新田次郎
新田義貞(上)
目 次
呱々《ここ》の声
三人の傅役《ふやく》
足利《あしかが》で見たもの
鎌倉を知り尽くすこと
常陸《ひたち》の美禰《みね》殿
副臥《そいぶし》の女
陸奥《むつ》の春
色好宿《いろこのみやど》
天狗田楽《てんぐでんがく》
正中《しようちゆう》の変
一族一体
京都大番役
天皇御|謀叛《むほん》
楠正成
夏つばき
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呱々《ここ》の声
朝は青空だった。日が昇るとその青さが白っぽく薄れて、そのまま終日同じ表情を崩そうとはしなかった。
なにもかも焼けこがすような強い日ざしが大地を照りつけていた。草は枯れ、木の葉は萎《しお》れ、一年中|涸《か》れることがなかった泉さえ、その終わりが来たかのようであった。小川という小川は旱上《ひあ》がり、利根川や渡良瀬《わたらせ》川のような大河は広い河原の中央に水を集めて、思わせぶりにさざ波を立てていた。
既に二カ月近くも降雨がなかった。旱天《ひでり》は何時《いつ》まで続くか分らなかった。例年ならば、この季節には毎日のように雷雨があった。日が出れば雲が出、日が中天にかかるころは、それを追うように入道雲が巨大な頭を持ち上げて、またたく間に空を覆い、沛然《はいぜん》たる雨が降る。上野《こうずけ》はそういう国だった。だが、今年にかぎって、その雷にも見放されたかのように、雲らしい雲はいつまで待ってもその姿を見せようとはしなかった。
由良《ゆら》(群馬県太田市内)の館《やかた》の周囲を取りかこんでいる堀割の水も既に乾き切っていた。
ほこりにまみれた一騎の武者が、その乾いた堀にかかった橋のたもとで馬から降りると、手綱を引きながら橋を渡った。
彼がその橋を渡るまでに門は開かれていた。
「なにか起こったのか」
門を守っている番士は緊張した顔で言った。
馬で来た武士はそれには答えず、
「お館様は?」
と、馬の手綱を番士にわたしながら訊《き》いた。
「奥におられる。庭の方に廻ったらいい」
と番士は言った。門をくぐると、そこにはものものしい扮装《いでたち》をした武士が二十人ほど集まって居り、彼に向かっていっせいに視線をそそいだが、誰も口をきかなかった。
柴戸《しばど》のところにいた武士が先に立って彼を中庭に案内した。
新田|朝氏《ともうじ》が牀机《しようぎ》に腰をかけて待っていた。朝氏は既に武装しており、彼の周囲に片膝《かたひざ》着いて控えている武士たちもすべて出陣の用意をととのえていた。
「おう、帰って来たか小源太……」
と朝氏はほこりにまみれた大島小源太に声を掛けた。はっ、ただいま戻りましたと片膝をつきながら答えた小源太は胸を張り、目を怒らせて、
「園田《そのだ》の庄《しよう》の荘官《しようかん》下役とその手下の者、それに足利《あしかが》の加勢の者を含めておよそ二百人ばかりが矢場《やば》の堰《つつみ》のあたりに現われました」
と言った。
「来たか、それで……」
朝氏の顔が引き締まったように見えた。
「矢場の堰を守っている味方衆は、およそ百五十人、数において少々おとりまするが、いざというときは全員討死する覚悟で敵と対峙《たいじ》しております」
「敵か、なるほど、武力を以《もつ》て他家の水を奪おうとする者はまさに敵だ。たとえ相手が厨《みくりや》の庄《しよう》の者であろうと容赦するわけには参らぬ」
朝氏は立上がった。
その顔は怒りでふくれ上がっているように見えた。とうとう来るべきときが来たなというふうな顔でもあった。朝氏が立つと、周囲の武士たちもいっせいに立上がった。
新田庄(現在の太田市とその周辺)は上野国《こうずけのくに》の南東部に当たり、関東北部山岳地帯が平野へ向かって拡大して行くその要《かなめ》となっている。
この地は、渡良瀬川が運んで来た土砂によって形成される「渡良瀬川扇状地」と利根川の氾濫《はんらん》によってできた地帯とが合成された平野である。平野には随所に井戸があり泉があったが、田圃《たんぼ》の用水の大部分は渡良瀬川から引きこんでいた。もともと腐蝕《ふしよく》土質の地は水を得て肥沃《ひよく》な水田地帯となった。
新田氏がこの地を支配し始めたころから、およそ一世紀半にわたって、開田事業は着実に続けられ、第七代新田朝氏の頃には新田庄一万町歩という広大な水田地帯が出現していた。この開田事業の歴史は、すなわちそこに定住する、多くの新田氏支族とそれにつながる農民たちの汗の記録であった。そして新田庄は名実共に上野一の富裕な庄としてここに安定期を迎えていた。
この新田庄と渡良瀬川との中間にある園田|厨庄《みくりやしよう》の成立もほぼ新田庄と同じころだった。厨庄というのは伊勢の神宮の庄をいう。神宮が直接管理するのではなく、多くは特定な人によって世襲管理がなされていた。園田厨庄の管理は園田|成実《なりざね》によって始められた。園田成実は足利土着の藤原氏の一族、藤原成行の子であった。園田の郷名を苗字《みようじ》として園田成実と称し、足利義兼の女《むすめ》を室として迎えて以来足利氏とは切っても切れない関係になった。この園田庄もまた水田の用水を渡良瀬川から求めていた。
新田庄と園田庄との水争いは旱魃《かんばつ》の年には例外なく起こっていた。承安《しようあん》二年(一一七二年)には園田厨庄の司、園田成実が、新田庄の新田義重を用水問題で告訴し、双方が対決して調べを受けたが、結局はうやむやに終わったことがある。この水争いは一見、新田庄と園田庄との間の出来事のようではあるが、実は新田と、園田の後押しをする足利との確執が原因となっていた。
新田氏を興した義重と足利氏を興した義康とは兄弟であった。共に源義家の孫に当たる。源家の名族新田氏と足利氏が渡良瀬川を挟《はさ》んで領地を持ったという因縁もさることながら、その境界に存在する園田庄がいちはやく足利氏と姻戚《いんせき》関係を持ったことによって、新田氏と園田氏の水争いは宿命的なものとなった。
義重、義康の代は両者が兄弟であるから和解の道はあったが、その後、足利氏が中央において勢力を伸ばすに従って、新田庄と園田庄の水争いは、園田庄側の一方的勝利に終わる場合が多くなった。
「われ等は園田庄に対して長い間ゆずって来た。無法を見逃していた。だが今度はもう我慢がならぬ、相手が足利の手をかりて来たとなればいよいよ後に引くことはできないぞ」
新田朝氏は大きな声で言った。家来たちに聞かせようとするのではなく、自分自身を納得させようとしているふうであった。彼は家来の顔をひとわたり見廻した。
庭にいる武士たちは新田朝氏が、たった一言、馬を引けというのを待っていた。彼が馬に乗って由良の館を出ればおそらく合戦になるだろうと思っていた。園田、足利勢を相手に戦さはしたくはなかった。しかし、そうしなければ新田庄の稲はことごとく枯れるのである。
稲の穂が出るところだった。ここまで育って来たのは渡良瀬川から引き入れた用水のお陰だった。その渡良瀬川から引き出した用水路の矢場の堰に園田方が人数を押し出して来たというのは、用水路の水を奪う魂胆に違いなかった。共同用水路から新田用水路への堰を止めれば、水はすべてその下の厨用水路に流れ込むことになる。そうなれば、新田庄の田へは一滴の水も行かなくなり、稲が枯死するのは三日とかからないであろう。米が取れないということは死活問題だった。新田一族は農民から見放されるばかりでなく、自分自身飢えに泣かねばならなかった。
由良の館の中庭に集まった者の多くは殺気立った顔をしていた。だが、彼等の中の年取った者は、この水争いは勝っても不利、負けても不利だと予測していた。過去に何回となく水争いがあったが、一度として勝ったためしはなかった。争いがあれば相手方はすかさず上訴した。その結果は強力な足利氏という後押しがある園田方が勝ち、その度毎に用水利用上の不利益を招くことになった。第四代新田政義が京都大番役をしているとき、無断で囚人を解き放った罪によって莫大な科料《かりよう》を取られた。彼はこれに腹を立て、幕府に無断で出家した。それにより新田氏は失脚し、幕府内における役職からは外された。所領の一部も取り上げられた。このころから渡良瀬川の用水路で問題が起こると、園田氏の言い分が取り上げられるようになり、終《つい》には、用水路の使用について園田厨庄に優先権を与えるということになったのである。
旱天続きの時、その取り決めを盾にして相手が水を要求して来た場合、新田用水は止められる虞《おそ》れがあった。困り果てた新田庄では単独の用水路を開こうとしたが、川下に影響ありと園田氏が反対したために、計画倒れとなった。
「こうなったら力と力で解決するより仕方がないだろう」
と朝氏が言ったとき、背後でそれに答える者があった。
「愚かなことよ、たとえこの水争いに勝ったところで、その後になにが起こると思う。相手は必ずわれ等を訴え、われらが理不尽なる行為を働いたと主張するだろう。まがりなりにも、園田の方に用水路使用の優先権はあるのだから、訴えられるとこちらは負ける。下手をすると領地の一部を召し上げられるようなことにもなり兼ねない」
そう言ったのは朝氏の父|基氏《もとうじ》であった。
基氏は回廊に立って、庭にいる朝氏を見おろしたまま、こんな場合は、第三者を頼んで調停して貰うのが一番いいと言った。
このころ、渡良瀬川の向こうの足利庄には足利一族は住んではいなかった。彼等は鎌倉幕府の内部で勢力を得て、各地に庄園を持つようになると、足利を去り、鎌倉に広大な足利屋敷をかまえて住んでいた。足利庄には庄司を置いていた。
「父上、この期になっていったい誰に調停役を頼んだらいいのでしょうか、お心づもりがあるならばお教えいただきたい」
朝氏は立ったままだった。出ようとした矢先に父基氏が文句をつけたのがよほど腹にこたえたとみえて、声がふるえていた。
「佐貫《さぬき》の庄の篠塚《しのづか》龍斎がおる。あれなら、きっとなんとかまとめてくれるだろう。少なくとも血は流さずに済むであろう」
基氏は静かな口調で言った。
「なに篠塚龍斎を……医者《くすし》の龍斎を水争いの調停役に引張り出そうというのですか」
「そうだ。彼がいい。彼はこの近くでは名医として通っておる。園田の庄にも足利にも、彼のお陰で命を助けられた者が多い。彼が行って口をきけば、相手は必ず耳を傾けるだろう。龍斎は抜目のない男だ。われ等が一族ともつながりがある。悪くはしないだろう」
基氏は、もうそう決めてしまったような言いぶりだった。
基氏は家督を朝氏に譲ってはいたが、まだ四十八歳だった。新田氏の実権は依然として基氏のところにあった。
基氏は政義の子政氏の五男として生まれた。祖父の政義が幕府に楯突《たてつ》いて以来斜陽の豪族として上野の一角に逼塞《ひつそく》している新田氏の後を五男の身でありながら継いだのは、父政氏にこの子こそ、新田氏を再興すべき人物と見込まれたからであった。基氏の父政氏には七人の男の子と八人の女の子があった。多くの兄弟の中から後継ぎとして選ばれた基氏は責任の重大さを感じた。だが基氏がいかに勝《すぐ》れた人物であっても、一度失墜した地位を再び取り戻すことはできなかった。基氏はまず官位を得ようと思っていた。政義の時代の官位とまでは行かなくとも、せめて七位の判官ぐらいの官位を得たかった。彼は、人を通して、鎌倉幕府の要路の者につけ入ろうとした。だが、官位を得て鎌倉幕府に出仕しようとするには多額な金品を必要とした。彼は、そのばからしさに気がつき、無官に甘んじた。
(今に見ろ)
彼の心の中には常にその気持ちがあった。あせってはならない、将来に対して布石をしなければならないと思った。
彼は、いままで仲が悪かった足利氏との友好を恢復《かいふく》するために、婚姻政策を使おうとした。彼は人を介して女《むすめ》を足利|頼氏《よりうじ》に嫁がせようとした。足利氏の執事はそれに対して、
「新田庄は類《たぐい》なき上田《じようでん》を持っておられる。さぞかし化粧料としてまとまったものを用意されるであろう」
と探りを入れて来た。女を貰ってやるかわりに、持参金として田を持って来いという言い分だった。頼朝の系統が亡びた今、源氏の正統を継ぐのは新田氏である。足利氏は言わば支流である。
「非礼にも、ほどがある」
基氏はこの縁談をあきらめた。
基氏は、新田庄を固く守り、新田支族との融和を計り、田畑の開墾開発に力を注ぐことによって新田氏の実力を蓄え、機会あらば、中央に進出し、源氏の嫡流であることを世に示したいと考えていた。それは彼の代にはむずかしいことだったが、子の朝氏か、孫の代になればその機会は来るに違いないと確信していた。元寇《げんこう》以来、二十年、北条氏を怨嗟《えんさ》する声が次第に高くなりつつあった。
(北条の天下が、それほど長く続くものではない)
基氏はそのように直感した。
基氏には朝氏、義政、義円、惟義《これよし》の四人の男子と三人の女子があった。基氏は朝氏に家督を譲ると、いままでより一段と高いところから、世の流れと、新田氏の行く末を見詰めていたのである。
「今争って勝てる相手でなければ、勝つことができるまで待つより仕方がない。短気は相手にいたずらに好餌《こうじ》を与えるに過ぎない」
基氏は朝氏に結論を押しつけるように言うと、
「龍斎、なにをしているのだ、早く出て参れ」
と奥に声を掛けた。
「篠塚龍斎を呼び寄せてあったのですか」
朝氏は、とてもこの親父《おやじ》にはかなわないと思った。張りつめていた力が抜けた。彼が牀机に坐ると、家来たちの間から溜《た》め息が洩れた。ほっと一安心した呼吸《いき》使いにも、機先を制せられた恨みのためいきにも聞こえた。
「今朝あたりから、どうも様子がおかしいのでな、……いや、そちたちの様子もおかしいが、わしの身体《からだ》もおかしいので、龍斎を呼んで置いたのだ」
基氏は笑いながら、回廊の隅に出て来て手をつかえている篠塚龍斎に向かって言った。
「すぐ行ってくれ。血の雨が降らないうちに行って、なんとかまとめて来て貰いたい」
そして、朝氏とその周辺にいる武士たちには、
「そちたちは、扮装《いでたち》を整えたことでもあるので、そのままの姿で里見の郷《ごう》へ、嫁女を送って行け。さよう、あやを輿《こし》に乗せ、三十人ほどで行けばよい。勿論《もちろん》、朝氏も一緒に行くのだ。あとは余が引受けるから心配することはない」
基氏は、そのことさえも、はじめっから決まっていたような口ぶりで言った。
「あやを? なぜあやを里見の郷へやるのです」
と反発する朝氏に、基氏は、やれやれ、お前という人間は世話が焼けるわいというふうな顔で、
「あやはみごもっている。男ならば新田氏を継ぐべき大事な人間が生まれようとしているのだ。水争いが昂《こう》じてこの地に敵が攻めこんだときのこともあらかじめ念頭に置かねばならぬ、余は足利と争いたくはない。しかし、理不尽にしかけられた戦いなら防がねばならない。その覚悟の上での調停をあの医者にさせようというのだ」
あの医者と言われた龍斎は首をすくめた。
新田朝氏の夫人あやは里見義秀の女《むすめ》である。里見氏は新田氏の開祖新田義重の次男義俊より始まっていた。義重は長男|義範《よしのり》に山名郷、次男義俊に里見郷、四男義季に得川《とくがわ》郷、五男|経義《つねよし》に額戸《ぬかだ》郷を与え、それぞれその郷名を苗字とする一家を興させたのである。
特に里見氏は初代義俊が上野西部に根を下ろして以来、次第に勢力を増して、第四代里見義秀の時代には宗家の新田氏に匹敵するほどの豪族になっていた。
背後に榛名《はるな》山をひかえ、広大な牧《まき》を有し、烏川の源流を押え、越後《えちご》、信州への要衝《ようしよう》を扼《やく》するこの一族の存在は、穀倉地帯に根を張った新田氏と共に上野の国における注目すべき源氏の二大勢力であった。
新田氏は一族間でしばしば縁組みをして、緊密に結ばれていた。朝氏が里見家から嫁を迎えたのも、あやがまれに見る才女だということを耳にしたからだけではなく、里見と縁組みをして、新田一族をより以上|鞏固《きようこ》にしようと考えたからであった。
新田庄と里見郷とはおよそ十里(四〇キロ)離れていた。その途中には、幕府の御家人の領地や、庄などがあった。
あやを乗せた輿には武装した者が従って行かねば、途中、悪党に襲われるおそれがないではなかった。
朝氏は、あやを里に帰してお産をさせることに、不服ではなかった。しかし、父の基氏があやを里見の郷へ送ることは、いざという場合の用意のためだと言ったことにひっかかった。負けると分った喧嘩《けんか》ならするなと、はやる朝氏等を押えつけて置きながら、相手が理不尽な行為に出た場合は戦わざるを得ないだろうと、ちゃんと、なり行きを見越している父の眼光の鋭さには、やっぱりと考えさせられるものがあった。基氏の代になって今日までの間に園田庄との間に三度水争いを起こした。基氏は、三度とも、下手《したで》に出た。卑屈とも思われる条件に応じた。武力で争って勝ったところで、そのまますむものではなく、必ずや「厨《みくりや》(神宮御料地)に対する狼藉《ろうぜき》」として、罪をこうむり、まかりまちがえば、領土を捲き上げられるおそれがあったからである。
今度は四度目だった。
前と同じように低姿勢に出て、おさめることができたらそれでもよいが、もし万が一、図に乗った相手が、新田庄に馬を入れるようなことがあったら、結果はどうなろうと、戦わざるを得ないと考えていた。園田に対して無制限な譲歩はあり得なかった。
基氏が朝氏に、あやを輿に乗せて里見へつれて行けと命じたのは、一つには、近隣の諸国に、現在の新田庄の苦しみを見て貰いたいためであった。近隣に住む御家人や庄の多くは、新田氏となんらかのつながりがあった。園田庄との水争いで、新田庄が常に不利な立場に置かれていることをよく知っていた。概して同情的な眼で見ている彼等諸豪族に里見郷へ退避するあやの行列を見せてやるのも悪くはないと考えていた。それに、あやは初産だった、里に帰して生ませてやるのが無難だった。
「あらゆる場合を考慮して行動を起こさねばならない。ただ腹を立てての喧嘩は必ず負ける。水争いは今日一日で解決がつくというものではない。そちが里見の郷から戻って来るころまでには、なんとか目鼻が立っているだろう。そうでなかったら、おそらくそちは里見の援軍と共に馳《は》せつけるということになるだろう。そのつもりで行くがいい」
と基氏は朝氏に言った。
そして、まだ回廊に坐ったままの篠塚龍斎には、
「なにをしているのだ、さっさと行かぬか。そうだ、小源太、龍斎を矢場の堰まで案内して行け」
基氏は庭にひかえている小源太に言った。
篠塚龍斎は小柄な老人だった。足が短いので馬に乗せるのに人の手を借りた。だが、馬に乗るとしゃんと胸を張り、手綱を持って、馬のことならまかせてくれというような顔で、手綱さばきもあざやかに、田の中の道に出た。
「水を止められたら、三日で枯れるわな」
龍斎は馬上から細々と水が掛けられている水田を見ながら言った。小源太は、それには答えず、このおいぼれ医者にいったいなにができるのだと言いたげな目を龍斎の背に投げていた。
馬は金山の西側の裾野を大きく迂廻《うかい》して金山の北側に出ると、そこから北東に向かう新田用水に沿って走った。
田園地帯から、草原に出て、すぐ河原の中に入った。矢場の堰のあたりに人の群れが見える。人影は動かない。
「やれやれよかったわい。まだ殺し合いを始めてはいないぞ」
と龍斎は小源太を振返って言うと、馬に鞭《むち》を当てて、一気にその方向に突走った。小源太は、
(この老ぼれ医者め、なかなかやるわい)
と龍斎の馬術に内心、驚きながら後を追った。
龍斎が馬の背に身体を伏せると、小源太もその通りにする。遠くから見ると、はだか馬が二頭堰に向かって奔走して来るようである。
堰を挟んで睨《にら》み合ったままの新田勢の者と園田勢の者は、近よって来る馬の方に目をやった。睨み合いと論争が交互に行われて、はや一|刻《とき》(二時間)あまり経っていた。
なにかのはずみで、どちらかが手出しをしたら収拾のつかない騒動になりそうだった。双方ともそれをおそれていた。水争いはまだ始まったばかりであった。今ならばなんとかなりそうだ。そのような期待をもって、誰かを待っていたのだ。龍斎はそこへ馬を乗り入れたのである。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くばよって目にも見よ、われこそは清和天皇の後裔《こうえい》にして典薬寮の頭、従五位の上、篠塚玄斎藤原の景親十八代の子孫、篠塚龍斎藤原の景行なるぞ。この度、新田、園田の水争いの調停にしゃしゃりいでたるその理由《わけ》は、即《すなわ》ち、医は仁術、これを広くおしひろげよとの天の声によるものなり」
龍斎はどこからそんな声が出るかと思われるほどの大声を張り上げた。
篠塚龍斎は馬に乗ったままで、
「さて、高いところから大きな声でまことに失礼だが、この龍斎が水争いの調停に乗出したことについて不服ある者が、もし居られたら名乗り出て下され」
彼は一同をぐるりっと見廻してから、
「声のないところを見ると、調停者としてのこの龍斎をお認めいただいたことになる。では早速お願いがござる。双方より一名ずつの代表者を出していただきたい」
龍斎は佐貫庄龍舞に住んでいた。佐貫庄の北隣は園田庄であり、西隣が新田庄である。医者として有名ではあったが、調停役としては双方ともいささか不安な念を抱いていた。しかし、この際、調停者を欲しいところであったし、うまくゆかずとももともと、成功すればこの上ないと思って、双方一名ずつの代表者を出した。
「私は馬に乗っているから、代表者も馬に乗っていただきたい。ここはなんとしても暑くて、いい考えは浮かばぬから、近くの森まで一駈けして話し合いたい。みなの衆もしばらくは木蔭《こかげ》に休んでいて貰いたい」
龍斎はそういうと、二人の代表者を従えて、遠くに見える森に向かって駈け出した。萎烏帽子《なええぼし》に袖細《そでぼそ》の着物、四幅袴《よのばかま》という、どう見ても医者らしくない姿の龍斎の後を騎馬武者二騎が追って行った。追う者と追われる者との間隔は次第に離れていった。なにくそと後の二騎が馬に鞭を入れて近づくと、龍斎の馬は更に前に出る。森を過ぎたが、いっこうに止まる様子がないから、後の二人は、申し合わせたように顔を見合わせ、小首を傾《かし》げた。
(どうもこの医者はおかしい。いったいわれ等をどこまで引張って行くつもりだろう)
二人はその気持ちを目と目で交わしながら、
(どこまでついて行っても同じことだ。だいいち、この暑さでは馬が持たない。このあたりで引返そうではないか)
と合意の上、馬から降りたところが如来堂《によらいどう》であった。如来堂の森には湧《わ》き水があった。二人は馬に水を飲ませ飼葉を与えた。森の中は、外の炎暑と比較して肌に浸《し》みこむような涼しさがあった。
「あの老ぼれ医者めどこへ行ったのだろうか」
新田庄の水番頭がひとりごとのようにつぶやいた。
「まったく得体の知れない医者だな、しかしながら、あれでなかなか、診断《みたて》は上手だし、薬の使い方もうまいそうだ。それに彼は金持ちからは金を多く取り、貧乏人からは取らないということだ」
と園田庄の荘官下役が言った。
「調停すると言ってもなにかうまい方法があるのだろうか」
新田庄の水番頭が心配顔で言うと、
「ある筈がない。もともと水の量《かさ》が足りないのだからな」
と園田庄の荘官下役が開き直ったような言い方をした。
「そのとおり、その少ない水をどう分けるかが問題だ」
「困ったことだ、旱天の年になると、必ずこの問題が起こる」
それで二人は言葉を切った。これ以上言うと、論争になる。二人は、草叢《くさむら》の中にごろりと横たわった。
二人の胸中には同じような思いが流れていた。集団と集団とが向かい合うと、あれほどはげしい敵意を感ずるのに、個人どうしが面と面を向かい合わせていると、争うなどという気は全く起こらないのだ。むしろ、なんとか早いところ解決策を見出《みいだ》したいという思いだけが先に立った。不思議な気持ちだった。せいいっぱい馬を駈けさせていたその過程で、なにか二人の中には別なものが芽生えていたようだった。
「あの医者がうまい解決案を持ち出したとしたら、おれは一応持って帰って上司に相談することにする」
と新田庄の水番頭は言った。
「それはそうだ。その調停案を受け入れるかどうかの権限はおれたちにはない」
と園田庄の荘官下役は言った。
「つまり、おれたちは、なんとなく堰に出張《でば》って来たというだけのことなのかな」
「まあ、そんなものかもしれない」
二人は顔を見合わせて笑った。二人が笑ったのと同時に、藪《やぶ》の向こうで医者の声がした。
「話はついたようだな、一休みしたところで帰るとしようではないか」
彼等はまだなにも話してはいない。それなのに龍斎は帰ろうというのである。二人は草叢から起き上がって龍斎の顔を見た。
「きまったよ。お前たちがいま言っていたように、わしの出す調停案を持って、ひとまず帰れ。そしてまた明日やって来るがいい」
龍斎が言った。
「ではその調停案なるものを聞かせて貰おうか」
新田庄の水番頭が言った。
「一つの水路の水を二つの庄で分け合うことに問題がある。地形的に、また水路の構造上そうせざるを得なくなっているところに無理があるのだから、そこは人間の知恵でおぎなわねばならない」
「二人の渇きの病人に水も与えず、同時に治癒《ちゆ》できるとでもいうのか」
荘官下役が言った。
「わしは名医だから、それができる。よいかな、よっく聞くがいい。一つの水路の水を分け合うのはむずかしい。それよりも時間で分けたらいい。四刻(八時間)置きに水路の水を切り変えて使えば、夜と昼との掛け水の交替も不公平なく行われる」
とんでもない、そんな不公平なことは承服できないと新田庄の水番頭が言った。
「新田庄と園田庄との水田面積の比は四対一だ。水を時間割にするなら、園田庄には一日のうち二刻半だけ水を送ればよいではないか」
それに対して、荘官下役が反発した。
「新田庄には、別に湧き水もあるし、引き水もある。それらを忘れてはこまる。それに矢場の堰の用水の先取り権は園田庄にあると決まっているのだ。こちらで全部貰ってしまっても、そっちは文句が言えないところだ」
なにっと新田庄の水番頭が言って立上がった。腰の刀に自然に手がかかる。
「待て、待て、喧嘩は何時でもできる。やるなら、二人だけでなく、もっともっと派手な喧嘩をして見せて欲しいものよ」
龍斎はそう言って笑った。
「どうかな、四刻置きの給水はうまい考えだろう、一日を三つに区切るのだから、時間帯がぐるぐる廻る。例えば、これから四刻の間、新田庄に水を送るとすれば、明日のこの時刻になれば、今度は園田の庄が四刻の間だけ水を貰えるということになる」
龍斎は得意気に言った。
「なにがうまい考えであるものか、そんなことなら誰でも気がつくわい。それより水の量《かさ》だ。水田の面積が違うのに、水の量に差をつけないという法はない。こんな一方的な調停案を持って帰るわけにはゆかぬ」
新田庄の水番頭は真青になって言った。
おいおい、水番のお頭《かしら》よと龍斎は言った。
「持って帰れるか帰れないものか、大島小源太に訊いて見るがよい。新田の大殿《おおどの》(新田基氏)様は、調停役の言うことは、そのとおり聞いて参れと下知せられていた」
それでは困ると、水番頭は言った。たとえ調停案がどう決まろうと、そうなるまでの経過には当然、水番頭の意見が入る。こんな悪い条件の調停案が出されたこと自体が水番頭の責任になる。彼はしきりにそのことを強調した。
「もっと大きな目で物を見るのだ。自分だけのことを考えず、いま差しせまっていることはなんだかをよくよく見定めてからものを言うことだ」
龍斎はそう言い残すと、森の木陰につないであった馬に乗り、堰に向かって馳せ帰った。二人はその後を追わざるを得なかった。龍斎の姿を見て、小源太がまず彼の馬の前に手をつかえた。龍斎は大声で叫んだ。
「新田庄と園田庄の代表は激しく言い争って、終には太刀打ちに及ぶほどの口論になった。よって、龍斎は、水は四刻毎に交替して使ったらどうかという調停案を出した。これについて、園田の者は庄の司へ使いを出し、新田の者は由良の大殿の下知をうけたまわって来られよ」
その龍斎の調停案に対して園田庄はまあまあという顔で早速使者を園田庄の司へ走らせたが、新田庄の者は口を揃《そろ》えて不服を唱えた。しかし、小源太の馬が新田庄へ走り去ったのを見てあきらめたように空に目をやった。空は白っぽく乾いていた。雨を降らせる可能性のありそうな雲はどこにも見当たらなかった。
「なにをぼんやりと突立っているのだ。今宵から雨が降るまでの五日間わしは、この堰のほとりの仮小屋で水番をする。その小屋を早く作ってくれぬか」
龍斎はそこらあたりがよいだろうと、指さした。男たちは、雨が降るまでの五日間と龍斎が言った言葉に聞き耳を立てた。五日たったら本当に雨が降るのだろうか。だとしたら、彼はそれをどうやって知ることができるのだろうか。
人々は、しばらくは喧嘩を忘れて、このおかしな医者殿の顔と、空模様とを見較べていた。
新田基氏は調停案を持って帰って来た小源太に、まず御苦労であったと言った。四刻毎の時間給水という案には、
「なるほど、うまいことを思いついたものだ」
と言った。そして、
「即刻帰って、龍斎に承知したと伝え、彼が必要なだけの人数を残して他の者は引揚げるように」
と命じた。水田面積四対一に対して、水を折半するという甚《はなは》だ不利な調停案をそのまま飲みこもうとする基氏に対して、家来達は異様な目で抗議した。
(もし、ここに朝氏様が居られたならば、このままではすまないだろう)
と、言いたそうな目であった。
「水を大事に使うことを考えねばならぬ、流れこむ水は一滴たりとも洩らさず、われらの田に導くことと、われらの同族間ではいかなることがあっても水争いはないように、交替で見廻ることとしよう。水は足りぬ。足りないが大事に使えば、あと五日はなんとかなる。一雨降れば、もはや心配は要らぬ」
大島小源太は、基氏が言ったあと五日という言葉を、ほんとうにそうあって欲しいものだと思って聞いていた。嘘でもいいから、五日後には雨が降るという希望が持てることは楽しいことだった。小源太は馬に乗った。
「間もなく、矢場の堰に行った者も帰って来る。彼等を交えて、田圃の見廻り役五十班を作り、要所要所を巡回せよ。大事な水だ。大事に使わねばならないし、公平に使わねばならぬ。あと五日だ。頑張れよ」
基氏は再び五日後に雨が降ると言った。新田一族のひとりの大館《おおたち》家氏がとうとう我慢ならなくなって、
「大殿様、五日後に雨が降るというのはほんとうでしょうか」
と問うた。
「本当だ。おれは今日の明け方近くに夢を見た。生品《いくしな》神社の鈴がひとりで鳴り出し、社殿の奥から神の声が聞こえた。五日後に沛然たる雨と共に大将軍が誕生するであろうという、神のお告げがあった。このことは龍斎にも話して置いた」
基氏は厳粛な顔で言った。
家氏は、基氏の顔を見た。掴《つか》みどころがないほどに大きな人物と言われている基氏のこの一言をどのように受け取っていいかは分らなかった。家氏は、
「それはまさしく吉夢」
と応じたものの、その後が言えなかった。基氏の嘘であっても、期待であってもいいから、そうであって欲しいと思った。園田氏との水争いに際して龍斎は新田氏側に屈辱的とも思われるほどの不利な条件を押しつけた。しかしその案は、基氏自身が予《あらかじ》め龍斎と協議して決めて置いたのかもしれない。この場は、事を起こさず、ただ切り抜けたい一心から考え出した案だとするならば、それこそ卑屈な妥協と言わざるを得ないと家氏は思っていた。
龍斎による水争いの調停がなされてから五日が経った。水を求めている人々は今日こそ雨がと、外に出て見たが、それらしい様子は全くなかった。龍斎にだまされた、大殿のでたらめにひっかかったなどと、口々につぶやきながら、その日の終わりの太陽を西の空に見送ろうとしているころ、その西の空がにわかに曇り出した。黒雲はまたたく間に太陽を包みかくし、さてはと期待の目を空に投げているうちに大空は厚い雲に覆いつくされ、まだ暮れるには早い時刻なのに、あたりは夜のように暗くなった。厚い雲が、吊《つ》り天井でも静かにおろすように地上に近づき、やがて、一陣の湿った風が吹き出したかと思うと、大粒の雨がいっせいに降り出した。桶《おけ》の水を一度にこぼしたような降り方だった。豪雨は呼吸《いき》もつがずに一晩中降った。あれほど、水、水と水を求め続けていた農民たちが今度は水害を心配するほどの降り方だった。
雨は翌日の午後になって止《や》んだ。一夜で干害は解消した。
この豪雨の真最中に新田朝氏の正室あやの方は、里見郷の里見義秀別邸で玉のような男子を生んだ。時に正安《しようあん》二|庚子《かのえね》年(一三〇〇年)七月二日、第八代新田小太郎義貞の誕生であった。
吉報を持った早馬が里見郷から由良の館へ走った。
「なに男の子が生まれたか、それはめでたい」
里見の郷から由良の館へ戻っていた朝氏は相好《そうごう》を崩して言った。母子ともに健全であったこともまた喜びを深くするものだった。
あやの方が男子を生んだことは、すぐ同じ館にいる基氏にも伝えられた。基氏は早速、書院に現われて、家来たちから喜びの言葉を受けている朝氏に言った。
「第八代の八は末広がりの目出たい字である。わが新田氏がいよいよ世に出る時が来たぞ。その責任を背負って本日生まれ出て来たわが孫のために祝いの盃《さかずき》を上げようではないか」
酒席が用意された。新田一族は、広間に集まって、喜びの歌を歌い、祝いの酒を汲《く》み交わした。
「父上の夢のことを、はじめて耳にしたときは疑っていましたが、今になってみると、まさに正夢だったというわけですね」
と朝氏は基氏に言った。
「正夢であってよかった。そうではなく、尚このまま旱天が十日も続いたら、水を得るため、血を流して争わねばならなくなったであろう。その結着がどうなるかは考えただけで、そら恐ろしいような気がする。わしは夢に賭《か》けて見事に勝った。その気持ちを孫に伝えたい。孫の代になったら必ずや新田氏は興るだろう。夢ではなく現実に覇者《はしや》としての道が開けるだろう」
必ずそうなるのだと基氏は繰返して言った。朝氏は父基氏の顔を見詰めたまま、里見の郷で生まれたわが子の顔を一刻も早く見たいものだと思っていた。
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新田義貞の母が誰であったかを断定する資料はない。「筑後《ちくご》佐田、新田系図」(千々和実編『新田氏根本史料』國書刊行会)によると、
≪母ハ堀口入道ガ養女≫
とある。堀口氏は新田氏の一族である。また、毛呂正憲著『新田義貞正伝』(新田義貞公顕彰会)によると、
≪公は其の父を新田六郎太郎朝氏、母は山名伊豆守の女《むすめ》妙光にして……≫
と記されている。山名氏は、新田義重の長男、義範を祖とする新田氏の支族である。
新田氏には多くの支族があるが、そのなかに羽田氏がある。羽田氏系図に義貞の母のことが次のように書かれている。
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里見判官代|刑部少《ぎようぶのしよう》輔源義秀女
建武《けんむ》二|乙亥《きのとい》年五月四日往生六十一
新田氏研究家たちの歴史学的一般論としては、義貞の生年月日とその母の名は不詳ということになっている。しかし、私はこの羽田系図にある義貞の母を創作の中で生かし、小説全体を光彩あるものとしようと考えた。
義貞の誕生の地については、
宝泉村由良の台源氏館《だいげんじやかた》(現在太田市)
生品村|反町《そりまち》館(世良田館)(現在新田郡新田町)
碓氷郡里見郷(現在榛名町)
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の三説がある。各《いず》れも伝説であって、史料の裏付けがない。
このうち、第三の里見郷出生説は、『新田正伝記』及び里見氏系譜に、里見義秀の長男忠義の子義貞が宗家の新田朝氏の養子となったと記されているのに端を発している。
この義貞養子説は意外なほど広く流布されていて、藤島神社の新田氏系図にもそのように記されている。だが、この養子説には疑義を抱く学者が多く、群馬県教育会発行『群馬県史』においては、取るに足らずと否定されている。『新田氏根本史料』には新田氏関係の八つの系図が入っているのに、この里見系図だけは入れてない。養子説は多くの学者によって否定されたが、誕生地については未《いま》だに明らかではない。里見郷はまさに桃源郷そのままのようなところである。いたるところに、義貞誕生にちなむ多くの遺跡や伝説が残っていた。烏川の清流で産湯《うぶゆ》を使った義貞が、長じた後もしばしばこの地に来て武芸にはげんだという伝説も、雄大なる榛名の山を背景にした美しい風土と、厚い人情に思い合わせて考えると、いかにも真実らしく思われた。
太田市の由良で、畑地に盛り土をし、その上に立てられた「新田義貞公誕生之地」という碑を見た時と、里見の郷に立った時でははなはだしい感懐の相違があった。台源氏由良館跡には堀跡らしいものがあっただけで、館跡を証明するものはなにものもなかった。
反町の新田館の跡はそのまま残され、義貞がここで生まれたとしても、おかしくはないが、小説の上の義貞誕生の舞台とするにはなにか私に躊躇《ちゆうちよ》させるものがあった。私は、義貞養子説は取らなかった。そのかわり、義貞の母が里見義秀の女《むすめ》であるという説を取り、里見郷の義秀別邸(義秀は当時新田庄竹林にいた)に於《おい》て出生したという新説を創り上げた。尚、園田庄と新田庄の水争いについては、『新田氏根本史料』に集録された、
≪上野国園田御厨司訴申新田荘司義重濫妨事≫
を参考とした。
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三人の傅役《ふやく》
新田朝氏は数騎を従えて、里見の郷へおもむいた。男子出生の知らせがあってから数えて五日目であった。午後になって夕立があったが、雨が降りだしたころには一行は里見の郷へ到着していた。
「こちらのほうがずいぶんと涼しい」
朝氏は里見館に着いてくつろぎながら里見家の人たちに言った。
ここしばらくは、産室にいるあやの方やみどりごに面会することは習慣上許されていなかったから、朝氏は見舞いに来たことだけをあやの方に伝言して貰って、別の建物に入った。産室に当てられた部屋に出入りする者はすべて婦人であった。申し合わせたように白い着物を身につけていた。
吉報を聞いて祝いにやって来た近郷の新田氏の一族や、源氏の一族の者が多かった。祝いの品が山のように積み上げられた。朝氏は、おそらく由良の館の方へもこのようなものが多く届けられているだろうと思うと、男子出生が自分だけではなく、新田氏や源氏と関《かか》わり合いのある者にとって大いに意義のあることのように思われてならなかった。
出生の祝いはお七夜、つまり七日目と決まっているのに、その前日に来たのは、この喜びを明日まで待てないからだと、わざわざことわりを言う者もいた。
朝氏は祝いに来てくれた人々にいちいち会った。
「源氏がいよいよ栄えるときが来ましたな」
と大きな声で朝氏に祝辞を言う者があった。その男は武蔵国《むさしのくに》からわざわざやって来た、源氏の一族だった。見舞いの客の中には平家とつながりがある者もおれば、北条氏と縁がある者もいた。これらの人の中でそんなことを言っても、別に|へん《ヽヽ》だとは思われないような妙な雰囲気《ふんいき》の中で、人々はめでたい、めでたいと喜び合っていた。
「神のお告げがあったそうですね」
と言う者もいた。基氏の夢の話が流布されつつあった。
(今度、生まれた朝氏の子は、必ずや、平氏出の北条を亡ぼし、源氏の統領として天下を治めるだろう)
というような期待が、祝物を持って来るすべての人たちの気持ちの中にあるようだった。頼朝の一族が亡び、北条氏が天下を取ってから八十一年の歳月が経っていた。この間、北条氏の一族によって天下は支配され、足利氏以外の源氏の一族は、日陰の道を歩かねばならなかった。しかし元寇の役の後、北条氏はその戦後処置を誤ったがために、地方の豪族御家人の信用を失っていた。
「今度《このたび》、お生まれになった和子《わこ》様は、源氏の祖、源義家様より数えて丁度十三代目でございます。十三という数はまことによい数でございます。源氏の嫡流、十三代様のお誕生によって、世の中の流れは変わるでしょう」
大きな声でそのような祝いの言葉を述べた者がいた。里見の一族の者であった。朝氏は、なにか自分の胸の中を覗《のぞ》かれたような思いがした。
源氏は源義家から始まる。義親、為義、義朝、頼朝、頼家、実朝と続いて、嫡流は絶えた。嫡流が絶えた場合は源流に戻り、義親の弟義国の系統を嫡流と考えるのが至当である。ここで、義国の嫡子新田義重が浮かび、新田氏こそ源氏の嫡流と見なされることになる。この考え方で行くと、新田氏七代目の朝氏は源氏の嫡流十二代目ということになり、今度生まれたみどりごは十三代目ということになる。十三という数がいいか悪いかは別問題として、新田氏一族の者が、新田氏こそ源氏の嫡流と考えてくれていることが朝氏には嬉しかった。
七日目に命名の式が行われた。
母方の館で出生した場合は、出生児の母方の祖父が命名する習慣になっていた。朝氏はあやの方の父、里見義秀に命名を依頼した。
里見義秀はその名をちゃんと用意していた。小太郎と命名された。太郎は長男の太郎である。小は接頭語で深い意味はないが、可愛いという意味にも、ひきしまったという意味にも受取れる。当時は小太郎、小次郎等の名がよくつけられていた。名前とすればごく平凡であり、平穏無事に育って行くようにとの願望がこめられていた。
「小太郎か、これはいい名だ」
由良の館から、祝いに来た基氏が言った。基氏は、小太郎の生年月日と姓名が大書されて壁に貼《は》られたその名の上に、
源氏嫡流第十三代
と書き添えた。そのような肩書きが書き添えられた時点で、小太郎の将来は決定されていたかに見えた。
この日は、幾つかの行事があった。命名の式が終わると、壺に入れられた胞衣《えな》が里見城の外曲輪《そとくるわ》の一角に埋められた。その上を基氏が何度か踏んだ。胞衣の上を最初に踏んだ人の目をその子は生涯恐れるという伝説によったものであった。この場合父の朝氏が踏むのがあたり前のことだが、基氏は、強いてその役を買って出た。小太郎が、生涯、祖父基氏の目を恐れて貰いたいと願ったからであった。
初剃《うぶぞり》の祝いも産屋において行われた。
みどりごの産毛を剃るのではなく、剃り落とすような真似をする儀式であった。
白い産着に包まれた小太郎の周囲には、白い紙を切り抜いて作った剣や甲《かぶと》や馬や長巻きなどが置かれた。あやの方の実母が新しい剃刀《かみそり》を白紙に包み、みどりごの頭にちょっと触れた。みどりごはよく眠っていてびくりともしなかった。
この日もまた、午後になって、はげしい雷雨があった。天地も終わりかと思われるほどの雷鳴が続いた。この中で、父子対面が行われた。朝氏ははじめて、わが子を抱いた。基氏もまた祖父として、小太郎を抱いた。雷鳴がおどろおどろしく鳴りひびく最中だった。
里見の館の前に火柱が立った。館からそう遠くはないところにあった杉の大木が、この落雷によって二つに割かれた。その瞬間、その木を伝わって火龍《かりよう》が昇天するのを見たという人があった。
「めでたいことじゃ、小太郎こそ必ずや天下に雷名を走らすであろう」
基氏はそう言って喜んだ。
宮詣《みやまい》りの式は男子出生後三十一日目に行う習慣になっていた。由良の館では、この日を小太郎の誕生祝いの日ときめ、それまでに祝いの品々を貰った人たちを招待しての宴会が催された。
新田一族はもとより、新田氏と関係ある近くの豪族の多くがこの宴《うたげ》に招待されたが、新田氏とは深いつながりがある足利氏からは誰も来ていなかった。客の来訪時間は必ずしも一致していないけれど、席にはだいたい順位があった。そのように予め準備されていた。新田一族は嫡流に近いものほど、新田朝氏の近くに坐るようになっていた。
当日参集した、郷名苗字《ごうめいみようじ》を名乗る新田氏一族の主だった者は、細谷、下細谷、西谷、安養寺、今井、大館、綿打、堀口、一井、金屋、谷嶋、荒井、田中、村田、寺井、金井、田部井、藪塚《やぶづか》、田嶋、山名、里見、大井田、鳥山、豊岡、竹林、牛沢、太田、大島、得川、世良田《せらだ》、江田、額戸、長岡、鶴生田《つるうだ》などが居並んでいた。順位はほぼ決まっていたが、一族の中の長老者や、山名、里見、得川など、同じ新田一族でも新田氏に比較して、それほどへだたりが認められないような一族の者は、どうぞ、どうぞとすすめられて、上座に坐った。
一族とは直接関係のない、遠くからやってきた近隣の豪族や、源氏の一門につながる者は当然のことながら上座に坐って、もてなしを受けた。
酒宴もたけなわになり、歌など出て来たころになって、一人遅れて岩松政経が来て、園田庄の荘司園田秀俊の隣に坐ろうとした。たまたまその席が空いていたからだった。それを見かけて、大館家氏が政経に声を掛けた。
「政経殿、そこに貴殿の席が用意してござる」
大館家氏が指し示したところは、新田一族の荒井と田中の間の席であった。家氏の声はかなり大きかったので、ほとんどの人はその声を聞き、家氏が指し示している方向を見た。
岩松政経はまさに腰をおろそうとしていたが、家氏の一言に、腰を延ばしてそちらを見た。
(余計のことを言う奴だ。席などどうでもいいではないか)
という目であった。しかし、政経の口から出た言葉はしごくおだやかであった。
「それは有難い。園田の司《つかさ》殿に一献おすすめ申し上げてから、そっちに参りましょう」
政経はそう言って、園田秀俊の傍に坐るとそのまま動こうとする様子はなかった。家氏の言ったことなぞまるで無視した恰好だった。
「礼儀をわきまえぬ奴、このままにしておけば、わが新田一族の名にもかかわる」
と家氏が怒り出した。彼はかなり酩酊《めいてい》してもいた。
「我慢してください。お目出たい日でもあるし、岩松殿は、われわれとはいささか違いますゆえに」
と、綿打為氏が言った。これが家氏を更に激昂《げつこう》させた。
大館の一族の者が、大館家氏を館の外につれだした。酔えば酔うほど、家氏は理屈っぽくなる癖があった。
「さあ言ってみろ、お前たちはなぜ岩松政経に遠慮をしなければならないのだ」
しかし、それに対して、まともに取り合う者はいなかった。岩松政経は新田氏の一族ではあるが、少々異なった存在だった。
新田氏の二代目を継いだ新田義兼には二人の子があった。義房とその妹の来王《らいおう》姫(後来王御前)である。義兼は生涯側室を置かなかった。そのせいか彼は、来王姫を溺愛《できあい》した。彼は新田庄の一部岩松の地を来王姫に与え、婿として足利義純を迎えたのである。だが、これは新田側からの見方であって、足利側では来王姫は化粧料として岩松の土地を持って嫁して来たと解釈していたようである。
しかし義純の子時兼の代になると、郷名苗字を取って岩松時兼と称するようになり、岩松がもともと新田庄の中にあるのだから、岩松氏もまた新田の一族と見做《みな》されるようになった。
岩松氏は父系が足利の出であったから、足利氏に親類が多く、足利氏が北条氏の下で次第に勢力を得て行くに従って、岩松氏もまた出世して行った。新田政義が幕府に反抗して無断で僧籍に入るという事件を起こしたとき、幕府は新田氏の領地の一部を取り上げて、岩松氏に与えた。これによって岩松氏は宗家の新田氏をしのぐようになった。官位を失くした新田氏にかわって、岩松氏は六位の上の官位を得た。岩松氏の存在は光って見えた。
綿打為氏が、岩松氏はわれわれと違うと言ったのは暗にこのあたりのことに触れていたのである。
「お館様が政経の非礼をなぜとがめなかったか、それを訊《き》くまでは帰れぬ」
と家氏は言って、中庭に坐りこんでしまった。彼が坐りこんでいる目の前の廊下を女たちが走って通った。どの顔も緊張していた。奥でなにかがあったのだ。
外で馬のいななく声がした。とすぐ、あわただしく中庭に駈けこんだ小柄の男が、家氏には目をくれず、ひょいと廊下に飛び移って奥の方へ消えた。
「あれは医者の龍斎ではないか。なにが起こったのだ」
と家氏はまわりの者に訊いた。
みどりごが急病だということが知らされたのは、その直ぐ後だった。家氏はそうそうに庭から退出した。客たちも、それぞれ口実を設けて帰って行った。
由良の館は急に静かになった。
夕靄《ゆうもや》が館を包んだ。館の堀のあたりで鳴く鷺《さぎ》の声にさえ人々は神経をとがらせていた。
[#1字下げ] 来王御前《らいおうごぜん》の別名として、こま王があるが、ここでは『新田氏根本史料』の「新田氏族分脈図」による。新田政義が出家して、領地の一部が没収された事実については『吾妻鏡《あずまかがみ》』によった。
「夏風邪だと思います。このようなみどりごには珍しいことだ」
と龍斎は心配そうな顔をしている朝氏と基氏に言った。
「ひどく熱が高いようだが、大丈夫だろうか」
と朝氏が訊いた。
「今宵一夜を無事越したならば大丈夫だと思います」
龍斎は言葉のあとを濁した。大人と違ってみどりごには思い切った手当てはできなかった。自力で恢復《かいふく》するよりほかにいたし方はないのだと言いたいところを龍斎は言わずに我慢していた。
「里見からこちらへ来て十日になる。その間におぬしの厄介になるのはこれで三度目だ」
と基氏は言った。そうですなあと、龍斎は考えこんでいた。みどりごは里見の郷から由良に来ると、すぐ下痢をした。その次が湿疹のようなものにかかり、それが治らぬうちに今度の発熱だった。
「だいたい、みどりごというものはめったなことでは病気にはならぬものです。大人と違って、乳を飲んでおりますから」
と龍斎が言った。
「母乳が悪いのだろうか」
と朝氏が眉間《みけん》のあたりに皺《しわ》を寄せて訊いた。そんなことはない、と龍斎は否定したあとで、
「みどりごはその乳を与える母の心を率直に現わすものです。母の気持ちがただならぬ時は乳の出方も悪くなります。母の気持ちはその乳によって直接みどりごに通ずるのです」
「あやの心に動揺があるというのか」
朝氏はきっとなった。
「いや、そうは申してはおりませぬ。が、里見の郷に居たときより、由良の館へ来たほうが、なにかと気がもめることでしょう。だいいち、あのみどりごに対する周囲の者の目の掛け方が尋常ではない。母親に取ってみれば、母と子だけにして置いて貰いたいのです。由良の館に来てからは、なんだかだと祝いごとが多すぎることも、うるさいでしょうね。さきほどは、岩松殿と大館殿とのいさかいがあったそうですが、そんなこともみどりごの母の耳にはせつなく響くのだと思います」
龍斎はそれだけのことをひとりごとのように言ったあとで、
「みどりごは、不思議に産湯の水に親しむものです。里見の水と由良の水では水質が全く違う。みどりごの病が続く原因はその辺にあるのかもしれませぬ。里見の郷の山は美しい。水も綺麗《きれい》です。母子をもうしばらく里見の郷に置いたらいかがでしょうか。大事なお子なればこそ、そうしなければいけないような気がいたします。わしに、ついて行けと申されるなら、一緒に行ってもよろしゅうございます」
龍斎はそうすることに決めたような顔をしていた。
みどりごとその母は、医師龍斎を伴って再び里見の郷へおもむいた。
龍斎の言ったとおり、里見の郷に行ってからのみどりごは病とは全く無縁になり、順調に育って行った。その年の冬の寒さにも、風邪を引くようなことはなかった。
「やはり、小太郎には里見の水が合うようだ。それならそうで、思い切って、ずっと里見の郷で育てたらどうかな」
と基氏が朝氏に言った。既に、乳母は決まっていたから、あやの方はいつでも由良の館へ帰ることができた。
「だが、小太郎は長男だし……」
と後を言いしぶる朝氏に、
「長男であろうが、次男であろうが、適当な時期を見て、傅《ふ》を選んでこれに付かせるのが武家のならわしだ。何時《いつ》までも親の膝元《ひざもと》に置くわけにはゆかぬ。少々早いには早いが、そうやっていささかもおかしなことはないだろう」
基氏は、小太郎が嫡男なればこそ、幼児教育をしっかりせねばならぬことをしきりに説いた。
「これぞという傅役が見付かれば、そうしてもよろしいと思いますが」
その傅役が右から左と簡単には探せませんと朝氏は言おうとした。
「わしが小太郎の傅となろう。祖父が傅を勤めたという例はかなり多い。わが新田の祖、義重公は自ら申し出されて第三代義房公の傅となったと伝え聞いておる」
そう言われると朝氏には返すことばがなかった。だが、それでは、そのように願いますとも言えなかった。朝氏はいささか神経質なところがあった。外面的には、新田の一族のしかるべき者を傅役として立てたいと思っていた。朝氏の沈黙を躊躇と見て取った基氏は、
「基秀(里見義秀の子、小太郎の母方の伯父)に傅役を頼み、わしがその傅役を手伝うということにしたらどうだ」
基秀の名付役は基氏であり、里見を継いだ人である。基秀がいい、そう決めようと基氏はひとり上機嫌だった。
満一年経った小太郎の誕生日に傅役は正式に決まった。里見基秀は宗家の嫡男の傅役に選ばれたことを非常に名誉に感じた。
「この一身に引き変えても、小太郎様を、天下一の名将に育て上げます」
と朝氏の前で言った。その里見基秀に朝氏は、
「ところで基秀殿、小太郎の傅役はそこもとにお願いするが、なにかとたいへんだろうから、父が手伝いしたいと申しておられる」
とすまなそうな顔で言った。大殿がと、基秀は朝氏と並んで坐っている基氏の顔を見た。基氏は笑いながら、
「心配しないでもいい、そこもとの迷惑になるようなことはしないわい」
と言った。だが、それは口先だけのことで、里見の郷に着くと早々、
「余の寝所は小太郎の隣の部屋に設けるよう手配いたしてくれよ」
と基秀に言った。
「とうとう、大殿が出て参りましたな」
と基氏を迎えに出た龍斎が笑いながら言った。
「余が出て来たからには医者殿はもういらぬ。佐貫の庄へ帰って貰おうかのう」
基氏は里見の郷に落着いたまま、いっこうに動こうとしない龍斎にからかい半分の言葉をかけた。
「これはまた大殿様の言葉とも覚えぬ、冷たいお言葉でございます。わしが此処《ここ》を去ったら、小太郎様が泣きまする」
「いや泣くのはみどりごではなく、みめうるわしい女子《おなご》であろう」
基氏は龍斎が里見郷に来て早々、若い女を探し出して同棲《どうせい》していることを知っていたからである。
「佐貫の庄にも時々は帰ってやらぬとな」
と基氏はまじめな顔で龍斎に言うと、
「時々は帰ります。しかし、小太郎様が、由良の館に帰られるその日までは、私は里見の郷に止《とど》まるつもりです」
すると元服までここに居るのかと基氏は訊きながら、龍斎の目の中に燃え出した火の色を見て口をつぐんだ。
(この男もおれと同じように小太郎の将来に賭けている一人だ)
そう思うと、このいささか奇行に富んだ医者の龍斎が油断ならぬ男に見えて来るのである。
「大殿様が傅役の助《す》け役ならば、私は助け役のそのまた助け役ということになりましょう。そのうち、この助け助け役が小太郎様にとってはなくてはならぬ者であることが大殿様にも必ずやお分りになるときが来ると存じます」
龍斎が言った。
「助け助け役などというものは本来要らぬ。そもそも傅役とは、その御子に一つの確立した人格を植えつけることがその責務である。従って、横からなんだかだと言われるとかえって困るものだ。そのことは充分わきまえておろうな」
基氏は言った。ちゃんと念を押して置かないと、この医者がなにをしでかすか分らないと思ったからである。
「充分わきまえております。多分私の心と大殿の心とは一つだと思います」
「一つとは?」
「その一つというのは小太郎様を天下に号令する将軍の器に育て上げることではないでしょうか」
基氏は龍斎に意中を言い当てられて狼狽《ろうばい》したが、すかさず立直ってきびしい顔で言った。
「龍斎、今後、いかなることがあっても、人前でそのようなことは言うな」
基氏と龍斎とは視線をからみ合わせたまましばらくは動かなかった。
小太郎は三歳の年の十一月、吉日を選んで、髪置《かみお》きの祝いの座についた。この日は由良の館から、朝氏が出席したが、あやの方は次男の二郎を生んだばかりだったから、出られなかった。
この日、小太郎は傅の里見基秀、祖父基氏、医師龍斎、里見氏の支流で小太郎の乳母となった多胡《たこ》義行の妻まさるやその子供義道(小太郎の乳兄弟)たちと共に、里見郷の八幡神社に詣《もう》で、神官の手によって、髪置きの儀式が行われた。
それまで坊主頭に剃っていた小太郎の頭のてっぺんにわずかながら頂髪が剃り残された。神官がそこに剃刀をちょっと置くだけで儀式は終わった。この日より小太郎は、みどりごではなく、幼児としての取扱いを受けることになった。その夜、里見の館では盛大な祝いがなされた。
「基秀殿、小太郎をこのように丈夫に育て上げてくだされ、まことにかたじけなく思っている。お礼の申しようもない」
と朝氏は心から礼を言いながら小太郎を見た。
由良に連れて帰りたいと思った。頭の上に髪を残した小太郎を見ると、こんどこそはという気になるのである。
「弟の二郎も生まれたことだし、そろそろ小太郎も……」
由良の館へ連れて帰りたいと言おうとすると、基氏が機先を制するように言った。
「なにを言うのだ、朝氏。一度、傅の役を、基秀殿に頼んだからには元服まではまかせて置くのが当たり前のこと。小太郎を連れ帰るということは、なにか里見殿に落度があってのことと世間では見るだろう。それでも連れて帰る気か」
いささか気色ばんだ言い方だった。朝氏は返すことばがなかった。
小太郎が五歳になったとき、袴着《はかまぎ》の式が、やはり十一月の吉日を選んで行われた。
小太郎は碁盤の上に立たせられた。傅の里見基秀が、小太郎の袴を持って、
「小太郎様、まず左足から先にお入れなされませ」
と言った。左足から先に入れるのが袴着の式の習慣となっていた。
だが、小太郎は一瞬たじろいだ。左足を上げようとして上げずに、右足から先に踏みこもうとした。そうではございません、こちらからでございますと、基秀が小太郎の左足を押えて言うと、
「小太郎は右足の方を先に入れたいのだ」
と小太郎ははっきり言った。もともと、こんなことはどちらからでもいいのだが、そういうしきたりになっていると、それを破ることに、居並ぶ者のすべてはなんとなく、おだやかでないものを感ずるのである。
「源の義家様は袴着の儀の時、右足から先に入れたと言い伝えられております。大殿様もその話を御存知かと思いますが」
と龍斎が言った。龍斎の思いつきの出まかせであった。基氏は、それを承知で大きく頷《うなず》いた。知った風を装ったのである。小太郎の強情は通って、袴着の儀式は終わった。
小太郎の性格は五歳の袴着のころから、はっきりと表われるようになった。自我の強い子であった。わがままな子であった。それを直すために、基秀と基氏はいろいろと気を配っていたが、龍斎は、
「角を矯《た》めて牛を殺すということわざがございますが、どうやら、ご存じないようですな」
と皮肉を言った。龍斎は、小太郎のその我の強さこそ生かすべきだということをしきりに主張した。基氏も龍斎の能弁に言い負かされることがあった。
小太郎が数え歳で七つになった年の一月元旦に、読書始めの儀が行われた。師は里見郷安養寺の住職|磬岳《けいがく》であった。磬岳は小太郎の師となるために、わざわざ新田庄の長楽寺から招待されて来た学僧だった。
小太郎は「孝経」を読んだ。これが学問の初めであった。彼の乳兄弟の多胡義道が小太郎と席を同じくした。義道は利発な子であった。小太郎は義道に負けまいとして努力しているのがはたにもよく見えた。我の強さが、競争心となって出て来たのを見て龍斎は、
「ごらんなされ、小太郎様を。やはり牛の角は矯めずに置いたほうがよろしいでしょう」
と言った。
学問をするようになってから小太郎は、なぜ自分が、父母や弟妹たちと離れて、里見の郷に住んでいるかを、基秀や基氏に訊《たず》ねることがあった。その度に、基秀や基氏は小太郎が新田家にとっていかに大事な人であるかを教え、その大事な人を立派に育て上げるために、里見の郷に来ているのだと教えた。
「だが、やがては由良《ゆら》の館《やかた》へ帰るのでしょうね」
小太郎はそれを基秀に確認してから、
「由良の館に帰ったら、和子《わこ》は城を作るぞ、由良の館は城ではない。大将になるには城がなければならない」
と言った。
里見の郷には城があった。典型的な山城で地形を利用して、幾つかの曲輪《くるわ》が作られていた。見上げるような立派な塁もあるし、落ちたら、なかなか這《は》い上がれないような深い堀も要所、要所に設けてあった。本丸に建てられた館はそれほど立派なものではなかったが、いざという時には、千人もの人がこもることができるように作られていた。
城とは、塁や堀割りや、堀切りや、曲輪を総称するだけではなく、その背後の山も含めて、すべてが城であることが、幼い小太郎の心に明確に刻まれた。
その城には平常は留守番しか居なかった。城は戦争の時だけのもので、城に隣り合わせた山の斜面に建てられた館が里見一族の住居だった。小太郎は、住居と城との地的関係にも興味を持ったようだった。小太郎の遊び場が、城を中心としての山へ向けられたのは、このころからだった。安養寺での勉強が終わると、その足で彼は城を目ざして駈け登って行った。その小太郎のうしろ姿を見て、傅役らは目を細めて喜んでいた。
成長する小太郎に対して傅役たちは、それぞれ独特の接し方をしていた。正式な傅役である里見基秀はその任務を「源氏嫡流の子として恥ずかしからぬ礼儀作法を教えること」に主眼を置いた。
里見氏は豪族ではあったが、上野国の山地の領主である。中央で通用している礼儀作法がどんなものかは知るよしもなかった。基秀は以前から北条氏につかえている、里見一族の一人、田中清成を鎌倉から呼びよせて小太郎の作法の師とした。清成は家督を清氏に譲って、現在は隠居の身であった。
「武家の礼法のことなら、一応は心得ておる、まかせていただきましょう」
と清成は基秀に言った。
「いや、武家の礼法ではなく、源氏の嫡流としてふさわしい教養作法を教えていただきたいのです」
と注文をつけると、
「まかせてくだされ、これでも拙者は若いころは数回にわたって、京都にも行ったことがある」
京都に行ったのは大番役としてであって、それが作法と直接関係はなさそうだったが、清成はなにかと言うと京都を口にし、鎌倉を語ろうとした。しかし、清成は口先だけの男ではなく、小太郎の教育には非常に熱心だった。分らないところは本を読んだり、鎌倉に使者を出して尋ねたりした。
小太郎は、作法とか礼儀などということは大嫌いだった。この勉強の時間は妙にすねた。この席には必ず出席する、基秀の顔を見て、
「坐り方だの、歩き方だの、目の配り方、口のきき方、箸《はし》の使い方、お辞儀の仕方などどうでもいいではないか、なぜそんなことまで勉強しなければならないのだ」
小太郎は不満げに言った。
「今は、必要でございませんが、和子様がやがて大人になって、京にのぼり、尊い人とお会いなされるような時になると、この爺《じじ》から習ったことが初めて役に立ちます」
清成はそう言った。清成と基秀が小太郎に教えたものを一言にして言えば「礼儀作法」だった。
小太郎は、絵に書いた京都を見たことがある。京都はなんとなく想像できたが、尊い人というのが誰だか分らなかった。それを教えるのが基氏だった。
「尊い人とは即《すなわ》ち天皇である。天皇とは万民の上に立つ人である」
基氏は天皇がいかに偉い人であるか、そして天皇の下で働く公家《くげ》、その下にいる武士との関係を語り、そして源氏代々の武勇を語るのであった。基氏は『平家物語』を小太郎にしばしば読んで聞かせた。小太郎は、合戦の場になると目を輝かして聞いた。
基氏が傅役として小太郎に教えたのは、結局は「将軍学」であった。小太郎が欠伸《あくび》でもしようものなら、
「やがて大将軍になる和子が、なんたることぞ」
としかりつけた。
龍斎は里見郷に来てからも名医として通り、近隣の者に重宝がられていたが、もともと、小太郎の侍医として来たのであるから、なによりも小太郎の健康を第一と考え、常に小太郎の近くにいた。彼は常日頃、
「身体の病を治すことだけが医者の役目ではない。身心共にその健康を守るのが医師のつとめじゃ」
と言い、小太郎様の助け助け傅役とも称していた。基氏も基秀も、その龍斎の第三の傅役を黙認していた。
龍斎の傅役としての役割は戸外における見守りであった。小太郎が、基秀の「礼儀作法」だとか、磬岳和尚の「読み書き」だとか基氏の「将軍学」から解放されて、外に出て来たときが龍斎の出番だった。龍斎は声を上げて小太郎を出迎え、小太郎と共に裏山へ出かけたり、時には川に魚を取りに行くこともあった。
龍斎が小太郎に、戦さ遊びをすすめるようになったのは小太郎が十歳になってからだった。戦さ遊びをするには、一人ではできない、十人、二十人、時にはそれ以上の人数がいる。龍斎はそれ等の少年たちをちゃんと用意して待っていた。組を二つに分けて、一方の旗頭には必ず小太郎を立てるのも龍斎らしいやり方だった。
「わしは軍監となって両軍の合戦ぶりをとくと拝見、どちらが勝ち、どちらが負けたかを見分けてやろう」
と龍斎は言って、子供の戦さごっこの中に立っていた。
このころの子供の戦さごっこには石がよく使われた。石という武器で相手を制圧し、棒という太刀で相手に襲いかかった。子供たちはあらかじめ、それぞれの陣地を設営した。その陣地の中央に旗を立てて置きそれが相手に取られたら負けであった。敵の旗を奪い取ったとたんに、味方の旗も敵に取られてしまったというような、滑稽な終わりになる場合がしばしばあったし、双方が激しく争って怪我人を出すこともあった。
戦さごっこの陣地は、普通、山一つ離れるか谷一つへだてて選び、双方が物見を出すことから始まった。物見と物見が出会って組打ちとなり、敵の物見を捕えて帰ることもあった。そのために縄まで用意していた。遊びとはいえ、切実感があった。
龍斎は軍監だと自ら称してはいるが、実際には小太郎の軍師的な役割を兼ねていて、適切な指示を与えていた。
彼等の戦さごっこにはごく簡単な法則のようなものがあった。半数が陣を守り、あとの半数が遊撃隊として敵を攻撃するというのが一般的な戦術だった。
小太郎は、好んでその遊撃隊の隊長となった。味方十人とともに、敵の本陣に殴り込みを掛けたこともあった。石に負けて敗退したことがあった。小太郎が投石を眉間《みけん》に受けたときは、基秀は龍斎を呼んでひどく叱った。追放するとも言ったが、基氏の取りなしで、どうやらそのまま止まることができた。
小太郎は源氏嫡流の貴公子的性格と餓鬼大将的性格を持った少年として育てられて行った。
小太郎の戦さごっこは次第に本格的なものとなって行った。十二歳のとき彼は少年たちを率いて烏川を越えた。そこは長野郷で、長野氏の領地であった。
里見郷の少年たちが烏川を越えて来たことは長野郷の少年たちにとっては由々しき大事であった。自分たちの遊び場を奪われて黙ってはおられなかった。河原で石合戦が連日のように行われた。この年の夏は、雨が少なく、烏川の水は少なかった。里見郷の少年たちが浅瀬を越えて対岸に行くことはそれほどむずかしいことではなかった。
小太郎は、大きな少年たちを選んで、渡河点に、縄を張り、それにつかまって、対岸との間を往復した。この渡河点が、味方にとっても敵にとっても重要な場所となった。
小太郎は渡河点を確保すると、対岸の段丘を占領して、ここに新田氏の旗を立てた。丸の中央に太い横棒を一本引いたいわゆる大中黒《おおなかぐろ》の旗であった。
長野郷の少年たちは体面上なんとしてでもその旗を倒さねばならなかった。少年たちの数は次第に増加して行った。敵の数が増えれば味方の数も増えた。双方とも、本陣の周辺に、出城を模した陣地を作り、奇襲攻撃によって、それらの出城の争奪戦を展開した。
里見郷の内部での戦さごっこでは、お互いに顔見知りであったから、怪我人が出るほどのことはごく稀《ま》れであった。しかし、相手が他郷の者となると、遠慮しておられなかった。石の投げ合いでも、棒を持っての殴り合いでも本気でかからないとこっちが負けてひどい目に会わされる。少年たちは目の色を変えて争った。
小太郎は餓鬼大将となってから、彼の家来に四天王を作った。基氏から聞いた物語を真似たのである。喧嘩《けんか》の強い少年四人を抜擢《ばつてき》して、彼等にその名を与えた。少年たちはこの四天王があこがれの座に見えた。四天王についで、小太郎は里見二十五騎を決めた。少年たちの戦さごっこだから馬はないが、戦さのうまい少年をこの中に加えた。四天王の少年も二十五騎の少年も固定したものではなかった。働き如何《いかん》によって、絶えず入れ替った。少年たちはこの名誉ある一群に加えられようとして一生懸命に働いた。
里見郷の少年は次第に勢力を得て、長野郷の少年たちを圧迫して行った。
長野郷の少年たちは里見郷の隣郷若田郷の少年たちに援軍を求めた。長野郷と若田郷の少年が力を合わせて、里見郷の少年たちを攻めようという相談がまとまった。
龍斎はこの情報を掴《つか》むと、小太郎に若田郷の少年たちに切り餅を贈って味方に誘いこむことをすすめた。
「これは、戦術です。けっしてきたない手ではございません」
龍斎は躊躇《ちゆうちよ》する小太郎にその理由《わけ》を説いた。小太郎はしぶしぶそれを承知した。
それから間もなく、乾いた丘の上で少年たちの大合戦があった。長野郷の少年たちは、里見郷の少年たちと若田郷の少年たちの挟《はさ》みうちにあって大敗した。
小太郎は里見郷を中心とする偉大なる餓鬼大将となった。
小太郎が十三歳になると、近隣近郷の少年たちをほぼその勢力下に収めていた。
「和子さまの戦さごっこは、子供の遊びとは言えない。まるで大人の戦争だ」
と小太郎のことを批判するものがあった。大人の戦争だというのは、四天王や里見二十五騎をそろえたり、少年たちに餅を与えて味方につけるなどというやり方が子供らしからぬ振舞いだと目に映ったからである。
戦さごっこに夢中になっていて、崖《がけ》から落ちて死んだ子や、組打ちをしたまま二人とも溺《おぼ》れ死んだという事故が相次いで出たので、近郷の名主《みようしゆ》たちが揃《そろ》って、里見基秀に善処を希望した。
「あの龍斎どのは医師としてはまことに有難いお人ですが、戦さごっこの指南役としてはまことに困ったお人でございます」
と、はっきり龍斎の名を指して非難する者もいた。基秀も、基氏も黙ってはおられなくなって、龍斎に、戦さごっこを慎むように言うと、
「和子はもうすぐ元服ですから、そろそろ戦さごっこはやめにして、もっと高尚な遊びをおすすめしようと思っております」
と答えた。
「高尚な遊びとはなんだ」
と基秀が聞いたが、龍斎は笑って答えなかった。
小太郎は年齢よりも、体力も智力も発達していた。郷の少年たちと交っている間に、知らないことを数多く覚えた。その中で、彼がもっとも興味を持ったのは性にかかわる話だった。郷の少年はそういう話をあけすけに話した。既に、そのことを経験したかのごとき口ぶりで話してきかせる少年もあった。
だが、そういうことを目を輝かせて聞くのも、野に出たときのことであった。小太郎がひとたび館の中に入ると、そこには、きびしい礼儀作法、読み書き算法、そして、将軍学が待っていた。おくびにも、みだらなことは口に出せなかった。
「妻問《つまど》いについてくわしく教えてくれ」
と或る日、小太郎は龍斎に訊《き》いた。
「一人前になった男が、恋しいと思う相手の女のところへ、夜ひそかに忍んで行くことです」
と龍斎は答えた。
「忍んで行って、それからなにをするのだ」
「語り合い、親しみ、そして心が通ずれば、交媾《まぐわい》をするのです。夫婦としての盃《さかずき》を交すのはその後になります」
それを聞いて小太郎はぱっと頬を紅潮させた。その意味が分ったからだった。
「和子様には好きな女子《おなご》がおられるでしょう」
と龍斎がかまをかけると、小太郎は身の置き場所もないように取り乱し、そんな女の子はいないと言い張ったが、いや確かにいる筈ですと、龍斎が問いつめると、
「広神《ひろがみ》の……」
とまで言って、顔を伏せた。紅潮した輝きの中に、少年から青年になりかけた顔があった。龍斎はその小太郎の顔をたのもしそうに眺めながら、おまかせ下さいと言った。
小太郎は龍斎の後からついて行った。
堀にかかっている橋を渡ったところで、龍斎は駈けよって来た三頭の犬に餌《えさ》を与えた。小太郎にも用意して来た乾肉《ほしにく》の半分をわたして犬に分けてやるように言った。龍斎はいつの間にか広神家の犬を手なずけていたようであった。広神家は里見氏の出でありこの付近に土地を持っていた。堀にかこまれた居屋敷はどこか館に似ていた。中庭を囲むように、家が立ち並び、土蔵は居住区と離れて立てられていた。龍斎は中庭に立って、屋敷の一角をゆびさした。そこに灯が見えた。
小太郎は犬どもを従えて、その灯の洩れる部屋に向かった。彼は足を忍ばせていたが、その灯の部屋にいる人は、彼の近づくのを知ったのか、無言で戸をおし開いた。家の中の人の姿は見えなかった。
彼が入ると、戸は閉められ、彼と入れ替わりのように老女がそこから姿を消した。
広神の阿久美《あくみ》は灯の前に坐っていた。口さがない村の少年たちと共に、秋祭りの折、八幡神社で見染めたときよりも、遥《はる》かに女らしくなっていた。長い黒髪が彼女が坐っている敷物につきそうだった。彼の来るのを待っていたらしく、明るい花の模様の小袖を着ていた。灯に映って紅潮して見えるのか、それとも小太郎が来たので紅潮したのか、彼女の顔は酒に酔ったように見えた。阿久美は既に十三詣《じゆうさんまいり》(初潮の祝い)が終わっていた。
彼女が小太郎の妻問いに応じたのは、龍斎がこの家の者にあらかじめ交渉してあったからであるが、ことは、あくまで、小太郎と阿久美の二人だけの忍び会いの形で進められていた。そのころの習慣だった。小太郎は阿久美をなんと美しいひとだろうと思いながら眺めていた。どこがどうということはなく、身体《からだ》中がまぶしく見えた。
「外は星月夜です」
と小太郎は言った。そんなことしか言うことがなかった。
「外は星月夜ですの」
阿久美は顔を上げて笑った。歯並びがよい。その歯の白さが彼女の色白さを象徴していた。つぶらな瞳《ひとみ》が小太郎を見詰めていた。小太郎は視線が合うと胸のたかまりを感じた。いままで経験したことがなかった。
「外は星月夜でした」
「そうですか。外は星月夜でしたか」
二人は同じことをまた言って、そして声を合わせて笑った。それだけでまた話はとだえた。小太郎は阿久美との間の三尺ほどの距離をなんとしてもつめることができなかった。阿久美の傍《そば》へ行きたいのだが行けなかった。
「私はもうすぐ元服だ」
「そうですわね。元服なさると、小太郎さまは由良の館に帰られるのでしょう」
そう問いかけて来る阿久美に小太郎はどう答えていいのか分らなかった。
「いつまでも里見に居たい」
「なぜ……」
阿久美が居るからここを離れたくはないのだと小太郎は言いたかったが、言えなかった。なぜこうも、言いたいことが言えないのだろうか。小太郎は次の言葉を探していた。
先ほど小太郎と入れ違いに部屋を出て行った老婆が再び現われ、低い声で、
「龍斎様が外でお待ちでございます」
と小太郎に言った。もう帰れということらしかった。
まだ一刻《ひととき》(二時間)経ったか経たないかの時間なのに、小太郎は帰りとうはないと思った。一夜、阿久美と語り明かしてもよいと思っていたが、龍斎の名が出るとそうしているわけにもゆかなかった。
「明日の夜、きっと来る」
と小太郎は阿久美に言った。阿久美は、低い声でお待ち申上げておりますと答えた。
小太郎が外に出ると戸は閉められ、そこに龍斎と犬どもが待っていた。
「妻問いはあせってはいけません。静かに静かに近づかねばなりません」
と龍斎が言った。それは、三尺の距離を少しずつ詰めて行くことを言っているのだと小太郎は思った。
星月夜の道を小太郎は酔ったような気持ちで歩いていた。龍斎が話しかけても返事をしなかった。彼の心の中に阿久美の姿がいっぱいにひろがっていた。寝所に帰ってもすぐには寝つかれなかった。
第二夜は落ちつけなかった。龍斎が迎えに来るまでじっとしていろと言われてもそれができずにいた。小太郎は自分の容姿が気になった。鏡など見たこともないのに鏡を見た。薄い髭《ひげ》が気になった。もっとたくましい髭がほしいと思った。阿久美になにか持って行ってやりたかった。それを龍斎に相談したいのだが、龍斎はなかなか姿を現わさなかった。
春の夜風は小太郎の心をくすぐるように吹いた。小太郎は龍斎に阿久美になにか贈り物をしないでもいいのかと訊いた。それは小太郎の思いつきではなく少年たちから何度かそのようなことを聞いていたからであった。
「それは心が通じ合ってからのことでございます。だが和子様が今宵なにかを持って行きたいと思うならば、花の一枝でも持って行ったら如何《いかが》でしょうか」
花と言われてもそのあたりに花は見当たらなかった。こういうことになるなら、昼の間にちゃんと用意して置けばよかったと思った。
「しばらくお待ちあれ」
龍斎はそう言って、闇の中に消えると、何処《どこ》からか梅の花の小枝を折って来た。小太郎はほっとした。
阿久美は小太郎が持って来た梅の花の小枝を貰って喜んだ。きのうの夜のように固くはならずに話がそれからそれと続いた。
小太郎が知っていて、阿久美が知らないことや、阿久美が知っていて小太郎が知らないことが多かった。二人が共通の話となると、里見の郷のことだった。
「里見は好きだ。それ以上に阿久美が好きだ」
小太郎は言った。言おう言おうと考え続けていた言葉だった。
「私も、私も小太郎様が好き……」
と阿久美が言って、うなだれた。恥ずかしくて小太郎の顔も見ることができないようだった。その阿久美の顔が泣き出しそうにも見えた。美しいと思った。抱きしめたいと思って、阿久美の肩に手を掛けようとしたとき、外で老女の声がした。
翌日、小太郎はいつものように少年たちを集め、その日の戦さごっこの相談をしようとしたが、なぜか少年たちは小太郎の方を見て囁《ささや》き合っていて、彼の言うことを聞こうとはしなかった。その原因はすぐ分った。
「小太郎様は女くさい……」
と一人の少年が小太郎の傍へ来て、犬のように鼻を鳴らしながら言った。笑いが起こった。少年たちはてんでに露骨きわまる卑猥《ひわい》な言葉を小太郎に投げつけた。阿久美の名を出す者もいた。梅の花の小枝を持って忍んで行き、翌朝まで阿久美のところにいたなどという者もいた。一刻ほどで帰って来たのに、そんなふうに言われると小太郎は腹が立った。だいいち、自分と阿久美の間には今のところ、改まって言うような事態は生じてはいない。
小太郎が怒ると少年たちは面白がってはやし立てた。戦争ごっこどころではなかった。
龍斎と二人だけでこっそり忍んで行ったのに、なぜそのことが少年たちの間に知れわたったのであろうか、小太郎は何処かで自分を監視している目を感じた。
この日から小太郎を取り巻く館の者の目がきつくなった。第三夜も龍斎と共に阿久美を訪れることになっていた。ところが、小太郎の寝所の外にはその夜に限って見張りが立った。龍斎が近づくこともできないし、小太郎が館を出ることもできなかった。小太郎は阿久美を恋うた。なんとかして館を出たかったが、こう監視の目がきびしくてはどうしようもなかった。何故《なぜ》阿久美のところへ行ってはいけないのだ。彼はその言葉を大人たちにぶっつけたい気持ちでいた。
そのころ、龍斎は基氏に呼びつけられて、油をしぼられていた。
「小太郎は新田氏を再興すべき人間だ。まだ元服も済まない彼に女をすすめるとはけしからぬことだ」
そういう基氏に龍斎は平然と答えた。
「小太郎様が新田氏を再興すべき大事な人間であればあるほど、人間としての教育は必要でしょう。元服前であっても、小太郎様の身体は既に大人です。女性に対する正しい認識を与えねばならない年ごろです。私は医者としての立場から小太郎様の妻問いの案内をいたしました。元服の前だの後だのという形式的なことよりも、小太郎様の春の芽生えを素直に伸ばしてやって、一人前の男にすることのほうが先決問題です」
しかし、基氏はその龍斎の言い分を取り上げなかった。
「そのようなことが必要だと思ったら、なぜ基秀かこのわしに相談しなかったのだ。そちは、傅役《ふやく》をないがしろにするようなことをした。なんとしても許すことはできない」
「ではいかがしたらよろしいでしょうか」
「小太郎にはもう、医者の付き添いは無用だと申しているのだ」
基氏は龍斎にはっきりと言った。龍斎もそれを覚悟しているようであった。
小太郎は悶々《もんもん》とした第三夜を送った。夢とも現《うつつ》ともつかないところで阿久美を思い続けていた。たった二夜だったが、阿久美との短い逢瀬《おうせ》の語り合いが思い出された。言葉だけで手も握り合わなかったことが悔いられた。梅の花の小枝を折って、花の簪《かんざし》がわりに髪にさした阿久美の笑い顔と、その梅の花とともに匂って来る阿久美の髪のにおいが小太郎には、たまらなく甘い思い出だった。夜中、何度か目を覚まして脱出を試みたが、見張りが厳重でどうしようもなかった。
「お前たちはもう帰れ、帰って休むがいい」
と言っても、彼等は聞こえないようなふりをしていた。
あっちへ行けと怒鳴っても反応はなかった。強いて外へ出ようとするとたちまち数人の者が現われて、怖い目で小太郎を見据えた。どうにもしようがなかった。龍斎を呼べと言っても取次いではくれなかった。
小太郎は明け方になって、うとうとした。鳥の声で目を覚ましたとき、阿久美との恋はあきらめねばならないだろうと思った。彼の直感だった。
翌朝、小太郎は起きてすぐ基氏に呼ばれた。基氏の他に正式の傅役の基秀もいた。二人ともひどくきびしい顔をしていた。二人の前に龍斎が青い顔をして坐っていた。
「まだ元服もすまないうちに妻問いをするとはなにごとぞ」
小太郎が坐るのを待たずに、基氏は声を大にして小太郎を叱った。
「たとえ、龍斎にすすめられたからといって、そのようなはしたないことをするとはなにごとぞ」
小太郎は頭を下げた。なぜあのことがはしたないのか考えていた。
「郷で夜起きたことは、たとえ犬の子一匹生まれても、朝のうちに郷中に知れ渡ってしまうのだ。ことに今度のことは、郷の者にとっては|たいへん《ヽヽヽヽ》な事なのだ」
基秀が言った。基秀はたいへんな事だと言っただけで小太郎を叱ることはなかった。
小太郎は、その場を下がって、安養寺の磬岳《けいがく》和尚のところへ学問に行った。
磬岳和尚は大きな眼をむき出して小太郎を睨《にら》んで言った。
「これから学問の時間は倍にする」
その学問の時間が終わって館に帰ると、馬に乗った龍斎が館から出るところだった。従者がついていた。どうやら旅へ出るらしい服装だった。龍斎は、小太郎の姿を見ると馬からおりて、小太郎の前に手をつかえて言った。
「もはや、二度とお目にかかることはございますまい。どうぞ立派な人間として世に出てくださいませ」
龍斎の目に涙があふれていた。
「どこへ行くのだ。なぜもう二度と会えないのだ」
小太郎の問いに対して、龍斎は答えなかった。小太郎に妻問いをすすめた科《とが》によって追放されるのだとは言えなかった。龍斎はけっして悪いことをしたとは思っていないからである。
小太郎は龍斎が里見から追放された数日後に、太田庄由良の館へ帰ることになった。
基氏と基秀が協議し、更に太田庄の朝氏とも相談した上で、小太郎をこれ以上里見郷に留め置くべきではないという結論に達したからだった。小太郎は、多くの少年たちに見送られて里見郷を後にした。彼は馬上で手を振りながら、少年達と再会を約した。
[#ここから1字下げ]
新田義重の次男、義俊が里見の郷へ入って里見義俊と称し、築城に取りかかったのは、久寿《きゆうじゆ》元年(一一五四年)ころと言われている(樋口秀次郎著『榛名町の文化財』榛名町教育委員会発行)。義俊以来、里見氏は榛名|山麓《さんろく》で次第に勢力を増した。郷名苗字《ごうめいみようじ》を持った里見氏支族も多い。田中、大井田、鳥山、豊岡、竹林、牛沢、太田、大島等である。当時里見氏が住んでいた里見の郷は現在榛名町になっている。山城の跡は、碓氷城址《うすいじようし》(城山)、上里見城址(神山城址)、里見城址の三つがある。里見城址は戦国時代になって出来た城らしいので、上里見城址が小太郎義貞が居たころの城跡であろう。神山城址に立つと眼下を烏川が流れ、その川の向こうに、戦国時代になって、武田信玄に亡ぼされた箕輪《みのわ》城址、鷹留城址などが望見され、更に視線を延ばすと、榛名山の群峰と、その右手はるかに赤城山が見える。
神山城址には堀、切り通し、腰曲輪の跡があり、御殿、馬場などの地名がそのまま残っている。山城というよりも、山城風の館跡と言ったふうな一種の風格を備えた山城であったのだろう。
里見の郷は、山と谷、丘と沢――とが織り成して続く、風光|明媚《めいび》な土地であって、高いところから関東平野を望むと、そのひろがりが海のように見える。関東平野が海だとすれば、里見は入江であり、舟が集まる港である。
里見は信濃《しなの》方面へ抜ける交通の要衝《ようしよう》であった。そのころの道しるべが、ところどころに残っていた。堀ノ内というところには、里見姓を名乗る旧家が数軒かたまっており、屋敷の周囲に植えられたカシの防風林が榛名おろしに鳴っていた。そのすぐ隣に、紅梅と辛夷《こぶし》の白い花に飾られた、里見氏一族の菩提寺《ぼだいじ》光明寺があった。徳川時代に入ってから烏川の大|氾濫《はんらん》があり、その後、現在地へ移転したので里見氏上代の墓石を見ることはできなかった。
義俊が建てた八幡神社は郷見《さとみ》神社と名は変わったが、鬱蒼《うつそう》たる樹木にかこまれて河岸段丘の上にある。
安養寺の跡には公民館が建てられ、私が取材に行ったときは、そこで春の農事についての打合せ会がなされていた。安養寺は無くなったが、その跡に阿弥陀如来《あみだによらい》を彫った笠塔婆《かさとうば》が残っていた。文永元年(一二六四年)の文字が刻まれていた。小太郎義貞が生まれる三十六年前のものである。
榛名町は地形が複雑だから、移動するたびに眺めが変わる。それがまた楽しみの一つであった。
小さな梅林の丘のいただきに立ったとき、草津白根山が榛名山の左側に見えた。突然だったので私は目をこらした。里見には花が咲いているけれど、草津白根は雪に覆われていた。そっちから吹いて来る冷たい風に向かうと、思わず襟《えり》を合わせたくなるような寒さだった。
[#ここで字下げ終わり]
足利《あしかが》で見たもの
小太郎は十五歳の六月、由良の館で元服の式を行った。
直垂《ひたたれ》を着せられて坐らされた、彼の頭に、烏帽子《えぼし》が置かれた。
新田(安養寺)貞氏が烏帽子親となって、これらいっさいの儀式を取り行った。小太郎は貞氏の一字を貰って、義貞と名乗った。貞氏は小太郎の祖父基氏の弟であり、文武両道に勝《すぐ》れた人物だった。
「元服すればもう大人だ。昔は、元服と同時に添臥《そいぶし》(元服した少年に添寝をする女性)まで決められたものだ」
祝宴の席で、大きな声でそんなことを話している者がいた。
「今だって京都や鎌倉に住んでいる大人《たいじん》は添臥の風習をそのまま伝えているそうだ。要するに元服すれば、男女の交りは許される。小太郎様にも、既にその当てはあるのではないかな」
などという者もいた。それを耳にした基氏が言った。
「小太郎は元服した。身体だけは大人のようだが、心はまだ子供だ」
基氏は六十三歳だった。小太郎の教育に晩年をかけて来た基氏には、先が気掛りだった。
「元服した義貞には傅役《ふやく》は要らない。しかし、これからの義貞には傅役以上の傅役が必要だ」
基氏は近くに坐っている一族の大館家氏に言った。
「義貞殿の後見役――つまりは将来家宰となるべき人が必要だとおっしゃるのでしょう。既に心当たりでもおありなのですか」
と家氏は率直な質問を放った。そこに居並んで酒を飲んでいた者たちがいっせいに話を止《や》めて聞き耳を立てた。義貞の後見人に誰が選ばれるかは、郷名苗字《ごうめいみようじ》を貰ってそれぞれ独立している一族の者にとっては聞き捨てにはできないことだった。できることならば、わが一族か、わが身に近い一族の者が、義貞の後見人になって欲しかった。そうなれば、その一族の名誉だけではなく、一族の興隆につながるからであった。
基氏は客人たちの気持ちを察したようだった。彼は朝氏になにごとか囁いた。朝氏は静かに席を立って、隣室から一人の男を従えて現われた。
(船田義昌が義貞殿の後見人か?)
まさか、というような目つきで、人々は船田義昌と朝氏、基氏、義貞などの顔を見較べていた。
船田義昌は温厚な顔をした男だった。二十六歳という年より若く見えるのは、武士としては色が白過ぎるからでもあった。義昌は朝氏と共にその場に坐った。紺地の直垂が義昌の顔を引立てて見せていた。
[#1字下げ] 船田氏は藤原|魚名《うおな》の裔《えい》、義親、源頼光の孫なる福島国仲の養子となり、下野国《しもつけのくに》船田庄を領し、由《よつ》て氏とす。義昌は義親十代の孫なり。義親八幡公義家に仕へ爾来《じらい》新田氏の家幹となると。義昌の邸址、新田郡世良田に在り(岡部福蔵著、上毛郷土史研究会発行『上野人物誌』船田義昌の項より)。
「このたび義貞が元服いたしましたについて、今後の義貞の処事万端についての後見人として船田義昌をこれに当て、執事《しつじ》といたすにつき御了承をいただきたい」
朝氏が言った。執事とは家宰である。やがては新田家全般の運営に当たるべき人である。政治、経済、軍事のすべてについて、もっとも強い発言力を有する役につくべき人であった。
(船田なんかになぜその大役を)
(いったい、この青二才に執事なぞやれるのか)
(基氏殿の指し金だろうが、どこがよくて船田義昌を引っ張りこんだのだろうか)
などという、非難や疑念の目の間で船田義昌は、若年者ゆえ、なにかと御指導願いたいと挨拶した。声のふるえは感じとれなかった。
(この男は見掛けによらずなかなか図太いぞ)
という別な目もあった。
「船田義昌を選んだのは余である。この者こそ、義貞の執事にふさわしいと睨んだから、ここまで来て貰ったのだ。義昌の先祖は新田家の執事として仕えたことがあるが、一族と言えるほどの間柄ではない。このあたりを考えられたい。同族間の取りまとめには、第三者的立場の者がかえってよいのだ。また義昌は鎌倉において、既に並々ならぬ人物として認められている。草深い新田庄に住みついたわれわれより、いささか広い世界を見ている御仁である」
基氏が義昌を紹介した。義昌を讃《ほ》めるために、他をけなしたのは、よくなかったが、基氏の一言で、船田義昌が、鎌倉に居たことのある武士だということが分った。
(では訊くが、並々ならぬ人物とはなにを指して言うのか)
基氏に向かってそのように訊きたい人は何人かいたが、執事と決められた人に対して、そのようなことも言えずに、いずれそのうちという気持ちで、沈黙している者が多かった。座は自ずから白けたようであった。
「今日は目出たい日である。陽気に騒ごうではないか。まず、拙者が踊るゆえ、誰か歌を歌ってくれぬかのう」
そう言って立ち上がったのは、江田三郎行家だった。彼は膝《ひざ》のあたりをたたきながら、
「のう、義昌殿、鎌倉ではやっている歌を歌ってくだされ、おたのみもうす」
三郎の目は笑っていた。義昌に当てつけているのではなかった。
「鎌倉の歌はとんと知らぬゆえ、即興の歌でがまんなされい」
義昌はそう言って、歌い出した。
金山のお城の高い高い松の木に
鷹《たか》が巣をかけたとさ
金山のお城の高い高い松の木で
若鷹がはばたいたとさ
金山のお城の高い高い松の木から
若鷹は鎌倉さして飛立ったとさ
やれ飛んだとさ
歌声に合わせて、江田三郎行家が踊った。人々は手拍子を取ってはやし立てた。
船田義昌は一見文弱に流れた武士のように見えていた。だが、それは見かけで、馬術、弓術は人並み勝れていた。そして学問は義貞の師として充分なほどの素養を持っていた。
義昌は義貞にまず馬術を教えた。明けても暮れても馬場に出た。
義昌は遠慮はしなかった。馬場で基礎的なことを教えこんだ義昌は、義貞とともに笠懸野《かさかけの》へ馬を走らせ、広い原を縦横に乗り廻した。
義貞はその年の秋のころには一応は馬をこなせるだけになっていた。これまでになるには尻の皮がむけるほど馬に乗り、何回か落馬して痛い目に会っていた。
「義昌は馬術の師として由良の館へ参ったのか」
義貞は義昌に率直に訊いた。
「さよう馬術の師として参りました。だが間も無く、馬の師ではなくなり、新しいことで新館《しんやかた》様にお仕え申すことになるでしょう」
義貞は元服してから由良の館の中の独立した家に住むようになったので、新館様と呼ばれていた。
「新しいことと言えば、弓か」
義貞は義昌が弓術に秀でていることを知っていたから訊いたのである。
「弓もありますが、まだまだ、覚えていただかねばならぬことが、数限りなくございます。私も新館様とともに勉強しなければならないと存じます」
義昌は義貞に言った。
義昌と義貞は馬に乗って館の外に出た。騎乗の郎党三人がその後を追った。
その日、義昌は館の外へ出ると、馬の頭を立て直して、笠懸野へは向かわず金山へ向かって一気に走った。金山は由良の館の北東、一里(約四キロ)ほどのところに、新田庄の象徴のように聳《そび》えていた。
義昌と義貞の馬はよく走った。間も無く追従して来る三騎を引き離して、金山城への登り口に馬を入れた。二人は坂の途中で馬を降りた。それからは馬をいたわってやらねばならなかった。
ナナカマドの紅葉が目に痛いほど赤く燃え、茂り合っている山道を二人は登った。二人は、ほとんど口はきかなかったし、休むこともなかった。松林の中に入ると、急に暗くなるけれど、灌木《かんぼく》地帯に入ると、黄葉や紅葉に飾られた山道の中から小鳥が飛び立ったりした。
途中まで来ると、出迎えの武士に会った。義貞がきょうこの城へ来ることは予《あらかじ》め、この城の番頭《ばんがしら》に知らせてあったようであった。
「新館様でございますか、金山城番頭、篠原安《しのはらやす》右衛門憲氏《えもんのりうじ》にございます」
憲氏は義貞の前に手をついて言った。
篠原家は里見の一族であった。保元《ほうげん》二年(一一五七年)新田義重が金山に山城を築いた折、安右衛門の名が与えられた。爾来、篠原家の一族は、代々この山城の番頭の役をつとめていた。
山城はいざ合戦となった場合にのみ必要であって、平常は番頭ほか三十人ほどの者が、城の保守管理に当たっていた。
御案内つかまつりますと言って篠原安右衛門憲氏は、先に立った。馬は憲氏の家来に預けられた。道は大きく蛇行《だこう》しながら、次第次第に明るいところへ出て行った。頂上が近いのであろう。
曲輪があり、大手門があり、そして番士の小屋があった。そこからはほぼ平らな道を歩いて行けばよかった。途中で遅れた郎党たちの声が聞こえなくなってしばらく経ったころ、小鳥のさえずる声がやかましいのでそっちに目をやると、紅葉と黄葉が織りなす台地のくぼみに池があった。直径六、七間ほどの池であった。義貞はその青さに目を奪われた。
「城はどこにあるのだ」
と義貞は憲氏に訊いた。
「城はここでございます。このあたり全体が金山城でございます。新館様のおられるこの場所は、即ちこの城の要《かなめ》とでも申すところでございます」
憲氏はもうすこし上に登れば更に見晴らしがよくなりますと言った。
金山城の頂きからは眺望がきいた。そこからは関東平野の隅々が見えたし、北に目を転ずると思い出多い榛名山や里見郷の近くの山々が見えた。
「この城にこもればたとえ関八州の軍勢がこぞって押しよせて来てもしばらくはそれを支えて戦うことができるでしょう」
と船田義昌が言った。
「しばらくは?」
と義貞が問い返すと、
「さようしばらくです。いかなる城でも、食糧の補給がない限り、一年二年と持つものではございません。せいぜい二カ月も持ちこたえればよい方でしょうが、この城は、完全に防備の態勢を取ったならば半年は持つでしょう」
と義昌は答えた。
「この城を攻める者ありとすればそれは何者だろう」
と訊く義貞に義昌は、
「それは分りませぬ。今のところは、近隣とはすべて友好をよそおっております。だが鎌倉幕府の権力が落ち、近隣の豪族が、それぞれ勝手放題なことをするようになると、敵味方の見分けもつかないように乱れるでしょう。そのようなときにこの城は必要となって参ります」
鎌倉幕府の権力が落ちるなどという仮定は、うっかり口にすべきことではなかった。それを義昌は平然と口にしたのである。
今日がはじめてではなく、元服の祝いの宴《うたげ》の際、義昌が歌った歌も、聞く人によっては、鎌倉に対する反逆とも取れそうであった。
「義昌は鎌倉幕府が嫌いなのか」
「嫌いではございません。だが、現在その鎌倉幕府を動かしている、一つかみの人間が嫌いなのでございます」
北条氏が嫌いだとは正面には出さなかったが、明らかに北条氏に対して含むなにかを持っているような言い方だった。
「世が乱れれば、限りなく人が死ぬ」
と義貞は言った。祖父の基氏から教わった将軍論の中にそのような言葉があったのを思い出していた。
「誰も世の乱れを望むものはありません。だが、その時が来れば、世は必ず乱れます」
義昌は自信あり気に言った。
「新館様は平将門《たいらのまさかど》が比叡山に登ったとき、はじめて、天下を取ろうという野心を起こした話を聞いたことがございましょう」
と義昌が訊いた。がらりと語調が変わっていた。そう言われてみれば、その話は基氏から聞いたことがあった。
「聞いたことがある。だが、それは話だ。高い山へ登った人間の多くが、天下を取ろうなどという野心を起こしたら、それこそたいへんなことになる」
それもまた基氏から教えられたことであって、義貞が考え出したことではなかった。
「いや、野心こそ必要なものです。野心がなくなったら死んだ人と同じです。私は新館様が、いまここで、天下を取りたいと申されても、いささかも不思議には感じませんし、むしろ、そのお言葉を聞いて喜ぶでしょう」
義昌は、青空に向かって吐き出すように言った。
「野心とは亡ぶるに近きものと磬岳《けいがく》に教わった。そちは余に亡ぶることをすすめようとするのか」
十五歳にしては、できすぎた理屈だった。
「平将門の野心は凡夫の野心だから亡びたのです。もし平将門にもう少し先を見る目があったならば、朝敵とならずに天下を平らげたでしょう。野心には大義名分が必要です。その大義名分の持ち合わせがなかったから、将門は亡びたのです」
義昌は、そこで、言葉を切ると、傍に控えている憲氏に向かって言った。
「新館様に城のことをもう少しくわしく説明して貰いたいのだが」
憲氏が、では、御案内いたしましょうと先に立とうとすると、義貞は、それを制して、
「あれはなんじゃ、あの川の向こうに多くの人家が見える、その中に光っている屋根が見える、あれだあれ……」
と義貞が指す方向に目をやった憲氏は、
「あれは足利の鑁阿寺《ばんあじ》の屋根の瓦が光って見えるのでございます。鑁阿寺は足利氏の館跡に建てられたもので、下野第一の寺でございます」
足利――と義貞は口の中で言った。足利にはまだ行ったことがなかったが、是非とも行ってみたいところであった。渡良瀬川は金山の麓《ふもと》を流れる川のように見えた。その向こうが、足利庄だとは信ぜられないほど近い距離であった。金山へ登ったことによって、新田庄がいかに狭いかを知らされた思いがした。
「新田氏と足利氏はもともと兄弟だった……」
と義貞は基氏が話の糸口によく使う言葉を口にした。
「そうです。新田氏が兄で、足利氏が弟でした。源氏が新田と足利に分れたときから、わが船田家は新田氏に仕えて参りましたので、両氏のことは先祖から、ことこまかに伝え聞いております。新田氏にとって足利氏は、過去においてなんであったとしても、現在では、ほとんど縁のない北条の一族と見ればよいでしょう。足利氏はまさしく北条の一族、鎌倉に巣喰う白蟻《しろあり》一族であることに間違いありません」
足利氏を鎌倉に住む白蟻の一族だと言い切った船田義昌の表情には怒りがあった。それは、いまそこに現われたというものではなく、深い根のあるもののように思われた。
「そちの先祖と足利氏とはなにかのかかわり合いがあったのか」
義貞は訊いた。
「私の曽祖父《そうそふ》船田昌盛は新田政義様の執事として仕えておりました」
政義が幕府の許可を得ずして、京都|仁和寺《にんなじ》において得度して僧になったのは、北条一族の政治に対する反発であった。政義が大番役をつとめている間に起きた、囚人解き放しの罪も、そのもとをただすと、政義の正義感から出たものであった。荘司の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》にこらえかねて訴え出た名主たち八人を全然調べようともせず、悪党という罪名のもとに獄に繋《つな》いだ役人たちのやり方を見て、憤慨した結果から出た行動だった。政義は八人を解き放した罪によって、銭三千|疋《びき》の科料を申しつけられたのである。これも、ろくろく調べもせず一方的にそうされたのであった。彼は怒って得度した。それに対して、幕府は、新田氏に対して更に重い罰を加えようとした。この場合領地の一部没収が考えられた。
「わが曽祖父昌盛は執事として、主家の没落を見ているわけには行きませんでした」
船田昌盛は新田庄の土地|安堵《あんど》について幕府に口添えして貰うよう足利氏に頼んだのである。新田氏と足利氏は政義のころまでは、互いに婚姻をかわして双方が持ちつ持たれつの間柄であった。この場合、足利氏に口をきいて貰うのはもっとも適切な方法であった。だが、足利氏はこの期に臨んで豹変《ひようへん》した。足利氏は、政義の罪に対する罰として新田氏の領地の半分を召し上げ、その管理を足利氏系統の岩松氏にゆだねるよう幕府に申し出たのである。表面上は幕府が新田氏の土地を召し上げたような形式を作り、実は岩松氏に移譲されたのであった。
「曽祖父の昌盛は責任を負って自刃して果てました。その最期の言葉は子々孫々まで足利に心を許すなということでした」
義昌は語り終わると、暗然とした視線を足もとに向けた。池の水が空の色より青かった。
「この池は、日の池と申します。そしてこの池の水は神水《しんすい》として新田一族の誓いの水になっております。政義様が失脚して、領地召し上げの噂《うわさ》が流れたときも、一族はこの池のほとりに集まり、池の水を汲《く》んで、墨をすり、いかなることがあっても一族は心を一にして新田の庄を守ろうという誓書をしたため、それに血判して、神前にささげたのです」
義昌がゆびさすあたりに八幡神社の社《やしろ》があった。
「新田氏の領地のほぼ半分が岩松氏に移譲されることになったときも、一族が、この池のほとりに集まったと聞いております」
それまで黙っていた篠原憲氏が口を出した。
「おそらくは、我慢しよう、耐えられるだけ耐えようと誓い合ったのでしょう」
そう言いながら、義昌は眼を足利の方に向けた。渡良瀬川の向こうには靄《もや》が立ちはじめていた。義貞には声にこそ出さないが、義昌がなにを叫ぼうとしているか分るような気がした。
義貞は二里の空間をへだてて、足利の庄と対峙《たいじ》していた。幼いころから、基氏や基秀やそして龍斎が、ことあるごとに口にするのは足利であった。そしていま船田義昌の言うことも、畢竟《ひつきよう》すれば足利を敵視せよということだった。そうしなければならない運命を背負って生まれて来たのだと言わんばかりの押しつけに聞こえた。
義貞は渡良瀬川の土手にそって続く草紅葉を美しいと思った。その向こうの足利へ行ってみたいという気はあっても、足利を敵視するような気は起こらなかった。すべては遠い昔のことである。いつまでも遠いことを根に持っていたら発展はないというような漠然とした判断が義貞の頭の中にあった。
「池の水は涸《か》れることはないのか」
と義貞は憲氏に訊いた。
「この土の下は岩盤になっております。あの池の水はその岩盤の間から湧《わ》き出て来る清水《しみず》で、どんな旱《ひでり》の年でも涸れることはございません。山城で一番大事なものは飲み水です。これだけでもこの城は恵まれた城だと思います。城に必要なものは、水の次には食糧ですが、これには限りがあります。貯蔵したものを食べてしまえばもうなにもございません。そのことを考えた代々のお館様は、この山城の頂上付近に実の成る木を植え、食べられる野草を選んで植えられました」
憲氏の言うとおり、頂上には栗、栃《とち》、梅、杏《あんず》など実の成る木が多く植えられていた。草もすべて食べられると憲氏は言ったが義貞には、それらはすべて、ただの野草にしか見えなかった。
馬のいななきがするので、本丸の館の背後に廻って見ると、そこに五頭ほどの馬がいた。
「馬は誰かが近づくといななきます。人が来た場合も動物が来た場合もいななきます。馬小屋をここに置いたのは、城に近づく者を警戒するためでもあるのです」
憲氏が言ったとおり、それから間もなく義貞の郎党が三人、馬を曳《ひ》いて登って来た。
義貞には、このような山城の頂きにまで馬を置く理由の一つが読めたような気がした。伝令の目的だけではなかったのである。
「本丸にはいざとなったら、五百人は詰めこめるでしょう。二の丸、三の丸、外曲輪等の番所のすべてを合わせると二千人は収容できることになっています」
その場合、二千人全部が戦う者ではなく、半分以上は女子供であるということを義貞も知っていた。こんな狭いところに五百人も詰めこまれたら、どうなるだろうと義貞は思った。
「守るということは、あまり分のいいことではないな」
と義貞は言った。それが、金山城を見学した若き義貞の結論のようであった。守るより攻めるほうが楽だというのは、彼が、里見で戦さごっこをしたとき得た理論であった。
「そのとおりでございます。しかし新館様、外に出て戦うときの心の支えとなるものはこの城ではないでしょうか。あの城さえあればという心強さが、戦いの原動力になるのだと思います」
義昌は義貞を金山城にもっともっと執着させようとしたが、義貞の気持ちは、それほど、金山城には心を惹《ひ》かれてはいなかった。義貞は、高いところに立っていることで満足していた。その点ではこの金山城がまことによいところに位置づけられたものだと思っていた。
「新館様に申し上げます。この金山には、遠い祖先が残された宝物がございます。それもぜひ御覧になって行ってくださいますように」
憲氏が言った。
宝物とはなんだろうかと、不思議そうな顔をする義貞に、
「それは、金山という名の生まれましたるそもそものはじまりのところでございます」
ああそうかと義貞はすぐ頷《うなず》いて、
「それは、たたら場であろう、祖父から聞いたことがある。一度ぜひ見たいと思っていたところだ」
どこにあるのだろうかと、あたりを見廻している義貞に向かって憲氏は、
「たたら場はこの金山の北東の菅《すげ》の沢《さわ》というところにあって、そこに行くよい道がございます」
と言って先に立った。
たたら場に向かう道は、金山城に登る道よりも広くつけられていた。車の轍《わだち》の跡があった。かなり多くの人間が入りこんでいるようであった。
たたら場は、義貞が想像していたものとは全く違っていた。砂鉄や鉄鉱石を掘り出すところ、その鉱石を細かく砕くところ、そして、その鉱石を熔《と》かして、鉄を取り出すところ、大きく分けて三つの部門に分れていた。山肌に幾つかの坑道が掘りあけられ、そこで多くの石工が石鑿《いしのみ》をふるっていた。歌声が聞こえた。
鉱石をこまかくくだくには、馬が使われていた。石臼《いしうす》のまわりを馬が廻ると、杵《きね》が上下して石を粉砕する仕掛けが使われていた。
たたら炉は大きな小屋掛けの中にあった。砂と耐火性粘土で作り上げられた目の高さほどの炉の中には、赤い炎の塊となった木炭が山と積み上げられそれに鞴《ふいご》で風が送られていた。
火中に鉱石の粉が投ぜられるたびに一瞬火花を発した。木炭が加えられたり、砂鉄が投げこまれたりの作業にはちゃんとした順序があるようだった。
歌声は、たたらの場では聞くことができなかった。高い天井をこがすように立ち昇る炎と息もつまりそうな熱さの中で歌など出る筈はなかった。
義貞はなにか別な国にでも来ているような気持ちだった。このたたら場で働く人も異国の人のように見えた。仕事中はよそ見をしてはならないと教えられているのか、義貞等を振返って見る者もいなかった。彼等が時々口にしている、たたら場だけに通用する言葉も義貞の耳には異国の言葉のように響いた。
義貞は感嘆のため息をついた。
「新田庄は米が取れます。だが米だけに頼っていたのでは、やがては行きづまることが分っております。新田氏初代の義重様は、たまたま、金山に鉄が出るのを知って、伯耆《ほうき》の国から、たたら師を招いて、たたら場を作られたのです」
憲氏は、炎を吹き上げている炉の側に立って世話を焼いている、折烏帽子《おりえぼし》姿の男を指していった。
「あの者が|むらげ《ヽヽヽ》と呼ばれる、このたたら場の親方です。そして、木炭を扱っている者どもは|すみさか《ヽヽヽヽ》、ふいごで風を送っている者どもは|ばんこ《ヽヽヽ》と呼ばれ、さっき鉱石場に働いていた者どもは|かんなじ《ヽヽヽヽ》と呼ばれています」
義貞は黙って聞いていた。金山に城を作り、又この菅の沢にたたら場を作った義重は偉大な人だと思った。そしてその嫡流として新田氏を継ぐべき自分にはいったいなにができるのだろうか。義貞はそんなことを思いながら、たたら場を離れた。
「館に帰られますか、それとももう少々遠くに足を伸ばしましょうか」
と義昌が訊いた。
「渡良瀬川へ行ってみたい」
と義貞は答えた。たたらの炎が頭の中でまだ燃え続けていた。その炎をどこか涼しいところで消してから、由良の館へ帰りたいと思った。
義貞の一行は渡良瀬川の岸に出た。金山のいただきから見た、川岸の草紅葉は美しかったが、そばに来て見ると、秋の匂いの濃い草叢《くさむら》の続きにすぎなかった。川柳の黄葉は見事だったが、芒《すすき》の密生地帯には、なに者かが潜んでいそうで、入っては行けなかった。
渡良瀬川には、筏《いかだ》をつないだ浮き橋がかけられていた。洪水の度に橋が流され、今は仮の浮き橋によって、上野国と下野国とが結ばれていた。浮き橋のたもとに、番人小屋があった。義昌はそこで馬を降り、番人に預けて橋を渡るようにと義貞にすすめ、三人の郎党にもそのように命じた。
「橋の向こうは足利の庄です。あまり目立つようなふるまいはしないほうがよいと思います」
その言葉に義貞は頷いた。義昌が気をつかってくれていることはよく分るけれど、足利の庄に対して特にそのようなことをするのがおかしかった。関所はないし、通行の自由は許されていた。新田の者が足利へ行っても、足利の者が新田へ来ても誰もなんとも言わなかった。それなのに、なぜ義昌が馬で行くことを遠慮したのかその真意は飲みこめなかった。
浮き橋を渡ったところに、足利側の橋の番人がいたが、橋を渡り終わった義貞の一行を黙って見送っているだけだった。
「足利の町のたたずまいを、とくと御覧になっていただきたいと思います」
そのためにも、歩いたほうがよいのだと義昌はつけ加えた。義貞は町という新鮮な言葉を耳にした。河原をわたり、土手を越えるとその向こうに町が見えた。山を背に渡良瀬川を前にした人家の集まりだった。
義貞は足利庄に一歩踏みこんだとたんに、いままでついぞ見たことのない町というものに対面した。里見郷と新田庄との往復の途中には幾つかの聚落《しゆうらく》を通ったが、それらは十戸、二十戸という農家が一つの場所に集まったものであって、百戸を越すような聚落には出会ったことはなかった。
足利庄には村とは明らかに違ったものがあった。農家らしくもない家が立ち並んでいるばかりでなく、物を売る店が並んでいた。義貞にとっては思いもかけぬことだった。
村と町の差について常識的なことは知っていたが、義貞はまだ感覚として町を知ってはいなかった。町のほぼ中心に近いところに広場があって、そこで「市《いち》」が開かれていた。
「市」は新田庄でもごく稀《まれ》に開かれることがあった。遠くから品物を持った人々が寄り集まって来て、物と物とを交換したり、銭で品物を売買するのが市であった。
「年に何回ほど市は開かれるのだ」
と義貞は市へ集まって来た人に訊いた。
「市ですか、毎月一度は必ず開かれています。市が開かれると七日は続きます」
と男は答えた。当たり前のような顔をしていた。
市では、ありとあらゆる物が取引きされていた。
「あの人たちは秋人《あきびと》ではないのか」
と義貞は義昌に訊いた。
義貞が育った里見の郷では、年に一度、秋祭りが終わったころ、いろいろの物を持った人々が集まって来て市が開かれた。秋になると品物を持ってやって来るこれ等の人たちを秋人と呼んでいた。子供たちは秋人がやって来ると、その後をついて廻ったものである。
「いかにも|あきびと《ヽヽヽヽ》ですが、彼等は年に一度やって来るあきびとではなく、年がら年中物を売買している商人《あきびと》たちです」
と義昌は答えた。
市には織物が多かった。鍋釜《なべかま》のような、生活必需品もあれば、弓、矢、刀、剣類にいたるまであった。甘酒を飲ませる店もあるし、酒や食べ物を売る店もあった。
義貞は頬がほてって来るのを覚えた。明らかに昂奮《こうふん》していた。見るもの聞くものすべて新しいことばかりであった。市に集まっている人たちは、あらゆる階層の人々であり、彼等に共通していることは義貞たちの一行に無関心であることだった。
「ここは織物の町です。麻布の他《ほか》に絹織物が作られております。染物も関東第一と言われています。絹の織物はここで織られて、鎌倉へ運ばれて行きます」
だからこそ、町全体に活気が溢《あふ》れているのだと義昌はつけ加えた。
徒然草《つれづれぐさ》の中に北条時頼が足利義氏から年毎に足利のそめものを貰っていたことが書かれている。前沢輝政著『足利の歴史』によると、足利の織物の歴史は非常に古く、天暦《てんりやく》四年(九五〇年)に|※[#「糸+施のつくり」]《あしぎぬ》(絹布)上納の記録があるということである。そのころから、足利は織物の町、商工業の中心地的性格を見せ始めていたようである。
市を離れた義貞の一行は鑁阿寺《ばんあじ》に向かった。鑁阿寺は足利源氏の二代目足利義兼が築いた足利館の跡に、彼が晩年になってから建てた寺であった。
その後足利源氏は一族そろって鎌倉に移り住むようになったので鑁阿寺は足利源氏の氏寺となった。
鑁阿寺の周囲には堀がめぐらされ、太鼓橋がかかっていた。そこを渡ると大仁王門がある。
義貞の一行はその太鼓橋の外まで来たが、橋の向こう側には寺侍が立っていて、容易には入れそうもなかった。
「長楽寺とくらべてどちらが大きいだろうか」
義貞はそんなことを言った。大きさに於《おい》ては新田一族の氏寺の長楽寺とそれほど変わらないように思われたが、なにかしら、この寺の内部には、ぜひ見なければならないものがあるように思われてならなかった。
「中に入ってみたい」
と義貞は言った。たとえ足利氏の氏寺であっても、寺である以上、入ってならないということはないように思われた。
「後日にいたしましょう。入るには事前におおよその手続きが必要です」
と義昌が言った。
「手続きが、なぜ?」
寺に入るのになぜ、手続きが必要かといささか気色ばんでいる義貞を義昌がなだめていると、背後に馬蹄《ばてい》の音がした。
太鼓橋の前で止まった騎乗の武士は、馬と共に駈けて来た郎党どもを指図して太鼓橋周辺の警固に当たらせた。
「そこを立ち去れ、はやく遠ざかるのだ」
と騎乗の武士は義貞の一行を見て言った。義貞の一行が武士の姿をしていたからかえって警戒したようであった。その騎乗の武士は誰か、名のある人が寺に参拝に来るための先駆として馳《は》せつけたもののようであった。
「新館様、さあ帰りましょう」
と義昌が言った。しかし、義貞は頭を左右に振って、
「ここは天下の大道だ。通ろうと立ち止まろうと、誰にもとがめだてされるいわれはない筈だ」
と義貞は言った。立ち去れと言われたことに義貞は腹を立てていた。もう少し言い方もあろうに、礼儀をわきまえぬ奴だと、騎乗の武士に抗議の視線を送った。
「去れ、去らぬか」
騎馬武者は、義貞の前に馬を進めて来て言った。その左右に郎党たちが立った。これ以上口答えをすると、武力に訴えても追払うぞという剣幕だった。
「去れとは理不尽な一言、許せぬ。なぜ去らねばならないのか、その理由を申せ」
義貞はひるまずに言った。
里見の郷で戦さごっこをしたとき、喧嘩《けんか》はしょっぱなが大事だということを龍斎から教えられていた。まず相手を気勢で圧倒しないと喧嘩には絶対に勝てなかった。
(おのれ、こやつはいったい何者ぞ)
騎乗の武士は、義貞の一喝に会ってはじめて、義貞の服装や、義貞に従っている家来たちを改めて見直した。郎党を従えての、どこかの領主か御家人の若主人に思われた。或《あるい》は足利氏の一族かも知れないと思った。
「どなた様かお名乗りあれ」
武士は馬から降りて言った。
「他人の名前を訊《き》きたいならまず自分の名前を名乗るのが当然ぞ」
義貞は肩をそびやかして言った。この一言で相手の武士は完全に義貞の威勢に飲みこまれたようであった。
彼は名乗ろうとした。名乗ろうとして、咽喉《のど》のところまで声が出かかったときに、数騎が太鼓橋に近づいていた。彼は義貞の方は後廻しにして、主人を迎える姿勢を取った。義貞等が主人に害をする者ではないことが分ったからであった。
足利源氏の統領、足利貞氏は馬上に胸をそらせていた。そのすぐ後に嫡子の又太郎(後の足利尊氏)が連銭葦毛《れんせんあしげ》の馬に乗って従っていた。又太郎はまだ十歳の元服前であった。
足利貞氏は、義貞等一行に目をやった。見馴れない者たちである。気になったから、
「何者ぞ」
と、先駆して来ていた彼の郎党に訊いた。
船田義昌が貞氏の馬の前に片膝《かたひざ》をついて、
「新田小太郎義貞の執事、船田義昌にございます。このたび、源家の御先祖様の墓所に参拝いたしたいがため、主人を御案内つかまつりました。なにとぞ、参拝の儀お許しいただきたいと存じます」
と言った。源家の先祖をたどると、足利氏と新田氏は兄弟である。新田氏嫡流義貞が参拝したいと言ってもいささかもおかしくはなかった。それに、船田義昌の、物腰態度や言葉の使い方が丁寧だったので、貞氏は、いささか固くなりかけていた表情を崩して、
「小太郎義貞が元服したということは聞いていた。わざわざ鑁阿寺《ばんあじ》まで来たとは殊勝のこと、さあ、さあ、遠慮なく橋を渡るがよい」
貞氏はそう言うと、義貞に一|瞥《べつ》を与えたままで太鼓橋を一気に渡った。
義貞はその貞氏に目礼しただけで、声をかける余裕はなかった。貞氏についで、又太郎の馬が前を通った。
又太郎は義貞に微笑を浮かべながら軽く頭を下げた。義貞もそれに合わせて礼を交わした。貞氏に小太郎義貞かと呼び捨てにされたのは癪《しやく》にさわることだったが、貞氏に続く少年が慇懃《いんぎん》な態度を取ったので義貞は気分を直していた。
「あの少年は何者ぞ」
義貞は彼等が通り過ぎた後で義昌に訊いた。
「足利又太郎様、足利源氏を継ぐべき人でございます」
と義昌は小声で言った。
「あれが、又太郎か、まるで公達《きんだち》のような少年だな」
義貞はひとりごとを言った。公達という言葉は知っていたが見たことはなかった。又太郎はあまり日には当たった事はないように色白だった。着ている物は派手だし、全体的にこのあたりの少年とは違って見えた。土臭いところがなく、どこかに気品のようなものがあった。その公達風のところが義貞には気に入らないのであった。
足利貞氏、又太郎父子は久々に故郷の足利庄に帰っていた。足利氏は代々、北条氏と婚姻を結び、父系をたどれば源氏ではあるが、母系をたどれば明らかに北条氏の同族であった。一族は日本全国に渡ってひろがり、それぞれ荘を持ち、北条一族同様に勢力を振るっていた。
過去はどうであれ、現在北条氏の下で権勢を誇っている足利氏にとっては、足利庄は領地の一部であると同時に氏寺の所在地ということにおいて重大な意味があった。
足利氏の一族は鎌倉に足利屋敷を設け、京都にも屋敷があった。足利氏は鎌倉か京都のいずれかに住んでいて、ほとんど足利庄へ来ることはなかった。
貞氏は義貞等に鑁阿寺の境内に立入ることを許したけれども、それ以上のことはなにもしてやらなかった。久々に来たので、鑁阿寺の住職との面会や、荘司や地頭代官などに会って、その報告を受けることでいそがしく、義貞等をかえり見る暇がなかったのである。
義貞等は鑁阿寺の境内に入ったが、長居することはさけて、早々に外へ出た。
寺を出るとき、船田義昌は、寺の者を通じて貞氏に謝辞を述べた。すべきことはちゃんとして置かないと後が不安だった。
義貞の一行は、渡良瀬川で浮き橋を渡り、橋のたもとの番小屋に繋《つな》いであった馬に乗った。
義貞は馬の向きを由良《ゆら》の館《やかた》へ向けたとき、振りかえって義昌に言った。
「足利へ行ったことは誰にも言うではないぞ」
義昌に言ったのだが、それは郎党たちに取っては箝口令《かんこうれい》として響いた。
「承知いたしました。黙っておりましょう。今はただ、なにごとにも、口を閉じていることこそ肝要でございます」
義昌は義貞の心を察したようだった。帰館して、朝氏や、基氏に足利でのことをその通り話したならば、朝氏や基氏は足利貞氏を非礼な男として怒るだろう。しかし、怒ったところでどうにもならない相手である。足利貞氏は四位の下という高い位にいた。あの馬に乗っていた青白い少年も、元服すれば一躍手も届かないような高い官位を得ることができるだろう。官位ばかりではない、その政治的な地位も約束される。また全国に持っている領地からの上納による富においても、新田氏とは比較すべくもなくかけ離れて増えて行くであろう。
「北条氏によって、足利氏が源氏の嫡流と認められて以来、すっかり世の中は変わったのです」
と義昌が義貞の傍《そば》に馬を寄せて来て言った。義貞はその言葉は父や祖父から聞き飽きるほど聞いていた。そのたびにまたかと思った。しかし、目の前で、足利貞氏に、小太郎義貞と呼び捨てにされてからは、義貞が足利氏を見る目はいささか変わったようであった。
「余の名を小太郎義貞と呼び捨てにした二人の貞氏がおる。烏帽子親の貞氏殿と足利の貞氏殿である」
義貞は義昌に向かってそう言うと、いきなり馬に鞭《むち》を当てて駈け出した。
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金山は東武鉄道伊勢崎線太田駅のすぐ北側にある標高二二三メートルの山である。関東平野の北部に忽然《こつぜん》として出現したような感がある山で、中世の要害には絶好地である。
現在は、よく舗装された自動車道路が、頂上近くの稜線《りようせん》の一角まで開かれている。この自動車道路の終点が金山城の西城と言われていたところである。
独立峰金山は全体が城郭である。
新田義重が保元《ほうげん》二年(一一五七年)にここに山城を築城して以来、文明元年(一四六九年)、新田家純(義貞の曽孫《そうそん》)がこの城を改築するまでは新田氏のものであったが、享禄《きようろく》元年(一五二八年)に横瀬泰繁が主人の新田昌純を殺してこの城を奪い、由良氏を称して以来、由良氏の居城となり、後、小田原の北条氏の手に移り、天正《てんしよう》十八年(一五九〇年)に豊臣秀吉の命によって廃城となるまで実に四世紀半に渡って、時代と共に変遷して来た城である。
山頂付近にはいたるところに堀切《ほりきり》と石垣の跡があり、城の構造の複雑さが想像される。樹木の陰や通路のところどころに中世の城の特徴である腰《こし》曲輪《くるわ》の跡が散見される。
山の頂に当たる部分は北東部になり、ここが本丸の跡である。樹齢数百年以上と推定されるケヤキの大木があった。この木を背にして目を遠くに投げると、渡良瀬川が流れ、その対岸に足利市が望見された。
足利市のほぼ中央にある鑁阿寺(古くはバンアジ現在はバンナジ)はもともと足利氏の館跡に建てられたものだから、当時の館の平面区画は歴然と残されていた。境内面積は一万三千坪という広大なもので樹齢八百年という大|公孫樹《いちよう》はこの寺の古さを示していた。四方に四門があり、境内中央に大御堂(本堂)、中御堂、そして北西部には御霊屋、北東部には庫裏《くり》、隠寮、物置、土蔵等が集中していた。
南の山門を入ったところにある鐘楼《しようろう》の前に立って見上げると、深く澄んだ青空があった。
私は寺そのものよりも、やはり足利氏の居館跡としての構造に興味を持った。四囲に堀を巡らせ、その内側に築いた土塁はそのまま中世の館の形態を残していた。境内の北西の角地には築山のように高く土が盛り上げてあった。鎌倉時代の館の特徴の一つである人呼びの岡≠フ名残りだった。
足利高氏(尊氏)の出生年については、高柳光寿著『足利尊氏』には嘉元《かげん》三年(一三〇五年)に生まれた、母は清子(上杉氏)、足利又太郎と呼ばれたと書かれてある。新田義貞の方が五つばかり年上だったということになる。ライバルとしての年恰好がよかったと見るのは酷であろうか。
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鎌倉を知り尽くすこと
義貞は十六歳の春を迎えた。この年、新田朝氏に鎌倉大番役催促があった。当時大番役には京都大番役と鎌倉大番役の二種類があった。京都大番役は皇居の警衛と京都の警備、時によると、悪党を討つために京都を離れることもあった。
御家人にとって大番役は必ず果たさねばならぬ義務であるとともに莫大な浪費であった。五十人、時によると百人、二百人の郎党を率いて上京し、長ければ三年、短くとも半年間の滞在費のいっさいは御家人の自己負担であった。その費用を捻出《ねんしゆつ》するために借金したり、土地を手放したりする御家人が多かった。元寇《げんこう》の事変以来、手許《てもと》不如意になっている御家人たちにとってはなんとかしてまぬがれたい役だった。
鎌倉大番役は、頼朝が鎌倉に幕府を開いた時からのもので、京都の大番役を真似したものであった。東国の御家人がこれに当たった。東国の御家人は鎌倉大番役か京都大番役の何《いず》れかを選ばねばならなかった、当然のことながら鎌倉大番役を希望したが、許される場合もあったし、無理矢理京都へ出される場合もあった。賄賂《わいろ》の如何《いかん》によってこの行先と滞在年限がきまるのだと陰口がたたかれていた。
鎌倉大番役は鎌倉幕府の営中諸衙《えいちゆうしよが》の警備であったが、鎌倉の街裏の警備もやり、京都におけると同様、暴動の鎮圧、悪党の追捕などのような軍事行動に駆り出される場合もあった。
「またか」
と鎌倉大番役の催促を受けたとき、新田朝氏は言った。だいたい八年に一度というのがそれまでの目安だった。御家人はそのような心づもりで予《あらかじ》め準備していたのが、このごろは四年に一度になった。そして交替期間も、幕府開設の頃よりはずっと短くなっていたのがこのごろまた長期化する傾向にあった。幕府が自信を失くして来た証拠であった。警備を厳重にしなければ安心しておられないという世相になりつつあったからである。京都の大番役が大幅に増員強化された影響を受けて鎌倉大番役もまた頻繁《ひんぱん》に催促されるようになったのである。
「鎌倉大番役などというのは番犬のような仕事だ。しかし、これを拒むわけには行かない。義貞は鎌倉を知らない。ちょうどよい折だから、しばらく鎌倉に行って、諸事を見てくるのもよいだろう」
と朝氏は鎌倉大番役を元服したばかりの義貞に命じた。父基氏や執事の船田義昌とも相談した上でのことだった。
東国の武士にとって鎌倉は京都につぐ夢の国であった。行って見たいと思わない者はなかった。義貞もその一人だった。五十人の郎党を率いての大番勤仕がいかに金がかかるか、それを考えるほどの年齢にはまだ至っていなかった。鎌倉については常識的には知っていたが見たわけではない。多くの人が集まり、大伽藍《だいがらん》や幕府関係の建物がひしめき合っているその姿が見たかった。
「鎌倉に出たら、二、三年は帰れぬだろう。挨拶すべきところへはちゃんと顔を出して置け」
基氏は義貞に注意を与えた。
義貞は、祖父基氏の言葉を聞いた瞬間、里見の郷《さと》を思い出した。光に満ち溢れた自然の風景の中で、顔を紅潮させて笑っている広神の阿久美の顔を思い出した。
(あれから三年経った。阿久美はさぞ美しくなっているだろう)
会いたいと思うと、今直ぐにでも里見へ馬を馳せたい気持ちだった。
里見の郷から由良の館へ連れ戻されてからは一度も里見へは行っていなかった。許されなかったのである。義貞に里見の郷のことを忘れさせようとしているかに思われる父や祖父に対して義貞は、里見へ行っていけないのではなく、阿久美に会わせたくないのだと直感していた。
(だがもう十六歳だ。子供ではない)
義貞は自分を完全な大人だと思っていた。元服した以上、責任さえ自分で取るつもりならばなんでもできる筈だと考えていた。
「では、明日早々に里見の郷へ、お別れに行ってまいります」
と義貞は言った。
「明日とは性急なことだのう」
基氏は義貞の急に輝き出した目を見ながら言った。孫の若さが、たのもしく思われた。
翌朝、義貞は郎党数騎を率いて里見に向かった。執事の義昌は、鎌倉へ出発準備のため後に残った。
(やれやれ、これで身も心も軽くなった)
義貞の傍には常に執事の義昌がいた。義貞には、それが少々煩わしくなっていた。たまにはひとりでいたかった。自由にふるまって見たかった。
義貞は休まずに馬を飛ばした。後を追う郎党たちが取り残されそうだった。
彼は風と共に駈けた。里見の郷に近づくに従って、胸の中のものが熱くふくれ上がっていた。里見の郷へ来たのは、彼を育ててくれた里見一族に会うためではなく、阿久美に会いたいが為《ため》だという、はっきりした目的がまぶしく拡大されていた。
里見の館についた義貞は大きな声を上げた。
「今、帰ったぞ」
ここに居たころの義貞は、腕白どもを率いて石合戦に出かけて帰って来ると、そう言って怒鳴ったものだった。
「お待ちしておりました」
と里見基秀が出て来て言った。義貞の傅役《ふやく》でもあり、伯父でもある基秀は、今朝早く、由良の館からの早馬で、義貞の到着を知っていた。
「御伯父《おんじ》は知っていたのか」
義貞は、不意を突いて驚かせようとしたたくらみがむなしくなったことを笑った。
「まさるは元気か」
義貞は乳母のまさるのことを訊いた。母がわりの人だったからなつかしかった。
「あれは、前の年、身まかりました」
死んだと聞いたとき、義貞は足もとに大きな暗い穴を見たように感じた。
三年の間に変わったことはそれだけではなかった。義貞の乳兄弟多胡義道は、声変わりした太い声で、ひどくまじめ腐った挨拶をするし、里見館の人々も、笑顔でこそ義貞を迎えはしたが、なにか彼等との間に新しい冷たい幕が一枚張られたように感じられるのである。
義貞が元服して新田家の後継ぎとなったことによって、人々は、おのずから、彼を高いところに置こうとしていることは分かっていた。が、義貞にはそれが不満だった。
外で馬のいななきが聞こえた。二頭や三頭ではなさそうだった。庭に出ると、そこに、かつての遊び友だちが集まっていた。彼等は見違えるほど成長していた。
「新館様がお見えになるというので、小太郎様のころの里見二十五騎を集めました」
と多胡義道が言った。
「馬に乗って来たのか」
「里見二十五騎はすべて馬にかけては名手でございます」
多胡義道は、片膝をついて答えた。その仕草まで、自ら義貞の郎党を自認しているようであった。
(自分はもはや子供ではない。従って彼等もまた子供ではない)
義貞はそう思った。
「そうか、それはうれしい。これ以上はれやかな出迎えはない。ではその里見二十五騎を率いて遠駈けにでかけようか」
義貞は幼な友達の一人一人に目をやった。
三年の間にみな成長したが幼な顔はどこかに残っていた。義貞は里見二十五騎の筆頭として多胡義道の名を呼んでから、
清水、富沢、柴山、中曽根、樋口、木暮、長壁、斎藤、星田、中島、高橋、小林、佐藤、吉田、松田、浜名、植杉、竹内、神宮、桜井、五十嵐《いがらし》、三木、芹沢《せりざわ》、関等二十四人の名を呼んだ。
名前を呼ばれた者は大きな声でいちいち答え、燃えるような目を義貞に向けた。少年の目ではなく、武士として戦場に駈け向かう若者の目だった。笑い顔はなく、まるで、里見二十五騎の認定式に臨んだかのごとき緊迫感さえ窺《うかが》われるのである。
義貞は元服して以来、このような感激の場面に立会ったことはなかった。忽然として二十五騎の郎党が出現したのである。義貞の命令一下、火の中でも水の中でも飛び出して行きそうにも見える家来がそこにいるのである。それは怒濤《どとう》のごとき感動として義貞の胸に迫った。武将として立つための条件ともいうべき、旗本の姿をそこに見たことは、予期していなかったことでもあったので、義貞の心を大きく揺さぶった。
「ほんとうに、そちたちは、里見二十五騎として余に仕えてくれるのか」
義貞は言った。熱いものが迫って来て言葉を曇らせた。
「一人として新館様にそむく者はございません」
多胡義道が二十五騎を代表して答えた。梅の匂いがただよって来る。里見は梅の郷でもある。その梅の花の真盛りに自分はいま来ているのである。義貞は、故郷という言葉を頭の中で繰り返した。里見こそ、故郷でなくてはならないと思った。
義貞の前を多胡義道の馬が走っていた。義道が案内役で、その次に義貞の馬、後を里見二十五騎の若き人たちが追っていた。服装はさまざまだった。多くは野袴《のばかま》を穿《は》いていたが、中には小袖、小袴、萎烏帽子《なええぼし》の者もいた。弓矢を背にしている者もあったし、太刀を背にしている者も、丸腰の者もいた。不揃《ふぞろ》いの中に若い熱気のようなものが汪溢《おういつ》していた。
馬は乗用馬ばかりではなく、農用馬もいたので、遅れる者もかなりいた。長い一列の騎馬隊は榛名の山へ向かって駈け登って行った。そこには治尾《はるお》の牧《まき》があった。古くから知られている牧であり、この牧から良い馬が鎌倉に送られていた。新田氏の一族とは古くから関係があった。
一族の乗馬の多くはこの牧の草を食《は》んでいた。森に入ると道が狭くなり、森を出て草地に入ると冷風が馬の汗をぬぐった。義道と義貞の馬だけがかけ離れて前に出た。榛名山の奇峰の下に牧の草地が扇状にひろがっていた。牧に入るには揃って行ったほうがよい。義貞は義道に声を掛けた。
二人は馬から降りて、枯草のままの草原に坐った。枯草の下には若芽が萌《も》え揃っていた。馬がそれを求めて、枯草に鼻を突込んだ。
「変わらないなあ、なにもかも」
義貞は周囲を見廻して言った。里見の郷に居たころ、何度か来たことがあった。その時は歩いて来たが、思い出の中の牧はすこしも姿を変えてはいなかった。
「ここは変わっていませんが、郷はずいぶん変わりました」
義道は、変わったことを一つ一つ挙げて話した。義貞が知っている遊び友達のうち二人が死に、十五人が郷を出ていた。
「郷を出て行った者は男ばかりではありません、広神の阿久美も出て行きました。二度と帰ることはないでしょう」
義道は、そのことを義貞に報告せんがために、わざと、昔の遊び仲間の名を挙げたのである。義貞が阿久美のところへ忍んで行ったことが分って、由良の館へ連れ戻されたということは、里見の郷にとって大事件であった。義道等少年たちは、大人たちの処置を憎んだ。たった二夜阿久美のところへ行ったというだけで追われた義貞に同情していた。義貞が里見の郷へ来るということを聞いたとき義道は、義貞が里見の郷へやって来る最大の目的は阿久美にあると思った。乳兄弟としての勘だった。
「阿久美は嫁に行ったのか」
義貞は強いて平静を装ったが言葉は震えていた。もう駄目だと思った。女が一度生家を出たら二度と会うことはできないのだ。
「鎌倉へ行きました。岩松様の世話で鎌倉の足利屋敷へ行ったと聞いております」
「なに鎌倉の足利屋敷だと」
そこへなにしに行ったのだとは訊けなかった。娘が武家の屋敷へ行ったということは、どういう意味を持っているか義貞はだいたい知っていた。おそらく阿久美は、昔のままの清い身体《からだ》ではないだろう。
阿久美を足利屋敷へ世話したのが、岩松だということもまた義貞には気に入らなかった。岩松と言っても当主ではなく、その家来の誰かが口を利いたのであろうけれど、義貞にはなにか、新田一族の岩松に裏切られたような気がした。
(けしからん、なぜあの阿久美を足利屋敷へ世話したのだ)
義貞は内心怒った。が、よく考えてみると、それは義貞の一方的な考え方であって、岩松を責めるには当たらないことであった。岩松氏は新田氏の一族でもあり足利氏の一族でもある。おそらく阿久美を足利に世話したのはいい娘はいないかと頼まれていたからであろう。そして目をつけられたのが広神の阿久美だったということになる。阿久美と義貞との間にはなんの約束もないし、関係もない。阿久美がどこへ行こうが、文句の言いようがないのである。
「足利と言っても、一門の数は多い。足利の誰のところへ行ったのだ」
義貞は訊いたが、義道は知らなかった。
「さあ、どなたかは存じませぬが、小座《こざ》に仕えるのだと聞いております」
小座とは御前《ごぜん》(正室)の居室のことである。小座に仕えるというのは、その言葉の通り、御前の身の廻りの世話をすることであるが、側室として仕えることでもある。相手の出方次第でどうにでもなるのである。
義貞はそれ以上のことは聞かなかった。遅れていた者たちが次第に集まって来た。義貞は立上がった。
義貞は里見の郷に三日いた。阿久美がいなくなった心の淋しさをまぎらわすために、連日里見二十五騎を率いて遠乗りにでかけていた。彼は、この間に、鎌倉大番役として同道すべき人物を選んでいた。五、六名を連れて行ってやりたいと思っていた。だが、そのことは口には出さずにいた。
由良の館に帰った義貞は、真先に父朝氏に挨拶した。父には無事帰りましたとだけ報告したが、祖父基氏の前では、
「広神の阿久美が鎌倉の足利屋敷の小座に仕えているそうです」
と言った。初恋の女がこうなったのは、|おじいさま《ヽヽヽヽヽ》のせいですよと言わぬばかりの目つきだった。幼少のころ、祖父に育てられた義貞は基氏の前に出ると甘えたくなる。それがそのまま出たのである。
「さようか。それは義貞としても気落ちしたであろう。だが、阿久美ぐらいの女なら、どこにもここにも居るわい。目に角を立てて騒ぐことはあるまい。男はあきらめが肝腎《かんじん》だ。大成するまでには、もっともっと多くのことをあきらめねばならなくなるだろう。そんなことよりお前は鎌倉へなにしに行くのか分っているのか」
なにしにと言ったとき、基氏は周囲を見た。誰もいなかった。
「お前は鎌倉のすべてを見て来るのだ。道がどこでどう曲がっているか、どこにどのような屋敷があって、そこには誰が住んでいるか、またその家の石垣の高さまで、頭の中へ覚えこんで来るのだ。そういうつもりでお前は鎌倉へ行かねばならぬ」
「なぜ、そんなことをしなければならないのです」
その義貞の問いに基氏は、はっきり答えた。
「やがてお前が鎌倉へ攻めこむ時の為に必要なのだ」
基氏の声が義貞の中に重く沈んだ。
鎌倉街道には特に目新しいものはなかった。義貞の一行五十人は、新田庄を出て五日目には大船にさしかかっていた。旅というほどのものではなく、街道の風景も目を惹《ひ》くものはなかった。途中、武蔵国《むさしのくに》関戸に一カ所関所があっただけだった。新田庄を出るときは梅が咲いていたが、武蔵国に入ると梅の花はもう終わっていた。そして鎌倉に近くなると辛夷《こぶし》の花が丘陵のところどころに咲いていた。常緑樹が多かった。草も青々と芽を出していた。肌にやわらかな風が触れた。
新田庄を出てから、そこまではほとんど平野だった。山らしいものはなく、平坦な道の続きだった。が、大船あたりで、それまでずっと見えていた富士山の姿が、丘陵地帯にかくれて見えなくなると、意外に草深い丘陵地帯に出た。山とも丘とも言いがたい地形が織りなすように続き、ところどころに農地があった。農地を通り抜けると、また丘陵地帯に出るのである。
道幅が広くなり、人の往来がはげしくなった。人家も多くなった。いよいよ鎌倉が近いという予感がした。
「間も無く、大木戸があり、それを通り抜けると鎌倉です」
と船田義昌が言った。
大木戸に門はあったが開かれたままだった。番人はぼんやりした顔で立っていた。非常時の場合は、それが閉ざされ、一群の兵によって守られるのだろうと義貞は思っていた。
(だが、こんな木戸一つあったところで、どうにもならぬ、それよりも、このあたりの地形だ)
義貞はあたりを見廻した。
関東平野と鎌倉とを区切るこの丘陵地帯が、鎌倉を守る自然の砦《とりで》であったとするならば、その丘陵地帯の向こうにある鎌倉とはどんなところであろうか。椿《つばき》の花の咲いている藪《やぶ》で小鳥のさえずる声が聞こえた。
「鎌倉はずいぶん暖かいところだな」
義貞は船田義昌に言った。
「ここはまだ本当の鎌倉ではありません、峠一つ越えた向こうが鎌倉でございます。そこに入るともっともっと暖こうございます」
義昌の指す方向に峠というほどでもないが小高い丘陵が見えた。道はその方へ向かっていた。
「鎌倉は大小無数の谷が複雑に入り組んだまま、全体としては、南に向かってひろがった大きな日溜《ひだ》まりです。その日溜まりの向こうには海があります。新館様はまだ御覧になったことのない海が南側を守る自然の砦となっております」
義昌は峠に登りながら、そのように説明した。樹木で視界がさえ切られて見通しがきかず、なにか山中に迷いこんだような気持ちだった。鎌倉という、京都につぐ都がすぐそこにあるというのに、これはいったいなんとしたことであろう。義貞はいら立つ気持ちを押えながら馬の手綱を握っていた。
遠くから奇声を発しながら近づいて来る騎馬の一群があった。義昌は一行五十人を道路の片側に寄せた。その前を十数騎の武士が駈け抜けて行った。
「失礼な、なんだ、あいつ等は」
義貞は奇声を発しながら近づいて来てわが者顔に通り抜けて行く一群の武士のあり方に怒りを覚えた。なんの特権があってあのようなことができるのだろうか。
「得宗《とくそう》(北条氏嫡家)の御一族とお見受けいたしました」
得宗がいかなるものであるかはかねてから、父朝氏や祖父基氏からうるさいほど聞かされていた。だが、その得宗の一族が、目の前をわが者顔に通り過ぎたことに、義貞はなんとも腹が立ってしようがなかった。
(あいつ等が引返して来たら、道をふさいでやろう)
そう考えていると、その義貞の気持ちを見抜いたように義昌が言った。
「東国のある御家人が、得宗御一族の横暴さに腹を立てて、一言《ひとこと》文句をつけました。丁度七年ほど前に、すぐそこの化粧坂《けわいざか》(気和飛坂)で起きた事件でございます。そのために東国の御家人は科《とが》を受けて、二年間の鎌倉大番役を五年間に延長させられました。一言が三年間という長さで返って来たのです。爾来《じらい》鎌倉では一言三年という言葉が使われるようになりました。鎌倉大番役を三年間延期されたということは、それはそれは大変な出費となります。そのために、その御家人の領内の百姓は非常な苦しみを受けねばならなくなります。鎌倉では怒ることは禁物です。なにがあっても冷静にしていなければいけません。心を顔に表してはならないのです」
そこで義昌は一言三年と大きな声で言った。
義昌の話に出て来た化粧坂はかなりけわしい坂で、峠の付近には幾重にも、土塁や堀割りが設けられていた。鎌倉に敵が攻めて来たとき、このあたりが、主要な戦さの場になるであろうことが想像された。曲輪が連なり番士の姿が見えた。その曲輪からそれほど離れていないところに人家が密集していた。その方へ行く人が多いので、なんであろうと見ていると、数人の若い女が、その家の前に姿を現して、身振りよろしく、声まで上げて、義貞の一行をさし招いていた。
「遊び女《め》です。この化粧坂一帯は、あのような遊び女の家が立並んでいます。御用心くだされ」
義昌は言った。遊び女というものを見たことも聞いたこともない義貞にとっては、ただただ物珍しいだけだった。
彼女等は、新田庄では見たこともないような派手な小袖を着て、赤い帯を腰のあたりで結び、そのはしを引きずりながら歩いていた。おしろいを塗った顔は紙のように白く、唇が血のように赤かった。美しいというよりは異様な姿に見えた。近づいてよく見たいという気持ちを押えながら、坂を下りかけると、あっちの家、こっちの家の蔀戸《しとみど》の奥から次々と白首女が顔を出して微笑しかけた。まだ宵には間もあるというのに、笠で顔を隠した武士や、商人風の男たちが、遊び女に呼びとめられて入って行くのが見えた。明らかに酔漢とおぼしき者が徘徊《はいかい》している姿もあった。
「いったいこれはどういうことなのだ」
義貞は義昌に聞いた。
「こういうことです。男が、しかも若い男が多数集まって来れば、遊び女も寄って来るでしょう。酒も必要になり、音曲も……」
それ聞こえるでしょうと義昌は言った。たしか音曲は聞こえていたが、義貞には、それは遊び女とは関係のない、風雅な音曲に聞こえた。
「狭い谷です。その谷の中にはぎっしりと家が立てこんでいるのです。鎌倉にはいったい幾つ谷があるでしょうか、まだ数えた人がないほどございます。ここに住む多くの人は湧《わ》き水を使い、また井戸を使ったり、使い溝《せき》を流れる水を使って生きていますが、全体的には人が増え過ぎて水に不自由しています。水を売る商売もございます」
水を金で売買するなどということは想像もしたことがなかった義貞は、義昌のその説明で、鎌倉がいかに人間の密集地帯であるかを知った。
「鎌倉には驚くことが数限りなくございますが、まずは今日のところは、屋敷に落着いて、旅の疲れを休めていただくことだと存じます」
義昌は、それからはあまり口をきかなかった。谷と谷の間に散在する大きな屋敷や、小さな家、寺や、神社などの間の車も通れないようなせまい道を通って、義貞等の一行は樹木に囲まれた屋敷についた。そこに新田屋敷があった。
「ここは亀《かめ》ヶ谷《やつ》(当時は現在の扇《おおぎ》ヶ谷《やつ》一帯を亀ヶ谷と呼んでいた。扇ヶ谷の地名は戦国時代に入ってからである)のほぼ南西の端になっております」
と義昌に説明されても、いったい鎌倉のどのあたりにいるのか義貞には分からなかった。
新田屋敷は、名前こそ立派だけれど、鎌倉大番役として勤仕する、新田庄の者をようやく収容する程度の構えだった。何時《いつ》ごろ建てられたのか、かなり老朽していた。一応は武家屋敷らしき様相は備えてはいたが、あちこちに補修を要するところがあった。
「ここで先代様は御前様を迎えられました」
と義昌が言った。先代様と言えば、基氏である。基氏がこの屋敷にいたころ祖母を迎えたのかと思うと、なにか胸に迫るものを感じた。なにかにつけて不自由であったろうと想像された。
「義重様のころは、この付近一帯が新田屋敷でしたが、今はその五分の一もございません」
新田氏が落ちぶれると共に屋敷もまた狭くなったのだと義昌が言った。
「だが、ここの水だけはどこの屋敷にもおとらぬ立派なものです」
屋敷の裏にかこいがしてあった。その奥に凝灰岩《ぎようかいがん》の屏風《びようぶ》のような一枚岩があり、その根本から滾々《こんこん》と水が湧いていた。
「きれいな水です。そしてうまい水です」
義昌は、湧き水の溜まりのところに置いてある柄杓《ひしやく》に清水《しみず》を汲《く》んで義貞に差出した。
おいしい水だった。由良の館で飲む水とは違った味があった。里見館の清水とどこか共通するまろやかさがあった。
「此処《ここ》ではこの水があるから風呂にも入れるのです」
義昌は自慢げに言った。
船田義昌は、その翌朝早く、義貞と連れ立って新田屋敷を出た。家来は連れず、行先も言わなかった。ぶらりとそのあたりに散策に出たような感じだった。太刀も帯びず、小刀をさしただけだった。
話はせず黙ってついて来てくだされと義昌に言われたので、義貞は、義昌がどこか秘密の場所へでも自分を連れて行くのかと思った。その予感が義貞を緊張させた。
町はまだ春のあけぼのの眠りをむさぼっていた。狭霧《さぎり》が大地を這《は》い、犬がわがもの顔に歩いていた。
谷をおりると平坦部に出、そこに八幡宮へ続く若宮大路があった。両側に土塁が築かれていた。その若宮大路を直角に横切ったところで、義昌は義貞を振り向いた。目つきで目的地が近いことが分かる。
木立にかこまれた神社があった。その神社の裏側が崖《がけ》になっていた。小道が崖のふちを伝うように延びていた。崖の上は丘というよりも山に似た感じだった。かなりな急坂だった。息苦しさを感ずるほど登ったところの頂に突出している岩があった。義昌がまずそこに登って、義貞のために手を伸ばしたが、義貞は自力でその頂に立った。
そこにはすばらしい眺望が開けていた。
義貞は太陽の方向を探した。まだ日は昇っていなかったが、東はすぐ分かった。義貞が東から北に目を移して行くに従って、義昌が、あれはなに、これはなにと説明した。八幡宮に向かう若宮大路が鎌倉の中心地であり、八幡宮の南側一帯に幕府の官衙《かんが》が密集していた。それを取り巻くように武家屋敷が並んでいた。点々と配在する寺院や神社の名はいちいち覚えられないほど多かった。
「あのあたりが、きのう越えて来た化粧坂でございます」
と説明され、更に、新田屋敷の位置を示されると、その二点を結ぶ直線の延長線上にほぼこの頂が位置していることが分かった。目を北部から西に廻したところに海があった。
「海だ」
と義貞は叫んだ。はじめて見る海だった。想像していたものとはかなりへだたりがある平面すぎるほど平面的なそれが不思議な存在に思われた。
「そうです。海です。海に比較したら鎌倉はせまいところです。東西二里、南北一里半、このせまい土地に、十万人もの人が住んでいるのです」
十万人という人の数を聞いただけで義貞は仰天した。だが、眼下にひろがる町のたたずまいを見ればそれだけの人間が住んでいておかしいことはないと思った。朝餉《あさげ》の煙がいっせいに立昇ると、それが霧と混じって、重そうな靄《もや》の層を作り、眺望は次第に消されて行ったが、海は時間とともに輝きを増して行くようだった。
「鎌倉は綺麗《きれい》なところだ。それは海があるからだ。海に向かって開かれているからだ」
義貞は、その海に一刻もはやく行って見たかった。
義昌と義貞は新田屋敷に帰って朝餉を摂《と》った。
「鎌倉は全体が城です。地形そのものが城だから、その中に城らしいものはないのです」
義昌が言った。そう言えばそうであった。ここには山城らしいものは見当たらなかった。鎌倉を囲繞《いによう》するすべての山や丘陵が、山城であり、塁であり、堀切りであった。
「まず、そのことをはっきりつかんでいただきたかったので、あそこへでかけたのです」
義昌はなぜ、朝っぱらから人目を忍ぶような真似をしたのかというようなことはいまさら言わなかったが、義貞には、義昌がなにを教えようとしているかを充分に察知できた。
「鎌倉には驚くほど多くの人がいます。その人の数の倍の目があります。その目は互いに監視し合っているのです。きのう化粧坂で見かけた遊び女たちの多くは幕府の手先となって使われています。あそこでは、うっかりしたことは言えません。あそこで遊んだ者の名は翌朝のうちにはちゃんとその向きの人へ届けられるようになっています。三年ほど前のことです。ある東国の御家人衆が、遊び女に夢中になった。するとその御家人はふところ具合がよいと認められ、京都大番役を命ぜられました」
義昌はそんな話をした。
「源氏一門の御家人で絵の上手な人がいました。今朝われわれが登った八雲神社の裏の峰で絵を描いたところが、その御家人は謀叛《むほん》の疑いを受け、領地は没収されたのです」
絵を描いただけで謀叛の心ありとされたのではたまらないと義貞は思った。それにしても、幕府のやり方は神経質過ぎるのではないかという義貞の質問に対して、
「得宗専制政治に自信が持てなくなったのでしょう。こうしている間にも、日本のどこかでは悪党が乱を起こしています。北条一族の政治に対する反感です。なにかのきっかけでその乱が大きくなれば、この鎌倉もまた危うくなるのです」
このような全国的動きに対する対応策として北条氏はいよいよ専制政治を強化し、あくまでも権力によって服従させるしかないと考えているのだと言った。
「その権力の基礎となるものは御家人だろう」
と義貞は言った。
「いかにも過去においては御家人でした。御家人は一所懸命に働きますと得宗家に誓いました。一所懸命の一所とは所領のことです。自分の所領を安堵《あんど》してくれるならば、命を懸けて仕えますという意味でした。つまり昔は御家人の所領に対して幕府は口を出しませんでした。ところが今は、その御家人の土地に対してまで幕府は干渉するようになりました。そこにも、世の乱れる不安定な要素があるのです」
義昌はかなりむずかしいことをしゃべってから、やや声を低くして、
「幕府子飼いの御家人でさえそうです。ましてや、われわれのような外様《とざま》御家人においてをやです」
義昌は新田氏を称して外様御家人と言った。
「われら源氏一族は得宗家から見れば外様御家人と見えるだろうことはうなずける。では足利氏はどうなる。やはり外様御家人か」
という義貞の質問に、違いますと義昌は言った。
「足利氏のように、代々北条氏と婚姻関係を結んでいる者は、外様御家人ではなくして、得宗被官と見るべきでしょう。われわれとはまったく違います」
義昌は、更に過去にさかのぼっての政治を説いた。北条氏が、幕府を継承した当座はよい政治をした。北条泰時のときには、副執権を置き連署制を設け、評定衆を置き、合議制政治を実行し、御成敗式目を作って裁判の公正を期した。
だが、いまは、ほとんどそのような制度は無くなって、得宗の専制政治になった。
「幕府は、このような専制政治のあり方自体が怖いのです。つまり自分自身の影におびえているのです。だから、鎌倉の絵を描いたというだけのことで、その人を罪に落とすようなことをするのです」
困ったことだと義昌は言った。
〈鎌倉のすべてを見て来いよ〉
と言った基氏の言葉を守るのは容易でないと義貞は思った。
「だが、鎌倉はせまい」
と義貞は言った。長くいる間には、石垣の高さはおろか、その石の数までも調べ上げることができるだろうと思った。
「さて、新館様、しばらくの間はいろいろと煩わしいことがございますが、なにごとも、一言三年と心を静めていただかないと、故郷のお館様や御隠居様にご心配をかけることになります」
そこのところを、よくよく承知して貰いたいと、義昌は繰り返して言った。
どこかへ挨拶におもむくのだなと思った。
「よくわかった。そちの案内のまま余は動けばそれでよいだろう」
それでまず第一の訪問先はと訊《き》いたとき義昌は、いささかとぼけたような口ぶりで、
「源氏の嫡流、足利貞氏様でございます」
と言ってから、すぐ真顔に返って言った。
「ご辛抱くださいませ。得宗家によって、足利氏が源氏の嫡流と認められている以上どうにもなりません。源氏支流の者は、鎌倉へ来た場合まず源氏嫡流の足利氏に挨拶して指図を受けることになっています」
義貞は大きく頷《うなず》いた。鎌倉には鎌倉の風が吹いているのだ。その風に顔をそむけることはできないと思った。彼は足利で会った貞氏、又太郎父子のことを思い出した。
義貞は衣服を改めて、足利屋敷へ向かった。義貞だけが馬に乗り、義昌等従者五人は徒《かち》で従った。足利屋敷は八幡宮の東側の谷にあった。
樫《かし》と椎《しい》の木立にかこまれた大きな屋敷の前に立つと義貞は身の震えるのを覚えた。緊張しているからだと思った。心を落ちつけるためにあたりを見廻したが、そこは深山のように静かだった。屋敷のずっと奥の方から子供の声に混じって若い女の声がした。小鳥の群れが頭上を飛んで行った。
義貞等は対面所に通されたまましばらく置かれた。ほぼ小半|刻《とき》(一時間)あまりも待たされてから、広の間に通された。そこでまた小半刻待たされた。その間誰も姿を現さなかった。回廊を行ったり来たりする人の数から想像すると、他《ほか》にも来客があるようにも思われた。
義貞と義昌は庭に目をやったまま黙っていた。
回廊を小走りに近よって来る足音がした。少年が、庭から入って来る光を背にした二人の前に立った。
「よく来たね」
と少年は義貞に向かって笑いかけながら、さっさと入って来て、上座に坐った。足利又太郎だった。
足利で会ったときより背丈は伸びていた。義昌がその又太郎に挨拶した。義貞もそのとおりに、ひととおりの口を利いた。相手は足利を継ぐべき人であったからだ。
「父は奥で安藤左衛門と碁を打っている。勝てばいいが負けると機嫌が悪くなるから困るのだ」
又太郎は十一歳にしてはませた口のきき方をした。
「そうそう義貞殿は上野《こうずけ》の里見から来られたのでしたね」
又太郎が義貞の名を覚えていてくれたことは有難かったが、なぜ里見が突然とび出したのか分からなかった。義貞は、多分又太郎のうろ覚えだろうと、特に否定もせず、女装したら、誰でも女だと信ずるほどに色白で、餅肌の又太郎の顔を見詰めていた。直垂《ひたたれ》がよく似合っていた。
「里見の阿久美を知っているでしょう」
と又太郎は言った。そして驚いた顔で又太郎を見上げる義貞に、
「阿久美から義貞殿のことは聞きました。喧嘩《けんか》と水泳と馬が得意だそうですね」
又太郎はそう言うと、まるで女の子のように口元を細めて笑った。
「阿久美がお屋敷に居られるのですか」
義貞の口から思わずその言葉が出てしまった。
「いますよ。来たときは御前の傍にいたが、今は父の女房になりました」
女房とは側室の異名だった。宮廷内で使われることばが、そのまま上級武士の間に使われていた。
「会いたいだろう。いまここへ連れて来るから、待っているがよい」
又太郎はそう言うと、義貞の言葉も待たずに、さっさと部屋を出て行った。静かになると、小鳥の声がまたひとしきり聞こえて来る。
間もなく、回廊に衣《きぬ》ずれの音がした。又太郎が阿久美を連れて来たのである。
阿久美は下座に坐って義貞に向かって黙って頭を下げた。広神の阿久美の面影はなく、見も知らぬ女が坐っているように見えた。だが、よく見ると幼な顔がどこかに残っていた。頬を紅《あか》らめながら小太郎の問いに答えた阿久美の姿が義貞の中に大きく浮かび上がった。阿久美は一言も言わず一礼しただけでそこを去った。その後ろ姿に翳《かげり》が見えた。
「父は女好きでこまりものです」
と又太郎は父の女好きを吹聴《ふいちよう》するように言った。たえず微笑を浮かべながら、そんなことを言う、又太郎の茫洋《ぼうよう》とした顔を義貞はあっけに取られた気持ちで見詰めていた。
貞氏は義貞等を二刻余りも待たせてから一人の武士を従えて入って来た。機嫌がよさそうだから、碁には勝ったのだと想像された。
「義貞か、よう参ったな」
貞氏は立ったまま義貞を見下ろして言った。失礼なと思いながらも義貞は、かねて義昌に言われたように、一通りの挨拶をした。
「鎌倉大番役は、京都の大番役と違って楽なものだ。ぶらぶらしていれば、すぐ二年や三年は経ってしまう」
貞氏はそう言うと、義貞の傍に控えている、船田義昌に向かって言った。
「どぶ臭い新田の庄からいきなり鎌倉に出て来たのでは、傅役もなにかと気がもめるだろうが、あせらずに教えこむことだな」
どぶ臭い新田庄と貞氏が言ったとき、義貞の眉がぴくっと動いたが、義昌の顔を見ている貞氏には気がつかないようであった。義昌は、なんと言われても、はっ、はっとだけ答えていた。
「ところで義貞、化粧坂の女たちのところへは出掛けたかな、もしまだ行ってなかったら、義昌に早速案内して貰うことだ。鎌倉はまずあのあたりからおぼえねばなるまい」
貞氏は、のうそうだろうと、彼のうしろにひかえている武士をふり返って言った。武士は困ったような顔で相槌《あいづち》を打った。その武士に貞氏は、
「そうだ。まだ知らなかったな、新田小太郎義貞だ」
と義貞を紹介してから、今度は義貞に向かって、
「上野国|甘羅《かんら》の地頭安藤左衛門だ。政所《まんどころ》に仕えるようになってから久しい、前には侍所にいたことがある。鎌倉の役向きのことで分からないことがあれば教わるがよいぞ」
貞氏は義貞にそのように紹介したあとで、ふと、なにかに気がついたように、膝《ひざ》を打って、
「左衛門には女《むすめ》があったな。たしか十五歳とか……」
と、ひとりごとを言うと、義昌に向かって、義貞に縁談があるかどうかを訊《たず》ねた。義昌はございませんと答えるより仕方がなかった。
「ないか。それはちょうどよい。この安藤左衛門の女を貰え、左衛門の先祖は藤原氏だ。家柄はいい。源氏の支流の新田氏とはつり合いもよいであろう」
一方的な言い方だった。考えて置けとは言わず貰えと命令したのである。安藤左衛門もこれには驚いたようだが、返す言葉も無く頭を下げていた。
「よかった。よかった。ここで一組の縁結びができた。丁度よいところに二人が来たものよなあ」
と一人で悦に入っている貞氏の、酒も飲んでいないのに酔ったような赤い顔を見ながら義貞は、
(得宗家一族に準ずる四位の下という高い位に飾られ、源氏の嫡流を偽称して恥じない不届きな奴)
と心で罵《ののし》りながら、それを顔に出すまいと懸命にこらえていた。ここで、おかしなことを言ったら、一言三年どころではない、もっともっとたいへんなことになるだろうと思っていた。
新田屋敷に帰った義昌は義貞の前に両手をつかえて、
「新館様、よくぞ、堪《こら》えて下さいました。今日のことは、戦場にて一番首を上げるより立派な手柄でございます」
と言ってから、降って湧いた安藤家との縁談については、貞氏の思いつきの押しつけには腹が立つけれども、安藤左衛門は身分こそ低いけれど、政所では有能な事務官として、なくてはならない人物であることを持ち出し、この際、向こうがよければ、縁組みをしてもよいではないかと義貞にすすめるのである。
「だが、相手はどんな女だかこちらは全く知らないのだ」
義貞は言った。当時の結婚はすべて親たちが取計らって決めたもので、婚礼の当日、はじめて顔を見るような場合が多かった。そのしきたりを知ってはいたが、一応はそのように言って見たかった。
「早速、相手のことを調べた上で早馬を立て、お館様のおゆるしを得たいと思います」
義昌は、もはやこの縁談はことわることはできないという前提に立って言っているようであった。
「いやだと言ったらどうなる」
義貞はそう言ってみた。だが義昌から返って来た言葉は、予期したとおりの、
「今のところどうにもなりません。ことわる理由がないのです。やはり、堪えていただかねばなりません」
と言うものであった。
義貞は、その夜眠れなかった。広神の阿久美の姿が何度か現れた。広神の阿久美に声を掛けると、私は安藤の阿久美ですと答えて笑い崩れる阿久美の姿は里見のころのままだった。
翌々日の朝になって、義昌は、安藤左衛門の女《むすめ》についてかなりしっかりした情報を持って来て義貞の前に置いた。
「名は阿久利《あくり》、歳は十五、類《たぐい》まれなる佳人にして、歌をよくするということでございます」
どうせ、仲人の口にするような一般的な讃《ほ》め言葉だろうと言うと、その情報の出どころは、最近まで安藤家で働いていた女の口から出たもので、客観性があると義昌は強調した。
義貞は阿久利という名が気に入った。阿久美の後に突然阿久利が出現したことに運命的なものを感じた。
「国|許《もと》からの御返事も間も無く参りましょうほどに、そろそろ、御前様を迎える準備をしなければなりません」
義昌はもう決まったようなことを言った。
朝氏も基氏もこの縁談には賛成だった。だが、正室として迎えることには難色を示した。源氏の嫡流と自認している新田朝氏は、藤原氏の末だというだけで、ことさら名門でもない安藤家の女を正室として迎えるには抵抗を感じたのである。朝氏も基氏も、結婚式には出席しないことを伝えて来た。これが、側室として迎えるのなら異存はないという回答であった。下準備が終わったところで、佳日を選び義昌は足利貞氏の家来と同道して安藤家を訪れた。それまでに安藤家の方も申し込み受け入れの準備をしていた。安藤家にとっては申し分ない縁談だった。
その日阿久利は早咲きの庭の桜の歌を数首作り、その一首をまだ見ぬ夫の義貞のために送った。
義貞はこの年の秋、鎌倉において安藤左衛門の女、阿久利と祝言を上げた。鎌倉に生まれ育った阿久利は里見の郷や新田庄内で見かけた女性たちに比較すると垢抜《あかぬ》けがして見えた。深窓に育った女というほどの気取りはなく、平凡な武家の女としての立居ふる舞いが義貞の気に入った。初恋の阿久美とよく似た名の阿久利であったが、顔は似てはいなかった。阿久美は目が大きかったが、阿久利は一重まぶたのやさしい目をしていた。腰まで届くような、よく手入れをした黒髪が義貞にはなによりもすばらしい宝に思われた。
義貞にとっても阿久利にとっても、すべてが初めての経験であった。義貞は、新田屋敷の一部を改造した新居に阿久利を迎えたその夜から、彼女のとりこになった。彼は狂わしいほど彼女を求めた。夜昼かまわず阿久利のそばに居たがった。外へ出ても、なにか用を見付けて、屋敷へ戻り、阿久利と一室に閉じこもったまましばらくは外へ姿を現さなかった。
「新館様、人の目もございますから、おつつしみのほどを願います」
と義昌が苦言を呈したところで、はじめて蜜《みつ》の交わりの味を覚えた十六歳の義貞を阿久利から引き離すことはできなかった。
阿久利を新田屋敷へ迎えて二カ月ほど経ってから、義貞はようやく自らを抑えることができるようになった。義昌は、そのころを見計らって義貞にしきりに馬の遠乗りをすすめた。義貞は連日のように鎌倉の周辺を馬で走り廻った。
義貞の頭には鎌倉の地図が次第にはっきりと記憶されるようになって行った。
阿久利が懐妊したことがはっきりしたのはこの年の冬であった。義貞はやがて父となる自分を想像しながら、阿久利に、
「男が欲しいか、女が欲しいか」
と訊いた。
「もちろん、男でございます。新館様よりまさっても劣らぬような強い男の子を生みとうございます。やがては源氏の嫡流として、すべての人に認められるような武将になる子を生みとうございます」
阿久利がこれだけはっきりとものを言ったことはいままでないことだった。常に微笑を浮かべながら、ほとんど義貞の言うとおりになっていた阿久利が、懐妊したと同時に源氏の嫡流となるべき武将という驚くべき言葉を口にしたことは義貞にとって意外であると同時に、阿久利が、全く新田氏の人になり切った証拠でもあった。
「そうだ。強い男の子を生んでくれ」
義貞は自分が一度に十《とお》も年を取ったような気になった。そして新しい生命が芽生え出すと同時に、いままでそれほど感じなかった責任のようなものを考えるのである。
年が明けて義貞は十七歳になった。彼は鎌倉大番役にも馴れたし、鎌倉にも馴れた。さてこれから、なにをなすべきかと、彼がその質問を発する前に船田義昌は厳粛な顔をして言った。
「鎌倉に馴れただけでは、なんの役にも立ちません。鎌倉を知り尽くすことです」
義昌は有能な執事だった。義貞に対して、具体的にああしろこうしろというふうな注文はつけない。義貞に示唆《しさ》を与え、義貞自らその意味を考えさせるようにしむけていた。
義貞は「鎌倉を知り尽くす」という言葉の裏になにが隠されているか、何故《なぜ》そのようなことを義昌が言ったかを知っていた。鎌倉を知り尽くすことは、いざという場合のことを指しているのだ。それは現体制に対する反逆の下準備をせよというおそるべき注文だった。
「まず先に知り尽くすべきものはなんであろうか」
義貞は空とぼけて義昌に訊いた。
「海です。鎌倉と海、海と鎌倉、海、海、海、鎌倉、鎌倉、鎌倉……」
義昌はそう言いながら海の方向を指した。
義貞は鎌倉に来てから、一日として海を見ない日はなかった。ことあるごとに海岸に出かけて波とたわむれた。彼ばかりではなく、新田庄から鎌倉大番役として従って来た者の多くは海を知らなかった。彼等は機会を見ては海岸に出ていた。だが、それは海に馴れることではあっても、海を知り尽くすことではなかった。
その夏義貞は、里見の郷から連れて来た多胡義道、清水五郎、富沢小三郎、柴山八郎、木暮長七郎の五人と共に、海岸に出て水泳ぎをやった。義貞を加えたこの六人は、里見の郷にいたころ烏川で水泳ぎはしたことがあるが、海で泳いだことはまだなかった。彼等は海がこわかった。にわかになじむことはできなかった。しかし、回数を重ねるうちに次第に海に馴れ、漁師たちとも知合いができて、小舟に乗せて貰って沖へ出ることもあった。
釣りをやったことのない義貞が釣りに興味を持った。やがて磯釣りで満足できなくなると漁師の舟に乗って、しばしば釣りに出かけるようになった。
その釣りの帰りに、義貞は、稲村ヶ崎を指して、
「あの岬の縁《へり》を歩いて迂回《うかい》することはできるか」
と訊いた。稲村ヶ崎は三方が海にかこまれた絶壁だった。その縁を歩くということは海の中を歩くということだった。
「引き潮のとき、胸のあたりまで海につかるつもりならば、あの崎《みさき》の縁を歩いて渡ることはできます」
漁師は答えた。
それから、更に一カ月ほど経った引き潮の真中を見計らって義貞は、里見の郷から連れて来た五人のうちで水泳ぎのうまい清水五郎と富沢小三郎に命じて、稲村ヶ崎の縁を歩いて渡らせた。
「危険だと思ったら、途中で引返して来てもいいぞ」
義貞はそのように命じた。二人は胸まで海水につかりながら、見事に稲村ヶ崎の縁を迂回した。
この年の秋阿久利は男子を出産した。新田|義顕《よしあき》の誕生であった。
喜びの第一報は早馬で新田庄へ知らされた。朝氏は初孫の顔が見たいと言った。基氏は、
「その子の若武者ぶりを見るまで生きていたいものだ」
とひとりごとを言った。
義貞にとって鎌倉はまことに興味深いところだった。大町(現在の大町)、小町(現在の小町)、魚町《いよまち》(現在の大町のうち)、米町(現在の大町のうち)、武蔵大路下(現在の扇ヶ谷)、須地賀江《すじがえ》橋(現在の雪ノ下)、大倉辻(現在の雪ノ下)等は商業地域に指定されていた。此処《ここ》には、ありとあらゆる商人が寄り集まって店を張っていた。薪炭を売る店、米を売る店、酒屋、漬け物類と干物を売る相物屋《あいものや》もあるし、千駄積《せんだづみ》(履物屋)もあった。刀剣類を売る店、研《と》ぎ屋もあった。馬の売買をする市も一日置きに立つし、絹座のような大きな規模の取引の場もあり、布、反物類の小売店もあった。
義貞はそれらの商業地区を歩き廻っているうちに、これほど多くの商人が集まり、活発に商売がやって行ける、鎌倉という大消費都市について一種の危殆感《きたいかん》さえ抱いた。鎌倉の町の栄えは鎌倉幕府がそこにあるからだった。幕府があるために人が集まり、その人を当てにしてまた人が集まって来たのである。
(だがもし人口が稠密《ちゆうみつ》しているこの町になにかが起こったら)
と、彼は考えた。突然大軍が鎌倉へ攻めこんだ時は、この人たちはいったいどこへ逃げたらよいだろうか。大混乱が想像された。どうにもならないほどの混乱の中に死んで行く多くの人間が出るだろう。それを救うには周囲の守りを厳重にして敵を鎌倉の内へ入れないことだ。
(逆にこの鎌倉を攻める立場になって考えたならば)
右往左往《うおうさおう》する群衆の波が邪魔になって、てきぱきと防備配置の軍を動かすことができないでいるその隙に、次々と攻撃軍を送り込んで、各所に火を放せば、鎌倉は阿鼻叫喚《あびきようかん》の巷《ちまた》に化してしまうだろうと思った。
(なぜこんなことを考えたのであろう)
義貞は頭の中に浮かんだ妄想《もうそう》を打消し、その直後に、また同じようなことを考えるのである。義昌が言う、鎌倉を知り尽くせということの意味が次第に分かりかけて来たような気がするけれど、鎌倉を知り尽くすことのほかにまだまだ根本問題が残っているように思われた。それは鎌倉の防衛力だった。鎌倉の防衛体勢がしっかりしている間は、なにも起こらないだろうし、起こすこともできないと思った。
義貞は、新田庄にいる祖父の基氏に手紙を書いた。
「鎌倉という町はまことに奇妙な町です。なにをしているのかわけのわからないような人間がうようよしています。商人が多いのもこの町の特徴です。鎌倉とはなんぞやと考えると、扱い方によって、味方にも敵にもなる町というような答えが出そうです。それにしても、およそ十万人というこの鎌倉の人口にはただただ恐れ驚くばかりです」
義貞は、鎌倉になぜこれだけの人口があるのだろうかという疑問を久しい間考え続けていた。この問題が解けた時が、鎌倉について知り尽くしたことになるのだと考えていた。
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新田氏が鎌倉幕府の内部にあって勢力を張っていた時代は鎌倉へも京都へも何度か出向していた。それを証明する文書もあるが、義貞が鎌倉大番役として行っていたことを証明するものはない。新田政義が失脚して以来、新田氏の勢力は急速に衰え、官位もない地方の一御家人(北条氏ではないから外様御家人)に過ぎなかったから、記録に残るようなこともなかったのであろう。しかし、鎌倉大番役は、御家人たちの義務の一つであったから、新田一族が、鎌倉大番役の催促を受けたことはまず間違いないことに思われる。義貞の初めて結婚した相手は、鑁阿寺新田足利系図によると、
義顕=辰千代、右京、従五位下、越後守《えちごのかみ》、母上野国甘羅令安藤左衛門五郎藤原重保女、
とある。新田義顕は建武四年に越前国《えちぜんのくに》金崎城で戦死している。この時の歳が二十歳(二十一歳と書いてある本もある)とあるから、逆算すると、義貞が十六歳か十七歳のころに生まれたということになる。当時の結婚は男は元服(大体十五、六歳)、女は初潮(大体十四、五歳)を以《もつ》て適齢期としていたから、義貞十六歳の結婚はほぼ妥当ではなかったかと思う。上野国甘羅令、安藤左衛門五郎という人物については適当な資料がないから、虚構の人物として扱った。安藤氏が鎌倉幕府に出仕していたとすれば、義貞と阿久利(女《むすめ》とだけで、実名が分かっていないから阿久利とした)との結婚はこの地で行われたことになる。
当時の鎌倉は意外に多くの人が住んでいたらしい。吉田東伍博士が昭和の初めのころ、酒壺の記録から研究して、鎌倉時代の鎌倉の人口は十万ないし十二万ほどいたのではないかと推論した。現在の人口十六万に比較して、そうかけはなれた数ではない。一大消費都市だったから、或《あるい》はこれだけの人間が住んでいたかもしれない。
古文書の中に、酒のために喧嘩沙汰が絶えないので、一軒につき酒壺一個を残し後の酒壺は没収したという記録があって、これを基にして吉田博士は鎌倉の人口を割り出したのだそうだ。これには異論もあるようだが、もし、当時それだけの人間が鎌倉に住んでいたとしたらそれらの人々は、ほぼ現在と同じように、あの谷の多い鎌倉市の全般に渡って住んでいたと推定される。
鎌倉は緑したたる美しい町だ。鎌倉時代の遺蹟《いせき》は数限りなくある。地下に埋もれたものも多いという。現在人が住んでいないような谷の中にも人工の跡が歴然としていて、遠い昔にそこにあった屋敷を思わせるものがあるし、またかつての武家屋敷の密集地が現代風な住宅地として変貌《へんぼう》してしまったところもある。鎌倉の地質は凝灰岩である。現在の亀ヶ谷の切り通しはこのころ既にできていたらしい。凝灰岩の山をUの字型に掘り下げて作った道の跡に立っていると、その切り通しの前後を連ねる空間を飛び去って行くツバメがいた。
義貞が鎌倉を知り尽くそうとして歩き廻っていたころも、この亀ヶ谷の切り通しをツバメが通り抜けていたのであろうか。
[#ここで字下げ終わり]
常陸《ひたち》の美禰《みね》殿
義貞は文保《ぶんぽう》二年(一三一八年)になってから、鎌倉大番役を解かれ、久しぶりで新田庄に帰った。
父朝氏はしばらく見ぬ間にひどくやつれていた。大病でもしたあとのようであった。頬がこけ、軽い咳《せき》を続けていた。
朝氏は義貞が阿久利と辰千代(後の義顕)を伴って帰って来たことをひどく喜んだ。朝氏にとって辰千代は、新田氏直系に生まれた初孫だった。
「辰千代、お前は大きくなったら、更に更に新田の名を顕《あき》らかにするのだぞ、そうだ義貞、この子が元服の暁には義顕《よしあき》とするがよい」
朝氏はそんなことを言った。
朝氏は労咳《ろうがい》であった。当時この病にかかれば助かる確率は少なかった。朝氏は自分の死期を知っていたようだった。孫の辰千代に義顕という名を与えたのが、遺言となった。
「わしは新田氏の後を継ぎながら、なに一つとして新田氏のためになることはしなかった。わしの夢はお前の時代になんとかして実現して貰いたい」
これが朝氏の最後の言葉となった。
朝氏はこの年の秋に死んだ。四十五歳であった。
「父を残して先に逝《ゆ》くとは不孝者よ」
基氏はそう言って涙をこぼした。朝氏にかわって再び義貞の後見役となった基氏も、六十歳を幾つか過ぎていた。
このころ、持明院統《じみよういんとう》と大覚寺統《だいかくじとう》の二派に分かれて争っていた皇位継承問題が両統|迭立《てつりつ》ということで一応のけりがついたという噂《うわさ》が基氏の耳に入った。
「天皇家が二派に分かれて交互に天皇の座を譲り合って行くなどということが、そう長く続く筈がない。そのうちきっと京都に異変が起こるだろう。そのときこそ新田家が立ち上がる機会だ」
基氏はそんなことを言った。
しかし、天皇家が内輪で争っていても、その影響は遠く関東にまでは及ばなかった。そんなことよりも、北条高時が執権になってから、鎌倉幕府の命を聞かない地方豪族の数が増加して来たという噂の方が、坂東武者にとっては興味のある話題だった。
「やがて悪党は関東の地にも起こるだろう。それはもう、掌《たなごころ》を指すように確かなことだ」
と基氏は言った。
悪党とは鎌倉幕府の言うことに従わないものすべてを総称していた。上は気骨のある豪族から、下は野武士や、ゆすり、たかりの集団まですべて悪党と呼ばれていた。
基氏の予言は当たった。筑波山麓《つくばさんろく》に蟠踞《ばんきよ》する悪党朝谷兄弟を討てという命令が、幕府から新田義貞あてに来たのである。新田義貞が悪党退治の大将ではなかった。常陸国小田の城主、小田常陸介宗知の指揮の下で働けという通達であった。
「なに、小田氏の下で働けと……。この新田家が源氏の嫡流だと知ってのことか知らないでの命令か」
基氏は涙を流して怒ったが、義貞は、それほど気にはしていなかった。彼は出兵の費用のことを船田義昌と相談した上で、討つべき相手の朝谷兄弟の素性を調査した。
文保三年(一三一九年)になってすぐのことである。
鎌倉幕府から悪党の烙印《らくいん》を押された朝谷太郎義秋とその弟の朝谷二郎正義兄弟の先祖は新田氏の一族|世良田《せらだ》頼義の曽孫《そうそん》であった。
頼義は宝治《ほうじ》元年(一二四七年)に起こった北条時頼と三浦泰村との合戦の折、三浦氏に加勢して敗れ、一族と共に筑波山の北東麓に逃げて隠遁《いんとん》生活を続けた。
頼義は朝谷禅門と名を変えておとなしくしていたが、頼義の子晴義の代になると、次第にその勢力範囲を拡げ、付近の小豪族を斬り従え、大増のあたりに朝谷一族の基礎を作った。晴義の子昌義は父が残した土地をそのまま守ることで一生を終わったが、その子義秋、正義の兄弟は、長ずると共に、付近の豪族との間にしきりにことをかまえては、その勢力の拡大につとめるようになった。朝谷兄弟が鎌倉幕府に目をつけられたのは、付近の豪族の訴えもさることながら、紛争の調査に来た鎌倉幕府の役人をろくな接待もせずに追い返してしまったことによる。通常このような場合は、紛争の調査に来た役人を酒色でもてなし、金品を贈ることによって、事件をうやむやにしてしまったものである。朝谷兄弟は若かった。鎌倉から来たと言って威張りくさり、もてなしを強要する鼻持ちならぬ役人に怒りを感じて、きさま等の来るところではないと言って追い返してしまったのである。
義貞は朝谷兄弟のことを知ると、直ちに常陸国小田城主、小田常陸介宗知に書状を出して、この度の朝谷兄弟追討については、何分の御沙汰を待った上で出兵する旨を申し送った。兵力その他について指示してくれと言ってやったのである。書状は丁寧であった。
小田宗知から使者があった。使者は宗知の従兄《いとこ》に当たる八田真光であった。
「この度の鎌倉からの申し越しはなにかの間違いではないかと思っております。われわれ一族も、源氏とは深いつながりのあるもの、新田家が源氏の嫡流なることは充分承知しております。新田殿の采配《さいはい》の下で働くのが当然だと思っていたところ、このように書状まで戴《いただ》いたのでは、ただもう、恐れ入っているばかりでございます」
八田真光は鬢《びん》に白いものを交えていた。
「いや、そのように恐縮するには及びません、幕府の命令とあれば、家柄のどうこうなど言ってはおられません。まず、朝谷兄弟をどうして討つかが先決問題だと思います」
義貞は、具体的な問題に入ろうとした。どっちみち、出兵はしなければならないだろうと思っていた。
「では、五十騎ほどを、新田殿自ら率いて小田城までお越しいただけないでしょうか」
「五十騎でいいのか」
「いえ、ほんとうは五騎でも十騎でもよいのです。義貞殿がお見えになったということだけでたちまち、埒《らち》が明いてしまうでしょう」
真光は大真面目な顔で言った。
五騎でも十騎でも率いて義貞自らが出向いて来てくれという八田真光の言葉について船田義昌は彼独特の解釈をした。
「おそらく、新館《しんやかた》様が自ら出向いたならば、朝谷兄弟は一も二もなく降参するだろうと言いたいのでしょうが、そううまく行くかどうか。しかし、小田氏が朝谷兄弟に対して既になにかの策を巡らせているとすれば、そのようなこともあり得るかもしれません」
「要するに行ってみなければ分からないということだな」
義貞は言った。
「どうせならば五騎、十騎ではなく少なくとも五十騎いや百騎は率いて行ったほうがいい」
基氏はまた別な考えを持っていたようであった。騎馬武者百騎となると、その郎党を入れれば五百人近い動員数になる。ここ二十年ほどの間に、そのような人数を揃《そろ》えて新田庄を出たことはなかった。
「なぜ人数が多いほうがよいのでございます」
義貞は八田真光の言うことと祖父基氏の言うことがあまりにかけ違っていることに疑問を持って訊《き》いた。
「行けば分かる。分からなかったら、分かるまで考えることだ」
基氏はそれ以上は言わなかった。
新田義貞が幕府の命を受けて、悪党追討に出かけるということは近隣に聞こえた。その動員数が三百騎というふうに大げさに伝えられた。
新田氏の縁につながる者は、三騎、五騎と応援を申し出た。ことわるわけには行かなかった。
義貞は諸方からの応援の兵力を加えて、百三十騎、六百人という人数を繰り出した。小田城の小田宗知には使者を出して、朝谷兄弟は音に聞こえた豪傑であり、かなりの兵力も蓄えていると聞いたから万全の準備をして出掛けると通知した。
新田庄から小田城までは直線距離で二十里(八○キロ)、それほど遠い距離ではない。早馬ならば一日で行けるところを、義貞は三日を掛けて行った。このころになって、義貞は、祖父基氏がなにを自分に求めているのかが分かって来たからであった。
(朝谷兄弟の追討などどうでもいい、要はこの機会を利用して、新田氏の勢力を関東の諸将に誇示することである。源氏の嫡流新田氏が今尚《いまなお》健在だということを諸豪に見せて置くことはいざという場合にたいせつである)
新田義貞の軍が小田城についたときは、百七十騎、八百五十余名の大部隊になっていた。道中、兵が増えたのは、当時の世相の現れでもあった。北条氏の執権政治が落目になって来たことを諸豪はいち早く感じ取っていた。なにかが起こる。そのときこそという、世代を生き抜くための嗅覚《きゆうかく》のようなものが、彼らを新田義貞という家柄のもとに集めさせたのである。
小田城主小田常陸介宗知は、まるで、自分の城が義貞の軍によって包囲されるかのように驚きあわてた。彼は自ら城を出て、義貞を迎えた。
小田宗知の先祖は北家《ほつけ》藤原氏の出であり、下野国守護職宇都宮氏の支族八田氏である。八田知家が常陸国守護職となって以来、代々常陸の豪族として栄えた。八田知家の子、八田知重の代になって小田氏を名乗るようになり、泰知、時知、宗知と代々小田城に拠って勢力を張っていた。初代小田知重の代は守護職であったが、その後、一族の宍戸《ししど》氏が守護職になり、更には御家人の結城《ゆうき》、佐竹、笠間氏等が勢力を振るうようになると、小田氏は常陸国の一豪族的な存在となった。しかし、八田知家以来の名家であるから常陸国の中心的豪族であることには変わりはなかった。
小田城(現筑波郡筑波町小田)は濠《ほり》を幾重にもめぐらせた平城である。城というよりも、館に近い構造であった。
宗知は孫の治久《はるひさ》を従えて義貞と面会した。治久の父貞宗は早逝《そうせい》していたので、小田宗知の後継者は治久と決まっていた。
「遠路をわざわざお出《い》で下され、かたじけなく思っております」
宗知は義貞に対して丁寧に挨拶をしたあとで、
「まず城に入られて、おゆるりとなされませ」
とも言った。しかし、義貞は宗知に対して、にこやかに礼を返したあとで、
「われらは、幕府の命に従って朝谷兄弟を追討するためにやって来た者ゆえ、城外で野宿をいたす所存です。どうぞしかるべく、ご指示を与えられるようお願いいたします」
と、言った。多数の部下を率いてのことである。戦さも済まないうちに他人の城に入ってのんびりなどできるものかという気持ちを言ったまでのことであった。
「それでは、あまりにも固苦しいことですが、仰せとあれば、その通りにいたしましょう」
小田宗知は、新田義貞を近くの寺に案内して、そこで軍議を開いた。
「朝谷兄弟を幕府に訴えたのは、真壁庄の庄司、三善景範です。真壁庄はもともと、摂家藤原兼実の所領でしたが、時代が降るとともに所属が不明確になり、現在は三善氏が私有地として持っております。三善氏が租税をあまりにもきびしく取立てるので、庄内の名主等が困り果て、朝谷兄弟の援助を得て、騒乱を起こし、三善景範等の追い出しを計ったのです。朝谷兄弟が悪党ではなく、悪いのは三善景範なのです」
軍議に先立って、小田宗知がまずそのように説明した。
「しかし、幕府はその三善の訴えを取上げて、現に追討の命令を出しています。われ等はどうすればよいかその方法をお教え下さい」
義貞は訊いた。真相はどうであれ、命令は命令であった。
「困ったことだと思っています。朝谷兄弟からは、われ等に敵対する意志がないことを再三にわたって申込んで来ていますし、どうしたらいいかを、義貞殿に聞こうと思っていたところです」
小田宗知は義貞の顔を窺《うかが》った。
義貞には答えられなかった。二十歳の義貞には、このような場合の政治的駈け引きはどうやったらよいか分からなかった。じっと考え込むと、寒さが身にしみた。二月になったばかりである。寺の中には冬の寒さがそのまま残っているようだった。
「お館様、とにもかくにも、朝谷兄弟の居る大増までは行かねばなりますまい」
船田義昌が言った。新館様とは言わずに、お館様と言ったのが耳新しく聞こえた。やはり義昌は原則論を言っているのだと義貞は思った。鎌倉からは公式な軍監が来ていることでもあるから、うっかりしたことはできなかった。
「敵の兵力は」
義貞は小田宗知に訊いた。義貞が敵の兵力と言ったとき、彼の心はほぼ決まっていた。戦わねばなるまい。今となってはそれしか道はない。
「敵の兵力ならびに備えについては治久が私に代わってお答え申し上げます」
宗知が言った。治久は義貞より二つ三つ年上だった。額の広い賢こそうな顔をした男だった。
「絵図をここに……」
治久が家来に言った。その言い方はごく自然で、戦争には馴れっこのような態度だった。義貞は治久の顔を改めて見直した。
「朝谷兄弟の大増の館は筑波山の連峰、加波山《かばさん》(七〇三メートル)の東麓一里ほどのところにあります。山を背にした、山城様の館であります。われらが、これを攻めれば、朝谷兄弟は、背後の山城に逃げこんで、ここを本拠として戦うでしょう。兵力はおよそ五百、山城へ逃げこむときは家族も一緒ですから、倍以上の人数になるでしょう。山城に追いこんで兵糧攻めということも考えられますが、地元の農民の間に慕われている朝谷一族には、あらゆる方面から物資が送られるし、山を包囲するには、数千の軍兵を以てしても無理でしょう。なにしろ、山は広いのですから」
治久は微笑を浮かべながら言った。
「なるほど、よく事情が分かりました。それで貴殿はどのように攻めるお考えですか」
「それについては祖父が先ほど申したとおり、どうやったらいいか困っていたところです。相手はまるっきり、戦うつもりはないし、そういうところへ攻めこむのもおかしなことだと思います。なにかいいお考えがあったら、お聞かせ願いとうございます」
治久にそう出られると、義貞もまた困ってしまった。
「敵のことはよく分かりました。しからば、味方の軍勢について、おおよそのご説明をいただきとうございます」
義貞はずっと低姿勢だった。小田氏が主将であって、義貞が脇将だということを忘れないで話を続けていた。小田宗知はその義貞に大いに好感を持ったようだった。彼は二人の会話を頷《うなず》きながら聞いていた。
「では味方について説明申し上げます。小田の兵力は二百騎、千人あまり、すぐにでも出発できる用意は整っております。われ等がこれだけの兵を出すのは容易なことではございません。大きな声では言えませんが、もし留守中を攻められたら、あっという間に城は落ちるでしょう。しかし、新田勢百七十騎、八百五十名と聞けば、それ以上の兵を用意しないと面目が立ちません。つらいところです」
治久は笑った。義貞も笑った。二人は心を打ち解け合ったような気持ちだった。
「小田氏と新田勢の他《ほか》には……もともと朝谷氏と騒動を起こした、三善景範の加勢はどれほどですか」
それが当てになるような数ではありませんと治久は前置きして、
「三善主従三十騎に悪党ども二十騎合わせて、五十騎、三百名余りでございます」
と答えて、はっとしたように口を押えた。悪党どもと言ったことが気になったからであった。
「悪党と申し上げたのは、このあたりに巣喰っている山賊・野盗の類にて、三善景範が金で雇い上げた者たちでございます」
宗知が横から口を出して孫の言葉を補った。
「そのような者こそ、真先に討たねばならないほんとうの悪党ではないでしょうか」
義貞は言った。
「私もそのように考えています」
と答える治久に、義貞は、
「悪党に悪党を退治させてはいかがですか」
と言った。今度はその意味を治久のほうが解しかねたようだった。
義貞は絵図に向かって膝《ひざ》を進めた。
「朝谷兄弟追討を訴願した者は三善景範だから、三善氏が敵の矢面に立つのは当然だと思います。われ等両軍は両脇を固め、三善氏が朝谷館の正面に立ち向かうということにしたらいかがでしょうか」
なるほどと治久は頷いたが、義貞の心中を計り兼ねるような顔をしていた。
「つまり悪党朝谷兄弟には悪党三善景範を向かわせ、われ等は、ひとまず観戦しようではありませんか」
「観戦とな?」
治久はいよいよ分からないなという顔をした。
「悪党たちの戦いぶりをじっくり眺めてから、われ等が心を決めても遅くはないでしょう」
義貞はそこで言葉を切った。
小田宗知は義貞の計略が余りにも突飛過ぎるので直ぐには賛成しなかったが、治久が、
「ちょうどよい、常陸の大掃除にもってこいの機会だ」
と言ったので、宗知もまたこの策を受け入れた。
「だが軍監の目は……」
ふさぐことはできないだろうと心配する船田義昌に宗知が片手で小児の頭を撫《な》でるような恰好をしながら答えた。
「それについては御懸念のないように、軍監殿は、夜となく昼となく、酒と女に入りびたりでございます」
だが、その軍監殿も、いよいよ追討軍が出発となれば同行せざるを得なくなるだろうという意見もあった。
「軍監殿には三日後に出発ということにして、明日の朝早く出発いたしましょう。軍監のお守りは後に残る私におまかせ下さいませ」
宗知は胸を叩いて言った。
その夜、新田庄から早馬が来た。鎌倉の安藤左衛門から義貞にあてた書状を持った使者である。
≪このたびの出征については、得宗《とくそう》家の御覚えもあるので、御注意肝要かと存じます。出過ぎたようなふるまいは特に御注意下さるよう願い上げます≫
得宗家の御覚えというのをどう解釈していいか分からなかったが、要するに、常陸の悪党追討に、わざわざ上野《こうずけ》の国から義貞を手伝いとして派遣した裏には、このごろしきりに各地で源氏再興の呼び声があるのを気にしての北条一族の一種の打診行為とみるべきであった。源氏嫡流の新田氏の存在が、平氏の流れを汲《く》む北条氏には気になって来たという証拠でもあった。
「少々この手紙は遅かったようだな」
義貞は一読して、その手紙を船田義昌にやった。
「確かに遅うございました。この手紙を隠居館様(基氏)にお見せしたらなんと申されるか楽しみでございますな」
と義昌は言った。安藤左衛門の書状は有難く戴いておくけれど、必要以上に北条氏に遠慮することはあるまいという点で、義貞と義昌の意見は一致した。
小田城から大増までは五里あった。翌朝、早く出発した小田、義貞の連合軍は昼ごろには、大増の手前一里ほどの小山田に出て、ここで三善景範の軍と合した。
「明朝、一押しすれば、一|刻《とき》も経たない間に、朝谷兄弟の首は揃えて貰えるだろう」
三善景範は小田、新田の連合軍の到着に気を強くして、そのように豪語した。
三善景範は自分本位に物事を考える男であった。小田治久、新田義貞に対しても、まるで家来に口をきくような言葉使いだった。自分のために援軍を率いて来たのだから、主役は自分である。小田、新田の両軍は自分の言うとおりに動けばよいと言いたげであった。小田治久が小田宗知こそ朝谷兄弟追討の大将たるべきことを記した令書を示さなかったら、三善景範自身が采配を振りかねない勢いだった。義貞は眉をひそめた。
三善景範は小田治久から、朝谷兄弟の大増の館をいかにして攻撃するかの作戦計画を打ち明けられると、
「つまり、朝谷兄弟の首は、われらに取らせようという作戦とみたが、いかがかな」
と、まんざらでもない顔をした。
「まさにその通りです。やはりこの度の追討合戦では、三善殿が主役ですから、そのようにしないとおさまりがつかないと考えましたので」
と治久は景範をおだてた。
「よし分かった。しかし、朝谷兄弟をいきなり、われらの前に追い出してよこされてはこちらは困る。その点はどうなさるつもりか」
と景範は義貞に訊いた。
「小田軍とわが新田軍は大増の館を挟《はさ》み打ちに攻め立てます。敵が防ぎ切れなくなって、言わば深手を負って出て来るのを討ち取ればよいこと、ただもう、落ちる栗を拾うようなものです」
義貞は、そう説明しながら、心では三善景範の浅知恵を笑っていた。
総攻撃は明早朝と決められ、そのことはひそかに朝谷兄弟に伝えられた。朝谷兄弟からは早速使者があった。
「御好意は深謝します。しかし、それでは、小田、新田両氏が後日、幕府から疑いの目をかけられる虞《おそ》れがありますゆえ、三善等悪党どもはわれら一存にて処分致しますゆえ、なにとぞ結果をご検分あれ」
という返事であった。
この返事はどう解釈してよいか分からなかった。朝谷兄弟は今宵中に山城に落ち延びて、後日、三善等を攻撃するというふうにも受取れた。真意は分からなかった。物見によると、朝谷兄弟の家族は既に山城にあった。
「どうするか、夜の明けるのを待ちましょう」
と小田軍と新田軍は、それぞれの仮の陣地に拠って夜営に入った。
三善景範等は、小田軍、新田軍を見下ろすような丘の上に陣を張り、篝火《かがりび》を煌々《こうこう》と焚《た》いていた。
夜半を過ぎたころであった。
三善の陣にどよめきが起こった。人の叫ぶ声や刀と刀が打ち合う音がした。
血だらけになった三善の兵が、小田と新田両軍へ駈けつけて来て、
「朝谷兄弟の夜討ちでございます。出合い召され」
と報告した。出合えと言っても真夜中である。月はあったが、敵か味方か、判然と分る明るさではなかった。
(やったな)
と小田治久は思った。義貞も、朝谷兄弟が、三善等に夜討ちを掛けたのだと思った。
義貞は全軍に命令した。
「篝火を盛大に焚き、人垣を作り、何人たりといえども一歩も入れるな、もし、わが陣内に強いてなだれこもうとする者があれば、容赦なく斬れ」
新田軍は直ちに、義貞に言われたような陣形を取った。
義貞は夜襲とはいかなるものであるかをつぶさに見た。人の叫び声と大刀を合わせる音が半刻ほども続くと、傷ついた者が五人、十人とまとまって、小田、新田の軍になだれこんで来た。敵とも味方とも分からぬ者は斬れという命令が出されているから、それらの者は容赦なく斬られた。
丘の上の騒動は次第におさまり、一刻ほどすると急に静かになった。奇襲部隊は引き揚げたようであった。
朝になった。現場は惨憺《さんたん》たるあり様だった。三善景範をはじめとする主なる者のほとんどが討たれていた。それに比較して朝谷兄弟側にはほとんど損害らしきものがないのが不思議だった。
朝谷兄弟から正式の使者が小田宗知のところにやって来た。
降伏を乞う使者だった。朝谷太郎義秋の嫡子義行を人質として差出します。今後いかなることがあっても幕府の命には服します。なにとぞ最小限の土地は安堵《あんど》していただきたい等のことを口述して使者は帰って行った。
翌日、小田治久、新田義貞の二人は朝谷兄弟と対面した。
治久と朝谷兄弟とは既に面識があった。最初からなごやかな雰囲気《ふんいき》であった。
「人質を連れて、小田城へ帰り、軍監殿に、戦さの様子をよく説明した上で、幕府からの指示を待つことにしよう。安心して待たれるがよい」
治久は言った。それが結論であった。あとは雑談になった。
「それにしても、昨夜の夜襲はものすごかった。敵とも味方とも分からぬあの暗さの中でどうしてあれだけの戦果を挙げることができたのでしょうか」
義貞は朝谷太郎義秋に訊いた。合言葉だけで敵と味方を識別することはなかなかむずかしい。
乱戦となれば味方同士の討ち合いも当然起こる。どうしたら、昨夜のような一方的勝利を得ることができるのだろうか。義貞はそれが聞きたかった。
「眼です」
と義秋は自分の眼を指して言った。
「訓練に訓練を重ねると、猫のように夜でも眼が見えるようになるものです。そのような兵法者が十人ほどいればもう大丈夫です」
と義秋は言った。
夜襲は大部隊ではなく、夜目が効く十人ほどの者によって行われた。十人は手分けして敵陣にもぐりこみ、突如立上がって、一度に十人の者に手傷を負わせる。手傷を負った者は狼狽《ろうばい》し、やたらに刀を振り廻す。寝こんでいた者が起き上がる、寝ぼけた目には、刀を振り廻している者が敵に見える。同士討ちが始まる。夜目の効く者は隙を見ては、敵に手傷を負わせて歩く。あとは敵同士が殺し合いをするのを見ておればよいのである。
義貞は義秋の話を驚きの目で聞いていた。このような男を部下に欲しいものだと思った。
「しかし、訓練だけでほんとうに夜目が効くようになるだろうか」
義貞は|さむけ《ヽヽヽ》を感じた。義秋の話に恐れをなしたのではない。身体《からだ》の芯《しん》から来るさむけだった。風邪を引いたかなと、義貞は思った。
「いくら訓練しても夜目に馴れない者もあります。人、それぞれですが、これには子供のころからの心懸けが必要です。いや、その子が母親の胎内にいるころから心懸けてやらねばならないことです」
と朝谷二郎正義はそう前置きして夜目の効く人間がどうしてできるかを話した。それは第一に訓練であるが、訓練と同じぐらいに必要なことは食べ物であった。子供のころから猫が好きなようなものばかり食べさせることだった。肉食に馴れさせ、昼寝て、夜働くようにしていると、自然に夜目が効くようになるというのであった。
「お館様はよほど夜目の効く者に興味をお持ちのようですが、もし必要ならば、何時なりともお申し越し下され、御用に応じたいと思います」
義秋が言った。
「たのむ、ぜひたのむ、そのような時が来るのもそう遠くないような気がする」
義貞はそう言った。二人はすっかり気心が通じたようであった。
義貞等の一行は、朝谷義秋の子義行を人質として小田城に引き揚げた。
軍監には、治久、義貞にかわって小田宗知がいっさいを報告した。
「朝谷兄弟との合戦は小山田で行われました。敵は夜襲に出て来て、三善の陣を襲いました。味方は三善景範を初めとしておよそ八十人ほどの死者を出しました。敵はそれ以上の死者を出して敗走しましたが、われらの追撃に逃れられないと知り、翌日になって降伏を申し出て参りました」
宗知はそのように報告した。三善景範が、評判のよくない庄司であることは以前から吹きこまれてあったし、合戦の場に参加しなかった引け目を感じている軍監は、宗知が言ったとおりの報告書を作って鎌倉へ帰って行った。
その軍監を見送ったあと、馬に乗ろうとした義貞は、軽い目眩《めま》いに襲われ、不覚にもよろめいた。船田義昌が自分の顔を覗《のぞ》きこんだことだけははっきり覚えていたが、あとは夢うつつの中を小田城へ連れて行かれて寝かされた。具足を剥《は》ぎ取られる音が木枯《こがらし》の吹きすさぶ音に聞こえた。寒かった。なぜこの城はこうも寒いのだろうかと思った。
義貞の発熱は急だった。高熱が二日も三日も続いた。咳が連続した。
医者は性《たち》の悪い風邪だろうと言った。今でいうところの急性肺炎ででもあったろうか。義貞は覚めたり、眠ったりしていた。数日後には熱が下がり始め、食事も口にした。
「ここはどこだ」
義貞は船田義昌に訊いた。
「小田の城内でございます」
「それは分かっている。館の中の何処《どこ》かと訊いているのだ」
義貞は熱にうなされている間に一人の美女を見た。顔の輪郭だけしか分からないのに、彼女が美女に見えるのは熱のせいだったかもしれない。館の中だから女もいるだろう。しかし彼女はいったい誰なのだろうか。
「此処《ここ》は館の客殿の一室でございます。小田殿がお館様のため、わざわざここを明けられたのです」
義昌は、義貞が馬に乗ろうとしてよろめいた時からの経過を詳しく説明した。
発病してから十日後に義貞はようやく小康を得た。熱は下がったが、まだ咳が出た。医者は更に数日間の静養をすすめたが、義貞は新田庄に帰ると言ってきかなかった。
やむなく、船田義昌は、義貞を輿《こし》に乗せて連れて帰ることにした。義貞はまだ風呂にも入れないような身体で、歩くとふらふらした。その彼の前に小田宗知、治久等が挨拶に出た。
「これ以上お引止めしても、お聞き届けにはなられないので、いたし方ございません。どうか、道中お気をつけて下さいませ」
義貞が率いて来た軍は既に帰郷していたから、義貞につき添う者は僅かに十騎ほどだった。小田宗知はこれでは心配だからと言って、さらに十騎ほどの人数を見送りとしてさし出すことにした。
義貞が小田城を出発する日はよく晴れていた。きのうまで吹いていた北西の季節風が止《や》んで春のように暖かい日だった。
身支度を整えて、いざ館の門を出ようとする義貞を小田の一族の者が見送った。その人たちの中から、一人の美女が早咲きの梅の花の小枝を持って現れ、ほほえみながら義貞に捧《ささ》げた。
義貞はその女を見て、はっとした。熱にうなされていた時、しばしば枕元に現れた女だった。眼鼻立ちこそはっきり記憶はしていないが、輪郭は確かに、あの女だった。夢だったのではない。確かにこの女が看病に現れたのだ。それに間違いないと思った。
「病の折はいろいろとお手数をかけました。ありがとうございます」
義貞は言ってみた。十中八九は間違いないと思ったが、もしもということがある。不安は隠せなかった。
「あら、覚えておられたのですか、あのときは……」
女は小さな驚きの声を上げた。
「孫娘の美禰《みね》と申します。ふつつか者ですが、お見知り置きのほどを」
と宗知が取りなすように言った。
「あなたでした。やはりあなたでしたね」
義貞は笑った。夢ではなく事実であったことが嬉しかった。
「なにがおかしいのですか」
美禰が訊いた。あどけない口元をしていた。眼もとが涼しく、色白さに心が惹《ひ》かれた。
「あなたのことを夢だとばかり思いこんでいた自分がおかしくなったのです」
「お館様はたしかに夢を見ておられました。私を見て、阿久美とおっしゃいました。梅の花をとも申されました」
美禰はいくらか赤らんだ顔で言った。
そうか、熱のために意識が混迷しているさなかに、自分は初恋の阿久美に梅の花の小枝をささげる夢でも見ていたのだろうか。
「すまなかった」
「いいえ、謝ることはございませんわ、お館様が、梅の花と言われましたので、その花を探して来たのでございます」
義貞は美禰とずっと話していたかった。なぜもっと早く姿を現してくれなかったのだろうか。熱が下がると同時に彼女が姿を隠してしまったのはなぜだろうか。だが、それは訊けなかった。
義貞の乗った輿は小田城を離れた。彼は限りなき愛着を美禰に残した。梅の花の小枝は手にあった。美禰からのこれ以上の贈り物はなかった。
輿は前後を二人ずつ四人で担ぐので担ぎ手がしばしば交替した。その折を見て、義貞は船田義昌を呼んだ。小田城を出て三里ほどのところだった。輿の者は二人から遠く離れた。
「すぐ小田城に引き返して、美禰殿に縁談があるかないか聞いて来てくれ」
義貞は短兵急に結論を言った。
「お館様、なにを申されます。小田殿は常陸国第一の家柄、そのような思いつきのことを訊くことは失礼です。縁談があるかないかということを訊くのは、美禰殿をこっちに差出せということです。失礼なことです。小田殿の女子《むすめご》とあれば、正室としてお迎えしなければなりますまい。それならば、正式に使者を立てるのが常識です。おそらくお館様は美禰殿を側室になさるおつもりでしょうが、それは今の場合、非礼というほかございません」
今の場合と言ったとき、義昌は声を落とした。いくら源氏の嫡流であっても、無位無冠、新田庄に逼塞《ひつそく》している一豪族の身である。領地の広さから言っても、小田氏には及ばなかった。それらのことをひっくるめて今の場合と義昌は言ったのである。
「余は美禰を正室に申し受けたいのだ」
義貞は意外なことばを吐いた。
「なんとおっしゃいます。正室を決めることは家と家とを結ぶ大事な行事です。なにも急ぐことはありません。四十歳、五十歳になってから正室を決める例だってあります。将来、どんなことで、政略上、正室を迎えねばならないような事態が起きないとも限りませぬ。そのためにも正室は決めぬのが、心ある武将の常であります」
義昌は義貞の手を取らんばかりにして言った。
「分かった。それならば輿を小田城へ返せ。どうやら熱が出たらしい。いましばらく小田城で静養したい」
義貞は、そんなことができる筈がないのにそう言って義昌を困らせた。
「分かりました。なにかの口実をもうけて小田城へ戻り、それとなく美禰殿のことを聞いて参りましょう」
その口実はなににしようかと考えこんでいる義昌に義貞が言った。
「夜襲をかけて三善景範を亡ぼした朝谷兄弟のことをもっとくわしく聞いて参れと主人に言われたと言えばよい。だがそれは口実、ほんとうは美禰殿のことを聞いて参るのだぞ」
義貞は、朝谷兄弟が夜目の効く特別部隊を持っていること、夜襲の経験が既にあるらしいことなどから推して、かなり広範に武力を行使していると見ていた。小田宗知は、朝谷兄弟は悪党ではないと言ったが、朝谷兄弟の悪党的過去を知りたかった。そうでないと、今後、朝谷兄弟を心易く使うことはできない。義貞は朝谷兄弟に魅力を感じていた。それだけに彼等の過去を知りたかったのである。
船田義昌は直ちに小田城に取って返した。言うべき言葉は道々考え続けていた。
「忘れたことがございましたので、主人の命によって立戻りました」
と、義昌は小田宗知の前で頭を下げた。
「なにをお忘れになられたのですか」
宗知は不審な目を義昌に向けた。
「新田軍が小田城付近に陣を張った折、小田城から多額の食糧を支給されました。古来、出陣の費用は原則として自前持ちとなっておるのに、今回は特別の配慮をいただきました。その費用いっさいは当方にて支弁いたしたいと思います。よろしくお指図のほどを願い上げます」
なんだ、そんなことですかと宗知は笑った。
「原則はどうであろうが、今回の新田殿の出兵は、この常陸の騒乱を収むるための助勢でございます。常陸の国として、当座の口すぎ料ぐらい持つのは当然のことです。その件について心配はいっさい無用です」
いやそれではこっちが困ると義昌は言った。しばらく押し問答をしたあとで、
「それでは、そのとおりのことを主人に伝えます。まことにありがとうございました」
それで、帰るかと思ったら、義昌は第二の質問を放った。朝谷兄弟のことだった。宗知はにが笑いをした。
「いや、ごもっとも、夜目の効く者を用意して、見事夜襲を成功させたのは、義貞殿がお見通しのとおり、彼等がその経験者であったからです。彼等兄弟は三善等に追立てられて、十年ほどこの地を離れて、陸奥《むつ》へ行っておりました。かの地で蝦夷《えぞ》たちと交際しているうちに彼等の合戦のやり方を学んだものと思われます。蝦夷は夜襲こそ戦術のもっとも勝《すぐ》れたるものと考えているようです。朝谷兄弟の夜襲はすべて蝦夷のやり方を真似たものでございます」
なるほどと義昌は頷いた。これでもう聞くことはなにもなくなった。
「いや、ありがとうございました。早速帰って主人にそのとおりのことを申し上げましょう」
義昌はそう言って立ちかけた折、
「そうそう、美禰殿からいただいた梅の花を主人がたいへん喜んでおりました。あのようにお美しい方だから、さぞかし降るような縁談もございましょうなどと話しておりました」
義昌は上手にかまをかけた。
「どういたしまして、美禰はまだ子供です。まだまだ嫁にやれるような年ごろではありません」
「おいくつですか」
「十五ですよ、あれで」
小田宗知は笑った。笑いながら、義昌がなんの目的で、戻って来たかをちゃんと見抜いていた。
義昌は義貞の後を追った。美禰を正室として迎えることは可能であるが、正室の座は義貞の将来のために空けて置くべきだと考えていた。義昌はつぶやいた。
「やはり、このことは隠居館様(基氏)に申し上げよう」
義貞は由良《ゆら》の館に帰ると、その足で祖父基氏のところに行って、
「小田常陸介宗知の孫娘、美禰殿を正室として申し受けたい」
と言った。義貞は執事の義昌が美禰のことを祖父に話す前に、先手を打ったのである。
「あきれた者よ」
基氏は、そうは言ったが義貞を頭から叱りつけるようなことはしなかった。
「機会を失ったら思う女を二度と手に入れることはできぬ。それは戦機を失ったら勝つことは絶対にできないのとどこか似たところがある。お前も二十歳だ。自分のことは自分で責任を持たねばならない。小田の娘を正室の座に求めたいというならばそれでもよい。わしは敢て反対はしない」
基氏が反対しなければ問題はなかった。義貞はその夜、阿久利の方の小座へ足を運んだ。悪党追討に出て以来、半月ほどは経っていた。
「御身のことのみ心にかけてお待ち申しておりました」
と阿久利は言った。つつましやかで、けっして出過ぎたことはしないし言わない阿久利の方も、久しぶりに帰って来た夫の胸に顔を沈めて、ほんとうにほんとうに淋しゅうございましたと言った。そう言えば、きっと義貞がなにか適当ななぐさめの言葉をかけてくれることを知っていたからであった。
「そうか、淋しかったか、さもあろう」
義貞はそう言った。その言い方がいままでよりあっさりしすぎていた。しかし阿久利はそれを詮索《せんさく》しているいとまはなかった。
性急すぎるほどの義貞の求めに応じながら、彼女は、いままでになく、その営みが形式的なものに思われてならなかった。今までは義貞が求める以上に彼女もまたその愉悦をむさぼろうとしたが、今は彼女の奥の方でなにかしらのためらいがあった。なぜであろうか。ふと彼女は義貞の心を疑った。もしやお館様は他の女に……本能的な直感だった。
営みはすぐ終わった。しばらく別れていたのだから、その空間を埋め合わせるために急いで行われた結果のように、そこはかとない悲しみだけが阿久利の中に残った。
「正室を迎えようと思う。祖父には許しを受けた。そちにも承知して貰わねばならない」
義貞が言った。一瞬阿久利は顔色を変えた。いつかはその時が来ると思っていた。その時があまりにも早過ぎたような気がした。涙が出そうになるのを懸命にこらえながら、彼女は居ずまいをただして、
「おめでとうございます」
と言った。そう言わねばならない側室の身を悲しみながら、どうしようもない流れに身をゆだねなければならない女の身を嘆いた。
「御前様はどちらからお迎えなされるのですか」
「小田城から迎えようと思っている。美禰という女だ……」
義貞はその後を濁した。美しい女だとつけ加えようとして止めたのである。
小田宗知の孫娘美禰との婚約が成立すると同時に、基氏はかねてから計画していた館の移転を実行しようとした。由良の館は古いし、敷地がせまく、なにかにつけて不便であった。思い切って、新しい館を建てて移転したほうがよいと考えていた。基氏はその折を待っていたのである。義貞が正室を迎えるならば、尚のこと、新しい館に迎え入れてやりたかった。基氏が目をつけていたのは村田(現在の反町《そりまち》)であった。ここらあたりが新田庄の中心地であり、水の便もよかった。
義貞は祖父の意見に賛成だったが、そのために美禰との結婚を延期することは反対だった。
「館を新築するということになると、どんなに急いでも一年はかかる。相手を一年も待たせることはできない」
義貞の言うとおりであった。基氏は婚礼の方を先にすることを承知した。新しい館を新築することはたいへんな経費を要した。まず盛土をして、台地を作り、その周囲に堀を巡らせ、そして、その台地に館を建設するのである。館を作るのは大工の仕事だったが、台地を作るのは農民の労力によらねばならない。農閑期でないとできない相談だった。
義貞は館の設計についていろいろと口を出した。特に彼が主張したのは品《ひん》ということだった。
「鎌倉には多くの武家屋敷があるが、大きな屋敷が必ずしもいいとは限らぬ。小さくても品がある屋敷に住む人はおのずとその人柄がわかる。館だって同じこと、大きからず小さからず、品を備えたものがいい」
館の設計ができたころには、おおよその予算も計上され、予算と見合わせた上で、設計はいくらか変更された。
館を新築するとなれば、まず一族の同意を得ねばならなかった。経費のほとんどは新田氏一族から醵出《きよしゆつ》されるものだからである。基氏はこのことにひどく神経を使っていた。基氏を中心としての一族の動きがせわしくなった。
基氏は義貞に彼の夢を託していた。義貞こそ新田氏を再興するものであると信じていた。新しい館を村田に作るのも、
「新田氏を再興するには、内にも外にも新田義貞の存在を再認識して貰わねばならない。そのためには、誰が見ても、これこそ源氏嫡流の新田氏の館だと思われるようなものを作りたい」
基氏は言い続けていた。新田氏の一族は、援助を約束した。常陸の小田氏や近隣の源氏に縁がある諸豪族が、噂《うわさ》を聞いて木材や石や工匠などを提供することを約束した。台地の造成には、秋の取入れが終わると同時にかかり、大工の方はいまのうちから、材料集めや、切りこみに取掛ると、館ができるのは来年の秋という工事予定が組まれた。
「館を建てるということはたいへんなことだ」
と義貞は言った。なによりも彼は、この仕事に多額な費用がかかるのに驚いていた。
「だが、やはり建てねばなりません。女には衣装ということわざがありますが、武将には館です」
船田義昌が言った。
新田義貞と小田治久の妹、美禰との祝言は五月に行われた。
関東の諸豪族は、それぞれ祝い物を送った。上野の新田氏と常陸の小田氏との結婚は、両家とも坂東では名家であったから注目された。
新田政義が失脚して領地を減らされて以来、新田氏の勢力は頓《とみ》に衰え、そのため、他の豪族との縁談もなく、同族間の結婚(例えば、義貞の両親のような場合)が多かった。義貞の代になって、常陸の小田氏から正室を迎えたことは、新田氏一族にとってたいへん喜ばしいことであった。
「いよいよ新田氏の時代が間近にせまって参りましたな」
などと、基氏に向かってお世辞を言うものさえあった。多くの者は、これを政略結婚と見たようであった。基氏は成り行きの意外さにむしろ驚いた。
執事の船田義昌に対する一族の評判もなかなかよかった。先に安藤左衛門の女《むすめ》を側室に迎えたのも、左衛門が鎌倉幕府の政所《まんどころ》に出仕しており、幕府の内部に通じているから、これによって新田氏は鎌倉に近くなったと喜んだ。今度、小田氏から正室を迎えたのは義昌の外交手腕によるものだと評するものさえいた。
船田義昌は苦笑していた。
いや、この結婚には、もともと反対でしたといまさら言えないし、真相を発表したところで分かっては貰えないと思って黙っていた。
他がどう言おうと、そんなことにはおかまいなしに義貞と美禰の夫婦は仲むつまじくその日、その日を過ごしていた。
義貞は側室の阿久利の方の存在を忘れてしまったように、夜ごと美禰の小座へ足を向けていた。
「余が小田城内で熱を出して寝ていた折、そちはしばしば見舞ってくれたであろう。それなのに、熱がさがって、ようやく口がきけるようになったころには、まったく顔を出さなくなった。なぜあのようなことをしたのだ」
或る夜、義貞は美禰に訊《き》いた。いつかは問い質《ただ》してみようと思っていたことだった。
「私は熱にうなされているお館様を看病しながら、もしかすると、お館様はこのまま死んでしまうのではないかと思いました。一時は、ほんとうにそのようにさえ思われました。すると、私は急に悲しくなり、このお方はどうしても生きて貰わねばならない、死んではならないお人だと思うようになりました。私は一生懸命看病いたしました。或る朝のこと、お館様は、看病している私の顔にうつろな眼を向けられ、阿久美、梅の花の小枝を、と申されたのでございます。私は……」
美禰は口をつぐんだ。
「それで怒ったのだな。私が裏切ったと思ったのだな」
義貞は言った。そして、彼自らも初恋の女《ひと》阿久美について語ってやらねばならなかった。
「でも、阿久美様はもう遠い人ですわね」
そうだ亡きひとと同じような存在だと言いたかった。少年のころの初恋の思い出が郷愁のようにおしよせた。
「だが、阿久美のかわりに美禰がいる」
義貞は、そのようなことばをはばかることなく口に出せる年齢になっていた。
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鑁阿寺《ばんあじ》新田足利両家系図(新田氏根本史料)には新田氏が朝谷兄弟と関係を持ったのは新田氏光(朝氏の別名)ということになっている。その部分を意訳すると、
新田次郎太郎は初め朝氏と号した。そのころは鎌倉の政道が乱れて、世の中が騒然としていた。花園天皇の正和《しようわ》二年(一三一三年)のころ、常陸国筑波山東|新治《にいはり》郡大増というところに、朝谷太郎義秋と朝谷二郎正義という兄弟がいた。二人は剛勇の者として名が知られ、山賊強盗などをしていた。二人の父は新田氏の一族世良田弥二郎頼義であって、頼義は三浦泰村の乱のとき、泰村に味方したので北条時頼に追われ、常陸筑波に逃れ来て、朝谷禅門と称して隠遁《いんとん》生活を続け、この地で死んだ。朝谷義秋、正義の兄弟は長ずるに及んで諸方を徘徊《はいかい》して悪党の頭領となったが、なかなか器量ある者であるという評判だったので、朝氏は二人を新田庄に招き、昔の由緒もあるので、朝氏の実妹を太郎義秋に与え、新田庄内に土地を与えて住まわせた。義秋には子供がなかったので、正義がその後を継いだ。
と書いてある。三浦泰村が滅んだのは宝治《ほうじ》元年(一二四七年)で正和二年(一三一三年)とは六十六年のへだたりがある。朝谷兄弟が世良田頼義の子とするのはいささか無理なように思える。また、新田義貞の正室については同じく、この系図に次のように書いてある。
新田義宗――正五位下、左近衛少将、武蔵守《むさしのかみ》、義貞家嫡也、母常陸国小田之城主八田常陸介源真知女。
私はこの系図に書きこまれてあることの真否は別として、朝谷兄弟がいたという大増という地名が現存しており、しかも八田氏(小田氏)の居城の近くであったことなどから、ヒントを得てこの小説を進行させた。
鑁阿寺新田足利両家系図にある、常陸国小田城主、八田常陸介源真知という人物の記録はない。
新田義貞と縁組みをした可能性のある小田城主は小田宗知、小田貞宗か、小田治久の三代ということになる。このうち小田治久は新田義貞の挙兵に応じて立上がり、常陸の国の中心的人物として活躍した人である。南北朝の争乱に入ると、南朝に味方し、北朝方についた佐竹勢を甕《かめ》の原で打ち破った大将である。
このような歴史的事実から、義貞の正室は小田治久の妹であると想定したのである。系図中にある新田義貞の三人の息子、義顕、義興《よしおき》、義宗はそれぞれ母が違う。義顕は二十歳の時、福井県金崎城で戦死し、義興は二十八歳の折、矢口の渡しで戦死した。義宗は母が正室であったから新田嫡家として後を継ぐことになり、南北朝時代を通して常に南朝側に立って東奔西走しながら生涯を終わった人である。
小田|城址《じようし》は筑波郡筑波町小田にある。現在はわずかにその面影を残すのみになっている。
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副臥《そいぶし》の女
元応《げんおう》元年(一三一九年)の秋、足利又太郎(後の足利尊氏)は鎌倉において元服の式を行った。これに先だって足利貞氏は源氏にゆかりある者に通知を発してこのことを知らせた。又太郎の元服を機会に、足利氏の勢力を誇示せんがためであった。
この書状の中に、
≪源氏の嫡流、足利貞氏の嫡男又太郎が元服の式を取り行うにつき参集せられんことをのぞむものである≫
という文句があった。
「源氏の嫡流はこの新田氏だ。他はどうであれ、わが家にこのような非礼な書状を寄こすとは、なんということだろう」
新田基氏は足利貞氏の厚かましさにあきれ果てて、しばらくは怒りさえ忘れていたようであった。
「北条氏が足利氏こそ源氏の嫡流であると認めて以来、彼等自身、そのように思いこんでいるのです。致し方がないことでございます。しかし、他の源氏の者が、すべてこのように考えているかどうかは別問題です」
と船田義昌が言った。義貞はまたかと思った。言いたい奴には言わせて置けばいいのだと、いままでどおりの平静な気持ちでその書状を再度読んでから、
「元服の式にわざわざ鎌倉まで出向いて来いとは、うるさいことだが、やはり顔は出さずばならないだろう」
と義昌に訊いた。権勢を振るっている足利氏に招待状を貰ったのだから出席せねばなるまいというのが、多くの者の意見であった。
だが義貞は気が進まなかった。うまく逃げる手はないかどうかを鎌倉の安藤左衛門に問い合わせると、源氏に連なる主なる武将はほとんど出て来るようですから、やはりご自身でお出ましになったほうがよいでしょうという返事が来た。主従二十騎ほどで参られるのがよいでしょうと人数まで書いてあった。
鎌倉は秋色に彩られていた。なにもかも前のとおりで、義貞にはなつかしかった。亀《かめ》ヶ谷《やつ》の新田屋敷に到着すると、そこに安藤左衛門が待っていた。
彼は義貞にひととおりの挨拶をした後で、
「明後日の元服の式は足利屋敷の大広間で行われますが、その席次についておおよそのことを調べて参りました」
左衛門はそう言って紙に写して来た席次表を見せた。予期した以上に、義貞の席は下だった。足利氏と濃い姻戚《いんせき》関係にある、得宗家の面々が上座に坐るのはまあいいとして、源氏の嫡流である義貞が、新田氏の支族である岩松氏より三つも下の席にいることは解せないことであった。
「ご不満ではありましょうが、なにとぞお心を広くお持ちくだされるようお願い申し上げます。祝典の席でのいざこざはお家の浮沈にもかかわる大事ゆえ、特にこのことを前以《まえもつ》てお知らせいたしたのでございます」
と左衛門は言った。
「もうよい。分かった。出て来た以上、文句は言うつもりはない」
そうは言ったものの義貞の心中は決して愉快ではなかった。
義貞は元服の式場で又太郎を見た。しばらく会わぬ間にびっくりするほど背は伸びていたが、十五歳という歳にしてはいささか幼な顔過ぎるような気がした。
元服の式は古式によって行われた。
まず、又太郎の髪を束ねて結い上げる初元結《はつもとゆい》の式から始められ、それが終わると冠をつける初冠《ういこうぶり》の式が行われることになっていたが、武家であるから冠のかわりに烏帽子《えぼし》を頭上に戴《いただ》くことになっていた。
烏帽子を又太郎の頭上に置く役がその日の主賓であり花形でもあった。
「烏帽子親は平の朝臣《あそみ》(執権北条高時)様だそうだ」
とかねてから噂に上っていたが、実際に、北条高時が烏帽子親になったのを見て義貞は、
(これで足利氏はいよいよ北条氏と固く密着することになる)
と内心思った。
十七歳の執権高時は側近の者に教えられるとおり、事務的にことを運んで行った。高時の手から烏帽子が又太郎の頭上に移された瞬間、又太郎は義貞の方に向かってにやっと笑った。末席にいたが、又太郎の目は明らかに義貞に向けられていた。義貞ははっとした。
義貞よりも付近に居た者の方があわてた。緊張した場面である。おごそかであるべき時であった。それなのに又太郎は笑ったのである。あまりにも緊張しきった大人たちの顔を見て、つい笑いが出たようにも、末席に連なる、義貞の姿をふと見かけて笑いかけてみたくなったとも受け取れた。
高時は立っているから、又太郎が笑ったかどうかは知らなかった。彼は烏帽子を又太郎の頭にかぶせると、
「余の名の一字を与える。今日よりは高氏と名乗るがよい」
侍臣からこう言いなさいと教えられたとおりに言ったのである。
この時点で北条高時は足利高氏の名付け親になり、以後、父子同然の関係が生ずることになったのである。
「お名ありがたく頂戴いたします」
又太郎は、声変わりしたばかりの声で答えると同時に、突然声を上げて笑い出した。
又太郎の父足利貞氏は驚いて又太郎を叱った。周囲の者は北条高時の顔を眺めていた。もともと癇癖《かんぺき》の強い高時である。怒り出したらたいへんなことになると思った。
高時はいささか驚いたようだった。烏帽子親になったのは今日初めてだし、このような行事にはあまり興味を感じない高時には、又太郎の笑いが、異様には感じられたが、失礼な奴だという感情にはつながらなかった。暗愚な高時にはこういう場合、怒るものかどうかの判断などつく筈がなかった。
高時はしばらくはぽかんと口を開けていた。又太郎の笑いは尚《なお》も続いた。貞氏が叱れば叱るほど又太郎の笑い声はいよいよ高くなった。おかしくておかしくてたまらないような笑い方だった。その笑いに誘われたように、高時自身が笑い出した。一座の緊張は解けた。そこに臨席している武将たちは、揃《そろ》って笑った。笑いたくはないが、なにか笑わねばならないような雰囲気《ふんいき》であった。
元服の式が終わると足利高氏は別室で朝廷よりの使者を迎えた。
朝廷より治部大輔《じぶのたいふ》の官位が高氏に送られた。官位を貰った高氏は衣服を改めて、客席に現れ、このことを報告した。
無位無冠の義貞にとっては夢のようなことだった。このままでは生涯官位を与えられることはまずないと思われる自分に比較して、足利氏の嫡男というだけで、元服と同時に治部大輔の官位を貰った高氏がうらやましかった。
酒宴が始まった。夜を徹して行われることになっていた。
高氏は酒宴の席にはそう長くはいなかった。なにかもじもじしていた。はしゃいだようなものの言い方をしていると思うと、突然考えこんでしまったりした。
「副臥《そいぶし》のことが気になって落着けないのですよ」
義貞の隣席にいた諏訪左衛門尉《すわさえもんのじよう》入道時光(円光)が言った。諏訪氏は頼朝のころから鎌倉幕府に仕えていた。北条氏の代になっても、事務官僚的才能を認められて重く用いられていた。諏訪入道時光は問注所に出仕し公事《くじ》奉行をしていた。諏訪屋敷は新田屋敷の隣にあったので、以前から顔見知りであった。
「副臥と申しますと……」
義貞には聞き馴れない名称であった。
「元服を済ませた東宮や皇子に、女を選んで添い寝をさせる風習は古代からあったのですが、いつの世にか、これを地方豪族が真似るようになったものです。こういうことは止《や》めにしてもいいですな」
と諏訪入道は小声で言った。
「その副臥に選ばれる女性はどういう女《ひと》ですか」
「人選はきびしくしなければなりません、まず家柄がしっかりした者であり、男をよくよく知った女でなければなりません」
諏訪入道の説明によると、副臥役の女は、ちゃんと名の通った者の年若い側室で、子供を生んだことのない女という条件で選ばれ、選ばれた女は、側室の座を一年前に去って、この日のために待機しているということだった。女性の人格を全く無視した話であった。
「それで副臥が終わったあとその女はどうなるのでしょうか」
義貞はその話にひどく興味を持った。
「副臥が終わった翌朝、その女は、臣下に与えられることが例になっています。もちろんそのまま側室として残ることもあります」
その副臥の女を貰うことをなによりもの光栄だと考えている人たちが多いと聞かされて義貞は、腹の底からその習慣を憎んだ。そんなばかげたことを平気でやっている上級武士階級に腹を立てた。
「高氏殿もそのとおりにやるのですか」
「おそらくは、そうなさいと家臣の者にすすめられるでしょうね」
「おろかなことだ」
「大きな声で言ってはなりません。こういうことは、そう簡単に改められるものではありません、改めるには勇気のいることです」
勇気など要るものか、義貞はそう思った。大広間の灯は赤々と燃えていた。
義貞にとって長い長い一夜だった。祝宴は夜を徹して行われ、招待されたものは一夜飲み続けねばならないなどということは全くの愚行に思われた。義貞の元服式の祝宴も、今年の春正室を迎えた結婚式の宵も祝宴は夜を徹して行われた。しかし、徹夜しなければならない義務はなかった。飲みたい人は飲み、歌いたい人は歌えばよかった。ところが、ここでは、一人残らず翌朝まで残っていなければならないのだ。義貞はそれほど酒は強くなかった。多くの人が義貞と同じように手持ち無沙汰のまま、夜を過ごそうとしていた。
「お若い新田庄殿から見ればなにもかも腑抜《ふぬ》けたことのように見受けられるでしょう。私もかつてはそう思いましたが、そのうちに馴れてしまって気にならなくなり、更に時を経るとこういうことが当たり前になってしまいました。いけないことです。世の中は常に新しい目で見ていかねばならないと思います。新しい目を持った人がつぎつぎと政治に登場しないと、世の中は濁るのです」
諏訪時光は面白いことを言った。
「世は濁りつつあるのでしょうか」
と義貞が問うと、
「新田庄殿の目にはどう映りますか」
と反問されて義貞は困った。新田殿とは言わず、新田庄殿と出身地を呼ぶのも、思いやりのある言い方だったし、言葉使いも丁寧だった。鎌倉幕府に長く仕えていて、官位もある諏訪時光がなぜそれほど言葉に注意しているかを考えると、けっして気は許せなかった。
「世は濁りつつあります。新田庄殿の目にそう映らない筈はございません。私は鎌倉殿に仕えている身ですから、自ら自分の住む所の水が濁っているとは申しにくいのですが、やはり濁りを感じます。濁りよりにおいを感じます」
においという言葉が義貞には気になった。その意味を訊《たず》ねると、
「水は腐るとにおいを発します」
と一言言っただけで、突然話を変えた。
「源氏の嫡流なる新田義貞殿には、御不満なことが数々あろうかと思います。しかし、その不満を私的なものとしている限りは何時《いつ》まで経っても進歩はしません。私憤を公憤に切り換えたときこそ、新田氏が再び世に出る時ではないでしょうか」
義貞は諏訪時光が、新田氏こそ源氏の嫡流だとちゃんと認めていてくれることを嬉しく思った。諏訪時光は北条一族をかさに着てわが世の春を謳歌《おうか》している足利一族のやり方に腹を立てているようであった。
「さて、休みましょうか、こういう席で眠るには、このようにするものです」
彼はそういうと、盃《さかずき》を右手に持ち、左手に肴《さかな》を持ったまま、目をつぶった。すぐ軽い鼾《いびき》が聞こえて来たが、彼の姿勢はいささかも崩れていなかった。たいしたものだと義貞がつぶやくと、彼は何を勘違いしたのか、
「ああ、新田庄殿は席順のことを気にしておられるのですね、席順はおおよそ官位の順になっているのです。お分かりかな、かんい……」
そして彼は周囲の人が驚くほどの大鼾をかきはじめたのである。
徹夜の祝宴も空が白むころにはさすがに低調となり、あちこちで右手に盃、左手に肴を掴《つか》んでの居眠りが始まった。だが、どの男を見ても姿勢を崩していないのは、義貞にとって、まったく驚くべきことだった。
夜が明けたころ、足利家の執事が現れて、
「治部の大輔様(高氏)の副臥の儀はとどこおりなく済みましてございます。これにて元服の式次第はすべて相済みました。おめでとうございます。本来ならば、新館《しんやかた》様自らこの席にて御礼を申し上げるべきところ、取り込み中ゆえかわって御挨拶申し上げます」
と言った。取り込み中ということばがおかしいと言って笑う者があった。
祝宴は終わった。一同は席を立ってそれぞれ帰途についた。
義貞は眠くてしようがなかった。館に帰って一眠りしていると、船田義昌があわただしくかけこんで来て言った。
「ただいま、足利殿より使者がありました。高氏様の副臥をつとめました、けさと申す女をお館様にお下げ渡しになるということでございます」
「なに、もう一度、心を落着けて申してみよ」
義貞は完全に目が覚めた。無礼にもほどがあるという怒りが先に立った。
「おっつけ、けさ殿は輿《こし》に乗って参られることと思われます」
「要らぬと申してお返し申せ」
義貞は言った。誰が高氏などのお下がりを有難うございますなどと言って受取れるものか、義貞は元服の式で自分の顔を見て笑っていた又太郎の顔を思い出した。
(又太郎はあの時点で、このことを決めていたのであろうか)
そう思うといよいよ許すことはできなかった。
「そんなことはできません。ひとまずはお受けしなければなりますまい。なにしろ相手は……」
と言ったものの義昌はその次の言葉が出なかった。
けさを乗せた輿は足利家の者に守られて、間もなく新田屋敷の前に止まった。こうなると、もうどうしようもなかった。けさは侍女と共にひとまず離れの一室に案内された。
義貞は義昌を隣家の諏訪左衛門尉入道時光のところへやって、こういう場合どうしたらいいかを問わせた。
「お館様はけさ女を側室として置く気持ちは毛頭ございません。なんとかして足利殿に返上する方法はございませんか」
義昌は必死になって頼みこんだ。諏訪時光はしばらく考えた末、一つだけ方法はあるがこれは非常にむずかしいと前置きして言った。
「けさ殿を一夜止め置いてから、足利高氏殿のところへ直接使者をやって、けさ殿は当屋敷に来てから泣きどおしです。高氏殿と別れるのがつらいと言って泣いているのです。このまま置けば泣き死ぬかもしれません。いかが致しましょうか――こう言ってやったらいかがですか」
諏訪時光の声はひそやかだった。
その翌朝、高氏は義貞の使者の言葉を聞くと、取るものも取りあえず新田屋敷にかけつけて来た。
「義貞、けさは何処におる、けさはいまも泣いておるのか」
それが高氏の発した第一声だった。挨拶もなしに、しかも、義貞と呼び捨てにしての言いようは、うろたえているとしか見えなかった。
「まずは、お上がりなされてはいかがですか」
と船田義昌が言うと、
「けさを出してくれ、けさの顔が見たい。余はけさに対して悪いことをした。もともと余はけさを傍《そば》に置くつもりだったが、家来たちが副臥の女は家臣に下げ渡すものだと言ってきかないから、義貞に与えたのだ。けさを早うここにつれてまいれ」
上ずった、横柄な口のきき方だった。高氏に従って来た家臣も困り果てていた。
けさが玄関に姿を現すと、
「おおけさ、無事であったか、さぞ淋しかったであろう、悲しかったであろう、だがもうこの高氏が来たからには大丈夫だ、はや、ここを出て足利屋敷に帰ろうぞ」
高氏は涙を流しながら言った。けさは驚いていた。前後の事情が分からぬままに黙って俯《うつむ》いていた。
高氏はそのけさの手を自ら取って輿に乗せて、送り出してから、引き返して来て義貞に言った。
「けさは一夜だけ新田屋敷にいた。義貞、まさかけさの身体《からだ》に触れるようなことはなかったろうな」
一度はけさ女を下げ与えると言って置いて、いまさらそんなことが言えた義理ではなかった。義貞は高氏という人間の性格の異常さをまともに見せつけられたような気がした。
「けさ殿は付き添いの女と共に離れ屋に置いた。事情は二人の女に訊いてみれば分かることだ」
義貞は吐き出すように言った。
「そうか。恩に着るぞ義貞。けさはすばらしい女だ。あの餅のような肌に一度でも触れた男は彼女なしには眠れなくなる。よかった。よかった。けさを返して貰ってよかった」
高氏は歌うように言いながら新田屋敷の門を出て、馬にまたがり、けさが乗って行った輿の後を追った。
「足利の新館殿は、少々頭がおかしいのではなかろうか」
「さよう、頭がおかしいというよりも陽気病《ようきや》みではないかな」
などと、新田屋敷の家臣どもが囁《ささや》き合っていた。陽気病みとは、春とか秋の季節の変わり目になると常軌を失した行為をする者を指していた。義貞は、高氏が異常な性格を持った男であり、まことに不作法きわまる男だという印象を持ったが、それが病的なものであるとは考えたくなかった。
義貞は、家人に命じて、屋敷内を綺麗《きれい》に掃除してから、隣家の諏訪時光のところへ、けさ女の件が無事おさまったことを報告に行った。
諏訪時光は義貞をこころよく迎え入れて、よもやまの話をした。義貞は時光の豊富な知識に驚いた。なにを訊いても知らないことはなかった。
「今度、花園天皇の後を継がれた後醍醐《ごだいご》天皇というお方はなかなかの学問好きのお人らしい、多くの僧と共に宋学《そうがく》を勉強され、しばしば僧を招いて議論をたたかわされておられるそうだ」
と、時光が語った。
義貞は天皇家が持明院統と大覚寺統の二派に分かれ、両統|迭立《てつりつ》の約束のもとに両派が交互に天皇を奉ずるということになっていて、持明院統の花園天皇(第九十五代)の次に大覚寺統の後醍醐天皇(第九十六代)が天皇になったことを知っていた。が、その天皇がどのような人であるかなど知るよしもなかった。宋学などという学問はついぞ耳にしたこともなかった。
「天皇自らが学問をなされることは結構でございますな」
義貞は儀礼的な相槌《あいづち》を打った。
「学問をすることはよい。しかし、学問を鵜飲《うの》みにして、そのまま政治に持ちこもうと考えると、そこに問題が生じて来る。そもそも宋学などというものは、学者が頭で考えた理論であって、そのまま治世に役立つものではない。言わば儒学思想の亜流のようなもので、ことさら新学《しんがく》などと言ってもてはやすべきものではない」
と諏訪時光が言った。鎌倉幕府の上層部と交際のある諏訪入道には、京都でのできごとがいち早く耳に入っているようだった。
「それに、天皇の側近の者も、必ずしも良い人間だけではない。中には、豺狼《さいろう》に近い者もおるようだ」
「なにかが起こるのでしょうか」
義貞が不安そうな顔で訊くと、
「今のところ、その様子はないようだが、近いうちにきっとなにかが起こるような気がしてならない」
諏訪入道はそこまで言ったが、言い過ぎたのに気がついたのか、
「これはどうもつまらぬことを申してしまった。どうも歳を取ると愚痴っぽくなっていけない。なにをするにも若くなくてはいかん。若い時には、ものを見る目に狂いがない」
と言った。なにかほかにも言いたいことがたくさんあるようだった。義貞は黙って聞いているよりいたし方がなかった。
「そうそう新田庄殿、実は一つお願いがある。この夏以来、ひでり続きで、使い水に困っている。もしさしつかえなかったら、新田屋敷のこぼれ水でいいから頂戴いたしたい」
鎌倉は水利の便が悪いところであった。よい井戸や泉を持っている者はいいが、そうでない者は難渋した。幸い新田屋敷は、屋敷こそせまいけれど、屋敷内に湧《わ》き出る泉は、ひでりが続いても涸《か》れることはなかった。
「水にお困りなされておられるのですか、それには気が付きませんで、かえって失礼いたしました。どうぞ御自由にお使い下さい。いちいち汲《く》みに来るのは面倒ですから、樋《とい》で引いてはいかがですか」
義貞は、この水のことで、将来諏訪氏との間に特別な関係が生ずることなど想像もせずに言ったのである。
義貞は数日間鎌倉に滞在した。出て来れば黙っては居られない家が何軒かあった。落ちぶれても、やはり新田氏は源氏の嫡流としての家柄であった。
いよいよ明日鎌倉を離れるという前夜、義貞は、矢島五郎丸一人を従えて、ぶらりと外へ出た。屋敷の中でも二人が外へ出たことを知っているのはごく少数だった。矢島五郎丸は新田氏の支族の出である。
目的は化粧坂《けわいざか》の賑《にぎわ》いを見聞するためだった。当時は、鎌倉に駐在する武士も、地方から鎌倉へ来る武士も一度は化粧坂を訪れたものである。そうしないと、
「どうです、鎌倉の化粧坂の賑いは」
と訊かれても答えられなかった。此処《ここ》は、身分を秘めての社交場でもあった。各種各様の人がいろいろの身なりで訪れていた。
義貞は鎌倉大番役のころ、化粧坂|界隈《かいわい》には何度か来たことがあったが、鎌倉にはじめて出て来た矢島五郎丸には全くの未知の世界であった。途中で義貞は五郎丸に注意を与えた。そのいましめの最大なるものは刀を抜かぬということだった。
道は暗かったが、化粧坂の近くに来ると、あちこちの家から明るい灯が洩れ、音曲が夕靄《ゆうもや》とともに流れて来た。魚を焼くにおいがただよい、どこからともなく女たちの嬌声《きようせい》が聞こえた。
「遊んで行きませんか」
と暗闇の中から白い手が出て五郎丸の袖を引いた。五郎丸は一歩とび下がって、太刀の柄《つか》に手をかけた。
「まあ怖いこと、でもあなたはたのもしいおひと、ここが初めてね」
と白首の女が顔を出して五郎丸に言った。
「そうだ。この者ははじめてだよ。だからひととおり、このあたりを見せて廻っているのだ」
と義貞が静かな声で言った。
女は二人の顔を覗《のぞ》きこんで、では帰りにきっと寄って下さいと言った。急坂にかかる手前を右側の露路の奥に入ったところに、義貞が知っている家があった。中は昼のように明るく、灯火で飾り立てられていた。女が出て来たが、すぐ引込んで別な女に代わった。
「上野《こうずけ》の守《かみ》さま、お越し下さいませ」
この家の女主人が出て来て挨拶した。新田様などとは言わなかった。上野の国の武士なら誰でも彼でも上野の守様であり上野介《こうずけのすけ》様であった。それで客は満足していた。
二人は一室に通されると、すぐそこに酒肴《しゆこう》が運ばれ、若い女が三人ほど現れた。そのうちの一人を義貞は知っていた。この家で売れっ子の初音《はつね》という女だった。
「変わりはないか」
と義貞が訊くと初音はえくぼを浮かべて、
「私に変わりようがあろう筈がないでしょう、浮き草は死ぬまで、川を流れ続けるだけ。でも上野の守様は今年の春、正室様をお迎えなさったとか、おうらやましい次第です」
と言った。そんなことを何処から聞いたのかと訊くと、わたしたちの耳は地獄耳ですからと言って笑った。
矢島五郎丸は生真面目な男である。酒をすすめられるとむげにはことわれない。相手は、未《いま》だかつて見たことのないような、あでやかな女たちである。彼女等のたくみなもてなし方につい乗せられて、いささか盃を重ね過ぎたけれど、酔ったという状態ではなかった。主人の供をして来た身であることをたえず心に言いきかせていたからだった。
「もう飲めぬ、これ以上飲んだらお役がつとまらない」
五郎丸は初音にすすめられた盃をことわり、
「どうせここにお泊まりでしょうから、もう少し召し上がりなさい」
とすすめる初音を睨《ね》めつけて便所に立った。用をすませて、廊下で風に当たっていると、背後を誰かが通った。客の一人だろうと気にもしないでいると、突然、相手がぶつかって来た。五郎丸は瞬間的に体をかわした。相手は音を立てて庭に落ちると同時に、大きな声でわめき立てた。太刀を持ってこい、狼藉者《ろうぜきもの》を斬ってやると騒ぎ出したのである。
あちこちから人が集まって来た。庭にころげ落ちた男の連れとおぼしき者が数人、太刀を持ってとび出して来て五郎丸を囲んだ。
「庭に出ろ、山猿め」
と相手の一人が言った。五郎丸は太刀を持ってはいなかった。部屋に戻ればいいのだがその余裕はなかった。五郎丸は弁解しようとしたが相手はてんから聞こうとする様子はなかった。言いわけが通るような状態ではなかった。相手はかなり酔っていた。
五郎丸は庭に降りた。
「ふとどき者め、われらの名を知っての上の所業であろう。名乗れ、斬るのはそれからだ」
相手は怒鳴った。斬りかかって来たら、その刃の下をかいくぐり刀を奪って相手をこらしめてやろうと五郎丸は身構えていた。しかし彼等は斬りこんで来る様子はなかった。声だけが高く騒々しかった。
一人の商人風の男が身をかがめて、男たちの中に入って来た。
「お武家様たち、ここは斬り合いの場ではございません。なにが原因かは知りませぬがここのところは、この刀屋三郎四郎におまかせいただきたい。さあ太刀をお引きめされ、それ女たちが見ております。不粋《ぶすい》なことは化粧坂ではまかり通りませぬ」
刀屋三郎四郎は、こういうことに馴れ切ったような仕草で男たちをつれて別室に引き揚げた。
五郎丸はあっけに取られているだけだった。その五郎丸の耳に初音が来て囁いた。
「早う、逃げなされ、時を過ごすと面倒なことになります」
初音に太刀を渡されて、外に出ると、夜の中に義貞が立っていた。
「あの男たちは北条一門をかさに着る集《たかり》でございます。今宵はこのままお帰りになり、明日またお出《い》でくだされ、今度は私がちゃんと付添っていますから」
五郎丸の耳にはその初音の声がくすぐるように聞こえた。
「鎌倉の化粧坂に集が現れるようになったのでは世もおしまいですね」
と刀屋三郎四郎は義貞に会うと真先に言った。三郎四郎はこの日、新田屋敷に現れ、お館様の御用命に応じて参上いたしました刀屋三郎四郎にございますと案内を乞うた。彼は昨夜のことを気にしている義貞に、結果がどうなったかを報告するため、わざわざ出向いて来たのである。
「化粧坂には昨夜のような恐喝の常習者が数組居りますが、化粧坂に見世を張っている主人たちが相談して適当な小遣い銭を与えたり、飲ませたりして懐柔《かいじゆう》しております。よほどのことでないと、昨夜のようなことは起こりません。昨夜の集は新顔です。派手に騒いで、これから大いに顔を売ろうとしているのです。ほんとうに困ったものです」
刀屋三郎四郎は、鎌倉で刀を売買している刀屋ではなく、京都から定期的に鎌倉へやって来ている刀屋だった。たまたま、あの家に居合わせたから、後始末をしたのであった。
「このごろ、御家人のふところは目に見えて淋しくなりました。凶年は続く、商人からの借金はかさむ、諸方に悪党まがいの者が出没するという時代ですから以前のように化粧坂で景気よく遊ぶわけには行かなくなったのです。御家人がそうですから、その下に働いて居る者はもっと困っています。血の気の多い者が集をやるのは或る程度御時世の反映かとも思われます」
刀屋三郎四郎は溜息《ためいき》をついた。
「なぜ、取締まりをやらないのだ。そのために鎌倉大番役というものがある」
「それがまたいっこう当てにならないのです。近ごろ毎年のように出ているお布令《ふれ》によれば、化粧坂で酒を売ったり、女を置いたりしている見世は発見次第見世じまいということになっています。それを見逃してやっているのは、見廻り役の人たちです。勿論《もちろん》、それ相応の袖の下が出されています。自分自身にやましいところがあれば、他人を取締まることはむずかしいものです」
しかし、と刀屋三郎四郎は一息入れて、
「京都でも、大なり小なり、鎌倉と同じようなことがなされています。こういう世界は取締まりを厳重にすると必ず別な形ではみ出し者が出て来るものです」
義貞は鎌倉大番役として滞在したころ、化粧坂見廻りに出たことは一度もなかった。そのあたりは、鎌倉に常駐している者の受持ちだった。義貞は三郎四郎の話に頷《うなず》きながら、
「ところで、昨夜のことだが、いろいろ出費もあったであろう。その分は当方が持つ」
冗談でございます。私は商人です。こうして御屋敷にお出入りがかなうだけで結構です。それ以上のものは求めておりません。と言って三郎四郎は、
「なんと言っても、お館様は源氏嫡流のお家柄、世が世なれば、鎌倉殿と言われてしかるべきお人でございます」
と大きな声で言った。
おかしな男よ、と義貞は刀屋三郎四郎の顔を見ながら思った。単なる刀屋が、源氏嫡流などということを口に出すことがおかしい。そういうことを知っているのは、広く上級武士階級と交際があるからであろう。油断はできないぞと思った。
「お館様はつい数日前、足利殿の新館様の副臥の女を要らぬと言っておことわりなされたそうですが、化粧坂ではこの話で持ち切りでございました。やったぞ、さすが源氏の嫡流新田義貞だ。偉いものだと多くの者が讃《ほ》めそやしておりました」
刀屋三郎四郎はとんでもないことを口にした。義貞はいよいよこの男が分からなくなった。
「そんなことまで化粧坂に伝えられているのか」
「それはもう鎌倉の中で起きたことなら、新田屋敷から諏訪《すわ》屋敷まで二寸の落差を利用して用水樋が引かれたことまで、化粧坂の女たちは知っております」
と刀屋三郎四郎は言った。女が知っているのではなく、この男が知っているのだ。
(この者はいったいなに者なのだ)
義貞は三郎四郎の顔を見詰めた。
「けっして怪しい者ではございません、京都の刀屋でございます。ただ、他の刀屋と少々違うところは、刀を売って儲《もう》ける以外に、賭《か》けごとが好きなところが違っております。下人どもがやるような銭を投げての賭けごとの類ではなく、天下を賭けるような仕事になると、真直ぐにとびこんで行きたくなる癖を持っております」
三郎四郎は含みのある言葉を吐いた。しかし、面倒な話はそれまでで、後は、京都と鎌倉との比較話をひととおり述べたあとで席を立とうとした。
「一つ二つ訊きたいことがある」
義貞は、三郎四郎を引き止めて、改まった言い方をした。
「なんなりとも、私に分かることならどうぞお訊ねになって下さい」
三郎四郎は姿勢をただして言った。
「後醍醐天皇の評判はどうだ」
「すこぶる英邁《えいまい》な天子様と聞いております。後醍醐天皇によって、世直しが行われるだろうと噂《うわさ》している者もございます」
義貞はそれに頷いて更に新しい質問を放った。
「宋学とはなにか」
「朱子学《しゆしがく》とも申します。このごろは新学などという人もございます。宋の時代に入ってから中国で流行するようになった学問です。旧来の儒学の足らないところを補ったという考え方もありますが、宇宙に気と理の二元があり、これを主軸とした実践を考えるところにこの学問の新生命がございます」
ただの刀屋ではないなと義貞は思った。
「もう一つだけ訊きたいことがある。近いうちに世の変革があるか」
「必ずございます。私にはその変革の足音が聞こえてまいります。そして、その変革の担い手は、あなた様でございます。あなた様こそ、再び源氏の頭領となって、世を治める中心になるお人なのです」
刀屋三郎四郎は義貞の前に平伏した。
それからひと月ほど経ったころ、京都の宮廷内で侍従の吉田定房《よしださだふさ》が後醍醐天皇の前で武将の名を読み上げていた。
一人ずつ名を読み上げ、天皇の下問があればその人物についておおよその説明をして次に移るというふうなことがしばらく続いていた。
「新田庄、新田小太郎義貞」
と吉田定房が読み上げたとき、後醍醐天皇は、ウともアともつかない音声を発した。よく聞き取れなかったからである。
「新田庄、新田小太郎義貞、先祖は源氏の源義家の次男義国から出ています。義国の長男義重が新田氏の祖となり、義国の次男義康が足利氏の祖となっております」
吉田定房は知っていることをしゃべった。新田義貞の名を読み返したことがきっかけとなって、やや詳しく説明したのである。
「すると足利氏が源氏の嫡流ではないのか」
天皇は意外だというような声を出した。
「一般には足利氏が源氏の嫡流だと信じられております。現に足利貞氏の子足利高氏はつい一カ月ほど前に源氏の嫡家の惣領《そうりよう》として元服し、治部の大輔の位を給わったばかりでございます」
そこまで言ってから吉田定房は人名簿を下に置き、
「鎌倉より戻りました刀屋三郎四郎の話によると、この元服の式のあと、なかなか面白いことがございました」
それをお話し申し上げましょうかと吉田定房が言った。天皇が義貞に興味を持ったとみたからだった。天皇は大きく一つ頷いた。
吉田定房は刀屋三郎四郎から聞いた、副臥の件を天皇に話したあとで、
「通常ならば、副臥の女をありがたく頂戴いたしますというところを、はっきりと断ったあたり、新田義貞は、気骨ある者として、鎌倉武士どもの間では、なかなかの評判になっているとのことでございます」
と結んだ。吉田定房は言い過ぎたかなという顔で天皇を見た。
「新田義貞――その者は何歳か」
「はっ、丁度二十歳でございます」
「心は確かであるか」
「この名簿に載っている者はすべて、鎌倉幕府に対して不満を持っている者ばかりでございます。刀屋三郎四郎からの報告もある故、一応心は確かであるとみるべきだと考えております」
と吉田定房は答えた。
「その不満は足利氏に対する私情か、それとも北条氏に対する憎しみか」
「その両方だと存じます。新田氏を失脚させたのは、北条氏であり、源氏嫡家を奪ったのは足利氏ですから」
ううむとうなずく天皇の声が御簾《みす》の中から聞こえた。吉田定房は更に新田義貞について説明の言葉を添えた。
「新田義貞はなかなかの器量人という評判でございます。この春、常陸国《ひたちのくに》の名門小田氏から正室を迎えました。関東では注目すべき武将かと存じます」
天皇は黙っていた。それ以上の下問はないから吉田定房は次の人名を読み上げた。
火桶《ひおけ》の欲しいような寒い日であった。
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南北朝時代の初期において、源氏の嫡流は足利氏であったか、それとも新田氏であったか。この小説の中でしばしばその問題が出て来るので、一般的にはどう考えるべきかについてふれてみよう。
惣領(長男)が家督を継ぐのは古来からの習慣ではあったが、これにはいろいろの制約があった。たとえ長男であっても、側室の腹から生まれた者はその資格がない。正室の生んだ長男が嫡流となって後を継ぐのである。しかし、こうは決まっていても、愛情問題がからんで来ると、複雑なことになり、終《つい》には血で血を洗うようなお家騒動が持ち上がるのである。
もともと惣領制度が確立したのは、土地を分割することによって本家が弱体化するのをさけるためだった。惣領が後を継ぎ、弟たちは惣領家の家人《けにん》的な存在になるのだから、惣領であるかないかによって、月とすっぽんほど格が違って来るのである。新田氏と足利氏が分かれたころは、まだまだ惣領制が確立したと断定するにはやや早い時代だった。
次の系図で見るように、義家の嫡流が実朝で終わった場合、義国の系統が嫡流となるのはまず問題ないとして、どちらが嫡流かというと、異論がある。
系図の上から見れば、新田氏ということになるが、義国が足利|式部大夫《しきぶのだいぶ》と呼ばれて下野国足利庄を領し、晩年この地で死んだ時、その足利庄を継いだのは、義重ではなく弟の義康であった。義重は長男であったが、新田庄を与えられて分家した形になっている。
つまり、新田氏と足利氏と分かれた時点で、義国の嫡流は足利氏に移ったと見る人と源氏の系図全体から見れば、実朝で源氏の嫡流が絶えた時点で、当然、新田氏が源氏の嫡流となったのであると解釈する人も出て来るのである。
新田氏の系統は頼朝の時代からあまり目立った存在ではなかった。それと対照的に足利氏は頼朝の知遇を得て、次第に勢力を伸ばし、北条氏の時代になると、北条氏との縁組みによって、更に地位を高め、全国に領地を持ち、誰一人として足利氏が源氏の嫡流であることを疑うものはなくなっていた。
これに対して新田氏は無位無冠の地方豪族に過ぎないところまで落ちぶれ果てていた。
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陸奥《むつ》の春
新田庄村田の館は予定よりも遅れて落成した。着工以来、一年半はかかっていた。新田基氏は連日現場に出張してこの新しい館のでき上がるのを楽しみに見守っていた。
館の周囲は濠《ほり》でかこまれていた。この濠の土がすべて盛土として使われた。そのあたりの計算は狂いがなく、もともと平地より背丈ほど高い台地の周囲に更に土塁を高く巡らせた立派な構えができた。館は鎌倉などに建てられている武家屋敷の構造を取入れて作り上げたもので、由良の館の広さの三倍はあった。諸経費がかさんだが、小田宗知から美禰《みね》の方の化粧料(持参金)としてかなりまとまった金が送られたこともあって見事なできばえの新館が完成したのである。
「館は一新した。われわれ新田一族もこの機会に心を一新しなければならない」
基氏が落成式の祝賀の折に一族を集めて言った言葉である。
心を一新すると言っても具体的にどうするこうするということはなかった。ただ基氏が日頃口癖にしているように、近く世が乱れるという危機感と、そのときにこそ、わが新田一族がという考え方が心を一新するという表現になったことだけは明らかであった。
新田義貞が、新館を構えるという噂は、義貞が幕府に対して正式に届け出る以前に、鎌倉の要路の者には知られていた。地方諸豪の動きを気にしている幕府は、落成に際して一応、検分の名目で、黒沼彦四郎をさし向けた。船田義昌が黒沼彦四郎の接待役をつとめた。
「由良の館はなにぶんにも老朽しましたので、この度この館を建築いたしました」
義昌は、黒沼彦四郎を伴って旧由良の館を案内し、更に新館を見せた上で連日|宴《うたげ》を開いてもてなしたばかりでなく、彦四郎が女を要求すれば、遊女《あそびめ》を足利の町から連れて来て接待に当てるほどの気の配りようだった。
義昌は鎌倉に居たころから黒沼彦四郎のことを知っていた。北条|得宗《とくそう》家の信頼をいいことにして、よからぬことばかりしている役人だということを知っていたからこそ気を使ったのである。
黒沼彦四郎は足利から連れて来た遊女を一目見て仏頂面をした。鎌倉の遊女を知り切っている彦四郎には、草深いところにいる遊女などおかしくて相手にできるかという顔だった。
「新田庄には女《むすめ》は居ないのか」
と彦四郎に面と向かって言われると義昌も困り果てた。この場合、そのような女はおりませんと言える相手ではないことが分かっているだけにつらかった。
「新田庄は美人の産地でございます。女はたくさんおりまするが、さて、女にかけてはお目の高い黒沼様のお気に入るような女が居るかどうか」
義昌はそんなことを言って当座の間は足利から来た遊女でなんとかごまかそうとしてはいたが、黒沼彦四郎に飽くまでも女を出すまで動かぬぞとこの地に居坐って、あら探しでも始められたら困ったことになるぞと思っていた。
「武士としての誇りも、検分役としての責任も忘れ果てた愚かな奴だ。しかし、このまま放って置くわけにもいかぬ、面倒なことになったものだ」
義昌は彦四郎の前を下がってからひとりごとを言った。
当時の習慣として、名のある者が地方を歩いた場合、地方豪族が、自分の女《むすめ》を側女《そばめ》として出す習慣があった。しかし、そうされるのは、よほどの大物であって、新館検分の役目を帯びて来た役人が女《むすめ》を要求するなどとんでもないことであった。
足利から連れて来た遊女を嫌ったような男だから、美人であってしかも家柄がしっかりした者の女《むすめ》でないと承知しないであろう。そうなると、いよいよ困難になる。義昌が面倒なことになったと言ったのは、この間の事情を口にしたのであった。
(だが黒沼彦四郎のことだ。このまま帰せば、鎌倉殿にどんな報告をするか分かったものではない)
そう思った義昌は、内々に心当たりを探した。たまたま新田氏の郎党に嫁して丁度一年目に夫を失って寡婦《かふ》となったかやという女がいた。十八歳であった。顔立ちもよかった。再婚の話はまだ出ていなかったから、かやの親に相談して彦四郎の接待役に出してくれるように頼みこんだ。
「お家のためにぜひとも……」
と何度か手をついてたのむ義昌の言葉をかやの親もむげにしりぞけることはできなかった。
彦四郎は連れて来られた女の顔をじろりと見て義昌に訊いた。
「名はなんというのだ」
「かやと申すむすめでございます」
義昌はかやをむすめだと言った。いちいちこまかいことを言う必要はないと思ったからだ。かやにもむすめらしく振舞うように言い含めて置いた。
彦四郎はかやを得て機嫌を直したようであった。彼はそれから十日ほど館にいた。黒沼彦四郎が鎌倉へ帰る日には、義昌は十騎ほどを率いて途中まで送って行った。
「鎌倉殿にはよきように御報告申上げるからお案じめさるな」
それが別れに際して黒沼彦四郎が義昌に残した言葉だった。しかし、すぐその後に、彦四郎が義昌の一行の後姿に向かってつぶやいた言葉は、
「むすめだなどと偽って、既になにもかも知り尽くした女を連れて来た義昌め、そのうちきっと、泣面かかしてくれるわ」
という憎しみに満ちたものであった。
黒沼彦四郎は鎌倉に帰ると、それを実行した。
「今度《このたび》、新田庄に建てられた新しい館は、新田小太郎義貞には不釣り合いなほど大きなものでございます。おそらくは、小太郎義貞の心のおごりが為《な》せるものとは存じまするが、もともと財政的に余裕があるからこそ、このようなことができたのであろうと推察されます」
と報告したのである。
この公式報告は新田家にとってはまことに不利な結果をもたらせた。
その翌々年の春、陸奥騒乱に際して、鎮定軍として出動を命ぜられたのも、このことがあったからである。
義貞は、新館に落着いて一年後には再び故郷を後にしなければならなかった。
元亨《げんこう》二年(一三二二年)に入って、津軽に騒乱が起こった。にわかに起こったのではなく、この地を支配している安東一族が数年来、二派に分かれて争っていたがこのころになってその頂点に達したのである。
安東氏の祖は安倍貞任《あべのさだとう》である。貞任から四代目の安東太郎季任から安東氏を称するようになり、季任の孫季信は、鎌倉幕府より津軽守護人(守護職同等)の職を与えられた。季信には季村と季行の兄弟があった。季村は庶子であったが、季信はこれを跡目にした。その子が季長である。季行は正室の子|即《すなわ》ち嫡子であるのに相続できなかったことを恨み続けながら死んだ。その怨念《おんねん》はその子の季久に伝わった。季久は季長が蝦夷《えぞ》管領職に任命されるという噂を聞くと黙っておられなくなり、季長と事をかまえて争うようになった。数年前のことである。季長、季久の双方とも、われこそ安東家の後を継ぐべき者であると主張して譲らなかった。津軽大乱又は津軽騒動のはじまりである。簡単に言えば、惣領家と庶子家との間の争いだったが、実はこの騒乱に介入して漁夫の利を得んとする、周辺豪族の存在がかえってこの争いを拡大したのである。
安東一族は十三湊《とさみなと》(現在の十三潟)を中心として栄えていた。
鎌倉幕府の内管領《ないかんりよう》、長崎高資《ながさきたかすけ》が季長、季久の両方から賄賂《わいろ》を取ったために裁きができずに見送っているうちに内乱は拡大して行った。安東一族の内乱に影響されて付近一帯も騒々しくなったので、幕府は、八戸《はちのへ》の工藤祐貞等に命じて再三鎮定にやったが、幕府の方針がしっかりしていないのでただ傍観するしかいたし方がなかった。この津軽の内乱が、中央には蝦夷の蜂起《ほうき》と伝えられた。これを放《ほう》って置くことは幕府の威信にも関することなので、元亨二年になって幕府は関東の、宇都宮高貞、小田宗知、新田義貞等に対して、工藤祐貞の軍に援軍を送って、津軽騒動を鎮めるように命じた。そのころになって幕府の方針は変わり、安東季久を近いうち正式に蝦夷管領として認めてやろうということになった。
従って、鎮定の目標は安東季長を取り押えることにあった。義貞はこの命令を受けるとすぐ使者を鎌倉の安藤左衛門と諏訪《すわ》入道時光に出して、ことの真相をただした。どうもあまりぱっとしない出兵だった。人数は三十騎だったが長びくと戦費がばかにならない。しかし命令が出た以上兵を出さないわけには行かなかった。それにしても、陸奥の内紛なんかに、義貞自ら兵を率いてでかけることはないだろうというのが大方の意見だったが、義貞は別な考えを持っていた。彼は小田宗知に使者を出して、様子を訊いた。
「津軽騒動には朝谷兄弟に兵をつけてやりたいと思っています。なにしろ彼は向こうの土地に明るいからなにかにつけてよく働くでしょう」
という返事がかえって来た。朝谷兄弟が行くと聞いて、義貞は、自ら行ってみたくなった。あの朝谷兄弟の水際だった夜襲戦術の発祥の地に行って、合戦というものを実際に勉強したいと思った。彼は一族や家来の反対を押し切って自ら出征することを宣言した。
義貞にとって上野から津軽までは遠い遠い道だった。
新田庄を出たときは春たけなわだったが陸奥の国に入ると山々に残雪が白かった。八戸で工藤祐貞と初めて会った。
工藤氏は藤原南家の出であった。源頼朝に信任され、一族はこぞって栄えた。陸奥へ来たのは平泉の藤原一族が亡びて直後のことであった。
工藤祐貞は新田義貞が自ら出馬して来たことにひどく驚いたようであった。恐縮してもいた。
「源家の御大将が自ら兵を率いて来たというだけで、安東氏は矛《ほこ》を収めるでしょう」
と義貞に言ったが、腹の底では、なにも、関東からわざわざ出て来ることでもあるまい、と考えているようであった。
義貞は援軍として参加したのであるから、いっさいは工藤祐貞にまかせて置けばよかった。そのつもりで来たのだが、祐貞にしてみると、折角来てくれた義貞をあまり、粗略にはできなかった。家柄を問題にする時代だから、義貞が来たというだけで、源氏に縁ある武士は目の色を変えた。
「やはり、一方の大将として合戦の場に臨まれるようにお願いいたしましょう」
と祐貞は言った。
とんでもない、そんなつもりで来たのではないと言っても、祐貞はなかなか承知せず、結局は関東からやって来た百騎、五百人は義貞が指揮せざるを得ないことになった。
「えらいことになりましたな」
一族の者として同行して来た江田三郎行家が言った。
「やらずばなるまい」
義貞は言った。来た以上戦わねばならないだろうが、相手の強さが分からないから不安だった。そのことを朝谷兄弟にたずねると、
「このあたりのことは私たち兄弟におまかせください。けっしてご心配にはおよびません」
と言った。そう言われても、義貞には不安だった。安東一族は多くの蝦夷を抱えこんでいる。その蝦夷部隊の夜襲にあったらどうしたらよいであろうか。そのことが真先に心配だった。そのことについて朝谷兄弟に訊くと、
「たとえ夜襲があったとしても、充分な用意さえしていたら大丈夫です」
と言った。どのような用意をするのかは言わなかった。義貞は朝谷兄弟を常に傍に置いた。
幕府が示した鎮定目的は、安東季長を取り押えることだった。そのつもりで来たのだが、工藤祐貞はそれに反対した。
「鎌倉では全く事情が分かっていないのです。幕府が季久の肩を持つのはいいとして、だから季長を捕えろというのは当たりません。季長は幕府に対して、なにひとつとして悪いことはしていないのですから、やたらに兵を向けることはできません。われらとしてできることは、軍勢の威を以《もつ》て、騒乱をおさめ和解させることにあるのです。そのつもりでかからないと、ひどい目に会います。この点、はじめからよくよくお心に止めて置いていただきたい」
と祐貞は言った。
義貞は八戸にいる間にいろいろと情報を集めた。朝谷兄弟がこの方面で活躍した。
「この騒動は全くの同族争いですが、争乱を煽《あお》り立てているのは、陸奥諸方に散在する、頼朝公時代以来の豪族たちです。放って置けば、双方が力尽きて倒れるまで戦うでしょう。肉親間の争いだけに戦さも陰惨です」
と朝谷兄弟が前置きして、彼等が探って来たことを述べた。
安東氏は陸奥全体に渡って勢力を持っていた一族だったが、頼朝の奥羽平定以後、津軽の中南部は曽我氏、南部氏、工藤氏の領地となったので、やむなく十三湊を中心とする津軽西北部に移り、現在はもっぱら海運業によって栄えていた。安東一族の所有する船は数十隻に及び、北陸諸方ばかりではなく、遠く瀬戸内海まで進出していた。鮭《さけ》、昆布《こんぶ》などの海産物が主なる輸出品であった。安東氏は海上の交易によって得た金で、城を築き、町を作った。
「十三湊には数え切れないほどの船が並び、十三湊の館は、京都の天皇の御所もかくばかりと思われるような豪勢なものです。館のまわりには、幾重にも濠や池や、築地塀《ついじべい》がめぐらされています。館の外は町になっていて、民家が無数に軒を並べていますが、どの家の屋根も甍《いらか》でおおわれています。神社や仏閣がいたるところにあるかと思うと、派手な着物を着た女たちがいる見世からは一日中、音曲が聞こえて参ります」
と朝谷兄弟は十三湊の繁栄ぶりを伝えた。
安東一族の争いは相続権の争いであると同時に利権の争いであった。交易権は蝦夷管領に与えられていた。蝦夷管領になれるかなれないかでは収入が格段に違って来る。両派が内管領長崎高資にしきりに賄賂を贈ったのもこのためであった。
「工藤祐貞殿はどのようにして、この乱を収拾しようとしておられるのか」
と訊くと、朝谷義秋は声をひそめて言った。
「工藤殿はこの地方のことを熟知しています。彼は鎌倉の命令がどうあろうと、表面は、安東一族の争いには介入しないという建て前を取っています。身近に敵を作りたくないのです。従って、成り行きによっては、お館様が矢面に立たされ、貧乏くじを引かされることになるかもしれません」
「つまり、責任の多くを新田義貞におしつけて、自分は涼しい顔をしていようというのか、それでこの騒乱がおさまればいいが、そうは行かないだろう」
「そのとおりです。騒乱は幕府の介入によっていよいよ激しくなるでしょう。しかし工藤氏の窮極の目的は乱を長引かせて、安東一族を疲弊させることにあるのですからそれでいいのではありませんか」
工藤祐貞がその考えでいるとすれば、援軍としてやって来た関東の兵はどう動いたらよいのであろうか、義貞は新しい障害に突き当たったような気がした。
「困ったな、たいへんなところへ来てしまった」
と義貞は珍しく、愚痴をこぼした。
八戸は陸奥の国の東南部にあり、十三湊は北西部にあった。
義貞の率いる部隊は工藤祐貞の率いる部隊の後に従って五戸《ごのへ》、七戸《しちのへ》を通って陸奥湾に出、ここから西進して津軽半島に出た。外ヶ浜というあたりまで来ると、安東氏の一族から次々と使者がやって来て、どうぞわが軍に加勢して下されと頼みこんで来た。言葉だけではなく、それぞれ、食糧や品物などを持って来た。
「すべては工藤祐貞殿にまかせてある。工藤殿のところへ頼みに行くがよい」
義貞はそう言って使者を返してやった。工藤祐貞からもそのようにしてくれと依頼があったからである。更に西進して金木《かなき》のあたりまで来たとき、安東季久が兵を率いて迎えに来た。
義貞は工藤祐貞の本陣で安東季久にはじめて会った。
「鎌倉よりの書状によると、蝦夷管領はこの安東季久に下されることに決まったよし、さすれば、今度の幕府よりの出兵は、われらに味方くだされるためと考えてよろしいでしょうな」
そう言う、季久は、身長六尺もあろうと思われる偉丈夫であり、髯《ひげ》は針のようにとがり、眼は炯々《けいけい》と輝いていた。見るからに強そうな武士であった。
「さよう。この津軽の騒動が終わったあかつきには、蝦夷管領は安東季久殿に下されることになった。だが、あくまでもそれは、この騒乱が終わってからのことである。安東氏が二つに分かれて合戦している間は、管領職を与えることはできない。早いこと戦さを止《や》めることだ」
と工藤祐貞は言ったが、
「いや、書状にはそのように書かれてはいない。蝦夷管領職は近いうち与えられるとだけ書いてあった。つまり、今の私は蝦夷管領職と称してもいいような状態にあるのだから、私に反抗する者は誰であろうと討ち取らねばなりますまい。そのように黒白をつけないと、騒乱は何時《いつ》までも続く」
季久の言うことは筋が通っていた。
「いや、その近いうちに与えるというのが当てにならないのだ。幕府から正式の令達書を戴《いただ》かないかぎり信用はできない」
工藤祐貞は飽くまでとぼけていた。
「それならば、諸侯はなぜ、兵を率いて来られたのだ。特にはるばる関東から来られた新田義貞殿にはちゃんとした目的があってのことであろう」
大きな目でじろりと睨《にら》まれると、義貞は背筋が寒くなるように感じた。この男を怒らせたらたいへんなことになるぞとも思った。
「いかにも仰せのとおり、われらは工藤殿の援軍としてここまで参った。工藤殿の御指図次第で、すぐにも合戦の場に臨むことに相成ろう」
義貞は飽くまでも援軍の将としての立場を崩さなかった。義貞の答えを聞くと季久は不満の情をさらけ出すように、
「しからば、われ等一族の血で血を洗う合戦をゆるりと観戦しておられるがいい」
と棄てぜりふを残して帰って行った。
「今宵あたりから危険地帯に入ります」
と金木を出発した日に朝谷義秋が義貞に耳打ちした。
「敵の来襲があるのか。いったいその敵は安東季長なのか季久なのか」
義貞は訊《き》いた。
「夜襲があると決まったわけではございませんが、そのような臭いがいたします。安東季久は、工藤殿の煮え切らない態度に怒っています。彼はもう蝦夷管領になったつもりだから、当然、われわれを味方としてかかえこみたいのです。それができないとなれば、彼にとってわれ等は木石同様の存在になりますからね」
季久は今日のことに遺恨を持ち、いやがらせの夜襲をしかけて来るかもしれないし、季長は幕府が蝦夷管領職を季久に与える方針だと聞いて怒り、幕府の派遣軍に夜襲をかけて来る可能性があった。
朝谷義秋は弟の正義を物見に出した。朝谷兄弟は蝦夷の言葉を自由に話したし、この付近の地勢にも明るかった。
「もし夜襲に会ったらたいへんだから、そちの考えを工藤殿にも知らせてやったらどうかな」
という義貞の言葉に義秋は、
「いやお止めになったほうがいいでしょう、工藤殿は多くの物見や諜者《ちようじや》を安東一族の中に送りこんであります。もし夜襲があるようならば、工藤殿から先にその知らせがあるでしょう」
と朝谷義秋は言った。
その日は暮れようとしていた。義貞の率いる関東の兵たちと、工藤祐貞の率いる軍とは、それぞれ夜営の場所を探した。
義貞は朝谷兄弟の進言に従って、川に面した丘の上に陣を張り、川の反対側には、柵《さく》を設けて備えた。
兵たちは、十人を一組として、互いに名を呼び合って、如何《いか》なる暗闇でも、同士討ちのないようにした。合い言葉は、坂東と陸奥であった。
「蝦夷の夜襲には法則がある。彼等は霧のように忍び寄って来て、篝火《かがりび》を消して突然襲いかかって来る。すべて無言のうちに為されるから気をつけるように。蝦夷の夜襲があっても、騒いではならない。篝火を中央に円陣を作って矛《ほこ》を構えて動かないことだ。持場を離れるな、じっとして様子を窺《うかが》っているのだ。円陣に近づいた者が即ち敵である。篝火は消してはならない、充分な薪は用意して置くように」
朝谷兄弟は全部隊にこのように触れて廻っていた。義貞はそれでも心配だから、自ら夜襲防ぎの陣形を見て廻った。
日が暮れた。兵たちは、教えられたとおりの警戒態勢を整えて夜を迎えた。夜襲はなかった。夜は白々と明けた。義貞は朝谷兄弟の献策通りにした。第一夜は過ぎたが、第二夜、第三夜と野営は無限に続くように思われた。
(いったい、おれはなんのために、こんなことをしているのだろう)
義貞は新田庄に待っている、妻妾《さいしよう》や子供たちのことを思った。
第二夜には果たして夜襲があったが、敵が陣内に攻めこんで来たのではなかった。柵の外から矢を射かけて来たのである。矢に当たって数人が負傷した。この騒ぎで全員が目を覚まして、盾を並べて敵に対向したが、その時には、敵の姿はなかった。
第三夜は馬が襲われ、二頭が盗まれた。その場に腰刀《こしがたな》が鞘《さや》のまま落ちていた。
馬は見知らぬ人が近寄ると嘶《いなな》く習性を持っている。この夜も馬の繋《つな》ぎ場を警戒していた武士たちは馬の嘶く声でそっちに目をやると、ほとんど黒一色に身を包んだ賊が数人馬の繋ぎ場所にまぎれこみ、馬に乗って逃げようとしているところだった。二人はまんまと逃げ失せたが、三人目の男は警戒の兵にかこまれたので、馬から降りて逃げた。このときの小競合《こぜりあい》で敵は腰刀を落としたのである。夜が明けてからこの腰刀を持って義貞は工藤祐貞の陣を訪れた。
祐貞はその腰刀を家来たちに見せた。
「これは安東季久の帯びていたものに相違ございません」
と幾人かが答えた。鞘に安東季久が好んで使う屈輪紋様《くりもんよう》があったからである。
「すると昨夜の賊は安東季久の手の者か」
と義貞が言うと、
「いやそうではないでしょう、第一に、腰刀を落とすなどということがめったにあることではない。第二にその腰刀にちゃんと目印があるのもおかしい。これは安東季長が考え出した策ではなかろうか。尚《なお》この腰刀が安東季久のものであるかどうかは、確かめてみれば分かるはずです」
と祐貞が言った。早速、安東季久のところへ使者を出すと、季久自らがたった三騎を率いてやって来て、祐貞と義貞の前で弁解した。
「いかにも、この腰刀は私の物ですが、半年ほど前に、一族の安東清高という者に与えました。清高が手柄を立てたからです。その清高が、つい一カ月ほど前の合戦で死にました。腰刀はその時に敵に奪われたものに間違いございません」
季久は語調を強めて言った。
「すると、昨夜、新田殿の陣地を襲ったのは季長の軍勢か」
工藤祐貞は、大きな声で言った。季久はそれに相違ないと繰返した。
「どうなさいます? 坂東武者として馬を盗《と》られて黙ってはおられないでしょう」
と祐貞は義貞の顔を見ながら言った。
「さよう黙ってはおられません、われらはわれらとして考えねばなりますまい」
義貞は答えたが、その場でどうするかは、はっきり答えなかった。なにもかも型にはまり過ぎていたからだった。季久の手の者が新田軍の馬を盗んだように見せかけたのが芝居なら、その芝居の裏を覗《のぞ》いて見たらどうなるか。義貞はそんなことを考えていた。季久の人物は疑わしいし、工藤祐貞という人物がそれ以上に分からなくなって来た。
義貞の率いる軍は夜襲におびえながらも、次第にこの地に馴れて来た。蝦夷の夜襲も備えを厳重にすればそれほど怖《おそ》れることもないという自信がついて来たが、問題は兵たちの気持ちだった。故郷を出たときは、鎌倉幕府の命に服さない者を討伐するという目的だったが、現地に来て見て、敵はどこにいるのか、敵が誰であるかはっきりしない。彼等にとってはこのまま次第次第に危険な場へ落ちこんで行くようで不安だった。
食糧は現地調達ということになっていたが、無償で取り上げることはできなかった。買い上げるにしても軍資金には限りがあった。長びけば長びくほど士気は沮喪《そそう》し、台所をあずかる者は兵たちをなだめるのに苦労した。
「工藤祐貞の援軍として来たのだから不足分は工藤氏から出して貰おうではないか」
と、はっきりと口に出して言う者もあったが、義貞としても、そのようなことはできなかった。
義貞等の軍は十三湊に流れこんでいる岩木川の下流に達したところで大休止した。
安東一族は十三湊の西部にいた。安東季長を討つにしても、安東季久を討つにしても、まずここに陣を張ってからでなければならなかった。
義貞は工藤祐貞に安東氏に対して、どうするつもりかを訊いた。
「ついこの間までは、安東氏の乱には介入せず、武力を見せつけながら、両者の和解を計ろうかと考えていました。しかし、先ごろ季長が新田軍を襲って馬を盗んだからには、これを許すことはできますまい。安東季長を敵として軍をすすめるしかないでしょう。そのつもりで援助を願います」
工藤祐貞は軍を二つに分けて、十三湊の北にある安東季長の館を攻める計画を立てた。
津軽の春は夏を背負ってやって来た。花がいっせいに咲き、その花が散るのも待たずに葉が出た。そのあたり一帯は農地は少なく、山野が多かった。村の数も少なかった。南の方から移住して来た人たちが開墾に従事していたが、毎年のように続く不作のために、どうやら生きて行くのがやっとのようであった。蝦夷の村もあったが、彼等としても、山野に豊富に追い求めることができた獣や河川に溢《あふ》れるように登って来た鮭の数が急減したので、今は生きて行くのがやっとと言った状態だった。彼等は、山を捨て、土地を見限って十三湊へと集まって行った。そこには仕事があり、食があった。
安東一族は、これらのあぶれ者を従えて、勢力争いに余念がなかったのである。
「お館様、お気をつけて下さい。今度の作戦にはなにか裏があるように思われてなりません」
朝谷義秋が言った。弟の正義は、
「工藤家の使者が、季長、季久の双方のところへ毎日のように行っております。季長を敵と決めたら、なぜ使いなぞ出す必要がございましょうや」
と彼は、見て来た疑問を義貞の前でぶちまけた。
「いずれにしても、近くなにかが起こるだろう。それによって、すべてははっきりするに違いない」
義貞は心に期するものがあった。
工藤祐貞から明朝早々軍事行動を起こし、午後には安東季長の館を攻撃するという通知があった。祐貞の軍が館の大手門を攻撃し、義貞の軍が搦手《からめて》を打ち破って突入するという手筈も整った。
義貞はそれを承知した。いよいよ、その時が来たのだと思った。それにしても、安東季久の軍がこの戦いに参加しないのは不思議だと思った。義貞は朝谷兄弟に命じて季長の館と季久の館の両方を調べさせた。
季長の館は工藤祐貞の率いる約千人の兵と義貞の率いる関東勢五百人を間近に迎えてその防備に余念がなかった。季久の館も合戦の用意をしていた。いざという時、出動するつもりのようであった。
その朝、露に濡れながら、義貞の隊は出発した。夜襲に悩まされていた兵たちも今宵こそ合戦らしい合戦ができるものと張切っていた。日が高くなったころには季長の館が遠望されるところまで来ていた。岡そのものが城であり、砦《とりで》であり、館でもあった。堀と柵を幾重にも巡らせたもので、力押しに押せば、落とすのにそれほどむずかしいとは考えられなかった。だが、千を越す季長の軍が必死に防いだら、味方の損害も少なくはないだろう、義貞は、小手をかざしながら、地形に目をやっていた。
朝谷正義が物見から帰って来て報告した。
「季久の陣内に忍ばせた者の言によりますと、彼等は今宵、夜襲に出ると言っておるとのこと、ついでに馬を十頭ばかり盗んで来ようなどと言っている者もあるそうでございます」
義貞はこの前盗まれた二頭の馬のことをふと頭に思い浮かべた。いやな予感がした。
工藤隊に伝令として派遣した者が帰って来て、また気になることを義貞に報告した。
「午後から合戦が始まるというのに、工藤の兵達は武具の手入れをしようとはせず、また身のまわりの整理をする者も居ません。なんとなくのんびりした顔で冗談など言い合っております」
よく知らせてくれた、と義貞はその男を讃めながら、工藤祐貞は本気で季長と戦う気がないのではないかと思った。しかし、午後になると、予定どおり、鬨《とき》の声を合図に合戦は始まった。義貞は軍を一つにまとめたまま、城砦《じようさい》に向かって進撃して行った。予期していたように、敵の矢の反撃を受けた。無理押しはできなかった。
その城砦とも館ともつかない地形は近寄って見ると、意外に複雑になっていた。いたるところに、身を隠すことのできる地形があった。そういうところから、矢が束になって飛んで来た。
義貞は自軍の兵力と敵の兵力を比較して、力攻めに押し取ろうとすれば、味方が大損害を受けるであろうことを予測した。少ない兵力でこのような城を落とすには計略を用いて敵を誘い出すか、又はひそかに味方を敵城内に忍びこませて、火を放つしかなかった。この両方の策が封ぜられたときは、攻め手はなかった。また、工藤軍との共同作戦ということもあり、いざ、戦いが始まっても、そう簡単には兵を進ませることができなかった。
江田三郎行家が、義貞に献策した。
「こうなれば、一塁、一塁を確実に奪いながら敵を押して行く以外に策はございません。時間はかかりますが、そのうち敵の手の内も見えて来るでしょう。そこでまた新しい策を取ることにしたらいかがでしょうか」
義貞も実はそのように考えていたところだったので行家の言を入れた。行家は自ら兵を選んで、この戦いの先頭に立った。
敵の柵は幾重にも設けられ、柵と柵の間に堀切《ほりきり》があった。それ等の柵と堀切の複合体が城砦だった。その中心あたりに、敵将は居館《いやかた》をかまえていた。
江田三郎行家は、城砦のはずれにある、一つの柵に目をつけた。この柵は一度は設けたが、後になって必要なしとして、放棄したままになっていた。ところどころがこわれていた。この柵のすぐうしろには浅い堀切があり次いで一の柵があった。
江田三郎行家は、この捨てられた柵に向かって、盾を並べて押し寄せた。矢を防ぎながら近づき、そのこわれかかった柵にぴったりと身を寄せるようにして陣を張った。
敵はあわてた。捨てた柵を利用して一の柵へ近づこうとする新田軍を攻撃してそこから追い払おうとした。だが、江田行家は盾を並べ立てて、その中にこもり貝のように動かなかった。義貞の本隊は、その江田隊に近づこうとして、一の柵から出る敵を狙って射かけた。敵は、次々と味方の損害を出すのが歯がゆくてたまらぬらしく、一度は一の柵から退くように見せかけて置きながら、一気に二百人あまりを繰り出して一の柵を越え、江田行家の軍を包囲しようとした。
義貞の本隊はこの機を待っていて、総攻撃に移った。一の柵から出た二百人あまりの敵は自らの柵に追いつめられて多くは討ち取られた。
新田軍は、一の柵を落とした。だが、勢いに乗じて、堀切を越え、二の柵に押し寄せはしなかった。もしそうすれば、今度は味方が手痛い目に会わねばならないからだった。
新田軍は奪い取った一の柵の守りを厳重にして、更に二の柵奪取を狙った。一の柵と二の柵の間には堀切があった。これを渡るか、埋めるかしないと二の柵に迫ることはできなかった。
義貞は三カ所で、堀埋めにかかった。盾を二重、三重に並べ立てて、その陰で、堀埋めの作業が始まった。
敵は、堀が埋められるのを恐れて、その妨害策に出て来るのだが、柵を出た敵は、新田軍の矢に当たった。
夜になっても堀埋めは続いた。そして、翌朝、早々、新田軍は、三カ所から堀を渡って二の柵におし寄せ、ここに源氏の旗を立てた。二の柵を取ると、また堀埋めの仕事にかかった。義貞はこの時点で大手門に向かった工藤祐貞の動きを見に人をやった。
「工藤殿の軍は、敵と小競り合いを繰り返していましたが、今は退いて、遠くから様子を窺っております」
という報告がもたらされた。
そのような工藤祐貞のやり方は許されないことだった。義貞軍に攻撃させて、敵を弱らせ、潮時を見て、城砦に兵を入れ、勝利を一人じめにしようという腹なのか。それとも、はじめっから戦う気がなく、裏で敵となんらかの取引きをしているとも考えられた。
義貞は江田三郎行家を使者として工藤祐貞のところへやり、その非積極的なやり方を責めた。
「本気で戦うつもりなのですか」
行家は色を為して言った。新田軍は命がけで戦っており、既に死者や負傷者も出ているというのに、工藤軍はそのような損害は皆無であった。行家はこの点を指摘した。
「戦さには機というものがある。しかも相手は蝦夷軍だ。戦さのやり方も、坂東とは違う。もう少し、われらがやり方を見守っておれば分かることだ」
と工藤祐貞は言った。
「二手に分かれていっせいに攻めかかるというのが当初の申し合わせであった。その約束を無視して、傍観しているとはなにごとです。もし戦う気があるならば、今、私の見ている前で総攻撃の下知をして下され」
勢いこんで言った行家の言葉に、祐貞は顔面を蒼白《そうはく》にして言った。
「陸奥のことをなに一つ知りもしないで余計なことを言うな。いったい、この戦い全般のさしずをするのはわれにあるのか、そちらにあるのか考えたことがあるのか」
「陸奥のことはなにも知らぬ。しかし、そこもとが、敵と裏で取引きをしているらしい臭いだけは感ずる。そちらが敢て戦う意志がなければ、われ等にも考えがある」
行家は憤然として席を立った。
行家の報告を聞いた義貞は、工藤祐貞に戦意なしと見た。そうだと分かっていて、尚戦うことはまことに分の悪いことである。たとえ、敵に勝ったところで、その栄誉が工藤軍にさらわれることも考えられるし、もっと恐ろしいことは、工藤軍が敵に味方して新田軍の背後に廻りこむことであった。
「味方が信用できなくなったら戦さなどできるものではない」
義貞は兵をまとめて前の宿営地に引いた。早々に陸奥を引き揚げるべきだと思った。鎌倉には、すべてを率直に報告するより仕方がないだろうと思った。
二の柵まで奪って置きながら、突如、引き揚げて行った新田軍の行動は安東季長等にはまことに奇妙に見えた。
二の柵の次は三の柵であった。じりじりと着実に攻め寄せて来る新田軍に、もはや防ぐ手はないものと考えていた季長に取って、蘇生《そせい》の思いだった。
新田軍は宿営地に帰って休養に入った。あれだけ痛めつけてやった、季長の軍が、夜襲に出て来ることはまずあるまいと思っていたが、警戒だけは厳重にした。将兵は連日の戦いで疲労していた。その夜は月も星もなく、いまにも降り出しそうに重く雲が垂れこめていた。
新田軍が夜襲を受けたのは寝入ってすぐであった。
敵は義貞の陣に忍びより、歩哨《ほしよう》を矢で射倒してから、柵を越え、篝火を中心として円陣を張っている兵たちに射かけて来た。そういう場合のために、盾が並べ立てられていたので、味方の損害は少なかったが、寝入りばなだったから味方は動揺した。その隙に敵は大挙して柵を越え、篝火に向かって、手に手に持っていた獣皮で作った水袋を投げつけた。篝火の幾つかは消えた。そして、その暗闇の中で殺し合いが行われた。
「敵は少数だぞ、落ちつけ、篝火から離れるな、篝火を消すな」
と叫び合う声が聞こえた。合戦はそう長くは続かなかった。敵は手負いをつれて退いて行った。味方は五名が死に十名が負傷した。一|刻《とき》ほどして、朝谷正義が帰って来た。
「敵の後をずっと尾行しました。敵は季久の城へ逃げこみました」
よくやったと義貞は正義を讃《ほ》めた。
「敵は夜襲に成功したものと見たのか、引き揚げるとすぐ酒を飲みはじめました。私は厩《うまや》に廻り、盗まれた二頭の馬があるのを確かめて参りました」
その正義の度胸のよさに讃め言葉を送りながら義貞は、
「敵は酒を飲んでおるのか」
と確かめた。
「はい、彼等は一度酒を飲み出すと、徹底して飲みます。酔いつぶれるまで飲みます」
と答える正義の言葉を受けて、
「よし、ただちに押し掛けて、坂東武者をあなどった安東季久の首を打ち取ろう」
義貞は立上がって言った。怒りが全身に駈け廻《めぐ》っていた。季久は飽くまでも、季長が義貞の軍を襲ったように見せかけ、関東から来た将兵が季長に対して敵意を燃やすのを期待しているようであった。おそらく、工藤祐貞との間に暗黙の了解があってのことのように思われた。
義貞は夜明けを待たずに、進軍を開始した。このことは工藤祐貞にはひとことも告げなかった。
夜明けの霧の中に季久の館があった。堀と、塁に囲まれていたが、敵は油断しているらしく警戒の兵はまばらだった。
朝谷兄弟が二十人ほどの兵を連れて館の中に忍び入った。館は十ほどあったが、その中で一番大きな館の中で酒が汲《く》み交されていた。
朝谷兄弟は、その館に火を放つと同時に、門を開けて、新田軍を城砦の中に導いた。
赤々と燃え上がる城砦の中央にある本館《ほんやかた》から、敵兵たちはいっせいに逃げ出した。戦う気があっても酔っているので、足元が不確かであった。
「手向かう者は斬れ、雑兵に目をくれるな。安東季久を生捕りにせよ」
義貞が号令した。敵は或《あるい》は討たれ、或は逃亡した。火事は本館一つだけにとどまり、他の館はそのまま残った。
敵の主なる者十数名が捕われたが、その中には安東季久の姿はなかった。夜が明けた。新田軍は、安東季久の城砦にこもったまま動かなかった。
義貞は安東季久の部下、十数人の捕虜を取調べて、安東季久が工藤祐貞の了解のもとに、しばしば新田軍に夜襲を行ったという事実を確かめた。厩には季久に奪われた乗馬二頭があった。動かぬ証拠だった。更に安東季久が工藤祐貞の陣内に逃げこんでいるという情報を得た義貞は、もはやこれ以上工藤祐貞を許すべきではないと思った。
彼は、まず、奪い取った城砦の防備を厳重にする仕事から始めた。この間二日は過ぎた。もしかしたら、工藤祐貞と戦うことになるかもしれないと思った。城砦の防備を固め、城内の兵糧を調べると、約一カ月分はあった。この間に工藤祐貞との決着はつけたいと思った。
義貞は使者を工藤祐貞のところへ向けた。江田三郎行家が、その使者役を所望した。副将格の江田行家は、颯爽《さつそう》として工藤祐貞の陣に乗り込んだ。工藤祐貞の尻尾《しつぽ》を押えた以上、恐れることはなにもないと考えていた。
「安東季久の主なる郎党十数人を捕えて、別々に取調べたるところ、新田軍にしかけられた夜襲のすべては、安東季久の手の者によって為《な》されたることが判明した。しかも、そのことは工藤殿との間に了解ずみとのことである」
行家は言った。しかし工藤祐貞は、
「その証拠は」
と、開き直っていささかも動ずる風がなかった。
「生捕りにした季久の郎党等の証言がなによりの証拠である」
と行家が詰め寄っても、
「なにを愚かなことを。そのような者たちの言うことが当てになるものか、それよりも理不尽に奪い取った安東季久殿の城を即刻返還するように、新田殿に伝えることだな」
工藤祐貞は、自信ありげな笑い方をした。
「止《や》むを得ない。では、われらの御大将の言葉をそのまま伝えねばならないだろう」
行家はそう前置きして、三つの項目を述べた。
[#ここから1字下げ]
一、即刻安東季久を新田軍に引き渡すこと
一、工藤祐貞自ら新田軍に出向いて来て、いままでの疑惑について釈明すること
一、もし、右の二条が受け入れられなかった場合は、新田軍は独自の軍事行動に出る用意がある
[#ここで字下げ終わり]
工藤祐貞は、新田義貞が思いもかけなかった強敵となったことをこの期になって知った。それでも彼は即答をさけた。
使者の江田行家が帰着する前に、新田義貞は安東季長の使者の訪問を受けた。
「このたびは、わが方にお味方下され、季久の城を亡ぼされ、まことにありがとうございました。主人季長にかわって、ひとまず挨拶に参上いたしました」
という口上であった。
義貞は面喰った。いや違う。そこもとに味方したのではなく、季久がしばしば馬を奪ったり、夜襲をかけて来て、わが兵を殺したから、こらしめてやったまでのことだと言ったが季長の使者は、結果はわれらにお味方下さったことになりましたのでお礼の品を持って参りましたと、米の他《ほか》に酒や肴《さかな》を置いて行った。
義貞は工藤祐貞の援軍として津軽におもむき、安東季長を取り押えよという命を受けていた。それなのに、季長の味方をして季久を討った結果になったのは、過程がどうあろうと幕府に対する命令違犯であった。義貞はこの急場を如何にして逃れようかを、終日考えていた。
三日目になって、工藤祐貞が郎党三人を伴って義貞の陣中に来た。
義貞は、部下を遠ざけ、祐貞と二人だけで対談した。
「工藤殿、この際下手な言い逃れを言うのはやめて頂きたい。今になって、もし言い逃れしようなどという御気持ちならば、拙者はこの場で貴殿を斬る」
義貞の勢いに押されて、工藤祐貞は顔色を変えた。
「申しわけないことをいたしました。腹を切れと申されるならば腹を切りましょう。その前に一つだけそれがしの言うことをお聞き下さい」
と言った。その一つだけというのが、言い逃れであることがはっきりしていたから、
「腹を切れとは言わない。安東季久を渡して貰えばそれでよい。拙者は安東季久を捕えて鎌倉に帰るつもりだ」
それでは、明らかに幕府の命にそむいたこととなり、不利ではございませぬかと祐貞は言った。
「不利であろうがなかろうが構わぬ。拙者はそう決めたのだ。それが嫌ならこの場で腹を切って貰いましょう」
と義貞は言った。祐貞に腹を切らせたら、その取り巻きが黙ってはいない。工藤一族が団結すれば、千や二千の兵は出せるだろう。その包囲網を破って関東へ帰ることはできなかった。それでも、義貞は自説を主張して止まなかった。
「止むを得ません、季久を連れて参りましょう」
祐貞が立ちかけるのを義貞は制して言った。
「貴殿には、かたがつくまで、ここに同陣していただくことにいたします」
義貞は、祐貞に書状を書かせて、彼の連れて来た郎党に持たせてやった。
安東季久はその翌日に現われた。季久が現われたころ、安東季長もまた義貞の陣に出頭した。義貞の誘いに応じたのであった。季久と季長の二人の顔を揃《そろ》えたところで義貞は工藤祐貞に言った。
「拙者はこの場で二人に和解の話を進めようと思うが、どうお考えですかな。津軽に平和が来れば、貴殿は腹を切らないで済みますからな」
義貞はその時はじめて笑顔を見せた。祐貞は冷汗を浮かべた顔を強いてゆがめて笑おうとしたが、その顔は泣き顔になっていた。
安東季久は義貞の前では徹底的に低姿勢だった。
「いままで、あなたほど強い大将には会ったことはございません。さすが源氏の嫡流の新田義貞殿と恐れ入っております。こうなれば、なんなりとお申しつけのとおりに致します」
工藤祐貞が居るのも忘れてそんなことを言ったのは、どうやら季久の本音のようであった。夜襲の成功に、つい気を許し、油断をしているところを襲われて戦ういとまもあらず、命からがら祐貞のところへ逃げこんだ時の恐怖は忘れられなかった。
「私も、新田義貞殿の申されることならなんなりとお受けいたしたいと思っています」
安東季長もまた恐れ入っていた。新田軍の攻撃ぶりは見事だった。工藤の軍が、戦う意志がないと見て、引き揚げたからいいものの、あのままじりじりと押されて来たら、やはり館を棄てねばならないと思った。坂東武者はほんとうに怖いと思っていた。
「では、私が申し出すことについて、絶対に異議を申し立てないということを誓って貰いたい」
義貞は念を押してから二人に向かって言った。
「安東一族が二手に分かれて争っていて、なにがいいことがあろうぞ。両者が戦いに疲れ果て、やがては自滅の道をたどるのを心ひそかに待っている者があることを知っての上の争いならば、それでもいいが、安東一族の成長を少しでも望むならば、直ちに争いは止めねばなるまい」
義貞がそう前置きした瞬間両者の顔がひきしまった。義貞は三つの条件を示した。第一には、合戦を止め、領地、利権は現在の時点で動かさないこと。第二は、もし幕府から季久に蝦夷《えぞ》管領の正式命令があった場合、季長はそれを認める。但し領地、利権には変動がないことを双方で認め合うこと。第三は、季久は自分の女《むすめ》の配偶者として季長の三男を迎え、これを次の代の蝦夷管領にすることを約束すること。
三条件に対して双方から質問があったが、大筋については了解した。義貞が、安東一族が亡びるのを待っている者がいると言った言葉が効いたようであった。
「では、後は工藤祐貞殿にお願いする。貴殿は、このたびの騒乱鎮定の将として派遣された責任者である故、双方より誓書を取り、これを鎌倉に送るなど、いっさいの手続きを取っていただきたい」
義貞は工藤祐貞の顔を立てた。実際はすべて、義貞がやったのだが、その功を祐貞に譲った。
「では、明日にでもわが軍はここを発《た》って故郷《くに》へ帰ろう」
と義貞は言った。しかし、季久と季長の双方が、口を揃えて、もうしばらくここに滞在してくれ、大筋は取り決めたが、こまかいところは、あなたに決めていただきたいと言った。
「十三湊《とさみなと》の町の空気もまたよいものでございます」
季久は義貞の袖を引くようなことを言った。義貞は残務処理が終わるまで、もうしばらく止《とど》まることにした。
義貞は祐貞と同道しながら、季長と季久の領地の境界線や、交易の利権問題に片をつけるために連日歩いた。大筋は承知したが、細かい問題になると双方とも意地を張ってなかなかまとまらなかった。
十三湊は朝谷兄弟から聞いた以上に大きな交易港であり交易場であった。この湊は陸奥最大の港であると同時に、北の蝦夷地(北海道)との物資の中継所でもあった。多量の海産物、獣皮などが、十三湊の倉庫に積み上げられていた。また北陸地方の諸港から運ばれて来た、布や、金属製品、米などが倉庫に山積みにされていた。港には常に数十隻の船が、順風が吹き出すのを待っていた。蝦夷と呼ばれる人たちと、彼等が和人と呼んでいる人たちとの間に特にへだたりは感じなかった。だが、女たちの服装にははっきりと違いがあった。蝦夷の女たちが頭に巻きつけている紫色の布や彼女等の着ている着物の紋様は和人のそれとは明らかに違っていた。
十三湊には夜が更けるまで灯火が洩れ、音曲が流れている一区画があった。
義貞は毎夜のように酒宴に誘われたが、それをことわり続けていた。
〈ひとたび酒宴にのぞんだら、つぶれるまで飲まされます。そうしないと軽蔑《けいべつ》されます。酒の誘いはむしろ、はじめからおことわりになったほうがいいでしょう〉
と朝谷兄弟に言われていたからであった。しかし、いよいよ十三湊を離れる前夜は彼等の好意を受けねばならなかった。義貞は覚悟して出掛けて行った。
酒席ははじめから、華やいだ雰囲気《ふんいき》だった。和人の着物を身につけてはいるが、明らかに和人とは違った顔の女たちが酒をついで廻った。彼女等は眼が大きく鼻が高く、和人にはない美しさを持っていた。言葉になまりが少々あるだけで立居振舞いはいささかも和人とは違っていなかった。
安東季久が義貞の傍《そば》に来て、好きな女がいたら今宵のお伽《と》ぎを申しつけましょうと言ったが、義貞は、笑いながら、酔い過ぎたから早う帰って寝たいと言った。心の中では、季久の好意を受けてもいいとは思っていたが、
〈女のことには特に気をつけていただかないと困ります。蝦夷地で女の問題を起こすと命取りになります〉
と朝谷兄弟に言われていたからだった。
安東季長が酒をすすめに来て、季久と同じようなことを言ったあと、
「あなたこそ、ほんとうの坂東武士です。もし、われらの手が必要なときには、何時なりとも馳《は》せつけ、あなたのために生命を投げ出しましょう」
と言った。
その夜、義貞はとうとう眠らなかった。彼は朝靄《あさもや》の中を館に帰り、朝靄の中で出発の命令を発した。日が昇ると、強い日射しが頭上から照りつけ、そして木陰に入ると、肌が粟立《あわだ》つように涼しかった。義貞はそこでしばらくの仮眠を取った。
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新田義貞が由良の館から反町の館に引越したのは何年であったか記録にないから全く分からない。記録の上に新田小太郎義貞の名が出るのは、文保《ぶんぽう》二年|戊午《つちのえうま》(一三一八年)十月六日、新田義貞が長楽寺に、新田庄八木沼郷の宅地と畠《はたけ》を寄進したというのが初見である。おそらくこれは、父朝氏の菩提《ぼだい》を弔うためのものであったと推測される。
由良から村田の地へ移転したのはこの後であろうと思われる。この地は河川が運んで来た土砂によって形成された扇状地帯の末端に当たり、一メートルほど高い台地となっていた。義貞はそこに目をつけて、この地に濠《ほり》を巡らせ、塁を設け、館を建てたのである。反町の館と呼ばれるようになったのは、新田義貞より後の世である。
義貞の頃、この館をなんと呼んでいたかはっきりしない。一の井の館と呼んでいたという人もあり、台《だい》源氏館というのは、由良ではなく、この館を指したのだという説もある。確固とした資料がないからほんとうのことは分からない。小説の上では新館《しんやかた》と呼ぶことにした。
現在この館の跡は寺と公園になっている。濠には満々と水をたたえ、館跡の北西部にはやや小高い人呼びの岡≠ェ残されている。これだけが当時をしのぶ唯一のものである。
津軽の大乱≠ノ新田義貞が坂東武者を率いて出掛けたという記録はどこにもない。この章は、新田義貞に関する限りフィクションである。しかし、この可能性が全然なかったかというとそうではない。幕府から関東の宇都宮氏、小田氏等に出兵の命があったことは事実であるから、記録には残っていなくとも、新田氏が出兵の命令を受けた可能性は考えられる。
私が小説の中に津軽の騒乱を入れたのは、この安東氏一族内の争いを鎌倉幕府が押えることができなかったことによって、鎌倉幕府の弱体が日本中に知れわたり、結局は北条一族が滅亡せざるを得ない成行きになったという点と、南北朝の対立に入ってからも、北畠親房《きたばたけちかふさ》、顕家《あきいえ》に率いられた陸奥の兵が京都に上って来て、戦局を逆転させるほどの活躍をしばしば示したことである。つまり、南北朝のことを書くには、安東氏の動きを無視できないという理由から、新田義貞に陸奥の春を歩かせることにしたのである。
挙兵して鎌倉に攻め上る以前の新田義貞については、ほとんど見るべき資料はないが、忽然《こつぜん》として或る日英雄が誕生するというのも、まことにおかしなことであるので、挙兵前の重大事件の一つとしての津軽の乱の中に義貞を登場させたのである。この安東氏一族の抗争についての資料は少ないので、真相を知ることはできないけれど、相続権を争う内輪もめを利用して、安東氏の勢力減退を願っていた者があったことは確からしいし、相争う両者から賄賂《わいろ》を取っていたがために紛争解決ができなかった北条|得宗《とくそう》家一族の醜態もまた事実だったようである。
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色好宿《いろこのみやど》
鎌倉幕府の総帥北条高時は十四歳で執権になって以来、政治のことはもっぱら長崎円喜、高資《たかすけ》父子に任せていた。長崎氏はもともと北条家の執事であった。家令として家政を見るのが職務であったが、北条一族の信頼を得ると、自ら称して家司となり得宗家の中心的人物となり、終《つい》には政治を左右するまでになった。内管領《ないかんりよう》という職も公式に上から与えられたのではなく、自らそのように称し、やがて公認の形をとったのである。
北条高時は生まれながらの暗愚であった。その彼が執権になったのは嫡子だということ以外に理由はなかった。強いて理由を求めるならば、相続争いの発生をおそれての得宗家内部での取り決めということになるが、実は政治をほしいままにしている長崎円喜、長崎高資父子の考えによるものであった。高時は飾り物だった。あって、無きがごとき存在であるというよりも、長崎等の言うとおりになる、操り人形であった。
高時は字を読んだり書いたりすることは極度に嫌ったが、署名はできるようにしこまれていたし、おおよその作法は心得ていた。京都から来た勅使に謁見するときなどの心得も充分にわきまえていた。知らない人から見れば、将来性のある若き執権に見えないことはなかった。暗愚だったが人間としての本能には異常がなかった。十四歳で元服し、十五歳のときには既に側室を二人も持っていた。暗愚だから女に一度興味を持ちだすとそのことだけに、没頭した。家臣が酒の味を覚えさせるとそれだけに耽溺《たんでき》した。
どうもあのようでは困る、なにかよい趣味はないかと、側近がいろいろとすすめて見たが、暗愚な彼の心を開くものはなかった。そこに現われたのが、田楽《でんがく》であった。京都から招かれた田楽法師の一座の演技を見て以来、高時は明けても暮れても田楽にうつつを抜かすようになった。次々と田楽の芸人が京都から招かれ、家を与えられ、金品を給付されて厚く保護された。
酒と女と田楽に打ち興じて、その日、その日を過ごしている高時を横目で見ながら内管領の長崎高資の賄賂政治は次第にその性格を露骨にし、範囲を拡げて行った。訴えごとも、昇進も、すべて賄賂の如何《いかん》によって決定した。長崎一派のものは肥えふとったが、幕府の権威は日を追うて、地に落ちて行った。
新田義貞が陸奥に出征した年、高時は二十歳であり、義貞は二十三歳であった。三つ違いで一方は大将としてその職を果たし、片方は田楽に打ち興じていたのである。
陸奥の騒動が鎮定されたという正式な報告が工藤祐貞から幕府に対して為されたころ、頼朝時代から陸奥に置かれている、曽我氏、南部氏などからも、陸奥の情報が入って来た。それらの書状の多くは、新田義貞の活躍を述べ、安東一族が和解したのは新田義貞の力によるものであると断じてあった。
「新田義貞とは如何《いか》なる人物か」
それ等の報告を読んだ長崎高資は、ふと、ひとり言を言った。
長崎高資の頭の中に新田義貞の名が刻みこまれた日の午後に、岩松政経から砂金革袋二個の贈り物があった。
岩松氏の本領は新田庄内にあった。もとは新田氏の出であるが、足利氏と縁組みをしたことによって、足利氏の一族と見做《みな》されるようになった。他に所領もあり、鎌倉幕府の内部では岩松氏を知らない者はなかった。
高資は岩松氏の執事の米沢小五郎に会って、金二袋の裏に隠されていたものがなんであるかを聞いた。
「実は、新田氏の一族、大館《おおたち》宗氏とわが岩松家との間で水争いが起きました。くわしくは訴状にしたためてございますから、至急、御裁断のほど願い上げます」
米沢小五郎はそれだけ申し述べて帰って行った。
訴状には次のようなことが書かれていた。
≪わが岩松家の所領新田庄田嶋郷の水田の用水は、古来から大館宗氏所領の一井郷の沼水より引いておりましたが、この度大館宗氏はなんのことわりもなしに、この用水口を塞《ふさ》いでしまいました。これは全くもって乱暴な行為ですので、取調べの上、よろしく御処置願います≫
というものであった。
この年は旱《ひでり》が続き、水争いは各地で起きていた。岩松氏と大館氏の水争いも、もとはと言えば、水不足に根を発していた。このような年には水の所要量の比率で配分することに取決めてあったが、岩松氏がそれを承知せずに、例年どおりの水量を要求したことによって水争いが生じ、終には農民どうしの争いになり、大館氏所領の農民が岩松氏の用水路の二つの水門のうち一つを塞いでしまったのである。もともと、水源は大館氏のものであるという意識の上にたった強行手段だった。
水争いは、緊急を要する問題だし、賄賂を受取っている弱味もあったので、高資は早速、公事《くじ》奉行の諏訪《すわ》入道時光を呼んで、訴状を渡し、
「岩松が困っておる。用水を分け与えるよう、大館宗氏に申しつけるように」
と言った。
「早速取調べた上で、そのようにできるものならば、そういたしましょう」
と諏訪時光は答えた。時光は長崎氏のやり方に困り果てていた。ろくろく調べもせずに賄賂次第で裁定を下すようなことが、最近特に目立って多くなった。
「なに、取調べる。その要はない。直ちにもと通りにするようにせよ」
内管領をかさに着ての命令だった。諏訪時光にしても、そうまで言われたら、従うより致し方はなかった。
だが、彼は能吏であった。その日のうちに気の利いた者二人を早馬で現地に派遣し、実情を調査させ、
「争いの発生する以前の状態にもどせ。裁きは秋になってなされるであろう」
と言い渡した。争いの発生する以前という言葉の解釈で、またひともめはしたが、結局、乏しい水を分ち合うという、水争い直前の案にもどり、岩松氏の領地への水路は再び息を吹き返した。そのうちに雨が来たので水争いは終わった。
長崎高資は諏訪時光から、新田庄の水争いについての報告を受けたあと、
「その新田庄の頭領の新田義貞という男は如何なる人物か」
と訊《き》いた。時光には、そう言う高資の真意が分からないので、答えを渋っていると、
「新田義貞は、先年、常陸の朝谷兄弟の乱の時も、この度の津軽の争乱においても並々ならぬ働きをした。年歳《とし》は僅かに二十三だというのに、新しい館を建てるし、なかなかの切れ者のようだな」
と言った。
「さよう。なかなかの切れ者でございます。四年ほど前、治部《じぶ》の大輔《たいふ》(高氏)殿が副臥《そいぶし》の女を与えると言ったとき、新田殿がことわった話はお聞き及びにはなりませんでしたか」
その話を出すと、高資は、ああそうか、そんなことがあったかな、あれは新田義貞だったかと、いまさらのように言った。
「新田義貞は系図の上から見る限りでは源氏の嫡流になる家筋です。家柄もいいし、家来もいいし、なによりも本人はよくできた男だと聞いています」
時光は義貞を讃めながら高資の顔に浮かぶ反応を観察した。
「さようか、一度会って見たいものだ。そういう男は、味方につけるにしろ、敵に廻すにしろ油断ならないからな」
と言った。そのとき、高資の顔に一|抹《まつ》の翳《かげり》が走ったようであった。
「使者を出して、義貞を鎌倉に呼び直々に陸奥の様子をお尋ねになったら如何《いかが》でしょうか」
時光はすかさず言った。義貞を現在の最高権力者の長崎高資に近づけて置くことは悪くないと思った。時光の頭の中に義貞の顔が思い浮かぶと同時に全く対照的に足利高氏の貴公子然とした顔が浮かび上がった。
「よろしい。会ってやろう」
高資はそう言ったときちらりと時光の顔を見た。お前は義貞のことをよく知っているのだなという目付きだった。
時光は陸奥からの帰路の途上にある義貞に早馬を送って、直接鎌倉へ出頭して、陸奥の情勢を報告するようにと長崎高資の意向を伝え、鎌倉に着いてから、くわしいことは申上げようと書き添えた。
義貞は兵たちをそれぞれ帰郷させ、自ら数騎を従えて鎌倉に来た。四年ぶりであった。
義貞は新田屋敷につくと、武具を脱ぎ、狩衣《かりぎぬ》に着換えてまず隣家の諏訪屋敷に出頭した。時光にはこの日の予定を早馬で知らせてあった。
「新田庄殿、このたびのお手柄鎌倉まで聞こえて参りましたぞ」
と時光はそう言ってから、長崎高資が義貞に会いたいと言い出した経緯《いきさつ》を述べた。
「御承知のように内管領殿はなかなか、気むずかしいお人ゆえ、言葉を充分とつつしまれることが肝要かと存じます」
と時光は言った。義貞が若気のいたりで、言わないでもいいことを言ってしまっては困ると思ったからである。
「陸奥の争乱についてはどこまで本当のことを言ったらいいのでしょうか」
義貞はそう前置きして、陸奥争乱の真相を時光に向かって話し出したのである。
諏訪入道時光は新田義貞の話を黙って聞いていた。陸奥争乱の様子がことこまかに分かった。特に夜襲の話など面白かった。彼はしばしば相槌《あいづち》を打った。
「あれを言うなこれを語るなと言えば、話がおかしくなる。もし内管領殿がくわしく話せと言われたらなにからなにまで洗いざらい話すがいいでしょう。もし、事務的な報告だけにせよと申されたら、安東兄弟を説得して和解に導いたところだけを話せばいいでしょう。ただ、内管領が双方から賄賂を受取っていたのが、争乱の一つの原因だなどと夢々申してはなりません」
義貞は頷《うなず》いていた。
翌朝、義貞は侍所で長崎高資と会った。諏訪入道時光も列席していた。
「この度、陸奥の争乱についての働き、殊勝であった。追って恩賞の御沙汰もあろうが、まず陸奥の争乱の事情をくわしく述べよ。なにごとも隠すことはないぞ」
その日、高資はたいへん機嫌がよかった。
義貞は、時光に言われたまま陸奥の争乱の事情を話した。時光には洗いざらい話せと言われたが、工藤祐貞が、安東季久と安東季長の両方につながっていることはさすがに口に出なかった。
高資は、義貞の話している間中、ほうとか、ううむなどという感嘆の言葉を洩らしていたが、語り終わると、急にきびしい顔になって言った。
「隠さずに話せと申しつけたにも拘《かかわ》らず、大事のことを言わなかったな」
と言った。義貞が困ったような顔をしていると、
「工藤祐貞のことだ。祐貞は季久と季長の両方を手なずけている筈だ。そういう報告も届いている。なぜそれを言わなかったのだ」
義貞は高資の機嫌がなぜ途中から悪くなったのか分からないから頭を下げたままだった。
「御苦労であった」
と高資は言った。最後の言葉は比較的おだやかだったので義貞はほっとして顔を上げた。
それを待っていたように高資が言った。
「そちの一族に大館宗氏という者が居るであろう。宗氏はさきごろ、岩松政経の領内への水路を理由なく閉塞《へいそく》するという暴挙に出た。諏訪入道の取調べによって、一応はもとに戻すということで解決したが、今後、このようなことがあれば、容赦なく所領を没収する。このことをそちから充分に言い聞かせて置くように」
大きな声でそう言うと、高資はさっと立ち上がり、声に恐れ入って平伏していた義貞が頭を上げたときには、そこにはもう居なかった。
「新田庄殿の話を聞いている途中で、ふと水争いのことが思い浮かんだのでしょう。それほど気にすることはございません」
と諏訪時光は新田義貞の耳元で囁《ささや》いた。義貞は、わざわざ鎌倉まで叱られに来たような|へん《ヽヽ》な気持ちだった。長崎高資の胸中に秘められたものに疑惑を感じながら、なにか、このままでは済まされないものが自分を中心として動いているような気がしてならなかった。
義貞が新田屋敷に帰ると刀屋三郎四郎が待っていた。彼は、この度のお手柄おめでとうございますとばかていねいなほどの挨拶をしたあとで、急に顔をほころばせていった。
「あれからもう四年にもなります。お館様の目には、変わりばえがしない鎌倉にも、また、たいへん変わった鎌倉にも見えるでしょう。今宵《こよい》はその変わり方を見ていただきましょう」
と誘った。
「好意はありがたいが疲れておる。今宵は早々に休もうと思う」
義貞は邪慳《じやけん》とも思われるほど冷たく刀屋三郎四郎の言葉をはねつけた。心の底に油断ならない奴という警戒心があったからである。四年前に、化粧坂《けわいざか》見世で起きた事件のことも、後になって考えると、刀屋三郎四郎がわざと仕組んだ芝居だと考えられないことはなかった。
(なんのために、この男は自分に近寄ってこようとするのか)
義貞の頭にその疑念が湧《わ》くと同時に、刀屋三郎四郎の顔もきびしくなった。彼はとても商人とは思えぬように鋭い目をあたりに配って、
「私は刀屋でございます。京都でも鎌倉でも、いささか名の通った刀屋でございます。商人ですから儲《もう》けることを主として考えています。但し、私が他の商人と違ったところは理不尽な儲けはしないということです。もし私が儲けるならば、私の仕事に関係なされるお方も儲けていただくことになります」
低いがはっきりした言葉だった。
「ここではくわしいことは申し上げられません。商談は密なるを要しますから。ゆっくりと胸襟《きようきん》を開いてお話ができるところへお誘いしているのです。これでもまだお疑いならもう少しはっきりと申し上げましょう」
刀屋三郎四郎は義貞の傍ににじり寄って低い声で言った。
「私は近い将来に戦乱が起こると考えています。特に理由はありません、言うならば商人の勘のようなものです。ただの戦争ではなく、大乱になれば、われ等刀屋は大いに刀を売って儲けねばなりません。しかし商売用のその刀がなければどうにもなりません。ここで私はお館様に刀の大量製造をおすすめしたいのです。新田庄の金山からは刀の芯《しん》に使う軟かい鉄が取れます。刀の皮鉄《かわがね》に使う玉鋼《たまがね》は出雲《いずも》や伯耆《ほうき》から取寄せることになりますが、そこから越後《えちご》までは舟、越後から山を越えて持ちこめば、新田庄で立派な刀ができることは間違いございません」
刀屋三郎四郎は熱をこめて言った。
刀屋三郎四郎はひととおりのことをしゃべった後で更にこまかいことについて相談したいから、今宵はぜひとも同道して貰いたいと義貞に言った。なにがなんでも連れ出さないでは置かないぞという顔だった。
義貞は誘いに負けた。実は、刀剣製作という話をもう少しくわしく聞いてみたかったからであった。
当時、刀剣の名工と言えば、伯耆、大和《やまと》、山城《やましろ》、備前《びぜん》、備中《びつちゆう》、美作《みまさか》、豊後《ぶんご》、肥後《ひご》、薩摩《さつま》の諸国のほか奥州にも散在していたが、関東では相模《さがみ》に新藤吾国光《しんとうごくにみつ》、行光《ゆきみつ》の二人がいるくらいのものだった。
上野《こうずけ》では名工と言われるような人はいなかったが、刀鍛冶《かたなかじ》はいた。刀屋三郎四郎の言うのは、いまさら名工を出すようにしろというのではなく、良い刀を量産しろと言っているのであった。義貞はそこに興味を持った。
義貞は刀屋三郎四郎と連れ立って鎌倉の夜の町へ出た。化粧坂へ行くかと思ったら方向は逆で、三郎四郎は義貞を、若宮大路の下下馬橋《しものげばはし》につれて行った。
「ここはひと昔前に栄えたところです。永仁《えいにん》元年(一二九三年)四月の大地震で焼け落ち、それ以後、化粧坂のほうが栄えるようになりましたが、つい最近再びこのあたりに明るい灯がともるようになりました」
三郎四郎はそう前置きして義貞を一軒の家に案内した。
「こういう家のことを色好宿《いろこのみやど》と申しております。文字通り色を売る店もありますが、色という意味を単に女色と解釈せず、色《しき》、すなわち、物という意味に使っているところもあります。ひらたく申し上げると、商人たちの談合の場所ということにもなるのでございます」
その家は小さな部屋が廻廊《かいろう》で接続されたような建て方だった。小部屋の一つ一つには灯がともり、女たちの笑い声が聞こえた。廻廊を吹きわたる涼しい風にふと足を止めると、音曲が流れて来て義貞を包んだ。はて何処《どこ》かで聞いたことがあるなと、その妙《たえ》なる音に聞き耳を立てていると、戸が開いて、派手な小袖を着た女が顔を出して、
「初音《はつね》でございます」
と笑いかけて来た。
義貞は四年前の化粧坂の夜のことを思い出した。
「少しも変わらないな」
と義貞は座るとすぐに言った。
「いえいえ、たいへんな変わりようでございます」
と女が言ったあとを受けて、
「初音がこの店を持ったのだからたいへんな変わりようでしょう」
と刀屋三郎四郎がつけ足した。
すぐ用意いたしますと言って初音が去った後に、ほとんど入れ違いのように、どこか名のある武家屋敷の家人でもあるかのような顔をした男が入って来た。
「相模の刀鍛冶新藤吾行光の子新藤吾|宗光《むねみつ》でございます。お見知り置きくださるように」
刀屋三郎四郎はそう言って、宗光を義貞に紹介した。新藤吾宗光は後の五郎入道正宗、日本一の刀鍛冶とうたわれるようになった人である。
新藤吾宗光は若くして刀鍛冶としての才能を認められていた。彼は各地を廻って日本刀の鍛錬法を学び、その知識を基にして伯父新藤吾国光の鍛錬法に新工夫を加えて、新しい刀を創り出していた。
「お館様、新田庄から心きいたる若者を五、六人連れて来て、この者の教えを受けさせれば、さきほど私が申し上げたことは、必ず実現できると信じています。いっさいのことは私がお膳立ていたします。ただここで一つだけお約束いただきたいことがございます。それは、後日新田庄から刀剣類が多量に産出されるようになった場合、その売り方はいっさいこの刀屋三郎四郎におまかせいただきたいのです」
三郎四郎は義貞の目をとらえたままで言った。
「それは、その時になってみなければ分らない」
義貞は毅然《きぜん》とした態度で言った。
新藤吾宗光は刀屋三郎四郎から既にこの話を聞いていたようであった。義貞が、そういうことができるかどうかを改めて宗光に訊くと、
「私は家伝とか秘伝とか称して、鍛錬法を隠し立てすることは好みません。私から学びたいと思うものがあれば、誰にでも、私の刀作りの方法を教えてさし上げましょう」
宗光はそう言って笑った。
話が終わったころを見計らって酒肴《しゆこう》が運ばれ、若い女たちが現われた。
義貞はすすめられるほどに盃《さかずき》を受けた。宗光は酒に強いらしくいくら飲んでも顔色を変えなかった。義貞にはその宗光が異様な存在に思われた。この男と同じような調子で飲んでいたら、やがて酔いつぶれてしまうだろうと思っていながら次第に酔いが深く廻って行った。
三郎四郎の顔や宗光の顔や初音の顔などが次々と前に現われて消えて行った。
まずいなと思った。こんなところで醜態を見せてはならないと思ったが、身体《からだ》の方が言うことをきかなかった。
まず、宗光の顔が消え、女たちの顔が次々と消えた。三郎四郎が不安気に見ている顔だけがそこにあった。
「だいぶお酔いになられましたから、明日のことにいたしましょうか」
と三郎四郎が誰かに言っている言葉が耳に入った。誰か別の男がそこに来たようだった。彼は目を開けよう、開けようと思いながら終に目を開けることができなかった。急に静かになった。なにもかも去って、ひとり海岸に置き去りにされたような気持ちだった。遠く波の音が聞こえていた。
彼はかなり眠ったような気がした。はっとして起き上がると、そこに初音がいた。波の音だと思ったのは、初音が手にしている扇を動かす音だった。
「帰らねばならない」
と義貞は言った。どうやら彼は初音と二人だけの部屋に移されたようだった。しかし、初音は、帰しませんよと笑いながら小袖の左腰に廻してある赤紐《あかひも》の結び目をほどいた。
一日置いて次の夜、義貞は供の者ひとりを連れて再び初音の見世を訪れた。一夜を共にした初音のことが忘れられなくなったからである。
「ちゃんとお約束どおり来てくださったわね」
と初音は言って、供の者を供待ちの部屋にとおし、義貞は廻廊を渡って奥の部屋に移った。この前とは違う部屋だった。庭に強そうな犬がいたのでそっちの方にちらっと目をそらしたとき、おや、お館さまではありませんかと声を掛けられた。刀屋三郎四郎である。まるで、義貞が来るのを待ち受けていたようであった。
「ちょうど、ここでお会いできてようございました。実は使いを出そうと思っていたところです」
どうしても会わせたい人がいるのだと三郎四郎は言った。
彼は義貞の手を取らんばかりにして誘った。けっして迷惑はかけませんとも言った。三郎四郎が会わせたいという相手は二人だった。一人は商人風の男であり、一人は武士であった。武士の方は義貞を見てほほえみながら、
「はじめてではございませんね」
と言った。
彼は隣家の諏訪左衛門尉入道時光の子の円忠であった。侍所に出仕していた。顔は見知っていたが言葉を交わしたのははじめてだった。
「父から新田庄殿のことはよくうけたまわっております」
と円忠は言った。旧知のような顔で、
「こちら様は……」
と商人風の男を指し、
「故あって、姓名の儀は申し上げられませんが、天皇近侍の方とだけ御記憶下され、ここでは朝屋さんとお名前を呼ばせていただくことにしております」
と円忠は言った。朝屋と言われる小男は、生粋《きつすい》の商人に見えた。心の中で、その男に衣冠束帯《いかんそくたい》を着せて見ても、天皇の近くにいる人とは考えられなかった。義貞は、円忠が冗談を言っているのだと思った。
「朝屋でございます。どうぞ今後とも、よろしく御交際のほどを願います」
朝屋はそう言って義貞の前に手をつき、まだまだ信じられない顔でいる義貞に、
「新田庄殿のお噂《うわさ》はかねがね聞いておりました。朝廷としてはいかなることがあろうとも、新田氏こそ、源氏の嫡流と認め、その由緒ある家柄に敬意を払っております。新田小太郎義貞という名をお聞きめされた主上(後醍醐天皇)は、源氏の嫡流になぜ官位を与えてないのかと、侍従の吉田定房殿に下問なされました。官位はすべて鎌倉殿からの申請があってはじめて与えられるものだということを充分知っておられる主上が、敢てその下問を為《な》されたことについて、あなたはどのようにお考えになられますかな」
言葉使いは商人らしかったが、内容が商人とは違っていた。だが、義貞は、ねずみのようによく動くその男の目を警戒していた。義貞は、すぐには質問に答えようとはせず、さっき部屋を出て行ったままの初音のことを考えていた。
朝屋と自称するその小男は義貞が彼の話に興を示さないと見ると、すぐ話題を変えて、京都の話をはじめた。日本中、歩いて見て、やはり女は京が一番だなどと前置きして、
「美人の標準は顔や姿だけできまるものではない。姿、かたちなら京よりも美人が揃っているところがたくさんある。例えば……」
と、土地の名を一つ二つと数え上げた。
「朝屋どのは美人の標準をどこに置いているのですか」
と三郎四郎が訊くと、
「においだよ、女のにおい」
と意外な返事をした。
「京都の水で磨いた女の肌は、他の地方と比較できないほど、つややかであり、その肌から発するにおいもまたおくゆかしい。傍へ寄っただけで京の女かどうかが分かる」
と言った。女の話になると、諏訪円忠も新田義貞も大いに興味を示し、京の女のよさについてさらにくわしく聞こうとすると、
「だが、京都の男は推薦できない。特に京都に長く住んで居る武士は骨抜きになっていて、いざというときものの役には立たない。何時《いつ》の時代でも同じことだが、やはり頼むべきは坂東武者である。主上もそのように申されておる。主上ならずともわが邦の歴史がそれを示している」
などと話が脇道にそれる。彼は雄弁だった。相手が自分の話に耳を傾けはじめたと思うと、次から次と耳新しい話をまくし立てる。時局についての話が多い。天皇から政治を任せられている幕府のやり方が悪いために、生ずる弊害について、その具体例を列挙しての痛烈な批判であった。特に得宗家一族の賄賂政策の実情については、聞いていて、ただあきれるばかりだった。
「北条氏は北条時頼までだった。元寇《げんこう》の役という大国難を切り抜けたのは鎌倉幕府の力であったが、それ以後がいけない。執権が無能だからである。能の無い執権の子はやはり父に似て役に立たない。また女好きの執権には女に目はあっても政治には目のない執権が生まれ出る。つまり、北条川という川の水が次第に濁って、ついには、終日《ひねもす》田楽に興じてその日を送るという暗愚な執権が出て来るのである。このあたりで、政治の川の流れを変えないかぎり、この邦は亡びてしまうかもしれない」
邦が亡びるとは思い切った言い方だった。驚いて彼の顔を見た義貞に、
「今、第二の元寇の役が起きたらわが邦はどうなると思いますか」
と質問した。
義貞は黙っていた。問題が大きすぎるなと思った。
「幕府は為す術《すべ》もなく、うろたえるばかりでしょう。そういう幕府の命令は誰も聞かないでしょう、だから団結して強敵を迎え討つことはできなくなり、わが邦は外敵のほしいままに料理されてしまうでしょう」
彼の弁舌はさわやかで、説得力を持っていた。思わず身を乗り出すようなこともあった。
義貞は何時の間にか、弁舌の虜《とりこ》になっていた。彼が話すことはすべて真実でいささかも間違ってはいないと思いながら聞いていた。彼の話の中にしばしば主上が現われた。彼が主上中心の政治ということばを口にすると、義貞はその主上の前にひれ伏している自分自身を見るような気持ちになるのである。
「諸国の主なる武将も、寺院や神社も天皇親政の新しい世の中に向かって、足音を立てないように静かに歩き出しているのですぞ。その止めようもない時代の流れに乗り遅れた者は生涯、その身もその家もこの世から見放されるでしょう。新田小太郎義貞で終わるか、将軍新田義貞になるかは、あなたの心の持ちよう次第です」
その言葉で義貞ははっとなった。それは、幼少のころ、祖父基氏がしばしば口にした言葉であった。その祖父と同じ言葉が第三者の朝屋と称する商人の口から出たから驚いたのである。気がついてみると、自分はもとより、刀屋三郎四郎も諏訪円忠も、朝屋の前に両手をつかえ、彼の話を聞いていたのであった。
(この男は妖術《ようじゆつ》を使うのだろうか)
義貞の頭にそのような不審の念が発したとき、彼は完全に自分の世界にもどっていた。義貞が居ずまいを正すと他の二人も、もとの通りの姿勢になった。
「この話はここだけのことにし、よくよくお心にとどめられ、他言はいっさい無用です。他言すれば、わざわいはあなた自身にふりかかるものとお考えください」
朝屋はそう言って話を終わった。三郎四郎が手を叩くと、廊下を人の近づく音がした。
「ずいぶんと長話だったこと、さぞかし大儲けの話でございましょう」
と初音が言った。女たちが酒や料理を運んで来た。
義貞は酒を飲みながら、一日置いて前の夜、酔いつぶれていたとき、枕元で刀屋三郎四郎と言葉を交わしていたのは、この朝屋だなと思った。
(容易ならぬ話だ。これこそまさしく謀叛《むほん》の勧誘ではないか)
将来はどうであれ、現在は幕府|傘下《さんか》の地方御家人に過ぎない自分の身を考えると、その話を聞いたということだけで不安だった。義貞は決して酒が旨《うま》いとは思わなかった。三郎四郎や諏訪円忠が平気で居られるのがむしろ不思議でさえあった。
帰りたかった。言葉の妖術を使う、男の前に長居は無用だった。
「疲れた御様子ですな、どうぞわれわれには遠慮なく、お気の召すままに……」
と朝屋は義貞に帰るようにすすめながらも、義貞が立とうとする耳元で、
「来年か再来年には多分京都でお目にかかれることになるでしょう」
と言った。義貞にはなんとも返事のしようがなかった。初音は義貞を別室へ案内した。そこには、めったに見たことのない、厚い茵《しとね》が敷き延べてあった。初音が笑顔で義貞の目に頷いていた。
義貞が新田庄に帰るとそこには多くの仕事が待っていた。大館宗氏と岩松政経との水争いは今のところ鳴りを静めているが、正式裁定の如何によっては再びもめごとになる恐れがあった。もめごとが起こってその裁きを鎌倉に持ちこんだ場合はたいへん金がかかる。金がかかっただけの結果が得られればいいが、必ずしも期待したとおりになるとは決まっていない。だが、賄賂を使わないと結果は不利を招くことは目に見えていた。義貞はそのことを船田義昌に、
「充分ぬかりなく」
と申しつけた。
「新しくもう一つ水源池を作ったほうが、安く上がるかもしれませぬ」
と義昌が言ったように、岩松に勝つには、かなりの出費がかかりそうだった。
「執事どうしの申し合わせをしてみたらどうか。もともと岩松は新田の一族、これ以上事を荒立てることはあるまい」
義貞は、船田義昌を鎌倉にやって、岩松政経の執事米沢小五郎と話し合いをするように命じた。
「そのついでに、心利いたる刀鍛冶五人ほどを鎌倉につれて行って貰いたい。できるだけ若い者がいい」
義貞はそこではじめて刀屋三郎四郎との約束ごとについて明らかにした。
「それはよいお考えです。隣の足利では織物が重要な産業になっています。新田の庄でも、米以外の産業があってもよいわけです。いままで農器具以外にこれといって他国に自慢できるようなものがなかったのがおかしかったのです」
義昌は新たに刀剣の製造を始めることについては賛成だったが、量産については、かなりこだわっているようだった。
「刀剣の需要が増えるということは戦乱の世になるということです。戦乱の世を見越しての刀剣の量産計画が幕府に知られたらただではすまないでしょう」
義貞はそれには答えず、
「そちは戦乱の世になると思うか、このままで、尚《なお》当分推移して行くと思うか」
と訊いた。
「近いうちに必ず、大きな変革が起こるように考えられますが、それが直接、戦乱につながるかどうかは分かりませぬ」
と答える義昌に義貞は言った。
「大きな変革があれば必ず武器は必要になる。例えば、わが新田庄だけの例を取っても、いま新しく千人の軍勢をそろえようとすれば、たちどころに千本の刀は必要となるだろう。その時になって騒いでも、すぐそれだけの刀を揃えることはできぬ。やはり、いざという場合のために、武具は蓄えて置かねばならないのだ。自衛の心積りで刀の製造を始めようと思う」
義貞は刀剣及び武具の製造を決意した。ほとんど、義貞の独断でこの件については基氏にさえ黙っていた。金山城番頭の篠原憲氏が呼ばれて、菅の沢のたたら場にいる腕のいい職人及び新田庄内で鍛冶屋をしている者の中から若くて将来性のある者、五人を選ぶように命じた。
「少なくとも三年は故郷へは帰れぬだろう。その心づもりで人選をせよ」
義貞はそう言った。
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岩松政経と大館宗氏との水争いについては、新田氏根本史料の中に正木文書として載せてある。問題になった岩松政経の所領であった「田嶋郷」は、現在の田島(上田島と下田島がある)付近であろう。また田嶋郷の用水池となっていた「一井郷沼水」というのは、地形から見て、現在の「市野井」あたりではなかったかと想像できる。市野井付近には今も湧水《わきみず》があって、池になっているところがある。渡良瀬川から導入した「新田用水堀」がこの近くの村田から分かれていたのと考え併せて、「一井郷沼水」というのは新田用水を引入れた貯水池ではなかったかと想像される。
もっとも、市野井の地名は、義貞が村田(現在の反町の館《やかた》)に移転したころから市が立つようになり、この地名が起こったとも言われている。しかし、この付近には、金井、小金井、上野井などの井がつく地名があって実際に井戸もあり、池や沼もあるのだから、一井郷は現在の市野井あたりと見てそれほどはずれてはいないように思われる。この水争いは元亨《げんこう》二年(一三二二年)十月二十七日付相模守平朝臣(北条高時)の花押のある文書によって結着がついた。以前の通りにせよという裁定である。
この公文書の中に新田|下野《しもつけ》太郎入道道定(政経)という名と新田二郎宗氏という名が出て来る。この時点で鎌倉幕府が岩松政経を新田下野太郎入道道定と呼んでいたのは、岩松氏を新田氏の一族と見ていたからであろう。大館宗氏を郷名苗字を取らず、新田二郎宗氏と新田姓で呼んだのは当然かもしれないが、当時、本家の新田義貞をしのぐ勢力を持ち、足利一門と見られていた岩松氏も、いざこのような正式な文書になると新田氏の分流と見做されていたのも面白い。
岩松氏は後足利高氏(尊氏)側について新田義貞を敵とするのであるが、岩松氏の中にも新田氏に味方をする者が出て来て、同族が二つに分かれる乱世特有の様相を示した。
岩松氏、大館氏、世良田《せらだ》氏、江田氏、堀口氏等の新田一族は新田庄の南部の利根川の近くにその館と領地を持っていた。
それぞれの地名は残っているが館の跡ははっきりしていない。ただ一つ江田館の跡だけは、きわめて明瞭に残されている。四方を高い土塁で囲まれ、外側には堀があったらしいが今はない。館跡は桑畑になり、土塁は篠竹《しのだけ》で覆われていた。
世良田氏の館跡は総持寺となっており、岩松地区にはこの地方の氏神の八幡宮があったが、今は無人である。新田一族は南朝側に立ったがために、ほとんど亡び去ったが、岩松氏は北朝側についたため生き残った。岩松氏によって八幡宮は保持された。
新田氏根本史料の中に長楽寺文書としてしばしば出て来る、新田氏一族の菩提寺の長楽寺は広い敷地を持った大きな寺だったが、訪れる人は少なく、境内は荒れ果てた感じだった。足利氏の菩提寺、足利市の鑁阿寺《ばんあじ》の賑《にぎわ》いぶりを見て来た私の目には、この二つの古寺が、足利氏と新田氏の最後を象徴しているかのように映った。
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天狗田楽《てんぐでんがく》
元亨三年(一三二三年)五月の中ごろ、鎌倉に大地震が発生した。鎌倉時代を通じて、この地方には地震が多く、建保《けんぽう》元年(一二一三年)、仁治《にんじ》二年(一二四一年)の大地震を始めとして、数回の大地震があったが永仁《えいにん》元年(一二九三年)の大地震以来、しばらく鳴りをひそめていた。その鎌倉に三十年ぶりで大地震があったのだから、騒ぎはたいへんなものだった。
地震が起きたのが夜半を過ぎたころであり、五月という季節でもあったので、火を使っているところは少なく、地震発生に伴う出火はなかったが、老朽家屋は倒れ、石垣が崩れるなどの被害の他《ほか》に、土砂くずれのために民家が埋没するという被害が続出した。
地震発生とともに海岸近くの住民は、持てるだけの物を持って山手方面へ逃げた。津波による被害を恐れたからだった。仁治二年の大地震の際、津波がおしよせて、由比《ゆい》ヶ浜《はま》近くの八幡宮の拝殿をそっくりさらって行った話や、その際津波にさらわれて死んだ人は数が知れないほど多かったなどという話が語り伝えられていた。
(とにかく大地震があったら、海岸近くに住んでいる者は山手に逃げることだ)
というのが津波のおそれのある地区に住んでいる人々の共通した考えだった。
一度に、二万、三万という人が狭い道を山手に向かって逃げようとするのだから、その混乱はたいへんなものだった。
海岸近くの家々から人々が山手方面に逃げ出した後には、どこからともなく浮浪者が現われて空屋に入りこみ、手に手に物を奪って逃げた。
十万近い鎌倉の人口のうち一割近い人間は全国から集まって来た浮浪者や乞食《こじき》の群れであった。
苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》に耐え切れなくなって逃げ出した者や、鎌倉へ行けばなんとか食って行けると聞いて故郷を捨てて来たような者ばかりだった。多くは橋の下や、町はずれに掘立て小屋を建てて住んでいた。地震だと気付いた瞬間、彼等は逃げるよりもまず掠奪《りやくだつ》を考えた。そうするように彼等に教えていた者がいた。彼等にしてみれば津波なんか怖くはなかった。死んでもともと、生きて帰れば儲けものとばかりに、それぞれ親分に率いられて空屋となった家を目掛けてなだれこんで行ったのである。彼等は手当たり次第に物をかっぱらった。気が狂ったけもののようにあちこちを荒らしまわった。混乱の中にも指揮者があり、組織があった。
こういう場合の治安維持を目的として置かれた鎌倉大番役も、官衙《かんが》や、幕府要職者の屋敷の警護が手いっぱいで、住民の保護にまでは手が廻らなかった。
地震があってから、半|刻《とき》(一時間)ほど過ぎ、おそるおそる家へ帰り、賊に荒らされた跡を見て、津波より大きな被害を受けたと訴え出る住民が多かったが、その実情を調べようとする役人もなかった。
なにしろ夜のことだった。混乱にまぎれて盗みを働く賊と自衛のために武器を持った住民との戦いが各所で起こり、多くの人が死んだ。鎌倉の治安は完全に乱れて、夜が明けても、まだまだ各所に賊と住民との争いが続いていた。
鎌倉に大地震が起きたという報は、矢島五郎丸によって、地震があった日の午後新田庄に知らされた。従来は鎌倉の新田屋敷には鎌倉大番役でもない限り、留守番しかいなかったが、義貞の代になってからは、船田義昌の進言によって、心利いたる武士二、三名を常時留守居役として駐在させることにしていた。
〈鎌倉はなんといっても、政治の中心地です。鎌倉幕府に勤仕する御家人としては、ちゃんとした留守居役を置いて、いざという場合の御用の向きを国元に知らせるのは当然のことです〉
義昌は留守居役を置く理由として、ごくありふれたことを口にしたが、義貞には義昌がそれ以上なにを言いたいのかよく分かっていた。義昌は、鎌倉に留守居役を置いて幕府内の情報をできるかぎり集めさせようという魂胆であった。世の中が、大きく動こうとしている兆候は各地に起きていた。こういう際だから、幕府上層部の動きや、鎌倉そのものの動きも、じっと見守らねば時代に取り残される。その手はじめとして矢島五郎丸を留守居役として置いたのである。五郎丸は、月に二度は必ず新田庄に留守中報告として、種々様々なできごとを知らせて来た。
新しく無尽座《むじんざ》が設けられたことも、この月の最大の情報であった。御家人のなんのなにがしが鎌倉に出て来たとか、朝廷よりの使者について知らせて来たり、その接待には誰が当たったなどということもいちいち報告されていた。
矢島五郎丸は夜半地震が発生してから一刻後にはおおよその地震の被害状況と市内の混乱を調べて、書状にしたため、新田庄に向けて早馬を立てた。伝騎として選ばれたのは、樋口弥太郎であった。義貞が元服して間も無く里見に行ったとき、里見二十五騎を改めて認定した時の一人であった。弥太郎は馬術に長じていた。非常の場合の騎手として用意されていたのである。樋口弥太郎は、鎌倉から新田庄までの三十里(一二〇キロ)を、駈け通した。途中で三回馬を換えたが、地震が発生した日の昼ごろには新田庄に着いていた。
「その後はどうなっておろうか」
義貞は書状を読み終わると、樋口弥太郎に聞いた。
「おそらく、今も尚混乱が続いているでしょう。鎌倉が平静を取りもどすのは明日になってからだと存じます」
弥太郎は思ったとおりのことを述べた。義貞は大きく頷くと、義昌に向かって、
「出向くべきか、このままだまっていたほうがよいか」
と訊いた。
「即刻、御出発なされませ、今出発すれば明日中には、鎌倉殿の御前にまかり出ることができるでしょう」
と義昌が言った。なぜそうしなければならないかは、いちいち説明しなかったが、義昌の心は義貞によく分かっていた。
(こういう時こそ、幕府に顔を売り、信用を得ることですよ、お館様)
義昌が心の中でそう言っているのがよく分かった。
「馬の数は?」
「あまり多いのはよくありません、さりとて少なくては|ばか《ヽヽ》にされます。三十騎を選びましょう」
義昌は既に立ち上がっていた。
義貞は準備を整えると祖父の基氏のところへ挨拶に行った。
基氏は新館ができて以来、身体の具合が悪く、ふせり勝ちだった。義貞が新田氏再興を期待できそうな後継者となり、館もでき上がったので、ほっと一安心したのであろう。それに高齢であることもあって、ひとたび床につくとなかなか起き上がれなかった。中風気味だったので言葉がいくらかもつれていたが、言葉を選んでゆっくり話せば、聞き取れないようなことはなかった。基氏は低い声でゆっくりと、
「義貞、このたび鎌倉へ行ったら、大地震が起きたすぐその後に、なにが、どのようにして起こり、どうなったかをよく見て来ることだ。将来、鎌倉殿とことをかまえるようなときには必ずや、このたびのことが参考になるだろう」
と言った。
(祖父の頭の中にあるものは、鎌倉から北条氏を追い払って、天下を源氏の手におさめ、新田氏がその統領となることだけだ)
と義貞は思った。それが基氏の理想であって、それに向かって、いささかなりとも近づこうとして生き続けて来た彼の生涯が哀れに思えてならなかった。
「必ず、御教えのとおりにして参ります」
と素直に答える義貞に基氏は更にもう一つの注文をつけた。
「義助を連れて行け。義助も、もう二十一歳だ。立派な武士として一家を為している。将来は義貞の片腕となって働く大将となるべき器も充分に備えている。義助に鎌倉を充分に見せてやらねばならぬ」
それは基氏の命令でもあった。
義貞は自分の代理として弟の脇屋義助を館に残して置こうと思っていたが、考えてみると、祖父基氏の言うとおり義助に世間を見させるためには、ことあるごとに連れ出してやらねばならないし、そうすることが新田一族のためだとも思った。義貞は義助に鎌倉行きの仕度をすぐするように命じた。
兄弟が揃《そろ》ったところで、出立《しゆつたつ》の挨拶に基氏のところへ行くと、基氏は家臣のかい添いで床の上に座り直して言った。
「兄弟仲よくせよ。兄弟が仲よくすれば一族もまた仲よくまとまるだろう。源氏の歴史をひもどくと、興る過程では兄弟一族が力を合わせるが、すぐ兄弟|喧嘩《げんか》をして、それがもとで亡びて行く。そうあってはならない。兄弟が信じ合いさえすれば一族の分裂などあり得ないことだ。よいかな、力を合わせて、北条に当たり、北条を亡ぼしたら、足利を討って、源氏嫡流の新田氏の天下を築くのだ。よいか、よい……」
よいか分かったかと言おうとしたとき、基氏の言葉が途切れた。兄弟は大声で人を呼んだ。このまま祖父を死なせてはならないと思った。基氏は目を閉じたままだった。
駈けつけた医師は安静にして置く以外に手はないと繰り返すだけだった。義貞、義助は祖父基氏に心を残して新田庄を出たが、この時、基氏が残した言葉が兄弟に対する事実上の遺言となった。それからの基氏はただ生きているだけの身となった。ものも言えないし、手が震えて字も書けなかった。基氏が死んだのは翌年のことである。
義貞は三十騎を率いて新田庄を出発した。一騎に対して、数人の徒《かち》の郎党が従うのが当たり前だったが、緊急の出向だから、徒の郎党は後から来るように言い残して、三十騎が一団となって鎌倉目ざして駈けのぼって行った。夜になっても走り続けた。明け方になって、一刻ほど休み、また走った。そして地震があった翌日の夕刻には鎌倉に到着した。
義貞等より先に樋口弥太郎が新田屋敷に馳《は》せ帰って、このことを報告したから矢島五郎丸が途中まで出迎えた。
義貞は率いて来た郎党たちを新田屋敷に止め置いて、一族の江田三郎行家と執事の船田義昌の二人を伴って侍所に出頭して、
「新田義貞、鎌倉に大地震ありと聞き、三十騎を率いて、警護のためただいま参上いたしました」
と申し出た。侍所には、このように隣国から馳せつけて来る御家人たちの名前や人数を書き留めるために臨時の記帳所ができていた。
「御苦労であった。どうぞ奥へ」
と言われた義貞は指示されたように奥庭に廻った。そこには一段と高い座が設けられ、内管領長崎|高資《たかすけ》が座り、その周囲には幕府の要職にある者が居並んでいた。北条高時の姿は見えなかった。
既に近隣の御家人が馳せ参じて到着順に控えていた。
「新田義貞殿」
と長崎高資の側近の者が義貞の来着を大声で知らせた。記帳所から名前を書いた札が、いちいち奥へ伝達されていたのである。
「おお、小太郎義貞か。遠方より、よくも早々に駈けつけてくれたものよ。その忠誠心、まこと天晴《あつぱ》れ、讃《ほ》めてつかわすぞ」
長崎高資が言った。義貞は満座の中で面目をほどこして、その場を下り、御家人たちの溜《たま》り場に並んだ。一刻も早くと馳けつけて来たが、別に仕事はないらしかった。内管領の長崎高資は、出頭順位競争でも眺めるようなつもりでじっとしているだけであった。
義貞は疲労と眠けが出て、それを押えるのがたいへんだった。
義貞の弟の脇屋義助は一門の大館宗氏と里見|義胤《よしたね》の二人を連れて足利屋敷に見舞い参上のためおもむいていた。義貞の命令というよりも、是非そうすべきであるという義昌の意見に従ったのである。案内役は矢島五郎丸だった。
「新田庄より、新田義貞の弟、脇屋義助お見舞い参上いたしました」
と言うと、そのまま大広間に通された。そこには近隣の源氏の諸将が並んで座っていた。
「義貞殿の弟の義助か、よく来てくれたな、早かったのう。足利からはまだ誰も来ないのに、新田庄からはもう見舞いに参られた。さあさあ、疲れたであろう、ゆるりとなさるがよい」
そう言ったのは足利高氏(後の尊氏)であった。父足利貞氏が非常に当たっての幕営勤仕中だから、高氏が父にかわって、見舞い客の相手をしていたのである。
義助は高いところから自分を見おろしている高氏の顔を見返した。女のように色の白い男だなと思った。鎌倉に大変事が起きたから、おっ取り刀で夜を日についで駈けつけた武士に対しては当然武士らしい服装で迎えるべきだ。
(それなのになんだこのなりは、まるで公家《くげ》かなんぞのような恰好をして、これでよくも源氏の統領家の後嗣ぎだなどと言えたものだ)
と思いながら見上げる義助の眼光のきびしさを受止めた高氏は、それまでねむいように細めていた目を開けて、
「これ義助、なんぞ申したいことがありそうだな。許す。言ってみるがよいぞ」
と言った。よく遠いところから来たなと讃めたときの言葉とは違った重さがあった。
「さればでございます」
なにか言えと言われた以上黙ったままで居るわけには行かなくなった義助はまずそう答えて、次に言うべき言葉を考えた。背後から、大館宗氏がそっと義助の鎧《よろい》の袖を引いた。
(お言葉にお気をつけなされよ)
という警告であった。義助は宗氏のその思いやりがかえって|おせっかい《ヽヽヽヽヽ》に感じられた。
「新田庄から駈け続けて参りましたので腹が減ってたまりませぬ、湯づけでも一椀頂戴つかまつりとうございます」
高氏はびっくりした。高氏ばかりではなく、そこにいるすべての人々が驚いた。こともあろうに、足利氏の後嗣ぎに向かって、湯づけを出せとは、想像もつかないことであった。しかし、その一言によって緊張はほぐれた。
高氏が大声で笑い出すと、そこにいる武将たちも、義助に随行して来た大館宗氏や里見義胤もまた笑った。真面目な顔をしているのは義助ひとりだった。
「いや、これは気がつかなかった。誰か、義助等に膳の用意をせよ」
と高氏が言った。新田の庄の者にとか、新田の衆にとか、或《あるい》は客人に食膳をと言うなら我慢できるが、義助等と名前を呼び捨てにされたので、義助のおさまりかけていた気持ちがまたぴんと張った。
(なんだ若造め、官位をよいことにして、だまって聞いていると、さっきからずっとおれの名を呼び捨てにしている。けしからぬ)
義助は高氏より三つ年上であった。義助の兄の義貞と高氏は五つ違いである。五つも違うと、そこに年齢の差による考え方の相違がはっきりでるが、三つ違いだと、同年に近い意識が働くものである。しかも義助の心の底には、新田一族に共通した、われらこそ、源氏嫡流であるという誇りがあった。それが、義助の反発感情を煽《あお》り立てようとしていた。義助がなにか言おうとした。里見義胤が、
「おそれながら、治部《じぶ》の大輔《たいふ》様に里見義胤より申し上げます」
と言って、義助の言葉をさえ切った。
随行者としての咄嗟《とつさ》の処置であった。
「里見義胤か、なんなりと言ってみるがよい」
高氏は義助から義胤に目を移した。
高氏は機嫌がよかった。新田庄からやって来た三人の田舎者の前で、大いにいいところを見せてやろうとしているふうであった。
「お膳は別室にていただきとうございます。この場では、みなさま方に対して失礼と存じますゆえ、なにとぞそのように……」
と言いかけると高氏は、おおそうかと気軽に立ち上がり、こちらに参られよと三人の先に立って、廻廊《かいろう》を渡り、一室に案内すると、自ら上座に座って言った。
「義貞殿は元気かな、そうそう義貞殿が初めて来られたとき、通されたのもこの部屋だった。義助、これからも、ちょいちょい来るがよい。もともと足利と新田は源氏の別れだ。言わば兄弟のようなものだからな」
高氏は笑った。ずっと昂奮《こうふん》ぎみであった義助はその言葉でいくらか落着いた。彼は次々と食膳を運んで来る女たちに目をやった。どれもこれも美しい女だなと思った。
「義助殿はひどく女子《おなご》に興味があるとみえる」
高氏は、今度は義助殿と言った。呼び捨てならば呼び捨てでもかまわないが、呼び捨てにしたり、しなかったりでは、なにかからかわれているようで、義助には不愉快だった。
「男であるから女子には関心があります」
義助はあたり前のことをなんだという顔ではね返すと、高氏は|へらへら《ヽヽヽヽ》と薄笑いを浮かべて、
「それに、鎌倉の女は滅法《めつぽう》美しいから、見とれるのは無理ないことよ、もしこの屋敷で目に止まった女があらば召し連れて帰ってもかまわぬぞ」
大きく出たなと義助は思った。それではこの女を下さいと言ったら、なんだかだと言って、まずよこすことはあるまい。それを是非にと言えば交換条件として、なにかを要求されるだろう。武家どうしの間で起こったそういう話を義助は数多く聞き知っていた。
「いえいえ、拙者が美しいと眺めていたのはほんとうは女子ではなく、女子の着ている着物です。このごろ鎌倉には、京都でも見られぬような派手な女の着物が売られていると聞いていましたが、今ここで目の当たりそれを見せられて感心したところです」
それを聞くと高氏は、
「あれがか、あの着物がか?」
と言って、女のように、ほっほっほと笑った。
「あんな着物は着物の中には入らぬわ。まったくのふだん着だ。しかし、無理はない。草深い新田庄から出て来て見れば、襤褸《らんる》も錦に見えるであろう」
高氏はそう言うと、ぷいと立上がって、
「充分に食べるがよい」
と言い残して立ち去った。
「おのれ、高氏」
義助は怒りを押えつけながらつぶやいた。左右から大館宗氏と里見義胤が、義助をなだめた。
「我慢なされませ。お家のためこらえて下さいませ」
宗氏と義胤に交互にそれを言われると義助の怒りもあきらめに変わって行った。三人は黙って食事をした。貝の吸い物、魚の煮つけが旨《うま》かった。新田庄での食事とは格段の相違があると思いながらも、三人はそこはかとない淋しさに包まれていた。
義貞等にはしばらくの間、鎌倉周辺の警備が命ぜられた。幕府としても、折角出て来たのだから、すぐ帰れとは言いにくかったのである。義貞義助兄弟にとっては、それこそ願ってもない機会であった。兄弟は、新田庄を出るとき、祖父基氏に言われたことを身にしみて覚えていた。兄弟は矢島五郎丸の案内で連日のように出歩いた。
「津波を恐れて山手へ逃げた住民街に、津波のかわりになだれこんで掠奪《りやくだつ》をほしいままにした者たちの追捕が連日なされていますが、さっぱりその効果は上がっていません」
と五郎丸は説明した。大地震のどさくさに奪われた品物のほとんどは一夜のうちに遠くへ運び去られ、どこかに隠されてしまって、ほとんど発見されなかった。見つかって斬られたのは、こそどろの類であった。地震の夜、多数の野盗を指揮して品物を奪い、車に積んで立去った賊の大将とおぼしき男の所在は全くつかめなかった。
「彼等野盗は、まるで大地震が来るのを予《あらかじ》め知っていたかのような、用意周到な振舞いをしました。三十人から五十人ほどが一団となり、それぞれの集団に頭がつき、その頭をその上の頭が指揮するというやり方でした。野盗といいながら、合戦に馴れた者の仕業のように思えてなりませんでした」
さらに矢島五郎丸は、鎌倉内に住んでいる浮浪者を組織し、鎌倉外にいてこれを操っている者が居ることは確実だと言った。
「火が出なかったからよいものの、もし火が出たら防ぎようがありません。そうなったら、逃げまどう住民のために、鎌倉の道のすべてはふさがれ、軍兵を動かすなどということは全く不可能になるでしょう。幕府の官衙街も火に包まれたら、どうしようもありません。想像しただけで恐ろしいことです」
と五郎丸は言った。
橋の下や海岸には死人がごろごろしていた。おびただしい数だった。大地震の夜に倒れた家の下敷きになった者、逃げる際高いところから落ちたり、踏みつぶされて死んだ老幼の者などの他、多くは、真夜中の混乱の際、各所で起こった争乱で殺された者であった。
時宗《じしゆう》の僧が死体の取り片づけをしていた。死者の額には「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」の名号が墨で書かれ、大きな穴を掘って埋められていた。
「時宗の僧たちを集めたのは幕府か」
と義貞は五郎丸に訊《き》いた。
「いえ、そうではございません、藤沢の時宗|遊行寺《ゆぎようじ》の僧が率先してやっているのです」
「いったい幕府はこの大地震に際してなにをやったのだ」
「なにもやってはおりません。いえ、大地震のための見舞い金を諸方の御家人に割当てる作業が、地震があった当日から始められていると聞いております」
義貞と義助はその話を聞いて顔を見合わせた。鎌倉幕府もいよいよ末になったなと思った。
「この鎌倉にもし三千の敵が攻めこんだらどうなるだろう」
義貞は義助に言った。その答えは語り合わずとも、それぞれの心に出来ていた。
義貞は帰郷するに当たって、朝谷太郎義秋、朝谷二郎正義の兄弟と里見二十五騎の一人中曽根次郎三郎を呼んで言った。
「そちら三人は尚も鎌倉に居残って、このたびの大地震の際、浮浪者の群れを指揮して掠奪を働いた者の身もとを明らかにせよ。そうするには時間もかかるだろうし、なにかと物入りに気を配らねばならないだろう。そのことについては鎌倉留守居役の矢島五郎丸に相談するように。それから、三人は三人とも新田の郎党であることを隠して行動するのだ、分かったな」
義貞は三人に意をふくめた。朝谷兄弟は、新しい仕事を与えられた瞬間、その目的をさとっていた。いざという時、浮浪者部隊を味方につけようとしているのだなと推察した。筑波《つくば》の悪党と言われていたころから、朝谷兄弟は下情に通じていたのである。
中曽根次郎三郎もその命を受けたとき、その目的を察知していた。彼は朝谷兄弟とは別な立場から、この仕事をしなければならないことをよく心得ていた。里見二十五騎は義貞の側近、言わば旗本であった。その彼が朝谷兄弟と共に仕事をするということは、三人の中のまとめ役でもあり目付役でもあった。朝谷兄弟もそのことを充分承知していた。
三人は新しい仕事の命令を受けたその日から、浮浪者や乞食《こじき》に姿を変えて、鎌倉の市中を彷徨《ほうこう》した。浮浪者の首領を探し出すには、まず自らが浮浪者となって、相手を信用させねばならなかった。
三人は別々の橋の下で寝た。そして、しばしば、会合場所を決めて情報を交換し合った。一カ月ほど経って、三人はそれぞれ浮浪者の仲間に溶けこんだ。更に二カ月経った。浮浪者の中の組織の内容をおぼろげながら掴《つか》むことができた。浮浪者は多くの集団に分かれていて、それぞれに小頭《こがしら》がいた。三人はそれぞれの小頭に、贈り物をして近づいていった。そこまでは、なんとかして行けたけれど、それから上の組織がどうなっているかは分からなかった。
三人が浮浪者の群れに潜行してから、六カ月目の十一月の初めになって、浮浪者の小頭、播磨《はりま》の駒丸《こままる》が義秋を呼んで言った。
「われわれ仲間はお互いに前歴を訊《たず》ねてはならない掟《おきて》になっている。だから、お前が以前になにをしていたかなどということは訊ねないことにする。ただおれの眼には、お前が腕の立つ奴だということが分かっている。それで頼みたいのだが、お前ほどの腕の立つ者を三人ほど集めてはくれないか。はっきりしたことはまだ言えぬが、どえらいお人にいっぱい食わせる仕事だ」
「いっぱい食わせる仕事? さて……」
と義秋が考えこむと、
「そうだ鼻を明かしてやることだ。盗むとか斬るとかいうのではなく、相手をびっくりさせてやるだけのことだ」
播磨の駒丸はそう言って笑った。
「どえらいお方というのは?」
と義秋が不審そうな目をして訊くと、
「そのとおり、うんと偉い人のことさ」
駒丸はえらい人、えらい人と繰り返した。
朝谷義秋はその仕事がなんであるか皆目分からなかったが、浮浪者集団の深部に入りこむのにはよい機会だと思ったから、実は私の実弟とその友人がこの鎌倉に居ますが、二人とも腕が立ち、馬術にも秀《ひい》でていますと答えた。
「お前たち三人のことはうすうす知っていた。或は幕府の廻し者かとも思って警戒していたがそうでもなさそうだ。いずれお前たちの素性はばれるだろうが、それもこれも今度の仕事が終わってからのことだ」
駒丸は言った。
義秋は弟の正義と中曽根次郎三郎を連れてその翌日に駒丸と会った。
駒丸は義秋、正義、次郎三郎の三人を前に置いて、しばらく考えていたが、ようやく決心がついたらしく、
「明日の朝、卯《う》の刻(午前六時)までにそれぞれ馬に乗って逗子《ずし》の浜辺に出て来てくれ」
と言った。なにをするのか、どこへ行くのか、服装はどのようにするか、いっさい口にしなかった。
駒丸は浮浪者の噂《うわさ》によると、もともと、人さらいをしていた男だということだった。
「どえらい人をさらって来いというのではあるまいのう」
と正義が言った。
「案外、そんなところではないかと考えている。どっちにしてもおれたちの馬術が役に立つ仕事であろう」
次郎三郎が言った。
三人はそこで明日の朝の服装について相談した。浮浪者が馬に乗って歩くことはまず考えられないことだ。馬に乗って来いということは、彼等三人が浮浪者ではないことを見破られたことになる。
三人は小ざっぱりした小袖に裾をくくった四幅袴《よのばかま》をつけて行こうと約束した。
「とにかく、このことは矢島五郎丸殿に伝えて置かねばならないだろう」
次郎三郎は、その夜ひそかに矢島五郎丸に会ってこのことを話し、馬三頭の準備を依頼した。駄馬では用が足りなかった。乗馬としてちゃんと仕込んだ馬でないと、いざというときに役には立たなかった。
次郎三郎と五郎丸は馬を何時何処《いつどこ》で引き渡すかを約束した。
「心して行きなされ、そしてなにがあっても、お館《やかた》様の名は出してはならない」
五郎丸は別れるときそのように注意した。
翌日のまだ薄暗いころ、義秋と正義、次郎三郎の三人はそれぞれ馬を引いて逗子の浜へおもむいた。途中鎌倉大番組の者に見とがめられたら、馬盗人《うまぬすびと》ではないことを証明するために、新田屋敷で貰った博労《ばくろう》の鑑札まで用意していた。
逗子の浜には既に駒丸が来ていた。駒丸より一丁ほど離れた向こうに五騎がひとかたまりになって海に向かって並んでいた。次郎三郎はその五騎を見て、服装こそ町人ではあるが、それぞれが乗馬に心得のある武士だなと思った。姿勢がしゃんとしていた。
「来たな」
と駒丸は三人を見て笑った。それが次郎三郎には油断ならない笑いに見えた。
「相手は五騎だ。五騎のうち、中央に赤い萎烏帽子《なええぼし》をかぶっている男がいるだろう。お前たち三騎はあの五騎に向かって行って、赤い萎烏帽子の男を馬ごと奪い取って来てくれ、得物はこれだ」
駒丸は樫《かし》の棒を一本ずつ三人に渡した。
三人がその棒を持って馬に乗ると、相手の五人もまた鞍《くら》にくくりつけてあった棒を取った。
「あいつはおれが馬ごと奪ってやる。義秋と正義はあとの四人を追い払ってくれ」
中曽根次郎三郎が言った。三人の中では次郎三郎が一番年は若かったが、義貞の幼な友達であり、側近の旗本であった。このような場合に主導権を取るのは当然だった。朝谷兄弟に不服があろう筈はなかった。
分担が決まると三人は五騎に向かって真しぐらに突進した。三人が動き出すと、五騎は直ぐ守備態勢をかため、赤い萎烏帽子の男を四騎が囲んだ。馬首を外側に向けて、どこからでもかかって来いという姿勢だった。
次郎三郎を先頭に義秋、正義の順序で突込んで行った三人は、まず相手の形勢でも見ようとするかのごとく、五騎の周辺をぐるぐると廻り出した。
直接かかって来ると思っていた三騎が、そうはせずに周囲を廻り出したので守備の方は予想を裏切られた。守備に立った四騎は、たぶん隙を窺《うかが》って駈けこんで来るだろう三騎を目で追った。駈け廻る三騎の速度が増すと、それを目で追う五騎は次第に焦燥にかられて行った。相手がぐるぐる廻ると、こっちの目もぐるぐる廻る。たまらなくなった一騎が、守備陣から出て、義秋に打ちかかろうとした。その機会を義秋の後にいた正義は見事にとらえた。彼は、守備の輪から出た馬の尻を樫の棒でしたたかなぐりつけた。打たれた馬は暴走した。隙ができた守備陣の中に次郎三郎が乗り込んで行って、棒を振った。続いて義秋が突込み、正義が突入した。守備陣にいた二頭が次々と暴走して離れ、一頭は棒立ちになって騎手をふり落とした。
次郎三郎は、赤い萎烏帽子の男と樫棒で数回打ち合っただけで、相手の棒を打ち落とした。そして組み討ちに出て来た相手をなんなく取りおさえると、両手を縛って馬に乗せ、その馬の手綱の端を、自分の鞍の端につけた。それまでの間に、義秋と正義は他の四人をほとんど追い払っていた。
「見事なものだ」
と駒丸は三人を讃めた。
「これだけの馬術ができるのだから、お前たちはそれぞれ名のある武士であろう。しかし、今のところ姓名は聞くまい。その男と馬を解き放して、おれについて来るがいい」
駒丸は三人を連れて海とは反対側の丘陵地帯に入って行った。木々の葉の多くは落ちて冬のたたずまいをととのえていた。山茶花《さざんか》が咲き揃っている丘を一つ越えると、小鳥の声がした。そこに水場があった。このあたりではめったに見掛けないような立派な屋敷があった。駒丸は、三人をそこに止めて、屋敷の門をくぐって行った。
播磨の駒丸は数人の屈強な若者と共に間も無く引返して来て三人に言った。
「逗子の常清《つねきよ》殿のお屋敷だ。心してまいれ」
駒丸の言葉が武士の言葉に変わっていた。言葉使いが変わると、人間まで違ったように見えるのが不思議だった。屋敷から出て来た若者たちは三人にきちんと挨拶してから、馬をおあずかりいたしますと言った。若者たちの仕草も名のある者の郎党として仕えた経験のある者に見えた。三人は駒丸の後から黙ってついて行った。履物を脱ぎ、足を拭って控えの間に通されてしばらくすると、咳払《せきばら》いの声がした。
駒丸が居ずまいを正したから、三人もまた姿勢を正して、おそらくこの家の主人と思われる人を迎えた。両手をつくと、よく磨きこんだ床板に自分の顔が映るような気がした。
(人手の多い家だな)
と中曽根次郎三郎は思った。
「名はなんという」
澄んだ声に次郎三郎が顔を上げると白髪に烏帽子をいただき直垂《ひたたれ》を着た男が目の前に座っていた。
「はっ、次郎丸にございます」
次郎三郎は答えると、すぐ隣にいる義秋に合図した。義秋が、秋丸と答え、続いて正義が義丸と答えた。
「そち等は、馬にかけてはなかなかの達人とのこと、たのもしく思うぞ。仔細《しさい》は駒丸に申しつけてあるゆえ、ぬかりなく仕事を相つとめるように」
老人はそれだけ言うと、物音も立てずに、すうっと消えた。
席がかわり、食膳が運ばれた。酒も用意されていた。なまめかしい声を聞いたと同時に、着飾った女が出て来て三人の接待に当たった。
三人は顔を見合わせたが、いまさら逃げるわけにも行かなかった。なぜ、女や酒食まで出して饗応《きようおう》してくれるかは分からなかった。朝から酒食を出すということは、夜まで飲みかつ食べ続けよということであった。それだけ優遇されるには、それ相当な裏がなければならない。
(さて、奴等はいったいなにをおれたちに求めているのであろうか)
三人は三人とも同じようなことを考えていた。酔える筈がなかった。何時の間にか駒丸は消え、そこには、女が三人、男が三人になっていた。
「この家の主人はどなたかな」
次郎三郎がすっとぼけて前の女に訊くと、
「あら、御存知の癖に、御主人様は逗子常清様でございます」
「常清様は分かっている。別の名はなんと申すのだ。それ、つまり通称はなんと呼んでいるかと訊ねているのだ」
「逗子常清様が通称であって、正しくは源常清様、私達は判官様とも呼んでいます」
女が答えた。
「その判官様がなぜこのようなところにおられるのだ」
「あら、だって昔からこのお館に住んでおられたのよ」
女たちは声を上げて笑った。
酔うまい酔わされまいとしていても、酒の量にはかなわなかった。女に介抱されながら別室に移されたところまでは三人とも覚えていたが後は眠りこんでしまった。三人が目を醒《さ》ましたときには夜更けだった。時間の経過も分からないし、どこに居るのかも分からなかった。ひどく静かなのが気になった。
「水が飲みたい」
と次郎三郎が言うと、義秋も正義も咽喉《のど》の渇きをおぼえた。三人が水を探しに行こうと話し合っていると戸が開いた。
「すぐ出発だ。その前に粥《かゆ》など食べて腹を作るがいい」
と駒丸の太い声がした。三人は台所に案内された。老人が一人炉の端に座って、鍋《なべ》の中の粥をかきまわしていた。
「この夜更けにどこへ行くのですか」
と次郎三郎が訊くと、駒丸はばかめと言った。
「夜が明けぬ前に藤沢まで行かねばならぬのだ」
と言った。なにがなんだか分からぬが、とにかく藤沢で大仕事が待っていることだけは確かだった。
三人は粥を食べた。きのう酒席にはべった女たちは何処へ行ったやら、そのことが気になったが口に出せなかった。
三人が馬に乗って逗子常清の家を後にすると、きのう三人と戦った五人の男が、きのうと同じような小袖に四幅袴《よのばかま》姿でそれぞれ馬に乗って彼等の後をついて来た。
駒丸はときどき振り返って一行の動きに目はやるけれど、ひとことも口をきかなかった。隠密行動であることは歴然としていたが、さて、なんのためにそんなことをするかは分からなかった。
武器は誰も持っていなかった。
夜が白々と明けるころ、一行は藤沢の宿のはずれの森の中に馬を入れて一呼吸《ひといき》入れた。森のあちこちに人が隠れていた。一人や二人ではない。五人、十人と一団になって、あっちの木蔭《こかげ》、こっちの枯草の蔭などに菰《こも》をかぶってごろごろしていた。何《いず》れも浮浪者の仲間だった。
藤沢は西から来る東海道と北から来る鎌倉街道が一つになって、鎌倉に向かう要衝だった。その宿はずれの鎌倉寄りに、これだけの人数が潜んでいるということは、ただごとではなかった。なにかが起こらなければ嘘であった。
(だが、いったい何が起こるのだ)
三人は顔を見合わせたが誰も分からなかった。駒丸に訊こうと思ったが、彼は居眠りをしていた。逗子常清の屋敷からついて来た五人の男もまた、馬を繋《つな》いで眠っていた。その糞《くそ》落着きぶりを見ると、三人はいよいよ不安になった。
時間が経過するにつれて、菰をかついだ浮浪者の群れは更に増した。彼等は鎌倉へ通ずる道の両脇に分散して隠れこんでいた。正確な数はつかめなかったが、およそ、三百人はいそうだった。
遠くで梟《ふくろう》の鳴き声がした。
駒丸がむっくりと起き上がった。他の男たちもはね起きた。
空は今にも降り出しそうな天気だった。
梟の声が猿のけたたましい鳴き声に変わったとき、物蔭にかくれていた浮浪者たちが動き出した。
「棒を持て」
と駒丸が三人に言った。いつの間にか樫の棒が用意されていた。
「間も無くここを京より下向なされた、勅使の参議日野|資朝《すけとも》卿の一行が通る。そこに直訴の一団が現われて行列をさえぎる。警護の者が群衆を追い払う間に、他の一隊によって卿は掠《さら》われる。よいかな、お前たちの出番はそこからだ。お前たちは連れ去られて行く卿の後を追って、無事奪い返して警護の者に引渡せ。そのとき名前を聞かれたら、逗子の常清の家の子であると答えるのだぞ。その最後の言葉こそもっとも大事なのだ、分かったな」
駒丸は声を大にして言った。
露払いの騎馬武者が二騎並んで街道を通り過ぎた。そうすることは単なる儀式と心得ているのか騎乗の武士は前を向いたままだった。いささかも警戒するふうはなかった。鎌倉が間近であり、すぐそこに鎌倉幕府の出迎えの一隊が待っていると思って気を許しているようであった。
行列の先頭を警備する騎馬武者の一隊が通り、その後に矛をかついだ徒《かち》の郎党の一隊が続いた。その一隊の次に馬上豊かにふんぞりかえっている、狩衣《かりぎぬ》姿の参議日野資朝がいた。
突然、付近の物蔭から、百姓姿の男が飛蝗《ばつた》のように飛び出して、口々に叫んだ。
「われらはこの近くの百姓でございます。年貢の取立てがきびしくて生きては行けません。なんとか勅使殿のお力で、われわれをお救い下され」
と、百姓共は口々に同じようなことを唱えながら、資朝の馬を取り巻いた。
「わかった。わかったが、それは筋違いの訴えと申すものだ。そのようなことなら、幕府の要路の者に訴願せよ」
資朝はそうは言ったが群衆にそんなことが聞こえるわけはなかった。群衆は道に溢《あふ》れた。百、二百、五百、いや資朝には千人にも二千人にも見えた。
警護の武士は資朝の前後にいた。彼等は群衆を追い立てようとするが群衆は動かなかった。
資朝は、自分の乗った馬が群衆の中をひとりで動き出したのを見た。群衆が、山の方へ向かう小道に向かって通路を開き、資朝の乗った馬をその小路に追いこんだのである。警護の武士たちがそうはさせじとあせったが、群衆の壁は厚くてこれを突破することはできなかった。資朝は馬ごと数騎の山賊風の男に奪い去られた。
山道は途中で幾つにも分かれていた。警護の武士は、人数を分けてそれぞれの道に入って行った。
中曽根次郎三郎と朝谷兄弟の三人は資朝卿の後を追った。卿の馬を取りかこんで行く五騎の山賊風の男たちに近づいてよく見ると、彼等は逗子の常清の館からついて来た男たちであった。何時の間にか山賊に姿を変えていたのである。なにからなにまで計算ずくめであったのである。三人は顔を見合わせた。
二つほど丘を越えた。三つ目の丘には木はなく原になっていた。焼き畑らしく、最近、火を掛けたばかりの跡が残っていた。
先を行く一団が止まった。
中曽根次郎三郎は朝谷兄弟に合図した。このあたりで、駒丸に言いつけられたとおりのことをしようと思った。三騎は馬首をそろえた。だが、先へ行った五騎は次郎三郎等の方は見ず、焼け残った、樟《くす》の森の方に目をやったままだった。そこには十五騎ほどの山賊らしい者どもが通路をふさいでいた。
山賊の頭とおぼしき者が奇声を発すると、彼等は二団に分かれて、丘の中央にいる五騎に向かって駈け寄って来た。手に手に得物を持っていた。
合戦が始まった。十五騎の山賊は、日野資朝を中心とする、五騎に向かった。敵意をむき出しにしての殺し合いだった。十五対五では戦さにはならなかった。見る見るうちに、五騎の方は或は傷つき、或は馬から突き落とされた。胸に矛を受けたまま絶命する者もいた。
山賊と山賊との殺し合いは、短い時間で片がついた。十五騎側は三騎が傷つき、五騎側は三人が殺され、二騎は傷ついたまま逃れた。日野資朝だけが残された。
勝ったほうの山賊等は馬上で震えている日野資朝の馬の手綱を取って、そのまま、どこかに連れ去ろうとしたが、近くで見ている中曽根次郎三郎と朝谷兄弟の三騎に目をつけて、
「その者等も連れて行け」
頭とおぼしき男が言った。三人は武装していないから、山賊は、たまたまそこを通り合わせた小者ぐらいに思っているらしかった。
山賊の五騎が来て、次郎三郎等の三騎を取り囲んだ。そのうちの一人が、馬上から、血のついた矛を中曽根次郎三郎の胸に突きつけて言った。
「黙っておとなしくついて来るのだ。分かったか」
「分かったぞ」
と次郎三郎は答えると同時に、山賊が突きつけて来た矛を取って手元に引き寄せた。油断していた賊は馬からころげ落ち、起き上がろうとした時には奪い取った矛を持ち直した次郎三郎のために肩を一突きにされていた。
朝谷兄弟もじっとしてはいなかった。棒を使って、手近な敵を叩き伏せ、相手の得物を手に入れると、縦横無尽に暴れ出した。次郎三郎等はたくみに馬を使った。退《ひ》いては突き、寄せては斬るという、馬を使っての格闘方法を巧妙に使った。
山賊は武装していたけれど、馬の使い方も下手だし、武器の使い方もよく知らなかった。寄せ集めの賊でしかなかった。十五騎のうち半数は、次郎三郎等のために傷を負い、五人は死んだ。
「退け」
と山賊の頭が怒鳴った。彼等はとても敵《かな》わずと見て、日野資朝卿を捨てて逃げ去った。中曽根次郎三郎は卿の馬の傍《そば》に駈け寄って行って馬から降りると、
「お怪我はございませんでしたか」
と言って、馬前に手をつかえた。
「そちは何者ぞ」
恐怖から未《いま》だに醒めぬ日野資朝の声は震えていた。
「御安心なされませ。お味方でございます。われら三人は逗子の判官源常清の家の子にございます」
その言葉で日野資朝はほっとしたようであった。彼はあたりを見廻して、ごろごろしている死体に目をやると、ぞっとしたように肩をふるわせて、
「はよう、藤沢にもどれよ」
と言った。三人は日野資朝を連れて、もと来た道を引返して行った。
(駒丸や逗子の常清が、われわれ三人を選んだのは、このような予期せぬ事態を想定していたからであろう)
三人は歩きながら同じような思いにふけっていた。浮浪者を集めて、訴願芝居をやり、あらかじめ準備していた五騎によって日野資朝を掠《さら》い、そこに次郎三郎等が現われて、打ち合いの真似ごとをやって日野資朝を救い出すということならば誰にもできる。なにも三人に依頼することはなかった。ましてや酒食でもてなすこともなかったし、女をはべらせることもなかったのだ。歓待したのは、予期せぬ事態が発したとき、命を懸けて働いてくれよという頼みがあったからなのだ。
(駒丸や常清は、予期せぬ事態発生の可能性をかなり強く意識していたのではなかろうか)
三人は三人ともそのように考えた。三人が浮浪者の群れの中に入ってから聞き知ったことは、鎌倉の浮浪者を支配している大物は一人であるらしいが、鎌倉周辺には、山賊に類する小集団が幾つかあって、彼等は、絶えず縄張り争いをしているということであった。日野資朝を奪いに来たのは、その山賊集団の一つと見て間違いがなかった。
二つ丘を越えたところで、日野資朝卿を探しに来た警護の武士団に会った。彼等は血のついた矛や太刀を持っている、次郎三郎等を見て一瞬身がまえたが、日野資朝の一声で、改めて三人の小者姿をじろじろと眺め廻した。こんな男たち三人で山賊どもを追い払ったとはとても考えられなかったからである。
「してその山賊の数はいかほどばかり?」
と警護の武士の隊長が日野資朝に訊いた。
「最初は十騎ほどだった。そこに五十騎ほどが現われて、山賊どうしの合戦になり、十騎側はほとんど殺されたり、傷ついたりした。そして麻呂《まろ》は後から現われた五十騎の山賊の一団に連れ去られようとしているところへ、この者たちが通り合わせたのだ。この三人は、山賊の武器を奪って戦ったのだ。その強いこと、強いこと、麻呂は、わが日《ひ》の本《もと》にこれほど強い人間がいるとは思わなかったぞ。よいかな、三騎で五十騎を追い払ったのだ」
ようやく平静を取り戻した日野資朝は、話を途方もなく拡大して話した。
「次郎丸、秋丸、そして義丸であったな。近う寄るがよい。そちら三人は今日よりは麻呂の警護をいたせ、そちらの主人の判官常清とやらには麻呂から申し伝えて置くほどに……」
資朝は上機嫌であった。
参議日野資朝は幕府百僚の出迎えを受けて鎌倉入りをした。
彼等一行の宿舎は葛西《かさい》ヶ谷《やつ》の東勝寺の客殿に決まっていた。日野資朝等がここに入ると、周囲は幕府の兵によって包囲され、何人《なにぴと》たりとも無断で東勝寺に近づくことはできなくなった。幕府は警護を口実に、日野資朝等が外部と接触することを禁じたのである。
資朝は、それらの警護の兵を横目で見ながら、政庁に出て、北条高時をはじめとする枢要な職にある者と会い、勅使としての任務を果たした。
彼は後醍醐天皇の名代としてこの春の鎌倉で起きた大地震の見舞いに来たのである。五月の地震の見舞いに十一月になってやって来たのは、少々遅いようだが、儀礼的な見舞いであるから、当時としては、べつにおかしいことではなかった。
おかしいのは、地震見舞いの用務が済んだのに資朝がいっこうに帰ろうとしないばかりか、幕府に対して、天皇の命と称して、様々な質問を発したことである。それも文書ではなく、口頭で、その担当の役職の者の説明を聞きたいというのである。庄園に関する事項、寺領に関すること、御家人の領地、地頭の権限、治安の問題等であった。
長崎高資は、それぞれの分野について、しかるべき役人を選んでそれに答えさせた。
「近ごろ、野盗、浮浪者の群れが全国的に多くなった。余も藤沢宿のはずれで山賊に襲われた。このような治安の混乱の原因はなんであろうか。また、この弊害をただすには如何《いか》にしたらよいと思うか」
この質問に対して、幕府側では町野信宗が答弁に当たった。
「野盗、浮浪者の群れは、日の本の歴史を通じていつの時代にも絶えたことはございません。しかし、その数の多寡は為政者の政治の如何《いかん》によって決まります。野盗や浮浪者は威圧すればかえって増え、世の人を広く養えば必ず減ります。職と食を与えることが先決だと思います」
資朝は、町野信宗のこの答え方が気に入った。幕府の内部にはまだまだしっかりした政治理念を持った武士がいる。中堅はしっかりしていても、最上級にいる者が駄目だから、結局は幕府の悪政となって現われるのだろうと思った。
〈鎌倉幕府を支えている能吏とはどのような人間かよく見てまいれ〉
と後醍醐天皇に言われたことを頭に思い浮かべながら、資朝は次々と質問を発していた。
資朝は毎日のように幕府の役人と会った。若い役人の中にはびっくりするほどしっかりした考えを持った者もいた。ただ理念、理想では政治ができないという実情にぶつかって彼等は一様に悩んでいるようであった。
資朝は一応の質問が終わると、
「坂東の主なる御家人衆に会って帰りたい」
と言った。御家人は幕府の支配下にあった。その者たちに会いたいというのは、いくら勅使であろうが、常軌を逸したことであった。今までそのような例はなかった。高資は、前例がないという理由でことわろうとした。
「余は主上より坂東の主なる武将の顔を見て参れと命を戴《いただ》いて参っておる。顔が黒いか白いか、馬が上手か下手かも、とくと見て参れと、主上は申されたのですぞ」
天皇がそんなことを言うわけがない。資朝のでまかせだとは思ったが、勅使を笠に着ての申しようだからことわれなかった。
長崎高資は止《や》むなく、関東一円の諸豪族に檄《げき》を飛ばして鎌倉に集まるように命じた。
「もともと日野資朝は後醍醐天皇の属する大覚寺統にいたのではなく持明院統派の身分の低い廷臣であった。しかし資朝は持明院統を捨てて後醍醐天皇の許《もと》に走って以来、天皇の寵愛《ちようあい》を得て左兵衛督《さひようえのすけ》に抜擢《ばつてき》され、とんとん拍子に出世して参議になった男だ。言わば成り上がり者である。こんな男だから、ほって置けばなにをするか分からない」
長崎高資は、北条|得宗《とくそう》家の主なる者の集まりの席上でそのように発言しておお方の意見を求めた。
「なにやかと、うるさいことを申すのは、なにかを寄こせということではないだろうか、京都の公卿《くぎよう》は欲深いと聞いている。まず女を、そして金をあてがったらどうかな」
北条一門の大仏貞直《おさらぎさだなお》が言った。
「それがよい。まず、その手を使って見て効き目がなかったら、痛い目に会わせてやればよい」
と言ったのは金沢貞冬であった。
「ことを荒ら立てるのはよくない。坂東武者の顔を見たいというならば、見せてやればよいではないか、公卿の気まぐれ心か、なにか下心のあってのことか、じっと見てやろうではないか」
北条高時の弟の泰家が言った。泰家は高時と一つ違いの二十歳であった。兄高時のように暗愚ではなく、得宗家の内部では将来を注目されていた。
この会議で資朝に対する処遇はおおよそ決定された。まず今のところは、言うなりになってやろうと、幕府は大きなところを見せたのである。
東勝寺の客殿には次々と美人が送りこまれた。資朝は鎌倉女房を得てしごく満足げであった。資朝は幕府側が甘い顔を見せるとすかさず、自由に外出させて欲しいという要求を出した。これも許されたが、そのかわり、厳重な尾行がついた。幕府とすれば資朝がなにしに鎌倉に来たのかその真意が知りたかったのである。
資朝は鎌倉に出て来た坂東武者たちにいちいち言葉をかけてやった。勅使、参議日野資朝と聞いただけで、ふるえが出るほど恐縮している、各地の領主は、資朝が意外なほど気安く言葉を掛けてくれるので、夢でも見ている心持ちであった。
「よく来てくれた。そちの忠誠の心意気はそのまま主上に申し上げるであろう」
謁見の場で資朝は平気でこんなことを言った。幕府側としては聞き捨てできない言葉であった。取りようによっては、天皇が日野資朝の口を借りて、地方の武士団に言葉をかけ、忠誠心を煽り立てていると見られてもしようがなかった。天皇に叛意《はんい》ありという解釈もできないことはなかった。だが、そんなことはやめろと直接資朝に言うこともできなかった。彼のやることが、あまりにも明けっぴろげでおよそ秘密らしいところを見せないからであった。幕府はただあきれかえって見ているだけだった。新田義貞が招じ入れられた時資朝は、一段と声を張り上げて言った。
「新田小太郎源義貞とはそこもとのことか、これはこれはようこそ来てくださった。余は、源家《げんけ》の嫡流、新田義貞殿にここで会ったことが、今回鎌倉に来た最大な土産話になった。京都に帰って主上に奏上申し上げたら、主上もさぞかし喜ばれるであろう。さあ、さあ、義貞殿、もっともっと近くに寄られるがよい」
源氏の嫡流は足利高氏ということになっていた。北条氏がこれを認めていた。そうだと信じている者も多かった。そういう人たちの中で、勅使自らが、源氏の嫡流は新田義貞だと言い切ったことは、天皇は、源氏の嫡流として、新田氏を認めるぞということにもなりかねない。足利貞氏は苦い顔をした。
「義貞殿、面《おもて》を上げられい」
という資朝の声で、義貞はようやく顔を上げて資朝を見た。どこかで確かに見た顔だったが思い出せなかった。
「鎌倉には化粧坂《けわいざか》という結構なところがあるそうだが、義貞殿は行かれたことがあるかな」
資朝が言った。
(そうだ、化粧坂ではなくて、下下馬橋《しものげばはし》の色好宿《いろこのみやど》で、刀屋三郎四郎の紹介で、京都の朝屋という商人と会ったことがある。朝屋とは仮の名で、彼は日野資朝の忍びの姿であったのだ)
義貞はやっと思い出した。
「答えがないところを見ると、義貞殿は化粧坂を知らぬらしい、いや知っていても知らないようなふりをするのが、坂東武者のたしなみというものかもしれぬ」
資朝はうまく最後をごまかして、呼び出し役の侍に向かって言った。
「逗子判官源常清殿は来ておられるだろうな、余の命の恩人である。はよう会ってお礼を申上げたい」
資朝の声はよく透《とお》った。逗子判官源常清と言われて、その席にいる者の多くは、はてなという顔をした。その名を知らないからであった。しかし、鬢《びん》に白いものをまじえているような武将は、ああ、あの常清かというふうな顔をした。
日が短いころだった。山茶花の散りしく小道を通って義貞が新田屋敷に帰ったときは既に暗くなっていた。
書状が彼を待っていた。差出人は書いてなかった。
「商人風の男が、これを持って参り、お館様におわたしいただければ分かると申しておりました」
留守番の者が言った。義貞は立ったまま、書状を開いた。
≪今宵、化粧坂で久しぶりで歓をともにいたしたい≫
という意味のことが書いてあった。差出人は朝屋としたためてある。
(資朝卿だ……)
と思ったとき、義貞の心の中に二つの矛盾した考えが走った。日野資朝の鎌倉に於《お》ける動静は逐一幕府に監視されていた。その監視の目をくぐって化粧坂で会おうなどということはとうていでき得ないことであった。それをやろうとする資朝の強引さには異常な自信があった。なぜだろうか、その自信の背後にあるものを窺いたいという気持ちと、うっかり化粧坂などに出て行けば、必ず幕府の密偵に探知されて幕府に報告されることは明かであるから行きたくはないという気持ちだった。義貞は、その書状を持ったまま立ち尽くしていた。
馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえた。新田屋敷の前で馬を降りた使者は、日野資朝卿が今宵北条屋敷の大広間を借りて、京都から連れて来た田楽法師等による田楽の催しを開くから出席されたいと口上案内をした。
義貞は驚いた。同じ人間が、公式には田楽を主催し、一方では化粧坂で会いたいと言っているのである。まことに解しかねることであった。しかも、その二つとも、今宵ということである。そのような突然の行事などめったにあり得ないことだった。義貞は船田義昌と矢島五郎丸を呼んで、この書状を見せた。
「化粧坂で会いたいと申されてもその場所が書いてはございませぬ。おそらくは誰かが迎えに来るでしょう」
と矢島五郎丸は言った。
「田楽の招待は、本日謁見を賜った坂東の武者たちに対して行われるのでしょうが、北条一族が列席されることは当然のこと、おそらく幕府ではこの田楽の会に出席した武将の名を書き留めて置くことでしょう。そして出席者は勅使日野資朝に心を寄せる者、つまり天皇に対して特別な心を持つ者と見なされるでしょう。こういう会にはお館様自らは出席せず、代理として、義助様を出席させたほうがよいのではないでしょうか」
船田義昌が言った。つまり、幕府に睨《にら》まれるようなことは、いっさいするなということであった。新田氏は、五月の大地震の見舞いにいち早く駈けつけて、幕府方の覚えもめでたい時であった。うっかりしたことはできないと義昌は注意したのである。
「では化粧坂の方はどうする」
義貞の問いに、義昌はしばらく考えてから言った。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずと申しまするが、その虎穴に入るのに、そのままの姿ではなりませぬな」
義昌は義貞に変装をすすめた。
北条屋敷の大広間は燭台《しよくだい》が立ち並び昼のように明るかった。
日野資朝卿から招待された坂東の武将たちは、半ばは興味、半ばは不安な気持ちでこの会に臨んだ。入口で名前を記録された。代理を派遣した者が三分の一ほどあった。脇屋義助は新田義貞の名代として列席した。
日野資朝卿が、萎烏帽子《なええぼし》に水干《すいかん》姿で現われた。萎烏帽子からくくり小袴まで紫色であった。どこか、おどけた小者の姿に見えた。
「今宵はよく来てくだされた。これよりいま京都で流行している天狗《てんぐ》田楽という舞いを御覧に入れる。興が湧《わ》けば、何人でもよいから、田楽の群れにまじって舞い踊っていただきたい……」
ただしと、そこで資朝は一息入れて、
「踊るかたがたはここに用意してある天狗の面を必ずつけられるように。今宵は無礼講と思い心行くまでお楽しみあれ」
日野資朝が奥に引込んでしばらくすると、黄や白や赤の水干姿に田楽笠をかぶり、天狗の面をつけた田楽法師を数名引連れて、紫色の水干姿に紫色の田楽笠、それに真赤な天狗の面をかぶった資朝が現われた。
田楽鼓《でんがくつづみ》や編木《びんざさら》や横笛など持った楽士もまた天狗の面をかぶって現われて席についた。
面白おかしい踊りが始まった。もともと田楽は農民が田遊びと言って、豊年を祈るために始まったものである。これが貴族階級の遊びに発展はしたものの、素地には楽しく踊り舞うという本来の伝統は失われていなかった。歌が始まった。
この世の中はとかく住みにくい
山芋を掘ろうとしたら税を取られた
恋し合うふたりが交媾《まぐわい》を始めたら
場所代をよこせといじわるをされた
とかくこの世は住みにくい
ああ、はやく住みよい世の中にしたいものだ
歌は明らかに世相を歌い、政治のあり方を批判したものだった。北条一族にとっては痛烈な皮肉に聞こえる歌だった。その歌に合わせて、日野資朝の扮《ふん》する田楽法師は見事に踊った。山芋を掘る真似などどうに入ったものだったし、潮汲《しおく》みの肩の重さの仕草も上手だったが、交媾の段になると、まさに真に迫って、見物人はこらえ切れなくなって笑いこけた。
資朝は熱演したために、天狗の面を落とした。それまで笑いをこらえていた北条一門の者もついに我慢がならなくなって笑った。
資朝はいそいで天狗の面をつけると、予備のために置いてあった天狗の面を一つ取り、捧《ささ》げ持つ恰好で踊りながら、北条高時の前に行ってさし出した。
北条高時は、田楽|気狂《きちが》いと言われていた。踊りたいのを我慢していたのも、資朝が勅使だからだった。その資朝にどうぞと誘われたら、もう遠慮することはなかった。
高時が踊りに加わったので、次々と天狗の面をかぶって踊る者が出た。座はいよいよ高潮した。歌は変わり、踊る人々も次々と交替した。無礼講の一夜は歌と踊りで更けて行った。
新田義貞が小者に変装して裏木戸を出ると、そこに矢島五郎丸が商人風の男に姿をかえて待っていた。
「やっぱり迎えの者は参りましたが、行く先だけを告げて帰りました。相手は非常に用心をしているようでございます」
と矢島五郎丸は言った。案内された家は、新しくできたばかりの、離れがやたらに多い家だった。いっこうに冴《さ》えない家のように見えたが、一度家の中に入ると、あちこちから女の嬌声《きようせい》が聞こえて来た。
女に案内されて一室に入ると、そこには先客があった。その日義貞の後に資朝と謁見した逗子常清であった。燭台の光に、白髪が赤味を帯びて輝いて見えた。逗子常清は供として駒丸をつれていた。ふたりは共に博労の姿をしていた。逗子常清は義貞に対して、まず自己紹介をした。
常清より三代前の清経は判官の位を持っていた。人呼んで、判官の清経と言っていた。その清経が宝治《ほうじ》元年(一二四七年)三浦泰村の乱に連座した。三浦泰村と親しかったという理由だけで疑いをかけられ所領を召し上げられたのである。逗子付近の小豪士となり下がったのはそのような理由だった。家格は落ちたが、判官様という呼称だけは残されていた。幕府も、常清が判官を自称せぬかぎり、知らぬふりをしていた。
「それがしの逗子の館は……」
と常清が言い出したとき、駒丸が口を出した。
「それから先は、中曽根次郎三郎を通じて矢島五郎丸様も新田義貞様もよく御存知でございます」
そこまで言われて五郎丸も義貞も黙っているわけには行かなかった。
「いつぞやは、わが郎党どもがいろいろと御厄介になりました」
と義貞が中曽根次郎三郎、朝谷義秋、朝谷正義の三人に触れると、駒丸もまた、
「あの三人の強いこと、強いこと、まことに驚き入ってございます」
と言った。三人が新田屋敷の者だということがどうして分かったかという義貞の問いに対して、駒丸は、
「あの三人が浮浪者に身を替えて私のもとに来たころから分かっておりました。私たちは鎌倉のことなら野良犬一匹の素性までちゃんと分かります。そうしていないといざという時の役には立たないでしょう」
と駒丸は笑った。
資朝が商人に姿を替えて、やはり同じなりをした供の者、二人を連れて現われたのは、更に半|刻《とき》ほど経ってからだった。
「天狗になったり商人になったり、いやはやいそがしいことよ」
資朝は、挨拶も自己紹介もせぬ前にまず、いかにして無礼講の席をうまく抜け出したか、そして、いかにして幕府の尾行者の目をくらませたかを話してから、
「義貞殿しばらくであった。そして常清殿、わざわざ来ていただいて大儀であった」
と、やや固い言葉使いをしたあとで、ふたりの顔をじっと見詰めた。
「まだまだ、これから会わねばならぬ人があるし、天狗踊りの方へも顔を出さねばならぬから、ゆるりとしてはおられぬ。まず、常清殿にお訊《たず》ねする。いざという場合、天皇のお味方に立つと誓ってはくれぬか」
日野資朝は率直な口のきき方をした。
「それは条件次第でございます。ただ働きをせよと言われても、それはできぬ相談でございます。これは新田殿も同じことと存じます。まず、それについて資朝様のお考えをうかがいたい」
常清は言った。
(しっかりしたものだこの男は。大がかりな芝居まで打って、資朝に近づきながら、最初から威張っているわい)
義貞は驚いた顔で常清を見守っていた。
「いや、余は条件を口に出す前に、そこもとたちの主上に対する忠誠心の如何を訊ねたい」
常清に向かって資朝は重ねて問うた。
「主上の御|為《ため》ならば、一も二もなく、生命を投げ出しましょうなどという武士は今の世の中には一人もおりません。われわれ坂東の武士は、主上であろうが、北条氏であろうが、足利氏であろうが、はたまた新田氏であろうが、条件次第によって、付きもし離れもいたします。正直申し上げて、野にある武士の忠誠心とは、そのようなものでございます」
資朝はさすがに驚いたようであった。
「では義貞殿に同じことを下問いたす。答えられい」
資朝は勅使日野資朝となって言った。
「私は常清殿とはいささか違います。源氏は代々天皇を守護するための武官として、その存在が認められていました。天皇に対する忠誠は誓います。しかしその忠誠の動向は、やはり常清殿の言われたように、与えられる条件次第で、如何ようにも変わってまいります。軍を集めるには多くの費用がかかります。戦さを起こすには更に多額の出費となりましょう。それらが償われないような条件だと、大人数を動かすことはできかねます」
資朝は義貞の答えに満足したようであった。
彼は突然、大声で笑い出した。
「いやいや、今のは冗談だ。冗談だから聞かなかったことにしてくれ。だが冗談のついでにもうひとことだけそこもとたちに訊ねる。条件として、逗子常清には、三浦泰村の乱以前の所領を与え、新田義貞には源氏の嫡流を認めると同時に征夷《せいい》大将軍に任ずるというのが条件なら、勿論《もちろん》のこと、主上にお味方するのであろうな」
資朝は二人の顔を覗《のぞ》きこむように見て言った。そしてふたたび大きな声で笑うと、
「これでよい。あとはふたりがいかに手を結んで鎌倉を攻めるかを相談して貰えばいいのだ。いやこれも冗談だが、そのうちきっとこれが冗談ではなくなる日が来るであろう」
資朝は座を立って、立ったままでふたりに挨拶すると夜の中に消えて行った。
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元亨《げんこう》三年(一三二三年)五月に鎌倉に大地震があったことは、歴史学研究会編日本史年表(岩波書店、一九六六年発行第三刷)に載っている。念のために、これを、理科年表の本邦大地震年表で確かめて見たがなかった。宇佐美龍夫著資料日本被害地震総覧(東京大学出版会)で調べたがやっぱりなかった。念のために、もと私が勤務していた気象庁の地震課に電話をかけて調べて貰ったが見当たらないということだった。常識的に考えると、過去の大地震なら、理科年表か資料日本被害地震総覧の何れかに必ず載っている筈であった。この二書はこの方面では権威高いものと認められているので、私は迷ってしまった。
しかし、よくよく考えてみると、歴史学研究会編の日本史年表は、歴史年表として権威高いものである。つまり歴史学上権威が高いもので、他の二書は地球物理学的見地から権威が高いものとされているのである。
理論ではなくして、大地震があったかなかったかの記録|蒐集《しゆうしゆう》力の差がここに現われたのではないかと考えられて来た。古文書を扱うのは、歴史の先生たちの方が地球物理学の先生たちより遥《はる》かに勝《すぐ》れていると思ったから、日本史年表の記述をそのとおり信用することにした。
この年表の該当箇所には五月鎌倉大地震とだけしか書かれていない。被害の状況は皆目見当がつかないが、大地震とあるからには、当然津波を予想しての人の動きもあっただろうと思って、そこを小説として取り上げた。実は、この鎌倉大地震の項目については、岩波書店に電話をかけ、この日本史年表を作られた先生から直接記録の出どころまで訊き出し、できたらその記録を読んでみたいという、詮索《せんさく》趣味が例によって頭を持ち上げて来たが、それまでしなくてもと、自分の気持ちを押えつけた。
元亨三年十一月に参議日野資朝が、後醍醐天皇の命を受けて鎌倉に来たのは事実であるが、天狗田楽などということをやった記録はない。これは全くのフィクションである。しかし、太平記には北条高時が天狗と共に田楽を踊っていたことが次のように書かれている。
北条高時は田楽が大好きだった。或る宵、したたか酔いしれた高時が、本座、新座の田楽法師十余人と共に舞い歌っているのを、侍女が覗き見したところ、田楽法師たちは一人として人間の姿をしてはいなかった。鵄《とび》のようにくちばしが曲がっている者や、翼をつけた山伏姿の者ばかりだった。侍女はこのことを安達|時顕《ときあき》に通報した。時顕が太刀を取って宴席に来てみると、化物どもは消え失せていて、高時がひとり酔いつぶれていた。
灯火をかき立ててそのあたりを調べてみると、天狗がいたらしい証拠があちこちに残されていた。しばらく経って高時は正気に返ったが、天狗のことはなにも覚えていなかった。後でこの話を聞いた、藤原|仲範《なかのり》という学者がそれこそ天下が乱れる前兆であると言った。
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正中《しようちゆう》の変
後醍醐《ごだいご》天皇が文保《ぶんぽう》二年(一三一八年)に即位した時点で皇太子には兄の後二条天皇の皇子|邦良《くになが》親王が決まり、その次には持明院統の量仁《かずひと》親王が天皇になることにきまっていた。
大覚寺統と持明院統との間に結ばれた両統|迭立《てつりつ》の協定によりこのようになっていたのであった。しかも、天皇の任期は十年と約束されていたから、参議の日野資朝を鎌倉に派遣した元亨三年(一三二三年)には既に任期の半ばは過ぎていたことになる。
後醍醐天皇は従来の天皇のように天皇の座が欲しいというだけではなく、理想的な天皇となって良い政治をしたいという気持ちでいた。そうなれば、日本の国は今よりもよくなると考えていた。つまり武家政治の世の中を天皇親政の世の中にもどそうと考えていたのである。遠く奈良時代、天平時代のように武士は天皇の番犬的存在にして置きたいとかねがね思っていたのである。それは大いなる希望であると同時に当時にあっては野望であった。だが、その野望に積極的に加担する部下が次々と現われると、天皇はいつかその実現を夢ではないと考えるようになっていた。
日野|資朝《すけとも》が元亨三年に鎌倉へ出たのも一つには、鎌倉幕府と坂東武者の実体を掴《つか》もうとしたためであった。隠密行動による実情調査とは別に朝廷の権威を戴《いただ》いて乗りこんでの打診であった。
資朝は京都に帰ると、鎌倉でのことを逐一天皇に説明した。
「鎌倉幕府の内部にはしっかりした人物もおりますし、有能な役人も数多く居りますが、それらを統括している北条一族の中には、この人はと思うような人物は一人もおりません。また坂東の諸豪族の多くは天皇に対して忠誠心を持っておりますから、条件次第で味方につけることはそれほどむずかしいことではございません。つまり北条氏は世の人から精神的には遊離した状態にいると言っても過言ではないでしょう」
資朝は例を上げて一気にしゃべってから更に言葉をついだ。
「心をお決めなされる時が来たように思われます。京都近辺の諸豪族の動静は既に調査して奏上申し上げたとおりでございます。これよりは一段と彼等との間の結束を固めるようにいたすべきだと存じます。充分に用意して、兵を挙げ、京都六波羅探題を亡ぼすと同時に、諸国に綸旨《りんじ》(天皇が発する文書)を発すれば、まずは成功間違いないことと存じます」
資朝は天皇に挙兵をすすめた。そのためには、既に目をつけていた諸豪族に、もっともっと近づき、彼等の心を確かめ、挙兵のための作戦計画を進めるべきだと力説した。
「多くの人を集めれば幕府が目をつけます故、心確かなる者少数を選んで、まずは学問の会を開いたらよろしいのではないかと存じます」
資朝はそう言って、呼び寄せるべき人々の名を書いた紙を天皇の前に差出した。
資朝は学問好きな天皇を中心として文談《もんだん》の会を宮廷内で開くことを進言した。平たく言えば講習会と研究会を兼ねたようなものであった。講師としては玄慧《げんえ》法印が招かれ、まず唐の国の韓退之《かんたいし》の文集の講義を始めたのである。
紀伊《きい》、大和《やまと》、河内《かわち》、美濃《みの》などの豪族の主なるものや、上級僧などが次々とこの文談に招待された。公卿《くぎよう》たちも進んで加わった。京都周辺の豪族だけを集めてこれを行えば幕府から目をつけられるから、文談の聴講者は宮廷内の者や宮廷とつきあいのある者を選び、その中に、これと目をつけた人物を引き入れたのである。
文談が進行して行くうち、いつの間にか、呉子《ごし》、孫子《そんし》、六韜三略《りくとうさんりやく》などの兵法書の講義にかわって行った。
文談の会が重ねられるうちに、人が選ばれ、出席者どうしが親密になって行くにつれて、しばしば、幕府の政治の自由批判などをやった。地方から招かれた豪族のうちで、美濃の土岐頼貞《ときよりさだ》、多治見国長《たじみくになが》、船木頼春《ふなきよりはる》、足助重成《あすけしげなり》の四人はもっとも熱心にこの文談に加わっていた。
この四人の武士の他《ほか》に、尹《いん》大納言|師賢《もろかた》、四条中納言|隆資《たかすけ》、洞院左衛門督実世《とういんさえもんのかみさねよ》、蔵人《くろうど》日野俊基、伊達《だて》三位房|遊雅《ゆうが》、聖護院《しようごいん》庁の法眼|玄基《げんき》などが集まった。これ等一団の取りまとめ役は日野資朝であり、陰の指導者は後醍醐天皇であった。
これらの一団が盟約を結び、幕府転覆の密謀を交すようになったのは正中元年(一三二四年)の初夏のころからであった。
それまでは文談であったから、おおっぴらにできたが盟約を結んで、密談のための集合となると、幕府の目を警戒しなければならなくなった。
ここで日野資朝は世人の意表をつくような策を思いついたのである。天皇が出席される無礼講の宴であった。
密謀に参画した男たちはすべて烏帽子《えぼし》をぬぎ、髻《もとどり》を切って乱れ髪のままとなり、法師は衣を脱いで白の一重を着た。この酒宴には、十七、八歳のつぶよりの美女が二十人ほど集められた。特に肌の白い女性が選ばれた上、彼女たちには薄い絹一枚しか着せなかったので、素肌が丸見えだった。
酒が入っているし、相手の女は裸同様であるから、男たちは女に戯れかかり、そのたびに女は嬌声を上げた。やがて、それぞれが気に入った女を連れて別室に消えて行った。
このような無礼講がしばしば宮廷内で行われているという噂《うわさ》は立ったが、この無礼講が始まる前に幕府転覆の密謀が行われている事実を嗅《か》ぎつけた者はなかった。
宮廷内で行われている無礼講に参加したいという希望者が次々と現われたが、その心底の見極めがつくまでは参加は禁ぜられた。密謀は机上の空論ではなく、実行計画に移りつつあった。美濃の兵が主体となってことを起こし、京都周辺の豪族や僧兵がこれを応援する手筈が整えられて行った。いよいよ美濃の豪族四名の出番になったのである。
幕府転覆の密謀に加担した、四人の美濃の豪族はそれぞれ血縁関係をたどって兵を集めることにした。
土岐頼貞、多治見国長、船木頼春、足助重成は京都大番役として滞在中で、それぞれが京都に屋敷も持っていた。しかし、四人の京都滞在中に兵力を合わせて、二百人足らずであった。これだけで六波羅を襲っても勝ち目はなかった。謀叛《むほん》を成功させるには少なくとも二千名の兵が必要だった。六波羅を急襲して炎上させ、そこへ京都周辺に待機していた友軍が突入して来て治安を握るというのが作戦の大要だった。
武装した兵二千名を一度に京都に入れることはできなかった。彼等はその機会を狙っていた。
そのころ、河内の国の葛葉《くずのは》で悪党どもが庄園を襲って、庄司を殺すという事件があった。この悪党を退治するために兵を出せという命令が幕府から土岐頼貞と多治見国長の両名に発せられた。
「時こそ来たれ」
と、彼等は喜んだ。後醍醐天皇を中心とする最後の密謀がなされた後、土岐頼貞等は美濃に帰り、二千余りの兵を率いて入京した。兵等には一夜だけ京都に止《とど》まり、翌朝早く発《た》って河内へ向かうのだと伝えた。兵等は四条の河原で夜営の準備を始めた。
すっかり段取りがととのったところで、土岐頼貞は一門の主なる者を呼び寄せて、はじめて討幕の計画を明らかにした。
「既に討幕の矢は放たれたのだ。今から思い止まろうとしても遅い」
頼貞の言葉に一門の者は一人として反対する者はなかった。頼貞が一族に慕われていたことと、彼のやることなら間違いないだろうという信頼感があったからである。
「して、決行は明朝ですか?」
土岐頼貞の従弟《いとこ》の土岐|頼員《よりかず》が訊《き》いた。彼は、はやくから朝廷に仕えており、左近蔵人《さこんくろうど》という官位まで貰っていた。従兄《いとこ》の土岐十郎頼貞は美濃の豪族で領地は持っていたが官位はなかった。頼員の方が、ずっと実質的な考え方をする男であった。
「さよう。明朝、夜が明け次第四条河原に止め置いてある二千の兵を率いて六波羅を襲う。そちはそれまでに家の子郎党を率いて四条河原に集まるように」
と頼貞が言った。
「分かりました。それがしは郎党十騎、兵三十を率いて、四条河原に、夜明け前に駈けつけましょう」
頼員はそう答えながら、なにか悲しそうな顔をした。
(恐らく成功はしないだろう。六波羅がそう簡単に落ちるわけがない)
それは京都にくわしい頼員の直感であった。頼員の妻の嘉美《かみ》の父は六波羅に出仕している武具奉行の斎藤太郎|左衛門尉《ざえもんのじよう》利行であった。そのような関係で、頼員は、六波羅の実力を或る程度知っていたのであった。だが、一門がこぞってこうと決めたのに、自分ひとりだけ従わないわけには行かなかった。
彼は処刑場に曳《ひ》かれて行く罪人のような気持ちで家へ帰って行った。妻の嘉美が彼の顔色の勝れないのを見て、どこぞ悪いのかと訊いた。
土岐頼員は妻の嘉美に頭が上がらなかった。彼女の父の六波羅の武具奉行斎藤利行に負うところが少なくなかったということもあるが、根本的には、頼員がどちらかというと女性的な性格であり、嘉美がどちらかというと男性的性格だったからである。
「どこかお悪いの、どうされたのですか」
と重ねて訊く嘉美に頼員は、
「少々頭痛がする。風邪でもひいたらしい」
と誰でも言うような嘘をついた。
「そうなの、それはいけませんね、暖かいものを食べてすぐ寝るといいわ」
嘉美は頼員の言葉をそう深く考えもせず、下女に命じて醤粥《ひしおがゆ》を作らせ、向かい合って食べた。二人は結婚してもう五年にもなるのに子供に恵まれなかった。それを召使いたちは仲がよすぎるからだと噂していた。
「風邪には熱いものを腹一杯食べて、すぐ寝る以外によい薬はありません」
彼女は、そう言うと頼員の手を取るようにして寝室につれて行き、茵《しとね》を敷き衾《ふすま》を出した。そして彼女自ら裸になって先に入って、夜着を暖めてから衾を手で持ち上げて頼員を招き入れた。結婚して以来、一日として欠かしたことのない習わしだった。
彼女のなめらかな温かい肌に触れたとき頼員は、さきほど土岐頼貞の前で感じた、そこはかとない淋しさに再び襲われた。
(明朝、六波羅に攻めこんだらおそらく生きては帰れないだろう)
そんな気がした。すると、嘉美の餅肌に接するのも今宵《こよい》が最後ということになる。そう思うと、肌を接している彼女がいままでになくいとおしくなった。
彼は嘉美をそれまでしたことがないほど、激しく愛撫《あいぶ》した。彼女は呼吸《いき》が止まるほど強く自分を抱きしめる頼員を夫以外の人のように感じた。自分の夫がこれほどたくましく、強い男だとは知らなかった。
彼女は、なぜ彼がそうなったかはその場では詮索《せんさく》せずに、彼と共に、狂わしく燃え上がり、やがて火が消えて、彼女の呼吸の嵐が静まり、汗が乾くまでの時間に、頭のずっと奥の方で、今宵の謎《なぞ》を解こうと試みていた。
彼女は突然はね起きて、燭台《しよくだい》に火をつけ、いそいで着物を身にまとい、そして彼にも着物をつけさせた。
「さあ、今日なにがあったか残らず話して下さい。夫婦の間に隠しごとや嘘なぞあってはなりませんわ」
嘉美は頼員の顔を見詰めて言った。
「いや、なにもなかった。今日、お前はことのほか美しかった。だから……」
「風邪だと嘘を言い、そしてまたそんな嘘を言うのですか。あなたは今日、土岐頼貞様に呼ばれて家を出ました。なにかあったとすれば、土岐頼貞様のお屋敷でのことです。もしあなたが、なにもおっしゃらないのなら、私は父のところへかけこんで、頼貞様のお屋敷から帰ってからのあなたの様子がへんだと言うことを告げねばなりません」
嘉美は食い下がった。
頼員はしきりに弁解した。ただ少々風邪気味だったと言い張ろうとしたが、嘉美の前では通らなかった。
「あなたが、あのように力強く私を愛したのは初めてでした。私はあなたが、これが最後だと心にきめて私に立ち向かっていることが身体《からだ》を通じてはっきり分かりました。なんと嘘を言っても、あなたの身体は、私の身体に向かって、これが最後だ、もうお前と会うことはないかもしれないと言っていたではありませんか。あなたは死ぬつもりでしょう。しかも明朝」
嘉美は蒼白《そうはく》な顔で全身を震わせながら言った。これ以上、なにもなかったと言い張れば、垣根一つ越えた向こうの、彼女の生家の斎藤利行の家へ行って戸を叩くことは間違いなかった。
震える嘉美を見ていると、頼員もまた震え出した。戦さも怖かったが、一番怖いのは嘉美であった。これ以上嘉美に嘘をついたら嘉美に殺されるかもしれないと思った。
だが真相は言えなかった。言えば土岐一族が滅亡するのだ。それを救うのは、
(嘉美を斬るしかない)
そう思ったとき、彼はようやく、土岐一族の一人になっていた。
頼員は手を延ばして刀掛けから太刀を取った。だが、彼はそれを手にしたまま再びそこに座りこんでしまった。嘉美を斬ることなどできよう筈がなかった。
嘉美が外へ飛び出して行ったのも、彼女が隣家の戸を叩く音も聞こえた。だが、彼はどうすることもできずにその場に座りこんでいた。
斎藤利行が太刀を小脇にかかえておどりこんで来たが、頼員は顔さえ、上げられなかった。
「参られい」
利行はそう言うと頼員の首根子を犬の仔《こ》でもつかむようにして、半ば引摺《ひきず》るように、自宅へ連れて行った。
頼員は舌を噛《か》み切って死のうと試みたが、掴まれている首が痛くて、舌を噛み切ることはできなかった。土岐一族の人々が血にまみれて死んで行く姿が見えた。
「土岐頼貞の謀叛にそちも加担していたのだな、このばか者めが」
と斎藤利行は大きな声で頼員を叱ると同時に頼員の頬をしたたか打った。頼員ははっとした。眼が覚めたような気持ちだった。
「父上は御存知だったのですか」
頼員は、見事利行の誘導|訊問《じんもん》に引懸ったのである。頼員の返事を聞いて、今度は利行の方が驚いたが、彼はその心を隠して、
「知っておったわい。四条の河原に置いてある美濃の兵二千で、六波羅に朝討ちを掛けようということぐらいこの斎藤利行が知らないでなんとする」
と、でまかせを言った。これがまた的中したのである。頼員はほっとしたような顔をした。
「父上が知っておられるなら、今さら隠し立てしたところでどうにもなりません。なにもかも申し上げます」
頼員は密謀のすべてをしゃべった。途中で、今度は斎藤利行が震え出した。世の中が引っくり返るほどの大事件だったからである。
土岐頼員はそのまま斎藤利行の家に止め置かれた。斎藤利行は、急を六波羅に知らせた。主なる者が続々と集められた。集まって来た者たちは、はじめのうちは、そんなことがあろう筈がないと信用しなかったが、次々と放った密偵の報告によって、或《あるい》はという考えに変わって行った。
土岐頼貞の屋敷では一族の者が集まってなにか会議らしいことをしているという報告があった。
多治見国長の屋敷では、二十人ほどの遊女が集められて、乱痴気騒ぎをしているという情報が寄せられた。そして船木頼春の屋敷は二重三重に見張りが立って中でなにがなされているか分からないという物見の報告だった。三屋敷とも尋常な状態ではなかった。土岐等に対する疑いは更に深まった。もともと土岐等は後醍醐天皇や公卿等と親しくしていたので、幕府から目をつけられていた。頼員の訴えは正しいと判断された。
六波羅探題金沢|貞将《さだまさ》は、北条の一門金沢|貞顕《さだあき》の子である。北条一族の中では筋金が通っている一人と言われている武将であった。
貞将はやたらにわめき立てる諸将たちに向かって、たしなめるように言った。
「敵もまたわれらの動向を知るべく、物見を出していると考えねばならぬ、静かになされよ」
とさとしてから、次のように、彼の胸中の策を述べた。
「夜中、大軍を動かせば、必ず敵に感づかれるから、すべて隠密の行動を取ることにする。これからまず為《な》すべきことは、精兵三百名ずつ二隊を至急編成することだ。この隊員は特に強い者だけを選ぶこと、二隊はそれぞれ、夜明け前を狙って土岐頼貞と多治見国長の屋敷を襲い、首謀者を討ち取る。そして夜明けと同時に、六波羅の兵を四条河原へ向け、土岐等の兵二千を説得して降伏させる、他の謀叛者は夜が明けてから捕えればよい。その間、物見は厳重に続けるように」
この金沢貞将の命はその夜のうちに着々と実行されていった。
土岐頼貞は決して凡将ではなかった。後醍醐天皇に信頼されて、幕府転覆の立役者に選ばれたのだから、それだけの才覚はあったが、それまで戦争をしたことがなかった。その経験不足が、前夜の警戒をおろそかにしたのである。もし頼貞が、物見を六波羅方面へ出して置けば、幕府方の動きが探知されたであろうのに、もうここまでくれば明日の勝利は決まったようなものだと、同族一同大広間に会して、前祝いの食事を共にしてから、それぞれ寝についた。
そのころ、六波羅から出された物見は引続き活躍していた。
「三条堀河の土岐頼貞の屋敷では、それぞれ武具を枕もとに置いて寝た模様」
という物見の報告に次いで、
「錦小路高倉の多治見国長の屋敷では、二十人あまりの遊女を集めての酒宴が終わり、それぞれ遊女と共に寝屋に入ったところでございます」
という報告が六波羅にとどいた。
金沢貞将は武装して牀机《しようぎ》に腰をかけ夜明けを待っていた。一番鶏の鳴き声が、長く尾を引いてまだまだ暗い夜空に消えた。金沢貞将はすっくと立上がり、右手を高く上げた。出陣の合図であった。
土岐頼貞は二番鶏の声で目を覚ました。家中がよく寝静まっていた。咽喉《のど》が乾いてしようがないから燭台を手にして台所まで水を飲みに行った。柄杓《ひしやく》で瓶《かめ》の中の水を汲んで飲んでいると、外で人の気配がした。戸の隙間から覗くと、人影が二つばかり、闇の中にうごめいていた。
一瞬賊かなと思ったが、すぐ六波羅の間者ではないかという疑いに変わった。
一度は寝室に帰ったが寝るどころではなかった。いそいで身ごしらえをして、音を忍ばせて外に出た。東山の稜線《りようせん》のあたりが明るくなっていたが、京都はまだまだ眠りにふけっていた。視線を東山の稜線から下に落として、六波羅の方を見ると、そのあたりが、ほんのりと明るかった。二番鶏が鳴いたといってもまだまだ夜であった。六波羅のあたりが明るいのは、そこで篝火《かがりび》を焚《た》いているということである。
(六波羅に兵が集まっている)
と思った瞬間、彼は幕府転覆の企てが露顕したのを知った。彼は家の子郎党たちを叩き起こして、合戦の準備を命ずると同時に、使者を多治見国長、船木頼春のところへやろうとした。だがその使いの者は門を出たとたんに六波羅から派遣されて、屋敷の外を見張っていた物見の者に取りおさえられてしまった。
土岐頼貞は四条河原に野営している軍勢のところへなんとかして行きたかった。そこに行けば、兵を指揮して六波羅軍に対抗できるし、血路を開いて故郷に帰ることもできるが、屋敷にいる限り、二十人や三十人で大軍を防ぐことはできなかった。彼は家の子郎党一団となって、裏口から四条河原へ脱け出ようと計った。
だが、裏口には既に六波羅の軍勢が来ていたし、表門にも敵軍がひしめき合っていた。六波羅探題の金沢貞将は一番鶏と同時に軍を進発させたが、土岐頼貞は二番鶏の声で目を覚ました。時間的にそれだけの差があった。頼貞は僅かな時間の差で脱出する機会を失った。
堀河の土岐頼貞の屋敷に兵三百を率いて向かったのは山本九郎時綱という大将だった。
彼は軍勢を表門と裏門に分けて、いっせいに邸内になだれこんだ。
土岐頼貞と二十七人の郎党は死に物狂いで戦った。ここまで来たら、生きようとは思わなかった。できるだけ敵の多くを傷つけ、自らも死ぬことだった。捕われることは末代までの不名誉だった。一人、二人と郎党等が倒れて行った。土岐頼貞は同時に五人を引き受けて戦った。彼は太刀を振りかざして、敵二人を斬り倒したその血刀で見事に自らの咽喉を突いて果てた。流血の中に土岐頼貞一族は亡びたが、彼等を死に追いこんだ謀叛の張本人日野資朝等の公卿衆はそんなことは露知らずに、甘い眠りをむさぼっていた。
土岐頼貞等の首が六波羅に運ばれて来たころ、夜はようやく白々と明け始めていた。
錦小路高倉にある、多治見の屋敷に兵三百を率いて向かったのは、小串三郎左衛門尉範行《こぐしさぶろうざえもんのじようのりゆき》だった。
国長等はしたたか酔った上、遊女を抱いて寝こんでいたので、小串範行が兵を率いて来るまで、全く気付かなかった。六波羅軍に気付いたのは、多治見国長の郎党、小笠原孫六と寝ていた遊女|梅王《うめおう》であった。梅王は門外に近づく足音を聞いて目を覚ますと、すぐ小笠原孫六を揺り起こした。
「孫六さま、敵です。敵の軍勢です」
梅王は、孫六から近く合戦があるということを聞いていた。合戦に勝てば、おれはちょっとしたところの領主になれるだろう、その時にはお前を小座の方として迎えてやるなどと言っていた。だから梅王は、外に多数の足音を聞いたとき、すぐ孫六が言った合戦を思い出したのである。
孫六は、梅王に手伝わせていそいで武具を身につけた。そうしながらも、
「敵襲ぞ、おのおの方、御用意めされ」
と叫んでいた。
鎧《よろい》腹巻を身につけ、太刀を腰にさし二十四本の矢が入っている箙《えびら》を背負い、重籐《しげとう》の弓を取って立上がると、孫六の頭はようやくすっきりした。
「小笠原孫六、物見つかまつる」
と大声で叫ぶと、庭に走り出て、矢倉門の櫓《やぐら》の上にかけ上った。
明けかかった空の薄明りで寄せ手の軍勢の旗を確かめると、車の輪の旗印が見えた。
彼は櫓上《ろじよう》から味方に向かって叫んだ。
「寄せ手は、六波羅の軍に間違いなし、みなの衆、覚悟めされや」
彼はそう怒鳴ると櫓の狭間窓《さまど》を左右におし開いて、
「誰かあらん、わが征矢《そや》を受けて見よ」
と大音声で叫ぶと、箙から十二|束三伏《そくみつぶせ》の矢を取り出して、弓につがえ、満月のように引きしぼり、敵の軍勢の先頭にいた郎党目がけて放った。
矢は郎党がかぶっていた冑《かぶと》の鉢の正面から、うしろ垂れの板まで貫き通した。
孫六の弓には次々と矢がつがえられ、唸《うな》りを発して放たれた。その度に必ず誰かがその矢に当たって死んでいた。その強弓の威力の前に寄せ手は暫時退いたほどだった。孫六は二十四本の矢のうち、二十三本の矢で二十三人の敵を倒した後、最後の一本を冥途《めいど》の旅の土産だと腰にたばさみ、
「正義の武士の死にざまを見よ」
と叫ぶと太刀の鋒《きつさき》を口にくわえて、櫓から真さかさまにとび降りて、自らの太刀に貫かれて死んだ。小笠原孫六の矢によって守られていた正門は間もなく打ちこわされ、六波羅の軍勢はいっせいに屋敷の中に攻め入った。次々と多治見の郎党は討たれて行った。
多治見国長は小笠原孫六が敵を防いでいる間に奥の間で見事に腹を切った。
正中元年(一三二四年)九月十九日の早朝のできごとであった。
六波羅探題金沢貞将は七条|烏丸《からすまる》の船木頼春の屋敷には兵を向けなかった。物見を出して探らせたところ警戒が厳重で、中でなにがなされているか分からないという報告であった。もともと船木頼春は源氏の系統を引く外様《とざま》御家人の一人ではあるが、問題にするほどの大物ではなかった。屋敷も狭くそこにはせいぜい二、三十人しか居ないだろうから、軍をさしむけて攻めるよりも、屋敷を遠巻きにして、他との交通を遮断《しやだん》して置き、明けるを待って踏みこみ、一味を生取りにしようと考えていた。
その夜、船木頼春は特に警戒を厳重にした。いよいよ明朝、六波羅に攻めこむのだから、手ぬかりがあってはならないと考えたのである。家の子、郎党にも、早く休むように言いつけていた。
頼春は深夜家来に揺り起こされた。六波羅の方が明るい、どうも様子が|へん《ヽヽ》だというのである。起き出て見るとたしかにそのとおりだった。
「門外に物見と思われる人の影が時々現われます」
という報告を受けると、もうじっとしてはおられなかった。或は謀叛の計画がばれたのかもしれないと思った。六波羅方面の様子を探らせようと人を出したが、その者は出たまま、いくら待っても帰って来なかった。外を遠巻きに囲んでいた六波羅の者に捕われたのである。更に、
「蟻《あり》の這《は》い出る隙さえございません」
という報告を受けたとき頼春は、あきらめた。彼は家の子、郎党を集め、
「お前たちはなにも知らぬことゆえ、普段通りにしておればよい。なにを訊かれても知らないことは知らないと言い張れよ。事実お前たちはほんとうのことはなにも知らないのだから、それほど心強いことはない。わしの死にざまについては、この頃主人はふさぎ勝ちでなにかしきりに苦にしておりましたが、今宵突然、気が狂ったようにわめき散らし、あっという間に腹を切って死んでしまいました。あまり急なことなので私たちは止めることさえできませんでしたと言うのだ」
頼春はそう言い残して腹を切って死んだ。
翌朝、六波羅の者が踏みこんだときには、家の子、郎党は頼春の遺体の前で、嘆き悲しんでいる最中であった。
この事件に加担したもう一人の武士足助重成は、この日に京にはいなかったが、後日捕えられる前に自害した。
夜が明けると六波羅の動きは活発になった。まず第一に為されたことは、四条河原にいる土岐、多治見等の兵二千の処置であった。この兵等の説得には、土岐、多治見等に縁がある者で、今度の事件には加担しなかった者が当たった。六波羅からも口達者の者が説得に向かった。僧侶《そうりよ》や神官まで出向いて、生命を大事にすることを教えた。
「武器を捨てて、六波羅の命に従うものはいっさいの罪を問わない。故郷《くに》に帰る路銀と食糧を与える」
というのが説得の条件だった。反逆罪の汚名のもとに主人が討たれている現状ではどうにもしようがなくなっている彼等は、降伏の勧告を受け、幾何《いくばく》かの路銀と食糧を貰って、それぞれ故郷へ帰って行った。
日野資朝はいつものとおり起き出て、口をすすいでいる時、六波羅からさし向けられた武士によって捕えられた。
「余を誰だと思う、参議日野資朝なるぞ。恐れ多くも、天皇の近くに奉仕するわれを、天皇のお許しを得ることなしに捕えるとはなんたることぞ、無礼者、さがれ、さがれ」
と威勢を張ったが、六波羅の兵たちは、顔色一つ変えなかった。
資朝は朝食を摂《と》る暇も与えられなかった。なにを言っても、武士たちは聞き入れず、そこら中を土足で踏み荒らして帰って行った。
日野俊基は資朝と同じ日野の一族であったが、資朝よりは身分は低かったし、年も若かった。その朝六波羅から捕吏が出向いたとき、彼は側女《そばめ》と衾《ふすま》を共にしていた。声を掛けても起きないから、捕吏たちは寝室に踏みこんで衾を剥《は》ぎ取った。
俊基は武士等の嘲笑《ちようしよう》の中で衣類を身につけて引き立てられて行った。
その朝公卿で捕吏に捕えられたのは、この二人だけだった。密謀に加わった公卿や僧侶はまだこの他に居たが、訴人土岐頼員の口から出た公卿の名はたまたまこの二人でしかなかった。
金沢貞将は日野資朝と日野俊基の二人を六波羅に引き立てて来たものの、他の罪人のように獄舎に繋《つな》ぐことはできなかった。天皇に対する遠慮であった。二人はそれぞれ別の部屋に押しこめられた。
そのような手ぬるい扱い方ではおそらく何も白状はしないでしょうと、家臣たちは口々に金沢貞将に言ったが、
「探題には探題としての考えがある」
と言って、その扱いは変えなかった。
貞将は二人を軟禁状態にしたままで交互に呼んで取り調べたが、
「われは天皇に奉仕する身である。天皇のお許しなくばなにごとも言うことはできない」
と言って口をつぐんだ。貞将の甘い扱いを見て、なめて掛かったのである。取り調べに協力しないばかりか、居間が悪い、食事が悪い、寝具が悪い、と文句の言い放題であった。一カ月も経つと、
「女がいないとまことに不自由」
とはっきりと女を要求する始末であった。
「公卿という者は虎の威を借る狐以外のなにものでもないと聞いてはいたが、これほどだとは思わなかった」
貞将は、このことを、鎌倉にいる父の金沢貞顕に書面で送った。貞顕は執権補佐の役柄であり、内管領長崎|高資《たかすけ》と並ぶほどの勢力を持っていた。長崎高資が事務官僚の最高峰だとすれば、金沢貞顕は軍務官僚の最高峰とも言うべき人物だった。
貞顕は、日野資朝、日野俊基の二人を鎌倉に護送するように命じた。後醍醐天皇の近くに置いては、とかく扱い難《にく》いだろうと考えたからであった。鎌倉に連れて来て、幕府の取り調べがいかにきびしいものか見せてやろうと考えていた。そのように決定したのは、正中二年の春になってからである。日野資朝、日野俊基が後醍醐天皇がもっとも寵愛《ちようあい》している公卿であるから幕府の取り扱いも慎重であった。
日野俊基、日野資朝の二人が鎌倉に送られたと聞いて後醍醐天皇は万里小路宣房《までのこうじのぶふさ》を勅使として鎌倉につかわした。
日野資朝や日野俊基も、鎌倉へ連れて行かれて拷問《ごうもん》に会えば、なにもかもしゃべってしまうかも知れない。そうなれば、事件に連座したとして更に何人かの人が捕えられるだろう。そして、事件の最高首脳として後醍醐天皇の身辺にまで禍は及び、天皇の座を下らざるを得なくなるやもしれなかった。これを防ぐ唯一つの方法は、
(この度の事件は日野資朝一人で企てたものである。他の公卿たちは勿論《もちろん》のこと、天皇の関係するところではない)
として、罪を日野資朝におしつけてしまうことであった。この案を出したのは万里小路宣房であったから、彼が勅使として選ばれたのである。
万里小路宣房は七十歳を過ぎていたが、皮膚は若者のようにつややかに輝やいていた。この年、彼の若い側室は子供を生んだ。老いて益々《ますます》盛んな公卿であった。
宣房は日野資朝、日野俊基の後を追って鎌倉に到着すると、その日のうちに、使者を通して、内管領長崎高資に、桃の花の枝に添えて金の香炉を天皇からの下賜品として贈った。
「代々の天皇が愛用せられたるもの故に、特にお心をおかけ下されるようにとの主上よりのおおせつけにございます」
と万里小路宣房の使者は長崎高資に伝えた。高資はこの贈り物に恐懼《きようく》感激した。臣下の身でこのような物を下賜されることは従来なかったことであった。高資は、ただただ有難く頂戴いたしますと答えた。
執権補佐の金沢貞顕のところには、昔遣唐使が持ち帰って、代々天皇家に伝えられている、青銅の壺を贈った。
「この壺には、天皇家代々の歴史がこめられております。なにとぞ心してお扱い下されとの主上のおおせつけにございます」
と万里小路宣房の使者は述べた。
金沢貞顕は、有難く頂戴つかまつりますと答えながら、心の中では、天皇が幕府に低姿勢に出て来た裏にあるものを見詰めようとした。
幕府の有力者にそれぞれ贈り物をしてから数日後に万里小路宣房は勅使として鎌倉幕府に乗りこんで行った。彼はいかにも勅使にふさわしいような衣冠束帯に身を飾っていた。冠の後部から垂れ下がっている錦の垂纓《すいえい》が、彼が歩を進めるたびに白い頬に触れた。彼はかすかながらほほえみを浮かべるほどの落ちつきぶりだった。
「このたび起こりたることについて、朝廷内にても厳重に取り調べを進めたる結果、美濃の武士等と語り合って謀叛を計りしものは、参議日野資朝ただ一人であった。他には、この謀議に加わりたるものはなかった。このこと主上に奏上いたせしところ、主上はそのようなことを企てし、日野資朝の身については鎌倉殿の存分の処置にまかせよという御《おん》みことのりであった」
万里小路宣房の声は凛《りん》として響き渡った。
日野資朝が前の年、勅使として鎌倉に来たときの振舞いは目に余るものがあった。彼に対して幕府は少なからざる反感を持っていた。特に、大広間において天狗田楽《てんぐでんがく》を行ったとき歌った歌は、明らかに幕府の政治を誹謗《ひぼう》するものとして幕府要路の者の怒りを買っていた。万里小路宣房が来て、今度の事件は日野資朝ひとりでやったことだと幕府に、朝廷としての申し開きをしたことによって、幕府は大っぴらに日野資朝を処罰することができることになった。
幕府は資朝を死罪と決定したが、世論の反発をおそれて佐渡へ流刑することにした。表面は島流しだったが、裏では、佐渡の守護職、本間山城《ほんまやましろ》入道に折を見て殺せと秘《ひそ》かに命じていたのである。
日野資朝は、京都から勅使として万里小路宣房が来たと聞いて、おそらく、その目的は自分の身を貰い下げてくれるためだと思っていた。ところが、罪はすべて日野資朝にあるから、存分に処置せよと天皇が仰せられたと伝え聞くと資朝は、気が狂ったようになり、勅使に会わせろとあばれ廻った。
彼は金沢貞顕の座敷|牢《ろう》にいたが、屋敷中に聞こえるような声でわめき立てるので、別棟の牢に入れられ、常時二名の見張りが立つようになった。
彼は牢番に向かって、こうなったら、なにもかも正直に話すから、金沢貞顕に会わせろと言った。謀議に参加した公卿は自分の他誰と誰であるなどと、口走ったが、牢番はどこ吹く風という顔をしていた。なにを言っても知らんふりをしていろと命ぜられていたからだった。
日野資朝は終《つい》には、謀議を命じたのは天皇であるとまで言った。だが、牢番は顔を見合わせただけだった。
資朝はほんとうに気が狂ったという噂が立つほどわめき散らした。その多くが天皇に対する怨嗟《えんさ》の言葉であった。
金沢貞顕は、いくらわめいても、彼の声が外に聞こえぬように、二重に密閉した輿《こし》を作らせて、佐渡へ送ることにした。金沢貞顕の家来に、矢野又三郎という武士がいた。又三郎は牢番頭として、しばしば日野資朝のところに顔を出していた。資朝の言葉も、できるかぎり上の者に伝えてはいたが、誰もそれを取上げてくれる者はなかった。すべて泣きごとだと片付けられていた。
又三郎は資朝の心情をあわれんで、いよいよ資朝が佐渡へ送られるという日の朝、自ら牢の格子に身体をくっつけて資朝に言った。
「佐渡へ送られても、おそらくは生きて長らえることはむずかしいでしょう。いっそのこと、この場で、牢番頭の小太刀を奪い取って自害なされませ、そのほうが後の世まで名が残るでしょう」
さあさあと、小太刀をさした腰を格子にすりよせ、小太刀の柄《つか》を二寸ほど格子の内側に入れてやったのに、資朝は恐ろしいものを見るような目で見詰めたままだった。
日野資朝が佐渡へ送られた日、諏訪《すわ》入道時光の屋敷に幽閉されていた日野俊基は許されて、京都へ旅立って行った。
幕府が日野資朝を佐渡に流し、日野俊基を許して京都へ送り返したのは正中二年(一三二五年)八月のことであった。正中の変が起きてから丁度一年が経っていた。
この年の九月に、久しぶりで安藤左衛門が新田庄に義貞を訪れた。安藤左衛門は上野国甘羅《こうずけのくにかんら》郡の地頭であった。国には、代官を置き、彼自身は鎌倉幕府の政所《まんどころ》に出仕していた。彼は母が死んだので、急ぎ帰国し、葬儀を済ませての帰途新田庄に立寄ったのである。訪問の目的は、前年(正中元年)に死んだ新田基氏の墓参のためであった。
左衛門の新田庄訪問のもう一つの目的は女《むすめ》の阿久利や、孫の辰千代(後の新田|義顕《よしあき》)と徳寿丸(後の新田|義興《よしおき》)に会うことだった。辰千代は八歳、徳寿丸は五歳になっていた。
「お祖父《じい》様お出《い》でなさいませ」
と二人が揃《そろ》って手をついて挨拶する顔を見て左衛門は、おうおうと顔をほころばせていた。
「二人とも利発な子だとみなの者が申しておりますが、なにしろ遊びたい盛りなので傅役《ふやく》等を手こずらせている様子です」
と辰千代等がその場を下がったあとで義貞が言った。
孫等が利発だと言われると左衛門もうれしくてたまらないようであった。
左衛門は、基氏の墓参を済ませ、孫の辰千代等に会ってほっとしたところなので、なんとなくくつろいだ気持ちで義貞に言った。
「昨年、京都で起こったこと(正中の変)のあらまし及びその始末については、既に御存知とは思いますが、鎌倉にいて、いささかくわしく聞き知ったこともありますので、もしも、お望みならばお話しいたしましょうか」
と言った。
「そのことはくわしく聞きたいと思っていたところです。ぜひお願いします」
義貞は、そう言うと、すぐに執事の船田義昌と、弟の脇屋義助を呼び寄せた。話の中にはあまり大ぴらに言いたくないこともあろうと思って、義昌と義助だけを呼んだのである。
「まず、昨年の九月に京都で起きた事件でございますが、これについては実にこまかい資料が六波羅から鎌倉あてに送られて来ております」
左衛門はそう前置きして、彼が読んだ報告書の内容について、
「この事件は、明らかに後醍醐天皇が中心となり、数名の公卿と数名の僧侶、それに数名の武士が寄り集まって、幕府転覆の謀議に謀議、密謀に密謀を重ねた上、いよいよ、翌朝という前夜に、土岐頼員の裏切りによって、水泡《すいほう》と帰したのであります」
と結論を先に言ってから話し出した。
左衛門の話し方は淡々としていたが、真実が詳しく述べられていた。三人は食い入るような目を左衛門に向けて聞き入っていた。話は、いよいよ大詰めに来た。いっさいの責任を負わされた日野資朝が、牢の中で狂ったように泣き叫ぶ段になったとき、義貞が一|膝《ひざ》前に乗り出した。なにか言いたげだった。
「後醍醐天皇は日野資朝を使うだけ使って捨てられたのです。そうするよう進言したのは万里小路宣房卿だったとしても、天皇としたら、なんとかして資朝を救助すべき方策を講ずべきだったと思います。命だけは助けてやってくれというくらいのことは言えたのでしょうが、それを言わず、幕府に対して存分にせよと言って、一人の男を捨てられたのです。ばかをみたのは資朝一人ということになります。だから彼が気が狂わんばかりになったのも当然です。天皇は、日《ひ》の本《もと》の人間はすべて天皇に隷属すべきものと考えられ、その下に働く公卿衆もまた、自分は天皇の直ぐ近くに居て、天皇に継いで偉いのだから日の本の人間はすべて公卿の言うことを聞くべきだという考えを持っています。だからこそ彼等は土岐一族や多治見一族を犠牲にしました。事変後土岐、多治見の屋敷内は血の海となっており、その中に家の子郎党の死体がころがっていました。血が乾いても、後難をおそれて誰も死体を引取りに来ませんでした。死体は三日後に六波羅の役人が連れて来た時宗の僧によって葬られたのです」
安藤左衛門はここで言葉を切って、義貞等の顔を見て言った。
「土岐、多治見等は明らかに後醍醐天皇とその公卿達の命令に従って事を起こそうとして破れたのです。その遺体は、いかなる手を尽くしても天皇方の手によって葬られるべきでした。なぜそうしなかったかというと、彼等は、武士は朝廷のために死ぬのは当たり前だという考えがあるからです。自分たちが一段と偉い人間だと考えているからです。つまり、公卿たちは自分たちのために人がある。自分さえよければ人はどうなってもよいという、きわめて古い考え方があり、その犠牲になったのが、土岐、多治見の武士団だったのです。そして、その武士団を指揮していた日野資朝もまた、天皇の身の安全を守るために犠牲の列に加えられたのです」
左衛門はそこまで話してしばらく休んだ。
「それほどなにもかもはっきりしていて、なぜ幕府は、公卿達をそのままにして置いたのです。天皇をお移し申さなかったのです」
と訊いたのは脇屋義助だった。
「幕府は自信がないのです。そんなことをすれば、幕府に反感を持っている全国の武士団が後醍醐天皇をお救《たす》け申すという大義名分を掲げて争乱を起こす可能性があるからです」
「では、幕府はこのまましばらく様子を見ようというのですか」
「それしかないでしょう、様子を見ながら機会を待つというところでしょうか」
「後醍醐天皇方もこのまま黙ってはいないでしょう。どうなされるでしょうか」
さあ、それはと安藤左衛門は周囲を見廻してから、
「既に次の密謀に取り掛かっているでしょう、幕府をうまいことごまかしたと思いこんでいる彼等は、第二の日野資朝、第三の日野資朝を、或は商人に、或は天狗に化けさせて諸国を駈け巡らせていることでしょう」
安藤左衛門は薄気味悪いことを言った。
「昨年のような事変はまた近いうちに起きましょうや」
と船田義昌が安藤左衛門に問うた。
「今度の事件で幕府が朝廷に対して弱体をさらけ出した以上、朝廷は必ず、次の手を打つでしょう。しかし、前と同じような|へま《ヽヽ》はやらないでしょうね。もっともっと上手に武士団を手なずけようとするでしょう。だが、誘いに乗って迂闊《うかつ》に動いてはなりませんぞ、土岐一族、多治見一族がよい見本です。朝廷側は天皇親政の世を口にしながらも、その心の根にあるものは武士は公卿《くぎよう》衆の道具であるという信念です。単なる道具に使われるくらいなら、なにもしないでじっとしていたほうが増しです」
安藤左衛門は語を強めて言った。
「公卿とはそんなものでしょうか」
義貞が発言した。彼は資朝を知っていた。その最後が最後だけに哀れに思っていたところに、左衛門が公卿をきびしく批判したので、ついそんな言葉が出てしまったのである。
「そうです、公卿とは天皇から一度離れてしまうと、全く役に立たない無用の長物となります。資朝がよい例です。去年は天皇を笠に着てあれほど大威張りをしていたのが、いざ罪人の座に座ったとなると、あの取り乱しぶりはどうでしょう、牢番頭に自害せよと小太刀を与えられたのに、それさえ手に取ることができなかったのです。武士は死ぬ覚悟でことに当たります。ですから、密事露顕と知ると土岐や多治見は立派に腹を切りました。ところがこの密事に加わった公卿衆は資朝をはじめとして死ぬことなど考えていた者は一人としていなかったのです。彼等は死ぬのは武士であって、その武士を使って生きるのは公卿だと考えているのです」
左衛門の意見は鎌倉幕府に勤仕している侍たちの意見であった。幕府首脳部の弱体に対する批判と同じぐらいの強さで、公卿社会に向けた憎しみの言葉は、新田庄にあって、のうのうと暮らしている義貞等には容易に理解することはできなかった。
「お館《やかた》様、これからは、目まぐるしく世が移り変わって行きます。あちこちに、反幕府の渦が起こるでしょう。その一つの大きな渦の目にお館様がなるのは確実です。それは源氏の嫡流|即《すなわ》ち源氏の統領という目でございます。そうなるのは自然の勢いです」
そのような時の流れに逆らってはならないと左衛門は言った。
「最後の最後まで自重のほどをお願いいたします。くれぐれも、朝廷方の道具として使い捨てにならないように御用心ください」
左衛門はそこでひと息ついた。
「左衛門殿のお話を聞いていると、不安だけが先に立って、われわれはいったいどうしたらよいのか分からなくなります」
脇屋義助がつぶやくように言った。
「時勢の動きを横目で見ながら、実力を蓄えることです。物も人も、せっせとため込むことです。武術を練り、いざという時に役立つ人間をなるべく多くたくわえて置くことです」
安藤左衛門は義助を睨《にら》みつけるようにして言った。
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『太平記』の「頼員回忠事《ヨリカズカヘリチユウノコト》」には、次のように書かれている。
「謀反人ノ与党、土岐左近蔵人頼員ハ、六波羅ノ奉行斎藤太郎左衛門尉利行ガ女《ムスメ》ト嫁シテ、最愛シタリケルガ,世中|已《スデ》ニ乱テ、合戦|出来《イデキタ》リナバ、千ニ一モ討死セズト云事有マジト思ケル間、兼テ余波《ナゴリ》ヤ惜カリケン、或夜ノ寝覚ノ物語ニ、『一樹ノ陰ニ宿リ、同流ヲ汲モ、皆是多生ノ縁不浅。中略。今|若《モシ》我身ハカナク成ヌト聞給フ事有バ、無ラン跡マデモ貞女ノ心ヲ失ハデ、我後世ヲ問給へ』」(岩波書店刊日本古典文学大系 太平記一)
もし俺が死んだら、あとのことをたのむなどと、日頃口に出したこともない言葉を妻に語れば、たいていの女なら、これは|へん《ヽヽ》だと気が付くのは当たり前である。
『太平記』は小説であるから、このあたりは著者が書きこんだところだと思われるが、人情の機微については、この時代と今とそうは変わらない。そこにまた面白さがあるのかも知れない。
正中の変はくわしい文献が他にないから分からないが、どうもこの事変は、後醍醐天皇一派が、幕府の心を打診するための芝居のように思われてならない。『太平記』に書いてあることがほんとうなら、天皇派はあまりにも幕府の実力を過小評価していたということになる。
芝居であれ本気であれ、正中の変によって幕府の弱体は見事にさらけ出されたわけであって、この事変によって、後醍醐天皇が倒幕の可能性ありと判定せられたことは間違いない事実だろう。
新田義貞の祖父新田基氏が死んだのは元亨《げんこう》四年(正中元年)六月十一日であった。円福寺五輪塔銘に、
沙彌《しやみ》道義七十二逝去元亨四季 甲子六月十一日 巳時
とあることが、新田氏根本史料に記されている。
円福寺は太田市別所というところにあった。無住職の寺で荒れ果てた境内の裏手に廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。新田氏代々の墓だと言われても、にわかに信じがたいようなたたずまいであった。新田氏代々の墓という感じではなく、どこかそのあたりにころがっていた五輪の塔をそこに集めて置いたようにさえ見えた。訪れる人は無いらしくなにもかも忘れ去られた遠い過去を見るように悲しい気持ちで五輪の塔に手を合わせていると、頭上で小鳥の声がした。それが救いだった。
新田氏根本史料に載っているとおりの碑銘があるかどうか確かめたが、分からなかった。
別所という意味は現在で言うところの別荘の意味に使われていて、由良に館ができたころ、ここに別所として館ができ、そこに円福寺が建てられたと言い伝えられている。
新田基氏について書かれたものはなにもないが、基氏が死んだ年の七月二十八日に、義貞が土地三丁歩を小此木《おこのぎ》盛光妻紀氏に譲っている。この記録は長楽寺文書の中にあり、当時は寺に寄付するときは、一応第三者の手を経由していたから、これは義貞が、祖父基氏の菩提《ぼだい》を葬うための寄進と見なしてよいと思う。義貞が祖父に対して為したこの行為から、私は基氏という人間を創り出したのである。
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一族一体
正中は二年で終わり、嘉暦《かりやく》に元号が変わって間も無く後醍醐天皇の皇太子|邦良《くになが》親王が病死した。
持明院統側は早速幕府に対して、後伏見天皇の皇子|量仁《かずひと》親王(後の光厳《こうごん》天皇)を皇太子に立てるよう運動して、これが七月になって実現した。両統迭立の申し合わせによると、あと二年後の嘉暦三年(一三二八年)には、後醍醐天皇は皇位を量仁親王、つまり持明院統に譲らねばならないことになったのである。
後醍醐天皇はその間に、なんとかして天皇の地位を固め、更に天皇の座を守りたいと考えていた。だが、両統迭立の原則は幕府が間に立って、持明院統と大覚寺統との間に取り交わした約束であり、そう簡単に破棄することはできなかった。
後醍醐天皇がこの約束を破って、尚《なお》も天皇の座に留《とど》まるためには、ここに何等かの変革がなければならなかった。後醍醐天皇を初めとし、後醍醐天皇の側近の公卿達が再び幕府転覆を真剣になって考えるようになったのは、このようなさし迫った事情があったからである。
後醍醐天皇は正応《しようおう》元年(一二八八年)に大覚寺統、後宇多天皇の第二皇子として誕生した。母は談天門院忠子《だんてんもんいんただこ》であった。二十一歳で皇太子になり、文保二年(一三一八年)三十一歳で花園天皇の譲位により即位したのである。
天皇はなかなかの精力家で、后妃合わせて十八人があり、この后妃中宮等から皇子十八人、皇女十八人合わせて三十六人の御子《みこ》をもうけた。
天皇は倒幕の気持ちがはっきりして来ると、皇子たちを、延暦寺、三井寺(園城寺《おんじようじ》)等に次々と送りこんだ。後醍醐天皇の第三皇子|護良《もりなが》親王が天台座主《てんだいざす》に任ぜられたのは嘉暦二年(一三二七年)の十二月であった。親王は十九歳であった。護良親王は六尺豊かな大丈夫であり、武芸を好み、天台座主となって着任したその日から、経など一切読まず、朝から晩まで僧兵を相手に武芸の稽古にいそしんでいた。
後醍醐天皇が皇子たちを次々と大きな寺社に送りこむということは、大覚寺統が寺社の持つ武力と結託《けつたく》するということであった。当時の寺社が持つ武力はあなどるべからざるものがあった。特に比叡山のような自然を要害とした寺社集団がこぞって天皇側に付けば幕府もうっかり手は出せなくなる。これは過去の歴史が示しているところであった。
護良親王が天台座主になったという報は鎌倉幕府の要路のものを刺戟《しげき》した。幕府は後醍醐天皇に対する警戒の目を厳重にした。天皇に近づく人の名はすべて調べ上げられ、その都度人名簿は六波羅から鎌倉へ送られていた。
後醍醐天皇の動きに対して、持明院統の後伏見上皇は、なにがなんでも皇位を持明院統の量仁親王に持って来ようとして、盛大な践祚《せんそ》達成祈願を諸方の神社で行った。
量仁親王は皇太子である。皇太子の践祚祈願は即ち後醍醐天皇の譲位が早からんことを祈願したと同じことであった。持明院統は大覚寺統に対してはっきりと宣戦を布告したようなものであった。
持明院統がこのようなことをするのを大覚寺統は黙って眺めてはいなかった。後醍醐天皇の皇位安泰を計るための祈願祭がいとも盛大に京都と奈良で行われていた。
大覚寺統と持明院統との皇位継承争いに鎌倉幕府が一枚加わって、京都における祈祷《きとう》合戦と宣伝合戦になっている模様は、鎌倉の安藤左衛門を通じて新田義貞に逐一報告されていた。
義貞は、正中の変は、次に起こるべき大乱の前兆であると安藤左衛門が語ったことを重視していた。来るべき時に備えよと言ったことも肝に銘じて受け取っていた。
義貞は、船田義昌、脇屋義助と三人で話し合った結果、この際、天下の情勢とその心構えについては同族の主なる者を集めて話したほうがよいだろうということになった。
「先んずる者は人を制す」
という言葉を船田義昌は口にしたあとで、
「いまのうちから用意していたらいざというときにあわてずに済むでしょう」
とも言った。
だが、特に用も無いのに同族を集めることは他に対して聞こえがよくなかった。こういうことをおおっぴらにすれば幕府に密告されて、ひどい目に会うことがある。
「そうだ。今年の秋行われる、太郎の袴着《はかまぎ》の式の当日、主なる者を呼んで、話したらどうであろうか」
と義貞が言った。
太郎(後の義宗)は義貞の正室|美禰《みね》の方の生んだ子である。正中元年(一三二四年)に生まれたから、嘉暦三年(一三二八年)には数え年五歳であった。兄、辰千代(後の義顕)、次兄、徳寿丸(後の義興)に次いで三番目に生まれたけれど、母が正室であるから、新田家の嫡男として位置付けられていた。
当時、袴着の式は、元服の式と同じように盛大に行われていた。その袴着の式において、その子は幼年から少年の仲間入りをしたことになるのである。また、その子が嫡男の場合は、嫡男であることの公示のためにも、必ず行われる儀式であった。少年は生まれてはじめて袴をつけさせられ、傅役の介添えで、碁盤の上に立たされるのである。式はこれで終わるが、実はこの後がたいへんだった。お祝いを持って参集した者は大広間に招かれ酒肴《しゆこう》を出されて、一晩中飲み明かす習慣になっていた。
太郎の袴着の式は十一月の吉日を選んで行われた。
義貞はこの式に集まった新田氏一族を集めて挨拶をしたあとで、
「当今、世の中がすこぶる騒がしくなったという噂《うわさ》は聞き知っているであろうが、その内容についてはあまりくわしく知らされていないようだから、余が伝え聞いたことをみなの者にも知らせたいと思う」
と言った。ぜひ聞かせて欲しいという声があちらこちらから起きた。
「ではお話し申す。だがこの話は余が見たわけではなく、伝え聞いたものだから、そのへんのところは充分わきまえて貰いたい」
義貞は安藤左衛門から聞いた、正中の変の真相をそのまま話してやった。特に修飾することも隠すこともないと思ったからである。同族の者にはなるべく真実を伝えて置いたほうが今後のためになると思ったからだった。安藤左衛門の名は飽くまでも伏せて置いた。
「京都では天皇家が二つに分かれて争いを始めたらしいし、幕府はこれに干渉する姿勢を見せているようだから、近々また一騒動が起こるかもしれない。それについて、一言二言言って置きたいことがある」
義貞はそう前置きして話しはじめた。
「後醍醐天皇が幕府の勧告を無視して天皇の座に留まろうとすれば、幕府との間に必ず争いは起こるだろう。そうなる前に天皇は、必ず各地の武士に協力を求められる。山伏や僧や商人に身を変えた天皇側の使者が現われて、天皇方にお味方せよというようなことを言って来るかもしれない。そういう時には、うっかり、その言葉を信じて引き受けてはならぬ。われらは幕府のもとにあって、今日こうして無事生きている。幕府に疑われるような行動は慎むべきである。このような時に当たって鎌倉幕府に忠実であらんがためには、いざという場合、幕府の力となって働けるよう準備をすることである。産業を興し、武芸を練り、馬を肥やして、その日を待つことこそ、幕府御家人としてのつとめでなくてなんであろうぞ」
義貞は表面上は幕府を立ててものを言った。こういう限りにおいて、言質を取られて後日、とやかく言われることはなかった。壁に耳ありという言葉はこのころ既に使われていた。
だが同族のほとんどは義貞の言葉の裏を知っていた。幕府に忠節を尽くせということは自らを守れということであった。そのために心を引きしめよと言っている義貞の配慮は痛いほど身にしみた。
(お館様は、戦乱近しと見ておられるのだ。いったい、お館様はその戦乱の渦中にあって、わが一族をどのような方向に率いて行こうと考えておられるのであろうか)
それを知りたかったが、訊《き》けなかった。訊いたところで義貞に答えられるものでもなかった。
「いかなることが起ころうが、この義貞を信頼して従《つ》いて来て貰いたい。源氏の一族は団結してこそ力を発揮することができるのだ。わが新田一族は最後の最後まで一体でなくてはならぬ。生きるも死ぬも常に一族一体でなければならない。そうあってほしいものだ」
一族一体という言葉が義貞の口から出たとき、一同はしゅんとなった。悲愴《ひそう》感と言おうか危機感と言おうか、今にも目の前に、名前も分からぬ敵の大軍が現われたような気持ちだった。しかし彼等は、確かなものを一つだけ義貞の言葉の中から拾い上げていた。それは近々、大戦乱が起こるということだった。
義貞が新田一族を集めて、教訓を与えたこの一事を、新田一族たちは「霜月の戒め」と称して、それぞれが心の中に深くおさめていた。
義貞は「霜月の戒め」を一族に与えたその翌日から、まず自らが活動を始めた。
彼は船田義昌と篠原|憲氏《のりうじ》の両名を鎌倉にやり、七年前に鎌倉の新藤吾|宗光《むねみつ》(後の五郎正宗)のところへ刀鍛冶《かたなかじ》の修業に派遣した数人の者を連れ帰ることを命ずると共にでき得れば、新藤吾宗光に乞うて、既に刀鍛冶として申し分のない者二、三名を割愛して貰ってくるように指示し、また刀屋三郎四郎が居ったら会って来るように命じた。
篠原憲氏を鎌倉へ同行させたのは、彼が金山城番頭をつとめるかたわら、菅の沢のたたら場(製鉄場)の管理もしており、刀鍛冶見習いの若者の選出にも一役買っていたからだった。
二人は鎌倉に出て新田屋敷に落着き、留守居役の矢島五郎丸に会って、義貞の命令を伝え、連れ立って新藤吾宗光の屋敷を訪れた。刀屋三郎四郎は京都に帰っていた。
宗光は快く三人を迎えた。
「新田庄から修業に来られた五人は、もうとっくに一人前の刀鍛冶になっております。もともと、ここに来る前から鍛冶としての素養はあったのですから、あとは刀鍛冶としての|こつ《ヽヽ》のようなものを覚えるだけでした。たいしたものですよ、あの五人は。あの人たちに鍛《う》たせた刀と私が鍛った刀を比較して見ると、刀そのもののできばえではほとんど相違がありません。そのくらい立派のものが鍛てるようになりました」
と宗光は五人の刀鍛冶を讃《ほ》めた。誰かしっかりした刀鍛冶を二、三人連れて帰りたいという申し込みには、
「欲しければ、二、三人と言わず、五人でも六人でもお世話をいたしますが、新田庄から来た五人と、その者等との技倆《ぎりよう》の差はございませんから、向こうへ行って、かえってやり難くなるのではないでしょうか」
宗光はそう言って、篠原憲氏等をそれぞれ鍛冶場へ連れて行った。
宗光の屋敷の中には、鍛冶場が五棟も並んでいた。そこに多くの刀鍛冶が働いていた。
「刀鍛冶は製造の秘密を守るために、仕事場に余人は絶対に入れないことになっていますが、私のところでは、相手が誰であろうと見たいという方にはお見せしております。私は秘密を持つことは嫌いです。誰であれ良い刀ができたら、それでいいのだと思っています。相手が私と同じようなものを鍛てるようになれば、私はそれ以上のものができるよう工夫いたします」
宗光はそう言って笑った。
相州|もの《ヽヽ》と言われる|わざもの《ヽヽヽヽ》を世に出し、日本刀の革命を起こした人だけあって宗光の言うことは人並みではなかった。
「私は秘密を持ちません、誰にでも仕事場はお見せします。だが、仕事場をちょっと見ただけで、私の製法が真似られるかというと、そうではありません,新田庄から来た五人が、私の刀の製法の|こつ《ヽヽ》を飲みこむのに五年はかかったのですからね」
五年は長いことですよと宗光は言った。
三人は新藤吾宗光の案内で鍛冶場を廻った。一般の刀鍛冶と特に違ったところはなかった。大きな建物の中に、五組か六組の刀鍛冶がいて、同時に数本の刀が鍛たれているのが珍しかった。
「同じ場所で幾組かが仕事をするのは、気が散ってよくないという人がいます。それは逆です。お互いにはげみになってかえって仕事はすすみます」
宗光が三人の耳もとでそう説明するけれども、内容は鉄槌《かなづち》の音でほとんど聞こえなかった。
音と熱気の世界から逃れるようにして外に出たところで宗光は三人に言った。
「新田庄で刀の製造に取り掛かるとして、先立つものは、玉鋼《たまがね》ですが、これを手に入れるのはなかなかたいへんですよ」
日本刀を作るには出雲《いずも》、伯耆《ほうき》、因幡《いなば》等の山陰地方から取れる砂鉄で作った玉鋼が必要だった。玉鋼だけで作るのではなく、他の鉄も使うけれども、玉鋼が刀の皮鉄《かわがね》になり、心鉄《しんがね》には軟かい鉄に僅かに玉鋼を加えて鍛錬したものが使用されていた。刀は心が軟かく、周囲が硬いから、折れず、曲がらず、よく切れるという日本刀の特色を生かすことができたのである。
「新田庄には、庖丁《ほうちよう》鉄(軟かい鉄)がたくさん出ると聞きましたが、玉鋼はやはり購入せねばならないでしょう。さあそれがたいへんなことですな」
と宗光は言った。
新田庄で刀剣製造を始めるのはいいが、材料の手配はしてあるかという批判であった。
「やはり商人を通じて手に入れねばならないでしょうな」
と船田義昌が探りを入れると、宗光は、
「勿論そうです。ところが、なにしろ遠い国から取り寄せることになるので、途中に何人もの商人が入ることになって、途方もない高いものになります。刀の値段が高い原因の一つはそのあたりにあります」
宗光は三人の顔を見て笑っていた。どうです、日本刀作りもそう簡単ではないでしょうという顔だった。
「その玉鋼の商人は鎌倉に来ておりますか」
篠原憲氏が訊いた。
「はいはい、年に何回か伯耆の国から玉鋼を持って船で来る商人がおります」
と言いかけて、宗光は、
「そうそう、丁度いまその人たちが鎌倉に来ています。御紹介いたしましょうか」
と気軽に言ってくれた。
船田義昌と篠原憲氏は宗光の紹介で、伯耆からやって来た玉鋼屋に、その翌日会った。
伯耆からやって来たというから、馬で来たのかと思ったら、そうではなく、船で、瀬戸内海に出、それから、堺の港で荷を積みかえて、海路鎌倉の港まで運んで来るということだった。
「鎌倉の港がもっと完備した港だったら、堺に寄らずにそのままここまで運んで来られるのですが」
と玉鋼商人たちは、既に西風の季節風が吹き出した海の方に目をやりながら言った。
伯耆の国から玉鋼を持って鎌倉に来ている商人は関の市郎丸という男だった。商人だから愛想は良いが、なかなかどうして一筋縄では行きそうもないしたたか者で、船田義昌や篠原憲氏が、玉鋼の取り引きについての商談を始めようとしても、そういう話が近頃多くて、生産が追いつかずに困っていますなどと逃げを打つのである。良い条件で取り引きをしようという魂胆は見えすいていた。
篠原憲氏が船田義昌に向かって言った。
「こういう話は急いでは失敗します。十日や二十日はかかるつもりで頑張らないと、まとまらないでしょう。私は、そのためにしばらく鎌倉に居残りたいと思いますが、いかがでしょうか」
と言った。義昌もそれには同感だった。憲氏は鉄のことにかけては専門的な知識もあるから、彼に交渉させてもまず間違いないだろうと思った。
「ついてはいささか、金が要るかと思いますが、御承知置き下さいますように」
と憲氏が言った。接待費が要るのだなと義昌は察した。商人から接待される話は聞いているが、こっちが商人を接待する話は聞いてない。しかし、玉鋼が不足となれば、これも止《や》むを得ないだろうと思った。
「必要なだけ、矢島五郎丸から貰え」
と言いながらも、たいしたことはないだろうと思っていた。
義昌は憲氏を鎌倉に残して、新藤吾宗光から、宗新《むねしん》、宗田《むねでん》、宗庄《むねしよう》、宗鍛《むねうち》、宗冶《むねや》とそれぞれ宗《むね》の一字を与えられた刀鍛冶五人を連れて新田庄に帰って行った。五人の宗の下につく字をつなぐと「新田庄鍛冶」となる新藤吾宗光の思いつきによるものであった。
憲氏が関の市郎丸をつれて新田庄に帰ったのはそれから二十日ばかり経ってからであった。
関の市郎丸が玉鋼を新田庄に送ることを引き受けたのである。それについて、尚くわしい打ち合わせに来たのであった。
義貞は大いに喜んだ。関の市郎丸と篠原憲氏を呼んで、どのようにして玉鋼を運んで来るかについて訊くと、関の市郎丸はたちどころに答えて言った。
「伯耆から越後までは舟で運びます。越後から上野までは、馬の背で運べばよいと考えます。越後の国には新田氏の御一族や源氏の一族が居られるから、一度、玉鋼の道さえ作れば、後はなめらかにことは運ぶと思います」
関の市郎丸は答えたあとで、この考えは篠原憲氏殿のお考えですと言った。
義貞は関の市郎丸が宿舎に帰ったあとで、篠原憲氏に直接訊いた。
「なかなか、たいへんのようだったが、どのようにして話をここまで運んだのか」
それに対して篠原憲氏はけろりとした顔で答えた。
「どのようにも、このようにもございません、私は毎晩関の市郎丸を誘って、化粧坂《けわいざか》へ出かけていました。二人は、女好きということで大いに気が合いましたので、女以外の話はほとんどせず、この二十日ばかりをただ夢のように過ごしてまいりました」
そして、あっけに取られている義貞の前で憲氏は、
「鎌倉の女はなぜあれほど肌が滑らかなのでしょうか」
とぬけぬけと言った。
義貞は里見の郷に来ていた。乳兄弟の多胡《たこ》義道が常に彼の傍《そば》にあった。義貞が小太郎と言っていたころの遊び仲間の多くは、義貞の旗本として里見を離れていたが、故郷に留まっている者もいた。
義貞は里見郷の主なる者を集めて、馬の育成について説いた。農馬ではなく、騎馬をより多く育てるためには牧を拡大しなければならないが、それには限りがあるから、自作農以上の農家は必ず一頭の騎馬を養うように指導せよと命じたのである。
「自作農以上と言っても、五段歩を耕す自作農もあり、五町歩を耕作する大農もあります。その段別によって馬の数を割当てたらいかがでしょうか」
という意見があったが、義貞は取敢《とりあ》えず、自作農以上が一軒に一頭の乗馬ということにし、その結果によって、改めようと言った。
「家で養った馬は一定期間牧に放し、牧に居る馬は定期的に里に返す。このやりとりこそ、馬の管理にもっとも必要である」
と義貞が言った。このようにすべきだと進言したのは多胡義道だったから、義貞は、義道を乗馬育成のための奉行としてしばらく里見に残すことにした。
自作農以上は、騎馬一頭を必ず養えということは、農家にとってかなりの負担であった。だが義貞は、そうしないと、いざという時、新田軍団を編成できないことをよく知っていた。里見郷は牧に近く、馬を飼うには地の利を得ていた。此処《ここ》でこの案の成功の見込みがついたら、他の新田一族にも実行させようと思っていた。
「次に、自作農以上の家からは若者一人を出して、十日に一度ずつ、武芸の稽古を受けさせること。こう言っても農繁期には、無理だろうからその分は農閑期にまとめてやってよろしい。武芸は乗馬、弓、鉾《ほこ》、太刀等の使い方と、城取り競争である」
義貞は城取り競争と言ってから、みんなの顔を見た。幼な友達だった者はその意味が分かったから、ごく当たり前のことのように頷《うなず》いていたが、他の者は理解できないでいた。
「義道、城取り競争は、いかなるものか教えてやるがよい」
と義貞に言われて多胡義道は、皆の前に立ち上がって説明した。
「要するに、子供たちの城取りごっこの真似を大人がやると思えばよいのだ。人数を白と紅《あか》の二隊に分けて、それぞれ物見を出して相手の動きを探りながら、相手が守っている城を取る。この場合、武器は使わない、素手で戦うのだ」
彼等は分かったような分からないような顔で聞いていた。なんのために戦さごっこなどやらねばならないかという顔でいた。
「世が乱れたら、何時何処《いつどこ》から敵がやって来て、お前等を追出してこの地を取るか分からない。土地を取られないためには自分を守らねばならない。そのために、武芸が必要になって来るのだ」
義貞は一息に言ってしまってみなの反応を見た。敵がやって来ると言っても、別に驚いた顔をしてはいなかった。
義貞は収穫高の増大を計ろうとした。
土地はあっても痩《や》せ地や水に不便なところばかりだった。彼は新しく開墾する前に、現在あるところの土地を最大限に生かすよう工夫せよと命じた。水路や貯水池を作ることによって旱魃《かんばつ》に対する備えをし、作物の品種の改良を奨励して収穫高の安定を計った。
このような農業政策の実行は一人や二人でできるものではなかった。適当な指導者を得て、長期間かかって達成されるものであった。義貞はそれを充分にわきまえた上で、在野の篤農家や、測量に明るい人々を次々と登庸した。
義貞が里見に来て、これらの仕事を始めたのは、里見を実験地として、この成果を他の新田一族の領地へ敷衍《ふえん》しようという腹があってのことだったが、なんとしても、里見の地は彼の母の出身地であり、義貞自身が生まれたところでもあったので仕事がやりやすかったからである。
義貞が里見の郷に留まって、乗馬の育成や農兵の訓練、農事の振興を積極的におしすすめようとしたことは、新田一族及び源氏にゆかりのある他の郷にたちまち影響をおよぼした。
特に、乗馬育成策と農兵訓練という二つの項目については、人々の危機感を煽《あお》った。
(近く大戦乱が始まるぞ、お館様はその用意をせよと言われているのだ)
と人々は受取っていた。じっとしてはおられない気持ちだった。その緊張感が、各地各郷における乗馬育成や農兵訓練の効果を上げたことはいなめない事実だった。
ある日、義貞が、伯父の里見基秀、従弟《いとこ》の里見|義胤《よしたね》等と、農民兵に教えるための武芸の内容について打ち合わせをしているところへ多胡義道が一人の若者と共にやって来た。
「この者の申すには最近、榛名山《はるなさん》の山麓《さんろく》の白岩観音堂において天狗講《てんぐこう》と申す会合が開かれているとのことでございます。集まるものの多くは修験者《しゆげんじや》、山伏たちであり、これに参加するものは予《あらかじ》め天狗の面を用意して臨むという規則になっておるとのことでございます」
なんだ、と里見基秀は眼を見張った。基秀は義貞の伯父であると同時に傅役《ふやく》でもあった人で、ものごとをしごく真正直に受取る人柄だったから、多胡義道の言葉にひどく驚いたようであった。義道にかわって、義道が連れて来た若者が後を続けた。
「天狗講に参加できる者は、修験者や山伏ということになっていますが、天狗の面をかぶって山伏のような姿をして行くかぎりでは顔を見られることもないし、その人が山伏かどうかを特に改めるようなこともないので、近くの物好きが、三々、五々と連れ立って天狗講を聞きに参っております」
若者は言った。
「で、その天狗講の内容はいかなるものだ」
と義胤が訊くと、若者は、少々困ったような顔で、
「実は、私はまだ行ったことはございません。聞いた話では、たいへん面白い話だったということです。|ため《ヽヽ》になる話だったという人もあり、今の世の中を、遠《と》つ国の話になぞらえて、あてこすっているのだと言う人もございました」
それを聞いて、義貞がはてなと首をひねった。
義貞は天狗講の噂を聞いているうち、その内容を自分の耳で確かめてみたいと思った。が、伯父の基秀の前でそんなことを言えば、そのような軽率なことをとたしなめられるに決まっているので、その場では黙っていて、後で、多胡義道を呼び、胸中を打ち明けた。
「では、お館様自らが白岩観音へ?」
義道はちょっと驚いたようであったが、すぐ、
「それでは、しかるべき案内者を探しますから、しばらくの御猶予を」
と言って出て行った。
翌日彼は修験者姿の広神《ひろがみ》善道坊と名乗る男を義貞のところへつれて来た。
「広神?」
と思わず、口に出した義貞の傍に来て、義道は、
「広神の阿久美《あくみ》の弟でございます」
とささやいた。
善道坊は以前から修験者として行を積んでいた。同じ里見の出身でもあり、多胡義道と面識の仲でもあった。
義貞が善道坊に天狗講のことを訊くと、
「その噂は聞いておりましたが、しばらくこの地を離れて修行中だったので、まだ行ったことはございません。時節柄、ぜひ一度は参講したいと思っていました」
善道坊は顔を上げて言った。時節柄、という言葉が気になったので、そのことについて聞きただすと、
「私は、三日前に越後から帰って来たばかりでございます。越後の修験者仲間の間には、白岩観音の天狗講はずいぶんと評判になっておりました。修験者や地方豪族、在野の武士などの間に天狗講話を聞かない者は時代遅れと言ったような風潮さえ立ちつつある状態です。時節柄とはそのような意味でございます」
善道坊の目は大きかった。阿久美の目も大きかったが、善道坊の髯面《ひげづら》から阿久美の幼な顔を連想することはできなかった。
「地方の豪族、在野の武士と申したな」
はい、と善道坊は答えて、
「そのほとんどは源氏にゆかりある者と聞いております」
善道坊は、お館様が知らぬとは、まことに不思議なことであるというような顔をした。
「では、この里見の郷で、既にその天狗講を聞いた者もあろう」
と多胡義道に訊くと、
「実は、里見義胤様は既に天狗講は聞いておられます」
と言いながら、申しわけなさそうにうつ向いた。
「義胤が? なぜそれを黙っていたのだ」
それはと、多胡義道は言い難《にく》そうな顔をしたが、
「実は、あの若者をお館様のところへ連れて行くようにと申されたのも義胤様でございます」
と言った。義胤は既に天狗講を聞いて、それを従兄《いとこ》の義貞に聞かせんがために、義道や若者を使ったのだと分かって、義貞はまた驚いた。知らない間に、自分の周辺が、なんとなく物騒がしくなっているという感じだった。不安が先に立った。天狗とは即《すなわ》ち、後醍醐天皇の一派であるときめてかかるのは早計だが、そうではないと否定できなかった。
天狗講は三日、十三日、二十三日、と三が付く日を選んで月三回行われていた。
「明日がその十三日でございます。用意の品々はすべて取りそろえてございます」
と、多胡義道が言った。山伏の装束いっさいと、天狗の面も用意されていた。
「とがめられるようなことはないと思いますが、とがめられても、善道坊がついているから、まず大丈夫と思います。善道坊は白岩観音に居ったこともあり、あのあたりの地理や内部にくわしい故、なにかの折には役に立つことと信じております」
義道が言った。
義貞が山伏姿に身を変えて、同じく山伏姿の、義道と善道坊を従えて里見の館を出たのはその翌日の朝であった。朝露に濡れながら山道を歩いて行くと、いたるところに白百合《しらゆり》の花が咲いていた。里から山畑に入り、山畑からまた山林に入ったあたりに小さな峠があった。そこに立って下を眺めると、甍《いらか》を朝日に輝かせながら立っている観音堂と、その堂を守るように立ち並んでいる、三十棟ほどの坊が見えた。
「この地は久留馬《くるま》と申します。白岩観音は古くからこの地にあり、近隣六郷は白岩六郷と言って白岩観音堂の領地となっております。元々、修験道の道場の中心的存在であり、榛名山を対象とする、山岳宗教の基地でもあります。全国からこの修験堂に集まる者、引きも切らず、常に百人から二百人の修験者たちが滞在しております」
善道坊は白岩観音を指して説明した。
「知らなかった」
と義貞は半ばひとりごとを言った。子供のころこの近くを駈け通ったことはあったが、修験者たちの中心的道場だとは知らなかった。
「ここは余人がたやすく踏みこむことを許されない寺社の領地ですので、お館様がくわしいことをご存知なかったのは当然なことです」
と多胡義道が言うと、すぐそれに合わせて、善道坊が、
「そのとおりでございます。この地は坂東八カ国の修験者が集まる、いわば、修験道における坂東の要《かなめ》とも申すようなところでございます」
そう言って善道坊は目を坂東平野に投げた。杉の木立の間から、広々とした平野が緑に輝いていた。
「すると、この白岩観音で行われたことが直ちに坂東八カ国の修験者の耳に伝わると言っても過言ではないな」
という義貞の言葉に、善道坊は、
「いえ、坂東八カ国ばかりではございません。ここで取決められたことは、直ちに峠を越えて、越後国や信濃国《しなののくに》などの修験者たちにも伝えられます。そのような場所になっております」
善道坊は、そう言って視線を杉の木立の向こうに落とした。天狗の面をかぶった二人の山伏がこっちへ向かって上って来る。
「天狗の面をおつけくださいませ」
善道坊が言った。義貞と、義道はいそいで天狗の面をかぶった。
「お待ち申しておりました」
と迎えに来たひどく鼻が大きい天狗が言った。
「御遠慮なく、聴講のほどお願い申上げます」
烏天狗《からすてんぐ》の面をつけた山伏が言った。丁寧な言葉使いだった。どうやら、義貞等の身分を知っている様子だった。
二人の天狗に案内されて、義貞等三人の天狗は、白岩観音の講堂に導かれて行った。三人が行くと、既に先に来て座っていた、天狗たちが、三人のために道を開いた。面をかぶったままで挨拶する天狗もいた。三人は前に出た。
一段と高いところに、熊の皮の敷物が置かれてあった。
間もなく、浅緋《あさひ》の衣を着、天狗の面をかぶった小柄な男が現われた。歩きよう、骨格などから見ると、その天狗は、武士や修験者のように荒々しい生活をしている男でない。あまり、労働をしたことのない、家にばかり引込んでいる男のように見えた。
(天狗に姿を変えた公卿《くぎよう》かな)
義貞は、先年、鎌倉の北条屋敷で、天狗田楽をやった折の日野|資朝《すけとも》の姿をふと思い出した。天狗が敷物の上に座った。
「今日は遠路はるばる私の天狗講を聞きに参られた諸賢のために、講義に先だって、ひとこと、おことわりを申して置く」
天狗の声は姿に似ず、意外に太く、ぴんと張りがある若い声であった。
「講義の内容はすべて作り話である。従って、その話を聞いて、どのように解釈してもかまわない。それは聴く人それぞれの判断にまかせる。従ってこの講義では質問は許さない。また質問しなければならないほどむずかしいことはしゃべらぬつもりだ」
天狗はそう前置きしてしゃべり出した。
≪昔、昔のことである。遠《と》つ国に呉大王《ごだいおう》という偉い方がいた。呉大王は人民をこよなく愛し、悪を憎み、善を尊び、暮らしよい国を作ろうと努力されていた。ところが、その臣下に、将辰《しようしん》という悪者がいた。これが呉大王を王の座から追い落として自らが国王になろうとした。それを知って、呉大王の腹心の武将、玄伝信《げんでんしん》は王の命を受け、全国に檄《げき》を飛ばして、同志を集めて、挙兵し、将辰のこもっている宋剣城《そうけんじよう》におし寄せ、将辰を殺して、再び呉大王の治める平和の国を作った≫
天狗の話の内容を要約するとこのような物語であった。話し方が上手で、豪傑あり、宮廷の美女あり、大力の僧が出て来るなどまことに楽しい話であった。
話の|やま《ヽヽ》がそろそろ見え始めたころ、善道坊が、矢立を取って、紙になにかを書いて義貞の手にわたした。その紙片には、
呉大王=後醍醐天皇。
後→呉。天皇→大王。
将辰=北条氏。
条《じよう》→将《しよう》。北→北|辰《ヽ》。北条→条北→将辰。
玄伝信=源新田義貞。
源→玄。新田→田新《でんしん》→伝信。
宋剣=鎌倉。
倉《そう》→宋。鎌《けん》→剣。鎌倉→倉鎌→宋剣。
と書いてあった。
義貞はびっくりして善道坊の顔を見たが彼は知らんふりをして、手だけを延ばしてその紙片を義貞の手から取ると、まるめて、口の中に入れて食べてしまった。誰も見ていぬ間の早わざであったが、天狗の面の隙間から黒い瞳《ひとみ》がそれを見ていた。
里見から新田館に帰った義貞に、船田義昌が深刻な顔をして報告した。
「困ったことが起こりました。館の目と鼻の先にある不動尊堂で、天狗講と称する、あやしき講話を為《な》す者が現われました。この天狗講とは……」
と義昌が言いかけたのを義貞が押えて、
「講師も、その話を聞く者も、すべて天狗の面をかぶって出席する」
と言うと、御存知だったのですかと義昌は苦笑してから、
「実は噂を聞いて、その講話を私はこの耳で聞いてまいりました」
しかし、義貞はいっこうに驚かずに、
「実に面白かったな、あの話は」
と応じてから、それで新田庄の者はあの話を聞いてなんと言っているかと訊《たず》ねた。
「呉大王が後醍醐天皇で、玄伝信が源の新田義貞、将辰が北条氏であると申しております。つまり、お館様が源氏の一族を率いて後醍醐天皇のお味方につき奉り、北条氏を亡ぼすという話でございます。だから困っておるのでございます」
「そちは新田家の執事であろう。余が不在中に、そのような不埒《ふらち》なことを言い歩く者がいたら、なぜ引っ捕えぬのだ」
義貞は口ではきびしいことを言いながら目は笑っていた。
「引っ捕えてかまいませぬか」
「かまわぬ。新田一族は今のところは、幕府の下にある御家人だ。幕府に対して、よからぬことをする者は捕えるか追放するのが当然の義務である。よいかな義昌、討手をさし向けて捕えよ、だが相手は天狗だ。脇の下から翼が出て多分逃げ失せるだろう。そうなったらそれでまた、そのように幕府に届けを出せばよいのだ」
義貞は含みのある言葉を義昌に伝えた。
不動尊堂は新田庄に以前からある、修験者の道場だった。そこで天狗講が行われていたのである。さすがの義貞も放置しては置けないから、そのような処置を取ろうと言ったのである。
義昌は不動尊堂を守る専進坊に、次回の天狗講には、兵を入れて天狗を捕えるという旨を秘《ひそ》かに伝えた。その前に逃げよと指示したのである。
不動尊堂に逗留《とうりゆう》中の天狗講の一行五名は、その日のうちに新田庄を出て、足利庄に向かった。その一行の後を、修験者に変装し、天狗の面をかぶった義貞が数騎を率いてかけつけて呼びかけた。
「玄伝信が見送りに参りました。浅緋の衣を着たる五位の天狗殿にもの申す。もし呉大王にお会いなされたら、御自重あれと申し上げられよ」
浅緋の衣を着た五位の天狗殿と義貞が言ったのは、天狗講を聞きに行ったとき天狗が着ていた衣が浅い緋色をしていたからだった。体格、物腰から天狗は公卿であるとすれば、浅緋の衣は五位の位を示すものであった。義貞の呼びかけに、天狗は馬を返して来て言った。
「玄伝信殿、お見送り大儀に存ずる。呉大王にお会いしてそのとおり言上申上げたら、呉大王は、もはや自重の時は過ぎた、実行の時だと申されるでしょう」
天狗はそう言い残して去って行った。
義貞はかねてから市《いち》の開設について考えて置くように船田義昌に命じてあった。このことについて主なる一族を集めて意見を聞くと、多くは反対であった。市を開くとすれば、その土地の主要物品が必要である。金山のたたら場で生産された鉄製品があるにはあるが、これだけを呼び物として市は開けない。
市を開くとすれば、新田庄だけではなく、上野、下野、武蔵、常陸あたりからも人を集めたい。そうあってはじめて市だと言える。新田庄の者だけを集めて開く市など意味はない。かえって経費がかかるし、郷民に無駄な消費を奨励するようなものだ、というのが、おおかたの意見であった。
「よく分かった。だが、余は市を開くぞ」
と義貞は言った。それまで義貞は側近の者の意見を多く聞いた。特に執事の船田義昌の言うことはなんでも聞く、と陰口をたたかれるほど他人の意見を聞いていた。その義貞が初めて、自分の意志を通そうとしたのだから、義昌をはじめ家臣たちは、改めて義貞の顔を見直すほど驚いていた。
「この年の秋までには、なにがなんでも市を開くぞ。その市の売り物は、刀だ。刀を売るのだ。それも従来のような刀ではない。見掛けなぞどうでもよい、まずだいいちに折れない刀、曲がらない刀を作るのだ」
義貞は刀について彼の抱負を話し出した。
従来の日本刀は、細身で、反《そ》りが深く、こしらえが立派で美しかった。つまり、実戦よりも、武将が身につける飾りとしての要素を持った刀が多かった。そういう刀は一般の武士には手が出ないほど高価であった。
止むなく安ものの刀を買うと、それは折れやすく、曲がりやすくもあった。たまたま、斬り合いがなされたとき、その弱体が暴露されるのであった。体裁《ていさい》なんかどうでもいいから、値段が安くて、折れたり、曲がったりしない刀が欲しいというのが、一般武士の願いであった。
「新田庄には鎌倉で腕を磨いて来た五人の刀鍛冶《かたなかじ》がいる。この者等に命じて、折れない、曲がらない、しかも値段が安いという刀を多量に作らせて、それを売り物として市を開くのだ。細身の刀ではない、幅の広い、見るからにたくましいと思われるような刀をどんどん作るのだ。かねてから篠原|憲氏《のりうじ》が主となって、伯耆からの玉鋼《たまがね》の道も付けられた。これからは、その刀をいかにして多く作り、いかにしてこれを売りさばくかということを考えればいいのだ」
義貞は方針をはっきり示した。既に、鎌倉から帰って来た五人の刀鍛冶は、それぞれ新田一族の者に割り当て、刀の製造を始めていたが、この鍛冶場を更に拡大して、刀の量産にかかれという命令であった。
「よく考えて見よ、いまもし、世が乱れたとして、真先に必要なものはなにか」
いままで武器を持ったことのない者まで武器を取って自分の身を護らねばならないだろう。そのためにも、一般向きの武器が必要だということを義貞は説いた。
義貞はじっとしてはいなかった。常になにか考え、そして行動していた。
朝起きると、直ぐ馬に乗って笠懸野《かさかけの》まで一走りした。食事を済ませると庄内を見廻り、気が向けば、そのまま、里見まで馬を馳《は》せた。一つの案がまとまると、義昌や脇屋義助の意見は訊いてみたが、二人が反対しても、一度言い出すとそれを実行した。三十歳に近くなった義貞はそれだけの自信を持つようになっていた。
弟の脇屋義助を呼んで、甲斐《かい》、信濃と越後に散在する、新田氏支族や源氏の一族を歴訪するように申し付けたのは元徳《げんとく》元年(一三二九年)になってすぐであった。
「近いうちに必ず世が乱れる。そのときは源氏の一族は、一族一体となってことに当たらねばならぬ、そちは余の名代としてそのような意味のことを告げて歩くのだ。一族一体という言葉を忘れるな、決して盟約を結ぶとか、天皇方にお味方するなどということではない。世が乱れた場合は、源氏は一体となってことに当たるという余が気持ちを伝えて来るのだ」
義助は、その言葉を緊張しきった顔で訊いていた。もし、そのことが幕府に聞こえたらという懸念からであった。
「幕府を恐れることはない。幕府は、坂東一円はおろか、日本全国にひろがっている、天狗講一つ取締まることができないでいるのではないか。現に足利では玄伝信を玄則李《げんそくり》(玄→源、則→足、李→利)と変えて講話が行われているそうだ。幕府は、もはや往年の力はないのだ。万が一の時には脇屋義助は武者修業のために故郷を後にしたのだと言えばよい」
義貞は自信あり気に言い、供として広神善道坊他、修験者三名を付けてやった。義助自らも、修験者の風をして行くように命じた。
「お館様のお決めになったことですから、私が、とやかく申すことではございませんが、それは早まった行動のように思われます」
と義昌が言ったが、義貞は、
「いや、早まったというよりも、遅すぎた行動と言ったほうがよいだろう」
と言った。
この年の秋、新田館のすぐ近くで市が開かれた。売り物の刀が並べられた。折れない、曲がらない、そして廉価な刀といううたい文句が近郷、隣国へ布《ふ》れて歩かれた。その宣伝が効いたのと、実際その刀が折れも曲がりもしないことを実験して見せる据物斬りが市場で行われたので、多くの人が集まって来た。自作農家の主人や二、三男など、今まで刀を持ったことのない人が喜んで買って行った。刀身の幅が広い、頑丈な刀ばかりが並んでいた。飾りはないし、美しくもなかったが、武器としては恰好なものであった。市が開かれて、三日目に売り切れとなった。買ったのは新田庄の人たちより外部の者が多かった。
一カ月置いて再び開かれたときは、他国からやって来て多量に買いこむ者もあって、一日の間に売り切れた。新田新刀の売れ行きはすこぶるよかった。
元徳二年(一三三〇年)の春、鎌倉の新田屋敷の矢島五郎丸から早馬の書状が届けられた。差出人は安藤左衛門であった。
≪京都大番役の候補として、新田小太郎義貞の名が挙げられています。新田氏は近頃、新刀などを売り出し、たいへんふところ具合がよさそうだから京都大番役をやらせようというのが、その主旨でありますが、その裏には、今、世間を騒がせている天狗講にかかわり合いがあるようでございます。義貞を新田庄に置いては心配だという、幕府首脳部の気持ちが反映したものと解すべきだと存じます≫
安藤左衛門はそう結んだあとで追而書《おつてがき》として、
≪京都大番役は賄賂《わいろ》を使って逃れたほうがよいかと存じます。引受ければ、少なくとも三年、四年、五年となり、その出費はたいへんなことになります。今ならば、なんとかできます。その道もございます。ぜひお考え置きくださるようお願い申し上げます≫
と書いてあった。
義貞は左衛門の書状を何度か読んだ。船田義昌にも読ませ、同族の主なる者を呼び寄せて相談した。
「賄賂はどのぐらいかかるであろうか」
と大館宗氏が義昌に訊いた。義昌はそれまでに、その計算をちゃんとやっていた。
「賄賂を贈るとすれば一人当たり銭百貫匁、五人に贈るとして合計五百貫匁となります。京都大番役は一人当たり、一年間の所要経費を最低に見積もっても銭四貫匁はかかります。五十人は連れて行かねばなりませぬから、年二百貫匁はかかります。三年間で六百貫匁、これに諸経費を加えて、三年間で銭約一千貫匁の出費となります。賄賂だと五百貫匁で済みますが、京都大番役を引受けたとすると一千貫匁はかかるということになります」
義昌は計算書を前に置いて言った。そこに集まった者は、なるほどという顔をした。そういうことなら、賄賂で逃れた方がよいだろうと言いたそうな顔をする者もいた。
「銭一貫匁は米一石である。賄賂五百貫匁は米五百石に当たる。それだけの物を幕府の役人にただくれてやることはまことにばかげたことだ。ひとたび賄賂を贈ると、彼等は次々と難題を持ちこんで来て賄賂を要求するであろう。この見とおしについてはどう考えるか」
と義貞は義昌に訊いた。
「お館様の仰せのとおり、一度甘い汁を吸った役人は必ず次の手を考えます。例えば建物の造営、道路、河川の補修、悪党の追討等、次々と手をかえ品をかえて、幕命による仕事をおしつけて来て、それがいやなら賄賂を寄こせと言って来ること間違いございません。その例はたくさんございます」
義昌はそう答えた。
「よく分かった。余は京都へ行くぞ。旅に出ている義助を至急呼び戻して後を義助に任せ、京都へ行って新しい空気を吸って来よう。どっちみち、近いうちに京都へ行かねばならないようなことになるだろう。その下調べの積りで行くのだ」
義貞は結論を言ってから庭に目をやった。黄蝶が飛んでいた。
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資料の上から見ると、新田小太郎義貞は、元弘《げんこう》三年(一三三三年)五月に挙兵して鎌倉に攻め上るまで、その行跡について書かれたものはほとんど無い。だから、なんにもしていなかったかというとそうではない。大いに富国強兵策をとり、近隣の諸豪との間にも好誼《よしみ》を通じていたから、いざというとき、一度に多くの軍勢を集めることもできたであろう。新田義貞が生まれる前から、新田庄内では金山から取れる鉄を使って農器具等の鉄製品を生産していた。
新田義貞の代になって、京都の刀鍛冶|粟田口《あわたぐち》定順を招き、日本刀の鍛造を始めたという説を唱えるのは、新田義貞の研究家であり、太田市文化財保護調査会長の篠原蔵人氏である。実戦用の野太刀《のだち》とか大太刀《おおだち》、長巻《ながまき》などが作られていたらしい。
この日本刀の皮鉄《かわがね》となる玉鋼は山陰地方から輸入し、心鉄《しんがね》は利根川の砂鉄や金山の鉄を使ったのだろうと彼は推論している。私は京都の刀鍛冶よりも距離的に近い鎌倉の刀鍛冶の集団に目をつけた。ここでは既に相州ものと言われる実戦用の日本刀が芽生えつつあったから、これを新田庄に持ちこんで、戦国時代に流行した実戦用刀の|はしり《ヽヽヽ》ともいうべきものを鍛《う》たせたと書いた。全くのフィクションである。日本刀の専門家に叱られることを覚悟で書いた。そうしなければならない理由は、後章に述べるところの新田義貞の旗挙げの軍備充実の裏付けのためである。
白岩観音は古い修験者の道場で、往古はこの付近一帯に坊堂が立ち並んでいたということであるが、僅かにその地形の跡と樹齢七、八百年と思われるような杉の大木が数本残っているだけだった。現在の白岩観音は武田信玄によって再建せられたものである。無人の観音堂には、ムクドリが巣を掛けているらしく、格子戸の間からしきりに出入りしていた。
義貞の時代を想像することはできなかったが、すぐ背後に榛名山をひかえ、関東平野を眼下に見下ろすこの地には、修験道が盛んだったころにはさぞかし多くの修験者たちが集まって来たに違いない。白岩観音から更に榛名山に近いところに水沢観音がある。
榛名山へ通ずる自動車道路がすぐ近くを通っているので人の往来がはげしく、参詣者《さんけいしや》も多かった。美しい自然に恵まれた風格ある古刹《こさつ》で大仁王門をくぐるとツツジの花が咲いていた。石段の上に立って眺めると、関東平野への出口に当たるあたりに金山が見えた。
水沢観音は境内に立並ぶ千年杉が示すように、非常に古くからある寺で、白岩観音と同じように修験者の集まるところであった。石段の下には手打ちうどん屋があった。義貞の時代には現在のうどんに類するものがあったのだろうかなどと考えながら、たちまち二人前を平らげた。
反町《そりまち》の館(新田館)のすぐ近くに市《いち》の井の地名が残っている。義貞の時代に市が開かれたのはこのあたりらしい。当時、新田庄の中心地はこの付近であった。昭和十五年の夏、私はここにいた。そのころはほとんど田圃《たんぼ》だったが、今は人家が多くなっていて、義貞時代をしのぶものはなかった。
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京都大番役
坂東の諸将に京都大番役が申し付けられた場合は、その日から一カ月以内に京都に到着すればよいことになっていた。準備や旅程などを見込んで一カ月という期間が目安となっていたのである。
新田義貞もその積りでいた。新田庄から鎌倉まで四日、鎌倉から京都まで十五日、二十日間あればよかった。あとの十日は準備期間であった。
京都へ行けば少なくとも一年は帰れぬだろう。下手をすると、二年も三年も置かれるかもしれない。不在中のことを弟の脇屋義助にちゃんと頼んで置かねばならない。京都へ随行する人の選定もせねばならない。あれやこれやで十日間はまたたく間に過ぎた。
義貞が京都大番役を申し付けられたのは元徳二年の十月であった。せめて年を越してからにして貰いたいと一応は願い出たが、許されなかった。鎌倉の安藤左衛門の書状によると、
≪京都ではつぎつぎともめごとが起きております。六波羅はここのところ、諸国の御家人に対し、しきりに大番催促《おおばんさいそく》をしている様子でございます。引き受けられた以上なるべく早く出発されたほうがよろしいかと存じます≫
と書いてあった。京都におけるもめごとがいかなるものかは知らないが、六波羅が大番催促の名義で兵を集めるというのは戦争を見通してのことのように思われた。
義貞は、六波羅の兵力増強は後醍醐天皇一派に対する、幕府の用意であり同時に牽制《けんせい》策だと思っていた。
義貞が十騎五十人を率いて新田庄を出発したのは十一月の半ごろであった。
「一年で帰る。遅くとも二年経てば必ず帰って来る」
義貞は館の者にそのように言い残して旅立った。鎌倉に入った日、霰《あられ》が降った。義貞は新田屋敷に着くと船田義昌を同道して、まず侍所に出頭し、京都大番役として京都へ上ることを報告してから、足利屋敷に足利貞氏を訪ねた。貞氏は病気中だったので高氏が父に替わって義貞に会った。
「大番役に新田庄殿自らがお出向きになるのですか」
高氏は目を丸くして言った。久しく会わない間に高氏はすっかり変わっていた。新田庄殿というあたり、言葉使いにも気を配っているようだった。高氏は自分より五つ下だから二十五歳だと、頭の中で歳を数えてみれば、高氏が変わるのは当然だった。
高氏は堂々として立派に見えた。しかし、着ている物や、色白い顔などからは、武将というよりも貴公子然とした風格が窺《うかが》い取れた。馬などあまり乗ったことはないようだ。
「大番役などそこもとがわざわざ行くほどのこともないのに」
と高氏は義貞の顔を見て笑いかけたが、すぐその笑いを引っ込めて、
「ああそうか、新田庄殿はまだ京都に行ったことがないのですね、それで」
と、今度は本格的に笑い出した。人前で口を開けて笑うところなど子供のころと同じだなと義貞は思った。
「だが、このごろの京都はなかなか物騒なようですよ」
高氏は口のにおいが分かるほど義貞の傍に寄って来て言った。
「間もなく京都には血生臭い風が吹く」
と、高氏は真面目な顔をして言った。天狗講が日本中をまかり通り、天皇家が二派に分裂して、呪《のろ》い合いの祈祷《きとう》合戦をやっているという現実からすれば、高氏の言うことはほんとうだろうが、北条家と深いつながりがある高氏自身がなぜそのようなことを口にしたのか義貞には分からなかった。高氏の幼児的性格は未《いま》だに残っているのであろうか。
「治部《じぶ》の大輔《たいふ》殿(高氏)は京都についてはおくわしいとか」
義貞が話を変えると、高氏はすぐそれに乗って来て、
「京都は水がいい、水がいいから女が綺麗《きれい》だ」
と前置きして、京都の女のことを話し出した。
「なにしろ京都には日本中から人が集まる。傾城《けいせい》町(遊女屋街)もあり、町女《まちめ》や市女《いちめ》もいる。こういう類の中にもいい女はいる。しかし女はやっぱり祇園《ぎおん》の白拍子だな、字が読めるのは当たり前、歌を読むし、歌舞音曲はもとより、香も聞く、どうせ新田庄殿も京都へ行けば直ぐには帰れないだろうから、祇園女房を貰うことだ」
などと言うから、
「鎌倉の化粧坂あたりとは大分違うようですな」
と義貞が口をさしはさむと、当たり前だ、鎌倉の女なんか京都の女に比較すると、月と亀鼈《すつぽん》だと、そのわけを力をこめて話すのである。
義貞はいささか困った。
「旅の途中ですので、挨拶にのみお伺いいたしました。いずれその話は後で」
と言うと、高氏は、これはこれは、つい話に夢中になって、申し訳ないことをした。京都へ行ったら、なにかと意外なことや不自由なことに会うだろうから、なにかあったら、ここを訪ねられよと、京都の足利屋敷にいる一色|家範《いえのり》宛ての紹介状を書いた。一色氏は足利氏の一族であった。
ひどく寒い日であった。外はいつの間にか雪になっていた。初雪である。庭を子供がなにか叫びながら走っていた。義貞と高氏は同時にそっちへ目をやった。
「竹若丸です。私にとってははじめての子供です。つまりあの……」
と高氏は言ったが義貞が理解しないとみてとると、なんとなく恥ずかしそうな顔で、けさが生んだ子だと言った。竹若丸は副臥《そいぶし》として選ばれそのまま高氏の側女《そばめ》になったけさが生んだ子だった。
「そうそう、新田庄殿の幼な友だちの阿久美《あくみ》は、いま父の看病で大変ですよ」
なぜ阿久美の名が急に出たのか義貞には分からなかったが、とぼけているような高氏の細い目の奥で、じっと義貞を見詰めている冷やかなもう一つの目があることは確かなようだった。
「父はもう駄目です。今年中持つかどうか」
高氏はそう言った後、
「新田庄殿とわが足利氏とは先祖は兄弟、なにかにつけて、今後は兄弟のおつき合いをして欲しいものですね」
高氏は義貞の手を取って言った。その高氏の手は女の手のように冷たかった。
高氏自らが今後兄弟づき合いをと言い出した裏のことを考えながら義貞は、こちらこそどうぞよろしくと丁寧すぎるほどの返事を返した。そのあとになにか気まずい空気が流れた。
「どうも暗い」
誰か灯《あかり》を持って来いと大声で家人を呼ぶ高氏の前で、義貞は、他にもまだ廻らねばならないところがありますからと、立ちかけようとした。
「兄者はいませんか」
いきなり入りこんで来た男があった。
「客人が居るのに失礼ではないか」
と高氏はその男を制して、
「失礼いたしました。弟の直義《ただよし》です。どうかお見知り置きください」
と義貞に言った。
義貞が、新田小太郎義貞だと挨拶すると、
「ああ、どこかで見た顔だと思っていたが小太郎義貞だったか」
と義貞にじろりと一瞥《いちべつ》を与えた。兄の高氏はどこか貴公子然としたところがあったが直義は兄とは似ても似つかぬ顔をしていた。傲慢《ごうまん》を画に書いたような顔だった。
「なんの用があって参ったのだ」
直義は家来に対する口のきき方をした。
「大番役を申し付けられ、これより京都に上る途中でございます」
「だからなにしに来たのだと訊いておる」
直義は立ったままだった。
「直義、失礼であろうぞ、こちらは、わが足利氏と先祖を共にする新田庄殿だ。口を謹しめ」
と高氏が叱ると、直義はふんというような目を義貞に投げかけながら、
「源氏の出を探せば、化粧坂の塵芥《ごみ》ほども居るわい。いちいち、祖先がどうのこうのと言っておられるか」
そして、父が呼んでいるからすぐ来てくれと高氏に言い残して去って行った。
義貞は雪の中を新田屋敷に帰った。直義に化粧坂の塵芥にされたのが口惜《くや》しかった。直義は官位があるが、義貞にはない。世間では足利氏が源氏の嫡流であって、新田氏は傍系であると考えている。塵芥と言われても、いたし方がない。だからと言って、そう簡単に直義を許す気持ちにはなれなかった。
義貞は新田屋敷に帰って中曽根次郎三郎や朝谷兄弟の顔を見るまで、直義のことを考えていた。
中曽根、朝谷兄弟はあの時以来、逗子《ずし》の常清のところに寄寓《きぐう》したままだった。三人は鎌倉におけるあらゆる情報を探り出しては矢島五郎丸に伝える任務を果たしていたのである。
「朝谷兄弟は余と共に京都に行って貰いたい。次郎三郎はもうしばらく、この地にあって、仕事を続けて貰うことにする」
義貞は三人にそのように申しつけた。中曽根次郎三郎は京都へ連れて行って貰えないのが、不満のようだったが、酒が出、歌が出ると、もうそのことは忘れたようであった。
義貞は家来たちに囲まれて、久しぶりにくつろいだ。明日からは京都に向かっての長旅が続くのだと思うとこの鎌倉の一夜がなにか物悲しく思われるのである。
義貞は鎌倉を出発するに当たって、十騎五十名の者を集めて言った。
「われ等は五千の軍隊の先を行く物見隊であると仮定し、これから京都に着くまでは常に前方に敵あり、物陰に伏兵あり、後方に追う者ありというつもりで行進する」
と言い渡した。つまり京都までただ歩くのではなく、戦さの訓練をしながら進むことを告げたのである。
二騎十人が先方一里から二里のところに出て警戒に当たり、後方にはやはり二騎十人が殿《しんがり》として置かれた。本隊は六騎三十人と朝谷兄弟の二人であった。
国府津《こうづ》まで来た時義貞は物見隊を二隊に分けて一隊は足柄街道を三島に向かわせ、一隊には箱根街道を三島に向かわせた。物見隊には単に目で見て来るだけではなく絵図にて報告するように申しつけた。
義貞の率いる本隊は、しばらく国府津に止《とど》まって、物見隊からの報告を受けた。物見隊は絶えず交替した。同じ場所を他の物見隊によって偵察させることがしばしばあった。
「足柄峠付近は椿《つばき》の木が多く、峠付近よりやや下ったあたりに池がございます。この池の水は涸《か》れることがないとのことでございます」
と報告された同じ場所を次の物見隊が帰って来て、
「足柄峠までの登り道、足柄峠からの下り道共にそれほどけわしい道ではございませんが、大軍を一気に進めるには、不便な道でございます。大軍を通すには、まず足柄峠を占領してからでないと、通過はむずかしいものと思われます。尚《なお》、頂上には水がございますから、およそ馬三十頭ほどを止め置くことは可能でございます」
と報告したのは、里見二十五騎の一人、長壁源太であった。
義貞はその報告が気に入ったので、
「足柄峠を持ちこたえるにはなにほどの軍勢が必要か」
と訊《き》いた。
「大軍の勢いをもってしても、路《みち》が狭いし付近は密林ですから、一気に峠に押し上ることはむずかしいかと存じます。峠道の前後に大木戸を設けて防げば、二百ほどの人数で一日は持ちこたえることができるでしょう」
と答えた。なぜ一日持つかの問いに長壁源太は、
「大木戸を落とすためには、軍を密林の中に展開して木戸の背後に迂回《うかい》させねばなりません。そうするのに約一日はかかります」
と答えた。
義貞は長壁源太の物見の才能を認めた。里見で戦さごっこをした少年のころ、源太はよく物見に出された。その源太が、今は物見頭として充分に役立つ郎党になっていることが嬉しかった。
箱根方面へも、次々と物見隊が出された。その多くが里見出身の者であった。義貞は上京に際しての人選に里見の郎党を多く採用した。里見の者こそ、旗本としてもっとも優れた武士であると信じていたからだった。物見隊は手柄を競うように、旧道(足柄街道)と新道(箱根街道)の地勢を調べて帰って来ては義貞に報告した。
「坂東を守るに二路あり坂東を攻めるに又二路あり」
と義貞はひとりごとのように言った。
「さよう二路がございます。その二路のうち足柄峠を越えるか箱根峠を越えるか、それとも二路を同時に越えるか、そこらあたりが攻める方も守るほうも頭を使うところでございます」
と船田義昌が言った。
義昌は義貞がなにを考えているかをほぼ察していた。義貞が大軍を率いて鎌倉を攻めた場合、もし鎌倉軍が支え切れないと判断したならば、おそらく箱根まで引いて、ここに防衛線を敷くだろう。そして箱根以西の軍をここに集めて決戦を挑むだろう。
(お館様がそのようなことを本気で考えておられるとすれば)
義昌はやや不安になった。
何時の日にかは、そうして貰いたいと思っているけれど、今、その気持ちを明らさまに出すことは危険であった。心でなにを考えていてもそれを表面に出してはならない。北条一族に目をつけられたらそれこそ、一も二も無くつぶされてしまうだろう。義昌はそれが恐《こわ》かった。
「このあたりのことは、もっともっとくわしく調べて置かねばならぬ、取敢えずは、このあたりの絵図を整えて置くことだな」
義貞は義昌に言った。それ以上のことは言わなかった。
箱根を越えてからの義貞は更に物見を強化し、遠く広く前方を探りながら前進して行った。特に大河にかかると、橋についての調べは詳細をきわめた。
川に沿って十里ほどの間の橋をことごとく調べ上げた。どんな形式の橋があるか、出水したときその橋はどうなったか、橋を守っている者は誰であるかまで調べさせた。もはや物見とは言えなかった。何かを意図しての調査である。もし地頭が不審を抱いてこの事実を幕府に訴えでもしたら弁解の余地がないところであった。
「お館様、いい加減になさいませ」
と義昌が注意をしたのは大井川のほとりに来たときであった。
「川を調べて悪いか」
「悪いことはございませんが、あらぬ疑いを受けます。それにあまり道草を食っていると京都に着くのが遅くなります」
「いや余裕を取ってあるからその方は大丈夫だ。あらぬ疑いを受けたならばちゃんと申し開きをするだけの用意はある」
義貞は、いっこうに改めようとはしなかった。
(お館様は変わった。いままでは執事であるこの義昌の言うことをよく聞いてくれたが、このごろは言い出したら聞かなくなった)
義昌は、義貞の個性が強く出れば出るほど不安が増して来るのである。なにかこのごろの義貞は、もはや自分の手が届かぬところへ行ってしまったようにさえ感じられるのである。
「義助も連れて来るべきだった」
義貞がふと、そのようなことを洩らすと、義昌は、いよいよ義貞の心が計り切れなくなった。
大井川を越えて掛川のあたりまで来たときに、殿《しんがり》をつとめていた郎党から、堀ノ内四郎左衛門と言う者が義貞に面会を求めて追って来たと告げた。
義貞は軍を休ませて、その者に会った。
堀ノ内四郎左衛門は義貞の前に手をつかえたとたん、はらはらと涙をこぼした。しばらくは声も出ないようであった。
「大中黒の旗をお見かけしたので、もしやと思っておたずねしたところまさしく新田義貞様と聞いて馳せ参じました。それがしは源氏の縁につながる者でございます。こんな片田舎におりましても、祖先が源氏であることを常々自慢にしております。今後もし源氏の嫡流新田義貞様が旗を挙げて、天下に号令なされるときには、必ず、五十騎ほどは引き連れて馳せ参じます。なにとぞお見知り置き下さいますように」
そう言って、彼は顔を上げると、
「思えば、源氏が北条氏の下風に立って以来、はや百十年にもなります。源氏の嫡流でありながら、今日まで日の目も見ず、臥薪嘗胆《がしんしようたん》の年月を送られて来た新田御一族のお心のほどはさぞかしと拝察しております」
そこで四郎左衛門は突然語調を変えた。
「しかしながら、呉大王は英明な帝《みかど》故、必ず玄伝信にみことのりを下し、悪虐無道な将辰《しようしん》を亡ぼされることでございましょう。今しばらくの我慢でございます」
と言って四郎左衛門は声を上げて泣くのであった。
天狗講の影響だなと義貞は思った。それにしても、天狗講がこんなところまで浸透していることは空おそろしいことだと思った。
義貞は、現実と虚構の世界を混同している四郎左衛門にかけてやるべき言葉もなかった。
「よく分かった。そのようなことをあまり大きな声で言うものではない。志を高く持つのはよいが、口は密にしてしかるべきではないかな」
義貞がそう言うと、四郎左衛門は、はっはっと恐縮して、
「口は密にしてしかるべし、口は密にしてしかるべし……」
と何度も何度も言いながら、恐れ入るのである。義貞にかわって義昌が四郎左衛門に向かって天狗講のことを聞いた。
この付近で天狗講を聞かない者はないということだった。その大要を話してくれと、すっとぼけて訊く義昌に、四郎左衛門はさらばと前置きして話し出した。
義昌が新田庄で訊いた天狗講とはかなり違っていた。大筋では、玄伝信(新田義貞)玄則李(足利高氏)兄弟が呉大王(後醍醐天皇)のために働くという話であるが、人物の多くは、この地方の豪族の名を、誰でも分かるように、作り変えて登場させていることであった。現に堀ノ内四郎左衛門もちゃんとした一方の旗頭としてその話に出ているのである。
「なかなか面白い話だが、やはりそれは話である。そう考えていないと、たいへんなことになる」
義昌は四郎左衛門をさとしてやった。
「この近くに源氏にゆかりがある者がどのくらいおるか」
という義昌の問いに対して四郎左衛門は、
「無数におります。その者たちは御声さえいただければ立ちどころに太刀を取って立ち上がり、北条氏に縁ある者どもを討ち平らげます」
と言った。まことに勇ましい言い分だったが、その言葉の裏に隠されている野心が見えすいているようで決して気持ちがいいものではなかった。
京都に入る前に、義貞は義昌等五名に足利高氏から貰った書状を持たせて京都の足利屋敷に先発させた。義昌も京都は初めてだから、人に訊きながらようやく三条|万里小路《までのこうじ》の足利屋敷にたどりついて、その書状を一色家範に渡した。
「おお、新田義貞殿が参られたか」
一色家範は相好を崩しながら出て来て義昌に言った。心から義貞が来たことを喜んでいるようであった。義昌には解しかねることであった。一色家範は家の者にあれこれと義貞を迎えるための準備を言いつけてから、自ら家来を引連れて義貞を迎えに出るというのである。それまでしなくともと義昌が固辞したのでようやく思い止《とど》まったものの、
「それでは今宵は足利屋敷へお泊り下され、明日中には、新田屋敷の掃除もちゃんとして置きますから」
と言うのである。新田屋敷などと大げさのことを言っては困る、こちらは足利氏ほど財政が豊かではないからと、義昌は言おうとしたが、家範の好意を無にすることもできなかった。ひとまずそこに落着くより仕方がないと思った。
義貞は京都の町に足を一歩踏み入れた時に、これはたいへんなところへ来てしまったと思った。人間がやたらに多くて、身動きができないような束縛感をおぼえた。整然と区切りがついている道路の両側に軒を連ねている家から家、街から街に充満している人間たちが、さてなにをして食べているかがまず気になるのである。
義貞等の一行が通っても人々は振り向いたり立止まったりはしないばかりか、義貞等の馬と馬の間を子供たちが走り抜けて通るのである。全然、自分たちが京都の人たちに無視されているということもまたたいへんな驚きであった。鎌倉を十倍も二十倍も大きくした町のような感じだった。
寺がやたらに多いし、商家が多いのも気になった。武士、商人、僧、乞食《こじき》、旅人とありとあらゆる人間が町中に溢《あふ》れていた。
(いったい京都とはなんだろう)
そういう義貞の質問に、心の中で直ぐさま答えるものがあった。
(日本中の人の|はきだめ《ヽヽヽヽ》よ、吹き溜《だ》まりさ)
それは義貞が見た京都の最初の印象だった。
(なんだ吹き溜まりに集まった人間共か)
そう思うといくらか気が楽になった。楽になった気持ちで町の人を見ると、また違って見えた。彼等は義貞等の一行に関心を持っていた。だがその関心を表面には出さないのだ。ちらっと見ただけで、すべてを理解するだけの速やかな反射神経を持っているようだった。口を開けたまま、ぽかんと見守る、田舎者の感覚とは違っているのだ。瞬間にすべてを見て取って、その後に来るものに用意しようという油断ならない京都の目が、無関心に見えたのだ。
義貞の一行が三条の大橋に掛かったときである。一団の男たちがもつれ合いながら、義貞等の一行目がけて走り寄って来た。一人は既に肩に傷を受けていた。着ている袍《ほう》が血に染まっていた。
義貞は袍を血に染めて倒れている人を見て、公卿だと直感した。一度だけだったが、これと同じような袍を着、冠をいただいた参議日野資朝の姿を鎌倉で仰ぎ見たことがあった。
「そのお方をお助け申せ、悪党は捕えよ、手向かう者は斬れ」
義貞は馬上にあって怒鳴った。そのお方と指したとき、義貞の頭の中では、公卿と天皇がつながり、天皇に仇《あだ》なす者は即ち悪党というごく単純な理屈が通ったのである。
悪党は五人いた。それに対して袍を着た公卿の供廻りは十人ほどいた。中には太刀を持っている者もいたが、悪党たちと命をかけて争うつもりは毛頭ないらしく、申しわけに太刀を抜いたには抜いたが、なにもせず遠くで眺めていた。
悪党五人は義貞の郎党にたちまち取り巻かれた。悪党の大将らしきものが、太刀を振りかぶって、義貞の郎党植杉|兵馬《ひようま》に斬りかかったが、たちまち太刀を叩き落とされて降参した。
義貞は悪党五人を捕縛する一方、郎党に命じて、深手を負った公卿を介抱させた。その公卿は重傷を受けていた。出血多量でその場を動かすこともできないほどだった。
義貞は馬から降りて、苦しそうに喘《あえ》いでいる公卿のところに近寄り、
「なにか申し残されることがございましょうや」
と耳もとで訊いた。
公卿はうつろな目を開けて義貞の顔を見ると、なにかひとことふたこと言ったが、それは言葉にならなかった。義貞がその公卿の口もとに耳を近づけて聞くと、
「天皇御|謀叛《むほん》……」
と、小さいが、はっきりした声で言った。その言葉が最後であった。それは義貞だけが聞いた言葉であり、他の人には聞き取ることはできなかった。義貞は、その言葉の意味の重大さに戦慄《せんりつ》した。
公卿の家来の通報で、近くの篝屋《かがりや》(京都警備の武士の駐在所、当時京都には四十八カ所の篝屋があった)から二十人ほどの武士が駈けつけて来て、悪党五人を引き取り、新田義貞の名を聞いて帰って行った。その後へ、公卿の一門と思われる人々が駈けつけた。
泣き叫ぶそれ等の人たちの前で、尚もしばらく新田義貞は佇《たたず》んでいなければならなかった。その中から一人の男が近寄って来て義貞に言った。
「ここにむなしく相果てられましたのは、中納言中原顕房様でございます。あなた様がもう少し早く駈けつけられたら、このようなことにならずと済んだでしょう。いまさらなにを申しても、どうにもならぬことですが、これも前世からの因縁とおぼしめされ、どうぞ故人の冥福《めいふく》を祈ってください」
言葉は丁寧だったが、その中には主人の危機に際して力を貸してくれた謝礼のことばも、主人の仇《かたき》を捕えてくれた謝意もなかった。要約すれば、お前が通りかかるのが遅かったから主人は死んだ。そう言いたげであった。しかし、義貞はそれには答えず、おし黙ったまま、運ばれて行く中原顕房の遺体に向かって手を合わせながら、彼が臨終《いまわ》のきわに言った言葉を思い出していた。
一色家範は義貞を迎えて、
「さすがは源氏嫡流のお家柄だけあって、京都に入る早々お手柄とはさぞかし、六波羅殿のおぼえも、目出たいことでしょう」
と言った。一色家範は足利一族である。その人が義貞に向かって嫡流と言ったのはいささか意外であった。そんなことを主家の足利一族に聞かれたらとんだことになるだろうと思った。
一色家範は義貞を丁重にもてなした。彼が率いて来た十騎五十人と朝谷兄弟に対してもそれぞれ宿舎を用意していた。
「驚きになったでしょう京都という町は」
酒が出てから家範が言った。驚いたことは数々あったが、ただもう頭が熱くなるような思いでしたと答えながら義貞は酒を飲んだ。酒の味は特に違ったものではなかったが、肴《さかな》は珍しかった。鮎《あゆ》の麹漬《こうじづ》けは義貞にとっては初めて口にするものだったし、醤汁《ひしおじる》をかけた播磨素麺《はりまそうめん》もまた初めてだった。
義貞がうまいうまいと言いながらそれを食べるのを見て一色家範は、
「都の食物には半年もすれば馴れてしまいます。故郷《くに》に帰りたい病気が起こるのはそのころでございます。大番勤仕のために京に来ていた郎党が一人脱走して捕えられたことがあります。なぜ逃げたと訊かれると、その男は、故郷に帰って醤菜《ひしおな》(現在の野菜の味噌漬けのようなもの)をおかずにして腹一杯、飯を食べたかったからだと答えたという話が伝わっております」
家範はそんな話をしたあとで急に改まって、
「明日からはなにかとわずらわしい毎日が始まるものと思われますが、どんなことがあろうと、腹を立てるようなことを為《な》されないよう気をお配り下さいますように。また京都に集まって来る諸国の武士の中には、心にもないことを言って、お館《やかた》様の気持ちを探ろうという者も出て来るでしょう。これにもお気をつけられますように」
そして一色家範は、全国に流行している天狗講《てんぐこう》の話を持ち出して、
「今や心ある者で、玄伝信こと新田義貞殿を知らない者はございません。六波羅の者も恐らくは存じているとみてよいでしょう。つまり、あなた様は、いざというときには、源氏嫡流の旗を挙げるべきお人……」
といい掛けたのを押えて義貞は、
「源氏嫡流はこの百年来足利殿と、幕府によって認められております。一色家も足利源氏につながるお家と伺っておりますのに、なぜそのようなことを申されるのですか」
と問うた。
「いままではそうでした。そのようなつもりでいましたが、改めて系図を確かめ、間違いは糺《ただ》さねばならないと考えるようになりました。天狗講でも、そのように説いております」
天狗講がまた出たので義貞は黙った。天狗講の考え方が、足利家の支族一色家範まで動かしているとすれば容易ならぬことだと思った。
「さあ、今宵《こよい》はお休みなされ、明日はまたびっくりするようなことが出来《しゆつたい》するかもしれませぬ」
家範はうす気味の悪いことを言った。
一色家範の予言は的中した。
翌朝、食事を終わった直後に、六波羅から、新田義貞に出頭を求めて来た。
「ひょっとすると、きのうの三条大橋のことではないでしょうか」
一色家範はそう言うと、自ら義貞を案内して、三条大橋を渡り、鴨川《かもがわ》の河原沿いに六波羅まで下って行った。
義貞は侍所に連れて行かれた。
多くの武士に囲まれて、六波羅探題南庁長官金沢|貞将《さだまさ》が一段と高いところに座っていた。
義貞は広い庭の砂利の上に手をついて言葉を待っていた。小石の冷たさが心を寒くした。まず名前を訊《たず》ねられ、京都に来た目的を訊かれた。貞将直接の言葉ではなく、貞将の傍《そば》に座っている男からの質問だった。一応のことが訊かれた後で、貞将が義貞に向かって言った。
「きのう、三条大橋で亡くなられた中納言中原顕房殿は臨終《いまわ》の際にそちになにやら申したそうだが、なにを申されたか話して貰いたい」
貞将は義貞の目を見詰めたままで言った。
「たしかになにか申されましたが、それは言葉にはならないような言葉でございました。なんのことやら私には分かりませんでした。ただ、なにかを一生懸命に言い残そうとしているらしい目付きでございました」
義貞は答えた。中原顕房が、天皇御謀叛と言ったことは金輪際《こんりんざい》洩らさないつもりでいた。
「さようか、聞かなかったとあれば止《や》むを得ないことだが、もし言ったとすれば、その通りのことをここで述べたほうが、そちの将来のためになるのだが」
と貞将は義貞の懐柔にかかったが、すぐあきらめて、
「実は今朝方、瀬尾|太郎兵衛《たろうびようえ》がなにもかも、べらべらとしゃべったのだ」
そして、妙な顔をしている義貞に、
「瀬尾太郎兵衛とは、きのう、そちが捕り押えた悪党のことだ」
と貞将は言った。なにをべらべらしゃべったのですかと訊きたいところだが、あまりにもかけ離れた身分の差に、引け目を感じて黙っている義貞に、
「ほんとうになにも言わなかったのか」
と貞将はもう一度訊いた。僅かながら身を乗り出して言ったのである。
「いえ、申されましたが、それは言葉の体をなしてはおりませんでした」
そうかと貞将は義貞の言をようやく信じたようであった。
「あの悪党がなにを申したか聞きたいか」
貞将は座を立ちかけて言った。
「聞きとうございます」
「瀬尾太郎兵衛は、高貴の方の命を受けて中原顕房を誅《ちゆう》したのだ」
貞将はそれだけ言うと、さっさと奥に消えた。義貞は、呆然としてしばらくそこに座っていた。さっぱり筋書きが読めなかった。高貴な方というのが後醍醐天皇だとすれば、天皇御謀叛という言葉の謎《なぞ》が解けそうだった。
義貞の京都大番役勤仕は三日後に始まった。四十八カ所の篝屋の一つを受け持つのではなく、常時、六波羅にいて突発事件に際して出動する、予備隊としての任務が言い渡された。義貞はそれには不満だった。折角京都に来たのだから、京都の地利を知って置きたかった。そのためには、警邏《けいら》隊に入れて貰いたいと願い出た。初めて鎌倉へ発《た》つとき、鎌倉のすべてを見て来いと言った祖父基氏が生きていたら、きっと、京都のすべてを見て来い、と言うに違いないだろうと思った。
(京都のことを全く知らない田舎者ゆえ、しばらくは警邏隊の中に入れて下さい。いざという時にお役に立つためにはぜひそうしていただきたいのです)
この義貞の申し出は通った。そんなに警邏がしたいならやらせようぞと、新田隊は、警邏隊に編入された。
義貞の京都市中歩きが始まった。
京都は酒屋と乞食が多いところだった。
(酒屋を見たらそのまま呼吸を止めて歩いて見ろ、苦しくなってほっと息をするところに次の酒屋が必ずある)
と言われるほど酒屋が多かった。その呼吸を止めてのたとえ話が、そっくりそのまま当てはまるほど乞食もまた多かった。鴨の河原に集団で生活している者もあり、京の町はずれに群がって住んでいる者もあった。
「酒屋と乞食が多いのは鎌倉と同じだ」
と、義貞は思わずひとりごとを言ったほどだった。
酒屋に次いで多いのは油屋で、米屋、醤《ひしお》屋、魚屋、綿屋などが次いで多かった。仏具屋、武具屋、紙屋、材木屋、織物屋などもかなり多く目についた。魚座、伯楽《ぱくろう》座、綿座などのように市場をなしているところもあり、仏師、刀鍛冶《かたなかじ》、研《とぎ》師等の技能者や大工、左官等の職人も数多く住んでいた。
綿屋を覗《のぞ》くと、宋《そう》の国から輸入した綾《あや》をびっくりするような値をつけて売っていた。京都で織られた唐綾《からあや》も店先に並べられてあった。銅銭で購《あがな》うことができた。
金銀の蒔絵《まきえ》の箱や、螺鈿《らでん》の器、倭絵《やまとえ》の屏風《びようぶ》など高級家具を売っている店が軒を並べていた。
「これほどの多くの品物を店に並べていて、例えば火事のときなど、どうするのだろうか」
義貞は案内役として警邏に同行した吉良《きら》章行に訊いた。吉良は京都に住んで十年にもなる。
「これぞという物だけは持って逃げます。逃げる場所もちゃんと心得ているし、品物を焼けば、その後で品物が値上がりするだけのことで、商人にとってはそれほど痛いことではないようです」
と言った。
「火事になったらたいへんな混乱が起こるだろう」
義貞は鎌倉の町を歩いたときと同じことを考えていた。なにかが起こった場合、このおびただしい人の群れが問題だなと思った。
「それは混乱します。その混乱期を狙ってひともうけしようという奴ばかりがうようよしていますからね」
吉良章行は路上で博奕《ばくち》を打っている浮浪者風の男を指して言った。
六波羅は悪党瀬尾太郎兵衛を獄につないできびしく折檻《せつかん》した。瀬尾はその責めに耐え切れずに中納言中原顕房を殺したのは天皇の命によるものだと答えた。それ以上のことは言わなかった。天皇の命と言っても、天皇自らが悪党瀬尾太郎兵衛などに直接口を利くことはないから、天皇の言葉を太郎兵衛に伝えた者がいる筈であった。
ここで日野俊基の名が出たのはむしろ当然であった。
年が変わって、元弘《げんこう》元年(一三三一年)の春、後醍醐天皇は禁裏に、法勝《ほつしよう》寺の円観《えんかん》僧正、小野の文観《もんかん》僧正、奈良興福寺の知教《ちきよう》、教円《きようえん》、浄土寺の忠円《ちゆうえん》僧正を招いて、中宮の安産を祈祷《きとう》すると称して、朝敵北条氏覆滅の呪伏祈祷を行った。
幕府は宮中で盛大に行われた祈祷の目的に疑問を持った。安産の祈祷をするのに、なぜ僧正級の者を五人も呼ばねばならないだろうか。幕府はその探索に乗り出した。
天皇に仕える公卿《くぎよう》の末席に中原為房という者がいた。瀬尾太郎兵衛に殺された公卿中原顕房の下で働いていた同じく中原一門につながる者だった。為房は主人の顕房が天皇の命によって殺されたことを薄々知っていた。
殺される前日、中原顕房は天皇と長い時間に渡って話をした。退去して来たとき顕房は真青な顔をしていた。
〈いかほどお諫《いさ》め申しても無駄なことであった。嗚呼《ああ》天下大乱に入るか〉
と顕房が洩らした言葉を為房はちゃんと覚えていた。おそらく、顕房卿は、天皇に対して幕府転覆などということを企ててはならないと言上したに違いない。それが聞き入れられなかったから、暗い顔で帰って来たのだと想像していた。
(おそらく、天皇は日野俊基あたりの献言を取入れ、顕房卿の口を封ずるために殺せと言われたのであろう)
と中原為房はそう考えていた。
中原為房は天皇に対する尊敬の念はあったが、天皇を取り巻く公卿たちには、批判的であった。特に日野俊基には、はっきりした憎しみさえ持っていた。その俊基が先に立って、中宮の安産を祈る祈祷だと言って、日頃、天皇のところへ出入りする高僧たちを招いたのだから、為房はこれは怪しいと睨《にら》んだのである。彼は何喰わぬ顔で祈祷の席に加わり、祈祷に使われた祭壇の見取り図を添えて祈祷の内容を六波羅に密告した。六波羅探題の金沢貞将は、為房の密告の内容をそのまま頼禅《らいぜん》僧正に見せた。僧正は、祭壇の見取り図を一目見ただけで、調伏の祈祷であることを見破った。
即刻、調伏に参加した僧正等が幕府の手の者に捕えられた。
後醍醐天皇派は対策を練らなければならなかった。幕府に捕われた僧正等が、六波羅の責めに耐えられず、祈祷は幕府転覆の調伏であると一言言えばそれですべては終わりである。
天皇は、六波羅に次々と使いを出して祈祷は中宮の安産を祈ったものであることを伝えた。そして、僧正等は年齢《とし》もとっていることでもあるから、手荒いことはせぬようにと乞うた。幕府側としても、天皇からの度々の申し入れに会うと、あまり無茶なことはできないでいた。
「そのうちぼろを出すだろう、しばらく待てばよい」
と金沢貞将は言った。
貞将は天皇に謀叛の心ありと鎌倉に伝え、もっと確実な証拠を握ったら、天皇をお移し申すか、譲位をお願いするつもりであることを父の金沢|貞顕《さだあき》へ言ってやった。幕府には自信があった。天皇一派が天狗講で世論を興そうとしたり、坊主を集めて祈祷をしたところで、そう簡単に幕府がつぶれるものではない。大体、天皇方は幕府を覆す武力をどこに求めるつもりなのかと内心せせら笑っていた。
天狗講によって、日本各地に天皇派に心を寄せようとする者が出たとしても、それ等の天皇支持者や、不満分子を統合する武士団がいなければなにもできないだろう。武士団を統合できる者は北条氏でなくて誰であろう。危険があるとすれば源氏の統合であるが、源氏の頭領足利高氏の妻は北条一族の名家、赤橋久時の女《むすめ》登子であり、足利氏は代々北条氏と縁組みをしていて、源氏というよりも北条一門と言ったほうがいい。万が一にも足利氏が天皇方につくなどということは考えられないと安心していた。
北条氏は新田義貞の存在など、ほとんど問題にしていなかった。無位無冠、領地も新田庄しか持っていない、小御家人になにができよう。それが北条|得宗《とくそう》衆の見方であった。
天皇派は六波羅に捕われた僧正たちを何時《いつ》まで経っても解放しない幕府の遣《や》り方に不安をおぼえた。
天皇は侍従の吉田|定房《さだふさ》を召して意見を問うた。
「既になにものかを幕府は掴《つか》んでいるやもしれません、実は秘《ひそ》かに巷《ちまた》の噂《うわさ》を探りましたるところ、中原顕房が三条大橋で悪党瀬尾太郎兵衛に斬られたとき、顕房卿の臨終《いまわ》の言葉を聞いた者がおります。たまたま京都大番役催促を受けて坂東から上京して参ったばかりの新田小太郎義貞という武士でございます」
定房は、そう前置きして、義貞が翌日、六波羅に呼び出されて、六波羅探題自らの口から、臨終の言葉はなんであったかを訊かれたが、卿はなにか言ったが、それは言葉にはなっていなかったと答えたという話を伝えた。
「言葉にはなっていなかったと申したのか……」
後醍醐天皇はそう言ってからしばらく考えこんでいたが、
「新田小太郎義貞、思い出したぞ、その武士についてはそちからも日野|資朝《すけとも》からも聞いたことがある」
天皇は膝《ひざ》を叩いて言った。
後醍醐天皇は新田義貞の名が出ると急に顔の色が明るくなったようだった。
「義貞は源氏の嫡流であると聞いた。忠誠心があり、いざというときに中心となるべき武将だと言ったのは、そちではなかったか」
と天皇は定房の顔を見て言った。
「そう申し上げましたが、今度《このたび》は、新田義貞の出現によって、かえってお味方が迷惑するようなことになりました」
定房はお味方という言葉を口にしたとき、周囲を見廻した。誰も聞いてはいなかったが、本能的にそのような動作をしたのである。
「偶然通り合わせたというだけで義貞も、なにやかと訊かれてさぞ迷惑しているだろう」
と、天皇が言いかけると、そのことでございます、と定房は心配そうな顔で、
「私は義貞がなにごとかを聞いたけれど、それを言わずに黙っているのではないかと思います」
「顕房が臨終の際に、いったいなにを口にしたというのだ」
天皇ははっきりと不満を顔に現わしていた。
「それは義貞自身に会って聞くよりいたしかたがございません、もし顕房卿が臨終の際になにかを言ったとすれば、それはお味方に不利なことではなかったかと推察いたします」
「なぜそうだと分る」
「義貞は天皇方に心を寄せる武将です。ですから幕府に言ってはならぬことなら、聞かなかったと言い張るでしょう」
天皇は定房の言葉に何度か頷《うなず》いたあとで、
「何時、義貞に会うつもりか」
と単刀直入に訊いた。
「お許しを得れば、今日にでも」
「急げばことをしそんじる、充分に注意して近づくのだ。相手を警戒させてもならないし、心に負担を掛けてもならぬ。義貞の出番はまだまだ先のことだからな」
天皇は、その後で、ひとりごとのように、
「源氏の嫡流、新田小太郎義貞が無位無冠とはなにごとぞ、幕府はいったい、いままで何をしていたのだ、そして朝廷はなぜこのようなことを放《ほう》って置いたのか」
と言った。吉田定房はその言葉を、奉紙に包みこんで懐中におさめたような気持ちで天皇の許《もと》を辞すると、直ちに屋敷に帰って、義貞を如何《いか》にして呼び寄せるかの方策を練った。家臣の鈴木文長という者が一策を提案した。
「新田小太郎義貞殿が警邏隊を率いてこの近くを通られた折、呼び込んだら如何《いかが》でしょうか」
「呼び込む?」
さてと定房が妙な顔をすると、鈴木文長は細い目をいよいよ細くして、自分の考えがいかによいかを誇示するように、
「警邏隊を呼び寄せるには、ことをかまえるに限ります。つまり、邸内に悪党が現われたから取り押えてくれとたのめば、義貞は必ず参るでしょう」
「嘘をつくのか」
「嘘も方便」
鈴木文長は、すましていた。
義貞は京都のたたずまいをおおよそ知った。歩いて確かめた道は忘れないし、その道も碁盤の目のようになっているから覚えやすかった。
京都の町の北部に内裏があって、その周辺に公卿の屋敷が並んでいることも、六条河原に近い六波羅庁周辺に幕府要人の屋敷が多いのも京都の特色の一つとして掴んでいた。
その日義貞は警邏隊十数人を率いて二条油小路まで来たとき、あわただしく駆け寄って来た、一見、近くの公卿屋敷に使われている小者風な男に足を止められた。
「お助け下さいませ、悪、悪、悪党の乱入でございます」
男は驚きのためにろくに口がきけないようであった。義貞等はその男の案内するままに、一つ路《みち》を隔てたところにある屋敷に向かった。屋敷の前に小川が流れ、橋がかかっていた。橋を渡ったところに門があったが閉じられていた。門の内側で叫び合う声がした。太刀と太刀を打ち合わせるような音がした。
義貞は馬からおりると、走って橋を渡り、門前に立って怒鳴った。
「新田小太郎義貞、警邏中に、ことを聞き及び御加勢に参った。開門せられい」
その声で門内の物音は静まった。走り去る足音が聞こえた。しばらくすると、門が開いた。その屋敷の執事でもあろうかと思われる男が現われて、
「悪党どもは、新田小太郎義貞様のお声を聞いただけで退散いたしました。ありがとうございます。主人の大納言吉田定房がぜひお礼を申し上げたいと申しておりますのでお上がり下さいませ」
と義貞を邸内に招じ入れた。
義貞が率いて来た警邏の者たちも、庭の方に連れて行かれ、それぞれ、湯茶や菓子の接待を受けた。
義貞は控えの間から更に奥の間へ、そして金屏風を立て並べた大きな部屋に案内された。公卿というものは随分豪華な生活をしているものだと思った。しばらくそこで待たされていると、袍《ほう》をつけ冠をいただいた吉田定房が現われて、義貞の前に座った。
(ひとくせありそうな男だな)
そう思ったとき義貞は、悪党が現われたからお助けをと連れて来たのは、こうするための手だてだなと思った。
「ようこそお出《いで》下さいました。吉田定房です。推察のとおり、ことをかまえてそこもとを呼び入れたのは幕府の目をはばかる手だてです。お許し下され」
定房は見掛けによらぬくだけた調子で挨拶すると、
「過日後醍醐天皇の前でそこもとの話が出た折、主上は、源氏の嫡流新田小太郎義貞が無位無冠とはなにごとぞと、幕府の手続き上の怠慢を強く憤っておられました」
義貞は、その話をはいとうけたまわりながら、どうも様子がおかしい、なにかあるなと思っていた。
「主上の命により新田小太郎義貞に訊ねたい儀がある。なにごともかくさずにお答えあれ」
突然、定房の態度が変わった。
「新田小太郎義貞に訊ねる。過日、三条大橋で中納言中原顕房卿の臨終に立ち合った際《みぎり》、汝は顕房卿の最後の言葉を聞いた由、その言葉を有体に申せとの御諚《ごじよう》であるぞ」
吉田定房は言った。義貞には定房の魂胆が見えすいていた。
御諚を口にすれば何人《なんぴと》たりとも言うなりになるだろうと考えている公卿の常識が、義貞にはいささか滑稽にも思われて来る。義貞は安藤左衛門が公卿という者は虎の威をかる狐以外のなにものでもないと言ったことばを、頭の中で反芻《はんすう》していた。別に腹は立たなかった。
「義貞、御諚であるぞ」
定房は御諚という言葉に力をこめて再び言った。
義貞は目を上げて定房の袍衣を見た。血に染まった袍を着て、自分の顔をじっと見詰めていた顕房卿の姿を思い出した。
(天皇御謀叛と言ったのは、天皇の秘密を暴露しようとして言ったのではない。自分が斬られたのは天皇御謀叛に関《かか》わりあったがためであると言わんとしたのであろう。死に際して言ったその一言こそ顕房卿のもっとも強く言いたいものであったに相違ない)
そう考えると、顕房卿がその最後の言葉を聞かせたかったのは天皇その人ではなかったかという気がしたのである。顕房卿は死を賭《か》けて天皇に御謀叛はお止めなされよと言いたかったのではないだろうか。六波羅で訊かれた時には黙っていた。しかし、相手は定房卿である。しかも天皇の御諚だと言っている。天皇御謀叛がどんな意味があろうとも、そっくりそれを天皇に返上したら自分も気が楽になるし、おそらく顕房卿も救われるだろうと思った。
義貞は顔を上げて静かな声で言った。
「中原顕房卿は、天皇御謀叛の一言を残して他界されました」
なに、天皇御謀叛とな、定房はひどく驚いたようであった。まさしく狼狽《ろうばい》にも見える取乱し方で、義貞の言をたしかめると、そのことは誰かに話したかどうかと訊いた。
「六波羅での取調べの折、確かに中原顕房卿はなにか申されましたが、それは言葉になってはいませんでしたと答えました。それ以外のことは、誰にも話してはおりません」
と義貞が答えると、定房は、おう、おう新田の庄殿と言いながら膝行《しつこう》して来て、義貞の手を取ると、
「新田庄殿の忠誠心については、刀屋三郎四郎からかねがね聞いてはいたが、これほどだったとは思わなかった。これからも後醍醐天皇のために、なにとぞ力を貸してくだされ」
そう言うと、定房は、このことは飽くまでも胸の奥に秘めて置いて、他人には話してくれるなと言った。
なにもかも一方的な言い分だったが、それに対して特に反発するつもりはなかった。義貞は、そのときふと、公卿という特殊階級の人たちとはまともにつき合いはできかねると思った。
吉田定房は義貞から聞いたことをそのとおり天皇に奏上したあとで、彼の考えを述べた。
「中原顕房が天皇御謀叛という、おだやかならぬ言葉を口にして死んだということを知っている者は義貞以外にはございません。しかし、顕房が死ぬ前、例えばその日の朝とか前日、つまり、主上と議論を交わされ、内裏を出た直後に誰かに洩らしていたとしたらたいへんなことだと思います。私には幕府の落着きぶりと、今度の僧正等五人の逮捕のかげに、なにやら黒い影を見るような気がいたします」
と言った。黒い影とは何ぞ、という天皇の問いに対して、
「されば、お味方の内部に裏切り者がひそんでいて、逐一幕府に密告しているということも考えられます」
そう言われると天皇もまた心配になった。幕府が五人の僧正を捕えたまま離さないのは、僧正等が口を割るのを待っているようにも見えるし、既に僧正のうち誰かが口を割っているかもしれなかった。幕府はおおよそのことを知りながら、天皇御謀叛に加担する者を一網打尽にしようと、その機を窺《うかが》っているかもしれない。
「形勢がよくないな」
と天皇は言うと、この前と同じように今度も先手を取ったほうがよいかもしれないと、ひとりごとのようにつぶやいた。
「この前と同じようにと言われましたが、すると、今度は日野俊基卿一人の陰謀だと幕府に申し出ましょうか」
「それで僧正等は救われるかな?」
「救わねばなりませぬ。日野俊基卿と引きかえにあの五人の僧正は貰い受けて参りましょう」
吉田定房は自信ありげに言った。
天皇と吉田定房は、そのことについて、三日間密談を交わした。そして、五月になってすぐ、吉田定房自らが六波羅に探題の金沢貞将をたずねて、
「日野俊基が謀叛を企てておりますが、天皇はいっさいこれには関係しておりません」
と訴え出た。
金沢貞将は、又かと言う顔で聞いていた。最後に、吉田定房が六波羅に捕われている僧正等五人を連れて帰りたい旨を述べると、貞将はせせら笑いながら、
「それとこれとは違う。日野俊基卿は直ちに捕えて鎌倉へ送り、あの五人の聖人たちも同時に鎌倉へお送り申そうと考えている」
と、言った。
京都と鎌倉の間を早馬が何回も往来した結果、日野俊基卿と五人の僧正は鎌倉へ護送されて行った。
義貞は、これ等のあわただしい変化の中で与えられた仕事を忠実に行っていた。義貞の心の中には、世の動きに乗り遅れてはならないという気持ちはあったが、特に積極的にどうこうしようとは考えていなかった。なにかにつけて、自分が引き合いに出されるのは面倒だと思ってはいたが、近いうち、何等かの形で大乱が起こった場合、身の処置を誤らないように行動しなければならないと常に自分自身をいましめていた。
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新田義貞が何年何月に京都大番役として上京したという記録はないが、元弘三年(一三三三年)正月幕府軍が赤坂城を攻めたとき、京都大番衆として在京中の新田義貞がこの中に加わっていたことは、『楠木合戦注文』『太平記』等に出ている。この資料から見ると、その年より以前に新田義貞は京都に居たことになる。
新田義貞が元徳《げんとく》二年(一三三〇年)の暮れごろ京都に来たとすれば、そのころ京都では後醍醐天皇派と幕府の六波羅庁との間に次々とごたごたがあって、物情騒然としていた時である。
京都の町は周囲二里半の真四角な町であり、これを東西、南北に碁盤の目のように区分しているから見掛け上は整然とした町であったが、中に入ればかなりごたごたした町に感じられたであろう。
義貞が来た当時は、真四角であるべき京都の町は、実は東側半分だけの長方形の町になっていた。京都の町を南北に走る朱雀《すざく》大路より西側はさびれ、朱雀大路より東に人家が密集していた。西京には畑地や野原になっているところがあった。
京都の町を北から南に向かって流れる鴨川の東側には神社や寺院が多く、六条河原の東に当たる六波羅|界隈《かいわい》は幕府の政庁が立並ぶ鎌倉幕府の出先機関であった。
私は何度か京都を訪れている。しばらく滞在したこともある。しかし、長い歴史を飲みこんだ京都だから、ちょっと本を読んだり説明を聞いただけでは、頭の中で時代が錯綜《さくそう》して、或る歴史的一期間を的確につかむことはむずかしかった。
私は新田義貞を書くために、南北朝ころのことを主として取材する予定で京都を訪れた。
丁度私が京都を訪れたのと、「京都の歴史」全九巻が完成したのと時を同じくしていた。この本は京都市が編さんし学芸書林により発行されたものであり、編さん委員には錚々《そうそう》たる歴史学者の名が連なっている。義貞の時代のことはこのシリーズ第二巻『中世の明暗』に記されていた。
この巻の中に「京都――京童と軍記の世界(院政・鎌倉・南北朝時代)」の別添地図があった。この地図は下図として現代の地図を、薄く印刷し、その上に幾つかの色を使って、古き時代の邸宅、官衙《かんが》、寺社などが色分けされている。これを見ると、古き時代に京都に住んでいた数多くの武将や公卿などの屋敷がちゃんと分かる。例えば京都商工会議所のあたりには屋敷が多く、そこには、新|勅撰《ちよくせん》集の選者の歌人、中将源有房が住んでいたことが分かる。
「京都の歴史」第三巻の『近世の胎動』には「宗教と商業の都市――京都(室町時代・応仁の乱以前)」という別添地図が入っている。この地図にはありとあらゆる職業が記号別、色別で記入してあった。酒屋が多いので数えて見たら、南北四キロ、東西一・五キロの細長い町の中になんと二百九十七軒もあった。あまりに酒屋が多いので不思議に思って、京都市史編さん所に電話をかけて、酒屋が多かったのは、この時代の特色であることを確かめるまでは半信半疑であった。さてその頃の白く濁った酒はどんな味であったろうか。
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天皇御|謀叛《むほん》
義貞は京都に馴れた。多くの知人もできた。京都は、馴れたと思ったときが一番危険な時だと注意してくれた人があったが、その一番危険なものがなんだかは教えてくれなかった。問い詰めても相手は具体的なものはなにも知らなかった。ただそのように言われているのだと答えるだけだった。
京都の町は酒屋が密集しているところほど人口密度は高い。一般に北部は屋敷町で酒屋は少ないが、中部の四条、五条にかけては多い。五軒も六軒も酒屋が壺を並べているところもめずらしくはなかった。五条東洞院に傾城《けいせい》町があり、十数軒の遊女宿《あそびめやど》が軒を連ねていた。
まだまだ明るいうちからこのあたりには酔客が集まって来ていた。喧嘩《けんか》や殺傷事件がしばしば起こった。警邏隊が特に力を入れているところであった。その日はひどくむし暑かった。こういう日は誰でも気分がいらいらしているから事件が起こりやすいものだと、義貞は警邏隊に注意した。
「まったく、京都はむし暑いところだからな」
と警邏隊の一人がつぶやくと、その隣の者が、
「全くだ。冬は底冷えがして、夏はむし暑い。ちょっともいいところはない」
と言った。さわやかな風が吹く新田庄を思い出して言っていることが分かっているだけに、義貞は不憫《ふびん》に思えてならなかった。京都に来てから半年はとっくに過ぎた。故郷が恋しくなるのは無理もないと思いながら、京都にはちょっともいいことはないと言った郎党の方をふり返ったとき、土ぼこりを上げながら駈け寄って来る人を見た。
義貞が立止まったので、警邏隊全員がそれにならった。
駈け寄って来たのは一人ではない。その後から二人、三人と走って来るのが見えた。
真先に駈けつけて来た、くくり小袴《こばかま》を穿《は》いた男は道に座って、萎烏帽子《なええぼし》の先が土につくほど低くおじぎをして言った。
「狼藉《ろうぜき》者です。喧嘩です。殺し合いが始まりそうでございます」
と言った。つまり、その三つのことが同時に起こったのだなと義貞は思った。
「何処《どこ》だ」
「傾城町の中ほどです」
男は後を指し示した。前にもこんなことがあった。どうせ酔っての上の喧嘩であろう。始末が悪いなと義貞は思ったが放っては置けなかった。
傾城町に小走りで取って返すと、人だかりがしていた。群衆を追払って、中に入ると、数人ずつの武士がそれぞれ一列に並び、太刀の柄《つか》に手を掛けて睨み合っていた。双方共折烏帽子に直垂《ひたたれ》姿であった。斬り合いにはまだなってはいなかった。なればたいへんなことになるから、仲裁を待っているかのようであった。
「六波羅大番役、新田小太郎義貞、役目によって物申す。双方とも、それぞれ、十歩ほどさがりめされい」
義貞は大声で怒鳴った。
睨み合っていた武士たちはそのとおりにした。やれやれ仲裁が入ってよかった。これで怪我をしないで助かったわいという顔だった。群衆がどよめいた。なんだつまらないとはっきり口にする者もいた。義貞は双方から一人ずつ代表者を呼んで事情を訊いた。
ことの始まりは禁裏の警護に当たっている武士たちのいたずらである。丁度この日、非番であった彼等は寄り集まって傾城町に出かけて来た。その一人が、客の呼びこみをしている遊女の手を取って路上に引き出し、帯を解いて裸にしようとした。女の叫び声を聞いて、通りかかった、六波羅勤仕の武士の一人がこれを阻止しようとして、喧嘩になった。双方に加勢が加わって、睨み合いになったところへ義貞が現われたのである。
全くばかげたできごとだった。
「分かった。もとはと言うと、遊女の帯を解いて路上で裸にしようとしたことから起こったものである。その狼藉者をこれに出せ」
と義貞は禁裏警護の武士に言った。
「出してどうするのだ」
その武士の一団の年長者らしい男が言った。
「近くの篝屋《かがりや》で取り調べた上で解き放つ」
その義貞の言葉に相手は怒りを顔に現わして言った。
「われ等は禁裏に勤仕する身である。六波羅の取調べなど受けぬ」
開き直った相手に義貞は、
「禁裏に勤仕して居ようが居まいが、市中で狼藉を働く者があれば捕えるのは、われ等の役目である」
そして義貞は、その男の近くに寄って、
「ことを荒立てるつもりはない。直ぐ済むことだ」
と小声で言ったが、相手は聞かなかった。そればかりでなく、これ見よがしに太刀を抜いて、
「篝屋へ連れて行くというなら、みんごと連れて行って貰うぞ」
と、大勢の人の前で強がって見せるのである。
義貞をおどかすつもりのようだった。そうすれば、たいがいの場合は、大番役の方が折れて出るのが普通だったから、そうしたのであった。京都では、やはり天皇の権威は偉大だった。禁裏に勤仕する武士たちは幕府に仕える武士たちよりは一段と上に立つものと心得ていた。事実、市中で禁裏の武士がなにかことを起こしても、それを取調べるのは、六波羅庁ではなく検非違使《けびいし》であった。
武家政治の時代になって久しいのに、京都の都には未《いま》だに検非違使や北面の武士の制度が僅かながら残されていたのである。
新田義貞は検非違使や北面の武士の存在は知っていたが、そのような治外法権的な慣行は知らなかった。上役からも教えられたことはなかった。彼は忠実に自らの任務を遂行しようとしていたのである。
「からめ取れ、手向かう者は斬れ」
義貞は相手が太刀を抜いた以上捨てては置けなかった。警邏隊十人は武装していたが、相手は直垂姿であった。しかも、義貞が京都へ連れて来た者は、選《よ》りに選った強者ばかりである。
禁裏警護の武士たちやその者等に味方するものは、義貞の郎党にたちまち取り押えられ縛り上げられた。傾城町で遊ぼうと、着替えて来た直垂の衣服はほこりにまみれ、顔はよごれ、烏帽子は落ちた。北面の武士も見る影もない姿になっていた。
「引き立てい」
義貞は数珠繋《じゆずつな》ぎにした七人を連れて傾城町を後にした。
義貞等の一行が、五条の大通りを東に向かい五条の河原にさしかかったとき、従者を二名ほど連れて馬に乗って通りかかった者があった。
騎上にあった武士は義貞らを見るとひょいと馬から飛びおりて、義貞の前に手をつかえて言った。小柄な男だった。
「京都大番役の警邏隊とお見受けして申し上げます。私は禁裏に勤仕する武士にて、楠兵衛尉正成《くすのきひようえのじようまさしげ》と申す者でございます。貴殿がからめ取られた者どもはすべて、私の手の者でございますが、なにゆえこのようなあさましき姿になりましたか、お話し下さるわけにはゆかないでしょうか」
言葉は丁寧だったが、その目は炯々《けいけい》と輝いていた。義貞はその言葉と目つきと、そして、兵衛尉という肩書に驚いた。兵衛尉は衛府の官名では低い方であったが、無位無冠の義貞にとっては聞き捨てにはならないものだった。
相手が名乗ったから、義貞も名乗った上で、傾城町であったとおりのことを話し、この者どもは、六波羅庁へ連れて行くつもりだと語った。語っている義貞の顔にはとんでもない者を背負いこんで困惑しているのだという色がはっきりと浮かんでいた。
楠兵衛尉正成は、しばらくお待ちをと言って、その捕われ者の中に入って、二言三言話してから一人の男を連れて来て、義貞の前に引きすえて言った。
「この者が傾城町で狼藉を働いた者でございます。主人の私がこの男を成敗いたしたいと思います。お見届け下さい」
と言って、その男を鞭《むち》で打とうとした。
義貞はその正成の手をおさえて、
「それはお止め下さい。もともと私は、本人が悪かったと一言言えば、解き放してやるつもりでした。それを……」
後は言わないで、真先に太刀を抜いた男の顔をじろりと見た。正成は義貞の心を知ると、真先に太刀を抜いた男もそこへ連れて来て、
「心から新田小太郎義貞殿に謝罪をするのだ。お前たちは知るまいが、このお方は源氏嫡流として、主上がお認めなされておられるのだぞ」
正成の言葉の中に主上の一言が出ると二人の男は平蜘蛛《ひらぐも》のように這《は》いつくばって、こもごも乱暴や非礼を詫《わ》びた。
義貞は七人を解き放してほっとした。
やれやれと肩の荷をおろした気持ちで楠正成と分かれて六波羅に帰ると、六波羅では義貞のやったことが評判になっていた。
「禁裏の武士を縛ったのはなんと言ってもそこもとが初めてだ」
と言ってはやし立てる者さえあった。
義貞が退庁して屋敷に帰ると、そこに楠兵衛尉正成からの迎えが待っていた。家来どもが非礼を働いて御迷惑を掛けたお詫びを席を改めて申し上げたいが、是非来て貰いたいという口上だった。
義貞はしばらく考えた末、それではと、直垂に着かえ、従者として朝谷兄弟を連れて屋敷を出た。船田義昌が門のところまで送って来て義貞に言った。
「口をお謹しみくださいませ」
義貞は大きく頷きながら、京都はむずかしいところだと思った。
義貞が朝谷兄弟を伴って三条|烏丸《からすまる》の屋敷を出ると、そこに楠兵衛尉正成が待っていた。既に外は薄暗くなっているから正成の方から呼びかけられないと分からなかった。正成はひとりだった。暗くなってからの京都の町は危険ではないでしょうかと義貞が訊くと、危険です、だから行く先々で泊まりますと笑った。
正成は義貞の先に立って、四条河原の橋の方に向かって歩き出した。
「行く先は祇園《ぎおん》です。もはやご存じのところだとは存じますが、他《ほか》にあなた様をもてなすような適当なところがございませんから」
と言った。祇園と聞いて義貞は、鎌倉を発つ前の夜、足利高氏が、祇園女房でも持つがよいと言ったことばを思い出した。
祇園には行きたかったが、楠正成という人物には気が許せなかった。だいいち、あれだけのことで、もてなしを受ける資格はない。そのへんからあやしいのだ。裏になにかあるなと思った。
河原にかかると暗くなった。急に温度が下がって、鴨川を渡って来る風が涼しかった。
「しばらく」
と朝谷義秋が鋭い声で制した。前方になにかを見付けたらしかった。四人は四条の橋を前にして立止まった。
唸《うな》りを発しながら飛礫《つぶて》が飛んで来たのは次の瞬間だった。義貞は地に伏し、左手で頭をかばいながら、身をかくすところを探した。ようやく、頭だけはかくせるような石を見付けて、そこに身をひそめて前を窺うと、白い河原におよそ、二、三十人の人影が展開して、石を投げながら近づいて来るのが見えた。
京都では石投げは固く禁じられていた。石を凶器として集団で人を襲う事件が時々起こるから、ふところに石を持っている者は捕えられて処刑された。
(石がいくらでもある河原で敵にかこまれたのはまずい)
義貞は思った。相手は誰だか分からないが、おそらくは浮浪の徒であろう。通行人を襲って殺し、身ぐるみ剥《は》いで取ろうとしているのに間違いなかった。
朝谷兄弟の姿はなかった。正成の姿もそこにはなかった。間も無く、襲って来た集団の左側から叫び声が起こった。一人、二人と悲鳴を上げて河原に倒れる者が出た。
集団は前進を止め左側の逆襲をさけながら右側へ右側へと動いて行った。今度は右側の方で悲鳴が上がった。たちまち五人ほどが倒れた。集団は負傷者を連れて逃げ去った。
闇の中から朝谷兄弟と楠正成が現われ、ほとんど同時に義貞にお怪我はなかったかと聞いた。
正成は手についた砂を払い落としながら、
「よいお家来をお持ちですね」
と朝谷兄弟の方を見て、飛礫打ちの腕も達者だが、夜目がきくとはたいした修練だと言った。そのくせ正成は自分が夜目がきき、飛礫打ちの達人だということは全然表面に出さないのである。
(楠正成とはいったい何者であろうか)
義貞にはいよいよ分からなくなった。彼は夢の中を歩くような気持ちで四条の橋を渡った。祇園の町の明りはすぐそこにあった。
構えは屋敷のようであっても、ひとたび中に入ると小部屋や大部屋が入り組んでいて、それ等をつなぐ回廊が区々に別れ、区々に連らなり、庭を巡って続いていた。
既にどこかの部屋から音曲が洩れ、女の歌声が聞こえていた。
義貞は回廊の冷たさを足の裏でたしかめながら、その妓館の豪勢さに驚いていた。
「祇園にはこういう家ばかり揃《そろ》っているのですか」
と前を行く正成にそっと訊くと、
「この家は大きい方です。三部屋、四部屋というこぢんまりした家もかなりあります。通人になると、そういうところへ行くようですな」
正成は淡々と説明した。
義貞が案内された部屋には意外な男が待っていた。刀屋三郎四郎であった。
義貞は思わず声を上げた。鎌倉で会って以来何年になるかを数える前に、二人はお互いに元気であったことを喜び合った。
「お知り合いだったのですか」
と、義貞が楠正成に刀屋三郎四郎のことを聞くと、
「そもそも、新田小太郎義貞殿のお噂を聞いたのは三郎四郎殿からです」
そうでしたねと、正成が刀屋三郎四郎に念を押すと、三郎四郎は、
「たしか、その折は文観《もんかん》僧正様も御一緒でした」
と言った。文観僧正の噂は、義貞も耳にしていた。後醍醐天皇を取巻く一人で、幕府覆滅の祈祷をしたという疑いのもとに鎌倉へ送られたのは、ついこのころのことであった。文観の名が出たからには、楠正成は後醍醐天皇派の一人に違いないと、改めて見直す義貞の目に正成はにこやかな笑いを浮かべながら、
「新田庄殿とは、かねがねお会いしたいと思っていましたが、紹介者となるべき刀屋三郎四郎殿が旅に出たままなかなか帰って来ないので、つい延び延びになっていました」
待ちくたびれていたところに、刀屋三郎四郎が三日前に帰京し、そして今日偶然に二人を会わせるべき事件が起こったのである。
「偶然がこれほど重なるということはただごとではございませぬな。よほど、われわれ三人は目に見えぬ、なにかの縁に繋がれているというべきでしょう」
と正成は言った。
「旅に出たというとどちらへ」
と義貞は刀屋三郎四郎に訊くと、
「今度は、越前、越中、越後、そして、上野の国に入り、新田庄をおたずねしたが……」
と刀屋三郎四郎は話しかけたところで、急に口調を変えて、
「驚きましたよ、あの新田新刀には」
とほんとうに感じ入ったような顔をした。
刀屋三郎四郎は、新田庄の市で新田新刀を見たとたん、以前鎌倉で新刀製造を義貞にすすめたことを思い出した。
「私は早速買いこみましたよ。だが、手に入れたのはやっと十二振り、これでは商売になりませぬ」
そして、三郎四郎は、新田庄で見た刀が、実戦用としていかに勝《すぐ》れたものであるかを、彼自身がその製作者のように讃《ほ》めちぎるのである。
「あの値段であの刀なら、私は五百、六百の数ではなく、取り敢《あ》えず、二千振りほど欲しい。勿論《もちろん》、金《きん》でお支払いいたします。銅銭をおのぞみなら、銅銭でお支払いしてもよいのです」
刀屋三郎四郎が言った。二千振りの日本刀を買いたいと言われて、義貞はびっくりした。そんなに多く一度に製造できるものではない。義貞は黙っていた。
「実はあなた様の御舎弟脇屋義助様にお会いして、取り敢えず二千振りの確約はいただいております。でき次第、船でこちらへ運ぶ予定になっています」
「いったいその刀をどこへ」
義貞は意外な話に目を丸くして刀屋三郎四郎に訊《き》いた。
「私がそっくり引き取らせていただきます。実は私も、その刀を三郎四郎殿に見せて貰って一目|惚《ぼ》れしたのです。これからの刀には飾りなど不要です。折れない曲がらない、そしてよく斬れるという実戦用の太刀が必要です。そのようなこともあって、私は新田庄殿にぜひ会いたいと思っていたところです」
正成が傍《そば》から口を挟《はさ》んだ。正成は新田新刀を讃めた。讃めついでに、正成は刀だけでなく新しい兵器の試作を義貞に申し出たのである。
「実は新田庄殿にこのようなものを鍛《う》って、いただきたいのです。それも大至急でないと困るのです」
正成は腰に挟んでいた鞘《さや》入りの鉾《ほこ》を取り出し鞘をはらって義貞の前にそれを置いた。変わった鉾先だなと思って見たが、それは鉾先に似てはいるが鉾先ではなかった。
鉾は元来両刃の剣に長い柄を取り付けたものだった。だから鉾先は剣そのものと言ってよいものだった。正成がそこに出したものは、剣ではなかった。剣よりはるかに細身であり、そして鋭く出来た両刃の武器であった。
「これに柄をつけると軽くて持ちやすい。合戦の場においては、鉾よりもはるかに役に立つ。既に何回も使ってみて、鉾よりも勝れていることを確かめました。実はこの鑓《やり》を新田庄で取り敢えず千本ほど作って貰いたいのです。折れない、曲がらない丈夫な鑓なら、作っただけ買いましょう」
正成はそう言って義貞の顔を見た。
「この鑓という武器はあなたが考え出されたものですか」
義貞は鑓という武器を珍しいものを見るような目でたしかめていた。
「そうではありません。長い間に、このような形の物がわが領内で生まれたのです」
正成の言葉に義貞は頷いたが、正成の要求に即答はできなかった。新田庄の刀鍛冶《かたなかじ》にこの鑓はできたとしても、千本という数はそう簡単にまとまりそうはなかった。義貞はここでは返事ができない、帰って執事と相談し、早速新田庄に早馬を出そうと言った。
「それにしても、兵衛尉殿はなぜそれほど多量の武器を急に手に入れたいのですか」
義貞はさっきから、持ち続けていた疑問を率直にその場に出した。
「新田庄殿も重々御承知の通り戦争が始まるからです」
楠正成は驚くべきことを言った。
義貞は、その場に居づらい気持ちだった。戦争が始まるから武器を買いたいなどと平気で言う正成という人間もおかしいが、それをにやりにやりしながら聞いている刀屋三郎四郎も量り知れない人間に思われた。
「さて、商談《あきない》が済んだところで、久しぶりに歌でも歌いましょうか」
刀屋三郎四郎は、勝手に商談が成立したと解し、勝手に家の者を呼んで、酒肴《しゆこう》を用意させた。
「いよいよ私の出番が近づいたようですよ。戦争が始まれば、この刀屋三郎四郎は限りなく懐がふくれるでしょう。今夜はその前祝いです」
明らかに嫌味《いやみ》だが、ことさらそのように感じられないのは、刀屋三郎四郎の人柄でもあろうか。義貞はいくらか気を楽にした。酒肴が運ばれ、目を奪うような派手な小袖を着た女が三人現われた。濃い口紅が義貞には赤い花に見えた。
「夜は夜をもっぱらにするという誰かの詩があったでしょう。さあ、楠正成と新田義貞が手を結んだ記念すべき今宵《こよい》をもっぱらにいたしましょう」
刀屋三郎四郎はそう言って歌い出した。
上野の新田が嫁さがし
河内《かわち》の楠、嫁さがし
さがし求めて祇園に来たら
いたよいたいた百もいた
ようい、千も万もいたぞいなあ
すると、三郎四郎の歌に合わせて、肌まで透いて見える薄絹の水干《すいかん》を着、同じようなすずしの袴を穿いた女が二人揃って入って来て、三郎四郎の嫁さがしの歌に合わせて踊り出した。音曲も座に加わり、女たちがいっせいに歌い出すとたいへんな賑《にぎ》やかさになった。
義貞はただただあきれながら眺め、すすめられるままに、ひどく口当たりのいい酒を飲んでいた。
知らない歌を聞かされ、それに合わせて次々と趣向の変わった踊りを見せられた。美しい女が現われたり消えたりした。酔眼|朦朧《もうろう》とする中で、女に手を取られて、踊りの真似ごとをやったことは覚えていた。たしか女が、自分の耳もとで、これぞ、いま都で流行している祇園田楽だと言ったことだけは覚えているけれど、それから先のことはほとんど夢の中だった。なにもかもやわらかく、滑らかに運ばれていた。女の為《な》すがままにされている気楽さの中で、鴨川の水の流れがずっと気になっていた。
芳香がたきこめられた部屋の中にいて義貞は、時々、正成の油断ならない目付きを思い出していた。頭の中で音曲が鳴り、音曲が消えると鴨川の水が聞こえ、そして、やさしく語りかける祇園の女の声を聞いた。
夜が明けた。気がついた時には義貞は一人でいた。彼と副臥《そいぶし》していた女の香だけがもの淋しく残されていた。
(楠兵衛尉正成とは何者ぞ)
年歳《とし》は十近く上のように思われた。あの目は恐ろしい目だ。敵にしても味方にしても恐ろしい目だと義貞は、昨夜のことを回顧していた。
義貞は船田義昌に命じて楠正成の身許《みもと》を調べさせた。
そうして置かないと、たとえ刀屋三郎四郎が間に立ったとしても武器を売る気にはなれないのである。義昌はこういうことは馴れていた。彼もまたようやく京都のことが分かって来たころであり、京都在住の御家人等との交際もひろがっていた。
義昌は十日後に楠正成に関するおおよその調べをすませて来た。
「箇条書きに申上げます。その方がお分かりやすいかと思います」
義昌は義貞に向かってそう前置きして話し出した。
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一、楠氏の先祖は橘《たちばな》氏であり、古くから南河内の山岳地帯を背にして水源地帯を押え、ここに領地を持っている豪族であり、その勢力は南河内から和泉《いずみ》、紀伊に及び、一族には、和田《にぎだ》、恩智、橋本等がある。
一、元亨《げんこう》二年(一三二二年)には幕府の命によって、紀伊安田庄の騒乱を平定して恩賞を受けている。
一、最近では和泉国若松庄内の騒乱を兵を出して鎮定している。
一、楠一族は金剛山の麓《ふもと》に住んでいるから、早くから金剛寺直属の武士として認められていた。金剛寺の学頭職禅恵は文観の弟子である関係から、楠正成は文観を通じて後醍醐天皇の知遇を受け、兵衛尉に任ぜられたのは、天皇即位の翌年の元応《げんおう》元年(一三一九年)である。
一、現在は禁裏衛府の武士として郎党およそ二百人ほどを率いて京都にいる。
一、河内、和泉、紀伊の楠一族の兵力はおよそ二千と見なされている。一族は主なる水路及び交通路を勢力下に持っているので、財力においても近隣の諸豪を圧している。
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義昌は調べて来たことを一気に読み上げた後で言った。
「いままで申上げましたのは楠正成のひととおりの経歴でございますが、正成に対する評判のようなものもいささか聞いて参りましたので申上げます。彼は学問よりも武芸を好みます。その武芸も個人的に武芸を競い合うというようなものではなく、五十人、百人とまとまった人数を競わせる武芸に興味を持っているようでございます。軍学というようなものではございませんが、一族の若者を集めて、呉子《ごし》、孫子《そんし》、六韜三略《りくとうさんりやく》の軍学などはおよそ実戦の役には立たないものである、などと言って、彼独特の戦術論を披瀝《ひれき》しているそうでございます」
義昌の報告によって、義貞は、楠正成なる人間の外貌《がいぼう》を読んだ。
「なるほど、楠兵衛尉正成は恐るべき人物だな」
と思わず洩らす義貞に、
「いえ、いえ恐ろしいのは、その正成を使ってなにやらやらかそうとしている後醍醐天皇御一派の動きでございます」
と義昌は言った。そして彼は義貞に、今は尚《なお》自重すべき時期であるから、楠正成との交際は深入りしない程度になされませと言った。
船田義昌から正成についての身許調べの結果を聞いてから数日後に、義貞は楠正成からの書状を受取った。
≪私のことについて、いろいろと尋ね廻っておられるようですが、もし御不審の点がございましたら、心利いたる御家来衆、たとえば、さきごろ四条河原で飛礫打ちの妙技を見せたあの朝谷兄弟などを、私のところへしばらく遊びによこしてはいかがでしょうか。そうすれば私のことはなにもかも、はっきりするでしょう≫
と書かれていた。
「よし、朝谷兄弟を楠正成のところへやろう。あの兄弟のことだ。必ずなにかを掴《つか》んで来るに違いない」
義貞は朝谷兄弟を呼んで言った。
「余が帰れと言うまで留《とど》まり、楠正成がやっていることを細大もらさず見て参れ」
刀屋三郎四郎は三日に一度の割合でやって来ては義貞を祇園に誘い出そうとしたが、義貞はなかなか応じなかった。
「別に新田庄の刀を買いしめようという魂胆ではないのですよ、私は楠正成様にしろ、新田義貞様にしろ、赤松|則村《のりむら》様にしろ、さきざき御出世なされると見込んだ武将の方々とお近づきになりたいだけのことです。そうそう、今日脇屋様から書状を貰いました。刀はなかなかできぬそうです。弱りました」
三郎四郎はそんなことを言って帰って行った。その脇屋義助から義貞のところにも同じ日に書状が届いた。その中に新刀のことが書いてあった。
≪新刀についてはかねて刀屋三郎四郎殿から多量の注文がありましたが、おいそれと応じるわけには参りません。実は、坂東諸国からの新刀購入希望者が急激に増加して困っているところです。刀鍛冶は年期が要る職業ゆえ、そう簡単に人を増すことはできませんし、鍛冶場の増設もなかなかたいへんなことです。今のところそちらからの新刀の注文は受けられる状態ではありませんが、鑓先《やりさき》の方ならばお受けしてもよいと思います。あれは試作してみました。柄をつけて試したところ、鉾よりは軽く合戦には便利だと思いました。新田庄でも、鉾はすべて、あの鑓に変えたらよいとさえ思っております≫
脇屋義助の手紙はまだ続いていたが、義貞はそこで目を外に投げた。
外が騒々しい。なにかあったらしい。
あわただしい足音がした。大きな声で怒鳴る声がした。
「大番頭より、至急お出合いめされとのことでございます」
家来が言った。その日新田組は非番であった。非番を承知で出て来いというからには、なにか突発事故が起きたに相違ない。
義貞は武具をつけながら、行く先を家来に聞いた。
「三条室町小路の湯屋でございます」
「なに湯屋だと」
火事かなと思ったが、そうでもないらしかった。火事ならば街中が騒ぐ筈である。
「湯屋でいったいなにごとが起こったのだ」
「僧兵の狼藉でございます」
「僧兵とはなんだ」
彼はまだそれを見たことがなかった。
当時の湯屋は蒸し風呂であった。石を焼き、水を掛けて湯気を上げ、その上に茣蓙《ござ》を敷いて寝ころぶという簡単なものであった。二十人ないし三十人の客がここで汗をしぼり、垢《あか》を取って、さっぱりした気分になって外へ出て行くのである。
湯屋には客に茶を接待するところがあった。金のある客はそこに上がって茶や酒を飲んだ。そこに女がいた。湯女《ゆな》という名はまだついていなかった。湯茶屋の女と呼んでいた。美しい女を揃えている湯茶屋にはやはり客は多かった。京都の人口は女性より男性が常に多かった。独身の男性は、湯屋で垢を落とし、傾城町で遊女を買うのが最高の快楽だと考えていた。
僧兵が狼藉を働いたという湯屋は、三条室町小路にあった。京都でも最も大きな湯屋として名が知れていた。
僧兵は三十人ほど揃って現われ、いきなり裸になって風呂に入ろうとした。客がおそれをなして逃げ出すのを見てから、僧兵たちは、風呂をもっと熱くしろと騒ぎ出し、彼等が言うとおり熱くしてやると、今度は熱いからなんとかしろと怒鳴るのである。
その騒ぎも峠が過ぎたと思ったら、今度は風呂から出た僧兵たちが湯茶屋の女に悪ふざけを始めた。なにしろ相手は大勢だから、二人や三人の女ではどうにもならなかった。主人が出てなんとか許してやって下さいと言うと、今度は主人にからんだ。しまつに負えなかった。
人を走らせて、警邏《けいら》隊を呼ぶには呼んだが、相手が僧兵だと見ると、警邏隊は容易に手を出さなかった。うっかり手を出すと、たちまち、どこからともなく僧兵の応援が現われ、たいへんなことになることを知っていたからであった。僧兵は湯屋の前に立って、長巻などを振り廻し、中には、警邏隊に悪口雑言を吐く者もいた。警邏隊は次々と増強された。数で威圧して僧兵等を湯屋から立去らせようとしたのである。
「うぬらは案山子《かかし》か、それとも人形か」
六尺豊かな僧兵が路上に現われて警邏隊に向かって毒づいた。僧兵は黒い衣に黒頭巾だったが、その僧兵だけは紫色の衣に紫頭巾をつけていた。長巻の石突《いしづき》を大地に立てて、威張る恰好は僧兵だが、衣の色の違いから見ると、ただの僧兵とは思われなかった。
「あれは天台座主《てんだいざす》の尊雲法親王様だ」
「そうだ、間違いなく大塔宮《おおとうのみや》様だ」
と群衆の中から声が出た。
「後醍醐天皇の第三皇子|護良《もりなが》親王様だ。不敬を働いてはならぬぞ」
と制する者もいた。僧兵の群れの中に皇子がいるということになると、いよいよもって警邏隊は手がつけられなくなった。湯屋から、僧兵どもが、女たちを担いで出て来た。泣き叫ぶ女たちを、わっしょ、わっしょ、とどこぞへ担ぎ去ろうとする様子だった。女の悲鳴が暮れなずむ京の町を貫いた。
義貞が率いる警邏隊が到着したのはその時である。
義貞は大声で怒鳴った。
「狼藉はひかえよ。女をそこに置き、さっさと立ち去れ」
まず声で相手を制した。場合によっては得物を取らねばならないことになるだろうと思った。
「六波羅の腰抜け大番組の中に骨がある者はいるようだ。そちは何者ぞ、名を名乗れ」
と紫衣の僧兵は言った。
義貞はかけつけたばかりなので、その相手が何者かは知らなかった。そこに集まっている者たちの言うことも耳にしてはいなかった。しかし、紫衣の僧兵が他の僧兵と違っていることだけは、名を名乗れと言われた瞬間気がついた。
「拙者は大番役、新田小太郎義貞、してそこなる紫衣の御坊《ごぼう》の姓名はいかに」
一応は御坊と御をつけて置いた。なにか様子がへんだったからである。
「源の新田小太郎義貞か、あっぱれなる武者ぶりよ。名乗れとあらば名乗ってつかわしてもよいが、そうすると、あとでそちが困ることになる」
義貞はその一言で気がついた。天台座主になった後醍醐天皇の第三皇子がたいへんな暴れ者だという話を聞いたことがある。しかし相手が誰であろうと、ここまで来ると後に退《ひ》けなくなっていた。退くにしても上手な口実が欲しかった。
「名を名乗れないほどの尊いお方が、小うるさき坊主どもを引き連れて、なぜそのような乱暴をなされるや、はやその女ども放したまえ」
義貞はそう言いながら女たちを抱えている僧兵どもを指した。紫衣の僧は、
「その女どもを放してやれ」
と僧兵に命じてから、僧兵どもを全員外に出して路上に並ばせ、
「余が連れて来た者どもを小うるさき坊主どもと罵《ののし》ったのは許せぬ。しかし、その方の勇気と、源家嫡流の名に免じて我慢してやろう。これ義貞よ、そちが率いて来た、むさぐるしき東夷《あずまえびす》の中から力にかけてはこれぞと思う者あらば一名をここに出せ。わがほうよりも一名を出す。両者に相撲をさせて、負けたほうは、早々にこの場を立退くことにいたそう」
どうだと、紫衣の僧は言った。あらゆる状況から察して相手は後醍醐天皇の第三皇子護良親王に間違いないような気がして来た。義貞は、異常なほど緊張した。天皇の御子《みこ》に不敬を働くことが、計り知れないほど大きな罪科に思われて来るのである。義貞は総身が粟立《あわだ》つ思いだった。
「これ、赤松真行坊|則祐《そくゆう》、ここへ来て、東夷の力のほどを試してやれ」
と紫衣の僧が言った。
こうなると義貞もあとには退けなかった。彼は意を決して叫んだ。
「世良田《せらだ》経広、ここに出て、お相手申せ。手ごころは加えるな」
周囲の人だかりの中から喚声が上がった。これは面白くなったぞというこの勝負に期待する声であった。
赤松真行坊則祐は黒い衣を着てはいるが僧ではなく、武士であることが一見して分かるような面魂《つらだましい》をしていた。彼は六尺を越える筋骨隆々とした身体《からだ》にまとっていた黒衣を脱ぎ、褌《ふんどし》一本の裸になって、いざ組まんという姿勢を示した。
世良田経広も立派な体格をしていたが、則祐に比較するとはるかに劣って見えた。
「勝負は決まったようなものだ」
「坊主の勝ちだ」
などという声が聞こえた。
世良田経広は新田氏の一族であった。選ばれて京都大番としてやっては来たが、まさか湯屋の前で、相撲を取れと命ぜられるとは考えてもいないことだった。彼はなにか、気がすすまないような顔をして、着物を脱いだ。
「始めよ……」
と行司役になったつもりの紫衣の僧が二人に言った。赤松真行坊則祐が大手をひろげて前に出た。経広がその胸を右手で力いっぱい突き飛ばした。則祐は危うく倒れそうになるのを踏み止《とど》まった。びっくりした顔だった。相撲を取ろうというのに突きとばすとはなんだという顔だった。則祐は再びかまえを直して近づいた。慎重だった。経広が突きに出たら、その腕をとらえて、大地に叩きつけてやろうと思った。だが、今度は顎《あご》をしたたか突き上げられた。頭がくらくらした。則祐はもう我慢ならなかった。彼は唸り声を上げて、身体ごとぶっつかって行った。経広は、ぱっと体をかわして、則祐の背中を右手で叩いた。
則祐は路上に倒れた。わっと喚声が上がった。手を叩く者もあり、声を掛けて経広の勝利をたたえる者もいた。
「卑怯《ひきよう》だ。卑怯な手だ」
と僧兵たちが騒ぎ出した。
しかし、紫衣の僧は彼等を制して言った。
「突きの手は野見宿禰《のみのすくね》もよく使ったと伝えられている。別に卑怯ではない。こちらの負けだ」
紫衣の僧は僧兵たちをまとめて引き揚げる間際に、そこに集まって眺めていた六波羅の警邏隊の者たちに言った。
「新田小太郎義貞主従以外は腐れ果てた奴等ばかりだ。いずれ近いうちにそちらのたむろしている六波羅は正義の神兵が放つ火矢《ひや》によって焼け落ちることだろう」
と言った。
紫衣の僧が率いる僧兵が消えた後に夜が訪れた。
義貞は肩を落として歩いていた。紫衣の僧に対する気使いと同じぐらい周囲の者に対する心使いが彼を疲れさせたのである。
世良田経広が相撲に勝ってくれたからよかったものの、もし負けでもしたらたいへんなことになるところだった。それにしても、あの紫衣の僧が残した最後の言葉の意味は重大だった。あのままでは済むまいと思った。六波羅の者の一人が、訴え出たらえらいことになるだろうと思った。
その夜、彼は船田義昌と世良田経広を近くに呼んで酒を飲んだ。夜になると京都は急に静かになって、物音一つ聞こえなくなる。そのしじまを破って、義貞等が酒を汲《く》んでいた部屋の蔀戸《しとみど》に矢を射かけたものがあった。
義貞はすぐ太刀を取った。
蔀戸にささった矢には文が結びつけられていた。
≪今宵、子《ね》の刻、四条|猪熊《いのくま》小路、吉田|定房《さだふさ》卿別邸に従者一人を連れてまかりあるべきことたがわざるべし。紫衣雲法≫
結び文にはそのように書かれていた。紫衣雲法は尊雲法親王|即《すなわ》ち護良親王を指していることは間違いなかった。しかし、その字が真筆か否かは分からなかった。
「真筆にしろ偽筆にしろ、相手はお館《やかた》様の心をためそうとしていることだけは確かです」
と船田義昌は、そう前置きして、
「これが真筆だとした場合、速やかに六波羅に駈けこめば幕府に忠節をつくすことになり、同時に令旨《りようじ》(皇太子や親王などが発する文書)にそむくことになります。偽筆の場合であっても東へ行くか西へ行くかによって、お館様の心が幕府にあるか、後醍醐天皇にあるか、はっきりと決まってしまいます。先のことは先のこととして、今ここで幕府につくか宮方につくかの決定はなすべきではないと思います。矢文は誰かの悪戯《いたずら》ということにして、知らんぷりをしていたらよいと思います。どちら側にも付かず離れず、やがて来るべき時を待ったらいかがでしょうか」
船田義昌は同じことを繰り返した。
義貞は一言も言わずに目をつぶって義昌の言葉に聞き入っていたが、しばらくあって目を開くと最初からその場に居合わせた世良田経広に、そちはどうしたらよいと思うかと訊いた。経広は座り直して言った。
「このたび、お館様と共に京に上って来た者はほとんど同じ血筋につながる一族です。それらの者たちの意見をたしかめた上でお館様の心を決めたらいかがでしょうか。既にわれらも、近いうち戦いが始まるであろうことは心に期しています。われらだけではなく多くの武士もそれを覚悟しているでしょう。ただわれ等が他の者と違うところは、源氏嫡流の一族であり、お館様の心次第で一族の行く末が決まることになることです。なにとぞ一族の者の意見を聞いての上で御決心いただきとうございます」
経広の言うことは理屈にかなっていた。義貞が今宵吉田定房卿の別邸へ行くか行かないかは、即ち幕府にそむくか否かの心を決めることになる。それは新田氏一族の運命にもかかわっていることだから、充分に考えての上でなければならないと言ったのである。
義貞は経広の意見を取り上げた。直ちに主なる者十人が呼び入れられた。中には眠ったばかりのところを叩き起こされて不快な顔をしている者もあったが、矢文の内容を示されると、たちどころに目を覚ました。
議論は甲論乙駁《こうろんおつばく》なかなか決しなかった。しかし時間が経過すると慎重論が次第に強くなり、やはり、今宵は出向かない方がよいだろうという意見に傾きかけたころ、また新しい意見が出た。
「矢文に対しては矢文でお答えしたら如何《いかが》でしょうか」
それまで黙って聞いていた安養寺《あんようじ》貞盛がはじめて口を開いた。
彼もまた新田氏の一族で、彼の強弓《ごうきゆう》は新田庄随一と称されていた。
「それはよい。して矢文にはなんと書く」
義貞はほっとしたような顔で訊いた。
「歌を書いて送ったらいかがでしょうか」
たとえばと言って、安養寺貞盛が静かに口にした歌は恋歌であった。
君待つと思えば乱るわが心はばむ渋谷の原のかたばみ
渋谷の原は、渋谷《ヽヽ》仏光寺と隣合わせている六|波羅《ヽヽ》庁のことを指したのである。かたばみは草の名である。当時六波羅南庁の門にかたばみの紋が飾りとして彫りこまれてあったから、この門のことを一般にかたばみ門と呼んでいた。
歌の意味は、君が待っていると思うと心が燃えるほど行きたいが、六波羅南庁に勤仕している身分を考えると、それができない、という意味であった。
「要するに行きたいが行けないということだな」
義貞は歌の意を確かめてから、それを紙に書き東夷小太郎と署名して結び文とした。
義貞は京都の町を警邏して廻っているから、吉田定房の別邸がどこにあるかはよく知っていた。
彼は安養寺貞盛と世良田経広の二人だけを伴って闇の中に出た。まだまだ子の刻には一刻ほどの時間があった。月が明るいので迷うことはなかった。
吉田定房の別邸は外から窺っただけでは人がいるかどうかは分からなかったが、灯火が洩れているところをみるとまだ起きていることは確実だった。三人はあたりを警戒しながらできるだけ近くに寄った。
「門に向かって射かけよ、矢が門の板を貫くほどに引きしぼれ」
と義貞は命じた。
安養寺貞盛は重籐《しげとう》の弓を満月のように引きしぼって放った。矢尻は門の板を見事に貫いた。
邸内で人声がして、明りを持って人が出て来るまでには三人はその場から遠く離れたところを歩いていた。
「吉田定房卿の屋敷ではさぞかし今ごろは」
と義貞はひとりごとを言いかけたが、そこで止《や》めた。その矢文についてさぞかし、いろいろと評定《ひようじよう》がなされているだろうと言いたいところであった。
義貞の言ったとおり、そのころ吉田定房の別邸では義貞の矢文を前にして、護良親王、吉田定房、楠正成、赤松則祐そして刀屋三郎四郎等は車座になって議論をしていた。
「矢文には矢文で返答するとは気の利いた男……」
と言ったのは吉田定房だった。
「さすがは新田義貞殿、なにごとにも用心して掛る。しっかりしたものだ」
と讃《ほ》めたのは刀屋三郎四郎だった。護良親王と赤松則祐は、令旨を無視した不届き者と初めは激昂《げつこう》していたが、他の者が義貞の慎重さと、歌によってその意志を返したことを高く評価しているのを聞いて、なにか思い違いでもしていたかのように、次第に声を落とし、終《つい》には楠正成に目をやって結論を求めた。
「機|未《いま》だいたらずと、新田庄殿は申されているのです。親王様にも、くれぐれも、軽率なお振舞い無きように。機が到れば新田庄殿は、必ずお味方につくでしょう」
正成は静かに言った。その彼の目がきらりと光った。
六波羅探題南庁長官になったばかりの北条|時益《ときます》から呼出しがあった時、義貞は、あの湯屋のときのことだなと思った。おそらく護良親王のあの時の発言が問題になって呼出されたのだろうと思った。
しかし予想は全然違っていた。
大番組頭に任ずるからしっかりやれという申し渡しだった。
「近ごろ京都の町は、よからぬ騒動が次々と出来《しゆつたい》しているし、京都の近くでも悪党どもがはびこり、京都の町の中の悪党どもと示し合わせて悪事をたくらんでいる。そのような時勢に応ずるために、大番頭の下に大番組頭を改めて置くことになった。しっかりやって貰いたい」
時益がおおよそのことを言ったその後をついで、探題の役人が大番頭と大番組頭との関係について説明した。一口に言うと六波羅探題の増強であった。
大番頭の下に大番組頭を幾つか設けることによって、六波羅の実力を一挙に数倍にしようという狙いだった。そのようにするために、かねてから地方の御家人に対して大番催促状がひんぱんに発せられ、命に応じて次々と京都へやって来た人たちが、六波羅|界隈《かいわい》にたむろしていた。このような情況下で六波羅探題が、南庁、北庁共に交替したことはさしせまった事態を思わせた。
新田義貞は彼自身が率いて来た五十人の他にその五倍の二百五十人、つまり、三百人を指揮する大番組頭に昇進したのである。
新田義貞の指揮下に入った者は、豊島三郎五郎、平賀|武蔵《むさし》二郎、飽間《あくま》六郎、園田|淡路《あわじ》入道、綿貫三郎入道、沼田社別当、伴田左衛門入道、白井太郎、神沢右衛門、藤田一郎兵衛、武田二郎太郎等が率いる郎党たちであった。
義貞は大番組頭になったことを喜んでいいかどうか分からなかったが、とにかくまとまった、軍勢を率いる大将として認められたことは事実であった。
「そちは京都に参ってそれほど経たないのに、随分名を挙げたそうだな」
と時益は高いところから義貞に言った。やはり、傾城《けいせい》町や湯屋のことが時益の耳に入っていたのだと義貞は思った。では今度こそ、護良親王のあの暴言について訊かれるだろうと思ったが、それには触れず、席を立って行った。
「たいそう出世なされましたな」
と六波羅庁を出たとき、一色|家範《いえのり》が義貞に追い付いて言った。
「こういうことを出世というのでしょうか」
と義貞はかえって一色家範に訊いてみた。組頭になったと言っても、実質的に得るものはなにもなかった。下手をすると出費が増すことになるだろう。そっちの方が心配だった。
「この二、三日中に鎌倉から早馬があるらしい。それによって、六波羅殿は覚悟を決められる御様子ですよ」
と一色家範は意味ありげなことを言った。
「なんの覚悟を決めるのです」
と義貞が訊いたが、さあなんでしょうかと、とぼけながらも、彼は後醍醐天皇の住む禁裏の方へ目をやっていた。
そのころ、京都と鎌倉との間を、早馬がしきりに往復していた。
先に鎌倉に送られた円観僧正、文観僧正、知教僧正、教円僧正、忠円僧正と公卿《くぎよう》の日野俊基等の取調べの結果、禁裏内で中宮の安産を祈祷《きとう》したというのは、実は幕府転覆の祈祷であったことがほとんど明らかになった。その結果を報ずる早馬だった。
幕府は五人の僧正の取調べに対してことがことだけに慎重だった。初めから拷問に掛けて自白させるという手は使わなかった。もし無実だった場合、後難をおそれたからだった。しかし結局は拷問に持ちこんだ。座敷|牢《ろう》に閉じこめて置いただけでは、いつまで経っても本当のことを言いそうもなかったからだった。
文観僧正以外の四人の僧は、暗い獄舎に移され、そこに三日間置かれた上、拷問のための責め道具を見せられただけで一も二もなく降参して、なにもかもべらべらとしゃべった。口に油が乗りすぎて、幕府転覆の祈祷ばかりでなく、北条一族調伏の祈祷も兼ねて行ったのだなどと言った者もあった。だが文観僧正と日野俊基は頑として中宮安産の祈祷であったことを繰返した。二人は拷問に掛けられたが白状しなかった。
文観僧正の拷問は次第にきびしくなり、終に、水風呂漬けの責めに会った。文観は十日間我慢したが、終に耐えられなくなって白状した。
日野俊基は公卿の家の出ではあったが、もとは検非違使《けびいし》庁の役人から抜擢《ばつてき》された人であった。彼はいかなる拷問にも耐えた。死んでも口を割らないという固い意志を示した。
幕府の方針は決まった。日野俊基は口を割らないけれど、五人の僧正が、後醍醐天皇の依頼によって幕府転覆の祈祷を行ったことが明らかになった以上、天皇御|謀叛《むほん》と断じ、しかるべき処置を取るべきであるという結論に達した。ただ幕府にとって歯がゆいのは、後醍醐天皇一派の幕府転覆計画に加わっている武士の名が分からないことであった。日野俊基が吉田定房の訴えによって捕縛される前に若手の公卿や武士などを使って、「天狗講《てんぐこう》」を全国的にひろめていたことも分かっていた。しかし、その天狗講に感化されて、日野俊基のところに参集した武士は居ない。心を寄せる者があっても、その名は出してはいなかった。
鎌倉幕府の執権補佐金沢|貞顕《さだあき》からの書状が六波羅に届いた。
≪日野俊基はまことに胆力の座った人間である。彼がやろうとしていたこともすこぶる計画的であり、綿密であったらしい。従って彼は容易にぼろを出すようなことをしていない。しかし彼等が在野の武士団と結託して、ことを起こそうと考えていたことは事実である。その武士の名が分かり次第、兵を向けて捕えねばならないが、その前に、五人の僧正等の口から護良親王の名が出ているから、親王の行動について監視の目をゆるめてはならない≫
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南北朝時代を書いた本には天皇御謀叛という言葉が必ずと言ってもいいほど出て来る。これは天皇と御謀叛とをくっつけた一種の複合語であり、南北朝時代にのみ通用する慣用語とでもいうべき性質のものであろう。この場合の天皇は後醍醐天皇であり、端的にこの時の情況を表す語句でもある。
いったい誰がこの複合語を発明したのか、或《あるい》はなにか出典があってのことかと調べているうちに、私は福井市の藤島神社で原典にお目にかかることができた。
藤島神社は新田義貞を祭った神社で足羽《あすわ》山の中腹の展望に恵まれたところにある。私が訪れた時は境内の桜の蕾《つぼみ》がふくらんで、もう二、三日で開きそうな時だった。
天皇御謀叛のことが書かれた結城《ゆうき》文書はこの神社の宝物殿にあった。宮司がわざわざ私のために出して来て見せてくれた。
この書状は常陸《ひたち》の結城宗広が彼の嫡子上野七郎|兵衛尉《ひようえのじよう》(親朝)宛に送ったものである。当時結城親朝は蝦夷《えぞ》鎮定の軍に加わっていたが、あまりにも重大事だったから知らせたのである。
内容は正中《しようちゆう》元年(一三二四年)九月京都で起こった「正中の変」を報じたものである。鎌倉にいた結城の一族から得た情報を更に白河まで中継して知らせてやったと解すべきものだった。これを意訳すると、
九月二十三日、京都から鎌倉に早馬があった。当今御謀叛の様子を知らせて来たものである。
という書き出しで、京都に起こった事件と、それを聞いて、あわてふためいている鎌倉幕府内部の様子が書かれてある。又聞きであるのに、内容はきわめて細部に渡っている。「正中の変」の立役者の一人とも言うべき、多治見国長《たじみくになが》の名前もこの文書にちゃんと出ている。
書状の内容の細かいことはどうでもいいが、書状の冒頭に書かれている、当今御謀叛の五字が即ち後醍醐天皇御謀叛――天皇御謀叛となるから、わざわざここに書き出したのである。当今御謀叛という言葉を使った結城宗広は、当時坂東に住む御家人の一人、つまり幕府方に属する者であったから、幕府転覆を計った天皇は謀叛人と考えたのであろう。この結城宗広は、この後|元弘《げんこう》三年(一三三三年)に新田義貞が鎌倉に攻め入った時には、天皇の綸旨《りんじ》を得て、討幕に参加し、勤王の武将と言われた人であった。
幕府の御家人であった場合は、天皇御謀叛という言葉がなんのこだわりもなく素直に出るところに、当時の豪族武将たちの考え方があった。
当時の豪族の天皇に対する感情は謀叛に御をつけて尊敬の念を示す程度のものであって、ことさら天皇を神格化して考えたり、絶対的なものと考えてはいなかったようである。天皇の権威がどのようなものであったかを示す最良の材料がこの「当今御謀叛」である。
結城文書の筆の流れは面白い。各行の間隔は上が広がり、下がつぼまっていた。これが当時の書状の特徴の一つである。なかなかの達筆であった。じっと見詰めていると、馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえて来るような気がした。
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楠正成
六波羅探題北条時益は細作《さいさく》を放って護良《もりなが》親王の行動を監視し続けていた。京都湯屋においての暴言もちゃんと報告されていた。しかし六波羅では親王を野放しにし、親王の周辺に近づく在野武士団の動きを見極めようとした。幕府にとっては護良親王の動きよりも、武士団の動きの方が気になることであった。
元弘元年(一三三一年)八月に入ってすぐ、六波羅探題の南庁長官の北条時益と北庁長官の北条仲時とが、南庁において合議した。
「鎌倉からは尚、慎重にせよと言っては来ているが、時を失すると大魚を逸することになる。捕えるべきである」
と北庁長官の北条仲時が言った。
「大魚を捕えるのはいい、しかし大魚のみ捕えて、中魚、小魚を放せば、再び騒乱は起こる。大魚のみ捕えるというのは、いささか性急な考え方ではないだろうか」
と南庁長官の北条時益が言った。
「大魚あっての中魚、小魚である。大魚を捕えれば、中魚、小魚は逸散すること火を見るより明らかである」
と仲時は言ってきかなかった。兵を禁裏に向け、後醍醐天皇を捕えるという強硬意見であった。
「その場合、天皇に味方して旗を挙げるおそれがある地方武士は誰だと考えておられるか」
という時益の問いに対して仲時の答えは明瞭だった。
「それは南庁殿のほうがよく知っておられる筈。まず第一に比叡《ひえい》の坊主ども、第二に南|河内《かわち》の楠正成、そして第三に播磨《はりま》の赤松則村であろう。このうちやや手強《てごわ》いのは叡山の坊主どもだが、六波羅の兵を向ければ、まず十日で落ちる。楠正成や赤松則村などはそのあたりの山に住む魑魅魍魎《ちみもうりよう》の類《たぐい》、なんで恐れることがあろうぞ」
「楠正成というといま禁裏衛府の兵衛尉正成のこと、彼はなかなかの人物であり、評判もよい。赤松則村も佐用の荘の豪族で、則村の弟の円光の室は楠正成の妹と聞いている。また則村の三男則祐は護良親王の右腕と称せられる剛の者、何《いず》れにしても魑魅魍魎の類ではござらぬ。それどころか油断ならぬ男達……」
時益は言った。
「さらば、大魚を生捕って、中魚、小魚を誘い出してはいかがであろう。もはやこれ以上待つことはできぬ」
北条仲時は禁裏に兵を入れることを強く主張した。
六波羅から二千の軍が禁裏に向かった。禁裏は包囲され、蟻《あり》の這《は》い出る隙もなかった。武力を以《もつ》て禁裏を包囲してから六波羅探題は、天皇に譲位をせまった。
≪かねてからの両統迭立の定めのとおり、御座を皇太子の量仁《かずひと》親王にお譲りあってしかるべきと存じたてまつります。兵を以て禁裏をかこむは無礼とは存じますが、ひとたび約束されたこと、はや御取り計らうこそ先決と考え、敢えて、ご決断をせまるものであります≫
六波羅奉行人斎藤教親はこのように書かれた六波羅探題北条仲時の書状を持って禁裏におもむいた。
後醍醐天皇側でも六波羅の動きをうすうす知っていた。六波羅が禁裏に兵を向ける前に、天皇を比叡山にお移し申そうと、吉田定房等は考えて、ひそかにその準備を整えていた。だが比叡山の受け入れ体制が決まっていなかった。天皇の御座所をどこにするかで、比叡山内部でもめている間に六波羅に先手を打たれたのである。しまったと思っても後の祭りであった。吉田定房は急いで天皇の前に伺候した。
「こうなったら止むを得ない。一応は六波羅の言うことを聞かねばなるまい。いや聞くように見せかけて、ここを抜け出す算段を考えよ」
後醍醐天皇は意外に泰然としていた。
吉田定房が斎藤教親に会って言った。
「ごもっともな仰せ出しと思う。天皇もその点は充分にお考えになっておられたことでもあるから、そのとおりにいたしたいと思っている。しかし、このような状態で、御譲位はできない。これこそ武を持って公を制することであり、もっともあさましいことである。まず、禁裏を包囲している兵を退かせ、皇后をはじめ奉り女御たちを安全なところに御避難申し上げての上で譲位の式を取り行ってはいかがでしょうか。この点、よしなに六波羅探題殿にお伝え下され」
と、条理をただして言った。
実際、禁裏の中はたいへんな騒ぎであった。今にも、武器を持った武者どもが禁裏に入りこみ、乱暴|狼藉《ろうぜき》のしたいほうだいをするのではないかという女官たちの恐怖は、そのまま声になり物音になっていた。
六波羅奉行の斎藤教親が吉田定房との面談を終わって、回廊を階《きざはし》のほうに向かって歩いているとき、うら若い女官が一人走り寄って来て、斎藤教親の袴《はかま》の裾をおさえて言った。
「お願いでございます。お助け下さいまし。私は殺されるのはいやでございます。なにひとつ悪いことをしたことのない私がなぜ死なねばならないのでしょうか。六波羅様にお助け下さるようお願い申し上げてくださいませ」
泣きしゃべりであった。それを聞いて、二人、三人、ついには十人ほどの女官が出て来て、斎藤教親に取りすがって泣くのである。
教親は、哀れを催した。女たちには関係のないことだ。譲位の行事さえ行われれば、あとは静かになるのだ。彼はそのように考えながら禁裏を出た。
斎藤教親は六波羅に帰って吉田定房に言われたとおりのことを報告した。禁裏の中は、まるで戦さでも始まったような取り乱しようですと前置きして、女官たちに哀願されたことも、ことこまかに述べた。
「階までようやく逃れ出ましたが、そのときには、これこのように」
彼は、袴のほころびを見せた。
「女という者は、どこに居てもうるさい者だな」
北庁の長官北条仲時はそう言いながら南庁の長官北条時益を見た。
「だが、そのまま放って置くこともできない。一|刻《とき》の間だけ、裏門を明けさせ、女に限り外に出ることを許したらいかがかな」
時益が言った。しかし仲時はそれが不満だった。女官どもが泣こうが喚《わめ》こうが、一気に禁裏に押し入って、うむを言わさず譲位させようと思っていた。
「幕府自ら禁裏を犯したとすれば、それが地方の武士にどのように響くだろうか」
しかし、時益のその一言で仲時の気持ちは変わった。たしかに天皇に心を寄せている地方の武士の数は多い。彼等を刺戟《しげき》するようなことはでき得れば除けたほうがいい。
「では、一刻に限って女御たちが裏門から退出するのを認めてやろう。女御に扮《ふん》して公達《きんだち》たちが脱出しないように見張りを厳重にすることだな」
と仲時が言った。時益もそれに同意した。
斎藤教親は再び禁裏に引き返してこのことを告げると、吉田定房はすかさず言った。
「女御たちが脱出するとなると輿《こし》も要るし、避難先まで輿を担いで行く者や、当然警護の武士も必要でございます。行く先にこのことを知らせる早馬も出さねばなりません。これは当然のことながら御承知いただけるでしょうな」
いや、そのことは独断ではお答えできないからと教親が六波羅に帰って、許可を貰って再び帰って来るまでにはいくらかの時間があった。吉田定房はできるだけ多くの時間を稼《かせ》ぎながら、その間に主上脱出の策を巡らせていた。
裏門で、輿の改め役を仰せつかったのは、新田義貞であった。特に彼が選ばれたというのではなく、たまたま、裏門守備に当たっていた、大番組頭新田義貞に命がおりたのである。
義貞は輿を担ぐ者や、警護の武士の中に公達や公卿が混っているかどうかを家来たちに調べさせ、自らは輿の中の人が女御であるかどうかを調べることにした。
次々と輿が出て来た。輿のまわりを数人ずつの女が取巻いていた。その後から二十人ほどの禁裏の衛士が護っていた。なぜこれほど多くの、しかも美しい女ばかりが禁裏内にいるのか義貞は不思議に思われてならなかった。
一段と立派な輿が出て来た。或は皇后かと義貞は思った。輿に近づこうとすると、警護に当たっている衛士の中から、たくましい髭《ひげ》をたくわえた武士が出て来て義貞に向かって言った。
「皇后にてあらせられるぞ」
びっくりするような声であった。見ると、その男はなんと楠正成であった。
「皇后であらせられても、輿の中はお改め申さねばならぬ」
義貞は言い返してやった。正成の声が大きく、しかも、義貞を見ている正成の目がなにか意味ありげに思えたからだった。
「では近うよってしかとお改めあれ」
と正成は輿に近づき、戸を細目に開けて義貞に覗《のぞ》くようにと合図した。
「役目とは申せ、非礼の段、おゆるしあれ」
と輿に向かって一礼した義貞は輿の隙間から内部を見た。中には女官の服装をした者が一人いた。しかし、顔をかくしているから男か女かは分からなかった。長い黒髪が見えないところから、男が女に扮したものと想像された。
正成はぴしゃりと戸を閉めた。
「皇后であらせられること間違いないな」
その正成に義貞は答えて言った。
「まさしく、皇后にあらせられること相違ござらぬ、いざお通りあれ」
義貞は言ってしまって、そのひとことが如何に重大な意味を持つかを考えていた。
一刻は過ぎた。女御等の退出は終わった。
六波羅奉行斎藤教親は六波羅探題の命を受けて吉田定房に会って、すみやかに譲位の儀を行うように伝えた。
「皇后様、女御たちが立退くとなるとたいへんな騒ぎだった。その騒ぎにまぎれて、その方の用意はしてない。これから早速譲位の儀式の準備にかかるゆえ、いましばらく御猶予を賜りたい」
吉田定房は更に一刻近く待たせた。北条仲時が不審に思って、兵を率いて禁裏に入り、後醍醐天皇に拝謁を乞うた時には、天皇の輿は遠く京都を離れ、楠正成がかねて用意していた出迎えの軍勢に守られて奈良へ向かって急いでいた。
天皇ばかりではなく、若い皇子たちもいなかった。主なる公卿も衛士に化けて脱出していた。万里小路宣房《までのこうじのぶふさ》卿や吉田定房卿など数人の公卿が後に残っていた。
「天皇はどこへ落ちられたか」
と北条仲時が訊くと、
「さて、どこへ行ったやら、私はいっこうに存じません」
と吉田定房は白を切っていた。
北条仲時は裏門の警備に当たった新田義貞を呼んで、
「おそらくは、天皇は女装して脱出したのであろう。なぜ捕えなかった」
と詰問したが、義貞は悪びれもせず、
「輿は、例外なくいちいち確かめました。男は一人も乗っておりませんでした」
「輿に乗られなくとも、主上は衛士に姿を変えて脱出されたのかもしれぬ」
なぜ捕えなかったかと詰問する仲時に義貞は答えて言った。
「やれるだけのことはすべてやりました。だが主上らしき人の姿を見かけた者はおりませんでした」
義貞はそう答えながら、自分はいま、天皇に味方し幕府を裏切ろうとしているのだとはっきり感じていた。
元弘元年(一三三一年)八月二十六日の午後であった。
後醍醐天皇を乗せた輿は、闇の中を奈良に向かってひたすら走った。輿を担ぐ者が頻繁《ひんぱん》に交替した。輿を護る人たちは夜が明けるまでには奈良の東大寺まで行きつきたいと願っていた。
木津の石地蔵のあたりまで来たとき、ようやく明るくなった。目ざす奈良の東大寺はすぐそこだったが、輿の中の天皇の要望によって、しばらく休憩することになった。六波羅の追手もここまでは来ないだろうと思ったからである。
天皇の輿を護って来た楠正成は、周囲に物見を出して警備に当たった。
輿から降りた天皇は石地蔵のすぐ裏手にある楠《くすのき》の大木の根本に茣蓙《ござ》を敷き、そこでしばらく休養を取られることになった。天皇は輿に酔ったのである。内裏を出てからここまでずっと輿の中で揺られ続けたから無理もないことだった。
天皇の傍には、衛士に化けて内裏を抜け出した万里小路中納言|藤房《ふじふさ》卿と中納言|季房《すえふさ》卿の兄弟がつきそっていた。天皇は、輿の中でずっと着ておられた暑苦しい女の着物を脱いで、藤房等が隠し持って来たさっぱりした衣冠をつけられ、楠の下でしばらくまどろんだ。そこには、涼しい風が吹き通っていた。
正成は中納言藤房卿を地蔵堂の蔭《かげ》に呼んで言った。
「こうなった以上は幕府を相手に戦う段取りを次々とすすめないとたいへんなことになります。一刻も猶予してはおられない時だと思います」
そう言われても藤房にはなにをどうやったらいいかは分からなかった。無我夢中で内裏を後にして来たというだけで、それから後のことは、どうしていいやらさっぱり分からなかった。ただ別れ別れになった家族たちが落ちつき先に無事着いたかどうかだけが心配だった。
「戦う手立てと言われても、どうしてよいかまろには見当がつかない。思うことがあったら、ことと次第によっては主上のお耳に入れてみてもいい。申してみるがよい」
藤房は言った。藁《わら》にもすがりつきたい気持ちで居るのに、正成がいざ献策しようとすると、ことと次第によってはなどと、すぐ権威をひらめかすいかにも公卿らしい言い方にも正成はむしろ哀れを感じていた。
「では申し上げましょうか」
と切り出そうとすると、藤房は、もうしばらく待てば主上がお目を覚まされるから、その時、直接申し上げたほうがよいかもしれないと言った。ことと次第によってはなどと言ったすぐ後で、天皇に直接奏上したらよいかもしれないなどと気が変わる藤房の顔を見ながら正成は、こういう人たちと将来ずっとつき合って行けるかどうかが心配になった。
天皇は楠の下で半刻ほど仮眠を取った後、はや、東大寺に向かって立とうと仰せ出された。藤房は進み出て、
「ここまで警護して参りました衛士の兵衛尉楠正成が、取り急ぎ、奏上いたしたい儀があると申しております」
と言ったあとで、はるかうしろに控えている正成を振りかえった。
後醍醐天皇は大きく頷《うなず》いた。ひとねむりして気分がよくなったところでもあった。
「楠兵衛尉正成のことは定房(吉田定房卿)から何度も聞いておる。会ってみたいと思っていた。早速こちらへ招くがよい」
天皇は正成を近くに召すと、なにか献策があれば言ってみるがよいと言った。そこには御簾《みす》もなく、へだてる人間も藤房と季房の二人だけだった。後醍醐天皇にはかえってこのほうが気持ちがよかった。
直答を許された正成は天皇の前まで膝行《しつこう》した。正成の話しぶりは最初はゆっくりだったが、話し出すとよどみがなかった。
「こうなった以上、飽くまでも幕府を倒すまで戦うという御決心こそ第一と考えられます。戦さは人と人との殺し合いになります。戦術についてはいっさい武士におまかせあることが第二の御心構えかと存じます。この二つについて充分にお分かりいただいた上で、軍略について申し上げたいと存じます」
正成はそう言って頭を下げた。
「兵衛尉、よくぞ申した。まさにそちの申すとおり、朕《ちん》もこうなった以上、如何なる辛酸《しんさん》に会おうともくじけず、倒幕の志をおし通す所存である。第二に戦さについては朕や公卿たちが口をさしはさむようなことはしないつもりだ。それはもう、古くは保元、平治の乱、近くは承久《しようきゆう》の乱などで明らかになっていることである。朕は充分心得ての上でそちの軍略を聞きたい」
天皇は大きな目を見開くようにして言った。
「では申し上げます」
正成は天皇に対して多くのことを進言した。
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一、幕府の目をまどわせるために、今京都の邸で静養中の尹《いん》大納言|師賢《もろかた》卿を天皇に仕立てて、叡山へおもむかせること。
一、これから落ちて行かれる東大寺は内部が二派に別れて抗争中であるから、充分見きわめてから行幸されること。
一、ここ当分の行在所《あんざいしよ》は笠置寺《かさぎでら》が適当であろうこと。
一、だが、笠置山も幕府の大軍にかこまれたらそう長いこと持ちこたえることはできないから、その次の落着き先を考えねばならないこと。
一、その落着き先については金剛山が適当だと考えられること。
一、正成は笠置山を幕府の大軍が取囲んだころ、南河内の赤坂城で討幕の旗を挙げて、幕府の軍を牽制《けんせい》すること。
一、天皇は笠置山にあって、できるだけ多くの綸旨《りんじ》を諸豪にばら撒《ま》いて、討幕の兵を募ること。
一、笠置山と赤坂城の両方が一カ月間幕府の兵を支えることができたとしたら、天皇に味方して討幕の旗を上げる者が諸方に起こり、やがては幕府が倒れるであろうこと。
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正成は明快な口調でこれだけのことを説明した後を結んで言った。
「戦いは複雑です。お味方の旗色が良くなることもございますが、悪い方に向くこともございます。ひとたび乱になると世が落着くまでには長い年月がかかるでしょう。そのように心に留められ、区々の勝敗は気になさらぬようお願い申し上げます」
楠正成はそう言って平伏した。
後醍醐天皇は楠正成の言葉を身にしみて聞いた。内裏にあって、若い公卿たちを集めて、倒幕計画を練っていたときには、このような有様になるとは思ってはいなかった。だいたい倒幕計画が洩れるなどとは思ってもいなかったし、六波羅が武力を以て内裏を包囲するなど想像も及ばぬことだった。
吉田定房の計らいで危うく脱出はしたが、さてその先はどうしたらよいかと思っていた矢先の正成の進言は、天皇の心を強くした。倒幕の企ては無には終わらないと思ったのである。
「すべて理にかなったことだと思う。今はそちにのみ頼む気持ちでいっぱいである。よきように計らえよ」
そうは言ってみたが、いったいどこまで、正成がそれらのことを実行できるか不安になったので、中納言季房の方を見て、
「なにか意見があったら申せ」
と訊いた。季房はそのひとことで天皇の気持ちを知ると、正成に向かって、二、三訊きたいことがあると前置きして、尹大納言師賢卿を天皇に仕立てて叡山に上らせる方法をまず問うた。
「いざというとき主上を叡山にお移し申そうと思い、かねてより吉田定房卿と相計り、輿も人も用意してございます。またこのたび内裏脱出の計略もそれがしが吉田定房卿に進言いたしました。されば主上よりの御言葉さえいただければ、これより家来を京へ走らせ、京に留め置きましたる者どもを公卿に変装させ、尹大納言師賢卿をお護りして叡山に上り、天台座主《てんだいざす》尊雲法親王様と連絡を取って錦の御旗《みはた》を寺堂に掲げ、叡山の僧徒三千を味方に引き入れ、六波羅軍と戦うつもりでございます」
と答えた。
天皇は正成が吉田定房と相計って先の先のことまで準備していたことを知って非常に心を強くした。
「楠の木の下で、楠正成という大将に会ったということは、なにかの因縁でもあろう。行く末が明るくなったような気がする」
と天皇は言った。藤房は、更に箇条別に正成に質問しようと思っていたが、天皇の一言でそれ以上訊くことはやめた。
輿は間もなく動き出した。日が高くなると暑さがはげしくなった。
東大寺門跡東南院は天皇の一行が間も無く到着すると聞いて、寺を挙げて天皇を迎える準備をしていた。僧兵三百余人がそれぞれ手に長巻《ながまき》を持って立ち並んで天皇の到着を待っていた。だが、東大寺西院尊勝院の顕実《けんじつ》僧正は、東南院へ天皇が来ると聞くと、直ちに僧たちに武装を命じて、たとえ天皇であろうとも境内には一歩も近づけさせまいとする形勢を示した。
このことは、楠正成が放った物見によって天皇の一行に報告された。
「東大寺へ行けば、境内の二派が天皇を巡っての争いを起こすこと必定です。東大寺へ行くのは止め、東南院の末寺、和束《わづか》の鷲峯《じゆぶ》山|金胎寺《こんたいじ》に向かわせられたらいかがかと存じます。ここに二、三日|留《とど》まったのち、笠置山へ遷行されるのがもっとも安全かと思われます」
正成はそのように進言した。鷲峯山は木津から四里のところにあった。輿は、奈良へ向かう街道から東に外れて、草深い道に入っていった。
鷲峯山金胎寺に天皇の輿が到着したころ、正成が残して置いた見張りの者が帰って来て、東大寺に六波羅の軍が入ったことを告げた。危機一髪のところであった。
「東大寺に六波羅の軍が着いたとすれば、明日は必ずここへその軍勢は押し寄せて来るでしょう、ここに留まることはできなくなりました」
正成は夜にまぎれて鷲峯山を脱出し、笠置山へ移る計画を立てた。
正成は天皇から錦の御旗を乞うと、それを鷲峯山金胎寺の屋根の上に高々と掲げ、寺の周囲に柵《さく》など設けて、いかにも、天皇が居るように見せかけて、そこを脱出した。
錦の御旗を捨てることについて藤房が正成に抗議した。しかし正成は、
「旗など作ろうと思えば造作《ぞうさ》ないことです。この旗一本で天皇の身の安全をお守りできたら、それでよろしいではありませんか」
と言って、相手にしなかった。
笠置山は木津川の上流にある、高さ三百メートルほどの岩山であった。攻めるに難く守るに便な、山そのものが山城の形態をしたところだった。天皇の一行は山の頂にある笠置寺に落着いて、ようやく旅の疲れを休めることができた。寺が行在所となった。
後醍醐天皇は綸旨を付近の豪族に送って倒幕の旗のもとに参加することを求めた。恩賞は望み次第であるという一句は必ずつけ足されていた。綸旨の文章を家臣が書き、天皇が署名されたものが次々と、笠置山の僧によって、地方の豪族の許《もと》に運ばれて行った。
地方の豪族は、綸旨を見て恐懼《きようく》した。言葉も出ない者が多かった。天皇の親書を貰えるなどということは思ってもいないことだった。しかし、綸旨を受けたから、すぐ笠置山へ馳《は》せつけるとなると、一族の同意が必要だった。
一族を集めて相談すると、必ず反対する者がいた。幕府が勢力を持っている現状では、下手な動きをすれば一族が亡びることになるから、成り行きを見てからにしようという説が通って、実際に、綸旨を受けて、笠置山へ馳せつけた者は地元の甲賀|帯刀《たてわき》等三十六人の豪族とその郎党合わせて三百人ほどであった。
寄せ集めであったが、天皇の許に集まる三百人が、笠置山にこもって、討幕の旗を掲げたということは、重大な意味があった。
そのころ、叡山では、天皇に仕立て上げられた尹大納言師賢卿は西塔の釈迦《しやか》堂にこもって討幕の旗を掲げていた。叡山各寺の僧兵や坂本、大津、堅田《かただ》のあたりの豪族まで天皇のお味方についた。叡山と天皇家とのつながりは歴史的に深いものがあった。天台座主|大塔宮《おおとうのみや》尊雲法親王(護良親王)は日吉八王子社で討幕の旗を掲げた。
幕府はことの重大さに驚いて、佐々木三郎判官時信、海東左近将監《かいとうさこんしようげん》等の大将が兵を率いて叡山に向かった。軍勢およそ三千であった。六波羅軍と僧兵とは比叡山の麓《ふもと》、琵琶湖西岸の唐崎の浜のあたりで激戦を交えた。攻めの大将の海東将監がこの戦さで戦死して幕府軍は一時退いた。
天皇の軍が勝ったという報は近隣に伝わった。
叡山における天皇方の戦いぶりが勇ましく、琵琶湖西岸の唐崎の戦いでは六波羅の大将海東左近将監が討死したという報が各地に伝わると、天皇方につこうとして叡山や笠置山へ馳せ参ずる地方豪族が続いた。多くは、御家人や地頭に反感を持つ小豪族で、綸旨を貰った者は、恩賞望み次第という言葉に魅せられたものが多かった。
笠置山山頂は人で溢《あふ》れた。記帳した主なる者の名前が五十人を越え、兵は七百人近くなった。
笠置寺は行在所であり、もともとそれほど大きな寺ではなかったから、ここに泊ることのできない者は、菰掛《こもか》けの仮の宿舎に泊っていた。
正成が中納言藤房卿を通じて、
「このようでは烏合《うごう》の衆も同じです。ちゃんとした武将を総大将に立て、脇将を置き、防備の構えや敵が来襲した場合の作戦など立てねばなりません、それについて、まず主上よりしかるべき人に総大将の御下命あるようお願いいたします」
と言った。
藤房も正成の意を汲んで一まず弟の季房を呼んで、
「楠正成こそ総大将として推薦すべき人物と思う」
と持ちかけたが、季房は、さあどうかなと考えこんだ末に、
「確かに正成は頼み甲斐《がい》ある人物だが、彼の手勢は三十人しか居ない。ここでいま手勢を多く持っているのは甲賀帯刀である。彼に総大将を命じないと、他の者は承知しないだろう」
と反対した。なかなか結論がきまらないでいると、その二人の話を盗み聞きした甲賀の郎党が、甲賀帯刀に、総大将を甲賀にするか楠にするかについて議論していますと告げた。
甲賀帯刀は、それを聞くと、藤房、季房のところへやって来て、
「楠とかいう、このあたりではあまり名前を聞いたことのない男が、総大将になるという話だが、そんなことになるなら、おれは三百人を率いてすぐ山を降りるだろう」
と言った。
藤房と季房は結局、総大将に甲賀帯刀を推挙せざるを得なくなった。総大将が決まれば脇将は総大将が任命するのが常識である。結局楠正成は大将にも脇将にもなれず、軍議にも参加できないことになった。
「こんなことでは、幕府の軍がおしよせて来たら、またたく間にこの城は落ちるだろう。その前に天皇の落着き先を考えねばならない」
と正成はひとりごとを言った。
正成は藤房を通じて、南河内に帰り赤坂城で討幕の旗を挙げ、天皇をお迎えする旨を述べて笠置山を下った。
正成は南河内に帰ると一族すべてを集めて、彼の決心を伝え、まず、赤坂城の防備に取り掛った。城と言っても砦《とりで》に等しいものであった。独立峰ではなく、細長い岡と言ったほうがいいくらいの、稜線《りようせん》上に立てこもって、幕府の軍を迎え討とうというのだからその意気だけはすさまじかった。
堀ができ、柵が出来たころ、正成は討幕の旗を掲げ、南河内の豪族に呼びかけた。従わない者は攻撃し、食糧を奪った。
楠正成が討幕の旗を南河内に挙げたということは幕府にかなりの衝撃を与えた。これに呼応するものが各地に発生するだろうと思ったからである。
しかし、この時幕府に取って幸運な知らせがあった。あれほど激しい闘志を燃やして、幕府軍を悩ませていた叡山の三千の僧兵がいっせいに戦うのを止めたのである。
これにはわけがあった。
京都一乗院の侍法師、按察法眼好専《あぜちほうげんこうせん》が西塔院釈迦堂を行在所としておられる後醍醐天皇に拝謁を求めたのである。
「おそれ多いことながら釈迦堂におられるのは天皇ではないという噂《うわさ》がございます。その折も折、笠置寺で主上が討幕の旗を掲げられたと聞きました。すると、いったい、どちらの天皇が本当でしょうか、それが気になると、戦うどころではございません。一目でいいから天皇のお顔を拝めば気がすみますから、ぜひとも拝謁をお許し願いたい」
按察法眼好専は、尹大納言師賢卿の傍にいる四条の中納言|隆資《たかすけ》卿に喰い下がって引き下がろうとはしなかった。
隆資卿は、どうせこの侍法師は天皇の顔を知らないのだからと思って、御簾越しに尹大納言師賢卿を拝ませたのである。
按察の法眼好専は、目をこすりながら、奥を見ていたが、突然大声で笑い出した。
「これはしたり、尹大納言師賢卿がいつまた天皇になったのか」
好専は天皇の顔は見たことがなかったが、尹大納言師賢卿の顔はよく知っていたのであった。
これには事情があってのことだと、四条の中納言隆資と三条の中納言為明が好専をなだめたが、好専は納得しなかった。
彼は釈迦堂を出ると、
「叡山には天皇は居られぬぞ。釈迦堂におられるのは天皇ではなくて尹の大納言師賢卿だ。笠置寺におられる天皇こそまことの天皇よ」
と大声で叫んで歩いた。
叡山の僧兵たちはうまく利用されたなと思った。尊雲法親王(護良親王)等が作戦上こういうことになったのだと説得して廻ったが、ひとたび戦意を失った僧兵等はさっさと武具を収め、衣を着て、いままで通りの僧になった。
尹大納言は叡山にはおられなくなって、逃げ出す始末であった。日吉八王子社に旗を挙げた尊雲法親王のところに集まっていた僧兵たちや、近江《おうみ》の豪族たちも、それぞれ山を降りて行った。
尹大納言を天皇に仕立てたのはよかったが、その後の処置がよくなかった。適当な時期に真相を明らかにして、尊雲法親王を討幕の中心として幕府に対抗するよう策を立てるべきだった。つまり、それだけの才覚を持った知恵者が居なかったからこのような結果になったのである。
叡山が静かになると幕府は気が楽になった。六波羅では四千の兵を三段にかまえて笠置寺へ向けた。
大番組頭新田義貞が五百人を率いてこの軍に加わって京都を出発したのは元弘元年(一三三一年)九月十三日であった。彼は最後備の隊にいた。
笠置山攻撃の軍勢の中に陶山《すやま》藤三郎義高、小見山《こみやま》次郎忠昌という二人の血の気の多い武士がいた。二人とも備中《びつちゆう》の国の御家人で、それぞれ三十人ほどの兵を連れて京都大番衆として在京中だったのを軍勢に加えられたのである。
二人は六波羅奉行|糟谷《かすや》三郎宗秋、隅田次郎左衛門等の率いる軍の先方《さきがた》衆として笠置山の麓にいた。
幕府軍は笠置山を完全に包囲してから総攻撃にかかろうとしていた。必ず勝てる戦さだから急ぐことはないという自信があったから、すべて悠々と事が運ばれていた。
陶山義高と小見山忠昌の二人にとっては、その幕府のやり方が気に入らなかった。
「折角、手柄を立てようと思ってやって来たのに」
と陶山義高がひとりごとを言うのを聞いて小見山忠昌が、
「生命を投げ出すつもりなら、いつでも手柄は立てられるさ」
と言った。二人は手柄に関する限り妙に気が合って話しこんだ結果、先掛けをしようということになった。二人は、昼間のうちに笠置山へ登るべき道をざっと見当をつけて置き、夜更けに、六十人の兵をつれて、北の方からよじ登って行った。物見を出したが、警戒がそれほど厳重ではないことが分かったので頂上の手前で二手に分かれ、一隊は笠置山の頂上の一角にある社堂に火をつけ、別隊は笠置寺へ放火することに手筈を決めた。火を付けたら、敵だ、敵だと言いながら駈け廻って、頃合いを見計らって引き上げるように申し合わせた。
不意打ちを食わせて敵に一|泡《あわ》吹かせれば、それだけで、彼等の名は全軍に知れ渡るだろう。彼等はそれ以上のことは求めていなかった。
だが、結果は意外なことになった。頂上の堂にも笠置寺にも人が泊っていた。彼等は、夜半の出火に驚いて目を覚ますと、敵だ敵だという声を聞いた。彼等はすっかり取り乱してしまい同士討ちを始めたのである。楠正成が心配していたように、統制が取れていない寄合衆の弱点を暴露したのである。笠置山を包囲している幕府の軍は、山上での夜半の出火に、仲間割れが起きたか謀叛人があったのだと見て、兵たちに武装させ、松明《たいまつ》を手にして頂上目掛けて押し登って行った。
笠置寺の行在所は大混乱を呈した。神器を奉じながら天皇を救い出すことがせいいっぱいだった。着のみ着のまま、履物を履いている者は誰もいなかった。
天皇と侍従の藤房、季房の三人は夜の山中を彷徨《ほうこう》した。京都から従って来た者は何処《どこ》へ行ったのか分からなかった。夜が明けたが里へ出ることはできなかった。水を飲むために谷川へ降りることもできなかった。飲まず食わずで二日間彷徨した末、天皇と藤房、季房の三人は幕府の軍に捕われた。
天皇が六波羅に送られたのは、九月十七日のことであった。京都を出てから一カ月とは経っていなかった。
新田義貞は後備《あとぞなえ》の軍の中にいたから、笠置山の戦いには参加しなかった。笠置山の麓に到着した夜に、笠置山は自落したのであった。叡山が戦いを止め、そして笠置山が落ち、天皇が捕えられるという報を聞いた直後に彼は楠正成が南河内の赤坂城で討幕の旗を挙げたということを聞いた。
新田義貞は京都に帰ると、再び警邏《けいら》と警備とを続けることになった。後醍醐天皇一派と見られる人たちが次々と捕えられた。赤坂城に拠って楠正成が討幕の旗を挙げているのに六波羅軍が兵を向けないのが、義貞には解せないことであったが、そのことは間もなく刀屋三郎四郎によって明らかにされた。
三郎四郎は義貞を祇園《ぎおん》に呼んで言った。
「幕府がいま一番恐れているのは、赤坂城攻撃に手こずった場合、和泉《いずみ》、河内はもとよりのこと、山城《やましろ》、大和《やまと》、近江、美濃《みの》、摂津《せつつ》、播磨等の諸豪族がいっせいに蜂起《ほうき》することです。京都を中心とする地方豪族の多くは綸旨及び大塔宮からの令旨《りようじ》を貰っています。そのうちの三分の一ほどは、それを幕府に届け出ることによって、幕府に忠誠を示しましたが、あとの三分の二は、黙っています。つまり日和見をしているわけです」
刀屋三郎四郎はそのへんのくわしい事情を知っていた。諸豪族は幕府が、どのくらいの実力があるかを見きわめてから、立ち上がりたいと思っていた。叡山が静かになったのは幕府が武力で制圧したのでないことも知っていたし、笠置山が落ちたのは幕府が強いのでもなんでもなく、笠置山を護るべきしっかりした大将が居なかったというだけのことであった。
赤坂城で旗を挙げた楠正成の名は河内、和泉、紀伊、山城、大和、摂津、播磨あたりの豪族の間に知れ渡っていた。楠正成は紀伊の安田庄、和泉の若松庄内の乱をおさめて以来、この地方の実力者として一目置かれていた。正成が本気になってかかれば、二千やそこらの兵を集めることができた。
六波羅は、楠正成が赤坂に兵を挙げたと聞くと直ちに鎌倉に早馬を飛ばせて援軍を乞うた。六波羅の兵三干では勝てる公算がなかったからである。たかが、南河内の一豪族に対して、鎌倉に援軍を乞うのは滑稽な話であったが、坂東武者の精鋭を以て、楠正成を一気に叩きつぶすことによって、鎌倉幕府の健在さを世間に吹聴するために、この軍事行動は必要だったのである。
鎌倉から大軍が来れば、京都近辺の豪族で綸旨、令旨を貰った豪族たちも、逼塞《ひつそく》してしまうだろうという六波羅の計算でもあった。
「楠に兵を向けない六波羅にはほかにも思惑があるのではなかろうか」
義貞は、刀屋三郎四郎の言い残したことを指摘した。
「楠に味方する豪族が誰と誰であるかを見きわめるためにわざと赤坂城に軍を向けないでいると見るのは誤りだろうか」
「それもあります。だが六波羅が一番おそれているのは、楠に下手な戦さをしかけて、火傷《やけど》を負ったら困るということです。楠正成という人間が怖いのです」
刀屋三郎四郎がそう言ったとき、女たちが膳を持って現われた。
「祇園に女が居る間は、京都が戦乱の渦中に入るようなことはない。大乱になるかならないかを一番よく知っているのは、この女たちですよ」
三郎四郎はそう言って笑った。
義貞は刀屋三郎四郎という男の洞察力の深さに驚きながらも、この男がなぜ祇園に自分を呼出したのか分からなくなった。
「それで鎌倉から大軍がやって来た場合、赤坂城はどうなりますかね」
と義貞が訊《き》くと、三郎四郎は平然として言った。
「落ちますよ、勝てる筈がないでしょう。まず、二日か三日で城は落ち、楠正成は行方をくらますでしょう」
義貞は楠正成の後に従って落ち延びて行く朝谷兄弟のことを思い浮かべた。しかし、朝谷兄弟が生命を落とすようなことはまずないだろうと思った。刀屋三郎四郎は更に話を続けた。
「楠正成はなにもかも考えていますよ。負けると分かった戦さなどするものですか。正成は後醍醐天皇側について旗挙げをすることによって自分の名を全国に知らしめる為《ため》に赤坂城に拠ったのです。彼の名が上がることは、つまり、天皇側の名が高まることです。第二、第三の楠になりたい豪族が出て来ることです。そういうことを考えずに、鎌倉から、わざわざ援軍を呼んだのが、六波羅探題の知恵が正成に劣っている証拠です。もし、六波羅探題の席に金沢|貞将《さだまさ》殿がそのまま座っていたとしたら、おそらく彼は笠置山は後にして、まず赤坂城へ六波羅の兵を向けたでしょう」
刀屋三郎四郎は、そこまで言ったあとで、実は、新田義貞殿に会わせたい人があると言った。
席を変えると、そこには、烏帽子《えぼし》の下のほつれ髪に白いものが混じった武士が待っていた。
「播磨国佐用の荘、赤松|則村《のりむら》殿」
と三郎四郎に紹介されて義貞は、ああこの人かと思った。則村のことは刀屋三郎四郎から聞いたこともあるし、楠正成からも聞いたことがあった。
則村は義貞のことをすべて知りつくしているらしく、
「源氏の嫡流の新田義貞殿にお会いできて、この上もない光栄です。私は村上源氏の後裔《こうえい》に当たるものでもあるゆえ、かねてから新田庄殿にお会いしたいと思っていたところでございます。またいつぞやは私の愚息則祐が、いろいろと御無礼を働きました。改めてここでお詫《わ》びを申上げます」
と言った。湯屋でのことだなと義貞は思った。護良親王が連れていた僧兵の中に相撲の強い者が一人いた。あの男がこの赤松則村の悴《せがれ》だったのだ。
「私が三郎四郎殿にお願いして新田庄殿にお会いしたのは、近いうち、心を合わせて、働くこともあろうかと思ったからでございます」
義貞はそういう赤松則村の顔をじっと見詰めたまま黙っていた。顴骨《かんこつ》が張り、目が鋭く、近づきがたい容貌《ようぼう》をした人物だった。
「今は野に在って名も無き者でございますが、いざというときには、必ずやお力になりたいと思っています」
則村は続けて言った。義貞は、則村の目を怖いと思った。それは楠正成に初めて会った時に受けた印象とよく似ていた。正成は面長であり、則村は、どちらかというと丸顔だった。それなのに目付きだけは似ているのである。
「いや、ごていねいな挨拶いたみ入ります」
義貞は則村に向かって言った。
その夜、義貞は祇園には泊らなかった。随分飲んだが酔わなかった。赤松則村とはしきりに酒を汲《く》み交わしていながら、ついに心からなじむことはできなかった。
祇園を出るとき、刀屋三郎四郎が戸口まで送って来て言った。
「新田庄様は、早々に上野《こうずけ》に帰られて来たるべき時に際しての準備に取り掛かられては、如何でしょうか。もしそのおつもりがあるならば、前の六波羅探題金沢貞将殿を嵯峨《さが》に訪ねて、そのことを申されたら、よいでしょう」
意味ありげな言葉だった。刀屋三郎四郎は天皇方に心を寄せている商人だとばかり思いこんでいたのに、北条一族にも顔が利くらしいことが分かると、義貞にはいよいよ以て不可解な人物に思えてならなかった。
その三郎四郎が、義貞の耳元に口を寄せて言った。
「兵衛尉(楠正成)殿は間も無く山へ隠れるでしょう。山に隠れてなにをしているかお分かりですか、それは味方を集めることと、もう一つ、新田庄殿から送られて来る、鑓先《やりさき》を待っていることです。鑓先が二千ほども揃ったら、再び討幕の旗を挙げるでしょう。そして今度こそ幕府を倒すことになるでしょう」
三郎四郎の言葉は義貞の耳をくすぐった。
「鑓先二千で幕府が倒れるものか」
と義貞が吐き出すように言うと、
「そのころまでには、足利殿の心が決まっていますよ。二千の鑓先で足利殿の心を刺して、天皇方にお味方させるのが、この刀屋三郎四郎の次の仕事です」
刀屋三郎四郎はいよいよもって怪《け》しからぬことを言った。
義貞は鎌倉で別れたままになっている、足利高氏のあの貴公子然とした顔を思い出した。高氏が天皇方につかないかぎり、幕府は倒れないだろうという、三郎四郎の見方は正しい。しかし、北条一門とあれほど深い関係がある高氏が北条に反旗をひるがえすだろうか。
義貞はそんなことを考えながら、四条の橋を渡った。
数日後に義貞は刀屋三郎四郎に言われたとおり、六波羅探題を引退して嵯峨に住んでいる金沢貞将のところを訪ねた。
貞将は、義貞の顔を一目見ると、
「ああ、刀屋三郎四郎から聞いておる。早速、六波羅南庁探題北条時益殿あてに書状を書いてやろう」
と言った後で、
「余は、この世にも、自分自身にも飽きた。近いうち僧になろうと思っている。世を捨てようとする者が言う最後の一言として聞いて置くように」
と前置きして、
「野心あれば、自らもその野心に亡ぼされるものだ。それが嫌ならば野心を持たぬがよい」
貞将はそう言い置いて、その場を去って、二度と姿を現わさなかった。
金沢貞将が隠れ住んでいる家は竹林の中にあった。広い広い竹林でその中に入ったら容易には出られないようなところだった。義貞は、秋風に鳴る竹林のざわめきを聞きながら、故郷の新田庄を思った。妻子が恋しかった。
義貞は大番役を解かれる日を待ったが、その気配はなかった。六波羅は兵力を増強中でそれどころではないことは分かっていた。義貞は半ばあきらめていた。
十月二日になって後醍醐天皇の身は、六波羅から宇治の平等院に移されることになった。
鎌倉から上京した執権北条守時等が、ここで天皇に譲位を強く迫るのだという噂が立っていた。
六波羅は後醍醐天皇を宇治の平等院に護送するのに、およそ千人の軍を出した。
後醍醐天皇は宇治平等院に着いてからはかえって気持ちが安定したようであった。
天皇は北条一族を前にして、皇太子の量仁《かずひと》親王に譲位することをこばみ続けた。
「帝位を譲るかどうかは朕自らの心によって決まるものである。武力にものを言わせて、譲位をせまるなどということは、日《ひ》の本《もと》の歴史にはかつてなかったことだ」
後醍醐天皇はそれだけを言い続けていた。
幕府側が両統迭立の約束を出して話をすすめようとすると、
「そのような取り決めを作ったこと自体が誤っていた。それこそ世が乱れるもとである」
と言って、幕府の言うことを聞こうとはしなかった。
幕府の首脳もこれ以上の強行はできなかった。
そうしているうちにも、坂東から派遣された軍勢は続々と西上していた。西国からも大軍が上って来ていた。
幕府は、なんとしても譲位をしないと頑張る天皇に対して、大納言吉田定房を使って譲位をうながそうとした。吉田定房は幕府の申し出を受けた。そうしないと天皇の身に害が及ぶと判断したからであった。
「幕府の軍勢は東と西から、楠正成のこもっている赤坂城に向かっています。おそらくはここ数日中に赤坂城は陥るものと思われます。今のところ、楠正成に呼応して立つ豪族は一人もおりません。おそれ多いことながら、これ以上、帝位に執着なされた場合は、主上自らのお生命《いのち》にも別条あるやと考えられまする。なにとぞお考えいただきとうございます」
と吉田定房は涙を浮かべて言った。
吉田定房の最後の言葉に、後醍醐天皇もようやく心が動いた。
神器が量仁親王に渡され、光厳《こうごん》天皇の即位がなされたのは十月十三日であった。
赤坂城では十月十七日ころから合戦が始まって十月二十一日に城は陥ち、楠正成は行方不明となった。
「やはり、刀屋三郎四郎が言ったとおりになった」
義貞は赤坂城陥落の報を聞いたときそう思った。すべて楠正成の予定の行動なのだ。そのうちに、朝谷兄弟がひょっこり顔を出すかもしれないと待っていた。
義貞が大番役を解かれて帰郷を許されたのは十二月に入ってからだった。
義貞が京都を去る日、足利屋敷の一色家範がたった一人で送りに来た。
「この次にお目にかかる時は、新田庄様は十万の軍を率いる大将になっておられるでしょう」
家範はそう言って笑ったが、彼の目はけっして笑ってはいなかった。
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太平記の語るところによると、後醍醐天皇が笠置寺にあったとき、夢の中に童子が現われ、御座所はあの南の木の下がよいと指し示した。天皇がその夢の話を家臣にされると、南の木とは楠氏を示すのではないか、ということになり、楠正成が召し出されたとされてある。
この太平記の著者と擬せられている小島法師は、楠正成のことはあまりよく調べなかったのであろう。調べないと楠正成の出現がまことに突然に思われるのは当たり前のことである。
史家の多くは、楠正成に対して南河内の水源地帯に勢力を張っていた豪族というような解釈をしている。しかし、植村清二《うえむらせいじ》著『楠木正成』(至文堂)によると、楠正成は赤坂城で挙兵する以前に兵衛尉という位を持っていたから、ただの豪族ではない、と説いている。一般的には衛府の官名は幕府が推薦した者に与えられるが、朝廷から直接与えられることは勿論《もちろん》、寺社などに勤仕している武士が任命される場合も間々あった。
黒板勝美博士は楠正成を後醍醐天皇に推薦したのは醍醐寺の文観僧正ではなかろうかと説いている。正成は南河内の豪族であるから、当然金剛寺に縁が深いだろう。その金剛寺の学頭職に文観の弟子の禅恵が居たというところから、この説は出たのである。
楠正成の身許《みもと》調べについては諸説があるが、突然赤坂城に旗を挙げた楠正成の心理を合理的に説明したものはない。楠正成についで分からないと言えば、赤松則村もやはり分からない部分が多い人物である。
楠正成が討幕の旗を挙げた赤坂|城址《じようし》は、現在大阪府南河内郡千早赤阪村にある。
丘の上に千早赤阪中学校があって、そのすぐ上に赤坂城址の碑が立っていた。千早赤阪中学校の先生にいろいろ説明していただいたが、城址付近の石垣は後で作られたものだということだった。碑の下を通っている道が千早街道で楠正成が千早城にこもっていた時は、この道を通って大豆を運んだそうである。
赤坂城址に立って東を見ると、金剛山、葛城《かつらぎ》山がよく見えた。その間が水越峠である。この峠を越えて行くと、後醍醐天皇の御陵がある吉野町に出る。
「赤坂という地名の起こりは、このあたりの土が赤いからです」
と説明されてよく見るとたしかに土は赤かった。見はらしのいい場所だった。眼下の段丘の上には楠公《なんこう》誕生地があった。西に眼をやると、河内、和泉の平野が海のように拡がって見える。関東平野の北部山手にあって、水利権を握ることによって栄えた里見郷とまことに地勢が似かよっていた。
ここに赤坂城があったのは確かであるが、この丘陵一帯を城にして、幕府の大軍を長いこと支えることは困難に思われた。
取材を終えて帰り際に千早赤阪中学校の三年生に、楠正成のことを訊いた。名は知っていたが、なにをした人だか知らなかった。学校でも教えないということだった。同じことを新田義貞の出身地太田市でも体験した私は、非常に淋しい気持ちにさせられた。なぜ学校では郷土の歴史を教えないのだろうか。新田義貞も楠正成も実在の人物である。正しい歴史を教える限りにおいて、弊害は起こるとは考えられないのだが。
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夏つばき
義貞は帰郷のみぎり、鎌倉に立ち寄り、京都大番役を解かれて新田庄へ帰る途中であることを幕府に報告した後、足利屋敷を儀礼的に訪れた。足利高氏、直義《ただよし》兄弟は、軍を率いて西上したままだった。足利屋敷には斯波《しば》氏経がいて、義貞の礼を受けると、
「どうぞ、お上がりになって、もしできますならば、先代様の霊前に御焼香いただければ留守をうけたまわるものとしてこの上もない幸せでございます」
と言った。斯波氏経は足利氏の一族であり、貞氏の執事であった。先代様の霊前と言われて、義貞は、足利高氏の父、足利貞氏が昨年(元弘元年=一三三一年)九月に亡くなったことを思い出した。京都にいてそれを聞き、しかるべき弔意を表するよう、鎌倉の新田屋敷にいる矢島五郎丸に指示したことがあった。しかし義貞は、忘れていたことを顔には出さず、
「実は、ぜひそうしたいと念じておりましたが、高氏殿も御不在のことゆえ、遠慮しておりました」
と言った。
義貞は仏間に通された。仏間は、足利屋敷を訪問して来る源氏一族が、容易に焼香供養できるために設けられたもののようであった。豪勢な仏壇の奥に貞氏の位牌《いはい》が飾られていた。
義貞は瞑目《めいもく》したままで、足利庄の鑁阿寺《ばんあじ》で初めて貞氏と会ったとき、貞氏が取ったあの傲慢《ごうまん》な態度を思い出していた。その後も二、三度会ったことがあるが、貞氏はいつも義貞を家臣の末としか見なかった。だから義貞は貞氏に対して、けっして好感は持っていなかった。だが、貞氏は既に故人である。
義貞は焼香供養を快よく承知した。氏経は、義貞を仏間の脇部屋に通して、しばらく待たせている間に僧が三人ほど現われた。
供養は鄭重《ていちよう》に行われた。僧が去った後で義貞は別室に移され食膳を出された。すべて行きとどいたもてなしだったが、義貞にはなにか形式的なものに思われてならなかった。
食膳が下げられた後で、氏経が再び現われ、
「実は新田庄様のお出《いで》を待っておりました」
と言った。
「と言われますと?」
義貞はその裏の意味が分からなかった。氏経はそれに答える前に、座を立って、周囲の襖《ふすま》を開け放った。一方は庭である。庭の池で大きな鯉がはねるのが見えた。襖を開け放したのは、隣室から話を聞かれない用心だった。氏経はなにか義貞に秘密の話をするつもりのようである。義貞も居ずまいを正した。
「実は先代様のご逝去《せいきよ》の折、御遺言がございました」
氏経はゆっくり話し出した。元弘二年(一三三二年)正月、松の内が過ぎてそう経ってはいなかった。
氏経は膝《ひざ》を寄せて来た。
「新田庄殿……」
と呼びかけて来たとき、義貞は氏経の口臭を嗅《か》いだ。彼はそれほど近いところに来て、両手をつかえて深々と一礼してから、低いがはっきりした声で言った。
「先代様は過ぐる年の九月に御他界なされる前日、新館《しんやかた》様(高氏)と私をお傍《そば》近く召されて、遺言をなされました。足利氏は源氏の嫡宗家《ちやくそうけ》でありながら、長い間北条氏の下風にあった。いかに生きるがためとは言え、それは卑屈に過ぎた。しかし、どうやら源氏が北条氏にかわって天下に号令すべきときが来たようだ。余はこのまま死ぬが、高氏は同じ源氏の出である、新田義貞と力を合わせて、北条氏を倒し、見事源氏の世を招来するよう心掛けてくれ。源氏一族は決して争ってはならぬ。心を合わせて戦えば、天下に敵はない筈だ。……先代様はこのように申されたのでございます」
氏経はそこで一息ついた。
(あの貞氏が……)
義貞には、その遺言を容易には信じられなかった。
「先代様が御元気のころは、新田庄殿に対し、失礼な所行がしばしばあったことは執事の私がよく存じております。しかし、いざ人間がその最期を迎える時は、真実を申すものでございます。先代様はやはり、新田庄様を頼りになされていたのでございます。その証拠には、先代様はしばらく休まれてから、次のように申されました」
氏経は、よくよくお聞き下されと前置きして言った。
「足利家は源家を継ぎ、新田家は分家したとは言え、もとを正せば血を分けた兄弟である。いかなることがあっても、争ってはならぬ。世には、両家の淵源《えんげん》をたどって、新田氏こそ源氏の嫡宗家であるがごときことを言いふらす者があるやもしれないが、それは即《すなわ》ち源家を争わせて得をしようとする輩《やから》の考えであることをよくよくわきまえ、なにごとにも歴史の流れと現実を見較べて、事に当たるようにせよ。いかなることがあっても、足利氏と新田氏が刃を交えるようなことをしてはならぬ――これが最後のお言葉でした」
貞氏はここまで言ったが、それからは舌がもつれて言葉を発することはできなくなっていた。
「その遺言を聞いたのは、治部《じぶ》の大輔《たいふ》(高氏)殿と、そこもとの二人か」
義貞は、貞氏がなぜ直義を呼ばなかったかに疑問を持ったのである。
「直義様はお呼びになりませんでした。私がお呼びしましょうかと訊くと、先代様は首を横に振られました。先代様は、しばしば粗暴なふるまいをなされる直義様を以前からうとんぜられていたようでございました。直義様は上に立つ器量ではないと申されたこともございました」
氏経は言った。
義貞は氏経にかつがれているような気持ちだった。あの貞氏がそんなことを言ったとはどうしても考えられないのである。貞氏の遺言は反逆せよということであった。反逆は死の危険があった。義貞はすました顔をして立っている高氏の顔をふと思い浮かべた。
「治部の大輔殿はそれを聞かれてなんと申されたか」
「新館様は涙を流しながら先代様の遺言を聞いておられました。そして、先代様の耳元に口を寄せて、父上の教え、生命にかえてお守り申しますとはっきり答えられました。先代様はそれを聞いて、かすかに笑いを浮かべられ……」
後は言わなかった。貞氏の臨終はその直後だったのである。
「それで治部の大輔殿はそこもとにどのように指図されたのかな」
義貞は高氏のほんとうの気持ちが知りたかった。
「父の遺言は新田庄殿以外の人に洩らしてはならぬと申されました。新田庄殿には余が直接言うか、そちが伝えるか、先に会ったほうが、ありのままを話すこととしようと申されました。そして新館様が兵を率いて西上されたのは、先代様が亡くなられてから十五日目でございました」
氏経は、心の中にしまっていたものを洗いざらいそこに出してほっとしたようであった。
「新館様からの便りはその後も頻々《ひんぴん》と参りますが、書状にはくわしいことは書かず、重要なことは言葉に託して参ります。新田庄様の動静についても、既に連絡がございました。その伝言によりますと、新田庄様のお帰郷は……」
氏経はそこまで言ってから声をひそめて、
「幕府は、このごろ、新田庄様の動きにひどく気を配っておられるということでございます。と同時に、わが新館様にもややもすると、疑いの目を向けるような形勢になりつつあるようでございます」
そして氏経は、幕府が新田義貞の帰郷を許したのは、足利と新田の源氏の両旗頭が顔を揃《そろ》えることを嫌ったからであると断言した。それだけではなく幕府は義貞を上野に帰して、周囲の御家人に監視させ、足利高氏、直義の兄弟は、尚《なお》しばらくは京都に置き、天下の形勢が定まってから鎌倉に返す予定だと話した。高氏が鎌倉に帰るのは尚二、三カ月、或《あるい》は数カ月後であろうということだった。
「これは私の考えではなく、刀屋三郎四郎殿があちらで得たところの新しい情報でございます」
と氏経はつけ加えた。刀屋三郎四郎が足利家に出入りしていることもまた義貞にとって意外だった。
義貞は黙ったまま頷《うなず》いていた。
「なにかありましたら、すぐこちらからお知らせいたします。しばらくはじっとしておられるように」
氏経はそれだけ言ってから、話題を変えた。
「上野国里見の出の阿久美《あくみ》殿が先代様の側室であったことは御存知だと思います。彼女は先代様御逝去の後に髪を切って尼になられました」
「阿久美殿が尼に……」
三十歳を出たか出ないで、もう世捨人になった阿久美が可哀そうだった。
暇を取って里見の郷に帰れば、また第二の人生があるのに、義貞は、初恋の阿久美が墨染の衣を着た姿を思い浮かべていた。
新田庄に帰った義貞は真先に挨拶に出て来た弟の脇屋義助の顔を見ると、
「義助、お前も京都へ行くべきだった。留守番など誰にもできるのに残念なことをした」
と言った。留守役の苦労をいたわったのは、その後だった。義助は、兄の気持ちを察した。兄が弟の義助に京都の生の姿を見せてやり、急激な変化が起ころうとしている、その渦中にいずれは立たねばならない武士としての心構えを自ら学ばせたかったと言っていることはよく分かる。義助はその兄の思いやりを感謝していた。
「なにか変わったことはなかったか」
義貞は義助と二人になったときそう訊いた。義助からの書状は少なくとも月に一度は貰っていた。それに書いてあること以外に変わったことはないと思っていた。
「刀剣の製造が板についたことはかねて申し上げたとおりでございますが、ひとたび仕事に勢いが出ると、思いのほか数が揃うようになりました。こうなると不思議なもので、他国から刀鍛冶《かたなかじ》が移り住んで来たり、研師や鞘《さや》師、鍔《つば》師なども入ってまいります。それにあの鑓《やり》の穂先もなかなか好評です。いまや新田新刀は関東において知らぬ者はないようになりました」
義助は言った。
「よくそれまでにしてくれた。しかし、刀剣や鑓の穂先作りに本腰を入れて貰いたいのはこれからだ。そして鍛《う》ったもののうち、半数はたくわえて置いて貰いたい」
義貞は言った。
「承知いたしました。既にそのつもりで千振りあまりは売らずに取ってございます」
義助は義貞よりも頭脳が明晰《めいせき》だと言われているほど、先を見る目がある男だった。彼は天下大動乱のにおいをすでに嗅ぎつけていた。
「他《ほか》になにか変わったことはないか」
「天狗《てんぐ》が飛び廻っております」
「天狗講がまた始まったのか」
「そうではございません、天狗の面をかぶった山伏が、夜陰ひそかに、豪族、神社、仏閣などに現われ、令旨《りようじ》や綸旨《りんじ》を置いて行くという噂《うわさ》がございます」
義助は、その噂の幾つかを上げた。
「だが、未《いま》だに、わが新田庄にはそれらしい者は現われてはおりません」
「そのうち必ず来る」
「天狗が、ですか」
「いや、それに類する者だ」
義貞は、令旨、綸旨が乱れ飛ぶ中に、泰然自若として機を窺《うかが》っていることこそ至極な心得などと、当たり前のことは言わなかった。
「そのうち、一族を集めて、京都の話や天下の動きなぞ語ってみたい」
義貞はさりげなく言ってから、低い声で、
「急ぐことはない。ここしばらくは余の帰りを千秋の思いで待っていてくれた女たちの部屋を訪れねばならぬからな」
と言って、義助と声を合わせて笑ったあとで、さて今宵《こよい》は小座(正室)の美禰《みね》を訪れるべきかそれとも脇座(側室)の阿久利《あくり》を訪れるべきかを考えていた。
小座の美禰は京都のことを、特に京都の女性がどんな服装をしているか、化粧にはどんなものを使うかなどをくどくどと義貞に訊いた。義貞は知っているだけのことを話してやった。実は、彼も、京都の女性についてそれほどくわしく観察はしていなかったのである。
「紅は濃い。その濃い紅を引いた唇が彼女の着物によく似合うのだな」
義貞はそんなふうな言い方をした。
「どこの女なのそれ」
「祇園《ぎおん》の女のことだ」
そうなのと美禰は言ってから、今度は、その祇園について根掘り葉掘り訊くのであった。隠すことはないから義貞は祇園で遊んだ話をしてやった。
「お館様の滞在が長くなったわけが分かったような気がいたします」
と美禰は言った。その時になって、義貞は美禰が京都の女のことを訊きたがっているのは、結局は、嫉妬《やきもち》から来るものだと気がついた。美禰はふたりだけの営みの最中で、何度か泣いた。そして終わった後で、
「お館様、もう京都には行かないとお約束下さい。私はお館様と離れて暮らすのはいやでございます」
義貞はその美禰の黒髪を撫《な》でながら、よしよし、京都にはもう行かぬと答えてやった。
阿久利は、ひたすらに義貞を求め続けた。まるで気が狂ったようだった。京都のことも、京都の女のことも訊かなかった。彼女が口にするのは、お館様、お会いしたかった、そして再び会えて嬉しいということだけだった。ふたりだけの熱い嵐が去り、安らぎのひとときが経過したところで彼女はふとひとりごとを言った。
「京都の戦争が、ここまで拡がって来るのはもう間も無くではないかしら。ね、お館様、戦争って男と男の殺し合いでしょう。殺された男の女房たちは、殺した男たちのものになるのでしょうか、それとも辱めを受けた上殺されるのかしら」
阿久利は薄気味悪いことを言った。阿久利の父は鎌倉幕府に仕える安藤左衛門である。彼女は、鎌倉にいる父から天下動乱の兆しがあることを聞き知ったのであろう。それにしても、阿久利が敗者の女の運命を口にしたのは義貞にとって意外だった。
「男は自分の女房や子供を守るために戦さをするのだ」
「主上や公家《くげ》様たちを守るためではございませんか」
するどく切り返して来た阿久利の言葉に義貞は再び戸惑った。綸旨、令旨が乱れ飛んでいる時であった。自分のために戦うか天皇のために戦うかは、誰でもまず考えることであった。しかし義貞は、阿久利の質問にたじろぐようなことはなかった。
「まず、わが女房子供たちのことを考え、その行末をみきわめてから、守るべき御人があれば守らねばならないだろう」
阿久利は頷いた。一応分かったけれど、彼女の心の中の恐怖は簡単には消えないようだった。義貞はこきざみに身を震わせている阿久利の肩を抱いて、安心せよともう一度言ってやった。
三月になった。幕府が後醍醐天皇を隠岐《おき》にお移し申し上げたという報が入って来た。予期してはいたが、義貞にとって快いことではなかった。
「ちとやり方がひど過ぎる。これではかえって幕府の人気は落ちるだろう」
とひとりごとを言った。そのころ足利高氏、直義が鎌倉に帰ったという報告もあった。
朝谷太郎義秋と、朝谷二郎正義が揃って帰って来た。朝谷兄弟を楠正成のところへやってからそろそろ一年近くは経っていた。
「兵衛尉《ひようえのじよう》殿(楠正成)は御元気か」
まず義貞はそのことから訊いた。赤坂城が落城する際、戦死したという噂があったからである。まさか、そう簡単に死ぬような人ではないが、一応確かめてみたかったのである。
「お元気で昨日は東、今日は西と飛び廻っておられます。次の戦さに対しての備えをなされておるのでございましょう」
朝谷義秋が言った。
「ところでそちたち二人は兵衛尉殿の陣営に居て何を学んだか。追々と細かいことを聞くとして、まず一口に言えばどういうことを学び知ったのだ」
そう言われると義秋は困ったような顔をした。一口には言えませんという顔だった。弟の二郎正義が兄に代った。
「戦術においては敵を知ることこそ第一義としています。それにまず感心させられました。兵衛尉殿は、あらゆる手段を講じて、敵の動静を探ります。探って探って探りぬいた後でないと戦争はやりません。戦えば必ず勝つという理を見付けるまでは兵を向けません。そのために多くの物見を使い、また敵陣内にもあらかじめ味方を忍び込ませて置きます。道のこと、川のこと、山のけわしさなど、とことんまで調べて置きます。要するに行き当たりばったりの戦争をしないというところに兵衛尉殿の戦略の基礎がうかがわれます」
正義が言った。
「赤坂の城では奇策を用いて寄せ手を悩ませたと聞いておるが」
「はい、そのとおりです。その奇策も思いつきではなく初めっから、そのつもりで用意していたものでございます。それに寄せ手がまんまと引っ懸ったに過ぎません」
正義は、そこで話を兄の義秋に譲った。
「兵の使い方が従来と全く違っています。兵衛尉殿は、少なくとも五人の兵を一まとめにして使っております」
義秋はそう前置きして話し出した。楠流の用兵は、従来行われていたような、双方が名乗りを挙げてから太刀打ちに入ると言ったような戦い方ではなく、五人、十人が鑓先を揃えて敵中に突込んで行って攪乱《かくらん》するというやり方だった。個人対個人の斬り合いで敵の首を挙げるよりも、五人一組で、挙げた手柄の方を高く評価するというやり方だった。
「楠正成が戦さ上手だとか、楠の軍隊が強いとか言われている根はそのようなところにあったのか」
義貞は何度か頷いていた。
義貞は新田一族の長たちに同じ意味の書を送った。京都大番組出仕中はなにかと御世話になりましたと、冒頭に謝辞を連らねたあと、ついては、二年間に渡る京都在番中の話などいたしたいので気楽にお出かけ願いたい。尚、もし御出下さるならば、一族三名、うち二名は心利いたる若者に来ていただければ、有難いことであると書き添えられていた。
「でき得れば一族三名、うち二名は心利いたる若者……」
とは、なにを意味するのだろうかと、義貞からの書状を受取った一族の者は首をひねった。
「時局緊迫の折からお館様はなにごとかを御決意されたのではないだろうか。二名の心利いたる者とは即ち、合戦を前にして、その一族の脇将たらんとする実力者ということなのではなかろうか」
と解釈する者もあり、
「いや、そんなに突きつめて考えないでもいいだろう、心利いたる若者とは読んで字のとおり、家柄や上、下の別にこだわらず、若くとも心利いたる者であれば派遣せよということで、おそらくお館様は時局についてのお見通しのほどを、それとなくお話しになられるのではないだろうか」
と言う者もいた。どっちにしても、一族三名と人数を指定し、しかも、うち二名は心利いたる若者、と集まる人の枠《わく》を決めたことはかつて無いことなので、その書状を貰った新田一族の多くは戸惑った。内々に使いをよこして、義貞の意中を探ろうとする者さえあった。
義貞は苦笑していた。
期日になると、一族は次々と館に集まって来た。はるばる越後の国からも一族はやって来た。
義貞は館の大広間に集まった百五十名に目をやった。五十名は一族を代表する者であるから、おおむね年を取っていた。あとの百名は三十歳代の者が多いようだった。中には二十歳そこそこの者もいた。
義貞は、ほぼ一|刻《とき》京都在番中に見聞きしたことや、その後に起こった笠置《かさぎ》山の戦い、赤坂城の戦いなどについて語った。特に笠置山から赤坂城に移ってからの正成の働きぶりについては念が入っていた。
「では、これから、赤坂城にこもって、数十倍の幕府の軍を向こうに廻して堂々と戦った楠正成とは如何《いか》なる男か、そして楠流の兵法とはいかなるものかについて、ほぼ一年間、楠正成の下にあってつぶさにそれを学んで来た朝谷太郎義秋からその実態を聞こうではないか」
と義貞は言った。
集まった者たちは唖然《あぜん》とした。中には朝谷義秋の顔を知らない者がいた。なんだあいつはという目で、義秋を見る者さえあった。しかし、義秋が、山城の略図や陣形図や鑓の絵などを次々と板壁にかけると、座はかすかにどよめき、やがてしんとなった。
(さあ、お話しなされ)
という目が義秋のもとに集まった。義秋は義貞のしっかりやれという眼差《まなざ》しを受け止めてから、ゆっくりと話し出した。
その日から五日あまり朝谷義秋と弟の正義とは、楠正成について知っているかぎりのことを話した。
「砦《とりで》とは敵を防ぐための小さな城であり、また敵を襲う拠点であることには昔も今も変わりがありませんが、楠兵法においては、更にこの理論を進めて、砦は敵を惑わすものとして使っております」
義秋はそう前置きをして、赤坂城付近の地形図の上に、朱で二十カ所ほどの砦を示す丸を書いた。
「二万の幕府軍が赤坂城を取り囲んだ夜のことです。これらの砦にいっせいに灯がつきました。灯は次第次第にその数を増し、周囲の山全部が灯で埋まるように見えました。幕府軍は、楠側の援軍が現われたと見て、いそいで赤坂城の包囲を解いて退き、翌朝、物見を出して調べてみると、砦にはそれぞれ二、三十人の兵が守っているだけでした。それらの兵が、松明《たいまつ》をあちこちに立てて廻ったので、大軍が来たように見えたのです」
義秋は、そこのあたりを面白おかしく語った。
「計られたりと怒った寄せ手の大将は、赤坂城を攻めるのを止《や》め、その砦に兵を向けた」
その間に赤坂城には兵糧や矢が補給されたのである。幕府軍は、砦に兵を向けて攻撃したが、そこは無人だった。寄せ手の大将は、砦を奪取したと本隊に報告し、そこにそれぞれ百人ほどの兵を入れた。
「ところが、その夜、それらの砦に一斉に火の手が上がり、焼死する者多数、逃げ遅れた者は楠軍の伏兵にことごとく殺されました」
義秋は一つの事実を話した後で、必ず解釈を試みた。
「これは兵衛尉殿がかねてから綿密な計画を樹《た》ててやっていたことです。単なる思いつきではありません。砦から全員、立去ったように見せかけて、実は兵をその中にひそませていたのです。だが、このような手は一度使うと二度とは通用しない。それを考慮に入れて、次々と新しい策を用意して、幕府軍を翻弄《ほんろう》した兵衛尉殿の知恵袋こそ讃《ほ》めそやすべきだと思います」
数において勝てる戦さでないのにこのように頑張ったのは、赤坂城陥落の日を先へ先へと延ばすことによって、幕府の信用を落とし、世論を天皇側に向けさせる手段であったと義秋は解説した。
「だが、この楠の兵法は、場所が彼の領地だからできたのです。一木一草すべて彼の味方であったからこそ可能であったのです。そこをよく考えていただきたい」
笠置山城が簡単に落ちた訳は誰にでも分かっていたが、赤坂城がなぜ容易に落ちなかったかの理由が義秋によって明らかにされると、人々は深い溜《た》め息をついた。
「いやこれほど実があって、しかも面白い講話は聞いたことがない」
彼等は口々に言った。
義貞に従って陸奥《むつ》に出征したことのある者以外は戦争を知らなかった。長いこと平和が続いたからであった。争乱はあっても戦争を経験したことのない者にとってはすべて耳新しいことであった。
楠兵衛尉正成の兵法は、新田一族に大きな刺戟《しげき》を与えた。
「われわれは、日頃、軍略、兵法などを本で読んだり、教えられたりはしていたが、実際にどうやるかは知らなかった。まさに井の中の蛙《かわず》であった」
と反省する者も多かった。
楠兵法の講義が終わったころ、義貞は、更に目新しい行事の内容を発表した。
「明日は楠正成が発明した新兵器の鑓の扱い方についての実際を示し、後、稽古を行う」
義貞は満座を見渡して言った。
翌朝、百五十人のためにそれぞれ同じ長さの棒が用意された。義貞は隊列の先頭にやはり棒を持って歩いていた。最後部に、義秋と正義がほんものの鑓を担いで従った。笠懸野《かさかけの》に着いたとき、義貞は、家来が持って来た踏み台の上に立って大声で言った。
「これから、楠流の鑓の稽古を始めるが、それに先だってまず、鑓とはどんなものか、とくと御覧めされい」
義貞は義秋の鑓を手に取り、その構造を説明した。鉾《ほこ》に似ているが鉾よりもはるかに細身にできていて鋭い穂先に人々の目は集中した。柄が長い。そして全体としては鉾よりも手軽である。義貞の鑓の説明が終わるとそれを義秋の手に戻した。人々はその鑓を朝谷兄弟がどのように使いこなすかを見守っていた。
まず義秋がその鑓を使って見せた。掛け声もろとも、義秋の手から繰り出される鑓の穂先は朝日に輝いて、百にも千にも見えた。続いて正義が鑓をしごいて、藁《わら》を束ねた的を突いて見せた。
藁束で一応の型を示すと、今度は松の木の枝に、手鞠《てまり》を糸で吊《つる》し、三間離れたところから、やっという掛け声とともに飛び出して行って、風に揺れ動く手鞠の芯《しん》を見事に突いた。人々は正義の手練に舌を巻いた。
義貞は再び踏み台の上に立ち、
「御覧のとおりである。朝谷兄弟が鑓をこれまでに使えるようになったのは稽古のたまものである。そして楠軍が、数十倍の幕府の軍を悩ましたのも、実はこの鑓があってのことである。これから、しばらくはこの鑓の使い方について、朝谷兄弟がその手本を示す。希望者は稽古に加わるがよい。ここに集まったる者全員が参加せよとは言わない。今日は棒によってその概略を教えるが、明朝からはほんものの鑓を使って稽古を続ける。それからがたいへんだ。一族、三名のうち、若い者二人がこれに参加することを望む」
義貞の指図によって、年輩組の五十名を除き、若者組五十名ずつ二班が編成された。
「お館様、年を取った者は、その鑓の使い方を学ぶわけには参らないのでございましょうか」
大井田《おおいた》経隆が大音声を上げた。
大井田氏は越後国中魚沼郡大井田郷に古くから住む、新田氏の一族であった。経隆は、その長であり、今度の義貞の招きに応じて、長男経兼、次男氏経を従えてやって来たのである。
「望むとあれば御自由にめされ」
義貞のその一言によって、予定から外されていた老人組はこぞって、鑓の稽古に加わることになった。
鎌倉の安藤左衛門から義貞に書状が届いたのは五月の終わりごろであった。
温気《うんき》(当時は梅雨のことをこのように呼んでいた)わずらわしき折、御館様にはいかがなされ居り候や、などとごく平凡な時候の挨拶の最後に、
≪諏訪《すわ》左衛門殿の屋敷に幽閉中の日野俊基卿は、鎌倉|葛原《くずはら》ヶ岡にていよいよ御処刑のこと、決まり申し候よし風聞しきりにて、なかなかとさわがしきこと尋常ならず候≫
としたためてあった。
義貞は日野資朝とは面識があったが、俊基とは表だって会って話したことはなかった。しかし、天狗講が流行している時、白岩観音堂の講堂で会い、その後新田庄で会った天狗の面をかぶり浅緋《あさひ》の衣を着ていた男こそ、日野俊基だろうと思っていた。彼は幕府のいかなる拷問にも耐えしのび、口を緘《かん》して一言も発しなかったという、公卿《くぎよう》というよりも、武士に近い俊基に対して義貞は畏敬《いけい》の念を持っていた。
義貞は、鎌倉の新田屋敷にいる、矢島五郎丸に命じて、しかるべき方法によって、俊基卿の最期を飾ってやるように言ってやった。
矢島五郎丸は、しかるべき方法について熟考した。
日野俊基の死刑執行場所の葛原ヶ岡は化粧坂《けわいざか》を登りつめたあたりにあった。鎌倉一帯を見下ろすことのできる景勝地である。処刑に当たって、幕府は処刑の場を日野俊基自身に選ばせ、この地に決めたのであった。
当日の警戒は厳重をきわめることは予想されていた。その警戒の目をくぐって、しかるべき方法によって俊基の最期を飾ってやれと言われても、それはなかなかできぬ相談であった。
矢島五郎丸は考えに考えた末、妙案を一つ考え出した。それが成功しなければもはやあきらめるより致し方がないと思った。矢島五郎丸は彼が考え出した筋書きについて、安藤左衛門に相談した。
安藤左衛門は、その日検死役の一人として葛原ヶ岡に行くことになっていた。安藤左衛門は五郎丸の話を聞くと、
「お館様は、さても物好きなお方よなあ」
と一口洩らしてから、
「しかし、お館様のような武人こそ、新しい日本が望んでいる人かもしれない」
と頷いていた。
「では御承知いただけまするか」
「できるだけのことはしてみよう。しかし、その場になって、どのようなことが起こるかも知れぬ故、あらゆる場合を考えて、手ぬかりのないようにすることだ。下手をして、お館様の名でも出ると、たいへんなことになるからな」
安藤左衛門はいかなることがあっても、義貞の名を出さないようにしろと言った。五郎丸はその忠告を、有難く受けた。こういう場合こそ陰の人を使うべきだと思った。
矢島五郎丸は浮浪者の取締り、播磨《はりま》の駒丸のところにいる中曽根次郎三郎を呼んで、義貞からの命令を伝え、矢島五郎丸が考え出した策を話した。
「さて、それは」
少々むずかしいぞと、次郎三郎は首をひねった。
中曽根次郎三郎は鎌倉大元締めの逗子《ずし》判官|常清《つねきよ》に相談する以外に方法はないと思ったが順序として、播磨の駒丸の意見を打診した。駒丸はそれは面白い、そういうことは判官殿は大好きだから、すぐ行って話すがよいと言った。
逗子判官常清は次郎三郎から話を聞くと、その場で協力を約束した。あまり、簡単に引き受けられると、次郎三郎も大丈夫かなと思う。
「久しぶりで来たのだから酒でも飲んで行け」
と常清は言った。浮浪者に身をやつして駒丸のもとで働いている次郎三郎に慰労の声を掛けたのである。次郎三郎は頭を下げた。きちんとした着物を着ると、浮浪者からいきなり武士に生まれ変わったような気がする。
着かざった美女が三人現われた。その一人が、次郎三郎の傍に座って、
「あなた様は京にいたことがあったでしょう。確か祇園でお目にかかったことがあったわね」
と言った。
常清が次郎三郎に代って答えた。
「次郎三郎は京都に行ったことはないが、少しぐらいは京都の言葉も知らないと困ることになったのだ」
すると女は、急に京都弁になって、京の話をあれこれとし、京都の言葉のひとつひとつを彼に教えこもうとするのである。京都の言葉は次郎三郎等が使っている言葉に比較すると、やさしくて、滑らかで、黙って聞いているとうっとりするようだった。
「次郎三郎、今宵からは、この女の僕《しもべ》となるのだ。このものはもと祇園にいた白王《はくおう》という女だ。よくよく仕えるのだ、身も心も一つにならぬとこのたびの仕事は成功しないぞ。そのつもりでな」
そう言われて、ますます以《もつ》て分からないという顔をしている次郎三郎に、常清は、
「なんでもいいから、今宵から、この女の言うなりになればよいのだ」
と言った。それからは、酒が出た。歌が出た。次郎三郎は酔いつぶれて、その女の部屋に連れて行かれた。目が覚めると、彼は女と共に寝ていた。次郎三郎は驚いてとび起きようとすると、
「そのままでいいの、さあ、葛原ヶ岡で、私がどうすればよいかを、ことこまかにお話し下さいませ」
と言った。このままでは話しにくい、起きると言ったが、白王は彼を離さなかった。
日野俊基の処刑の日が来ると化粧坂一帯に厳重な見張りが立った。なにしろ日野俊基は今度の乱の張本人とされていたから、俊基に心を寄せる者によって奪われでもしたらたいへんだという幕府の考えから、一時的に、化粧坂から葛原ヶ岡への道は通行禁止になったほどであった。
だが、このあたりは人口の稠密《ちゆうみつ》地帯でもあったので、完全には人通りを禁止することはできなかった。こんなとき、化粧坂の中ほどで、旅姿の女とその従者らしき男の二人づれが乞食《こじき》に囲まれ、ひどい目に会わされそうになった。乞食の一人が、女の前に座って、あわれみを乞うたところが、従者の男が、その乞食の顔を足蹴《あしげ》りにしたというので、乞食はその仕返しに仲間を集めて来たのである。このごろ時々こんなことが起こっていた。
化粧坂一帯を警護していた武士がこの騒ぎを聞きつけて走り寄り、乞食共を追払ってから、なぜこのあたりをうろついていたのかと旅姿の女に訊いた。女ははらはらと涙をこぼして、
「私は京都祇園に住む白王と申す者で、日野俊基卿にひとかたならぬ、御恩顧をこうむっていた者でございます。いよいよ俊基卿が御処刑になるという噂を聞いて、一目でいいからお会いしたいと思って遠い道をこの者を連れて参りました。このことを、諏訪左衛門様にひとことお伝え下さいませ」
と訴えた。諏訪左衛門の名が出た以上、ほうっては置けなかった。武士たちは二人をひとまずその場に控えさせて置き、諏訪左衛門にそのことを伝えた。
「聞けばふびんな話よ、一目会わせてやったらいかがかな」
諏訪左衛門はそれまで俊基卿を預っていた関係で検死立会人の一人として刑場にいた。
「卿の御最期でござる、拙者は異存はござらぬ」
と安藤左衛門が賛成したが、仕置役人筆頭の工藤二郎|左衛門尉《さえもんのじよう》高直は、
「怪しき奴と思わるる、一応は取調べてみよう」
と言った。他の者は黙っていた。どうでもいいという顔であった。
「では、その者たちをこれへ」
工藤高直が武士に命じて二人を呼び寄せた。白王とその従者はひとまず、工藤高直のところに連れ出された。
「白王と言ったな、祇園のどこに住んでいた」
工藤高直は京都にしばらく居たことがあった。京都通が自慢だった。白王はすらすらと答えた。その流暢《りゆうちよう》な京都弁に工藤高直は疑いを解いたようであった。
「そちの生国と名前を申せ」
今度は中曽根次郎三郎に訊いた。
「上野《こうずけ》の者で次郎三郎と申します」
「なに上野だと、上野の者がどうして京都へ行ったのだ」
「先年、中納言様が上野に参られた折、召しかかえられました」
と一つ頭を下げた。
工藤高直はそれ以上、次郎三郎を追及するようなことはなかった。次郎三郎の答え方に京都なまりがあり、京都に住んでいたこと間違いなしと見たからだった。
「そちが胸に大事そうに抱いている物はなんであるか、ここで包を開いて見よ」
工藤高直は話題を変えた。白王が持っているものは、ひょっとすると武器ではないかと思った。二人は京都から来たのに間違いはない。しかし、白王の目の使い方は尋常の女とは思えぬ、小者もそうだ。いざ太刀を取らせれば、たいへんなことをしでかすかもしれない。工藤高直は太刀を身近に引き寄せた。
白王は、包を開いた。その中にはほのかに黄色をまじえた白い花を幾つかつけた落葉|喬木《きようぼく》の小枝と、それに和歌を書いたらしい紙が結びつけてあった。
「なんじゃその花は」
「沙羅《さら》の花でございます。通称夏つばきとも申します。沙羅は沙羅双樹で知られているとおり、お釈迦《しやか》様が入滅なされた時、咲いていた花でございます。せめて俊基卿の死出の飾りとしてたずさえ参ったものでございます」
白王の答えには、よどみがなかった。工藤高直は沙羅の花を知らなかったことで、一本取られているところに、その由来を聞かされ、いよいよひっこみがつかなくなった。ここで白王の吟味を止めるわけには行かなかった。
「その和歌を読み上げて見よ。次第によっては、俊基卿にそれをわたしてやってもよい。だが、俊基卿に会わせるわけにはゆかない」
工藤高直はひどく白王にこだわっていた。
「では……」
白王は卿に会わせないと言ったのがこたえたらしく涙を浮かべたが、すぐ工藤高直の求めに応じてその歌を読み上げた。
来る年は咲きて栄えん夏つばき
白きぞ花のまことなりける
余韻が哀切きわまりなく流れた。並みいる侍たちの中で目に涙を浮かべる者もいた。
「その和歌の意味を申せ」
工藤高直は言った。
「もうよいではござらぬか」
我慢できなくなって、安藤左衛門が口をさし挟《はさ》んだ。しかし工藤高直は頑固に首を横に振った。
「夏つばきは白い花、白王も白い花、私は尼となって来る年も来る年も女の誠を尽くそうと思っています」
白王は泣き崩れた。
「よし分かった。確かにその沙羅の花と和歌は日野俊基卿に渡す。さがれ」
と高直は一喝した。
沙羅の花と和歌は、間も無く俊基卿の手に渡された。俊基は一読してにっこり笑った。俊基は、白王も次郎三郎の名も知らなかった。知らない男女が捧《ささ》げた夏つばきの歌を、彼は、来年こそ白い花が栄える年になるだろう。白い旗をかかげる源氏の忠誠を御期待あれと読み取ったのである。そのとき俊基は、頭の中に新田義貞の顔を思い浮かべていた。
「余はこれで安心して死ぬことができる」
彼は従容《しようよう》として刑の座に坐った。
元弘二年(一三三二年)六月のことである。
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この事件の張本人ということになっている日野俊基が鎌倉で斬られたことはまず間違いないが、この事件に関係して殺された公卿や武士は他にも多くいたようである。
太平記等から推考すると幕府は、二度とこのような事件が起きないために厳刑を以て臨んだように見受けられる。
源中納言|具行《ともゆき》卿は、佐々木佐渡判官入道|道誉《どうよ》に警固されて鎌倉へ送られた。しかし、京都を出発して間も無く、鎌倉から使者があって、佐々木道誉に、具行卿を護送の途中で殺せという命令を伝えた。幕府は取調べなど面倒なことをせずに、罪状のはっきりしている者には、このような扱いをしたのである。具行卿はこれを知ると、
帰るべきときしなければ是《これ》やこの行くを限りの逢坂《おうさか》の関
と歌ったという。行くも帰るも逢坂の関、の歌をもじったのであろう。結局彼は、それからしばらく行ったところで、佐々木道誉の家来|田児《たごの》六郎左衛門尉に斬られた。
このように鎌倉へ護送される途中で殺された者はかなりあったようである。流された公卿の数は数えられないほどであった。幕府側に捕えられた武士は、鎌倉には連れて行かれず、多くはその場で斬られるか、京都で斬られていた。幕府も公卿には気を使っていたようである。
万里小路《までのこうじ》大納言|宣房《のぶふさ》卿は当然処刑されるべき人であったが、新帝の光厳《こうごん》帝から幕府に対して、罪を許し、朝廷に仕えるようにして欲しい旨の申し出があったので、高齢者でもあり、儀式についてもくわしい御人であるということで罪は不問に付された。このような特別な場合もあった。
この話を万里小路宣房のところへ持って行ったのは光厳天皇(持明院統)の侍従日野|資明《すけあきら》であった。宣房は涙を流して、
「まことに有難いお話だが、二君に仕えることはできない」
と言って断ったのを、資明がなだめすかして、ようやく納得させた。
皇統が大覚寺統《だいかくじとう》と持明院統《じみよういんとう》の二つに分かれていたので、公卿も二派に分かれていた。ここに出て来る日野資明も佐渡で殺された日野資朝も共に日野一族である。
同じ日野一族で幕府転覆を計った張本人と目されている日野俊基は、鎌倉に送られて来てからは、諏訪左衛門邸内の「材木を蜘蛛手《くもで》のように組み上げて作った座敷|牢《ろう》」に入れられたという。当時の座敷牢の様子が推察できる。
俊基が葛原ヶ岡で斬られたときの、仕置役筆頭は工藤二郎左衛門尉であった。俊基卿は皮の敷物の上に座らされ、周囲に目かくしの幕が張り巡らされた。
工藤二郎左衛門尉が辞世をと言って、紙と筆を渡すと、卿は筆を取り上げ、
古来の一句 死も無く生も無し
万里雲尽きて 長江水清し
と書いた。現在、その場所に碑が立っている。葛原ヶ岡付近は化粧坂上の要害であって、明らかに土塁の跡らしいものが残っている。鎌倉攻防戦の焦点の一つになったところである。
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