TITLE : 死者の饗宴 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫
死者の饗宴
霊感探偵倶楽部
新田 一実
目 次
登場人物紹介
序章
第一章 死者の国へ
第二章 彷徨《さまよ》う亡者
第三章 蔵の翁《おきな》
第四章 海より来たる者
第五章 反魂《はんごん》の術
終 章
あとがき
登場人物紹介
●大道寺竜憲《だいどうじりようけん》
霊能者を父に持ち、自らも“破魔《はま》”の力を有する。
しかし、封印《ふういん》を解《と》かれた、美しい魔鏡《まきよう》の姫神《ひめがみ》が身体に入りこんでからというもの、身辺で不可解な現象が相次ぎ、外出禁止。
そして、竜憲の中の姫神を狙う妖魔の仕業《しわざ》のために、彼の肉体は、しばしば危険に巻きこまれることになる。
●姉崎大輔《あねざきだいすけ》
竜憲の幼なじみ。妖怪や魔物の類はいっさい信じないが、魔鏡の変化《へんげ》を目《ま》のあたりにしたときから、霊に対する認識は変わりつつある。
竜憲の“護符《ごふ》”的存在だったが、近ごろでは、竜憲にさえ見えない霊を見たり、ついに妖魔に取《と》り憑《つ》かれ、竜憲の身体を襲ったこともある。
●大道寺忠利《だいどうじただのり》
竜憲の父。陰陽道《おんみようどう》の頭《かみ》である。
息子の中に宿した姫神が、やがて禍《わざわい》を振りまくことを案じ、その霊を封じこめるため、出雲《いずも》へ行くことを命じる。
●鴻《おおとり》 恵二《けいじ》
大道寺忠利の一番弟子。
竜憲にとっては、虫の好かない人物だが、姫神の霊を封じられるのは、鴻の中に宿す白蛇だけ。
●佐伯《さえき》老人
出雲に住む霊術師。いまは禁じられてしまった「反魂《はんごん》の術」を操《あやつ》ることができる、唯一の人物。
大道寺忠利も鴻もかなわぬ魔鏡の姫神を、ついに封じられるのか!?
●恵美《めぐみ》
古色蒼然《こしよくそうぜん》たる佐伯の家に住む美少女。
結界が張りめぐらされ、有象無象《うぞうむぞう》の雑霊さえ寄せつけない家で、娘でも弟子でもないこの少女の役割りとは……。
死者の饗宴  霊感探偵倶楽部
序 章
その男は、穏《おだ》やかな笑みを浮かべていた。
ゆったりとした上着は目の粗《あら》い布で、翡翠《ひすい》と金の首飾りを幾重にも巻き付け、恐ろしく派手な飾り帯を締《し》めている。
長い黒髪を二つに分け、耳の横でゆったりと結ぶ。みずらというやつだ。
大輔《だいすけ》は、目を閉じたまま男を観察していた。
どういう仕組みなのかはわからないが、部屋を見回している男の姿が見える。
ベッドに転がる大輔を見下ろし、興味深げに床に視線を落とす。
意識が目覚めているという自信はあるのだが、見えているものが現実だと言いきる自信のほうはない。
自分に取《と》り憑《つ》いた男が抜け出して、部屋を見回しているのは確かだろう。しかし、そもそも自分に何かが取り憑いているということが、信じられないのだ。
裏付けはいくらでもあるのだから、納得できないというほうが正しいだろう。不本意ではあっても自分自身が体験しているのである。それをすべて目の錯覚だ、幻覚だと言いきるほど現在の科学を信じてはいない。
ふと、眉《まゆ》を寄せた大輔は、ゆっくりと目を開いた。
誰もいない。
だが、人の気配は感じた。
ゆっくりと部屋を横切り、窓に近づくと、カーテンごしに外を眺《なが》めている。大輔の身体《からだ》は自由に出入りするくせに、家から出ることはできないらしい。
このまま、窓から突き落としてやれば、二度と戻ることはできないだろうか。あるいは、出ていく気がないだけかもしれない。
それでも、どうすれば触《さわ》ることもできないものを突き落とせるのか、くだらないことを考えながら、大輔は男の気配を探《さぐ》っていた。
人の気配や視線には、大輔はひどく鈍感だ。
竜憲《りようけん》のように、背後から見据《みす》えただけで振り返るような芸当はできない。それも一種の霊感なのだろう。
自他共に認める鈍感人間でも、さすがに自分に取り憑いた化け物が相手なら、気配ぐらいは感じるようだ。
「おい……。何か言いたいことでもあるのか?」
窓に向かって訊《き》く。
カーテンが小刻《こきざ》みに揺《ゆ》れた。
分厚い遮光《しやこう》カーテンは、ひどく楽しげに笑っている。
「勝手に歩き回れるくせに、相変わらず言葉は通じないか?」
にやりと笑った大輔は、ベッドから抜け出すと窓に向かった。
空気が冷えている。
エアコンを止めて三時間も経つのだから、当たり前かもしれないが、それにしてもひどい冷え方だ。
吐《は》く息が白いあたり、物理的に冷えているのだろう。
ぞくりと身体を震《ふる》わせた大輔は、慌《あわ》ててベッドに戻った。
どうせ殴《なぐ》ることもできなければ、話せもしない相手なのだ。わざわざ寒い思いをしてまで、付き合ってやる必要はない。
そう思い決めた大輔は、布団にもぐり込むと、灰皿と煙草《たばこ》を引き寄せた。
名前も知らない古代の戦士が何を考えているのかはわからないが、ただひとつ確かなことがある。
またしても、ろくでもないことが起こるのだ。
自分にはなんの責任もないのに事件に巻き込まれるということに、いいかげん辟易《へきえき》していたが、文句を並べても逃げられるわけではない。それぐらいなら、確実な予知と受け止めて、覚悟を決めたほうがいいだろう。
「……で、今度は何があるんだ? ええ? それぐらい言ってくれてもいいだろう。……勝手に取《と》り憑《つ》いたんだからな……」
寝転がったまま煙草をくわえる。
目を射《い》るライターの炎が、部屋が闇《やみ》に包まれていたことを思い出させてくれた。
つい先ほどまではっきりと見えていた室内が、闇に沈む。
古代の戦士の力か。それとも、彼の視線を意識したために、室内の情景まで脳裏に描き出していたのか。
これを透視能力という気はない。どちらにしろ自分の部屋の中なら、灯《あかり》など点《つ》けなくても歩くことはできた。
「おい。……なんとか言ったらどうだ? ……喋《しやべ》れないなら、ラップ音を出すとか、人魂《ひとだま》を飛ばすとか。コミュニケーションの取りようはあるだろうが……」
我ながら、妙なことを口走っていると思いながらも、大輔はにやにやと笑っていた。
妙といえば、身振り手振りがまるで通じないのも奇妙だ。実際、人間同士ならなんとかなるものだろうに、はっきりと姿が見えるときでも、何が言いたいのかまったく見当がつかない。人ではないからと言ってしまえばそれまでなのだろうが。
「だいたいだな……。何かをさせたいなら、それなりの態度ってもんが……」
言いかけて、大輔は口を噤《つぐ》んだ。
こんなことで憂《う》さを晴らしていても仕方がない。現実は受け止める。それが自分の主義だったはずだ。少なくとも、自分自身が現実として対処せねばならないのだから。
小さく咳払《せきばら》いをした大輔は、煙を深く吸い込んだ。気づかず噛《か》み潰《つぶ》したフィルターが、ひどくまずい。
忌々《いまいま》しげに煙草《たばこ》を灰皿に捩《ね》じ込み、天井を振り仰いだ。
と、不意に気配が消えた。
「ちっ……」
小さく舌を鳴らした大輔は、あらためて暗い室内を見渡した。
「まいるよな……ろくな奴じゃねぇ……」
なんとも意味深長な現れ方をしながら、結局何も伝えずじまい。腹立たしいことこのうえない。文句を言っても通じないところが、なおさらだ。そのくせ、必ず何かが起こるのである。
それが何より、重要な点だ。
このところ静かだっただけに、いやな予感には不思議に現実味がある。
明日になったら、竜憲に探《さぐ》りを入れてみるべきだろうか。
夏に真面目《まじめ》に修行をすると何度めかの宣言をした彼は、今度こそ真剣に考えているようだ。時々どこかに出かけていたし、道場にも出入りしている。
あの鴻《おおとり》が、執事《しつじ》か侍従《じじゆう》のように付きまとって。
それを思い出すと、腹が立つ。
竜憲はあの男を信用しているようだが、大輔はまったく、爪の先ほども信じていなかった。
化け物に取《と》り憑《つ》かれているという点では、三人は仲間だ。しかし、鴻は明らかに別種のものを連《つ》れている。
姫神《ひめがみ》と、古代の戦士。そして二人に対立するもの。
新たな煙草を取り出した大輔は、慎重に火をつけた。
古代の戦士の気配は消えたままだ。
おそらく、大輔の中に戻ったのだろう。
当代随一と言われる霊能者達が、封じることも亡《ほろ》ぼすこともできない魔物。だが大輔が知るかぎり、姫神と戦士は自分達を手助けしてくれる。
恐ろしいほどの力があることは認めるが、排除しなければならないような存在とは思えなかった。
鴻なら騙《だま》されていると言うだろう。
迷惑な存在であることは確かだったが、鴻の敵だというのなら、それだけで弁護する価値がある。こうして騒動が起こるまえに予告してくれるのも、考えようによってはありがたい。
長く煙を吐《は》き出した大輔は、灰皿に煙草を押しつけると、頭から布団を被《かぶ》った。
第一章 死者の国へ
ぴりぴりと首筋が痛む。
冷気だけではない。いくら冬とはいえ、真っ昼間に日の下に立っているのだ。痛みを覚えるほど寒いはずがない。
ゆっくりと目を眇《すが》めた竜憲《りようけん》は、意識を背後に集中させた。
見られている。しかも相手は人間だった。
意味の明確な視線なら、そうするだけで言葉が聞こえてくる。相手が人間でないものなら、より明確にわかるはずだ。
しかし、こうしているだけでは、相手が男か女か。何を言いたいのか、まったくわからない。ただ純粋に強い視線とでもいえばいいのか。
敵意もなければ、好奇心も感じ取れない。
たいていの場合、竜憲に据《す》えられる視線というのは、純粋な好奇心だった。
相手が人間でも妖鬼《ようき》でも、まずは好奇心が表《おもて》に現れる。理由はわからないが、人や妖鬼の興味を引く部分があるようだった。
「……ちっ……」
舌打ちした竜憲は、なるべく自然な態度を装いながら振り返った。
観光地の小さな駅は、閑散《かんさん》としている。くすんだ緑の木々が駅舎のすぐそばまで迫《せま》り、人間よりよほど強い存在感を誇示《こじ》していた。
そのくせ、人の声はうっとうしいほどだ。
頬《ほお》をひきつらせた竜憲は、二、三度瞬《まばた》きした。
と、人の数が膨《ふく》れ上がる。
姫神《ひめがみ》に取《と》り憑《つ》かれてから周《まわ》りに溢《あふ》れていた妖鬼達が消えたのはいいが、最近は人まで見えなくなることがあった。
極端な場合、身動きできないほどの満員電車に乗っても、見えるのは一人だけ、などということまであるのだ。
自分が姫神と同化しつつあるのかもしれない。魔物の目で見ている。人の目ではなく魔物の感じ取ることのできる、特異なものを認識するらしい。
そして、それが現実の人間とは限らないところが、厄介《やつかい》だ。
今のところ、視覚の異常を自覚しているから問題はないが、それがなくなれば大騒動だった。
なにしろ、視覚が魔物でも、身体のほうは純粋に生身《なまみ》の人間なのである。何も見えないのはもちろん困るが、現実と違うものをつねに見続けるというのはもっと困る。
想像しただけでも、神経が衰弱しそうだ。
もっとも、視覚が認識するものとは別に、現実も見ていることは確かだった。時折、見える世界が魔物の領域にずれ込んでも、不用意に人に突き当たることだけはなかったから。
ひどく実際的な自分の心配に、竜憲は息を吐いた。
「おい、リョウ。……どうしたんだ?」
突然声をかけられた竜憲は、目を瞬《しばたた》かせた。
寒がりの熊が、たっぷりとしたグレイのコートの裾《すそ》を蹴《け》りながら、大股で歩いてくる。
途端に、周囲の人間が掻《か》き消えた。
あまりにも強烈な個性のために、ほかのものが消えてしまったのだろう。蛍光灯の下では蝋燭《ろうそく》の炎が見えないのと同じように。
もっとも、友人を見かけた途端に、他人の存在が消えてしまうのは当たり前だ。誰にとっても、見ず知らずの行きずりの他人など、人というより風景の一部でしかない。見えてはいても、認識はしていないだろう。
だが、そうと意識するのは普通ではない。そのうえ、竜憲の目には、本当に見えなくなってしまうのだ。
「リョウ。……おい。……妙なもんでも見えたのか?」
不安げに顔をゆがめる大輔に、竜憲は眉《まゆ》を引き上げた。
「心当たりがある?」
ひくりと頬《ほお》が引きつる。
どうやら、単に運転手として呼び出されたわけではないようだ。特別な理由などなくても、気軽に車つきの運転手扱いする男だが、わざわざ最寄《もよ》りの駅まで来るなどということはしない。
真夏の、気が遠くなるほどの渋滞の中でも、迎えに来いという男が、電車を使ったのだ。何かがあったと考えたほうがいいだろう。
「……まあな。……で、何か見えたのか?」
「べつに。ちょっと人が見えづらくなってるだけだよ。……化け物の視線になっているってとこかな……」
露骨に顔を顰《しか》めた大輔《だいすけ》は、つくづくと竜憲を見下ろした。
真剣な顔がおかしい。
くすくすと笑った竜憲は、顎《あご》をしゃくって車に向かった。
見知らぬ人間を人として認識することなど、めったにない。よほど突飛《とつぴ》な言動でもしないかぎり、風景の一部でしかないのだ。
そう考えると、人の姿がぼやけていることも気にならなくなった。
あまりよい兆候ではないだろうが。
それよりは大輔が異変を感じたもののほうが気にかかる。大輔が関わるようなものは、始末が悪いのだ。
少なくとも今までは。
どうということはない騒ぎなら、数えるのもいやになるほどしょっちゅう起こっている。なるべく霊的なものと関わらないようにしているのだが、それでも巻き込まれることがあった。
もっとも、向こうから近づいてくるものを遠ざけるというのは、不可能なのだ。
切り倒された古木の嘆きを聞いてやったのは、つい三日前だった。自分でも情けないとは思うが、ただ泣いてやることしかできなかった。
ところが、古木はそれだけで消えたのだ。
おそらく、物理的に涙を流したのは竜憲だったが、心情的に泣いたのは姫神《ひめがみ》だったのだろう。
そんな、一月《ひとつき》も経てば忘れてしまうような、些細《ささい》な事件と別種のものが、動き始めているはずだ。
確信めいた思いに、竜憲は小さく笑った。
「……で、どうする? ドライブなら、早めに切り上げるしかないんだけど……」
「予定があるのか?」
「ま、ね。親父《おやじ》の説教。……ちょっと道場に顔を出さないと、すぐに文句を言うからな。夜には帰ってるはずだから、一応、いないとね……。また戒厳令《かいげんれい》が布《し》かれちゃいそうだ」
ドアのロックを外《はず》した竜憲は、ひょいと眉《まゆ》を上げた。
「なるほど……」
さっさと助手席に潜《もぐ》り込んだ大輔は、やはりドライブが目的ではないようだった。昼過ぎに出発するのなら、明け方まで走り続けるというのが、いつものパターンだ。
それを黙《だま》って車に乗り込むというのは、話があるということか。
「……どうする? そこいらを走る?」
「そうだな……」
ステアリングを握《にぎ》った竜憲は、ゆっくりとギアを入れた。
意識しなければ風景に溶け込んでいた人間が、障害物となった途端に認識できる。だからこそ運転できるのだが、自分の感覚に疑問を抱いてしまう。
自分自身も人間なのだ。そのくせ、ごく限られた者以外は、人という種類として認識しているに過ぎない。
犬や猫を見るのと同じ目だ。
寒気がする。
姫神《ひめがみ》の感覚はこんなものなのだろう。すべての生物が同列なのだ。
それが、正しい感覚なのか、それとも神ゆえの感覚なのか、竜憲にはよくわからなかった。
だからこそ、忠利《ただのり》は姫神を怖《おそ》れるのかもしれない。神が特別と認めぬからには、人間にもより以上の加護はない。むしろ、ほかの命に害を及ぼす存在と思われていたら。人間にとって、人を人と認めぬ神は何より恐ろしいだろう。そのうえ、その神はとてつもない力を持っているのだ。人が草木を薙《な》ぎ払《はら》い、小さな虫や動物を簡単に殺すのと同様に、姫神は人間を指先一つで消し去るかもしれないのだ。
確かに想像したくない。
だが、道を造るといって不用意に掘り返したために、根を断ち切られ死にゆく古木の声が、あるいは道端で車に轢《ひ》き殺された動物の痛みが聞こえてしまう、そんな声が心に届く度《たび》に感じる哀しみと、やり場のない怒りはどうしようもなく竜憲を落ちこませる。整地され、管理された緑の庭を見るときに感じる、不可解な不快感とも共通の感覚だった。
それは単なる感傷なのかもしれないが、その度に感じる矛盾は如何《いかん》ともし難い。少なくとも、姫神のもとに集《つど》う魍鬼《もうき》達の言い分や、どこにでも漂《ただよ》う声なき声の悲しい囁《ささや》きは、すんなりと竜憲の精神に届くのだ。
それが、身の内に潜《ひそ》む姫神の影響だけだとは、どうしても言いきれない。
「どうした……?」
不意に声が降る。
「え……あ……何?」
慌《あわ》てて、澱《よど》んだ思考の檻《おり》から抜け出した竜憲は、ルーム・ミラーの端に映る半分欠けた大輔の顔をちらりと眺《なが》めた。
「何じゃねぇだろ」
「ごめん……なんだった?」
「……なんだっただと? ……まだ、なんにも言ってねぇよ」
なんとも不機嫌《ふきげん》な声が返る。
「ごめん……」
「ごめんじゃないぜ。……変だぞ。やっぱりなんかあったんじゃないのか?」
「ないない」
「ほんとか?」
「うん。ちょっといろいろ考えてただけ。……言ったろ? この頃、人が見えにくくなっててさ」
「それって、けっこうまずいことじゃないのか……」
大輔が真顔で呟《つぶや》く。
「え? そう? ……でも、あんただってそうじゃないの。自分と関係ない人間なんて、見てるようで見てないもんじゃない。……ちょっと度は過ぎてっけどさ……」
内心とは裏腹に、しれっと言ってのける竜憲を、大輔は眇《すが》めた目で眺《なが》めた。
「変な奴……」
「そりゃ、ご同様」
ルーム・ミラーに向かって、にっこりと微笑《ほほえ》んだ竜憲は、ステアリングを握《にぎ》り直した。
「そんなことより、あんただろ? なんか話があったんじゃないの?」
途端に大輔が唇《くちびる》を引き結んだ。
「何? そんなにヤバイことでもあった?」
半分笑いながら、さらに問いを重ねると、大輔はますます不機嫌《ふきげん》な顔になった。
冗談めかして聞いてはいけないことだったらしい。小さく、咳払《せきばら》いをした竜憲は、あらためて問い直した。
「なんだよ。……ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんないだろ?」
ふと、車で話すと言い出した理由を理解する。誰にも聞かれたくない話なのだろう。確かに車中とは、このうえなく手軽で効率的な密室だ。
「……そうだな……」
ようやく口を開いた大輔は、大きく息を吐くと、こころもち小さな声で言葉を続けた。
「……出たんだ……」
さらに続くであろう言葉を待って、竜憲は大輔をちらりと見やった。
だが、いっこうにそれ以上の言葉は出てこない。しばらくは黙《だま》っていたが、そのうちに辛抱《しんぼう》できなくなった。大輔のもったいぶった物言いはいつものことだが、この間は少々長過ぎる。
「何が? 化け猫でも訪ねてきたわけ?」
「だから……」
さらに言い難そうに言葉を続けようとした大輔を遮《さえぎ》り、竜憲は声をあげた。
「あ! あいつか!」
一瞬、間をおいて、大輔が小さな声で肯定する。
「そうだ……よ」
「なんだ。そんなこと……でもないか」
些細《ささい》なことのようにも思えるが、一面でひどくいやな予感を掻《か》き立てる話だ。
もともと、大輔は何も見えない男なのである。本人は自覚もなしに、近寄る雑霊、それどころか妖鬼《ようき》の類まで、切り捨て排除しているのだ。その彼に見えるものが現れたのなら、それだけでも警戒警報を出すに値する。ただ妙なものが見えるという警報ですむ。しかし、あいつが大輔の前に現れたということは、警戒警報どころか緊急避難信号が出ているようなものだった。
あいつ、すなわち、大輔に取《と》り憑《つ》いた古代の戦士。
姫神《ひめがみ》の情人でもある。
本来なら現実以外は見えないはずの大輔に、竜憲や彼の父である霊能力者、大道寺忠利《だいどうじただのり》でさえ手に負えない魔物を葬《ほうむ》りさる力を与えるのも彼だ。あるいは大輔の中に潜《ひそ》む、その特異な力を形として引き出している、ともいえる。
だが、普段は姿どころか、その気配ですら感じられない。大輔自身もそうらしいし、当代随一といわれる霊能力者でさえ、看破《かんぱ》することができないほどなのだ。
大輔に、いや、どちらかというと、竜憲の身に何かとてつもない災厄《さいやく》が降りかかるときにしか、彼は姿を現さないのである。
証拠があるわけではない。
しかし、竜憲にとっても大輔にも、それは確証に近い、確実な予兆だった。
なるほど、大輔が人の顔を見るなり、妙なものを見たのかなどと訊《き》くはずだ。彼には何より心当たりがあったわけである。
「最悪……」
「だろう? ……今度はなんだろうな」
言ってしまったら、気が楽になったのだろう。大輔の口調は、まるで他人《ひ と》事《ごと》を語るようである。
「何か言ってなかったのかよ……」
「言っていた」
「でも聞こえなかったわけね」
「そうだよ。……何度も言わせるな。いつも言ってるだろう。手遅れになってから、忠告してくれるんだ、あいつは……」
大袈裟《おおげさ》に溜《た》め息《いき》を吐いた竜憲は、あらためて車の影のほとんどない路上を見据《みす》えた。
見事に浮き世離れした会話をしながら、ごく普通に運転手を務める自分が、なんだかひどく妙に思えてくる。その隣で、真面目《まじめ》くさって言葉を綴《つづ》る大輔の心中はどうなのだろう。
本来、大輔はそういった類の話を信じるタイプではなかったのだ。それが、あのときから、ものの見事に巻き込まれた。
竜憲の身体に姫神が入り込んだときから。
「なぁ、大輔」
「ん?」
「あいつが出てくるときって、どんな感じがする?」
その問いに、大輔は訝《いぶか》しげに眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「どんな?」
「……そう、どんな……」
「……どんなねぇ。べつに……特別どうってことは……。突然、目の前に立ってたりするからな。あとは、見るなだの、戦えだの、土壇場《どたんば》になってわめくんだ」
「……鈍《にぶ》い奴」
口の中で呟《つぶや》いた竜憲を、大輔はちらりと見やった。
「何か言ったか?」
「べつに……」
「そういうお前はどうなんだ?」
「え……?」
「え、じゃないだろう? なんか、お前……時々乗っ取られているだろ……」
「あん?」
「……時々、お前の顔が……あの例の顔……」
言い澱《よど》んだ大輔を見つめ、竜憲は目を瞬《しばたた》かせた。
「例のって……あ……あんた、見えんだ」
「あ? いまさら……。あんな美人は、一度見たら……」
急に言葉を跡切《とぎ》れさせ、大輔は小さく咳払《せきばら》いをした。
「やめようぜ。こんな話は……どうも気が滅入《めい》ってしょうがない。そんなことより、今のことだ」
そう断じて、大輔はシートに腰を落ち着け直した。
正直なところ、あまり話題にしたくない。大輔自身に取《と》り憑《つ》いたという例の戦士のことだけでも、折り合いをつけかねているのに、竜憲の中に潜む姫神《ひめがみ》に心密《ひそ》かに魅《ひ》かれているなどとバレたら、話はますますややこしくなる。実際、それが古代の戦士にどこかで影響を受けているせいなのか、自分の目で美貌《びぼう》の姫神を見たせいなのかは、大輔にも判然としない。
ただはっきりしているのは、戦うのは自分だということだけだった。
姫神に取り憑かれた竜憲は、もともと異様な力を持っている。
幽霊や、化け物としか言いようのないものを調伏《ちようぶく》し、消し去る力があるのだ。
しかし、古代の戦士が現れるようなものと遭遇した場合、なぜか、戦うのは大輔の役割になる。
面倒な話だ。
普段から力があるのならともかく、見ることも、それこそ竜憲のように修行することもできないくせに、戦わなければならない。
今度は何が現れるというのか。
むすりと黙り込んだ大輔は、路上を見据《みす》える竜憲の横顔に目をやった。
膝《ひざ》を揃《そろ》えて、きちんと正座した竜憲《りようけん》が、緊張の面持ちで父親を見つめている。
大道寺忠利《だいどうじただのり》はさして大きな男ではない。鴻《おおとり》のような奇妙な威圧感を与えたりもしないし、霊能者などという胡散臭《うさんくさ》い肩書きを持つわりには、普通の会社勤めが似合うような男だ。
その彼が、笑みを浮かべて、息子の顔を見据《みす》えていた。
表情は穏《おだ》やかだが、全身から冷気が立ち上っている。
威圧感などというなまやさしいものではない。殺意にも似た、冷徹な気を身に纏《まと》い、忠利は一人息子に対峙《たいじ》していた。
二人とも一言も喋《しやべ》らずに、十分も経っただろうか。
気詰まりな雰囲気にいたたまれなくなり、大輔《だいすけ》は小さく咳払《せきばら》いした。
「……あの、邪魔だったら、俺は……」
「いや。……すまんが、もう少しいてもらえないか。君にも無関係ということではないのでな」
大輔にというよりは、彼の中に潜《ひそ》む戦士に用があるのだろう。
しかたなく腰を落ち着け直した大輔は、ちらりと竜憲を見やった。
父親と向き合ったまま、辛抱強く座り続ける竜憲に、いつもと違ったところはない。退屈はしているようだが、霊能者と向き合う居心地の悪さは感じていないようだ。
もっとも、竜憲にしてみれば父親なのだから当たり前だろう。
その代わり大輔は、まるで落ち着けなかった。
冷たい板張りの床に、座布団もなく正座しているせいもある。巨大な和蝋燭《わろうそく》に照らし出された道場が、だだっ広く感じられるからかもしれない。
だが何より、血を分けた息子に、凍《い》てついた視線を投げる男の心情を思うと、いたたまれなかったのだ。
古代の神に取《と》り憑《つ》かれたとわかったときに、息子の中に姫神《ひめがみ》を封じようと考えた男。
そして息子は、己《おのれ》を殺せと、大輔に命じた。
この親子にとって、世間の常識などどうでもいいのだ。異種の生命と対峙するためなら、どれほど突飛《とつぴ》に見える行動でもできる連中だった。
「修行など無駄だと思うているのか?」
忠利の言葉に、竜憲はちらりと笑う。
「……確かめようがないからね。けど、道場に籠《こ》もっていても、あいつらは現れるし、方向が間違っているんじゃないかな……」
息子の目を見つめていた忠利は、視線を大輔に移した。
「確かに……。お前の言うとおりかもしれんな。わしの結界は用をなさないようだ……。姉崎《あねざき》くんがいるだけで、魍鬼《もうき》どもは息を潜めているというに……」
自嘲《じちよう》ぎみに笑う忠利は、霊能者としての力に限界を感じているようだった。
当代随一といわれ、十人近い弟子を抱えた男は、素人《しろうと》の青年の力に太刀《た ち》打《う》ちできないことを苦々しく思っていることだろう。
「大輔の力は特別だからな。……少なくとも、弱い連中は顔を出せない」
「そうだな……」
不意に、忠利の身体から発せられていた圧力が消える。
そして、再び竜憲に視線が据《す》えられた。
何かを探すように、小刻みに揺《ゆ》れる視線は、姫神《ひめがみ》を捕らえようとしているのだろう。
「……眠っておるのか、姿を隠しているのか……。わしの目には捕らえられんようだ。……竜憲。お前はどう思う」
「隠れているんだろうな。……たいていはそうだ。……妙なもんが現れると、出てくるけどな。それもすぐに引っ込むし……。今のところ不自由はない」
「竜憲。……何を言っている。あれを容認するというのか」
圧《お》し殺した声が、怒りを含んで震えている。
力なく笑った竜憲は、肩の力を抜いた。
「容認するも何も、俺にはどうしようもないだろ。……それに、助けてもらったのも、一度や二度じゃないしな……」
「――取り込まれておるな……」
忠利の目がゆっくりと眇《すが》められる。
「一瞬たりとも、あれを許してはならぬと、言ったはずだ。忘れるのはいい。憎《にく》むのもな。だが、あれを認めれば、お前は取り込まれる。――いずれ、己《おのれ》が消え失せるぞ。このままでは、あれに操られるだけの人形になる」
「仕方がないだろ。助けられれば、感謝もする。……だけど、あいつに乗っ取られる気はない。だから、ここに籠《こ》もったりしたんだ。けど、それも無駄だったじゃないか。ここにいても、化け物達は来るんだ」
引きつる顔が、竜憲のいらだちを示している。
神と自称するほどの化け物に取《と》り憑《つ》かれて、平静でいられるわけがない。たとえそれが自分に力を貸してくれるとわかっていても、我慢できるものではないのだ。
竜憲の心情は、大輔には痛いほどよくわかる。
ただ助けられるだけで、ほとんどなんの不自由も感じない大輔ですらそうなのだ。彼女のせいで魍鬼《もうき》達に集まられ、父親にまで疎《うと》まれれば、追い出したいと思って当たり前だった。
「お前に隙《すき》があるからだ」
一言で断じた忠利は、姿勢を正した。
「人ではないものの声を聞く才は、認めてやろう。だが、耳を澄まさずとも聞けるというのは、褒《ほ》められたことではないぞ。お前は人だ。人であることを忘れれば、それだけあれに取り込まれやすくなるということを……」
「わかってるよ! 親父《おやじ》に言われなくても、俺が化け物になりかかってるってのは! このままじゃ、人じゃなくなるのさ!」
父親の言葉を遮《さえぎ》り、声を荒らげる竜憲は、全身に淡い燐光《りんこう》を纏《まと》いつかせている。もともと白い肌が蒼《あお》く輝き、人にはあり得ない色をかもしだした。
ぞくりと、背筋を震わせた大輔は、ひどく苦労して視線を引き剥《は》がし、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
化け物になる、というのは比喩《ひゆ》ではないだろう。竜憲が、人が見えづらくなったと言ったのは、自分が人ではなくなりつつあるという意味だったに違いない。
聞き流してしまった言葉の意味に、大輔は奥歯を噛《か》み締《し》めた。
姫神《ひめがみ》の影響が、竜憲の精神を蝕《むしば》んでいる。
いつの日にか単なる器《うつわ》となって、彼自身の個性はどこにもなくなるということなのだろう。
神と自称する化け物を封じるには、器《うつわ》が小さすぎると言ったのは、竜憲自身だった。一年か二年のうちに、器が壊れると言ったのは、春先。
あと数か月で、一年になる。
大輔は膝《ひざ》に爪を立てて、呻《うめ》き声を圧《お》し殺していた。
「……親父《おやじ》。戦えと言うなら、あいつの正体を教えてくれ。このままじゃ、どうしようもないだろう。敵の正体もわからないで、どうやって戦えってんだ? ……根《ね》の堅州国《かたすくに》に封じられた姫神《ひめがみ》ってのは……」
「黙《だま》れ!」
一喝《いつかつ》する。
「いつ、それを知ったのだ。……けっして、名を呼んではならぬ。己《おのれ》を知ったとき、あれは真に蘇《よみがえ》る。そうなれば、お前の身体など、微塵《みじん》に砕《くだ》け散るだろう。……この世に、禍《わざわい》を振《ふ》り撒《ま》く気か!」
「じゃあ、どうすりゃいい! 親父の力も、鴻も、なんの役にも立ちゃしないじゃないか! どうやって、戦えってんだよ!」
悲鳴にも近い声をあげる竜憲を、忠利は悲痛な顔で見つめていた。
息子の命を心配しているのか、それともこの世に荒ぶる神が蘇ることを恐《おそ》れているのか。
「……わしには、どうすることもできんのだろうな……」
嗄《しやが》れた声が、忠利の苦痛を表している。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
竜憲の身体を取り巻く蒼《あお》い燐光《りんこう》が、炎となって立ち上がる。
怒りというよりは、いらだちのためだろう。敵を見つけることができない炎の触手は、一端高く伸ばされた後、ゆるい弧《こ》を描いて竜憲の身体に戻っていった。
「……出雲《いずも》に行け……。封じられた法だが……それしかあるまい」
「出雲? ……封じられた法?」
「そうだ。……人を封印にすると同じほど、人の摂理《せつり》に反しているが……。お前が人に戻るにはそれしかないだろう」
ゆっくりと、忠利の顔から血の気が失せてゆく。
封じられた法とやらがどんなものなのか、説明する気はまったくないようだったが、異常なものであることは、その顔色が告げていた。
「何をするんだ?」
「言えば、あれが聞くであろう」
途端に、屋根が鳴る。
みしみしと壁が軋《きし》み、風もないのに蝋燭《ろうそく》の炎が揺《ゆ》れた。
「静まれ……」
低く圧《お》し殺した声。
忠利の声に、音はやんだ。
「……魍鬼《もうき》共が、騒ぎおるな……」
「行かせたくないってことか? ……だったら……確かめてみる価値はありそうだな……」
「それしかあるまい。……だが、こやつらが大挙して押し寄せるぞ。……そうだな。鴻をつけよう。あれなら……」
「いやだ。……鴻なんか役に立たない。それより……」
皮肉げに笑った竜憲は、ゆっくりと大輔に向き直った。
小さな、蛍《ほたる》ほどの光が、大輔を中心に縦横無尽に飛び回っている。意識もせずに魍鬼を退ける、大輔の力の根幹をなす力だ。
目を見開いた忠利は、ゆっくりと頷《うなず》いた。
「いいだろ、大輔。……つきあってくれるだろ?」
見上げる竜憲の顔に、縋《すが》るような色を見つけて、大輔は頷くしかなかった。
鴻の何を怖《おそ》れているのか、大輔はわかっている。それだけに、否定できない。
「ああ。いいぞ……」
微笑《ほほえ》む口もとを見つめて、大輔は再び頷いた。
竜憲《りようけん》と二人だけの、深夜のドライブ。
そうめずらしいことではない。大輔《だいすけ》は自分で運転するのは嫌いだが、車に乗ることは好きだったのだ。
そして、竜憲のほうは、運転することが好きときている。そのうえ、助手席に誰でもいいから、人間が乗っているほうが運転が楽しいというのだから、何より都合のいい友人同士といえるかもしれない。
目的地も決めずに、飽《あ》きるまで走り続け、適当なところで引き返す。行楽シーズンなどは、早朝に観光地から引き返して、対向車線の渋滞を見物するなどという、いささか趣味の悪い楽しみ方をすることもあった。本当になんの目的もないところが味噌だ。単純にドライブを楽しむとでもいえばよいのだろうか。何よりの気分転換だったのである。
だが、今日に限って、ドライブは気散じにも、退屈しのぎにもなっていなかった。
竜憲はひどく緊張してステアリングを握《にぎ》っている。その緊張が大輔にも伝わって、車内は妙に張り詰めた雰囲気になっていた。
それだけでも気詰まりなのに、このドライブの目的が最悪なのだ。
出雲《いずも》まで出向くというのに、あえて車を移動手段に選んだのも、その目的ゆえである。忠利《ただのり》の言った言葉が、大量の人間の中に身を置くことを躊躇《ためら》わせたのだ。
――魍鬼《もうき》が大挙して押し寄せる――
そんなことを言われて、穏《おだ》やかなはずがない。竜憲の周辺に現れて、騒ぎ立てるだけならば、無視することもできるだろう。だが、竜憲も大輔も、魍鬼達が物理的な被害をもたらす状況については、誰よりもよく知っているのだ。
とても大勢の人間が乗り込む、交通機関を利用する気にはならない。それこそ、自分達が乗ったばかりに飛行機が落ちたのでは、冗談にもならなかった。
いたって理性的な判断の結果、選択した長距離ドライブというわけなのだが、精神的なストレスはもちろん、現実の疲労もかなりのものだ。
「……少し休むか?」
変わりばえのしない高速道路の路面を、見るともなしに眺《なが》めていた大輔が、ぼそりと呟《つぶや》く。
時折追い越す大型トラックのほかには、ほとんど車もいなかった。暗い路面に、車のヘッド・ライトの作り出す光の輪が、妙に白々しい。対向車線を飛んでいくヘッド・ライトの影が魍鬼の影にも見え、ひどく不安を掻《か》き立てていた。
「え?」
「え……じゃないだろう? もうすぐ日本平《にほんだいら》だぜ。いいかげんしんどくないか?」
「あ……ああ、そうか……。そうだね」
他人《ひ と》事《ごと》のように応じた竜憲を、大輔は至極《しごく》真剣な表情で眺めた。
「大丈夫か……おまえ……」
「何が?」
「らしくないぞ……」
「そう?」
「……高速に初めて乗った初心者マークって感じ」
「言ってろよ。……しょうがないだろ」
「そうか?」
「だって、考えてもみなよ。……もしかすると、ちょっと目を逸《そ》らした瞬間に前の車が突然に……」
顳〓《こめかみ》を押さえた大輔は、肩を落として大きく息を吐いた。
「ああ、もういい。そんなこと言ってたら、新幹線でも飛行機でも同じじゃないか。……つまらんことを気にするなよ。……変に気負ってるほうが、つけ込まれるぞ」
「あん?」
「なんだよ。なんか変なこと言ったか?」
「気負ってるほうがつけ込まれる?」
「……素人《しろうと》が言うことじゃないか……」
くぐもった笑い声をあげた大輔は、ステレオに手を伸ばした。CDをかけようとする手を、竜憲が軽く叩く。
一瞬むっとしたが、大輔はおとなしく手を引っ込めた。
車の中では、運転手が暴君であっても文句は言えない。何より、魍鬼《もうき》が大挙して押し寄せるかもしれないというときに、へたな音楽を流したのでは、竜憲の中の姫神《ひめがみ》が目覚めるかもしれないのだ。
「CDかけるなら、マガジンを替えてよ。今、入ってんのは、ヤバイ……」
「え?」
「ロックはまずいだろ。今日は……」
「ああ……」
後部座席を振り返って大振りのカセット・ケースを取った大輔は、ルーム・ランプを点《つ》けると、六連奏のCDマガジンのタイトルを眺《なが》めた。
なるほど、ロックのCDばかり収めたマガジンはここには入っていない。映画音楽とクラッシック。それにジャズのマガジンは、ケースの背に貼《は》ったタイトルが見えるように、行儀よく並んでいた。
カセット・テープのほうは、いいかげんなものだ。
CDで聴くほどでもないと決められた曲が、乱雑に入れられ、タイトルも他人には判別できない符牒《ふちよう》のような文字が並んでいる。
唯一内容がわかるのが、CM曲と書かれたものだけ。ひどいものになると、数字だけしか書かれていなかった。
「……しょうがねえな……。このカセットはなんだ? カウント・ダウン、ほかってヤツ」
「それもロック。……ちょっと待てよ。次のパーキングまで行けたら、停《と》まるからさ……」
「行けたら、だと?」
小さく笑った竜憲は、真剣な表情で前方を見据《みす》えている。
「何か、ありそうなのか?」
「ルーム・ランプを消してくれ」
天井に手を伸ばした大輔は、手もとのマガジンを見るともなく眺めた。
トランクにあるCDチェンジャーのマガジンを交換するだけなら、何も停止する必要はない。後部座席の背を倒せばいいのだ。
もっとも、一般道路ならともかく、高速道路でシートを乗り越えて後ろに移るというのは、いささか危なっかしい。
しかし、それだけだろうか。
「目、つぶってたほうがいいぞ……」
「あ? 何かあるのか?」
「本当にヤバくなったら叫ぶからさ。見てなくてもあんたの神通力《じんずうりき》はおんなじなんだし、わざわざ見ることもないだろ……」
言っている意味がわからず、大輔は前方を見据《みす》えた。
トンネルが近づいてくる。
トンネル内の交通情報を示す電光表示板は、暗いままだ。
「どうしたのさ。日本坂《にほんざか》トンネルだろ」
「おそらく、出る。……首がちりちりする……」
ごくりと唾《つば》を飲んだ竜憲は、ステアリングを何度も握《にぎ》り直している。
ひどく真剣な表情が、彼の感じているものの正体を教えてくれた。
魍鬼《もうき》が現れるのだろう。
竜憲は目を細めてトンネルの先を見据え、唇《くちびる》の端を舐《な》めている。すでに見えているのか、それとも予感があるのか、その表情だけではわからないが、大輔はマガジンをケースに戻すと、意味もなく肩を緊張させた。
車の速度が落ちる。
アクセルを戻したわけではないようだ。竜憲の右足が小刻みに震え、必死に踏み込んでいるのが見える。
後方に見えるライトもいっこうに近づいてこない。
車が遅いのではないのだろう。感覚が狂っているのか、それとも時間さえも左右できる化け物が現れるのか。
等間隔に並んだ黄色いライトが一つずつ、やけにゆっくりと後方に流れていった。
大輔の目には、ところどころ染《し》みの浮いたコンクリートの壁が見えるだけだったが、それもいつまでも続かなかった。
水の垂《た》れた跡が、手のように見える。
そう思った瞬間、巨大な手は、車に爪を突き立てようとした。
「なんだと!」
フロント・ガラスに触れる直前、砕け散る。
「……やっぱり……あんたに来てもらって正解だった……。あいつら……山を操ってる」
横腹をくり抜かれた山の怒りだというのだろうか。
歯を食いしばった大輔は、低く唸《うな》った。
このトンネルでは、以前悲惨な事故があった。それ以来、幽霊が出るなどという噂《うわさ》もあったが、より重要なことを忘れている。
人間が自分の都合で、山に巨大な穴をうがったのだ。大地にしてみれば、寄生虫に食われたようなものだろう。
もし自然に意思があるとすれば、怒っていても不思議ではない。
竜憲は風の声や木の声が聞こえるという。魍鬼《もうき》達は、それを利用して、普通の人間には感じることもできない、人ではないものの怨みを増幅しているのだ。
「……大輔……。よけいなことは考えるな。それこそ、つけ込まれるぞ……」
「ああ」
何も、わざわざ攻撃方法を教えることはない。
ことさらゆっくりと、胸ポケットから煙草《たばこ》を引き出した大輔は、トンネルの壁を見ないように注意しながら、火をつけた。
自分の意思ではないところで敵を排除しているのなら、わざわざ見ることはない。
赤い火を見つめ、煙の動きを見据《みす》える。
と、白い煙が青く染まった。
視界の隅に、竜憲の顔を捕らえる。
全身を蒼《あお》く輝かせて、竜憲は壁を見据えていた。
長く伸びた煙が、首に絡《から》んでいる。
攻撃しているわけではなさそうだ。男の手の形になった煙は、耳から顎《あご》にかけての線を愛撫《あいぶ》するように這《は》っていた。
古代の戦士が現れたのか。
竜憲はその手に気づいていないようだ。唇《くちびる》を引き結んで、何かを睨《にら》み据《す》えている。
その横顔がわずかにぶれて、女の顔が二重写しになっていた。
姫神《ひめがみ》。
頬《ほお》を撫《な》でる手に、うっすらと笑みを浮かべた女は、竜憲と同じ方向を見据えている。
――なぜだ? ――
出雲《いずも》で待ち受けるのが姫神を封じようとするものだからこそ、魍鬼達は妨害しているはずだ。
それなのに、彼女は魍鬼を敵と見なしている。
――どうして……――
姫神を守ろうとするものを、彼女自身が排除する理由はないはずだ。それにもかかわらず、笑みを消した女は、恐ろしく冷たい目で、何かを見据えていた。
「大輔!」
叫ばれ、慌《あわ》てて大輔は前方を見た。
「くそ!」
反射的に、顔を覆《おお》う。
真っ赤に染まった壁が迫る。
溶岩のような赤。熱気さえ感じる。
次の瞬間、自分の身体から何かが抜け出した。
ゆっくりと蠕動《ぜんどう》する肉。
巨大な生物に飲みこまれたのか。それともこれは幻《まぼろし》なのか。
何かの特集で見た溶岩の赤を思い起こさせる凶暴な色が、脈動して、車ごと二人を消化しようとしている。
ここはトンネルだ。
土を掘って、コンクリートで固めた人工建造物にすぎない。
何度も自分に言い聞かせても、巨大な溶岩の腸は姿を変えなかった。
それどころか、内臓はなんの予告もなく、ぐにゃりとゆがみ、内壁に車を飲みこもうとする。
半ばやけでステアリングを切り、車を躍《おど》らせて態勢を立て直す。
その繰り返しだ。
竜憲《りようけん》は汗でねばつくステアリングを握《にぎ》り直して、正面を見据《みす》えていた。
「ちくしょう……」
隣の男の呟《つぶや》きが、彼にもこれが見えていることを教えてくれる。
大輔《だいすけ》にも見えるということは、普通の幻《まぼろし》ではないのだろう。高速道路のそこここに蠢《うごめ》いていた死霊には、なんの反応も見せないほど、鈍い男なのだ。
そして、路上の死霊はある程度近づいてしまえば、大輔の無差別攻撃を受けて消え去ってしまった。
この巨大な化け物の内臓がいつまで続くのか。恐ろしく長いトンネルを抜ければ、それでいいのだろうか。
どこか別の空間に繋《つな》がっているような気もする。
しかし、一刻も早くこの場を抜けるしかないだろう。視覚を狂わされるだけで、これといった攻撃を受けないうちに、逃げるのが得策だ。
アクセルをいっぱいに踏み込んだ竜憲は、焦《じ》れるほどゆっくりと加速する車を、内心で罵《ののし》っていた。
と、後方から微《かす》かな悲鳴が聞こえる。
ルーム・ミラーを見てしまう。
ドライバーの条件反射のようなものだ。
だが、見るべきではなかった。
灼熱《しやくねつ》を思わせる赤い体内に、無数の手が生《は》えている。
男、女。老人の筋張った手から、赤ん坊のものまで。ありとあらゆる年代の、人間の手が壁を埋めつくし、路面からびっしりと生え出ていた。
手が動く度《たび》に、ちらちらと溶岩の壁が見える。
「な……んだと……」
慌《あわ》てて、視線を引き戻す。
そのときには、前方も手で覆《おお》われていた。
「くそっ……」
「止めろ! このままじゃ、どうしようもない。叩き切ってやる!」
「馬鹿《ばか》! 止めたらおしまいだろ!」
怒鳴《どな》り返した竜憲は、しかし結果的には車を止めた。
フロント・ガラスが手で覆われ、視界が塞《ふさ》がれたのだ。
「大輔! やめろ!」
ドアに手をかけた男を制止する。
しかし、大輔は低く唸《うな》ると車を飛び出した。
右手に、剣を下げている。
枝分かれした剣は、儀式用のものとしか見えないが、大輔が自分の意思で化け物と戦うとき、どこからか現れるものだ。
彼の破魔の力を最大限に引き出す剣。
その剣がフロント・ガラスに叩きつけられる。
と、視界を遮《さえぎ》っていた手が、弾《はじ》け飛んだ。
「大輔! いいから、戻れ! きりがない!」
とにかく、このやたらと長いトンネルを抜けるしかないのだ。大地そのものの怒りなど、いくら切ってもきりがない。
「大輔!」
ドアを開こうとした竜憲の手が、そのまま凍《こお》りつく。
「……え?」
手首を掴《つか》む、女の手があった。
『待つのです。……戦いは、戦士のもの……』
頭の奥で声がする。
首が勝手に動き、視線が大輔に向けられた。
いや、彼女が見せたいのは、古代の戦士だったのだろう。大輔のすぐ隣で、全身から炎を立ち上らせる男が戦っている。
長い髪をみずらに結《ゆ》い、真紅の光をほとばしらせる男は、戦いを楽しんでいるようにも見えた。
「……どうしてだ。出雲《いずも》に行っても、無駄だってことか?」
竜憲が人に戻るために必要な術。
本来なら、姫神《ひめがみ》も古代の戦士も、抵抗するはずだ。それなのに二人は魍鬼《もうき》を倒そうとしている。
「どうしてだ!」
答える気はないらしい。
竜憲は心中で低く唸《うな》った。
身体は、目の動きすら自由にならない。大輔が剣を振るい、古代の戦士が光の槍《やり》を操る姿を、ただ見守るしかないのだ。
精神を身動《みじろ》ぎさせ、せめても破魔の光を放とうとする。
『戦士の戦いを見守るが、務め。手出しはせぬこと……』
言われるまでもなく、竜憲は唇《くちびる》を引き結び、魍鬼が切り捨てられていくのを見つめていた。ほかにどうしようもないのだ。
刃《やいば》に触れた人の顔をした犬が、身の毛もよだつ悲鳴をあげて、弾ける。黒く膨《ふく》れ上がった身体が、一瞬、間をおいて黒い霧になり、掻《か》き消えた。
自分が戦うより、はるかにおぞましく感じる。
何かが彼らに跳びかかる度《たび》に、竜憲は背筋が寒くなった。咽喉《の ど》がひりつき、手足がこわばる。それでいて、目を閉じることもできない。
猫ほどの大きさの、爪ばかりが目立つ小さな化け物が数匹、大輔の足に飛びつく。
と、視界の隅で、巨大な顎《あご》が内臓を思わせる壁から生《は》え出し、捲《ま》くれ上がった唇《くちびる》を押し上げる長い牙《きば》から、てらてらと光る粘液が滴《したた》るのが見えた。
ゆっくりと引き開けられた顎が、次の瞬間、姫神《ひめがみ》の戦士の胴に食らいつく。幾重にも並んだ尖《とが》った歯列が、じわりと食い込んだ。
瞬間、戦士の呻《うめ》き声が聞こえたような気がした。
光の切っ先に触れた目も鼻もない巨大な顎が、黒い霞《かすみ》になり、崩《くず》れて消えた。
それと同時に、すべてが消え失せる。
一気に解放されて、感覚が痺《しび》れたように鈍《にぶ》くなり、失せた。
目を見開いているのに、何も見えない。耳も聞こえない。
ゆっくりと視界が戻り始め、本来のオレンジ色の照明の中で、肩で息をしながら大輔がボンネットに腰を落とすのが見えた。
同時に、耳のほうも生き返る。大音量に慣れた耳にも、突き刺さるような音だ。
いつのまにか、オーディオが作動していたらしい。
慌《あわ》てて音を切った竜憲は、小さく首を振り、ルーム・ミラーを覗《のぞ》き込んだ。
紛《まぎ》れもなく自分の顔が映っている。確かめるように身体のほうも眺《なが》め下ろしたが、なんともない。
竜憲はほっと息を吐き、シートに身体を預けた。
と、不意にドアが引き開けられた。
びくりと身体がこわばる。
「……無事か?」
大輔だ。
どさりと座り込んだ彼が、溜《た》め息《いき》を吐くのを見やり、竜憲は胸を撫《な》で下ろした。
どうやら、本当に終わったらしい。
「ふざけやがって……」
ぼそりと呟《つぶや》いて竜憲を眺めた大輔の横顔が、唐突に明るく照らし出される。続いて、けたたましいクラクションの音が、トンネル内に響き渡った。
「おい!」
飛び上がるように背を引き起こし、反射的にアクセルを踏み込んだが、車はぴくりとも動かない。
「……あ、エンスト……だ」
自分でも不思議なほど、間《ま》の抜けた声が出る。
のろのろとキイに手を伸ばす間に、音の発生源は地鳴りのような轟音《ごうおん》と共に擦《す》り抜けていった。赤い目玉のようなテールランプが、瞬《またた》く間に消え去る。
竜憲はほっと肩を落とし、その赤い目玉を見送った。
せっかく、魍鬼《もうき》の罠《わな》から切り抜けたのに、大型トラックに押し潰《つぶ》されたのでは話にもならない。
「こら……気を抜くなって……」
言葉とは裏腹に、大輔の声は妙にのんびりと聞こえた。
「ああ……」
半分上《うわ》の空《そら》で頷《うなず》いて、エンジンをかけ直す。
横から伸びた手が、ハザード・ランプを点滅させる。
「大事故の原因になるのはごめんだぜ」
ひどく現実的な大輔の言葉に、竜憲はようやく笑みを浮かべた。
「事故原因説明なんてできないもんな……」
力ない笑みを返した大輔が、ぐったりとシートに身を沈める。
大輔が気を抜いたというだけで、妙に安心した竜憲は、静かに車を発進させた。
第二章 彷徨《さまよ》う亡者
山の様相が違う。
何が、と明確に説明できるわけではないが、関東の山に比べると、関西の山は優しげな印象を受ける。
それが、中国地方に入ると、今度は荘厳な雰囲気をかもしだすようになった。
途中のサービス・エリアで仮眠を取り、給油も済ます。食事もむろんサービス・エリアで済ますことになる。
それ以外は、ただひたすら出雲《いずも》を目差して、高速道路をひた走っていた。
「落合《おちあい》で降りるんだよな……」
助手席で地図を開いていた大輔《だいすけ》は、欠伸《あくび》を漏《も》らしながら訊《き》いた。
養老《ようろう》のサービス・エリアで仮眠を取っただけで、あとはコーヒーとガムで眠気を紛《まぎ》らわしていたが、さすがに睡魔が襲ってきている。
ヒーターを入れなくても、車内はほどよく暖かい。そのせいで、よけいに眠気が襲ってくるのだが、運転手の隣で眠るのが犯罪行為に近いとわかっているだけに、大輔は無理やり目を引き開けていた。
「……ここから先、パーキングしかないぞ……。二宮《にのみや》と、美作追分《みまさかおいわけ》。……えーと……」
サービス・エリアでもらった簡略な地図を広げた大輔は、パーキング・エリアの施設内容を確認した。
「……トイレしかないみたいだな。ガソリンは大丈夫か?」
首を伸ばすようにして燃料計を確かめた。
「大丈夫だよ。さっき入れたばかりじゃないか……」
勝央《かつお》サービス・エリアに入ったことは覚えていたし、コーヒーを買い込んだことも覚えている。しかし、ガソリン・スタンドに寄ったという記憶はまるでなかった。
しかし、燃料計は竜憲《りようけん》の言葉を裏づけていた。
どうやら、サービス・エリアに入ると同時に、眠ってしまったらしい。ステアリングを握《にぎ》る竜憲と違い、大輔のほうは意識が跡切《とぎ》れても、命に別状はないのである。
苦く笑った大輔は、再び欠伸を漏らした。
「……ひと眠りする? 高速降りちゃうと、面倒だしさ……。トイレしかないパーキングなら都合がいいだろ。……まぁ、昼間だから大丈夫だと思うけど……」
魍鬼《もうき》に襲われるかもしれないと考えて、養老のサービス・エリアでもなるべく奥で車を止めた。
他人を巻き込みたくない。
何も知らずに日常を送る人々の平穏を乱したくないという思いもあるが、へたに関わられては、よけいに面倒になるという判断だった。
「……そうだな……。一般道に降りるんなら……ああ……。悪いな……」
寝てもいいと言われれば、シートに腰かけたまま、一日でも眠る自信がある。
欠伸《あくび》を漏《も》らした大輔は、手荒に顔を擦《こす》ると、窓を開けた。
悲鳴をあげて風が吹き込んでくる。
車体がふらつくほどではないが、理性がある人間がすることではない。しかし、そうでもしなければ、このまま寝てしまいそうだった。
「いいよ。寝てて……。すぐそこだ……」
「ああ……悪い。起きてられるとは思うが……」
窓を閉めるために手を伸ばす。
眩暈《めまい》と共に、ひどく体温が下がっていくのがわかった。
ここまで無理をして起きていたことなどない。自分が運転しているわけでもないのに、たかが一日徹夜できないほど体力がないと思ったこともなかった。
竜憲のほうがよほど疲れているだろうに、彼は平然と運転を続けているのだ。
トンネルで戦ったせいだろうか。
もともと霊能力などない人間が、無理に戦ったために、普通では考えられないほどの疲れがたまっているようだった。
鉛《なまり》のように重い瞼《まぶた》を、無理に引き上げながら、大輔はぼんやりと路面を見つめていた。
車が左に逸《そ》れる。
パーキングの表示と、矢印。減速を促《うなが》す速度表示。
どうやら、たどり着いたようだ。
次の瞬間。
大輔は温かな腕に頬《ほお》を寄せていた。
柔らかい、だが、そのうちにしっかりと筋肉のついた女の腕。
『眠るがよい。……これは、そなたの手を煩《わずら》わすほどのものでもない』
耳に心地よい声が、響く。
起きなければ。
何かが起こったのだ。
姫神《ひめがみ》が現れるのは、何かが起こったときだけ。
そうわかっているのだが、身体は、ぴくりとも動かなかった。だらしなくシートに四肢《しし》を投げ出して、肉体は眠り続けている。
――何があるっていうんだ! ――
精神を身動《みじろ》ぎさせた大輔は、目を見開いた。
目の前に現れた映像は、とうてい現実とは思えないものだった。
真っ赤に染まった空。
夕焼けなどというなまやさしいものではない。
血を含んだように赤い空が広がっている。木が黒く沈み、山が鈍《にぶ》い鉄色に見えた。
肉体の目で見ている光景ではないのだろう。相変わらず、身体は指の一本も動かせなかった。ただ、目の前に広がる毒々しい光景を、見たくもないのに眺《なが》めている。
これも一種の金縛りなのだろうか。霊に取《と》り憑《つ》かれたなどという女達が、必ずといっていいほど口にした現象。
疲労のためだろうとか、睡眠のリズムが崩《くず》れたためだろうと、大輔なりに説明をつけていたが、これはまったく別のものだった。
なにしろ、生身の自分の目は、閉じているという自覚があるのだ。
『眠れ……』
柔らかな声は、意識を眠りに引き込もうとする。
実際、身体のほうは、声の命じるままに眠りに落ちているのだ。
――くそう……――
身体が動かなければ何もできないところが腹立たしい。視界を移動させることもできないのだ。何かを見ていることのほうを褒《ほ》めるべきかもしれない。
所詮《しよせん》、自分の精神が肉体に縛《しば》りつけられたものだ、ということがよくわかる。
辛《かろ》うじてものを見ていられるのも、例の戦士の視界を借りているからだろう。
――そうか……そういうこと……――
ようやく、姫神《ひめがみ》が誰に眠れと言っているのか、理解できた。
自分に命じているのではないのだ。そう思うと、少しは気が楽になる。自分が関わることならともかく、化け物同士のやりとりなど、どうでもよい。
頬《ほお》に触れる肌も、こうなれば何よりの役得だ。
大輔は妙に安心して、無理やり覚醒《かくせい》させた意識を鎖《とざ》そうとした。
「そんな話なら……」
唐突に聞き慣れた声が飛び込んでくる。
――リョウ? ――
そうだ。
姫神がここで戦士を宥《なだ》めているのなら、何かに対峙《たいじ》しているのは竜憲に決まっている。これほど単純なことを理解するのに、腹が立つほど思考が遠回りするのだ。
鈍すぎる。
「……お前は……いったいなんだ?」
竜憲の声が、随分とはっきり聞こえてくる。相手が答えないのか、大輔には聞こえないのか、聞こえるのは彼の声だけだった。
そのうえ、視界に映るものといえば、相変わらずの血色の空と、黒い木の影の列《つら》なる景色。
それ以外には何も見えないのである。竜憲の姿もなければ、彼と言葉を交わしている者の影もなかった。
ひどくもどかしいのだが、どうしようもない。
「駄目だ! 俺は、俺の目で確かめる!」
竜憲の叫び声。
少し間をおいて、怒りも露《あらわ》に怒鳴《どな》り据《す》える。
「失せろ!」
同時に耳もとでひどく楽しげな忍び笑いが聞こえる。
姫神《ひめがみ》は竜憲の対応がお気に召したらしい。
妙に安心する。
と、するりと肌の感触が消えて、大輔はひどく感覚の曖昧《あいまい》な空間に取り残された。消えてしまった女の肌の感触が惜しく思えたが、代わりに耳もとに響く笑い声がより以上に心地よく聞こえる。
最初に感じたもどかしさなど、すっかり意識の外に忘れさっていた。直感が、もう片付いたと教えてくれたせいもある。
そして、それを裏付けるように、不気味な赤い空は、まるでスイッチを切ったかのように消え失せた。
姫神の忍び笑いも、やがて遠のき、現実の音が押し寄せてくる。
遠くに聞こえる唸《うな》りは、本線を走っている車の音だろう。停車した車の低いエンジン音も聞こえてくる。妙に甲高《かんだか》い女の声も聞こえた。
閉じた瞼《まぶた》に感じる光が、ひどく眩《まぶ》しい。
無意識に腕を引き上げ、光を遮《さえぎ》る。
どうやら、自分の身体は取り戻せたらしいが、睡魔がより現実的に大輔の身体を支配していた。
眠りに落ちようとした瞬間に、すぐ近くで密かな溜《た》め息《いき》が聞こえる。
――何があったか、聞かなくては――
澱《よど》み始めた思考が、辛《かろ》うじて警告を出したが、眠りへの切なる欲望は見事にその警告を無視した。
左手には日本海が広がり、右手にはあまり背の高くない松林が広がっている。
靄《もや》のような霧雨のお陰で、すべてが薄墨色《うすずみいろ》にけぶって見えた。出雲《いずも》に入ったあたりから、急に降り始めた雨である。
別段、それを何かのせいにするつもりはなかったが、運転をする竜憲《りようけん》はひどく慎重だったし、助手席に座る大輔《だいすけ》もぼんやりと景色を眺《なが》めている気分にはならなかった。
散々な目に遭《あ》いながら、ようやくたどり着いてみれば、彼らの敵は霧雨だったというわけだ。
旅行ガイドを眺めれば確実に載っている寺社やら遺跡の横を素通りし、出雲といえば何より有名な出雲大社まで無視して、車は走っている。
観光が目的ではないのだから、それ自体はいっかなかまわないのだが、問題はこの先に本当に目的地があるのかということだった。忠利《ただのり》が会いに行けと言った老人は、このあたりに住んでいるはずなのだ。
だが、緩《ゆる》やかなカーブを繰り返す道には、人影はおろか、すれ違う車さえほとんどいない。
すれ違うのもタクシーに軽トラックと、台数を数えることができるほどだ。いかにも観光客といった風情《ふぜい》の車でさえ、見かけなかった。
バスの停留所があるくらいなのだから、人が住んではいるのだろう。松林の中にぽつりぽつりと見える屋根が幻《まぼろし》でなければ、それも立派な証拠だ。
住人には悪いが、屋根を見つけると思わず注目してしまうほど、このあたりは閑散《かんさん》としている。同じように歴史を観光の目玉にした土地に住んでいながら、この差には目を剥《む》くものがあった。そう思うことこそが、すでに町中に住む者の貧相な想像力ゆえだろうが。
ただひとつ言えるのは、確かにここなら神も生きているだろう、ということだ。
最初に口にしたのは大輔だったが、竜憲にも異論はない。
ありきたりな感想だ。
しかし、今の彼らには、ひどく現実味を帯びた感覚だった。
禁じられた術法を知る老人が住むには、似合いの場所かもしれない。
「あの岩の上で談合したんだとさ」
大輔が唐突に口を開いた。
「はぁ?」
気の抜けた返答にもめげずに、大輔が解説を続ける。
「……大国主《おおくにぬし》と建御雷《たけみかずち》がだ」
「へぇそう」
興味もなさそうに答えた竜憲が、不意に大輔を見やる。
「……なんだよ」
「ついでに根《ね》の堅州国《かたすくに》の看板は出てないの?」
「何?」
「だから……」
「あ……ああ、それな。……根の堅州国は知らんが、黄泉《よ み》の入り口とか、黄泉《よもつ》比良坂《ひらさか》とかはあることになってるぞ」
「あん? 黄泉はいいけど……何そのヨモヒ? 違う、ヨモツ……あれ? いい、とにかくそのヨモなんとかって」
「ヨモツヒラ坂……黄泉に続く道ってことになってるな。……知ってるだろ? 櫛《くし》やらなんやら投げて、化け物になったカミさんから逃げ出した話……」
怪《あや》しげな解説に眉《まゆ》を顰《ひそ》めたものの、大輔の言わんとすることは理解できたのだろう。竜憲はぎごちなく頷《うなず》いた。
「その話に出てくるんだよ。その坂が。……大岩で塞《ふさ》いだらしいけどな」
「ふーん……。でもどうしてそれが根の堅州国と関係あるんだ?」
「お前……、探したんじゃないのか? 根の堅州国……」
「探した」
きっぱりと応じた竜憲を、大輔は眇《すが》めた目で見やった。
根の堅州国に追いやられた姫神《ひめがみ》が誰なのか、最初に調べ始めたのは竜憲である。
だが、彼は根の堅州国というキーワードを探しただけで、古事記も日本書紀も読んではいないようだ。この調子では、大国主と建御雷の国譲りの神話も知らないだろう。
もちろん、伊弉諾尊《いざなぎのみこと》がどうして伊弉冉尊《いざなみのみこと》から逃げ出すことになったのかも、知るはずがない。
「根の堅州国てのは……。あーっ! もういい! お前に言っても無駄だ。――ようするに地下の国、死者の国……てことは黄泉だろう?」
目を見開いた竜憲が、急に車を止める。
「なんだよ! 今度は……」
「根の堅州国って……あの世のことか?」
竜憲はステアリングに寄りかかり、大輔をしげしげと眺《なが》めた。
「言ったろ。……実際、いろんな解説はあるけどな。聞きたいか? なんなら……」
「メモが出る? ……いいよ。どうせ、わからないもん。――そんなことより……」
何がそんなことなのかは知らないが、竜憲は真剣に訊《き》きたいことがあるらしい。自分の相棒が、考えること、もしくはお勉強するのが嫌いなことを思い出し、大輔は心密かに溜《た》め息《いき》を吐いた。
そのくせ、知りたがりの聞きたがりなのだ。一度興味を引かれると、言いこめられるか満足するまではいつまでも、なぜが繰り返されるに決まっている。彼に目的地のことを思い出させるには、一応納得させるしかない。だが、大輔自身も付け焼き刃の知識なのだから、それ相応の覚悟がいるだろう。
シートの背に身体を預け、大輔は竜憲を眺《なが》めやった。
「そんなことより……なんだ?」
「姫神《ひめがみ》はあの世に追いやられたってことだろ?」
「そうだな……」
「ようは、殺されたってことか?」
露骨に顔を顰《しか》めた大輔は、それからゆっくりと目を瞬《しばたた》かせた。
短絡的だが、至極正論のような気がする。といって、その解釈が正しいと宣言するには、現実のほうは複雑だ。
「……殺された……ね」
「殺されたんだろ? ……じゃあ、怨《うら》みってのは、殺されたことへの……」
「そんな簡単な……話なら」
竜憲の言葉を否定しようとして、ひどく混乱している自分に気付いた大輔は、口を噤《つぐ》んだ。
神話と現実がごたごたと混じり合って、理解し難い混乱を生み出している。だいたい、人間の死の概念と、妖魔《ようま》達の死を同じと見てよいのかも、よくわからない。
元は人だというのならともかく、姫神は、明らかに人の怨念から生じた化け物達を、彼女の眷属《けんぞく》とは区別している節《ふし》があるのだ。もっとも、どちらにしてもその差別の根底は、大輔には窺《うかが》い知れない世界なのだが。
「……お前、スサノヲ、知ってるだろ?」
「え? ……まぁ、名前だけは……」
「スサノヲはさ。死んだかあちゃんに会いたいって騒いだ挙《あ》げ句《く》に、根《ね》の堅州国《かたすくに》に行ってそこの王様になっちまうんだ。もちろん死んだわけじゃないぜ。……だいたい、そのスサノヲのかあちゃんのイザナミを連れ戻しに、旦那のイザナギは生きたまま、黄泉《よ み》の国に出かけてんだよな」
口も挟《はさ》まずに話を聞いているのが、内容を理解した印なのか、口出しもできないほど理解できないのか、判断に苦しむところだ。実際の記紀神話《ききしんわ》の中の矛盾をあえて、説明から省いているのだから、前者であるとは信じたい。
それでも、大輔は一気に結論を出した。
「つまりだな。死んだ後、行くところだろうけど、カミサマは生きたまま行けるんだよ。イザナミは死んだって、はっきり書いてあったからな。姫神《ひめがみ》が追われたってのは、言葉どおり受け取ってもいいんじゃないか?」
「ふーん……」
聞いているのかいないのか。竜憲は曖昧《あいまい》な返事を返すと、ステアリングを軽く切った。
竜憲が知りたいのは、姫神のことだけらしい。彼女に繋《つな》がる知識など、なんの役にも立たないと思っているのだろう。
そういえば、試験のための勉強はしても、それ以外の知識にはほとんど興味を示さない男だ。雑学と分類されるようなものには驚くほどの知識量を示すことがあるくせに、古典となるとからきしだ。
好き嫌いがすべてなのか。
ひょっとすると、日本神話の知識など、なんの役にも立たないから、興味を示さないのかもしれない。
単なる買《か》い被《かぶ》りかもしれないが、姫神に選ばれた竜憲の反応だけに、気にかかる。
ふと、眉《まゆ》を寄せた大輔は、首をすくめて海に目をやった。
霧雨の中に浮かぶ日本海は、ひどく重苦しい。
見慣れた、湘南《しようなん》の海とはまったく違っていた。ここには、人が怖《おそ》れ敬《うやま》わなければならない自然がある。
人の思惑に屈服させられ、細々と生きる自然などではない。ある限界を超したとき、この自然は牙《きば》を剥《む》くだろう。古代の日本人が抱いていた、山や海に対する恐怖を、思い起こさせるものがあるのだ。
穏《おだ》やかな表情を見せていても、その奥に底知れぬ恐怖を隠している。
所詮《しよせん》人間のやることなど、自然の怒りの限界を探《さぐ》っているだけかもしれない。怯《おび》えながら、それでもすべてを破壊したいという衝動に突き動かされて、開発をするのだ。
「大輔。……この先だよね」
「え? ああ。悪い」
厭世的《えんせいてき》な思いに囚《とら》われていた大輔は、慌《あわ》てて地図を開いた。
手書きの地図は、忠利が記したものだ。バスの停留所が唯一《ゆいいつ》の目印。そこから二本目の脇道を入る、といういたって簡単なものだが、人家の少ないこのあたりでは、充分に役に立った。
「……そうだな……」
「何、考えてたのさ。……そんなにマジに調べたのか? 古事記だの、日本書紀だのは信用できないって、言ってたじゃない。……後世に書かれたんだから、都合がいいように変えられてるって……」
「そりゃそうだが……。ほかに手掛かりがないんじゃ、しょうがないだろ」
「……資料魔なんだから……」
くすくすと楽しげに笑う竜憲は、妙に機嫌《きげん》がいい。
徐々にではあるが、自分が人ではなくなっていくと言っていたくせに、あまり緊迫感はないようだ。
「……もうすぐなんだろ。しっかり見てろよ。この調子じゃ、一本見逃したら、バス停まで戻るしかなさそうだ……」
次の通りを入って、元の道に戻るなどということはできない。何より、車を回す場所もそうそうないだろう。
ひょいと眉《まゆ》を上げた竜憲は、道路脇に視線を投げた。
ヘッド・ライトとフォグ・ランプがつけられる。
暗くなりかかっているうえに、この霧雨だ。気がつけば、随分と視界が悪くなっていた。
「初めてなんだろ? その……なんだっけ? その爺《じい》さんに会うのは……。ちょっと遅いよな。年寄りは早く寝るっていうし、急いだほうがいいだろ」
「名前ぐらい覚えとけば? くだらないことはいつまでも覚えてるくせに……」
「くだらない……ねぇ」
おそらく、神話のことを言っているのだろう。竜憲にとって、文章に残されたものなど、なんの意味もないのだ。
「佐伯《さえき》さんだよ」
「あ……。そうか……」
そう覚えづらい名前でもない。
どうして忘れてしまったのか、自分でも不思議だったが、大輔は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。
「まだ眠いわけ?」
楽しげな笑い声が二重に響く。
ひどく楽しげな、くぐもった笑い声。少し高いほうが姫神《ひめがみ》だが、同じ色合いを持っていた。
首を捩《ね》じ向けた大輔は、竜憲の横顔をつくづくと眺《なが》めた。
見慣れた青年の顔だけがある。
しかし本当にそうだろうか。
もともと線が細く、歳《とし》より幼く見られていたし、女達が気後《きおく》れする程度には整った顔をしていた。
それが、今は奇妙な美しさをも兼ね備えている。
人ではなくなりつつある証拠だろう。
少なくとも、大輔が男の顔に美醜《びしゆう》を感じてしまうほど、今の竜憲は美しいのだ。
美しいことが善。
手当り次第に読んだ資料本の中に、日本の宗教をそう断じたものがあった。どれほど傲慢《ごうまん》で残虐《ざんぎやく》な神であろうと、美しければ善なのだ。
現在なら、人に都合がよければ善、というところか。
古代なら、姫神《ひめがみ》はその美しさだけで、善と判断されたのかもしれない。
根《ね》の堅州国《かたすくに》に追いやられたのは、魔物や妖怪といわれるものではなく、本当に神だったのだ。
恐ろしいほどの力を持ち、そして美しい女。
竜憲の父親が言うように、神と名のるほどの力を持つ魔物、ではなく、彼女がいた時代、確かに神だったのだ。
美しい横顔から目が離せずにいた大輔は、いくぶん小さめの唇《くちびる》が動くのを、声もなく見つめていた。
途端に、身体が横に振れる。
「……と……」
慌《あわ》てて、体勢を立て直した大輔は、再び二人分の笑い声を聞くことになった。
「何ボケてんのさ。……まだ眠い?」
「……そりゃ……。ろくに眠ってないんだからさ……」
すらすらと、言い訳が出てくる。
まさか、竜憲の顔に見とれていたなどと、言えるわけがなかった。
「……すぐだからさ。もう少し起きててよ。一応、挨拶《あいさつ》ぐらいはしないとね。礼儀にはうるさいそうだから……」
「どこの爺《じじい》もそうだろ。……とにかく、とっとと挨拶して……。俺は身体を伸ばして寝たいぞ」
「それは、俺もご同様……。背中から首がバキバキだぜ……」
街灯のひとつもない狭い道。
ヘッドライトの反射に、運転席の白い顔が浮かび上がって見える。
そして、ドアのガラスに女の顔。
とろりと笑う女は、これから起こることなど、まるで気にしていない。
大道寺《だいどうじ》忠利が最後の手段だと言った“封じられた法”が待ち受けているのに、姫神はまったく危険を感じていないようだ。
おそらく、彼女にとっては、意味がないことなのだろう。
それとも、神の目さえごまかせるような法があるのだろうか。
目的地に近付いたせいか、いささか乱暴になった運転に、足に力を入れて対応しながら、大輔は姫神の顔を見つめていた。
古い家には慣れている。大道寺《だいどうじ》の屋敷も文化財ものだ、などと言う人がいるほど、年を経ていた。
その竜憲《りようけん》ですら、佐伯《さえき》の家には気後《きおく》れを感じるほどだ。
上がりかまちは広く、その向こうには囲炉裏《いろり》も切られたまま。電気が引かれているのが不自然なほど、古い姿をそのまま残している。
闇《やみ》に沈んでいたので気づきもしなかったが、屋根は瓦《かわら》ではなく、藁《わら》か萱《かや》で葺《ふ》かれているかもしれない。
磨《みが》き込まれて、黒光りする柱に、闇へと続く畳廊下。
大輔《だいすけ》などは、眠気も忘れて目を瞬《しばたた》かせていた。
「……大道寺さんからお話は聞いております。お疲れでしょう。今日はゆっくりとお休みになられて、お話は、明日にでも伺《うかが》います」
ひょっとすると、大輔が気を取られているのは、目の前の男かもしれない。
足音も立てずに屋敷の奥から現れた男を見た瞬間、大輔は“鴻《おおとり》”と呟《つぶや》いた。
鴻の顔を思い出させるものは何もない。年齢は竜憲の父よりは少し若いくらいだろう。短く整えられた髪に、がっしりとした顎《あご》。肩も広く胸も厚い男は、太陽の下で汗を流すのが似合いだ。
ただひとつ、瞳《ひとみ》と虹彩《こうさい》の区別がつかない漆黒《しつこく》の目だけが、鴻を思い出させるものだった。
しかし、それとても薄暗い室内だからかもしれない。
何より、佐伯老人の息子と名乗ったこの男からは、鴻のような化け物じみた雰囲気は感じられなかった。あくまでも、竜憲にはだが。
「……お食事を用意しておきます。風呂は沸《わ》いておりますので、どうぞお使いください」
ふわりと頭を下げる。
大輔より体格のいい男だが、物腰はやさしげだ。
そのせいか、毛色の変わった民宿にでも泊まったような気になる。少なくとも、竜憲自身は大輔のように緊張してはいなかった。
作業ズボンに少々着古したセーターという格好も、そんな印象を強くする。
職業を暗示する着衣が、それなりの効果をもたらすことも、そしてそれ自体にあまり意味のないことも、竜憲自身よく知ってはいた。
だが、この目の前に座った男には、鴻のような一種独特の雰囲気もなければ、忠利《ただのり》のような眼光の鋭《するど》さもない。
忠利が最後の手段として頼った家の者なら、霊能者としての力もあるのだろうが、彼らが持つ独特の雰囲気はない。
囲炉裏《いろり》を囲んで言葉を交わす図は、人のいい民宿の主人と話し合っているというところだった。
「すいません。……明日にしようかとも思ったのですが……ご挨拶《あいさつ》だけでもと思って……」
普段なら、大輔が言いそうな台詞《せりふ》を口にした竜憲は、隣に座る相棒をちらりと見やった。
「いえいえ、お気になさらずに。――さしでがましいとは思いますが、この家ならばつまらぬ魍鬼《もうき》は入り込めますまい」
「え……ええ」
曖昧《あいまい》に応じながら、自分が気を抜いている理由にいまさらながら納得していた。
この家には有象無象《うぞうむぞう》の雑霊の気配がまったくない。足を踏み入れるなり、肩の力が抜けたのも道理だ。
見透かしたように男が、やんわりと微笑《ほほえ》む。
「……あなたがここに来たことで気も乱れております。忘れ去られた神々もここでは、確かに生きておりますからな」
いかに和《なご》やかな雰囲気とはいえ、彼の言葉は竜憲に旅の目的をあらためて思い出させた。
「旦那様……お部屋は離れのほうに……」
土間のほうから現れた若い娘が、小声で告げる。
その声は奇妙に大きく響いて、竜憲はびくりと背筋を緊張させた。
「ああ。それでよい。……お客様を御案内して」
「はい」
大輔と竜憲に、娘が軽く頭を下げる。
「どうぞ……案内させますので」
「じゃあ……お言葉に甘えて……」
促《うなが》され腰を上げた二人に、娘はもう一度頭を下げた。
「お世話かけます」
土間に下り、ひょいと頭を下げた大輔を眇《すが》めた目で見上げ、竜憲も小さく礼を返す。
眠いだの疲れただのと宣《のたま》っていた男が、女の顔を見た途端にこれだ。染《し》みついた習性だとは知っていても、どうも承服できない。挙《あ》げ句《く》に相手が、にっこりと笑みを返したとなればなおさらだ。
「こちらです」
先に立った娘の背を眺《なが》め、竜憲は密かに息を吐いた。
奇麗な娘だが、どこか得体が知れない。それは言い過ぎとしても、不可思議な雰囲気があるのは確かだ。ちょうど、大道寺の家で修行している、忠利の弟子達の雰囲気に似ていた。
沙弥子《さやこ》と同じくらいの娘が、修道者達と同じ雰囲気があるというのも不思議だ。
もっとも、この佐伯の家も大道寺同様、特殊な家なのだから、若い娘が修行していてもおかしくはないが。
「どうぞ……少し暗いですから気をつけて……」
斜めに振り返った彼女が、そう声をかける。
薄暗い土間が、細い通路になって、奥に続いていた。
左手は蔵の壁のようだ。右は囲炉裏端《いろりばた》から見えた畳廊下である。
どういう造りなのか、すぐには頭の中に描けなかった。
壁を接していても、ひとつの建物ではないらしい。増築の結果なのか、それとも本来複雑な造りなのか、竜憲には判断しかねた。
二部屋ほど向こうで廊下は直角に曲がり、その角の部屋には灯《あかり》がついている。その部屋からの障子越しの灯が、唯一土間を照らす光源だった。
見えないほどではないが、どうしても足もとを照らすには心もとない。
「あ……ここ、敷石があります」
「え……あ、どうも」
すぐ前をぼんやりと歩いていた大輔が、慌《あわ》てて足もとに視線を落とす。
自分もそれに倣《なら》った瞬間、竜憲は視線を感じて、足を止めた。
ほんの一瞬で消えてしまったが、その方向を見やると、蔵の扉があった。何かがいるのならともかく、そこにはしっかりと閉じられた扉があるだけなのだ。
首を傾げたものの、敵意の感じられるものではなかった気がする。
とりあえず胸の中にしまって、竜憲は二人の後を追った。
「……なんだか気が抜けちまうな……」
ぼそりと呟《つぶや》いた大輔《だいすけ》は、足を投げ出し後ろ手を突いて、天井を見上げた。
「いまさら……。ちゃっかり和《なご》んでたくせに……」
「だから……だろ? たどり着《つ》くまでのことを考えてもみろよ。ここでひと悶着《もんちやく》あったっておかしかないんだから……」
竜憲《りようけん》は露骨に顔を顰《しか》めて、大輔を睨《にら》んだ。
「やめろよな。あんたが言うと、本当になりそうな気がする」
「冗談……」
「当たり前だろ」
冗談めかして、くすくすと笑ってみせたものの、竜憲は蔵の前で感じた視線のことを思い出していた。
普段でもよくあることだ。あれが特別だとは思いたくない。気のせいだと言われれば、そうなのかもしれない。
そして何より、もっと埒《らち》もないことが気になり始めている。
まったく何も感じないのだ。
大道寺《だいどうじ》の家にいても、何かしらの気配がいつも近くにある。細やかな気配から、堂々と竜憲を揶揄《からか》いに現れる魍鬼《もうき》の類まで。それこそいかに忠利《ただのり》が結界を張ろうと、忍び込んでくる奴らが、ここには影も形もないのだ。
のんびりと湯に浸《つ》かりながら、念じてみても現れないのだから、ここまでくると奇蹟に近い。
出てくることができないのか、あえて出てこないのかは定かではないが。
どちらにしても、奇妙なことには間違いがない。
息子と名乗る男は、術を使っているように見えなかった。家自体にも、これといった結界はない。
家という、その中に住む人間がしぜんに張り巡らせる、テリトリー主張の気も、普通のものに比べてさえ薄いほどだ。
「何、考えてんだ? ……あの娘か?」
「え?」
大輔のほうもしっかりいつもどおりに戻っている。
美人と分類できる女には、一応興味を示すのだ。まるでそれが礼儀でもあるかのように、いい男を演じてみせる。
相手が女であるだけで、反射的に背筋を伸ばすのだが、声も抑《おさ》えたあたり、あの女は大輔の美意識に適《かな》ったようだ。
もっとも、どんな男でも女とみれば興味を示すと思い込むあたり、男に対する観察眼は褒《ほ》められたものではなさそうだった。
「……あの子ね……。知ってた? 彼女の名前さ」
「恵美《めぐみ》さんだろ」
「さすが! もう聞いてたか」
けらけらと笑った竜憲を、大輔は眇《すが》めた目で眺《なが》めた。
「お前だって聞いたんだろうが」
「ま…ね。でも、そこ止まり」
「当然だろうな。……どういうご関係ですかなんて、軽く訊《き》く雰囲気はないものな」
「そうそう……。親戚《しんせき》……って感じじゃないしさ。……まだ若いし……高校生ぐらいじゃない? だったら、嫁《よめ》さん……てことはないだろうし……ね」
「手伝いにきてんじゃないのか? 年寄りがいるんだろ? あのおっさんが年寄りの飯なんぞ作れないだろ。……だいいち、高校生ってことはないぜ。俺達とタメか、下手《へ た》すりゃ上だぜ、ありゃ……」
肩をすくめた竜憲は、彼女の年齢について逆らうのはやめた。
女に関しては、大輔が上手《うわて》だ。それが年齢だろうと、性格だろうと、一種の超能力ではないかと考えてしまうほど、大輔は目がいい。
「……で、興味を引かれたわけだ。あんたは……」
「いや」
ひどくあっさりと、大輔は否定した。
「ありゃ、違うな」
何が違うのかはわからないが、好みではないということだろう。そういえば、大輔は幽霊騒ぎを起こすような娘が好みなのだ。
自分で対処したり、打ち払うようなタイプは、趣味ではないらしい。それも、大輔本人の存在意義を確認するには、いい手だといえた。
「なるほど……」
欠伸《あくび》を漏《も》らし、布団にもぐり込んだ竜憲は、目を瞬《しばたた》かせた。
こうまで何もいない部屋に落ち着いていると、眠気が襲ってくる。いささか無茶な長距離ドライブの疲れも手伝って、いくらでも寝られそうだった。
「……あ、大輔……。あんたの時計、アラームあったよね。……朝の七時にかけといてくれない?」
「七時? ……そうだな。あんまり寝坊するってのも、なんだな……」
それでも、十時間近い睡眠時間が確保できるのだが、大輔は不満げだった。
彼も睡魔に襲われているのだろう。
目をしょぼつかせて、時計を取り上げると、そのまま布団に入る。
「ちくしょう……。壊れてやがる……」
手荒く時計を振り、眉《まゆ》を寄せた。
「電池切れじゃないの?」
「まさか。つい一月《ひとつき》前だぞ、買ったの……」
「ワゴン・セールだろ。よくある話じゃん。……電池の交換のほうが高くつくぞ……」
瞼《まぶた》が重いほど眠いのに、口だけはよく回る。
無理やり起きていたあとで、檜《ひのき》の風呂などで落ち着いたせいか、やたらと機嫌《きげん》はよくなっていた。料亭旅館ばりの料理のせいもあるだろう。
居心地がよいという点では、これ以上望めないに違いない。
「……そんなところで買ったんじゃないけどな……。どうする? 昼まで寝てるかもしれないぞ。なにしろ、俺は三十時間でも寝られるんだからな……」
「また、古い話を……。きっと、鳥が起こしてくれるさ。朝になるとうるさそうだもん」
「そうか? 虫の一匹もいないぞ……」
言葉を跡切《とぎ》れさせた大輔が、布団から起き上がる。
ぼんやりとその姿を眺《なが》め上げた竜憲は、ひらひらと手を振った。
「あ、電気消してくれ。……とにかく眠いわ……。おやすみ……」
照明が落とされる。
「変だと思わないか? ……これだけ山ん中なのに、虫もいなきゃ、鳥もいない……」
「……話は明日……。おやすみ……」
溜《た》め息《いき》が聞こえ、ごそごそと布団にもぐり込む音がした。
あとは、静寂。
耳が痛くなるほど、静かだ。
シーンという擬音は、嘘ではない。自分の耳の中で、いつまでもその音が聞こえる。
血液の流れか、それとも、音がなくなったために、鼓膜《こまく》がおかしくなったのか。
そんなことをぼんやりと考えながら、竜憲は平和な眠りに落ちていった。
身体が火照《ほて》る。
肌がそそけだち、荒い息が耳障《みみざわ》りなほどだ。
――忘れていた――
大輔《だいすけ》と同じ部屋にいる。
自分の中にいる姫神《ひめがみ》と、大輔の中に潜《ひそ》む戦士は、場所も考えずに抱き合っているのだ。彼らにしてみれば、千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスだろう。
同じ家にいない限り何もできないのだから、こんな好機を見逃すはずがない。
単なる恋人同士だと考えれば、それを責めるのは、お門違《かどちが》いだ。
しかし、自分が巻き込まれるとなれば、話は別だった。
――俺を放っといてくれ。お前ら、そこいらで勝手にやれよ! ――
低く唸《うな》った竜憲《りようけん》は、精神を身動《みじろ》ぎさせた。
しかし、全身が鉛《なまり》に包まれたように重い。
皮膚感覚も、このまえよりも遠かった。
眠気が勝っているせいか、姫神《ひめがみ》も慣れてきて、竜憲との感覚を切り離せるようになってきたのか。
――やるのは勝手だ。俺を放っといてくれるなら、一月《ひとつき》に一回ぐらいなら、大輔を泊めてやるからさ……。頼むよ……――
心中で語りかける。
さらに、感覚が遠のいていく。
ほっと息を吐いた竜憲は、遠いところで行われる行為を感じながら、再び眠りに落ちていった。
手順も、感覚もわかるのだが、自分にはさして影響がない。ポルノ・ビデオを見ているようなものだ。
ただし、自分が女の立場にあるというところが違いだったが、どちらにしろ観察者の目で見れば同じことだろう。
少なくとも、今まで見たその手のビデオの場合は、画面にのめり込めなかっただけに、大した違いとも思えない。どちらかというと、あの戦士がこれほど丁寧《ていねい》に姫神を扱うことをおかしく思うぐらいだ。そもそも、こんなことを考えていることのほうがおかしいだろう。
なぜか、腕を掴《つか》む感覚だけが、生々しい。
しかしそれも、手首を掴まれて引き寄せられるといった程度で、わざわざ逆らう気にはならなかった。
根《ね》の堅州国《かたすくに》に追いやられた、というのが本当なら、彼らの逢瀬《おうせ》は人には想像もできないほど、久し振りのことなのだ。邪魔をするほうが罪悪に思えてくる。
そういえば、神話の時代とは、いつのことなのだろう。
キリスト教の神が天地創造をしたのが、紀元前四千年という説は知っているのに、日本の神話は何も知らない。
妙なことを思い出して、竜憲は小さく笑った。
肌を這《は》う何かは、指なのか布団なのかもわからないほど遠い感覚だ。
ただ暖かいだけ。
これなら、二人を容認できる。
深い息を吐いた竜憲は、眠りに落ちようとしていた。
と、左足に寒気が走る。
――来た! ――
魍鬼《もうき》か。
いや、姫神と戦士の逢瀬を邪魔しようというのだから、いつもの連中ではない。
しかし、氷の手に掴まれたような寒気は、それが化け物だと教えてくれた。
姫神《ひめがみ》達は無視する気らしい。
彼らにとっては、どうということもない相手なのだろう。
だが、足もとから立ち上る嫌悪感に、竜憲は顔を引きつらせた。
死人の手。
怨霊《おんりよう》の手。
半分腐《くさ》って、まだ思いだけは残っている肉体。
そんなものを想像させる感覚だ。
身動きひとつできない自分の身体を罵《ののし》り、心中で呪《のろ》いの言葉を吐き続けるしかないのだろうか。
手が触れたところから、生気が吸い取られていくような気がする。足が氷になり、動かないくせに痛みだけは忠実に伝えていた。
――こいつ……――
意識を足に絡《から》むものに集中する。
ぼんやりとだが、影が見えた。
淡い燐光《りんこう》を放つ、人影。
顔はほとんど溶けてしまっているが、ぽっかりと空いた、二つの空洞の奥底で、小さな、針で突いたほどの小さな赤い光が、きらめいていた。
できの悪い人形だ。
いや、造りかけなのかもしれない。
人の生気を吸い取って、蘇《よみがえ》ろうとする化け物。
明確な感情を持つこともできない、混沌《こんとん》とした存在は、竜憲にそんな思いを抱かせた。
この部屋に案内されるときに一瞬感じた、視線の主かもしれない。
人以外のすべての存在を否定する屋敷に、息を潜めて蠢《うごめ》いていたものは、絶好の餌《えさ》を見つけたのだ。
結界の隙間《すきま》から這《は》い出ることもできずに、物陰で息を潜めていたものが、何かに引き寄せられて姿を見せたらしい。
姫神《ひめがみ》か。それとも竜憲自身か。
蔵の前を通ったとき、視線を感じたからには、竜憲に気づいたというのが妥当だろう。
つくづく、化け物に縁があるようだ。
自分のどこが連中の目を引くのかわからないが、あまり褒《ほ》められた性質《たち》ではない。父親に言わせれば、隙があるから、なのだ。
現に、こうして足の生気を吸い取られているのに、くだらないことを考えている。
人ではないものの存在に、慣れ過ぎているのかもしれない。
母親が連中のことを“あちらの方”などと言って、ごく普通に接しているように、自分も明確な敵意が感じられないかぎり、共存しようとしてしまうのだ。
姫神にしてもそうだ。
害を及ぼさないのなら、自分の身体を寝床にされても、追い出す気にもならない。
しかし、これはいささかしつこい。足の痛みも痺《しび》れた感覚に変わっていた。
――いいかげんにしろ――
念じる。
自分の身体から、炎が立ち上るのがわかった。
びくりと、身をすくませた影が、手を放す。
――もう充分だろう。それで、しばらくは生きられるはずだ。……闇《やみ》で眠れ。隣の男が起きたら、消されるぞ。……二度と、姿を見せるんじゃない――
畳に溶けるように、影は消えていった。
息を詰めて、気配を窺《うかが》う。
奇妙なものは、暗闇《くらやみ》に戻っていったようだ。
大輔が眠っていることがありがたい。
無謀な長距離ドライブで、いつもの破魔の力が薄れているようだ。それとも、戦士が抜け出したために、緊張から解き放たれているのだろうか。
まだ、問題の二人は互いの身体を絡《から》めている。
首筋が暖かいのは、戦士の腕が回されているからだろう。
それも、触感がないために、さして気になるほどでもなかった。
ようやく、眠れそうだ。
姫神《ひめがみ》達も、うまいやり方を見つけてくれたらしい。
それならそれで、竜憲には逆らう理由はなかった。
むしろ、約束どおり、一月《ひとつき》に一度ぐらいは大輔を夕食に招こうと思っている。そうすれば、母親の機嫌《きげん》はよくなるし、姫神もおとなしく眠り続けてくれるのではないだろうか。
都合のいい考え方だということは、わかっている。
しかし、勝てない相手ならば、共存の道を探すしかないのだ。
この、佐伯《さえき》の家に伝わるという、封じられた法が、効力を発するとは思えなかった。
人としての自分を取り戻すにはそれしかないと言われただけで、どんな術なのか、何をするつもりなのかも、わからない。姫神の影響から竜憲を切り離そうというのだろうが、当代随一の霊能者と言われた父親ですら、想像だにできないような事実があるのだ。あるいは、術法そのものは何も知らないのかもしれない。
まさか、こうして彼女の感覚を共有することがあるなどと、想像もしていないはずだ。
話すべきだったのだろうか。
どうやって。
言葉を想像しただけで、寒気がする。
自分が、男に抱かれる女の感覚を味わわされているなどと、言えるわけがなかった。
――まあいいか……――
それだけは、折り合いがついたのだ。
眠気を誘うような温かさ。
それだけなら、そう悪い感覚ではない。特に、こんな寒い地方に来ているときは、便利なものかもしれない。
小さく笑った竜憲は、再び襲ってきた睡眠の波に、ゆったりと身をゆだねていった。
第三章 蔵の翁《おきな》
眠りと覚醒《かくせい》の狭間《はざま》で、意識を漂《ただよ》わせる。
起きる理由さえ見つかれば、すぐにも覚醒できるのだが、それを考える気にもならない。ただこのぼんやりとした、灰色の意識を楽しんでいたいのだ。
暖かい布団の中で、大輔《だいすけ》は贅沢《ぜいたく》な時間の流れを楽しんでいた。
眠りを妨げるような音は何もない。
ところが、微《かす》かな匂《にお》いに気づいた途端、胃袋が眠りを妨げた。
味噌汁の匂い。
焼き魚の焦《こ》げる匂いが、空《から》っぽの胃袋を刺激して、痛みを感じさせるのだ。一刻も早く起きて、食卓の前に座らなければならない。
食事の時間を守らない息子に食べさせるものはないと言いきる母親は、わざわざ起こしたりしないのだ。とにかく、起きたら何か食べよう。
そう思った瞬間、大輔は飛び起きた。
どこで寝ていたのか、思い出したのである。
と、その背に楽しげな笑い声が浴びせられた。
「……やっぱり。起きると思った……」
ばっと振り向いた先に、にやにやと笑う竜憲《りようけん》の顔があった。
いつのまに用意されたのか、座卓が据《す》えられ、朝食が並んでいる。
「腹減ってるだろ? さっき、恵美《めぐみ》さんが持ってきてくれたんだ。あんたが寝てるから、あとにしますか、とか言ってたけど……。この匂いだもんね……」
だらしなく寝ている姿を、若い娘に見せたのが、そんなに嬉《うれ》しかったのか。悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべている。
「悪趣味だな……」
「そう? 大したものはないって言ってたけど、うまいよ。……食べるんだろ?」
真っ黒な、佃煮《つくだに》らしきものを口に運《はこ》んで、幸せそうな笑みを浮かべる。
苦笑した大輔は、髪を掻《か》き上げるとそのまま腰をずらして座卓に着いた。
味噌汁に卵焼き、焼き魚。旅館の朝食の定番だが、それぞれがうまそうだ。
並んだ皿を見渡して、竜憲の箸《はし》に目を留《と》める。
「なんだそれは?」
漬物の入った大振りの鉢《はち》の横に、小皿に載《の》った佃煮がある。竜憲が気に入ったのは、その皿らしかった。
「キクラゲ。すっごい色だけど、うまいよ」
お茶と佃煮《つくだに》だけで腹を満たす気なのか、竜憲は黒い塊《かたまり》にばかり箸《はし》を伸ばしている。
ほかのものは食えないというのだろうか。
恐る恐る卵焼きに手を出した大輔は、思わずにんまりと笑ってしまった。卵がここまでうまいなどと思ったことはない。普段食べ慣れているものとは、まったく別のものだった。
腹が減っているということもあるだろうが、やたらと食が進む。
「うまいだろ?」
「ああ……」
材料がよいせいだろう。料理の腕もいいに違いないのだが、これなら誰が作っても、それなりに感動できる。
「……けど、よく寝てたな。……もう十時だよ」
「起こしゃいいだろうが」
「起きなかったもの」
「え? ……お前も起きなかったのか?」
「ま、ね。……鳥も鳴かなかったみたいだし……。寝てて気づかなかっただけかもしれないけどね……」
ひくりと眉《まゆ》を痙攣《けいれん》させた大輔は、味噌汁を流し込んだ。
忘れていた。
いくら疲れていても、鳥の声で目を覚まされる。父親の田舎《いなか》に帰ったときは、いつもそうだった。
車の騒音には慣れているが、鳥の声はまったく別ものなのだ。
鎌倉《かまくら》の住宅地に住んでいるのだから、毎朝鳥の騒動は耳にしている。しかし、田舎の鳥の騒ぎ方は、まったく別ものだった。
このあたりは、鳥が少ないのだろうか。
「……妙だな……」
「そう?」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、ようやく食事に取りかかった。
佃煮の皿は奇麗にかたづいている。
「……食うか? いいぞ、食っちまっても……」
「サンキュ」
嬉々《きき》として小皿に手を伸ばす竜憲は、なんの不安も抱いていないようだった。
鳥の鳴き声がしない。
いつもなら、そんな些細《ささい》な異変を気に病むのは竜憲のほうだ。大輔は自分を納得させる言い訳を考え出す。
ところが、今回に限って、互いの考え方は逆転しているようだった。
「どうしたのさ。鳥が鳴かないのが、そんなに気になる?」
「虫もいない」
「もう寒いからね。……何? 昆虫採集でもする気だったの?」
佃煮《つくだに》を口に運ぶ竜憲は、大輔の言葉の意味がわからないようだ。
「……だからだな。……はっきり言やぁ、人間以外、何もいないんじゃないか?」
「ああ、それ……。いないかもね。この家の結界の中に閉じ込められたものが、生気を吸ってるんだ。虫や鳥なんかだと、殺されるだろうな。……なるほど……それでか」
あまりにも平然と告げられて、大輔はむせ込んだ。
生気をすする化け物がいる、などと告げられて、平静でいられる人間がどれほどいるか、考えたこともないのだろう。
以前はごまかしていたのに、大輔に古代の戦士が取《と》り憑《つ》いたと知ってから、直截《ちよくさい》に真実を告げるようになった。
大輔が慣れていないことなど、まったく無視している。
「……どうして……だ。確か、魍鬼《もうき》は入り込めないとか……。言ってただろ?」
「だからさ。……ずっと前からいるんだよ。結界を張られたから、逃げ出すこともできないんじゃないの? だから、きっと虫とか鳥とかの生気を吸ってんだろ。そりゃ、たまに人間もやられるんだろうけど、ちょっと大きな虫に食われるぐらいで……」
「食われたのか?」
ちらりと笑った竜憲は、焼き魚に箸《はし》を伸ばした。
たいしたことはない、とその態度が告げている。
それが、納得できない。
「みすみす食われたのか! お前は!」
座卓の端を掌《てのひら》で叩いた大輔を、竜憲は胡散臭《うさんくさ》げに見上げた。
何を騒ぐかと言わんばかりに。
「蚊《か》みたいなもんだよ。あれだって、かゆいから怒るんで、血を吸ったことを怒ってんじゃないだろ? ……べつに貧血起こすわけじゃないしさ。かゆくもないよ」
そして、その態度どおりの答えが返ってくる。
「馬鹿《ばか》な! 何言ってるか、わかってんのか!」
「わかってるさ。ちょっと冷えるだけだよ。それだって、大したことはないし……」
ゆっくりと目を眇《すが》め、大輔は目の前の男を見据《みす》えた。
ゆがんだ抱擁力《ほうようりよく》。
姫神《ひめがみ》が持つ抱擁力が、ゆがんだ形で竜憲に投影されているとしか思えない。
けっして人間と相容《あいい》れない化け物の餌《えさ》になって、平然としているのだ。それが虫のようなものだと言っているが、竜憲は人と同じように個性を認めていた。
だからこそ、許せない。
竜憲は人なのだ。
ところが、彼は化け物を容認することで、自分を人以外のものにしようとしている。姫神《ひめがみ》の影響だろうか。
大輔にしてみれば、うまく利用されているとしか見えない。
あの、見る者を陶然《とうぜん》とさせるような笑みを浮かべる女は、ゆっくりと、だが着実に竜憲を侵食しているのだ。
「お前な……。あんまり連中に馴染《なじ》むなよ……」
ぽつりと呟《つぶや》く。
目を瞬《しばたた》かせた竜憲は、首をすくめて笑った。
「まぁね。……けど、今までだって、全部が全部封じたり、殺したりしたわけじゃないよ。説得できるものは説得するし、ちょっとしたことで満足するヤツもいるんだ……。あいつも、これ以上暴れるようだったら、考えるけど……。おそらく、床下で息を潜めているんじゃないかな」
穏《おだ》やかな笑みが、竜憲が今度のことをどう考えているかを教えてくれた。
大輔には理解できない感覚だ。
慣れていないと言われればそれまでだが、生理的嫌悪感がある。竜憲のように、折り合いをつけて共生しようなどとは、考えられなかった。
「俺は問答無用で斬《き》りつけるらしいからな……。どうもわからん……」
手早く食事を終えた大輔は、足を投げ出すと、竜憲を眺《なが》めた。
相変わらず佃煮《つくだに》に執着している男は、意味もなく嬉《うれ》しげだ。
それが腹立たしい。
「昨夜か? 俺がいるのに出てくるぐらいなら、始末が悪いものなんじゃないのか? たいていのものは俺がいると出てこられないって言ってたよな……。確か」
途端に、竜憲が箸《はし》を置いた。
表情がこわばり、笑みが消える。
しかし、次の瞬間には、形だけの笑みが戻っていた。
「疲れてたんだろ? 熟睡してると、あんたの力も役に立たないみたいだね」
その声も、どこかぎごちない。
言いたくないようなことが、何かあったのだろう。軽く言い放ってはいたが、竜憲なりに考えて、最善策を取っただけかもしれない。
笑みを返した大輔は、眉《まゆ》を引き上げてみせた。
「まさか、ずっと徹夜しろなんて言うんじゃないだろうな。それだけは勘弁だぞ。俺は試験でも徹夜しない主義なんだ」
「まさかぁ……。本当にまずかったら、祓《はら》うだけだよ。そんなに強いものじゃないから、苦労はしないだろうからさ……」
声をあげて笑う竜憲は、茶碗に手を伸ばした。
どうやら、うまくごまかされた振りができたようだ。言わないということは、おそらく大輔には手出しのできないことなのである。それを暴き立てて気を遣わせるのは気が引けた。
枕もとの煙草《たばこ》に手を伸ばし、ライターを目で探す。
と、竜憲が灰皿とライターを座卓の下から引き出して、滑らせて寄こす。
「……あ……いいよ。――早く食え」
都合が悪くなると煙草に手を伸ばす癖《くせ》があるらしい。いまさらのように気づいて、大輔は煙草を畳に置いた。
それこそ、女が相手なら、食事中に煙草を吸おうなどとは思わない。何より、相手のペースを無視して食事を終えることなどまずないのだ。
「気にすんなよ。……らしくないなぁ」
箸を置いた竜憲は、揶揄《からか》うように大輔を見やり、自分も煙草に手を伸ばした。
美味《う ま》そうに煙を吹き出す。
「それとも、気になんのは、化け物のほう?」
「え……?」
「え……じゃないだろ? どっちにしたって、しばらくは出ないと思うよ……」
「……ふん」
大輔はあらためて煙草を吸いつけた。
気にするほうが馬鹿《ばか》だったのだ。自分などよりは、よほど竜憲のほうが敏《さと》いのである。
化け物に対しても、他人の表情を読むにしても。
「……さぁて……どうなるのかな」
「何が?」
「これから、爺《じい》様にご対面なんだからさ」
妙に楽しげな口調が、竜憲の内心を露呈《ろてい》している。
信じていないのだろう。おそらく、忠利《ただのり》の言う禁じられた術法の存在など。あるいは自分にはなんの効力もないと決めているのだ。
それを諦《あきら》めとみると腹立たしくもなるが、その実、大輔自身も似たような心境だった。姫神《ひめがみ》どころか、彼女を取り巻くすべての妖鬼《ようき》達がなんの妨害もしようとしないことが、何よりの証明のような気がする。
「まあな……」
気楽に応じるには、少しばかり演技力が足りなくて、大輔は渋い顔で相槌《あいづち》を打った。
「何が出てくるんだろう」
問うとはなしに口を開いた竜憲に、首をすくめてみせる。
これは掛け値なし、正直な返答だ。竜憲にわからぬものが、大輔にわかるわけもない。どれほど大袈裟《おおげさ》な話を聞かされようと、どれほど子供騙《だま》しの話が飛び出そうと、驚かないだろう。
良《よ》くも悪《あ》しくも、ここは出雲《いずも》なのだ。
妙な話を思い出していた。繙《ひもと》いた本の中に、出雲そのものが根《ね》の堅州国《かたすくに》だという説があったのだ。理屈はともかく、それが本当なら、姫神《ひめがみ》は帰ってきたのである。
根の堅州国へ――。
もっとも、それならば忠利は竜憲をここに来させなかっただろう、とは思う。
だが、もともとが荒唐無稽《こうとうむけい》で、理屈の通らぬことばかりなのだ。ある意味では、誰の言うことも、真実とは少しずつずれているに違いない。
相変わらず、頭の隅に燻《くすぶ》っている疑念が脹《ふく》らみ始め、大輔は密かに溜《た》め息《いき》を吐いた。
実際、竜憲ならずとも、なんの説明もなしに、ただ命ぜられたとおりに動けと言われて、納得する者などいないだろう。信じる者が救われるなどという戯《ざ》れ事《ごと》を信じるのは、大した悩みもない人間のお幸せな幻想だ。
「おーい……大丈夫か?」
突然、竜憲の間の抜けた声が、耳もとで聞こえる。
思わず大輔は、びくりと身をすくめた。
「なんだかなぁ。……世界中の不幸をぜーんぶ背負ったみたいな顔してるぞ」
「……近いな、それ。……そういう気分だ」
うんざりと顔を顰《しか》めた大輔に、竜憲は子供のようにあけすけな笑みを見せた。
「世界でいちばん不幸だって思えるのは、誰より幸せな証拠だよ」
大輔はひょいと首をすくめ、煙草《たばこ》を灰皿に捩《ね》じ込《こ》んだ。
「哲学的な回答をありがとう……」
「どういたしまして……」
なぜ、竜憲がここまで上機嫌《じようきげん》なのか、大輔には理解しかねた。
まさか、一晩眠って、悟《さと》りを開いたわけではあるまい。それとも、自分が熟睡している間に、彼が悟りの境地に達するだけの何事かが起こったのだろうか。
ふと、いやな想像が脳裏を掠《かす》める。
竜憲自身の自我が封じ込められたのでは。ここにいるのは、竜憲の顔をした姫神ではないか。
「――まさかな……」
意識せずに口を突いて出た言葉を、苦笑でごまかした大輔は、竜憲を押し退けるようにして立ち上がった。
「……やっぱ、顔洗ってこよ。……しゃっきりしないとな!」
「あ……」
「なんだよ」
「顔洗うなら、中庭の井戸でどうぞ、ってさ」
「あ、そう」
振り返りもせずに相槌《あいづち》を打った大輔は、そのまま座敷を出た。
襖《ふすま》を背後で閉じた途端、全身の力が抜ける。自分でも意識しすぎだとは思うが、時々竜憲と二人でいると、ひどく緊張するときがあった。今朝《けさ》もそうなのかもしれない。状況が状況なだけに、一緒にいるのが竜憲ではなくても緊張していただろうが。
息を深く吸い込み、胸のつかえを呑《の》み下すと、大輔は足を踏み出した。
「どうぞ……」
恵美《めぐみ》が開け放たれた重い扉の奥の格子《こうし》の引き戸を引き開け、竜憲《りようけん》と大輔《だいすけ》に道を譲る。
ぺこりと頭を下げて、竜憲は蔵の中に足を踏み入れた。
薄暗い蔵の中には灯《あかり》がない。明るい日差しの中を歩いてきたわけでもないのだが、蔵の中を見透かすことはできなかった。
あまり、客を通す場所ではない気がしたが、文句を言える筋合いではない。
背後から外の光が差しているというのに、奥の様子が見て取れない。これが、鼻をつままれても気づかぬような暗闇《くらやみ》なら納得もしようが、見えそうでいて見えないというのが気に入らなかった。
それだけでもあまり足を踏み入れたいところではないのに、この蔵は、昨夜不可思議な視線を感じた場所でもあるのだ。
竜憲は目を瞬《しばたた》かせて、薄闇を見つめた。
大輔も入ったのだろう。引き戸が重い音を立てて閉じる。
格子の影が、足もとに延びた。
「どうぞ……こちらへ」
人の気配などまったくなかったのに、闇《やみ》の向こうから声が響く。
目を見開いた竜憲は、ちらりと大輔を振り返った。彼も驚いた顔で、闇を見据《みす》えている。
視線を戻すと、奥のほうにぼんやりと人の影が見えた。
「申し訳ございません。……父は足が弱っておりましてな」
昨夜はごく普通に見えた男が、今日は随分と様子が違う。
それも、まったく気配を断てるというだけでも、常人ではあり得なかった。
何より不思議なのは、彼が一言喋《しやべ》る度《たび》に、朧《おぼろ》な視界が少しずつ明確になっていくことだ。もちろん、単に闇に目が慣れたというだけなのかもしれないが。
二つの人影が座っていることが、今でははっきり見て取れる。
ひとりは延べられた床に身体を起こし、ちんまりと座っていた。その枕辺あたりに、声の主は端座《たんざ》している。
「そちらにおかけください」
顔の表情は読み取れない。
そのせいか、声が昨夜とは随分と違って、荘厳にさえ聞こえる。蔵の中にいるために、まったく響きがないというのにだ。
言われるままに、用意された座布団に正座する。
「お楽に、どうぞ」
「……はい」
応じながらも、膝《ひざ》を崩す気にはならなかった。
「父でございます」
「大道寺《だいどうじ》竜憲です。……これは友人の姉崎《あねざき》大輔」
形ばかりの挨拶《あいさつ》をして、老人を見やる。
布団に座した老人は、頭《こうべ》を垂《た》れ、微動だにしない。死んでいるのではないかと、一瞬疑ったほど、生気がないのだ。
それどころか、影そのものが薄い。薄闇の中で、ひどくぼんやりと霞《かす》んで見えるのである。
と、息が漏《も》れるような音が、耳に届く。何か喋っているのだろう。
その口もとあたりを眺《なが》めた竜憲は、思わず目を細めて、そこを注視した。
何かおかしい。
やがて、緩慢に顔を上げた老人を、竜憲は無遠慮に凝視していた。
翁《おきな》の面。
比喩《ひゆ》ではない。老人は本当に翁《おきな》の面を被《かぶ》っているのだ。
「……失礼は承知しております。……ですが、父は顔が半分ございません」
「……え……?」
同時に声をあげた二人は、互いの顔を見合わせた。
「……空襲で……」
「はぁ……それは……」
なんとも答えようがない。ひどく悪いことを言わせてしまったような気になって、二人は俯《うつむ》いた。人生経験のなさゆえか、こういう場面は慣れていない。
もちろん、それ以上の言及など、論外だ。老人の影の薄さに一瞬抱いた疑問など、即座に消え失せていた。
言葉を詰まらせた二人を交互に眺《なが》め、佐伯《さえき》が小さく咳払《せきばら》いをする。
慌《あわ》てて視線を上げた。
「よろしいでしょうか」
「は……はい」
再び、佐伯老人の息の漏《も》れるような声が、聞こえ始める。
竜憲は懸命に耳をそばだてたが、見事なほどに聞き取ることができない。
「反魂《はんごん》の術をご存知でしょうか?」
「ハンゴン?」
「……死者をこの世に蘇《よみがえ》らせる、封じられた術でございます」
「死者……って、死んだ人間の……死者?」
「はい」
真顔で答えられ、竜憲は顔を引《ひ》きつらせた。見なくてもわかる。多分、大輔も同じような顔をしているに違いない。
真偽の程はともかく、魂《たましい》を呼び戻すという術は知っている。口寄せ、イタコ。竜憲の口を借りて、姫神《ひめがみ》が喋《しやべ》るのもその類だろう。
だが、蘇らせるとなると、およそ別の次元の話だ。
「蘇らせる……って言いました?」
「ええ、肉体と魂を共々、この世に呼び戻すのです」
「はぁ……」
佐伯の言うことを虚《ざ》れ言《ごと》だとは思わない。そんな術法がないとも言わない。より正確に言えば、伝わっていても不思議はない、と言うべきだろう。
だが、現実にできるのか、となると疑わしいことこのうえない。自らの家に伝わる、人に言わせればまやかし以外の何物でもない呪言を一〇〇パーセント否定するつもりのない竜憲でさえ、こればかりはとても信じる気にはならなかった。
ましてや、大輔が本気にするはずもない。
「反魂《はんごん》の術法で……姫神をこの世に呼び戻します」
「何?」
竜憲より先に大輔が、不審の声をあげる。
大輔が口を開かねば自分がそうしていたところだろうが、竜憲はあえて彼の腕を押さえ、それ以上の言葉を制した。
堂々と口にするということは、姫神に聞かれてもかまわないのだろうか。あるいは、すでに彼女がすべてを察していることを知っているのかもしれない。
尽《ことごと》く秘密裏に進めようとする忠利《ただのり》や鴻《おおとり》とは、あまりに違う対応に、竜憲は少々興味を引かれ出していた。もちろん、内容の荒唐無稽《こうとうむけい》さへの疑念が、晴れたわけではないのだが。
こうなってくると、何をしようとしているのか知っていたはずなのに、一切口を挟《はさ》もうとしない姫神達の動向が、ますます気になり始める。
できはしないと高を括《くく》っているのか、止める術《すべ》がないのか。それとも、それ以上の意味があるのか。どれもありそうで、思考は混乱するばかりだ。
推理することを諦めて、竜憲は佐伯を窺《うかが》い見た。
頷《うなず》いた佐伯が、言葉を続ける。
「そして、本来の器《うつわ》に魂も戻すのです。そうすれば……」
さすがにそれ以上は口にしない。
だが、言ったも同然だった。
姫神《ひめがみ》の肉体を蘇《よみがえ》らせて、竜憲の身体から追い出そうというのだろう。そして、おそらく、自分の肉体に戻った姫神を殺そうというのだ。
肉体を持ってしまえば、戦えると考えたのだろう。
そこまで簡単にいくとは思えないが、いかにも忠利の考えそうなことだった。
「いつ……それを……」
ぽつりと訊《き》いた竜憲に、仮面が向けられた。
息が漏《も》れる音は聞こえるのだが、言葉となると、相変わらず聞き取れない。それが怪我《けが》の影響なのか年齢のせいかはわからなかったが。
付き従うように横に座った息子も、それがわかっているのだろう。
真剣な表情で父親の言葉に耳を傾けていた。
布団に座ったままの老人の両手には、包帯が巻かれている。
竜憲達が生まれるはるか昔の戦争の傷跡が、未《いま》だにこの老人を苦しめているのだろう。正視することに罪悪感を抱くような姿が、むしろ反魂《はんごん》の術などという突拍子もないものに、現実味を与えていた。
老人の言葉は、延々と続いている。
時折、確かめるように息子が訊《き》き返し、再び言葉が綴《つづ》られた。
口を挟《はさ》むこともできずに、ただ待っているだけの竜憲は、老人を見続けることもできなくなって、息子の顔に視線を移した。
この男は、普通だ。
気配が薄いことを除けば、ごく普通の、化け物などとはなんの関わりもない男だった。
「……わかりました」
男の唇《くちびる》が、そう動く。
言葉は聞こえなかったのだが、はっきりと読み取れた。
「……お待たせいたしました。……私には、わかりかねることがありまして……。とにかく、少しお時間をいただきたいと。……用意をしなければならないことがありますので」
「はい」
どんな方法を取るのかは知らないが、反魂の術などというものが、そうそう簡単に行えるとは思っていなかった。
だが、大輔は溜《た》め息《いき》を吐く。
彼のほうは、こんな何もないところに閉じ込められるなどと、思ってもいなかったのだろう。
「……それと、万が一、姫神が現れても、けっして逆らわないように。この屋敷から出ない限り、何が起こっても、対処できます。……というより、ここの結界は、姫神《ひめがみ》でも、簡単には破《やぶ》ることはできませんから……」
「わかりました」
どうせ、逆らうことなどできないのだ。竜憲は確かめるように、ゆっくりと頷《うなず》いた。
自分を取り戻す唯一の手段だという、反魂《はんごん》の術を操る老人にしろ、姫神にしろ、逆らうことなどできない。
老人に逆らえば可能性を捨てることになるし、姫神など、始めから逆らっても無駄だった。
何より、幽閉には慣れている。
姫神に取《と》り憑《つ》かれてから、何かあるごとに家に閉じ込められたのだ。
それが、自宅か、他人の家かという違いでしかない。
「……退屈なさるでしょうが、できる限り準備を急ぎますので、ご辛抱《しんぼう》ください」
言葉を重ねた男は、老人に向かって何事か囁《ささや》いた。
仮面の顔がゆっくりと頷かれる。
「……日が暮れてからは、屋敷に留《とど》まっていただけますでしょうか。夜は異変が目立ちますので……。ここの周辺でしたら、恵美に案内させましょう」
やはり、この老人は忠利ほど面倒なことは言わないようだ。
物事を直截《ちよくさい》に話すだけあって、無駄なことはしない。姫神が竜憲の命を奪う気がないかぎり、どこにいても同じなのだ。ただし、夜の闇《やみ》は人を過敏にする。
日が暮れてからは出歩くな、というのは、竜憲に対してというより、他人の目を考えてのことだった。
よけいな騒動は、引き起こさないに限る。
「……お手数をおかけします」
ぺこりと頭を下げた竜憲は、それを機会に立ち上がった。
ずいと、大輔も立ち上がる。
むっとする熱気が、彼が腹を立てていることを教えてくれた。
どうせ、不条理だ、などとわめき出すに違いない。
少なくとも、簡単に退屈することだけはなさそうだ。
この石頭に反魂の術がなんなのかを説明するだけでも面倒なのに、それを納得させるとなると、まる一日かかっても不思議ではない。
それでも、鴻《おおとり》を同行させなかったことを感謝するべきだろう。
あの、息をするだけで一日を過ごせるような男と共に、こんなところに閉じ込められたくはなかった。
大輔となら、観光巡りをしても面白《おもしろ》いだろうが、鴻と共に出雲《いずも》大社《たいしや》に行く気になどなれない。
仕入れたばかりの日本神話の講釈を聞いてやれば、大輔の機嫌《きげん》も少しはよくなるだろう。
それには、絶好の場所だ。
出雲《いずも》には神話の世界が生きている。
それは比喩《ひゆ》や観光宣伝ではない。この地の空気には、一種特殊なものがあった。
姫神《ひめがみ》がそう感じているのか、それとも自分自身の感性なのかはわからないが、確かに空気の色が違っているのだ。
日本全国が神無月《かんなづき》と言っているときに、出雲だけは神在月《かみありづき》と言う。
すべての神々が、出雲に集まるらしい。
十月なら、まさしくすべての神々が集まっているなか、根《ね》の堅州国《かたすくに》に追いやられた姫が現れたという、皮肉な図式になっただろう。
一月《ひとつき》遅れた、ということ。
感謝すべきか、それとも惜しむべきだろうか。
皮肉な巡《めぐ》り合わせに内心で笑った竜憲は、まだ怒っている大輔の肘《ひじ》を軽くつついて、薄暗い部屋をあとにした。
「馬鹿《ばか》。……神無月《かんなづき》だの神在月《かみありづき》だのってのは、旧暦に決まってるだろ。……太陽暦で言っても意味ないだろうが。……まったく、陰陽《おんみよう》だの、霊能者だの言ってるくせに、肝心なところは抜けてるんだから……」
顎《あご》を斜めに上げて、竜憲《りようけん》を下目使いに眺《なが》め下ろした大輔《だいすけ》は、眉《まゆ》を寄せてみせた。
海沿いの道を、車は快調に走っている。
せっかく出雲《いずも》に来たのだから、ということで、出雲大社だけは行こうという話になり、そのまま出発したのだ。
案内してもらうには、あまりにも有名な場所だと言って、恵美《めぐみ》の案内は断った。本当は、誰にも聞かれる心配のないところで、訊《き》きたいことがあったのだ。
反魂《はんごん》の術とは何か。
どう考えてもこの世に存在しない肉体を、どうすれば蘇らせられるのか、理解できない。
しかし、竜憲の言った一言が、話をまったく違う方向に転がらせた。
先月なら、神在月《かみありづき》だったと、言ったのである。
「そうか……。じゃあ、今が神在月なのか?」
「ちょっと待て……」
さすがに、今日が旧暦の何日なのかは知らない。
大輔はポケットから手帳を引き出すと、日付の横に書かれている小さな数字を眺《なが》めた。
「おお、立派に神在月だぞ。入ったばかりだ」
「なんか変だな……。タイミングがいいのか悪いのか……」
小さく、大輔は笑った。
神無月《かんなづき》に神がいなくなる、などと考えたこともない。それが本当なら、十五日に七五三の祝いで、神社に詣《もう》でた連中は、留守宅を訪れたことになる。
太陽暦と旧暦が混在しているせいだろうが、誰も神の存在を本気で考えていない証拠だろう。
「まぁ、神在月だなんて言って、自分とこは特別だなんて言いたがる連中は、信じるかもしれないな……」
「どうしてだよ。出雲《いずも》に神様が集まるんだろ?」
神話にはうといくせに、こんなことだけは知っているようだ。
「……タイミングがよすぎると思わないか? いつだって来られただろ? それを、わざわざ神在月だなんてさ……」
唇《くちびる》を尖《とが》らせた竜憲は、言葉を続けた。
「まぁな……」
言われてみれば、作為的なものを感じる。
ひょっとすると、鴻《おおとり》の差し金かもしれないと考えると、竜憲の不安ももっともなものに思えてきた。
姫神《ひめがみ》を根《ね》の堅州国《かたすくに》に追いやったのは、やはり神だろう。だとすれば、すべての神が揃っている出雲には、彼女の敵もいるということだ。
「……考えてもしょうがないか……。姫様は抵抗しなかったし……魍鬼《もうき》も現れないし……。反魂《はんごん》の……」
ぴたりと、竜憲が口を鎖《とざ》す。
自分から話題をふってしまったことを、後悔しているだろう。
小さく笑った大輔は、その話題に乗ってやった。
「どんなモンだ?」
「え?」
「反魂の術」
唇を尖らせた竜憲は、ステアリングを乱暴に切った。
いつのまにか、車は山間《やまあい》に入っている。
そう複雑なルートではないために、地図は頭に入っているのだろう。出雲《いずも》大社《たいしや》に行くというのに、竜憲も反対しなかったのだ。
「……死んだ人を生き返らせる術」
「そんなことは知っている。……そんなもんが本当にできるのか? だいいち、姫神《ひめがみ》の身体なんかないだろう」
「さあね。……詳《くわ》しいことは、俺は知らないほうがいいんじゃないの? ……向こうも知らないことがあるみたいだけど……」
ひくりと、大輔の眉《まゆ》が痙攣《けいれん》した。
いつのまにか、竜憲は霊能者達を向こう側の人間として認識している。
霊能者達が竜憲に取《と》り憑《つ》いた姫神を追い出そうとしているのに、当の本人が彼女の仲間のつもりになっていては、成功など望むべくもないだろう。
「なぜだ……」
「なぜ? なぜって……。何がさ……」
「なぜ、向こうなんだ?」
「……わっかんないな……。もう少し、わかりやすく言ってくんない?」
自分が何を言ったのかも、覚えていないのか。
意識もせずに、使った言葉なのだろう。それがよけいに腹立たしい。
大道寺忠利《だいどうじただのり》が竜憲を人に立ち戻らせようとした理由が、今になってはっきりとわかった。
「向こうも知らないことがあるって言っただろ?」
「ああ……。あんたに取り憑いた戦士のことだよ。きっと、姫神のお付きか何かって思ってるよ。親父も、佐伯《さえき》の爺《じい》さんも、誰もあんたのことは警戒してないじゃない。そんなに簡単なやつじゃないのにね……」
笑みを張り付けた竜憲が、首を捩《ね》じ曲げて大輔を見つめた。
目を細め、唇《くちびる》を引き上げた笑み。
人間離れした美貌《びぼう》が、そこにあった。
「……おい。前を見ろよ。……いくら車がいないからって……」
くるりと、顔が正面を向く。
ほっと息を吐いた大輔は、その横顔を睨《にら》み据《す》えていた。
何かがおかしい。
竜憲はますます人ではなくなっていく。
だからこそ、忠利は出雲に向かわせたのだろうが、状況は悪くなっているとしか思えなかった。
――ひょっとして……――
鴻の差し金か。
息子がこんな状態になるとわかっていたら、忠利が出雲《いずも》に向かわせるはずがない。予想以上に竜憲の状況が悪いのか、それとも姫神《ひめがみ》が最後のあがきを見せているのか。
出雲に向かう車中で、窓に映し出された姫神の笑みの意味は、なんだったのだろう。
「そのうち、親父にも言わないとね。……もっとも、戦士の正体がわかんないんじゃ、言いようがないんだけど……。姫神の正体もわからないんじゃ、調べようがないよね」
竜憲は、自分の思考に疑問を抱いていないようだ。
「そうだな……」
顎《あご》を引いた大輔は、竜憲の横顔を見据《みす》えながら、無駄と知りつつ打開策を考えていた。
極彩色《ごくさいしき》に彩られた美女が、剣を捧げ持って立っている。
宝物館の二階に上がった途端、目に入ったのは櫛稲田姫《くしなだひめ》の像だった。
「おお、美人……」
大輔《だいすけ》はにんまりと笑って巨大な美女を見上げた。
「あんた、美人ならなんでもいいのな……」
「当たり前だろ。ヤローのすっ裸の像を飾るよりゃ、よっぽどマトモだと思うぞ。女も、裸はよくないな……」
くすくすと笑う竜憲《りようけん》は、以前の彼に戻ったようにも見える。
注意深く、その様子を観察しながら、大輔は普通の大学生を演じていた。
本殿の前の巨大な注連《し め》縄《なわ》に十円玉を投げつけて、刺さったと言っては自慢げに胸を張り、少しばかり奇麗な観光客を見つけて、もっともらしく論評を加える。
いつもの自分だ。
しかし、すべてが計算づくだった。
「けど、本当に奇麗だね」
「初めて、意見が合ったな……」
「そりゃ、生きてる人間じゃないから……。あんたの趣味はよくわからないもの……」
生きた女の趣味は、両極と言っていいほど違う。竜憲は気の強そうな、何があっても自分で対処しそうな女に高いポイントを与えたし、大輔はおとなしい女が好みだった。
「悪かったな。……お、すごいな。十拳《とつか》の剣だってさ……。いくらなんでも……」
「本物じゃないんだから……。七支刀《しちしとう》だって、あんたが使うのとは、全然違うじゃないか」
「まぁな。あれは戦士殿がわざわざ持ってきたものだろうから……。けど、本当に七支刀なのか、俺も知らんぞ。枝分かれしてるってだけだ……」
見物客が少なくて幸いだ。
二人とも、ひどく現実離れしたことを言っている。
声を殺して笑い、好き勝手な論評を加え、おざなりに展示物を眺《なが》めてゆく。
ここには竜憲の興味を引くようなものはないようだった。
社殿にも、特別な反応は示さない。
姫神《ひめがみ》は、現代に伝わる神話から、はみ出した位置にいるのだ。ならば、現在も人間に拝まれているような神の前では、鳴りを潜めていても不思議ではなかった。
少しは気が休まる。
竜憲の反応を見るために、出雲《いずも》大社《たいしや》まで足を運んだようなものなのだ。
それさえ確かめられれば、ここには用はない。
普通の観光客と同じように、駆け足で見学しただけで、さっさと出るほうがいいだろう。何より、大輔にはもうひとつの目的があった。
「……と、悪いなリョウ。ちょっと……」
観光客の流れに従って歩いていた大輔は、土産《みやげ》物屋《ものや》を見つけて、照れ笑いを浮かべる。
「何か食っててくれよ」
「彼女に? マメだね……」
「うるさいな……。ほら、そこに蕎麦屋《そばや》があるだろ。あとで行くから……」
大輔が用があるのは、店先の電話だった。
なんの疑いもなく、彼女への土産を買うと信じた竜憲が、おとなしく蕎麦屋に向かう。
その姿が消えるのを待って、大輔は電話に取りついた。
テレフォン・カードを並べ、受話器を肩に挟《はさ》む。
ボタンを押そうとして、眉《まゆ》を寄せ、記憶をたどる。
いつも、短縮番号でかけているために、番号が思い出せないのだ。
朧《おぼろ》げな記憶をたどり、確信が持てるまで口の中で繰り返すと、カードを差し込み、ボタンを押す。
三度のコール。
と、優しげな声が出た。
「あ……。姉崎《あねざき》です。……あの、親父《おやじ》さんを……。はい……。すみません」
恐ろしいスピードで減ってゆくカードの数字を見つめながら、大輔は忠利が出るのを待った。
今回の出雲《いずも》行きが、鴻《おおとり》の発案なのか、それだけでも確かめたい。
『姉崎さんですか。先生は出かけていらっしゃいますが、私でわかることでしたら、伺《うかが》います』
最悪の相手。
鴻の声に、眉《まゆ》を寄せた大輔は、そのまま受話器を叩きつけたい衝動を抑《おさ》えて、ゆっくりと息を吐いた。
「……佐伯《さえき》の爺《じい》さんには会えたが……。何をやる気か、あんたは知ってたのか?」
単刀直入に訊《き》く。
含み笑いが返り、大輔は頬《ほお》を引きつらせた。
背筋が粟立《あわだ》つほどの嫌悪感がある。鴻の声を聞くと、自分がどれほど彼を嫌っていたのか、いまさらのように認識できた。
その理由を考えたくないがために、純粋に敵意を増幅させる。
竜憲を騙《だま》し、姫神《ひめがみ》に敵対する男。そう考えていればいいのだ。
『……はい』
焦《じ》れるほどの間をおいて、鴻が答えた。
「あんたが仕組んだのか?」
『どういうことでしょう。私など、佐伯老人にお目にかかることなどできません。まして、何かを頼むなど、できるわけもありません』
だが、佐伯の存在を思い出させたのは、鴻だろう。完全に否定すればするだけ、確信が持てる。
あの、爬虫類《はちゆうるい》が笑ったような顔が、まざまざと思い起こされた。
「……なるほど……。じゃあ、親父さんに伝えてくれ。魍鬼《もうき》はおとなしいもんだ。ちょっとしたトラブルはあったが、たいしたことじゃない。佐伯の爺さんがやるっていう術が、本当に姫神が困るようなことなのか、怪《あや》しいもんだ。……姫様は悠然と待っていらっしゃる……ってな」
『魍鬼が、出なかったのですか?』
「ああ。二度ばかり出たけどな……。こっちは徹夜でボケてんのに、途中からは何も出やしない」
『……そうですか……』
「伝えてくれるな。リョウは元気だ」
『わかりました。ご迷惑をおかけしますが、竜憲さんをよろしくお願いします』
受話器を叩きつける。
まるで自分のものであるかのような言いよう。
大輔に預けているだけだと、鴻は考えているのだ。
深い呼吸を繰り返した大輔は、警告音と共に吐き出されるテレフォン・カードを、握《にぎ》りつぶした。
あの男こそが、竜憲を取り込もうとしているのだ。
姫神《ひめがみ》に取《と》り憑《つ》かれて、徐々に人としての認識を薄くすることと、鴻の操り人形になることの、どちらがましか。
結果は同じだ。
竜憲が己《おのれ》を保つには、何をすればいいのかもわからない。このままでは、竜憲は死ぬだけだった。
肉体は生き残るかもしれないが、中身はまったく別のものになってしまう。
「……ちくしょう……」
握りつぶしたテレフォン・カードを、忌々《いまいま》しげに睨《にら》み据《す》える。
己が何をすればいいのかもわからないが、何を望んでいないかだけは、はっきりと認識できた。
鴻の手に、竜憲を渡さないこと。
まずはそれだ。
佐伯老人の術を受けることを、姫神は怖《おそ》れていない。ならば、まずは験《ため》してみてもいいだろう。
店先に据えられた屑籠《くずかご》にカードを投げ込んだ大輔は、蕎麦屋《そばや》に足を向けた。
と、店先で足が止まる。
「……誰? 鴻?」
竜憲は一端店に入って、すぐに出てきたらしい。
皮肉げな笑みを浮かべて、大輔を真っ直ぐ見返していた。
「彼女じゃないよね。えらい勢いで怒ってたじゃないか……」
見られていたのなら仕方がない。ぎごちなく笑った大輔は、首をすくめてみせた。
「一応、無事に着いたことは知らせなくちゃと思ったんだが……。鴻が出たもんでな。ついつい……」
「へえ……。そんなことを報告するのに、わざわざ俺を追い払ってくれたわけだ」
皮肉な言いように、大輔は内心で舌打ちした。
あまりにも露骨なごまかしだったか。
人の顔色を読むのが得意な男に、こんな単純な言い訳が通用するはずがなかったのだ。
「ちょっと訊《き》きたいこともあったしな」
「言いたいことじゃないの? あんたの中にいる戦士が、実は始末が悪いものだって……」
目を見開いた大輔は、つくづくと竜憲を見下ろした。
そんなことは考えてもみなかった。
時機を見て竜憲が話すというのならともかく、大輔自身にはほとんど自覚はない。戦士に取《と》り憑《つ》かれているということは、周知の事実なのだ。
それ以上の話など、できようはずもなかった。
「……悪い。そこまであんたを疑ってたわけじゃないよ。たださ……」
拗《す》ねたような顔に、大輔は苦笑を浮かべた。
「正体を探るか……。親父《おやじ》さんは、名前が知れたらまずいみたいなことを言ってたが……。俺は違うと思う」
「え?」
「こう言っちゃなんだが、親父さんや、鴻の予想は、全部外《はず》れているじゃないか。彼女の名前を知れば、何か進展するかもしれない。このまま、誰かの言いなりになるってのは腹が立たないか?」
ゆっくりと、ひどく印象的な目が、三度瞬《しばたた》いた。
「実のところ、あの爺《じい》さんの術も、効《き》かないと思っているんだ」
竜憲の笑みが深くなった。
「あんたも? 俺もだよ。……けどまぁ、やってみても悪くはないだろ。そうだよな。親父の言うとおりにしてても、何も進展しないんだし。だったら、やりたいようにやってみるのも手かな……」
遅すぎるほどの決断だ。
もって、一年か二年。
姫神《ひめがみ》に取り憑かれた竜憲が、自分で言った言葉だ。
もし、彼が自分を保てるのが一年だとすれば、残された時間はわずかしかない。それを他人の言いなりになって過ごすなど、あまりにもばかばかしいではないか。
すでに兆候は現れているのだ。
「つきあってくれる?」
「いいぞ……。どうせ、いやだって言っても、あの野郎が放っときゃしないだろう。こうなりゃとことん調べてやろうぜ」
姫神に従う戦士のように、自分も竜憲につきあうしかないのだろう。
鴻を敵と定めた瞬間から、決まっていたことだ。
「……さっさと帰ろう。日が暮れたら、面倒なことになるかもしれない……。それに……」
「あの家の蔵書だろ? 退屈しのぎって言えば、見せてくれるさ。……もっとも、俺達に読めるかどうか、わからないけどな……」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、駐車場に向かいはじめた。
第四章 海より来たる者
身体の芯《しん》に鉛《なまり》を飲みこんだような重さがある。
慣れない環境で疲れていると言われればそれまで。みみずののたくったような古文書を一文でも解読しようと、明け方まで格闘していたせいかもしれない。
うとうとと微睡《まどろ》んだと思うと、もう朝になっていた。
そして、当然のように現れた恵美《めぐみ》が、二人を屋敷から連れ出したのだ。
若い女には不似合いな、濃紺《のうこん》の大型乗用車の後部座席で、竜憲《りようけん》はぼんやりと外の景色を眺《なが》めていた。
竜憲が屋敷に留《とど》まると、不都合があるらしい。
だが、逆らう気力もない竜憲は、自分がステアリングを握《にぎ》らなくてすむとわかった途端に、機嫌《きげん》よく車に乗り込んだ。
大輔《だいすけ》は助手席。
女が運転する車の助手席が似合う男など、そうそういないだろう。
たいていは、教習の真似事《まねごと》をしているように見えるか、愛人に運転させる暴力団員という絵になるのが落ちだ。そうでなければ、駅までの送り迎えを妻にやらせる夫。
ところが、大輔は恋人同士に見えながら、なおかつなんの不自然さも感じさせなかった。
おそらく、あまりにも当然という顔をしているからだろう。
さすがに女友達を、運転手代わりに使う男だけのことはある。
ぽかぽかと暖かい車内で、身体をシートに預けて、竜憲はぼんやりと二人を見物していた。
こうしている間にも、何が起こっても不思議はない。それにもかかわらず、まるで行楽気分だ。自分はデートに割り込んだ、気の利《き》かない友人というところか。
密かに笑った竜憲は、シートにだらしなく寄りかかった。
つまらないことで、妙に気分がよくなるのは、少々頭の螺子《ねじ》が弛《ゆる》んでいるせいらしいのだが、なぜか修正を試みようとは思わない。
本来なら、もっと緊張していてもいいはずなのだ。
「……リョウ……大丈夫か」
不意に、思わぬことを訊《き》かれ、竜憲は目を見開いた。
「へ?」
助手席に収まった大輔が、シート越しに竜憲を眺めている。
「お前……あんまり顔色がよくないぞ」
「顔色?」
思わず自分の顔を撫《な》で回した竜憲は、にっこりと微笑《ほほえ》み返した。
「そう? ……寝起きだからじゃない」
自分でも言い訳になっていないと思う。なにしろ、朝食をとってからの外出だ。寝起きも何もない。
とはいえ、顔色が悪いなどという自覚はないのだから、言い訳のほうも真剣に考えたわけではなかった。
訝《いぶか》しげな表情の大輔に片眉《かたまゆ》を引き上げてみせると、首をすくめる。
「私の運転のせいですか?」
今度は恵美が、妙な問いを投げてくる。
ミラーの中に、心配そうな眼差《まなざ》しが見えた。
「あん? ……そんなことないよ。ホントに……」
竜憲は慌《あわ》てて否定し、腰の位置を直すと、背筋を伸ばす。
「やだなぁ。真剣な顔して言わないでよ。本当に気分が悪くなっちゃうじゃないか」
「それならいいが……」
ぼそぼそと呟《つぶや》いた大輔が、竜憲に背を向ける。
その背に向かって舌《した》を出した途端、恵美がくすりと笑った。
見られたらしい。
「……それはそうと……まだ聞いてないよね。……どこに行くわけ?」
慌てて話題をすり替えると、大輔はあっさりと乗ってきた。
「そうだ……聞いてないな」
気にはなっていたのだろう。今まで問いただそうとしなかったあたり、竜憲以上に気になっていたのかもしれない。だからこそ、口に出すきっかけを逸していたのだ。
いかにも大輔らしい。
「いったいどこへ行くんだ? まさか、暇潰《ひまつぶ》しの観光コースじゃないんだろう?」
竜憲に代わって真顔で問う大輔をちらと見やり、恵美は曖昧《あいまい》に微笑んだ。
つい先ほど、竜憲の表情を見咎《みとが》めて、笑ったときとは随分と違う。何かぎごちなく、感情が窺《うかが》い知れない笑みだった。
それに気づいているのか、いないのか、大輔は恵美の答えを待つつもりらしい。唇《くちびる》を引き結んで正面を見据《みす》えている。
竜憲が見るかぎり、どちらも口を開きそうにはなかった。
が、案に相違して、恵美が答えを口にする。
「そんなところです」
「言えない場所?」
精いっぱい軽い調子で問い返すと、彼女はミラー越しに竜憲を盗み見た。
「そんなことはないですよ……」
「……じゃあ……」
「大社はおいでになったでしょう。……ですから御碕《みさき》の社《やしろ》にもおいでんさったほうがと……」
「佐伯《さえき》さんが?」
「え? ……ええ。旦那様《だんなさま》が」
「ふーん……」
半信半疑で頷《うなず》いた竜憲を、恵美が盗み見ている。
心配げなのが愛嬌《あいきよう》だ。内心で笑った竜憲は、彼女の視線が道に戻るのを視界の隅で確認し、窓の外に目を転じた。
「ミサキの社って?」
「あ……、沈む日の神様です」
「へぇ、そんなのあるんだ」
「ええ」
曖昧《あいまい》に応じた恵美は、それ以上は何も言わない。
運転手に専心すると態度で表す彼女に、これ以上話しかけるのも躊躇《ためら》われて、竜憲はむすりと口を噤《つぐ》んだ。
単なる観光案内ではないだろう。佐伯老人が行うという術にも、関係しているかもしれない。
だが、竜憲はなんの不安も感じなかった。
これほど周りが静かなことなど、本当に久し振りなのだ。身体は怠《だる》いのだが、それも緊張が弛《ゆる》んでしまったせいだろう。
ただ一つ、妙なことといえば、恵美の気配まで感じないということぐらいだ。
大輔は、鬱陶《うつとう》しいほどの存在感があるのだが、つきあいが長いぶん、無視することにも慣れている。
いつもなら、慣れない人間が存在すれば、とてもここまでくつろぐ気にはなれないはずなのだが、恵美はまったく気にならなかった。
自分の気配を消せるのだろう。幼いころから霊能者としての修行を重ねているのかもしれない。
恵美は大道寺忠利《だいどうじただのり》の弟子達に比べても、遜色《そんしよく》ないほど、自分の気を制御している。これなら、雑霊の類にまとわりつかれることもないだろう。
「リョウ。眠いなら、寝てろ。……お前、変だぞ」
怒ったような声に、竜憲はひらひらと手を振った。
大輔も明け方まで古文書と取り組んでいた。平然としていられるのは、隣に女が座っているからだろう。
あいにくと竜憲は、女と見ればとにかく格好をつけるという習慣はない。それを怪しまれても、対処のしようはなかった。
もっとも、反論する気力もない。
さして眠くもないのだが、頭をウインドウに預けてゆったりと目を閉じた竜憲は、日の光が目の裏で躍《おど》る感覚を楽しんでいた。
大輔と恵美は、声を潜めて何か話し合っている。狭い空間なのだが、後部座席にいると意外と聞こえないものだ。
沈む日の神様を祀《まつ》る神社の話でも聞き出しているのだろうが、もともとの知識が足りないせいで、単語を聞き取ることもできない。ただ、大輔の声の調子から、あまり真剣な話ではないことはわかった。
薄目を開けて、やにさがった男の横顔を眺《なが》める。
趣味ではないと言いながら、恵美に微笑《ほほえ》みかける顔は、いつもどおりいい男を演じていた。
木々に覆《おお》われた斜面に造られた道は、長い間に人の足が踏み固めたものなのだろう。たどるには充分だったが、散策を楽しむといったふうにはいかない。
少々、地面がぬかるんでいるせいもある。
海辺の近くの社殿に手を合わせたあと、恵美《めぐみ》は竜憲《りようけん》を伴って、この小高い丘を上り始めたのだ。
たいして上ってきたとも思わないのだが、ひどく疲れる。周りの景色に変化がないのも、疲労感を増すのに一役買っているようだ。
丸い丘を斜めに横切る小路が、木立の奥に延び、見えなくなる、その繰り返し。
竜憲が息を切らし始めた頃に、恵美は足を止めた。
丘を這《は》う道はまだ少し上まで続いていたが、この先は夏草の残骸が枯れた姿を晒《さら》している。
「ここ?」
大きく息を吸い込み、呼吸を整えた竜憲は、ゆるりと周囲を見渡した。
斜面に石段がある。
石段といっても、大きさも形もばらばらの石を積み上げ、どうにか階段の体裁を整えている程度のものだ。
「まだ……登る……」
溜《た》め息《いき》を吐いた竜憲を眺《なが》め、恵美はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
息も切らしていないところが憎《にく》らしい。いくら寝不足とはいえ、男としては少々情けないではないか。
実際、たいした階段ではないのだ。
大小様々の苔《こけ》むした石の山を眺め上げ、竜憲は力ない笑みを浮かべた。
「行こうか……」
先を行く二人について、無理やりに足を引き上げた竜憲は、石段を登り始めた。高さも幅もまちまちの石段を登るのは思いのほか、重労働だ。
それでも、どうにか登りきり、少し開けた場所に出る。
問うまでもなく、ここが目的地であるらしいことは竜憲にもわかった。
登りきったところに、狛犬《こまいぬ》が並んでいる。
向き合い、間を通る者を見つめているのは、下の本殿の狛犬と同じ。違うのはここの狛犬は石でできているところだろう。確か下の社《やしろ》を護《まも》る狛犬は、奇麗に着彩されて、楼門の左右に収まっていた。
狛犬の間を抜けると、そう広くはないが、平らな広場になっている。そして、そのいちばん奥まったところに、社があった。
社というよりは、小さな祠《ほこら》とでもいったほうがよい。町中に祀《まつ》られた小さなお稲荷《いなり》さんの社あたりが、竜憲のイメージに近いだろう。
社の背後は崖《がけ》になっていて、この場所は丘の中腹を削《けず》って造ったのだと想像できた。それにしては、わざわざ丘を削ってこんな小さな社が一つというのも、解《げ》せない。
もっとも、忘れさられた社というわけではないらしく、奇麗に掃除はされていた。
周囲を囲む樹木が、尽《ことごと》く針葉樹のせいもあるだろうが、かなりまめに手入れをしていることには間違いがない。
竜憲は周囲の観察を終えると、ゆっくりと視線を恵美に戻した。
二人のために解説をしながら山登りをしたのに、彼女は汗ひとつ浮かべていない。寒がりの大輔《だいすけ》が、コートを脱ぐくらいだから、都会育ちの軟弱者にはちょっとした運動といっていいだろう。
「……ここは……なんか変わってるの?」
下の社殿は、千木《ちぎ》が逆になっているそうだ。
屋根の上に突出した、交差した木の飾りを千木《ちぎ》ということも知らなかった竜憲には、その先端が垂直に切られていようが、水平に切られていようが、なんの意味もない。
大輔はひどく感心したように聞いていたが、どこまでわかっていたのだろう。
疲れのせいか、頭の回転も鈍《にぶ》い。
ぎごちない笑みを見せた竜憲に、恵美はうっすらと微笑《ほほえ》んだ。
「この、存在自体が、変わっているのかもしれません」
恵美の声が奇妙に透き通る。
目の前にいるのに、注意していなければ、聞き逃してしまいそうだ。ちょうど、霊魂の微《かす》かな囁《ささや》きに耳を澄ませるように、全神経を集中しなければ、何も聞こえない。
「おい。リョウ。大丈夫か? ……恵美さん。帰ろう。ちょっと休ませたほうがよさそうだ。おい、リョウ」
「ちょっと疲れただけだよ。ここんとこ、ろくに動いてなかったから……」
自分では、しっかり話しているつもりなのだが、声は届かないらしい。眉《まゆ》を寄せた大輔が、腕を掴《つか》もうとした。
と、その身体が弾《はじ》け飛ぶ。
「なんだと!」
飛ばされたのは自分のほう。
腕を伸ばし、叫ぶ大輔を見下ろして、竜憲はようやくそれを確認していた。
感覚がひどく鈍いのだ。
必死の形相《ぎようそう》で叫ぶ男を、冷静な目で見下ろした竜憲は、小さく笑った。
何かが竜憲の身体を掴んでいる。巨大な腕とでも言えばいいのだろうか。
戦わなければならないとわかっているのに、感情は冷めたままだ。怒りも、恐怖さえも感じない。ただ単に、自分の身体が高く持ち上げられていくのが、もの珍しいだけだった。
表情をこわばらせて見上げる少女。何かわめき続けている男。
徐々に遠ざかる顔を見つめながら、竜憲はくすくすと笑い続けていた。
「リョウ! どうしちまったんだ!」
大輔の目には、楽しげに笑う竜憲の顔が、はっきりと見えていた。
ゆっくりと吊《つ》り上げられる身体は、微塵《みじん》も逆らっていない。自分の身に何が起こったのかも、わかっていないようだった。
「ちくしょう! 何してやがる! このまま放っといてもいいのかよ!」
叫んだ大輔は、拳を握《にぎ》りしめた。
竜憲の中で眠る姫神《ひめがみ》に、あるいは自分に取《と》り憑《つ》いた戦士に頼るしかない。彼自身の力ではどうしようもないことは、いやになるほどわかっていた。
「リョウ! 目を覚ませ!」
相変わらず、柔らかな笑みを浮かべる竜憲の身体が、くるりとひっくり返った。
そのまま、まっさかさまに落ちる。
反射的に、走りよった大輔は、目を見開いた。
木が。
真っ直ぐに伸びる枝がしなり、竜憲の身体を受け止めようとする。
枝が折れ、葉が散り、騒々しい音と共に落ちる身体を、大輔は抱き留めた。
「え?」
いやに軽い。
腕の中の人間は、確かに竜憲だった。
しかし、体重は半分もないだろう。
「リョウ!」
乱暴に肩を揺すった大輔は、ようやく生気の戻ってきた竜憲にほっと息を吐いた。
「しっかりしろよ。俺は素人《しろうと》なんだ。お前がボケてどうする!」
「……悪い……」
ただ体調が悪いだけではなかったのだ。顔色が悪かったのは、魍鬼《もうき》に取り巻かれていたせいかもしれない。
そういえば、この神社に近づくにつれて、竜憲は正気を失っていたようだ。あれが異常を教える前兆だったのだろう。
「リョウ。どうしたんだ、お前……」
力なく頭を振る竜憲は、ようやく自分の異常を認識したようだ。
血の気の引いた顔を引き上げ、大輔の目を覗《のぞ》き込むと皮肉げに笑う。
その笑みに、ほっと息を吐く。
まだ体調が悪いようだが、心をどこかに置き忘れたような、ただただ機嫌《きげん》のいい笑いとは違っていた。
「……悪い」
「何が悪い、だ。まだいやがるんじゃないか?」
「そうだな……」
背筋を伸ばそうとして、ふらりと揺らぐ。
「おい……」
慌《あわ》てて、肘《ひじ》を掴《つか》んだ大輔は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
紙のように白い顔。幻《まぼろし》の姫神《ひめがみ》でさえ、もう少し生気を感じられるほどだ。
「大丈夫か?」
「……わからない。……あいつらがいるかどうかも……」
そう言っている間に、再び、竜憲の身体が引き上がる。
掴《つか》んだ肘《ひじ》を引き寄せた大輔は、その背後を睨《にら》み据《す》えた。
何も見えない。竜憲の体を引くものがあるのは確かなのだが、気配も感じられなければ、化け物の影すらなかった。
それ自体は、べつに珍しいことではない。
竜憲が顔を歪《ゆが》めて戦っていても、何も見えないことはよくある。そのために、不安を感じたこともなければ、困ったこともない。
だが、竜憲が戦えないのに、敵の姿も見えないというのは、予想だにしない状況だった。
「リョウ! どうすりゃいいんだ!」
「あんた……が…戦って……」
体が剥《は》がれようとする。
渾身《こんしん》の力をこめて、竜憲を引き止めようとするのだが、どうしたわけか腕を擦《す》り抜けていく。
「……何してる! いいのか! 姫神《ひめがみ》はいないのか!」
姫神も戦士も、静観しているのか。
いつもなら、勝手に剣が現れ、竜憲を手助けするはずの二人は、なんの反応も示さなかった。
ひょっとすると、彼らは二人から抜け出してしまったのだろうか。
だとすれば、これ以上ない、皮肉な状況だ。
竜憲が人に戻るために出雲《いずも》に来たのに、姫神達はさっさと逃げ出してしまった。そして、抜《ぬ》け殻《がら》となった無防備な竜憲に、化け物が襲いかかる。
最悪だ。
「リョウ! どうすりゃいいんだ!」
魔を祓《はら》うという自分の力は、なんの役にも立っていない。
そんな力があるとは、未《いま》だに信じられないのだが、今はそれに頼るしかなさそうだった。
「リョウ! しっかりしろ!」
叫んだところで仕方がないと知りながら、それしかなす術《すべ》がないのだ。
「ここではそなたの力は、役には立たぬ……」
不意に背後から声が響く。
「何!」
振り向いた先に、恵美が立っていた。
彼女の声ではない。
「そなたの力は、大地とは呼び合わぬ。……海じゃ……海の」
だが、言葉は彼女の口から、綴《つづ》られていた。
ただでさえ、感情の起伏が読み取り難い彼女の表情が、凍《こお》りついているように見える。奇麗な仮面とでも言えばよいのだろうか。
整っているだけに、恐ろしくさえある。
「誰だ? ……お前……」
低く問いかけた大輔を、白い仮面が見つめている。
「この地は海に開かれた場所じゃ。……地霊になぞ、荒らされてはならん!」
「何、言ってやがる!?」
吐き捨てるような言葉にも、彼女の表情は見事なほど変化しなかった。
「そんなこと言うなら……どうすりゃいいのか教えろ! 馬鹿《ばか》野郎!」
ほとんどやけくそだ。
答えなど望まない。せめてきっかけが欲しいのだ。
ちらりと見上げた視線の先に、竜憲の身体が浮いている。
まるで三流特撮映画の一場面だ。
挙《あ》げ句《く》に、竜憲の姿が少しずつ薄れていくような気がする。彼の身体が、空に溶け込んでいくようだ。
「くそう!」
「海……」
地面に叩きつけられるほうが、まだましだ。手の届かぬ空中で、消えられたのではたまらない。
「……海がなんだって!? ふざけるな!」
叫んだ途端、足もとの地面がぼこりと陥没する。
そのまま溝が地を走り、その先で小さな社《やしろ》が破裂した。
一瞬おいて、ばらばらと小さな木片が降る。
「なん……だ?」
口の中で呟《つぶや》くのと、妙に生暖かい風が吹くのが同時だった。
きつい潮の香り。
大輔の身体を巻いて擦《す》り抜けた一陣の風が、小さな竜巻を作る。
低い笑い声が耳に届く。
恵美が笑っていた。凍りついた表情はそのまま、笑い声が唇《くちびる》から漏《も》れる。
舌を鳴らして、宙を仰ぎ見た大輔は、息をのんだ。
「リョウ!」
竜憲の姿が消えかけている。
――駄目だ! ――
このままでは、手遅れになる。
そう思った瞬間、身体が冷えるのを感じた。
全身の感覚が遠のく。
視覚だけが生きていた。
しかも、周囲すべてが見える。顔を向けた前方はもちろん、背後に立った恵美の姿も見えるのだ。
「リョウ! 目を覚ませ!」
叫びは無駄だった。
「力を使え」
代わりに耳もとに声が響く。
「力……?」
そんなことを言われても、わからない。
だがしかし、状況は確実に変化していた。
竜憲の姿がはっきりと見え始めているのだ。それどころか、彼の四肢に絡《から》む、奇妙な触手までもが、見える。
いや、触手ではない。
骨ばかりの腕、しなやかな女のそれに、がっしりとした男の手。それらが無数に絡み合い、何もない空中から生え出して、竜憲を捕らえているのだ。
四肢に胴に首に。捕《と》らえているというより、全身を数え切れない手が這《は》い回っているようにも見える。
怒りと焦《あせ》りに、鈍くなった脳味噌でも、何が敵と認識するのに時間は必要なかった。
しかし。
「力を!」
怒声が轟《とどろ》く。
その声に呼応するように、雲のない青空が、湧《わ》き上がる黒雲に被《おお》われ始めていた。
海からだ。
真っ黒な雲が海のほうから、押し寄せてくるのである。
大輔は、半ば唖然《あぜん》と見守った。
「……海……か」
声が耳もとで呪文のように、何かを繰り返し囁《ささや》いていたが、一向に聞き取れない。力を使えという戯《ざ》れ言《ごと》を、繰り返しているのだろうか。
だが、手の中には、力の象徴ともいえる、例の奇妙な剣は現れない。
歯噛《はが》みをして、竜憲の身体を被いつくそうとする無数の手を睨《にら》み据《す》えるしかないのだ。
と、突然、閃光が閃《ひらめ》く。
黒雲から延びた光の触手が竜憲を舐《な》め、身体に纏《まと》わりつく手が弾け飛んだ。
ふわふわと落ちていく手や腕が、途中で蒸発するように消えていく。が、残った手は、相変わらず竜憲の身体に指を立て、しがみついている。
再び、閃光。
真っ暗な空が光の影に、雲の形を浮かび上がらせる。
だが、それも束の間、目を瞬《しばたた》かせると同時に、闇《やみ》に沈んだ景色が色を取り戻す。
全身の感覚が、ふっと戻ってくる。視界も元に戻り、ひどく息苦しいことに気づいた。そのせいだろうか、視界が不安定で霞《かす》んでいる。
酸素が足りない。
無理やり息を吸い込み、呼吸を整える。
「大丈夫ですか?」
びくりと首をすくめた大輔は、それが恵美の声だと気づき、息を吐く。
声に振り向くと、そこには確かに見慣れた彼女が立っている。
「そうだ!」
竜憲。
慌《あわ》てて周囲を見渡した大輔は、地面に倒れた竜憲を見つけると、大きな溜《た》め息《いき》を吐いた。
のろのろと近づき、傍《かたわ》らに跪《ひざまず》く。
「リョウ……竜憲?」
息はしている。
顔色は相変わらず紙のように白いが、息はしているようだ。
首筋に触れ、脈のあることを確認した大輔は、ゆっくりと恵美を振り向いた。
「大丈夫でしょうか?」
心配げな顔が、彼女が正常だと教えてくれる。
先ほどの声は、あの仮面のように冷たい表情は。ともすれば、疑問に振り回されそうな思考を現実に引き戻し、大輔は彼女に頷《うなず》いてみせた。
「とにかく帰ろう」
「はい」
「車を回してくれ」
頷いた恵美は、ちらりと竜憲を見やると、小走りに階段を下りていく。
その背を見送り、大輔は竜憲を抱き上げた。
何が起こったかを考えるのはあとでいい。考えれば考えるほど、混乱するのは目に見えている。悩んでいる暇はない。一刻でも早くここを離れることに、意識を集中するべきだ。
立ち上がった大輔の目を、眩《まぶ》しい光が射る。
「え?」
光は一瞬で消えた。目を凝《こ》らすと、木立の間から波間の煌《きら》めきが見える。
ちょうど、船でも通ったのだろう。船の何かが光を反射したに違いない。お陰で、海が見えることに気づいたというわけだ。
――海に開けた場所――
恵美ではない恵美が告げた言葉が、奇妙に実感となって蘇《よみがえ》る。
そういえば、あのときは確かに海が見えた。
現実の目が見るものではないものを、見ていたのだろうか。
ふと、腕の中の竜憲が、僅《わず》かに身動《みじろ》ぐ。
「……あ……リョウ?」
意識を取り戻したわけではないらしい。
小さく頭を振った大輔は、恵美の後を追った。
「いったい……どういうことなんだ」
囲炉裏《いろり》を挟《はさ》んで座った恵美《めぐみ》を、大輔《だいすけ》は真っ直ぐに見つめた。
「教えてくれ。……俺にはちっともわからないんだ」
ひどく戸惑った表情が、彼女の動揺を伝えていた。
「それが……」
口籠《くちご》もり、俯《うつむ》く。
しかし、大輔としても、このまま引き下がるわけにはいかない。むすりと唇《くちびる》を引き結び、彼女が答えるのを待っていた。
小さく息を吐いた恵美が、ゆっくりと顔を上げる。
「……大道寺《だいどうじ》さんは……どうなるんでしょう……」
「リョウか……。恵美さんのほうが、よくわかるんじゃないか?」
また、彼女は顔を伏せてしまう。
佐伯《さえき》にあとを頼んで、彼女をここに連れてきたのは、なんの意味もないのではないか。そんな気がしてきて、気分が重くなる。
隠そうとしているのなら、何がなんでも聞き出してやるところだが、目の前の彼女を見ていると、何も知らないのではないかと思えてくるのだ。
「海の力がどうのと言ってたのは、あなただ。……そりゃ、確かに声は違ったし、何かに取《と》り憑《つ》かれてたみたいだが……」
自分でも妙なことを口走っている気はする。
はっきり言えば何かに取り憑かれた人間がどんな状態なのか、自分の場合しかわからない。明確な指標などないのだ。真偽のほどはともかく、百人いれば百通り答えがあるに違いないのである。
何も覚えていないと言われれば、反論の余地はない。
「ごめんなさい」
不意に彼女が謝る。
まさしく、反論の余地のない答えが、返ってきたわけだ。
溜《た》め息《いき》と共に彼女から視線を逸《そ》らした大輔は、囲炉裏の火に目を落とした。あの小さな社《やしろ》での出来事は、重要な意味があるはずなのだ。
ただの思い込みかもしれない。
わかってはいる。わかってはいたが、どうしても知らなければいけないことのような気がするのである。
「……元はあの社《やしろ》があった場所にあったんだよな」
一瞬、大輔を見つめた恵美は、やがて静かに頷《うなず》いた。
「御碕《みさき》の社ですか? ……ええ、そうです。速玉大神《はやたまのおおかみ》が自ら占われて、あの地にお住まいになると決められたのが、あの丘の社。下の社殿は、後に勅命《ちよくめい》での御遷座《ごせんざ》と伝えております」
「じゃあ、本来はあの場所に意味があるんだ」
「意味ですか?」
「そう……あの場所は海に開けた場所……そう言ったんだ。地霊に荒らされちゃ駄目だってね。――覚えてないのか?」
恵美は困ったように微笑《ほほえ》む。
「だったら、それでもいい。……俺が聞いたことを言うから、意味がわかるなら教えてくれ」
「はい」
ひどく素直に返事をされ、大輔は逆に戸惑った。何から話せばいいのか、正直なところよくわからないのだ。
「えーと……だからな……」
言葉を跡切《とぎ》れさせた大輔は、小さく咳払《せきばら》いをすると、ぼそぼそと話を続けた。
「今言った海に開けたどうのってのと、俺の力は大地とは呼び合わない……って言われたんだ。――結局、俺は意味がわからなかった」
「ですが……魍鬼《もうき》は退散したじゃありませんか」
「それはだな……なんか知らんが、雷が追っ払ったんだよ。海から黒雲が湧《わ》いて出て、雷が落ちてきたんだ」
それを聞くと、恵美はひどく安心したように、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「それは、速玉大神のお力です。あなた様の力は、大神の系譜ということでしょう」
「あ……」
何か喋《しやべ》ろうとするのだが、適当な言葉が浮かばない。答えを得ようとして、混乱を増幅しただけのようだ。
この娘は、まったくの素人《しろうと》に説明するという立場に立っていない。それ以前に、この土地の伝承を知らぬ者に話すという現実さえ、踏まえていないらしいのだ。
これを一から聞いていたら、頭の中で整理することさえ難しくなりそうだった。
いまさらのように、そんなことを知ってどうにかなるのか、といういたって根源的な疑問が湧いてくる。
よくよく考えてみれば、今まで自分が聞いた話は、尽《ことごと》く現実とは違う。嘘を教えられたのか、誰も真実は知らないのかはともかく、すべてはハズレだったのだ。
恵美だけが本当のことを知っているとは、信じ難い。
竜憲が大輔の集めた資料に興味を示さない理由も、ぼんやりとだが理解できた。
「……ま、しょうがないか……。知らないことは喋《しやべ》れないよな……確かに」
「……ごめんなさい。お役に立てなくて……」
「あ……すまん。気にしないでくれ。やっぱり疲れてるんだろうな、俺も」
微《かす》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めた恵美が、大輔の顔を覗《のぞ》き込む。
「お休みになってください。大道寺さんは……私が」
「いいよ。リョウはそのうち起きるだろう。あれも、疲れてるだけだ。ちゃんと眠れば、いやでも目が覚めるさ」
「ですが……」
「いいんだ。俺だって、一日半寝てたこともあるし……明日になっても起きなけりゃ、親父《おやじ》さんに連絡するさ」
不承不承に頷《うなず》く恵美に、笑みを返すと、大輔は立ち上がった。
「本当に大丈夫だよ。のんきな顔して眠ってるだけだから……」
さらに、そう念を押して、大輔は土間に下りた。
泥のように眠るとは、まさにこのことなのだろう。
自分でも、眠っているという意識があるのだが、寝返りすらうてないほど、身体の自由が利《き》かない。そのくせ、次の瞬間には意識は跡切《とぎ》れるのだ。
昏睡《こんすい》といってもいいような深い眠りのあと、一瞬の覚醒《かくせい》を挟《はさ》んで、再び意識を失う。
その繰り返しを意識しながら、竜憲《りようけん》は徐々に回復していた。
時折、涼《すず》やかな女の笑い声が聞こえる。
楽しげな声は、姫神《ひめがみ》のものだろう。器が意識を失っているために、自由にふるまえるのが嬉《うれ》しいのかもしれない。
――そうか、まだいたのか……――
昼間、魍鬼《もうき》達に襲われたことは、ぼんやりとだが覚えている。今までなら、必ず声を届けてくれた姫神や、戦ってくれた戦士が、姿を見せなかったことも。
夢の中の出来事と言われれば納得してしまいそうだが、おそらく、あれは現実だ。
解放されたのではなかったということか。
だが奇妙なことに、竜憲は姫神《ひめがみ》の声を聞いて安心していた。
あれほど怖《おそ》れていたのに、その存在を感じられないと、不安になったのである。
いいかげんなものだ。
自分がどれほど彼女に頼っていたのか、今頃になって認識していた。
強大な敵が現れる度《たび》に救ってくれたのは、霊能者達ではなかったのである。父親が必死になって戦おうと、鴻《おおとり》が異様な術を使おうと、けっして祓《はら》うことができない化け物と渡り合えたのは、古《いにしえ》の魔物が力を貸してくれたからなのだ。
誰より、霊能者として名を馳《は》せた父親より、魔物の女王が頼りになったのである。
内心で苦笑した竜憲は、身体を動かそうという努力を放棄した。
と、身体が熱くなる。
再び眠りが訪れるのか。それとも戦士の心が訪れたのか。
二人の存在を認めることはできても、それだけは願い下げだ。自分の知らないところで何をやろうが、咎《とが》める気はない。しかし、姫神とどこかで繋《つな》がっていると、思い知らされるのはいやだった。
寝てしまうにかぎる。
すぐそこに口を開けている、眠りという暗黒に滑り込もうとする。
しかし、皮肉なことに暗黒は消え去ってしまった。
意識が覚醒《かくせい》してゆく。
続いて、肉体が。
のしかかる身体の感触さえある。
姫神の感覚だけを共有するなどというものとは違う。物質の重さを感じるのだ。布団の上からのしかかったそれは、竜憲の身体を抱きすくめようとしていた。
「馬鹿《ばか》! 目を覚ませ!」
隣の布団で寝ていた大輔が、戦士に釣《つ》られて動いているのだろう。
蹴《け》り飛ばしてやれば、済むことだ。
大輔が目覚めれば、戦士は身動きがとれない。
姫神は無粋《ぶすい》な人間と思うだろうが、このまま男に抱きすくめられるのは願い下げだった。
「大輔!」
警告の叫びをあげてから、ゆっくりと膝《ひざ》を曲げて、思い切り蹴り上げる。
だが、その足が掴《つか》まれた。
ねばついた感触。
人ではない。
あの、化け物だ。
腹の底がぞくりと冷える。氷の塊《かたまり》を飲み込んだようだ。
「消えろ!」
叫んでみても、念じてみても、消えない。
――消えろ! 消えろ! 消えろっ!――
力が増している。
「大輔! 大輔!」
目を見開いているはずなのだが、何も見えない。闇《やみ》の中で、自分の声ばかりが、ひどく現実的に響く。
足を掴《つか》んだ指の感触だけが異様に生々しかった。
「大輔! 起きろ!」
ゆっくりと這《は》い上る指は、前のように冷たくはない。熱をもって、掌《てのひら》が触れる度《たび》に脈まで感じられる。
生温《なまあたた》かい手が触れると、肌が粟立《あわだ》つ。
間近に生臭い呼気を感じた途端、背筋が硬直する。
撥《は》ね除《の》けようにも、身動きができない。身体を布団に縫《ぬ》い止める重さに、〓《もが》くのがせいぜいだった。
肌に触れる熱い感触が、どろどろと全身を被《おお》っていくような幻覚に襲われる。
本当にそうなのかもしれない。
ねばついた指が全身を這《は》い回り、蹴り上げようと〓く足が、熱く脈打つものに絡《から》め取られる。
恐怖より何より、嫌悪感のほうが先に立つ。
皮膚を剥《は》がれた人間に触れられたら、こんな感じだろうか。指が這い、触れる度に、自分が血糊《ちのり》に染まっていく。
何も見えないだけに、その感覚は現実に思えた。
顔を背《そむ》けた竜憲の首筋に、歯が当たる。
両手は押さえ込まれたまま、微動だにしない。
なんの抵抗もできぬままに、どろどろと血と粘液に、全身が被われていく。肌を這い回る化け物の身体が、徐々に熱を増していくようだ。代わりに自分の身体が冷えていくのがわかる。
本当に冷えていくのだ。化け物に身体の熱を奪われているのだろうか。
――起きてくれ! 大輔! ――
叫んだつもりだったが、声が出ない。
無理やりに顔を捩《ね》じ向け、相棒の姿を捜す。
相変わらず、視界は闇に鎖《とざ》されていた。
必死に逃げ出そうと気は焦《あせ》るのだが、身体はいっこうにいうことをきかない。冷えきった身体は、むしろ化け物の熱を帯びた感触が心地よいくらいだ。
掌《てのひら》が顔に触れ、悲鳴をあげる。
だが、声にならない悲鳴は、嫌悪感を恐怖にすり替えただけだった。
頬《ほお》をたどり、瞼《まぶた》に触れ、唇《くちびる》を探る指。
締《し》め殺されたほうがましだ。
――誰か! ――
姫神《ひめがみ》は、戦士は、どうしているのだろう。
自分の感覚とは、ひどくかけ離れたところに、姫神の感覚があるのはわかる。だが、なぜ、なんの手出しもしないのか。
無性に腹が立った。
完全に彼女の感覚と、自分は切り離されているらしい。
こいつのせいだろうか。
そうだとしたら、この化け物は相当に始末の悪い相手である。
身体の自由は利《き》かないのだが、精神は不思議に解放されていた。
おかしい。
ふと気づくと、部屋の中が見える。
同時に自分が見えることにも気づいた。
ぼやけた視界の中で、不気味な肉の塊《かたまり》にしか見えない化け物に組み敷かれている。
――まずい――
直感的にそう思う。
無意識に大輔を捜す。
驚くほど行儀よく、大輔は布団に収まっていた。
――起きろ! この、薄情者! ――
それが聞こえたのか、熟睡していた大輔の瞼が引き上がる。
ほっとしたのも束の間、次の瞬間、自分の目の前に化け物の顔があった。
剥《む》き出《だ》しの血管が這《は》い、溶けかかったような皮膚がところどころに貼りついている。唇のない口には、茶色く変色した歯が、真っ赤な歯ぐきに並び、血走った目が、無遠慮に自分を見つめていた。
反射的に叫ぶ。
「止《や》めろ! 消え失せろ!」
声が出る。自分の声が、ひどく新鮮に耳に響いた。
しかし、全身に絡《から》みついた熱い身体は、離れる様子もない。
唇のない口もとが奇妙にゆがみ、首筋に顔を埋《うず》める。
「大輔! 起きろ! 馬鹿《ばか》!」
と、首筋に激痛が走る。
相変わらず、指先一本動かすこともできない。冷えきった身体が、凍《こお》ったようにこわばっている。
血塗《ちまみ》れの歯の並んだ口が、笑うように大きく開かれ、近づいた。
「リョウ!」
大輔の罵声が響く。
瞬間、目の前に迫る崩れた顔が、真っ二つに断ち割られた。
背筋が凍る悲鳴。
跳《と》び退《すさ》った化け物が、畳の上に蹲《うずくま》る。
「リョウ! 大丈夫か!?」
肩に触れられた途端、電撃でも浴びたように痛む。意識が遠のくほどの痛みだ。
一瞬、何もかもが、真っ白になった。
大輔の触れる場所だけが、ひどく熱く感じられる。
自分を呼ぶ声が、奇妙に遠くに聞こえた。
「リョウ……?」
やがて、声が耳もとに戻ってくる。
ゆっくりと目を開いたときには、全身を被《おお》っていた脱力感が消えていた。
大輔の腕から逃れ、身体を起こす。
「きさま……なんだ?」
布団の足もとに蹲《うずくま》る化け物が、ゆらゆらと頭を上げる。
断ち割られたはずの頭が、微妙にずれて貼り合わされていた。
眉《まゆ》を顰《しか》めた竜憲を見つめた不気味な顔が、剥《む》き出した歯をしきりに動かす。ざらざらと耳障《みみざわ》りの悪い声が、歯列の間から漏《も》れた。
何を言っているのか、聞き取れない。思念を探ろうとするのだが、それさえも雑然としていて意味を伝えないのだ。
だが、その奇妙な呪文《じゆもん》は、いつまでも続いた。
唯一、汲《く》み取《と》れる意思らしきものはある。
――死にたくない――
それだけだ。
無性に腹が立つ。
「それだけか!?」
死にたい者などいないだろう。自ら命を絶つ者でも、できるなら生き延びたい者がほとんどだ。
「そのために!」
全身が熱い。
怒りのためだろう。指先が、青白い燐光《りんこう》を放っているのがわかる。
しかし、化け物は怯《おび》えてはいなかった。むしろ嬉々《きき》として、竜憲を見つめている。新たな生命力に満ちた獲物、くらいに思っているのだ。
ただ、餓《う》えを満たし、生きることだけを、この化け物は考えていた。
そろそろと伸びた手が、竜憲の足を掴《つか》もうとする。
「リョウ!」
「かまうな!」
一喝《いつかつ》した竜憲は、化け物の手を掴んだ。
弾《はじ》き飛ばされた大輔は、無様に転げたまま、唖然《あぜん》と竜憲を見つめた。剣が消え、腰が畳に縫いつけられたように、その場から動けない。
「喰いたければ喰え!」
化け物の顔が一瞬喜色に輝く。
しかし、次の瞬間、その目が零《こぼ》れ落ちそうに見開かれた。
声ともいえない呻《うめ》き声が、咽喉《の ど》から漏れる。
やがて、見開かれた目が、ぼこりと飛び出し、片目は本当に眼窩《がんか》から落ちた。どろりと液体が零《こぼ》れ、神経束と血官で眼窩《がんか》からぶら下がった眼球が、妙な具合に跳ねる。
それを睨《にら》み据《す》えたまま、竜憲は手を放そうとはしなかった。
血管が膨《ふく》れ上がり、頭蓋がゆがむ。
首の筋が引きつったと思うと、頭があらぬ方向に折れまがった。頭がゆがんだように、血塗られた全身が、異様に波打ちゆがんでいく。
必死に振り払おうとしているのだろう。意思とは別に勝手に痙攣《けいれん》を繰り返す身体の中で、腕だけが奇妙に規則的に打ち振られる。
「駄目だ……逃がさない」
呟《つぶや》いた声に、凛《りん》と響く姫神《ひめがみ》の声が重なって聞こえた。
哀《あわ》れみも何もない。
と、ぼこぼことゆがんだ化け物の身体が、一瞬縮み、破裂する。
大輔は、思わず手をかざし、目を閉じた。
どれくらいそうしていたのだろう。
竜憲の声で、大輔は我に返った。
「……大輔……」
「あ……」
かざした手を恐る恐る探った大輔は、小さく息を吐いた。
何もない。
「あんた……ひどいじゃないか。……呼んだら起きろよ。なんのためについてきたんだよ」
「あ?」
聞いたこともない竜憲の台詞《せりふ》に、大輔は顎《あご》を落とした。
「あ……あ……悪い」
「死ぬとこだった……」
妙に実感の籠《こ》もった言葉。
大輔は這《は》いずるようにして竜憲に近づいた。
さっきまで、あれほどはっきりと物が見えていたのに、今ではすべてが朧《おぼろ》に闇《やみ》に浮かんで見えるばかりだ。
「……大丈夫なのか?」
「ぜんぜん」
「おい……」
慌《あわ》てて手を伸ばし空中を探ると、電灯のスイッチを引く。
眩《まぶ》しい光が部屋に溢《あふ》れた。
ひどく頼りなさげな顔をして、竜憲が布団の上に座り込んでいる。
その顔から視線を引き剥がせずに、大輔はただ凝視《ぎようし》していた。
「戦うのはあんたの役だろ……」
確かにそのとおりだが、竜憲がこんなふうに詰め寄ることなどなかった。駄々をこねているとしか言いようがない。
「悪い……」
そう応じるしかなかった。
ようやく、竜憲から目を逸《そ》らし、視線を落とす。
すると、さらにとんでもないものが視界に飛び込んでくる。
竜憲のはだけた胸もとが、真っ赤に染まっているのだ。
「どうしたんだ……」
血が胸を伝うのが見えるのだ。
聞くほうが間抜けだろう。
「首……か?」
身を反《そ》らす竜憲を掴《つか》まえ、首筋を覗《のぞ》き込む。
喰いちぎられたような傷があった。
「喰われた……」
ぼそりと呟《つぶや》いた竜憲を唖然《あぜん》と眺《なが》め下ろした大輔は、半分無意識に、その傷に手を伸ばしていた。
指先が触れると、竜憲がびくりと身をすくめる。
不思議なことに大輔の指先にも、軽い痛みが走った。
ぴりぴりと痺《しび》れるような痛み。
だが、離そうとは思わなかった。それが正しい処置だと、誰かが教えてくれる。
そして、ほどなく血が止まったのだ。
見る間に傷が乾くにいたって、大輔は手を引っ込めた。
さすがに、異常だと認識したのだ。
訝《いぶか》しげに自分を見上げる竜憲に、曖昧《あいまい》に笑い返す。
「……あれは……身体があったってことだよな……現実の身体……」
「うん」
「どうして、消えた?」
破裂した化け物の身体は、肉片一つ残さずに消えたのだ。
「知らない」
拗《す》ねたように答える竜憲を、まじまじと眺め、大輔は溜《た》め息《いき》を吐いた。
竜憲がどんな目に遭《あ》ったのか、知らないわけではないのだ。
いいかげんにしろと、突き放せないところが辛《つら》い。
「どうする? 風呂借りるか?」
代わりにひどく現実的な言葉が、口を突いて出る。
「いいよ。拭《ふ》くから……たいした傷じゃないし……」
ふわりと大輔の手を振り外《はず》した竜憲は、布団から這《は》い出すと、自分の旅行鞄《かばん》に手を伸ばした。
「……タオル……濡らしてきてやるよ」
ぼそぼそと口の中で呟《つぶや》いた大輔は、のそりと立ち上がった。
襖《ふすま》を開けかけて、ふと振り返る。
「……もう大丈夫だろう?」
「あん?」
眉《まゆ》を寄せた竜憲が、少し間をおいて頷《うなず》く。
「……あ、あれ……もう出ないんじゃない」
よほど、ほっとした顔をしたのだろう。
竜憲がくすりと笑う。
「……じゃあな」
「じゃあな、じゃないだろ。……いいよ。水ならここにあるから」
水差しを視線で示し、首をすくめる。
「あ……そうか?」
踏み出しかけた足を引き戻し、大輔は密《ひそ》かに胸を撫《な》で下ろした。
この座敷を離れなくてすんだことへの安堵《あんど》と、竜憲の反応がいかにもらしくなったことへのそれ。
襖を閉じようとしたその途端、なんの前触れもなく、玄関の引き戸が引き開けられた。
大輔は咄嗟《とつさ》に跳び退《すさ》り、壁に背を預ける。
声をあげなかったのが不思議なほどだった。
それでも、目を見開いた竜憲を目顔《まがお》で黙らせ、大輔は恐る恐る廊下を覗《のぞ》き込んだ。何もいないし、声もかけられない。
少しの間待って、大輔はゆっくりと足を踏み出した。
数歩の廊下が妙に長く感じられる。
どうもいけない。さっきの出来事での動揺が、尾を引いているようだ。
だが、引き開けられた引き戸の向こうに、恵美《めぐみ》が立っているのを認めると、大輔は即座に平静を取り戻した。
「……どうした?」
彼女はひどく怯《おび》えた顔で、大輔を見つめている。
夜目にも明らかなほど、その顔は蒼白《そうはく》だった。言葉がすぐには出ないのだろう。唇《くちびる》をわななかせているのが、事の重大さを教えているようだ。
急《せ》かさずに、彼女が口を開くのを待つ。
「旦那様《だんなさま》の様子が……」
やがて、口を開いたものの、恵美はそれだけ言って、また口を噤《つぐ》んでしまう。
「どうしたの?」
竜憲の声が聞こえる。
「いや……なんでも……」
言いかけて、大輔は唇《くちびる》を引き結んだ。
「ちょっと待ってくれ。すぐに行くから」
できるかぎり、優しく宥《なだ》めて、座敷に引き返す。
「何?」
濡れたタオルで胸もとを拭《ぬぐ》いながら、竜憲はちらりと大輔を見上げた。
「母屋《おもや》で何かあったらしい。……ちょっと見てくるから」
「……俺も行く」
きっぱりと言いきった竜憲は、タオルを放り出しジャケットを羽織《はお》った。
「大丈夫なのか……」
「……たく。――それしか言うことないのか?」
ふわりと笑った竜憲は、大輔の横を擦《す》り抜けて、廊下に飛び出した。
第五章 反魂《はんごん》の術
「あ、すみません。朝っぱらから……。おじさんを……」
まだ暗い。
朝っぱらというより、夜中といったほうがいいかもしれない時間だ。外に接すると、鈍《にぶ》くなっていた時間観念が、現実に引き戻される。
しかし、電話口に出た竜憲《りようけん》の母は、いつもどおりの声で応じてくれた。
「……あ、姉崎《あねざき》です。すみません、こんな時間に……」
待つほどもなく、忠利《ただのり》が出る。
『何かあったのかね』
こんな時間に連絡するのだから、よほどのことがあったのだと、わかっているのだろう。電話に出た忠利は、緊張した声を出した。
「佐伯《さえき》さんが……息子さんのほうが、亡くなられました」
息を呑《の》む音が聞こえる。
封じられた法、反魂《はんごん》の術を行う老人の唯一の助手が倒れたということだ。
忠利が竜憲を出雲《いずも》に向かわせた理由はただひとつ。その反魂の術が行えなくなったということだ。
自分で立つこともできない老人一人では、とうていそんな術はできないだろう。
『原因は……なんだね』
「さあ……。恵美《めぐみ》さんが――手伝いの女の人ですけど――。彼女が妙な様子だって知らせにきて。見に行ったときにはもう……。だけど……病気じゃないと思います。……思っただけですけど……」
竜憲の騒動が治まって、十分もしないうちに恵美は離れに飛び込んできた。部屋を飛び出した大輔《だいすけ》と竜憲は、彼女と共に布団の中で真っ白になった佐伯と対面することになったのだ。
吸血鬼に襲われた、とでも言えばいいのだろうか。
まったく血の気のない死体は、ひどく作りものめいて見えた。
『竜憲はなんと言っているんだね』
「ちょっと……。妙なモンが出て、それと戦った直後だったもんで……。ろくに喋《しやべ》れないんですよ」
この説明には嘘がある。だが、実際に今の竜憲は様子がおかしい。
竜憲は佐伯を見た途端、その場に座り込んで一言も喋《しやべ》れなかったのだ。
隣の部屋で休ませているのだが、本当なら目を離さないほうがいいような状態である。
受話器を肩に挟《はさ》んだ大輔は、襖《ふすま》をすかして隣の部屋を覗《のぞ》き見た。
座卓に伏せた竜憲の肩が、激しく上下している。
普通に考えるのなら、医者に診《み》せたほうがいいだろう。
だが、今すぐに他人を呼ぶのは、なぜかためらわれた。
『佐伯の屋敷の中に、魍鬼《もうき》が現れたのかね』
「ええ。そうです。……リョウは、封印の中に閉じ込められたものがいるって言ってましたけど……」
竜憲から視線を引《ひ》き剥《は》がした大輔は、旧式の電話に目をやった。
ダイヤル式の黒い電話機は、磨《みが》き込まれていたが、不便なことこのうえない。隣の部屋までコードを延ばすこともできないのだ。
『ご老人は……』
「まだ、知らせていません。医者には連絡しましたけど……。本当なら救急車か、警察を呼ぶほうがいいだろうけど……」
答えはない。
変死には違いないのだが、その原因は世間の常識からかけ離れているのだ。警察を呼んでもなんの意味もないことは、大輔にもわかっていた。
『……ご老人は無事なのだな』
「だと思います。恵美さんが見に行ってますけど……」
『竜憲が正気に戻ったら、伝えてくれないか。……一歩も屋敷を出るな。今、外に出れば、魍鬼に喰い殺されるだけだ。……二つの……。いや。……とにかくそう伝えてくれたまえ。……姉崎くん。悪いが、竜憲から目を離さないでいてくれ……』
「……はい。でも……」
『できるかぎりの手配は、こちらでする』
いささか乱暴に、電話が切られた。
眉《まゆ》を寄せた大輔は、受話器を戻すと、襖を引き開けた。
忠利が言いかけた言葉が気にかかる。
二つの、なんだというのだろう。だが、とにもかくにも、この屋敷を出れば魍鬼に襲われるというのは、ありそうな話だった。
今の竜憲の状態では、普段なら簡単に祓《はら》えるようなものにでも、殺されかねない。
「……リョウ……。大丈夫か?」
顔を伏せたままの竜憲に声をかけ、その隣に腰を下ろす。
「ああ……」
力ない声に、大輔はますます眉《まゆ》を寄せた。
未《いま》だに息が上がったままだ。
全身から炎を噴いて、派手に戦ったあとでも、ここまで弱ることはなかったように思う。
何より、ほんの少し前までは、なんともなかったのだ。佐伯の死体を見たことが、何かの鍵《かぎ》になっていたのだろうか。
「リョウ……」
伸ばしかけた手を、慌《あわ》てて引く。
びくりと痙攣《けいれん》した背中は、すべてを拒絶していた。
大輔や恵美はもちろん、誰にも触れられたくないらしい。
人間の形をした、肉屑《にくくず》のような化け物に襲われたせいだろう。ちらりと見ただけだったが、その嫌悪感は大輔にも理解できた。
よほど強く掴《つか》まれたらしく、手首にはくっきりと手形が残っている。化け物の手ならまだしも、腐臭を放ちそうな腐乱死体の手に掴まれたのでは、気分が悪いのも無理はなかった。
手自体に、嫌悪感があるのだろう。しかも、直後に死体を見る破目になったのだ。
「……悪い……」
掠《かす》れた声を出した竜憲は、力なく笑った。
「……何がだ?」
「……ちょっとな……。親父《おやじ》はなんて言ってた?」
「ああ……。手配するとかなんとか。……絶対、この屋敷から出るなってさ。今外に出たら、魍鬼《もうき》に喰い殺されるとか……」
前髪を掻《か》き上げ、そのまま額を押さえて座卓に肘《ひじ》を突く。
荒い呼吸はどうにか治まったようだが、ひどく疲れているようだ。
「少し寝たらどうだ? なんだったら、見張っててやるぞ。……役に立つかどうかわからんが……」
ゆっくりと首を振る竜憲は、大きく肩で息を吐いた。
「寝たら、よけいに悪くなる。本当なら、このまま二、三日徹夜したほうがいいぐらいなんだ」
「おい。何言ってるんだ。いくら、化け物が恐いからって……このままじゃ、ブッ倒れるぞ、お前」
うっそりと視線を上げた竜憲は、不可思議な笑みを浮かべていた。
何が言いたいのかわからないが、あまりにも真剣な視線を向けられて、大輔のほうが目を逸《そ》らした。
竜憲の顔を正視できない。
大輔の中に入り込んだ戦士は、昨夜、姫神《ひめがみ》を抱いていたのだ。
自分ではなく。自分の中から抜け出した戦士がである。
己《おのれ》の身体は確かに布団の中で熟睡していた。それにもかかわらず、大輔は戦士の目を借りて、竜憲を見ていたのだ。
ただし、大輔の目に映ったのは、竜憲自身の顔だった。戦士の目で見ているにもかかわらず、自分が見ていたのは姫神《ひめがみ》ではなく、竜憲だったのである。
奇妙な体験だ。五感とかけ離れた目で見ると、姫神の意識に生身の竜憲も引《ひ》きずられているのがよくわかった。姫神の歓喜が、微妙に竜憲に反応を引き起こすのだ。そのうえ、自分はそれを逆らいもせずに見ていたのだ。むしろ、楽しんでいたのかもしれない。
今思えば、竜憲が化け物に襲われて、必死で抵抗する姿をも、奇妙な甘い思いと共に眺《なが》めていたのである。
もちろん、何かおかしいと気づいた瞬間、必死で抵抗した。
だが、戦士に取り込まれた自分の意識は、まったく身動きができなかったのである。
なぜ、彼らが静観していたのかは知らない。戦士の力に逆らって行動を起こすには、大輔の力はあまりにも弱かった。
結局、姫神が敵を倒せと命じるまで、なんの手助けもできなかったのだ。
しょせんは、その程度の力しかないということなのだろう。
「……なんだよ……」
躊躇《ためら》いを隠すために、ぶっきらぼうに訊《き》く。
「あんた、なんともないわけ?」
「何がだ?」
「……あんたの……ひょっとすると、戦士かもしれないけど……。力を分けてくれたんだよ。だから、勝てた。あいつは、俺の、生命力を吸ってたんだ。……それが佐伯さんの死体を見た途端に、いきなり戻ってきたんだ。たぶん、そうだと思う。……疲れてるわけじゃないんだ。持て余してるだけで……」
つまり、自分の生命エネルギーに加えて、戦士のエネルギーが加わったということだろう。大輔自身は、疲れを感じていないのだから、竜憲に力を分けたのは、古代の戦士ということになる。
「そんな簡単なもんか?」
「さあね。……けど、俺の感覚はそうだったよ。なんで、死体を見た途端なのかはわからないけど……そう、蛇口が開いたみたいな、感じ? かな……」
ぽりぽりと顳〓《こめかみ》を掻《か》いた大輔は、竜憲の目を覗《のぞ》き込んだ。
言葉は嘘ではないらしい。
ひどく疲れた顔はしているが、目はいつもの輝きを取り戻していた。
「消化不良ってとこか?」
再び、力なく笑う。
いくら急激に体力が戻ったのだとしても、この反応は妙だ。何か言いづらいことでもあったのだろうか。
竜憲の顔を見つめたまま、頬杖《ほおづえ》をついて言葉を待つ。
必要ならば言うだろうし、言っていけないことなのかもしれない。自分から聞き出す気はなかったが、拒絶するつもりもなかった。
「……俺のせいで、佐伯さんは殺されたのかもしれない……」
「え?」
目を剥《む》く。
想像もしなかった言葉だ。
確かに、佐伯は“吸血鬼に襲われた”かのように、真っ白な顔をしていた。人の生命を喰うという化け物が、逃げただけだとすれば、他の犠牲者を探したとしても不思議ではなかった。
「……殺したんじゃないのか?」
「そのつもりだったけど……。ほかに考えられないだろう。タイミングがよすぎる」
「確かにな……」
へたな慰《なぐさ》めなど、通じない。
竜憲は誰より明確に敵の正体を知っているのだ。
「仕留めたと思ったんだ。あのときは……」
自分の力を認識しているために、よけいに責任を感じてしまうのだろう。
本来、人と意思を通じさせることができない存在が何をしようと、竜憲が罪の意識にさいなまれることはないのだ。世の中には、子供だからといって、罪を問おうとしない大人がいるくらいなのである。人外魔境《じんがいまきよう》の化け物が、何をしようと責任を問うほうが変なのだ。
性格といえばそれまでだが、そんな、自分を追い詰める考え方は、承服できなかった。
「それより、親父《おやじ》さんだ。……妙なことを言ってたぞ……。二つの……それだけ。外に出たら魍鬼《もうき》に喰い殺されるって言った直後に、それだけ言って……やめたけど」
「二つ?」
「そう」
姫神《ひめがみ》と戦士のことなら、二人と言うだろう。二つ、という言葉が、妙に気になった。
竜憲も同じらしい。
眉《まゆ》を寄せて、二つという単語をぶつぶつと口の中で唱《とな》えている。
「二つ……。二つの勢力ってことかな……」
ひょいと眉を上げた大輔は、竜憲を見やった。
「姫神達に味方する勢力と、敵に回る勢力。……変な言い方だけど、確かに二種類あるんだよな。敵意しかないヤツと、姫神《ひめがみ》に会いたいから現れるヤツと……」
「そうか。確かに、岬の神社でお前を襲ったヤツと、救ったヤツ。二ついたな。もっとも、救ってくれたのは……なんだっけ……」
言葉を跡切《とぎ》れさせた大輔は、目を閉じて少女の言葉を思い出していた。
「ハヤタマ……。そう、ハヤタマノオオカミ。その系譜だそうだ。俺は……」
竜憲に取《と》り憑《つ》いた姫神の正体を探るためにも、重要な名前だろう。自分の頭に刻《きざ》みつけた名を思い出した大輔は、いまさらのようにメモを取り出すと、ペンを走らせた。
漢字は思いつかない。
オオカミが、大神であることは想像できるが、ハヤタマとなると、皆目《かいもく》見当もつかなかった。
「それは……」
竜憲の言葉を、足音が遮《さえぎ》る。
どかどかと、傍若無人《ぼうじやくぶじん》な足音を立てて、何人かが廊下を歩いていた。
医者だろう。
死体を確かめるために現れた医者は、どんな診断を下すのだろうか。
顔を見合わせた二人は、これから起こる騒動を考えて、どちらからともなく苦笑を浮かべた。
囲炉裏端《いろりばた》に集まった三人は、一言も口をきかずに、それぞれ一点を見つめていた。
誰もきっかけが掴《つか》めないのだ。
大輔《だいすけ》に限って言えば、口を開けば泣き言ばかりが、出てきそうで。
助言を求めようにも、佐伯《さえき》老人は例の蔵の中で、眠っているらしい。忠利《ただのり》のほうも、なんの連絡もしてこないのである。
そして、何よりも身近な連中。
即座に対応しなければならないはずの、佐伯の死体を調べている医者達が、何も言ってこない。もっとも、彼らに関しては、答えはすでに用意してある。知らぬ存ぜぬを押し通すつもりなのだ。
誰かが何かを命じる、あるいは何か言ってくるまで、ここでおとなしく待つ。というのも一つの手だが、それにはどうしても不安が残る。
何かをしなければならないような気がするのだ。
囲炉裏《いろり》の火を掻《か》き立てながら、とりとめもなく今までの出来事を反芻《はんすう》していた。
どの出来事にも一貫性がない。どれもが奇妙に食い違う。いや、こじつけようと思えば、できないことはないのだ。
しかし、もっと単純に、かつすっきりとした筋立てがあるような気がするのである。
もちろん、忠利の口にすることに感じる微妙な違和感は、この際目を瞑《つぶ》れる程度のものだった。竜憲や自分に取《と》り憑《つ》いた妖怪の大親分は、忠利にとっては敵なのだ。多少の食い違いはあって然《しか》るべきものだった。
では、何が違うのか。
「それがわかれば、苦労しないよな」
自分の思考が、声になって聞こえてくる。しかし、自分の声ではない。
「え?」
顔を上げた大輔は、自在鍵を見上げて腕を組む竜憲をまじまじと見つめた。
自分の思考が読まれたのだろうか。
視線に気づいて、竜憲が眇《すが》めた目を向ける。
「なんだよ……」
「今……」
「あ? ああ、ただの独《ひと》り言《ごと》。……どうしてもわからなくてさ」
どうやら、心を読まれたわけではないらしい。単なる偶然の一致というやつだ。
「なんだよ。ほんとに……。妙な顔しちゃってさ」
少々、びっくりはさせられたが、ちょうどよいきっかけにはなった。
「……どうなってるんだろうな。……奥」
ちらりと恵美《めぐみ》を見やる。
医者らしき男と共に現れた三人の男は、恵美を追い出してしまったらしい。ひょっとすると竜憲を見張るためにこの場にいるのかもしれなかったが。
どちらにしろ、客に茶も出さずにここにいるというのが、妙だ。
「……あの人達は? 随分親しいみたいだったけど……」
「分家の方たちです。お医者さんもいらっしゃるんで……」
つまり、変死体にもちゃんとした診断書が作れるということだろう。こんな、奇妙な家には絶対的に必要な職業である。
彼らが現れてから、もう二、三時間は過ぎているのに、何も言ってこないあたりが、不気味だった。
反魂《はんごん》の術などという、信じ難い術を操る家系だからだろうか。人の死の場面に立ち会ったことがないだけに、普通がどんなものなのか知らないが、第一発見者から話も聞かないというのは、解《げ》せなかった。
「……お客さんを放ったらかしにして、すみませんな」
襖《ふすま》が引き開けられる。
現れた男は、黒い革鞄《かわかばん》を提《さ》げていた男だ。医者の助手といったところだろうと、見当はつけていたが、明るいところで見ると、意外に歳《とし》がいっているのがわかった。
三十前に見えていたのだが、どう見ても五十絡《がら》みだろう。
くっきりと刻まれた皺《しわ》と、筋張った手が年齢を教えてくれる。しかし、体型と動きは、ひどく若々しかった。見誤ったのはそのせいだ。
「……爺《じい》様が話があるそうで……。すみませんが、蔵座敷のほうまで来ていただけますか」
ひょこっと頭を下げる仕種《しぐさ》など、大学生と言っても通じそうだ。
「……あ、はい……」
腰を浮かせた大輔は、ちらりと竜憲に目をやった。
随分回復している。消化できたのだろうか。
余分な生命エネルギーを与えられるというのがどういうことかわからないが、顔色がよくなっているのは、確かだった。
「……あの……佐伯さんは……」
「ああ。術に失敗したのです。佐伯を継《つ》ぐ資格がなかったというだけで……。そう珍しいことじゃありませんよ。お爺様のときも、兄貴が死んだそうですからね」
あまりにも平然と告げられて、大輔は息をのんだ。
佐伯の家の術者は、世代交代する度《たび》に死人を出しているというのだ。
大道寺《だいどうじ》も大袈裟《おおげさ》な家だと思っていたが、ここはそれ以上らしい。跡継ぎを選ぶことは、そのまま生死にかかわるというのだ。
「爺様が正気のうちに、会って話をしたいということで……。分家の中から跡継ぎを選ぶとなると、しばらく話もできなくなりますからな……」
少しばかり、得意げな笑みが漏《も》れる。
分家の人間ということだったが、彼らも命をかけて跡継ぎとなろうとするのだろう。
それにどれほどの価値があるのか、部外者には理解できない。
「じゃあ、俺達は……」
「とにかく、いらしてください。爺様も気にしていますんで」
有無を言わさぬ語調に、竜憲も立ち上がる。
「恵美。……お前はここで待ってるんだ。おろしの準備もあるからな……」
「はい……」
深々と頭を下げた恵美は、竜憲を見上げて小さく笑った。
おろしがなんなのか知らないが、儀式に関連することだけは確かだろう。ひょっとすると、跡継ぎを選ぶことに関係しているのかもしれない。
大道寺の家で行われることなら少しは理解できたが、この家で行われている術はあまりにも想像を絶しているがために、想像もできなかった。
息子が死んでも、反魂《はんごん》の術とやらを行うというのだろう。
成功するとも思えないが、今の竜憲なら、危険は少ない。なにしろ、エネルギーがありあまって、消化不良を起こすぐらいなのだ。
ぺこりと頭を下げた男に従って畳廊下に出た大輔は、押し寄せた冷気に、ぞくりと身を震わせた。
二本の和蝋燭《わろうそく》がじりじりと音を立てる。
脚の長い燭台《しよくだい》は、老人の左右に据《す》えられており、翁《おきな》の仮面をくっきりと浮かび上がらせていた。
無言で深々と頭を下げる竜憲《りようけん》の背後で、大輔《だいすけ》も頭を下げた。
悔《く》やみの言葉をかけるべきなのだろうが、なんと言っていいのか見当もつかないし、そういう雰囲気でもない。
この場にいる人間は、誰も死んだ人間のことなど考えていないようだ。
それは、仮面をつけた老人も同じだった。
気のせいか、少し若返ったようにも見える。
息子を亡くして気落ちしているとばかり思ったのだが、気を張って背筋が伸びていた。術を伝えるべき人間を失い、新たな跡継ぎを選ばなければならないという緊張感が、老人を蘇《よみがえ》らせたのかもしれない。
「お爺《じい》。……この子が、大道寺《だいどうじ》の息子か?」
一人が、訊《き》く。
駆けつけた男の中で、一番の年長者だろう。真っ白な頭と曲がった背中は、六十を越しているように思える。
二十歳も過ぎた人間をこの子、などと言えるのも納得できた。
「……大道寺の息子か……。なるほどな……」
老人も含めて五人の男は、竜憲に視線を集めている。
何に納得しているのかはわからないが、品定めするような目付きで竜憲を眺《なが》めていた。
奥歯を噛《か》み締《し》めた大輔は、男達の顔を順番に睨《にら》み据《す》えた。
大道寺という名になんの意味があるのか知らないが、彼らは竜憲自身ではなく、その血筋に興味を抱いているようだった。
「このときに、大道寺が同席しているのは、大神《おおかみ》のご配慮よの……。のう爺様……」
医者特有の雰囲気を持った男が、にたりと笑って老人に目をやった。
仮面の顔を覗《のぞ》かせた老人が、何事か喋《しやべ》る。
言葉を聞き取れるのは、息子だけではないようだ。仮面の口もとに耳を寄せた医者は、深く頷《うなず》くと隣の男に何事か耳打ちした。
「……大道寺は、我が一族とは対をなすもの。どちらが欠けても、成り立たないのだ。……それはわかるな?」
昂然《こうぜん》と頭を上げ、男達の視線を受け止めていた竜憲が、軽く肩をすくめた。
「息子さんの……」
「それはいい。あれは佐伯《さえき》を支える力がなかっただけのこと。佐伯がどういう家か、知っておるな」
男の語気が強くなる。
頬《ほお》を引きつらせた大輔は、膝《ひざ》を前に進めた。
この男達は妙だ。
殺意さえ感じる。
「……何も知らされていない。ただ、佐伯さんは、反魂《はんごん》の術をするって言っただけで……」
「そうか……。まぁいい。大道寺も、わかってお前を送りこんだのだろうよ。家を継げぬ者でも、大道寺は大道寺。血は継いでおるからな……」
「リョウ……。出よう。こいつら何か企んでやがる……」
「黙《だま》れ!」
一喝され、大輔は医者を睨み据えた。
「何がだ。貴様ら、何をする気だ!」
「佐伯の家を潰《つぶ》すわけにはいかん。このままでは、佐伯も、延《ひ》いては大道寺も潰れるだけだ。……お前の力があれば、佐伯は生き残る。ただひとつの道。……そのための反魂《はんごん》の術よ。そうだな。爺《じい》様」
「そうじゃ」
突然、老人が立ち上がった。
「その血が、わしを蘇《よみがえ》らせる。反魂の術は完成する」
老人は、翁《おきな》の面をかなぐり捨てた。
「……な……んだと……」
腐肉の顔。
片目がどろりと垂《た》れ下がり、もう一方の目も白く濁《にご》っている。
死体だった。
動く死体。
「大道寺の血なら、不足はない。お前ひとり命を投げ出せば、佐伯の血が、佐伯の術が途絶えることはないのだ。……大道寺ならわかるな。未来永劫《みらいえいごう》、伝えねばならんのだ。このままでは、術は途絶える」
息子に伝えるまえに、老人は死んでしまったのだろう。
そして、老人を生き返らせるために、竜憲の命が必要だと言っているのだ。
「馬鹿《ばか》な……」
座布団を蹴《け》るように立ち上がった大輔は、竜憲の腕を引《ひ》っ掴《つか》んだ。
「リョウ!」
「……親父《おやじ》が……」
「そうよ。大道寺の頭領がお前を送りこんだのは、そのためだ」
竜憲は、声を殺して笑っていた。
まさか、人身御供《ひとみごくう》にされるなどとは、思ってもいなかったのだろう。いくら姫神《ひめがみ》に取《と》り憑《つ》かれたとはいえ、息子をみすみす殺すはずはない。
「そうか……。親父は俺を見棄《みす》てたのか」
「大道寺に生まれながら、術を継げぬなら、仕方あるまいよ。お役に立つには、それぐらいしかあるまい」
ふらりと立ち上がった竜憲は、大輔に向き直った。
微《かす》かな笑みが、その心情を伝えている。
古代の魔物に取り憑かれたことが、いかに忠利《ただのり》の負担になっているか、竜憲はいやになるほど自覚していたのだ。
だからといって、見棄てられるとは思ってもいなかっただろう。
大輔に言わせれば、信じられないほど素直な息子なのだ。二十歳を過ぎて、両親の言葉に従うなど、幼すぎるとまで思っていた。
それだけに、裏切られたという衝撃は、堪《た》え難い。
「リョウ。……嘘だ。こいつら、化け物に操られてる」
腕を引く。
「よこせ。……それをよこすのじゃ。わしが蘇《よみがえ》るには、その血がいる……」
「リョウ! しっかりしろ! お前を送りこんだのは、親父《おやじ》さんじゃない。鴻《おおとり》だ! 鴻の差し金なんだ!」
手荒に肩を揺する大輔は、低く唸《うな》った。
「ちくしょう……」
化け物に加担する四人の男達は、自分が何をしようとしているのか、わかっているのだろうか。
醜怪《しゆうかい》な化け物――おそらく、佐伯の当主だった男――に操られ、人間を餌《えさ》にしようとしている。今朝《けさ》、竜憲を襲った化け物は、すべてはこの屋敷の主だった老人の、なれの果てなのだろう。
「お前は大道寺には必要ない。ならば、ここで佐伯の礎《いしずえ》となれ……」
竜憲を取り囲んだ男達が、ゆっくりと手を伸ばす。
「リョウ!」
その姿が、霞《かす》む。
和蝋燭《わろうそく》が燃えるだけの薄暗い部屋の中で、竜憲は全身に青白い光を纏《まと》いつかせていた。
「そうだな。……俺は大道寺には必要ないかもしれないな……。だが、犠牲《いけにえ》になる気はない」
声が重く沈む。
いつもの竜憲の声ではない。
もう大丈夫だろう。
肩を掴《つか》んだ手を外《はず》した大輔は、途端に激しく燃え上がった炎に、息を呑《の》んだ。
男達も同じ。
彼らは、自分達が犠牲にしようとした者の正体を、まったく理解していなかったのだ。確かに、大道寺忠利と同じ力は持っていない。しかし、竜憲は人ではないものの声を聞くことができ、戦うこともできたのである。
『……死者を蘇らすは、摂理《せつり》の破壊。それをそなたらに認めたは、情けじゃ。声を聞くもよかろう。秘法を伝えるもよかろう。だが、肉に命を与えてなんとする……』
姫神《ひめがみ》。
竜憲の身体から立ち上った炎が、女の姿となる。
姫神は、肉屑《にくくず》のような老人に向かって、語りかけていた。
しかし、ほかの男達には、その声は聞こえていないようだ。ただ、光を纏った竜憲を、驚きの顔で眺《なが》めている。
『声を聞けばよかろう。何故《なにゆえ》そなたが蘇《よみがえ》る』
「伝えねばならんのだ。大神《おおかみ》を祀《まつ》るは、我らが務め。……わしが果てれば、術法が果てる……。お前の血、お前の力で、わしは蘇る……」
ごろごろと咽喉《の ど》が鳴り、不明瞭《ふめいりよう》な呟《つぶや》きが漏《も》れる。音が意味を伝えているのか、思考が脳裏に直接届いているのか、よくわからない。
ただ、その言葉が、この生きた死体が土に帰らぬ理由を教えてくれた。
死んでから、どれほど経つのだろう。
腐臭がないのが不思議なほど崩れた身体は、おぼつかない身体で竜憲に歩み寄った。
と、閃光が走る。
「ぐが!」
撥《は》ね飛ばされた身体は、壁に叩きつけられる寸前、男達に支えられた。
まともな男達が、崩れかけた死体をいたわる図。どう考えてもまともではない。彼らはこの化け物の言葉を、心から信じているのだ。
「往生際《おうじようぎわ》が悪いぞ」
「……お前も、古《いにしえ》の術を伝える血筋ならわかろう」
「術は伝えなければならないのだ。……爺《じい》様を蘇らせなければ術は途絶える。お前一人が死ねばすむことなのだ」
「何をいやがる」
彼らも真剣なのだ。
気持ちはわかる。だが、承服はできない。できるわけがない。
彼らは死んだ老人の狂気に躍らされているだけなのだ。
にじり寄る男達を、竜憲は悲痛な面持ちで眺《なが》めていた。
「止《や》めろ! それがなんになる! こいつは息子を喰い殺しても、化け物のままだ。……反魂《はんごん》の術は、人を蘇らせる業《わざ》じゃないんだろ……」
炎を噴き上げる竜憲が、悲しげに言う。
姫神《ひめがみ》の言葉すら聞くことができない連中は、憎々《にくにく》しげにその顔を見据《みす》えていた。
「爺様は、なんも伝えてはいない。……爺様を蘇らせるしかないのだ。あれの術が不完全だったから、爺様はこんな形で……。だが、お前の血があれば、完全に蘇る。そうすれば……わしらの中から、跡継ぎが出る。……わかれ。お前が必要なのだ……」
けっして、ただの殺戮《さつりく》ではないと、男は言いたいのだろう。殺される人間を説得するなど、聞いているほうが気分が悪くなった。
説得というよりは懇願だ。それがなおさら、大輔の嫌悪感を煽《あお》る。
犠牲、人柱、人身御供《ひとみごくう》。おそらくこんなふうにして、周りの人間は犠牲者を説得したのだ。
「馬鹿《ばか》もいいかげんにしろ! 何が跡継ぎだ。他人を巻き込むんじゃねえ!」
竜憲の前に立ちはだかった大輔は、顎《あご》を上げて男達を見下ろした。
相手が人間なら、自分の意思で戦える。
中学生の頃、相手に大怪我《おおけが》をさせて以来、喧嘩《けんか》などしたことはない。だが、中年の男に負けるはずはなかった。
「イケニエがいるってなら、お前らが勝手になれよ! リョウを巻き込むな!」
拳を握《にぎ》り、脚を前後に開いて、身構える。
その肩に、温かい手が触れた。
『人の妄執《もうしゆう》は、限りがない……。戦いなさい……』
「ああ……」
古代の戦士と同じように、自分も姫神《ひめがみ》に命じられて戦うのか。
いや。竜憲を、この妄執に取《と》り憑《つ》かれた人間から守るために戦うのだ。
「どけ。どかぬか。……貴様の血など、汚れでしかないわ。わしらは術を伝えねばならん。このとき、この時期に大道寺が同席する意味を、考えろ!」
「知るか!」
横に回り込もうとする男の腹に、蹴《け》りを入れる。
あっけないほど簡単に吹っ飛んだ男は、化け物の足もとまで転がった。
と、もそりと動いた化け物が、男の身体にのしかかる。
「ぎゃあぁぁ!」
絶叫が轟《とどろ》く。
肉屑《にくくず》の塊《かたまり》が、男の首を喰いちぎる。
そのまま、首を吐き出した化け物は、虚《うつ》ろな目を周囲に投げた。
「違うぞ……。これは、違う……」
「爺《じい》様……待ってろ。今、大道寺を食わせてやる……」
男達は、仲間が喰い殺されたことなど、気にも留めていない。化け物が求める餌《えさ》を、一刻も早く速く手に入れる。
それしか考えていないのだ。
「よこせ。大道寺を……」
「黙れ! こいつには、指一本触れさせん!」
怒鳴《どな》る。
「たわけが! よこせと言うたろうが!」
一人が、手を背後に回した。
肉切り包丁が握《にぎ》られている。
竜憲を殺し、その身体を化け物に与えようと考えていたのだろう。この屋敷に入る前から、何をするか、男達は決めていたに違いない。
反吐《へど》が出る。
「佐伯のお家のためじゃ。死ね!」
突きかかる男の手を掴《つか》む。
包丁の先が、少しばかり腹に届いたが、大輔は歯を剥《む》き出して笑ってみせた。
「お前が餌《えさ》になれ。……人を喰って蘇《よみがえ》れるもんならな!」
腹を蹴《け》ると同時に手を放す。
化け物の隣に飛ばされた男は、慌《あわ》てて床を転がり、再び肉切り包丁をかまえ直した。
その脚を、形も留めぬ手が捕らえる。どろどろと滴《したた》る粘液は、溶け始めた肉だ。
「よこせ。……そいつを……。それが、ただひとつの道じゃ」
頬《ほお》を引《ひ》きつらせ、男が泣き声で喚《わめ》く。
「こいつは俺のものだ!」
叫ぶと同時に、右手が重くなった。
剣が現れたのだ。
妄執《もうしゆう》に囚《とら》われた人間など、化け物と同じだということか。それとも、部屋の隅で、こちらをじっと身守る化け物をこそ、切り伏せろということなのだろうか。
ゆっくりと剣をかまえた大輔は、目を細めて、男を見据《みす》えた。
が。
ばっと、男達が身を伏せた。
「大神《おおかみ》。……大神が……。まさか……」
剣を見た瞬間、男達は戦いを放棄したのだ。
それどころか、忠誠を誓うように身を伏せていた。化け物に脚を掴《つか》まれた男までが、それを無視して、大輔を見つめている。
「大神が蘇《よみがえ》られたのか……。まさか……。どこに封じられておられるか、それもわからなんだに……。まさか……」
困惑の表情を浮かべ、大輔の顔と剣の間を視線を泳がせている。
この剣は、彼らが崇《あが》めるものの存在を証明しているのだろう。
恵美《めぐみ》が口にした、ハヤタマノオオカミ。それが、この剣の持ち主なのだ。そして、大輔に取《と》り憑《つ》いた男。
「う……わぁああ!」
脚をむしり取られ、男が床を転げ回った。
噴き出した血が、あたりを血に染める。
「大輔!」
竜憲の声に、大輔は視線を振り上げた。
ばっくりと口を開いた化け物が、迫っている。
反射的に剣を突き出した。
咽喉《の ど》に、突き刺さる剣。
「どけ! 仕留める!」
身を伏せる。
その頭上を、蒼《あお》い閃光が貫いた。
「が!」
声か音か。
途端に、化け物の身体は崩れ落ちた。
腐敗した肉が、床に叩きつけられて飛び散る。むっとする臭気が広がり、男達は顔を逸《そ》らした。
彼らが蘇らそうとあがいていた化け物は、人間の、腐乱した死体に戻ったのだ。
「……大神。どうすればよろしいのですか。……我らが生きるには……。我らが伝えた術は、もう意味がないのですか……」
大輔を見上げ、医者が悲痛な声を出す。
ハヤタマノオオカミに訊《き》いているのだろう。だが、大輔には答えを出すことなどできなかった。
もちろん、竜憲にもわからないだろう。
振り返ると、竜憲はぎごちない笑みを浮かべて、肩をすくめていた。
「……親父《おやじ》に訊《き》いてみる。……それしかできない」
「大道寺に何ができる!」
一人が声を荒らげた。
「あれは光の世を祀《まつ》るもの。我らの術も、伝承も……すべて消え失せたのだ……」
悲痛な声が、彼らの思いを伝えていた。
唯一の方法だったのだ。
竜憲を犠牲にしても、老人が蘇《よみがえ》るわけではない。それは姫神《ひめがみ》が教えてくれた。だが、この男達は、それが唯一の方法だと思っていたのだ。
本当に、術法のことはかけらも知らないのだろう。
こうなると、彼らがごく普通の人間だということがよくわかる。化け物の言葉を真に受けたのも、その焦《あせ》りゆえだ。
「お教えください。大神。わしらは何をすれば……。二度と、祀ることも許されないのでしょうか……」
男達の真剣な眼差《まなざ》しにさらされて、言葉に詰まり、拳を握《にぎ》った大輔の手を、竜憲が軽く掴《つか》んだ。
なんの答えもないことは、竜憲にもわかっているのだろう。
ごくりと唾《つば》を飲みこんだ大輔は、小さく頷《うなず》いた。
「……とにかく……。ここを出よう。ここじゃ、話もできない……」
単なる時間稼ぎだ。
だが、彼らを慰める言葉すら、大輔には思い浮かばなかった。
「案ずるな。術は途絶えぬ」
「え?」
すべての視線が、蔵の入り口に注がれる。
「爺《じい》様!」
男達が叫ぶ。
「な……に?」
戸口に立った人影が、ぐらりと傾《かし》いで崩れ落ちた。
誰かがその人物に歩み寄る。
「鴻《おおとり》!」
蔵の入り口に倒れた身体を助け起こしたのは、鴻だった。
終 章
「……反魂《はんごん》の術を行うのです。正しく……。あれは、死者の声を聞くためのもの。けっして肉体を蘇《よみがえ》らせるものではありません。……そのために、サニワを用意されているのでしょう」
目の前で落ち着いた声を出す男に、大輔《だいすけ》は射殺せんばかりの視線を据《す》えていた。
長い髪を総髪に流し、小袖《こそで》に袴姿《はかますがた》の鴻は、生まれる時代を間違えたとしか思えない。しかし、彼は確かに現代の人間だった。
一昨日、大輔の電話を受けた彼は、翌日には出雲《いずも》に来ていたという。その服装に似合いの時代なら、まだ静岡あたりを歩いているはずだ。
そのほうがどれほどよかったか。
だが、一面で、彼が現れたことに安堵《あんど》していた。
「口寄せならば、御一族の方は、行えるのではありませんか?」
顔を見合わせた男達が、ぎごちなく頷《うなず》き合う。
「だが、あれは……。思いを伝えることはできても、込み入った話など……」
「そのために、あの娘さんがいるのでしょう。……違いますか?」
途端に、竜憲《りようけん》の手が痙攣《けいれん》した。
大輔の手を探り、力をこめる。
鴻に対する怒りを必死で抑《おさ》えているのだろう。全身に炎を纏《まと》わないだけでも、褒《ほ》めてやっていい。
彼の力は、感情に左右されるらしいのだ。
それを抑えるために、誰かにすがりたいらしい。
手を返した大輔は、指を絡《から》めて手を握《にぎ》り返した。
蔵の入り口で倒れた人影は恵美《めぐみ》だったのだ。彼女は老人の言葉を伝え、そのまま気を失った。それが誰の仕業《しわざ》なのかは、竜憲ならずとも推測はつくだろう。
「恵美は……」
「半分死んだ娘さんを、想いを封じてまで住まわせているのは、そのためではないのですか。彼女なら、自分がないぶん、完全なサニワとなるでしょう……」
「それは……それはそうだが……」
医者が頷く。
彼女を屋敷に送りこんだのは、この医者なのだろう。半分死んだという意味が、朧《おぼろ》げながら理解できる。
脳死といわれる状態に近い、本人が死を認識した肉体。
だが、そんな人間が生きていてよいのだろうか。
「……そう……当たりだ……」
竜憲が囁《ささや》く。
ぎょっとして、目を剥《む》いた大輔は、竜憲の顔を見据《みす》えた。
竜憲も、目を見開いている。
『そう驚くこともあるまい。……声を届けてやったまで……』
くすくす笑いと共に、楽しげな姫神《ひめがみ》の声が頭に響く。
手を握《にぎ》っているせいだろうか、竜憲の中の姫神の声も聞こえるようだ。
『佐伯《さえき》のことは、あの男に任せておけばいい。……あれなら、すべてをうまくやるだろう』
ばっと、手を離した大輔は、つくづくと竜憲の顔を見つめた。
「……マジかよ……」
「みたいだね……」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、鴻に視線を戻した。
それに倣《なら》った大輔は、男達の顔に生気が戻ったのを見て取って、ほっと息を吐いた。
佐伯の家のために、竜憲を犠牲にしようとしたのは許せない。しかし、佐伯家の歴史を頭から否定する気もなかったのだ。
むしろ許せないのは、鴻のほうだった。
こんな場所に、竜憲を送りこんだのは鴻である。竜憲を殺そうと考えたのかもしれない。あんな化け物に喰い殺されることになれば、姫神は肉体を捨てるだろう。
それが目的だったのだ。
お奇麗な、造《つく》りものめいて整った顔が、憎々《にくにく》しげに見える。
「……よろしいですか。……ご老人は、あの娘さんに姫神を降ろして、話を聞こうとなさっていたのです。間に合わなかったために、執念だけが残ったのでしょう。それを反魂《はんごん》の術などで蘇《よみがえ》らせようとしたために……」
その解説が、実はすべてを鴻が知っていたと、告白しているようなものだ。
だが、佐伯家の伝承だけを考える男達は、鴻の言葉を嬉《うれ》しそうに聞いていた。
「……では、我々は姫神の器《うつわ》を……」
「そういうことになりますね。……竜憲さんを解放するためにも、先生は姫神をこちらにお戻しする気だったのです。……今の世で、姫神をお祀《まつ》りできるのは、佐伯のほかにありませんから……」
「大道寺が、そこまで考えるとは……」
とろりと笑った鴻は、竜憲に視線を移した。
「私には、そこまで悪い兆候があるとは見えませんが、先生はひどく気にしておいでなのです……。大道寺の血は、姫神と反発するでしょうから、心配はわかりますが……」
「わかりますとも。本来なら、佐伯が受けるべきもの……。姫様の器なら、いくらでも用意できますものを……」
「巡り合わせでしょう……。皮肉な……」
何が皮肉だ。
鴻の言葉は嘘だ。
大輔はそう確信していた。
すべてが嘘で塗り固められている。今度のことも、鴻の差し金だろう。忠利《ただのり》は何も知らされていないに違いない。
何が目的かはわからなかったが、彼が竜憲のことも、大道寺のことも、ましてや佐伯のことも考えていないのは明白だ。
「……姫様が蘇《よみがえ》られたのなら、ここに留《とど》まっていただけますね」
一人の視線が、竜憲に注がれる。
びくりと、肩が痙攣《けいれん》するのがわかった。
「馬鹿《ばか》か……あんたら……。さっき何をしたのか、覚えてないとは言わせないぞ。ええ? 人殺しの真ん中に、こいつを放っておけると思うのか!」
耐え切れずに、大輔は怒鳴《どな》った。
「大神《おおかみ》……。あれは……」
「わたしらは、何も聞かされていなかったのです。爺《じい》様が亡くなったのも、さっき知ったようなもんで……。二人とも……。そうしたら、爺様が反魂《はんごん》の術を完成させると……。息子の術は不完全だって……」
かっと、体温が上がるのがわかった。
「貴様らなど……」
「姉崎《あねざき》くん。……この方々は……」
「うるさい。……伝承がなんだ。ええ? こいつを殺してまで、守らなきゃなんないようなもんがどこにある!」
目を細めた鴻は、うっとりと大輔を見つめていた。
怒りを露《あらわ》にする大輔に怯《おび》えるならわかる。しかし、その姿を待ち望んでいたかのように、うっとりと微笑《ほほえ》んでいるのだ。
「……やはり……」
「何がだ! 鴻。お前の顔なんぞ見たくもない!」
音を立てて立ち上がった大輔は、竜憲の腕を引っ掴《つか》んだ。
「帰ろう。こんなところにいたら、腐《くさ》っちまう! こいつらみんなバケモンだ!」
おとなしく立ち上がった竜憲が、男達に背中を向ける。
「姫様!」
「お待ちください。失礼はいくらでもお詫《わ》びします。命で償《つぐな》えとおっしゃるなら……」
「ふざけるな!」
男達が押し黙る。
まだ、何か言いたげな男達を残して、竜憲を引きずるようにして大輔は座敷を出た。
「無駄です」
鴻の声が聞こえる。
「今のあなたがたには、何もできないでしょう。……まずは佐伯の伝承を復活させることです。そうでなければ……」
その声さえ聞きたくないと言わんばかりに、大輔は音を立てて襖《ふすま》を閉めた。
「あの化け物が……」
くすりと、竜憲が笑う。
後《おく》れて、姫神《ひめがみ》の声が聞こえた。
『まだ怒りは治まらぬか……』
自分に言っているのか、それとも戦士に言っているのか。
姫神は鴻に対する怒りの本質を理解しているようだ。
「そう怒るな。……鴻だってこんなことになるなんて思っていなかっただろうし……」
「わかるもんか。あいつは、爪の先も信用できない。……わかってるのか? お前を殺そうとしたんだぞ……」
「なんのために?」
殺されそうになった張本人が、言うことではない。
だが、竜憲はそう思っているのだろう。
「……あんなバケモンの考えることなんか、わかるはずがないだろうが。とにかく、あいつの差し金だ。全部がな……。親父《おやじ》さんにも、そう報告しろよ。なんだったら、俺が言ってやる」
声を殺して笑った竜憲は、握《にぎ》った手を乱暴に振りほどいた。
先に立って廊下を歩く。
「……恵美さん、どうなるのかな……」
ぽつりと言う。
確かにそうだ。
死者の言葉を聞くために生かされる女。
このあとを考えると、気が重くなる。しかし、大輔にできることは何もなかった。
一刻も早く、この不気味な家を逃げ出すだけだ。
「……とっとと帰ろう。なんだったら、俺が運転してやる」
「……やだよ。せっかく生き残ったのに、殺される気はないぞ」
声をあげて笑う竜憲に、戦いの傷跡はない。
ほっと息を吐いた大輔は、足早に廊下を歩き始めた。
あとがき
あとがきの時間だ。
う……五ページ分? 大丈夫かなあ。本文書くより難しいぞ。
まあ、それは置いといて、と。
挿絵《さしえ》が変わって第二弾。理由はともかく、何をおいても、岩崎《いわさき》先生、三巻分の挿絵をありがとう。それから笠井《かさい》先生、これからもよろしく。お会いする機会がないので、紙面で失礼な奴《やつ》と思わないでね。
とりあえず、ごく素直な作者の感想はというと。話の展開も……だし、全然イメージが違ってこれはこれでおもしろいかな。本音《ほんね》を白状すれば、一本の話に両方のバージョンが出れば最高なんだけどね。できるわけないから。
それで、少し考えてしまったのだけれど。表紙や挿絵って、すごいよね。
何がって? そりゃまぁ、いろいろと言い方はあるのだろうけど、ヴィジュアルの人間に対する影響力とでも言えばいいのかな。なんたって話を書いている我々が、登場人物達のイメージが……とか思うのだから。読む立場の読者の皆様には……。グルグルしている人がいるのじゃないかと思うと、想像するとこれは楽しい。
もともと、書き手のイメージなんて、書き続けるための必要条件くらいにしか思っていないのである。読み手が頭の中に描く、その人なりのイメージのほうが、ずっと大きいはずだからさ。いくら我々が、リョウちゃんは、大輔《だいすけ》はこんな奴、と主張しても限界があるじゃない。現実の人間だって、見る人、話す人によって捉《と》らえ方は違うわけだから、どれだけ現実的に描けていたとしても、そのくらいの認識の差異は出てくるわけよ。
珍しく、このシリーズにストレートな反響があったということは、読み手にとって一番の視覚情報である挿絵の存在が、想像以上に重いということなんだよね。あ……堅《かた》い言い方。ま、たまにはいいか。
でも、やめとこ。これ以上突っ込むと、強力な方向に話が進みそうだから。
とにかく、シリーズ途中で挿絵が変わったという経験はない……あれ、あったかな。少なくとも、ここまで、イメージの違うものに変わったという経験だけはないから、状況を楽しんでいるのだろうな。
だからといってはなんだが。感想が欲しいぞ。
しかし……こんなこと書いてていいのだろうか。なんか、結構な問題発言をしているような気もするけど……。ま、いっか。いつものことだ。
しょうがないから、別の話題を――。
昨日、大阪日帰りなんぞというお遊びしちゃったので、その顛末《てんまつ》の告白を。
お遊びというか、ネタというか。実は、リョウちゃんが好きなバンドのモデルが何か、てな質問もないことはないので、種明《たねあ》かし……なんですが。……ぶっちゃけた話、我々が好きなバンドなんだけどね。
そのバンドのライブを見にいってたわけよ。例の指を切ったトコとは別口だけど、ようは大阪まで見に行っちゃうバンドがもう一つあるのね。
それでまぁ、行った甲斐《かい》があったライブだったんだけど、メチャメチャ悔《くや》しかったことが、初めにあってさ。
のぞみの最終に乗るために、アンコールをパスしちゃったんだな。本当なら、もうちっと早く終わるはずだったのに……ショウちゃんが話を引っ張るんだもの。それこそ、そうなると知ってたら、泊まるか夜行バスにしたのになぁ。ホンの十分のために、アンコールの前に抜け出るなんて。あーっ! 悔しい!
と、それは置いといて、話を元に戻すと、実はこの二つのバンドを足して二で割ったバンドが、リョウちゃんの好きなバンドなのだな。……できるのか? はともかく、特定の実在のグループじゃないわけよ。
どうでもいいっちゃあ、どうでもいいんだけど。なかなか、重要な問題もはらんでいたりして。……その問題については勝手に想像してちょ。
また、話に詰《つ》まってしまった。
ホントにネタがないなぁ。あーあ、なんかカップ麺《めん》を作るのに、なかなか沸騰《ふつとう》しないお湯を待ってるときみたいな気分。煮え切らない……てやつ? ちょっと違う?
今回の話について書けばいいんだろうけど、なんか言い訳臭くてそれもやだし。あ、これはごく個人的な思い込みだからね。というより、私が書くとそうなるというか。マジに下手《へ た》なのさ。ついでに言ってしまうけど、新田一実《につたかずみ》の場合、あとがきから読んでも、なんのたしにもならないんだよ。へらへら……。
でも、ちょっとだけ言うなら、今まで振りまくったネタの回収というか、伏線の謎解《なぞと》きというか、そんな話……かな。わからない? まぁ、最後まで付き合ってくれれば、きっとわかるさ。無責任だなぁ。
だいたい最後って? そりゃ、まぁ、具体的には読者様、もしくは編集様に見棄《みす》てられたときという説もあるし、我々が厭《あ》きたときという説もあるし。うーん、前者のような気もする。
もっと強力なのが、出版社が潰《つぶ》れる。……ないか。
でも、ちゃんと経験しているからさ。こんな話書いていいのかしらないけど。
そういえば、それこそ、ここで書く話じゃないけれど、もしかすると、新田一実に来る手紙の中で、いちばん多い内容が、某社で書いていたシリーズはどうなったのか、なんだよね。ここまで書いたのだから、ついでにここで正直にお答えします。……わからん。
何せ、そういう質問疑問に、細かく答えるシステムがないもので。返事を書けってか? まぁ、それは追い追い……ね。
こうして、なんでも先送りにすると、そのうち痛い目みるのよ。
考えないようにしよっと。そろそろ、ページも埋まったし、ちょうどいいや。とりあえずこの続きはあるようなので、読者の皆様とももうしばらくのお付き合いができそう。
あ……なんか卑屈《ひくつ》……。でも、リョウちゃんも大輔も頑張《がんば》るからよろしくね。
さようならと言うには、見事に支離滅裂《しりめつれつ》なあとがき。それこそ、いつもどおりか……へっへっ。
せめて、最後くらいは真面目《まじめ》に。
今年は、これで最後。次にお目にかかるのは、来年でしょうね。
それでは再会を祈って、皆様ごきげんよう。
新田一実
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九三年一一月刊)を底本といたしました。
死者《ししや》の饗宴《きようえん》 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫版PC
新田《につた》一実《かずみ》 著
Kazumi Nitta 1993
二〇〇三年一月一七日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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