新田次郎
新田義貞(下)
目 次
令旨《りようじ》
千寿王脱出
神水の誓
分倍河原《ぶばいがわら》の合戦
鎌倉、兵火に焼き尽くすこと
恩賞沙汰
護良親王流刑
中先代の乱
箱根・竹ノ下の合戦
尊氏敗走
勾当内侍《こうとうのないし》
難攻不落の白旗城
湊川《みなとがわ》の合戦
比叡山風寒し
いたましきかな新天皇
春の二番
灯明寺畷《とうみようじなわて》
あとがき
[#改ページ]
令旨《りようじ》
日野俊基が鎌倉で斬られたという報が全国に伝えられたのと時を同じくして、全国の神社や豪族の屋敷内に白い紙片をくわえた白鷺《しらさぎ》が降り立ったという噂《うわさ》が流れた。日野俊基が鎌倉で処刑された時、辞世を書いた紙が折から起こった一陣の突風と共に空高く舞い上がった。それをどこからか飛んで来た白鷺の大群が嘴《くちばし》で奪い合ってひきちぎり、全国の神社や豪族のところへ運んだというのであった。
「たしかに辞世の一字が書いてある紙片を白鷺がくわえてわが屋敷の庭に降りた」
などと言って、その紙片をまことしやかにみせびらかす者があった。
(日野俊基の霊魂のなせる業だ。彼は百万の白鷺に身を替えて、北条氏打倒を世にうったえているのだ)
という話も囁《ささや》かれた。
こうなると、白鷺の運んで来た紙片を拾って所持している者は幕府に叛心《はんしん》ありということになる。だが、あの社に白鷺が降りた、かの家の庭に白鷺が降りたという噂は後を断たなかった。
その噂も夏が過ぎるといくらか下火になった。そのころ、新田庄へ、諸国|行脚《あんぎや》の旅僧が訪れた。
「世良田《せらだ》経広殿はおられるか」
僧は世良田|館《やかた》の門に立って言った。館の裏手にある櫨《はぜ》が紅葉しはじめたころであった。
「貴殿の名は?」
と館の門を護る者が訊《き》くと、
「相撲の好きな坊主が京都より訪ねて参ったと経広殿に伝えて下されば分かる筈、なにとぞそのように」
と、なぜか名を隠していた。
「なに、相撲の好きな坊主だと?」
世良田経広はさて誰だろうかとしばらく考えていたが、やっとのことで、京都の湯屋騒動で相撲を取った相手の赤松真行坊|則祐《そくゆう》を思い出した。
経広は、自ら門まで出て来た。見上げるほどの大坊主が立っていた。
「これは真行坊殿……」
経広は声を掛けた。
「やれやれ、やっとお目にかかることができたか」
と則祐は旅の長さを追憶するような目を経広に向けた。
経広は彼を館に招じ入れて、兄の世良田義政に紹介した。
「緊急重大な用事で参りました。新田庄殿にひそかに御面談いたしたい。よろしくお取り次ぎを願いとう存じます」
則祐は低い声で言った。
かねて弟の経広から赤松則祐が尊雲法親王の片腕と言われている男であることを聞いていた義政は緊急重大なる用事と聞いて、令旨を持って来たのではないかなと思った。
世良田義政は則祐を館内の一室に招じてまず旅の疲れをいやすように配慮してから、自ら、新田館を訪れて、義貞にこの旨を告げた。
「いよいよ来たか」
義貞は言った。彼は、やはりそれを待っていたのであった。
義貞は世良田の館で赤松真行坊則祐と会った。則祐は衣の襟《えり》に縫いこんで来た尊雲法親王の令旨を義貞にさし出した。義貞はうやうやしく押し戴《いただ》いてから一読した。令旨には次のようなことが書かれていた。
伊豆国の北条時政の子孫の東夷《あずまえびす》等は、承久《しようきゆう》の変以来、朝廷をあなどり、国中の土地を私有するにいたった。殊に北条高時の一族は朝廷を軽んずるのみならず、当今天皇を隠岐《おき》の島へ遷御し奉った。これこそ下剋上《げこくじよう》というものである。征伐を加えねばならないし、天皇を京都にお迎え申さねばならない。このようなわけで、天皇に心を寄せる者の軍勢を召し集めているのである。そこもとも、すべからく一族一門を挙げて戦場に馳《は》せ参じるよう、大塔二品《おおとうにほん》親王は令旨を発せられたのである。
[#地付き]元弘《げんこう》二年十月一日左少将|定恒《さだつね》奉
新田小太郎義貞殿
追而《おつて》 来る十一月十日には楠兵衛尉正成《くすのきひようえのじようまさしげ》が挙兵することになっているから、機を逸せずこれに呼応して倒幕の旗を掲げるよう申し付ける。恩賞はその手柄の内容にもよるであろうが、なるべく、望むがままに与えたいと思っていることを申し添える。
という内容のものであった。
「有難き御令旨、義貞しかとお受けいたしました」
と義貞は一読してから則祐に答えた。
「では兵衛尉殿と心を合わせて、挙兵してくだされるか」
則祐はすかさず言った。
「それについては残念ながらここでしかとお返事申すわけには参りませぬ。まず一族の者を集めて令旨を示し、一族の者の心を同じ方向にむけねばなりません。ことがらがことがらゆえ慎重にことを運ばないと、かえって、親王の心にそむくようなことになるやもしれません。その点、御推察いただきたい」
そう言われると則祐にしても、それ以上のことを求むるわけには行かなかった。新田一門と言えば、大部族であった。一族の心をまとめるのは容易のことではないだろうと思った。
「分かりました。ではお返事はいつごろいただけますか」
来月には楠正成は挙兵するのだから、早々に返事を欲しいと言った。
「それについても、しかとお約束はできかねます」
義貞は答えた。
「なぜできないのです。新田庄殿は、天皇にお味方はしないというのですか」
「お味方するにしてもしないにしても、ものには手順がございます。一族の者の心をまとめるには日時がかかります。何月何日までと、お返事できるような簡単なことではないでしょう」
「簡単なことです。令旨を受け取った者のことごとくはその場で挙兵を確約されました」
則祐は肩をいからせて言った。
「口先ではなんとでも言えます。問題は、ほんとうに立ち上がるかどうかです」
しかし、義貞は毅然《きぜん》として動かなかった。
赤松真行坊則祐は、世良田の館に二日ほどいて、旅立って行った。
「真行坊殿の衣の襟の中には、まだ十や二十の令旨が縫いこんである様子です」
と、世良田義政は義貞に報告した。
義貞は、弟の脇屋|義助《よしすけ》と執事の船田義昌、大館《おおたち》宗氏の三人を呼んで、この令旨を読ませた上で率直な意見を訊いた。
「令旨の冒頭に東夷という言葉が出て来る。これは東国の武士全体を蔑視《べつし》する言葉であって、公卿《くぎよう》たちが昔から使い馴れている言葉である。東夷、東夷と口では言いながら、その東夷の力を借りないと天下はどうもならないで今日まで来ているのである。それほど東夷が嫌いなら、加勢など頼まねばよい」
大館宗氏は、東夷に強くひっかかったようであった。
脇屋義助は尊雲法親王を批判して言った。
「親王は、気はお強いようだが、思慮はそれほど深くないお人のように思われる。この令旨を書いたのは少将定恒殿であって、親王ではないと言い逃れはできないことぐらい分っておられる筈だ。全くもって無神経と言おうか、非常識ななされ方です。このような令旨を関東諸国にまき散らす親王様に、はいそれではと言って付き従う者はどれほどありましょうぞ」
義助はそれだけしか言わなかった。義助の後を受けて船田義昌が言った。
「親王は、京都においても、しばしば粗暴なふるまいをなされた。京都の湯屋騒動でもそうだったが、自分は親王であるという立場を強調され過ぎる。確かに親王様には違いないが、だから、お前たちは、親王の言うなりになるべきだと考えられるところが少々おかしい。人の上に立つには人の心を掴《つか》む能力がなければならない。ただ武芸が勝《すぐ》れているからと言って、人はついて行くものではない」
義貞は三人の話を黙って聞いていた。彼等三人とほぼ同じ気持ちだった。ただ一つ気になるのは、十一月に挙兵する楠正成のことであった。彼が挙兵し、これに応ずる者がなかったら、今度こそ正成は自滅するだろう。そうさせたくはなかった。
「令旨は握りつぶしたとして、兵衛尉殿の方はどうしたらよいかな」
その義貞の心に脇屋義助が答えた。
「かねてから、刀屋三郎四郎殿を通して注文があった鑓《やり》の穂先を至急送りつけることです。いまならばまだ船が使えますが、もう一カ月遅れると、北西風が強くなって、船で送るのはむずかしくなります」
義助は、季節風のことや、海上輸送のことも一応は調べていた。
「それで決まった。義助のいうように、至急鑓の穂先を送ろう。ところでその穂先は、どれほどあるか」
義助に訊いた。
「刀屋三郎四郎殿からの申入れどおり千本といたしましょう。もっとお送り申し上げたいが、当方の蔵をからにするわけには参りません」
義助は、義貞の顔を見ながら言った。
新田庄には港はない。しかし利根川があった。鑓は、川舟に積まれて、利根川(古利根川)を下り、河口の港(現在の東京湾)で大船に積み替えられて海に出た。それ等の輸送経路はほぼ確立していた。新田庄の隣の足利庄の織物も渡良瀬《わたらせ》川水路と海路によって鎌倉や京都に送られていた。
鑓とともに朝谷兄弟が二十人ほどの心利いたる者共を率いて、楠正成の挙兵に応ずるために西上することになった。このことは京都にいる刀屋三郎四郎に早馬を以《もつ》て知らされた。
十一月になった。楠正成が千剣破《ちはや》城(千早城)において挙兵した。同時に尊雲法親王が、還俗《げんぞく》して護良《もりなが》親王と改め、吉野で挙兵した。天下は再び騒然となった。
この年もあと数日となったころ、新田館に斯波《しば》氏経が訪ねて来た。隣の足利庄に用があって来たついでに、お館様(高氏)のお言葉を伝えるために立寄ったと言った。義貞と氏経は余人を混じえずに会った。
「十月の中ごろ、鎌倉のお館様のところに、赤松真行坊則祐と申す者が令旨を持って参りました。お館様は一読なされて、余もまた東夷なりと親王様にお伝え下されと申されました。おそらく、新田庄殿にも同文の令旨が来ただろうと推察しておりますが、どうも、あの護良親王というお方のなされ方は、なにからなにまで、粗雑であり、粗暴に見受けられます。おそらく、その家来衆にも、しっかりした者がいないのではないかと思われます。それはそれとして、楠正成の挙兵によって、いよいよたいへんなことが起こりそうですが、今後は、なにごとも知らせ合いながらことを運ぼうと思っています。よろしくお願い申上げます」
高氏の伝言は、それだけではなかった。氏経は幕府が、新田義貞に対して、その動きを気にするようになったことを告げ、
「幕府は、近いうち、黒沼彦四郎を新田庄に検分役として派遣することになりました。おそらくは、その後に来るものは、戦費の割当てではないでしょうか」
義貞はこの情報はまだ掴んではいなかった。北条政権の上部でひそかにもくろんでいたことを足利高氏が洩らしてくれたのである。
「おそらく幕府は新田庄殿の去就に疑念を持ち、そのような処置を取ろうとしているのではないかと思われます。そうなったときのことを今からお心掛けあれとお館様は申されておりました」
氏経はそこまで言って一礼した。
「幕府は治部《じぶ》の大輔《たいふ》殿には疑いを掛けないのですか。北条氏にとってもっとも危険なのは足利一族だと気がつかないのだろうか」
義貞は言ってみた。
「心ある者は警戒しております。だから、楠正成には、足利氏の兵を向けよと申しておる者もございます。だが、いまのところ足利氏と北条|得宗《とくそう》家とは深い血縁のつながりがありますから、よもや裏切るようなことはあるまいと思っているのではないでしょうか」
「だが治部の大輔殿も令旨は受け取った」
「令旨は乱発されています。関東の御家人で受け取らない者はいないでしょう」
氏経は大声を上げて笑った。
元弘三年一月赤松|則村《のりむら》は子息の則祐を通じて護良親王からの四度目の令旨を貰った。それはいままでのように少将定恒が書いた令旨ではなく、大塔宮(護良親王)自らが書いたものであった。激烈な文句が書き連ねてあった。
≪挙兵すべき時である。今、赤松則村が勤王の旗を挙げれば諸国の豪族はこれに呼応するであろう。既に去る十一月に挙兵した楠正成は千剣破城に拠って幕府の軍を悩ましている。赤松軍が挙兵したと聞けば千剣破城を囲んでいる幕府の軍は動揺し、楠軍は有利に戦いを進めることができる。しかし、もし、赤松一族の挙兵が遅れるようなことになれば、幕府を倒し、わが国を天皇の世に直す機会は二度と到来しないであろう。ぜひ兵を挙げて貰いたい。そうすればわれらは必ず勝つであろう。そして、その時の恩賞は約束どおりに行うことを神にかけて誓うものである≫
大塔宮は十七カ条の恩賞の項目を上げた。それには播磨国《はりまのくに》を与えるという条件の他《ほか》、数々の特典が列記してあった。
大塔宮の令旨を持参して来た真行坊則祐は、父則村の前で、
「もし父上が旗挙げをなさらないと言うならば、私はここで腹を切って死にます」
とまで言った。本気で腹を切りそうな素振りであった。
則村は、倒幕の旗を何時《いつ》かは挙げようと思っていた。どうやらその時期が来たようだった。しかし、旗を挙げるにしても、令旨だけではなく、もう一つなにか決め手となるようなものが欲しかった。
彼はそれを待っていた。一月二十日になって、楠正成の使者が赤松|館《やかた》にやって来た。使者は正成からの書状を則村に渡した。
≪わが方の|諜者《ちようじや》によって調べさせたところ、大塔宮の令旨はほぼ行き渡っており、多くの豪族は令旨に従って兵を挙げようとその機会を待っている。今赤松殿が挙兵されたならば、既に令旨を受け取っている豪族がいっせいに立上がり、ほとんど抵抗らしいものを受けることなく、京へ出て来ることができるだろう。もともと、天皇にお味方をするつもりでおられるのだから、後々の恩賞のことも考えられて、多少危険があっても、今、挙兵されたほうがよいのではないか≫
という内容のものであった。
赤松則村は一族の主なる者を呼び集めた。千種《ちくさ》川、佐用《さよう》川付近の武士団であった。
佐用、宇野、小野、得平、別所、柏原《かしわばら》、上月、間島、櫛田《くしだ》、中山、赤松、豊福、太田等であった。
則村は令旨を示し、また楠正成からの書状も見せて、一族の主なる者の意見を訊いた。半数は兵を挙げるべきだと言い、半数は時期尚早と反論した。議論は夜を徹して行われたが、決まらず、その翌日に持ちこされた。次の夜のことである。館の裏側にある竹藪《たけやぶ》が風もないのにざわめいた。見張りの武士が音のした方へ行って確かめようとしていると、竹藪の中から二人の男が飛び出して逃げ去った。
「怪しい者がおります。御出合いめされ」
と警戒の武士は大声を上げた。
赤松館の大書院での寄り合いは中断され、一族の者は不安気なおももちで竹藪に忍んでいた者の後を追って行った郎党たちの帰りを待った。
「われわれの寄り合いの内容を窺《うかが》った者が幕府の間者だとすれば、えらいことだ」
と心配する者もいたが、
「いや、まだどうとも決まったわけではないから、聞かれたところで、それほど恐れることはない」
と楽観している者もいた。しかし、なにか気がかりで、これ以上寄り合いを続けることのできる雰囲気《ふんいき》ではなくなっていた。
「話が分かれてしまってどうしようもない、今宵《こよい》はこれで打ち切りとしよう」
と則村が言ったときに、怪しい者を追って行った郎党が帰って来て報告した。
「竹藪に忍びこみ、寄り合いの模様を窺っていたのは高田|兵庫之輔《ひようごのすけ》の館に逃げこみました」
その郎党は竹藪から逃げ出した二人のうち一人の後を執拗《しつよう》に追って行って、とうとう、高田兵庫之輔の館へ逃げこむのを確かめたのであった。
「高田兵庫之輔が廻してよこした間者だったのか」
人々は色を為《な》した。
高田兵庫之輔は山陽道の要衝高田のあたり一帯に勢力を張っている幕府の御家人で、高田の盆地を見下ろす祇園《ぎおん》山の頂上に西条山城を築いていた。以前から赤松一族とは不和であった。
「おそらく兵庫之輔は、六波羅より赤松一族を監視せよと言われていたのに違いない。そのような時に、われ等一族が赤松館で寄り合いをやっていると聞いたので、間者を向けて来たのだろう。これは弱ったことになったぞ」
と則村は言った。
赤松一族に叛意ありと分かれば、幕府は直ちに追手をさし向けて来るだろう。
「こうなったら、まず血祭りに高田館を襲って兵庫之輔を斬ることだ。西条山城を味方の手に入れることだ」
と言う者があった。これに同調する者が次々と現われた。
「そうと決まったら、機先を制すのが良策」
と言う者もいた。
いままで、旗挙げに反対していた者が、次第にこれに同調し、夜半になると大体主戦論に固まったようであった。一同は一族の長、赤松則村の方へ決断を求める目を向けた。
「直ちに兵を集め、夜明けと同時に、高田館を襲って、高田兵庫之輔の首を貰うこととする」
則村は言い切った。座はどよめいた。赤松一族の挙兵の日は終《つい》に来たのである。赤松則祐は号泣した。
則村は、物見を出して、高田兵庫之輔の館を探らせた。
「高田館ではにわかに人を集めて、合戦の準備をしています。松明《たいまつ》の火が動き、篝火《かがりび》が燃え、女子供はほとんど西条山に移されました」
やはり、高田兵庫之輔は赤松一族の謀叛《むほん》を知ったのであった。こうなれば、どっちが先に攻めかかるかであった。
翌朝の攻撃は中止された。人数では高田兵庫之輔の方がはるかに優勢だった。
高田兵庫之輔は家の子郎党を集めて館を固め、西条山城には家族を避難させ、ここにも兵を挙げて防戦の態勢を取り、近隣の幕府方の御家人に援軍の使者を送った。
兵力を比較すれば、二対一か三対一ぐらいの比率で高田兵庫之輔の方が勝っていた。それなのに、赤松館を攻めようとせず、まず防備を先にしたところに高田兵庫之輔の敗北は約束されていたとも言える。
次々と物見から帰って来る郎党たちの報告をじっと聞いていた赤松則村は、
「松明をできるだけ多く作るように」
と命じた。昼の戦いでは不利と見て、夜戦を考えていたのであった。
夕刻近くになって、則村は赤松館に集まった者の人員を点呼した。四百五十余名であった。
「これだけあれば戦さには充分である。だが戦さは武士だけではできない、居所を移動したり、兵糧を運んだり、飯を炊いたりする非戦闘員が必要だ。至急に、五百人ほどの百姓を集めて来るように、決して武器を持たせたりはしない。生命に別条はないと言って連れて来るのだ。無事勤めを果たした場合は一年間の租税は免除してやる。そのように申すのだ」
生命に別条のない手伝いだけで一年間の租税は免除されるというので、夜までには五百人という予定を超えて六百人ほどの農民が集まって来た。
則村はその者たちに手伝わせて、赤松の館内の物を外に運び出し、車に積んだ。女、子供たちにも旅姿をさせた。高田兵庫之輔が攻めて来るから一時逃げるのだと言いふらした。疑う者はなかった。
高田兵庫之輔の陣営には、
「赤松則村は百姓を集めて、盛んに荷物を運び出しています。どうやら、夜逃げをする模様でございます」
という報告が入った。
「逃げるのか、弱虫め」
兵庫之輔は笑った。
「則村はかねてから楠正成などと交際をしています。兵法なども学んでいるとのこと、相手のするのをそのまま信用してはなりません。まずはほんとうに逃げる気かどうか、兵をさしむけて確かめたらいかがでしょうか」
兵庫之輔の家老竹内秀家が言ったが、兵庫之輔は冷笑した。
「秀家、そちは窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むという諺《ことわざ》を知っておろう。今兵を向ければ赤松一族は死にもの狂いになって噛みついて来るだろう。いましばらく経って、彼等が赤松の館を出てから、追い討ちを掛けよう」
と言った。
夜になった。赤松則村は、ようやく牀机《しようぎ》から立ち上がった。
四百五十余名の武士は四百名と五十余名に分けられた。則村は五十余名の武士たちを百姓六百名の中に入れ、一人二本ずつ松明を持たせて、高田館に通ずる道をゆっくり進ませるように命じた。この部隊の指揮は息子の赤松則祐に命じ、則村自らは四百名の武士を指揮して道を大きく迂回《うかい》し、西条山の背後の細道を西条山城目掛けて押し登って行った。
高田兵庫之輔は思いのほかの大軍が高田館に押しかけて来ると聞くと、その敵軍の内容を確かめず、ただひたすらに防備のみを命じた。
「どうも押し寄せて来る敵の様子はおかしい。人数は多いが、大部分が百姓であって、兵は数えるほどしかいない」
という報告が入ったときには、赤松則村が率いる本隊は西条山城に攻撃を開始していた。
不意を突かれた城兵は、ただあわてふためくばかりであった。城と言っても、山城であった。高い石垣もないし、深い堀もない。申しわけの土塁を巡らせた城であったから、四方を包囲されて、火矢を射かけられるとたちまち、諸々に火を発した。
火の中から逃れ出て来る城兵は次々と討たれた。
「女、子供たちには手を触れるな」
則村は大声で叫んだ。そして、赤松軍は山城から逃れ出て、山麓《さんろく》の高田館へ逃げて行く、女、子供の後を追うようにして山を降りて行った。
西条山城に火の手が上がったのを見た高田兵庫之輔は、
「城が危い。それ城へ登れ」
と館を守る兵たちに言った。城よりも城にいる女、子供たちのことが心配だった。だが、途中まで来ると、山の方から、女、子供が赤松軍に追われて逃げて来るのに会った。それを見た兵庫之輔は、
「女、子供を連れて館に引き返せ」
と命令した。そこで赤松軍と正面切って戦えば、まだまだ高田兵庫之輔には生きられる道が残っていたのに、そうはせず、女、子供に気を奪われて、敵に後姿を見せたときに彼の運命は決まっていた。
館はその時、たった五十余名の赤松の兵に乗取られていた。館の周囲には、松明を持った百姓が、ただわけもなく奇妙な声を張り上げていた。
城を焼かれ、館を奪われた高田兵庫之輔はその時になって、やっと赤松則村と決戦する気になった。しかし、彼と共にそこに踏み止《とど》まって戦ったのはごく少数であった。多くは逃げ去った。将としての才能のない、高田兵庫之輔は見捨てられたのである。
高田兵庫之輔等主なる者はその場で斬られた。
元弘三年(一三三三年)一月二十七日のことであった。
赤松則村の挙兵とその勝利によって近隣の豪族で則村に心を寄せる者が増えて来た。大豪族ではなく、小豪族の方が思い切りがよく、則村に誓書をさし出した。
則村は戦勝に酔うことなく、勝ったその日から、高田郷一帯の治安に当たった。
「高田兵庫之輔と縁がある者でも、天皇にお味方しようという者は、味方に加える。過去のことはいっさい問わない」
という布令を出した。高田兵庫之輔の生き残りの家臣が次々と則村の下に加わった。則村は彼等を使って、治安の維持につとめ、来たるべき戦さに備えた。
赤松則村の名はいよいよ上がった。
京都六波羅に赤松則村挙兵のことが伝わったのは、西条山城が陥落した日から数えて三日目だった。それも挙兵とは伝えられず、赤松が高田の領地を奪ったというふうに報ぜられた。六波羅では単なる地方豪族の争いと思っていた。だが、赤松則村が護良親王の令旨を受けて挙兵したことが分かると、愕然《がくぜん》と色を失った。
六波羅南庁の探題北条|時益《ときます》は直ちに鎌倉に早馬でこれを知らせると同時に備前《びぜん》の守護職、加地貞秀に赤松則村追討を命じた。
加地貞秀は六波羅の命を受けると、直ちに使者を出して、船坂峠の南側にある三石《みついし》城を守る伊東大和九郎宣祐に、兵を出して、赤松則村を討つように命ずると共に、折から千剣破城にこもる楠正成を攻めるために上洛途中の、備前、備中《びつちゆう》、備後《びんご》、安芸《あき》、周防《すおう》の諸豪に伊東宣祐に応援するよう命じた。
これら諸豪は合計六百人ほどで備前と播磨の国境の船坂峠にさしかかっていた。幕府の命を受けて彼等はそこに止まり、伊東宣祐の指揮下に置かれることになった。
船坂峠はしばしば箱根と比較されるほど地形的に重要地点であり、古来から関所があった。伊東宣祐は地方豪族の軍を加えて、およそ二千二百ほどの兵力を以て、約千人の赤松軍を討つことになった。
赤松則村は出撃に当たって、主なる部将を集めて、
「この前もおよそ二倍の敵を破った。この度も敵はおよそわが兵力の二倍である。一対二の戦いは必ず勝てる戦いである。いっさいを余にまかせ、いささかなりとも負けるなどということを考えるな」
と言った。
則村は直ちに作戦を立てた。合議はせず、彼自身が立てた作戦を腹心の者に命じて実行させた。まだ軍議を開いて、行動を決めるような状態ではなかった。
則村は三男の赤松則祐には手兵二百ほどを率いさせて、伊東宣祐の三石城へ向かわせ、次男の赤松|貞範《さだのり》には手勢五十人を率いさせて、間道から船坂峠に向かわせた。貞範は、伊東宣祐の陣をたずね当てると、
「出雲《いずも》の国の塩見小次郎、六波羅よりのお召しによってただいま参着しました」
といった。
宣祐は疑いもしなかった。
このころは六波羅の命によって三十人、或《あるい》は五十人と兵を率いて参着する地方の御家人が多くなっていたから、塩見小次郎もまたそれらの一部族だろうと考えていた。塩見小次郎の一隊は上洛組の中に入れられ、合戦の日を待った。
赤松則祐は父則村の策を忠実に守った。彼は二百の手兵を更に数手に分けて、三石城の周辺の梨ヶ原、火燈山、天辺坊、高尾山、石堂丸山あたりに出没させ、赤松則村は全軍を挙げて三石城を攻撃するという噂を流し、その裏付けとなるような仕掛けをした。三石城へ登ろうとしていた敵兵三人ほどを捕え、わざと監視の目をゆるめて脱走させてやった。彼等が三石城に帰りついたときには、赤松軍は三石城攻撃を近いうち始めること間違いなしと信じこませるような手を打っていた。
伊東宣祐は三石城を強化した。およそ千人に近い兵を山城に上げた。
三石城は高い山の上にあった。だいたい船坂峠の付近は山深いところである。三石城は山々の中でも一段と高い山の上にあった。もともと山城は防備の要害として発達したものであった。敵が来襲した場合、一族ことごとくを山城に避難させ、ここで敵を防ぐための城であった。だから、攻める側には実際は不要なものであった。
高田兵庫之輔も伊東宣祐も赤松軍に対して倍以上の兵力を持っていたから、一気に圧倒すればよかったのに、高田はその城にこだわって敗れた。伊東は高田兵庫之輔が何故《なぜ》赤松則村に負けたのかも確かめずに、ただ、味方の兵力の数だけをたのみにしていた。そして赤松則村の欺瞞《ぎまん》策に、まんまと引懸かって、千人の兵を山城に上げてしまったのである。致命的な策戦の失敗であった。
赤松則村は伊東軍のうち千人が山城へ移ったところで、さきに敵中にもぐりこませていた赤松貞範にひそかに使いをやって蜂起《ほうき》を指図した。その夜は曇っていた。生暖かい風が吹いていた。夜半、上洛組の陣地がにわかに騒がしくなった。
敵襲だ夜襲だという声がした。赤松軍の来襲だという声も聞こえた。あちこちで悲鳴が聞こえた。斬り合う音がした。陣中は騒然となった。赤松貞範の率いる五十人が夜中暴れ出したのである。
敵か味方か分からないような暗夜の中で味方同士の殺し合いが始まった。収拾がつかないほどの混乱が起きたころには、赤松則村の率いる軍勢は伊東宣祐の本陣近くまで忍び寄っていた。夜が明けると、上洛軍の半ばは死骸《むくろ》と化し、他の者は行方知れずとなっていた。
伊東宣祐が呆然として立ちすくんでいるところへ赤松則村の率いる八百人ほどが攻めかかって行った。伊東軍は包囲され、絶体絶命の状態に落ち入った。その伊東の前に、竹竿《たけざお》の先に奉書を挟《はさ》んで、高く掲げた軍使が現われた。
赤松則村の将広瀬勝為であった。
彼は則村の言葉として、
「われらは護良親王様の令旨によって幕府を攻める者である。もし貴殿に勤王の志があるならば、即刻、お味方として加え、伊東宣祐殿は天皇方の大将として三石城を引き続き守備するよう取り計らいたいが如何《いかが》か」
と問うた。それに従わねばみな殺しにするぞとは言わなかったが、ここまで来れば、もうそれに従うより仕方はなかった。伊東宣祐は人質を赤松則村に送って講和した。
赤松則村は伊東宣祐を味方に加えることによって端倪《たんげい》すべからざる勢力となった。小豪族は続々と赤松の旗の下に集まった。その勢およそ三千と六波羅に報告された。
赤松の挙兵とその成功は六波羅を震駭《しんがい》させた。楠正成ひとりを持て余していた幕府はここにおいて重大決意を迫られたのである。
赤松則村が挙兵したという知らせが鎌倉に届き、更に新田庄に伝えられたころ、後醍醐《ごだいご》天皇が二月二十四日隠岐を脱出し、伯耆《ほうき》の豪族|名和長年《なわながとし》の守護のもとに船上山《ふなのうえやま》に拠って兵を集めているという報が鎌倉に伝えられた。
幕府は六波羅の力ではどうにもならないと見て、鎌倉から大軍を発することに決めた。二階堂|道薀《どううん》、阿蘇治時、大仏高直《おさらぎたかなお》、名越《なごや》宗心等が大軍を率いて続々と鎌倉を出発した。
今のところ、楠正成と赤松則村それに伯耆の名和長年の三人だけが倒幕の旗を挙げたに過ぎないのに、幕府の狼狽《ろうばい》ぶりはかえって地方の豪族たちに幕府に対する不信感を与える結果となった。
日本中の武士は千剣破城にこもった楠正成が幕府の大軍を相手に二カ月も三カ月も戦っていることを不思議に思っていた。十倍近い兵力を持っていながら千剣破城をなぜ落とすことができないか。それは、楠軍が強いということよりも、攻撃軍に戦意がないということであった。戦うつもりがない者にいくら号令をかけても動かないのは当然なことであった。
つまり、地方から集められて来た豪族たちは、この時点で幕府に愛想を尽かしていたのである。命令だけ出して、そのつぐないをしない幕府のやり方も気に入らなかった。地方から出て来るにはたいへんな出費だ。その一部でもいいから幕府に持って貰いたいと願っても受付けようともしないし、千剣破城を落城に追込んだところで、いかほどの恩賞が貰えるかも不明であった。
(ただ働きはごめんだ)
という気風が幕府の軍兵の中にみなぎっていた。
「よし関東から精鋭を送って、一気に鎮圧してやろう」
という幕府の考えは正しかったが、その頼みとしている東国の兵の中にも、厭戦《えんせん》気分があることは事実だった。北条政権は末期症状を呈していた。
鎌倉にいる足利高氏から新田義貞に使者があった。使者はこの前来たことのある斯波氏経だった。
「お館様(高氏)は近いうち兵を率いて上洛《じようらく》することになります。刀屋三郎四郎からの通報によると、その上洛の途上、綸旨《りんじ》が降りるだろうとのこと、同じころ新田庄殿にも綸旨を持った使者が参ることとなりましょう。いよいよ源氏一族が立上がるべきときが来たようでございます」
そして氏経は、それにつけ加えた。
「幕府は新田庄殿には上洛の命令を出さないかわりに、軍費支出を要求すること、間違いございません。かねてから新田庄検分のため派遣されることになっていた黒沼彦四郎等が近日中におもむくことに決まりました」
「いったい、どのくらいの戦費を要求するのだろうか」
という義貞の質問に対して、氏経は言った。
「想像を超えた額だと思います」
「もしそれをこばんだら」
「事実上、その時点で新田庄殿は天皇方にお味方したと見なされるでしょう」
そうだろうな、義貞は考えこんだ。
黒沼彦四郎と金沢出雲介|親連《ちかつら》の二人が新田庄を訪れた日は雨だった。二人は馬に乗り、二十人ほどの家来を連れていた。黒沼彦四郎は家来のうち二人を新田館に走らせて、間も無く到着するであろうことを知らせた。迎えに出よとの要求でもあった。
「来たか」
と義貞は言った。別に驚いた顔をしていなかった。彼は船田義昌に黒沼等を世良田の館へ案内するように言った。世良田義政には別に人をやって、黒沼彦四郎等を迎える準備をするように命じた。
「それではかえって話がこじれるようなことになりますまいか」
と義昌が言った。
「相手は無理難題を吹きかけようとしている。最初から甘い顔を見せれば、どこまで、つけ上がるか分からない。そちも黒沼彦四郎がいかなる人間であるか知っているであろう」
と義貞は言った。彦四郎は、新館《しんやかた》ができたときに検分に来たことがあった。その時の目に余る振舞いを義昌は忘れてはいなかった。
「しかし、時が時……」
と義昌は言った。
「そうだ。時が時だけに、そうするのだ」
義貞は、黒沼等が新田庄に入りこんで来たとき、幕府の要求が、不当なものであったならば、それを拒否しようと考えていた。それが挙兵と見なされても、止《や》むを得ないだろうと思っていた。
黒沼彦四郎は船田義昌の案内で世良田の館へ着いたときから、すこぶる機嫌が悪かった。
「なぜ、新田館へ案内せずに、こんなところに連れて来たのだ」
幕府の使者に対して失礼ではないかと食ってかかるのを、義昌はなだめて言った。
「新田館では先々代様(新田|基氏《もとうじ》)の七回忌の法要中でございますので、こちらに御案内いたしました」
基氏の七回忌の法要は前の年に済んでいた。それは義昌の口から出た苦しまぎれの嘘だった。
「さようか。それならいたし方あるまい」
と黒沼は深く詮索《せんさく》もせずに、
「今度は金沢出雲介親連殿も同道されている故、万事にぬかりなきように」
と言った。金沢出雲介親連は北条氏の一門であった。まだ若く、このようなことの経験もないので、すべてを黒沼彦四郎に任せていた。気の弱そうな男だった。
「それは、十分に心得ております」
と船田義昌は答えた後で、
「して、御使者のおもむきは?」
と本論に入ろうとすると、
「使者のおもむきを伝える前に、まず、二、三|訊《たず》ねたいことがあるし、この目で検分したいことがある。日を改めて主なる者をここに集めて貰いたい」
と言った。日を改めてと言っても、二日先か三日先かは分からない。それまでの間に充分な饗応《きようおう》をせよという暗示であった。饗応の内容|如何《いかん》によっては、手心を加えてもいいという意味のことを、彦四郎は日を改めてと言ったのである。
黒沼彦四郎は世良田館に到着した夜から、酒肴《しゆこう》を要求し、女を出せと言った。このことは前々から知っていたので、一応はその準備はしていたが、彼等が期待していたようなものではなかった。翌朝、黒沼は義昌を呼んで、
「当地では客のもてなし方を知らないのか」
と叱った。
「今宵から、気をつけます。お許しのほどを……」
と義昌は許しを乞うたが、その夜も前夜程度のもてなししかしなかった。
「ふらちな……新田義貞はわれ等をなんと心得ているのだ。こんなことをしていたら、どのような結果になるか分かっているであろう」
という彦四郎に義昌は答えて言った。
「黒沼様等が、当地にお出向きになった用件については、おおよそ伝え知っております。既に鎌倉殿が決定なされたことを、お使者方が勝手に変更できないことも知っております」
義昌はすました顔で言った。
「なに、使者の用件の内容を知っているとな……そんなことがあってたまるものか、これはすべて内密に進められたことだ」
彦四郎はひどく驚いた顔で言った。鎌倉から持って来た書状を盗み読みでもされたような顔をした。
「鎌倉にはちゃんとした政庁がございます。一つのことを決定される場合、それにかかわる人は五人や十人ではございません」
と義昌が言うと、彦四郎は、はっとしたような顔をして、
「ならば、その内容を言って見よ」
と、考えられないような狼狽ぶりを見せたのである。義昌はすかさず言った。
「黒沼様、今は天下に大騒動が起こるかどうかという時です。あなた様のような、要職にある方が、こんな片田舎で、いたずらに日を過ごしていてよろしいでしょうか」
彦四郎は、これには返事のしようがなかった。
翌日金沢親連と黒沼彦四郎は新田館で義貞に会って言った。
「二、三訊ねたいことがある故、主なる者を集められたい」
そして、黒沼彦四郎が持ち出したのは、新田庄における刀剣類製造についてであった。主なる刀鍛冶《かたなかじ》の氏名、鍛冶場の所在、今まで製造した刀剣類の数とその行方、これによって上げた利益金など細部に渡って一両日中に資料を提出せよというものであった。それだけではなかった。
「聞くところによると、新田庄では鑓という新兵器を作っているそうである。どれだけ作って、それを何処へ売ったか知りたい」
彦四郎は、どうだ参ったかというような顔で言った。
「たしかに鑓という新しい兵器は試作しました。しかし、それは試作の段階であって、未《いま》だ売り物にはなっておりません」
と脇屋義助が答えると、
「そうかな?」
と彦四郎は義助の顔を見てにやりと笑った。
黒沼彦四郎は、翌日から態度を変えた。脇屋義助が提出した調書を手に、刀鍛冶屋を一軒一軒調べ出したのである。自信あり気な調べぶりであった。おそらく、刀剣製造についての情報をかなりなところまで幕府側で掴んでいる様子であった。
(黒沼等は、軍費催促の令書をたずさえて来た他に、刀剣類の調査の使命を帯びて来たらしい)
ということが新田義貞等に分かって来てからは、また別な面でその対策を考えねばならなかった。
(刀剣類の出来高を調べて税を掛けようというのであろうか)
それも考えられるが、それだけではなさそうであった。
「これほど多くの刀剣類を製造しているからには、その保管場所、つまり武器庫がある筈だ。それを拝見したい」
黒沼彦四郎は脇屋義助がもっとも怖《おそ》れていたことを言った。
「それほど多量には作っておりませんから……」
と言いわけする脇屋義助に向かって、
「武器庫があるかないかを訊ねているのでござる」
ときびしい目を向けられると逃げようがなかった。既に黒沼彦四郎は新田館の一隅に新築した武器庫に目をつけていて、
〈この前検分に参ったときには、この蔵はなかった〉
などと口に出した。或はその武器庫に多量の武器が隠してあることを知っての上のことのようにも思われた。
「武器庫はございます。それは既にお見せいたしました」
脇屋義助はとぼけた。
「あれは古い武器庫だ。そうではない、新館の北側に建てたあの武器庫を開けて欲しい」
黒沼彦四郎に食い下がられると、もはやどうにもしようがなかった。
「では明朝にでも……」
と義助は、これ以上はどうにもならないと見て、義貞に会って言った。
「こうなれば黒沼彦四郎を斬るより致し方がございません」
「斬ればたいへんなことになるぞ」
義貞はその場になって弱り切った顔だった。
「斬らなくともたいへんなことになります。どうせ斬るなら早いうちがいいと思います。しかし斬る理由だけは作って置きましょう」
その夜、世良田館での酒宴の席に、新田一族中、もっとも美しいと言われている、堀口|貞満《さだみつ》の女《むすめ》のしのが出た。好色な彦四郎はしのに目を付け、夜伽《よとぎ》を迫った。
「私は既に嫁ぐべき夫が決まっております」
と拒絶するしのを彦四郎が手籠《てご》めにしようとしたとき、物陰に隠れていた、今井惟義が躍り出て、
「わが妻と決まった女になにをするか」
と叫んで、一太刀で黒沼彦四郎の首を打ち落とした。それを見ていた金沢出雲介親連はがたがたと震え出し、なにとぞ命だけはお助け下さいと両手を合わせて拝むあさましさに、惟義は親連は斬らずに引き上げた。すべて脇屋義助が考え出した一幕芝居であった。
金沢出雲介親連はその夜のうちに世良田館を逃げ出そうとして捕われた。
世良田義政の前に引き出された親連は、なんでも申し上げるから命だけは助けてくれと哀願しながら、鎌倉から持って来た、軍費催促状を出した。それには六万貫の軍費を一カ月以内に調達せよと書いてあった。
「なぜこれをさっさと出さなかったのか」
という問いに対して彼は、
「まず、新田館に隠匿《いんとく》してある武器の数を調べ上げた後、この書状をつき付けよというのが内管領(長崎|高資《たかすけ》)殿のお指図でございました」
と答えた。
新田義貞は世良田義政からこの報告を受けると、
「金沢出雲介親連殿をここへ丁寧に御案内いたせ」
と言った。
逃げようとして捕えられた親連は縄を解かれて、新田館へ連れて来られても、まだ慄《ふる》え続けていた。
「たとえ黒沼彦四郎殿に非があろうとも、幕府の使者を斬ったということは、わが方の落度である。即刻、今井惟義には切腹を申しつけました。尚《なお》、世良田義政があなたに非礼を働いた罪に対しては追而《おつて》沙汰をするつもりです。どうかお許し願いたい。尚当新田館の新築の蔵を御覧なされたいというおもむきはよく分かりました。どうぞ御覧になって戴《いただ》きたい」
義貞は親連を新田館の新築したばかりの蔵に案内した。中には武器はなかった。どうにもしようがないような古物の調度品ばかりがぎっしりとつまっていた。
「なにしろ、わが新田家は旧《ふる》い家柄故にこのような古物が多くて困る。捨てるに捨てられず、さりとて売ることもできません」
義貞は笑った。
武器庫は一夜のうちに内容がすりかわっていたのである。これも脇屋義助の考え出した策であった。
金沢出雲介親連は、ばか丁寧とも思われるほどの丁重さで新田庄から送り出された。
その日のうちに一族の主なる者が集められて、六万貫の戦費催促について話し合いが為《な》された。新田一族の領地を合わせると約一万町歩あった。一段歩で米の収穫高一石と見積もっても一町歩で十石、一万町歩で十万石の収穫があったことになる。
これを半公半民で分け取るとした場合、新田氏一族の年収入は五万石ということになる。これは米が取れた年のことであって、凶年もあるから平均すると更に収入は少なくなる。当時の米の価格は一石一貫と計算されていた。幕府からの戦費催促六万貫は米に直すと六万石になる。実に一年分以上の収入を戦費催促として求められたのであった。
新田庄は富裕だと見做《みな》されてはいたが、六万貫は常識を超えた額だった。もしこれを引き受けるということになれば、当然、農民の保有米を取り上げねばならない。それは自らの領民を敵とすることであった。
新田義貞は重大な岐路に立たせられた。
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赤松則村(円心)の研究家、藤本哲氏の著書『赤松円心』に拠れば、赤松則村の挙兵は大塔宮(護良親王)の令旨を受けたのが直接の動機になっている。このころ、時を同じくして、令旨を受けた播磨地方の豪族や寺、社の数は非常に多かった。危急の時ではあったが、いかに令旨が乱発されていたかが窺い知ることができる。
赤松則村が挙兵すると、その近隣の豪族はこぞって則村のもとに集まって行ったようだ。現存する令旨の末尾に、何月何日までに、赤松城に参れと書いてあるところを見ると、赤松則村がこの地方の挙兵の中心人物だったことに間違いない。
赤松則村のいた館は山陽本線|上郡《かみごおり》から千種《ちくさ》川に沿って北に約五キロのところにある。この付近は、どっちを向いても山ばかり、農地は山と山の間を流れる川のほとりに僅かばかりあるだけである。山と言っても高い山ではない、せいぜい三〇〇メートルか四〇〇メートル級の山が見渡すかぎり続いているのである。
千種川はこの山の中を流れる大河であるから、この流域に耕地がある。上郡町はこの付近の中心地だけあって人家は多いが、千種川に沿ってさかのぼるに従って人家は少なくなり、赤松館の跡に来ると、山と山に囲まれた僻地《へきち》という感じを受ける。
竹林を背にした館の広さは、中級の小学校の運動場ぐらいのものだった。自然の川を利用した三重の堀割りの跡があるだけで、土塁らしきものはなかった。はるか南東の高いところに白旗山が見えた。ここに山城があったのである。地図で見ると高度は四四〇メートルになっている。ここから歩いて二時間ということだったが、私には半日の行程に思われた。
こんな山奥に赤松則村が楠正成についで倒幕の旗を挙げたことが夢のように思われた。付近の山を眺めていたら玉をころがすような小鳥の声がした。ビンズイであろう。姿は見えなかった。赤松の地名の由来のとおり、ここらあたりにはアカマツが多い。アカマツの無い山はヤマユリの花で飾られ、館の跡の草叢《くさむら》を覆っているマタタビの葉は花のように白かった。
赤松一族が日本歴史を変える原動力の一つになったその淵源《えんげん》をたどると、彼等が肥沃《ひよく》な土地を持たない山間部の武士団だったということにあるような気がする。僻地に押しこめられていた武士団が団結して新天地に向かったからこそ、恐るべき底力を発揮したのであろう。
太平記によると、新田義貞の挙兵のきっかけは、鎌倉幕府が六万貫の軍費を五日以内に工面せよという令状を持たせて金沢出雲介親連と黒沼彦四郎を新田庄にさしむけたことにある。義貞が怒ってこの両名を斬ったことによって、鎌倉との戦いは始まったように書いてある。しかし、太平記はもともと小説だから、小説家の私がそのとおりにするのも気が引けるのでそこのところはひねって書いた。
世良田の町はずれに二体塚というのがある。おそらくは円墳の跡ではないかと思われるような塚の上に地蔵が二体並んでいた。ここが、黒沼彦四郎等が処刑された跡だと言われている。付近は田圃《たんぼ》と桑畑にかこまれ、淋しいところである。ここを訪れたのは春先だった。ナズナの花が塚の上に咲いていた。
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千寿王脱出
九州で菊池武時が兵を挙げて鎮西探題を相手に戦っているという報が新田庄に届いたその翌日、鎌倉から早馬があった。
幕府が鎌倉の新田屋敷を封鎖したという知らせであった。知らせて来たのは中曽根次郎三郎である。
書状によると、幕府は兵を出して新田屋敷を包囲し、いっさいの出入りを禁止したということであった。黒沼彦四郎を斬ってから十日目であった。金沢出雲介親連が鎌倉に帰って報告した結果が十日目になって現れたのである。
「おそらく幕府は、新田庄に対して兵を向けるつもりであろう。その前触れとして、鎌倉の新田屋敷を封鎖したのだ」
というのが、義貞を初めとする主なる者の考え方であった。
「そういうことならば、一族に檄《げき》を飛ばして、兵を集め、防戦の用意をしようではないか」
と言う者もあった。だが、脇屋義助だけは意見を異にしていた。
「兵を向けてよこすというならば、金沢親連が帰って委細を報告した直後でなければならぬ。あの日から既に十日も経っているのは幕府が迷っている証拠である。われらは幕府の六万貫の戦費催促を拒絶したのではない。催促状は受取っている。彦四郎を斬ったのは飽くまで私怨《しえん》によるものである。これだけで、幕府が兵を向けて寄こす理由がない」
脇屋義助が言った。そう言われてみればそのとおりであった。
「ではなぜ、新田屋敷を封鎖したのだ」
という義貞の問いに対して、
「いやがらせです。と同時に脅迫です。戦費催促に素直に応じないと、ただでは置かないぞと言っているだけのことです。今幕府は、楠、赤松、名和、菊池などの地方豪族の挙兵に頭を悩ませています。もしわが新田庄に兵を向けたとしたら、わが新田一族はこぞって天皇側につくでしょう。それこそ幕府の命取りになる。幕府はよくよくのことでないと、われ等に兵を向けるようなことはいたしません」
脇屋義助は断言した。
その義助の言を裏付けるように、それから三日後に、今度は矢島五郎丸から早馬があって封鎖が解かれた旨の書状があった。
新田屋敷の封鎖を解くように幕府に進言したのは足利高氏だったことまで書き添えてあった。
≪高氏は、幕府に対して、天下が騒然としている折、関東の武士だけはいささかも動揺せず、ひとえに鎌倉幕府に忠誠を尽くそうとしている。その中心が新田一族である。もともと黒沼彦四郎はよからぬ男であったのだから新田義貞に成敗されたのは当然のこと、この際はむしろ新田氏に対しては、穏便な処置を取ったほうがいいであろうと、申し入れた≫
矢島五郎丸はこのように述べた書状の末尾に治部の大輔様のおとりなしにて、ことなく相済み申候と結んであった。三月もあと数日になっていた。足利高氏が兵を率いて上洛したのはこのころであった。
四月に入って直ぐ大塔宮からの二度目の令旨《りようじ》があった。なにを愚図ついているのか、早く挙兵の実を上げ忠と功を抽《ぬき》ん出よという文面であった。それに次いで到着した鎌倉の矢島五郎丸からの通報によると、幕府は非常に神経質になっていて、足利高氏の西上に際して嫡子千寿王(後の義詮《よしあきら》)とその母(赤橋氏)を人質に取ったという事実を上げ、
≪北条一族と血縁関係にある足利殿を疑うようになったのでは、鎌倉殿の世も終わりだと申している者もございます。幕府が足利殿に疑いの目を向けたとなれば源氏の嫡流たる新田氏にも疑心暗鬼の心を持つのは当然のことと存じます。これは、近くに住んでいる親しいお方から聞いたのですが、或は近いうちに、新田氏の忠誠の|証明《あかし》として、しかるべき人質を求めるかもしれません。いよいよ御決意の時が近づいたように思われます。鎌倉屋敷に居るわれ等は何時にても死ぬる覚悟はできております≫
と最後は悲壮な言葉で結んでいた。
近くに住んでいる親しいお方というと、諏訪《すわ》時光に相違なかった。諏訪左衛門尉時光は、問注所出仕、公事《くじ》奉行の職にいた。幕府の中枢に居ながら、新田氏には、なぜか好意を持っていた。おそらくこの情報も諏訪時光から出たものと思われた。
「人質を出せというのか」
義貞は義顕《よしあき》、義興《よしおき》、義宗の三人の子供の顔を思い浮かべた。義顕は十八歳の若武者だった。義顕が人質として鎌倉に取られた場合のことを考えるとぞっとした。
この矢島五郎丸の情報は新田一族の者をいままでになく昂奮《こうふん》させた。いままでは、慎重な行動を取って来たが、六万貫の戦費催促の見通しがつかないうちに、人質を要求されたとなれば、心を決めざるを得ないだろうと考える者が多かった。
一族の者は次々と新田館を訪れた。挙兵をすすめる者と、自重をうながす者と半々だった。挙兵をうながす者は、即刻金山城へ兵糧を運びこむようにと進言した。
「金山城へ兵糧を運べば、幕府は新田氏に叛心《はんしん》ありとして兵を向けて来るだろう」
と義貞は言った。
「それを承知でやるのです。金山城は堅城です。あの城にこもれば半年やそこら、幕府の軍を支えることができるでしょう」
そのようにすすめる者もあった。だが、義貞は、そうはさせなかった。まだまだ、その時ではないと考えていた。義貞の考えに、義助が同調していることが百万の味方を得たよりも心強かった。
「いざというときには、天狗《てんぐ》を使いましょう。天狗が駈け廻れば、十日以内には二千の兵を集めることはできます。そのような手配だけはいたして置かねばならないでしょう」
と義助は言った。天狗とは修験者のことだった。非常時の場合、修験者を使って、近隣の一族や源氏の縁につながる者に檄を飛ばす用意は脇屋義助によって着々と進められていた。
刀屋三郎四郎が新田館を訪れたのは早朝であった。彼は武装して馬に乗り、郎党五名を従えていた。誰が見ても、この付近に住んでいる新田氏の一族と見受けられた。
「岩松清四郎でござる。御館様に引見願いたい」
刀屋三郎四郎は声高に言った。はばかるところはいささかもなかった。岩松と言えば新田の一門である。門番は岩松清四郎の名は知らないが、多分新田一門の者と見て中に入れた。
義貞は起きたばかりであった。岩松清四郎と聞いて首をひねった。はてなと思った。側近の一人神宮六郎にその者の面体を見て来るように命ずると、すぐ帰って来て、
「刀屋三郎四郎様です」
と声を細めて言った。神宮六郎は義貞の大番役に従って京都へ行ったことがあった。里見二十五騎の一人として義貞にその才を買われていた男であった。
「そうか、刀屋三郎四郎か、すると……」
おそらくは天皇の綸旨をたずさえて来たのだなと思った。
「いえ違います。客人は確かに岩松清四郎様にございます」
神宮六郎は大きな声で言った。六郎は、刀屋三郎四郎の名をその場に出してはならないと主人に忠告したのであった。
「岩松清四郎殿しばらくであった」
義貞は刀屋三郎四郎を書院に通してそのように挨拶した。
「新田庄殿にも別条なくてなによりです」
と三郎四郎は答えた。二人は声を合わせて笑った。
「道中はしごく人の目がうるさい。近頃は僧の姿をしている者が豪族の家へ近づくと、鎌倉殿の手の者に無理矢理捕えられて裸にされる。衣の襟《えり》は全部はがされる」
と刀屋三郎四郎は言った。令旨が乱発されると、そのようなことが起こるだろうことは想像された。だから刀屋三郎四郎は新しい手を考えたのだなと思った。
「京都から鎌倉までは前の六波羅探題金沢|貞将《さだまさ》様の家来として参った。貞将様から戴いた手形も持っている。そして鎌倉からここまでは岩松清四郎でまかり通って来た。新田庄の岩松と言えば知らない者はない」
三郎四郎はそんなことを言ってから、
「御拝受の用意を召されい」
と座り直して言った。その刀屋三郎四郎の目つきはそれまでとは違っていた。御拝受と三郎四郎が言ったとき義貞は、間違いなく、綸旨を持って来たのだなと思った。
義貞は斎戒沐浴《さいかいもくよく》し衣服を改めて、書院に出た。
刀屋三郎四郎は黙って上座に座り直すと、太刀を取って、目釘《めくぎ》をはずし、柄《つか》を取り、更に柄に巻いてある紐《ひも》をほどいていった。その下から綸旨が出て来た。
彼は、その綸旨の紙の皺《しわ》を伸ばしてから、新しい奉紙に包んで、義貞の前に、
「綸旨でござる」
とだけ言ってさし出した。
義貞は平伏した。背筋になにか熱いものが走った。
刀屋三郎四郎と義貞は二人だけのくつろぎのひとときを持った。京都以来のつもる話が次々と出たが、話の焦点はやはり時局であった。質問は義貞であって、答えるのが三郎四郎である。義貞はまず、楠正成が幕府の大軍を千剣破《ちはや》城に立てこもって支えている事実について、城はそれほど要害かどうかを訊《き》いた。
「なに、どこにもここにもある山城ですよ、特に堅城ということはありません。四半|刻《とき》(三十分)もあれば、それほど汗も掻《か》かずに登れるほどの山城ですが、ここまで行くには山峡《やまかい》の細い道をたどって行かねばなりません。つまり大軍を一度には送れません。送り込まれた大軍が、居場所もなく、せまい谷間で押し合いへし合いしているところを、楠の伏兵が夜な夜な鑓《やり》を持って現れる。それ、敵だということで大変な騒ぎになる。同士討ちで生命を落とす者が多くなる。大将が一気に山城へ攻め登れと命じても、寄せ手はもともと戦意がないから、中腹あたりまで登ったところで、上から石を落とされると、ほうほうの体で逃げ降りて来るという始末です」
刀屋三郎四郎はそのように語った。
「すると、千剣破城が持ちこたえているのは楠軍が強いのではなく、幕府軍に戦う気が無いということですか」
と義貞が言うと、そうではないと三郎四郎は手を振った。
「兵衛尉(正成)殿の作戦は見事であるし、楠軍はよく訓練されていて強い。それなのに、攻城軍には戦う意志がさっぱりない。これでは戦争にはなりません」
そう前置きして三郎四郎は一つの話をした。
千剣破城攻撃軍は、城を包囲して食糧攻めにしようとした。小さい城だから、一カ月も囲めば落ちるだろうと考えていた。戦いのない日が続くようになると、何処からか遊女の群れが現れた。攻城軍の一方の大将|名越遠江《なごやとおとうみ》入道のところにも数人の遊女が現れた。この中に神崎《かんざき》と名乗る女がいた。歌も踊りも上手だった。戦場廻りの遊女とも思われぬほどあでやかであった。名越入道は神崎を傍《そば》に置いて、昼となく夜となく可愛がった。戦場にいることさえ忘れ果てたようであった。名越入道の甥の兵庫助がこれでは部下に示しがつかないと、神崎にそれとなく話して、伯父の幕舎から誘い出して追放しようとしたが、神崎に泣きつかれると、そうか、そうかと、そのまま自分のところへ連れこんでしまった。つまり甥が伯父の女を奪い取ったことになった。
名越入道は怒って甥の兵庫助を斬ろうとした。二人は争って、刺し違えて死んだ。名越入道の家来と兵庫助の家来もこの争いに巻き込まれて、双方とも多数の死傷者を出した。
「新田庄殿には想像もつかないような話でしょうが、これは実際あったことです。いかに攻城軍の士気がたるんでいるかがお分かりでしょう」
刀屋三郎四郎が言った。義貞にとっては、ちょっと考えられないような話であった。いったい、幕府軍が戦う気を無くした原因はどこにあるのだろうか。義貞はそれが知りたかった。
千剣破城の話が一段落したところで義貞は播磨の赤松則村のその後の様子を聞いた。
「赤松殿は戦さ上手です。ひょっとすると兵衛尉殿よりもその点では勝れているかもしれません。それにもう一つ赤松殿は人の心を掴《つか》むのがまことにうまい。船坂峠を守る伊東大和九郎宣祐を味方につけたのも、その伊東宣祐に三石城を守らせて置いて、付近の豪族を従えながら、京を指して攻め上って行くやり方も、実に見事です。赤松殿がこれほど力がある人だとは思いませんでした」
刀屋三郎四郎は赤松則村を絶讃《ぜつさん》した。
赤松則村は武力ではなく説得力で地方豪族を席捲《せつけん》して行った。彼が説く理想は、後醍醐天皇が考えているものとはかなり違っていた。それはこうあって欲しいという、彼自身の考え方であったが、長い間北条氏の下で喘《あえ》いでいた地方豪族には、赤松則村の話の中に真実性を見出《みいだ》し、必ず出現するだろう天皇親政の世になれば、思いがけないほどの恩賞を貰い、出世すること間違いないと思うようになった。
赤松則村のもとに次々と兵が集まった。彼が兵庫の摩耶《まや》山に居をかまえた時には総勢四千余の軍勢になっていた。
彼はここでひと息ついた。このまま京都に攻め込むには兵力が不足だった。六波羅と一戦を交えるには、もう少しまとまった兵力が欲しいし、軍の態勢も整えねばならなかった。彼は四国の諸豪に呼びかけた。伊予の土居《どい》二郎と得能《とくのう》弥三郎が大塔宮の令旨に応えて旗を挙げた。
「こうなれば、あとは赤松則村にまかせて置いただけで、六波羅は亡びることになるかもしれません。情勢はまさにそのように急です」
と刀屋三郎四郎は言った。そして彼は急に話を変えて、後醍醐天皇が、いかにして隠岐の島から脱出したかを語った。
「あれは、私が細工をしたのですが、予想外に簡単でした」
刀屋三郎四郎は不敵な笑いを浮かべて言った。彼は、隠岐判官の家来の佐々木義綱をまず天皇方に与《くみ》するように工作した。
義綱は警備の折々を見て、楠正成や赤松則村等のことを侍従を通じて帝に奏上すると共に、近々島を脱出するから、そのお心構えでおられるようにと伝えた。
そして、ある霧の深い夜、ひそかに天皇を千波《ちぶり》の湊《みなと》へ案内し、そこに待機していた舟に乗せて、伯耆国|名和《なわ》の湊に漕《こ》ぎつけ、名和又太郎長年を頼ったのである。
船上山《ふなのうえやま》に天皇の行在所が設けられ、付近の豪族が集められた。ここに、天皇を奉戴する強力な武士集団が結成されたのはその数日後であった。
「それまで隠岐の判官清高はなにをしていたのか」
と義貞は訊いた。
「すべてが手遅れだったということでしょう。それにもう一つ、ここにもやはり、幕府に仕える者の怠慢が見えているようです。つまりは幕府そのものがだらしがないから、下々も万事にわたって手ぬかりが生ずるのではないでしょうか」
刀屋三郎四郎は、新しい時代が来るのはもう間も無いと言った。
義貞には時の流れの早さが身にしみて感じられた。このままここにじっとしていると、時勢に取り残されてしまいそうだった。
「新しい時代が来ると言っても、そう簡単ではないだろう。楠正成や赤松則村等の手で幕府を倒すことはむずかしい」
義貞は言ってみた。
「そのとおりです。このままで推移して行ったとして、六波羅を落とすことは、赤松則村等の手でもできるでしょう。一時的に京都へ天皇を迎えることもできるでしょう。しかし、それは長いことはない。幕府が関東の兵を率いて大挙して攻め上れば、楠も赤松もひとたまりも無く京都からはじき出されることになる。そして六波羅はすぐ息を吹き返します」
刀屋三郎四郎は言った。
「では、先程言われた、新しい時代が来るというのは……」
「新しい時代が来る前にもう一つの条件が必要です。源氏が動くことです。足利高氏と新田義貞が天皇側につくことです。これで完全に北条鎌倉幕府はつぶれるでしょう」
「その時期は」
「もうすぐです。おそらくはこの月の終わりごろ、足利殿は天皇側に味方されるでしょう。足利氏が天皇側に味方したと聞いただけで六波羅は完全に終わりとなるでしょう」
「しかし鎌倉がある」
「そのとおり。問題は鎌倉です。鎌倉は大きな城のようなものです。幕府の根拠地です。鎌倉を攻め亡ぼすのは、六波羅を取るように簡単ではないでしょう」
刀屋三郎四郎はそこでしばらく休んでから、前とは違った口調で話し出した。
「六波羅が落ちた後、足利殿は軍勢を率いて鎌倉へやって来るでしょう。だが、足利殿だけの力で鎌倉を落とすのは無理です。下手をすると、足利殿は負けて追い返されることになります」
あとはもう言わないでも分かるだろうというような顔で刀屋三郎四郎は義貞の顔を見た。
「わが新田一族に対して足利氏と力を合わせて鎌倉を攻めよと言われるのか」
義貞は言った。
「そうでないと鎌倉を落とすことはできないと治部《じぶ》の大輔《たいふ》殿(高氏)は申されました」
「治部の大輔殿に会って来たのか」
義貞は刀屋三郎四郎が綸旨《りんじ》の使者だけでないのを、その時になって知った。
義貞は改めて刀屋三郎四郎の顔を見た。この男は足利高氏になにか吹きこまれて来たなと思った。
「治部の大輔殿になにを頼まれたのだ」
「それは書状にも書けないような重大なことでございます」
「つまり、治部の大輔殿の伝言を持って参ったというわけか」
「いや、ただの伝言ではございません。言わば御教書《みぎようしよ》ともいうべき性質のものでございます」
「御教書だと?」
義貞は色を為《な》した。
御教書と言えば同族の長たるものが支族に発する命令書であった。高氏が義貞に御教書を発するということになると、自《おのず》からそこに主従の関係が生ずる。
「三郎四郎殿、いつから貴殿は治部の大輔殿の家臣になられたのだ」
義貞は言った。鎌倉ではじめて、三郎四郎に会ったときは、新田氏こそ源氏の嫡流だと言っていたのに、この変わり方はなんだと言ってやりたかった。
「新田庄殿、時勢をとくと御覧あれ、新田庄殿は明らかに源氏の直系であり嫡流である。しかし現在は足利氏こそ源氏の嫡宗家だと思いこんでいる人の方が多い。だから、このような非常の場合には、従来のしきたり通りに、足利氏を立てねば戦争には勝てないのです。ひとまずはそのことを御承知なされて、幕府を倒すことを専一にお考えになったほうがよいではないでしょうか」
三郎四郎は義貞の顔を覗《のぞ》きこむようにして言った。
「幕府を倒すまでは、足利氏の下風に立てよと言われるのだな」
「そうです。そうしないと鎌倉は落ちません」
「それで治部の大輔殿の具体的な指示は」
「治部の大輔殿の申されるには、なにぶんの沙汰があるまで旗挙げを待てということでございます」
「つまり、足利勢が主体となって、京都から鎌倉に向かって攻め下って来たとき、機を合わせて、わが軍は東から鎌倉を攻めよと申されるのだな」
「そのとおりでございます」
刀屋三郎四郎は話し終わると、両手を膝《ひざ》の上に置いて、真直ぐに義貞の目を見た。さあどうぞ、はっきりと返事をお聞かせ下さいという目付きだった。
「新田義貞は他人の指図は受けぬ、自分がしたいようにすると答えたらどうなるか」
「それこそ、新田義貞殿の自滅ということになるでしょう」
「自滅だと?」
義貞は真赤な顔になった。
「もし、新田一族だけで鎌倉に攻めこもうなどと考えられたら、それこそ自滅です。世の中はそれほど甘くもないし、北条氏もそれほど弱くはありません。ここのところは、まず穏やかに、承知つかまつったと治部の大輔殿にお答えしたらいかがでしょうか。そのほうがお身のためです」
そういたしましょうと、刀屋三郎四郎は念を押した。
義貞は刀屋三郎四郎に対して、
「治部の大輔殿には、お言葉しかとうけたまわったとだけお伝え下さい」
と言った。お言葉通りにいたしますという答え方ではないし、お言葉通りにはいたしませんという拒絶でもなかった。とにかく、聞くだけは聞いて置こうというふうなふて腐れた態度でもなかった。それは、中間に立った刀屋三郎四郎の口のきき方一つで高氏には、肯定とも否定とも取れるような曖昧《あいまい》な返事だった。
「この件はそれがしにお委《まか》せくださるということでしょうか」
三郎四郎は一本|釘《くぎ》を打った。
「よしなにな……」
義貞は平静に返っていた。御教書を持って来たのではないから、書状を以《もつ》て答える必要はなかった。伝言は相互の意志を必ずしも正確に伝達するものではない。いざという時には言い逃れもできる。義貞はそんなことも考えていた。
(将来面倒なことが起きそうだな)
刀屋三郎四郎は思ったが、すぐ、
(それもまた一興)
そのとき三郎四郎は高氏に対しては、義貞が万事承知したように伝えようと考え直していた。
「ではこれでお別れいたします。また近いうちにお会いすることになるでしょう。新田庄殿の御運勢をお祈りいたします」
刀屋三郎四郎は行方も告げずに立去った。
(おそらく彼は綸旨を持ってあちこちの豪族のところを廻り歩くのだろう)
と義貞は考えていた。
その刀屋三郎四郎は真直ぐに鎌倉に向かった。彼は藤沢で宿を取り、その宿宛に京都から送り届けられていた大きな葛籠《つづら》二つを受取った。
刀屋三郎四郎は藤沢の宿から葛籠を馬につけて出る時は再び岩松清四郎に変わっていた。
「岩松清四郎、内管領(長崎|高資《たかすけ》)殿に御用のおもむきがあって京都より参りました」
鎌倉の要所要所には臨時に人改めの木戸が出来ていたが、「内管領」の一言と、内管領あての書状を持参していたので三郎四郎は無事に通過した。
内管領長崎高資の屋敷の前に立ったときは、
「治部の大輔様の家来、岩松清四郎、京都より御寮人様にお届け物を持って参りました」
と大音声で言った。
長崎高資の屋敷には足利高氏の正室登子と千寿王(義詮)が人質として止め置かれていた。登子は北条一族の赤橋久時の女《むすめ》であり、執権守時の妹であった。千寿王は三男ではあったが、正室の腹から生まれたから足利高氏の嫡子と認められていた。北条一族が、足利高氏が上洛《じようらく》するに当たって、家族を人質にとったのは、高氏に対する疑いもあったが、既にそのころ、高氏が裏切るのではないかという風説が流れていたからであった。
足利高氏の正室登子と千寿王は人質と言っても、まことに丁重なもてなしを受けていた。屋敷の奥の離れ屋を一軒与えられ、足利邸から連れて来た召使いに取りかこまれて何一つ不自由のない生活をしていた。不自由と言えば、離れ屋の周囲に昼となく夜となく見張りの兵が立っていることと、外出を許されないことであった。
京都から岩松清四郎が葛籠を届けに来たという報告を受けた長崎高資は、まず足利高氏から高資に宛てた書状を開いた。時候の挨拶の他《ほか》、妻子のことをくれぐれも宜《よろ》しくということだけが書いてあった。高資はその二つの葛籠の中味を改めるように命じた。
中を開けて見ると、長崎高資宛の献上品目録と共に京都で購入したと思われる、珍しい品々が入っていた。明らかに異国から輸入されたと思われる布や壺などがあった。それは、人質として置かれている妻子の身を案じての贈り物と判断された。高資の疑いは解けた。葛籠は元通りにされ、岩松清四郎こと、刀屋三郎四郎はそれを持って、離れにいる登子に面会することを許された。
登子は三郎四郎と会ったことはないし、岩松清四郎という名も知らなかった。だが一目彼と会い、その目つきを見て、この使者は重要な任務を帯びて来たのだなと思った。彼女は人払いをして、京にいる夫の高氏からの伝言を直接聞きたかったが、そのようなことをすれば、怪しまれるし、たとえそうしても、壁に耳ありで、どこに長崎氏の廻し者が潜んでいるか分からないから、ただおろおろと落着かぬ素振りで、
「京はどうであろうか、わが夫《つま》様はいかように過ごされておられるか」
というようなことしか言えなかった。
三郎四郎もまた、それに対してごく一般的な答えしかしなかった。
「京都はいままでになく騒がしゅうございますが、治部の大輔様がまかり越して以来、平穏な日が続くようになりました。今ごろ治部の大輔様は、敵を討ち平らげるために播磨の国へ向かわれていることと思いますが、或《あるい》はもう敵を亡ぼし、京都に凱旋《がいせん》する途中かもしれません」
そんなことを言ってから、
「そうそう、治部の大輔様から御伝言がありました。これこそ絶対に忘れるなと申されたことがございます」
三郎四郎は声を高めて言った。
「なんでございます、それは」
登子は身体《からだ》を乗り出すようにして訊いた。
「後を守る者として八幡宮の参拝は欠かさずにしているだろうな。もし、先祖に対する拝礼をおこたっているようなことがあれば、わが武運はつたなくなるやも知れない。必ず千寿王に三日に一度は八幡宮に参拝するよう申し付けよ、と申されました」
三郎四郎はそれを言うとき居ずまいを正していた。
「一度ではなく、治部の大輔様は三度も同じことを申されました。敵に向かうときは誰でも同じです。治部の大輔様とて人間です。赤松則村との一戦を前にして、心はけっしておだやかではないでしょう」
三郎四郎は登子に向かって深く一礼した。
刀屋三郎四郎はその翌朝、鎌倉を出た。葛籠だけを送り届ける用務を帯びて来たのだから滞在の必要はなかった。
内管領長崎高資は高価な贈り物に相好《そうごう》を崩して喜んだ。高資は賄賂《まいない》管領と言われていたほど、贈り物を好む男だった。政治の尺度を賄賂の多寡によって決めて来た男であった。しかしその彼に賄賂を贈る者は御家人や地方豪族であって、北条一族は別だった。その北条一族と目されている足利高氏から贈り物が届いたのだ。
「足利高氏も世馴れて来たものだ」
と高資はひとりごとを言ったほど、高氏からの贈り物は、近ごろ珍しいことだった。彼はかなり昂奮した。しかし、一夜が明けてから、高資は、足利高氏からの贈り物について、ふと疑問を持った。ほんとうに家族可愛さからの贈り物であろうか。他になにかあるとすれば、と考えるとどうも落着けない。
(そうだ、あの岩松清四郎という者をもう一度取調べてみる必要がある)
彼は清四郎を呼びにやったが、既に鎌倉を出発した後だった。直ぐその後を家来に追わせて行く先を突止めるように命じてから、他の者に、岩松清四郎なる人物が実在するかどうかを調べさせた。
「出羽《でわ》の国に岩松の一族がおります。その一門に岩松清四郎という者がおります」
という返事が返って来た。
「その者は京都大番役として京都にいるかどうかを、調べて見よ」
岩松清四郎が大番役として京都にいることは間も無く書類の上ではっきりした。午後になって清四郎の後を追っていた家来が帰って来た。
「岩松清四郎は箱根に向かっております。途中、三河に住む足利一族の吉良《きら》貞義のところに立寄る予定だなどと郎党共が話しているところをみると、まず間違いないように思われます」
その報告で長崎高資は足利高氏にかけていた疑いを解いたが、念のため、高氏の正室登子のところに忍ばせてある召使いを呼んで、清四郎と登子がなにを話したかを訊いた。
「治部の大輔様から千寿王様への御伝言として、三日に一度は八幡宮に戦勝を祈願せよということでございました」
「それだけか」
「それだけでございます」
召使いを下らせた高資は尚しばらくは考えこんでいた。どこがどうということはないが、なにか妙だった。高氏からの贈り物も妙だし、あの岩松清四郎という男もなんとなくおかしい。登子と千寿王については、要心しなければならないと思っていた。
千寿王の鶴岡八幡宮を正式に参拝することを許されよという願いが登子から出されたのは、その翌日だった。
「ごもっともな御申出なれど、時が時ゆえもうしばらく御自重下さい」
と高資はそれを拒絶したが、三日目はその申し出を受けざるを得なくなった。執権守時から、許可してやれという指図があったからである。
長崎高資は千寿王とその母登子の八幡宮参拝に際しては、千人の兵を出して警戒に当たらせた。大事な人質である。二人の身になにかがあってはならないと思ったからである。
高資は足利高氏に対して不信感を持っていた。北条高時に人質を取るように進言したのも高資であった。高資は足利高氏が鎌倉を出発して以来の動静を間者から逐一報告を受けていた。急ぎ上洛し、六波羅探題と打ち合わせた上、赤松則村を討てよという命令であるのに、急いで上洛しようとはせず、途中にある、足利一族の領地にいちいち足を止めて行くあたり、高氏の上洛には不審なところがあった。特に三河の吉良貞義のところには五日も滞在した。
(しかし高氏が天皇方に味方をすれば、人質は殺される。それまでして、天皇方に味方をする義理があるであろうか)
高資はそうも考えて見た。まずそのようなことはないだろうが、もしもの場合のことを考えて、高資は、千寿王と登子から目を放さなかった。それにしても、三日に一度の参拝ごとに千人の兵を出して警戒するのはたいへんだった。なぜそんなことをするのかという批判も出た。
千人が七百人に減り五百人となり、やがて二百人ほどに減った。
鶴岡八幡宮で大騒乱が起きたのはこの時だった。
千寿王母子の参拝が終わって、石段を降りて来たところへ、警戒の目をくぐって、ぼろを着た一人の子が飛び出して物乞いをした。登子はその子が千寿王と同じ年頃であるのを見て、侍女に申しつけて若干の金品を与えようとした。それを警戒の兵がさまたげた。見ていた浮浪者の群れが、それをなじった。兵は太刀を抜いてその者を斬ろうとした。これがきっかけとなって付近に潜伏していた浮浪者がわっと押しかけた。手に手に棒を持っていた。二百人の警護の兵はたちまち追いつめられ、多くは武器を浮浪者に奪われた。急を聞いて応援の兵が駈けつけたころには、浮浪者の群れは更に増加していた。
双方が血の雨を降らして争ったが、やがて浮浪者の群れはじりじりと押されて、鎌倉の外に追い出された。
騒動は小半刻ほどで終わった。騒動を聞いて駈けつけた長崎高資は、まず千寿王母子は無事かどうかを聞いた。誰も知らなかった。長崎の館《やかた》に帰ってもいないし、近くの家に避難してもいなかった。鶴岡八幡宮の近くには鎌倉幕府の政庁があった。民間人の住居は少なく、現在でいうところの、官庁街と神社を一つにしたような場所であった。そこにこのような騒動が起きたのである。
「やられた!」
と高資は叫んだ。兵を出して、鎌倉の要所要所をかため、人の出入を改めさせる他、鎌倉から外へ出る道々に人を派遣して千寿王母子らしい者を見掛けた者はないかどうかを調べさせた。それらしい者はなかった。
高資は自ら、八幡宮の隣の谷《やつ》にある足利屋敷に乗り込んで行った。
「役目により邸内を調べる」
と高飛車に出た長崎高資に対して、留守を守る斯波《しば》氏経は、
「相模守《さがみのかみ》(北条高時)殿の御許しなきかぎり、何人なりともお入れすることはでき兼ねる。どうしてもというならば、拙者を斬り捨ててからにされたい」
と言った。
高資もその一言で機先を制せられ、いくらか冷静になって、千寿王母子が何者かに奪われたことを告げた。もしやここにかくまわれてはいないかどうかを調べたいのだと言った。
氏経は驚いたようであった。
「それはたいへんなことになりました。そうとは知らずに無礼なことを言って申しわけございません、どうぞお改め下さい」
氏経は先に立って邸内を案内した。
高資は、足利屋敷を隈《くま》なく調べた。それらしい者が居ないばかりか、女がほとんど居ないのである。千寿王とその母登子は人質に取ったが、側室のけさとけさが生んだ竹若丸が足利屋敷に居る筈だった。
「竹若丸は如何《いかが》いたした」
高資は目に角を立てて言った。
「ついさきほどまで居られたのに、さて、どうしたのやら、ほうとうに居ないとなれば、足利屋敷にまで人さらいが現われたことになる。これはたいへんだ。留守居として治部の大輔様に合わせる顔がない。お詫《わ》びのために切腹せねばならぬ」
などととぼける斯波氏経に高資は、
「切腹する前に千寿王と竹若丸の行方を話して貰わねばならぬ」
と言って、その場で縛って引き立てて行った。
千寿王母子、竹若丸母子がほとんど同時に行方不明になったことは幕府要路の者を驚かせた。まさかということが起こったのである。
(千寿王奪い出しに味方したのは、浮浪者に身をやつした、野伏の類であろう)
ということになった。野伏であれ、浮浪者であれ、幕府の兵を相手に立派に戦って、人質を奪い取ったのは、よほど勝《すぐ》れた指導者がいるものと考えられた。それは足利の一族か、足利に心を寄せる者でなければならなかった。この事実も幕府の心胆を寒からしめた。岩松清四郎が葛籠を持って長崎屋敷に来て以来のことはすべて計画的に行われたものと推定された。
「足利高氏が天皇に味方する所存であることはこれで明瞭になった」
北条高時は、容易ならぬ事態になったので、一族を集めて協議をし、氏経を責めて、千寿王等の行方を確かめることと、早馬を六波羅に出して、このことを六波羅探題に知らせることを決定した。
斯波氏経は口を緘《とざ》して何事も語らなかった。如何《いか》なる拷問にも責め具にも耐えた。
彼はしばしば気を失った。水を掛けられて、息を吹き返すとまた責められた。
「今日で三日である。未《いま》だにわれを責め続けているところをみると、千寿王様等は無事、隠れ家まで達せられたのであろう。目出たいことである」
氏経はそう言って、再び気を失った。
そのころ千寿王とその母登子は利根川を遡行《そこう》中であった。舟には刀屋三郎四郎とその従者二人、千寿王とその母登子。そして侍女が乗っていた。その舟の前後にはそれぞれ一|艘《そう》ずつ警戒の舟が付き添っていた。
「もう間もなく舟の旅はおしまいになります。あとはただおゆるりとなされておればよろしゅうございます」
刀屋三郎四郎は舟から見える両岸の景色に目をやりながら、登子に言った。
「無理矢理に籠に乗せられたり、着物を着替えさせられたり、もう生きている心持ちはございませんでした」
と登子はあれ以来の経過を思い出しながら言った。
「お助け申し上げるためにはいたし方がないことでした。お許し下さいませ」
刀屋三郎四郎はそう言って謝りながら、あの日からのあわただしかった何日かを思い出していた。
刀屋三郎四郎は鎌倉の長崎高資の邸を出てからずっと尾行者がいることを知っていた。
尾行者は長追いはせず、三郎四郎等が箱根峠へ向かったのを見て引返して行った。三郎四郎はそこで姿を町人に変えて再び鎌倉へ戻り、逗子《ずし》の判官|常清《つねきよ》と計って、あの騒動を起こしたのである。
どさくさにまぎれて、三郎四郎等は千寿王母子を力ずくで籠に乗せ、鎌倉の海岸まで連れて来て舟に乗せた。彼女等は舟に乗り込むと同時に町人の着物に無理矢理着替えさせられた。その時になって、三郎四郎は、はじめて、足利高氏の命令によってこのようなことをしていることを母子に告げた。
〈治部の大輔殿は近日中に天皇にお味方して倒幕の旗を挙げます。そうなった場合は千寿王様は必ず斬られます。そうあってはなりませんので、このような非常な策を取ったのでございます〉
舟が沖に出てから三郎四郎が言った。登子も千寿王もそれでどうやら事情が分かりかけて来たようだった。
〈これよりは海路江戸の湊《みなと》につき、利根川を舟でさかのぼります。途中誰かに身分を訊かれたら、刀屋三郎四郎の妻とよに息子の小太郎とお答え下さいますように〉
三郎四郎は言った。
〈舟は利根川をさかのぼって、どこへ行くのです〉
登子が訊いた。
〈それはもうしばらくは申せません。お身安全のところまで行くとだけ御承知下さい〉
三郎四郎は言った。
〈千寿王と私は、これでどうやら生命が助かったとして、足利屋敷に残っていた竹若丸やけさ殿はどうなったでしょうか〉
登子はそれが心配のようだった。
〈御心配なく、ちゃんと手は打ってあります。あの日あの騒動の最中に、伊豆へ落ちのびて行きました。案内は良遍《りようへん》殿がつとめる手筈になっておりました。今ごろは既に隠れ家に着いて疲れを休めているころでございましょう〉
良遍とは僧の名前である。竹若丸の母けさの兄に当たる人であった。
曳《ひ》き舟の人夫が頻繁《ひんぱん》に交替した。そんな時人夫たちは好奇心で舟の中を覗き込むことがあった。三郎四郎は、千寿王と登子を荷物と荷物の間に隠し、念のため、その上に菰《こも》を掛けた。舟が目的地に着いたのは夕刻だったが、荷物や人はそのままにして夜を迎えた。その間、舟を降りたのは、三郎四郎の家来一人だけであった。
「さて、いよいよ舟を降りていただくことになりました」
深夜になってから三郎四郎は登子に言った。
舟が岸に寄せられた。川一面にあふれ出した霧があたりを暗くしていた。その中に舟を迎える人の影が動いていた。
十数人の男たちが河原に膝をついて一行を迎えた。出迎えの長らしき者が千寿王と登子をそれぞれ輿《こし》に乗せた。人々は或は荷物を背負い、或は担いでその後に従った。ひとことも口をきく者はいなかった。河原から道に出ると犬が吠えた。だが人の出て来る気配はなかった。要所要所には武装した男が警戒に当たっていた。そこで短い言葉が交わされた。
輿は間も無く一見して館と思われる門の中に吸いこまれた。門がしまると、あとはしんと静まり返って人一人往来しない夜の郷になった。
館の中にはまぶしいばかりの灯火が輝いていた。
「ここは、新田庄岩松の館でございます。拙者は当館の主岩松政経でございます。遠路お越しいただき光栄に存じます。ここまで来ればもはや、なんの心配もございません、どうぞなんなりとお申し付け下さるようお願い申し上げます」
政経は千寿王と登子の前に両手をついて言った。
登子は岩松氏が足利氏の一門であって、新田庄内に領地を持っていることを知っていた。が、なぜ足利庄に行かずにここまで来たのか不審に思えてならなかった。登子は舟が利根川を遡行し始めたとき、おそらくは、利根川から渡良瀬川に入って、足利で上陸し、足利の館にかくまわれるだろうと思っていた。だが、そうはせず、利根川の本流を遡《さかのぼ》ってここまで来たのが解せなかった。その登子の疑問を解くためのように、刀屋三郎四郎が傍から口を挟《はさ》んだ。
「足利には間も無く幕府から兵が向けられるだろうと存じます。すでに足利の付近では厳重な人調べが始まっているでしょう。足利に近づくのは危険ですから、ここまで参りました。ここは安全です。まさか千寿王様が新田庄に隠れているとは幕府でも気がつかないでしょう」
刀屋三郎四郎は、そこで久しぶりに笑顔を見せた。そして彼は岩松政経に向かって、
「さて、これからまたいそがしくなりますが、今宵《こよい》一夜はゆっくり休ませていただきましょう」
と言った。いそがしくなるというのは、このことを新田義貞に伝えて、その了解を得なければならないということであった。
義貞は刀屋三郎四郎の顔と彼と同道してやって来た岩松政経の顔を見て、これは容易ならぬ大事が出来《しゆつたい》したなと思った。
新田一門であるというよりも足利一門に近い岩松の当主である政経は既に五十歳を過ぎていた。
岩松氏は新田庄内に広い土地を所有していた。その土地はもともと新田氏のものであったが、新田政義の出家《しゆつけ》事件以来、岩松氏の所有になったのである。岩松氏と大館氏との血の出るような水争いがあったのも、ついこの間のことである。
このような関係にある岩松氏の当主政経が自ら新田館を訪れたことは尋常一様のことではない。しかも同道している刀屋三郎四郎の存在も気になった。
「御用件をうけたまわりましょうか」
義貞は政経に言った。
「用件というほどのことはない。小太郎殿にひとことお知らせしようと思って参っただけのこと」
政経は言った。小太郎殿というあたりは、いつもながらの政経だと思った。政経には位があったが、義貞は無位無冠であった。それを鼻にかけて、相手を小太郎殿と言っているのではない。これは政経の癖であった。岩松氏と新田氏とは同位にあるという考えから来ているのである。
「お聞かせ願いましょう」
と義貞が言うのを待っていたように、
「その前に、私から、いままでの経緯《いきさつ》をお話し申上げます。そのほうがお分かりになり易いと存じます」
刀屋三郎四郎が言った。
「経緯とはなんだ」
「客人を、お連れ申したその経緯でございます」
「客人とな? はて」
と首を傾《かし》げる義貞に向かって刀屋三郎四郎は、
「千寿王様とその母君の赤橋様にございます」
と言い切った。そこには義貞の他に、脇屋義助と船田義昌がいた。三人は同時に顔色を変えた。
「なぜ、千寿王殿とその母御前がここに……」
と義貞が言うのを引き受けて、さればでございますと、刀屋三郎四郎は鎌倉で起きたことを逐一話したのである。
「すると千寿王殿とその赤橋殿は、岩松館におられるのか」
義貞はあまりのことにその次の言葉が出なかった。新田庄の者が誰一人知らないうちに、この難事を為し遂げた刀屋三郎四郎という人物をもう一度見直さねばならないと思った。
「して治部の大輔殿へはこのことを知らせたか?」
「昨夕、千寿王様の御一行安着と同時に早馬を立てました。途中からも早馬を放っております。治部の大輔様は、御小座様(正室)と千寿王様が安着したとお聞きになれば、即日倒幕の旗を掲げる手筈になっております」
三郎四郎は言い終わると、その反応を窺《うかが》うかのように、義貞、義助、義昌の三人の顔を順を追って眺めた。
「小太郎殿も、ここまで来たら心を決められるよりいたし方ないと思うがいかがかな。千寿王殿が、新田庄に逃げこんだとあれば小太郎殿も治部の大輔殿の一味と見なされる。それとも、わが館を襲って、千寿王殿を奪い取り、幕府にさし出すか。いくらなんでも、それはできないだろう」
岩松政経は勝ち誇った顔で言った。
「心を決めるのに、岩松殿の指図は受けぬ。また千寿王殿がどこへ逃げこもうが余の知ったことではない。だが、治部の大輔殿とはかねがね親しい仲だし、窮鳥|懐《ふところ》に入ればのことわざもある故、千寿王殿が、わが新田庄に居られるかぎり、危害が及ばぬよう心を配ろう」
義貞は冷やかに言った。
「小太郎殿はこの期になってもまだ本心を明さないのか、それとも未だどちらにつこうかと迷っておられるのか」
政経は言った。
義貞は返事をしなかった。刀屋三郎四郎が義貞に替わって、
「新田庄殿の心は既に決まっております。綸旨もいただいております。態度をはっきりしないのは治部の大輔様からのお指図がないからです。治部の大輔様が挙兵すれば六波羅は一日で落ちます。問題は鎌倉です。鎌倉幕府を根こそぎ倒すには強力な軍隊が必要です。西から治部の大輔様の率いる大軍、そして東からは新田庄殿の率いる大軍が同時に攻め込まないかぎり、相模守殿を討ち取ることはむずかしいでしょう。その時が来るまで、新田庄殿は戦力をたくわえて置くようにというのが治部の大輔様からのお指図です」
と三郎四郎は政経に説明した。
「そうであったか、それとも知らず、失礼なことを申して済まなかった。三郎四郎の言葉で、なにもかも分かり申した」
そして政経は、びっくりするような大きな声で言った。
「つまり、西方からやって来る軍の総大将は足利高氏殿、そして東方から鎌倉を目ざして攻めかかる軍の総大将は足利千寿王殿ということですな。それがために、千寿王殿をこの地へお移しなされたのだ」
政経は自分の言葉に酔ったように、な、そうであろう小太郎殿、と言った。
しかし義貞はそれには答えなかった。岩松政経を無視したような顔で、脇屋義助に、
「義助、わが名代として千寿王殿を見舞って来るがよい。岩松館が居づらいようならば、いつにても新田館にお迎えする用意があると申し伝えてくれ」
義貞は、それだけ言うとさっと席を立った。とうとう来るべき時が来たなと思った。千寿王を新田庄でかくまっているということが鎌倉に聞こえたならば、幕府は必ず兵を向けて来るだろう。
義貞は一族の者、ことごとくに合戦の準備を整えるよう指令を出そうと決心した。
「天狗《てんぐ》(伝令のための修験者)が行ったら、早々に新田庄に馳《は》せつけるようにと内命を下して置こう」
彼は回廊を渡りながら、ひとりごとを言った。
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楠正成が元弘《げんこう》二年十一月、護良《もりなが》親王が吉野で挙兵したのに呼応して千剣破《ちはや》城(千早城)に拠って幕府に対抗したのは史実に明らかなところである。しかし、千早城という山城に籠《こも》った楠正成がどうやって幕府の大軍を半年間も支えたかについては謎《なぞ》というほかはない。
この正成の健闘に刺戟《しげき》されて、次々と天皇方に味方するものが出て来たのである。太平記では、このあたりは例のとおりに、正成が奇策を用いて幕府軍を寄せつけなかったように書いてあるが、奇策や奇襲は一度やると二度とは使えない。相手がそれに対して準備するからである。ではなぜ数十倍とも推定される幕府の軍を寄せつけなかったのであろうか。
私が金剛山と千早城を訪れたのは一昨年(昭和五十一年)の六月二十二日であった。折から梅雨の最中で千早川は増水していた。千早川に添って狭い谷間を登りつめたところに、ロープウェイがある。ロープウェイによって一気に金剛山の頂上近くまでは行けたが、雨が降っているし霧が深くて見通しは利かなかった。ヒノキとスギが混生した山肌が霧の合間に時々覗いていた。千早城と金剛山とは尾根伝いにつながっている。正成が千早城を持ちこたえたのは、背景に金剛山を持っていたからであった。
千早城はロープウェイ駅からずっと下にあった。五百段近い石段を登りつめたところに千早|城址《じようし》があった。花崗岩《かこうがん》の腐蝕土《ふしよくど》の山で、頂上近くには赤松の木が多かった。城址に茶屋があった。
千早城の地形を俯瞰《ふかん》図で説明すると、楔《くさび》形に突出した尾根である。
上空から見ると楔形だが水平方向から見ると、どちら側に廻っても、急峻《きゆうしゆん》な斜面になっている。断崖《だんがい》、絶壁とまではゆかないが、おいそれと駈け登れるような地形ではない。しかも樹木が密生している。城址は、ところどころに土塁らしい跡を僅かに残すのみになっている。本丸のあった背後は急な登り坂になり、金剛山に続いている。この方面から食糧の補給を受けていたのであろう。
私はいままで多くの山城を見て来た。千早城は確かに山城としては勝れた地形を備えている。しかし、力攻めに攻めて落ちない山城では絶対にない。落とすつもりなら、四方から盾を並べて押し上れば必ず落とせる型の城であったように思われる。
幕府軍はなぜそれをしなかったか。それは士気が欠けていたからだった。戦うつもりのない人間を何万集めてもどうにもならないことの証左《しようさ》が、この千早城の攻防戦である。太平記によると、攻城軍の大将|名越遠江《なごやとおとうみ》入道とその甥《おい》の兵庫助が遊女などを交えて双六《すごろく》遊びをやり、その結果、伯父、甥で斬り合いを始め、それぞれの部下もこれに加わって多くの人が死んだと書いてある。
太平記は嘘が多いが、このあたりは真相を伝えるものではないだろうか。楠正成は確かに名将であったが、幕府軍に戦意がなかったことが千早城を不落の城とした真相であろう。
頂上付近はウグイスの声で満ちていた。降りる途中の雑木の林の中にエゴノキが白い花を咲かせていた。
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神水の誓
足利高氏、名越《なごや》高家は、それぞれ三千の兵を率いて上洛した。六波羅で軍議がなされた。
兵庫にあって、いよいよその勢いを増強しつつある赤松則村と、伯耆《ほうき》、因幡《いなば》、出雲《いずも》、美作《みまさか》、但馬《たじま》、若狭《わかさ》方面の兵三千を率いて上洛途上の六条の少将|千種忠顕《ちくさただあき》の軍を防ぐにはどうしたらよいかが問題になった。
軍議は終日にわたって行われたが、結論として、名越高家は兵庫方面にある赤松の軍に当たり、足利高氏は山陰地方の兵を率いて上洛途上の千種忠顕に当たることに決められた。
足利高氏は京を出て丹波《たんば》の国に入った。京都で戦うよりも、京都を出て戦ったほうが有利であると主張する高氏の意見が入れられたのである。
「大丈夫かな?」
と六波羅南庁探題北条|時益《ときます》は、心配げに高氏の後を見送っていた。既にそのころ、足利高氏が裏切るのではないかという風説が流れていた。もしそれがほんとうならば、遠くへやるのは虎を野に放すも同然である。
「近くに置いても危険は同じこと。むしろその方がおそろしい。こういう場合に、人を疑ってかかったのではとても戦さはできない。足利氏が裏切るようなことはまずあるまい。今は、そう信じよう」
と言ったのは六波羅北庁探題の北条仲時であった。しかし、念のために、六波羅からの軍監として佐々木|隠岐守《おきのかみ》義直、高橋九郎|左衛門尉《ざえもんのじよう》宗明の二名が足利の軍に加わることになった。高氏は軍監二名を付けられたことに対して不服は言わなかった。
「いや御苦労様なことだ。なにかと力になっていただくことになるやもしれない。その節はよろしゅうおたのみ申す」
と高氏は二人に言った。
足利高氏は京都を出発したときから、物見を多く放って敵情を偵察した。
「大江山あたりが、千種忠顕の軍を迎え討つには適当な場所」
などと高氏は言って、そのあたりに布陣の計画を始めた。
「敵がこの道を攻めて来れば、この地で戦うのがよいでしょうが、京に入るには道はいくらでもあります。ここ一つにこだわることは危険です」
と軍監の佐々木義直が進言すると、
「いや、敵は必ずここへやって来る。そのように策を講ずるのだ」
と高氏は平静な顔で言った。
「いったい、その策とは?」
「その手は既に打ってある。間もなく事実となって現れるだろう」
高氏はとぼけていた。
「どうも高氏の行動はおかしい。機を見て天皇方につこうとしているのではないだろうか」
佐々木義直は高橋宗明に言った。
「さよう。確かにおかしい。物見と称して発する人の数も多いし、その先が必ずしも敵の方向ではない」
高橋宗明が言った。しかし、まだ二人は高氏が天皇方に付いたという証拠はなに一つとして握ってはいなかった。
四月二十八日の夕刻であった。日が西山に沈むころ、丹波の篠村《しのむら》にいた足利高氏の本陣に早馬が着いた。長い道中を駈け続けて来たらしく、髯《ひげ》は伸び、頬はこけていたが、眼は輝いていた。
岩松政経の郎党相島十郎左衛門と早馬の主は名乗った。相島十郎左衛門は直ちに高氏の前に連れて来られた。
彼が持参して来た書状は、政経の筆になっていた。義貞は、幕府の軍費催促六万貫のうち半分を岩松政経に出せと言って来たが、これはまことに不当な言いがかりであるから、治部の大輔様より、しかるべく取りなしを願いたいものである、という内容のものであった。高氏は一読して、この書状は幕府の関所役人の目をごまかすためにわざと作ったものだと見破ったが、色には出さず、それを軍監の二人に渡した。
「遠路御苦労であった。ゆっくり身体を休めるがよい、返書は早速書く」
高氏はそう言ってその場を退出して、厠《かわや》に入った。厠を出ると、そこに待っていた家来に、
「高師直《こうのもろなお》に岩松からの使者をねぎらってやるように申し伝えよ」
と言った。
高師直はその一言で万事を了解した。彼は相島十郎左衛門に酒肴《しゆこう》など出してねぎらいながら、小声で訊いた。
「他に密書を持っておれば出せ。口伝なら、御館様にかわって拙者が聞こう」
使者は、周囲に人が居ないのを見計らってから、鎌倉で人質となっていた千寿王とその母登子が新田庄の岩松館に無事脱出したことを告げた。持参して来た書状は途中で幕府の者に調べられたときのために予《あらかじ》め用意したものだと答えた。
「なかなか念の入ったこと。感服いたした。千寿王様、御無事に脱出は分かったが竹若丸様等の消息はどうなっているか」
「それについては、良遍《りようへん》様とともに伊豆山へ行かれたということだけしか分かっておりません」
と十郎左衛門は鎌倉で起こったことの大要を話した。
「お館様はさぞお喜びになるだろう。そしておそらく明日はこの場で倒幕の旗を掲げられるであろう。そちはそれを見届けてから新田庄へ帰るがよい」
高師直はそう言った。
高師直はその足で高氏の寝所に直行した。高氏の本陣は寺に置かれていた。奥の部屋が高氏の寝所であり、その部屋の通路に二人の軍監がいた。高師直は手兵二十名ほどをつれて、寺の庭から入って行って、
「高師直より軍監殿に申し上げる。六波羅よりの御使者が参りました。火急の御用事故、夜中参上いたしました」
と言った。二人の軍監は早々に衣服を身につけて外へ出た。隠れていた高師直の家来がいっせいに飛び出して、あっという間に二人を捕縛した。
高氏がなにごとが起こったかと出て来た時には、寺の庭には足利氏の一族がつめかけていた。
足利高氏は、元弘三年(一三三三年)四月二十九日、丹波篠村八幡宮において倒幕の祈願を行った。
これに先立って高氏は六波羅から派遣されて来ていた軍監、佐々木義直と高橋宗明の両名を庭に引き出して、その縛を解き、足利氏に味方するならば許してやる。身のふり方をとくと考えよと言った。
「切腹のみが所望」
「生き恥をさらすよりも死んだほうがましだ」
二人はそれぞれ答えた。高氏はその二人に切腹を許し、二人が連れて来た郎党はそのまま放ってやった。中吉《なかぎりの》十郎と奴可《ぬかの》四郎の二人は京都に走り帰って六波羅に出頭し、足利高氏が倒幕の旗を挙げたことを告げた。
六波羅は震駭《しんがい》した。足利高氏が天皇方についたとなれば、幕府は非常な不利となる。北条時益、北条仲時共に顔色を変えた。二人は、鎌倉に向かって、早馬でこのことを知らせると同時に、足利高氏の誘いによって天皇方に付きそうな武将からは即日人質を出すように命じた。
人質を出せと言われたことは、心を疑われていることであり、鎌倉武士の恥とするところだった。だからよほどのことでないと人質を出せとは言えなかった。足利高氏が変心したのも幕府が千寿王を人質に取ったのを怒ったのだという説があるほど、人質に対する考え方はきびしい時代だった。
結城親光《ゆうきちかみつ》は足利高氏の挙兵の噂《うわさ》を聞いて、その真実を確かめるために人を丹波の篠村へ出そうとしているところへ六波羅探題の命令として即刻人質を出すようにとの沙汰があった。
親光は明朝早々に人質をさし出しますと答え、その夜の内に一族郎党を率いて洛外に逃れ、丹波に向かって走った。高氏に合流するためであった。
結城親光と同じような行動を取る者が多かった。京都にいて、少なくとも源氏にかかわり合いがあるような者はこぞって、足利高氏を頼って洛外に去った。
噂は噂を呼んだ。足利高氏が大軍を率いて、今にも京都に攻め込むだろうと囁《ささや》かれるようになった。六波羅を見限って、逃亡する兵が相次いだ。
足利高氏は篠村で倒幕の旗を挙げると同時に近隣諸方の豪族に使いを出して軍勢催促状を発し、源氏の一族には、御教書を発して、味方につくように指令した。軍勢催促状にも御教書にも源氏の嫡宗家としての足利高氏の名が書かれていた。
足利氏は源氏の嫡宗家として公に認められていたから、その頭領の足利高氏が天皇方についたことは天下の形勢を大きく変えることになった。軍勢催促状や御教書を貰ってそれに応ずる者は数え切れないほどであった。
令旨《りようじ》や綸旨《りんじ》では容易に動かなかった豪族たちが足利高氏の軍勢催促状によって動いたのは、足利氏が実力者であるからだった。源氏の嫡宗家であり、全国にその支族がいるからだった。足利氏が天皇側に立った以上、必ず北条幕府は倒れると見当を付けたからであった。
足利高氏は挙兵と同時に、新田義貞にも早馬を以てこれを知らせると共に、
≪鎌倉幕府は必ず新田一族に対して疑念を持ち、或は兵を向けるかもしれないが、その時は金山城に籠って防戦するように。わが軍は六波羅を落としたら、夜を日に継いで鎌倉に攻め下る。それまではいかなることがあろうとも自重せられよ。功をあせって、身を亡ぼすようなことがあってはならない。鎌倉幕府を亡ぼすには、東西力を併せなければならないことを重々お考えなされるように≫
という御教書を送った。
早馬は丹波の篠村から五日間で新田庄についた。五月四日の夕刻、新田義貞は高氏からの御教書を受取った。
義貞は一読してこれを脇屋義助と船田義昌に見せた。二人が読み終わるのを待って義貞は立上がって義助に向かって言った。
「ただちに天狗を諸国に走らせよ」
それを聞いて船田義昌が、
「御教書は無視なされるのですね」
と念を押した。
「わが新田氏こそ、源氏の嫡宗家である。そのことは綸旨にもちゃんと明記せられている。従って、御教書を発する資格は新田氏にある筈、治部の大輔殿の言うことなど、いちいち聞く必要はない。新田氏は新田氏の考えどおりにやればいいのだ」
義昌はそれを聞くと、溢《あふ》れ落ちる涙を拭おうともせず、
「よくぞ申されました。さぞや草葉の陰では、先代様(朝氏《ともうじ》)、先々代様(基氏《もとうじ》)がお喜びになっておられるでしょう」
と言った。
「戦いには機がある。今鎌倉を攻めれば、寡《か》を以て衆を制することができる。足利軍の来るのを待って鎌倉を攻め落としたとしても、功は治部の大輔殿のものとなるばかり、新田氏は依然として、足利氏の風下に立たねばならぬ。今われ等の手で、鎌倉殿の御首を頂戴したら、勲功は較べるものが無いほど高く評価されるであろう。足利氏と比肩して恥ずかしくないようになれるかどうかは、この千載一遇の機会を掴《つか》むか失うかによって決まる」
義貞の語気は荒かった。脇屋義助が、義貞の言を支持した。
「兄者の言うとおりだ。今は、できるだけ早く、できる限り多くの兵を集め、鎌倉に攻めこむことである」
義助の顔は昂奮で赤く染まっていた。
義助の指図によって不動尊堂に天狗(修験者)が集められた。天狗は義貞の指示によって八方に飛んだ。里見の広神《ひろがみ》善道坊は白岩観音に飛んで、ここに集まって居る修験者たちに挙兵のことを告げた。ここから更に二十人ほどの天狗が越後《えちご》、信濃《しなの》、甲斐《かい》方面に飛び出して行った。
新田館に近郊の一族の長が続々と集結した。挙兵の準備は着々と進められて行った。天狗共の通報によって、一族が集まるのは五月七日か八日ごろだろうという計算が立てられた。
義貞は、次々と手を打った。里見二十五騎のうち、義貞が鎌倉大番役時代に随行していた清水五郎、富沢小三郎、柴山八郎の三人を鎌倉へやったのも、天狗たちが飛び出したその日であった。
岩松館の岩松政経にも足利高氏からの御教書が届いた。
≪新田一族の軽挙|妄動《もうどう》を押え、足利軍が六波羅を落として、鎌倉へ向かって攻め下るその日を待つように心せよ。その日が来たら、千寿王を総大将とする軍を鎌倉へ進めるよう手筈を整えよ≫
政経はその気でいたが、新田館を中心としての人の動きがあまりに急なので不審に思って、自ら新田館に出向いて義貞に会って言った。
「治部の大輔殿の御教書はこちらにも届いている筈。くれぐれも行動は慎重にせよというのに、この騒々しさは、今にも出兵でもするようだ。これはいったいどうしたことか」
しかし、義貞は顔色一つ変えずに答えて言った。
「出兵でもするようだとは、なにを寝とぼけておられるのだ。出兵することはもはや決定しておる。その折は岩松殿も新田一族として軍に加わって貰わねばならぬ。御教書だのなんだのという体裁はどうでもいい。今は一日も早く北条を討ち亡ぼすことだ。早々お帰りになって、出兵の準備をなされるように」
義貞の語調は強かった。
「小太郎殿はこの政経に命令されるのか」
「勿論《もちろん》、源氏嫡流新田小太郎義貞として、その支族岩松殿に沙汰をいたしておるのだ。命にそむくならば、まず手始めに岩松館を討つことになるだろう。よく目を開いて、時の動きを見られよ、戦機を失すれば、北条一族の息の根を止めることはむずかしくなる。お分かりか」
義貞は人が変わったようだった。政経は度胆《どぎも》を抜かれた。岩松氏と新田氏の関係が突如逆転したように思われた。おのれと心で思っても、新田氏に刃向かうことはできなかった。足利氏の力を借りねばなにもできないのが岩松氏の立場であった。
「出兵の準備はいたしましょう。だが総大将は千寿王殿であることに変わりはないでしょうな」
政経はいくらか丁寧な言葉で言った。
「政経殿、あなたはおいくつになられた。そんなことを言うと人に笑われるぞ。幼児に天下転覆の采配《さいはい》を委《まか》せることができるというのか。戦いに勝つには、名実共に総大将と言われる者が陣頭指揮しなければならない。これは合戦の根本原理である」
「それは分かっている。実際に指揮を取るのは小太郎殿であっても、名義は飽くまでも千寿王殿が総大将……」
とまで言ったとき、傍《そば》で聞いていた大館《おおたち》宗氏が口を出した。
「合戦は生死を賭《か》けての殺し合いだ。名義もへちまも要るものか、そんなに名義が欲しかったら、そこもとが千寿王を背負って、総大将は、わが背中にありと名乗りを上げて敵陣へ斬りこんだらいいだろう」
それを聞いていた新田一族の者がいっせいに笑った。岩松政経は血相を変えて新田館を退出した。怒りは収まらなかった。足利高氏にこのことを知らせてやろうと、筆を執ったが、怒りが先に出て、文章にはならなかった。
鎌倉幕府は足利高氏|謀叛《むほん》の知らせを受けると、その対策もしばらくは樹《た》てることができないほどの衝撃を受けた。これはえらいことになったぞ、足利氏が天皇方につけば、まず六波羅はそのままではあり得ないだろう。次は鎌倉だ。そう考えると、突然、いままでついぞ思って見たこともない生命の危険が感じられるのである。
北条一門はそうなった場合の逃げ場を考えた。これと言ってたよりになるようなところはないのである。
(鎌倉だ。鎌倉を守る以外に生きる手段はない)
そう思ったときはじめて、手を打つべきことの一つ一つが問題として浮かび上がって来るのである。まず軍勢の確保である。次には、近隣の豪族で、天皇方に付いて旗を挙げそうな者に対する警戒であった。
「新田庄の小太郎義貞はどうか。彼は過日、戦費の催促を申しつけたが、言を左右にしていて未だに納めてはいない。しかも、新田義貞は足利氏と先祖を共にする源氏の一門である」
長崎高資が言った。
「即刻、しかるべき者をやり、戦費催促をきびしくすると同時に人質を取るべきである」
と言ったのは大仏貞直《おさらぎさだなお》であった。
「それらの手段はすべて手遅れである。今となってはただ一つ、威を以《もつ》て臨むよりも真心を以て幕府の意のあるところを示す以外に方法はないだろう」
と言ったのは金沢|貞顕《さだあき》であった。
人々は貞顕の方を見て、次の言葉を待った。
「新田小太郎義貞と足利高氏は先祖を同じくしている。即ち源義国である。義国の長男、義重が新田氏となり、次男の義康が足利氏の祖となった。源氏の正統が実朝の代で断絶した現在においては系図上では新田義貞こそ源氏の嫡流と見るべきである。ところが、幕府は従来から足利家を源氏嫡宗家として優遇し今日に至っている。足利一族はわが北条家の庇護《ひご》によって増長し、そしてその主家に謀叛を企てたのである。この際、幕府は、源氏嫡宗家を新田氏であると認め、足利氏の領地をすべて新田氏に与えるという条件を以てわがほうに従随せしめるのが得策である」
貞顕はいかにも長老らしい考えを披瀝《ひれき》した。
「人質はいかがなされるおつもりか」
と長崎高資が言うと、それを押えるように貞顕は声を荒らげて言った。
「そこもとには、真心を以て迎えると言った拙者の言葉が分からないのか。おそらく新田義貞のもとには綸旨、令旨が共に参っているであろう。義貞が未だに兵を挙げない唯一の理由は、足利氏の動向にあるのだ。彼がもっとも気にしているのは、令旨や綸旨より足利高氏の動きである」
貞顕の言葉は北条一族の多くの者の心を動かした。しかし中には、なぜ新田義貞の存在がそれほど重大になったかを疑う者があった。
「新田義貞に幕府の真心を伝えるという話は分かりました。してその使者は」
長崎高資は満座を見廻して言った。
北条高時の傍に座っていた諏訪《すわ》左衛門尉入道時光が張りのある声で言った。
「その使者には拙者と安藤左衛門殿におまかせあれ、拙者は新田殿とは屋敷が隣合っていて日頃心安くしているし、安藤左衛門殿の女《むすめ》殿は義貞殿に嫁されて義顕《よしあき》殿を生んでいる」
それはいい、そうして貰おうではないかという声が北条一族の中から起こった。
「して、もし新田義貞の心を動かすことができなかった場合はどうなさるおつもりか」
と言ったのは赤橋守時であった。
「もはや、この世も末とおぼしめしくだされ、腹の切り方の一つも、ものの本などにてお調べあるべきこと必定と存ずる」
「なんと入道、その言葉は無礼であろうぞ」
赤橋守時は色をなした。思わず太刀に手を掛けたほどの怒りようであった。諏訪左衛門尉入道時光は、信濃の諏訪氏の出である。諏訪氏は諏訪神社の大祝《おおはふり》と同時に領主として古代から諏訪に定着し、神氏《かみうじ》として一目置かれ、頼朝の時代から鎌倉幕府に仕えて今日に至っていた。武官よりも文官としての能力を買われていた。
諏訪氏は名家ではあったが、北条|得宗《とくそう》家との特別のつながりはなかった。時光の位も左衛門尉という低い位であった。その時光が切腹の勉強をして置けと言ったのだから北条得宗家の赤橋守時が怒るのは当たり前だった。座は白けた。人々は沈黙した。だが、よくよく考えてみると諏訪時光の言うことは嘘ではなかった。
新田義貞が幕府に味方して、東国の源氏を率いて、足利高氏に当たれば、なんとかこの急場を持ちこたえることができる。それ以外、落ち目になった北条幕府を建て直す支柱はないのである。
「諏訪入道の申すとおりにせよ」
と北条高時が言った。高時は暗愚だとか田楽|気狂《きちが》いだとか言われていたが、幼いころ、時光に学問を習って以来、時光の言うことはよく聞いた。高時がこの緊張の場で決断を下すような発言をしたのは異例であっただけに、その言葉になにかしら運命的なものが感じられた。
使者はまず新田屋敷に飛び、新田屋敷の矢島五郎丸は早馬でこのことを新田義貞に知らせた。
諏訪入道時光と、安藤左衛門が幕府の用命を帯びて新田庄におもむくという報告はその日のうちに新田庄に届いていた。
新田館ではこの二人の使者を迎えるに際して如何《いかが》すべきかが協議された。使者の構成から見て、幕府が新田義貞を味方につけようとしていることは明らかであった。新田氏が幕府側につけば足利氏と一戦を交えねばならぬ。つまり、源氏の二家が宗家を争う合戦になるのである。北条氏は生き延びるかもしれない。そして、後醍醐《ごだいご》天皇はどうなるだろうか。そこに参集した新田一族の者は様々なことを考えていた。
幕府からの使者を迎えるその前日、京都から新田庄に早馬が続いて三騎あった。名越高家が久我畷《こがなわて》で赤松則村と戦って敗死したという報に加えて、足利高氏、赤松則村、千種忠顕の率いる三軍団は間も無く京都に攻めこむだろうという情報が第一の早馬がもたらしたものだった。
その早馬が着いた一刻後に、第二の早馬があった。護良親王からの令旨であった。
≪足利高氏は丹波の篠村で八幡宮に祈願した。その|願文《がんもん》の中に、『高氏、神の苗裔《びようえい》として氏《うじ》の家督たり、わが家再び栄えば社壇を荘厳せしめん』という言葉がある。これは高氏が自らを源氏の頭領であることを神前に誓い、わが家再び栄えばと言う意味は、源氏による幕府を創立せんという野心に他《ほか》ならぬ。これは充分に警戒せねばならない。源氏の嫡宗家は新田氏である。足利高氏だとは思わない。高氏に、これ以上名を為《な》さしめぬためには即刻挙兵して鎌倉幕府の息の根を止めることである。はや挙兵せられよ≫
という内容のものであった。
護良親王は粗暴の人と聞いていたが、篠村八幡宮に捧《ささ》げた、高氏の願文を取り上げて、このようなことを言って来たのは、随分と先のことを考えている人のように思われた。
その日第三の早馬が遅くなって到着した。綸旨であった。
≪もはや六波羅は落日の映え間に右往左往している。ここ数日を|出《い》でずして、洛中《らくちゆう》の賊共は一人残らず退治されるであろう。源氏の嫡流たる新田小太郎義貞はこの機を逸せず鎌倉に攻めこみ、最高の手柄を上げ、源氏嫡宗家としてのほまれをほしいままにせられよ。早々に兵を挙げ鎌倉に向かって進軍するよう、くれぐれもおこたり無きよう申し付けるものである≫
という内容のものであった。
義貞はその翌日、新田館に諏訪左衛門尉入道時光と岳父の安藤左衛門を迎えた。
「とうとう来るべき時が来ました」
と諏訪入道はまず一言言ってから義貞の顔色を窺った。
「確かに時が参りました。わが新田一族が興るか亡びるかの時が参りました」
と義貞は答えた。
「当然、興るべき方に賭けるでしょう」
という諏訪入道に義貞は、
「亡びる者に同情していたら、自らも亡びるでしょう」
と答えた。二人はしばらくは腹の探り合いをしていた。安藤左衛門が諏訪入道に替わって話し出した。
「相模守(北条高時)殿は真心の使者として、われら二人をこの地に向けられました。駈け引きはいっさいなしに、思うことをなにからなにまで話し合うつもりでわれら二人は参りました。拙者と新田殿とは普通の間柄ではございませんが、その縁《えにし》をたどってやって来たのではなく、幕府のほんとうの心を伝えるためにやって来たのです。その点をよく納得した上で、われ等の口上をお聞き取り下さい」
安藤左衛門の顔には必死に訴えようとするなにかが動いていた。
諏訪入道時光は新田義貞に幕府側に味方するようにすすめるに当たって、その要点を一つ一つ挙げて説明した。
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一、後醍醐天皇の考えている、天皇親政は既に時代遅れであること、
一、たとえ天皇が一時的に親政を実行しようとしたとしても、他に実力者が存在するかぎり、それは不可能であること、
一、実力者とは武士を代表する者であり、もし鎌倉幕府が倒れた場合、鎌倉幕府に替わるのは足利高氏であること、
一、そのようになったとしても足利氏は新田氏を一支族として扱うことにおいて従来と変化はないであろうこと、
一、今、新田氏が源氏の嫡宗家として鎌倉幕府に味方すれば、東国の武士団の動揺はおさまるだろう。東国の武士が一丸となって、やがて攻め寄せて来る足利高氏を大将とする軍勢を撃破すれば、世の中はおさまり、再び平和はやって来ること、
一、その場合、新田氏は源氏嫡宗家として正式に認められるだけではなく、足利高氏の所領はことごとく与えられるであろう。
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諏訪入道時光はこのように説いた。安藤左衛門が時光の言を補足して、
「今、お館様が天皇方に味方をして、鎌倉幕府を倒したとしても、足利高氏がいる限り、源氏嫡流としての地位を復活することはできないでしょう。お館様は現在より悪い立場に置かれるようになるかもしれません。また天皇や公卿《くぎよう》たちは、武は武を以て制すという古来からの考え方によって、足利氏と新田氏とを戦わせることによって、その勢力を減殺せしめ、天皇親政を計ろうとするでしょう。こうなると戦乱はいよいよ拡大され、人々は迷惑するでしょう。そうあってはならないと思います。今ならば幕府と力を合わせて戦えば足利氏を亡ぼすことが可能です。お館様、よくよくお考え下さいませ。新田氏にとって、真の敵は足利氏です。足利氏の野望に加担されてはなりません。現在の幕府のやり方に御不満はあるでしょうが、この難関を越えさえすれば、幕府もまたよみがえるでしょう。そうでなければなりません。お館様、鎌倉幕府百年の基礎を根本から破壊することよりも、まず、建て直すことをお考え下さい」
安藤左衛門は終わりのほうは半ば訴えていた。
諏訪入道時光や安藤左衛門が発言中もしばしば庭の方から声が聞こえた。
「越後大井田の郷より大井田経隆、郎党二十五名を引きつれてただいま参上つかまつりました」
そのような勇ましい声が相継いだ。軍馬のいななきも聞こえた。多勢の人が隊伍を組んで歩く足音もした。館に早馬が出たり入ったりしている様子も明らかだった。
新田館は既に戦時態勢に入っていたのである。新田義貞は、膝《ひざ》の上に両手を置き二人の言うことをじっと聞いていた。外のあわただしさに較べて館の中は夜のように静かだった。
義貞は黙っていた。ほとんど発言せず、諏訪左衛門尉入道時光と安藤左衛門の言葉を聞いていた。考えている風であったが、感動の様子は認められなかった。
「お役目大儀であった。御使者殿の言われること何《いず》れも理があると思うが、今ここでそれではそのとおりに致しましょうとはお答えできない。お答えは、同族の者たちと相計らった上、しかるべき方法で……」
あとは濁した。それは体《てい》のいい拒絶だった。しかるべき方法とは戦争を意味していることは明らかだった。
「われらの申す条件に不満でもあろうか」
諏訪入道時光が言った。
「不満などござらぬ、勿体《もつたい》ないようなお話だと思う。ただ一つ、そこもと等のお考えの中に忘れられていることがある。それは目には見えぬ時の流れのことである。それは人力では抗《あらが》うことのできない強大な力を持っている。この流れにはなにびとといえども一度は流されねばならない。流されてから後のことはまたそこで考えるしかないと思う」
義貞は静かに言った。
「時の流れとな?」
入道時光は眼を大きく見開いて言った。
「さよう、時の流れでござる」
義貞は時光と視線を交した。
激しい視線のからみ合いであった。目と目の合戦であり、相手を組み伏せようとする心と心の格闘であった。二人はしばらくはそうしたままであったが、ややあって、時光のほうから視線をそらした。時光は敗北を意識した。
「使者としての用はこれにて終了した」
諏訪入道時光が言った。それと同時に安藤左衛門も肩を落として深い溜息《ためいき》をついた。
「では一献《いつこん》の用意を」
義貞は奥に向かって呼びかけた。席が変わり、酒肴の品々が出されたが、鎌倉よりの使者は二人共、それには手を出さなかった。
「お館様、義顕殿に会わせて貰うわけには参りませぬか」
安藤左衛門が言った。左衛門は孫の義顕に殿をつけて呼んだ。この席では未《いま》だに幕府の使者であった。
「ただいま参上いたしますほどに、今しばらくお待ち下され」
義貞は既にその準備をしていた。まず安藤左衛門の女《むすめ》、新田義顕の母の阿久利《あくり》が盛装して現われ、父左衛門に向かって挨拶した。諏訪入道時光にも深々と頭を下げた。
「元気のようで結構だのう……」
左衛門は女に向かって一言言っただけで涙を浮かべた。彼はこの時、再び阿久利とは会うことはないだろうと思った。左衛門が涙を浮かべると阿久利も涙を浮かべた。
「父上も御壮健の様子なによりと存じます……」
と後が言えなかった。女には戦争のことはなにひとつとして話されてはいなかったが、武将の妻は勘でそれを知っていた。父のいる鎌倉に夫が率いる大軍が間も無く攻めこむこともおおよそは察していたのである。
「義顕殿は幾つになられた」
「十八歳になりました」
阿久利は答えて父の顔を見上げた。生まれたばかりの義顕を抱いて、にこにこしていた父の姿をふと思い出すと、また涙が出た。
義顕が席に現れたとき一瞬しんとした。十八歳の義顕は六尺近い立派な武士になっていた。義貞より遥《はる》かに背は高く、母の阿久利に似て鼻筋が通り、目もとの涼しい若武者姿に安藤左衛門は思わず、
「これが義顕殿か?」
と言ったほどであった。義顕は太い声で、
「御祖父様には御尊健の由、大慶《たいけい》至極にございます」
と挨拶し、諏訪左衛門尉入道時光にも、ちゃんと挨拶をした。その義顕を見詰めながら、安藤左衛門は、
「義顕殿、近う参られい」
と呼んだ。義顕は左衛門に言われるままに、その前に座って、祖父の盃《さかずき》に酒をついだ。
「源氏の嫡流義顕殿から酒をついで貰うとは有難いことだ、長生きをした甲斐《かい》があるというものだ」
左衛門は、そんなことを言いながら、二、三杯盃を乾《ほ》したところで義顕に言った。
「近いうちに戦さが起きて、そなたが鎌倉に攻め込んで来るようなことになったら、真先にこの爺の首を狙えよ」
まだ酔ってはいなかった。酔っていないのに酔ったようなふりをして言ったその言葉に座に居る者は固唾《かたず》を飲んだ。
「もし、そうなったとしても御祖父様の白髪《しらが》首なぞ狙いはいたしません。私は相模守《さがみのかみ》殿の首以外は首などとは考えませぬ」
義顕は平気な顔でそう答えて置いて、
「御祖父様は戦乱に巻き込まれないように即刻退散することこそ本分とお考えめされるように」
と言ったのである。
なんと、左衛門は色を為して言った。
「ばかなことを申すな。わが安藤家は四代にわたって北条家に仕えて来た家柄である。主家が危急というのに身の安全など考えておられるか。そのような時には立派に働いて戦場の花と散るのが武士の習わしぞ。頭は白くなっても太刀を取れば義顕殿にはおくれは取らぬぞ、な、もしもの場合は、この安藤左衛門の首をそちの手で上げて貰いたい、そのように約束して貰いたいのじゃ」
左衛門は盃をそこに置き、義顕の手を取り、はらはらと涙を流して言った。義顕は困り果てた顔だった。
「安藤殿、戯《ざ》れごとが過ぎまするぞ、そのようなことにはならぬように我等は使者として参ったのだ。もうその話はなさらぬがよい」
入道時光はそう言いながら、義顕に、その場を去るように眼くばせをした。
「ところで新田庄殿、そこもとが鎌倉に来られた折に、愚息の円忠と会ったことがござろう、おぼえておられるかな」
「覚えています。その後京に行かれたとか」
「さよう、六波羅にずっと勤めておる。なにかの折に会うことでもあったら、よしなにな。くれぐれもお頼み申す」
急に暗くなった。雨が降り出したようだった。
元弘《げんこう》三年五月八日(太陽暦では六月二十八日)、新田義貞は一族の者およそ百五十騎を伴って金山城に登った。
金山城の本丸近くには新田氏の先祖新田義重を祭ってある新田神社があった。
義貞は新田神社の前で願文を読み上げた。
≪新田氏は源氏の嫡流でありながら、永い間、鎌倉幕府の下で一御家人としての待遇しか与えられずに、屈辱に耐え抜いて来た。しかし、今や、われ等は天皇の|綸旨《りんじ》を受け、関東の源氏一族を率いて立上がる機会を与えられた。これから鎌倉に向かって一気に攻め上り、北条氏を倒し積年の恨みを晴らすと共に、天皇親政の新政権の下で、新田氏こそ源氏の嫡宗家たるべき実を示したいと思っている。なにとぞわが一族の武運をお守り下さるよう伏して祈願奉る≫
という内容のものであった。
この日は梅雨の最中であるにもかかわらず、久しぶりに晴れていた。金山城山頂のあたりはさわやかな微風に木葉が揺れていた。祈願が終わると、義貞は、社殿の前の、日の池の周囲に一族の者を集め、神水を汲《く》んで墨をすり、奉紙に一人ずつその名を書いた。神水の誓の連署であった。署名が終わると、池の水を先祖伝来の金の大杯に汲み上げて一口ずつ廻し飲みをした。
「神水の誓は終わった。われら新田一族は死するとも心は同じである。いかなることがあっても味方を裏切ってはならない。如何《いか》なる苦境に落ち入ろうとも、苦難の道が如何ように長く続こうとも、新田一族は常に一団となって行動を共にしよう」
義貞は一段と高いところから一族の者に呼びかけた。義貞の呼びかけに応じて、一族の者は声を上げてこれにこたえた。
神水の誓が終わった一族は、金山城を降りると新田館の近くの生品《いくしな》神社の森へ急いだ。ここが新田義貞に心を寄せて来る者たちの集合場所に決められていた。既にそこには数百人の者が集まっていた。
義貞は生品神社の社前で、集まった者たちに綸旨を読み上げ、また義貞自らが起草した幕府打倒の願文を読み上げた。
新田義貞の挙兵はここに決まったのである。挙兵と同時に義貞は集まった一族や近隣の諸豪の編成に取り掛かった。それこそ義貞がもっとも気にしていたことであった。いかに人数が多く集まっても、その編成を整え、命令系統をはっきりしなければ、戦さには使えない烏合《うごう》の衆となるからであった。
義貞は幾人かの大将を決め、その下に、しかるべく将兵を配列した。新田一族の者で、津軽遠征の経験がある者や京都大番役の随行者の中から、何人かの将が選ばれて行った。馳《は》せ参じたけれど武器を持っていない者には武器が与えられ、食糧を持っていない者には食糧が分かち与えられた。新田館の周囲一帯は兵で埋まるほどの混雑ぶりを示した。
五月八日は梅雨の最中だった。午後になって曇り出し、夕刻ころ雨になった。その雨の中を越後、信濃、甲斐方面から、三十人、五十人という小部隊が次々と到着した。
新田義貞挙兵の前日には足利高氏、赤松|則村《のりむら》、千種忠顕《ちくさただあき》の連合軍が京都に攻め入って六波羅を包囲した。六波羅北庁探題北条仲時は、後伏見上皇、花園上皇、光厳《こうごん》天皇、皇太子康仁親王を奉じて近江《おうみ》に逃れたが、後に残って足利高氏等の軍と戦った南庁探題の北条|時益《ときます》は四条河原で、数倍の敵を向こうに廻して戦死した。
新田義貞が挙兵した翌日の五月九日には、近江に逃げていた光厳天皇の一行は後醍醐天皇派の武士に捕えられ、神器と共に保護された。そして、北条仲時等四百三十余名の武士たちは同日の夕刻伊吹|山麓《さんろく》の番場宿に追いつめられた。五辻兵部の指揮する二千余の兵は北条仲時等の周囲を包んで気勢を上げた。
仲時は郎党の中でもっとも武芸に勝《すぐ》れている関屋七郎と黒田次郎左衛門の二人を傍に呼んで、
「われ等はここで自刃をする。このような結果になったのは、わが一門でありながら、天下を横取りしようとして敵方についた足利高氏の野心によるものである。死しても尚《なお》、この恨みは忘れられるものではない。汝《なんじ》等はわれ等の死を見届けた上、鎌倉へ帰ってこの言葉をしかと伝えるように」
と、言い残して自刃して果てた。人々はこれに続いた。
関屋七郎と黒田次郎左衛門の二人は、仲時から鎌倉へ行けと言われたから、死ぬわけにも行かず、夜になって血路を開いて鎌倉に向かった。
駿河《するが》まで来たとき、僧衣の一団に会った。その中に、とても男とも思われぬような撫《な》で肩の僧が混じっていた。馬に乗った僧が数人で他の僧は徒《かち》であった。
黒田次郎左衛門が馬に乗った若い僧の一人に目をつけて言った。
「あれは確かに足利屋敷にいた足利高氏の長男竹若丸に違いない。とすればあの撫で肩の僧は男ではなく、男装した、足利高氏の側室けさの方ということになる」
黒田次郎左衛門は鎌倉から京都へ来たばかりであった。鎌倉にいたころは、何度か足利屋敷へ用務のため行ったことがあったので、竹若丸やけさの顔を知っていたのである。
「さては鎌倉からひそかに脱出して来たものと見える」
黒田次郎左衛門はそう言いながら年長の僧が乗った馬に近づき、物も言わずに引摺《ひきず》りおろして、
「何者なるや、姓名とその行く先を名乗れ」
と訊《き》いた。その答えは、黒田次郎左衛門の背後にいた僧から返って来た。僧は隠し持っていた短刀で黒田次郎左衛門を刺したのである。
それを見た関屋七郎は抜刀して、その僧を斬り、棒を振って防ごうとする他の僧等を斬った。関屋七郎は血達磨《ちだるま》になって斬って斬って斬りまくった。気が付いた時には僧衣の十三人はことごとく死んでいた。関屋七郎は、そのまま鎌倉に馳せ下って、北条仲時の最期を告げると同時に道中で起こったことを告げた。彼が斬った少年僧が竹若丸、男装した僧がけさ、そしてけさの兄の僧|良遍《りようへん》などの名がはっきりしたのは、その時のことであった。
鎌倉幕府は二人の使者を新田庄に送ったその夜から、鎌倉の新田屋敷を封鎖した。何人も許可なくして新田屋敷に出入りすることはできなくなった。新田屋敷の周囲には昼夜の別なく兵が立った。
矢島五郎丸は幕府から二人の使者が新田庄におもむくという通知を新田庄に早馬で送ったその日から、新田屋敷からの脱出を考えていた。
彼は前々からこのこともあろうかと、ひそかに抜け穴を掘っていた。屋敷内の奥の一部屋の床下から穴を掘り進めて、隣家の諏訪左衛門尉《すわさえもんのじよう》入道時光の物置の床下に通ずるようにしてあった。掘り取った土は、諏訪屋敷にある深井戸に投げ入れた。諏訪屋敷には井戸と自然に湧出《ゆうしゆつ》する清水《しみず》があった。もしも清水が出なくなった場合を考慮して井戸を掘ってあったのだが、その深井戸がこのような役に立つとは誰も知らなかった。新田屋敷から夜になると、一人、二人とこの抜け穴を通って、隣家の物置に移動し、ここで着替えてからそれぞれ落着き先へ出て行った。
新田屋敷には矢島五郎丸一人が残った。彼は各部屋に灯をつけて、いかにも人が居るように見せかけて置いて脱出した。
新田庄へやった使者が帰り、新田義貞が敵方に付くことが明らかとなってから、幕府の兵が新田屋敷に踏みこんだ時には誰も居なかった。
幕府は関八州の御家人のすべてに新田義貞討つべしの軍勢催促状を発した。だがそれらの豪族や武将の多くは、京都方面でなにが起こっているかをいち早く感じ取っていた。それに、彼等の多くは、綸旨か令旨《りようじ》のどちらかを貰っていた。天下の情勢が天皇方に有利になりそうだと見て、保身のために、わざわざ人を派遣して、綸旨や令旨を乞う者もいた。彼等は、どっちに付いても生き長らえることができるように、考えていたのであった。だが、中には北条氏の催促に素直に応じて、兵を率いて鎌倉にやって来る者もいた。
鎌倉は騒然とした。要所要所に柵《さく》が設けられ、塁が築かれ、堀が掘られた。
軍議が催された。
「鎌倉に敵を迎え討つよりも、新田義貞の出鼻を叩くことこそ最良の策である。どうせ烏合の衆だから、よく訓練された幕府の兵を向ければ、たちまち敗走するだろう」
というのが北条方の多くの将の楽観的な観測であった。
「いや新田義貞はさような愚将ではないぞ。烏合の衆を千軍万馬の強兵に変えることができるのは新田義貞だ。義貞は足利高氏よりも器量人であり、人扱いに馴れている」
と言った者がいた。一同の者はそちらに目をやった。京都で隠遁《いんとん》生活をしている筈の金沢|貞将《さだまさ》がそこに居た。彼は自分に集中する一族の目に答えて言った。
「人間は長生きばかりするのが能ではない。わが一族の浮沈の瀬戸際に黙って見ているわけにも行かない。拙者は新田義貞を向こうに廻して一戦やりたくなって出て参った」
貞将はそう言いながら中央に出て来て座った。
挙兵の日の夜、新田館には赤々と灯がともっていた。次々と訪問者があった。
篠塚《しのづか》龍斎が、龍杏、龍石、龍玄の三子を連れて義貞に面会を求めた。
「なに龍斎が参ったと、早うここに」
義貞は自ら立って行って龍斎を迎えた。龍斎は三子の介添えなくしては歩行不能になっていた。
「お館《やかた》様、いよいよ本願を達せられる日が目前に迫りました。爺は嬉しくて、嬉しく……」
龍斎は涙をこぼした。
義貞の幼年時代はこの龍斎に負うところが多かった。龍斎無くして義貞の存在は考えられないほどその影響力は大であった。その龍斎が姿を現したのである。義貞もまた懐しさでしばらくは言葉が出なかった。
「今は、なにごとも申し上げることはございません。ただ一言御身大事にとのみ申し上げ、私の名代として三人の息子どもを置いて参ります。この者たちは、医術にかけては私より遥かに勝れております。お館様はこれからは幾度か合戦をなされるでしょう。お館様自らが傷つくこともあるでしょうし、陣中医者は必要と存じます。どうぞ、お連れ下さいますように」
「武術の心得は?」
義貞は訊いた。三人の顔は医者よりも武士の顔付きだったから思わずその言葉が出たのであった。
「いささか馬をやり弓の心得があります」
と龍斎は控え目に言った。
「爺の子だから、そうであろうと思っていた。三人には爺の身代わりとして、常に傍に居って貰うことにしよう」
義貞は龍斎の手を取って言った。
龍斎が帰った後に、里見の郷から、安養寺|磬岳《けいがく》や義貞の傅役《ふやく》だった伯父の里見基秀がやって来た。
常陸国《ひたちのくに》からは小田宗知が来た。彼等は高齢で軍事行動を共にできないから、義貞を激励に来たのであった。
鎌倉を抜け出した、矢島五郎丸が顔を現した。彼は手短かに鎌倉の防備の大要を話したあとで言った。
「望《ぼう》の日までにはぜひ鎌倉へ攻め上るようにお願い申し上げます。望の日をお忘れなく」
そして矢島五郎丸は再び鎌倉へ帰って行った。新田軍を迎えるための工作があるからであった。
望とは満月の日のことである。十五日がこの日に当たる。
矢島五郎丸が望の日をお忘れなくと念を押したのは、その場にいた船田義昌も大館《おおたち》宗氏も聞いていたが、満月の夜に夜戦を行うように、矢島五郎丸は義貞に進言しているのだと思っていた。しかし、脇屋義助は、矢島五郎丸が望と言ったとき、おうと一声洩らした。義助は、望の日こそ、鎌倉に攻め入る鍵《かぎ》を握った日であることを知っていたのである。
義貞と義助は顔を見合わせて頷《うなず》き合った。
義貞は、先に鎌倉へやった、清水五郎、富沢小三郎の二人が漁夫に身を変えて稲村ヶ崎のあたりを歩いている姿を思い浮かべた。二人が砂に残した足跡が見えるようだった。
義貞はその夜遅くなって正室|美禰《みね》の方の小座を訪れた。先が知れない戦さの旅であった。ひとたびこの館を出たら何時《いつ》帰れるか分からない旅立ちの前夜であったが、美禰はことさら別れを惜しむようなことは言わなかった。彼女は平常といささかも変わらぬように振舞っていた。
(武士の妻は夫の出陣に際して涙を見せてはならぬ――それは不吉に通ずるものであるから、如何なることがあっても、そのようなことをしてはならぬ)
と彼女は子供のころから固く教えられていたからであった。義貞はただひたすらに夫婦の営みをのみ深く尽くした。そして彼は小座でしばらくまどろんでから、夜が明ける前までには小座を離れて阿久利の部屋を訪れていた。阿久利は灯火を消さずに彼の来るのを待っていた。朝までのひとときが、二人だけで心置きなく過されている間中、阿久利もまた別れの悲しみを口には出さなかった。義貞には彼女等の気持ちが分かりすぎるほど分かっていたから、かえって哀れに思われてならなかった。
義貞が阿久利の部屋を出たときには、もう夜は明けていた。
彼は具足を身につけ、牀机《しようぎ》に腰かけて朝粥《あさがゆ》を食べた。
館の庭には続々と一族の者が参集した。義貞は館の広場をゆっくり横断して北西の角地にある人呼びの岡の上に立った。このような場合のために、その一角だけ盛り土をしてあった。
彼はまさに昇ろうとする太陽に向かう気持ちで叫んだ。
「源氏の嫡流新田小太郎義貞は綸旨をいただき、これより鎌倉に駈け向かい、北条相模守高時殿の御首を頂戴つかまつらん。ここに集まりたる一族は、いかなることがあろうとも離れまいぞ、死すも生きるも、一族一体と心得、頭領たるこの義貞に命を預けたまえ、われ等の進路を遮《さえぎ》る者あらばしりぞけ、われ等に与《くみ》する者あれば、共に戦わん。新田一族よいざ行かん」
義貞は弓を高々と空に挙げて、えい、えい、おうの声を上げた。一族一斉に合声した。
館の外には郎党たちがひしめき合っていた。各大将が軍をまとめ、かねて指示された順序に従って南に向かって歩き出した。
馬に乗った義貞の兜《かぶと》に朝日が当たって輝いていた。彼は馬上で采配《さいはい》を振った。法螺《ほら》が鳴り轟《とどろ》いた。義貞は、別離の情にそむくように胸をそらせた。
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足利高氏が鎌倉を出発して京都に向かった日付けははっきりしていないが、元弘三年(一三三三年)の三月のうちに出たことは明らかであった。
京都の洛外《らくがい》には赤松則村の軍が迫っているし、山陰地方からは千種忠顕の軍が攻め上って来るというのだから、幕府が足利高氏にかけていた期待はすこぶる大きかったのだが、その途中の動静ではっきりしているのは、足利氏の領地の三河へ立寄って吉良《きら》、細川等と会っていることぐらいである。おっとり刀で京都に馳せ参じるという姿勢ではなかったらしい。
大ざっぱに考えて三月末日に鎌倉を出発し、ゆっくり歩いて四月二十日に京都に着いたとしても、それから九日間、高氏はなにをしていたのであろうか。私は高氏が挙兵する前の躊躇《ちゆうちよ》は人質に取られている千寿王の身の上を考えての行動だと思う。その千寿王が、厳重な幕府の監視の中を、どうして抜け出たかもまた疑問である。
太平記によると、千寿王は鎌倉の大蔵谷《おおくらのやつ》を遁《のが》れ出てから行方不明になったので鎌倉中が大騒ぎになったと書いてある。そして千寿王が姿を現したのは義貞が挙兵したその翌日の五月九日である。
義貞の率いる軍が武蔵国《むさしのくに》に入ると、紀の五左衛門という男が二百騎を率い、千寿王を奉じて新田義貞の軍に加わったと書いてある。
私は千寿王の隠れ家を新田庄の岩松館ではないかと推理した。当時とすれば、ここが一番安全であったと考えられる。
新田義貞挙兵の地は、太平記及び『神明鏡《しんめいかがみ》』によると五月八日、生品神社ということになっている。この両書は史書として余り高く評価されてはいないが、その後の義貞の足取りから見て、まず間違いないであろうということになっている。太平記に拠ると、五月八日の午前六時に生品神社の社前で旗挙げした時には、大館、堀口、岩松、里見、脇屋、江田、桃井等の新田一族百五十騎だったが、その日の暮れ方には武装した兵団二千騎(太平記の人数は誇大過ぎて信用できない)が参着した。それは越後国にいる新田氏一族の里見、鳥山、田中、大井田、羽川《はねかわ》等の軍勢だった。天狗《てんぐ》山伏が挙兵のことを知らせに行ったので急ぎ出動したと書いてある。
おそらく新田義貞は生品神社で公式の挙兵の儀式を取り行ったであろう。しかしその前に、一族が旗挙げの決心をして、これを先祖に報告すべき、何等かの段取りがあったように考えられる。私は、すばらしい眺望に恵まれた金山|城址《じようし》の頂上近くにあって板状節理の岩の間から滾々《こんこん》と湧《わ》き出る水をたたえた日の池を見逃がすことができなかった。
私は戦前(昭和十四年の夏)、雷雨観測のため、一カ月間、生品神社社務所を借りて滞在した。その当時は、神主も居て、よく整備されていたが、現在の社殿及び境内は荒れ果てた感じだった。ここを訪れる人は稀《ま》れのようである。
境内に枯死した櫟《くぬぎ》(櫪)の大木の根と幹の一部が残されていた。この木に高々と、新田氏の大中黒の旗が挙げられたということであった。ここから反町館《そりまちやかた》跡(新田館)までは歩いて十二、三分ほどである。義貞が生品神社を旗挙げの地として選んだのは当然のことのように考えられる。
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分倍河原《ぶばいがわら》の合戦
元弘三年(一三三三年)五月九日を太陽暦に直すと、六月二十九日に当たる。梅雨の最中であった。利根川はかなり増水していたが、舟と舟を繋《つな》ぎ止めて掛け渡した橋を伝わって、新田軍は武蔵国に入って行った。
新田軍を防ぐには、この利根川の船橋を切って落とすことが最良の方法だった。幕府は当然、そのことを考えて、万が一の場合は、船橋を切り落として、交通を遮断《しやだん》するように地頭の高島近江《たかしまおうみ》に早馬を以《もつ》て厳命してあった。
新田軍がそれに対して手を打たない筈はなかった。新田一族の桃井《もものい》三郎光義が、旗挙げの日に兵を率いて利根川を渡り、対岸の船橋の繋ぎ場を押えると同時に、新田義貞の親書をたずさえて地頭に面会を求めて協力を依頼した。地頭の高島近江は、千人の兵が明朝、船橋を渡って、武蔵に入ると聞いただけで仰天した。抗《あらが》っても駄目なら相手の言うことを聞くしかなかった。高島近江は新田義貞の味方につくことを承知した。
高島近江が味方についたとなると、利根川近くに住んでいる新田一族の世良田《せらだ》、田中、江田、得川《とくがわ》、堀口、大館の諸豪から、対岸の武蔵国の豪族に次々と使者が送られた。
使者は、新田義貞が綸旨《りんじ》を受けて挙兵したこと、足利高氏も天皇に味方して兵を挙げ、京都六波羅に向かって攻めこんでいることなどを語り、今となっては天皇方に味方したほうが有利であることを説いて廻った。
諸豪族は綸旨、令旨が乱れ飛ぶ中に、なにか不安な気持ちでいた。何《いず》れどっちかの味方につかねばならないと考えていた時のことであった。彼等は源氏嫡流の新田義貞が総大将となって鎌倉に攻めこむというならば、その軍勢に加わるのも悪くはないと思った。その夜、新田義貞からの誘いを受けた豪族等は各族別に寄り合って話し合いをした。答えは決まっていた。一族を半分ずつに分け、半分は新田方に従い、あとの半分は鎌倉に忠誠を尽くすと称して、郷土に止《とど》まることに決めた。先祖伝来の知恵であった。このような場合は、必ず一族を二つに分け、どっちかが生き残ることを考えた。生き残った方が、悪い籤《くじ》を引いた方の面倒を見てやるという固い約束のもとに為されたのである。この習慣は封建時代を通じて行われていた。
新田義貞挙兵の知らせは関八州の武士団を動揺させ、武蔵国の諸豪のうち五分の一は一夜にして新田氏に味方しようという気になったのである。時代の流れであった。
新田義貞が利根川を渡り終わって、鎌倉街道に向かって南下を始めると、二十人、三十人の郎党を率いた豪族が続々と味方に参加した。義貞は彼等を、新田一族を長とする部隊に加えて行った。
(軍はいくらでも肥って行く、だがこの統制をどのように取ったらよいであろうか)
義貞は、集まって来た部隊を烏合《うごう》の衆とさせないためにはどうしたらよいか、それのみが気がかりであった。戦さは数で決まるものではない。質である。質のよい者を集めて有効に使えば、二倍も三倍もの力が出せる。義貞は考え続けていた。
義貞は進軍に当たって、部隊を別表のように編成した。
右軍
大将 江田行義
脇将 世良田義政
前軍    本陣     後軍
大将 堀口貞満  総大将 新田義貞  大将 大井田経隆
脇将 大島義政   脇将 脇屋義助  脇将 羽川時房
軍監 船田義昌
左軍
大将 大館宗氏
脇将 里見義胤
大将と脇将のすべては新田一族をこれに当て、各軍に、新田一族及び加勢に参加した将兵を加えたのである。前軍に軍監船田義昌を置いたのは、前軍は新田軍の触角とも言うべき部隊であったからである。進軍路、敵情などを探りながらの前進は容易なことではなかった。前軍の大将に堀口|貞満《さだみつ》を当てたのは、貞満が一族の中では智将と目される武将であったからである。彼は書を読むと同時に、自らも実践する型の男だった。特に地理についての知識があった。武蔵国も何度か歩いたことがあった。川や海についての知識も豊富であった。弓の達人だったが実戦の経験が無いから、船田義昌を軍監として付けたのであった。
新田軍が前進を開始すると同時に義貞は本陣から伝騎を各軍に走らせて命令を伝えた。後軍の大将、大井田経隆に命じて、後軍を右軍、左軍の二隊に分け、至急前軍の線まで出て並び進むように命じたり、その一|刻《とき》後には後軍を再びもとの位置に戻したりした。右軍、左軍にも絶えず命令を発して、独自に大物見を出して本陣に報告させたり、前進したり、後退したり、両翼に展開させた。行進中にこのようなことをするのは、煩わしいことであったが、これは訓練であった。こういうことを繰り返すことによって各軍のまとまりをよくするようにしたのである。各軍は各豪族の首領を頭とした組を作った。大きな組は更に幾つかの組に分かれ、これ等を組頭が指揮していた。
「千寿王殿の輿《こし》を本陣に置くようにお願いしたい」
と岩松政経が申し出て来たのは、新田軍の軍編成が終わり、行軍が開始されてすぐであった。千寿王の輿はそれまで岩松一族に守られて、後軍大将の大井田経隆の軍の中にあった。
「なぜ、本陣に置かねばならないのだ」
という義貞に対して、
「足利氏と新田氏とが同陣にて、鎌倉を攻めるということを人々に示せば、更に多くの軍勢が集まるだろう」
と政経は言った。
「その必要はない。放《ほう》って置いても味方はいくらでも集まって来る。だいたい幼児などを戦争に担ぎ出して人気を得ようなどという姑息《こそく》な策は昔のことはいざ知らず、今の時代には通用しない。政経殿は千寿王殿を奉じて、岩松の郷に帰って、やがて迎えの輿が行くまでじっとしておられたらいいのではないかな。正直なことを申すと、それがしには千寿王殿の従軍はまことに迷惑である。これから合戦になれば、矢は何処《どこ》からでも飛んで来る。もし千寿王殿の身に間違いでもあったら、高氏殿にどう釈明したらよいか分からない」
義貞は千寿王を本陣に入れることを拒んだ。
五月九日、鎌倉では終日軍議が開かれていた。新田義貞の軍をどのようにして討ち亡ぼすかという軍議であった。五月八日に旗挙げした当時は、せいぜい五百か千の兵力であった。鎌倉では、その兵力でまさか鎌倉さして攻め上って来るとは考えてもいないことだった。鎌倉で恐れていることは、第二、第三の義貞が出現することであった。そうなってはならないから早急に新田義貞の軍を平らげねばならない、それにはどうしたらよいかというのが議題だった。
金沢貞将は、
「新田義貞という人物は京都において、見知っている。彼は大番役時代に、数々の手柄を挙げている。会って見ると並々ならぬ器量をそなえた武将に思われた。彼が倒幕の旗を挙げて総大将となれば、たちまちにして、容易ならざる勢力になると思う。幕府は鎌倉を空《から》にしてもいいから、全兵力を挙げて、新田義貞の軍に当たり、これを討ち亡ぼすべきである」
と主張した。
「鎌倉を空にしてもいいとはどういうことか」
長崎|高資《たかすけ》が質問した。
「言ったとおりのこと、せいぜい千人ほどの心利いたるものを鎌倉に残し、他はすべて一団として新田義貞の軍に当てるべきである」
と貞将は言った。
「五千の兵を以て僅か千の兵に駈け向かえというのか、そんな戦略がどこにある」
と言ったのは大仏貞直であった。
「戦略のどうこうを言っているのではなく、幕府の危急を救うには、この際、新田義貞等を殲滅《せんめつ》する以外に方法はないと言っているのだ」
貞将はかなり激しい口調で言った。
しかし、この時点では、まだ六波羅が亡び南庁探題、北庁探題共に討死したという情報は鎌倉に入ってはいなかった。彼等は、六波羅は尚健闘を続け天皇方の軍を支えて善戦しているものと考えていた。
鎌倉防衛なぞ考えず、鎌倉幕府の命によって召集し得る全軍を以て新田義貞に当たるべしという貞将の論は、この場では終《つい》に受入れられなかった。
長崎高資や赤橋(北条)守時等は鎌倉を空にすることに不安を感じた。結局は、新田義貞が千人の兵を率いて来るならば、その二倍の二千の兵を以て撃破しようというもっとも平凡で常識的な議論が通った。
総大将桜田貞国、右大将長崎高重、左大将長崎孫四郎、左大将の脇将加治左衛門入道等が率いる合計二千の兵が新田義貞を邀撃《ようげき》するためにさし向けられることに決まったのは九日の午後であった。金沢貞将は、上総《かずさ》、下総《しもうさ》方面に出かけて、少なくとも、二千か三千の兵を集め、新田義貞に呼応しようとする者に圧力をかけ、軍勢が整ったところで新田義貞の背後を衝くことになった。要するに金沢貞将はこの戦いからは外されたのである。
金沢貞将は外に出た。庭の紫陽花《あじさい》が彼の目にはいつになく淋しく映った。
新田義貞は十日の夕刻、矢島五郎丸の使の者によってその後の敵情を知った。総大将桜田貞国が率いるおよそ二千の敵は鎌倉を十日の早朝に出発して、一路鎌倉街道を北上して来るということであった。
「京都へ派遣するため集めて置いた兵を急遽《きゆうきよ》、この方面へ向けることになったということでございます」
早馬に乗って来たのは里見二十五騎の一人樋口弥太郎であった。樋口は報告を終わると鎌倉方面に向かって駈け去った。早速、軍議が開かれた。
「十日早朝に鎌倉を出発したとすれば、敵の先頭部隊はそろそろ武蔵府中あたりに来ている筈だ」
と義貞は言った。小さな社《やしろ》が本陣となって、そこに各大将が集まっていた。
絵図面が床に拡げられていた。
「鎌倉から府中までは直線距離で十里はある。平坦な道だから、鎌倉から急げば一日で来ることができる。だが敵は空身《からみ》ではないし、特に急ぐことはない。合戦のためには兵を疲労させてはならないと考えれば、十日、十一日と二日歩いて部隊全部が武蔵国の府中に達するのは十一日の夕刻と見るべきであろう」
と堀口貞満が言った。
「すると、敵の物見が現れるのは明朝あたりということになるか」
と右軍大将江田行義が言った。
「いや既に現れている。それらしい者を見掛けたという報告がさきほどあった」
と左軍大将の大館宗氏が言った。
「敵の物見を捕えたら殺すな、生捕りにして連れて来て敵情を吐かせるのだ」
義貞が言った。
義貞は、矢島五郎丸が五月十五日までに、鎌倉へ攻めこめと言った言葉が頭の中にあったが、鎌倉へ急ぐことより緒戦の勝利を大事に考えていた。緒戦に勝てば諸豪はこぞって味方に付くであろうが、そうでなかった場合はたいへんなことになる。
義貞は次々と参陣する兵を各軍に配分して、軍団としての動きができるように組織しつつ、敵に近づこうとしていた。ただの烏合の衆では、鎌倉軍には敵《かな》わないと思っていた。相手が二千、こちらは千余ということになると数においても不利であった。そこをどのようにして補うかが問題だった。
十一日に入っても義貞は軍の位置を変える訓練を止《や》めなかった。後軍を前軍の前に出したり、一気に前軍と後軍を交替させたり、右軍と左軍を入れ替えるような、軍の関係位置移動の訓練と物見を出す訓練を続けさせていた。はじめ軍兵たちはなぜそのようなことをするのかいぶかっていたが、やがて、合戦となった場合に、敏速に動くための練習だということに気がつくと、文句を言わなくなった。
新田軍は十一日の夕刻近くになって入間川《いるまがわ》のほとりについた。その間際に、前軍の堀口貞満の軍によって、敵の物見が一人捕われた。捕虜は本陣に連れて来られた。一筋縄では口を割らないような面魂をした男だった。
義貞は、男を本陣に連れて来て、その場に座らせると、堀口貞満に訊問《じんもん》を命じた。貞満はまず男の名前を訊いた。男は答えなかった。
「捕われの身になったのを恥じて、名を告げずに死のうと決心したのであろう。天晴《あつぱ》れなことだ。だが、それでは犬死にになる。なぜならば名が残らないからだ。望みどおり、首は打ち落とすが、そちの亡骸《なきがら》のあたりにはちゃんとした板碑《いたひ》を立ててやりたい。名を名乗りなされい」
と言った。武士は貞満の思いやりのある言葉に動かされて、
「横山六郎七郎なり」
と答えた。すると貞満は、身体《からだ》を乗出すようにして、
「武蔵七党の横山の一族か」
と声を高くして訊いた。武士は頷いた。貞満は家来に横山六郎七郎の縄を解くように命じた。武士は突然縄を解かれたので呆然として貞満の顔を見守っていた。
「武蔵七党の横山と名乗る者ならば、名誉の家に生まれた者である。横山党は小野篁《おののたかむら》より出た名家で、横山氏の祖、横山孝泰は武蔵守となった人である。武蔵七党は横山、猪俣《いのまた》、児玉、丹、西、野与《のよ》、村山の七党から成っている。筆頭は横山氏である」
堀口貞満は横山六郎七郎の訊問はひとまず止めて、武蔵七党の故事来歴から横山氏の歴史を述べ、更には貞満の知人の横山三郎兵衛の名前まで挙げてから、
「武蔵七党ならば、おのれの行動に責任を持つべきである。われらは天皇の綸旨によって、北条氏を討ち亡ぼそうと旗を挙げたのである。そのわれ等に武蔵七党が刃向かうということになると、逆賊の汚名を着せられることになる。名誉ある武蔵七党の名は逆賊の名によって永久に汚されることになるのだぞ」
そう言われると横山六郎七郎は答えようがなかった。彼もまた、令旨、綸旨の乱れ飛んでいる現状を知っていた。しかし、頭から逆賊と決めつけられると、なにか心臓のあたりに短刀をさしつけられたような気がした。そのしおれ返った横山六郎七郎を横目で見ながら堀口貞満は義貞の前に手をついて言った。
「お館様、お聞きのとおり、この者は武蔵七党の横山氏に属する者に相違ございません。遠く系図をたどればわが源氏とも近い家柄です。この者に綸旨を拝させ、もしできまするならば、御教書を賜るよう御配慮のほど願い上げます」
それは貞満の演技であったが、横山六郎七郎には演技には見えなかった。
義貞は、貞満の心を知ると、すぐそれに合わせるように、
「武蔵七党の横山六郎七郎とやら、そちに誠の心あればこの綸旨を拝し、わが御教書を受けて、天皇方に味方せよ。後日の恩賞は、この新田義貞が責任を持ってその役を果たすであろうぞ」
義貞は綸旨を家来によって読み上げさせた上、その場で、綸旨を受けて挙兵した新田義貞のもとに参加することを求める、自筆の御教書を横山党の頭領、横山太郎孝宣宛に書き上げて、横山六郎七郎に渡した。六郎七郎はそれを押し頂くと、
「この六郎七郎の命にかけて、横山党を初めとして武蔵七党をお味方に誘いこみます」
と言い残して、本陣を出て行った。
十一日の夕刻、新田軍は入間川の岸辺に陣を張り、鎌倉軍は多摩川のほとりにあって双方が物見を出して敵情を探り合った。
「物見の報告によると、新田軍は総勢千二百か三百、わがほうは二千、明朝は一気に押しかけて勝敗のかたをつけよう」
と鎌倉軍の総大将桜田貞国が言った。
それに対して右軍大将長崎高重も左軍の大将長崎孫四郎も共に賛成したが、
「気がかりなことがございます」
と脇将の加治左衛門入道が言った。
「何が気がかりなのだ」
と問う貞国に対して、
「私は御存知のように、武蔵七党の一族丹党の出身でございます。この地方の出身ですから、脇将としてこの戦さに参加いたしました。私がいるからには武蔵七党はことごとく、わが軍に味方するものと思って参りましたが、出て来た者は僅かに二十人ほどでございます。私が心配しているのは、そのように躊躇している武蔵七党の主力の動向です」
加治左衛門入道はいかにも心配そうな顔で言った。
「心配ならば、人をやって直ちに参陣するように言ってやればよいだろう。もしいやというなら兵を向ければいい」
と長崎高重は言ったが、その言い過ぎに気がつくと、
「まあ、明日の朝まで様子を見よう。それからにしてはどうか」
と言った。加治左衛門入道は浮かぬ顔をして黙ってしまった。
その夜は激しい雨があった。両軍とも、民家や、木の下や物かげなどに身をかくして一夜を明かした。
朝になっても、雨はまだ上がってはいなかった。その雨の中を、十騎、二十騎と馬を連れて、入間川のほとりにいる義貞の陣に参着する者があった。武蔵七党であった。その数およそ三百五十騎であった。
武蔵七党が一夜のうちに新田義貞の方へついてしまったという報は、分倍河原《ぶばいがわら》のあたりに陣を張っている桜田貞国の気持ちを滅入《めい》らせた。両軍の兵力がほぼ同数になって来たからであった。しかし、桜田貞国のその憂いはつかの間に消えた。その朝、鎌倉軍には、予期しない応援軍が到着したのである。
北条泰家(北条高時の弟)が自ら大将となって、およそ千名ほどの軍隊をつれて参着したのである。鎌倉軍の意気は大いに上がった。六波羅の悲報が早馬で鎌倉に知らされたので、北条泰家は事態が容易ならないことを知った。この際、なにがなんでも新田義貞の軍を破って、幕府の実力を世間に示さない限り、鎌倉幕府はこのまま崩壊するに違いないと思ったからである。
鎌倉軍に新手が加わったことは物見によって新田軍に知らされた。だが、その時、新田軍は入間川を越えて、小手指原《こてさしばら》の台地に進出しようとしていた。鎌倉軍と一戦する場所としてこの原の存在を義貞は強く意識の底に入れていた。彼は先に出て行って味方に有利な陣地を占領しようとしたのである。
「敵側はおよそ、千人ほど増援された」
と聞いたとき、義貞は一瞬はっとした。
小手指原の丘陵は現在|狭山《さやま》丘陵地帯と呼ばれる台地のほぼ中心にあった。海抜百メートルから高くて百六、七十メートルの丘陵が拡がっていた。
鎌倉街道がこの近くを通っているから、合戦の場としてここが選ばれたのであろう。
新田軍は元弘三年(一三三三年)五月十二日の朝、小手指原の北部に陣を張った。鎌倉軍は南部に陣を張ろうとして、出て来たものの、新田軍が既に陣容を整えているので、その前に出て行くのは不利と見て、久米川《くめがわ》の線に一応部隊を集結して物見を出した。
双方からの物見隊が小手指原で衝突した。物見は敵情を偵察するのが任務であって、戦うのが本分ではないと、言いきかされて出て行っても、情況|如何《いかん》によっては死闘をせざるを得なくなる場合があった。鎌倉軍、新田軍共に大合戦の経験はなかった。両軍合わせて、四千人以上が鎬《しのぎ》をけずって争うなどという合戦は経験したことはなかったから、双方とも敵を前にして昂奮《こうふん》していた。
大物見とは五十人以上の兵力を持ち、大将が指揮する物見であった。ただの物見と言われるのは単騎から数騎までであった。
物見が目的を達するには小人数の方がいいが、或る程度、敵に近寄らないと、敵情がはっきり分からないような場合は、威力偵察を試みる必要があった。武力で敵の前哨《ぜんしよう》を排除して敵陣に近寄るという方法だった。
最初のころは両軍とも小人数の物見を放ったが、そういう物見が敵の物見に発見されると包囲されて殺されたり、捕われたりする場合が多いので、双方とも次第に大物見を出すようになった。
義貞は各軍に対して、戦さに馴れさせるために物見を出す回数を多くさせた。生まれて初めてこのような場に来た兵で、敵の姿を見ただけで逃げ帰って来るような者も稀れにはあるし、敵の姿を見ると、敵味方の人数も比較せずに、無我夢中で突進して行く者もいた。すべて戦闘未経験から来る、精神的緊張がなせる業であった。
十二日は小手指原における、物見と物見の前哨戦ともいうべき小競合《こぜりあ》いで終わった。
新田軍はその夜|堀金《ほりがね》まで退いた。堀金には「まいまい井戸」があったからである。まいまい井戸とは摺《す》り鉢《ばち》状の地形の底に水が湧き出る井戸でらせん状に作られた道を通って下に降り、水を汲み取る方式の井戸であった。
摺り鉢の直径は十三間深さ五間ほどあった。軍を休めるには水が必要だった。入間川まで後退するか堀金で止まるかは、明日の作戦にも影響するのである。入間川は遠すぎた。
その日一日の戦果が本陣から発表された。
「味方の戦死者十名、負傷者十八名、敵の首二十一、負傷者多数」
味方の戦死者の氏名も各部隊に発表された。
「今日の戦いはわが方の勝ちだ」
「敵は弱いぞ」
などと言う者があった。篝火《かがりび》が一夜燃え続けていた。
十二日の小競合いと物見合戦によって双方共に敵情を知った。
新田軍は千七百人、鎌倉軍は三千人に近い数であった。
十三日は曇り空であった。
鎌倉軍の出撃に先立って、脇将加治左衛門入道は大将桜田貞国と一緒に、新たに総大将となった北条泰家のところに伺候して言った。
「このまま時を過ごしていると、新田軍には次々と加勢が加わって面倒なことになります。今のうち徹底的に叩いておくべきだと思います。どうか、全軍にこのことを告げて、今日こそは決死の覚悟で戦場に臨むよう御下知くだされるように」
泰家もその意見に賛成だった。
「なにかよい策があれば申してみよ」
という問いに対して、左衛門入道は声を強めて言った。
「昨十二日の小競合いで、敵のおおよその実力が分かりました。もともと寄り合いの軍隊ですから、全体としての統一に欠けています。そこのところを突けばわが軍の勝利は間違いないと思います」
左衛門入道はそう前置きして更にこまかい点について説明した。
「わが軍は敵に対して倍の兵力を持っています。数においては絶対に優勢です。この数の力を有効にするために、わが部隊に、本日相手となるべき敵をはっきり決めてかかればよいと思います。たとえば桜田隊は敵の左軍、大館宗氏の隊に当たります。丁度兵力にして倍ありますから、戦っている間には必ずわが方が勝ちます。桜田隊は、大館隊のみを目標によそ見せずに戦います。味方の応援も受けないし、応援にもでかけない。ただひたすら大館隊と戦います。同様に長崎隊は敵の右軍江田行義隊と戦い、総大将北条泰家様は、敵の総大将新田義貞の軍と全力を挙げて戦っていただきたいと思います。脇目もふらず、ただひたすらに」
左衛門入道はそれを繰返した。北条泰家はこの策を取り上げ、全軍にこのことを固く命令した。
大将の中には、戦う相手を決めて、脇目もふらず、ただひたすらに戦えという命令に、
「こんな戦争があるのか、総大将は策略という言葉を忘れてしまわれたようだ」
と言う者もいた。
この日、辰《たつ》の刻(午前八時)ころから矢合わせが始まった。と同時に鎌倉軍は、それぞれ与えられた相手を求めて、脇目もふらずに戦った。
新田軍にとっては全く意外であった。鎌倉軍は目の前で広く展開して、それぞれ戦う相手を決めて攻め寄せて来た。あっという間にそのようになってしまったのである。こうなると防ぐのがせいいっぱいで、いつの間にか、各隊とも押され気味になって行った。二対一の兵力だからどうしようもないのである。午後になると、勝負は決定的なものになった。
そのころになって曇り空が雨になった。梅雨末期の豪雨である。合戦は中止された。新田軍は豪雨の中を堀金まで引き、更に入間川に向かって退いた。雨に濡れながら義貞は、まともに戦えば、数において劣っている方が必ず負けるという常識通りの合戦をやった自分を激しく責めていた。
十三日の合戦では新田軍は二百五十名に上る死者を出した。相手にもそれに近い損害を与えたけれど、これだけの死者と、それに倍する負傷者をかかえてはそれ以上合戦を続けることは不可能だった。
義貞は夜明けと共に攻め寄せて来る敵軍をとても食い止めることはできないとみて、入間川の船橋を渡った。入間川は見る見るうちに増水した。雷鳴が轟いた。
新田軍は将兵を休ませ、負傷者に手当てをした。医師の篠崎龍杏、龍石、龍玄の三人が飛び廻っていた。
雨の中を物見が帰って来た。
「鎌倉軍は多摩川方面に向かって退いております」
「退いた?」
義貞は自分の耳を疑った。勝った鎌倉軍がなぜ追撃せずに退いたのか、分からなかった。
次々物見が帰って来た。最後に帰って来た里見二十五騎の一人の長壁源太が言った。
「敵は府中まで引きました。おそらく彼等は府中の民家や寺などを今宵《こよい》の宿とするでしょう」
と報告した。
「なぜ多摩川べりまで退いたのだ、何か思い当たることがあるか」
と義貞が直接長壁源太に訊いた。
「私が鎌倉軍にもぐりこんで耳にした兵たちの話によると、総大将の北条泰家様は今日の戦勝にすこぶる気をよくされ、明日の攻撃に備えて英気を養うと称して、府中に帰られた様子です。久米川のあたりにはゆっくり休養できるようなところはないし、それにこの雨です。全軍が雨に濡れてふるえています。なにしろ御大将は戦争など経験なされたことはないし、野宿などこのたびが初めてというお方ですから、二日も三日も雨に打たれての野宿は身にこたえたのでございましょう。他の大将たちが止めるのも聞かずに、そうなされたということでございます」
長壁源太は言った。
「その戦さ知らずの泰家がなぜ今日のような見事な下知《げち》振りをしたのか、誰かしかるべき者が側近に居ったのか」
と訊くと、長壁源太は答えて言った。
「大将桜田貞国の脇将に加治左衛門入道と申されるお方が居ります。その人は武蔵七党の出であって、このあたりの地理にくわしいし、戦さのかけ引きにも勝れた見識を持った人と言われております。おそらくはその人の策かと思います」
「加治左衛門入道とな」
義貞は言った。敵にも人はいるのだと思った。しかし、その加治が居ても、ほんとうの勝ちを得ることができないようになったのが今の鎌倉幕府だと思った。
義貞は雨の降る中を各陣を廻って歩いた。
「物見の報告によると、敵は府中まで退いたぞ、今日の戦いで味方の死傷も多かったが、敵はわが軍よりもはるかに多い損害を受けた。本日の戦いは、勝ちとまでは行かなかったが、五分五分であった」
敵が府中まで退いたことはほんとうだったが、他《ほか》のことは、将兵をはげますための、つくりごとだった。そんなことを言いながら義貞はなんとかして前途に活路を見出《みいだ》そうとしていた。
義貞は大将、脇将を集めて軍議を開いた。
「雨が止んだら、一気におし出し、戦勝に酔いしれている敵軍に夜討ちを掛けよう」
と言ったのは大館宗氏であった。
「ここから府中までは五里もある。夜中の行軍を疲労|困憊《こんぱい》している兵に強いるのは無理だ。今宵は兵等を休ませ、明日になれば、また味方も増えるだろうから、陣容を立て直して、押出して行くべきである」
と言ったのは堀口貞満だった。
堀口貞満に同調する者が多かったが、なにかもう一つ盛り上がりのない軍議であった。やはり、この日(十三日)の敗戦の意識が各大将の気持ちを滅入らせていたのである。その沈滞した空気の中で、
「私に策がございます」
と大きな声で言った者があった。武蔵七党の頭領、横山太郎孝宣であった。彼は小男であったが、乗馬にかけては全軍随一とも思われるほどたくみであった。この日の合戦にも武蔵七党を率いて善戦した。
「その策は?」
と義貞が訊くと横山孝宣は、身体には似合わぬ大きな声で言った。
「総大将の新田庄殿は、今日の戦さは五分の戦果だったと言って、兵等をはげまされたが、私の目には明らかに負けだと思われます。豪雨によって救われたものの、もし、雨にならなかったら味方は総崩れとなったかもしれません。今日の戦さははっきり言って負けです。私の目に負けと見えるからには敵には大勝利と見えるでしょう」
横山孝宣は味方が負けたことをまず強調してから、彼の策について語った。
「敵は、負けたわが軍のその後の動向を気にして、明日の朝になれば、次々と物見を寄こすでしょう。そしてわが軍が今宵のうちに陣を払って、それぞれの郷所に向かって落ちて行ったと聞けば、それこそ戦勝気分に浸り、警戒をおこたるでしょう。われ等が逆襲して敵を討つのはまさにその折です」
と孝宣は言った。
「陣を払って落ちるというのは?」
という義貞の質問に対して孝宣は、
「このあたりの地理はわが武蔵七党の者がよく存じております。千五百の味方の軍を五つに分かつとすれば一軍は三百人ずつになります。三百人ぐらいの人間を隠すことはなんでもございません、軍と軍との連絡は馬がつとめます。また、わが手の者によって、この付近一帯に新田軍は小手指原の合戦で敗れ、散り散りになって落ちて行ったという流言を放ちます。敵はいよいよ新田軍敗北を信じ込むでしょう」
孝宣は熱心に説いた。
「よし、横山孝宣の策を取ろう。各軍は命令のあり次第、直ちに参集できるように連絡を取りつつ、この近くの村々に隠れることにしよう」
新田義貞は言った。軍を分散して、休養を取らせるのも、戦力を復活させる方法だと思った。これに反対する者はなかった。暗くなると共に、新田軍は武蔵七党の案内者を先に立てて、雨の中に分散して行った。
翌十四日は早朝のうちはまだ雨が残っていたが、明けるとともに次第に晴れ間を見せて行った。鎌倉軍は早朝から物見を出して、敵の動静をさぐったが、新田軍は夜のうちに入間川を渡って、その行先は分からなくなっていた。
付近の住民の噂《うわさ》によると、前日の小手指原の合戦で大敗した新田軍は、再挙を計るためそれぞれの根拠地へ引揚げて行ったということであった。
同じような物見の報告が次々と入って来ると、鎌倉軍の大将等は、
「やっぱりそうか、きのうの合戦では、相手はもう少しで総崩れとなるところだった。死傷者も多いし、もともと烏合の衆だから負け戦さとなれば、そうなるのは当たり前のことだ」
と口々に話し合った。戦勝の実感が身に浸《し》みて考えられるようになると、さて次の手をどう打つかを真剣に考えようとする者は意外に少なかった。総大将の北条泰家は、
「とにかく物見だけは出して置け、相手は烏合の衆だからまた何時集まって来るやもしれない」
と各大将たちに命じた。物見は引き続いて出すけれど敵の姿が消えたのだから、小手指原に出向くことはあるまい。兵たちも疲れているのだから今日一日は休養に当てようと大将たちの意見は一致した。
午後になって晴れ上がった。急に暑くなった。どうやら梅雨は上がったようであった。
加治左衛門入道が泰家のところへ伺候したのは、泰家が本陣に決めた寺の本堂で午睡《ごすい》をむさぼっている時であった。
泰家は不機嫌な顔をして左衛門入道に会った。
「新田軍は逃げたのではなく、近くに潜んでいるのではないかと思います」
左衛門入道はいきなり結論を言った。
「なにか、証拠でもあるのか」
「確たる証拠はありませんが、そのような気がしてなりません。この付近の住民たちが異口同音に新田軍が戦争に負けて逃げたと言っているのも、どうやら敵方の流言のように聞こえますし、遠くに出した物見が一人として帰って来ないのも変です。或《あるい》は、どこかに潜んでいる敵の手に捕えられるか、殺されたのではないかと思います」
加治左衛門入道はそう言った後で、
「やはり追撃すべきです。休んでいる時ではございません。このまま新田庄に攻めこむつもりで進軍したら隠れている敵は必ず現れます」
と言った。
「なぜそう急ぐのだ。兵は疲れている。今日一日ぐらい休ませてやったらどうか」
「味方が疲れているなら、戦さに負けて逃げた敵はもっと疲れています。時を失すると敵は息を吹き返します。きのうの合戦で分かったように、敵は小勢でありながらよく戦いました。けっして烏合の衆ではありません。さあ御出陣のふれを、なにとぞなにとぞお願い申上げます」
加治左衛門入道は泰家に乞うたが泰家は出陣するとは言わなかった。
義貞はほとんど寝ていなかった。農家を仮の本陣として、武具を着たままで僅かに仮眠を取る程度であった。源氏嫡流の頭領として兵を挙げ、ここまで押し出して来たものの緒戦における敗北は行先を不安にさせた。
彼は敗戦の原因について考え続けていた。結論はただ一つ、数の差であった。敵に数の差を生かしての戦いを挑まれ、それに見事にひっかかってしまったのが負けた原因だった。なぜ、合戦を駈け引きにもって行かなかったのであろうか。
その前日の戦いでは、駈け引きの場に武蔵七党を出して成功していた。それをせず、全面的対戦に持ちこまれたのは、総大将としての責任であった。それまでの小競合いで得た、味方は強いという自惚《うぬぼ》れがわざわいしていたことも、今になって思い返すと残念でならなかった。
(味方をこの日一日休養させ、さて明日はいったいどのような策が建てられるというのだろうか)
無かった。ひそかに敵陣に近づいて夜襲を掛けるという戦法はあるにはあるが、大部隊を以てすることはできなかった。
(このまま日を過ごしていると、新田軍が負けたという報が伝わり、天皇方に味方する者が無くなる)
義貞はそれが口惜《くや》しかった。更に日が経てば、足利高氏が攻め上って来る。そうなったら、結局は高氏の名を上げる結果になるかもしれない。
「粥《かゆ》ができました」
と郎党が知らせて来た。大きな木の椀に若菜の混じった粥がいっぱいに盛りこんであった。義貞は、箸《はし》を手に持った。菜のみずみずしい青さが目にしみた。一杯を食べ終わったころ、庭で蝉《せみ》の声がした。
「梅雨は上がりました」
と側近の神宮六郎が言った。晴れやかな声だった。今まで陰鬱《いんうつ》な雨が降り続いていたが、それは止みました。これからがわが軍の出番ですと言っているように聞こえた。
外で人の声がした。聞いたことのある、懐しい人の声だったが誰だかは分からなかった。
「朝谷義秋殿が帰って参りました」
神宮六郎が言った。
「おう朝谷義秋が帰ったか」
義貞の声ははずんだ。楠正成を応援するため、千本の鑓《やり》の穂先と二十人の兵をつれて行った朝谷兄弟のその後の消息は知りたいと思っていたところであった。
「足利殿が旗挙げをしたという報が入ると同時に、兵衛尉《ひようえのじよう》(楠正成)殿は、今度は鎌倉だと言われて、われ等を海路、相模に送りとどけてくれました。相模大多和の三浦義勝殿と兵衛尉殿とは前から面識があり、いざという時には心を合わせて事に当たろうと約束されていたとのことでございます」
朝谷義秋は、その先を話し続けようとしたが、義貞のやつれた顔を見て、言葉を止め、どうなされましたかと訊いた。
朝谷義秋に顔色が悪いと言われた義貞は、昨夜はほとんど眠っていないからだと、逃げようとしたが、義秋はそれを言わせず、
「お館様、明日の夜はぐっすり眠れるようになります」
と前置きして、義貞が想像もしていなかった朗報を伝えた。
「丁度今ごろ、三浦義勝様は鎌倉幕府の軍勢催促に応じて百騎、四百五十人の兵を率いて分倍河原の北条泰家様の陣に参着したころです。その中には弟の朝谷正義の他、新田庄から私に従って行った者二十名と楠兵衛尉殿から応援のため送られた三十名が入っております。三浦義勝軍は表面では鎌倉軍の催促に応じて来たのですが、いざ合戦となった場合、折を見て新田方に叛《ひるがえ》るつもりでおります。つまり、鎌倉幕府を見捨て天皇側につこうと心を決めて出て来たのです。そういうわけですから、お館様は明朝は暗いうちに軍勢を発せられ、一気に分倍河原に向かって駈け向かい、幕府の軍に攻め入っていただきたい。それを機に三浦義勝軍は敵中にあって、敵に攻めかかります。こうなれば敵陣は大混乱を起こし、わがほうが大勝利を得ること間違いないと思います」
朝谷義秋はそう言って、三浦義勝が義貞宛てに書いた誓書をさし出した。
「夢のような話だ」
と義貞は言った。
「そう思われるでしょうが、それは事実です。どうぞ迷うことなく、今からその準備をなされるようにお願い申上げます」
義秋はそれだけ言ってから、更にひとことつけ足した。
「尚《なお》、明朝の奇襲の先鋒《せんぽう》はこの義秋が務めますから、鑓の使える者五十人ほどを私におまかせ願いとうございます」
義貞はそれを承知した。彼は直ちに大将等を呼び朝谷義秋を中心として、明朝の作戦を練った。
「この計画は明朝までは大将だけの胸の中に秘めて置くよう、くれぐれもお願い致します」
と義秋は言った。軍議が終わると義秋は直ぐ人をやって弟の朝谷正義にこのことを告げた。正義はこれを三浦義勝に話した。
鎌倉軍はこんなことは知らず、新たに加わった三浦義勝の軍に気をよくしていた。新田軍は翌日の作戦を前にして不安な気持ちでいっぱいだった。
兵をその日一日ゆっくり休養させるためには、敵の物見の眼を誤魔化さねばならなかった。武蔵七党はそのために少なからざる犠牲を払った。
この日はまた、おかしなことがあった。新田義貞が小手指原の合戦に敗れて逃走中と聞いた、この地方の武士が、それでは敗残兵を襲ってその首を取り、鎌倉側にさし出して手柄にしようと思い、五騎、十騎と連れ立って、そのあたりをうろついているところを新田軍に捕えられた。中には実はお味方に参上しましたなどとぬけぬけと嘘をいう者もいた。これ等の者は武器を取り上げられた上、厳重な見張りがついて夫役に廻された。水|汲《く》み、薪割り、飯炊きなどがこういう男たちには恰好な仕事だった。
その日(十四日)の夕刻、分倍河原において、ちょっとした見せ物があった。新兵器の鑓の使い方と鑓隊の集団練習であった。この日の朝、相模の大多和から百騎、四百五十名を率いて参着した三浦義勝が、総大将の北条泰家に、
「わが軍は、最近、都方面で流行している鑓をいち早く取り入れ、特別編成隊を作りました」
と吹聴《ふいちよう》した。泰家は、
「鑓というと、楠正成が発明したという武器のことだな。それは、もう相模にも入って来たのか」
と感心したような顔で言った。
「鑓の存在を忘れては、時代おくれです。いまどき、あの重い鉾《ほこ》や、長巻きなど振り廻していたら、戦さには勝てません、西国の武将はこぞって鉾や長巻きを捨て、鑓に切り替えている現状です。鎌倉軍が千剣破《ちはや》城を落とせなかったのは楠軍の鑓に対して対抗策を考えなかったからだという噂さえ囁《ささや》かれています。わが軍には、幸い、赤坂城、千剣破城の攻撃に参加して、つぶさに楠党の鑓の使い方を検分し、その鑓の一本を分捕って帰って来た者がおります。その者によって鑓は作られ、その使用法も工夫されました。もし、お望みならば、今夕、河原にて、われ等の手のうち御披露に及びましょう」
と言った。泰家は、そういうことなら是非とも見たいと言った。
その夕刻、分倍河原で催された鑓の公開は、まず朝谷正義等による、鑓の型から始まった。突き、引き、払い等の一般的な術が披露されたあとで、十名ずつが一組となり、およそ、二百人ほどの鑓隊の突撃の模様を見せた。十名が鑓先を揃《そろ》えての突進は見事であった。今までのような一対一の戦いではなく、集団として動く場合、十名の鑓の穂先は、百本にも千本にも見えた。
「掛かれ」
と、三浦義勝が河原の一方を采配《さいはい》で示すと、十人ずつの組が二十隊、横隊となって、鑓先を揃えて、その方向に突掛って行った。鑓隊が間近に迫って来るのを目の当たり見ている兵たちはそれが演習だと分かっていたのに、思わず逃げ腰になったほど、その鑓先には力がこもっていた。
同じ頃、新田隊では朝谷義秋によって鑓の練習が行われていた。義秋は周囲に厳重な見張りを立てた上で、新しく編成した鑓隊五十名に稽古をつけた。兵等を号令次第で自由に動かすことのできるようにするのは数日を要すると思われたから、彼は、五十名を五組に分け、組頭を完全に掴《つか》むことによって、五十名を動かそうとした。
五十名を密集部隊として突撃させることだけを義秋は熱心に教えた。なぜ、そんなことをするのか、それでは、手柄首など挙げようがない、などと言う者があったが、義秋は、鑓隊の場合は飽くまでも手柄は隊に対して行われるものであることを説き聞かせてやった。
夕靄《ゆうもや》はその夜遅くなってから霧になった。
霧は入間川に沿って静かに流れていた。濃い霧であった。まだ夜は明けてはいない。
「これこそ天佑《てんゆう》神助の霧だ。この霧の消えないうちに分倍河原に進出して一気に勝敗を決めよう」
と義貞は各大将に命じた。
馬に枚《ばい》が咬《か》まされ、旗差しものはすべて巻かれ、鉾や鑓は伏せたまま、船を繋《つな》いだ橋を渡って台地に出ると、このあたりの地勢に精通している武蔵七党の者が案内役となり、その前には、二重、三重に物見を出した。小手指原を横切ったころから、薄明るくなった。
新田軍には足音だけがあって、声は無かった。時折、前線で人の声が聞こえたが、すぐ静かになった。物見と物見の衝突であった。
加治左衛門入道は夜明け前に出した、一番物見五人のうち二人が斬られ、三人になって帰って来たのを聞いて、胸騒ぎがした。物見と物見が衝突して太刀討ちになる場合は珍しくはない。しかし、早朝の出合いには、多くの場合双方とも斬り合うようなことはなく引き揚げるものであった。朝っぱらから敵意をむき出しにするのはお互いに厭《いや》だからであった。
「その時の状況をくわしく話して見よ」
と加治左衛門入道は生き残った三人に訊《き》いた。
「濃い霧の中に馬の蹄《ひづめ》の音を聞きました。はてなと思って立止まっていると、霧の中から出て来た敵がいきなり斬りつけてまいりました……」
と男は言った。
「霧の中から出て来たのか?」
「まるで霧の中から湧《わ》き出たようでした」
「人数は?」
「二、三十人の大物見隊だと思います」
あとは逃げるのが精いっぱいだったと男は答えた。
「臭いぞ、或は新田軍の本隊が近くまで来ているのかもしれない」
加治左衛門入道はそう言って立上がると、伝騎に命じて、新田軍接近の様子を各部隊に知らせた。確認したのではないが大事を取ったのであった。
幕府軍の各部隊は広い範囲に分散していた。加治左衛門入道からの伝騎が行ったときにはようやく目を覚ましたところだった。
桜田貞国、長崎高重、長崎孫四郎、塩田道祐、安倍《あぶ》左衛門、三浦氏明等の諸将は伝騎から報告を受けると、早々に武具を身につけて河原に集結した。
北条泰家が本陣に姿を現したのはその頃であった。
「敵はどこに居るのだ」
泰家は、叩き起こされたのが不満なのか、声を荒らげて加治左衛門入道に訊いた。
「霧です。敵は霧に隠れて近づいて参ります」
「だからどの辺におるのだ」
加治左衛門入道が答えに窮していると、すぐ近くにいた三浦義勝が、
「われらが霧の中に入って探ってまいりましょう。敵がいたら、鑓隊によって、追い立てます。どうぞわが軍に先鋒をお命じ下さい」
と言った。
三浦義勝は百騎、四百五十人の兵を率いて霧に入ると、かねて用意していた、大中黒の旗を高く挙げるように命ずると同時に、朝谷正義に、新田軍との連絡を申しつけた。
朝谷正義は二十騎を率いて、霧の中に入ると、指を口に当てて、鳶《とび》の鳴き声をしながら前進した。やがて、霧の中から鳶の鳴き声で応答する者があった。兄の朝谷義秋だった。二人は霧の中で会った。
正義から、北条軍の陣がまえが義秋に知らされた。
新田義貞は朝谷兄弟からの報告を受けると、
「朝谷義秋の鑓隊と三浦義勝の指揮する鑓隊を先頭に全軍一隊となって北条泰家殿の本陣を攻め、泰家殿の首級を挙げて勝負を一気に決する」
と言った。緊急の場合であった。軍議などしている暇はなかった。この義貞の一言によって、新田隊は分倍河原に進み出たのであった。
夜は明け放されていた。日が昇ると共に霧は薄くなる。その霧の中から、大中黒の旗を立て、鑓を持った一隊が躍り出たときには、幕府軍は色を失った。はじめは三浦軍が新田軍に追われて来たのだと思った。だが、彼等はいつの間にか新田軍が使っている大中黒の旗をかかげていた。十人ずつ、鑓の穂先を揃えて、その数およそ、二百ばかりが、わっとばかり突込んで来たので、矢をつがえて射る間も無かった。
前日の夕ベ、同じ河原で見せつけられた鑓隊の恐ろしさが現実となって現れたのである。北条軍は新兵器を持った突撃隊を防ぐ方法を知らなかった。
鑓隊の後に新田軍の本隊が現れた時は、北条軍は恐怖で動揺した。
多摩川を背に陣を張っていた、北条泰家は本陣目ざして突込んで来る鑓隊に恐れをなし、総大将自ら船橋を伝わって対岸に逃げた。
河原では、新田軍と北条軍とが戦っているのに総大将の北条泰家がいち早く対岸に逃げたということは、北条軍の戦意を失わせるに充分だった。
霧が晴れ上がるころには北条軍の敗色は濃くなった。北条泰家のいる本隊や長崎高重、長崎孫四郎、安倍道堪《あぶどうかん》(道潭)等の各隊は対岸に渡り、残った北条軍は新田軍によって真二つに分断され、それぞれ川上と川下に向かって引いて行った。
義貞は逃げた敵は追わずに、全軍船橋を渡って、北条泰家を追うように命じた。
安倍左衛門入道道堪は脇将|横溝《よこみぞ》八郎とともに五十騎、三百人の兵力で自ら殿《しんがり》となって、関戸のあたりに踏み止《とど》まり、新田軍を食い止めようとした。
勝ち戦さの勢いに乗った新田軍にとって、安倍道堪の率いる五十騎、三百人は好餌《こうじ》であった。安倍軍はまたたく間に取り囲まれ、次々と討たれた。この安倍軍の犠牲によって北条泰家等は鎌倉にかろうじて逃げ帰ることができたが、この朝の分倍河原の敗戦は、幕府の弱体をいみじくも露呈したことになった。鎌倉幕府の根拠地、相模国《さがみのくに》の、有力者大多和の三浦義勝が幕府を捨てて、新田氏に付いたという一事を見ても、もはや北条氏の運命は決まったようなものであった。
五月十五日はむし暑い一日となった。
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分倍河原の合戦については太平記では分陪《ぶばい》河原と書き、梅松論では分配《ぶばい》河原と書いている。現在このあたりの地名は分梅となっているし、『府中市史』には分倍河原の合戦と記されている。
私は『府中市史』に敬意を表して分倍河原を採用した。
分倍河原が合戦の場となったのは当時、ここには武蔵《むさし》府中があり、交通の要衝であると同時に政治の中心地でもあったがために、幕府軍はここを守りたいと考え、新田軍はここを押えたいと望んでいたのではないかと思われる。事実ここでの戦いで敗れた幕府軍は一気に鎌倉まで逃げ帰っている。府中を放棄したことは武蔵国を捨てたと同じ意味があったのであろう。
分倍河原の合戦の中心地と言われるあたりには分倍河原古戦場という碑が立っている。この碑は私有地の庭にあるので案内して貰わないと簡単には発見できない。その碑の前の広い道路をへだてて、府中税務署がある。此処《ここ》は高倉(租米の貯蔵庫)があったところだ。千年をへだてて、租税機関が同じ場所にあるのは全国でここだけだということである。
大正の半ごろに撮影したこのあたりの写真を府中市文化財専門委員渡辺紀彦氏から見せていただいたが、現在の碑のあたりには、「此《この》附近分倍河原古戦場」と書かれた木柱が一本立っているだけ、見渡すかぎり、雑草の生い茂った湿地性の草原になっていた。はるか遠くに森が見えるが人家は一軒もない。現在は、住宅地になっていて、当時の面影を残すものはなに一つとして残っていない。
小手指原《こてさしばら》は、一部にクヌギ林があるだけで全体は茶畑になっている。狭山茶《さやまちや》の本場だけあって手入れは行き届いていた。
付近の古老に聞くと、明治のころまでは、ここは分倍河原と同じように、草原と雑木林だったそうである。水の便が悪い荒地だったということである。その小手指原に立って北の方を見ると、陽炎《かげろう》の中に塚らしいものが見えた。白旗塚である。これは源氏の白旗とも新田氏とも関係なく、江戸時代に富士講の人達がこしらえた人工の丘で、浅間社を祭ってあったということだった。
堀金《ほりがね》のまいまい井戸は、堀金の七曲《ななまがり》井戸として史跡に指定されていた。直径二十六メートル、深さ十一・五メートルというスケールの大きな漏斗《ろうと》状の井戸だった。らせん状の道を通って底まで降りて行って、そこに湧き出た水を汲み上げたのである。まいまいとは蝸牛《かたつむり》のことである。その恰好から、そんな名前が出たのであろう。現在の井戸の底は埋まっていて水はなかった。
太平記には新田軍は堀金に退《ひ》いたと簡単に書いてあるが、水の不便な台地のことであり、軍を率いてのことだから、少々遠いが、飲料水が豊富にある堀金まで退いて露営したのであろう。
分倍河原で合戦が行われたということを証明するただ一つの証拠が東村山市野口町徳蔵寺に、板碑として残されている。これは元弘《げんこう》三年五月十五日分倍河原の合戦で戦死した、飽間《あくま》斎藤三郎藤原盛貞等の供養碑で、それには、
「於|武州《ぶしゆう》府中、五月十五日打死」
と、刻みこまれてある。幕府方に参加して死んだのか、それとも新田方に付いて戦死したのか、それを裏付ける資料はない。
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鎌倉、兵火に焼き尽くすこと
新田軍は関戸に本陣を置き、見張りを厳重にして夜を迎えようとしていた。分倍河原と関戸の合戦で討ち取った敵の数は千人以上もあった。味方の戦死は僅か百二十名に過ぎなかった。
新田軍は戦勝に酔うという気持ちより、むしろ戦勝に驚いていた。十三日の小手指原の戦いでは、一所懸命戦っている間に何時《いつ》の間にか負けていた。が、十五日の合戦は、当初から勝っているという意識は強かった。霧を利用して忍びより、鑓隊を先頭に敵軍に攻撃をしかけた時から新田軍の将兵たちはこの戦さにはきっと勝てるという暗示のようなものにかけられていた。勝たねばならないという悲壮感も加わっていた。が、血を浴びての合戦になると、しばらくは自分を忘れて、ただ戦っている相手を倒し、その首を取ることにのみ懸命だった。しかしその殺し合いもそう長くは続かなかった。敵が引きはじめたからであった。逃げる敵を追いかけて斬り殺すのは、七分三分の割で追尾する方が有利だった。
関戸の宵は血染められていた。血だらけの首を引携《ひつさ》げた武者たちがここかしこに集まっていた。首実検である。捕えられた北条方の兵が、その首はなんのなにがしと証言した。氏名の分からない首の方が多かった。首実検は各軍の大将、脇将が行い、各大将はその場で戦功を記帳した。敵の首を取った者は後日、改めて総大将の義貞に軍忠状を提出して、それに義貞の印(花押)を押して貰うことになっていた。武蔵七党の横山六郎七郎はこの日の合戦で敵一人を討ち取った。
横山六郎七郎こと、五月十一日、御方に馳《は》せ参じ、同十五日、分倍河原合戦に於《おい》て、身命を捨てて働き、頸《くび》壱を分捕り、則《すなわ》ち見参に入る。然《しか》るにより、御判を給い、後代の亀鏡《ききよう》に備えんがための目安、件《くだん》の如し。
元弘三年六月六日
[#地付き]承候了花押  義貞
彼がこのような義貞の花押のついた軍忠状を貰ったのは二十日も経てからだった。自分の手で書いた軍忠状に義貞の印を貰ったものであった。戦いは済んでも、後日の恩賞のため、記録はその日のうちにはっきりさせて置かねば、ただ働きをさせられることになるから、敵の首を持った者や、負傷した身体《からだ》をいたわりながら記録係の前に出頭する者まであった。
月が高く上ってから記帳は終わった。十五夜である。煌々《こうこう》と輝く月の下で、千ほどの首は集められ、幾つかの穴の中に埋葬された。戦死者の身につけていた武具は、味方の物はそれぞれゆかりの者に与えられ、敵が身につけていた武具は一つにまとめられた。後日恩賞として与えられるのである。月の光のもとで、このような戦いの後処理が進められている一方では、物見の部隊が遠くまで出て行って敵の動静を探って来ては、それぞれの大将に報告していた。
五月十六日の早朝、義貞は馬のいななきで目を醒《さ》ました。五騎三十人ほどの武士団が、お味方として参上致しましたと出頭したのであった。野崎八郎正信と名乗った。武蔵野崎郷の豪族であった。野崎を皮切りとして、柴崎、長沼、由木、狛江《こまえ》、大串、粟生田《あおうだ》、越生《おごせ》、黒岩などが、二十人、三十人の武士団を連れて馳せつけた。一夜にして、分倍河原の合戦の結果が武蔵野の豪族間に知れ渡ったからであった。
(いままで日和見《ひよりみ》をしていた癖に……)
と新田軍の多くの者は、心の中で思っていても、それを表面に出して言う者はなかった。強い方に付かねば一族は亡びる。まず一族の安泰を考えるのは当然のことであった。
日が昇ると、味方に加わると言って関戸に集まって来る者の数は更に増えた。義貞は食事を摂《と》る暇もないほどであった。
(こんなことをしてはおられない。鎌倉の敵はこうしている間にも防備を固めるであろう)
義貞はそのことのみが心配だった。このまま、逃げた敵を追って鎌倉に攻め込むのが戦術とすれば最高であった。しかし、続々と参陣して来る武士団を、放《ほう》って置くわけにも行かなかった。
午後になると、海老名《えびな》、愛甲、本間、渋谷、波多野、松田、大友などの相模の豪族が参陣した。
新田義貞が分倍河原の合戦で大勝を博し、北条泰家が命からがら、鎌倉に逃げこんだと聞いた彼等は、この時点で為政者が逆転したことを知った。彼等は時勢の変化に敏感だった。同族間で情報を知らせ合いながら生きていた。京都の情報も鎌倉の情報も彼等の耳には届いていた。彼等が、十六日になって、急に新田義貞のところに馳せ参じたのは、もしこのまま参陣せず、北条氏が亡びた場合は、参陣しなかった豪族は、北条氏側の味方と見なされ、領地を没収される可能性があった。彼等はそれをもっともおそれていた。
新田軍が鎌倉に攻めこみ、北条氏を倒すということがほぼ確実になったから、至急馳せ参じて、自らの旗幟《きし》を鮮明にしたのであった。
義貞は有難いには有難いが、戸惑い気味でもあった。このうちのどれだけの人が、鎌倉攻撃に当たって生命を投げ出して戦ってくれるだろうかと思うと、不安でもあった。戦意の無い者を置くことは、敵の伏兵を置くと同様に危険だった。分倍河原で敗北した鎌倉軍がいい例だった。
義貞はふくれ上がった軍の編成に際して、「新田一族を主軸とする軍」という考えをいささかも変えてはいなかった。生品《いくしな》神社で旗挙げをした時、馳せ参じた者たちこそ、生命を義貞に預けてくれた人たちであった。信用が置ける人間であった。義貞は、出発に当たって編成した、前軍(大将堀口|貞満《さだみつ》)、右軍(大将江田行義)、左軍(大将|大館《おおたち》宗氏)、本陣(総大将新田義貞)の各軍の下に新しく参陣した武士団を加え、それらの武士団には一族の者を将として置いた。新田軍の兵力は十六日の夕刻には三千人にふくれ上がっていた。
新田義貞は、十七日早朝、相模出身者を案内者とした、物見隊を幾隊か繰り出し、その物見の後を追うように一路鎌倉へ向かって軍を進めた。
大軍を発進させるに当たって義貞は、各部隊が持っている食糧は全部寄せ集めて、改めて全軍に分配するように命じた。
当時は食糧は自弁であった。それぞれの集団が、米や、粉などを持って参戦した。新田義貞の一族は九日に出発している。越後《えちご》や信濃《しなの》、甲斐《かい》から馳せつけた者は更にその数日前に故郷を出発している。当然のことながら持参している食糧は乏しい。中には食べ尽くした者もいた。出発に当たって、義貞が各軍に言い渡したことは、
「いままで血を流して戦って来た者の中には既に持って来た食糧が底をついた者もいる。新参者は、まず手持ちの食糧を味方に分けることによって、協調の心の実を示して貰いたい」
であった。
義貞の布令に逆う者は無かったが、不平を言う者はあった。そういう者には、早速、荷駄の仕事が言いつけられたり、先鋒《せんぽう》部隊に出されたりした。
鎌倉方面にやった物見隊と、鎌倉方面からやって来る物見隊とが各所で衝突して血を流した。十六日以後になって参陣した兵たちはまだ合戦の洗礼を受けていなかったから、片腕を斬り落とされて帰って来る、物見の姿などを見ると、顔色を変える者がいた。
義貞は、たった数日の戦争体験だったが、それを経て来ている将兵とそうでない将兵とをどのようにして使いこなすかについて頭を悩ました。彼は脇屋義助にそれを訊いた。
「分倍河原の合戦以前の部隊と以後の部隊は分けて戦わせた方がいいだろうか、混ぜて戦わせた方がいいだろうか」
脇屋義助はそのことについては前々から考えていたようであった。
「本来ならば、合戦の経験ある部隊とそうでない部隊とは混然一体となって戦うようにしむけるべきでしょう。だが今は違います。十六日以後になって参陣した者は、本気で戦う気があるかどうかは今のところまだ不明です。いざ鎌倉へ攻め込んだ場合、それらの部隊の動きによって勝負は逆転するかもしれません。彼等の心を戦う以外に生きる道がないと思い込ませるためには、彼等を先鋒部隊とすることです」
「戦うつもりがなければ、直ぐ逃げ帰るだろう」
「そのような者があれば、その背後に鑓《やり》隊を置いて討ち取らせましょう」
「味方が味方を討つのか」
「非常の場合です。そうでもしないと、本気で戦う気にはならないでしょう。自分の一族が生き残るためには血を流すことが必要だと言うことを、身を以《もつ》て知らしめてやらねばなりません。彼等も東夷《あずまえびす》です。関東武士です。先鋒部隊となれば、味方が背後から追い立てるようなことをしないでも、必ずや、本気で戦う気になるでしょう。そうなれば大丈夫です。わが軍は勝ちます。鎌倉幕府を倒すことはできるでしょう」
義助は言った。
関戸を五月十七日の早朝に出発した新田軍三千は途中|遮《さえぎ》る者のいない鎌倉街道十里を一日にして踏破して、夕刻ころには大船、藤沢の近くまで進出していた。
この日は鎌倉から派遣された金沢|貞将《さだまさ》の率いる千余の軍勢と、下総《しもうさ》から綸旨《りんじ》を奉じて攻め上って来た千葉|貞胤《さだたね》の率いる千余の軍勢とが鶴見において戦ったが、決戦にならないうちに金沢貞将の軍が退いた。これは、物見によって、新田軍が近づきつつあると聞いたからであった。既に、三十騎、五十騎の物見が近くに出没し始めていたから、金沢貞将は、ここで戦うのは不利と見て、鎌倉に退き、防備充実に力を入れたのであった。この日は、鎌倉の外郭の関所や砦《とりで》などにかなりな人数が出されて、鎌倉防衛の任についていたが、金沢貞将と同様な理由で、持場を捨てて、鎌倉へ引込んだ。鎌倉幕府は戦線を縮小して、将兵一丸となっての鎌倉死守を決心したのである。新田勢を一時的にでも撃退できたら、或《あるい》は幕府の威信を取返し北条政権に積極的に味方をするものも出て来るかもしれないという期待を掛けて、文字通り海を背にしての背水の陣を敷いたのであった。
巨福呂《こぶくろ》坂を越えて鎌倉に入った金沢貞将の活躍は目覚ましかった。まず巨福呂口方面、化粧坂《けわいざか》方面、極楽寺坂方面及び稲村ヶ崎方面の防衛線を見廻って来てから、軍議を開くよう北条高時に進言した。新田軍を目の前にしての緊急軍議であった。
貞将は軍議に先立って一言言った。
「新田義貞が新田庄に兵を挙げたとき、鎌倉に現存する総兵力を以て叩きつぶすべきだと提案した私の策は、一部の人の強い反対に会って実現できなかった。その結果がこのようなことになった。戦さのことは戦さのことを知っている人にまかせることこそこの際まず第一に必要なことと思うが如何《いかが》か」
貞将は内管領長崎|高資《たかすけ》の顔を見てはっきりと言った。戦さのことなどなにもしらぬ、お前など余計な口出しをするなと決めつけたのであった。高資はなにも言わなかった。言えなかったのである。この前の軍議で貞将に反対し、新田軍に対しては高資の子、長崎高重と長崎孫四郎を大将として送り出したのに、分倍河原の合戦で大敗して逃げ帰って来ている。高資はもはや軍議の席での発言さえ許されない立場にいた。
貞将は、絵図面を出して鎌倉防衛について力説した。
「敵は戦勝に酔って気負っている。遮二無二《しやにむに》に鎌倉へ攻めこもうとするだろう。だが鎌倉へ攻め込む口は限られていて、そこ以外から攻めこむことはむずかしい。われわれは要所要所の固めを厳重にして、血気にはやる敵を少しずつ誘いこんでは討ち取るようにしよう。三日持ちこたえたら、四日目に敵は退くだろう。その時こそ、追い討ちをかけて、敵の大将新田義貞の首を挙げるのだ」
貞将は誘いこみ戦術を提唱したのである。それ以外に戦術はないとまで言った。
金沢貞将の提唱する地形を利用しての誘いこみ戦術に対して、多くの将は賛成した。今となってはそのような手段を取る以外に鎌倉を守る策はないだろうとまで言う者もいた。
「この策を取った場合、一つだけ心配がある。それは、干潮の際、稲村ヶ崎の海岸を敵の大軍が迂回《うかい》して来る危険である。これを防ぐための逆茂木《さかもぎ》の防衛|柵《さく》は、現在のようではだめだ。三重、四重にしなければならない」
そして貞将は、それについて更に強調した。
「丁度、ここ二、三日の間、昼間が干潮の時期に当たる。敵がもし潮のことを知っているならば、この期を狙って必ず来るに違いない。しかし、昼間潮が引くのは二十一日までで、それからは、潮が引くのは夜になるし、引き方も少なくなる。大軍が渡るのは困難になるだろう」
他の将軍等は貞将がそこまで考えていたことに感心した。軍議の主導権は当然のことながら、貞将が握ったように見えた。
それまで黙っていた、赤橋守時がそのときになってはじめて発言した。
「防備、防備とそればっかり気を配っていれば、敵は、わが方に戦意なしと見て、あなどってかかって来るだろう。防備もいいが、それもほどほどだ。むしろこの際は図に乗って攻め寄せて来る敵の鼻面をいやというほど叩いてやったほうがよいと思う。昔から攻撃こそ最大な防御と言う言葉がある。それを忘れてはならない」
だが、守時はそう言っただけで、具体的にどうこうしようという策はなかった。敵の動きがはっきりつかめないうちに下手な動きはできないのである。
十七日の夜は、村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂など鎌倉の周辺で火事があった。新田軍接近に呼応して、逗子常清《ずしつねきよ》等の率いる乱破《らつぱ》隊が動き出したのであった。新田軍、鎌倉軍は共に物見を出して敵の動きを探った。
鎌倉に住んでいる住民はここ数日来のただならぬ気配に加えて、鎌倉周辺の出火と、新田義貞が大軍を率いて鎌倉へ攻めこんで来るという流言を聞いて、家財を背負ったり、牛の背に積んだりして、中心部から脱出する者が引きも切らない状態だった。このため道路はふさがれ、鎌倉軍の軍事行動に差しつかえができた。
鎌倉軍は逃げる住民たちはそのままにした。鎌倉への通路は鎌倉を逃れ出る人でいっぱいになった。その群れに混じって、商人風に姿を変えた、中曽根次郎三郎が新田義貞の本陣にやって来た。
彼は矢島五郎丸からの伝言として、鎌倉の状勢を義貞に伝えた。鎌倉への通路に、鎌倉軍が強力な防衛陣を設けていることは当然予想されていたことだったが、稲村ヶ崎の海岸に逆茂木を設けていることは、鎌倉軍が意外にしっかりした防衛態勢を取っているということであった。
義貞は大きな障害の前に立ちすくんだような気持ちだった。
義貞はかねて鎌倉に派遣して置いた清水五郎と富沢小三郎、柴山八郎の三人のことを中曽根次郎三郎に訊いた。
「そのことでございます。彼等は漁師たちから、潮のことを聞き、彼等も、毎日、潮の満《み》ち干《ひ》の時刻やその引き具合を調べております。彼等の申すことをまとめると、十八日ころまでは日中潮が引くので稲村ヶ崎のあたりは歩いて渡れますが、十九日ころからは、日中の潮の引く時間は遅くなり、また潮の引き方も少なくなります。大軍が干潮を利用して稲村ヶ崎を渡るのはせいぜい十九日までということでございます」
中曽根次郎三郎の言うことを聞きながら、義貞は矢島五郎丸が十五日までに鎌倉へ攻めこんで来いと言った言葉を思い出した。五郎丸はこの干潮のことを調べていたのだ。
「十九日と言えば明後日ではないか」
義貞はその言葉を自分自身に向かって言った。
「さよう稲村ヶ崎の海岸を迂回して攻め込むとすれば十九日までです。逗子判官殿(逗子常清)は、新田軍が、何《いず》れかの通路を破って鎌倉へ突入するのを合図に、いっせいに火を放つ用意をしております。今は鎌倉の外で火を放って民心を動揺させるくらいのことしかできませぬ。鎌倉の内部ではまだまだ幕府の目が光っています。もし放火の現場を一人でも発見されれば、鎌倉内部に忍ばせてある浮浪者およそ千人ほどはことごとく捕えられて殺されるでしょう。うっかりしたことはできません」
と中曽根次郎三郎は言った。
「やはり、山手の通路を押えている鎌倉軍を破るよりも、稲村ヶ崎を迂回して鎌倉の背後を突いたほうがよいか」
という義貞の質問に対して次郎三郎は、
「それもなかなか容易なことではないと思われます。潮は時間が来れば引き、時間が来れば満ちます。潮が引いたときに逆茂木を除いて攻めこんだまま、満ち潮に退路を断たれるということもございます。よほど、潮の時刻を調べてかからないと稲村ヶ崎からの攻撃はむずかしくなります。そのことは、清水五郎、富沢小三郎、柴山八郎のうち誰かが、明日にでも本陣に参上して、くわしく申し上げるでしょう」
中曽根次郎三郎はそれだけ言うと、再び、夜の中に消えて行った。
「十九日までか……」
義貞は夜空を見上げた。十七日の月が、彼の心配をよそに輝いていた。
元弘三年(一三三三年)五月十八日午前六時、鎌倉攻防戦の幕は切って落とされた。
義貞は堀口貞満に巨福呂口を攻めさせ、江田行義に中の道(化粧坂口)を進ませ、大館宗氏には大仏口極楽寺坂方面へ向かわせた。義貞の本隊は州崎にあって、全軍の動きを見守っていた。この頃には攻撃軍の総数は千葉貞胤の率いる千人と、その後、義貞の軍に編入された千人を加えて、およそ五千に膨張していた。
だが、千葉貞胤の軍隊千人は独立部隊であって、義貞の命令によって自由になるものではなかった。義貞は船田義昌を千葉貞胤のところへやって、巨福呂坂方面攻撃に際して、堀口貞満隊と共同戦線を張るように依頼した。千葉貞胤はこころよく承知した。
攻撃軍五千に対して、鎌倉軍は約七千五百で鎌倉防備に当たった。巨福呂口は関東勢二千を率いて、普恩寺前入道信忍(北条基時)が守り、中の道は金沢貞将と陸奥守《むつのかみ》貞通が同じく関東勢二千を持って守った。そして、極楽寺、稲村ヶ崎方面は大仏貞直《おさらぎさだなお》が甲斐、信濃、駿河《するが》の兵二千を率いて守った。赤橋守時は出羽《でわ》、奥州《おうしゆう》、武蔵、相模の兵千五百の予備隊を率いて八幡宮に陣取っていて、必要によって、どちらにでも応援できる態勢を取っていた。
卯《う》の刻(午前六時)から各口で合戦が始まった。はじめは小競合いであったが、双方に死傷者が出るようになると、互いに昂奮《こうふん》して、死闘を演ずるようになった。
鎌倉軍は、金沢貞将の作戦どおりに戦った。守備陣に隙間を見せては攻撃軍を誘いこみ、百人、二百人とまとめて、討ち取った。鎌倉の地形はそうするのには都合がよくできていた。
新田軍は、分倍河原の合戦以後に味方についた者をまとめて、先方衆に編成して前線に出したから、戦争体験もないということもあって損害が意外に多かった。
攻撃軍の各口の大将は、このまま無理押しをすると徒《いたず》らに損害が多くなるばかりだから、ひとまず退いて陣容を立て直した。
午前中の合戦は各口を破ろうと、無理押しした攻撃軍の方に死傷者が多かった。
攻撃軍が午後になって退いたという報は鎌倉軍を喜ばせた。鎌倉軍はここで自重すべきであったが、攻撃軍の退却を新田軍が戦意を失って敗退したように一方的に思いこんだ赤橋守時は、
「今こそ鎌倉を出て新田義貞の本陣に一気に斬りこむ時である」
と豪語して、千五百の兵を率いて、中の道を州崎に向かって押し出そうとした。金沢貞将が、
「そんなことをすれば敵の思う壺になります。たちまち包囲されて全滅するしかないでしょう」
と止めたがなんとしても聞かずに出撃した。金沢貞将としても友軍を見殺しにするわけにも行かずに、化粧坂を越えて出撃した。
あれほど鎌倉内部で戦うべきだと主張していた貞将も、赤橋守時に引き摺《ず》られて鎌倉を出たのであった。鎌倉を出て、州崎の丘陵地帯にさしかかった赤橋守時の軍隊は江田三郎行義の軍と衝突した。義貞の本陣は更にその背後にあったのである。
大将江田三郎行義と副将|世良田義政《せらだよしまさ》は、思いもよらぬ敵の大軍の来襲に驚いたが、既に小手指原、分倍河原と合戦を重ねて来た将兵だったから、敵を恐れず、まず物見を出して人数を確かめ、義貞の本陣に報告してから、陣を鶴翼《かくよく》(横隊)にかまえ、右翼は大将江田三郎行義が指揮し、左翼は副将の世良田義政が指揮して、赤橋守時の軍を迎えた。
義貞は本陣にあって、物見の報告を受けた。中の道を赤橋守時軍千五百を先頭に、後続隊として金沢貞将が二千を率いて攻めて来るのに対して、江田行義隊千余人だけではとても勝負にはならなかった。
義貞は伝騎を飛ばして、堀口貞満隊に、江田隊援護を命ずると同時に、千葉貞胤隊には巨福呂口から敵が出て来ないようにしっかり押えよと命じた。
江田隊が赤橋隊に攻められて苦戦しているところへ、堀口隊が応援にやって来て、赤橋隊と金沢隊との中間に突込んだ。つまり、江田隊、赤橋隊、堀口隊、金沢隊と敵味方が交互に入り組んだような恰好になり、戦いながら少しずつ、足場の良い方へ良い方へと動きだした。
義貞はころ合いを見て本隊に止め置いた、朝谷兄弟が指揮する鑓隊三百人と三浦義勝の鑓隊五百人に金沢貞将隊攻撃を命じた。
金沢隊は突然現れた鑓隊に驚いた。長巻きでも鉾《ほこ》でもない武器を持った一隊が、鑓の穂先を揃《そろ》えて、だっだっと大地を踏みしめて近づいて来る様子はこの世の敵とも思えぬほど恐ろしかった。
当時の合戦は、矢合わせから始まり、太刀打ちとなれば、互いに名乗り合って戦う場合が多かった。一勝負ついて、片方が片方の首を打ち落とすのに、一|刻《とき》ほどかかることは珍しくはなかった。ところが今現れた鑓隊は八百人の兵が一つになって、八百本の鑓を揃えて来るのだから恐ろしかった。
「かかれ!」
という朝谷太郎義秋の命令によって、前段鑓隊はいっせいに金沢隊の側面を突いた。続いて、三浦義勝が指揮する後段鑓隊が穂先を揃えて突っ込んで行った。金沢隊は崩れた。鑓の壁に対して鉾の壁、太刀の壁をつくって防ぐ方法を知らなかったのである。
金沢隊が崩れて引き始めると、残された赤橋隊は堀口隊と江田隊に挟撃《きようげき》される形になった。
「引き返せ、たかが八百ほどの鑓を何故《なぜ》恐れるか、はや引き返して、赤橋隊を救え」
と金沢貞将が怒鳴ったが、退却を始めた自軍を踏み止まらせるわけには行かなかった。金沢隊が化粧坂まで退いたころには、赤橋隊は総崩れとなり、赤橋守時主従九十人は堀口隊と江田隊に追いつめられ自刃して果てていた。
十八日の夕刻、赤橋守時等主従九十人が州崎で自刃したという報告が、鎌倉軍の本陣に伝えられた。諸将は、もはや死を賭《と》して戦う以外に道はないことを自覚した。
鎌倉軍が死にもの狂いの抵抗を見せたのはその翌日のことである。
金沢貞将は、赤橋守時の独断的行動が生んだ結果を率直に諸将に知らせると同時に、鎌倉を守るには、それぞれの通路を死守する以外に方法はないことを繰り返して言った。
十八日の午後の合戦で明らかにされたように鎌倉の外にいた新田軍は軍をたくみに移動させて、赤橋守時を討ち取ったが、鎌倉の中部にいると、道はせまいし、逃げまどう住民が邪魔になって、軍の移動を速《すみ》やかに行うことはできなかった。やはり、鎌倉は守備に向いていた。鎌倉への上の道、中の道、下の道と稲村ヶ崎の海岸口をしっかり押えていさえすれば敵の進入を防ぐことができた。
鎌倉軍は十八日午後の敗戦によってこのことを充分に知った。
十八日の夕刻、義貞は、全軍に州崎における大勝を告げるとともに、翌十九日も、それぞれしっかり働くようにと激励した。巨福呂口を守って動かなかった、千葉貞胤には、本日の手柄の第一番であると、讃《ほ》めてやった。
千葉貞胤は、大いに気をよくして、明日の合戦にもお指図どおりに戦いますからどうぞ遠慮なく命令を出して下さいと言って来た。
義貞は大仏口極楽寺坂口で戦っている大館宗氏に、干潮を利用して稲村ヶ崎の海岸口を渡って、鎌倉へ攻めこむ方法について積極的に調査するように命じた。潮については矢島五郎丸、清水五郎、富沢小三郎、柴山八郎のうち誰かが、今宵《こよい》中に連絡に行くから、それ等の者の言を聞いて、慎重な行動をするように、決して無理をしてはならない、と言ってやった。
大館宗氏はその夜、富沢小三郎と柴山八郎の二人に会った。極楽寺坂方面の守備は厳重で、力攻めにすればするほど味方の損害が大きくなる。このままではどうにもならないから干潮の時間を利用して海岸口から鎌倉へ攻め込みたい意向を告げた。
「十七日までは海上に逆茂木が一重でしたが、今日(十八日)一日で逆茂木は三重になりました。その方面の警戒も厳重になりました。残念ながら、いますぐ海岸口から攻めこむことはむずかしいと思います」
と富沢小三郎と柴山八郎は口を揃えて言った。
「駄目だとあきらめていたら、何時まで経ってもできない。まずやって見ることだ」
大館宗氏は富沢小三郎と柴山八郎の二人に潮のことを聞いた。
「十五日ころは昼間の間はずっと潮は引いていましたが、今は次第に潮の引く時間が遅れて、明十九日には巳《み》の刻(午前十時)ごろから潮が引き始め、渡渉できるようになるのは正午から酉《とり》の刻(午後六時)までです。それを過ぎると再び潮が満ちて来て渡ることはできなくなります」
と答えた。
「正午から酉の刻までの六時間だな、六時間あれば、たいていのことはできる」
大館宗氏は自信あり気に言った。
宗氏は稲村ヶ崎の海岸口を渡渉して鎌倉へ攻めこもうとはまだ考えてはいなかった。彼はこの干潮を利用して海岸口を渡り、霊山《りようせん》の砦《とりで》を落とせないものかと考えていた。
十九日の朝、大館宗氏は富沢小三郎、柴山八郎等を案内者として繰り返し物見を出して、稲村ヶ崎方面を探らせたが、
「稲村ヶ崎の海岸口は逆茂木が厳重で、これを破ろうとすれば、味方はかなりの損害を受けるものと思われます。また稲村ヶ崎の丘の上から極楽寺坂にかけては、木の数よりも多いほどの敵軍が守備をしていて、ここを破ることははなはだ難しいように思われます」
というような報告しか得られなかった。
宗氏はいらいらしていた。なんとかして、戦局を打開したいと思った。午後になって、宗氏は自ら稲村ヶ崎の近くまで兵を進めた。稲村ヶ崎を見下ろす丘の上から、宗氏を目掛けて遠矢が飛んで来る中を波打ち際まで来た宗氏は、富沢小三郎を呼んで、
「あの逆茂木の根は深いか」
と訊いた。潮が引き出したが、逆茂木の根はまだ水の中にあった。
「それほど深いものではありません。縄の先に鉤《かぎ》をつけて、力を合わせて引けば、引き倒すことはそうむずかしくはありません。しかし、その作業を始めると、敵は雨のように矢を射かけて来るでしょう」
富沢小三郎が言った。
「あの逆茂木を倒すにはどうしたらよいか」
宗氏は怖い顔をして柴山八郎に訊いた。
「未《ひつじ》の刻から半刻ほど過ぎた頃(午後三時頃)になりますと、このあたりは干上がります。自由に通行することができるようになります。そうなれば、盾で矢を防ぐ者と、綱を逆茂木にかけて引張る者とを交互に並べて逆茂木を引き倒す作業をすれば取り除くことはそうむずかしくはないと思います」
宗氏はその答えに満足したようだった。
「して潮が再び満ちて来て、ここが渡れなくなるまでにはどのくらい時間があるか」
「一刻半しかございません。酉の刻になると潮は再び押しよせて来て、このあたりは海になります」
と答える柴山八郎の不安そうな顔を見ながら宗氏は、
「一刻半あれば、大丈夫だ。それまでに、霊山の砦を焼いて引き返すことができるだろう」
と言った。宗氏は稲村ヶ崎渡渉を決意したのであった。
それまで黙って聞いていた副将の里見|義胤《よしたね》が、その時になって口を出した。
「総大将の命令は、海岸口を充分に調べよということであった。海岸口を渡って、霊山の砦を攻めよとは申されてはいない。もし、それをやるならば、総大将のお許しを得てからのほうがよい」
と反対したが、大館宗氏は、
「合戦の最中で、いちいち総大将のお許しを得ていたら勝てる戦さも負けになる。ここぞと思ったときは臆せず進撃するのが武将たるものの才覚というものであろうぞ」
と言って、里見義胤の言を取り上げなかった。
大館宗氏は、未の下刻(午後三時)になるのを待って二百人ずつを、それぞれ大仏口と極楽寺坂口の押えとして置き、あとの六百人を引き連れて海岸に出て行き、かねて用意していた盾で、稲村ヶ崎の丘の上から文字通り雨のように降りそそいで来る矢を除《よ》けながら逆茂木の引き倒しにかかった。
大館宗氏の動きを見ていた、大仏貞直は直ちに兵を率いて海岸口に廻り、宗氏の進入を防ぐように本間山城左衛門に命じた。
その命令を受けたとき、本間山城左衛門は大仏の切り通しを守っていた。そこから稲村ヶ崎の海岸まではおよそ半里しかなかった。急げば四半刻ほどで行きつけるのを、わざとゆっくり進んだ。
本間山城左衛門は、大仏貞直から命令を受けた瞬間、頭に浮かんだ作戦を実行しようとしたのであった。
(大館隊が逆茂木を破るのを黙って見ていてやろう。そして、大館隊が霊山の砦に打ち向かったころ、その退路を断つのだ。やがて潮が満ちてくれば敵は袋の中の鼠となるだろう)
大館隊は逆茂木を数カ所にわたって引き倒して、海岸口を通り抜けると、霊山の砦に打ち向かった。
霊山の砦は丘の上にあった。石垣を積み上げ塀《へい》を巡らせていた。ところどころに矢倉門があった。大館隊は砦を包囲すると、盾を並べて矢を防ぎながら接近して、外塀の引き倒しにかかった。塀が一つ二つと倒れた。我慢できなくなって、打って出て来た敵との斬り合いが始まった。こうなると双方共夢中になった。時間は矢のごとく過ぎて行く。
外塀を引き倒し、内塀の引き倒しにかかったとき、富沢小三郎が大館宗氏に言った。
「そろそろ引かねばなりません。潮が満ちてまいりました」
しかし宗氏は、敵と戦うのにいそがしく、ろくろく返事もしなかった。柴山八郎が、お引きくださいとすすめても、もう少し、もう少しと言って、なかなか引き上げようとはしなかった。
本間山城左衛門が千余の軍を率いて霊山の砦と稲村ヶ崎の中間に進出したのはその時であった。
それから一刻ほど合戦が行われた。大館軍は海岸線に帰路を求めようとしたが、潮が満ちて来て渡れるような状態ではなかった。退路を断たれた大館軍は鎌倉軍の重囲に陥ったのである。大館宗氏は全軍を一つにまとめ、血路を山手に求めて行った。
だが、丘という丘には敵兵がいた。敵のいないところは樹木が密生していて、動きが取れなかった。大館隊は次々と討たれて行った。やがて大館隊は総くずれとなり、大館宗氏は一度に七人の敵を受けて憤死した。
里見二十五騎の富沢小三郎と柴山八郎は大館宗氏と共に戦死した。副将の里見義胤は三十名の家来とともにようやく血路を開いて、帰陣した。既に夜になっていた。
大館宗氏戦死の報を聞いた新田義貞はしばらくはものを言わなかった。もっとも信頼していた勇将を失った新田軍の行く先が思いやられた。義貞は大館宗氏の戦死の詳報に添えて、大将のすべてに自重を命じた。
大館宗氏の死によって鎌倉軍の意気は上がった。金沢貞将の言うとおり、各口を固めていさえすれば、攻撃軍は手づまりになり、やがては鎌倉包囲網を解くであろう。そこで戦局の転換を計ることは夢ではない、と思っていた。
義貞は、鎌倉のことをかなりよく知っていた。どこでどのように味方が戦っているか、大体のことは分かっていた。大館隊が破れた原因についても分かっていた。
失った六百人に近い人員を補うために、各軍を再編成しなければならなかった。大館宗氏の後は副将の里見義胤を大将にし、副将は桃井尚義を当てた。
二十日、二十一日は無為にして過ぎた。この二日間に新田軍に加わる者がおよそ千人近くもあった。新田義貞の人気は関東においては絶頂に達していた。
二十一日の朝、義貞は里見義胤を呼んで、十九日の稲村ヶ崎の敗戦を参考にしながら、もう一度稲村ヶ崎口からの進攻について策を巡らせた。各攻め口が膠着《こうちやく》状態になっている現状で義貞の考えるのは、やはり稲村ヶ崎口から攻めこむ以外に勝利は得られないということだった。
「味方が少数であったことと、他の部隊の応援がなかったことが負けた最大の原因です。例えば、新田軍四千が一挙に海岸口から、攻めこめば敵としても防ぎようがなかったでしょう」
と里見義胤は言った。
義貞は、清水五郎に潮のことを訊いた。
「明日になれば、昼間の潮の引き方は少なくなり、その時間も短くなります。朝の卯の刻(午前六時)頃と夕刻の酉の刻(午後六時)頃と二度干潮がありますが、朝の方は潮の引き方が少ないし時間も短いので、渡渉するならば夕刻の方がよいと思います。それにしても潮の引くのは二時間ほどの間です。しかも踝《くるぶし》あたりまで海につかっての渡渉となるでしょう。そしてこの時期が過ぎれば、翌日の朝までは海岸を渡渉することはできなくなります」
と言った。
「すると、干潮を利用して大軍が稲村ヶ崎を渡渉する時期はもう去ったというのか」
「そのように思われます。大軍を以て海から攻めるには、ここ、当分の間待たねばならないと思います」
「それはそちの考えだろう」
「おそらくは敵もそのように考えるでしょう」
「だが、渡ろうと思えば明日はまだ渡れるのだな」
「無理すれば渡れます」
義貞は、しばらく考えてから、再び訊《き》いた。
「風はどうか」
「そのころは丁度|夕凪《ゆうなぎ》のころに当たります。風は無くなります」
渡渉と同時に火を掛けても効果はないなと義貞は思った。溜《た》め息が出た。
二十一日の夜から天気が悪くなった。二十二日の朝は雨になった。
義貞は雨の中を、数騎をつれて海の見える丘の上に出た。南風が吹き出していた。波が荒立っていた。
「やはり海だ。海を渡って攻めこむ以外に手はない」
義貞はつぶやいた。
義貞は二十二日の未の刻(午後二時)になって巨福呂口を攻めていた堀口軍に州崎まで引くように命じた。あとは千葉貞胤にまかせた。また、化粧坂方面を攻撃している江田隊にも、三百人ほどを残して、他は州崎まで引くように命じた。大仏坂、極楽寺坂方面を攻めている里見義胤には三百人を残して、他は稲村ヶ崎に向かうように命じた。
堀口貞満も江田行義も、なにが故に引くのか分からないが、命令どおりに引いた。
雨が降っていた。風もあった。
義貞はそこで、各隊の大将副将を集めて彼の決心を述べた。
「わが軍は、全力を上げて、稲村ヶ崎口から、鎌倉へ攻めこむ。海は荒れていて、波は高い。それに潮の引き方も少ない。或は全身、海の水をかぶるようなことになるかもしれない。だが、こうしなければ敵を亡ぼすことはできないのだ」
各隊は義貞に言われたとおり各自|三尋《みひろ》ずつの縄を用意した。雨の中を新田軍四千余が稲村ヶ崎に向かったという情報を鎌倉軍が掴《つか》んだのは申《さる》の刻(午後四時)頃であった。
「まさか、この風雨の中を稲村ヶ崎の海岸口を渡渉できる筈がない。それに潮の具合も悪い、とても大軍が渡れたものではない。おそらくはそのように見せかけて突如引き返して大仏坂か極楽寺坂へ総攻撃をかけるだろう」
鎌倉軍の諸将の意見は一致して、この方面へ軍を移動させた。金沢貞将だけは、
「新田義貞のいままでの戦術を見ていると、従来の兵法を無視した奇策を用いる。或は、全軍を以て海岸口を迂回して来るやもしれない」
と言ったが、こんどばかりは誰も彼の説に耳を傾ける者はなかった。
義貞は渡渉に当たって黄金作りの太刀を海に投じて、
「海神われに味方し給え」
と祈願した。
風はいくらか静まったようであった。里見義胤の軍が先発した。十九日の経験があったし、戦友の弔い合戦という意気があったからである。稲村ヶ崎の潮は引いてはいたが、引いているようには見えなかった。折からの南風のために寄せる波が砂浜を洗っていた。
里見隊は十人ずつ縄で身体を縛り合って海に入って行った。まず逆茂木が取除かれた。十人が一度に波をかぶって姿を見せなくなることもあったが、波に呑まれる者はなかった。
稲村ヶ崎の丘の上にいる敵兵は、下から射かける新田軍の矢に恐れをなして引いたからそちらを気にすることはなかった。
里見隊が通過した後を朝谷兄弟の率いる鑓隊が渡った。里見隊と朝谷兄弟の鑓隊が砂浜に陣を展開したころになって敵が攻め寄せて来た。
四千の軍が渡り終わるのに二時間近くかかった。義貞は馬からおりて渡った。その時には、潮は膝《ひざ》近くまで来ていた。義貞は何回か頭から波をかぶった。一番最後に渡った五十人ほどの兵が波にさらわれた。そのころになって一時静かだった海が荒れ出したのである。
新田軍は危機一髪のところを突破したのであった。
新田軍に退路はなかった。退路の海は満ち潮になり、同時に波が高くなって渡渉できなくなっていた。生きる道は唯一つ敵を負かすしかなかった。
暗くなった。低い雲の下に灯がついた。その灯は次第にふくれ上がり、やがて炎となった。あちこちにそのような火事が起こった。折からの南風で火は見る見るうちに拡がって行った。逗子常清の手の者の放火であった。
鎌倉は混乱をきわめた。鎌倉軍は、海岸方面に進出した新田軍に向かおうとしたが、道が狭いためと避難民が邪魔になって思うように軍を動かすことができなかった。
義貞は全軍を挙げて大仏貞直の背後をついた。極楽寺坂、大仏坂を守っていた大仏軍は、火と逃げまどう民衆と、鑓を揃えて攻めて来る新田軍に負けた。
大仏貞直は脇屋義助の率いる部隊と戦って重囲に陥り、立ったままで腹を切って、壮烈な死を遂げた。本間山城左衛門も、田中氏政によって、その首が挙げられた。
大仏口、極楽寺坂口が陥ちると、新田軍は由比ヶ浜に進出し、火の跡を追うようにして中の道方面の鎌倉勢の主力と戦った。
曇っているから暗夜である筈だったが、燃え続ける火事の明りで敵味方は分別できた。
鎌倉勢はおびただしい戦死者を出して、東へ東へと追いつめられて行った。
化粧坂を守っていた金沢貞将と陸奥守貞通が引いた後から、江田隊の副将世良田義政が三百人を率いて鎌倉に攻めこんだ。
巨福呂口を攻めていた千葉貞胤も、混乱に乗じて鎌倉軍の守りを破った。
義貞の岳父安藤左衛門は稲瀬川の線で、鳥山亮氏と戦って破れて葛西《かさい》ヶ谷《やつ》の安藤屋敷に退いた。そこへ町人に扮《ふん》した矢島五郎丸が来て、義貞の親書を示して言った。
「はや、ここを捨て新田陣に参られるように。安藤氏は新田氏の一族、お味方でござる」
と言ったが左衛門は首を振って言った。
「われは北条氏に長らく仕えて来た者、主家滅亡と終わりを共にするこそ武士というものである。こんな親書よりなぜ孫の義顕《よしあき》を連れて来ないのだ。約束どおり、この首を義顕にやって手柄にさせたい」
と言って訊かなかった。
矢島五郎丸は止《や》むなく、本陣に帰って、義貞にこのことを告げた。
「では義顕をやろう。義顕が説得したら或は気が変わるかもしれない」
だが、義顕が二百人ほどの兵を率いて、安藤屋敷に駆けつけたときは、既に安藤左衛門は自刃していた。
「遅うございました。今の今まで、義顕はまだか、孫の義顕はまだ来ぬかと待っておられましたが、新たな敵が乱入して来たのでやむなく自刃なされました」
左衛門の家来はそう伝えて、その場で腹を切った。
火の海の中に鎌倉は最後の夜を迎えていた。鎌倉軍は各所で破れ、兵は散り散りになった。部将は八幡宮に集まり、更に、北条氏の菩提《ぼだい》寺東勝寺へ集まって行った。
北条一門の最期は哀れであった。
東勝寺の北条高時のところには次々と悲報が届いた。巨福呂口を守っていた普恩寺前入道信忍の戦死、中の道を守っていた金沢貞将、陸奥守貞通の戦死、そして大仏坂、極楽寺坂方面を守っていた大仏貞直、本間山城左衛門、長崎高重等の戦死によって、もはや終局に来ていた。
生き残った北条一門の男たちは東勝寺にて自刃することにきめた。
郎党に東勝寺の周囲を守らせて、まず北条高時が自刃した。自刃の仕方は諏訪左衛門尉《すわさえもんのじよう》自らが手本を示した。当時の切腹は自ら腹を切り開き、その刃で自分の咽喉《のど》を突くか、心臓を刺して死ぬのが切腹の作法であった。しくじって苦しみ廻る者は介錯《かいしやく》された。北条一門は次々と自刃した。東勝寺は血の海となった。その場は酸鼻きわまりないものとなった。自刃して果てるもの、一門二百八十三名であった。そして東勝寺には火がつけられた。平氏の一族、北条の嫡流はここに絶えた。
東勝寺で北条一門が切腹する前に、女、子供たちは鎌倉を逃れ出ていた。彼等は朝比奈切通しや、釈迦《しやか》堂切通しを経て三浦半島方面へ、又は、北東に逃げ口を求めた。山道を歩いて相模の国へ逃げこみ、それぞれ地方豪族のところに身を寄せる者が多かった。
諏訪左衛門尉は甥《おい》の諏訪三郎盛高に命じて、北条高時の次男亀寿丸(相模次郎時行)を連れて、信濃国の諏訪頼重をたよって落ちのびるように命じた。
盛高は亀寿丸を背負い、釈迦堂の切通しから三浦半島の山の中に逃げこみ、ここを横断して、追浜に出、舟を雇って、江戸湾を北上し、利根川(古利根川)を舟で遡行《そこう》した。
途中、新田軍に味方をしている者に捕えられたが、盛高が諏訪左衛門尉から新田義貞あての書状を持っていたので、二人は監視つきで、新田庄へ送られた。新田庄で留守を守っていた堀口貞義(貞満の父)は、義貞の代理としてその書状を開いた。
諏訪左衛門尉は久しい間、隣家としての交誼《こうぎ》を謝した上で、自分は自刃して果てるが孫だけは助けたいから、甥の諏訪盛高に託して故郷の諏訪へ送らせる。どうか見逃して貰いたいとしたためてあった。
「おお、諏訪左衛門尉殿の御孫か」
堀口貞義はそう言いながら亀寿丸の顔を見て、
「名はなんと言われるか」
と問うた。
「亀丸じゃ」
亀寿丸の答え方は身分の高い者の子供の口ぶりであった。貞義は、亀丸即ち亀寿丸と見破った。しかし、諏訪左衛門尉と新田義貞とのいままでの親交をこの時点で打ちこわすことはできなかった。義貞がいたならばおそらくこのまま逃がしてやるだろうと思った。
「確かに諏訪左衛門尉殿の御孫殿と見受けました。二、三日|逗留《とうりゆう》の上、諏訪へ向かってお立ちあれ」
堀口貞義は諏訪盛高と亀寿丸をいたわり、四日後には郎党五名をつけて、碓氷《うすい》峠を越え諏訪まで送らせた。
[#ここから1字下げ]
新田義貞が大軍を率いて、稲村ヶ崎の海岸を、干潮を利用して渡渉し、鎌倉幕府を亡ぼしたという話は、太平記、梅松論の両方に出ている。それぞれ表現は違うが、梅松論は、十八日未刻と二十二日に稲村ヶ崎を経て攻めこんだとあり、太平記は、二十二日の夜、干潮を利用して攻めこんだと書かれている。
この干潮については古来から多くの歴史学者が調べているが、私は天文月報(第八巻第一号・大正四年)に東京天文台技師小川清彦氏が発表した「太平記、稲村ヶ崎潮干のこと」を最も確かな文献として採用した。
小川氏の研究によると、十五日、十六日には、午前九時から午後三時までの六時間が干潮となり、正午は平均水位より一メートルも潮が引く計算になっている。しかし二十二日になると、干潮時が六時間ほどずれた上、潮の引き方は少なくなり、午前六時ごろに二〇センチほど引き、午後六時には約三〇センチほど引くことになる。しかし、平均水位以下になっている時間は僅か二時間でそれを過ぎると平均水位以上になる。渡渉できなくなるのである。
稲村ヶ崎あたりの地形は変動の多いところで元弘三年の頃には平均水位に近い浜になっていたか、それとも落ちこんでいたか分からないが、もし平均水位に近い浜になっていたとしたら干潮に渡渉できた筈である。太平記には嘘は多いが、ほんとうのことを書いた部分も多い。例えば鎌倉軍が海岸口をふさぐために逆茂木を設けたと書かれてあるのは、当時のこの辺は干潮時には通過できたという証左であろう。
だが、どう考えても二十二日午後六時の渡渉は、あまりよい状態ではなかったと思う。ましてや太平記の記述のように浜風(南風)が烈しく吹いていたとすれば、波もかなり高くて渡渉には困難をきわめたに違いない。おそらく潮のことや波のことをよく知っていた鎌倉軍はまさか、この悪条件をおかして、稲村ヶ崎を迂回して来る筈がないとたかをくくっていたのであろう。しかしそのまさかが起こったのである。義貞は不可能を可能にした。義貞は海のことを充分に調査していたから多少の犠牲が出ても決行しようと考えたのだろう。
現在稲村ヶ崎に行って見るとほとんど垂直にも見える凝灰岩の絶壁の下に波が打ちよせている。砂浜はない。干潮時にもここらあたりの渡渉はむずかしそうである。極楽寺川の河口近くの丘の上の住宅地の中に大館宗氏等の十一人塚がある。
現在住宅地になっている由比ヶ浜のあたりからは既に九百余の人骨が発見されている。刀傷や矢の傷跡を残したものが多いところから、元弘の合戦で戦死した人たちを埋葬したものと推定されている。発見されたのは、それだけだが実際はどれだけ死んだか分からない。
北条一族が腹を切った東勝寺の跡はその後石垣など積んで地形が変わっている。その一部は修道院になっている。
東勝寺跡のすぐそばの山の中腹に、凝灰岩の洞窟《どうくつ》があって北条高時切腹の跡とされているが、これは、|やぐら《ヽヽヽ》と言って、中世の横穴式墳墓である。
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恩賞沙汰
北条氏滅亡の知らせを持った樋口弥太郎|他《ほか》二名の者が後醍醐《ごだいご》天皇の御輿《みこし》の後を追って、兵庫の福厳寺に着いたのは六月一日であった。
「新田小太郎義貞の郎党、樋口弥太郎、鎌倉より書状をたずさえ、ただいま参上つかまつりました」
弥太郎は大音声で怒鳴った。門前を警備していた赤松軍の兵が、このことを奥へ伝えた。鎌倉から新田義貞の書状が届いたというので、天皇付き添いの諸卿はいっせいに庭に飛び出した。
「吉報であればよいが……」
とつぶやいている者がいた。おそらくは凶報ではないかと多くの者は思っていた。京都の六波羅は落ちて、京都にいる北条はことごとく亡びたが、鎌倉にいる北条一族がそうやすやすと負けるとは誰も考えてはいなかった。しかし、もしやという期待をかけて、天皇側近の人々は寺の庭に集まったのであった。樋口弥太郎他二人の郎党は、庭に案内された。鎌倉から馬を乗りかえ、乗りかえ来たものと見えて、彼等は痩《や》せおとろえ、髯《ひげ》の中に眼だけが光っていた。
「負けたのか」
と若い公卿《くぎよう》の一人が弥太郎に訊いた。
「鎌倉は落ちました」
弥太郎は懐中から書状を出した。他の二人も、それぞれふところから書状を取り出して、公卿に渡した。
「なに鎌倉が落ちたとな」
その公卿が大きな声で叫んだ。その一言があっという間に寺の内外にいる者のすべての耳に伝わった。
「鎌倉が落ちた。北条が亡びた」
信じがたいことが起こったのである。人々は耳を疑った。
後醍醐天皇自身もその声を聞いた。天皇は急ごしらえの玉座からおりると、自ら、寺の縁まで出御して、書状をこれへと言った。通常ならば、まず侍従が読んでから天皇に渡すのであったが、天皇は待ち切れずにそう言ったのである。
書状は油紙に包んであった。その中に、義貞がしたためた書状が入っていた。天皇は一気に読んだ。読み終わると、そこにいる公卿や武士たちに向かって言った。
「鎌倉は落ちた。北条一族は、高時をはじめとしてことごとく自刃して果てた。北条氏が滅びたのだ」
しばらくは声がなく、やがて喜びの声が上がった。それは次第に高まって行き、やがて時ならぬ勝鬨《かちどき》の声となった。
三人の使者の手紙はほぼ同文だったが、いくらか内容が違っていた。何れにも、死んだ北条一族の主なる者の名前が書き連ねてあった。
「新田小太郎義貞とはいかなる者か」
とひとりごとのように言った者がいた。
「源氏の嫡流、新田小太郎義貞によって、北条氏は亡ぼされたのだ」
天皇が言った。一瞬座は静まった。
「天晴《あつぱ》れなる武者たちよ、名を名乗るがよい」
と後醍醐天皇は樋口弥太郎に言った。天皇自らが、声をかけるなどということはめったにないことだった。天皇も、その朗報に酔っていた。三人の名乗るのを聞くと、天皇はすかさず言った。
「恩賞を持て……」
京都への遷御の途中であった。恩賞を与えようとしても、物はなかった。そういう用意がなかった。しかし天皇は、その三人の使者に恩賞をやりたかった。側近の者もそれぞれそのように考えていた。勘解由《かげゆの》次官|光守《みつもり》卿が気をきかせて、奥に入ると、その日献上されたばかりの、白絹三反を持ち出して来て、三人に与えた。三人は恐懼《きようく》感激して、その場を下がろうとしたが、天皇から、戦さの模様をくわしく話せという御下問があったので、樋口弥太郎は、旗挙げから鎌倉突入に至るまでの経過を話した。
「新田小太郎義貞には恩賞は望み次第与えるであろう。やがて、沙汰あるまで、鎌倉を守れと伝えるがよい」
天皇の言葉であった。
樋口弥太郎等三人は翌朝早く兵庫を発《た》って鎌倉に向かった。
樋口弥太郎等が鎌倉を出発したときは、戦火に焼かれた鎌倉には各所に屍《しかばね》が横たわっていたが、帰ってみると、焼け跡は取り片づけられ、新築が始まっていた。鎌倉の住民は仮小屋のようなものをこしらえて、そこに次々と帰って来ていた。再び鎌倉が栄えるのは間も無いことのように思われた。
北条氏が滅び去ったと同時に鎌倉には略奪暴行が行われた。義貞に味方した浮浪者の群は北条が滅びると同時に、北条氏とゆかりのあった家を襲って、物を奪い、人を殺した。
新田義貞に味方した軍隊の中にも、混乱の中で悪いことをする者があった。義貞は新田一族の者に取締まりを命じたが、血を見て狂い立っている人々をそう簡単に鎮静することはできなかった。
北条一族の子女たちはそれぞれ隠れ家を求めてひそんでいた。その女たちが引き出されて犯された。にわか尼になった女たちもひどい目に会った。それを阻止しようとした義貞配下の者が逆に殺されるという一幕もあった。
混乱はそう長くは続かなかった。樋口弥太郎が帰って来たときには治安は一応復活していた。だが、ここに困った問題が起きた。鎌倉の治安を守る責任者が千寿王(後の足利|義詮《よしあきら》)派と義貞派の二系統に分かれたことであった。
岩松政経が輿に乗せて連れて来た千寿王の一行は鎌倉に入ると直ぐ、焼け残った二階堂別当坊に居をかまえて足利殿御本陣という門標をかかげ、足利高氏と縁ある者を呼び寄せ鎌倉の治安に乗出したのであった。更に義貞にとって困ったことは、鎌倉占領後五日目に、足利高氏が派遣した細川兄弟の率いる千名の軍が鎌倉についたのである。
細川|和氏《かずうじ》、頼春《よりはる》、師氏の三兄弟が駿河の兵併せて千名を率いて鎌倉に到着したときは既に北条氏は亡びていた。
細川三兄弟は二階堂別当坊にいる千寿王のところに出頭し、岩松政経と相談して、足利氏に関係ある豪族に、
「このたびの鎌倉攻めは、源氏の嫡宗家の頭領足利高氏殿の御教書によって、新田義貞が働いたものであり、二階堂別当坊におられる千寿王殿こそ、鎌倉攻撃の総大将であった」
と呼びかけた。
鎌倉には、新田軍と共に血を流して戦って来た多くの豪族とその兵たちが、そのまま残っていた。彼等としても恩賞がはっきりしないと故郷へ帰るわけにはいかなかった。彼等は細川三兄弟の呼びかけに動揺した。
(なにはともあれ、新田義貞と千寿王と両方に顔を出して置けば損はないだろう)
というような考えを持つ者がつぎつぎと出た。
新田義貞の本陣は新田屋敷に設けられた。新田屋敷と隣の諏訪屋敷は運よく焼け残っていた。義貞はそこにいて、鎌倉の治安に当たっていた。
戦後の混乱を当てこんで、酒を売って一|儲《もう》けしようとたくらんでいた商人たちが戦後の鎌倉に入って来た。義貞は治安が恢復《かいふく》するまで酒の販売を禁じた。もし酒を売る者があれば、厳重に処分するという高札を立てた。
だがその高札が威力を発揮したのは三日間で、四日目には、前にも増して酒を売る店が増えた。警戒に当たっていた者が取調べると、
「私はこれこの通り、足利様から銭一貫目と引きかえに許可の鑑札《かんさつ》を戴《いただ》いております」
と答えた。
義貞は堀口|貞満《さだみつ》を二階堂別当坊へやってこの件について真偽を質《ただ》した。
細川和氏は、
「いかにも酒屋に鑑札を与えたのは足利本陣である。なぜならば、足利千寿王様こそ、鎌倉を治めるその人だからである」
と平気な顔で言った。
「なにを言われるか、鎌倉に攻めこみ、北条一族を全滅させた総大将は新田義貞殿である。しからば、鎌倉の治安について令する者は新田義貞殿以外には無い筈だ」
と堀口貞満は声を大にして言った。
しかし、細川和氏はふんと鼻先でせせら笑って、
「天皇方にお味方した多くの武将たちの中で天皇自らが総大将としてお認めになられたのはどなたか御存じか、それは源氏の嫡宗家、足利高氏殿である。中央のことに暗い堀口殿には分からないことだろうが、筋を通して考えるとそういうことになっているのだ。だから、もし、新田殿が足利殿の命にそむくようなことをすれば、天皇に叛《そむ》く者ということにもなりかねない」
和氏はまず理屈を言った。
「いや、そんなことはない。新田義貞殿は天皇からは綸旨《りんじ》を、親王からは令旨《りようじ》を戴いて兵を挙げたのであり、足利殿の命令によって動いたのではない」
と堀口貞満が言い返すと、細川和氏は、
「さて、さて、田舎侍という者は困ったものだ、まるで天下の見通しというものがない。いったい、北条氏が亡びた後で、天皇の下に武将の総元締めとして迎えられるのは誰であるかを考えたことがあるか。足利殿は、全国に領地もあり、一族もおられる。誰一人として源氏の嫡宗家であることを疑う者はない。新田氏はたしかに遠い先祖においては足利氏と兄弟であったが、長い歴史の中では、もはや嫡流とは言えない状態にいる。新田一族の分布するところも狭い範囲でしかない。足利氏と争って勝てるはずがないだろう。一時的な戦勝におぼれて、自分を忘れるようなことがあってはならない。な、堀口殿、そうであろう」
とまったく人を食った言い方だった。
貞満は腹が立った。なんと勝手なことを言う男だろうと思った。
「それにな堀口殿、鎌倉を落とした総大将はたしかに新田義貞殿であるが、合戦に参加した多くの者は、新田殿のために戦ったのではなく、令旨、綸旨、そして足利殿の御教書《みぎようしよ》によって戦ったことをお忘れなく」
と言った。そして最後にだめおしのように、
「足利殿本陣でなされることに御不満ならば、何時《いつ》でも兵を向けられるがよい。その結果がどうなるかを御承知の上でなされるならば、われ等としてもやりやすいというもの」
とおどしを掛けた。
堀口貞満は新田屋敷に帰ってこのままを義貞に報告した。この席には一族の主なる者が集まっていた。
「鎌倉を攻め、北条氏を亡ぼしたのは、われら新田一族である。いまここで、足利高氏の恫喝《どうかつ》に負けて、彼等に鎌倉を渡すようなことにならば千載《せんざい》に悔いを残すことになる。さきに樋口弥太郎が兵庫より天皇のお言葉を奉戴して来た。それによると、なにぶんの沙汰があるまで鎌倉を守れということであった。われらは天皇の言葉どおりにするしかないだろう」
と江田行義が言った。
「そのことは、拙者も細川和氏の前で言おうと思ったが、天皇のお言葉というだけでは、詭弁《きべん》に取られてかえって不利になるから黙っていた。天皇のお言葉を出す以上はなにか証拠となる書きつけが欲しい。つまり鎌倉の治安に当たれよという令書がなければ、足利本陣を無くすることはできないだろう」
堀口貞満が言った。
「治安を維持し、関東の諸豪に命を発するには、決断が必要です。まだ戦いは続いているという見方のもとに、足利本陣など相手にせず、実力を以《もつ》てことに当たるべきです」
大井田経隆が言った。
「細川和氏、頼春、師氏の三人は足利高氏殿よりも弟の足利|直義《ただよし》殿に近い人たちである。おそらく彼等の行動は足利直義殿の指し図によるものであろう」
と船田義昌が言った。
「たとえそうであったにしても、今ここで足利氏と事をかまえるのはよくない。われ等は後醍醐天皇の言葉を信じ、天皇よりなにぶんの沙汰があるまで鎌倉に駐在して治安に当たる一方、即刻樋口弥太郎を京へ馳《はし》らせて、天皇からの綸旨をいただき、この鎌倉の治安に当たり、行く行くは関東一円の守護に当たりたいと思う」
と義貞が結論を言った。これに反対する者はなかった。
義貞は鎌倉の治安と関東一円の治安についての最高責任者としてこのまま鎌倉にとどまりたい。その御裁可を願いたいという書状を書こうとしたが、京都に遷幸された後醍醐天皇の下で誰がこのような仕事をしているかよく分からないので、ひとまず、現状を楠正成に書状で知らせ、楠正成より、しかるべき公卿を通じて伝奏して貰うことにした。
だが、楠正成への書状を持った使者が出発しようとしている前夜、京都から早馬があった。
≪鎌倉の治安は足利千寿王に任せ、新田一族を率いて、はや上京し、新しい国造りにつくせよ≫
という綸旨であった。
新田一族にとっては、これをどのように解釈していいか分からなかった。一族は再び集まって、綸旨を中心に話し合った。
鎌倉幕府は亡びたが、まだまだ全国的に、天皇のもとに統一されたというわけでない。天皇は配下に新田一族のような合戦に強い武将とその部隊を置いて、権力を高めようと考えているに違いない。そのように綸旨を善意に解釈している者と、この綸旨を天皇に出させた背後には足利高氏、直義の二人がいると見る者もいた。鎌倉を千寿王にまかせよということは、とりも直さず、鎌倉を中心とする東国武士の中心は足利氏であると天皇によって認められたことにもなる、と考える者もいた。脇屋義助は、
「鎌倉に攻めこみ、北条氏を倒したのは、われ等である。ここはわれ等一族の血によって戦い取った土地である。たとえ天皇の綸旨があろうとも、ここを動くべきではない。天皇には楠正成殿を通じて、実情を上奏し、足利氏の野望を押えるためにも、新田氏こそ、鎌倉をあずかるべき最適任者であることを繰返し、主張すべきである。われ等一族は、この関東が拠点である。ここを離れて上洛《じようらく》したわれ等にいったい何ができようぞ」
と力説した。
その言葉に同調する者もかなりいた。綸旨に従うべきであることは分かっていたが、鎌倉を離れることは誰も不安であった。細川和氏が言っていたように、新田氏は関東を離れると孤立するおそれがあった。足利氏のように同族がいないのである。
「綸旨にそむき、強いてここに軍を止《とど》むるようなことをすれば新田氏は朝敵の汚名を着せられ、第二の北条氏として、日本中の敵を受けることになるやもしれない。ここは綸旨に従って上京すべきである」
と里見|義胤《よしたね》が言った。
里見義胤の説と、脇屋義助の説に分かれて一族ははげしく議論した。
当時の軍の食糧は自弁であった。京都までの長道中の食糧は持参するか、金銭によって購《あがな》うかどちらかであった。足利氏のように、行く先々に同族が居る者は、同族の援助によって或る程度食糧問題は解決するけれど、新田氏にはそれがない。上洛する新田氏一族の数が千名だとすれば、その千名の食糧をどのように調達しながら上京するかが問題だった。鎌倉にいたら、上野《こうずけ》はそう遠くない。食糧は補給できるし、新田氏が鎌倉の治安を守る責任者ということになれば、実質的には東国を支配することになり、物も兵も動かすことができる。鎌倉を落とした当時と同じような軍の編成も不可能ではない。万が一、足利氏が西国の兵を率いて下向して来ても、これを破ることもできる。
しかし、ひとたび鎌倉を離れてしまったら、新田一族はその日から、物心二面で苦労しなければならない。天皇中心の新政権が、その面倒を見てくれるであろうか。このように考えて来ると、この際、上京はせず、鎌倉にとどまり、たとえ朝敵の汚名を着ようが、足利氏に鎌倉を譲るべきでないという、脇屋義助の説に従う者が次第に多くなった。
義貞は最後の結論をつけねばならぬ立場になった。一族の者は義貞の顔を見た。
「義助の言うことはもっともだと思う。だが、綸旨にそむくことは余にはできない。新しい国造りで都では人を必要としよう。そこへ名指しで招かれた以上、まず出仕して見るべきだ。出仕もせず、ただただ、戦功をのみ盾に鎌倉に止まろうとすれば私欲にのみ走る新田一族という汚名を着せられる。余はそうはなりたくない。とにかく一度は上洛して、もし、天皇を中心とする新政府が気に入らないとなったら、一族を挙げて故郷の地に引き揚げよう」
義貞は言った。
義貞がそう言った以上、義助もそれに反対はできなかった。
(兄はなんと真正直な人間だろう)
義助は義貞の顔を見ながらそう考えていた。こういう兄だから、京都へ行けば公卿たちにうまいこと利用もされよう。ふとそんなことも思った。
新田一族がそのまま上洛と決まったその日に、彼等の運命は決定していた。彼等は、新田庄に待っている家族たちとの再会も果たせず、そのまま将来どうなろうとも分からない旅に出たのである。
兵たちはこれから京へ上り、天皇の軍として仕えるのだと言って喜んでいた。恩賞もその時戴けるのだと話し合っていたが、大将たちの中には憂鬱そうな顔をしている者もいた。
新田義貞をはじめとしておよそ千人の新田一族が鎌倉を出て京都に向かうという話を聞いて、同行を願う者が増えた。
「新田義貞殿は戦さは上手だし、運がいい武将だ。新田殿についていれば将来必ずいいことがあるだろう」
と考えている者たちだった。
義貞は彼等を同行したかった。何《いず》れも鎌倉討滅には力を合せて戦った人たちだった。だが、道中の食糧のことを考えると、これから先、彼等の面倒をどれだけみてやれるか自信がなかった。簡単に、それではついて来いとは言われなかった。
鎌倉を占領して、北条氏の米蔵をそっくり取り上げる筈だったが、実際に取り上げた米は予定の三分の一にも達しなかった。一部は焼失し、大部分は浮浪者の群に奪われたのである。浮浪者の群は新田氏に味方して戦った代償としてまず米を奪ったのであった。
新田氏が上京の準備を始めると、二階堂別当坊にいる細川和氏等は急に態度を変えて、道中の食糧や、それを運ぶ車などを餞別《せんべつ》として差し出した。
「厄介者を早く立ちのかせるために愛想をよくするのだろう」
と新田一族の者は話し合っていた。だが、足利氏の新田氏に対するもてなし方は、箱根峠を越えたころから別な形で現れた。
駿河《するが》や遠江《とおとうみ》、三河《みかわ》等には足利氏の一族及びその縁につながる者がいた。それらの者が入れかわり立ちかわって、新田氏の一行に食糧を提供したり、泊まり場所の世話をした。三河の吉良《きら》一族などが、新田一族の通過に対して、特に気を配っていた。
「治部《じぶ》の大輔《たいふ》様(足利高氏)から粗相《そそう》のないようにというお達しがありました」
とも言った。
「妙だな、いったい足利殿はなにを考えているのだろうか」
新田一族の主なる者は囁《ささや》き合っていた。薄気味悪がっている者や、恩を売ろうとしている足利氏の手に乗るなと言う者や、いや、足利高氏という人間はもともと人がいいのだ、舎弟の直義のような悪玉ではないなどと、知ったかぶったことを言う者もいた。
新田一族は遮《さえぎ》る者のない東海道を一路京都に向かった。途中、新田軍に加えてくれと言って、十人、二十人と郎党を率いて出頭する者があった。
「合戦は終わった。もしまた再び合戦があるような時にはきっと、そちたちの力を借りることになろうから、それまでは、郷にいて貰いたい」
となだめるのがたいへんだった。京都に近くなるに従って、通路に当たる近郊の小豪族が義貞の本陣に、物を持って挨拶に来ることが多くなった。
「鎌倉を攻め落とすのは、少なくとも、十年はかかるだろうと言われていた。その鎌倉を兵を挙げて僅か半月で討滅した総大将の新田義貞殿は鬼のようなお方かと思っていたが、会って見たらお公卿《くぎよう》が鎧《よろい》を着たような大将だった」
などと、言いふらす者もいた。酒、肴《さかな》、織物などの献上品もけっこう多かった。
京都に着く前日には足利高氏の命を受けて、かねて義貞が顔見知りの、一色|家範《いえのり》が二十騎ほどを連れて迎えに来た。
「鎌倉を攻め落とし、北条一族をことごとく討ち取られた新田庄殿の評判はたいへんなものです。主上も、戦功の第一は新田義貞であると、側近におもらしになったという噂《うわさ》も流れております」
と家範は言った。
「京都には新田庄殿の屋敷も決まっております。落ちつき次第、昇殿もおそらく許されるでしょう。そのように、治部の大輔様が取り計らっておられます」
とも言った。
義貞は足利高氏の好意を感謝していた。感謝しながらも、なにか、一つ二つ気になることがあった。なぜそのように手を尽くして迎えようとするかということであったが、それを一色家範に直接|訊《き》くこともできなかった。義貞はまず、その後の京都のことを訊いた。さぞ治安もよくなり、新しい親政国家の基礎もできたでしょうと言うと、家範は声を潜めて言った。
「なんのなんの、まるで公卿の服装《なり》をした鬼どもの百鬼夜行《ひやつきやぎよう》とでも申しましょうか。公卿どもは勝った勝ったで浮かれっぱなし、まるで彼等だけの力で北条氏を亡ぼしたような顔をしております」
さもあろう、と義貞は思った。だが、実戦に参加した武士がそれを黙って見ている筈がない。
「このたびの戦さに参加して功があった武士たちは京都に集まって、なにをしておられるか」
その質問に対して家範は、憤然として答えた。
「恩賞の沙汰を待ちわびております。主上のまわりの公卿たちは早々に恩賞を与えると言っていますが、そんな様子は全くありません。また、そういうことをしようにも、あの公卿共には、なにから先にどう手をつけていいやら分からないでしょう。要するに公卿などというものは、主上の周囲をうろうろしている、召し使いの集団でしかありません。あんな人たちにとても政治など執れるものですか」
一色家範は口をきわめて公卿を罵《ののし》った。腹にすえかねたことが数々あるらしかった。
「いったい主上はなにをなされているのですか」
天皇親政をかかげて北条を倒した後醍醐天皇は、なぜ政治に乗り出さないのだろうか。
「天皇もどうやったらいいか分からないでいるのです。だからこういう時こそ、その道に明るい人を側近として登用して意見を訊けばいいのに、天皇の周囲に集まる者は俗物ばかりです」
家範は吐き出すように言った。
「宮がいるでしょう。護良《もりなが》親王が」
「それがまた困ったことになったのです」
家範は声を落とした。
一色家範が護良親王について困ったことになっているという言葉の内容について、新田義貞に解明してくれたのは楠正成だった。正成は義貞が京都に到着し、足利高氏が用意していてくれた五条高倉小路の屋敷に入った直後に訪ねて来た。その彼が久闊《きゆうかつ》を叙した後、まず口にしたことは護良親王のことであった。
「護良親王は、北条氏に次いで、天下を横領せんとするものは足利氏であると、天皇に奏上した。このことが足利方に知れわたったので、親王と足利氏との間がまずくなった」
困ったことだと正成は言った。正成ばかりではなく、護良親王に従って上洛した赤松|則村《のりむら》も、親王、天皇、足利氏の三者の間がまずくなって行きはしないかと心配していた。
義貞を訪れた赤松則村は義貞の鎌倉における武勲をたたえた後で、
「主上は、鎌倉の北条を討滅した新田庄殿を足利殿以上に評価されている御様子だ。実は兵衛尉《ひようえのじよう》殿(楠正成)も拙者も、貴殿が京都に来るのを待っていた。天皇親政の基礎を作るには天皇の下に良識の府を作らねばならない。われわれはその中心的人物こそ新田庄殿以外にはないと思っている」
と言った。楠正成もそれに近いことを言っていたが、義貞にはなぜ彼等が、そのようなことを言うのか、その真意を掴《つか》みかねていた。えらいところへ出て来たものだなという、困惑感があるだけだった。
京都に着いて五日経った。新田義貞の屋敷をはじめとして一族の者たちの居所も、兵たちの長屋もそれぞれ決定した。落着いたところで義貞は足利高氏の屋敷を訪問した。
高氏は、義貞を玄関まで出て来て迎えた。
「さあ、さあ奥へどうぞ、京都というところは暑いところだから、風の当たるところで、肌を脱いでゆっくりと話そうではないか」
などと言った。久しく会ってはいないが、高氏はいっこうに変わっていなかった。笑いを浮かべると、貴公子然とした顔が、突然、おどけた顔になり、身振り手振りよろしく話し出すと、まるで田楽法師がそこに座っているように見えた。相変わらず得体《えたい》の掴めない人物だなと義貞は思っていた。
「上洛に際し、かずかずの御援助かたじけなく……」
と義貞が言い出すと、
「なんのなんの、あれほどのこと、新田庄殿は、このたびの戦いにおいて軍功第一の御人じゃ、鎌倉を落とし、北条一族をことごとく平らげた武将である。もっと、大威張りしてもいささかもおかしくはござらぬ」
高氏はそんなことをひとしきり言ったあとで、
「主上もさぞかしお待ち兼ねであろう、明日にでも御殿に召されるようお取り計らい申しましょう」
と言った。そう言った時の高氏の顔は引きしまっていた。
義貞と高氏とは一|刻《とき》あまりしゃべった。戦争のことが多かった。将来のことにも触れた。いよいよ義貞が席を立とうとしたとき高氏が言った。
「一口に言うと後醍醐天皇もその側近の諸卿も政治のことはなにも分かっていない。分かっていることは、天皇と公卿たちが自分たちだけに都合のよい世の中を作ろうと考えていることだ。その証拠には戦さが終わって二カ月近くなるというのに恩賞の沙汰は全くない。恩賞たるべき領地がもう無くなったからだ。彼等は北条一族の領地をすべて天皇一族に分かち与えてしまったからである」
義貞が自分の耳を疑うようなことを聞いて、驚いていると、高氏は更に言った。
「また主上のやり方に不満を抱いている護良親王は、足利氏という仮想敵を作って、再び戦乱を起こし、親王軍によって天下を制覇《せいは》し、親王自らが天下を治めようという野心を持っておられる。だがあの親王も、僧兵などの先に立って暴れ廻るにはまことにふさわしいお方だが、国の政治を取るような才は持ち合わせてはおられぬ。そんなことになれば世は更に更に乱れる。この世を安定にするにはやはり、武家が政治を取るしかない」
そこで高氏は言葉を切り、義貞の目をじっと見詰めて言った。
「新田庄殿、おそらくは、主上はゆくゆくはそこもとを武家の頭人(長官)に任じ、この足利高氏と戦わせる積もりであろう。それこそ武を以て武を制する、古くからある天皇や公卿の考える手である。その手に乗れば、再び戦乱の世になる。そうなってはならぬ、お分かりかな」
義貞は大きく頷《うなず》いた。
「新田家と足利家とはかつては兄弟であり、新田家が兄の家柄である。系図はそうだが、およそ百五十年の歴史の流れの間に足利氏こそ源氏嫡宗家ということになっており、諸人《もろびと》はそれを信じている。もし新田庄殿がこの解釈を誤り、歴史をくつがえして現在の足利氏を否定しようという心を持ったならば、それこそ主上及び公卿たちのつけ入るところとなる。われらは離れてはならない。われ等が離れずに、源氏の流れをいままで通り守り続けるところに世の中は安定し、戦争はなくなる。足利氏と新田氏は決して対立すべきではない」
高氏は、はっきりと言った。義貞としても同感だった。彼が温かいものを抱いて新田屋敷に帰ると、そこに朝廷よりの使者が待っていた。明朝、左大臣二条|道平《みちひら》のもとに参内せよということだった。
さてはいよいよ義貞は昇殿を許され、新田一族にはそれぞれ恩賞の沙汰があるだろうと、一同首を長くして待っていたが、取り敢えずの勲功として新田義貞に与えられたのは左馬助(正六位の上)の位であり、舎弟の脇屋義助には兵庫助(正六位の下)の位であった。他の一族にはなんの音沙汰もなかった。足利高氏はこの度の功により治部の大輔(正五位の下)から一躍治部の大輔卿(正四位の下)に任ぜられていた。五位以上が昇殿を許され、殿上人と言われる身分になるのだが、義貞はまだまだ天皇に拝謁を許される身分にはなっていなかった。
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新田義貞が鎌倉を討滅したにもかかわらず、鎌倉を足利氏に譲って上洛せざるを得なかった理由についてふれたものはないが、梅松論には、高氏の命を受けた細川和氏がかなり強い調子で義貞にかけ合ったように書かれている。
新田義貞が後醍醐天皇の命を奉じて、一族ともども上洛した日付ははっきりしないが、七月に入ってからであろうことは推察される。京都に遷幸した天皇がまず手を着けたのは、北条一族の領地の再配分であった。太平記によると、
一、北条高時の領地は宮廷
一、北条泰家の領地は護良親王
一、大仏一族の領地は阿野|廉子准后《れんしじゆごう》
一、公家の領地は、たとえ持明院統のものでも保護する
一、寺社の領地はそのまま安堵《あんど》する
等の処置がとられたと書かれている。戦功のあった武士たちの恩賞は後まわしにして、まず天皇に近い者から先に恩賞が与えられたのである。
又太平記によると、「元弘《げんこう》元年の変」に関係して流罪になった者や幕府に処刑された者の身内などが召出されて、重く用いられるようになった。硫黄島に流されていた文観《もんかん》僧正が帰って来たのはこの頃だった。彼は再び天皇の側近者として勢力を持つようになった。内奏が彼を通じて行われたからである。
文観弘真は、播磨《はりま》の僧であったが、いつしか立川流の秘法を学ぶようになり、法験あらたかなる僧として後醍醐天皇の側近にはべるようになった。
立川流というのは平安朝末期に、武蔵国立川から出た真言宗の別派で、金剛《こんごう》、胎蔵《たいぞう》の両如来を男女の化身仏《けしんぶつ》と考え、男女の交媾《こうこう》こそ即身成仏《そくしんじようぶつ》と唱え、男女交媾の法を説き、菩提《ぼだい》の極意を教えるというふうなものだった。立川流は真言宗から邪法、邪教とされて強く排斥されていたが、文観はこの邪教によって法験を現し天皇に重んじられたのである。
このような一種の怪物的存在がいち早く頭をもたげたことは天皇親政の将来を暗くするものだった。
文観だけではなく、公卿の中にも千種《ちくさ》卿のごとき成り上がり者が続々と出現すると、朝廷内の勢力の平衡もやぶれ、新しく勢力を持った公卿の時代に入ったかに見えた。
太平記によると、
≪いままで幕府の下で大きな顔をしていた武士たちは、いつの間にか公卿の奉公人になって、飾り立てた車の後押しをしたり、身分の軽い公卿侍の前にひざまずいたりした。いまさら世の移り変わりを悲しんだところでどうにもならないと知りながらも、このような公卿一統の世が長く続くようならば、諸国の地頭や御家人はみな、公卿の下僕となり果ててしまうにちがいない。いっそのこと、またまた戦争が始まって、再び武家の天下になって貰いたいものだと思う人が多くなった≫
と書いてある。太平記の著者の目は曇ってはいなかったようである。
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護良親王流刑
元弘三年(一三三三年)八月に入って、万里小路《までのこうじ》三条坊門に恩賞方が設けられた。恩賞方長官として洞院実世《とういんさねよ》が任ぜられ、万里小路藤房が補佐に当たることになった。
足利高氏 従三位 武蔵守、相模守《さがみのかみ》、伊豆守
足利直義 従四位 遠江守
新田義貞 従四位 越後介、播磨大介、上野大介《こうずけのおおすけ》
楠正成  正五位 河内守、摂津守《せつつのかみ》
新田|義顕《よしあき》 従五位上
脇屋義助 正五位 駿河守
名和長年《なわながとし》 正五位 因幡守《いなばのかみ》、伯耆守《ほうきのかみ》
以上のように今回の戦いに功績があった諸将には恩賞の沙汰があったが、ひとり赤松則村だけには佐用の荘の荘司を公認したに過ぎなかった。赤松則村は楠正成の挙兵に呼応して立上がった人であった。その功績は楠正成と比肩すべきであった。九州の菊池一族もまた当然、真先に恩賞を受くべき人であった。赤松氏がなぜ恩賞に洩れたかというと、則村は護良親王にあまりにも近い人であったからである。
「赤松則村は護良親王の家人であるから、親王自身がさきに与えられた所領の中から、恩賞を与えればよい」
というのが恩賞方の考えであり、天皇の考え方でもあった。この時点で天皇と親王との考えが対立していることを示していた。
武士の恩賞のうち最大なものは足利高氏であった。彼は恩賞と同時に、天皇の名「尊治《たかはる》」の一字を戴き参議に列し足利尊氏と称することになった。
公卿たちは洩れなく恩賞を賜った。中でも、千種|忠顕《ただあき》は三国を賜ったほか、五十六の領地を戴いた。千種忠顕は身分の低い公家であったが、このような破格な恩賞を賜った。これを見て他の公卿が黙っている筈がなかった。直接に恩賞方へ泣きつく者もあったし、天皇が籠愛《ちようあい》している准后廉子《じゆごうれんし》にすがって天皇に内奏するもの、又は千種忠顕や文観《もんかん》僧正の袖にすがって天皇に内奏して領地を得る者もいた。
恩賞方は事務を開始したとたんに大きな暗礁に乗り上げた。それは、一度恩賞方で決定したものが内奏によってひっくりかえるからであった。
千種忠顕は夜ともなれば、二百、三百という人を集めて遊興にふけっていた。文観僧正は常に六百人の武士団を連れて京都の町を歩き廻るという状態だった。
たまたま酒宴に列席した遊女が、
「私も人と生まれた以上、たとえ一坪でもいいから自分の土地が欲しい」
と言ったのを千種が聞き、天皇に内奏した。これによって、なんの功績も無い遊女に百貫文の領地(一貫を一石とすれば百石取りの領地)が与えられたという噂が流れた。噂は噂を生んだ。准后に仕える女官や下働きまで、領地を持たぬ者はなくなったと、取り沙汰された。これを聞いて、面白くないのは、血を流して戦って来た武士たちであった。上層武士はそれぞれ恩賞を得たが、まだなんの沙汰もない下層武士の間から不平不満が出るのは当然のことだった。
恩賞方が事務を執るようになったころ、朝廷は諸国に布令を出した。
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一、この度北条氏を討滅するに当たって武勲のあった者は本来の所領を認める。
一、ただし、その所領の中に北条氏から移譲されたものがあればすべて朝廷に召し上げる。
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という内容のものであった。
ここで言う本来の所領というのは北条氏に仕える以前の所領であって、北条時代に、貰ったもの、金で買い取ったもの、交換したもの、そういう土地はすべて朝廷へ召し上げるということであった。これは全国の武士に取ってたいへんなことだった。戦功のあるなしにかかわらず、自分の土地は自分の土地である。それを認めるということは当然なことであって、なにも恩顧を感ずるものではない。北条時代に、増えた土地を召し上げるとは、いったいどういうことであろう。それらの土地にはそれぞれの歴史がある。それも調べようとはせず、一方的に取り上げるというのは歴史を否定することだった。簡単に承知できるものではなかった。
改革はこれだけではなかった。北条氏の時代に地頭や代官だった者は、うむを言わせず追放され、その領地を召し上げられた。これもまた無慈悲なやり方だった。
全国の武士が京都を目ざしてやって来た。死活問題だからだった。京都は人口が急増し、泊り場所も無いようだった。
恩賞方は人員を増やしたが、どうにもやり切れなくなった。事情を聞いて、どうにかうまく処置してやっても内奏でひっくり返るのだからどうしようもなかった。恩賞方長官の洞院実世が病気と称して辞意を表明した。その後を引き受けた万里小路藤房もまた、折角決めたものが、内奏によって、ひっくり返るのを怒って、恩賞方長官を辞して姿をかくしてしまった。
「このままでは、再び戦乱が起こるやもしれません、公卿一統だけにたよらず、才能ある者はこれを用いて、この苦境を乗り越えるべきです」
と吉田定房卿が天皇を諫《いさ》めた。
天皇は吉田定房の言を聞いて、記録所、雑訴決断所《ざつそけつだんしよ》、武者所《むしやどころ》、窪所《くぼしよ》(侍所《さむらいどころ》)などを設けた。
記録所は中級公家と楠正成、名和長年等によって構成されていた。公卿が天皇に伝奏《でんそう》する用件の下ごしらえをするところであった。
雑訴決断所はその名のとおり、あらゆるもめごとを裁く機関であり、評定員を置いていた。当初は公家だけで出発したが、やり切れなくなって、事務処理に秀でた人を次々と集めてたちまち百人を越す事務機関となった。
新田義貞の紹介で、諏訪左衛門尉の子、諏訪円忠が評定員に加わるようになったのもこのころだった。
新田義貞のところには、武者所頭人(長官)の役が廻って来た。武者所とは京都警備を一手に引受ける機関であった。
新田義貞は武者所の頭人となって京都|警邏《けいら》の全責任を持ったが、ここに一つ問題ができた。元六波羅庁の後に、足利尊氏が作った奉行所の存在だった。奉行所は六波羅没落と同時に足利氏がここに庁をかまえ、京都の治安に任じたところであった。諸国から上洛する武士たちはこの奉行所に顔を出して必ず記帳して行った。なんと言っても北条氏が滅亡した今、武家として全国に名の通っている者は足利尊氏であった。諸国の武士は北条氏亡き後、足利氏を武家の総元締めと認めていたのである。彼等はまず奉行所に出頭してから雑訴決断所に顔を出した。
奉行所は終日上京して来る武士で賑《にぎわ》い、その付近には上京武士たちの泊まるところや、飲食するところもできた。人が集まるところには犯罪も起こる。尊氏は奉行所一帯の治安を自らの兵で維持していた。つまり、京都には、義貞の指揮する武者所の警邏隊と、尊氏の指揮する奉行所の警邏隊との二つができた。奉行所は公には認められていなかったが、実力は武者所をしのぐものがあった。
義貞は奉行所との間に摩擦を起こさないように、部下にも厳重に注意し、五条より北側は武者所が受持ち、五条より南側は奉行所が治安に当たるように尊氏との間に取りきめをした。
尊氏も、武者所ともめごとを起こさないように部下をいましめていた。しかし、末端の者はしばしば縄張り争いを起こした。
「京都に二つの警邏隊は不要です。奉行所など即刻取りつぶし、足利氏の兵は洛外に立ち去らせるべきだと存じます」
と護良親王が後醍醐天皇に上奏した。そして、更に親王は、
「このまま放置すれば、奉行所が、全国の武士を取締まることとなり、幕府と同じ存在になります。ここで、尊氏の野望を押えて置かないとどういうことになるやもしれません」
と天皇に説いた。だが天皇としても、足利尊氏に京都を出ろとは言えなかった。とにかく強大な武力を持っている尊氏にうかつのことはできなかった。
奉行所は、自然の成り行きとして次第にその存在が動かしがたいものになって行った。
「思い切って足利尊氏を侍所の頭人にしたら如何《いかが》ですか」
と天皇に上申した者もあった。奉行所が実際には侍所(武家を統轄する機関)のようなことをしているから、それを朝廷の機関に取り入れようというのであった。だが、
「足利尊氏を、侍所の頭人にすれば、たちまち勢力を得て、第二の平清盛になるだろう」
と言って北畠親房《きたばたけちかふさ》が反対した。結局、足利尊氏はいっさいの要職から締め出され、ようやく、執事の高師直《こうのもろなお》と、足利一門の上杉道勲の二人が、侍所に出仕を許されたに過ぎなかった。足利氏の一族の不満が次第にふくれ上がって行った。
義貞は同族として、足利氏になんとかしてやりたい気持ちはあったが、しばらくは公家一統のやり方を黙って見ているよりほか、なかったのである。
元弘三年の十月になって陸奥《むつ》将軍府と鎌倉将軍府が置かれることが朝議で決定された。
鎌倉を中心とする関東地方の行政や東北地方の行政まで中央では手が届かなかったから、親王とこれを補佐する者を送りこんで統治しようという意図のもとにできたものである。まず陸奥将軍府が決まり、後醍醐天皇の皇子、義良《のりなが》親王がこれに任ぜられ、北畠親房の子|顕家《あきいえ》が陸奥守《むつのかみ》として随行することになった。実際は顕家の父北畠親房が、義良親王等と共に、多賀《たが》国府におもむいた。
天皇側近の公卿北畠親房が突然、京都を去った理由は、天皇と政策意見を異にしたからであった。親房はもっとも強く公家一統政治を主張する人であり、彼の思想の根本にあるものは、徹底した選民思想であった。天皇及び公家は生まれながらにして人々の上に立つべき者であって、人々は文句なしに公家一統の言うことを聞くべきであるという考え方であった。親房の書いた『神皇正統記』にも、北条氏が亡びたのは天の功であって、武士たちの功ではないと書いている。また新田義貞の家系など百も承知のくせに、
≪|東《あづま》にも上野の国に源の義貞といふものあり、高氏の一族なり≫
と書いてあるだけである。新田義貞など問題にしないという態度だった。
親房は天皇親政に際して、武士の扱いはほどほどにすべしと主張していた。武士に位をさずけたり、土地を与えたりすると、再び天下は武士のものになる。武士などという者は軽い身分に落としておき、すべて公家の使用人として働かせるべきである、と考えていた。しかし後醍醐天皇はそうは考えてはいなかった。現実を直視しなければならない。一度に大きな変革はできない。まず、北条討滅に功あった武士には恩賞を与えるべきだと考え、それを実行した。
北畠親房はそれを快しとせず、奥羽に去ったのであった。公家一統の政治の一郭は、新政府樹立四カ月にして崩れた。
親房は多賀国府に去った。
次は鎌倉将軍府であった。朝廷は鎌倉将軍府の府長に成良《なりなが》親王を任命し、補佐として、しかるべき公家を随行させようとしたところが、思いがけない横槍が、足利尊氏から、准后廉子を通じて天皇に内奏された。
「足利氏は関東第一の家柄です。鎌倉将軍府にあって、親王の補佐をする者は、足利氏以外にはおらないでしょう。もし、そうなさらないと、不平不満が起き、まず関東から乱れるでしょう」
天皇はこの廉子の言を取り上げた。
京都の新田屋敷に久しぶりで刀屋三郎四郎がたずねて来た。
「さっそくお伺いしようと思っていましたが、つい商売の方がいそがしくて、お祝い言上が遅れて申しわけありませんでした」
と言って、任官祝いの品をさし出した。刀屋三郎四郎は以前と少しも変わらぬ態度で、
「殿上人となられた気持ちはいかがですか」
と義貞をからかった後で、
「ところで鎌倉将軍府に直義殿が行かれることにほぼ決まったという話をお聞きでしょうか」
と訊いた。
「いや聞いてはいない。いつ決まったのだ」
「きのうです」
そうかと義貞は一言言ったまま考えこんだ。直義が親王を奉じて、鎌倉へ下向するということは、そこに再び鎌倉幕府が開かれると同じことである。
「鎌倉は新田庄殿が攻め落としたのだから、本来なら、鎌倉将軍府に下向されるのは、新田上野大介義貞殿であるべきです。そこへ、足利直義殿が行くのは筋違いと思います。だが、決まったからには変更はできないでしょう。だからと言って、このまま黙っている手はございません。私はそのことについて申し上げたくて参上いたしました」
刀屋三郎四郎は一気にしゃべった。なんのためにこんなことを言いに来たのか相変わらずの曲者《くせもの》だなと義貞は思いながら聞いていた。
「どうしたらいいのだ」
「准后廉子様を通じて天皇に不満のよしを内奏することです。つまり天皇に貸しがあることを認めさせることです。准后廉子様への贈り物をどのようにして届けるかは私におまかせ下さい」
と刀屋三郎四郎は言った。
「准后に贈り物をせよというのか」
「そうしないと、損をします」
「損をしてもいやだと言ったら」
「競争から脱落したら、新田氏は足利氏の家人となるでしょう。それでもよければ私はいっこうかまいませぬが、それでは源氏の嫡流たる新田氏の御先祖が承知しないでしょう。一族も黙ってはいないでしょう。いったい新田一族はなんのためにここまで苦労して来たのです。武者所の長官になるためですか、そうではないでしょう、もっともっと大きな望みがあった筈です」
刀屋三郎四郎は義貞の心を探るようなことを言った。
「なにはともあれ、余はここしばらくは動かぬつもりだ。先がどう変わって行くか分からないうちに軽々しいことはできない」
「先がどう変わるかは、はっきりしています。鎌倉府に直義を入れたことによって、足利幕府が出来《しゆつたい》したと考えるべきです。次は朝廷と足利幕府との戦いとなるでしょう。大介殿は足利幕府に味方をなさるおつもりですか、朝廷にお味方するつもりですか」
刀屋三郎四郎は勝手なことをしゃべって帰って行った。
年がかわり建武《けんむ》元年(一三三四年)となると、朝廷は大内裏造営計画を発表した。内裏は治承《じしよう》元年(一一七七年)に炎上した折、焼け残った建物に修理を加えて今日に至っていた。
公家たちは、朝廷の威光を天下に示すためにも大造営が緊急事であると天皇に奏上した。このためには多額の費用を要した。
朝廷は安芸《あき》、周防《すおう》の二国を国衙領《こくがりよう》とし、この租税を以て造営費に当てようとした。よくよく計算してみると、これでは不足だから、諸国の地頭以上の武士に命じて、年貢の二十分の一をさし出すように指示したばかりではなく、十町歩ごとに夫役一名を出すことを命じた。
この一方的なやり方に諸国の武士は怒ってそっぽを向いた。彼等には朝廷のやること為《な》すことすべて、実情を無視した暴挙に思われた。
朝廷は造営費用に当てるために紙幣を発行した。しかしこれは不評であった。銭は形があるが、紙幣は形がないものとして、折角朝廷が発行したのにかかわらず一般からは流通を拒否された。大内裏造営計画もたちまち費用調達不能という難関にぶつかった。
新政府のやることはすべて途中で頓挫《とんざ》した。それは天皇親政の基礎たるべき土地の国有化ができなかったからである。全国には荘園が多かった。寺社領もあった。荘園や寺社領を認めたことは、もはや土地国有化の理想を放棄したことであった。
建武になると、雑訴決断所の事務はふくれ上がるばかりであった。評定所の役人を増やし、八組に分けて事務処理に当たったが、間に合わなかった。一つの土地が荘園、寺社領、公家領、地頭領と四つの名義になっているところが出た。一つの土地の所有者が二人いるなどということは珍しくはなかった。
「こうなったら、実力で土地の所有者を決めるよりしようがない」
と武力で土地の奪い合いをやる者がでてきた。新政府に対する不満の声が高まった。武士が政治を執っていた時代をなつかしがる者さえあった。
建武元年の五月に武士を救うための徳政令が出た。土地を抵当にして金を借りていた者は、その金額の半分を返済すれば、土地は自分の手に返るという法令であった。だが、この法令は実際には通用はしなかったようである。新政府は国民から見放されつつあった。
世上の不安をよそに、京都は消費地として栄えた。人が集まって来るからだった。武士、町人、乞食《こじき》、浮浪人、ありとあらゆる階層が京都に集中してひしめき合った。犯罪が多くなった。押しこみ強盗の類が増えた。この中には明らかに武士の集団と見られる者もいた。
新田義貞を長官とする武者所は多忙になった。足利尊氏の指揮する奉行所もまた、連日のように悪者を捕えて、刑に処していた。
京都の治安は新田義貞や足利尊氏の努力によって一応は落ちついたように見えたが、それは見掛けだけであって、むしろ、大がかりな犯罪――十人、二十人と徒党を組んでの強盗事件は依然として続いていた。これを捕えるには、人数を要した。
数人の警邏の者ではかえって賊に殺されてしまうから、当然の処置として警邏の兵を増やすことになるが、広い京の町の中を警邏の兵で埋めることもできなかった。賊は警戒の網目をくぐり抜けるようにして強盗を働いた。
強盗は覆面をしていた。黒衣で覆面した強盗が強盗群の中でも特に悪辣《あくらつ》だった。彼等は人の命などなんとも考えてはいないらしく、まず押し入って人を斬ってから物を奪った。
京の町の人はこの賊を黒衣の賊として恐れた。新田義貞は足利尊氏に使者をやって、この黒衣の賊について武者所と奉行所で情報を交換し、協同して逮捕することを提案した。また双方共に、黒衣の賊専門の探索方を置くことも取りきめた。
新田義貞はこの探索方に大島義政の家来、糸井政勝を任命した。糸井政勝は大島義政の縁につながる者であったが、京都で生まれ京都で育った京都通であった。
糸井政勝は町人に変装して黒衣の賊の後を追った。まず被害にあった家に行って、生き残りの者から、情報を聞き取ることから始めた。それまでに黒衣の賊の被害にあった事件は八回ほどあったが、その家の者はほとんど殺されていて、賊の面体を見た者は居なかった。だが、丁寧に訊いて廻ると、近所の家で賊を見た者や、いち早く物置に隠れこんで賊の声を聞いた者などが現れた。糸井政勝はさんざん訊き廻って、それを整理して見た。
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一、事件は五条を挟《はさ》んで、その付近がもっとも多く狙われていること、
一、賊は隊伍を為して現れることはなく、一人、二人と寄り集まって来て、物かげなどに隠れこみ、様子を窺《うかが》いながら夜更けを待ち、突如として行動を起こすこと、
一、強盗を働いて逃げるときは、四散すること、
一、賊は篝屋《かがりや》の前をたくみによけて通っているところを見ると京都の地理に精通していること、
一、強盗事件の起きた当日か前日、又は前々日に、被害者の家の近くで喧嘩《けんか》が起きていたこと、その喧嘩口論をやった者はその近くの者ではないこと。
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糸井政勝は十日ほどの間にこれだけの情報を得た。これは大将の大島義政に報告され、更に義貞にも報告された。
物騒な世の中だから、商人の中には腕に自慢の者を何人か雇っている家もあった。賊はその下見のために、喧嘩、口論をやったのであろうと推測された。
この他《ほか》に賊の言葉使いは侍らしくもあり、そうでないところもあると報告された。町人や浮浪人の寄り集まりでないことだけは確かだった。
「黒衣の賊どもが強盗を働く前に、その家の前で喧嘩口論を必ずやるということになれば、賊を捕えるのはたやすい。喧嘩口論のあったところを重点的に警備すればよい」
と義貞は大島義政に言った。だが、実際に京都の町中で起こる喧嘩口論は一日に百近くはあった。そのうちのどれが、賊たちのなれ合いの喧嘩だか分からないから警備のしようがなかった。
更に十日ほど経った。この間に一件、黒衣の賊の強盗事件があった。糸井政勝はそこへ行って調べて見た。四条の米屋であった。まず表戸を破って押し込み、一家をみな殺しにした後で、米蔵から、米のほか金になりそうな物を奪って車に積んで逃げた。その家では一人残らず殺されていたが、隣家の番頭が蔀戸《しとみど》の隙間から賊の一人の面体を見ていた。賊の一人が覆面していた黒衣を取って、かぶり直したのを見たのである。坊主頭が月の光を反射して鈍く光っていた。
これは有力な情報であった。新田義貞はいままで掴んだ情報にこの新情報を添えて足利尊氏へ知らせてやった。
足利尊氏からはまことに有力な情報をいただいてありがたい、早速、僧衣をまとった不逞《ふてい》の輩《やから》について調査して、その情報をお知らせするから、貴方からも新しい情報があり次第通報されたいという返事があった。
更に十日経った。
糸井政勝が、耳よりな情報を持って来た。その日、六条で小者どうしの喧嘩があった。双方に助人《すけつと》が加わって一時は騒然とした。たまたまそこに通りかかった糸井政勝に、
〈あの男の顔を知っています。あれはいつぞや四条の米屋が強盗に襲われてみな殺しになった日のお昼ごろ、米屋の前で喧嘩をおっぱじめた男です〉
と囁《ささや》いてくれた男がいた。四条の米屋の隣家の油屋の番頭で、米屋が襲われた時、蔀戸の隙間から賊の一人が坊主頭であることを見ていた男だった。
政勝は、その小者の後を尾行した。小者は、しばらくは尾行を警戒している様子であったが、やがて朱雀《すざく》の大路を越えると、西の京へ入って行った。西の京はたびたびの戦火に焼かれて以来、長い間そのままになっていた。小者は神泉苑《しんせんえん》の近くの廃寺に姿を消した。
糸井政勝は物陰に隠れて二刻《ふたとき》(四時間)ほど監視を続けていた。その間、その廃寺に出入りした僧や僧らしくない風体の者はおよそ十名ほどだった。何れおとらぬ面だましいで、あたりを見廻しては廃寺に入って行くところを見ると、なにかよからぬことをしている者に思われた。糸井政勝は日暮れになってから、これを武者所の大島義政に報告した。武者所はにわかに緊張した。
武者所から奉行所へ伝令がとんだ。奉行所から武者所へまた使者が走った。武者所と奉行所は五条を境にして警邏区を別にしていた。六条は奉行所の縄張りだった。
奉行所の手の者によって六条|佐女牛《さめうし》八幡裏の酒造屋を中心として警戒の陣が張られたのは夜になってからだった。しかし、賊に知られたくない配慮から、酒造屋には人を入れなかった。酒造屋はまさか、その夜黒衣の賊が来るとは思ってもいなかった。酒造屋から数軒離れている家には、奉行所の者をあらかじめ入れてあった。
夜半になると賊は三々五々佐女牛八幡の境内に集まって来た。その数はおよそ二十五名ほどであった。すべて黒覆面をしていた。
一人の男が賊の大将格らしい男に言った。
「今夜は止《や》めて、このまま解散したほうがよいような気がする。どうもこのあたりの様子がおかしい」
「気のせいだ。そんなことがよくあるものだ」
と大将格の賊が言うと、
「気のせいだけではない。いつになく犬の吠え方がおかしいし、どこかに人がかくれているような気がしてならない」
しかし、賊の大将はこの言を取り上げなかった。賊は一団となって、酒造屋を襲撃した。賊の一団が、酒造屋の戸を打ちこわしにかかったとき、数軒置いた隣家の屋根に人の姿が現れ、鉦《かね》を打ち鳴らした。同時に近くの家の屋根では太鼓を打ち鳴らす者がいた。
「引け」
賊の大将は叫んだ。
賊はいっせいに散ろうとした。だがその時には、町の辻《つじ》々は篝屋の者たちで固められていた。鉦や太鼓の合図で、かねて手配したとおり、篝屋に待機していた奉行所の武士たちが出向いたのであった。賊は四方を囲まれ死に物狂いに戦ったが、半数は斬られ、半数は捕えられた。夜明け頃になって、民家に逃げこんでいた賊の大将が捕えられた。
「おれを誰だと思う。おそれ多くも護良親王様の右腕と称せられる殿《でん》の法印《ほういん》の手の者、法海《ほうかい》と申す者だ。われらを単なる押し込み強盗として捕えなどしたら、後がどうなるか分かっているか」
と賊の大将はがなり立てた。奉行所の武士はこれを聞いて笑って言った。
「ほざいたな、強盗坊主、後がどうなるか、お前自身が知っておろうぞ。きさまの首が六条河原にさらされるのは多分明日か明後日だろう」
捕えられた賊は奉行所に引立てられて、取り調べられた。ほとんどが僧兵上がりの坊主で、悪事を働き、寺から追放された者ばかりであった。もといた寺へ照会してもそのような者は知らぬという答えが返って来た。賊は翌日のうちに首を斬られて六条河原にさらされた。
そこに高札がかかげられ、物好きな京都の人が集まって来て高札を取り囲んだ。
六条河原にかかげられた高札には、
≪この者は、近ごろ都を騒がしていた、黒衣の賊の首領法海坊主である。法海は、護良親王に仕える殿の法印の手の者なりと自称しているが、殿の法印はこれを認めてはいない。念のために、この賊の言い分を明らかにして、ここにその首をさらすものである≫
最後に鎌倉奉行所と書かれていた。殿の法印をはじめとして、護良親王と共に都に出て来て、諸方の寺に起居している僧兵はおよそ千人あまりいた。彼等はこの高札を見たり、或《あるい》はその書いてある内容を聞いて、まるで護良親王に味方するわれ等の中に強盗の一味が居たような書き方である、と激怒した。
早速、殿の法印は奉行所に抗議を申し込んだが、奉行所は事実をそのままに書いたのだと言って、受付けなかった。
護良親王を笠に着て、僧兵たちが乱暴|狼藉《ろうぜき》を働くのは京都における悪い方の名物の一つになっていた。それと強盗事件とは直接関係はないが、悪僧どもを退治してくれたと言って、京都の人々は奉行所を讃《ほ》めそやした。奉行所の人気は増した。
護良親王は、この事件を以《もつ》て、尊氏の護良親王に対する挑戦と解釈した。もともと、足利尊氏に対して好感を持っていなかった親王は、
「尊氏は、天皇の許しも得ずに奉行所などを京都に設け、自由勝手に人を捕え、公式の機関で裁判も受けさせずに殺した上、さらし首にしている。このような上《かみ》を恐れぬ所業を敢てする尊氏は即刻討ち取るべきである。もし天皇自らそれができないというならば、わが軍の手で尊氏を討つであろう」
と、天皇に直談判《じかだんぱん》に及んだ。
親王は征夷《せいい》大将軍に任ぜられていたから、親王の命令一下で、すべての武士は思うがままに動かせると思っていた。
しかし、親王はその大軍を動かすまでもなく、まず親王が持つ僧兵を主とした親衛隊を使って、尊氏を討ち取ろうと考えた。
足利尊氏は三条万里小路から六波羅跡にできた奉行所まで毎日通っていた。供廻りはおよそ百人ほどだった。
親王は殿の法印に策を与えて、ひそかに尊氏の奉行所からの帰途を襲う計画を樹《た》てた。
だがこの日、武器を持った僧兵があまりにも多く四条の橋のあたりをうろつくので不審に思った奉行所の武士が足利尊氏にこれを知らせた。尊氏は、親王が天皇に尊氏討滅を奏上したことを知っていたから、その日は大事を取って屋敷には帰らず奉行所に泊った。
翌日になってから、実は親王の軍が尊氏を襲う計画があったのだと密告した者があった。足利尊氏は自衛手段を講じなければならなくなった。洛外《らくがい》に去っていた、尊氏の旗本が都に入って来た。奉行所は二千の兵によって固められた。
親王は尊氏襲撃をあきらめて、次の行動に出た。
建武元年の十月の終わりころになって、護良親王は足利尊氏討滅の令旨をかねてから親交のあった武将につかわした。天皇の許しを得たものではなく、宮の独断であった。
令旨を受けた赤松則村は楠正成と相談し、秘《ひそ》かに親王を訪れて、そのことが現在の情勢では無理であることを言上した。
「足利尊氏は天皇を尊敬し、臣下として働きたいと言っている。特に不穏の動きはない。また天皇も足利尊氏を信頼されている。そのようなときに事を起こせば、宮は天皇の御意志に叛《そむ》くことになります」
と楠正成が言ったが、護良親王は、
「天皇は尊氏にたぶらかされているのだ。尊氏は官許の無い奉行所を京都に開き、そこに軍を集めている。これが不穏の動きでなくてなんであろうぞ、今尊氏を討たねば悔いを千載《せんざい》に残すことになる」
と言った。
「なんと言っても足利氏は武士の頭に立っている人です。彼に兵を向ければ、再び争乱の世となるでしょう」
と赤松則村がいさめると、
「何れはそうなる。そうならない前に禍根は断たねばならぬ」
と親王は言った。二人がなにを言っても、聞こうとする気配はなかった。
「余は征夷大将軍なるぞ、そちらは武士である以上、黙って命に従えばよいのである」
親王は断言した。
「愚図愚図せずにさっさと帰り、直ちに戦さの準備をせよ、新田義貞にも、そのように申しつけて置いた」
新田義貞の名が出たから、赤松則村が、
「新田殿は令旨を受けられましたか」
と訊いた。
「受けるとか受けないとか言える身分ではない。征夷大将軍から既に令旨は発せられたのである。この場合、どうすればよいかぐらい義貞は、ちゃんと心得ている」
と言った。
新田義貞も護良親王の令旨を受けて困り切っていた。直接の原因は、奉行所が法海坊を処刑したという私怨《しえん》から起こったものであったが、親王が足利氏を警戒するのは北条氏滅亡以前からであった。足利尊氏をこのままにしておけば、第二の北条氏になるから、今のうちに殺せという考え方は、足利尊氏の次に殺されるのは、新田義貞ということにもなりかねない。義貞は、護良親王の考え方にそのままついてはいけなかった。義貞は船田義昌を楠正成のところへやって、それとなく聞いて見ると、やはり令旨を受け取って困り果てているという状況であった。
「ところで足利尊氏殿は親王が令旨を発せられたことを知っているだろうか」
義貞は船田義昌に訊いた。
「おそらくは知っているでしょう。その証拠に近隣の諸豪に御教書を発して、いつにても出撃できるよう準備をととのえています」
「困ったことになった」
と義貞はつぶやいたが、義貞としてもどうしようもなかった。
十一月になって、足利尊氏は、准后廉子を通じて天皇に護良親王の所業を証拠を添えて訴え出た。その中には、護良親王が京都の近くの武士に与えた令旨が三通も含まれていた。令旨を貰った武士は後難を恐れて、それを尊氏に提出したのであった。
准后廉子は護良親王が自分が腹を痛めた子でないこともあり、常々親王を煙ったく思っていた。その親王が、一年ほど前に天皇に対して、
〈万里小路藤房が姿をくらましたのは、彼が恩賞方頭人として、ようやくまとめ上げた結果を廉子殿の内奏によってたびたびくつがえされたのを嘆いたからだということです。政治に女の口出しはわざわいのもと、お慎みくださるように〉
と諫めたことがあった。それ以来、准后廉子は護良親王を目の仇《かたき》にしていた。尊氏から側近を通じて、護良親王の所業の数々が報告されて来たから、それに尾鰭《おひれ》をつけて天皇に内奏した。
「護良親王は、たしかに武芸に秀でたお人だと思いますが、慎しみがなさすぎると思います。悪僧どもを従えて京大路を暴れまわるばかりでなく、その末の者に強盗を働かせ、辻斬りなどして、無辜《むこ》の民を殺し、悪僧を処刑した足利殿の帰途を僧兵どもに襲撃させようとしたことを主上はご存知でしょうか。それだけではございません。今度は主上のお許しも得ずに令旨を出すなどということは、上を恐れぬ、主上の存在をないがしろにしている所業だと存じます。国を治めるには、まず主上自らが身のまわりをきれいにしなければならないと存じます。そうしないと武士たちは言うことを聞かないでしょう」
准后廉子は天皇に護良親王を遠ざけるよう進言した。
天皇は薄々は知っていたが、護良親王の独走がここまで来ているとは知らなかった。
翌朝天皇は側近の公家を呼んで、准后廉子の言葉が事実かどうかを下問した。また証拠の品として提出された親王の令旨がほんものかどうかもひそかに調べるように命じた。
公家たちは、令旨の真偽は別として、他のことはすべて事実であると答えた。
「なぜそれを朕の耳に入れてはくれなかったのだ」
天皇は公家たちを叱った。
天皇は吉田定房を呼んで、どうすべきかを下問した。
「令旨の真偽を正し、もしそれが親王の真筆だったとしたら、それこそ、由々《ゆゆ》しきこと、天皇をないがしろにして、私心をひろげようとするものとして、しかるべき処置を取られるほかはないでしょう」
と答えた。吉田定房も血の気が多すぎて、やたらと独走したがる、護良親王に厭気《いやき》がさしていたところであった。
「護良が辻斬りを働いたとは……」
天皇は親王が令旨を発したことよりも准后が内奏した、辻斬りをもっとも重大なことに考えていた。
護良親王が書いた令旨が真筆だと確かめられた時点で、後醍醐天皇は公卿たちの前で決断をせざるを得なくなった。
護良親王は王政復古にもっとも功績があった人である。自ら危険の中に身をさらして戦った人であった。天皇はその親王を遠ざけたいとは思っていなかった。しかし天皇を取り巻く公卿の中に親王を支持する者はひとりも無かった。
親王は、天皇の前で言いたいことをなんでも言う人で、人の感情などおよそ考慮するような人ではなかった。
〈天皇側近の公家はものの役に立たない愚か者ばかり〉
と親王が言ったことを根に持っている者もかなりいた。親王の激しい気性と、ものごとを心の中にしまって置けない性格が身の破滅を招いたとも言えた。
足利尊氏は護良親王が足利氏追討の令旨を発したことについて、天皇に回答をせまった。尊氏は、責任あるお答えがないならば、独自の考えによって行動するしかないという最後|通牒《つうちよう》を再び准后廉子を通じて天皇に内奏した。
足利尊氏が独自の考えがあると言ったのは、護良親王との間が交戦状態になるだろうということだった。こうなれば天皇もその渦中に入らねばならなかった。天下は大争乱になるだろう。天皇はそれを嫌った。
天皇は吉田定房と計って、毎年十一月の中の寅《とら》の日に清涼殿で行われる御前試《ごぜんのこころみ》の会宴に護良親王を召された。この会宴は公家たちを召して御酒を賜わる会宴であり、宴のあと、五節の舞いの試演があった。会宴も終わり、舞楽もとどこおりなく済んでほっとしたところで、護良親王逮捕劇が行われた。
護良親王は控えの間で供の者の到着を待っていた。そこへ天皇よりにわかなお召しがあったから、なにごとが起こったのだろうと立上がって回廊に出たところを、結城《ゆうき》判官と名和|伯耆守《ほうきのかみ》長年の手の者二十人あまりに取りかこまれて、捕えられ、馬場殿に押しこめられた。
親王は大声で、なんのためにこんな目に会わされるのかを問うたが、答える者はなかった。ただ一人、公卿の下人が、天皇の御申付けだと言っただけであった。
親王の身柄はそのまま鎌倉へ護送された。鎌倉に流せというのが足利尊氏の出した要求だった。尊氏というよりも、その家臣団の総意だった。
鎌倉には足利直義がいた。そこへ送られるということはもはやどうにも動きが取れなくなるということだった。
護良親王の事件は意外にあっさりと片づけられた。都の人たちは、これで都は静かになるだろうと話し合っていた。それほど、護良親王の取り巻きの僧兵は都の人に憎まれていたのである。護良親王の事件には、彼と親交があった、赤松則村も楠正成さえも口を出せなかった。非が親王側にあったからであり、親王に味方して、足利尊氏と戦わねばならない理由が、この時点ではなに一つとして無かったからであった。
建武元年は喧噪《けんそう》のうちに暮れた。
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護良親王の流刑については二つの資料がある、一つは南朝側(後醍醐天皇側)に立って書かれた太平記であり、もう一つは北朝側(足利氏側)に立って書かれた梅松論である。
太平記によると、親王は、侍法師の殿の法印良忠の手勢が京都で強盗を働いた際、これを捕えて処刑した足利尊氏の行為をかねてから憎んでいた。親王はいつか尊氏をこらしめてやろうと思っていた。この親王の家来には乱暴者が多く、武術の習練だと称して、毎夜京白河方面に出没して辻斬りを行った。
足利尊氏はこのことを聞いて三位の局《つぼね》(准后廉子)を通じて、最近の親王の所業を報じ、親王は帝位を奪うために諸国に令旨を発していると、その証拠を添えて訴えたので、天皇はひどくお怒りになり、親王を清涼殿の会宴に招いて捕え、流刑に処した、と書いてある。
梅松論の方は別の見方をしている。
兵部卿護良親王、新田義貞、楠正成、名和長年等はひそかに天皇の命を受けて、足利尊氏を討とうとしていたが、尊氏の軍勢に恐れをなして、手が出せずにいた。
建武元年の六月になると、護良親王はこれ以上我慢できなくなり自ら兵を率いて足利尊氏を討ちに出ようとした。その風聞が立つと、足利尊氏も自衛手段上、兵を集めざるを得なくなった。
足利尊氏は令旨の証拠を押え天皇に苦情を申し込んだところが、天皇は、これは護良親王が勝手にやったことで、叡慮《えいりよ》(天皇のお考え)ではないと言い切った。そして親王を捕えて流刑にした、と書いてある。
天皇は正中《しようちゆう》の変(正中元年、一三二四年)の時、討幕計画が失敗すると、これは日野|資朝《すけとも》、日野俊基両名のやったことだと称して逃げた。同じように、足利尊氏討滅の計画が明らかになったから、それは天皇の叡慮によるものではなく護良親王の独走であると言って、親王を犠牲にしたという解釈であろう。正中の変はこのとおりであったが、親政に入って早々に起きたこの事件の黒幕は天皇だという梅松論の見方は当時の実情にいささか合わないように思われる。私は、ここのところは太平記の見方を採用した。
この護良親王が事件を起こした当時の京都内部の事情を示す一例として『建武年間記』に載っている二条河原の落書がよく引用されている。その落書の冒頭には次のようなことが書かれていた。
「このごろ都《みやこ》に流行《はや》るもの、夜討《ようち》、強盗、謀綸旨《にせりんじ》、召人《めしゆうど》、早馬、虚《から》騒動、生頸《なまくび》、還俗《げんぞく》、自由出家《じゆうのしゆつけ》、俄大名《にわかだいみよう》、迷者《まよいもの》、安堵《あんど》、恩賞、虚軍《からいくさ》、本領《ほんりよう》離るる訴訟人、文書入れたる細葛《ほそつづら》、追従《ついじゆう》、讒人《ざんにん》、禅律僧《ぜんりつそう》、下剋上《げこくじよう》する成出者《なりでもの》、器用の堪否沙汰《たんぴさた》もなく漏《も》るる人なき決断所《けつだんしよ》……」
これを見ると、このころの京都はまったくの混乱状態にあったようである。こんな時に起こった事件だから足利氏と朝廷側との対立の激化と見るよりも、当時、「尊氏なし」という言葉が流行していたところから考え、足利一族は位を貰ったが、重要な役職にはつけなかったそのあたりの不満がこんな形で爆発したのではないだろうか。
天皇が護良親王を流刑にしたのは、尊氏の押しに負けたというよりも、将来をおもんぱかって見放したのではなかろうか。
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中先代の乱
元弘三年(一三三三年)五月、鎌倉幕府滅亡の際、諏訪盛高に背負われて、信濃国諏訪の諏訪頼重のところへ逃げていた、北条高時の次男亀寿丸は七歳となると北条次郎時行と名乗って姿を現した。建武二年の春だった。
諏訪頼重は諏訪神社上社の大祝《おおはふり》であり、同時に南信濃(諏訪、伊那の北部、佐久《さく》、小県《ちいさがた》)の領主として、信濃府中(現在の松本市)に居をかまえている小笠原一族と覇《は》を争っている豪族だった。
もともと諏訪神社は神代《じんだい》(上代)から、ここにあり、諏訪氏は神氏《かみうじ》として、一目置かれている存在であった。諏訪神社の支社も全国にあった。大祝は諏訪神社の祭神、建御名方命《たけみなかたのみこと》の統を引き継ぐ現人神《あらひとがみ》的存在として尊敬されていた。大祝の下に神官があった。大祝がこの地方の領主を兼ねることも上代からのならわしであった。
諏訪、伊那、佐久、小県地方は信濃においては米の取れるところであり、周囲が山にかこまれながらも、物資は豊かであり、古くから独立した文化が栄えたところであった。
諏訪氏は源頼朝に見出《みいだ》されて以来、鎌倉幕府の中で次第に実務派の武官としてその存在が知られるようになった。北条氏の代になると鎌倉における諏訪氏の存在は無視できないものになっていた。神氏という家柄にふさわしく、諏訪一族には代々文武両道に通じた人が出たので注目されたのであろう。
諏訪頼重は同族の諏訪一族の多くが鎌倉で死んだ時の状況と、諏訪|左衛門尉《さえもんのじよう》入道時光が最期におよんで諏訪盛高に残した言葉をじっくりと聞いた。
「北条氏は土台まで腐っていたのだから、亡びたのは止《や》むを得ないことだ。北条氏が亡びた後天下を取る者は、おそらくは足利高氏であろう。そうならない前に、ひとまずは、亀寿丸殿を旗頭《はたがしら》として、旧北条氏と縁ある者を集めて、鎌倉を落とし入れ、足利氏を追い、新田氏と組んで新しい幕府を作るように努力せよ。再び北条氏の時代を求めても無理だが、せめてその血統だけでも残すのが、われら臣下としての義務である。二年も待てば必ずその機会が来るであろう。その折は必ず、鎌倉に乗り込むように」
諏訪頼重は諏訪左衛門尉時光のこの言葉を充分に吟味した。
なによりも感心したことは諏訪時光が鎌倉に足利氏が入るということを予言して死んだことだった。
諏訪時光が旗を挙げよとすすめるのは、足利高氏を亡ぼすためであり、その後の天下のことは新田義貞と相計るようにと指示したのは、新田義貞こそ次代を担う人であるという推測であった。
諏訪頼重は、諏訪盛高等が鎌倉から諏訪まで逃げて来る道中、新田軍の庇護《ひご》を受けたという事実をも頭の中に入れて、時が来たら諏訪左衛門尉時光の遺言のとおりにしようと思っていた。彼は軍備を急いだ。
諏訪頼重はしばらくは鳴りをしずめていた。北条氏が亡び、その後にできた天皇による新しい政治の成り行きを見詰めていた。北条一族はもちろんのこと、北条時代に御家人であった者の土地は有無を言わさず取り上げられ、それが新しい支配者に与えられていた。一言の抗議もできなかった。
諏訪頼重に対しては、神社の社領は安堵《あんど》するが、社領以外は没収するという通知があった。没収されて誰の領地になるのかは、分からなかった。
京都から、ほとんど同時に二人の公卿《くぎよう》の家臣がやって来て、今後、諏訪の地はわれ等の主人の所有するところとなったから、そのように心得よと諏訪頼重に言った。
「土地は一つ、それを治める者は二人とはいかなることですか」
と諏訪頼重が答えたので、二人は土地が二重に分配されたことをはじめて知り、こっちが先だ、いやこっちの方が先だと言い争った。諏訪頼重は双方に適当に人をつけてやって、騒ぎを大きくし、結局は双方が力ずくの沙汰に及び、一方は傷つき、一方は死に、他の家来たちは、これを報告するために京都に帰ったままになった。
その事件から半年ほど経つと、今度はあまり風体のよくない武士の一団がやって来て、京都の恩賞方、洞院実世《とういんさねよ》の署名のある令書をうやうやしくおしひろげて、
「われらは、このたびの戦さで、後醍醐天皇にお味方して手柄を立てた、遠見三郎左衛門尉宗時ならびにその一族でござる。このたび恩賞方より諏訪の地拝領の令があったから、旧領主等は早々に立ち退くように」
と言った。
だがこの時期、京都にできた新政権の雑訴決断所《ざつそけつだんしよ》には諏訪円忠が評定員として出仕していた。円忠は諏訪左衛門尉の養子であり、実務者としての才能と、新田義貞の推薦によってこの職についたのである。京都の情報はこの諏訪円忠から諏訪頼重のところへ寄せられていた。
「恩賞方の洞院実世殿はここに書かれてある年、月、日には既に職を辞しておられ、その後を万里小路《までのこうじ》藤房殿が引き継いでいると伝え聞いているが」
と頼重が言うと、
「いや、なにしろ、京都はいろいろとごたごたしているから、そういう手違いもあろうが、われら一族が天皇より恩賞としてこの地を戴《いただ》いたことだけは事実である」
と遠見は言い張った。頼重が知らんふりをしていると、
「いや、諏訪の土地全部を寄こせというのではない。少なくともわれら一族が生活できるだけの土地が欲しい」
と本性をさらけ出し、いよいよ正体がばれると、旅費をくれと言うのである。
頼重は、この野武士らしい一団を、実力を以《もつ》て領外に追い払った。
更に時が経過した。京都の諏訪円忠から、今度こそ新しい信濃国の国司が出向して行くぞという知らせがあった。
信濃の国司として、清原左近少将真人が決まった。清原真人が国司となれば、寺社領や庄園を除く土地は国司の治めるところになる。諏訪頼重はその時のことを考えてみた。諏訪には新しく地頭が置かれるだろう。諏訪ばかりではなく、いままで信濃に先祖代々から土地を持っていた豪族にとっては、これを黙って看過ごすことはできないだろう。
諏訪頼重は国司来着と同時に信濃は乱れるだろうと予測した。その機会を狙って、亀寿丸を立てて、兵を挙げ、鎌倉に攻め込み、足利|直義《ただよし》を討ち取ろうと考えた。彼は人をやって鎌倉を偵察し、鎌倉までの経路についても、充分調べてから、ことを運ぼうとした。気になるのは小笠原貞宗の存在であった。小笠原氏は源氏の流れを汲《く》む一族で、甲斐《かい》から信濃に移って来てからは、付近を斬り従えて強大な勢力になっていた。従って諏訪氏と小笠原氏とはなにかにつけて相反した行動を取っていた。もし諏訪氏が国司来着と共に必然的に起こる混乱に乗じて旗を挙げれば小笠原氏は足利氏に味方して、諏訪を攻撃することは間違いなかった。
諏訪頼重に取ってみれば小笠原氏を釘付《くぎづ》けにして置かないと、鎌倉進出などというおおそれたことはできないのである。
頼重は北信の豪雄、保科《ほしな》弥三郎と結び、小笠原氏を討とうとした。保科氏は、小笠原氏によって領地をかすめ取られた遺恨があるから諏訪氏からの申出を快く承知した。
建武二年七月五日、信濃の新国司となって東山道を下向して来た、清原真人の一行、従者ともども五十余名は、伊那の山中で、山賊らしい一団に襲われて、国司以下全員が殺された。諏訪頼重はこの機会を利用して北条時行を擁立して、旗を挙げた。
この報が信濃各地に喧伝《けんでん》されると同時に、北条氏に縁があった者、現政権に不満を持っている豪族等がいっせいに立ち上がった。
諏訪頼重の挙兵はまたたく間に日本全国に知らされた。越後《えちご》の北部から会津にかけて勢力を張っていた葦名盛員《あしなもりかず》等が兵を率いて、越後を通り、北信濃から小県に出向いて来た。葦名氏はかねてから、諏訪神社と密接なつながりがあったからである。
諏訪頼重は、諏訪、伊那、佐久、小県の兵およそ二千ほどを率いて上野《こうずけ》との国境を越えた。このころ小笠原氏は千曲川河畔の八幡原で保科氏との間に激戦を繰り返していた。信濃の多くの豪族は諏訪氏につき、小笠原氏だけが孤立した。
葦名盛員等が越後、上野を無事通過して諏訪頼重と合流できたのは、越後に勢力を持っている新田氏が、彼等の通過を黙認したからであった。
諏訪頼重を総大将とする軍は新田氏の本拠近くに迫っても抵抗らしい抵抗を受けなかった。新田庄を義貞の代理として守っていた堀口貞義は諏訪軍に対し申しわけのような抵抗を示しただけですぐ退却した。
新田氏にとっては、鎌倉でわがもの顔に威張っている足利直義の存在がなんとしても目ざわりだった。そのような感情が、義貞の命令無くしても、自然に行動として出たのである。
諏訪頼重が北条時行を立てて、信濃で兵を挙げたことは、小笠原貞宗から、朝廷及び足利尊氏の両者に早馬で報告された。
≪諏訪頼重は信濃国司の清原真人を伊那の山中で暗殺し、これと同時に、北条氏とゆかりのある者を|使嗾《しそう》して兵を挙げた。このままに放置して置けばたいへんなことになるから至急討伐の兵を向けられたい≫
という内容のものであった。しかし、これとほとんど同時に、諏訪頼重からも、朝廷及び新田義貞に対して早馬で国司清原真人暗殺の件が報告された。
≪小笠原貞宗は足利氏と組んで、かねてから信濃一国をわがものにせんと計っていた。居城を信濃府中に設け、自ら国司同様のふるまいがあった。そこに朝廷からあらたに、国司の清原真人が派遣されると聞いたので、その途中を襲って、伊那の山中で殺してしまった。殺してから、その犯人は諏訪氏であるかのように見せかけたり、言いふらしている。わが諏訪氏が北条時行を擁して旗を挙げたのは、朝廷に対しての反逆ではなく、まずはこのような不法を働く小笠原一族をこらしめるためと、鎌倉にあって、この小笠原一族をあやつっている足利一族を討滅するためである。更にもう一つの理由は足利氏こそ、将来必ずや天皇をないがしろにし、天下を|掠奪《りやくだつ》せんとする不逞《ふてい》の輩《やから》だからである≫
朝廷は足利尊氏と新田義貞から同時に差し出された、この二通の書状をどう解釈していいか迷っていた。
天皇の周辺の公卿の或る者は、
(北条氏の再興以外になんであろうか。早いところ討たねば再び北条氏の時代がやって来る)
と恐れおののく者もいるし、
(いや、真実はどうであれ、このままにして置けば必ず近い将来足利氏が天下を取るだろう。それならば、諏訪氏の力を以て、足利氏を鎌倉から追出し、その後へ、新田義貞を入れたらよいであろう)
と言う者もあった。
そうこうしている間に、諏訪頼重を総大将とする大軍が上野に入り、新田氏の抵抗を一蹴《いつしゆう》して武蔵国へ向かったという報が入った。
朝廷はあわてふためき、諸国の豪族に軍勢の催促をした。
問題は追討軍の総大将として誰を派遣すべきかということである。
しかし、朝廷におけるこの論議はそれまでになく簡単に結論が出た。
(新田義貞は武者所の頭人である。当然のことながら、義貞を総大将としてこれに各地の武士をつけて、諏訪頼重を討たしめるべきだ)
武者所頭人は、新制度によれば、武士を管理する長官であった。
だが、新田義貞にこの命令が出された直後に、足利氏から朝廷に対して苦情が提出された。
このころ雑訴決断所の評定員として、辣腕《らつわん》をふるっていた足利尊氏の家来、高師直《こうのもろなお》が、諏訪頼重の旗挙げ及びその行動について新しい情報を提供した。
「このたびの諏訪頼重の乱には、会津の葦名盛員が兵六百を率いて参加している。彼は会津から越後を通過して上州に入り、諏訪軍と合流している。越後には新田氏の一族が多い。しかも、新田義貞殿はその越後介になられたばかりである。その新田氏が叛乱《はんらん》軍に参加した葦名盛員の通過を許したのはなぜであるか。越後ばかりではない、新田氏の自領である上野の国でも、葦名盛員の通過を許している。つまり、これは、新田氏が、暗に叛乱軍と通じていたと言われても、言いわけは立たないだろう。聞くところによると、新田義貞殿をこのたび関東に向けられるとのことだが、それこそ、虎を野に放つようなものである。おそらく、新田義貞殿は諏訪頼重と手を組み、鎌倉を落とし、そこに幕府を作るつもりであろう」
高師直のこの横車によって、朝廷はひとまず、新田義貞の派遣をさしとめた。
義貞は出立の用意をしていた。彼は単純に、諏訪頼重等を討とうと考えていたが、高師直等にこのように言われると、彼自らも一応は実情を調査しなければならなかった。
義貞は、内心では諏訪頼重の挙兵を快事だと思っていた。新田一族の血によって占領した鎌倉をなにもせずに盗み取った足利直義に対して義貞は当然のことながら不快感を抱いていた。できることなら、諏訪頼重等の手によって、直義が鎌倉から追放されればよいと考えていた。諏訪氏とのことはその後になって始末をつけようとしていたところへ、朝廷から、関東下向はもうしばらく成り行きを見てからにせよという達しがあった。
「公卿は、戦いというものを知らない。機を失すればすべてが水泡《すいほう》となる」
義貞はひとりごとを言った。
その夜義貞の屋敷を夜中訪れた者があった。奉行所の警邏《けいら》の武者の姿をしていたが、実は、足利尊氏が変装しての訪問であった。
「越後介(新田義貞の新しい官名)殿、この度、雑訴決断所において高師直が発言したことは、余が言わせたのではない。師直や直義はなにかというと、貴殿を目の仇にしたがる。そうしてはならないといくら教えても、心の狭い者はいたし方がないものだ。このたびの諏訪氏の挙兵には、越後介殿が関係していないことは、この尊氏がよく存じている。だが、このままにして置けば、直義は鎌倉から追出されるだろう。そうなれば、兄として弟を助けてやらねばならぬ。越後介殿、そのような場合になったら余が、関東に下向することを許して貰えないだろうか」
尊氏は辞を低くして義貞に頼んだ。
義貞は尊氏の申出をすぐには拒絶できなかった。夜中ひそかに現われての頼みには、いままでに見られなかった熱意のようなものが感じられた。
「越後介殿も、既に将来のことがお分かりになっていることと思われますが、天皇が理想とされている公卿一統の政治はもはや先が見えました。多くの公卿たちは無能です。有能な公卿は年を取り過ぎています。また日野資朝、日野俊基のような、頼み甲斐のある公卿は殺されました。公卿一統の政治に対する非難は国内いたるところで火の手を上げています。人々はむしろ、武家の政治を願っています。この度の諏訪氏の叛乱もその一つだと思いますが、如何《いかが》でしょうか」
言葉の内容はかなり激しいものであったが、話しっぷりは、おだやかであった。義貞の顔にそそぐ、視線も春の日ざしのように暖かであった。
「だが、天皇親政以来二年経ってどうやら新政権の基礎らしいものは見えかかったところです。公卿たちも、公卿一統の政治が無理であることに気がついて来たようだ。新しい政治をあきらめてしまうのはいささか早過ぎるように思われます」
義貞は立場上、そう言わざるを得なくなった。
「いや、だめです。彼等がわれわれ武家に疑心を抱いている限り、これ以上よくはなりません。私は離れるかもしれません」
尊氏は重大な発言をした。
「既に離れているのだから、これ以上離れたところで、どうということはないでしょうが……」
と尊氏はさらにつけ加えた。
離れるということは、新政権に楯《たて》を突くということだった。それはたいへんなことである。それこそ再び戦乱になる。その義貞の心の狼狽《ろうばい》を見て取って、尊氏はすかさず言った。
「私は越後介殿に、そのことについて、お願いに上がったのです。私が離れたら、貴殿も離れていただきたいのです。足利新田両家が足並みを揃《そろ》えているかぎり、戦乱は起こらないで済むでしょう。しかし、越後介殿が、離れずに残るということになると、必ず戦争になります。しかも、長いことそれは続くでしょう。そうは考えませぬか」
尊氏は、女のように白い顔を義貞に近づけて言った。
「私は新田庄殿が好きです。あなたとここにこうしていると兄と話しているような気がします。もともと新田氏と足利氏は兄弟だった。いまも兄弟であってもいいではないでしょうか、のう新田庄殿」
いままで、越後介殿と言っていた尊氏が急に新田庄殿と言い出した時から、彼の言葉は熱っぽくなった。彼は源氏は源氏どうし手を組んで行こう、公卿の道具として世を終りたくないとしきりに言うのであった。
義貞は返す言葉がなかった。
「新田庄殿は私の心を疑っているのですか。そうではないでしょう。心の中では賛成しておられるけれども、なにか実質的なものが欲しいと考えておられるのではないでしょうか」
尊氏は、そこでしばらく話すのを止めてから、充分頭の中で整理した言葉をゆっくりと述べた。
「鎌倉はもともと新田庄殿が治めるべき筋合いのところです。それを弟の直義に治めさせていることに新田庄殿が飽くまでも、こだわっておられるならば、私は鎌倉を新田庄殿にお譲りしてもよいと思っております」
「それは治部《じぶ》の大輔《たいふ》殿の本心ですか」
義貞は思わず、反問した。尊氏は現在従三位参議である。義貞がそうは言わず呼び馴れていた治部の大輔の呼名を使ったのは、尊氏が新田庄殿と呼んだからであった。
「それは本心です。だが鎌倉を新田氏が治めるようになったからと言って、源氏の嫡宗家が新田氏になったということではありません。源氏嫡宗家まで引っくり返すと、長い歴史まで否定することになります。そのことだけを承知していただけば、鎌倉を新田庄殿にお譲りしても私はかまいません。足利氏は全国に同族を持っています。どこにあっても、城を作り、人を集め、軍を発することができます。鎌倉にはそうこだわるつもりはありません」
しかし、と言いかけて義貞は言葉を中断した。
「どうしたのです。なんでもいいから、ここでは胸の中のものをさらけ出して語り合いましょう」
と尊氏が言うので、義貞は、鎌倉にいる矢島五郎丸からの情報を出した。
「直義殿は北条館の跡に御殿を建て、自ら副将軍を名乗って、関東に号令をかけておられるとのこと、その直義殿が簡単に鎌倉を去るでしょうか」
そう言うと尊氏は思わず深い溜息《ためいき》をついて言った。
「あれは困った弟です。しかし、いまのところ、この兄の言うことに飽くまでも逆うようなことはないでしょう」
「高師直殿はどうです。彼はそのことを承知するでしょうか」
「ああ、あれですか、あれは理が通れば納得する男ですから、それほど問題はないと思います。問題はむしろ、あなたの方にあります。まず、脇屋義助殿は、この取り引きに合意されますかな」
「取り引きと言うと……」
「諏訪頼重を、足利氏、新田氏が共同で討つべく、同陣するのです。そして諏訪氏の乱を取りしずめたあかつきには、鎌倉を新田庄殿にお譲りします。同時に足利氏、新田氏は共同して、後醍醐天皇に対し奉り、しかるべき皇子に譲位をなされるようおすすめ申し上げるのです」
尊氏がそこまで考えていたことは義貞にはまったく意外であった。義貞の頭が次第に下がって行った。
義貞は終《つい》に尊氏との同陣出兵を受諾した。
諏訪頼重の軍勢が利根川を越えて、新田義貞が鎌倉を攻め落とすときに通った道を一気に武蔵府中に向かって進軍を開始すると、付近の豪族で北条氏に縁がある者、諏訪神社にゆかりのある者、新政権に不満を抱く者どもが続々と戦列に加わった。
鎌倉府にいた足利直義は急を聞いて、渋川|刑部義季《ぎようぶよしすえ》と岩松兵部|経家《つねいえ》の両名にこれを迎え撃つように命じた。
渋川義季と岩松経家は武蔵国の安顕原(女影原)で諏訪頼重等を待ち伏せた。七月二十日のことであった。渋川、岩松両軍併せて、干五百ほどであり、諏訪軍は三千余であった。
岩松経家は物見を出して敵の様子を探らせると、
「敵は『諏訪南宮法性上下大明神』の軍旗を林のように押し並べ攻め寄せて参ります。その数は計り切れないほどでございます」
という報告があった。また、別の物見は、
「諏訪大明神の軍旗を見て、その下にひざまずき、従軍を願う者が、次々と出ております。諏訪明神は日本第一|大軍神《おおいくさがみ》と言われています。その大祝《おおはふり》が総大将ならば、これに向かって勝てる筈がありません」
と報告した。
「これは尋常な相手ではない」
と岩松経家はつぶやいた。北条高時の遺子北条時行を立てての単なる叛乱ではない。諏訪神社を前面に出しての進撃には人の力の上に神の力が加わっている。これは容易なことでは防ぐことはできないと思った。
渋川義季と岩松経家はこのまま戦っても勝ち目はないから、小手指原《こてさしばら》まで退いて小川|下野守《しもつけのかみ》秀朝の軍と合体して敵を防ごうと話し合った。
だが、渋川義季と岩松経家がそのように話し合っているうちに、敵軍の先方衆が女影原に向かって、押しかけて来た。その様子はまるで戦さを知らぬ集団の単なる移動に見えた。
「よし、敵の先方衆に打撃を与えてやれ、恐らくは、烏合《うごう》の衆だから、大混乱を起こすであろう」
と、諏訪明神の旗を押し立ててわっしょわっしょやって来るその先頭に雨あられと矢を射かけた。
だが、諏訪頼重の先方衆は乱れなかった。諏訪明神の旗手が矢に当たると、直ぐ次の旗手がこれを持って、諏訪明神の大太鼓を打ち鳴らし、わっしょ、わっしょと掛け声をかけて押しかけて来るのである。まるで、物に憑《つ》かれた大集団の死を恐れぬ行進だった。またたく間に岩松、渋川両軍は敵の集団の中に取りこめられた。
岩松経家と渋川義季は、なんらなすこともなしに自刃して果てた。神旗の津波に呑みこまれたような戦いであった。
その人の津波の中には武士らしからぬ農夫が、鎌や、竹槍を持っていた。諏訪神社の信者であった。諏訪神社の支社は関東各地に分布していた。その神社の信徒たちがこの戦さに加わったのであった。
諏訪大明神の神旗は、夜も休まずに動き続けた。太鼓の音も止むことがなかった。先方衆が疲れて休息すれば、それに変わる一隊が前に出た。入れかわり立ち替わって新手が前に出て、わっしょわっしょと道を急いだ。
渋川義季と岩松経家の両軍が、ろくな合戦もせず破られたという報が小手指原に陣を張っていた小川下野守秀朝の軍に入った時には、神旗を押し並べた大軍は近くまで来ていた。諏訪勢を中心とする大軍は小半|刻《とき》で、小川秀朝の二千の軍を押し包んで破った。秀朝は武蔵府中まで逃げて自刃して果てた。
諏訪大明神の神旗はここでも休もうとしなかった。いままでどおり、疲れた者は休み、休養を取った者が先に出て、神旗を前面に立てて進んで行った。
七月二十二日になって、足利直義は、武蔵国|井《い》の出沢《でさわ》まで来たが、津波のように進撃して来る、この奇妙な神旗軍には、とても勝てそうもないので、戦わずして鎌倉に退いた。
神旗軍はこれを追った。途中、佐竹貞義の軍が鶴見でこれを防ごうとしたが、またたく間に神旗の津波に呑みこまれた。
諏訪明神の神旗が鎌倉に入ったのは建武二年七月二十五日であった。諏訪で旗挙げをしてから僅か二十日の間に鎌倉を落としたのであった。
足利直義は、鎌倉から逃亡するに際して、薬師堂谷の御所におしこめられていた護良親王の処刑を淵辺《ふちべ》伊賀守に命じた。淵辺は郎党五人を連れて親王の前に出て、足利直義の命により宮の最期を見とどけに参りましたと言った。
宮は、それほど驚いた様子もなく静かに言った。
「覚悟はしていた。死ぬるのはそれほど嫌だとは思わない。しかし真実だけを知ってから死にたい。なにかことがあった場合、余を殺すように直義に命じて置いたのは天皇であろう。つまり、余は天皇の命によって死ぬのであろう」
淵辺伊賀守は、はじめのうちは、そのようなことは知らない、ただ、主人直義の命に従っているだけだと答えていたが、親王があまりくどく同じことにこだわるので、面倒臭くなったし、時を失すると、敵軍が攻めこんで来て自分たちの命が危うくなるので、
「実は、いざなにか変事があったときは、まず親王を殺せという天皇よりの命を受けていたということを聞き及んでいます」
と嘘をついた。親王は、そうか、やはりそうであったかと大きく頷《うなず》いてから、淵辺伊賀守に、自刃用の小刀を乞うて、その場で見事に自害した。淵辺伊賀守は親王の首を取り、その場に泣き崩れている親王の女御南方《にようごみなみのかた》に葬るように言い残して鎌倉を後にした。
諏訪軍がこの場に来た時には、親王の骸《むくろ》はそのままにされていた。親王の遺体はほど遠くないところに厚く埋葬された。
諏訪頼重の軍勢は鎌倉を攻略した。
足利氏とかかわりのある者は一人残らず、逃げ失せ、その家財などはそのままになっていた。浮浪者が入りこんで盗む間も無いほどの、にわかな交替劇であった。
頼重は鎌倉に来たことはあったが、地勢にはよく通じてはいなかった。やがて、京都方面からおしよせて来るであろう大軍をどのように防ぐべきかを主なる大将を集めて問うた。軍議が開かれたのである。
「鎌倉で戦うのは損だ。わが北条軍が新田軍を支え切れなかったのも、鎌倉という地形を信じていたからである。たしかに鎌倉は守りやすいように見えるが、鎌倉の町には何万という人が住んでいる。戦さが始まると、この人たちが足手まといになって、充分に軍を動かすことができない。鎌倉で戦うよりも、外で戦う方が有利だと思う」
と名越|式部大輔《しきぶのたいふ》が言った。彼は北条一族の生き残りであった。鎌倉最期の日に逃れ出て安房《あわ》に隠れてこの日を待っていた人であった。
名越式部大輔の出撃論には多くの人が賛成した。現に足利直義も逃げ出している。ここは守備に不適当と認められた。
「しからば、出《い》でて戦うことにする。どこで敵を迎え討つかをまず決めようではないか」
頼重は言った。
「それは箱根です。この険しい地形を利用し、城として防げば、足利氏がいかほどの大軍をさし向けて来ようとも、支え止めることができるでしょう」
と諏訪盛高が言った。盛高は鎌倉に長くいて、このあたりの事情に通じていた。だが、名越式部大輔は、
「攻めることが最上の守りであるという戦略上の言葉をおろそかにしてはならない。わが軍は、現在六千に近い。この人たちはすべて、北条氏が統治した世を慕って集まって来たものである。われらが勝ち戦さに乗じて、このまま東海道をおし上っていけば、沿道の北条氏にゆかりの者や今の政治に不満を持つ者はことごとくわれらに味方するであろう。このまま京都に攻めこんで、六波羅を再建することは、もはや夢ではない」
と言った。
「それは、少々甘い見方ではなかろうか、われらが、緒戦において勝利を得たのは、名越殿の言われるとおり、亀寿丸様、即《すなわ》ち北条時行様を戴いたこともある。しかし、おおかたは、諏訪神社の大祝諏訪頼重殿のお力と諏訪神社の神旗の威力である。それを無視しての楽観的な考えは、将来を危くするものだ。まずはともあれ、現実をよく見定めた上でことを運ぼうではござらぬか」
葦名盛員が名越式部大輔を睨《にら》みつけて言った。言葉の裏には、腹を切るのが怖くて、逃げかくれしていた、北条|得宗《とくそう》家の落ちこぼれ大将が、にわかに現れて、大口をたたくのに我慢ならないのだという気持ちが現れていた。
軍議は葦名盛員の一言でしんとなった。盛員に同感する者もあり、言い過ぎではないかと思う者もいた。
「どうしようと言うのか、まず貴殿の策を聞こう」
と名越式部大輔が不快を顔中に現しながら言った。
「私は奥州のことには明るいが、鎌倉から西のことには暗い。総大将の諏訪頼重殿の命を信じて、働くまでのことである」
葦名盛員が言った。
三浦介入道、三浦若狭五郎、那和左近大夫、清久山城守《きよくやましろのかみ》、塩谷民部大輔、工藤四郎左衛門など、北条氏の遺臣たちが、それぞれ発言した。
箱根以西で敵を迎え討つという点では一致したが、それから後については策はなかった。ひとまず箱根まで進出して敵の動きを見てから、策を立てるべきだという意見が多かった。
諏訪頼重は、結論を下した。
「兵二千を鎌倉に残して北条時行様をお守りし、他の者は鎌倉を出て、箱根に向かい、敵の動きを確かめてから行動に移ることにしよう。鎌倉にはこの頼重が止《とど》まることにし、箱根へは名越式部大輔殿が総大将として、早々に出発されるように。行動は軍議によって決し、けっして独断なされぬように」
と頼重は名越式部大輔に釘をさした。
頼重は自らが総大将として出向きたかったが、鎌倉を本拠と決め、ここに北条時行を置く以上、各地の軍勢が応援に来るであろうし、また不意に襲って来る者もあるかもしれない。諏訪頼重は鎌倉を出るわけには行かなかった。
名越式部大輔を大将とするのは、いささか心細かったが、他の諸将は戦さは強いが、家柄や率いている兵力など似たり寄ったりで、特に大将にふさわしい者はなかった。この場合、諸将をまとめるためには、やはり名門出の名越式部大輔しか居なかった。
「次に脇将を指名する。一人は諏訪時継、もう一人は清久山城守としたい。いろいろ言いたいことはあろうが、ここのところはこの頼重の言うとおりにして貰いたい」
副将に頼重の子時継と北条氏の家来だった清久山城守を指名したのは、諏訪時継は信濃及び諏訪神社と縁ある者たちの代表としてであり、清久山城守は北条氏に心を寄せて集まって来た者たちの代表としてであった。
軍議は決し、名越式部大輔を大将として編成された部隊は、鎌倉で糧食を充分にととのえた上、箱根へ向かった。鎌倉には足利氏が残して行った米蔵がそのまま残っていた。
名越式部大輔は、鎌倉を出て三里ほど行ったところで、全軍を小休止させ、大将たちを集めて言い渡した。
「今日よりこの名越式部大輔が追手の総大将であるから、各大将は余の命に従うように。まず、この戦さは北条氏再興のために起こしたのだから、諏訪氏及び、諏訪氏と特に関係ある者以外は、諏訪大明神の旗のかわりに北条氏の旗を掲げよ。そして、わが軍全体を呼称する際は、新北条軍と呼ぶことにする」
名越式部大輔はそのように命じた。
名越式部大輔は、鎌倉まで破竹の勢いで突進できたのは、諏訪神社の神旗を先におし立てての諏訪頼重の策がもっとも大きな力となったことを理解していなかった。勝利は北条の名によってのみ為《な》されたと思っていた。ここに重大な見当違いがあった。人々は神をおそれそして信じていた。諏訪明神は日本第一の軍神であり、武士たちが崇拝する神である。その軍神の神旗が林のように押し並んで来ると、それには弓が引けなくなり、たとえ射かけてもそれは威力のないものとなった。武士が戦さの神に反抗するなどということは許されなかったのである。
軍隊から多くの神旗が取り去られたその時点から、新北条軍の運の|つき《ヽヽ》は落ちたとも言えた。
箱根まで来たところで、新北条軍は諏訪頼重に言われたとおり、行進を中止して、物見を出し、箱根付近の地勢を偵察した。
箱根には二道がある。足柄峠を越える道と箱根峠を越える道である。
各隊から物見を出して、二つの道と峠を充分調べ上げた上での軍議が開かれた。
各大将は、敵はおそらく二隊に分かれて両峠へ向かって来るに違いないから、われ等も二隊に分かれて峠を守るべきだと主張した。
「わが軍勢は四千である。二隊に分けたら二千になる。敵がもし二隊に分かれず一隊となって箱根峠なり、足柄峠に攻めかかったらどうする」
と名越式部大輔が言った。
「その時こそ好機である。他の峠を守っていた一隊は急いで峠を越えて、敵の背後に打ちかかって挟《はさ》み討ちにすればよい」
と諏訪時継が地図を指して言った。
「それは信濃のような山国での小さな戦さにのみ通ずる戦法だ。こちらが四千なら、敵も四千、五千という大軍でやって来るだろう。しかもちゃんと後備えを固めておるだろう。そう簡単にゆくものではない」
そして、式部大輔は、いかにもしたり顔で、
「良き戦略というものは敵の意表に出ることである。敵は十中八九、われら新北条軍が箱根で待ちもうけているだろうと思いこんでいる。そう思いこんでいるうちに、われらは箱根を下り、伊豆、駿河《するが》、遠江《とおとうみ》と兵を進めるのだ。この地方には北条氏にゆかりのある者が多い故、味方の数は日を追うて増加し、敵が前面に現れるころには、おそらくは、万を越す大軍になっているであろう」
と言った。
「それは行って見なければ分からないこと。伊豆、駿河、遠江には源氏が多い。かえってわれ等の進軍をさまたげる者が現れるやもしれない」
と葦名盛員が反対した。軍議は箱根に止まるか、峠を降りて進軍するかについて議論されたが、論議半ばにして、名越式部大輔が言った。
「新北条軍の追手の総大将として余は全軍に箱根を降りて進撃することを命ずる」
諏訪頼重に独断は禁じられていたのに、名越式部大輔はそれを敢てしたのであった。
新北条軍は箱根を降りた。そのころから、新北条軍に自ら参加しようという者が少なくなった。道の近くの人たちは遠くに避けて軍の通過を黙って見詰めていた。
名越式部大輔の名において、地方の豪族や北条氏とゆかりある者に誘いをかけたが、出て来る者はなかった。
駿河に入って、物見を遠く出して見たが、敵の姿はどこにもない。戦争はもはや終わってしまったような静けさであった。名越式部大輔は、敵の姿のないことをいいことにして、このまま三河へ進入し、足利氏の一族、細川氏、吉良《きら》氏を討てば、遠江、三河の豪族はすべて新北条軍に参加するだろうから、このまま馬を進めようと言った。
工藤四郎左衛門がこれをおし止めて、この近くに、わが同族の工藤左衛門尉と申すものがおり、彼は足利氏のことをよく知っているから、まず、彼に会って、敵のことを探ってみようと言った。だが、工藤四郎左衛門が探り得たものは、工藤左衛門尉は、兵を率いて足利直義の陣に参加し、三河に行ったということであった。そうこうしているうちに、敵の物見を諏訪時継の侍大将|知久《ちく》頼景が捕えて尋問すると、足利軍は三河の矢矧《やはぎ》で、尊氏の軍を待ち、合流した上で、鎌倉に下向するということが明らかになった。
名越式部大輔はそれを聞くと、
「足利兄弟が合流すれば大きな力となる。今のうちに直義及び三河の足利軍を討ち破って置けば、後の戦いが楽になる。それ急げ」
と、全軍に命令して、大井川を越え、更に天竜川に向かった。
都では、諏訪頼重が諏訪明神の神旗を先頭に鎌倉に入ったという報に続いて、名越式部大輔が総大将となり、四千あまりの軍が西上中という報が届くと、後醍醐天皇をはじめとして、公卿や武士たちは色を失った。はやばやと京都から逃げ出す商人も出るほどだった。
足利尊氏は天皇に足利直義の救援と名越軍を討滅するために、軍を発することの勅許を奏上した。新田義貞も足利尊氏との約束があるから、足利尊氏と同陣で、鎌倉へ攻め下ることの勅許を奏上した。だが、朝廷は例によって公卿たちがより集まって評議ばかりを繰り返していて、さっぱりらちがあかなかった。
足利尊氏は機を逸すると、三河の足利直義軍が敗北することを恐れて、勅許を得ずに自ら軍を率いて京都を出発した。赤松軍がこれに従った。これを聞いた脇屋義助は兄義貞に、
「足利殿は出発された。足利殿との約束どおり、はや出陣いたしましょう。勅許など待っていたら、出おくれてしまいます」
とすすめた。義貞もそれに賛成した。だがその翌朝新田軍が出発する直前に、新田軍は京都守護に当たれという勅命が出たのである。
足利尊氏は勅許を待たずに軍を発した。だが新田義貞は勅命が出た以上、それに従うより仕方がない。勅命を無視して出撃すれば、天皇の意に逆ったことになると言って、京都に止まった。この時点を境として足利氏と新田氏は永遠の仇敵《きゆうてき》にならざるを得なくなったのである。
足利尊氏は足利直義の軍隊と合して総勢およそ四千となった。新北条軍とほぼ同数の兵力であった。
尊氏は数多くの物見を出して、新北条軍の動きを探った。彼等は既に大井川を越えていた。
尊氏は、足利軍一万がすぐそこまで来ている、という流言を新北条軍の行く先々に流して、その動きを牽制《けんせい》した。
名越式部大輔はこれを聞き、諸将を集め、
「しかるべき要地に陣を構えて、敵を迎え討とう」
と言った。だが、そこにいる者はみな、この地がはじめてだから、どこが要地やら、全く見当がつかなかった。土地の者に地形を聞き、その地方の絵図面を得て、ようやく、「小夜《さよ》の中山《なかやま》」あたりが陣を敷くのに適当であろうと判断した。
新北条軍はここに止まって、堀や柵《さく》を設け、陣地を構築した。
足利尊氏は物見を出して、この様子を訊《き》くと、
「この勝負はわがほうの勝ちだ」
と直義に言った。諏訪頼重の神旗に追いまくられて、いささか恐怖症にかかっている直義は、
「なぜわがほうが勝ちでしょうか」
と反問した。
「敵が守りの態勢を取ったからだ。いままでの敵は勝利以外は信じなかった。しかしここまで来て、敵は負けることもあると考えたから、陣を設けたのであろう。この陣がもし箱根あたりに設けられたら、わがほうは苦戦することになったであろう。しかし、このあたりは、わが領地も同様だ。地形もよく心得ている。それに敵兵は長旅で疲れている。勝負は一気に決着するだろう」
と尊氏は言った。
「だがしかし、敵には諏訪大明神がついています。あの神旗が押し出して来たら防ぎようがありません」
直義は諏訪大明神の神旗に追われたときの恐怖をまざまざと思い浮かべながら言った。
「神旗か?」
尊氏は一言言って考えこんだ。彼は神仏に対して強い信仰心を持っていた。彼にしても諏訪明神の神旗は怖かった。
「だが、物見の報告によるとその神旗の数は箱根を越えてから、半数以下になったということだ……」
と言いながら考えこんでいた尊氏はやがて、なにか思いついたように、急に明るい顔になって、家来の者を呼んで、
「遠江、三河地方にある諏訪神社の支社の神官たちを至急この陣に呼び寄せるように。丁寧に扱うのだぞ」
と言った。
「いったい兄者はなにをお考えですか」
と反問する直義に尊氏は、笑っているだけで答えようとはしなかった。
足利軍は小夜の中山に迫った。両軍はしきりに物見を出した。ここかしこで物見と物見が衝突した。
建武二年八月八日|卯《う》の刻(午前六時)足利軍の先方衆が、新北条軍の柵に攻め掛った。合戦は始まった。足利軍は、兵を盛んに交替させながら、各方面から新北条軍を攻め立てた。敵の手ごたえを見るための戦いで本格的なものではなかった。
戦いは午後になって激しくなった。
陣地の取り合いが始まった。このころになって、新北条軍の陣容が変わり、北条の旗が引き、かわりに「諏訪南宮法性上下大明神」の神旗をかかげた信濃の軍が表面に出て来た。それを見た足利軍の兵は、
「諏訪大明神の神旗だ。神旗だ」
と、口々に叫びながら後退を始めた。神旗にはとても敵《かな》わないと思う心がそうしたのである。足利軍は崩れ出した。
その時であった。足利軍の中から、太鼓を打ちならしながら、約一千ほどの新しい部隊が現れたのである。見ると、二人に一本の割合で、「諏訪大明神」の旗をかかげていた。
「諏訪大明神が味方に立たれたぞ、わが軍にも諏訪大明神の加護があるのだぞ、わが軍にも神旗があるのだぞ」
と口々に叫びながら、神旗を高く振りかざしながらその一隊が最前線に出たのである。神旗と神旗の鉢合わせであった。尊氏は僅か二日の間に数百本の諏訪明神の神旗を各地の諏訪明神の支社の神主を呼んで作らせ、これを戦線に動員したのであった。
崩れはじめていた足利軍が立ち直った。神旗と神旗の奪い合いが始まった。神旗を先頭にした諏訪一族が足利軍と激しい戦いをしている最中に、新北条軍の後方で鬨《とき》の声が上がった。新北条軍の後方に大廻りした、安保|丹後守《たんごのかみ》の率いる五百の決死隊が、名越式部大輔の本陣に斬り込んだのである。
式部大輔は、この奇襲に肝をつぶした。彼は、馬にとび乗ると、大井川に向かって退いた。
総大将が最先に逃げ出したのだから新北条軍はたちまち混乱に落ち入った。大井川まで退いたころには夜になっていた。彼等は夜にまぎれて川を渡った。
足利尊氏、直義兄弟の軍は、逃げる新北条軍を追った。
新北条軍は逃げに逃げて、箱根峠でようやく踏み止まった。
足利軍も、ここで一休みして、兵馬を休ませたが、翌朝には再び攻撃を開始した。しかし、この一休みしている間に、鎌倉から急を聞いて駈けつけた諏訪頼重の率いる一千の新手が足利軍の前面に立ちはだかった。名越式部大輔はここまで来る途中で、敵に討たれたのか、それとも、逃げ失せたのかその姿は消えていた。
諏訪頼重が総大将となって、箱根山を根城に足利氏の大軍を防ぐようになると、足利軍はいままでのようには行かなかった。
しかし、その防御も長くは続かなかった。山岳戦の上手な赤松|貞範《さだのり》が千人の兵を率い間道を通って湯河原に進出し、諏訪頼重軍の後方を襲ったことによって、遂に諏訪頼重は兵を引かざるを得なくなった。
「後は拙者におまかせあれ」
しんがりを自ら願い出た、清久山城守は、箱根峠で足利氏の大軍を支えて戦い、壮烈な討死を遂げた。
諏訪頼重は箱根の次には相模《さがみ》川を盾に足利軍を支えようとした。運よく味方が渡り終わったころから雨になり、やがて大雨となった。相模川は増水した。
両軍は川をへだてて対陣した。
諏訪頼重はこうして敵を支えながら援軍を待っていた。だが、足利氏優勢と聞いて、近くまで来て居た、地方の豪族等からは参加を見合わせる者が続出した。北条との縁があってこの戦さに参加しようと遠くからやって来た者も戦況不利と見て取って、さっさと引返して行った。そればかりではない。戦列から逃亡する者もあった。後は諏訪頼重を総大将とする信濃の兵と会津の兵だけになった。
相模川の守りは、赤松貞範の軍によって再び破られた。貞範が相模川の上流を渡渉して、諏訪軍の背後を襲ったからであった。
諏訪頼重は鎌倉へ向かって退いた。
腰越まで来たとき、葦名盛員が諏訪頼重に向かって言った。
「もはや、これまでです。私はここにて、敵を支えておりますから、諏訪殿は急いで鎌倉に入り、心静かに最期を遂げられるように」
盛員はそう言い残して腰越に踏み止まって戦った。多勢に無勢であり、成り行きは決まっていた。やがて、味方は討たれ、彼もまた十人の敵に囲まれたとき、盛員は、会津武士の死に様を見よと叫んで、立ったまま、腹を切って死んだ。
諏訪頼重とその子諏訪時継は残り少ない兵を率いて、鎌倉の大御堂に入った。数えると四十三人であった。
頼重は、こういうこともあろうかと、北条時行を秘《ひそ》かに伊豆の隠れ家へ送りこんで置いた。大御堂の中は夜のように暗かった。
諏訪頼重は家来の矢島満義に、
「われら四十三人が自刃して果てたら、それぞれ顔の皮を剥《は》いで誰が誰だか、分からないようにせよ」
と命じて、自刃した。
一刻ほど経て、大御堂に入って来た足利尊氏は、恐るべき酸鼻さを見て身震いをした。
時に建武二年八月十九日であった。
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諏訪頼重が北条時行を擁しての旗挙げは新政権に参加しているすべての人に取って全く意外なことであったに違いない。
頼重が挙兵したのは建武二年の七月のはじめだったが、丁度一カ月ほど前に兵部卿権大納言西園寺|公宗《きんむね》が、後醍醐天皇暗殺の陰謀を企てたという科《とが》で処刑された。
公宗は持明院統の公卿であるから、どちらかというと北条系の公卿であったので、新政権になってからは公卿としては日陰者として暮らしていた。
公宗は北条高時の弟の時興《ときおき》を立てて、再び北条の世の中にしようと計り、全国の同志に檄《げき》を飛ばした。だが、公宗は実弟の密告によって、捕われて斬られた。
諏訪頼重の挙兵はこの西園寺公宗事件と関係があるという学者もいるが、実際にはそれを証明するようなものは何一つとして残っていない。建武二年になると、各地に不満分子による騒乱が起きているところを見ても、このような事件が起こる下地は充分にあったのであろう。
諏訪氏が小笠原氏を制して、上野から武蔵へ進出し、破竹の勢いを以《もつ》て鎌倉を占拠したその行動力はまさに奇蹟《きせき》とも言えた。
一般には北条氏の遺臣及び北条氏につらなる者や新政権に不平を抱く分子が寄り集まっての反乱のように解釈されているが、この乱の中心は北条時行でなく、諏訪頼重であることに間違いない。
諏訪神社大祝頼重の下に集まった者の多くは、諏訪神社系列の豪族であった。当時全国に三千もの支社、分社、末社を持つ諏訪神社の信仰上の力がこの戦いで発揮されたことは疑いのないところである。
新田氏と諏訪氏が事前に気脈を通じていたという証拠はないが、この事変後、諏訪氏が南朝について、新田氏と連絡を取りながらの活躍から判断すると、どうも諏訪氏と新田氏とは、このころから何等かのつながりがあったように思われる。
諏訪頼重が起こしたこの乱は中先代の乱と呼ばれている。北条氏を先代とすれば、足利氏が後代であり、その中間において、僅かな期間ながらも鎌倉を制覇《せいは》したから、中先代と呼んだのである。
北条時行等が鎌倉にいたのは僅か二十余日であったので、二十日先代と呼ぶ人もある。どちらにしても、鎌倉を制覇することが当時においていかに重要な意味を持っていたかを示すものであり、たった二十日余であったにしても、諏訪頼重は鎌倉を制覇していたのだから、天下を取ったと同じような気持ちであったであろう。
足利尊氏が勅許を待たずして出撃したのも、この機会を利用しなければ再び鎌倉へ行くことができないと考えたのであろう。鎌倉へ入ることはそこに幕府を再建することであった。
足利氏も新田氏も天下を望むすべての武将はこれを狙っていたのである。
[#ここで字下げ終わり]
箱根・竹ノ下の合戦
足利尊氏は鎌倉に入ると、早速、恩賞の処置を始めた。中先代の乱を平げるに当たって功があった者には、足利氏の所領となった相模、武蔵などのもと北条一族の土地で、その後所有者が決まっていないところを与えたり、位官を朝廷に上申したりした。そこまでは常識どおりであったが、広く関東一円に布令を出して、今度の戦いにおいて、足利氏に敵対した者であっても前非を悔いて将来のことを誓う者は罪を許してやるばかりでなく、その所領をも安堵してやると言い渡した。
この懐柔策は功を奏した。
一族を引き連れ献上品を持って鎌倉府を訪れる者が引きも切らぬほどの有様になった。
尊氏は悦に入っていた。
尊氏の御機嫌伺いに来る者は、例外なく将軍という言葉を使った。尊氏はそう言われると、いかにも嬉しそうな顔をした。鎌倉にあって事実上の征夷《せいい》大将軍にでもなったようであった。
八月三十日になって、尊氏は弟直義にすすめられて、斯波家長《しばいえなが》を奥州管領に任命した。鎌倉将軍府長官|成良《なりなが》親王の名においての任命であった。
鎌倉将軍府は関東十カ国の統治を朝廷より認められていた。これは鎌倉幕府時代の制度をそのまま踏襲したに過ぎなかった。だが奥州管領を任命する権限はなかった。
奥州の多賀国府には陸奥《むつ》将軍府がおかれ、ここには、義良《のりなが》親王を奉戴して、陸奥守|北畠顕家《きたばたけあきいえ》とその父|親房《ちかふさ》がいた。奥州管領がもし必要ならば、それは陸奥将軍府が決めるべきであった。従ってこの任命は公にはなんの意味もなく、足利氏内部だけに通用する、奥州方面に対する軍事的機関とでもいうべきものであった。だが非公式にしても、奥州管領などという名称はおだやかではなかった。
朝廷では、鎌倉へ行ったまま、このような勝手なことをしている足利尊氏に神経をとがらせた。なにはともあれ、足利尊氏自身を至急京都に呼び戻すべきであるという意見が多くなった。
九月に入って早々帰還せよという勅命が尊氏に発せられた。そして、それだけでは不安だから、天皇は勅使中院|蔵人頭《くろうどのとう》中将具光朝臣を鎌倉へ送った。
足利尊氏は勅使を迎えて恐懼《きようく》した。彼は勅使を手厚くもてなし、すぐに鎌倉から離れることのできなかった理由を説明し、よろしく天皇に取りなすようにと願った。勅使の具光朝臣は足利尊氏の日夜を分かたぬもてなしぶりに、すっかり機嫌をよくし、多くの贈り物を貰って京都へ引き返すと尊氏はもうすぐ京都へ帰って参りますと奏上した。
しかし十月になっても尊氏は鎌倉を出発する様子がないので、朝廷は再び勅命によって尊氏を京都へ呼び戻そうとした。
尊氏もそれ以上勅命を無視するわけには行かず、十月半ばになって、京都へ帰ると言い出した。言い出すときかない尊氏であった。
足利直義は兄の尊氏を諫《いさ》めた。
「京都は危険です。護良親王がわれらを殺そうとしたことをよもやお忘れではないでしょう。京都には、新田義貞がいます。義貞こそもっとも油断ならない人物です。彼は天皇の寵《ちよう》をいいことにして、なにをしでかすか分かりません。いましばらく鎌倉にあって、武力をたくわえ、京都に上るとしても、彼等と戦って勝つだけの用意をして行かねばならないでしょう」
直義の次には高師直《こうのもろなお》が来て同じようなことを言った。
尊氏は弟や家臣たちが口を揃えて反対するのに、自分一人だけ京都へ帰るとは言えなかった。
「では、もう少し様子を見ようか」
と尊氏は鎌倉に腰を据えた。
尊氏が鎌倉に腰を据えたと見ると、弟の直義は高師直と計って、西国、四国、九州方面の足利氏とゆかりのある豪族たちに、御教書《みぎようしよ》を発送した。
≪新田義貞は少しばかりの手柄をよいことにして、天皇に近づき、よからぬことを奏上して、世を乱そうとしている。われらは、君側の|奸《かん》を除かんがために旗を挙げようと思う。みなみなの者も軍をととのえ、いつにても馳《は》せ参ずることができるように準備をおこたらぬように≫
足利直義と高師直は、朝廷が足利氏の存在を煙たがっている以上、必ずや近いうちに朝廷を相手の戦争が起こることを見越して先手を打ったのである。
尊氏には無断であった。西国、四国、九州の豪族の中で、朝廷側に付こうと思っている者はこの御教書を早馬を立てて京都に送り、身の潔白を明らかにした。
朝廷は大きな衝撃を受けた。だが足利尊氏の謀叛《むほん》はかねてから或る程度は予測されていたことでもあるので、うろたえ騒ぐようなことはなかった。
このことが天皇に奏上されると、
「尊氏は朕を裏切ったのか」
後醍醐天皇は証拠を見せつけられた時悲しそうな顔をした。
天皇は、もともと足利尊氏を他の公卿たちが気にするほど警戒してはおらず、使い方はむずかしいが、叛《そむ》くようなことはないと思っていた。結果から見ると護良親王の言が正しかったことになり、反尊氏を強烈に打ち出した護良親王をしりぞけたことが大きな悔いとなって残った。
朝廷が足利氏に対してどのような手を打つべきかを協議しているところへ、鎌倉の足利尊氏からの早馬で上奏文が届いた。内容は新田義貞を徹底的に誹謗《ひぼう》したものであった。
≪われらが京都に帰らぬのは、新田義貞が、われらの不在中に、京都付近の武士と計って、もしわれらが京都へ帰ったならば直ちにわれらを殺そうと企んでいることが分かったからであり、決して勅命に叛いて、ここに滞在しているのではない≫
という趣旨のものであった。直義等は、賊軍の汚名をのがれるために、当面の敵を新田義貞にしたのであった。
義貞としては全く迷惑千万なことであった。しかし、これによって足利尊氏との訣別《けつべつ》の日は意外に早くやって来た。
建武二年十一月半ばになって朝議が決定した。天皇は新田義貞を紫宸殿《ししんでん》に召して、大臣、参議、八省百官の居並ぶところで、彼を朝敵追討の大将軍に任じ、官軍旗の他、太刀、軍鈴、軍鉦、軍鼓などを下賜された。
この日新田一族の主なる者が義貞と共に参内した。新田庄の生品《いくしな》神社で挙兵したときは、官位のない地方武士であった彼等は今はことごとく官位を与えられていた。
新田義貞は紫宸殿を下がると、直ちに船田義昌に命じて、二条高倉の尊氏の邸に向かわせ中門の柱を切り落とした。既に尊氏の邸は無人となっていたが、これは足利尊氏に対する宣戦布告の儀式であった。
義貞は中門が崩れるのを遠く眺めながら、あれほど固く約束した尊氏が、自ら信頼を裏切って、この自分を君側の奸に仕立て上げようとしたのはなぜであろうかと考えていた。
(尊氏とはもともとそのような男であったろうか)
義貞は尊氏の元服の式のときのことを思い出した。彼は並みいる客の前で、急にげらげら笑い出したり、副臥《そいぶし》の女を義貞に与えて置いて、翌朝、取り返しに来たりした、一風変わった少年であった。長じてからも、その風はどこかに残っていた。夜陰ひそかに義貞を訪れて、源氏同士手を握ろうと言ったのもつい最近のことである。
義貞は、この尊氏の陰陽二重の性格に思いを馳せていた。ひょっとしたら今になってもその性格は変わらないのではないかとも考えた。
(それとも、すべて弟の直義の画策か)
そのようにも思われるのである。
「だが、たとえなんであれ、もはや、足利氏と新田氏は手を取り合うことはないだろう」
彼は口に出して言った。
新田義貞が朝敵追討の大将軍に任ぜられたという報が鎌倉に伝えられたとき、尊氏は食事中であった。彼は驚きのあまり箸《はし》を落とした。
「いったい、なぜ余が賊軍になり、義貞が官軍の大将軍にならねばならないのだ」
尊氏は直義や高師直等を呼んで言った。
「それこそすべて義貞の計略です。わが足利氏を亡ぼし、天下をわがものにせんとする、彼のやましい心から出た行動です」
直義が言った。
しかし尊氏ははげしく首を横に振って言った。
「違う。そんなことはない。こうなったのは、すべて直義、お前等の仕組んだことだ。お前たちが余にだまって、御教書を西国、四国、九州方面にばらまいたり、新田氏誹謗の上奏文を余に無断で天皇に奉ったからだ」
尊氏は叫ぶように言った。
「すべては足利氏のため、兄上のためにしたことです、お許し下さい」
しかし、尊氏は黙っていた。直義や高師直が、陰でなにをやっていたか、知っていながら知らぬふりをしていた自分の愚かさを反省していた。
尊氏の紅潮した顔が次第に平静にもどって行った。
「すべては余が不明のためにこのようなことが起こったのだ。お前たちが足利氏の将来のためを思って、西国、四国、九州方面に御教書を発したり、新田義貞の弾劾《だんがい》状を書いたことは知っていた。知っていながら、それを止めさせなかったのは、余もまたお前たちと同じように武家の統領としての足利氏の家柄を大事に考えていたからである。しかし今、朝敵の汚名を着ると、じっとしてはおられないほど心苦しい。天皇に対する尊敬の念にひびが入ろうとしているからである。余は家を守りたい、しかし朝敵とはなりたくない。この予盾した二つの気持ちをそのまま抱いて今日に至った。つまり余は、どっちつかずの愚か者である。こんなことではとても、武家の統領などと言ってはおられない」
尊氏はしんみりした口調で言った。
「お館《やかた》様でなくとも、いまのようなお立場になれば誰でも、そのように考えるでしょう。迷うのはごもっともです。だからわれらがお館様をおたすけ申して事を運んでいるのでございます」
高師直が言った。
「迷っていると言えば体裁はいいが、実は、決断力のない愚か者なのである。天皇に対しては良き臣であり、武家に対してはよき統領でありたいなどと虫のいいことを考えているから、とうとう朝敵になったのだ。余は先を見る目のない男だ」
尊氏がしきりに自分自身を責めるのを聞いていた直義がたまらなくなって言った。
「こうなったからには覚悟をなされませ、朝敵の汚名を返上するには、まず新田義貞の軍に打ち勝つことです」
「いや、余は朝敵の大将とはなりたくない。そうなるくらいなら坊主にでもなったほうがいい」
「なにを言われます。兄上が坊主になったら、誰が足利氏を率いて、新田義貞と戦うのです」
「直義、そちが余のかわりになれば、それでいいではないか。とにかく、余は朝敵になるのはいやだ」
尊氏は、朝敵になるのは、いやだから、朝廷に恭順の意を示し、許しを乞いたいなどと言い出した。
「わが源氏は代々天皇に対して忠義を尽くして来た。余の代になり、朝敵となったとあっては、先祖に申しわけが立たない。余は源氏の歴史に泥を塗るようなことをしたくないのだ」
尊氏はそう言うと、つと立上がり、そのあたりを歩き始めた。朝敵にはなりたくない。天皇に弓を引くのは嫌だ。その言葉が尊氏の唇から連続して洩れていた。家臣たちは、しばらくは黙って見詰めているよりいたし方がなかった。
「あとは直義にまかせて余は坊主になるぞ」
尊氏ははっきりそう言うと、庭に出て、馬にまたがり、行先も言わずに駈け出してしまった。
建長寺に馬を乗りつけた足利尊氏は、そこにいた寺僧に、はや剃髪《ていはつ》の用意をせよと言った。寺僧がこれを建長寺貫主に告げたので、大騒ぎとなった。足利直義や高師直が駈けつけたが尊氏は寺の一室にこもったまま会おうとしなかった。尊氏の側近に仕えている須賀左衛門が襖《ふすま》の隙間から覗《のぞ》くと既に尊氏は元結を切ってざんばら髪になっていた。須賀左衛門は、しばらくどうしてよいかを考えた末、直義と師直にこのことを告げ、
「このままに放《ほう》っておかれると、お館様は必ず剃髪なされるでしょう。その前に打つべき手が一つだけあります。家臣一同が元結を切って、お館様に同道する真心を示し、もしお館様が僧となるならば、家臣一同揃って剃髪して伴僧となる覚悟でございますと申し上げましょう。お館様との話し合いはそれからです」
と言った。緊急の場合であった。そうでもしないと尊氏の心をひるがえすことはできないと彼は力説した。
「止《や》むを得ない」
まず直義が元結を切り、次に高師直が切った。主なる家臣二十人ばかりが元結を切って、襖を開けて尊氏の前に進み出て平伏した。
「なんだそちたちは」
尊氏ははじめて口をきいた。建長寺へ来てから二刻は経っていた。
「すべてが、われらの落度でございます。われらもお館様と共に剃髪して僧になるつもりで参りました」
と直義が言った。
「ばか者、そちたちまでが坊主になったら、足利氏はどうなるのだ」
尊氏は満座を見廻して言った。
「多分、新田義貞に亡ぼされてしまうでしょう」
と高師直はかしこまって言った。
「ならぬ、坊主は余一人だけでよい。後のことは直義にまかす。他の者は足利氏のためにはげんでくれ……」
尊氏はそう言いながら家来たちのざんばら髪の頭を眺め廻していたが、やがておかしさがこみ上げたのか、突然笑い出した。
「思い止《とど》まってくださいますか」
直義が言った。
「いや、思い止まりはせぬ、余は坊主になる」
尊氏はそう言ったが、いままでのような切迫感はなかった。
「坊主になっても、朝廷はお館様を殺すでしょう」
高師直は、ただいま信濃の小笠原貞宗から届けられたばかりですと言って一枚の布令書を尊氏の前に置いた。
≪足利尊氏が天皇に叛いて乱を起こしたので、朝廷より追討軍を向けた。なにびとと言えども足利尊氏の味方をしたり、かくまってはならぬ。たとえ尊氏が僧に身を替えていたとしても、必ず討ち取って手柄にせよ。尊氏の首を取った者には、恩賞は望むがままに与えられるであろう≫
という内容のものであった。
尊氏はそれを読んで、唸《うな》った。
「既にここまで来たのか」
尊氏は自らの膝《ひざ》に両手を置いて深い溜息《ためいき》をついた。その布令書は高師直が作ったにせものであることを尊氏は知らなかった。
尊氏はしばらく考えていたが、
「ここまで来たら、いやもおうもなく新田義貞と戦わざるを得ないだろう。おそらくは大介殿(新田義貞)も同じような気持ちでいるだろう」
とつぶやくように言うと、元結を切るときに使ってそのまま置いてある鋏《はさみ》を指して、須賀左衛門に言った。
「その鋏で、髪をこのあたりで切り揃《そろ》えてくれ」
尊氏は髪の処置が終わると、そこに居並ぶ家臣たちの間をくぐり抜け、寺の庭に出て、そこに立っていた僧たちに、
「面倒を掛けてすまなかったな」
とひとこと言い残すと、突然走り出した。彼は一気に寺の庭を駈け抜けて境外に出ると、
「馬を引け!」
と大声を上げた。
家臣たちは尊氏の後を追って、同じように寺の庭を走り抜けて門の外に出た。
髪の元結を切りざんばら髪になった武士たちが揃って駈け出すその有様に僧たちはただただあきれ返るばかりであった。
尊氏は館に帰ると、さっさと居室に入り、真先に右筆《ゆうひつ》を呼んで、近江《おうみ》の佐々木|道誉《どうよ》宛てに書状をしたためさせた。
≪間もなく新田義貞が大軍を率いて、近くを通過するだろう。その際は、一応は手向かいをして、程よいところで降参し、鎌倉追討軍に加わるように。おそらく、足利軍の主力と鎌倉追討軍の主力が衝突して大きな戦さになるのは、箱根のあたりになるだろうが、そうなった時は、機を見てわが方に|叛《かえ》り、新田軍に攻めかかるように。さすれば、勝利は必ずや、われ等がものとなり、そこもとの武門のほまれはもとより、恩賞は比類ないものとなるだろう。この足利尊氏を信じ、夢々疑うことなきように念のため申し添える≫
という内容の密書であった。
右筆がこれを書き上げると、尊氏はそれに署名し、高師直を呼んでそれを読ませ、この書状を至急に佐々木道誉に届けるために、でき得るかぎりの手を尽くせと命じた。そのように言うときの尊氏の顔はいくらか紅潮していた。ついさっきまでは、坊主になると言っていた尊氏は、今は佐々木道誉宛てに密書を送ろうとしている。この変わりように高師直は、驚き以上のものを感じた。
「直義《ただよし》はおらぬか、直義を呼べ」
その師直を尻目に尊氏は大声で直義を呼んで、
「そちは気の利いたる者共を連れて、箱根山へおもむき、敵の大軍を支えるには、どうしたらよいかを、念を入れて調べたうえ、早速、防禦《ぼうぎよ》の策を講ずるのだ。急げよ、急がないと新田義貞がやって来る。大軍を支えるには箱根以外にはない。箱根が落ちたら鎌倉も落ちる」
尊氏の声にはいつになく張りがあった。
足利尊氏は、弟の直義に箱根に守備陣をかまえるように指図する一方、駿河、遠江、三河方面の足利一族に対して新田軍を迎え討つ準備を命じた。
しかし、細川、吉良等の足利氏一族を総動員したところで、せいぜい二千そこそこである。新田義貞を大将とする官軍はその三倍以上もあるに違いない。とすればとても勝ち目はない。だから、尊氏は死守せよとは申しつけず、適当にあしらいながら官軍を箱根の要害に引きつけようと計ったのである。
足利尊氏は、高師直をこの方面にやって、指揮に当たらせた。
尊氏はあらゆる手を考えて、味方の軍を集める一方では、中間的存在の土豪、豪族等に、この度の戦さは、足利、新田間の争いであって、決して、足利軍は賊軍と呼ばれるようなものではないことを宣伝した。賊軍でない証拠には、足利軍には、成良《なりなが》親王が総大将としておられることを明らかにし、親王の令旨《りようじ》をも添えて、身の潔白を言い立てた。尊氏は賊軍にされることを飽くまでも嫌っていたのである。
新田義貞の征討軍にも、やはり親王がいた。後醍醐天皇は、尊良《たかなが》親王を上将軍《かみのしようぐん》とし、数人の公卿《くぎよう》をつけて進発させることにした。また天皇は、早馬を飛ばして、陸奥《むつ》将軍府の北畠顕家《きたばたけあきいえ》へ綸旨《りんじ》を送り、陸奥鎮守府将軍に任命し、義良《のりなが》親王を奉じて、至急鎌倉へおもむき、足利尊氏を討つように命じた。
ここに、成良親王、尊良親王、義良親王と三親王がそれぞれ、違った立場に置かれたまま合戦に臨むことになったのである。
尊氏は北畠軍が陸奥方面の軍を率いて攻め寄せて来るという情報を聞くと、身の危険をはっきりと感じた。東と西から挟《はさ》み打ちにされたら、防ぎようはないと思った。
尊氏は前線の高師直や箱根にいる足利直義に、北畠軍の情報を伝え、
「北畠軍が鎌倉に到着する前にわれらは新田軍を打ち破らねばならない。それには箱根を至急に固め、敵を箱根の要害に誘い出して撃破することである。新田軍が総崩れしたと聞いたら、北畠軍はそのまま引き返すだろう」
と言ってやった。
新田軍を箱根の要害に誘い出すということは、細川、吉良などの足利軍に、上手な負け方をせよということであった。わざと敗けて逃げたら、相手にこちらの意図が感づかれるから、適当に戦いながら、次第に退くのである。これはなかなかむずかしいことであった。尊氏はこれを高師直に命じ、箱根の直義には早々に箱根の防備陣を強化するように命じた。
また斯波家長《しばいえなが》を奥州との国境へやって、足利の大軍が陸奥将軍府を攻めるために近々やって来るという流言をばらまき、北畠軍を牽制《けんせい》した。
新田義貞の率いる大軍は京都を出発した。新田一族は千人であった。大将軍新田義貞の指揮のもとに集まった兵はおよそ五千、総数六千人であった。
新田義貞はこれ等の兵を七部隊に編成して、それぞれに、新田一族の者を大将として置くか、脇将にして置いた。軍監として乗込んだ者もいた。
義貞は大将軍という名を天皇から戴《いただ》いたが、その名前だけで全軍を統率指揮できるものではなかった。全軍を義貞の命令どおり動かすには、やはり心の通じている一族の者を各隊の首脳部に送りこんで置く必要があった。
官軍が都を出発したのは建武二年十一月半ば過ぎであった。出発して一|刻《とき》ほどたったとき、二条中将為冬朝臣は家来を義貞の本陣へやって苦情を申し込んだ。
「官軍を統《す》べ給う御人《おんひと》は上将軍尊良親王である。合戦ともなれば軍隊はさまざまな順序になるであろうが、今は行進中である。敵らしい者は何処《どこ》にもおらぬ。かかるときは当然なことながら上将軍の御輿《みこし》を先に立てるのが常法であろう」
戦さがどのようなものかを知らぬ公卿は、軍隊の行進をきらびやかに飾りたてた行列と混同して考えているようであった。
義貞は困ったなと思った。こんなことをいちいち言われていては戦争はできない。できないどころか敗戦の原因になる。しかし中将為冬卿の言葉をむげにしりぞけることもできなかった。義貞は、中将為冬卿の言うとおり、親王の御輿を義貞よりも前に出した。先に出したと言っても、万が一のことが心配だから、先方衆として脇屋義助の部隊を置いた。
中将為冬卿は先頭に出たつもりでいたところが、依然として目の前に千余の軍勢が歩いているので、
「前に立ちはだかる大将を呼べ」
と言って脇屋義助を御輿の前に呼び寄せて叱った。だが義助は顔色一つ変えずに言った。
「尊き御方自らが露払いをなされる国があるとは今まで聞いたことはございませぬ。露払いとは通行に当たってわざわいとなる、ありとあらゆるものを打ち払う役目でございます。われらが露払いの先方衆となったとたんに、敵の物見らしい者を十名ほどからめ取りました。だが、わが先方衆も、三名の者が敵の伏兵が放った矢に当たって死んでおります。もし、中将殿がどうしても尊きお方の露払いをなされると申されるならば、われ等は後に退く故、中将御自らがどうぞ露払いとなって輿の前にお立ち召されるように」
義助は大きな声で言った。その声を輿の中で聞かれた尊良親王は、にわかに不安になり、中将為冬卿を傍《そば》に召されて言った。
「道中と言えども戦さは戦さ、なにごとも軍人《いくさびと》に任せるように」
と脇屋義助の言葉を支持した。中将為冬卿は親王の言葉に逆うこともできず、ようやく納得したが、内心では自ら公卿侍五、六十人を引き連れて先方衆になってもいいと考えていたのである。
新田軍と足利軍とは矢矧《やはぎ》川(愛知県)を挟んで対峙《たいじ》した。ここまでは官軍をさまたげる者はなかった。義貞は物見を出して敵の備えを探らせた。足利軍は、吉良、土岐《とき》、佐々木、仁木、細川、今川、石塔《いしどう》の三河勢、総数およそ二千余であった。
数にしては官軍の三分の一であったが、ほとんどが足利一族の者であるから、官軍のように寄せ集めの軍隊とは違ってよくまとまっていた。
矢矧川は水量《みずかさ》は少なく、浅瀬を選んで渡れば、さほどの困難はなさそうに思われた。
義貞は河原に陣を敷くとともに、その日のうちに、堀口|美濃守貞満《みののかみさだみつ》、桃井《もものい》遠江守尚義、里見|伊賀守義胤《いがのかみよしたね》等の諸将にそれぞれの兵を率いて、夜明けと共に上流から浅瀬を渡って、対岸に移動し、敵の背後に廻るように指図を与えた。
翌朝、卯《う》の刻(午前六時)から合戦は開始された。新田軍の一隊が上流に向かったと見て取ると、足利軍もまた一隊が上流方面に向かった。もともと足利軍は兵員数が少ない。それを二分したのだから、戦いは当初から不利であった。
足利軍は、上流、下流共に破れて、東へ向かって敗走した。たった二刻で勝負はついたのである。
新田義貞は総攻撃を命じた。だが足利軍の逃げ足はまことに速かった。どうやら前もって逃げる予定でいたかのように思われた。
(敵に策あり)
とみて、義貞は軍の進撃を中止した。
「勝ち戦さだというのに、なぜ進軍を止めたのか」
二条中将為冬卿が自ら馬に乗って義貞の本陣に文句を言いに来た。為冬卿は生まれて初めて着た鎧《よろい》姿に大いに勇み立っていたが、乗り馴れない馬上姿はあぶなっかしくて見てはおられなかった。
「軍《いくさ》には駈け引きというものがござる。お気遣いはもっともなれど、軍のことはお任せあってしかるべしと考えまする故に、しばらくは成り行きをお見過ごし願いたい」
義貞は言葉は丁寧だったが、語気を強くして言った。
義貞は物見を遠くまで出して敵情を探らせた。どうやら足利軍は遠江の鷺坂《さぎさか》(静岡県|磐田《いわた》郡)あたりに陣を敷いて戦う気がまえのようであった。
「敵は鷺坂のあたりに柵《さく》を設け、堀を掘って防戦の準備に懸命です」
という物見の報告を受けたところで義貞は、諸将を集めて、軍議を開いた。
「敵には、なにやら策がありそうに見受けられる。それについてなにか思い付くことがあったら申してみよ」
という義貞の言い出しに対して、堀口貞満が、
「敵は誘いの手を使っているように思われます。おそらくわれらが鷺坂に打ちかかれば、敵はろくに戦わずして逃げるでしょう。敵はわれらを敵の主力が手ぐすねひいて待っている箱根の要害へ一刻も早く誘いこもうと意図しているように思われます」
貞満の発言に始まって、各将はそれぞれ活発な意見を述べた。多くは貞満と見解を同じくしていた。
船田義昌が発言した。
「このたび陸奥鎮守府将軍になられた北畠顕家殿の率いる軍隊が間も無く多賀国府を出発されるという報が入った。足利尊氏はこれを聞いて、陸奥軍到着前に、われらと雌雄を決しようと考えているに違いない」
「つまり、まず西の敵を打ち、しかるのちに東の敵に当たろうという考えだと言われるのだな」
新田氏の一族、田中氏政が言った。
「そのため敵は早々にわれらを箱根へ誘いこもうというのか」
と同じく新田一族の額田|掃部助《かもんのすけ》が言った。
「敵がわれらを誘いこもうというならば、誘いこまれると見せかけ、敵の裏を掻《か》き、一気に箱根を抜いて、鎌倉へ乗りこむべきである」
大島義政が言った。新田一族出の大将はこぞって大島義政の意見に賛成した。敵の意図がはっきりしておれば、その裏を掻くのもたやすいであろうと言う者が多かった。
「なにもわざわざ敵が張っている罠《わな》にはまることはあるまい。陸奥から来る北畠軍の到着を待って挟撃《きようげき》したら、足利氏の滅亡はまず疑いないだろう。急ぐことはない。その機を待とうではないか」
と九州から菊池一族や松浦《まつら》の党を率いてこの戦いに参加した菊池|武重《たけしげ》が言った。
「北畠軍の到着を待つということは、北畠軍に鎌倉の足利一族討滅の名を挙げさせることになるやもしれぬ、われらはそのために箱根で戦ったという結果になるだろう。ここまで来て、むざむざ鎌倉を北畠軍に渡したくはない」
大館《おおたち》幸氏が言った。父宗氏を鎌倉で失った幸氏は、なんとかして再び鎌倉に入りたいと思っていた。大館幸氏ばかりではなく、新田一族はすべてそう考えていた。彼等は遠く故郷を離れてから二年余になる。家族が恋しかった。
京都にあこがれて上洛《じようらく》して見ると、それは見掛けだけで、人々は冷たかった。女は美しかったが、金を持っていないと相手にされなかった。官位は与えられたが、給与らしい給与を貰っていない大将たちは、女にうつつを抜かす余裕はなかった。ましてや兵たちは遊女に近づくことさえできなかった。
義貞もまた鎌倉を望んでいた。京都に出て武者所の長官になったが、それがために自由が束縛された。京都大番組の時代には祇園《ぎおん》にも出入りした。今度は、夜が物騒でそれもできなかった。
一色|家範《いえのり》が何処からか連れて来てくれた女も、言葉はきれいだし、肌も美しかったが、どこかに心が通わぬ冷たいところがあった。褥《しとね》を共にしていても、ちょっとした物音に、おびえて飛び起きたり、やたらに金品を欲しがる女だった。義貞はひと月でその女を下がらせた。新田庄で彼の帰りを待っている美禰《みね》や阿久利《あくり》のことが思い出されてならなかった。鎌倉まで行けば、美禰や阿久利を呼び寄せることもできよう。
「なぜ、新田一族の方々はそれほど鎌倉にこだわるのです。まるで足利尊氏に替わって鎌倉府を手に入れたいと考えているようだ」
大友|貞載《さだのり》が言った。その言葉に義貞は、我に返った。
「聞き捨てならぬその一言、すぐここで取り消して貰おうではないか」
江田行義が大友貞載を睨《ね》めつけて言った。
「いや、大友貞載殿の言はまことである。取り消す必要はない。ここは軍議の席である。足利氏をいかにして亡ぼすかという軍議の席で、鎌倉を取ることにのみ拘泥《こうでい》される新田一族の諸将に対して為《な》された公正な批判である。もし大友貞載殿の言を責めるならば、この菊池武重をも責めて貰いたい。願わくば、私情を交えず、理詰めに軍議を決していただきたい」
菊池武重はそこまで言ってから、義貞の方を向いて、
「大将軍のお指図を……」
と言った。
義貞は諸将を見渡した。新田一族出の大将とほぼ同数の一族以外の大将がいたが、軍議の席上で発言したのは、菊池、大友二将のほかほとんど新田一族の大将であった。他の大将が黙っているのは新田一族に対する遠慮であった。
菊池、大友の両将の発言の裏には、このたびの征討軍の編成に対する不満があるようであった。菊池軍にも大友軍にも、それぞれ軍監として新田一族の者が派遣されていた。両将にとってはそのやり方が不満なのである。
義貞にはそれが分かっていた。分かっていたが菊池、大友両将だけを例外とすることはできなかった。五十人、六十人という小豪族軍団を、千人、二千人の軍団にまとめるには、そこにしかるべき大将が必要である。そうなると、必然的に新田一族をその軍団の頭人に持って来ることになる。菊池、大友のような軍団はそのままでいいのだが命令実施の必要上と功績を公認するために軍監は置かねばならなかった。
「菊池、大友両将の言われるのはもっともである。余も同じように考えていた。だが問題は、陸奥軍の動きである。征討隊を派遣することは分かっているが、未だ多賀国府を出たという報もないし、その軍勢の数も定かではない。なんとも当てにならぬ軍隊である。さて、ここにもう一つ大事なことがある。戦さにおいて機を逸すれば、勝てる戦さも負けになる。足利氏を攻めるのは今が機であると思う。機を失すると、足利氏に心を寄せる関東の軍勢が、足利氏の下に集まるだろう。そうならないうちに追いつめねばならぬ。余は鎌倉を問題にしてはいない。足利尊氏の首が問題なのだ。彼等が箱根で決戦しようというならば、それに応じようと考えている。まずは、敵の誘いに乗ったように見せかけ、箱根近くまで寄せ入ってから、じっくりと敵の様子を探った上で勝負に出ようと思う」
義貞は結論を下した。菊池、大友は、大将軍の命令とあればいたし方がないというような顔で頷《うなず》いた。
鷺坂の戦いも、新田義貞等が予期したとおり、足利軍はたいした抵抗も見せずに敗退した。そして足利軍は手越《てごし》河原に陣を敷いた。
このころ、官軍の軍勢は増して、七千近くになっていた。
手越河原の合戦も足利軍は半日戦っただけで、夜陰に乗じて敗走した。本気で戦う意志のないことは誰が見ても明らかだった。将たちは、それこそ敵の策であると見ていた。
一夜にして足利軍が姿を消した手越河原に千余の軍勢がそのまま動かずに止まっていた。
義貞が物見をやると、その一軍は佐々木道誉の軍であり、旗をおろし、盾を伏せ、槍を置いて、一同河原に座っているということであった。戦意は無く、降伏を示す姿であった。間もなく佐々木道誉の軍から、降伏を願う軍使が来た。軍使は義貞のところへは行かず、真直ぐに御輿を目掛けて進んだ。二条中将為冬卿が軍使と会った。
「足利軍は将兵ともに全く戦意はありません。錦の御旗《みはた》に弓を引くことが怖《おそ》ろしいのです。つくづく考えて見ますと、わが佐々木氏は縁あって、足利氏についたのですが、もともと錦の御旗に弓を引くような賊軍になるつもりはありませんでした。これからは命をかけて働きますから、なにとぞ官軍の中に加えて下さい。お願い申し上げます。主人の佐々木道誉以下、ことごとくがそのように申しております」
軍使は為冬卿の足下にひれ伏して言った。
「よい心掛けじゃ、早速上将軍に申し上げよう」
為冬卿は輿の中の尊良親王に、このことを話して、佐々木道誉等千人を許し、そのまま、親王の御輿を守る兵とした。
義貞は佐々木道誉の軍使が、直接に御輿のところへ行ったという報を聞いて、困ったなと思っていたが、為冬卿が、道誉の軍をそっくり親王の親衛隊に加えたと聞いて放って置くわけには行かなくなった。
義貞は船田義昌を為冬卿のところへやった。
「軍《いくさ》のことは大将軍の新田義貞がすべてつかさどるべきことゆえ、佐々木道誉の軍隊の処置はこちらにおまかせあれ」
と船田義昌が言うと、為冬卿は、
「上将軍をただの飾りとでも考えておるのか。佐々木道誉は御輿のまわりに林立する錦の御旗に降伏したのである。上将軍の衛士《えじ》として使うのに異論はない筈だ」
と言い張って譲らなかった。
義貞は佐々木道誉の降伏に疑念を持った。義貞だけでなく多くの将は、臭いぞと感じた。このような場合は、その部隊を先方衆として敵に当たらせるか、その部隊を幾つかに分けて、他の部隊に編入してしまうのが当然のやり方だった。
義貞の心の中に、不安の灯がついた。
(佐々木道誉と御輿の扱い方|如何《いかん》によっては……)
義貞は弟の脇屋義助を呼んで、佐々木道誉を見張るように厳命した。
足利尊氏は苦慮していた。新田軍を箱根の要害に引きつけて決戦しようというもくろみは予定通り進んでいるし、佐々木道誉を敵中にもぐりこませることにも成功した。だが、問題の箱根の防戦計画は必ずしも万全だとは言えなかった。
常識的に考えれば、箱根峠と足柄峠の二つの要路を押え、他の間道もそれぞれふさいでしまえば、一応は新田軍をそこに釘《くぎ》づけにできる。しかし、そこまでである。新田軍を破るには思い切った策略が必要である。
尊氏が頭に描いていた策略は佐々木道誉の叛《かえ》りであった。しかし、それとて相手次第で必ず成功するとは限らなかった。
尊氏は鎌倉をほとんど空《から》にして、全軍を箱根に向ける覚悟で準備をしていた。やるだけやって見るさ、というあきらめに近い、ふてくされた気持ちになりかけたとき、刀屋三郎四郎がふらりと訪ねて来た。
「お館《やかた》様、顔の色がお悪うございます。このままだと、箱根の戦いは負けですな」
と言った。
「なんで負けると言い切れるのだ」
尊氏は、新田氏にも足利氏にも出入りして武器など軍需品を売込んでいる、この不思議な人物に警戒しながら訊《き》いた。
「兵力の差です。このままでは、よほど汚い手を使わないと負けます。佐々木道誉一人の叛りぐらいではだめです」
佐々木道誉の名を出されて尊氏がびっくりしていると、すかさず三郎四郎は言った。
「逗子常清《ずしつねきよ》という人物がいます。新田殿が鎌倉幕府を討滅なされるとき浮浪者を使って活躍した男です。逗子常清は朝廷に味方したのだから恩賞として位を貰いたいと言って、新田殿を通して朝廷に運動しましたが、やっと今になって戴いたのは左衛門佑《さえもんのすけ》でした。彼はそれを不当に低い恩賞だと言って怒っています。箱根の戦いには逗子常清の手の者を使って、御輿を攻めさせたらよいと思います。浮浪者の群れは錦の旗などなんとも思いません。それから、この刀屋三郎四郎をお味方に加えることです。私は新田殿とは懇意ですから、新田殿に会って、足利殿は箱根の備えはそれほど強化せず足柄峠の備えに力を入れていると伝えましょう。新田殿は弱い方の箱根へ大軍を向けるでしょう。これは戦さの常道です。箱根峠へ新田軍の主力を引きつけて防いでいるうち、お館様自らは足柄峠を攻め下り、新田軍の背後に廻りこむのです」
三郎四郎は、驚いている尊氏に、たたみこむように、
「勝利をおさめるにはこれだけでは不足です。もう一つの手を加えねばなりません。大友貞載は新田殿に不満を持っています。叛らせましょう。この使者も私がつとめさせていただきます」
刀屋三郎四郎は一気にしゃべった。
「なぜ、そちがこの尊氏の肩を持つつもりになったのだ」
「足利氏が滅びたら戦争は無くなります。戦争がないと私は金|儲《もう》けができませんからね」
刀屋三郎四郎は大声で笑ってから足利尊氏の傍ににじりよって大友貞載を叛らせるための密談に入った。
官軍が浮島原(静岡県沼津市原町)に陣を張った日の午後、刀屋三郎四郎が、陣中見舞いと称して、酒樽《さかだる》を車につけてやって来た。
「やっぱり来たか」
それを聞いて義貞はひとりごとを言った。自ら戦さあっての商人だと豪語している三郎四郎のことだから、きっと現われるだろうという期待が現実になっただけのことだった。
「いよいよ鎌倉攻めですな、大将軍」
と三郎四郎は義貞に向かって親しい口をききながらも、周囲を鋭い目で見廻していた。
「なにしに参った」
と義貞が訊くと、
「これは情けない御下問ですな。さきほど陣中見舞いと申し上げました。そのとおりですが、別の言葉で申し上げますと、緊急に必要な品の注文を取りに参りました。もっとも、足柄峠の合戦で足利氏が敗北した場合、お味方が取得された数々の戦利品の買い上げもいたします。そのために、小型の車をたくさん集めて参りました」
三郎四郎は妙なことを言った。
「なぜ足柄峠の戦いで足利氏が破れると分かるのだ。そして小型の車とはなんのことだ」
義貞は訊いた。
「私は、お許しを得て陣中に出入りできる唯一人の商人でございます。戦さで稼《かせ》ぐ商人ですから、今度の戦さはどういうことになるかなどちゃんと読んで、その準備をしています。ここから鎌倉へ攻め下るには、箱根峠を越すか、足柄峠を越すかどっちかです。箱根峠の方は山そのものが要害となっておりますので攻めるほうは、そう簡単ではございません。ところが、足柄峠の方は、峠一つだけの攻め合いですから、攻める方は楽ですが、守る方はたいへんです。足利氏は、箱根峠の方はまあまあという程度の備えにして置き、主力は足柄峠に置いて官軍を防ぎます。即《すなわ》ち、この度の戦いは足柄峠が主戦場となり、兵力において勝《すぐ》れた新田軍が足利氏を破ることになるでしょう。小さな車を用意するのは足利氏の捨てた武具をお味方から買い取って運ぶためでございます。足柄峠はせまいけわしい道です。小型の車が便利だと考えたからでございます」
三郎四郎はそうなることが当たり前のように言った。
「口から出まかせもいい加減にしろ」
と義貞が言うと、
「出まかせではございません。ちゃんとこの目で確かめて参りました」
「情報を提供しようというのか」
「まあ、そのあたりのことは御想像におまかせいたします。私は戦さを食い物にする商人ですが、決して負け犬には味方をいたしません、勝つ側、勝つ側に立っていないとこの身が危うくなりますからね」
刀屋三郎四郎は言いたい放題のことを言って、この次は鎌倉でお会いいたしましょうと言い残して去って行った。その後ろ姿を見ながら義貞は頭を傾《かし》げた。臭いぞと思ったのである。
その夜遅くなって大友貞載の陣中に黒い影が忍びこんだ。黒い影は、貞載の寝所に忍びこむと、寝入っている彼の腕の上に、太刀を置いて去った。なんとはなしに身に異常を感じ、眼を覚ました貞載は腕の上に鞘《さや》のまま置いてある太刀に気がついて起き上がった。人影はなかった。彼の幔幕《まんまく》の中には側近の武者数人が寝ていた。彼はしばらくあたりの様子をうかがっていたが、やがて静かに立ち上がると、その太刀を持って外に出た。
淡い月の光の中に人影があった。
人影は、大友貞載の近くまで来ると書状らしきものを置いてうやうやしく一礼して闇に消えた。
大友貞載は翌朝、家来の者が外に出た隙に書状を読んだ。足利尊氏の直筆であった。箱根の戦いの際、佐々木道誉が機を見て叛《かえ》るから、それに併わせて叛るようにとのすすめであった。そうすれば必ず勝ち戦さとなる。恩賞は思いのままに与えるが、まず、近づきの印として、足利家に伝わる宝刀を贈ると書いてあった。太刀は三条|宗近《むねちか》の作であった。もともと刀に趣味のある大友貞載にとっては思いもかけない贈り物であった。
新田義貞は寝苦しい一夜が明けたその朝、まず物見を出して、箱根峠と足柄峠方面の敵の備えを探らせた。
箱根の山は深く、敵の警戒が厳重で確かなことは分からなかったが、要所要所に、柵を設け、堀を掘って待ち構えていることは確かであった。しかし、その防備の割に人数は手薄であるという報告であった。
足柄峠の方へ物見を出した報告によると、足柄峠一帯には三重、四重の柵を設け、鼠一匹もぐり込めないような厳重な防備陣をかまえているし、足柄峠を守る軍勢は山頂の原に満ち満ちているということであった。
「刀屋三郎四郎の言ったことは本当らしいな」
義貞はつぶやいた。だが彼はすこぶる慎重だった。物見をできるかぎり多く発し、箱根、足柄の敵情と地勢を探らせた。足利氏を破るにはどうしたらよいかということが、彼の頭を離れなかった。義貞はそれまでの情報を揃えて、軍議を開いた。
隊を二つに分けて、箱根峠と足柄峠を別々に攻めるか、それとも、どちらかを重点的に攻めるか、その二つの戦法について、それまでに得た情報を基にして軍議がなされた。しかし、この軍議は意外に早く片がついた。
≪征討軍を二隊に分け、主力は義貞自らが率いて箱根峠に向かい、別隊は脇屋義助が率いて足柄峠に向かう≫
という作戦だった。地形的に見て、足柄峠と箱根峠は距離は近いが、山が深くて、ほとんど隔絶しているから各個撃破の作戦を取ったのである。軍を二等分しても、兵力において官軍は絶対に優位であった。
建武二年十二月十一日の朝が来た。
新田義貞は自ら四千の兵を率いて箱根峠を攻め上り、脇屋義助は三千を率いて足柄峠へ向かうことになった。官軍の陣地は騒然としていた。この進発の直前になって、二条中将為冬卿から、
「敵の主力が足柄峠に居るならば足利尊氏もそこにいる筈、上将軍の軍隊は当然のことながら敵の大将に立ち向かうために足柄峠を攻め上るべきである」
という意見が出された。義貞が立てた作戦には、上将軍の御輿とそれを守る佐々木道誉の軍は、義貞の率いる本隊に編入してあった。ところが、いざ出発にあたって為冬卿は、足柄峠に向かうと言い出したのである。そればかりではなく、
「味方三千では心もとないから、大友貞載の軍一千をこちらへ廻すように」
と言った。
義貞はむっとして、
「合戦のことは、この義貞におまかせあれと、何度となく申し上げている筈。そのようなことはできませぬ」
と言うと、
「これは上将軍の命令である。上将軍は、勅命によって、このたびの征討軍の上《かみ》に立たれているお方である。上将軍の命に叛《そむ》くことは、即ち天皇の命に叛くことになる。それでもよいと申すのか」
と怒鳴り立てる為冬卿に義貞は深い溜息をついた。
為冬卿がいざ出発の際にそのようなことを言い出したのは、佐々木道誉の差し金であった。前夜ひそかに為冬卿の幕営を訪れた道誉は、
〈この佐々木道誉と大友貞載の二隊が力を合わせて、敵を攻めるならば、必ず、われらの手によって足利尊氏の首を取ることができるでしょう。あの成り上がり者の新田義貞などに功を立てさせると、今後益々増長して、なにをしでかすかわかりません。ここらで義貞の鼻を明かしてやりましょう。敵は錦の御旗を恐れています。錦の御旗の行くところ必ず勝利は間違いございません〉
と言った。為冬卿はそれを信じて、翌日の朝、義貞に向かって無理な注文を出したのであった。
義貞は終《つい》に為冬卿の申出を聞かざるを得なくなった。彼は弟の脇屋義助を呼んで、
「どうも為冬卿のなされ方には不審の点が多い。佐々木道誉あたりが、なにごとか画策しているかもしれない。大友貞載を引張ったのも、なにかおかしい。いかなることがあっても、竹ノ下より先に進まず、わが命を待つように。箱根の要害が落ちるまでは、動かずに待つことだ。いいか、敵が峠を越えて攻め下って来た場合の他は戦わずして待つのだぞ。尚《なお》上将軍は天皇からお預かり申して来た大事なお方故、いかなることがあろうとも、御無事であるように配慮してくれ」
義貞はそう言った。もしもの場合を考慮して朝谷兄弟の鑓《やり》隊五百を脇屋義助の旗本として送りこんだほか、佐々木、大友等に不審な行為があったら、直ちに刺し違えても討ち取るようにと、中曽根|左衛門尉《さえもんのじよう》貞清(中曽根次郎三郎)と斎藤|右馬允《うまのじよう》をそれぞれ、佐々木、大友の本陣に軍目付として送りこんだ。
脇屋義助を大将とする軍隊は、三島神社の前から真直ぐに北に進路を取り、街道筋を竹ノ下に向かった。竹ノ下まで八里の道程であり、ほぼ一日がかりの行進であった。
脇屋軍が行進中に、既に箱根峠では合戦が始まっていた。
脇屋義助は物見を先に出して、ゆっくりと行進した。四千を越す軍隊だから列は長くなった。その列の中間を敵の伏兵に襲われる心配があるから、御輿の付近は特に警戒を厳重にした。いよいよ敵を前にして緊張したのか、為冬卿は御輿を先頭にせよとは言わなかった。それが義助にはかえって異常に思われた。
義助は、佐々木道誉の軍を先方衆として先頭に出し、その直ぐ後に朝谷兄弟の兵を配置して監視した。大友貞載の軍は最後尾においた。佐々木隊と大友隊との距離は一里にもなるから、なにか示し合わせて行動しようとしても連絡ができないように配慮したのである。
鮎沢川に沿っての街道の両側が開けて、田畑になっていたが、東と西は山だった。街道は竹ノ下から直角に右折して東に向かっていた。山道二里ほどを登りつめたところが足柄峠である。
足柄峠に源を発する地蔵川が鮎沢川に流れこんでいた。地蔵川の他に、山沢川、金時川などが、足柄峠から金時山に連なる山嶺《さんれい》から鮎沢川に流れこんでいた。そのあたりは渓谷と山とが複雑に入りこんだ土地であった。大合戦ができるような広場もないし、草原もなかった。
脇屋義助は、竹ノ下に到着するまでに、既に物見によって作らせた絵図面に、その夜の陣地を記入していた。
各部隊は竹ノ下に到着すると、脇屋義助に指示されたように、それぞれ陣をかまえて夜を迎えた。夜になると足柄峠の方向に赤々と篝火《かがりび》が見えた。足利軍が武力を誇示する篝火であった。
脇屋軍も負けずに篝火を焚《た》いた。
そのころ、箱根方面から早馬があって、菊池武重の隊や松浦の党などの九州勢が活躍して、敵の一の柵、二の柵、三の柵を破ったので、味方は大いに意気が上がり、千葉、宇都宮、河越、高坂、愛曽《あそ》の諸軍や熱田の大宮司が率いる一隊などが一斉に攻撃に入ったため、敵は防備の柵を捨てて、野七里《のくれ》、山七里《やまくれ》の両道を追い上げられた。おそらく明日一日のうちに敵は敗れ去るであろうという報告だった。
脇屋義助はこの朗報を諸隊に伝え、味方は善戦しているが、わが軍は、命令あるまで、勝手な行動をしてはならないことを各隊に言い渡した。
十二日の夜が明けかかるころ、脇屋義助は家来に起こされた。
「上将軍の御輿が動き出されました」
脇屋義助はその一声で完全に眼が覚めた。動き出したのは、上将軍の御輿だけでなく、御輿の先に立って佐々木道誉の軍までが動き出したのである。脇屋義助は伝騎を飛ばして、その動きを止めた。既に佐々木道誉と上将軍の御輿は地蔵川を渡り、足柄峠道に踏みこんでいた。
「進めとの上将軍の御諚《ごじよう》である。錦の御旗に従って、朝敵を亡ぼさんと思う者があれば、錦の御旗に続けと、脇屋義助に告げるがよい」
為冬卿は伝騎にそう言うと、更に前進した。輿が通ればいっぱいになるような狭い山道だから、そう急ぐことはできなかった。
脇屋義助は、朝谷兄弟に実力を用いて、御輿の前進を阻止せよと命じた。だが、朝谷兄弟の鑓隊の前に立ちはだかったのは、佐々木道誉の軍であった。道誉は上将軍の親衛隊だから、上将軍の御輿の行列を妨げる者は斬ると言うのである。味方同士の戦いになりそうな情勢だった。脇屋義助は、それ以上公卿隊を刺戟《しげき》することを避け、朝谷隊を下げた。
為冬卿はそれをいいことにして、佐々木道誉の軍を先方衆に立てて、足柄峠に向かって本格的な行進を始めた。坂が急になった。それ以上前進すれば敵に襲われるおそれがあった。義助は御輿を進めることは危険と感じて朝谷隊に御輿を返すように命じた。佐々木道誉の隊が反対したら突き崩せと指令した。
朝谷隊が前に出ようとしたときであった。峠の上から鬨《とき》の声が起こった。
敵の来襲に間違いなかった。戦うのは、不利な場所だから、義助は佐々木隊に退くように命じた。しかし佐々木隊は動かなかった。佐々木隊が停止すると、それを合図のように山道を挟《はさ》んだ両側の山林の中からおよそ五百人あまりの伏兵が躍り出て、御輿を目がけておしよせて来た。
「おのれ、土賊め、この錦の御旗が見えないのか、この旗に弓引く者は目がつぶれるぞ」
為冬卿が馬上で刀を振りかざしながら叫んだ。それを聞くと賊兵たちはいっせいに笑い出した。笑いがおさまると同時に、矢がいっせいに飛び、為冬卿は一度に二十本あまりの矢を受けて馬から落ちた。
それまでじっとしていた佐々木道誉の軍が、突然、身をひるがえして、朝谷隊に攻めかかった。その鬨の声が谷間に響き渡ると、最後尾にいた大友貞載の隊が、突然、脇屋隊に向かって矢を射かけて来た。
官軍は一時混乱した。だが朝谷隊は、佐々木隊の攻撃を防ぎながら御輿を守った。御輿のままだと、敵の矢に狙われるから、尊良親王を御輿からおろした。親王は突然のことに気が動顛《どうてん》し、蒼白《そうはく》な顔に、目を吊《つ》り上げ、なにかわめきながら、味方に向かって斬りかかって来た。朝谷義秋は止《や》むなく、親王に当身《あてみ》を喰わせ、一時気の遠くなったところを、兵に背負わせて、脇屋義助の本陣まで運んだ。
朝谷隊は佐々木隊と戦いながら、じりじりと引き下がり、竹ノ下に出たところで、脇屋義助に言った。
「敵の本隊が足柄峠から攻めおりて来たら、わが軍はとても勝ち目はありません。後はわれら兄弟にまかせて、親王を守って、ひとまずお引き下さい」
朝谷右衛門尉義秋は脇屋義助に退却をすすめた。
佐々木道誉と大友貞載の裏切りによって、脇屋軍は混乱した。
そこへ、足柄峠から雪崩《なだれ》のように降りて来た足利尊氏の率いる足利軍主力が攻めかかった。竹ノ下の狭いところで官軍、賊軍入り乱れての合戦が続いたが、一刻後には勝負はついた。脇屋隊は防ぎながら退却した。
義助は尊良親王を敵に奪われまいとするのに神経を使った。そのために多くの兵も失った。朝谷兄弟とその五百の鑓隊を犠牲にしたのも、尊良親王を守るがためだった。脇屋隊は大友貞載隊の中央を斬り破って血路を開いた。
悲報は次々と箱根の山で戦っている新田義貞のところへ届けられた。敵の矢を身に負いながら、義貞の本陣に馬を走らせて来た、樋口|左兵庫助《さひようごのすけ》(樋口弥太郎)はことの次第いっさいを報告してから、
「無念でござる」
の一声を残して死んだ。
新田義貞は勝利を目前にして、退却の命を発した。止むを得ない処置であった。
足利直義は、最後の孤塁を守っていた。直義はこれが落とされたら、自刃するより方法がないと思っていた。周囲はすべて敵であった。その敵が昼ごろになってにわかに動揺し、退却しはじめたので、しばらくは直義自身も夢かと思っていた。やがて、竹ノ下での足利軍勝利を聞いてほっとした。
新田義貞は竹ノ下の戦いに敗れた脇屋隊を収容すると、自ら殿《しんがり》となって、西に向かって退却して行った。新手の応援を得ないかぎり、踏み止まって戦うことはできなかった。
新田軍は夜が明けるごとに人数が減っていた。逃亡兵が多くなったのである。勝てば寄り、負ければ逃げるのが、土豪たちの習性であった。
矢矧まで来ると、官軍は僅か千人になっていた。ほとんどは新田の一族であった。京都に急を報じたが、応援隊は来る様子はなかった。
義貞は退却しながら、なぜこのようなことになったかを反省した。上将軍とそれにつきそって来た二条中将為冬卿の存在が征討軍をして敗北に導いたことは明らかであり、第二は足利尊氏の謀略にかかったことであった。
義貞は大将軍としての戦さのむずかしさをつくづくと反省した。足利尊氏がうらやましかった。彼は足利一族を主体として戦えるだけの兵力を有していた。新田軍にはそれができなかった。寄せ集めの軍隊を指揮してみて、そのむずかしさが、熱く胸にしみた。
義貞は竹ノ下の敗戦によって、樋口弥太郎、中曽根次郎三郎、斎藤右馬允等を失った。彼等はすべて、官位を与えられ、侍大将になっていたが、もともと義貞の幼な友だちであり、里見二十五騎として、もっとも信頼していた人たちだった。鎌倉攻撃の際に戦死した清水五郎、富沢小三郎等四人を加えると既に七人が死んでいた。義貞は涙を流した。その七人の他に朝谷兄弟を失ったことは、片手を奪われたほどの痛手だった。
新田軍が京都へ逃げ帰ったころ、北畠親房、顕家の率いる陸奥軍が多賀国府を出発して鎌倉へ向かった。
足利軍は鎌倉へ引き返して防戦すべきか、このまま京都へ向かうべきかの選択を余儀なくされた。そこにしばらくの小康状態があった。新田軍は立ち直った。
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太平洋戦争が終わって世の中が変わると、足利尊氏は名将として復活したが、そのかわり、新田義貞は戦争が下手な大将として評価されるようになった。
その史家たちに、新田義貞を、戦さが下手な大将だと言わしめた原因の一つは、箱根・竹ノ下の合戦で、箱根で勝ちながら、竹ノ下で大敗したことを指している場合が多い。結果から見ると、そういうことになるかもしれないが、実際にはどうなっているか私は真相を知りたかった。
私は梅松論や太平記を読んだ上で古戦場を歩いて見た。竹ノ下の合戦における官軍敗北の原因を暗示させる言葉が太平記にある。これを引用すると、「箱根竹下合戦ノ事」の中に、
懸ル処ニ竹ノ下ヘ被向タル中書王《チユウシヨオウ》ノ御勢、諸庭ノ侍、北面ノ輩《トモガラ》五百余騎、憖《ナマジヒ》武士ニ先ヲ不被懸トヤ思ケン。錦ノ御旌《オンハタ》ヲ先ニ進メ竹ノ下ヘ押寄テ、敵|未《イマ》ダ一矢モ不射先ニ、「一天ノ君ニ向奉テ曳弓放矢者不蒙天罰哉、命惜クバ脱甲降人ニ参レ」ト声々ニゾ呼《ヨバハ》リケル。
と記されている。公卿たちが武士に先を越されまいとして出過ぎた行動に出たのが敗因の一つであると指摘している。
佐々木道誉と大友貞載の裏切りが最大の敗因ではあったろうが、それにしても錦の御旗の威力を過信する公卿たちの考え方は武士たちとはかなりかけ離れていたようである。
竹ノ下は静岡県駿東郡小山町にある。近くに東名高速道路があり、御殿場線がある。交通は便利だが、このあたりはそれほど俗化されず、自然はほとんど昔のままに残され、竹ノ下の遺跡も、町役場が中心となって、保存に力を入れている。
竹ノ下の合戦にちなんだ地名も数多くある。その主なるものを挙げると、釜沢《かまざわ》(官軍が炊事をしたところ)、陣場(官軍の陣)、有闘坂《ゆうとうざか》(官軍が賊軍に対して最後の抵抗を試みたところ)、合士《ごうし》ヶ窪《くぼ》(敗れた官軍がここで集合したところ)、矢台(賊軍がここを足場として官軍に矢を射たところ)、光雲寺(興雲寺、賊軍の火矢に焼かれた寺)、白旗神社(官軍戦死者の墓地、二条為冬卿の碑)などがある。
その一つ一つを訪ねて歩くと丸一日はかかる。地蔵川に沿っての旧足柄街道は、ところどころに昔の面影を残している。
坂を登りつめた足柄峠にある足柄山聖天堂の前の榧《かや》の大木を見上げていると、或《あるい》は六百五十年前の竹ノ下の合戦のころ、既にこの木はここにあったのではないかと思われた。
足柄峠の頂上西側は草地になっている。付近は椿《つばき》の木を主とした密林になっているのに、なぜ頂上だけが草地になっているのか疑問を持った。或は西風が強いために木が育たないのかもしれないなどと考えていたが、家へ帰って梅松論を読み返してみると、
足柄の明神の南なる野にひかえたり。
という一行があった。足柄の明神は一|小祠《しようし》となって名残りを止《とど》めているが、頂上の野原は当時と変わらぬままになっていることが嬉しかった。足利軍は主力をこの野に集め、機を見て攻め降りて行ったのであろう。
[#ここで字下げ終わり]
尊氏敗走
建武二年(一三三五年)の暮れの京都は喧噪《けんそう》をきわめていた。足利尊氏と戦って敗れた新田義貞の軍が京都に逃げ帰ったので、京都の住民たちは、今度こそ兵乱が京都に及ぶものと思って、家財道具を車に積んで郊外に避難した。ごった返す住民の間を、馬に乗った武士が、盛んに駈け通って行った。
新田義貞は京都に帰ると同時に、後醍醐《ごだいご》天皇に、なぜ負けたか、その理由をつぶさに奏上した。だが、二条中将為冬卿のことについては、尊良《たかなが》親王の御輿を守って立派に戦死したということ以外は語らなかった。
天皇は義貞の労をねぎらい、はや賊軍を迎え討つべき用意をせよと仰せられた。
義貞は、新田一族の他、楠正成、名和長年《なわながとし》等を招いて、軍議を開いた。
正成は、地形的に見て、京都という町は、攻めるには都合はいいが、守るにはまことに不便なところであるということを絵図を前にして説明した。
「これだけの広い町を守ることは、はじめっから無理なことです。どこから攻めこんで来るか分からない敵を待つほどばかげたことはありません。そこへ行くと敵はわれ等の手薄なところを突けばいいのですから楽です」
正成は、そう言ってから、
「そのことは上野介《こうずけのすけ》殿もよくご存じの筈です」
と義貞に向かって言った。鎌倉を攻め落とした経験を想起せよと言いたいのである。
義貞は頷いた。全くそのとおりであった。彼は、具体策を正成に問うた。
「一応は京を守るような態勢を整えて敵を寄せつけ、適当にあしらいながら、比叡山《ひえいざん》方面に退き、敵軍を京都に誘いこんでから、陸奥《むつ》軍の到着を待って、今度は逆にこれを攻めるのです。そうすれば必ず勝ちます」
「おのおの方は主上のことをお忘れか」
軍議に列していた千種《ちくさ》宰相中将|忠顕《ただあき》卿が大きな声で怒鳴った。
「主上には、恐れ多いことながら、一時比叡山に玉座をお移しいただきたいと存じます。そうしないと、主上のお命さえ危いことになるでしょう」
と正成が言った。
それに続いて義貞が発言した。
「河内守《かわちのかみ》(楠正成)殿の言われることは、いちいち軍《いくさ》の理にかなっている。余も同感である。軍議はこれに決したいと思う」
彼は千種忠顕卿に向かってはっきりと言った。
いかなることがあっても、この作戦は変更しないぞという総大将としての意志の強さが義貞の眉間《みけん》のあたりに深く刻みこまれていた。
官軍は作戦どおりに布陣した。琵琶湖《びわこ》の南岸|勢多《せた》(瀬田)には千種忠顕卿の率いる軍と名和長年の軍が陣を敷き、比叡山一帯は僧兵が守った。
京都の南方、宇治川口、淀川《よどがわ》口、桂川口は、それぞれ、楠正成軍、新田義貞軍、脇屋義助軍の三軍が手分けをして守ることにした。
東から来る足利軍は長旅で疲れているが、西から足利尊氏の御教書《みぎようしよ》を貰って攻め上って来る、四国軍、西国軍それに既に足利方についている播磨《はりま》の赤松|貞範《さだのり》の父、赤松|則村《のりむら》が率いる軍は予測しがたいほど強力であった。
足利尊氏の軍は駿河、遠江、三河、近江と西上する間に、次第にその兵力を増した。だが尊氏は、官軍が強そうだとみれば官軍につき、足利軍が優勢だとみれば、足利軍につくというような、節操の無い、土豪等にはあまり期待していなかった。
彼は、弟の直義の軍を勢多に止め置いて、自らは南に下って、宇治川、淀川方面に向かった。ここで、東上して来た、西国、四国の足利氏の一族の軍及び、赤松軍と力を合わせて、京都を攻めようという気になったのである。
建武三年(一三三六年)元旦から勢多川を挟んでの戦いが始まったが、はなばなしい発展はなかった。足利直義の軍は長途の旅につかれていたこともあって、積極的な戦いはしなかった。合戦の焦点は、宇治川、淀川方面であることを充分に知っている直義は、勢多で官軍を牽制《けんせい》する以外の作戦には出なかった。
一月七日になって足利軍は東上して来た畠山高国、細川|定禅《じようぜん》、赤松則村等の軍隊と合体して、いよいよ、京都総攻撃の態勢を整えた。兵の数では足利軍の方が勝っていた。
宇治を守っている楠正成の本陣を赤松則村の使者僧|玄叡《げんえい》が訪れたのは一月八日の昼ころだった。正成はかねてから玄叡を知っていたので、幔幕内に招いて話を聞いてやった。玄叡は赤松則村の書状を持っていた。
≪|武蔵守《むさしのかみ》殿(足利尊氏)は天皇に対し奉り忠誠たらんことを欲しているが、新田義貞が天皇の側近にある限りは、その忠誠を表わすことはできない。天皇が新田義貞を遠ざけられ、武士のことはいっさい武蔵守殿におまかせになるならば、天下は大いに平らかになるであろう。もし天皇がそのようになされるならば、足利軍は直ちに京都に攻め入ることを中止するだろう。なにとぞ、このことを天皇に奏上して貰いたい≫
という内容のものであった。赤松則村の弟、赤松円光の正室は楠正成の妹であった。則村はその縁をたよって、足利尊氏の意志を伝えて来たのである。
「攻めれば京都は一日で落ちます。しかし、二日間だけは待ちましょう。その間にぜひよいお返事をお待ち申しております」
玄叡は口頭でつけ加えた。
「一応はお預かりします。だが、このとおりになることはきわめて困難のように思われますと、円心殿(赤松則村)にお伝えください」
楠正成はそう答えて、玄叡を送り出した。
楠正成は赤松則村からの書状は黙殺した。
彼は自ら立てた作戦によって足利軍と決戦するつもりでいた。
陸奥軍の到着がせまっている現状において一戦もせず和睦《わぼく》する手はなかった。ましてや、総大将の新田義貞を追放せよなどという要求が通る筈はなかった。
(おそらく足利尊氏はなにもかも承知の上で、赤松則村にこの書状を書かしたのであろう。狙いは、新田義貞こそ敵であり、天皇に逆うつもりはない、ということを朝廷に宣伝するために違いない)
正成はそう読んでいた。
一月八日から、宇治川、淀川方面で合戦が始まった。
楠軍は宇治川を挟んで畠山高国の軍と対決し、新田軍は淀川の大渡《おおわたり》(現在の伏見区淀町|納所《のうそ》のあたり)で淀川を挟んで足利尊氏の軍と戦った。宇治川口も淀川大渡口も両軍、向かい合ったまま、八日、九日の二日間は経過した。
十日の朝になって、赤松則村の率いる二千の軍が山崎を守っている脇屋義助の陣に猛攻撃を開始した。
西国街道を上って来た赤松軍は桜井のあたりで二手に分かれ、一手は山手に廻って、脇屋軍の背後を攻め立てた。
脇屋義助は義貞にかねてから指示されていたように、少し攻めては多く退くような作戦を取っていたが、午後になって鳥羽方面に向かって全面的な退却を始めた。兵員の損害はほとんど無かった。
脇屋軍の合戦ぶりに合わせて新田軍も微妙な動きを見せ、義助が山崎の本陣を退いたという報告と同時に大渡の守りを棄てて、北に向かって退却した。楠軍が宇治川から退却したのは十一日になってからだった。
足利尊氏は、官軍が戦いらしい戦いもせず全面にわたって退却したのに疑問を持った。尊氏は全軍に向かって、追撃をしばらく待てよと通達した。だが、逃げる敵を見て黙っておられないのは、攻める側の共通した心理であった。足利軍は全線にわたって進撃を開始した。
京都の町はしんと静まり返っていた。戦火をおそれて逃げ去った町には人は居なかったが、物はあった。
遠く関東、西国、四国から来た兵たちのほとんどは、京都がはじめてだった。珍しい物があると手当たり次第に奪い取った。無人の町に取り残されたものだから、拾い物と同様に考えていた。
ひとたび兵たちが掠奪《りやくだつ》を開始すると、止めさせることはできなかった。
十一日の午後になると、足利軍は京都の町の中に満ちあふれた。そして十一日の夜になって、かねて尊氏から厳重な注意があったにもかかわらず、御所の南から火を発し、折からの南風に煽《あお》られ、御所一帯は焼け落ちた。御所を焼いたということは足利軍が賊軍であることを自ら証明したことである。
足利尊氏は、内裏が焼けたと聞いたとき、色を失い、大地にひざまずき深い溜め息をついて言った。
「とうとう賊軍の大将になった。もはやどうあがいても、身の潔白を明らかにするものはない」
京都の火事は、比叡山からよく見えた。東坂本に行幸された天皇はこのことを聞いて、
「尊氏こそ古今|稀《ま》れに見る大悪党ぞ」
と仰せられた。この言葉が人から人に伝えられ、尊氏の耳に入ったのは五日後であった。
十二日になって一つの事件があった。
官軍の侍大将、結城《ゆうき》判官親光は、竹ノ下で官軍を裏切った大友貞載を深く恨んでいた。あのような男は武士の風上には置けぬ、生かしては置けないと深く思い込んだ彼は、腹心の部下十七人を引き連れて、大友貞載の隊に、いつわりの降伏をした。貞載はもともと官軍にいたので親光を知っていた。
「結城親光が降伏して来たのか、それは殊勝な心掛けである。ここへ呼ぶがよい」
と言った。
結城親光は降伏の型どおり鎧を脱ぎ、太刀を添え、家来に持たせ、貞載の前に進み出て、
「もはや、味方は各所で敗れ、これ以上戦っても無駄なことと存じ、かねての縁をたよって参上いたしました」
と言った。
大友貞載は、ふと鎧と共に差出された太刀に目を留め、あまりにも立派な作りであったので、太刀に手を伸ばしながら誰の作かと問うた。
「三条宗近の作にございます」
「な、なんだと」
大友貞載は驚いた。伸ばした手を思わず引っこめ親光の顔を見た。三条宗近の名刀は、ついこの間足利尊氏から貰ったばかりである。同じ名刀を結城親光もまた持っていたという奇縁に驚いたのである。まさか、それが親光の出まかせとは気がつかなかったのである。
貞載が驚いて太刀に伸ばした手を引いた瞬間、親光はさっと手を伸ばし、その三尺五寸太刀を奪い取って抜き放ち、大上段に振りかぶって、貞載に切りかかり肩のあたりを五寸ほども斬り下げた。貞載は血に染まって倒れた。
これを見ていた貞載の郎党がいっせいに親光に斬りかかった。親光は十七人の家来と共に戦ったが、多勢に無勢、たちまちかこまれて全員討死をした。
このことは直後に足利尊氏の知るところとなった。親光が死んだところは、尊氏の本陣のすぐ近くの楊梅《やまもも》東洞院の傍《そば》だったからである。
尊氏は結城親光が大友貞載を降伏と見せかけて討ち取ったという事実よりも、身を捨てても裏切り者を誅伐《ちゆうばつ》するという、官軍側の侍大将の意気に恐ろしさを感じた。官軍には結城親光のような武士がまだまだ居るに違いない。賊軍という名を負うている限りは、何時、親光のような武士に襲われるか分からない。尊氏は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
尊氏は、結城親光の遺体を厚く葬り、遺品にそのあっぱれなる死に様を書いた一文を添え、時宗の僧に持たせて、官軍の陣に届けさせた。
「賊軍という汚名をそそぐには、もはや自刃して果てても、こと足らなくなった。おそらくは将兵の中に余と同じ気持ちでいる者も多いだろう。そうなると、この戦いは負けだ」
尊氏はひとりごとを言った。結城親光の事件はその日のうちに敵味方の口の端に上った。
この日、陸奥軍が近江に着いたという報が入った。その数、三千と伝えられた。尊氏に取っては気になる相手の到着だった。
陸奥軍を率いた北畠親房、顕家父子の到着によって京都の東側における力の平衡が破れた。足利直義は官軍に挟撃されるのをおそれて勢多の陣を捨てて、石山まで下がった。
千種忠顕と名和長年の軍は直義の軍を追いながら南下した。
直義の軍が去ったことによって、大津の西にある園城寺《おんじようじ》(三井寺)は孤立した。園城寺は前々から延暦寺との抗争が絶えず、延暦寺に対抗するため足利軍に心を寄せ、僧兵、地侍などおよそ千人、それに、細川定禅の軍五百が加勢していた。
新田義貞はこの機をとらえて、十六日に園城寺を攻め落とし、逃げる敵を追いながら逢坂山《おうさかやま》を越えて、二条、三条河原方面の足利軍を攻撃した。
楠軍、名和軍、脇屋軍等の官軍はいっせいに行動を起こした。
足利直義は京都に入って、足利尊氏の軍と合した。
官軍は比叡山を根拠として、北山、東山方面に陣をかまえ、足利軍の防備の隙をくぐり抜けるようにして京都に現れ、足利軍を攻撃した。追えば、山に姿を隠し、夜になると再び現れて各所に働いた。官軍の損害は少なく、足利軍の死傷者は日を追って多くなった。見えざる敵と戦わねばならないために、将兵は焦燥にかられて、毎夜のように同士討ちがあった。
楠正成の作戦は功を奏したのである。
これから十日間の小競合いで足利軍がすっかり神経をすり減らしたころ、充分に休養して、人馬ともに体力をつけた陸奥軍三千がいよいよ官軍の最前線に立つことになった。
二十七日になって官軍はいっせいに進撃を開始した。楠軍、名和軍は叡山の西坂から下松《さがりまつ》方面へ、新田軍は北白川方面へ、そして北畠軍は山科《やましな》方面から京都を望んだ。官軍の総数は一万に近かった。
加茂河原、二条河原、糺《ただす》河原、神楽岡《かぐらおか》などで合戦が行われたが、総じて足利軍は戦意に欠けていた。戦線から脱落する者が多くなった。一月二十九日になって、京都の北部、鞍馬《くらま》路から脇屋義助の軍が現れて、足利軍の背後を突いたことによって、足利軍は総崩れとなった。
この戦いで上杉|憲房《のりふさ》、三浦|貞連《さだつら》、二階堂行周等の足利軍の大将が戦死した。
一月三十日になって、足利軍は退却を開始した。尊氏は老の坂を越えて丹波の篠村《しのむら》に着いて一息ついた。
その敗軍の将兵等のあとを追う、遊女等の一団に混じって刀屋三郎四郎がいた。
刀屋三郎四郎は篠村で尊氏に会うと、
「今度はだいぶひどい目にお会いなされたようですが、いったい、このようなことになったのはなぜかということを、ここでとくと考え直していただきたいと思います」
と言った。何時《いつ》来たのか、そこには赤松則村もいた。
「なぜ敗れたか? それはこちらが賊軍の汚名を着ているからだ」
「それをお脱ぎになればよいでしょう。そして新しい官軍の衣をまとうのです」
刀屋三郎四郎は妙なことを言った。
新しい官軍とはなんのことだろうか。足利尊氏はしばらく考えたが分からなかった。刀屋三郎四郎は、尊氏のその困惑した顔に向かって言った。
「先の光厳《こうごん》天皇、すなわち光厳上皇をお味方にお誘い申し、上皇の院宣(上皇あるいは法皇の命を奉じて発する文書)を戴《いただ》けばよいのです。保元、平治の乱では、武士たちは、それぞれ法皇、上皇、天皇を奉戴して戦いました。どちらが官軍やら賊軍やら見分けがつかぬままに戦ったのです。このたびの乱のもとをただすと、後醍醐天皇が持明院統と大覚寺統との間に交わされた皇位|迭立《てつりつ》の御約束を無視なされたことから起きたものです。持明院統系の皇位継承者光厳上皇は、後醍醐天皇によってその皇位を無理矢理|剥奪《はくだつ》されたも同然です。だから、いま参議卿(尊氏)が光厳上皇を奉戴しての戦さを起こせば、正しい皇位を守るための戦さとなります。光厳上皇こそ真の天皇たるべきお人であると言えば、大方の者は納得するでしょう。上皇だから錦の御旗を立てることにいささかも遠慮はない筈です」
刀屋三郎四郎は一気にしゃべりまくった。
「錦の御旗を立てるのか」
尊氏は目が覚めたような顔をした。
「そうです。しばらくは野にひそみ、機を見て、錦の旗を林のように立てて、京都に攻め上れば、勝利はわれらのものとなるでしょう」
赤松則村が傍から口を出した。
「しばらく野にひそみとは如何《いか》なることか」
と尊氏が則村に訊くと、
「これ以上戦うのは、不利です。一時、摩耶山《まやさん》の城にこもって、戦うか、更には、わが領地の白旗城にご案内申そうかと考えていましたが、そのような姑息《こそく》な手段は取らず、思い切って、九州まで落ちのび、兵をつのり、武器をたくわえ、西国、四国の兵を率いて攻め上って来たならば、勝利は必ずお味方のものとなるでしょう」
と赤松則村が言った。
「九州まで落ちるなどということはいったい誰が言い出したのだ」
「御家来衆のすべてが同じように考えております。既に船の用意は整えております」
細川定禅がすすみ出て言った。
いつの間にかそこには主なる家臣たちが居並んでいた。足利|直義《ただよし》も高師直《こうのもろなお》も姿を見せた。そして彼等は一致して九州下向をすすめた。
「九州下向は承知した。だが、光厳上皇より院宣をいただくのは何時になる」
尊氏が、一番気にしているのは、そのことであった。
「光厳上皇の御在所はこの刀屋三郎四郎がよく存じております。今すぐにでも院宣は戴けます。しかし、そのことが敵に洩れたら、上皇のお命は危くなります。ころ合いを見計らって、私が光厳上皇を誘い出し、安全なるところへお移し申上げた上、院宣を戴くことにいたします。既に、その内意は承っております」
刀屋三郎四郎が言った。
尊氏の顔は次第に明るくなった。
「だが、追手をさけて果たして九州へ落ちのびることができるであろうか」
尊氏の前には新たな不安が浮かび上がった。
新田義貞は丹波に逃げた足利尊氏の後を追うことは止めて、大渡を守備している畠山高国の軍勢に兵力を集中した。
義貞がこの策を取った裏には物見の働きがあった。足利尊氏の本隊が丹波に退却したのは、官軍を丹波路に引き込むつもりであり、依然として足利軍の主力が淀方面にあって西国街道を守っているのは、尊氏等首脳部の退却を容易ならしめるためと見たのである。
更に、楠正成から新しい情報が入った。
(敵は兵庫の港に、多くの船を集めている模様)
おそらくは足利尊氏等は海路逃亡を企てているものと考えられた。まだまだ充分戦える軍勢を持っているのになぜ逃げるのか、義貞はふと疑念を抱いた。
畠山高国の軍勢は大渡をよく守った。半月前、新田軍が守ったと同じ場所で今度は足利軍が淀川を境として、官軍を支えたのである。淀川だけではなく、宇治川方面でも足利軍は守りを固くして官軍の進撃をはばんだ。
足利尊氏等は義貞が想像していたとおり丹波から三草山を越えて兵庫に入った。
それを待っていたかのように二月八日になって、大渡を守っていた足利軍は退却し、二月九日には西宮の南方打出浜で足利軍と新田軍との合戦が行われた。丹波から来た足利軍本隊も、この戦いに参加したので、伯仲《はくちゆう》した戦いとなった。
だが、この戦いも十日になって官軍の勝利に終わった。楠正成が神尾《かみのお》(神呪《かんのう》)の北の山(甲《かぶと》山)を迂回《うかい》して足利軍の背後を攻めたがために足利軍は退却を余儀なくされたのである。
足利尊氏は意外な感に打たれた。官軍と戦いながら堂々と退却し、頃合いを見計らって乗船し、九州に落ちるつもりだった。ところが予想以上に官軍は強いのである。
新田義貞は戦機を意識した。足利尊氏をここで討ち取らない限り、再びこのような好機に恵まれるかどうか分からなかった。こうなったのがむしろ偶然のように思われた。
義貞は各部隊に号令をかけて、激しく攻め立てたが、そのたびに足利軍に進撃をはばまれて、多くの死傷者を出した。
敗れたと言っても足利軍は大軍であった。戦いながらじりじりと退いて行く様子を見ると、むやみやたらと攻撃することはできなかった。
楠正成が伝令を義貞の本陣へ寄こした。
「このままだと尊氏、直義兄弟を討ち洩らすおそれがあります。敵の退路を断って、敵の本陣を囲みましょう。わが軍は、一時退くと見せて、敵をあざむき、敵の右翼後方に廻りこみます。脇屋殿の軍は敵の左翼後方に廻りこむよう御指図を願います」
伝令は片膝《かたひざ》立ちのままでそう言った。
「いさい承知。ただちに義助の軍を敵の左翼に向ける。河内守殿(楠正成)にそのように伝えよ」
義貞は外を見た。霧が出たようである。小雨が降っていた。彼は、伝騎を飛ばして、脇屋軍に敵の左翼後方を衝くように指図した。
楠軍は足利軍と戦いながら、少しずつ退いた。それにつられるように出て来た細川軍と一度は引返して激しく戦ったが、にわかに退却をはじめた。
その後を追おうとする細川隊に、細川隊と並んで戦っていた高師泰《こうのもろやす》が、
「相手は楠正成だ。あの退却の仕方はなにかの策があってのことに違いない。深追いはするな」
と止めた。
高師泰はこのことを直ぐ、兄の高師直に報告すべきだったが、楠隊が引いた後に出て来た北畠顕家《きたばたけあきいえ》の軍との戦いに気を取られて、それを報告する暇がなかった。
楠軍は退却したと見せかけて、軍を迂回させて敵の本陣後方右側を突いた。同じころ脇屋義助の軍は本陣後方左側を突いた。この奇襲に会って動揺した足利尊氏の本陣は、楠、脇屋の二隊に押し出されるように、本隊から遊離した。
「周囲はみな敵です。楠軍と脇屋軍に取りかこまれました」
尊氏の側近、須賀左衛門が告げた。
「切り抜けられぬというのか、湊《みなと》への道はふさがれたのか」
「残念ながら……」
須賀左衛門はそう言うと、
「このまま四半|刻《とき》も過ぎれば、最期の御覚悟を召されることになるやもしれませぬ」
自刃のことにふれたのである。
「命を惜しむつもりはないが、命を無駄にすることもない。ここはどこだ」
と尊氏は土地の名を聞いた。
「須佐の入江に臨む、魚の御堂と申すところでございます」
「海はすぐそこではないか」
尊氏は言った。そこまで来て、海へ逃げられないということは、はなはだ無念なことだと思った。
「海へ逃げるのはあきらめた。余は敵の一人でも多く斬ってから死ぬぞ、退却はやめて、敵に向かって進むのだ」
楠軍と脇屋軍に包囲された尊氏の本陣は死物狂いの戦いを始めた。尊氏の本陣危うしと見た高師直の軍が取ってかえした時には、尊氏は自ら太刀を抜いて楠軍と戦っていた。尊氏の危機は去った。尊氏、直義の兄弟のいる本陣は足利軍の奥深くに吸収された。
官軍も、もう少しというところで一息ついた。やはり足利軍は底力があった。
日が暮れかかると同時に霧が濃くなった。海霧であった。逃げるには好都合な霧だが攻めるには不都合な霧であった。
足利尊氏等主なるものは、三百|艘《そう》の船に乗って沖へ去った。逃げ遅れ、霧にまぎれて姿をくらました者もあったが、進退きわまって降伏した者もあった。
鎧《よろい》を脱ぎ捨て、太刀や長巻を添えて、十人、二十人と集団となり官軍に降った。降参した者は斬られないかわりに、縛られた。降伏しようとして鎧を脱いでいるところへ敵が現れて、斬られた者も多かった。
足利尊氏、直義等本陣がことごとく海上へ去ったと聞いたとき、新田義貞は、
「海霧が敵に味方しなかったならば、取り逃がすことはなかったのに」
と一言言った。夜になると霧はいよいよ濃くなった。
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建武二年の暮れから翌年の正月、二月にかけての京都の攻防戦は、かなり激しいものであったようだ。これは太平記、梅松論とも記すところである。官軍がこの戦いで勝った理由の第一は、京都を放棄して、逆に京都を攻める姿勢を取ったことであり、第二には、陸奥軍の来援であった。しかし、数において優勢だった足利軍がなぜ敗れたかについての真相を書いたものはない。
足利尊氏は全国に支族がある。武士たちは足利氏こそ源氏の嫡宗家だと思っている。だから御教書によって京都に出て来た者が数多くあった。鎌倉から西上して来た軍隊と西国、四国方面から出て来た、その軍隊に囲まれたら、官軍が勝てるわけはない。その官軍が勝った最大の原因は官軍と賊軍という建て前の差にあったように考えられる。
尊氏が敵は新田義貞であって天皇ではないといくら吹聴《ふいちよう》したところで、部下が内裏を焼き、掠奪をほしいままにすれば明らかに賊軍である。言いのがれはできない。足利軍に属した将兵たちが京都に入って、もろくも敗れたのは、この精神的な負い目が士気に影響したのではなかろうか。やはり戦争には大義名分が必要だったのである。
京都攻防戦の記述について太平記、梅松論を対照してみると、かなり違っている。ただ結城判官親光が大友|貞載《さだのり》を討ち取ったくだりについては、双方共同じで、しかもかなりくわしく書かれている。おそらくこの一事件は、この戦いに大きな影響力を与えたものに相違ない。
京都攻防戦について、もう一つの特徴は太平記、梅松論とも、新田義貞及びその一族の名を盛んに出しているが、楠正成の名は比較的に少ないことである。赤坂城や、千剣破《ちはや》城での戦いでは、あれほど偉大なる戦術家に書かれた楠正成の名があまり出て来ないのが妙である。梅松論には、
二月十日兵庫を御立有ける所に、宮方にも楠大夫判官正成、和泉《いずみ》河内両国の守護として西ノ宮浜に馳合て、追つ返しつ終日戦て両陣、相支ふる処《ところ》に、夜に入りて如何おもひけむ正成没落す。
と書いてある。没落とは退却である。この京都攻防戦の長たらしい梅松論の説明の中に、正成が出て来たのはこの一カ所だけである。しかも没落は意味ありげに書かれている。
この後、楠正成が天皇に義貞をしりぞけ、尊氏と和睦《わぼく》すれば天下は太平になるだろうと奏上したという梅松論の「正成講和提出説」の前提ともいうべきくだりに思われる。或《あるい》は淀の大渡で両軍対立しているころ、この講和の話が出たのかもしれない。
大渡はどこだか分からずに困った。結局京都市史編さん所の協力を得て、その場所を教えて戴いた。淀川は、洪水の度にその流れを変えて今日にいたっているとのことであった。
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勾当内侍《こうとうのないし》
兵乱が終わると、京都には続々と人が集まって来て、数日もすると、前よりも賑《にぎ》やかな町になった。何処《どこ》で殺された人の持ち物やら分からない武具を店先に山と積んで売っている商人があった。武具には生々しい血の跡が残っているようなものまで混じっていた。
官軍に参加した兵たちは、恩賞先渡しの形で貰ったいくらかの銭を持って町に出て、これらの武具の中から、よさそうなものを撰《え》り出したり、戦争の間も、ずっと京都を離れずにいた遊女たちを相手に、そこここの空家や物陰で、なけなしの銭をはたいて一瞬の快楽《けらく》にふけっていた。
後醍醐《ごだいご》天皇は多くの公卿《くぎよう》や武士たちを従えて、京都に帰られたが、内裏が焼失してしまったので、花山院を仮の皇居と定められた。
戦後処理はまず恩賞の沙汰から始まるのが通例であったが、九州に逃げた足利尊氏が大軍を率いて何時《いつ》攻め上って来るかもしれないというので、恩賞の沙汰は一時、預りということになった。それでは恩賞目当てに命を的に戦った武士たちが承知しないことは分かっていたが、朝廷にはまだそれだけの事務処理機関が復活してはいなかったし、恩賞をやろうにも、現物がなかった。
(足利兄弟が死に、その一族ことごとくを打ち平らげた場合こそ、恩賞望み次第)
というような聞きあきた言葉は、もはや通用しなかった。将たちは兵を慰撫《いぶ》するために苦心|惨憺《さんたん》しなければならなかった。
新田義貞も足利尊氏を討つべく京都を出発する際は、軍費としてまとまった金と食糧をどうにか用意して出たものの、それから、四カ月近くは経ち、金も食糧も尽きていた。当面の問題は、兵たちのその日の食であった。
足利軍は京都に入ると同時に真先に、所々の蔵を襲って、食糧を奪い去っていた。京から運び去られた米の行方は分からなかった。
戦さには勝ったが腹がへってこまる、という現象が京都の町で起こったのである。勅命を発し、近郊から食糧を集めようとしても、そう簡単なことではなかった。
楠正成の努力によって、和泉、河内方面から食糧が運ばれて一時的に兵たちを養うことができたが、彼等を京都に長らく滞在させることはできなかった。
「京都はどこへ行っても薄汚い兵たちであふれている。なんとかならないものか」
公卿の一人が声をひそめて言った。
「それは簡単なこと。足利尊氏追討のために、彼等を西国、四国、九州方面へ向かわせることだ」
別の公卿が言った。公卿たちの陰の言葉がやがて、まとまって天皇に奏上されようとした。吉田定房はその声を聞くと、ひとり考えこんだ。義貞や正成がそれを承知するだろうか。
吉田定房は北畠|親房《ちかふさ》に相談した。二人はかねてから親しい公卿仲間だった。
「兵が京都にいるのが目ざわりになるというならば、早速陸奥に帰りましょう」
親房は色を為《な》して言った。
いや、あなたの軍のことを言ったのではないと訂正しても、すでに遅かった。親房は、
「武士を上手に使うにはまず食を充分与えねばならない。その才覚もつかないような、能の無い公卿ばかりが天皇の周囲にごろごろしているから、このようなことになるのだ」
と公卿一般をなじった後で、
「武士は、やたらに位を欲しがり、位を貰うと、その次には女を欲しがるものだ。まず、新田義貞には適当な位と女を与えてやれば、恐懼《きようく》感激して、今後共に朝廷のために働く気になるだろう。まずは総大将に対して、そのような恩賞の沙汰を取った上で、兵たちを連れて都を立退かせる方策を取るがよいだろう」
と言った。
吉田定房は北畠親房の言葉をそのまま天皇に奏上した。
天皇は意外な顔をなされたが、そちの考えはと下問されたので、
「位は、近衛中将《このえのちゆうじよう》、女御は勾当内侍《こうとうのないし》」
と定房は答えた。
「勾当内侍をな」
勾当内侍は天皇が寵愛《ちようあい》されている女御の一人であった。このごろ准后廉子《じゆごうれんし》が、勾当内侍をしりぞけようとしているという噂《うわさ》を定房は聞いていた。宮廷内のもめごとを無くするためには絶好の機会だと思って勾当内侍の名を出したのである。
「他の者ではいけないのか」
天皇は仰せられた。
「なりませぬ。義貞は勾当内侍に思いを寄せているよし、うけたまわっております」
定房は嘘を言った。義貞は参内したとき、勾当内侍の顔をちらっと見たことがあるくらいで、話などしたことはない。ましてや思いを懸けようにも、天皇の思いものである雲の上の花を望むべくもないことだった。しかし、天皇は、定房の言に疑いをさしはさまなかった。女御たちは二十人近くもいる。勾当内侍一人を義貞にやったところで、どうということではなかった。後醍醐天皇は承知された。
吉田定房は天皇の内意を得た上で、それとなく義貞の意向を訊《き》いてみることにした。
定房は義貞を呼んだ。
「主上はそこもとのこのたびの働きをことのほかお喜びになられている。そのうち恩賞の沙汰もあろうが、まず、そこもとの望みを申してみるがよい。麻呂《まろ》が上手に取計らって、進ぜようほどに」
定房の白い鬚《あごひげ》が、ことさら白く光る、明るい日の午後であった。彼は、なにとぞよろしく御計らいくだされるようにという言葉を期待しながら言った。
義貞は定房の言葉を平伏して聞いていたが、やがて顔を上げると、一気に言った。
「ありがたき幸せに存じます。願うことなればこの身を鎌倉府将軍に任ぜられるようお口添えいただきとう存じます」
義貞の言葉には迷いがなかった。
新田義貞にとっては鎌倉府将軍になって関八州を治めることが最高の望みであった。恩賞として位を賜わったところで、実質的に得るものはなにもなかった。そのために、命を懸けて戦うのはどう考えても利口者のすることではなかった。
義貞は、後醍醐天皇をはじめとする公卿一統の世を迎えるための捨て石にされようとしている自分の存在に気が付いていた。
公卿たちの、浅はかさと、理由なき選民思想の押し売りには辟易《へきえき》していた。
鎌倉は祖父の基氏《もとうじ》も父の朝氏《ともうじ》も望んでいたところであった。たとえ征夷《せいい》大将軍の名をほしいままにせずとも、鎌倉府将軍で充分だと思った。鎌倉は新田氏一族の血によって北条氏から奪い取ったところである。そこへ帰るのは武人として当然なことだった。
鎌倉へ帰りたいと願うのは義貞ひとりではなかった。新田氏一族のことごとくが望んでいるところであった。
「京都よりも鎌倉の方が住みよいと言うのか」
吉田定房は妙な質問をした。ここでは恩賞についての義貞の希望を訊《たず》ねているのであって、京都と鎌倉の居住性の比較を云々《うんぬん》しているのではなかった。京都に生まれ、京都に育った定房には京都以外に住みたいと思ったことはなかった。だから、義貞が鎌倉と言ったので、ふとそんな言葉が出てしまったのである。
定房は照れかくしに白鬚《しらひげ》をしごいて、
「鎌倉もよいだろう。だが、そこもとは、主上によって源氏の嫡流と認められ、全国の武士の統領たるべき者と決められている。主上のおわす京都に居なければならない者がなぜ鎌倉へ行きたいと申すのだ」
定房はやや気色ばんだ顔で言った。
「足利氏との戦さは終わったのではございません。九州に下った足利尊氏は西国、四国方面の兵を集めて、再び京都に攻め上がって来るでしょう。われ等はその備えをしなければなりませぬ。足利氏が西から兵をひっさげて来るならば、われらは東より兵を率いて参りましょう。それでこそ対等の勝負ができます。それがしは故郷の地を出てから既に三年になります。その間の度々の戦いに、一族のうちで戦死した者、傷ついた者は枚挙にいとまもないほどです。兵も少なくなりました。このあたりで一度関東に帰り、新しい軍を編成して参らねば、足利の軍には勝てません」
義貞はそこで一息ついた。
「つまり、そこもとは鎌倉に住みたいというのではなく、軍を募るために鎌倉へ帰りたいというのだな。それならば、わざわざ、そこもとが行くことはないではないか。御教書というものがあるだろう。それによって兵を募ればよい。尊氏はその御教書を乱発している。そこもとも遠慮することはない、御教書をどんどん発すればよいのだ」
定房はそう言うと、声を上げて笑った。
「卿には武士のことが分からないのです」
「なに?」
定房は義貞のその言葉が気に入らなかったのか、きびしい眼で義貞を睨《ね》めつけた。
「軍人《いくさびと》たる私の心情が卿にはお分かりにならないのです。それがしには将としての勘のようなものがございます。合戦に勝つためには、この勘の働きこそもっとも大事なものでございます」
だが、まだ定房は義貞の言おうとしていることが納得し兼ねるふうであった。彼は憮然《ぶぜん》とした顔で義貞の次の言葉を待っていた。
「われ等が鎌倉に帰ったと聞いたならば、足利尊氏はにわかには東上の軍を起こさないでしょう。彼は関東の武士ですから、東夷《あずまえびす》の強さをよく知っています。彼は京都より西を充分に固めた上で攻め上がって来るでしょう。それまでに、われ等も関東をまとめた上で、大挙して、上洛《じようらく》しましょう」
「天下を西と東に分けて戦おうというのだな。すると京都はどうなるのだ。主上のことをどのように考えているのだ」
定房は叫ぶように言った。
「楠正成がおります。名和長年《なわながとし》もおります。楠は、このあたりの事情に明るいし、稀《ま》れに見る軍略家でもあります。名和長年は出雲《いずも》、伯耆《ほうき》方面を掌握しています。ただ、楠、名和の両将だけでこの京都を守るということは困難です。もう一人ぜひとも味方に加えたい大将がおります」
吉田定房は、はてという顔をした。頭の中でいろいろと詮索《せんさく》したが、その将の名は浮かび上がらなかった。
「赤松|則村《のりむら》(円心)です。円心殿は、北条氏討滅には最高の功を建てた人です。にもかかわらず、恩賞としては、もともと彼の領地であった佐用の荘を公認されたに過ぎません。当然のことながら、彼には播磨守《はりまのかみ》を与えるべきでした。その不満が原因で彼は足利方についたのです。播磨守は現在この義貞が戴いておりますが、早速返上申し上げましょう。これを円心殿に贈り、味方に誘うことです。幸い、河内守《かわちのかみ》(楠正成)殿と円心殿は姻戚《いんせき》関係にありますゆえ、その筋をたよれば、まだ遅くはないと存じます。京都は、楠、名和、赤松の三将で守れば万全です」
義貞の話に定房はかなり動かされたようであった。
「そうしないと、足利尊氏には勝てないのか」
定房は深い溜息《ためいき》をついた。そんなに足利尊氏は底力を持っているのかと未《ま》だ疑っているようであった。
「勝てません」
義貞は言い切った。
「しかし、その考えは、そこもとの考えであろう。河内守はどう考えている?」
「全く同意見です。既にそのことについては話し合いが済んでおります」
義貞は、正成と三日前にこのことについて話し合ったばかりであった。
「だが、主上はそこもとが鎌倉府将軍としてここを去ることについて、なんとお考えになるだろうか。おそらくは反対なされると思う。その場合はいかがいたす所存か」
定房は義貞の眼をじっと見て言った。
「その場合は、止《とど》まります。しかし、代人として弟の脇屋義助を鎌倉府将軍として派遣することをお願い申上げます」
「それほど鎌倉が欲しいのか」
定房はいよいよ深刻な顔をした。
義貞はその日のうちに、烏丸《からすまる》の楠正成の屋敷を訪れた。庭の梅は既に散っていたが、まだ桜が咲くにははやかった。
「今度は焼け残ったが、この次はどうなるか」
正成は義貞の視線を追いながら言った。
「さよう、このままだと、この次はどういうことか」
義貞は相槌《あいづち》を打ったあとで、吉田定房卿に会った話をした。
「われらの策をたくまずに主上に伝えてくれたらよいのだが、とかく公卿という者は私情をさしはさんでことを湾曲することによって、自己の存在を明らかにしようという癖がある。どうなることか」
義貞は定房の口調から察して、無理だろうと言った。
「無理だが、上野介《こうずけのすけ》殿(新田義貞)には、鎌倉へ下向して関東の兵を集めて貰わねばなるまい。鎌倉を押えることは、足利氏の首根っ子を押えることと同じである。北条時行の乱の折、足利尊氏が勅許を待たず、鎌倉へ攻め下った例もあるから、上野介殿が同じ手を使って鎌倉へ下向なさるのは差支えないどころか、早速そうしていただかないと困る事態が起こりそうだ」
正成は、幾分か膝を寄せて来て小声だが、はっきりした声で言った。
「光厳上皇の行方が分からなくなった」
「さては……」
義貞は顔色を変えた。足利氏が光厳上皇を奪ったとなれば、それこそたいへんなことだと思った。義貞は震える思いで、正成の話を聞いた。
光厳上皇は、今度の兵乱で比叡山に逃げられたが、坂本までは下らず、延暦寺に止まっていた。後醍醐天皇に対する遠慮であった。
「お味方が勝利となり、まず主上が還幸なされてからも、尚《なお》三日ほど延暦寺に居たが、四日目に迎えの者と輿《こし》が来たので寺を出た。そのまま行方が分からない」
正成は言った。
「迎えの者というのが怪しいな、なにか心当たりでもないのか」
義貞は既に遠いところへ連れ去られた光厳上皇のことを思いながら言った。
「延暦寺の僧の話によると迎えに来たのは、公卿侍ばかりで、特に怪しいふしはなかったということだ。強いて言えば、供廻りが多過ぎたということぐらいのものだった。その輿の行方について、家来を八方に出して調べさせたところ、どうやら嵯峨野《さがの》へ行ったらしいことまでは分かった。それからは全く行方は分からない」
「上手《うま》すぎる」
と義貞が言った。
「そのとおり、或はあの男が一枚加わっているのではないだろうか」
正成は瞬《まばたき》もせずに義貞の顔を見詰めていた。
「刀屋三郎四郎……」
義貞の声は悲痛な響きを持っていた。
「こうしては居られぬ。上野介殿に即刻関東に下って軍兵を募って貰わねばならない。その時が来たように思う」
正成は、その言葉を繰り返した。
そのころ光厳上皇は、武将の姿に身を替え、馬に乗り、百名ほどの郎党を従えて、西国街道を播磨に向かって歩いていた。一行の中には、光厳上皇の侍従の他、刀屋三郎四郎が武装して加わっていた。
上皇は馴れない馬に乗ったせいかひどく疲れた顔をしていた。不安そうな顔で、時々、刀屋三郎四郎を呼んで、行先を訊ねたが、三郎四郎は、
「いましばらくの我慢でございます。間も無く輿を持って赤松殿が迎えに来られるでしょう」
と言ってなぐさめていた。
播磨に入ると、三郎四郎が言ったように、迎えの輿と、輿を守るための武士が二百名ほど来ていたが、赤松円心の姿はなかった。
上皇は輿に乗ったが、山道を何処《いずこ》ともなく連れて行かれる淋しさに堪え切れなくなって、三郎四郎にまた行先を訊ねられた。
「ひとまずは、赤松殿の館に参り、用意ができ次第万勝院へお移りあそばされるよう準備いたしております」
と三郎四郎は言った。万勝院は白旗城の鬼門に当たる北東の小高い丘の上にある名刹《めいさつ》であった。
上皇は行先が決まってほっとしたものの、輿の外に続く、あまりにも物淋しい景色に、なにか、このまま生きて都へは帰れなくなったような気持ちになって、しきりに涙を拭われていた。
上皇の周囲には女御の姿は全く見えなかった。そうしないとお生命《いのち》が危ういと、刀屋三郎四郎に言われて、上皇后も女御たちも連れずに、あわただしく脱出したのであった。
輿は千種《ちくさ》川に沿ってのせまい谷を上り、やがて赤松館に着いた。そこには赤松則村を初めとする赤松一族の他に、足利家の一色|家範《いえのり》が迎えに出ていた。
上皇は館《やかた》の中の書院の一郭を区切ったところで起居することになった。上皇后や女御のかわりに、三郎四郎が京都から連れて来た女が四、五人上皇の身の廻りのお世話をした。
その光厳上皇が万勝院に移ったのは、数日後であった。万勝院は丘というよりも小さな山の頂にあった。さながら山城のような地形のところに建てられた寺であった。寺の周囲には数百人の武士が見張りをし、寺に通ずる道の要所は兵によって固められた。
光厳上皇は万勝院に落着かれてからは、次第に気持ちもなごやかになり、世の移り変りが実感として見えて来たので、赤松則村や一色家範の願いを聞き、かねてから後醍醐天皇への反発もあったので、足利尊氏に賊軍討滅の院宣を賜うことを決心された。
院宣の文案は一色家範が起草したものであった。それは、両統迭立から筆を起こし、正統なる天皇は光厳天皇であるべきところを、賊徒が武力を以《もつ》て、その座を奪い取った経緯を記し、足利尊氏に対し、正統なる天皇をその座につけるために、すみやかに兵を挙げて、賊徒を亡ぼせよと命ぜられたものであった。さすがに、後醍醐天皇の名は明らさまに書いてはなかった。
院宣は、醍醐寺の三宝院僧正|賢俊《けんしゆん》が奉じて海路足利尊氏の後を追った。
吉田定房卿は義貞の申出について考え続けていた。九州に下った足利尊氏に対抗するために鎌倉に下って軍を強大にするという策がもっともなようにも考えられるし、都を楠、名和、赤松の連合軍で守るために、赤松を抱きこめというのは名案だとも考えていた。定房は、前のこともあるので、まず北畠親房に相談した。親房は陸奥軍を率いて帰途に着く前だというので、なにか落着きがなかった。彼は定房からその話を聞くと、聞こえるか聞こえぬくらいのかすかな唸《うな》り声を咽喉《のど》の奥で発した。
「確かに理に合う言い分である。鎌倉にこだわり過ぎるのがいささか気になるが、大勢から言うと義貞の言うとおりである。なにはともあれ、赤松則村を味方につけることから始めたらよいだろう」
と言った。
親房は、徹底した公卿一統の政治を主張する人であったが、先を見る眼はあった。
定房は親房の言葉に勇気付けられ、天皇に義貞の意向を伝えるつもりになって、回廊を急いでいると、千種忠顕《ちくさただあき》卿と坊門宰相清忠《ぼうもんのさいしようきよただ》卿の二人とばったり顔を合わせた。定房卿は思わず顔をそむけた。
「お急ぎの御様子だが、なにか出来《しゆつたい》いたしましたか」
二人は声を合わせて言った。
千種忠顕卿も坊門清忠卿も天皇のお気に入りの公卿であった。定房にしても知らんふりをして通り過ぎるわけには行かなかった。
「なにやら、親房卿と密談しておられたが、われらが聞いてはいけない話ですかな」
千種忠顕が皮肉をこめて言った。そして二人は定房卿を両側から挟《はさ》みこみ、肩を抱くようにして、一室に連れこんだ。
「話をお聞かせ願いたい」
半ば脅迫に近い姿勢だった。
「実はみなの者を集めて、意見を聴きたいと思っておったところだが、そこもとたちが是非にというならば、お聞かせしよう。だが、これはまだ主上には申し上げてはないことだから、特に内聞に願いたい」
定房は声をひそめて話し出した。
「さてさて、武士という者は心いやしきものよな」
聞き終わって千種忠顕卿がまず言った。それに続いて、坊門清忠卿が、
「さよう。義貞が関東に下りたいというのは、前に足利尊氏が、それを乞うたのと全く同じことで、鎌倉に幕府を設け、再び武士の世にしたいということだ」
と言った。唾《つば》でも吐くような言い方だった。
「東国に下向して武備を固めることよりも、急ぎ九州に下って賊を討つのが当然のこと、こんな分かり切ったことがなぜ分からないのだろうか」
千種忠顕卿は、吉田定房卿の顔を軽蔑《けいべつ》するような眼で見ながら言った。
「赤松則村を味方に迎えるについては?」
どう考えるかと定房が訊くと、
「味方が増えることに越したことはないが、一度裏切った人間は、また裏切るおそれがあるから、慎重にすべきである」
二人はこもごも言った。心から賛成しているふうには見えなかった。
吉田定房は、千種、坊門以外の公卿にもそれとなく意見を訊いてみた。多くの公卿たちは、義貞を鎌倉にやることは第二の足利尊氏を作ることであると反対した。
公卿たちは、足利尊氏が近いうちに必ず攻め上って来るだろうという危機感をそれほど強く持ってはいなかった。
「天皇の御威光により賊どもが筑紫《つくし》の海に落ちゆきたること、まことに祝着至極、賊どもは、彼の地に逼塞《ひつそく》し、やがては自滅の道をたどること火を見るよりも明かなり、これすべて天意というべし」
などと申し合わせたようなことを言っていて、足利尊氏が着々と再起を急いでいることなどいっこう気にしてはいなかった。
定房は、この風潮を悲しく思った。彼は直観的に、このままではだめだと思った。定房は勇気を出して、天皇に謁見し、義貞の言、親房の考え、千種、坊門等の意見をことごとく奏上した。こうなれば、天皇の仰せ出しによる以外はないと思ったのである。天皇は、定房の話を聞くと、即座に言った。
「義貞は京都に置かねばならぬ。関東にて軍を募ることは義貞が行かなくともできること。それよりも、九州に逃げた足利尊氏を追討することこそ専一に考えよ」
と仰せられ、
「はや、昇位の儀と、勾当内侍のことを取り行え」
とつけ加えられた。
定房が奏上する前に誰かが、天皇の耳に誤った概念を入れていたことは確実だった。定房は溜め息をついた。定房は北畠親房に、このことを告げ、親房から天皇に奏上して、義貞の意見について再考をうながすように乞うたが、親房は首を横に振って言った。
「間も無く京都を出発して陸奥に帰るこの身に、なにが申し上げられようか。申し上げても無駄なことは黙っている方がよい」
親房は取り合わなかった。
新田義貞は近衛中将の位を与えられ、脇屋義助ほか一族には、それぞれ位階昇格の沙汰があった。それよりも、なによりも、人々を驚かせたのは、天皇が勾当内侍を義貞に下されたことであった。
武士の世界では、頭《かしら》にいる者がその妾を部下に与えるということはそれほど珍しいことではなかったが、天皇が寵愛されている内侍を臣下に与えるということは稀有《けう》のことであった。しかも勾当内侍が絶世の美女であることが、噂を大きくした。
勾当内侍は吉日を選んで新田義貞の屋敷に移った。新田屋敷には一度に花が咲いたような華やいだ空気が立ちこめた。
新田義貞は思いもかけぬことにただひたすらに恐縮していた。それが天皇の御本心から出たことか、公卿の奏上によるものかは別として、雲の上の花が目の前に現われたことだけは事実であった。義貞は三十七歳の男盛りだった。彼は雲の上の名花を前にして、二十年も昔に、広神《ひろがみ》の阿久美《あくみ》を訪れた時と同じように胸のときめきを覚えたのである。
義貞にとって勾当内侍は別な世界に生まれた女《ひと》に思われた。彼女は公卿の家に生まれ、京の水で磨き上げた玉の肌と、幼少のころからしこまれた教養を身にまとった女であった。生まれながらにして、天皇の側近たるべき女性としての未来が約束され、ひたすらそのように育てられた女性であった。
彼女の肌は常に香気に溢《あふ》れていた。白い歯は一点の曇りもなく、澄んだ双眸《そうぼう》には青い空が映っていた。宮廷の女性に特有なつんとすました冷たさはなく、人々に対しては常に微笑を以て接していた。十七歳で天皇の許《もと》に上り、二十二歳で義貞に嫁した彼女は女としてもっとも充実した年頃であった。はじらいもためらいも誘いも、その一つ一つが、いままで義貞の経験したことのない所作《しよさ》を以て行われた。
彼女の声は玉をころがすようにまろやかであった。どうしてこのように面白い話を知っているかと思うほど、古今東西の小話を上手にまとめて、義貞に話した。話しながらも笑顔は忘れなかった。
時には、宮廷内の恋物語もあった。そのときには、必ずと言っていいほど恋歌が出て来るのである。彼女はその歌を義貞の前で歌った。それを聞いている彼は勾当内侍から恋をささやかれているような気持ちに落ち入るのである。
勾当内侍と褥《しとね》を共にする時の義貞は、若返った自分を感じた。二十二歳の彼女の肉体は、義貞を同じ年ごろの青年として迎えた。勾当内侍は眠りの中にも義貞と共に住んでいた。常に滑らかなうるおいのある彼女の肌と接しているという満足感の中で彼は眠り、そして目を覚ますと、輝くばかりに装いをこらした彼女がそこに坐って居た。
義貞は勾当内侍の愛撫を受けながら、男として知らなかった別の世界がここにあったことを知った。春の夜は短か過ぎた。
「河内守殿がお待ちでございます」
或る朝義貞が起きるのを待っていた家臣の神宮六郎が言った。
「夜をもっぱらになさっておられますね」
と楠正成は義貞の顔を見て笑った。義貞には返すことばがなかった。
「結構なことです。いましばらくは夜をもっぱらにしても、いっこうに不思議なことはありません」
だが、と正成は一段と声を落としてから、弟の正季《まさすえ》を使者として赤松館へやった結果について話し出した。
「朝っぱらから、よくないお話ですが、やはりお耳に入れねばならないと思って参上いたしました」
「赤松殿はこちらの申出をことわったのか」
「見事にことわられました。彼は正季に向かって、播磨守はいまの朝廷からはいただきません、新しい朝廷からいただきますとはっきり言ったそうです」
なぜ、赤松則村が急に強腰になったか、その理由について正成は話し出した。義貞は次第にその話に引きこまれて行った。
楠正季は兄正成の意を汲《く》んで数人の郎党を連れて佐用の荘の赤松館を訪れて、官軍側につくように説得を始めた。現在播磨守は新田義貞に与えられているが、義貞はそれを朝廷に返上し、朝廷より新たに赤松則村へ与えられるだろうと言った。
〈まことによい話だ。その話がもう二カ月ほど前にあったら、拙者も心を動かされたでしょう。だがいまはそうではない。世が移り変わったのだ〉
則村はそう言うと大声を上げて笑った。
〈世が移り変わったということは、いかなることでござる〉
正季が訊ねると、
〈つまり、賊軍はなくなり、二つの官軍ができたということです〉
と言った。正季にはいよいよ分からなくなった。すると則村は、
〈光厳上皇より院宣が発せられたのである。つまり、そこもとも、そこもとの兄者の河内守殿も、新田義貞殿も、われらから見ると賊軍である〉
と言った。正季はしばらくは言葉を失って呆然としていた。
〈光厳上皇の行方が分からなくなったと聞いたが、こちらに来ておられるのか〉
と正季が言うと、則村はきらりと眼を光らせて、
〈ここにおられるとは言っていないぞ。院宣を賜ったと申しているのだ。参議殿(足利尊氏)が京都の戦いに敗れたのは、賊軍の汚名を負っていたからだ。今は違う。間も無く官軍の名において京都に攻め上って来るだろうが、その時は必ず勝つ。そのことは武将である、そこもとの方がよく知っておられること。どうだろう、この際、あの能無し共の公卿等を見限って、こちらの味方に付く気はないか、そうしないと落とさないでもいい生命を落とすことになるだろう〉
と言った。正季が正統な天皇は後醍醐天皇であることをくどくど説明し、天皇が播磨守を則村に与える意志のあることを重ねて伝えると、則村は、播磨守は今の朝廷からは貰わず、新しい朝廷から頂戴すると豪語したのである。
「最悪の事態になったな」
義貞は言った。
「そのとおりです。どうやら光厳上皇は、佐用の荘の万勝院におられる様子です。院宣はここから発せられたらしい……」
「攻めねばならぬな、即刻に」
義貞が言った。
「さよう、まず播磨に兵を進めることだ。敵の院宣や御教書に負けずに、味方も綸旨《りんじ》と御教書をばら撒《ま》かねばならないでしょう」
楠正成は言った。
播磨の白旗城を攻めるとすれば、新田義貞自身が出向かねばならないだろうし、西国の諸豪を従わせるためにはできるかぎり早く出兵して、先手を取る必要があることを正成は説いた。
敵側が光厳上皇の院宣を得たということは、その錦の御旗をかかげて、足利尊氏が攻め上って来る時期が早まったことになった。こうなると、義貞が関東に下って兵を集める時間の余裕はなくなったことになる。義貞は深い溜め息をついた。
「即刻、諸将を集めて出軍の日を決めよう」
しかし、義貞の声にはなぜか力がなかった。
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勾当内侍について太平記に書かれていることを意訳して引用すると、
≪新田義貞の御教書をいただいた西国、四国の朝敵でこれに従わないものはなかった。新田義貞がこの時の勢いのままに攻め下ったならば、足利尊氏を亡ぼすのは容易なことであったろうに、義貞は天皇から美人の噂の高い勾当内侍(勾当内侍は女官の役名、儀式の折、三種の神器を奉持する。日常は天皇の傍にあって秘書役を務める)をいただいたので、都を離れるのがつらくなって、三月末まで出征を延期してしまった。傾国の美人とは勾当内侍のような|女《ひと》を言うのであろう≫
と書かれている。この太平記の一文が限りなく新田義貞の人格を落とすことになった。後世の俗書は好んでこの部分を取上げ、一部を誇張し、義貞をだらしのない男に書き立てた。最近になっても、よみもの雑誌にしばしば取上げられ、義貞のイメージダウンが行われている。
勾当内侍が実在したかどうかは、太平記以外に書いたものがないから分からないが、実際義貞が、勾当内侍に心を奪われて戦機を失したかどうかを調べて見よう。
建武三年二月十二日  足利尊氏兵庫出航(梅松論)
〃  二月二十九日 改元して延元《えんげん》となる。この日尊氏、赤間の関出発(梅松論)
延元元年三月四日   江田行義、大館《おおたち》氏明両軍播磨に向かって京都出発(太平記)
〃  三月末  新田義貞大軍を率いて京都出発(太平記)
後醍醐天皇が京都に還幸され、花山院を御所と定め、恩賞問題に取りかかったのは、二月二十九日の改元の日あたりからであろう。勾当内侍が義貞に与えられたのはその前後であったろう。その義貞は、三月四日には、一族の大将を播磨に向けている。決して軍事行動をなおざりにしていたのではない。義貞が三月末に京都を出発したのも、大軍を率いて攻め下るのにはそれだけの準備期間が必要であったからだ。
太平記は義貞の下向が遅れたのは彼の病気のためだとも書いている。どこまでが虚構《フイクシヨン》でどこまでが本当か分からない。
足利尊氏等の都落ちについては、太平記によると、将兵等が兵庫湊から出る船に乗ろうとして大混乱したように書かれているが、梅松論のほうは、余裕ありげな退却であったように書いている。南朝方の見方と北朝方の見方の相違であろう。
後醍醐天皇が御所と決められた花山院は現在の京都御所公園の中にある。花山院跡には花山|稲荷《いなり》神社があり、その隣りには宗像《むなかた》神社がある。ここに、樹齢八百年と言われるクスの大木とムクの大木とがある。
もし、その木がほんとうに樹齢八百年だとしたら、六百四十二年前の延元元年には、樹齢百五十八年だったということになる。当然なことながら、後醍醐天皇も勾当内侍も新田義貞もこの木を見たことであろう。京都にはケヤキとムクの木が多い。クスの木もよく見掛ける。
京都は四季を通じて観光客が多いが、花山院跡を訪れるような人は稀であった。京都の中央にこんなところがあるかと思われるほど静かだった。ムクの木の下にツバキの一叢《ひとむら》があり、そこに時期はずれの花が咲いていた。私が覗《のぞ》きこむと藪《やぶ》の中から、小鳥がいっせいに飛び立った。
[#ここで字下げ終わり]
難攻不落の白旗城
二月十二日、夕霧の中を兵庫|湊《みなと》を脱出した足利尊氏の一行五百余名は翌朝播磨の室津《むろのつ》に停泊した。ここは赤松円心の勢力下にある湊であった。
一夜の航海だったが、船に酔った者が多かった。尊氏は、敗戦の心労も手伝って蒼白《そうはく》な顔をしていた。
「船酔いには歩くのが第一でございます」
と赤松円心は尊氏等多くの将兵に歩くことをすすめた。
船の経験のない関東武士たちは、例外なく船に酔っていた。足利直義は特にひどく、歩くのもやっとのほどであった。赤松円心は、
「船酔いをはやく治すには汗を流すのが一番妙薬でございます」
と言って、将兵たちに走らせては、樽《たる》で運んで来た水を飲ませ、また走らせるというふうなことを繰り返していると、一|刻《とき》ほどの間でほとんどの者は元気を恢復《かいふく》した。
ここで食事を摂《と》ってひと寝入りして夕刻ころ起き出て来た尊氏は諸将を集めて軍議を開いた。
官軍の攻撃をどう支えるかの対策であった。
「恐らく新田義貞等は、海路と陸路の両方から、われ等の後を追って来るであろう。それを防ぐにはどうしたらよいか」
尊氏は諸将に問うた。そこに瀬戸内海を中心にした絵図が置かれていた。このまま九州に逃げても、後から後から追って来る官軍からどうして逃げたらよいであろうか。
諸将はそれぞれの意見を述べた。まず、播磨の国の各所の城砦《じようさい》を固めて官軍を阻止している間に、西国、四国、九州で兵を集め、京都に向かって攻め上って来るのが最上の策であると意見具申をする者が多かった。播磨の城砦に配分されるべき大将と兵員について活発な意見の交換があった。
軍議を開いている間中も次々と早馬が来着した。兵庫で敗れた味方が続々と播磨へ逃げこんで来たが、その将兵等をどのように遇すべきかというのが、当面の問題であった。官軍が追撃して来る様子はなかった。兵庫で敗れた足利軍を再編成し、赤松円心が総大将になって播磨の守備に当たる、という方針が決まると、その後のことも順々に決まって行った。
播磨    赤松円心
四国    細川|和氏《かずうじ》、細川|顕氏《あきうじ》
備前《びぜん》(三石城) 石橋和義、松田盛朝
備中《びつちゆう》と備後《びんご》   今川顕氏、今川貞国
安芸《あき》    桃井《もものい》盛義、小早川一族
周防《すおう》    大内長弘、大島義政
長門《ながと》    斯波高経《しばたかつね》、厚東武実《こうとうたけざね》
この室津の軍議において各国の大将たるべき人をこのように決定できたのは、足利尊氏が京都で奉行所を開いていたころから、既にこの地方の豪族との間に交流があり、御教書もそれぞれこれ等の国の主なる者に配られていたからであった。こういうこともあろうかという足利尊氏の深慮遠謀と言うよりも、北条一族が滅びた次に武士の統領的勢力を持つ者は源氏の嫡流を標榜《ひようぼう》する足利氏であったというほかはなかった。
室津の軍議は夜半に終わった。取り決めができて外へ出たとき、赤松円心の弟の円光が小声で円心に言った。
「各国の大将が決まって結構だが、その中には、新田の大将が二人もいる」
と言った。桃井盛義と大島義政の二人を指したのである。
「大きな戦乱ともなれば一族が二つに別れて戦うのは世の習いである。わが赤松の一族の中でも氏範《うじのり》は官軍側に走ったではないか」
円心はそう言って円光をたしなめた。赤松円心の末子赤松氏範は父円心が尊氏側に従って官軍に叛旗《はんき》をひるがえすと同時に五十余名の郎党を率いて父のもとを離れて行った。そして、この父子は生涯会うことはなく、氏範の子氏春、氏則等は南朝側の大将として大いに活躍する人となった。
室津の軍議がいち早く開かれ、来たるべき戦いに対して布石が為されたことは足利軍にとって大いなる取得であった。これにひきかえて官軍側は戦勝に酔ったままの状態から抜け出ることはできないでいた。公卿《くぎよう》という船頭がいちいち軍議に口を出す状態では、室津に匹敵するような充実した軍議を開くことはできなかったのである。
翌朝、尊氏は、起きると直ぐ赤松円心を召して、光厳上皇の院宣を何時ごろ賜わることができるかどうかを問うた。
「一刻でも早くと心掛けております」
と答える円心に向かって、尊氏は、
「院宣はわれ等が備後の鞆《とも》の浦に到着するまでに受け取りたい」
と言った。尊氏は院宣を待っていた。院宣さえ賜われば、賊軍の汚名をそそぐことができるのである。それは立ちどころに勝利にも影響することであった。
足利尊氏等の乗った船団が、浦から湊、湊から浦と立寄りながら、備後の鞆の浦に到着したのは二月十九日の夕刻であった。
尊氏の船が鞆の浦に入った一刻ほど後に、早船が到着した。船には光厳上皇の院宣を持った三宝院賢俊が乗っていた。
尊氏は今川顕氏、今川貞国等の案内で鞆の浦に上陸していたが、三宝院賢俊が院宣を奉じて到着したと聞くと、斎戒沐浴《さいかいもくよく》し、衣服を改めて、院宣を受領することにした。
急なことで三宝院賢俊の宿舎は勿論《もちろん》のこと、尊氏等の宿舎さえ決まっていなかった。しかし尊氏はそれを受領することを急いだ。一刻たりとも賊将の衣を着ているのが嫌だったから、彼は、鞆の浦の古寺を借りて院宣の受領をした。院宣を与える三宝院賢俊は船酔いからはまだ醒《さ》めておらず、衣服さえそのままだった。
尊氏は院宣をおし戴《いただ》き、読んでいる間に涙を流した。それには、持明院統の光厳上皇こそ正当なる日本国の天皇たるべき人であることが記され、後醍醐天皇を奉じて、天下をわがものにせんとする奸賊《かんぞく》は速やかに誅伐《ちゆうばつ》せよと書いてあった。
院宣を涙を流しながらおし戴いた尊氏はやがては号泣した。声を上げて、すさまじいかぎりの泣きようだったので、光厳上皇の勅使三宝院賢俊は、その異様な情景が理解できずに、身体《からだ》をこわばらせて泣き崩れる尊氏を見守っていた。
「あまりの嬉しさに取り乱し、見苦しいところを御覧に入れて、申しわけございません」
ややあって尊氏は涙を拭い、三宝院賢俊の前に坐り直して言った。それまではどちらかというと青白くうち沈んでいた彼の顔が一泣きした後は童子のように赤らんでいた。眼は生々と輝き、声にも張りがあった。
尊氏は三宝院賢俊のところを辞して宿所に帰ると、今川顕氏、今川貞国等の他、主なる大将を呼び集めて院宣を読んで聞かせた上、一段と大きな声を張り上げて言った。
「今より、足利尊氏は賊将ではない。官軍の総大将になったのだ。これからは錦の御旗を立て、敵と戦うことができるのだ。われ等は官軍である。よいか、われ等は正統の天皇たるべき光厳上皇の院宣を賜ったのだ」
尊氏は繰り返し、繰り返し、それを言った。落ち着いてはおられないようであった。立ったり坐ったり、時にはそのあたりを歩き廻りながら、官軍だ、余は官軍の総大将だと叫んだ。まるで気が狂った人のようであった。しかし、尊氏の昂奮《こうふん》はそれほど長くは続かなかった。彼はやがて平静にもどると、
「官軍になった第一番目の仕事を命ずる」
ときびしい顔で言った。さては、軍議かと緊張する大将たちに向かって彼は、
「敵との勝敗の決め手となるものは、合戦に先立って、瀬戸内海の海賊衆(水軍)をいかに多く味方に招くかということである。まず各大将は、海賊衆の主なる者の所在を書き上げて提出すること。次に各大将は、字の上手なものを三名ずつ本陣に差し出すこと。そして第三には、錦の布地をなるべく多く集めて持参すること。以上三つのこと至急に実行するよう命ずる」
尊氏は眼を見開いて言った。今まで見たことのない尊氏の顔がそこにあった。それからの尊氏は別人のように働いた。まず自ら御教書の草案を書いた。光厳上皇の院宣を受けて、新田義貞等の賊徒を誅伐するために兵を挙げる所以《ゆえん》が闊達《かつたつ》な文章で綴ってあった。それには賊将の汚名から逃れることのできた彼の面目が躍如としていた。
「これでおれは義貞と対等に勝負ができるぞ」
彼は弟の直義に向かって言った。
御教書は多くの右筆《ゆうひつ》によって清書され、尊氏がそれに署名し、錦の布地で作った旗と共に海賊衆二十八族に早船で送られた。錦の御旗は光厳上皇から賜ったものであるから、その旗に、各海賊衆の紋旗を縫いつけて使うようにとこまかい指示まで添えてあった。
足利尊氏はまず瀬戸内海の水軍を味方につけると、次には、西国、四国、九州の主なる豪族に、新しい御教書を送った。官軍であることを強く意識した御教書であり、山陽道に面する諸豪には、水軍と同様に錦の旗まで送った。鞆の浦には錦の布地はそれほど多くはなかった。水軍二十八族にいち早く錦の旗が行き渡ったのは、三宝院賢俊の船の後を追うように、京都の刀屋三郎四郎から錦の布地が送り届けられて来たからであった。それには尊氏あての刀屋三郎四郎の書状が添えてあった。
≪いま将軍(尊氏)が一番欲しいものは錦の布地だろうと考えたのでお送り申します。やがて、錦の旗を船首になびかせて将軍自らがお帰りになるのをお待ち申します≫
と書いてあった。
尊氏は錦の布地の贈り物を得た喜びに率直に浸っていた。やがて瀬戸内海の水軍が御教書と同時に錦の御旗を戴いたことをこの上なく徳として続々と味方に付いたという情報が入り、尊氏を狂喜させた。
「新田義貞はなにをしている。彼だって馬鹿ではない。船で逃げた余を追うのは当然のことだ。船を味方に付けようと考えているであろう」
尊氏は、四国の水軍に通じている今川貞国に訊いてみた。
「そのような動きは兵庫から将軍が出発なされた直後にはございました。主なる水軍には、新田義貞殿からの御教書が届きました。だが、錦の御旗は送られては参りませんでした。水軍の主なる者の申すには後醍醐天皇が正統な天皇なのか、光厳上皇が正統な天皇なのか、われわれには分かりませんでしたが、実際に錦の御旗を頂戴してはじめてどちらが正統な天皇であるかが分かったような気がしますと申しておりましたが、この中で伊予の河野《こうの》水軍の一族|得能通信《とくのうみちのぶ》、土居|通増《みちます》の二人だけは、新田義貞の御教書を信じて疑わないようでございます」
と言った。
尊氏は鞆の浦で御教書の発送を終わると、いよいよ九州に向かって旅立った。尊氏の一行が途中、赤間関に立寄り、筑前《ちくぜん》の蘆屋《あしや》の浜に到着したのは二月の二十九日であった。だが、ここで彼を迎えたのは、北九州の豪族中もっとも頼りにしていた少弐《しように》貞経の戦死の報であった。
当時、北九州の豪族中、もっとも勢力を持っていたのは肥後《ひご》の菊池一族と、太宰府《だざいふ》に根拠を持つ少弐一族であった。菊池氏は早くから後醍醐天皇に味方し、その一族の菊池武重は箱根の合戦で、足利直義の軍を破っている。
肥後の菊池一族は菊池武敏に率いられ、これに味方する者は、秋月四郎、阿蘇大宮司|惟直《これなお》、松浦《まつら》の党、神田の党等であった。
少弐貞経はかねてから足利尊氏に味方をしていたので、鞆の浦からの尊氏の御教書を貰うと、喜んで足利尊氏に従う旨の返書を送ったばかりではなく、息子の少弐|頼尚《よりひさ》に五百騎を率いさせ、足利尊氏を迎えに行くように命じたのである。このため、少弐貞経の太宰府の居館は防備が手薄になった。
菊池武敏はこの情報を得ると、秋月四郎や阿蘇惟直等と力を合わせ、大軍を以て少弐貞経の館を襲ってこれを焼き、太宰府の有智山《うちやま》城に逃げた少弐一族を皆殺しにしたのである。二月二十八日のことであった。
足利尊氏は筑前蘆屋に上陸と同時に少弐貞経の悲報を聞き、貞経の復讐《ふくしゆう》戦を兼ねて菊池一族と戦わざるを得なくなったのである。足利方の軍勢は船に乗って来た五百人の他に、北九州の安芸貞元、龍造寺実善、飯尾吉連、山田忠能、それに少弐頼尚の率いる五百騎を加えても全部で七百騎三千人の兵力だった。しかも、兵庫湊から海路やって来た足利尊氏等関東武士五百人は馬さえもない有様だった。
菊池一族等は二千騎六千人の兵を擁していたので、まともに戦って勝てる戦さとは思われなかった。
だが、足利尊氏は戦わねばならなかった。菊池一族に勝たないかぎり、九州で兵をまとめて京都に向かって攻め上るなどということはできない相談だった。
足利尊氏は北九州の絵図を開いて、少弐頼尚からくわしい説明を受けた後で、松浦の党と菊池一族との関係について問うた。松浦の党は松浦半島一帯を領する一族であった。菊池氏とは、隣りのよしみから止《や》むなく款《かん》を通じているに過ぎなかった。
「よし、松浦の党をまず味方につけることから始めよう」
尊氏は水軍の将を呼び集め、松浦の党を味方に抱きこむことを計った。松浦の党は水軍として九州では幅をきかせていた。その松浦の党に瀬戸内の水軍の将がこぞって味方につくように裏工作をしたら、それをことわることはおそらくできないだろうと尊氏は考えたのである。もしそんなことをすれば、松浦の党は海の孤児とならねばならなかった。
「拙者が命にかけても、松浦の党を味方に誘いましょう」
と言ったのは伊予水軍の旗頭河野|通朝《みちとも》であった。彼は足利尊氏の御教書と錦の旗を受取ると、その夜のうちに海路松浦に向かった。
尊氏は第一の手を打った。そして第二の手は九州北部の豪族で今なお、静観している者を味方に誘いこむことであった。それができないならば、そのまま中立を保持して貰うことだった。使者が八方に飛んだ。
足利尊氏は三千の兵を率いて三月一日に蘆屋を立って宗像に向かった。菊池軍が博多に集結中という情報を得たからであった。このまま無為に時を過していると、地方豪族が、現在のところ優勢な菊池軍に加担するおそれがあったからである。
宗像神社に着くと更にくわしい情報が入っていた。菊池軍は博多湾にのぞむ多多良浜に陣をかまえて待機していた。何時でも来いという姿勢を示していた。
足利軍は宗像で陣容を整えた。尊氏以下兵庫から来た諸将には宗像大宮司から馬が贈られた。尊氏等はここで初めて馬に乗ることができたのである。
桜花はとうに散り若葉の季節となっていた。翌二日朝、宗像を立った足利尊氏は兵を率いて海岸沿いに香椎《かしい》の宮に向かって南下した。物見を出して敵情を探ると、菊池軍は多多良浜に布陣して足利軍の来着を待っている様子だった。
尊氏は決して急がなかった。待っている敵をじらすために、わざとゆっくりと進み、多多良浜北方に陣を敷いた。菊池軍は多多良浜の南方|筥崎《はこざき》宮を背にして陣を敷いていた。双方が物見を出して敵情を探った。足利軍が千騎三千人、菊池軍が二千騎六千人という数は、きのうまでと変りはなかった。尊氏は一対二の合戦を強いられる立場になったのであった。
勝つという自信はなかった。頼むは、松浦の党の動きであった。もし伊予水軍の河野通朝の説得が成功して、松浦の党千人が味方につけば、味方は四千、敵は五千となる。一対二の比率が四対五になるのである。こうなれば充分に勝てる見込みがあった。
尊氏は香椎の宮の南方にある小高い丘の上に本陣を置いて敵陣を見渡した。松浦の党は敵の右翼にあった。もし松浦の党が河野通朝の誘いによって味方へつくつもりならば、何等かの通知があるべきだった。それがないのが心配だった。未《ひつじ》の刻(午後二時)になってから、両軍の矢の申し合わせが始まった。
尊氏は味方の左翼の少弐頼尚の軍に、正面にいる松浦の党の軍を攻撃せず、菊池軍の右翼を突くように命じた。もし松浦の党が飽くまでも敵に与《くみ》すというならば、この場合、少弐の軍の側面へ突込んで来る筈であった。
人馬が左右に揺れ動いた。だが、松浦の党はじっとしたまま動かなかった。積極的にこの戦いに参加する意志のないことは明らかだった。
「松浦の党は中立を守るらしい」
尊氏は全軍に対して菊池の軍を攻撃することを命じ、自らも丘から降りて戦線に参加する姿勢を示した。
その時であった。それまで重く垂れこめていた空の雲が動き出し、突風性の北風が吹き出した。北風は海岸の砂を巻き上げ、菊池軍の顔面に吹きつけた。
北風を背にした足利軍は断然有利であった。放つ矢は風によって加速されたが、菊池軍の放つ矢は北風に押えられた。菊池軍の前線が引き始めると、それまで矢を放たずじっとしていた松浦の党が、くるりと北風に背を向けて南に向かって退却を始めたのである。
菊池武敏はこの松浦の党の裏切り行為を怒って、兵を向けて、実力で松浦の党の退却を阻止しようとした。松浦の党と菊池軍との戦いが始まった。
「それ今だ。菊池軍を斬り崩せ」
足利尊氏は自らも太刀を抜いて菊池軍に向かって突進した。総大将が本陣を捨てて、自ら敵陣に斬り込むなどという戦さはなかった。しかし尊氏はそれをやった。そうしないと勝てないと思ったからであった。
総大将自ら、敵陣に斬り込むという思いがけない行動が全軍の士気を鼓舞した。菊池軍は次第に引き、やがて敗走した。そのあとを足利軍が追った。未の刻に始まった合戦は酉《とり》の刻(午後六時)頃には足利軍の勝利に終わろうとしていた。菊池軍は分散して敗退し、その後を足利軍が追った。松浦の党もいつか追撃軍に加わっていた。
菊池軍に加わった秋月四郎は足利直義の軍に追われて太宰府まで逃げて討ち取られた。足利尊氏はその夜は筥崎で夜を明かし、翌三月三日には太宰府に入った。その後の足利軍は各地で善戦した。菊池軍に味方した阿蘇大宮司惟直は小杵《おつき》山で自刃し、肥後に逃げた菊池武敏は後を追う足利軍の一色|範氏《のりうじ》、仁木義長両軍に攻められて、その居城を奪われるという結果になったのは半月後のことであった。多多良浜での菊池軍敗戦の報はいち早く北九州に拡がり、それまで躊躇《ちゆうちよ》していた豪族がこぞって足利尊氏に従ったからであった。
半月で北九州を平定した尊氏は伊予水軍の旗頭河野通朝を呼んでその功績をたたえて、
「そちが松浦の党を味方につけなかったら、この合戦は味方の敗北に終わったであろう。実に危いところであった」
と言うと、河野通朝は首を振って答えた。
「いやいや、危いのは、九州より京都に向かう途中です。瀬戸内海を無事に通過してこそお味方の勝利は間違いないというものでしょう」
河野通朝は、海路東上しようとする足利尊氏の軍を海上に遮《さえぎ》る者は、河野の一族で、新田義貞方についた得能水軍と土居水軍であろうと言った。
三月の半ばを過ぎると、播磨《はりま》の赤松円心から、至急東上軍をさし向けられるようにという急使があった。播磨の白旗城は新田義貞の大軍に包囲されて苦戦していた。
足利尊氏は北九州を一色範氏、仁木義長等にまかせて、急遽《きゆうきよ》東上することにした。
だが東上するには相当な兵をまとめねばならないし、軍船も必要だった。下手をすれば、海路、陸路共に新田軍によって阻止されるおそれがあった。
足利尊氏は四月三日に九州を離れたが、一路東上はできなかった。彼は、長門の府中におもむいて、ここで兵を募り、更に周防の竈戸《かまど》(上ノ関)に滞在して軍船を集めた。尊氏が北九州、防、長の兵をまとめていよいよ東上の途についたのは四月二十六日であった。
足利尊氏が北九州で菊池一族と戦っているころ、播磨の国では新田軍と赤松軍とが各所で合戦を展開していた。
三月六日に京都を出発した江田|兵部大輔《ひようぶのたいふ》行義及び大館左馬助氏明の両将はそれぞれ二千の兵を率いて播磨に侵入した。
播磨はもともと赤松氏の勢力下にある国であった。北条氏没落後、恩賞として新田義貞に与えられていたが、実際は、荘園や寺社領がその大部分を占めていたので、義貞が統治すべきところはそれほど多くはなかった。しかし新田義貞は播磨守である以上、自分の命令を徹底したかった。義貞の領地の上野《こうずけ》や越後《えちご》はあまりにも遠すぎて、当座の将兵の糧食にもこと欠く状態だった。このこともあって、義貞としては播磨をなんとしても自分の勢力下に置きたかった。赤松円心がはっきり敵となった今は何等遠慮することはなかった。
江田行義、大館氏明は新田一族の大将であり、多くの合戦を経て来た武将であった。義貞が新田一族中、この二人の大将を播磨に向けたのも、足利尊氏が勢力を盛り返して東上して来る前に、播磨を平らげ、赤松円心を討ち取っておかないと不安だからであった。
播磨の戦争は現在の竜野《たつの》市、太子《たいし》町、揖保川《いぼがわ》町にかけての一帯で行われた。このあたりから西部、北部にかけては山また山の地帯であり、戦略的地形に勝《すぐ》れた山には、山城や砦《とりで》が構えてあった。
新田軍は、まず坂本、空山の城を落としたが、曽我井、楯岩、太田、石蜘の城砦《じようさい》の一線で引っかかった。
新田軍はそれ等の小城を鎧袖一触《がいしゆういつしよく》のもとに打破り赤松円心の居城白旗城を攻めようと考えていたが、そのように簡単にことは運ばなかった。第一、山城に近づくまでが大変で、やっと山城にたどりついたころ、途中で伏兵が起きて思わぬ損害を出すという競合いが続いた。だからと言って、城砦をそのままにして前進すると、新田軍の兵站《へいたん》線は寸断されることになる。
「まるで播磨の山という山に敵兵が分散したようだ」
と江田行義が嘆いたほど、赤松軍は広く散開し、機を見ては間道を伝わって、たちまち、五百、六百というまとまった兵力を作って新田軍の弱点を突いた。
新田軍の首脳部は戦争経験の豊かな新田一族でおさえていたが、その下に従う者は寄せ集めの兵であった。また、関東武士は平原における合戦には馴れていたが山また山の山岳戦は苦手であった。
新田軍は意外に山岳戦に手こずった。しかし三月の半ばになって、宇都宮|公綱《きんつな》、紀伊|常陸介《ひたちのすけ》、菊池武季等の軍が来着して、戦線が斑鳩《いかるが》に移動し、揖保川をはさんで赤松軍と対峙《たいじ》し、更には山陽道沿いの城山城、乙城《おつじよう》に、光明寺山城と次第次第に西に移って行くに従って、新田軍は有利になり、赤松円心は不安を覚えた。彼は千種《ちくさ》川の上流白旗城を最後の拠点として、城の守りを強化した。
新田義貞が弘山(現在の兵庫県竜野市誉田町広山)に着陣して総指揮を取るようになったのは三月二十七日であった。義貞が京都から播磨に本陣を移したことは、九州に落ちた足利氏が菊池氏を破って、九州にその地位を確保したという情報が入り、東上がしきりに噂《うわさ》されるようになったからである。
義貞が弘山に着陣と同時に、播磨の戦争は次第に西部へ移動して行った。
土師《はじ》城、感状山城、光明寺山城、室山城等の諸城が陥落して、新田軍は椿《つばき》峠を越えて白旗城の大手口に当たる西条山城、保気城に迫ったのである。
赤松円心は新田軍の攻撃を支え得るのは時間の問題と見て、赤松|則祐《のりすけ》、得平秀光を海路、足利尊氏のところへ送って東上を急ぐように懇願した。尊氏は長門の府中にあってこの二人に会った。四月六日の午後であった。
「兵と軍船を集めて、できるだけ早く東上する。赤松殿には、なにはともあれ、あと一カ月は頑張って貰いたいとお伝え下されたい」
と尊氏は言った。
「あと一カ月待てば、五月を過ぎてしまいます。それまでは、おそらく私も父も生きてはおられないでしよう」
と赤松則祐が涙をためて言うのを見ると尊氏は、ついその心情に誘われて、
「いや、ひと月とはかからない、あと二十日あれば、軍船も兵も整うだろう。そうしよう。いやそうすると約束しよう」
「すると、今日が四月六日ですから、四月二十六日には東上の船を出されると考えてよろしいでしょうか」
赤松則祐は尊氏にすがるような目を向けた。
「そうだ、四月二十六日には必ず船出をするぞ、そのように円心殿に伝えるがよい」
尊氏は確約した。
この尊氏の回答を持って赤松則祐が白旗城に帰りついたころには、更に戦局は進んでいた。新田軍は前衛の城を次々と落とし、千種川に沿って白旗城に向かって進軍を開始していた。このように白旗城包囲の態勢を取る一方、石橋和義、松田盛朝の守備する備前の船坂峠白石城に対して、江田行義の率いる軍をさし向け、更に義貞は、得能通信《とくのうみちのぶ》、土居|通増《みちます》等水軍の将を招いて、大井田氏経等五百騎を海路、備中の福山城へ送り込むことを命じた。大井田氏は里見氏の分家で新田一族である。
白旗城包囲完成と同時に、尊氏の東上を阻止するための新手を打ったのであった。
大井田氏経が備中の福山城に進出したという報は足利尊氏を驚かせた。
尊氏は諸将を激励して、東上の準備を急いだ。
「今、一刻を失うことは、将来、一年の遅れを取ることになる。急げ、急げ……」
と尊氏は自分にそう言い聞かせながら、ほとんど眠る暇もないほどの熱心さで、地方豪族に会い、また自筆の御教書《みぎようしよ》を書き続けた。
保気城を落とした新田軍は二手に別れて、一隊は千種川に沿って攻め上り、白旗城を西側から包囲しようとし、一方、千種川の支流鞍居川に沿っての道を北上した新田軍は白旗城を東側から攻撃しようとした。これは地図を見れば誰でも思いつく挟撃《きようげき》作戦であったが、いざ千種川と鞍居川の流域に入ると、その作戦がいかに困難であるかを新田軍は痛感した。
平地は千種川の流域と鞍居川の流域に僅かばかりあるだけで、ほとんどは山また山の複雑な地形になっていた。高さは、三百メートルか、せいぜい五百メートル止まりの山ではあったが、どの山も嶮《けわ》しく、そして樹木で覆われていた。
そんな山にも頂上には見張り所や砦があって、新田軍が通過すると、旗を振って合図して、山の頂から頂、山砦《さんさい》から山砦、城から城へと新田軍の動きが通報され、こんなところに敵がと思われるようなところから、突然、矢が飛んで来たり、伏兵が現れて、馬を奪って逃げたりした。不意を突かれるから損害は新田軍に多く、その度に軍行動は停止された。
新田軍は小部隊では行動できなかった。だが、大部隊が移動できるような地形ではなかった。軍を分散すると弱いところを赤松軍が突いた。
鞍居川を攻め上った新田軍の大将、鳥山修理之助亮氏は、総大将の新田義貞から万勝院にいる筈の光厳上皇を探し出すように命ぜられていたから、特に精兵を募って、この方面に向けた。途中で赤松軍の激しい抵抗を受けながらようやく万勝院にたどりついて見ると、万勝院三十六坊には二十人ほどの僧がいるだけで光厳上皇の一行の姿はなかった。
鳥山亮氏は万勝院の貫主、龍玄大和尚にこのことを訊《き》くと、
「上皇は数日前に白旗城に向かって落ちられました」
と顔色一つ変えずに答えた。訊かれたことはなに一つ隠さずに答えたあとで、
「寺は人を助けるためのものである。どなたが来られても、貴賤《きせん》にかかわりなく、これを受入れるのが寺のつとめでございます」
と言った。
赤松円心は新田軍近しと見て光厳上皇に白旗城へ避難されるように奏上し、富満真平《とどまのまひら》という大力無双の男が上皇を背負い奉って、尾根伝いに白旗城へ落ち延びたのであった。
富満真平に背負われて行く途中上皇は、その身の移り変わりの激しさに、思わず涙を流されて、
「こんな苦しい日が続くくらいならば死んだほうがましだ」
とひとりごとを言われたのを真平が聞いて、
「上皇様もつらいでしょうが、上皇様を背負ってこの嶮しい山道を歩くおらはもっともっとつらい」
と言った。その一言で上皇は愚痴を言うのを止めて、白旗城に着くまでじっと我慢していた。光厳上皇が白旗城に着くと同時に、本丸の周囲には錦の旗が林立した。晴れた日にはその錦の旗が三里も先から見ることができた。
播磨の人々の気持ちは白旗城へ急速に傾いて行った。
千種川本流を攻め上ったのは、脇屋義助自身であった。千種川に沿って北に進軍を開始して間もなく、左に苔縄城、右に洞門紅岩砦が通路を扼《やく》するように出張っていた。
この両城砦を落とさないかぎり前進は困難となった。無理に通ろうとすると、両側から矢が飛んで来た。ようやくそこを通り過ぎると今度は石が落ちて来るというふうであった。
兵力と兵力との戦いではなかった。地形を利用して道をふさいでいる敵をどうやって排除するかの戦いであった。道のない山に分け行って、その敵をどうやって追い落とすかの根気のいる戦さであった。
義助はようやく、そこを突破して白旗城に近づくと、今度は千軒家城にこもった敵が攻撃して来た。その敵もどうやら追い払って、赤松氏の居館のあたりに突き進み、ここに三千ほどの兵を入れて、いよいよ白旗城へ向かって攻め上ろうと準備していると、落ちた筈の苔縄城が再び息を吹き返したのである。同時に洞門紅岩砦が甦《よみがえ》り、新田軍の兵站線を断ち切った。
当時の合戦は食糧は自前であったが、せいぜい一カ月の食糧を携行するのがせきのやまであった。新田軍は丁度食糧が無くなったころであった。
脇屋義助は命を発して、兵糧を調達しようとしたが、住民の多くは食糧を車に積んで逃散しているので集めようがなかった。食糧を山の中に隠匿する者もいた。赤松円心からの指令が徹底していたのである。
播磨の人々にとって見ると、天皇と上皇の争いには関係がなく、新田義貞と赤松円心との争いになると、当然のことながら、地元の出身者赤松円心に付くのが民情というものであった。
新田軍は白旗城を前にして食糧不足に悩まされたのである。
「こんな筈はない。ここは新田氏の領地である」
と怒鳴ったところで、どうしようもなかった。脇屋義助は事情を弘山の本陣にいる新田義貞に伝え、積極的に食糧を送りこんでくれるように依頼した。
腹が減っては合戦はできないから、兵站線を断ち切っている苔縄城と洞門紅岩砦を再攻撃して占領し、ここに新田軍を入れた。こんなことをしている間に日はどんどん過ぎて行った。
いよいよ脇屋義助の軍と鳥山亮氏の軍とが力を合わせて、白旗城攻撃にかかったのは四月の終りに近づいてからだった。
白旗城攻撃は困難をきわめた。途中が嶮岨《けんそ》で近づき難いし、各所に赤松軍の陥穽《かんせい》が設けられていた。更に困ったことには、赤松軍の援軍が現われたことだった。
加東金城主中村六郎左衛門、魚住城主魚住長範、瓦林《かわらばやし》城主瓦林基行、神出《かむで》山城主神出左衛門尉、那波大島城主|海老名《えびな》景知、下土井城主岡光信等であった。それまで黙って見ていたこれ等近郷の豪族は、播磨の戦争は新田氏よりも赤松氏に利ありと見て、赤松円心に加勢したのである。難攻不落の白旗城が味方を呼び寄せたのである。
海路を経て児島《こじま》に上陸した新田軍の大将大井田氏経は児島衆の先導で福山城を占領して、この城に入り、防備を固めた。(この福山城は備後〔広島県〕の福山城とよく間違えられているが、そうではなく、現在の倉敷市北方五キロにある標高三百メートルの福山山頂に作られた城であり、近くを通る旧山陽道を押える要衝であった)
新田義貞がここに大井田氏経等を派遣したのは、児島衆が早くから後醍醐天皇側に忠誠を尽くしていることと、福山城の東北東三里のところにある吉備津彦《きびつひこ》神社がこの地方一帯に勢力を持っており、かねてから後醍醐天皇側に立っていたからであった。
後醍醐天皇は北条氏を討滅して親政を始めた当初、寺社領をまず安堵《あんど》し、もし北条氏に領地を取られていた寺社があれば、その旧領を返してやった。多くの寺社はこの恩恵を受けていた。菊池武敏に加担して、自らの命を落とした阿蘇大宮司惟直なども、後醍醐天皇に対する報恩の気持ちがあったからである。吉備津彦神社は広大な社領を持ち、或る程度の武力をも持っていた。
新田義貞は、児島衆と吉備津彦神社の勢力をも併せて、この地に反足利氏の地盤を作ろうと計画したのである。
大井田氏経は五百余を率いて福山城に立てこもると同時に附近の豪族に呼びかけて、新田軍に味方し、来たるべき足利軍を阻止しようとした。児島衆は大井田氏経と協力して、附近の豪族を説得したり、兵や兵糧の運び入れに舟を出したりしたが、吉備津彦神社は、なんとなくお高く止まっていて積極的に援助はしなかった。
「いざというときは何時《いつ》でも加勢をいたす故、心安らかに軍備を整えられるように」
吉備津彦神社の大宮司は、氏経にこのように申し送り、飽くまでも、神社単独の考えでことに当たろうとしているようであった。
福山城は砦に等しいものであった。それを山城にして千人の兵を置くようにするにはまず建物を作らねばならなかった。
この山は照葉樹に覆われた密林であって、標高は低いが傾斜が急な山だった。この頂に材木を運び上げるのは容易なことではなかった。まして足利軍が近々攻め上って来るというのに、城作りなどしている暇はなかった。氏経は仮小屋程度のものを作り、これに兵糧と兵を入れた。
彼はあせっていた。足利軍来着の前に迎撃の準備ができるかどうかによって勝負は決まる。しかし、彼にはあまりにも多くのやらねばならない仕事があった。しかも、彼にとって此処《ここ》は未知の土地であった。児島衆だけが頼りだった。
ようやく仮小屋らしいものができたころ、足利軍が赤間関を出発したという報を得た。出発した日は四月二十六日であった。氏経は迎え撃つべき準備を急いだ。
そして五月に入って直ぐ足利軍は鞆《とも》の浦に上陸し、足利|直義《ただよし》、高師泰《こうのもろやす》の率いる軍勢およそ三千は福山城に向かったのである。
大井田氏経の軍は五百、児島衆を合わせてせいぜい千か千五百であった。戦って勝てる筈はなかった。籠城《ろうじよう》して戦うにしても城は未完成である。梅雨の時期は迫っていた。氏経は最悪の場に立たされたのである。
大井田氏経は新田義貞に事態の急を知らせるとともに福山城で足利勢を迎え討つ決心をした。そのとき彼は死を覚悟した。
このまま逃げれば、いまだに日和見を続けている豪族はこぞって足利に付くであろうし、足利軍は図に乗って追撃して来るだろうと思った。さりとて、城に籠《こも》って新田軍の援軍を待つという手もなかった。戦って死ぬか、上手に戦いながら引くしかないが、どちらもすこぶるむずかしかった。結局、戦って死ぬよりほかに道がないように考えられた。
氏経が決死の覚悟を表明すると各大将もその気になった。彼等は大手門に通ずる道の要所要所に柵《さく》を設け、堀を掘った。搦手《からめて》にも同様に防戦の準備をする一方、福山周辺の七つの山にそれぞれ砦を造り、その上に高々と大中黒《おおなかぐろ》の新田氏の旗を立て並べた。そして、この七つの山のうち、由加山《ゆがさん》だけには菊水の旗(楠軍の旗)をかかげた。
準備が終わると氏経は児島衆を呼んで、新田軍は各砦に三百人から五百人ずつ籠っており福山城にはおよそ二千が待機しているという流言をばらまくように依頼した。由加山の菊水の旗については、楠正成の弟|正季《まさすえ》が二百の兵を率いて籠っていると吹聴した。
足利軍の物見は福山城に近づくと、まず周囲の山の旗を見て驚き、そして、流言を聞いて予想以上に新田軍が強力らしいということを総大将の足利直義に告げた。
足利直義は鞆の浦で兄足利尊氏と別れ、長門、周防、安芸《あき》方面から兵を集めて東上して来る、高師泰の軍と合体して、備中の福山城に向かった。物見が次々と帰って来て、福山城附近の様子を報告した。
「どうもおかしい。急に新田軍が増える筈はない。ましてや楠軍が来ているなどというのは|へん《ヽヽ》だ。おそらく敵が放った流言であろう」
と高師泰は言って、物見の数を増して調べさせると、由加山に籠っているのは楠正季の軍でその兵力はたった二百であるということが分かった。
「たかが二百か」
と高師泰は怪訝《けげん》な顔をした。足利直義は楠氏が来ているとすればなにか計りごとがあるかもしれないと、しばらくは様子を窺《うかが》っていて、山々には兵を近づけなかった。この間、足利軍はしきりに物見を各山へ出した。その間に小競合いがあった。
「どうも由加山にいる楠軍は噂どおり少数のようだ。由加山と福山は尾根続きになっているから、由加山を攻め落とせば福山城は自落するだろう」
足利軍の作戦は決定した。足利軍は長州、芸州の先方衆五百を集めて由加山に向けた。五百の兵が由加山めざして攻め上ったという情報を得ると同時に大井田氏経は、全軍を間道伝いに由加山に向けた。
由加山に攻め上った足利軍の先方衆五百は大井田軍と児島衆の連合軍に包囲されて一刻後には敗退した。この戦いで足利軍は三百人を失った。
大井田氏経は討ち取った首三百を福山城の大手口に懸け並べた。これを見た足利軍は恐れをなして、大将たちが進めと言っても、兵たちは容易に進もうとしなかった。
足利軍は福山城を遠巻きにし、附近の人家を焼いて気勢を上げた。
新田義貞から大井田氏経に対して、福山城を棄て、陸路を三石城まで引き上げよという命令が届いたのは、その頃であった。氏経は福山城にいる将兵ことごとくを率いて夜半ひそかに搦手門に近づき、包囲軍の不意を突き崩し、全軍なだれを打って山陽道を東に向かって遁走《とんそう》した。
すわ新田軍が城を出たと言って、寄せ手が騒ぎ出し、隊伍を整えてその後を追い出したころには、大井田氏経等五百は、吉備津彦神社の前を通り抜けていた。
吉備津彦神社の大宮司は、新田軍が福山城から撤退を開始したと聞くと、鼓を鳴らして、神社につかえている武士や雑色を集め、神社の周辺に篝火《かがりび》を高々とかかげ、山陽道の要所要所には柵を設けて通行人を改めさせた。
福山城と吉備津彦神社までは三里ほどの道程があった。夜明け頃、新田軍の後を追って来た足利軍は、吉備津彦神社の神官等によって止められた。
「ここは神域である。だまって通ることは許さぬ。総大将自らが参って、なに故に押し通るかを釈明されたい」
と神官が言った。足利直義は兄の尊氏から寺社に対しては乱暴してはならぬと注意されていたし、吉備地方に強大な勢力を持っている吉備津彦神社を敵にするのは作戦上不利であるので、兵を柵の前に止めて直義自らが吉備津彦神社の大宮司に会って、尊氏の御教書を示して、通過の許しを乞うた。
「よく分かりました。だが神社前を大軍が通る時にはお祓《はら》いをすることが習いとなっています。それを終わってからにして戴《いただ》きたい」
と大宮司がいうので直義はそれを承知した。
吉備津彦神社はもとをただすと大和朝廷が出雲《いずも》族に対する備えとして軍団を止め置いたところであった。由緒のある神社であるから、直義としても失礼なことはできなかった。大宮司はお祓いの準備と称して一刻待たせ、お祓いは一刻半にわたって鳴物入りで行われた。この五時間の間に大井田氏経の軍勢は、足利軍の追撃を許さぬほど遠いところへ落ち延びて行き、児島衆はそれぞれの居所に帰っていた。
大井田氏経の軍は夜も昼もなく歩き続け、備前の三石城を包囲していた江田行義軍と合流した。江田行義軍にも白旗城を攻めている脇屋義助にもそのころ新田義貞から引き上げ命令が出されていた。
新田軍が播磨を後にしたのは五月十八日のことであった。足利尊氏が乗船している大軍船団が兵庫を狙って東上するという情報が得能水軍から新田義貞のもとに届いたがために、この撤退命令が発せられたのである。
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倉敷市は水運に恵まれた美しい町である。町はずれに立って北を望むと一段と高い山が見える。福山である。近くで見ると頂付近には明らかに人工を加えた跡が見える。要害とは言えないが、かなり急|勾配《こうばい》な山であり、頂上近くには露岩がある。山麓《さんろく》には備中国分寺及び備中国分寺尼寺の遺跡がある。
南北朝時代はこのあたりは吉備《きび》の穴海(又は吉備の児島)と言って、島と入江が多かった。後醍醐天皇に味方した児島|高徳《たかのり》の出身地もこの付近と言われている。吉備津彦神社の境内には、クス、カシ、マツ、スギなどの大木が鬱蒼《うつそう》と茂っていた。現在の社殿は五百年前のものだそうだが、柱はすべて名木、アスナロを使ってあった。
大井田氏経はこの神社の前を通って兵庫までの遠路を落ち延びたのであったが、追われる身にはこの前を通るのがさぞかし、つらかったであろう。
播磨の戦争は五十日続いた。しかも白旗城は落ちなかった。なぜ、新田義貞ともあろう人がこれほど手こずったのであろうか。それはこの地に足を踏み入れてみてはじめて分かることだった。
新田軍と赤松軍が戦った後をたどって行くと、山また山の連続で、ろくな道はないようなところばかりである。千種川沿いに白旗城に向かって一歩足を踏み入れると、ここはもう奥深い山の中を感じさせるような地形で、こんなところへ大軍を送り込むことはできないし、送りこんだところで自ら動きが取れなくなるような山の中であった。私は白旗城の周辺をできるかぎり歩いてみた。
村々の辻《つじ》や、岐路や路傍の小祠《しようし》の前などに、ほとんど風化していて刻みこんだ字も読み取れないような五輪の塔が五つ六つと並んでいた。そういうところには赤松軍と新田軍が鎬《しのぎ》をけずって戦ったという伝説が残っている。またこのあたりには百首、首塚、吹矢、馬場、切塞、処刑屋敷、砦池、矢河原、野伏村、大将軍など合戦にちなんだ地名が多い。この合戦に関する伝説は非常に多いが、すべて赤松軍の勝利につながるものばかりであった。
ここで名を挙げることははばかるが、白旗城の麓《ふもと》の村で、新田氏に味方をした村と赤松氏に味方した村とが境を接しており、今も尚《なお》この二村は仲が悪く、縁組みをしないということを聞いたし、新田氏の後裔《こうえい》で、新田軍が退却の時、村に留《とど》まってそのまま居着いてしまったという家もあった。万勝院(兵庫県上郡町)は五千株の牡丹《ぼたん》を栽培しているので、ぼたん寺として日本中にその名を知られている。また精進料理の寺としても有名である。
ここは白い花の里でもあった。定家《ていか》カズラが小さい白い花を咲かせ、ウノハナが雪のように路傍を覆い、クリの花が甘い芳香を放っていた。万勝院の裏山にはアベ(クヌギ)の木が多く、尾根に出たあたりにはミヤコワスレの可憐《かれん》な花が咲いていた。伐採が行われて何年も経っていないような山の斜面にはやや薄紫色を含んだテッポウユリの白い花が群生していた。白旗城のあたりに雲がかかり、風に吹かれてそれがなびくと、白い旗を流したように見えるのも美しい五月の景観の一つであった。z この章の赤松円心に関する部分は、藤本哲(兵庫県上郡町山野里)著『赤松円心』を参考とした。
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湊川《みなとがわ》の合戦
新田義貞が弘山の本陣を払って加古川まで引き揚げて来たとき、楠正成が五十騎ほどを連れてやって来た。足利軍を迎え討つ戦略について相談するためだった。
新田義貞はそれまでの播磨、備前、備中の情況を話し、楠正成は京都の公卿《くぎよう》や武士たちの様子を話した。
「気になさらずにお聞きくだされ。足利軍の九州に於《お》ける大勝にくらべて、お味方のあまりはかばかしくない戦果を聞いて、公卿の中には新田義貞はなにをしているのかと言っている者がおります。戦争を知らぬ者の目にはそのように映るのでしょう」
と正成は言った。正成は北条の大軍を山岳戦に引張りこんで奔命に疲れさせ、終《つい》に北条一族を瓦解に追いこんだ人である。赤松円心がその手をどのように使ったか、新田義貞がその手にどのように悩まされたかよく分かっていた。
楠正成は、たとえ新田義貞に替って自分が播磨を攻めても同じような結果になったと考えていた。
「全くはかばかしくない戦果だった」
義貞は正成の言った言葉を別に気にはしていないようであった。
「はかばかしい戦果は上がらなかったけれども、赤松円心を痛い目に会わせてやったことだけは確かです。もし足利尊氏の東上がもう一カ月遅れたら、赤松円心は自滅したでしょう。私は播磨の戦争は無駄ではなかったと思います。そして播磨の戦争を教訓として生かすのは今後の合戦のやり方|如何《いかん》にあると思います」
楠正成はそう前置きして話し出した。
「近衛中将殿(新田義貞)は最後に結論を下すべきお人である故、まず拙者から意見を申し上げましょう。味方はこのまま一気に京都まで退却し、この前と全く同じように京都の東山一帯にわたって陣を張って足利軍と戦うべきです。勢いこんで攻め上って来る足利軍を迎え討つにはそれ以外の方法はありません。二、三カ月我慢すれば必ず味方は、反撃に出ることができると思います」
そこまで聞いていた義貞はその後を言った。
「そして、もし仮に味方に利あらずして、その戦さに負けたら河内守《かわちのかみ》(楠正成)殿は天皇を奉じて金剛山の嶮《けん》に籠って敵と戦い、この新田義貞は東国に帰って、そこで兵を集め、奥州軍とも力を合わせて京都へ向かって攻め上り、足利軍を一蹴《いつしゆう》する……」
そう言いたいのだろうというふうな顔をすると、それまできびしい目付だった正成の顔が急にほころび、
「どうやら二人の意見は一致したようでございますな。と決まれば、後はこの策を後醍醐天皇に奏上し、しばらくの間、御不自由のことながら、比叡の山へ行幸あそばされるようにお願い申上げるしかないと思います」
正成はそう言ってから、突然顔を曇らせた。さてこの戦略をあの公卿たちが承認するだろうか。
何か考えこみながら俯向《うつむ》いてしまった正成を見て、
「側近の公卿たちのことが心配なのでしょう」
と義貞は言った。軍略よりも天皇の御意向、即《すなわ》ち公卿たちの考えが先行すると思いこんでいる公卿衆を納得させるのが問題だった。義貞の頭の中に次々と公卿たちの顔が浮かんだ。
「公卿たちはかなり動揺しています。光厳上皇が院宣を発せられたと聞くと、京都に住んでいる持明院統の公卿にこっそり使いを出したり、進物を贈る公卿がいるという話も聞きました。ほんとうにあの人たちの存在は困ったものです。しかし彼等が天皇の側近であるかぎりは無視はできません。なんとか説得しなければならないでしょう」
正成は言った。
「ぜひ説得していただきたい」
とその正成に義貞は言った。
「拙者が? いやこれは近衛中将殿から後醍醐天皇に直接奏上なされたほうがよいと存じますが」
正成は逃げたが、義貞は、
「いや、余には総大将としての任務がある。明日にでも足利の大軍が攻めて来るというのに、京都に行ってはおられぬ。余は敵の動きを見守りながら、徐々に退却しなければならない。この引き方を誤れば、敵をして漁夫の利を得さしめることになる。公卿たちの説得は、河内守殿におまかせする」
義貞は言い切った。京都には帰りたかった。京都には勾当内侍《こうとうのないし》がいる。会いたかった。しかし、そのようなことをすればすぐ味方の耳に伝わるものである。公私を混同することは大軍を率いる大将としてもっとも慎まねばならないことであった。
正成は義貞と打ち合わせが終わると、
「ではこのまま京都に帰ってわれ等の存念を天皇に奏上いたしましょう。その結果、或《あるい》はこの策が取り上げられないことがあるかもしれませんが、その時はその時、近衛中将殿御自身の戦略上のお考えとして、兵を京都へ引き揚げるよう御配慮願いたい。決して兵庫に止《とど》まって足利尊氏等と戦うなどというお考えはなされないように」
正成はそう言い残して、その日のうちに京都へ向かって去った。義貞は自分の代理として堀口|貞満《さだみつ》を正成に同行させた。
新田義貞は明石まで来たところで各大将に人員を点呼して報告するように命じた。三月上旬に先発隊として出発した時、脇屋義助と江田行義の軍は併せて四千だったが、現在は千五百に減っていた。あとの二千五百は戦死したのではなく、ほとんどは逃げてしまったのである。離合集散を日常茶飯事のことのように考えている地方武士は、分のいい方に付き、少しでも自分の側に不利な噂が立つと、さっさとそこから姿を消すのであった。京都の守備隊を除いて、兵庫で足利軍を迎え討つことのできる味方の軍勢は新田軍二千、楠軍千五百、得能、土居水軍八百、合計で四千三百、海陸合わせて七千の足利軍に勝てるだろうか。
義貞はいやな予感がした。勝ち戦さの前には味方の数はどんどん増え、負け戦さになるとあっという間に姿を隠す、その浮動兵力の動向はなにか将来を暗示するようであった。
楠正成と堀口貞満は道中馬を乗りかえ乗りかえ、京都に着くと、家臣を先に花山院に走らせ、加古川から二人が到着した旨を伝え、衣服を着替える時間さえもどかしそうにつくろって、参内した。
花山院は、すべての人々が午睡でも楽しんでいるかのごとく静まりかえっていた。応対に出た者の声ものんびりしていた。
「足利の大軍が今にも兵庫湊に攻め寄せて来るというのに……」
堀口貞満がふとつぶやくと、案内役の公卿侍は重い瞼《まぶた》を開いて、
「ならば、防げばよい。防ぐのが武士のつとめとこそ聞き及んでおるのに……」
と彼もまたひとりごとの風をよそおって言うのであった。
楠正成と堀口貞満には坊門《ぼうもん》宰相清忠卿と千種忠顕《ちくさただあき》卿の二人が会った。
「あわただしき参内、なにごとが出来《しゆつたい》いたしたのだ」
と坊門宰相清忠は二人に向かって言った。
「かねてお許しを得て、兵庫に下り、近衛中将新田義貞殿と会い、足利軍討滅の議について策を練った結果、急ぎ奏上申し上げたく、新田の大将堀口貞満と同道して参上いたしました」
楠正成が答えた。
「御苦労であった。さらばその策とやらを申してみよ」
という清忠の言葉に、楠正成が一歩|膝《ひざ》を進めて話し出した。足利軍の軍勢、味方の軍勢の数の対比から始まって、海陸呼応して東上して来る足利軍を兵庫湊で防ぐのは味方にとってまことに不利であることを説き、この前と同じように、敵を京都内に引き摺《ず》りこみ、彼等の糧道を断ち、味方は比叡山を根拠地として包囲作戦に出る旨を言上した。
「主上をまたまた叡山にお移し申せと言うのだな」
と清忠は不機嫌な顔で言った。
「まことにおそれ多い次第ながら、京都は守るに難く攻めるに易いところ故、これ以外に取るべき策はございませぬ」
と正成が言うと、それまで黙っていた千種忠顕が、
「敵が兵庫に上陸するというのに、一戦もせず、叡山に逃げこむというのは、まことに聞こえがよくないし、主上の御威光にもかかわることになる。そちらはそれほど足利尊氏が怖いのか」
と言った。
「如何《いか》なる敵でも敵は怖いものです。弱いとあなどってかかれば必ず負けます。まずは敵の動きをよく見定め、部分的な勝敗にはこだわらず、究極の勝利を目ざして策を立てるこそ、合戦の秘術と申せましょう」
正成が言った。
「すると、合戦の秘術のために主上はどのような苦労をなされてもよいと申すのか」
清忠が近隣に響くような声で怒鳴った。
まあ、まあそのように言われず、もう少し正成等の話を訊こうではござらぬかと、千種忠顕が坊門宰相清忠卿をなだめた。
「仮にそちたちの策を取り上げ、主上を叡山にお移し申し上げたとしても、必ず味方が勝つという裏付けはないだろう。もし負けた場合の主上の行幸先はどのように考えておるか」
と改めて問う忠顕に対して、正成は、
「そのような場合はわれ等生命にかえても主上をお護り申し上げて金剛山にお移し申そうと考えております。この間、新田義貞殿はひとたびは関東に帰り、軍兵を集めて京都へ攻め上って来るでしょう。一年とは経たないうちに、足利氏は京を追われ地方の一豪族と成り果てること必定かと存じます」
「なに新田義貞が鎌倉へ帰るとな」
坊門清忠が言った。
「鎌倉とは申し上げません、関東へ帰ると申し上げました」
と正成が答えたが、清忠は同じようなことだと言いながら、堀口貞満に向かい、まるで叱りつけるような荒々しさで、
「そちは新田の大将であろう。なぜ新田の大将どもは鎌倉へ行きたがるのだ」
しかし堀口貞満は冷静そのものの顔で答えた。
「鎌倉にこだわっているのではございませぬ。足利軍が西国、四国、九州を味方に付けたとならば、対抗上、関東を一丸にまとめてこれに当たらないと、戦さには勝てませぬ。これはごく当たり前の軍略上の理由でございます。足利の大軍はもうすぐそこまで来ております。はやく手を打たないと手遅れになります。古来、合戦のことは武士にまかされるこそ上乗の麈尾《しゆび》と心得まする。いろいろと御不満はございましょうが、ここはわれ等武士に御一任くだされますようお願い申し上げます」
堀口貞満は一気に言った。
「古来、合戦は武士にまかされているとな。なるほど、保元、平治の乱には、愚かな公卿が武士の合戦に口を出したがために負けたという実例があった。そちはそのことを言おうとしているのであろうが、余は愚かな公卿ではない。おそれ多くも主上より宰相の名を賜っている公卿である。そち等の言葉を聞き入れるわけには行かぬ。そちらは、はや兵庫におもむき、足利尊氏の軍を迎え討つ段取りを取るがよい。敵は光厳上皇の錦の旗をかかげているそうだが、それは偽の錦旗である。偽物はたちまち廃《すた》る。それがこの世のならいだ。日本に二人の天皇があってなるものか。この簡単な理屈が分かれば、戦さは必ず勝てる」
坊門宰相清忠はそのように言い切ってしまったのである。取り付く島がなかった。清忠がまず立って、次に千種忠顕が立とうとした。その衣の裾を堀口貞満が押えて言った。
「是非とも、このことを奏上のほどお願い申し上げます。累卵《るいらん》の危機を自ら選ぶことは千載に悔いを残すことになります。なにとぞ、このことを主上の耳に……われらは主上の御言葉をお待ち申しております」
堀口貞満の声は真に迫っていた。千種忠顕もその言葉を無下《むげ》にしりぞけられなかった。
千種忠顕卿は正成等を待たせて置いて、吉田定房卿に会って、このことを告げた。
「なるほど、それほど危機は迫っているのか、どれ、わしが直接様子を聞いてやろう」
吉田定房は気軽に言うと、二人の待っているところへ来て改めて話を聞いた。
「そうだ。そち等の言うのは、いかにも、もっともだ。戦さに勝つには、主上にしばらく我慢をしていただかねばならないだろう」
などと言うから、堀口貞満は、自分たちの意見が聞き届けられたのだと思って涙を流した。
「それで、新田の大将堀口貞満に訊くが、近衛中将殿が関東に下りたいという意志があるのはほんとうかな」
吉田定房は首を傾《かし》げて訊いた、首を傾げると、顎下に貯《たくわ》えた長鬚も傾く。
「今は、それどころではございません。なんとかして足利軍を撃退することです。しかし合戦が長びくと、軍兵は枯渇して参りますから、何時の日にかは関東に下って兵を集めて来ないと、足利尊氏を討滅することはできないでしょう」
と答えた。
「そうだな、そうだとも、よく分かった。さすれば、そちらの言い分、早速主上に奏上するによって、きっとよきお沙汰を賜わるであろうぞ」
と吉田定房は言った。
楠正成はその吉田定房の皺《しわ》の寄った顔の奥に光っている目を油断ならないものと睨《にら》んでいた。
(古狸《ふるだぬき》め、なにかをたくらんでいるな)
正成の直感だった。
それから半|刻《とき》あまり、物音一つしない静かな時間が過ぎた。
「どうなったのでしょうか?」
堀口貞満が言った。
「どうもよくない。これは負けだ」
と正成が言ったとき、庭の椿の木の茂みから小鳥がいっせいに飛び立った。
回廊を擦り足で近寄って来る足音がする。衣《きぬ》の音がする。一人や二人ではない。どうやら、天皇のお言葉を奉じた侍従がやって来たようであった。
楠正成と堀口貞満は頭を下げた。
「主上よりのお言葉を伝える」
頭上で凛然《りんぜん》とした若い声が聞こえた。坊門宰相清忠の声でも千種忠顕の声でもなかった。
「楠正成はすみやかに兵をまとめて、兵庫におもむき、新田義貞と力を併せて、賊軍を討て。尚、主上は官軍の士気を高めるため、坊門宰相清忠を兵庫につかわすとおおせ出《い》だされたるによって、これを伝える」
正成と貞満はあまりのことに声も出なかった。頭を上げると、その侍従は既に二人に背を向けていた。
「なんたることぞ」
堀口貞満は拳《こぶし》を握りしめて言ったが、楠正成は黙っていた。
兵庫で戦えという最高命令が発せられたのである。これに従わないわけにはゆかない。彼は至上命令に従いながら、尚かつ戦さに勝つ方法はないかと、それを考えていた。
そのころ吉田定房は後醍醐天皇と密談していた。吉田定房自身が持っている諜報《ちようほう》網を通して得た情報を天皇にこまかくお伝えしたうえ、
「新田義貞が指揮する官軍は播磨を攻めるのに五十日もかかりました。しかも赤松円心を降伏させることができず、その間に足利尊氏が息を吹き返すことになりました。どうも新田義貞という大将は、あまり戦さが上手ではないように考えられます」
定房は、その間の詳しい事情は述べず、結果だけを言ってから、
「このたび、兵庫において楠正成の軍と合流して足利尊氏の東上軍を防ぐにしても、その成果はおぼつかないような気がいたします。戦う前から、大将自らこの戦いは味方に分が悪いから、比叡山へ退いて戦うべきだなどと気の弱いところをみせていて敵に勝てる筈がございません。ましてや関東に下って兵を集めるなどというのは、義貞が依然として鎌倉にこだわっている証拠だと存じます。思いまするに、新田義貞は、このたびの兵庫における防戦はそこそこにして、必ずや京都に引き揚げて来るものと存じます。そうなれば、主上はやむなく比叡山に御座所を移さねばならないことになるでしょう。このようなことになると、折角板について来た親政の志は水泡《すいほう》に帰するやもしれません。最悪の事態を考えたくはございませんが、やはり、いざという時に備えての策を巡らせて置かねばならないかと存じます」
そして吉田定房は、更に声を落として言った。
「もともと足利尊氏は主上に忠誠の念を持っている武士ゆえ、この際新田義貞にすべての責任を負わせて、尊氏に引き渡したならば、ひとまずこの苦境を切り抜けられること確実と存じ奉ります」
吉田定房は狡猾《こうかつ》に輝く目を見張って言った。これは定房の常套《じようとう》手段であった。この手で、味方の日野|資朝《すけとも》、日野俊基を北条氏に売り渡したばかりでなく、大塔宮|護良《もりなが》親王まで足利尊氏の手に渡したのである。忠臣とおだて上げて使うだけ使い、いざ身に危険が及んだときには、なんのためらいもみせず捨てて行くことを定房は非道ともなんとも思っていなかったのである。しかし主上は、さすがに顔色を変えられて、
「義貞等がこれから戦うというのに、そのようなことを口に出すのはよくないことだ……」
と申された。天皇が不快な顔をなされると、定房は、
「いや、いまのお話はいよいよという場合のことでございまして、いまその手を打つということではありません」
と逃げて、主上の前を下がると、ひそかに家臣を呼び、新田義貞の屋敷に人を派遣し、勾当内侍を内裏に連れて来るように命じた。
定房は天皇に義貞のことを奏上した瞬間、新田義貞を手玉に取る新しい謀略を思いついていたのであった。彼は天皇のためならば、如何なる非道を敢てしてもいいという考えをいささかも変えてはいなかった。
花山院を退出した楠正成は堀口貞満と同道して四条の河原に来ると、そこには一門の者が勢揃《せいぞろ》いをして待っていた。正成の弟の正季《まさすえ》が言った。
「近衛中将殿から次々と情報が寄せられていますが、半刻ほど前の早馬によると足利尊氏の乗船した軍船団は播磨の室津《むろのつ》の湊に着いたとのことでございます」
決戦の機は迫っているのになにを愚図愚図しているのかと責めるような顔であった。
「さもあらん」
と正成はたいして驚いた顔を見せずに、
「兵庫にて足利軍を迎え討てよという勅命をいただいた。これから、夜道をかけて急がば、明日の朝には兵庫の湊に行きつくであろう、まずは兵たちに兵糧を取らせよ。余も合戦のいでたちに着替えるぞ」
と言った。正成も貞満も参内《さんだい》したままの長袖姿であった。そのままでは戦場に臨むことはできなかった。正成は着替えをしている間も、次々と早馬を発していた。まず最初に、兵庫防備の勅命が下ったことを義貞に報ずるとともに、その後を追わせるように、楠軍が兵庫に到着する前に足利軍が攻め上って来るようだったら、新田軍のみによる兵庫防衛はあきらめて、京都に向かって退却してしかるべき旨を申し送った。
楠軍は半刻後には京都をたった。その間際に坊門宰相清忠からの使者があり、明朝出発するから、それまで待つようにという指示があった。正成は使者に向かって、
「はや兵庫にて防げよという勅命が出た以上、ゆっくりしているわけには参りませぬ、卿には卿のお考えどおり行動なされますように」
と答えて、全軍を出発させた。
楠正成は、少なくとも二千の軍勢は集まるだろうと思っていたが、集まったものは、楠一族の者ばかりおよそ千五百人であった。それまで楠正成について働いていた、付近の豪族は、戦況不利と見て、離脱したのであった。
楠正成は馬上で内裏における公卿衆の動きについて考えていた。奇怪《きつかい》千万なのは吉田定房の行動であった。正成らの言を天皇に奏上すると確約したのに、結果は逆になった。そうなればなったで、言いわけらしいものがあってもいいが、それもなかった。
「おかしいな」
正成は馬上でつぶやいた。定房は味方を敵に売ることによって急場を逃げる手を使う公卿であった。味方の形勢が悪くなった場合、彼がやることは――。そこまで考えたとき、正成は、はっと気がついた。
(もしかすると、吉田定房は、新田義貞か、この楠正成を敵に売ろうと考えているのではなかろうか。売るとすれば楠よりも新田の方がよい値で売れる)
それに気がついたとき、正成は勾当内侍の憂いを含んだ美しい顔を思い浮かべた。勾当内侍を義貞に下賜するよう奏上したのは定房であった。定房のことだ、或は勾当内侍を使って一芝居打つやもしれぬ。
正成は馬を止めた。
「此処《ここ》は何処《どこ》か」
正成は郎党に訊《き》いた。
「桜井のあたりでございます」
正成は頷《うなず》くと、堀口貞満、嫡男の正行《まさつら》、弟の正季等を呼び集めるように命じた。部隊は停止せず行軍していた。その列の中で主なる者が馬首を前後に寄せ合ったのである。
「堀口氏、参内した折の吉田定房卿のふるまいについて疑わしいとは思いませんでしたか」
と正成はまず堀口貞満に訊《たず》ねた。
「非常に疑わしいと思いました。吉田定房卿は大塔宮をさえ、敵方に渡した公卿だと聞いております。油断ならぬお人です」
貞満は言った。
「そのとおり、彼のことだから裏でなにをたくらみ、そしてなにをしようとしているか分かったものではござらぬ、まず気を付けねばならぬことは近衛中将殿の身辺でござる」
その正成の一言で貞満は思わず、馬の動きをとどめたほどであった。
「取り敢えずは、京都におられる勾当内侍殿のお身を安全なるところへ移すべきと思うが、如何《いかが》かな」
貞満は正成の先の先を見る目に驚いていた。そう言われると、勾当内侍の身が心配だった。
「勿論《もちろん》、そうなされた方が殿もお喜びのことと思います。して、その安全なところとは」
正成はそれには答えず、すぐうしろにいる正行に前に出るように言った。正成、正行の親子は馬首を並べた。
「正行は二十騎を率いて京都に引き返し勾当内侍殿を守護して、河内国へお連れ申せ。万が一、勾当内侍殿の行方が分からないようであったなら、京に止まって行方が分かるまでお探し申すのだ。兵庫に参るには及ばぬ。このことをきつく申しつけて置く。今度の合戦の成り行きは分からない。勝てば、足利尊氏か直義の首を引っさげて帰るだろうし、敗ければ余の首は京の河原にさらされるであろう。そして結果はどうなろうとも、戦争は続く。そちは新田一族と力を併わせて飽くまでも後醍醐天皇のために戦うのだ。武士は節を曲げてはならぬ。後醍醐天皇にお味方申上げたのがわれ等一族にとって不運であったとしても、いまさら心を変えては武士の面目が立たぬ」
そして正成はなにか口答えしようとする正行に向かって、大きな声で、
「早よう行け」
と怒鳴った。
楠正行は心ならずも父正成の命令に従った。京都についたのは暗くなってからだった。新田屋敷には勾当内侍は居なかった。明るいうちに、天皇のお使いだと称する者に迎えられて去った直後、やはり天皇のお使いと称する者が迎えに来た。お迎えはこれで三度目でございますと、留守居役の老人はおろおろ声で言った。勾当内侍は何者かに連れ去られたのであった。
[#1字下げ](太平記には、桜井で正成と別れた正行は当時十一歳と書いてあるが、多くの学者はこれを否定している。この時正行は左衛門少尉であった。既に成年に達していたのである)
播磨の室津に寄港した足利尊氏は上機嫌だった。
彼は光厳上皇に拝謁して、数々の言葉を賜わったあと、いままで上皇を守護して来た赤松円心に会って、その労をねぎらった。尊氏はここで長門、周防、安芸、備後、備中の軍を率いて東上して来た直義等の諸将を交えて作戦を練った。そこへ都からの通報を持った早船が着いた。
尊氏は紙片に小さい字で書きこんだ書状を展《のば》し開いて読んだ。それには、加古川で新田義貞と楠正成が会談したことから書き起こしてあった。二人は足利軍を京都に誘いこんで討とうという策を立てた。正成は堀口貞満とともに参内してこのことを奏上したが、勅許は得られず兵庫で迎え討てよとの勅命を受けた。やむなく楠正成は千五百の軍を率いて兵庫に向かいつつあると書いてあった。
書状を出したのは、持明院統に秘《ひそ》かに心を寄せている公卿であった。以前から足利尊氏の諜者として、内裏の情報を探っていた男であった。この早船の後を追うように別の早船が二|艘《そう》、相ついで室津に到着した。一艘には准后廉子《じゆごうれんし》に仕える女官からの通報で、内容は第一報と同じであったが、坊門宰相清忠が声を荒らげて怒鳴ったことや、堀口貞満が千種忠顕卿の衣の裾を押えて、能弁をふるったことなど書いてあった。
本人が直接耳にしたのではなく、たまたまそこにいた女御の一人から聞いたとしたためてあった。第三の早船は宮廷内のことを知らせて来たものではなかった。伊予水軍の得能|通信《みちのぶ》と土居|通増《みちます》ほかこの二人に心を寄せている河野|通治《みちはる》等が兵備を整えているという緊急連絡だった。得能通信と新田義貞とは頻繁《ひんぱん》に連絡しているから、足利軍の海路東上を何等かの方法で妨害する用意をしているのではないかということも書き添えてあった。通報して来たのは河野|通朝《みちとも》の傘下《さんか》にいる水軍の物見船の長であった。足利尊氏は、これを重視した。彼は水軍の旗頭、河野通朝を呼んでこれを示した。
「当然考えられることです。得能、土居等はもともと、わが河野水軍の一族です。また得能、土居に与《くみ》している河野通治もわれらの一族です。しかし、彼等の水軍を併せても、せいぜい二百艘ぐらいでしょう。九州から瀬戸内海一帯にかけての水軍を集めたわれ等水軍の総数から見るとその四分の一ほどにしかなりませぬ。四対一では海戦はなりたちませぬ。御安心下さいませ」
河野通朝は自信ありげに言った。
「だが得能、土居の水軍は軍備を整えているとこの書状には書いてある。いったいなにをする積りなのだ」
尊氏は言った。
「おそらくは海上の物見の役をつとめるか、或は敵に心を寄せる、四国の軍勢を兵庫に運ぶ便船の役を果たすつもりではないでしょうか。何《いず》れにしても、気にするほどの相手ではございませぬ」
と河野通朝は言うのである。
尊氏は、通朝はわざとそんなふうに言って、自分を安心させようとしているのではなかろうかと思った。九州にいたころ、通朝は、得能、土居の水軍を無視できない勢力だと恐れていた。
尊氏は足利直義の軍を陸路進発させた。陸を行く方が遅れがちになるからそうしたのである。陸路を行く直義の軍と海路を行く水軍とが同時に兵庫に着いて、海陸力を併せて敵を攻撃するというのが、この東上作戦の根本を為《な》すものであった。海陸両軍を併せると、味方は敵兵力の倍になる勘定であった。それに、今のところ未定であるが、四国へやった細川|和氏《かずうじ》、顕氏《あきうじ》等が、中立を守っている水軍を説き伏せ、四国の軍勢を率いて参戦すれば絶対に勝てる合戦だと思っていた。ただ一つ心配なのは海上の気象条件だった。もし何等かの理由で水軍が合戦に遅れたとすれば、陸路を行く直義の軍は単独で敵に当たらねばならない。
五月二十三日の朝から風雨が激しくなった。船が出港できるような状態ではなかった。さりとて、陸路を行く直義の軍に待てと伝令も飛ばせなかった。水軍の動きは、すべて、その後の天候にかかっていた。
尊氏は主なる船頭衆の代表十五人を招いて、出港の時期を問うた。
「この雨の降りようと南風の様子では、雨が止み、風が西風に変わるのは今宵《こよい》遅くなってからでしょう。追風にはなりますが、風が強すぎるから出港はできません。出港するにはもう一日待たねばならないでしょう」
というのが、多くの船頭衆の意見であったが、ひとり長門の船頭椿浦孫七だけは、
「今宵遅くなって雨が止み、風が西に変わります。その時に出港すれば、多少の危険があっても、明二十四日夕方には、明石の浜の辺りに着くことができます。ただし、小舟は浪が高くて無理ですから、半日ほど遅れて追い着くようになされてはいかがでしょうか」
と意見具申をした。
尊氏は、高師直《こうのもろなお》を振り返って意見を求めた。
「味方は今順風に乗って走っています。敵は逆風に押し流される側に立っています。時の勢いをこそ掴《つか》むのが戦勝につながる鍵《かぎ》と存じます」
高師直は確信ありげに答えた。
「余も、そう思う。しからば、雨が止み、西風に変わり次第出港する」
足利尊氏は命令を発した。雨は二十三日の夜|戌《いぬ》の刻(午後八時)に止んだ。西風はかなり強かったが、足利尊氏は七百艘のうち大型の舟二百艘を先発させた。播磨|灘《なだ》に出ると、船は木の葉のように揺れたが、追風を受けて順調に帆走して、二十四日の午後には明石の浦に着いた。
そこに足利直義の陸上軍が既に到着していた。尊氏は此処でしばらく休むことにした。船酔いの激しい者は上陸して休養させ、後続の船の到着を待った。二十四日の夜半になって、後続の船隊も到着したが、後続の船に乗って来た将兵たちは口も利けないほどの船酔いにやられていた。このまま船に乗せて合戦の場に向かわせることはできない状態だった。
船に乗って来た将兵たちは陸上軍に従うことを希望した。止むなく尊氏はここで、乗船して来た兵と陸路を来た兵とを交替しなければならなかった。
五月二十三日の巳《み》の刻過ぎ(午前十時頃)、兵庫に着いた楠正成は軍に休養を命ずると、すぐ生田森の新田義貞の本陣をたずねて軍議を開いた。水軍の大将得能通信もこの軍議に参加していた。楠正成はまず京都花山院において兵庫にて防げという勅命を戴《いただ》いたことを話し、それにいたるまでの、公卿たちとのやり取りを語った後で言った。
「合戦を知らぬ公卿どもが軍《いくさ》に強く口を出した時はまず味方に分がないものと考えてしかるべきだと思います。しかし勅命がおりた以上、敵を討たねばならないのもわれら武士の定めです。数においては二対一でわが軍には不利ですが、ここを策を以《もつ》て切り抜け、この戦いを勝利に導くか、悪くとも五分、五分の引分けとして、京都に退くことを考えましょう」
正成の言に義貞は頷いて、さらば河内守の策を訊こうと言った。
「この雨は今宵遅くなって止み、風は西風に変わるでしょう。おそらく敵の水軍はその西風を利用して、兵庫に押し寄せて来るでしょう。明二十四日の夕刻は、敵水軍の船の火が須磨《すま》のあたりの海を飾るでしょう。そして合戦は二十五日の朝となります。敵は数においての優勢を利用して、水陸呼応して押し寄せ、海と陸からわれ等を包囲する作戦に出るでしょう。それに対してまともに戦ってはわが軍の負けになります。われ等の策は得能水軍と土居水軍をして、敵の水軍を牽制《けんせい》させることが第一、敵水軍が得能水軍と土居水軍の動きに気を取られている間に、敵の陸路軍の本陣を突くことが第二、第三は、敵の水軍が上陸し、陸路軍と呼応して、われ等の軍を包囲しようとする前に、戦いながら西国街道を退却することでございます。このように行けば、結果的には味方は上手に戦って引いたことになります。また敵が、陸路軍と水軍の連繋《れんけい》を誤れば、味方の大勝利になるかもしれません」
正成はまず大きな筋道を立ててから細部についての作戦を述べた。義貞も正成と同じように考えていた。義貞は、
「おそらく敵も、われらがこのような策を立てて来ることを予期しているだろう」
と前置きしてから、
「陸路を来る敵軍の様子を調べさせたところ、赤松円心の軍は最後尾にいる。これについてどのように考えるか」
と正成をはじめとする諸将に問うた。それは、いままで播磨にあって力戦した赤松軍に対する足利直義の慰労の気持ちから先方衆にはしないのだろうという者が多かった。
「しかし、足利軍中、最も合戦の上手なのは赤松軍である。その軍をなぜ、最後尾に置くのだろうか」
義貞は独り言を言ったが、これに答えられる者はいなかった。
「物見を多く出して赤松軍の動きを探るこそ肝要」
と言ったのは楠氏の一族の大将和田|治氏《はるうじ》であった。
新田義貞、楠正成を軸とする作戦計画はおおよそ出来上がった。楠正成は本陣を湊川の西、会下《えげ》山の丘の上に置いて陸路を攻め上って来る足利直義等を迎え討つことにし、新田義貞は楠軍と連繋を保ちながら、海がよく見える兵庫湊の近くに本陣を置き上陸を計る足利水軍を水際で迎え討つことにした。
陸路軍はその進路が予想されるが、足利尊氏の指揮する七百艘の水軍はどこから上陸するか全く予想がつかぬ故に、防備軍を三段にかまえて、敵水軍の動きに応じて移動し得るように陣を敷くことにした。
「なんと言っても敵は大軍であり、足の早い水軍を持っているから、その力を利用して、不意にわれ等の退路を断ち、われ等を包囲する作戦を取るやもしれぬ。そのような場合、戦いながら西国街道を退却することがむずかしくなるかもしれない。東への道を断たれたら北へ向かって丹波路、有馬路《ありまみち》を通っての退却も考えねばならぬ。この路は山越えとなるから、あらかじめよくよく調べて置く必要があるだろう」
と義貞は言った。
「さよう。むざむざこんなところで敵に手柄を立てさせることはない。われらに利あらずして退却しなければならないことになれば、やはり丹波路か有馬路を選ぶことになるやもしれない。この退路は充分固めて置こう。とにかく如何なることがあっても、味方の軍は連繋を密にして戦うことである」
正成が言った。
二十四日になると、更に新しい情報が次々と入って来た。陸路を行進して来る足利直義を大将とする軍の動きが分かった。敵軍は明石に踏み止まった。そして海路を来る水軍と待ち合わせる予定のようであった。
二十四日の午後遅くなって、京都から坊門宰相清忠が五十騎ほどを率いて到着した。きらびやかに着飾った鎧《よろい》に身をかため、馬に乗った姿こそ勇ましかったが、その公卿侍たちはどの顔を見ても、女か稚児衆が紙の鎧でも身につけたようなもの足りなさがあり、とても合戦の役に立つとは思われなかった。坊門宰相清忠は、天皇の名代《みようだい》で参ったと大声で叫びながら味方の間を駈け廻っていたが、やがて、物見と称して須磨のあたりまで出掛けて丘の上に登った。日が暮れると遠く明石の海を埋め尽くすほどの、敵の軍船の灯が見えた。彼は腰を抜かさんばかりにあわてふためき、
「この様子を京都へ帰って奏上する」
と言って、率いて来た五十騎を引き連れ、その夜のうちに逃げ帰ってしまった。
延元《えんげん》元年(一三三六年)五月二十五日の夜は明けた。風はまだ吹いていたが快晴であった。
明石に集結していた足利直義軍が進発した。足利軍は隊を三手に分け、斯波高経《しばたかつね》は安芸、周防、長門の兵を指揮して、山手の道を東進し、海岸寄りの道は少弐頼尚《しようによりひさ》が大将となって、筑前《ちくぜん》、豊前《ぶぜん》、肥前《ひぜん》、山鹿《やまが》、麻生《あそう》、薩摩《さつま》の兵を率いて進み、そして中道を進んで来るのは足利直義を大将とし、高師泰を副将とする赤松円心、大友高継等の軍兵であった。陸路軍の総数は楠軍の倍以上あった。
この情報はいち早く新田義貞及び楠正成のところに入った。尚《なお》、昨夜明石で、船酔いをして将兵たちが船を降り、陸路を歩いて来た将兵が交替して乗船したという知らせもあった。
「二十三日から二十四日にかけての播磨灘は大時化《おおしけ》だったから、乗船していた将兵はひどい船酔いにかかっていた。上陸すると船酔いはすぐ治ると言うけれど、それは程度もので、ひどいときには体力を恢復《かいふく》するのに一両日はかかるだろうし、明石から乗船した将兵たちも、今日はまだ波が高いから、出港すればすぐ船に酔ってしまって合戦どころではないだろう」
得能水軍から届けられたこの情報を得た新田義貞は、
「得能水軍によって敵の水軍をおびやかし、船酔い状態で海岸にたどりついた将兵を水際で討ち取ろう」
と言った。楠正成は、
「明石で上陸した敵兵の船酔いがまだ消えないうちに合戦に持ちこむのが上策」
と言ってから、大物見に赤松円心の軍の動きを詳しく調べて来るように命じた。赤松軍は船酔いもしていないし、新田軍と五十日間の合戦をやって、危機を通り抜けて来たという自信があった。それにこのあたりの地勢に明るい。楠正成には赤松軍の動向が一番気掛りだった。
物見は辰《たつ》の刻(午前八時)になって帰って来て報告した。
「赤松軍は足利直義が率いる軍勢の後備《あとぞなえ》をつとめております。なにか重そうに旗を担ぎ、なんとなく、疲れて元気がなさそうです。長いこと新田軍に痛めつけられたからでしょう」
大物見の大将はそのように報告した。正成は首をひねった。なんとなく腑《ふ》に落ちないものがあったが、再度赤松軍を調べてみよとは命令しなかった。
楠正成は敵が三軍に分かれて進んで来たのに目をつけた。各個撃破の可能性は充分にあった。正成は楠正季の軍をやって斯波高経の軍の頭を押えさせ、和田治氏等には海岸線を進んで来る少弐頼尚の軍を牽制させた。正成自身は主力を率いて、足利直義の軍に立ち向かうことにした。
二十五日の巳の刻(午前十時)であった。正成は足利直義の軍に駈け向かって、その鼻先を叩くと、幅広く軍勢を展開して合戦に入った。正成はまず、直義軍の両翼を激しく攻撃した。両翼がひるみ、そのかわり中央にいる直義の本陣がやや前に出たときに、正成自らが精兵を率いて前に出た。直義の本陣からも正成の姿が見えるほど近くに進出しての合戦であった。
新田義貞は丘の上に立てた見張り楼《やぐら》の上から、海上を見渡していた。同じような見張りの楼が海岸線に沿って幾つか見えていた。
敵の物見の船が幾艘か沖にあったが、北西の強風を支え切れずに、東へおし流されて行くのが見えた。風に逆って明石の方向へ漕《こ》いで行く船もあった。
明石の浦から和田岬までは四里である。海に向かって突き出しているような和田岬の駒ヶ林の松原あたりは敵が上陸するのにもっとも都合がよさそうなところだったから、義貞は、そこに物見の兵と、念のため五百ほどの兵を隠して置いた。
巳の刻ころになって、足利側水軍はようやく姿を現わした。やはり強い北西風に悩まされているらしかった。義貞と共に、物見楼にいた得能水軍から派遣されていた得能八郎は敵水軍の動きを見て義貞に言った。
「この風だと波は高く船は揺れに揺れています。船に馴れない将兵は船酔いに苦しみ、すぐにでも上陸したいとあせっているでしょう。おそらく敵水軍は和田岬の松原あたりに上陸するのではないでしょうか」
得能八郎の言ったように、敵水軍は沖には出ず、海岸線を和田岬に近づいて来るようであった。義貞は、三段にかまえていた新田軍のうち江田行義の指揮する第一陣を和田岬に向け、堀口貞満が率いる第二陣もこれに続くように命じた。第三陣の脇屋義助の軍は現位置より兵庫側に寄せて敵水軍の動きを監視させた。
得能通信の指揮する得能水軍と土居通増の率いる水軍合わせて二百艘はそれまで和田岬の東、須佐《すさ》の入江に待機していた。彼等は物見の船によって、敵水軍が現われたのを知ると、二百艘揃って、いっせいに須佐の入江を出て、和田岬を西に廻りこんだ。和田岬が北西の風を遮《さえぎ》っていたから、そこまでは難なく出られたが、そこからは真正面に向かい風を受けるので自由に動くことはできなかった。しかし得能、土居水軍は全員が水軍であった。櫓《ろ》を操るし、弓も射ることができた。彼等は声を揃えて和田岬の沖に漕ぎ出た。二百艘で、敵の水軍七百艘と合戦をする気構えのようであった。
足利尊氏の率いる水軍は突然現われた得能、土居水軍に驚いたが、なにしろ、七対二の数の優勢が頭にある足利側水軍は、得能水軍をそれほど気にはせず、第一船団の百艘ばかりの船を一気に和田岬の駒ヶ林の浜に漕ぎ着けた。一艘に四人平均乗っているとして、百艘で四百人から五百人の兵力になる。
敵が上陸したと見て、松原に隠れていた新田軍はいっせいに打ちかかった。足利軍は船酔いに苦しんでいた。上陸してもまだ身体《からだ》は大地と共に揺れているような状態だった。合戦どころではなかった。新田軍に討ち取られるか、再び船に乗って海上に逃れるかしかなかった。第一船団の上陸時における損害は足利尊氏も計算に入れていた。彼は第二の船団に上陸を命じた。得能、土居水軍が活躍を始めたのはこの時であった。
それまでじっとしていた得能、土居水軍は足利側水軍の中央に向かっていきなり船を寄せて来たのであった。それ、得能、土居水軍が来たぞ、矢を放て、と各軍船の大将たちが叫んでも、弓を射る兵は船酔いで、立ち上がることもできない状態だった。得能、土居水軍は、よっさ、えっさと声を合わせて、ほとんど無傷のままで、足利側水軍の船の間を漕ぎ切って、風の上手(足利側水軍の西側)に出ると、そこで北西風を背に受けて、足利側水軍に矢を射かけたのである。
いままでの漕手が全員射手となり、風速を利しての矢の攻撃に足利側水軍はたちまち乱れた。応戦しようにも、兵は船酔いで動けないから、できることは必死に逃げ廻ることだった。
「得能、土居水軍にかまわず上陸せよ」
と足利尊氏が号令しても、この状態の中での上陸は足利軍にとり、まことに不利であった。それでも無理して上陸した将兵は後続隊が来ないので待ち構えている新田軍に討ち取られる始末だった。足利側水軍七百艘は、たった二百艘の得能、土居水軍に攪乱《かくらん》された状態となった。
尊氏は上陸をしばらくあきらめて、水軍を沖に集めた。これ以上強行上陸をしようとすると、味方の水軍の損害が多くなるからであった。この水軍集団を北寄りの風が沖へ沖へとおし流した。こうしている間に時間は矢のように経っていた。足利尊氏はしきりに淡路島の方を眺めては、側近の者に細川和氏はまだか、細川顕氏等はこの合戦に間に合わないのかと言っていた。
その細川和氏、細川顕氏が瀬戸内海諸方で中立的態度を取っていた小水軍を説き伏せ、彼等を四国に集め軍兵を乗せ、三百艘を率いて海上に姿を見せたのは未《ひつじ》の刻(午後二時)であった。
その細川軍は和田岬を左手に見ながらその前を素通りして、一気に西の宮方面へ向かった。そのころ新田義貞は和田岬に本陣を移してやがて上陸して来るであろう足利軍主力を水際で追落とす準備をしていた。足利軍があくまで和田岬に上陸を企てるかぎり味方に有利な戦況であったのにもかかわらず、まったく予想もしていなかった、四国の細川軍が水軍三百艘を仕立てて現われたのに対して義貞はいかような手を打つべきかに迷った。
(細川軍が西の宮方面に上陸したら、西国街道を分断され退路を断たれるおそれがある)
敵軍船の動きを見た瞬間彼はそう思った。
細川軍が現われると得能、土居水軍は二つに分かれ、土居水軍が細川水軍の進路を遮ろうとした。だが細川水軍は土居水軍の攻撃に見事に応じながら堂々と前進して行った。
「これはまずいことになったぞ」
新田義貞は楼の上でつぶやいた。
義貞は脇屋義助の軍に細川軍の動きを警戒しながら東に移動するよう命令した。脇屋軍が移動を開始するとほとんど同じころ、それまで吹いていた風がぴたりと止《や》んだ。海は凪《な》いだ。
北風に抗《あらが》えず沖に吹き寄せられていた足利尊氏の水軍主力が、和田岬に向かって舳先《へさき》を向けて漕ぎ寄せて来た。義貞は、伝令を発して、楠正成に新しい情報を知らせ、いざという場合に備えて新田、楠両軍がまとまって退却するように指示した。
義貞からの伝令を受けたとき、楠正成は、足利|直義《ただよし》を死地に追いこもうとしていた。正成は敵の大将足利直義と戦いながら次第次第に退却し、いつの間にか直義軍を沼池地帯に引込み、そこで反撃に出たところであった。
直義は正成の上手な誘導作戦にまんまと引掛り蓮池《はすいけ》の泥沼の中に引込まれていた。兵庫の西部一帯は沼沢地が多く、浜手から進軍して来た少弐頼尚の軍も和田治氏に進路を押えられ、足利直義を救うことはできなかった。山手に廻った斯波高経の軍は鹿松峠で楠|正季《まさすえ》に頭を押えられたままになっていた。
正成は、目の前によき獲物を置きながら退却せざるを得なくなったことを嘆いた。風が止むのがもう一刻遅れたら、この合戦は勝ったのにと思った。正成は、義貞からの伝令を受けると、すぐ味方の兵力を集めにかかった。和田治氏と楠正季は、味方が善戦しているのになぜ引くのか疑問に思っていたが、その理由は、間もなく、和田岬の新田軍の防衛線を破って攻め上って来る足利尊氏の率いる主力が、楠軍と新田軍との連繋を遮断《しやだん》したことによって知った。
細川軍に備えて、脇屋軍を引かせたことにより、新田軍は手薄になった。和田岬一帯に上陸した足利尊氏軍は、しばらくは受身の戦いをしていたが、申《さる》の刻(午後四時)頃になって、船酔いから醒《さ》めた上陸軍はいっせいに総攻撃を開始したのであった。新田軍と楠軍は連繋を分断された。新田軍は西国街道をあきらめて、有馬路を退却しなければならなくなった。楠軍も山手に向かって引いたが、そこには赤松円心の軍が待っていたのである。
これは赤松円心の策であった。山手に向かったのは斯波高経の軍ではなく、実は赤松円心の軍であり、直義の殿《しんがり》をつとめた赤松軍こそ、船酔いのため明石で下船した斯波高経の兵たちであった。両軍は互いに旗差物を交換しているから楠軍の物見には、そのからくりが分からなかったのである。
赤松円心は摩耶《まや》城にこもって北条軍と戦った経験があった。六甲山系の隅から隅まで知っていた。彼は鹿松峠に兵の三分の一を残して楠正季と戦わせて置き、本隊はひそかに六甲山系に入りこんでいたのであった。
楠正成は、退路を断った赤松円心の鑓《やり》隊を見たとき、味方が完全に包囲されたことを知った。その鑓隊も、正成が赤松円心と組んで北条軍と戦っていたとき、赤松円心に依頼されて正成自身が指導してやった鑓隊だった。山岳戦のやり方も、赤松円心が、楠流の戦術をそっくり真似したものであった。赤松隊と斯波隊とが入れ違ったのさえ、楠流の戦法と言えば言えるのである。新田軍との連絡を断たれた楠軍は完全に包囲され、その輪は次第にせばまった。
正成が弟正季以下一族ともども自刃して果てたのは、それから半|刻《とき》の後であった。
足利尊氏は、兵庫の魚の御堂で、正成、正季兄弟の首実検をした。二月に、その正成に追いつめられて腹を切ろうと考えたのも、この魚の御堂だった。
「惜しい大将を殺したものだ」
尊氏は正成の首に向かって言った。そのころになって、新田義貞等が有馬路に逃げたという報が入った。一年中で一番日の永いころであった。その落陽が兵庫の海を血のようにいろどっていた。
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私が神戸市を訪れたのは昭和五十二年五月二十七日であった。湊川《みなとがわ》の合戦があったのは陰暦の五月二十五日であるから、季節とすれば一カ月早いわけである。
新田義貞が最初に本陣を置いたという生田神社の森は新緑に包まれていた。クスやカシなどの照葉樹林が多い美しい森だった。合戦の当時、この森は海近くまで続いていたということである。
大激戦地となった和田岬は、三菱造船所の敷地内であるから、サンケイ新聞を通じてあらかじめ許可を得てから出掛けて行った。明治のはじめころまで、細長い岬には駒ヶ林と呼ばれる松林があったそうだが、その後埋立てたので地形はすっかりかわり、湊川の合戦をしのぶものはなに一つとして残っていなかった。軍艦旗を立てた日本の潜水艦がドックに入っていた。潜水艦をこんなに間近いところで見たのは生まれて初めてだった。
楠正成の本陣があった会下山公園は小高い丘の上にある。ここからは和田岬がよく見えた。取材していたら、楠公《なんこう》さんのことを調べに来たのかと居合わせた老人に話しかけられた。
楠正成が足利直義を蓮池に追い込み、あわやその首を頂戴に及ぼうとしたというところは学校とスポーツセンターになっていた。昔はこのあたり一帯は沼沢地だったが、今は住宅地である。
楠正成の墓地がある湊川神社は賑《にぎ》わっていた。嗚呼忠臣楠子之墓と刻まれた石碑の前に立つ中学生や高校生で嗚呼《ああ》という字が読めない人が多いという話は私の心を寒くした。
小山田高家が新田義貞の身替りとなって討死したという碑は御影《みかげ》町の乙女塚にあった。このあたりで義貞は西国街道を細川軍に塞《ふさ》がれたので北西に進路を変えて、芋川《うがわ》谷(小川《おがわ》谷ともいう)をさかのぼり、布引《ぬのびき》の滝のあたりから六甲山系に踏みこみ、有馬路へ逃げたということである。
激戦地だった当時の兵庫、現在の兵庫区一帯には湊川の合戦の遺跡があちこちに残されている。新田義貞は生田森から兵庫の魚の御堂に本陣を移した。
そこは海の近くであったが、現在その遺跡はなく、近くに琵琶《びわ》塚が残っていた。ここらあたりで足利尊氏は首実検をしたのである。
湊川の合戦の当時は兵庫と三の宮附近に人家があっただけで、他は農地と森になっていたという。現在では想像もつかないことである。
湊川の合戦は、どちらかというと、『太平記』よりも『梅松論』の方が史実に近いように考えられたのでそちらを参考とした。だが兵力について、信用できないのは、どちらも同じである。
楠正成が死を覚悟してこの合戦に臨んだように書いてある『太平記』及びこの亜流本は現在も尚存在している。楠正成ほどの人間がそう簡単に生命をあきらめるだろうか。
楠正成にしろ新田義貞にしろ、数の上で足利軍に敵《かな》わないが、戦えば勝てる可能性があり、悪くて五分五分と見積っての上で合戦に及んだのであろう。そして利あらずして敗戦となり、義貞はどうやら逃げたが、正成は敵に包囲されて自刃した。正成ほどの戦術家がなぜこうなったのであろう。私は考えに考えたすえ、播磨《はりま》の梟雄《きようゆう》赤松円心を、その疑問を解く鍵として登場させたのである。
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比叡山風寒し
湊川の合戦が官軍側の敗北に終わり、楠正成、正季兄弟が戦死したという報が京都の花山院に入ると、内裏は大騒ぎになった。公卿《くぎよう》等は天皇を擁し奉り、なにはともあれ逃げることが第一とばかりに、身のまわりの物を持って、東坂本(比叡山の東部、現在の坂本附近一帯を言う)へ落ちて行った。こうなるとたのみになるのは比叡山の僧兵の力であった。
新田義貞は敗残の兵をまとめて京都に帰り、京都守備に当たっていた名和長年《なわながとし》等と相談して、後醍醐《ごだいご》天皇御一行の還幸が終わるまでは京都を死守することを誓い合った。
五月二十七日の夕刻までに行幸は終わった。
新田義貞は、軍勢をまとめて東坂本に退き、直ちに防禦《ぼうぎよ》の陣を敷いた。
新田軍の後を追って足利軍の先方衆が京都に入って来たのは、五月二十八日であったが、彼等は尊氏の命によって、しばらく京都の外に止《とど》まっていた。足利尊氏は五月末日に光厳《こうごん》上皇を奉じて京都に入り、東寺を仮の皇居と定め、ここに本陣を置いた。
尊氏は半年前のことをよく覚えていた。兵たちが京都に入って、乱暴|狼藉《ろうぜき》をほしいままにした結果がどうなったかを痛感していた。京都という都は巨大な生き物だった。この前は京都を敵にしたから負けた。今度はそうしたくはなかった。彼は諸将に軍規を厳正にするように命じ、物見を放って、後醍醐天皇側の動向を探った。
東寺の周囲には尊氏の命令によって錦の旗が林立した。京都が兵乱によって焼かれるのを恐れて逃げ出そうとしている人々は、この旗を見上げて、首を傾《かし》げた。
尊氏は辻《つじ》々に立札を設け、光厳上皇が新しい天皇であることを知らせ、京都の治安は足利尊氏が守るから逃げる必要のないことをふれ廻った。
新田義貞は敗戦のその日からほとんど眠ってはいなかった。湊川で楠正成を失った痛手が大きかった。正成を救出できなかったのが悔いとなって残った。その楠正成の言を取り上げようとしなかった公卿たちも、足利軍が攻めて来ると聞くと、怖さにがたがたとふるえ出す者も出るような取り乱し方で、日頃威張りくさっていた顔もどこへやら、新田殿、近衛《このえ》の中将殿となにからなにまで新田義貞の袖にすがろうとするのも哀れのきわみであった。
二十七日の行幸の最中《さなか》にも、敵味方の間者は暗躍していた。持明院統にはいちはやく光厳上皇からの密書が届き、持明院統は花園上皇を始めとして、ほとんどの皇族及び日野中納言|資名《すけな》をはじめとする公卿衆は東坂本へは行かず、東寺に向かった。ここで持明院統と大覚寺統とは居所までもはっきりと二分されたのである。
義貞は東坂本における、取り敢えずの防備態勢を終わると比叡山の各寺社の貫主、宮司たちに、申し合わせの会を開くから出席いただきたいという鄭重《ていちよう》な挨拶状を送った。比叡山の諸寺、諸房、諸社の多くは新田義貞に好意を持っていた。楠正成、新田義貞の献策を聞かず、天皇を不幸な目に会わせた公卿たちこそ、愚かなる殿上人《てんじようびと》の群れとさげすんでいた。
六月二日、新田義貞は比叡山の東塔、西塔、横川《よかわ》の三塔、十六谷の堂塔寺社六十三門の貫主、宮司等を東坂本に集めて、後醍醐天皇を守護し奉るについての申し合わせの会を開いた。これは、半年前、楠正成が生存中にもしたことであった。まず寺社最高責任者を交えての話し合いによって、おおよその方向付けをし、次には、各寺社から選出された実践派の僧や神官を交えての軍議に入ったのである。
比叡山の堂塔寺社にはそれぞれ学究派と実践派の二派がいた。学究派は文字通り宗教そのものに没念する人たちで、比較的高齢者が多く、数も少なかったが、実践派は僧兵、宮侍で年齢も若く、実力派として幅を効かせていた。その総数三千とも五千とも言われていた。あなどり難い兵力ではあったが、この兵力はもともと堂塔寺社に隷属するものであり、個々に存在していたのでは兵力として敵に脅威を与えるまでには至らなかった。これらの個々の僧兵の集団を兵団に変え、兵団の頭に武士を置いて大将とし、兵団全体を総大将の采配《さいはい》によって動かさないかぎり、兵力とは言えないのである。
この理屈は堂塔寺社の僧兵、宮侍たちもよく知っていて、半年前には、新田義貞、楠正成等が、それぞれの僧兵、宮侍の集団に大将を派遣してまとめ、本陣にあって彼等を指図して合戦を勝利に導いたのである。延暦寺が宿敵として狙っていた、園城寺《おんじようじ》(三井寺)に新田義貞の指揮によって奇襲をかけ、焼き尽くしたのもこの時であった。
軍議には、半年前に戦った各堂塔寺社の実践派の首脳が寄り集まった。
義貞は後醍醐天皇の行宮《あんぐう》(行在所《あんざいしよ》)のある東坂本の延暦寺の防禦に主力を置くことを明らかにし、比叡山無動寺の麓《ふもと》から琵琶湖にかけて深さ二丈余の堀を掘り、ところどころに橋を掛け、その橋を守るために、両脇に土塁を設け、また要所に土塀《どべい》、木戸、逆茂木《さかもぎ》をかまえることを提案した。絵図は、船田義昌が用意して来て、それを開いて説明した。東坂本の防備の大勢の説明が終わると、義貞は居ずまいを正して言った。
「敵は物見を出して、東坂本のわれ等の陣を探り、これに見合うだけの大軍を向けて来るだろう。だが、東坂本を真正面から攻めても容易に落とすことはできないことを充分に知っている彼等が考える策はなんであろうか」
義貞は荒法師たちを見廻して言った。訊《き》かれた彼等は、それぞれ考え得る危険性を述べたが、西坂本(比叡山の西麓《せいろく》、現在の八瀬《やせ》から北白川あたりにかけての一帯)から比叡山の頂上目がけて攻め登ろうとするだろうと答えた者は一人もいなかった。
義貞は言った。
「敵は主力を東坂本に集めて、われらを引き寄せ、機を見て、西坂本から攻め登って来るであろう」
僧兵や宮侍たちは、しばらくは唖然《あぜん》としていたが、やがて笑い声が起こった。
「叡山の西部西坂は深い谷と坂によって形成されている。山道はあるが大軍が通れるような道ではない。そこを攻め登ることはたいへんなことだし、たとえ攻め登ったとしても、頂上に着くまでに息が切れ、戦さどころではないだろう」
僧兵たちはこもごもに言った。
「そのとおりだ。誰もがそのように考えているところから攻撃をしかけるのが、戦術というものである。足利尊氏は武将である以上、必ずこの手を使うだろう」
義貞は、そう前置きして、源の義経が鵯越《ひよどりごえ》の坂落としによって平家を破った故事のほか、敵の意表を突いて勝った戦さの話をかずかずした後で、西坂本から攻め登る可能性について絵図の上で説明した。
「中将殿はたいそう尊氏を恐れているように見えますのう」
突然口を出した者がいた。千種忠顕であった。彼は公卿の中でも特に戦さ好きであり、大将を自負していた。彼の他《ほか》にも大将ではないのに、大将のようなことを言う者があった。彼等は甲冑《かつちゆう》こそ上等のものをまとっているが、合戦の経験はなかった。口だけは達者だった。
「卿にはなにか策を持っておられるように見受けられるが、よろしかったらここにて、所信をうけたまわりたい」
と義貞が下手に出ると、忠顕は、さればと前置して言った。
「中将殿は堂塔寺社のそれぞれに新田の大将を派遣されているようだが、この忠顕には未《ま》だ声が掛って来ない。もし、無動寺の僧兵六百人をこの忠顕におまかせ下されるならば、三千や四千の敵兵が攻め登って来ても見事に防いでお目にかけよう」
忠顕の発言は、この場では傲慢《ごうまん》とも不遜《ふそん》とも取れたが、後醍醐天皇のお気に入りの公卿であり、彼自身数十人の公卿侍を率いているので、義貞には余計なことを言うなとも言えなかった。無動寺の僧兵の頭の巌念坊も、後醍醐天皇を笠に着てものを言う千種忠顕の申出を嫌でございますとは言えなかった。
「それでは、無動寺の方は千種卿にまかせることにしよう。だがひとつだけ守っていただきたいことがある。本陣よりの命令なしに勝手な行動は慎んでいただきたい。たとえ、一寺、一坊、一社であろうとも、勝手な行動を取られると、それが原因となって、比叡山全体の運命にもかかわるような大事が出来《しゆつたい》いたすこともある。充分心得て置かれたい」
義貞は駄目を押したが、忠顕は、ふんと鼻の先でせせら笑っただけであった。
義貞は船田義昌、堀口|貞満《さだみつ》両将に命じて、更にこまかいことの説明を行わせた。各堂塔寺社の兵団がどのようにして連絡を取るか、その連絡方法や、常時の守備位置、非常の場合の守備位置、合図の方法にいたるまで、細部に渡っての打合せが済むにはかなりの時間が経過した。軍議が終わって、義貞が一休みしようとしていると、そこに楠正成の子|正行《まさつら》が訪ねて来た。義貞に取っては初対面であった。正行は琵琶湖の東岸から船に乗って来たのである。供の者は僅かに十数名であった。
新田義貞は正行の手を取るようにして招じ入れると、湊川において、楠正成、楠正季等楠一族を救い出すことのできなかったことを詫《わ》びた。
「すべての責任はこの新田義貞にある。どうか気のすむようになされたい」
と義貞は正行の前に手をつかえて許しを乞うた。正行はどうぞ、そのようなことはしないでくださいと言った後で、
「父の戦死の様子は敵の包囲を斬り抜けて帰って来た一族の者からくわしく聞きました。父の死は、中将殿の責任ではありません、不覚にも赤松円心の謀略にかかった父自らの落度でございます。拙者がここに参ったのはそのような話ではなく、父から固く申しつけられていたことの次第を報告に参ったのでございます」
正行は、正成に命ぜられたとおり、勾当内侍《こうとうのないし》の行方をいままで探して居たが、未《いま》だにその行方が分からないことを告げた。
「拙者が新田屋敷に参上したとき、お迎えはこれで三度目ですと聞かされましたが、二度目に新田屋敷に伺ったのは吉田定房卿の手の者であることが分かりました。天皇の名を偽称して内侍殿を連れ去った最初の訪問者が誰であるかは、いろいろと調べた末、刀屋三郎四郎殿の仕業ではないかと考えられるふしが出て参りました。しかし、その三郎四郎殿の行方は依然としてつかめません」
正行は申しわけなさそうに言った。
義貞自身も勾当内侍の行方を探している最中だったので、正行がもたらした情報には救われるような思いがした。戦争を食い物にしている刀屋三郎四郎ならやりそうなことだと思った。刀屋三郎四郎が、なにを考えているか分からないが、彼が勾当内侍を連れ去ったならば、彼女が生きていることだけは確かだった。義貞はほっとした。
勾当内侍の話が終わったあとで、楠正行は、兵二千ほどを集めて瀬田方面に進出して来ている足利軍の背後を突こうという意見を出した。実は勾当内侍のことより、危険を冒してここまでやって来たのは、このことを言いたかったのである。
義貞は正行の言うことを聞き終わったあとで言った。
「比叡山に籠《こも》って足利軍と戦っても、この前のように、足利軍を京都から追放することはできないだろう。それには絶対的に兵の数が不足だからだ。足利軍に勝つためには、一旦は京都を棄てて東国に帰り、そこで兵をまとめて来るしかない。余は、機を見て、後醍醐天皇を安全な場所にお移し申上げたいと思っている。其処《そこ》は楠正成殿が生前言っておられた金剛山がよいと思う。この戦いはしばらく続く。一時的には味方が優勢に立つ時もあるだろう。天皇を金剛山にお移し申し上げるのは、その機を利用した方が安全だ。正行殿、よくよくお聞き下され、さっきも申したように、この合戦は終局的には味方の負けになる。その前に天皇を金剛山にお移し申し上げ持久戦に持ちこむことだ。正行殿は、河内《かわち》の国に帰って、今申したことの準備をお願いしたい。これは拙者のたのみであると同時に亡き正成殿が言い残された戦術でもある」
義貞の最後の言葉には力がこもっていた。
六月五日の朝は、前夜からの小雨がまだ降り続き、比叡山一帯は霧の中にあった。
日吉神社を本陣としていた新田義貞のところに、唐崎から滋賀里に陣を張っている敵軍が動き出す気配があるという報告が入ったのは寅《とら》の下刻(午前五時)であった。
義貞は外を見た。深い霧である。霧の中で行動を起すのは小部隊が奇襲を敢行するときのことで、大部隊と大部隊が向き合っている場合、霧の中での合戦は互いに不利である。彼は、敵が動くと言っても、それは敵の一部であろうと思った。しかし、その一部がどこを突こうとしているかが気になるので、物見を増して調べさせた結果、敵の全軍が動く様子であることを確認した。
義貞の頭に一瞬ひらめくものがあった。前面の敵が動くのは味方を牽制《けんせい》するためで、敵の本当の狙いはこの深い霧を利用して、西坂本から西坂を攻め登り、比叡山の堂塔寺社を攻撃するのにあるのではないか。とすれば、既に西坂の敵軍は霧の中を比叡山の頂上に向かって登りつつあるかもしれない。義貞は、諸将に伝令を送り、敵の動きを伝えるとともに、西坂方面の警戒を厳重にした。義貞は、東坂本の防禦陣の総指揮を脇屋義助にまかせると、彼自身は急いで山の上に本陣を移して、西坂を登って来るであろう敵に備えることにした。
義貞は予《あらかじ》めこのような時のために、四明嶽《しめいだけ》に仮本陣を用意し、必要に応じて、日吉の本陣から四明嶽の仮本陣に移動して指揮を取ることにしていた。義貞が四明嶽の仮本陣に着くと、西坂方面に向かっていた物見が次々と帰って来て、敵は西坂本から山道三路に分れて、登りつつある。既に先方衆は坂の半ばまで来ていることを告げた。敵の総兵力は二千と推測された。霧は依然として深かった。
義貞はいささかも驚いた様子はなく、伝令を出して、この戦況を各堂塔寺社を守っている兵団の大将に告げ、下知のあるまでは動くなと固く命じた。
巳《み》の刻(午前十時)になって、琵琶湖の西岸唐崎、滋賀里方面の敵が穴太《あなふ》に向かっていっせいに進撃を開始したという報告が入った。その直後であった。息せき切って伝令が義貞の仮本陣に走りこんで報告した。
「ただいま千種忠顕卿が敵を追って雲母坂《きららざか》を西坂本に向かって攻めくだりました」
「なに千種卿が……心を静めて、もう一度、詳しく言ってみよ」
伝令に来たのは若い僧兵であった。僧兵は水を一杯飲むと、どうやら落着いたらしく、無動寺あたりの情況をくわしく話した。雲母坂方面に敵の物見が現われたと聞いた千種忠顕は、合戦の秘術は早期に敵の頭を叩くにありと言って、手勢二百に無動寺の僧兵五百を率いて雲母坂に進出した。ここで彼等は敵の先方衆と刃を交えることになったが、敵は千種忠顕の率いる僧兵団の勢いに押し負けて、直ぐに退却を開始した。忠顕は直ちに追跡に移ったのである。
「ばかな、それこそ敵の誘いに引掛かったのだ」
そこまで聞いた義貞が言った。
「困ったことになりましたな、援軍を出さずばなりますまい」
堀口貞満が弱り切った顔で言った。
千種忠顕は太刀を抜き放って、逃げる敵を一人《いちにん》たりとも討ち洩らすなと叫びながら、急な坂道を駈けおりて行った。敵は、時々踏み止まって戦ってはすぐ逃げた。捕えられそうでなかなかそうゆかないのに業を煮やした忠顕は自ら最先頭に出て敵を追った。雲母坂を過ぎたあたりから、無動寺の僧兵たちの足が遅くなった。叡山の僧たちは、日頃口うるさいほど言われていることがあった。叡山諸峰の聖域は三十六町四方という広大なものではある。この聖域内での僧兵の行動は許されるが、この外に出た場合の責任は自ら負えということであった。
義貞もこれを承知していて、僧兵、宮侍の守備範囲は叡山の聖域内ということになっていた。
無動寺の僧兵巌念坊は、敵を追って夢中で坂を駈け降りようとする大将千種忠顕に向かって、
「これより先は聖域外でございます。深追いはお慎みください」
と言ったが、忠顕は、
「勝利を前にして、聖域もへちまもあるものか、いっさいは余が責任を負う故、迷わずついて参れ」
と言った。だが、巌念坊は踏み止まった。敵の逃げ方が故意のように思われたし、付近の森林の中に伏兵がいるように思われたからであった。深い霧だからよくは見えないが、そこは巌念坊の勘であった。巌念坊が踏み止まると、僧兵はいっせいに足を止め、やがて廻れ右をして静かに山頂に向かって引き返して行った。
忠顕は後から続く筈の僧兵の足音が聞こえぬので不安になり、尚駈け下ろうとする味方を制して引き返そうとしていると、急に風が出て、霧が霽《は》れた。彼等は西坂の中腹より下にいた。敵はそのあたりには見えなかった。
「深追いをしすぎたようだ。引き返せ」
と怒鳴ったときであった。坂の上の方から足音が聞こえた。僧兵が迎えに来たのかと見上げると、それは足利軍であった。
「しまった。伏兵だぞ」
と立ち騒いでいるうちに、下へ逃げた敵が引き返して来た。森林の中からも続々と伏兵が現われて、千種中将忠顕、坊門少将《ぼうもんのしようしよう》正忠等の公卿侍二百余人は一人残らず殺され、着ている甲冑は剥《は》ぎ取られてしまった。一人がやっと通れるような狭い山道は血の小川になった。
急を聞いて堀口貞満が大将となり、護正院禅智坊、道場坊の僧兵と、巌念等の無動寺の僧兵を引き連れて雲母坂を途中まで来たときには既に千種、坊門の公卿侍たちは討死した後であった。
堀口貞満が防禦の陣を敷くと、敵はその近くまで攻め登っては来たが、強いて戦おうとはせず引き返して行った。霧がすっかり晴れて青空が見えるころになると、西坂本から三道に分かれて攻め登った敵はすべて坂を降りて西坂本に集結した。
この日の合戦は宮方(後醍醐天皇側)の負けとなって終わった。
比叡山の雲母坂方面での合戦で、公卿の千種忠顕等を討ち取った足利尊氏は、宮方の防備陣手薄と見てか、この日以来、西坂本の赤山禅院に本陣を置いて合戦の指揮に当たった。比叡山を東側と西側から同時に攻め落そうという作戦のもとに、時刻を打ち合わせては、東坂本と西坂本で同時に軍事行動を起した。
しかし、なんと言っても、西坂本から比叡山の頂上を目ざすのはたいへんだった。足利尊氏は、坂の途中に何カ所かの兵の溜《たま》り場を置き、ここに食糧を順々に上げて、じわりじわりと頂上に攻め登る作戦を取った。考え得る正攻法であった。
これに対して新田義貞は、東坂本の防備は脇屋義助にまかせ、彼は四明嶽の仮本陣にあって、もっぱら作戦指導に当たっていた。彼は物見|楼《やぐら》を百間置きに作り、厳重な警戒線を敷いた上で、比叡山東塔、西塔、横川の三塔十六谷の堂塔寺社六十三門を守る兵団相互間の連絡と移動の訓練を始めたのである。これ等の堂塔寺社間には道があったが、狭い道も広い道もあった。
義貞は道路をひろげ、短時間に僧兵団が移動できるようにした。横川に敵来襲、又は無動寺に敵来襲というような仮定を設けては、適切な命令を下し、寺の鐘の音を合図に速かに兵力の集中、分散ができるように訓練していた。足利尊氏も比叡山中に間諜《かんちよう》を入れているからこの情報を得ていた。
「今度は力と速さとの合戦になるだろう」
尊氏は高師直《こうのもろなお》に言った。力とは西坂三路をおし登る四千余の兵力と、これを防ごうとする僧兵団二千余との合戦を評したのである。一方、東坂本では足利軍と新田軍が堀をへだてて対峙《たいじ》していた。足利軍の大将は足利直義であり、新田軍の大将は脇屋義助である。両軍の兵たちは、東坂本の方を弟大将の合戦、西坂本の方を兄大将の智恵くらべの合戦と評していた。
足利尊氏の準備は成った。西坂本から西坂三路を次第次第に陣地を進めて、あとは一刻あまりで一気に頂上まで攻め登れるというところまで来て軍議を開いた。三路のうち左右の二路はそれぞれ細川|和氏《かずうじ》、細川|顕氏《あきうじ》が大将となり、中道を雲母坂に攻め登るのは高師直の養子、高豊前守師秀《こうのぶぜんのかみもろひで》と決められた。高師直は師秀に手柄を立てさせるために、自ら推薦して、この道の大将としたのであった。
六月二十日の早朝から、東坂本と西坂本方面で同時に合戦が開始された。西坂本方面の足利軍は三路共同歩調を取って頂上に攻め登ることにしていた。
三路は頂上に向かう山道であったが、三路をつなぐ横道はなかった。三軍が連絡を取ることはむずかしかった。伝令は森林を抜け、谷を渡らねばならなかった。義貞はこの横の連絡を断つために、比叡山中のことをよく知っている荒法師を山中に入れて、足利三軍の連絡を遮断することに成功した。
足利三軍はそれぞれ隣りの道を登る味方と連絡を取るために伝令を出したが、彼等は山に入ったまま二度とは帰って来なかった。足利三軍は連絡のないままに頂上に向かった。
西坂本より叡山に向かう西坂三路のうち、中道を千余名の兵を率いて攻め登った足利軍の大将、高豊前守師秀は、出発した時点で比叡山一番乗りを自負していた。彼は右と左の山道を攻め登っている味方との連絡が取れなくなったのも気には止めていなかった。進むにつれて、敵の物見が顔を出し、時には小競合いもあった。そして、予期したとおり雲母坂一帯に僧兵たちが待ち受けていた。森林の中にも相当の人数がかまえていた。
高師秀は兵を展開させて攻撃に出た。味方は太刀を使う者が多かったが、僧兵等の多くは長巻だったので、森の中での戦いには不利であった。四半刻も経たないうちに僧兵等は退き始めた。その僧兵等を追って雲母坂の中ほどまで来ると、頂上の方から、鬨《とき》の声が聞こえた。一カ所ではなく、左右二カ所から聞こえて来る鬨の声は、どうやら西坂三路のうち、左、右の二路を攻め登って行った味方が上げたもののようであった。
「味方は既に頂上に着いたらしい。遅れてはならないぞ」
と師秀は部下たちに言って、攻め登ろうとしていると、はるか上方の岩の上に立った僧兵が味方の僧兵たちに、
「頂上に足利軍が攻め登って来たぞ。われらの寺が危い。はや、引きかえせ、はや引きかえせよ」
と声高に呼ばわるのが聞こえた。僧兵たちはその声を聞くと、われ先にと退いて行った。
高師秀の軍勢は一気に雲母坂を登り、蛇《じや》ヶ池《いけ》のあたりを通りぬけ、根本中堂の近くまで迫ったとき、後方で叫び声が起った。そこには僧兵の集団がいた。驚いて引き返そうとしているうちに周囲を僧兵に取りかこまれた。足利軍は坂を駈け登って来たから息が切れていた。咽喉《のど》もかわいていた。疲労もしていた。そこへおよそ倍にも見えるほどの僧兵が現われたのである。足利軍はたちまち斬り崩されて、四散した。大将の高豊前守師秀を始めとする二十人ほどの大将は討たれ、千余名の攻撃軍のうち半数は戦死するという、大敗北を招いたのである。
足利軍は西坂の三路を相互に連絡を取りながら攻め登り、三軍|揃《そろ》って比叡山の頂上に出るという戦法であったが、中道を攻め登った高師秀の軍が新田義貞の誘導作戦に見事に引掛かってしまったのである。
他の二隊は相互に連絡が取れないから、進撃するのをさしひかえていた。その上の方で、僧兵たちが声を揃えて鬨の声を上げるのも、なにやら敵の策略でもあるかのように聞え、森林の中に兵を展開し、なんとかして、味方間の連絡を取ろうとしている間に、合戦に敗れた高師秀の軍が僧兵に追われて逃げ降りて来るのに会った。すわ大事、それ味方を助けよと攻め登ろうとすると、血のついた長巻を携げた僧兵がずらりと並んでその進路をさまたげた。足利軍はそこでも多くの損害を出して退却した。新田義貞の策が勝ったのである。彼は僧兵の集団を前後左右に迅速に動かすことによって、敵三軍の連絡を断ち、一軍には全滅に近い打撃を与え、他の二軍には痛打を与えたのである。午後になって、足利軍は総崩れとなった。
六月二十日の比叡山西坂の合戦は宮方の大勝利に終った。足利尊氏はこの一戦によって、西坂本から攻め登ることの不利をさとり、赤山禅院の本陣を引き払って、東寺に帰った。東坂本では脇屋義助の軍と足利直義の軍とが相変らず乾き堀をへだてて睨《にら》み合ったままだった。
尊氏は宮方に対して、およそ三倍ほどの兵力を有しているのに自信を持ち、力攻めに攻め落そうとして見事失敗したのである。彼は作戦を変更した。比叡山を包囲して兵糧攻めにしようと考えたのである。気の長い話だが、これをやられたら宮方には勝目がなくなる。
新田義貞は、尊氏が必ずこの手を打つことを見抜いていた。彼は先手を打つために、かねて考えていたことを後醍醐天皇に上奏した。合戦の最中であり、ここは行宮であるから、花山院に天皇が居られる時よりも上奏は容易だったし、今ならば反対する公卿も少ないだろうと思ったからである。
義貞は西坂の合戦で宮方は勝ったが、これは一時的な勝利であって、次に敵が打つ手は兵糧攻めに間違いないことを御簾《みす》を通して申し上げた。このままだと宮方が敗けること必定と思われる故、今のうちに最も安全な場所へ行幸なされるこそ重畳《ちようじよう》と、おすすめ申し上げた。
「ここより安全な場所というとどこであるか」
という御下問に対して義貞は、それは吉野の里か金剛山寺であり、そうなったときは楠正行が一族を率いて御護り申し上げることになっておりますと答えた。
「そちはどうするか」
という重ねての下問に義貞は、
「度々の合戦で、関東から連れて来た一族をはじめとする武士たちの半数はこの世を去りました。このままだと、なんとしても戦うのに利がありません、いまのうちに関東に帰って兵を集めれば、この義貞のもとに一万の兵は必ず集まって来るでしょう。その軍勢を率いて京都に攻め上り、足利氏を亡ぼし、天皇をお迎え申すのは一年ほどの間のことと思います」
とお答え申し上げた。
天皇は義貞の言う道理は分かったが即答はさけられ、追って沙汰を致すと言われた。その場の空気は、義貞の意見に賛成なされたように見えた。
だが、二日経っても三日経っても返事がないので、執事の船田義昌をやって、義昌と親しい洞院左衛門督実世《とういんさえもんのかみさねよ》卿に探りを入れてみると、准后廉子《じゆごうれんし》がもっとも強く反対されるので天皇がためらっているところへ、坊門宰相清忠が新田義貞の総大将としての素質について、いろいろと讒言《ざんげん》めいたことを申し上げたということが分かった。
そうこうしているうちに、後醍醐天皇の中宮で洞院実泰卿の女《むすめ》藤原守子から船田義昌に入った情報により、坊門清忠の讒言の内容が明かにされた。それは六月五日の西坂の戦いで、一族の坊門少将正忠と千種中将忠顕が戦死したのは義貞が見殺しにしたものであり、六月二十日の合戦の勝利も実際に戦ったのは僧兵や宮侍であって、義貞等の武士はなにもしていなかったというものであった。
「困ったことになりました。公卿という人間はなぜこのようにひねくれた物の見方をするのでしょうか」
船田義昌は空を仰いで嘆いた。
六月二十八日、西坂本の方にまた足利軍が集まったという情報を得た義貞は四明嶽の仮本陣に出張し、早速物見を出して様子を探った。軍が集まったというほどのことではなく、足利軍が警戒の兵を増強したに過ぎなかった。尊氏は西坂本から攻め登ることを断念し、今度は同じ道を攻め下る宮方の軍勢を警戒し始めたのである。
義貞が仮本陣を出て馬に乗ろうとしているところへ、勅使が来たという知らせがあった。義貞の本陣と行宮とは呼べば声が届くほどの距離にある。わざわざ勅使などを出す必要はない。四明嶽の仮本陣へ来たのを狙って勅使をよこしたのは、何かの思惑があってのことだと思った。不安が先に走った。
義貞は勅使に会った。勅使は勅状を奉持していた。
≪聞くところによると足利軍は京都の東寺を皇居と称し、ほしいままのふるまいをしている由である。これをこのまま見逃すことは天位さえ危うくするものであり、また諸国の武士がこのことを聞いたら宮方の武士はなにをしているかと思うであろう。幸い、西坂の合戦において比叡山の堂塔寺社の者たちが勝利を得て大いに意気が上がっているところでもあるから、宮方の武士たちも力を合わせて東寺の敵を追討するこそ|朕《ちん》が最も望むところである≫
という内容のものであった。それは勅命であったが、このように持って行ったのは天皇の周囲にいる公卿たちであることは明らかであった。おそらくは坊門清忠あたりがやったことだろうと義貞は思った。烏合《うごう》の衆同様な僧兵の集団を組織化して兵団として見事に敵を撃破したことは認めようとはせず、武士たちに精出して戦さをせよという内容の勅命であった。合戦がどのようなものか依然として分からない公卿たちのやる事には腹が立ったが、それは勅命であった。義貞は至上命令である以上受けねばならないと思った。
義貞は四明嶽にとどまり、新田一族を始めとして名和、宇都宮、菊池、土肥《どひ》、得能《とくのう》、仁科《にしな》、高梨、南部、土岐《とき》、春日部《かすかべ》等の宮方の諸将を呼んでこの勅状を示した上で軍議に入ろうとした。しかし、
「敵を撃つ前に、まず天皇の側近にはびこる獅子身中《しししんちゆう》の虫をほろぼすべし」
と宇都宮|公綱《きんつな》が一言言ったことによって、武将は一人残らず、公卿等の横暴を口に出した。
義貞が勅命に対して、いかに答えるかを考えようではないかと言って諸将をなだめた。
「だが、公卿どもにわれわれ武士が京都を攻めるのが怖いのかと言われるのも、心外だ」
と、しばらく経って名和長年が言ったことによって、諸将はそれもそうだという気になり、京都の東寺をどのように攻撃するかについて話し合った。どう考えても、敵味方の軍勢はかけ離れていた。東寺守備軍三千に対して、宮方が動かせる兵力はせいぜい千人であった。東坂本の陣を|から《ヽヽ》にすることはできないから、京都に攻めこむには、少数精鋭の兵力を以《もつ》て奇襲戦法に出る以外には考えられなかった。
六月|晦日《みそか》早朝、宮方は精鋭千名を二手に分け、一手は新田義貞が大将となって、京都西部の西野方面に打って出、一手は名和長年が大将となって鴨川《かもがわ》筋を攻め下った。
西坂を夜陰に乗じてひそかに降りて京都急襲に出たのであった。目的は東寺の足利尊氏を討ち取ることだった。
思いがけない奇襲だったので足利軍は周章狼狽《しゆうしようろうばい》した。西野に守備陣を敷いていた細川|定禅《じようぜん》の軍勢は新田軍の奇襲にあって、南へ向かって逃亡し、その後を追った新田軍は東寺を囲んで矢を射かけた。
菊池武重は数十人の兵を率いて、東寺の大門に迫り、門を開いて出て来た仁木頼章《にきよりあき》の軍と激しく渡り合った。南部為重は細川定禅を生け捕りにせんばかりのところまで追いつめた。
鴨川筋を攻め下った名和長年の軍は、途中三条河原で足利尊氏の率いる主力と衝突した。尊氏は急を聞き、東寺の守備は仁木等にまかせて討って出たのである。名和軍は善戦した。宇都宮、土肥、得能等が率いる軍がよく戦った。仁科重貞は数十人を率いて高師直の本陣に斬り込み、一時師直は本陣を捨てて逃げ出したほどであった。
東寺の方に煙が上がった。尊氏は皇居が焼けたのではないかと、心配したほど、宮方の攻撃は目ざましかった。しかし、宮方が勝っていたのはそれまでだった。少弐頼尚《しようによりひさ》が千人ほどの兵を率いて、三条河原に駈けつけたことによって形勢は逆転した。
名和長年は形勢不利と見て退却を命じ、自らは殿《しんがり》となって戦っている間に敵に囲まれ、三条|猪熊《いのくま》において戦死した。東寺方面で善戦していた新田軍もこの形勢を見て退却しなければならなかった。その際に死傷者を出したが、陽が高く上るまでには北山に退いていた。
奇襲は必ずしも成功したとは言えなかったが目的は達した。しかし宮方の損害は名和長年を失ったほか多くの兵を失った。
京都への奇襲はこの後も連続した。夜襲が三晩も続いたことがあった。東坂本を警備している足利軍を京都方面に牽《ひ》きつける作戦だった。そうしないと糧道を断たれる恐れがあった。
八月二十四日の夜には、雷雨にかくれて、新田義貞自らは、北白川方面から討って出て、糺《ただす》河原で高師直の軍と戦った。この夜も京都は燃えた。
奇襲攻撃による京都|攪乱《かくらん》作戦は成功するかに見えた。京都を守る足利軍は、何時《いつ》現れるかも分からない宮方の軍に恐れをなして、夜もおちおち眠れない状態だった。東寺にいる光厳上皇も、他所へ移りたいと申し出されるほどだった。しかし、九月十五日になって、情勢は一変した。小笠原|信濃守《しなののかみ》貞宗が、兵二千を率いて信濃から近江《おうみ》に着いたのである。
更に佐々木|道誉《どうよ》の近江勢千余がこれに加わり、琵琶湖の北部から湖の西側を攻め下って来て、東坂本に陣を張っている宮方の背後をおびやかすことになった。
比叡山は完全に包囲された。この日から糧食の補給路は断たれた。義貞が最も心配していた日が来たのである。
新田義貞は苦慮した。今となっては、楠正行と呼応して天皇を金剛山にお移し申し上げることすら不可能であった。考えられることは、保有食糧を食い延ばして、味方の来援を待つことであったが、頼みとしている奥州軍の北畠顕家《きたばたけあきいえ》からは、京都に攻め上る予定についての返信はなかった。奥州軍は故郷に帰ったばかりであるが、この年のはじめの合戦において働いた彼等にはなに一つとして恩賞らしいものは与えられてはいなかった。無駄働きは嫌だという空気が汪溢《おういつ》していた。
新田義貞は未だに宮方として働いている、琵琶湖の水軍を使ってかろうじて、糧道を確保していた。こうしている間に、敵軍中に不平不満が起るだろう。なにしろ、敵は遠くからやって来た大軍である。対陣が長びけば自壊作用を起す。反撃に出るのはその時であった。
足利尊氏は宮方を包囲し、糧道を断つと同時に、かねてから持明院統に通じていた公卿を仲介して和睦《わぼく》の交渉を開始した。
その第一条件は、持明院統と大覚寺統との間に取り決められている両統|迭立《てつりつ》の約束を実行するならば、いままでのことはいっさい水に流そうということであった。つまり、後醍醐天皇は一時京都に帰り、帝位を持明院統に譲れということであった。第二の条件は新田義貞、脇屋義助の兄弟は許すことはできないが、他の宮方の武将の降伏を受け入れる。そしてその罪はいっさい問わないという内容のものであった。
この尊氏の講和条件について、行宮内では主なる公卿を中心としてひそかに審議がなされていた。当然、総大将たるべき新田義貞が招かれるところを、そうはせずに進められていたのであった。坊門宰相清忠などは新田義貞の首を討って尊氏に届けたらいっさいが丸くおさまるだろうなどと暴言を吐く始末であった。
洞院左衛門督実世卿は新田義貞をこの席に呼ぶことを再三主張したが、他の公卿に反対されてそれもできずにいた。公卿たちの内部の反目は、間もなく下の者に洩れ、行宮を警備している堀口貞満の耳にも入った。彼ははじめ自分の耳を疑ったほどであったが、それが本当だと分かると、もう黙ってはおられなかった。
彼は十月に入って間もない或る日の午下《ひるさが》り、御座の前で話し合っている公卿たちの会議の席上に単身乗りこんで、御簾に向かって声を大にして申し上げた。
「われわれ新田一族はこの四年間というもの、身命をなげ打って主上にお仕えして参りました。一族で死んだ者は三百人を越え、一族縁故の者で死んだ者は二千を越えています。そのわれ等を無視して、主上自らが敵に降伏なされるというならば、その前にわれ等一族に死を賜りたいと存じます。この貞満は既に死を覚悟してここに参りました。死ねよとのお言葉を戴《いただ》きさえしたら、この太刀でまず主上の獅子身中の虫を刺し殺してから腹を切る所存でございます」
貞満はかっと目を見開いて、公卿たちを睨《ね》め廻した。
その時、御簾の奥に玉音《ぎよくいん》があった。
「堀口貞満の申すこといちいちもっともである。近衛中将(新田義貞)をこの場に招かなかったのは朕が落度である。はや、ここに近衛中将を呼べ。その所存を聴くであろうぞ」
天皇の一言によって座はしんとなった。貞満は後方に控える家来に目で合図した。新田義貞がその席に現われるまで貞満はその場を動くつもりはなかった。
新田義貞は、貞満の家来から委細を聞き、急ぎ行宮に参上し、主上に対して、まず家臣の堀口貞満が非礼を働いたことをお詫び申し上げたうえで、天皇が示された、足利尊氏よりの降伏条件について問われるままに答えた。回答は既に彼の頭の中にあった。
「第一項の両統迭立については、参議殿(尊氏)はそのつもりでいても、直義や高師直はそうは考えてはいないでしょう。直義は鎌倉において、護良《もりなが》親王を弑《しい》し奉った男故、なにをたくらんでいるか分かりません」
義貞は、そう前置きして、ここで皇位を持明院統に渡してしまったら、いままで後醍醐天皇がなされたことがすべて水泡《すいほう》に帰すのだから、東宮(皇太子|恒良《つねなが》親王)に帝位を譲られた上で、京都におもむいたらよろしいでしょうと申上げた。その際は新田一族中の二将、江田行義と大館《おおたち》氏明を家来としてお連れ下されば、両将は命にかえても、主上を警護申し上げるでしょう。しかし、足利直義が両将をしりぞけ、自ら警護をすると申し入れて来た時は、お命の危いときであるとおぼしめされるように、しかしその時はその時で必ず忠臣が現われてお救い申し上げるでしょうと申し添えた。天皇は黙って聞いておられた。
義貞は更に言葉を加えた。
「いま申し上げたことは臣義貞の考えにすぎません。還幸なされる前に、なにをどうなされるかは、何人《なんぴと》にも相談されず主上自らがお考えになって決められ、その結果だけをお示しあらんことを伏してお願い申し上げます。重要なときである故、主上のお覚悟こそ、世の行末を決めるものでございます」
「朕がひとりで決めよというのか」
「そうしなければならないのでございます」
義貞は声を高くして言った。天皇もどうやら義貞の言っていることが分かったようであった。公卿たちの言うなりになっていたのではいけない。天皇の考えをはっきり示せ。そうしないと事はすすまないと言おうとしている義貞の気持ちが分かったのである。
「よく考えたうえ、朕の気持ちを伝えるであろうぞ」
後醍醐天皇はそうお答えになった。
義貞は行宮を出ると、すぐ家来に命じて琵琶湖の水軍をひそかに、集めるように命じた。義貞は為《な》すべきことがあまりにも多かった。彼は、江田行義、大館氏明二将を呼んで、後醍醐天皇と共に足利方に降り、機を見て天皇を奉じて吉野の里へ脱出するように策を与えた。敵に降伏するくらいなら、ここで腹を切るという二将を説得するのは容易なことではなかった。
情勢が急転したことについて、宮方の武士たちにもその真相を話さねばならなかった。武士たちの中には、自分たちを使い捨てにしようとした天皇側近の公卿たちを憎んで、まずそれ等の公卿を斬ってから山を降りようと言う者さえあった。
後醍醐天皇は、義貞の言葉によって目が覚めたような気がした。公卿等の言うなりに身をまかせ過ぎて、何時の間にか自主性を無くしていたことに気がついたのである。主上は三日三晩考え続けていた。この間にも公卿たちは自分の考えを押しつけに来た。吉田定房は、
「義貞の説はお取り上げめされるな、今となったら、むしろ不用となった義貞を策を講じて捕えて足利尊氏に渡すのが、この際、最良の方法かと存じ上げまする」
と密《ひそ》かに申し上げた。意外な言いように驚いている天皇に、吉田定房が明らかにした策というのは、義貞の言葉を取り上げたように見せかけ、即位の儀を取り行うと称して、延暦寺におもむき、儀式に参列した新田義貞を道場坊|助註記祐覚《じよちゆうぎゆうがく》に言い含めて、僧兵等の力によってからめ取るというものであった。勾当内侍をおとりに使うことに失敗した吉田定房は、今度は僧兵の手を借りて、新田義貞を帝位保持のための生贄《いけにえ》にしようとたくらんだのである。
後醍醐天皇はあまりのことに顔色を変えられ、さがれときつく申された。この瞬間、天皇の心は決った。
天皇は義貞ひとりを御座に召した。異例のことであった。側近をすべて下らせて二人だけになったとき、天皇は自ら御簾を取り除いて言った。
「そちとこうして直接顔を合わせるのは二度目である」
天皇は六波羅軍に包囲され、女装して皇居を脱出する際に、京都大番役の新田義貞に助けられたことを思い出されて言ったのである。
「公卿どもの中には敵の廻し者もいるし、そうでない者もいるが、それぞれが勝手放題なことを申し立てている。ほんとうに国の将来を考えている者は少く、多くは自分自身のことを考えてものを言っているようだ。この際はっきりしていることはそち以外に心を打ち明けて話す相手は朕の身辺には居ないということである。義貞、近う寄れ」
そして天皇は義貞になにごとかをひそかに囁《ささや》いたのである。義貞は平伏してそれを聞くと、静かに御座の前を下り、そして行宮の門まで来ると、大声を上げて、家来の者を呼んで言った。
「この行宮を包囲し、一人たりとも許可なくして出入することを厳禁せよ」
義貞は武力を以て行宮を包囲した上、何ごとならんと出て来た公卿たちに言った。
「天皇の心に、お迷いあると見受けられたるによって、臣義貞強いて、春宮《とうぐう》(恒良親王)に譲位あらんことを願うものである」
すべて後醍醐天皇が義貞にこうせよと仰せ出された芝居である。公卿の目をごまかすためと、同時に敵の目をごまかすために、このような挙に出たのである。行宮の中は騒然とした。次々に公卿が出て来て、ここで即位の儀式を取り行うことはできないというと、義貞は太刀に手を掛けて、
「できぬというなら、まず卿等の頸《くび》を刎《は》ねよう」
と威嚇した。いままでにないことであった。それから一刻の後に即位の式典が簡略ながら行なわれ、神器は恒良親王に譲られた。あわただしい中にもおごそかな即位の式であった。恒良親王は准后廉子が生んだ親王であり、建武元年(一三三四年)十三歳で立太子式を行われ、十五歳で新天皇になられたのである。
義貞は行宮を包囲してから、次々と命令を発した。新天皇を初めとして一の宮(尊良《たかなが》親王)、洞院左衛門督実世、三条侍従泰季、三条少将|行尹《ゆきただ》等の殿上人を奉戴して北国におもむき、そこに皇居を定めて、足利尊氏等賊軍と戦うことを宣言したのもこの時であった。すべて、後醍醐天皇と打合わせた上のことだが、表面的には新田義貞に強請されてやったことのように見せかけたのである。同行する親王や公卿たちは天皇から、それとなくこのことを知らされていたから、いささかも驚いた様子はなかった。
義貞は、日が暮れると同時に、琵琶湖畔に集めて置いた、大小およそ千|艘《そう》ほどの舟に新帝を初めとして一の宮、公卿等を乗せ、新田一族の脇屋義助、堀口貞満、一井《いちのい》義時、額田為綱、里見義益、大井田義政、鳥山|義俊《よしとし》、桃井|義繁《よししげ》、山名忠家、それに武将の千葉|貞胤《さだたね》、宇都宮|泰藤《やすふじ》、河野|通治《みちはる》、土岐頼直《ときよりなお》、一条為治等の諸将及び郎党を乗船させて、琵琶湖を湖北に向かった。諸将等には、このことを予め知らせてあったから、いささかの動揺もなかった。北国に向かった新田軍の他にもう一団の新田軍がいた。降伏と見せかけて、実は後醍醐天皇の身辺警護に当り、場合によっては、隙を見て京都から抜け出し、それぞれ地方に散って足利撃滅の兵を挙げることを固く誓い合った武将たちである。
彼等は義貞等の舟を見送ると、直ちに行宮に参集して、後醍醐天皇に翌々日の十月十日、ここを出発して京都へ還幸せられんことを乞うた。
延元《えんげん》元年十月十日、後醍醐天皇は、吉田定房、万里《までの》小路《こうじ》宣房、坊門宰相清忠等の公卿の他、大館氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武重、仁科重貞、春日部家綱、南部為重、伊達《だて》家貞、江戸景氏、本間資氏等の武将と郎党を率いて、京都に還幸された。新田一族の大館、江田両氏の他宇都宮氏のように肉親が二派に分かれて北と南に別れた者もいた。すべて将来に備えての計画的行動であった。
足利尊氏が後醍醐天皇が還幸されるという通知を受けたのは還幸前日の午後であった。その報と同時に、新田義貞等が恒良親王を奉じて、琵琶湖を乗り切って中山道を北国へ向かったという情報を得た。
「さすがは新田義貞……」
尊氏は、新田義貞のあざやかな撤退ぶりを痛く感心した。しかし、弟の直義は、
「すべてが新田義貞の立てた計略に間違いないから、後醍醐天皇は花山院に幽閉奉り、天皇に従って来た敵の大将どもの頸《くび》はことごとく刎ねて河原にさらしましょう」
と言った。だが、尊氏はこれを許さなかった。彼は自ら五十騎を率いて、後醍醐天皇を迎えて、花山院の皇居に案内すると、
「しばらくは、おゆるりと御休息あらんことを」
と言って、戦乱と同時に諸方に身をひそめていた女御たちを探し出し、花山院に入れた。東坂本から従って来た大将たちにも居所を与え、身体を休めるがよいと、暖い言葉をかけてやった。尊氏はこのあたりで大きなところを見せる一方、北陸に逃げた新田義貞追討の軍は既に発足させていたのである。
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南北朝騒乱の中で、半カ年間にわたって行われた、比叡山を中心とする、足利軍と新田軍の攻防戦はもっとも興味あるものであった。湊川の合戦で敗北し、楠正成を失った新田義貞が、数において圧倒的に優勢な敵を向うに廻して、よくもここまで戦ったものだと思うのもこの合戦である。
この合戦について、『太平記』と『梅松論』を対比して読んでみて、共通の点を挙げると、六月二十日の合戦では足利軍が大敗を喫したということである。このあたりを『梅松論』より引用すると、
去程に六月廿日。今道越より御方《みかた》の合戦打負て、三手の御方|同《おなじく》坂本に追下さる。高豊前守以下数十人。山上にして討死す。此上《このうえ》は赤山の御陣無益なりとて急御勢|洛中《らくちゆう》に引退く。
とある。この今道越という固有名詞は今路越とも書かれ、『梅松論』、『太平記』の両方に出て来る。西坂本から比叡山頂上へ向かう道の一つであることだけは確かだが、くわしい道筋は分からなかった。京都市史|編纂《へんさん》所の話だと、御所公園の東、荒神橋のあたりに「今道の下口」という地名が残っているということであった。
比叡山は実際に歩いて見て、この山塊全体が偉大なる山城であると思った。頂上の将門岩《まさかどいわ》のあたりに立ってみると、いよいよこの感を深くした。比叡山の頂上は起伏に富んだ「山《やま》の平《ひら》」であった。
ここかしこに堂塔が建ち並びその間を道が通じていた。これ等の道の他に、木地屋《きじや》道もあった。私は取材中、鬱蒼《うつそう》たる杉の木立の急坂にもぐりこみ、杉の落葉に足を滑らせて何度かころんだ。このあたりで衝突した両軍は、草鞋《わらじ》を履きかえ、履きかえて奮戦したのであろう。
合戦が比叡山から京都の町に移行して行き、西野のあたりで激戦があったことは、『梅松論』、『太平記』共に認めるところであった。当時の西野は、野《ヽ》という名称が出たほどさびれていて人家も少なかった。しかし、寺社はあった。
妙心寺は花園天皇(一三〇八―一三一八年)の離宮から禅刹《ぜんさつ》となったもので、西野の合戦の頃はこの寺ができて間もなくであった。広大な境内の東側に開山堂があり、その柱に、当時飛来して来て突き刺さったという鏃《やじり》がそのまま残っていた。柱の中に鏃が隠れるほどだから、銃弾ほどの威力を持っていたのだ。『太平記』にしばしば出て来る、矢が甲《かぶと》の鉢を割ったというような表現は誇張ではないのである。
新田軍によって一時包囲されたという東寺の蓮華《れんげ》門にも鏃の跡があった。東寺は鳥羽方面から京都に入る関門に当っているので、古来合戦のある度に争奪戦があったところである。その鏃の跡が、新田軍によって射こまれたものかどうか証明するものはなにもなかったが、目を蓮華門から門に続く高さ一間半ほどの築地塀《ついじべい》に移していくと、時を超えて、足利軍、新田軍双方の雄叫《おたけ》びが聞こえるような気がした。京都が多くの人々に愛されるのは、このような生きた歴史が残されているからであろう。
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いたましきかな新天皇
十月十日早朝、琵琶湖の北岸、海津湊《かいづみなと》に上陸した新田義貞は早速物見を出して西近江路(七里半越とも言う。琵琶湖北岸から敦賀《つるが》に通ずる山道)を探索させると同時に、琵琶湖の西岸から北部にかけて陣を張っている、小笠原貞宗、佐々木道誉の両軍の動きを窺《うかが》わせた。彼等こそ追撃して来る可能性のある当面の敵だった。また義貞は敦賀の気比《けひ》神社へ急使を出すことも忘れなかった。
一行は新天皇以下およそ千人であった。これから山越えにかかることになるが、十月十日(太陽暦に換算すると十一月十八日)ともなれば、山中の夜は寒いし、雪でも降ればたいへんなことになるから、服装を整えねばならなかった。しかし、突然、千人分の雪仕度といってもできるわけはなかった。
一行は海津湊で山越えの案内人を求め、彼等に西近江路のことを聞くと、高い山には既に初雪は降ったが峠には雪はないということであった。
「天気さえよかったら、丸一日あれば越すことができるでしょう」
と案内人の一人は言った。
夜明けと共に空には次第に雲が多くなった。
「山越えの途中でもし降られるとすれば、雪か雨か」
船田義昌が案内人に訊《たず》ねると、
「今年は例年になく早く冬が来たようですから、まず雪は間違いないでしょう」
と案内人は自信ありげに答えた。義昌は、案内人に命じて、できるだけ多くの蓑《みの》を集めさせた。急なことなので、千人に対して蓑は八百、雪沓《ゆきぐつ》は七百足しか集らなかった。船田義昌は全員に藁《わら》一束ずつを持たせることにした。
物見が次々と帰って来た。山越え道の方には敵はいなかったが、佐々木、小笠原両軍合わせて三千余は、新田軍が船で琵琶湖を北に向かったと聞いて、いっせいに攻め寄せて来るということであった。
「先方衆の騎馬武者は、すぐそこまで来ています」
と報告する物見の声も落ちつかなかった。
新田義貞は出発を号令した。新田軍は新天皇の御輿《みこし》を中にして、いっせいに山道に入って行った。味方はほとんどが徒歩《かち》であり、敵は馬を利用して攻め寄せて来るだろうから、そうなれば、間もなく追いつかれて合戦になるだろう。義貞はそのことを最も心配していた。西近江路を剣熊《けんくま》(現在の路原のあたり)まで来たとき、義貞の前に船田義昌が出て言った。
「このままだと間も無く敵に追いつかれてしまいます。拙者が殿《しんがり》をつとめて敵を防ぎながらこの道を行きますから、本隊は脇道に身をかくし塩津越え(新道野越え)の道を迂回《うかい》して敦賀に出るようになさいませ。そして主上にはまことに恐れ多いことながら、ここにて御輿を捨てて歩いていただくよりいたし方がございません」
義昌にはなにか決するものがあるよう見受けられた。
[#1字下げ] 天皇の諡号《おくりごう》(或《あるい》は追号)は死後贈られるものである。恒良親王の場合は即位して天皇になられたのは確実と思われるが、歴史的には天皇とは認められず、諡号もまた残っていない。小説の中で新天皇と記述したのは以上の理由からである。
船田義昌が自ら殿を引受けると、四国の水軍の将、河野|通治《みちはる》、土居|通増《みちます》、それに新田の一族の将鳥山義俊、桃井義繁等が加わり、併せて三百人ほどの軍が編成された。彼等はこの時既に決死の覚悟であった。
義昌はからになった御輿に蓑や雪沓を入れ、家来たちに持たせて先に出発させ、自らは義貞の前に手をつかえて言った。
「いかなる事態になろうともあきらめてはなりませぬ。正義の戦いは最後には必ず勝ち、お館《やかた》様が源氏の統領として天下に号令なされる時が参ります。それまではお命を大事になされませ」
それは義昌の別れの言葉であった。義貞が十五歳で元服して以来、執事として常に側近にいた船田義昌は、この非常の時に義貞の身替りになろうとしているのである。それが分かり過ぎているから、義貞にはかえってつらかった。しかし彼はここで涙を見せるようなことはせず、
「そちも必ず生きて帰れよ」
と言っただけであった。船田義昌の白髪のおくれ毛が義貞の目に痛かった。
新田軍本隊が西近江路から脇道にそれて、塩津越え道へ入ったころ、雪が降り始めた。佐々木軍と小笠原軍は西近江路を御輿を守って行く軍隊こそ新田義貞等に間違いないとして、執拗《しつよう》にその後を追った。だが両軍が船田隊に接近しようとした時には吹雪は激しくなり、寒気も増した。蓑、雪沓等の用意をしていない両軍はたちまち吹雪の前に立往生した。戦争どころではなかった。両軍は船田軍を前にして一戦もせず引き返して行った。
敵は去ったが、入れ違いにやって来た吹雪という大敵はたちまち船田軍を包囲し、寒気という矢で攻撃した。身を隠す家はなく、洞窟《どうくつ》もなく、夜になると、森に入って風を避けながら全員が一団になってかたまり合って寒さから逃れるより他《ほか》はなかった。
敵の攻撃をかわすために塩津越え道に入って行った新田軍本隊も吹雪の攻撃には為す術《すべ》はなかった。蓑を着て雪沓を履いている者はどうやら吹雪に耐えることができたが、その用意がないものは、持って来た一束の藁を使って雪沓とはいかないまでも雪沓まがいのものを作って、凍傷から足を守らねばならなかった。
行軍は続いた。立ち止るとそのまま倒れてしまう者が出て来たからであった。
新天皇を囲んで円陣を作り、藁束を燃やして暖を取ることもあったが、火が消えると前よりもひどい寒さがやって来た。
夜が明けて十一日になっても雪は依然として降り続いていた。食糧は各自が用意していた焼米であった。新天皇は兵が背負った。その兵が倒れると、次の兵が替った。十二日の未明、麻生口まで来たところで、気比神社からの迎えの兵の一団に会った。
匹田《ひきた》で新田軍本隊と船田軍の生き残りとが合体した。千名のうち、二百名近い落伍者を出していた。寒さのために武具を取り落した者も多かった。凍傷を負っていない者は皆無であった。落伍者のうち気比神社から出された救助隊に助けられた者は少く、遭難者のほとんどは雪の中に埋もれていた。船田義昌もまたその一人であった。
敦賀の気比神社は越前《えちぜん》の国一の宮として古来より有名であり、皇室との関係も深かった。社領も広く、鎌倉幕府討滅の時は、いち早く後醍醐天皇の綸旨《りんじ》を受けて、味方に加わり、北条氏没落と同時に、北条氏に奪われていた社領も復元していた。
義貞が新天皇を奉じて敦賀の気比神社に向かったのは、このような過去のつながりがあったからである。また義貞は、東坂本で即位の式が行われる以前に、いち早く御教書《みぎようしよ》を持った使者を気比神社に送っていたし、即位と同時に新天皇の綸旨が送られていた。
気比神社大宮司は気比神社内に設けた行宮《あんぐう》に新天皇をお迎えした。吹雪の中で思いもよらぬ困難をなされて、言葉さえも出ないほどに疲れ果てられていた主上も、気比神社の神官たちの暖いもてなしぶりにようやく気を取り直して、
「あの恐しい吹雪の夜はまぼろしであったか」
と仰せられた。十五歳の主上は母君の准后廉子《じゆごうれんし》によく似ていた。雪のような白い肌をし、面長で鼻は高く、気品あふれる顔をなされていた。その主上の言葉を聞いた気比大宮司は、
「ここに来られた以上は御安心下されるように、再びまぼろしをご覧に入れるようなことは決していたしません」
と申し上げはしたが、内心はすこぶる不安であった。気比神社の宮侍、雑色、社領内の豪士等すべて集めても、千人ほどの軍勢であった。間もなく、おしよせて来るであろう、足利の大軍とどうやって戦ったらよいであろうか。
その不安は気比大宮司よりも新田義貞の方が大きかった。周囲はすべて新しい土地であった。ここで早急に味方を集めて、足利氏に対抗するのは容易ならぬことであった。
義貞は気比神社に到着したその日のうちに、大宮司と相談の上、弟の脇屋義助、その子義治等を敦賀から北へ五里のところにある杣山《そまやま》城へ派遣して、瓜生《うりゆう》兄弟を味方に付けようと考えた。こうするには当然のことながら、義貞自筆の御教書と、新天皇の綸旨を持たせてやらねばならない。
新天皇になれば当然のことながら改元があってしかるべきであった。綸旨の草稿はできても、それができなかった。義貞は気比大宮司に相談した。
「今朝ほど、白い大鹿が獲《と》れたと言って、神社に献上されました。古来、白い鹿は吉兆ということになっております故、白鹿と改元なされてはいかがでしょうか」
義貞は大宮司のこの言葉を新天皇に申し上げると主上は、
「白鹿とはよい元号」
と仰せられ、その場で延元は白鹿と改元された。
御教書と綸旨はその日のうちに用意され、脇屋父子は十四日早朝に敦賀を出発した。彼等と同時に、近隣の諸豪、諸寺、諸社には、気比大宮司の指示によって、御教書と新天皇の綸旨が送られた。
義貞は多忙であった。一方では御教書や綸旨を発し、一方では、来るべき敵の大軍に対しての防備をしなければならなかった。義貞は敦賀の金ヶ崎に山城を築いて、ここを本拠として足利軍と戦う決心だった。
気比大宮司の命令により、およそ二千人の氏子が毎日城造りのために動員された。
金ヶ崎は文字通り敦賀湾に面した小さな崎であった。更に言葉を加えれば、崎であると同時に山であった。高さは百メートルそこそこであったが、急|勾配《こうばい》な山であり、三方は海に臨み、しかも絶壁になっていた。海上からの攻撃はできなかった。義貞はここに城を築いた。
間も無く攻めて来るであろう、足利軍が当面の目的とするものは、義貞の首よりも、新天皇奪還であった。尊氏は光厳《こうごん》上皇の綸旨を受けて、表面的には賊軍の名はまぬがれ、更には後醍醐天皇に対し京都花山院に還幸を願った。これによって見掛け上は和平が成立したように見えていたが、神器と共に新天皇が敦賀にいるかぎり、尊氏は依然として賊軍の総帥であった。彼が名実ともに官軍となるには、新天皇と共に神器を奪わねばならなかった。
義貞が予想していたとおり、足利尊氏は北陸に兵を向けた。しかし、新天皇と義貞に白い歯を向けた吹雪が足利軍に対してだけ笑顔を見せる筈はなかった。山越えの道は雪によって塞《ふさ》がれた。山ばかりではなく、北陸地方は冬の季節に入ったのである。
義貞等宮方は北陸の雪によって救われた。義貞は、この冬を無駄にしなかった。彼は越前の各地へ、新田一族の武将を派遣して、御教書と新天皇の綸旨を送って味方に引き入れようとした。一族の中で、もっとも弁舌家であると言われる、堀口貞満には海路、加賀、能登、越中《えつちゆう》、越後《えちご》に潜行させて、味方を募った。越後には、新田一族が多かった。彼等は新天皇の綸旨を拝受すると、主上のためにも、源氏の統領新田義貞のためにも、必ず、越前に援軍を出すと誓った。
雪の中の宮方の活動とは別に、足利尊氏もまた越前の守護、斯波高経《しばたかつね》に命じて、新田軍を牽制《けんせい》した。いたるところで、斯波高経の手の者と新田義貞の手の者とが競合った。
こうしている間も、情報は乱れとんだ。確かなものもあり、いい加減なものもあった。
後醍醐天皇が京都から吉野へ還幸されたという報が北陸に聞こえて来たのもこのころであった。
延元元年(一三三六年)十月十日に京都花山院に還幸された後醍醐天皇は、しばらくは自由な行動を許されていたが、十一月に入って、足利直義が警固に当たるようになってからは幽閉同様の身の上になった。直義は後醍醐天皇の守護に当たっていた、大館氏明、江田行義等の新田の大将をしりぞけると、後醍醐天皇に直接面会を乞うて、北陸に落ちた恒良《つねなが》親王に神器を譲ったことについて、
「十月九日に東宮の即位の式を挙げさせられたというのは事実でございましょうや」
と問うた。後醍醐天皇は、
「即位の式は挙げたが、与えた神器は偽器《ぎき》である」
と、珍妙な答えをなされた。
「神器が偽せものとあらば、即位はなかったものと解してよろしいでしょうか」
直義はすかさず食い下った。そして、更には、真の神器を持明院統に譲るように強要したのである。
延元元年十一月二日、京都花山院において即位の式が行われた。後醍醐天皇は、神器を光厳上皇の弟|豊仁《とよひと》親王に譲った。即《すなわ》ち光明《こうみよう》天皇である。同時に、光明天皇の皇太子として、後醍醐天皇の第四王子|成良《なりなが》親王を立てたのである。表面的には両統迭立の約束ごとを実行したのであった。だがこれは前から決っていたことで、尊氏は光厳上皇に上奏して豊仁親王を既に天皇として擁立していたのであった。二人の天皇があってはまずいから、この際|辻褄《つじつま》を合わせたのであった。
後醍醐天皇は天皇としての座を失ったまま花山院に逼塞《ひつそく》した。周囲はすべて敵ばかりであった。直義が後醍醐天皇を弑《しい》するだろうという噂《うわさ》が流れた。
後醍醐天皇の側近の者は天皇の食膳には特に気をつけることにした。毒殺という手も考えられるからであった。後醍醐天皇は三人の毒味役を設けて警戒した。
十二月二十一日は朝から寒く、昼ごろから吹雪になった。この日の宵の食事の時であった。三人目に毒味の箸《はし》をつけた吉田定房は飯を盛った椀の底になにかが隠されていることを知った。彼は、折から吹きこんで来た風に灯火が揺れ動くのを見て、灯火を消さないようにせよと、奉仕する者たちに命じ、彼等がそっちに気を取られている間に、飯の椀の底に隠されていたものを取り出して、袖の下にかくした。それは楠|正行《まさつら》からの密書であった。嵐と夜陰に乗じて、東門の西の築地塀の破れ穴より脱出なされるように。外で味方がお待ち申し上げます。という内容のものであった。
吉田定房はこのことは後醍醐天皇の他、三名の公卿《くぎよう》にしか告げなかった。計画が洩れるのを恐れたからであった。
吹雪は夜になっていよいよ猛威を発揮した。
後醍醐天皇他四名の公卿は、手を取り合って、吹雪の中に出た。手探りで東門まで行き西の築地塀に沿って歩き出すと、闇の中から手が出て、先頭を歩いている公卿の手を握った。そこに脱出用の穴がこしらえてあった。五人は次々と穴を抜け出た。そこには十人ほどの男が待っていて、花山院から出て来た公卿たちを背負うと、吹雪の中を三丁ほど走った。馬が待っていた。
後醍醐天皇の一行は吹雪の止《や》むまでには京都を脱出していた。一行は、楠正行の案内で、河内《かわち》の東条《とうじよう》から葛城《かつらぎ》山に入り、山路を吉野|金峯山《きんぷせん》に潜入し、更に賀名生《あのう》に入った。同じ日に、江田行義は丹波《たんば》の国へ、大館氏明は四国へ逃れ去った。
後醍醐天皇は吉野に行幸されて、ここまで所持されて来た神器こそほんものであり、他の二つの神器は偽器であると宣言した。ここに南朝が成立したのである。
兵馬倥偬《へいばこうそう》のうちに年が明けた。二月(太陽暦の三月)の声を聞いてすぐ春一番の南風が吹いた。春のきざしがあちこちに見えた。
敦賀湾には暖流が入りこんでいるので金ヶ崎あたりの椿《つばき》はいっせいに開花した。残雪はあったが、昨年から続けられていた築城がまた始まった。金ヶ崎頂上には急ごしらえの城ができていた。その周囲には空堀が三重に掘りめぐらされ、城へ登る要所要所には、土塁や逆茂木《さかもぎ》や鹿垣《ししがき》が幾重にも作られた。味方が通るための橋や、門や、門を守る土塀などが作られていた。附近の住民や気比神社の信者氏子の奉仕として出来上がったのである。
高師泰《こうのもろやす》を総大将とする足利軍三千が京都を出発したという情報が入った。越前の守護職、斯波高経はこの報に力を得て、金ヶ崎城攻撃に参加しようとしたが、斯波高経のいる越前府中(現在の武生《たけふ》市)と金ヶ崎城の中間にある杣山城には瓜生|保《たもつ》をはじめとする一族がこもって新田軍に味方し、斯波高経との対決を明らかにしているので、斯波軍としても容易に動くことはできなかった。動けばその虚を突かれる可能性があった。
瓜生氏は源氏の出であり、この地方の名族で隠然たる勢力を持っていた。瓜生一族は脇屋義助、義治父子の熱心な誘いによって、宮方に付くことを決意したのであった。
高師泰は、はじめから斯波高経の軍を当てにはしていなかった。瓜生一族に牽制されて、金ヶ崎に城ができるのを黙って見ていた斯波高経の実力は底が見えていた。
師泰は、京都を出発する際、尊氏に、必ず恒良親王を神器ともども京都までお連れ申せ、そのための戦いと心得よと固く言いつけられていたことを繰り返し、思い浮べていた。
高師泰は敦賀の近くまで来たが、すぐには攻め込まず、しきりに物見を放って、金ヶ崎城を調べたり、気比神社に探りを入れたりした。
「足利軍は新田軍に味方をしている気比神社の者たちを捕えようとしている。たとえ老人、女、子供たりといえども容赦せず、捕えて殺すそうだ」
という風説が立った。それを裏書きするように、気比神社の関係者が、次々と捕われて斬られた。気比神社にはごく僅かな神官だけしか居なかった。家族たちは危険をさけるために近郊に身をかくしていた。高師泰はその家族等を探し出しにかかった。
噂におびえて気比神社の家族たちは、次々と金ヶ崎城へ逃げこんだ。その数は老人や女、子供ばかり、五百人を越えていた。
気比神社関係の家族たちを金ヶ崎城へ追いこんだ高師泰は第二の手を打った。附近住民で金ヶ崎築城に協力したものを探し出して処刑を始めた。住民たちはそれぞれつてを求めて遠くに逃亡した。師泰は後に残された老人や女、子供を、前と同様な手を使って金ヶ崎城に追い込んだ。その数がおよそ五百人ほどもいた。
足利軍はこうして置いてから、包囲の輪を縮めた。金ヶ崎城は孤立した。
金ヶ崎城には新田軍、気比軍合計して、五百人ほどの将兵がこもっていた。城兵は少いが、これで充分に守れる自信があった。金ヶ崎城はそのような城だった。
食糧は三カ月は用意していた。この食糧が尽きるまでには、越前の諸方に味方が蜂起《ほうき》して戦況も変って来るものと考えていた。だが、五百人の城兵に対して千人の非戦闘員が入って来たことによって予定の三倍の人数になった。そのままだと食糧は一カ月で食べつくされることになる。高師泰はもっとも卑劣な手を使ったのである。
杣山城主の瓜生保は金ヶ崎城の危急を聞き、兵を二分し脇屋義助、脇屋義治の両将には斯波高経の軍と対抗させ、瓜生保自身は、弟の瓜生|義鑑房《ぎかんぼう》と共に兵五百を率いて、木の芽峠を越えて金ヶ崎城に出撃した。包囲軍に奇襲を掛け、混乱に乗じて、老人や女、子供を脱出させようとしたのである。
奇襲は成功したかに見えたが、なにしろ敵は大軍であった。たちまち瓜生軍は足利軍に包囲され、瓜生保と弟の義鑑房は戦死し、二百人は討たれて、三百人はかろうじて杣山城に逃げ帰った。
この合戦は足利側の勝ちに終わったが、瓜生保が、金ヶ崎城から非戦闘員を助け出そうとして死んだことは、越前の国内に広く喧伝《けんでん》され、また、足利軍の卑劣きわまる、兵糧攻めに対しては非難が集った。
金ヶ崎城に新天皇が居るということも、知れわたり、新天皇側に付いて、旗を挙げようと考える豪族も次第に多くなって来たが、現実に足利の大軍を眼の前に置いては、決心がつかないという状態であった。
金ヶ崎城の食糧事情は逼迫《ひつぱく》した。いくら節食をしても限られた食糧を食い延ばすことは無理であった。
このような時に海上からの使者があった。暗夜厳重な見張りの船の間をくぐり抜けて、岩壁の下に上陸した瓜生|重《しげし》(保の弟)の家来が、単身岩壁を攀《よ》じ登って来て義貞に脇屋義助の書状を渡した。
≪苦境を脱するには、新天皇に心を寄せている豪族に挙兵をうながし、足利軍をその方に向ける以外にない。加賀と越前の国境に勢力を張っている畑|時能《ときよし》と越前平泉寺はわれらに好意を持っている様子だから、中将殿(新田義貞)自らが行って説得したら必ず味方につくであろう。至急城を脱出して、畑時能の城、細呂木《ほそろぎ》へ行っていただきたい≫
義貞はこの書状を諸将に見せた。義貞が細呂木に行くことを反対する者は一人もいなかった。それ以外に道はなかったのである。義貞は、新天皇にもうしばらくの御辛抱のほどを願って、綱を伝って岩壁を降り、小舟に乗った。
義貞が金ヶ崎城を脱出してから二日後に、金ヶ崎城内に怪火があり、食糧庫を焼き、残っていた米のほとんどを焼いた。金ヶ崎城に追い込まれた人の中に足利側の間者が隠れていたのであった。
金ヶ崎城内は飢餓に襲われた。飢えて死ぬ者があった。城内では馬まで殺してその肉を食べてようやく命を持ちこたえていた。
城内で馬を殺して食うような状態になっていると聞いた足利の大将、高師泰は、いよいよ総攻撃の命令を下すことになった。彼は仁木頼章《にきよりあき》、今川頼貞、荒川|詮頼《あきより》、細川頼春、そして、近江から山を越えてやって来たばかりの小笠原貞宗、佐々木道誉等の大将を呼び集めて言った。
「此処《ここ》でひと押しすれば城は落ちる。だがわれ等のこの度の戦いの目的は、新田義貞の首を取ることよりも、恒良親王と神器を安全に都へお送り申し上げることだ。兵等にはくれぐれもこのことを申し伝えて徹底させて置くようにせよ」
三月六日の早朝、金ヶ崎城の包囲は、解かれた。包囲軍の将兵たちは口々に、城内にいる老人や女、子供たちに、外へ出ることを許すからどこへでも立ち去るようにと呼びかけた。人々は、最初は警戒していたが、どうやら殺す様子もないので、一人、二人と城を出、やがては二百、三百とまとまって城を出た。痩《や》せ細っていて歩くのもたいへんなような者ばかりであった。
足利軍はまず邪魔になる老人や女、子供たちを城から出してから、攻撃に掛かった。逆茂木や、鹿垣の取除きから始まり、門を破って押し入った。城兵は果敢に戦ったが、なにしろ物を食べていないから、太刀を取るのもやっとだった。
足利軍は次々と新手を繰り出して、押し上って行った。
頂上にある本陣ではいよいよ最期が近づいたことを知った。新田義貞の不在中、総大将として城を守っていた嫡子の新田|義顕《よしあき》は、綱を利用して新天皇を岩壁から海岸におろし、非常用として隠して置いた小舟に乗せて避難させた。小舟に付き添う者は気比大宮司の嫡子気比|斎晴《なりはる》以下僅か五人であった。義顕は尊良《たかなが》親王にも同行を求めたが、宮はその場に固執された。逃げても無理だとおぼし召されたようであった。
新天皇の乗った船が見えなくなったところで、本陣にいる将たちは自刃を決意した。一の宮尊良親王は新田義顕に自刃の方法を問うた。義顕は、
「すべて、義顕のやるとおりになさいませ」
と言うと、諸肌《もろはだ》脱いで、下腹部左端に切先《きつさき》を当て、右に引き廻して鮮血の中に倒れ伏した。尊良親王はそれを見て、しばらくは震えていたがやがて気を取り直して見事に切腹した。
義顕と親王が自刃すると、その後を追って新田の一族、里見時義、一井貞政、一井政家、そして一の宮の公卿一条行房、気比大宮司等が相次いで切腹した。一の宮の尊良親王は二十五歳、義顕は二十歳であった。
高師泰は必死に戦う新田、気比連合軍を斬り崩しながら頂上の館まで来て見ると、そこに三十人ほどが流血の中に倒れ伏していた。その惨状は目を覆わせるものがあった。
高師泰は遺体の中に、恒良親王の姿の無いのを確かめると、家来に命じてその附近を探させた。新天皇の御座所はそのままになっていた。そこに主上がいままでいたことは明らかであった。
「いったい何処《どこ》へ消えたのだ」
師泰の問いに対して、家来たちは、断崖《だんがい》の下の海に目をやった。降りようとすればなんとか降りられそうな断崖の下の海が夕陽に輝いていた。
気比斎晴はひとりで舟を漕《こ》いだ。一度は沖に出て日暮れを待ち、暗くなってから海岸に近づいた。人の目を避けるためだった。
彼は舟を岸に寄せ、新天皇等を洞窟の中に案内した。それは海に面しており、満潮の時には、洞窟の入口まで海水につかるようなところであったが、奥は意外に広く、五人が隠れるのには充分であった。
「ここは甲楽城《かぶらぎ》と申すところでございます。しばらくここでお休息を願い上げます。私はまず、この附近の様子を窺い、食べるものを探して参ります」
と斎晴は出て行ったが、小半|刻《とき》もして、笊《ざる》の中に、乾《ほ》し魚を入れ、薪と筵《むしろ》を背負って帰って来た。彼は、まず筵で穴の入口を閉じてから、洞窟の中で火を焚《た》き、乾し魚を焼いた。新天皇は久しぶりで口にする乾し魚にようやく元気を取戻されて、
「ここは安全なのか」
と斎晴に下問された。
「安全では、ございません、夜が明けると敵は必ずこの洞窟へ参ります。このあたりで人が隠れることのできるところと言えばここしかありません。腹ごしらえができたら、この洞窟の裏の崖《がけ》を攀じ登って、三里ほど歩いていただかねばなりませぬ。そこまで行けば、もう瓜生氏の領地です。杣山城はそれから間もなくでございます」
と斎晴が言った。だが、そこまで従って来た四人の公卿は、洞窟に入るとき、その断崖を見ていたので、
「この身体《からだ》では天にも届くようなあの絶壁を登ることはとうていできない。主上にも勿論《もちろん》のこと無理である。一夜この洞窟に潜んで疲れをいやし、明日の朝になってからどうすべきかを考えよう」
と口々に言うのである。明日は夜が明け次第、敵が来ることは分かっているから、今のうちに逃げねばならないと、いくら斎晴が言っても公卿たちは、斎晴の言うことをきかなかった。
「ここにいたら主上のお命さえ、あぶないのでございます」
と斎晴が声を大にして言うと、三条侍従泰季が、開き直って言った。
「主上は神器を奉ぜられている。神器を奉ぜられている天皇を誰が弑し奉ることができようぞ。たとえ敵に発見されても、こちらが手向いしないかぎり、主上のお生命《いのち》には危険はござらぬ」
と言った。
「敵に発見されてもよいと言われるのか」
と斎晴がせめると、
「われらは後醍醐天皇の命によって、新田義貞を頼りにして来たが、死にそうなほどの寒い目に会わされただけで、よいことは一つもなかった。気比神社こそ安全だと言われて身を寄せた結果がこのような始末である。はや、信ずる者も頼る者も無くなった」
泰季はそう言って、溜息《ためいき》をついた。
「では敵に降るお考えですか」
と斎晴がつめよると、
「そのようになれば、これまた止むを得ないと思っている。しかし、天皇と神器を奉じていさえしたら、生命にかかわることはよもやあるまい」
泰季はそれだけ言ってから新天皇の顔を見た。主上は黙ったままうなだれていた。
「ここまで来て、敵に神器を渡したならば、この世は賊軍足利尊氏のものとなります。そうあってはならないのでいままで戦って来たのではありませんか。主上は私が背負って崖を攀じ登ります。どうかお逃げ下さい。そして主上を安全なところまでお移し申上げたら、私ひとりだけこの洞窟に引き返し、もし敵が現われたら、新天皇は神器と共に海に身を投ぜられ、附き添う公卿たちも運命を共にしたと申し伝えてから斬り死にするつもりです。さあお立ちめされ、崖を攀じ登り、三里の夜道を歩きましょう」
斎晴は言った。しかし公卿たちはひとりとして、耳を傾けようとはしなかった。新天皇は斎晴と公卿たちの顔を交互に見較べられていたが、やがて悲しみに耐えられなくなったのか、涙をこぼされた。
斎晴はあきらめた。自分の生命だけ助かりたいと願う公卿たちに愛想も尽きた。新天皇こそお気の毒であったが、彼一人の手ではどうにもしようがなかった。斎晴は一晩中火を焚いて、新天皇に奉仕すると、夜明けと共にその場を立ち去った。
新天皇をはじめとして四人の公卿は翌朝高師泰の軍に捕えられた。師泰は、新天皇の神器が無事であったことを非常に喜び、早馬を立てて足利尊氏にこのことを報告した。尊氏は師泰に新天皇と神器を鄭重《ていちよう》に奉持して来るよう指示すると共に、自ら兵を率いて途中まで迎えるという大袈裟《おおげさ》な歓迎ぶりを見せた。しかし、京都に到着してからの新天皇の運命はまた変った。
尊氏は新天皇から神器を強要すると、それを光明天皇の下に移した。後醍醐天皇が吉野で他の二つの神器は偽器であると称しても、尊氏だけは、恒良親王が所持されていたものこそ真《まこと》の神器だと確信していた。
彼は持明院統の花園天皇に勾当内侍《こうとうのないし》としてお仕えし、久しく神器を奉持していたことのある若狭《わかさ》の局《つぼね》という女官を探し出して神器を鑑定させた。後醍醐天皇が光明天皇に譲位されたときの神器はどことなく新しさがあったが、恒良親王が持っていた神器は拝しているうちにおのずから頭が下るほどの気品と神々しさがあった。これこそ真の神器であると若狭の局は証言した。
神器を奪われた新天皇は再び恒良親王にかえった。そうなると親王はもはや足利氏にとっても持明院統にとっても無用の存在であった。自然に親王の身は目立たない方へと移されて行ったが、足利直義は、後醍醐天皇が最も寵愛《ちようあい》されていた恒良親王をこのまま生かして置いて、南朝方にでも奪われた場合のことを考慮し、毒殺を命じた。この計画は密《ひそ》かに親王の側近の公卿たちの間に洩れたが、進んで宮の身を護ろうとする公卿もいなかったし、毒味をしようという者もなかった。
恒良親王は天皇の座にあること僅かに半年で神器を奪われ、その後足利直義に毒殺された。そればかりか天皇としての在位は公式には認められず、諡名さえもなく、歴史のかなたに消えて行った。
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金ヶ崎城が攻め落されたのが延元二年(一三三七年)の三月六日だから、太陽暦に直すと四月十六日になる。私が敦賀を訪れたのは昭和五十一年の三月十八日であるから、季節とすれば約一カ月前に訪れたことになる。当時の気候と現在とはかなり違っていて、ある気候学者の説によると当時は長期寒暖周期の寒期に当っていたということである。もしそうだったとすれば、私が行ったころの気候が当時の気候に近かったかもしれない。
気比神宮の広大な境内の中央に大きな松の切り株があった。旗挙げの松だという。その近くに紅梅が咲いていて歩くと汗が出るように暖い日であった。越前の気候は木の芽峠を境いとして、南は暖く北は寒い。この地方では嶺南《れいなん》、嶺北として区別している。金ヶ崎|城址《じようし》は気比神宮から一キロほど北にある。木の芽峠から流れ出る木の芽川のほとりに瓜生判官保の碑が立っていた。草叢《くさむら》にかこまれていて、よほど気を付けないと分からないようなところだった。あたりは雑木林でその中に彼岸桜によく似た花が咲いていた。
金ヶ崎城址の登り口には金ヶ崎神宮があった。ツバキ、ヒガンザクラ、ウメ、サンシュユの花などが境内いっぱいに咲いていた。このあたりに大手門があったということである。登山道に入るとカシ、タモ(この辺ではタブと呼んでいた)、シイノキ、ヤブニッケ、ツバキなどの多い照葉樹林帯であった。粘土質の滑る道だったが、頂上近くになると石灰岩質の石が多くなる。ツバキの花に昨夜降った雨がたまって、木の間を洩れる光を反射していた。頂上に立って見ると地勢がよく分かる。三方が断崖絶壁になっていて、いかに攻めるのにむずかしいかが分かる。その断崖の下に海が見えた。
甲楽城の洞窟は金ヶ崎から北方約二〇キロの海岸にあった。現在は自動車道路のすぐ隣りにあるが、当時は洞窟の入口は海に面していて、舟の舳先《へさき》がそこに入ったということである。洞窟の背後には絶壁がそそり立ち、その岩壁の真中あたりにツバキの花が咲いていた。
洞窟の入口に立って金ヶ崎方面を見たが海霧でよく見えなかった。
洞窟は海に迫った岩壁を波浪がけずり取ってできたものであろうか。しばしば海岸地帯の岩場で見られるものであった。ここは恒良親王等が隠れたところだと言い伝えられ、名所になっている。入口は二等辺三角形の形をしていて、そこに新しい注連縄《しめなわ》が張ってあった。その下をくぐって入っていいのか悪いのか、しばらくためらってから入ってみると、中は思ったよりも広かった。しずくが天井から落ちていた。当時入口が海に面していたとすれば、満潮時には、おそらく内部は潮で満され、坐ってはおられなかったであろう。
『太平記』には、気比斎晴は宮を小舟に乗せ、櫓櫂《ろかい》が無いから、引綱を腰に巻いて、泳ぎながら曳行《えいこう》して蕪木《かぶらぎ》まで来て上陸し、民家に立寄り、宮を杣山城にお送り申し上げるように申し伝え、再び海路金ヶ崎城まで引き返して腹を切ったと述べ、洞窟に隠れたのは新田の家来、船田顕友等四人というふうに書いている。しかし、この地方ではこの洞窟こそ新天皇の最後の御座所だと言い伝えられている。
[#ここで字下げ終わり]
春の二番
新田義貞は金ヶ崎城が落ちたことを加賀、越前の国境近くの細呂木城で聞いた。
「城は取ったり取られたりするもの、ひとまずは敵に預けて置き、また取り返せばよい。それより主上はうまく逃げられたか、それが心配だ」
義貞はそう言っていたが、その翌日、新田義顕以下新田一族が揃《そろ》って自刃し、新天皇が甲楽城《かぶらぎ》まで逃げて敵側に捕えられたという悲報を聞くと愕然《がくぜん》として色を失った。まさか、こんなに急に最悪の事態を招こうとは思ってもいなかったことである。敵の間者がまぎれこんでいて、兵糧庫に火を放ったがために、いちじるしく落城を早めたということも、意外な事実であった。義貞は、しばらく経ってから、
「新天皇が敵の手に捕えられたとしたら、もはや、戦う名目さえも失ってしまった」
と言った。その気の落し方があまりにも痛々しかったので、義貞の側近神宮六郎が心配した。義貞にとって嫡子義顕の他、新田一族の多くを失った悲しみは大きかったが、新天皇を敵に渡したということが、総大将として言いわけの立たない負目であった。義貞は一室にこもり、家来を遠ざけた。
神宮六郎は義貞が自殺するのではないかと思った。そのように見えるほどの落胆ぶりであった。神宮六郎は細呂木城主の畑時能にこのことを告げ、なにとぞ主人をお助け下さいと願った。
畑時能は、神宮六郎から詳しい事情を聞いての上で、義貞に会って言った。
「御家来衆が中将殿のことを心配しておられます。お気持ちはこの時能もよく分かりますが、腹を切るなどということはおろかなこと、まずは思い直され、真《まこと》の天皇のために尽くすことこそ、武士というものでしょう」
といさめた。すると、それまで黙って考えこんでいた義貞が、かたわらにあった太刀を引寄せて、
「もう一度申して見よ。そちの首を打ち落してやるぞ」
といまにも斬り掛らんばかりの剣幕で時能の顔を睨《ね》めつけた。時能はなんで義貞が怒ったのか分からないので、ただ目を白黒させていた。
「いや、余が悪かった。つい考え過ぎていたので、荒々しい言葉を出して申しわけない。これこのとおりだ。畑殿許してくれ」
と義貞は、畑時能の前に手をつかえて謝ったあとで言った。
「余は腹を切ろうなどとは思っていない。思い悩んでいることは、そこもとが言った真の天皇ということである。新天皇が捕われた以上、真の神器は、足利尊氏が擁立した光明天皇のところへ行くであろう。真の神器を所持される天皇こそ真の天皇となる。従って、そこもとが真の天皇のために働けということは足利尊氏に降伏せよと言われたも同然である。だからつい、腹を立ててしまったのだ」
そして義貞は、後醍醐天皇が、東宮の恒良親王に譲られた神器こそ真の神器であったことを繰り返し強調してから真の神器が光明天皇の許《もと》に移されたとすれば自分は賊軍の総大将となるのだと嘆くのであった。
畑時能はただ黙って聞いていた。
「光明天皇こそ真《まこと》の天皇とお考えになるのだとすれば、吉野におわす天皇の神器は偽器だとおぼしめされるのか」
畑時能はそう言うと、義貞の返す言葉も待たず、
「伝え聞きまするところによると、後醍醐天皇は吉野にある神器こそ真の神器だと言明なされた由、中将殿もお耳にされたことと存じます。拙者は三つの神器のうち、どの神器が真の神器であるかを御存じの御人《おんひと》は吉野におわす天皇一人だと信じております。その天皇が神器の真偽について宣言なされたのですから、われ等下々の者はこれを信ずる以外になにがございましょうや。中将殿、ここのところはよくよく心を静めてお考え下されますように」
畑時能は噛《か》んで含めるような言い方をした。義貞は一度は頷《うなず》こうとするかに見えたが、いささか憤然として、
「しからば、新天皇と共に越前に奉持されて来た神器は偽器であったのか」
と言って、時能を睨めつけた。
「そうです。偽器です。だから敵に奪われても、中将殿がそれほど責任を感ずることはありません。中将殿も、われわれも、吉野におわす天皇のために働くかぎり官軍であり、足利方に加勢する者は賊軍です」
畑時能は言い切った。
「いまなんと言われた。たしか中将殿もわれわれもと言われたが、すると貴殿は……」
義貞は畑時能の顔を見た。
「今よりは中将殿のお味方に付こうと心を決めました。実は、ほぼそのようにしたいと思っていましたが、もう一つ、決定的なものがありませんでした。さきほど中将殿が太刀に手を掛けられ、真の天皇について言及されたときに、拙者は、中将殿に付く決心をしました。素直すぎるほど素直であり、きわまりもないほど透《すきとお》った中将殿のものの考え方に心を打たれたのです。この戦乱の中で、どちらに付こうかと迷う者のすべては一身上の利益を考えての上のことであり、官軍も賊軍もありません。ましてや神器が真物か偽物かなどということはどうでもよいのです。しかし、中将殿は、ちゃんと筋を通されている。真、偽を明らかにした上で正義の旗をすすめようとなされるところに感心いたしました。正義などという言葉さえ忘れ果て、狭い領地の取り合いをしていたこの自分が、恥かしくなりました」
時能はそう言って言葉を結んだ。
畑時能が味方についたということは義貞にとって、百万の味方を得たようなものであった。畑が官軍に付けば、畑とつながりのある、加賀、越前の豪族は次々と宮方に付くことは火を見るより明かであった。去就に迷っている平泉寺もやがては味方に付くだろうと予想された。
義貞は細呂木の城を出るとき僧衣に身を替えていた。越前は斯波高経の支配下にあった。武将の姿をして歩いていたら捕えられることは必定だった。
杣山城(現在福井県南条郡南条町)は鯖波《さばなみ》の南東、湯ノ尾の東方にある高さ四九二メートルの要害であった。この頂に山城があり、山麓《さんろく》には館があって、瓜生一族はそこに住んでいた。
新田義貞は畑時能の住む細呂木城から、瓜生|重《しげり》、瓜生|照《てらす》兄弟をたよって杣山城に来て、脇屋義助、義治等に会った。
瓜生一族や脇屋義助は、畑時能が味方につくと聞いて大いに喜んだ。しかし畑時能の軍をたよりにするにはやや遠すぎた。取り敢えず、近隣の諸豪を味方につけて、まとまった兵力を作らないと斯波高経に対抗はできなかった。彼等がそれについての秘策を練っている丁度その頃、杣山を訪れた商人の一団がいた。彼等は武装した兵を率い、商品を持って諸国を歩く集団であった。
「新田義貞殿はおられるか」
武装商人団の頭と思われる男が、杣山城を訪れたのは延元二年の五月半ばであった。彼は女物の輿を四人の若者に担がせていた。ただの商人とは思われないので、瓜生重が会って、その用件を訊《き》くと、刀屋三郎四郎が勾当内侍殿をお連れ申したと新田義貞殿に伝えられたいと言った。
新田義貞が後醍醐天皇から勾当内侍を賜ったということは、瓜生重も知っていた。この話は、このあたりまで伝えられるほど有名であった。瓜生重はあわてて、新田義貞にこのことを伝えるとともに、勾当内侍を迎え入れるよう声高に家の者に命じた。
義貞は思いもかけない時に勾当内侍が現われたことに驚きかつ喜んだ。そして直ぐ彼はいままで勾当内侍をかくまってくれた刀屋三郎四郎にどのように言ってよいかに迷っていた。混乱に乗じて、刀屋三郎四郎が勾当内侍を攫《さら》って逃げたことは確実だったが、今ここで勾当内侍の無事な姿を見ると、三郎四郎のやり方が悪かったと一口に責めることもできなかった。
勾当内侍は義貞との対面は後にし、ひとまず、旅の垢《あか》を落し、着替えをするために、瓜生家の女たちに案内されて奥に入って行った。ちらっと見たその顔は別れた時よりもやややつれて見えた。それが義貞には気がかりであった。
「吉田定房卿が内侍殿を内裏に招くという話を小耳に挟《はさ》んだので、その前に内侍殿を連れ出しました。定房卿は内侍殿を囮《おとり》にして必ずや中将殿をおとし入れようとするに違いないと思ったからです。こういうことは宮廷内の女御たちに手を廻してありましたからすぐ分かりました。内侍殿をお守り申すのは大変でした。なにしろお美しいので、うっかり外に出すと人の目につきます。それには困りました」
刀屋三郎四郎は奥に去った内侍の後姿を見送って笑った。
「それは御苦労であった」
義貞は冷い声で言った。勾当内侍と二人だけになったときに聞けばなにもかも分かることであった。義貞はこの刀屋三郎四郎という男が信用置けなかった。光厳《こうごん》上皇をひそかに播磨《はりま》の万勝院へお移し申し上げたのも刀屋三郎四郎だと聞いていたからだった。いったい、この男はなにしに来たのだろうか。おそらくは、勾当内侍を送り届けに来たというのは口実であって、深い企《たくら》みがあってのことであろう。
義貞は決して笑顔は見せなかった。
「わざわざ越前まで参られたからには、なにかたいへんなものをお望みのようだが、それはこの義貞の首かな」
義貞は刀屋三郎四郎に向かってまず皮肉を言った。
「これはとんだおたわむれを、私はただ内侍様をお連れ申したに過ぎません。他意はありません。――こう申し上げても信用いただけませんようでしたら、一言申し上げましょう。足利方が強くなり過ぎましたから、今度は新田方に少々肩入れをしたいと思って参りました。私は弱い方に味方をしたいという妙な癖がございます。その癖があるから商いもできるというものです」
刀屋三郎四郎は言った。
「それで?」
「それだけでございます。私は戦《いくさ》に賭《か》ける商人ですからこのまま戦が無くなれば儲《もう》けることができなくなります。それでは困るのでございます。聞くところによりますと、細呂木の畑時能殿がお味方についたそうです。これで平泉寺がお味方に加われば、しめたものということになりましょう。私は二、三日したら勝山の平泉寺方面へ商いに参ります。ついでと言ってはなんですが、もし平泉寺をお味方に引き入れたいとお望みならば、その仲立ちをつとめてもよろしゅうございます」
刀屋三郎四郎は、相変らず、掴《つか》みどころの無いようなことを口にしながら、油断なく義貞の顔を見つめていた。
「平泉寺は味方につけたい。しかし、そちにその仲立ちを頼めば、後が怖いことになるのではないかな」
「いえ、決してそのようなことはございません。中将殿のお声掛りで、武具いっさいの売買をこの刀屋三郎四郎におまかせいただければそれで結構でございます。必要な武器は陸路からでも、海路からでもいくらでもお届けいたします」
武器を納めるかわりに目から火が出るほどの多額な金をせしめるか、金にかわるべき物資を持って行くか、どちらにしても抜目のない商売をする刀屋三郎四郎にうっかりしたことは言えなかった。
外が騒々しかった。義貞はなにごとかと戸の隙間から庭の方を覗《のぞ》いて見ると、庭に筵を拡げ、刀屋三郎四郎の手下たちが持って来た武器類を並べて売っているところであった。瓜生重、瓜生照兄弟の姿も見えた。
「戦争が長びくと、武器も変ってまいります。長巻や薙刀《なぎなた》は今はあまり流行しません。なんと言っても、最近の流行は鑓《やり》でございます」
商人の一人が、そんなことを言いながら売り物の鑓を取ってしごいて見せていた。
「鑓は三種類ございます。楠正成が発明したころの鑓はこの型のものでございます」
商人は今度は短い鑓を取った。その穂先が日の光を受けてきらきらと輝いていた。
「どこへ行っても鑓が一番よく売れますな。平泉寺へ行っても、売れるのは長巻より鑓でしょう」
刀屋三郎四郎はそう言ってにやりとした。
勾当内侍は義貞の胸の中で泣き続けていた。涙とともに一年余の空閨《くうけい》の淋しさを洗い落そうとしているようであった。言葉に出さずに、泣くことによってのみ、すべてを訴えようとする内侍のいじらしさが義貞を揺さぶった。彼は、内侍のしなやかな身体を抱きしめながら、心のどこかでは夢のようだ、夢のようだとつぶやいていた。二度と会うことはないだろうとあきらめていた彼女と無事再会できた幸せの隣りに、明日のことさえ分からないような戦乱の明け暮れがひかえているのを思うと、たとえようも無く、むなしい気持になる。そんなとき、つい彼女を抱く腕の力が弱まると、内侍の方から、強くすがりついて来るのである。
義貞は、内侍と共に溶けて消えてしまいそうになるほどの悦びの中に浸りこんでいるうちに、このまたとないすばらしい女《ひと》と永遠にありたいと願うようになり、そして突然それが、戦争につながるのであった。
「勝たねばならない」
彼は衾《ふすま》の中で言った。
「あなたはお強い方です。負けるようなことはございませんわ」
内侍は涙に潤んだ目を開いた。燭台《しよくだい》の火が内侍のその目の中で燃えていた。
「負けてはならない。絶対に負けてはならないのだ」
義貞は起き上って言った。その時彼は、勝つためには刀屋三郎四郎も利用せねばならないだろうと思った。
「戦《いくさ》のことは明日のことになさいませ。夜は二人だけのものであって欲しいと思います」
内侍はそういうと、白い手をさしのべて義貞を誘った。
義貞は翌朝、瓜生重、瓜生照兄弟に会って、平泉寺を味方につけるために、その仲立ちを刀屋三郎四郎に依頼しようと思っているがどうだろうかと相談した。二人は既にそのことを刀屋三郎四郎から聞いていた。そればかりではなく、平泉寺を宮方に誘う条件までほぼまとまっていた。それはかねてから平泉寺と斯波高経との間で取り合いになっていて、現在は斯波氏の所領となっている三ッ峯の周辺の土地及び、五カ所の所領を平泉寺のものであることを宮方で公認し、そのことを新田義貞が発する御教書の中に書き入れるというものだった。
義貞は刀屋三郎四郎のいつもながらの手廻しのよいのにあきれた。また越前の情勢を的確に掴んだ上で乗りこんで来た彼の周到さにも怖《おそろ》しいものを感じた。
刀屋三郎四郎は間もなく杣山城を後にして勝山に向かった。
「ずい分とたくさんの荷を持って行くようですが、売れるでしょうか」
と武器の荷駄車に目を投げながら言う、瓜生照に向かって義貞は、
「寺社は武家より金持ちだ。おそらくあの車は空になって帰って来るだろう」
そう言ってから彼は、武装した平泉寺の僧兵団の存在にまた新たな不安を覚えたのである。
刀屋三郎四郎は一カ月ほど経ってから杣山城に帰って来た。
「平泉寺へ行って来たにしては、少々時が掛りすぎたではないか」
義貞は首尾を心配して訊いた。
「平泉寺から足を更に北に伸ばして、細呂木城へも行って参りました。中将殿と親しいと申しただけで、信用され、そこでも、取り引きに応じてくれました。この越前というところは武具がよく売れるところですな、おかげで途中、二度ほど、舟で品物を補給しました」
刀屋三郎四郎は、そう前置きして、彼が廻り歩いた豪族の名を次々と挙げ、
「何処へ行っても中将殿の人気は上々です。なにしろ、後醍醐天皇から日本一の美女を賜ったほどの武将ですから」
と言って笑った。おそらく、勾当内侍のことも商取り引きの際、口にしたであろうと思うと、嫌な気がした。
「そんなことより、平泉寺の首尾はどうであったか」
と、義貞がやや性急な訊ね方をすると、
「上々でございます。平泉寺には末寺が五十ほどもありますが、それらのすべてがお味方に立つでしょう。しかし、いま直ぐというわけにも行きますまい。いまことを起すと、京都から足利の援軍がやって参ります。間もなく冬になります。そうなれば雪のために敵も味方も戦うことはできなくなります。冬の間に充分用意して来年早々、まだ峠には雪があるうちにことを起して一気に斯波高経を葬りさることです。それまで私は、加賀、能登、越中越後方面を廻りお味方を誘うようにいたしましょう。つまり御教書の御使者の役は私めが勤めたいと申すのでございます」
どこまで図々しくこの男はできているのだろうかと義貞は思った。御教書を持って歩きながら、商売をしようというのである。それにしても、欲で固まっている三郎四郎が、足利方には武器を売ろうとせず、宮方にだけ売ろうというのは、彼が口で言っているように、戦を長びかせないと、商いはできなくなるという、いかにももっともらしい理屈だけではなさそうだった。
「そちの心はどうしても分からぬ。いったいなにを考えているのか」
「本心を申せとおっしゃるのでしょう。しかし、私が本心を申し上げても中将殿は信じないでしょう。それならば、はじめから言わないほうがよいということになります」
「いままでがいままでだから、そう簡単には信ずることはできない。しかし、聞いてみなければ分からないことだ」
「では申しましょう」
刀屋三郎四郎は周囲を見廻し、そこに誰も居ないのを確めると、義貞の前へ膝《ひざ》を進めて来て、低いが底力のこもった声で言った。
「刀屋三郎四郎は金のために生きているのが嫌になりました。このごろは生甲斐《いきがい》がある仕事をしたと自分自身にも納得できるようなことをやってみたいとつくづく思うようになりました」
三郎四郎は義貞の目をじっと見詰めて言った。
いつもの刀屋三郎四郎とは違う、と義貞は思ったが、彼に対する疑問は簡単に消えるものではなかった。
「私はなんとかして大きな戦を起そうとして努力しました。考え得るあらゆる手段を用いて、戦を起し、その戦がなくなりそうになると、また新しい手立てを考えました。しかし、朝廷が二つに分かれ天皇が二人立たれるというようなことになると、私はこれ以上戦争を長びかせてはならないと考えるようになりました」
三郎四郎は今までにないまっとうなことを言った。
「だが戦がなくなると、そちは儲からないぞ」
「いえ、戦が続くと日本中が貧乏になり、値の張った武具は売れなくなります。商売は相手の懐に金があってのこと、金が無くなれば商売は駄目になります。それよりもなによりも働いても働いても、その田畑の上りをしぼり取られる百姓が気の毒でなりません。このあたりで戦争は終わらせ、太平の世を迎え、儲けるのは物騒なものではなく、もっと色気のあるものにしたいと思っています」
ほほうと義貞は言った。もっともなことを言うではないか、ではどうしたら戦を止めることができるのかと訊こうとすると、三郎四郎は、
「太平の世は公卿たちが考えているような世界ではなく、やはり武士が柱となる世だと思います。その柱となるべき人ですが、足利尊氏ではだめです。足利氏はやがて尊氏、直義、高師直《こうのもろなお》三者の争いになるでしょう。そこへ行くと新田義貞様を中心とする新田一族にはそのような危険性は全く感じられません。中将殿の人柄がそのようにさせているのだと思います。この乱れた世は中将殿の手によって取り静めてこそ太平の世になるのだと思います。よくよく考えての末、私は中将殿に肩入れをしようと決めたのでございます」
三郎四郎はそこで一息ついて、更に恐ろしいことを言った。
「ここしばらく、越前は脇屋義助殿に預けられ、中将殿は、私と共に十三湊《とさみなと》へ行こうではございませんか、既に舟の用意はできております。十三湊では、かねてから御存じの安東一族が中将殿を待ち受けております」
そして刀屋三郎四郎は、そこに両手をつかえて、
「中将殿、公卿共は目先の見えぬ馬鹿者ぞろい、坊主どもは欲だけでものごとを考え、武士もまた好餌《こうじ》に動かされて節操を売るような者が多い世の中に、信頼できる者がいるとすればそれは津軽の安東一族です。中将殿、越前に止《とど》まるならば一時は戦に勝つことがあっても終局的に勝てるかどうかむずかしいと存じます」
「津軽へ行って兵を募れと申すのか」
義貞は刀屋三郎四郎の言わんとしていることがはっきりして来ると、自らも、彼の方へいくらか身体を乗り出していた。彼がでまかせを言っているのでないことがはっきりして来たからだった。
「そうです。このようなところで戦を続けられている限り、大きな発展は考えられませぬ。大局を転ずるには大きな芝居を打たねばなりませぬ。中将殿は海路十三湊へ下るべきです。津軽で兵を挙げ、津軽、出羽の強兵を率いて越後に入り、越後に多い新田一族と合流し、峠を越えて、上野《こうずけ》に出れば、そこは中将殿の故郷です。ここまで来れば関東一円が中将殿になびくこと間違いないことと思われます。ここまで来たら京に上らず、鎌倉に幕府を起し、東国を完全に手中におさめてから天皇をお迎え申し上げるのです。この場合、京都は棄てることになりますが、鎌倉へ天皇をお移し申し上げれば、そこが京になるのでございます」
京を捨てよと言った刀屋三郎四郎の新説に義貞は動かされた。足利尊氏が九州に下ってそこで兵を集めて上洛《じようらく》したように、津軽に下るのも悪くはないと思った。
(津軽へ下れば、再び勾当内侍と別れねばならない)
そんな思いが翳《かげ》りのように浮んだので義貞は狼狽《ろうばい》した。以前に京都を立って播磨の戦にのぞむ時も、このようなことは考えてはいなかった。久しぶりで会えた内侍とすぐまた別れねばならないというつらさに彼はつまずいたのである。
「勾当内侍殿のことなら御心配なく、中将殿と共に十三湊へお連れ申し上げます」
「なんと申す」
義貞は言った。思っていることを三郎四郎に言い当てられたことに反発した一言であった。
「武将が戦に出るというのに、いちいち、女を連れて行けるか」
それは、三郎四郎にではなく、義貞が自分自身を叱った言葉であった。叱ったついでに義貞は更に自分自身にもきつい命令を下した。
「余はしばらくここは動かない。平泉寺が味方になれば越前は平定できる。さすれば加賀も越後も味方に引き入れることはそれほどむずかしくはないだろう。北国の軍を結集すれば、必ず京都は奪還できる」
義貞は声を大にして言った。
「中将殿がどうしてもここに居たいと言われるならば、強いてとは申しません。しかし、平泉寺は油断がなりません。比叡山にも心が許せないように、彼等は足利氏の出方次第で、何時《いつ》寝返るかわかりません。そのことを充分心に止められた上で戦をなされるように。またもし情勢が不利になったら、内侍様共々、津軽へ逃れることを心の底に留め置かれることも併せて申し上げて置きます。私はその時のために舟の手配はちゃんとして置きます。くれぐれもお生命を大事になされませ」
刀屋三郎四郎はそれだけ言ったが、まだまだ、津軽へ連れ出すことに未練があるのか、そこに坐ったままだった。
刀屋三郎四郎が杣山城を去ってからしばらくの間は義貞にとって平穏な日が続いた。彼は勾当内侍と共に杣山城の麓《ふもと》の館の中に起居し、夜が明ければ書院に出て瓜生兄弟等と諸方の情勢について討議したり、御教書《みぎようしよ》を書いたりした。諸方からやって来る豪族に会うのも大事な仕事であった。中には、明らかに足利方の廻し者と思われるような者もいた。こういう者の中に刺客がまぎれこんでいてはいけないから、義貞の身辺保護は里見二十五騎のうち生き残っている九人が交替で当ることになっていた。彼等も度々の合戦での功によって、例外なく、判官《はんがん》や尉《じよう》や允《じよう》の位を貰っており、合戦ともなれば、侍大将として兵を指揮する新田軍の中堅武将であった。
新田義貞、脇屋義助が杣山城にいて、諸方に御教書を送って兵を集めているという報は越前国府(現在の武生)にいる斯波高経の耳に入っていた。平泉寺に使者を送っているという情報も入手していた。このまま放置すれば端倪《たんげい》すべからざる軍勢となる虞れがあった。しかし斯波高経は、兵を出して杣山城を攻撃するところまでは決心がつかなかった。数においては瓜生軍と新田軍とを併せたものより、斯波軍の方がはるかに勝っていた。しかし、瓜生氏は杣山城という堅城を持っていた。攻めれば、瓜生一族や新田義貞等は杣山城へ籠城《ろうじよう》するだろう。そうなったら攻めようがなかった。この高くて、裾野の広い山城を包囲するには大軍が必要だった。千や二千ではどうにもならない。下手をすると、杣山城へ出兵している留守を瓜生一族に心を寄せている者に襲われる可能性があった。そうかと言って、瓜生兄弟と新田義貞が特に目立つような軍事行動に出ていないのに、足利尊氏に援軍を乞うこともできなかった。斯波高経はいらいらしながら杣山城の動きを見守っていた。
延元二年の秋吉野から新田義貞のところに使僧が来た。
使僧は北畠顕家《きたばたけあきいえ》が陸奥《むつ》の兵三千を率い、義良《のりなが》親王を奉じて、この八月に西上の途についたということを口頭で伝えてから、衣の襟《えり》に縫いこんだ綸旨《りんじ》を取り出した。
≪|陸奥守《むつのかみ》の軍は間も無く京都に到着するであろう。その時は、機を逸せず北国の軍勢を率いて攻め上るよう用意せよ≫
という内容のものであった。勅旨を受けてそれをしたためた蔵人《くろうど》の筆はなんとなく勇んで見えた。
使僧は綸旨を義貞に渡した後で、彼が知っているかぎりの情報を伝えた。吉野におられる天皇のところまで、足利尊氏が兵を向けようとしないのはその必要がないと思っているからであろう。即《すなわ》ち、尊氏は光明天皇が践祚《せんそ》した上に、真の神器を恒良親王より取り返したからには光明天皇こそ正しい天皇であるとして、後醍醐天皇の存在を無視したのである。吉野の天皇こそ真の神器を持っておられるのに、全くけしからぬことだ。使僧はそんなことを言った後で吉野における天皇の日常や、京都において、足利尊氏が着々と新しい施政に乗り出したことなどを語った。最後に彼は、
「いまのところは賊の世でございます」
と溜め息をついた。
義貞は越前に来てから二度目の冬を迎えた。この期間こそ敵も味方も矛《ほこ》を収めて冬眠したい時なのだが、実際は雪を踏んで、間者や諜者《ちようじや》、乱破《らつぱ》や素破《すつぱ》、使者や使僧が入り乱れて歩き廻る調略戦の季節であった。
刀屋三郎四郎が道を付けてくれた杣山城と平泉寺との距離は冬を迎えると更に近くなった。平泉寺は宮方が出した条件に納得し、春になって戦になれば斯波高経に向かって弓を引くことは確実となった。だがこの約束は、平泉寺が慾《よく》にかられたからであって、宮方に同情し、足利氏を憎み、新田義貞に応援しようというのではないから、刀屋三郎四郎が言ったように或る意味では抜身の短刀をふところに抱いているようなものだった。義貞はそれが心配だった。
延元三年の二月ころから、杣山城と平泉寺との行き来が激しくなった。平泉寺へは、新田の武将が何人か大将として派遣された。多くは叡山の堂塔寺社に大将として派遣されたことのある人たちであった。彼等大将は平泉寺やその末寺へ行って、戦とはいかなるものか例を挙げて教えた。小競合いはしたことがあっても、大規模の戦をしたことのない僧兵たちには、命令一つで、五十人、百人という集団が、東へ西へと激しく移動しながら戦わねば、戦全体としての勝利は期待できないと聞いて、戦のむずかしさに戸惑い、中にはそのわずらわしさに尻込みをするものさえあった。
三月に入ると雪は急速に消えて行った。日当りのよいところには草の芽が萌《も》え出していた。
越前国府にいる斯波高経は平泉寺で僧兵たちが戦のまねごとのようなことをやっているという情報を得た。どうやらそれを指導しているのは新田軍の侍大将であるらしいというのである。高経は合戦の近いことを知って、国府周辺の城砦《じようさい》の見張りを厳重にした。
三月五日になって、騒ぎが起った。平泉寺を出た僧兵約五百が、隊伍を整えて南下し、鯖江《さばえ》の東、足羽《あすわ》川と日野川の丁度中間あたりにある三ッ峯一帯を占拠して、その地方に高札を立て、爾後《じご》、この地は平泉寺の領地であると宣言した。彼等は高々と錦の旗と平泉寺の紋旗を掲げていた。
「三ッ峯で平泉寺の僧徒が挙兵いたしました。兵およそ五百、大将は脇屋義助、この他《ほか》、新田の侍大将十人ばかりが僧兵を指揮しております」
という報告が斯波高経の許に入ったのが、三月六日であった。
「たった五百人か、それならば一押しに押しつぶせ」
と高経は口では言ったものの、国府内で平泉寺に心を寄せている寺社の勢力や附近の豪族の動きが気になって、出撃をためらっているうちに三月九日になった。物見を放って三ッ峯を探らせると、たった四日の間に、五百の兵が七百に増えていた。そればかりでなく、杣山《そまやま》城の瓜生《うりゆう》一族が動く様子が明らかになった。高経は兵を再編成して来るべき大合戦に備えようとした。
雪溶け水が泡《あわ》を浮べて流れる日野川を挟《はさ》んで西岸が斯波《しば》軍、東岸が新田軍とはっきりと対決の姿勢を見せたのは三月十日であった。斯波軍は斯波高経、斯波康兼、細川孝基併せて三千であった。この他に支城、砦《とりで》の軍勢を併わせれば四千に近い数であった。これに対して新田軍は、杣山城の瓜生軍、三ッ峯の平泉寺軍、それに生き残りの新田軍三百人を併わせても千五百であった。数において新田義貞の方が劣勢であった。
新田軍の主力はなんと言っても脇屋義助の指揮する三ッ峯の平泉寺軍であった。
義助は予《あらかじ》め日野川の水量《みずかさ》を物見を出して念入りに調べさせ、渡渉地点を絵図に書き込んで持っていた。いざとなったときその渡渉地点から日野川を渡るつもりだったが、その機が来るまでは、わざとそこからは離れて敵の動きを待っていた。三月十日の夜は静かだったが、生暖かい微風が吹いていた。脇屋義助は本陣にあって、対岸に並ぶ、敵の篝火《かがりび》を見詰めていた。
「土地の古老、高木の太郎と申す者を連れて参りました」
家来が義助に報告した。高木の太郎は、偉い大将の前に連れて来られたので、なにか無理難題でも吹かけられるかと心配しているようであった。
「御苦労であった」
義助は太郎にそう言うと、客に湯を持てと家来に命じた。湯の入った茶椀を手にしたとき太郎は落ちついていた。
「実は天気のことをそちに訊《たず》ねたいのだ」
天気と言われて太郎は、自分の耳を疑った。なにか聞き違えたのかと思った。
「明日の天気のことを訊《き》きたいのだ。晴れか曇りか、風が吹くとすれば南か北か東か西か」
その訊き方がおかしかったので太郎は思わず、笑いを浮べ肩の力を抜いた。
「明日は春の二番が吹きまする」
太郎は答えた。
「春の二番とな、それはなんのことだ」
「春先に吹く、強い南風のことでございます。二番目に吹くから二番の風でございます。春の一番風よりも二番の風の方が強い場合が多いのでございます」
そう言われて義助は去年の春先に吹いた強い風のことを思い出した。
「いま吹いているこのしめっぽい東風《こち》は呼び風と申します。春の風を呼び寄せる風でございます。この風は今宵《こよい》一晩吹いて、明日の明け方には止《や》み、半|刻《とき》ほどは無風が続きます。それから突然、乾いた南の強風があっちの山から吹き降りて来るのでございます」
太郎は山手の方を指して言った。
「一日はたっぷり吹きます。その暖い風はなにもかも吹き飛ばし、そして雪を溶かしてしまいます。こんなとき火でも出したら、大変なことになるのでございます」
高木の太郎はそう言って、脇屋義助の顔を見た。義助が急に黙ってしまったからであった。
脇屋義助はこの夜のうちに新田義貞を訪ねて高木の太郎から訊いた、春の二番の話をした。
「それこそ天佑《てんゆう》神助というものだ」
義貞は聞き終ったときに言った。傍《そば》で聞いていた瓜生兄弟も、それがなにを意味するのか分かったので、互いに顔を見合わせて頷《うなず》き合っていた。
「さすれば明朝早々に……」
瓜生|重《しげし》は言った。
「さよう、明朝ひととき風が止んだとき、かねて用意をしていた瓜生郷、高木郷、北郷で狼煙《のろし》を上げるのだ。そして南風が吹き出すと同時にわが軍はいっせいに日野川を渡って斯波軍に攻撃を掛ける。狼煙を見て、府中にいる河島雅頼の手兵と妙法寺の僧兵は行動を起し斯波高経の居館に火を放つのだ。これはすでに手配してある作戦であるが、この上に春の二番という天の助けがあろうとは思いもよらないことであった。明日はわが軍の大勝利になるだろう」
義貞は瓜生兄弟に向かって言った。
微風は一晩中吹いて、明け方にぴたりと止んだ。高木の太郎が言ったとおりであった。
夜が明け放されたころ、高木郷、瓜生郷、北郷に狼煙が上がった。無風状態の朝の空気の中に煙は棒のように真直ぐ立ち昇り、そして、高い高いところで北に向かって直角に折れた。上空では南風が吹いているのである。
新田軍は出撃を前にしてあわただしく朝餉《あさげ》を摂《と》っていた。炒《い》った麦粉を湯で練り、塩で味をつけて食べる者や焼き米をかじる者、乾《ほ》し飯《いい》に湯をかけて食べる者もいた。
高いところでなにか音がした。笛のような音だと思って兵達が見上げていると、たちまちそれは轟音《ごうおん》に変った。春の二番は突然大地のすべてのものを剥《は》ぎ取るような勢いで吹き出したのである。乾いた暖い強風が、兵たちの、横面を叩いた。
「集れ、出発だぞう」
という声が風の間に間に聞こえた。
新田軍は日野川の東岸にいた。風は南東の風だから、新田軍は風を背負うことになるが、日野川の西岸にいる斯波軍は風の面に立つことになった。
「それっ、新田軍が日野川を渡るぞ、射て取れ、討って取れ」
と斯波軍の大将たちが叫んだが、射た矢はすべて南風に吹き返される始末だった。脇屋義助が率いる三ッ峯軍がかねて目をつけていた渡河点から日野川を渡り、続いて瓜生軍が渡った。
新田軍は日野川を渡ると、風を背にして、攻撃を開始した。斯波軍が強風に加速されて飛んで来る矢に辟易《へきえき》している間に完全に南側へ廻りこみ、斯波軍を北へ押し上げ、府中への帰路を遮《さえぎ》った。斯波軍が退き始めたころ、府中の方向に火の手が上がった。河島雅頼と妙法寺の僧兵が、斯波高経の府中の館《やかた》を襲って火を放ったのである。斯波軍は退路を断たれて敗走した。その後を新田軍は何処《どこ》までも追撃した。ほとんど一方的な戦いであった。斯波高経は敗残兵と共に足羽《あすわ》の城にその日の夜遅くなってようやくたどりついた。
日野川の合戦の結果は、越前国の絵図を塗り変えた。越前府中周辺の城砦のことごとくは落ち、支配者が替った。斯波高経が大敗したと聞くと、日和見をしていた豪族はことごとく宮方に付いた。
越前の北部加賀との国境近くにいて、かねてから新田義貞に款《かん》を通じていた細呂木《ほそろぎ》城主畑|時能《ときよし》は機を逸せず、斯波勢力の駆逐に乗り出した。敷地、岸山、上木、津などの豪族が次々に畑時能に味方した。
斯波高経の勢力は、越前中西部の足羽城周辺にせばまった。
新田義貞は斯波高経包囲作戦にかかった。越前の斯波高経を亡ぼすことは、越前一国が宮方に付くことになる。その影響は大きかった。隣国の加賀、能登、越中、越後もまた宮方になびくことはまず間違いないことに思われた。新田義貞は更に北進して、九頭龍《くずりゆう》川の北岸河合石丸城(福井県春江町石森)に本陣を置いて斯波高経を攻めた。義貞は攻撃の手をゆるめなかった。息もつかせず敵を攻め立てて雌雄を決したいと思っていた。
だが斯波高経の籠《こも》っている黒丸城は三重に深堀を巡らした城であって、容易に攻め落すことはできなかった。また足羽の城は足羽七城と言って、それぞれ緊密な連絡を取っていて、そう簡単には落せなかった。
義貞は、藁束《わらたば》や草の束を集めさせこれに石のおもりをつけて堀に投げ入れ、その上に盾を敷き並べ、そこを渡って城を攻撃しようとした。しかし堀は深く、藁や草束を、少しばかり投げこんだのでは容易に埋め尽くすことはできなかった。附近の百姓にその夫役を命じたが、彼等は戦争を嫌って逃げてしまって居ないし、遠くからそんなものを多量に運ぶのは時間がかかってしようがなかった。
「そんなことをしなければあの城を落すことができないのか」
という批判の声もあった。義貞は堀に材木を投げこみ、この上に盾を敷き並べて橋とし、攻撃しようとした。船田政経がこの指揮を取って、城の塀《へい》に取りついたところが、城の中から激しい攻撃を受けて多数の死傷者を出した。その次には、細屋右馬助が大将となって、舟を集めて浮橋を作り、攻撃をしかけたが、攻撃中に、味方の背後を敵の別手に襲われて失敗した。二度とも、敵は宮方の作戦を知り、予め待ちかまえていたようであった。
宮方の軍は、この水の城には手を焼いた。兵糧攻めという手が後に残ったが、それには大軍を要した。敵は水路を利用して城内へ兵糧を運び入れているようであった。
義貞は黒丸城の攻撃を後廻しにして、足羽七城を一つ一つ攻め落そうとした。これ等の城を攻め落せば黒丸城は孤立すること間違いがなかった。
「ここまで来たらあせってはならない」
と義貞は思った。なぜこれ等の城が落ちないかその原因をよく調べなければならない。どうも、味方の中に、秘《ひそ》かに敵に通ずる者がいるような気がしてならなかった。義貞は平泉寺衆の動きに目を向けた。腑《ふ》に落ちないことが幾つかあったからである。
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杣山の地は、往昔北の比叡山と称し、三千坊を有し、一条天皇(九八六―一○一一)の御代《みよ》、源|頼親《よりちか》(大和源氏・越智氏の祖)がこれらの寺を建てたものではないかと伝えられている。(中略)
瓜生|保《たもつ》の父衡が越後国三島郡瓜生村より阿久和の地に移って城郭を修築するに当り、多数の|そま《ヽヽ》人を召したところ、集り来りし者日日数百の多きを数え、ついに|そま《ヽヽ》人で山を埋めるごとくになって、すみやかに修復することができた。(南条町教育委員会編集の『史跡杣山城と瓜生保』)
杣山城の名はこうして起ったのである。南条平野の一角にそびえる杣山城は北陸道を見下す要衝の地にあった。新田義貞がこの城に目をつけて、瓜生兄弟をいちはやく味方に抱きこんだことは先見の明があったというべきであろう。
瓜生氏の領地はそれほど広いものではなく、三万石ないし四万石程度のものと想像されている。だから、兵力も千名どまりであったであろう。これだけの兵力に新田軍の生き残りの兵を加えてもせいぜい千五百人というところであろう。だからこそ平泉寺の協力が必要だったのである。
日野川の合戦について唯一の資料は太平記である。これによると、府中(現在の武生市)を新田兄弟が北と南から挟撃《きようげき》してこれを破ったように書かれているが、小兵力を二つに分けて大兵力に当るという戦法は特別の場合を除いてほとんど無く、小兵力で大兵力を破るには、兵力を一つにまとめて、敵の弱いところを奇襲する以外に勝味はない。この他にもう一つありとすれば天佑である。私は日野川の合戦に春二番を持ちこんで小説とした。春先日本海上に低気圧が現われたときに、これに向って吹き込む強い南風のことを春一番という。気象学的にはフェーン現象と呼んでいる。春一番、春二番などという言葉は古い記録に出ていないが、当時民間で使われていなかったと否定するものもない。
杣山|城址《じようし》の史跡保存は完全だった。南条町教育委員会で立派な本を出版しているほか、主なる史跡には、石に刻みこまれた指導標が立っていた。本丸跡、館跡、塁の跡などそのままに保存されていた。
杣山城には悲しい伝説が数多く残されている。うちぎ掛岩というのは瓜生保が戦死したと聞いて、夫人や女房たちがこの岩に袿《うちかけ》を掛け残し、絶壁から身を投げて自殺したところだと伝えられている。
姫穴という岩窟《がんくつ》がある。これは新田義貞の内室、勾当内侍が一時隠れていたところだと言われている。小説『新田義貞』を書くため各地を取材して歩いたが、この当時の遺蹟《いせき》などには見向きもせず、開発の名のもとに破壊して行くところもあるし、南条町のように町を挙げて郷土の歴史を保存しようというところもある。杣山城には三つの登山道がある。中央の登山道を登っている時、杉林の中に土塁を発見したときの感激は新鮮であった。私は思わず声を上げた。
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灯明寺畷《とうみようじなわて》
新田義貞は河合石丸城の本陣に河島雅頼を呼んで、ひとつきもかかって、未《いま》だに、黒丸城を落すことができない原因は味方の内部にあるのではないかと思うがどうかと相談した。河島雅頼は宮方の武将の中でも、特に寺社に通じていたから彼の意見を訊いたのである。
「わが軍の作戦が事前に敵に洩れているのは味方に敵と内応する者がいると考えるほかはありません。これについて拙者もひそかに調べさせておりますから、もうしばらくの猶予を下さいますように。尚《なお》この件については瓜生兄弟も同様に考え、すでに手の者を何人か相手方へ送りこんだ様子でございます」
雅頼は相手方が誰であるかは、この段階では口にしなかった。
それから数日後に、河島雅頼は瓜生兄弟と同道で義貞の本陣に来た。
義貞は脇屋義助を呼んだ。
「やっぱり平泉寺衆の裏切りでございます」
と河島雅頼がまず結論を先に言った。やっぱりと言ったのは、新田義貞が平泉寺を疑っていたことを知っていたからであった。
「敵の斯波高経は、このままだと滅亡間違いなしと見て、藤島領を餌《えさ》に平泉寺を抱きこみにかかったのです。藤島領は現在比叡山延暦寺の寺領になっております。もし、足利方の味方につけば、これを平泉寺にやると約束したのです。その御教書《みぎようしよ》がこのたび京都の足利尊氏から届いたようでございます」
と河島雅頼は報告した。
藤島領(現在の福井市)は越前ではもっとも肥沃《ひよく》な水田地帯だった。木曽義仲がこの地を通ったとき、平泉寺の寺領として与えたものが、その後比叡山延暦寺の寺領となっていたものであり、かねてから平泉寺が目を付けていたものだった。
「平泉寺はまずわれ等に協力して三ッ峯地方を奪い、それはそれとして認めさせた上に、更に藤島領を所望したのです」
瓜生重がつけ加えた。
「平泉寺の中には、それではあまりにも貪慾《どんよく》過るという批判もありますが、おおかたは藤島領という好餌《こうじ》に目がくらんでしまったようでございます。人の弱味につけこむ憎き坊主どもでございます」
瓜生|照《てらす》が言った。
「そのような交渉が陰でなされていたのか。どうりで……」
脇屋義助が言った。最近平泉寺衆の動きが目に見えて消極的になり、命令をそのとおり実行しないばかりか、雨になったからと言って出陣を見合わせたようなことさえあった。
「それは困ったことだ。今平泉寺衆が向うに付けば、斯波高経は必ず生き返る」
義貞は言った。
「欲には欲を……それができなければ討ち従えるしか手はないでしょう」
脇屋義助が言った。欲には欲というのは、平泉寺に藤島領の上に更に好餌を添え与えて、中立を守らせるという手であった。それは直ぐにもできることだが、そうなると、相手はいよいよつけあがって、無理難題を吹きかけて来るおそれがあった。
四人は黙り込んだ。雨が降り出した。既に梅雨の候に入っていた。
平泉寺衆の裏切りはやがてはっきりした。彼等は斯波高経の足羽七城の一つの藤島城にこもって、叛旗《はんき》をひるがえしたのである。この新たなる敵をどのように迎え討つべきかの軍議を開いている最中に、かねて越中《えつちゆう》、越後方面へ出向いていた堀口貞満が帰って来た。堀口貞満はもう少しはやく帰りたいと思ったがと、遅かったことを義貞を始めとする一同の武将たちに詫《わ》びてから、目を輝かせて言った。
「越後の大井田|弾正《だんじよう》の一族、中条入道、鳥山|左京亮《さきようのすけ》、風間|信濃守《しなののかみ》の一族、禰津掃部助《ねづかもんのすけ》、大田滝口等が率いるおよそ二千の軍勢が越中、加賀を通過して間も無くこの地に到着いたします」
貞満は彼等と別れたのは加賀の手取川のあたりであったと報告した。
越後の大井田、中条、鳥山、風間、禰津、大田等はすべて新田の血を引く豪族たちであった。彼等が来たらもはや憂うることはなにもなかった。
「よし、そのことをなるべく声高に言いふらすことにしよう。平泉寺の考え方もまた変るかもしれない」
義貞は喜色を浮べていた。
朗報を持って堀口貞満が到着した翌日に吉野から山伏姿の使者が到着した。彼は天皇|宸筆《しんぴつ》の綸旨《りんじ》を持っていた。
≪陸奥の兵を率いてやって来た北畠顕家は苦戦を続けている。いま助けてやらないと生命さえ危ぶまれる状態である。北国の戦もたいへんだろうが、今味方の大将をむざむざ死なせることは朕としてまことに心苦しい。朕は新田義貞にあらゆる手を尽くして来援し、北畠顕家を助け出すよう、ここに命ずるものである≫
それは天皇自らが書かれた援軍催促であった。義貞は諸将を集め、山伏姿に変装してやって来た使者の大江|右馬允《うまのじよう》安国に北畠顕家が、どのように戦って今日に至ったかの経緯《いきさつ》を聞いた。
「去年の八月に義良《のりなが》親王を奉じ三千の兵を率いて伊達《だて》(現在の福島県)の霊山《りようぜん》城を出発した将軍(北畠顕家)は結城《ゆうき》宗広、伊達行朝等と共に、まず鎌倉に攻め入って、足利|義詮《よしあきら》を追い、今年の正月には美濃《みの》に攻め入って青野原で足利軍を破りました」
大江安国はここまでは声を大にして話したが、それから先は急に声を落して、淡々たる口調でそのたどった道を話したのである。
陸奥軍は青野原の合戦には勝ったが味方の三分の一を失うという手痛い損害を受けた。それからは各所で足利軍の抵抗に会い受身の戦いを続けた。美濃から伊勢、伊勢から奈良と山伝いに転戦し、奈良の般若《はんにや》坂で高師直《こうのもろなお》軍と戦って敗けたときには味方は五百になっていた。北畠顕家は再挙を計るために河内《かわち》に走り、楠|正行《まさつら》に援助を乞い、摂津《せつつ》、和泉《いずみ》に進出し男山八幡宮に弟の顕信《あきのぶ》と共に立て籠り、細川|顕氏《あきうじ》の軍を相手に苦戦を続けていた。
大江安国はそこまで話すと、
「いまごろ将軍はどうなされておられるやら」
と言って、口をつぐんだ。
大江安国を別室に下らせ、休息させた後で、義貞は諸将に後醍醐《ごだいご》天皇の綸旨を読んで聞かせ、引続き軍議を開いた。
「宸筆の綸旨がどうあろうとも、そうするようにおすすめ申し上げたのは、側近にはべるあの愚かな公卿《くぎよう》どもでございます。軍《いくさ》がいかなるものかを知らない公卿どもは、何度痛い目に会わされても、公卿が武士に号令するものであるという考えだけは改めないのです。彼等は依然として、武士を犬だと心得、犬だから来い来いと招けば来るものと信じこんでいるのです。戦は大勢を把握《はあく》してからやらないと勝てるものではありません。陸奥軍だけが西上したからと言ってそう簡単に天下の情勢は変りません。気の毒だが北畠顕家殿は、まだ機が熟さないうちに火の中に飛びこもうとしている虫です。火の中に飛びこもうとしている虫を強いて助けようとすれば、その虫も同じように火に焼かれて死にます」
堀口貞満は思い切ったことを言った。彼は一昨年の東坂本での経験からおし計って公卿たちがなにを考え、なにをしようとしているかよく分かっていた。同じ公卿が後醍醐天皇の身辺にある限り、考え方に進展はないと思っていた。
「ここのところはなるべく早く援軍を出すとのみ答えられて置いて、当面の敵を打ち亡ぼすことです。今、わが軍を二分して、一方を都へ向ければ、当面の敵は必ずや、息を吹きかえすでしょう」
貞満は援軍を出すことに反対した。
「だが間も無く、越後の軍勢が来るだろう。斯波高経のことは越後の新手の軍にまかせよう」
義貞は言った。
「いやそれはなりませぬ。もし中将殿がそのようなことをなされるならば、折角越後からやって来た将兵たちは人を|ばか《ヽヽ》にしていると思って帰ってしまうかも分りません。まずは自分で出した火は自分で消してからのことだと存じます」
堀口貞満は飽くまでも都に援兵を出すことに反対した。他の諸将は黙っていたが、心の中では貞満に賛成していた。
「貞満の言うことはよく分かった。しかし、この義貞の上に立たれるお方は後醍醐天皇であり、余は臣下である。天皇より来援せよと言われた以上、臣下として行かぬわけにはまいらぬ。余が天皇の命令を聞かずして、どうして余の家臣どもに余の命令を聞けと言えようか」
義貞はそう言うと、一段と大きな声で、
「余は京へ上るぞ」
と言った。
「それほどまでに言われるならば、拙者が兄上に替って京へ上りましょう」
脇屋義助がその時になって始めて口を出した。堀口貞満は、あきらめたように俯《うつむ》いていたが、
「分かりました。お館様がどうしてもと言われるならば、止めようもありません。そうと決ったら、今度越後から同道して参りました広神《ひろがみ》善道坊を物見として京へ送りましょう」
と言った。広神善道坊は里見郷の出の修験者として、挙兵の際活躍した足の速い男であった。善道坊なら京まで十日もあれば行って来るでしょうと貞満がつけ加えた。
脇屋義助が大将となり援軍を率いて都へ上ることは決ったが、その兵力が問題になった。平泉寺の僧兵が斯波高経の方へ付いてしまったから、新田軍の総数はおよそ二千であった。そのうち半数を率いて行くとすれば、後が手薄になり、斯波軍にしてやられてしまうおそれがあった。そうかと言って、あまり少数の軍勢を率いて上京したところで一敗|地《ち》に塗《まみ》れることは明らかであった。考えられる手は一つ、細呂木城の畑時能の軍に応援に来て貰うことである。千人来れば千人出せるという勘定どおりには行かないにしても、そのくらいの援軍は必要だった。ひとまずはそうして置いて、越後軍の来援を待つことにした。
畑時能の軍はそれから十日ほどしてやって来た。新田軍の編成は終り、いよいよ上京の日が来た。
脇屋義助は兄新田義貞と水盃《みずさかずき》を交わして上京の途についた。千人の兵の中で新田一族に縁のあるものは僅か百五十人であった。脇屋義助は敦賀《つるが》へ出て、そこから西|近江《おうみ》路に入った。梅雨は既に上り暑い日が続いていた。夏草は生いしげり、日中でも草の露が残っているような山道を荒茅中山《あらちなかやま》まで来ると向うから走るような速さでやって来る修験者がある。善道坊であった。
彼は脇屋義助の軍を見かけると
「善道坊でござる、御大将は何処《いずこ》におられるか」
と呼びながら近づいて来た。脇屋義助は軍の進軍を停止し善道坊を本陣に迎えた。或《あるい》は敵の大軍が行手に待ち受けているという情報を持って来たのかと思った。
「北畠顕家殿は既に戦死なされました。その首が京の河原にさらされてありました」
善道坊はまず、援軍の必要が無くなったことをそのように報告してから、顕家が敗死した経過の概略を話した。
男山八幡宮に立て籠っていた顕家、顕信の兄弟は、ここを根拠地として兵を集め、天王寺の戦いでは細川顕氏の軍を破ったが、それは一時的なもので、勝つために負傷者を多く出し戦力を弱めた。やがて彼等は敵の大軍に包囲され、摂津、和泉、堺と転戦しながら次第に苦境に落ち入り、ついに石津川(現在大阪府)のほとりで戦死したということであった。
「遅かったか」
と脇屋義助は言ったが、内心はほっとした。たとえ、この脇屋軍が救援に行ったところで、同じような目に会うことが分りきっていたからであった。
脇屋隊は直ちに帰路についた。その足取りは軽かった。
脇屋義助等一千の兵が戦線に復帰したことによって新田軍は斯波軍に対して再び優勢を示すことになった。
改めて軍議が開かれた。斯波高経の居城の黒丸城を攻撃するか、それを後廻しにして、足羽七城を一つ一つ攻め落して行くかについて議論が交わされた。
足羽七城(七城の跡はすべて現在の福井市内にある)は九頭龍川、足羽川、日野川の三川が合して形成するほぼ三角形の水田地帯の中にあった。その中で一番東にある藤島城と一番西にある安居城との距離は約八里であった。斯波高経はこの狭いところに藤島城、北庄《きたのしよう》城、和田城、波羅蜜城、高木城、黒龍城(勝虎城)、安居城を築き、周囲に水を張って敵の攻撃を防ごうとした。そして斯波高経の居城の黒丸城(小黒丸城ともいう。現在福井市)は九頭龍川と日野川とが合するところにあり、もっとも水利に恵まれていた。
軍議はそれほど長くはかからなかった。足羽七城のうち、まず藤島城を攻め落すことが最も有効であるということになった。藤島城には平泉寺衆が立て籠っているから、これを落せば、平泉寺衆は意気消沈して、新田軍との単独講和に応ずるだろう。もしそうならなくとも、それ以後は積極的に斯波軍に加勢することはないだろうと推測された。藤島城が落ちればその次は黒丸城である。これは厄介だが、充分に用意して力攻めに攻めれば十日で落ちるだろうと考えられた。藤島城と黒丸城が落ちれば後の六城は攻めなくとも自落すること間違いがなかった。
「まず藤島城の攻撃にかかる。その間に、黒丸城の水路を断ち、草束、藁束、材木、板などを多量に集めて、堀を渡れるような段取りをする。総攻撃はそれからである」
義貞は結論を言った。
半カ月は経たないうちに敵は潰《つい》え、この越前はすべて宮方に付くだろうと義貞は思った。できることならば、越後からの味方が到着しない前に片付けたいと思っていた。このあたりを綺麗《きれい》さっぱりにして置いて、そこへ越後の軍を迎え入れ、彼等に充分な休養を与えてから、次の作戦に出ようと考えていた。
まず脇屋義助が率いる一千の軍が藤島城へ向かった。瓜生兄弟の軍もこれに合流した。藤島城もまた深い堀を巡らせて防戦のかまえを見せていた。一気に攻め落せるというものではなかった。
激しい戦いが開始されようとしているとき、河合石丸城の新田義貞の本陣へ刀屋三郎四郎がやって来た。
「いよいよ越前も大詰《おおづめ》ということになりましたな。祝着至極《しゆうちやくしごく》のことです」
と三郎四郎はお世辞を言ってから、また例によって彼独特の勝手な口をきき始めたのである。義貞は、なにかと三郎四郎に世話になっているし、彼の予言がいちいち当ってもいるので、嫌な顔をすることもできずに応対していた。
刀屋三郎四郎は、平泉寺は私が言ったとおりになったでしょう、と言ってから、義貞に人払いを要求した。
「ぜひお聞き届けいただきたいことがございます」
三郎四郎はそう言ってから唇をきっと結んだ。
「また十三湊《とさみなと》にでも行こうというのかな」
義貞がなんの気なしに言うと、
「そのとおりです。今度はいやが応でも十三湊まで中将殿をお誘いしようと思って、舟の用意をして参りました。私一人では心もとないので津軽から安東季長殿も連れて参りました」
そして三郎四郎は目を外へやった。安東季長を外に待たせてあるぞというしぐさであった。
「安東季長が来ているのか、すぐこれへ」
義貞はなにか胸の中に熱いものがこみ上げた。十数年も前のことであった。大将となって陸奥から津軽に遠征したころが懐しく思われた。
間も無くそこに通された安東季長は以前とはすっかり変った武士となっていた。安東季長は義貞との再会に感きわまって涙さえ浮べていた。
「中将殿を津軽にお迎えに参りました。十三湊には、中将殿や北の方様をお迎えするために御殿まで造って待っております。ぜひとも津軽の地へお出《い》で下さるようお願い申し上げます」
言葉も鄭重《ていちよう》だし物腰にも重みが加わっていた。
「安東季長殿が言っておられるとおりでございます。間も無く越前の合戦が終るでしょうから、後は脇屋義助殿に一任されて、中将殿は勾当内侍《こうとうのないし》殿共々ぜひとも津軽に下向され、そこより出羽越後と下り、上州を通って鎌倉に入り、そこに幕府を設けるようお願い申し上げます。それまでには、私は海路後醍醐天皇を鎌倉の港へお連れ申し上げます。この前も申し上げたとおり、京都を棄て、新しい京都を鎌倉に持って来ると同時に、あの能なしの公卿どもを追い払って、将軍御自身が天皇の親政のお手伝いをなされるようになれば天下は決り、足利氏は自ら亡び、そして泰平の世が参ります」
刀屋三郎四郎はその言葉を歌うように言った。
義貞はこのことを一年前に刀屋三郎四郎から聞いていた。そのときは、なにを言うのかと軽く受け流していたが、その後、忘れようとしてもふと頭の中に浮び上るのはこのことだった。彼は一年間考え続けていた。そして、三郎四郎の考えが全然取るに足らないものではないということがこのごろ分りかけて来たのであった。なによりも義貞が気に入ったのは京都を鎌倉へ移すということであった。鎌倉こそ義貞がもっとも望んでいた地であった。
「いまここで返事をお伺いしたいとは申しません。しかし必ず私たちは中将殿と勾当内侍殿を船にお乗せいたします」
そして三郎四郎は更につけ加えた。
「中将殿がいま直ぐ行かぬと言われたら、ひとまず勾当内侍殿を先にお連れ申し上げるつもりです」
「あれはいま身ごもっているのだ」
義貞は三郎四郎の言葉につられて、つい本当のことを言った。
「それはお目出たいことでございます。さすれば尚更のこと陸の旅より船旅の方が安全でございます」
刀屋三郎四郎はそう言って笑った。もはや間違いなく新田義貞が津軽へ行くことを承知したものと思い込んでいるようであった。
外で激しく蝉《せみ》が鳴き出した。じっとしていても汗が出て来る暑さであった。
延元三年(一三三八年)閏《うるう》七月二日(太陽暦八月二十六日)は夏には珍しく空が澄んでいて、風も秋のようにさわやかであった。新田義貞の本陣河合石丸城は早朝から人の動きが激しかった。明けると直ぐ、堀口貞満の率いる三百騎ほどが九頭龍川の北岸を東に向かった。藤島城を攻めている脇屋義助の軍に加勢するためだった。
河合石丸城にはおよそ千五百ほどの兵がいた。変に応じていつでも飛び出せるようにしていた。
「なんと青い空だろう」
義貞は午後になっても晴れたままの空を見上げて言った。長雨の後だけに青空はすばらしく見えた。珍しく澄んでいた。真夏にこのような青空を見ることさえ、異常であったが、義貞はそうは考えず、ひたすらその青空の美しさに心を奪われていた。この空の青さはどこかで見たことがある。一度や二度ではない。
「この空の青さは……」
義貞はとうとう言葉に出した。
「この空の青さは里見の郷《さと》の空の色でございます」
義貞の側近の神宮六郎が言った。
「そうだ、そうだ、この空の色こそ里見の郷の空の色だ」
義貞は言った。上野国《こうずけのくに》の里見の郷で育った義貞の目には、あの山郷の空の青さが懐しかった。その青空のことを里見二十五騎の一人の神宮六郎が言い当てたことが嬉しかった。
「この青空の下を里見二十五騎と共に遠駆けがしたいものだ」
義貞はそう言ってからすぐ、少年時代の遊び友だちの顔を思い出した。彼等は成長して、里見二十五騎として彼に仕え、一人また一人と死んで行き、今は九騎に減っていた。彼等は幼な友達であり、同時に家来であった。義貞は彼等の多くを失った悲しみを青空の中に見詰めていた。
「里見の者どもをすべて集めよ」
義貞は空を見ながら神宮六郎に言った。
「お出かけになりますか」
六郎は訊いた。生き残りの里見の者は義貞の旗本として側近に仕えていた。義貞が出掛ける時は彼等もでかける時であり、彼等に集合の命令がかかったときは義貞が出掛けることであった。
「九頭龍川を越え、灯明寺畷《とうみようじなわて》のあたりまで行って見たい」
「何騎用意いたしましょうか」
「黒丸城から藤島城に抜ける道について調べて来ようと思っている。物見だから合計五十騎ほど用意すればよい。そうそう医者の龍杏、龍石、龍玄の三兄弟も加えてやろう。あの三人もこの青空の下で馬を走らせたいであろう」
義貞は言った。三兄弟は篠塚龍斎の子であり、挙兵の時からずっと陣中にあった。傷の手当よりも、弓矢を取り、太刀を持っての合戦の方が多かった。かしこまりましたと神宮六郎は答えながら、なにか何時《いつ》もと違っている義貞にふと不安を覚えた。なぜ今日に限って里見の郷にこだわるのだろうか。
「半刻後には出発するぞ」
それまでに出発の用意をして置けよという命令であった。
義貞が外に出るということになれば、城中は緊張する。どこへなにしに行くのだろうかと誰もが思うのが当然である。
厩《うまや》番の小者の中に斯波高経の廻し者がいた。彼はあわただしい人の動きの中で義貞が五十騎を率いて近くに物見に出るということを知った。灯明寺へ行くということまでは分らなかった。小者はこの情報を城に野菜類を持ちこんでいる百姓に伝えた。百姓もまた斯波方の諜者《ちようじや》をつとめていた。彼は城を出ると、すぐにそれを第三の諜者に伝えた。彼は九頭龍川の北岸を走って下り、小舟で南岸に渡り、黒丸城に駆けこんだ。
「なに義貞が五十騎を率いて近くに物見に出るとな」
その情報を耳にしたとき斯波高経は城の中庭に出て、このころ流行しだした新兵器の鑓《やり》の稽古をしていた。
彼は鑓の石突きを大地に立てると、
「近くに物見に出るということになれば、おそらくは九頭龍川を渡るだろう」
とひとりごとを言って、空を見上げた。あまりにもよく澄んだ、夏には珍しい空の色であった。
「これはめずらしい。わが斯波家の祖、家氏が足利家より分れて一家を為《な》したその日は夏の最中《さなか》であったにもかかわらず、秋空のように晴れていたと言い伝えられている。これは斯波家に取っての瑞兆《ずいちよう》である」
と言うと、突然、大きな声で、家臣の主なる者を呼び集めて、今入ったばかりの情報を知らせ、
「敵はこの黒丸城を孤立させんがため、かねてから藤島城との行き来の道を閉そうと企てている。義貞自身が物見に来るというのはおそらく灯明寺畷あたりまでであろう。されば、われらに取っては義貞を討ち取るべき絶好の時である。細川孝基は二百騎五百の軍勢を率いてただちに灯明寺畷の道を藤島城救援に行くと見せかけ、途中で義貞等が現われるのを待ち伏せているように。氏家|光範《みつのり》と鹿野彦太郎は義貞が九頭龍川を渡り終ったと聞いたならば、それぞれ百騎二百の軍勢を率いて出撃し、義貞の退路を断て。敵は五十騎、総勢百五十か二百の軍勢であろう。一人も討ち洩らすな」
高経の下知は常になく激しかった。軍議を開く時間がないにしてもあまりにも一方的な決断であった。
「もし、それが敵がしかけた罠《わな》であり、われ等が城を出たとたんに敵の本隊が九頭龍川を渡って黒丸城へ攻めかけて来たらどうなされます」
細川孝基が言った。
「そんなことはない。余はあの空の色に誓って、勝利はわれにありと申しているのだ。迷わずに出撃せよ」
高経は紺色に澄んだ空を指して言った。その言葉は自信に満ちあふれており、誰も反対はできなかった。やがて細川孝基の率いる軍勢は黒丸城から灯明寺畷前の道を藤島城へ向って出動した。
細川孝基の軍勢が黒丸城を出たということは新田側の物見によって発見され、すぐ九頭龍川を渡って対岸の河合石丸城の本陣に知らされた。だがその時は既に義貞の率いる五十騎二百の一隊は城を出たところであった。
義貞は出陣に当って物見を出した。敵陣に異常はなかった。九頭龍川を渡って、南岸に達したとき、物見の一人が、敵の大将細川孝基が二百騎五百の軍勢を率いて、灯明寺畷前の道を藤島城へ向かったということを知らせた。義貞は馬を止めてそれを聞いた。
藤島城へは今朝早く堀口貞満が向かった。いよいよ藤島城が危うくなったので、斯波高経は細川孝基の軍をさし向けたに違いない。義貞は細川孝基のことをそれほど気にしてはいなかった。義貞の側近にいる里見二十五騎生残りの一人植杉兵馬が、
「お館様、細川孝基の急な出撃はいささか妙に思われます。本日の物見は取り止めになされた方がよろしいのではございませんか」
と言った。
「敵が策を弄《ろう》しているというのか」
義貞は一瞬頭に浮んだ、敵軍が進撃と見せかけて引き返して来る姿を強いて打ち消しながら、
「兵馬、あの空を見よ、子供のころ、このような空の下でよく戦さごっこをしたものだ。その折にもそちはよく敵の伏兵をおそれて予に進言した。伏兵を恐れていたのでは物見はできない。さあ灯明寺畷まで一気に馬を飛ばそう。長居はせぬ。すぐ帰る」
義貞はそう言って、九頭龍川の土手から水田地帯に向う道へ馬を進めた。五十騎が続いた。
九頭龍川の南岸の土手の上で義貞等の動きを見ていた斯波軍の物見は、義貞等が川を渡って、水田地帯に下ったのを確めてから、黒丸城の楼上の人に向って赤旗を振った。
黒丸城の城門は既に開けられ、浮橋も濠《ほり》の上にかけられていた。氏家光範と鹿野彦太郎の両将が率いる、併せて二百騎四百の軍勢はいっせいに城を出た。
そのころ、義貞の一行は灯明寺畷前の道に出ていた。それは、馬が二頭並んでようやく通れるほどの道幅だった。周囲は水田だった。
「水の城を攻めるにはやはり水だな」
と義貞はひとりごとを言った。彼は、黒丸城と藤島城との連絡を断つには、このあたりに水を氾濫《はんらん》させることが最も手取り早い策のように思ったのである。そうするにはどうしたらよいかとふと東の方へ目をやったとき、突然地表に浮び上った雲の頭のように、おびただしい騎馬隊がやって来るのが見えた。
「敵です。細川孝基の軍と見受けられます」
神宮六郎の叫ぶ声がした。
「引け」
と義貞は怒鳴った。だが彼等の背後には氏家光範と鹿野彦太郎の軍勢が迫っていた。灯明寺畷前の道の前後を敵の大軍で押えられたら、逃げるには、田圃《たんぼ》の中の畦道《あぜみち》をたどって北へ逃げ、九頭龍川に出るより方法はなかった。
数騎がまず畦道に入った。二騎が馬もろとも倒れた。馬に乗ったまま通れるような道ではなかった。馬から降りて、馬の手綱を引いての畦歩きも馬が足を滑らせて深田に踏みこむのでかえって全体の動きが遅くなった。
「馬を捨てて走れ」
義貞は自らそう号令して馬から降りた。間も無く、後から飛んで来るであろう矢を意識しながら畦道を北に向かって走った。
どうやら九頭龍川の土手にたどりつけそうだった。そう思ったとき、丸に二本筋の足利の旗を掲げた斯波高経の軍が九頭龍川方面の土手に現われた。高経は城を空《から》にして自ら出撃して来たのであった。
義貞は三方から敵に包囲された。絶体絶命の窮地に陥った。
敵の矢が三方から飛んで来た。その敵と対抗しながら馬を降りて一隊となった義貞の率いる二百人はよく戦った。
敵は三方から包囲の輪を縮めていた。このままだと矢に当って死ぬか、斬り死するより仕方がなかった。
「お館様あそこに道が」
神宮六郎が叫んだ。二十間ほど先に、しっかりした畦道があった。冬の間に、新しい水路を開くための工事道として使ったままになっていた。そこを抜ければ、斯波高経の軍を避けて九頭龍川へ出られそうだった。
神宮六郎は義貞の馬の手綱を曳《ひ》いていた。馬を捨てろと命ぜられたのに、彼は自分の馬は捨てたが義貞の馬は捨てずにそこまで曳いて来たのである。
神宮六郎が脱出口を探し出したことは、味方のすべての者が知った。彼等は自らの身を犠牲にしても、義貞一人だけはなんとかしてここから脱出させねばならないと思った。人垣で矢を防ぎながら、義貞と馬を守る一団は走った。
畦道にようやくたどりついた。義貞の馬はまだ傷ついてはいなかった。足場のしっかりした畦道に出ると、馬は高々と嘶《いなな》いた。義貞を守っていた里見衆の、関、芹沢《せりざわ》、三木、五十嵐、桜井はそこまで来るうちに矢を受けて倒れていた。
義貞が馬に乗った。畦道をまっしぐらに九頭龍川に向う義貞の後を家来たちが追った。
(もうひと息だ、もうひと息で九頭龍川の土手に出る)
彼等はそう思っていた。危機は脱したと思っていた。
馬に乗った義貞の姿が急に小さくなった。もう矢は届かないだろうと誰もが思った時だった。一本の流れ矢が、義貞の乗っている馬の尻に当った。馬は棒立ちになり、義貞は兜《かぶと》をかぶったまま水田に落ちた。彼は泥にはまった兜は捨て、その下にかぶっていた烏帽子《えぼし》のまま泥田から立ち上った。無防備の義貞を守るために走り集って来た人垣が周囲に立った。そのまま人垣は畦道を北上しようとした。義貞が馬から落ちている間に敵軍は間近に迫った。斯波高経の軍が前に立ちふさがった。神宮、竹内、植杉、浜名等の里見衆が義貞の盾となって死んだ。龍杏、龍石、龍玄が義貞の身を守った。龍玄が倒れ、続いて龍石が膝《ひざ》をついた。そして龍杏が義貞の前に立とうとしたとき三本の矢が同時に飛んで来て二本は龍杏に当り、一本は義貞の眉間《みけん》に当った。
義貞はその瞬間眉間に石が当った痛さを感じた。里見で少年たちと石合戦をしている自分を意識していた。目から火が出て、気が遠くなる。しかし、やがて意識は恢復《かいふく》するのだ。最期に彼の脳裏をちらっと走った幻想であった。
義貞等の危急は物見によって河合石丸城の本陣に知らされた。救援隊が九頭龍川を渡って現場に達したときには、鎧兜《よろいかぶと》に限らず、いっさいの武具は遺体から剥ぎ取られ、首のない死体だけが田の中に放置されたままになっていた。敵はすべて黒丸城に引き上げた後だった。
翌朝、近くにある時宗の称念寺《しようねんじ》の僧が来て、遺骸を取り片づけた。義貞の遺骸は八人の僧の手によって寺まで運ばれ厚く葬られた。
義貞の死は急であった。越前での勝利を目の前にして総大将を失った新田勢は悲しみのために戦意を失った。この日を境にして戦局は再び宮方に不利になって行った。
杣山城にいた勾当内侍も、この日の異常な空の青さには不安なものを感じていた。心なしか吹く風が肌に冷たかった。
義貞の悲報を勾当内侍が聞いたのはその翌日であった。彼女はあまりのことで涙も出なかった。そして、更に彼女を悲しませたことは、藤島城を囲んでいた味方が戦う意欲を無くして引き上げて来たことだった。杣山城は新たな恐怖にさらされた。義貞一人の存在がそれほど大きかったことに勾当内侍はまた泣いた。
刀屋三郎四郎が、その内侍に向かって言った。
「悲しみはごもっともでございまするが、ここにこうしていることは危うございます。私は中将殿が生存中に、もしもの場合は、あなた様をお守りいたしますと、固く約束をいたしました。舟の用意はできています。亡くなられた義貞殿のことよりも、新しい義貞殿のお生命《いのち》のために、はやここを出立なされますように」
と誘った。今となっては勾当内侍もその言葉に従わざるを得なかった。
彼女は涙をぬぐって、刀屋三郎四郎に言った。
「こうなれば、あなたの力におすがりするよりいたし方がございませんが、一つだけ、私の希望も聞いてはいただけませんでしょうか」
そう言った時、彼女はきちんと居ずまいを正していた。
「なんなりと仰せつけください。この刀屋三郎四郎できるかぎりのことは致しましょう」
三郎四郎は言った。
「中将殿がもっとも帰りたがっていたところは故郷の上野《こうずけ》の国でございました。短い月日でしたが、その間に中将殿は何度となく新田郷や里見郷のことを話されました。私にはそこが、どこにも見られぬような美しいところに思われてなりません。私は中将殿の故郷へ帰り、中将殿の御子を生んで、育てたいと思っております」
勾当内侍は自分の行先をはっきりと言った。ここから海路を越後まで行き、そこから峠を越えて上野の国へと落ちて行く遠い旅路のことは、すべて覚悟の上のようであった。
「よく分りました。この三郎四郎が命にかえても、上野の国まで御供をつかまつりましょう」
刀屋三郎四郎の目にその時はじめて涙が浮んだ。
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藤島|城址《じようし》は現在福井市内の超勝寺境内にそのおもかげを残している。平泉寺の衆徒三千によって守備されていたという境内にはスギやケヤキの大木があり、その下に土塁の跡が残されている。堀はその一部だけしか残っていない。
黒丸城址は村はずれの田圃の中にあった。土を盛った台地になっていて、その上に「小黒丸城址」と刻まれた石碑が立っていた。このあたりの田圃の土は砂である。城址に立って眺めるとすぐ近くに九頭龍川の青々とした土手が見えた。
灯明寺畷の新田義貞戦死の地は、県道福井|大聖寺《だいしようじ》線のかたわらにある。戦前は鬱蒼《うつそう》とした森の中にあったが、現在は住宅地の中に社堂だけが残っていた。堂の中に石碑があり、「新田義貞戦死此所」と石碑に刻まれていた。福井藩四代目の藩主、松平光通の筆になるものであった。明暦《めいれき》二年(一六五六年)この社殿の下の深田の中から百姓嘉平が兜を発見した。しばらくは水鉢がわりに自宅で使っていたが、松平家の家臣がこれを聞いて藩公に届け出て鑑定した結果、これこそ新田義貞の兜であろうということになった。この兜は現在足羽山にある藤島神社の宝物殿に保管されている。兜の鉢には「天照大神」「熱田大明神」等の三十番神と法華経文が刻まれ、庇《ひさし》には銀の象眼《ぞうがん》がしてあるなかなか立派なものであった。
新田義貞の遺体が運ばれて行った時宗称念寺は、義貞が戦死したところから一里ほど北に離れた丸岡町長崎にある。庭が広く、大きな寺であった。門を入って左側奥の一段と高いところに五輪の塔があった。これが義貞の墓である。称念寺縁起によると白道上人は寺僧八人と共に灯明寺畷に赴き、義貞の遺骸を白木の棺に収め、輿《こし》に乗せて来てここに埋葬したということである。
勾当内侍の出どころは太平記である。太平記には、義貞が北国へ去ったあと、勾当内侍は琵琶湖のほとりの堅田に隠れていたが、後杣山城で彼に巡り合い、義貞の戦死後は京都の往生院の近くに柴《しば》の庵《いおり》を結んで義貞の菩提《ぼだい》を葬ったと書いてある。
その勾当内侍の墓は現在京都の嵯峨《さが》往生院の入口に義貞の首塚と並んでいる。この首塚は勾当内侍が京都の河原にさらされていた義貞の首を葬ったものだとされている。義貞の首塚はこの他に群馬県内に三カ所、小田原市内に一カ所あるそうだ。機会があれば行ってみたいと思っている。勾当内侍の墓は大津市、堅田町にもあるし、群馬県尾島町|武蔵《むさし》にもある。ここは利根川を見下す丘陵の上にあり、塚の傍に五輪塔が五基並んでいた。「勾当内侍遺墳碑」と刻まれた石碑が立っていた。勾当内侍の墓はこの他にも二つ(何《いず》れも群馬県太田市内)あるそうだが、ここも私はまだ訪れていない。もともと勾当内侍その女《ひと》が太平記によって創り出された虚構の麗人であったならば、墓が幾つあってもよいのではなかろうか。
脇屋義助は越前から美濃へ出て、根尾城に籠って戦ったが利あらず、尾張、伊勢、伊賀を通り、吉野に出て後醍醐天皇に拝謁し、その後、伊予国《いよのくに》へ下って、兵を集めて大いに足利軍を悩ましたが、武運つたなく病《やまい》を得、伊予国府において他界した。興国《こうこく》元年(一三四〇年)五月のことである。
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あとがき
小説『新田義貞』は昭和五十一年の二月から取材を始め、サンケイ新聞に連載するようになったのが同年九月七日、そして、最終回は昭和五十三年五月十二日である。
二年余に渡る労作と言えば気障《きざ》に聞こえるが、文字通り芯《しん》が疲れる仕事だった。書くのは苦しい仕事だったが、取材して歩いたり、資料を読むのは楽しかった。四、五日、出歩いて来ると、書く意欲が新しく湧《わ》いた。
取材中の各地の反応は一口に言えないほど複雑だった。新田義貞などという人がいたのかというような冷い顔をされるところがあるかと思うと、新田義貞はそこを通ったに過ぎないだけなのにその義貞に異常な関心を持っている人たちに会ったこともある。新田義貞に関する遺跡がよく保存されているところもあるし、いつの間にかその遺跡が消えてしまっていたところもあった。概して新田義貞の出生地よりも遠くなるほど彼への関心や評価は高いように思われた。町長や村長、教育委員会などが積極的に取材に協力してくださったところもあるし、てんでこのようなことには無関心を示したところもあった。しかしそのようなところにも必ずと言ってよいほど熱心で親切な郷土史家の先生たちがいて、私の取材を助けてくださった。
戦前、新田義貞は楠正成の栄光の蔭《かげ》にかくれて、それほど目立つことはなかった。戦後になって足利尊氏が賊軍から解放され、尊氏こそ偉大なる武将であったというような説が流行し始めると、その尊氏と比較して、義貞は凡庸な武将だとしてあっさり片付けてしまう人たちが意外に多くなった。私はそのような風潮を苦々しく思っていた。
新田義貞は調べれば調べるほど立派な武将であることが分る。その当時、義貞に尊氏と同じくらいの政治経済的地盤があったら天下を制したのは新田義貞であったであろう。出発点において、尊氏と義貞を比較すると百万石の大名と一万石の大名ほどに差があった。義貞がいかに努力してもこの差を縮めることは困難であった。しかし彼は尊氏と互格に戦い一時は勝ったこともあった。義貞が尊氏を制することができなかったのは、地盤の差もあったが、彼の上に、戦争のことはなに一つ知らない、公卿等が居たからであった。もし、軍《いくさ》に関することはすべて義貞に一任されていたら、九州から攻め上って来た尊氏は再度敗戦の憂《う》き目を見たであろう。私はできるかぎり、史実に忠実であろうことを願いながら義貞の足跡を追った。
或る日、御醍醐天皇の綸旨《りんじ》を奉じて、新田庄を出たまま、二度と再び故郷の土を踏むことがなかった新田一族には涙を誘われるものがあった。
歴史小説だから、歴史の本筋を変えることはできなかったが、『太平記』や『梅松論』の解釈は思うがままにこなした。『太平記』や『梅松論』に書いてあることが、すべて真実だと思いこんでおられる一部の人たちからは連載中も抗議の手紙をいただいた。はっきりここで言わせていただけば、『太平記』は小島法師の(又は他何人かによって書かれたと言われている)小説である。『梅松論』にしても史書だと言いがたい点が多い。
私はこの小説の各章の終りに取材ノートのようなものを書いた。このような形式の小説はいままで見たことはない。こうすれば過去の世界の中から急に現在に戻されることになり、読者の興をそぐことにもなるだろう。私は承知の上で書いた。小説の本筋からともすれば逸脱して過去へ走ろうとする自分自身の史観を常に現代的見地に引き戻すためだった。読者にもそうあって欲しかったからである。
執筆中には読者からの反響が多かった。中でも新田氏の流れを汲《く》む読者からの手紙や電話は相当な数に達した。
新田次郎と新田義貞の関係を問合わせて来たものも多かった。私は長野県諏訪市角間|新田《ヽヽ》の藤原彦の次男《ヽヽ》として生れた。ペンネームは新田の次男坊という意味であるが、「しんでんじろう」では響きがよくないから、「にったじろう」としたのである。
この小説を書くに当っては、新田義貞と関連があると思われるような本は手当り次第買い集めた。およそ五十冊ほどはあった。戦前出版されたものが多かったが、ここに参考書として取り上げるほどのものは意外に少なかった。結局、この小説を書くために、もっともお世話になったのは『太平記』(日本古典文学大系 後藤丹治、釜田喜三郎校注 岩波書店)と『梅松論』(群書類従第三百七十一 続群書類従完成会発行)であった。新田義貞の資料としては主として『新田氏根本史料』(千々和実編 國書刊行会)、『新田氏研究』(藤田精一著 日本魂社出版部)の二書に拠《よ》るところが多かった。その他、『足利尊氏』(高柳光寿著 春秋社)、『楠木正成』(植村清二著 至文堂)、『赤松円心』(藤本哲著 講談社出版センター)などが主なる参考書となった。
最後に取材に協力していただいた郷土史家の多くの先生たちのお名前をここに掲げてお礼を申し上げたいが、かえって失礼になるかもしれないので、心から有難うございましたとお礼を申し上げて筆を擱《お》く。
昭和五十三年三月末日
[#地付き]新 田 次 郎