TITLE : 時の迷宮の舞姫 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫
時の迷宮の舞姫
霊感探偵倶楽部
新田 一実
目 次
登場人物紹介
序 章
第一章 見つめる眼
第二章 警 告
第三章 宴の後に
第四章 踊る黒髪
第五章 魔界輪舞
終 章
あとがき
登場人物紹介
●大道寺竜憲《だいどうじりようけん》
霊能者を父に持ち、自らも“破魔《はま》”の力を有する。
しかし、封印《ふういん》を解《と》かれた、美しい魔鏡《まきよう》の姫神《ひめがみ》が体に入りこんで以来、身辺で不可解な現象が相次ぎ、外出禁止の身。
そして、姫神の霊が沙弥子を狙っていると感じた竜憲は、大輔とともに真相をつきとめようとする。が、大輔の身に迫る危険にまで関わることに。
●姉崎大輔《あねざきだいすけ》
竜憲の幼なじみ。妖怪や魔物の類はいっさい信じないが、魔鏡の変化《へんげ》を目《ま》のあたりにしたときから、霊に対する認識は変わりつつある。
竜憲の“護符《ごふ》”的存在だったが、近ごろでは、竜憲にさえ見えない霊を見てしまうことも、しばしば。
しかし、悪いことばかりではない。美しい女性が、大輔に急接近してきたのだが……。
●律泉沙弥子《りつせんさやこ》
竜憲と大輔の後輩。大道寺家に同じく、陰陽《おんみよう》に関る旧家の娘。その旺盛《おうせい》な好奇心から霊に関わることも多いのだが、ついに、妖魔の標的になるのか!?
●大道寺忠利《だいどうじただのり》
竜憲の父。陰陽道《おんみようどう》の頭《かみ》である。
竜憲に取《と》り憑《つ》いた霊を退治するため、強大な相手と闘ってから、過労で倒《たお》れた。以来、静養中である。
●鴻《おおとり》 恵二《けいじ》
大道寺忠利の一番弟子。
忠利が倒れてからというもの、他の弟子たちの面倒を見ながら、この道場を仕切っている。
●大道寺真紀子《だいどうじまきこ》
竜憲の母親。霊の存在を信じないわけではないが、見たことはない。本人の結界《けつかい》が霊を近寄せないのだが、それすら気づかない。大道寺家の“護符”である。
時の迷宮の舞姫  霊感探偵倶楽部
序 章
むっとするような人いきれ。
焦点《しようてん》の合わない目をして、踊り狂う女。
腕を振り上げ、金切り声を上げる女は、真っ赤に染めた髪を振り乱していた。
体育の授業のように間隔をあけて整列すれば、二百人も入ればいっぱいになるような狭《せま》い空間に、五、六百人の人間がひしめいている。
耳をつんざく大音響に合わせて、我を忘れて踊り狂う人々。
まるで黒魔術の儀式のようだ。
大輔《だいすけ》は、ステージ上で長い髪を振り乱す男を、腕組みしたまま眺《なが》めていた。
頼りないほど細い脚《あし》を黒い革パンツに包んだギタリストが、ボーカルに背中を預《あず》けるように身体をのけ反《ぞ》らせると、少女達の悲鳴にも近い声が上がる。
何がそこまで彼女達を熱狂させるのか。大輔にはまったくわからない。
しかしすぐ隣では、沙弥子《さやこ》が長い髪を鞭《むち》のように振り回していた。
まるで鏡獅子《かがみじし》。
頭を振り上げるタイミングで、沙弥子の髪はモアイ像のように立ち尽くす大輔の顔を、殴《なぐ》っていた。
下着と大差ない黒ラメのビスチェに、これ以上短くはできないだろう革のミニ・スカート。膝上《ひざうえ》まであるブーツは、飾り金具がごてごてと取り付けられ、首や手首には安物のアクセサリーが巻きついている。
ちらりと、沙弥子を見下ろした大輔は、小さく息を吐《は》いた。
おとなしい少女と思っていたわけではないが、ここまで過激なスタイルの沙弥子は、初めて見る。
だいいち、ハードロックが好きだということすら、知らなかったのだ。
自分が興味がないせいか、沙弥子と音楽の話をしたことはなかったのである。
ふと、視線を感じて、大輔はステージに目をやった。
金切り声を上げていたボーカルが、挑《いど》むような視線を投げている。
集団ヒステリーとしか言いようがない連中の中で、頭抜《ずぬ》けた大男が立ち尽くしているのが気に入らないのだろう。
ぼんやりと立っているのは悪気があっての事ではない。もちろん、ステージに喧嘩《けんか》を売っているわけではないのだ。単に呆《あき》れているだけ。
大輔は小さく息を吐き、沙弥子の耳もとで怒鳴《どな》った。
「サコ! 後《うし》ろで待ってるからな!」
「わかった!」
叫《さけ》び返した沙弥子は、そのまま踊り続けている。
苦笑を浮かべた大輔は、人の波を掻《か》き分けて、フロアの後ろにあるドリンク・コーナーに向かった。
ステージのスモークと、汗の臭《にお》いで息が詰《つ》まりそうだ。それでも、男がまばらなだけに、悪い気はしなかった。
ステージ上の男達に見せるためとはいえ、精いっぱい着飾った少女達の群れは、見ているだけでなかなか楽しい。
「……ビール……」
カウンターに張りつき、中の男に声をかける。
「今日はソフト・ドリンクだけです」
「あ、そ。じゃ、ジンジャーエール」
子供のファンが多いバンドの時は、アルコールは出さないのだろう。ライブ・ハウスでソフト・ドリンクというのも間の抜けた話だが、ここに集まっている連中は、踊ることしか考えていないようだった。
紙コップを受け取った大輔は、カウンターに肘《ひじ》を預《あず》けて、ステージに目をやった。
原色の、毒々しいライトに浮かび上がる人間の群れは、どこか現実離れして見える。
ボーカルが音を外《はず》し、ベースが騒音としか思えない音を出す。ギターにいたっては、客に愛想《あいそう》を振りまくことに夢中になって、手のほうがまったく動いていない。
それでも、客は熱狂していた。
沙弥子が熱狂しているのは、ボーカルの顔だろう。
歌うことより、化粧《けしよう》によほど力を入れている。
「……リョウのほうがまだ耳が確かだな……」
同じロックバンドでも、竜憲《りようけん》が熱中している連中のほうが、まだ曲になっていると言えた。
少なくとも、何度か見せられたライブ・ビデオと比べるかぎりは、ここまでひどい音を出してはいなかった。竜憲が男の顔に騙《だま》されるはずもないから、当たり前なのだろうが。
数えるほどしか男がいない理由を、妙なところで納得した大輔は、紙コップを口に運んで、眉《まゆ》を寄せた。
たっぷりと氷が入っている。
ひどく水っぽいジンジャーエールだ。
うんざりとした顔でカップをカウンターにのせた大輔は、延々と続く不協和音が途切れるのを待っていた。
と、また視線を感じる。
「たく……ちゃんと見てほしいなら、まともに曲やれよ」
うんざりとステージを見やった大輔は、マイクを抱え、屈《かが》み込むようにして叫んでいるボーカリストを見つけ、眉を寄せた。
今度は別口らしい。考えてみれば、いくら狭《せま》いライブ・ハウスとはいえ、スポットの当たるステージからこのカウンターが見えるはずもない。
あらためて、大輔は周囲を見渡した。
が、フロアを埋《う》めた人間達の意識は、見事にステージに集中している。カウンターの中まで視線を巡《めぐ》らせると、男が妙な顔で大輔を見返した。
慌《あわ》てて目を逸《そ》らした大輔は、うまくもない紙コップに手を伸ばし、口もとに運んだ。
敵意がこもった視線だったことは確かなのだが、気のせいだったのだろうか。
一瞬、音が途切れ、妙な間があく。
次の瞬間、黄色い悲鳴が狭いフロアに響き渡る。
視線の事など忘れて、大輔は思わず耳を塞《ふさ》いだ。
第一章 見つめる眼
「あぁ、気持ちいい!」
髪を掻《か》き上げ、スプリング・コートの前をぱたぱたとはためかせた沙弥子《さやこ》は、夏というには少し早い初夏の風に頬《ほお》を晒《さら》して、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
その視線が、自動販売機の取り出し口に手を伸ばした大輔《だいすけ》に止まると、満足げな顔が、瞬間不安そうなものになる。
「変なのに付き合わせちゃったかなぁ」
「あ?」
「つまんなかったですか? ライブ」
目を瞬《しばたた》かせた大輔は、スポーツドリンクの缶を彼女に手渡しながら、曖昧《あいまい》に首を振ってみせた。
「いや……。ただ」
「ただ?」
沙弥子から少し視線をずらすと、半分夢見るような顔をした少女達が、薄暗く狭《せま》い階段を脱力した足取りで上がってくるのが見える。
「一つだけ、学んだことがある」
「何それ?」
顎《あご》を反《そ》らして見上げる沙弥子に、大輔は片目を閉じてみせた。
「女を誘《さそ》うネタに、相手の好きなライブのチケットを使うのはやめよう……ってこと」
ますます顔を顰《しか》める沙弥子から目を逸《そ》らし、唇《くちびる》の端で笑う。
「ヘンなの……」
「ま、いいから、いいから。――さっさと帰らないと親父《おやじ》さんがうるさいんだろ?」
「またぁ……せっかく気分いいのにぃ」
ぷいと頬を膨《ふく》らませた沙弥子を眺《なが》め下ろし、開きかけた口を閉じて首をすくめる。
ライブ・ハウスに出かけるのに、一人では駄目《だめ》で、男が付いていくならよいというのだから、沙弥子の親の考え方もよくわからない。もっとも、もともとは竜憲《りようけん》が保護者になるはずだったところを、自分にお鉢《はち》が回ってきたことを考え合わせれば、不思議《ふしぎ》はないが。
というよりは、沙弥子が親を説得する能力は評価するべきなのかもしれない。
上着のポケットに手を突っ込み、大輔はゆっくりと歩き始めた。
沙弥子のほうは、一気にスポーツドリンクを飲みほし、ハンカチで汗を拭《ふ》いている。
世間一般の言うところの“コンサート”の後の風情《ふぜい》ではない。どちらかというと、スポーツの後だ。
もっとも、ロック・コンサートなどというものは、一種のスポーツに違いない。
「これからどうする? メシでも食うか?」
「うーん。けどあんまし遅《おそ》くなると、電車、酔っ払いばっかりになるじゃん。さっさと帰ったほうがいいよ」
「なんだったら、リョウを呼び出せばいい。どうせ、あいつが頼まれたのに、エスコートを投げ出したんだ」
にんまりと笑う大輔を、沙弥子は口を尖《とが》らせて見上げた。
沙弥子にしてみれば、デートのつもりだったのだ。
精神を異様に昂揚《こうよう》させるものすべてから遠ざからなければならない竜憲に代わって、大輔がライブに付き合ってくれただけだということはわかっている。
それにしてもだ。大輔がまるで気づいてもいないところが、憎《にく》たらしい。それ以前に、女と見られていない自分を哀《あわ》れむべきか。
「ドンカン……」
ぽつりと呟《つぶや》いた後、思い切りよく微笑《ほほえ》む。
「もちろん、おごりですよね」
「あ? この上、おごらせる気か?」
「だって、先輩、リョウちゃんにバイト料もらったんでしょ? 悪いんだから……」
「あんなクソへたなモン……と、とにかく……。ロックなんぞ聴かない俺を御付きにしたんだ。それぐらい当たり前じゃないか。慰謝料《いしやりよう》ってところだ」
本気で大輔を睨《にら》み上げた沙弥子は、肩を怒らせた。
「そりゃ、今日はちょっと調子が悪かったけど、調子があるだけマシでしょ! ちゃんとライブなんだから!」
目を瞬《しばたた》かせる大輔の腕を掴《つか》んだ沙弥子は、駅に向かって歩き始めた。
「ライブって?」
なだめるような声に、ますます唇《くちびる》を尖らせる。
その場にぴたりと立ち止まり、がっしりとした腕を突き放した沙弥子は、腰に手を当てて胸を反《そ》らした。
「だから、本当に演奏してたでしょ? 今時、録音のほうが多いんだから。間違えたり、音が飛ぶってことは、本当にやってる証拠なの!」
「妙なことを自慢できるんだな……」
「もう。先輩とは絶対、一緒に行かない。帰ります」
「おい。律泉《りつせん》!」
すたすたと歩き始めた沙弥子を、大男が慌《あわ》てて追う。
スプリング・コートの前を合わせて、挑発的な衣装を隠していても、酔漢《すいかん》が多い時間帯の電車になど乗せたくないのだ。
「わかった。おごってやるから、食事にしよう。俺は腹が減ってるんだ。……おい。律泉」
腕を掴《つか》み、先を急ごうとする少女を掴まえる。
「悪かったって……。どうせ俺はカリスマとか幽霊《ゆうれい》とかにはうといんだ。どんなにいいって言われても、幽霊が見えないのとおんなじで、わからないんだわな」
「何、それ? カリスマって……」
「そうだろう? あれだけの人間を熱狂させられるんだ。それなりのカリスマがあるんだろう。俺にはわからないが……。才能がないもんでね……」
沙弥子の肩を軽く叩いた大輔は、周囲を見回して電話ボックスを探した。
飲み屋の少ないこの通りでは、明かりがついているものといえば、自動販売機ぐらいである。一本裏の道に入れば、いくらでも人通りはあるだろうが、幹線道路沿いであるぶん、妙に閑散《かんさん》としていた。
「ちょっと待ってろ。……本当にリョウを呼び出してやるから……」
ガソリン・スタンドに併設された駐車場の脇に、緑色の電話機が見える。
小走りに駆《か》け出した大輔は、ポケットのカードケースを引き出した。
「先輩! 呼び出すって、本気ですか!」
「いいだろ。……お前は心配するなって……」
受話器を取り、テレフォンカードを突っ込む。
しかし、電話はカードを飲みこんではくれなかった。
「え?」
受話器を耳に押し当ててみる。
なんの反応もない。
どうやら、故障中らしい。
「どうしたんです。先輩」
「故障」
言っておいてから、確かめるように手もとのカードを眺《なが》める。
つい最近、母親から取り上げたカードだ。保険会社のマークが入ったカードは、名刺代わりに配られたものだろう。
「珍《めずら》しいですね……」
「変造カードでも使われたんだろ」
「そうなんですか?」
「使用できなくなるんだと。……くそ……。迷惑《めいわく》な……」
「ね。だから先輩帰りましょうよ。なんだったら……あれ?」
沙弥子が視線をさまよわせる。
つられて、目を向けた大輔は、見慣れた車を見つけて、目を細めてナンバーを読み取ろうとした。
ブルー・グリーンのスポーツカー。そうそうある色ではないが、ナンバーかドライバーを確認するまでは、手を上げることもできない。
迷《まよ》っているうちに、車のほうが二人を見つけたようだった。
路肩《ろかた》に寄って止まると、中の人物がひらひらと手を振る。
「サコ! どうだった?」
沙弥子のお守りを大輔に押しつけた張本人《ちようほんにん》、竜憲が窓を開けると、ひどく楽しげに手を振っている。
「もうサイコー! どうしたのリョウちゃん!」
「どうせ凄《すご》いカッコしてるんだろ。車のほうがいいと思ってさ。つかまってよかった」
徹底的に沙弥子を甘やかしている幼なじみは、そのせいで恋人に昇格できないということに気づいていない。
白目を剥《む》いて、呆《あき》れた息を吐《は》いた大輔は、対向車線に止まった車に走り寄った。
「呼びつけてやろうと思ったんだが……。行き違いになるとか考えなかったのか?」
「どうせあんたのことだから、デンコでなんか帰りゃしないでしょ。一応、かあさんには言ってあるから、店を指定されたら、そっちに回る気だったさ」
「へいへい……」
妙なところで読まれている。
この、若い女に受けそうな妙に奇麗《きれい》な顔立ちの男は、女の扱いはからきしのくせに、世渡りが上手《う ま》かった。
ふと、先程までステージ上で暴《あば》れ回っていた金髪のボーカリストを思い出す。
こってりと化粧《けしよう》をした顔が、どこか竜憲に似ている。
竜憲を幼なじみとしてしか見ていないから気づいていないのだろうが、沙弥子の好みの顔立ちだった。
「馬鹿《ばか》馬鹿しい……」
小さく呟《つぶや》いた大輔の横に、沙弥子が立つ。
「何が馬鹿馬鹿しいんですか、先輩」
「いや、べつに。お前には甘いよな、リョウも。……ほれ、とっとと後ろに乗りな。俺に入れとは言わないだろう?」
「言いません。先輩が後ろじゃ、脚が邪魔でしょ?」
「そうなんだ。長いもんでね」
声を殺して笑う大輔に、明るい笑い声を降り注《そそ》いだ沙弥子は、助手席のシートを倒して、後部座席にもぐり込んだ。
スポーツ・タイプの車にしては、居住性もよいのだが、大輔が座るには後部座席は狭《せま》すぎる。
運転席の後ろに腰を落ち着け、助手席に向かって斜《なな》めに脚を投げ出した沙弥子は、ハイヒールを脱《ぬ》ぎ落とした。
「先輩。いちばん後ろまでシート下げていいですよ」
「ああ……」
身体を投げ出した大輔は、シートを下げると脚を伸ばした。
「どうする? このまま帰る?」
身体をひねった竜憲が、沙弥子に眉《まゆ》をそびやかしてみせる。
「どうせ暴れ回ったんだろう? この時間じゃ、ファミリー・レストランか……」
「車だしな。居酒屋《いざかや》ってのもなんだろう。お前は飲めないわけだし。――だいいち、律泉は未成年だ」
突然、世間の常識を思い出した大輔は、咽喉《の ど》を震《ふる》わせて笑い始めた。
呆《あき》れ顔でそれを眺《なが》めた竜憲は、ゆっくりと車を発進させた。
「じゃ、おエドを抜けてからにするよ」
「あ」
簡単《かんたん》に応じた大輔は、ぼんやりと景色を眺《なが》めていた。
ふと、視線を感じる。
身体を起こし、歩道に目をやるが、人影はない。
「どうした?」
「いや……。なんでもない」
大輔は再びシートに身体を預《あず》けた。
大音響の中にいたせいか、神経が尖《とが》っているようだ。いもしない人間の視線を感じるなど、普通ではない。
上着のポケットを探《さぐ》って煙草《たばこ》を引き出した大輔は、灰皿を引き出すと眉《まゆ》を寄せた。
給油した時に灰皿も掃除させたのだろう。ざらざらと音を立てるビーズが鼻をつく臭《にお》いを発していた。
吸い差しが二本捩《ね》じ込まれた灰皿に、灰を落とす。
余計に臭いがきつくなったような気がして、大輔はますます顔を顰《しか》めた。
「捨てていいか?」
「ダッシュボードにゴミ袋があるから……」
「ああ……」
煙草をくわえたまま、ビニール袋を取り出した大輔は、芳香剤ごと吸《す》い殻《がら》を始末すると、ほっと息を吐《は》いた。
もともと、香水や芳香剤は苦手《にがて》なほうだが、ここまで神経質になることはない。
ハード・ロックは根本的に性《しよう》に合わないのだろう。
自分の反応を思い返しながら、大輔は苦く笑っていた。
車の中は安定したエンジン音だけが静かに響《ひび》いている。
フロントグラスを見据《みす》え、黙《だま》りこんでいる大輔《だいすけ》を、ちらりと見やった竜憲《りようけん》は、溜《た》め息《いき》と共に赤く光る信号を眺《なが》め上げた。
沙弥子《さやこ》を降ろすまでは、大輔に別段変わった様子《ようす》はなかったのだが、その後まったく口を開かず、腕組みをしたまま同じ姿勢で正面を見据えているのだ。
いや、唯一《ゆいいつ》動いた事があった。何も言わずにステレオを消したのである。
はっきりいって、むっとしたのは確かだったが、顔を見た途端、その気も失《う》せた。ひとこと言えば、百は文句が返ってきそうな雰囲気《ふんいき》だったのだ。
何が原因なのか、よくわからない。いくら気に入らぬバンドだったからとはいえ、そこまで不機嫌《ふきげん》になるとは思えない。
どうせ家まで送り届けるだけなのだ。放っておいても構わないのだが、そう割り切る気にもならないのである。
嫌《いや》な予感という奴だった。
確かに、この役目はもともと自分が大輔に押しつけたものである。だが、状況が許せば大輔になど、何があっても絶対に頼まなかった。
それだけに、沙弥子のことが気になってしかたなかったのは確かだ。
しかし――。
「なんだ?」
唐突に不機嫌な声が投げられて、竜憲は堂々巡《めぐ》りの続く、楽しからぬ思考から解放された。
「え?」
「言いたい事があるなら、言えばいいだろう」
ようやく口を開いたと思えば、こんな台詞《せりふ》である。
むっと顔を顰《しか》めた竜憲は、視線だけを大輔に向けた。
「ほれ……信号変わったぞ」
「あんたのほうだろう。言いたいことがあるのは……。そんなにひどいバンドだったのか?」
「俺に言わせりゃな」
「サコも妙だったし……」
「ありゃ、ナチュラル・ハイって奴だろ。えらい勢いで暴《あば》れていたしな」
ひょいと眉《まゆ》を上げた竜憲は、ゆっくりと車を走らせていた。
対向車もない道路は、昼間とはまるで様相が違う。沿線の店も看板の灯《あかり》を落としているせいか、うら寂《さび》しい雰囲気《ふんいき》をかもしだしていた。
「本当にそれだけか?」
「何があるっていうんだ? あ? お前を出し抜いて律泉《りつせん》を口説《くど》いたとでも?」
目を剥《む》いた竜憲が、大輔を見据《みす》える。
「おいおい。前を見てくれ。危ねえな……」
「なんだ、それ……。ひょっとして、出し抜くことになるからとか……」
「馬鹿《ばか》言ってんじゃねえよ。好みの問題ってヤツだな。お前、キョウコに興味ないだろ。あいつはお前を追いかけてるってのに……。それとおんなじさ」
「それならいいが……」
竜憲にとって沙弥子が幼なじみ以上の存在だと、大輔が気づいているとは思わなかった。
ステアリングに手首を引っ掛け、見るとはなしに路上を見やる。気を抜いていると、路上のあちこちから影が立ち上がった。
虫や小動物。中には人間も交じっている。
姫神《ひめがみ》が取《と》り憑《つ》いて以来、彼女に呼び寄せられるように化け物たちが姿を現す。精神状態が悪いほど、それは顕著《けんちよ》だ。
この路上で命を絶《た》たれた生き物たち。
うぞうぞと動き回るそれらは、竜憲の運転する車のタイヤに、再び轢《ひ》き殺されているのだろうか。
「おい、リョウ……。どうしたんだ。ふらついてるぞ……」
しぜんと、大きい影を避《さ》けている。
人や犬、それに猫とわかるようなものを轢くほど根性が座っていない。小鳥ですら、背筋が寒くなるのだ。
「リョウ!」
「悪い……。ちょっと我慢してくれ……」
目を眇《すが》めてセンターラインを見据え、神経を集中する。
アスファルトの中に吸い込まれていく影を見やり、ほっと息を吐《は》いた竜憲は、改めてステアリングを握《にぎ》りなおした。
「何か……見えたのか?」
「ちょっとな……」
言っておいてから、眉を寄せる。
大輔は、自他ともに認める鈍感男《どんかんおとこ》だ。それが何か見えたのか、などと聞くこと自体がおかしい。
この場合、見えたか、と聞いたのは幽霊や妖怪の類がということなのだ。
「あんた。今日、なんか変だぞ。ひょっとして、久し振りにバケモノでも見たのか?」
「まさか……。そうそうある事じゃないだろ。お前じゃあるまいし。――で、お前に見えたのは?」
「影。ボケてると出るって……」
言いかけて、竜憲は低く唸《うな》った。
思いきりよくブレーキを踏《ふ》む。
「おい!」
「あんた。何を見た。何につきまとわれてるんだ?」
「あぁ?」
間の抜けた声を上げた大輔が、手を伸ばす。
竜憲の額《ひたい》に手を当て、顔を顰《しか》める。
その手を、思いきり叩き払った竜憲は、身体をひねって助手席の大男を睨《にら》んだ。
「あんたがいるのに、影が出た。――どういう意味か、わかるか?」
「俺が護符《ごふ》じゃなくなったってことだろ。簡単じゃないか」
案《あん》の定《じよう》、大輔はこともなげに言ってのけた。
「簡単だな。本当にそれだけ簡単なことならいいけど……」
再び、車を出した竜憲は、次の信号の手前で停車した。
すぐ横に電話ボックスが立っている。それを確かめて、大輔に視線を移した竜憲は、唇《くちびる》の端を舐《な》めた。
ゆっくりと息を吐《は》いてハンドルに顎《あご》をのせ、小さな声で切り出す。
「今日、うちに泊まるって言ってくれ……」
「そりゃいいが……。どうしてだ?」
「とにかくそうしろ」
ひょいと肩をすくめた大輔は、まっすぐ前を指さした。
「律泉じゃあるまいし、俺が一晩帰らなかったって心配なんかしねえよ。だいいち、もう寝ちまってる」
「じゃあ、このまま家に帰るよ」
車を出した竜憲は、現状を理解しようと、必死になって神経を集中させていた。
よほど強いものでないかぎり、大輔の前に姿を見せられない。自覚もなく、無差別攻撃を続ける大輔に、対抗できるものなどいないはずだった。
ちらりと、頑強な男に目をやる。
護符という触《ふ》れ込《こ》みのイヤー・カフは着けているはずだが、運転席からは見えなかった。曰《いわ》くありげな金の輪が、本当に護符なのか、未《いま》だに疑っているところがある。
なにしろ、渡した人間が人間なのだ。
霊能力がある者の中で、いちばん信用できない男。
しかし、奇妙な事態が発生するたびに、彼に頼らなければならないのも確かだった。
今までは。
「……明日の朝、一番に親父《おやじ》に見てもらおう……。あんたに取《と》り憑《つ》くような者がいるとすれば……問題だ」
「親父さん……もう大丈夫なのか?」
「試運転ってところだけどね」
ひょいと眉《まゆ》を上げた大輔は、煙草《たばこ》をくわえた。
何があったのかはわからないが、気に掛かることはあるのだろう。会話が妙な具合に途切れる。
竜憲のことを嘘《うそ》をつけない奴と言い切るわりには、大輔自身もそう上手《う ま》いとは言えない。彼が得意とする分野ならまだしも、超常現象にかかわると、突然口が回らなくなるのだ。
もっともそれは、つい最近わかったことだったが。
「あー。ところでだな。お前、カリスマってモンがわかるか?」
会話を続けることができないくせに、沈黙《ちんもく》に耐《た》えられないようだ。突然の話題は、彼が困惑《こんわく》していることを教えてくれた。
「カリスマね……」
一応話題にのってやる。
「わかるとかわからないとかいうもんじゃないじゃないの。意識しないうちに操《あやつ》られる……というか、感化されるっていうか……」
竜憲が曖昧《あいまい》に言葉を濁《にご》すと、ひどく冷たい声が返ってきた。
「今日のライブな……。くそヘタなくせに、えらい熱狂してたんだよ。ボーカルは外《はず》れっぱなしだし、ギターは半分も弾《ひ》いてやしない。リズムも……CDより遅《おそ》いわ、乱れるわ。とにかく聴けたモンじゃなかった」
「好みの問題じゃないの?」
「それはな……そうだろう。だが、律泉があれだけ熱中するのがわからない。あいつが熱中するほどのもんじゃない。考えられるのは……」
「いい男だろ? ボーカルが……。サコは歌は下手《へ た》だけど顔はいいって言ってたぞ。だから前に行かなきゃ意味がないってさ」
鼻先で笑った大輔は、楽しげに煙《けむり》を吹き出した。
いつもの調子が出てきたようだ。
口先だけで、教授さえ煙に巻いてしまう男は、差《さ》し障《さわ》りのない話題を見つけて、嬉々《きき》としていた。
「カッコつけてるだけだよ。ライブの最中なんぞ、うっとりした顔をして、頭を振ってたぞ。事情を知らなきゃ、薬キメてるって思われても仕方がないくらいだ」
灰皿を引き出した大輔は、林立する吸《す》い殻《がら》の間に煙草《たばこ》を捩《ね》じこみ、言葉を続ける。
「まぁ、メジャーになる連中ってのは、多かれ少なかれカリスマはあるんだろうな。残念ながら、俺には見えないが……」
「けど、感じることはできるんだろう?」
「そりゃあ、普通程度には……」
新しい煙草をくわえた大輔は、パワーウインドウを少し下げた。
ようやく煙の行方《ゆくえ》に気が回り始めたらしい。
雨でも降っていないかぎり、窓をすかせるぐらいのことはする男だ。マナーというよりも、身に着いた習性というところか。
自分も煙草を引き出した竜憲は、差し出されたライターの炎《ほのお》に先を向けた。
「普通以上にドンカンだってのは認めるがな。……まぁ、いいか……」
ライターを引くと、大輔は小さく笑った。
初夏というにはあまりにも強い日差し。
これで蝉《せみ》でも鳴いていれば、真夏だと言ってやってもいい。
開け放たれた窓にもたれかかり、大輔《だいすけ》は風を顔に受けていた。
広い家だと、つくづく思う。今時、平屋でこれだけのスペースがあることがどれほど贅沢《ぜいたく》か、竜憲《りようけん》は考えたこともないだろう。
裏山に向かって開かれた窓から見える景色は、人の手が入っていない。それだけに自然の空気は気持ちのいいものだった。
「大輔。起きてるか?」
おざなりなノックの後、ドアが引き開けられる。
「おはよう」
取ってつけたような挨拶《あいさつ》に苦笑を漏《も》らした大輔は、シャツの胸もとを引いて、空気を送りこんだ。
「暑いな……。昨夜は寒いぐらいだったのに……」
「クーラー入れるか? 朝飯……っていうより昼か。が済んだら、親父《おやじ》が見てくれるってさ。あんたが妙だって言ったら、あっさりオーケーしてくれたよ」
「まさか、道場で、とか言うんじゃないだろうな」
「リビングにいる。そこまで大袈裟《おおげさ》じゃないさ」
大振りのマグ・カップを二つ持った竜憲は、それをテーブルにのせると、ベッドに腰を下ろした。
竜憲はシャツのボタンを上まで留め、涼《すず》しい顔をしている。胸の下までボタンを開けて、うだっている大輔とはえらい違いだ。
霊能力を持っている者は、人間ができているのだろうか。
気温の差ではなく、温度自体に反応しているようにも見える。大輔などは、昼夜の気温差ですっかり参っているのに、線の細い優男《やさおとこ》は平然としていた。
「コーヒー。ブラックでいいんだよね」
「サンキュ」
挽《ひ》いたばかりの豆で煎《い》れたコーヒー。
この家の人間は、つくづく贅沢《ぜいたく》にできている。家の大きさばかりではない。ちょっとした飲み物や、食事にいたるまで、こだわりがあった。
目を剥《む》くほどではないのが、むしろ厭味《いやみ》だ。
「どうしたんだ? 妙な顔をして……。ブラジルは嫌《きら》いだっけ?」
「いや。うまいよ」
たっぷりとマグ・カップに注《そそ》がれたコーヒーを味わう。
嬉しげにカップを傾ける竜憲は、妙に子供っぽい顔をしていた。
自宅に閉じこもってばかりだろうに、ここまで反発を覚えない男というのも珍しい。だいいち、未《いま》だに父親を尊敬しているらしいのだ。
自立心がないというべきか、単に幼いのか。
沙弥子《さやこ》のことにしてもそうだ。いくら幼なじみとはいえ、自分の思いを言い出すこともできずに、兄の役割を演じている。
どちらにしろ、大輔に言わせれば、信じられないほど素直な子供というところだった。
「――そういや。お前のほうはどうなんだ? あの後、何か変わったことは?」
「べつに。そうだな……。一週間ぐらい前に、ちょっとした騒動があったぐらいだ」
「騒動?」
「窓が襲ってきた」
言われて、窓枠を確かめる。
掃除が行き届いているために、はっきりとはわからない。だが、新しく取り付けられたもののような気もする。
「襲ってきたってのは?」
「そのまま。ここでビデオを見てたら、突然舞い上がって、壁にぶつかったんだ。……幻覚《げんかく》かもしれないけどね」
幻覚というからには、実際には窓は無傷だったのだろう。
「連中、どんどん賢《かしこ》くなるな。何度もやられたら、俺も避ける気がなくなるかもしれない。で、いつか本物が交じってて……」
首の前で手を横に引く。
瞬間、昔のホラー映画の映像が脳裏《のうり》に浮かぶ。頬《ほお》をひきつらせた大輔は、首をすくめた。
笑い飛ばせないあたりが嫌《いや》だ。
この部屋の大きな窓は、一枚ガラスでできており、下手《へ た》に外《はず》れてしまったら、映画のとおり首が飛ばされることになるだろう。
「……たちの悪い冗談だな」
「冗談のうちはいいけどね。あんたのほうは? 何もない?」
「あるわけねえだろ」
「本当に?」
「しつこいな……。俺がお守りじゃなくなったってのが、そんなに不満か?」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、カップをテーブルに戻すと、確かめるように絨緞《じゆうたん》に視線を落とした。
「お守りだよ。今のところはね、その証拠に、今朝は何も出ない……」
「あぁ?」
「最近、寝起きが悪くてさ。ぼんやりしている間じゅう、そこいらがバケモンで埋《う》まってるんだ。それが、今朝はただの一匹もいやしない。気持ちいいったらないよ……」
起き抜けに、そんな化け物達と顔を突き合わせていると思うと、同情したくなる。竜憲がいう化け物がどんなものか、数か月前の事件で、嫌というほど味わっていたのだ。
「気を抜いていると現れるのか?」
「落ちこんだりしてもね。下手《へ た》に興奮するのもいけないそうだ。……それは確かめてないんだけどね」
軽く言ってはいたが、最近の竜憲に覇気《はき》がない理由がわかったような気がする。
姫神《ひめがみ》に取《と》り憑《つ》かれて以来、彼は常に平静を保つという、修行僧《しゆぎようそう》のような生活を強《し》いられているのだろう。
自分で望んだことではない。
それどころか、竜憲にはなんの落ち度もないのだ。
普通の人間より少しばかり霊能力が強かっただけで、どうしてこんな目に遇《あ》わなければならないのだろう。
唇《くちびる》をへの字に曲げた大輔は、音を立ててコーヒーを飲み下すと、そのまま床に腰を下ろした。
この部屋のありとあらゆるところから、化け物が生《は》え出るという。単なる影の時もあるし、人の顔や手足のこともあるそうだ。
自分ではけっして見られないだけに、想像力が余計に働いてしまう。
絨緞《じゆうたん》の目の間や、壁紙の継《つ》ぎ目が妙に気にかかる。物理的な隙間《すきま》から生えるわけではないとわかっていても、ついつい見てしまうのだ。
「まあ……。少しでも役に立つんならいいが……」
「役に立つよ。気ィ抜いてても大丈夫ってだけでも、ありがたいからさ」
その言葉どおり、竜憲の表情は惚《ほう》けている。緊張感のかけらもないというべきか、半分寝惚けたような顔というべきか。
女達が嬌声《きようせい》を上げる男ぶりを示すものは、どこにもなかった。
「あんまり待たせるのもなんだし……。さっさと親父《おやじ》さんの話を聞きにいくか?」
「聞くんじゃないよ。見てもらうのさ。とにかく、ゆうべのあんたは普通じゃなかったからね」
カップをテーブルに戻した竜憲が表情を引き締める。
途端に、老成した僧侶《そうりよ》のような顔になった。
「わかってるだろうね。あんたがどう考えてようと、向こうにしてみれば、さんざんやっつけられた後なんだから、もし力が弱くなっているんなら、のんびりしてられないんだよ」
「なんだと?」
「だから、いつ襲われても不思議《ふしぎ》じゃないってこと。大挙して押し寄せるかもね。少なくとも、無差別攻撃をやめたってわかったら、試してみようってヤツが出ても不思議じゃないだろう」
首をすくめて、小さく笑う。
ぞくりと背筋を凍《こお》らせた大輔は、唇の端を軽く舐《な》めた。
どこまで本気かわからないが、あまり心地のよい言葉ではない。
異形《いぎよう》の生命を打ち払っているという。
自覚はない。
自覚はないが、おそらく真実なのだろう。化け物の姿を見、奇妙な腕の存在を知ってからは、竜憲の言葉に抵抗する気はなくなっていた。
「……とにかく、飯にしよう。そのうちに親父のほうの用意もできるだろうし……」
眉《まゆ》を引き上げた大輔は、勢いをつけて立ち上がった。
検査結果を聞きにいく病人の気分はこんなだろうか。少しばかり自覚症状があるだけに、不治の病を宣告されるのではないかという気分になっている。
彼の身体に潜《ひそ》むもうひとつの人格。
竜憲に取《と》り憑《つ》いた姫神と対《つい》の鏡に封じられていた男。
どうしたわけか、今までこれといった変化はないが、見るべき人間が見れば、その存在が看破《かんぱ》されるかもしれない。
そうなれば、竜憲のように生活を制限されるのだろうか。
小さく息を吐《は》いた大輔は、死の宣告をされることを覚悟《かくご》して、ドアに向かった。
厚手のコットンシャツに、ゆったりとしたスラックス。
簡単に撫《な》でつけられただけの髪には白いものが混《ま》じっていた。しかし、血色のよい顔は、五十代半ばには見えない。
忠利《ただのり》はソファーに深く腰を下ろし、穏《おだ》やかな笑みを浮かべて大輔《だいすけ》を見やっていた。
休日のサラリーマンという格好《かつこう》だ。
彼が高名な霊能力者だとは、誰も思わないだろう。
「相変わらず、何も連《つ》れておらんな。見事なほどだ。……しかし、力は強くなっているようだね、姉崎《あねざき》くん」
ちらりと大輔を見やった竜憲《りようけん》は、父親に視線を移した。
「昨夜、大輔がいるのに雑霊が現れたんだ。……何か、あったんじゃないのかな……」
「魂《たましい》に傷はない。お前が言うように、何かと戦ったというのなら、掠《かす》り傷ぐらいは残っていそうなものだがな……」
「じゃあ、どうして……」
ひょいと眉《まゆ》を上げた忠利は、ゆっくりと目を眇《すが》めて竜憲を見据《みす》えた。
「わしにはお前に問題があるような気がするがな……」
忠利にとっては、自分の息子より大輔のほうが信用できる人間なのだろう。
不満げに頬《ほお》を歪《ゆが》めた竜憲は、ソファーの背に身体を預《あず》けた。
「俺の問題ってのは?」
「姉崎君の力は、自分のためのものだ。お前はその陰に隠れていただけのこと。だが、お前が姉崎君の力に疑問を抱いた。もしくは……信用していなかった。そのために、姉崎君の傘の下から出てしまったのではないかな?」
くすりと大輔が笑う。
むっとして唇《くちびる》を歪めた竜憲は、にやつく大輔を睨《にら》みつけた。
沙弥子《さやこ》のことを思い出しているのだろう。確かに、沙弥子が大輔に好意を抱いていると知ってから、どこかわだかまるものがある。
しかし、いまさらそんなことが問題になるはずもないのだ。
「思い当たることはあるけどね。原因はそれじゃないだろう。――と、思うよ。それより、昨日大輔が行ったライブのほうが怪《あや》しいと思うんだけど……。サコが好きなバンドなんだけど、けっこう派手《はで》なロックで……」
「お前と違って、姉崎君はそんなものに惑《まど》わされたりせん。というより、何にも影響を受けることができないのだ。彼は自分の力だけで戦わねばならない。だからこそ、彼に何かあったとすれば、それは傷となって残るはずなのだ。……どんな些細《ささい》なものでもな……」
「本当に? 何にも影響を受けないのか?」
「そうだ。お前のように、犬猫の意思や、草木の思いまで拾い上げ、操《あやつ》られる者とは違う。彼の意思に逆らうことは、不可能だ」
自分が、徹底的に馬鹿《ばか》にされていることはわかる。
だが竜憲は、むしろ大輔に同情していた。
彼の魂《たましい》が孤独だと、断言されたようなものなのだ。すべてのものの言葉に耳を傾けてしまうのも考えものだが、何者の言葉も聞かないというのは、恐《おそ》ろしく寂《さび》しい。
大輔にとって、認識できる魂は、すべて敵なのだ。
もっとも、人以外のものの存在さえ認めない大輔には、わからない感情だろうが。
「……おじさん。ちょっと聞きたいんですけど……」
突然、大輔が口を開いた。
「なんだね」
「カリスマってものがありますよね。俺はそれも感じられないんですか?」
「カリスマは、魂に対する影響力のことだ。君はカリスマを感じたりはしないだろう。それでいいのだ。人間の持つカリスマに躍《おど》らされるようでは、君の持つ力は、あまりにも物騒《ぶつそう》なものになりかねないからね」
ひょいと眉《まゆ》を上げた大輔は、音を立てて頭を掻《か》いた。
原水爆並みの言われようだ。
扱いようによっては、武器にも抑止力《よくしりよく》にもなる。
今のところ、本人がスイッチを持っていないだけに抑止力だったが、それを自在に操《あやつ》れるようになれば、単なる始末の悪い武器でしかない。
だからこそ、大輔が誰かに影響されて力を使うことは、あってはならないのだ。
「なるほど……。じゃあ、俺が無感動なのもうなずけるかな。演奏の上手《う ま》い下手《へ た》はわかっても、感動はしないし……」
「べつに不自由はなかろう?」
「ええ」
寂《さび》しいとも思わないのだろう。彼にとって、それが当たり前なのだから。
竜憲は、こんな話を持ち出してしまった自分を呪《のろ》っていた。
大輔が女以外のものに興味を抱かないのは、そのせいだろう。そして、女の好みが徹底的に違う理由も理解できた。
彼自身は、どれほど外見が優れていようと、本人独自の色合いがなければ、人形と同じと考えてしまう。
いや、人形のほうが、造り手の念を受けて、よほど魅力的に見えるものさえある。
しかし、それを感じない大輔は、ある意味で恐《おそ》ろしい存在だった。
機械と同じ。
的確な反応をする人間こそが、価値があるのだろう。
「親父《おやじ》。じゃあ、大輔には本当になんの問題もないんだな」
「そうだ。少なくとも、傷の残るようなものは何もない」
「じゃあ、俺は?」
「お前の傷など、見るも情けないわ。……どうだ? しばらく鴻《おおとり》の元で修行せんか。わしより、あれのほうがお前を鍛《きた》えなおすには向いている」
「冗談じゃない!」
反射的に叫んだ竜憲に、忠利は表情を引き締めた。
「冗談ではない。鴻はお前と同じ質を持っているのだ。あれにしかお前は導けん。――だからこそ、あれはわしの元を離れて修行している。わしにはなんの助言もできないのでな……」
沈鬱《ちんうつ》な表情が、言葉に重みを加える。
鴻のように、半分化け物になるしかないというのだろうか。
彼がどうやって霊魂《れいこん》と言葉を交わしているのか、おぼろげながらも理解できる竜憲には、父親の言葉はひどく気が滅入《めい》るものだった。
「……冗談じゃない。俺はああはなりたくない」
「なんだと?」
「鴻が苦手《にがて》なのは知っているだろう。……あいつは……半分しか人間じゃないんだ。残りの半分は、どこかに預《あず》けている」
言っておいて、竜憲は自分の言葉が真実だと気づいた。
鴻に付きまとう奇妙な違和感、嫌悪感《けんおかん》の原因がわかったのだ。
「――ひょっとすると、俺もああなるかもしれない。いや、彼女が俺を乗っ取ろうとしたら、あれぐらいじゃすまないだろう。……だが、ヤツの解決法があれだとしたら、俺は別の手を捜《さが》す」
「できるのか」
「わからない。……けど……鴻の半分を持っているヤツが何かわからないけど、半分幽霊《ゆうれい》みたいになりたくはないんだ」
ゆっくりと、目を閉じた忠利は、そのまま口を閉《と》ざした。
誰も、その場を動こうとはしなかった。
忠利が何をしているのか、言葉を捜しているのか、それとも術を使っているのか。それすらもわからなかったが、動く事ができなかったのである。
しんとした居間に、静かな呼吸だけが聞こえた。
やがて、深い息をひとつ吐《は》いた忠利は、うっすらと目を開いた。
「……そこまでわかっているのなら、いいだろう。だが、鴻ほどの術者が、それしかできなんだという事を忘れるな。自分を保つためには、あれしか方法がなかったのだ」
白蛇。
おそらく、鴻の半分を占めているのは、真っ白な大蛇だ。
意識の狭間《はざま》で、何度か見たことがある。
「お前も、よくよく考えるのだな。すべてを失うか、半分だけでも自分を保つか。……なにより、お前が自分を失うということが、己《おのれ》だけの問題ではないということも、忘れるでない」
「ああ……。わかってるよ」
「鴻も、ほかの手段を捜していることだしな……。何かあれば、わしに相談するより、鴻を頼ったほうがよかろう。わしには、あれの力を見極めることすらできんのだからな……」
ふわりと、忠利の周りを靄《もや》が取り巻いた。
忠利に力を貸す霊達だろうか。
竜憲は、ちらりと視線を大輔に投げた。
別段変わったところはない。
忠利の姿を霞《かす》ませるほど濃い靄《もや》も、大輔には見えないのだろう。
「鴻に頼るしかない。あれなら……なんらかの力になれるだろう」
言葉は、忠利自身のものなのだろうか。それとも、霊魂《れいこん》達が言わせたのだろうか。
どちらにしろ、父親が助けにならないことは、これでわかった。
「……明日、鴻が顔を見せることになっている。姉崎くん。君も見てもらいなさい。……何か。わしにはわからぬことが見えるかもしれん」
力なく笑った忠利は、膝《ひざ》に手を突いて、腰を上げた。
全能ではないと、すべてを知っているわけではないと言い切れるだけ、忠利は己《おのれ》の力に自信を持っているのだろう。
しかし、息子の手助けすらできないという事実が、彼を打ちのめしていた。
第二章 警 告
「あの女を殺せ……」
どこからともなく声がする。
ひどく冷たい女の声だ。
「何故《なにゆえ》にございますか。捨ておいても、支障はありますまい」
耳もとで囁《ささや》く声は男のもの。
半ば閉じられた目に、男の顔が映る。
温かい腕が首を支えて、大きな手が髪を撫《な》でていた。
「今はまだよい。しかし、いずれ仇《あだ》をなすであろう……」
自分の唇《くちびる》が言葉を綴《つづ》っていると知った瞬間、竜憲《りようけん》は目を見開いた。
しかし、視界は狭《せば》まったまま。
意識と肉体が完全に切り離され、夢の中の出来事のように自由にならない。
「おおせのとおりに……。しかし、よろしいのですか……」
自分の腕が、男の首に回される。
――やめろ! 何をする!――
喚《わめ》く自分とはべつに、肉体は男の首を捕《つか》まえて、ゆっくりと引き寄せた。
唇が重なる。
舌《した》が絡《から》み、歯の裏がまさぐられた。
口の中にナメクジでも突っ込まれたようだ。
吐《は》き気がする。
必死で、精神を身動《みじろ》ぎさせた竜憲は、一瞬だけ肉体の支配を取り戻した瞬間、覆《おお》いかぶさる身体を撥《は》ね除《の》けた。
「やめろ!」
ふわりと離れた男が、訝《いぶか》しげな顔をする。
「気づかれたか……」
右手を伸ばし、竜憲の頬《ほお》に触れた男は、蕩《とろ》けるような笑みを見せた。
「なかなかに、侮《あなど》れぬ力をお持ちのようだ。……しかし……」
長い髪が、さらりと流れる。
それが、裸の胸に触れていることに気づき、竜憲は歯を食いしばった。
ものも言わず、拳《こぶし》を繰り出す。
軽く頭を逸《そ》らした男は、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめると、唇《くちびる》の端を引き上げた。
「お方様も、よくわかっていらっしゃる……」
「何がだ!」
「素はあるに、操《あやつ》る術《すべ》を知らん。そなたのような者を選ばれたわけだ……」
楽しげに笑った男は、拳を引き寄せると、竜憲の顔を正面から見据《みす》えた。
「しかし……。いつまでもこのままではいくまいよ……」
視線で人が殺せるものなら、竜憲は迷いもせずにそうしただろう。しかし、男は射《い》るような視線を笑みと共に受け止めていた。
「まったく……。人はここまで愚《おろ》かになったか……」
「どけ!」
掴《つか》まれた拳は、ぴくりとも動かない。
それでも、竜憲は男を蹴《け》り落とそうとした。
「無駄だ。所詮《しよせん》そなたは戦士ではない。私に逆らうことなどできるはずもなかろう……」
怒りが、竜憲の全身を染め上げる。
火を噴きそうだ。
やがて、青白い炎《ほのお》が全身から立ち上った。
「私を拒《こば》むか……」
男の目が痙攣《けいれん》する。
「当たり前だろうが!」
「姫様を宿しておきながら!」
「それがどうした!」
かっと体温が上がる。
その瞬間、男は弾《はじ》き飛ばされた。
壁にぶち当たる。
「いてえ……」
大輔《だいすけ》の声。
壁に貼りついた男が、左右に首を振る。
と長髪の男の陰から、見慣れた友人の顔が浮かび上がってきた。
二重写しになったフィルムのように、長髪の男の向こうに大輔がいる。見慣れた顔を大袈裟《おおげさ》に顰《しか》め、頭を撫《な》でると、目を瞬《しばたた》かせた。
「なんだぁ? 何があった?」
よほど強く打ったのだろう。頭を撫《な》でながらも顔を顰めている。
「どうしたってこんなところに……」
聞きたいのは竜憲のほうだ。
ベッドの下に客用の布団を敷いて眠っていた大輔が、なぜ突然見知らぬ男に見えたのか。
「……お前……。蹴《け》ったな……。どうすりゃそんなに寝相が悪くなれるんだよ。ええ? それとも、鼾《いびき》でもかいてたか?」
事態をまるで把握《はあく》していない大輔は、自分が壁に頭をぶつけた理由がまったく想像できないらしい。
もっともだ。まさか自分が化け物にのっとられて、友人に迫《せま》っていたなどと、考えつきもしないだろう。
「……悪いな。バケモンだけをぶっ飛ばしたつもりだったんだけど……」
「あぁ? ……出たのか?」
その場に座り直した大輔は、室内を見回して眉《まゆ》を寄せた。
天井灯にスタンド。テレビにいたるまで、すべての電気製品のスイッチが入っている。そのくせ、ボリュームは絞《しぼ》られているらしく、インジケーターが躍《おど》るステレオからも、音は漏《も》れていなかった。
「たいしたモンじゃないが、あんまり気持ちが悪かったから、ついつい……」
「物騒《ぶつそう》だな。お前の隣で寝るってのも……。バケモノをやっつけるついでに、俺まで殺すなよ」
やけに暢気《のんき》なことを言う大男を睨《にら》みつけた竜憲は、それでもぎごちなく笑ってみせた。
この、爪《つめ》の先まで女好きの友人に、自分がした事を教えてやればどんな顔をするだろうか。事実を突きつけてやりたい気もする。
しかし、竜憲は小さく笑っただけだった。
「汗、かいちゃった。……ちょっとシャワー浴びてくるわ。悪かったな……叩き起こしちゃって……」
「そりゃいいが……。いいのか? またバケモンが……」
「いい」
いつ、また大輔があの男に変わるかもわからない。
それぐらいなら、はっきりと化け物とわかる奴らと戦ったほうがましだった。
はだけたままのパジャマの前を煽《あお》り、風を送るふりをしながらドアに向かう。
何を信用していいのかわからない。大輔の中に入り込んだものは、忠利《ただのり》の目すらごまかせるのだ。
唯一《ゆいいつ》、共に戦えると思っていた大輔の中に、古代の戦士が眠っているのか。
いや、息を潜《ひそ》めているだけだろう。竜憲の中の姫神《ひめがみ》と同じく、いつでも姿を現す事ができるのだ。
廊下を歩きながら、竜憲はパジャマの上着を脱ぎ捨てた。
苛立《いらだ》ち紛《まぎ》れに、壁を打ち据《す》える。
『どうした? 姫様の器よ……』
『けけっ。逆らうだけ無駄じゃ……。お方様に逆ろうてどうなる』
『捨てたほうが楽じゃぞ……』
言われなくともわかっている。
が、そんなことはできようはずもない。そう思い切れるくらいなら、苦労はないのだ。
「うるさい!」
『くくっ……くっくっ……』
四方から忍び笑いが聞こえてくる。
『お前の心などお見通しじゃ……』
虚空《こくう》を睨《にら》み据えると、声がはたりと途絶える。
そして、気配もそのまま消え失《う》せた。
相変わらずの戯《ざ》れ言《ごと》だ。気にしなければいい。
とはいえ、ある意味で妖鬼《ようき》共の言葉は、自分の心情を映す鏡でもある。それが自覚できるだけに、どうしても惑うのだ。
――だが――
負けるつもりはない。そう自分に言い聞かせた竜憲は、息を吐《は》いて、バスルームに向かった。
バスルームの扉を引き開けた途端に、眼前を黒い影が過《よぎ》る。
「ちっ……!」
舌《した》を鳴らすと、影は消えた。
指先を動かすだけで退散する、有象無象《うぞうむぞう》の妖魔。
そんなものまで現れるとなると、よほど参っているらしい。状況はかなり深刻だ。
どこかで歯車が噛《か》み合わなくなっている。すべての事態がことごとく悪い方向に向かっているように思えた。
原因は自分か、大輔《だいすけ》か。
あるいは、どちらもかもしれない。
正直に話し合う必要がありそうだ。自分が口にしないこと以上に、大輔にも喋《しやべ》らぬ秘密があるに違いないのだ。
もちろん、まるで認識していない可能性もないではないが、あの妙に煮《に》えきらない態度には、どうしても隠し事のにおいが付きまとっている。
「……戦士……か」
不意に大輔に重なって見えた男の言葉を思い出す。
自分が戦士ではないと言いきられたことが、ひどく不満だった。
確かに、そう言うには頼りないという自覚はあるが、だからといってすべてを従容《しようよう》と受け入れることはできない。組み伏せられた挙《あ》げ句《く》に、従えと言われて、はいと言うわけにはいかないのだ。
「……ふざけやがって……」
自分の動揺の原因が、そこはかとなくわかってくる。
それに、あれだけの力を持ちながら、簡単に操《あやつ》られる大輔も大輔だ。それこそ、自分の立場が、まるでわかっていない。
無性《むしよう》に腹立たしかった。
理性では仕方がないのだと理解していても、この苛立《いらだ》ちは収まりそうにない。
浴室に足を踏《ふ》み入れ、パジャマを脱ぎ捨てると、何も考えずにコックをひねる。冷たい水が溢《あふ》れ、足もとのタイルを濡《ぬ》らす。
一瞬、眉《まゆ》を寄せた竜憲は、それでもそのままシャワーに切り替えた。
水が頭上から降り注《そそ》ぐ。
少しずつ水が温かくなり、やがて熱い湯に変わる。
竜憲《りようけん》はほっと溜《た》め息《いき》を吐《は》き、髪を掻《か》き回した。それだけで、不快な気分が洗い流されていくような気がする。
単純なものだ。
自分の単純さに呆《あき》れながらも、少しは冷静に事態を掌握《しようあく》しようと努める。大輔の中に潜《ひそ》む戦士がいったい何者なのか。本当に大輔は何も気づいていないのか。
髪を掻き上げ、顔に湯を受けながら、あれこれと思考を回らせる。
と、不意に湯の感触が変わった。
「え?」
目を見開いた。
視界が真っ赤に染まっている。
「わっ!」
声にならない悲鳴を上げて、竜憲は飛び退《すさ》った。
濡《ぬ》れたタイルに足が滑《すべ》り、壁に強《したた》かに背を打ち付ける。
『くくく……くくっ……』
忍び笑いがタイルの壁に響く。
顔をまさぐった竜憲は、赤く染まった掌《てのひら》をしげしげと眺《なが》めた。いまさらのように、生臭《なまぐさ》い臭《にお》いが鼻を突く。
血だ。
「いい加減にしろ!」
が、シャワーからは、赤い液体が湯気を上げて降り注《そそ》ぐ。熱い血の臭いが、妙に甘ったるく感じられる。
「消え失《う》せろ!」
通じない。
相変わらず、胸の悪くなるような忍び笑いが響き渡る。
何かがいつもとは違う。常日頃、ざわざわと周囲に蠢《うごめ》くものとは、異質な気配がつきまとっていた。
目眩《めまい》がする。
『邪魔をしないで……』
「……じゃ…ま……?」
『私達の……』
『ようやく見つけたのよ。……あなたにはあげないわ』
何を?
浮かんだ疑問は言葉にならなかった。
排水溝からごぼごぼと音を立てて、血が泡立《あわだ》つ。
どう考えても、これは度が過ぎている。大概《たいがい》にしてほしい。
どうせ、犯人が消えれば、消え失《う》せるのだ。妙に暢気《のんき》なことを考えながら、溢《あふ》れる血の流れを見守った。
くすくすと笑う声が、奇妙な具合に頭の中に谺《こだま》する。ひどく気分が悪かった。
「どうした! リョウ!」
大輔の声だ。
途端に笑い声が消える。
「なんかあったのか!?」
扉を叩く音と、ノブを引く音が騒々《そうぞう》しい。
『邪魔をしたら、許さない……』
掠《かす》れた声が耳もとで囁《ささや》く。
ほとんど同時に、派手《はで》な音と共に扉が開いた。
血煙のような赤いシャワーが、普通の湯に戻る。
ほっとする間もなく、浴室の戸が引き開けられた。
いかにも間抜けな図だろう。どこから見ても、風呂場ですっ転《ころ》んでいる以外の何物でもなかったから。
小馬鹿《こばか》にする声がかかることを予想し、溜《た》め息《いき》と共に目を閉じる。が、案に相違して、なんの声もかからない。
ゆるりと視線を上げると、息を飲む大輔が見下ろしていた。
シャワーの湯がタイルを打つ音が妙に大きく聞こえる。
「や……やぁ」
大輔の目が大きく見開かれ、そのまま踵《きびす》を返した。
即座にタオルを手に引き返してくる。
「何したんだ?」
「え?」
髪を掻《か》き上げようとして、手が血塗《ちまみ》れなのに気づく。
「わっ!」
思わず声を上げた竜憲を、大輔は訝《いぶか》しげに見下ろしている。
タイルを眺《なが》め下ろすと、流れる湯に赤い筋が斑《まだら》の模様を描いていた。
「なんだ……これ!?」
「なんだって……血だろうが。転《ころ》んで頭でも切ったのか?」
竜憲の反応のせいだろう。大輔の対応も醒《さ》めたものに変わっている。
「違う……。シャワー……」
言いかけて口を噤《つぐ》む。
「シャワーがどうしたって?」
「いいよ、もう……」
竜憲はのたのたと立ち上がり、降り注《そそ》ぐ湯の下に頭を突き出した。
「もういいって……お前なぁ。大声出して騒いだのはお前だろうが。部屋まで聞こえたぞ」
身体を染める血を洗い流しながら、竜憲は眇《すが》めた目を大輔に向ける。
「あ? 俺の部屋までか?」
「そうだよ」
「嘘《うそ》だろ? そんなわけない」
「わけないも何も……」
「どうしたんだ。いったい……」
不意に忠利《ただのり》の声がする。
「リョウの奴が……」
「なんでもないよ。すっ転んでちょっと切っただけ……」
視線で大輔を押しとどめ、言いつくろう。
「何をしているんだ。……まったく」
呆《あき》れ顔で覗《のぞ》きこんだ父親に、苦笑を返した竜憲は、大輔からタオルをひったくった。
「本当になんでもないのか?」
疑わしげに、浴室を見回す忠利を眺《なが》めながら、言葉をつくろう。
どうやら、なんの気配も残っていないようだ。疑問を抱いてはいるだろうが、忠利には感じとれないらしい。
「大した事ないんだ。頭の中切っちゃってさ。……血の海になっちまった」
頭を押さえてみせながら、苦笑《にがわら》いをしてみせる。
今、正直に言うべきなのかもしれないが、あまりにも曖昧《あいまい》だ。
何より、今の忠利は、大輔に取《と》り憑《つ》いた異形《いぎよう》の戦士すら看破《かんぱ》できなかったのである。体調が戻ってきているとはいえ、まだ本調子ではないのだろう。
このうえ、余計な負担はかけたくはなかった。
「大丈夫だよ。……もう血も止まったし……」
嘘《うそ》も方便という奴だ。
もっとも、タイルを染める血は本物。あるいは気づかぬうちに怪我《けが》をしているのかもしれない。
大輔なら、真っ先に言い出しそうな理由づけを思いつき、いまさらのように頭を探《さぐ》ってみる。
とりあえず、痛みはない。
「起こしちゃって悪かったね。ほんと……ごめん」
ぺこりと頭を下げる。
「そうか。気をつけろよ」
父親は思いの外《ほか》あっさりと引き下がった。
どうやら、本当に何も気づかなかったのだ。そう思うと、少々不安が過《よぎ》る。父親の手には負えない化け物が、この家の中をうろつき始めた証拠のような気がするからだ。
「まったく人騒がせな……」
父親の足音が去るのを待って、大輔がぶつぶつと呟《つぶや》く。
「なんだ……心配してくれたのか」
くすくすと笑った竜憲を、大輔がぎろりと睨《にら》む。
「ふん。来るんじゃなかったと思ってるよ。……お前が女ならいざ知らず……」
棚《たな》のバスローブを取ると、戸口に寄りかかる。
「怪我じゃないんだ」
「なんだと。……嘘ついたのか? 親父《おやじ》さんに……」
「まあね」
曖昧にうなずき、シャワーヘッドを外《はず》すと、血の付いたタイルにざっと湯をかける。
「何すんだ。……撥《は》ねるじゃねぇか」
「悪い。……ほっといたら、おふくろが腰ぬかしちゃうだろ?」
他人事のように言いながら、血を洗い流すと、シャワーを止める。
「なんだよ……もう終わりか? いい加減な奴だな」
大輔が眉《まゆ》を顰《しか》めた。
「え?」
「ちょっと来いよ」
近寄った竜憲の頭を掴《つか》み、濡《ぬ》れた髪に鼻を近づける。
「やっぱりだ。……血腥《なまぐさ》いぞ……お前」
「ほんとかよ……参ったな」
「何が参っただ。……とにかく」
「わかってるよ」
目を眇《すが》めた大輔は、ローブを扉のノブに引っ掛けた。
「きっちり洗い流せよ。……話はそれからだな」
そう言って扉を閉めようとする大輔を、竜憲は慌《あわ》てて止めた。
「ちょっと……待って」
「何?」
「悪いけどさ……待っててよ」
「なんだと?」
「だからさ……すぐ終わるからさ。出るまで……」
「冗談じゃないぞ。何が悲しくて……俺がお前のシャワーシーンを観賞しなくちゃなんないんだ?」
本来こういう男だ。
竜憲が夜中に飛び起きた理由を告げてやったら、気絶するかもしれない。内心で笑いながら、真剣に不快を表明する大輔に、両手を合わせる。
「頼む。……べつに観賞してくれなくてもいいから」
「当たり前だろ!」
言いながら、扉を半分閉めた大輔は、擦《す》りガラスの向こうで壁に背を預《あず》けた。
「悪いねぇ……ホント」
そのうち、本当のことを言ってやろう。
密《ひそ》かに心に誓った竜憲は、シャンプーに手を伸ばした。
ヘキサグラム。
それがバンドの名前だった。
ボーカルにギター、ベース、ドラム、キーボード。それにコーラスという名の、ダンサーが二人。
三角形を二つ組み合わせた六芒星《ろくぼうせい》のそれぞれの頂点にメンバーが立ち、中央に顔だけは奇麗《きれい》なボーカリストが、手を胸の前で合わせて立っていた。
それぞれに細いスポットが当たり、さして見られる顔でもない連中にまで、神秘的な色合いを与えている。
沙弥子《さやこ》がどうしてもと駄々《だだ》を捏《こ》ねてまで、ライブに行ったバンドだ。
六芒星《ヘキサグラム》だろうが五芒星《ペンタグラム》だろうが区別がつかないだろう小娘達が、メンバーが現れただけで金切り声を上げる。
確かに、この騒音では、音がどうこうという事もないだろう。
スピーカーから溢《あふ》れる音は、ただの騒音でしかなかった。
「……これか?」
「そう。……どうだ? お前の意見は……」
ケーブルテレビの音楽専用チャンネルで、ライブを放送するから録画してくれ、という電話が入ったのが、つい十分前。
どこまでも沙弥子には甘い竜憲《りようけん》は、授業中に電話をかけたらしい沙弥子に、あっさりと承諾《しようだく》の返事をした。
「俺は何も感じないな……。サコが熱中するぐらいだから、力はあるんだろうけど……」
「下手《へ た》だとは思わんのか?」
「論評は避《さ》ける」
その答えが、竜憲の意見を如実《によじつ》に物語っている。
しかし、大輔はそれでは許さなかった。
「なんだったら、もう少しボリュームを上げてやろうか? はっきり言えるぞ」
「やめてくれ……」
モニターのスイッチを切った竜憲は、にやにやと笑う男に、軽く手を合わせてみせた。
「だから、悪かったって言ってるだろう。あんたがカリスマってモノが全然わからないんなら、こんなバンドは意味がないよ。……きっとね」
「お前はどうなんだ? 奴らのカリスマとやらがわかるのか?」
「……そりゃわかるよ。けど、俺には意味がない。ちょっと……露骨《ろこつ》だしね……」
ふと、真顔になった大輔は、竜憲の顔を覗《のぞ》き込んだ。
眉《まゆ》を寄せ、避《さ》けるように顔を背《そむ》ける。
「え?」
驚いたのは竜憲も同じだった。
「……どうした」
「あ……。いや。なんでもない」
「なんでもないってこたあるまい。どうして避けるんだ?」
「ああ……。ちょっと、昨夜の事を思い出して……」
「昨夜?」
目を眇《すが》めた大輔は、竜憲の肩を掴《つか》むと、再び顔を覗き込んだ。
今度は、竜憲も覚悟《かくご》を決めてその顔をまっすぐに見返す。
「何があったんだ? 昨夜。風呂でブッ倒れただけじゃないだろう。……普通の傷だったら、頭を切ったんならそう簡単に血は止まらないわな。だいたい、お前だって怪我《けが》じゃないって言ってたじゃないか……」
大輔の手を払った竜憲は、床から立ち上がると、椅子に移った。
どう切り出したものか、迷っている。
そろそろ、互いの秘密をなくさなければならない時期なのだろう。彼の周りに出没する物《もの》の怪《け》達の力も強くなっているし、何より、大輔自身にも異変が起こっているのだ。
このまま、表面だけを取りつくろって戦うのは、無理かもしれない。
しかし、昨夜の出来事を話すには、まだ記憶がなまなましかった。
血のシャワー。安手のホラー映画もどきの出来事はともかく、もう一つのほうは少し事情が違う。
口の中に捩《ね》じ込まれたナメクジのような舌《した》。
竜憲の中に眠る姫神《ひめがみ》を求めて、化け物が彷徨《さまよ》い出たのだろう。
しかも、そいつは大輔の内部にいる。
二人の会話からして、男が姫神を崇《あが》めているのは確か。きっと、姫神のためなら、なんでもやる男だ。
殺せと言われれば、殺す。
びくりと、竜憲は身体を緊張させた。
殺す。
そう、姫神は殺せと命じていた。
女を。
「……まさか……サコ……」
「あ? 律泉《りつせん》がどうかしたのか? まさかあいつの幻《まぼろし》が現れて、傷を治《なお》してくれたなんてヌカシやがると……」
目の前に拳《こぶし》が突き出される。
「お前……まさかサコを殺す気じゃないだろうな……」
「はぁ?」
すっとんきょうな声を上げた大輔は、腰を上げると掌《てのひら》を竜憲の額《ひたい》に押しつけた。
「熱はないわな。……何、ボケてんだ? どうして俺が人殺しになるってんだよ。だいたいバケモノを殺してるってのも、信じてないんだからな」
ごくりと咽喉《の ど》を鳴らせた竜憲は、唇《くちびる》の端を舐《な》めた。
つくづく、自分はいい加減にできている。
誰かが殺されるかもしれないというのに、男に襲われたというほうがショックだったのだ。
しかも、その相手が沙弥子かもしれないというのに、だ。
「あんた。誰かに取《と》り憑《つ》かれているだろう」
「……馬鹿《ばか》言うなよ。……お前じゃあるまいし……」
嘘《うそ》だ。
この口から生まれたような男でも、あんなものに取り憑かれたとなると、口が回らなくなるらしい。
いつもなら、よく回る口で竜憲の言葉を否定しようと言葉を重ねるはずだ。
それが、ぎごちない言葉を綴《つづ》っただけで、ぴたりと閉じられた。
「じゃあ、昨夜俺を襲ったのは誰だ?」
「え?」
「確かに、顔はあんたじゃなかった。けど、吹っ飛んだのはあんただ」
「まさか……」
大輔が、自分の手を見据《みす》える。
「まさか、あいつが……。お前を切ろうとしたのか? あの妙な剣で……」
今度は、竜憲が黙《だま》る番だった。
大輔は竜憲を切り殺そうとしたと思っている。
それはそうだろう。突飛な発想には違いないが、自分が男に迫ったなどと考えつくよりは自然である。
「……ちょっと違うがな。……まあ、似たようなもんだ。で、俺の中の姫様が、その男に言ったんだよ。女を殺せってね。――あの、女だそうだ。心当たりはあるか?」
「ないぞ、そんなもん。だいたい、お前を殺そうとした男だろう? それにどうして姫様が命令するんだよ」
「だからだな……」
唇《くちびる》を噛《か》み、何度か深呼吸を繰り返した竜憲は、肩の力を抜いた。
「どうやら、恋人か何からしい。で、俺が気がついた時は、抱きしめられて、……キスされてたんだよ」
「げ!」
反射的に口を覆《おお》った大輔が、唇を手荒くこする。
「だろ? ……そんな目に遭《あ》わされたんだよ。何かあったら、はっきりさせてほしいな」
今にも泣き出しそうな、情けない顔をした大輔は、ゆっくりと竜憲を見上げると、長く深い息を吐《は》いた。
意識がないとはいえ、自分の身体が男を抱きしめていたなどと言われて、大輔が平静でいられるわけがない。
「……あの……バカヤロー。そんなヤツだったんか!」
「知ってるんだな」
「あ、ああ。この前の騒動の時、助けてくれた野郎だと思う。俺の身体を勝手に使いやがって……。それと……七支刀《しちしとう》っていうのか? 妙な剣を出したのもヤツだと思う。……時々、俺の身体を勝手に使いやがるんだ」
「まだ、俺に襲いかかるぐらいならいいが……」
「冗談じゃない!」
「冗談じゃないのはこっちだ! ……だがな。避《さ》けようはあるだろう。姫神さえ現れなければいいんだし……。それより女だ。あんたが殺す女。……誰だ、それは……」
どかりと胡坐《あぐら》をかいた大輔は、顔を覆って低く呻《うめ》いた。
相手が女だというだけで、自分の好みはさておき、いい男を演じようとする根っからの女好き。それが、女に命じられて、女を殺そうとする。
笑えない話だった。
「……いつ、取《と》り憑《つ》かれたんだ? まさか、それもわからないとか言うなよ。……親父《おやじ》にも、鴻《おおとり》にもわからないんなら……よっぽど……」
ふと、竜憲は大輔を見下ろした。
左耳に、金環がついている。
ひょっとすると、鴻は大輔の中に入り込んだ男の存在を知っていたからこそ、護符《ごふ》を渡したのではないだろうか。
護符などではなく、得体《えたい》の知れない男の力を増幅させるものではないか。
湧《わ》き上がった疑問が、竜憲の手を、自然に動かしていた。
耳を掴《つか》み、イヤ・カフを外《はず》す。
一瞬、びりっと痛みが走る。しかし、以前感じたものとは質が違うようだ。手の中に握り込んだそれは、普通の金属と同じ手ざわりだった。
「いて……。なんだよ……」
「ちょっとな……。気分はどうだ?」
「べつに。そのお守りなら、しょっちゅう外《はず》してるぞ。風呂の時とか……。だが、何もない。何があるってんだ?」
「ちょっとした思いつきだ。……で、いつだ? そのわけのわからん男に取《と》り憑《つ》かれたのは」
「知らん……」
「知らないだと?」
「だから、何も感じないって言っただろうが。この前、生首《なまくび》に襲われた時、初めて姿を見せたんだよ」
天井を見上げて、溜《た》め息《いき》を吐《は》いた竜憲は、椅子を軋《きし》ませて上体を反《そ》り返らせた。
ここまで鈍感《どんかん》だと、むしろ感心してやってもいいだろう。なんの力もないと、本人は思い込んでいるようだが、戦士と名のる男が、取り憑こうと思ったほどの力を持っているのだ。
抵抗もせずに取り憑かれたことを、どう思っているのだろう。
「……心当たりは? なんでもいい。あんたの周りで起こった、妙なこと。どう理由をつけてもいいから、とにかく話してくれ……」
「ああ。……心当たりは……あるといえばある」
意外と素直にうなずいた大輔は、腰を上げるとベッドに座り直した。
胸ポケットを探《さぐ》って煙草《たばこ》を引き出し、手首を振って一本を飛び出させる。
自分を落ち着けるように、やけに時間をかけて一服めを吸うと、ゆっくりと煙を吐き出した。
「鏡だ。……対《つい》の鏡。姫様が入っていた鏡と一緒にあったヤツ。あれを俺が持って帰ったのは覚えてるな?」
瞬《まばた》きを答えの代わりにした竜憲は、次の言葉を待った。
「……一瞬だが、あれが、磨《みが》きたての、ピカピカの鏡になっていた。次に見た時は、元通りだったが……。それだけだ」
「それだけ?」
「ああ……」
「ほかには?」
「何もない。これは本当だ。怪《あや》しいことなんぞ、何ひとつない」
そんなことがあっていいはずがない。
しかし、大輔はにんまりと笑ってみせた。
「信じられないだろう。……だが、本当だ。なんだったら、鴻《おおとり》さんに聞いてみるか? そろそろ顔を出すだろう」
むすりと、唇《くちびる》を引き結んだ竜憲は、右手を突き出した。
掌《てのひら》に転《ころ》がる金環が、鈍《にぶ》く光る。
敵か、味方か。
鴻が何を考えているのか、まったくわからない。
しかし、彼の行動を頭から否定する気にもなれなかった。
万にひとつ、大輔の意識があの男に乗っ取られずに済んでいるのが、この護符《ごふ》のせいだとすれば、外《はず》してしまうのは危険すぎる。
どちらにしろ、今のところ生命に危険が及ぶほどの支障はないのだ。
「まぁいいか……。もう隠し事はないよな。あんたは素人《しろうと》なんだ。プロに相談するしかないんだからな。たとえ頼りなくても、俺達よりよっぽどましなはずだから……」
「わかってるって……」
金環を手に取った大輔は、慣れた手つきでそれを左耳につけた。
煙草《たばこ》を吸いつけ、ふた口ほど吸っては灰皿に押しつける。
洋式トイレの形をした小さな灰皿は、すでに吸《す》い殻《がら》が林立していた。
狭い部屋は煙に霞《かす》んでいる。
それでも、大輔《だいすけ》は窓を開けようともせずに、煙草をふかし続けていた。
二日ぶりに帰った自宅には、なんの変化もない。もちろん、あの不気味《ぶきみ》な男が現れたりもしなければ、化け物が出るわけでもなかった。
いつもどおり。
それが妙に気に入らない。
自分が竜憲《りようけん》に襲いかかるなどという、事態が発生したのだ。いくら自分の意思ではないとはいえ、そんな暴挙《ぼうきよ》を冒《おか》したからには、天変地異があってしかるべきだった。
ラップ音が鳴り響き、家具が踊り回ってくれれば、化け物の仕業《しわざ》だと、納得もできる。しかし、大輔の周りでは、相変わらず何も起こらないのだ。
女を殺すという話も気になる。
そして、結局姿を現さなかった鴻《おおとり》も。
竜憲に迫るなどという事をしたというのなら、女を殺すということも可能性がないとは言えない。
しかし、あの女、などというだけでは、それが誰なのか、特定する事はできなかった。
唯一《ゆいいつ》考えられるのが、沙弥子《さやこ》だ。
竜憲にかかわりのある女で、大輔と親しいのは彼女だけである。
しかし、大輔自身は、沙弥子を女として意識したことなどなかつた。
単に、元気のよい後輩。
それでも、殺すなどということはあってはならないことだった。
「……くそ……」
煙草《たばこ》を押しつけようとすると、灰皿がバランスを崩《くず》す。
机の上にひっくり返ったトイレは、灰と吸《す》い殻《がら》をばらまいた。
バレンタインに、チョコレートと一緒にもらった灰皿。ご丁寧《ていねい》に、とぐろを巻いたチョコレートには、クラッシュ・アーモンドが混ぜ込んであり、きついジョークに苦笑したものだった。
それが、沙弥子だ。
冗談めかして渡されたプレゼントには、そっけないカードが添えられているだけだった。
竜憲にしろ沙弥子にしろ、こういうことにはひどく不器用なのだ。
「……まったく。なんだって俺が……」
ティッシュで灰を屑籠《くずかご》に払い落とし、机を軽く拭《ふ》いた。
気が滅入《めい》る。
こんな事をしていても、なんの解決にもならない。
せめて、気分を一新して、頭を回転させたほうがいいだろう。
そう思い決めた大輔は、電話に手を伸ばした。
登録したばかりの短縮ナンバーを押す。
呼び出し音が三度。
「……あ、友紀《ゆき》ちゃん? 姉崎《あねざき》だけど……」
しかし、返ってきたのは、録音のテープだった。
そろそろアルバイトから帰っていてもいい時間だが、今のところ大輔のいちばん新しい女友達は、留守のようだった。
「ついてねえな……。と、姉崎です。ちょっとヒマしてたから、電話。声が聞きたいな。夜中でもいいから、帰ったら電話くれる?」
メッセージを登録して、電話を切る。
つくづくついていないようだ。
女の声を聞けば、それだけで気分が晴れるとわかっているのに、最適の人間がつかまらないなど。
だが、新しい煙草《たばこ》をくわえると同時に、電子音が響いた。
反射的に受話器を取る。
『もしもし。姉崎さんのお宅ですか……』
「ああ、律泉《りつせん》。……どうしたんだ? こんな時間に……」
十時を少し回ったところ。
こんな、というほどではないが、沙弥子が連絡をしてくるには遅《おそ》い時間だった。
『あ、先輩。……よかった……。おかあさんが出たらどうしようかと思っちゃった。……あの、ちょっといいですか?』
「ああ。ヒマしてたところだ。……で? なんの用だ?」
煙草をくわえたまま、受話器を肩に挟《はさ》む。ライターを鳴らすのと、沙弥子が溜《た》め息《いき》を吐《は》くのは同時だった。
「おい、律泉。どうしたんだ?」
『先輩に言っても仕方ないかもしれないけど……。あの……リョウちゃんのことで……』
相変わらず、リョウちゃんだ。
竜憲も望みのない恋をしている。
「で、リョウがどうかしたのか?」
『先輩、リョウちゃんと喧嘩《けんか》したんですか?』
「あぁ? 喧嘩? してねえぞ」
『一昨日《おととい》、ライブがあった日。何かあったんじゃないかって……。今日、テープを取りに行ったら、すっごく怖《こわ》い顔をして……』
真剣なのだ。
原因を捜《さが》さないと気が済まないのは、竜憲も同じなのだろう。
『それに、絶対、先輩に会うなって……。変でしょ?』
べつに変ではない。
姫神《ひめがみ》が殺せと命じたのが沙弥子ならば、近づかないに越したことはないのだ。それを命じられた男が、人間の身体を操《あやつ》るというのなら、その男に取《と》り憑《つ》かれた自分に近づかないかぎり、沙弥子は安全だった。
だが、それを沙弥子に話せるわけがない。
点《つ》けたばかりの煙草をもみ消した大輔は、受話器を握《にぎ》りなおすと、唾《つば》を飲みこんだ。
「ああ……それなら。ヤツは俺に何かが取り憑いているって信じてるんだよ。昨夜……つうか今朝、えらい騒ぎがあって……。俺がいたのに、バケモンが出たのが、信じられないそうだ。原因がわかるまで、下手《へ た》に霊能力がある人間に近づかないほうがいいってことだろ」
『ええっ! 騒ぎって……いったい』
「何かに襲われたらしいぞ。ついでに俺は蹴《け》り倒《たお》されるし、シャワーからは血が噴き出すし。まぁ、ほとんどホラー映画だわな」
息を飲む音が聞こえる。
霊を見る能力だけは人並み優れてあるだけに、簡単に想像できるのだろう。
『先輩にも見えたんですか?』
「血のほうはな。……バケモンは見ていない。ぐっすり寝てたのを蹴倒《けたお》されて叩き起こされたんだ。バケモンと一緒に、俺も蹴ったらしい。……で、あのライブの後、そんなに俺は妙だったのか? 律泉なら、俺が見えないものでも見えるだろう」
『べつに……。ただ……』
「ただ?」
『すごく、後《うし》ろを気にしてましたよね。何か聞こえたのかと思ったけど……』
「ああ……。そういえば……」
自分でもすっかり忘れていたことを、沙弥子は覚えていた。
どこか、くすぐったい気がする。
それだけ、沙弥子は真剣に大輔のことを見ていたのだ。
「それをリョウに言ったのか?」
『いいえ……。今思い出したから……』
「じゃ、俺が白状するわ。けど、お前も何も感じなかったんだろう? 幽霊《ゆうれい》とか、バケモンとかの気配は……」
『はい。先輩が、すっごく不機嫌《ふきげん》なのはわかりましたけど。……でも、そんなにひどいんですかぁ。ヘキサグラムって、けっこう人気あるんですよぉ……』
苦笑を浮かべた大輔は、火の消えた吸《す》い殻《がら》で、灰皿の端を擦《こす》った。だが、灰塗《まみ》れの灰皿は一向に奇麗《きれい》にはならない。しかたなく、ティッシュに手を伸ばす。
「……ま、いろんな奴がいるからな……世の中」
と、ティッシュに火が点《つ》く。
「と……。悪い律泉。灰皿が火事だ」
『ええ? 大丈夫ですか!』
「火が消えていなかったみたいだ。……切るぞ!」
『はい』
受話器を投げ出すように置いた大輔は、ティッシュを灰皿に投げた。
たった一枚のティッシュが、高く炎《ほのお》を上げる。
「なん……だと……」
めらめらと燃えるティッシュが、ふわりと浮き上がる。
反射的に、クッションを掴《つか》んだ大輔は、炎《ほのお》を叩こうとした。
しかし、炎は意思があるかのように逃げる。
「くそ!」
床や壁に触れないように、ふわふわと炎は躍《おど》っていた。
「……お前……。俺に話したいことがあるのか……」
炎が縦《たて》に揺《ゆ》れる。
「なんの用だ。……答えろ!」
舞い踊る炎は、文字を綴《つづ》ろうとしているらしい。しかし、左右に振れながらの頼りない筋では、判読することはできなかった。
「し……し、か?」
炎が答えようとした瞬間。
腕がそれを掴んだ。
「何!」
大輔の背後から伸びた腕は、瞬《またた》く間に炎を握りつぶした。
「貴様!」
それが誰の腕か。考えなくともわかる。
「貴様! 何をする気だ!」
ばっと振り返った大輔は、そこに立つ長髪の男を睨《にら》み据《す》えた。
姫神《ひめがみ》の恋人。
そして、大輔の身体を使って、竜憲の中に眠る姫神を抱き寄せた男。
「貴様のせいで……」
掴《つか》みかかろうとした手は、宙で握られただけだった。
「誰だ! 誰を殺そうってんだ!」
男の唇《くちびる》が、皮肉げに歪《ゆが》む。
自分になんの能力もない事が呪《のろ》わしい。
炎《ほのお》が伝えようとした言葉もわからなければ、この男の言葉も聞きとれないのだ。姿が見えても、意思の疎通《そつう》ができないのではなんにもならない。
竜憲の父親に言わせれば、魂《たましい》の言葉を聞くことができない、となるのだろう。
今まではなんの不自由も感じなかったし、むしろ異形《いぎよう》のものの言葉を聞く人間を哀《あわ》れんでいる部分すらあった。
だが、今はそれを怨《うら》む。
自分以外のものが、この肉体を使う不条理に、どうすれば抵抗できるのか。
大輔にはなんの手段《てだて》もなかった。
第三章 宴の後に
大輔《だいすけ》は白いテーブルの上に置かれた白磁《はくじ》のカップに手を伸ばした。テーブルの上にはテラスに張り出した新緑の影が、ちらちらと躍《おど》っている。
裏通りにある喫茶店には、たいして客は入っていないようだ。そのせいか暖かくなったとはいえ、テラスの席に座るのは大輔だけだった。
店の中からは、ざわざわと人の声がしている。
いつのまに訪れたのか、何人かのグループがいるらしい。
楽しげな笑い声が、時折会話を打ち切り、しばらくするとざわめきが戻る。女達の集団が雑談しているようだ。
普段なら、騒々しいのひとことで片づけそうなところだが、今日は妙に気にかかる。話の内容が聞こえそうで聞こえないからだろうか。
だが、明るい陽光に包まれたテラスからは、店の中はよく見えなかった。
といって、わざわざ確認するのも気が引ける。
カップを口に運びながら、煙を上げる吸い差しの煙草《たばこ》を揉《も》み消した。
少しも光明《こうみよう》の見えてこない状況のせいで腐《くさ》りかけた脳味噌《のうみそ》を、どうにか活性化するための気分転換のはずだったのだが、妙なことにばかり気が引かれる。
初夏の鎌倉《かまくら》が相も変わらず若い娘達の観光スポットだからか、行き交う人々は若い女の集団ばかり。視線の先々で女達が視界に飛び込んでくる。
女を殺すかもしれない。そんな宣告のせいか、いつもより彼女達が気にかかるらしい。
ふと気づくと娘達を目が追っている。それだけで、自分が犠牲者《ぎせいしや》を物色している気分になった。世間を騒がせた連続殺人鬼は、古今東西を問わず、かなりの数がいるのだろうが、自分もその中の一人になったようだ。
今のところ、とりあえず、朝は自分のベッドで目覚めていた。人を殺した覚えはなかったし、目覚めた時に見知らぬ場所にいたこともない。
だが、悲しいかな、それが自分が正常であることの証明にはならないのだ。日が経つにつれ、竜憲《りようけん》の宣告はますます重くのしかかっていた。
その上、気晴らしに外に出てみれば、目がいくのは若い女の集団ばかり。
これではなんの気分転換にもならない。
早い話、自分一人では何もできないことを、思い知らされただけのようだ。
この数日間にわかったことといえば、自分の中に潜《ひそ》む例の男が、何かしらの敵意を感じさせるものなら、もう少しその存在を認識できるかもしれない、ということくらいなのである。
本来なら竜憲と共にいるほうが、解決は早いのだろうが、今考えても腹立たしい例の事件以来、竜憲とはまともに顔を合わせていない。
竜憲の中に潜むあの女が相手ならば、それが魔物であろうと、自分を操《あやつ》ろうとする古代の戦士に喜んで協力してやるところだが、器が器なだけに、その気も失《う》せる。
実際、妙に意識するほうが、よほどおかしいとは思う。が、こればかりはどうしようもないのだ。竜憲が無意識に自分を警戒しているのがわかるだけに、余計である。
溜《た》め息《いき》を吐《は》き、コーヒーを飲みほした大輔は、レシートに手を伸ばしかけて、ふとその手を止めた。
「こんにちは……またお会いしましたね」
ゆっくりと視線を上げると、女が一人立っていた。
「こんにちは……」
反射的に沙汰《さた》を返したものの、見覚えのある女ではなかった。
淡《あわ》いピンクのミニのワンピースは、ボディコンシャスふう。あくまでもふうではあるが、真昼の町中には少々そぐわない。それにいかに陽気がよいとはいえ、コートなしで歩くには、少しばかり寒々しい格好かもしれない。
必死に記憶の糸を手繰《たぐ》ってみる。一度会ったことのある女を忘れた記憶はないのだが、どうしても思い浮かばなかった。女が衣装や化粧《けしよう》で見事に化《ば》けるという点を考慮しても、思い当たる女はいないのだ。
「誰かと待ち合わせ……ですか?」
にっこりと微笑《ほほえ》んだ女を、目を瞬《しばたた》かせて見上げる。
自分よりは、まず年上だ。若くて二十歳《は た ち》。下手《へ た》をすればもっと上といったところか。身体の線を強調するような衣装に、負けないだけのプロポーションは持っている。素顔はともかく、きつめのメイクも似合っていて、人目を引く美人と評しても構わないだろう。立っている場所が、真昼の住宅街の中の喫茶店でなければ。
「……いや」
「じゃ……ここいいかな」
「え? ……ああ」
曖昧《あいまい》にうなずいたはいいが、頭の中では記憶が混乱していた。
アプローチの方法としては、わざとらしい。とすれば、本当に会った事があるのだろうか。それにしては、まったく思い出せないというのが解《げ》せない。
ふわりと隣の席に腰を下ろした女が、笑みを浮かべて大輔を眺《なが》める。
「思い出せないんでしょう?」
一瞬迷って、素直にうなずいてみせる。
「初めてだな……こんなことは……」
「女の顔は忘れない……って?」
くすくすと女が笑う。
「まぁ……な」
「ま、しょうがないか」
おかしそうに笑う女を、大輔はますます訝《いぶか》しげに見つめる。
「ライブ・ハウスで見かけたんだよね」
「は?」
ライブ・ハウスといえば、沙弥子と一緒に行った、あのライブのことだろうか。
「もしかして……」
「そうそう。あなたすごく目立ってたもの」
大輔は眉《まゆ》を顰《しか》めた。ハードロックやメタルが似合うタイプの女ではない。もっとも、それは好みの問題だったから置いておくとしても、こういう女があの少女達の中にいれば、少しは目立ったはずだ。自分が浮いていたように。
「好きなわけじゃないんだけどね。……しょうがないのよ」
妙な事を言う。彼女も誰かの保護者をしていたのだろうか。
言葉を交わすうちに、最初に抱いた疑問は少しずつ薄れていた。どちらかというと、目の前に座った女への興味のほうが勝《まさ》り始めている。
もしかすると、さっきから聞こえていたお喋《しやべ》り女達の一人なのだろう。友達と遊びに来た女が、たまたま大輔を見かけて声をかけたというなら、話の筋も通る。格好が妙だという疑問は、相変わらず残るが。
それでも、自分のペースを取り戻した大輔は、ゆったりと足を組むと、彼女の顔をまっすぐに見た。
「しょうがないって?」
「いろいろね。……そんなことより……」
いいかけて、女の視線がふわりと泳ぐ。
「いいや……そのうちまた会いましょうね。……友達が待ってるから」
「え? ちょっ……」
唐突に立ち上がった女は、呆気《あつけ》にとられている大輔を残して、店の中に戻っていった。
慌《あわ》てて後を追おうとした大輔に、声がかかる。
「姉崎《あねざき》くん……」
「あん?」
振り向いた大輔は、テラスのぐるりを囲む生《い》け垣《がき》の向こうに、見たくもない顔を見つけて目を逸《そ》らした。
どうしたことか、鴻《おおとり》が自分を眺《なが》めていたのだ。
泳いだ視線が女を捜《さが》したが、その姿はもうテラスにはない。
「どうかしましたか?」
浮き世離れした若き霊能力者が、落ち着いた声で聞く。
「ちょっと待ってくれ。今……」
言い置いて、大輔は店の中に足を運んだ。
薄暗く感じる店内に足を踏《ふ》み入れて、大輔は低く唸《うな》った。
あの女がいない。
それどころか、女の集団もいなかった。店の中の席を占めるのは、初老の夫婦ものと、学生ふうの男が一人。それにいかにも常連らしい男が二人、カウンターの席を陣取っているだけだ。
「何か?」
カウンターの中の女主人が、にこやかに聞いてくる。
ごくりと息を飲み、大輔は彼女の顔をしげしげと眺めた。
「……今、女の人……」
「はい?」
「いえ……」
言いよどんだ大輔の視線の隅に、扉を押し開ける鴻の姿が映る。
「あ、すいません。コーヒーのおかわりを……」
咄嗟《とつさ》に追加の注文をし、鴻を手招く。
「私もコーヒーお願いします」
にこやかに付け足した鴻が、大輔に従ってテラスに出る。そんな鴻を無視し、席に戻った大輔は、さっきまで女の座っていた場所を睨《にら》み据《す》えていた。
その席を避けて向かいの椅子に腰を落とした鴻は、何も言わずに大輔の言葉を待っている。
やがて、ようやく視線を上げた大輔は、あらためて鴻の顔を眺めた。
なんと沙汰《さた》すべきかが、どうもわからない。
「こんなところにも、仕事があるんですか」
「いえ。そういうわけではないですよ」
「それじゃ……」
「あなたに会いたくて」
「俺に?」
「ええ」
うなずいた鴻を、大輔は眇《すが》めた目で見つめた。
「どうしてここが?」
当然の疑問を口にする。家人に行き先を告げて出てきたわけではないし、何より、ここはたまたま目について入った店なのだ。
「私には、いろいろと教えてくれる者がいるのでね」
にっこりと微笑《ほほえ》んだ鴻を、ますます訝《いぶか》しげに眺《なが》めた大輔は、それでも異論は挟《はさ》まずに、テーブルに置いた煙草《たばこ》のパッケージに手を伸ばした。
「で、俺になんの用ですか?」
と、鴻は不思議そうに大輔の顔を見つめ返した。
「私の用件より。……あなたこそ何かあったのではないですか?」
「何か?」
「ええ」
煙草を取り出し、火を点《つ》けながら、大輔は考え込んだ。
なんと言えばよいのだろう。確かに、この男に相談すべき類《たぐい》の出来事のような気もするが、どう説明すればよいのかわからない。
しばらくの沈黙《ちんもく》の後、口を開いたのは鴻のほうだった。
「誰に会ったのですか?」
「誰って……」
一瞬間を置いて溜《た》め息《いき》を吐《は》いた大輔は、煙草を灰皿の縁に置くと、テーブルに肘《ひじ》を突き、指を組んだ。
「知らない女……なんだけど。向こうは俺を知ってて、声をかけてきたんです」
「それが消えてしまったわけですか」
大輔の行動からの推理なのか、お友達に教えてもらったのか。鴻は察しよく結論を導き出すと、二人の間の椅子に視線を落とす。
「ここに座っていました?」
「そう」
鴻が眉《まゆ》を寄せる。
「何かおかしなことでも?」
「いえ。……ただ何も感じられないので」
「そうですか。……でも当然かもしれないな」
「何故《な ぜ》?」
「……何故と言われても、……そうだな。消えちまったことを除《のぞ》けば、ぜんぜん普通の女に見えたから。――ちゃんと話もできたし」
「何を話しました?」
「たいしたことは。……なにしろ、本題に入るまえにいなくなっちゃったんですよ」
言っておいて、まじまじと鴻を眺《なが》める。
「何か?」
「いえ……あなたが来たから消えたのかなと思って……」
「どうしてそう思うんです?」
「女が急に席を立ったと思ったら、あなたに声をかけられた」
「なるほど……妙な話ですね」
「そう、妙な話で……」
灰皿に置いた煙草《たばこ》の灰を弾《はじ》くと、口もとに運ぶ。
しばらくの間、二人は口を噤《つぐ》んでいた。
ちょうど、コーヒーが運ばれてくる。
「お待たせしました」
空《から》のカップを引き上げ、香気の立ち上るカップを置いた若い男が、レシートを攫《さら》い手早く書き込むと、素早く席を離れていく。
男が店の中に消えると、大輔はゆっくりと口を開いた。
「それで? 用ってなんですか」
「……あなたに、妙なものが取《と》り憑《つ》いていると聞いたので」
大輔は目を見開いた。
「わざわざ見に来てくれたんですか?」
「はい。この前は、急用で伺《うかが》えませんでしたからね」
「それはどうも……」
形ばかり頭を下げた大輔は、煙草を揉《も》み消した。
「あなたと二人だけで話したいこともありましたし」
「え?」
意外な言葉に、驚いた表情をする大輔を、鴻は不可解な笑みと共に見守っている。
「なんです?」
「……正直に申し上げます。私は知っておりました」
ますます目を見開く大輔を眺める鴻の表情が、真剣なものになる。
「竜憲さんに潜《ひそ》む者と同じほどの力がある可能性が……」
「はっきり言ってもいいですよ。……姫神《ひめがみ》の恋人、でしょ。それとも旦那《だんな》……かな」
今度は鴻のほうが、びっくりした顔をする。
「まさか」
「……リョウに聞いたんじゃないですか?」
「いえ、まだ何も。私は最初にあなたにお会いした時に、微《かす》かな影を感じただけですから、そこまでのことは。――ただ、あなたの周りに影がまとわりついていると聞いた時に、それを思い出したのです。……竜憲さんがいらっしゃると、あなたの力は増しますから、あなただけとお会いすれば何かわかるのではと、思っただけで……確かめておきたかったのですよ。あなたに取《と》り憑《つ》ける者などそうそういないでしょうからね。それに、完全に姿を潜《ひそ》めるなど、よほどの相手だ」
口をあんぐりと開けて、大輔は目の前の男を穴があくほど眺《なが》めた。
「どうかしましたか?」
慌《あわ》てて目を逸《そ》らし、大輔は力なく首を振った。
「いえ……。それで? 何かわかりましたか?」
「残念ですが……」
鴻は静かに首を横に振った。
「よほどの相手ということですか……」
大輔の言葉に、鴻が力ない笑みを返す。
竜憲に言わせれば、信用ならない男の言葉だ。どこまで信じてよいのかわからないが、今のところ解決策を授けてくれそうにない。
溜《た》め息《いき》を吐《は》いた大輔は、新しい煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
「……しかし、こうなってくると、さっきあなたが話した女性のほうが気になりますね。あなたの前に堂々と現れるなど……」
考え込んだ鴻を眺め、大輔はさっきの女を思い返していた。
「でも本当に、ただの女かもしれないじゃないですか。……おかしなところは本当になかったですよ。透《す》けて見えもしなけりゃ、足もちゃんとあったし」
鴻が苦笑を浮かべる。
「そういう問題じゃない……って言いたそうですね」
「この店の入り口は、一つでしょう? 私は誰にも会いませんでしたよ。なんでしたら、お店のほうに聞いてみますか?」
ほかの出口から走り出ていったのだとしても、背中も見えなかったというのはおかしい。そう考えるのは、むしろこじつけに思えた。
再び息を吐き、大輔はコーヒーを流し込んだ。
ヘキサグラムの次は、サバトだそうだ。
少し前まで黒魔術や、呪《まじな》いの類《たぐい》がやたらと流行《は や》っていたのは知っていたが、まさかバンドの名前にまで影響しているとは思いもしなかった。
小さな、百人も入ればいっぱいになるようなライブ・ハウス。そこの狭《せま》いステージに、サバトと名乗るアマチュア・バンドが乗っている。
演奏は、この前以上に聴くに耐《た》えない。
しかし、大輔《だいすけ》は楽しげにステージを見やっていた。
どんなにつまらない演奏でも、友人がやっているとなると、話は別だ。カラオケなどで、妙に小器用に歌う者より、適度に外《はず》れた人間が受けるのと同じだろう。
つまり、友紀《ゆき》がコーラスを担当する、女の子バンドを見物しているのだ。
大輔は今のところ物分かりのよい男友達を演じている。
バンドにつぎ込むためのバイトのせいで、ろくに会えないことも納得してみせたし、ライブをやるといえば、差し入れを持って顔を出す。
その上、ステージでしか使えないような、オモチャのアクセサリーまで調達してやったのだ。
今のところ、大輔はその状況を楽しんでいる。
半分裸のような格好で、ステージを飛び回っているわりには、堅《かた》い女を落とすプロセスが面白《おもしろ》いのだ。
バンドが第一と考える友紀が、いつステージより自分を優先させるようになるかと考えると、心が昂《たか》ぶっていた。
アマチュアの、しかも上手《う ま》いとはいえない連中のライブに集まった客が、歓声を上げる。
曲など聴きもせずに、ただ踊り狂っていた連中は、音が途切れると拍手をするように、条件づけされているらしい。
自分も、おざなりな拍手をしながら、大輔はステージを見守っていた。
ボーカルが引っ込み、友紀がマイクを拾う。
鳩尾《みずおち》まで切れ込んだエナメルの上着。胸の谷間を強調する服は、臍《へそ》の上で途切れて、大振りの金色の飾り金具で止められている。
身体の線がもろに見えるぴっちりとした黒のパンツは、ライトを弾《はじ》いて金属質に輝いていた。
「今日はありがとう。……あたしたちのために集まってくれて……」
息が上がっている。
コーラスというよりは、ダンサー。その上、部分的にはキーボードも弾《ひ》いているのだから、ステージ上の友紀はかなり忙しい。
「でさ……。お礼ってのもヘンだけど、プレゼントがあるんだ!」
引っ込んでいたボーカルが、誰かの手を引っぱって現れる。
途端に、人の波が前に押し寄せた。
どうすればそこまで詰《つ》められるのか。いい加減込み合っていた会場が、満員電車さながらの密度になる。
両足をふんばり、必死で踏《ふ》み止《とど》まった大輔は、スポットに浮かび上がる男を見て、低く唸《うな》った。
ヘキサグラムのボーカル。
先日ほどの化粧《けしよう》はしていないが、それでもくっきりと塗られたアイシャドウが見える。
「アタシの兄ちゃんのワルーイ仲間なんだ。今日はアタシ達のライブをブチ壊《こわ》しに来てくれたって!」
マイクを受け取ったボーカルが、男を紹介する。
長い髪を奇妙な仕種《しぐさ》で跳《は》ね上げた男は、にんまりと笑ってみせた。
途端に、耳をつんざくような悲鳴が上がる。
男の名前を叫んでいるらしいのだが、通称やあだ名《な》が混じり、そのうえ精いっぱい声を張り上げているせいで、なんと言っているのか、まったくわからない。
ますます込み合ってくるフロアを避《さ》けて、大輔はなるべく後ろに下がっていった。
後ろはがらあきだ。
そこまで広くはないライブ・ハウス。後ろのほうで伸び上がっている少女など、下がったほうがよほど見やすいだろうに、少しでも近づきたいというのが、彼女達の心理らしい。
大輔は人並み以上の身長があるおかげで、ステージを見るのには苦労しなかった。
目当ての女が定位置に戻り、ボーカルが男にマイクを渡す。
「今日にぴったりの曲があるな。……やれるだろ?」
男が、マイクをスタンドに差し込み、両手を添えて呟《つぶや》く。
再び、悲鳴が上がった。
「シークレット・ライブ……」
どこがシークレットなのか。
ここにいる女達の半分は、最初から妙に浮き足だっていたのだ。客よせのために、メンバーが漏《も》らしたのだろう。
予想を遥《はる》かに超える客の入りの理由が、やっとわかった。
「……また会えたわね」
不意にかけられたその声に、大輔は慌《あわ》てて後ろを振り返った。
つい三日ほど前、喫茶店で会った女が、笑みを浮かべている。
「……あんた……」
真っ赤なワンピース。
ボディコンシャスとはこの事を言うのだ、という見本のような、胸ぐりの深いミニのワンピースが、目に飛び込んできた。
「ロック。好きじゃないんでしょ? どうして?」
こうして見ていても、まるで人間。
喫茶店から煙のように消えた女は、ずっしりと重そうなバストを突き上げながら、大輔を見上げていた。
「お前こそどうしてだ? ライブなんか聴いても面白《おもしろ》くないだろう」
「……そうね。音はどうでもいいのよ」
ひょいと肩をすくめて、女は楽しげに笑った。
「何が目的だ?」
「あなたに会うことよ」
年上の女とつきあったことなど、ほとんどない。しかしながら、これだけの美人で、しかもスタイルもよければ、愛想《あいそう》よくふるまう価値は充分にあった。
ただし、相手が人間ならば。
幽霊《ゆうれい》や化け物とつきあう気など、さらさらない。
「俺に会って……で、どうするんだ?」
「出ない? ここじゃ話もできないでしょ」
言われて、初めて曲が始まっていることに気づいた。
しかし、意識しなければ耳鳴りがしそうな大音響が聞こえない。
静かな喫茶店で、会話する程度の声で、充分にことが足りているのだ。
「……いや。俺は人間の女のほうが好きなんだ。いくら美人でもね」
ちらりと笑う大輔に、女は目を見開いた。
「あら、失礼ね。あたしは人間よ……」
「そう思い込んでいるのか?」
自分の死を認識できない死者。
確か、そんなものがいたという話を聞いたことがある。
もちろん、実際に見るのは初めてだし、信じていたわけでもない。
だが、大輔は自分の知識や常識がまったく通じない世界があることを、この数か月で学んでいた。
「人間じゃなければなんなのよ」
「……じゃあ、ここにいる連中に、お前は見えているのか?」
「……誰だって見えてないわよ。みんなステージに夢中《むちゆう》でしょ」
どうとでもとれる、もっともな答え。女の、真っ赤に塗られた唇《くちびる》が引き上がる。
同時に、ギターの音が耳に突《つ》き刺《さ》さった。
一瞬顔を顰《しか》め、目を開く。
女は姿を消していた。
「……なんなんだか……」
幽霊に惚《ほ》れられたとでもいうのだろうか。
あまり笑えない冗談だ。
いくら肉体を持つ生命以外の存在を認められるようになったからといって、まだ対処方法など知らない。ましてや、楽しくお付き合いするなど想像の外《ほか》である。
それが、いきなりこんなものの相手をさせられているのだ。自分にも見えるということ自体、まだ信じられないのに、何をしろというのだろうか。
苦笑を浮かべた大輔は、現実の女に視線を向けた。
真剣な顔をしてキーボードに向かう友紀は、慣れない曲を必死で熟そうとしている。
時々指が縺《もつ》れるのが、ギターの騒音の中でも聴き取れた。
「まだまだ、だな……」
本人達は、一応プロ志向らしいが、これではあまりにひど過ぎる。
ルックスだけのお嬢ちゃんバンドになるにしては、はっきり言って友紀以外のメンバーに商品価値はない。
相変わらず、下手《へ た》くそな歌をがなりたてるボーカルの、妙に奇麗《きれい》な顔をぼんやりと眺《なが》めながら、大輔は幽霊《ゆうれい》女の顔を思い出していた。
けたたましいサイレンが鳴り響く。
眉《まゆ》を寄せた店員が、慌《あわ》てて出口に向かい、すぐに引き返してきた。
「向かいの店で、病人みたい」
「急性アル中?」
妙な略し方をした女が、同年輩の娘に眉を寄せてみせる。
「イッキかな……」
「じゃない? ほら、向こうのテーブルで……」
横を通り過ぎる客の喋《しやべ》る言葉を耳にした大輔《だいすけ》は、ひょいと眉を上げた。
急性アルコール中毒。
そういえば、大学に入学した祝いの席で、父親に説教されたのが、それだった。
殺されるために育てたのではないから、無茶な酒の飲み方はするな。一気飲みなどもってのほか。歓迎コンパで先輩に迫《せま》られたら、殴《なぐ》り合いをしてでも断れ、というのが父親の言葉だった。
素手《すで》の殴《なぐ》り合いで死ぬ人間のほうが少ない、という論理には笑ったが、救急車のサイレンを聞くと、妙な現実味がある。
妙なことを突然思い出すものだ。
ビールのグラスを口に運びながら、大輔は声を殺して笑った。
「何? 思い出し笑い?」
「あ……。ちょっとね」
隣に座った友紀《ゆき》は、目もとを染めている。
あれだけ暴れ回った後だから、酒の回りも早いだろうに、それ以上に食べているので、一向に酔いつぶれる気配はない。
「今日のゲスト、サイコーでしょ……って、ダイスケに言っても仕方がないか。もうあたしなんか手が震《ふる》えちゃってさ。……必死で練習したのよ、シークレット・ライブ」
「で、俺の留守録も無視しちゃったワケ?」
口紅がほとんど落ちた唇《くちびる》が、楽しげに曲がる。
焼きとりの串に手を伸ばした友紀は、正面に座るギタリストに、それを突き出した。
「はい。あんたの……。約束でしょ? ちゃんと最後まで弾《ひ》けたら、ネギ食べるって」
「え? そんな約束したっけ?」
長い髪がうっとうしいのか、ポニーテールに括《くく》ったために、女の子バンドのギタリストはやたらと幼く見える。
ステージでは過激な“ロック姉ちゃん”だが、こうしてネギから顔を背《そむ》けているのを見ると、ただの子供だった。
「ちょっと、ミカ! あんただからね。言いだしたのは……。どうしてもヤダってんなら、あのボトル出してよ」
「いいわよ。どうせ半分も残ってないんだから」
隣で無責任に笑っていたベーシストが、突然手を上げて店員を呼んだ。
「ミカのボトルを出して。それと、ネギマ追加ね」
げぇ、と呻《うめ》いて焼きとりの串を押し返した女は、とりの空揚《からあ》げに箸《はし》を突き立てた。
ボーカルのいない打ち上げ。ゲストの男と共に、ライブが終わると同時に姿を消したのだが、残された連中はさして気にしていないようだった。
大輔の存在も黙認されている。
男の存在が、バンドの内部に亀裂《きれつ》を生むのだろうか。
受け入れているというよりは、目を逸《そ》らしていると言ったほうが正しいような気がする。ひどく歪《ゆが》んだ友情。
もっとも、男の間でも、同じ女に惚《ほ》れてしまえば、あっさりと友情は壊《こわ》れるものだった。
「で、ダイスケ。何、笑ってたのよ。……そんなにおかしいこと?」
「まあね。……みんながガチガチにあがってたのを思い出したんだ」
「そりゃあがるわよ。ねぇ……」
「そうよ。相手はプロなんよ。そりゃミカは兄貴のダチだろうけど……。あたしなんか、一週間前まで知らなかった」
「あ、あたしも……。よっく黙《だま》ってられたわよね。あのお喋《しやべ》りが。……秘密だって言うと、絶対吹きまくるのにさ……」
互いの顔を見合わせたギターとベースが、うなずき合う。
秘密をばらされたのは、一度や二度ではないらしい。
そのくせ、本気で怒っていないあたり、重要なことは打ち明けていないようだった。
「ウソなんじゃない? 兄貴の友達ってのは……」
ぽつりと呟《つぶや》いた友紀の言葉に、二人が押し黙る。
大輔は苦笑を浮かべた。
亀裂《きれつ》が入った瞬間。
そんな場面に立ち会うことになろうとは思ってもいなかったが、大輔にとっては悪い展開ではない。
「いいんじゃんそれでも。……でさ、次のライブだけど……」
その場をとりなすように、ベーシストが口を開く。
全員が顔を寄せ合うのを、大輔はグラスを傾けながら眺《なが》めていた。
大輔のような一般人なら問題はないが、相手が有名人ともなると、話は別らしい。しかも、彼女達はヘキサグラムのファンなのだ。
抜け駆け、というべきか。
どちらにしろ、ボーカルを抜きに語られるライブの予定は、ひどくしらじらしいものだった。
と、首筋に痛みを感じる。
視線を巡《めぐ》らせた大輔は、そこに誰もいないことを確認して、グラスを置いた。
そこそこに込み合った居酒屋《いざかや》の、入り口に近い席。背後にはドアしかないのだ。誰も席を立とうとしないせいか、レジにも店員はいない。
視線を感じたのは、ドアとレジの間の、壁からだった。
気のせいだ。
――だが本当に――
この前は、ヘキサグラムのライブの最中。そして、直後。今度はヘキサグラムのボーカルが出たライブの後。
奇妙な符牒《ふちよう》が気にかかる。
そして、あの幽霊《ゆうれい》。
彼女はヘキサグラムのライブで大輔に会ったと言っていた。
どちらにしろ、竜憲《りようけん》に話さなければならないだろう。
片目を眇《すが》めた大輔は、ビール壜《びん》に手を伸ばすと、グラスを引き寄せた。
腰に届きそうなほど長い髪をソバージュにした少女が、大きな紙袋を抱《かか》えて、駅のトイレに駆け込んだ。
ベビーベッドに荷物を投げ出し、鏡を覗《のぞ》き込む。
アイシャドウと口紅をティッシュで拭《ふ》き取《と》ると、そこには子供がいた。
唇《くちびる》をちょっと突き出して、リップクリームを塗《ぬ》り込む。
色の入ったリップクリームは、わずかに残った口紅を隠してくれるのだ。
それから、慣れた手つきで髪を二つに分け、三つ編みをしてゆく。
奇麗《きれい》にウエーブを描いていた髪は、瞬《またた》く間《ま》におとなしい大人好みの髪型になった。
「……たく。どこへ消えちゃったんだろ……」
再び、唇を尖《とが》らせて呟《つぶや》き、三つ編みの先に紺色《こんいろ》のリボンを結ぶ。
それだけで、彼女は中学生に戻ってしまった。
派手《はで》めのトレーナーは、精いっぱいのおしゃれなのだろう。紙袋の中には、セーラー服が入っていた。
塾に行っているはずの時間に、駅のトイレで着替え、何食わぬ顔で家に戻る。
ライブ・ハウスに行くことなど、到底《とうてい》許してくれない両親と、人を信用しろと言いながら、生徒を信用しない教師の目をごまかすための、苦肉の策だ。
彼女にしても、家で着替えて、きちんとおしゃれをしたい。
しかし、トイレで素早く変身できるものといえば、洋服も限られていた。
紙袋を持ち上げた少女は、個室から出てきた女に目をやり、息を吐《は》いた。
真っ赤な、ボディコンシャスの服。
足が痛くなりそうな、真っ赤なハイヒール。
きっと、どこかに踊りに行っていたのだろう。ひょっとすると、自分と同じライブに行っていたのかもしれない。
友人から、今日のアマチュアのライブに、ヘキサグラムが出ると聞いて、慌《あわ》てて駆《か》けつけた。しかし、結局は彼を掴《つか》まえることはできなかったのだ。
歌が終わると同時に裏口に回り、ずっと待っていたにもかかわらず、だ。
「……あら。あなた、さっきの……。ヘキサグラムのファンなの?」
突然、女に声をかけられ、少女は目を瞬《しばたた》かせた。
もう変身した後なのだ。
補導の教師にさえ、見つからなかったのに、どうして他人にわかるのか。
「そのトレーナー、あたしのデザインなの。……嬉《うれ》しいな。お客さんって初めて見るわ。ありがとう。気に入ってくれた?」
「……あ、はい……」
ぺこりと、顎《あご》を突き出すようにして頭を下げた少女に、女はこぼれんばかりの笑みを見せた。
「そっか……。そのマーク。ヘキサグラムのロゴに似てるからでしょ。もっと派手《はで》だけどね。どうしてグッズのほうにしなかったの?」
ついと横に立った女が、顔を覗《のぞ》き込む。
微《かす》かな、香水の匂《にお》いが、大人《おとな》を感じさせた。
「……みんな持ってるから……」
「そうね。……みんなと同じじゃつまんないもんね。中学生?」
「高校です」
見えすいた嘘《うそ》をつく。
しかし、女は穏《おだ》やかな笑みを浮かべたままだった。
「じゃ、もうちょっと遅《おそ》くなってもいい?」
「……え?」
「会わせてあげようか。……これから打ち上げに出るのよ。あの子達も、ウチの店のお得意様だからね」
「本当!」
目を輝かせた少女は、うっとりするほど奇麗《きれい》な女を見上げた。
こんな大人になりたい。
いや。なる予定だ。
細いハイヒールを履《は》いて、かつかつとアスファルトを鳴らしながら歩く。
髪が少し栗色がかっているのも、ウエストがくびれたように細いのも、そのくせ胸と腰がはり出しているのも、少女の理想どおりだった。
いつまでも膨《ふく》らんでこない胸も、膝《ひざ》が離れている脚の形も、大人になれば自然に治るはずなのだ。
「本当よ。けど、ちょっとだけね。あんまり遅くなったらマズイでしょ?」
「……はい」
「じゃ、急ぎましょう。早くしないと酔っ払っちゃって、話もできなくなるわよ」
こくこくと何度もうなずいた少女は、片手で三つ編みのリボンとゴムを取った。
髪だけは、ソバージュに戻る。
化粧《けしよう》をする暇《ひま》がないのが悔《くや》しい。
隣にいる女は、ライブに出た後とは思えないほど、奇麗な顔をしているのだ。ファウンデーションは塗りたてのように艶《つや》やかだったし、真っ赤な唇《くちびる》も剥《は》がれたところはない。
「じゃ、行きましょう」
手を握られる。
ちらりと、頭の隅《すみ》を不安がよぎった。
しかし、少女はヘキサグラムという言葉に、抵抗できなかったのだ。
何より、相手は女だ。
これが男に声をかけられたのなら、少女も少しは警戒しただろう。何より、話も聞かなかったに違いない。
ほかの子達のように、スタッフと寝て情報を得たり、チケットをもらったりすることは、少女にはできなかった。
それだけに、一歩も二歩も出遅れる。
馬鹿《ばか》にされていることも知っていた。
しかし、今度は自分が一歩出し抜けるかもしれない。
「……この近くなんですか?」
「そうよ。ちょっと奥だけど。帰りは送れないと思うから、ちゃんと道を覚えておいて」
「はい……」
手を引いて歩く女は、恐《おそ》ろしく足が速い。
歩道のカラータイルを踏《ふ》みならす音が、どんどん速くなる。
つんのめるようにして、どうにか女についてゆくのだが、身体はますます前のめりになっていった。
「放して!」
「奇麗《きれい》な肌ねぇ。化粧《けしよう》で汚すなんてもったいないわ。赤ん坊みたいじゃない」
手は前に引かれているのに、声は耳もとでしている。
そう気づいた瞬間、少女は悲鳴を上げていた。
第四章 踊る黒髪
さすがにほとぼりも冷めたのか、竜憲《りようけん》は大輔《だいすけ》を警戒してはいなかった。ソファーにのんびりと身体を伸ばして、指先を弄《いじ》っている。
半分呆《あき》れているように思えるのは、大輔の話がどこをとっても女絡《がら》みの題材《ネ タ》だからだろう。
だが、それが事実なのだから仕方がない。
大きな身体を小さくして、控えめに咳払《せきばら》いをした大輔は、竜憲の返答を待っていた。
目にした事実以外は、何もかも曖昧《あいまい》なだけに、ひどく話しづらい話題だったのだ。まして、それにコメントを求めるのが、無謀《むぼう》だということは承知している。
答えを知りたいのは山々でも、答えが出ないことのほうが大方なのだ。特に、こんな事情の場合は。
「……ようするに……幽霊《ゆうれい》に言い寄られた、 って言うのか?」
やがて、竜憲が指先を見つめたまま、確認を取る。
「はっきりいってわからん。……しかし、普通の人間は目の前から、瞬《まばた》きする間に消えないだろう? 幽霊か超能力者か。どっちかっていえば、今の俺《おれ》は幽霊のほうを取るなってことで。ただの女じゃないことだけは確かだろうな」
「ま、あんたのことだ。見間違いとは言わないよ」
「そいつはどうも……」
「でも、変だよなやっぱり」
「だろう? だから、ここに来てるんじゃないか」
「そうだけどさ。……答えようがないものな」
竜憲は溜《た》め息《いき》を吐《は》き、むくりと身体を起こす。
「鴻《おおとり》さんはなんて言ってた?」
「気になるとは言ってたけどな……。わかっているんだ。――俺しか見てないってのがガンだよな」
つくづくと呟《つぶや》いた大輔を、斜めに見上げ、竜憲は小さく舌《した》を鳴らした。
それを聞き咎《とが》めて、大輔が眉《まゆ》を寄せる。
「なんだ? また何かあったのか?」
「えー……言いにくいな」
「なんだよ。そりゃ……」
大輔をまっすぐに見やった竜憲は、居ずまいを正し、両手を膝《ひざ》に置いた。
「このあいだ、シャワーから血が噴き出した時……さ」
露骨に顔を顰《しか》めた大輔に、竜憲は曖昧《あいまい》に笑い返した。
「あん時、妙な声が聞こえたんだよ」
「いつものことなんだろ?」
「それがさぁ……ちょっと違う」
大輔は長い脚を持て余し気味に組んで、ソファーの背に身体を預《あず》けると、眇《すが》めた目を竜憲に向けた。言いにくそうに自分の話を切り出したことは、瞬間的に忘れているらしい。
もっとも、殊勝《しゆしよう》な大輔など、薄気味悪いだけだが。
「邪魔をしないで……」
「へっ?」
「そう言ったんだよ。――邪魔をしないで、 ってさ。やっと見つけたんだから邪魔したら許さないて言ってたんだ」
「なんの邪魔をするってんだ?」
「知らない。……挙《あ》げ句《く》に俺にはくれない……そうだから」
「何を?」
「さぁ……あんたの事じゃないのかな。そんな感じ……」
「俺を? お前に?」
「そう」
「ふざけてるな。なんだそりゃ」
さりげなく言ったつもりだったが、顔が引きつっているのがわかる。
気にしているのは自分のほうだ。それを明確に自覚させられて、自分をまっすぐに見る竜憲の目が見られずに、大輔は視線を逸《そ》らした。
「ふざけてるのは確かだけどさ。……でも、彼女達は」
「ちょっと待て」
「何」
「彼女達ってのはなんだ?」
「あ……ああ。私達って言ってたし、一人じゃないみたいだったから。とにかく、彼女達はあんたが必要なんだ。……あんたか、あんたの中の戦士殿かは知らないけどさ。まぁ、あんたじゃなければ、彼女達が脅迫《きようはく》してたのは、例の姫神《ひめがみ》様ってことになるけどね」
「いい加減にしてくれ」
頭を抱《かか》え、呻《うめ》くように言った大輔は、がばっと顔を上げ、竜憲を睨《にら》み据《す》えた。
「――じゃあ、俺達の迷惑はどうなるんだ? いったい、誰が責任とってくれるんだよ」
「俺じゃないことは確かだな」
「当たり前だ。……お前も立派な被害者じゃないか。誰もお前に責任云々《うんぬん》なんて言わねぇよ。だいいち、責任のとりようがないだろうが」
「そうだよねぇ。……なら、被害者同盟でも作る?」
妙に楽しげな顔の竜憲を、大輔が眇《すが》めた目で眺《なが》める。
「何マジな顔してんだよ。……ちゃんと真剣に考えてるって」
「当然だ」
ぼそりと応じ、大輔が黙《だま》り込む。
苦笑と共に彼を見やった竜憲は、だらりとソファーの肘《ひじ》に体重を預《あず》けた。
「……言っちゃうとさ。今までとは全然違うんだよ。あんたに目をつけた何かはね。あんたのことも俺のこともちっとも恐《おそ》れちゃいないだろう? ひどくドライで短絡的《たんらくてき》な気がするんだ。――だいたいさ。あんたを面と向かって口説《くど》く幽霊《ゆうれい》なんて、絶対に変だ」
真剣な表情の竜憲を眺め、大輔は大きく溜《た》め息《いき》を吐《は》いた。
「きっと……自分が死んだとは思っていない」
「え?」
「あの女は自分が生きてるつもりだよ」
「なんだって?」
「それとも、本当に生きているのかもな」
ぶつぶつと付け足した大輔に、竜憲の見開いた目が向けられる。
「生《い》き霊《りよう》……ってこと?」
大袈裟《おおげさ》に顔を顰《しか》め、大輔は首をすくめてみせた。
「俺に生き霊と幽霊の区別がつくかよ」
「そうだよな」
「もうひとつ」
竜憲はソファーの肘に顎《あご》をのせ、ちろりと大輔を見上げた。
「今度は何さ。……小出しにするのやめてほしいな、まったく……」
「ライブが鍵《かぎ》だ。それにもしかするとヘキサグラムのボーカルも」
「単純だけど……それは言えてるかもしれないな」
「だろ?」
「こうなってくると、全部をひっくるめて結びつけるのは、難しいか。やっぱり」
「全然筋が通ってないからな。お前の姫神《ひめがみ》が殺したがっている女のことは、別口で考えるべきだろうな。……もちろん、例のイケイケねえちゃんが何をしたいのかによるが」
のろのろと身体を起こした竜憲は、ソファーの背に頭を預け、天井《てんじよう》を眺め上げた。
「あんたに言い寄るから、始末したいって説はないの」
肩をすくめた大輔は、大きく咳払《せきばら》いをすると、ポケットをがさがさと探《さぐ》った。
煙草《たばこ》を探《さぐ》り出し、一本引き出す。くわえた煙草に火を点《つ》ける時に、手が小さく震《ふる》えているのがわかった。
いちばん言われたくない説だ。
そんな馬鹿《ばか》げたことがあってはたまらない。
大きく煙を吸い込んだ大輔は、ふと妙な事を思い出した。
「そうだ。……この前、律泉《りつせん》と話してる時に……」
煙を吐《は》き出し、背を引き起こす。
「灰皿が火を噴いたんだ」
ゆるりと竜憲の頭も引き上がる。妙な角度で頭を支え、彼は大輔を見つめた。
「灰皿の火事……」
「そうだよ。律泉から聞いたのか?」
「まぁね」
「……そいつには続きがあってな。燃えたティッシュが空中に字を書いた」
竜憲の顔は、また天井に向けられる。
「なんて?」
半分気のない問いかけに、大輔が眉《まゆ》を寄せる。が、その態度は不問に付すことにして、言葉を続けた。
「し……までしかわからなかった」
「し? 確かなわけ?」
「だと思う」
ようやく、まともに座り直した竜憲が、身を乗り出した。
「それだけ?」
「それがなぁ。あのおっさんが、火を握《にぎ》りつぶしちまったんだ」
「おっさん……って」
それ以上は聞かず、竜憲は目を細めて、大輔を見つめた。
透《す》かし見られているようで、少しばかり気味が悪い。挙《あ》げ句《く》に光の加減か、竜憲の顔が二重写しのようにぶれて見える。
ぞくりと身をすくめ、大輔はその場で固まった。
「リョウ?」
ふっと肩の力を抜いた竜憲は、力ない笑みを浮かべた。
「わかんねぇ」
大輔はほっと息を吐いた。
面と向かって、見えるなどと宣言されたら、ぞっとしない。
自分でもあの男を直接見ているにもかかわらず、未《いま》だに取《と》り憑《つ》かれているという認識はないのだ。自分の中にそんな者が住んでいるなどという考えは、どうしても受け入れられない。
「親父《おやじ》さんや鴻さんにも見えないんだろ? お前に簡単に見えるなら、苦労はないわな」
「だよな。……あーあ、情けねぇ。――なんにもわかんないなんてさ!」
竜憲は大きく背を伸ばし、ソファーに身体を投げ出した。
「なぁ、リョウ……」
「ん?」
顔だけを大輔に向け、きょとんと目を見開く。
「一緒に行かねぇか?」
「どこへ?」
「ライブ・ハウス」
一瞬、眉《まゆ》を顰《しか》めた竜憲が、腕を振り、反動で起き上がる。
「ヘキサグラムか!?」
「そのとおり……。なんなら鴻さんにも……」
「え?」
「あ……やめとこ。あの男が来たら、あのおねえ様は消えちゃったもんな」
「なんだかなぁ……」
竜憲は溜《た》め息《いき》混じりに呟《つぶや》き、肩を落とした。
「まずいか?」
音楽は、特にロックは、竜憲にとって神楽《かぐら》と同じだ。トランス状態に陥《おちい》り、姫神《ひめがみ》の意識にのっとられる。
精神を昂揚《こうよう》させるものから、身を遠ざけろと言われているのだ。しかし、ヘキサグラムに関しては、まるでなんの関心もなかった。いまさら、そんな話を持ち出されても、驚きのほうが先に立つ。
ロックという音楽に興味のない大輔にしてみれば同じなのだろうが、単純に、電気楽器が竜憲の精神を昂揚させる訳ではないのだ。
ようは、ヘキサグラムが、今回の奇妙な事件にかかわりがあると言われれば、断る理由もないわけだ。
「大丈夫だろう。どうもあのバンドのカリスマってのは方向が違うような気がするし……。あれだけ露骨《ろこつ》だったら、姫様も動かないだろうさ」
「あぁ?」
顎《あご》を突き出した大男が、煙草《たばこ》をクリスタルの灰皿に押しつけた。
「何が露骨なのさ。……お前、この前もそんなこと、言ってたよな」
「ヤツらのカリスマっていうか……人を惑《まど》わせる部分っていうのは“女が欲しい”、それだけなのさ。……そういう意味では、あんたと同じ……かな」
「冗談だろ?」
それには答えず、竜憲は咽喉《の ど》の奥で笑った。
女に対する絶対の魅力。牡《おす》の魅力とでもいうべきか。そういう意味では、大輔もヘキサグラムの連中も同じなのだ。
希望がはっきりしているだけ、出る音は単純だ。
「……まぁ、行くのはいいとして……肝心《かんじん》のライブがあるのかねぇ。ホール・コンサートじゃしょうがないんだろ?」
「そこまでは知らん。……だいいち、ホールでコンサートをできるようなバンドなのか?」
くすりと笑い、竜憲は両腕を広げてみせた。
「シビアな質問……」
「正直な質問なんだが……」
「サコ曰《いわ》く……このあいだのライブ・ハウスは特別なんだってさ」
「……そんなもんかね。――そうだ。律泉に聞きゃ、すぐにわかるんじゃねぇか」
「……まずいよ。自分で調べようぜ。とりあえず、サコには内緒《ないしよ》にしといたほうが無難だと思うもん」
「わかったよ。……言い出しっぺが、なんとかするさ」
ひょいと首をすくめた大輔は、新たな煙草《たばこ》に火を点《つ》けると、のんびりと煙を吐《は》き出した。
「腹へったな……なんか食いに行くか」
どうやら、話し合いは終了だということらしい。
曖昧《あいまい》にうなずいた竜憲は、テーブルに投げ出された大輔の煙草のパッケージに手を伸ばした。
「なんにも出なかったねぇ」
車のドアにキイを差し込みながら、竜憲《りようけん》が溜《た》め息《いき》混じりに口を開く。
「だな。やっぱり、俺だけでないと駄目《だめ》ってことか……」
「あんたねぇ……口が笑ってるよ」
小さく咳払《せきばら》いをした大輔《だいすけ》は、ドアを引き開けると、さっさと車に乗り込んだ。
この大男は相手が女なら、とりあえず幽霊《ゆうれい》でも妖怪《ようかい》でも、それなりに興味があるらしい。というよりは、自分のほうを向いてくれれば機嫌《きげん》がよいのだ。
早い話、竜憲がではなく、自分が特別なことに意味があるのだろう。
ついこのあいだ、頭を抱《かか》えて訪《たず》ねてきたことなど、すっかり忘れているに違いない。実際、今のところはなんの問題もないのだ。
ふと、怪談話を思い出して、竜憲はくすくすと笑った。
若い男が、幽霊の女に見込まれて取り殺される話。
大輔に似合いといえば、似合いの話である。
「何してんだよ。とっとと帰ろうぜ」
「あ……ああ」
運転席に収まろうと腰を屈《かが》めた途端、地下駐車場の隅《すみ》に人影を認めて、竜憲は動きを止めた。
「どうした?」
「え……あ。誰か来た」
「そりゃ来るだろうさ。……ここはお前んちの駐車場じゃないんだから」
呆《あき》れたように応じた大輔を無視して、竜憲は目を凝《こ》らした。
時間のせいか、数台の車しかいない駐車場は、ずいぶんと見通しがよい。その駐車場の明るいとは言い難い、薄暗い照明の中を、女が一人歩いてくる。
それ自体は珍しい事ではないだろう。だが、その足運びが妙にぎごちなくて、目を引いたのだ。
「大輔……」
「なんだ?」
「あの女……」
「女?」
運転席に滑《すべ》り込み、竜憲は歩いてくる女を指さした。
「女……っちゅうよりは女の子だな」
事もなげに言っておきながら、大輔は目を見開き、頓狂《とんきよう》な声を上げる。
「あーっ!」
「あれが例の女か?」
「ああ、先に歩いてくほうの女だよ」
「先?」
眉《まゆ》を寄せた竜憲の気配に気づいたのか、大輔は訝《いぶか》しげな顔を振り向けた。
「あの二人のことだろう?」
「二人だって? 一人しかいないじゃないか」
「なんだと!?」
大輔の怒鳴《どな》り声に、竜憲は首をすくめた。
「見えんのか!? あの女が!」
「見えない」
きっぱりと言い切る。
そんな事をしている間《ま》に女は駐車場を横切り、地上に上がる通路のほうに去っていった。
「リョウ! 早く車を出せ!」
「あ……ああ」
慌《あわ》ててキイを回し、何も考えずに車を発進させる。
方向指示のペイントを踏《ふ》んで、タイヤが鳴く。
そう広くもない駐車場のフロアを一気に横切り、わずかに減速すると、女の消えたスロープを曲がった。
再び、タイヤが鳴く。
「ああ……うるせ……」
口中で呟《つぶや》き、ステアリングを戻すと、ライトを点《つ》ける。
誰もいない。
地上に続くスロープには、通りの街灯の光が差し込んでいるばかりである。
「消えた……」
大輔が呟き、嘆息《たんそく》する。
「まだだ……早く外に――」
焦《あせ》る竜憲とは違って、大輔はすでに諦《あきら》めているらしい。妙に落ち着きはらって、何かを差し出す。
「ほら、駐車券」
目の前の小さなチケットをひったくり、片手を突き出す。
「金!」
「しょうがねぇな……」
文句を言いながらも、竜憲の手に札が何枚かのせられる。
スロープを上がりきったところで、のんびりと構えている駐車場の係員に、チケットと札を渡すと、目の前の料金表示が生き返るのを苛々《いらいら》と待つ。
「はい……八百円のお返し……」
「どうも」
差し出した手の中に落とし込まれた金を、確かめもせずに大輔に押しつける。
が、竜憲はアクセルを踏み込むのを、一瞬思い止《とど》まった。
「あ……おじさん。今、女の子がここ通らなかった?」
「女の子? さぁ、気づかなかったけど……」
「あ……そう。どうもね」
顔だけはにこやかに告げて、荒っぽく発進させる。
歩道の上に一旦止まり、左右を見通した竜憲は、ここまできてようやく肩の力を抜いた。
「消えちゃった……」
「だから、言っただろう? すぐ消えちまうんだ。あのねえちゃんは……」
「けど、一緒にいたのは、普通の女の子だったのに……」
「そうかぁ?」
ただ単に見えるか見えないか、という話なら、大輔は徐々にではあるが見えるようになっている。しかし、相手が何者なのか、知る段階にはいたっていないようだ。
確かに、竜憲の目にも人と同じように見える霊もいる。
しかし、間違いようのない違いがあったのだ。
言葉で説明できるようなものではなかったが。
「高校か……いや、中学かもしれないな。ぐらいの女の子だろ?」
「それと、二十歳《は た ち》ぐらいの女。ひょっとするともっと上かもしんねえけど。お前には見えなかったんか?」
「うん……」
うなずいた竜憲は、左右を見渡してゆっくりと車を出した。
千鳥足のサラリーマンが見える。
右に左に揺《ゆ》れながら歩く男は、迷惑なことこのうえない。車の前に飛び出したとしても、責められるのはドライバーのほうなのだ。
一秒後の行動の予想がつかない酔っ払いを、目の隅《すみ》で睨《にら》みながら、竜憲はことさら慎重にステアリングを操《あやつ》っていた。
ふらりと、男の身体が揺れる。
車道に飛び出した男は、大きく手を振ると車を止めようとした。
「馬鹿《ばか》が!」
タクシーとでも思ったのか、マッチをかざすだけで火を噴きそうな男が、路上で仁王立《におうだ》ちになる。
「轢《ひ》いちまえ」
「バカ言うなよ。人生棒に振る気はないんだからな」
「大丈夫だって。自分から心身喪失《そうしつ》になってんだから、あれは自殺だ」
言い切った大輔はドアを押し開くと、そのまま路上に出た。
つかつかと歩み寄り、男の前に立ちふさがった。
「なんだよ! ええ? 乗せてくれたっていいだろうが? どうせ親の金で遊んでるんだろう。え? なんとか言ってみろ」
無言で男の首筋を掴《つか》んだ大輔は、にんまりと笑ってみせた。
そのまま、ずるずると引きずって歩道の植え込みに連《つ》れ込むと、ネクタイを引き抜き、手近の街路樹とベルトを繋《つな》いだ。
「何しやがる!」
「泥酔者《でいすいしや》の保護。知ってたか? 見逃すとこっちが罪になるんだ」
酔っ払いの頭を手荒く混ぜて、薄くなった頭頂部を露出させる。
「じゃあな……」
ぴたぴたと禿《はげ》を叩いた大輔は、くるりと踵《きびす》を返して、車に戻った。
「……何を荒れてんのさ」
「あれが本当に人間かと思ってね……」
助手席に収まり、腕組みした大輔は、低く唸《うな》っていた。
生身《なまみ》の人間と、人間の形をした何かとの区別がつかないのが、不安なのだろう。八つ当たりに最適な相手と見られてしまったのが、酔漢《すいかん》の不幸だった。
もっとも、殴《なぐ》り飛ばされなかっただけましか。
そういえば、大輔はけっして暴力を使わない。
図抜《ずぬ》けた体格を持つ大輔は、自分が腕力に頼ればどういう結果になるか、よくわかっているようだった。
「……お前にも、鴻《おおとり》にも見えないってのが嫌《いや》だな……」
ぼそりと、大輔が呟《つぶや》く。
「そうか?」
「俺だけを、狙《ねら》っているみたいじゃないか……」
「ああ……」
ひょっとすると、姫神《ひめがみ》が殺せと命じていたのは、大輔にだけ見える女のことではないだろうか。
いずれ仇《あだ》をなすという彼女の言葉に、妙な現実味がある。
確かに、大輔にだけ見える女というのが、気にかかった。
そして、まだ中学生かもしれない女の子と共にいるというのが、不安を煽《あお》る。
「……あの子。あんたが見たっていう女が見えているのかな……」
「見えてるも何も……。手ぇ繋《つな》いで……と、お前は見えなかったのか。とにかく手を繋いでた。姉妹《きようだい》っていうより、オバサンと姪《めい》っ子って感じだったぜ」
奇妙な足取りの理由がわかった。
おそらく、あの少女は女に引き摺《ず》られていたのだ。
身体が先に行って、足が後からついていくような歩き方は、少女の心情を示していたのかもしれない。
「まずいな……」
「ああ……。だが、どこの誰かもわからないんだぜ……」
「ああ……」
中学生ともなれば、突然行方《ゆくえ》がわからなくなっても、家出としか考えられないだろう。両親が必死になって捜《さが》しても、マスコミが動くとは思えない。
つまり、竜憲達が彼女の身元を知る手段《てだて》はないということだ。
「人間だったんだな。間違いなく」
念を押す大輔に、竜憲は小さくうなずいた。
「人間のうちに、助けてやりたいな……」
このままでは、彼女の命が危ないということなのだろう。霊魂《れいこん》となってしまった者を解放するより、命があるうちに助けられたほうがいいに決まっている。
「……どうすれば……」
「とにかく、ヘキサグラムを追いかけるしかないだろう。あの女は、ヤツらのいるところに出没するみたいだからな……」
「それしかないか……」
肩を落として息を吐《は》いた竜憲は、高速道路の案内表示を見やり、車線変更をした。
時間が悪いせいか、道路はタクシーが溢《あふ》れている。
不況だといわれていても、都心から夜の人影が消えることはないのだ。
首都高速も、以前よりはすいているものの、料金分のサービスを提供しているとは言い難い。
慣れているからこそ、路面状況を気にしないでいられるのであって、初めて走る人間は、到底《とうてい》料金を支払う気にはなれないような代物《しろもの》だ。
竜憲は、ひとことも喋《しやべ》らないまま、半《なか》ば無意識に車を走らせていた。
大輔も沈黙《ちんもく》を守っている。
まだ幼いと言っていい少女のことが気にかかるのだろう。
しかし、打つ手はない。
――本当に、そうか? ――
疑問が湧《わ》き上がる。
自分自身に対する質問だ。
鴻と、同質の才能がある。
父親に言われた言葉。
おそらく、そうなのだろう。鴻と同じように、半分妖怪《ようかい》になってもおかしくないのだ。そうなったほうが、力を発揮《はつき》できるかもしれない。
しかし、姫神の力を抑《おさ》えきれるとは思えない。
だが……。
「大輔。……悪いが、今夜、家に泊まってくれるか?」
「え?」
次の信号を左に折れれば、大輔の家に向かうことになる。その直前で、竜憲はぽつりと呟《つぶや》いた。
「……あの子。助けたいんだ」
「そりゃわかるが……」
「彼女に聞いてみる。おそらく、姫神《ひめがみ》なら、知っているはずだ。……部屋の前で、番をしててくれ。俺が暴《あば》れだしたら、止められるのはあんただけだろう……」
「馬鹿《ばか》言うな。俺の中にはあの男がいるんだぞ。両方で暴れだしたら、どうするんだよ」
ちらりと、竜憲が笑う。
黄色の信号を突破して、車はそのまま直進する。
大輔は、正面を見据《みす》える竜憲の顔をまじまじと見ていた。
「暴れない、と、思う。彼女が暴れる気なら、とっくにそうしているだろう。……ちょっとばかり気持ち悪いことになるかもしんないけど、そこはまあ、目をつぶってやってくれるか。――あんたにサバ折りされるだけで、あの子を助けられるんなら、それのほうがいいし……」
「おいおい……」
「まぁ、そんなことにはならないと思う。……親父《おやじ》にも付き合ってもらうし……。あんたはマズイと思ったら、親父を呼んでくれ……」
「何をする気だ?」
小さく笑った竜憲は、そのまま車を走らせていた。
ロックの音に魅《ひ》かれる少女達。そして、その場に現れる奇妙な女。
自分も、似たような部分があるのだ。
ライブ・ビデオを見るだけで、簡単にトランス状態に陥《おちい》る。ならば、それを逆手《さかて》に取ってやればいいのだ。
ビデオさえ消せば、自分を取り戻せることは、以前の経験でわかっていた。
そして、父親の一喝《いつかつ》が効《き》くことも。
「姫様に聞くしかない……。そうだろ?」
確かめるように呟《つぶや》く竜憲の肩を、大輔が軽く叩いた。
「そうだな。ありゃ、二、三年もすりゃ、けっこう美人になりそうだ。それを見棄《みす》てるってのはナンだよな」
「だろ?」
「ああ。仕方ないか……。できれば鴻にも立ち会ってもらいたいところだが……」
「駄目《だめ》だ」
きっぱりと言い切った竜憲は、ドアポケットを探《さぐ》って、煙草《たばこ》を取り出した。
ライターを打ち鳴らして火を点《つ》ける。
「鴻は、彼女の力を増幅する。下手《へ た》をすりゃ、殺されるかもしれない。あいつは、半分バケモンなんだ。その化け物の部分が……」
「親父さんは? なんだったら、親父さんに見張ってもらえば……」
「それで彼女が現れれば問題はないけどね。……ま、とにかくやるだけやってみるさ」
初めてのことなのだ。
成功するかどうかもわからない。
ただひとつ、確実にわかっているのは、姫神《ひめがみ》が暴走し始めたら、止められるのは大輔しかいないということだった。
「……悪いな……巻き込んで……」
「何、言ってんだか。……もともと俺にかかわった女が原因じゃねえか……」
大輔も煙草《たばこ》に火を点《つ》ける。
煙草の煙がゆっくりとたなびく。
沈黙《ちんもく》が支配する車内に、エンジン音だけが響いていた。
ぴったりと閉じられたドアの下の隙間《すきま》から、延長コードが伸びている。
ビデオのコンセントをそれに差し込み、カセットをセットした。
ドアの外には、大輔《だいすけ》と忠利《ただのり》がいるはずだ。
二人とも、この奇妙な儀式に、賛成はしないまでも反対できずにいた。
一人の少女の命がかかっているのだ。
間に合うのなら、どうしても助けたい。このまま見過ごすことなどとてもできないのだ。
異変があれば、外のコンセントを引き抜くことでビデオは止められるのだ。
それで姫神《ひめがみ》の影響から解放されるだろう。
「……いいか?」
ドアに向かって声をかける。
「いいぞ。……何かあったら、叫べよ。――無理かもしれないが……」
「ま、ね。……じゃ、やるからな……」
竜憲《りようけん》は、ビデオのスイッチを入れた。
見慣れた、しかしここ数か月は一度も見ていない映像が流れ始める。画面が小さい代わりに、音のほうはステレオからモニターしていたから、申し分ない。
クッションを積み重ね、それに身体を預《あず》けると、煙草《たばこ》に手を伸ばす。
見る、以外の目的があって流したことなどないビデオだ。いつもなら、五分も経たないうちに画面に入り込み、ライブの熱気をまざまざと思い出せるビデオが、どこか空々しい。
緊張しているせいだろう。
聴き慣れた曲。そらんじてしまえるMC。
見る事を禁じられた時は、禁断症状のように思い返していたのに、今は何も伝わってこない。
条件反射のようにリズムを取ってしまうベースのソロにも、ついつい拳《こぶし》を握《にぎ》ってしまうシャウトにも、身体が反応しないのだ。
「……やっぱり、駄目《だめ》かな……」
テープを回し始めて二十分。本当にライブにいたのなら、そろそろ汗が出ている頃だ。
そういえば、ヘキサグラムのライブも、ちょうどこんな感じだった。
周りは熱狂しているのに、自分はどんどん冷めていったのである。
画面の中の熱狂的なファンと、今の自分の間に、埋《う》め難い溝があるように。
ひょっとすると、竜憲自身、半分化け物になりかかっているのだろうか。
鴻《おおとり》に感情が抜け落ちているように、彼自身、熱狂的な感情を封じられたのかもしれない。
『そうではない……』
声。
女の声が耳もとで響く。
「あんたは……」
画面には変化はない。
しかし、姫神《ひめがみ》の声が、耳もとで囁《ささや》いていた。
「教えてくれ。……あの子をどうすれば助けられる? あの子は……」
くすくすと、楽しげに笑う女は、煙草をもぎ取った。
竜憲の肉体を、一瞬のうちに支配してしまったのだ。吸《す》い殻《がら》の並ぶ灰皿に煙草を押しつけ、人差し指で唇《くちびる》を押さえる。
『何故《な ぜ》、あの娘のことなぞ気にする』
「放っとけば殺されるんじゃないのか?」
『ほかの娘はどうでもよいのか? 何故、あの娘なのだ?』
自分の声が耳に届かない。
声まで封じられたようだ。
しかし、自分の身体の中に潜《ひそ》んだ姫神《ひめがみ》と会話を交わすには、なんの支障もなかった。言葉を綴《つづ》るのと同じように、意思を伝える事はできるのだ。
「あの娘しか知らないからだ。……今までにも……」
『十や二十は食っておるぞ。あの女は……』
あの女、というのが、大輔につきまとっている女なのだろう。
少女の命を食っているのか。それとも、肉体を食っているのか。
『今まで気づきもせなんだと、申すのだな』
笑いを含んだ声が、嘲《あざけ》りにも聞こえる。
――知らないことまで、見通せるわけがねぇだろ――
内心で罵《ののし》った途端、楽しげな笑い声が耳もとで響く。
『不便じゃのう』
馬鹿《ばか》にされているのだとわかっていても、怒《おこ》る気にもならない。
「あんたが殺せと言ったのは……」
『そうよな。……言うたかもしれん』
柔らかな声に少しばかりの刺《とげ》が混じる。
『人の欲には涯《はて》しがないからのぉ。時には魔物の力も遥《はる》かに凌駕《りようが》する。……特におなごの欲は……』
「欲……?」
『そなたにはわかるまい』
涼《すず》やかな笑い声が、頭の中に響いた。
自分の置かれている立場も忘れて、心地よい声に耳を傾ける。鈴でも鳴らすような笑い声とは、これのことを言うのだろう。
忠利に繋《つな》がる古《いにしえ》の術者達が、何故《な ぜ》そこまで恐《おそ》れたのか。とても彼らが言うような化け物には思えない。
心の中で密《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を吐《は》いた竜憲は、カメラのレンズ越しのように遠く見えるテレビの画面を、ぼんやりと眺《なが》めた。
『あの娘のことはもうよいのか?』
からかうような声に我に返る。
いや、確かにこれは魔物だった。人を魅《ひ》きつけ、虜《とりこ》にする。それだけではない。ほかの魔物や魍鬼《もうき》でさえもだ。
『……どちらにしても、もう遅かろう。――それにな。そなたは手を出さぬがよいのぉ。取り殺されるぞ』
「そんな!」
『人の欲ゆえ、我には手が出せぬ』
「……あの男に殺せと言ったのは……」
途端に。姫神《ひめがみ》がひどく楽しげな声で笑う。
『器がのうなっては困るであろう?』
返す言葉がない。
彼女の言葉を信じるのなら、あの女が狙《ねら》うのは大輔自身ということである。
『あれには人しか見えておらぬからなぁ。……人のことは人が片づけるしかあるまいよ。あれが次の娘を見つけるまえに……』
「片づける……なんて。どうやって……」
答えはない。
代わりに耳に飛び込んできたのは、ステレオから流れ出す割れんばかりの音。知らぬ間にフル・ボリュームになっていたらしい。
慌《あわ》ててステレオに取りついた竜憲は、電源を切り、その場にへたり込んだ。
こうも簡単にいくとは、思ってもいなかった。
ただし、結果はなんの進展もなかったが。
験《ため》されているのか、本当のことなのか。
どう都合《つごう》よく解釈しても、自分一人で答えを出すのは難しかった。ありのまま白状するしかないだろう。
とすれば、おそらく鴻が首を突っ込んでくるに違いない。
「あーあ……最悪のパターンだな」
溜《た》め息《いき》を吐《は》いた竜憲は、音のない画面を見るともなしに眺《なが》めた。
『ひとつ教えておいてやろう。……あれは八百比丘尼《やおびくに》。人を食らい、若さを食らい。生き長らえる人の業よ。解き放たれるには……』
不意に声が降る。
「どうしろって――!?」
あらためて画面に見入ったが、何も聞こえてこない。
派手《はで》なステージも、音がないとずいぶんと間の抜けたものになる。
神降ろし。
ある意味ではありがちな儀式である。
本物かどうかは別にして、誰の目にもわかりやすいからだろう。霊能力といえば、かならずついてくるイベントの一つだ。
ただ、こんな小道具を使う者はいないだろう。
ハード・ロックのビデオ。
まったくありがたみがないこと、このうえない。
実際、あの消えてしまった娘には、何もしてやれなかったのも同じなのだから、ありがたみがなくても当たり前か。
せめて、次の娘が犠牲《ぎせい》になるまえに、と思うのは自分だけではあるまい。
ビデオを止め、電源を切る。
ゆっくりと立ち上がった竜憲は、部屋の扉を静かに引き開けた。
もともとそう広くない車内が、今夜はなおさら狭《せま》く感じる。助手席に座るのが、常の大男ではないというのにだ。
そう、助手席に行儀よく収まっているのは、鴻《おおとり》である。
大輔《だいすけ》は一足先に、ヘキサグラムのライブに出かけているのだ。偵察係兼、囮《おとり》の餌《えさ》というところだろうか。例の女が、大輔にしか見えないのだから、仕方がない。しかも、竜憲《りようけん》が一緒の時には、大輔に近づきもしなかったという、おまけまでついている。
大輔に接触せずに、見張るしか手はなかったのだ。
おかげで、自分はこうして鴻と共に、コンサートの会場に向かう破目に陥《おちい》っている。
そんなこんなも含め、必要なことを一方的に報告してしまうと、あっという間《ま》に話すことなどなくなっていた。
沈黙《ちんもく》が車内を支配しはじめると、途端に空気が重くなったような気がする。鴻が何か推論でも述べてくれればまだしも、彼は無駄話をする相手には誰より向かない。
だが、黙っているとなおさら気づまりなのだ。
あれこれと思いめぐらせるうちに、それらしい話題を見つける。
「そういえば、親父《おやじ》に言われたんだ」
おずおずと口を開くと、鴻は間を置かずに答えた。
「何をでしょう」
「修行しろ……ってさ」
「そうですね。少しはなさったほうがよろしいでしょう」
むっと、言葉を飲みこんだ竜憲は、人形じみて整った男の顔をルーム・ミラー越しに睨《にら》みつけた。
どうもこの男の言葉は、ことごとく神経を逆撫《さかな》でする。
咽喉《の ど》まで出かかった厭味《いやみ》な台詞《せりふ》を、どうにか飲み下し、竜憲はミラーの中の男から視線を逸《そ》らした。
「でもな。親父はあんたのところで修行しろとか言うからさ」
「私はかまいませんよ。何もお教えすることはできないかもしれませんが、お手伝いくらいならいつでも」
再び体温が上がる。どうして、ここまで反《そ》りが合わないのか、ここまでくるとたいしたものだ。
自分の反応に半分呆《あき》れながら、竜憲は可能なかぎり平静を装って、言葉を継《つ》いだ。
「親父に言わせると、あんたと俺は同じ質なんだとさ。魔を退《しりぞ》けるのじゃなくて、魔を従わせる? ……そんなふうなこと言ってた」
かすかに鴻が身動《みじろ》ぐ。
訝《いぶか》しげに彼を盗み見ると、ひどく無表情な横顔が、フロント・グラスを見つめていた。
常日頃、彼の顔に浮かぶ笑みが消えている。
無表情でいる時以上に、内心の窺《うかが》い知れない穏《おだ》やかな笑み。それがないほうが、人間らしく見えるから不思議だ。
「その話はいずれ、また。……今は姉崎《あねざき》くんについてまわる女のほうが先ですからね」
竜憲は目を見開いて、鴻を眺《なが》めた。
この男でも触れられては困る話題があるらしい。
そう思った途端に、つい笑いが込み上げてくる。
「何か?」
「いーや。べつに……」
路上に視線を戻した竜憲は、なんとか真顔を保つ。
「考えていたんですが……」
竜憲は冷たい声に眉《まゆ》を寄せた。
すぐに自分を取り戻すところが、嫌《いや》だ。
何を言いだすかなど考えもせずに、竜憲はいちいち湧《わ》き上がってくる鴻への反発心を宥《なだ》めるほうに必死になっていた。
「……八百比丘尼《やおびくに》と言われたのですよね」
「え?」
「姫神《ひめがみ》が……」
「え……ああ。そうだよ」
「何かはご存じですか?」
「聞いたことがあるような気はするんだけど……なんのことだか、全然……」
「人魚を食べて、不死になった女の話です」
「あ、そうか」
とりあえず簡単にうなずいておいて、次の瞬間、竜憲は急ブレーキを踏《ふ》んだ。
けたたましいクラクションと共に、車が一台追い越していく。幸い、後続車は一台きりだったらしく、それ以上の抗議はされなかった。
もっとも、竜憲は周囲のことなど気にもとめていない。
食い入るように鴻を見つめていた。
「どういうことだ? ……お伽話《とぎばなし》だろ?」
「止めるのならば……脇に寄ったほうがよろしいのでは?」
至極《しごく》、冷静な声がかけられる。
眇《すが》めた目で鴻を見やった竜憲は、ゆっくりと車を発進させた。
咳払《せきばら》いをし、気を静める。それから、できるかぎり、のんびりとした声を出した。
「何かの喩《たと》えかな」
「さぁ。その比丘尼は、ある日消えてしまったそうですからね。……それに、姉崎君の見た女は、あなたには見えなかったのでしょう?」
「そう……だった」
「ということは、肉体はないのですよね。――妄執《もうしゆう》だけが、生き延びているのでしょうか」
「妄執、ね。そういえば欲がどうとか。……そう、女の欲は涯《はて》しがない、とか言ってたものな」
竜憲はぞくりと首をすくめた。
肉体を保つためというならまだしも、生き延びたいという怨念《おんねん》が、少女達を攫《さら》い、食い尽くしているというのだろうか。
あまり気持ちのよい想像ではない。
「八百比丘尼かはともかく、不老不死を望む者の執念が、街を歩いているわけですか」
他人事のように呟《つぶや》いた鴻を横目で睨《にら》み、竜憲は車の速度を少しばかり上げた。
それだけではない。
そんな気がしていた。
――器がなくなっては困る――
姫神《ひめがみ》の言葉が妙に生々しく蘇《よみがえ》る。
大輔にだけ見えるということが、ひどく気にかかった。
こうなってくると、路上にほとんど車の影がないことさえ、異常に思えてくる。嫌《いや》な予感がし始めていた。
第五章 魔界輪舞
ふわふわと宙を歩く女。
膝《ひざ》を折り、祈るように手を合わせて、そのまま滑《すべ》る女。
長い髪をゆったりと舞わせながら、一心に踊る女。
皆が皆、まだ幼さの残る娘達だ。
薄灰色の靄《もや》に包まれ、少女達の姿が浮かんでは消える。
いつまでも耳に馴染《なじ》まない騒音と、熱狂的な歓声の中、大輔《だいすけ》は幻《まぼろし》を見ていた。
もちろん、突然、霊能力が具《そな》わった訳ではない。
大輔のすぐ右隣。肘《ひじ》に腕を絡《から》ませるようにして座る女が、大輔に見せているのだ。
コンサートが始まってから、捨て値のダフ屋のチケットを手に入れた大輔は、ナンバーを無視していちばん後ろの席に、どかりと腰を下ろしていた。
ダフ屋が出るほどのコンサートか、とも思うが、そこそこに客は入っている。それでも、後ろの何列かは空席が目立つ。
間違って紛《まぎ》れ込んだとしか思えないような連中が、腕組みしたままステージを眺《なが》めているのも、一興だ。
沙弥子《さやこ》が、ライブ・ハウスのほうを選んだ理由がよくわかる。これでは、席が悪ければ白けるだけだろう。
それだけに、よけいに現実味のないコンサートだった。
いつのまにか隣に腰を下ろした女の存在も、現実を忘れさせる。
そのうえ、幻の少女達が登場したのでは、なおさらだった。
「何故《な ぜ》、こんなものを見せる?」
「これが、見たかったんでしょう? あの女に聞いたんでしょ。わたしが何をしているのか。どうしてこんなことをしているのか。……だから、あなたがわざわざ来てくださった。……そうでしょ? あの女に言われたから……」
あの女とは、姫神《ひめがみ》のことだろう。
姫神の言葉が大輔を動かしたと勝手に思い込み、それを責める。なにやら、聞いているうちに、この女が姫神に嫉妬《しつと》しているような気になってきた。
つくづく、自分の性格を疑いたくなる。
相手が化け物でも、そう悪い気はしなかったのだ。
崩《くず》れかける表情を引き締め、大輔は女を見下ろした。
「残念ながら、俺は何も聞いちゃいない。姫様の言葉を聞くことはできないからな。……実際、俺に声を聞かせられるヤツは、ほとんどいないよ」
「そうかしら。……だって、この前も一緒だったでしょ」
ヘキサグラムのライブの後で、駐車場で見かけた時のことを言っているらしい。彼女には、竜憲《りようけん》の姿など見えないのだろう。
竜憲の内側で息を潜《ひそ》める姫神《ひめがみ》だけを認識している。
「まぁな。俺は、その外側の野郎なら話もできるんだが……。内側のほうはまったくだ……」
「本当?」
言いながらも、女はどこか嬉《うれ》しげだ。
「……それより、俺が気になるのは、この前連《つ》れてた女の子なんだがな……」
にたりと、女が笑う。
その瞬間、女は完全に化け物だった。
今まで人のふりをしていたのが、一挙に崩《くず》れ、本性を現す。
「そんなに気にかかる?」
「まだ子供だろう。……あの子はどうしたんだ?」
「恋をすれば、大人《おとな》も子供もないでしょう」
「まあな……」
声を殺して笑う女は、大輔の肘《ひじ》をますます強く締めつけてきた。
「恋をする者は、子供であればあるほどいいのです」
生命力の話か。それとも感情の味のことを言っているのか。
竜憲はこの女が八百比丘尼《やおびくに》らしいと言った。若さを保つために、少女達を食っているのだろう、とも。
なるべく純粋な想いを、この女は求めているのだろう。
「……どうしました?」
「こいつら……。あんたが用意した餌《えさ》か?」
ステージ上では、相変わらず下手《へ た》な演奏が続いている。
前列の熱狂ぶりと、後方の静寂の落差が激し過ぎるような気がした。
「そう、思われますか?」
「ああ……。大抵《たいてい》、カリスマは中性的なもんだろう。だが、こいつらに熱狂してんのは、女ばかりだ。……しかも、ガキ……。あんたの言う、恋する子供の集団じゃないのか……。あんたのために用意された餌……だな」
「わたしのために養殖しているのだ、とは言わないのですね」
女は絡《から》めた腕に、もう一方の手を添えた。
「養殖……か」
そのほうが正しいだろう。
見た目だけが整った連中に、カリスマという毒を与えて、少女たちを誘《おび》き寄せ、感情を煽《あお》り立ててゆく。
そして、この女はそれを味わっているのだ。
よほどうまくやっているのだろう。
あの沙弥子が罠《わな》にかかり、竜憲が正体を見破ることすらできなかったというのだから。
「……いつまで続ける気だ?」
「さあ……。いつまで続ければいいのでしょうね。……あなたのような方が見つかるまで、と思っていましたけど……」
ステージのライトが消える。
少女達の悲鳴が、一層高くなったようだ。
アンコールを叫び、手を打ち鳴らす。
もう何度目だろう。
やがて、客席に照明が点《とも》り、女の声でアナウンスが入った。
「俺のような?」
「ええ……」
頭を肩に預《あず》けてくる。
この女は、男を求めて、永遠ともいえる時間を生きているのだろうか。
「何故《な ぜ》俺なんだ?」
「さあ……何故でしょうね……」
ふわりと、女の身体が離れる。
「いらしていただけますか?」
罠《わな》だろう。
このままついてゆけば、殺されるかもしれない。
しかし、大輔が応じなければ、新たな犠牲者《ぎせいしや》が出ることになる。
客席の間を、汗を浮かべた少女達が歩いてゆく。
放心状態で、宙を歩くように足を進める少女や、興奮も露《あらわ》に友人と声高《こわだか》に喋《しやべ》る少女。中には、涙を浮かべた子までいた。
何かに熱中するというのは、悪いことではない。
たとえそれが親や教師が眉《まゆ》を顰《しか》めるロックだとしてもだ。
しかし、ヘキサグラムの場合には、同時に罠も仕掛けられていた。
「そうだな……」
のそりと、大輔が立ち上がった。
この少女達を見棄《みす》てることはできない。
――おい、あんた。もし、俺の声が聞こえるんなら、協力してくれよ……――
自分の中に潜《ひそ》むという男に向かって、呟《つぶや》く。
まさか、自分に取《と》り憑《つ》いた化け物に頼む破目になるとは思わなかったが、今は唯一《ゆいいつ》頼れる相手なのだ。
竜憲達が入り口で待っているはずだが、会えないという、確信があった。
「……よろしいのですか?」
「ああ。その代わり、あの子を帰してやってくれないか?」
一瞬、女の目に怒りの色が浮かぶ。
「いいだろう。見ちまったからには、見棄てることはできない。……それでなくても、昔、助けられなかった娘《こ》がいるんだ……」
病院で、黒焦《こ》げになった女。
忘れたつもりでいたが、不意にその顔を思い出した。
「……顔しか知らなくても、寝覚めが悪いだろ?」
大輔は、笑みを浮かべて立ち上がると、自分から女の手を取った。
「わかりました……」
「約束してくれるな……」
「信用してくれないんですね。……ならば……」
ゆったりと手を差し出した女が、隣の席を示す。
淡《あわ》いピンクの霧《きり》が現れる。
徐々に色を濃《こ》くする霧は、やがて人の形を取り始めた。
がたんと音を立てて、椅子の座面が下りる。
と、そこには、げっそりとやつれた少女の姿があった。
駐車場で見かけた時と同じ服装だが、同じ人間とは思えないほど面変《おもが》わりしている。
「……参りましょう……」
ひどく弱っているようだが、命には別状はなさそうだ。このまま放っておいても、会場の人間が助けてくれるだろう。
スタッフらしき男が、こちらに目を止めて慌《あわ》てて駆《か》け寄ってくる。
それを確かめると、大輔は女に従って歩き始めた。
けたたましいサイレンを鳴らしながら、救急車が走りさってゆく。
夜の街路に走る回転灯の赤いフラッシュは、非日常の映像を作り出していた。
「……どうやら、姉崎《あねざき》くんはうまくやったようですね」
わずかばかり目を眇《すが》めて、救急車を見送る鴻《おおとり》は、口もとに薄い笑みを浮かべている。
「うまくやった?」
「彼女は大丈夫ですよ。解放されました。……しばらく入院することになるかもしれませんが……」
ヘキサグラムが公演する会場の前で、二人は大輔《だいすけ》を待っていた。少女ばかりと言っていい観客の中から、大男を捜《さが》すのは造作もない。
そう思っていたのだが、未《いま》だに発見できないでいる。
「救急車に乗っていたのが……あの子なのか?」
「そうでしょう。……まだ気が残っていましたから……」
救急車に気を取られて、大輔を見逃したのだろうか。それとも……。
何事もなければ、大輔のほうも彼らを捜しているだろう。どこで待っているのか、おおよその場所は打ち合わせているのだ。
表情を引き締めた竜憲は、鴻に視線を向けた。
「大輔は?」
「彼女を解放させるために、ついていったのでしょうね」
「どこへ?」
「……わかりません」
平然と、鴻は告げた。
車の外から、搬送《はんそう》される娘の状態が読み取れるのに、化け物の様子《ようす》を探《さぐ》ることはできないというのだろうか。
眉《まゆ》を怒らせた竜憲《りようけん》は、会場の入り口に目をやった。
最後に残っていた数人の娘を追い出して、係員がドアを閉めている。
中には、誰も残っていないのだろう。
ロビーの電気が消され、人影が消えた。
「例の女の気配は?」
「……残念ですが……」
「けど、あの子に残ってた気配はわかったんだろう?」
「解放されたから、読み取れたのでしょう。……それに、これほど熱気が漂《ただよ》っていると、ほとんどのものは打ち消されてしまいますから……」
本心から言っているのだろうか。
鴻を信用していないだけに、竜憲はその言葉を素直に受け取ることはできなかった。唯一《ゆいいつ》信用するに足る条件があるとすれば、鴻は大輔に潜《ひそ》む戦士にも興味があるという点だ。
「しかし、このままほっとく訳には……」
ホールの前でぼんやり立っていても埒《らち》があかないことは確かだが、闇雲《やみくも》に捜《さが》し回ってどうにかなるものでもない。
「それはもちろんです。姉崎君はおそらく、自分の意思でついていったのですからね」
完全に取り込まれていると言いたいのであろうか。
鴻がひとこと言うたびに、竜憲の気分は逼迫《ひつぱく》したものになっていく。最悪の事態が、ただの死ではないと想像できるだけに、焦《あせ》る心を抑え切れない。
「何か、手掛かりがあるはずです。……まずは会場の中から調べてみましょう」
鴻の落ち着いた声が苛立《いらだ》ちを煽《あお》ると思いきや、不思議《ふしぎ》に竜憲を現実に引き戻した。
次の瞬間に、竜憲が考えたのは、どうやってホールに潜《もぐ》りこむか、である。さすがに現実を突きつけられれば、実際的になるものなのだろう。
「……裏に回ってみる?」
うなずいた鴻の先に立って、竜憲は歩き始めた。
大方の観客達は、帰路についたのだろう。ひと塊《かたまり》になって残っている少女達は、メンバーが出てくるのを待っているらしい。
ステージのセットを運び出すために、横づけされたコンテナトラックに取りついた男達が、毛布を広げている。
荷物の保護のためなのだろう。ロープも用意されて、作業は手際よく進んでいた。
いっぱいに引き開けられたシャッターが、搬出口に違いない。
どうするべきか、一瞬立ち止まった竜憲を鴻が追い抜いてゆく。
慌《あわただ》しく働く男達の間を抜けて、鴻は平然と奥に向かった。
会場の人間なのか、バンドのスタッフなのかはわからないが、その誰もが鴻に不審《ふしん》の目を向けない。
さすがに和服ではないが、ネクタイも締めず、しかも長髪を後ろで括《くく》った鴻は、竜憲の目から見ても怪《あや》しい男だ。
しかし、誰もがその存在を受け入れているかのようだった。
竜憲など、彼の部下かアルバイトというところだろう。
人の意識を操作する力があるのか、それとも彼の一種独特の雰囲気《ふんいき》が、疑問を抱かせないのか。
制止されることもなくステージに立った鴻は、そう広くもない会場を見渡した。
簡単なセットを片づけ、楽器をしまうスタッフ達は、疑問を抱いていないようだ。中には、目礼する者までいる。
何者と思われているのかは知らないが、都合《つごう》はいい。
「……あの、いちばん後ろの席にいたようですね」
客席に飛び降り、そのまま後ろに向かう。
慌《あわ》てて後を追った竜憲は、まだ会場の人間のことが気にかかっていた。
今のところ、追い出される気配はないが、なるべく早く手掛かりを掴《つか》みたかった。
「どうです?」
小走りに鴻の後を追った竜憲は、なんの変哲《へんてつ》もない椅子の並びを眺《なが》めた。
会場の熱気の残影は見えるが、異状は感じられない。
大輔に取《と》り憑《つ》こうなどと考える化け物が相手ならば、何かしらの力の傷が残っているだろう。しかし、鴻が見据《みす》えるあたりには、なんの変化もなかった。
「……鴻さん……」
ゆっくりと、首が横に振られる。
「あの、娘さんが、ここに現れたのは確かです。しかし、それ以外は何も……」
鴻でさえ、なんの証拠も掴めないというのか。
眉《まゆ》を寄せた竜憲は、深い息を吐《は》いて椅子に手をのせた。
その瞬間。
身体が硬直する。
「竜憲さん!」
鴻の声が遠い。
「……な……んだと……」
手を掴まれているのがわかる。
それが鴻なのか、それとも魍鬼《もうき》なのか。感触からだけでは、わからない。
背筋を貫く痛みに、低く唸《うな》りながら、竜憲は必死で目を開けようとした。
――死ね!――
頭蓋骨《ずがいこつ》に響く甲高《かんだか》い声。
無数の針が、脳に突《つ》き刺《さ》さるようだ。
背骨が氷漬けになり、膝《ひざ》が震《ふる》える。
叫びたい。
しかし、声も出なかった。
『死ね。貴様なぞ、死んでしまえ!』
心臓を鷲掴《わしづか》みにされ、そのまま引き出される。
その感触が、震動の鼓動が、痛みとなって襲いかかってきた。
「竜憲さん!」
腕を掴まれ、身体が引き寄せられる。
たったそれだけの動きでも、身体がばらばらになるような痛みが走った。
「やめて……くれ……」
「竜憲さん!」
かすむ目の向こうに、白いものがある。
巨大な白蛇。
やっぱりあんたは……。
頭の隅に、妙な意識がちらつく。
痛みしか感じられなくなった竜憲が抱いた、思考と言える唯一《ゆいいつ》のもの。
「落ち着いて……。これは、人に害をなすものではありません。あなたには、手出しできないのです……」
するりと、何かが身体に巻きつく。
同時に、痛みが薄らいでいった。
竜憲を守るように、太い胴を絡《から》めた白蛇は、赤い目をきらめかせて、竜憲を見つめている。
これこそが、鴻のもうひとつの姿なのだろう。
半分化け物に支配された鴻の、人ではない残りの半分。
「あれの目的は姫神《ひめがみ》です。……彼女を、呼び出すのです。彼女を解放すれば、あれはすぐにも打ち払われます……」
「姫神……」
「そうです。彼女を解放すれば……。姫神を閉じ込める、心の檻《おり》を開くのです……」
そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。
自分の意思で、彼女と対峙《たいじ》したことなどないのだ。
向こうがその気になってくれないかぎり、竜憲にはなんの打つ手もない。
「……無理だ……」
「それでも、やらねばなりません。このままでは、あなたも、姉崎くんも、あの女に殺されてしまいます……」
長い胴体を、幾重《いくえ》にも竜憲に巻きつけた蛇は、かっと口を開いて、警戒音を上げている。
真っ白な口もとから、血のように赤い、二股《ふたまた》に分かれた舌《した》が覗《のぞ》いている。
しゃあああ……。
鴻には、女の姿が見えるのだろう。
しかし、竜憲には、何も見えなかった。
そこにあるはずの椅子や、会場の光景すら。
ただ、灰色の闇《やみ》が広がっているだけだ。
「……そこに……いる……のか?」
唇《くちびる》の端を軽く舐《な》め、蛇《へび》の胴体に手を添える。
鴻自身より、この蛇のほうがよほど嫌悪感《けんおかん》がない。この蛇が相手ならば、素直に話を聞く気にもなるだろう。
――俺も、半分化け物か……――
人間より、妖怪《ようかい》のほうによほど親近感を覚えるなど、どう考えても異常だ。
「います。……しかし……あなたの力は……」
「やるだけやってみるさ……」
白蛇が、顔を捩《ね》じ向《む》けて、竜憲の目を覗《のぞ》き込んだ。
「あんたも、気をつけてくれよ。俺は、力のコントロールはできないんだ……」
言っておいて、右手に意識を集中する。
ぼんやりと、蒼《あお》い光が点《とも》る。
ペンキをぶちまけたような、粘着質の灰色の闇に、光が反射していた。
一か所だけ、色の変わらない部分がある。
「そこか!」
絶叫と共に、右手を振り上げる。
掌《てのひら》から迸《ほとばし》った光が、闇に飲み込まれていった。
悲鳴。
幼い子供の。
年端《としは》もいかない娘の、金切り声。
「……え……」
頬《ほお》を引きつらせ、拳《こぶし》を握《にぎ》る。
「……なん……だと……」
灰色の闇の中に、顔が浮かんだ。
十二か、十三。
まだ幼い娘が、ぱっくりと額《ひたい》を割られて、泣き叫んでいる。
「どうして……」
するりと、蛇の尾が腕に巻きついた。
「仕方ないのです。……あれは、あの女に囚《とら》われたまま、永劫《えいごう》の闇を漂《ただよ》う者達。御覧なさい、本当なら、百年も前に死んでいるはずの、娘達です……」
言われてみれば、昔の、髪型をしている。
時代劇などでよく見る。島田髷《しまだまげ》。
額を押さえる手の間から、血が滴《したた》り落ちる。
「痛い……。痛いよぉ……」
「止《とど》めを……。いずれ、灰となるのです。生きたまま灰となるよりは、ひと思いに、殺してやったほうが……」
奥歯を食いしばった竜憲は、子供の顔を見据《みす》えていた。
これが、八百比丘尼《やおびくに》に捕《と》らえられた少女達のなれの果《は》てなのだろう。生きることも、ましてや死ぬこともできずに、未来永劫《えいごう》の時を、誰かに対する思いを抱いたまま、彷徨《さまよ》っているのだ。
人の思いが、永遠のものになるとしたら、これしかない。
ほかの人間に心を移すこともなく、裏切られることもなく、ただ自分の思いだけを抱いて、この世とあの世の狭間《はざま》を漂《ただよ》う。
「あの女を仕留めるおつもりなら、今のうちに……。今なら、彼女達も死ぬことができましょう……。後からでは遅いのです……」
拳《こぶし》が震《ふる》える。
食いしばった歯の間から、自分の呻《うめ》き声が聞こえた。
蛇が何を言っているのか、よくわかる。
生きたまま、灰となって崩《くず》れてゆくより、一思いに殺してやれ、と言っているのだ。
「……竜憲さん……」
力づけようとしてか、蛇が左肩に頭をのせた。
と、視界の隅《すみ》に赤いものが見える。
目が痛くなるほど白い身体の、鱗《うろこ》の間から血が滲《にじ》んでいた。
「……あんた……」
「始末するのです。それしか、方法はありません」
竜憲の破魔《はま》の力は、人にすら影響を与える時がある。鴻の半分をなす白蛇が、無事であるわけがないのだ。
「私なら、大丈夫です。……それより、あの娘達を……。救ってやれるのは、あなたしかいません……」
「……。……わかった」
固く目を閉じ、ゆっくりと両手を持ち上げた竜憲は、下唇《したくちびる》を血が滲むほど噛《か》みしめた。
甘い体臭が鼻をくすぐる。
少し丸みを帯びた、いかにも抱き心地がよさそうな身体は、男の手が伸ばされるのを待っていた。
真っ白な肌の下に、虹色の光を隠しているのではないか、と思うほど、内側から輝くような艶《つや》やかな身体。
男なら、よほど変わった趣味をしていないかぎり、この女に手を伸ばしてしまうだろう。しかも、触れられることを、抱かれることを、この身体は待っているのだ。
しかし、重たげな乳房も、くびれた腰も、大輔《だいすけ》にはなんの意味もないものだった。
きめの細かい肌の下に、化け物の本性が潜《ひそ》んでいる。
彼女達の時を止めて、その幼い恋という感情を食い、命をながらえさせている化け物。
「……どうなされた?」
白い腕がふわりと上がり、大輔の首に絡《から》む。
「あの娘が気にかかるか? ……もう、人の世に戻っているであろうよ……」
「ほかの娘達は?」
乳房を押しつけるようにして、背中から抱きつく女は、声を殺して笑った。
「もういらぬわな……」
「解放してやったのか?」
「捨てた……」
それがどういう意味か、大輔にはわからなかった。
もうこの女の周りに、少女達がいないことだけは確かだろう。
この女に取り込まれ、その周りを漂《ただよ》うだけで、時を越えて存在していた少女達。その中の一人になりかけていた少女は、人の世に戻ったという。
だが、おそらくほかの者は、相変わらず一人の男を思って、彷徨《さまよ》っているのだろう。
「……戻してやれないのか?」
「どこへじゃ? この世のどこにも、あの娘らの入る器なぞ、ない」
「……そうだな……」
肉体は、とうの昔に朽《く》ち果《は》てているだろう。
「それより……のう……」
にたりと笑った女は、大輔の耳の形を、指で辿《たど》った。
ぞくりと、背筋が粟立《あわだ》つ。
快感などではない。
純粋な嫌悪感《けんおかん》が、大輔の身体を強張《こわば》らせていた。
竜憲の中に潜《ひそ》む姫神《ひめがみ》には、あれほど焦《こ》がれてしまったのに、同じ人以外の生命《いのち》でも、この女には、嫌悪以外の感情は湧《わ》かない。
やはり、姫神は神なのだろう。
この女のほうが遥《はる》かに肉感的であり、見方によっては美しい。姫神を取り巻くような、近寄りがたい雰囲気《ふんいき》もなく、彼自身を求めてもいた。
それでも、この女に手を伸ばす気にはならない。
「……あのおなごのことを考えておるな……」
首に回された腕に力がこもる。
「妾《わらわ》を化け物というなら、あれはなんじゃ。あれこそ化け物の頭ではないか……」
「そうだな……」
ちりちりと、首筋が痛む。
いまさらのように、この女に従ったことを後悔していた。
あの時は、それしか手がなかった。
しかし、少女達が解放されたと知った瞬間から、今度は自分が解放されることばかり考えている。
この肉感的な女を抱いてしまえば、自分は人の世に戻れなくなるだろう。
「同じ化け物でも、妾《わらわ》はそなたを取り殺したりはせんぞ。……ともに、永劫《えいごう》の時を……。この褥《しとね》で……。のう……」
女から誘われて、悪い気がするはずもない。
大輔は、けっして堅物《かたぶつ》ではないのだ。それどころか、少しでも気に入った女だとなると、どうやって落とそうか、そればかり考えている。
これだけの美人に擦《す》り寄られているのだ。普通なら、化け物でも構わないと、思いきったに違いない。
しかも、この女は、可愛《かわい》らしく姫神《ひめがみ》に妬《や》いてみせている。
「心に残るものがあるかえ? ここにおれば、何も考えることもない……」
肉欲に溺《おぼ》れ、すべてを忘れて、この女と絡《から》み続けるのだろう。
「ああ……。全部忘れられればいいだろうな……」
だが、あいにくと、大輔は女がすべてと考えるほど、飢えた記憶はなかった。
ほかにも、面白《おもしろ》いものはいくらでもある。どれほどうっとうしかろうが、生きているほうが遥《はる》かに楽しいのだ。
小さく笑った大輔は、首に絡んだ腕に、手を添えた。
「……ちょっと放してくれ……。このままじゃ、どうしようもないだろ?」
ジャケットの襟《えり》を示す。
真っ赤な唇《くちびる》を歪《ゆが》めた女は、そのまま手を前に滑《すべ》らせた。
シャツのボタンをひとつずつ外《はず》してゆく。
その隙間《すきま》から手を差し込んだ女は、首筋から胸にかけて、ゆったりと撫《な》でていた。
「お前こそ、誰かを思い出してるな……。誰かに振られたのか?」
「昔のこと……。今となっては、顔も覚えておりません……」
ねっとりと、身体が絡《から》んでくる。
この女は、男への執着で、何百年もの時を生き延びてきたのだろう。それなのに、どうして代用品で満足しようなどと考えたのだろうか。
「ひょっとして……俺は生まれ変わりなのか?」
今まで、考えたこともない。しかし、それしか考えられなかった。
小さく笑っただけで、何も答えない女が、ゆっくりと前に回る。
「あなた様を待っておりました……」
「……なるほど……」
首に両腕をかけてくる女を、抱きとめてやる。
ほうと、甘い息を吐《は》く女は、全身で男を誘っていた。
「俺を待っていた……か」
少女を餌《えさ》にしているために、彼女の前に現れる男は、その正体を知っていたのだ。
男を求めて、永遠を生きるために少女の思いを食らい、そのために男から化け物と罵《ののし》られる。
その長い年月の中で、化け物と知りつつ、応えようとしたのは、大輔だけだったのだろう。
――俺も、とんでもない馬鹿《ばか》だな……――
憐《あわ》れな女。
自嘲《じちよう》の笑みを漏《も》らした大輔は、女の背中を強く抱いた。
血に塗《まみ》れた少女の死体が、足もとに転《ころ》がる。
返り血が、顔を濡《ぬ》らす。
いや、濡れているのは涙かもしれない。
「……よく、我慢なさいました……」
頭を抱き寄せられ、ばっと竜憲《りようけん》は身を翻《ひるがえ》した。
人の腕。
蛇の鴻《おおとり》になら、頼ることもできる。しかし、人の姿になった鴻は、相変わらず背筋が凍《こお》るほどの嫌悪感《けんおかん》があった。
「……悪い……」
鴻の半身である白蛇は、全身から血を噴きながらも、竜憲を支え続けてくれた。それが、鴻自身の意思であることはわかっている。
しかし、どうしても、この漆黒《しつこく》の瞳の男に触れられたくはなかったのだ。
「どうぞ気になさらないでください。……何故《な ぜ》、あなたが私に耐《た》えられないのか、わかっていますから……」
耐えられない。
確かにそのとおりだった。
声も、姿も、表情も、すべてが耐えられないのだ。特に、触れられると反射的に拒絶してしまう。
「それより、彼女達です。……このまま、捨て置くこともできますまい。……せめて、大地に返してやらなければ……」
ふわりと、鴻が手を上げる。
身体を包む霊気《れいき》が、白い靄《もや》となって少女達に伸びていった。
小さな、白い蛇のようなもの。
「祈ってください。彼女達のために……」
「うん……」
どうすればいいのか、それもわからなかったが、竜憲は小さく手を合わせた。
己《おのれ》が殺した命に向かって、手を合わせる。欺瞞《ぎまん》に過ぎないとわかっていたが、今は、これしかできないのだ。
「……ごめん……。けど……」
たとえ、異形《いぎよう》のものとなっていても、彼女達は生きたかっただろう。人生と呼べるほどの年月も生きていないのだ。
自分に力があれば、こんな真似《まね》をしなくてもよかったのかもしれない。それは無理だとしても、姫神《ひめがみ》を呼び出せれば、彼女達に苦痛を与えることもなかっただろう。
『いいえ……。わたしでは、あの命の残り火も消し去るしかありません。あれは、救うには傷が大きすぎます』
ぴくりと、竜憲は肩を痙攣《けいれん》させた。
『……あの娘らは、新しい命の種となれます……』
「姫様……」
あれほど憎《にく》み、うとんじていた存在が、とてつもなく温かく感じる。
『娘らを、送らせましょう……。二度と、妄執《もうしゆう》につけ入られることのないよう……』
誰かが、涙をぬぐってくれる。
そして、滲《にじ》んだ視界の向こうに、小さな炎《ほのお》が見えた。
鴻の身体から伸びる白い蛇の先に、炎が点《とも》る。その隣に、小さな、蛍《ほたる》ほどの光が寄り添っているのだ。
『無垢《むく》なる魂《たましい》の種となって、すぐにもこの世に現れましょう。人の妄執に蹂躙《じゆうりん》された傷を瘉《いや》すには、人の情けがいちばんいいでしょう』
少女達の魂を案内するために、姫神が小さな道標《みちしるべ》をつけてくれたのだろう。
竜憲は、その動きをうっとりと見送っていた。
「竜憲さん……」
「あ……ああ。大輔《だいすけ》だ。鴻さん、大輔はどこにいる?」
『すぐそばに……。ですが、あの女は人。人の妄執そのもの。……私は、何もできませんよ……。よろしいのですね……』
「……姫神……が、いるのですね?」
竜憲は頭を軽く振ると、にんまりと笑ってみせた。
「見ててくれるそうだ。……大輔は……」
ゆっくりと、周囲を見回す。
ねっとりとした灰色の闇《やみ》は、心なしか薄らいだような気がする。
あの女に囚《とら》われていた少女達が、彼女達なりの平和を守るために、闇の一部を構成していたのだろう。
「あの男は? 何をしている? 大輔の中にいるあいつは……」
『あれも同じです。人の妄執など、一時のもの……。しかし……』
竜憲にもわかる言葉で説明しようとしているのだろうが、意味が伝わってこない。声ではなく、頭の中に意識を組み立てているのだ。
しかし、竜憲が認識できない意思は、言葉にはならないのだ。
「人の一生なんて短いものな……。あんた達が気にするほどのものじゃないな。あの女が何をしようと、関係ないか」
答えを出してやった竜憲は、濃い霧程度になった闇《やみ》に、目を凝《こ》らした。
漂《ただよ》う雲の上に、人影があるような気がする。
「大輔!」
叫ぶ。
影が動いた。
「大輔! しっかりしろ!」
と、瞬《まばた》きする間に、灰色の闇が晴れた。
無機質な椅子の並びが、現れる。
「畜生《ちくしよう》……」
急ぎ過ぎたのか。それとも、もう手遅れなのか。
「竜憲さん……。惑《まど》わされては……」
鴻が手に触れる。
寒気立つほどの嫌悪感《けんおかん》。
だが、同時に、再び目の前に灰色の靄《もや》が現れた。
姫神《ひめがみ》の力を恐《おそ》れたのか、竜憲自身をうとんじたのかはわからないが、女は幻《まぼろし》を見せたようだ。それも、半分化け物の鴻には通じなかったというところか。
「……大輔!」
女の身体を抱きとめる男が、うっそりと顔を上げた。
雲の上に座ったまま、互いの存在を確かめるように腕を絡《から》ませる男女。
「どうしちゃったんだ! そいつが何者か、知ってるんだろう!」
ふわりと、大輔が笑う。
「仕方がない……」
「何がだ!」
「彼女は待っていたんだ。応えてくれる男をな……。だから……」
鴻の手を振り払い、竜憲は足を一歩前に踏《ふ》み出した。
灰色の闇は消えない。
大丈夫だ。
ちらりと笑った竜憲は、右手を握りしめた。
ついさっき、なんの罪もない少女達を惨殺した力。
この女を始末するからと、仇《かたき》は打ってやるからと、何度も詫《わ》びながら殺してしまった少女達との約束を守らなければならない。
「どけ! 大輔!」
光が迸《ほとばし》る。
腕といわず足といわず。
全身から光が放たれる。
「……やめろ……」
小さく笑う大輔が、片手を差し出す。
竜憲の怒りは、その掌《てのひら》に吸い込まれていった。
「……どうして……」
「俺が、つきあってやるだけでいいんだ。もう、女の子達を取り込んだりしない。……そうだろ?」
大輔の顔を見上げ、女が蕩《とろ》けるような笑みを見せた。
「ええ、ええ……。約束しましょう……」
「だから……」
「馬鹿《ばか》言うな!」
自分の髪が逆立っているのが、竜憲にはわかった。
少女達の命をむさぼり続けた、理不尽《りふじん》な女への怒りが、自分が犠牲になればそれで済むと思っている大輔への怒りが、全身を染めあげる。
女のために自分を捨てる。そう思えば、自分の心情にも酔えるだろう。
だが、それは犠牲《ぎせい》などではない。女に同情するという、もっとも楽な方法を選んだだけなのだ。
「ふざけるなよ……」
口の中で呟《つぶや》き、女を睨《にら》み据《す》える。
己《おのれ》の欲望を充たす者を待って、待って、待ち続けた女。そのためだけに、生き続ける妄執《もうしゆう》の形。そう聞けば健気《けなげ》にも思えるだろう。
しかし、少女達の想いにつけ込み、飲み込んで、生き続けているのだ。挙《あ》げ句《く》に男を見つけた途端に、彼女達を永劫《えいごう》の時の狭間《はざま》に置き捨てる。
それでも、彼女達にとっては解き放たれたことになるところが悲しい。
竜憲を阻《はば》もうとした彼女達の心情が憐《あわ》れだ。
「大輔! そいつから離れろ!」
「駄目《だめ》だ……また……」
「違う!」
強く首を振る。
大輔に耐《た》えられるはずがない。一時の同情でしかないのだから。
それにしても、彼に潜《ひそ》む戦士が、こうまでなって何故《な ぜ》黙って見過ごしているのかがわからない。大輔があんな魔物に捕《と》らえられては、誰より困るはずの存在なのに。
それどころか、竜憲の力から女を守ろうとする大輔に、手を貸しているのである。
大輔がこともなげに力を受け止めたことが、その証明のような気がしてならない。それともあれが、大輔本来の力なのだろうか。
『……器の意思には逆らえぬのです』
答えを姫神《ひめがみ》が告げる。その声がひどく悲しげに聞こえるのが、竜憲の焦燥感《しようそうかん》を煽《あお》った。手を貸せないと告げられたことが、突然に現実味を帯びてきたのだ。
このままでは、姫神自身もあの男を失うことになるのだろう。
どれほどの時間かはわからないが、大輔の肉体が、あの男の宿る器が壊《こわ》れるまでの間。
ひょっとすると、それは姫神が待てないほど長い時間なのかもしれない。
いまさらのように、女を殺せと命じた姫神の意図がよくわかる。
――大輔! 目を覚ませ! ――
声にならない苛立《いらだ》ちが、頭の中で渦巻いている。
どうすれば目を覚まさせることができるのか。
大輔の力が何より勝《まさ》っているだけに、手の打ちようがなかった。
自由を望む少女達の思いが、大輔を引き寄せたのかもしれない。最高の力を秘めた者を捜《さが》しだしたわけだ。
少なくとも、それだけは成功したのである。復讐《ふくしゆう》まではならなかったとしても。
だが、当の大輔は、単に女の色香に迷っただけなのかもしれない。
そう思った途端、単純な怒りが湧《わ》き上がってくる。
「ふざけるなよ! 馬鹿《ばか》野郎!」
竜憲を繋《つな》ぎとめていた現実が弾《はじ》け飛ぶ。
次の瞬間、竜憲は女を抱きとめる大輔の傍《かたわ》らに立っていた。
なんとも間の抜けた状況である。
これが化け物の作り出した異質の空間でなければ、沙汰《さた》もそこそこに開いた扉を閉じるところだ。
妙に落ち着いた表情で自分を見つめる大輔《だいすけ》に、彼を縋《すが》るように見上げる女。でき過ぎの情景だった。
目には映っても、入り込めないはずの空間に、竜憲《りようけん》は立っていた。何百年あるいはそれ以上に、この世を彷徨《さまよ》い続けた女の妄執《もうしゆう》が作り出した幻《まぼろし》の空間。
やがて、大輔がゆっくりと口を開く。
「何しに来た」
「何しにだと! いい加減にしろよ、あんた自分が何してんのかわかってるのか!?」
「わかってるよ。……ここはお前の来る所じゃない」
きっぱりと言い切る大輔は、女の保護者になりきっていた。
もともと、そういう男だ。何かを守ることで自分を自分たらしめている。そうしている自分が好きなのだ。何かを守ることが重要なのではない。その状況こそが大事なのである。
現実の女が相手なら、あるいは現実の中の何かが対象なら、それはそれで構わない。笑って見ていることもできる。
だが、今だけは別だ。
「……そうだよ。ここはあっちゃいけない場所だ。……あること自体が間違ってる!」
吐《は》き捨てるように言った竜憲に、女の視線がふわりと流れる。
「悔《くや》しかろう……」
「何!」
女の口もとが、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「情人に逃げられて、どんな気持ちじゃ」
思いさま眉《まゆ》を顰《しか》めた大輔を、ちらりと見やり、竜憲は苦笑を浮かべた。
女と大輔では、目に映る者が違う。大輔の目には竜憲が、女の目には姫神《ひめがみ》が見えているに違いない。
自分に手を出せない姫神を女は嘲《あざわら》っているのだ。
「正体に気づいて、逃げ出した男に縋《すが》るなど似合わぬぞえ。……そなたの時に帰るがよい。そなたを慕《した》う、幾千の魔物達が待っておる」
この女は誤解している。
もしくは、大輔の中に潜《ひそ》む戦士に気づいていないということか。
「あんたも……そうやって捨てられたのか」
ぽつりと呟《つぶや》いた竜憲に、女は眦《まなじり》を吊《つ》り上げた。
「そなたに何がわかる!」
「わからない……だろうな」
素直に応じる。
ふと、自分を見つめる大輔の視線に気づき、竜憲は目を上げた。
彼の常識では耐《た》えられない話が展開されているのだろう。なにしろ、女と男が、自分を巡《めぐ》って争っているという情景なのだ。
そこに、つけ込む隙《すき》があるだろうか。
「大輔。こっちへ来い……」
男が呼んでも、まず、答えないだろう。そういう男だ。
それでも、大輔を味方にしないかぎり、絶対に勝てない相手だった。
どれほどの少女達が、この女のために死ぬこともできない地獄《じごく》に陥《おちい》ったか。それを伝えられれば……。
いや、無駄だろう。すべてをわかったうえで、大輔は新たな犠牲《ぎせい》者を出さないために、と思い込んでいるのだ。
無性《むしよう》に腹が立つ。
自分にのしかかり、戦士でもないくせに、などと宣《のたま》わった男は、何をしているのだろう。姫神《ひめがみ》が自分に語りかけるように、あの馬鹿《ばか》の頭を覚ましてやることはできないのだろうか。
ひょっとすると、男であるかぎり、何者の話も聞かなくなるほど、大輔は舞い上がっているのかもしれない。
――どうすればいい……――
大輔ごと、あの魔物を打ち倒せるのなら、そうしてもいい。
あの馬鹿には似合いの最後だ。
そうまで思い切った竜憲の耳もとで、小さく囁《ささや》くものがいた。
『…………いいのですね』
なんの力にもならないのだが、いいのか。と、聞いているのか。
「いい。なんでもいい。とにかく、あいつの目を覚まさせてくれ!」
姫神しか頼るものはいない。
次の瞬間。
背中から何かが抜けた。
女の目が驚愕《きようがく》に見開かれる。
「そなた……。サニワであったか……」
それがなんなのかは、知らない。
しかし、女の目に、竜憲と姫神が分かれて見えたことはわかった。
「そいつもそうだ……。お前に操《あやつ》りきれるか?」
ぎくりと、身を竦《すく》ませた女が、大輔に視線を投げる。
「大輔!」
大輔の視線も、自分と姫神を往復している。
「目を覚ませ!」
途端に大輔の姿が揺《ゆ》らぎ、視界がひどくぼけたものになった。
『ようも生き長らえたものよの……。ほんに人の妄執《もうしゆう》は涯《はて》がない……。その姿……本性に戻してやろうかえ?』
姫神の言葉は、恐《おそ》ろしいほどの反応を引き出した。
一切の表情をなくした女が、首だけを捩《ね》じ向《む》ける。
「何ができよう! 封じられ、朽《く》ち果《は》てた神に!」
かっと口が裂《さ》ける。
『それが、そなたの本性……』
姫神が笑う。
見開かれた目が血走り、吊《つ》り上がる。
『……それでは男も逃げ出そう……』
声が笑っている。
「暴《あば》いてやろう! そなたの姿も!」
こちらに捩《ね》じ向《む》けられたままの顔が、ふわりと近づく。
竜憲の頬《ほお》を掠《かす》め、長い髪が鞭《むち》のように伸びる。
飛び退《の》いた竜憲には見向きもせずに、女の髪は姫神《ひめがみ》に襲いかかった。
もとより、竜憲など眼中にないらしい。
『暴く?』
けらけらと笑った姫神の身体が、のたうつ髪に巻きつかれ、見えなくなる。
「憎《にく》らしや……」
呻《うめ》く女の声が、低くざらついたものに変わっている。
同時にたおやかな女の肢体《したい》が、あらぬ方向に捩じ曲がり歪《ゆが》んだ。骨が抜けたようにぐにゃりと曲がった身体が、次の瞬間、消え失せる。
長い髪だけが、生きてのたうっていた。
ひどく気味が悪い。何がと問われれば答えようがないが、嫌悪感《けんおかん》が込み上げてくる。
むかつく胃を両手が無意識に押さえていた。身体が縛《いまし》められたように動かない。
「何もできぬのか?」
姫神を嘲《あざけ》る声が、竜憲の脳裏に突き刺さる。
錐《きり》でも突き立てられたような痛みに、竜憲は我に返った。
「大輔! 大輔!」
竜憲の姿が見えないのか、大輔は半ば唖然《あぜん》と立ちつくしている。
「大輔! どうした!?」
大輔の肩を掴《つか》み、手荒く揺《ゆ》さぶる。
その手に何かがまとわりついた。
肩から引き剥《は》がされた腕が、捩じ上げられる。闇《やみ》のように黒い、艶《つや》やかな髪が一筋、手首に絡《から》んでいた。
「くっ!」
いつのまにか、姫神の姿は消えている。
一筋だった髪が、一瞬に束《たば》になり、食いこむ髪が、手を痺《しび》れさせた。
「そなたには渡さぬぞ」
大輔の身体が背後に退《しりぞ》く。
「大輔!」
「リョウ!?」
大輔の眉《まゆ》がわずかに顰《しか》められる。
その瞬間。
「ぎゃあ! やめろ!」
破《わ》れ鐘《がね》を叩く声とはこれだろう。耳障《みみざわ》りな歯切れの悪い、それでいて頭が割れそうな大音声。
「リョウ! 大丈夫か!?」
「そなたには渡さぬ! ……渡すくらいなら……この手で……!」
何が触れている訳でもないのに、大輔の身体がぐらりと揺《ゆ》らぎ、わずかに宙に浮いた。
「大輔!?」
彼の顔が苦しげに歪《ゆが》んだ。
髪が首に絡《から》んでいる。
「やめろ!」
叫んだ竜憲の身体が、青白い光に包まれる。
悲鳴が耳をつん裂《ざ》いた。
黒い髪が白い光に包まれ、蒸発するように消えていく。
「馬鹿《ばか》な……そなたになぞ……!」
「消えろ! この世にいるかぎり、苦しみは続くぞ!」
思いがけぬ言葉が、口を突いて出る。
自分の身体が熱い。
「いや!」
「悪い夢を見ていたんだ。……忘れればいい」
「いや! いや!」
ざらついた声が、柔らかな女の声に変わる。
大輔の首に巻きついた髪が、白い指に姿を変えるのが見えた。ぼんやりと白い霞《かすみ》が集まり、人の形を取り始める。
「いやよ! ようやく見つけたのに!」
憐《あわ》れな叫び声に、一瞬、決心が揺らぐ。
ふっと、女の口もとが笑みを浮かべたような気がした。
――騙《だま》されるな! ――
自分に言いきかせ、女の身体に手を伸ばす。
「……帰れ……」
「駄目《だめ》!」
「戻るのだ……朽《く》ち果《は》てた己《おのれ》の身体に……」
甲高《かんだか》い悲鳴と共に、女が豊かな身体を苦し気に捩《よじ》る。
「や……やめ……」
竜憲の触れる白い肩が、赤黒く変色していく。
「……い……や」
黒い染みは全身に広がり、どす黒く変わった。最後まで、白く浮かんで見えた美しい顔が、醜《みにく》く歪《ゆが》み、解《ほど》けるように崩《くず》れ始める。
「……あんたはただの人だよ。……肉体が滅びたら消えるのが幸せなんだ」
言葉にならない唸《うな》り声が答える。
崩れる身体が、形を留《とど》めなくなり、やがて煙のように消えてしまった。
全身の熱がすっと引いていく。
ほっと息を吐《は》いた竜憲の肩に、誰かの手が置かれる。
「竜憲さん……」
鴻《おおとり》だ。
嫌悪感《けんおかん》以前に、人の手が自分に触れていることにほっとしていた。
目の前にはシートの列。
ステージの上は、すっかり片づいて、非常灯ばかりが妙に眩《まぶ》しい。
「……! 大輔は!?」
「あそこに……」
鴻が指さす先に、大輔がぐったりと座り込んでいる。
「大輔!」
駆け寄ろうとした途端、両膝《りようひざ》の力が抜けた。
よろよろと近づき、肩を揺《ゆ》する。
「……あ……リョウ……」
ぼんやりと目を見開いた大輔は、深い息を吐いた。
「大丈夫か?」
「え……ああ、大丈夫だ……」
半分上《うわ》の空《そら》でうなずいた大男は、首筋を探《さぐ》り、目を見開いた。
「なんだ……これ……」
かざした指先に、黒い髪が絡《から》みついている。
「……覚えてないなら、思い出さないほうがいいよ……」
女の執念が残した、唯一《ゆいいつ》の物証。
指で黒髪を巻き取った竜憲は、さりげなく床に捨てた。
下手《へ た》に思いをかければ、再び魔物は蘇《よみがえ》るかもしれない。この会場で、踊り狂った娘達の髪と共に、始末されたほうがいいだろう。
「……あのお」
聞き慣れぬ声が響く。
「あ?」
「あの、もう閉めますけど……よろしいですか」
このホールの職員だろう。
「あ、ああ。すみません。……すぐに……」
鴻が応じるのを他人《ひ と》事《ごと》のように聞きながら、竜憲は大輔に手を差し伸べた。
終 章
女子大生、イッキ飲みの死。
大きな活字が躍《おど》る。
居酒屋で倒れ、そのまま急性アルコール中毒で死んだ女。
記事のほとんどは、イッキ飲みの危険性を訴えるものだ。啓蒙《けいもう》記事というヤツだろうが、彼女を知っている人間がどう受け止めるか、など、まるで考えられていない。
これでは、急性アルコール中毒の危険性も省《かえり》みず、無茶な酒の飲み方をした女を、馬鹿《ばか》にしているだけだ。
「……まさか……」
つぶやいた大輔《だいすけ》は、紙面を殴《なぐ》りつけた。
友紀《ゆき》は、自分の酒量を知っていた。これ以上は飲めないと、はっきりと断る女だったのである。その彼女が、いくらバンドが解散することになったからといって、死ぬまで飲むはずがない。
「……まさか……」
再び、つぶやいた大輔は、こめかみを押さえて顔を伏《ふ》せた。
あの、女。
姫神《ひめがみ》が殺せと命じたのは、ひょっとすると友紀のことだったのだろうか。自分の中に潜《ひそ》む戦士が、友紀の命を奪ったのかもしれない。
偶然だ。
偶然だと思いたい。
しかし、こんな偶然があっていいのだろうか。
「……おい。聞いてるか? ……あんた……」
自分の中に向かって聞いても、何も答えない。
少女達の命を食らう女が、姫神が殺せと命じた女だと信じていた。あれだけの化け物なら、殺されても当たり前だと、どこかで納得していたのだ。
しかし……。
ケトルが鳴きはじめる。
「……くそ」
声と共に立ち上がった大輔は、急須に湯を注《そそ》いだ。
白い陶器の中で番茶が勢いよく回る。
何故《な ぜ》か、今朝は日本茶の気分だったのだ。しかし、今となっては酒でも食らいたい気分だ。
新聞を開くまで、自分でもおかしいと思うほど、妙に機嫌《きげん》がよかった。
食卓のテーブルにのせられた海苔《の り》煎餅《せんべい》を見つけた時は、踊り出したいほどだったのである。
それが、テレビ欄に目を通し、一枚めくった途端。すべてがだいなしになった。
「聞いてんだろ! なんとか言えよ!」
急須を床に叩きつける。
息が荒い。
「おいおい……。何やってんだ? 危ないな……」
背後から声をかけられ、大輔は振り返った。
「……どうして……」
「何、言ってんの。迎《むか》えに来いって言ったのはあんたでしょうが……。鍵《かぎ》、開けといてくれたんじゃないの? 物騒《ぶつそう》だな……」
穏《おだ》やかな笑みを浮かべる竜憲《りようけん》は、足もとに屈《かが》みこんで、急須の破片に手を伸ばした。
「あ……ああ。悪い」
慌《あわ》てて、自分も屈みこんだ大輔は、破片をかき集めた。
「危ないだろ。手を切るよ……」
一旦立ち上がった竜憲が、キッチンペーパーを手に、再び屈む。
「どうしたのさ」
「あぁ……。ちょっと、寝呆《ねぼ》けてただけだ……」
ふーん、と生返事《なまへんじ》を返した竜憲は、手早く破片をまとめると、ペーパーであたりを拭《ふ》きとった。
投げつけるところを見られたのかもしれない、とも思うが、あえて自分からそれを言い出す気にはなれない。
椅子に腰を下ろした竜憲は、新聞に視線を落としている。
竜憲の知らない女だ。
気づかれるはずはないと思いながらも、大輔は拳《こぶし》を握《にぎ》った。
視界を遮《さえぎ》るように手を伸ばし、煎餅《せんべい》を取る。
「あ……と。俺《おれ》ももらっていい?」
「どうぞ……」
煎餅に手を伸ばした竜憲は、新聞をたたんでテーブルの端にのせた。
それを見て、内心で息を吐《は》いた大輔は、向かいの椅子を引いた。
「コーヒーでいいか?」
「うん……」
コーヒー・メーカーをセットして、カップを取り出す。
「……ねぇ、どこへ行く気だったのさ……。ご命令どおり、ガソリンは入れてきたけどさ」
「ドライブ」
「あん?」
「家に隠ってるのもなんだろ? ちょっと、気分転換しねえか? メシは驕《おご》るからさ……」
「いいけど……」
ふわりと竜憲が笑う。
姫神《ひめがみ》と同じ笑み。
一瞬、自分の身体が前のめりになったような気がした。
竜憲と、姫神の区別がつかなくなりつつあるような気がする。
――まさか……――
同時に、確信めいた思いがひらめく。
友紀は、あの男に殺されたのだ。
自分が姫神以外のものに、目を奪われることは許されないのだろう。
ひょっとすると、美香《みか》も古代の戦士に殺されたのかもしれない。病院のベッドの上で黒焦《こ》げになった女。突然、酒量もわからなくなり、急死した女。
二人の共通点は、大輔が、自分のほうから目をつけて、積極的にアプローチしていたという一点だ。
姫神が、ほかの女にかかわるのを許さないとしたら……。
「……馬鹿《ばか》な……」
「え?」
何も知らぬ竜憲が、印象的な大きな目を瞬《しばたた》かせる。
「……いや……」
「なんなんだか……。ちょっと、変だよ。なんだったら、もう一回寝たら?」
今、寝ると、悪い夢を見そうだ。
「寝過ぎてんだよ。コーヒー飲んだら、とっとと出かけよう」
ぎごちない笑みを見せた大輔は、最後の湯を搾《しぼ》りだすコーヒー・メーカーに手を伸ばした。
あとがき
怪我《けが》をした。
ほーら、やっぱり……。事故病気ネタで、あとがきは済んじゃうんだ。怖《こわ》いなぁ……。
その日は朝からなーんか変だった。その日、三月某日、この本のストーリーじゃないが、我々は大阪に某バンドのコンサートを見に出かけようとしていた。
まぁ、出だしはとりあえず、問題はなかったのだが、新幹線で躓《つまず》いたのだ。大阪《おおさか》までの指定が取れない。なにィ!? 今日は平日だぞ。いったいなにがあるんだ! と騒《さわ》いでも後の祭り。しょうがないから、名古屋《なごや》までの指定を取った。後は自由席にするか、それとも、こだまに乗り継ぐか。出たとこ勝負かね。ちゅうことで、とりあえず新幹線に乗った。乗ってからわかったのだが、なんとその日は春休みの初日。(おおっと、いつかがバレた……ま、いっか。締め切りはほぼ守ったし)おかげで自由席は通路も動けないほどの乗車率なのだ。挙《あ》げ句《く》に名古屋からの指定席を占拠した団体は学生の集団。軟弱者の我々は仕方がないからと、こだまに乗り継いだ。ところが、こだまのほうはガラ空《あ》き。何故《な ぜ》か優雅に貸し切り状態で大阪に着いたのである。運がいいかも……なんてここまでは思っていた。
で、ここからが間抜け。時間ぎりぎりだったから、新大阪のトイレで着替えて――なんか、高校生かOLのジュリアナ出勤みたいだけど……ちょっと、新幹線で座り続けるには向かない服だったもので――爪《つめ》を折った。バカヤロウ! 普通じゃ折れない堅《かた》い爪なのに。
でもこれくらいで、怪我とは言わない。爪先を割っただけだものね。とにかく、ぶつくさ言いながら荷物をロッカーに放り込んで、会場に向かったのである。
会場に着くと、何故か一時間以上時間が余《あま》っていた。まぁ、お茶を飲むには丁度いいかも。てな訳《わけ》で時間潰《つぶ》しに茶店に入る。
そして、事件はその喫茶店で起こった。
ヘアピンを捜《さが》して、バッグを探《さぐ》った私の指先が何かに触《ふ》れたのである。その瞬間はちょっと痛かったくらいだったのだが、指を引き出した途端に目が点。右の薬指にでっかい血の玉ができたのだ。それは一瞬の事で、次の瞬間、溢《あふ》れて滴《したた》る。指先なだけに血がよく出るんだ、これが。指の付け根を押さえたくらいじゃ、止血にもならない。よほど深かったらしくて、バンドエイドを三枚巻いても血が滲《にじ》み出て垂《た》れてくるのよ。それでもどうにか、血が滴らなくなるのに三十分近くかかった。と、今度はズキズキと痛み出す。それこそ、指先なだけに痛いんだ、これが。おい…マジかよ。今日ってば最前なのに……こんなのあり?
犯人はなんと剃刀《かみそり》だったんだけどさ。なんでそんなものが入っていたかは、記憶にない。少なくとも、武器として入っていた訳《わけ》じゃないことだけは確かだ。
で……だ。とりあえず大阪2DAYSはいろいろありつつ過ぎ去り、話は家に帰ってくるまで飛ぶ。
原稿の続きを書かなくっちゃならない。わかるかなぁ……キイボードは指で叩《たた》くわけだ。でね。薬指って、シフトキイを押すのに多用するのよ、私の場合。他人は知らないけどさ。つい、使っちゃう。まぁ、痛いのは我慢しよう。なんといっても痛みがそれほどでもないからこそ、使っちゃうのだけれど、嫌《いや》なのは指の角度が悪いと塞《ふさ》がりきらない傷口から、出てくるわけよ……血が……。しかも、一旦開くと、バンドエイドのパットくらいじゃ滲《にじ》み出てくるのだな。怖《こわ》いぞ――血を吸うキイボード――。ホラーでしょう?
そうして、この『時の迷宮の舞姫』は半分(異論のある人も約一名いるだろうけど……とりあえずそういうことで)私の血を吸ってできあがったのである。怖かろう? どっかで聞いたような話……かな?
なんというか、まぬけとしか言いようのない事故だけど、事故は事故だよな。なにしろ傷がちゃんと塞がった今でも、指先の感覚がちょっと変なんだもの。刃物の扱いには気をつけましょう、ホントに。おっと、もう三ページ目も半分過ぎてるぞ。一巻ごとに伸びてるじゃないか。
というところで、さて……次は、血塗《ちまみ》れか? それとも大病か? とにもかくにも、次回も竜憲《りようけん》と大輔《だいすけ》には頑張ってもらおう。――次回を待て! ――
新田一実
本電子文庫版は、講談社X文庫ホワイトハート版(一九九三年六月刊)を底本としました。
時《とき》の迷宮《めいきゆう》の舞姫《まいひめ》 霊感探偵倶楽部《れいかんたんていくらぶ》
講談社電子文庫版PC
新田一実《につたかずみ》 著
Kazumi Nitta 1993
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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