TITLE : 暗闇の狩人 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫
暗闇の狩人《コレクター》
霊感探偵倶楽部
新田 一実
目 次
登場人物紹介
序 章
第一章 異界の使者
第二章 三人寄れば……
第三章 闇に潜むもの
第四章 人形使い
第五章 地に還《かえ》る
終 章
あとがき
登場人物紹介
●大道寺竜憲《だいどうじりようけん》
霊能者を父に持ち、自らも父“破魔《はま》”の力を有する。過去に亡《ほろ》ぼされたすべての生命の魂が、生きる者に何かしらの影響を及ぼすのだと考えている。その正体を探るため親友の大輔が次々に持ちこむ相談を、除霊や浄霊をして解決していく。
しかし、封印《ふういん》を解《と》かれた、美しい魔鏡《まきよう》の姫神《ひめがみ》が体に入りこんで以来、身辺で不可解な現象が相次ぐ。故《ゆえ》に、外出禁止の身。
●姉崎大輔《あねざきだいすけ》
竜憲の幼なじみ。これまでは、妖怪魔物の類は、いっさい信じなかったし、感じなかった。そのために、竜憲の“護符《ごふ》”としてしばしば呼びだされていた。  しかし、魔鏡の変化《へんげ》を目《ま》のあたりにしてから、霊に対する認識が変わりつつあった大輔だが、今回は、竜憲にさえ見えない霊を見てしまった。そして、襲いかかる妖魔と、ついに対決することに。
●律泉沙弥子《りつせんさやこ》
竜憲と大輔の後輩。大道寺家に同じく、陰陽《おんみよう》に関る旧家の娘。倉に棲《す》みつく霊の封印を解いてしまったが、こんどは、闇夜に蠢《うごめ》く不気味なものに遭遇してしまう。
●大道寺忠利《だいどうじただのり》
竜憲の父。陰陽道《おんみようどう》の頭《かみ》である。
竜憲に取《と》り憑《つ》いた霊を退治するため、強大な相手と闘ってから、過労で倒《たお》れた。以来、静養中である。
●鴻《おおとり》 恵二《けいじ》
大道寺忠利の一番弟子。
忠利が倒れてからというもの、他の弟子たちの面倒を見ながら、この道場を仕切っている。
●大道寺真紀子《だいどうじまきこ》
竜憲の母親。霊の存在を信じないわけではないが、見たことはない。本人の結界《けつかい》が霊を近寄せないのだが、それすら気づかない。大道寺家の“護符《ごふ》”である。
暗闇の狩人《コレクター》  霊感探偵倶楽部
序 章
街灯の作る光の輪が、かえって周囲の闇《やみ》を濃《こ》く見せていた。
寝静まった住宅街の中ともなると、その闇はますます深いものに見える。今日に限って、玄関灯をつけている家もないのだ。部厚いカーテンや、雨戸の向こうに人がいるとわかっているだけに、街路の静けさがひどく不気味《ぶきみ》なものに感じられた。
この世のすべてが死に絶《た》えているような錯覚《さつかく》を覚える。自分の靴音だけが、唯一《ゆいいつ》生きている者の音だった。
バスを使えば一停留所。さしたる距離でもないのだが、こうして夜中に歩くと万里の距離にも思えるから不思議《ふしぎ》だ。
あと五分、いや二分でも早く席を立っていれば、こんな気分を味わわなくともすんだはずだ。あるいはいっそ、あの時、時計を見なければ、財布《さいふ》を空《から》にしてでも家の前までタクシーを乗りつけていたかもしれない。
冷え込む夜気の中、足早に歩きながら、彼女はいまさらながらの後悔を反芻《はんすう》していた。
そう、後悔していることはほかにもある。
今の仕事のこと、どうして進学せずに働いているのか。高校を卒業する頃には、学ぶことより、働くことのほうが魅力的に思えたのだ。
だが、今は少し違う。
今夜の同窓会で顔を合わせたクラスメイト達は皆、いかにも女子大生といった格好をして、旅行や男の話ばかりしていた。形のない後悔や迷いが、明確な形となって目の前につき据《す》えられた気分だ。
とりとめのない不満が、自分の人生への不安を掻《か》き立てる。
ちょうど、夜の闇の中を進む不安と似ているかもしれない。
街灯の明かりの下に足を踏み入れた瞬間だけ、自分が見える。踏み出せば、何も見えないのだ。
おそらく、明日になれば忘れてしまうのかもしれないが。
街灯の光の輪の中に踏み込んだ彼女は、暗闇に足を踏み出しかけて、ふと、足を止めた。
誰かに見られている。そんな気がしたのだ。
バッグの中を探《さぐ》りながら、彼女は背後を振り返った。
等間隔で並んだ街灯が見えるばかり。人影はない。闇をすかして見ても、人の潜《ひそ》む気配はなかった。
指先が、バッグの底にしまい込まれた防犯ブザーを探り当てる。
息を吐《は》いて、バッグの中のブザーを握りしめたまま、ゆっくりと歩き出した。しばらく進んでも、ついてくる足音はない。
気のせいだったのだろう。
胸を撫《な》で下ろし、彼女は走るようにして歩き始めた。
誰もいなかったではないか。そう自分に言い聞かせながらも、頭の隅《すみ》を掠《かす》めるのは、数年前から駅前に立っている、尋《たず》ね人の看板である。いったん、沸《わ》き上がった想像は、一歩ごとに恐怖を膨《ふく》れあがらせた。
次の角を曲がれば、家の門が見える。
なんとも言えない安堵感《あんどかん》が全身の緊張を解《と》いた。
自分では意識せずに、溜《た》め息《いき》が漏《も》れる。
と、自分の溜め息に、奇妙な息づかいが混《ま》じって聞こえた。
「え?」
思わず息が止まる。
耳元でゆっくりと、耳障《みみざわ》りな呼吸が繰り返されている。
そんなことはあり得ない。ついてくる足音などなかったのだ。ついさっき、振り返った時には誰もいなかったではないか。
だが、気のせいだと思い込むには、あまりにもはっきりと聞こえるのだ。
確かめようにも、振り返ること自体がすでに恐ろしい。
「お前……欲しいものがあるなら、はっきり言えよ」
掠れた低く聞き取り難い声が、ぼそぼそと響く。
声にならない悲鳴を上げて、彼女は振り返った。
誰もいない。
「男か? 服か? ……宝石か?」
耳元で囁《ささや》く皮肉な問いの後に、しゃっくりのような引《ひ》きつれた笑いが続く。
足が地面に張りついたように動かない。咽喉《の ど》が乾上《ひあ》がり、声も出ない。
――どうしよう――
埒《らち》のない問いばかりが心の中で、何度も繰り返される。
気味の悪い笑い声が、ぴたりと止まった。
同時にすべての気配が掻《か》き消える。
ゆっくりと息を吸い込んだ。途端に、恐怖が込み上げる。
がくがくと震《ふる》える膝《ひざ》で、どうにか身体《からだ》を支え、足を踏み出した。
すると、ふわりと何かが首に巻きつく。
無意識に彼女の手が喉元《のどもと》を掻き毟《むし》った。
その指先には何も触れないのだが、じわじわと締め上げられていく。悲鳴が咽喉で塞《せ》き止められ、唇《くちびる》だけが何度も大きく開かれた。
「この首が欲しいぞ……」
ざらついた声が楽しげに囁く。
一瞬、首を締めつける力が弱まった。
次の瞬間、いとも簡単に首が引きちぎられる。
がくりと膝《ひざ》が崩《くず》れ、血を振り撒《ま》いて首のない身体《からだ》が倒れた。勢いよく噴き出す温かい血がアスファルトを染め、黒い染《し》みを作る。心臓の鼓動に併《あわ》せて噴き出る血潮が、やがてだらだらと流れ出し、痙攣《けいれん》する身体が一度だけ、跳《は》ねるように動く。
彼女の首は血を滴《したた》らせ、宙に浮いたまま、自分の首のない身体を見下ろしていた。
驚愕《きようがく》に見開かれた目が、そのうちにゆっくりと眇《すが》められる。ちろりと覗《のぞ》いた舌が、唇《くちびる》を染める血を舐《な》め取り、口元に笑みが浮かんだ。
どこかの飼い犬が、一声吠《ほ》えるのをきっかけに、あちこちで犬が騒ぎ始めた。
第一章 異界の使者
薄紅《うすべに》の霧が、山を包み込んでいる。
わずか数日の命ではあっても、桜は山の輪郭《りんかく》さえ曖昧《あいまい》にしてしまう。
煙《けむ》るような、白い闇《やみ》。
老木が多い鎌倉《かまくら》の桜は、白といってもよいほど淡《あわ》い色だ。ところどころ交《ま》じる若木の色が、妙に毒々しく見えるのは、庭の桜を見慣れているせいだろうか。
穏《おだ》やかな笑みを浮かべて桜を見上げた竜憲《りようけん》は、木の幹《みき》に手を触れた。
「……よく咲いてくれたね……」
いつまでも寒さが続いていたために、今年はもう駄目《だめ》だと思っていた。大道寺家《だいどうじけ》の庭の主《ぬし》といってもよい巨木は、いつ枯《か》れてもおかしくないと言われ続けているのだが、毎年律儀《りちぎ》に花をつけてくれる。
腐《くさ》った枝を切り落とし、傷口に樹脂を塗《ぬ》りつけた古木は、この時期だけ人の目を集めた。
何かことが起こらない限り、存在すら忘れられている霊能者《れいのうしや》と、どこか似ているのかもしれない。
そのくせ、ことが起こった時の不在は、何よりの裏切り行為と受け止められた。
高名な霊能力者、大道寺忠利《ただのり》が倒れたという事実が、彼の能力を疑わせ、同時に不安をも掻《か》き立てているのだろう。
竜憲は父親の影響力を妙なところで感じていた。
「……竜憲さん……」
白い霞《かすみ》から視線を引き剥《は》がし、眉《まゆ》を寄せたまま振り返る。
虹彩《こうさい》と瞳《ひとみ》の区別がつかない漆黒《しつこく》の目が、まっすぐに竜憲を見据《みす》えていた。
「ああ、鴻《おおとり》さん。どうしたんですか?」
「先生がお呼びです」
この、物腰のやわらかい霊能者は、先日から家に居座っている。忠利が動けないとなると、一番弟子である彼が、他の弟子たちをまとめるしかない。依頼人のところに足を運び、忠利の指示を仰《あお》ぐという名目で、父親の名を保っているのだ。
そうとはわかっていても、子供の頃からの苦手《にがて》意識が抜けないだけに、竜憲は頬《ほお》を引きつらせていた。
子供っぽいとは思っていたが、拒絶反応は隠しようもない。
「親父《おやじ》は起きてるの?」
「はい。今日はご気分がよいようです」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、桜の幹を軽く叩《たた》くと、母屋《おもや》に向かった。
脳疾患《のうしつかん》を疑われて、絶対安静を言い渡されていた父親は、精密検査の末に過労という診断を受けて、病院から解放された。
実際、彼が倒れたのは過労が原因である。
五十代半ばの人間が、過労のために一《ひと》月も寝込むというのは不思議《ふしぎ》といえば不思議だ。内臓にも、脳にもなんの問題もないとすれば、なおさらだった。
理由はわかっている。
竜憲の中に入り込んだ魔物《まもの》が、予想以上の力を持っていたのだ。
濡《ぬ》れ縁《えん》から、そのまま母屋に上がり込んだ竜憲は、父親の寝室に向かった。
贅沢《ぜいたく》な造りの、しかも古い平屋造りの家は、襖《ふすま》を開け放てば大広間が出現する。内廊下《うちろうか》を挟《はさ》んだ向かいは、細かく仕切られて、それぞれの居室になっていた。
自分の部屋と反対の外《はず》れに、両親の寝室が並んでいる。
「……親父《おやじ》……入るよ」
襖を引き開けると、座椅子に座った忠利がいた。
気分がよいというのは、本当らしい。
食事時こそ身体《からだ》を起こすが、それ以外はうとうとと眠っていることが多かったのだ。
「そこへ座れ」
顔色もいい。
父親の正面に胡座《あぐら》をかいた竜憲は、そのまま言葉を待っていた。
たとえ横になっていようと、しばらく竜憲を観察してから、口を開くというのが、ここのところの決まりごとだ。
竜憲の中に入り込み、今のところ鳴りを潜《ひそ》めている魔物の様子を探《さぐ》ろうとしているのだろう。
「……眠っているようだな」
「おそらくね。バケモノも出てこないし、おとなしくしているみたいだな」
魔物が取《と》り憑《つ》いて以来、竜憲の周りには有象無象《うぞうむぞう》の化け物が出現した。鬱陶《うつとう》しいとしか言いようがない連中だが、魔物の動きを知る指標にはなる。
「お前は何も感じないのか?」
「相変わらずね」
まだ、息子の顔を見据《みす》えている忠利は、ゆっくりとうなずいた。
「……ならば、まだ可能性はあるということだ。竜憲、家を一歩も出てはならん」
「なぜだ?」
父親の断定的な言い方には慣れている。
しかし、なんの説明もなく行動を制限されるということには、慣れるはずもなかった。
「不穏《ふおん》な空気がある。……恐ろしく力のあるものが……本性を晒《さら》しているかもしれん」
「化け物か?」
「そうだな……」
「いつまで?」
「そう長くはないだろう。正体がわかれば、撃ち破ることもできよう」
「なるほどね。……じゃあ、しばらくは家の中でゴロゴロしてりゃいいわけだ」
ちらりと笑った竜憲を、忠利は眉《まゆ》を寄せて眺《なが》めただけだった。
以前なら、頭ごなしに怒鳴《どな》りつけられただろう。不快を表情でしか表さないのは、それだけ、弱っているということなのだ。
頬《ほお》を引きつらせた竜憲は、顔をそらすようにして腰を上げた。
「気をつけることだ。お前の中で眠る者を、永遠に押さえつけることなど、できはしないのだからな」
「わかってるって……」
襖《ふすま》に手をかけた竜憲は、そのまま廊下《ろうか》に踏み出した。
一挙に十も老《ふ》けてしまった父親など、見たくはない。徐々にでも回復しているので、そのうち元の暴君に戻るだろうが、今のままでは敵と対抗できるはずもなかった。
「……まったく……」
こんなことでもなければ、父親の年齢など意識しなかったに違いない。
五十過ぎには到底思えない体力の持ち主は、つい先日まで、息子が呆《あき》れるほど精力的に動き回っていたのだ。
広間を通り抜けて、濡《ぬ》れ縁《えん》に戻った竜憲は、鴻の姿に気づいて足を止めた。
白い小袖《こそで》に黒の袴《はかま》。長い髪を後ろで緩《ゆる》く括《くく》った姿は、生まれる時代を間違えたとしか思えない。本人の年齢に似合いのスーツなど、手を通したこともないだろう。
「どうしたんですか?」
「家から一歩も出ないようにと、先生はおっしゃられたはずですが……」
口元に薄い笑みを浮かべたまま、鴻は片眉を引き上げた。
「出やしないよ。また、親父《おやじ》にぶっ倒れられたら、面倒《めんどう》だしな」
「それでしたら……」
脱ぎ落としたままの靴を手に取った鴻は、笑みを深くした。
「これは、私が玄関に戻しておきます」
「……ちょっと、待て。家って? この家のことか? 庭は……」
整った、というにはあまりにも造りものめいた顔をわずかに歪《ゆが》めて、鴻が息を吐《は》いた。
どうやら、この家に閉じ込めるという計画は、鴻が立てたものらしい。何が起こっているのかは知らないが、ずいぶんと大袈裟《おおげさ》な処置である。
「本来なら、道場に籠《こも》っていただくほうがいいのです。しかし、それでは長くは我慢《がまん》できないでしょう」
音をたてて額《ひたい》を叩《たた》いた竜憲は、いい加減にうなずいた。
自分のことを神と名のる化け物を封じた“呪《のろ》いの壺《つぼ》”となってしまったからには、霊能者《れいのうしや》の言われるがままに、おとなしくしているしかないのだろう。
額に護符《ごふ》を貼《は》られないだけ、ましだと思うことにして、竜憲は座敷に引き返した。
「竜憲さん……」
「わかったよ。正体がわかるまでだろ? 家ん中でくすぶってるさ……」
鴻の顔を見ているよりは、部屋で寝ていたほうが気が休まる。
後も見ずに内廊下《うちろうか》に戻った竜憲は、居間の扉《とびら》を引き開けた。
ここと、竜憲の部屋だけは改造して洋室となっている。空間にだけは余裕があるので、巨大なソファーが居座っていたが、それでもまだ閑散《かんさん》として見えた。
布張りのソファーに身体《からだ》を投げ出し、天井《てんじよう》を見上げる。
市松模様に木を組み合わせた天井に埋《う》め込まれたライトに、小さな染《し》みがあった。
年末に掃除したのに、いつのまにか虫が入ったらしい。
光に吸い寄せられる虫は、人間には想像もできないような隙間《すきま》から入り込んでいる。
自殺行為。
餌《えさ》があるわけでもないのに、プラスチックに覆《おお》われた空間に忍び込み、そこで死を迎える。入ったのなら出られそうなものだが、虫の死骸《しがい》は日を追って増えていくのだ。
人間も、虫を笑えない。死がぱっくりと奈落《ならく》の穴を開けているとわかっているのに、わざわざ飛び込む馬鹿《ばか》もいるのだ。
竜憲もそうだった。
身の内に眠る魔物《まもの》に、対抗できないと知っているのだが、呼び起こしたいという衝動に駆《か》られる時がある。
解き放ってしまえば、自分は自由になるのではないか、と考えてしまうのだ。
実際には、魔物が目覚めた瞬間、自分の命がなくなるであろうことは、簡単に想像できた。
幸い、と言うべきか、竜憲には魔物を呼び覚ます方法がわからない。
知っていれば、試しただろう。
おそらく。
頭を抱え、ごろりと寝返りをうった竜憲は、センター・テーブルにのった灰皿に手を伸ばした。
この家で唯一煙草《たばこ》を吸う竜憲のために、クリスタルの灰皿は研《みが》かれている。本来なら客用なのだが、母屋《おもや》に通される客など、めったにいなかった。
テーブルの端に引き寄せた灰皿を探り、ライターをつまみ出す。
胸のポケットから取り出した煙草《たばこ》に火を点《つ》ける。
そういえば、身体《からだ》に悪いだの肺ガンになるなどと言って、煙草を止《や》めさせようとしていた母親が、最近はなにも言わない。
諦《あきら》めたのか、それとも無駄《むだ》だということに気づいたのか。
このままでは、どう〓《あが》いても、肺ガンで死ぬほど長生きできそうにない。
「……くそ……」
家に閉じ込められたと思うだけで、ひどく気分が落ち込んでゆく。
煙を長く吹き出した竜憲は、電話の呼び出し音に、眉《まゆ》を寄せた。
相手は男だ。
受話器を取らなくても、相手の性別ぐらいはわかる。奇妙な能力だとは思うが、幼い頃から勘《かん》だけは鋭《するど》いと言われていた。
三度でコールが切れる。
母親が取ったようだ。平日の昼間に電話連絡をしてくるような相手に、心当たりはない。おそらく、不況で見境《みさかい》がなくなった不動産屋が、手当たり次第にかけている電話だろう。
灰をクリスタルの灰皿に落とした竜憲は、思い切りよく煙を吸い込んだ。
唇《くちびる》の端から漏《も》れた煙が、奇妙な形を作る。
『……む…だぁ……じゃ……』
煙でできた唇が、たどたどしい言葉を吐《は》く。
彼の身体の中で眠る魔物《まもの》に、付き従う化け物達。何かの拍子に現れては、一言二言喋《しやべ》って、そのまま消えてゆく。
実害はない。むしろ、自分の心理状態を知る目安になっていた。
よほど落ちこんでいるのだろう。彼らは、精神活動が鈍化《どんか》した時だけ、現れるようだった。
『リョウちゃん。……姉崎《あねざき》くんからお電話よ』
目を剥《む》いた竜憲は、寝転がったまま電話に手を伸ばした。
憂鬱《ゆううつ》を加速してくれる人間が現れたようだ。この際、落ち込めるだけ落ち込めば、後は浮上するしかなくなるかもしれない。
煙草を捻《ね》じ消した竜憲は、受話器を引き寄せた。
その瞬間、ボードから電話機本体が落ちる。
慌《あわ》てて身体を引き起こし、本体を拾い上げた竜憲は、肩に受話器を挟《はさ》んだ。
「悪い……」
『何やってんだよ。騒々《そうぞう》しいな……』
不機嫌《ふきげん》そうな顔が、思い浮かぶ。
「悪い、悪い。……ちょっとボケててさ……」
口では謝《あやま》りながら、竜憲はにやにやと笑っていた。こんな些細《ささい》なことでも、大輔《だいすけ》を驚かせたと思うと、小気味《こきみ》がよい。
悪霊《あくりよう》だろうが、怨霊《おんりよう》、妖怪《ようかい》、それこそ魔物《まもの》であろうが、無意識のうちに排除してしまう悪友は、何かにつけて竜憲の弱みを握っていたのだ。
それを相手に知られたくないために、余計な努力を強《し》いられている。
「ところで、どうしたんだ? 大学なら、休学届けも出したし……」
『ああ……。そんなことじゃない。……実はだな……』
珍しいこともあったものだ。大輔が口ごもるなどということは、めったにない。
よほど言い難いことがあったか、そうでなければ余計な話を持ち込んできたか。二度と除霊、浄霊《じようれい》の類《たぐい》の話は持ち込まないと約束してから一月。約束を違《たが》えるにしても、時間が短いような気がする。
「どうした? はっきり言えよ。……生き別れの妹にでも手を出したか?」
『バカか……。そんなんじゃねえよ。……そうだな……。これから行っていいか?』
「何? そんなに話しづらいことか?」
『とにかく――家にいるんだろ?』
「ああ。しばらく、軟禁状態だ。何か、妙なものが出たそうだ。こっちもヒマをもてあましてるし、なんだったら適当にビデオでも借りてきてくれ」
生《なま》返事をした大輔が、そのまま電話を切る。
何があったのかは知らないが、大輔が真剣に困っていると思うと、それだけで気分がよくなった。
たとえ大地震の直中《ただなか》に放り出されても、涼《すず》しい顔で生還するような男だと思っていたのだ。
電話口で説明もできないほど狼狽《うろた》えることなど、想像もできなかったのである。
楽しげに笑った竜憲は、ソファーに座り直すと、新しい煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
ビデオ・テープが床に積み上げられている。その頂上には、煙草《たばこ》のカートン。
軟禁状態の捕虜《ほりよ》への差し入れだ、と言って大輔《だいすけ》が運び込んだものだ。
学食のコーヒーの一杯すらおごられた覚えのない竜憲《りようけん》は、不気味《ぶきみ》そうに差し入れの山を眺《なが》めていた。
妙に居心地《いごこち》が悪いのは、ベッドに腰を下ろしているせいだけではない。
借りて来た猫という表現がぴったりの大輔を見ているからだった。
「……あ、このビデオは、一週間サービスのヤツだから、そのうち取りにくる。外には出られねえんだろ?」
三流ホラーと言われる映画を十本まとめて借りるという暴挙に出た大輔は、ベッドに背中を預けてぼそぼそと喋《しやべ》っていた。
「で、何をしでかしたんだ? 俺に頼むようなことなんて、何もないんだろう」
「……ああ。実は……幽霊《ゆうれい》……」
「そんな話は二度と持ち込まないって言ったじゃないか。もう忘れたのか」
「違う。……そうじゃないんだ。誰かに頼まれたってんじゃない。……なあリョウ。お前、幽霊が見えるんだよな」
白目を剥《む》いて、天井《てんじよう》を見上げた竜憲は、そのままベッドに倒れ込んだ。膝《ひざ》から下をぶらぶらと揺《ゆ》らせて、せいぜい不快を表してやる。
高名な霊能者の才能溢れる息子が知り合いだといって、今までどれだけ話を持ちかけてきただろう。女と知り合うための、口実《こうじつ》だということも、時にはそれで商売をしていることも知っていた。
大輔本人は、超常現象などまったく信じない男だということも。
しかし、まさか幽霊を見られるという、基本的な能力を疑われているとは、思ってもいなかったのだ。
「じゃあ、どうして今まで話を持ち込んでたんだよ」
「気にするなよ。そうじゃなくてだな……。幽霊ってのは、どんなふうに見えるモンなんだ?」
ベッドに転《ころ》がったまま、竜憲は溜《た》め息《いき》を吐《は》いた。
霊魂《れいこん》や魔物《まもの》の存在を信じない大輔が、どうしてこんなことを聞くのか。おおよその見当はつく。
遠回しに、除霊の話を持ち出すつもりだろう。
「どうしたのさ? また妙な影でも見る女の子がいたってわけか?」
「……どんなふうに見えるんだ?」
からかうような問いは無視するということだろう。
なんといっても、そう簡単に白状する男ではない。
腕を振って、身体《からだ》を起き上がらせた竜憲は、大輔を見下ろした。
広い肩をすぼめるようにして座る男が、溜《た》め息《いき》を漏《も》らしているところを見ると、今回はいつもより手が込んでいるようだ。
「あんたが超常現象に興味を持つってほうが、よっぽど変だけど……。変なものをとにかく全部バケモノってことにするヤツもいるけどね。錯覚《さつかく》とか、思い込み、幻覚《げんかく》……言っていたらキリがない」
「お前はどういうふうに見えるんだ?」
「俺か? 俺は、普通だよ。普通の生き物と同じ。ちょっとばかり変わっているだけで、べつに半分透《す》けてたりはしないな。……人によっていろいろらしいが……」
「頼りにならねえ霊能者《れいのうしや》だな……。何か、法則みたいなものはないのか? 例えば、視界の隅《すみ》だと見えるが、焦点を合わせると見えない。そのくせ、横を見るとまたぼんやり見えるとかさ……」
眉《まゆ》を寄せた竜憲は、床に降りると大輔の横に腰を下ろした。
ゆっくりと目を眇《すが》めて、頭抜《ずぬ》けた体格の友人の横顔を見据《みす》える。
なにも変わったところはない。
今までどおり、珍しいほど何も連れていないのだ。
たいていの人間は、普通の物質ではないものを連れている。それは、人であったり、動物であったり、時には怨念《おんねん》と呼ぶしかないような、敵意だったりするのだが、大輔はみごとなほど本人だけだった。
「えらく具体的じゃないか」
途端に、大輔の眉が露骨《ろこつ》に顰《しか》められる。
吹き出しそうになるのを堪《こら》えながら、竜憲は少々躊躇《ためら》いがちに聞いた。
「ひょっとして、見たのか?」
大輔の渋面がますます顰められる。
「それがわからないから、お前に聞いているんだ。あれが幽霊《ゆうれい》だってんなら、えらく頼りないものだよな。……一応、眼科にも行って調べてもらったんだが、べつに異常はないらしい」
真っ先に、目の疾患《しつかん》を疑うあたりが、いかにも大輔らしい反応だ。
「で、それを見た感想は?」
「感想? ……ったって、あれがなんなのか、俺にはわからないんだ。実のところ、あんなものが見えるとは、想像もしていなかったしな……」
どうやら、からかい半分で聞いてよい話ではなさそうだ。
軽く咳払《せきばら》いした竜憲は、姿勢を正した。
「いつ、どういう状況だったんだ? なるべく詳《くわ》しく話してくれ」
「ああ……。三日前の夕方……」
三日の間悩んだ挙《あ》げ句《く》に、ここにやって来たというわけだ。その間の大輔の思考が手に取るようにわかって、竜憲は苦笑を浮かべた。
「何笑ってんだ」
「あ……ごめん」
慌《あわ》てて顔を引き締めた竜憲を、ぎろりと睨《にら》むと、大輔が説明を続ける。
「――三日前の夕方……五時近くだったな。……都内へ行ってたんだが……。いや、まだ神奈川《かながわ》だな。とにかく、東名《とうめい》の川崎《かわさき》より手前だ。事故渋滞《じゆうたい》で、えらい目にあってだな。全然動かないもんで半分寝てたんだ……」
ドライバーは松本《まつもと》だろう。女を運転手代わりに使うという、世間一般の常識から外《はず》れた男は、何よりドライブが好きだという女友達を、いいように使っていた。
「そしたら、ちらっと目の端を黒いものが走ったような気がして……」
「松本は? それに彼女は気がついたのか?」
「いや……何も」
言いながら、大輔は目を眇《すが》めた。
「……なんで知ってんだよ」
「あんたの運転手ったら、俺か松本しかいないじゃないの」
「そうか? ……ま、いいか。――とにかく、あいつは気づいていないと思う。前を気にしてたんじゃねえのか? いくらモーター・プールになってるったって、少しは動いてたんだから」
「ふーん……それで?」
「振り返ったら何もいなかった。……それなのに、前を向いたら、またいたんだ」
「どんな形で、どれぐらいの大きさ?」
「犬だな。中型犬。一瞬、真っ黒な犬かと思ったぐらいだ。どうして高速に犬がいるってね。誰かが逃がしたのかと思って振り返ったら……」
「何もいなかったってわけだ」
うなずいた大輔は、がっくりと肩を落とした。
自分の常識が根底から崩《くず》れる音を聞いているのかもしれない。この、頑固なまでの現実主義者は、自分の目だけは信じるのだ。
今までなら、無理にでも説明をつけただろうが、今回はそんな気にもならないらしい。
逆にいえば、それほどはっきりと見えたということだ。たしかに大輔にとっては、一大事なのだろう。なんといっても、見たかもしれないなどという言葉がこの男の口から漏《も》れただけでも、竜憲には大事件だった。
「なんだと思う?」
「なんだと言ってほしい?」
「冗談《じようだん》じゃないんだ。正直に答えてくれ。実際、あんな生物がいるはずがない。ろくに姿も見えないくせに、表情だけはわかるんだ。何を考えてるかもな……。俺の頭がどうかしちまったって言うんなら、そっちのほうがまだましだ」
超常現象などを信じるよりは、自分の正気を疑ったほうがよいというのだ。
めずらしい男もいたものだ。
相手の意思が感じられたと言うのなら、その存在を認めてやればいいようなものだが、それでもまだ錯覚《さつかく》という言葉に頼ろうとしていた。
「……なんだったら鴻《おおとり》さんに聞いてみるか?」
うっそりと顔を上げた大輔の顔が、引《ひ》きつってゆく。
自分が得体《えたい》の知れないものと遭遇してしまったのが、よほどショックだったのだろう。恐ろしく反応が鈍《にぶ》い。
呆《あき》れるという以前に、同情のほうが先に立つ。
「大輔。なにボケてんだよ」
軽く頭を叩《たた》いた竜憲は、大輔の顔を覗《のぞ》き込んだ。
記憶があるかぎり、子供の頃から幽霊《ゆうれい》や化け物と付き合っている竜憲には、大輔の反応は理解しがたいものである。
むしろ、それが見えない人間がいるというほうが、信じられなかった。
「おい、大輔……。どうすんのさ。鴻さんに相談する?」
「あ……ああ。そうだな。けど、お前は軟禁されてんだろう? だったら……」
「しっかりしてくれよ、大輔。鴻さんは、ずっと家にいるって言っただろ? 大道寺《だいどうじ》のお家乗っ取りとか言ったのは、あんたじゃないか」
「あれは冗談だよ……」
うんざりとした顔で立ち上がった竜憲は、大輔の腕を掴《つか》むと、頭ひとつ大きな男を引き上げた。
「俺は素人《しろうと》だからな。そんな話だけじゃ何もわからないよ。ほら、その道のプロに聞きたいんだろ? だから来たんじゃないのか?」
竜憲を見下ろした大輔が、とろりと笑う。
片目を痙攣《けいれん》させた竜憲は、大輔の腕を掴んだまま、部屋を出た。
“護符《ごふ》”と言ってよいほど魔《ま》を退《しりぞ》ける力を持った男に、存在を確認させたのであれば、そう甘く見ていい相手ではないに違いない。
濡《ぬ》れ縁《えん》に出て、庭を見渡した竜憲は、鴻を捜《さが》した。
神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の男の姿はない。
外に出ようとすれば飛んでくるのではないだろうか。
ちらりと脳裏《のうり》をよぎった考えに、悪戯《いたずら》っぽく笑った竜憲は、そのまま踵《きびす》を返して忠利《ただのり》の寝室に向かった。
あまり気は進まないが、話を聞くくらいなら、どうということもないはずだ。
相談相手を変えることは告げずに、竜憲は奥の部屋に行く。大輔は相変わらず気のりのしない顔で、竜憲に腕を引かれてついてきた。
「親父《おやじ》。……ちょっといいかな……」
襖《ふすま》に手をかける寸前、竜憲は眉《まゆ》を寄せた。
「親父?」
一気に引き開ける。
「親父!」
目をかっと見開いたまま、忠利は布団《ふとん》に横たわっていた。
その上に、白い靄《もや》がある。
「どうした……」
ようやく、人間らしい反応を取り戻した大輔が、竜憲の頭ごしに寝室を覗《のぞ》き込み、眉《まゆ》を寄せた。
彼にどう見えているのかはわからないが、異常なものを感じたのは確かである。続いて、大輔が口にした言葉は、ひどく彼らしいものだった。
「医者を……」
「しっ……。黙《だま》って。かあさんに言ってくれ。鴻さんを捜《さが》してくれって……。何があったかは、言わないで……」
「わかった。……おい、手……」
腕を掴《つか》む手を解《ほど》いた大輔は、音を立てて廊下《ろうか》を走っていった。
廊下に立ちつくしたまま忠利を見据《みす》える竜憲は、かすかに震《ふる》えていた。
生命に異常はない。規則正しい呼吸は、忠利自身が異常を感じていないことを教えてくれる。
しかし、両の目は見開かれたまま、瞬《まばた》きすらしていなかった。
病《や》んだ身体《からだ》の上に、覆《おお》いかぶさるように広がる靄《もや》にも、敵意はない。父親自身とは異質の存在だというのは確かだったが、ふわふわと漂《ただよ》う光の靄は、ただそこにいるのだ。
「……なんの用だ?」
声を潜《ひそ》めて、囁《ささや》くように問う。
相変わらず輪郭《りんかく》のはっきりしない靄は、ゆったりと浮かび上がると、天井《てんじよう》近くで凝縮《ぎようしゆく》しはじめた。
「……何を知らせたい? 親父《おやじ》は疲れているんだ。あんたの声を聞き取ることもできないだろう」
再び、靄となって広がったものは、忠利の身体《からだ》を押し包んだ。
途端に忠利の呼吸が荒くなる。
「やめろ……やめてくれ……。鴻がくる。俺に話せないのなら、奴《やつ》に伝えてくれ……」
言いながら、声が上ずるのがわかる。
何か恐ろしい予感がした。
「やめ……」
不意に靄が消える。
忠利の呼吸が元に戻り、見開いた目が、ゆっくりと竜憲に向けられた。
「どうした、竜憲……」
思いがけず、はっきりとした声がかけられる。
「あ……あ、親父。大丈夫《だいじようぶ》なのか?」
返事は訝《いぶか》しげな顔だった。
どうやら、当人は気づいていないらしい。
今の今まで、ここで起こっていたことを告げるべきなのか、一瞬迷った。
「いや。……そう、今、白い靄《もや》が親父《おやじ》の上に……」
同時に、妙なことを思い出す。
「そうだ。……あいつがいたのに消えなかった」
大輔はこの部屋を覗《のぞ》いたのだ。それなのに、あの白い靄は消えなかった。
ぼそぼそと呟《つぶや》いた竜憲の顔を、忠利は怪訝《けげん》な顔で見つめている。
大きく息をすることで自分を落ち着かせ、竜憲はできるかぎりゆったりとした動作で、父親の枕元に腰を下ろした。
「なんにも感じなかった?」
「いや……」
首を振った忠利は、静かに身体《からだ》を起こすと、竜憲をまっすぐに見つめた。
「何があった」
こうして見ていると、床《とこ》についていること自体が不思議《ふしぎ》だ。同年代の男には、こんな程度にくたびれた者はいくらでもいる。
もっとも、以前の忠利を知っている人間には、この変貌《へんぼう》は驚きだろう。つい、二月前とは比べものにならないほど老《ふ》け込んでいたし、顔色もけっしてよいとは言えない。何より、覇気《はき》がなかった。だからこそ、こうして静養しているのだが。
なんといっても、元の力を取り戻すには、安全な場所でひたすら眠ることが一番の早道なのである。
ぼんやりと父親の視線を受け止めながら、竜憲はどう説明すればよいのかを考えていた。隠しておいてもしかたのないことだったが、この状態の父親にわざわざ心配の種を与えることも躊躇《ためら》われる。
「それほど言い難いことか。……それならば、鴻を呼びなさい」
さすがに、普通のことではないと察してはいるらしい。
竜憲はごくりと唾《つば》を飲み下し、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべて見せた。
「う……うん。鴻さんはすぐに来るよ。もう呼んだ」
言葉を途切れさせた竜憲を眺《なが》める父親の視線が、ふいに険《けわ》しくなる。
しかたなく、竜憲は言葉を続けた。どちらにしても、鴻が現れれば喋《しやべ》ることなのだ。
「……親父の身体に白い煙《けむり》っちゅうか……靄っていうのかな。それがぼうっと包み込んでて。最初はなんでもなかった。だけど、最後にはすごく苦しそうだったんで……」
「ああ……それか……」
案に相違して、父親は事もなげに応じる。
思わず拍子抜けする。
「それか……って」
ぽかんと口を開いた竜憲を、忠利は半ば哀《あわ》れみの表情で見つめた。
「なんだよ。――そんなに変なこと言ったか?」
眉《まゆ》を寄せたまま、それでも小さく笑った忠利は、ゆっくりと身体《からだ》を起こした。
慌《あわ》てて、竜憲がその背を支える。
「そう心配したものでもない。ひどく眠いだけだからな……」
普段は、造反してばかりの息子が、素直に心配していることに、忠利は複雑な思いを抱いているようだった。苦く笑うと、布団《ふとん》の上に座り直す。
「あの、靄《もや》はいったい……」
「使いだ。向こうの連中の動向や、思惑《おもわく》を教えてくれる。もちろん、すべてではないがな。あまりいつまでも寝ているものだから、見に来たんだろう」
懐《なつ》いているペットのことのように言う。
害意がないかぎり彼らとは共存すべきだと、常々言っている忠利らしく、彼に懐いているものもいるのだろう。
「お前にも、いるはずだ。直感や、予感として言葉を届けてくれるものがな……。たしかに、力は具《そな》わっているだろうが、それまで自分の能力だとは思わないことだ。感謝を忘れると、犬猫でも離れてゆくものだぞ」
軽くうなずいた竜憲は、開け放たれたままの襖《ふすま》に目をやった。
鴻を捜《さが》すのに、手間取っているのか。
まだ姿を見せない大輔達を待って、竜憲は居心地《いごこち》悪そうに腰を動かしていた。
説教をくう時でもなければ、父親と二人きりになることなどない。子供の頃から、家を留守《るす》にしてばかりいる忠利と、真面目《まじめ》に話をした記憶もないのだ。
どこか他人行儀な感覚があるのも、そのせいだろう。
こうして、病《やまい》の床《とこ》にでもつかないかぎり、落ち着いて話などできないのも確かだが、いまさら話題を探すこともできなかった。
「遅《おそ》いな……大輔……」
ぽつりと呟《つぶや》いた竜憲に、忠利は眉《まゆ》を引き上げた。
「姉崎くんが来ているのか?」
「あ……ああ。何か、相談があるみたいで……。鴻さんに聞いてもらったほうがいいだろうし。それで、捜しに来たら……」
「使いに驚いたのだな。……まあよい。……しかし、姉崎くんが鴻に話とは……。何かあったのか?」
これこそ、忠利に話すべきではない。
大輔の特殊な能力を知っている忠利なら、黒い影の正体を探《さぐ》ろうとするだろう。話を聞くだけですまないことは、火を見るより明らかだった。
「知らないよ。俺が軟禁状態だって言ったら、困ってたみたいだし。また、ガールフレンドの友達が、猫の霊《れい》に取《と》り憑《つ》かれてるとか言いだしたんじゃないの?」
苦笑を浮かべた忠利は、慌《あわただ》しく近づいてくる足音に気づき、廊下《ろうか》に目を向けた。
「私は大丈夫《だいじようぶ》だ。お前は、姉崎くんの相談にのってやりなさい。……間違いもあるだろうが、そう決めつけるのは危険だ。今までにも、本当に除霊《じよれい》しなければならないこともあったではないか」
「だから、鴻さんを捜《さが》してたんだよ。俺は動けないからね……。第一、話だけで判断できるほど、あいつらのことを知っちゃいないし……。あ、大輔。悪いな。……俺の勘違いだったみたいだ……」
廊下に立った大輔は、息が荒い。
忠利の様子を見て、慌《あわ》てて鴻を捜してくれたのだろう。
片手を上げて詫《わ》びた竜憲は、ゆっくりと腰を上げた。
「すみません、鴻さん。お騒がせしました」
鴻のほうは、いつもと変わりがない。
忠利以上の力を持つという霊能者は、長い髪を乱しもせずに、穏《おだ》やかな笑みをたたえていた。
「……どうなさったのですか……」
「あれが、顔を見に来ていたようだ。それを、竜憲は化け物と思ったらしい。――すまんが、姉崎くんの話を聞いてやってくれんか。何やら相談したいことがあるらしい」
「はい……」
静かに、目礼した鴻は、大輔に視線を移した。
「ここでは話しづらいこともありましょう。道場へいらしてください」
わざわざ、鴻に相談することなど、ひとつしかない。
鴻のほうもわかっているようだ。
「では、先生。私は道場のほうにおりますので……」
ゆっくりとうなずいた忠利が、布団《ふとん》に横になった。
わずか十分。
それでも、身体《からだ》を起こしていると睡魔《すいま》に襲われるらしい。
しょぼしょぼと目を瞬《しばたた》かせた忠利を、痛ましげに見つめた竜憲は、掛け布団の肩口を押さえると、唇《くちびる》を引き結んだ。
白い靄《もや》に敵意がなかったのは確かだが、あれが父親の回復を遅《おく》らせているような気がする。目を見開き、全身を硬直させた状態が続いてよいはずがないのだ。
なんの話があるのか、他人にはわからないものなのかもしれないが、聞き届けてやらないかぎりいつまでもまつわりつくのだろう。
原因がわかりきっているのに、止める手段がないというのも、情けない話だ。
それも鴻に相談したほうがいいかもしれない。
「リョウ……」
「あ、わかった……。行くよ……」
眠ってしまったのだろう。穏《おだ》やかな息を繰り返す父親を見やった竜憲は、ためらいがちに立ち上がった。
「……姉崎《あねざき》くん。もう少し詳《くわ》しく話していただけませんか?」
板張りの道場で、ゆったりと正座をした鴻《おおとり》が、目を伏せたまま告げた。
大輔《だいすけ》と竜憲《りようけん》は、胡座《あぐら》をかいている。
祭壇もなければ蝋燭《ろうそく》もない。扉《とびら》こそ閉められていたが、明かり取りの格子窓《こうしまど》のほうは開け放たれ、特別な場であるという雰囲気はなかった。
武道の道場のようなものだ。浄霊《じようれい》を行う時のような、奇妙な威圧感は微塵《みじん》もない。
それだけに、ふたりは肩の力を抜いていた。
「詳しくも何も……。俺はろくに見えなかったわけだし……」
「表情と、感情がわかったと、おっしゃいましたね。どういうものでしたか」
「ああ、それ……。飢《う》えているって言えばいいのかな。ギスギスした感じで……」
言葉を途切れさせた大輔は、ひょいと肩をすくめた。
「一瞬だから、そんなものか」
「充分です」
微動だにしない鴻は、目を閉じたまま大輔を観察しているのだろう。
しかし、今の大輔に何も取《と》り憑《つ》いていないことは、竜憲にもわかっていた。
「姉崎くんが意識したということは、よほど強いものなんでしょう。けれども、害はないようです」
「そうじゃなくて……。本当に幽霊《ゆうれい》だと思うか、 ってことを聞きたいんだ」
大輔の関心はそこにしかない。
瞼《まぶた》を上げ、漆黒《しつこく》の瞳《ひとみ》を見せた鴻は、口元の笑みを深くした。
「幽霊や霊魂を信じないのでしょう。ならば、錯覚《さつかく》と思われればよいでしょう。通りすがりに見た人間が、実は殺人者でも、あなたには何も影響はないのですから」
「……はっきり言えば、説明がつかないのが、気に入らないんだ。リョウが連中と戦っていても、俺には何も見えなかった。本当にいるんだとしても、俺には見えないもんだとばかり思っていたんだ。……けど、あれがそうだとしたら、どうして……」
「あなたに見つかるのが怖《こわ》いのですよ。消されるかもしれないと思って……」
その言葉が納得できないのだろう。
あからさまに不満の表情を見せた大輔は、鼻を鳴らして唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
無理もない。
大輔は無意識のうちに魔《ま》を退《しりぞ》けているのだ。
無差別攻撃とでも言えばいいのか、相手に敵意があろうがなかろうが、普通の生命ではないものを、片端から消滅させる。
あまりにもその力が強いために、たいていのものはさっさと逃げ出した。
「はっきりさせたいと?」
「そうだ。いるならいるで、信じたほうがいいだろうし……。正体も知りたい」
「餓鬼《がき》でしょう。あなたの力に怯《おび》えないあたり、考えられるのはそれだけです」
簡単に断じた鴻は、視線を竜憲に移した。
「生きている人間に、さして影響はありません。しかし……この前の魔火《まび》の例もあります。もし、何か異常があるようでしたら……。いえ、すでに異常かもしれませんね……」
「人を襲うと?」
「可能性はあります。もし、姉崎くんの前に立てるほどの力を持っているとすれば……。恐ろしいことになるかもしれません」
言葉とは裏腹に、鴻の表情にはなんの緊迫感もない。
人の生死に無頓着《むとんちやく》な男なのだ。内心では何か感じているのかもしれないが、常に微笑を浮かべたような顔からは、何も読み取れなかった。
人間というより、妖怪《ようかい》に近いのかもしれない。
妙に整いすぎた顔は、人形のようにも見えるし、虹彩《こうさい》の見えない漆黒《しつこく》の瞳《ひとみ》も、その印象を強くする。一度静止すると、瞬《まばた》きすらほとんどしないのも不気味《ぶきみ》だった。
「幽霊《ゆうれい》を見たからって、大輔の力は変わっていないんだろう?」
「はい。……向こうが不注意だったと考えたほうがよいでしょう」
大輔には通じない会話だろうが、竜憲は敢《あ》えて解説してやる気にはならなかった。
そんなことより、父親のほうが気にかかる。
いちおう、大輔の話が片づいたなら、その話を持ち出す気だったのだ。
「では、私はこれで失礼いたします。そろそろ溝口《みぞぐち》さんが戻る頃ですので……」
一瞬口を開きかけた竜憲は、そのまま言葉を呑《の》み込んだ。
道場を管理する弟子。鴻より年長だが、いまだに内弟子として父親の補佐役を務めている。彼らが父親の不調を疑問に思わないはずがないのだ。
それならば、いまさら竜憲が口を出すことはなかった。
「ああ、それと……」
立ち上がりかけた鴻が、再び姿勢を正す。
「不穏《ふおん》な空気の正体も、今の話で見当がつきました。たしかめ次第、お伝えしますので、いましばらく、家からは……」
「わかったよ」
腰を上げた竜憲は、大輔に向かって顎《あご》をしゃくると、そのまま道場を後にした。
相変わらず鴻は苦手《にがて》だ。
大輔のほうは不信感を忘れてしまったようだが、どこを見ているのかもわからない漆黒の目で見据《みす》えられると、居心地《いごこち》が悪い。
他人の視線というものは、瞳の位置がわかって、初めて感じることができるようだ。光の加減で瞳が見えることはあっても、薄暗い道場で、ただの黒い丸でしかない目を向けられると、ひどく不安になった。
よく言われるように、目は心の窓である。
というよりは、瞳の位置が心の動きを教えてくれるものなのだ。
濃《こ》いサングラスをかけている相手と話しづらいのと同じように、鴻と向かい合うと、気後《きおく》れを感じる。向こうには、自分の心の動きがわかっているだろうと思うと、なおさらだった。
しかも、サングラスのような人工的な遮蔽《しやへい》ではなく、生まれついての力なのだ。
おそらく、忠利をして自分を凌駕《りようが》すると言わしめた能力の中には、その目も含まれているのだろう。
あの目に見据えられて平然としていられる人間など、そうそういないと断言できた。
「……おい、リョウ……。どうしたんだ?」
不安げな声が、背後からかけられる。
彼の疑問に対する答えを鴻は与えてくれたが、それは望んでいたものではないのだろう。
しかし、歩きながら話すような気分にはなれない。
「煙草《たばこ》が吸いたくないか?」
いい加減に応じた竜憲は、渡り廊下《ろうか》を通ると、まっすぐに自分の部屋に向かっていった。
第二章 三人寄れば……
鮮《あざ》やかな桃色の桜が、提灯《ちようちん》に照らし出されて闇《やみ》に浮かび上がっていた。
一段高くなった参道の両側に並ぶ桜は、背丈こそ小さいが、節くれ立った太い幹を持っている。だが、それにもかかわらず、枝を彩《いろど》る花はみごとなほど鮮やかな色だった。
「ジジむさくなくていいよね。あたし、ここの桜がいっちゃん好きなんだ」
潮風で焼けたと言い訳ができる程度に脱色した髪を、長く伸ばした少女が、楽しげに笑う。ソバージュの髪は、細かい三つ編みを解《と》いたものらしい。毛先にいくに従って、ウエーブがきつくなっていた。
「ジジむさいって……ここの桜って古いんでしょ?」
口を挟《はさ》んだ短めのボブ・カットの少女をちらりと睨《にら》み、少女は大袈裟《おおげさ》に肩をすくめて見せた。
「どーでもいいじゃん。キレイには違《ちが》いないんだから。……ねぇ、サコ」
同意を求められたポニーテールの少女が、くすりと笑う。
「何よりいいのは、酔っ払いがいないってことじゃない? 絡《から》まれることもないしさ」
そう言って、ポニーテールの毛先を揺《ゆ》らせる少女のほうは、漆黒《しつこく》の髪。革のツナギにライダー・ブーツというスタイルである。
「けど夜桜ってさ、なんか不気味《ぶきみ》じゃない? ほら、桜の木の下には死体が埋《う》まってるって言うしさ。それっぽいよ……」
「ばーか。そんなん信じてんの? 八幡様《はちまんさま》の前でどうやって埋めんのさ」
「だから、そんな気がするって言うだけだよ。なんか出そうじゃん? 人もあんまりいないしさ。ひとりで見ると桜って怖《こわ》くない?」
短いボブ・カットの少女は、頬《ほお》を膨《ふく》らませてソバージュの少女を見上げた。
「サコが感じないんなら、何もないって。ね、サコ」
問いかけられた沙弥子《さやこ》は、真剣な顔で周囲を見回した。
夜中過ぎだというのに、鶴岡《つるがおか》八幡宮の参道にはちらほらと人影がある。中には千鳥足の中年男もいたが、たいていは純粋に桜を楽しんでいた。
桜などそっちのけで、騒ぐことを目的にした連中がいないだけに、ここはひどく気持ちのいい空間だった。
「あ……そこ!」
途端に、二人は跳《と》び上がった。
肩を寄せあって沙弥子にすがるような目を向ける。
「提灯《ちようちん》が破れてる……」
「もう、サコ。何考えてのよ。びっくりすんじゃん。驚かせないでよぉ……」
ボブ・カットの少女のほうは、声も出せずに涙ぐんでいる。
「ヨーコの怖《こわ》がり。怪談好きなくせにすぐ泣いちゃうんだから……」
「だって……」
「あんたが変なこと言うからじゃない。死体があるとかさ……」
しきりと目をこする少女は、洟《はな》をすすりあげた。
「幽霊《ゆうれい》よか、あたしはあのオヤジがやだな」
視線で、真っ赤な顔をした中年男を示した沙弥子は、大袈裟《おおげさ》に顔を歪《ゆが》める。
「やだぁ。何あれ……」
「どうしてあんなのがいるのよぉ」
どこかで酒を飲んだ後、桜に引かれて現れたらしい男は、桜に向かって放尿《ほうによう》していた。
酒が入って周りが見えなくなったのか、そもそも恥という言葉を知らないのか。若い女にとって、その姿がどれほど醜悪《しゆうあく》なものかということなど、考えたこともないらしい。
「ちょっと、あのオヤジこっちに来るよ……」
「やだぁ……」
眉《まゆ》を寄せた少女達が、くるりと背を向けると、抑制《よくせい》のない大声が発せられた。
「こらぁ。若い娘がこんな時間に何してるんだぁ」
酒でがさついた声が、背筋が寒くなるほどの嫌悪感《けんおかん》を掻《か》き立てる。
「お前ら、ちょっとこっちへ来い。何を考えてんだ? あぁ?」
「テメエこそ何考えてんだよ。ジジイ!」
ソバージュの少女が叫ぶと同時に、三人は走り出した。
夜中に、こっそりと家を抜け出して桜を見るという、高校生達の可愛らしい冒険は、最低の終幕を迎えたようである。
参道の下に停めたバイクに駆《か》け寄ると、ヘルメットを取った。被《かぶ》るというよりは、頭にのせるだけの二人に対して、沙弥子だけがフルフェイスをきっちりと被る。
バイクも、中型のものだった。
「じゃ、後で電話するね」
「あ、ウチは今日はダメ。じゃ、明日ね」
「サコ。気ぃつけてね!」
「じゃ、ね」
けたたましい音を立て、恐ろしい勢いでミニ・バイクが飛び出してゆく。
エンジンをいたわるなどということは、考えたこともないのだろう。一人取り残された沙弥子は、周囲を見回しながら、エンジンを温めていた。
いつでも飛び出せるように、シートに跨《また》がったまま、苛々《いらいら》と待つ。
足元の定まらない中年男が、酔漢《すいかん》特有のしつこさで姿を見せた瞬間、沙弥子は体重を思い切りよく前にかけた。
センター・スタンドが跳《は》ね上がり、バイクは走り出した。
せっかくの花見は、酔っ払いのためにだいなしにされたが、沙弥子はひどく楽しげにバイクを操《あやつ》っている。
本当に久し振りに、親の目を盗《ぬす》んで外に出たのだ。
自由な空気というのは、それだけで気持ちがよかった。
自宅に向かう道筋も、時間が時間なだけに、がらがらにすいている。それだけでも、解放感を味わえた。
遥《はる》か前方の信号が黄色に変わる。
遅《おく》れて、手前の信号も黄色になり、沙弥子はスピードを緩《ゆる》めた。
せり合う相手もいないのに、信号を突破する気にはならない。何より、街路樹の下に走り込んだ影が気にかかったのだ。
「猫……かな……」
新聞紙やビニール袋といったごみが風にあおられて、動物に見えることがある。
不安定なバイクにとっては、犬や猫はもちろん、ビニール袋でも命取りになりかねない。もちろん、生き物を撥《は》ねるのは、もっと嫌《いや》だった。
「……やだな……。出てこないでよ……」
半年ほど前に、危《あや》うく子猫を撥ねそうになったことを思い出す。幹線道路沿いに棲《す》む犬猫は、車道に飛び出すような真似《まね》はしないものだが、子猫のうちはよく事故にあうのだ。
スーパーのビニール袋だと信じていた塊《かたまり》は、白い猫だったのである。
そして、信号が変わると同時に、飛び出したのだ。
猫にしてみれば、車が停まったのを確認していたのだろうが、最悪のタイミングを選んだことになった。
危うく、バイクは停めたものの、その一瞬の衝撃は、いつ思い出しても、気持ちのいいものではない。それこそ、心臓が咽喉《の ど》まで迫《せ》り上がるとは、あのことだ。
「やだからねぇ……」
慎重にクラッチを繋《つな》ぎ、そろそろと出る。
と、再び影が動いた。
撥ねる心配はないのだが、沙弥子はバイクを停めた。
「……まさか……」
黒い塊《かたまり》と見えたものは、髪の毛だった。
人間の、しかも若い女の顔が上を向き、髪の毛で歩いている。
「ひ……」
獣《けもの》の四肢のように、四つの束《たば》になった髪が交互に動き、街路樹の陰から這《は》い出たのだ。
と、それが木に登る。
沙弥子は、一気にアクセルを開けた。
後も見ずにスピードを上げ、シフトアップしていく。タコメーターが、踊るように跳《は》ねていた。
信号が青に変わりかけている。
視界の隅《すみ》に突っ込んでくる車の影が見えた。
息を飲み、スロットルを少し緩《ゆる》める。
どうせ停まれない。何より、ここで停まると殺される、そんな予感がした。
大きく車体を傾けて、車の後ろを擦《す》り抜け、立て直す。
転倒しなかったのが不思議《ふしぎ》だ。判断と身体《からだ》の反応が、みごとに連動している。火事場の馬鹿《ばか》力とでも言うべきか。
総毛立っているのがわかった。
緩いカーブを回り、その先の信号が、自分の家に続く道だ。
ここまで来れば。
スピードを落とそうとした瞬間、背筋に悪寒《おかん》が走る。
視界に赤信号が、飛び込んで来た。
二速まで一気に落とし、タイヤが鳴くのも構わず、無理やりに曲がる。石畳の坂道を二速のまま駆《か》け上がり、大きな構えの門に辿《たど》り着くと、捨てるようにバイクを放り出して、門の内に飛び込んだ。
門戸を閉める。
そこで、ようやく我に返った。
異常なほどの緊迫感と、強迫観念が嘘《うそ》のように消えている。
大きく息を吐《は》いた沙弥子は、ゆっくりと門を見上げた。
正面の門の脇に、小さな通用門がある。出ていったのはこの門だ。今自分が飛び込んできた門は、太い閂《かんぬき》がかかっていたはず。
「変だな……」
ぼそりと呟《つぶや》いた沙弥子は、門の向こうの気配をうかがった。
何も聞こえない。
急に放り出したバイクのことが気になり始める。といって、今すぐ出て行く勇気はなかった。
「沙弥子!」
突然、背中から怒鳴《どな》りつけられる。
びくりと背をすくめた沙弥子は、恐る恐る振り向いた。
「何してたんだ!? こんな夜中に!」
父親と母親が、揃《そろ》ってお出迎えだ。
「……ちょっと……花見に……」
ぼそぼそと言い訳した彼女は、ちらりと母親を盗み見た。
「お父さん……とにかく中へ……」
むっと顔を顰《しか》めた父親に、沙弥子は心の中で舌《した》を出した。母親は助け船を出してくれそうだ。
「まったく! こんな夜中にとんでもない音で走りおって! どうしたんだ、バイクは!」
「え……外……」
「事故か!?」
父親の顔がますます険《けわ》しくなる。
「そうなの? ……怪我《けが》は?」
「あ……。ちょっと……膝《ひざ》……」
咄嗟《とつさ》に答える。嘘だったが、この場を切り抜けるにはちょうどよい口実だった。
「なんだと……」
「大丈夫《だいじようぶ》なの? ……お父さん。中に入りましょう」
母親の言葉を無視するように、門の扉《とびら》を開けた父親は、顔を顰《しか》めて周囲を見渡した。
無言のまま、転倒したバイクに歩み寄る。
一瞬、息を飲んだ沙弥子は、そろそろと門を出た。何もいないようだ。追われていると思ったのは気のせいだったのだろうか。
沙弥子は密《ひそ》かに息を吐《は》き、バイクを起こす父親に手を貸した。
「……見間違いじゃないのか?」
途端にけたたましい声が返ってくる。
『あたしが寝惚《ねぼ》けてたとでも言いたいの! バイクに乗ってたのよ! ――おかげでクラッチレバーは折れるわ、カウルは傷ついっちゃうわ。サイテーなんだから!』
「わかったよ。わかったから、怒鳴《どな》るなって……」
『怒鳴ってないじゃない!』
しっかり怒鳴っている。が、それ以上は突っ込まずに、竜憲《りようけん》は話題を元に戻した。
「でもな……。生首《なまくび》が髪の毛で歩いてたなんて……コメディ・ホラーじゃないか」
『わかってる……けど、ほんとに見たんだもん』
今度は涙声だ。
天井《てんじよう》を見上げ、密《ひそ》かに息を吐《は》いた竜憲は、ごろりとベッドに転《ころ》がった。
信用しないわけではないのだが、想像がつかないのだ。それが何かと問われても、答えようがない。
真剣なことがわかるだけに、始末《しまつ》が悪いのである。
「だからさ、そう見えたっていうのはわかるけど……それだけじゃ、なんだか全然わからないだろ?」
『そんなこと言ったって……』
「ほかになんかないのか? なんだっていいんだ。音とか……」
ちょうどその時、キャッチ・ホンが入る。
電話を切る口実と思われたくない。口に出そうかと迷っているうちに、沙弥子《さやこ》のほうから切り出した。
『……リョウちゃん……キャッチじゃない?』
「ん……うん。そうだけど……」
『いいわよ。後でまた電話するから』
「でも……」
キャッチ・ホンはまだ、呼び出している。よほどしつこいのか、重要な用件なのか。どうやらこちらが出るまで切る気はないらしい。
『いいって。……ちゃんと答えが出ないと気持ち悪いもん。なんならこれからそっちに行く。いい?』
「いいって……いいけど。バイクはやめとけよ」
『……馬鹿《ばか》ねぇ……あたしがどっから電話してっと思ってんの? 学校よ。バイクのわけないじゃん』
「……あ、そう」
背後で聞こえる微《かす》かなざわめきの意味が、ようやく理解できる。要は、学校帰りに相談に寄るという内容だったのだろう。
なんのことはない。用件を告げて、さっさと切りたかったのは沙弥子のほうだというわけだ。妙に回りくどいことになったのは、自分が相談されるのを渋《しぶ》ったからに違いない。
『じゃ。後でね』
手荒く通話を切られ、顔を顰《しか》めた竜憲は、しぶしぶと相手を切り替えた。
「はい……」
『何やってんだ。聞こえてたんだろ』
返ってきたのは、大輔《だいすけ》の不満たらたらの声。
つい、反射的に怒鳴《どな》り返す。
「うるさいな。……これはあんたのための電話じゃないんだからな! キャッチが入ったからって、簡単に切れる相手と……そうじゃな……」
『ああ、悪かった。急いでたんだ。……テレビつけろよ』
「あ……ん?」
『いいから、テレビ。……チャンネルは……』
言われるままに、テレビをつけ、チャンネルを合わせる。
画面は夕方のニュースだった。どうやら、何かの事件か事故らしい。画面の中に鑑識調査をしている制服の男達が映し出されていた。
起き上がり、テレビのボリュームを上げる。
途中から見たせいか、映像の解説を聞いていても、要領を得ない。
「なんだよ。これが……」
『殺されたのは浜田《はまだ》だ。見て見ろよ。……車が映ってんだろう』
「え?」
『ブルーのロードスター。……浜田んだろう』
言われてみれば見覚えのある車が、画面の隅《すみ》にある。
大学で同期の男のものと同じ車だ。それほど親しいわけではないが、知人というよりは、友人の部類に入る。それだけに、大輔の言葉は妙に実感がなかった。
「でも、いくらでも走って……」
見ているうちに、ひどく気分が悪くなった。映像としておかしなものではない。事件現場の映像の中では、インパクトのあるものには入らないだろう。
だが、胃が締めつけられるようで、気分が悪い。挙《あ》げ句《く》に頭痛までし始めた。
『馬鹿《ばか》だな……。最初に名前が出たんだよ。お前にもわかりやすいように言ってやったんじゃないか』
大輔の声が妙な具合に頭の中に響く。
「……そりゃどうも……」
曖昧《あいまい》に答えるあいだに、画面はスタジオに切り替わり、話題もほかのニュースになった。
と、同時にすっと気分がよくなる。
あの映像のせいだろうか。
ほかのチャンネルに切り替え、同じニュースを探したが、すでにどこも違うニュースを扱っている。
確かめようがなくなって、竜憲は大輔との会話に意識を引き戻した。
「人違いってことは?」
『ないんじゃないか? 死体の持ってた免許証からわかったってんだから』
「ふーん……」
『なに、気のない返事してんだよ』
「べつにそういうわけじゃ……。事故じゃないのか?」
画面を思い出しながら、あてずっぽうに聞いてみる。
途端に、呆《あき》れ声の返事が返ってきた。
『聞いただろ? 殺人事件として調査を進めてる……って。それに、ありゃ霊園の中だぜ。事故ってこたあなかろう?』
「……大輔」
『なんだ?』
「俺は途中から見てて、全然内容がわかってないんだが……」
『明日の新聞に少しは詳《くわ》しく出るんじゃないか。かなり、ひどい死体みたいだったぜ』
「ひどい死体?」
『そうだ。何せニュースだからな。はっきりとは言わなかったが、身体《からだ》じゅう傷だらけで、腕がなかったと。……それで俺は気になってさ』
「何が?」
『鴻《おおとり》の言ったこと……』
「え?」
どうも言葉の意味が飲み込めない。ところが、竜憲の反応を無視して、大輔は言葉を続けた。
『お前さぁ。あのニュース見て何か感じなかったか?』
「何かって……」
『例の妙な予感てやつをだよ』
瞬間、竜憲は絶句した。
さっきの感覚を思い出したのだ。言われてみれば、あれも大輔の言う妙な予感のうちなのかもしれない。
『おい、リョウ。聞いてんのか?』
「聞いてるよ」
応じながら、竜憲は別のことを考えていた。
鴻が大輔に言ったことと言えば、餓鬼《がき》がどうした、とかいう内容だったはずだ。それと友人の死とがどう関《かか》わるのか。
自分が惚《ほう》けているのか、想像力が足りないのか、どうも大輔の言葉の意味が把握《はあく》できない。
「餓鬼……か……」
口の中で呟《つぶや》くと、途端に大輔ががなりたてた。
『なんだ? なんて言った?』
「うるさいな……。あんた声がデカいんだから、少しは考えろよ」
『悪かったな。……で、なんなんだ』
息を吐《は》いた竜憲は、テレビのボリュームを下げると、床に座り込み、ベッドに背を預けた。
「鴻さんの言ってたことって、餓鬼が見えたとかいうやつか?」
『そうだよ。それ以外に何がある?』
恐ろしく断定的な言葉に、竜憲は眉《まゆ》を寄せた。
あの大輔が餓鬼が気になると言う。
現実に起こった事件などより、よほど興味深い事件だ。
「あんたさぁ。……この頃、ちょっと変じゃない?」
ついつい、憎《にく》まれ口が飛び出す。
一瞬の沈黙の後、大輔はぼそぼそと言い訳を始めた。
『……わかってるさ。しかしだな。――ついこの間もあっただろう? 首のない女の死体の話。犬かなんかに食《く》い荒らされてたらしいぜ。それに、今度は浜田が、腕のない死体になってんだぞ。しかも、傷だらけ。……餓鬼っていえば、死体を食い荒らす化けモンじゃないか。やっぱり、気になるぞ、絶対』
よくある餓鬼の描かれた図を思い浮かべて、朧《おぼろ》げながら大輔の考えていることが想像できた。
だが、最初の例題は竜憲の知らないものだ。そのせいか、どうもぴんとこない。
「なんだよ。その首のない死体って……」
『知らんのか? ニュースくらいちゃんと見ろよな。どうせ一日じゅう、家でごろごろしてんだろう? 先週なんかワイド・ショーでもずいぶんやってたぜ。……深夜の住宅街の恐怖……ってとこだな』
「知らないぞ。どこでだよ。……近所なのか?」
『横浜《よこはま》の田舎《いなか》』
横浜郊外の新興住宅地での事件ということか。自分が鎌倉《かまくら》の田舎に住んでいることを棚《たな》に上げて、よく言うものだ。
「横浜の田舎……ね。それと、浜田のこととどう繋《つな》がるんだよ。共通点は身体《からだ》の一部がないってことか?」
言いながら、事態の異常さを急に認識する。
死体の一部の消える殺人事件が、そうそうあるわけがない。もっとも、それと餓鬼とを関連づけることに承服《しようふく》できないのは同じだが。
返答がないのを幸いに、畳《たたみ》かけるように言葉を繋ぐ。
「……考えてみろよ。死体を食い荒らすならともかく、生きてる人間が……」
ふと、妙な考えが頭を過《よぎ》る。
「死んでから、手や首が取られたのかな……」
『そこまでは知らん』
「なんだよ……それ」
『考えてもみろよ。そんな細かいことを報道するか?』
「まぁな」
言われてみれば、そのとおり。
『どうだ? 気になる事件と思うだろう』
そう断定されても困るのだが、普通の事件だと言い切ることもできない。
「そりゃあ、変とは思うけど……」
『だろう? どうやら、少しは俺の話を聞く気になったようだな』
得意げな口調《くちよう》に、竜憲はうんざりと顔を顰《しか》めた。
これがテレビ電話でないことが、幸運なのか不幸なのか。こんな顔をしていると知ったら、話がますますくどくなるかもしれないし、あっさり引き下がる可能性もある。
後者については、まず可能性はないが。
『お前、まだ家から出られんのか?』
唐突に話題が飛ぶ。
「なにぃ」
『その様子じゃ無理だな。わかった。俺が行く』
「何しに?」
『決まってんだろう? ……じゃあな』
「サコが……」
何を言う間もなく、電話が切られる。
「馬鹿《ばか》野郎!」
腹癒《はらい》せに受話器を怒鳴《どな》り据《す》え、切る。
が、思い返すと、大輔の電話番号を押す。
数度のコールの後に、留守番電話のテープに切り替わった。
『ただいま留守に……』
「大輔! まだいるんだろう! 明日にしろ! 明日に!」
叫んだところで、テープの声はメッセージを言い続ける。
無視する気なのか、本当に留守なのか。どこかほかの場所でテレビを見ていた可能性も充分にある。
しかたなく電話を切った竜憲は、立ち上がり、扉《とびら》を押し開けて、大声で母親を呼んだ。
「かあさん! かあさん!」
しばらくして、母親が廊下《ろうか》の向こうに顔を出す。
「何よ。リョウちゃん……。そんな大声出して……」
「サコと大輔がくるから……」
「これから? じゃあ、晩ご飯食べて行くかしら……」
「たぶんね。悪いけど、二人分ふやしといてよ」
「はいはい。……それだけ?」
「うん」
母親の顔が引っ込む。
息を吐《は》いた竜憲は、ベッドの上に戻った。
沙弥子も大輔も、話を持ちかけられる自分の都合《つごう》など、何も考えていないのだ。たしかに、暇《ひま》を持て余しているのは事実だが、どちらの話も気分転換になるような代物《しろもの》ではない。
何しろ、バラバラ死体の話と、歩く首の話なのだ。
そのうえ、二人の話を同時に聞くことになりそうなのである。
「参ったなぁ……」
呟《つぶや》いて、天井《てんじよう》を振り仰《あお》ぐ。
沙弥子の話はともかく、大輔の話が妙にひっかかり始めていた。友人の死が絡《から》んでいるせいかもしれない。
「浜田がねぇ……」
竜憲にとっては、ニュースの画面に映っていた車が、唯一《ゆいいつ》の現実だ。それでも、大輔のつまらぬ想像のせいで、実感の薄かった友人の死が、少しは現実みを帯びて来た。
誰かに確かめてみるべきなのだろうか。
しかし、大輔は確信もなく、そんなことを言ってくる男ではない。
『……寂《さび》しい……悲しい……』
突然に妙な声が頭の中に響く。
「うるさい!」
声は甲高《かんだか》い笑い声に変わって、遠退《とおの》いていった。
これだから、嫌《いや》なのだ。
感情の起伏が、すぐに影響する。
がばと起き上がった竜憲は、ぼそぼそと喋《しやべ》るテレビのボリュームを上げた。
応接間のセンター・テーブルを挟《はさ》んで、二人の真摯《しんし》な目に曝《さら》された竜憲《りようけん》は、押し黙《だま》ったまま、中央のクリスタルの灰皿を睨《にら》んでいた。
別々に捌《さば》いてやろうと目論《もくろ》んでいた竜憲の思惑《おもわく》を裏切って、どういうタイミングか、駅で会ったという二人が揃《そろ》って現れたのが、つい五分ほど前。
どちらも切り出しにくいのか、あるいはここへの道々密約ができているのか、竜憲が口を開くのを待っている。
と、小さく扉《とびら》がノックされた。
「リョウちゃん……」
「はい」
誰より先に立ち上がった沙弥子《さやこ》が、扉を開ける。
「あら、サコちゃん。お願いするわね。いいかしら……」
湯飲みと茶菓子の鉢《はち》ののった盆を沙弥子に手渡した真紀子《まきこ》は、戸惑《とまど》い気味に、応接間を覗《のぞ》き込んだ。
「……リョウちゃん……ご飯の用意はしてあるから、食べる時には言ってちょうだいね」
目を見開いた沙弥子が口籠《くちごも》る。
「え……でも」
「おうちには連絡しておくから」
反論はさせず、それだけ言い残して、母親は扉を閉めて消える。
首をすくめた沙弥子が、盆をテーブルに置くと、大輔《だいすけ》が不意にぼそりと感想を述べる。
「ほんと……おふくろさんだけ見てたら、ここも普通のうちだよな」
「やだなぁ、先輩。それじゃ、ほかが普通じゃないみたいじゃない」
「普通だと思うか?」
「そうねぇ……」
苦笑を浮かべた沙弥子と、表情も変えない大輔を、ちらりと見上げた竜憲は、小さく咳払《せきばら》いをした。
「普通じゃない相談を持ち込む奴《やつ》もいるしな」
二人が二人とも、少しばかりむっとした表情になる。
竜憲は鼻先で笑って、盆に手を伸ばし、自分の湯飲みを取った。ささやかな当《あ》て擦《こす》りというところだ。
仮にも女の沙弥子がいれば、大輔はがなり立てはしないだろうし、沙弥子は沙弥子で大輔がいれば癇癪《かんしやく》を起こさないだろう。そんな沙弥子の反応については、少々腹立たしいが、事実なのだからしかたがない。
「言っとくけどな。俺は修行が足りないんで、家に閉じ込められてる身分なんだからな。役に立てるとは言えないぞ」
皮肉たっぷりに、宣言する。
すると、沙弥子と大輔は、互いの顔を見合わせうなずき合った。
意味もなくむっとする。
それをどう取ったのか知らないが、片眉《かたまゆ》を引き上げた大輔はソファーの背に身体《からだ》を預け、ゆったりと足を組んだ。
「律泉《りつせん》……お前が先に話せ。先約らしいからな」
「いいんですか。……じゃあ」
どう見ても、白々しいやり取りだ。どうやら、密約が結ばれていると思ったほうがいいらしい。
だが、ここは大人《おとな》になることにして、沙弥子に先を促《うなが》した。
沙弥子は心持ち身を乗り出して、切り出した。
「電話でも話したとおりなんだけど……」
詳《くわ》しい内容は聞いていないらしい。沙弥子の話が進むにつれて、大輔の表情が険《けわ》しくなっていった。
「……あとはもう、後ろも見ずに逃げ出したんだけど……。追っかけられてるような気がして。気だけかもしんないけど……」
「どうしてそんなゴミが気になったんだ?」
茶をすすりながら、竜憲が疑問を口にする。
「だって、猫とかだったら嫌《いや》じゃない……」
ぷっと頬《ほお》を膨《ふく》らませた沙弥子は、制服のスカートの襞《ひだ》を膝《ひざ》の上で整えていた。手持ち無沙汰を解消する、いい暇潰《ひまつぶ》しというところだろうか。
煎餅《せんべい》と羊羮《ようかん》ののった菓子鉢《ばち》には手を出す気もないらしい。
「夜中だろう? しかも黒いって言ったよね。普通気がつかないんじゃないのか? 何かを感じたからそっちを見たんじゃないの?」
唇《くちびる》を尖《とが》らせて、目線を宙にさまよわせた沙弥子は、ちらりと首を傾《かし》げた。
「覚えてない。……何かあったんなら、見たりしないで逃げたと思うけど。わざわざ確かめるのなんかヤじゃない? うん。変だったら、さっさと逃げたよ」
人一倍霊感が強いだけに、確かめようなどと考えないのだ。本物かどうか、などと考えるより前に、身体《からだ》が動いてしまうというところか。
普通の亡霊だの地縛霊《じばくれい》だのという連中なら、ここまで派手《はで》な反応はしないだろう。悪戯《いたずら》な連中に、からかわれたということではなさそうだった。
「わかった。……じゃあ、次は大輔。あんただ……」
「え? 律泉の話は……」
「話したいんだろ。何か関係があると思ってんじゃないの?」
頬を引きつらせた大輔は、背中を丸めて前屈《かが》みになると、煎餅を拾い上げた。個別包装のセロハンを破り、海苔《の り》を剥《は》がす。
よほど神経質になっているのだろう。たとえ後輩としか思っていない相手だろうが、女が前にいると格好をつける男が、海苔と煎餅を別にして食べるという、ひどく子供っぽい癖《くせ》を、そのまま見せていた。
「律泉。お前は知ってるか? 先週、バラバラ殺人事件ってのがあったんだが……」
「あ、横浜のどっかで……。知ってるよ。首だけがなかったって……。まさか、先輩、その首をあたしが見たって……」
煎餅を音高く噛《か》み砕《くだ》き、茶で流し込む。
どう説明すればいいのか、大輔のほうもためらっているようだ。
やがて、覚悟《かくご》を決めたかのようにポケットに手を突っ込み、メモを取り出した。
「けっこう美人なんだよな。新聞の写真だと。……この顔……」
大男のメモ魔《ま》は、新聞の切り抜きまで持ち歩いているらしい。あるいは、ここで話すためにどこかから調達してきたか。どちらにしても、それくらい用意周到《よういしゆうとう》な男であることには変わりがない。
「リョウちゃん……。はい」
メモを竜憲に回した沙弥子は、写真の顔には見覚えがないようだった。
「どうなんだ律泉。その顔じゃなかったか?」
「髪が長いのは同じだけど。顔なんて見てる余裕はなかったから……」
「そりゃそうだ……」
どさりとソファーに身体《からだ》を預けた大輔は、まだ新聞の切り抜きを見つめている竜憲に、眇《すが》めた目を向けた。
何か反応するかもしれないと思った沙弥子が、あっさりと無視して、竜憲のほうが興味を引かれている。興味深げに竜憲を観察する大輔は、再び煎餅に手を伸ばした。
「これが美人か?」
「あ?」
しげしげと眺《なが》めていると思えば、とんでもないことを考えていたらしい。
「どうしてだよ。美人じゃないか。そりゃ、絶世の、とは言わないが……」
「憑《つ》かれやすいよ。なぁサコ」
「ん……。そうだね。犬とか猫とかでもひっつけるかもね。本人が感じるかどうか、わかんないけど。でも、あたしが見た首は、派手な化粧をしていたよ。唇《くちびる》なんか真っ赤で……。それしか見えてなかったんだけど……」
一回りして返って来たメモを手にした大輔は、あらためて写真に目をやった。
新聞特有の、荒い写真では細かい部分はわからないが、全体から受ける印象は、おとなしい美人というところだ。さらに言うならば、化粧もしていない。
唇の輪郭《りんかく》ははっきりしていないし、額《ひたい》を隠す髪型も、生命力を削《そ》ぐ効果となっている。
「そうだよな。……化粧で女はバケルから……」
「でしょ? で、姉崎《あねざき》先輩の話ってこれですか? なんか、すっごいショックなことって言ってましたよね」
事前協議があったことを、沙弥子が白状する。
ちらりと笑った竜憲は、眉《まゆ》をそびやかせて大輔を見据《みす》えた。
海苔《の り》を剥《は》がして、ちまちまと口に運ぶ大輔は、沙弥子の言葉など無視するつもりらしい。この世の食い物で海苔が一番の好物だと言い切る男は、残りの煎餅を一口で片づけてしまった。
「まぁ、ショックちゅうか……。お前、浜田って覚えてるか? たしか、学祭の時に会ったと思うが……」
「あの、自動車部の人?」
「そう」
「ブルーのロードスターで送ってくれるって言ったのに、マキを乗せてったのよ。2シーターなのに、二人に声をかけちゃってさ……。いいかげんなの。その浜田さん?」
「そう」
よほど腹が立ったのか、沙弥子は一度会っただけの男のことを、よく覚えていた。
「……で、その浜田が殺されたんだ」
目を見開いた沙弥子は、そのまま視線を竜憲に転じた。
唇《くちびる》がわななき、膝《ひざ》の上の手が、落ち着きなく指を絡《から》ませていた。
「まさか、首が……」
「いや。腕だそうだ。ぼろぼろになった死体が、車の中にあって、腕がなかったらしい」
ひょいと肩をすくめた大輔は、メモをセンター・テーブルにのせた。
開かれたままのページには、今日の日付と浜田という文字が書き込まれている。何事によらずメモを取る男は、日記の代わりにもしているのだろう。
前のページには、休講にした教授の名前を書き込んでいた。
「俺もリョウも、さっきテレビで見ただけだから、詳《くわ》しい話はわからないんだが……。妙だと思わないか?」
「まさか、今度は顔に手が生《は》えたのが、うろうろしてるとか……」
「そうじゃない」
呆《あき》れたように、悲鳴に近い声を上げた大輔は、湯飲みをひっ掴《つか》んだ。
咳《せき》を抑《おさ》えながら、茶を飲み下す。
腹が減っているのか、やたらと煎餅に手を伸ばしていただけに、口の中が乾いていたのだろう。
「身体《からだ》の一部を持って行くっていう殺し方のことだ。どこかで殺しておいて、バラバラにして捨てるってんならわかるよ。一個まるごとじゃ、運ぶのも大変だろうし……。けどな。殺したその場から、部品を持って行くってのは、変じゃないか?」
そう親しくないとはいえ、仮にも友人の話をしているのに、大輔はひどく冷静だった。
もっとも、知り合いだからこそ、機械的な処理をしないと、話が生臭《なまぐさ》すぎる。部品と言ってしまうと、首や腕がない死体というものの不気味《ぶきみ》さが薄れていた。
「律泉が見た頭ってのも気になるしな。なあリョウ。化け物に食《く》われると、化け物になるってことはないのか?」
つい先日まで、超常現象など、想像力過多の人間の妄想《もうそう》だと言い切っていた男は、突然、魑魅魍魎《ちみもうりよう》が跋扈《ばつこ》する世界に紛《まぎ》れ込んだようだった。
人間のやることにも、想像外のものがある。
クラクションを鳴らされただけで相手を殺す者や、死体を挽《ひ》き肉機《にくき》にかけるような人間も、現実に存在するのだ。首や腕だけを捨てようとする人間もいるかもしれなかった。
「あんたさ。餓鬼《がき》じゃないかって思ってんだろ? 餓鬼が死体を食《く》う絵とかってのはたしかにあるけど、食われた手足はどこへ行くんだよ」
竜憲は大輔を眺《なが》め、大仰《おおぎよう》に肩をすくめると、呆《あき》れ顔でつけ足した。
「……ないない。馬鹿《ばか》な話はいい加減にしてくれ」
唇《くちびる》をへの字に曲げた竜憲は、ソファーの背に両腕をかけた。
確かに、浜田の車がテレビに映し出された時、奇妙な感覚はあったし、この世のものではない何かが関《かか》わっている可能性はある。
しかし、化け物に食いちぎられた部品が、勝手に動くことより、化け物に操《あやつ》られた人間が、常識外の行動を取ったと考えたほうが、説明は簡単だった。
「だったら、律泉が見たのはなんだ? まさか錯覚《さつかく》とか言うんじゃないだろうな」
「言うだろうな」
「そんな……リョウちゃん」
慌《あわ》てて、口を挟《はさ》もうとする沙弥子を、竜憲が片手で制する。
「今までのあんたなら、絶対に錯覚と決めつけるだろう? どうしちゃったんだよ。何があった? 犬みたいな影を見た。それだけだろう? それ以外に何かあったとでも言うのか」
一瞬、むっと唇を引き結んだ大輔は、胸ポケットから煙草《たばこ》を引き出した。
超常現象を疑ってなどいない。
特に、一瞬にして緑青《ろくしよう》だらけになった鏡を見てからは、そういうこともあるのだ、と自分を納得させていた。
ただし、幽霊《ゆうれい》だの化け物だのというものは、自分には見えないと思っていたのだ。
竜憲がなにやら恐ろしげな妖怪《ようかい》と戦っていても、見えるのは土埃《つちぼこり》だけ。あくまでも普通の物質化したものだけが見えると思っていた大輔は、奇妙な影の存在に衝撃を覚えたのだ。
しかし、律泉の倉から取り出した鏡が一瞬にして変化したことは、竜憲には話していない。
喋《しやべ》ってもいいようなものだが、なぜか口にする気にはなれなかったのである。
それだけに、納得させる説明は難しい。
「……現金で悪かったな。だが、あれは錯覚だとは思わない」
そう言うしかなかった。
「だが、律泉だってそうだろう。今までに、錯覚で騒いだことがあるって言うんならまだしも、お前は律泉の目は信じているんだろう?」
「……なるほどね……」
ぽつりと応じた竜憲は、沙弥子に視線を転じた。
「サコが見たってことを疑っている訳じゃないんだ。ただ……。どうしてそっちを見たのか、 って思ってさ。普通、嫌《いや》なものだったら、逃げるじゃないか」
常人以上の感覚を持っている沙弥子が、わざわざ確認したということが竜憲の気に入らないのである。
「どうも変なんだよな。……バケモノを信じる大輔も、気づかないで見てしまったサコっていうのも。……実は、俺も浜田のニュースを見て、気分が悪くなった。けど、どうしてか、はわからないんだ」
つまり、全員が全員、普段と違う反応をしてしまったということなのだ。
「大輔。……それにサコも。気をつけてくれよ。何か、とんでもないことが起こっているような気がするんだ……」
瞬間、頭の中に言葉が閃《ひらめ》く。
しかし、それは捕《つか》まえる寸前に掻《か》き消えた。
「……どうした? 妙な顔をして……」
「今、一瞬何か思いついたんだが……」
にやりと笑った大輔は、点《つ》けたばかりの煙草《たばこ》を灰皿でもみ消すと、ゆっくりと立ち上がった。
「おばさんに飯の用意を頼んでくるわ。……どうやら、腰を据《す》えて考えんと、ならないみたいだしな……」
ひどく嬉《うれ》しげに告げた大輔が、居間から出てゆく。
初めて幽霊《ゆうれい》に関《かか》わることになった大輔は、事態を楽しんでいるようだ。
「暢気《のんき》なヤツ……」
「先輩、少し変わったみたい。……何かあったのかな……」
「念願の幽霊に会えたってんで嬉しくてしょうがないんだろ」
簡単に言い切った竜憲は、電話に手を伸ばした。
「かあさんが連絡してるとは思うけど、いちおうね。……ひょっとすると、遅くなるかもしれないって言っておいたほうがいい。……ちゃんと送るから心配しないようにってね」
昨日《きのう》、夜中までうろついていたのなら、手順は踏《ふ》んだほうがいいだろう。竜憲の両親と違い、沙弥子の親はひどく心配性だ。
いくら娘だとはいえ、父親にいたっては、過干渉《かかんしよう》といってもいい。
これ以上事態が面倒になるぐらいなら、大輔に頼み込んで夜中に車を出してもらうことぐらい、なんでもなかった。
それに、確かめたいこともある。
沙弥子の家の式神《しきがみ》は、いまだに大輔を敵と見なしているだろうか。
そして、大輔には、あの白い鼬《いたち》の化け物が見えるだろうか。
もし、大輔が何も感じなかったとしても、沙弥子から式神の反応を聞き出すことはできるだろう。
何がわかるという訳ではない。
しかし、このままでは判断のしようがないのだ。
ちょっとした探偵小説の主人公にでもなったような気分。
ささやかな証拠を積み上げて、犯人を特定する。
どちらかといえば大輔が得意そうな分野だったが、竜憲は敢《あ》えてそれに挑戦しようという気になっていた。
「ほら。電話……」
受話器を押しつけた竜憲は、ライターを鳴らせて煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
第三章 闇に潜むもの
夢だと、自覚のある夢。
ここで何が起ころうと、自分には影響がないとわかっているだけに、映像を純粋に楽しめる。うまくゆけば、思いどおりに話を展開することもできるのだ。
ただし、今のところ夢はひどく退屈な代物《しろもの》だった。
大学の構内。湘南《しようなん》の海。桜《さくら》吹雪《ふぶき》の鎌倉山《かまくらやま》。
なんの事件が起こるわけでもなく、一歩ごとに風景が変わってゆく。
家に閉じ込められているのがよほど承服《しようふく》できないらしく、見慣れた風景が次々に現れては消えていった。
「……どうせなら、もうちょっと面白《おもしろ》いところが出りゃぁいいのに……」
呟《つぶや》いた途端、ひどくちゃちな遊園地が出てくる。
メリーゴーラウンドと、コーヒー・カップ。それに遊園地の周囲を回るだけの、これといった趣向もないジェット・コースター。
今時、探《さが》すのが難しいほど、小規模な遊園地だった。
子供の夢でもあるまいに、と思いながらも、竜憲《りようけん》はジェット・コースターの列の最後尾に並んだ。
「やだ、偶然。どうしてこんなところにいるの?」
見知らぬ女が、竜憲を見上げて笑う。
その顔に見覚えはない。しかし、女のほうは竜憲をよく知っているようだった。
「お前もデートか?」
「浜田《はまだ》。……どうして?」
「せがまれちまったんだよ。で、一人なのか? こんなところへ……」
「いや……」
口が勝手に台詞《せりふ》を喋《しやべ》る。
できの悪い芝居《しばい》のようだ。
「だよな。一人じゃあんまり寂《さび》しいもんな……」
確かに、遊園地に一人でくるような人間も少ない。列に並んでいるのは、アベックかグループ客ばかりだ。
自分の連れがどこかにいる。
漠然とそう思った竜憲は、周囲を見回した。
「……どうしたの?」
振り返ると、息を飲むほど美しい女が、穏《おだ》やかな笑みを浮かべていた。
純白の、目に痛いようなワンピースを着た女は、両手にソフトクリームを持っている。
「ねぇ、これ食べちゃってからにしましょうよ」
「そのほうがいい。……何も急ぐことはないんだ」
浜田が口を挟《はさ》み、女を引っ掛ける武器だと言い切る、どこか日本人離れした顔をほころばせて笑った。
「ゆっくりしてろよ。俺達は、もう行くけどさ……」
いつのまにか、列は短くなっていた。
今度、列が動き始めれば、全員が乗り込めるだろう。
「けど……」
そう興味がある乗り物でもない。しかし、どうしても乗らなければならないような気がする。
この列を離れてはいけない。ジェット・コースターに乗るべきだ。
「だめよ。……ほら、とけちゃうわ」
ソフトクリームを押しつけられた竜憲は、しぶしぶと列から離れた。
こんな不安定な食べ物を持っていては、乗せてもらえないだろう。それならば、さっさと食《く》い終わって、並び直したほうがましだと思えた。
「ねぇ、どうしちゃったの……」
するりと腕に絡《から》んだ白いワンピースの袖《そで》が、肘《ひじ》を締めつける。恋人に甘える仕種《しぐさ》というよりは、けっして逃がさないという、執念《しゆうねん》を感じる強さだ。
「おい……」
その時になって、相手の名前も、顔すらも知らないことを思い出す。
「あんた……何者だ……」
「こっちへ……。どうしてこんなところへ来たのです。あなたには避ける力があるはず。目を閉じていてはなんにもなりません……」
長い髪が、ふわりと揺《ゆ》れる。
背後を振り返った竜憲は、列が消えているのに気づいた。
轟音《ごうおん》をたてて、コースターが動き始める。
激しく手を振っているのは、浜田だろう。女が隣にいれば、両手を上げてはしゃぐぐらいの芸当は見せる男だ。
おざなりに手を振り返した竜憲は、レールを上ってゆくコースターを眺《なが》めていた。
「……どんな力が俺にあるって……」
ふわりと、腕が外《はず》れる。
視線を投げた先で微笑《ほほえ》む女は、長い髪を風に舞わせ、ゆったりと腕を広げた。
「力を……正しく……使う…の…で……。―――まで――」
身体《からだ》が、浮かび上がる。
白いワンピースの裾《すそ》がひるがえり、長く伸びてゆく。
踝《くるぶし》を覆《おお》っても、まだ伸びる白い布は、やがてゆったりと弧《こ》を描き始めた。
「貴様!」
竜憲の中に封じられた魔物《まもの》。
神々しいまでに美しい顔が、彼女が普通の生命ではないと教えてくれる。
「貴様! 俺に何をした!」
笑みを湛《たた》えたまま、姫神《ひめがみ》は空に昇っていった。
「くそ!」
ののしる竜憲の耳に、悲鳴が突き刺さる。
反射的に振り向くと、宙を舞うコースターが見えた。
高く、青空につき刺さるレールの筋。
そのさらに上に、のたうつ芋虫《いもむし》。
くるりと、器用に回った芋虫は、まっ逆さまに大地に叩《たた》きつけられた。
「浜田ぁ!」
ぐしゃぐしゃに潰《つぶ》れた鉄の芋虫から、血が滲《にじ》む。
呻《うめ》き声すら聞こえない。
大地を這《は》う血が、徐々に流れを太くしてゆく。ただそれだけが、鉄の芋虫が生きていたことを教えてくれるものだった。
「浜田! 浜田!」
足がこわばったように、動かない。
駆《か》け寄って何ができるという訳でもない。誰も生きてはいないことは、素人《しろうと》にもはっきりとわかる。
しかし、何かできることがあるはずだった。
「浜田ぁ!」
「おい。……リョウ!」
目を光が射る。
瞬《まばた》きを繰り返した竜憲は、眉《まゆ》を寄せて覗《のぞ》き込む大輔《だいすけ》を、訝《いぶか》しげに見上げた。
「あぁ? どうした……。もう朝か……」
「バカ言ってんじゃねえよ。えらい大騒ぎして、人を叩き起こしといて……」
ベッドのヘッドボードのライトが点《とも》っている。
部屋に運び込んだ布団《ふとん》で寝ていたはずの大輔は、ベッドの端に腰を下ろして、顔を覗き込んでいた。
「そうか? ……悪かったな」
「まったく……。どうしちまったんだ? えぇ?」
「夢でも見たんだろ」
「だろう?」
「覚えてないが……。嫌《いや》な夢だったのは確かだよ」
ひょいと眉《まゆ》を上げた大輔は、ずるずるとベッドの下に降りた。
客用の布団《ふとん》に座り込み、大袈裟《おおげさ》な溜《た》め息《いき》を吐《は》く。
「まったく……。小学生じゃあるまいし、夢を見たからって、夜中に騒ぐなよな」
「悪い……」
かちりと音がして、炎が上がった。
枕元の煙草《たばこ》に、火を点《つ》けたらしい。長い吐息《といき》とともに、煙が宙に舞った。
「俺も……」
差し出した手に、煙草とライターが渡される。無言で受け取った竜憲は、箱を振って煙草を飛び出させると、一本をくわえた。
ライターを打ち鳴らす。
どうしたことか、火花は上がるのだが火は点かない。
「トロイな……」
炎が差し出される。
「サンキュ……」
煙草を近寄せようとした竜憲は、ぴたりと身体《からだ》を止めた。
炎は、人差し指に点《とも》っている。
「お前……」
「お方様に会ったのだな。……何がお気に召されたのやら……。そなたなど捨て置けばよいものを……」
大輔ではない。
腰に届くほど長い髪を無造作《むぞうさ》に括《くく》った男は、皮肉な笑みを頬《ほお》に刻《きざ》んでいた。
「貴様……」
途端に、夢を思い出す。
あの、奇妙な女の夢から醒《さ》めたと思っていたが、新しい夢に紛《まぎ》れ込んだだけなのだ。つまり、これも夢。
付き合いたくなければ、目覚めればよい。
しかし、そうはわかっていても自由にならないのが夢だ。眠り続ける身体を叩《たた》き起こそうと、精神を身動《みじろ》ぎさせても、泥のような身体は、いっこうに応《こた》えてはくれなかった。
「お方様は何を言うておった?」
切れ長の目を眇《すが》めて、男が笑う。
「知ってどうする? どうせこの身体《からだ》に封じられているんだ。貴様らの前に現れたりはしないだろうさ」
「そうだな……」
含み笑いを漏《も》らした男は、炎を上げる指をゆっくりと近づけていった。
「だが、その身体を亡《ほろ》ぼせば、お方様は蘇《よみがえ》る。違うか?」
炎が前髪を焦《こ》がす。
人が焦げる、特有の臭い。
「たやすいことよ……」
目の前が真っ赤になる。
それでも、ゆったりと目を閉じた竜憲は、笑みを浮かべていた。
「やればいいだろ。……だが、彼女は俺を生き延びさせようとしている。その心に逆らえるのか?」
「ちっ……」
舌打ちとともに、炎が引かれる。
まだ視界は真っ赤なままだが、熱はひいてゆく。同時に、ふらりと世界が回ったような気がした。
夢から抜け出せたのか、不安に思いながらも、恐る恐る目を開いた竜憲が、巨大なトマトを見つけて、目を瞬《しばたた》かせた。
金髪の初老の女が、でっぷりと太った腹をゆすりながら、逃げてくる。
「なん……だ」
「あ? だから、キラー・オブ・トマトだよ。やっと探《さが》し出したんだぞ」
大輔が、煙草《たばこ》をくわえたほうの唇《くちびる》を引き上げた。
コメディ・ホラー。
たしかに、退屈を紛《まぎ》らわせるには最適のビデオだろうが、今は見る気にはなれなかった。
それとも、これも夢だろうか。
「眠いんなら、ちゃんと寝ればどうだ? 何も無理して今日じゅうに見ることもないぞ。頭をふらふら振りながら見るほどのもんじゃないだろう」
趣味が悪いと、自分で言い切る友人が絶賛するビデオは、妙にマニアックなものが多いらしく、探し出すのに苦労する。
それを、わざわざ借りてきたあたり、妖怪《ようかい》らしきものに遭遇してしまった大輔の困惑が見えるような気もする。
「悪いな……。こっちが付き合わせたのに……」
竜憲が欠伸《あくび》を漏《も》らす。
「悪い?」
大仰《おおぎよう》に眉《まゆ》を聳《そび》やかした大輔が、竜憲の顔を覗《のぞ》き込む。
「それはひょっとして、何か起こるかもしれないとか言うから、ビクつきながら律泉《りつせん》を送っていったのに、何も出やしなかったことか? それとも、肝心の鴻《おおとり》が今日は家に帰って、いないってことか?」
声を上げて笑った大輔は、ビデオを止めると、テープを引き出した。
「まぁ、たいていのことなら、今日は許してやるぞ。鯛《たい》の刺身《さしみ》なんぞ、うちじゃめったに食《く》えないからな」
「なんか、後が怖《こわ》いな……」
竜憲は、まだ警戒していた。
これが夢ではないと、確信が持てないのだ。
しかし、夢だという確証もない。とにかく、何もしないことが一番だろう。夢が続いているのなら、新たな幕が上がるだけだろうし、これが現実だとしても、目が潰《つぶ》れそうなほど眠いことには変わりがない。
とにかく、今はベッドに入るのが最良の手段だろう。
そう思い決めると、竜憲はベッドに転がり込んだ。
「おいおい、リョウ。着替えなくていいのか?」
「いい……」
枕を抱えた竜憲を見下ろし、苦笑を漏らした大輔が、ドアの前に積み上げられた布団《ふとん》をひき寄せている。
薄目を開けて、その動きを確認した竜憲は、これが現実であることを願いながら、再び夢の中に落ちていった。
『まだ足《た》りん』
闇《やみ》に浮かんだ紅《あか》い唇《くちびる》が、声もなく蠢《うごめ》く。
『おお……おお……足りん』
『欲しいぞ……もっと……欲し……』
『……目も足りぬ……』
『耳もな……』
『手も不便じゃ……脚も……』
ふつふつと声ではない声が、あたりに響いている。
『儂《わし》はおなごの……すべすべした腕が欲しい』
『頑丈《がんじよう》な脚がよいのう……』
『いいや、やわらかな太腿《ふともも》じゃ』
『腹もよい……』
人の耳には聞こえぬ声が、虫が囁《ささや》くように繰り返し、繰り返し、呟《つぶや》き続ける。
『あれでもいい……』
『まぁ……よいか』
心細げな光を投げる街灯の下に、黒っぽいコートを着込んだ女が立つ。
一瞬、あたりを見渡した彼女は、小さな児童公園の外《はず》れに立つ電話ボックスに目を留めた。
それから、確かめるように肩からかけたバッグを掴《つか》むと、硬いヒールの音を響かせてボックスに歩み寄る。
扉《とびら》を押し開けてから、彼女はもう一度周囲を見渡して、ボックスに入った。
バッグを探《さぐ》って、小振りの電子手帳を取り出し、紅く染めた長い爪《つめ》の先で器用にキーを押す。
ディスプレイに呼び出されたナンバーと名前を目を細めてたしかめると、指先で撮《つま》むようにして、手帳のポケットからテレフォンカードを引き出した。
やがて、少々耳障《みみざわ》りな音を立てて、カードが電話に飲み込まれる。
ゆっくりと確認しながらナンバーを押すと、女は受話器を耳に押し当てた。
何度目かのコールの後に、ようやくひどく沈んだ声が応じる。
『――はい……』
「則子《のりこ》? 私よ」
『なんだ。美枝《みえ》かぁ』
途端に、声の調子が舞い上がる。
「なんだじゃないわよ。……どうしたのかと思っちゃったじゃない」
『まあまあ。……ちょっとカレと喧嘩《けんか》しちゃってさ。ご機嫌《きげん》取りのコールでも入れてきたかなっと……。で何? お土産《みやげ》だったら、煙草《たばこ》と飲み物買って来てくれないかな。出るのめんどーでさぁ』
ボックスのガラスの壁《かべ》に映る自分の顔を観賞しながら、女は投げやりに応じた。
「それはいいけど。……迷っちゃったのよ。わたし」
言葉がとぎれないうちに、弾《はじ》けるような笑いが聞こえる。
『やっだー。だから言ったじゃん。……平気って言ったのあんただからね』
「わかってるわよ。でも……しょうがないでしょ!」
『わかった。わかった。……でどこにいんの?』
唇《くちびる》の端にできた口紅のむらに気づくと、少し上のほうに取り付けられた鏡を振り仰《あお》ぐ。鏡を睨《にら》みながら、小指の先で整えると、彼女は唇だけ微笑《ほほえ》んで見せた。
「あのねー。公園のボックスから電話してんのよ。……わかる?」
『公園?』
聞き返しておいて、少しばかり考え込んだ相手が、間延びした返答を返してくる。
『……ああ、わかるわかる。……でもそれ、反対のほうなんだよね』
「反対ぃ……うっそでしょ」
相手の代わりに、ライト・グリーンの電話に渋面を作って見せる。
『嘘《うそ》じゃないってば。……電話んとこにいるんでしょ? だったら、そこからおっきな煉瓦《れんが》の塀《へい》の家が見えるでしょ? そこの角曲がって、まっすぐ来ると、広い道に出るからそれを右に曲がって、まっすぐ来ればウチのマンション見えるよ。ちょっと距離あるけどね。一番簡単。……裏のほうに出るんだ』
「わかんない」
『えーっ……簡単じゃん』
「則子ってば早口なんだもん」
『わかったわよ。……だから、煉瓦の……』
「迎《むか》えに来てよう。……また迷子《まいご》になんのヤダ」
『迎えに行くのぉ。……だって、パジャマなのに……』
「いいじゃない。待ってるから」
しばらく沈黙が続く。やがて、妙に作った声で答えが返ってきた。
『……いいけどさ……そこは止《や》めたほうがいいよ』
「なんで?」
応じながら、ガラスに映る自分の影の部分にふと視線を落とす。黒っぽいスプリング・コートのシルエットの部分だけ、ボックスの外が透《す》けて見える。
『――出るの』
相手の声と、白い女の顔が目に飛び込んでくるのが同時だった。
「きゃっ!」
『何!? 美枝?』
とりあえず悲鳴を上げておいて、目を瞬《しばたた》かせた彼女は、次の瞬間、ほっと息を吐《は》いた。
公園の植え込みの向こうに女が立っているようだ。どうやら、電話が空《あ》くのを待っているらしい。
『何よ! 美枝……どうしたの!?』
事情もわからず狼狽《うろた》えている相手に、ささやかな悪戯《いたずら》心《ごころ》が湧《わ》いてくる。どうせ、相手も自分を担《かつ》ごうとしていたのだ。からかってやるのも面白《おもしろ》い。
静かに息を吸い込んだ彼女は、受話器を手で覆《おお》って、息で叫んだ。
「則子! どうしよう!」
『どうしたのよ!?』
「女の首が……」
言いながら、笑いで言葉が震《ふる》える。
『美枝!? 美枝ってば!』
こらえ切れずに笑い出すと、電話の向こうが沈黙した。
ややあって、低い声が返ってくる。
『騙《だま》したわね。嘘《うそ》ばっかり』
きゃらきゃらと笑い、受話器を覆う手を外《はず》す。
「あんただって威《おど》かしたじゃない」
『知らない。……もう勝手に来れば!』
「えーっ。うそぉ。……ごめーん。謝《あやま》るからさぁ」
『しょうがないなぁ』
「いちおう、言ったとおりに歩いてみるから、したら、途中で会えるじゃない」
『わかったわよ。通りに出たとこに自販機があるからさ。そこで待ってなよ』
「うん。ごめんねー」
ふと、視線を上げると、女の顔が先ほどよりこちらに近づいていた。
『甘え声出したって駄目《だめ》! わかってんの? あんたの声が可愛いなんて言うのは、間抜けな男だけ……』
電話の向こうの声が、頭の中を素通りしていく。
おかしい。
女が植え込みを突っ切って、近づいてくるのだ。
「……あ……」
『美枝、わかった?』
「……あ……あ」
植え込みの上を、長い髪の女の首が歩いてくる。あらぬ方向に曲がった腕に支えられて。
『美枝ってば! いい加減にしなさいよ』
さっきは簡単に口を突《つ》いて出た悲鳴が、咽喉《の ど》で塞《せ》き止められている。
『切るよ! わかってる? 自販機のとこだからね!』
「あ……の…り……」
虚《むな》しい信号音が耳に残る。
植え込みを乗り越え、公園を囲む低いフェンスの上に、首はちょこんと止まった。長い髪の絡《から》みつく腕が、フェンスを探《さぐ》っているのが見える。
不気味《ぶきみ》だった。たしかに。
だが、同時にすべてがひどく造りものめいていて、現実みがない。ちょうど、SFXをふんだんに使った映像を見ているようだ。
それから目を引き剥《は》がすこともできず、受話器を握りしめたまま、彼女は念入りに化粧をした顔を見つめ続けた。
これ以上ないというほど、赤い口紅に縁《ふち》取られた唇《くちびる》が、小刻みに動いているのがわかる。
やがて、その唇の端が、思い切りよく引き上がり、にんまりと笑った。
『奇麗《きれい》な脚《あし》ねぇ……』
恐怖心が凍《こお》りついてしまい、思考がひどくぼんやりとしている。
「……き…れい……?」
どさりと首が路上に落ちる。
長い黒髪が生き物のように蠢《うごめ》き、ずるずると首を引きずって進む。
首とは別に、地面に指を立て這《は》い寄ってくる腕は、どうやら男のものらしい。
逃げ出すことも忘れて、女はその奇怪な生き物を見つめ続けていた。それこそ、金縛《かなしば》りにでもあったように、指先一つ動かない。
電話ボックスの扉《とびら》の前に、首がごろりと転がる。
それが妙な具合に蠢いて、よろよろと立ち上がった。
『その脚が欲しいわ……』
『いらん。いらん。……その胸のほうがよい』
声は、もごもごと動く唇からではなく、頭の中に直接響いてくる。
それに気づいた途端、映像を見ている感覚は消し飛んだ。
不意に首の後ろから飛び上がった腕が、電話ボックスの扉に取り付く。
がたがたとボックスが揺《ゆ》れ、扉がわずかに開きかけた。
「……あ…あ……」
目の前を虫が飛んだだけでも迸《ほとばし》る悲鳴が、こんな時に限って出ない。
掴《つか》みどころのない扉を押さえようと、指先が扉の上を滑《すべ》る。
支《ささ》える身体《からだ》がないせいか、扉に取り付いた左腕は、ひどく手間取っていた。
足首に妙な感触がある。
扉の下の隙間《すきま》から、黒く光る髪が這い込んで来ていた。
瞬間、扉に体当たりをして外に飛び出す。
必死に走った。
つもりだったが、躓《つまず》いた。
膝《ひざ》を強《したた》かに打つ。
その痛みがスイッチだったかのように、悲鳴が咽喉《の ど》を震《ふる》わせた。自分の叫び声がサイレンのように、頭の中で谺《こだま》する。
が、次の瞬間には、大きな手が口を塞《ふさ》ぐ。
妙な臭いが、鼻を突《つ》いた。
自分自身の籠《こも》った悲鳴が、恐怖をさらに煽《あお》る。
片脚が強い力で引かれた。
ずるりと、身体《からだ》が下がる。
口を覆《おお》う手に食《く》い込ませた爪を、反射的に地面にたてた。アスファルトを引《ひ》っ掻《か》く爪が、ひどく簡単に剥《は》がれる。
それでも、執拗《しつよう》に地面を掴《つか》もうと〓《もが》く。指先を染める血が、アスファルトの上に奇妙な模様を描くのが見えた。
さらに、引きずられる。
口を覆う手に力が籠《こも》った。
顎《あご》が上がり、向かいの家の窓が視界に入る。
明かりがついていた。
――どうして……助けてくれないの――
人影のない窓が、怨《うら》めしい。
がさがさと音がして、脚に何か尖《とが》ったものが刺《さ》さった。
また、身体が引きずられる。
そして、もう一度。
頭まで植え込みの中に引き込まれた。
と、伸ばした腕が、フェンスに当たる。
掴んだ。
もう一方の手も、なんとかフェンスに伸ばし、満身の力で自分の身体を支《ささ》える。
鈍《にぶ》い音がした。
続いて脚の付け根に激痛が走る。
『もらったよ……もらったよ……』
楽しげな声が脳裏に響く。
腕に何かが噛《か》みついた。横腹にも同様の激痛が走る。
肩や首にも。
徐々に身体がひどく重くなっていくようだ。
だが、意識は冴《さ》えている。
――なぜ、気絶しないのだろう――
どうしたわけか、ひどく冷静だった。自分がパニックに陥《おちい》らないのが、不思議《ふしぎ》でしかたがない。
――私の神経って……結構丈夫だわ――
ぴちゃぴちゃと、嫌《いや》な音が耳につく。
痛みが感じられなくなっているようだ。気味の悪い音だけが、癇《かん》に障《さわ》る。
それが、ぴたりと止まった。
「ほら……なんでもないじゃない……気のせいよ」
誰かの声がかすかに聞こえる。
――気のせいじゃないわよ。……馬鹿《ばか》ね――
他人《ひ と》事《ごと》のように考えながら、彼女はくすくすと笑っていた。
しばらくすると、また、さっきの音が聞こえてくる。
――やだなぁ――
そう思いながらも、彼女は相変わらず笑っていた。
ベッドの上に新聞が広げられている。
竜憲《りようけん》は腕を組み、その紙面を睨《にら》み据《す》えていた。
睨んでいるのは社会面の隅《すみ》。公園の植え込みで発見された死体の記事だ。地方版のスペースには、発見者のコメントまで載《の》っていた。
大輔《だいすけ》に言われて、掘り返してきた新聞の切り抜きが、紙面の上に置かれている。
これで三件目。今度の犠牲者は女だ。児童公園の植え込みの中から、ぼろぼろの死体が発見され、左脚が消えていた。
三週間ほど前の事件と、先週の浜田《はまだ》の事件。そして、今朝《け さ》の記事。三つの記事を比べてみると、扱いが少しずつ大きくなっているのがわかる。
最初の事件をも同一犯人と断定するには現場が離れすぎているのだが、死体の一部が消えることと、ひどく荒らされた死体の状態が、三つの事件を一つに結びつけている。
今はまだ、ただの異常な事件だが、今日の昼前には、前代未聞《ぜんだいみもん》の猟奇《りようき》事件に変わっているだろう。いかにも、ワイド・ショーが好きそうな話題である。
うんざりだ。
このままでは終わらないことを、竜憲は確信し始めていた。
これが、人の手に負える事件ではないこともだ。いかに、日本の警察が優秀であろうと、この犯人は逮捕できないだろう。
『お前なら……できるのか?』
誰かが笑う。
「さぁな……」
半分無意識に応じると、笑い声はさらに高くなった。
『無理じゃ。無理じゃ』
『……地霊《ちれい》を鎮《しず》めるなど……』
「なに?」
ふと、顔を上げると同時に、声は掻《か》き消える。
どうやら、竜憲を取り巻く物《もの》の怪《け》達は、犯人を知っているらしい。
「地霊……だって?」
しかし、まるで意味がわからない。
新聞にもう一度視線を落とした竜憲は、それをまとめて掴《つか》むと、ベッドを飛び降りた。
部屋を飛び出して、台所を覗《のぞ》く。
台所を抜けて、居間に行くと、母親は座卓を前にテレビを眺《なが》めていた。
テレビから視線を引き離した真紀子《まきこ》は、竜憲を見上げて眉《まゆ》を寄せる。
「リョウちゃん……どうしたの? 怖《こわ》い顔して……」
番組は奇《く》しくも例の事件を扱っていた。画面の隅《すみ》にある劇画の書き文字調のスーパーが、いかにも仰々《ぎようぎよう》しい。
「これ? ……ひどい話よね。――昨日の晩もあったんですってね」
竜憲は腰を下ろしかけて、聞き返した。
「朝刊に載《の》ってた昨日の事件じゃないの? これ……」
「そりゃそうよ。……午後にはあるかもしれないけど……。昨日の深夜の事件じゃ、まだレポーターが間に合わないんでしょ」
「ふーん」
一日家にいる真紀子は、どうやらワイド・ショー通らしい。当然といえば当然だが、竜憲は母親の見知らぬ一面をあらためて認識した。
「……座るなら座る。立つなら立つ。……どっちかにしてちょうだい」
「あ…うん」
しかたなく、座り込んだ竜憲は、テレビの画面をあらためて見た。
名前も知らないレポーターが、霊園の道をマイク片手に歩いている。見ているかぎり、大輔が葬儀で仕入れてきた以上の情報はないようだ。
「そういえば、この浜田さんてお友達なんですってね」
「え……ああ」
「言ってくれないから……。かあさん、姉崎《あねざき》さんから聞いて、びっくりしちゃったわ」
この数日、よく顔を出す大輔が、場つなぎの話題に喋《しやべ》ったに違いない。
「まぁね。……それほど親しくはなかったから……」
曖昧《あいまい》に言葉を濁《にご》す。
「姉崎さんはお通夜《つや》もお葬式も行ったって言ってたわよ」
「……だって俺は……」
軟禁状態に置かれているということは、母親も知っているはずだ。
非難する気はないのだろうが、大輔が礼を尽くしているのに、竜憲が気にも留めていないのが、気にかかるらしい。
通夜や葬式に出たのも情報集めのためだとは言えない。なぜこんなところで母親に言い訳をしなければならないのか、少々不条理を感じながら、口籠《くちごも》る。
「そうじゃなくて……。聞きたいことがあったんだ」
「え?」
「鴻《おおとり》さんさぁ。いつ来るか知らない?」
「鴻さん? 今朝《け さ》からいらっしゃってるわよ」
「あっそう。……どこにいる?」
「さぁ、忠利《ただのり》さんのところか、道場じゃないかしら」
みなまで聞かずに、立ち上がる。
「……ほんとに落ち着きのないこと……」
母親の溜《た》め息《いき》に送られて、竜憲は居間を出た。
どういうタイミングなのか、ここしばらく姿を見せなかった鴻が、来ているという。運がいいと言うべきなのだろうが、少しばかり薄気味悪い。
お待ちしておりました、などと言われたら、気分が重くなりそうだ。
廊下《ろうか》の突き当たりで、立ち止まる。
右に行けば道場。左に行けば忠利の寝室。
一瞬迷って、道場に向かう。
数歩進んで、再び足が止まる。
空気が冷えたようだ。
「なんだ……?」
気のせいではない。たしかに空気が冷えていた。
といって、それ以外になんの気配があるわけでもない。首を傾《かし》げた竜憲は、ゆっくりと足を進めた。
ただでさえ、深い軒《のき》のせいで薄暗い廊下《ろうか》が、今日は一段と暗い気がする。そんなふうに思えるのも、こんな時間に訪れることがないせいかもしれないが。何しろ、母屋《おもや》の陰から、まだ日が差し込んでいないのだ。
耳を欹《そばだ》てながら、静かに進む。
人の気配さえしないところが、奇妙だった。道場の先の廊下の向こうには、事務所と弟子達の住む一画がある。午前中なら誰かしらいてもよいはずだ。
扉《とびら》を閉じた道場の前で、足を止める。
「坊ちゃん……」
奥の廊下のほうから、不意に声がかかった。
「あ……溝口《みぞぐち》さん……」
ひどく痩《や》せた男が事務所の入り口に立って、こちらを眺《なが》めている。忠利の内弟子の中では最年長の男は、鴻とはまったく違う正反対の意味で、年齢不祥《ふしよう》だった。ぎすぎすに痩せているせいか、ひどく老《ふ》けて見えるのだが、その割には声や動きが若いのだ。
「何か。ご用でしょうか?」
しかたなく彼に近づきながら、声を落として呟《つぶや》くように告げる。
「……そうなんだけど……さ」
「なんでしょう?」
溝口にではなく、鴻に用があるなどとは、どうも切り出しにくい。
実際、彼のほうが鴻より、よほど身近なのだ。
「鴻さん、ですか?」
きっと顔に書いてあったに違いない。思うことがすぐに顔に出ると言うのは大輔の弁だが、つくづく実感できる。
人のよい笑みを浮かべた溝口に、竜憲は苦笑して見せた。
「そうなんだ。……道場にいるの?」
「ええ。そうなんですが。――今はちょっと……」
「そうか。……何かあったのか?」
「いえ、そういうわけでは。何か知りたいことがあるとか……」
竜憲は微《かす》かに目を眇《すが》め、閉じた扉を振り返った。
「時間かかりそう?」
「さあ。もう、ずいぶんになりますからね。……そろそろ」
扉から視線を逸《そ》らした瞬間、ふいと嫌《いや》な予感が脳裏を掠《かす》める。
「ねぇ……溝口さん。寒くないか?」
「え? ……そうですか」
言いながら、溝口は廊下《ろうか》に足を踏み出した。
そして、ふっと目を細め、空気を見据《みす》える。
「本当だ。……廊下に出ると空気が変わる」
「廊下だけ?」
彼と入れ替わりに、事務所に半分踏み込むと、ふわりと空気が温かくなった。
もう、この時節だ。暖房が入っている訳ではない。純粋に廊下の空気が冷たいらしい。溝口の言う、空気が変わるという言葉がしっくりとくる。
もっとも、彼の言う意味は、竜憲の実感とは少し違うようだが。
廊下に身体《からだ》を引き戻し、道場の扉《とびら》を睨《にら》む。
「変だよな……やっぱり」
ゆっくりと足を踏み出し、扉に向かう。
溝口も無言でついてきた。
「入っても大丈夫《だいじようぶ》かな……」
耳を押しつけるようにして、気配をうかがう。
扉の奥からは、物音一つしない。
溝口が返答しかねているのがわかる。
竜憲は辛抱《しんぼう》強く返事を待った。溝口に駄目《だめ》と言われてまで、自分の嫌な予感を押しつけるつもりはない。
確証がある訳ではないのだ。
ややあって、溝口は小さく息を吐《は》いた。
「また……空気が冷えたようです」
うなずいた竜憲を見上げ、溝口は扉に手をかけた。
「鴻さん。よろしいでしょうか」
囁《ささや》くような声。
弟子達の間だけで通じるような、何かの合図《あいず》があるのだろうか。しばらくそのままの姿勢で応《こた》えを待った溝口は、ゆっくりと扉を引き開けた。
「鴻さん」
道場には、一筋の光すらない。
明かり取りの窓を閉めているのだとしても、異様な暗さだ。だいいち、何かしらの術を使っているのなら、蝋燭《ろうそく》ぐらい使っているはずだった。
「溝口さんですか」
不意に、声が届く。
道場の中からだというのは確かだが、方向を特定できない。扉のすぐ前から聞こえたような気もしたし、奥の隅《すみ》のような気もする。
「お邪魔して申し訳ありません。しかし、冷気が寄っております……」
「わかりました。……やはり、難しいようですね」
ぼんやりと、闇《やみ》の中に顔が浮かび上がる。血の気のない真っ白な顔に、唇《くちびる》と瞳《ひとみ》が漆黒《しつこく》に沈む。
造作《ぞうさく》が整っただけの、できの悪い能面。どれほどの舞手でも、これに血を通わせることは難しいだろう。
「いささか、急ぎすぎたのかもしれません」
唇の端が引き上がる。
暗闇の中を顔だけの人間が滑り出て、やがて全身が浮かび上がった。
白い小袖《こそで》に墨色《すみいろ》の袴《はかま》。いつもの出で立ちだが、どこか違っているような気がする。
「竜憲さんまで……どうかなさったんですか」
鴻は、彼の存在に気づいていたはずだ。それをわざわざ知らないと言うのは、何か意味があってのことだろうか。
ぎごちない笑みを浮かべた竜憲は、扉《とびら》をくぐる鴻のために、一歩足を引いた。
「ちょっと聞きたいことがあったんだ。……鴻さんは、何かわかったの? 調べていたんでしょう」
ゆっくりと、眉《まゆ》が引き上げられ、鴻は竜憲の顔を見据《みす》えた。
笑みが消えている。
平素の表情に、常に刻まれているわずかな笑みが、跡形もなく消え失せ、代わりに驚きが支配していた。
「そうですね。……お話しいたしましょう。すみません、溝口さん。お手数をかけますが、道場を祓《はら》っていただけますか。……いささか無理をいたしましたので、雑霊が集まっているかと思います」
「わかりました」
他人行儀《ぎようぎ》な言葉を交わす二人は、一時はこの離れで共同生活をしたこともあるはずだ。途中で外に出た鴻と違って、溝口のほうは忠利の秘書のような役割も果たしていた。
「この冷気はそのせいなのか?」
「はい。彼らの中に入り込んでいましたので……まだ……はっきりとはわかりませんが……」
どうやら、この男は妖怪《ようかい》達と同じ存在になって、話を聞き出すことができるらしい。
人なのか、魔物《まもの》なのか判然としないと思ったのは、あながち間違いではないようだ。
ちらりと竜憲が笑う。
今、目の前に大輔を連《つ》れてくれば、この男はどんな反応を見せてくれるだろうか。確かめたいような気がする。
「居間を使わせていただいてよろしいですか?」
「いいんじゃない。俺も、ちょっと、見せたいものもあるし……」
妙に明るい笑みを見せた竜憲は、徐々に人に戻り始めた鴻をつくづくと眺《なが》めた。
布張りのソファーに背筋を伸ばして座る男は、目を細めて竜憲《りようけん》を見据《みす》えていた。
力を使っているのか、とも思ったが、どうやら鴻《おおとり》が見ているのは、竜憲の中に眠る魔物《まもの》のほうらしい。
姫神《ひめがみ》はおとなしく眠っているのか、ふわりと笑った鴻は、目を開いた。
「……竜憲さんを疑うのは、お門《かど》違いだったようですね」
「疑う?」
「彼女は、そのまま眠っています。おそらく、自分の意思で……。封じられたわけでもなく、もちろん、力を奪われたわけでもありません」
「それと、疑うっていうのが、どう……。ひょっとして、彼女が化け物を煽動《せんどう》したと思っていたのか?」
無言でうなずく鴻の笑みが、いつもと違うような気がして、竜憲は眉《まゆ》を寄せた。
こんなやわらかい顔で笑う男ではない。
常に笑みを湛《たた》えてはいるが、心のついてこない、単なる表情でしかなかったのだ。それが、心底からの蕩《とろ》けるような笑みに変わっていた。
「ご不自由をさせてしまいました。姉崎《あねざき》くんが魔物《まもの》を見たという時点で気がつけばよかったのですが……」
「それが、どういう関係があるんだ?」
「いわゆる餓鬼《がき》であれば、彼の目にさらされるはずはありません。排魔の力には、逆らえるはずもありませんから。よほど強い力を得たのか、それとも違う性《しよう》のものと結びついたのか、と考えたのです」
皮肉に頬《ほお》を歪《ゆが》めた竜憲は、ソファーに足を引き上げて、胡座《あぐら》をかいた。
彼が考えた、強い力というのは、竜憲の中に眠る化け物なのだろう。
ぞっとするほど美しい姫神は、当代随一の霊能力者《れいのうりよくしや》達を、怯《おび》えさせるに足《た》る力を持っているようだった。
「……あのね。あんたが俺達を頼りなく思っているのは知っている。けど、いいかげん、隠しごとは止《や》めてくれないか。俺を出歩かせたくない理由は、薄々わかっていたけどね。いくら俺達にはどうしようもないってわかっていても、大輔《だいすけ》が見たものの正体ぐらいは、本当のことを言ってくれてもよかったんじゃないか?」
目を見開いた鴻は、再び甘い笑みを見せた。
「……どうも……。まだ術が残っているようです。竜憲さんの中に眠る姫神……。たしかに、恐ろしいものかもしれませんが、妖怪《ようかい》どもにしてみれば、待ち望んだ――それこそ、飛鳥《あすか》の昔から蘇《よみがえ》る時を待ち望んでいた方なのです。お方が望まれれば、連中はなんの躊躇《ちゆうちよ》もなく、人を食《く》い尽くすでしょう。……しかし……」
「話を逸《そ》らすな」
低く命じた竜憲は、遥《はる》かに年上の男を、正面から睨《にら》み据《す》えた。
頭の中が、熱くなっている。
普通の人間の手に負えない、恐ろしい化け物がうろついているというのに、この霊能者は竜憲の中に眠る姫神のことしか見ていないのだ。
今回の事件に、彼女が関係していなければ、それでいいとでもいうように。
「……餓鬼だの地霊《ちれい》だのがうろついているから、あんたも探《さぐ》っていたんだろう。どうしちゃったんだよ。このまま放っておくのか? 親父《おやじ》がブッ倒れたままなら、あんたが片をつけるしかないだろうが!」
二、三度、ゆっくりと瞬《まばた》きした鴻は、あらためて周囲を見回すと、いつもの、なんの感情の裏打ちもない笑みを浮かべた。
妖怪と同じ空間に紛《まぎ》れ込み、その声を聞くというのが、鴻の特殊な能力らしい。だからこそ、相手をねじ伏せ、打ち払う忠利《ただのり》のもとで修行を続けることはできなかったのだ。
奇妙な男だと思ってはいたが、ここまでとは。
魔物《まもの》のふりをした直後だからか、竜憲の中の姫神の影響を、そのまま受けているようでもあった。
「……地霊《ちれい》とおっしゃいましたか……」
「ああ。そうだよ。……あんたが……いや、違う。俺の周りをうろうろしている連中が言ったんだ。地霊を鎮《しず》めるなど、無理だってね……」
妖怪《ようかい》から、ようやく人間に戻った鴻は、唇《くちびる》を引き結ぶと、目を固く閉じた。
真言《しんごん》を唱《とな》える。
声が漏《も》れるわけでもなく、印《いん》を結んだりもしないが、竜憲にははっきりと聞き取れた。
招魔《しようま》の術。
ソファーの至るところから、床に敷き詰めた絨緞《じゆうたん》の目の間、壁《かべ》。ありとあらゆるところから、小さな物《もの》の怪《け》が湧《わ》き出してくる。
鴻がその気になれば、一瞬にして消え去るような、矮小《わいしよう》な生き物。個々の力は弱くとも、数が集まれば、少しは役立つ情報を持っているかもしれない。
これこそが鴻の力なのだろう。
眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せ、一心に物の怪達の声に耳を傾けている。
ふと、竜憲は眉を寄せた。
夢の中で現れた男に、似ているような気がする。
もっと、がっしりとした体格をしていたし、身体《からだ》を包む精気の色はむしろ大輔に近かったのだが、どこか超然とした雰囲気や、人を見下すような目は、鴻のものだった。
「……大きな破れ目があるようです。……しかし、なぜ……。わざわざ地霊と教えるような真似《まね》を……」
「あんまりしつこいんで、教える気になったんじゃないの? いろいろと嗅《か》ぎ回っていたしね。……あんたと違って、俺達は人間がバケモノに殺されるってことを、そう簡単には納得できないんだ」
皮肉を込めた口調《くちよう》に、鴻はなんの反応も示さなかった。
首をもがれ、腕をなくし、脚をちぎられた、三つの死体。
若い女が二人。そして男は彼らの友人だ。
犯人は、けっして人間には罪を償《つぐな》わせることができない相手である。
ひょっとすると、罪自体がないのかもしれない。病原菌が裁判にかけられることがないように、妖怪もまた、罪を問われないだろう。
まったく異種の生命。
それどころか、存在すら認められない生命は、共通の思考基準などあるはずもなかった。
「……地霊を、どうなさいますか?」
「封じる。……できればね。悪いが、この家に閉じ籠っていろっていうのは、聞けないよ。このまま、手をこまぬいていることはできない」
「どうすればよいか、おわかりですか?」
「……どうにかなるだろうさ。一度、サコが狙《ねら》われたんだ」
鴻が目を見開く。
さすがに、沙弥子《さやこ》が狙われたとなると、驚くらしい。
「どうしてそれを、おっしゃって……」
「しばらく、顔を見せなかっただろう? 親父《おやじ》は話せる状態じゃないし。俺は足止めをくらっていた」
にやにやと笑う竜憲は、鴻の反応を楽しんでいた。
まさか、ここまで驚くとは思ってもいなかったのである。
元々、沙弥子の出会った化け物のことなど、話す気はなかった。竜憲自身、地霊《ちれい》との繋《つな》がりを疑っているのだ。
人間を食《く》うほどの力があるものに、沙弥子が不用意に近づくはずがない。百メートルも手前で気づいて、大慌《おおあわ》てで逃げ出すだろう。
新聞写真で見るだけでも、犠牲者達は霊的な能力がないことは、はっきりとわかった。
「……私なりに探《さぐ》っていたのですが……。しかし、地霊とは……。なぜ、地霊が人を殺すようなことを……」
「知らないな。けど、たしかに連中は地霊だと言った」
人間が調べたことより、魔物《まもの》が不用意に漏《も》らした言葉のほうを信用するとは。自分もかなり危ない考え方をしていると思いながらも、竜憲は笑ってみせた。
「わかりました。……止めはいたしません。……ただし、必ず姉崎《あねざき》くんと同行してください」
「護符《ごふ》にするのか?」
「それもあります。――しかし、それ以上に――いつ、竜憲さんの中で眠る方が目覚めるか、誰にもわからないのです。それを押さえられるのは、姉崎くんだけです」
むっとして、竜憲は頬《ほお》を引きつらせた。
それではまるで、猛獣《もうじゆう》使いではないか。
自分の中に潜《ひそ》む魔物は、たしかに野獣と言い換えてもいい力を持っているかもしれなかったが、大輔が制御《せいぎよ》すると思うと、意味もなく腹が立ってくる。
「……わかったよ」
「邪悪な力に触《ふ》れるということは、それだけ、彼女が目覚める危険性が高くなるということでもあります。……けっして気を抜かないことです。もし、彼女が目覚めれば……。地霊が暴《あば》れるなどとは、比べものにならない惨事《さんじ》となります」
きっぱりと言い切った男は、懐《ふところ》に手を入れ、小さな木箱を取り出した。
センター・テーブルにのせ、ゆっくりと押しだす。
「……これを姉崎くんに……。信用しないでしょうが、彼の力を増幅する力があります」
桐《きり》の小箱に手を伸ばした竜憲は、一瞬、宙で手を止めた。
純粋な力が、手を跳《は》ね返す。
敵意も好意もない。ただ単に、反発する力だ。
「……わかった……」
強烈な力を持ったものだということだけは確かだろう。
用心深く小箱を手にした竜憲は、サイド・ボードの引き出しにそれをしまいこんだ。
第四章 人形使い
閑散《かんさん》とした街路に、明るい街灯が妙に寒々しい光を投げている。そこここに植えられた木々も、同じ形に刈り揃《そろ》えられ、整然と並んでいた。
まったく手の入らない雑木林の中に突然現れた、極度に人工的な空間とでもいえばよいのだろうか。実際、駅周辺に広がる区画整理された分譲地を一歩出ると、原生林とまではいかないまでも、昔ながらの雑木林と田畑が広がっているのだ。
「おい、ここさっきも通らなかったか?」
ステアリング越しに顔を突き出した竜憲《りようけん》は、どこを見ても変わりのない家並みを、しげしげと眺《なが》めた。
同一規格の分譲住宅とは違って、どの家もそれなりに特徴があるのだろうが、初めて見る者にとっては自分の所在地を見極める役にはたたない。
白っぽい壁に、洒落《しやれ》た玄関灯。もしくは表札を浮かび上がらせるだけの門灯というのが、この住宅街の流行のようだった。
昼間ならいざ知らず、屋根の形を見分けることもできない闇《やみ》の中では、家の特徴を覚えることも難しい。
竜憲はなんだか、同じ場所をぐるぐると回っているような錯覚《さつかく》に陥《おちい》っていた。
「いいから俺の言う通りに運転してろ。……次の十字路を左だ」
そういえば、大輔《だいすけ》の家は、いわゆる新興住宅地の中にある。こういった家並みには慣《な》れているのかもしれない。
そう自分を納得させて、竜憲はシートに腰を落ちつけ直した。
どの家も、それなりに広い敷地を持っているのか、広く取られた道にもかかわらず、路上に停められた車は見当たらない。駐車スペースに困っている家はないということだろう。
「十字路……って。これか?」
答えを待たずにステアリングを切る。
なんの異議もないということは、正しかったのだろう。
大輔は助手席に収まり、前方を見つめている。
と、大輔が呟《つぶや》いた。
「ここだ……」
「ここ?」
もともと、そうスピードを出しているわけではない。ブレーキを踏むと同時に、車はぴたりと停車した。
「ここが?」
道の真ん中に車を停め、竜憲は窓越しに外を透《す》かし見た。
「その戸口の前に、死体が転《ころ》がっていたらしい」
ここだと言われても、納得もできなければ、否定もできない。というのが正直な感想だ。
花束が供《そな》えてあるのが、唯一《ゆいいつ》の証拠といったところか。幹線道路あたりの死亡事故現場と違って、他人の家の前では、そうそう盛大に線香やら菓子やらを供えるわけにもいかないのだろう。
それ以外には何があるわけでもない。誰かの家の勝手口の前。勝手口といっても、数メートル先には正面玄関の門扉《もんぴ》がある。この家の勝手口の前に死体があったということに意味があるわけではなさそうだ。
偶然というやつ。
通り魔に襲われ、逃げようとした被害者が、ここで捕《つか》まってしまった。殺された被害者以外にも、この家の持ち主も被害者と言ってもいいだろう。
視聴率という化け物に良心を根こそぎ奪われた、レポーターと称する下衆《げす》どもが、連日ここから放送していた。
よく見れば、生《い》け垣《がき》が踏み荒らされ、煙草《たばこ》の吸い差しが散らばっている。
「これだけ家があるのにな……誰も気づかなかったのか……」
勝手口の小さな表札を眺《なが》め、竜憲は小さく呟《つぶや》いた。
ワイド・ショーのレポーター達が繰り返していた疑問だ。
大輔にというよりは、自分への問い。
人が集まり生活しているという点では、新興住宅地であろうが、古くからの町であろうが、大差はないはずなのに、どうしてここには生活の臭いがないのだろう。
昼間はもっと違う顔があるのだとは思う。だが、今見ている限りは、ここは一種のゴースト・タウンだ。そう、ちょうど、夜の住宅展示場とでもいったらいいのだろうか。
車から降りかけた竜憲は、慌《あわ》ててエンジンを切った。
しんと静まりかえった路上に立ち、あらためて周囲を見渡す。
朧《おぼろ》げながら、ここが異常に思える理由がわかった。
静かすぎる。
建築素材がよいせいか、家の中から漏《も》れ出る音がないのだ。
夜とはいっても、まだ十時を過ぎたばかりである。皆が皆、寝静まっているとは思えない。にもかかわらず、恐ろしいくらい静かなのだ。
「なるほどね。これじゃあ、気づかなくても不思議《ふしぎ》じゃないか……」
防音設備がよいのなら、表で多少物音がしようと気づかないものなのかもしれない。
竜憲がつまらぬことに感心している間に、車から降り立った大輔が、声を潜《ひそ》めて聞く。
「どうだ? リョウ……何か感じるか?」
「あ……と。そうだった……」
本来の目的を思い出し、死体のあったという路上に目を向けた。
もっとも、期待薄なのはわかっている。何かあるのなら、この街並みの人工的な異常さなど、気にもならないだろうから。
「鴻《おおとり》さんも連《つ》れてくるべきだったかな……」
心にもないことを呟《つぶや》いて、大輔に笑って見せる。
「何もないか」
「……そういうこと」
車とドアの間に立ったまま、竜憲の顔をしばらく眺《なが》めていた大輔が、何も言わずに車に乗り込む。
竜憲は首をすくめ、自分も運転席に収まった。
「何かを期待してたわけ?」
エンジンをかけながら聞いてみる。
一瞬、むすりと顔をしかめた大輔が、眇《すが》めた目を竜憲に向けた。
「……お前が来たいって言ったんだぞ」
「そうだけどさ」
くすくすと笑った竜憲は、ギアを入れ替えると、ゆっくりと発進した。
聞かせるべき第三者もいないのに、大輔が真顔で何か感じるかなどと聞くのは初めてだ。
考えてみれば、妙な話である。誰が一番真剣だといって、今回にかぎり、大輔ほど真剣に取り組んでいる人間はいないのだ。
鴻はいつもの調子だし、自分は五里霧中《ごりむちゆう》といったところ。大輔だけが、手に入れられるだけの情報を掻《か》き集め、それを検証しようとしている。
だいたい、この場所にしても、どうやって捜《さが》し出したのか。探偵擬《もどき》のことをしたに違いないのだ。しかも、それがこの世の者ならざる者を捜し出すためだというのだから、大輔の心中たるや、想像するだけでもおかしい。
「何笑ってるんだ?」
「べつに。……ここ曲がれば、もとの道に出る?」
話を逸《そ》らす。
「え……ああ、たぶん」
さらに次の角を曲がり、一時停止の白線で律儀《りちぎ》に車を停めた竜憲は、そろそろと車を進めて、住宅街のメイン・ストリートに出た。
対向車も何もいない。
緩《ゆる》いカーブを下っていくと、商店街に出る。広いばかりで、信号の一つもなかった通りに、ようやく信号機が現れた。
赤信号で停車し、大輔をちらりと見やる。
「次は? 東名《とうめい》行ってみる?」
「いや……霊園にしよう……」
大輔は半分上《うわ》の空《そら》で応じ、上着の内ポケットから手帳を取り出した。
信号が変わり、発進した途端、無言で頁《ページ》をめくっていた大輔が不意に聞いてくる。
「……そういえば、どうして急に自由の身になったんだ?」
「言わなかったっけ? ……お姫様とは関係ないから……だってさ」
「関係って……餓鬼《がき》を操《あやつ》るのが地霊《ちれい》とかって言ってたやつか」
「そう……鴻さんはそれが……」
竜憲が自分の胸を指さす。
「……だと疑ってたみたいだよ」
ちらりと笑って、視界の隅《すみ》で大輔の反応をうかがう。
彼は手帳を開いたまま、路上を見据《みす》えていた。言いたいことがはっきりしている時は、その相手をまっすぐに見るのが常だ。どう聞いたものか、迷《まよ》っているというところだろう。
竜憲のことをわかりやすい性格だと笑う大輔だが、その当人もどうして意外に簡単な精神構造をしているのだ。
付き合いが長い。言ってしまえばそれだけのことなのだが。
「……よくわからないんだが」
思い切ったように、大輔が口を開く。
「何が?」
「俺が見えるということは、それほど大層《たいそう》なことなのか?」
しばし絶句《ぜつく》した竜憲は、ルーム・ミラーの角度を少しだけ変えた。
ワイド・ミラーの端に大輔の顔が映る。
その顔をうかがい見ながら、竜憲はゆっくりと口を開いた。
「だからさ。あんたは鎖鎌《くさりがま》をぶんぶん振り回しながら歩いてるわけよ」
「なんだって?」
「まぁ、聞けって。……その鎖鎌は、幽霊《ゆうれい》だの妖怪《ようかい》だの、とにかくあんたが信じないもんはなんでも、ぶっ飛ばしちゃうんだ」
「ああ、ああ。……前にも、そんなことを言ってたな……」
妙に力のない声が返ってくる。
「それが、見えたってことは、その武器が通用しないってことだろう?」
「それはわかった。……しかし、それにはまず前提条件として……」
「俺にそんな力があることが承服《しようふく》できない……ってか? あんたらしくないなぁ。―――俺はあんたを厭《いや》みなほどの自信家だと思ってたんだけど」
大輔がいまだに、そんなことにこだわっているとは知らなかった。
もしかすると、大輔がこの件に関してとことん真剣なのは、これが片づけば何か具体的な確証が得られるとでも思っているからだろうか。
今までにも、女のために真剣なふりをすることはあっても、どうせ自分には見えはしないのだからと、立ち会うことさえ面倒がっていた。
それが、調べてみたいという一言で、どこへでものこのことついてくるのだ。見えるようになったからには、自分で納得できる証拠を探そうというのが、大輔の思惑《おもわく》らしかった。
それならそれで構わないのだが。
何しろ、鴻に、どこへ行くにも大輔を連れ歩けと、言明されたも同然なのだ。下手《へ た》に言い訳を考えなくてすむぶん、今のままのほうが楽だった。
「……あ、そうだ」
考えているうちに、ふいと鴻に渡された木箱のことを思い出す。
「おい、ちょっとコンソール開けてくれ」
「ああ?」
大儀そうに腕を伸ばした大輔は、ひどい音を立ててコンソール・ボックスを開いた。
「開けたぞ」
「木の箱が入ってるだろ? ……こんくらいのやつ」
左手の指で箱の大きさを示す。
「これか?」
箱を撮《つま》み出した大輔が、竜憲に手渡そうと差し出す。
「あちっ!」
箱が指先に触れた途端、竜憲は小さく声を上げた。指先に電流が走ったようだ。
「どうした?」
「なんでもない」
「そうは見えんぞ……」
箱と自分を見比べている大輔に、ミラー越しに笑って見せる。
「いいから。――それより、それあんたへのプレゼント」
「プレゼントだと?」
露骨《ろこつ》に顔を顰《しか》めた大輔を見やり、竜憲は首をすくめた。
「そこまで嫌《いや》な顔することないじゃないか。……ただのお守りだよ」
「お守りだって? それにしちゃ、大袈裟《おおげさ》……」
箱を開けた大輔が、言葉を途切れさせる。
「なんだ? これは」
「え?」
怒ったような声に、竜憲のほうが驚いた。
「何が入ってた?」
間の抜けた質問とは思うが、実は何が入っているのか、竜憲は知らなかった。
最初に渡された時から、箱に触れるだけで奇妙な圧力を感じたのである。それだけに、中を覗《のぞ》いてみる気にはならなかったのだ。
「何って……」
指先で撮《つま》まれたものが、竜憲の目の前に突き出される。
「ちょっと待てよ」
車がいないことを幸いに、確認もせずに路肩に寄せて停車した竜憲は、大輔の差し出したものをしげしげと眺《なが》めた。
なんだかよくわからない。
金細工《ざいく》であることは確かだ。
細かな紋様を彫《ほ》り込んだプレートを、丸く筒状にしたもの。幅は一センチほど。直径はもう少し小さいだろうか。
それに触れようとしない竜憲の代わりに、大輔は掌《てのひら》の上で転《ころ》がして見せた。
一部分が開いているのがわかる。
「なんだろう? これ」
「……なんだろうって……。お前なんだか知らずにくれたのか?」
目を見開き、大輔を斜めに見上げた竜憲は、曖昧《あいまい》に口元を綻《ほころ》ばせた。
「はは……。そうなんだな。――俺は預かっただけ」
大輔が眉《まゆ》を寄せて、その金細工を眺め下ろす。
「親父《おやじ》さんか……いや、鴻……だな」
「当たり!」
「これが、お守りだって?」
「そう。あんたの力を増幅するってさ。……身につけとけってことじゃないの?」
「……そりゃ、構わんが……。どうするんだ? 指輪じゃないし……」
大輔が管の隙間《すきま》を指先で辿《たど》り、苦笑しながら、言葉をつけ足す。
「首に下げるってわけにも……」
「イヤリング……耳飾りってやつじゃないか。――見たことないか。こんなやつ。ほら、博物館とか、資料館? とかで」
「言われてみれば、見た気もするな。もしかして、えらく古いもんなのかな」
二人とも、装飾品の類《たぐい》には、あまり縁はない。それこそ、女に買ってやることはあっても、自分が身につけるとなると、時計がせいぜいだ。
「だろうな。……ところで、あんたはそれを持っていても何も感じない?」
「何を? ……そういえば、お前さっき……」
「そうなんだ。箱に触《さわ》るのも嫌《いや》なくらいだもの」
「それなら、霊験《れいげん》あらたかかもな」
真顔で呟《つぶや》いた大輔から視線を外《はず》し、竜憲は再び車を発進させた。
実のところ、もっと文句が並ぶのではないかと思っていたのだが、まずは受け取るつもりらしい。この際、突き返されないだけでもありがたい。
鴻がなんのつもりで渡したかは別にして、大輔は疑い出したらきりがないのだ。とりあえず、竜憲の中に封じられた姫神を、目覚めさせまいとしているという点だけは、互いの意見は一致している。そのために、この金細工《ざいく》が効力を発するのなら、やはり大輔には受け取ってほしいというのが本音《ほんね》だった。
いつまでもコンソール・ボックスに眠らせておいたのではまずいだろう。
「さてと……次は浜田が死んだところだな」
「ああ」
簡単に応じた大輔が、だらりとシートに背を預けて、小さくつけ足《た》した。
「ナビはいらないだろ?」
霊園内という場所のせいもあるだろうが、浜田《はまだ》の車が発見された場所には、いくつもの花束や、線香、袋菓子まで積まれるように置かれていた。
大方の学生が根本的に暇《ひま》だからかもしれない。興味本位も手伝って、顔見知り程度の者も参りにきたのだろう。
萎《しお》れかけた花束がないのは、霊園を管理する人達の仕事に違いない。
「凄《すご》いな……」
ぼそりと呟《つぶや》いた大輔《だいすけ》の言葉は、いたって正直な感想だった。
この花束の山を見て、何か皮肉な気分になるのは、自分達だけではないはずだ。
友人と呼べる人間がどれだけいるか。自分を振り返ってみても、おおよそわかる。自分が死んだ時、誰が葬儀に来るかなどと考えたことはないが、この場に花を手向《たむ》けた人間の半分以上は、浜田自身が想像もしなかった連中に違いない。
「……俺達が来たのも、意外だろうな」
「そうかな。結構迷信深いヤツだったそうだから、そこいらで待ってるかもしれないぞ」
「え? 待ってる?」
「だから、地縛霊《じばくれい》だっけ? とにかく殺された場所に残るって奴《やつ》。あれさ……」
迷信深い性格と、思いが残るというのは、まったく別の話だ。
超常現象など、つい最近までまったく信じなかっただけに、大輔の考えることは恐ろしく突飛《とつぴ》だった。
竜憲《りようけん》が自分をどんな目で見ているかなど気にも留めず、至極真面目《まじめ》に聞いてくる。
「……待っててくれりゃ、少しは話も聞けるんだろう?」
「そうだな……」
皮肉げに応じた竜憲は、懐中電灯で周囲を照らし出した。
古い墓石が並んでいる。
首都圏の墓地は、どこも手一杯で、新しい墓など建てる余裕はないのだ。光を反射する新しい墓は、建て直したものか、集合の墓に直されたものだった。
「どうだ……いるか?」
自分は見えないと決めてかかっている大輔は、それでも興味深げな視線を投げている。
懐中電灯の頼りない光に浮かぶ墓石は、気持ちのよいものではない。幽霊《ゆうれい》など信じない人間でも、すき好んで近づく所ではないのだ。
「……ちょっと、向こうを向いててくれないか。できれば、墓石の向こうでしゃがんでくれるとありがたいんだが……」
「俺がいると出ないってか?」
にやにやと笑った大輔は、それでも言われたとおり、大きな墓の向こう側に回って、しゃがみ込んだ。
斎藤家《さいとうけ》代々の墓と刻《きざ》まれた墓石は、つい最近建て替えられたばかりらしく、古い墓石が脇に置かれている。
古い墓石は風化して、砂になるまで放っておくと聞いた覚えがあった。踏《ふ》もうが蹴《け》ろうが、大した問題はないらしいが、墓石の形をはっきりと残しているだけに、あまり気持ちのよいものではない。
古い墓石を避けて、墓を回り込んだ竜憲は、注意深く周囲を探《さぐ》っていた。
浜田の念が残っているとは思っていない。
しかし、これだけの墓があれば、何かしらの思いが残っているはずだった。
怨《うら》みや怒りとは別のところで、人の思いに引き寄せられるものがいる。墓に参る人間の感情に引かれるとでも言えばいいのだろうか。自らに向けられることのない哀悼《あいとう》の意識を求めて、集まるものがいるのだ。
もちろん、いわゆる無縁仏《むえんぼとけ》もいた。
しかし、ひとつの思いを持ち続けるというのは、霊魂にしても難しいらしい。たいていのものは、時の流れに風化してゆく。
墓石が砂に帰るより遥《はる》かに早く、怨《うら》みつらみも昇華するのだ。
『たいていはな……。だが、そうと決まったものでもないぞ……』
真新しい卒塔婆《そとば》が立てられた墓から、声が聞こえる。
『怨みだけで生きている者もいる。生きていようが、霊魂《れいこん》となろうが、怨みがなければ己《おのれ》が保てぬのだ……』
「そうか? ……苦しいだろうな」
ぽつりと呟《つぶや》いた竜憲は、声のほうに歩を進めた。
大輔の目を逃れて、ようやく声を届ける妖怪《ようかい》。
注意していなければ聞き逃してしまうような声は、戦士の目を逃れて、竜憲につきまとっている。
敵意も、好奇心さえ押し隠しているのは、それを知られた瞬間、大輔の力にさらされるからだろう。
少なくとも、こうして話しかけるだけなら、彼の無差別攻撃から免《まぬか》れるらしい。
「……お前らの怨みは、どうした? どこへ忘れてきたんだ? 怨みがあるから、こうして隠れているんじゃないのか?」
『そうとも限らんぞ……』
じわりと、声が動いたような気がした。
足元を見据《みす》えて、頬《ほお》を引きつらせる。
己の本性を闇《やみ》に潜《ひそ》ませて、それが動き始めていた。
『怖《こわ》いか? 恐ろしいか?』
これが人を襲ったのではないだろう。
人を襲うほどの実体もなければ、力もない。霊園という場所の持つ、一種特殊な雰囲気の中で、哀しみや後悔を餌《えさ》として、細々と生き延びているものなのだ。
恐怖を口にするものとは、思えなかった。
「どうした? 誰も来なくなったか?」
ゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ竜憲は、目を閉じて手を合わせた。
「浜田……」
自分なら、抵抗する術《すべ》もあった。なんの思念も残さず、食《く》い尽くされることもなかっただろう。しかし、この霊園にも、何も残っていないのだ。
肉体の一部を食われたというより、精神をすべて食い尽くされたということか。
生命が不慮《ふりよ》の死に見舞われた場所には、強弱の違いはあるにしろ、何かしらのメッセージが残されているものだ。
特に、殺された場合は、傷が残る。
足跡と呼んでもいいような、単純な跡だが、見ようと思えば、必ず発見できた。
時が風化させるまでの間、生命の最後の〓《あが》きは、どこかに残されるはずだった。
しかし、ここには何もない。
哀れみが、合わせた手の間から流れ出してゆく。
『怨《うら》みだ。……怨みが食っているんだ……』
足元にすりよったそれが、嬉々《きき》として感情を食っていた。
餌に対する礼のつもりか、怨みという言葉を繰り返しながら、淡い生命の光を食う。
「おいリョウ! もういいか? ケツが冷えて……」
「もう少し待ってくれ……」
声を上げた竜憲は、影すら持てぬ存在に、手をかざした。
「隠れろ。あれは、お前達も打ち払う……」
『怨みだ。新しい怨み。飢《う》えの怨み……。怨みだ。わかったか?』
「ああ。わかった……」
この存在に対する哀れみが、再び掌《てのひら》からこぼれだす。
ささやかな感情を舐《な》め取りながら、それは大地に吸い込まれていった。
「ありがとう……」
軽く地面を撫《な》で、腰を伸ばした竜憲は、懐中電灯を墓石に向けた。
「もういいぞ……」
のそり、と大きな男が姿を現す。
寒そうに自分の腕を抱いて、足踏みしていた。
「……お前、知らないヤツが見たら、怪《あや》しいと思われるぞ。ひとりでワケのわからんことをブツブツ言って……。え? 何か出たのか?」
「まあね。……たいしたことはわからなかったけど……。ゼロじゃあない」
「ふーん……」
気のない返事をした大輔は、墓石を迂回《うかい》して歩いてきた。
「俺がいたほうが邪魔じゃないか?」
「いや。……ああやって姿を隠してくれれば、いい。……言っただろ? あんたの武器は鎖鎌《くさりがま》だって。鎖の長さには限界があるのさ……」
「俺は振り回しているつもりじゃないのにな……」
「ひょっとしたら、制御《せいぎよ》できるようになるかもな。……向こうが見えるようになったんなら、可能性はある」
自分が意識せずに、攻撃を仕掛けているということが、よほど承服《しようふく》できないのだろう。大輔は不満げに唇《くちびる》を尖《とが》らせていた。
そう言えば、この頭抜《ずぬ》けた体格の男が喧嘩《けんか》をしているのを見たことはない。
口の立つ男だし、へ理屈を捏《こ》ねるのを趣味としているから、口喧嘩はしょっちゅうだが、腕力に頼ったりはしないのだ。
見かけだおしの身体《からだ》かもしれないが、誰もそれを確かめようとはしなかった。
「……で、どうする? これからまだ回るか?」
「いや……。今日はもう引き上げよう」
懐中電灯を振った竜憲は、比較的広い通路を照らした。
車が乗り入れるのに問題はない広さだが、少し先で停めている。葬儀に出る時に、門前まで車で乗りつけないのと同じように、少しは歩こうという話になったのだ。
懐中電灯の光の中に、ブルーのスポーツ・タイプの車が浮かび上がる。
「そういや、浜田はどうしてこんな所へ……」
「え?」
振り返った竜憲は、音を立てて息を飲んだ。
懐中電灯の光の中に、大輔の脚が見える。
顔があるべき位置。
「大輔!」
照らしだされた顔は、驚愕《きようがく》に目を見開いていた。
見えない手に、首を掴《つか》まれているのか、宙を掻《か》き毟《むし》る手は、何かを捕《とら》えている。
しかし、竜憲には大輔以外の何者も見えなかった。
「大輔! どうしたんだ!」
本人にもわからないに違いない。自分が戦っている時、彼の目からどう見えていたのか、ようやくわかったような気がする。
「大輔! 聞こえるか!」
見えない何かを掴む右手が、一瞬はずれる。
「俺の声、聞いてろよ!」
闇雲《やみくも》に、力を放ったのでは、人間にも危害を与えるかもしれない。だが、自分が人間であると、魔物《まもの》とは違う存在だと意識していてくれれば、力は打ち消されるだろう。
竜憲は、人と魔物の区別をしないだけに、受け手側の意識が問題となった。
右手が火花を上げて光った。
懐中電灯など、とうに投げ捨てられ、あらぬ方向を照らしている。
もう、電灯など必要としない。
目を開く必要すらなかった。
「はっ!」
気合いと同時に、右手を振り上げる。
青白い炎《ほのお》が、尾を引いて襲いかかった。
巨大な炎の蛇が大輔の身体《からだ》に巻きつき、ゆっくりと締め上げてゆく。
「大輔!」
目を見開いた次の瞬間、巨体が地響きを上げて転《ころ》がった。
「ちく…しょう……」
激しく咳《せ》き込みながら、上体を起こした大輔は、鼻に皺《しわ》を寄せて低く毒突《どくづ》いた。
「大丈夫《だいじようぶ》か!」
「大丈夫なワケねえだろ。……なんだありゃ……」
再び咳き込み、唾《つば》を吐《は》き出す。
咽喉《の ど》が気にかかるらしく、空咳を繰り返しては、首をさすっていた。
「……見えたか?」
「いいや……。どんなヤツだった?」
襲われたにもかかわらず、相手の姿が見えないと言う。
竜憲自身にも見えなかったのだから、言えた義理ではないのだが、見ようとしないだけではないか、と思ってしまう。
「俺にも見えなかったよ。……感触は?」
「腐《くさ》ったナマコ」
思い切りよく顔を歪《ゆが》めた大輔は、ようやく立ち上がると、身体《からだ》の調子をたしかめるように軽く跳《と》んだ。
その瞬間。
闇《やみ》の中に光が走る。
蛍《ほたる》ほどの頼りない光は、恐ろしいスピードで縦横無尽《じゆうおうむじん》に飛び回っていた。
うっそりと目を細めた竜憲が、光を見つめる。
初めて見る、大輔の力。
鎖鎌《くさりがま》というたとえは、けっして間違いではなかったということだ。大男を中心に、それぞれの軌跡を描く蛍達は、彼の周囲に強固な防御を巡《めぐ》らせていた。
「腐《くさ》ったナマコね。触《さわ》ったことあんの?」
「ねえよ。ンなもん。ぬるぬるでぐちょっとしてるって言えばいいのか? とにかく、気色が悪い代物《しろもの》だ」
自分の目の前を飛び回っている光に気づいてもいないのか。
まるで気にする様子もなく、にやけた笑みを浮かべた男は、懐中電灯に手を伸ばした。
「よくブッ壊《こわ》れなかったな……」
確かめるように、二、三度スイッチをいじり、竜憲を照らしだした。
眩《まぶ》しそうに目を細め、手で光を遮《さえぎ》った竜憲は、まだ周囲をうかがっていた。
姿も、気配すらない敵が、どこかに潜《ひそ》んでいるかもしれない。
「で、お前にも見えなかったって?」
「ああ。……気配もなかったよ。あんたがつり上げられてるのが見えただけで……」
「ひでぇな……。俺を狙《ねら》ったってことか?」
ひょいと肩をすくめた大輔は、懐中電灯を回して、車を照らしだした。
何事もなかったかのように、静かに眠っている車に歩み寄る。
「けどまぁ、便利なモンだな。お前の力ってのも……。普通の武器だったら、ちょっと使えないだろう。人質《ひとじち》に当たっちまうからな……」
「そうかもな」
苦《にが》く笑う。
人間を避けて通るほど、竜憲の力は便利なものではない。
大輔のほうが意識して跳《は》ね返してくれたからこそ、彼は無傷でいられたのだ。
「そういやぁ、お前の力が見えたぞ。この、お守りのせいかな……」
助手席のドアを引き開けた大輔は、音を立ててシートに座り込んだ。胸のあたりを叩《たた》いているところをみると、どう使うべきかわからない装飾品は、ポケットに収められているようだった。
「で、感想は?」
「バケモノ……だな。まさか、あんな火を噴いているとは知らなかったよ」
運転席に腰を下ろした竜憲が、エンジンをかける。
機嫌《きげん》よく唸《うな》るエンジンは、主人の戦いなど気づいてもいないようだった。
「あんたも似たようなもんだけどね。……自分のは見える?」
「いいや……。あるのか?」
「急に襲われて、間に合わなかったんだと思うけどね。……それとも、実体があるものにしか効かないのか……。とにかく派手《はで》なのがあるよ」
助手席に顔を向け、にやりと笑った竜憲は、そのまま車を発進させた。
夜気を分けるようにして、滑《すべ》り出した車の周りで、悲鳴が上がる。
「え!」
ばっと身体《からだ》を起こした大輔が、きょろきょろと周囲を見回す。
「なんだ、あの声……」
「からかわれているんだよ。……あんたが聞こえるとわかって、嬉《うれ》しいんだろ」
竜憲はちらりと唇《くちびる》の端を上げただけで、平然とステアリングを操《あやつ》っている。
「よく平気でいられるな……」
「ガキの頃から聞いているんだ。いいかげん慣《な》れもするさ。……連中は、結構悪戯《いたずら》好きなんだよ……」
「……なるほど……」
ミラーの端に、ひどく感心した大輔が映し出されていた。
初めて、大輔から尊敬らしき評価を得たような気がする。
皮肉げな笑みを浮かべた竜憲は、改めてミラーを覗《のぞ》き、何もないことを確かめた。
「怨《うら》みが食《く》ってる?」
聞き返した沙弥子《さやこ》は、慌《あわ》てて言葉をつくろった。
「怨みが人間を食べてるってことですか?」
「……リョウはそう言ってたけどな……」
奇麗《きれい》に出た紅茶の注がれたカップを睨《にら》みながら、大輔《だいすけ》はぼそぼそと答えた。
「怨みって……なんの怨み?」
「さぁ、そこまでは。……あいつは何もわからないって言い切ったんだ」
「ふーん」
ケーキがおいしいと評判の喫茶店には、ちらほらと客がいるきりで、頭抜《ずぬ》けた長身の大輔は、妙に目立ってしまっていた。店の中央に置かれた、巨大な楕円形《だえんけい》のテーブルについているのが、余計に目立たせているのかもしれない。隣に座っているのが、制服姿の沙弥子であることも一因だろう。
壁際に並んだ席にいる若い女が二人、時々こちらを盗み見ているのが見える。どんな会話をしているのかはともかく、彼女達の態度は、沙弥子の優越感を満足させてくれるものだ。
学校の校門の前で、大輔が待っているのを見つけた時には、口から心臓が飛び出すほど驚いたが、それ以上に驚いた顔をした友人の顔を思い出すと、つい頬《ほお》が緩《ゆる》んでしまう。
すぐに大輔の目的が単に、あの気味の悪い首の話を聞きたかっただけだとわかったのだが、この際すべてを差し引いても悪い気はしない。
「俺ははっきり言って、そういうのは信じていなかったからな。――お前なら少しは知ってるだろうと思ってな」
「そんなこと言っても……あたしよりは……」
「そりゃあそうだが。リョウにいまさら聞いてもな。……それに、喋《しやべ》りたがらない。ほかに聞くってのも……」
眉《まゆ》を顰《しか》めた大輔をちらりと眺《なが》め、沙弥子はくすくすと笑いだした。
「なんだよ」
「え? ……だって、先輩も可愛いとこがあるな、なんて」
露骨《ろこつ》に目を眇《すが》める大輔を見上げ、沙弥子が真面目《まじめ》な顔になる。
「しかたない。先輩のためだ。ケーキ一つで、リョウちゃんには黙《だま》っといたげましょう」
「なんだ……そりゃ」
「いいんですか? リョウちゃんにバラしても。先輩が学校帰りにあたしを誘拐《ゆうかい》して、オカルト話の講義を……」
「わかった。わかった。いくつでも食《く》えよ。……その代わり、太っても俺のせいにはするなよ」
「へーきです。このあたしのプロポーションがケーキごときで崩《くず》れるわけないもん」
「あ……そう」
「そうなの! もっと体重欲しいくらいですから」
「そうか? 余分な肉が胸や尻につくとは限んないぞ。……たいていは腹や脚に……」
片頬《かたほお》で笑った大輔に、唇《くちびる》を尖《とが》らせて見せた沙弥子は、それでもウェイトレスを呼びつけた。
「ミルフィーユをひとつ追加して……」
「はい」
無表情にレシートをさらって行くウェイトレスを見送り、沙弥子はにっこりと大輔に笑いかけた。
「それで……何を話せばいいの?」
「餓鬼《がき》と地霊《ちれい》と怨《うら》みが、どう結びつくと人を殺すか……」
「えーっ……そんなのわかるわけないですよ」
「そう言うな。……大体、俺は餓鬼とか言われたら、地獄絵図くらいしか思い浮かばないんだからな」
「妖怪《ようかい》図鑑の世界なわけだ」
「そうそう。地霊と言われれば、妖精《ようせい》とかホビットの類《たぐい》だしな」
「まあね、……あたしだって詳《くわ》しいわけじゃないし」
大輔は考えをまとめるために、自分を話し相手に選んだのだと、沙弥子はようやく理解し始めていた。ようするに、沙弥子の知識を期待しているわけではないのだ。
少々がっかりしたものの、当然といえば当然である。
「地霊……っていったら、やっぱり木霊《こだま》とか、大地の神様とか山の神様とか……そういうのを言うんでしょうね。そういえば、死んだ人の思いも木に集まるって言うから、そんなのも入るのかな」
「思い、ね。怨みも思いのひとつだな。……近づいてきたじゃないか」
「そう?」
「だけどな。人間は死んだら埋《う》められるだろう? 昔はほとんどが土葬じゃないか。土に返されるわけだ。それが大地の栄養になると……。それを象徴的に考えると、木に宿る。木霊とかになっていくんだろうな」
「それだけかなぁ。……だって、ほら、あるじゃないですか。切ろうとすると事故が起こるとかいう木が……」
「そりゃあ。木だって生き物だからな。……切られるとなりゃ、それくらいの抵抗はして見せるさ。……とまぁ、一月前ならそれで終わりにしたけどな」
不意に大輔が口を噤《つぐ》む。
「お待たせしました」
声とともに沙弥子の目の前に、ケーキの皿が置かれた。小さなデザート・ナイフとフォークを並べ、レシートを置きながら、くるりと背を向ける。
ウェイトレスの流れ作業のような早業を、沙弥子はぼんやりと見送った。
ウェイトレスが離れて行くと、それを待っていたように、ぼそりと大輔が口を開く。
「……どうも、今度は勝手が違う」
「え?」
沙弥子は慌《あわ》てて、大輔に注意を引き戻した。
「どんなふうに?」
「いろいろ……だな。リョウの力が見えたり。――妙なモンに襲われたり……」
「嘘《うそ》でしょ!?」
大きな声を上げた沙弥子に、店じゅうの視線が集まる。自分を眺《なが》めた目を眇《すが》めた大輔に、力なく笑って見せると、沙弥子は声を潜《ひそ》めて聞き直した。
「どういうこと? 先輩には……」
「そうなんだよ。化け物が見えないことに関しては、鴻《おおとり》もリョウの親父《おやじ》も、太鼓判《たいこばん》を押してくれたのにな。……リョウ達に言わせれば、それだけ強いということになるんだが。まぁ、それは置いとくとしてもだ。少なくとも、今まで無視し続けられていた俺が、いまさらなんだって襲われたりするんだよ。……変だろう?」
「変かもしれませんね」
もしかして、これは愚痴《ぐち》なのだろうか。
大輔の顔をつくづくと眺め、沙弥子は自問自答していた。考えをまとめるために、相槌《あいづち》を打つ相手が欲しかった場合と、それ以前に愚痴を聞いてほしかった場合。どちらのほうが、自分にとっては幸せなのだろう。
「ずいぶん簡単に言うな。お前だって、妙なもの見て気味悪がってたじゃないか」
「……たしかに気味悪かったけど」
考えていることとは裏腹に、調子よく喋《しやべ》っている自分が、不思議《ふしぎ》である。それ以外にどうしようもないのも確かなのだが。
「そうだ……。リョウちゃんに近づきたいのに、先輩がいると近づけないから……っていうのは?」
「よせよ。……仮に俺が本当にそいつらの邪魔をしているとしたら、俺に近づけないからお守りの役ができてるんだろう? そのお守りがどうして襲われるんだよ」
眉《まゆ》を寄せた沙弥子を眺《なが》め、大輔は息を吐《は》いた。
「わからないのか?」
「えーっと……わかったような、わからないような……」
しばらく考え込んだ大輔は、再び息を吐いた。
「ナメクジは塩が苦手《にがて》だろう?」
「え? ……うん」
「そのナメクジが塩で周りを囲まれた木に登りたいとする」
「う……うん」
「でも塩があるから登れない」
「そうですね」
「だから、ナメクジは塩を払い除《の》けて木に登った。……変だろ? どけようとしたら自分は溶《と》けちゃうんだぜ」
「それは変だけど。……じゃあ、蟻《あり》さんに塩を掃除してもらって木に登ったっていうのはありじゃないですか」
きっちり二呼吸ほどの時間、大輔は目を見開いて沙弥子の顔を見つめていた。
「あたし……変なこと言いました?」
ややあって、大輔はぎごちなく首を振った。
「いや……。ナメクジが地霊《ちれい》で、蟻が餓鬼《がき》。……逆かもしれんが……図式としては整うな。地霊が何かの怨《うら》みをもって彷徨《さまよ》い出て、リョウの姫様に会いたがっているとしたら」
「でも……じゃあ、なんで、人間の手足を……」
「さあな。それこそ当人に聞いてみなけりゃわからん。問題は……どうして蟻がナメクジに手を貸す気になったかだな」
言われた途端、人間の部品とナメクジが合体した図が、沙弥子の脳裏を掠《かす》める。
「やめてくださいよ……そのたとえ。なんか想像すると気持ち悪い……」
鼻の頭に皺《しわ》を寄せた沙弥子に、大輔はやけに素直な笑みを見せた。
「すまん……」
「いいけど」
曖昧《あいまい》に応じて、ケーキの皿を引き寄せる。
「いただきます」
ナイフで上品なサイズにケーキを分解して口に運ぶ。ふと、あまり上品な食べ方とはいえないと気づいて、沙弥子は大輔を盗み見た。
椅子《いす》の背に身体を預け、テーブルの中央を睨《にら》んでいる。右の手でライターを玩《もてあそ》んでいるところが、いかにも手持ち無沙汰《ぶさた》だと主張しているようだった。
そういえば、沙弥子の知るかぎり、彼はかなりのヘビー・スモーカーである。
「先輩……煙草《たばこ》いいですよ」
「あ?」
沙弥子は手の中で玩《もてあそ》ばれているライターを視線で示した。
つられるように、自分の手を見下ろした大輔が、苦笑を浮かべて隣の席に置かれたコートのポケットを探《さぐ》る。
「あれ……もう一箱……」
煙草が見つからないのか。ポケットの中身を次々とテーブルの端に置き始める。手帳に小さな木の箱。最後にようやく、煙草が出てくる。
大輔が煙草の封を切るのを見るとはなしに眺《なが》めながら、沙弥子は自分が視界の隅《すみ》に置かれた木の箱に、興味を引かれているのに気づいた。
なんだか、彼にはひどく不似合いなものに思えたのだ。
「なんだ……これが気になるのか?」
「え?」
箱を手に取った大輔が、にやりと笑う。
「お守りなんだってさ」
蓋《ふた》を開け、中身を沙弥子に見せた。
「奇麗《きれい》ですね。イヤー・カフですか」
「イヤー・カフ? ……そうか、そう見えるか」
「違うんですか?」
「知らん。……リョウは大昔の耳飾りみたいだとか言ってたけどな。俺にはよくわからないんだ。身につけてろって言われているんだけどな」
「イヤリングにしちゃうと、ちょっと間抜けかな。それに、落ちないように挟《はさ》んだら、痛そう。……押さえて挟むんでしょ」
沙弥子はいたって率直な意見を述べて、大輔をうかがい見た。
「その意見は貴重だな。……何しろこれをつけてると、俺でもリョウの力が見えるんだ。箱に入れて持ち歩くのも邪魔だし、このままじゃなくしそうだしな」
木箱を閉じ、手帳とともにコートのポケットに押し込むと、大輔はゆったりと足を組んだ。
どうやら、彼はごく素直に、沙弥子の言葉を聞いたらしい。
蟻《あり》の話も、真剣に聞いていたのだろうか。そう思うと、少しは気が晴れた。
ケーキの残りを口に運びながら、知らず知らずに満足げな笑みが、顔に貼《は》りつく。
「そんなにうまいか? よかったな」
再び、意味もなく気分を壊《こわ》されて、沙弥子は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
思い切りよく、最後の一切れを口に放り込む。
それを待っていたかのように煙草《たばこ》に火を点《つ》けた大輔を、怨《うら》めしげに見上げ、沙弥子は密《ひそ》かに息を吐《は》いた。
「あたし、帰ります」
「おい……なんだよ」
「なんでもありません。ご馳走《ちそう》さま。……暗くなると怖《こわ》いから。帰り道で変なモンに会いたくないし……」
鞄《かばん》を手に立ち上がった沙弥子を見上げ、大輔は点けたばかりの煙草を灰皿に押しつけた。
「ちょっと待て。……ちゃんと家まで送ってやるから」
「いいですよ。どうせすぐですもん。……まだ、明るいしね」
にっこりと笑うと、そのままくるりと踵《きびす》を返した。
レシートとコートを掴《つか》み、大輔が追ってくる。
さっさと店を出た沙弥子は、歩道の端に立って、慌《あわ》てて支払いを済ます大輔を、ガラスの扉《とびら》越しに楽しげに観察した。
大輔が思いのほか狼狽《うろた》えたことで、少しは気が晴れる。
「ま、おごってくれただけで、よしとするか」
小さく呟《つぶや》いた沙弥子は、飛び出すように店を出てきた大輔に悪戯《いたずら》っぽく笑い返した。
「……たく。みっともない真似《まね》させるなよ」
「へへ……。お店のおねーさん笑ってたみたいね」
「何考えてんだか……」
沙弥子は歩き始めようとする大輔の袖《そで》を引いた。
「なんだよ。今度は」
「リョウちゃんに報告するんでしょ? さっきの思いつき」
「……まぁな」
「だったら、大道寺家《だいどうじけ》は逆ですよ」
「そうだな」
「ま、そういうことで。今日はほんとにご馳走《ちそう》さまでした」
ぺこりと頭を下げた沙弥子は、大輔に背を向けると走り出す。
何歩か走って振り返り、苦笑を浮かべてこちらを見ている大輔に、大きく手を振ると、再び走った。
家への角を曲がりかけ、ちらりと後ろを振り返る。
遠ざかる大輔の背がまだ見えた。
「あれ?」
一瞬、白い影が降ってきたような気がして、目を擦《こす》りその背を見つめ直す。
気のせいではなかった。今度ははっきりと大輔の周りに、白っぽい影が飛び回っているのが見える。
「何……あれ」
つい、さっきまでは何もいなかったのだ。
慌《あわ》てて、大輔を追おうとした沙弥子は、ふと思い直すと、家へと続く坂道を全力で駆《か》け上がった。
第五章 地に還《かえ》る
道場の中央に座し、竜憲《りようけん》は正面を見据《みす》えていた。
ここには祭壇に当たるようなものは何もない。知らぬ者が見れば、ただの板張りの広間といったところだろう。
武道の道場でももう少し、飾りけがあるはずだ。飾りといったら怒られるのかもしれないが、掛《か》け軸《じく》や額くらいはある。
考えてみれば、この道場がここまで閑散《かんさん》としていることにも、何かいわれはあるのだろうに、あいにくと聞いたこともなければ、想像したこともない。
もっとも、答えのほうは出そうにないが。
「お待たせいたしました」
扉《とびら》が音もなく開き、声がかけられる。
振り返ると、作務衣《さむえ》姿の鴻《おおとり》が立っていた。
「申し訳ございません。道が少々込んでおりまして……」
妙に現実的な言い訳が、鴻の口から出たことに、竜憲は目を瞬《しばたた》かせた。間の悪い沈黙が流れ、鴻が無言のまま竜憲の前に座る。
竜憲に例の桐箱を預けたきり、ここには姿を見せなかった鴻だが、この道場に座ると、この家《や》の主《あるじ》のようにしっくりと見えるから不思議《ふしぎ》だ。
「竜憲さんからお電話をいただくとは……二度目ですかね」
「すみません……急にお呼び立てして」
「いえ、そんなことは。……それよりも、何か重要なお話があるとか」
まっすぐに見据えられ、竜憲はぞくりと首をすくめた。黒く見える作務衣のせいで、顔ばかりが白く浮いて見え、ひどく妖怪《ようかい》じみた印象を受ける。
「あの……大輔に渡した金の……」
「ああ、あれは耳飾りですよ。魔除《まよ》けの護符《ごふ》です」
「そう、それですけど」
「あれが何か?」
「あれを持ってから、あいつの周りに妙なものがまとわりついているようで……」
鴻の目が見開かれる。
「なんですって?」
「ですから……」
「具体的に……。いったい何が、つきまとっているのでしょう」
「それが――はっきり見えないんだ。一度は一昨日《おととい》、鎌倉《かまくら》の霊園で、あいつが襲いかかられたんだ。その時、俺に見えたのは……いや、何も見えなかったんだが。……とにかく、妙なものに襲われたのだけはたしかだ。あいつをつり上げるぐらいの力はあった」
「なるほど……竜憲さんにも見えませんか……」
「ああ。どっちにしろ俺には見えなかったから、そいつかどうかはわからないんだけど。ただ、サコ……沙弥子《さやこ》には見えたらしくて、電話で知らせてきた。白い靄《もや》らしい」
「それはまた――竜憲さんがご一緒《いつしよ》の時のことですか?」
「違う。あいつが一人でいた時に」
と、鴻は腕を組み、目を閉じた。
ただでさえ、表情の読めない顔から、本当にいっさいの表情が消え失せる。
途惑《とまど》っているのか、それともわかっていたことなのか。
竜憲は鴻の言葉を待つしかなかった。
やがて、ゆっくりと黒い瞳《ひとみ》を見開いた鴻が、わずかばかり顎《あご》を上げて、竜憲の額《ひたい》のあたりを見据《みす》える。
「まさか。そこまでのことになろうとは……。私の読みが甘かったようです」
「甘かった?」
「はい。……姉崎《あねざき》くんには、けっしてあの護符《ごふ》を離さぬようにとお伝えください」
眉《まゆ》を怒らせ、竜憲は鴻を見据《みす》えた。
この答えで納得するわけにはいかない。
「どういうことだ。俺にもわかるように説明してくれ。調べてみるとか、いずれとか言うなよ。これに関しては、ちゃんと納得するまで、あんたの側《そば》を離れないからな」
「おやおや……私は、そこまで信用がありませんか」
鴻の口元が綻《ほころ》び、竜憲はむっと唇《くちびる》を引き結んだ。
「もちろん、ご説明いたします」
子供を諭《さと》すような口調に、ひどく反発を覚えたが、そう言われてしまっては怒鳴《どな》るわけにもいかない。
「……ごまかしは、なしだぞ」
ぼそぼそと念を押した竜憲を、鴻は穏《おだ》やかに、だが真剣な表情で見つめた。
「姉崎くんの破魔《はま》の力も、人の怨念《おんねん》……いえ欲望でしょうか……には通じないと言うことです。――餓鬼《がき》とは本来、人の欲望の残留思念ですからね。それが地霊《ちれい》の力を得れば、姉崎くんでも襲われることはあるでしょう」
「じゃあ、あれは人の怨念だって言うのか?」
「そう、かもしれません」
「かもしれないだと?」
笑みを湛《たた》えたまま、鴻がうなずく。
駄々《だだ》を捏《こ》ねる子供に、取《と》り敢《あ》えず笑って見せるというところか。むっとして、肩を怒らせた竜憲は、鴻を睨《にら》みつけた。
「自分の目で見ておりませんので、たしかなことは申せません」
「……今までにも……ヤツが持ち込んだ幽霊《ゆうれい》話の中にも、人の怨念が原因だったこともある。けど、そのどれも、ヤツは感じなかったんだ。向こうだって、大輔がいれば逃げるか、無視するかしていた。それが今になって、どうして……。どうして襲われたりするようになったんだ」
「念が産み出したものといっても、人の念、そのものではありません。餓鬼とは特殊な存在です。……人間ひとりひとりの怨念など、あれほどの力を持った姉崎くんには、なんの影響も与えられません。勝てないとわかっていれば、逃げるものですよ。たとえ、念だけの存在であっても……」
「答えになっていない。なぜ、今なんだ? ……考えようによっては、あの、護符を持ったから、襲われた……とも言えるじゃないか」
鴻の目がゆっくりと眇《すが》められる。
お前を疑っていると、言い切ったも同然なのだ。
しかし、鴻は敢《あ》えて弁明しようとはしなかった。哀れみの籠《こも》った、寂《さび》しげな表情で竜憲を正面から見つめる。
漆黒《しつこく》の、永遠の闇《やみ》にも思える目が、ただじっと、竜憲を見つめていた。
沈黙に耐《た》えられなくなったのは、竜憲のほうだった。
「……大輔に襲いかかったモノ。――餓鬼《がき》だろうが、妖怪《ようかい》だろうが、名前なんてのはなんでもいいが――俺にも見えなかった。敵意もなかった。普通なら、敵に回らないヤツじゃないのか? 敵とか味方とか考えずに、そこいらに漂《ただよ》っている、害のない……」
「竜憲さんご自身、見破れなかったのではありませんか?」
ぽつりと漏《も》れた言葉に、竜憲は歯を食いしばった。
なるほど、鴻の言うとおり、見破ろうとしたにもかかわらず、その正体は、何もわからなかった。
大輔を襲ったものは、曖昧《あいまい》すぎて、敵意すら明確には感じ取れなかったのである。
「力だけではどうにもならないこともあります。ですが、見破れなかったということが、敵の正体を教えてくれます」
魔物《まもの》を見る能力はあるのに、それを正しく使っていない自分を指摘されたような気になり、竜憲は口を鎖《とざ》した。
生まれながらに与えられた力だけでは、どうしようもないこともある。判断を下すためには、それなりの経験と思考能力が必要なのだ。
情けない話だが、竜憲は今まで妖怪と戦うために頭を使ったことなどなかった。
その付けが、一挙に押し寄せて来ている。
「じゃあ、どうして大輔に? ……あいつの力が特殊なのはわかる。だけど、あいつが狙《ねら》われる理由はないだろう。俺に考えられることと言えば……。奴らが、耳飾りに引き寄せられたんじゃないかってことぐらいだ」
ふっと息を漏らした鴻は、穏《おだ》やかな笑みを浮かべた。
「それは……。そう思われてもしかたないかもしれませんね。しかし、護符《ごふ》が間に合った、と考えてはいただけませんか? 姉崎くんは餓鬼に目をつけられたのです。敵として。……餌《えさ》として、と言い換えてもいいかもしれません。彼には、それだけの力があるのです」
心のどこかが、まだ納得していないとわめいている。
しかし、反論の言葉は、思いつかなかった。
大輔なら、あのへ理屈をこね回すことに生きがいを感じている男なら、いくらでも言葉を操《あやつ》るだろう。
しかし竜憲は、結果のでない論争など、無駄《むだ》と考えてしまうのだ。
護符のせいで大輔が襲われたのか、護符があったからこそ、あれだけですんだのか。
確かめようがないことだ。
「……もうひとつ聞きたい」
「はい……」
「連中は、今度はどこに出ると思う?」
「どこにでも。……私の考えが正しければ――恐ろしく飛躍していますし、なんの確証もないのですが――。彼らの狙《ねら》いが、本当に姉崎くんであれば、彼のすぐそばに……。いつ現れても不思議《ふしぎ》ではありません」
答えに窮《きゆう》するだろうと思った質問に、鴻は平然と応じた。
しかし、竜憲のほうは平然と聞くことはできなかった。
新たな犠牲者が、大輔だというのでは、話にならない。それでなくても、これ以上犠牲が出ないうちに、片をつけなければならないと思っていたのだ。
だが、戦うには、あまりにも不利な条件がある。
「……見ることはできるか?」
「力が増してゆけば……」
「どっちのだ。向こうか? こっちか?」
「両方です。向こうの力が増せば、実体を持ちましょう。竜憲さんの力が増せば、見えない敵を見極める術を覚えられましょう」
曖昧《あいまい》な答えに、竜憲は唇《くちびる》の端で笑った。
いまさら急に力が増すはずがない。ならば、敵が強くなって襲いかかるまで待つか。
見えない敵と戦うのがどれほど難しいか、この前の戦いでよくわかっていた。
「最後にもうひとつ……。どうして餓鬼《がき》と地霊《ちれい》が手を組んだんだ?」
「……それは。私にもわかりません」
「そうか。……じゃあ、ついでだ。もうひとつ。大きな破れ目があるって言ったよな。この前。……それはどこだ?」
「特定の場所ではありません。彼らには、場所は問題ではないのです。……そうですね。勢力分布に変化があったと言えばわかりやすいかもしれません。いつもならいるべき力が、そこから消えたということです」
「それが……地霊か?」
「おそらくは……」
「……なるほどね。わかった。ありがとう……」
軽く頭を下げた竜憲は、そのまま立ち上がった。
鴻はどうしても信用する気にならない男だ。そのくせ、彼に頼るしかないという状況が、ひどく腹立たしい。
結局は、自分の力が足りないからなのだ。
付け焼き刃で戦える相手など、所詮《しよせん》知れている。
そして、大輔を狙《ねら》っている相手は、今まで対峙《たいじ》したことがないタイプだった。
「竜憲さん……」
扉《とびら》に手をかけると同時に、呼び止められる。
「ひとつだけ、約束していただけませんか?」
「何をだ?」
「……姉崎くんが見えなくなった場合でも、戦いを投げ出さないでください」
眉《まゆ》を寄せた竜憲は、ゆっくりと振り返った。
「どういう意味だ」
「あの護符《ごふ》があれば、大丈夫《だいじようぶ》だとは思います。しかし、万が一、姉崎くんが餓鬼《がき》に取り込まれたとしても、そのまま見逃すようなことは、なさらないでください」
つまり、魔もろとも、大輔も討《う》てということなのだろうか。
竜憲の力が、人にさえ影響を与えるということを、鴻は知っているのだ。
破魔《はま》の力。
普通なら、肉体を持った人間には、なんの影響もないはずの力は、なぜか人を傷つけることがある。
「俺に見えなくなったら、大輔が取り込まれたということなのか?」
「はい」
「……やれたらな。あいつの力でかなわない相手に、俺がどこまで持つかは知らないよ」
にんまりと笑った竜憲は、扉を引き開けた。
温かい空気が、一気に流れ込む。
そういえば、道場はひどく冷えていた。
鴻がいる所は、常に冷えるのか……。
竜憲がちらりと、目の端で確かめた鴻は、暗闇《くらやみ》の中で正座したまま、ぴくりとも動かなかった。
死後十日。
手足が散乱。
頭部は下水溝《げすいこう》から発見。
新聞の三面記事に踊る活字を視線で追いながら、大輔《だいすけ》はトマトを丸ごと齧《かじ》っていた。
朝食というにはいささか遅い時間だが、寝癖《ねぐせ》のついた頭のまま、のんびりと食事をとっている。
厚切りのトーストに、コーヒー。手でちぎったレタスに丸ごとのトマトというメニューは、彼にしてはまともなほうだ。彼の母は朝食の時間を合わせない息子が栄養失調になっても、自業自得《じごうじとく》と言い放つだろう。
竜憲《りようけん》の母親と違って、完全に大人《おとな》扱いしてくれるのだ。
大学にさえ入ってしまえば、後は好きにしろというのが、両親の教育方針らしい。
高校時代はうるさいほど生活態度に口出ししていた母親も、何時に起きようがまったく気にも留めていなかった。
四年分の授業料しか出さないと宣言されているので、留年だけは注意しなければならないが、後は自由なものだ。
年の離れた兄が、地方の大学に通ったために、金銭感覚も甘くなっている。下宿代まで考えれば、少々の金を渡すのは、当たり前と受け止めてくれるのかもしれない。
もっとも、卒業と同時に、一銭たりとも援助してくれなくなることも、兄の例からわかっていた。
「……しっかしひでぇな……。どんないい男だって、これじゃあな……」
記事ではホスト・クラブの従業員となっているが、顔写真からすると、ホストだということは明白。胴体がすっぱりと持ち去られているあたり、それを惜《お》しむ女もいるだろう。
これで、あと片腕と片脚があれば、人間の部品がすべて揃《そろ》うことになるのだろう。
男女の区別をつけていないあたりが、いかにも妖怪《ようかい》の仕業《しわざ》だった。
人間がしでかしたことなら、性別ぐらいは揃えるだろう。
もし、現代にフランケンシュタイン博士がいるとしての話だが。
「揃う前に、始末したほうがいいんだろうな、きっと……」
自分でも意識せずに出た言葉に、大輔は目を瞬《しばたた》かせた。
たしかに、後二人もの犠牲者を出さないほうがいいに決まっている。しかし、それだけではないのだ。
おそらく、全身の部品が揃《そろ》ってしまえば、面倒なことになるのだ。
人間を食《く》うこの化け物は、時を追って強くなっている。
漠然と、そう思えた。
予感や直感というものも、霊感と同じくほとんど働かないのだが、今回にかぎって言えば、確信に近い思いがある。
人を食い続ける化け物は、無作為に犠牲者を選んでいるようでありながら、実は己《おのれ》の力を最も増幅できる因子を持った人間を、選んでいるのだ。
最終目的は……。
おそらく、竜憲だろう。
彼の中に眠っている、姫神に関係しているのかもしれない。
「……本当かよ……」
これだけは確信がない。
あれほどの美女だ。
たとえ魔物《まもの》であろうと、彼女の関心を引きたいと思うに違いない。
実際、大輔も彼女が現実の女でないことを、密《ひそ》かに悔《くや》しがっていた。
化け物であれ神様であれ、美人はそれだけで正しい。
いたって単純な、しかし正直な思いだ。
けっして相容《あいい》れない、別の生命だとわかっている大輔でさえ、あの美女に引きつけられている。同じ妖怪《ようかい》ならば、彼女のために何をしても不思議《ふしぎ》ではなかった。
「まったく……。つくづく俺は女に甘いよな……」
ちいさくごちた大輔は、時計に目をやると、慌《あわ》てて立ち上がった。
自分の役割が、護符《ごふ》なのか用心棒なのかは今ひとつはっきりしないが、昼には竜憲のおつきで出かけることになっている。
どうせろくなことは起きないだろうに、断れないのは、つい先日、彼に助けられたという意識があるせいだ。
どうも、勝手が違う。
今までは、常に、主導権は自分にあった。
授業のノートと、先輩のコネで、試験が近づくたびに、たっぷりと恩を売り、霊能者《れいのうしや》としていいように使っていた。
それが、自分にも被害が及ぶようになると、彼を頼らなくてはならなくなったのだ。
どうも気に入らない。
自分にも力があるというのなら、それを制御《せいぎよ》できれば問題ないのだが、今のところ初心者マークをつけて、よろよろと発進したばかりなのだ。
洗面所の鏡を覗《のぞ》き、適当に髪を撫《な》でつける。
起き抜けに髭《ひげ》だけは剃《そ》ったのだが、どうもドライヤーまで使う気にはなれない。
今日一日、下手《へ た》をすると竜憲の顔だけを見るかと思うと、洒落《しやれ》っけもどこかへ飛んでいった。
金色の光が、視界を掠《かす》める。
例の金の環《わ》だ。沙弥子《さやこ》の言葉に従って着けてみたのだが、それは思いのほか、しっくりと耳の縁《ふち》に収まっている。着け慣れぬもののはずなのに、気にもならない。
あとは他人の目にどう映るか……だ。あまり評判がよくなければ、もちろん外《はず》すつもりだったが。
「……と。……くそ、ちったあのんびりさせろよ……」
キッチンで電話が鳴っている。
櫛《くし》を放り出した大輔は、相手のわかっている電話に出た。
『大輔。無事か?』
「無事って……何があるってんだよ。約束まであと三十分もあるだろ?」
予想どおりの相手に、不機嫌《ふきげん》な声を出した大輔は、中身の半分残っているカップを引き寄せた。
『そりゃそうだけど……』
「どうした? 鴻《おおとり》は捕まったのか? ちゃんと話を聞いただろうな」
『一応な』
「どうしたよ。また言いくるめられたんか?」
カップを傾け、ぬるくなったコーヒーを流し込む。
竜憲が鴻を苦手《にがて》にしているのは、よくわかっていた。しかし、それ以上に大輔も虫が好かないのだ。
のらりくらりと掴《つか》みどころがない対応をするくせに、誠実なふりをするところが、気に入らない。
そのうえ、肝心《かんじん》な時には彼に頼らなければならないのだ。
女の趣味はまったく違う大輔と竜憲だが、鴻が気に食《く》わないという点では、意見の一致を見ていた。
『まぁ、一応全部話してくれたよ。どこまで本気なのか、わからないけどね……。それより、朝刊見た?』
「ああ……。ホストが殺されてたってヤツだろう? よくもまあ……。どうせなら一人にしときゃ、バランスがいいだろうに……。警察も手間がかからないだろうし」
電話の向こうで、竜憲が押し黙《だま》るのがわかる。
人の生き死にに、必要以上に責任を感じる男だ。
化け物と戦う力を持っている数少ない人間という自覚があるせいか、自分の責任でもないことを、妙に気にする。
かといって、特別な人間である、などという鼻持ちならない認識にならないあたりが、いかにも彼らしいのだが。
「で、どうする? 車で出るんなら、こっちに回ってくれないか?」
『……ああ。わかった……』
「おい、リョウ。何、すねてんだ?」
『いや。……ちょっと気になることを聞いたから……。わかった。迎えに行くから』
「ああ、頼むな」
電話を切った大輔は、皿とカップをシンクに運んだ。
ざっと水をくぐらせて、ついでに浄水器の水で口をすすぐ。
と、背筋が凍《こお》りついた。
ばっと振り返る。
そこには、長い髪を流した男が、いた。
怒りに瞳《ひとみ》を燃やして、仁王立《におうだ》ちになった男が、大輔を睨《にら》みつけている。
袖《そで》のない、頭からすっぽりと被《かぶ》る白い上着に、ゆったりとした白いパンツ。ベルトは金のプレートを組み合わせたものらしい。
「……誰だ、あんた……」
男の唇《くちびる》が動く。
しかし、声は伝わってこなかった。
不思議《ふしぎ》と、恐怖感はない。
身長は大輔と同じぐらいだろうか。体重は向こうのほうがありそうだ。剥《む》き出しの腕についた筋肉が、見た目以上の重量があることを教えてくれる。
ひょっとすると、この男も、魔物《まもの》なのだろうか。
「……あんた。ひょっとして、あの姫様と対《つい》の鏡に封じられていた……」
こちらの言葉も、向こうには届かないのだろう。
射《い》るような視線を据《す》えたまま、男は何か話し続けていた。
言葉が大輔に伝わらないことを知って、苛立《いらだ》っている。
肩が動いた次の瞬間、がっしりとした手が、大輔の首に伸ばされた。
しかし、なんの感覚もない。
男の肘《ひじ》が目の前にあるのだが、掴《つか》まれているはずの首に、圧迫感はなかった。
「無駄《むだ》だよ。……あんた、俺と生きている次元が違うんだ。生憎《あいにく》と、俺は霊能者《れいのうしや》じゃないし、言葉も聞けないんだよ。言いたいことがあったら、竜憲か、あそこの家の者に言いな」
再び、目の前を手が過《よぎ》る。
その動きは耳をひっつかんで揺さぶるといったところだろうが、腕の動きが鬱陶《うつとう》しいだけで、大輔にはなんの影響もなかった。
映画のスクリーンの中に紛《まぎ》れ込んだようなものか。
筋肉の動きや、体毛までがリアルに見えるだけに、余計に造りものめいている。これで少しはピントがずれていれば、もう少し現実みがあるだろう。
「悪いな……。俺はただの人間なんでな……」
必死で捕まえようとする男を無視して、大輔はテーブルに戻った。
椅子《いす》の背に掛けた上着を取り、ポケットを確かめる。
半分ほどになった煙草《たばこ》が一箱。
到底足《た》りる量ではない。
近くの自動販売機に寄って行ったほうがいいだろう。
尻のポケットから小銭入れを引き出して、コインを確認した大輔は、上着を肩に掛けると、テーブルの鍵《かぎ》を取った。
その間も、実体のない男は、大輔を捕まえようと、〓《もが》き続けている。
「無駄《むだ》だよ。……まぁ、日が暮れるまでには消えてくれ。ウチの親は、怖《こわ》がりだからな」
人間に危害が与えられないのなら、こんな同居人というのも面白《おもしろ》いかもしれない。ただし、時と場合によるが。
女を連れ込もうなどと考えている時は、歓迎できる相手ではなかった。
目の前に立ちふさがる男を気にも留めず、そのまま突っ切る。
完全に無視したつもりだったが、どこかで意識していたのだろう、危うくドアにぶつかりそうになった大輔は、小さく笑うと、ノブに手を掛けた。
「あ……そうだ……。リョウならすぐに……」
振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
「なんだよ……。人がせっかく……」
唇《くちびる》を曲げた大輔は、ひょいと肩をすくめた。
鏡を持ち出してしまったために、彼はこの家に取《と》り憑《つ》いたのだろうか。
「生憎《あいにく》だったよな……。俺はあんたたちと折り合いをつけることができないんだ……」
声を聞くことすらできない。
竜憲のように、魔物《まもの》を封じる器になるのはご免だったが、奇妙な哀れみを覚えるのもたしかだ。
手の中で鍵を鳴らした大輔は、そのまま玄関に向かった。
煙草《たばこ》の取り出し口に手を入れた大輔《だいすけ》が、そのまま動きを止めた。
奇妙な手応《てごた》えがあったのだ。
透明なカバーの向こうに、自分の手と、真っ赤なマニキュアの塗《ぬ》られた手がある。
声も出せず、慌《あわ》てて手を引き抜く。
人の腕が、きっちりと取り出し口に収まっている。
誰かの悪戯《いたずら》。
マネキンの腕。
そう思いたいのは山々だが、手に触《ふ》れた感触は、まぎれもなく人間のものだった。
しかも、まだやわらかい。
ごくりと、音をたてて唾《つば》を飲み込むと、ゆっくりと後退《あとずさ》った。
腕を取られた女がいる。新たな犠牲者がいるのだ。すぐそばに……。
逃げなければ。
警察に通報を。
悲鳴を上げれば、誰かが顔を出してくれるだろう。住宅街といっても、そこそこに年月が過ぎたこのあたりには、仕事を引退して、家に籠《こも》っている人間もいる。
しかし、咽喉《の ど》はひりついたように、声すら出なかった。
簡単に悲鳴を上げられる女を、これほど羨《うらや》ましく思ったことはない。女の声なら、誰でも飛び出してくるだろう。
だが、男の声では、喧嘩《けんか》と思われて、扉《とびら》を閉じられるのが落ちか。
一歩、足を引く間に、恐ろしい早さで思考が巡《めぐ》っていた。
舞い上がり、何もわからなくなった自分と、それを嘲《あざけ》る自分がいる。
がくがくと足が震《ふる》えて、周りを見ることすらできない。ただひとつ、ここで座り込んでしまえば、二度と立てないということだけが、確実にわかっていた。
『どうかなさいましたか?』
背後から女の声。
自然と、足の震えが止まる。
我ながら、現金なものだと苦笑しながらも、大輔は後ろを振り返った。
「警察を……」
『無駄《むだ》じゃない? どうせ何もわからないじゃろう……』
ぱっかりと口を開いて笑う女の顔。がっしりとした肩に、華奢《きやしや》な首がのっている。
小首を傾《かし》げているように見えたのは、切り口が合っていないからだった。
男の、がっしりとした首にのせるには、彼女の首はあまりにも小さい。
『どうした? あの時の勢いはどこへ消えた? 通りすがりに、殺したではないか、目もくれずに……。儂《わし》らはそこまで弱いかえ?』
記憶にない。
自分が魔を排除しているという意識などないのだ。
『どうした?』
真っ赤な唇《くちびる》が、けたけたと笑う。
首のない死体が発見されたのはいつだったか。いくら夏場ではないとはいえ、こうも表情豊かに動くものだろうか。
「お前ら……。人の身体《からだ》を玩具《おもちや》にして、そんなに面白《おもしろ》いか?」
そうなのだ。
この化け物どもは、人の死すら尊重していない。
『面白いぞ。昔は儂らにも、こんな器があったからの。あればあったで不便じゃが、なければないで不便じゃ……。どうじゃ? この顔は。不満だらけで、自分が生きていることも忘れたおなごじゃ……』
ぱっかりと、限界まで開いた口は、悲鳴を上げているようにも見える。
こいつらは、人形を操《あやつ》るのと同じ感覚で、人の身体で遊んでいるのだ。どうすれば人らしく見えるか、などと、考えたこともないだろう。
ただ単に、操る肉体があるということが、面白くてしかたがないのだ。
『ほれ、どうした。あの力はどこへ捨ててきた?』
自分の小鼻が痙攣《けいれん》しているのがわかった。
唇がまくれ上がり、獣《けもの》のような唸《うな》り声さえ聞こえる。
肩甲骨《けんこうこつ》の間が熱くなり、肩が盛り上がってゆく。
「貴様ら……」
腕が、何かを掴《つか》んだ。
自分の腕ではない。
しかし、その感覚はある。
肉体の腕ではないもう一対の自分の腕が、ゆっくりと振りかぶってゆく。
『儂らを切るかえ! 切れるかえ!』
嘲《あざけ》り、嘲笑する女には、大輔のもう一対の腕が見えるのだろう。奇麗《きれい》にアイラインが引かれた目は、腕の動きに連れて動いていた。
頭上の腕が、剣の柄《つか》らしきものを握り直す。
――振り下ろせ! ――
――この、化け物となりはてた人間の骸《むくろ》の息の根を止めるのだ! ――
しかし、命じる心とは裏腹に、幻《まぼろし》の腕は頭上で剣を玩《もてあそ》んでいた。
――何をしている! ――
自分の感覚なのに、自分の意思に従わない腕。
やがて、ゆっくりと、もう一対の肉体の腕が持ち上がり始めた。
精一杯、手が開かれ、爪を立てるかのように指先が曲がってゆく。
目の前の女の首に、爪を立てる。
一瞬よぎった不安をよそに、手は、たしかに肉を捕《とら》えた。
『何をする? 無駄《むだ》じゃ。死体をどうやって殺すのじゃ? 痛うも痒《かゆ》くもないぞ。……死んでおるからな』
首にかけた手を、男女の手が掴《つか》む。
その両方が、右手だった。
「馬鹿《ばか》が!」
女の腕を逆手に掴む。
本来左手がつくべき場所にある腕は、あっさりと根元からもげた。
なまぬるい血が、飛び散る。
真新しい死体からは、まだ血が流れ出しているのだろうか。
腕を大地に叩《たた》きつけた大輔は、その動きを目の隅《すみ》で追った。
と、右目が見えなくなる。
顔に飛び散った血が、額《ひたい》を伝って、目に入ったらしい。
ぞっとする。
視界が塞《ふさ》がれたことより、死体の血が、目に入ったという事実のほうが嫌《いや》だった。
純粋な嫌悪感《けんおかん》。
『どうした。……汚いか? 気持ちが悪いか? ついさっきまで生きていたぞ。どんな男も振り返ったぞ。……それも、あと、二、三年だがな!』
耳障《みみざわ》りな笑い声が、塞がれた視界の先から届く。
見えるほうの目の隅に、動くものがあった。
投げ捨てたはずの腕が、這《は》いずっている。
真っ赤な爪がアスファルトに立てられ、そのまま腕を引き寄せているのだ。指が動くたびに、幅の広い金の指輪が光を弾《はじ》いて煌《きら》めく。
ずるずると引きずられる腕は、血の筋を引いていた。
「どうして……」
『死体は死なんものよ……』
ぽっかりと口を開けたまま、腕の動きを見守る。
じわじわと這《は》い進んでくる腕は、それだけでひとつの生命だ。
異形《いぎよう》の生命。
見慣れた形をしているが故《ゆえ》に、それだけで動かれると、ひどく異様な気がした。
「くそぉ!」
闇雲《やみくも》に、腕を振り回す。
乱雑に組み立てられた身体《からだ》が揺《ゆ》れ、音を立てて崩《くず》れた。
一瞬、幻《まぼろし》の腕の感覚が消える。
その瞬間、大輔は駆《か》け出していた。
『待て! 逃げても無駄《むだ》じゃ!』
声だけが追いかけてくる。
目の前の交差点を、右に曲がれば家があるのだ。
その数歩が、恐ろしく遠い。
背後から迫る気配の正体を確かめる余裕など、とてもなかった。
この町は、これほど静かだったか。いくら平日の昼間だとはいえ、人影がまったくないというのは解《げ》せない。
物《もの》の怪《け》が闊歩《かつぽ》する世界が、見慣れた町に重なり、自分だけがそこに紛《まぎ》れ込んでしまったのだろうか。
『待て! 無駄《むだ》だと言うておろうが!』
肩に、手がかけられる。
その手首を掴《つか》んだ大輔は、悲鳴を上げた。
男の手首に、華奢《きやしや》な、女物の時計。
浜田《はまだ》の手だ。
女と時計を交換したと、得意げに話していた男。
腕を投げつけ、通りに走り出る。
瞬間。
けたたましいブレーキ音が響《ひび》いた。
「大輔! 何考えてんだよ!」
「リョウ!」
見慣れた車が、目の前に停まっている。
ドアを引き開け、転《ころ》がり込む。
「出せ! 出してくれ!」
叫ぶと同時に、車は走り出した。
狭《せま》い車内で身体《からだ》を捩《よじ》り、どうにかシートに腰を落ち着けた大輔は、がたがたと震《ふる》えていた。自分の肩を抱き、唇《くちびる》を震わせる。
「どうしたんだ……いったい」
竜憲の声が妙に遠くに聞こえる。
「早く! 早くしろ!」
「早くって……」
車の速度が上がった気がする。
それだけで、少しは気分が落ち着いた。
「何があった?」
ようやく声が普通に聞こえる。
「何がって……」
わけがわからない。
冷静に状況は説明できるだろう。だが、なぜ車の助手席に収まって震えているのか聞かれたら、答えようがない。恐ろしいとか、気味が悪いとか、そんな単純な形容では表現できないのだ。
「血か? ……それ」
「え? 血?」
「怪我《けが》か?」
急に思い出す。
血の跡を引いて、這《は》いずる赤い爪の手を。積み木が崩《くず》れるように、ばらばらになった人間の部品《パーツ》を。
胃のあたりがむかむかとしてくる。
震《ふる》える手を額《ひたい》に伸ばすと、指先がぬるりと血に触《ふ》れた。
「……女が死んだ……はずだ」
吐きけを飲み込みながら、辛《かろ》うじて告げる。
「女?」
「金の指輪……」
言いながら、左手でポケットを探《さぐ》る。
早く血を拭《ぬぐ》いたいのだ。いや、本当なら、洗い流したい。それが無理だということくらいはわかっていた。変に冷静に状況を判断する自分と、益体《やくたい》もない欲求を感じる自分とが、同居している。
「あ……ない。……忘れた……」
「何をだ!?」
竜憲の声がひどく苛《いら》ついているのはわかったが、自分の反応が鈍《にぶ》いのをどうすることもできない。
不意に車が停まった。
「リョウ!」
睨《にら》み据《す》えると、ステアリングに顎《あご》をのせた竜憲が、ちらりとこちらを見る。
「出たんだな」
ぐっと黙《だま》り込むと、竜憲の眉《まゆ》がゆっくりと引き上がる。
竜憲の手がギアを入れ替えた。
反射的にその手を掴《つか》む。
「離せよ」
「やめろ」
「何を?」
「駄目《だめ》だ。……逃げるんだ」
「……大輔……」
「駄目だ!」
息を吐《は》いた竜憲が、静かに大輔の手を引き剥《は》がした。
「大輔……落ち着けよ。――逃げたら、意味がないだろう」
『違う。ここで戦っても無駄《むだ》だ』
誰かが告げる。
自分の唇《くちびる》から漏《も》れた言葉だったが、大輔が喋《しやべ》ったものではない。
あの、幻《まぼろし》の腕と同じ何かが、彼の肉体を借りて言葉を綴《つづ》っているのだ。咽喉《の ど》の奥に詰まったものが、それの意識なのだろう。
そこだけが、大輔の意識から切り離されて、勝手に動いている。
「ここで……ってのはどういう意味なんだ? どこならいいって言うんだ」
『すぐ先の公園だ。あそこなら……』
ふわりと奇妙な圧迫感が消えた。
言いたいだけ言って、勝手に逃げ出したやつは、その後の気まずさなど、知りもしないだろう。
あからさまな不審《ふしん》の目を向けた竜憲は、それでもそのまま車を走らせた。
「……児童公園でいいんだな」
念押しされても、大輔には答えることができない。しかし、このあたりの公園といえば、住宅地が造成された時にできた小さな児童公園しかなかった。
「公園に何があるんだ?」
「いいから行け!」
自覚もなく、声を荒らげてしまった大輔は、頬《ほお》を引きつらせた。
自分の身体《からだ》を勝手に使おうとするもの。人間の肉体を集めて、奇怪な操《あやつ》り人形を作ろうとするもの。
人の尊厳など微塵《みじん》も考えていない存在への怒りが、恐怖を上回っているのかもしれなかった。
「くそったれ……」
理不尽《りふじん》な敵への怒り。
しかし、このままでは、対峙《たいじ》することはおろか、逃げることすら難しい。今まで、こんな敵と戦っていたのだ。竜憲は、ただひとりで。他人からはまったく理解されずに。
その筆頭が、大輔自身だった。
だが、今度は大輔の番らしい。
なんの対抗手段も持たず、どうすれば敵を始末できるのかもわからずに、ただ闇雲《やみくも》に戦えというのだろうか。
「くそぉ……」
死んだように静まり返った住宅街の中を、車が走り抜ける。
自分の口が指示した、小さな公園がゆっくりと近づくのを、大輔は目を眇《すが》めて見据《みす》えていた。
竜憲《りようけん》や大輔《だいすけ》が生まれた頃には、すでにあった小さな公園は、移植された木々が、鬱蒼《うつそう》と枝を伸ばしている。北側に面した道路の拡張工事のせいで、低い生け垣が削《けず》られて金属の柵《さく》になっているが、動物の模様を描き出す造形は、ここを児童公園らしく見せていた。
「……で、ここに何があるんだ?」
象の模様の前で車から降りた竜憲が、助手席に座ったままの大輔を覗《のぞ》き込む。
「知らん」
家からさして遠くない。
つまり、あの化け物達からそう離れていないのだ。大輔は車から降りる気になれず、そのままシートに腰を下ろしていた。
「……よく、降りられるな……。何が起こるか……」
「車を使ったほうが危険だよ……」
ちらりと笑った竜憲は、キーを抜き取った。
うるさいほど鳴いていた警告音が止まる。ドアが開いていると喚《わめ》き続ける車は、命を断ち切られておとなしくなった。
「何が危険なんだよ。……これじゃ、逃げることも……」
「逃げ続けてもしかたがないだろう。何があったのか知らないけれども、化け物に襲われたっていうのなら、車で逃げるのは危険すぎる」
「どうしてだ?」
「事故るだけだろ。場所が問題なら、歩いてでも逃げられるし、そうでなければ、何を使ったって、無駄《むだ》だ」
『そのとおり。……逃がさんぞ』
甲高《かんだか》い笑い声とともに、嘲《あざけ》るような声が響く。
同時に車の屋根で鈍《にぶ》い音がした。
何かが落ちる音。
固いものではない。それがなんなのか、想像するまでもないだろう。
続いて、車のボンネットに黒い塊《かたまり》が落ちてきた。
長い髪が生き物のように波打って、白い顔がじわりと大輔を振り向く。首だけの女は、ゆらゆらと揺《ゆ》れ、安定を取り戻すと、真っ赤な唇《くちびる》の端をゆったりと引き上げた。
『……後は力だけ。……それですべてが揃《そろ》う』
ざわめくような忍び笑いが、人気《ひとけ》のない街に響いた。
『お前を食《く》えば、力が揃《そろ》う』
女の視線は大輔に注がれていた。
「力だと……?」
目を見開き、大輔は譫言《うわごと》のように呟《つぶや》いた。
それこそ、わけがわからない。
女の目は、車の外に立ったままの竜憲を見ていないのだ。
「大輔! しっかりしろよ。何か聞こえるのか?」
声に促《うなが》され、ぎごちなく竜憲を振り返る。
「聞こえない……のか?」
「ああ」
自覚はなくとも、その答えがよほどショックだったのだろう。頭から冷水を浴びせられたように、唐突に現実に引き戻される。
ここにきて、ようやく竜憲がまったく落ち着いていることに気づいた。
「なんだと!」
叫んだ大輔は、眼前で不気味《ぶきみ》に微笑《ほほえ》む生首《なまくび》を指さした。
「じゃあ、これは!」
「もちろん。……見える」
目を見開いた大輔は、竜憲をしげしげと見つめた。
ボンネットにのった生首を、平然と見据《みす》える竜憲は、逃げようともしない。運転席のドアを開いたまま、そこに立っている。
「よく……そう、落ち着いていられるな!」
「しょうがないだろ……あるもんはあるんだから……」
「な……!」
視界の隅《すみ》で髪がのたうつのが見えた。
怒鳴《どな》るはずの声が咽喉《の ど》の奥に貼《は》りつき、自分でも情けないほど、身体《からだ》が硬直する。
「……あの、耳飾り持ってるな」
竜憲の言葉に、大輔は声もなくうなずいた。
「本当だな」
妙に緊迫感のない竜憲の声。
ぎくしゃくと引き上げた手で、左の耳を探《さぐ》る。
金環はそこにあった。
耳障《みみざわ》りな笑い声が、一段と高くなる。
車がゆさゆさと揺さぶられた。どんどんと鈍《にぶ》い音が、屋根の上で不規則に繰り返される。
「なんとかしろ!」
上ずった声が、大輔の口から飛び出す。
『どうする? 死者を殺すか?』
『どうやって?』
けたけたと笑う声が、大輔の頭の中に谺《こだま》した。
いつのまにか、フロントガラスいっぱいに、黒い髪が貼《は》りついている。ふと気づくと、窓ガラスを赤い爪《つめ》が掻《か》き毟《むし》っていた。
ドアの開く音がする。
「出ろ!!」
「リョウ! やめろ!」
止めるまもなく、竜憲は助手席のドアを引き開けた。
開いたドアから引きずり出される。
ふわふわと舞った髪が、次の瞬間に、大輔の首に絡《から》みついてきた。
悲鳴にもならない、掠《かす》れた声を上げて、大輔は竜憲の腕を振りほどくと、そのまま駆《か》け出した。
とたんに何かに躓《つまず》く。
そのまま大輔の身体《からだ》は、不様《ぶざま》に地面に転《ころ》がった。
「くそっ!」
罵《ののし》って、身体を引き起こした弾《はず》みに、自分の躓いたものが目に入る。車の下から生《は》え出た女の脚が、妙な具合に折れ曲がっているのだ。
それがどんなに形のよいものでも、その部分だけでは不気味《ぶきみ》なだけだ。マネキン人形の部品が、奇妙な嫌悪感《けんおかん》を感じさせる理由が、なんとはなしに理解できる。
視線を上げると、ひどく現実離れした場面が、視界に飛び込んできた。
日光を弾《はじ》いてブルーグリーンに輝く車体に、人の胴体がのり、脚が立てかけられ、ドアには細い女の腕がぶら下がっている。
「大輔! 逃げろ!」
竜憲の声に振り向くと、白い顔が目の前にある。
慌《あわ》てて身を屈《かが》め、やり過ごす。
できの悪いホラー映画でも、こんな演出はすまい。
場違いな思考が、頭の中を駆け巡《めぐ》る。
それを振りはらうように、大輔は低く唸《うな》った。
「大輔!」
脚に奇妙な感触があった。
膝《ひざ》のあたりを太い指が掴《つか》んでいる。
振り解《ほど》こうと、身を屈めた瞬間、首が後ろから掴《つか》まれる。
長い爪が首に食《く》い込んだ。
『ふふ……。捕《つか》まえた……』
地面に転がった首が、ひどく楽しげに笑った。
とてつもない力が、大輔の身体《からだ》を引き起こす。
「嫌《いや》だ! 離せ!」
自分の眼前を、自分の腕ではない別の腕が過《よぎ》る。
さっきも感じた腕だ。
自分のものではない、見えない自分の腕。
大輔の口を借りて、この場所を指示したのも、こいつだろう。
ひょっとすると、自分の身体はすでに化け物に乗っ取られているのかもしれない。
ぞくりと身を震《ふる》わせた大輔は、すがるように化け物に目をやった。
目に見える化け物は、単純に敵だと認識できるのだ。
『無駄《むだ》だと言ったじゃないか……』
別の声が囁《ささや》く。
『なんのために人の身体を集めたと思う……その剣では屍《しかばね》は切れん』
囁きと笑い声がざわざわと広がっていく。
もう一対の自分の腕が、金属の煌《きらめ》きとともに振り下ろされる。
閃光《せんこう》が過り、女の顔が一瞬歪《ゆが》む。
白い靄《もや》がふわりと首を包み、弾《はじ》けるように消えた。
その瞬間、奇麗《きれい》に化粧された顔が、死人のものになる。
だが。
瞬《まばた》きする間に、女の顔は生気を取り戻した。
『無駄と言ったろう』
首に食い込む指の力が強まる。
本来の自分の腕は、何かに繋《つな》ぎとめられて、動かすことができない。
――嫌だ! ――
心の中を占《し》めているのは、拒絶の意思だけ。どうすればよいのかなど、考えることもできない。
振るわれる未知の腕は、白い靄を切り払い、消しているばかり。
『無駄じゃ。無駄じゃ』
声が嘲笑《あざわら》う。
――嫌だ! 嫌だ! ――
と、突然、すべての縛《いまし》めが解《と》ける。
反動で大きく蹌踉《よろ》めいた大輔は、そのまま踏みとどまることもできずに、地面にもんどり打って転がった。
頭を路面で打ったのか、ひどくぼんやりと意識が霞《かす》む。
見開いているはずの目には、スパークのように弾《はじ》ける閃光《せんこう》しか見えない。
「大輔!」
その中で、竜憲の声だけがやけにはっきりと聞き取れる。
腕を大きく振る竜憲は、公園の中に呼び込もうとしているようだ。
「くそ……」
ふらつきながら立ち上がった大輔は、引き寄せられるように公園に向かった。
再び、首に絡《から》む手がある。
だが、今度は大輔は迷わなかった。
敵が何を恐《おそ》れているか、わかっているのだ。連中は竜憲の力を、そして、おそらくはこの公園を恐れているに違いない。
「大輔!」
柵に寄りかかるようにして手を伸ばした竜憲が、大輔の肩を掴《つか》む。
「こっちへ!」
乱暴に引き寄せられ、柵の中に転がり込む。
同時に大輔は大きく息を吐《は》いた。
木々に囲まれた空間は、化け物達の威圧感を薄れさせてくれるのか。まだ新芽も吹いていない、枯れ木に見える木でも、人に安らぎを与えてくれるようだった。
「大丈夫《だいじようぶ》か?」
「お前は?」
あの化け物達は、竜憲にはなんの注意も払っていない。竜憲の力を恐れているのか、それとも興味がないのか。
どちらにしろ、ひどく腹立たしい。
化け物達と戦える力があるのは、竜憲のほうなのである。
「見えはするが、声も聞こえないし、触れない。それこそ、世間で言う幽霊《ゆうれい》みたいなものだな」
竜憲はどこか楽しげだった。自分が一人で戦っている時、大輔になんの影響もないことを苦々《にがにが》しく思っていたのだ。
頭抜けた体格を持っているだけに、不公平を感じてしまうのである。もっとも、彼がどんな目に遭《あ》っているかは見えているので、高みの見物とはいかなかったのだが。
「くそ……。どうすりゃいいんだ? ここにいれば大丈夫なのか?」
「……少しはね。木が、守ってくれる。今のところは……」
「今のところ……だと?」
「そうだ。……あいつらの正体がわかれば、木は守ってはくれないだろう」
微《かす》かに笑った竜憲は、大輔の肩に手を置いた。
表情を引き締め、顔を見上げる。
ふわりと、顔が下がった。
女に対するように、大輔が膝を屈《かが》めたようだ。
長い付き合いで、初めてのことである。
頬《ほお》を引きつらせた竜憲は、真剣な視線を注ぐ男の額《ひたい》を、音をたてて叩《たた》いた。
「べつに変わったところはないみたいだな。……相変わらず、何も連れていない」
その言葉に、大輔のほうが顔をゆがめた。
彼のほうは、何かに取《と》り憑《つ》かれているかもしれないと、考えているのだ。竜憲がその気になれば、勝手に動く手や口の正体が見えるものだと、信じていたのである。
それが、何も変わったところがないと言う。
「じゃあどうして俺だけが……」
「あんたのほうが、ちゃんとした戦士だからだろう。俺なんかどうとでもなると思っているんだろうな……」
「お前……嬉《うれ》しそうだぞ……」
「そうか? ……そんなことより……。ちょっと付き合ってくれ……」
くるりと踵《きびす》を返した竜憲は、車のほうに引き返しはじめた。
「おい! リョウ! そっちは……」
「大丈夫《だいじようぶ》だ。外には出ない」
あっさりと言われても、付き合う気にはなれない。
あの、人間の部品《パーツ》達が、また襲ってくるかもしれないと考えただけで、足がすくんでしまうのだ。
いまさらのように、何が待ち受けているのか知っていながら、現場に向かえる竜憲の精神力に感心する。
義務感と言ってもいいのかもしれない。
彼は、自分が戦えるということの意味を、はっきりと自覚しているのだ。
「大輔! お前が来なくちゃ意味がない。……今度のことに関しては、俺はただの役立たずなんだぞ!」
「嬉しそうに言うなよ!」
怒鳴《どな》り返した大輔は、深い息を吐《は》いて、動物の模様の柵《さく》に向かった。
象、キリン、パンダ。
子供が喜びそうな動物が、単純な線で描かれている。その一番端のウサギの前に立ち、竜憲は大輔を待っていた。
枝の影が、竜憲の顔を斜《なな》めに走っている。太い枝に切り取られた影の部分がぼんやりと霞《かす》み、女の顔が浮かんだ。
『その力……そなたらには過ぎた力じゃ』
遠く近く、やわらかな声が耳に届く。
穏《おだ》やかだが、凜《りん》とした声。竜憲の唇《くちびる》が動いたわけではなかったが、枝の影になった部分に浮かぶ女の声だと、はっきりわかった。いつまでも聞いていたい気分にさせられる、艶《つや》やかな声である。
「望んだわけじゃない……」
『使えもせぬ力を、なぜ欲する?』
竜憲の身体《からだ》が動き、影がずれる。
息をのむほど美しい女が、怒りを露《あらわ》に眉《まゆ》を寄せていた。
しかし、その目は大輔を見てはいない。
「大輔! 気をつけろ! 後ろに……」
竜憲の警告の声をかき消すように、耳元で割れんばかりの声が響く。
『うるさい! 欲しいのだ!』
肩に鋭《するど》い痛みが走る。
『闇《やみ》の棲《す》みかに帰るがよい。……そなたらの這《は》い出る時ではない』
涼《すず》やかな声が、耳に心地よい。
――そうだ……帰れ……帰っちまえ――
太腿《ふともも》にもひどい痛み。
だが、それは奇妙に遠い感覚で、何か他人《ひ と》事《ごと》のような気がする。痛いと騒ぐ肉体が、他人のもののようなのだ。たしかに自分の身体のはずなのに。
大輔は、竜憲の顔の向こうに見える女の顔を、うっとりと眺《なが》めていた。
少々の痛みなど、その顔を眺めていられるのなら、甘んじて受けようという気になっている。
しかし、その思いは竜憲の動きで断ち切られた。
ばっと飛び出した竜憲が、大輔の背後に向かって手を突き出す。
真紅《しんく》の光が走る。
「痛い……」
「大輔! 何ボケてんだよ!」
触《さわ》ることもできないと言っていたくせに、竜憲は戦おうとしている。かの美貌《びぼう》の姫君を内に秘めた男は、掌《てのひら》から光を迸《ほとばし》らせていた。
「大輔!」
『無駄《むだ》じゃに……。あれの力は儂《わし》らには通じんぞ……』
耳元に息がかかる。
「くそ!」
腕を振り上げた大輔は、指に触れたものを引っ掴《つか》んだ。
ずぶりと、指が突き刺さる。
「投げろ! 大輔!」
堅《かた》く目を閉じ、顔らしきものを投げる。
手に触れたものが予想どおりなら、女の目を抉《えぐ》ったのだろう。いくら生命とはいえないものだとはいえ、けっして気持ちのよいものではない。
だが、投げ捨てたはずの首は、再び近づいてきた。
左目からどろりと血を流し、髪を触手のように蠢《うごめ》かしながら、這《は》い寄ってくる。ぱっかりと開いた口は、笑みを凍《こお》らせているのだろうか。
「くそ!」
手に、何かが現れる。
ずしりと重いそれは、剣だろうか。幻《まぼろし》の腕ではなく、肉体の腕に握られた剣に視線を落とした大輔は、目を見開いた。
七支刀《しちしとう》とでも言うのだろうか。高校の頃、古典の副読本で見たような気がする。枝が左右交互に生《は》え出た剣は、実用というよりは、儀礼用のもの。
柄《つか》の部分に巻かれた飾りは、様々な色の宝玉を列《つら》ねたものだった。
『無駄《むだ》じゃということが、まだわからんか!』
「それがどうした!」
反撃もせずに殺されるなど、できるはずもない。
『できます。……あなたなら……』
「やれ! 叩《たた》き切れ!」
女の声と、竜憲の声が重なる。
剣を突き出した大輔は、女の首を貫いた。
ばっと髪の毛が散る。
奇妙な手応えは、この首がまだ生きていることを教えてくれた。
筋肉が締まり、剣を捕らえる感触は、死んだ肉にはありえないものだ。これが生きた身体《からだ》を切る感触なのだろうか。それとも、化け物だからこそなのだろうか。
この時代、剣で人を切ったことのある者など、そうそういないだろう。
もちろん、大輔自身、命のあるものを切ったことなどない。
「大輔!」
ばっと熱に包まれる。
温かいそれは、大輔に害をなすものではない。
竜憲の力なのか、それとも姫神が力をかしてくれるのか。
皮肉なことに、その熱を感じると同時に、肉体の痛みは現実のものとなった。
太腿《ふともも》に突き刺さった爪が、肩を掴《つか》む男の腕が、首を締め上げられた傷跡が、生々《なまなま》しい痛みを訴え始めたのだ。
「くそ!」
太腿に垂れ下がる腕を、剣で払い除《の》ける。
手首から断ち切られた女の手は、ますます強くしがみついてきた。
しかし、切り取られた元のほうはぴくりとも動かない。
幻《まぼろし》の腕が、何度断ち切っても元どおりになった部品は、切り口を見せたまま、ごろりと転がっていた。
切れるのだ。
生白い腕は、それだけではなんなのかわからない。
「やれ! 今のうちだ!」
叫ぶ竜憲は、両手を合わせて、こちらを見据《みす》えている。
自分のことを役立たずだと言っていた彼は、できるかぎりの手助けをしてくれているのだろう。大輔を包む熱は、竜憲の生命の熱そのもののようだった。
そして、おそらくは彼に取《と》り憑《つ》いた美貌《びぼう》の姫神の力。
『無駄《むだ》じゃと言うておろう!』
声と同時に、地鳴りがする。
「リョウ!」
竜憲の背後で、木が揺《ゆ》れる。
彼が調べようとした木は、確かに異常な力を持っていたのだろう。一瞬伸び上がり、ぐらりと揺れたそれは、狙い澄ましたように竜憲に襲いかかった。
「リョウ!」
地響きを立てて倒れる木。
土煙の向こうを見据えようと、足を踏み出した瞬間、首が掴《つか》まれた。
喉仏《のどぼとけ》を潰《つぶ》そうと、男の手が締め上げる。
闇雲《やみくも》に剣を振り回した大輔は、金属音に気づいて奥歯を噛《か》み締めた。
女の時計をした浜田《はまだ》の腕が、自分を締め殺そうとしている。
「お……まえ……は……」
もう死んでいるのだ。
操《あやつ》られているだけなのだと、友人の腕に言い聞かせてやりたい。だが、自分の意識のほうが薄れてきた。
ひたすら、腕があるだろうあたりを剣で払う。
と、何かが顔を覆《おお》った。
霞《かす》む目の向こうに、女の顔がある。
くちづけ。
そんなものではない。
精一杯開いた真っ赤な口が、口と鼻を覆おうとしている。
背筋の毛が逆立つ。
怒りが、唸《うな》りを上げて身体《からだ》をつきぬける。
意識が薄れたぶん、怒りが純粋な形を取っているかのようだ。
「貴様……よくも……を……」
唇《くちびる》が勝手に動く。
そして、肉体も。
痛みと、息苦しさに縮こまっていた身体から緊張がとれ、剣が自在に振り回される。
『何故《な ぜ》!』
「よくも……。よくぞその醜《みにく》い姿を……晒《さら》しおったな……」
奇妙な形の剣の、それぞれの切っ先が七色の光の筋を描く。
意識が霞んでいるせいか。それともこの剣が、本来の力を発しているのだろうか。
大輔の身体《からだ》に取りすがる部品を無視して、剣が舞う。
切り裂かれる大気が、悲鳴を上げる。
『裏切りもの! なぜ貴様が! 裏切りもの!!』
騒々《そうぞう》しい声が、徐々に弱まっていくのがわかった。
やがて、それさえも消え去る。
片がついたと確信した。
――ざまあみろ――
内心でほくそ笑んだ大輔は、ゆっくりと目を瞬《しばたた》かせた。
太陽がひどく眩《まぶ》しい。
半分無意識に、かざした手で光を遮《さえぎ》った。
ふと、気づいて自分の手を、まじまじと見つめる。
「よかった……」
たしかに自分の手だ。奇妙な剣を握ってもいない。
そう思った途端に、痛みが現実のものになる。
ついでのように、吐きけと目眩《めまい》が襲いかかってきた。
咽喉《の ど》の痛みは、叫びだしたいほどだ。
どれほどの間、呼吸を止められていたのだろうか。生きていることが不思議なほどだ。
闇《やみ》に沈もうとする意識を、どうにか引き止めようとしていた大輔は、おのれの身体が再び誰かに支配されたのを感じた。
背筋が伸びると同時に、足が走りだす。
倒れた木の陰に、人影がある。
「リョウ!」
いまさらのように、友人のことを思い出す。
木の直撃は免《まぬか》れたようだが、意識を失っていることは、見て取れる。
自分の身体を支配した何かは、竜憲の脇に膝《ひざ》を突《つ》くと、おずおずと腕を伸ばした。
「お方さま……」
己《おのれ》の唇《くちびる》から漏《も》れる声が、ひどく甘い。
ふわりと、竜憲が目を開いた。
その瞬間、竜憲の顔に女の顔が重なった。
自分の顔が、笑みを浮かべているのがわかった。
そして、それに答えるように女の顔が蕩《とろ》ける。
男の、けっして頑強とは言い難いが、紛《まぎ》れもなく男のものである竜憲の腕に、華奢《きやしや》な腕の映像が二重映しになった。そして、その腕が伸ばされ、大輔の腕に絡《から》む。
たおやかな身体を抱きとめようとした瞬間、大輔は全身で拒絶した。
「冗談《じようだん》じゃねえ!」
女を、自分ではない腕が抱くことが許せなかったのか。
それとも、竜憲を抱きとめたくなかったのか。
とにかく、大輔は自分を支配するものを、拒絶した。
背中を、丸太で殴《なぐ》られたような衝撃。
ようやく、自分の身体《からだ》が、完全に自分のものになる。
「……ちくしょう……」
誰にともなく呟《つぶや》いた大輔は、相変わらず寝転がっている竜憲を見つめると、唇《くちびる》を引き結んだ。
いささか乱暴にその肩を掴《つか》み、激しくゆさぶる。
「リョウ! おい! 無事か!」
竜憲がこれほど長い睫毛《まつげ》を持っていたことを、初めて知った。
くっきりと濃い影を落とした目は、彼の状態をますます悪く見せている。
木が倒れた衝撃だけではないだろう。竜憲は、全身全霊の力で、彼を守ろうとしてくれたのだ。
「リョウ! おい……」
「う…る…さい……。聞こえている……」
ほっと息を吐《は》いた大輔は、竜憲の身体を抱き起こした。
「……よかった……」
「あんたこそ……無事だな……」
呟《つぶや》いた竜憲が、そのままへたるように座り込んだ。
その姿を見た途端、大輔は不思議《ふしぎ》に気分が落ち着いた。
自分がこの世で生きていることが、実感できたのかもしれない。夢の中にいるような、奇妙な違和感が消えていった。
「お前……こそ無事か?」
自分の声を確かめるように、問う。
「あんまり……」
力なく笑った竜憲に、同じように笑い返し、大輔はそろそろと立ち上がった。
肩の痛みはひどいが、脚のほうは大したことはない。
一番の重症は咽喉《の ど》のようだ。声が潰《つぶ》れていないのが不思議と言える。普通なら、喉仏《のどぼとけ》が握りつぶされて、その場で命を失っていただろう。
大輔の身体に取《と》り憑《つ》いた男のおかげで、命を存《ながら》えているにちがいない。
大きく深呼吸を繰り返し、大輔は周囲を見回した。
とんでもない惨状だ。
何しろ、人間の五体がそこここに散乱しているのである。
途端に、大輔は今度こそ本当に我に返った。
「リョウ!」
へたり込んでいる竜憲の肩を掴《つか》み、引き立たせる。
「……痛い!」
顳〓《こめかみ》を押さえた竜憲の叫びを無視して、大輔は引きずるように公園を抜け出した。
まだまっすぐ立てない竜憲を助手席に押し込むと、ドアを叩《たた》きつけるように閉め、自分は運転席に飛び乗る。
「何すんだよ!」
「馬鹿《ばか》! 人が来たらどうするんだ!」
エンジンがかかると同時に、大輔は車を急発進させた。
終 章
何紙もの新聞を床に広げた大輔《だいすけ》が、恐《おそ》ろしく真剣な顔で紙面に視線を走らせている。
「何度読んだって同じだよ。……なんにも出てないって」
ベッドの上に転がり、天井《てんじよう》を眺《なが》めながら、竜憲《りようけん》は呆《あき》れ声で呟《つぶや》いた。
大輔が読んでいるのは、死体から消えた人間の部品《パーツ》が白昼の住宅街で発見されたという記事である。
もちろん、場所は大輔の家のすぐ近く。あの公園である。
そして、大輔の探しているのは、現場から逃げ出すブルーグリーンの車の目撃証言だった。
「ないな……」
「だろ? 俺だってちゃんと読んだんだから……」
得体《えたい》の知れない化け物に昨日《きのう》殺されかかった男は、今朝《け さ》にはもうしっかり社会復帰して、バラバラ殺人事件にかかわることを恐《おそ》れているのだ。
「お前しばらく、車でうちにはくるなよ」
「何度同じこと言うんだか……」
大輔がむすりと竜憲を睨《にら》み、新聞を閉じる。
「そう言うけどな。あれをどうやって警察に説明するんだ? ……できるのか? お前」
「いいじゃない。正直に言えば……」
大袈裟《おおげさ》な溜《た》め息《いき》を吐《は》く大輔を、ちらりと見やり、竜憲はごろりと身体《からだ》を反転させた。
もちろん、本心のわけがない。
竜憲にしても、そんなところで、現実にかかわるのはご免だった。事件が異常なだけに、なんの証明もできぬまま犯人にされるかもしれないのだ。
「忘れたほうがいいと思うよ」
「当たり前だ。今すぐにでも忘れたいよ。まったく……」
吐き捨てるように言った大輔が、壁《かべ》に背を凭《もた》せ掛ける。
しばらく黙《だま》り込んでいたその彼が、不意に身体を引き起こすと、竜憲を睨みつけた。
「あれはどうなったんだ?」
唐突に問われ、竜憲は眉《まゆ》を顰《しか》めた。
昨日《きのう》から、頑《かたく》なにその話題だけは避《さ》けていたのは大輔なのだ。
「あれ……って……あれか?」
「そうだよ。死体を操《あやつ》っていたあれ」
「あれねぇ……」
「また出るのか?」
「出ないんじゃない」
簡単に言い切った竜憲を、大輔がじっと睨み据《す》える。
「……本当か?」
「あんたのほうがわかっているはずだ。……俺は気を失っていたんだし……。あんたが消したんだろう?」
「逃げた……と思う。よくはわからんがな……」
「あんたがそう思うんなら、それが正解なんだろうな。けど……二度と現れないと……思うよ。……変なんだけどさ。何かがそう言ったような気がする。あんたに叩《たた》き起こされる前に……。封じたって……誰かが言っていた……」
そう言われた途端に、大輔はあの時の竜憲に二重映しになった女と、自分の身体《からだ》を操《あやつ》る存在を思い出した。
「あ……あの」
だが、口に出すのは止《や》める。
「何? お前知ってるのか?」
「いや」
即座に否定し、壁《かべ》に背を戻す。
竜憲の中に封じられたはずの姫神は、けっして眠ってなどいないのだ。ただ、息を潜《ひそ》めて、自分の存在を消しているだけなのだろう。
そして、対《つい》の鏡に眠っていたはずの何かが、大輔の内側に入り込んだ。
「本当か?」
重ねて問われ、大輔は露骨《ろこつ》に顔を顰《しか》めて見せた。
「嘘《うそ》言ってもしょうがないだろう? だいいち、俺はピカピカの初心者マークなんだぜ。あんなバケモンに襲われて、何か覚えてろってほうが無茶だろうがよ」
口に出すと、自分の言葉が納得できる。
そうなのだ。あの時の自分は、気が動転していた。何があったとしても、それを真実だと言い切ることはできない。
あの時の自分の記憶には証拠能力がないのだ。
そう思ったほうがよほど理解しやすいし、自分も安心できる。あんな、奇妙な感覚は二度とご免だった。
自分の肉体が自分の意思に背《そむ》くなどあってはならないことだ。
どちらにしろ、あんな化け物が現れないかぎり、二度と経験しないですむだろう。
自分を納得させるようにうなずいた大輔は、ぎろりと竜憲を睨《にら》み上げた。
「とにかく出ないんだな」
「……たぶん……」
戸惑《とまど》いながらも、竜憲はうなずいた。
「あ……でも」
「でも?」
「あの公園をいじるって話が出たら、絶対反対しろよ」
「なんだよ、それは……」
むくりと起き上がった竜憲は、膝《ひざ》に片肘《かたひじ》を突《つ》いて、にっと笑った。
「あの公園の……おそらく桜だと思うんだけれども……あの木に封じられたはずだ。あの木、地霊《ちれい》の封印にちょうどだったんだ」
「おい……嘘《うそ》だろ」
「ホント……」
本当だった。
大輔に叩《たた》き起こされる直前に聞こえた声が、それを教えてくれたのだ。宿り木をなくした地霊を鎮《しず》めるには、もう一度眠る場所を与えてやるしかなかったと、声のない声が教えてくれたのである。
「宿り木がなくなって、地霊は彷徨《さまよ》い出たらしいんだよな。木が倒れただろう? もともと、地霊はあの木に宿っていたんだ。道路工事のせいで、根がやられたんだろうな。……あの木が枯れたから、地霊は休む場所をなくしたんだ。……だから、餓鬼《がき》につけ込まれた……。だから……」
「冗談《じようだん》じゃねぇぞ!」
みなまで言わせず、大輔が喚《わめ》いた。
「止《や》めてくれよ……家に帰れないじゃないか」
泣き声を上げる大輔を、まじまじと眺《なが》めた竜憲は、その耳につけられた金の環に目を留《と》めると、声を潜《ひそ》めて笑い出した。
「笑いごとじゃないだろうが!」
「あんた……ほんとに懲《こ》りたでしょう」
笑いながら、再びベッドに寝転がった竜憲に、大輔が食《く》ってかかる。
「なんだって? どういう意味だそりゃあ!?」
「そういう顔してるもんな……」
くすくすと笑い続ける竜憲を眺め、ベッドを蹴《け》り飛ばした大輔は、読み飽《あ》きた新聞を引き寄せて、見るとはなしに眺め始めた。
公園の木が立ち枯れて倒れた、という記事は、センセーショナルなバラバラ殺人事件のせいで、まったく取り上げられていない。
実際には、それこそが事件の原因だったのだが。
人間に復讐《ふくしゆう》するために、大輔の力が欲しかったのだろう。
自分がそれほどの力を持っているという自覚はない。自覚はないが、真実なのだろう。
何も知らずに笑う竜憲に、真実を告げるべきか。
活字に視線を投げながら、大輔は己《おのれ》の証拠能力をもう一度疑っていた。
あとがき
風邪《か ぜ》をひいた。
しかも、ほとんど出歩かないのが禍《わざわい》して、たまたま出かけた途端に、みごとに症状を悪化させてしまった。
風邪で寝込むなんて、初めてのような気がする。少なくとも私は……。丈夫《じようぶ》なだけがとりえなのにさ。まったく……ついていないったら……。
それにもかかわらず、金沢《かなざわ》に出かけた。それも、昼前に家を出て、翌日の昼飯は自分の家で食べていたのだ。翌日には、同じような行程で長野《ながの》に行ってきた。何してるんだかね。それは、内緒《ないしよ》。夜行バスとか、夜行列車とか、えらく久しぶりに乗った気がするな。時間がかかるのはやむを得ないとして、昔に比べればずいぶんと楽だよね。
ま、それはともかく、どっちも天気予報を聞いて、覚悟《かくご》していたんだけれど、なんと! 何もなかった。なにせ、北のほうにはあまり知り合いもない我々は、冬の北国といえば雪、と思っているわけだ。それなのに……。やっぱ、五センチの積雪で機能麻痺《まひ》する東京とは、都市機能の根本が違《ちが》っているよね。でも……寒かった。長野のほうがずっと寒いというのもちょっと驚き。足元から凍《こお》ってくるような寒さって盆地特有なんだろうな。根性なしの我々は、遊びには行けても、住めない。我が家のあたりも、東京に比べると一度二度は寒いんだけれど。
どうでもいいやな……そんなこと。
ちゅうわけで、第二弾。本文を書いているあいだは、それほどでもなかったのに、終わった途端に、ボロボロだもんね。自分のせい? かもしれないけど、つい祟《たた》りかなっと。結構、めちゃめちゃなことを書いていたような気もするし、なかなかスプラッタな話になってしまっただけに、ちょっと気になる。
こういうものを書く時はお祓《はら》いしなさいね、とか言った人もいるし。え、そういうもんだったの? なるほど、だから去年はひっでぇ目に遭《あ》ったのか。だって、一度もそんなことしたことないもん。だって、考えてみれば、どんなことにしろなにかについて書いているのに、終わったからって追っ払うなんてのは、ちょっと勝手じゃない? 失礼だし、と我々は思ったわけだ。体調崩《くず》すくらいですむなら、いいじゃないかと。甘いかな。
なにしろ、以前、トラブル続きだった話の時に、厄《やく》払いに、好きなもの書きましょう、だもんね。いい加減な奴ら。といって、信じてないわけじゃないのね。そこが不思議《ふしぎ》だ。
今後も続くとなったら、これはもしかすると、結構この話は本物ということになるわけである。これはなかなか、楽しみだぞ。毎回、病気事故の報告ばっかりのあとがきですむなら、考えなくていいから楽だもん。ちなみにこれは、本当にあったことだ。
あ、ほんとに無責任。我が家の猫どもにとばっちりがいきませんように。猫は人間と違って、いろいろ大変なのよ。金も手もかかって。
なんて、言ってる間に三ページ目だ。
思いのほか、よく登場した鴻《おおとり》さんが、妙に変な味を出している今回の話。ご感想はいかがでしょう。我々は意外に彼が気に入っているらしいのだな。
謎《なぞ》と波乱《はらん》の予感を残しつつ、話は次回に続く。……ほんとか!?
新田一実
本電子文庫版は、講談社X文庫ホワイトハート版(一九九三年四月刊)を底本としました。
暗闇《くらやみ》の狩人《コレクター》 霊感探偵倶楽部《れいかんたんていくらぶ》
講談社電子文庫版PC
新田一実《につたかずみ》 著
Kazumi Nitta 1993
二〇〇二年四月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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