやすいことになるでしょう」
真田昌幸は自信を持って云った。今となってはこれしかない。これが武田軍にとって最後の機会である。三者の意見がたちまち一致したことによって、勝頼の本陣は色めき渡った。
「まず、玄蕃頭《げんばのかみ》殿(穴山信君)と典厩《てんきゆう》殿(武田信豊)に、このことを伝えねばなるまい。玄蕃頭殿のところへは、内匠が行き、典厩殿のところには昌幸が行って、この策を伝え、本陣よりの合図があったら、すぐ兵を動かすよう告げよ。美濃守(馬場信春)と三郎兵衛(山県昌景)にもそれぞれむかで衆(使番衆)を走らせて、この策を伝えることにする」
勝頼は凜乎《りんこ》として云った。
ようし、やるぞ、連合軍の陣に両翼から穴をあけてやるぞと彼は心に誓っていた。
(敵は柵に拠って戦っている。その柵の両端に、集中的攻撃を加えれば、必ず穴があく。柵に穴があけば連合軍は全戦線にわたって恐慌を起こすだろう)
勝頼はそう考えていた。
それまでの数時間で、連合軍の手のうちは分かった。銃砲の防ぎ方も分かったし、柵のもろさも分かった。あとはいかに集中力を敵の弱点に加えるかということだった。予備軍は朝からなにもしていない。この予備軍を主力にして攻めかけたら、柵は必ず破れる。既に一の柵は各所で破られつつある。
勝頼は、各方面に走らせた使番衆の帰るのを待っていた。長い時間に思われた。
馬場隊、武田信豊隊、山県昌景隊からはおさしず通りにいたします。合図をお待ち申しますという返事があった。
曾根内匠は右翼隊の後方に陣を取っている穴山信君のところへ行って勝頼の命令を伝えた。
「なに、予備隊を左右両翼に加えて総攻撃にかかるのだと、四郎殿(勝頼のこと)がそんなことを云ったのか。ばかも休み休みに云え。佐久間隊が丸山を狙って押し寄せているのは、信長の手前、そう見せかけているに過ぎないのだ。そのうち佐久間隊は必ず退く、そして退き足に勢いをつけて、信長の本陣に突っ込むであろう。わが予備隊が総攻撃にかかるのはその折である。それまでは動いてはならぬ。四郎殿は合戦の数も少ないし、そちたちも、まだまだ経験が足らぬ。はやまったことを四郎殿に進言するものではない。さっさと帰って、もうしばらく自重あるべしと、拙者が申したと伝えよ」
取りつくしまもないような云い方だった。
武田軍の総大将は勝頼である。勝頼の帷幕《いばく》が参謀本部である。そこから出た命令は絶対なものでなければならぬ。事実、他の将たちはすべてその命令に従うと答えた。当り前のことである。だが、穴山信君は勝頼の命令に従わなかった。これは明らかに違犯行為である。穴山信君は、武田勝頼を一応は武田の統領として認めながらも、依然として、心服してはいなかった。常に、同等な立場でものを云っていた。この設楽ケ原の大会戦で武田軍が敗北した根本原因は、この統率権の分裂にあった。
曾根内匠は才ノ神の本陣に帰ってこのことを勝頼に伝えた。
「なんと、玄蕃頭がそのようなことを申したのか、武田軍の総大将はこの勝頼だ、その命令を聞けないというのか」
勝頼は怒鳴った。
そして、外に向って、
「馬を引け」
と云った。自ら信君の陣地へ行って、無理にでも出陣させようと思った。
「お館様、しばらく。総大将が本陣を離れるときは、負け戦となったときでございます。心をお静め下さい。この昌幸がお館様にかわって玄蕃頭様に会い、必ず命令をお聞きくださるようお伝えいたしますほどに」
昌幸は勝頼の鎧の袖を押さえて云った。勝頼は昌幸の顔を見た。昌幸が行って説得しても信君が聞かぬようなら、もはや絶望だと思った。勝頼は手にしていた軍配を昌幸に差し出しながら云った。
「その軍配にかけても、玄蕃頭の心を余に向けてくれ」
その軍配は父信玄が持っていたものである。その軍配にかけてもと云うことは、信玄、勝頼父子二代の名にかけての懇願であることを、勝頼の代理者、昌幸をして云わしめるのだという意味であった。
昌幸は馬に鞭を当てた。草叢《くさむら》の露はもう乾いていた。日が頭上に照って暑かった。
穴山信君は昌幸に不敵な顔を向けたまま黙っていた。昌幸は弁に長《た》けていた。彼は佐久間信盛の朝からの動きを細かく分析して説明し、佐久間隊が武田と内通して、機を見て信長に槍を向けるということはまずあり得ないことであり、われらはまさしく、信長の謀略にかかりつつあるのだと力説した。
「叛《かえ》るならば、既に叛っていなければなりません。また叛るつもりがあるならば、わが方に対してあれほど本気になって攻め掛かることもないのです。このことは前線の美濃守様(馬場信春)からも逐次《ちくじ》報告があった筈です」
と云ったが、穴山信君は、どこ吹く風という顔で聞き流していた。
「玄蕃頭様、合戦の最中です。武田が興るか亡びるかの合戦です。既にお館様から命令は発せられたのです。今さら、その命令を変えることはできません。変えれば味方の戦線が混乱いたします。即ち武田軍は負けるのです。先代様が常々云っておられましたお言葉の中に、たとえ本陣の命令が誤っていると思っても、それに従わねばならない、いかなることがあっても本陣の命令について批判は許されないということがございました。玄蕃頭様、この軍配は先代様の手になさったものです。この軍配は既に勝頼様の手によって振られたのです。なにとぞ、なにとぞ、本陣の命にお従いくださるようお願い申し上げます」
昌幸は血の出るような声で云った。穴山信君の顔にごく僅かながら影が動いた。しかしすぐその影は消えて、一度にふくれ上がって怒気のやり場を昌幸の顔に向ってたたきつけた。
「その軍配が先代様の手にあったときは、本陣の命はなんでも通った。だが持つ人が変われば、その軍配はただの飾り物、そんなものがなにになる。余は動かないぞ、余は四郎殿の指図は受けぬわい。余が思うとおりの戦をやって、必ず信長と家康の首を並べて見せてやるわい」
信君はいささかも反省する気はなかった。
「本陣の命が聞けぬとならば、玄蕃頭様自ら軍規を破ることになりまするぞ、それでよろしゅうございますか」
昌幸は最後の殺し文句を云った。
「なんだと真田の小童《こわつぱ》め、そちの父幸隆は、たかが百貫か二百貫の被官《ひかん》だった。その真田家が今のように取り立てられたのは、先代様のおかげばかりではないぞ。この成り上がり者めが、うぬぼれるにもほどがある。いまのようなことをもう一度云ってみろ、手討ちにしてつかわすぞ」
穴山信君の濁った顔からは湯気でも立っているように見えた。
真田昌幸は、もはや云うべきことはなかった。だめだと思った。武田は負けると、この瞬間、はっきりと感じた。
山県昌景の死
馬場信春は、積極的攻勢に出て来た佐久間信盛軍と水野信元軍に対してどう処置するかを考えた。
丸山は設楽ケ原の北部にある高させいぜい二十メートルほどの独立丘《きゆう》であった。ここに本陣を置けば指揮を取るのにまことに便利ではあるが、この独立丘に拠って戦うことはそれほど有利ではなかった。小さな丘だから守りにくく、攻め易い面を持っていた。
馬場信春は丸山を死守するような下手《へ た》な戦《いくさ》はしなかった。丸山を取り返せと信長に命令されて、遮二無二《しやにむに》取りに来る佐久間軍を適当にあしらいながら丸山から引き、敵の一部が丸山に拠ったのを見計らって、伸びた佐久間隊の手を斬ってやろうと考えていた。こうすれば丸山を占拠した敵は自滅に追いこまれるわけであった。
馬場信春はその作戦を上手に使った。丸山を餌にして、佐久間隊を誘いこみ、手痛い損害を与えた。しかし、佐久間隊は大軍である。馬場隊の張った網に引っかかることを承知で繰り返し繰り返し反撃して来るのである。こうなれば、いままでの作戦を変えねばならない。
馬場信春は、午後になって再び進出して来た水野信元の軍を狙った。水野軍と佐久間軍との連繋《れんけい》は必ずしもうまくいっていないことを午前中の戦で見ていた信春は、その弱点を衝き、水野軍に大打撃を与え、これを追いながら付けこみ、柵を破って佐久間隊の本陣を狙おうと思っていた。
「これから敵水野隊の追い落としにかかります。水野隊が逃げ始めたら、後を追って一気に三の柵を打ち破って佐久間隊の本陣に迫るつもりでございます。敵軍を混乱に追いこむのは、この時と存じます。御加勢のほど願います」
と馬場信春は穴山信君に報告した。だが信君からは、
「深追いはするな。佐久間殿のなされ方を確かめてからにせよ」
という答えが帰って来た。
「玄蕃頭殿は、この期《ご》に及んでも、尚、佐久間信盛を信じておられるのか。情けない」
と信春は嘆いたが、そう思いこんでいる玄蕃頭に無理矢理、前線に出ろとは云えなかった。
(こうなったら、わが隊だけでやるよりしようがないだろう。わが方が水野隊を追撃して三の柵を破ったならば、玄蕃殿も気持を変えるだろうし、またわが軍が敵の重囲に陥ったら、黙ってはいないだろう)
信春は決心した。
馬場隊は面前にある敵の最左翼陣(武田方から見ると最右翼隊)の水野隊を攻撃した。午前中と同じように、水野隊はじりじりと下がり、一の柵から二の柵に追いつめられ、ついには三の柵まで後退した。
「今こそ、絶好の機会でござる。予備隊をお向け下され」
信春は、次々と使番衆を送って、穴山信君に攻撃をうながしたが、穴山隊はいっこうに動く気配がなかった。
(まずい、愚図愚図していると、水野隊に替わって、前面に新手が現われるかもしれない。伸びた馬場隊の足元を佐久間隊にすくわれるおそれも出て来る)
信春はそう思った。馬場隊の人数には制限があった。三の柵を越えるには、どうしても穴山信君の率いる予備隊二千が必要だった。
三の柵の前方に新手が現われた。敗走した水野信元軍に替わって丹羽長秀の予備隊が現われたのである。と同時に、佐久間隊が、伸び切った馬場隊の足元に横槍を入れた。
馬場隊は三の柵を前にして退かざるを得なくなった。前方に丹羽隊、側面に佐久間隊を受けた馬場隊は苦戦に陥った。
土屋昌続隊は丹羽長秀隊と戦っていた。土屋隊はじわじわと一の柵に迫ったが、丹羽隊の壁は厚くて打ち破ることはできなかった。
土屋昌続は丹羽隊の予備隊が水野信元隊援助に移動したのを見たとき、機会到来と見た。苦戦に陥ろうとしている馬場隊を救うと同時に、前面の丹羽隊の守備柵に穴を明けるのは、今をおいてはないと考えた土屋昌続は、盾や竹束を並べていっせいに攻撃に出た。
丹羽隊前面の鉄砲隊が引いて、足軽隊との激しい戦いが始まった。一の柵が落ち、二の柵に迫り、二の柵がまさに落ちそうになったとき、丹羽隊の隣にいた羽柴隊が、土屋隊を横から攻撃した。
予期していたことだった。当然のことながら、その羽柴隊に対して、一条信龍隊が攻めかかるという具合に、全戦線にわたって、死闘が始まった。
信長は弾正山の本陣からこれを見て、
「これでよし」
と云った。このまま時間が経過すれば、武田軍は損害が多くなり、必ず敗北すると信じていた。
勝頼は才ノ神の本陣からこれを見て、
「まずいな、まずい」
とつぶやいた。敵に対して味方は少ない。少ない味方で勝つには力を結集して、敵の弱点を突き、敵を混乱に陥し入れるしかない。その戦機は穴山隊が動かないために失ったのである。
「土屋隊が危い」
と勝頼は声を出した。深入りしすぎた土屋隊が敵に囲まれかかっていた。
「穴山隊はなにをしているのだ」
勝頼は穴山隊に使番衆を走らせて、土屋隊を救出するように命じた。
信君はその機になってようやく腰を上げた。が、本腰を上げたのではない。五百人ばかりの援軍を土屋隊にさし向けたときには土屋昌続は丹羽隊の足軽隊に囲まれていた。
「名のある大将がいたら出て来い。丹羽隊の大将は槍や刀が使えないのか。足軽に戦いをさせ、大将自らはうしろに引っ込んでいるのか」
と昌続は叫んでいた。だが大将らしき敵はいなかった。槍や刀を持った足軽が、大声を上げながら、土屋昌続を目ざしてかかって来た。
連合軍の各部隊の大将が柵の外で戦わなかったのは、信長の命令があったからである。
〈柵に拠り、足軽を出して敵をあしらえ〉
というのが信長の命令であった。敵に出血戦を要求はするが、味方は大将を先頭に出しての戦はするなというのが信長の命令だった。
連合軍の大将たちは、いらいらした気持で柵の外で武田軍と戦っている兵たちを眺めていた。
穴山隊の一部が土屋隊の後押しに出たために、丹羽隊は柵のうちに退いた。いままで、周囲をかこんでいた丹羽隊が柵に向って逃げ込もうとするのを土屋昌続は追った。
ふと気づいてみると、周囲に味方はいなかった。深追いをしたことに気がついたときには、前面を敗走していた槍足軽隊に替わって、敵の鉄砲隊が現われていた。戦うのに夢中になっていて、それまで何度も敵が繰り返していた交替策に引っかかったのである。土屋昌続は鉄砲隊の一斉射撃に会って身に数個の弾丸を受けて倒れた。柵の間際での壮烈な戦死だった。
槍や刀を持った丹羽隊の足軽が土屋昌続の首を取りに柵から出て来た。
数人の兵が折り重なるようにして、土屋昌続の首を取ろうとしていると、その兵たちに向って、鉄砲隊が一度に鉄砲を撃ちかけた。
「首盗人《ぬすつと》に容赦は要らぬぞ」
鉄砲隊の隊長が怒鳴っているのが聞えた。味方が味方を狙撃するとは考えられないことだったが、これは、かねてから信長自らが指示していることだったので、誰も文句の云いようがなかった。
土屋昌続の首は鉄砲隊によって挙げられた。
「土屋右衛門尉昌続殿が戦死されました」
という報が勝頼の本陣に届いたとき、武田隊の左翼、山県昌景もまた、敵の大軍を相手に苦戦の最中だった。
午後になると、大久保忠世、大須賀康高、榊原康政などの連合軍右翼隊は、足軽を柵の外に出して山県隊に出血作戦を強いた。山県隊が攻めかけると、柵内に逃げこみ、山県隊が引けば、その後を追って来るというやり方だった。
山県昌景は敵の手のうちを知っていた。本気でこの手にかかってはならないと、麾下の諸将をいましめながら、本陣からの指図を待っていた。本陣からの予備軍と武田信豊隊の予備軍が来たところで、力を合わせて、一挙に柵を打ちこわして敵陣深く斬り込もうと思っていた。
だが、その機は来なかった。使番衆を本陣にやって様子を訊くと、
「右翼、左翼の両軍が力を合わせて、敵の柵を突破する策は機を失ったから、取り止める。この上は、敵の誘いに乗らないように自重しながら柵から遠のくように」
という命令があった。
(おそらく、穴山隊が動かなかったのだろう)
と昌景は思った。
昌景は、敵をあしらいながら引けるだけ、引くように部下の諸将に命じた。
山県昌景隊が引くと、その隣の原昌胤も、その右隣の内藤隊も引いた。それにならって、中央隊の武田信廉隊、小幡信貞隊、武田信豊隊も一条信龍隊も引いた。そして右翼の土屋昌続にかわって指揮を取った土屋昌恒隊も真田信綱隊も、馬場信春隊もそれにならった。
全戦線にわたって妙な静けさが拡がって行った。連吾川に沿って吹きおりて来る風が涼しかった。太陽は頭上で熱く輝いている。
信長はこの形勢を見て云った。
「武田軍が無理押しをしないということは、鉄砲と柵には勝てないことを知って、このまま対峙《たいじ》したまま夜を迎え、そこで全面的な退却をしようというのであろう。そうはさせぬぞ」
信長は武田隊が一休みしたのを見て、そこが武田軍の攻撃力の限度と見た。
(午前中からの戦いで武田軍は疲労したのだ。彼等は、これまで精いっぱい働いた。もはや攻撃の余力はないに相違ない。この機に総攻撃をかければ必ず勝つ)
信長は床几から立ち上がって、采配を高く掲げながら全軍に命令を発した。
「鉄砲隊を先に立てて総攻撃に移れ!」
使番衆がその命令を持って蜘蛛《く も》の子のように散った。鉄砲奉行の佐々成政は鉄砲隊を先に立てての攻撃に疑問を持って聞き直したほどだった。だが、それが命令なればそうしなければならなかった。
連合軍の鉄砲隊がこぞって柵の外に並んだのを見て武田軍は、また例の手だろうと思っていた。だが、鉄砲隊は筒を武田軍に向けたまま連吾川を渡って来るのである。その鉄砲隊の後を、足軽隊が隊伍をととのえ押して来る。
「敵の総攻撃だぞ」
と武田軍は口々に叫んだ。
今こそ、決戦の時が来たぞと思った。柵から出た敵を柵に追いつめて討ち取って手柄を立てようと思った。
連合軍の鉄砲隊が駈け足で前に出て来た。
射程距離に入ると片膝ついていっせいに鉄砲を放ち、武田軍がひるんだところへ、鬨《とき》の声を上げて足軽隊が攻め寄せて来た。
両軍入り乱れての合戦が始まった。
連合軍は次々と柵を越え連吾川を渡った。武田軍の兵一人に連合軍の兵三人の割合で斬りかかっていった。
混戦になると、連合軍の鉄砲隊は狙撃隊に早がわりして、死闘を繰り返している武田の大将を狙って撃ちかけた。武田軍にとってはすこぶる煩わしいことだった。
信長は、予備軍に出動を命じ、両翼から武田軍を包囲するような隊形を取らせた。設楽ケ原は狭いので、それ以上の軍を合戦の場に投入できなかった。
血みどろの戦いが繰り返された。両軍とも多くの死傷者が出た。
武田軍の中央武田信豊隊に乱れが生じた。信豊の麾下として戦っていた山家三方衆の田峯《だみね》衆、菅沼勝兵衛、菅沼秀則、小野田八郎などの足軽大将が敵にうしろを見せたのである。この三人は、この合戦の前から徳川方に通じていた。いざという場合は戦線を離れるという約定まで交わしていた。そのいざという時が来たから、逃げ出したのである。田峯衆の指揮は、田峯城主の菅沼刑部少輔定忠が取っていた。家老の城所道寿《きどころみちとし》もまた一隊を率いて戦っていた。菅沼勝兵衛、菅沼秀則、小野田八郎等が引き始めたのを見て田峯衆は動揺した。
「退くな、戦え」
と小法師《こぼうし》こと菅沼定忠が怒鳴っても、
「見苦しいぞ、山家三方衆の恥ぞ」
と城所道寿が怒鳴っても、浮き足立った田峯衆の足を止めることはできなかった。
田峯衆の動揺を見て、滝川一益隊は、金色の三つ団子の旗印を押し並べて、わっしょわっしょと攻撃に出て来た。
田峯衆の退いた後へ楔《くさび》のように突っ込んで来た滝川一益隊の勢いにおそれをなして、武田信豊隊が退いた。
武田信豊隊の右隣の一条信龍隊も退き、武田信豊隊の一つ置いて隣の武田信廉隊も退いた。中央の御親類衆の隊が退き始めたことによって、武田軍の総敗北は見えて来た。
中央隊で踏み止まって戦っているのは小幡信貞の赤武者隊だけになった。
赤武者隊の活躍は目ざましかった。
鳥居元忠と、石川数正の両隊を引き受けて動こうとしなかった。だが、赤武者隊の左右が引いたから赤武者隊は連合軍に包囲され、おびただしい損害を受けた。勝頼の予備隊が救援に出たが、怒濤のように押し出して来る敵を支えることはできなかった。
赤武者隊は崩れて退いた。
引くのは、敵の方に槍を向けながら、後退することである。敵に背を見せることがあっても逃げるのではなく、戦略上の駆け引きの引きであった。
退きは退却であり敗北だった。文字通り赤武者隊は敗北した。やるだけやって退いたのである。
赤武者隊が退いたことによって、武田軍中央隊はいっせいに退いた。中央隊がこぞって、敗走を始めたのである。
中央隊が敗走を始めたら、右翼の馬場隊と左翼の山県隊とは完全に分離され、愚図愚図していると、敵に取り囲まれることになる。馬場隊も退却せざるを得なかった。
この中央隊の総退却によって、武田勝頼の本陣は危険にさらされることになった。敵はこぞって、勝頼の首を欲しがっている。だが、まだ味方が戦っているのに本陣が動くことはできない。本陣が動くときは敗北と決定したときである。
勝頼は頑張っていた。こうなれば、如何にして退却を上手にやるかということだった。だが、退却となると、攻撃よりむずかしい、命令は通らないし、だいいち、どっちへ逃げていいのかも分からない。そんなことは考えたこともないのだ。
攻撃のみが武田軍の取得だった。攻めれば必ず勝つという自信が武田の将兵にはあった。が、現実はそうでなかった。圧倒的多数の敵に押されて退却を始めたのである。だが、その退却のしかたは、一目散に逃げるのではなく、迫って来る敵と戦いながらの退却だった。
武田軍は負け戦になってもなかなか逃げないので知られていた。川中島の合戦の時がそうであった。多くの部将を失っても尚踏み止まって戦い、終《つい》に最終的な勝利を得ていた。武田軍の強いところはそこにあった。
連合軍の兵の多くは兵農分離後の、云わば職業兵士だった。戦は上手だったが、機を見るのに敏であり、負け戦となったら、さっと逃げ、勝ち戦となったら、嵩《かさ》に掛かって攻めかかり、敵の首を拾って恩賞にありつこうという者ばかりだった。
全戦線にわたって武田軍が後退を始めたとみると、連合軍は、それ勝ち戦とばかりに、攻め込んだ。それまで柵に隠れこんでばかりいた兵が、突然、勇者となって槍を構えて突っ込んで行った。
武田の兵一人に、三人、五人と取り掛かって首を奪い合う場面が各所に展開された。
勝頼は予備隊を繰り出して敵を支え止め、敗走して来る味方に陣容を立て直させようとした。味方の損害を少なくするには、しんがりとなって、敵を支える部隊が必要なのだ。それこそ、予備隊以外にはないのだ。
「穴山隊に、予備隊全部を繰り出して敵を防げと伝えよ」
勝頼は使番衆に命じた。だが、その使番衆が、穴山信君の陣へ到着したときには、穴山信君はその予備隊に守られながら、退き始めていた。
「これはなんということ」
使番衆は怒りのために口が利けなかった。
真田隊はよく戦った。全員が信濃武士であり、信玄以来の精鋭であった。馬場隊と力を合わせながら、徐々に退いてはいたが機を見て押し返す自信があった。その時機は穴山隊がこぞってこの戦いに加わるときだと考えていた。
だが、頼む味方の穴山隊が退いたのである。うしろ備えがなくなると、敵に背後に廻りこまれることになる。
真田隊も馬場隊も退かざるを得なくなった。
敵の大軍が人の塊のようになって押し出して来た。敵は穴山隊が引いた隙間に入りこもうとした。つまり、馬場隊と真田隊を取り囲もうとした。もしそうなれば、武田の右翼はもぎ取られ、武田軍全滅の憂目《うきめ》に会うおそれがあった。
真田隊は踏み止まって戦った。そうしているうちに武田軍全体が持ち直してくれることを願っていた。だが、敵は大軍だった。防いでも防いでも新手な敵が現われた。
真田信綱は使番衆の井手八郎に向って云った。
「本陣に行って昌幸に伝えてくれ。われら兄弟が敵を支えているうちに、お館様をお守りして、この地を逃れよとな。そちは、この地に帰る要はない。そのまま、昌幸と共にお館様を守って生き延びてくれ」
井手八郎は本陣に走って、信綱の言葉を昌幸に伝えた。それを傍で聞いていた勝頼が、
「真田兄弟を殺してはならぬ」
と叫んだ。しかし、今となっては、その兄弟を救う術はなかった。
「真田兄弟に、余の命を伝えよ。生きよ、死んではならぬと伝えるのだ」
井手八郎はその勝頼の言葉を持って、戦場に馳《は》せ帰ったが、既に真田信綱、真田昌輝は敵の重囲に落ちこんでいた。勝頼の命を伝えることはできなかった。
井手八郎は十人の敵と戦って死んだ。真田信綱、真田昌輝はよく戦った。大将が逃げないから家来も逃げなかった。家来が一人ずつ、討たれて行き、やがて、真田兄弟は数え切れないほどの槍や刀の中で戦死した。
名将、真田兄弟討ち取りの手柄争いで、血の雨が降りそうになったところへ軍目付が馳せつけて取り静めた。真田兄弟に槍をつけた者の名前を聞き取って記帳した上で、
「手柄については後刻取り調べて沙汰をいたす。はや、敵を追え」
軍目付の一言で兵たちはまた新しい首を探しに前線へ駈け出して行った。
山県昌景は徳川軍の大久保隊、大須賀隊、榊原隊を相手に戦っていた。
そこで敵の進出を支え留めないと、敵は図に乗って押しよせ、やがては山県隊をおし包み、続いて押し出して来るだろうところの軍勢は武田の本陣に向って突き進むことは明らかに考えられた。
山県隊は支えた。が山県隊、原隊、内藤隊などの武田左翼隊が懸命に支えたことは、武田の中央隊の退却を援助してやったような結果になった。敗走する中央隊を追撃する連合軍が、二波、三波、四波と堰《せき》を切ったような勢いで設楽ケ原中原に進出すると、左翼隊もそのままでは居られなかった。退かねばならなかった。或る程度は中央隊と歩調を合わせたいが、既に戦意を失って敗走の態勢にある中央隊と歩調を合わせることはできなかった。
山県隊及び左翼隊は次第に敵の重囲の中に陥ちこもうとしていた。囲まれたら負けである。退路だけは開けて戦いながら退かねばならなかった。
「山県隊が危い。このままだと昌景が囲まれるぞ」
本陣の勝頼はそう云うと、
「馬を引け、余は旗本隊の総力を上げて昌景の救援におもむくぞ」
と叫んだ。
山県昌景は信玄の右腕ともいうべき部将であった。戦も上手だったが人格者でもあった。信玄が後継者として勝頼を選んでからは、陰に陽に、勝頼をかばって、彼をして次の統領たるべき人に仕立てようとしたのは昌景だった。
信玄が死ぬときも、昌景は勝頼と共にその枕元にいたのである。信玄亡きあと、穴山信君を中心とする、御親類衆が、一時期、勝頼をうとんじたことがある。その御親類衆の顔色をうかがっている部将もあったのに、山県昌景と馬場信春の二将は、勝頼を統領として武田を一つにまとめることに積極的に努力した。
勝頼の代となり、側近勢力は入れ替わった。跡部勝資や、長坂長閑斎などの部将が勝頼の周囲に集まり、使番衆としては真田昌幸、曾根内匠の発言力が強くなった。そういう新体制の中でも、山県昌景が勝頼を見る目は、信玄の代といささかも変わってはいなかった。勝頼にとっては、この山県昌景、馬場信春の両将こそ、父信玄の残したもっとも偉大なる遺産だと思っていた。
「昌景を殺してはならぬ、昌景を救い出さねばならぬ」
勝頼は絶叫した。
その勝頼の前に跡部勝資が手をつかえて云った。
「御大将が合戦の場に出たら、それこそ敵の思う壺、はやお退《ひ》き召され。ここは一応は退いて陣を立て直してこそ、総大将としてのなされようでございます」
勝資の必死の制止を受けて動けずにいる勝頼の左右から、土屋惣蔵、安部勝宝《かつよし》、秋山光次、などの側近が同様のことを口々に云った。
「お館様お退き下され、さもなくば、兄たち二人の遺言は反古《ほご》同然になります。兄たち二人はお館様が無事この場を逃れたと信じつつ敵に討たれたのです。なにとぞ、なにとぞ、お退き下され」
真田昌幸が大声で叫んだ。彼の眼に涙が浮かんでいた。
だが勝頼はまだ退くとは云わなかった。武田信豊隊、一条信龍隊、武田信廉隊などの御親類衆の軍勢が本陣を追い越して敗走していった。
山県昌景は馬上で指揮を取っていた。前後左右に馬を乗り廻し、勢いこんで攻め寄せて来る、徳川軍の鼻先をもぎ取る指揮ぶりは見事であった。
総攻撃に移っても、連合軍は足軽を先に出し、大将は後方で指図をしていた。
足軽たちは、今こそ功名手柄を立てようものと、退き出した山県隊に向い、調子に乗って突っ込んで来た。山県隊は、そのお調子衆を取り組んでは、討ち取った。まるで、大きな竜が口を開いて、近づく者を飲みこみながら後ろ向きに退いて行くようだった。
お調子衆はその竜の口に五人、十人とまとまって食べられた。お調子衆がやられると、その後に続く者は恐怖に襲われ、しばらくは攻撃を控える。その間に、山県隊は更に後退する、という水際立った昌景の指揮ぶりだった。
連合軍の鉄砲奉行、前田利家は、もっとも腕の勝れた鉄砲隊百人を率いて戦場にいた。混戦状態になると、鉄砲は自由に使えないから、もっぱら狙撃部隊となって、武田の大将を狙っていた。
前田利家の指揮する鉄砲隊は武田信廉隊を追撃しながら、武田軍の中に深く食いこみ、そこから右に方向を転じて、山県昌景隊の背後に廻ろうとしたが、そうは簡単にできなかった。
前田利家は、遠く騎上で指揮している山県昌景の姿を見ると、鉄砲隊全員に向って云った。
「あの大将がやがて、こっちへ近づいて来る。射程距離に入ったところで一せい射撃をして討ち取るのだ。それまでその草叢《くさむら》に伏せておれ」
昌景は、前田利家の鉄砲隊が混戦にまぎれて、そんなに深く入りこんでいるとは知らなかった。山県昌景は馬上で指揮を取りながら、小高い丘にさしかかったとき、草叢に隠れていた、敵の狙撃隊のいっせい射撃に会って落馬した。彼の身体を数十弾が貫いていたけれど、顔には一発も当っていなかった。山県昌景隊の兵たちが、その鉄砲隊におどり掛かって突きまくった。鉄砲隊は退散した。
山県昌景の家来の志村又右衛門が主人の首を打ち落として、黒地に白桔梗《ききよう》の旗に包み背に負った。
志村又右衛門は六尺豊かの大兵だった。山県昌景の首を取ろうと近寄って来る敵を赤柄の長槍で突き伏せながら退いて行った。赤備えの志村又右衛門が全身に血を浴びると、赤鬼に見えた。
「山県昌景殿、御最期を遂《と》げられました」
その報告を聞いたとき勝頼は一瞬よろめいた。武田はこれで終りかと思った。
左右の侍臣たちが、よってたかって、勝頼を無理矢理馬に乗せた。
そのとき、血だらけになった、馬場信春の使番衆が、勝頼の馬前に片膝をついて云った。
「馬場美濃守信春、一身にかえて殿《しんがり》をうけたまわる。御館様には心置きなくお退きあれ」
勝頼は、その使番衆に向って云った。
「昌景も死んだ。信春が死んだら、武田はどうなると思う。美濃守に死んではならぬと伝えよ」
才ノ神の本陣に立てられていた武田の旗が動き出した。
総大将の勝頼が敵に背を向けたとき、この日の合戦は武田の敗北と決まった。
設楽ケ原の合戦について『信長公記』は次のように書いている。
一番、山県三郎兵衛、推《お》し太鼓《だいこ》を打ちて、懸かり来り候。鉄炮を以て、散々に打ち立られ、引き退く。二番に正用軒(註・逍遥軒武田信廉のこと)入れ替へ、かゝればのき、退けば引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半《くわはん》人数うたれ候へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の攻め者にて、是又、馬入るべき行《てだて》にて、推し太鼓を打ちて、懸り来たり、人数を備へ候。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ候へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に、典厩《てんきゆう》一党、黒武者にて懸かり来たる。かくの如く、御敵入れ替へ候へども、御人数一首《ひとかしら》も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈《ゑしやく》、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓にて、かゝり来たり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
五月二十一日、日の出より寅卯《とらう》(註・東北東)の方へ向けて未《ひつじ》の刻(註・午後二時)まで、入り替り〓〓相戦ひ、諸卒をうたせ、次第〓〓に無人になりて、何れも、武田四郎旗元《はたもと》へ馳せ集り、叶《かな》ひ難く存知《ぞんぢ》候。敵、鳳来寺さして、〓《どつ》と廃軍致す。
『信長公記』は、文献資料としては良質なものではあるが絶対的なものではない。この記録にも見られるとおり、鉄砲の偉力を強調しすぎている。確かに設楽ケ原の合戦では、その日に丁度梅雨が上がったので連合軍の鉄砲がフルに活躍した。しかし、鉄砲だけで勝負が決まったのではない。武田隊も、鉄砲の偉力は充分知っている。無防備で向って行けば鉄砲に負けることは分かりきったことだ。分かっていて、自殺的攻撃を六時から午後の二時まで、実に八時間も繰り返すということはあり得ない。緒戦では連合軍の鉄砲が偉力を発揮して、武田軍に損害を与えたであろうが、その後になってからは、武田軍は鉄砲を防ぎながらの攻撃方法を取ったに違いない。実際に設楽ケ原の合戦場を見て廻って、武田側の部将の墓(戦死した場所)を見ると、土屋昌続一人が柵の近くで死んでいるだけで他のほとんどの部将は、柵からほど遠いところで討たれている。
つまり武田軍が多くの死傷者を出したのは、八時間戦った後の敗戦の最中、即ち退却の途中であったと考えるべきである。
一部の史家が設楽ケ原の合戦を「馬と鉄砲」の戦いだと単純に解釈して以来、それが、俗説を次々と生み、武田勝頼をして悲劇の中の愚将に仕立て上げたのであろう。勝頼が愚将なら、勝頼の下で働いた武田の諸将もまたすべて愚将ということになる。当時の武田の内部事情を分析せず、勝頼一人の考えで武田軍一万五千を生かすも殺すもできるという、そもそもの仮定が間違っているから、「馬と鉄砲」の誤謬《ごびゆう》が出たのであろう。勝頼も武田の諸将も決して愚将ではなかった。やれるだけやって敗れたのである。なによりも八時間の戦いの長さがそれを示している。
敗 走
勝頼は戦いのかけひきとして敵に背を向けることはあったが、今度のように敗戦となって敵に背を見せたことはかつてないことだった。
敵に背を向けた瞬間、連合軍の雄叫《おたけ》びの嵐が恐怖となって彼を押し包んだ。敵がすぐうしろに迫っているように感じた。
勝頼の背後には旗本隊がいた。その旗本隊がいるかぎり滅多なことで勝頼が敵に討たれるようなことはなかったが、その旗本隊の馬蹄の音が勝頼には敵の追撃のどよめきに聞こえた。
(こんなことはなかった。いったいこれはどういうことなのだ。余が臆病風に取りつかれるとは――)
勝頼は、自分が武田家の統領であり、こういうときこそ落ち着かねばならないと思った。しかし心はあせった。早く敵の追撃をかわし、陣を立て直し、調子に乗って攻めかかって来る敵を迎え討ち、手痛い一撃を食わせたいと思った。しかしその機会はなかった。逃げても逃げても敵は追い迫って来るのである。
逃げる味方より、追う敵の方がはるかに数は多かった。しかも追撃に移った連合軍の将兵は、それまで合戦に加わらずにこの機の到るのを待っていた者ばかりであった。疲れてはいなかった。この際手柄を立てなければ参戦した甲斐がない、なんとかして首の一つも拾おうものと攻めて来るから、またたく間に追いつかれてしまうのである。
勝頼の本陣は敗北しながらもやはり本陣の旗幟《きし》は明らかにしていた。それが敵の目標になった。五旒《りゆう》の風林火山の幟《のぼり》が勝頼を囲むようにして動いていた。
「それ、あそこが勝頼の本陣ぞ、勝頼の首を取れば一国一城の主になれるぞ」
連合軍の将兵は口々にそう云いながら旗を目ざして押しよせた。
「旗はおさめたほうがよいのではないでしょうか」
と真田昌幸が馬上から勝頼に進言した。
「さよう。そのほうがよい。旗や幟は腹に巻き竿は捨てよ」
勝頼の言によって旗は処分された。敵にはそれで本陣の目印はなくなったが、味方にとっては、本陣の行方が分からなくなったことははなはだしく士気を沮喪《そそう》させる結果になった。
負け戦になっても、本陣の旗が見えればまだまだお館様は無事であるという安心感があったが、旗が見えなくなると、はや、お館様も討死されたのかとつい思い過し、戦う力を無くする者もあった。
勝頼の旗本はよく戦った。攻め懸かって来る敵に対して、二十騎、三十騎と踏み止まって防いだ。一騎に徒《かち》の兵が五人ついているとすれば百二十人ないし、百六十人の戦力となる。それに対して、連合軍は、その数倍ないし十数倍の兵が打ち向う。数の上ではとても敵わないが、その百二十人ないし、百六十人が死を覚悟して暴れ廻るから簡単に片づけることはできない。その間に勝頼等の一隊はなんとかして危地をのがれようとするのである。
「止まるな、追え、勝頼を追うのだ」
と連合軍の大将はそう号令しながら先へ先へと進む。
連合軍の一方的な殺戮《さつりく》戦であった。逃げ遅れた武田軍の兵を数人が取りかこんで首を奪い合う場面が諸処に見えた。
日本における最強の軍隊と云われていた武田軍も負け戦になると哀れであった。
勝頼は懸命に逃げた。気がついて見ると、彼の周囲には五十騎ほどしかいなかった。敵との間にかなりの距離があったが、いつ追いつかれるかの不安があった。
勝頼の乗馬が足を痛めた。それを見て、旗本の河西満秀が近寄って来て、
「お館様、どうぞこの馬をお使い下さい」
とすすめた。
満秀は自分の乗馬を勝頼に提供した。徒《かち》となった満秀は間も無く追いついた連合軍にかこまれて戦死した。
河西満秀の死によって勝頼は更に逃げ延びた。彼等はゆるやかな起伏の丘を越え、池のふちの道を走っていた。先頭にはこの地方の道に明るい案内者が立っていた。
危地を脱したという安心感と共に勝頼は全身に疲労を覚えた。総大将たる者は、馬の手綱をちゃんとひかえて胸を張っているのが当り前なのだが、疲労すると、甲《かぶと》が重く感ずるようになる。
姿勢が崩れ、前かがみになる。そうなると、重心はいよいよ前に傾き、かえって甲を重く感ずるのである。
勝頼と並んで走っていた近習の初鹿野伝右衛門はいちはやくそれを見て取って、
「お館様、甲をお取りめされ、拙者が持って参ります」
と云った。勝頼はそのとおりにした。甲を取って烏帽子《えぼし》だけになると、生き返ったような気持になる。勝頼は馬を走らせた。初鹿野伝右衛門は、勝頼の甲を貰って、それを自分の馬の鞍につけようとしたが、うまくゆかないから、自分の甲を捨て、勝頼の甲をかぶった。いざという場合に勝頼の身がわりになるつもりだった。
初鹿野伝右衛門が捨てた甲はそのすぐ後から来た小山田弥助が拾った。一目見て、近習の初鹿野伝右衛門のものだと分かったので、自分の甲を脱いで木の枯枝にかけ、初鹿野伝右衛門の甲を戴いて、一行の跡を追った。
敗戦となるとともに、武田の陣営は乱れたが、身を捨てて主人をかばおうとする武田武士の本領が各所で見受けられた。
半里余(二キロ余)の道を勝頼の一行は走りに走って、寒狭《かんさ》川の猿橋《さるはし》の渡《わたし》に来て見ると、ここには長篠城から退いて来た室賀信俊、高坂源五郎が殿《しんがり》軍としてひかえていた。もしこの軍隊が居なかったならば、勝頼は退路を酒井忠次の軍に断たれることになる。危いところであった。
長篠城包囲の武田軍は、鳶ノ巣山城を攻め落とし山から降りて来た酒井忠次軍を迎えて、上手な戦をした。連合軍の一方の大将松平伊忠《これただ》を討ち取ってからは、小勢ではあったが武田軍の方が優勢だった。酒井軍は徹夜の山越しで疲労困憊《こんぱい》しているので、それ以上戦う力はなかった。
室賀信俊と高坂源五郎は猿橋の渡の付近に鉄砲隊を伏せ、要所要所に手勢を配置して、退却して来る味方が猿橋を渡るのを援護した。
勝頼等が猿橋を渡ってからも、武田軍は続々と猿橋に殺到した。彼等は猿橋を渡って対岸に出れば助かると思っていた。大体そのような形勢になっていた。
勝頼等主従が危機を脱したのは、その旗本隊の捨身な奮戦もあったが、実はそれ以上に強力な殿部隊があったからだった。
馬場美濃守信春は敗戦と決まったとき、自ら殿《しんがり》となることを決意した。武田軍が敗戦を招いた最大の原因は、信長の謀略「佐久間信盛の謀叛」に引っかかったからだ。勝頼は、真田昌幸や曾根内匠の言を入れて、決戦をさけようとした。しかし穴山信君等親類衆の意見によって、決戦になった。馬場信春はそのとき身を挺して決戦に反対すればよかったのだが、それをしなかった。彼はそのことについて責任を感じていたのである。
最右翼の馬場隊は敵にうしろは見せずに、敵に相対したまま徐々に引いた。引いたと見て、攻め掛かって来る敵があれば容赦無く討ち取った。それまではろくな戦いもせず、武田軍が全線にわたって退却を始めたのを見て、いまこそよい首にありつこうと、寄り集まって来る、連合軍将兵に対して、信春は高いところからあれこれと下知した。引くと見せかけ突然踏み止まり、深入りした敵の首をあっという間に五十ほど取り、声をそろえて、
「そんなに首が欲しくば、この首を進上しようぞ」
とはやし立てた。
連合軍は馬場隊にはばまれて追撃は阻止された。したがって最右翼の馬場隊だけが取り残され、連合軍は、敗走している武田隊の中央隊から左翼隊にかけての敵を攻めようとした。馬場隊はそうはさせじと、連合軍の横腹を突いた。
馬場隊は堂々と退いて行った。見事に殿としての役割を果しはしたが、結果は、連合軍に包囲される形になった。当然なことであった。
馬場信春は、勝頼が寒狭川を渡って落ち延びたという報告を受け取ると、いよいよ、自分の最期が来たことを知った。
彼は寒狭川を渡らず、寒狭川の西岸で山を背にして戦っていた。馬場隊は次々と討たれてその数を減じて行った。信春の身辺にも少数の兵しか残らなかった。
「お逃げ下され、山の中へ逃げこめばなんとかなります」
と家来がすすめたが、信春は頭を横に振った。とても逃げおおせるものではないと思った。彼は自分の年齢を考えた。
彼は辛夷《こぶし》の大木の根本に腰をおろして来るべき敵を待った。
彼は春先に咲く辛夷が大好きだった。その辛夷は新緑の枝を延ばしていたが、来年の春になるとまた美しい白い花を咲かせるだろう。死に場所として悪くはないところだと思った。
刀を引っ携げた数名の敵が同時に現われた。最後まで残っていた馬場信春の家来三人がこれと渡り合った。
「岡三郎左衛門……」
と名乗って突然、斬りつけて来た者があった。馬場信春はその刀を見事に受けて立った。敵が名乗ったから自分も名乗ろうと思ったがその余裕はなかった。敵は馬場信春と知って斬りかかって来たようだった。遮二無二《しやにむに》首を取ろうと斬りこんで来る、そのあせりがよく分かった。
相手は若かった。初めての合戦であるかのような気負い方であったが、隙だらけであった。その隙が見えていても、馬場信春にはそこへ斬り込むだけの力はなかった。身心ともに疲れ果てていたのである。
(もう五つ六つ若かったならば……)
と彼は老いの身をなげいた。いや、疲れてさえいなければこんな若造に負けはしない。そうも思った。
敵はほとんど盲滅法に斬り込んで来たが、その度に馬場信春の刀にかわされた。
敵は唸り声を発しながら、信春に体当りをした。
信春は、その体力に押し負けて木の根元に倒れた。信春の上に男がまたがった。敵の右手に鎧通しがかまえられたのが見えた。
信春には、その刀の輝きがまぶしかった。
「ごめん……」
という声を耳にしたとき、信春は咽喉《の ど》のあたりに熱いものを感じた。
「岡三郎左衛門、馬場美濃守信春殿を討ち取ったり」
と彼は大声を上げた。彼は馬場信春をずっと狙い続けていた。白地に黒のよろけ二条の山道の旗指物を追っていた。どうせなら大将馬場信春の首を取ろうと、一刻あまり、ただひたすら、白地に黒の二条の山道の旗指物の本陣を追っていた。乱戦になり、混戦になり、山道の旗は伏せられてしまったが、馬場信春とおぼしき大将の跡を追い続けていた。
彼は機会があっても戦わず、その力をたくわえながら執拗に追い求めた末、終に得たのがこの幸運であった。
合戦が終った後、信長は岡三郎左衛門を傍に召してこの手柄を賞讃した。
信長は敵の武将の首を前に置いて、侮蔑《ぶべつ》的な言葉を吐く場合がしばしばあった。だが、馬場信春に対しては、
「あっぱれ、世に類《たぐい》なき名将……」
という言葉を使った。信長としては珍しいことだった。敗戦となった武田軍の殿《しんがり》となって戦った馬場信春の采配ぶりを見てあっぱれと感じたのであろう。
『武家雲箋』に信長が岡三郎左衛門に与えた感状が載っている。
今度於長篠表武田一家一戦之砌、馬場美濃守討捕之事無比類働也。為褒美太刀一腰(国重)馬一匹(鹿毛)遣之。訖尚可加恩賞之状如件七月廿日 信長
岡三郎左衛門とのへ
長篠の一戦において比類なき働きをして馬場美濃守を討ち取ったから褒美《ほうび》として国重の太刀と鹿毛の馬を与えるという感状である。七月二十日の日付だから、かなり後になってからであるが恩賞としては立派なもので、これがもとで、出世の道が開けることはまた確実であった。その後岡三郎左衛門がどのように出世したかは分からないが、かなりのところまで行ったことは間違いないと思う。
馬場美濃守信春を討ち取ったのは塙直政の家来の川井三十郎であったということが、『松平記』『総見記』『治世元記』等に載っているが、これは馬場美濃守信春ではなく馬場彦五郎勝行のことであろう。『参州長篠戦記』には勝行は信春の伯父と記してある。
馬場一族の者で名のある大将だったに相違ない。
勝頼主従は馬場信春や多くの旗本たちの犠牲によって、寒狭川の東岸に出て、東岸沿いの道を北上し、黒瀬(現在の玖老勢)から小松ケ瀬を渡って寒狭川の西岸に移った。ここまで来ると、もはや敵に追撃される心配はなくなっていた。
勝頼は敗残の兵を纏《まと》めつつ、菅沼刑部少輔定忠の田峯《だみね》城(長篠から約十三キロほどのところ)を目ざした。
そろそろ日は暮れようとしていた。
勝頼はここで軍を再編成して、もし追撃して来る敵があれば一戦しようと考えていた。
武田の兵は疲れ果てていた。食事を与えてやりたかったし、傷兵の手当もしたかった。
物見を出して連合軍の動きを探らせるとどうやら連合軍は追撃を中止したようだった。
そうなれば、今宵はこの城に本陣を置くのがまずもって安全であった。
城主の小法師《こぼうし》こと菅沼刑部少輔定忠は、この度の戦いに加わり、勝頼と共に引き揚げて来ていた。彼は城門を叩いて大声で叫んだ。
「はよう開け、お館様が見えたというのになぜ門を閉ざしているのだ」
それに対して城内から返事があった。
「この城は徳川殿にお味方申すことになった。はよう立ち去れ。愚図愚図していると、城門を開けて兵を繰り出し、勝頼殿の御首を頂戴するぞ」
意外な返事だった。
田峯城には菅沼定忠の家老今泉孫右衛門道善が五百人を率いてこもっていた。その孫右衛門にはかねてから、徳川方より誘いの手があった。今泉孫右衛門は、
(主家を裏切って徳川方につくのは今だ)
と考え、武田方が敗戦と決まると、たちまち、城門を閉ざし、籠城の準備をしたのである。定忠がつぎつぎと人を変えてその不心得をさとしても門は開かれなかった。
菅沼定忠と家老の城所道寿は今泉孫右衛門の裏切りをひどく怒った。
「お館様、力攻めに落としましょう、われわれはこの城の弱点をよく存じています」
と定忠と道寿がこもごも勝頼に云った。だが勝頼は首を横に振った。
取ろうと思えば攻め取れるだろう。しかし、少なくとも二十や三十の犠牲者は出る、それが勝頼には耐えがたいことだった。負傷した者や疲れ果てた者が続々と田峯城をさして集まって来ていた。これ以上、一人も失いたくはなかった。
武田の軍を再編成すると、およそ七千はいた。まだ帰還せぬ者や、他の道を経て逃れた者を合わせると一万人ぐらいは生存しているだろう。あとの三千はどうしたのだろうか。勝頼は暗然とした。
勝頼は、曾根内匠を大将として二千余の軍勢を田峯に残し、落ちて来る武田の兵を収容することにした。菅沼定忠と家老の城所道寿も残した。そうしないと、いまや敵についてしまった田峯城の者が武田の落武者狩りをする可能性があったからである。
勝頼が曾根内匠を敗戦収拾の大将としたのは、この際、もっとも有能な者をその衝に当らせたいという気持からだった。
曾根内匠はこの役を承わると、直ちに菅沼定忠と城所道寿に命じて、食糧の調達、負傷兵の手当を命じた。定忠はこの地の領主であるから、領主自ら食糧の調達に当らせたのである。民家に負傷兵を収容して介抱するようにもさせた。
一方、曾根内匠は、この付近の道にくわしい、山家三方衆を道案内とした大物見《ものみ》部隊を組織した。一班が三十名ないし四十名であった。未だに余力ある者をつのった。申し出る者が意外に多かったこの部隊を全部で二十ほど作り、充分な食事を摂らせてから二つの任務を負わせた。落ちて来る武田の兵の収容と、追撃して来る徳川軍に対する牽制であった。
信長は追撃停止の命令を出したにもかかわらず、徳川軍は勝ちに乗じて、どこまでも武田軍を追撃しようとした。徳川家康自身も鳳来寺《ほうらいじ》の麓、黒瀬まで進出した。
家康はそこに本陣をかまえて、更に追撃を強行しようとした。その家康の本陣から数町(約数百メートル)離れたところで、家康の軍が襲われて、数名が殺された。夜に入って間も無くであった。
「それ武田が攻めて来た」
とそっちへ兵を動かすと、今度はその場所と反対側に武田の一隊が現われて数名を討ち取った。
家康は恐怖を覚えた。物見を出して、探らせると、
「武田軍は田峯のあたりで勢揃いをして、二手又は三手に分かれて、押し出して来る様子」
ということであった。徳川方に味方すると誓った今泉孫右衛門の去就も明らかではなかった。
家康は身に危険を感じた。そこへ信長からの帰還せよというきつい命令があった。家康は軍を長篠城に返した。曾根内匠の作戦は功を奏したのである。
既に暗くなっていた。追撃軍は明朝を期して休養に入った。
山に隠れていた武田の将兵は、三々五々《さんさんごご》と集まり、夜道を田峯に向った。夜が明けると、徳川軍による残敵掃討作戦が始まることは間違いなかった。それまでには安全地帯まで逃れなければならなかった。山道の要所要所は、曾根内匠の部隊によって固められ、篝火《かがりび》が燃え上がっていた。落ちて来る武田軍の目に付くように、火の傍に武田方の旗指物を置いた。
大きな鍋に粥《かゆ》を作って疲れた兵たちに与えた。篝火に映る旗指物を見て、なんの疑いもなく寄って来る者もいたし、中には、それが敵の計略かもしれないと、物陰にかくれてじっと見ている者もいた。そういう者も、やがては出て来て、粥を食べ、やっと生き返った顔になり、
「畜生め、畜生め……」
と、その日の敗戦の口惜しさを口にした。
傷ついた者を背負って来る者もいた。こういう者は、新たに付き添いをつけて後方へ送り返された。
曾根内匠は各隊に交替に休養を取るように命じた。彼自らもまた眠った。
勝頼等は遅くなって武節城に着いた。この城も菅沼定忠の支城であった。彼は、はじめて、身を横にして眠ることができた。そしてその翌日、武田軍は三河と信濃の国境を越えて、伊奈の根羽についた。ここまで来るともはや徳川軍の追撃を恐れることはなくなった。
曾根内匠は勝頼に命ぜられた任務を果して武節に着いた。
菅沼定忠と家老の城所道寿は今泉孫右衛門の裏切りにひどく腹を立てた。彼らばかりではなく、彼らと共に設楽《しだら》ケ原の戦いに参加して、手痛い目に会って帰って来た者はすべて怒っていた。
今泉孫右衛門の裏切りによって、田峯衆は完全に二つになった。設楽ケ原の戦いで、武田軍が総崩れになるきっかけを作った原因の一つは、菅沼定忠の一族、菅沼勝兵衛、菅沼秀則等徳川方に内通した者二百ばかりが突然、戦うのをやめて、逃げ出したことによる。
菅沼家の内情は複雑だった。既に(元亀二年=一五七一年)菅沼定忠の子定利は徳川方に従っていたから、菅沼氏は二つに分かれて同族相食《は》む戦いをしていたということになる。
菅沼定忠は、伊奈の浪合《なみあい》まで来たとき、勝頼の前に出て、
「田峯に残して置いた今泉孫右衛門、その他の者のやりようはなんとしても腹に据えかねまする。必ずあの城は私の手によって奪い返したいと思いますので、そのお許しをいただきたいと存じます」
と云った。勝頼は定忠を信じていた。この者はいかなることがあっても武田を裏切ることはないと思った。また今になって徳川につこうとしても、徳川方が許さないだろうと思った。
「その方のよきようにするがよい。だが無理はするな。犬死をするでないぞ、危いと思ったら、逃げて来るがよい」
勝頼はそう云った。
勝頼の一行が浪合を出発した日に、菅沼定忠と家老の城所道寿の両名は設楽ケ原の合戦で同族の一部が裏切ったことと田峯城の今泉孫右衛門の反逆の責を負って、切腹したと伝えられた。敵をあざむく策であった。菅沼定忠の近習黒内若狭《くろうちわかさ》はそこまで従って来た百二十名の家臣を集めて云った。
「死んで幽鬼となり、今泉孫右衛門を取り殺すという言葉を残して、城所道寿様は腹を召された。殿様は、拙者に向ってお前はみなの者を率いて武節城に帰り、城の防備を固め、やがて武田勢が来るまで待て、武田勝頼殿は必ず、徳川を亡ぼし、天下人となられるであろう、それまで頑張るように云い残されて自害された」
黒内若狭は、それだけではまだ信じかねている、家来たちの主だった者をつれて近くの寺へ行った。
丁度、二つの墓穴に土が盛り上げられているところだった。新しい卒塔婆《そとば》が、用意されていた。戒名の裏側に、俗名が書かれていた。それを見て家臣たちは声を放って泣いた。
「お二人の頭髪《か み》でござる」
と僧が紙に頭髪を包みその上に戒名と俗名を並記して若狭に渡した。
二日後の夜遅く、田峯の菅沼家の菩提寺の戸を叩く者がいた。住職が起きて会ってみると、菅沼定忠の家臣であり、住職の顔見知りであった、梨野《なしの》五兵衛であった。梨野は、菅沼定忠と城所道寿が浪合で腹を切って死んだことを伝え、その頭髪を葬るように頼んで暗夜に消えた。
その翌日のうちに、菅沼定忠と城所道寿の死は真実として伝えられた。浪合から武節へ帰った菅沼定忠の家来たちの話とも一致したので、今泉孫右衛門はこれを信じた。
六月になって直ぐ、奥平貞昌が兵五百を率いて、田峯城を受け取りに来た。今泉孫右衛門は城を開けて迎えた。
奥平貞昌は城を見て廻った後で、
「今までどおりにしっかり城を守れ」
と云って、目付役として数人の者を残し長篠城へ帰った。
今泉孫右衛門は、新しい領主の奥平貞昌から田峯城を任されたのでほっとした。菅沼定忠と、城所道寿は腹を切ったし、もう恐れる者はなかった。
七月に入って連日の猛暑が続いた。
七月十四日未明、明け方になっていくらか涼しくなった。大手門の番士たちもうとうとしていた。
「長篠城よりの急なお使いだ」
と門外で叫び声がした。門の番士は十人ほどいた。番士の頭《かしら》が急いで門の楼に登って見ると三騎の武士が門外にいた。一番前の武士が、
「長篠城よりの使者、菅沼定利。はよう門を開けられい」
と怒鳴っていた。
まだ薄暗かったが、その男は前の城主菅沼定忠の息子でいちはやく徳川方へ走った菅沼定利とよく似て見えた。よく似てはいたが本人かどうかを確かめるには、もっと傍へよって見なければ分からなかった。
「お役目によって、顔をあらため申す、もっと傍へお寄り下されい」
と番士の頭が云った。
「そちは、栗島武右衛門だな、おろか者め、この菅沼定利の顔を忘れたか」
菅沼定利は笠を脱いで怒鳴った。笠を脱いでも、近よっても、まだ顔はよく見えなかった。朝靄《あさもや》が立ちこめていた。が、自分の名前まで指摘されると、彼は、まずおそれ入り、次に後難を恐れた。徳川方にいち早くついた菅沼定利のことだから、ひょっとすると、この城の新しい城主になるかもしれない。そういう噂は前からあった。
「はっ、ただいま……」
番士の頭栗島武右衛門は他の者に命じて門を開けた。三人の騎馬武者は門に入ると同時に、馬から降りて、いきなり刀を抜いて、たちまち三人を斬り倒した。
門が開くと同時に、物陰に隠れていた兵が一度に門内になだれ込んだ。その勢およそ三百人ほどであった。その先頭に菅沼定忠と城所道寿が立っていた。
二人は死んだと見せかけて、浪合に隠れていたが、機が熟するのを見て、前夜武節に現われ、この早朝の攻撃に出たのであった。
菅沼定利といつわったのは、菅沼定忠の甥で、定利の従弟であった。非常によく顔が似ていたのを利用したのである。この暁の攻撃は、寝込みを襲われたので、城にいた者は防ぎようがなかった。今泉孫右衛門ほか九十六人が討ち取られた。
田峯の住民が知らぬ間のことだった。夜が白々と明けたころには、田峯の近くの村や郷の辻々に、その村や郷の出身者で、城主を裏切って今泉孫右衛門に加担した者の首がさらされていた。
夜明け前に、城主以下総ての者が血の海の中で交替した。
長篠城の奥平貞昌がこのことを知ったのも二日ほど後になってからである。
田峯城を奪い返した菅沼定忠は、走り馬を出してこの朗報を古府中の勝頼に報じた。
失意の中にあった勝頼はこれを聞いて愁眉《しゆうび》を開いた。過分の賞讃の言葉が、定忠に与えられた。
山家三方衆は、徳川と武田に分かれて戦った。武田方について、最後まで戦ったのはこの田峯城主、菅沼定忠と城所道寿であった。
天正十年(一五八二年)になって武田が亡びた後、菅沼定忠、城所道寿は、同族で徳川方に従った者たちのすすめによって、徳川方に降伏した。徳川家康はこれを聞き、牧野康成に内意を伝えて、その地へおもむかせ、二人を捕えて斬った。天正十年五月十七日のことである。
物事を手っ取り早く片付けようとする時に田峯の地方では、
「田峯のお城じゃないが、朝飯前に片付けエじゃないか」
という言葉が使われている。それにはこんな訳があった。天正三年五月二十一日、設楽ケ原の合戦に敗れた勝頼の一行が田峯城で休憩しようとしたとき、田峯城をあずかっていた家老の今泉孫右衛門道善は、後難を恐れ、門を閉じて入れなかった。今泉道善の仕打ちに腹を立てた城主の菅沼定忠は、その後になって、軍兵を引きつれて、田峯城に不意打ちをかけ、道善以下九十六人を皆殺しにして、田峯から段戸へ抜ける山路の平野《ひらの》の辻に、主だった者の首をさらした。今ここに何基かの五輪の塔が祭ってある。(丸山彭著『長篠合戦余話』愛知県鳳来町立長篠城址史跡保存館発行より)
落武者哀れ
徳川勢による落武者狩りは、その翌朝早くから始まった。前の日の午後、徳川勢に追われて山へ逃げこんだ武田勢の者で、朝になって出て来たところを殺される者が多かった。徳川勢は夜明けと共に、道路の要所要所に人数を出して固め、各村落にも人をやって、落武者を見掛けたならば届け出るように手配した。
山に取り残された落武者は退路を断たれて動きが取れなくなった。
落武者狩りはこうした条件のもとで開始された。長篠から鳳来寺《ほうらいじ》山にかけての直径一里半の範囲が、敗残兵がもっとも多く隠れこんだところであった。この付近は土地の者の案内によって、およそ、人が隠れていそうなところは洩れなく捜索された。
落武者は三人、五人、と固まっていた。捜索に出掛けた徳川勢は三十人、五十人とまとまっていたから立ちどころに斬り殺された。
落武者で、二十人、三十人とまとまった集団が発見されると、鉄砲を放って、その所在を知らせ、百人、二百人という兵がその落武者を取り囲んだ。降参しようとする者があっても許されなかった。なんとしてでも首にして恩賞を受けようと慾の皮が突っ張った者ばかりだった。
落武者一人に対して、数人が掛かり、首の奪い合いが行われた。
徳川方の者で長谷川庄左衛門という者がいた。いささか腕に覚えがあるから、集団での残敵掃討戦に参加せず、単独で、山に入って行った。よい敵があれば討ち取ろうと思っていた。
昼近くになって、谷川へ水を飲みに降りたところで、武田の落武者と出会した。二人は刀を抜いて戦い、やがては組打ちで雌雄を決しようとした。一刻(二時間)あまりの死闘で双方は共に傷つき、息も絶え絶えになった。二人はもはやそれ以上戦う力はなかった。
その場に徳川方の北村安兵衛という侍が現われて、ほとんど戦う意志もないほどに疲れ果てている落武者の首を、長谷川庄左衛門になんの挨拶もなしに討ち取った。
「手柄を横取りするな」
と長谷川庄左衛門が云ったが、
「この首は俺が取ったのだ、文句はあるまい」
と云って立ち去ろうとした。
たまたまそこに通り合わせた、山本一郎兵衛という、これも落武者狩りの一匹狼がこれを見掛けて、
「その首は長谷川殿にゆずってやるべきだ。そうしないと、おれはきさまを首盗人として訴えてやるぞ」
と云った。この一言で、山本一郎兵衛と北村安兵衛とが喧嘩になった。とうとう二人は刀を抜いて戦い、山本一郎兵衛が北村安兵衛を斬り殺した。同士討ちは法度《はつと》に触れる。しかし、それを見ていたのは長谷川庄左衛門一人であった。長谷川は山本一郎兵衛に云った。
「この敵は、なかなか手ごわかった。三人で掛かったが、北村安兵衛は敵に殺され、おれは手疵《てきず》を受けて倒れた。敵の首を挙げたのは山本一郎兵衛である。そのようにして置こう。いやそれに間違いないのだ。さあ、その首を持って帰れ」
と云った。しかし山本一郎兵衛は、
「この首は、もともとそこもとのものさ。持って帰って手柄にするがいい」
と云ってその場を去った。
長谷川庄左衛門はその首を持って帰った。それは武田家の名のある者の首であったので、庄左衛門は恩賞を受けて出世した。庄左衛門は山本一郎兵衛に感謝するため、後日、馬を贈った。両家はその後も親しく交際して幕末に至った。しかし、そもそも両家が知り合った動機についての真相を知るものは、両家の先祖の二人だけだった。
酒井忠次の家来に、青木九郎十郎左衛門とひどく長い名前の男がいた。臆病者で、自ら太刀を取って敵と渡り合うようなことのできる者ではなかったが、一族が参戦したので、止むなく、従者二人を連れて従軍した。
彼は、鳶ノ巣山城の戦いの翌日は、残敵掃討部隊の一員となって、寒狭川の支流海老《え び》川周辺の残敵掃討に従事した。はじめは、百人ほどの隊を組んででかけたが、途中で、二十人ぐらいの小部隊になり、午後遅くなって、その部隊からも遅れて、青木主従三人になった。
青木にとっては残敵掃討などどうでもよかった。はやくこの一日が終って陣地へ帰りたかった。本音ははやく戦を終えて妻子のいるところへ帰りたかった。武士などより、野にあって暮したいと思っていた。一行から遅れたのは、青木自らがそのような気持でいたからだった。
「もうこの辺で帰ろうではないか」
と彼は従者の二人に云った。
「とんでもございません。こんなところで帰ったら、おとがめを受けまする」
従者の二人はこもごも云った。主人が主人だから従者も従者だった。三人だけになり、あたりに人声がしなくなると、心細くなった。もし、そこに武田の落武者が現われたらどうしようかと思った。
三人そろって、そんな気持になって立ち止まって顔を見合わせていると、突然、彼等のいるすぐ傍の石の陰から、五人の武士が躍り出て三人を囲んだ。三人は声も出ないほど驚いた。
「武田の者だ。負け戦《いくさ》になってから、きさまたちの首を取ってもなんの役にも立たない。首のかわりに水と食糧を置いて行け」
と五人の一人が云った。
青木等三人は云われるとおりにした。三人はふるえ続けていた。
「口を封じましょうか」
と五人の仲間の一人が云ったが、
「殺すには及ばない。だがこのまま放せば敵方に通報するだろう。連れて行こう。なにかの役には立つだろう」
と五人の中の主だった者が云った。
青木等三人は、五人の先に立たせられて、森の奥へ奥へと追い立てられて行った。声を出すと殺すというので、声を上げることもできなかった。
森の奥の山の頂きに来ると、十人ほどの武田の兵がかたまっていた。彼等は、五人が持って来た食糧を分け合って食べた。余程《よほど》腹が減っていると見えて、ほとんど口もきかなかった。
青木等三人は逃げるのは今だと目を見かわして、彼等の居るところと反対側に逃げた。背後から笑い声が起こった。それもそのとおり、そこは断崖になっていた。あっという間に三人はその底へ落ちこんだ。青木は落ちるとき木の根に身体がひっかかった。彼は夢中で手を振った。その片手で木の根を偶然のように掴《つか》んだ。彼の身体は断崖の途中で止まった。
「三人とも真っ逆様に落ちて行ったぞ」
頭上で話す声がした。それっきり人は現われなかった。
彼は、木の根から、木の根、木の根から岩へと移動した。ようやく断崖から這い出して、さて、どっちに逃げようかと思案していると、人の声がした。
椎《しい》の大木の陰にかくれて見ていると、さっきの武田の落武者が集まって来て、そこから遠くないところに、鎧直垂《よろいひたたれ》に包んだ首を置きその上に石を積み上げ塚を作り、落葉や、木の枝などで塚を隠して立ち去った。どうやら、武田軍の名のある大将の首をそこまで運んで来て、隠したようであった。やがて人々の足音は遠くに去り、山は静かになった。
青木九郎十郎左衛門はその首を拾って帰った。無我夢中だった。山道に出て、更に里道に出たところで、味方の者に出会った。味方の者は、青木九郎十郎左衛門の異様な姿を見て驚き、組下頭のところへ連れて行った。青木は、刀さえ持っていなかった。
青木は組下頭の前で、なにもかも正直にしゃべった。問題は、彼が持ち帰った首であった。どうやら名のある武田の大将の首のようだから、このことを酒井忠次に報じた。
その日もようやく終りに近づいていた。
酒井忠次は床几に腰かけて首実検をしていた。以前に武田方に居た者二十人ほどが彼の側に並び、この合戦において捕えられた者三十人ほどが三間ほど離れたところに一団となっていた。首はまず、首実検の参考人たちに見せられた。ひそやかな声が囁《ささや》かれ、やがてそれは、まとまった声となった。嗚咽《おえつ》が捕えられた武田方の者の中から上がった。
「禰津《ねづ》甚平是広様にございます」
という声が聞こえた。
禰津家は信濃の名門だった。諏訪家の分かれであり、信濃小県《ちいさがた》に古くから居る豪族であった。信玄の父信虎のころから武田氏に従っていた。
武田信玄の側室里美の方は禰津家から迎えられた。是広は里美の方の兄であった。設楽ケ原の合戦では、一族百騎、五百人ほどを率いて真田源太左衛門信綱の軍に加わって戦ったが、敗戦のみぎり、流れ弾丸《だ ま》を受けて倒れた。家臣たちが首を持って逃げ帰る途中、徳川勢の追手を受けて海老川の奥へ逃げこんだのである。ここで家臣たちは相談した。このまままとまって行動するのは不利だからほとぼりがおさまるまで、首を石塚に隠して置き、それぞれ別れ別れになって故郷へ帰ろうと申し合わせたのである。その首を青木九郎十郎左衛門が拾ったのであった。
首は、忠次の前の白木の台の首の座の上に置かれた。眼は閉じていた。
「禰津甚平是広の首にございます」
と披露されると、次いで、その首が、青木九郎十郎左衛門によって、拾われて来たことが報告された。
「なに、拾われて来た?」
忠次は妙なことを云うではないかというふうな顔をした。彼は、きのうから今日にかけて、生首ばかり見ていた。多くは名のない者の首だったが、その首を取るまでの手柄話はそれぞれ勇ましいものだった。なかには拾い首に近いだろうと思われるものがあっても、自ら拾い首だと名乗る者はなかった。それぞれ激しくわたり合った末に得た首だと云った。そのとおり書き役によって記録された。
「ほんとうに拾って来たと申すのか」
忠次は、首より二間ほど向うに跪《ひざまず》いている、青木九郎十郎左衛門という妙に長い名前の男を見て云った。
「ありていに申せ」
と忠次は九郎十郎左衛門に直接、声を掛けた。酒井忠次は家康の右腕とも云われる人である。家康の家臣ではあるが、その勢力はたいしたもので、織田信長などは、この忠次を家康とほぼ同格に扱っていた。徳川家における実力者の酒井忠次から特別に声を掛けられたのだから、九郎十郎左衛門はいよいよ恐縮した。しかし、ありていに申せと云われた以上話さねばならなかった。
彼は半ば震え声で、いささかも飾らずにいっさいを申し述べた。
「ほほう。なるほど、これは面白い話だった。そして、そちの正直さにもまた感服いたしたぞ」
忠次はそう云ったあとで声を高くして云った。
「禰津甚平と云えば信濃で名の聞こえた大将である。たとえ拾い首であっても、それを持って来たそちの手柄は無視できない。また、いつわりを申さず、その通りに申し立てたること殊勝である。追而《おつて》、恩賞の沙汰があるだろう」
そして、忠次は記録掛《がかり》に向って大きな声で云った。
「首帳にはよけいなことは書き残すな、青木九郎十郎左衛門が禰津甚平是広の首を取って来たとだけ記録して置くように」
青木は、七月になってから、感状と共に太刀一振を貰った。
「拾い首に太刀《た ち》一振《ひとふり》、苦労候《くろうそうろう》(九郎十郎《くろうそろう》)」
という言葉が流行した。青木に面と向って、こんないやがらせを云う者があった。
青木はいよいよ武士が嫌になった。親の跡を継いで侍になったのだが、早いところ、息子に後を譲って致仕《ちし》したいと願っていた。三年後にこの件を上役に申し出ると、それが酒井忠次の耳に入った。
「ああ、あの男か、あれは致仕させてはならぬ。あの男は使える男だ」
と云って、物頭に取り立てられ、武器調達の役をさせられた。この役は彼に適合した。彼は成績を大いに上げた。設楽ケ原の合戦があってから、七年後の天正十年に武田家は滅亡した。その直後に本能寺の変があって、信長は殺され、武田家の領地は、ほとんどそのまま徳川家康のものとなった。
家康は旧武田の家臣を召し出して重く用いた。野《や》に潜んでいた武田の家臣が次々と姿を現わして徳川家に仕えた。この大きな変革によって、七年前の手柄話の嘘がばれて、追放されたもの、自ら姿をかくした者、等が続々と現われた。設楽ケ原の合戦で敗北した武田方の主なる大将が、どこでどのように死んだかはほとんどが明らかにされた。拾い首もばれたし、奪い首(他人が取った首を横取りしたもの)も明らかになった。重傷を負った武田方の大将が、切腹するまで首を取るのを待ってくれと云うのに、無理矢理殺してしまったというような事実も明らかになった。
武士らしからざる振舞《ふるま》いをして出世した者は世論がこれを許さなかった。亡びた武田家に対する同情もあった。
この中で、青木九郎十郎左衛門だけは、真実を述べたことが禰津甚平是広の家来の神津《こうづ》五郎兵衛によって証明された。
青木九郎十郎左衛門は、武具奉行に出世した。彼は、そこで酒井忠次に改名を申し出た。
「九郎十郎左衛門という名はなんとしても長すぎて不便ゆえ、今後は短い名前にいたしたいと思います。お許しを頂きたい」
青木は、彼の名と共について廻る、苦労候《くろうそうろう》という陰口に耐えられなかったのである。
「よかろう、余の名前の次を与えよう。以後、青木吉次《よしつぐ》と名乗れ」
と云った。苦労候のあだなはその時点で消えた。
望月甚八郎重氏《しげうじ》は武田家の一門である。侍大将として、武田信豊の陣にあって戦った。
敗戦後、寒狭川に沿って行かずに、長篠から寒狭川と分岐して北東に向って伸びる大野川沿いに逃げた。つまり別所街道を逃げたが、途中徳川方の追撃を受けて、山の中に逃げこみ、苦労に苦労を重ねて、敗戦の翌々日に御園(現在の東栄町)まで来た。
家来はつぎつぎと討たれて主従わずかに五名になっていた。
「ここまでは追手も来ないだろうが、用心したほうがよい」
望月重氏は、食糧を探しに行こうとしている家来たちに云った。
大井元治と清水六左衛門は夜になってから、御園にでかけて様子を窺《うかが》った。追手の姿は見えなかった。なるべく小人数の民家に立ち寄って食糧を得ようと物色していると、老婆が家から出て水を汲みに行くのを見かけた。大井が老婆との交渉に当ることになり、清水が見張りに立った。暗くて相手の顔はよく分からなかったが、感じでは人の好さそうな老婆だった。彼は老婆を驚かさないように、彼女が水を汲み終ったところを見計らって、
「おばば、その水はおれが運んでやろう」
と声を掛けた。
老婆は闇の中に立つ武士を見て立ちすくんだ。
「心配するな、あやしい者ではない。ちとものを尋ねに来たまでのこと」
大井元治は老婆の水桶を持って、その家まで行った。炉のそばに、嫁女らしい女がいた。小さい子たちは、既に眠っていた。どうやら男はいないようだった。
元治は嫁女らしい女を安心させるために、
「けっして、悪さはしない。安心するがよい」
と云った。だが、二人の女は震え続けていた。大井元治は湯を所望して飲み、自分は武田の落人であることを正直に名乗った。
「実は食糧が欲しい。なんでもいいから、食べる物を売って貰いたい」
と云って、武田の碁石金《ごいしきん》を一枚置いた。金貨を見て老婆はひどく驚き、相好を崩して、
「私の連れ合いも、息子も死んで女手二人の畑仕事だから、うちにはろくなものはない。近くの家へ行って米を買ってくるからしばらく待っておくれ」
と云った。大井元治は首を横に振って、
「いやそれには及ばぬ、あり合わせの食べ物でいいから分けて貰いたい」
と云った。その家には粟と大豆があった。
大井元治は、それを叺《かます》につめて貰いながら、老婆に、徳川方の者がこの村へ来たかどうかを訊いた。
「今朝ほど、十人ほどの侍が馬に乗って来て、落人を見掛けたら届け出るように云った。……だが、たとえ落人を見ても、届ける人はこの村にはいないだろうね。届け出て恩賞を頂いたとしても、その後で、武田勢がこの村へ入って来たら、どうなるかをみんな知っているからねえ」
と云った。
大井元治は、それを聞いて頷いた。
大井元治は、粟と大豆が入った叺を背負った。出て行こうとする彼に老婆が云った。
「心配しないで、山に隠れている人たちも出て来なされ、うちで泊めてあげようほどに。もし大将がいなさるならば、米を買って来てお口に合うようなものも作ってさし上げよう」
と云った。大井元治は、ほろりとなった。敗戦以来初めて受けた暖かい言葉だった。
「そうさせて貰うかもしれない。また後で来るからよろしくたのむ」
彼は、そう云った。それ以上のことは云えなかった。
家の外で見張りに立っていた、清水六左衛門が出て来た大井元治の耳もとで囁いた。
「どうも、あの婆さんは調子がよすぎる。おれはしばらく様子を見ているから、お前はこのまま殿様のところへ帰れ」
と云った。
清水六左衛門の予想は当った。
老婆はすぐ家を出て、名主の家へ走り、武田の落武者が現われたことを報告した。武田の碁石金を持って来て叺いっぱいの食糧を買ったのだから、少なくとも数人の落武者が山の中に隠れているだろうと云った。
その夜のうちに、名主は明朝総出で山狩りをすることを村民に告げた。
名主は設楽ケ原の武田方の惨敗を聞いて、おそらくこの地へ再び武田軍が現われることはないだろうと考え、それならばこの際、徳川方について落人の首を挙げ手柄を立てたほうがよいだろうと考えたのである。
清水六左衛門は村のただならぬ動きを知ると、すぐ山へ戻って、望月重氏に告げた。
「さもあろう。では、夜のうちに逃れるだけ、逃れよう、できることなら、故郷からの風が吹き通る御園峠まで行って死にたいものだ」
と云った。
主従五人は、焼き豆をかじりながら、夜道を歩き出したが、峠まで達しないうちに夜が明けた。
手に手に竹槍や、長柄の草刈鎌を持った村人が、五十人ほど現われた。彼等は大声を上げて五人に打ちかかって来た。大井元治と清水六左衛門の二人が殿《しんがり》を受けて戦っている間に、主従三人は峠に向って逃げた。
大井と清水は竹槍で突かれ、鎌で首を切られた。残る三人も、峠のすぐ下で、追手にかこまれた。
望月重氏は大声で村人たちに向って云った。
「余は望月甚八郎重氏である。力尽きてここで死ぬのは残念だが、致し方がない。最後にただ一つ願いがある。余はここで腹を切って死ぬから、余の遺体を峠の上に埋めて貰いたい。余は故郷からの風の吹いて来るところで眠りたいのだ」
望月重氏は云い終ると、村人たちの前で立ち腹を切って相果てた。残った二人の家来も主人の後を追って自害した。
落武者の着ている物や所持品は村人たちが先を争って奪い取った。首は五つ揃えて、徳川方へ送られた。
身ぐるみはがされた遺体は藪の中に蹴こまれたままになっていた。七月になって、村に赤痢が流行した。
落人を裏切った老婆の一家が病にかかって一家全滅した。
「武田の落人のたたりだ。望月様のたたりだ」
と村人たちは口々に云った。
「あんなことをしなければよかった。五人の武田の落武者を殺したところで恩賞を貰った者は名主だけだ、そして落武者のたたりで、村の者は既に二十人も死んだ。これから何人の人が死ぬかわからぬ。なんとかして、死んだ落人たちの霊をなぐさめねばならない」
村人たちは共同して、五人の遺体を峠の頂上に運んで埋葬した。奪ったものはすべて遺体と共に葬った。流行していた赤痢はおさまり、村に再び平和が来た。そのころから、御園峠の名が望月峠になった。現在五万分の一の地図にも望月峠と記載されている。
設楽ケ原の合戦では、どのくらいの戦死者を出したかということがしばしば問題になっている。こういう場合、勝った方は必ず、討ち取った数を誇張するので信は置けないが、『原本信長記』では侍、雑兵併《あわ》せて一万余を討ち取ったとあり、『多聞院日記』には甲斐の軍衆千余討死と書いてある。
『多聞院日記』は信用置ける本であるから、この数がほぼ正確だろう。千余人の中に名のある大将(足軽大将以上の名)が四十二名も含まれているのに対して、連合軍の戦死者で名のある大将は松平伊忠《これただ》一人であった。これは、連合軍は足軽を柵の外に出しての戦いであったから、足軽の戦死はあっても、大将級の戦死は少なかったということであろう。連合軍のこれらの兵の死者は武田軍ほどではなかったにしても、五百人は下らなかったものと想像される。
設楽ケ原を中心として行われた合戦で死んだ連合軍の兵たちの遺品は、それぞれ味方の者の手によって、その遺族に送られたであろう。だが、敗者側の遺体が身につけていた武具の行方はどうなったであろうか。
残敵掃討戦が終ったあと、戦死者の遺体は何ヵ所かに集められて、埋葬された。首実検の終った首も幾つかの穴を掘って埋められ、時宗の従軍僧によって、法要が行われた。武田方の戦死者が身につけていた武具は、一ヵ所に集められて、この合戦に参加した諸隊に戦利品として、与えられた。ほとんどが生々しい血がついたものばかりだった。
各隊では、その武具を適当に処分した。なんのなにがしという、敵の名将が身につけていた武具ならば、恩賞として喜んで受け取ることができたが、名の知れぬ雑兵の血に染まった武具など欲しくはなかった。各隊ではこれを売って金にかえた。
大きな合戦があるらしいというにおいを嗅ぎつけて日本全国から、禿鷹《はげたか》の群が集まって来ていた。名は武具商人であったが、実は火事場盗人に似た者ばかりだった。
彼等はまとまった手下を連れて来ていて、戦場に残されたものは何んでもかまわず拾い集めた。近所の百姓家などに隠匿《いんとく》してある拾い物の武具なども、半ばおどかして、安値で買い入れた。
彼等は文字通り死の商人であった。死者の身につけた物を安く引き取って、血を洗い落とし、ほころびをつくろい、塗りを直して、新品同様にして、高値をつけて売りに出すのである。それが彼等の商売だった。
これらの禿鷹業者は何台もの車に、買いこんだ武具を積みこんで戦場を離れて行った。
戦場からは各部隊が次々と自国へ向って凱旋《がいせん》の途についた。その後を遊女《あそびめ》の一団が追って行った。
後には踏み荒された山野だけが残った。
「設楽ケ原に人魂《ひとだま》が出る」
という噂が付近の村に流布された。夜になると、五十、百という人魂が戦場の上空を舞い歩くという噂が流れた。里人はそれを怖れて夜は外出しなかった。
奥平貞昌は、設楽ケ原の戦の翌年の天正四年十二月二十二日、徳川家康の長女亀姫を正室として迎えた。家康は、貞昌との約束を実行したのである。亀姫は時に十八歳だった。亀姫の母は築山《つきやま》御前(家康の正室、今川義元の姪、関口氏の女《むすめ》)であった。
新城《しんしろ》で婚儀がなされた。
亀姫は、一般には、新城様とか亀姫様と呼ばれていたが、陰ではカナヒメ様と呼んでいた。金姫《かなひめ》の意味である。大家の出であるのに欲が深いことと、器量《きりよう》が悪くて、まるで金仏《かなぶつ》のように、ごっつい顔付をしていたのでカナヒメと云われたということである。
亀姫はひどくわがままで、自分の思うようにならないと、周囲の者に当り散らし、終《つい》には父のところへ帰ると云ったそうである。家康のところへ帰られたらたいへんなことになるから、周囲の者はひどく気を使った。わがままな嫁のことを新城様というところもあるそうである。彼女は家康の娘だということを常に意識していたのであろう。奥平貞昌はこの女房には頭が上がらなかった。側室も置けなかったが、亀姫を貰ったおかげで順調に出世して行った。
亀姫は四男、二女を生み、寛永二年(一六二五年)六十四歳で加納(岐阜市)で死んだ。亀姫の生んだ子供たちは揃って利発だったということである。亀姫への悪口は、実は奥平貞昌に対する当てつけであるという説がある。彼は、武田軍の来襲に備えて長篠城を改築するために、付近の農民を苛酷に取り扱った。合戦に勝って、彼は出世したにもかかわらず、農民たちへの心遣いはなされなかった。それどころか以前にもまして、取り立てがきびしくなった。領主に対するそれらの反感が、亀姫への悪口になったとも云われている。
負けた武田勝頼に対しては、地元はすこぶる同情的である。設楽ケ原の台地には信玄塚と称する戦死者の墓が大小二つある。設楽ケ原の合戦があった翌月(七月)、蜂が多数発生して付近の住民に被害があった。村人は諸寺の僧を集めて大法要を行った他、盆の十五日には、“火踊り”と名付けて、火祭りを行い、武田の戦死者をとむらった。この風習は徳川幕府に気兼ねしながらも中断することなく毎年行われて現在に及んでいる。
「ヤーレモッセ、モッセモセ、ナンマイダ……」
と唄いながら、大松明を振りながら踊る火祭りである。
この章は、主として、丸山彭著『長篠合戦余話(長篠戦史資料 その五)』(愛知県鳳来町立長篠城址史跡保存館発行)を参考として書いた。
高坂弾正の献策
勝頼は伊奈の高遠城にしばらく留まった。織田、徳川連合軍が伊奈谷に攻めこんで来るという情報を得たからであった。
「来るなら、来て見ろ」
勝頼はその情報を耳にすると、それまで悄然《しようぜん》としていた顔に紅味をたたえて云った。勝頼ばかりではなく、その帷幕《いばく》の諸将も同じ気持だった。
設楽ケ原の合戦では、見事に信長の謀略《ぼうりやく》作戦に引っかかって負けた。だが、伊奈谷へ一歩でも入って見るがいい、今度こそこっちが勝つ番だと考えていた。甲信の部隊は山岳戦に馴れている。敵の大軍を伊奈谷に引っ張りこんで出口をふさぎ、四方から攻めて、二度と立ち上がることができないような痛手を負わせることはそう困難なことではなかった。多くの将兵を失った直後でもあるから、とむらい合戦という名における武田軍の奮戦も期待できないことはなかった。
勝頼はその作戦を練った。連合軍の動きに応じて、どのようにでも対応できるような方法を考えた。
美濃の岩村城主秋山信友とも打ち合わせて、迎え撃つ準備は終った。
だが信長は、二十五日に岐阜へ帰着したままで再び軍を動かそうとはしなかった。その信長に羽柴秀吉と前田利家が、
「武田は、多くの将兵を失い戦意を喪失《そうしつ》しています。いまこそ攻撃の絶好の機会です」
と、こもごも進言した。
「急ぐことはない。もし武田が再び勢力を盛り返したならばまた叩けばよい」
と云って信長は動こうとはしなかった。
信長は武田の強さを知っていた。うっかり攻めこんで、大敗北を喫する可能性についても充分知っていた。
だが、信長は武田軍を決してそのままにはしておかなかった。
彼は家康に即日、二俣城攻撃を命じ、また信忠に指令して岩村城奪還の兵を進めさせた。
「なんだ、攻めこんでは来ないのか」
高遠城で、これらの情報を得た勝頼は云った。
「敵は正攻法に出ようとしているらしい。それなら、わがほうもまた、それに備えるべきである」
勝頼は云った。その通りであった。理屈はそうだったが、設楽ケ原の合戦で大敗北を受けた武田軍の心の痛手は余りにも深く、傷ついた足で、廻れ右をして、再び美濃や遠江まで出て行こうとする大将はありそうにもなかった。
軍議が開かれた。
「いまもし、織田、徳川連合軍が伊奈谷か木曾谷へ攻めこんで来たというならば身を捨てても防がずばなるまい。しかし、深手を負ったこの身で、敵地へ出向くことはできません」
それが生き残った諸将の一致した意見であった。
「お館様、ひとまず古府中《こふちゆう》に帰館されてはいかがでしょうか。しばらく将兵を休ませ、その間になすべきことをしなければなりますまい」
跡部勝資が云った。
跡部が云っているなすべきことというのは敗戦処理であった。この度の合戦で戦死した将兵の遺族に対してはそれぞれしかるべき方法でなぐさめてやらねばならなかった。多くは父の名跡をその子に踏襲させるようにしてやらねばならないが、その子をいきなり生存中の父の後釜へ据えることができる人もあれば、まだ若年すぎてできない者もいた。
勝頼は古府中へ帰った。諸将も兵を率いてそれぞれの郷へ帰って行った。武田軍大敗北の噂は甲信両国に拡がった。上州にも、美濃にも、駿河にも遠江にも尾鰭《おひれ》がついて流布されて行った。
武田軍が設楽ケ原の合戦で負けたことによって最も大きな精神的打撃を受けたのは、武田軍の将兵そのものだった。
(武田軍は負けたことはない。いかなる敵に対しても負ける筈がない)
そのような自信のもとに、いままで戦っていた武田軍団の精神的よりどころは、この敗戦によって失われたというべきだった。
(武田軍だって負けることはあるのだ)
不敗の軍団、日本一の強兵、日本最強の騎馬兵団というような誇りは地に墜ち、それらはすべて夢まぼろしであったことが分かったのだ。
この合戦で戦死した将兵の遺族は、帰って来た人たちに合戦の模様を聞いた。
「攻めても攻めても敵の柵は落ちなかった」
「敵の鉄砲の一斉射撃はすごかった」
「味方が引きはじめてから後は、みじめだった。なぜあのようなひどい結末になったか分からない」
兵たちの多くはこのように語ったが、大敗北の真相を知る者はなかった。
「結局は総大将の勝頼殿が若過ぎたということだろう。若いから張り切り過ぎて、無茶な戦争をしたのだ」
「どうも、そうらしい。山県昌景や馬場信春などの老将の云うことを聞かなかったのが敗戦の原因らしい」
などという噂が流れた。大敗戦の原因を突きつめれば、それは総大将勝頼の責任である。そう云われてもしようがないことだった。
「先代様(信玄)に比較すると、どうも勝頼様はなにもかも落ちるらしい」
このような噂が流れることは武田軍団にとって最も困ったことであった。勝頼に対して不信感を持つことは、もはやそこに往年の武田軍団は無くなったということである。信州松代の海津城主、高坂弾正《こうさかだんじよう》昌信は、武田軍大敗北の報に接して、急いで古府中にかけつけた。敗戦の実相は想像以上だった。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱、甘利信康、土屋昌続等、信玄以来の宿将の多くは死んでいた。それに対して、御親類衆の大将で戦死したのは武田信実一人であった。
高坂弾正は、敗戦の原因を糺明《きゆうめい》すべく、生き残った武将に聞き廻ったが、軍議に列席していた侍大将のほとんどは戦死していて真相を聞き出すことはできなかった。生き残った、御親類衆の穴山信君、武田信豊、武田信廉等は敗戦の責任はすべて勝頼にありと云いたげであった。それが弾正には納得できなかった。
高坂弾正は、勝頼の使番衆の真田昌幸と曾根内匠を別々に訪問して訊いた。
「敗戦の第一の原因は敵をあなどる空気がわが軍全体にあったこと。しかし、敗戦の直接原因は、信長の謀略にまんまと引っ掛かったことです。佐久間信盛の内応を信じて決戦にふみ切ったことにあります」
昌幸は敗戦の原因を二つに分け、しかもそれをことこまかに説明した。
曾根内匠は別な表現で負け戦《いくさ》を評した。
「第一に穴山信君様をはじめとする御親類衆がお館様(勝頼)の権限を犯したところに敗戦の原因があります。そして佐久間信盛の内応を信じ、決戦を主張した御親類衆の第二の罪は、お館様の指図に従わず、勝手に戦線を離脱したことです。このために味方は大惨敗を喫したのです」
曾根内匠は怒りのために涙を流しながらその折のことを話した。
高坂弾正は更に多くの証人を得て、穴山信君、武田信豊等が、いちはやく戦線を離脱した事実を確かめた。
高坂弾正は若いころ武田信玄の寵童《ちようどう》であった人である。その後出世して、海津城主となって、上杉勢を押さえる重要な地位にあった。信玄以来の宿将の多くが死んだ現時点においては、勝頼に対して思い切ってものが云える立場に居た。
高坂弾正が、敗戦の原因について訊き廻っているうちに、穴山信君は、駿河の形勢が不穏であるという理由でさっさと江尻城(現在清水市)へ帰ってしまった。武田信豊も小諸城へ行ったまま帰らないし、武田信廉は高遠城を動かなかった。
高坂弾正は切腹を覚悟の上で勝頼に諫言した。
「お館様、設楽ケ原敗戦の原因を糺明《きゆうめい》し、罰すべき者を罰しないかぎり、武田を立て直すことはできません」
高坂弾正はそう前置きして、
「まず第一に、穴山信君殿と武田信豊殿を呼び寄せ、切腹させることです。御親類衆であろうが、軍規に違反《いはん》して勝手に戦線を離脱したがために、味方を大敗北におとし入れた罪は許すことができません。二人にその責任を取って貰わなければ、死んだ将兵の魂は永久に浮かばれないでしょう」
弾正は云った。高坂弾正は宿将であるが、臣下である。その彼が最も有力な御親類衆の二人を名指して、切腹させよと勝頼に進言したことは勇気のいることだった。
勝頼は黙ったまま、その言葉を聞いていた。できない相談だった。もし、いま穴山信君を駿河から呼び戻そうとしたら、彼は、徳川方に寝返るかもしれない。そのようにさえ感じられた。従弟の武田信豊と勝頼とは仲がよかった。いままではずっとうまくやって来たのに、今度の一つの失敗だけを取り上げて切腹せよということはできなかった。
勝頼は返事をしなかった。困り果てた勝頼の顔の前を蛾《が》が一匹舞っていた。手で追ったが容易に逃げ去ろうとしなかった。
勝頼の右手が脇差にかかった。白光が一閃し、脇差をおさめる音がした。蛾は勝頼の前に落ちた。気合もかけず、抜く手も見せず、蛾を斬り捨てた勝頼は、懐紙を出すと、その蛾の死体を包んで、黙ったまま、高坂弾正に与えた。
弾正はなにか云いたいような目を勝頼に向けながら、それをおし戴いた。二度と再び穴山信君と武田信豊のことは口にしなかった。高坂弾正は勝頼の蛾を斬った行為を二様に解釈していた。
(云うな弾正、それ以上云ったらお前を斬らねばならぬ)
という警告にも、
(余は武田にあだなす身中の虫をこれこの通り一刀両断にしたい。だが今それはできないのだ。許せ)
と云っているようでもあった。
高坂弾正は話題を変えた。
「お館様、この際武田家を立て直すためには北条氏及び上杉氏と同盟を結ぶしか道はございません。まずもって、北条氏政《うじまさ》殿に礼を低くしてお願いし、氏政殿の女《むすめ》を正室としてお迎えすることでございます」
「礼を低くしてお願いし、とはいかなることを云うのか」
「それは、氏政殿に駿河半国をお譲りになることです。と同時に、長い間の宿敵だった上杉氏とも和を結び、武田、北条、上杉の三国が同盟して信長に当る以外、道はないでしょう」
弾正は云った。
「氏政に駿河半国を与えることはできない。しかし、氏政の女を正室として迎えることはそれほどむずかしいことではあるまい」
勝頼は弾正の言を取り入れた。
「もう一つだけ申し上げたいことがございます」
弾正は、今度こそ重大な発言だぞと云わぬばかりの顔で、勝頼を正視した。弾正の針のような白髪がふるえていた。
「この度の合戦で多くの将が戦死しました。いままでの例ならば、その子が父の名跡を継ぎ、それまでの同心、被官をも引き続いて従属させることになります。この場合父の後を継ぐべき器量のある者ならばそれでもよいが、中には父には似ない者もあります。いや、父に似ない者の方が多いのではないかと思います。この度の戦いではあまりにも多くの大将が死にましたので、それらの大将の後を、縁故につながる者が継ぐことになると、武田軍が弱体化することは火を見るよりも明らかです。この際思い切って武田軍の再編成をしたら如何でしょうか」
「武田軍の再編成とな?」
勝頼はひどく驚いたようであった。
「今度の合戦で戦死した侍大将に所属している、同心、被官等を新たに任命した十名ほどの侍大将等の下に、改めて従属させるのです。これは思い切った処置です。しかし、これによって武田軍団は若がえります」
弾正は声を強めて云った。
弾正は、石和《いさわ》の農民の子源五郎として生れた。信玄の寵愛を受けたこともあったが、その頭脳が認められての出世であった。その弾正が考えに考えた末の提案だった。
勝頼は一瞬、自分の耳を疑った。思ってもみたことのない斬新な提案だった。もしそれができたらすばらしいことだと思った。武田軍団は面目を一新して立ち直るだろう。しかしはたしてそれができるだろうか。
「迷っていたのではできません。他に気兼ねをしていてもできるものではありません。勝頼様は武田家の統領です。統領としての自覚を持って強行しなければなりません。この際独断専行こそ武田を再建する道です」
弾正は云った。
それはむずかしいことであった。父信玄以来の家臣団との連携を無視した政策をとれば、それがどのような形ではね返って来るか、空おそろしいことだった。
「そちはそれが可能だと云うのか、それを強行することによる弊害は認めようとしないのか」
「できます。お館様が自らの誠意を示され、その政策をはっきりと打ち出されたならば、家臣団は、おそらくそれを承知するでしょう、いや承知させねばなりません」
「余が誠意を示すという意味について、もっと具体的に申して見よ」
「まず、敗戦の実相を侍大将以上の者に徹底させること、第二に、お館様自らの御身辺から、跡部勝資殿、長坂長閑斎殿をしりぞけられ、曾根内匠、真田昌幸を侍大将に取り立て、山県昌景、馬場信春、両将の後釜に据《す》えること……」
弾正は臆《おく》することなく云った。
「なに跡部、長坂の両名をしりぞけよとな、なに故そうしなければならないのだ」
勝頼はやや色をなして云った。
「跡部勝資殿、長坂長閑斎殿が悪いから側近から遠ざけろというのではございません。跡部、長坂両将のお館様側近部将としての功績は誰も認めています。だが、まことに失礼な云いようでございますが、御両人とも、家臣団にも御親類衆にも人気がございません。これと云って悪いところはない、なかなかの人物ですのに、家臣団には嫌われ、御親類衆には煙たがられているのです。こういう場合は人事を刷新して、新風を吹きこんだほうがよいかと思います」
なるほど云われてみれば、そのとおりだと思った。跡部、長坂はどうも人に好かれない。跡部勝資はどちらかというと言葉の少ないほうだった。
〈跡部は腹の底でなにを考えているか分からない〉
という批判が現われるのは当然だし、長坂長閑斎は、多弁だった。むしろ雄弁というべき人だった。
〈戦は口でするものではないわい〉
長閑斎に面と向ってこう云った人があった。設楽ケ原の合戦で戦死した、原隼人佐《はやとのすけ》昌胤だった。
「つまり、跡部、長坂両者をしりぞけて、それに代わるべき適当な者を持って来いというのだな」
勝頼はそう云ったあとすぐ、目の前にいる高坂弾正を側近に据えたらどうかと考えた。武田軍団再編成という大きなものを掲げて出て来たこの高坂弾正こそ、最適の人ではないかと思った。勝頼の目が輝き出した。
「高坂弾正、そちがもし、余の側近部将として古府中へ戻ってくれるならば、跡部、長坂を出してもよいぞ。そうだ。そうしたらいい」
勝頼は晴れ晴れとした顔で云った。
「いえ、それはなりませぬ。私は、先代様に、きつく申しつけられたことがございます。海津城を死守せよということです。弾正以外に海津城をまかせられる人間はいないとも云われました。そちが海津城に居る限り、上杉謙信は信越国境は越えられないだろうとまで申されました。動くことはできません」
弾正はきっとなって云った。
「理が合わぬぞ。武田軍団大改革の案を余にすすめる以上、そち自らが、余の右腕になってその実を示してくれるのが当然であろう。たとえ父信玄との約束があろうとも、余は武田家の現在の統領である。余の云うことが聞けないわけはない」
「それだけは、なんとしても、御勘弁《かんべん》いただきとうございます。お館様が、どうしても海津城を棄てて、古府中へ帰れとおっしゃるならば、私は腹を切ります」
「なに腹を切る?」
勝頼の顔に血が昇った。この場合、腹を切るとは主人に対する反抗であった。
「では、余も云おう。そちの武田軍団改革案は口から出まかせのものでしかないと……」
そう云いながら勝頼は悲しそうな顔をした。弾正の提案はすばらしいものだった。しかし、その弾正は、父信玄をしたっていて、勝頼のために命を投げ出そうとはしないのだ。
(これが、今の武田の部将の心であろうか、いや違う。あの設楽ケ原の合戦で戦死した諸将は、すべてこの勝頼のために命を投げ出してくれたのだ)
「もうよい。さがれ」
と勝頼は云った。高坂弾正にばか者扱いにされたような後味の悪さだけが残った。
勝頼にとって憂鬱な日が続いた。できることなら、一人でひっそりと山の中にでも隠れていたい気持だったが、そうもできなかった。敗戦処理は緊急を要した。
勝頼は、一応、高坂弾正の武田軍団再編成の案を、曾根内匠と真田昌幸に諮《はか》ってみた。
「私も同じようなことを考えていました」
と曾根内匠は云った。
「それは、かねてから私の夢でした。武田軍は設楽ケ原で転んだ。しかし、ただでは起き上がらなかったと云われるような、武田軍団再編成をしたら、織田、徳川の連合軍と再び相見《あいまみえ》るときは、わが軍の勝利こそ間違いないと思います。ただ、高坂弾正殿の再編成案を実施するには、御親類衆をも含めて考えねばなりますまい。結果的には、御親類衆の勢力を弱め、家臣団の力を強めることにしないと、武田軍団再編成の意味がなくなります」
真田昌幸は一歩前進した意見を述べた。
「分かった。再編成案はそちたち二人で作れるだろう。しかし、その実施についてどう考えるか」
勝頼は昌幸に向って問うた。
「問題は御親類衆にあると思います。御親類衆に反対されたら、どうにもなりません。家臣団の方は、はじめは驚き、中には疑惑の念を持ったり、反抗の姿勢を示すものがあるかもしれませんが、一、二年後のうちには落ちつきます。そのためには、よほどしっかりした案を作らねばなりますまい。また武田の現状を知らしめて、なるほどこうするより仕方がなかったなと思わせるようにしなければなりますまい」
昌幸はこのことに非常に乗気だった。
勝頼は、跡部勝資と長坂長閑斎を別々に呼んで、この案について諮問《しもん》した。
跡部勝資は長いこと考えていたが容易には答えられないから、一両日考えさせてくれと云って帰った。三日後に跡部は自らの意見を表明した。
「武田軍団再編成を断行なさいませ。私には異存はございません。ただ、私はもともと武将ではないので、この案を実施するための渦中の人になる資格はございません。しかるべき人をお選び下さるようお願いいたします」
勝資は逃げを打った。武田軍再編成案をおおっぴらに持ち出した場合、憎まれ者になるおそれがあった。それを警戒したのである。
長坂長閑斎は、勝頼の話を聞くと、即座に否定した。
「それこそ世迷言《よまいごと》と云うべきでしょう。大将が戦場で死ねば、その子が父の跡を継いで、大将になるのは当然です。自分が死んでも、わが子が跡を継ぐと思えばこそ、死ねるのです。そのつもりで彼等は設楽ケ原の露となったのです。その武将たちの同心、被官等を取り上げて、新しい侍大将につがせるなど、もってのほか、それこそ収拾のつかない混乱が起こります。そんなことをすれば今後お館様の命令に従う者もなくなるでしょう。御親類衆が合戦の折に逃げ足が速いのは、とくと御覧になったとおりです。御親類衆から、同心、被官をもぎ取れば、黙ってはいないでしょう。それこそ武田を捨てて隣国へ走る人も出て来るかもしれません」
長閑斎は武田軍団再編成論を徹底的に否定した後で結論として云った。
「高坂弾正は合戦ということを経験したことのない大将です。川中島の大会戦のときも城にこもっていました。爾来《じらい》今日まで、上杉に対する押さえの城主として、安穏な日々を送って来た人です。合戦を知らない大将が立てた軍団再編成案などというものは、白紙《しらかみ》同然のものです。取り上げる必要はございません」
長閑斎はかなりはげしい口調で高坂弾正を攻撃した。
結局、勝頼は、高坂弾正の武田軍再編成案を取り上げることはできなかった。高坂弾正は強行せよと進言したが、そうするには、跡部、長坂を遠ざけねばならなかった。勝頼にはそれができなかった。
二人は有能であった。家臣団や御親類衆とは必ずしもうまくは行っていなかったが、この二人が無くてはやって行けないし、いまのところ二人のかわりとして考えられるような人物はいなかった。曾根内匠と真田昌幸を家老として取り立てるにはまだ早過ぎた。年齢がものを云う時代だった。
敗戦処理を急げという声が相次いだ。勝頼はこれ以上遅滞《ちたい》することはできなくなった。
山県昌景を除いて他の主たる部将は、従来通り城も、同心、被官もそのままその子にゆずられた。
高坂弾正の献言も勝頼ひとりではどうにも処理しようがなかったのである。
〔設楽ヶ原で戦死した部将とその跡目〕
山県三郎兵衛昌景
陣代、小菅五郎兵衛(昌景の同心頭。昌景の子が幼少であったため)
馬場美濃守信春
馬場民部少輔信忠、父春信の後を継ぎ、信州深志城主となる。
内藤修理亮昌豊
内藤修理亮昌月、父昌豊の後を継ぎ、箕輪城をそのままあずかる。
原隼人佐昌胤
原隼人佐昌栄、父の同心、被官をそのままあずかる。
真田源太左衛門信綱
真田昌幸、その後を継ぎ侍大将となる。
六月に入ると、徳川軍は二俣城攻撃を開始した。二千の軍を送って二俣城を包囲した。力攻めはせずに明らかに兵糧攻めで、落とそうとするかのようであった。
家康は二俣城を囲んでおいて、他の兵力を武田方に属している遠江一帯にさし向け、設楽ケ原の合戦で大敗した武田は再び立ち上がることができないだろう、今徳川方に従うならば、旧来のことはとやかく云わず、土地を安堵してやるが、この期になっても、武田に従うつもりならば一族みな殺しに会うであろうと、おどかした。
遠州の諸豪の去就は微妙だった。徳川についていいか武田についていいか、将来のことが分からないから迷うばかりだった。多くは、武田にも徳川にもいい顔をして急場を逃れようと考えていた。それを知っている徳川方も武田方も、口で云うことや誓書などはいっさい信用せず、物を以て実を示せとせまった。米を出せ、夫役を出せという要求だった。武田勢力と徳川勢力の境目にある豪族は塗炭《とたん》の苦しみを味わいながら、どっちでもいいから、早いところ勝負をつけて貰いたいと願っていた。
二俣城の北方に犬居城があった。城将の天野宮内右衛門尉景貫は、武田信玄が青崩《あおくずれ》峠を越えて遠州へ入ったとき以来、武田側に属していた。設楽ケ原の合戦にも参戦していた。
二俣城が落ちない間は、犬居城もまた存続の希望があった。天野氏は武田から去らなかった。
徳川軍の一隊は犬居城へも向ったが、そう長居はせずに引き上げた。二俣城が狙いであった。この城が落ちれば、犬居城は自落間違いないと考えたからである。
二俣城は依田下野守信守、依田右衛門尉信蕃《のぶしげ》父子が守っていた。
依田父子は設楽ケ原敗戦の報を聞くや、できるかぎりの食糧を徴収して、籠城《ろうじよう》の覚悟を決めた。当分の間、甲斐からの援軍は期待できないと考えたからであった。
六月半ばになって、徳川方の大久保忠世が、二千の軍を率いて来た。二俣城の付城《つけじろ》として、毘沙門堂、鳥羽山、蜷原《になはら》、和田ケ島(渡ケ島)等を設けるためであった。二俣城を長期にわたって包囲するには、どうしても付城が必要だった。そうしないと、不意を突かれて味方が大きな損害を蒙むるからだった。
依田信守は五十を幾つか過ぎていたが、強気の武将だった。
大久保軍が、付城の設営に取り掛かったのを見て黙ってはいなかった。
六月なかばの小雨の降る晩、依田信守は自ら城兵五十五名を率いて、ひそかに城を出て、ほぼ完成したばかりの和田ケ島の付城に夜襲をかけた。出来上がったばかりの付城は焼け落ちた。
しかし、依田信守は兵をまとめて引き揚げる途中、大久保忠世の軍の追撃を受けた。敵も味方も分からぬような暗夜であった。
信守はかねて部下たちに云い含めておいたように、適当に敵をあしらいながら二俣城へ引いた。二俣城では門を開いて信守等を迎え入れた。
信守の夜襲は成功したが、このとき信守が受けた刀傷が化膿して、高熱を発した。
城内には医者らしい医者はいなかった。子の信蕃は、大久保軍に矢文を送って、父の急病を告げ、医者を乞うた。
大久保忠世はこれを了承した。
翌々日、浜松から医者を迎えたが、医者が到着したという矢文が送られたときには信守はもはやこの世の人ではなかった。
返書の矢文が依田信蕃から大久保忠世に届けられた。
「厚意は感謝する。父の死は天命と思う。父に代わってこの依田信蕃がお相手をいたす故、よろしく御手合わせ願いたい」
という内容のものであった。
依田信守の死は、使者によって、古府中へも報ぜられた。
勝頼は、
「信守もまた逝《い》ったのか」
と一言《ひとこと》云った。依田信守は名将であった。ただでさえ、人不足の折に、依田信守を失ったことは武田にとって大いなる損失だった。
高坂弾正昌信が勝頼に意見具申をしたことについては『武田三代軍記』第十九巻の「長篠合戦附高坂弾正昌信真忠の事」の中に《甲州に帰陣し給ひけり。其後、高坂、其儘甲府にあつて、五箇所を以て、勝頼を諫めける》
とあり、その第一条に氏政との和平をすすめること、第二条に氏政の女を迎えること、第三条に木曾義昌を転封させよということ、第五条に武田信豊、穴山信君に切腹させよということ、そして第四条に、次のようなことが書かれている。
一、唯今迄の足軽大将を、人数持になされ、馬場、内藤、山県が子供を始め、皆同心被官を召上げられ、奥近習になされ、小身にて召仕はるべく候。明日某、果て候とも、忰を小身になされ、同心被官老功の者に御預け御尤《ごもつとも》に存ずる事。
木曾馬献上
美濃国岩村城主秋山信友(秋山晴近《はるちか》)は設楽ケ原で武田軍大敗北の報を聞くと、直ちに、籠城の準備を始めた。当然のことながら織田軍の侵入に備えてのことであった。
彼は城の守りを厳重にする一方、盛んに食糧を搬入して、いざという場合は、家族を城内に収容する準備に取りかかったが、城兵の家族をすべて収容すればその食糧に行きづまることは分かり切ったことで、もともと、この岩村城が秋山信友の手に落ちたのも、城の食糧が尽きたのが最大原因であったことを想起して、できるだけ家族は安全地帯へ逃がすように考えた。
岩村城の主力は伊奈衆であった。俗に伊奈衆とも晴近衆とも云われる一団と遠山七頭と云われる人たちによって守られていた。
信友は、急遽主なる部将の家族を戦火の及ばないところへ移動せしめることから始めたが、織田方の間者によって、このことが信長に知らされると、信長は時を移すと利あらずとして、織田信忠を総大将とする三千の軍を岩村城へ送った。
織田信忠軍は、池田勝三郎信輝、河尻与兵衛鎮吉、森勝蔵長一、毛利河内守、塚本小大膳安頼、肥田玄蕃《げんば》、不破河内、浅野左近等の総勢三千の軍であった。
信忠の軍は六月に入るとすぐ岩村城の包囲にかかった。
織田軍が到着するまでに、城主の秋山信友以下諸将の家族の多くは、木ノ実峠を越えて下伊奈へ移されたが、まだ城には五十人ほどの女子供が残っていた。織田軍の来襲が急だったので逃げる暇がなかったのである。
岩村城は力押しで落とせる城ではなかった。水晶山(『信長公記』には水精山と記してある)を背に負っているこの要害をもし力攻めで落とそうとするならば、その犠牲は計り知れないものがあった。
きおいこんで来たものの、矢張《やは》り、最初に考えていたとおり、城を囲むしか手はないと分かると、織田軍はそのつもりで、対策をたてた。まず城内の兵に対する調略だった。
城内の将兵の半分は伊奈衆であり、半分は遠山衆である。
伊奈衆は秋山信友と共に伊奈から移って来た人たちだったが、遠山衆はこの土地の人である。元亀三年(一五七二年)城主遠山左衛門尉景任の未亡人ゆうと秋山信友が結婚することによって、岩村城が武田方に従うようになったとき、それを不服とする者は城を出たが、それを是とする者は残って秋山信友に仕えた。在城の遠山衆はそれ以来の人たちだった。攻城軍の総大将は信忠だったが、この大将は父信長に似ず、どこか鷹揚《おうよう》なところがあった。戦《いくさ》は余り好きではないから、指揮はほとんど家来の池田信輝、河尻鎮吉、森勝蔵の三人にまかせていた。
池田、河尻、森の三将は手分けをして、城にこもる遠山衆の縁者を探し、その者を通じて、城内の兵が武田を捨て織田へつくように工作しようとしたが、城内では、そのような切りくずしや調略を厳戒しているので容易なことでは入りこむことはできなかった。裏山の水晶山から間道を伝わって城へ入りこもうと何度かこころみたが多くは事前に取り押さえられた。
攻城軍は長期戦の構えの焦点を兵糧攻めに置いた。今のところそれより方法がなかった。城への食糧の搬入は絶望となった。古府中への書状を持った城兵が水晶山の間道を出ようとしたところを攻撃軍の池田信輝の手の者に捕えられた。八月に入ってからであった。
書状は、秋山信友から勝頼に当てたものであった。
《今のところ、城内に変わりはございません。全将兵が意気盛んです。いかように敵が攻撃をしかけて来ようとも、われ等は、彼等を追い落とすことができます。敵もそのことを充分知っているので、戦をしかけては参りません。兵糧攻めしか策がないとは、なさけないようにも考えられます。愚将のもとに凡将とはよく云ったものだと思います。城内の食糧は今のところ、十月まではございます。それまでに援軍をお廻しいただくようひとえにお願い申し上げます》
という内容のものだった。
池田信輝はこの書状を見てひどく立腹した。愚将は信忠であり、凡将は自分たちを指していたからだった。
信忠はその捕虜を締め上げて城内の様子を訊いた。その書状の内容とほぼ同様であった。書状を持った者は日を異にして三人が城を出ていた。他の二名は城を抜け出て古府中へ行ったものと思われた。
信輝は、織田方に従っている遠山衆の何人かにその男の顔を見せた。その男の身元は間も無く知れた。城内にいる遠山衆の大将、遠山市之丞の家来で大富十郎太という者であった。
遠山衆に命じて大富十郎太の家族を探させたが、既に行方不明になっていた。秋山信友は、このような場合を想定して、人質となるような家族を安全圏に逃がしてある者だけを使ったのである。
「人質が取れないとなれば、欲で釣るしかないだろう」
池田信輝は大富十郎太の縄を解かせ、風呂に入れ、食事を与えてから、
「武田の運命は決まったも同然、岩村城が落ちるのも、あとひと月かふた月後であろう。そうなってから織田方へ従っては遅い、どうだ、わがほうへつかないか」
とごく当り前のことを云って誘うと、それまでは、ろくに口をきこうともしなかった大富十郎太が、涙まで流して、
「こうなった以上、しようがございません。今後はおぼしめし通りにいたします」
と云った。
池田信輝は大富十郎太をそのまま放ってやった。古府中へその手紙を届け、勝頼からの返書を持って帰城する前にその手紙を見せて貰う約束をした。そうすれば後日落城の際は味方として扱うばかりか、恩賞も与えようと云った。
大富十郎太はそれを承知した。承知したふりをして、古府中へ行った。そのままのことを勝頼の前で報告した。
「信輝に従うように云ったのは、方便であって、私は武田を裏切り、主人の遠山市之丞に恥かしい目を見させるようなことはしたくはありません」
と云った。
勝頼は大富十郎太の処置について、長坂長閑斎に相談した。
「十郎太を使って、敵の策の裏を掻くようにしたら如何でしょうか、つまり岩村城へは援軍を直ぐ送ると云ってやるのでございます。その書状を途中で盗み読みした池田信輝は、援軍の来ない間に城を落とさないと、信長に叱られるから、なにかと悪足掻《わるあが》きをするでしょう。それが、われらのつけ目です。敵が動き出したら、木曾の兵を向けましょう。おそらく、信忠の軍は城の囲みを解いて岐阜へ帰るでしょう。もともと戦意がない軍隊の寄り集まりですからそのような結果になるのは明らかです」
長坂長閑斎はそのように云った。木曾を除いては、援軍を出せるような状態ではなかった。設楽ケ原の敗北の痛手は時間が経てば経つほど、武田軍内深く浸透して行った。多くは自信を喪失《そうしつ》した状態でいた。無理に出兵を命じても、士気が上がらないばかりか、下手《へ た》をすれば、また敗北するおそれがあった。
敗戦の痛手から立ち上がるには木曾軍をやって岩村城を急援し、意気を上げる手が一つと、このままの状態で時間をかせぎ、武田軍全体の精神的疲労の恢復を待つことだった。岩村城や二俣城には苦しいけれども我慢して貰いたかった。勝頼は長閑斎の策を取り上げた。
池田信輝は、大富十郎太の持って来た書状の内容を写し取ってから、大富十郎太に云った。
「次にそちのやるべきことは、城内にいる遠山衆に働きかけて、内応を進めることだ。間もなく、総攻撃が始まる。その時城内で内応するように、その味方を作るのだ。名前は云えぬが、既にそのような者を何人か城に入れてある。いざというときはその者から連絡があるだろう」
と云った。
大富十郎太は岩村城へ帰って、すべてを遠山市之丞に告げ、遠山市之丞はこれを秋山信友に伝えた。
「十郎太のことは伏せて置け、そのうち、織田の廻し者が誰であるかが、分かるまでそっとして置くがいい」
秋山信友はそう云いつけた。
九月に入って間もなく、攻城軍はにわかに色めき立った。城内からの鉄砲の攻撃を避けるための盾をおし並べて、城に近づき、外曲輪の引き崩しに取り掛かった。多くの人夫が徴用され、攻撃用の堀が城の石垣に向って掘り進められて行った。
水晶山への道作りが始まった。大軍を水晶山へ上げるにはまず道から作らねばならなかった。こっちの方は大仕事だった。
織田信忠のところへは岐阜の信長から、手に負えないようなら引き返せ、別の者をやろうという書状が届いた。
池田、河尻、森等の諸将はこれを信長の最後通告のように感じた。このまま便々と日を延ばしていたら、引き揚げの命令と共に、信長お気に入りの羽柴秀吉か、丹羽長秀等の軍がやって来るかもしれない。そうなれば武将としておしまいである。なんとかして城を落としたかった。落とせなくとも、落とせるような段取りをつけたかった。
秋山信友は武田軍内では名うての智将だった。それらの攻撃軍の動きをじっと見ながら策を練っていた。近寄るだけ近寄らせておいて一挙に討って出ようという作戦だった。
「どうも、城内の様子はおかしい。落ち着き払っていて、すこしもあわてる様子がない。あまり近寄らないほうがいいのではないか」
森勝蔵が云い出した。河尻鎮吉も池田信輝も、そう云えばそうだと同感の意を示した。
「あるいは、木曾義昌との間に手筈が整ったのかもしれない」
木曾軍は織田軍にとって苦手だった。天正二年(一五七四年)、織田信長自身が、国境の山中で木曾軍にひどい目に会っていた。その経験があるから容易に木曾へは軍をすすめられないでいたのである。
池田信輝は木曾へ放してある間者を通じて木曾の情報を探った。
木曾義昌は岩村城救援のために出兵せよという勝頼の厳命を受けていた。それまで木曾軍は大きな合戦には参加していなかった。信州口には、伊奈口と木曾口の二つがある。その一つを守ることが木曾義昌の唯一の任務だった。北信の海津城同様に、木曾そのものが武田軍にとっては城であった。
義昌は岩村城援軍の勝頼の命には一応従うように返事を送ったが、実際はすぐに出兵をしようとしなかった。書状が古府中と木曾福島との間を往復した。義昌が出兵したくない第一の理由は、岩村城へ出兵すれば、その後へ織田軍が侵入する虞《おそ》れがある。そう簡単には動けないということであり、第二の理由は木曾軍単独で救援におもむくことはその兵力において過少すぎる。相働きの軍なくしては心もとないということであった。これも道理にかなっていた。木曾軍は全力を挙げてもおよそ千人である。千人が木曾谷を出れば後は空っぽになる。義昌の要求はあながち無理ではなかった。
《木曾軍は動く気配がございません》
と木曾からの報告を聞いた織田信忠は、いよいよ岩村城総攻撃を命じた。
岩村城はじまって以来の激戦が行われた。攻撃軍は力攻めに押しに押しては、城内からの矢や鉄砲弾丸《だ ま》の犠牲になった。容易には落ちないことが分かって引き揚げようとすると、城兵は大手門を開けて討って出て、攻撃軍を斬り倒した。
秋山信友は、この合戦の最中に、敵に内応する者が出た場合の対策として、目付を増員して監視に当らせた。裏切る者は一人もいなかったし、裏切ろうとする気配もなかった。池田信輝が大富十郎太に、「内部にしのばせた者がある」というのは十郎太を背《そむ》かせるための虚言に思われた。
岩村城の激しい攻防戦が行われている最中にも水晶山への登山路工事は着々と進められて行った。山は深いし、往復の道はたいへんなので、ところどころに小屋を建て、そこに人夫が寝泊りできるようにした。食糧も担ぎ上げられて行った。
もう二丁ほども道を造れば水晶山の頂きに出るというところまで道路工事が進んだとき、岩村城からの兵が二十名ほど現われ、工事を監督していた織田の兵を斬り、人夫は殺さぬかわりに、食糧を岩村城まで担ぎ上げることを命じた。およそ二十俵ほどの米が城に運びこまれた。
織田軍は散々な目に会って引いた。岩村城にこもったおよそ千人の敵を降参させるには、あとは食糧の尽きるのを待つ以外に策はなかった。
織田信忠は、自ら岐阜におもむいて、信長に岩村城攻略の失敗を報告した。
信長は、信忠を特に叱らなかった。どうやらそうなることを予期していたようだった。
「そちたちの相手ではないわい」
信長はそう云った後で、秋山信友のことを考えた。叔母のゆう女を妻にして、三年の間に岩村城を完全に武田のものとしてしまった。信友に対する人物評価と同等以上の憎しみが湧いた。
「うぬっ」
と信長は怒りを唇の辺りまで出したが、そこでこらえて、信忠に云った。
「水晶山への道はいかなる困難があっても続けよ。水晶山を占領し、そこから逆落《さかお》としに攻める以外に岩村城の攻撃方法はあるまい」
信長は絵図面を見てそう云った。
信忠はそれを聞いて帰ると、諸将を集めて信長の意向を伝え、その翌日からは、水晶山への登山路開設に全力をそそいだ。
「織田信忠様は岩村まで、わざわざ、山道作りにお出でなされたらしい」
岩村城周辺の者は口々にささやき合った。
秋山信友の善政によって岩村城付近の農民は、織田勢よりむしろ武田勢に好感を持っていた。古くからこの付近の領主だった遠山一族がこぞって秋山信友に味方していることもあって、付近から集められて来た人夫は、本気で働こうとはしなかった。彼等は織田の監督の目を盗んでは油を売っていた。水晶山への登山路は遅々として進行しなかった。
勝頼は気が気ではなかった。岩村城も二俣城も兵糧攻めに会っている。十月中に援軍を送らないと自落するおそれがあった。だが、今のところ、五千とまとまった軍隊を移動することはできなかった。
諸将も出兵に反対だった。織田軍が岩村城に総攻撃を開始したとき、勝頼は木曾義昌に援軍を送るよう再度命令した。表立って、まとまった兵が出せなかった。二、三百人の乱破《らつぱ》部隊を編成して、織田軍の後方攪乱を計るように命じた。しかし、義昌はそれをもしなかった。木曾口に控えている織田軍の動きが気になって、それができなかったのである。もし、木曾軍の一部が岩村城救援に参加したならば、織田軍は囲みの一方を解いて、木曾軍に対処しなければならなかったであろう。岩村城にとっては食糧補給の絶好の機会になったであろう。
勝頼が義昌に対して悪感情を抱いたのはこの時からであった。義昌の正室は、勝頼の妹である。勝頼は義昌の義兄に当っていた。
「木曾(義昌のこと)は設楽ケ原の戦いには出ていない。無傷である。岩村城を救援しろと云われてできない筈はない。それをしないということはやる気がないからだ」
勝頼は怒りを口に出して云った。側近たちが、いろいろと取為《とりな》したが、なかなか怒りがおさまる様子はなかった。
木曾義昌の家老山村三郎左衛門良利は、主人の義昌と武田勝頼とが不和になるのをおそれた。
十月に入って、すぐ山村良利は木曾の名馬五頭と山村良利の姪《めい》たみ女を連れて古府中に向った。たみには侍女がつき、そのほか屈強な木曾侍が二十名ほど従っていた。
良利は勝頼に会って、土産として持参した五頭の馬をさし出し、たみについては、
「ふつつかな姪ではございますが、お館様のおそばに置いていただければまことに光栄のことと存じます」
と云った。側女《そばめ》として置いてくれという意味であった。たみは稀に見る美人であった。良利は自信をもってたみを差し出したのである。
勝頼は、馬場で木曾馬五頭を見た。何れも名馬だった。たみは別室で勝頼に謁見した。緊張して震えている美少女に、勝頼はふとあわれさをおぼえながら、年齢《と し》は幾つかと聞いた。
「十五でございます」
という声もまたいたいたしげであった。勝頼はためらいを感じた。勝頼には三人の側室がいた。嫁して来て、信勝を生んですぐ死んだ雪姫(信長の姪)以来、正室の座は空白になっていた。二人の側室、お福と美和はそれぞれ女の子を生んでいたが、男の子には恵まれていなかった。高天神城の天女と云われた、小笠原信興の女《むすめ》の和可《わか》は勝頼の側室となって古府中へ来て以来、未だに子宝には恵まれていなかった。勝頼はこの和可をことのほか寵愛《ちようあい》していた。長篠城包囲作戦の最中にも、しばしば、和可に書状を送っていた。
勝頼と父信玄との女性観はいささか異なっていたようである。信玄は正室の三条氏とは不仲だったが、他の四人の側室とはそれぞれ旨く行っていた。信玄が側室たちを公平に愛するという心がまえで接していたからである。
勝頼は設楽ケ原の合戦に敗れて古府中へ帰着して以来、和可のところへ入りびたりでお福と美和の局へは足を運ばなかった。三人のうちで一番若くて美しい和可を溺愛することによって、敗戦の傷の痛みを忘れようとしているかのようだった。異常にも見えるほどの耽溺《たんでき》の夜が、勝頼と和可の間に続いた。和可だけが心にあって、他の側室たちの存在を忘れ果ててしまったかのようだった。
高遠以来の奥中臈の老女長池《ながいけ》がこのことで勝頼に注意した。
「先代様は、それぞれのお局様の顔を立てておられました。人間だから好き嫌いもございましょうが、ある程度は他のお局様たちの心をお考えにならないと収まりがつかなくなります」
「和可のところへばかり行かずに他の局へも行けというのだろう。分かっている」
「分かっておられてなぜなさらぬのですか」
「長池、今は余の思うがままにさせておいてはくれぬか、しばらくの間は勝手にふるまっていたい」
勝頼は子供のときから長池を知っていた。母がわりにずっと傍にいた長池だからこんなことが云えたのである。
長池はそのひとことで勝頼の気持を察した。設楽ケ原の敗戦の痛手が大きいのだ。その心を医《いや》してくれる女性はいまのところ和可以外にはいないと勝頼は云っているのだった。
「分かりました。当分は御存分になさいませ。だが、いつまでもそのままではいけませぬぞ」
長池は勝頼に念を押したあとで、
「また新しい局を設けるのですか」
と訊いた。木曾の山村良利の姪たみを側室に迎えるかどうかを打診したのである。たみは、まだ客分としての待遇でいた。もし正式に側室に入れるならば祝言《しゆうげん》の式をしなければならなかった。敗戦の直後だから遠慮しているのだろうと思って訊いたのである。
「いや、あの女《むすめ》は、しばらくああして置こう。そのうち……」
そのうち折を見て側室にしようというようにも思えたし、そのうち適当のところへやろうというふうにも取れた。老女長池は、そのまま引き下がった。
勝頼は木曾からの贈り物は快《こころよ》く受け取ったが、それはそれとして、山村良利が申し立てる岩村城へ援軍を出せない理由についてはそう簡単に納得はしなかった。
「どうしても援軍は出せないか」
「出せません。出せば、木曾口が破られます。木曾口を防ぎ、尚且《なおか》つ援軍を出すだけの人の余裕は木曾にはございません」
山村良利は小山田信茂、長坂長閑斎、跡部勝資、真田昌幸、曾根内匠などが見守る中で勝頼に向ってはっきりと云い切った。
「援軍を出さないというのは命令違反になる。その責任は誰が取るのだ」
長坂長閑斎が反問した。
「この山村良利が取ります。腹を切れとおっしゃるならば腹を切ります」
山村良利は動じなかった。
山村良利の弁明は理詰めだった。木曾軍単独の岩村城救援はすこぶる困難であることを、そこに居並ぶ諸将に納得させるのに人の数や兵器、馬の数など次々と出した。
「山村良利殿の云われることには理がある。いまもし木曾を動かせば、木曾と岩村城の二つを同時に失うことになりかねない」
と小山田信茂が云った。
「では、そちが岩村城救援に行くか」
勝頼は信茂に向って問うた。
「北条の動きについて、いっさい関知しないでもよいということになれば話は別ですが、この際もっとも警戒を要するのは北条です。この点をとくとお考えいただきたい」
信茂は、武田は今非常時にあるのだから、うっかり動けないと云うのである。木曾義昌や山村良利の考えと大して違ってはいなかった。
(彼等は武田全体のことを考えているのではない。山村は木曾という国、小山田は郡内《ぐんない》という国を考えているのだ)
勝頼はそう思った。祖父信虎、父信玄が二代にわたってなし遂げた、甲斐の領国支配が未だ完全ではない証拠であった。同じ甲斐でも郡内地方は小山田信茂の領地であり、河内《かわうち》地方は穴山信君の領地として存在している以上、もともと他国であった木曾が運命の岐路に立つようなことに簡単にうんとは云えないのは、理解できないことはなかった。
(すべてが設楽ケ原の敗戦によって生じたことである)
勝頼は怒りと悲しみをこらえた。
勝頼は、木曾から乱破部隊二百五十を出して、岩村城包囲軍の後方攪乱を策すという条件で、木曾軍出兵を取り止めた。山村良利はその勝頼の言葉を持って木曾へ帰ることになった。
「いろいろと御配慮いただきありがとうございました。姪のたみのことはくれぐれもよろしくお願い申し上げます」
と山村良利は勝頼に別れの挨拶を述べに来たとき云った。
「ああ、たみのことか、あれなら行き先は決めたぞ」
と勝頼が云った。
「行き先と申しますと」
不審な顔で訊ねる山村良利に勝頼は平然とした顔で云った。
「長坂長閑斎が欲しがっていたから、やることにした。長閑斎の側室としては不服か」
山村良利はさっと顔色を変えた。山村家は木曾家の筆頭家老である。木曾義仲以来の名家として自他共に許していた自分の姪が、長坂長閑斎の如き成り上がり者の側室にされたと思うと腹が立った。たみは勝頼の側室として連れて来たのである。そのつもりで勝頼も受け取っていた筈である。それを陪臣《ばいしん》の長坂長閑斎にやるということは、明らかに、山村良利いや木曾義昌に対する当てつけであった。良利はひどい侮辱を感じた。
しかし、山村良利はいやですとは云えなかった。やった以上、こっちのものではなかった。
(勝頼殿のなされ方は、いかにも陰険《いんけん》……)
山村良利は、そのように受け取った。木曾軍を岩村城救援へさし向けようと勝頼に献策したのは長坂長閑斎である。
山村良利は狐のように顎のとがった長坂長閑斎が大嫌いであった。
あの狐に姪がと思うと涙が出るほど口惜しかった。
山村良利は、可愛い姪まで差し出して機嫌を取ろうとした自分の心を踏みにじった勝頼を憎悪した。
「武田はもはや末でございます。いざという場合のことをお考え下さいませ」
山村良利が木曾へ帰って、義昌にはじめて云った言葉がこれであった。山村良利の心は勝頼から完全に離れていた。
木曾義昌は山村良利からの報告を聞いて、勝頼もさぞかしたいへんだろうと思っていた。山村良利ほどには勝頼を憎んではいなかった。
「大儀であった。岩村城出兵が見合わせになったというだけでよいではないか、それ以上のことは考えるな」
木曾義昌は良利を慰撫《いぶ》した。
山村良利が木曾に帰って間もなく、岩村城からの使者が古府中へ来た。
《木曾からの来援の兵は見えないし、敵の軍勢は増える一方、このままでは行く先が心配です。なにとぞ、岩村城の窮状を察して援軍のほどを願い上げます》
という秋山信友からの援軍の催促だった。
二俣城からも同じような窮状を述べて来た。
「岩村城と二俣城はまさに風前の灯《ともしび》である。今出兵しないと亡びる」
勝頼はあせった。諸将を集めて軍議を開いたが、諸将はうなだれたままで発言をしようとする者はなかった。誰もがその事実を知っていた。が誰も、立ち上がる自信がなかった。設楽ケ原の大敗北の悪夢に武田の将兵は未だに悩まされ続けていた。
「どうしたらよいであろう」
勝頼は諸将を一人ずつ呼んでその意向を聞いたが、多くは今しばらくの御猶予をというだけで、はっきりと意見を云ったのは真田昌幸ひとりだった。
真田昌幸は、
「岩村城、二俣城は、敵に明け渡してやったら如何でしょうか。双方で人質を交換し、城を明け渡すのです。岩村城も二俣城も曾てはそうやってお味方のものになったのです。今度は返してやっても、そのうちまたこっちがいただくことになるでしょう。それまで待つしかないでしょう」
昌幸はかなりはっきりしたことを云った。
勝頼はその夜、久しぶりでお福の局を訪ねた。
「まあおめずらしいこと、お館様は私のことなんかもう忘れてしまったのかと思いました。お館様が古いものを忘れ果て、新しいものについたとしても私はなにも云えません。でもこうして目の前にお館様が現われると、つい涙がこぼれます」
と云った。
勝頼はお福のところへ久々に来て、なにかいままでになかった暖かいものを感じた。お福は和可のように火の玉となって燃える型の女ではなかった。お福のそばにいると、心がなごんだ。お福は静かな火を夜中ともし続けて朝まで消さなかった。
(なぜだろうか)
勝頼はそれを考えていた。
(そうだ。お福のところへ来たのは、長篠城奪還の戦に出る前だった)
設楽ケ原で大敗を喫する前の、あの希望に満ちた自分の心が、そのままお福の体温となって存続されているような気がした。
(それはもう過去の勝頼だ。今は違った勝頼がここにいるのだ)
勝頼はお福を力いっぱい抱きしめた。敗戦の悲しみが再び彼を奈落《ならく》の底に突き落とそうとした。
諏訪原城明けわたし
古府中の勝頼のところへは、美濃の岩村城、遠江の二俣城の他に、同じく遠江南部の小山城からも救援の要請があった。
小山城には諏訪原《すわはら》城から逃れて来た将兵たちが籠って徳川勢と戦っていた。もし小山城が落ちるとその近くの高天神城も危なくなる。武田とすればいかなる犠牲を払っても高天神城だけは失いたくはなかった。
「いまとなっては、繰《く》り言《ごと》に過ぎないけれど諏訪原城を失ったことはなんとしても残念なことだ」
と勝頼は小山城からの使者に会ったあとでひとり言を云った。
諏訪原城は現在の静岡県榛原《はいばら》郡金谷町にその城址が残っている。大井川の西岸の高い岡の上にあり、東側は大井川を見おろす、急傾斜面の崖、西側は二重、三重の堀を置いての堅城だった。遠江を制圧するために、この地にしっかりした城が必要だと気付いて、築城を勝頼に進言したのは馬場信春であった。
築城は元亀三年(一五七三年)春から始まってその年の秋に完成した。勝頼はこの城を足場にして高天神城を取ろうと考えたのである。そして、諏訪原城には今福丹波守浄閑を城主として置き、副将として諸賀満正入道一葉(筆者註、室賀か?)、小泉隼人忠季の二人を任命した。
天正二年の春になって高天神城総攻撃ができたのは諏訪原城という基地があったからである。諏訪原城から高天神城までは距離にして約五里(二十キロ)しかない。諏訪原城が敵に定着すればそれだけで、高天神城が危うくなるのは当然であった。
勝頼は諏訪原城内に、諏訪神社の分社を建てた。勝頼自身が諏訪の大祝《おおはふり》(諏訪神社の現神氏《うつしかみうじ》)の血を受けついでいたこともあり、諏訪神社は古くから戦《いくさ》の神様として知られていたからだった。
武田軍は諏訪原城を基地としてここに集結し、隊伍を整えて、高天神城攻撃におもむいたのである。勝頼の生涯において最も輝かしい時であった。徳川家康は圧倒的に優勢な武田軍の前には手も足も出せなかったし、徳川軍を応援すべくやって来た織田軍も、はじめっから戦意はなく、浜名湖あたりまで来たところで踏みとどまり、高天神城の落ちるのを待っているという状態だった。
高天神城の包囲軍とは別に諏訪原城には予備軍が目を光らせていたので、徳川軍の動きは制約され、このため武田軍の高天神城方面の作戦は楽になったのである。
高天神城が武田軍のものとなってからも、諏訪原城は遠州南部を押さえる要衝だった。目と鼻の先にある徳川軍の掛川城も、諏訪原城に武田軍がいる限りは安心して眠ることはできなかった。
そしてこの情況は天正三年の設楽ケ原の大会戦まで続いたのである。
諏訪原城城主今福丹波守浄閑は五月二十三日になって設楽ケ原で武田軍が大敗北したという報告を聞いた。にわかには自分の耳を信じられなかった。無敵武田軍が負けて、主なる武将の多くは討死したということが更に五日後になって明白になると、彼はその次に来るものがなんであるかを知った。彼はできるかぎりの食糧を集めて、諏訪原城を死守する覚悟を決めた。設楽ケ原敗戦の事実は部下たちには知らせなかった。だが、直ぐには敵軍は現われず、しばしば物見が付近に出没するだけであった。諏訪原城からも物見を出して徳川勢の動向を探ると徳川勢は大軍を出して、二俣城を包囲していた。
(まず二俣城を落として、次には多分この城へかかって来るつもりであろう。だが、そう簡単に二俣城が落ちるものか、そうこうしているうちに、武田軍は必ず勢力をもり返して遠州に出て来るだろう)
今福浄閑はそのように考えていた。しかし徳川勢は二俣城をひと押しして落ちないとみると、二つの付城《つけじろ》に兵千人ほどを残し、本隊は廻れ右して、諏訪原城へ向ったのである。六月終りのころのことである。
徳川軍はおよそ三千、大将は松平康親、牧野康成、鳥居彦右衛門の三人だった。
彼等は設楽ケ原での大勝利で気をよくしていた。城兵はおよそ、千人、その三倍の軍勢にものを云わせて、一気に攻め落とそうと、鬨《とき》の声を上げて攻めかかったが、一見、なんでもないような城に見えていて、なかなかどうして、いたるところに厳重な防備の布石がほどこしてあって、簡単に落とせる城ではなかった。
徳川勢は西側から南側にかけての外曲輪《そとぐるわ》からまず攻めた。ごく常識的な攻め方だった。
攻城軍は、諏訪原城西部の亀甲曲輪をまず落とし、西の丸曲輪に迫った。ここまではそれほどの抵抗も無く進軍できたが、二の丸前の堀で行き詰まった。
西側から南側にかけての堀は思いがけないほどの深堀で湧水があり、満々と水をたたえていた。容易に渡ることはできないし、埋めることも簡単ではなかった。
攻城軍は兵力を二つに分け、鳥居彦右衛門は、西側と南側の堀を埋める作戦を実行し、松平康親と牧野康成の両将は北側から攻めることにした。
諏訪原城の縄張り(設計)をした馬場信春は、敵がこの城を攻める場合にはどのような攻め方をするか、充分に考えての上の築城だった。まず西側と南側から攻めて堀にはばまれた場合、北側に廻って攻める――馬場信春の考えは間違ってはいなかった。攻城軍は北側に兵力を集中した。
北口は狭かった。ここには城壁、城墻《じようしよう》、城塁、乾堀《からぼり》が、幾重にもできていて簡単には寄りつけなかった。たとえ一つの障壁を越えて攻め込んでも、退路を断たれると、そのまま這い上がれぬような乾堀に追い落とされるおそれがあった。
松平康親、牧野康成の両将は北口に兵力を集中して、まんまと馬場信春の策にかかったのである。馬場信春は設楽ケ原の露と消えていたが、彼の霊魂が徳川勢を悩ませているかのようであった。
攻め口が狭い場合は、一度に多くの人数を使うことはできなかった。せいぜい、新手新手と繰り出す以外に攻め方はなかった。戦死者の遺体を踏み越え、踏み越え迫撃するというような、力攻めもないではなかったが、よほどのことでないと、こういうことはできなかった。城を取っても味方の損害が多く、特にその中に名のある大将などがいた場合は、軍目付《いくさめつけ》の覚えもよくないし、だいいち死んだ人たちの遺族の心がおだやかではない。こんな場合、その大将はたちまち凡将の肩書きを頂戴し、大将としての資格を失うことになりかねないのである。
松平康親と牧野康成、鳥居彦右衛門等は鳩首《きゆうしゆ》協議を繰り返した。
「こうなったら、全軍力を合わせて、東側から攻撃するより仕方がない」
と牧野康成が云った。東側は沢と崖とになっており、しかもそこには密林のように木がおい繁っていて大軍を移動させることは困難だった。
「木を切り、道を作ってか?」
松平康親が皮肉を云った。そう云われると牧野康成は二の句がつげなかった。
牧野康成としても、本気で東側から攻めようなどとは考えていなかった。東口のことも頭に入れて考えようではないかと云いたかったのである。
「では、北口を無理押しに攻め立てるか」
牧野康成が云った。
「いや、そんなことをすれば、いよいよ味方の損害を多くするばかりだ」
松平康親も困り果てたという顔だった。
北口では既に百人近い死傷者が出ていた。同じことを繰り返したくはなかった。
結局は、城を囲んで防城軍の食糧の尽きるのを待つしか方法はないという結論になってこの軍議は終った。
「それにしてもふがいないわが軍の攻め方よ」
と鳥居彦右衛門は自分自身を卑下する言葉を吐きながら西口の陣に帰った。なんとかして、攻撃の緒《いとぐち》を掴みたかった。諏訪原城は堅城のように見えてはいるが、一ヵ所を破れば案外たわいなく落ちるのではないかとも考えられるのである。
彼はこのあたりの地勢にくわしい猪土井《いどい》正兼という者を呼んで意見を聞いた。猪土井正兼は諏訪原城築城の折、夫役を用立てて勝頼から感状を貰っていた。武田方とも徳川方とも見分けがつかないような存在の男であった。武田と徳川とで取り合っているこの地方にはこのような男がほとんどであった。
鳥居彦右衛門はそのことを充分承知の上で彼を招いたのである。
「そちは諏訪原城についてくわしいと聞いているが、もし、そちがこの城を攻める大将だとしたら、どこからどう攻めたらいいと思うか、忌憚《きたん》のない意見を聞かせて貰いたい」
彦右衛門は最初から下手に出た。地下人に接するにはこれに限ると思っていた。だが、猪土井正兼は、そうたやすく彦右衛門の手には乗らなかった。
「わしは、百姓とも武士ともつかない田舎者、戦のしかたなど分かる筈がございません」
と逃げた。
「では訊くが、この城に忍び込むにはどこから入ったらよいか、……築城に参加したのだからそのくらいのことは分かっているであろう」
と訊くと、猪土井正兼は、突然へらへらと笑い出した。鳥居彦右衛門の家来たちが、おのれ礼儀をわきまえぬ奴と、いきり立つのを彦右衛門は押さえて、
「なにがおかしいか云ってみよ」
と問いただすと、
「将たる者、ひとたび城の絵図を見、しかもその場に臨んで外から眺めてみれば、その城の弱点がどこにあるかぐらい一目で分かるものと思っていました。そうでなければ大将などと大きな口はたたけないと思っていました。だから笑ったのです」
猪土井正兼は悪びれもせずに答えた。その度胸のよさに、鳥居彦右衛門は驚嘆しながらも、このあたりの豪族が徳川方に必ずしも好感を持ってはいないなと見て取った。
「わかった。こちらの云い方がまずかった。わしの訊きたいのはこうだ。そこもとは諏訪原城の築城にたずさわっているから、この城のことをわしよりよく知っている。だからそこもとの力を貸して欲しいのだ。実のところ、今までに五人の忍びの者を城に入れたが、五人とも帰って来ない。捕えられたのだと思うが、まずそのへんのところから、そこもとの意見を訊ねたい」
彦右衛門が、そち、そちと云っていたのに突然、そこもとと呼び方が変わったとき、はじめて猪土井正兼は、素直な顔になって答えた。
「城は入り易い構造になっております。少しばかり忍びの心得のある者ならば、どこからでも入りこめます。それがこの城の一つの特徴であると同時に、一旦入りこんでしまうと、出るのがむずかしいのもこの城の特徴です。一ヵ所でも道を塞がれると、あとは迷路にはまりこみます。いたるところに、鳴子や監視の兵がいて、捕えられるか斬られるか、いずれかの運命をたどるしかありません。おそらくその五人の忍びも生きてはおりますまい」
猪土井正兼は淡々《たんたん》と語った。
「そこもとが忍びこんだとしたらどうか、城の内部のことを知っていることでもあるから必ずや目的を達して帰って来るであろう」
この私に諏訪原城へ忍び込めというのですかと猪土井正兼は色をなした。
「さよう。そのように決めたのだ。決めた以上は引き受けて貰わねば、他にしめしがつかぬ」
彦右衛門はきっとなって正兼を見すえた。それは命令だった。云うことを聞かねば、斬るか牢に入れるぞという顔だった。はじめのうちは威勢がよかった正兼も、彦右衛門の決心のほどを知ると、不承不承《ふしようぶしよう》引き受けざるを得なくなった。大きなことを云ったり、笑ったりしたことがこの時になって悔まれたが、どうにもしようがなかった。
「もっとくわしく目的をお聞かせ下さい、できる限りのことを致します」
と正兼は答えた。あさはかだった自分の行動を後悔しながら将来のことは半ばあきらめていた。
「では、引き受けてくれるな。それではこちらの策を申そう。実は、ひそかに城内に兵を入れ、その導きで城の一角を打ち破りたいのだ。そのような場所を探しておるのだ」
彦右衛門は本音を吐いた。
猪土井正兼はなるほどと一つ大きく頷いてから云った。
「よく分かりました。それについてお引き受けいたす前に一つだけ約束していただきたいことがございます。恩賞は要りませぬが、もしもの場合われ等一族の行末のことを保証するという一札を下さるようお願い申し上げます」
正兼とすれば当然の要求だった。徳川方に味方したとなれば将来、武田方に狙われることになる。そうなれば一族の落ち着き先のことも考えねばならぬ、そういう場合のことまで考えてのことだった。さきほどまで、大口を叩いたり、笑ったりしていた者とも見えぬほどの心遣いぶりはあわれでもあった。鳥居彦右衛門は、どっちつかずの地方地下《じげ》人の代表を見るような気持で、正兼を眺めていた。
猪土井正兼は単身、城内に潜入し、三日後に、無事出て来た。やつれ果てていた。夜も眠られなかったという、彼の報告を聞いた鳥居彦右衛門は、彼の努力を讃めた上で内部の様子を訊いた。
「城の絵図面をどうぞ」
猪土井正兼は云った。徳川方の絵図面は諏訪原城築城の折、人夫に雇われた者や、使者として城から出た者を捕えて、その口から聞いたことなどを参考にして書き改めたもので正確ではなかった。猪土井正兼は彼が忍びこんだ城の南部について情況をくわしく絵図面に書きこんでから云った。
「この城を攻めるたった一つの道はこの地点でございます」
彼は城の南部の一点を指して云った。西から南に廻りこんだ堀が、乾堀に接続されるその部分に一ヵ所だけ板壁があった。地形の関係で、そうせざるを得ないから作ったのであろう。そこから城内に道がついていた。その門はきわめて頑丈にできていたが、この壁に懸け鉤《かぎ》を掛け、大勢の力で引き倒せば引き倒せないことはなかった。この壁を取り除いて、いっせいに城内に兵を入れれば直接三の丸に迫ることができるのである。
「問題はこの壁が、引き到すことができるかどうかということだが」
彦右衛門は首をひねって考えた。
彦右衛門は猪土井正兼を休息させてから、このことを松平康親と牧野康成に相談した。
その場所は足場が悪かった。壁の外側は沢になっており、沢は密林となっていた。多くの人を動かすには地の利を得ているとは云えなかった。
「しかしやって見なければ分からないだろう。敵の関心を北側に引き付けておいて、一挙にかかったらどうだろうか」
松平康親の提案だった。
その日からひそかに準備が進められ、三日後の早朝、まず城の北側で総攻撃をよそおった軍事行動がなされ、同時に南側で立て壁の引き落としに着手した。一つの綱に二十人ずつの曳子がつき、三十綱を壁にかけ六百人が号令と同時にいっせいに綱を引いた。立て壁は倒れず、半ばから折れた。
さらにその残りの部分を引き落とし、鳥居彦右衛門が先頭に立っておよそ五百人ばかりが城内に突っ込んだ。
まず鉄砲組が筒先を揃えて、攻めて来る城兵に向って発砲し、敵がひるんだ隙《すき》に攻城軍は破られた通路を通って、三の丸下に迫ったのである。それまではよかった。しかし三の丸下に攻城軍が充満したころになって、武田勢は、北と東側の高い土居の上から徳川勢に矢を射かけ、鉄砲を撃ちかけて来た。狭いところに密集して鳥居隊はこの攻撃を防ぐことができなかった。
「あの土居を取れ、土居に拠っている兵を撃て」
と彦右衛門は絶叫し、自ら、刀をふるいながらその高い土居によじ上ろうとした。その彦右衛門の肩を土居に拠っている武田の兵が槍で突いた。彦右衛門は重傷を負って退いた。
諏訪原城の南部の一郭は鳥居隊によって破られたが、それによって諏訪原城の運命が決まるというようなものではなかった。それよりもこの戦闘における死傷者百五十人という代償の方が高かった。とくに鳥居彦右衛門の重傷は攻城軍にとって思わぬ出血だった。
攻城を開始して既に一ヵ月は経っていた。このままだと何時落ちるか分からなかった。松平康親と牧野康成はあせった。こんなことをしていると、家康の目に触れ、攻城軍の大将交替ということも考えられないことはなかった。それよりもなによりも武田軍の援軍が来ることがもっとおそろしいことだった。
諏訪原城内の城将今福丹波守浄閑、副将諸賀満正入道一葉、小泉隼人忠季の三将は、数の上ではとうてい勝てないことを知っていた。じりじりと押されて来れば、やがては落城の憂き目を見なければならない。その前になんとか援軍が欲しかった。古府中へは次々と使者を送ったが、今しばらく待てという返事ばかりで、何時援軍を送るという具体的な知らせはなかった。死傷者は増える一方だった。
八月に入ってから古府中の勝頼から、城を脱出して小山城へつぼめ(引きこもること)という書状が来た。しかし、その時にはそうしたくともできないような状態になっていた。
徳川方との講和は、ここまでもつれ込むと不可能に思われた。もし講和が成立したとしても、主なる者、少なくとも三将は腹を切らねばならないだろう。また城を脱出するには多数の兵を犠牲にしなければならなかった。たとえ脱出しても、小山まで落ちのびることができるかどうか分からなかった。脱出せよということは死ねということだった。
城将は連名で勝頼あてに書状を送った。城を明けて小山城へつぼめとの仰せですが、既にその機を逸しました。今は、城を枕に討死するよりいたし方がありません。なにとぞこの事情をお察し下され、援軍のほどお願い申し上げます、という内容のものだった。
その書状を持った使者が牧野康成の手の者に捕えられた。書状の内容によって攻城軍は城内の様子を知り得た。
「城内には二つの井戸があり、水は豊富です。食糧は節約すればあと二月《ふたつき》は持つでしょう。城兵は古府中から援軍が必ず来るものと信じていますから、いささかも士気はおとろえてはいません」
捕えられた使者は牧野康成の訊問にそのように答えた。大将たちの焦燥感とは別に兵たちは、必勝を信じていた。どうやら設楽ケ原の敗戦の様子は一般の兵たちは知らないでいるようであった。
「まず城兵たちの戦意を無くすことがもっとも手っ取り早い攻撃法ではないでしょうか」
と牧野康成の家来の太田勝左衛門が進言した。
「なにか思い当ることがあるのか」
と康成が訊くと、勝左衛門は、さらばと前置して、語り出したことはまことに奇妙な作戦だった。
設楽ケ原の合戦で武田が大敗北を喫した一部始終を書いたものを、風の強い日に、城内へ向って撒布すれば、敵兵は武田の敗戦を知って、戦意を失うだろう。その期になって降伏の勧告《かんこく》をしたらどうかということだった。
「凧《たこ》を使う方法もございます。凧にその紙を抱かせて敵城の上空に上げ、折を見て、解き放しの緒を引き、その紙をばらまくという方法でございます。なお、用向きを木版に彫《ほ》らせて、刷り物にすれば同じものが何枚でもできます」
太田勝左衛門の着想はまさに奇想天外だった。
この案は採用された。設楽ケ原で武田軍が敗れたいきさつを書いた紙で小石を包み、その上を糸で巻いて、石投げの上手な者を使って城内へ向って投げこませた。毎日、十個、二十個と場所をかえて投げこませているうち、投げこむと、すぐ城内から投げ返されるようになった。
「城内では小石を包んだ紙を拾って読むことを禁止されたに違いない」
ということは充分な効果があったのだと、攻城軍の大将たちは話し合った。その予想は当っていた。城内の兵は、設楽ケ原の合戦で武田軍が退いたらしいという噂は聞いていたが、主なる大将がほとんど戦死するという大敗北に終ったというところまでは知らなかった。城内の兵達は戦死した大将名を書いた紙を前に置いて、果してこれがほんとうかどうかを議論し合った。はじめはこんな筈はない、これこそ敵の謀略だと信じこもうとしたが、それではなぜ、救援軍が来ないのかということになると、やはり設楽ケ原の戦いは大敗北に終ったのかもしれないと思うようになった。
(おれたちはいったいどうなるだろうか)
城兵の中に不安の空気が満ちた。これは直接に戦力にも影響し始めた。兵たちの動きがなんとなくにぶくなった。
「今です。今敵に降伏を申し入れれば、敵は必ず承知するでしょう」
太田勝左衛門は牧野康成に進言した。
「今まで何度、矢文を送っても返事はない。敵軍からはたして返事が得られるだろうか、とにかくやってみよう」
康成は他の二将と相談の上、城内の敵に降伏を要求する矢文を送った。
《城を明け渡すならば、城兵の命は保障する。城明けわたしについてのこまかい打ち合わせをしたいから、城内から使者二名を派遣されたい》
矢文が送られたのは八月二十日の午後であった。その翌日の朝、矢文が牧野康成の陣に返って来た。
《本日巳《み》の刻(午前十時)、使者二名を、大手門よりさしむけるについて、城門より三丁ほど兵を遠のけて貰いたい。もし約束を守らない場合は、今後いっさいの交渉には応じないから、さよう心得られよ》
城内からの矢文に松平康親、牧野康成は小踊りして喜んだ。両将は全軍に命じ、城壁から三町余離れることを命じた。城内の物見櫓からこの様子を確かめたうえで使者の乗った馬、二騎が大手門を出た。武田方の使者二人のうち一人は副将の小泉隼人忠季だった。
城を守る副将自らが交渉に出て来たことに気をよくした、松平康親と牧野康成は余人を交えずに対談した。
城を明け渡すかわりに城兵の命を保障するという原則については双方が了解し合ったが、城兵の命を保障する方法について議論になった。武田方は双方から人質を出し合うことを強調した。武田側が小山の城へ着いたとき人質を放ち、徳川側もその人質が安全に帰って来たのを確かめたうえで、武田方の人質を返すという条件にしたいと云った。
「いや、それは虫が良すぎる。一ヵ月前だったらその案も通るかもしれないが、今の状態ではその案を受け入れるわけには行かぬ。わが方が約束できることは、城の囲みを解いて一里(四キロ)後退するということだけだ。その間に、どこへ落ち延びようとそちらの勝手次第、また、一里後退したわが軍が、その後どのような作戦行動を取るかも勝手次第ということにしたい」
牧野康成が云った。
「しかし、一里後退すると約束しておきながら、途中から引き返すということも考えられる。いや貴殿たちの心を疑っているのではない。多数の中にはそのような不心得者もおるであろう。それに対してはどうなさるおつもりか」
小泉忠季が訊いた。
「そういうことは絶対にありません。そのような卑劣な行動までして手柄を立てたいと、われらは思ってはおりません。もしわれらがそのようなことをしたとすれば、後々の世までの恥となるばかりでなく、お館様(徳川家康)の名にもかかわることになります。誓ってそのようなことはいたしません」
小泉忠季は、松平康親と牧野康成の言葉を信じた。おそらくは裏切ることはないと思った。
「もう一つだけお願いがあります。わが方には負傷者がかなり居ります。この者たちはわれらと同じような行動はできませんから、舟で大井川を下ることをお許し願いたい」
大井川を舟で下りたいということは舟も用意しろということである。これについては、松平康親も、牧野康成もにわかに賛成はできなかった。そこまでしてやることがどこにあると云いたい顔だった。二人は相談した後で云った。
「舟で下ろうと、馬で行こうとそちらの勝手次第、御自由になさるがよい。しかし、わがほうに舟を用立てせよと云われてもできない相談です。しかし負傷者たちが、城開け放しの時刻より二刻(四時間)前に城を出ることを認めよと云われるならば、われらとしても、傷ついた者に手を出すようなことはいっさいさせないように手配しましょう。それでよいではないでしょうか」
小泉忠季はそれを承知した。一応城に帰って城主の意見を聞き、なお負傷者の数などくわしく調べて来るから、この会談の続きは明日のこの時刻にして貰いたいと頼んで帰っていった。
城内では、人質を交換しないことが不安であるという意見の者もあったが、敵が一里退いたかどうかを確かめることはそれほど困難ではないし、約束どおり敵が一里退けば、小山城まで逃げることはむずかしくないという判断に達した。なによりも、負傷者のために二刻の時間的余裕を与えられたことは好感を呼んだ。
翌日、再度の会見がなされた。負傷者の人数と馬と、付け人との数が徳川方に通報された。
諏訪原城の明け渡しは天正三年八月二十三日の卯の刻(午前六時)ころから始まった。まず負傷者が大手門を出た。攻城軍は三丁ほど退いてそれを見守っていた。それから二刻経った巳の刻(午前十時)になると、攻城軍は城を背に静かに引き始めた。
諏訪原城からは物見を派遣して、攻城軍の撤退を監視しながら、全員が城を出て出発の時を待った。一里を退くには半刻(一時間)とはかからない。もし途中で徳川軍が突然引き返すようなことがあれば、物見に出ている武田の騎馬兵が一斉射撃で急を知らせることになっていた。その様子はなかった。武田軍は諏訪原城をあとにして、いっせいに小山の城へ退去した。
念のために最初は小走りに走ったが、敵が追撃する様子がないので早足行進にかえた。隊伍を整えた堂々たる転進であった。もし、徳川軍が追撃して来ても、充分に戦える態勢を取っていた。
小山の城から出迎えの兵の騎馬姿が現われたのを見て、兵らはほっと胸を撫でおろした。しかし、次の瞬間、小山城でも近々また同じようなことが行われるのではないかと思うと、武田に従っているわが身の将来が不安でならなかった。
今年(著者註、天正三年のこと)六月二俣城の先陣し、同八月諏訪原の城終におちぬ。遠江にあり今年六月より攻められたり。又小山の城攻むべしと議せらる。(『藩翰譜』巻一「酒井左衛門尉忠次の段」)
諏訪原城については、右の他、『高天神記』『甲陽軍鑑』等にも書かれている。また最近の資料では清水勝太郎著『諏訪原城史』に詳細にその歴史が述べられている。諏訪原城址は堀の跡や土塁、土居、などの跡が比較的そこなわれずに残されている。城址を歩いてみて、その面積の広いのには驚くばかりである。現在の城跡は徳川氏の代になってから強化されたものではあるが、おおよそは勝頼時代のものである。城址は、本丸の付近に茶園があるだけで他は森林に覆われている。その中央に諏訪神社の祠《ほこら》がある。建物は何時頃のものか分からないが、おそらくは勝頼の建てたものが、そのまま徳川氏に引き継がれ、廃城になった後も、神社だけは取り残されたのであろう。ふと見上げると、棟瓦《むねがわら》に武田菱の紋がついていた。徳川の代になっても、瓦はそのままにしておいたのだろうか。あるいは武田を慕った後世の人の仕業であろうか。
岩村城信長の背信
天正三年(一五七五年)十月十日、織田信長は五百人ほどの兵を率いて上洛した。強敵、武田軍を破ったのを機会に武威を天下に示すためだった。織田信長上洛と聞いて、摂家《せつけ》の面々や京都近郊の諸豪族などが、勢田《せた》、山科《やましな》、粟田口《あわたぐち》あたりまで迎えに出た。
信長は大いに気をよくして、宿舎としての二条妙光寺に落ち着いた。
信長は見栄坊《みえぼう》のところがあった。上洛するときは妙に飾るふうがある。五百人を率いての上洛も、外部から見ればきわめて大胆な行為であった。まだまだ天下は信長のものではなかった。周辺の諸豪は表面上は信長に心服しているような顔をしているが内心は分からなかった。もし、信長に対して逆心を抱く者があれば、この機を逃がさず、妙光寺を囲むことはそれほどむずかしいことではなかった。千や二千の兵を集めることは易々たることだ。現に京都と目と鼻の先の大坂の石山本願寺には本願寺顕如の指揮する兵二千がこもっていた。信長はそういう情勢を知りながら、わざと五百人ばかりの兵を連れて京都にやって来たのである。さすが信長だと云われたいためであった。この行動はまことに豪胆のようであったが、その裏では、予想外の変事を警戒して無数の諜者を八方に走らせて、京都周辺の動きを探らせていた。いざという場合にどうすべきか、手筈はちゃんと整えていた。京都には五百人しか連れては来なかったが、近江には何時でも動かせる二千の兵を用意していたのも信長らしいやり方だった。
信長は京都に着くと、連日のように茶の湯の会を催し、公卿や名のある町人、近くの武士などを招待した。これも信長の見栄の一つであった。信長は自分自身が、流血をことのほか好む人間であることを知っていた。外見的にはそれが冷酷な人と見られる虞《おそ》れがあることもよく知っていた。そうではない。天下を統一して平和な世の中を作るためには、流血は或る程度止むを得ない。信長は好んで血を流しているのではない。ほんとうの信長は物のあわれも、わび、さびの日本人の心もよくわきまえているのだということを世人に知らせるための虚飾として茶の湯の会が催されたのである。
信長、京都にありと聞いて、諸国の大名から進物が届けられた。十月十九日には、奥州の伊達家から、二頭の名馬と、二羽の名鷹が送られて来た。
信長はこの日、京都清水寺にあってこの使者を迎えた。伊達家の使者たちは、酒食のもてなしを受けた上、目の前に信長よりの返礼の品として、虎皮五枚、豹皮五枚、緞子《どんす》の布十巻、志々羅《しじら》二十反が積み上げられたのを見て目を丸くした。
地方の豪族よりの贈り物に対して、それより数倍の価値ある物を返すというのも信長の見栄の一つであった。虎の皮、豹の皮、緞子、志々羅等はすべて輸入品であった。めったなことでは手に入らない貴重品を惜気も無く与えることによって、地方豪族の歓心を買い、自らの威光を示そうとしたのであった。
十月二十八日には京都や堺の商人たちを召し出して妙光寺で茶の湯の会を開いた。招待された者は十七名だった。この席で茶道を披露したのは千宗易《せんのそうえき》(後の千利休)であった。
信長の上洛は四囲に威光を示すことばかりではなく、天皇に拝謁するのが最大の目的であった。天下を取るには天皇に近づかねばならないことを自覚していた信長は、天皇側近の公卿に進物をして、この機会を待っていた。
十一月四日、信長は昇殿を許され、大納言の位に任ぜられた。
十一月七日には、その御礼として、金、銀、反物類等を山と積み上げた車を牽いて、参内した。
三条大納言は信長の進物を叡覧に供した上で、信長に御酒を給わるようにと奏上した。珍しいことであったが、進物の山を前にして天皇の心ははれやかであった。
天皇が臣下に御酒を給わることは例のないことではないが、多くの場合は、侍従を通じての間接的なものであった。三条大納言はそのように心得ていた。
だが、信長は御簾《みす》の向うの天皇の耳にはっきり聞こえるように、
「なにとぞ主上おん自らの手によって盃を給わらんことをお願い申し上げます」
と云った。三条大納言は、あわてた。天皇に直奏できるものはこの場合自分ひとりである。侍従の口を通さず、天皇と口をきくことなどできるものではない。まして、天皇自らの手で盃を給わりたいなどとはもっての外であった。それこそ天皇の権威を無視したものである。三条大納言はそう云いたかった。しかしそれが云えなかった。足利氏が亡びた今、第一の権力者は織田信長である。なんにもできなかった足利氏にかわった織田信長は積極的に天皇に奉仕する姿勢を示した。皇居の改築、新築、庭園の手入れ、そのほか朝廷の諸費用にまでこと細かい心遣いをしていた。それだけではなく、上洛するたびに多額の進物を用意して来る信長には頭が上がらなくなっていた。
しかし三条大納言は自分から天皇に対して、そのことは云えなかった。彼は困ったような目を天皇に向け、あわれみを乞うような目を信長に投げた。
「過ぐる日、信長は大納言の位をいただきました。三条大納言も織田大納言も同じ大納言でございます。そう心得ているのは間違いでございましょうか」
信長は前よりも大きな声で云った。三条大納言が天皇と直接口がきけて、同じ大納言の自分がなぜ直接天皇と口もきけないし、盃も頂戴できないのかという理屈だった。
「盃をこれに」
天皇の声があった。天皇にしてみれば、そのような形式的のことはどっちでもよかった。信長がよければそれでよいではないかと思ったのである。
御簾が上げられた。天皇は三条大納言が三方《さんぼう》に乗せて差し出した盃を手に取ると、
「織田大納言につかわす」
とひとこと仰せられた。信長は膝行してその盃を両手で捧げるように受け取った。席にもどると、侍従の一人がそれに酒を注いだ。
「ありがたきしあわせに存じまする」
信長はその盃の酒を一気に飲み干し、盃を懐紙に収めて、懐中におさめて平伏した。
信長が天皇に直接盃を乞うたということは問題になった。これには二様の解釈があったが、多くの者は、それを信長の驕慢《きようまん》のなせるわざとはせず、信長の力がそこまで高まったものであると認めていた。
これも信長の一つの見栄であり、自分の名を宣伝するための方便でもあった。
(天皇はおん手ずから信長に盃を給わったそうだ)
という噂は、信長の名を高め、同時に信長の権威を世間的に認めさせる最高の方法であったのだ。
信長は得意の絶頂にいた。京都妙光寺は居心地がよかった。ここに居をかまえていると天下の情勢をつかむのに便利であった。
茶の湯をたしなみ、能の会を催し、時には遊び女を招いての酒宴が催された。信長は声のいい女が好きだと聞いて、わざわざそのような女を連れて来る者もいた。
「どうぞお召し使いくださるように」
という云い方は、側室にしようが、一夜限りの女房にしようが、御随意ですということだった。信長はどちらかというと女に執着する方だった。正室側室併せて六人の女の腹に、信忠、信雄《のぶかつ》、信孝、秀勝、勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次の十一人の男と八人の女《むすめ》(蒲生氏郷室、松平信康室、滝川一益室、前田利長室、筒井定次室、水野総十郎室、丹羽長重室、三の丸殿)を儲けていた。その信長が京都滞在中に一人の遊女を知った。
姉小路中納言が信長の歓心を買うためにつれて来たお香という女だった。十一月七日に参内《さんだい》し、意気揚々として帰って来たその夜にお香が現われたのである。声が綺麗で、歌が上手だったが、それ以上に信長を惹きつけたものは彼女の匂うような肌だった。お香が現われてからというものは、茶の湯の会も、能の会もせず、昼はお香の歌を聞き、夜はお香と衾《ふすま》を同じくしていた。
「余は女に惚れたことはない、しかし今度ばかりは迷ったようだ」
こんなことをめったに口にする信長ではなかった。丹羽長秀は、この言葉を聞いて驚きかつあわてた。信長が女狂いを始めたらどうしようかと思ったのである。しかし、信長が側近に洩らしたのはその一語だけだった。
信長はお香を愛した。お香といると人間の欲望のすべてが満たされたように楽しかった。利口な女で話し相手にもよかった。和歌のたしなみがあった。信長とのはかない恋を嘆くような即興の歌を作って、耳元で囁くように歌うこともあった。
「心配せずともよい、お前は離しはしない。必ず岐阜に連れて帰る」
信長は彼女に云ってやった。
「でも、おそらくそれは不可能でしょう」
とお香は云った。なに、不可能だと、この信長に不可能などという言葉があってたまるものか、必ず連れて帰ってやるというと、彼女は嬉しいと云って、よよと泣いた。嬉しくて泣くのではなく悲しみに満ちた泣きようだった。それが信長の気がかりになって、何時かこの女は自分のところから逃げ出すのではないか、ふとそんなことを思った。遊び女の身分で信長の側室に迎えられるならばこの上ないことだった。逃げ出す理由などあろう筈はないのに、信長には、彼女との愛のいとなみの終ったあたりでそのようなことを頭に浮かべることが一度や二度ではなかった。
十一月十三日の夜は寒かった。外は寒いがお香と共に寝ている信長にはいささかも寒さは感じなかった。
「お館様、怖い……」
と突然お香が云って、信長の胸に抱きすがった。怖い、なにが怖いのだというと、
「馬が……馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえます。大軍です……」
お香はそう云って、なおも激しく抱きすがった。ほんとうに馬の蹄の音を聞いて、おびえているようだった。
「馬の蹄の音など聞こえはせぬ、なにかの気の迷いだろう」
と信長が云うと、
「いえ確かに確かに馬の蹄の音が聞こえて参りました。遠い遠いところから」
お香は、耳をすませて、その音を聞こうとするかのようだった。
廻廊を走る人の足音がした。隣室から家来の声がした。よほどのことでないと、夜呼び起こされるようなことはなかった。信長はお香にしばらく待てと云って、隣室へ立った。おそらく、なにか突発事件でも起きたのであろう、女には聞かせたくないことだった。
「武田四郎(勝頼)どの甲斐信濃の兵をかり集め、岩村城救援のために出発なされました」
意外な報告だった。まさか勝頼がと思うような情報だった。五月二十一日に設楽ケ原で大敗北を受けた武田軍が陣を立て直すには少なくとも一ヵ年はかかるだろうと思っていた。それが半年経ったらもう息を吹き返したと聞いて信長は背筋につめたいものを感じた。信長は使者にこまかいことを訊いた。
「敵は、百姓どもまでかり集めて人数を揃えているとのことでございます」
勝頼めが、と信長は口の中で云った。百姓を兵に仕立てて、槍を持たせたところで、なんの役に立つだろうか。そうは思ったが、やはり勝頼が息を吹き返したということはたいへんなことだった。京都あたりでのんびりしてはおられなかった。
信長はその夜のうちに主なる家臣を集め明十四日には京都を出発して岐阜へ帰城することを告げた。
十四日は朝から多忙だった。京都を去るとなると、一応の挨拶廻りをしなければならなかった。それやこれやで、京都を出発したのは戌の刻(午後八時)になった。新しい情報に対して機敏に動く信長の何時《い つ》ものやり方だった。
京都を出てすぐ信長はお香のことを思い出した。いそがしさに取りまぎれ、彼女の扱いについて家来に特に命じてはいなかった。彼はそのことを供の者に訊いた。誰もお香のことは知らなかった。何時何処へ姿を隠したかも分からなかった。
「すぐ探して岐阜の城へ連れて参れ」
信長は青筋を立てて怒った。丹羽長秀が信長をなだめ、心利いたる者十名ばかりを後に残してお香の行方を探させた。だがお香の姿はついに発見できなかった。岐阜で待っている信長の耳を喜ばすような情報は一つとして帰っては来なかった。
「お香は馬の蹄の音が聞こえると云った。その蹄の音こそ、四郎めの馬の蹄だった。彼女はそのことを予知したのだ」
そう思うとお香が懐しい。お香と別れる直接原因となった勝頼出陣の報が憎らしく、勝頼を出陣させた、岩村城の秋山信友が殺しても飽きたらない男に思われた。
信長は岩村城の戦況を分析してみた。六月以来、多数の兵力を出動して攻めているのに、岩村城は依然として頑張っていた。損害の数は、味方の方がはるかに多かった。
「能のない奴等は何人いても、当てにならないものだ」
と信長は岩村城攻めの総大将の織田信忠、他、河尻鎮吉、森勝蔵、毛利河内守、浅野左近等大将たちを罵った。信長には勝頼が怖かった。設楽ケ原の大勝利は謀略に相手がまんまと引っ懸ったからだった。まともに戦ったら、たとえ三対一という兵力の差があっても連合軍が負けたかもしれない。世間では鉄砲と馬との戦いで鉄砲が勝ったのだと単純に信じこんでいるが。そうではなかったことを信長自身一番よく知っていた。信長は勝った。勝っていながら、武田軍の強さを信長はまざまざと見せつけられたのである。三重の柵に鉄砲を揃えて待っている連合軍に対して、八時間に渡っての武田軍の果敢な突撃は壮絶なものであった。武田軍でなければできないことだと感嘆したほどである。
その武田軍が復讐に眥《まなじり》を決して、襲いかかって来たら防ぐ術がないようにさえ考えられた。
「なんとかして、四郎の救援隊が来ないうちに岩村城を取らねばならない」
彼はひとりごとを云った。
(強硬手段にうったえても駄目な場合は謀略がある)
とも考えられる。あらゆる手を考慮して岩村城を取らねば、ここでもし、武田が息を吹き返したら取り返しのつかないことになる。信長はあせっていた。
信長は取り敢ず、勝頼の来襲に備えるため軍備をととのえた。勝頼が岩村城へ到着する前には、それを迎え撃つだけの大軍を木ノ実峠あたりに配備するつもりだった。
信濃、甲斐に入りこませてある間者にも緊急指令を発して、勝頼の動きを逐一報告させると同時に、
〈無理矢理に戦争に狩り出された百姓共に厭戦気分を起こさせるようなあらゆる方策を取れ〉
という指令を発した。
武田軍が強いのは、強大な農民兵を持っているからだった。しかしその農民兵と云っても、そこには明確な徴用の掟があった。原則として名主《みようしゆ》の子弟および、自作農の二、三男で、武具を持ち、遠征中の食糧が自弁できる者が寄子《よりこ》として出征した。これらの兵を統率する同心は、その地方の豪族の子弟で、馬や武具などを持っている者であった。更にその上部には寄親となるべき大将が控えていた。寄子、同心、寄親の組織であって、彼等は農民出身ではあったが、食うに困るような者ではなかった。戦争のない時は農業に従事することもあったが武技を練る時間の方が多かった。村の中では寄子衆、同心衆と云われて尊敬され、一般の百姓とは異なった存在であった。
信長の間者が、勝頼は百姓までかり集めていると報告したのは、寄子、同心ではなく、小作農などの一般農民を指して云ったのである。零細な自作農や、小作農は、農事がいそがしくて、戦《いくさ》の真似ごとをするひまなどなかった。農馬はあったが、戦には役立たないし、武具などは小刀一つ持ってはいなかった。およそ戦争とはかけ離れた農民だった。勝頼はこういう零細自作農民層や小作農民層に目を付け、設楽ケ原の敗戦以来、気勢が上がらない武田陣容の底辺を拡げようとしたのであった。十人のうちにそういう者を二人ほど入れて、戦争を見習わせ、更にその数を増そうという考えだった。この十人のうちの二人が、織田側には「百姓までかり集め」と受け取られたのである。
勝頼は援軍三千を率いて古府中を発った。設楽ケ原の痛手がまだ消えないうちの出兵だから、将兵ともに、古府中を出たときから憂鬱そうな顔をしていた。諏訪まで来て、いよいよ明日杖突峠を越えて高遠へ出ようとしていた夜、水を汲みに出た兵が三人一度に殺された。その三人ははじめて戦いに加わった、いわゆる百姓兵だった。嫌だ嫌だというのを名主に説き伏せられて出て来た男たちだった。このことは翌日のうちに全軍に知れ渡った。
「織田軍の乱破《らつぱ》の仕業だ。そう云えば怪しげな奴をきのう見掛けた」
「伊奈に入ると、織田軍の乱破や透波《すつぱ》がうようよしているそうだ」
「織田軍の乱破は百姓兵だけを狙って殺すそうだ」
などという噂が流布された。いくら噂を押さえようとしても、押さえることができなかった。百姓兵は恐怖に襲われた。そして、武田軍が杖突峠にさし掛かった際、百姓兵二人が脱走を試みて捕えられた。
「いかが処置いたしましょうか」
という家来の問いに対して、勝頼は、
「軍規に照らして斬れ」
勝頼は、百姓兵を採用するように進言した長坂長閑斎の顔を見ながら云った。長閑斎はついに顔を上げなかった。
高遠に着いた夜、跡部勝資が勝頼に進言した。
「残念ながら岩村城は断念なされるより致し方ございますまい」
このまま進軍しても、とても信長の軍とまともな戦はできないだろうから引き返せと云ったのである。
勝頼は軍議を開いた。諸将の意見もおおよそ勝資と同様であった。武田軍の敗戦の痛手は年を改めないと癒《い》やすことはできぬだろうというのが多くの意見だった。
勝頼は岩村城主、秋山信友に対して城を捨てて、飯田城につぼむようにという書状をしたためた。この書状は、使者が攻城軍に捕えられたのでついに秋山信友の手には届かなかった。
信長は勝頼が高遠まで出て来ながら途中で引き返したという報を聞くと、
「よし、岩村城を落とすのは今だ」
と声を大にして云った。
「水晶山に兵を上げて、逆落としに攻め落とすように菅九郎(信忠)に申しつけよ」
という命令が攻城軍に対して発せられた。
信長はこのような命令を発しておきながら、また別な手を考えていた。なんとしてもこの際、岩村城を奪い返さないと将来に禍根を残すと考えたのである。
信長は、岩村城主秋山信友の正室ゆうの方(故遠山景任《かげとう》の未亡人で元亀三年十一月、秋山信友の正室になった女《ひと》。織田信長の叔母に当る)に書状をしたためた。
《戦国時代とは云いながら、叔母と甥とが敵味方に分かれて戦うことはなんと悲しいことでしょう。こうなるまでには、叔母上にも随分つらいことがあったでしょうし、叔母上には叔母上の考えがあってのことだと推察いたします。しかし、勝頼が高遠まで出馬しながら臆病風を吹かせて逃げ帰ってしまった今となっては、もはや叔母上の生きる道は一つしかありません。私は同じ織田の血が流れている叔母上の身の上に同情こそすれ叔母上をどうこうしようなどという考えはいささかも持っていません。秋山信友にしても、これまで岩村城を支えて来た立派な大将だと思っています。もし信友が織田方に従うという誓書をよこすなら、彼を許して、一方の大将とするつもりでおります。もう武田の世は終りました。よくよくお考えになった上でお返事をいただきたいと思います》
信長はこの書状を使者を立てて、岩村城へ送った。
岩村城の内部では、この書状を中にして、一昼夜にわたって議論が交わされた。
「信長得意の背信行為ではなかろうか、伊勢長島の本願寺派門徒衆三万人は、信長の背信行為によって皆殺しに会っている。殺されるくらいなら、城を出て討死するか、血路を開いて落ち延びたほうがいい」
と云う者と、
「三千の兵を率いて古府中を出たという勝頼様の援軍が現われないのは、やはり信長の書状のように途中から引き返したのであろう。信長の背信行為は今に始まったことではないが、まさか、血のつながる、叔母御前を殺すようなことはすまい。どっちみち、われわれは食糧が尽きてこれ以上は戦えないのだから、だまされると思って、一応は降伏を申し出て相手の出方をみたらどうだろうか」
という者があった。
こうして意見を戦わせているうちに、結局は、城主秋山信友と正室ゆう女の意見に任せるより他はないだろうということになっていった。
ゆうは前城主の妻であり、新城主の妻でもある。しかも信長の叔母であった。ゆうの発言を期待する目が彼女にそそがれた。
「信長殿の書状は心をこめて書かれています。奉公の者が書いたものだとすれば疑いもできましょうが、信長殿自身が書いたとすれば、この内容を信ずる以外になにがございましょう。もし、信長殿に異心があってこれを書いたとすれば、信長殿は人間ではありません。悪魔です。私は彼も人の子、人間の心を持った人だと信じています」
ゆうの一言で城将たちは降伏を決意した。追いつめられた状態での無条件降伏であった。
半年にわたる合戦は終った。
攻城軍の大将、織田信忠と秋山信友とが城下で対面した。
「この城にそのままそこもとたちが居て貰うことはできないだろう。どこか近くの城へ移ることになろうが、その命令のあるまで、しばらくここに留まっていただきたい。なお、主なる者は岐阜へ行って、大納言様(信長)に会い、お礼を言上したほうが後のためによいだろう」
と織田信忠が云った。全くの好意から出た言葉だった。城内の者には食糧が送られたが、別命があるまで外出は禁止された。城内で協議した結果、城主の秋山信友夫妻、家老の座光寺三郎左衛門貞房、大島太郎左衛門信久が同行することになった。この時点では信長に対する疑心は全くなくなっていた。信長は、四人が岐阜へ来ると聞いて、わざわざ迎えに丹羽長秀を派遣した。長秀はゆうのために、着物と付き添いの女まで連れて来た。
ゆうは輿に乗り、秋山等は馬に乗って岐阜城へ向った。
四人は岐阜城に着くと、風呂に入れられ、厚いもてなしを受けた。一日置いて十一月二十一日、信長は秋山信友等に会う予定だった。会う前に彼は秋山信友を飯狭間城に移そうと考えていた。織田軍をこれだけ悩ました大将だから味方につけたら必ずや手柄を立てるだろうと考えていた。会見の間には秋山信友とゆうとが並んで坐っていた。信友は頭を下げていたが、ゆうは顔を上げて入って来る信長を見詰めていた。ゆうは信長の叔母だったが、信長より年下だった。もともと美しい女だったし、その日は特に化粧を濃くして、信長から与えられた衣裳を身につけていたから、彼女は十ほども若返って見えた。
信長はゆうを見てはっとした。そこに京都で別れたままのお香が坐っていた。他人の空似だと思って見ても、あまりにもよく似ていた。信長は十年ほど前、ゆうを遠山景任の正室として岩村城へ送りこむとき一度会っただけで、その折のゆうの顔はほとんど忘れていた。だがお香の顔はよく覚えていた。手を尽して探しても行方が分からないお香が、ゆうに名を変えてそこに坐っているようだった。
(お香、よく帰って来てくれた、余は待っていたぞ)
信長は心の中で云った。その心が顔に情愛の色となって現われた。その色をゆうは自分に懸けてくれた甥信長のあわれみだと見てとった。
「信長殿に会ったら、私の心の中をくわしく打ち開けたいと思っておりました。まずはこの度のお心尽しのほど、なんとお礼を申し上げてよいか、嬉しさにゆうはただ泣けるばかりでございます」
ゆうはそう云って涙を流した。彼女としては、せいいっぱいの挨拶だった。
ゆうのその言葉で、信長の前にいたお香の姿は消えた。信長の心の隅々にまで、冷たい風が吹き通って行った。
(お香は逃げたのだ。余を嫌い、余をさけて、どこかへ隠れこんだのだ。あの女は余を裏切ったのだ)
信長の心の中にお香を失った悲しみが湧き上がり、たちまち憎悪となってふくれ上がって行った。信長の顔は青ざめ、目が異常に輝きはじめると、頬のあたりの筋肉がぴくぴくと動いた。
「おのれ裏切り者め、ただちに捕えて斬れ」
突然、信長の口から叫び声に似た命令が発せられた。家来たちも、しばらくはどうしていいのか迷っていた。信長の心変わりがはっきり分かったのは、
「その女は直ちに斬れ、男等は長良川の河原で磔《はりつけ》にせよ」
という具体的命令が発せられてからだった。ゆうが、なんということをと叫ぶのを最後まで聞かずに信長はそこを去っていた。信長の心の中では、お香め、余を裏切ったなと叫び続けていた。
信長は四人に死刑を宣告すると同時に、岩村城に使者を出して、城兵をみな殺しにするように命じた。
「城主秋山信友殿以下城兵のすべては飯狭間城へ転封させることになった。直ちに城を出るように」
と城内に残っている主なる者へ織田信忠から通達があった。そろそろ日が暮れようとしていた。城主等が帰らぬうちに城を出ろというのに不審を抱いた者は一人や二人ではなかった。
「城主が帰らぬうちに城を出ろというのもおかしい、日暮れに城を出ろというのもおかしいではないか。飯狭間城へ行けと云っても夜では動きが取れぬ、明朝にしてくれと願い出て貰えないか」
と云う者があった。
遠山市之丞が城兵を代表してそのことを織田信忠まで申し出ると、
「岐阜の御指図だからわれ等にはどうにもならぬ。しかし、城外で寝よと云っても無理だから、今宵は市之丞丸で寝て、明朝早く出発するように」
攻城軍の大将信忠からそのような返事があった。市之丞丸は、二の丸、外曲輪の一角にあった。先代遠山市之丞が築いたから通称市之丞丸と呼ばれていた。
城兵は信忠のやり方に不審を抱きながらも、そうせざるを得ない状態になっていた。岩村城内には、織田兵が充満していたし、水晶山には予備軍がいた。
翌朝、夜が明けると同時に、市之丞丸は信忠軍に包囲された。鉄砲の合図で、水晶山の軍勢がいっせいに攻め下って来た。
市之丞丸の兵たちは死力を尽して戦ったが、兵力の差において、どうすることもできなかった。市之丞丸に火がかけられた。城兵は火と槍ぶすまに挟撃されて、次々と死んでいった。ようやく血路を開いて、木ノ実峠まで逃げて来た者も、そこにいた伏兵によって、ことごとく殺された。
信長はこの攻城戦の結末を血で染めた。一人残らず殺せという命令は忠実に実行された。『岩村町史』によるとこの戦いで戦死した主なる者は、浅利与三郎義益、遠山五郎友長、沢中左忠太光利、飯妻新五郎、小杉勘兵衛、座光寺勘左衛門等伊奈の番近衆及び遠山市之丞等、遠山七頭衆串原弥兵衛、馬木十内、馬返求馬、深淵伝左衛門、久保原内匠、大船五六太等であった。おそらくは千人以上が信長の血の饗宴になったのであろう。
十一月廿一日(著者註、天正三年)、秋山、大島、座光寺、御赦免の御礼申し上げ候を、召し捕り、濃州岐阜へ召し寄せられ、右三人、長良の河原に張付に懸けおかれ、其の他、諸卒、遠山市之丞丸へ追攻めさせられ候。時刻を移さず切つて出で、遠山二郎三郎、遠山市之丞、遠山三郎四郎、遠山徳林、遠山三右衛門、遠山田脇、遠山藤蔵切つて出で、散々に切り崩し、余多《あまた》に手を負はせ、終に生害候。残党悉く焼き殺しになされ候。(『信長公記』巻八「菅九郎殿、岩村城御存分に仰せ付けらるるの事」)
腹が減っては戦ができぬ
徳川家康はあせっていた。
設楽ケ原の合戦の大勝利によって、武田軍に大打撃を与えた彼は、二、三ヵ月もすれば、遠江と駿河は徳川の支配下に置くことができると思っていた。駿州はむずかしいとしても、遠州は確実に自分のものになるだろうと思っていた。
だが、完全に徳川のものになったのは三河北部だけだった。山家三方衆はほとんど徳川に従った。しかし、ここらあたりはもともと徳川の領地であったのを武田に取られたものであって、再び旧主に返ったというだけのことだった。
遠江には二俣城、高天神城の二城があった。二俣城は遠州の穀倉地帯を見おろす要《かなめ》にあり、高天神城はまた遠州の咽喉部に当っていた。この二城が徳川の手に返らないかぎり、遠州を取り返したことにはならなかった。
武田軍敗退と同時に、徳川軍は遠江全域に進出して、それまで武田に心を寄せていた、諸豪族や名主を手なずけた。或いは誓書を書かせ、或いは人質を取ったりした。だが二俣、高天神城に武田軍が、こもっているかぎりは、いくら地方の民衆を手なずけても意味のないことであった。これらの人々は強い者につくことを原則としていた。武田軍が再び大軍を率いてやってくれば、お味方いたしますと誓書も書くし、人質も出すであろう。土地を離れることができない農民が生きて行くにはそれしか方便はなかった。
家康は自ら大軍を率いて二俣城を囲んだ。だが、この城が堅城であることは家康自身がよく知っていた。
依田信守は剛直な武士だったが、信蕃《のぶしげ》は父以上に豪勇無双な武士であり、その家来にも、豪傑が揃っていた。
信蕃は古府中の勝頼に書状を送った。
《城兵はすこぶる元気でございます。兵糧のことが、いささか心細くなって参りましたが、なんとか食いつないで行く所存でございます。二俣城のことは御心配なく、どうぞ兵備を充分にととのえてから、来援される日をお待ち申し上げております》
徳川の大軍の包囲を受けて、兵糧は残り少なくなっているというのに、信蕃は決して弱音は吐かなかった。
武田軍は設楽ケ原の合戦で大敗し、多くの将兵を失った。今、武田軍は再建に躍起となっている状態であることを信蕃はよく知っていた。だからすぐ援軍をさし向けよなどとは云わなかった。
しかし、十月に入るといよいよ兵糧は乏しくなった。
信蕃は、食糧徴発隊を編成して、ひそかに城から送り出してやった。
二俣城は包囲されていると云っても、周囲に人垣を築いているというわけではなかった。
また、城の包囲も四ヵ月も続いていると、包囲軍の士気がたるみ、なんとなく、型にはまってしまう。城兵はこの機を利用して城を抜け出したのである。
食糧徴発隊に選ばれた隊員たちは暗夜を利用して、二人、三人と城を抜け出て、城からかなり離れたところで、二十人、三十人の小部隊にまとまり、浜松の城下近くまで行って、食糧の徴発をやった。
浜松の城下より一里ほど離れたところの、名主の家が二十人あまりの賊に襲われたのは、九月に入って直《す》ぐであった。
賊はまず家人を縛り上げ、土蔵を開けて、米俵を運び出し、荷車に積んで何処かに運び去った。三人ほどの賊は明け方まで、家に残って家人を見張っていた。三人の姿が見えなくなって、ようやく夜が明けた。
村中が大騒ぎとなったころには、賊の行方は全く分からなくなっていた。荷車が村のはずれで発見された。米は荷車から馬に積み替えられたようであった。
奪った食糧は馬で二俣城近くの隠し場所に運ばれ、そこからは別隊が、背に負って、二俣城へ運び入れた。米の隠し場所にかなりまとまった米俵が集まると、城兵は大芝居を打った。城兵は深夜、大手門を開けて打って出て、包囲軍に夜襲を掛けた。
「それっ夜襲だ」
と包囲軍が、そのほうに気を取られているうちに食糧はどんどん城内に運びこまれた。
徳川軍は、浜松城下近くの豪農や名主が、しばしば賊に襲われて糧穀を奪われるという情報に神経をとがらせていた。
家康は大久保忠世に賊の逮捕を命じた。大久保忠世はまず情報を集めた。
一、金品を目当てとせず、食物に目をつけること
一、人を殺したり、女を犯したりしないこと
一、賊が交わす言葉が、どうやら武士らしいこと
一、甲州弁を話していた
などの事実から、賊は武田軍と関係ある乱破《らつぱ》の仕業《しわざ》と見た。
だが、その乱破が奪った米俵の行方は杳《よう》として分からなかった。
賊は奪い取った米俵を村の外まで車で持ち出して、そこから、馬の背に積んで運び去っているようだった。そこまでは分かったが、それから先が皆目見当つかなかった。大久保忠世は、賊が村から米俵を運び去る方向――つまり、村のどちら側へ米を運び出したかについて調べて見た。浜松周辺で被害に合った十二の村のうち、七つが北側であり、あとの七つが東側に運び出されていた。
「まさか、二俣城へ運ばれたのではあるまいな」
忠世はひとりごとを洩らした。二俣城へ運んで行ったとしてもそれをどうして運びこむことができるだろう。そこで彼は途方に暮れた。浜松の付近の警戒が厳重となると、賊は、方向を変えて、見付(現在の磐田市)付近に現われた。ここで彼等は重大なミスをした。馬に積んだ米俵から米がこぼれ落ちているのに気がつかなかったのである。
夜明けになって、賊に襲われた村から近くにいる徳川方の役人に情報があった。それと同時に、米粒の追跡が始まった。
米粒は大きな森の入口で消えていた。その中に隠れていた賊が徳川の兵たちに取り囲まれた。二十人のうち、十五人は逃れ、二人は死に、三人捕えられた。
賊は二俣城を出て来た食糧徴発隊だった。食糧徴発を開始してから一ヵ月の間に、およそ百俵の米が奪われていた。二俣城の警戒は更に厳重になった。そのために、多くの人が動員された。
食糧徴発隊の行動が封じられてからの二俣城内の将兵は、寒さを前にして困窮した。将兵は粥《かゆ》をすすりながら、援軍の来るのを待っていた。
二俣城兵が城外に出て、強盗までして食糧を徴発しているという報告は、古府中の勝頼のところへ届いた。
なんとかしてやりたかったが、どうにも出来ない勝頼は諸将を集めて、軍議を開いた。
「二俣城を救わんがための出撃は、即ち、徳川家康との雌雄を決せんがための出動である。今の武田が総力を上げてかかれば、徳川家康に負けることはない。しかし、再び、織田軍が出て来れば、設楽ケ原の二の舞いになる恐れがある。家康はこのへんのことはよく知っていて、わが軍が出動した場合、織田軍の援軍がなければ、二俣城の包囲を解いて、浜松城に閉じこもるだろう。わが軍との決戦は極力さけるに違いない。しかし、わが軍が退けば、すぐまた二俣城を包囲することは必然のことと思う」
跡部勝資が云った。多くの部将はこれと同意見であった。
家康は目と鼻の先の浜松城に出たり入ったりすればいいのだが、甲斐から二俣城までの道程はたいへんである。兵を動かすためには莫大な出費となる。その費用はすべて、各部将が負担しなければならなかった。勝ち戦になって、その結果として、土地や金銭の恩賞が貰えるならば出兵も辞さないが、ただ、行ったり来たりの長旅は、ごめんこうむりたいというのが多くの部将の腹だった。
設楽ケ原の合戦の痛手からはまだまだ立ち直ってはいなかった。
こういう席で、活発な意見を吐く長坂長閑斎も、発言を控えていた。一人や二人が云っても、どうとかなるというものではなかった。沈滞した空気は救いようがないほど暗かった。
(岩村城さえ救うことができなかった)
という悔いのようなものが部将の心の中にあった。地の利から云えば、岩村城のほうが、救援の手が伸ばし易かった。それなのに、結局は見殺しにしてしまったのである。
岩村城でさえ救えなかったのに、どうして二俣城が救えるかというのが、部将たちの心の中にある答えであった。
既に十二月に入っていた。
「だからと云って、二俣城を見殺しにすることはできない相談だと思います。そんなことをすれば武田全軍の士気が限り無く沈滞し、お館様のために命を投げ出して働こうという者が無くなるでしょう」
真田昌幸が云った。
「なにかよい案があるのか」
勝資が訊《き》いた。
「お館様より、二俣城主依田信蕃に書を送り、城を敵に明け渡し、甲斐につぼむよう命令されたら如何《いかが》かと存じます。城明け渡しの交渉はすべて信蕃にまかせたらよいと思います」
昌幸は勝頼に向って更につけ加えた。
「去る元亀三年(一五七二年)十一月末に二俣城が開城されたときはそれぞれ人質を取り交わして、城明け渡しが行われました。今回も同じようにすれば人命をそこなうことはないでしょう。今、われわれが欲しいのは城では無くて人です。この際一人の人間の命も大事にしなければならないと思います。二俣城など、取り返そうと思えば、わけないことです。今は人の命を救い、甲斐の国を自らの手でかためることこそ肝要と存じます」
昌幸の進言によって勝頼の腹は決まった。勝頼は脇書役に命じて、依田信蕃あての書状を作らせ、諸国御使者衆に命じて二俣城へ届けさせることにした。
諸国御使者衆、奥山庄兵衛の組の、岩佐権兵衛と岩佐八郎の兄弟がそれぞれこの書状を一通ずつ持って二俣城に飛んだ。
二人はまず、二俣城の北四里(十六キロ)にある、犬居で、組頭の奥山庄兵衛にあった。
奥山庄兵衛は犬居のはずれにある廃寺同様な寺に住んでいた。誰が見ても、諸国行脚《あんぎや》の僧がこの寺を仮の宿にしているように見えた。
「二俣城に忍びこむのは、このごろ、なかなか面倒になった。しかし、案ずることはない。そのための策がある」
奥山庄兵衛は岩佐兄弟をつれ、夜道をかけて二俣城に急いだ。夜明けには二俣城の見えるところまで来ていた。
二俣城は西を天竜川が流れ、東から南にかけて二俣川が流れていた。断崖絶壁に立つ城であった。この城の弱いところは北部であったが、ここには堀が幾重にもできていて、容易に攻めこむことはできなかった。
米俵を担ぎこんだのは、北部からで、東部にある大手門で騒ぎを起こさせ、そちらへ警戒の将兵が移動した隙に、城内から乾堀に「掛け梯子《ばしご》」を渡して、米俵が運びこまれたのである。
徳川方はこの失敗にこりて、北部方面は以前よりも人手を増し、警戒用の柵や、鳴子などを設けて、城兵が忍び出ることを防いでいた。
奥山庄兵衛は二俣城近くに伏せてある手の者に命じて、まず、城内に向って「使者今宵参上」の信号を送った。信号は城の楼からよく見える木の頂きに白旗を二本掲げることによって目的を達した。旗はすぐおろされた。徳川方に見とがめられないためであった。
奥山庄兵衛は、岩佐兄弟を遠く二俣城が望見できる山の上まで連れて行って、絵図を拡げて地勢をくわしく説明した。
「よいか、お前たちは既に二俣城のことをよく知っている。よく知っていると思うと、つい油断がでるので、ここからもう一度よく見てから出かけるのだ」
二人は頷いた。
二人はそこで昼寝をした。日が暮れてから、三人は山を降りて天竜川沿いに下って行った。奥山庄兵衛は徳川軍の警戒線の手前で、岩佐権兵衛に用意を命じた。
権兵衛は着ていたものを脱いで、真綿《まわた》(絹綿)の褌《ふんどし》を穿き、墨染の水衣《みずごろも》に着替えをした。油紙に幾重にも包んだ書状を腹に巻いて水の中に入って行った。川の水は氷のように冷たかった。権兵衛はその中を或いは泳ぎ、或いは歩いて、二俣城直下の岩壁まで近づいた。川から出て岩壁を探ると、縄梯子が掛かっていた。彼はそこをよじ登った。
「誰か」
上から声が掛かって来た。
「諸国御使者衆、岩佐権兵衛」
「ようし登って来い」
岩佐権兵衛は城内に入ると焚火で濡れた身体を温めてから、城将、依田信蕃に会った。
二俣城の見張り楼の上に松明《たいまつ》が掲げられた。無事岩佐権兵衛が到着したという合図であった。
奥山庄兵衛はほっとした。もし岩佐権兵衛が、二俣城入りに失敗したら、今度は岩佐八郎を別な手を使って送りこませなければならなかった。
依田信蕃は勝頼の書状を読んで、岩佐権兵衛に云った。
「これは脇役《わきやく》の奉書ではないか。なぜお館様直筆の書状を持って来ないのだ。おれは、直書《じきしよ》を戴くまではこの城を出ないぞ」
脇役の奉書というのは、勝頼側近の書き役が勝頼の命を受けて書いた書状に武田の竜丸朱印を押したものであった。一般的にはこれが公文書として通用していた。なにからなにまで勝頼が自ら書くわけにはゆかなかった。
岩佐権兵衛は困ったという顔をしていた。彼は単なる使者である。脇役の奉書だろうが直書だろうが、彼とは関係のないことだった。
「承知つかまつりました。ではこれから、直ちに古府中に戻って、このことをお館様に申し上げますが、できましたらそのお趣旨を書状にしたためていただきとうございます」
と云った。信蕃は承知した。信蕃が書状をしたためている間に岩佐権兵衛は、熱粥《あつがゆ》の接待を受けた。粥を運んで来た武士の腹がぐうぐう鳴っていた。よほど空腹と推察した岩佐権兵衛は、他に人が居ないのを見て、半分ほど残った粥の椀を召し上がれと云って差し出した。落ち窪んだ目をしたその武士は首を横に振って云った。
「われらは充分な食事を取っているゆえ、いらざるお心遣いは無用でござる」
権兵衛はそれ以上すすめなかった。腹は減らしてはいるが、城兵五百人の意気は未だにさかんであると見て取った。
岩佐権兵衛は城将、依田信蕃の書状を腹に巻くと再び、縄梯子を伝わって断崖の下に降り、天竜川を遡行《そこう》した。
奥山庄兵衛と弟の岩佐八郎がそこに待っていた。三人はその夜のうちに犬居につき、そこからは別々に、古府中へ急いだ。弟の岩佐八郎が信蕃の書状を持ち、兄の岩佐権兵衛は、信蕃の言葉をそのまま飲みこんでいた。
二人は古府中に到着すると、即刻勝頼の前に参上した。
勝頼は依田信蕃の書状を一読すると、
「城内の様子はどうであったか」
と岩佐権兵衛に訊いた。権兵衛は、熱粥を持って来た武士のことを話した。
「そうか」
勝頼は感慨深げな溜息をついてから、侍臣に筆墨の用意をするように云いつけた。
勝頼は依田信蕃宛に直書をしたためた。脇書役に書かせたものとはいくらか内容が違っていた。勝頼は城よりも人が大事であるということを強調した。
《そち等の命は替えがたいものだ。決して城と共に討死などという愚かな考えを出さずに、城を捨て、身を生かす算段をして貰いたい》
と勝頼は結んだ。
岩佐兄弟はその書状を持って再び二俣城におもむいた。今度は弟の岩佐八郎が密使として天竜川を下った。厳寒のころであった。身も凍るような冷たさの中を彼は無事に任務を果した。
依田信蕃は勝頼からの直書を見て涙をこぼした。城よりも、そちたちの生命のほうが大事だという言葉は、信蕃だけでなく五百人の城兵すべての心に強く響いた。
信蕃は、万事、お館様のお指図通りにいたしますという書状を岩佐八郎に託して機会を待った。
降伏をこちらから申し出ることは、なにかにつけて不利であった。できることなら相手の降伏勧告を待って、城明け渡しの話に乗ったほうが得であった。
十二月十五日になって、徳川方から明朝使者を送る旨の矢文があった。使者は松平家忠、松平新介の両名と知らされて来た。
「松平家忠、松平新介と云えば、元亀三年の十一月の末、この城受け渡しの時、人質となった二人ではないか」
と信蕃は云った。念のために家来にも訊いたが、それに間違いなかった。
その折は双方から人質を出し合い、城兵が浜松の郊外の欠下《かけした》まで来たところで、それぞれ人質を解き放した。
「あの折の人質二人が使者として来るということは、或いは、あの時と同じような条件で城を徳川方に明け渡せということではなかろうか」
信蕃はそのように考えた。
翌朝、大手門前にいた敵は数丁先まで遠ざかり、二騎の武士とその足軽十人が大手門に向って近づいて来た。
城門は開かれ、使者が中に入ると、再び閉じられた。城内は綺麗に掃除されていた。
信蕃は松平家忠、松平新介の二人の使者に会った。
「あれから丁度三年になりますが、まるで昨日のことのようでございますな」
元亀三年の二俣城明け渡しの話になったとき、松平家忠が云った。
「さよう、日の経つのは早いものだ。攻守ところを変えての今日このごろ、まことに運命とは計り知れないものだ」
と信蕃が云うと、
「そのとおりです、今から三年経つと、また攻守ところを変えて、和議の相談ということになるかもしれませんな」
と松平家忠は含みのある言葉を云った。二人は相手の腹を探り合うように見合ってから、
「拙者は、浜松のお館様(家康)の命によって参りました。お館様が依田信守、信蕃御両人の武勇を高く評価されていることをまず申し述べてから、和議について御相談申し上げたいと思います」
家忠は言葉に非常に注意を払っていた。降伏の勧告に来たのではない、和議について話しに来たのだという云いまわし方で、信蕃等の心を刺戟することを極力さけていた。
「お館様は、元亀三年と同じような条件で二俣城の和議成立を望まれておられます。拙者等が参ったのも、その間の事情にくわしいからでございます」
松平家忠は城明け渡し条件の原則を口にした。
「元亀三年と同じ条件ということになると、双方で人質を交換し、城兵のすべてが安全地帯に行ったところで、人質を解き放すと云われるのか」
「そのとおりです。もし、二俣城を明け渡していただけるならば、わが方は城兵の落ち着き先が決まるまでの間はいっさいの軍事行動は差しひかえます。なお、当方の人質は、大久保泰忠、榊原康政の両名。おそらくは人質の資格に不足はないと存じます」
松平家忠は条件を素直に示した。
あまりにも条件がよすぎるような気がしたから、
「城兵の落ち着き先が決まるまでは……と云われたが、その間の日数はどのくらいに考えておられるか」
と訊いた。その事ですか、と家忠は信蕃の顔色を窺うようにして、
「一日《いちにち》と考えております。その間には、高天神城へ落ちられる者、或いは犬居方面へ行かれる者、それぞれ行く先ははっきりするものと思います。云いかえれば、もし和議が成立すれば、わが軍は二俣城の包囲を解いて、浜松城へ引き上げるということです。つまり、城方《しろかた》に取っては、この付近には敵が居なくなるということです」
「よく分かりました。この回答は、明朝当方より、貴方へ使者をさし出して、はっきりさせたいと思います。それまで、御猶予のほどを願いたい」
信蕃は即答を避けた。
松平家忠、松平新介の二人は二俣城を出て行った。
「どうだ、依田信蕃は城を明け渡す気があるか」
家康は松平家忠の顔を見るとすぐ訊いた。
「おそらくは、当方の条件を飲みこむものと存じます。問題は、その後をどのように始末するかにあると思います」
「ということは?」
家康は不審な目をした。
「わがほうが差し出した人質が帰って来た時点で、打つ手がございます。敵には一日の余裕は与えましたが、彼等は空腹のため、ほとんど半病人の状態です。たったの一日では遠くまで逃げることはできません。逃げても戦う気力はないでしょう」
「追い討ちをかけるというのか。ばかめが」
家康は珍しく大きな声を出して、家忠を叱った。
「取り返さねばならない城は、二俣城だけではないわい」
その一言で家忠は平伏した。家康は高天神城のことを考えているな、と思った。二俣城明け渡しが寛大な条件で行われたならば、高天神城もまた同じように接収が行われるであろう。もしこの際、卑怯と見られるような行動を取れば、武田方の報復もまたそれだけ激烈になるだろうと、家康自身そう考えていた。
「まだまだ武田は根がしっかりしている。相手をなめたような真似は絶対してはならない」
家康は、その言葉を自分に向けて云った。不敗の武田軍が設楽ケ原の合戦で大敗したのは、武田軍が鉄砲を見せびらかした信長の謀略に、見事ひっかかったからである。
(だが、あの合戦は例外である。あのように、すべての戦が運ぶと思えば大間違いである。おそらく武田は、これから徐々に兵力を増強して、必ずや、捲土重来《けんどじゆうらい》、設楽ケ原の合戦の雪辱戦を試みるであろう。そうさせないためには、武田の根を切ることである。根を切るとは即ち、武田が遠州、駿州に築いた城を取ることである)
家康はそのように考えていた。
二俣城内では早速軍議が開かれた。多くの者は和議成立について賛成だったが、人質解き放し後のことについて心配した。
「たとえ、城を出たとしても、このすきっ腹をかかえて、どこまで行けようぞ、たった一日と云えば、犬居までの四里(十六キロ)だってむずかしい。二日目に追手を向けられたら、みな殺しに合うだろう。せめて三日ほどの余裕が欲しい」
と口々に云った。
「城を出てから、人質解き放しまで三日ということでどうか」
という信蕃の言葉に対して反対する者はなかった。城兵は、甲、信の兵が多かった。一刻も早く、故郷へ帰りたいというのが彼等の希望だった。犬居から北部は、まだまだ武田の勢力範囲だった。三日あれば、安全地帯まで到達することができた。
翌朝、二俣城から使者二騎が、足軽十名を率いて徳川方に到着した。
使者は依田信蕃の弟、依田善九郎、依田源八郎の両名であった。
善九郎と源八郎は、攻城軍の大将、大久保忠世の前に坐って、城主、依田信蕃の言葉を伝えた。
「昨日、示された城引き渡しの和議については原則として承知をいたしましたが、細部について異議がございます。人質解き放しの期間は一日ではなく、三日間にしていただきたい。なお、城方の人質は、われ等兄弟二人と決まりました」
善九郎は胸を張って云ったが、声には元気がなかった。善九郎も源八郎も青黒くむくんだ顔をしていた。食糧不足に悩まされていることは一見明らかであった。彼等がつれて来た十人の足軽も、全く同じような状態であった。
「人質解き放しまで三日間、それはちと長すぎる――」
と大久保忠世はひとりごとのように云ったが、
「いや、城方の意に絶対反対というわけではないが、三日間はちと長過ぎはしないかと申したまでである」
「長過ぎることは分かっています。そこをまげてお願いしたいと、申しておるのです」
善九郎は忠世の顔を見詰めながら云った。必死の顔であった。
忠世はなにか裏にあるなと思った。おそらくは、城兵が安全地帯に達するまで三日かかると云いたいのだろう。そして直ぐ忠世は、
(城兵は腹が減っていて動けないのだ)
だから、三日という期間を持ち出したのに気がついた。
「三日は長過ぎる。おそらくお館様は承知すまいと思うが、一応はお願いしてみよう。その返事は当方の使者が持って、翌朝参上つかまつる」
と、忠世は答えたところで、がらりと態度を変えて云った。
「そうそう、食事どきであるから、粗餐《そさん》ながら一膳進ぜよう。しばらくお待ちくださるように」
と忠世は、二人が辞退するのを、そのままにして奥に入って、家来の者に、米俵五十俵を荷車に積みこむように命じた。別に、味醤《みしよう》五樽、野菜を荷車五台ほど用意させた。
食事どきでもないのに、食事だと云って運ばれて来た食膳を見て、依田兄弟は、涙が出るほどのいきどおりを感じた。城方の者は腹が減っているだろうから、食を与えれば、おそらく餓鬼のように食べるだろう。それを見て笑ってやろうという攻城軍の下心だと思った。
「食は城に帰って摂《と》りまする」
ごめんと云って二人は立ち上がった。
「さようか、では無理におすすめはいたしませんが、当方としても、一度は出したものを引っ込めるわけには参らぬ、お持ち帰るよう手配をいたしますから、よしなにお願い申す」
忠世は二人の使者に向って笑いながら云った。依田兄弟と、足軽十人が大久保の陣を出ると、その後から、ぞろぞろと、米俵や味醤樽を積んで荷車がついて行った。
「なんでついて参る」
依田兄弟は人夫頭を呼んで云った。
「依田様が食べ残されたものでございます。これをお城まで運ぶように命ぜられたまででございます」
依田兄弟は食糧と共に城に帰着した。
依田信蕃は大久保忠世の好意を受け取った。
(人質引き渡しまでの期間は一日、ただし、充分腹ごしらえした上のこと)
という但書きをつけてくれたのだと解釈した。五十俵の米を五百人に分配すると一人当り四升ほどになる。それに、保存米を加えると、一人分五升ほどになった。味醤も野菜もある。五日、六日のうちには城兵は体力を恢復することができるだろうと思った。
二俣城明け渡しの和議は成立した。
天正三年(一五七五年)十二月二十四日、二俣城は攻城軍に明け渡された。城兵の多くは北上して故郷に向ったが、依田信蕃等の主なる者百余名は南下して高天神城に入った。
依田信蕃はこの城によって徳川方と飽くまでも戦うつもりだった。高天神城付近はまだまだ徳川軍の勢力下にはなっていなかった。
高天神城は依田信蕃等将兵を迎えて大いに意気が上がった。
二俣城にこもっていた城兵たちが食糧に困り、ひそかに城を抜け出て浜松付近まで進出し、夜討ち、強盗を働いて食糧を徴発したことは『依田記』に書いてある。おそらく事実であろう。
築城、葬儀、西東
天正四年(一五七六年)正月元旦、信長は恒例のごとく、諸将を岐阜城に招いて、酒肴を出してもてなした。
前年の天正三年には、設楽ケ原合戦の大勝利、そして八月九日には、越前、加賀に出征して、一向一揆、男女合わせて、三万から四万(『信長公記』には、其の員《かず》を知らず、誅せられたる分、三、四万に及ぶべく候しか、と書いてある)を殺して、この地を平定し、十一月には岩村城を奪取している。
信長にとって天正四年の正月元旦は、まことにめでたい日であった。しかし招かれた諸将は、内心びくびくものであった。
天正二年の正月元旦の席で信長は、朝倉義景、浅井久政、浅井長政の三人の髑髏《どくろ》に漆を塗り、これに金粉を吹きつけた容器に酒をついで、諸将に飲めよとすすめたことがあった。飲まねば異心ありと思われるから諸将はこの酒を飲んだ。
彼等はこの時の薄気味の悪さを今でも覚えていた。大勝利の翌年であるから、またまた、髑髏の酒を飲まされる可能性はあった。
(とすれば、髑髏にされるのは誰の首であろうか)
諸将はひそかにそれを知りたがっていた。怖いもの見たさでもあった。もしかしたら設楽ケ原で戦死した武田の大将の髑髏に金箔を張ったものが出されるかもしれないと思っていたが、そのようなこともなく、信長は至極《しごく》御機嫌で、酒を飲んでいた。信長は、頃合いを見計らって、家臣に、合図の目くばせをした。
それまで壁にかかげられていた、南蛮渡来の織物が取り除かれると、そこに大絵図が現われた。それは、ついぞ見たこともないような、建物の絵図であった。城にも見えるし、大寺院にも、見方によっては御殿に見えないこともなかった。が、まず城だと見るのが至当だろうと諸将は思っていた。おそらく、日本ではなく遠い国の城の絵図を取り寄せたものであろうと考えている者もいた。
「みなの者、これをよっくと見よ、余はこの城を安土《あづち》に建てるのだ」
信長の一言で諸将は改めて城に目をやった。地下二層、その上五層、しめて七層の高層建築物であった。
地下二層構造は石材を用い、武器庫と食糧庫に当てられ、その上に五層の木造建築物が積み上げられることになっていた。
高さは七層で二十八間(約五十六メートル)、東西十七間(約三十四メートル)、南北二十間(約四十メートル)、という大きなものであった。
外観絵図だから、城の内部の細かい構造は書かれてはいなかった。
「この城は、去年一年がかりでいろいろと工夫され、ようやく、絵図面が完成したものである。絵図面が完成したからには早速、城を築かねばならぬ」
信長はそう前置きして、
「安土城の総普請奉行は五郎左衛門(惟住《これずみ》五郎左衛門、丹羽長秀のこと)に命ずる。追って他の者にはそれぞれ用向きが通達されるであろう。一同心を合わせて、この城を一日も早く完成するよう申しつける」
と云った。氷のように冷たい響きを持った一言であった。
諸将は平伏して命を受けた。この城を造営するためにどれだけの犠牲を払わなければならないかと思うと心寒いものを感じた。信長のことだ、いかなる苛酷《かこく》な命令でも受けねばならないだろう。命令どおりやって当り前、もし、遅れたり、信長の気に入らないようなことをしたら、それこそどうなるか分からない。
諸将は例外なしにこの工事に恐れをなしていた。こんなことなら、髑髏酒を飲まされたほうがよかったのにと考えている者もいた。
信長の築城工事はその翌日から実施にかかった。まず基礎工事である。
安土は近江の南部の要衝で、守護職六角氏の居城があったところである。
信長は六角氏を追い払い、その後に中川重政を置いていたが、この地点が、東海地方、近畿地方ばかりではなく、北陸を睨むにも便利だと見て、ここに築城を思いついたのである。
前年の天正三年の八月から九月にかけて、越前と加賀において、信長に反抗する、一向一揆の衆徒四万を虐殺した信長は、そこに現われた上杉謙信の軍勢と面を合わせた。
武田勝頼を破ったが、越後越中には上杉謙信が勢力を張っていた。上杉謙信が大軍を率いて、越前に進出し、やがて、近江に出て来た場合、その勢力を喰い止めるには、この安土城こそ、もっとも地の利を得たものと考えられた。
この時点で信長がもっとも怖れている敵は、北は上杉謙信、西のほうでは毛利輝元の勢力であった。この二つの勢力を併合しなければ天下平定ができたとは云い難い。信長はそのことをよく知っていた。
この二大勢力と戦うための基礎固めと、天下に威勢を示すために、この大工事が始められたのであった。
部将たちには正月元旦に安土城工事のことは発表されたが、実は、この計画は丹羽長秀によって、一年前から立てられていたので、信長がかかれという命令と同時に、信長の勢力下にある諸将に対しては、それぞれ、築城援助のための具体的要求が発せられた。まず工人集めである。腕のいい大工、左官、石工等が信長勢力下の十数ヵ国から集められた。木材、石材、鉄材等の醵出《きよしゆつ》もまた国持ちの諸将に割り当てられた。しかも、時間が限られているから、たいへんであった。
信長勢力下の諸国諸将は、戦争を忘れたかのように築城目的のために狂奔した。
この情報は各地に飛んだ。
毛利輝元は、部将たちを集めて、安土城に夢中になっている信長の鼻を明かすにはどうしたらいいかの策を練った。
大坂城(石山本願寺城)にこもっている本願寺顕如、教如等も、この機を利用して、信長に反撃しようと考えているし、武田勝頼もまた、信長が築城に気を取られている間に、遠州に進攻して、徳川家康に奪われた城を取り返そうと考えていた。謙信はまた安土城が完成する前に越前に進出しなければ、出遅れになると思った。
安土城のことが全国武将たちの話題の焦点になった頃には、安土では大規模な基礎工事が始められていた。近くの山や岡から、目ぼしい石材がすべて安土へ運ばれていった。運ばれて来た石は石工によって、それぞれしかるべき形に作り変えられていた。
安土付近には諸国から集まって来た、大工、石工、瓦焼きの職人等のために次々と長屋が建てられた。築城にかかれば、更に多くの職人が招かれる予定だから、それらの家も続々と建てられていた。
これとは別に安土城建築予定地からそう遠くないところに、信長のために館が建てられていた。もともと寺であったところを改造して館にし、ここに臨時に信長が住むことになったのである。
信長は陣頭指揮をするつもりだった。安土城を急いで築き上げないと天下の情勢は自分に不利になるかもしれないという、信長の直感がそうさせたのである。
信長は二月二十三日に岐阜城から安土の館に移住して来た。信長と共に、二千の軍兵が安土付近に駐在することになったのに、その兵等の住家もない有様だった。兵等は、掘立て小屋のようなものに入って、雨露だけはしのいでいた。
信長が安土に来たことは信長の築城に対する決意を示すものであった。
石奉行として、西尾小左衛門、小沢六郎三郎、吉田平内、大西七郎兵衛の四人が任命された。四人はそれぞれ受け持ち地区を分け、石の搬出に努力した。
七層の城の内、一層と二層は石で組み立て上げるのだから、多くの石が必要だった。一層、二層を堅固に作らないと、その上に建てる五層の建物が持つ筈がなかった。
この第一層の石の建物は、大地を六間ほど掘り下げ、そこに組み上げる予定になっていた。この第一層の礎石に蛇石《じやいし》と呼ばれる名石が使われることになった。
蛇石は津田坊というところにあった巨石で、大蛇が大石に身を替えたものだと古くから云い伝えられていた。蛇は巳《み》のことである。巳《み》を護り神とする民間信仰が古くからあった。
津田坊の蛇石を安土城の礎石としたらどうかと、信長に進言したのは、羽柴筑前(秀吉)であった。
「縁起を担ぐのか」
信長は秀吉の申し出を笑ったが、秀吉はしごく真面目な顔をして、
「蛇石は人間の力では動かないということになっています。その石をお館様の力で動かして見せることに第一の意義があり、第二は、そういう石を礎石にしたということで日本中の人が、安土城こそ日本一の城と考えるようになります」
と云った。
「それこそ猿知恵と申すものだ。そんなことを吹聴《ふいちよう》しなくとも、出来上がった城を見れば、誰だって日本一だと思うわい」
という信長に、秀吉は、
「見えるところも飾る、見えないところも飾る、という趣好《しゆこう》は、どこか茶道に通ずるものがあると考えますが」
と云った。
「城と茶道となんの関係がある。このうつけ者め。しかし、云い出したからには、そちの手で、蛇石を見事、安土山へ引っ張り上げて礎石にしてみろ」
信長は秀吉の進言を取り入れた。どうせ、秀吉の奴、音《ね》を上げるだろうと考えていたのである。
秀吉は信長の命を石奉行たちに伝えて、津田坊の蛇石を見に行った。一見蛇石は大地の上にころがっているただの石のように見えたが、掘って見るとその根は深かった。石ではなく、それは大きな岩の頭が地上に露出していたのであった。ようやく土を取り除いて見ると、大体四角な石で、縦、横五間(約十メートル)という途方もない巨石であった。そんな石を運び上げることはまずまず至難と考えられた。
だが、秀吉はいまさら、できませんと信長に頭を下げるわけにはいかなかった。
彼は、自分ひとりではどうにもならぬと見て取ると滝川一益《かずます》、丹羽長秀に応援を頼んで、五千人の人間を動員することに成功した。
蛇石はまず、丸太を組み合わせて作った橇《そり》に乗せられ、これに綱をつけ、その先に五千人の曳手《ひきて》がついて、コロ(橇を進ませるための枕木)の上を少しずつ、安土山めざして進ませて行った。だが、石は安土山の麓まで来たが、そこから上へは引き上げることはできなかった。秀吉は曳手を倍にした。一万人かかっても、蛇石は動かなかった。
信長が見に来て、秀吉に云った。
「どうだ降参したか。いい加減であきらめて、石は、このあたりに置け、城への入口の置物としては結構役に立つだろう」
しかし、秀吉はなかなか止めるとは云わなかった。一万人の力を合わせれば、石を引き上げることはできると思った。問題は、いかにして、一万人の力を瞬間的に集中するかということだった。それさえできれば石は動かせるだろうと思った。
秀吉は大工に命じて、蛇石の上に楼《やぐら》を設け、この上に遊女たち五人と、音曲師《おんぎよくし》たちを上げた。
五人の遊女たちは音曲に合わせてひととおり踊ったあとで、赤く染めた長い布切れのついた竿を持って、楼舞台《やぐらぶたい》に立ち並び、声を合わせて、
「さあさ、みなさま、曳《ひ》きめされ」
と歌うと、いっせいに竿を振りおろした。曳手はそれを合図に、
「よいしょ、よいしょ」
と力を合わせて綱を曳いた。
初めのうちは、うまくいかなかったが、そのうちに、遊女たちの掛け声と曳手の気が合うと、蛇石は動き出した。
「それっ、蛇石が坂を上り出したぞ」
と人々は目を見張った。
蛇石の動きが遅くなると後詰めの男たちが、蛇石の後部に次々と角材や石を投げこんで、滑り止めの処置を取る。
曳手が休んでいる間に、舞台では、また踊りが始まる。遊女は五人だけではなく、次々と人を替え、衣装も替え、音曲や舞踊の内容も変えた。その度に、蛇石は頂上に向って少しずつ進んでいった。
三日目に蛇石は頂上近くまで来たが、ここで止まって、どうしても動かなかった。
秀吉は、遊女たちの中から、特に美しい女五人を選んで、彼女らに、肌がすきとおって見えるような薄絹を着せて、踊らせた。効果はたちまち現われた。一万人の男たちは、それに元気づけられて、一気に蛇石を頂上まで引っ張り上げた。
「色気で一万人を動かしたな」
と信長は秀吉に云った。機嫌は悪くはなかった。蛇石を山の上へ引っ張り上げたことよりも、このお祭り騒ぎが、どう諸国に伝わるかが知りたかった。
間もなく、地方に放してあった間者から報告が入った。
「信長は安土に高さ百間もある、城を建てるそうだ」
「安土城の礎石にするため、蛇石という巨石を二万人の人を動員して曳き上げたそうだ」
などというのはまあいい方だった。
「信長は安土城を建てるために、大蛇《おろち》石《いし》という礎石を三万人の人を動員して、安土の山へ引っ張り上げた。また人柱と称して、遊女百人を捕えて生き埋めにした」
などという流言がまかり通っているところもあった。
とにかく、信長が、安土に城を築いていることは周知のこととなった。
信長は、諜報機関を総動員して、諸国の動きを見張った。必ずや築城の折を見て謀叛する者があるだろうと予想していた。そういう者があれば、それを口実に亡ぼしてやろうと考えていた。
特に信長は、武田勝頼の動きが気がかりであった。設楽ケ原の合戦で大勝利をしたにはしたが、それは、馬と馬、槍と槍、刀と刀の戦いではなかった。
謀略で武田軍を引き寄せ、三千梃の鉄砲を撃ちかけることによって得た勝利であった。尋常な勝負に出た勝利ではなく、今後おそらく二度とは使うことができないだろう、もっとも単純な謀略戦に勝ったのであった。
信長が怖れているのは勝頼ではなく、設楽ケ原の合戦で見た、武田軍の勇猛さであった。
鉄砲で撃たれても撃たれても、柵に向って、四刻(八時間)にわたって果敢な突撃を繰り返して来る武田軍団の怖ろしさであった。それは、遠い昔、東夷《あずまえびす》と云われていたころからの東国の武士の底力であった。信長は目《ま》のあたりそれを見せつけられて恐怖したのであった。
(おそらく、勝頼はこのまま黙ってはいないだろう。陣容を建て直して再び、この俺に槍を突きつけて来るに違いない)
信長はその槍におびえていたのである。
しかし、甲州からは、その後、勝頼が出動して来るらしいとの情報はなかった。
四月に入って直《す》ぐ、甲州にいた間者から信長あての緊急報告があった。それを襟《えり》に縫いこんで運んで来たのは、僧衣の男であった。
《四月十六日、恵林寺《えりんじ》において、武田信玄の葬儀が行われる予定》
そして、葬儀の内容や、参会者の氏名などが、詳しく書かれていた。
その中に、上杉謙信代理として吉江景資の名があった。吉江景資は謙信の側近として名のある武士であった。
「謙信が、信玄の葬儀に代理を派遣するとは……」
信長はつぶやいた。
信長にとってはまことに意外なことに思われた。謙信と信玄は、生涯をかけて北信濃を争い合った間柄である。たとえ、相手が死んだとはいえ、使者を派遣して弔意を表するなどということができるわけがない。
「長秀を呼べ」
信長は大声で侍臣を呼んだ。
丹羽長秀が現われると信長は、甲州から来たその情報を長秀に見せて云った。
「謙信は、いよいよ心を決めたらしいぞ。越前に使者を送って、充分に見張るように云いつけろ」
と命じた。
信長は、謙信が、信玄の葬儀に際して、仮りにも代理を送るというのは、武田家に対しては今までとは違った気持でいることを表示したものであり、武田との接近を計っているものと見たのである。
「謙信は勝頼と組んで、このおれに盾突こうというのだ。そうなるとかなり厄介なことになるぞ」
と信長は云った。
「さよう。そうなるとかなり厄介のことになります。しかし、これが、謙信の単なる探りだとしたらどうでしょうか」
長秀が云った。
「探りとはなんだ」
「勝頼の心を探ることであり、お館様の心を探ることでもあります」
なるほどと信長は頷いた。そうとも考えられるが、とにかくいまや謙信が大きな敵として現われて来たことだけは確かだと思った。
安土における信長の取沙汰とは別に、古府中では四月十六日に武田信玄の盛大な葬儀が行われた。
元亀四年(一五七三年)四月十二日、信州駒場《こまんば》で死んだ信玄の葬儀は、遺言通り、三年後に行われたのである。
三年間、喪《も》を秘せよという信玄の遺言はその通り行われたのだが、信玄の死は、死後一ヵ月も経たない間に日本全国に知られていた。信玄死去は確定的なものになっているにもかかわらず、葬儀だけは遺言を尊重して三年間延期したのである。
勝頼は父信玄の葬儀までには、遠州、三河、美濃の三国を支配下に置き、西上の望みを達したいと思った。西上こそ、父の希望であり、それが遺言のもっとも大きなものであった。だが西上の野望は、設楽ケ原の合戦においてもろくも潰《つい》えた。そして、その全責任は勝頼がかぶらなければならなかった。
《勝頼公は気ばかり強く聊爾《りようじ》者(そそっかしいひと)だから、老臣たちの云うことを聞かずに無理な戦争をして、武田の大敗北を招いた》
というような解釈が、設楽ケ原の合戦から一年経ったころに一般に流布され始めていた。
敗戦の最大の原因は、設楽ケ原の時点では武田軍を動かす者は勝頼ではなく御親類衆であったことにある。その御親類衆が、こぞって、佐久間信盛の内応を信じ、まんまと信長の謀略にひっかかったのである。しかし、このような真相は、なにひとつとして一般には知らされなかった。
《勝頼は若くて、聊爾者だから》
というような陰口が甲、信の隅々にまで伝えられていくこと自体が、勝頼にとってまことに不幸なことであった。
勝頼は父信玄の葬儀に際して出来るかぎりのことをしようとした。葬儀を盛大にすることによって、鬱積《うつせき》していたものを霧散させようとも考えていた。敗戦の罪を全部勝頼にかぶせて涼しい顔をしている御親類衆たちが、父信玄の霊前にどんな顔をして坐るかも見てやりたいと思っていた。
四月十六日の葬儀を明日にひかえて四月十五日の夜、恵林寺境内に猿の死体が捨てられた。寺僧によって発見されたのは四月十六日の早朝であった。猿の死体には、経《きよう》帷子《かたびら》が着せられていた。
このことは、恵林寺の関係者以外に極秘とされ、ひそかに、跡部勝資に知らされた。
勝資は早朝にこのことを知って眉をひそめたが、放《ほう》っては置けなかった。彼は目付の荻原豊前守に取り調べを命じた。
荻原豊前守は、問題の猿の死体を一先《ひとま》ず箱に入れて恵林寺から他所に移してから、取り調べにかかった。まず、経帷子を調べ、次に猿を調べた。経帷子もごく普通のものであり、猿も、別にもの珍しいものではなかった。
調べよと云われても調べようがなかった。そうこうしているうちに、東光寺内にも、同じような猿の死体が投げ込まれたという報告があった。荻原豊前守は、この猿の死体を取り寄せて調べて見た。前髪のあたりに鋏を入れたあとがあった。前の猿もこの猿も足の裏がよごれていなかった。
「人間の飼っていた猿ではないか」
と荻原豊前守が云った。横目付《よこめつけ》が八方に飛んだ。古府中で、猿に芸をさせて、日銭を稼いで生きている、猿つかいの大道芸人与八郎が連れて来られた。与八郎は二匹の猿の死体を見て涙を流した。
「これは私が飼い馴らしていた猿でございます。どうしてこんなことになったのでしょうか」
与八郎は、自分の子供が死んだように悲しがった。
「その猿についてなにか思い当ることがあれば云って見るがいい」
荻原豊前守が云った。
与八郎は猿を使いながら、諸国を歩いていた。甲州には三年に一度ぐらいの割合で来ていた。古府中で泊る宿も決まっていた。数日前に、古府中の安宿で、猿の好きな商人文吉と知り合った。文吉は薬売りということだったが、どこから来たかは云わなかった。
猿が好きな人はどこにもいるから別に珍しいことではないが、文吉は、
「わっしも猿使いになりたいが、ひとつ、弟子入りさせて貰えませんか、いえ、迷惑はお掛けしません、ここ当分の路銀は私の方が出させていただきます」
と云った。
「正気でそんなことを云うんですか」
と与八郎が訊くと、
「このごろ薬売りも競争者が多くなって、なかなかむずかしくなりました。猿を使っての薬売りとなれば、また格別、お客には猿芝居も見ていただいた上で、薬を求めて貰います」
と文吉は目を輝かせて云った。
与八郎は、それでは、二、三日一緒に歩いて見るかと文吉を誘って、猿に芸をさせながら薬を売った。この方法が妙に当って薬がよく売れた。
「これだけ儲けがありました。この分はお猿のおかげですから」
文吉はそう云って、儲けた分はそっくり与八郎に渡した。与八郎は文吉を信用した。
「いつまでも、こんなにうまくいくとは思えないが、まあしばらく続けて見るか」
与八郎はそう云いながらその銭を懐に入れた。
「それから四日目、つまり、文吉が私等と一緒に出歩くようになってから七日目の夕刻、私が行水を使っている間に、文吉は猿を連れて行方不明になりました。一昨日の夕刻のことです」
それまでに文吉と猿とはすっかり仲よしになっていた。二匹の猿を連れて姿を消した文吉の行方は全く分からなかった。
文吉が猿を殺して経帷子を着せて、寺の庭に投げこんだ犯人に間違いはなかった。
文吉の人相書きが作られた。
安宿に与八郎等と泊り合わせていた人たちも一人一人取り調べを受けた。
「あの文吉さんには、昨年一度だけ会ったことがございます」
という男がいた。郡内(南都留郡)から古府中へ出て来ていた織物商の弥吉であった。
弥吉は河口湖のほとりの勝山に住んでいた。妙法寺近くを通りかかったとき、無縁仏の墓で声を上げて泣いている文吉を見掛けたのである。その悲しみようがあまりにも哀れだったから、その墓はどなたの墓かと文吉に訊《き》いた。
文吉は母の墓ですと答えると、逃げるようにその場を立ち去ったのである。後で、その墓について寺男に訊いてみると、その墓の主人は天文十五年(一五四六年)七月に、武田信玄に亡ぼされた、信濃佐久郡志賀城士の妻女であることが分かった。
天文十五年七月の武田信玄の志賀城攻略とその後始末は、なにか異常であった。
信玄は城主笠原父子ほか、城兵三百人を一人残らず殺したばかりでなく、城内にいた婦人子供等を生け捕りにして連れて帰り、一人二貫文以上十貫文で売ったのである。
文吉の母もその悲劇の中に売られて死んだ女であった。
荻原豊前守は調べた結果一切を葬儀の後で、跡部勝資に報告した。
「何年経《た》っても怨念は消えぬものだ、そして戦いが続くかぎり怨念は拡がっていく」
と跡部勝資は荻原豊前守に云ったあとで、
「武田に仇なす文吉とやらの身柄については、徹底的に洗って、必ず引っ捕えよ」
と厳命した。
跡部勝資は、この猿の事件については、一言も勝頼には云わなかった。云ったところで、得ることはなにもないばかりでなく、むしろ勝頼を不愉快にさせるだけのことだった。
武田信玄の葬儀は、僧侶併せて千人を出動させた豪華なものだった。参加した弔問《ちようもん》者の数はおよそ三千、四月十六日の巳《み》の刻《こく》(午前十時)から始まって申《さる》の刻《こく》(午後四時)までかかって行われた。
葬儀も盛大だったが警戒も厳重をきわめた。跡部勝資は、葬儀中に不祥事を起こさないために、特に気を配った。
葬儀が終ったころ雨になった。
安土御普請の事
天正四年丙子、正月中旬より江州安土山《あづちやま》御普請。惟住五郎左衛門に仰せつけらる。中略。大石、御山の麓まで寄せられ候と雖《いへど》も、蛇石《じやいし》といふ名石にて、勝れたる大石に候間、一切に御山へ上らず候。然る間、羽柴筑前、滝川左近、惟住五郎左衛門三人をして、助勢一万人余の人数を以て、夜日《よるひる》三日に上せられ候。信長公御巧みを以て、輙《たやすく》御天主へ上させられ、昼夜、山も谷も動くばかりに候へき。(『信長公記』巻九)
大坂表海上木津浦沖大海戦始末
甲斐の古府中で武田信玄の葬儀が行われていたころ、大坂(現在の大阪)石山本願寺を根拠とする本願寺顕如と、その子本願寺教如の率いる門徒衆兵団が信長に対して、積極的反抗を示し始めていた。
信長の安土城建設に対する牽制とも考えられたし、前年の越前、加賀の本願寺派門徒衆大虐殺に対する報復行為とも受け取れぬことはなかった。信長は安土城の建設を終れば、こんどこそ、石山本願寺を中心とする本願寺派最後の拠点を攻撃して来るだろう。その時は、信長が、何回となくやったように、二万、三万という門徒衆の焼き殺しも予想された。
(どうせ、信長に殺されるならば、その前にできるかぎり、信長を苦しめてやろう)
という考え方と、
(信長が安土城に気を取られている間に、戦略的に有利な地点を確保しておこう)
という実質的な考え方もあった。
四月に入ると、それは行動によって現われた。石山本願寺城(ほぼ現在の大阪城の位置)に対して、付城《つけじろ》として置かれていた天王寺砦に夜陰ひそかに忍びよって放火した者がいた。幸い、発見が早くて火は消し止められたが、このようなことが、随所に起こったばかりでなく、海上より、兵糧が多量に石山本願寺城に運びこまれた。
石山本願寺城は大坂湾に面した海の近くにあった。当時の地図によると、石山本願寺城は城というよりも島と云ったほうが分かり易い地勢の中にあった。
東側は、御淀川筋のひらの川、やこま川、北側から西側にかけては木津川及び、この川の分流と堀によって幾重にもかこまれていた。南の天王寺方面から、陸続きとなっていたがそこには、橋が幾つかあった。
要するに、石山本願寺城は水に守られた島のような城であった。概念的には、伊勢の長島とよく似ていた。
伊勢長島の顕証寺の門徒衆が寡勢ながら、信長を相手によく戦ったのは、やはりその地勢に負うものがあった。この長島本願寺派が信長に亡ぼされたのは、海上輸送路を、信長の水軍によって遮断されたからであった。
だが、石山本願寺派は、自らも水軍を持っていたし、毛利輝元の口利きによる、瀬戸内海の水軍の応援があって、輸送路はちゃんと確保されていた。
毛利輝元が、水軍を出して積極的に本願寺派の応援を始めたことは信長にとって頭が痛いことだった。毛利氏という西国の大名が、石山本願寺に対して本気になって梃《てこ》入れをしたら、今後の戦局がどう変わるか、計り知れないものがあった。
「なんとしてでも、石山本願寺をつぶさねばならない」
信長は諸将を集めて云った。
そうしないと、本願寺派よりもっと恐ろしい、毛利輝元に天下を取られてしまうかもしれない。そのような心配が出て来たのである。
信長は荒木摂津守村重、永岡兵部大輔、惟任《これとう》日向守(明智光秀)、原田備中守直政の四人に石山本願寺城攻撃を命じた。
荒木村重は尼崎方面から、即ち北方から攻め、明智光秀、永岡兵部は、東部の諸口《もろくち》、森河方面から、そして原田直政は、南部の天王寺口より攻め込むことにした。
つまり、石山本願寺城にこもる敵に対して北、東、南の三方向から押し攻めにして、門徒衆を西部に追いつめ、海へたたき落とそうというのが信長の作戦だった。だがその西部の海(現在の大阪湾)には、信長の水軍は居なかった。ここには、毛利輝元から派遣された水軍が頑張っていた。
信長は木津川口を押さえることによって門徒衆と毛利水軍との連絡を断ち切ろうとした。兵糧の搬入を押さえることが緊急と見て、天王寺砦にいた原田直政を大将に、副将としては三好笑岩《しようがん》を付け、根来《ねごろ》、和泉《いずみ》、大和《やまと》、山城《やましろ》の兵を率いて本願寺木津砦を攻撃させた。
天王寺砦には新たに佐久間甚九郎を当て、これでは兵力不足と見て、森河方面に陣を敷いていた明智光秀の軍を天王寺砦に廻した。
この合戦には信長の検使役として、猪子《いのこ》兵助、大津伝十郎が出向いた。
五月三日早朝、霧の中を、原田直政、三好笑岩の率いる、合計二千あまりの軍は、本願寺木津砦に攻めかかった。それまでの調査で、木津砦には、五百ほどの敵が居ることが分かっていたから、信長は二千の兵を向けて、力攻めに攻め落とそうと考えたのである。
海洋性の霧はなかなか晴れなかった。霧の中を二千の攻撃軍が木津の砦に近寄ったとき、周囲に鬨《とき》の声が上がった。
濃い霧の中から、南無阿弥陀仏のむしろ旗を掲げた兵が姿を現わした。
「しまった、包囲されたぞ」
と原田直政は歯ぎしりしたが、どうにもならなかった。天王寺砦へ伝令を走らせて急を知らせようとしたが、伝令は途中で捕えられたり、斬られたりした。
原田直政と三好笑岩はおよそ一万の兵に囲まれて苦戦した。三好笑岩がようやく一方の口を斬り開いて天王寺の味方に急を知らせたのは、巳の刻(午前十時)であった。天王寺砦では急を知って、援軍を出そうとしているうちに、敵兵は霧の中を鬨の声を上げて天王寺砦へ攻め寄せて来たのである。
木津砦の戦いで、総大将の原田直政は戦死した。彼一人ではなく、侍大将級、足軽大将級で討死した者は塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦無右衛門、丹羽小四郎等であった。木津砦に向った二千のうち、約半数は討ち取られた。思わぬ勝利に酔った本願寺軍は、逃げる三好笑岩等の兵を追って鬨の声を上げながら天王寺砦へ攻め寄せたのであった。
天王寺砦には佐久間甚九郎(信栄《のぶひで》)と明智日向守の両将と、検使役の猪子兵助、大津伝十郎の両将がいた。
佐久間信栄は佐久間信盛の嫡子で、茶道の名手と云われていたが、武将としてはあまり勝れた人ではなかった。このような緊急の場合に指揮が取れるような才覚はなかった。
「砦の城門を閉じろ、味方なりとも中に入れてはならぬ」
明智光秀が指揮を取った。城門の兵は不審な顔で光秀を見た。
「早く城門を閉じろ」
腰の刀に手を掛けて、云うことを聞かねば斬るぞという姿勢を見せた光秀に驚いて、砦の門を守る兵は城門を閉じた。
命からがら逃げて来た味方を閉め出したのである。
「開けろ、早く開けろ、味方だ。なぜ開けないのか」
兵たちは口々に叫んだが、砦の門は開かなかった。もし、その時、門を開ければ、逃げる味方の兵を追いながら、敵兵がなだれこんで来ることを戦上手の光秀は知っていた。だから味方を犠牲にしたのである。
味方の砦までようやく逃げて来た兵等は砦に入ることができないとなると、そこで戦死するか、自ら血路を開くかどちらかであった。彼等は死に物狂いで戦った。勝ちに乗じて押し寄せて来た、本願寺の兵たちは、ややたじろいだ。
「それ、今のうちだ、迎撃の準備をせよ」
光秀は砦の兵たちに命じて、千梃の銃砲を揃えて敵を待ち受けた。
本願寺の兵たちは、再び、砦の外にいる敗残の兵に向って攻め寄せて来た。その兵等が射程距離に入ったところで、砦内の銃砲千梃がいっせいに火を吐いた。
本願寺の兵たちは多くの死体を残して、引いた。ここに至って敵ははじめて、冷静になったのである。
本願寺の兵たちは、射程外に引き、隊伍を整え直した。その隙に、砦の城門は開かれ、味方の兵は城内に収容された。多くの負傷者がいた。即座に手当がほどこされた。
光秀が取った、この緊急処置によって、天王寺砦は、敵の大軍に包囲されながらも、どうやら翌々日の援軍到着まで持ちこたえたのである。
後日、猪子兵助と大津伝十郎の二検使役は、信長に、
「まことに水際立った日向守殿(光秀)の采配ぶりでありました」
と報告したが、信長はそうかと云っただけで、それを讃めようとはしなかった。さりとてけなすようなことはなかった。大津伝十郎はなぜ信長がその時讃めなかったかが、疑問のまま、ずっと頭の底に残っていた。
それから六年後の天正十年(一五八二年)になって、信長が明智光秀に殺されるという事件が起きた後で、大津伝十郎は、この時のことを羽柴秀吉に話した。
「お館様は光秀殿のやり方が、あまりにも、お自身に似ているから、かえって気を悪くされたのでしょう」
信長は、敵であれ、味方であれ、人の命をなんとも思っていなかった。砦を守るためには、二百人や三百人の味方が死んでも、かまわぬと考えて、砦の門を閉じた光秀の性格と信長の性格とはどこか似たところがあったのである。
五月三日の夜、信長は京都妙光寺で、天王寺砦からの使者に会って、急を聞いた。まさかと思っていたことが出来《しゆつたい》したのである。信長は八方に使者を出して、軍を天王寺に集めた。
五月四日、旗本だけを引き連れて、天王寺に向かおうとする信長を家来共が引き留めた。五月五日には、もはや猶予はならないと、自ら百騎(従者の足軽を併せると約五百人ないし六百人)を率いて、若江に向った。天王寺の砦はまだまだ大丈夫だった。信長は、乱破《らつぱ》を放って、
「信長三万の兵を率いて、若江に至る」
という流言を放った。よく使う手であった。天王寺の砦を包囲している敵は、この噂に動揺した。乱破が、各所に現われて、放火したり、本願寺の兵を殺したりした。
五月七日になって、ようやく三千余の軍が若江に集まった。一万の敵に対して、三千はあまりにも小勢だったが、軍事行動を起こさないと天王寺砦が落ちる危険があった。
信長は兵を三段に構えて住吉口へ進んだ。
先陣は佐久間信盛、松永弾正、永岡兵部大輔の三人であった。この時、信長は荒木村重を先陣にかえようとしたが、荒木村重は、
「それがしには木津口をおまかせ願いとうございます。あのあたりの地勢は、よく存じておる故効果的な戦ができると存じます。敵にとっては、天王寺砦を落とすことより、木津口を守るほうが大事ゆえ木津口を突けば、必ず天王寺を囲んでいる兵は退くこと疑う余地がございません」
信長は命令に従わず、自説を主張する荒木村重に対して、生意気な奴という感じを抱いた。だが、この場で村重と云い合いをしている余裕はないし、村重の進言は作戦としてはもっともなことでもあったので、検使役二人を付けるという条件で承知した。第二陣は滝川一益、蜂屋兵庫、羽柴秀吉、明智五郎左衛門、稲葉伊予守、氏家左京亮、伊賀伊賀守等が向い、第三陣は信長自身とその旗本によって固められた。
この日の大坂住吉の合戦は、信長の生涯において特記すべきものであった。
(信長自らが戦場に現われた)
という報は、本願寺門徒衆一万に知れ渡った。
「それ、いまこそ、仏敵信長を討ち取る好機ぞ」
と門徒衆は気負いたった。信長が三万の軍勢を率いて来るというのは嘘で、総勢三千しかないことが分かると、門徒衆は数にものを云わせて攻め立てた。
門徒衆一万の中、銃砲隊はその三分の一の三千であった。設楽ケ原の合戦で、三千梃の銃砲を用意して行って、武田勝頼を破った信長に対して、本願寺衆は、その同数の銃砲を用意してかかったのであった。
織田軍は本願寺軍の銃砲に行手をはばまれて、天王寺砦へ近づくことは容易にできなかった。
本陣に居た信長は、敵の鉄砲隊のために動きが取れなくなった味方を見て、
「不甲斐《ふがい》なき者ども……」
と云うと、信長自ら馬に乗って前線に出ようとした。家臣等が引き止めても聞かないから止むなく、旗本たちは信長の周囲に人垣を作った。
信長は前線を駈け廻ってつぶさに戦況を見て取ると、敵に気付かれぬうちに本陣に引き返して一息ついてから、側近の者に洩らした。
「戦いのためにのみ訓練している味方の兵が訓練もなにもしたことがない、門徒衆兵団のために釘付けになっているのは、銃砲の弾丸《た ま》に恐れているからだ」
信長は一年前の、設楽ケ原の合戦を思い出した。あの時が、今日と同じようだった。織田、徳川連合軍は約四万、それに対して武田軍は一万五千だった。しかも連合軍は三千の銃砲を持っていた。だが、武田軍の騎馬隊は、その銃砲に向って果敢な突撃を繰り返して潰《つい》えた。鉄砲が馬に勝ったのでは無く、馬止めの柵が進撃を阻止したのである。
「敵は三千梃の鉄砲を持っている。だが、その前には柵もないし、堀も無いぞ」
信長は羽柴秀吉を本陣に呼びつけて云った。
「はっ、たしかに、馬止めの柵もないし、堀もございません」
そう答えながら、秀吉は、信長がなにを考えているかをおよそ了解した。
(お館様は、多少の損害を受けても、一気に敵の鉄砲隊の中に斬りこめば、わがほうが勝ちになると仰せられているのだ)
「そちは、武田軍の戦法を知っているだろう」
そこまで云われると、秀吉は、はっきりと答えざるを得なかった。
「馬を利用して敵の鉄砲隊を蹴散らせとの御諚《ごじよう》とうけたまわり申しました」
「分かったら、その準備をしろ、しかし、余の命《めい》があるまでは動くな」
信長は各大将に伝騎を放って秀吉に云ったのと同じことを告げた。羽柴軍が敵の左翼、佐久間軍が敵の右翼に対して、一気に攻めこむ。それを合図に全軍が突撃に移るという内容のものだった。ごく常識的な攻撃方法だったが、それには更に注文がつけられていた。
(騎馬隊を編成し、一団となって、駈けこみ、鉄砲隊の背後に廻って、斬りくずせ)
というものであった。
これは設楽ケ原の合戦の時、連合軍がもっとも恐れていたことであった。今にして考えると、あの時もしも、武田の騎馬隊がたとえ二百騎ほどであっても柵を破って、鉄砲隊の背後に廻っていたら、と考えると慄然たるものがあった。信長は、その時の恐怖をそのまま作戦として取り上げたのであった。
午後になってから本願寺軍は徐々に前進を始めた。両翼が拡がり出したところを見ると、織田軍を囲んで鉄砲で討ち取ろうという作戦に見えた。
信長の本陣で、法螺《ほら》が鳴った。総攻撃にかかれの合図であった。
織田軍の各隊は、馬を鉄砲の弾丸が来ないようなところに隠し、将兵等は、盾を前にして敵と対峙していたが、本陣からの法螺の合図によって、隠されていた馬に乗った武者が前線に集まり、何時でも突撃ができる態勢を取った。
続いて、鼓と鉦《かね》が乱打された。
突撃が開始された。門徒衆の鉄砲は騎上の武士を狙ったが、なかなか当らなかった。馬が弾丸に当って次々と倒れた。弾丸を受けて奔走する馬もあった。かなりの損害を受けたが、騎馬隊はやがて鉄砲隊を蹴散らし門徒衆の陣内に斬りこんだ。足軽組がその後を追って突入した。
足軽とは現在でいうところの歩兵である。兵農分離を断行した信長の足軽はプロの兵隊であった。槍の使い方も刀の振り方も充分に訓練されていた。門徒衆兵団の素人兵とは比較にならなかった。門徒衆兵団はたちまち斬り崩された。
勝てば勢いづいて、思いもかけないような力を発揮するけれど、負け戦となると、クモの子を散らすように逃げるのが素人兵団の特徴だった。門徒衆兵団は、宗教的に団結していたから、ずぶの素人を集めたのとは違っていたが、騎馬隊を先頭とする信長軍の精鋭に攻めこまれると意外にもろく崩れた。
石山本願寺城へ逃げこむ者が多かったが、逃げ場を失って、信長の本陣近くまで来た一団がいた。
この一団の敗残兵が放った鉄砲の弾丸が、信長の足にかすり傷を負わした。
長い長い戦いの一日は終った。
住吉の戦場には、敵味方の死者併せて二千余の死体が横たわっていた。
住吉の合戦は、信長に大きな挫折感を与えた。彼は石山本願寺城があるかぎり、当分天下制覇はできないだろうと考えた。
信長は力攻めにすることの不利を覚《さと》ると、長期戦に引きずりこもうとした。包囲を厳重にして、足も手も出せないようにして置こうと思った。
時間を稼ぎながら、一方では毛利に揺さぶりをかければ、毛利は海上援助から手を引くだろう。そのときこそ、石山本願寺が亡びるのだ。
信長は大坂城の四方に十ヵ所の付城を設けるほか、天王寺の砦は、城の規模を拡大して、佐久間信盛、佐久間信栄父子を城将及び副将に任じ、そのもとに、進藤山城守、松永弾正、水野監物、池田孫四郎、山岡孫太郎、青地千代寿等の諸将を置いた。
海上に対する備えとしては、住吉の浜に、要害を拵え、間辺《まなべ》七三《しめの》兵衛《ひようえ》、沼野伝内等水軍の将を置いて海上の警戒に当らせた。信長がこれらの処置が終るまで約一ヵ月を要した。安土に帰ったのは六月六日であった。
穴山信君は設楽ケ原の敗戦以来、古府中に居るよりも、駿河の江尻城に居るときのほうが多くなった。遠江全域に亘って家康の侵略が活発になり、やがては駿河にもその触手を伸ばして来ることは明らかであるから、その押さえとして、武田の重鎮穴山信君が駿河に居ることは当然のことと考えられたが、信君が好んで駿河に居るもう一つの理由は、勝頼と顔を合わせたくないということもあった。設楽ケ原の大敗の原因を作ったのは御親類衆筆頭の穴山信君であった。彼は高天神城攻撃の際も、長篠城攻撃の折も、各頭(各部隊)を掌握して采配を振った。勝頼は総大将だったが、実権を持った指揮官は信君だった。設楽ケ原の合戦の折は、勝頼が全軍を指揮する立場にあったが、実際は、穴山信君は、彼自身の考えで勝手に動いた。佐久間信盛の裏切りを信用したのも、信君であり、彼が勝頼の命令にそむいたために、何度かの反撃の機会を逸したこともあった。
信君が勝頼に顔を合わせたくないのは、この負目《おいめ》があるからだった。設楽ケ原の合戦以来、勝頼の前でも、御親類衆の前でも、いままでのように大きな口はきけなくなっていた。だから、駿河に引っ込んでひたすら時の経つのを待っていたのである。
六月に入って間もないころであった。江尻城の門に商人風の男が立って云った。
「京都の武田屋敷市川十郎右衛門様よりの使いの者です」
男は城内に通され、穴山信君と会った。勝頼あてと、信君あての二通の書状を持っていた。差出人は本願寺顕如である。
京都の武田屋敷の市川十郎右衛門は、武田信玄の時代からこの地にあって、天下の情報を探って古府中に送っていた。云わば、武田家の諜報機関の中心的存在だった。
信玄の時代は京都屋敷からの情報は一応、江尻城の穴山信君の手を通して古府中に送られていた。この方がいろいろの点で便利だった。また信玄は、穴山信君の外交手腕に目をつけて、信君の口を通して京都の市川十郎右衛門に、種々の命令を発していた。
信玄亡き後も、この関係はそのまま維持されていた。
本願寺顕如は従来の例のとおり、勝頼宛の書状とは別に、信君宛にも、勝頼宛の書状の内容を更に詳しく説明したものを送って来ていた。
信君は自分宛の書状の封を切った。
《五月上旬の大坂木津川口の合戦と住吉の合戦において、わが軍が大勝利を得たことは既に御承知のことと存じます。信長はこの戦いで、多くの将兵を失って敗退したにもかかわらず、諸国より大軍を集めて、大坂城を包囲しました。しかし、わが方には毛利元就様等の強力な支援がありますから、いささかも困ることはございません。ただ心配になるのは、信長が軍船を集めて、海上より封鎖しようという動きがあることです。こうされたら、大坂城の兵糧は断たれてしまいます。この際、お願いしたいことは、武田の水軍を総動員して、毛利水軍と力を合わせ、織田水軍を二度と立つ能《あた》わざる状態に追いこむよう御協力をいただきたいということです。もともと本願寺家と武田家は先代信玄公のころより固い盟約のもとに織田と戦って参りました。信長が安土城に気を奪われているこの機会に、織田の水軍をたたきつぶせば、彼の海外貿易による莫大な利益は失われ、経済的根拠地の堺の港さえ、その存立が危うくなるでしょう。信長を討つのは今です。今を措いては二度とその機会はないでしょう。勝頼様宛の書状にはそのようにしたため置きましたが、貴殿からも、よろしく、お取りなし下さるように願い上げます》
顕如の手紙には熱っぽい文字が溢れていた。
信君はそれを読み終ると、すぐ本願寺顕如あて返書をしたためた。
《御手紙は拝読した。貴意のとおりだと私も思うが、勝頼様がどう云うか、私には分かりません。設楽ケ原の敗戦以来、とかく勝頼様は消極的になられましたから、あなた様の意見に、直ちに賛意を表するか否かは、きわめてむずかしいことだと思いますが、私としてはできるかぎりの努力をしたいと思います》
という内容のものだった。
信君は使者を返してからも、じっと考えこんでいた。勝頼宛の書状を古府中へ送るかどうかということだった。
(この手紙を見たら、四郎〔勝頼〕は必ず武田水軍を大坂湾にさし向けるであろう。勝てばいい。しかし負けたら、それこそ、先代様が残された大切な遺産を一度に失うことになる。もうしばらく模様を見よう、それからでも遅くはない)
信君は勝頼あての書状をそのままにして置いた。お家のためだと心に云い聞かせながら、実は武田家の統領勝頼に重大なる背信行為をしていたのである。
さらに、それから十日ほど経ってから、毛利輝元から穴山信君あての書状が京都屋敷の手を経て届けられた。毛利輝元と穴山信君とは以前から文通をしていた。輝元はそれまでどおり、勝頼宛に書くべきことを、信君に書き送ったのである。穴山信君が武田家の外交を一手に引き受けていることを知っていたからであった。
《織田信長の海上の動きを封ずるために、瀬戸内の軍船千艘を東に向けて廻航し、織田水軍の息の根を止めようと思っている。ついては、その際、武田水軍も、われらと同調して、伊勢湾内の織田水軍を亡ぼし、その根拠地を攻略して貰いたい。わが方と武田水軍が組めば、織田水軍の覆滅は火を見るより明らかであろう》
という内容のものであった。
しかし、信君は毛利輝元に対しても、本願寺顕如に対すると同じような返事を送った。
毛利輝元からはその後なんとも云っては来なかった。彼は武田水軍のことをあきらめた。自力でやろうと思った。瀬戸内の水軍を集めたら、必ず、織田水軍を打ち破る自信があったのである。
七月十五日の早朝、朝靄をついて、大坂表海上《おおさかおもてかいじよう》(大坂湾上)に軍船団が姿を現わした。その数は大小合計して八百艘であった。
木津口の見張所にいた織田軍の水軍の将、間辺七三《しめの》兵衛《ひようえ》は、直ちに戦争の準備をすると同時に、安土の信長に早馬で急を知らせた。
その日、大坂表海上にいた織田水軍は、
間辺七三兵衛の水軍 三十七艘
沼野伝内の水軍 五十五艘
沼野伊賀の水軍 三十一艘
沼野大隅守の水軍 二十六艘
宮崎鎌大夫の水軍 六十三艘
宮崎鹿目介《しかめのすけ》の水軍 二十三艘
尼崎小畑の水軍 六十二艘
花隈野口《はなくまののぐち》の水軍 四十艘
合計 三百三十七艘
これに対して、西国からやって来た瀬戸内水軍は、
能島《のしま》水軍に属するもの 三百十艘
来島《くるしま》水軍に属するもの 二百六十艘
児玉《こだま》大夫の水軍 八十四艘
粟屋《あわや》大夫の水軍 百三艘
浦兵部の水軍 六十三艘
合計 八百二十艘
であった。
毛利水軍は南風を帆に受けて海上を矢のように進んで来た。織田水軍はこれを木津川口沖で迎え撃つ態勢を取った。八百艘対三百艘では海上で戦えば勝負は明らかだった。なんとかして、毛利水軍を海上より、木津川口砦下の川の中に引っ張りこんで、自由を奪ってから、これを打ち取ろうと考えていた。
毛利水軍はこの作戦を知ってか知らずか、順風にいよいよ高く帆をかかげて、木津口に向って来た。
「それ木津口から川筋へ入れ」
と織田水軍が、身をひるがえそうとした時であった。
木津川の上流から、人の乗らない小舟や材木が、河口に向っておびただしく多量に流れ出して来た。陸上にいた本願寺方が、織田水軍の逃げ口を塞いだのである。
織田水軍が木津川口でまごまごしているところへ、毛利水軍が突っ込んで来て、織田水軍を包囲した。風を利用しての走法はあっぱれであった。
織田水軍は死にもの狂いで戦ったが、圧倒的に優勢な毛利水軍には打つ手がなかった。毛利水軍は、織田水軍に向って、火矢を射かけた。織田水軍の軍船は次々と火を出して沈んだ。
織田水軍は、一艘で敵の軍船二艘ないし三艘を相手に戦わねばならなかった。海上での戦いは、船と運命を共にするか、海中に逃げるか、それとも船の中で斬り死にするか三通りしかなかった。
織田水軍の大将は一人残らず戦死した。船はことごとく沈められた。ごく少数の者が海にもぐって逃げただけだった。
木津川口の海戦は毛利水軍の一方的な勝利に終った。
信長は伊勢湾にいる九鬼水軍を主力とする織田水軍を大坂湾に廻航させようかと一度は考えたが、とても、毛利水軍には敵《かな》わないと見て、思い止まった。
毛利水軍は勝ったが、織田水軍を全滅させることはできなかった。やがて毛利水軍が、西国のそれぞれの基地へ帰るころには、伊勢湾にいた織田水軍の一部が大坂表海上に現われた。堺港を支配する者は依然として織田信長だった。武田水軍がこの海戦に参加して、伊勢湾に侵入したら、おそらく織田信長の水軍は大打撃を受けたであろう。歴史は変わったかもしれない。しかし、それはすべて後の祭りとしての夢物語に過ぎない。
ほうろく、火矢などと云ふ物をこしらへ、御身方《おみかた》の舟を取り籠め、投げ入れ、投げ入れ、焼き崩し、多勢に叶はず、七三兵衛、伊賀、伝内、野口、小畑、鎌大夫、鹿目介、此の外、歴々数輩《すはい》討死候。西国の船は勝利を得、大坂へ兵糧を入れ、西国へ人数打ち入るるなり。(『信長公記』巻九「西国より大船を催し、木津浦の船軍歴々討死の事」)
十四歳の花嫁御寮
安土城が完成した日は明らかにされてはいないが、天正四年(一五七六年)の暮れまでにはほぼでき上がっていたものと見てよいだろう。
『信長公記』によると、二層の地下倉庫(石造)の上に五層の天守閣が聳え立つものであった。
一層、二層の屋根は特に目立つものではないが、三層の屋根は入母屋《いりもや》造り、四層の屋根は八角、五層の屋根は方形だった。屋根だけでも、このような工夫をこらしているから、内部は金銀を多量に使い、当時の名人と云われる者をことごとく総動員し、金に糸目をつけずに造らせた文字通り絢爛豪華《けんらんごうか》な大建築物であった。各層の広間の襖《ふすま》や板壁には、名のある絵師、彫刻家を招いて、花鳥画、仏画、漢画等をえがかせた。こうしたところから見ると、安土城という名の城は、城ではなく、御殿でもなく、寺塔でもなく、信長独自の構想による夢の楼閣であった。
信長は欠点の多い人であったが、思い切ったことをするところに天才的な素質があった。天下統一に近づいたことを天下に誇示するための安土城築城であると同時に、日本の芸術をこの城に集中しようという意図もはっきりと表わしている。
信長は能力主義を主張する人であった。この築城にも、その配慮がはっきりと出ている。
金具師後藤平四郎、台阿弥、漆師首《ぬしがしら》刑部《ぎようぶ》三左衛門、白金屋《しろがねや》宮内遊左衛門、瓦師唐人一観《とうじんいつかん》、絵師狩野《かのう》永徳《えいとく》など『信長公記』に記録されている人たちはすべて信長の目にかない褒美を貰い、その腕前をたたえられた人たちだった。
信長は芸術家、技術家たちに天下一の名を与えることを好んだ。天下一の絵師もあり、天下一の釜師もいた。伊阿弥宗珍《いあみそうちん》はもと、足利将軍家に仕えていた畳刺し(畳大工)であったが、信長は宗珍の畳刺しとしての腕を認めて、従五位下石見守《いわみのかみ》に叙任させ、天下一の称号を与えた。
従五位下石見守と云えば、この当時、官位が下落していたとは云え、かなり高い位であった。この位が畳刺しに与えられたのである。
信長は職業に貴賤の差別をつけず、能力ある者は惜しみなく抜擢《ばつてき》した。信長の天才たるところはこのあたりに光っていた。
安土城完成の報が古府中に入ったころ、古府中では、武田勝頼と北条氏政の妹佐代《さよ》姫との縁談が進められていた。
もともとこの縁談を云い出したのは春日弾正(高坂弾正)であった。彼は設楽ケ原の敗戦処理に当って「北条と武田の縁組」そして「敗戦責任者の穴山信君の切腹」の二項目を高く掲げた。彼は、御親類衆第一位の穴山信君に切腹しろと云えるほどの地位にはいなかったが、武田信玄の第一の寵臣であったから、いざというときは自分も腹を切る覚悟で云ったのであろう。
武田氏と北条氏は、武田信玄の晩年のころ、一時的に敵味方になったこともあったが、もともと同盟国として共通の敵上杉謙信に当って来た間柄であった。縁組をしてもいささかもおかしいことではなかったが、武田側にとっては設楽ケ原の大敗北の後であるから、云い出しにくい立場にいた。
武田家の重臣たちは相談して、まず第一に勝頼の気持をはっきりさせてから、北条氏に当ることにした。勝頼の説得には跡部勝資が当った。
勝資が北条氏との縁談を持ち出すと、
「佐代《さよ》姫はいくつだ」
と勝頼は訊《き》いた。
「十四歳になられます。絶世の美人とうけたまわっております」
というと、
「十四歳、まだ子供ではないか」
と云って、勝頼は浮かぬ顔をした。
勝頼は永禄八年(一五六五年)、信長の養女(血筋の上では信長の姪)の雪姫を正室として迎えた。勝頼が二十歳、雪姫が十五歳であった。その雪姫はその翌々年嫡子信勝を生んで、彼女自身は死んだのである。
勝頼はその雪姫のことが未だに頭の中にあった。
「十四歳と云えば年ごろでございます。けっして子供ではありません」
初潮さえあれば一人前の女として扱われる時代であった。勝資の云うことにはいささかも間違いはなかったが、しかし、雪姫のことが頭の中にある勝頼には不愍《ふびん》という気持が先に立って、すぐその話に乗る気にはなれなかった。
「このことはお館様自身のことのみならず、武田家の将来のためでもございます」
と勝資がいうのを聞くと勝頼は、結局、この政略結婚を承知せざるを得ないのではないかと思うのである。
「だが、北条の考えもあろう」
と勝頼は云った。そのことが一番心配だった。設楽ケ原の敗戦で急に落目になった勝頼を、北条側はいったいどのように見ているだろうか。
「その方は大丈夫です。それとなく、探りは入れてありますが、今のところ、当方よりの申し込みを断わることは十中八、九はございません。北条にとって武田家は依然として、おろそかにはできない存在だからです」
勝資は自信ありげに云ってから、北条氏政の立場を説明した。北条氏は、上杉とは和平ができたものの、もし武田が駿河から引き揚げるようなことになれば、徳川と戦わねばならないことになる。その背後には織田信長がいる。氏政としてはこれ以上武田氏が落ち込むことは望ましくはなかった。
北条氏は氏康の時代から天下を狙ってはいなかった。関東を掌中に収めておればそれでよいのである。そのためには同盟国の武田が安泰であって欲しかった。
勝頼は頷いた。勝資の云うことは分かるが、なんとなく気が進まない結婚だった。北条氏と縁組して、どれだけ利益があるかと考えても、はっきりこれだと答えになるものはなかった。それに勝頼は個人的に氏政という人間が好きになれないのである。
(日和《ひより》見《み》主義者の氏政)
勝頼の頭の中には、そのような考え方が、ないではなかった。
三方ケ原の合戦の折には、武田信玄の手前、申しわけのように北条勢が加わったが、信玄の死後の合戦には加勢を送ろうなどと云って来たことは一度もなかった。同盟国でありながら、実際には、ただ国境を接しているということだけで、ほとんど交渉は無かったのである。北条氏政は、信玄が生きていたころには、武田にはよい顔を見せていたが、勝頼の代になると、知らんふりをしている冷たいやつというふうに、勝頼には受け取られていたのである。
その氏政の妹を貰ったところで、どれほどのことがあるだろうか、と勝頼が考えるのは無理ないことだった。しかし家臣たちは、北条とより以上密接になることを望んでいた。その裏には、設楽ケ原の合戦以来の武田の劣勢に対して、北条の支え棒が欲しいという気があったからである。
「では話を進めてよろしいでしょうな」
「よろしい」
勝頼はそう云った瞬間、嫁いで来たばかりに、よく泣いていた雪姫のことを再び思い出していた。数え年十五歳の十一月に嫁に来て、半年も経たないうちに妊娠して、十六歳の年の二月に信勝を生んだ後、産褥熱《さんじよくねつ》にかかってはかなく逝った雪姫のことが思い出されたのである。
跡部勝資は勝頼の承諾を得ると、いよいよ積極的に佐代姫との婚儀の話を進めていった。勝頼の正室は雪姫であったが、雪姫が死んでから、側室には、お福、美和、和可、の三人がいたが正室の座は空いていた。北条氏政の正室(既に死亡)は勝頼の姉であったという関係もあり、今度佐代姫(母は武田氏ではないから、勝頼の姪ではない)を迎えることに異議を唱える者はなかった。
武田氏と北条氏とは長い間のつき合いがあったから、両家の間には知り合いが多く、話はどんどん進んでいった。
婚儀は天正五年に入って早々に行おうという話まで決まり、双方が結納まで取り交わした。後は日取りの決定であった。
結婚の日取りは嫁の方で決めるのが習慣になっていた。武田ではその日を待ったが、天正五年と年が改まっても、日取り決定の使者が来ないのである。
跡部勝資は不安に思ったので、信玄の時代に北条との使いを一手に引き受けていた寺島甫庵の息子寺島喜庵を小田原へやって、それとなく様子を探らせた。
喜庵は小田原の丹沢与衛門を訪ねた。
丹沢与衛門は北条氏康の時代に、武田、北条両家の間に立って活躍した人であったが、今は老齢を理由に致仕《ちし》して、家に引きこもっていた。
丹沢与衛門は、寺島喜庵の顔をしばらく見ていたが、
「私はこのところしばらく、お城へは行っていませんから、事情はよく分かりませんが仄聞《そくぶん》するところでは、佐代姫様にもう一つお話があるとかあったとか」
与衛門は、びっくりするようなことを云った。
「冗談ではございません。もう結納を交わされたのですよ」
と喜庵が云うと、
「すると、その話は、今度の話より前の話だったかな、佐代姫様が欲しいと云って来られたのは、たしか織田殿だったと聞いたが」
と云う。喜庵が、織田信長が誰の正室として佐代姫を望んでおられるのかと突っ込むと、
「いやいや、どうやら、わしの聞き違えだ。佐代姫様は近ごろ、健康が勝れないと聞いている。だから、日取りが延びているのだ。そうだ。そうだ。そういうことだったのだ」
ととぼけるのである。さんざんとぼけた後で、与衛門は、織田信長が、安土に大廈高楼《たいかこうろう》を建てた話をした。
「南蛮はもとより、唐《から》、天竺《てんじく》にもないようなものだそうですよ」
と讃めた後で、
「いよいよ、信長様は天下に号令なされるおつもりらしい。それに先だって、いろいろと趣向のかわったやり方で、諸大名の心をためすらしい。最近は、毛利の女《むすめ》を嫡子信忠の正室に寄こせと云ってやって、毛利にことわられたとか」
そんな話もしたあとで、
「いろいろと天下が騒がしい折ゆえ、跡部殿にも、けっして短気なことをせぬようにとお伝え下され」
なにがなんだか分からないままに寺島喜庵が丹沢与衛門の家を出ようとすると、門まで送って来た与衛門は、
「水の流れは結局は落ち着くところへ落ち着きます。それまではけっして無理なさらないようにと、お伝え下さい」
と云った。
寺島喜庵の報告は跡部勝資だけではなく武田家すべての者を驚かせた。
武田家は正式な使者を立てて、既に結納も済んでいることでもあるから、輿入《こしい》れの日をお知らせ願いたいと云ってやった。
言葉は丁寧だった。それに対して北条家からは、
「佐代姫はこのごろ健康が勝れぬゆえ、医者に診せたところ、ここしばらくは輿入れの儀は延期したほうがよいということだから、まことに申しわけないが、ことがことゆえ、当分御猶予お願い申し上げたい」
という返事があった。
こう云われると、嘘だろう、他になんか曰《いわ》くありそうだとも云えずに、様子を見守ると共に、諸国御使者衆に命じて、丹沢与衛門が云ったことがほんとうかどうかを確かめることにした。
遠江にいる諸国御使者衆の奥山組の奥山庄兵衛から情報があった。
徳川家康の家来で山岡半左衛門が北条氏との間を往復している。内容は分からないが、新たに、北条氏と徳川氏との間でなんらかの交渉がなされていることは事実らしかった。
天正五年の四月になった。
京都の武田屋敷の市川十郎右衛門から新しい情報が入った。織田信長が茶の席で佐久間甚九郎(佐久間信盛の嫡子で茶の湯の名手佐久間信栄)に云った言葉が探知されたのである。それは、
(北条氏政の女《むすめ》を三男の信孝の正室に迎えるつもりだ)
という短い言葉だったが、自信に満ちたものであったと、市川十郎右衛門よりの書状には書いてあった。
古府中の躑躅《つつじ》ケ崎の館ではこれらの情報をもとに評議がなされた。
「北条氏政殿のやり方はきたない。結納まで交わしておきながら織田信長との縁談を進めるとはもっての他のことである。こうなったら、こちらから輿入れの期日を指定し、もし相手がそれを拒否した場合は、実力をもってしても、佐代姫を頂戴つかまつろうではないか」
という激しい意見と、
「いま、わが武田はどこの国ともことをかまえたくはない。設楽ケ原合戦の傷をいやし、武田軍再建にのみ力を入れている矢先に北条氏との同盟を破るなどということはできない相談だ。おそらく北条氏政殿は織田信長のいやがらせに困り果てて、時を稼いでいるのに違いない。もう少し待ってみよう。輿入れが一ヵ月や二ヵ月遅れてもどうっていうことはないだろう」
と慎重論を唱える者との二派に分かれた。勝頼は慎重論を取ることにした。
そのころになって、小田原に忍ばせてある諸国御使者衆の内田幸右衛門が、くわしい情報を持って帰って来た。
勝頼は内田幸右衛門からその事を直接訊いた。傍に、跡部勝資と真田昌幸がいた。
武田勝頼と佐代姫の結婚の話が織田信長の耳に入ると、信長は直ちに、その話をぶちこわして、北条家と武田家を不和にするようにせよと家臣に命じた。その策の一つとして、佐代姫を織田信長の三男信孝の正室として迎えようとしたのである。
織田家と北条家とは過去において、一度も合戦を交えるようなことはなかった。あったとすれば三方ケ原の合戦で北条の援軍が、徳川方に味方した織田勢と戦ったことくらいのものである。
「織田と北条との関係を織田信長殿が重視されるようになったのは、加賀越中でいよいよ上杉勢と織田勢とが正面衝突をせざるを得ない状態になったからだと思います」
内田幸右衛門はそう説明した。
「織田殿は、武田、上杉、北条が一団となって、向って来たらたいへんなことになる。今のうちに北条を味方につけておこうと考えられたのだと思われます」
なるほどと勝頼は頷いて、真田昌幸の顔を見た。昌幸も相槌を打っていた。
「それで織田信長は、どのような手を打ったのだ」
跡部勝資が訊いた。
「徳川家康の家臣の山岡半左衛門が北条氏に顔見知りが多いから、この者をまず使者に立てました」
内田幸右衛門は答えた。
信長は、はじめのうち、徳川家康を仲介として信孝と佐代姫の縁談をすすめていたが、天正五年になると、信長自らが使者を送って、佐代姫の輿入れを強く要求した。
《佐代姫と武田勝頼殿とは既に結納を交わしました。婚約中であります》
と云って、氏政は丁寧に断わったが、そんなことで簡単に引き下がる信長ではなかった。
信長は、これまでもしばしば使ったような贈り物戦術に出た。南蛮渡来の屏風、壺、虎の敷物等、高価なものを贈って北条氏政の機嫌を取るかたわら、もし結婚を承知するならば、鉄砲五百梃を送ってもいいとまで云った。氏政が鉄砲を欲しがっていることを知っての上の誘いだった。
北条氏政の家臣団の中には、この際、武田との盟約を破ってもいいから信長に従うべきだという者もあったが、これに対して、
「武田家との同盟は先代様(北条氏康)からのこと、目先の利益だけで節を曲げるようなことをしたら、関東の諸将からも見放されること疑いなし」
と云って反対したのは家老の松田尾張守憲秀であった。
北条氏内部がこのことで二つに分かれそうになっているとき、思いもよらぬことが起こったのである。
六月十五日の真昼間、佐代姫がひそかに小田原城を脱出して、古府中に逃れようとして、門番にとがめられ、城内に連れ戻された事件である。
「なに、佐代姫が、なぜそのようなことを」
勝頼はそこではじめて口を出した。
「佐代姫様はお館様と婚約をなさった以上、お館様以外に夫たるべき人は居ないと一途に思いこみ、侍女等も、佐代姫様のお心に同情して小田原城脱出を計ったのでございます」
内田幸右衛門はそのように答えて、更に詳しい事情を述べた。
十四歳の佐代姫は勝頼の正室となって古府中に行くと決まったときから、まだ一度も会ったことのない勝頼のことを思い続けていた。
「勝頼様ってどんなお方なの」
と侍女に訊けば、
「それはそれは立派な殿方だとうけたまわっております」
と侍女は答える。佐代姫はその立派な殿方をあれこれと心の中で想像し、自分自身で武田勝頼という理想像を描き、その彼に思いをはせ、やがて恋い慕うようになったのである。男性というものにほとんど会わせないままに育てられて来た姫とはこういうものであった。
その佐代姫が、織田信長の三男の信孝から貰いがかかり、兄氏政も織田信長の現時点における権勢を勘案して、勝頼との婚約を破棄しても織田信長と親交を結ぶかどうかについて考慮中だと聞くと、その日から食事が咽喉を通らぬようになった。
「兄上が織田信孝様のところへ嫁に行けというなら私は死んでしまいます」
とまで云ったのである。侍女たちが、佐代姫の心情を汲んで、氏政にいろいろと進言したが、女は道具としか考えられていないこの時代において、氏政とて例外ではなかった。
「佐代の嫁ぎ先は姫が決めるのではない。この氏政が決めるのだ」
という一言によって佐代姫の気持は無視されたのである。
佐代姫が小田原城脱出を計ったのはその翌日であった。佐代姫の侍女が死を覚悟で、姫に協力したことが問題を更に大きくした。
「それでどうしたのだ」
と結論を急ぐ勝頼に向って、内田幸右衛門は、
「おそらく輿入れは八月となるでしょう」
と云って平伏した。
氏政は末の妹がかわいそうでならなかった。特に父氏康が目に入れても痛くないほど可愛いがっていた佐代姫でもあったから、それほど勝頼のところへ行きたいならばという気持にもなるし、氏政の気持も、織田信長のあまりにも高飛車な出方を面白くなく感じ始めていた折でもあったので、予定どおり勝頼のところへやると決めたのである。武田びいきの家老、松田憲秀が城内の輿論《よろん》を統一したのもこの事件の直後である。
北条は織田を嫌い、武田との友好関係を持続することになった。
「佐代姫様はすっかり丈夫になられましたので、いよいよこの八月ころ輿入れの儀を取り計らいたいと思います」
という北条氏からの四角ばった使者の口上を聞くと、武田家の方でも、なにもかも知っていながら、
「それはようございました。では早速、婚礼の準備に取り掛かることにいたしましょう。なにはともあれお目出たいことでございます」
と答える以外に手はなかった。
佐代姫の輿入れは天正五年(一五七七年)八月に行われた。行列の長さ数丁にも及ぶような、豪華なものだった。
「これで武田家は再び興隆に向うだろう」
古府中の人々は勿論《もちろん》のこと甲斐の国のすべての人々はこの結婚式を喜んだ。
勝頼は、佐代姫が城を脱け出して古府中に来ようとしたという話を聞いて以来、佐代姫に対して、単なる政略結婚以上のものを感じていた。
輿に乗って古府中に来た十四歳の花嫁御寮《ごりよう》は痛々しいほど可憐に見えた。婚儀の席では周囲の者に云われるとおりにしていたが、動く人形のように表情は固定したままだった。
佐代姫は彼女のために新築された新殿《にいどの》へ迎えられ、いよいよ床入りとなったときも、小田原から従って来た侍女さつきに云われたとおり、なんの恥らいもみせず、帯を解き寝間着に着替えた。枕元に鴛鴦《おしどり》の屏風が立て並べられていた。
そこで姫は勝頼を待った。勝頼の足音を聞いただけで、姫の心臓は早鐘のように鳴った。
「姫、坐るがよい」
と勝頼は褥《しとね》の上に坐って云った。
さつきが教えてくれた順序とは違っていたが、なにもかも殿様のなされるようにするがよいと云われていたから、勝頼に云われるままに褥の上に坐り直して返事をしたのである。
「姫の夫となる余の顔をよく見ておくがよい。余も、正室となる姫の顔をよく見ておこう」
それがどういう意味か佐代姫には分からなかったが、勝頼の云うなりにした。
姫はこの時はじめて勝頼の顔を見た。婚儀の席では、ずっとうつ向いたままだったから、見たくとも見ることはできなかった。
勝頼は母の湖衣姫《こいひめ》に似て美男子だった。鼻が高く、眼が澄んだ、面長な顔だった。口もとがきりりとしまっていた。
佐代姫が想像していた男よりもはるかに立派な男だった。
「姫はいくつになる」
と勝頼は訊いた。
「はい、十四歳になります」
「余は三十二だ、随分《ずいぶん》と年は違うな」
勝頼はそう云って笑った。引きしまった口元がほころびると、勝頼の顔かたちもまた変わった。佐代姫はつられて笑った。こういう場合、笑っていいのかどうか侍女は教えてくれなかったが、笑ってしまったからには取り返しがつかなかった。
「十四歳にしては身体は大きいほうだな、どれ……」
と云って、勝頼は両手を延ばして、佐代姫を軽々と抱き寄せると、彼の膝の上に置いた。
佐代姫は男の膝の上に抱き取られたことなどかつて経験したことはなかったし、勝頼がなんのためらいも見せずにそれをしたので、かなりあわてた。本能的にそこから逃れようとして身体をよじりながら、
「姫様、殿様がなにをなされても抗ってはいけません」
とさつきに云われたことを思い出した。いよいよ、その時が来たのだと思った。彼女は目をつぶった。
「姫様、いざというときはお目をおつぶりなさいませ、そうすれば恥かしいことでも我慢できます」
と云われたことを思い出したのであった。
勝頼は佐代姫を膝に抱き、彼女の背に両手を廻して、震えている彼女の胸を力いっぱい抱きしめながら、目を閉じたままの彼女の唇に口づけをした。
姫はその時を待っていた。侍女のさつきが枕絵を見せながら説明してくれた男と女の営みがどのようなものか、もう間も無く分かるのだと思った。
姫は絵の中に書かれたあられもない女の姿を自分にあてはめ、たくましい男の裸姿を勝頼に置き替えて想像していた。しかし勝頼は彼女の着物に手を掛けようともしないし、あの絵に書かれてあるように、恐ろしいほどたくましいものを、彼女のそこに持って来ようともしないのである。
しかし彼女は勝頼に抱かれているだけで、幸福だと思っていた。なにか身体が次第次第に溶けてゆくようにも思われるのであった。
衾《ふすま》に入って横になってからも、勝頼は、彼女が絵で見たようなことはしなかったし、さつきが教えてくれたようなこともしなかった。
彼は、彼女を人形のように愛撫するだけだった。髪を撫でたり、抱きしめたり、口づけをしたり、そんなことが半刻(一時間)ほど続いた後で、
「今宵は更けた。明日はまたいろいろと祝いの行事がある。はや、眠るがよい。ゆっくり眠るのだ」
彼はそう云うと、彼自身軽い寝息をかよわせながら眠ってしまった。彼女はなにか置いてけぼりを食わされた気持のままに、間も無く眠った。
翌朝、姫は侍女のさつきに訊かれるままに昨夜のことを話した。
「まあ、なんと思いやりのある殿様でしょう。きっと、姫様を心から案じなされているからですわ」
とさつきは云った。
第二夜も第一夜と同じようだった。ただ第一夜と違ったのは、勝頼の手が姫の寝間着の下に入って彼女の乳房に触れたことだった。
勝頼の手が胸に触れたとき、彼女は思わず声を出したほどの衝撃を受けた。しかし、彼は長いことそれをやさしく愛撫しただけで、
「まだまだ祝いは続く、いい加減にして、二人だけに成りたいものだ」
と云ったあとで、すぐ眠りに入っていった。二人だけでいるのに、なぜあんなことを云うのだろうと彼女は不思議に思っていた。
第三夜も第四夜も同じであった。前と違ったことは愛撫の時間が更に長くなっただけだった。
「お館様はなぜあの絵のようなことを私に求めないのでしょうか」
佐代姫は侍女のさつきに訊いた。
「きっと今宵あたりは……」
さつきもそう云って含み笑いをしてから、
「姫様の方からお手を出したらいかがでしょうか」
と云った。手を出せと云っても、どこへ手を出していいのか姫には分からなかった。訊けもしなかった。ただ、寝間において、積極的になれと云っていることだけは分かった。
第五夜も勝頼の長い長い愛撫が続いた後で、もう寝ようと云って、前の夜と同じように、勝頼は彼女の傍から離れようとした。
「いやよ、いや」
と彼女はそう云うと、勝頼の手を取って強く引いた。なぜそんな言葉が出たのかそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。云ってしまって彼女は恥かしかった。彼女は、両手で顔を覆った。
その彼女の身体の上に勝頼はかぶさりかかって来た。彼女は顔を覆ったままで成り行きにまかせていた。絵で見たことが、そのとおりなされようとしていた。侍女のさつきが、
「はじめてのときは、多少なりとも痛みをおぼえます」
と云ったとおりのことがなされようとしていた。彼女は全身を固くしてそれを待った。
翌朝、さつきは姫になにも訊かなかった。さつきの顔をまともに見ようとしない姫の挙動で、さつきは事実上の結婚式が昨夜無事終ったのだと思った。
さつきは、その日小田原あてに床入りが無事済んだことを報告した。
勝頼は十四歳の少女に恐怖感を与えないように心を配った。すべてが終ったとき彼は、雪姫にもこのようにしてやればよかったと、十年以上も前のことを思い出していた。若気のいたりで一方的にそれを求めて、彼女を悲しませたことが、ついきのうのことのように思い出された。
佐代姫は勝頼に夢中だった。彼女は十四歳の少女のひたむきな恋の炎に焼かれようとしている自分を感ずることがあった。
日が暮れないうちから侍女のさつきを迎えによこす佐代姫の情熱には、勝頼がむしろ当惑気味だった。他の三人の側室のこともあった。正室のところだけに入りびたりというわけにはいかなかった。しかし、幸福の絶頂にいる佐代姫にそんなことは云えなかった。
「おかしなものだ。向うが夢中になると、こっちも好きになる」
勝頼は佐代姫のことを侍臣にそのように洩らした。勝頼にとって、北条との結婚は春との再会のようなものであった。政略結婚などということを忘れて、無限な可能性を秘めた、佐代姫の白い肉体を求めながら、夜な夜な回廊を廻って新殿へ行く勝頼の心は設楽ケ原合戦以来、はじめて開いていた。
なにか前途に明るいものが待ち設けているようであった。
天正五年丁丑に小田原より甲府へ「御」輿入候て、氏政公の御妹聟に勝頼公成候。(『甲陽軍鑑』品第五十三)
天正五年八月に小田原より、甲府へ輿入あって、両家の臣等、悦ぶこと限なし。(『武田三代軍記』巻二十)
梟雄《きようゆう》松永弾正最期の日
勝頼が北条氏政の妹の佐代《さよ》姫を正室に迎えるか、それとも、織田信長が佐代姫を三男信孝の正室として迎えるかは、天下を二つに分かちつつある信長勢力圏と、反信長勢力圏の間における重大な関心事であった。天正五年(一五七七年)はこの問題がどうなるかによって、天下の形勢が変わるとまで云われていた。
このまま、信長に従うべきか、反信長勢力を結集して信長に逆らうべきかに迷っている、中、小大名の多くは、この成り行きを見守っていた。
北条氏政の妹、佐代姫と武田勝頼との婚儀の日取りが八月の半ばと発表されたのは七月に入って直ぐであった。
婚儀の日取りが発表されると同時に信長からの申し入れを氏政がきっぱり断わったという情報が、各地に伝えられると同時に、急に世の中が騒々しくなった。
上杉謙信はその報を聞くと、膝を叩いて、養子の景虎(北条氏政の弟)に云った。
「これで、上杉、北条、武田の三家は結ばれることになる。今こそ、織田信長を倒す時である」
謙信は、信長の増長ぶりに我慢がならなくなっていた。特に天正元年の越前における信長の殺戮《さつりく》作戦は、人道的に許すべからざるものと考えていた。信長は一向宗に関係ありと思われる者は、老若男女の別なく、三万人も殺したのである。その信長が加賀から越中にかけて勢力を延ばして来たからには、間もなく越後にも兵を入れるだろうことは予想された。謙信は自衛上信長を叩かねばならなかった。足利義昭はこのような情勢の中で、まず上杉と毛利を結ばせ、次に上杉、武田、北条の講和に奔走した。上杉と本願寺派との講和、提携が成立したのは天正四年のことである。上杉、毛利、武田、本願寺、北条はほぼ反織田勢力としてまとまりつつあった。
上杉謙信は、
「七月(閏七月)になったら、出兵して、織田軍を加賀、越前から一気に追放し、そのまま京都におし上るぞ」
と云った。加賀、越前から織田勢力を追い払うことはできてもそのまま京都まで攻め上るのは少々無理ではあったが、謙信ははっきりと西上を口にした。士気を鼓舞するためでもあった。
謙信は西上の戦布令《いくさぶれ》を出すと同時に、毛利輝元、北条氏政、そして武田勝頼の三大名に書状を送ってこれを伝え、それぞれ協同作戦を取って、織田信長を倒そうと計った。
毛利輝元には、水軍(海軍)を以て大坂湾(大阪湾)を制覇するよう依頼し、北条氏政、武田勝頼には、徳川勢を釘付けにするよう牽制して貰いたいと依頼した。
そして、大坂城(石山本願寺城)の本願寺顕如には、織田勢が手薄になった隙を衝くように依頼状を出した。
本願寺顕如からは、
《待ちに待った仏敵討滅の日が参ったことを心からお喜び申し上げます。上杉殿が、加賀、越前に兵を入れたならば、わが方は京都周辺の同志と力を合わせ、必ずや、お心に添うような軍事行動に出るでしょう。この次、さし上げる書状には必ずよき知らせをも添えることとなるでしょう》
という意味ありげな書状が届いた。
よき知らせとはなんであるか謙信にはよく分からなかったが、顕如の自信ありげな書状の内容には心を強くした。
毛利輝元からは、上杉謙信の西上を心から喜ぶ旨の返書があった。
《わがほうは今、直接、間接に織田軍侵略の脅威にさらされている城が十ほどもあります。上杉殿が西上されるならば、わがほうもまた東上して、一気に織田の息の根を止めようと思います。そのつもりで軍を整えます》
毛利輝元からの書状の内容はこのように勇ましいものではあったが、実質的なものはなかった。水軍を派遣して大坂湾を封鎖して貰いたいという依頼に対しては一言半句も触れてはいなかった。
「まだまだ毛利輝元は織田信長がいかなる人間かを知らないのだ」
と上杉謙信は云った。毛利は、今度の西上作戦に対して当てにはならないと見たのである。
北条氏政からは、
《書状のおもむき承知つかまつりました。武田殿とも相談して、遠州に兵を入れること、しかと約束いたしました》
という内容の返書があった。
武田勝頼からは、
《織田信長こそ、日の本の敵、貴殿が信長追討に意を決せられたることは大慶至極と存じます。御申し入れのとおり、吾等とて、この機会を逸すべきではないから、早速、大軍を発して遠州に入り、徳川家康を追い立てる作戦に出ることを確約いたします。万全の手を尽し、徳川勢の一兵たりとも加賀、越前には向わせぬようにいたしますゆえ、一日も早く西上あらんことをお願い致します》
という内容の返書があった。
上杉謙信は満足した。
「西上作戦に際してもっとも頼りになるのは、武田と本願寺だな」
と思わず側近のものに洩らしたほどであった。
上杉謙信は天正五年閏七月十三日に春日山城を出発して、十七日には越中の氷見《ひみ》に至って陣を張り、能登の形勢を観望した。
能登を制覇するには、その中心七尾城を落とさねばならなかった。その七尾城は織田信長方に属していた。七尾城は堅城であって、これを抜くのは困難であったから、支城、属城を次々と落として、七尾城を孤立させると同時に、七尾城を包囲し、親上杉派に働きかけて、自落の方向への調略をすすめていた。
七尾城は親織田派の家老長綱連《ちようつなつら》を除かないかぎり、自落しないと見られていた。九月に入ってから、七尾城内の親上杉派の遊佐続光《ゆさつぐみつ》、温井景隆《ぬくいかげたか》等が上杉謙信の誘いに応じて城内で反乱を起こし、長等親織田派の首領を殺し九月十五日に七尾城を開城した。
河田長親と鰺坂《あじさか》長実の両将が七尾城に入った。
ほぼ同じころ、珠洲《すず》郡の松波城が落ちて、城主松波義親が戦死した。これによって、能登は完全に上杉の勢力下になった。
織田信長は、加賀、能登方面に上杉謙信が現われたと聞くと、直ちに柴田勝家を総大将に任命し、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄、不破彦三、前田利家、佐々成政、金森長近等の一万八千の大軍を編成して加賀に向わせた。
これだけの部隊を編成するからには当然信長が総大将として出陣すべきであったが、信長は毛利氏や、石山本願寺等の動きを警戒して、安土城に止まっていた。
織田信長という人は妙に勘《かん》が働く人であった。加賀、能登のことは心配だったが、中央を離れることのほうがもっと心配だった。なにかが起こりそうな気がしたからであった。
信長から総大将を命ぜられた柴田勝家はいささか得意であった。これだけの軍勢があれば一気に上杉勢を加賀、能登から追い出すことができるだろうと思っていた。越中も攻略できるかもしれない。
「だが今は七尾の城を救うこそ急務、いそげいそげ」
と柴田勝家はひたすら、軍を北進せしめようとした。
羽柴筑前守秀吉が、
「いたずらに北進するのは危険、敵の動きを充分掴むことこそ肝要」
と軍議の席上で発言した。小松村(現在の石川県小松市)でのことだった。
軍議に先だって情報分析をするのが当然なのに、柴田勝家は、それをせず、進むことしか考えようとしなかったから、たまりかねて秀吉が云ったのである。
「そんなことはそちに云われなくとも分かっておる」
勝家は秀吉を成り上がり者という目で見ていたから、軍議の席上でも、とかく秀吉を低く見る癖があった。そちと云ったのも、秀吉を下に見ているからこそ出た言葉であった。
「では、軍議に先だって、敵情をつぶさにされてはいかがでしょうか」
秀吉は正論を吐いた。
「敵情にはここのところ変化はない。敵情に変化がないから、そういうことは略して、本論に入ったのだ」
しかし、秀吉は飽くまでも、敵情についての説明を求めた。
柴田勝家は、他の部将も居ることだから、それ以上秀吉と論争することの非をさとった。
「敵は七尾城を囲んでいる。七尾城はわれらの到着を待ちながら勇敢に戦っている」
柴田勝家は答えた。
「それはしばらく前の情報でしょう。それがしが物見を発して探ったところによると、七尾城を囲んでいる軍はおりません」
秀吉の一言によって勝家はひどく面目を逸した形になった。
「何故、余計なことをするのだ。物見をしろと、そちに命じたおぼえはない。しかもそのような誤った物見では、合戦の役には立たぬ」
と勝家は強がりを云ってから、佐々成政に向って訊ねた。
「物見の役は、かねてからそちに命じてあるが、その後のことをくわしく述べてみよ、七尾城は上杉勢に囲まれておろうぞ。な、そうであろう」
囲まれていると、答えよと佐々成政に要求したのである。
「確かに上杉勢によって一時的には囲まれましたが……」
佐々成政はそこまで云ってから、後を云い渋った。
どうしたのだ、と柴田勝家に催促を受けると、
「わがほうの物見や間者が、次々と捕えられたり、殺されたりしたために、的確なことがよく分かりません」
と成政は逃げた。勝家と秀吉の論争の中に立たせられるのが嫌だからだった。
「全然なにも分からないのか」
「いいえ、そうではありません、風聞のようなものなら知っていますが、なにぶんそれは風聞ですので」
「風聞でもいいから云ってみよ」
佐々成政は困り果てた顔で云った。
「ただいま、筑前殿が云われたとおり、七尾城を囲んでいる者は居ないとのことでございます」
「なぜそれを早く云わなかった」
と怒る柴田勝家の顔を見ながら、佐々成政は困った人だと思っていた。
その情報は軍議を開く直前に入ったものであった。それを、柴田勝家に報告する前に軍議が始まったのである。軍議に先だって、当然、敵情の分析が行われるから、その時に発言しようと思っているうちに、こういうことになってしまったのである。
「それがしが探らせたところによると、七尾城内部では、上杉派と織田派の二つに分かれて睨み合いを続けているとのこと」
と秀吉が発言した。
「そのことについては、それがしも耳にした。上杉派は遊佐続光、温井景隆の二人、味方は家老の長綱連、双方が、互いに反目し合っているらしい。謙信が七尾城を包囲せずに眺めているのは、上杉派が勝つという自信があるからではないでしょうか」
前田利家が発言した。
「それにしてもおかしい。もし、そうならばなぜ、長綱連はその内部事情を味方へ知らせて寄こさないのだろうか」
不破彦三が云った。
「どうもおかしいな、七尾城になにか突発事件でも起きたのではなかろうか」
金森長近が云った。
七尾城の情勢について、次々と諸将が不審を抱く中にあって、総大将の柴田勝家だけは、
「だからこそ、一日も早く七尾城に接近して様子を見るのが当然の処置であろう」
と云った。
「すると修理殿(柴田修理亮勝家)は、一万八千の大軍を率いて手取《てどり》川を渡れと云われるのですか」
秀吉が発言した。
「われわれは上杉謙信と雌雄を決せんがためにここまで来たのだ。待っていても敵は来ない。進んで敵地を攻略してこそ敵は現われるものぞ」
勝家は云った。
「進むにしろ、退くにしろ、まず敵情を確かめてからにするのが兵法というもの。七尾城がどうなっているか分からないで、敵地に入るのは危険です。或いは七尾城は既に敵の手に入っているのかもしれません。だとしたら作戦を考え直さねばならない」
秀吉が云った。それを聞いて、柴田勝家は声を上げて笑った。
「筑前は上杉謙信が怖いのか。死ぬのが恐ろしいのか。そういう大将が居ては勝てる戦も勝てなくなる。そんなに、謙信が怖いなら、さっさと帰陣するがよい」
「なんと……。帰陣されよと云われるのですか。それは本気ですか」
「ああ、本気だとも、臆病神につきまとわれていたら、勝てる戦も勝てぬ」
勝家は感情にまかせて云った。秀吉は、さすがに顔色を変えた。
「もう一度お伺いする。帰れというのは総大将としての命令ですか」
こう云われると、柴田勝家も困ってしまった。しかし、言葉の行きがかり上、いまさら冗談とも云えずに、
「そうだ命令だ。帰れ」
と云ってしまった。軍議の席での一言である。諸将が見守っていた。
「命令とあれば帰ります」
秀吉は立ち上がった。蒼白な顔をしていた。
「お館様にお届けもせず帰るというのか」
と勝家が訊いた。やはり不安だった。羽柴秀吉は信長のお気に入りの部将である。ほんとうに秀吉が戦線を離脱したら、後でなにが起こるだろうか。
「この陣の総大将は修理亮殿である。総大将の命によって動くのが部将として当然なことである」
秀吉は立ったままで云った。
「それはそうだが、敵を前にして大将が一人、兵を率いて帰るなどとは常識では考えられないことだ。考え直して貰いたい、のう、筑前殿」
と、前田利家は秀吉に云うと、すぐに向きを変えて、
「丹羽殿、なんとかならないものだろうか」
と、丹羽長秀に助言を求めた。
丹羽長秀は織田信長の側近部将として、信長にもっとも信用されている男だった。武将というよりも、智将に属する人であった。この度の戦も兵を率いて従軍しては来たものの実際には、目付役ないし軍監的な役割を持っていた。前田利家はそれを承知で長秀の意見を求めたのである。しかし長秀はじっと考えたままだった。一言も発しないばかりか微動だにしなかった。その態度は無気味でもあった。
秀吉は、その日のうちに二千の兵をまとめて加賀を後にした。日頃、柴田勝家とは仲が悪かったが、敵を前にしての、秀吉のこの行為を信長がどのように処置するか、諸将は上杉と戦うことより、その成り行きの方が楽しみだった。
羽柴秀吉が率いる二千が去っても、尚一万六千の軍がいた。柴田勝家は、秀吉とのこともあるので、意地でも上杉謙信との戦いを勝利で飾りたいと思った。
柴田軍は手取川を越えて三里ほど進んだ。
そのころになって、佐々隊から放たれた細作《さいさく》(諜報機関に従事する者)が、七尾城は既に上杉軍の手中にあるらしいという報をもたらした。
七尾城が上杉軍の手中にあるとすれば能登は上杉の勢力下にあるということである。そうなると、うっかり前進はできなかった。
柴田軍は前進を停止して、物見、間者、細作を総動員して能登の状況を探らせた。次々と新しい情報が入った。
前田利家が放った間者は、七尾城の城主は病死し、家老の長綱連は反対派に殺され、七尾城は現在上杉方の大将河田長親、鰺坂長実が守っているという情報をもたらした。
軍議が開かれた。七尾城が上杉勢の手に落ちたという新しい状況下で、尚且《なおか》つ上杉と戦うか否かという会議であった。
「能登が敵の手に入った以上、前進して戦うは不利である。戦うにしても、手取川の南にさがったほうが有利である」
という意見が多かった。
飽くまでも前進して、上杉勢と雌雄を決しようというのは柴田勝家一人であった。
「やはり、手取川を渡る前に、筑前殿(羽柴秀吉)が云ったように、敵情をよく探ってからにしたらよかった」
と不破彦三は、周囲の者に聞こえるようにひとりごとを云った。
「上杉謙信の所在さえはっきりせず、敵の兵力も、或いは二万、或いは一万三千と、その数さえはっきり掴めない。このまま前進すれば、敵の掌中に陥《おちい》る虞《おそ》れがある」
と云ったのは稲葉一鉄だった。
諸将の中で前進しようという者は一人もなかった。稲葉一鉄の云うように、上杉勢の動きが掴めないということが全軍を不安にさせた。間者、物見として行ったもので敵に捕えられたり、殺されたりした者が多かった。このあたりは一向宗の地盤であった。織田信長に対して激しい憎しみを持っている一向衆徒、即ち一般民衆は、織田軍の者と見れば必ず殺した。上杉と本願寺派との盟約が成立したこの時点では、あらゆる情勢は織田軍に不利であった。
上杉謙信は兵を密集させず、比較的広く分散して置き、柴田軍の動きに応じて一気に攻めかかるつもりでいた。
柴田軍の情報はなにからなにまで入っていた。物見を出さずとも、加賀の人すべてが物見として上杉勢に味方していた。
羽柴筑前が兵を率いて帰ったという報も入っていた。手取川を渡ったまま、進みも引きもせず軍議ばかり重ねている柴田軍の首脳部の様子さえ上杉謙信のところへ伝えられて来た。
謙信は全軍に柴田勢攻撃の命を下した。
「明後日の朝あたり手取川の北岸で、柴田軍を包囲殲滅《せんめつ》する」
というのが、命令の大要であった。
上杉軍が手取川に向って進撃を開始したという情報を受けた柴田軍は早速軍議を開いた。
「ここで上杉軍を迎え打つよりは、退《ひ》いた方が無難でしょう。退けるだけ退いて、頃合いを見計らって反撃に出たらいかがでしょうか」
と佐々成政が提案した。柴田勝家の他全員がこれに賛成した。
柴田軍の諸将は戦意を失《な》くしていた。
「では、翌朝を期して撤退する」
と柴田勝家が結論を云い終ったころから雨になった。雨勢は次第に強くなり、豪雨になった。
手取川はたちまち増水した。手取川に限らず、越中、加賀の諸河川は一雨降ると、すぐ増水するのが特徴であった。東部に山岳地帯をひかえているからである。
手取川に見張りを出したが、増水のために、大軍が一度に渡ることは困難だということになった。川の水が退くのは雨が止んでから一昼夜はかかるだろうということであった。
手取川が増水したと聞いた上杉謙信は、
「今こそ、柴田勝家等諸将の首を取る時である」
と自ら馬に乗って軍の先頭に立った。
上杉軍は総数、一万であったが、精鋭であり、能登を押さえて意気が上がっていた。柴田軍一万六千は、雨が止んで、青空が見え出すと同時に現われた上杉勢に驚いた。もともと退けという命令もあったので、迎え打つ態勢を取らずに、手取川に向っていっせいに退いた。しかし手取川は増水していて容易に渡ることはできなかった。渡河点を探してうろうろしているところへ上杉勢が殺到したのである。
一方的な上杉勢の勝利として手取川の戦いは終った。殺された者、溺死した者合わせて、二千という甚大な被害を残して柴田軍は敗退した。
柴田勝家を総大将とする織田軍が加賀の手取川で敗北したという報告は各地に伝えられた。
安土城に居る信長はこの報を聞いたとき、さほど驚きはしなかった。
「だが修理(勝家)は、謙信に追われながらおめおめと逃げて来るような奴ではない」
と云った。
信長の云ったとおり、手取川を渡った柴田軍は川を挟んで上杉勢と対陣した。上杉勢の全貌が分かったし、これ以上退いたら、益〓《ますます》不利になるからだった。各部将も兵たちもこの期になってようやく上杉勢と戦うつもりになったのである。
北陸の戦線はしばらくは動きそうもなくなった。
北陸での戦いの成り行きは全国の大名、小名の注目するところとなった。上杉謙信が西上を声明し、能登で勝利を得たこと。そして、羽柴秀吉の軍勢の引き揚げが、
(羽柴軍は上杉軍に敗れて逃げ帰った)
というように誤り伝えられた。
(羽柴軍が上杉軍に大敗したので、信長に呼び戻された)
という噂も出た。真相を知らない人々にとっては、秀吉軍の引き揚げは異様に思われた。
羽柴軍の戦線離脱に次いで、七尾城陥落《かんらく》の真相が伝わり、それを追うように、柴田軍が手取川で大敗したという話が伝わった。
(柴田軍一万六千は壊滅《かいめつ》的打撃を受けて敗退中である。それを上杉謙信が追っている。木ノ芽峠、栃ノ木峠を越えて近江へ出て来るのも時間の問題である)
などとまことしやかに話す者さえあった。特に京都を中心とする各地には、この噂は真実として流れた。織田信長を嫌っている人たちが、信長に替わるべき人として上杉謙信を求めていたからこのような風説が生れたのである。
石山本願寺城(大坂城)の付城《つけじろ》として増強された天王寺砦《とりで》を守っていた松永弾正と嫡子松永右衛門佐久通もまたこの情報をいち早く掴んだ。
松永弾正はかねてから信長のやり方を快《こころよ》く思っていなかった。折あらば反信長派に加わろうと考えていた時であった。
弾正は極秘に本願寺派とも通じていたから、その方へ探りを入れた。ほぼ噂どおりであった。
「だが、反信長の旗を掲げるのはちと早いようだ」
と弾正は嫡子の久通に云った。
「そのとおりです。もう少し待ってみましょう」
と云っているところに、本願寺顕如の書状と上杉謙信の書状が同時に届いたのである。文面は双方とも同じようであった。今こそ手を結んで織田信長を亡ぼそうと書いてあった。
上杉謙信からの書状には、
《冬になるまでには必ず京都へ兵を進めるつもりである。その節は京都のことにくわしい、そこもとに案内をお頼み申す。前の二回の上京の節にも色々と教わることが多かったが、今度は前とは違っての、戦いのための上京故、特によろしくお願い申し上げたい》
と書いてあった。
上杉謙信がこの書状を書いたのは、柴田軍を手取川に追い落とした直後であったから、その戦況についても触れてあった。柴田勝家が総大将として率いて来た織田軍のことを、烏合《うごう》の衆と罵倒するほど自信に満ちたものだった。
松永弾正、久通父子は天王寺の砦を出て、大和の信貴山《しぎさん》城に籠って反信長の旗を掲げた。
信長が心配していたようなことが出来《しゆつたい》したのであった。
しかし、信長はあわてるようなことはなかった。彼はこの機会を利用して、反信長の旗幟《きし》を鮮明にする者を誘うような態度に出た。信貴山にこもる松永弾正へはすぐ兵を向けずにそのままにして、むしろ、石山本願寺城(大坂城)の包囲陣を強化すると共に、伊勢湾の九鬼水軍を大坂湾に入れて、毛利水軍の来襲に備えた。
松永弾正が反旗をひるがえしたことは、京都付近の豪族に大きな衝撃を与えたが、松永弾正に呼応して立ち上がった者は、河内の片岡城に立て籠った、森ゑびな(『信長公記』のとおり)ただ一人であった。
片岡城は十月一日、長岡忠興、長岡昌興兄弟の率いる軍勢に攻められて城将以下百五十余名が戦死して陥落した。
信長は十月三日に北陸路から柴田勝家等が引き揚げて来たのを見て、十月十日に、羽柴筑前、佐久間信盛、明智光秀等に命じて信貴山城を攻撃させた。
信長は、信貴山城攻撃に際して、羽柴秀吉に向って云った。
「加賀でのことは、後で訊くことにする。まず、見事に信貴山城を落とし、松永父子の首を提《さ》げて来い」
秀吉は、信長が自分を許してくれていることを知った。秀吉は信長の信頼を取り返すには、なにがなんでも信貴山城を一気に攻め落とさねばならなかった。
秀吉は信貴山城攻めには自ら希望して大手門を攻め、佐久間隊と明智隊は搦手を攻めた。
秀吉は、荷車二百台に柴を積んでおしかけ、大手門に柴を山と積んで火をつけ、これを破って乱入した。
信貴山城は一日で落城し、大和の梟雄《きようゆう》と云われた松永弾正父子は火焔の中に腹を切って果てた。この時、松永弾正は六十七歳であった。
信長方に出してあった松永弾正の人質は、十三歳と十二歳になる男の子二人であった。二人は京都六条河原において処刑された。
武田勝頼は上杉謙信と約束したとおり、八月末には自ら兵一万五千を率いて、遠州小笠郡横須賀まで出撃して、高天神城に食糧や武器弾薬を入れた。
徳川家康、信康父子は途中まで出て来たが、勝頼との決戦を避けて浜松城に籠った。
織田軍からの援軍がないかぎり、徳川軍単独で武田軍と戦って勝つ自信がなかったからである。
勝頼もまた家康を追って浜松城を包囲するほどの兵力はなかった。
勝頼は、徳川家康、信康父子との決戦をひたすら希望していたが、相手がその気にならねば、それ以上の滞在は無用であった。
上杉謙信が西上を取り止めて帰郷したと聞いて、勝頼もまた兵を収めた。
西上を豪語していた上杉謙信が、手取川の合戦で柴田軍に勝ったのに、なぜ西上作戦を中止したか、その真相が分かったのは、二ヵ月ほど経ってからだった。謙信は以前一度軽い中風をわずらったことがあった。医者に酒は止めるように忠告されていた。
その彼は手取川の合戦で大勝利をおさめ、いよいよ明日は手取川を越えて進撃という日の朝、眩暈《めまい》をうったえ、その直後に倒れたのであった。医者は大事を取るようにと家臣団を通じて謙信にすすめた。
とても西上作戦を実施できるような状態ではなかった。
謙信はしばらくは加賀で休養していたが、十月に入るとすぐ輿《こし》に乗せられて春日山城へ引き返したのである。
謙信の西上説を信じて旗を上げ、為すことなく死んで行ったのは松永弾正父子と森ゑびな一族であった。松永弾正は大和の梟雄とうたわれた人である。三好長慶に仕え家老職となってからは、まず長慶の弟を殺し、次には長慶の子をも殺し、長慶の没後、更には将軍足利義輝を殺して、京都、奈良、堺の三都市を掌握した男であった。それほどの男が、天下の観測を誤ったのである。
松永弾正の死は、諸豪族大名に、織田信長に刃向うことの虚しさを教えたようなものであった。信長にとって、謙信の西上作戦は一大危機であった。しかし運のいい信長は、ここでも謙信の急病によって命拾いをしたのである。
柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ候。滝川左近、羽柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、不破河内守、前田又左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、加州へ乱入、添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫《とがし》の所々焼き払ひ、在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り候段、曲事《くせごと》の由、御逆鱗《げきりん》なされ、迷惑申され候。(『信長公記』巻十「柴田北国相働くの事」)
越中五箇山の塩硝製法探索の次第
天正五年(一五七七年)も暮れ近くなったころ、越中《えつちゆう》の五箇山《ごかやま》へ塩硝(硝石)製法の秘密を探りに入っていた名取清右衛門が帰って来た。名取清右衛門は、典厩《てんきゆう》衆の鉄砲隊に属する者であったが、勝頼の直々《じきじき》の命令によって、一条衆の中村四郎兵衛、山県衆の塩屋六右衛門、中込五郎左衛門等と共に、一年ほど前から越中五箇山へ潜入を企てていたのである。名取、中村、塩屋、中込の四人はそれぞれ鉄砲隊に属しており、火薬についても一応の知識を持っていた。つまり、単に武術に秀《ひい》でているだけの武士ではなく、科学技術についても心得がある武士であったから、火薬製法の技術の秘密を探りに派遣されたのであった。
四人の他に諸国御使者衆の組頭駒沢八郎の配下に属する者、二十人が選ばれた。何《いず》れも越中に詳しい者ばかりであった。今で云えば、火薬製造法の秘密探知のために特別チームを編成したのである。
武田家は、武田信玄の頃から、新兵器の鉄砲を重視して、多額の金を投じて鉄砲や火薬の購入に当てていた。設楽《しだら》ケ原の合戦の時も、武田軍は約千梃の鉄砲を持っていた。しかし、織田、徳川連合軍はそれに三倍する三千梃の鉄砲を用意した上で、謀略によって武田軍を柵の前に誘い込み、大打撃を与えた。
織田信長は設楽ケ原の勝利は鉄砲が武田の騎馬隊を制圧したのだと宣伝し、これからの戦いは鉄砲なくしてはどうにもならないように諸国に云いふらした。
鉄砲の値段は急上昇し、火薬の値が一時的に倍にも値上がりしたのは、このためだった。当時鉄砲製造工場は堺にあり、火薬の輸入港も堺であった。
堺を支配する織田信長は設楽ケ原の合戦をたくみに宣伝に使って、鉄砲と火薬の値を釣り上げ、これを購入する諸国の大名、小名たちの金貨を巻き上げていたのである。
鉄砲の発達により、信長は限りなく儲け、その金によって、兵農を分離し、職業軍人の数をどんどん殖やしていたのであった。
勝頼は設楽ケ原の敗戦の原因を誰よりもよく知っていた。敗因は馬が鉄砲に負けたのではなく、御親類衆が勝頼の云うことを聞かず、まんまと信長の謀略に引っかかったからであった。しかし、勝頼は、この戦いで鉄砲の威力は充分知らされた。また、これからは鉄砲の時代に入っていくであろうことも、直観していた。
大損害を蒙った武田を再建するには、他国に劣らぬだけの鉄砲を揃える必要があった。
また、合戦に備えて充分な火薬を蓄えて置くことも勝ち残るための必須条件だった。
しかし、鉄砲は余りにも高価であった。堺で製作された鉄砲を買うためには、何人かの商人の手を経なければならなかった。火薬もそうだった。
「これでは、みすみす信長のふところを肥《こや》すようなものだ」
勝頼はなんとかして、鉄砲を自製できないものかと考えていた。鉄砲を自製しようという動きは各地にあった。事実、堺だけではなく、種子島、鹿児島、平戸、紀州根来《ねごろ》、近江国友《くにとも》等でも鉄砲を製作していたが、なんと云っても、多量生産ができるのは堺であった。多量生産できるから販売競争に勝った。
武田家では信玄の生存中に諸国御使者衆を動員して、鉄砲製造の方法を探り、ほぼ製造法はつき止めていた。問題は鉄砲に使う材料の鉄であった。銃身に使う玉鋼《たまがね》は、出雲、伯耆《ほうき》で採れる砂鉄が最も適していた。その鉄を輸入するには海路を取るにしても陸路を通るにしても、甲斐はあまりに遠すぎた。輸送費がかかった。これらのことを勘定に入れて考えると、結局は自分で作るより、堺で多量生産される鉄砲を買う方が安上がりとなった。武田家が、製法が分かっていても、製造に取り掛からなかったのは、もっぱらこのような経済的理由があったからである。
しかし、勝頼は鉄砲自製の方針を決定した。彼は父信玄の時代から鉄砲製造の研究をしていた小池勝左衛門に、少なくとも一日二梃の割合で鉄砲を作るように命じた。このために必要な経費のいっさいを出すことを約束した。鉄砲鍛冶《かじ》の経験がある者が他国から招かれ、腕のいい鍛冶屋が集められた。
鉄砲工場は、勝沼の菱山《ひしやま》三光寺前に設けられた。古府中に置かなかったのは、このことが外部に洩れることを虞《おそ》れたからであった。
熔鉱炉《ようこうろ》が作られ、五人用の鞴《ふいご》が取り付けられ、煙突からは一日中火の粉が吐き出すのが見えた。錐揉《きりもみ》機やネジ切り機械などが設備された。しかし、表面上は、刀鍛冶であって、ここで鉄砲が作られていることを知っている者はごく少数でしかなかった。
一日に二梃は無理だったが、十日に一梃の割合で鉄砲ができる見込みがついた時に、勝頼は、
「ここで作られた鉄砲の経費を考えると、堺で作られる鉄砲の倍か三倍にはなるだろう。しかし、やがて、多量に生産できるようになれば、武田の鉄砲として世間の注目を惹くことになる」
と云った。たとえ、生産原価が高くついたとしても、堺の鉄砲を買って、信長や中間業者の腹を肥すよりましだと彼は考えていたのである。当時堺で製作されている鉄砲の値段は一梃二十両という高額なものであった。
鉄砲の生産の見込みはついた。次は火薬(塩硝)であった。火薬の原料の硝石は海外(中国)から輸入されていたが、何割かは国内で生産されていた。
(床下の土に尿をかけ、特殊の草を混ぜて腐らせ、これに水を加えて攪拌《かくはん》し、上ずみを煮つめると、塩硝ができる)
という噂は伝え聞いてはいたが、実際にどうやって塩硝(焔硝と書いたものもある)を取るかは極秘とされていた。輸入される火薬があまりにも高価だから、各地の大名小名はそれぞれ工夫をこらして塩硝を製造しているらしいという風聞は武田家にも入っていた。
越中の五箇山《ごかやま》はこの塩硝の生産地として日本中に知られていた。越中の本願寺派の鉄砲隊が活躍しているのも、この五箇山で作られる塩硝のおかげである。
(石山本願寺城が鉄砲をふんだんに使用して信長を悩ませているのも、五箇山から送られて来る塩硝があるからだ)
という噂もあった。
勝頼が五箇山に目をつけたのは当然であった。勝頼が火薬の自製を思いついたもう一つの理由は、武田家全体が経済的に追いつめられていたということである。つまり火薬を買う金がなかったのである。その原因は、
一、度重なる戦争のための疲弊《ひへい》
一、黒川金山、富士金山、安倍金山等の鉱脈をほとんど掘りつくしてしまったこと
の二つであった。
金がないと、鉄砲も買えないし、火薬も買えない。戦もできないということになる。米の収穫だけにたよっていたのでは厖大な戦費を賄うことはできなかった。
「越中五箇山も山の中、わが甲斐の国も山の中、山の中で塩硝ができるなら、わが国でもできる筈だ」
勝頼はこのように云って、五箇山へ塩硝製法の秘密を探りに人をさし向けたのであった。
五箇山は越中、庄川上流の山岳部である。山脈を境に飛騨に連なるかなり広い地域であった。
五箇山には密集した村はなく、小さい村が谷々沢々に分散していた。もともと人里離れたところだから、他所《よ そ》者が一人でも入りこめば、たちまち発見されるという辺鄙《へんぴ》な村であった。
各村々には厳重な警戒網が敷かれていて、もし知らない人が現われたら、鐘を叩いて村中に知らせることになっていた。五箇山に入ることを許されている者は限られていた。
諸国御使者衆の組頭駒沢八郎は五箇山に越中側と飛騨側との両方面から潜入することを考えた。他国者をいっさい入れない五箇山に入るには、食糧を持って忍びこむしか方法はなかった。
まず、諸国御使者衆の中の忍びの名人の者を潜入させて、情報を集めさせ、その情報を鉄砲方に属する四人に報告し、更にその指示を受けて、細部を探ってくる予定だった。
彼等は物売りや僧となって、越中及び飛騨に入って行き、それぞれ基地を設けて探索に入った。
越中の八尾に入りこんだ塩屋六右衛門と中込五郎左衛門は、半年後に、五箇山に忍びこんだ者から、第一報を得た。
一、合掌作りの大きな家屋の床下に製造の秘密がかくされているらしいこと。
一、合掌作りの大きな家屋の床下から多量に運びだされた土に水を加えてよく掻きまぜ、布で漉《こ》して、水を取る。
一、その水を煮つめる。
一、煮つめる途中でなにか薬水を加える。
一、最後に鍋の底から茶色の砂のようなものを掻き取る。
ここまで見て取るのは一人や二人ではなかった。何人かがあらゆる方法で探った結果であった。
この情報は、古府中にも送られたし、飛騨の白川村に本拠を置く、名取清右衛門、中村四郎兵衛等にも通報された。その情報の中に、
《一番知りたいことは、床下の土になにを混ぜるか、第二は煮つめている途中に加える薬水が何であるか。この二つが塩硝作りの鍵だと思う。最後に鍋の底から掻き出された茶色の砂のようなものというのは、まさしく塩硝と推察される。われ等は、合掌作りの家の床下に忍びこんでこの秘密を探るつもりである》
と塩屋六右衛門と中込五郎左衛門の言葉が添えてあった。
名取と中村は気が気ではなかった。塩屋と中込がここまで情報を得たのに、こちらはまだ何もつかんでいなかった。なんとかしないと手柄を塩屋、中込組に取られそうで不安であった。
名取と中村は、牛首《うしくび》峠を越えて、いよいよ五箇山に潜入することにした。
名取と中村は牛首峠で別れた。二人ずつが組となって潜入し、毎月一回、十五日には牛首峠で情報を交換しようと申し合わせた。
名取清右衛門は諸国御使者衆に属する、田中甲右衛門と組んで五箇山に潜入した。
五箇山は秘境であった。村の名も道も、いっさい不明だった。もちろん地図などあろう筈がなかった。
名取と田中は要所要所に食糧を隠すことから仕事を始め、尾根伝いに道なきところを次第次第に五箇山内部に入って行った。
足跡を発見されぬように獣道《けものみち》を選んで進んだ。牛首峠を出てから十日目に、遠く村落を望見した。近づいて見ると二十戸ほどの合掌作りの家が並んでいた。
各戸で犬を飼っているので容易に近づくことはできなかったが、付近にひそんで人の出入りを探ると、合掌作りのその大きな家には少なくとも五組以上の家族が住んでいるらしいことが分かった。
「犬があんなにいたのではうっかり近づくことはできないな」
と名取清右衛門が考えこむと、田中甲右衛門は、
「犬を手なずけることはわけはないが、あの家に忍び込むことは容易ではないぞ」
と云った。
家の者の多くは、昼は外に出て、畑や山仕事をして働くが、老人、子供は家に残って留守番をしている様子だった。五日ほど様子を窺っていると、或る日、早朝から村が騒がしくなった。塩硝の煮出しが始まったのである。そのやり方はかねてから報告があったとおりであった。やはり、この村は各戸で塩硝作りをしているのである。
「とにかく今夜あたりから、犬を手なずける工夫をしよう」
と田中甲右衛門は云った。そして甲右衛門は一夜のうちに、犬を餌で馴らしてしまった。そして次の夜、
「もし、夜が明けても帰らなかったら、俺はつかまったことになる。できるだけ遠くに逃げてくれ」
と云って出て行った。そして、田中甲右衛門は夜が明けても帰って来なかった。それだけではない、村では鐘を叩いて人を集めて、山狩りを始めるらしい様子だった。
清右衛門は逃げた。逃げようとして一丁ほど走ったところで、落とし穴に落ちた。
「ばかな奴だ。仲間がつかまったというのに、まだこのあたりをうろついていたのか、間抜けな奴だ」
その村の庄屋の前に引っ張り出されたときにそう云われた。
「誰に頼まれて火薬の製造を盗みに来たのか正直に話せば、生命は助け、領主様のところへ連れて行き裁きを受けさせてやる。白状しなければ殺す。それがこの村の掟《おきて》だ」
と庄屋は云った。
名取清右衛門は死を覚悟した。彼は黙っていた。
彼は合掌作りの家の暗い一室に閉じこめられた。逃げようとしても逃げられるようなところではなかった。入口は格子戸、三方が板壁で、土間には筵《むしろ》が一枚だけ敷いてあった。陰湿な牢であった。耳をすましてよく聞くと、家族たちの話し声が遠く聞こえた。
一日に二度食事がさし入れられた。一杯の稗飯《ひえめし》と一椀の塩汁であった。運んで来るのは、十六、七歳の娘である。
名取清右衛門は、一日二度だけはこの娘と口をきくことができた。最初は怖がって食事を置くと逃げるように去って行った娘も、三日目からは口をきくようになった。
合掌作りのこの大きな家には七家族が住んでいた。彼女もその家族の一人であった。
「あなたには親兄弟もあるだろうし、奥さんや子供も居るだろう。なにもかもしゃべればここを出して貰えるのだから、そうするがいい」
と娘は彼に云った。どうやら、そう云えと庄屋に云われている様子だった。
「おれには親兄弟はあるが、女房子供はない。いつ死んでもいい身だ」
と云うと娘は悲しそうな顔をして、
「こんなことをしていると、ほんとうに遠いところへ連れて行かれます」
と云った。遠いところというのがどうやら処刑場らしかった。
「おれと一緒に来て、捕えられた男もやはり、そこへ連れて行かれたのか」
と訊くと、
「ああ、あの人は床下に入りこんだので、寄ってたかって、槍で突かれて死にました」
と答えた。
「なぜ早くおれを殺さないのか」
と清右衛門が訊くと、
「庄屋様はおかみからのおさしずを待っているのです」
と娘は答えた。領主からの命令次第で、殺されるかもしれないし、連れて行かれて拷問《ごうもん》を受けることになるかもしれなかった。どっちみち長い生命ではないと思った。
暑い盛りのころだった。牢には全く風が通らず、蒸《む》し暑かったが眠れないほどではなかった。夜明け方になると、どこからともなく冷たい外気が忍びこんで来る。その風と共に妙なにおいが入って来た。いままで経験したことのない臭気だった。一種の悪臭だったが耐えられないようなものではなかった。
名取清右衛門はその臭いが壁板の隙間から来るのを知った。壁板の向うは納屋にでもなっているらしく、時々そのあたりで物音がしたが、いつもは静かだった。
彼はその臭いは床下から来るものではないかと思った。
(すると、これこそ塩硝を作る土の臭いかも知れない)
彼は飯を運んで来た娘に、嫌な臭いが鼻について眠れないと話すと、娘は、
「床下の仕込《しこ》み土《づち》からほけが立つからです」
と云った。
「ここ二、三日、特にそのほけが立つのが激しいようだが」
と訊くと、
「ほけ草を入れて掻きまぜたからでしょうよ」
と答えた。それ以上は何を聞いても云わなかった。ほけとは湯気のことで、ほけが立つとは、床下の土が腐って臭気を発することを意味しているらしかった。
清右衛門が牢に入れられて七日目ころから、娘は稗飯《ひえめし》と一椀の汁の他に、芋(里芋)の煮たものや、漬けもの、そば団子などをこっそり隠して運んで来るようになった。彼女の目つきもいままでとは違っていた。
娘の名はおもんであった。清右衛門は格子の間から食器を差し入れるおもんの手を握って、好意は有難いが、そんなことをして見付かったら、あなたは叱られるだろうから止めなさいとたしなめた。おもんは黙っていた。特別な差し入れを止めようとはしなかった。
十二日目になった。その朝、彼女はいつものように食事を運んで来て、そこへ置くと、彼の顔を見て涙ぐんだ。
彼は、いよいよ最期の日が近づいたのだと思った。おもんに訊くと、
「噂だから分からないが、二、三日中に……」
としか云わずに、顔を覆ってしまった。
それで充分だった。
「そうか、おれは塩硝の秘密を盗みに来て捕えられたのだから、殺されてもしようがない。おれが殺されて埋められたら、おもんさん、その墓に白い花の咲く木を植えておくれ」
清右衛門がそう云うと、おもんは涙を袖で拭きながら、
「あなたは、明日此処《こ こ》を出されて町へ連れて行かれる。そこで取り調べを受けることになるそうです。とてもとてもきついお取り調べだそうです」
と云った。おもんはそれだけではなく、忍びの者およそ十四、五人が最近になって捕えられて、拷問《ごうもん》を受けた上、殺されたという話まで知っていた。
清右衛門はその殺された人達はすべて仲間であろうと思った。
「おもんさんともいよいよ、別れなければならなくなったのだね。おれは死ぬまで何も云わないだろう。どんなつらい拷問を受けても、おもんさんの顔を頭の中に思い浮かべていたらきっと我慢できるだろう。あなたとは牢の格子をへだてた、はかないつきあいでしかなかったが、おれは、おもんさんが好きだったことをここではっきり云っておく。さようなら、おもんさん、もし来世で会うことができたら夫婦になろう」
彼は、おもんの手をしっかり握って云った。おもんの二重《ふたえ》まぶたの大きな目から玉のような涙が溢れ出た。
おもんと清右衛門は格子をへだてて身体を寄せ合った。おもんの身体から、刺戟の強いよもぎのにおいがした。別離にしてはあまりにも色気がなさすぎるにおいだった。
「よもぎのにおいだね」
と清右衛門が訊いた。
「乾燥したよもぎの葉と、蚕糞《こくそ》とを床下の仕込み土に入れる手伝いをしたから身体中にそのにおいが浸みこんだのでしょう」
とおもんは云いながら清右衛門の目をじっと見詰めた。おもんのその一言で、床下の土の中に入れるほけ草がなんであるかが分かった。どうせ殺されると分かった人だから教えたのだとも思われるし、清右衛門に心を寄せている証《あかし》としてのことのようにも思われた。
(塩硝作りの秘密は分かったぞ)
彼は心の中で叫び声を上げた。
清右衛門は、牢にいる間にずっと考え続けていた塩硝作りの方法を頭の中で整理した。
一、床下の土に、尿とよもぎの粉末《ふんまつ》、蚕糞を加えて腐らせる。
一、充分腐ったものを取り出して、水を加えて〓きまぜ、布で漉《こ》して、その水分を取り出し、これを煮つめる。
一、煮つめる過程において灰汁《あ く》を加える。
煮つめる過程で加えるのが灰汁だと彼が気付いたのは、捕えられて、この家へ連れて来られたとき、土間の一隅にまとめて置かれていた幾つかの桶の一つに、白い灰が入っていたのを見たからだった。その桶は農業用のものではなく、特殊の目的に作らせた大小、二十ほどの桶だった。すべて塩硝作りの道具であることは間違いなかった。
「おれは死にたくない。おもんさんと一緒に逃げたい」
と清右衛門は云った。半分が嘘で半分が本当だった。塩硝の秘密を知ったから、なんとかして生きて帰りたいという気持と、おもんという娘との恋を成就したいという両方だった。
「わたしだって、わたしだって」
おもんは云った。そして突然、なにかに驚いたように格子戸から飛び退《の》くと、周囲を見廻してから再び近づいて来て、清右衛門に云った。
「今夜、一緒に逃げましょう」
おもんの目は輝いていた。
その晩の夜更け、おもんは蝋燭《ろうそく》を片手に牢に忍んで来た。彼女は持って来た風呂敷包みと草鞋《わらじ》を彼に渡すと、牢の鍵を開けた。彼女自身は既に草鞋を履き背に風呂敷包みを背負っていた。彼は、見掛け以上にしっかりしているおもんに内心驚いていた。
牢の鍵は乾いた音を立ててはずれ、牢の扉は重くきしんで開いた。彼はおもんに渡された風呂敷包みを背に斜めに背負った。食糧であることは分かっていた。
おもんが蝋燭を吹き消した。ふたりは這《は》いながら、戸口へ近づいて行った。家の中は暗かったが、外は月が出ているらしく、戸の隙間からさしこんで来る光が部屋の内部を部分的に照らしていた。家族はみなよく寝入っていた。
二人は勝手口の方へ這って行った。そこまで行くのに、三家族の部屋を通らねばならなかった。最後の部屋に入ったとき、乳飲み子が泣き出した。偶然乳を要求する時刻と、彼等が忍び出る時刻とが一致したのであった。
乳飲み子の母が起き上がってその子を抱いた。そして、その傍にうずくまっているおもんを発見したのである。
「誰だね」
その一言を聞くと、おもんは無言で勝手口に向って走った。その後を清右衛門が追った。
二人は月の光を浴びながら山道を走りに走った。村を見下ろす、尾根の稜線まで走って下を見ると、村中に松明《たいまつ》の火が溢れていた。
「牛首峠まで逃げれば、なんとかなる」
と清右衛門は云った。
しかし、そこまで行きつくまでに捕えられる虞《おそ》れは充分にあった。松明は五手に分かれて動いていた。村から出ている道は、山道や里道すべてを合わせて五つあった。村人は五手に分かれて、それぞれの道に入りこんだのである。清右衛門等が逃げようとしている牛首峠へ向う道を登って来る松明の数は二十ほどもあった。
「逃げられるだけ逃げ、追手が迫って来たら山の中へ逃げこむより仕方がないだろう」
と清右衛門は云った。
二人は明け方近くまでその道を急ぎ、追手が迫って来るのを知って、道をそれて沢に降りた。そこには水があった。
「このお米を噛んでいたら、二人で五日は生きられる。そのうちに追手はあきらめて引き返すでしょう」
とおもんは云った。
清右衛門が背負って来た風呂敷包みには米の袋が入っていた。
おもんは火打ち石までちゃんと用意していた。二人は夜明けの川原の霧の中で火を焚《た》き、石を焼き、炒《い》り米《ごめ》を作った。こうして置けば、あとはもう火を焚くこともなかった。清右衛門は火を焚いた痕跡を丁寧に消した。跡をつけられないためだった。
清右衛門とおもんは山の中を彷徨《ほうこう》した。風で倒れた大木の下が二人だけの第一夜の宿だった。
二人はそこで初めて抱き合った。おもんは目をつぶったままで、すべてを清右衛門に許した。夫婦の契りが終ったあとでおもんは云った。
「これで私は身も心も武田のお味方になれました。どうぞ私の夫であるあなたのお名前を教えて下さい」
塩硝作りのことも、私が知っている限りのことを話しましょうと云った。ここまで来た以上清右衛門は身分を明かさないわけにはいかなかった。彼は名取清右衛門と名乗り、なぜ武田の者であると知っていたのかを問うた。彼女は、庄屋から武田の者が塩硝の秘密を探りに来ているから気をつけろと云われていたことを告げた。
「ここに長居はできません。毎日、毎日居処を変えないと必ずつかまります」
とおもんは云った。村の人は犬のように人の跡をつけることができるから、必ず隠れ家は突き止められるに違いない。それまでに飛騨へ入らねばならないのだとおもんは云った。
二人は、山を越え、谷を越えながら、飛騨の国境へ近づいて行った。飛騨に入れば、そこまで追手が来ることはないだろう。
「五日の間に飛騨へ逃げこむことができるかどうかは分かりません。その時には……」
おもんはその後は云わなかった。いざという場合のことを覚悟しているようだった。
おもんが云ったとおり、四日目の夜には、大きな声を上げると聞こえそうなところに焚火の火が見えた。追手は二人の足跡を追ってそこまで来たのだ。
おもんはその火を見て清右衛門に云った。
「このまま二人でいたら必ずつかまります。明日になったら、私はあの山の方へ逃げます。二人で逃げたような跡を残しながら逃げますから、あなたは反対側へ逃げて下さい」
そう云ってからおもんは清右衛門にすがりついて泣いた。
「ほんの五日ばかりの短い生活でしたが、その間に、私はあなたの妻として立派に死ぬ覚悟ができました。どうか、あなたは逃げて下さい」
五日目の夜が明けた。
清右衛門はたとえこの場で別れても、必ず甲斐の国まで逃げて来るようにおもんに云った。おもんは涙を浮かべながら頷いていた。
清右衛門は逃げに逃げた。気がついたときには飛騨に入っていた。追手はおもんの跡を追って行ったようであった。
(捕えられたら、私は必ず殺される)
とおもんが云っていたように、おもんはもう生きてはいないだろうと思うと、そのまま、甲斐の国に帰るのは気がとがめた。だが彼は甲斐の古府中に塩硝製造の秘密を抱いて帰りついたのである。
五箇山へ潜入した者の多くは捕えられて殺された。中村四郎兵衛、塩屋六右衛門、中込五郎左衛門も帰っては来なかった。駒沢八郎は無事に帰ったが一緒に行った諸国御使者衆のうち生きて帰ったのはたったの三人だった。
だが、名取清右衛門によって、塩硝製法の秘密は明らかにされた。武田家では早速その製造に取り掛かった。
「鉄砲もできたし塩硝もできるようになった。これを機に武田は必ず再建できるぞ」
勝頼は名取清右衛門に自らの太刀を賞として与え、五箇山で死んだ者の遺族はそれぞれ取り立てることを約束した。
名取清右衛門はそれから六年後、武田氏が亡びた後、僧になって越中を訪れた。越中に留まること五年にして、はじめて許されて五箇山に入り、おもんの消息を聞いた。
おもんはやはり裏切者として処刑されていた。清右衛門は、おもんの墓の近くに堂を建て、おもんの菩提《ぼだい》を弔いながら生涯を終った。
火薬の原料である硝石は当時、天然に産するものを中国から輸入していたが、一方では、「硝酸バクテリアの作用による硝酸カルシュウムの培養法」が日本の各地で密かに研究され、実用化されていた。日本だけではなく、このころ西洋でもさかんに培養法によって、硝石を製造していた。日本では越中五箇山(富山県庄川上流の平村、上平村、利賀《とが》村付近一帯)がこの硝石の主要産地として知られ、幕末にいたるまで塩硝が製造されていた。東洋大学教授鎌谷親善《かまたにちかよし》氏の「塩硝づくりの近代化(日本の近代化学のあけぼの)」(「化学と工業」第二十九巻第七号)には五箇山の塩硝製造方法が文献と共にくわしく書かれている。
御館《おたて》の乱
『日本外史』によると、天正五年(一五七七年)九月十三日、上杉謙信は、能登七尾城本丸において、月見の宴を催した際、
霜《しも》は軍営《ぐんえい》に満ちて秋気清し。
数行《すうこう》の過雁《かがん》月三更《こう》。
越山併《あわ》せ得たり能州《のうしゆう》の景。
遮莫《さもあらばあれ》家郷の遠征を懐《おも》うは。
の詩を賦した。非常に有名な詩であるが、これは謙信が作ったものではなく、後日誰かがそのときの謙信の気持をこのような詩に書いたのだろうという説がある。そういう説が出るには理由がある。第一に謙信は詩を作らなかった。謙信作の詩はこれだけである。詩作の経験なしでいきなり、こんな上手な詩が作れるだろうかという疑問。第二の疑問は天正五年九月十三日にはまだ七尾城は謙信の手中にはなかった。しかし、この詩が謙信の作だと信ずる人たちは、謙信という人は詩心があって、日頃詩作をしていたが、よい詩ができなかったから発表しなかったまでのことである。謙信が七尾城の本丸に登ったのは、九月の二十六日でその頃は月はもう欠けてはいたが、満月の夜を想像して作ったものであるからいささかもおかしくはない、と云う。
この詩が謙信の作であるか否かはひとまず置いて、当時の謙信の心境ということになれば、誰もが、これこそ謙信の気持をもっともよく表現したものであることに疑いをはさまない。
この時、謙信は織田軍を能登、加賀から追い出して、得意絶頂の時であった。強いと思っていた織田軍が意外にもろかったのは、能登、加賀の民衆の心が上杉側についたためだった。それというのも信長が越前や越中の一向宗に対してあまりにも残酷な処置を取ったからである。越前、越中、加賀、能登の一向宗が上杉側につけば、謙信が織田勢力を北陸から追放することはそれほどむずかしいことではなかった。謙信はこの時点で西上を考えたに違いない。大軍を率いて西上し、信長を制圧して天下人となるのも夢ではないと考えていたであろう。とにかく、謙信にとっては天正五年はよい年であった。彼はこの年の終りに、凱旋《がいせん》将軍として春日山城に帰ると、かねてからの関東の太田資正の願いを入れ、関東に出撃して北条軍と一戦を交える覚悟をした。
彼は関東、越後、越中、加賀、能登の八十一将に対して、来春、雪解けを待って、関東に出陣することを触れた。西上に先立って、関東に出征し、北条氏に対して関東管領の武威を示そうとしたのである。
この謙信の関東出征計画はあまりにもおおっぴらになされたから、北条氏に好意を寄せている関東の諸将はもとより、北条氏と同盟関係にある武田氏もこれに対して備えを固くせざるを得なくなった。
武田勝頼のところに、越中に放してあった諸国御使者衆の大沢助左衛門が帰って来て、この件について報告した。
「明年早々の関東出兵の催促は上杉殿に心を寄せる越中、加賀、能登の諸将のことごとくに行き渡っており、ほとんどの者は今からその用意をしています。越中、加賀、能登からの関東出兵ともなれば、たいへんな遠路をすることになります。いままでこのようなことはなかったことですし、ひょっとすれば、これは上杉謙信殿が考え出された織田殿をあざむく策ではないかという説もあります。すなわち、関東出兵と称して兵を集め、そっくりそれを西上作戦にふりかえるという手ではないかと思われるふしもあります。だからこそ西上の進路に当る諸将に対して念入りな出兵催促をしたのではないかと考えられます」
勝頼はその報告を数人の主なる部将と共に聞いた。
「いかにもその通りに聞こえぬことはないが、上杉殿の性格からいうとそのようなことはまずあり得ない。上杉殿は元来姑息《こそく》な策を弄さぬ人だ」
と跡部勝資は云ったまま考えこんだ。
「たしかに今までの上杉殿はそのようなことはしなかった。しかし、現在の上杉殿はいままでとは違う。加賀、能登の戦勝によって西上の志が急に昂《たか》まり、同時に健康の方が不安定になっている折には、想像もつかないような手を考え出すかもしれない」
真田昌幸が云った。彼が上杉謙信の健康について言及したのはそれだけの理由があったからである。
越後に忍ばせてある諸国御使者衆の情報によると、謙信は、能登の遠征から帰って来て間もなく眩暈《めまい》におそわれて倒れ、現在は安静にしているということであった。
「たびたびの眩暈と軽い中風の発作によって、上杉殿は自らの生命に対して自信を失い、早く西上したいというあせりが、突飛な策となって表われたのではないでしょうか」
とうがったようなことを云ったのは、長坂長閑斎であった。
「いずれにしても充分な警戒をする必要がある」
勝頼は、越後の上杉謙信の身辺については特に注意するようにその方面に通達を出した。
天正六年になった。二月になると、上杉謙信の関東出兵はもはや公然の事実となって伝えられるようになった。出兵催促を受けた諸将が、続々と謙信に対して、御触書《おふれがき》頂戴の回答を出した。能登の武将で、謙信からの出兵催促を受けた、遊佐続光、三宅長盛、温井景隆、畠山大隅などは、直ぐにでも出発できる用意をしております、という書状を春日山城に出した。それに対して謙信からは、本陣が春日山を出発するのは三月十五日と決めたから、それに間に合うように参られよという返事をした。
越中、加賀、能登の武将たちは精鋭を引きつれて三月の初めに越後に向った。
(関東出兵と見せかけて、たちまち方向を変えて京都に向うのではないか)
ということは誰もが考えていた。どう考えても、越中、加賀、能登からの関東出兵はおかしなことに思われた。
その越中、加賀、能登の軍勢が、越後の国に一歩足を踏み入れた日のことであった。
春日山城から早馬があった。
《なにぶんの命があるまでそれぞれ城に帰って待機せよ》
という伝令だった。
「それ見たことか、やはり関東出兵ではなく西上作戦だ」
北陸勢はそのように単純に考えながら引き返して行った。
そのころ春日山城内ではたいへんなことが起こっていた。三月十五日を出陣と決めてその準備をしていた謙信が、三月九日の午《うま》の刻(午後十二時)厠《かわや》で昏倒したのである。
医師団がかねてから心配していたことがとうとう起こったのである。謙信は今でいうところの高血圧症状をここ数年間持ち続けていた。しばしば眩暈に襲われたり、手足のしびれをうったえたりした。酒がいけないのだと医師たちが注意したが鎌信は聞き入れなかった。酒を飲まず、じっと寝ていろなどと云われてもそれができる人ではなかった。医師に静養をすすめられるとかえって大酒を飲んだ。
武田信玄が西上の途上において生命が尽きたと同じように、上杉謙信もいよいよ西上して天下を取ろうと決心したその時点で倒れたのである。
謙信が関東出兵の準備中に倒れたのは歴史が示す事実である。しかし、関東出兵が織田信長を欺く作戦で、関東出兵と見せかけ、たちまち兵をひるがえして北陸路を京都に向うつもりだったかどうかは誰一人として知っているものはなかった。それはすべて謙信の胸中にあることだった。
謙信は厠で倒れて以来、人事不省のままだった。医師たちも手の打ちようがなかった。死を待つより他に手段はなかった。
それでも謙信は四日間は生きて、三月十三日の未刻《ひつじのこく》(午後二時)に永眠したのである。
謙信が倒れたという噂が城内に流れると同時に、上杉の家臣たちは重大な不安に陥った。後の心配だった。謙信は一生結婚しなかったから子供はなく三人の養子がいた。北条氏政の弟の氏秀はもともと人質的要素を持って養子となった人だが、謙信に愛され、謙信の旧の名前の景虎まで貰った人である。二番目に養子になったのは、長尾政景(謙信の従兄)の次男喜平次(母は謙信の姉だから、喜平次は謙信の甥に当る)長尾景勝である。そして三番目の養子は畠山氏からの人質として来て養子になった上条政繁(義則)であった。景虎の妻も政繁の妻も景勝の姉妹である。即ち謙信の姪を正室としている。
三人の養子のうち上条政繁は、上条上杉家を相続しているから、謙信の後継ぎでないことははっきりしているが、景虎と景勝の二人のうち、どちらが謙信の後継者となるのか、謙信が死んだ時点では、はっきりしていなかった。謙信自身も決めかねていたのであろう。
ただ、謙信は存命中に、弾正少弼《だんじようしようひつ》の官名を景勝に与えているところから見ると、或いは心の中で後継者は景勝と決めていたかもしれない。弾正少弼という官位は上杉謙信が越後の国主と守護職を兼ね与えられたとき、世襲を許すという約束で時の将軍足利義輝から貰ったものである。
長尾景勝は上田衆を中核として、謙信の部将のうち最大の武力を持っていた。それに対して、景虎の下には、元関東管領上杉憲政系統の部将たちがいた。この人員構成から見ると、謙信は関東管領職は景虎に与え、越後国主(春日山城主)は景勝に与えようと考えていたことは明らかだった。しかし、謙信はそれをはっきり口にしないうちに死んだのである。
三月九日に厠で上杉謙信が倒れたと聞くと、その日のうちに景勝を擁立せんとする一派は本丸(実城《みじよう》)へ御機嫌伺いと称して参集した。そして、三月十三日、謙信の臨終の席にいたのは、直江景綱未亡人を始めとする、景勝派の諸将が多かった。
直江未亡人はまさに臨終を迎えようとしている謙信に、
「お館様、御跡目《あとめ》御相続は景勝様に候か」
と声高に訊いたら謙信は、その声でぱっと目を大きく開けて頷いたという。景勝派はこれこそ遺言であると称した。しかし、実際には、そこにいた多くの御親類衆や部将は、直江未亡人の声は聞いたが、謙信が大きな目を開いて頷いたのを見た者はいなかった。謙信は人事不省のまま臨終を迎えたのである。しかしこうでもしなければ跡目が決まらないから、こうやったのであろう。
「御館様は景勝様を御相続人と決められました」
と直江未亡人は大きな声でふれた。そこに居合わせた景虎支持派の部将たちがそれに異議を唱えると、景勝派の黒金、宮島、栗林、樋口等の諸将がいっせいに立ち上がって、
「お館様の御遺言にたてつくとは許せぬことだ」
と云って、景虎派を外に追い出した。「御館《おたて》の乱」はこの瞬間始まったのである。
御館の乱について『上杉三代日記』に書いてあることを意訳すると次のとおりになる。
天正六年三月、謙信が重い病気にかかられたので、直江山城守、本庄越前守、長尾権四郎等が語り合って、長尾喜平次景勝をひそかに呼び寄せて本丸に入れた。黒金上野介、宮島参河守、栗林肥前守等が、本丸の追手搦手をかため、景虎を本丸へ入れないように手筈を整えた。景虎は景勝が本丸に忍び入ったのを夢にも知らずにいた。三月十三日謙信は死去され、林泉寺に葬られた。
つまり、景勝派は謙信の死は時間の問題と見て取って先制攻撃を掛けて景虎一派を締め出したのである。
景虎は養父謙信の死を聞いて急いで登城しようとしたが軍兵に遮《さえぎ》られて本丸に行くことは出来なかった。
景虎を支持する部将は、黒金等のこのやり方を、まことにきたないやり方として憎み、檄《げき》を飛ばして兵を集めて、二の丸を占拠しようとしたが、それを見た景勝派は本丸(実城)から二の丸(中城)に向って、大鉄砲を打ちかけた。景虎派は止むを得ず、嫡子の道万丸等を連れて、春日山城から二里半ほど離れている上杉憲政の居城御館《おたて》城へ逃げた。景虎側に従《つ》いた部将は、上杉憲景、北条《きたじよう》丹後守景広(高広の子)、北条長国、本庄義秀、平束《ひらつか》主水、長尾播磨守等であった。
謙信の死と同時に越後は二つに分かれて相続戦争が始まったのである。本庄氏のように同族が二つに分かれて争うようになった者もいる。謙信の葬儀どころではなかった。謙信の遺体には甲冑《かつちゆう》が着せられ、甕《かめ》に納めて密封し、死後三日目の三月十五日に大乗寺良海を導師として、林泉寺に葬られた。林泉寺は春日山城の麓にあった。
景勝派のやり方は確かに綺麗ではなかった。そうしなければ自派の負けだと感じてやったのだろうけれど、それにしても、強引《ごういん》過ぎた。常識的にはまず謙信の葬儀をすませた上で、家老たちが集まって後継者問題を決めるべきだった。それができないところに、越後という国情があった。越後は謙信によって領国支配が完成したように見えていたが実際はそうではなかった。見掛け上そうであっても内情は地方の諸豪の勢力が依然として強かった。謙信の在世中も本庄繁長や北条《きたじよう》高広などはしばしばそむいた。どうやら越後がまとまっていたのは謙信を国主と仰いでいたほうが有利だと考えている地方豪族が多かったということで、謙信が死んだとなれば、話はふり出しに戻り、各地の豪族が、われこそと頭を持ち上げて来るのは当然な勢いであった。
日が経つに従って、景勝派のやり方に不信を抱いた者が、次々と景虎の陣に参集した。兵を率いて春日山城へやって来る者もあった。景虎に心を寄せる軍勢およそ一万は春日山城の隣の愛宕山に陣をかまえた。
景勝派と景虎派の戦いが開始されたのである。戦乱は越後を二つにした。どっちつかずの豪族の奪い合いが諸処で行われ、毎日多くの人が死んで行った。
景虎は自分が上杉謙信の第一番目の養子であり、当然謙信の後継者であることを隣国に告げると同時に、長尾景勝の非を鳴らした。景虎が援軍を乞う使者は、小田原に飛び、同時に甲斐の古府中にも飛んだ。数から行くと景虎の方が手薄であったから、援軍を乞うたのである。
北条《ほうじよう》氏政は景虎からの使者を迎えると、すぐ軍議を開いた。景虎援助に反対する者は一人も居なかった。謙信が死んで、跡目が景虎になれば、長いこと続いていた北条と上杉との争いはなくなるだろう。なんと云っても氏政と景虎は血を分けた兄弟であった。氏政は、景虎に援軍の約束をすると同時に出兵の準備にかかった。
武田勝頼もまた景虎に援軍を送ることにやぶさかではなかった。長いこと北信濃を上杉と武田の間で取り合いをしていたが、景虎が上杉の跡目になれば、すべてうまく解決するだろうと思っていた。勝頼の正室佐代姫は景虎の妹に当る。その関係から云っても援軍を送るのは当然だった。援軍を送るという名義で、今尚、奥信濃の飯山地方に勢力を張っている上杉勢を信濃から追い出し、また西《にし》上野《こうずけ》からも上杉勢を駆逐したいと考えた。それには絶好の機会であった。
勝頼は出兵の準備に取りかかった。
長尾景勝は先手を取って、景虎を春日山城から追い出したものの、景虎のもとに集まる者が予想外に多いので、どうしてよいか困っていた。越後国内でも二つに分かれてたいへんなのに、北条、武田が越後に攻めこんで来たらどうにもしようがなかった。
景勝は諸将を集め軍議を開くのに先だって、上杉謙信が残した財産について明らかにするように、その方の係の者に命じた。戦は長びくものと見た。そうなれば軍費がかさむ。先立つものは金であった。
「先代様の残された金貨はさぞかし新館様にお味方いたすでしょう」
謙信の御納戸役倉石源太左衛門はそう云って、謙信が残した金貨について発表した。それによると、現金は大判で二千七百二十四枚六両三分であった。大判の金貨は一枚十両であるから、二万七千二百四十六両三分の金貨が蔵の中にあったのである。たいへんな量の金貨であり、謙信がいかに金持ちであったかを示すものである。一般には謙信と佐渡金山とは関係がなかったように云われているけれど、佐渡の大間氏と謙信とは関係があったから、謙信の時代に既に佐渡の金山は開かれていたのではないかと思われる。
倉石源太左衛門の報告によって、景勝始め主なる将たちはほっとした。
「そうだ。先代様の残されたこの金を有効に使おう。そして、さしせまった危機を脱することだ」
景勝の頭にふと武田勝頼の姿が浮かんだ。勝頼に会ったことはないが、武田家は今、黒川金山、安倍金山等を掘りつくしてしまったので、十両の金にも困っているという噂があった。その噂と金とが景勝の頭の中につながったのであった。
北条氏政は急使を立てて、武田勝頼に越後出兵を促した。氏政の自筆の手紙の中に次のようなことが書いてあった。
《すでに三郎景虎より援軍の催促があったであろうが、時が時ゆえに、何を置いても至急、奥信濃におもむき、景勝に味方する者どもを討ち平げ、越後に攻めこむことこそ肝要と思う。余は早速軍勢を率いて、上州におもむく所存であるが、三国峠を越えて越後の国に攻め入るには、なにぶんとも遠路のことゆえ、日時もかかるであろう。まずは、四郎殿の働きによって三郎景虎が勢いを得て、目出たく謙信の跡目を相続することこそ喜ばしいかぎりである》
勝頼は読み終って嫌な顔をした。北条氏政という男の心根が、あまりにあからさまに文面に浮き出ていたからであった。景虎は氏政の実弟である。景虎の身をほんとうに思うならば、なにを置いても、氏政自身が越後に兵を率いて攻めこむべきであった。上州厩橋《うまやばし》城を守っている北条一族が、景虎側についたとすれば、北条軍の上州を通過するのは易々たること。それなのに小田原から越後までは遠路だから、そっちから先に越後に攻めこんで景虎を救えというのは、まるで属将に命令するような云い方であった。
信玄もそうであったが、勝頼も北条氏政のやり方には長い間不信感を持っていた。北条氏康の時代には北条氏と武田氏の同盟はうまく行っていた。氏康が誠意を持って同盟維持に努力したからであった。ところが氏政の代になると、北条、武田間はとかくうまく行かなかった。氏政は、自分の手を汚さずに、なにかと云うと武田氏の手を借りて、上杉を牽制しようとしたからであった。現在、北条氏と武田氏は佐代姫輿入れによって、同盟が緊密化したように見えるが、氏政の心は前といささかも変わっていないことを文面上で読み取った勝頼は、
「武田は北条の属国ではないわい」
とひそかにつぶやいてその書状を側近の真田昌幸に渡した。
昌幸は一読して云った。
「氏政様のお考え方は相も変わらぬ身勝手なものですが、作戦上から考えると、北条氏との連合作戦など考えず、独自に兵を進めた方がよいと思います。このような場合は、機を失せず――」
最後まで云わずに勝頼を見上げる昌幸の目に勝頼は、
「さよう、今ならば春日山城占領も困難ではなかろう」
と云った。そこにいた諸将は思わず目を丸くした。
勝頼が信濃に出兵した期日は分からないし、どの部将がこの作戦に参加したかは明らかではないが、折が折だけに、この作戦は信濃の諸将を多く動かしたものと考えてまず間違いはない。それに上野からも参加したであろうことも想像される。東上野の上杉勢が景虎に味方している状況では、西上野の武田軍を動かすのは比較的楽であった。
小田原に忍ばせてある諸国御使者衆からの情報が勝頼のところに入った。景虎援助のためにさしむけられた軍勢は、武蔵江戸城の遠山四郎左衛門、武蔵中条氏一族、武蔵常岡(恒岡と記された文献もある)氏一族、武蔵太田大膳兼高、武蔵北条氏広、軍監として北条氏政の旗本侍大将の富永左衛門尉等の合計二千五百の武蔵勢であった。
「やっぱり氏政自身は出征しないのだな」
と勝頼は云った。氏政が出征しないだけではない。出兵の顔ぶれを見ると、名のある武将は軍監の富永左衛門尉一人であった。他の武将はあまり聞いたことはなかった。つまり北条氏政は越後で起こった御館《おたて》の乱に対しては、それほど積極的ではないことを示していた。勝頼には、氏政のそのやり方がなんとしても許せなかった。景虎を援助するならするでなぜ、氏政自身が精鋭を率いて参加しないのだ。これでは、景虎の申し入れに対して、表面的に参加を示したことであり、この陣容では景虎を援けるとまでは行かないだろうと思われた。
「氏政にはなんとしても心が許せない」
勝頼は云った。
勝頼は出陣した。勝頼の意志により、御親類衆にも家臣にも反対されずに出陣したのは父信玄が元亀四年に亡くなって以来、はじめてのことであった。
(余はいままでまぼろしの武田氏統領であった)
勝頼は過去をふり返りながらつぶやいた。
父信玄死去の後、一年間は、御親類衆を牛耳《ぎゆうじ》る実力者穴山信君によって武田家は動かされていて、勝頼は、御親類衆からも家臣団からも一部将としてしか認められてはいなかった。
死後一年経って、武田の統領たることは公認されたが、実権は御親類衆にあった。穴山信君の意見が強く働いていて、勝頼の意志で武田を動かすことはできなかった。
長篠の合戦、設楽ケ原の合戦においても、穴山信君が事実上の総大将として臨み、そして信長の謀略に会って大敗を喫し、多くの将兵を失った。この時以来、信君の発言力は急に弱くなり、今度、ようやく勝頼が名実共に武田の統領としての位置に坐ることができたのである。そうなってからの最初の戦が越後出兵であった。
「あれから六年かかった」
と勝頼はその夜ひとり言を云った。正室の佐代姫がそれを聞いて、なにが六年かかったのかと訊いた。
「父信玄が亡くなってから六年目にやっと、お前のようなよい伴侶を得た。お前を得るのに六年かかったと云ったのだ」
勝頼はうまくごまかした。勝頼はもともとそのようなことをすらりと云えるような才覚は持たなかった。それが出来るようになっただけ、彼は人間としても進歩していた。
「お館様はお口が上手なこと、でも、私は嬉しゅうございます。今度出征されたら、しばらくはお目にかかれなくなります。私はただひたすらお館様のお帰りのみお待ち申し上げております」
と佐代姫は云った。
(そうだ。今度の出征は長くなるぞ、ことによると半年も帰れなくなるかもしれぬ)
勝頼は或いは春日山城包囲戦となるかもしれないと思っていた。
「戦争はどうあってもいいのです。私にはお館様だけが必要なのです」
そう云ってすがりつく佐代姫を抱きしめながら勝頼は、なんて可愛い女だろう、この女の兄が氏政だなどとはどうしても考えられない、同じ兄弟でもこれだけ違うのだから、赤の他人が全く違った考えを持つのは当然なことだと思っていた。
武田勝頼は晴々とした気持で古府中を出発した。この度の戦いはなにもかもうまく行くような気がしてならなかった。
行く先々で動員令によって集められた兵が勝頼を待っていた。諏訪衆、伊奈衆、そして松本平では安曇《あずみ》衆が加わった。佐久衆や小県《ちいさがた》衆は川中島で合流した。上野衆も参加し、真田昌幸は自らおよそ千人の兵を率いて参戦した。これらの信濃衆や上野衆の大将は、設楽ケ原の戦で戦死した大将の後を継いだ大将が多かった。内藤昌豊の子昌月、馬場信春の子民部少輔などがこれであった。時代は変わりつつあった。信玄のころの大将から次の時代の大将へと全般的に代わっていた。
勝頼はそれらの若い大将を川中島の海津城に集めて軍議を開いた。海津城主の高坂弾正は当時病の床にあったのでその子高坂源五郎が軍議に出席した。弾正は、設楽ケ原の敗戦の責任はひとえに穴山信君(梅雪)にあるから、梅雪に切腹せよと云った人である。信玄の寵臣であると同時に勝頼の理解者でもあったが、今度の合戦には出ることはできなかった。
軍議の前に、まず飯山地方にいる上杉勢の動向についての報告があった。飯山城にはおよそ五百ばかりの守兵がいるが、この城は景勝側についたらしいということであった。
勝頼は五千の軍を三千と二千に二分して、二千の一隊は川中島から柏原を通って越後に入り、三千の一隊は飯山城を落として越後に入り、両道が落ち合う小出雲《おいずも》(老津《おいづ》と書いた古書もある。現在の新井市)にて合流して春日山城に向うという作戦を立てた。勝頼自らが飯山城へ向い、真田昌幸は柏原を経由していち早く越後に足を入れることになった。
真田昌幸は信玄の眼と云われた人であり、彼の名は越後にもよく知られていた。真田昌幸が二千を率いて越後に向っているという情報を聞いて景勝派に属する将兵は大いに動揺した。それよりも驚いたのは飯山城を守る将兵たちだった。退路を断たれたらたいへんだと思った。彼等は城にこもって戦う意志はもともとなかった。景虎と景勝の相続争いは云わば、私的なものだった。たまたま景勝に味方をしたものの、景勝のために死なねばならないほどの義理はなかった。城兵は最初から浮き足立っていた。そして勝頼の軍が近づいたと聞くといっせいに城を捨てて逃げ出した。昌幸の軍に退路を断たれる前に越後に逃げこもうと考えたのであった。
勝頼は戦いらしい戦いをせずして飯山城を落とし、国境を越えた。すっかり春になっていた。早蕨《さわらび》が食膳《しよくぜん》に出た。
小出雲で武田軍五千は陣を張った。
春日山城はここから僅かに四里のところにあった。当然のことながら景勝の率いる越後の軍との一戦が予想された。
勝頼は真田昌幸の言を入れて、物見を八方に放って敵の動きを見守った。ここまで来たら、あまり軽々しく動いてはならなかった。動かなくとも、景勝軍に圧力を加えていることは確実だった。
景虎からの使者が書状を持って来た。
《早速、御出向くだされ有難く存じております。お疲れとは存じますが、そのまま一気に軍を春日山城にお進めくだされるようにお願い申し上げます。当方はその機を見て反撃に出る所存です。景勝の軍を挟み討ちにし、景勝の首を上げるのは容易なことだと思います》
と書いてあった。
勝頼は、それに対して、
《小田原の北条殿と同陣するという約束があるので、もうしばらく待ってからにしたい》
と云ってやった。その小田原の北条氏政は出陣はしていなかった。武蔵の部将数人をもって編成した遠征軍は、そのころようやく腰を上げたところであった。
小田原よりは、江戸の遠山に富長、中条、常岡、太田大膳兼高、北条治部都合人数一万五千、三郎を助け景勝退治に差越候。(『甲陽軍鑑』品第五十四)
黄金二万両
小出雲《おいずも》に陣を張って十日目、真田昌幸と同陣していた侍大将室賀《むろが》大和守信時のところに、味噌や野菜などを運んで来た近くの百姓が、頼まれたと云って一通の書状を出した。室賀大和守はそれを読んでびっくりした。百姓に訊いてみると、その書状を室賀大和守に渡してくれと云ったのは旅姿の僧だということだった。室賀大和守は百姓を帰し、その書状を持って真田昌幸のところに行った。昌幸は一見して、すぐ勝頼が泊っている本陣の寺へ伺候した。
書状は長尾景勝の家臣島津月下斎から室賀大和守信時に当てたものであった。
《私は室賀信時殿の父君小県郡室賀城主室賀入道信俊殿とかねてから昵懇《じつこん》であった。戦乱の中で敵味方とはなったが、友情は不変であった。信俊殿の御子息であるなら、そのことは知っておられると思われるによって、この書状を差し上げるのである。実は越後の長尾景勝様の命令によって和解の交渉に参っている。その由を至急に勝頼様にお伝えしていただきたい。いかようなる御指示にも従う故、かの百姓にお申し伝えられるようお願い申し上げます》
と書いてあった。
勝頼はなにはともあれ、その島津月下斎なる者に会いたいと思った。
島津月下斎は元川中島を領していた豪族であったが武田信玄に追われて上杉謙信に従って今日まで来た人であった。既に七十歳を過ぎていた。
勝頼と島津月下斎との会見は密《ひそ》かに行われた。会見に立ち会った者は少数だった。
「景勝様は武田殿に何等の敵意は持っておられないことをまず第一に申し上げておきます。敵意が無いが故に武田殿の軍が越後路に入られても手向いはせず、じっとしておりました。まずこのことをお認めになった上で、長尾景勝様のお言葉をお聞き取り下さい」
月下斎はこのように前置きして、御館の乱の内容について話し出した。
謙信は跡目をはっきり認めずに死んだけれども、実際には跡目は決まっていたも同様であること、即ち故謙信が越後国主の称号と同時に足利将軍から貰った弾正少弼《だんじようしようひつ》の世襲の官位を生前中景勝に譲っていたこと。また、景勝は故謙信の実の甥であること、血筋から云って、越後を治めるには景勝でなければならないことなどを挙げ、景虎の云い分こそ無謀であると決めつけた。そして月下斎は、
「もし武田様がこの際越後のことは越後の者におまかせ下さるというお気持になられたならば、武田家と上杉家は今までの行きがかりをすべて捨てて恒久の友好国となるでしょう。以上の意を汲み取っていただければ、景勝様は、奥信濃のみならず、東上野の上杉領も武田殿へお譲り申しましょう」
といった。
月下斎は今直ぐお返事をいただくのは無理でしょうから、三日後に再び参上いたします、それまでに御心を決められるようにと云って、帰り際に送りに出て来た長坂長閑斎に、
「これは景勝様よりのほんの手土産です。どうぞ勝頼様にお届け下さい」
と大判の入った千両箱一つを置いていった。
「このようなものを、主君の許可なくして受け取ることはできぬ」
と長閑斎が云うと、
「それならば次に来るまでお預りいただきたい。何分、途中が物騒ですから」
と云って帰って行った。
勝頼は長閑斎からこの報告を受けると、厭な顔をした。越後には金《きん》があり余るほどあると聞いてはいたが、そのやり方があまりにも現実過ぎて見えたからだった。
「どう思うか」
勝頼は昌幸に訊いた。
「土地と金によってわが進軍を喰い止めようというのは、相手もよくよく考えてのことでしょう。だが、云っていることが相手の本心かどうかは、一押ししてみないと分かりません」
と昌幸は答えた。
景勝が本気になって越後の領主たらんことを願っているならば、武田軍のこれ以上の進撃は許さないだろう。生命を賭けて国土を守ろうとするだろう。もし、土地と金で、うまく武田軍を抱きこもうなどと考えていたなら、ろくな戦争もできずに、たちまち、春日山城を捨てて逃げるであろう。そうなれば武田軍は自らの武力によって越後を制圧したことになるのだから、実質的には、土地や富を得ることになる。昌幸はそう考えて、合戦を挑むべく勝頼に進言したのである。
「まことにそちの申すとおりである。自分の国に入って来た敵をいつまでもそのままにしておくような相手なら、全く話し相手にはならない」
昌幸は全軍に合戦の準備を命じた。
武田軍が合戦の準備に取り掛かったことはいち早く景勝軍に知れた。島津月下斎の持ちこんだ講和条件には目をくれず進撃に出ようとする武田軍に対して、景勝は防戦の準備を命じた。
「越後の内紛に乗じて攻め込んで漁夫の利を得ようとする武田軍を許すことはできぬ。春日山城へはこれ以上一歩も近寄らせるな。まず目の前の敵を打ち払った後、国内の敵を亡ぼすことにしよう」
景勝は春日山城に最小限度の守備軍を残して自ら山を降りて前線に立った。
武田軍の騎馬隊に対して、上杉勢は銃砲を揃えて応戦する態勢を整えた。
上杉勢が決戦の構えを見せると、武田軍はにわかに進撃はできなかった。勝頼としてもここまで来て、部下を犬死させることはできなかった。勝頼は使者を送って御館城に居る景虎に、
《小田原からの援軍はなかなか来そうもないから、武田軍は独自に攻撃を開始するつもりだ。そちらは景勝軍の背後を突くように》
と云ってやった。景虎軍からも、そうしましょうという返事があった。
だが、景虎軍は愛宕《あたご》山からさっぱり動こうとしなかった。物見の報告や越後に忍ばせてある諸国御使者衆の報告によると、景虎軍に属している将の中には、
(武田勢を越後に引き込んでまでして、この戦に勝ちたいとは思わぬ。たとえそのようにして勝っても、結局は武田の勢力下に伏さねばならなくなるのなら、なにもせず景勝と勝頼がどのような戦《いくさ》をするか見ていたほうがよい)
と云う者が意外に多く、武田軍との協同作戦は無理のようだということだった。それらの諸将にとっては武田軍は宿敵だった。宿敵と手を組んでまでこの戦いに勝利しようとは思っていなかった。そこが景虎の考え方と越後の武将たちとの考えの相違であった。
「ばかばかしい。それではなんのために出て来たのか分からないではないか」
勝頼はいっそのこと兵を率いて帰ろうかとも思ったが、それではいよいよもって、この出征の意味がなくなる。
勝頼軍と景勝軍は睨み合ったまま数日を過ごした。そうしているうち、全く予期しない事態が起こったのである。
勝頼がこの戦いには上州や信濃在住の武将を多く選んだことを前に述べたが、軍は三頭(三軍団)の編成とし、左翼の頭は勝頼の従弟の武田信豊、右翼の頭は真田昌幸が指揮し、勝頼は中央やや後方に主力の軍団を率いていた。右翼の軍団の中に上州箕輪《みのわ》城主内藤修理亮昌月がいた。昌月は設楽ケ原の合戦で戦死した父昌豊の後を継いで箕輪城主になったばかりの人であったが、父昌豊の勇名が高いため、ややあせり気味のところがあった。なんとかして、手柄を立て自分自身の名を挙げたいと思っていた。
その昌月に真田昌幸から、大物見を出すようにとの命令があった。大物見というのは今でいうところの将校斥候である。足軽大将級の者が兵五十か百ほどを率いての偵察であった。
昌月は大物見の頭として高間雄斎を選んだ。五十歳を過ぎていたが、三方ケ原、設楽ケ原と各合戦に参加した経験のある足軽大将だったからである。
雄斎は兵五十騎を率いて敵陣に向った。小出雲の陣から大きく東に迂回して、関根から曾根のあたりを探って帰る予定だった。曾根は塩曾根、今曾根、下曾根等に分かれていた。この付近に景勝の別働隊が隠れているらしいという情報があったからそれを確かめるためだった。
高間雄斎は慎重な行動を取った。見張りを厳重にして徐々に兵を進めて行った。この高間雄斎の大物見隊と景勝が放った熊沢半兵衛が指揮する大物見隊とが、塩曾根のあたりで衝突した。全く予期しない出会いだったので、双方とも激しく渡り合ったが、熊沢隊の方が数において勝っていたから高間雄斎の率いる武田の大物見隊は死者二名と手負を三名出して退いた。高間雄斎も重傷を負った。熊沢隊は逃げる高間隊を追ってつい深入りした。
血だらけになって逃げ帰って来た高間隊を見た内藤修理亮昌月は敵襲と見て、内藤隊全軍に対して進撃命令を出した。昌月はまだ合戦の経験も少なかった。こういう場合にはまず防備をかため、頭(軍団)の長の真田昌幸の指揮を仰ぐべきだったが、あわてていたのでそれをしなかったのである。
内藤隊は約千人の兵力を持っていた。この大部隊が動き出したのだから、景勝隊も黙ってはおられなくなった。こうなると他の部隊もじっとしてはおられない。あっという間に全戦線にわたって合戦が始まった。だが運がいいことに、合戦が始まって二時間後に豪雨が襲来したので、両軍は一時戦うのを止めた。互いに頭を冷やす機会を得られたのである。
勝頼は兵を元の位置に戻して、命令あるまではそのままにするように命じた。景勝もまた兵をもとの位置まで引いて、同様な命令を出した。
この二時間の戦いで双方共に百名近くの死傷者を出し、そしてそれぞれが相手の強さを知った。再び合戦を始めたならば両軍が死に絶えるまで戦うだろうと予想された。迂闊《うかつ》に合戦はできなかった。
その夜になって島津月下斎が再び武田の陣を訪れた。
「このまま睨み合っていたならば、同じようなことがまた起こるかもしれません。そうなればお互いに死傷者を出さねばなりません。今日の合戦でお分かりになったように、武田軍が一所懸命戦っているのに、景虎様の軍は高見の見物をしていました。つまり景虎様をはじめとする一派は自分が血を流さずに国を取ろうと考えているのです。この考え方は、北条氏政様とて同じです。血を流すのは武田様で、国を取るのは北条様ということになれば、ちと話がおかしくはないでしょうか」
月下斎はそのようなことを云ってから、勝頼に和睦《わぼく》をすすめた。
「もし、このまま軍を率いて帰られるならば無条件で奥信濃と東上野の所領は武田様にお譲りいたしましょう。景勝様は、武田の力をわが方に貸せとは申してはおりません。越後のことは越後で解決するから、手をお引き下されとだけ申しておるのでございます。お分かりでしょうか」
月下斎は声を高めて云った。
「余が仲介の労を取るから景勝殿と景虎殿が和解する考えはないか」
という勝頼の問いに対して月下斎は、
「全くございません。もしそのような気持があったら、このようなことをなんで云って来ましょうや、飽くまでも越後は一つでございます。そうでなければならないと考え、恥を忍んでお願いしているのでございます」
月下斎は云った。恥を忍んでというのは、領土の割譲《かつじよう》であった。恥を忍ぶというよりもそれは屈辱的行為であった。武田に対して全面的降伏の姿勢を取ることであった。そうしてもいいから、越後には手を出してくれるなという景勝の願いにはなにか悲愴なものがあった。
「武田に対しては領土を割譲して和を計るとして、北条に対しては何を以て和を計るつもりか」
という勝頼の問いに対して月下斎は、痩せこけた頬に微笑を浮かべながら答えた。
「景勝様は小田原殿を当初から問題にしてはおりませぬ、氏政様にとって景虎様は実弟です。もし兄弟の情があって、心から景虎様を支援するならば、氏政様自らが兵を率いて、いまごろは国境を越えているでしょう。だが、今になっても氏政様が腰を上げる様子はありません、それに氏政様が派遣した関東勢と云っても、ほんの申しわけ程度の軍勢です。われわれとしては全然恐れてはいません。おそらく彼等は国境を越えることもなく引き揚げるでしょう」
と月下斎は云った。なぜそのようなことが分かるかという勝頼の質問に対して月下斎は、
「これらのことは小田原に放ってある諜者より逐一《ちくいち》報告が入っております。同じように古府中に入れてある諜者からもつぎつぎと報告が入っていることをお忘れなく。越後滞陣が長びけば、口うるさい御親類衆が出て来ることもお蔵方がお困りになることもちゃんと分かっておりまする」
とすました顔で云った。
氏政が全然腰を上げるつもりがないという情報が真実とすれば驚くべきことである。そうかどうかをよく確かめてみなければならないと勝頼は思った。
「二、三日したらまた参ります。それまでにお心を決めて下さるように願います。尚《なお》、大物見はお互いに出さないようにお約束いただけないでしょうか。上の者がいくら気をつけていても、つまらぬことがきっかけで抜きさしならぬことになるやもしれません。そうなった場合得をするのは景虎様と氏政様でございます」
「なんで氏政殿が得をするのだ」
と思わず釣りこまれて勝頼が質問すると、
「これは確かな情報ではありませんが、謙信公が亡くなられた直後に小田原城でごく内々の軍議が開かれ、今後の方針が決められたそうでございます。氏政様は謙信公亡き後は織田勢が必然的に勢力を増すことを見こされて、今日よりは織田、徳川と事をかまえぬようにするべきであると声を大にして云われたそうです。つまり北条氏は謙信公死去と同時に織田、徳川勢に近づき、武田氏とは離れる方針を決めたものと思われます。だからこそ、武田氏が長尾氏と争って傷つけばそれだけ北条氏が得をする……」
「黙れ――」
と勝頼が云った。
「言葉が過ぎるぞ月下斎、不確かな情報と前置きしながら、いかにも事実らしく申すあたり、そちの根性が見えすいているぞ」
と傍から跡部勝資が口を入れた。月下斎は恐縮して、早々に立ち退いて行った。
月下斎が去った後がそのまま軍議の席になった。月下斎の申し入れをどう処理するかという問題であった。
「月下斎の申し出を受け入れ、越後と和して早々に古府中に引き揚げるのが最善の策かと思います。但し、そうするには、小田原の動きを確かめること、和睦条件を更に有利なものにすることだと思います。氏政殿がどのような考えをしておられるかは、やがて小田原にいる諸国御使者衆よりの報告があるでしょう。和睦条件をよくするということは、領土のほかに越後の金《きん》を貰うことです。ただ貰うのではありません、景勝様のところにお館様の御妹姫の於菊《おきく》御寮人を正式に輿入れする約束をなされて、その結納金として二万両ほど要求なされるのです。金貨で二万両です」
昌幸は思いもかけないようなことを云った。
しばらくは誰も発言しなかった。余りにも突飛な考え方だったからである。
「なぜ金貨など突然持ち出したのか」
勝頼が昌幸に訊いた。
「月下斎はこの度の交渉の決め手として金貨を用意していることを内示されました。即ち過日、長坂長閑斎殿に託された千両箱はそのような意味を持っています。それにさきほど月下斎は、古府中に忍ばせてある諜者によって、お蔵方が困っていることまで調べてあると云ったのは、わが武田家の財政が逼迫《ひつぱく》していることを示唆したものと思われます。つまり金が欲しければ取り引きに応ぜよという暗示です。だが、それをただで貰うわけには参りませぬ、於菊御寮人は十五歳、景勝殿は二十三歳、丁度よいお年齢《と し》かと思います。結納金の二万両ならば、いささかもおかしくはありません」
昌幸は云った。
「ばかなことを申すな、そんなことをすれば目先の利に迷って義を捨てたと日本中の笑いものになる。まず第一に北条との同盟は破棄されるだろう。織田、徳川に加えて北条までも敵に廻すことになるのだ」
と跡部勝資が真っ赤になって云った。
「北条氏政殿は既に武田との盟約を破っています。もし、武田との盟約を重んずるなら、氏政公自ら大軍を率いてなぜ同陣の姿勢で、上州境より越後に攻め入らないのです。氏政殿が謙信が亡くなったその瞬間方針を変えたという月下斎の言葉にはおそらく間違いはないでしょう。彼はそういう人なのです」
昌幸は勝資が昂奮すればするほど冷静になっていった。
「たとえ、そうであっても、この際、突然節を変えるのは、いかにも世間体が悪い」
と長坂長閑斎が云った。
「軽々しく景勝と手を結ぶことはできない。しばらく様子を見てからにすべきだ」
と云ったのは典厩信豊であった。
「このまま、なにもせずにじっとしていたら、景勝は必ず景虎を負かすでしょう。そうなってしまえば武田に取ってなんの利益にもなりません。交渉は今です。わが方にもっとも条件がいいときに約を結ぶべきです」
昌幸は諄々《じゆんじゆん》と説いた。戦国の世である。形勢如何によって盟約を破ることなど日常茶飯事に行われている。現に織田信長など、その手を使って、急激に延びて来たのではないか、故信玄公も北条との盟約を破って駿河に侵入したからこそ、駿河、遠江を手中におさめることができた。こまかい義理などにかかわっていたら時代に遅れる。既に北条氏政の心が武田から去ったならば、すべからくこちらも方針を変えるべきだと力説した。
「だが氏政殿の心が変わったという確たる証拠がないかぎり余は、昌幸の言を取り上げることはできぬ」
と勝頼は云った。おそらく昌幸が云っていることはほんとうだろうと思った。しかし、はっきりしたことが分からないと、景勝と手を握ることはできなかった。
勝頼は佐代姫のことを思った。身も心も勝頼に捧げ尽して尚も不足であるかのように、常に勝頼のことを思ってくれている佐代姫が、もし勝頼と氏政との間に亀裂が入ったと聞いたらどんな顔をするだろう。勝頼は未《いま》だに佐代姫の憂いの顔を見たことがなかった。その佐代姫の憂いに覆われた顔を見たような気がしてはっとした。その佐代姫の憂いに満ちた顔が、妹の於菊の顔とすり替えられた。幼くして、伊勢長島の本願寺派顕証寺法真の嫡男法栄と婚約したが、天正二年(一五七四年)織田信長の攻撃に会って長島顕証寺は亡び、於菊の夫たるべき法栄も死んだ。その於菊を今度は景勝の正室にしようというのである。いたいけな於菊を故郷を遠く離れた越後にやるのがなんとも不憫《ふびん》であった。
(それもお家のためだ。いざというときには承知して貰わねばならぬ)
勝頼はつぶっていた目を開けた。誰かが高い声でなにか云っているのが耳に入ったからである。
「小田原から諸国御使者衆の内田幸右衛門が参りました」
跡部勝資が勝頼に取り次いだ。丁度よいところに参ったものだという顔だった。
「これへ呼びましょうか」
勝資が訊いた。
勝頼は顔を上げて跡部勝資、長坂長閑斎、真田昌幸、武田信豊の四人の顔を見渡した。四人が四人とも内田幸右衛門を呼び入れることを期待している顔だった。
内田幸右衛門は旅僧の姿だったが、ひどく貧しげに見えた。衣は破れ、汚れていた。乞食坊主と云われてもしようがないような恰好だった。生気がなく疲れ果てた顔だったが、目だけはぎらぎらと光っていた。
「内田幸右衛門、御苦労であった。元気がないようだが、どこか悪いのか」
勝頼はまず幸右衛門に訊ねた。幸右衛門は、はっと答えて平伏したがすぐに顔を上げて、咽喉の奥からしぼり出すような声で、
「どこも悪くはございません。旅疲れでございます。まずはそれがしの持ち帰ったる小田原の御様子をお聞き取り下さいませ」
内田幸右衛門はそう前置きして話し出した。三月九日に謙信が倒れ、三月十三日に死んだことは三月十五日には小田原に知れた。同時に相続争いが起こったことも小田原に知らされた。北条氏政は三月十八日に重臣を集めて上杉謙信死去についての今後の方針を問うた。多くの者は、謙信の死によって、北陸が織田信長の所領になるのは火を見るよりも明らかだろうと云った。謙信の死によって織田信長に楯《たて》つく者は、近くでは武田勝頼だけになった。こうなった場合、武田と同盟を結んでいる北条は、織田、徳川の当面の敵となる。情報分析がここまで進んだ時に、北条氏政は、
「今日はここまでにしておく、近くまたこの続きを話そう」
ということにして軍議を中断した。中断したのではなく、実は、氏政と家老たちの間の秘密打ち合わせ会になったのである。この秘密会議は夜を徹して行われ、その結果、
〈武田家との同盟はなるべく早期に破棄して、織田、徳川と結ぶ。そのためには、織田信長をなるべく刺戟しないような策を取らねばならない。越後の景虎に積極的に肩を入れることは、やがては北陸に進出している織田軍との衝突を招くことにもなりかねないから、景虎の支援はほどほどにする。そのため景虎が滅亡しても止むを得ない。景虎の支援は武田勝頼にやらせよう〉
という方針が決まったのである。この案に徹底的に反論したのは家老の松田憲秀であった。
「それで北条氏は一時は生き残るでしょう。だがそのような当面の利に走る方策はやがては北条家を亡ぼすもとになるでしょう」
と松田憲秀は云った。事実、北条氏は、関東だけを抱えて生き残ることに汲々《きゆうきゆう》とし、終には豊臣秀吉に亡ぼされる運命をたどったのである。
内田幸右衛門の情報は細部に亘っていた。情報は内田幸右衛門の手下が松田憲秀の屋敷に忍びこんで、憲秀が来客と密談しているのを盗み聞いたのである。
「やっぱりそうだったか」
勝頼は一瞬唇を咬《か》んだ。北条氏政の派遣した遠征軍がはなばなしい発展を見せないのは、そのような裏があったからだと納得すると、氏政に対する憎しみが、心の奥底から噴出するような思いになった。勝頼はそれをこらえた。
「よくぞ、それまで探ってくれた。おかげで余の決心はついた。ゆっくり休むがよいぞ」
勝頼は内田幸右衛門に云った。
それに対して内田幸右衛門はなにか云った。そして立ち上がろうとして倒れた。侍臣たちが幸右衛門を別室に運んだ。
真田昌幸は幸右衛門の倒れ方がへんだったので、幸右衛門と共に別室に入った。幸右衛門が倒れたのは飢えであった。幸右衛門は、与えられた粥を立て続けに三杯ほどすすりこんだ後に昌幸に云った。
「私だけではなく、諸国御使者衆のすべてが飢えに瀕しています。国元からの送金が絶えて、もう一年にもなります。なにかと自活の道を見つけて生きてはいますが、生きることに精を出せば、諸国御使者衆としてのつとめはおろそかになります。つとめを果そうとすれば、これこのようなあさましい姿になります」
彼ははらはらと涙をこぼした。
昌幸は、そのままもとの席に帰ると、跡部勝資に向って云った。
「諸国御使者衆の手当を一年間もとどこおらせているとは何事ですか」
跡部勝資は武将ではなく、どちらかというと武田家の内政面をあずかる人であった。金銭の責任は勝資にあった。
昌幸は大きな声で勝資をそう責めてから、内田幸右衛門がなぜ倒れたかをそこにいる人たちに告げた。
「諸国御使者衆ばかりではない、高天神城にさえ、充分な補給ができないでいる――」
勝資はそう云って頭を下げた。武田家の逼迫《ひつぱく》した財政状態を明らさまにするのをはばかっている様子であった。
「古府中の金蔵には十両の金貨もないという噂さえ出ている。それは本当ですか」
昌幸は更に問うた。
「度重なる出兵に費用がかさみ、それに引きかえ、黒川金山、安倍金山、富士金山は何れも鉱脈を掘り尽してしまい、このごろはほとんど産金がない状態、いかに苦労しても無いものは無い――」
と勝資は暗い顔をした。
「諸国御使者衆は先代様がお作りになった、誇るべき諜報機関である。そこへの手当がとどこおるようでは、武田の目はつぶされ、耳はふさがれたことになる」
武田信豊が憮然として云った。
「なんとか考えねばならぬ」
長坂長閑斎が唸るように云った。
「お館様、お考え下さいませ、この武田の逼迫した財政を一時的にでも救うことのできるのは、上杉氏の金《きん》です。既に氏政殿の心が武田から去ったことが明らかになった以上、躊躇《ちゆうちよ》されることはなにもございません、長尾景勝と手を結びましょう。その交渉にはこの真田昌幸をやらせて頂きとう存じます」
真田昌幸は声を大にして云った。
「昌幸の申し出はもっともだと思う。昌幸の申したることに異議ある者はないか」
勝頼は、そこに居並ぶ者に問うた。誰も黙っていた。勝頼に賛成しながら、一方では、北条を敵にすることを憂えていた。
「ないか? では、真田昌幸にこの交渉のいっさいをまかせる。その結果によっては明日にでも、ここを発って古府中に引き上げる。尚、内田幸右衛門にはできるだけの手当をしてやり、取り敢ず困っている諸国御使者衆を救う算段をしてやるように」
勝頼は結論をつけた。ほっとした。佐代姫には悪いが、北条氏政と縁が切れてよかったと思った。孤独感がおしよせた。織田、徳川、北条を敵にして、果してどこまで生きられるだろうか。
(だが、武田は生きねばならぬ。いかなることがあっても、武田家を亡ぼしてはならないのだ)
勝頼は自分自身に向って云っていた。
真田昌幸が島津月下斎と同道して長尾景勝に会ったのは、それから数日後であった。
昌幸と景勝とは話がすこぶる合った。景勝は昌幸の出した条件を全面的に呑んだ。景勝が誓書を勝頼に送り、勝頼もその日のうちに誓書を景勝に送った。奥信濃と東《ひがし》上野《こうずけ》の地を武田に譲渡することを条件に勝頼が即時撤兵すること。これによって、武田家と上杉家は和睦《わぼく》し、勝頼の妹於菊姫が景勝の正室として嫁し、その結納金として二万両が景勝より勝頼に送られることが同時に取りきめられた。
金二万両の輸送は六月に入ってから行われた。勝頼はその二万両を持って古府中に凱旋した。
景虎の最期
武田勝頼と長尾景勝とが和睦したのは天正六年(一五七八年)六月ということになっている。期日ははっきりしていない。御館《おたて》の乱が始まったのが上杉謙信が死んだ直後の三月半ばであったから、六月早々勝頼と景勝が講和したということは妥当なところであろう。
勝頼が景勝と講和したという噂は数日中に越後中に知れわたった。人々はこれで御館の乱は景勝の勝ちと決まったようなものだと話し合った。勝頼が兵を引いたのを見て、景虎についていた者で景勝派に鞍がえする者も出て来た。中間派の動向もこの時点ではっきりした。
北条氏政が援軍として派遣した江戸城主遠山四郎左衛門(相模遠山氏)等は、勝頼が景勝と結んだという話を聞くと、これを氏政に自ら報告すると称して、さっさと小田原に帰ってしまった。総大将がこのようだから他の大将も本気で越後軍と戦うつもりはなく、北条軍は景虎援助をやめて引き揚げた。もともと景虎を本気で助ける気がなかったのだから、このような結果になったのは当然であろう。『甲陽軍鑑』には、この事件について、他所には例を見ないほど感情的な筆で、跡部勝資、長坂長閑斎、武田勝頼を責めている。やや長い読みづらい文章だから、ここに意訳して載せる。
勝頼公は、北条氏政から、越後の上杉景虎を助けてやってくれという書状を貰うと、二万ほどの人数を引き連れて越後の小出雲《おいずも》(現在の新井市)というところまで攻めこんだ。なぜ勝頼公が長尾景勝退治に出馬したかというと、勝頼公は前の年(天正五年)北条氏政の妹を正室として迎えられた。上杉景虎は氏政の弟で、元の名は氏秀と云い幼くして上杉謙信の養子となった人である。こういう関係だから、謙信が死んで、跡目相続争いが上杉景虎と長尾景勝の間で始まったとなれば、勝頼公が景虎を助けるのは当然なことである。ところが、こうなると景勝の方はすこぶる不利になる。小出雲と春日山城とはわずかに四里しか離れていない。
景勝は智恵をしぼった末、勝頼公の側近にいる出頭人の長坂長閑斎と跡部大炊助《おおいのすけ》勝資は慾深い男たちで、謝礼、進物、賄賂によって、事を処理すると聞いていたから、まずこの長坂長閑斎と跡部勝資に上杉謙信が貯えておいた金貨二千両ずつを送り、勝頼公に執《と》りなしを頼んだ。景勝が提示した条件は、お近づきの印に勝頼公には金一万両を差し上げ、勝頼公の旗下としての礼を取り、東上野を残らずさし上げるという内容のものであった。
長坂長閑斎と跡部勝資は景勝の云い分を承知した。まかせて置けと引き受けると、二人ともども勝頼の前に出て、長尾景勝が出したこの条件を披瀝して云うには、
「信玄公がいよいよ西上の旗を上げられる時のことでございました。信玄公は出征費用を調《ととの》えるために、後家役と称して寡婦《かふ》に税金を掛け、また僧で妻帯している者にも妻帯役として税を掛けられました。しかし、このようにまでして集めた金がようよう七千両ばかりでした。ところが今、なにもせずに立ちどころに一万両の金子が調達できるというのは、勝頼公が信玄公よりも十倍もの御威光を備えられているからだと思います。そればかりではなく、景勝は東上野も差し出し、勝頼公の旗本となり、未来永劫仕えるというのですからこんな割のいい講和条件はございません。景勝へは信玄公御在世中に伊勢長島の一向宗の顕証寺法栄と御婚約されていた妹姫の於菊御寮人をお輿入れまいらせたならば一段と友好関係が親密になるものと思います。景虎はいかにも勝頼公の御小舅《こじゆうと》ではございますが、もしお館様が景虎に加勢されて、景虎が越後の領主となったならば、慾深い北条氏政のことですから、この越後を自分のものとし、その次には勝頼公を退治なさるのは間違いないことと存じます」
このように、長坂、跡部の両人が口をそろえて云うので、勝頼公もついにその気になられて、景勝と講和せられ、小舅《こじゆうと》の景虎をその年の間に殺してしまった。この事を聞いた武田領内の侍、地下人(百姓)、町人、出家衆たちは、武田の御家滅亡疑いなしと話し合った。義理を違え、汚い慾のために金を取るような道理にかなわぬことをしては、なに一つとしてよいことがあろう筈はない。長坂、跡部の両人は賄賂を取り、義理も恥も知らず、末のことなど考えようともせず、自分たちの慾得だけで、このような悪いことを勝頼公に御意見申し上げたのだ。それを良いこととなされて御取り上げなされた勝頼公も勝頼公、まずまずこれこそ、勝頼公御滅亡の原因《も と》となるであろうと、人々は囁き合っていた。(中略)この年の暮のことである。古府中の三日市場の辻に落書をしたためた立札が見受けられた。
無常やな国を寂滅する事は越後のかねの諸行也けり
金《かね》故にまつきに恥は大炊助尻をすへても跡部《あとべ》也けり
〈註〉まつきとは真黄色《まつきいろ》、金貨を貰った故に黄金色の恥を掻いた跡部大炊助《おおいのすけ》の意
さて、こういうなり行きになったので、北条氏から上杉景虎援軍として出征していた江戸城主遠山四郎左衛門(相模遠山氏)等は、兵を率いて小田原へ引き揚げた。北条家の人々はすべて勝頼公のなされかたは御比興《ひきよう》(道理にかなわぬこと)だと云って口惜しがった。
『甲陽軍鑑』を史書として取り上げることに反対する学者が多いのは、内容に誤ったことが多いことだけではなく、このような感情的な文章が処々にあるからである。特に、長坂長閑斎と跡部勝資の両者に対しては、終始佞人《ねいじん》として扱っている。設楽ケ原の合戦の大敗もこの二人が勝頼に進言して、無謀な突撃命令を出したのであるとか、この上杉景勝との和平策も二人の佞人が賄賂を取ってしたものだと書き立てている。設楽ケ原の合戦には長坂長閑斎は参戦していないし、跡部勝資は武将ではないから、たとえ参戦していたとしても発言権は小さい。とても勝頼を動かすほどの力はなかった。設楽ケ原の合戦における長坂長閑斎と跡部勝資が出撃論を唱えたというのは『甲陽軍鑑』の嘘である。
同様に、長坂と跡部が景勝から賄賂を貰い、勝頼に和睦をすすめたというのも、恐らくは『甲陽軍鑑』が作り上げた嘘であろう。
しかし、越後の春日山城まで四里というところまで攻めこんで勝頼が突然、景勝と結んだのは、その裏に、そうせざるを得なかった種々の理由があり、また色々の駆け引きがあったことが窺われる。景勝側から、奥信濃、東上野、黄金の誘いがあったことはうなずける。しかしそれを勝頼が受けたのは、それだけの理由があったからである。即ち勝頼のこの行為は、北条氏政の越後遠征が本気ではなく、氏政は小田原で涼しい顔をしていながら、勝頼だけに出血を要求した態度と、謙信死去と同時に氏政の心が織田信長の方に向いたという確実な証拠を掴んだ上での単独講和であったであろう。
御館の乱に、勝頼が兵を率いて越後の小出雲まで出征した事実はあっても、氏政自らが出征したという事実はない。ましてや、北条軍が国境を越えて、景勝の軍と戦ったという記録もない。北条氏政という人間よりも、北条氏を支える家老衆たちの合議制によって方針を決めるというやり方は、はなはだ姑息的で新鮮味がない。優柔不断と云ってもいいような政策が氏政の代になってからずっと取られている。信玄はこの氏政を嫌って、一時北条と手を切ったほどである。『甲陽軍鑑』では義だとか道理だとか云っているが、この場合、義や道理にかなわない軍事行動を取ったのは、むしろ北条氏政の方であった。勝頼が景勝と和睦したのは、そうせざるを得ない情勢を感じ取ったからであろう。
氏政はまさかと思っていたことが出来《しゆつたい》したので激昂したに違いない。思うさま、勝頼を非難したに違いない。そうしながら氏政は隣国徳川家康にそっと手をさし延べていたのである。おそかれ早かれそうするつもりだったのが勝頼の義絶によって少々早くなっただけであった。
氏政がもしほんとうに、自分の弟の上杉景虎を支援するつもりならば、勝頼が手を引いた時点で、本格的な出兵を断行して越後の景虎を支援すべきであった。そうしないところに、氏政の野心がはっきりと覗いて見えるのである。
北条氏政と武田勝頼が共に越後から手を引いた時点で景虎と景勝の戦力を比較すると、景勝の方が断然有利であった。なんと云っても、景勝は謙信の血筋を引く者であった。謙信を崇拝している越後の人たちは、景勝が謙信の跡目であることを願うのは当然である。
景虎は敵として戦った北条の血筋を引く人である。たとえ謙信が養子として可愛がっていたとしても、景虎を跡目にしたくないという気持を持った人が多かった。景虎の味方についたもと関東管領の上杉憲政及びその一派の人たちも、北条と武田が手を引いてしまうと、戦のやりようがなくなった。合戦を繰り返すごとに徐々に不利になって行くようであった。
景虎の支持者のうち、もっとも頼りになるのは、戸中城(または栃尾城)主北条《きたじよう》丹後守景広であった。北条高広の子である。北条《きたじよう》氏は越後刈羽郡北条《きたじよう》より出た越後毛利氏の一族であった。北条高広は謙信とうまが合わず、謙信の在世中しばしば反抗したことがあった。その子の北条景広が御館の乱に際して、主流派と目される長尾景勝につかず反主流派の景虎についたのは、父の代からの一貫した反骨精神によるものであろう。
反主流派の上杉景虎をかばった上杉憲政の御館《おたて》は越後府中(現在の上越市)にあった。
北条景広はここに兵を集めて、長尾景勝追討の旗を高く掲げていた。北条景広は、
「たとえ越後中の者が景勝につき従うとも、この景広が傍にある限り、必ず、景虎様は最終的勝利を得られるでしょう」
と云って、景虎をはげました。
景虎は、勝頼が景勝と和睦したのは、止むを得ないことであったとしても、実兄の北条《ほうじよう》氏政が、なんの挨拶もなしに兵を引き上げ、度重なる催促にもかかわらず言を左右して、さっぱり援助をしようとしないのを恨《うら》んだ。
《このままだと、近いうち私は景勝に殺されることになるでしょう。幼くして人質となり、越後に送られ、謙信公の御愛顧を受けてようやく越後の守となれるところまで来ている私をなぜ見殺しになさろうとするのですか、おそらく兄上は織田信長に気兼ねしてのことだと思いますが、ほんとうの弟よりも織田信長の方が大事なのですか、こんな泣きごとをいうのも、いよいよ苦しくなって来たからです。五百でも千でもいいから援兵を下さい。どうしても援兵が出せないというなら、私の落ち行く先を御用意下さい。なぜならば私を越後に人質として寄越したのは兄上だったからです。そのくらいのことは当然して下さってもよいのではないでしょうか》
この書状に対しても氏政は、返事を出さなかった。知らん顔をしていたのである。
北条《きたじよう》丹後守景広は、この北条《ほうじよう》氏政のやり方にひどく腹を立てた。
「こうなったら自分ひとりが頼りだとお考え下さい。あきらめてはなりませぬ。この丹後守が必ず苦境を切り開いてお目にかけます」
北条《きたじよう》丹後守は勇将智将として名が通っていた。景勝派の勢力が優勢と見られるようになっても、御館にこもる一派はなかなか活発に動いていた。しばしば、景勝軍と景虎軍が小競合《こぜりあ》いをしたが、双方互角の戦いをしていた。景虎派が簡単に崩れそうで崩れないのは北条《きたじよう》一門の強力な背景と、本庄美作守義秀の後押しがあったからである。本庄氏も北条氏同様、謙信の在世中、彼のやり方に対して批判的で、しばしば叛意をむき出した武将であった。
北条景広は持久戦に持ち込む覚悟をした。御館に拠って、防備を厳重にしておけば、たやすく亡ぼされることはない。一年や二年は持つだろう。そうなれば、戦局もまた変わって来る。加賀、能登、越中に侵入しつつある織田軍が必ず越後を窺うようになる。景勝は、丁度武田勝頼の軍を小出雲に迎えたと同じような立場に追い込まれる。しかし、相手は天下統一をねらっている信長のことだから、簡単には講和に応じないだろう。
(景虎が越後を統一するのはその時である)
景広は御館の周辺の出城、砦の守備を厳重にした。景勝は、この出城、砦の攻略に取り掛かろうと考えていた。それは簡単なようで容易なことではなかった。無理をすると、死傷者ばかり多く出して、その割に成果は上がらない結果になる。大衆の眼もある。内輪もめに対して批判的な地下人の存在を無視して、彼等を戦線に駆り出すことはできなかった。
「侍衆は槍や刀ばかり振り廻して喧嘩に明け暮れている。結構な身分である」
という百姓たちの声は景勝の耳に痛かった。
景勝はあせっていた。こういう情勢のまま景虎側の持久戦にずるずると引き摺《ず》りこまれたら不利である。だからと云って、大軍を発して、一押しに御館をつぶしてしまうというのもいろいろと問題があった。景勝が一番心配していることは、相続争いのために将来ある将兵を無駄死させてはならないということだった。そうせずに、なんとかして景虎を殺すか、追放したいと考えていた。
「丹後守(北条景広)さえ亡き者にしたら、この戦いは終ります」
と景勝に密かに進言した者がいた。上条民部少輔《みんぶしようゆう》義春であった。
「民部、なにか策があるのか」
景勝の問いに対して、上条義春は景勝の近くに進み出て、
「さらば、兵三百ほどそれがしにお貸しいただければ、十日ほどのうちには……」
「北条景広を討ち取って見せるというのか」
景勝は半信半疑で聞いていた。兵三百を貸せというだけで、どのようにして、景広を討ち取るかは云わなかった。
「必ず討ち取って御覧に入れますゆえ、このことはお心の中に留め置くだけにして口外なされぬようにお願い申し上げます。民部に三百ばかりを預けて、御館の出城、坂戸を攻めさせることにしたとだけ、御申し出しくだされるよう願いとうございます。お味方の中には、ひそかに景虎様に心を寄せている者もあり、いざという時には向うにつこうと考えている者も必ず居るものと考えられます。策は密なるべきことこそ至上と存じますれば、なにとぞそのようにお含み置き下さい」
義春は、廻りくどいことを云った。
景勝はそれを許可した。
天正七年の春になっていた。謙信が死んでから既に一年は経過していた。
二月十日から義春は三百の兵を百人ずつに分けて坂戸の出城の攻撃にかかった。
昼となく夜となく攻め続けた。城兵を疲労させるためだった。城兵は睡眠不足になった。
北条《きたじよう》景広は上条義春のこの攻めようを見て、
「おそらく、これは城兵を疲れさせた上で、大人数を向けておしつぶす計略か、それともこうしているうちに、城の内部からの叛《かえ》りを待つかどちらかの作戦だろう」
と云った。どっちにしても、坂戸の出城を見殺しにできなかった。ここを見殺すと、他の出城も次々と落ちる可能性があった。
北条景広は上条義春の攻撃法を分析した。攻撃隊百人は一日戦っては交替する。その交替が明け方なされていた。
一昼夜戦って疲れ果てた兵等は、交替に来た兵に持場をゆずって引きさがって行った。
景広はこの交替のやり方をよく研究した。交替はその日によって四半刻(三十分)ぐらいの狂いがあった。早いこともあり、遅いこともあった。
三月二十五日は霧の深い朝であった。景広は自ら精兵百名を率い、上条義春の交替兵をよそおって、城を囲んでいる兵に近づき、一度に襲いかかった。相手は一晩中眠っていなかった。味方だとばかり思っていた軍が突然、打ち掛かって来たので総崩れして春日山城へ向って逃げた。その途中で、本当の交替兵と行き合った。その交替兵も逃げ帰って来る味方に驚いて戦わずして踵《きびす》をかえした。
景広の率いる軍は勝鬨《かちどき》を上げて、それ以上は深追いをせずに御館に引き上げた。
この勝利に酔った景広等の一行が、御館の近くの橋の上まで来た時であった。橋の下にかくれていた伏兵二十人ほどが槍を持って現われ、馬上の北条景広を狙って突きかかった。霧が深いので、景広の前後にいる兵にはこれが見えなかった。叫び声がするので駈けつけてみるとこの騒ぎであった。景広は、この橋の上の奇襲で深手を負った。
これは、すべて上条義春の計略であった。わざと景広に隙を見せ、景広が朝の奇襲の成功に気をよくして油断しているところへ伏兵をさしむけたのであった。
景広は左右二本の槍を受けた。
「上条義春の郎党荻田《おぎた》主馬」
と名乗って右側から突き出した槍は景広の右腹を突いた。
「同じく津波木与兵衛《つばきよへえ》」
と叫んで突き出した槍は景広の大腿部深く突きささった。
「おのれ、小倅《こせがれ》」
と、景広は叫んで、抜き放った太刀で二の槍を払いのけて通り過ぎたが、この深手のために御館の門のところで意識を失って落馬した。彼は出血多量のため、手当の甲斐もなく翌々日の二十七日に死んだ。火葬に付されたのは二十九日であった。
北条丹後守景広の死は景虎側にとってたいへんな痛手だった。景虎派は軍師と総大将を同時に失ったようなものであった。憂色が御館を覆った。景広の死で強い精神的打撃を受けたのは景虎よりも本庄美作守義秀だった。義秀は景広が死んだと聞くと、がっかりして寝ついてしまった。本庄美作守義秀が死んだのは景広の死んだ翌々日だった。八十二歳の高齢であるから、自ら陣頭に立ったり、軍議に参加することもなかったが、彼が景虎側にいるということは大いなる力があった。北条、本庄という二本の柱が倒れてしまった後、景虎陣にはもはやたのむべき人はなかった。
三月に入ってすぐ、景勝側から御館の景虎へ使者が送られた。
「相続争いが始まって一年になる。三月十三日の先代様御命日までにはことを納めたいがどうか」
という申し入れに対して、戦う気力を失っていた景虎側は特別の条件も出さずに、交渉に応じた。
景勝側は和睦交渉に先立って、
「人質として、上杉憲政様、景虎の嫡子道万丸、及びその母おまつ(景勝の妹)を渡すこと。上杉憲政様はもともと景勝の主君に当り、おまつは景勝の妹であり、道万丸は甥である。従ってこの人たちの生命は絶対に保証する。この人質を春日山城に迎えた時点で和睦の話し合いを始めよう」
と云ってやった。
景虎とすれば、景勝に何を云われても聞かねばならないほどのところまで追い込まれていた時であるからこの申し込みを受けた。
上杉憲政は黒衣の僧形《そうぎよう》、おまつ殿は侍女一人と道万丸を連れて、景勝から迎えとして派遣された霧沢左京進の用意して来た輿に乗った。
一行が御館四つ屋の付城《つけじろ》を出てから半里ほどのところまで来たとき霧沢左京進は人質たちを輿からおろして、
「景勝様の御諚《ごじよう》である、観念いたせ」
と叫んで、次々と三人を刺し殺した。おまつ殿の侍女は気を失って倒れたところを槍で突かれた。
九歳の道万丸の最期はあまりにも哀れであった。道万丸は九歳ながらも武士の子であった。脇差を抜いて母を守ろうとして、母の骸《むくろ》の上に伏した。
景勝が行ったこの思い切った処置は、至急越後の内紛を収め、外敵織田信長に対抗する必要上からであったとしてもあまりにもむごたらしい、そして卑怯なやり方だった。
景勝と霧沢左京進とは心を合わせてやったことなのだが、外面的には、
「左京進が命令を聞き違えて、大事な人質を殺してしまった。よって霧沢左京進は幽閉した」
と発表した。作りごとであろうことは分かり切ったことである。
上杉景虎は、身一つで御館を逃れ出て、同志の飯盛摂津守、片貝民部が立て籠っている鮫尾《さめがお》城へ逃げこんだが、上条義春が二千の大軍を率いて城を囲むと、片貝民部は自ら節を捨てて、景虎に切腹を迫った。
上杉景虎が切腹して相果てたのは三月二十四日のことであった。
上杉景勝という人の逸話は多いが、『上杉三代日記』の中に次のような話がある。
景勝は生れて以来、めったに他人に笑顔を見せたことがなかった。常に怒ったような顔をしていた。元服して腰に刀をさすようになると、刀の柄に手を掛けて、人の顔をじっと見詰めるという癖が出て来たので家臣たちは、景勝の将来をどうなることかと恐れていた。或る時、景勝の一行が路ばたの茶屋で休んでいた時、通りかかった牛飼の猿が、景勝のかぶっていた頭巾を取って木の上に登り、これを冠って景勝に向い、得意げに頷いて見せた。この様子がよほどおかしかったのか景勝は声を出して笑った。近習たちは、ほっとして胸をなでおろした。
この逸話は景勝の人となりを如実《によじつ》に示したものである。
景勝の中にはこのように非情な面が少年のころからあったのである。越後統一のためだとは云え、いたいけな甥の道万丸や妹のおまつを、いつわって誘い出して殺すなどということは、誰にでもできるということではなかった。
この年、天正七年十月二十日、武田勝頼の妹於菊御寮人が越後に輿入れをした。
景勝が二十四歳、於菊は十六歳であった。於菊御寮人は古府中から長い道中を経て春日山城までたどりついた。勝頼は道中の警戒には特に気を配った。
景勝は二十四歳だから既に側室はあったが、正室として武田信玄の女《むすめ》を得たことはたいへんな喜びであった。
「余の伯父は上杉謙信公であり、そなたの父は武田信玄である。従って、われ等の間には大伯父に上杉謙信、祖父に武田信玄という二人の英雄の血を持った子が生れて来る。まことにめでたいことだ」
景勝は於菊に云った。
於菊は顔を赤らめて、かすかに頷いていた。彼女は政略結婚のために生れて来たような女性であった。父信玄の在世中に、伊勢長島の顕証寺法栄との婚約が成立した。その後、長島の本願寺派が織田信長によって亡ぼされ、顕証寺法栄が死んでしまうと、こんどは兄勝頼と上杉景勝との政略結婚のため越後に送られたのである。
武田家の女《むすめ》として生れた以上、さけ得られぬ運命であった。景勝と於菊との間にはやがて定勝が生れた。
景勝は勝頼と結んだことによって、運が開いた。彼は景虎を殺して越後を統一すると織田信長の侵略に見事に耐えた。織田が亡びて豊臣秀吉の代になると、秀吉と組んで北条《ほうじよう》氏を倒し、会津百十万石の太守となり、徳川家康、前田利家等と並ぶ大老となったが、関ケ原の戦いで、石田三成についたがために減封されて、米沢三十万石の藩主となった。ここで上杉家は安定した。
景勝を助けた勝頼が亡び、助けられた景勝が上杉家を残したのは皮肉な運命の取り合わせであった。景勝は六十九歳まで生きた。
景勝が無口な人であったということはよく知られている。彼が無口だから、臣下たちも無駄口をひかえた。
参勤交替の上杉家の大名行列があまりにも静かであったので沿道の人たちはむしろ気味悪がったと云い伝えられている。
三郎景虎は、家老共或は討たれ、或は病死、子息道万丸は殺され、是非なく御館を落ち、飯盛摂津守、片貝民部が籠りたる鮫尾城へ入り、上条義春、大勢にて攻め懸る、片貝逆心して、景虎へ攻め懸る。三郎は叶はず、三月廿四日御切腹なり。(『上杉三代日記』)
〈水の巻・了〉
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〔単行本〕
『武田勝頼(二)水の巻』 一九八〇年小社刊
*本電子文庫版は、講談社文庫版『武田勝頼(二)』(一九八三年二月刊)を底本とし、日本歴史文学館10『武田勝頼』(一九八六年・小社刊)を参考に一部の字句を訂正したものです。
武田勝頼《たけだかつより》(二) 水《すい》の巻《まき》
講談社電子文庫版PC
新田次郎《につたじろう》 著
Tei Fujiwara 1980
二〇〇三年三月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
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