TITLE : 魔鏡の姫神 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫
魔鏡の姫神
霊感探偵倶楽部
新田 一実
目 次
登場人物紹介
序 章
第一章 破 鏡
第二章 妖魔(ようま)目覚める
第三章 予 兆
第四章 闇(やみ)への扉(とびら)
第五章 破邪(はじや)の法
第六章 眠れる姫神
終 章
あとがき
登場人物紹介
●大道寺竜憲(だいどうじりようけん)
霊能者を父に持ち、自らも父“破魔(はま)”の力を有する。過去に亡(ほろ)ぼされたすべての生命の魂が、生きる者に何かしらの影響を及ぼすのだと考えている。その正体を探るため親友の大輔が次々に持ちこむ相談を、除霊や浄霊をして解決していく。
しかし、封印(ふういん)を解(と)かれ、この世に蘇(よみがえ)ろうとする魑魅魍魎(ちみもうりよう)に、竜憲の肉体は蝕(むしば)まれ始めていた……!
●姉崎大輔(あねざきだいすけ)
竜憲の幼なじみ。妖怪魔物の類は信じていないし、感じない。そのために、竜憲の“護符(ごふ)”として、しばしば呼びだされる。竜憲の能力を信用してはいないが、女友達から幽霊話などの相談事を持ちかけられると、押しつけては解決させ、商売にしている。しかし、封印(ふういん)を解(と)かれた魔鏡の変化(へんげ)を目(ま)のあたりにしたとき、霊に対する認識は微妙に変わりつつあった。
●律泉沙弥子(りつせんさやこ)
竜憲と大輔の後輩。大道寺家と同じく、陰陽(おんみよう)に関わる旧家の娘。霊を操ることはできないのに、旺盛(おうせい)な好奇心が災いして、倉に棲(す)みつく霊の封印(ふういん)を解(と)いてしまった。
●大道寺忠利(だいどうじただのり)
竜憲の父。陰陽道(おんみようどう)の頭(かみ)である。
竜憲に取(と)り憑(つ)いた霊を退治するため、祈祷(きとう)を続ける。だが、この道の第一人者の彼でさえ敵(かな)わぬ強大な相手が待っていた。
●鴻(おおとり) 恵二(けいじ)
大道寺忠利の一番弟子。
忠利不在のときに頼れるのは、この男のほかにはいない。竜憲に取(と)り憑(つ)いた霊の正体を見破り、浄霊を試みる。
●大道寺真紀子(だいどうじまきこ)
竜憲の母親。霊の存在を信じないわけではないが、見たことはない。本人の結界(けつかい)が霊を近寄らせないことさえ、気づいていない。大道寺家の“護符(ごふ)”である。
魔鏡の姫神  霊感探偵倶楽部
序 章
スティルオン・タブに指を引っかけ、ためらいがちに引き開ける。
「……わかった。言い訳はいいから、何があったのか、ちゃんと教えてくれないか?」
肩と顎(あご)の間に受話器をはさみ、形のよい眉(まゆ)を歪(ゆが)めた青年は、ビールに口をつけた。
『だからだな。どうしても見てほしいって頼まれたんだよ。……聞いてるのか? リョウ!』
「聞いている」
『大道寺忠利(だいどうじただのり)の息子だってだけで、もう向こうは必死なんだ。断(ことわ)ったりしたら、全部お前のせいにされるぞ』
「それはわかったから、何があったのか、教えてくれと言っているだろ……」
再びビールを飲みほした青年が、バス・ローブの前を緩(ゆる)めて風を送りこんだ。
『そうは言ってもな。……その目で見る――』
「――大輔(だいすけ)。……わかってるな。とにかく来てくれってのはなし!」
『いつ俺(おれ)が……』
「いつも! あんたの大変だを真に受けてたら、いくつ身体があったって足りやしない」
そう断じると、半分ほど空(から)にした缶(かん)を、サイド・テーブルの上に置く。
「言っとくが……言わないかぎり行かないよ。――じゃあな」
言い捨てて、電話を切る。
へたに有名な霊能者(れいのうしや)の息子だということで、妙な話がよく持ち込まれる。家相を見てくれから始まって、守護霊(しゆごれい)を見てくれ、何かが取(と)り憑(つ)いているからどうのだの、それこそ、呪(のろ)いを解(と)いてくれだの。
もちろん、それらの相談事に応じられるのなら、付き合ってやってもいいのだが、残念なことに自分には父親の能力は正統に引(ひ)き継(つ)がれてはいないのである。育った環境が環境なのだから、外の人間に比べれば多少は……という程度なのだ。家に伝わる系図によれば、開祖は陰陽(おんみよう)の頭(かみ)だというのだから、己(おのれ)はまったく不肖(ふしよう)の息子というところだろう。もっとも、そんな系図を鵜呑(うの)みにしているわけではなかったが。
その不肖の息子が何故(な ぜ)、こんな電話の相手をしているかといえば、すべては、電話の向こうで騒ぎ立てていた男のせいだった。
同じ大学に籍を置く、高校時代からの悪友。
本当のところ、爪(つめ)の先ほども信じてはいないくせに、大道寺忠利の名を持ち出してまで、依頼を作り上げているのは彼なのだ。勝手に妙な仕事を引き受けては、持ちかけてくるのである。長い付き合いだし、いろいろと世話になっている分だけ断りきれない。
なんといっても、試験が近くなれば、彼のノートは絶対的な戦力になるのだ。
そんな弱みがあること自体、自分の責任だと思うと、余計に腹が立ってくる。それをさらにあおるようなものが、目の前にあった。
テーブルに積み上げられたダイレクト・メールの山。竜憲(りようけん)は苛立(いらだ)たしげに掴(つか)むと、いいかげんにめくり始める。
霊能者(れいのうしや)などという、恐ろしく現実離れした職業を持つ者の家にも、様々なカタログが届けられるのだ。ダイドウジリュウケンという宛名(あてな)を、眉(まゆ)をしかめて眺(なが)め下ろす。
この家には、リュウケンなどという人間はいない。そう特殊な漢字でもないのに読みを間違(まちが)えているあたり、名簿の出所が想像できた。
「いい加減なところから名簿を買ったな……」
竜憲をリョウケンと読めないようでは、表書きを書き写した人間は素人(しろうと)だろう。
ダイレクト・メールの束(たば)の中に、ゴルフ会員権のパンフレットを見つけ、忌(い)ま忌(い)ましげに破り捨てた。
ペンキをぶちまけたような緑のコースの写真が、背筋を粟立(あわだ)たせる。
大地の悲鳴が聞こえるようで。
なるほど、竜憲は常人にはない力を持っていた。ただし、大輔が期待しているような力ではなく、誰に言っても感謝されないようなものなら、多少はある。
漠然(ばくぜん)とした恐怖や、敵意を様々な場所から感じるのだ。
普通の人間からみればなんの変哲もない場所で、足がすくんでしまうことがある。子供が闇(やみ)を怖(こわ)がるように、そこには絶対的な恐怖が存在するのだ。
どうやら、自然破壊と関係ありそうだということはわかったが、それも確実とはいえない。自然を破壊しているという点では、竜憲の家など有数の歴史がある。すくなくとも、首都圏といわれる地域では、真っ先に大規模な破壊が行われた場所なのだ。
江戸開闢(かいびやく)より千年も古い。
古都といわれるだけあって、そこここに怨霊話(おんりようばなし)は伝わっていたが、すくなくとも竜憲を悩ませるような気配(けはい)を感じたことはなかった。
「……まったく……」
くずかごの中からも、冷気が立ち上るような気がする。
大輔の電話のせいだろう。
そう思い決めた竜憲は、缶(かん)ビールに手を伸ばした。
と、再び電話が鳴る。
むっと顔をしかめたが、ふと頬(ほお)が緩(ゆる)む。
相手は女だ。
大輔なら、女好きの勘(かん)だと言うだろうが、竜憲は受話器を取るまえに相手の性別を判断することができた。
「……はい。大道寺……」
連絡を入れる可能性のある女たちを思い浮かべながら、受話器に耳を当てる。
『リョウちゃん! リョウちゃん? ……来て! 今すぐ来て!』
圧(お)し殺した声が、息で叫んでいた。
「サコ? ……どうしたんだ、いったい……」
『来てよ。大変なことになっちゃったの……』
幼なじみの娘の顔を思い浮かべ、竜憲は大きく息を吐(は)いた。
「事故ったのか? だったら警察に……」
『そんなんじゃない。事故だったら、さっさと保険屋に電話するわよ。リョウちゃんに電話するわけないじゃん』
「じゃあ何があったんだ? 幽霊(ゆうれい)が出たっていうんなら親父(おやじ)に頼んでやろうか?」
宥(なだ)めるつもりの軽い冗談(じようだん)に、相手は思いがけず、過剰(かじよう)に反応し、強い調子で断固として否定する。
『ダメ! ……とにかく来て! お願いよ!』
慌(あわ)ただしく電話が切られる。
再び息を吐いた竜憲は、わずかばかり残ったビールを流しこんだ。
今日は説明もなく呼びつけられる日らしい。大輔はいつものことだとしても、律泉沙弥子(りつせんさやこ)は本来、そんな所業(しよぎよう)に出る娘ではなかった。
本当に何かがあったのだ。
不吉(ふきつ)の前兆(ぜんちよう)かもしれない。
「……まったく……」
軽口が叩(たた)けるあたり、そこまでせっぱ詰まった状況ではないだろうが、そのまま捨て置くのも気が引ける。
どうやら、沙弥子のほうは巻き込まれてしまったようだ。
ふと、目を輝かせた竜憲は、電話に手を伸ばすと、短縮番号を押した。
些細(ささい)な復讐(ふくしゆう)。
我ながら子供っぽいと思いながらも、竜憲は大輔に電話を入れた。
第一章 破 鏡
「律泉(りつせん)を人に押しつけといて寝ているとはいい根性(こんじよう)だな!」
ドアを引き開けると同時に、巨大な熊(くま)が吠(ほ)えた。
「……静かにしろよ。誰が寝ているって?」
入り口を塞(ふさ)ぐほどの大男は姉崎大輔(あねざきだいすけ)。長身ではあるが、けっして太ってはいない男は、厚手のセーターの上にグレイのウールのコートを着込み、灰色熊に成り果てている。
目を剥(む)いた竜憲(りようけん)は、しげしげと着膨(きぶく)れの灰色熊を眺(なが)めた。
「外は、そんなに寒いんか?」
広い肩幅をさらに強調するように、肩の張ったデザインのコートには、雪の名残(なごり)がついている。
「はっきりいって寒い。……ここは暑いな……」
突然、ここが室内だと気づいた大輔は、コートのボタンに手を伸ばした。厚手の手袋をはめたまま、器用にボタンをはずすと、その下にはマフラーまで巻いている。
「……で、サコは何を騒いでたんだ?」
「人をメッセンジャー・ボーイにしといて、それか? あの、肝(きも)のすわった律泉が怯(おび)えてるっていうから、行ってやったら……」
セーターも脱(ぬ)ぐと、その下からさらに厚手のシャツが現れる。北の涯(はて)に住んでいるわけではないのだ。いくら寒がりの人間でも、重装備すぎる。
ゆっくりと、椅子(いす)から立ち上がった竜憲は、大輔の背後を窺(うかが)った。
なんの気配(けはい)もない。
本人は超常現象の類(たぐい)をいっさい信じないし、何より縁(えん)のない男なのだが、万が一という場合がある。それほど冷気を感じるのなら、よほどよくないものでも拾ってきたのか、とも思ったが、どうやら単なる異常気象のようだ。
実際、そんな程度が世の常だ。父の係(かか)わるような派手(はで)な幽霊騒ぎなど、そうそうあちこちに転(ころ)がってはいない。
ほっと息を吐(は)き、椅子に腰を落とすと、ようやく人に戻った大輔を眺める。
「座れば?」
「あ……ああ」
座れといっても、床(ゆか)に座るか、ベッドに腰かけるか。まぁそんなものである。
何を考えているのか、しばらく迷って、大輔は床に座りこんだ。
「……で?」
一瞬眉(まゆ)を寄せた大輔は、まじまじと竜憲を眺(なが)め上げた。
「何、拗(す)ねてんだ、お前」
むっと顔をしかめたものの、返す言葉がない。
完全に読まれている。これだから、いいように担(かつ)ぎ出されるのだとはわかっているのだが、こればかりは如何(いかん)ともし難い。
「……まぁいい」
「何が……」
口の中で呟(つぶや)いた竜憲を、ちらりと見やった大輔は、小さく咳払(せきばら)いをすると、ポケットから小さな手帳を取り出した。
おもむろにもったいぶってページを繰(く)り始める。
竜憲はむすりと口を噤(つぐ)んだまま、彼の手もとを見守った。
何かとメモに残すのが、彼の習慣だ。竜憲などより、遥(はる)かに優秀な記憶力を持っているくせに、事細(ことこま)かに書き控えているあたりが嫌味(いやみ)だった。何よりそのメモというのが、その場で記(しる)したものではないのだ。あとから記憶を頼りに整理しているというのに、何故(な ぜ)か恐ろしく正確なのである。同じくなんでも書き留めておくわりには、それを役立てる機会を逸(いつ)する自分とは、ずいぶんと違う。
少々卑屈(ひくつ)なことを考えながら、竜憲は辛抱(しんぼう)強く彼が口を開くのを待った。
やがて、大輔が唐突(とうとつ)に喋(しやべ)りだす。
「……お前、律泉ん家(ち)の裏の倉知ってるか? ――あの、竹藪(たけやぶ)の真ん中にある妙な倉」
大道寺(だいどうじ)の家と同じく、かなりの旧家である沙弥子(さやこ)の家には、それこそ、いつ建てられたのかもしれないような倉がいくつかあるのだ。そのなかでも、大輔の言う倉は、少し変わっている。
意味ありげに、屋敷の裏手の竹藪の中に建てられた倉。文化財に指定されそうな母屋(おもや)と違って、そこまで古くもなければ特殊でもないのだが、その建てられた場所がまず妙なのだ。そのうえ、修繕(しゆうぜん)はおろか、掃除(そうじ)をしたこともなければ、中を覗(のぞ)いたことさえないというのだから、未(いま)だにそこに建っていることが、不思議(ふしぎ)なのである。妙と言う以外に形容のしようがない。
その倉を思い浮かべ、竜憲は念を押すように問い返した。
「え? あの……古い倉のこと……か?」
「そうだ」
「それが、どうかしたわけ?」
「いや、律泉の奴(やつ)、中が竹の子だらけか調べたらしい」
「は?」
目を見開き、顎(あご)を落とした竜憲を、大輔はしごく真剣な表情で見上げている。
「……あ、ああ。もしかして、あんたが言った……例の」
ずいぶん前の話になるが、その倉の話をしたとたん、大輔が竹藪(たけやぶ)の中に倉を建てる人間の気がしれないと言った事があるのだ。竹が土台を突き破って、倉の役目など全(まつと)うできるはずがないと。聞いてみればずいぶんと理に適(かな)った話で、沙弥子がしごく感心していたのを思い出す。
「でも、まさか……」
「当たり前だ。真に受けるなよ」
竜憲は膝(ひざ)に片肘(かたひじ)を突くと、溜(た)め息(いき)を吐(は)いた。
いまの台詞(せりふ)は聞かなかったことにする。
「サコはなんて言ってた?」
ひょいと肩をすくめ、大輔が手帳の間からなにやらつまみ上げた。
見たところ、ただの紙屑(かみくず)。それを、竜憲に差し出しながら、らしくもなく曖昧(あいまい)に答える。
「なんだか知らんが、封印(ふういん)を解(と)いちまった……とさ」
「封印?」
訝(いぶか)しげに眉(まゆ)を寄せ、それでも紙屑を掌(てのひら)に受け取った。
ただの古びた紙の切れ端としか見えないそれが触(ふ)れたとたん、背筋に悪寒(おかん)が走る。何が感じられるというわけではない。明確なものなど何もないのだが、強力な念が封じられていたものだということはわかる。
竜憲の目が大きく見開かれた。
「護符(ごふ)か?」
「……そう、いまとなってはただのゴミだがな」
「いったい何処(ど こ)にあったんだ……こんなものが」
言いながらも、自分の声が震(ふる)えているのがわかる。
大輔が目を瞬(しばたた)かせた。
竜憲の思わぬ真剣な声音(こわね)に驚いたらしい。実際、竜憲自身も驚いているのだ。こんなものが絡(から)んでいるのなら、自分が行くべきだったと後悔している。対処できるかどうかはともかく、状況は把握(はあく)できたかもしれないのだ。
いまさらながら、沙弥子の動揺(どうよう)が理解できる。
そもそも、沙弥子の家も、大道寺とは縁続(えんつづ)きなのだ。未(いま)だに霊能者(れいのうしや)などという、うさんくさい商売をしている大道寺とは違って、まともな人間の商売に鞍替(くらが)えした律泉の家でも、古くから伝わる護符や呪術(じゆじゆつ)の道具は腐(くさ)るほどあるはずなのである。そのなかに、恐ろしげな封印があったとしても、不思議(ふしぎ)はないだろう。
一瞬、父親のことが頭を掠(かす)めた。
いますぐ言うべきか、それとも……。
「大輔。付き合う?」
立ち上がった竜憲を、大輔は眇(すが)めた目で見上げた。
「どこへ?」
「サコんとこ」
椅子(いす)の背にかけたジャケットを羽織(はお)りながら、答える。
「だったら、最初(は な)っから自分で行けよ! ……まったく」
「行かないわけ?」
扉(とびら)に手をかけながら、もう一度問いただす。
「行くよ!」
コートにセーター、マフラー。ぬいぐるみの材料を引っ掴(つか)んだ大輔が、慌(あわ)ててあとを追いかけてくる。
密(ひそ)かに笑った竜憲は、自分の部屋を後にした。
手の中に握り締めたままの、護符(ごふ)の切れ端からは、先ほど感じた強烈な念は消え去っている。
どうやら、一瞬感じただけの、残留思念のようなものだったらしい。どちらにしても、恐ろしく古いものであることだけはたしかなのだ。それが封印(ふういん)として役立っていたのかも、いまとなっては疑わしい。
「あら……リョウちゃん。お出かけ?」
不意に声がかかる。
「あ……かあさん。――うん。そうだけど……」
何をしているわけでもないのに、母親に声をかけられただけで、妙に後ろ暗いのは手の中の護符の破片のせいかもしれない。
「……お邪魔(じやま)してます。……あ、もう、しました。か……」
わけのわからぬ挨拶(あいさつ)をした大輔に、にこやかに笑い返した母親は、竜憲を見上げて小さな声で聞く。
「お夕飯までには帰るの?」
「え? ……たぶん」
にやにやと笑う大輔を、じろりと睨(にら)む。
「お邪魔しました」
あらためて、軽く頭を下げた大輔をせかして、竜憲は長い廊下(ろうか)を歩き始めた。
脇道から幹線に出たとたんに、車の動きはぴたりと止まった。
毎度の事とはいいながら、腹立たしいかぎりである。幹線道路とはいいながら、新興住宅地のメインストリートのほうが遥(はる)かに広く整然としているような、曲がりくねった狭(せま)い道なのだから、何がなくとも混雑して当然だった。
車以外の交通網(もう)が整備されているというのなら、それで事足りるのだが、この周辺は公共の交通機関といえば、バスくらいしかないのだから、あながち車で動く人間を責めるわけにもいかない。
「だから……歩いたほうが早いって言ったじゃない。この時間は込むんだからさ」
「寒い」
別段苛(いら)ついた素振(そぶ)りも見せず、助手席に納まり返った相棒(あいぼう)を眇(すが)めた目で見やった竜憲(りようけん)は、車の列がとろとろと動き始めたのを視界の隅(すみ)に捕らえると、慌(あわ)ててシフトを入れ直した。
免許は高校三年の冬休みに、一緒に取りに行ったのだが、大輔(だいすけ)が目的どおりに利用しているのを見たことがない。クラスメートが受験で苦しんでいるのを横目に、さっさと推薦(すいせん)入学の許可を取り付けた二人は、それこそ、寸暇(すんか)を惜(お)しんで動き回っていたのだ。
運転免許証もその成果の一つだが、身分証明書代わりに使うには、高くついたというべきなのだろう。
「寒そうだな。……この調子じゃ、夜中には凍(こお)るぞ……」
大輔の言葉を裏づけるように、道路脇に並んだ家の植え込みが、白くなっている。雪はやんだようだが、気温は低いままなのだ。大雪でも降ってくれたほうが暖かくなるに違いない。
へたに湿気があるぶん、夜中には路面が凍ることを覚悟(かくご)したほうがいいだろう。
「そういえば……。中坊の頃、エライ大雪で、鉄塔がブッ倒れたことがあったよな……」
突然、大輔は古い話を思い出した。
「大丈夫(だいじようぶ)だろう。百年に一度のことだそうだ」
ひょいと眉(まゆ)を上げた大輔は、シートに背を預けて竜憲を眺(なが)めやる。
百年に一度などという言い訳を、まともに信じる男ではない。それが、あっさりと会話を打ち切るあたり、よほど気にかかることがあるのだろう。
それとも、警戒しているのだろうか。
大輔が持ち込む話を引き受けるのは、竜憲には不服なのだ。今度のことも、いずれ引き受けるだろうが、どんどん渋(しぶ)り方が酷(ひど)くなっている。そのうち、本気でおどしつけなければならなくなるだろう。
たいていの女は、超常現象に悩まされている友人を持っているのだ。大道寺忠利(だいどうじただのり)の息子を友人に持っているのだから、それを利用しない手はない。
霊(れい)に取(と)り憑(つ)かれただの、先祖の祟(たた)りなど、どうせ本人の思い込みなのだ。誰でも見るという場所に連れて行かれても、大輔が同行すると“妙なことに”何も起こらなかった。
そいつらの頭のほうがよほど“妙”だと思うが、積極的に否定したことは一度もない。
もっとも、竜憲は彼が超常現象を信じていないことを薄々感づいているようだった。
ろくに動きもしない車の列を真剣な顔で見据(みす)える男は、たしかに勘(かん)だけはよい。
めったにないことではあるが、連れ出した先で妙に真剣な顔をして“破魔(はま)の術”とやらを使うこともあった。
女たちが声をかけることをためらうほど整った顔を、思い切りよく歪(ゆが)めて、何かと戦う姿を演技と決めつけるのは、いささか気が引ける。何しろ、無理にひっぱりだしたのは自分なのだ。
どちらにしろ、そんな戦いがあった後、大輔は依頼人に感謝されることになる。なかには竜憲に興味を示す女もいたが、たいていは頼りがいがある男として、特別な位置を確保できるのだ。
そうやって獲得したガールフレンドは片手に余る。
依頼人を満足させるという点では、竜憲は立派な霊能力者(れいのうりよくしや)と言えた。
しかし、竜憲のほうから動いたのは今回が初めてだ。
沙弥子(さやこ)のことを単なる幼なじみと言っていたが、気にしているのはたしかだろう。
「……何をにやついているんだ?」
前を見ているとばかり思っていた竜憲が、ひどく冷たい声を出す。
「いや……。あの律泉(りつせん)が怯(おび)えることなんてあるのか、と思ってな……」
あの、に力を込めて、こもった笑いをもらした。
「よほどのものだったんだろう。……サコはけっこう見られるほうだからな……。もっとも見るだけらしいが……」
「幽霊(ゆうれい)だの、化(ば)け物(もの)だのがか?」
「……信じないのは勝手だがな……」
「信じているとも。だから、お前に頼むんだろうが……」
ひょいと片眉(かたまゆ)を上げた竜憲は、二台前の車の横にある脇道を溜(た)め息(いき)とともに見つめた。
そこを曲がれば、すぐに律泉の家がある。
家というよりは、屋敷。
幹線道路からでは、ただの林にしか見えないが、その奥に家が隠(かく)されているのだ。ここまでなら、歩いても十五分ほどだが、曲がりくねった急な坂道を上り切るのに、十分はかかる。
車でならものの数秒だった。
しかし、それを計算に入れても、脇道が見え始めてから、辿(たど)り着くまで十分以上かかったことを考えれば、歩いたほうが早かった。
「……信じてないな……」
「何をだ?」
「俺が信じてることを……。そりゃ幽霊(ゆうれい)だのなんだのは見たこともないがな。見えるっていうヤツがいるんなら、見えてるんだろう。見たことがないってんなら、俺はヤンバルクイナだって見たことはない。……けどいるんだろ? たしかに……」
饒舌(じようぜつ)が、嘘(うそ)を証明している。
鼻先で笑った竜憲は、前の車が動くと同時に、脇道に入った。
大輔がどう考えようと、たしかに何かが起こっている。
幹線をはずれた瞬間、恐ろしいほどの冷気が車を包み込んだのだ。
「うっ、寒いな……。排気ガスでも、ちったあ温(あたた)かいのかな……。ヒーターの温度を上げていいな」
エアコンに手を伸ばす大輔も、冷気は感じているようだ。しかし、その理由を単なる気温と考えているようだ。
「こんなに急に冷えると思うか?」
「冷えてんだから冷えてんだろ。それとも俺が熱でも出したってのか?」
この現実主義者には、何を言っても無駄(むだ)らしい。
門が見えると同時に、黒い塊(かたまり)が道に飛び出してきた。
「サコ!」
「あっぶねえな! 何考えてやがんだ」
さしてスピードを出しているわけではなかったが、車に飛び込まんばかりの勢いで立ちふさがった沙弥子は、大きく手を振った。
「来てくれたの!」
パワーウインドウがゆっくりと下りるのを待ち切れないのか、沙弥子はドアを引き開けた。
「とにかく来てよ。車はそこいらにほっといていいから……。オヤジにみつかるとマズイのよ!」
“お父さま”が生息するほうが似合いのお屋敷の娘は、黒い革ツナギに黒いコートを着込んで、長い髪をポニー・テールにしていた。
ツナギには泥(どろ)がついているあたり、バイクで事故を起こしたという風体(ふうてい)だ。
「なんだって倉なんか……」
「しようがないじゃん。とにかく、とんでもないものを出しちゃったみたいなのよ! 来てよ。まだいるから……」
見る能力だけはある沙弥子は、ひどく顔色が悪い。祓(はら)うことも退治(たいじ)することもできないが、見られるだけに避けて通るという、しごく現実的な対応をする女だ。
それが、どうにかしなければならないと思うほどのものを解放してしまったらしい。
「こんなところに止めておいたら、迷惑(めいわく)じゃ……」
「いいよ。どうせオヤジはまだ帰ってないから……。オフクロにめっかるとヤバイしさ。姉崎(あねざき)先輩。先輩も来てください」
助手席のドアを引き開けたくせに、自分を無視して身を乗り出した後輩に、にっこりと笑ってみせた大輔は、大袈裟(おおげさ)に肩をすくめるとコートの襟(えり)を立てた。
「それにしても寒いな……。もうすぐ三月だってのに……」
「すみません。封印(ふういん)を剥(は)がしたら、こんなになっちゃって……」
やはりこの冷気は、気候だけではないようだ。しかし、大輔には沙弥子の言葉の意味が伝わらなかったらしい。
訝(いぶか)しげに眉(まゆ)を寄せたまま、ゆっくりと車を降りる。
「つきあうのはいいが……俺は何もできないぞ。何も見えないし、何も聞こえないからな。そんな能力はまるっきりないらしい」
たとえ単なる後輩でも、女を前にすると声のトーンが低くなり、いい男を演じようとする大輔を呆(あき)れ顔で見やった竜憲は、自分も車を降りた。
沙弥子に気があるわけではない。単なる条件反射で、大輔は格好(かつこう)をつけてコートを羽織(はお)っていた。
「……あの倉には近づくなと言われてたんだろ」
「いつ壊れてもおかしくないからって。まさか、あんなものが……」
大輔の演技に気づきもせずに、沙弥子は竜憲を見上げている。
「どうやって開けた? たしか、鍵(かぎ)もなくなっているとか……」
「あったのよ。このまえ、停学くらった時に、倉の――母屋(おもや)の隣(となり)のヤツ――の掃除(そうじ)をさせられてさ。そしたら、長持(ながもち)の中に……」
「停学? 何やったんだ、お前」
「バイクの免許を持ってんのがバレただけ。……で、古いものだし、もしかしたら何かあるかもしれないって……」
口を挟(はさ)んだ大輔に簡単に応じて、話を続ける。
「中の様子(ようす)は?」
「ゴミの山。……って言うか、とにかく巻物と、変な道具が山になってて……。奥が光ったような気がして、見たら鏡があったのよ……」
竜憲の腕を引いて、沙弥子はそのまま歩き始めた。
恐ろしい勢いで歩く沙弥子につきあっているものの、足が重くなっていく。
何が封(ふう)じられていたのかはわからないが、とんでもないものだということは、ここからでもわかった。
肌(はだ)に突(つ)き刺(さ)さるような冷気。そのうえ、飢(う)えとでも言うしかないような感覚が混じっている。
犠牲者(ぎせいしや)を求めているのだろうか。
あまりに長く封じられていたために、戸惑(とまど)っているのかもしれない。倉のまわりに止まっているというのが、唯一(ゆいいつ)の救いだろう。
「……その鏡に封印(ふういん)されていたんだな」
「だと思うけど……。姉崎先輩に渡した紙を見てくれた?」
「ああ……」
「いくらなんでも、剥(は)がしたりしてないよ。そこまで馬鹿(ばか)じゃないからね。近づいただけで、こう、ふわりって感じで……」
手を宙に舞わせた少女の肩を、慰(なぐさ)めるように抱く。
「倉に入った時には、何も感じなかったんだろ? サコがわからなかったんじゃ、よっぽどうまく隠れていたんだ……」
「……だと、思う。とにかく、お札(ふだ)が落ちた瞬間に……」
ぶるっと身体を震(ふる)わせた沙弥子の肩を抱く腕に力を込めた竜憲は、木の林が竹に変わるあたりに目をやった。
かつては、ここにも塀(へい)がめぐらされていたことを示す名残(なごり)の石積みが、ところどころ土から顔を出している。
問題の倉を守るために、律泉の屋敷は建てられたのかもしれない。頭の中で塀を再現してみると、どうも中央に倉があるような気がしてきた。
「……早く。まだいると思うから……。リョウちゃんならきっと……」
「親父(おやじ)を呼んだほうがいいかもしれないな……」
「とにかく一度見てよ。どうしても無理ってんなら、諦(あきら)めるけど……。うちのオヤジがうるさいのは知ってるでしょ? このまえの停学で、えらい勢いで怒ってて……。今度何かやったら、留学させるっていうのよ。あれは本気だわ。国内で馬鹿(ばか)をやるぐらいなら、外国へ行けってさ……」
体面をおもんぱかる人物とは聞いていたが、そこまでやるとは思えない。しかし、沙弥子は本気にしているようだった。
「……そうだな。……始末できるといいが……」
口ではそう言ったものの、竜憲は半(なか)ば諦めていた。
おそらく、父親の手を借りなければ、どうにもならないだろう。
それほど、強い気が迫ってくる。
明確な敵意は見えないだけに、余計に不気味(ぶきみ)だ。
へたに能力のある人間が近づけば、敵と認識されるかもしれない。こうなれば、自分の力が足りないことを信じたほうがよさそうだ。
肌(はだ)を刺(さ)すほどの冷気が襲ってくるというのに、掌(てのひら)がじっとりと汗ばむ。
それでも、かすかな好奇心(こうきしん)が竜憲の足を前に進ませていた。
開け放たれた扉(とびら)。
大時代な錠前(じようまえ)は沙弥子(さやこ)の言葉どおり、鍵(かぎ)で開けられていた。
なるほど、ここの鍵かもしれないと思えば、合わせてみたくなるのが人情だろう。沙弥子の失態は、責(せ)められないものだった。
「……どうだ? 何かあるのか?」
竜憲(りようけん)と沙弥子の恐怖など、まるで関係ないような顔で、大輔(だいすけ)は足踏みしていた。
寒いということだけが、彼の不満らしい。
その長身だけで、たいていの暴力沙汰(ざた)は避けて通れる男だが、こんな時にはまるで役に立たないのだ。唯一(ゆいいつ)の救いといえば、向こうも大輔には興味を示さないという点だった。
「大輔……」
「ん?」
ひょいと片方の肩を落とした大輔が、顔を低くする。
「何かあったら沙弥子を連れて逃げろ」
「何か?」
まったく信じていない男に何を言っても無駄(むだ)だろうが、沙弥子ぐらいなら、担(かつ)いででも逃げるだけの体力はある。何より、女に危険が迫れば言われなくとも、守ろうとするだろう。
心配なのは、その危険が大輔に見えるか、という点だけだった。
「……リョウちゃん……」
「ああ。まだいるな……」
「屋根のところでしょ? まわりを見ているみたいだけど……」
「そうだな……」
二人の会話を、大輔は呆(あき)れ顔で聞いていた。
彼の目には何も見えないし、何も聞こえない。それどころか、夕日を浴びた竹が綺麗(きれい)だと思うぐらいである。
葉の表面に張り付いた雪が薄紅(うすべに)の光を弾(はじ)き、くすんだ緑に複雑な色合いを加えていた。
それでも、景色(けしき)を楽しむ気にならないのは、二人が真剣な顔をしているからだった。
ゆっくりと目を眇(すが)める竜憲と、歯を食いしばって倉の屋根を睨(にら)む沙弥子。
普段は思ったこともないのだが、こうしてみるとよく似ている。
顔の造作(ぞうさく)とか、竜憲が女顔だということではない。取り巻く雰囲気(ふんいき)が似ているのだ。
言ってみれば、常人にはない力を持った人間の、精気ということだろう。幽霊(ゆうれい)だの化(ば)け物(もの)だのというものは信用できないが、たとえ思い込みだとしても、それと戦おうとする人間には、共通の力があるようだった。
「こっちを……見た!」
沙弥子が叫ぶ。
ばっと身構えた竜憲は右手を突き出して、低くうなった。
屋根の上のものの視線は感じる。
だが、その正体はおろか、姿を見ることもできない。
こんなことは初めてだった。
大輔が持ち込む話に、仕方なく付き合った時でも、一目で正体は見て取れた。本人の恐怖が、身体に纏(まと)いついているだけの時もあれば、呆(あき)れるほど大量の霊(れい)を連れているものもいる。依頼人のほとんどは思い込みだけで、本人の性格以外に何も問題はなかった。何かが憑(つ)いていれば、それがたとえ害を与えないものでも、見ることはできたのである。
それが、見えないのだ。
漠然とした形はわかるし、意思らしきものも感じる。
しかし正体となると、それが人の形をしているらしいということがわかるだけだ。
「……サコ……。どこまで見える?」
「ぼんやりとしてる。……光の靄(もや)みたい……」
沙弥子も大差ないようだ。
竜憲と違って、本人の意思とは関係なく、どんなものでも見えてしまう少女は、拳(こぶし)を握りしめて恐怖と闘っていた。
「正体もわからないんじゃ……手の打ちようがないな……」
「リョウちゃんでも、わからない?」
「ああ……」
こんなものがいるとわかっていながら、再び足を運べた少女の意思に感心する。
それに恐ろしいほどの力があることは、正体がわからなくても、はっきりとしているのだ。彼らに向かってこないのは、単に、それが敵と認めるほどの力がないというだけのことだろう。
「……サコ……。悪いが……親父(おやじ)に頼むしかないみたいだ……」
「うん……。けど……あいつ、あたしは見もしなかったのよね。やっぱ、リョウちゃんだと違うよね……」
沙弥子も同じ結論を出したようだ。
このまま放置することはできないが、敵と認識されないのでは戦うこともできない。もちろん、こんな化け物とは戦いたくもなかったが。
見境なく襲いかかるというわけではないあたり、意思があるのだろう。
それが、鏡に封(ふう)じた人物への復讐(ふくしゆう)ならば、化(ば)け物(もの)はこのまま動かないはずだ。どう考えても、生き延びているはずがない。
「……いったん引き上げて、親父(おやじ)に相談……」
かっと目を見開いた竜憲は、沙弥子を突き飛ばした。
足もとに、深紅(しんく)の光が突き刺(さ)さる。
「リョウ!」
「逃げろ!」
どこへ逃げろというのか。
ふわりと舞い上がった魔物(まもの)は、白い闇に包まれていた。
何も見えなくなる。
あまりにも眩(まぶ)しすぎるために、光は闇(やみ)と同じように、竜憲の視界を奪っていた。
「くそっ!」
わけもなく腹が立つ。
魔物は、二人を見据(みす)えていたのだ。敵意が感じられなかったのは、観察していたからにほかならない。
封じられていた長い年月が、魔物の感覚を鈍(にぶ)らせていたのだろう。そして、ようやく敵を見つけたのだ。
「大輔! 沙弥子を逃がせ!」
叫んで、身構える。
その頬(ほお)を、光が切(き)り裂(さ)いた。
焼けるような痛み。
とろりと流れる血が、敵の力を教えてくれる。目で見ることはできなかったが、魔物が比喩(ひゆ)ではなく本当に魔物だと、わかった。
肌(はだ)を引き裂いた光は、一瞬でそれだけのことを伝える。
すべての人が魔物の存在を信じた時代の魔物。
その力を衰(おとろ)えさせることもなく、悠久(ゆうきゆう)の時を眠り続けて、いまに蘇(よみがえ)ったのだ。
封印(ふういん)は、現代に魔物を送りこむタイム・カプセルの役割を果たしただけなのかもしれない。破魔(はま)の術も、それを援助する人々の願いもなくなった時代に、魔物は復活したのだ。
ゆっくりと、苛立(いらだ)つほどゆったりと、血が頬を伝う。
『そなたは……何者……』
頭の奥で声がする。
頭蓋(ずがい)に響く声は、男のものとも女のものとも判別できなかった。
相変わらず、視界は光に閉ざされている。それでも、魔物が周囲を回っていることはわかった。
長い年月が、魔物(まもの)が知る人間と、人間を変えてしまったのか。どう対処していいのか、迷っているのは魔物も同じだった。
「去れ! ここはお前の住むところではない。再び寝床に帰れ!」
跋扈(ばつこ)する魔物と人が渡り合えた時代ですら、亡(ほろ)ぼすことも滅(めつ)することもできなかった魔物。そんなものとどう戦えばよいのか、竜憲にはわからなかった。
『何者じゃ! 言え!』
ふと、右耳に熱を感じて、身体を捻(ひね)る。
同時に、地響きを立てて赤い光が大地に叩(たた)き込まれた。
からかわれているのか。
殺そうと思えば、いつでも殺せるはずだ。
ひょっとすると、昔の、魔物を封じた人間に類するにおいが、竜憲にはあるのかもしれない。しかし、現実には彼にはたいした能力はなかった。
だからこそ、魔物も戸惑(とまど)っているのだ。
正体を知りたがるのも、そんなところか。
『誰じゃ!』
苛立(いらだ)っている。
見知らぬ世の中に迷い出て、どうすればよいのか、まだわからないのだろう。
己(おのれ)を落ち着かせるように深い息を繰り返した竜憲は、手に意識を集中した。
この世に迷い出た物(もの)の化(け)の類(たぐい)を始末したこともある。しかし、これは桁違(けたちが)いの力を持っていた。
通じるだろうか。
いや、通じる。
自分に言い聞かせた。
真言(しんごん)を口中で唱(とな)え、降魔印(ごうまいん)を結ぶ。
『は!』
何かが笑い始める。
一心に唱える真言も、まったく関係がないらしい。
肩のあたりに漂(ただよ)っていたはずの気配(けはい)が、妙に楽しげな煌(きらめ)きを放って、竜憲の周囲を舞い始める。
『……知っておるぞ。……そなたを……』
ぶつぶつと呟(つぶや)く声が、ひどく癇(かん)に障(さわ)る。
『……縁(えにし)よの……』
息で笑う。
一言囁(ささや)かれるたびに、自分の気が乱れていくのがわかる。脳裏(のうり)に直接届く声は、竜憲の見よう見真似(まね)の修行の成果では無視しようにも適(かな)わない。
『再び、見(まみ)えようとは……』
「なんだと!」
思わず叫んだ、その時、舞い踊る光雲が、竜憲の身体を取り巻いた。
ふわりと周囲が暖かくなる。
温(あたた)かい抱擁(ほうよう)。ちょうどそんな感じがした。
妙に懐(なつ)かしく、心が落ち着く。
呪中(じゆつちゆう)に落ちた。そう思った瞬間、意識が遠のく。
薄れる意識にしがみつこうと〓(もが)くのもつかの間、その意思さえも薄れ消え果てる。
やがて、不思議(ふしぎ)に心安らぐ意識の闇(やみ)に、竜憲は静かに身を沈めた。
誰かが耳もとで囁(ささや)いている。
優しげな声で。
穏(おだ)やかな微睡(まどろ)みの中で響く声は、奇妙に己(おのれ)の鼓動(こどう)と共鳴し、目覚めようとする意識を引き止める。
このまま、ずっと――。
何を囁いているのか、考えることもできない。ただ、緩(ゆる)やかな声の流れが、自分を取り巻き、押し包む感触を楽しんでいた。
それでも、緩やかに意識を上昇させていく。目覚めに向けて。
と、不意にその声が、恐ろしく耳障(みみざわ)りなものに変わった。
「――リョウ!」
つい先ほどまでの甘い声が一変し、自分の名を呼ぶ。
「リョウ! おい! 竜憲(りようけん)!」
それが誰の声か気づいた瞬間、竜憲は渋々と目を開いた。
「おい!」
叫ぶ大輔(だいすけ)の顔を、ぼんやりと見上げ、小さく頷(うなず)く。
「しっかりしろ! ……大丈夫(だいじようぶ)か?」
むやみに大きな声が、破(わ)れ鐘(がね)を叩(たた)くように頭の中に響く。
「うるさい……」
露骨(ろこつ)に顔をしかめた竜憲を眺(なが)め下ろす大輔の目が、一瞬険しくなった。それでも、とりあえず声を落とすと、もう一度問い直す。
「大丈夫か?」
大輔の肩越しに、ひどく狼狽(うろた)えた顔をした沙弥子(さやこ)の顔が見えた。常日頃、見せたこともないような表情に、竜憲は内心苦笑した。
――普段からこんなふうだったら、もう少し可愛(かわい)げに見えるのに――。
埒(らち)もないことを考える自分の脳味噌(のうみそ)に少々呆(あき)れながら、掠(かす)れた声をようやく出す。
「――ほんとにあんたの声はでかいんだからな。頭に響く……」
「悪かったな! ……人がせっかく……」
言いかけた文句(もんく)を飲み込み、竜憲を乱暴に引き起こす。
「……姉崎(あねざき)先輩……もう少し……優しくね……」
恐る恐る声をかける沙弥子に、竜憲は上半身を引き起こし、にっこりと笑いかけた。地面に座り込んで、頭を小さく振る。
頭の芯(しん)に残る頭痛は相変わらずだが、少しはすっきりしたようだ。
「……大丈夫……だって」
「でも……」
大輔が、言い澱(よど)んだ沙弥子を振り返った。
「……家のほうは大丈夫なのか? バレたらまずいんだろう?」
「え……そうだけど……」
ようやく現実に引き戻されたのか、沙弥子は不安げに母屋(おもや)のほうを窺(うかが)い見た。
「ここは大丈夫だから、様子を見てこい。ついでに、こいつを少し休ませてやりたいしな」
「う……うん。けど……」
「消えちまったんだろう? だったら、構わないじゃないか」
少しばかり声を荒らげた大輔を、竜憲はまじまじと眺めあげた。覆(おお)い被(かぶ)さるように膝(ひざ)を折った姿が、なんといっても邪魔臭(じやまくさ)い。眺めていて妙に腹立たしいのは、これだけ頑丈(がんじよう)そうな男が、まったく被害を被(こうむ)っていないからだろうか。
沙弥子が走っていくのを見送り、あらためて声をかける。
「……おい……」
「なんだ?」
「消えたって……どういう……」
「俺に聞いてるのか?」
そう言われても、ほかの誰に聞けというのだろう。ここには、彼しかいないのだから。
むすりと言葉を失ったとたんに、大輔の言い訳じみた言葉が続く。
「あとで律泉(りつせん)に聞けよ。……何しろ、俺にはなんにも見えなかったんだから……。とにかく、あいつは消えたって言ったんだ」
竜憲は肩で息を吐(は)いた。もっともといえば、もっともな話である。実際のところ、こうして自分を気遣(きづか)っていてくれるだけでも、珍しいのだ。
「……それで、俺はどれくらい、ぶっ倒れてた?」
「さぁ、たいしたこっちゃないぞ。……三十秒もたってないと思うが……」
「そんなもんか」
ぼそりと呟(つぶや)き、弾(はず)みをつけて立ち上がる。
ずいぶんと時間がたっているような気もしたが、言われてみればたしかにそんなものだろうと思う。
変わっていることといえば、それこそあの恐ろしげな気配(けはい)が消えたことくらいだ。
身体のほうも、わずかに頭の芯(しん)が疼(うず)くくらいで支障はない。
「ホントに大丈夫(だいじようぶ)か?」
「……どこもちゃんと動くみたいだ」
にっと笑ってみせた竜憲の腕を、大輔が捕らえる。
「平気だって……」
それでも、腕を放そうとはせずに、大輔は小さく溜(た)め息(いき)を吐いた。
「ぜんぜん……だな。わかってるのか? お前、まっすぐ立ってないんだぞ」
「嘘(うそ)……だろ」
「嘘じゃない。――そうでなきゃ、なんで俺がお前を支えてやるもんか」
「あ……そう」
応じながらも自覚がない。自分としては、まっすぐに立っているつもりなのだ。
「いったい、何があったんだ?」
「何って……。言ったって信じないんだろ? それより、あんたにはどう見えたの? そのほうが興味あるな」
瞬間、目を眇(すが)めた大輔は、指先で顳〓(こめかみ)のあたりを掻(か)いた。
「何って言われてもな。お前が真言(しんごん)唱(とな)えてて、倒れた……くらいかな」
ずいぶんと正直な答えである。何やかやと詭弁(きべん)を弄して、煙(けむ)に巻くのが常なのだ。恐ろしく奇妙なものを見たような気になって、竜憲は腹の底で笑っていた。
もっとも、顔にはそんなことはおくびにも出さずに、情けない顔をしてみせる。
「マジかよ。あんな露骨(ろこつ)に攻撃されたのははじめてなんだけどな」
何やら考え込んでいる大輔の顔を盗み見て、竜憲は密(ひそ)かに笑っていた。
何が楽しいのか、自分でも妙だと思うのだが、大輔が困った顔をするのがおかしい。どうやら、本当に支障がないと思っているのは自分だけのようだ。
不意に大輔の視線が、自分に注(そそ)がれる。
慌(あわ)てて、笑いを飲み込んだ竜憲は、見開いた目で相手を見返した。
「――そういえば、お前が真言(しんごん)を唱(とな)え始めるまえに、何もないところに土煙が上がった……かな」
竜憲は吹き出しそうになるのを必死に堪(こら)え、大輔の腕にわずかばかり体重を預けた。
「あ……ほんとだ。世の中が回り始めた」
「おい……いまさら……」
本当のところ、自分がふらついていることを自覚し始めていた。自覚できれば、ぶざまに倒れることもないだろう。
どうにか、立っているふりをしながら、大輔をちろりと見やる。
「あんたさぁ、倉の中調べてこない?」
「べつに構わんが……」
「その……鏡とやら見てみたいじゃない」
「しかし……」
「あ、俺は大丈夫(だいじようぶ)。ここで待ってるから。――それとも……」
濁(にご)したそのあとに続く言葉を見抜いたのだろう。鼻先で笑った大輔は、不意に竜憲の腕を放した。
「動けるなら母屋(おもや)に行ってろ。……律泉がお茶くらいご馳走(ちそう)してくれるだろう」
「……そうする」
あっさり応じた竜憲を残し、大輔が倉に向かって歩き出す。
手近の太い竹に寄りかかり、その後ろ姿を見送った。普段どおりに、少しばかり背を丸めて飄々(ひようひよう)と歩いていくのを見ていると、心底悪霊(あくりよう)など信じていないというのがよくわかる。
相手の正体がまったくわからないままというのは、どうにも落ち着かない。あの男なら、沙弥子の見落とした物でも、見つけ出してくるだろう。信じる信じないはともかく、彼の好奇心(こうきしん)と探求心(たんきゆうしん)は果てしないのだ。そのうえ、見事な意地っ張りときている。自分を納得(なつとく)させる何かを見つけるまでは、いつまででも粘(ねば)るだろう。
何より彼なら、何も起こらないはずだ。
情けない話だが、体調に問題がなくとも、いますぐあの倉に入る勇気がない。ここで待っているのも、いやなくらいだ。時間がたてばたつほど、魔物(まもの)の気に包まれた一瞬に感じた安堵(あんど)が恐ろしい。今度はそのまま引き込まれて、二度と目覚めぬ気がするのである。
大輔の背が何事もなく倉の中に消えたのを見届け、竜憲は深い息を吐(は)いた。
「リョウちゃん! 平気なの?」
高い声が、頭に響く。
「お……サコ。どうだった家のほうは……」
「誰も気づいてないみたい。オフクロなんて、いま帰ったの、だって」
すっかり、動揺は消えたらしく、いつもどおりの言葉がぽんぽんと返ってくる。四歳年上のはずの自分に向かって、未(いま)だにリョウちゃんなのには閉口(へいこう)するが、そんな気分になれるということは、自分のほうもずいぶんと落ち着いてきた証拠だろう。
つまらぬことで自分の正気を確認すると、竜憲は可能なかぎりのんびりとした口調(くちよう)で応じてみせた。
「そうか……、しかしこれからどうしような」
「そうよね。消えたっていったって、ここからいなくなっただけだしね。――鏡に帰ったとも思えないし……。それともリョウちゃん、そんな手応(てごた)えあった?」
首を横に振った竜憲に、顔をしかめてみせた沙弥子は、声を落として言葉を続ける。
「やっぱり、オヤジさんに言うしかないのかな」
目の前からいなくなると、すぐこれだ。この性格が、この騒ぎを引き起こしたという自覚があるのかと思うと、頭が痛い。
「……まぁな。ほっとくわけにはいかんだろ?」
「……仕方がないか」
ぽつりと呟(つぶや)いた沙弥子は、不意に顔を上げると、竜憲の顔を覗(のぞ)き込み、にっこりと笑った。
「なんだよ」
「一緒に頼んでくれるよね」
「そりゃ、まぁ……乗りかかった船だし……」
「よかった!」
飛びつかんばかりの勢いで喜ばれると、それなりに気分のよいものだ。もっとも、そんなことを思うから、毎度毎度、大輔や沙弥子にいいように使われるのだろうが。
といって、後悔しているわけではなかった。持って生まれた性分(しようぶん)なのだから仕方がない。それくらいに思っているのが、幸せである。
「ところで、リョウちゃん……」
妙に幸せな気分を、沙弥子の真面目(ま じ め)な声が壊す。
「ん?」
「姉崎先輩は?」
「大輔? ……ああ、あれなら倉の中を調べに……」
「嘘(うそ)でしょ!」
とたんに沙弥子の声が舞い上がる。
「嘘じゃない。そんなことで嘘つい……」
「倉の中にあの化(ば)け物(もの)がいたらどうすんのよ!」
「大丈夫(だいじようぶ)だって……。あいつには悪魔(あくま)だろうが、神さんだろうが、猫の子一匹だって取(と)り憑(つ)かないよ。――だいいち、気配(けはい)はまったく消えちゃったんだから。あれだけの気があるんだ。倉に潜(ひそ)んでるならわかるはずだろ?」
「それなら……いいけど」
不安げな声の調子が、何より露骨(ろこつ)に彼女の心情を露呈(ろてい)している。
この反応だけは、どうにも腹立たしい。この場でふらついている自分よりも、あの頑丈(がんじよう)な男を心配するのだから。
「そんなに心配なら見てこいよ。いまごろ、元気に倉中をひっくり返してるぜ、きっと」
少々意地悪な気分で付け足す。
眉尻(まゆじり)を引き上げた沙弥子に、明(あ)け透(す)けな笑(え)みを返すと、竜憲は竹から背を引き剥(は)がした。
「ちょっと様子(ようす)を見てくる。……お茶とケーキなんか用意しててくれると嬉(うれ)しいな」
「わかったわよ」
ようやく少しだけ、表情を和(やわ)らげた沙弥子に手を振ると、竜憲は倉に足を向けた。
第二章 妖魔(ようま)目覚める
満天の星が、凍(い)てついた空に瞬(またた)きもせずに座っている。昼間の雪のせいか、空気が澄み渡り、星の数が格段に多い。
ぞくっと背を震(ふる)わせた大輔(だいすけ)は、厚手のカーテンを閉めた。
星になど興味を持ったことはないが、今夜は妙に空が気になったのだ。
本当に魔物(まもの)がいたのか。
竜憲(りようけん)や沙弥子(さやこ)の態度は、魔物が存在したことを示している。自分の目で見ないものを信じないというほど、傲慢(ごうまん)にはできていない。
しかし、自分だけが見えないものがあると認めるよりは、思い込みや演技と思ったほうが気が休まるのだ。あの二人が、なんの利益もないのに、演技するとは信じがたいが。
「……そこが問題だよな……」
ぽつりと呟(つぶや)いた大輔は、狭(せま)い室内を見回した。
古い屋敷の、二十畳はあるかという竜憲の部屋に比べれば、情けなくなるほど狭い。しかも、普通のサイズのものでは足りない彼に合わせて、特大のベッドが居座っているからなおさらだ。
その大きなベッドの上に投げ出されたコートは、奇妙な形をとっている。
盆(ぼん)を包んだような丸。
実際、コートの中には、鏡が包まれていた。
鏡といっても、何も映(うつ)さないもの。いわゆる銅鏡というやつだ。
磨(みが)き込めば少しは光るかもしれないが、緑青(ろくしよう)が浮いた円形の銅製品は、そうとは知らなければ鏡と評する者もいないだろう。
沙弥子が封印(ふういん)を解(と)いてしまったという鏡の隣に、転(ころ)がっていたものである。問題の鏡とは違って、こちらは木の支柱が腐(くさ)ってしまったらしく、無造作(むぞうさ)に床(ゆか)に投げ出されていた。
どうして持ち出してしまったのか、自分でもわからなかったが、大輔は誰にも知られないように、コートの中に隠して運んだのだ。
ちろりと唇(くちびる)を舐(な)め、コートに手をかける。
慎重(しんちよう)に、封印らしき紙片を剥(は)がさないようにコートを剥がしていく。
と、そこには赤銅色(しやくどういろ)に輝く鏡があった。
「……なん……だと?」
妖怪変化(ようかいへんげ)の類(たぐい)はいっさい信じないが、これには驚くしかない。
万が一、倉の中で見間違(みまちが)えたとしても、この輝きは普通ではなかった。
つい先日、磨(みが)かれたばかりと言ってもいい。しかも、封印(ふういん)も真新しいものになっているのだ。
掠(かす)れた口笛を吹き、鏡を覗(のぞ)き込む。
手品だとしても、拍手喝采(はくしゆかつさい)を贈ってやっていい。
銅鏡は、たしかに鏡の役割も果たしていたのだろう。普通の鏡に慣れた目には、たいして役立つとも思えなかったが、執拗(しつよう)に磨かれた鏡面は、己(おのれ)の顔を映(うつ)し出していた。
恐る恐る手を伸ばして、鏡に触れてみる。
さすがに、封印を剥(は)がす気にはならなかったが、かといってそこまで特殊な品だとも思えない。唯一(ゆいいつ)価値を認めるとすれば、周囲に彫(ほ)り込まれた模様だろう。
獅子(しし)らしい獣(けもの)と、ガルーダとしか言いようがない、鳥と人間のキマイラ。それを取り巻く唐草模様(からくさもよう)も、精巧なものだ。
鏡が変化した理由はともかく、ここまではっきりと観察できるのなら、それはそれでありがたい。理由など、あとで考えればよいことだ。
「……これが、何か意味があるのかね……」
なんと言っても、一度じっくり見てみたかった、というのが本音(ほんね)だ。竜憲に教えてしまえば、厳重に箱詰めして、父親に渡してしまうだろう。
そうなってからでは、見ることもできなくなると、わかりきっていた。
何しろ、ただの日本人形を、三重四重の箱に納めて、護符(ごふ)だとかいうみみずののたくったような字を書いた紙を、べたべたと貼(は)り付けるような男なのだ。
黒目がちの、綺麗(きれい)な市松(いちまつ)人形を女の部屋まで引き取りに来させたのは自分だったが、まさか大道寺忠利(だいどうじただのり)の前に突(つ)き据(す)えられるとは思ってもいなかった。
女とともに、神妙な顔でお祓(はら)いを受けさせられた挙(あ)げ句(く)、古道具屋に持ってゆけばけっこうな値段がつくだろう人形を、もったいぶって取り上げられた。
感謝したのは女だけ。
しかも、彼女にとっての“命の恩人”は竜憲になった。
いま、思い返しても腹が立つ。
大輔が声をかけた女のなかでは、一、二を争う美人だったのだ。
それが竜憲に色目を使い、一月(ひとつき)がかりでお友達になった自分を、あっさりと知り合いにまで格下げしてくれたのである。
だが、女の誘(さそ)いは完璧(かんぺき)に無視された。
あれだけの美女に興味を示さない竜憲の性癖(せいへき)を疑いはしたものの、自信たっぷりに迫った女が振られたのは、気持ちがよかった。
そういえば、竜憲が興味を示すのは、一風(いつぷう)変わった女ばかりである。幽霊(ゆうれい)などと付き合える人間は、どこか変わっているのかもしれない。
「……しまった……」
大袈裟(おおげさ)に眉(まゆ)を寄せた大輔は、鏡にコートを被(かぶ)せ、慌(あわ)てて立ち上がった。
大道寺忠利の息子を紹介すると言った女に、連絡を取ることを忘れていた。何やらよからぬものに取(と)り憑(つ)かれているといって怯(おび)える女は、真剣に連絡を待っているはずだ。
ステレオの上にのせた受話器を取り、胸のポケットから取り出したメモを繰(く)る。
「……まずいな……まったく……」
いささか派手な事件のせいで、肝心(かんじん)なことを忘れていた。
コールを待つ間、スピーカーにのせた煙草(たばこ)を引き寄せ、目でライターを探す。しかし、ライターを発見するまえに、電話はつながった。
「……あ、上田(うえだ)さんのお宅ですか? 夜分失礼いたします。姉崎(あねざき)と申しますが、美香(みか)さんはご在宅でしょうか……」
自分の部屋にも電話はあると言っていたが、一応、事務的な声を出す。
「あ、はい。ゼミの連絡で……。すみません、遅くなってしまいまして……」
娘とそっくりな声を出す母親に、余計な探(さぐ)りを入れられないために、声の演技力を発揮(はつき)する。
「そうですか。……わかりました。あ、大丈夫(だいじようぶ)です。小野(おの)さんのお宅なら、わかりますから……。はい。……はい。……いえ、どうも失礼しました……」
受話器を置いた大輔は、ようやく見つけたライターに手を伸ばした。テープ・デッキとスピーカーの間に、落ちていたのだ。
再びメモをめくりながら、煙草に火を点(つ)ける。
自分の部屋の壁から、黒い影が出てくるといった女は、連絡を待ちきれずに友人の家に避難したらしい。小野というのは、大輔に女を紹介したゼミの友人だった。
「……もしもし、小野……」
耳もとで女が悲鳴に近い声を上げる。
「悪かった……。竜憲と会ってたんだが、あいつ、いまとんでもないヤツに係(かか)わっててさ。……ああ、大丈夫。ちゃんと退治(たいじ)したよ。えらい大昔のバケモノが封(ふう)じられてた倉があってさ……。ああ……。すげえ疲れてるみたいだから、二、三日は無理かもしれないが……。大丈夫だって。……そう。いざとなりゃ、オヤジさんに頼んでもらうよ。……二、三日はそっちに泊めてやれるんだろう?」
煙草をふかしながら、世話好きの女の繰(く)り言(ごと)を聞き流す。
本人が見たわけでもないのに、高校時代からの親友の災難をひどく心配しているのだ。自分なら、真っ先に相手の精神状態を疑うだろうが、オカルト好きのこの女はそのまま信用しているようだった。
「……わかったって……。とにかく、もう少し待ってくれよ。すごく疲れてるみたいなんだ。今日のなんか、普通じゃなくってさ……」
その場に立ち会っていたにもかかわらず、何があったのかはまったく知らないのだが、テレビの怪奇特集でやっていた除霊(じよれい)のシーンを思い浮かべて、適当に話をでっちあげる。
「そう。……それで、まともに歩けないぐらいだったんだ。……大丈夫(だいじようぶ)だって。二、三日休めば、きっと……。ああ。だから、泊めてやれよ。いいんだろ?」
竜憲を心配しながらも、親友のほうが大事なのだ。当たり前と言えばそれまでだが、部屋に帰らないかぎり、問題はないとわかっているのに、いつまでも愚痴(ぐち)を聞かされていると辟易(へきえき)してくる。
しかも、大輔の目当ての娘は電話口には出ないのだ。
この女の口から自分をあしざまに言われないように、せいぜい気を遣(つか)っていたが、それも限界に近い。こんな女が相談相手では、余計に不安が増大するだけだろう。
相手を気遣っていることを示すために、ことを大袈裟(おおげさ)にするタイプなのである。
「……とにかく、できるだけやるから……それじゃな」
電話を切り上げた大輔は、天井(てんじよう)を仰(あお)いで息を吐(は)いた。
少しばかり、竜憲に対する罪悪感が湧(わ)いてくる。
幽霊(ゆうれい)騒ぎが本当だとしても、あんな依頼人では気の毒だ。もっとも、被害者のほうはおとなしい控(ひか)えめな女だった。
「……幽霊だのなんだの言って……。頭がおかしいんじゃないのか……」
その相手に、自分が気があるということは棚(たな)に上げて、大輔は再び息を吐いた。
短くなった煙草(たばこ)を灰皿でもみ消し、ベッドに歩み寄る。
妙な魔法を見せてくれた鏡をコートごと取り上げて、机の上にのせると、そのままベッドに倒れ込んだ。
超常現象が好きだという人間の気がしれない。
本当に怖(こわ)がっている人間はともかく、たいていはそれを聞かされたまわりのほうが騒ぎ立てるのだ。
よほど、ほかに楽しみがない連中に違いない。
「……まったく……」
大きな欠伸(あくび)をもらした大輔は、机の上のコートが、ゆっくりと動いていることには気づいていなかった。
心臓の鼓動(こどう)のように、ゆったりと上下するそれは、徐々に動きを速めてゆき、唐突に、ぴたりとやんだ。
ばさりと音をたててコートが落ちる。
「……あ?」
腕を振って、その反動で起き上がった大輔は、鏡に目を留めて頬(ほお)を引きつらせた。
鏡は鮮(あざ)やかな緑色。
緑青(ろくしよう)に塗(まみ)れた銅鏡は、いまにも崩(くず)れそうな護符(ごふ)をのせたまま、机の上にあった。
「……なんなんだか……。ボケたかな……」
こちらのほうが正しい。
ならば先ほど見た、赤銅色(しやくどういろ)に輝く真新しい鏡はなんだったのだろう。
「……くそ……」
誰にともなく罵(ののし)った大輔は、古びた鏡にコートを掛け直して、再びベッドに転(ころ)がった。
小さな虫が、うぞうぞと足もとを這(は)い回っている。
ベッドの上も、壁も、机の上だろうが本だろうが、ところかまわず無数に。
吐(は)き気(け)を催(もよお)す。
それが、実体がないとわかっていても、無数の小さな虫という姿は、嫌悪感(けんおかん)を掻(か)き立てずにはいない。
唇(くちびる)を噛(か)んだ竜憲(りようけん)は、息を吐くと同時に右手を打ち振った。
瞬間、虫が消える。
呪文(じゆもん)の一つを唱(とな)えるでもなく、ただ人の気を当ててやるだけで、消え去るような矮小(わいしよう)な化(ば)け物(もの)。
だが、気を抜くと、いつのまにか部屋は連中に占拠された。
意思も何もない連中。ただ、生きていたという記憶が、そこいらじゅうに影を落としているだけなのだ。そうわかっていても、けっして気持ちのよいものではない。
竜憲は、眠ることもできずに、ただ部屋で立ちつくしていた。
昼間の戦いのせいで、頭の芯(しん)が痺(しび)れるほど疲れている。しかし、この小さな化(ば)け物(もの)のただ中で眠る気にはなれなかった。
どこへ逃げても同じ。
連中は竜憲がいる場所でぞろぞろと湧(わ)いて出るのだ。
ほかの誰にも、父親の弟子である霊能者(れいのうしや)たちにさえ、それは見えないらしい。
大輔(だいすけ)が帰った直後から、この現象は始まっていた。
「……あいつは歩く護符(ごふ)だからな……」
よほど明確な意思を持った強いものでなければ、大輔に近づくことはできない。考えようによっては、竜憲よりよほど有能な霊能者なのだ。
ただし、彼が魔物(まもの)を寄せつけないだけで、追い払うわけでも、消滅させるわけでもない。お守りがわりに持ち歩くには、あまりにもかさばる代物(しろもの)でもある。
小さく、竜憲は笑った。
単純な解決法を思いついたのだ。
大輔の家に押しかけて、奴(やつ)のそばにいればよい。
あまりぞっとしないが、眠るにはそれしかないのではないか、と思い始める。
とにかく眠い。
こうして立っていても、上体がゆらゆらと揺れているのが、わかるほどだ。
思考力がどこかへ消えてしまっている。なぜこんなものが迷い出たのか、考えることすらできないのだ。
「……くそぉ……」
頭を強く振った竜憲は、ようやくもう一人の護符(ごふ)を思い出した。
母親である。
何かの祟(たた)りだの、何かが取(と)り憑(つ)いたなどといわれる怪(あや)しげな品が、倉に山積みになっている家に、平然と嫁入りするような女だ。大輔と違って、霊(れい)の存在を信じないわけでもない。どちらかといえば、自分が見られないことを面白(おもしろ)くないと思っているような女だった。
「……仕方ないか……」
ふらりと足を踏み出す。
と、足もとに奇妙な感覚がある。
いつのまにか、またしても小さな虫は部屋に満ちていた。
吐(は)き気(け)が込み上げる。
それをどうにか抑(おさ)えて、手を打ち振ると、あっけなく虫たちは消え失せた。
力と言えるほどのものを使う必要がないあたりが、余計に腹立たしい。しかし、退治(たいじ)するのは、いまの自分には無理だった。
壁に取りすがるようにして、部屋を出た竜憲は、母親の寝室に向かっていった。
悪夢にうなされた子供でもあるまいし、眠れないからと母親を頼るのは、気が進まない。だが、他人の家に押しかけて、眠らせてくれと泣きつくよりはましだろう。
それが、大輔だと思うとなおさらだ。
こんなことで頼った日には、奴(やつ)が霊能者(れいのうしや)のマネージャーに変身するのは目に見えていた。それでなくても、妙な依頼を勝手に引き受けて、苦労させられているのに、これ以上馬鹿馬鹿(ばかばか)しい話に付き合わされるのは、ご免だった。
ふらふらと、廊下(ろうか)を歩く竜憲は、何度か手を打ち振って、飽(あ)きもせずに湧(わ)き出す虫たちを払い続ける。
ようやく母親の部屋に辿(たど)り着いたころには、少しは眠気が晴れていた。
「……かあさん……」
「どうしたの?」
すぐに声が返る。まだ起きていたようだ。
「いいかな……」
「なあに、変な子ね……」
ふすまが開けられ、掻(か)い巻(ま)きを着込んだ母親が姿を見せた。
「寒くないの。そんな格好で……。とにかく入りなさい。どうしたのよ……」
記憶にあるかぎり歳(とし)を取らない母親がふすまを大きく開ける。
和室に不似合いなたっぷりとした羽布団(はねぶとん)から、電気毛布のコードが伸びていた。そういえば、今夜はやけに寒かったのだ。
だが、いまはそんな感覚さえない。
頭を占めるのは、眠りたいというその一念だけだった。
「サコに呼ばれて、出かけたよね……」
「ええ。沙弥子(さやこ)ちゃんが、何かしたって……。忠利(ただのり)さんが帰ってらしたら、相談するって言ってたでしょ」
結婚して二十年以上。未(いま)だに夫を名前で呼ぶ女は、押し入れから掻(か)い巻(ま)きを取り出した。
「……これでも着て……。で、どうしたの」
「……ちょっと頑張(がんば)ったら……。ボケてる間に、妙なものが取(と)り憑(つ)いたらしい。……とにかく疲れてて……。気を抜くと、うぞうぞ現れやがる……眠い……」
説明にならない説明をした竜憲が、引き寄せられるように母親の布団にもぐり込む。
と、たちまちのうちに寝息を立て始めた。
呆(あき)れ顔でそれを眺(なが)めた女は、苦笑を浮かべて新たな布団を取り出した。
もうずいぶんと昔に、同じことがあったのを思い出したのだ。
まだ二十代前半だった忠利が、同じことを言って夜中に彼女の部屋を訪れたのである。プロポーズにしては妙な言葉だと思っていたが、現実は霊(れい)を近寄せない彼女の、結界(けつかい)の中で眠りたいというだけだった。
それから結婚まで、数年の時間があったが、ただ眠るためだけに、忠利は何度か彼女と寝室をともにした。
苦笑を浮かべて、息子の寝顔を眺(なが)める。
枕もとのライトに照らし出された顔は、まだまだ子供。
それでも、母親を頼るのは情けない。
ちゃんとした相手を捜(さが)すように言わなければ、と思いながら、女はライトに手を伸ばした。
「……何も見ることもできない私が忠利(ただのり)さんと結婚したのは、そういう理由だったのよ」
朝食の皿を並べながら、真紀子(まきこ)は息子に笑いかけた。
「……知らなかった。怖(こわ)がらないからだとばっかり思っていた」
寝足りて、すっきりとした顔で、竜憲(りようけん)は母親の顔を見上げていた。
あれだけ突飛(とつぴ)なことをしたのに、この女はまったく動揺していない。それどころか、朝から聞かされるのは、母親と同じ能力を持った女を捜(さが)せ、という説教だった。
「だからね、リョウちゃん。どんな力があっても、自分がひどく疲れた時は、自分も守れないのよ。忠利さんでもそうなのよ。……特に、若い頃は力のコントロールができないのね。力を使い切っちゃって、猫でも怖(こわ)いって言ってらしたわ」
思い出し笑いをする母親を、呆(あき)れ顔で眺(なが)めた竜憲は、味噌汁(みそしる)に口をつけた。
説教なのか惚気(のろけ)なのかわからない。
五十も過ぎて、惚(ほ)れていることを息子の前でも隠さない父親に、似合いの女だ。
「……ひょっとして、俺が目が覚めるまでいてくれたのは、そういう理由?」
「そうよ。だって、私はどうしてそうなるのかわからないのよ。私がいることが問題なら、そうするしかないでしょ?」
正月の新巻(あらま)き鮭(ざけ)を冷凍しておいて、未(いま)だに食卓に上らせる普通の主婦は、まったく普通の感覚で霊能力者(れいのうりよくしや)たちと付き合っているのだ。
主婦業だけは完璧(かんぺき)にこなしていると自慢する母親は、何より有能な父親の援護者でもあるらしい。
「……心当たりはないの? 何も見えない女の子」
「男ならいるけどね」
「まあ。それは少し悲しくない? ……あなたが男の子が好きだっていうなら別だけど」
目を見開いた竜憲は、母親の顔をつくづくと眺めた。
何を考えているか、まったくわからない。
「……息子がホモでも平気なのか?」
「霊に取(と)り憑(つ)かれて変になっちゃうよりは、いいわね。それはひどいことになるのよ。霊を祓(はら)える力がある人が、力がなくなった時に取り憑かれると……。お弟子(でし)さんのなかにも一人いたのよ。……わかっていれば、守ってあげられたのにね……」
ほっと息を吐(は)いた女は、悲しげに首を振った。
どうも、この女は現実から遊離しているらしいと、知ってはいたが、ここまでとは思いもしなかった。さすがにあの父親を亭主に選んだだけのことはある。
溜(た)め息(いき)を吐(は)いた竜憲は、食事を片づけにかかった。
「リョウちゃんも、そんなことがあるなら、真面目(ま じ め)に修行なさいね。あなたがどう思っていても、向こうの方はあなたみたいな人に向かってくるのよ。特に、力が強い方はそうらしいから、ぼんやりしていたら、取り返しのつかないことになってよ」
恐ろしいことを平然と宣(のたま)う母親に、いい加減に頷(うなず)いてみせた竜憲は、音をたてて味噌汁(みそしる)を飲みほした。
向こうの方の動向を確かめなければならない。
父親が家にいないのはいつものことだし、気にも留めていなかったが、いま、いないという事実が、重く立ちふさがっている。
口だけではなく、本当に手に負えないようなものが出てくれば、大道寺忠利に頼る気だったのだ。
「親父(おやじ)は? いつごろ帰ってくるのかな」
「さあ。急いで出かけてらしたから、特別なご用なんでしょうね。……今日帰られるか、一月かかるか……。私にはわからないわ」
誰にもわからないことだ。
相手が何か、それを確かめるのに何か月もかかることもある。
竜憲のほうは、いきなり実践(じつせん)訓練というところだ。
「連絡があったら、どこにいるか聞いといてよ」
くすりと笑った女は、手を差し出した。
「ごはんのおかわりは?」
「いい」
「……そう長くはないと思うわよ。お弟子さんも一人しか連(つ)れていっていないから……」
「……そう……。ごちそうさま」
箸(はし)を置いた竜憲は、立ち上がりざまに茶を流し込んだ。
「お行儀(ぎようぎ)の悪い」
ひょいと首をすくめた竜憲は、そのまま食卓を離れた。
食堂の扉(とびら)を閉めた瞬間、目眩(めまい)が襲う。
「……くっ……」
どうにか踏みとどまり、歯を食いしばって周囲を見回す。
子猫ほどのものが、視界を埋めつくしている。
「……去(い)ね!」
口中で叫ぶ。
ざわざわと、潮(しお)が引くようにそれは消えていった。
母親の力を実感する。
彼女と同じ部屋にいるかぎり、日常があるのだ。しかし、一歩外に出てしまえば、そこは化(ば)け物(もの)の渦(うず)となっていた。
母親の目の届くかぎりの場所、というのが、彼女の力の質を教えてくれる。
単に、彼女の目に入らないように、力は発揮されているのだ。
極度に自己防衛的な力。
だからこそ、強力であり、どんな相手にも通じるのだろうが、なんの解決にもならない。相手を打ち砕(くだ)くことも、封(ふう)じることもできないのだ。
ただ単に、相手がそこを避(さ)けているだけ。
敵として認識されてもいないのだろう。
「……サコ……まさか……」
突然、自分に近い能力を持った少女のことを思い出す。
昨夜は眠いだけで、自分に起こったことが、沙弥子(さやこ)にも起こりうるという可能性すら気づかなかった。昨日の騒ぎが係(かか)わっているのなら、あり得ることである。
気が強いくせに虫だけは、蚊(か)の一匹でも悲鳴を上げる少女は、あんなものを見たら気絶してしまうだろう。だから、連絡を寄こさなかったのかもしれない。
慌(あわ)てて、居間に飛び込んだ竜憲は、電話を取り上げた。
もどかしげに番号を押し、苛々(いらいら)とコールを待つ。
『もしもし、律泉(りつせん)です』
「サコ? ……大丈夫(だいじようぶ)か?」
『え? 大丈夫って……何が? あ、オヤジのこと? ……大丈夫、大丈夫。おじさんに頼むってリョウちゃんが言ってたって言ったら、もう真っ青になっちゃってさ。そんな大変なことになったのかって、ビビってやんの。鍵(かぎ)をしまい忘れたの、オヤジみたいよ』
明るい声が、彼女のまわりが平穏(へいおん)だと教えてくれる。
ほっと息を吐(は)いた竜憲は、視界の隅(すみ)を走った影を指で払った。
「……そうか。よかった……」
『心配してくれた? ありがと。でもオヤジはマジだよ。……そんなこと信じないと思ってたのにさ。魔物(まもの)なんて馬鹿馬鹿(ばかばか)しいとかって、怒鳴(どな)られる覚悟(かくご)だったのにね。リョウちゃんは大丈夫? 昨日すごく顔色が悪かったでしょ』
「……ああ。ゆっくり寝たから、もう大丈夫。……それより、学校は?」
突然、今日が平日だということを思い出す。
自分から電話をかけておいて聞くのも妙だが、大学生と違って、自主休講というのも難しいはずだ。
『だから、オヤジがマジだって言ったでしょ? おじさんに見てもらうまでは、心配だから、とにかく今日は家にいろって。なんか、おばさんと一緒にいたほうがいいとかなんとか、変なことも言ってたけど……』
どうやら、沙弥子の父親は真紀子の力を知っているらしい。
父親同士、年齢が近く代々の親戚(しんせき)付き合いをしているのだから、知っていても不思議(ふしぎ)はなかったが、あらためて他人から言われると、妙な気がする。
「……そうだな。そのほうがいいだろう。サコ、英語が苦手(にがて)だったよな。ついでに見てもらえばいいよ。まだ覚えてるみたいだし……」
『うーん……そうね。家にいてもオヤジがうっとうしいし……』
「親父(おやじ)さん、会社は?」
『休んじゃった。化(ば)け物(もの)が怖いから、会社を休むなんて、普通の人が聞いたら、どう思うだろうね……』
舌(した)を出している顔が思い浮かぶ。
竜憲は密(ひそ)かに息を吐(は)いた。何も見えないくせにすべてを受け入れてしまう母親と、見るだけは見るくせに社会的通念の中で生きている沙弥子。どちらにしても、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない女たちだ。
その精神の丈夫(じようぶ)さが羨(うらや)ましい。
『どうしたの? リョウちゃん……』
「え……あ。なんでもない。――で、来るのか? だったら、かあさんに言っとくけど」
『そうだなぁ。……行くことになったら電話する。ほっとくとこっちは大事(おおごと)になっちゃいそうだし……』
――もう、充分大事だ! ――
電話口に叫ぶ代わりに、心の中で喚(わめ)く。
『おじさんは? いつ帰るの?』
「かあさんも知らないらしいんだ。……まったく、大事(だいじ)な時にいやがらねぇ」
電話の向こうに忍び笑いが聞こえる。
「なんだよ」
『いないほうがすっきりするって言ってるじゃない、いつもは……』
「それでいいわけ? サコは……」
『そんなこと言ってないでしょ!』
この分なら、放っておいても大丈夫だ。彼女はどうすればよいかわかっている。いざとなれば、すぐにでもここにやってくるだろう。
どうやら、いまのところいちばん問題なのは自分らしい。
目の前にちらつく黒い影を、忌(い)ま忌(い)ましげに睨(にら)み据(す)えた竜憲は、声だけはのんびりと沙弥子を宥(なだ)める。
「――捕(つか)まえたら、何をおいても行かせるよ」
『ありがと。オヤジにもそう言っとく』
「それから……。いいか? 何かあったら、ここへ来いよ。かあさんには出かけるなって頼んどくから」
『よろしく。……ホントに、ゴメンね』
妙に殊勝(しゆしよう)な声が、ご愛嬌(あいきよう)だ。
これ以上聞いていても、仕方がない。要は彼女が無事なことを確認できればよいのだ。
「気にするなよ。……ウチの親父(おやじ)はそれが商売なんだからさ。――じゃ、親父さんによろしくな」
簡単に応じて、電話を切る。
電話に気を取られている間に、居間は有象無象(うぞうむぞう)の雑霊(ざつれい)の山になっていた。昨夜よりまだひどい。ただの虫のように見えるものから、犬猫の大きさのものまで。なかには人のようなものまでいる。
ゆっくり眠って、回復したはずなのにこのざまだ。
ソファーの陰(かげ)に蹲(うずくま)った影を睨(にら)みつけた竜憲は、そのソファーにどさりと腰を落とした。
きりがない。
こんなことをしていたのでは、それだけでまいってしまう。
こんなことは初めてだ。
昨夜は単に疲れているからだろうと思っていたのだが、それだけではないはずなのである。だからこそ、沙弥子の様子を聞いたのだが、どうやら彼女はなんともないらしい。
いったいどうなっているのだろう。
考えたところで答えは出そうにない。何しろ、唯一(ゆいいつ)思い当たるのが、昨日の倉の化け物なのだから。
不意にインターフォンが鳴る。
びくりと背をすくめた竜憲が、電話の切り替えに指を伸ばすと同時に、どこかで電話が取られた。
母親だろう。
竜憲はぐったりとソファーに背を預けた。
と、今度は内線のベルが鳴る。
道場のほうならともかく、自宅のほうには自分と母親しかいない。ということは、どう考えても、やってきたのは自分の客なのだろう。わざわざ訪ねてくる人間を一人だけ思い浮かべて、竜憲は電話に飛びついた。
護符(ごふ)が向こうからやってきたようだ。少々情けないが、母親にくっついているよりはましに違いない。
『リョウちゃん……』
「居間にいるから……」
皆まで聞かずに、そう応じる。
『はいはい』
ぷつりと応答が切り替わり、声が聞こえなくなる。
部屋のぐるりを見渡し、ほくそ笑(え)む。
一瞬に、部屋の中がすっきりと片づいた。
が、満足げに笑った竜憲の視界の隅を、小さな黒い影が掠(かす)める。
「……お前ら、いつまでもここにいられると思うなよ」
ぶつぶつと呟(つぶや)いたものの、なかなか情けない強がりだ。
背に腹は代えられないといったところか。
廊下(ろうか)で人の話し声が聞こえた。
やがて、足音が居間の前で止まり、背後の扉(とびら)がゆっくりと引き開けられる。
そのとたん――。部屋じゅうにぞわぞわと屯(たむろ)していた影の類(たぐい)が、音をたてて四方に逃げる。悲鳴のような騒ぎ声まで聞こえるのが、小気味(こきみ)よい。
「おい、リョウ……。くたばってんだって?」
からかっているのは明白なのだが、今日ばかりはその声が頼もしく思えた。
「ま……ね。どうせ、信じないんだろうけどさ」
ソファーの背に頭を預け、来訪者の顔を見上げる。
歩く護符(ごふ)は、訝(いぶか)しげに竜憲を眺(なが)め下ろした。
「なんだよ。……何かいいことでもあったか?」
「ぜんぜん!」
にこやかに応じた竜憲を眺め、大輔はますます眉(まゆ)をしかめた。
「気色悪いな。……まったく」
口の中で呟いた大輔は、ソファーの背を大きく回ると、竜憲の正面に座った。腕に抱えたコートを脇に置き、竜憲の顔を正面から見つめる。
「で、調子はどう?」
「調子……ねぇ。――最悪」
「そうか……」
ぼそりと応じた大輔を、まじまじと眺める。
そのまま黙(だま)り込んだ大輔は、テーブルを見つめて無言を押し通した。いつまで待っても口を開こうとしない。
いい加減に待つのに飽(あ)きた竜憲は、しかたなく自分のほうから口を開いた。
「……あんた、用があったんじゃないの?」
「え?」
大輔がようやく顔を上げる。
「それとも見舞いにきたのかな」
「いや」
あっさりと応じた大輔が、コートを引き寄せる。
「やっぱり……」
片目を眇(すが)めた竜憲を見もせずに、大輔はコートの間を探(さぐ)っている。
息を吐(は)き、竜憲は彼の言葉を待った。
ややあって、布に包まれたものを取り出した彼が、それをテーブルの上に静かに置き、小さく首をすくめてみせる。
「なんだよ……」
しばし間を置いて、大輔は答えた。
「律泉(りつせん)のとこの倉から持ち出した」
「は?」
「倉にあったもんだ」
「なんだって?」
「倉にあった……」
大輔は言葉を途切れさせ、包みに手を伸ばす。
ごくりと息を呑(の)んだ竜憲の目の前で、布の端が持ち上げられ、その中から緑青(ろくしよう)の塊(かたまり)が現れた。
それがいかに古いものであるかは、一目でわかる。それも鏡だ。
「おい……おい」
目を見開き、鏡と大輔を交互に見た。
「律泉の言ってた鏡とは別のもんだ」
「どういう……」
「対(つい)の鏡……だと思う」
「なんで言わなかった?」
「なんで? いまにもぶっ倒れそうなお前に、なんて言うんだ? ……だいたい、車の運転なんて、卒検以来初めてなんだぜ。そんなこと言う暇(ひま)はなかっただろう?」
自慢にもならないことを、偉(えら)そうに言い切った大輔は、鏡をゆっくりと持ち上げた。
鏡同様、いまにも塵(ちり)になりそうな恐ろしく古い護符(ごふ)が、鏡の中央に貼(は)りつけてある。
その札(ふだ)を竜憲は穴が空(あ)くほど見つめた。
何も感じない。
ゆっくりと手を伸ばし、かすかに触れてみる。
同じだった。
大輔が沙弥子のところから持ち帰った紙屑(かみくず)にも、あれだけの強い気があったのだ。これから何も感じられないというのは、いかにもおかしい。
「何かした?」
静かに首を横に振る大輔を、疑わしげに眺(なが)めた竜憲は、あらためて鏡に手を伸ばした。
「どう思う?」
どうと聞かれても、答えようがないのだろう。大輔の問いに曖昧(あいまい)に頷(うなず)いてみせると、竜憲は鏡を手に取り、しげしげと眺めた。
その様子を見るとはなしに眺めながら、大輔はもてあまし気味の足を組み、ソファーの背に身体を預けた。
「妙な気配(けはい)があるのか?」
さらに問いかけても答えはない。何を聞いても答えはないと判断すると、大輔は勝手に状況の説明を始めた。
「律泉が封印(ふういん)を解(と)いたとかいう鏡は、倉の奥の祭壇に……だと思うんだが……置いてあったんだ。もちろん曇(くも)ってはいたが、これほどひどい状態じゃなかったし、祭ってあるっていう感じだったな。――で、こいつは、その横に転(ころ)がっていた。……台座の……鏡架(きようか)とでもいうのかな、それの木が腐(くさ)ってて……」
口を噤(つぐ)んで、竜憲の様子を窺(うかが)う。
「それで……?」
一応聞いてはいたのだろう。竜憲が先を促(うなが)した。
「あ……ああ。――それでだな。大きさも形も似ていたし、対(つい)じゃないかと……」
「そうだろうな」
「だろう?」
とたんに竜憲が、視線を上げる。
「違うだろ? 聞きたいのは、なんでそれがここにあるかだ」
「え……ああ……」
「なんだってこんなものを……」
竜憲が鏡を置き、大輔を睨(にら)む。
組んだ足を解いて身を乗り出した大輔は、しごく真面目(ま じ め)な顔をつくって、竜憲を見返した。
「……それが、よくわからないんだ」
「なんだと」
「だから、覚えてない。……気づいたら部屋にあった。……見つけた時のことはよく覚えているんだがな。……いまさら、なんだが。今度ばかりは俺も困っているんだ」
うさんくさげに自分を見る視線が、竜憲の心情を露骨(ろこつ)に教えてくれる。だが、この言葉を撤回(てつかい)するつもりはない。何しろ、半分は本当なのだ。少々の脚色はあるが。
「ま、言い訳はしないよ」
「……何、居直ってんだよ。どうせ、あんたのことだもの、興味があったんじゃないの。それこそ、いまさら言ってもしようがないけどさ」
答える代わりに、眉(まゆ)を引き上げてみせた大輔は、再び足を組み直した。
どういうわけか知らないが、今日の竜憲は寛容(かんよう)である。いつもなら、こんなことを告白しようものなら、いつまででも文句(もんく)を並べ立てているはずなのだ。たしかに、その文句さえ聞いてやれば、ちゃんと頼んだことは引き受けてくれるのだが、ここまであっさり引き下がられると、どうも勝手が違う。
小さく咳払(せきばら)いをした大輔は、あらためて竜憲を見やった。
「やっぱり、こいつも関係あるんだろう?」
鏡を顎(あご)で示す大輔に、竜憲はゆっくりと首を振った。
「わからない」
「わからない?」
「そういうこと。……この封印(ふういん)を剥(は)がせばわかるのかもしれないけどな」
「それはちょっと……やめといたほうが……」
いくら信じないとはいっても、とりあえずは止める。実のところ封印を剥がして何が起こるのか、この目で確かめたい気もするのだが、昨日の騒ぎのあとだ。いくらなんでも、言葉尻(ことばじり)を捕らえて煽(あお)る気にはならない。
「だろ?」
片眉(かたまゆ)を引き上げてみせた竜憲が、音をたててソファーに背を預けた。
「返しに行くか? 律泉とこに……」
「それより、一晩これと一緒にいたんだろ? 何か変わったことはなかったのかよ」
「変わったこと……か」
もちろんあった。この鏡が磨(みが)き立てたように見えたというのは、誰に言っても変わったことだろう。
だが……。
「……なかったな」
嘘(うそ)をついた。
「そうか」
素直にその嘘を信じる竜憲を、ちらりと見やった大輔は、コートのポケットを探(さぐ)り、煙草(たばこ)を取り出した。
少々後ろめたい気がする。
「これは、俺が預かるよ」
不意に竜憲が言う。
「ああ……頼む」
「しかたないだろ」
「すまんな」
竜憲は首をすくめた。
「……それはそうと……。あんたが言ってた……なんだっけ? 部屋が怪(あや)しいから来てくれ、とか言ってただろう? 行かなくていいのか?」
「珍しいこともあるもんだな。……心境の変化か?」
「昨日、不様(ぶざま)な真似(まね)を見せたしな。まあ、それぐらいつきあうさ」
本当は竜憲はこの、有象無象(うぞうむぞう)の化(ば)け物(もの)たちを遠ざけてくれる護符(ごふ)に、一緒にいてもらいたいだけなのだ。ある程度以上の力を持つものは、大輔のことなど無視して出現するが、数が限られているだけに、対処のしようもある。
「……じゃ、電話を貸してくれるか?」
「ああ」
喜々(きき)として電話に手を伸ばす大輔を眺(なが)めながら、こんな男に頼らなければならなくなった自分を、哀(あわ)れに思う。何より情けない。
女が相手だと、どこまでも甘い男だ。ただし、それは彼が女と認めた相手に限られていたが。
沙弥子などは、未(いま)だに後輩から一歩も進歩できないのだ。彼女にとっては、姉崎先輩は明らかに特別なのに。
喜ぶべきか。
当人にはまったく自覚はないが、大輔は確実に恋敵(こいがたき)だ。本人に自覚のない恋敵。
それを頼るのはいかにも悔(くや)しいが、この際仕方がない。
「……わかった。じゃ、明日にしよう……。ああ、こっちはそれでいい……」
電話を切る大輔は、ひょいと眉(まゆ)を上げて首をすくめてみせた。
「掃除(そうじ)してないから、明日がいいとさ」
「だから、言っただろう? ……たいしたことじゃないって……」
「……言えてるかもな……。けど、美香(みか)は本気で怯(おび)えているからな。いま、家にいないんだよ。小野(おの)の家に泊まり込んでいるんだ。お前が見てやれば、気が済むっていうんなら、やってやればいいだろ?」
興味のある女は名前で、そうでなければ名字(みようじ)で呼ぶ、といういたって直情的な反応を見せてくれる男を、うっそりと眺める。
気が進まない仕事が先送りになったのはいいが、護符(ごふ)と一緒にいる口実がなくなってしまった。
「……じゃあ、これから律泉ん家(ち)に行かないか?」
思いがけず、護符のほうから同行を求められる。
「え?」
「この鏡の正体を聞くなら、律泉に聞くのが一番じゃないのか? お前の能力に頼るだけってのも……」
そんな能力の存在自体を疑っている男は、ひどく現実的なことを話す。だが、いちばん簡単な方法でもあった。
「珍しいな、あんたがここまで興味を持つとは……。何かあったんじゃないか?」
「俺に? ……何も見えないって馬鹿(ばか)にしてるくせに……」
微苦笑を浮かべた竜憲は、いい加減に頷(うなず)くと腰を上げた。
「ちょうどいい。……今日はサコの親父(おやじ)さんは家にいるそうだしな……」
片眉(かたまゆ)をそびやかした大輔が小さく笑う。
「……まさか娘が心配だからっていうんじゃないだろうな……」
「その、まさか、だ。平気なのはあんたぐらいだよ」
ドアに手を掛けた竜憲は、大輔が近づくのを待って、引き開けた。
第三章 予 兆
何度も通った道だが、何故(な ぜ)か足もとが粘(ねば)りつくような気がする。疲れているといえばそれまでだが、大地自体が自分を押しとどめようとしているようだ。
時折感じる、漠然(ばくぜん)とした敵意でもない。かといって、気のせいではないことはたしかだった。
“護符(ごふ)”の大輔(だいすけ)がすぐ隣を歩いているのに、これほどの異常があるのは、敵の力が見縊(みくび)ってよいものではないという証拠としか思えなかった。
「何かあるのか?」
着膨(きぶく)れの熊が両手をポケットに突っ込み、さらに首をすくめてちまちまと歩いている。普通に上るだけでも息が上がる坂だが、ところどころが凍(こお)っているために、さらに難所になっていた。
何度か滑(すべ)りそうになりながらも、どうにか体勢を保っている大輔は、訝(いぶか)しげに竜憲(りようけん)の足もとを見やった。
竜憲のほうは、滑るどころか足が持ち上がらないのだ。傍目(はため)にもわかるほど動きがおかしいとすれば、沙弥子(さやこ)の家に近寄らせまいとするものの力も知れる。
「……さすがに、今度ばかりはあんたでも見ることができるかもしれないな……。ちょっと、マジに強い……」
時代がかった門が見えるようになったあたりから、竜憲の足はますます重くなっていた。一歩ごと、太腿(ふともも)に力を入れて引き上げないと、靴底は大地にへばりついているのだ。
舗装(ほそう)したばかりのアスファルト道路を歩いているような気分になる。
そのくせ、冷気は身体の芯(しん)まで染(し)み込(こ)む。
これだけ苦労して歩いているのだから、汗が出ても不思議(ふしぎ)ではないのに、体温はいっこうに上がらない。
坂道で苦労しているのは大輔も同じだが、彼のほうは身体が温(あたた)まらないことを疑問に思っていないようだった。
「……妙だと思わないのか?」
つい、皮肉(ひにく)の一つも言ってみたくなる。超常現象を信じないのは勝手だが、現実に起こった事実まで無視するというのは、承服(しようふく)できない。
普段は理論家を気取っているくせに、こういう時は突然、偶然を持ち出すのだ。
「この坂を上って、汗の一つも出てないだろ」
「お前もだろうが。それだけ寒いってことだ……」
まるで気にも留めずに言い放つ男をちろりと見上げ、竜憲は深い息を吐(は)いた。
こんな護符(ごふ)に頼らなければならない自分が嘆(なげ)かわしい。
彼が超常現象だと決めたものは、けっしてその周囲では現れないのだ。体験自体をなかったことにしてしまうのだから、何もないと言い切るのも当然だろう。
たしかに、相手を見ることはできなかったが、竜憲が傷を負おうと、立ち木が真っ二つに裂(さ)けようと、偶然という言葉で片づけてしまう男だった。
「……あの、門の上にいるものは、見えるか?」
「門の上?」
寒そうに縮(ちぢ)めていた首を伸ばし、言われた先に目をやった大輔は、再びコートの襟(えり)に顎(あご)を埋(うず)めた。
「何も……。瓦(かわら)が霜(しも)で白くなってるってんなら見えるが。……それだけだな」
霜で白くなって、と、理由づけしてしまうあたりが、大輔なのだろう。陽が当たる瓦に、いつまでも霜が残っている不思議(ふしぎ)には、目をつぶるつもりのようだ。
竜憲は、重い足を引き上げながら、門の上に視線を据(す)えていた。
真っ白な獣(けもの)。
大型の犬ほどの大きさがあるが、顔は鼬(いたち)である。何か言いたいことでもあるのか、先ほどから竜憲の動きを見守っていた。
吐く息がきらきらと輝き、瓦に落ちる。
敵意がないことはわかるのだが、護符を連れているにもかかわらず、姿を見せるあたり、それなりの力を持っているのだろう。
「……何かいるんか? ……だよな。そんな聞き方をするってことは……」
「信じてないくせに……。あんたが信じないのはわかっているよ」
「そうでもないぞ。少しは信じる気になっている。……ただ……何も見えないのは同じだけどな。律泉(りつせん)とお前……まったく同じ方向を見ていたし。二人が示し合わせたっていうより、俺には何があったって見えないってことだろう。……もっとも……」
「そいつらが人間に何かしでかすってのが信じられないって言いたいんだろう?」
ひょいと眉(まゆ)を上げた大輔は、その拍子(ひようし)に足を滑(すべ)らせ、慌(あわ)ててポケットから手を出した。
「……えらい遠いな……。こんなに遠かったか? ……門が見えてから……」
口をつぐんだ大輔は、腰を伸ばすようにして、つくづくと竜憲を見据(みす)えた。
「……まさか……」
「そのまさかさ。見えなくても影響はあるってことだろ。狐(きつね)や狸(たぬき)に化(ば)かされたってわけじゃないが……。とにかくちっとも前に進まない。それだけだ」
「それだけだと?」
「ああ。それだけ。時間はかかるが、少しずつ、前に進んでいるからな」
鼻に皺(しわ)を寄せた大輔が、これみよがしに溜(た)め息(いき)を吐(は)く。
彼にしてみれば、心理的な錯覚(さつかく)で時間経過が遅い、と思いたかったのだろう。
だが、現実に二人は普段の三倍もの距離を歩いていた。
どうやら、沙弥子の父親に会わせたくないらしい。倉に封(ふう)じられていた魔物(まもの)の正体がわかっては困るということだろうか。
だとすれば、沙弥子の家を訪ねたのは正解だったということだろう。
「化(ば)け物(もの)ね……。それが本当なら、そいつはお前に正体を明かしたくないらしいな」
同じ結論に達した大輔が、前屈(かが)みになって足を速めた。
呆(あき)れるほどゆっくりと、門が近づいてくる。
左右の林に目をやれば普通に進んでいるように思えるのだが、正面の門ばかりが遠い。そこだけフィルムを引き伸ばしているようだった。
「大丈夫(だいじようぶ)……なのか」
息が上がっている竜憲を、半(なか)ば同情のこもった顔で眺(なが)め下ろす。いっこうに近づかない門に、さすがの大輔も不安を覚えているらしい。
「ま……そのうち辿(たど)り着くさ」
竜憲は無理に笑ってみせた。
「馬鹿(ばか)言ってるな。……お前のことだよ」
「俺? 大丈夫だよ。……まったく根性(こんじよう)悪いったら……」
自分でも情けないほど、ただ歩くために苦労しているのだ。どんな顔をしてみせたところで、信憑性(しんぴようせい)のないことこのうえない。
しかし、この奇妙な妨害に抵抗するうちに、どうも倉から解(と)き放たれたものの力とは種類が違うような気がし始めていた。
門の上に陣取った白い妖怪(ようかい)を、ちらりと見やる。
あれが原因だろうか。
そんな気がする。
――誰だ? お前は……――
ためらいがちに問いかける。
何も答えはなかったが、代わりに訝(いぶか)しげに頭を傾(かし)げた妖怪は、不思議(ふしぎ)に優しげな目で竜憲を見つめた。その目の色から、答えを導きだすこともできない。自分の力が足りないのか、意思の疎通(そつう)が不可能な相手なのか、そのあたりはわからないが。
小さく首を振り、足もとに視線を戻した竜憲は、再び重い自分の足と闘い始めた。
――何をしにきた? ――
不意に頭の中に声が響く。
慌(あわ)てて門の上を振り仰(あお)いだ竜憲に、さらなる言葉が投げられる。
――もう、ここには用はないはずだ――
「お前か?」
思わず呟(つぶや)いた竜憲に、大輔が反射的に応じる。
「何が?」
言っておいて、怪訝(けげん)な顔をする。おくればせながら、竜憲が自分ではなく、門の上を見つめていることに気づいたからだ。
「あんたじゃない」
「……のようだな……」
首をすくめた大輔は、無視をきめ込んだ。
――踏み込んではならぬ――
「なんだと!」
半分は自棄(や け)だった。この際どう見られようと、知ったことではない。
案(あん)の定(じよう)、怒鳴(どな)り据(す)えた竜憲を、目を剥(む)いた大輔が盗み見る。
「なんの権利があって!」
――……私はこの家を護(まも)るもの――
思わぬ答えが返り、竜憲は目を瞬(しばたた)かせた。
――約定(やくじよう)により、律泉の一族を守護するもの――
「……律泉の……式神(しきがみ)……?」
口の中で呟いた竜憲を、大輔が今度は遠慮(えんりよ)なく凝視(ぎようし)する。
「どうして、俺たちを……」
――この家に仇(あだ)なすものを通すわけにはいかぬ――
「仇だって? 俺は大道寺(だいどうじ)だぞ。……律泉とは……」
――去(い)ね! ――
そう断じた妖怪(ようかい)の形相(ぎようそう)が、瞬間で変化した。
優しげな目が奇妙な色を帯びて輝き、閉じられた口が大きく引き裂(さ)ける。足にかかる圧力が、さらに増したようだ。
竜憲が歯を食いしばり、呻(うめ)く。
両肩にまで、異様な圧力がかかっていた。
「……くそう! ふざけるなよ!」
食いしばった歯の間から漏(も)れる圧(お)し殺した罵声(ばせい)も、単なる負(ま)け惜(お)しみでしかない。何しろ、一歩も動けないのだ。
それどころか、全身が押し潰(つぶ)されそうだ。
「大輔……あんた先に……」
ようやくに、それだけ言うと、すべての努力を放棄(ほうき)する。
と、同時に、全身にかかる圧力が消え失せた。
「あ……」
「先に行けって、お前……」
困り顔で見下ろす大輔を、竜憲はきょとんと見上げた。それから、両手を持ち上げ、確かめるように掌(てのひら)と甲(こう)を交互に眺(なが)める。
「なんだ、今度は……」
「進まなければ……いいわけか……」
「何?」
片目を眇(すが)めた大輔に、力なく笑い返す。
「……話を聞くだけだろう? あんた、一人で行ってきなよ」
「俺が行ってどうするんだよ。俺には何も見えないし、聞こえないんだぞ」
「相手は沙弥子の親父(おやじ)さんだ。人間が相手なら、あんたのほうが得意だろう」
「そりゃ……いいが……」
眉(まゆ)を寄せた大輔は、自分の身体を眺める竜憲をつくづくと見下ろした。何かと会話をしていたのはわかるが、それがなんなのかとなると、まるで見当(けんとう)もつかない。
シキガミとやらが竜憲に敵対しているらしいことだけはわかったが、なんの手出しもできないのは、いままでどおりだ。
「ちょっと……俺はあとから行くわ。説得(せつとく)できれば……」
「説得、ね。……まあいい」
「あ、それから。話が聞けたら、サコを連れ出してくれ」
「あ?」
足を踏み出した大輔が、訝(いぶか)しげな顔で振り返る。
「サコの親父さんも、わかっているから。お袋に英語を習うんだよ」
「なるほどね。……ここにいるよか、お前ん家(ち)が安全ってことか? ……わかったよ。とにかく、倉の中身のことを聞いて、律泉を連れてくりゃいいんだな」
「そういうことだ」
大袈裟(おおげさ)に肩をすくめた大輔は、ひどく歩きづらそうに坂道を上り始めた。
がっしりとした背中を丸めて、寒そうにしている姿は妙に滑稽(こつけい)だ。竜憲を拒絶するために張(は)り巡(めぐ)らされた結界(けつかい)は、大輔にまで影響を与えている。
律泉の家と約定(やくじよう)を結んだという式神(しきがみ)は、よほど力が強いようだ。
もっとも、千年もの間、律泉家を護(まも)り続けているのだとすれば、それなりの力は持っていて当たり前だった。
その式神ですら、倉に封(ふう)じこめられた魔物(まもの)を倒すことはできなかったのか。あるいは、倉の魔物が解(と)き放たれたために姿を現したのか。
突然、かっと目を見開いた竜憲は、門の上に踞(うずくま)る白い妖怪(ようかい)を見据(みす)えた。
どうしたことか、大輔を睨(にら)み据える妖怪は、己(おのれ)の力が通じないことに苛立(いらだ)っているようだった。
竜憲の仲間だと思ったのか、大輔が門を潜(くぐ)るのも許せないらしい。
「……式神(しきがみ)。大道寺の者を追い返すには、それなりの理由があるはず。何故(な ぜ)だ?」
問いかけに答えようともせず、妖怪は大輔に牙(きば)を剥(む)いている。
いまにも襲いかかりそうな勢いだが、いまのところ門の上に留まっていた。
「式神!」
一歩踏み出す。
くるりとこちらを振り向いた妖怪は、牙を剥き出して威嚇(いかく)した。
「何故だ! 答えろ!」
――去(い)ね。ここには何もない――
頑(かたく)なな拒絶に、疑問が湧(わ)き起こる。
「……俺に……あの、化(ば)け物(もの)が取(と)り憑(つ)いた……のか?」
それしか考えようがない。
いままで、律泉家の式神など見たこともなかったのだ。律泉と大道寺の関係からいっても、拒絶される謂(いわ)れはない。昨日も、なんの問題もなかった。
昨日と今日の違いは何か。
たしかに、有象無象(うぞうむぞう)の化け物がまわりに見え隠れするが、それも人に影響するほどのものではない。
答えは一つに思える。
「式神。答えろ!」
――去ね。二度とここには近づくな――
大輔と竜憲を見比べ、竜憲のほうがより大きな禍(わざわい)だと決めた妖怪は、まっすぐに竜憲を見据えていた。
「答えてくれ。……そうすれば、二度とここには立ち入らない」
――そなたが何者か、忘れたとでも言うか――
「そうだ。大道寺竜憲でなければ、なんなんだ!」
――神、だ。そなたはそう言っておったではないか――
皮肉(ひにく)な口調(くちよう)。
自(みずか)らを神と名乗るほどのものが、竜憲に取り憑いたとでもいうのだろうか。彼自身には、そんな自覚はない。
いままでにも、何度か意識を乗っ取られそうになったことはある。しかし、己の身体を支配しようとする意識というものは、恐ろしく不快で、けっして無視できるものではないのだ。
何故(な ぜ)、なんの違和感もないのか。
思い当たることはいくらでもあったが、自分がいちばん納得できない。自分の中のどこかに、あの化(ば)け物(もの)が息を潜(ひそ)めているのではないかと思うと、背筋が粟立(あわだ)った。
何より、化け物に触れた時に感じた、妙な懐(なつ)かしさが、忌(い)まわしい。あの瞬間に、化け物は竜憲の内に深く入り込んだのだろう。
いまになって、式神(しきがみ)が何を拒絶しているのか実感できる。
――ようやっと気づいたか? ――
声に、振り返った竜憲は、黒い影に気づいて顔を歪(ゆが)めた。
護符(ごふ)がいなくなったとたんに、これだ。
坂道には、足の踏み場もないほど妖怪(ようかい)が蠢(うごめ)いている。虫ほどの大きさのものから、人間の倍ほどもある巨大な影まで。
竜憲に声をかけたのは、その大きな影だった。
――早(はよ)う! 早う! いつまでわしらを待たせる気じゃ! ――
こいつらは、竜憲の中に潜むものを待っているのだ。化け物たちの首魁(しゆかい)が、竜憲の中に入り込んだに違いない。
長年、倉に封(ふう)じられていた首領が解放されたことを知り、こうしてまわりに集(たか)って蘇(よみがえ)る瞬間を待っているのだろう。
「貴様ら……」
頬(ほお)を引きつらせて、片目を眇(すが)めた竜憲が、口中で真言(しんごん)を唱(とな)える。
――無駄(むだ)じゃ! 無駄じゃ! わしらを祓(はろ)うても、なんにもならぬわ――
いつのまにか、頬(ほお)が血に濡(ぬ)れている。
倉の前で、魔物(まもの)に切り裂かれた頬は、針で突いたほどの傷も残さずに消えていたが、突然、思い出したように血を噴(ふ)き出した。
――お方の牲(にえ)じゃ。お方が目覚められたのよ! ――
顎(あご)を伝う血が、滴(したた)り落ちる。
真言に押されて、一瞬引いた物(もの)の怪(け)たちがざわざわと血に集まってきた。
歓喜が押し寄せてくる。
人間の血を求める化け物など、そうそういない。契約の象徴(しようちよう)としての血なら、意味があるが、連中には餌(えさ)にもならないのだ。
だが、竜憲の血には、別の意味があるらしい。わずかばかりの血に群がる化け物は、先を争うようにして、血を舐(な)め取ろうとしていた。
「……消えろ! 貴様ら!」
かっと体温が上がる。
打ち払うように振った手先から閃光(せんこう)が迸(ほとばし)り、化(ば)け物(もの)の山が一瞬にして灰となった。
妙に毒々しい血に、灰が吸い込まれる。
「これが理由か! こいつらが……。こいつらが律泉の家に禍(わざわい)をもたらすのか!」
門の上で、竜憲を見据(みす)える妖怪(ようかい)が、にやりと笑う。
――そなたじゃ。そなたが仇(あだ)をなす。……いまはまだよし。だが、それも長くはなかろう。あれが目覚めれば、そなたこそが仇をなす――
「目覚めれば、だと?」
倉に封(ふう)じられていた魔物(まもの)は、竜憲の中で眠っているというのか。それとも、竜憲の意識を食い尽くすことを目覚めるというのだろうか。
「あれはなんなんだ! 俺が食われるのを待っているのか! それはいつだ! いつまで俺は俺でいられる!」
真摯(しんし)な目を向ける竜憲に、律泉の式神(しきがみ)はもう何も答えようとはしなかった。
律泉の家を、その血筋を護(まも)るために約定を交わした妖怪は、竜憲が近寄らないかぎり危険はないと決めている。
竜憲が化け物に食われようが、殺されようが、奴(やつ)には関係がないのだ。
「……くそ……」
周囲を見渡す。
追い払っても、打ち殺しても、いくらでも湧(わ)いて出る物(もの)の怪(け)たちが、またもや足もとに押し寄せていた。
血に群がるのも同じ。
やはり、この魍鬼(もうき)どもにとって、竜憲の血は何か特別な意味があるのだ。
再び、右腕が光を発する。
何に対しての怒りか、自分でもわからないが、力を抑(おさ)えようもなかった。うぞうぞと足もとに集まる物の怪たちが、光に触れて弾(はじ)け飛ぶ。
自分に危害を加えられる連中ではないのだ。退(しりぞ)けようと思えば、退けることもできたし、いままでならそうしていた。
たとえ普通の生命ではないにしても、無益に命を絶(た)つことはないと思っていたのである。
しかし、腹の底から湧き上がるような怒りは止めようもなく、右手が青い燐光(りんこう)を放ち続けていた。
「……くそ……」
誰にともなく罵(ののし)り、右腕を押さえる。
鼓動(こどう)に呼応するように光を放つ腕は、地を這(は)う物の怪たちを虐殺(ぎやくさつ)し続けた。
「リョウ! どうした?」
大輔の声だ。
その声が届くと同時に、潮(しお)が引くように物の怪たちがいなくなった。
「腕をどうかしたのか?」
「ちょっとな……」
右腕は、相変わらず光を放っているが、大輔の目には見えないらしい。
「リョウちゃん。どうしたの……その手……」
大輔の後ろから現れた沙弥子は、目を丸くして竜憲を見つめていた。
「何か現れたの?」
「ちょっとな……」
曖昧(あいまい)に笑うと、コートのポケットに手を突っ込む。
相変わらず、腕は光を放っている。敵が消えてしまったのだから、もう治(おさ)まってもいいはずなのに、彼の身体は未(いま)だに臨戦状態にあるのだ。
破魔(はま)の力を自分では制御(せいぎよ)できないことはわかっている。
だからこそ、軽々しく除霊(じよれい)を引き受けたりしなかったのだ。怒りが、あるいは恐怖が、勝手に魔物を打ち破るのである。
だが、敵が消えたあとまで、右腕が光を保っているのは、初めてだった。
「話は帰ってからにしよう。……親父(おやじ)を捕(つか)まえたいしな……」
何かがあったと、沙弥子だけはわかっているようだ。こくりと頷(うなず)いた沙弥子は、大輔の腕を促(うなが)すように引き、竜憲の横に来た。
「……本当に大丈夫(だいじようぶ)?」
見上げる顔には、不安がくっきりと刻(きざ)まれている。
「大丈夫、と言いたいところだが、どうやら、親父の手を借りるしかないみたいだ。クソ親父が捕まればの話だがな」
にんまりと笑う竜憲に、沙弥子はほっと息を吐(は)いた。
何があったのか、沙弥子にもわかっていないのだ。倉に封(ふう)じられていた化(ば)け物(もの)に取(と)り憑(つ)かれたなどと、言えるはずもない。
沙弥子は自分も始終霊(れい)や物(もの)の怪(け)の類(たぐい)を見るだけに、竜憲が物の怪と戦ったと知っても、驚きはしなかった。
「じゃあ、早く帰ったほうがいいわね。姉崎(あねざき)先輩、いいでしょ?」
ひょいと眉(まゆ)を上げた大輔は、疑い深い目で、竜憲を見据(みす)えていた。
竜憲の異変を見ることはできないくせに、その反応で何かあったと知ったらしい。さすがに、沙弥子の前で疑問を口にすることはなかったが、家に帰れば質問責めをかくごしたほうがよさそうだった。
「……とにかく……とっとと帰ろう」
なるべく軽く言い放つ。
ちらりと振り返った門の屋根には、未(いま)だに式神(しきがみ)が座っている。
律泉の血筋の者を護(まも)ると言っていたが、沙弥子が自らの意思で竜憲に従うことには、反対できないらしい。
それでも、鼻先に皺(しわ)を寄せて低く唸(うな)る妖怪(ようかい)は、できるかぎりの抵抗を示しているようだった。
妙な音がする。
ベッドの隅(すみ)のほうで、がさがさと音をたてているのだ。見なくても、何がいるのかは見当(けんとう)がつく。
「うるさいぞ! 静かにしろ!」
腹立ち紛(まぎ)れに怒鳴(どな)ると、毛布を頭から被(かぶ)る。
この数日、いつも何かが付きまとっていた。しかも、得体(えたい)のしれない虫やら、小さな獣(けもの)の形を借りた魍魎(もうりよう)が、もっと曖昧模糊(あいまいもこ)としたものに変わっている。
ただ姿を持たない代わりに、明確な意思が感じられる。いや、敵意といったほうが正確だろう。隙(すき)があれぱ、襲いかかってきそうな気配(けはい)がある。もっとも、気配だけで実際に襲われたことはないのだが。
幸いなことに、律泉(りつせん)の家の門前で起こったような騒動は持ち上がっていない。大道寺忠利(だいどうじただのり)のご威光(いこう)か、この家自体に特別な結界(けつかい)でもあるのか、群がる魑魅魍魎(ちみもうりよう)、魘鬼(えんき)の類(たぐい)も、姿を現すのがせいぜいで、悪さはできないでいるらしい。
人間の感性というものは、存外いい加減にできているらしく、はじめは蠢(うごめ)く小さな影にも感じていた嫌悪感(けんおかん)が、日がたつにつれて薄れている。いちいち係(かか)わっていたのでは、それこそ身が持たないというところだ。
虫が這(は)い回ろうが、何かが耳もとでもごもごと囁(ささや)き続けようが、無視することはできるようになった。思いのほか、頑丈(がんじよう)な感性を持っていたわけだ。
悟(さと)りを開いたというか、はっきりいえばどうでもよいのである。
とはいえ、現実に睡眠を邪魔(じやま)されるのはたまらない。早いうちに、どうにかしたいのも確かだった。
それにもかかわらず、この状況に対処できる可能性のある、唯一(ゆいいつ)の人物がこの場にいないのだ。
実際、ここまで父親の帰りを待ちわびたことなど、生まれてこのかた初めてである。それこそ、二度と帰ってくるなと思ったことはあっても、一秒でも早く帰ってこいと念じたことなどない。
父親に頼るのは情けないなどとは、言っていられないのだ。
もぞもぞと動き回る物(もの)の怪(け)を足先で蹴(け)り飛ばして、なんとか平穏(へいおん)を得ると、今度こそ何があろうと目を覚まさないと心に決め、枕に顔を埋(うず)めた。
すると、今度は耳もとで、ぶつぶつと呟(つぶや)く声が聞こえ始める。
『……待っておられるのか……』
不意に意味を持った言葉が耳に届く。
聞こえないと思い込もうとしても、なかなかに難しい。聞こえた気がするのではなく、物理的に耳に届いているらしいのだ。
これなら、大輔の耳にも聞こえるかもしれないなどと、埒(らち)のないことを考えながら、知らず知らずに耳を澄ましていた。
『待たずとも世に解(と)き放たれておりますぞ』
何が解き放されたというのだろう。
『……あなた様なら、捜すことも造作(ぞうさ)ありますまい』
誰を捜すのだ?
理由がわからない。
聞いてみたい気もしたが、それきり声が掻(か)き消える。いざ聞きたいこととなると、肝心(かんじん)なところは知ることができない。まったく腹立たしいかぎりだ。
そのくせ、ここまで非常識な状況に陥(おちい)りながら、奇妙に好奇心(こうきしん)を掻き立てられるのも確かなのだ。
大輔の聞き出してきたかぎりの情報からすると、あの倉の鏡に封(ふう)じられていたのは、その昔誰ぞに取(と)り憑(つ)いた魔物(まもの)らしいのだが、それ以上のことはわからなかった。まして、それとともに倉にしまい込まれた鏡については、何もわからないといっても過言ではない。
それとも、こうして耳もとで囁(ささや)く妖鬼(ようき)の声に耳を傾けていれば、いずれすべての謎(なぞ)は解(と)けるとでもいうのだろうか。
その結末を想像すると、ぞっとしない。
血に集(つど)い、騒ぎ立てた魍鬼(もうき)たちは、たしかに自分を生(い)け贄(にえ)だと言ったのだ。謎が解けるということは、自分が訳のわからぬ魔物の犠牲(ぎせい)になるということにほかならない。
これ以上考えていると、本当に神経を患(わずら)いそうだ。
竜憲は枕を抱え込み、大きな溜(た)め息(いき)を吐(は)いた。
やがて、ようやく睡魔という歓迎すべき魔物の手が、竜憲を押し包もうとし始めた頃、いたって現実的な雑音が、彼をこの世に引き戻した。
枕もとで電話の耳障(みみざわ)りな電子音が鳴り響く。どうやら、相手は男のようだ。
「なんだって……また」
口中で罵(ののし)った竜憲は、しかたなくヘッド・ボードに手を伸ばした。
ついでに目覚まし時計を取り、時間を確認しながら、しごく不機嫌(ふきげん)な声で応じる。
「誰?」
『俺』
電話の向こうから、素(そ)っ気(け)ない返答が返る。
大輔だ。
時間はといえば、夜中の二時を回っている。眠りそびれたのを、どうにか寝つきかけたというのに、こんな時間に電話をしてくるなど非常識も甚(はなは)だしい。
なんだか無性(むしよう)に腹が立ってきた。
「どちらの俺でしょうか?」
ありがちな揚(あ)げ足(あし)を取って、どうにか怒鳴(どな)りつけたい衝動(しようどう)を抑えると、答えを待つ。
『悪いな。夜中に……。寝てたのか?』
「当たり前だろ」
『すまん。……ちょっとばかりまずいことがあって』
妙に素直に謝(あやま)られ、寝入りばなを叩(たた)き起こされた怒りも萎(な)えてしまう。
それでも、親身になる心境にまでは至れない。
「なんだよ。ついに、あんたんとこにも何か出たんか」
『いや、俺じゃないんだ』
つい、無愛想(ぶあいそう)になりがちな声にもかかわらず、大輔はひどく神妙に対応してくる。すくなくとも、声だけは。
「また、どっかの女?」
『女は当たりだ。……美香(みか)だけどな』
「おい、なんだよ、それ。見に行ったら気が済むって……」
『それが――』
言葉を遮(さえぎ)っておきながら、続く言葉がない。
「……らしくないな。本当に何かあったわけ?」
美香といえば、霊が怖くて家出していた娘だ。
彼女の部屋を見に行ったのは、三日ほど前。律泉家の門前でさんざんな目にあった翌日だ。たしかに奇妙な霊気(れいき)が渦巻いていたが、たいしたことはなかった。
いま言われるまで、忘れていたくらいである。
それがいまさら、なんだというのだろう。
『火事にあってな。入院した』
「なんだって!?」
『火事のほうは小火(ぼ や)だったらしいが……本人はちょっと……』
「マジ?」
『当たり前だ。こんな冗談(じようだん)、お前に言ってなんの得がある』
「悪い……。それで具合は?」
『まだ、わからん。さっき小野(おの)から電話があった』
そこまで聞いて、はたと我に返る。
「ちょっと待て……それでなんで俺のとこに……」
『それだ』
「だから……」
『妙なんだ』
「何が」
『彼女は煙草(たばこ)を吸わない』
「は?」
『いいから聞けって』
「そりゃ聞くけど……」
『とにかく、彼女は煙草を吸わない。だから、部屋に火の気はなかった』
煙草に伸ばしかけた手を止め、竜憲は身体を引き起こした。
どうやら、話は簡単に済みそうにない。灯(あかり)もつけて、ヘッド・ボードに寄りかかった。
元々、婉曲(えんきよく)にものを喋(しやべ)るのが大輔の悪い癖(くせ)だが、今夜の場合は度が過ぎる。何しろ、話が少しも見えてこないのだ。
「ちょっと……いいか?」
『なんだ』
「――もう少し、話を整理してくれよ。俺には何がなんだか――。いいか、あんたの言ったこと順番に言うから、違ってたら言ってくれよ」
『ああ』
「彼女が入院したんだろ? 火事で」
『そうだ』
「でも火事そのものは小火(ぼ や)だったわけだ」
『そう、ベッドの布団(ふとん)が焼けただけ』
「それを聞きゃ、わかるぞ。……要するに、煙草(たばこ)を吸わない彼女の部屋で、何故(な ぜ)か布団が燃えたってことか。それも、夜中に突然」
『そのとおりだ』
「そう言えよ。最初から」
『すまん……俺も少し焦(あせ)ってて』
聞いたこともない言い訳に、竜憲は不謹慎(ふきんしん)にもほくそ笑(え)んだ。
が、慌(あわ)てて顔を引き締めた。
大輔に見えるはずもないのだが、さすがに気が引ける。仮にもうら若い娘が、入院するほどの火傷(やけど)を負ったのだ。
低く咳払(せきばら)いをすると、声を落として続ける。
「いいけどさ。それで、あんたはどう思ってるわけ? 俺に電話してくるってことは……」
『あの部屋はどうだったんだ?』
「どうだった……って。べつにたいしたことは。――ちょっと過敏な娘だから、その辺のちょっとしたものを拾ってきちゃっただけだったぜ。それは、俺が引っ張ってきちゃったし……」
言いかけて口をつぐむ。そうなのだ。いつもなら、それこそ浄霊(じようれい)の真似事(まねごと)をして、消してしまうのだが、あの時はそれができなかったのだ。ほかの雑霊同様、自分が引き受けるしかなかったのである。
『どういうことだ』
「どういうもクソも――あの部屋には何も残ってなかったはずだってこと!」
『しかしな。……突然布団が火を噴(ふ)くなんざ、普通じゃないと思うだろう?』
「そりゃね。あんたまで普通じゃないって思うくらいだもんな」
しばらくの無言が返る。
やがて、大輔はゆっくりと口を開いた。
『自然発火するような素材だったのか、それとも電気毛布の類(たぐい)のショートか。考えてみたんだが、どうしてもわからない。……すくなくとも、俺の見たかぎりでは、彼女は電気毛布は使っていなかったようだし、掛け布団はすくなくとも羽毛だった』
「おい、どうしてそこまで……」
『え? 一緒に行ったじゃないか俺も』
「そんなこたぁわかってるよ。俺が聞きたいのは――あぁ、もういいよ。で、俺に何が聞きたい」
『そんなことがありえるのか……だな』
一瞬絶句して、竜憲はきっぱりと答えた。
「知らん」
溜(た)め息(いき)が返ってくる。
それこそ、父親の得意な分野だ。竜憲には、現実にあったことだけで、相手の正体を看破(かんぱ)するほどの知識もないし、火をおこすほど物理的な力を持った連中に出会ったこともない。
たいていが美香のように、自(みずか)ら拾ってきたものに怯(おび)えているか、力があっても悪い予感を囁(ささや)くぐらいが関の山だった。幻(まぼろし)の火を見せる手合いもいる。しかし、火傷(やけど)を負い、布団(ふとん)が焦(こ)げたとなれば、現実の現象だった。
「……悪いな……。見れば何かわかるとは思うが……。とにかく、俺が引き取ったのは、そんな大袈裟(おおげさ)なものじゃなかった。親父が帰ってきたら聞いてみるしかないだろうな」
『そうか……』
肩を落としている姿まで想像できる。美香と、名前で呼ぶからには、大輔にとって興味を引かれる女なのだろう。たしかに少し精気がないような気がしたが、美人で通じる女だった。それが、入院するほどの火傷(やけど)を負ったとなれば、気が重くなっても仕方がないだろう。
『それで、お前のオヤジは?』
「まだ行方(ゆくえ)不明だ」
『行方不明って……よくそれで平気だな。お前も、おふくろさんも……。普通、ほかに女がいるんじゃないかとか、疑うもんじゃねえか?』
「半分透(す)けて見える女とつきあってんだろ」
灰皿を膝(ひざ)の上にのせた竜憲は、煙草(たばこ)を吸い付けた。オイルライターの蓋(ふた)を閉め、もう一度開いて火が消えたことを確認する。
たしかに、妙だ。
煙草を吸わない人間の寝具のまわりなど、どうあがいても火の気はない。
『……小野も興奮してたしな。話がちょっとこんがらかってんだが……』
「俺のせいだって言いだしたのか?」
『そうは言ってない。あいつだってそこまで馬鹿(ばか)じゃない。……けど……』
「けど、俺が祓(はら)ったって言ったから、安心して家に帰っていた。そのせいで火傷をしたってんだろう?」
『まあな……』
よくある話だ。
自分では見ることも祓うこともできない人間にかぎって、半信半疑で浄霊(じようれい)を頼み、そのあとに悪いことが起これば、霊を祓えなかった人間のせいにする。自分が信じていなかったことなど、綺麗(きれい)に忘れてしまうのだ。
その点では、大輔はまだまともだ。超常現象を信じない代わりに、そのあとで何が起こっても、霊能者(れいのうしや)のせいにはしない。
いっぱいに吸い込んだ煙を、ゆっくりと吐(は)き出した竜憲は、視界の隅(すみ)を横切った影に、指を向けた。
青白い光が走り、小さな悲鳴が上がる。
怒りにまかせて焼かれた物(もの)の怪(け)は、煙となって掻(か)き消えた。
「親父(おやじ)が捕(つか)まらなかったら、弟子(でし)を捜すさ。溝口(みぞぐち)さんはいないにしても、鴻(おおとり)さんは連れていくわけないから……」
自分で言っておきながら、竜憲は目を剥(む)いた。
父親の一番弟子。すでに道場にはいなくなっているが、弟子であることには違いない。あまり得意なタイプではなかったが、そんなことを言っていられる場合ではないのだ。
『まともな弟子が残ってんなら……』
「悪い。俺もすっかり忘れてたんだ。弟子っていっても、もう外に出ちゃった人だし。ずいぶん長いこと顔を見てなかったもんでさ。……とにかく、鴻さんに相談してみるわ。なんだったらお前も来るか? できれば詳(くわ)しい話を聞き出してほしいんだが」
『わかったよ。……まったくとんでもないところでボケてんだから、お前は。親父さんが出かけたままだってぇから、こっちは、弟子も連れてってんのかと思ってたら……』
「悪かった」
まだ何か言いたげだったが、大輔は鼻をならすだけで文句(もんく)を納(おさ)めた。
さっさと謝(あやま)ってしまうに限る。いつまでも文句を並べる男ではないが、いったん臍(へそ)を曲げられると、扱いづらいことこのうえないのだ。そのくせ、次に会った時には、すっかり忘れていることさえある。
数年来のつきあいで、こういう時の扱い方だけは、竜憲は修得していた。
「……で、どうする? あんたも来るか?」
『わかったよ。……まったく……。じゃあ、叩(たた)き起こして悪かったな』
電話が切られる。
首をすくめて小さく笑った竜憲は、煙草(たばこ)を灰皿にねじ込んだ。
師の息子というだけで、子供にまで敬語を使う男を、竜憲は苦手(にがて)にしていた。だが、鴻は父親の弟子のなかでは、もっとも能力がある。
自分に取(と)り憑(つ)いた化(ば)け物(もの)の正体も、あるいは看破(かんぱ)できるかもしれないのだ。
苦手だというだけで、その人間の存在を忘れてしまうなど、あまりにも子供っぽい反応だと、自分でも苦笑するしかない。
だが、わずかでも対抗策を示してもらえるかもしれないと思うと、気分も軽くなってきた。
「いつまでも、そうしていられると思うなよ……」
部屋を気軽にさまよう魍魎(もうりよう)たちに、笑(え)みを投げる。
知ってか知らずか、実体を持ち始めた連中は、てんでに蠢(うごめ)いていた。
年齢は三十五、六だと記憶していた男は、二十代半(なか)ばといった顔で、竜憲(りようけん)の前に立っていた。
「本当におひさしぶりです。……奥様からお電話をいただいた時は、驚きましたよ」
口もとに笑みを浮かべているものの、瞳(ひとみ)は微塵(みじん)も笑っていない。冷たいほど整った顔に、漆黒(しつこく)の長い髪。
姿形だけは常人となんら変わりない、それこそ、どこかの会社に勤めているといっても通用しそうな父親に比べると、この弟子のほうがよほど霊能者(れいのうしや)らしい外見を持っていた。
「突然すみません。……ちょっと、聞きたいことができちゃって……」
言葉を途切れさせた竜憲は、確かめるように鴻(おおとり)の顔を見上げた。
穏(おだ)やかな笑みを浮かべたまま、しかし冷たい目は相変わらずの男が、次の言葉を待つ。
どうやら、竜憲の内側に入り込んだものには、気づいていないようだった。
「……こいつの……姉崎大輔(あねざきだいすけ)というんだけど……。こいつの友達が妙なことに巻き込まれて。親父(おやじ)はいないし、相談できる人間っていうと……」
「五年ぶりに思い出していただけたということですか?」
そういえば、高校に入学した頃に会って以来だ。
その記憶力に舌(した)を巻きながら、竜憲はぎごちなく笑った。
「火の気のない部屋で、突然火傷(やけど)をするってことある? ……布団(ふとん)が燃えただけの小火(ぼ や)だったんだけど、本人は入院したらしいんだ」
「火傷自体はたいしたことはなさそうですが、範囲が広いということです」
言葉を引きついだ大輔が、笑(え)みを浮かべる。
こういうタイプを苦手(にがて)にするのは竜憲だけなのか。気に入らない人間を前にすると、必要最小限のことしか喋(しやべ)らない男が、自分から口を開いた。
「跡(あと)が残るほどじゃないと思いますよ。髪が燃えたことにいちばんショックを受けているってことですから……」
「それは、大変な目にあわれましたね。……珍しい……。魔火(まび)……ですね……」
「マビ?」
「ええ。火の気が集まるのですよ。ひどい時には、石が燃え上がったりします。……私も先生について、一度見ただけですが……。ひじょうに、珍しい現象です」
柔らかい黒髪を後ろで一つに括(くく)った男は、手入れのよい指で茶を点(た)てた。
客間というよりは茶室。道具こそ、盆にのせて出した簡単なものだったが、慣れた手つきは彼が茶をたしなむことを教えてくれた。
竜憲は大振りの碗(わん)に入れられた茶を啜(すす)りながら、鴻を眺(なが)める。
珍しいものが出たと言いながら、落ち着きはらって茶を点(た)てる男。父親の弟子(でし)のなかでも、特筆すべき才能の持ち主だということだったが、いつのまにか顔も見せなくなっていた。
そのくせ、未(いま)だに弟子と見なされている。
大輔に茶を出した鴻は、ゆっくりと竜憲に向き直った。
「どうなさいますか? 魔火(まび)を封(ふう)じるのは、そう難しいことではありませんが……」
「だったら、封じてくれ」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ」
「では、用意してまいりましょう」
うっそりと目を細めた男は、軽く会釈(えしやく)すると腰を上げた。
ふすまが閉じられると同時に、竜憲が大きく息を吐(は)く。
やはり苦手(にがて)だ。
自分が手を出せば、竜憲の仕事を横取りすることになるとでも思っているのだろう。竜憲自身がどう思っていようと、大道寺忠利(だいどうじただのり)の息子であるという認識はついて回るのだ。
「……面白(おもしろ)い男だな……。あれが親父(おやじ)さんの弟子か?」
「そうだ……」
「お前ん家(ち)にいる連中とは、格が違うって感じだな」
「正解……だと思うが……。修行をやめたくせに弟子と名のってるのはあの人だけだからな」
ひょいと眉(まゆ)を上げた大輔は、片手で茶碗を取ると、無造作(むぞうさ)に飲みほした。
作法も何もあったものではないが、この男が真面目(ま じ め)くさって茶をたしなむ図を想像すると、そちらのほうが似合わない気がする。
「……で、どうする? 親父の弟子ってことで、彼女の家に連れて行くか?」
緑に染まった唇(くちびる)を舐(な)め、大輔が眉を寄せた。
「それしかないだろうな。向こうの親は必死だし……」
簡単に想像がつく。
娘が原因不明の火傷(やけど)を負ったというのに、平然としている親もいないだろう。
「簡単だそうだしな……」
にやりと、悪戯(いたずら)っぽく笑った大輔は、茶碗を膝(ひざ)の前に戻した。
茶室ではない証拠に座布団(ざぶとん)も出されているのだが、正座に慣れていないので居心地(いごこち)が悪いのは同じである。しかも、あの妙に造りものめいた顔の男と話していると、気詰まりだった。
以前は、その物腰が苦手(にがて)なのだと思っていたが、どうやら、彼自身の持つ雰囲気(ふんいき)が苦手意識のもとだったようだ。
「……おまたせいたしました」
音もなく襖(ふすま)が引き開けられ、男が現れた。
手に、白木(しらき)の三方(さんぼう)を掲(かか)げ、お札(ふだ)がのっている。
「いつが都合(つごう)がいいですか? 向こうはいつでもいいと思いますが……」
そう問いかける大輔に、再び唇(くちびる)だけの笑(え)みが投げられた。
「その必要はないでしょう。……魔火(まび)というのはたしかに珍しいものですが、封(ふう)じるのはそう難しくありませんから。昔なら大変だったでしょうが、いまは水道がありますからね」
言葉の意味がわからず、互いの顔を見合わせる竜憲と大輔の前に、三方が差し出された。
「これを、すべての水の口のそばに貼(は)っていただければ、それでよろしいのです。トイレや、洗面台も、忘れずに。家の外には必要ありませんから。……これほどはっきりと魔火だとわかっていれば……本当に簡単なのですよ」
たしかに、水道もない昔では、封じることは難しかっただろう。その時代ではどうやっていたのか、想像だにできないが、とにかくお札を貼るだけで済むというのなら、竜憲たちでも充分に役立ちそうだった。
「……わかりました。どうもありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる竜憲に、鴻は笑みを浮かべた。
「いえいえ。何かあった時は、思い出してください。特に、お父上に話しづらいようなことがあれば……」
細められた目が不気味(ぶきみ)だ。
父親に言えないような失敗をした時、手伝ってくれるとでもいうのだろうか。
あいにくと、自分の手に負えないと判断した時は、平気で父親に泣きつく程度のプライドしか持ち合わせていない。
それでも、こくりと頷(うなず)いた竜憲は、もう一度礼を述べると、和紙にくるまれたお札を受け取り、腰を上げた。
あとに従う大輔は、奇妙な顔をしているが、おおかた足でも痺(しび)れているのだろう。正座とは無縁の男なのだ。
竜憲のほうは父親の道場に顔を出す時だけにしろ、正座の訓練はしている。
「……倒れるなら、もう少しあとにしろよ……」
悪戯(いたずら)っぽく笑う竜憲に、片眉(かたまゆ)を引き上げた大輔は、平然と玄関に向かった。
靴を履(は)く動作も、別段不自然なところはない。
どうやら、竜憲の期待に反して、足が痺れたということではなさそうだった。
そして、玄関の扉(とびら)を閉めたとたん、大輔は奇妙な表情を浮かべた理由を、自(みずか)ら解説し始めたのだ。
「……あの男。……気に入らないな……」
「どうしたんだ? 突然」
言われてみれば、帰りがけにろくに挨拶(あいさつ)もしなかった。
それまでは平気で喋(しやべ)っていただけに、よほど気に入らない言葉があったのだろう。それがなんなのかは、竜憲にはわからなかった。
どちらにしろ、竜憲のほうは、あの自信満々の霊能者(れいのうしや)とは反(そ)りが合わないのだ。大輔が彼を嫌(きら)ったとしても、賛同こそすれ、否定するつもりはない。
「親父(おやじ)さんに話しづらいようなことがあれば、とか言ってやがったよな」
「ああ。俺が失敗するとでも思ってんだろうな。修行もしないで霊能者の真似事(まねごと)をしてんのが気に入らないんじゃないの?」
「……違うな……」
きっぱりと言い切った大輔は、それ以上何も語ろうとはせずに、小さな庭を抜けると門扉(もんぴ)を開いた。
住宅街の中を走る狭(せま)い道に、竜憲の車が壁にへばりつくようにして止まっている。駐車が許されるほどの道幅はないが、このあたりを昼間に巡回する警官もいないようだ。
駐車違反のステッカーが貼(は)られていないことを確かめた竜憲は、ドアにキーを差し込んだ。
当たり前のように、門柱の間に身を寄せた大輔は、竜憲が車を動かすのを待っている。そして、シートに腰を下ろすと同時に、深い息を吐(は)いた。
「あいつが何故(な ぜ)あんなことを言ったと思ってるんだ?」
「……だから……」
「お前が、親父さんに造反すると思っているぜ、あいつ……。造反するのを待っているのかもな」
大道寺の内情など何も知らない男の言葉とは思えない。
たしかに、勘(かん)はよいが、ろくに知りもしない人間を論評するほど、鉄面皮(てつめんぴ)ではなかったはずだ。
「……あんた……。どうしちゃったのさ。あんたらしくないよ」
「何が?」
「鴻さんのことさ。たしかに、俺は苦手(にがて)だけど、だからってそこまで言っていいとは思っていない。何より、俺が造反して、鴻さんになんの得があるのさ」
「奴(やつ)には奴なりの思惑(おもわく)があるのさ」
「……馬鹿馬鹿(ばかばか)しい……」
いささか荒っぽく、車を出した竜憲は、不機嫌(ふきげん)そうに顔を歪(ゆが)めていた。
鴻のことを弁護する気などない。だが、大輔がこんな物言いをするということが、承服(しようふく)できなかったのだ。
見知らぬ人間のような気がする。
なんの確証もないことを、ここまできっぱりと言い切るなど、竜憲の知っている大輔ではない。
むっつりと押し黙ったまま、竜憲はアクセルを踏み込んだ。
第四章 闇(やみ)への扉(とびら)
次の角を曲がれば、目的の家がある。
鎌倉(かまくら)の市街の中心部は、狭(せま)い道や古い屋敷、それに古式ゆかしい寺社と、妙な具合に飾り立てたファッション・ビル擬(まがい)の建物で込み合っていて、人によっては嫌(きら)うのだろうとは思う。けれども、そこには不可思議(ふかしぎ)な調和というものがある。
だが、竜憲(りようけん)の家のあるあたりから、切り通しを抜けてしまうと、そこはまったくの別世界だった。
ことにこのあたりは、その典型の分譲住宅地だ。建て売りの小さな同じ形の家が並んでいるわけではない。どれも金をかけて、贅沢(ぜいたく)に造られた家ばかり、同じ形の家など一軒もないのである。
それにもかかわらず、なんともいえず無機的で安っぽく見えるのは、自分の感性が古びた家々に慣(な)らされているからだけではあるまい。
だからというわけではないのだが、竜憲はここを歩いていること自体に、どういうわけか嫌悪感(けんおかん)を覚えていた。
それが、目的の家が近づくにつれて、ますますひどくなっているのだ。
どうやら、常から感じる新興住宅地を敬遠する感覚とは、原因が違うことはたしかである。何に邪魔(じやま)をされるわけでもないのに、足が重い。
「大輔(だいすけ)……あんた、一人で行かないか?」
ちろりとこちらを見下ろした大輔が、あえてその問いかけを無視する。
「そうだよな……」
そうされることはわかりきっていたのだが、とりあえず口に出さねばならないほど、嫌悪感が強くなっているのだ。
このまま先に進めば、何か最悪の事態が起こりそうな、そんな予感がする。
といって、それを主張するだけの確信もない。
「今度はなんなんだ? また、頭の上に重しをのせられてんのか?」
ずいぶんと間をおいて、急に大輔が聞く。
「そういうわけじゃ……」
口ごもりながら答えた竜憲を、大輔は不可思議な表情で眺(なが)めていたが、しばらくたって不意に口を開いた。
「……お前が渋る時は、何かあるんだ」
「はい?」
「この数日で俺が悟(さと)ったことだ」
「そりゃな。……あんた今頃悟ったの?」
できるだけ軽く言ったつもりだったが、あまり成功はしなかったらしい。
大輔は渋い顔で、ぴたりと足を止めた。
「わかってるな? お前は魔火封(まびふう)じのお札(ふだ)を置きに行くんだからな」
「わかってるよ」
「だったら、いいな。お前が出向いてまずいことが起こりそうなら、はっきりそう言え。事と次第によっては、一人で行ってやらなくもない」
「ずいぶんと……ものわかりがいいじゃないか」
「当然だ。……魔火が実在するかどうかはともかく、彼女は本当に入院しちまったんだからな。万が一にも、何かあってからでは遅い」
たっぷり三秒ほど、竜憲は長い付き合いの親友を眺(なが)めた。
女が絡(から)むとこれだ。フェミニストというべきなのか、見境(みさかい)がないというべきなのか。それとも、立て続けに起こる奇妙な現象に、独自の理論付けをすることをついに諦(あきら)めたのか。
どちらだとしても、いままで聞いたこともない台詞(せりふ)だった。
「どうなんだ?」
「いやな予感がする」
「本当か!?」
真剣そのものの顔を見上げ、真摯(しんし)な表情を披露(ひろう)する。
「あんたがそんなことを言い出すなんて……。絶対に変だぞ」
「……おい……」
「あんたさ。素直になんなよ」
「なんだと?」
竜憲は、眉(まゆ)をひそめた大輔に、にっこりと笑ってみせた。
「俺のほうも聞きたいことがあるんだ。いいか?」
大輔が口を開かぬのを幸いに、言葉を続ける。
「あの鏡なんだけど。あれに何かあったんじゃないの?」
「何かってのは、どういう意味だ」
「だから、何かが映(うつ)ったとか。喋(しやべ)ったとか。何か出てきたとか……」
一瞬絶句した大輔が、声を上げて笑い始める。
ちょうど角を曲がってきたどこかの主婦が、その笑い声にぴくりと頬(ほお)を引きつらせるのが見えた。が、その棘(とげ)のある被害妄想(ひがいもうそう)の目つきが、即座にうさんくさいものを見る目に変わる。
慌(あわ)てて、その目に気づかぬ振りを決め込んだ竜憲は、大笑いをする大男を睨(にら)みつけた。
「なんだよ。……そんなにおかしい?」
しばらく笑っていた大輔が、唐突に笑いを引っ込め、厳(いか)めしい顔つきになる。
「どうして、すぐそういうことになるんだよ。お前は……」
「いつも見たら信じる、って言ってるから」
こともなげに言い返した竜憲は、内心で舌(した)を出した。
どこか引っかかるものもあるのはたしかだが、本気で言っているわけではない。そのはずなのだが、当の大輔はひどく真面目(ま じ め)な顔をして、考えこんでいた。
「何……?」
「実はな。たしかに妙なことはあった」
大きく目を見開いた竜憲は、異様なものでも見るように目の前の大男を見つめた。
「気のせいだ、とは思うんだが……。あの鏡がな……どういうわけか、磨(みが)きたての鏡に――」
言いかけて大輔が首を振る。
「あ……いい。聞かなかったことにしてくれ」
「そ、そうだな。――なんていうわけないだろ! どういうことだ? それは」
「そう言われてもな」
苦笑を浮かべた大輔を見上げ、竜憲は口もとを歪(ゆが)めた。
「ま、そんな話はそのお札(ふだ)の始末をつけてからにしようぜ」
「ずるいぞ」
「俺はだな。単に、今度のことはどうもいままでと違うぞ、と言いたかっただけで……。今度だけはお前の悪い予感も信じようかな……とだな」
歯切れの悪い言葉に、竜憲はますます顔をしかめる。
わざとらしく咳払(せきばら)いをした大輔は、眇(すが)めた目でその竜憲を眺(なが)め、言葉を継いだ。
「どうなんだよ。本当に俺だけが行ったほうがいいのか?」
話が元に戻ってくるところに感心しながら、竜憲は考え込んだ。
「どうなんだろう」
そういえば自分で言い出したことなのだ。だが、いざ提案が飲まれるとなると、どうも別の不安が頭をもたげてくる。
あらゆることが、信じられない。しかも、そのなかでいちばん信じられないのが、自分の感覚なのである。
ここまで進むのがいやならば、何かあると断じても構わなかったのだが、それもいままでの話。実際、見えてくるものも、聞こえてくるものも何もないのだ。何故(な ぜ)、こんなにも不安定なのかよくわからない。周囲に群(むら)がる妖鬼(ようき)どものせいだろうか。
巨大な動く護符(ごふ)の威力はたいしたもので、彼とともにいるかぎり姿を見せないが、一歩でも先に路地を曲がろうものなら、視界は妖鬼にふさがれてしまった。
そして、護符が姿を見せると悲鳴を上げて逃げていく。
一瞬の緊張と、笑(え)みが込み上げるほどの緩和(かんわ)。その繰り返しが、神経を麻痺(まひ)させていくような気がする。
「……あんたはどう思う?」
「あぁ?」
広い肩を傾(かし)げて、顔を近寄せた大輔は、まじまじと竜憲を見据(みす)えた。
「どうしちまったんだ? 俺が化(ば)け物(もの)連中については、何もわからないって知っているだろうが。お前が決めるしかないだろう」
「……わかってるけどさ……」
自分の内側に入り込んだ魔物(まもの)が、何か関係しているのかもしれない。とにかく、一歩でも先に進むのが不安なのだ。
何かがあるかもしれないからこそ、自分が行かなければならないのだろうが、義務感など消し飛んでしまうほどの不安がある。
「いやなのか? 単純に……」
「そうかもしれないけど……」
「俺が行ってカタがつくならいいが。それで済むのか?」
「……だよな。何かがあるから俺が行くしかないんだよな」
「何をいまさら……」
「わかった。……行こう」
きっぱりと言い切った竜憲は頭を振り立てた。
「そんなにいやだったら、ここいらで待ってろ」
ところが、決意とは裏腹に大輔が思わぬことを宣(のたま)う。
「お前の親父(おやじ)さんの一番弟子(でし)がこれを貼(は)ればいいって言ったって言えばいいんだろ? 簡単じゃねえか」
「いいよ。あんただけ行かせて後悔(こうかい)するぐらいなら、自分で行く。それより……絶対に俺のそばを離れるなよ」
思い切り眉(まゆ)を寄せた大輔は、上体を引き起こすと、顎(あご)を上げて竜憲を見下ろした。
「何も見えなくても、やられるってことか?」
「それもあるがな。……俺のほうがまずいんだ。とにかく行こう」
「どういうことだ?」
「取(と)り憑(つ)かれてるらしい。……あの鏡の中にいた奴(やつ)にな。まだ眠っているみたいだが……。だから、いやな予感がするっていっても、俺にとっていやなことか、この中に入っている奴にとっていやなことか、わからないんだ……」
自分の胸を示して、にっと歯を見せて笑った竜憲は、目の前に立ちふさがった男の肩を軽く押した。
「簡単に言うなよ……。どうしてそれを鴻(おおとり)さんに言わなかったんだ?」
「確信がない」
妖怪変化(ようかいへんげ)や幽霊(ゆうれい)の類(たぐい)はまったく信じないくせに、取(と)り憑(つ)かれたなどということは、素直に信じるのか。不気味(ぶきみ)なものでも見るように竜憲を見下ろした大輔は、仕方なく歩き始めた。
小さな敷地に、どうにかガレージを確保した家が、目的の上田美香(うえだみか)の自宅である。ガレージの左右と奥に並べられた古タイヤが、ここに車を収める難(むずか)しさを教えてくれた。
そこだけぽっかりと空(あ)いた空間が、うら寂(さび)しい。
「……誰かいるのか……。病院で付き添ってんじゃ……」
「おふくろさんがいるはずだ。昼間は帰っているって話だから……」
インターホンに手をかけた大輔は、小さく咳払(せきばら)いをして、ボタンを押した。
少し間をおいて、返事が返る。
「……あ、姉崎(あねざき)です。このたびはどうも……」
『はい。……どうぞ……』
気の乗らない声で、女が応じた。
つい先日現れて、わけのわからない呪文(じゆもん)を唱(とな)えた男など、信用していないに違いない。娘の親友の同期生という、あまりにもあやふやな立場の大輔など、うさんくさく思われて当然だった。
苦(にが)く笑った大輔が、フェンスを開けて中に入る。
玄関の鍵(かぎ)ははずされていたが、出迎えに出た女は、けっして歓迎しているという顔ではなかった。
外の冷気から解放されて、暖かい空気に包まれたというのに、身体は緊張したままで、竜憲は軽く会釈(えしやく)した。
大輔のほうも同じ気分なのか、ひどく硬い顔で頭を下げる。
「……このたびはどうも……。美香さんの容態(ようだい)はどうですか?」
「ええ……。ずいぶん落ち着いてきました。火傷(やけど)はすぐに治(なお)るそうですけど……どうしてあんなことになったのか……」
ちらりと竜憲を見る。
彼が何かしたとは思っていないにしても、漠然(ばくぜん)と疑っていることはたしかだ。
「それでお伺(うかが)いしたんですが……。知り合いの霊能者(れいのうしや)に聞いたら、魔火(まび)のせいだろうということで、お札(ふだ)をくれたんです」
うなずいてはいるものの、女の顔にはくっきりと不信感が刻(きざ)まれている。
訪ねてきた人間を玄関から上げようともしないあたりに、その心理が透(す)いて見えた。
「水の出るところすべてに、このお札(ふだ)を貼(は)ればいいということで……」
和紙の包みを差し出した大輔に、一応手を差し延べた女は、それを受け取ると、ぎごちない笑(え)みを浮かべた。
「お上がりください。……すみません。こんなところで、お茶も差し上げずに……」
ようやく、敵ではないと認めた女が、玄関脇のガラス扉(とびら)を示す。
娘の身に起こったことを説明してもらいたいのだろう。それがどれほど突飛(とつぴ)であろうと、何もわからない状況よりはましなのだ。
「……おかけになってください」
ここ数日ですっかり精気がなくなった女は、二人にソファーを勧(すす)めると居間を出ていった。
「……で、どうだ?」
三人がけのソファーの端に座った大輔が、ちらりと竜憲を見る。コートの前を開けただけで脱(ぬ)がないあたり、長居(ながい)をする気はないと、表明しているのだろう。
「ひどいな。……むかむかする……」
いまさら、取りつくろっても仕方がないとわかっている竜憲は、しごく正直に感想を述べた。
「また新しいのが取(と)り憑(つ)いてんのか?」
「どうだろう……」
ひょいと肩を寄せた竜憲は、ソファーの逆端に腰を下ろすと、周囲を見回した。
こざっぱりした居間は、客間も兼ねているらしく、生活臭がほとんどない。まだ新しいせいか、壁紙も汚れていないし、余計な家具も置かれていなかった。
大型のテレビと、上半分が書棚になった収納箪笥(だんす)があるだけだ。
普通なら好感が持てる部屋だろう。
しかし、淡(あわ)く唐草模様(からくさもよう)の浮かぶ壁紙のそこかしこから、障気(しようき)としか言いようのない空気が漏(も)れていた。
「……空気が渦(うず)を巻いている。……魔火(まび)かもしれないし……そうじゃないかも……」
言葉を途切れさせた竜憲は、扉が開くと同時に、口を噤(つぐ)んだ。
「お待たせしました」
コーヒー・カップをのせたトレイを持って、女が現れる。
「お疲れでしょう。すみません。お札を渡したら、すぐ帰るつもりだったんですが……」
人好きのする笑みを浮かべた大輔が、ぺこりと頭を下げる。
二人の前にカップを置いた女は、ソファーに腰を下ろすと同時に、深い息を吐(は)いた。
話を自分から切り出す元気もないようだ。
娘の火傷(やけど)が思ったより軽かったことに安堵(あんど)していても、その原因が掴(つか)めないために、不安なのだろう。
いつ、また同じことが起こるかもしれないのだ。原因がわからないのでは、防ぎようもない。
再び、息を吐(は)いた女は、和紙の包みをセンター・テーブルにのせた。
「……これを水の出口に貼(は)ればいいのですか?」
「はい。そう言っていました。珍しいそうですよ。魔火(まび)というのは……。でも、すべての水の出口のそばに貼れば治(おさ)まるそうです」
「……霊(れい)とか、怨霊(おんりよう)とか……信じていなかったんですけど……」
ぎごちなく笑った女は、ゆっくりと和紙を開いて、お札(ふだ)を取り出した。
朱印(しゆいん)が押されたお札には、奇妙な文字が墨(すみ)で書かれている。
「本当にどうしてあんなことに……」
「石が燃えることもあるそうですよ。水まわり……トイレとかも忘れずに、このお札を貼れば、それで封じられるそうです。大道寺忠利(だいどうじただのり)の一番弟子(でし)が言ってたから、たしかだと思います。もっとも、怨霊とかを信じないのは、俺も同じだったんですけど……。ただの紙だとしたら、それで悪いことが起こるわけがないし、やるだけはやってみたほうがいいんじゃないですか」
「そうですね。……わざわざどうも……」
お札を丁寧(ていねい)に包み直した女は、竜憲に視線をやった。
竜憲のほうが霊能者(れいのうしや)という触れ込みだっただけに、部屋を見回しているのが気にかかったのだろう。
「まだ何か……」
「あ、いえ。ちょっと……魔火というのを見たことがないんですよ。すごく珍しいものらしいから、知らないのも当たり前だと言われてしまったんですけど。……見えないみたいだ」
コーヒー・カップに手を伸ばした竜憲は、ひとくち口に含(ふく)んで、眉(まゆ)を寄せた。
恐ろしく奇妙な味がする。
味というよりは、気配(けはい)。
慌(あわ)てて、ハンカチを取り出し、こっそりとコーヒーを吐き出す。
グレイのハンカチが真っ赤に染まっていた。
「……できれば、すぐに貼っていただけますか? そのあとで、美香さんの部屋を見せていただきたいのですが……」
硬い顔で頷(うなず)く女が、すぐに腰を上げる。
竜憲たちを信用したわけではない。
ただ、それしか縋(すが)るものがないのだ。何より、ただの紙であっても、これ以上悪くはならないという大輔の言葉が、彼女を動かしたのだろう。
居間を出ていく女の後ろ姿を見送った竜憲は、唾(つば)をハンカチでふき取った。
まだ奇妙な味がする。
「どうしたんだ?」
訝(いぶか)しげな顔をする大輔に、ハンカチを見せる。
ぎょっと、目を見開いた大輔は、竜憲の前のカップを取って中を覗(のぞ)き込んだ。
「ただのコーヒーだぞ」
鼻を蠢(うごめ)かしてにおいを確かめ、恐る恐る口に含(ふく)む。
「においも、味もコーヒーだ。口の中でも切ったのか?」
「これの色は見えるってことだな」
「そりゃ見えるさ。……血、だろ?」
「そういうことだ。下手(へ た)をすると、魔火(まび)も俺が連れて帰ることになるのかもな……」
「魔火がこんなことをやるのか?」
「知らん……」
むっつりと応じた竜憲は、大輔のコーヒー・カップに手を伸ばした。
用心深く、唇(くちびる)に液体を触れさせる。
やはり、奇妙な味だった。
「……なんでお前だけ……。俺はなんともないぞ」
コートのポケットを探(さぐ)ってポケット・ティッシュを引き出した大輔が、それを投げた。
「真っ赤だぜ。……拭(ふ)けよ」
どこかのテレフォン・クラブのティッシュは、駅前で押しつけられたものだろう。いつからポケットに入っていたのかは知らないが、まわりのビニールがずいぶんとくたびれていた。
質がよいとは言い難いティッシュが、赤く染(そ)まる。
血を含んだティッシュとハンカチをポケットに捩(ね)じ込んだ竜憲は、手で顔を覆(おお)って、深い息を吐(は)いた。
「……さっさと引き上げよう。どうやら、俺がここにいたほうが悪いことが起こりそうだ」
「魔火(まび)は?」
「大丈夫(だいじようぶ)だろう。もし、祓(はら)えないようなら、俺が連れて帰るさ……」
気味悪そうにコーヒー・カップを押し戻した大輔は、顔を上げようともしない竜憲を、不安げに眺(なが)めていた。
派手(はで)な戦いなら、何度か立ち会ったことがある。
しかし、こんな奇妙な現象は初めてだった。
ほかの人間がやったのなら、手品(てじな)ではないかと疑っただろう。しかし、竜憲は霊能者(れいのうしや)として動くことを嫌(きら)っている。
それが、わざわざ虚仮威(こけおど)しを使うとは思えなかった。
唐突(とうとつ)に、取(と)り憑(つ)かれていると言った竜憲の言葉が気にかかり始める。
霊を引き取るとか、引き受けるとかいうのなら、いつものことだったが、取り憑かれたという言葉を使ったことはないのだ。
大輔にとっては、さして違いのない言葉にも思えるが、竜憲は明確に使い分けている。
たしかに、取り憑かれたのだろう。
「マジに、親父(おやじ)さんを捜したほうがよかないか? 誰か……」
言葉を途切れさせた大輔は、入り口に目を向けた。
妙にすっきりとした顔で、女が入ってくる。
「トイレにも貼(は)ってきました。……美香の部屋をご覧になりますか?」
笑(え)みを取りつくろった竜憲は、ゆっくりと腰を上げた。
「よろしいですか?」
「ええ。消防署の調べも終わってますから」
いくら小火(ぼ や)でも火を出したことには違いないので、検査が行われたらしい。もっとも、納得のいく結果が出なかったからこそ、家族は不安に思っているのだろうが。
促(うなが)すようにドアの前に立ったままの女に、軽く頭を下げて美香の部屋に向かう。
階段を上りつめたところにある、大振りのシンクを持ったシャンプー・ドレッサーの横に、お札(ふだ)が貼(は)りつけられていた。
オフ・ホワイトで統一されたドレッサーには、ひどく不似合いだった。
「これでよろしいですか? セロハンテープで貼ってしまったんですけど……」
「いいですよ。お札に穴(あな)を空(あ)けるより、よっぽどいい」
妙に真剣な顔で聞く女に、小さく笑った竜憲は、左右に延びる廊下(ろうか)を右に曲がった。
二階の南側。この家でいちばん日当たりのよい部屋が、一人娘にあてがわれているのだ。
「……電気も使っていないし……。うちでは誰も煙草(たばこ)は吸わないんですよ。ですから、どうして火が出たのか、どうしてもわからなくて……」
そういえば、居間には灰皿の一つもなかった。煙草を吸う人間がいるということなど、考えの外なのだろう。要求すれば客用の灰皿くらいはあるかもしれないが、なかなか切り出しにくいものだ。
なんの異常もない部屋の扉(とびら)を引き開けると、きな臭(くさ)いにおいが押し寄せてくる。
いっぱいに引き開けられた窓から、冷気が吹き込んでいたが、部屋に染(し)みついたにおいはまだ取れていなかった。
「……どうです?」
壁ぎわに立ち、目を細めて室内を見回した竜憲は、さらに両手を差し上げて掌(てのひら)を壁に向けた。
気にかかるほどの気配(けはい)はない。
すくなくとも、人に危害を与えられるほど強いものは、何一つ残っていなかった。むしろ、居間に潜(ひそ)む“悪意”のほうがよほど質(たち)が悪い。
「何もないようです。もう、大丈夫(だいじようぶ)だとは思いますが、何かあれば……どんな小さなことでも、教えてください」
「ええ……。何かしら……このお札を貼ると、すっきりしたんですよ。窓もやっと開ける気になったし……。においが残るから、開けなきゃいけないのはわかってたのに……」
開けさせないものがいたのだろう。
暖かい室内で、ぬくぬくと過ごしていた物(もの)の怪(け)が、魔火(まび)とともに封じられるよりは、と逃げ出したに違いない。
「お札が効(き)いたような気がします。妙なことですけど……」
笑(え)みを投げる女は、あらためて竜憲に頭を下げた。
「本当に……」
言葉を遮(さえぎ)るように電子音が鳴る。
「……あ、すみません……」
慌(あわ)てて、ステレオの上の電話に手を伸ばした女は、一言二言話すうちに、真っ青になった。
「なんですって!」
目を見開き、視線が宙をさまよう。
「そんな馬鹿(ばか)な! どうしてそんなことが……」
視線が竜憲を捕(と)らえる。
憎悪(ぞうお)と殺意。
「……わかりました……すぐに……」
叩(たた)きつけるように電話を切った女は、竜憲を睨(にら)み据(す)えた。
「あなたは何をしたの? ……美香が何をしたっていうの……。どうして……」
それだけ言うと、乱暴に窓を閉め、部屋を飛び出していく。
顔を見合わせた竜憲と大輔は、慌てて女のあとを追った。
ソファーに寝転(ねころ)がり、天井(てんじよう)に向かって煙を吹き上げる。
腹の上にのせた灰皿が、妙に重い。
クリスタルの灰皿は、人を殴(なぐ)り殺せそうなほど、大振りのものだった。そこに、吸い差しが山を作っている。どれもこれも、火を点(つ)けただけでもみ消されたように、長いままだ。
竜憲(りようけん)は、天井の節(ふし)を見るとはなく、眺(なが)めていた。
部屋を勝手にうろつき回る妖鬼(ようき)たちも気にならない。
むしろ、動くものがいるということが、気休めになっていた。
上田美香(うえだみか)が死んだ。
病院のベッドの上で、黒焦(くろこ)げの死体になっていた女は、真っ白なシーツに横たわっていたという。
変死という言葉では片づけられない。
何があったのか。どうして美香が狙(ねら)われたのか。それすらもわからなかった。
感受性が強い、どちらかといえば憑(つ)かれやすい女だったが、殺されるほどの力を持っているわけではない。本人がノイローゼになって衰弱(すいじやく)したというのなら納得(なつとく)もできるが、炎という物理的な力に襲われたとなると、話は変わってくる。
なぜそんなことになってしまったのか。
『お前のせいだよ。お前がいつまでもそうしているからだ』
天井(てんじよう)の羽目板(はめいた)の節(ふし)から、顔が生(は)えでてくる。
光をまったく反射しない黒い顔は、真っ赤な口を開いて嘲笑(あざわら)った。
『いつまで強情を張る? 逆(さか)らっても無駄(むだ)なことはわかっておろうが』
片頬(かたほお)を歪(ゆが)めた竜憲は、黒い顔に煙を吹きかけた。
『ぐわっ!』
ただの煙に襲われて、顔が叫ぶ。
見る間に小さく縮(ちぢ)んだ顔は、元の節に戻っていった。
自分の力が恐ろしく強くなっているのがわかる。そのくせ、コントロールがまるで効(き)かないのだ。
化(ば)け物(もの)を指のひと振り、目つきだけで消せるかと思えば、いつもなら片手間で浄霊(じようれい)できるような霊魂(れいこん)に、しつこくつきまとわれたりする。やはり、自分の力というよりは、内に潜(ひそ)む何かの力なのだろう。
『恐ろしいだろう? 不安だろう?』
部屋に漂(ただよ)う煙草(たばこ)の煙が、顔のような形を描き出す。
人とも獣(けもの)ともとれる歪んだ顔が、竜憲を見下ろし、耳障(みみざわ)りな声をたてて笑った。その顔から生(は)え出すように、小さな顔が浮かび、甲高(かんだか)い声で喚(わめ)き立てる。
『けけっ……。お前のまわりで人が死ぬ! お方様もお喜びじゃ!』
眉(まゆ)を寄せた竜憲に向かって、歪んだ顔が下りてくる。
『お前が〓(もが)けば〓くほど、人が死ぬるぞ』
けたけたと嘲笑う小さな顔が、笑い声だけ残して、歪んだ煙の渦の中に消え失せた。代わりに浮かび上がった目のない顔が、口ばかりをぱくぱくと動かし、聞き取れぬほど低く間延びした声で何か呟(つぶや)く。
『……あぁしぃたぁ……もぉ』
『忠利(ただのり)の帰りを待っているのなら無駄(むだ)だぞ』
不意に父の名を出され、竜憲のほうが仰天(ぎようてん)した。
吹き飛ばしてやるつもりを、思い留まる。
だが、かえって迷い続けていた気持ちのほうは、不思議(ふしぎ)に整理がついた。この妖魔(ようま)たちは、大道寺(だいどうじ)忠利を認識しているのだ。ただやみくもに、自分の内に潜(ひそ)む力に引かれて取(と)り憑(つ)いたのではないらしい。
「……ふん。親父(おやじ)が怖(こわ)いのか」
ぼそりと呟(つぶや)いたとたん、大きな顔は散り散りになり、無数の顔がいっせいに騒ぎ立てる。
『馬鹿(ばか)にするな!』
『恐ろしいものか!』
嘲笑(あざわら)う顔。泣きそうに歪(ゆが)んだ顔。怒りに目を剥(む)く顔。顔、顔、顔。
『……思いあがるな』
『歳月に褪(あ)せた力など!』
『つまらぬ人間のくせに!』
てんでに喚(わめ)く言葉が、不思議(ふしぎ)に逐一(ちくいち)頭に入ってくる。
『静まれ!』
突然に、部屋を揺るがすような怒声(どせい)が響き、甲高い笑い声が少しずつ治(おさ)まる。笑い声が小さくなるにつれ、顔は一つにまとまって、端正な顔を作り出した。
『女の腹から生まれたものに何ができるというのだ?』
厭味(いやみ)なほど整った顔が、竜憲を見下ろし、静かに囁(ささや)く。
『この世のものに何ができる?』
にっと笑った顔が、天井(てんじよう)に吸い込まれるように消える。
『無駄(むだ)だ』
中空から声だけが響き、それも消えた。それきり、すべての声は途絶(とだ)え、見え隠れする影も跡形(あとかた)もなく消え失せている。
天井を見つめたまま、竜憲は息を吐(は)いた。
ただ視界の隅(すみ)で蠢(うごめ)いていただけの魍鬼(もうき)の類(たぐい)が、急に意思を伝えてくるようになったのである。それも、日に日に明確な声として聞こえるようになっていた。大輔をはじめとする、いわゆる普通の人間には聞こえないのだろうが、彼らの声が耳に届くのと同じように、妖怪(ようかい)どもの声も聞こえるのだ。あまりよい兆候(ちようこう)とは言えないだろう。
自分が現実の世界と、幽界(ゆうかい)の狭間(はざま)に立っているように思える。
普通にいう幽界とは少し違うのかもしれない。それこそ、魔界(まかい)とでも言ったほうがいいのだろう。もとはどうあれ、彼らは人とは違う世界に生きる者達なのだ。
言いようのない不安の根拠が、見え始めている。
自分が扉(とびら)にされるのではないかという不安。
いるのだ。幽界と現世を無意識に、あるいは意識的に繋(つな)ぐ者が。なまじ能力があるだけに、自分がそうなったら始末が悪い。しかも、それを制御(せいぎよ)できるならともかく、いまの自分にはそれをする自信がない。
修行でどうこうなるとは言いきれないが、分不相応(ぶんふそうおう)の力がこれほど疎(うと)ましく思えたことはなかった。
彼らの言葉どおり、父親の力がいかほどでもないというのなら、自分に何ができるというのだろう。
不安というよりは、すでに現実なのかもしれない。
実際に、上田美香は死んだのだ。
病院のベッドの上で、黒焦(くろこ)げになって。
本当のところはわからない。だが、彼女の死が自分に係(かか)わっていると言われれば、否定はできないのだ。
結論は出したくない。それが真相である。
精神的に落ちこめば、相手の思う壷(つぼ)だとわかっていても、思考の堂々巡りから抜け出るのは容易ではない。
と、扉(とびら)が小さく叩(たた)かれた。
「リョウちゃん……」
控(ひか)えめに声もかけられる。
瞬時に、かすかに残っていた影たちの気配(けはい)が消え失せた。
「はい」
慌(あわ)てて飛び起きた竜憲は、扉を見据(みす)え短く応じた。ある意味では、大輔以上の護符(ごふ)の訪問である。
ほっとすると同時に、何か聞かれたのでは、と不安がよぎった。元々、放任主義の母親だ。この部屋に来ることなど滅多(めつた)にない。
いくら慣れているとはいえ、人には見えぬものに向かって怒鳴(どな)りつけているのを知られたくはない。世の母親とは違って、別のところで心配するのは目に見えていたから。
「起きてた?」
引き開けられた扉から、母親の顔が覗(のぞ)く。
「うん、まあ。……何?」
眠っている時間ではないが、曖昧(あいまい)に応じる。
「忠利さんがね。もうすぐお帰りになるから……」
「え?」
どうやら、竜憲の想像とは別の用で現れたらしい。目を見開いた竜憲に、母親が戸惑(とまど)った表情でぎごちなく笑い返す。
「そうなのよ。……それで、リョウちゃんに話があるから、起きてなさいって」
「あ、うん。もちろん。……で、ほかには何か?」
「それが……ね。何もおっしゃらなくて、珍しくひどくお疲れのようで……」
「電話?」
「え……もちろんそうよ」
聞かずもがなの問いに、彼女は妙な顔をして頷(うなず)く。
「そうだよな……どこから?」
「さぁ。とにかく、すぐに帰るから、あなたを家から出さないように……っておっしゃるのよ」
竜憲が訴えた時には笑ってさえいたくせに、父親の言葉となると、真剣に捕(と)らえるらしい。
密(ひそ)かに溜(た)め息(いき)を吐(は)いた竜憲は、ベッドから下りた。
「鴻(おおとり)さんのことは言ってくれた?」
「あら、言ってないわよ。……だってリョウちゃん、なんにも言わなかったじゃない」
鴻に会いに行くことは、一応報告したのだが、彼女にはその意味合いは伝わらなかったらしい。
まぁ、当然だったが。
「そうだよな。案外……、親父(おやじ)は知ってるかもしれないし……」
「そうねぇ。鴻さんなら、忠利さんの居所を知っていてもおかしくないわね」
――ほんとかよ! ――
上げかけた罵声(ばせい)を、どうにか飲み下し、竜憲は母親を睨(にら)みつけた。
「……知ってるかも……って」
「だって、忠利さんがいちばん信頼なさっている方ですものね」
「あ……そう」
一瞬にして、気が萎(な)える。
「そうそう、サコちゃんのことは言っておいたわ。……心配はいらないだろうって」
「あ、そう」
「まぁ、どうしちゃったのよ、リョウちゃん。……忠利さんのお帰りを待っていたんでしょう?」
「そうだよ」
「とにかく伝えましたからね」
にっこりと微笑(ほほえ)んだ彼女は、扉(とびら)を閉めかけて、ふと手を止めた。
「……お疲れのようだから、無理なことをお願いしちゃだめよ」
「はいはい」
もう一度微笑んだ、母親の顔が扉の向こうに消える。
小さく音をたてて扉が閉じると、有象無象(うぞうむぞう)の気配(けはい)がまた戻ってきた。先ほどのように、形を取ることはないが、あらゆる隙間(すきま)から這(は)い出てくるように、気配だけが部屋に集まってくる。
鼻の頭に皺(しわ)を寄せた竜憲は、本棚(ほんだな)に並んだビデオに手を伸ばした。
映画という雰囲気(ふんいき)ではない。
ミュージック・クリップ集の一つを引っ張り出すと、ビデオ・デッキに放り込んだ。
テレビをつけ、ステレオのスピーカーを生き返らせる。
テレビの画面から一瞬後(おく)れて、スピーカーに音が入り、予想より大きな音が、部屋の中を走り回った。
ボリュームを下げようとして、思いとどまる。
くさくさした気分を吹き飛ばすには、ちょうどの音量かもしれない。
そのまま、ベッドに身体を投げ出すと、見るとはなしに画面を眺(なが)める。
派手(はで)なコスチュームのボーカリストが、ステージの中央でシャウトしていた。手に取ったビデオとは違う。ろくに見もせずに取ったからだろうか。隣(となり)に並んだものをかけてしまったようだ。
「まぁ……いっか」
ひとりごちて、ずるずると身体を引き上げると、ヘッド・ボードに背を預ける。
どうせなんでもよかったのだ。わざわざ替えるまでもない。
これだけの音量でかけると、ベースとドラムの低い響きが、直接震動で伝わってくる。
はっきりいって、はたからすれば騒音だろうが、音割れもせずに室内を満たす音は、妙に精神を落ち着かせてくれた。
何度も見たライブ・クリップ。いまさらと思いつつ、なんとなく画面に引き込まれる。
「思い出せ」
――なんだっただろう――
「忘れないぜ」
――何を……? ――
「嘆(なげ)きの声が……」
――誰の? ――
絶叫するボーカリストの顔に、女の顔が重なった。
知っている。
どこかで、会ったはずだ。
記憶にない顔なのだが、感性がそう主張する。
ステージにも衣装にも、まるで填(は)まらない古風な女の顔。息を飲むほど美しい顔だった。一度見ればすれ違っただけでも、記憶に残りそうだ。
だが、顔だけの記憶でしかない。どこで会ったのか、どんなふうに見たのか、些細(ささい)な背景すら浮かんでこない。
「覚えて――」
――くそう! ――
どうしても、思い出せない。
咽喉(の ど)まで出かかっているのに。
『何故(な ぜ)、思い出さぬ。……ともに過ごしたではないか』
重い音をバックに澄んだ女の声が響く。
『そなたが必要じゃ。……そなたの力と、その器(うつわ)が……』
どこか悲しげな声が、心に沁(し)みこんでいく。
――必要? ――
『そうじゃ。そうするが、そなたの運命。……そなたの使命じゃ。この時にそなたが生まれ落ちたも、そのためと知れ』
――そうか――
女の顔が艶(あで)やかに微笑(ほほえ)む。
ひどく魅(ひ)きつけられた。
『何故拒(こば)む』
――拒む? 誰が? ――
『そなたが……』
「竜憲!」
誰かが耳もとで叫んだ。
女の声が掻(か)き消える。
「あ?」
部屋には聞き慣れた曲が渦巻いていた。
「え……」
画面も元に戻っている。
まじまじとその画面を見つめた竜憲は、ゆっくりと顔を上げた。
「ああ、親父(おやじ)か……」
「馬鹿(ばか)もの!」
「なんだよ」
「気づかんのか!? この大馬鹿もの!」
怒鳴(どな)りつけ、殴(なぐ)りかからんばかりの勢いで、テレビを消す。
「やすやすと引っかかりおって!」
「あ……と……」
頭がぼうっとして、父親の言葉の意味が飲み込めない。
ステレオの音量に負けじと叫ぶ父親を、唖然(あぜん)と見上げながら、竜憲は半分無意識にステレオのリモコンに手を伸ばしていた。
「情けない奴(やつ)め! そんなことだから――」
部屋を満たしていた音が突然消え、父親の怒鳴り声も妙な具合に途絶える。
世に名だたる霊能者(れいのうしや)、大道寺忠利が、気まずげに咳払(せきばら)いをした。
「こんなことになるのだ」
「こんなこと? ……あ、そうか」
ようやく、父親の言葉の意味が理解できる。どうやら、ビデオのせいで妙なことになっていたらしい。
「はまってたのか……俺」
「まったく……情けない。それでもわしの息子か」
口から飛び出しかける反論を、どうにか飲み下し、竜憲は肩を落とした。
「だよな……かあさんにも言われた。修行しなさいって……」
できるかぎり殊勝な顔をしてみせなければ、これ以上の話を相談できそうにない。
それにしても、ずいぶんやすやすと暗示(あんじ)にかかったものだ。父親に言われるまでもなく、情けないのは自分が誰よりよく知っている。
「そういう問題ではない。ようは心の隙(すき)が……」
言いかけて口を噤(つぐ)んだ忠利は、椅子(いす)を引き寄せ、腰を下ろした。
「そんな話はあとでもよい。……もっと、大事な話だ。いまの事とも関係はあるのだがな」
きょとんと目を見開いた竜憲を、父親は真剣な顔で見据(みす)える。
「そのまえに……これはビデオだろう?」
「ああ、そうだけど」
「しばらくは見るな。わかっているだろうが、音楽のなかには、人の精神を鎮静(ちんせい)するものと刺激(しげき)するものがある。お前のように不安定な状態で、高揚(こうよう)作用のある音を聞いていたら、簡単に入神(にゆうしん)してしまうぞ」
「入神……って。トランス状態ってやつか?」
「そうとも言うな。とにかく少しは考えろ。この部屋の状態は普通ではなかったぞ」
「ずっとだもの……いまさら……」
呟(つぶや)いた竜憲を、忠利が睨(にら)む。
「わかっているのか? お前はわしなどより、遥(はる)かに天分に恵まれておる。……お前が見つけてくるものは、何であろうと一種特殊な力を秘めたものばかりだ。それこそ音楽だろうが、絵だろうが、人だろうが、すべて。……そうした力を嗅(か)ぎ分ける能力は、修行で得られるものではないのだ。天分というものなんだぞ。――それと同じに、声のない声も聞こえているはずだ。耳を澄ませば、大地の声でも風の声でも、聞こえるだろう? お前には……」
「挙(あ)げ句(く)に妖怪(ようかい)まで……か?」
「ああ、聞いたぞ。鴻が心配しておった」
「ほんとかよ。……笑ってたぜ、あいつ」
「話をはぐらかすな!」
「すみません……」
殊勝に謝(あやま)り、心の中で舌(した)を出す。
父親の言葉がいつもの説教になって、竜憲は少しばかり安心していた。
鴻から話を聞いたうえで、こうしているのなら、さほど大袈裟(おおげさ)なことではないのだろう。すくなくとも、異常な状況からは抜け出せるはずだ。
「まぁいい。……いまさら言ったところで仕方がないことだからな」
そう言ったきり、忠利は深い息を吐(は)いた。どうやら、説教のほうも終わりらしい。竜憲は密(ひそ)かに胸を撫(な)で下ろした。
とはいえ、しばらくの間、気づまりな沈黙が続く。
やがて、父親が口を開いた。
「竜憲。これから言うことをよく聞けよ」
「はい」
「……わしがよいというまで、鎌倉(かまくら)から出るな」
「何?」
「一歩たりとも出てはならん」
「……学校は?」
「行かんでよい。世に禍(わざわい)を振り撒(ま)くわけにはいかん」
「……おい……親父(おやじ)……そんなに大事なのか?」
恐る恐る聞いた竜憲に、忠利は厳(いか)めしい顔で頷(うなず)いた。
「律泉(りつせん)の倉に納(おさ)められた鏡には、邪悪(じやあく)なものが封じられていたのだ。……かつて都を恐怖に陥(おとしい)れた魔物(まもの)がな」
「都って……」
「言い伝えによれば、飛鳥(あすか)の昔から……」
「おい待て、親父。そんな馬鹿(ばか)げた話を……」
大仰(おおぎよう)に咳払(せきばら)いをし、忠利は言葉を続けた。
「ということになっている」
「なるほど……。親父もそれは信じていないわけだ」
「だが、律泉と大道寺の家が、ここに移り住んだ時にはすでにあったのもたしかなのだ」
「古いものには違いがない?」
「そのとおりだ」
「わかったよ。……出なければいいんだろ。それくらいなら、守れるさ」
「軽々しく言うな。よいか、わしはこの数日かけて結界(けつかい)を張ったのだ。封印(ふういん)の解(と)かれた魔物を、外に出さぬために。しかし、それも人の内に潜(ひそ)んだ者を阻(はば)むことはできない」
「て、ことは……」
「……お前次第ということだ。今夜のようにやすやすと操(あやつ)られるようでは、とても敵(かな)わぬ約定だぞ。わかっておるのか?」
ごくりと咽喉(の ど)を鳴らし、消えたテレビと父親の顔を見比べる。
それから、竜憲はゆっくりと頷いた。
「できるかぎりの手は尽くす。……いまの世の中では破邪(はじや)の修法を、施(ほどこ)すことも少ないからな」
「どうなるかわからないってことか?」
「そのとおり。冷たいようだが、その時は……」
「命がない?」
「お前とともに封じ込む」
きっぱりと言い切った父親を、竜憲はまじまじと見据(みす)えた。
ようやく頭がまともに回り始める。
鴻に話を聞いたというのは、竜憲の内に入り込んだ魔物のことなのだ。柔(やわ)らかな物腰の、笑みを絶(た)やさない男は、彼に取(と)り憑(つ)いた魔物を見破ったのだろう。
「……そうか……。そうだよな。……まったく……」
声を殺して笑った竜憲は、唇(くちびる)を引き締めて背筋を伸ばした。
「何が取り憑ているのか……。親父(おやじ)には見えるのかな? 俺には何がなんだかまるっきりわからない。取り憑かれたらしいっていうのも、確信がないんだ」
ゆっくりと首を振った父親は、床(ゆか)に下りると居住まいを正した。
胸の前で印(いん)を結び、低く真言(しんごん)を唱(とな)える。
いままでにも、父親が術を使う場面に何度か立ち会ったことがあった。物(もの)の怪(け)に取り憑かれた人間は、真言から逃れようと、身を捩(よじ)り苦痛に呻(うめ)くものだ。
しかし、竜憲はなんの異常も感じなかった。
真剣な視線を注がれるのが、居心地(いごこち)が悪いといった程度だ。それも、父親の唱える真言の意味すらわからない自分が情けないからであり、こんな事態を引き起こしたことへの、後悔である。
自分の力を過信していたために、一人の人間が命を失ったのかもしれない。
「……聞け!」
一喝(いつかつ)され、びくりと背中を痙攣(けいれん)させた竜憲は、ベッドから下りると父親の正面に正座した。
父親の顔色が悪い。
疲れていると言った母親の言葉を思い出す。
常なら精力的な、脂(あぶら)ぎった印象さえ与える壮年の男が、妙に枯(か)れている。沙弥子(さやこ)が解放してしまい、竜憲がその身の内に潜(ひそ)ませた魔物(まもの)を閉じ込めるために、結界(けつかい)を張ったと言っていた。
いつもなら、四方で印を結ぶだけで終わる作業が、どれほど労力を使うものになったか、父親の顔を見るだけで想像できた。
「……そこまでみくびったものではなかったようだな」
印を解(と)いた父親が、力なく笑う。
「鴻が見えぬというからには、それなりのものだと思っていたが……。お前は選ばれたのだ。ぴったりと、その身に重なって、分けて見ることもできん」
「どういう意味だ? 彼女が……彼女ってのも変か。とにかく、この中の化(ば)け物(もの)は、俺を選んだのか?」
自分の胸を示す竜憲に、忠利は眉(まゆ)を寄せた。
「彼女……ということは、女なのか?」
「見た目はね。さっき、画面に重なって見えたのは、女だった」
眉(まゆ)を寄せた忠利が、立ち上がる。
「明朝六時、道場に来るがいい。……それまでは、余計なことはするな。本を読むのも、ビデオも、とにかくお前が選んだものを見ることも聞くこともするな。……それまで、自分を保っていられれば、あるいは……」
言葉を途切れさせた父親は、くるりと背を向けて部屋を出ていった。
その背を見送り、竜憲は肩をすくめる。
息を殺すようにして親子のやりとりを見守っていた妖鬼(ようき)どもが、いっせいに笑い始めた。
『あれが大道寺忠利か? あれが当代一の陰陽師(おんみようじ)か……』
『哀(あわ)れよの。あれが陰陽の頭(かみ)か。お方様を見ることもできぬとは。情けなや……』
腕らしきもので顔を覆(おお)った化(ば)け物(もの)が、弾(はじ)かれたように嗤(わら)う。
彼らが闊歩(かつぽ)した時代。人間は対抗する手段を持っていたのだろう。そして、真に力のある者が、彼らを封(ふう)じた。
ところが、その封印(ふういん)が解(と)かれた時代には、術は伝承されていなかったのだ。
いまや、人間の敵は人間だけになっている。
闇(やみ)や獣(けもの)。自然すべてが人間の前に立ちふさがり、絶大な力を誇(ほこ)っていた時代、人間はその怒りを買わないように、注意深く動いていた。しかし、それらを制圧する手段を持つと、恐怖を忘れたのである。
勝てる見込みがあるのか。
己(おのれ)の中の敵を思い、竜憲は固く目を閉じた。
第五章 破邪(はじや)の法
執拗(しつよう)に磨(みが)きこまれた板張りの床(ゆか)が、ぼんやりと光っている。外はまだ薄暗いが、闇(やみ)に慣れた目には充分な明るさを持っているのだ。
二十畳ほどの道場には、竜憲(りようけん)と忠利(ただのり)。そして鴻(おおとり)が座っている。
この道場に鴻が入るのは、ずいぶんと久しぶりだった。
「……わざわざ足を運んでもらって、すまなかったな」
長い髪をまとめもせずに総髪に流した男は、深く頭を下げた。
「この大事に声をかけていただき、光栄です。およばずながら、お力になれればと参上いたしました」
忠利のそばにいれば、その技(わざ)を修得できるが、同時に枠(わく)を嵌(は)められることにもなる。己(おのれ)を超(こ)える才能があると認めた忠利は、彼をそばにおかなかったのだ。
「何が見える? わしには竜憲の気と混じり合って、判然とせんのだ」
「いまは、私にも見えません。……おそらく、より融合(ゆうごう)したのでしょう。昨日お会いした時は、半分ほどずれていたのですが……」
目の前に竜憲をおいて、鑑定する二人の霊能者(れいのうしや)。自分が怨念(おんねん)のこもった壷(つぼ)にでもなったような気がして、竜憲は眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せた。
「……引き剥(は)がせると思うか?」
「やらねばなりますまい。このまま破魔(はま)の術を使えば、竜憲さんの命も失われましょう。それも、悪くすれば魔物は逃(のが)れて、竜憲さんだけが……」
「やはり、そう思うか?」
「はい」
「引き剥がせればよし。それもできねば、破魔の術も効(こう)がないか」
病人をまえに、平然と死を宣告するようなものだ。
しかし、自分の命のことを語られているにもかかわらず、竜憲には現実感はない。そもそも、取(と)り憑(つ)かれているという実感がないのだ。
二人の霊能者が顔を揃(そろ)えているのに、道場に溢(あふ)れている妖鬼(ようき)の存在が、異常な事態であることを教えてくれる。
竜憲にまといつくのに飽(あ)きたのか、鴻の背後に回った影が、その髪に手を伸ばす。だが、指が触れたとたんに、けたたましい絶叫を上げて燃え上がった。
竜憲などとは、桁(けた)が違う。
力を使ったようには見えなかったのだが、妖鬼たちは警戒の唸(うな)り声を上げている。昨夜はあれほど嘲(あざけ)っていた忠利にも近寄れないらしい。
妖鬼たちがうるさいほど騒ぎ立ててはいるが、二人の霊能者(れいのうしや)は完全に黙殺(もくさつ)していた。
「竜憲。鎌倉(かまくら)から、一歩も出てはならん。……けっしてな。昨夜のように、不用意なものを聞いて入神(にゆうしん)してはならぬぞ。そうなれば、魔物(まもの)の器(うつわ)たるお前を止める方法は一つしかない」
「わかってる。……で、今日は、なんでこんなところに……」
昨夜聞いた話を繰り返されても、竜憲には対処のしようがない。彼にできることといえば、入神、つまりトランス状態に陥(おちい)らないように、極力気をつける程度だ。
「確かめたかったのだ。……ここにお前が入れるか。何か感じなかったか?」
特殊な結界(けつかい)を張っていたのだろう。竜憲だけが中に入り、魔物は取り残されることを期待していたのかもしれない。
しかし、その目論見(もくろみ)は失敗したとしか言いようがなかった。
「何も……。残念だけど、気が重くなりもしなかった」
「そうか……」
重々しく頷(うなず)いた忠利は、視線を鴻に転じた。
「方法はあるがな。妖鬼どもを蔓延(はびこ)らせぬことばかり考えておって、時期を失くしたようだ。まさか、こいつが魔物の器になるとは考えていなかった。……一生の不覚(ふかく)だ」
「竜憲さんの持つ力が、魔物と引き合ったのでしょう。自分を見失わないかぎり、危険はないように思いますが……」
「それもいつまでか。この馬鹿(ばか)息子は、わざわざ入神するような音を聞いておった。一度取り込まれれば、二度と目覚められぬだろうに」
「仕方ありますまい。このような魍鬼(もうき)どもでも、つねに付きまとわれていたのでは、疲れましょう。……そういえば竜憲さん。この魍鬼は鏡の魔物が取(と)り憑(つ)いてからずっと、付きまとっているのですか」
抑揚(よくよう)のない声で語る男に、竜憲は精いっぱい悪意のない笑(え)みを浮かべた。
人の命がかかっていることなど、なんとも思っていないようだ。自分が印した護符(ごふ)が役に立たず、魔火(まび)に焼き殺された娘のことなど、綺麗(きれい)に忘れているとしか思えない。
「……魍鬼ね。……そう。ずっとだよ。かあさんか、大輔(だいすけ)がそばにいないかぎり、寝ている間でも、枕元で騒いでいる」
「大輔……。ああ、あの青年ですね。魔火に襲われた方の友人とかいう」
「そう。魔火に殺された美香(みか)の知り合い」
わざわざ言葉をつけ加えてやる。
彼がすべて悪いなどと思っていない。それでも、詫(わ)びてみせる程度の人間らしさがほしかった。
ところが、鴻は皮肉(ひにく)にも気づかないように、口もとだけの笑(え)みを見せる。
「あの青年はどういう家の方ですか」
「父親はただのサラリーマン。たしか、静岡(しずおか)の出身だとかいっていたな。……その前は知らないが、血筋としては武家だと思う。本家にある家系図が清和源氏(せいわげんじ)に繋(つな)がるとか言っていた」
「清和源氏ですか……」
「江戸時代に家系図をでっちあげたんだといって、爺(じい)さんに怒鳴(どな)られたそうだ。――うちは違うってね」
十中八、九嘘(うそ)だといわれる清和源氏の末裔(まつえい)。だが、すくなくとも武家であることはたしかだろう。つまり、刀の力で地位を保ってきたということだ。
「血筋は関係ないんじゃないの? かあさんも陰陽(おんみよう)とは関係のない家だったんだろ」
「そうだ。……だが、魔(ま)を退(しりぞ)ける力は、誰より優(すぐ)れていた」
忠利のほうは、護符(ごふ)の力が血筋と関係しているとは思っていないようだ。それでも、鴻は納得(なつとく)していない。
わずかばかり眉(まゆ)を寄せて、周囲を蠢(うごめ)く妖鬼(ようき)たちを見据(みす)えている。
彼らから声にならない声を聞き取ろうとしているのだろう。どうして大輔に興味を持ったのかわからないが、調べたいことがあるようだった。
「彼の力は、奥様のものとは少し違うような気がします。……先生はどうお考えでしょうか」
「姉崎(あねざき)くんか。……たしかに魔を退けるようだが、彼のほうがはっきりと力だな。真紀子(まきこ)はいなくなるのだ。連中にとっては、目の前に壁ができたも同然で、彼女がいることさえわからないのかもしれない。だが、姉崎くんは近寄せないらしい。……どうだね? 君の見立ては?」
「先生がおっしゃるとおりだと思います。しかし、それだけではないような……。ひょっとすると、彼が横にいたからこそ、竜憲さんに取(と)り憑(つ)いたものは、半分ずれていたのではないでしょうか。――ただの思いつきですが」
重々しく頷(うなず)いた忠利は、竜憲に目を転じた。
「つくづく、お前は真に力のあるものばかり、選ぶようだな。……彼には悪いが、ここに足を運んでもらうしかないだろう。わずかでもずれていれば、破魔の術を験(ため)すこともできよう。このままでは、わしらには手出しできん」
いざとなれば、息子を殺さなければならないということを心配しているのか。それとも、息子を殺しても、肝心(かんじん)の魔物を退治(たいじ)できないことを危惧(きぐ)しているのか。
どうも後者のような気がしてならない。
忠利は陰陽(おんみよう)を現代に伝える家系の責任を考えているのだ。
ひがみかもしれないと思いながらも、竜憲は父親をそこまで信用していなかった。
世間で言う甘い親などというものが、本当にいるとは思えない。
彼の父親は、大勢のためなら息子など簡単に切り捨てるような男だったのだ。
大時代な男だ。
霊能(れいのう)などという特殊な能力を持っているだけに、自分がやらねば、ほかの誰にも始末ができないという自覚があるせいだろう。
竜憲にしても、自分に取(と)り憑(つ)いたものを世の中に放つ気はない。
しかし、むざむざ殺されるのはごめんだった。
父親が道場を出ていってずいぶんになる。
電気の引かれていない道場には、和蝋燭(わろうそく)が数本、高足の燭台(しよくだい)の上で揺らめいている。それが、唯一(ゆいいつ)の照明だ。
蛍光灯(けいこうとう)の照明に慣(な)れた目には、少しばかり頼りない灯(あかり)だが、この特別な道場を演出するには充分過ぎる効果がある。ただでさえ広い道場が、余計に広く感じられた。そのうえ、目の前に座っているのは、鴻(おおとり)一人。
黙(だま)っているのが、ひどく気づまりだ。
といって、話題もない。
いや、あることはあるのだが、いまより気分の滅入(めい)る話題しかないのである。
何を考えているのか、鴻は視線を竜憲(りようけん)に据(す)えたまま、黙り込んでいた。
もっとも、なんとはなしに想像はつく。おそらく彼が見ているのは、自分ではなく、姿が確かめられないという妖怪(ようかい)だ。
「親父(おやじ)は……自分の力より、あんたのほうを信じてるのかな」
ぼそりと呟(つぶや)くと、鴻の視線が竜憲に戻ってくる。
自分を透(す)かし見るような視線から解放されて、竜憲はほっと息を吐(は)いた。
「そうでしょう」
少しだけ間をおいたものの、臆面(おくめん)もなくそう答える男を、竜憲はしげしげと眺(なが)めた。その力を認めるにしても、こういうところが鼻につくのだ。
長い間、顔を合わせることもなかったのに、まるで印象が変わらないのは、この雰囲気(ふんいき)のせいだろう。
「そのあんたでも、あの魔火(まび)のことはわからなかったわけだ」
この話題に触れたくないから口を噤(つぐ)んでいたのだが、つい、皮肉(ひにく)の一つも言ってやりたくなる。
「はい。ただの魔火ではなかったようですね」
まったく動じないところが憎(にく)らしい。
「それだけ?」
「いえ、少し後悔しているのです」
思わぬ言葉が付け足されて、竜憲は少々面喰(めんく)らった。
「私が出向いていれば……。何より、お話だけでただの魔火と断じてしまったために、ここまで大事になってしまいました。この目で確かめていれば、ただの魔火でないことはわかったはず。……何かあったらなどとは言わずに、あの時に聞いておくべきでした。――何しろ、私には貴方(あなた)に取(と)り憑(つ)いた者が見えたのですからね」
「どういう……意味なんだ。それは……」
「あれは、貴方がその娘さんの家に出向いたから起こったことです」
そうだろうとは思っていても、他人から、しかも有能な霊能者(れいのうしや)から断じられるのは、相当に心が痛む。
が、顔を顰(しか)めた竜憲を、鴻は顔色一つ変えずに、感情の読めぬ目で見つめている。
「なんでわかる?」
「笑っていたんですよ」
目を瞬(しばたた)かせた竜憲は、鴻を眺(なが)め、溜(た)め息(いき)を吐(は)いた。
誰が笑っていたのかと思うと、質問する気にもならない。なんといっても、そんなことで結論を出すこの男の神経も理解し難かった。
「もう……いいよ。――だけど、そんなこと大輔(だいすけ)に言ったら、あいつ臍曲(へそま)げて絶対協力しないぜ」
「そうでしょうか」
男がにっこりと微笑(ほほえ)む。
その端正な顔はたしかに笑(え)みを浮かべていたが、虹彩(こうさい)が見えぬほど黒い瞳(ひとみ)は、いささかも笑っていなかった。
不意に蝋燭(ろうそく)の炎が揺らめく。
風もないのに大きく揺れた炎が、鴻の顔に奇妙な影を作った。
それが、大きく歪(ゆが)み、膨(ふく)れ上がる。
『こんな男を信じるか?』
黒い影が囁(ささや)く。
「お前らよりは、信じられるさ」
にやりと笑った竜憲に、鴻は眉(まゆ)を引き上げた。
同時に影が消え失せ、蝋燭の炎が元に戻る。
「力が増しているようですね。この結界(けつかい)の中で、こうまで勝手をされたのでは、立つ瀬がありませんな」
そういうわりには、何かするというつもりはないようだ。
「こんなことは初めてだ」
竜憲にというより、自分に言い聞かせるためらしい。小さく首を振った鴻は、指先を顳〓(こめかみ)に当て、竜憲を正面から見据(みす)えた。
こんなふうに観察されるのは、どうも居心地(いごこち)が悪い。それこそ、尻(しり)がむずむずしてくるようだ。
しばらくは我慢(がまん)できたが、そのうちに勝手に口が開いていた。
「何か見えた?」
「いえ。……ここまで気が強くなっているのなら、逆に見えるかもしれないと……ね。そう思ったんですが。やはり、無理ですね」
肩を落とした鴻を眺(なが)め、竜憲は立ち上がった。
「どちらへ?」
「親父(おやじ)の様子を見に。……遅すぎると思わない?」
「それでしたら……」
「いいよ。どうせ、ここの結界(けつかい)は役に立ってないんだろ?」
「まさか……そんなことはありませんよ。結界の中だから、これですんでいるのです」
「嘘(うそ)だろ――」
鴻の前から一歩退(しりぞ)いた竜憲の言葉が、飲み込まれる。
彼からわずかに歩幅分離れただけで、周囲に集まる幽鬼(ゆうき)の数が倍増したのだ。これでは彼の言葉を信じるしかないだろう。
すごすごと元の位置に座り直した竜憲は、不満げに鴻の顔を眺めた。
「どういうことさ」
「気づいているからですよ。我々が何をしようとしているか」
「……まさか、家じゅうがこんな調子ってことか?」
「たぶん……」
「てことは……」
自分のことに紛(まぎ)れて忘れていたが、この家には沙弥子(さやこ)もいる。
「まずいじゃないか。沙弥子はまだこの家にいるんだ」
竜憲は飛び上がるように立ち上がった。
母親は何があろうと大丈夫(だいじようぶ)だろうが、沙弥子はそうはいかないだろう。すくなくとも、彼女には見えてしまうのだ。
「彼女なら……」
鴻の言葉など無視して、竜憲は道場の扉(とびら)に向かった。
一歩進むにつれ、黒い影が湧(わ)き出し、一歩進むと、それらがただの影から形を持つものに変わっていく。
さらには、竜憲に近づいて、楽しげに問いかけてくる。
『気が変わったか?』
『恐ろしくなったのだろう』
耳鳴りがするほど、大声で笑い出す者もいれば、背筋が粟立(あわだ)つような声が耳もとで囁(ささや)いたりする。
『あきらめろ、あきらめろ。……つまらぬことをすれば、皆死ぬぞ』
『言っただろう? お前の親父(おやじ)など、クソの役にも立たんわ!』
「うるさい! 黙れ!」
一瞬、騒ぎが治まる。
大きく息を吐(は)いた竜憲は、目の前の扉(とびら)に手をかけた。
と、ほとんど同時に、扉が開かれる。
「――どこへ行くつもりだ」
忠利(ただのり)だった。
その顔を見たとたんに、頭の中が冷静になる。
「……どこって……サコが……」
「ああ、あの娘なら大丈夫(だいじようぶ)だ。真紀子(まきこ)と一緒にいる」
気が抜ける。
「かあさんと……なら大丈夫だ……」
「あれほど……軽々しく行動するなと言っただろう……」
「ごめん」
ようやくに応じ、竜憲は父親に背を向けた。
幽鬼(ゆうき)たちが残念そうに嘆息(たんそく)するのが聞こえる。小声で文句(もんく)を並べ立てる化(ば)け物(もの)を睨(にら)み据(す)えると、先に立って歩き出した。
どうも、おかしい。
そんなことぐらい少し考えればわかることなのだ。父親のすることに、その程度のぬかりがあるはずがない。
にもかかわらず、そのほんの少しが考えられないのである。
普段なら、けっしてしないことだろうに。
「申し訳ございません。私がついていながら」
珍しく狼狽(ろうばい)した顔で頭を下げる鴻に、心の中で舌(した)を出してみせた竜憲は、元の場所に座り直した。
忠利が座り、鴻も膝(ひざ)を折る。
「すまんな。電話をするだけにずいぶんと手間どってしまった」
ぼそりと口を開いた忠利の表情が、ひどく硬い。
鴻の言うとおり、この家は化(ば)け物(もの)屋敷と化しているらしい。道場から一歩外に出た時の状況を想像して、竜憲は眉(まゆ)をひそめた。
「まぁよい。……姉崎(あねざき)くんは来てくれるそうだ」
それだけ言うと、忠利は黙り込み、目を閉じた。
「大丈夫(だいじようぶ)か。親父(おやじ)……。顔色が悪いぞ」
「お疲れなだけです。……少し休まれれば……」
口を挟(はさ)んだ鴻の言葉にわずかに頷(うなず)いた忠利を、竜憲はじっと見つめ続けた。
理由のわからない不安が、込み上げてくる。
気分が悪い。
「竜憲さんこそ大丈夫ですか?」
「え……あ、平気だよ」
慌(あわ)てて応じて、忠利から目を逸(そ)らす。
ここまで疲れた父親を初めて見る。自分の父親なのだから、そう若くないことはわかりきっているのだが、無茶な修行を繰り返して鍛(きた)えているせいか、ぎらついた精気をみなぎらせる男だった。
ここ数日の間に、十(とお)は老(ふ)けこんでしまった。
「鴻さん。大輔は心霊(しんれい)現象とか、超常現象とかはまるで信じないから。一応覚えていてくれるかな。不作法(ぶさほう)は目を瞑(つぶ)るということで……」
「……わかりました。あれほどの力で魔(ま)を排し続けていれば、何も見えないでしょうしね」
穏(おだ)やかな笑(え)み、というべきなのだろうが、表面だけの笑みを浮かべた鴻は、竜憲を見据(みす)え続けている。まるで視線で彼の内に入り込んだ魔物を封(ふう)じようとするかのように。
おそらく、その思いつきは正しいのだろう。
墨(すみ)のように黒い瞳(ひとみ)が、まっすぐに自分の内側を見つめ、威圧している。
「この中にいる奴(やつ)が見える?」
「……はい」
「だんだん、向こうのほうが強くなっているんじゃないのか?」
「どうして、そう思われるんですか?」
「……ボケてるから」
簡単に言い切った竜憲は首をすくめて笑った。
「竜憲……。それはどういうことだ」
自分が一目(いちもく)置く弟子(でし)に向かって、息子が噛(か)みつくのを平然と見守っていた忠利が、沈鬱(ちんうつ)な顔を向けた。
さすがに、竜憲が鴻を嫌(きら)っているのは、知っていたようだ。
だが、年の離れた兄に反抗する弟とでも思っているのだろう。実際には、背筋に粟(あわ)が立つほどいやなのだ。生理的嫌悪感(けんおかん)に近いのかもしれない。
いままで、苦手(にがて)ではあったが、ここまでひどい反応はなかった。これも内に入り込んだ者の影響なのだろうか。
「……さっき、サコが心配だって思ったら、もう何も考えられなかった。それでどうなるか、なんて考えもしなかったんだよ。……さすがにそこまで馬鹿(ばか)じゃないと思っていたんだけどね」
苦(にが)い顔で頷(うなず)く忠利は、ゆったりと手を差し上げて、指の間から透(す)かすようにして息子を見据えた。
これといった動きも見せずに魔物(まもの)を見る鴻に比べると、その仕種(しぐさ)はいかにも芝居(しばい)がかって見える。能力が違うのだろう。
「で、どうなの? 俺が消えて、えらい綺麗(きれい)な女が見えるんじゃないの?」
「そうですね。……女性なのか、まだわかりませんが。顔立ちは見えるようになっています」
確かめるように忠利に視線を移す。
「そうだな。……女だ。……竜憲、この妖鬼(ようき)どもは、女のことをどう呼んでいる?」
「お方……かな。ああ、そういえば、サコの家の式神(しきがみ)に追い払われたとき、この女が、自分のことを神だと言っているとか言ってた」
「律泉(りつせん)の式神?」
「そう。律泉に仇(あだ)なすものは近づけないとかいって、えらい剣幕で追い返されたよ。……サコん家(ち)が冷えるのはそのせいもあるだろうな」
「どうしてお前は……」
大きく息を吐(は)いた忠利は、目の前で小さく印(いん)を切った。
「……そう考えが足りぬのだ。それを鴻に話すなり、昨夜のうちにわしに話すなりしない。お前が魔物というからには、魔だと思っていたが……」
「魔物だろう。自分のことを神と名のるほどの力がある魔物。……違うのか?」
互いに顔を見合わせた二人の霊能者(れいのうしや)は、どちらからともなく立ち上がると、竜憲の左右に座り直した。
「なんだよ。……いったい……」
「静かにしろ。……万が一……。あってはならぬことだが……」
いままで、術らしい術を使っているようにも見えなかった鴻までが手を上げて、竜憲の内に潜(ひそ)む者を見透かそうとしていた。
呪文(じゆもん)もなければ、印を結ぶわけでもない。
ただ、手をかざすことによって、己(おのれ)の視野をふさぎ、奥にあるものを見ようとしている。
「心当たりがあるのか? サコの家の式神に何が伝わっていたんだ?」
「それとは関係ない。……静かに、座っておれ」
無言で竜憲を見据える二人のまわりに、妖鬼たちが飛びかかろうとする。
しかし、狭(せま)い結界(けつかい)の中では、その力は半減しているのだろう。ぶざまな叫び声を上げては弾(はじ)き飛ばされ、燃え尽きるものまでいた。
どこから湧(わ)いてくるのか、道場にこもってから二人に消された妖鬼(ようき)は百を下らないだろう。それでも、いっこうに減ったような気がしない。
肉屑(にくくず)のような赤い鬼(おに)が、忠利の首に爪(つめ)を立てようとした。ところが、爪が触れるまえに血色の腕が、ぼとりと落ちる。泡(あわ)を噴(ふ)いて、溶(と)けるように縮んでゆく己(おのれ)の腕を見下ろし、鬼の顔が驚愕(きようがく)に歪(ゆが)む。
魔物(まもの)でも痛みを感じるのか、すっぱりと切れた腕を腹に抱(かか)えて、鬼はのたうち始めた。
床(ゆか)を転(ころ)がる身体が、忠利に触れる直前で、灰(はい)になった。
騒々しい。
耳に聞こえる音ではないが、黙っていると妖鬼たちがたてる音や、声が、わんわんと頭の中で谺(こだま)する。
耳をふさいでも仕方がないのだ。
人と話すしかない。
精神に聞こえる音より、実際の音のほうが優先される。
この奇妙な音から逃(のが)れるために叫んでやりたいところだったが、二人の男は、真剣に竜憲を見据(みす)えているのだ。
己を救うために必死になっていることはわかっている。邪魔(じやま)になるとわかっていながら、どうしても、妖鬼たちの声を遮(さえぎ)りたい。
『……そうじゃ。約束しよう。お前の器(うつわ)をくれれば、百の年、わしらはおとなしくしていよう。悪くはなかろう。どうじゃ?』
『お方様に頼んでしんぜようぞ。……器を寄こせ』
『この二人には手を出さぬ。約束じゃ』
『約束するぞ』
『どうじゃ』
『承知か?』
『それしかあるまい。こやつらには、何もできぬぞ』
『承知か?』
『どうじゃ。……承知か?』
耳鳴りのような音を、声として認識してしまうと、その言葉が届き始める。
頭の中に谺(こだま)する囁(ささや)き。そして脅迫(きようはく)。
騙(だま)されてはいけない。
耳を傾けてもいけない。
わかってはいても、つい答えたくなる。
叫んで、黙らせられないのなら、なんでもいい。頭の中で承知すれば、それだけでこの声が消えるとわかっている。
『……そうじゃ。何も不都合(ふつごう)はないぞ』
『器をよこせ』
『お方様が待っておられる』
声が、甘く囁(ささや)く。
歯を食いしばった竜憲は、必死で否定しようとしていた。
教訓は、昔話にいくらでもあるではないか。
魔物(まもの)の囁きに負けて、朝が来る前に扉(とびら)を開けてしまった、愚(おろ)かな男。自分はいま、同じ立場にあるのだ。心の中の扉を開けてはいけない。
いけない。
すべてを否定しなければならない。
それだけを、考え続けなければ……。
突然、扉を引き開ける音が響く。
同時に、竜憲はその場に倒れ込んだ。
「……恐ろしいほどの力をお持ちだ……」
蛇(へび)が話している。
「そんなことより、こいつはいったい……」
「あなたのお陰(かげ)で、苦渋(くじゆう)から解放されたのですよ……。心配には及びません」
真っ白な頭に、漆黒(しつこく)の目を貼(は)りつけた蛇が、ゆったりと鎌首(かまくび)を持ち上げて、笑っていた。
「リョウ! お前、どうしちまったんだ?」
頬(ほお)を乱暴に叩(たた)かれて、竜憲(りようけん)はゆっくりと目を開いた。
鴻(おおとり)が覗(のぞ)き込んでいる。頭を支えているのは大輔(だいすけ)だった。
この男が現れた瞬間に、あれほどいた妖鬼(ようき)がすべて消えたのだ。極度に緊張していた精神が、瞬時に解放されて、気を失ってしまったらしい。
「……悪い……」
起き上がろうとする竜憲の肩を、大輔が支える。そして、用心深く、ゆっくりと手を放して言った。
「大丈夫(だいじようぶ)か?」
「傾いてるか?」
「いや。今度は大丈夫だ」
妙なことを覚えているものだ。
顔を見合わせて笑う竜憲と大輔に、忠利(ただのり)が訝(いぶか)しげな表情を浮かべる。それを見て、竜憲は声を殺して笑った。
大輔に助け起こされたのは二度目だ。相手が男であるかぎり、目の前で倒れても見ているだけだと思っていたが、手ぐらいは貸してくれるようだ。
「……何をやってたんだ? 酸欠を起こすほどじゃないだろう。隙間風(すきまかぜ)で寒いぐらいだし」
「浄霊(じようれい)……ってとこか。例の、俺に取(と)り憑(つ)いたヤツを追っ払おうとしたんだが……強いんだよ。これが……。で、ブッ倒れたんだ」
露骨(ろこつ)に、うさんくさげな顔をする大輔に、竜憲はにんまりと笑ってみせる。
「……で、どうなの? こいつがいればやれそう?」
問われて、忠利は眉(まゆ)をひそめた。
息子がいつもどおりに戻ってしまったことが、不思議(ふしぎ)なのだ。護符(ごふ)として働く力を持つ者が現れたのだから、妖鬼が消えたのはわかる。しかし“神”と名乗るほどのものに取り憑かれていれば、何かしらの変化があるはずだった。
それが、以前の息子と、なんら変わりがないのだ。
「……いや。いまはやめておこう。……姉崎(あねざき)くん。悪いが、こいつを見張っていてくれないか。何をしでかすかわからないのでな。できれば、部屋に閉じ込めておいてくれ、片時も目を離さないようにな」
上手(う ま)い頼みかたもあったものだ、と思いながら、竜憲は力なく笑ってみせた。
「……お前、何をしでかしたんだ?」
「だから、取り憑かれてるって言っただろ? 自分ではボケてるだけだと思うが、何かとんでもないことをやらかしそうなんだとさ。あんたなら俺が暴れてもふん縛(じば)ることができるだろ?」
「……まったく……。わかりました。妙なことをしでかしそうになったら、縛り上げればいいんですね」
「殴(なぐ)り倒してもいい」
「……はぁ……」
ひょいと眉(まゆ)を上げた大輔は、それでも忠利の頼みを承知した。
長身で、それに見合うだけの体重がある大輔なら、竜憲が暴れても縛り上げることぐらいできるだろう。実際は呪いの壷に護符を貼り付けるといったところなのだが、それを説明する気力は、いまの竜憲にはなかった。
「親父(おやじ)たちは?」
「わしらは、少し準備がある。……今夜にも浄霊(じようれい)を行う。――わかっているな」
「……ああ」
ふらりと立ち上がった竜憲は、軽く頭を振った。
どうやら、たいしたダメージは受けていないようだ。
このまま浄霊してもらったほうがよほどすっきりするのだが、それなりの準備が必要なのだろう。何より、竜憲に聞かれずに相談したいことがあるのだろう。
魔物に取(と)り憑(つ)かれた身では、その不条理を怒ることもできない。
「……じゃあ、鴻さん。よろしく……。できるだけおとなしくしているつもりだから」
ゆったりと頭を下げる男は、相変わらずの笑(え)みを湛(たた)えてみせた。
「悪いな、大輔。つきあってくれ」
「ああ……」
普通の浄霊ではないとわかっているのだろうが、あえて大輔は口を挟(はさ)まないようだった。もっとも、部屋へ帰るなり、質問を浴(あ)びせられることはわかりきっている。
それでも、護符(ごふ)といたほうがましだ。
厚手のコートを着込んだ男の肩を軽く叩(たた)いた竜憲はそのまま道場をあとにした。
和蝋燭(わろうそく)がじりじりと音をたてて、燃えている。太い炎を上げる蝋燭は半分ほどになっているが、蝋は完全に燃えているらしく、円錐(えんすい)の肌(はだ)は滑(なめ)らかなままで、筋は見当たらなかった。
彫像のように静止した男が二人。蝋燭を挟(はさ)んで向き合い、何度目かの溜(た)め息(いき)を吐(は)いた。
「……やはり、律泉(りつせん)の倉に封(ふう)じられていたのか……」
「しかし、先生が透視なさった時には、空(くう)だと。およばずながら、私も試(こころ)みましたが、何も残ってはいませんでした」
「それだけ、深く封じられていたということだろう。そうでなければ、竜憲(りようけん)など、即座に乗っ取られているだろう」
沈鬱(ちんうつ)な表情の忠利(ただのり)に比べて、鴻(おおとり)は穏(おだ)やかな笑(え)みを浮かべたまま。
もっとも、それは感情が乏(とぼ)しいのではなく、微笑(ほほえ)んだような顔が、彼の平素の表情なのだ。
「倉自体、封印(ふういん)だったのだな。……律泉に式神(しきがみ)が残っているのなら、約定(やくじよう)はまだ生きているということだ」
忠利は、ひどく気落ちしていた。
息子に降りかかった災厄(さいやく)が、自分たちの目を逃(のが)れた魔物(まもの)のしわざだという事実が、途方もなく重いのだ。
「魔火(まび)も出たと言ったな」
「はい。しかし……」
「わかっている。封じることもできなかったのであろう。……たかが、魔火ごときに術を破られたことが不思議(ふしぎ)なのだろう」
「はい。魔火ではなかったと、竜憲さんには申し上げましたが、火の性であることはたしか。私は火を封じました。それが、封印を抜けて、その家の娘さんを襲うなど……。先生、火の性のものに、人を選ぶものもいるのでしょうか」
「……どうかな……」
唇(くちびる)を引き結んだ忠利は、視線を宙にさまよわせた。
息子が、霊能者(れいのうしや)の真似事(まねごと)をしているのを見逃(みのが)していたせいだ。
天性の破魔の才能だけで対処できるうちはよかったが、修行もせず、学んでもいない竜憲では、所詮(しよせん)限界がある。手に負えないものが出てくれば、あっさりと泣きついてくるのを、情けないとは思いながらも、どこかで安心していた。
まさか、こんなことになるとは、予想だにしていなかったのだ。
恐ろしく強い気が解(と)き放たれたと知った時、結界(けつかい)を張ることしか考えなかったのが、そもそもの間違いだろう。
しかし、その原因や相手を見据(みす)えることなど、とうていできなかった。
山火事を発見しても、消すことより、類焼を食い止めること、人を逃がすことを先に考えるのに似ている。
忠利の手にはバケツ一杯の水しかなかったのだ。
まさか自分の息子が、目覚めたばかりの魔物が力を蘇(よみがえ)らせるまでの寝床になろうとは。
「……ただ。竜憲さんに取(と)り憑(つ)いたものは、はっきりと笑いました。私がお札(ふだ)をお渡しした時。おそらく、そのものの指図で、魔火は娘さんに襲いかかったものかと……」
視線を鴻に戻した忠利は、眉間(みけん)に皺(しわ)を刻(きざ)んだ。
「……それは確かか?」
「はい。……何か因縁(いんねん)があるのでは、と考えて、私なりに調べましたが……。上田美香(うえだみか)という娘さんでしたが、何もないのです。両親の家系も、特別なものはありませんし、血筋に霊能者を名乗る者も、僧侶(そうりよ)や神官につながるものさえいません」
「しかし、あれがもし、我々が考えるとおりのものなら……」
ちらりと、忠利の視線が流れた。
言葉に出すことはできない。
お方と呼ばれているのなら、竜憲のまわりに集まる妖鬼(ようき)たちは、彼女の名を知らないのだ。おそらく、竜憲の中で眠るものも、思い出していないに違いない。
万が一、それを口にしてしまったら、竜憲の耳に届くだろう。
そうなれば、結果は目に見えていた。
その瞬間、竜憲の中に潜(ひそ)むものは覚醒(かくせい)するだろう。いまの彼らにはとうてい抑(おさ)えきれぬ力を持った、姫神が。
「封(ふう)じたものの血が、その娘さんに残っていたのではないかな」
「……難しいですね。飛鳥(あすか)の昔からという話が本当であれば……。その血がどれほど拡散しているか……。いちばん近いはずの、律泉が狙(ねら)われないということであれば、我々が考える血筋では、辿(たど)りきれない事になります」
家督(かとく)を継ぐという意味での血筋なら、辿る事もできる。しかし、単純に血を辿るとなると、それは不可能だった。
特別な能力を引き継いでいるというのなら、まだ捜しようもあったが、狙われた娘がなんの抵抗もせずに魔火に焼きつくされるようでは、それも疑わしい。
そして、最大の問題は、たとえ竜憲を殺しても、彼の内に潜むものを再び世に放つだけだということだった。
「律泉の式神(しきがみ)だけが、知っていたということか。……約定(やくじよう)は、あれが滅びるまでということだ……。残っているからには、どこかに封(ふう)じられただけで、再び蘇(よみがえ)ることもあろうと思ってはいたが……」
「式神に聞くことはできませんか? ……たしかに、一度は断(ことわ)られましたが、今度は律泉の血筋を聞くのですから、あるいは……」
「いや。式神は人を見るわけではないからな。あの家を守るだけだ。おそらく、何も知るまい……」
深い息を吐(は)いた忠利は、うっそりと視線を上げて、弟子(でし)を見つめた。
「……どうするべきかな……」
「封じるしかないのでは……」
鴻にしては珍しく、ためらいがちに言う。
「……竜憲さんに負担をかけることになりますが、その身体を封印(ふういん)とするしかないのではないでしょうか……。禁じられていることは承知しております。人を器(うつわ)として扱うなど、とうてい許されることではありますまい。……しかし、いまはそれしか……。一生とは申しません。私が、なんとしても、姫神を打ち破る術を……」
「やはり……そうか……」
忠利にしても、わかりきっていた結論だった。
わざわざ竜憲を選んだからには、なんらかの理由があるはずだ。姫神が目覚めなければ、竜憲はそれを身の内に隠し続けられるだろう。
恐ろしい負担をかけることはわかりきっている。
魑魅魍魎(ちみもうりよう)が、姫神を目覚めさせようと、その周囲に群(むら)がるだろう。
人を器として使うということは、魔物(まもの)と同じだ。けっして、人としてとってはならない手段である。
だが、いまはそれしか方法はなかった。
「……ならば……」
かっと、忠利が目を見開く。
同時に鴻の髪が波打った。
風もないのに、長い髪が逆巻(さかま)き、何かに引き寄せられる。
「去(い)ね! ここはそなたらの場所ではない! 暗闇(くらやみ)に戻れ!」
怒号(どごう)した忠利が仁王立(におうだ)ちになる。
『けけっ……。陰陽(おんみよう)の頭(かみ)も落ちたものよ。御自(おんみずか)ら、我らごときを祓(はら)われるかや?』
黒い影が、蝋燭(ろうそく)の炎の前に浮かぶ。
猿(さる)のような。しかし無毛の黒い塊(かたまり)は、長い手をひらひらと躍(おど)らせた。
『わしらなぞ、木の陰(かげ)、森の淵(ふち)に捨て置いてくださったものよ。わしらに何ができよう?』
けたたましい笑い声を上げる妖鬼(ようき)が、二人のまわりを飛び跳(は)ねる。
『したが、わしらの潜(ひそ)む陰(かげ)がない』
『どこに帰ろうや? けけっ……』
結界(けつかい)の中にまで平気で入ってくる化(ば)け物(もの)たちは、自分で言うほど無力ではない。
大輔(だいすけ)が現れると同時に姿を消していた連中は、いまになって再び姿を現した。おそらく、竜憲の内に潜む魔物を封(ふう)じられては困るのだろう。姫神が蘇(よみがえ)る時を、息を殺すようにして待っていた連中に違いない。
歴代の霊能者(れいのうしや)たちが、人に害を与えないからと、見逃(みのが)した連中なのだ。
だが、いまや本性を剥(む)き出しにして、二人の霊能者に襲いかかろうとしていた。
「封じられては困るか? ……そうよな、お方が封じられては、貴様らは闇(やみ)に消えるしかあるまい。せっかくこの世に蘇ったのに、命の一つも食わぬまま、消えたくはなかろうな。だが、わしらとしては、消えてもらうしかない」
忠利が手を打ち振る。
見えない力に弾(はじ)かれ、影は床(ゆか)に叩(たた)き付けられた。
『けけけっ……。それが大道寺(だいどうじ)忠利の力か。息子に遥(はる)かに及ばぬぞ。……鳶(とび)が鷹(たか)を生むとは、このことか!』
床から跳(は)ね上がり、再び弾(はず)むように二人のまわりを回る。
いつのまにか、妖鬼(ようき)は道場を埋(う)めるほどの数になっていた。
恐ろしく速い。
跳ね続ける連中の足並みが揃(そろ)い、ますます大きな音になっていく。
床を揺らし、道場を壊そうとする勢いで、跳ね続ける妖鬼たち。
ゆったりと目を閉じた忠利は、腹の前で手を組んで深い息を繰り返した。
一つ一つ片づけても仕方がない。
彼らの狙(ねら)いは、二人を疲れさせることにあるのだ。
少しでも時間を稼(かせ)ごうと考えているのだろう。一日でも延びれば、それだけ姫神が力を蓄(たくわ)えるのだ。
「……鴻」
「はい」
「……こやつら、よほど焦(あせ)っているようだな……」
「そのようですね」
鴻の唇(くちびる)の両端が思いきり引きあがる。目が弓形になり、細い隙間(すきま)から覗(のぞ)く漆黒(しつこく)の瞳(ひとみ)が、奇妙に光った。
本心から笑うと、ますます化け物じみた顔になる。
整い過ぎているがゆえに、冷たい印象を与える顔は、笑(え)みすらも見る者の心を凍(こお)らせるのだ。
「やはり、竜憲さんにはしばらく我慢していただくしかないようですね」
「軽率な行動の報(むく)い、と言い切るには、少しひどいが……それしかあるまいな」
平然と言葉を交わしながら、二人は妖鬼たちの動きを全身で探(さぐ)っていた。
どうするべきか、決断できた。
いまは、竜憲の中に姫神を封じるしかない。
それこそが、ここに集まった化(ば)け物(もの)たちが恐(おそ)れていることなのだ。
『させぬぞ!』
『お前らの好きにさせてなるものか! いまこそ怨(うら)みを晴らす時。……そなたらを、とり殺してやろうか……』
ぶわっと、影が膨(ふく)れ上がる。
小さな、猿ほどの大きさだった妖鬼は、一つに固まり、たちまち見上げるほどに伸びあがった。
凝(こ)った身体を解(ほぐ)そうとでもいうのか。首を回し、肩を上下させて関節を鳴らせた影は、にんまりと笑った。
同時に、ゆっくりと影が実体となる。
板張りの床(ゆか)が軋(きし)み、重量に負けてへし折れた。
燭台(しよくだい)が転(ころ)がり、蝋燭(ろうそく)の炎が床に移る。やがて、磨(みが)き込まれた床は小さな炎を受け取った。
「それが本性か?」
「そうよ。……貴様らが、術を忘れ、師を忘れ、堕落(だらく)してゆく様を、しかと見ておったわ。いまこそ、積年の怨(うら)みを晴らしてやろうぞ!」
実体を得ると同時に、しわがれた声も現実のものとなる。幾重(いくえ)にも重なって聞こえる声音(こわね)は、それだけで胸の悪くなるような響きを持っていた。
竜憲のまわりに集(つど)っていた連中とは違う。
姫神が蘇(よみがえ)る時を待って、形を変え、性質さえも変えて、闇(やみ)に潜(ひそ)んでいたのだろう。
「喰(く)うてやろう。……ほんにひさかたぶりの餌(え)じゃ」
むっと臭気が襲いかかる。
肉の腐臭(ふしゆう)にも似た体臭に、草木の腐(くさ)る臭いが混じっていた。ますます巨大化する化け物は、いまにも天井(てんじよう)を突き破ろうとしている。
「お方さまに、何よりの馳走(ちそう)じゃて」
巨大な腕が伸びる。
刃物のような爪(つめ)が、忠利に突き立てられた。
しかし、わずかに顔を歪(ゆが)めただけで、忠利は平然と立っている。
「愚(おろ)かな……。貴様らにたばかられるほど、戯(たわ)けではないわ!」
忠利の手が一閃(いつせん)する。
床(ゆか)を這(は)う炎が、手につられて舞い上がり、妖鬼(ようき)に襲いかかった。
瞬間に、妖鬼の身体が縮(ちぢ)む。
「こしゃくな!」
人ほどの大きさになった妖鬼が、牙(きば)を剥(む)き出し、息を吹きかける。
ついと顔を逸(そ)らせて息を避けた忠利は、再び手を振り上げた。
その眼前を、白い閃光(せんこう)が走る。
「先生!」
閃光に切り落とされた爪(つめ)が、床に転(ころ)がった。
「すまん。……歳(とし)かな……。こんなものにも気づかぬとは……」
「ご冗談(じようだん)を……」
妖鬼の手から離れた爪が、ふわりと浮き上がり、四方から忠利を狙(ねら)っている。
「……だが、遊びはこれまでよ」
両手を高く掲(かか)げた忠利が、掌(てのひら)の間に光を生む。
ふらりと揺らいだ身体を、足を踏み出して支え、さらに光を強くする。
「先生! 無茶な!」
絶叫を掻(か)き消すように、光が放たれた。
己(おのれ)の身体を貫(つらぬ)いて、光が四方に伸びる。
「ぎゃあぁぁ……」
妖鬼が、悲鳴を上げて身もだえる。
「……馬鹿(ばか)にしたものでもなかろう……。いまの世にも、術を操(あやつ)るものはおるぞ……」
唇(くちびる)の端を歪(ゆが)めた忠利は、そのまま膝(ひざ)を突いた。
息が荒い。
疲労が回復しないうちに、力を使ったせいだろうか。
肩で息を吐(は)く忠利の横に膝を突いた鴻は、その顔を覗(のぞ)き込んで頬(ほお)を引きつらせた。
「……先生……」
「一人で……やれるか?」
「やってみます」
「……すまんな……。少し、無茶だったようだ……。二、三日休めば……。だが……」
「わかっています。とにかく、今夜、私が試(こころ)みてみます」
「……頼…む……」
荒い息をどうにか治(おさ)めようと、咽喉(の ど)に手をやる忠利は、やがて、ゆっくりと意識を失っていった。
荒い息が治まったと思うと、ひどい鼾(いびき)をかき始める。
「……まずい……」
舌(した)を鳴らした鴻は、彼の身体を静かに横たえると、道場の扉(とびら)に駆け寄った。
「――奥様! ……真紀子(まきこ)様! 救急車を!」
自分の声が妙にむなしく響く。
「誰かおらんのか!? 救急車を呼べ!」
遠くで悲鳴が聞こえた。
「くそう!」
道場の床(ゆか)に横たわる忠利をちらりと見やった鴻は、扉を引き開け、廊下(ろうか)に飛び出した。
第六章 眠れる姫神
救急車の回転灯が、ただでさえ不安な気持ちを、さらに駆り立てる。明滅する赤い光に照らし出された顔は、どれも緊張していた。
淡々(たんたん)と自分たちの作業を進める救急隊員が、非情に見えてくるところが、人間の身勝手さというものだろう。実際、彼らは精いっぱいに自分たちのできることをしているのだ。
とはいえ、もう少しなんとかというのは、病人の家族なら誰でも思うことかもしれない。
大輔(だいすけ)と真紀子(まきこ)が一緒にいるせいか、魔物(まもの)のほうがおとなしく姿を消しているためだろう。つまらぬことが気にかかる。
救急隊員と話す母親を眺(なが)め、竜憲(りようけん)はいたって人並みに父親の心配をしていた。
彼らに事実を告げたところで、信じるわけもない。前後にあったことを、鴻(おおとり)は上手(う ま)い具合に言い繕(つくろ)っていたが、真紀子や竜憲にはちゃんと事実を告げていた。脳溢血(のういつけつ)、蜘蛛膜下(くもまくか)出血、そんな類(たぐい)の病気には詳(くわ)しくないが、とにかくなんらかの脳疾患(しつかん)と診断されるのは確実だ。
心臓をはじめとする内臓には疾病(しつぺい)はないし、血圧が高いわけでもない。平均的な同年代の男に比べれば、超人的に頑健(がんけん)な父親なのだ。
だが、現実には現れた症状に対する治療を施(ほどこ)すしかないのである。医者が首を傾(かし)げる可能性は多大だったが。
「どうなるんだ?」
小声で囁(ささや)く大輔を、竜憲はぼんやりと見上げた。
「さぁ……。どうにかなるんじゃないの」
自分でも妙な答えだとは思うのだが、適切な言葉など何も思い浮かばない。
「数日間、安静にしていれば、すぐによくなります。……そのためには、この家にいないほうがよいんですよ。――ここにはどうしても、魍鬼(もうき)が集まる……」
「しかし……頭なんだろう? 急に動かして……」
口を挟(はさ)む大輔に、鴻は笑(え)みらしきものを見せた。
「そう見えるだけです。……力を使い過ぎただけですからね。だいいち、明確な症状など出ていないでしょう」
力は人一倍強いというのに、この男は一般人を言いふくめる能力のほうも充分過ぎるほど身につけているようだ。
大輔が言葉を飲み込んで、眉(まゆ)を寄せる。
「それよりもあなたにお願いします。何があっても、竜憲さんのそばを離れないこと。……わかりましたね?」
二人のやりとりを無言で聞いていた竜憲は、救急車に乗り込む母親を視界の隅(すみ)に見つけて車に近づいた。
「かあさん……大丈夫(だいじようぶ)かい? 一人で」
思いのほか明るい表情で、彼女は頷(うなず)いた。
「ええ、リョウちゃんこそ、ちゃんとなさいよ。忠利(ただのり)さんのことは私にまかせて……。わかっているわね?」
「あ……ああ」
「鴻さん……サコちゃんをよろしくね」
彼が無言で頭を下げると、母親はさっさと車の奥に入ってしまう。
竜憲の目の前で扉(とびら)が音をたてて閉じた。
サイレンを鳴らさず、回転灯だけをつけて、車がゆっくりと出て行く。
なんだか信じられない光景だ。
「ねぇ、リョウちゃん……おじさまは……」
不意に声をかけられ、竜憲はびくりと首をすくめた。
「いやぁねぇ……何驚(おどろ)いてんのよ」
「べつに驚いたわけじゃ……」
言い澱(よど)んだ竜憲の顔を覗(のぞ)き込んだ沙弥子(さやこ)の表情が、急にひどく真剣なものになる。
「ねぇ……私のせい?」
「え……何が?」
「おじさまが倒れたことに、決まってるでしょ!」
眦(まなじり)を怒らせた沙弥子に、竜憲は片眉(かたまゆ)を上げてみせた。
「きっかけは……ね。でもぶっ倒れたのは、自分のせいさ。歳(とし)がいもなく頑張(がんば)っちゃったからじゃねぇの。サコが責任感じることないぜ」
「ホントに?」
「どうせ二、三日すりゃ、ぴんぴんしてるさ」
「でも……普通じゃなかったわよ。……だって、おばさまと一緒にいたのに、居間を通り抜けていった化(ば)け物(もの)の影を見たもの……あたし」
「それなら、少しは自重(じちよう)することだ。人間を亡(ほろ)ぼすのは、つねに好奇心(こうきしん)だからな」
大きな黒い影が、横合いから断言する。
「おい……大輔。そういう言い方は……」
「いいのよ。……あたしだって、ホントに悪いと思ってるのよ。だって、こんな……」
「……およしなさい。誰の責任でもありませんよ。巡(めぐ)り合わせというものです。……そんなことでいい争う間に、自分のできることを行うことが、事を治(おさ)める最良の策です」
これ以上ないという正論を説(と)かれて、その場の全員が黙(だま)り込む。
それを確かめるように全員の顔を見渡した鴻は、沙弥子に向き直った。
「それじゃあ……沙弥子さん。お宅まで送りましょう。……お父上にお話ししなければならないこともありますし、何より時間がありません」
「はい」
「けど、本当に平気なのか? 大輔か、かあさんと一緒にいたほうが……」
「いえ、律泉(りつせん)の式神(しきがみ)は、何よりの護符(ごふ)です。倉に封(ふう)じられた魔物(まもの)は、あの式神がいるかぎり、けっしてあの屋敷には入れないはず」
不承不承(ふしようぶしよう)頷(うなず)いた竜憲に、鴻は微笑(ほほえ)みかけた。
「じゃあ、行きましょうか」
引き止めることに益がないことはわかっているのだが、何もかもが不安でまったく信用できないのだ。
「リョウちゃん。何かあったら連絡してね。……手伝いくらいはできると思うから」
妙におとなびた顔で沙弥子が言う。
「そうだね」
苦笑した竜憲に、片眉(かたまゆ)を引き上げてみせた沙弥子が、くるりと背を向ける。
二人の背中を見送り、竜憲は肩を落とした。
「さあ、これで邪魔(じやま)はいなくなったわけだ」
不意に声が降ってくる。
「は?」
見上げると、目を眇(すが)めた大輔が、呆(あき)れ顔でこちらを眺(なが)めていた。
「聞いてない話ばかりだからな。……ちゃんと喋(しやべ)ってもらうぞ」
「なんだよ。いつだって、喋ってるじゃないか。あんたが信用しないだけで……」
「違うだろうが。さっき言ってたじゃないか。……俺か、お前のおふくろがどうとかって」
「あ……あれね。気にしなくても……」
「いや。気になる。だいたい、どうして俺が呼ばれた?」
言葉に詰まった竜憲を、大輔はひどく冷たい目で見下ろしている。
「ま……中に入ろうぜ。寒いよ、ここは」
「いいだろう。……時間は充分ありそうだからな」
「なんだかね……。この頃、あんたおかしいよ」
「おかしいのはお前だ」
そう断じた大輔は、先に立って玄関を引き開ける。
さらに肩を落とした竜憲は、小さくなって彼のあとに続いた。
「ちょっと待て」
「何?」
竜憲(りようけん)は長椅子(ながいす)にだらりと寝そべり、煙突並みに煙を吐(は)き出す大輔(だいすけ)を、半分目を閉じて眺(なが)めていた。
「もう一度……言ってくれ」
苛々(いらいら)と煙草(たばこ)を揉(も)み消した大輔が、新しい煙草を引き出す。
「だからさ。……あんたになんにも見えないのは、そういうものをなんでもかんでも追っ払っちゃうからなんだ。それこそ、俺に取(と)り憑(つ)いてる化(ば)け物(もの)さえ、引っ込んじまうんだから、そりゃもう強いわけよ」
「それは聞いた」
「もう一度言えって言ったじゃない」
煙草に火が点(つ)けられる。
「違う。俺が聞きたいのは、それはどういう意味で、どんな根拠の上に……」
「なんと言われても、事実なんだ」
唇(くちびる)から煙草をもぎ取った大輔が、火口(ひぐち)を見つめて舌(した)を鳴らす。どうやら、火がまともに点いていなかったらしい。
立て続けに石を鳴らし、ようやく点いた炎に煙草の先をかざして吸い付けた。
見ているだけでおかしい。
本当に狼狽(ろうばい)しているのが、目に見えるのだから。
「あんたが自分で知らないうちに追い払うから、あんたにはなんも見えない。これって論理に破綻(はたん)があるかなぁ」
「そうとは言わんが……」
「それなら、素直に信じてくれよ。……だいいち、あんたがマジに協力してくれないと、俺の命が危ないんだぜ」
「だから、なにも協力しないとは……」
「そうなんだよな。信じなくてもいいから、協力だけはしてくれないと……」
煙草の煙を高く吹き上げた大輔は、その煙の行方(ゆくえ)をしばらく眺めていたが、やがて、竜憲に振り向けられた視線は、見たこともないほど真剣なものだった。
「協力はする。……立ち会えばいいんだろう」
「ああ」
「そのまえに、聞かせてくれ。その取(と)り憑(つ)いたとかいう化(ば)け物(もの)の正体を」
「知らない」
「知らない?」
「そう、知らない。親父(おやじ)も鴻(おおとり)さんも教えてくれないんだ。……まずいものだとは言っていたけどな。何しろ、鎌倉(かまくら)を囲む結界(けつかい)を引いたっていうんだから。たしかにたいした相手なんだろ。集まってくる魍鬼(もうき)の類(たぐい)も半端(はんぱ)じゃないからな」
大輔が溜(た)め息(いき)を吐(は)き、半分以上残った煙草(たばこ)を灰皿に押し付ける。
「そのわりには……お前はのんきに構えてるな」
「そうなんだよな。自分でも不思議(ふしぎ)だ。……あんたが来たとたんに気が楽になっちゃってさ。ほんとにあんたの威力は凄(すご)いな……なんて」
「ふざけるな!」
怒鳴(どな)りつけられて、竜憲は首をすくめた。
だが、事実である。
大輔の顔を見たとたん、いつもの自分が戻ってきた。護符(ごふ)の威力とはたいしたもので、魍鬼どもの姿とともに、その影響力も消えるようだ。
それが母親と、大輔の力の質の違いなのだろう。
自己防衛(ぼうえい)に終始して、魔物(まもの)の目から逃(のが)れるために壁の向こうに隠れようとする母親。魍鬼たちは竜憲が壁の向こうにいるとわかっているかぎり、警戒を緩(ゆる)めない。
いつ出てくるか、待ち受けているのだ。
過剰(かじよう)防衛と言ってもいいような、“現れるまえから叩(たた)き切る”タイプの大輔には、己(おのれ)の保身のほうが先に立つのか、いったん引き下がる。
そして、大輔が消えるのを待っているのだ。
確実に受け取ることはできないが、待ち受ける連中の意識の違いが、竜憲の心理に影響を与えていた。
「あんたはたいした戦士だ。……そういうことさ」
「なんだと?」
「腕の立つ用心棒(ようじんぼう)と言ってやってもいいぞ。つまり……あんたが無意識のうちに連中を威嚇(いかく)してくれるから、俺は安心してられる。連中はあんたしか見ていない。まるっきりかなわないのにな……」
声を上げて笑った竜憲は、ゆっくりと身体を引き起こした。
「あんたがいれば、邪魔(じやま)は入らない。……その間に、俺の中に、あの化け物を封(ふう)じるそうだ。鴻さんが、やっつける方法を見つけるまでの間。……下手(へ た)すりゃ、一生抱えて歩くことになるが……そううまくはいかないだろう」
「なんだと? 聞いてないぞ」
「そりゃ、そうだ。俺だって、さっきどさくさ紛(まぎ)れに言われたんだもの」
「……そんないい加減な……」
「でもそれしか手がないなら仕方がない」
あっさりと言い切った竜憲を、大輔が目を眇(すが)めて眺(なが)める。
「お前の中のヤツを成敗(せいばい)するってんじゃないのか?」
「鴻さん一人で? 無理だよ。親父(おやじ)と一緒でも無理だ」
「……お前の中に封(ふう)じるっていうのは、どういうことだ!」
「だから。俺が呪(のろ)いのリカちゃん人形になるってことで……」
「竜憲!」
怒鳴(どな)り据(す)えられ、竜憲はうっそりと顔を上げた。
この男が竜憲と呼ぶ時は、危ない。
たいていそのあとで拳(こぶし)が飛んでくることになるのだ。さすがに、今回ばかりはその危険はなかったが、心底怒っていることはわかる。
「いい加減にしろ。何が呪いのリカちゃん人形だ」
「……だからだな……。べつに呪いの市松(いちまつ)人形でもいいが……。俺は俺のままだ。だが、俺のまわりには、いままで以上に化(ば)け物(もの)が押し寄せる。俺に直接手出しはできないが、俺に係(かか)わる人間には、被害が及ぶ事もあるだろう。……そこいらは鴻さんの腕次第だな。どこまで封じられるか……。うまくいけば、能力がある人間にだけわかる、って程度まで、封じられるだろう」
「……そううまくはいかないってのは? 下手(へ た)すりゃ一生、その化け物を抱えるってのは、わかる。だが……」
いったん言葉を途切れさせた大輔は、苛立(いらだ)たしげに煙草(たばこ)を灰皿にねじ込んだ。
「あんた。そんなにヘビースモーカーだったか? さっきからもう二(ふた)箱目だろ。……たしか、一日……」
「うるさい、ごまかすな。……うまくいかない。そのあとだ。何を言いかけたんだ。お前は何を考えているんだ?」
この男が、恐ろしく勘(かん)がいいということを忘れていた。
不用意に言葉をもらしてしまったが、いまさら悔(く)やんでも仕方がない。何より、言うべきなのだろう。
父親が立ち会わないとなれば、頼れるのは大輔だけなのだ。
鴻はまるで信用できない。
煙草を引き寄せた竜憲は、ゆっくりと火を点(つ)けた。
「……つまり……。封じるには、俺の器(うつわ)は小さいってことだ。無理やり押し込めるんだから、向こうの力が強くなれば、器は壊れるってことさ……」
大輔が目を剥(む)く。
「そういうことだ。まぁ、持って一年か二年。そこまで持てば、いいほうだろうな」
「おい……」
「封(ふう)じるのが成功するかどうかもわからないしな。……とんでもないぜ、こいつらが目覚めたら。親父(おやじ)たちは、俺を殺してでも、始末する気だったらしいが、それさえできないんだ……」
「ちょっと待て……。だったら……」
「まあ聞け。お前に頼みがあるんだ。……俺が妙なことをしでかしそうだったら……」
大輔を正面から見据(みす)え、言葉を切る。
さすがに言いづらかった。
案に相違して、大輔は口を挟(はさ)もうともしない。
小さく咳払(せきばら)いをし、ソファーに座り直した竜憲は、あらためて大輔を見つめ、言葉を繰り返した。
「何かしでかしそうだったら……な。――殺せ」
大輔は目を見開いた。
「殺せ……だと?」
「そうだ。殺せ」
「馬鹿(ばか)言うな。できるわけが……」
「いや、できる。そこまで俺がこの化(ば)け物(もの)と同化していれば、こいつも一緒に殺せるはずだ。すくなくとも、封じることはできるはずだ。あんたならね」
「馬鹿か、お前。……俺はそんなことを言っているんじゃないぞ」
「駄目(だめ)だ。やってもらうぞ。そうでなければ……」
「黙れ!」
一喝(いつかつ)され、竜憲が口をつぐむ。
「ぺらぺらと……わけのわからんことを捲(まく)し立てやがって! いい加減にしろ! 頼まれてできることとできないことがあるんだぞ」
「わかってるよ。けどな……」
「親父さんが言ったのか?」
「違うよ。俺の勘(かん)だ」
「なおさら聞けるか! そんな話!」
「だろうな……」
竜憲はソファーにごろりと横になった。
「もういい。あんたはそんな奴(やつ)だ。……俺は真剣に頼んでいるのにさ」
無言で応じる大輔を、ちらりと見て、天井(てんじよう)に視線を投げる。
大輔が低く唸(うな)った。
それから、ゆっくりと煙草(たばこ)に火を点(つ)ける。
「……約束はできない」
「あ……そう」
「だが、覚えておく」
もう一度、大輔を見た竜憲は、にっこりと微笑(ほほえ)んだ。
「ありがとう」
返答はない。
再び、天井に視線を戻し、竜憲は長く煙を吹き出した。
「……あんたしか頼めない。……俺は、鴻を選ばなかったんだ……」
曖昧(あいまい)な言い方をしてやっているのだが、大輔は答える気はないようだ。手探(てさぐ)りで灰皿を探す手もとに、クリスタルの器(うつわ)が押し付けられる。
「……俺は力のある者を選ぶそうだ。音楽でも絵でも、人間でも。……俺にとって価値があるものと言ってもいいな……。だが、俺は鴻を近づけなかった。弟子(でし)のなかでは若いほうだし、向こうはお守りをする気だったらしいが……。とにかく逃げ回っていた。何故(な ぜ)か、虫が好かなかったんだ」
煙草を揉(も)み消し、頭の下で腕を組んだ竜憲は、小さく笑った。
「……親父(おやじ)だけが倒れたのも妙だ。たしかに、親父がやるべきだったかもしれないが、あれだけ疲れていることを知っていたのに、やらせた。それが引っかかっている」
「……だが……」
言葉を待つ。
しかし大輔は、再び沈黙(ちんもく)を守った。
言いたいだけ言わせようという腹だろう。
「俺のほうが変なのかもしれない。……だがな、親父より鴻のほうが力は上なんだ。それが……納得(なつとく)できない。どうして親父が倒れたのか……。この前、あんたが言っただろう。俺が親父に造反するのを待っているって……。あれは造反じゃなくて……なんといったらいいか……。とにかく、俺が変わるのを待っているんじゃないかってね」
「おい。あれは、そんな気がしただけで……。親父さんの力とは違う力を、認めているって意味でだな……」
「だから、いまがそうじゃないか」
ちらりと大輔に目をやった竜憲は、小さく笑った。
ひどく真剣な顔で自分を見据(みす)える男は、自分がどんな状況に巻き込まれたのか、ようやくわかったらしい。
「……この中の化(ば)け物(もの)が目覚めれば……。もし、それをあいつが操(あやつ)れるとすれば、これ以上ない式神(しきがみ)になるだろう」
「……まったく。お前がそこまで疑い深い奴(やつ)だとは知らなかったよ」
「そうか?」
「……ああ。どっちかってえと、単純バカだと思っていた」
にんまりと笑った竜憲は、手探(てさぐ)りで煙草(たばこ)のパッケージを引き寄せた。
大輔のことをからかっておきながら、自分も、普段の数倍のペースで煙草を消費している。
明日はないのかもしれない、と考えると、どうしても煙草に手が伸びるのだ。
「……鴻は、俺が完全に乗っ取られても、見逃(みのが)すだろう。なんとでも言い訳ができるしな。……だが、あんたにはそれは言わせないぞ。化け物と戦う俺がどう動くか、あんたなら知っているはずだ。……もし、負けそうだったら……殺してくれ」
煙を吹きながら、大輔を見やる。
またしても、無言だ。
「大丈夫(だいじようぶ)だって、本当なら勝てたはずだ、とか言って化けて出やしないから。間違いで殺してくれてもいい。……だいいち、あんたのところには、化けて出ようにも、出られやしないんだしさ」
声を殺して笑う竜憲を、大輔は不気味(ぶきみ)なものでも見るように見据(みす)えていた。
「なんだったら、ナイフか何かを持ち込んでくれ。……鴻が守り刀を持っているはずだけど、取り上げるのは苦労だろう。……たしか、そこいらにサバイバルナイフが……」
「お前は、負ける気なのか!」
胸ぐらを掴(つか)み、竜憲を引き起こした大輔は、頬(ほお)を引きつらせて歯を剥(む)いた。
「殺せだのなんだの言いやがって。勝ちゃいいだけだろうが。え? 違うか? ……お前が封(ふう)じる気にならなきゃ、成功するもんも駄目(だめ)になるだろうが!」
体温が上がる。
大輔は怒りにまかせて竜憲を揺すった。
「手前の勝手ばかり言いやがって。わかってんのか? お前を殺せば、こちとら殺人者になっちまうんだぞ。一生を棒に振れって言ってんだからな!」
「大丈夫だ……」
胸もとの手を掴み、竜憲はゆっくりと押し退(の)けた。
「鴻さんがうまくやってくれる。おふくろも、親父(おやじ)も……。どうしてそうなったか、わかってくれるはずだ」
「そういう問題じゃないだろうが……」
もう、何を言っても無駄なのだ。竜憲は覚悟(かくご)を決めている。
ようやくそれがわかった大輔は、煙草(たばこ)に手を伸ばした。
自分には何も見えない、聞こえない敵に、大道寺(だいどうじ)に係(かか)わる人間がすべて立ち向かおうとしている。何も見えないが故(ゆえ)に、同席を求められたのであれば、自分は自分の判断で、対処するしかないのだろう。
「……少し、休んどけよ。ただし、ここで、な。あんたが言うとおり、俺も少しは戦う気でいる。ここに化(ば)け物(もの)が現れたら、疲れて仕方がない……」
「ああ……わかったよ……」
実際は、何もわかっていないに等しいのだが、そう答えるしかない。
自分だけが部外者でいることはできないのだ。
今度にかぎり。
ゆったりと椅子(いす)に身体を預けた大輔は、目の前で寝そべる男に、眇(すが)めた目を向けた。
百目蝋燭(ひやくめろうそく)と呼ばれる大きな和蝋燭が、正方形の頂点に置かれている。その周囲に、少し小振りのものが縁(ふち)を描き、脚(あし)の長い燭台(しよくだい)にはそれぞれに護符(ごふ)が貼(は)り付けられていた。
道場の床板(ゆかいた)は壊(こわ)れたままだが、応急処置として、板が打ち付けられている。
この場を調(ととの)えるために、忠利(ただのり)の弟子(でし)たちは、必死に作業を行ったのだろう。
竜憲(りようけん)の中に入り込んだ魔物(まもの)と、戦うほどの力もないとわかっている弟子たちは、せめて自分にできることをやっていた。
師匠(ししよう)が倒れたという衝撃(しようげき)も、その息子が恐ろしい魔物に取(と)り憑(つ)かれたという事実も、彼らの熱意を奪ってはいない。むしろ、状況が逼迫(ひつぱく)しているからこそ、自分たちができることを精いっぱい熟知している。
トラブルが起こったからといって、精神的混乱を来たすような者では、修行もできないのだ。
さすがに、大道寺(だいどうじ)忠利が選んだ者たちだけあって、全員が黙々と作業を続けていた。
「……鴻(おおとり)さん。これでよろしいでしょうか……」
道場に通う弟子(でし)のなかでは最年長の男が、年下の男に問う。
「お手数をかけます」
頭を下げた男は、白装束(しろしようぞく)に身を包んでいた。
長い黒髪を総髪に流し、漆黒(しつこく)の瞳(ひとみ)を道場に向けた鴻は、蝋燭(ろうそく)の位置を確かめると、再び頷(うなず)いた。
「……おわかりだとは思いますが、私が……いえ、今回は姉崎(あねざき)くんがここを出るまで、何があっても、けっして扉(とびら)を開かぬように、お願いいたします」
「……あの、青年が……」
「私も、取り込まれるかもしれません。しかし、彼だけは、何も受け付けないでしょう。彼は、排魔(はいま)の性(しよう)を持っていますから」
「わかりました」
どれほど重大なことか。全員がわかっている。
いったん道場に竜憲たちが入ってしまえば、彼らにできるのは扉を護(まも)ることだけなのだ。そして、一匹でも魍鬼(もうき)を倒すこと。
「では……。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げた鴻が扉をくぐる。
竜憲と大輔(だいすけ)は、廊下(ろうか)の端で、そのやりとりを見守っていた。
「……大時代なことで……」
「そう思うだろう。ところが、けっこうただの儀式じゃないんだな」
「で、俺たちは?」
「鴻さんが呼んだら、入るのさ。いま、結界(けつかい)を張っているはずだ。……で、舞台が調(ととの)ってから、主役が登場する」
「なるほどね」
大輔の目から見れば、ただの虚仮威(こけおど)しなのだろうが、蝋燭の一本、弟子たちの立ち位置一つにも意味があった。
もっとも、大輔はその意味などわからなくていいほど、絶大な力を持っていた。
彼らが護るのと、大輔の髪をばらまくのと、どちらが強いかと言われれば、断言する自信はない。ひょっとすれば、意思がないぶん大輔の髪のほうが強力な結界になるかもしれなかった。
魍鬼の囁(ささや)きに惑(まど)わされることもなく、幻(まぼろし)に無駄(むだ)な力を使うこともないのだ。
だが、あえてそれをやる気にはならない。
問題は、道場の中だった。
「……竜憲さん。……ご用意いただけますか」
「はい。……よろしくお願いいたします」
神妙な顔で頭を下げた竜憲は、大輔の腕を軽くこづくと道場に向かった。
火を点(とも)された蝋燭(ろうそく)の渦(うず)が、二人を迎える。
大気自体が渦巻いているような。
すべての気が、中央の正方形に流れ込むように配置されていた。
一瞬、目眩(めまい)を起こした竜憲の腕を、大輔が掴(つか)む。
「おい。大丈夫(だいじようぶ)かよ、いまからこんな調子で……」
「いい傾向さ。術が効(き)いているんだから……」
笑う顔は、どこか覇気(はき)がない。
不安げに眉(まゆ)を寄せる大輔の脇を、肘(ひじ)で突いた竜憲は、深々と頭を下げてから、道場に踏み込んだ。
背後で、音をたてて扉(とびら)が閉じられる。
「中央に……。姉崎くん。君は私の正面に座ってください」
鴻に指示されたとおり、竜憲は正方形に区切られた蝋燭の中央に腰を下ろした。
「もし、万が一気分が悪くなるとか、自分を失いそうになれば、言ってください。術を中断しても、問題はありません。……後日、先生とともに行いますので。……我慢なさらないでください」
「わかってる。……けど、あとになるほど面倒(めんどう)になるんだろう?」
「ですが、失敗するより、よほどいい。……姉崎くん。あなたに見えるほどのものがあれば、教えてください。……気のせいとか、錯覚(さつかく)とか思わずに。よろしいですね」
「はい……」
簡単に応じた大輔は、鴻の正面にゆったりと腰を下ろした。
自分が何をするのかもわからず、こんなところに座っているのが不思議(ふしぎ)だが、いまさらやめることはできない。なんの役にも立たないことは、二人がいちばん知っているだろうと思い決め、姿勢を正す。
「……楽にして結構です。……あなたは鏡の役ですから。私の力を跳(は)ね返し――いえ、増幅して跳ね返す役割なのです」
簡単に説明した鴻は、ゆったりと胸の前で手を合わせた。
奇妙な呪文(じゆもん)や薬、水晶玉(すいしようだま)などが登場することを期待していた大輔は、わずかばかり失望を覚えていた。
何も起こらない。
竜憲と鴻が向かい合って座り、それを見守る、という立場でしかないのだ。
しかも、これはひどく退屈(たいくつ)な見せ物になりそうだった。
それなりの力は使っているのだろうが、大輔には何も見えない。ただ緊迫した空気だけは辛(かろ)うじてわかる。
竜憲の背中をこうして見るのも、めずらしいことだ。
たいてい、少し上から見下ろすか、顔を突き合わせていがみあっている。そのくせ、いちばん近しい友人だというのだから、変な話だ。
互いに利用しているだけ、と認識していたが、それだけでもないのだろう。
趣味は合わない。
特に、女の趣味はまったく違っていた。
幸い、と言うべきなのだろう。
どう見ても、竜憲のほうが女たちが群(むら)がる顔をしているのだ。体格だけは大輔のほうが勝っていたが、それも、近頃では嫌われる原因の一つになっていた。
「何故(なにゆえ)!」
突然の声に、大輔は思考を現実に引き戻された。
答えは聞こえない。だが、鴻の声に、竜憲が答えているのだろうということはわかった。
「ならばなぜ。いまさら、迷い出ても、何もあるまい。静かに眠られるがよかろう」
竜憲の中に入り込んだとかいう魔物(まもの)と、話し合っているらしい。
すん、と鼻を鳴らした大輔は、肩の力を抜いて二人を見つめていた。
たいしたことはない。
竜憲がいざとなれば自分を殺せ、などと言いだすから、いらぬ心配をしてしまった。しかし、現実には、竜憲の中に入った魔物とやらに、言葉を投げかけているだけなのだ。
これなら、竜憲が魔物と戦っている時のほうがよほど派手(はで)だった。風もないのに髪は逆立(さかだ)つわ、目は光るわ。挙(あ)げ句(く)のはてに、どこからともなく、光が発せられたりした。
密(ひそ)かに、道具も使わずSFXができる男、と命名してやったものだ。
だが、まわりの蝋燭(ろうそく)はちらりとも揺れなければ、光源のない光が現れるわけでもない。
虚仮威(こけおど)しさえないような、退屈(たいくつ)な芝居(しばい)だった。
「そのまま眠られよ……。その身をしばしの寝床とされるがよい……」
そのために、竜憲は魔物につきまとわれることになるのだ。
説得することはできても、倒すことができない魔物とやらのせいで、竜憲は犠牲(ぎせい)になる。
承服(しようふく)したくはなかったが、彼が選んだことである。
「……ならば……。がっ!」
ぐらりと、鴻の身体が揺らいだ。
「鴻さん……」
腰を浮かせかけた大輔に、鴻が首を横に振る。
両手で押さえた腹に、赤い染(し)みが浮いていた。
たいした出血ではない。だが、何もなかったのだ。何も現れなければ、妙な音もしないのに、鴻の腹には斜めに血の染みが走っていた。
「……眠られよ。この世にそなたの場所はない。そなたの名もない……。そのまま……静かに……」
突然、鴻の身体が弾(はじ)け飛ぶ。
大輔は、自分でも意識せずに立ち上がっていた。
そのまま、鴻に駆け寄る。
蝋燭(ろうそく)をなぎ倒し、床(ゆか)に倒れた男は、意識を失っているようだ。
「鴻さん! どうすりゃいい? 聞いてないぞ、こんなこと!」
がっくりと垂(た)れた首は、ただの気絶ではないと教えてくれる。息をしているのが不思議(ふしぎ)なほど、完全な昏倒(こんとう)だった。
「リョウ!」
振り返った大輔は、そのまま言葉を失った。
妖艶(ようえん)な美女。
どうしてここまで美しいのか。人にはあり得ない美貌(びぼう)の女がそこにいた。
「……まさか……」
これが、竜憲が言っていた異変なのか。
これを殺せというのか。この足もとに額(ぬか)ずくしかないような、壮絶(そうぜつ)な美貌の持ち主を。
「……リョウ……? どうしちまったんだ?」
女の顔の向こうから、竜憲の顔が浮かび上がった。
どこか似ている。どこが、と問われれば困るが、どこかしら似た部分がある。しかし、目を閉じて表情のない竜憲は、何も聞こえていないようだった。
「……おい、リョウ」
「……わかりました」
何が。
大輔は何を言ったわけでもない。
しかし、美貌(びぼう)の主は、徐々に影を薄くしていった。
「リョウ! おい。貴様! 何をボケてやがんだ! しっかりしろ! 鴻がブッ倒れたぞ。聞こえてんのか! このボケ!」
目を閉じた竜憲の顔が、はっきりと見え始める。やがて、苦痛に眉(まゆ)を寄せた竜憲は、瞼(まぶた)を痙攣(けいれん)させて目を開いた。
「リョウ!」
何度か瞬(まばた)きを繰り返し、ようやく、表情を取り戻した竜憲は、大輔の顔をまじまじと見据(みす)えた。
「いつまでボケてんだよ。鴻まで倒れちまったぞ。どうする? 扉(とびら)を開けてもらっていいのか?」
「……鴻……さん? ……が?」
竜憲のほうも意識を失っていたのだろう。その声は掠(かす)れて、ひどく聞き取りづらかった。
「鴻さん! ちょっと、目を覚(さ)ませよ! 俺は何もできないって言っただろう!」
黒髪を流して、倒れ伏す男の頬(ほお)を、いささか乱暴に叩(たた)く。
霊能者(れいのうしや)と言っていい二人に倒れられたのでは、何をすればいいのか、大輔にはまるでわからないのだ。
「……あぁ……鴻さん……。気がつきましたか……。どうしちゃったんです……」
漆黒(しつこく)の、竜憲の顔に重なっていた女より、よほど化(ば)け物(もの)じみた目を開いた男は、長く息を吐(は)き出した。
「……竜憲さんは……」
「ボケてる。……けど、無事だ」
「……よかった……」
大きく息を吐いた鴻は、ゆっくりと身体を引き起こすと、竜憲を見据えた。
まだ惚(ほう)けている竜憲は、蝋燭(ろうそく)で囲まれた中央に座ったままだ。
「……何か、ありましたか?」
「何かって……あんたがブッ倒れて……。リョウの顔が変わって……。けど、わかりました、とか言って、すぐに消えちまったけど……」
「……まったく……。私が術を試(こころ)みるより、あなたが説得すれば、それでよかったのですね」
「はぁ?」
間の抜けた声を出した大輔に、鴻は笑(え)みを投げた。
「彼女は、竜憲さんの中で眠るのです……。しばらくの間……」
ひどく曖昧(あいまい)な答えに、問いを投げようとした大輔は、その相手が再び気を失ったことを知って、口汚く罵(ののし)った。
終 章
太陽が眩(まぶ)しい。
昨日までの寒さが嘘(うそ)のようにとれ、世の中はいっきょに春になっていた。
正直なもので、庭木もいっせいに芽を吹いている。昨日までが異常だったのだと、この風景を見ればわかった。
コットン・シャツの上にざっくりとしたセーターを着込んだだけの姿で、大輔(だいすけ)は庭に出ていた。
用心のために一晩竜憲(りようけん)の家に泊(と)まったのだが、別段怪(あや)しいことはなかった。魔物(まもの)に打ち据(す)えられた鴻(おおとり)も、何事もなかったかのように、道場の後始末をしている。
説明もしてもらえずに、あの奇妙な戦いに同席させられた大輔も、いまは平常に戻っていた。
「……本当に封(ふう)じられたのかな……」
「え?」
いつのまにか、隣に来た竜憲が、眩しそうに目を細めて、庭木を見つめていた。
「あんたと離れていても、何も起こらない。封じたのなら、化(ば)け物(もの)がうぞうぞ集まってくると思っていたのにな……」
「素人(しろうと)判断ってとこじゃないのか? 全部まとめて封じたとか……」
気楽な言葉を吐(は)く大輔に、竜憲は首をすくめた。
鴻も、魔物を完璧(かんぺき)に封じたと言っていた。しかし、それを行ったのが大輔だと思うと、どうにも承服(しようふく)できない。もっとも、鴻自身が封じたと言ったほうが、より信用できなかったが。
「まぁ、いいじゃないか。何も起こらないってのを不満に思うってのは……不健全だ」
胸を張って言いきった大輔に、竜憲が苦笑をもらす。
何もわかっていないからこそ、楽天的になれるという考え方はないようだ。
しかし、あれほどまわりをうろついていた妖鬼(ようき)どもが、一匹たりとも顔を見せないというのは、気分がいい。
万が一、魔物が逃げ出したのだとしても、いまさら、竜憲には何もできないのだ。
それこそ、大輔が自分の意思で魔物を祓(はら)えないのと同じように。
「ところで、親父(おやじ)さんはどうなんだ? 検査の結果はいつになる?」
「一週間後。親父が帰ってきたら、念のために、もう一度見てもらおうと思っているが……」
「やめとけ、やめとけ。はい、わかりましたって言って、彼女は引っ込んでいったんだから、お前の中で眠ってんだろうよ」
「それならいいけど……」
逃げ出したとすれば。逃げ出した先で新たな犠牲者(ぎせいしや)を捜し出したとすれば、自分にも責任の一端はある。しかし、魔物(まもの)に取(と)り憑(つ)かれても自覚がなかった竜憲には、それが消えたのか、本当に自分の内で眠っているのか、確かめようはない。
一抹(いちまつ)の不安が残っているのは確かだ。
いまさらどうしようもないことだが。
「それより、お前。……俺はゼミに顔を出すほうが気が重い。……小野(おの)に会うだろ……」
美香(みか)の親友。
竜憲があんなものに取り憑かれたせいで、命を落とした娘の親友に、どんな顔をして会えばいいのだろう。
「……いまさら、どうしようもないがな……。だからだな、大輔。あんた、こんな話は二度と持ち込むなよ。こんなことになっても、責任なんか取れないんだから……」
「わかったよ……。肝(きも)に銘(めい)じた……」
その肝が、いつまで腐(くさ)らずにいるかわからなかったが、一応竜憲は頷(うなず)いてみせた。
とにかく、いまは生き残ったことを感謝するだけだ。後悔も謝罪も、生きているからこそできる。
春の空気をいっぱいに吸い込んだ竜憲は、微苦笑を浮かべた。
あとがき
ホワイト・ハートの読者の皆様。はじめまして、新田一実(につたかずみ)です。
……と、改めて挨拶(あいさつ)しても、この本を手に取っているのは、我々を知っている方ばかりかもしれないし……かと言って「そんなヤツもいたの!?」という人には自己紹介が必要だろうし。困(こま)ったもんだ。とりあえず新田一実である。二人がかりで小説を書く卑怯者(ひきようもの)とか、小説界の“いくよ・くるよ”とか、色々と言われているのだが……。
このストーリーは「リョウちゃんってば、なんて可愛(かわい)いの!」「大輔(だいすけ)ってば、いつか膝(ひざ)カックンやってやる!」という思惑(おもわく)の元、書かれた物である。
可愛いリョウちゃんはともかく、大輔は長身、がっしりとしているくせに痩躯(そうく)に見える、いい男。女にもてる。世渡りもメチャ上手(う ま)い。こう揃(そろ)っていると、ついつい殴(なぐ)りたくありませんか? 何故(な ぜ)か「好きだ!」と言ってくれる読者もいるけれど、実のところ我々は苦々しく思っている。こういう男は、後ろドタマを張(は)り倒(たお)してやりたい! しかし現実には、こいつをしばき倒すには、思いっきりジャンプしなければならないのだ。ああ情けない。
実は、大輔というのは、かれこれ十年以上もつきあっていながら、いまだに飽(あ)きない“殴ってやりたい”キャラクターの典型的発展バージョンなのだ。ところが、一度として成功した例はない。
この話は続きを書いていいらしいので、次回こそ、我々の積年の恨(うら)みを込めて、大輔を不幸のドン底に落としてやる!
我々を応援してくださる方は、お楽しみに。万が一、この妙(みよう)な男が気に入ったなどという方がいれば、せいぜい彼の反撃を期待してくれたまえ。
竜憲(りようけん)は……主人公の常として、トラブルの真(ま)っ只中(ただなか)に放り込むしかないのだが――それがヒーローの運命というものよ――そこはそれ。彼は主人公ですから、きっと不死鳥のように何度も蘇(よみがえ)ってくれるでしょう。サコちゃんも、そのうち君のよさに気づいてくれるさ。
……きっとね。ホントかなぁ。
そういえば、我々はもとをただせば、SF伝奇なるジャンルでデビューを果たしたのである。だが、最初のシリーズ以来、いわゆる伝奇ものとはまったく御無沙汰(ごぶさた)。このストーリーを伝奇物と言うには少々気が引けるけれど、魑魅魍魎(ちみもうりよう)が闊歩(かつぽ)するお話って、やっぱり好きだったのね。
日本人なら、妖怪(ようかい)だぜ。ドラゴンじゃなくて竜(りゆう)。スフィンクスじゃなくて狛犬(こまいぬ)よ。魔女(まじよ)というより山姥(やまんば)か。なんか違うって? いいじゃない。どうせ、その場のノリだもの。
ということで(どこが?)、ストーリーはもちろん、この妙なトリオ……鴻(おおとり)を入れるとカルテットが、この先どういう事件に巻き込まれてしまうのか、お楽しみに。
新田一実
本電子文庫版は、講談社X文庫ホワイトハート版(一九九三年一月刊)を底本としました。
魔鏡(まきよう)の姫神(ひめがみ) 霊感探偵倶楽部(れいかんたんていくらぶ)
*電子文庫パブリ版
新田(につた) 一実(かずみ) 著
(C) Nitta Kazumi 1993
二〇〇一年一二月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
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