TITLE : 妖鬼の呼ぶ声 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫
妖鬼の呼ぶ声
霊感探偵倶楽部
新田 一実
目 次
登場人物紹介
序 章
第一章 怨みを持つ者
第二章 呪いの伝言
第三章 死にたがる人々
第四章 怨霊彷徨《さまよ》う
第五章 逢魔が刻
終 章
あとがき
登場人物紹介
●大道寺竜憲《だいどうじりようけん》
霊能者を父に持ち、自らも“破魔《はま》”の力を有する。
しかし、封印《ふういん》を解《と》かれた、美しい魔鏡《まきよう》の姫神《ひめがみ》が身体に入りこんでからというもの、身辺で不可解な現象が相次ぎ、外出禁止。
そして、竜憲の中の姫神を狙う妖魔の仕業《しわざ》のために、彼の肉体は、しばしば危険にまきこまれることになる。
●姉崎大輔《あねざきだいすけ》
竜憲の幼なじみ。妖怪や魔物の類はいっさい信じないが、魔鏡の変化《へんげ》を目《ま》のあたりにしたときから、霊に対する認識は変わりつつある。
竜憲の“護符《ごふ》”的存在だったが、近ごろでは、竜憲にさえ見えない霊を見たり、ついに妖魔に取《と》り憑《つ》かれ、竜憲の身体を襲ったこともある。
●律泉沙弥子《りつせんさやこ》
竜憲と大輔の後輩。大道寺家に同じく、陰陽《おんみよう》に関る旧家の娘。
その旺盛《おうせい》な好奇心から霊に関ることも多く、事故や悪戯《いたずら》に悩まされることも増えてきた。
●大道寺忠利《だいどうじただのり》
竜憲の父。陰陽道《おんみようどう》の頭《かみ》である。
竜憲に取り憑いた霊を退治するため、強大な相手と闘ってから、過労で倒《たお》れた。以来、静養中である。
●鴻《おおとり》 恵二《けいじ》
大道寺忠利の一番弟子。
竜憲にとっては、虫の好かない人物だが、姫神の霊を封じられるのは、鴻の中に宿す白蛇だけ。
●大道寺真紀子《だいどうじまきこ》
竜憲の母親。霊の存在を信じないわけではないが、見たことはない。本人の結界《けつかい》が霊を近寄せないのだが、それすら気づかない。大道寺家の“護符”である。
妖鬼の呼ぶ声 霊感探偵倶楽部
序 章
席を占めた客達の話し声が、ざわざわと意味のない音になって、店の中に満ちている。
時折、その音の間を甲高《かんだか》い声や笑い声が裂《さ》いて響いた。見渡してみれば、半分とはいかないまでも、男がいないわけではない。それでも、聞こえてくるのは、見事なくらいに女の声ばかり。
竜憲《りようけん》は密《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を吐《は》くと、カップに半分ほど残った紅茶を、ちらりと見下ろした。
自分が女を待っているのなら、さほど気にもならないのだろうが、相手が男なせいか、妙に癪《しやく》に障《さわ》る。
大輔《だいすけ》から電話があったのが昼前。暇《ひま》かと聞かれて、暇だと答えたせいで、横浜《よこはま》くんだりまで引きずり出されたのだ。駐車場待ちの列がとてつもなく長いことを知るや、さっさと車を降りた大輔は、この店で待っていろと命じたのである。
ハンズの六階の喫茶店。べつにこの店に不満があるわけではないが、どうも長居《ながい》をするには向かないのである。大方の客が買い物の後に、少しばかり座るために寄るのだから仕方がない。そこでもう、一時間近く待っている。窓際の席に座れたことが、唯一《ゆいいつ》の救いというところだろう。
もっとも、駐車場で待てと言われるよりは、幾分ましだ。
ただ、暇だと答えただけで、どうしてここまでいいように使われているのかと思うと、周囲の喧噪《けんそう》さえ癪の種になる。ずいぶんと疲れる暇潰《つぶ》しだった。
冷めた紅茶を怨《うら》めしげに眺《なが》め、カップを口もとに運んだ。
ふと、視線を感じて、竜憲は振り向いた。
黄に近い茶色のスーツを着た女が一人、壁際《かべぎわ》の席に座っている。
竜憲が振り向いたにもかかわらず、彼女はじっとこちらを見ていた。見られているような気がしたのだが、彼女の視線は竜憲を通り越して、窓の外に向けられているようだ。
訝《いぶか》しげに窓を振り向いた竜憲は、彼女の見つめるものを探してみた。
何もない。
ビルがいくつか見えるくらいだ。
「変なの……」
首を傾《かし》げた竜憲は、煙草《たばこ》に手を伸ばそうとして、動きを止めた。
一番遠くに見えるビルの屋上《おくじよう》に誰かがいたような気がする。
あらためて、視線を転じた竜憲は、真剣に目を凝《こ》らした。
「あれ……」
はっきりとはわからなかったが、確かに誰かがいる。
「何してんだろ……」
竜憲が眉《まゆ》を顰《しか》めた瞬間、人影は屋上から飛び降りた。
「あーっ!」
自分でも意識せずに、叫んでいた。
店じゅうが一瞬静まり返る。
慌《あわ》てて口を塞《ふさ》いだ竜憲は、煙草を手に取り、ぎごちない仕種《しぐさ》で火を点《つ》けた。深々と煙を吸い込み、カップに手を伸ばす。
やがて、店に喧噪《けんそう》が戻った。
ほっと息を吐《は》き、竜憲は椅子《いす》の背に身体を預けた。
あれは飛び降り自殺だ。いや、事故かもしれないが、人が屋上から落ちたことには違いがない。
カップを睨《にら》み、今見たものを自分自身に確認していると、頭上から声が降ってきた。
「リョウ……待たせたな」
「……遅い!」
「なんだよ。しょうがねぇだろ。……見ろよ、これ」
いくつも提《さ》げた袋を、少しだけ持ち上げてみせた大輔は、ひどく大儀そうに竜憲の正面に腰を下ろした。
「コーヒーね」
いつの間《ま》に現れたのか、テーブルの横に立ったウエイトレスに、大輔が注文を告げる。
「あ……俺も」
追加の注文をした竜憲は、ウエイトレスに笑い返す。
だが、彼女は頷《うなず》きもせずに、汗をかいたグラスをテーブルに置き、代わりにレシートを攫《さら》っていった。
がさがさと袋の山を窓際に置いた大輔が、大きな溜《た》め息《いき》を吐く。
「そんなに疲れるか?」
「まあな……今月はむやみに出費が多くて……」
「彼女の誕生日が多いわけ? ……言っとくけど、駐車場代とここの払いはあんた持ちだかんね」
釘《くぎ》を刺《さ》しておいて、カップを空《から》にする。
「それくらいの金はあるさ。……心配すんな」
「してたまるか」
「なんだ、その言い方は。……俺の尊い労働の報酬《ほうしゆう》だぞ。少しは感謝しろ」
「おい……感謝してほしいのは……」
竜憲は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「あーあ、やめた馬鹿《ばか》馬鹿しい。――そんなことより、俺さぁ、凄《すご》いもん見ちゃった」
大仰《おおぎよう》に片眉《かたまゆ》を引き上げた大輔は、竜憲を眇《すが》めた目で眺《なが》めた。
「凄《すご》いもん? どんな?」
竜憲は少し身を乗り出して、潜《ひそ》めた声で告げた。
「飛び降り自殺」
たっぷりと二秒ほど、大輔はしげしげと竜憲を眺《なが》めていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「自殺……?」
「そうだよ。あんたが来るちょっと前にさ。あのビルの屋上から……」
「飛び降りたのか?」
「そう……落ちたのかもしれないけどね。……いわゆる事故ってやつ?」
「ふーん……」
「あ……信用してないな」
「べつに……」
「ほんとだぜ。そうそう、あの壁際《かべぎわ》の女の人……」
指先だけで背後を指さし、言葉を続ける。
「彼女が最初に見てたんだ。で、俺もつられて……」
「女なんて座ってないぜ」
「え?」
大輔に言われて振り返ると、そこには先程の女の姿はなかった。
「また、妙なもの見たんじゃないだろうな……」
呆《あき》れたような声が追い討《う》ちをかける。
「まさかぁ。ちゃんと……」
力なく反論しながら、竜憲は視線を窓の外に転じた。
幻《まぼろし》でも見たのだろうか。
少なくとも、店の中では竜憲と消えてしまった女以外に見たものはいないらしい。
「まあ……明日になりゃわかるだろ。よっぽどの大事件でもなけりゃな」
「う……うん」
曖昧《あいまい》に応じた竜憲は、煙草《たばこ》を揉《も》み消すと、新しい煙草を手に取った。
第一章 怨《うら》みを持つ者
1
黒塗《ぬ》りのリムジンが三台、前庭の車寄せに並んでいる。贅沢《ぜいたく》と言われる敷地を持っている大道寺《だいどうじ》の屋敷だが、さすがに3ナンバーの車が三台も並ぶと、もう余裕はなかった。
奥のガレージまで、辿《たど》り着《つ》けそうにない。
溜《た》め息《いき》を吐《は》いた竜憲《りようけん》は、ギアをバックに叩き込むと、道路脇に駐車した。
父親の客だろう。
さすがにリムジンが三台とは大袈裟《おおげさ》だが、前例がないわけではなかった。馬鹿《ばか》馬鹿しいほど簡単にすむ話か、そうでなければひと月近く家を空《あ》けるような、面倒な仕事が持ち込まれたのだろう。
キーをジーンズのポケットに突っ込みながら、前庭を横切ろうとした竜憲は、ぴたりと足を止めた。
真ん中のリムジン。
前後を同じ型の車にはさまれたそれから、のそりと男が這《は》い出てきた。
這い出るという表現が、まさにぴったりしている。右の後輪のタイヤハウスから、大輔《だいすけ》と大差ない大男が出てきたのだ。
ひょいと顔を上げて、竜憲の顔を見据《みす》えると、にやりと笑う。
とたんに、普通の人間に見えていた顔が、化け物になった。
「どうした?」
『怨《うら》みだ』
車の主に取《と》り憑《つ》いていたのだろう。はっきりと敵を認識している男は、ほかの人間に危害を加える気はないようだった。
「逃げたほうがいいぞ、親父《おやじ》に封じられる……」
『戦う』
「親父とか? 無駄《むだ》だ。やめとけ」
『……怨みだ……』
「忠告したからな。……絶対に勝てないぞ。言いたいことがあれば、親父が伝えてくれる。それで、諦《あきら》めるんだな」
なんの感情もない目で竜憲を見下ろした男は、そのまま宙に溶《と》けた。
中空を見つめ、小さく息を吐いた竜憲は、母屋《おもや》に足を向けた。
こちらがいることに気づいてやらなければ、化け物が姿を現せられない程度にまで、回復している。ひょっとすると、馴染《なじ》んだだけかもしれないが。
ここ数か月。竜憲に取《と》り憑《つ》いた姫神《ひめがみ》は、鳴りを潜《ひそ》めている。四六時中出没していた化け物も、ほとんど現れなくなった。
相変わらず、普通の人間には見えないものが見えてしまうのだが、それも幼い頃から見慣れた連中だけになっている。
世間《せけん》で霊能力《れいのうりよく》などというものが、このまま消えてくれれば、どれほどすっきりすることか。しかし、以前から持っている力はまったく消える様子《ようす》はなかった。
「……あら、リョウちゃん。大輔くんは一緒《いつしよ》じゃなかったの?」
玄関に入ったとたんに、声がかけられる。
「ああ……。一緒だったけどね。家に帰ったよ」
「晩ごはん、食べていけばいいのに。用意していたのよ」
大学生になって、すっかり人並みの食欲になってしまった竜憲とは違い、大輔はいまだに食べざかりだ。彼女にしてみれば、旨《うま》いと褒《ほ》めながら、いくらでも食べる大輔こそが、腕の振るいがいのある客なのだろう。
「……かあさん……あんまり甘やかすと、帰らなくなるよ。あいつはすぐに餌付《えづ》けされるんだから」
「まぁ……」
声を震《ふる》わせて笑う母親に、竜憲は眉《まゆ》を寄せた。
「けど、困ったわね。忠利《ただのり》さんは、今からお出かけだし、余ってしまうわ……」
さして困ってもいないくせに、息子を真似《まね》て眉を寄せる母親に背を向けた竜憲は、そのまま部屋に向かった。
「リョウちゃん……」
肩で息を吐《は》いて振り返る。
「鴻《おおとり》さんから、お電話があったわよ。何か、お話ししたいことがあるんですって……」
「わかった……」
「あなただけでも食べてよ。本当に困るんですからね」
「はいはい……」
二十歳《は た ち》を過ぎた息子を“リョウちゃん”と呼び、夫を“忠利さん”と呼ぶ真紀子《まきこ》は、ひどく浮き世離れした女だ。
皮肉やの大輔に言わせれば、まさしく竜憲は彼女に似合いの息子ということになるのだ。
「……と、鴻さんは? 家? 親父《おやじ》についていくんじゃないのか?」
「家にいらっしゃるわ。留守《るす》をまかされているんじゃないのかしら……」
「なるほどね……」
どうやら、リムジンの主は、しばらく父親を拘束《こうそく》するつもりらしい。
大道寺忠利を頼る人間はいくらでもいる。長くかかりそうな話を持ち込まれた場合、名代として鴻が出かけるか、さもなければ彼が家に居座ることになった。
竜憲を監視するためだ。
ここしばらく、竜憲の周辺では事件らしい事件はないのだが、それで気を許すほど二人の霊能者《れいのうしや》はめでたくない。
姫神《ひめがみ》が力を蓄《たくわ》えていると、考えているのだ。
もっとも、封印《ふういん》代わりに自分の身体を使われている竜憲には、自覚症状はまったくなかった。言ってしまえば、父と鴻が竜憲の分まで心配してくれているようなものである。もちろん、それに対して引け目を感じていられるほど、竜憲は善人にはできていなかった。どうしても、彼らが口を揃《そろ》えて言うほど、彼女が恐ろしいものには思えないせいもある。
見張りたければ見張ればいい。最近は少しばかり居直っていた。
自室に帰り、勢いをつけてベッドに飛び込む。
渋滞《じゆうたい》の中を走るというのは、ひどく疲れる。効《き》かせ過ぎるクーラーが、余計に体力を奪っていた。
夏は過ぎたとはいえ、昼間の車中はクーラーがないと蒸《む》し風呂《ぶろ》だ。排気ガスの中を窓を開ける気にもならないし、何より、都会では暦《こよみ》の上での秋など、どこにも訪れていなかった。
ベッドに転《ころ》がったまま、何度か溜《た》め息《いき》を吐《は》いた竜憲は、のっそりと起き上がると電話に手を伸ばした。
この世で一番苦手《にがて》と言ってもいい男の電話番号を押す。
きっちりと三回。マナー読本にあるとおり、掛け手側の準備が整ってから受話器が取られる。
「……鴻さんのお宅ですか?」
『はい。竜憲さんですね。わざわざご連絡をいただいて、すみません……』
反射的に頬《ほお》を痙攣《けいれん》させた竜憲は、軽く咳払《せきばら》いをすると受話器を握り直した。
「何か、話があるって聞いたけど……」
『はい。じつは、先生のお仕事の件ですが。今回の話は、長引くかもしれないということで、私がそちらに泊まり込むということになりました』
つまり、鴻が見張りということだ。
ひょいと眉《まゆ》を上げた竜憲は、ポケットから煙草《たばこ》を引き出してそのままくわえた。
「それで? いつものことじゃない。何か、特別なものでも用意するのか?」
『いえ。そうではありません。ただ、以前おっしゃっていた修行《しゆぎよう》の件ですが。――もし、よろしければ、私がそちらに滞在する間、お手伝いできるのではないかと思いまして』
「修行?」
竜憲は、そんな話などすっかり忘れていた。
のんきなものだ。
姫神《ひめがみ》が姿を現し、彼の手におえない化け物達が闊歩《かつぽ》している間は、鴻と顔を突き合わせることになっても、修行《しゆぎよう》をしようと決心していた。
それが、化け物の数が減った途端に、そんなことは忘れはてていたのだ。鴻と道場に籠《こも》るくらいなら、化け物と戦ったほうが、よほどましに思えてくる。
「……いいけど……。どうしたのさ。急に……」
それでも一応言葉を取りつくろう竜憲の耳もとに、見透《みす》かしたような笑いの息が届いた。
『今まで、文献を探しておりました』
「文献?」
『ええ。……電話では長くなりますし、詳《くわ》しいことはそちらにうかがってからお話しいたします』
「うん……わかった」
素気《そつけ》なく答えたものの、こうもったいぶって言われると、興味がそそられる。
『では後ほど……』
「ああ」
あっさりと応じて、竜憲は通話を切った。
「……あ……と」
切ってしまってから、はたと気づく。
結局、何も聞き出せなかった。話があるの話はわかったものの、結局何もわからないのと同じである。
「ちぇっ」
事前に鴻が留守番《るすばん》とわかっただけでも、良しとするべきか。
だが、どうも裏があるように思える。ないほうがおかしいかもしれない。なんといっても、父や鴻は誰より竜憲を信用していないのだ。
素直に言うことをきいてやりたいのは山々だが、近頃は彼らの言葉に少なからず矛盾《むじゆん》を感じるのも確かだ。折り合いよくとは言わないが、現実に竜憲は何度か姫神に助けられている。
父なら単なる結果だと、あるいは竜憲を騙《だま》すための方便だと言うだろう。それも考えられないことではない。そして、鴻の対応は最初から、理解を超えている。
そう思うから、迷うのだ。
ベッドにごろりと転《ころ》がると、竜憲は天井の節目を数え始めた。こういった単純な作業をしていると、化け物達が姿を現すのである。あえて験《ため》したことはないのだが。
妙な話だが、妖魔《ようま》達が一番正直なのではないかという気がしたのだ。
自然の産物である木目は、時として奇妙な形に見えてくることがあった。
子供の頃は、それが熱を出す前兆だったし、今は化け物が現れる前触れである。理屈を問われても答えようがない。確実でもないし、一種の自己暗示でしかないのかもしれない。
だが、験《ため》す価値くらいはある。何しろ、姫神《ひめがみ》と違って、彼らは姿を現したくて、うずうずしているのだ。
見慣れた節目を数えていると、その一つが浮き上がってきた。
人とも獣《けもの》ともつかない顔には、黒い三つの穴がうがたれている。目と口なのだろう。そう思うと、口の部分が大きく横に裂《さ》けていった。
『……情けない顔じゃ……』
「それが挨拶《あいさつ》か? ずいぶんじゃないか」
『人の念も祓《はら》えんか? それでようも力を使えるな』
「覗《のぞ》いていたわけだ。全部お見通しってとこか?」
ふわりと顔が消える。
顔を顰《しか》めた竜憲は、少々の皮肉を込めて付け足した。
「ただ見てるだけだと退屈だろ」
目に付くすべての節から、次々に顔が現れる。
『そう言うな。あれは、そう簡単には祓えん』
『こやつには真の姿も見せておらんしの』
呼べば出てくる、忠実な犬といったところだろうか。もっとも、彼らはけっして竜憲になついているわけではなかった。
姫神《ひめがみ》の気配を、少しでも感じていたいのだろう。人の身体の中に封じられていても、彼女はこの化け物達の上に君臨しているのだ。
そういえば、はじめの頃と違って、この化け物達はずいぶんと人間臭《くさ》くなっている。人間臭いというのは、少し違うだろうか。ただ騒ぎ立てるだけの存在から、意思の疎通《そつう》ができる相手になったのだ。
かといって、父や鴻のように使いだ、式神だと言いきれるようなものでもない。なんにせよ、ひどく不安定で半端な、竜憲の立場と状況を如実に表しているのは確かだ。
事実、天井に浮かんでは消える化け物達は、竜憲の思惑などよそに、好き勝手に喋《しやべ》り続けている。
勝手なことを言い続ける歪《ゆが》んだ化け物達の顔を見上げ、竜憲は密《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を吐《は》いた。
『嘆息《たんそく》じゃ』
『何が憂《うれ》いか?』
『情けない……これが器《うつわ》と思うと、涙も出んわい』
しばらくは言いたいように言わせておくしかない。そのうちに飽《あ》きれば、不思議《ふしぎ》と素直に問いかけに答えてくれる。それが、自分の裁量なのか、単に彼らに取り込まれている兆候なのかは、この際、考えないほうが幸せというものだ。
『知りたいのだと……』
不意に顔のどれかが笑いだす。
笑いはたちまち伝染し、耳が割れんばかりに響き渡る。
『――聞きたそうな顔をしているなぁ』
『しとる、しとる……』
くすくすと笑う声、狂ったような笑い声。含み笑いに、しゃっくりのように引きつれた笑い。不思議に明瞭な言葉と共に、それらが四方から竜憲を押し包む。
なぜか、不快ではない。
むしろそうやって反応してくれる化け物達が、身近な存在に思えてきた。
「あれはなんだ? 人の念なんだろう?」
『そうよ! 人は不便なものじゃの……』
けたたましい笑い声と共に、四方の壁が鳴る。
一種のラップ音というやつだ。世の中で言われているものより、数段作為的な音だが、彼らの感情のたかぶりを教えてくれる。
「そんなに可笑《お か》しいか?」
いまさら腹も立たない。
化け物達に馴染《なじ》んできているのだ。それどころか、彼らの反応から、真意を探《さぐ》ることもできるようになっていた。
もしかすると、父もこうして人ではないものを使いにしているのだろうか。
『死ぬる勇気もないくせに……』
「勇気もない?」
笑いが一段と高くなる。
次の瞬間、物音がぴたりとやんだ。
それきり何も聞こえない。窓の外の風の音が、不意に大きく聞こえてきた。
「あれ?」
ゆっくりと起き上がり、竜憲は周囲を見渡した。
「おい……」
鳴りを潜《ひそ》めたというよりは、消えてしまったというほうが正解らしい。物音はいっさい消えてしまった。
「どうしようかな」
もう一度、やり直したところで、結果は同じかもしれない。
眇《すが》めた目で、天井を振り仰《あお》いだ竜憲は、音を立てて、ベッドに転《ころ》がった。
前言撤回《ぜんげんてつかい》だ。
やはり、彼らから何かを聞き出すとなると、まだ無理らしい。
「ま……いっか。関係ないしな……」
今のところは、だが。
妖魔《ようま》共があっさりと人の念だと教えたあたり、巻き込まれることはあっても、自分が主役になることはなさそうだ。もっとも、何も言わぬうちに消えてしまったところに、一抹《いちまつ》の不安を感じなくもないが。
自分にかかわることなら、誰より先に父親が、何か言うだろう。それこそ、家から出るなとか、軽はずみなことをするなとか。
なんといっても、竜憲は信用がない。
黒塗《ぬ》りのリムジンのタイヤハウスから影が現れたという事実は認めるだろうが、竜憲の部屋に巣食《すく》う化け物が警告したと言っても、耳を貸すはずがなかった。
ひょっとすると、竜憲が己《おのれ》の意識を保ち続けていることすら、疑っているかもしれない。
もっとも、竜憲自身、意識が途切れた時の自分の行動に責任が取れる自信はないのである。たとえそれが平穏な眠りであっても、夜中に犠牲を求めてさまよい歩いたとしても不思議《ふしぎ》はないのだ。
始末が悪いことに、連中は肉体を残したまま、外を出歩くこともできる。
竜憲は姫神《ひめがみ》を封じる“呪《のろ》いの壷《つぼ》”にすらなれていないのかもしれない。
単なる、安全な隠れ家。
彼に付きまとう化け物達が言うように、器《うつわ》でしかないのだ。
「……まったく……。慣れないことはするもんじゃないな……」
考えていると、どんどん思考が内に籠《こも》ってゆく。
腕を振って起き上がった竜憲は、ちらりと時計に目をやって、慌《あわ》てて立ち上がった。
母親がテーブルで待っているだろう。
たっぷりと用意されているだろう食事を、せめて半分は片づけなければならない。
息子としての最低限の義務を果たすために、竜憲は部屋を出た。
2
白い小袖《こそで》に紺《こん》の袴《はかま》。
つい先程まで道場に籠《こも》っていた鴻《おおとり》は、口もとにわずかな笑みを浮かべ、庭に出てきた。
「親父《おやじ》は? ご大層な車が迎《むか》えに来てたみたいだけど……。迎えに、 っていうより、攫《さら》いにって感じかな……」
鴻は何も答えない。
竜憲《りようけん》に取《と》り憑《つ》いた姫神《ひめがみ》を恐《おそ》れている彼らは、仕事の内容を話そうとはしないのだ。下手《へ た》に喋《しやべ》ってしまえば、姫神が邪魔をすると思っているのかもしれない。
姫神が下々のごたごたに首を突っ込むとは思えない、と竜憲は常々思っているのだが、鴻や父に無駄《むだ》な気遣いと断じるだけの材料はなかった。もちろん、確証もない。
「まぁ、言いたくないならいいけどさ」
相変わらず心情を読めない笑みが、鴻の顔に貼り付いたままだ。
ひょいと肩をすくめ、竜憲は言葉を続けた。
「……で、文献てのは?」
一瞬、鴻の顔から笑みが消え、真剣な表情が竜憲を見据《みす》える。
「何? ……またここでは話せません……か?」
皮肉を込めて問いを重ねると、鴻の顔に感情のない微笑《ほほえ》みが戻った。
「いえ、そんなことはありませんよ。……ですが……」
「ですが?」
「家に入りませんか? そのくらいの時間は惜《お》しくないでしょう?」
皮肉のほうも鴻のほうが一枚上だ。
苦笑を浮かべた竜憲は、母屋《おもや》のほうを振り返った。
「なんだったら、かあさんに来てもらう? それとも、大輔《だいすけ》のほうがいいかな」
にっこりと笑ってみせた竜憲は、次の瞬間、溜《た》め息《いき》を吐《は》いた。
「……馬鹿《ばか》馬鹿しい。やめた。――とにかく、話を聞くよ。道場に行く?」
「居間で結構ですよ」
くすりと笑った鴻が、先に立って歩き出す。
竜憲はむっと顔を顰《しか》めたものの、仕方なく彼の後に従った。
いつもそうだ。
この男と顔を合わせて、気持ちよく話ができたことがない。それだけならまだしも、絶対と言ってよいほど、鴻のペースに嵌《は》まるのだ。
腹立たしいこと、このうえない。
文献を探《さが》していたなどと言っていたが、それも怪《あや》しいものだ。以前から、忠利《ただのり》とは違う方法の魔物封じの技を探していた鴻が、今頃急に見つけだせたということはないだろう。
そういえば、文献を探していたとは言っていたが、見つけたとは聞いていない。
側にいるだけで寒け立つほどの嫌悪感《けんおかん》を与える男は、軽く頭を下げて母屋に入っていった。
自分の家なのに、そこに彼がいるというだけで、雰囲気が変わる。空気が変わると言えばいいのか、家自体が持つ特有の気が薄れてゆくのだ。
丁寧《ていねい》に掃除されているにもかかわらず、廃屋《はいおく》のような雰囲気が漂《ただよ》う。
生活臭の染《し》み込んだ居間に入っても、それは同じだった。
そんな幻想を振り切るかのように、竜憲が音を立ててソファーに身体を投げ出す。
隣《となり》に、鴻が腰を下ろした。
「どうして……」
言いかけた言葉を呑《の》み込んで、正面の椅子《いす》に移ろうとする。
しかし、鴻はその腕を掴《つか》んで引き戻した。
「なぜ、私が耐《た》えられないのか、わかっております。ですが、このままでは姫神《ひめがみ》に操《あやつ》られるだけ。ご自分で話しかけることもできないでしょう」
掴《つか》まれた腕から、毒が注ぎ込まれているようだ。
見る間に、腕に鳥肌が立った。
腕だけではない。全身が粟立《あわだ》っているのだ。
「……ゆっくりと……目を閉じてください……」
傍目《はため》にもはっきりとわかるだろうに、鴻は鳥肌が立った腕を無視していた。
奥歯を噛み締め、言われたとおり目を閉じる竜憲は、髪の毛までが逆立ってゆくのを感じていた。
子供っぽい反応だ。
鴻をここまで嫌悪《けんお》しておきながら、化け物達に親近感を覚える自分が、不思議《ふしぎ》でもある。
同じ霊能者《れいのうしや》でも、父親のほうは少々煙たいと思う程度で、それ以上の感覚はない。それだけ、鴻のほうが能力を持っているということだろうか。
「竜憲さん。……気をそらさずに、大嫌《だいきら》いな人間が隣《となり》にいることを考えてください」
「マゾか……あんた。嫌われているのが、そんなにうれしい?」
「普通ではないでしょう? ただの我《わ》が儘《まま》や好みで嫌われているのでしたら、こんなことをしても無駄《むだ》ですから……」
声に笑いが混《ま》じっている。
好みで、嫌《きら》いなのだ。そう言ってやりたいのは山々だが、それだけではない何かを感じるのも確かだった。
虫が好かない奴とか、見ただけで敬遠したくなる人物もいる。だが、ここまではっきりと嫌悪感《けんおかん》を感じさせるのは、鴻だけだった。
腕を取られた瞬間、跳《と》び逃げなかった自分を、褒《ほ》めてやりたいぐらいだ。
化け物の本領を見せた時には、奇妙な親近感すら感じるのに、人間の鴻には我慢できない。
そう、我慢できないというのが正しいだろう。
半分人間で半分化け物の、中途半端な存在が竜憲を苛立《いらだ》たせるのだろう。
白蛇になった鴻は、完全な化け物なのだ。それならばまだ、対処のしようもあった。
「……竜憲さん……」
「わかってるよ。あんたより、あの白蛇のほうがましだっていうのは、俺がどこかおかしいからだろう?」
目を開いた竜憲は、まっすぐに鴻を見つめた。
穏やかな笑みを浮かべて、見つめ返す鴻の目には、戸惑《とまど》いの色は微塵《みじん》もない。白蛇のことでさえ、明確に肯定《こうてい》もしなければ、否定もしなかった。
これだけ露骨に嫌われれば、たとえ人間ができた霊能者《れいのうしや》でも不快になるだろうに、そんなそぶりは見せないのだ。
「何が……そこまで嫌《いや》なのでしょうね」
そう問われても困る。本能のなせる業《ごう》とでもいえばよいのか、ほかに言いようがないのだ。
「それがわかると、なんとかなるのか?」
「因縁《いんねん》が……」
「なんだそりゃ。因縁?」
「律泉《りつせん》の鏡に封じられたものと、私の関係なのですが」
「なるほど、そりゃ確かに重要かも……」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、鴻の手を払い除《の》け、ソファーの背に身体を預けた。
「でも、因縁なんてね。……あんたの口から出るとは思わなかったよ。ようするに、あんたを嫌ってるのは俺じゃなくて、お姫様だって言いたいわけね」
嫌いだと言い切るのは簡単だが、言われてみれば確かに不思議《ふしぎ》である。
それを因縁などと言われると、少しばかり反発を覚えるのだが。第一、陰陽《おんみよう》の道士が因縁とは、妙な言葉を使う。
「では、縁《ゆかり》とでも言いましょうか?」
「ユカリね……」
竜憲は眇《すが》めた目で鴻を眺《なが》めた。なんと言っても同じことだが、ここで揚げ足を取っても始まらない。
竜憲は腕を組んで考え込んだ。
「でも思い当たることなんて……な。――正直に言うけど、あんたに会うと、鳥肌が立つ時があるよ」
「先程のように?」
「そう……かな」
竜憲は曖昧《あいまい》に頷《うなず》くと、苦笑を浮かべた鴻に、眉《まゆ》を顰《しか》めて見せた。
「天敵のようですね」
「……天敵……か」
なんとも、ぴったりした表現だ。実際、竜憲自身そう思ったことも何度かあった。
すると、鴻は姫神《ひめがみ》の天敵ということになる。確かに、竜憲が鴻と接するたびに感じる異様なほどの嫌悪感《けんおかん》は、あの鏡の魔物が取《と》り憑《つ》いてからだ。
それ以前も、けっして得意な相手ではなかった。
虫が好かないという表現がぴったりとくる、言葉の端々に反発を覚える男だったのである。
子供の我《わ》が儘《まま》とでも言えばいいのか、自分の想定外の言動を取る鴻が、とにかく苦手《にがて》だった。
だが、人間を相手に鳥肌が立つほどの嫌悪感を覚えるなど、いまだかつてなかったことなのだ。
それにしても、鴻が姫神の天敵とはどういう意味だろう。それこそ、彼の祖先が姫神を封じたとでも言うのだろうか。それなら、天敵と言ってもよいかもしれない。
しかし、あの鏡は律泉の家のもの。鴻と律泉の家がどこでどうかかわるかとなると、昔の話すぎて、竜憲には想像もできなかった。
あるいは、竜憲と同じように、鴻にも何かが取り憑いているか。そちらのほうが現実味がありそうだ。鴻ほどの力があれば、誰にも覚《さと》られずに魔物を身の内に飼《か》うくらい造作もないだろう。
唯一《ゆいいつ》の疑問点は、人間としての鴻を竜憲が嫌《きら》っているということくらいである。
「それって、すごく……言い得て妙ってやつ? けどさ、何なら天敵になれるんだ? 俺の天敵なら誰でも簡単になっちまうだろうけど。……それとも、奴らの世界にもそれなりの勢力分布があるのかな」
他愛《たわい》もないことを口にしながら、ずいぶんと素直に喋《しやべ》り始めている自分に気づく。
「そういや、あんたと無駄話《むだばなし》ってしたことないよね」
かすかに鴻の顔が顰められ、竜憲は慌《あわ》てて言葉を付け足した。
「……いや、あの、無駄話してるとは思ってないけどさ」
「渋い顔を突き合わせていても、答えが出ないのでは仕方がありませんからね。……必要なのは竜憲さんと私が、正直に語り合うことです」
竜憲は目を丸くしたと思うと、息を殺して笑いだした。
「あんたの口から、そんなこと聞くと……」
言ってしまってから、はたと口を噤《つぐ》む。
「――ごめん。真面目《まじめ》な話だった……」
「いえ、かまいませんよ」
にっこりと微笑《ほほえ》んだ鴻につられて、竜憲はぎごちなく笑い返した。
変な話だが、いわゆる失笑というもの以外で、この男が本当に笑うのを見たことがない気がする。
何を話せばよいのか、ますますわからなくなって、竜憲は必死に話題を探し始めた。
共通の話題などそうそうないし、どう引っかけようとしても文献のことは話してくれそうにない。それならば、それに近づく話題を探すまでだ。
――鏡――
「そうだ……鏡」
「鏡がどうかしましたか?」
「え? ああ、あの鏡さ……律泉の。あれ両方見た?」
「両方とは?」
真剣に問い返されて、竜憲のほうが面食《めんく》らった。
まさか、知らないとは思っていなかったのだ。むろん、父が鴻に喋《しやべ》らぬことがあっても不思議《ふしぎ》はないのだが。それとも、竜憲が感じたほど、大道寺《だいどうじ》忠利はあの鏡を重要とは感じなかったのだろうか。
よほど驚いた顔をしていたのだろう。鴻が、妙な顔をして竜憲を覗《のぞ》き込んだ。
「どうしました?」
「あ……と。あれ対《つい》の鏡だったんだ」
「片方だけしか拝見しておりません。……もしかすると、先生が倉に封じられたものの中にあったのでしょうか」
「そうじゃない? ……そういや、サコん家《ち》の倉から、ずいぶんいろんなもんを預かってたもんな」
「本当に対のものでしたか?」
「さぁ? そんな気がしただけかも。――大輔が並んで置いてあったはずだって言ってたし、それに……」
「それに?」
先を急《せ》かすように問いをかさねられ、竜憲は息を吐《は》いて、視線だけを天井に彷徨《さまよ》わせた。
「あれはさ。磨《みが》きたてに見えたことがあるんだ」
今度は鴻は相の手さえいれない。ただ黙ったまま次の言葉を待っていた。
「……俺じゃなくて、大輔が見たらしいんだけどね。ついさっき磨いたみたいに、ピカピカの鏡になったそうだ。緑青《ろくしよう》だらけの……飛鳥《あすか》の昔から伝わる鏡がな」
「対《つい》というのは?」
「大輔がそう言ってたんだ。姫神《ひめがみ》が封じられた鏡の隣《となり》にあったそうだよ。……もっとも、そっちのほうは封印《ふういん》はひっついたままだったけどね」
ゆっくりと目を細めた鴻が、ふわりと手を伸ばす。
反射的に身を引いた竜憲の額《ひたい》に、掌《てのひら》が押しつけられた。
「なんだよ」
「……失礼しました……」
すぐに、手が引かれる。
「私などに見えるはずもありませんね。……しかし、対の鏡とは……」
「言わなかったっけ? 大輔に取《と》り憑《つ》いている男は、姫様を崇《あが》めてんだよ」
ひくりと眉《まゆ》を引き上げた鴻は、視線を宙に彷徨《さまよ》わせた。
とまどっているのが、はっきりと見て取れる。大輔に護符《ごふ》を渡したくせに、そんなこともわかっていなかったのだ。おそらく、彼女に引き寄せられて出没する化け物の仲間ぐらいに思っていたのだろう。
「……姫様が認めているのは、ヤツだけみたいだ。ほかの連中に声をかけたことはない」
鴻の視線が注がれる。
苦笑を浮かべた竜憲は、胸ポケットを探《さぐ》って煙草《たばこ》を引き出した。
「……そうだよ。姫様はほかの連中は気にも留めていない……と思う。彼女はあの男に命令したんだ。あの女を殺せってね……。ほら、あの女。大輔に取り入ろうとした八百比丘尼《やおびくに》だっけ? あの女」
「本当にそうでしょうか……」
「え?」
目が細められ、口もとの笑みが深くなる。
「本当に、対の鏡に閉じ込められていたのでしょうか」
言葉を続けた鴻はゆったりと目を閉じた。
端整な横顔から心情は読み取れない。
竜憲は大輔に取り憑いた男が、あの鏡に封じられていたのだと、信じ込んでいた。だが、言われてみれば、なんの確証もないのだ。
超常現象などいっさい信じない大輔が、それしか思い当たることがないと言ったので、頭から信じ込んでいた。
確かに、古い銅鏡が磨《みが》きたてのように輝いていたという話は、異常を知らせてくれるものではある。しかし、だからといって、その銅鏡に魔物が封じられていたと決めつけるのは、少々乱暴な気もした。
「……確かめたわけじゃないけどね。けどまぁ、対《つい》で封じられていたことを知らなかったんなら、あの護符《ごふ》が役に立たなかったのもわかるな……」
「役に立たない、とおっしゃられますか?」
「そう。あいつに取《と》り憑《つ》いたヤツは、時々出てくるみたいだよ。まぁ、たいていは大輔がパニくってる時か、寝てる時みたいだけど。――あいつは乗っ取られてるよ、時々……」
竜憲は皮肉げに笑うと、煙草に火を点《つ》けた。
長く煙を吐《は》き出し、その行方《ゆくえ》を見守る。
確かに、大輔は肉体を乗っ取られることがあった。その恐怖は、竜憲自身が一番よく知っている。だが同時に、あの男がどれほどの力を持っているのかも、わかっていた。
「……あいつじゃない男が見える」
と、先端で渦《うず》を巻いた煙が、顔に見えてきた。
何事か喋《しやべ》っているらしいが、声が届かない。鴻が側にいるせいか、それとも単にからかっているだけなのか。
鴻も煙の顔を黙殺していた。
気づいていないわけではないだろうが、ちらりと視線を投げたきり、まったく無視している。
「そうですか。まったく役に立たないとは思いませんが……。あの金環だけでは弱いことは考えられます」
ふっと、竜憲は唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「あんたでもミスを認めるんだ……」
「ミスとは思っていませんが」
「そうだな。データが足りなかったわけだ。……まぁいい。で、どうする? その、対の鏡を見てみる? あんたなら、倉の鍵《かぎ》も持ってるだろ?」
「……そうですね……」
応じたものの、鴻はソファーに腰を下ろしたまま、動こうとはしない。
儀式ばったものが好きな霊能者《れいのうしや》は、倉の扉《とびら》を開くのにも、大袈裟《おおげさ》なしかけを必要とするのだろう。
「……気になるか?」
煙草の煙を借りて、姿を現した妖鬼《ようき》が何かを叫んでいる。姫神《ひめがみ》が封じられていた鏡を、あるいは対の鏡を、見せたくはないのだろう。
隣《となり》で座っている人間より、化け物のほうがよほど考えていることが理解できる。
苦笑を浮かべた竜憲は、灰皿に煙草を押しつけると、向かいの椅子《いす》に座り直した。
3
「……先生、お忙《いそが》しいところをすみません」
『それはいいが……。何かあったのか』
言葉とは裏腹に、ひどく落ち着いた忠利《ただのり》の声が返ってくる。
電話の前で頭を下げた鴻《おおとり》は、背筋を伸ばして周囲に目を配《くば》った。
まだ、日が暮れるには充分間があるというのに、人影はもちろん、意思のある妖魔《ようま》の姿もない。目の前のプラスチックの覆《おお》いの中に座った緑色の電話は、ひっかき傷が無数についている。観光客が多いこのあたりでは、公衆電話は悲惨な扱いを受けていた。
わざわざ屋敷の外まで出たのは、竜憲《りようけん》の周《まわ》りに集まる魍鬼《もうき》共のことを考えてのことだった。竜憲に告げ口するかもしれないと考えたのである。
魔物達の女王を封じる器《うつわ》となった彼は、魍鬼の声を聞く術を会得しているようだった。
「倉を開けてよろしいでしょうか。姫神《ひめがみ》の封じられていた鏡と対《つい》の鏡があると、聞いたもので、それを調べさせていただきたいのですが」
『対の? ……ああ。そういえば、律泉《りつせん》から預かった品の中に、あったな。一応、新たな封印《ふういん》を施《ほどこ》しておいたが、あれは空《くう》だったが……』
「封印はすでに解《と》けているようです。竜憲さんの話によれば、姉崎《あねざき》くんの内に潜《ひそ》んでいるとか。古代の戦士のようです」
電話の向こうで、忠利が息を呑《の》む気配がする。
大輔《だいすけ》に取《と》り憑《つ》いた何かがいることはわかっていた。古代の戦士であることも、大輔の力に抑えつけられて、身動きできなくなっていることも。
しかし、それが姫神と対の鏡に封じられていたとなれば、話は別だった。
『それはいつわかったのだね』
「先程、竜憲さんがおっしゃいました。先生にはお話しなさいませんでしたか」
『聞いたかもしれんがな。記憶にはない』
眉《まゆ》を寄せた鴻は、テレホンカードの残り度数の電光表示に目をやった。
8の字が並んでいる。
赤い表示が瞬《またた》くと、忠利は声を殺して笑った。
ひどく自虐的《じぎやくてき》な笑い。
大道寺《だいどうじ》忠利が倒れた時、家族までがただの過労だと思っていた。もちろん、ほかの弟子《でし》達もだ。
しかし事実は違った。忠利は魂《たましい》を失っていたのである。
何かの拍子《ひようし》に、自分の肉体に戻っていたが、ほとんどの時間、彼の魂は肉体を離れて宙を彷徨《さまよ》っていた。
完全に回復するまでの間、彼の記憶は途切れがちだったのだ。
「では、私のほうからなるべく詳《くわ》しいことを聞いてみます。……対《つい》の鏡に封じられていたという戦士であれば……。姉崎くんを調べる前に、まず鏡を調べたほうがよろしいかと……」
『そうだな。もし……。いや、それは考えんほうがいいだろう。倉の鍵《かぎ》は持っているな』
「はい」
『律泉の家の物は、ひとつにまとめてある。姫神《ひめがみ》の鏡とは別にしてあるが、わかるか』
「はい」
鴻は短く応じた。
それを封印《ふういん》する時、自分も立ち会ったのだ。
白木の箱の中は見ていないが、律泉の物だということはわかっている。そんなことも記憶にないのだ。
あの頃、忠利は見た目以上に衰《おとろ》えていた。
そして現在の忠利は、回復したものの以前の力は持っていない。回復が完全ではないのか、それともこれが限界なのか。
誰にもわからないことだった。
「では、鏡を調べさせていただきます」
『ああ。頼む。……こちらは、少し長引きそうだ。単なる人の怨念《おんねん》だと思ったが……どうやら陰に何か潜《ひそ》んでいる。――面倒《めんどう》なことだ。あれが目覚めてから、他愛《たわい》もない雑霊までが、妙な動きを見せる。……わしが衰えただけとは思えんが……』
「確かに、そのようです。私も、竜憲さんの周《まわ》りに漂《ただよ》う、木の霊すら祓《はら》えませんでした。煙草《たばこ》の煙を借りるような、朧《おぼろ》な霊だったのですが……」
『面倒なことだ……』
「はい。……しかし、この程度でおさまっていることを、幸いと思うしかないのでしょう」
『そうだな』
そう答えたきり、忠利は沈黙を守った。
会話がないうちに、電光表示だけが減ってゆく。
いつもの忠利なら、要件が終わればはっきりと伝える。鴻から電話を掛けたのだとしても、電話を切り上げるのは忠利のほうなのだ。
それが、切りもせずに沈黙しているということは、何か迷っているからだろう。
新しいテレホンカードを用意した鴻は、忠利の言葉を待っていた。
残り度数がひと桁《けた》になった時、大きな溜《た》め息《いき》が聞こえた。
『鴻』
「はい」
『お前の中のあれは、どうしている』
ひくりと、目の下が痙攣《けいれん》する。
「……今のところ、問題はありません」
ただ、と続けかけて、鴻は言葉を呑《の》み込んだ。
竜憲が、人間の鴻のほうに過剰《かじよう》ともいえる拒絶反応を示す理由がわからない。内に潜《ひそ》むものを嫌《きら》うのなら理解できる。ところが、彼が拒絶するのは、人間のほうなのだ。
しかし、それを忠利に告げても、答えを得るどころか、反対に混乱させるだけだろう。何より、今の忠利にとって余計な心労は、死にも通じる。
『そうか。……ならば問題はないな』
念押しされ、鴻は再び表情を強張《こわば》らせた。
いくら力が弱っているとはいえ、洞察力までなくしたわけではないのだ。
「問題があるとすれば……。竜憲さんが私の中のものに気づいた時、どうなさるか、ですね。今はまだ妖鬼《ようき》だということしか認識していらっしゃらないようですが……」
鴻の言葉を、言い訳と聞いたのか、もっともと感じたのか、長い嘆息《たんそく》の後、忠利は小さく笑った。
『それを今から考えても仕方あるまい。……わかった。姫神《ひめがみ》に関しては、わしはなんの手出しもできん。お前に任せる』
「はい」
『しばらくはここにいるはずだ。何かあれば連絡してくれ』
「はい」
電話が切られる。
受話器を戻すのと、度数が1になるのは、ほぼ同時だった。
けたたましい警告音をたてながら、テレホンカードが戻ってくる。
出てきたそれを握りつぶした鴻は、深い息を吐《は》いた。
姫神がおとなしくしているからといって、いつまでも見過ごすことはできない。大輔に取《と》り憑《つ》いた戦士が、対《つい》の鏡に閉じ込められていたものだとすれば、なおさらだった。
現代に蘇《よみがえ》った魔物の神と、破壊の戦士。
片方だけでも、対抗できる自信はないのに、二つが揃《そろ》っている。そして、彼らは互いの存在を知っていたのだ。
――だが――
双方が揃っているからこそ、取れる方法もあるだろう。
ついと顔を上げた鴻は、ゆっくりと大道寺家への道筋を戻り始めた。
あれだけ嫌《きら》われ、警戒されていながら、不思議《ふしぎ》に鴻につきまとう魔はいない。嫌いだから近寄らない。そのあたりが、人間の考えとは違っているのである。
もちろん鴻自身、使い魔程度の雑魚《ざこ》なら寄せ付けないだけの力はある。今も、ささやかな結界は張っている。
それにしても、だ。
生き物から、この世の物ならざるものまで、ここまで何もいないというのは珍《めずら》しい。
のんびりと装って歩く街並みの中で、相も変わらず、人影は途絶《とだ》えたままだった。車も通らなければ、電話を店先に置いた酒屋の中に店番の姿までない。それどころか、猫の子一匹いないのだ。
現実から切り離されたように、あらゆる気配が消えていた。
「魔物どころか、人にも嫌われたか……」
らしからぬ台詞《せりふ》が、ふと漏《も》れる。
人に疎《うと》まれることなど、気にしたこともない。有《あ》り体《てい》に言えば、産声《うぶごえ》をあげた時からずっとそうだったのだ。奇妙な赤ん坊は、異常な子供になり、今は変わり者の霊能力者《れいのうりよくしや》。
大道寺忠利にしても同じことだった。信頼はされている。だが、彼が、心の奥底で自分を恐《おそ》れていることも知っていた。そして、あの姫神《ひめがみ》のことにしても、忠利の望むものと、自分の望みはかけ離れている。
しかし、いまさらどうしようもないし、どうでもよいことだった。気にもならない、はずだったのだ。
心ならずも呟《つぶや》いた言葉は、制御《せいぎよ》しているはずの精神の底に潜《ひそ》む不安、ある意味では本音《ほんね》なのかもしれない。
苦笑した鴻は、通りの角を曲がろうとして、ぴたりと足を止めた。
誰かくる。
本来なら不思議なことでもなんでもないが、何かが鴻に足を止めさせた。
目を凝《こ》らすまでもなく、通りの反対側を歩いてくる男が見える。その男は、風景の中にひどく浮き立って見えたが、人間であることには間違《まちが》いない。
それでも鴻は、その場から動く気にもならず、その男を眺《なが》めていた。
稀《まれ》に尋常《じんじよう》ではないオーラの持ち主が、ただの人間の中にもいる。
異常なほどに突飛《とつぴ》な格好をしていようと、人混みに紛《まぎ》れて埋没《まいぼつ》する人間がいるのと反対に、どんなに地味な服装をしていようと、人混みの中でも明らかに目立つような人間もいる。普通なら、ただ目立つと評するのだろうが、そういう人間には必ず何かある。
それこそ、鴻が日頃相手にしているような、何かを連れている人間から、純粋に人間としての生命力が強い者まで、さまざまではあるが。
だが、この男には何も見えてこない。
季節感のない、黒っぽいコート姿だというのに、平面の絵の中に一点だけ、立体像があるような。ちょうど、そんな感じの目立ち方だ。それ自体異常な感覚だった。
逆転した構図はよく目にする。希薄な気配や人間は、時として風景の中に沈んで見えるのだ。しかし、現実のほうが希薄に見えることなど……。
「ちっ!」
取り込まれた。
こんなことは初めてだ。
「今頃気づいたか」
耳もとではっきりと声がする。しかし、喋《しやべ》っているのは車線を隔《へだ》てて立つ男。
「お前の力……当代一と見込んだが、とんだ買《か》い被《かぶ》りであったか……」
声は笑っていた。
相当な力だ。現実に立ち戻る、些細《ささい》な綻びさえ見つからない。
「いやいや……そうでもないな」
咽喉《の ど》で笑う声は、少しも楽しそうではなかった。
ただの魔物ではないだろう。それはわかっても、正体はようとして知れない。
「会いたかったぞ」
不意に口調が変わる。
「まさか、これほど身近におろうとはな。眠り過ぎると、目も耳もずいぶんと鈍《にぶ》くなるものらしい。お前も気をつけるがいい」
これは、自分に対する言葉ではない。そう自覚した途端に、ひどく頭が痛みだす。
「どうした、どうした。……我が同朋を身に匿《かくま》う、道士殿とは思えぬぞ」
「誰……だ」
男が弾《はじ》けるように笑いだす。
「朋に聞け。……いや、聞くまでもない、ご存知か……」
唐突に笑いを収め、男はゆっくりと近づいてきた。
「この世はひどく棲《す》みづらい。……だが、同時に恐《おそ》ろしく生きやすいぞ。欲望に満ち溢《あふ》れ、何事にも堪《こら》えるということがない。――お前には、棲みやすかろうが、生きづらいだろうな」
意味深長な言葉を吐《は》いて、男は足を止めた。
お前とは、鴻に潜《ひそ》むもう一つの性《さが》のことだ。竜憲の目には白蛇に見えるという、存在。
「都合《つごう》ようはいかんな……なかなかに」
吐息が漏《も》れる。
「棲みづらいのも道理。ここはあなた方の棲む世界ではありますまい」
「ほう……ようやく正気を取り戻したか。……そうでなくてはいかん」
笑っても喋《しやべ》っても、いっさい感情らしきものが感じ取れなかった男の顔に、かすかに皮肉な表情が浮かぶ。
「だが、前のようにはいかんぞ。……お前は敵を作りすぎた」
「敵?」
「おおよ。みな、御方様の力になる」
「なんの……」
頭の痛みがますますひどくなり、鴻は立っていることさえつらくなってきた。今や理由は明白である。
動き出したのだ。長い間、身の内に潜《ひそ》んでいたものが。
自分自身が抑えていたのではなく、それが何もしなかったのだということを、いまさらのように痛感させられた。竜憲に力をつけろ、修行《しゆぎよう》せよなどと言えた義理ではない。
「……く……」
唇《くちびる》を噛みしめ、低く呻《うめ》いた鴻を、男は興味深げに見守っている。
「たいしたものだ。……やはり安穏《あんのん》と暮らすものではないな。形《かた》なしだぞ……ひと――」
「黙《だま》れ!」
怒声《どせい》と共に両眼をかっと見開き、鴻は男を睨《にら》み据《す》えた。
「怒《おこ》ったか?」
問いかけておきながら、男が大きく飛び退《の》いた。
「……見事。確かにそなたは……」
髪が逆立つのがわかる。
音を立てて逆立った髪が、青白い火花を帯びた。
「黙《だま》れ! 黙らぬと……!」
「黙らぬと?」
笑いを含んだ声が問い返し、さらにふわりと飛び退いた男の身体が、歪《ひず》んだガラスを通し見るように奇妙に捩《よじ》れる。
「哀《かな》しいな。御方様は、今でもお前がお嫌《きら》いだ。……自分を憐《あわ》れと思わぬか」
理由のわからぬ怒りが、爆発する。
声を聞くな、考えてはならんと命じる道士としての自分が、瞬間消し飛んでいた。
周囲が青白い光に包まれる。風景が白い闇に溶《と》け、眼前の男だけが、黒い染《し》みのように宙に浮かんでいた。
「消え失せろ!」
「ぎゃ……」
悲鳴があがり、男の姿は四散した。
不意に街の喧噪《けんそう》が、周囲に戻る。
情けないことに、街角の家の塀《へい》に手をつき、荒い息を整えているのが、現実の中に戻った自分だった。
「ふざけたことを……」
自分の口を突《つ》いて出た言葉に、鴻は顔を顰《しか》めた。
何がふざけているのか。
おそらく、今消え失せた男が、だ。自分を揶揄《からか》いに現れたということだろう。いや、自分と自分の中のもう一人をだ。
さんざん揶揄われたそのうえに、打ち破ることはできなかった。
当然だろう。破魔の法も何もあったものではない。ただ単純に怒りの力がほとばしっただけなのだから。
「どうしました? ご気分がお悪いの?」
妙に取り澄ました女の声が、それでも気遣いを込めてかけられる。
「……あ……すみません。大丈夫です。……立ちくらみで……」
顔を上げた鴻は、慌《あわ》てて目を伏せた。
鈍《にぶ》そうなこと、このうえない若い女が顔を覗《のぞ》き込んでいる。こんな女に声をかける隙《すき》を与えたのかと思うと、自分が情けない。
ふっと息を吐《は》くと、背筋を伸ばす。
女がぴくりと身をすくめた。
「……え……と、本当に大丈夫みたいですね」
「はい、お気遣い、ありがとうございます」
「じゃ……」
こわごわと視線を外《はず》した女が、逃げるように鴻の側を離れる。
そそくさと離れていく女から目をそらし、鴻はしっかりとした足取りで歩き始めた。
第二章 呪いの伝言
1
「姉崎《あねざき》……姉崎!」
耳もとでざらついた声が叫ぶ。
片目を無理やり開いた大輔《だいすけ》は、声の主をうっそりと振り仰《あお》いだ。
「……あんだよ……」
「講義、終わったよ」
「あ……寝てたか、俺」
「なーに言ってんだかなー。すっきりちゃっかり寝てたじゃねーか」
「だよな……変な夢見ちまったよ」
目を擦《こす》り、上体を引き起こした大輔は、椅子《いす》の背に凭《もた》れて、大きく伸びをした。五百人ほど入る階段教室には、自分達しかいない。
「夢? どんな?」
「忘れた」
「らしくねぇな。……けど、気持ちよく眠れるんだよな、教授の声は子守歌みたいだし」
顔を顰《しか》めた大輔に、男は肩をすくめてみせた。
「ま、お前さんでも、居眠りはするわけだ。……どうせなら俺みたいに……終われば、ちゃんと、目が覚めるくらいにならなくちゃ。そのうえ、このとーり寝こけてる友人を起こしてあげるくらい親切」
「ほーんと。ありがとさん」
「な、次なんか取ってる?」
「いや……今日はもう」
「じゃあさ。これから茶しようぜ。……ほら、あの新しくできた茶店《さてん》あんじゃん」
「茶店? あったっけ?」
「なんだ、知んねぇの? あんだよ。……まだ、あすこ常連いねえんだ。だから、今のうちにウチの店にしちゃおってことでさ」
捲《まく》し立てる友人を眇《すが》めた目で見やり、大輔はバインダー・ノートを閉じた。
「――おい、大谷《おおたに》。お前んとこのサークルは、茶館が根城だろ……いまさら」
「それがさぁ……いろいろあってさ。この頃経営研の一年坊に侵略されてんのよ」
「馬鹿《ばか》言ってろよ。取り返しゃいいじゃねぇか」
「何怖《こわ》いこと言ってんの。俺達は平和主義者なのよ」
何がどう怖《こわ》いのかは知らないが、よほど暇《ひま》らしい。もしくは、大輔に用があるのかもしれないが。
「ようは、目新《めあたら》しいだけだろう?」
「まぁ、そう言っちゃ、元も子もないじゃないの。……で、付き合う?」
ひょいと肩をすくめ、大輔は立ち上がった。机の上を片づけ、本とバインダーを抱えると、大谷をちらりと見下ろす。
「ノート貸せってんなら、コーヒーくらいおごれよ」
「そりゃもう。で、今ある?」
あっさりと肯定《こうてい》され、大輔は息を吐《は》いた。大谷はわざとらしく、へこへこと頭を下げてみせる。大輔が立ち上がった途端に、胸もとから見上げることになったから、それが余計に滑稽《こつけい》で芝居《しばい》がかった態度に見えた。
「やっぱりか……。持ち込み可のヤツだろ?」
「おーっ。さすがに鋭《するど》くていらっしゃる」
「馬鹿《ばか》言ってるなよ。いいけど、コピー書き写すくらいの労力は惜《お》しむなよ。コピー、ノートに貼《は》っただけで取り上げられたって知らねぇからな」
「そりゃ、山岡《やまおか》くんでしょう。オレは勤勉だから、大丈夫さっ」
「何が大丈夫なんだか……」
「とにかく……行きましょう、行きましょう」
背中を軽く叩かれる。
階段教室を出かけた時、大輔は何げなく教室を振り返った。
いつの間にか、中央に男が一人座っている。次の講座に出るのだろうか。
「真面目《まじめ》なヤツ……」
口の中で呟《つぶや》いた大輔を、大谷が片方の眉《まゆ》を引き上げ、振り仰《あお》ぐ。
「なんか言った?」
「なんにも……」
背後で鉄《スチール》の扉《とびら》が音を立てて閉じる。
扉の隙間《すきま》から覗《のぞ》き見えた男は、かすかに微笑《ほほえ》んでいたようだった。
妙なことに広大な構内を横切る間も、その男の微笑みが心に引っかかっている。これが美人の笑顔なら、忘れないのも道理だが、男の顔となると、笑顔だろうが仏頂面《ぶつちようづら》だろうが即座に忘れるのがお約束だ。
「おい、姉崎!」
「ん……あ?」
「そっちじゃねぇよ」
門を出た大谷とは、まるで反対の方向に曲がろうとしていたらしい。
「あ……すまん」
二、三歩歩きかけて、大輔は足を止めた。
「すまん」
「なんだよ」
「帰るわ……」
「いまさら、そりゃないだろ?」
「ノートは貸すから」
「なーんだ。そんなら構わないよ、ぜーんぜん」
現金だが、いたって正直な答えが返る。
「コピーとったら、ちゃんと返せよ」
「そりゃもう! 責任もって!」
どんと胸を叩いた大谷は、その手を大輔に向かって突き出した。
バインダーを捲《めく》り、リーフ・ノートを何枚か外《はず》すと、掌《てのひら》を叩くように手渡す。
「サンキュー……。じゃな」
誘った時の執拗《しつよう》さなど見事に消え失せて、大谷はくるりと背を向けた。
「コーヒー忘れんなよ!」
スキップでもするように遠ざかる背に声をかけると、元気だけはよい不誠実な声が返る。
「わかってるって」
「ほんとだな……」
小声で呟《つぶや》いた大輔は、バインダーを閉じようとして、手を止めた。
「なんだこりゃ」
到底自分の字とは思えない、ぎくしゃくとした文字がリーフいっぱいに並んでいる。
並んでいるというのは褒《ほ》めすぎだろう。散らばっているというほうが、より正確だ。ひと目で文字とわかるのは、数えるほど。を、なのか、と、なのかもわからない文字が、散在しているのだ。
眠っていても、メモを取っていたのだろうか。
眉《まゆ》を寄せた大輔は、リーフを見据《みす》えた。
「……解読不能だな、まったく……。山岡《やまおか》じゃあるまいし……」
自分でも解読できない字を書く友人を思い出した大輔は、ひょいと肩をすくめて駅の方向に向かった。
さっさと家に戻って、本格的な解読作業に入るしかなさそうだ。いくら眠っていたとはいえ、手を動かしていたのなら、少しは記憶があるだろう。文字を眺《なが》めていれば、何か思い出すかもしれない。
珍《めずら》しく、今日は家に用があるのだ。
早足で駅に向かう坂道を下る。田舎《いなか》という表現しか思い浮かばないほど、のどかな風景が広がっていた。そのおかげで、キャンパスは広いのだが、駅まで遠いのが最大の欠点だ。
周辺の喫茶店に厳然とした縄張《なわば》りが存在するのも、絶対数が足りないせいである。この時間なら、どこにいっても知り合いの一人や二人はいるだろう。
落ち着いて文字の解読などできるはずもなかった。
「ダイスケ!」
突然、大声で呼ばれて、大輔はきょろきょろと周囲を見回した。
型は古いが、きっちりと手入れされた車の窓から、女が半身を乗り出している。狭《せま》い道を、片手でステアリングを操《あやつ》りながら、ふらつきもせずに近づいてくるのは、馴《な》れのせいか、そもそもテクニックがあるせいだろうか。
大輔など足もとにも及ばないほどのキャリアを誇《ほこ》る女は、ゆっくりと車を止めた。
「松本《まつもと》……。どうしたんだ? 今日は講義はないんじゃ……」
「なーに言ってんのよ。アタシの誕生日でしょうが。ちゃんとプレゼントの回収に来たのよ。……で、帰り?」
「そう」
長い髪を後ろでくくった女は、身形《みなり》を整えて化粧をすれば、美人と言ってもらえるだろう。しかし本人は、そんなものに金を使うぐらいなら、車や遊びにつぎ込むタイプだった。
「駅まで乗ってく?」
「ああ。……家まで送ってくれたら、プレゼントを渡すぞ」
ふと思いついて、交換条件を出す。
「ほほう。忘れてなかったって言ってくれるわけだ」
「忘れるもんか。数少ない女友達の誕生日だ」
けたけたと声をあげて笑った女は、ドアのロックを外《はず》した。
「いいわよ。それが本当なら、数少ないオトモダチとしては、運転手したげようじゃないの。途中でオートバックスとかダイクマに寄るとかいうのはナシよ」
「もう用意してるって」
大輔の頭の中には、女へのプレゼントを、車用品の専門店やディスカウント・ストアで買うという発想はない。それでも、相手の好みを尊重するぐらいの芸当はあるので、到底女に渡すとは思えない品を選んでいた。
「まぁ、いっか。……じゃ、どこにも寄らなくっていいのね」
「いいぞ。お前のほうがいいならな」
眉《まゆ》を引き上げた松本は、ギアを入れた。
2
暗号解読。
小学生の頃読んだ探偵小説の一場面が、頭の中に浮かんでは消える。子供向けに要約された小説の中では、名探偵はいとも簡単に絵文字や、アルファベットの組み合わせを解《と》いていた。
そういえば、第二次世界大戦中の日本軍の暗号は、決まり文句のせいで、いともたやすく解読されたと聞いた覚えがある。
しかし、ルーズリーフに並んだ文字は、ただの判別不能の記号だった。教授の言葉をそのまま聞き書きしたわけではないので、決まり文句らしきものも見当たらない。
「……まいったな……」
意味らしきものが読み取れるのは、よ・る・な、という単語だけ。それも、ひょっとするとよ・る・は、かもしれないのだ。
自分の文字なら、どれほど急いだ走り書きでも読み取る自信はあった。中学生の頃など、探偵ごっこに熱中して、ポケットに手を突っ込んだまま、メモを取るという芸当を練習したこともある。
それでも、これほどひどい文字は見たこともなかった。
「本当に俺の字か?」
呟《つぶや》いて、眉《まゆ》を寄せる。
確かに、自分の文字とは思えない。寝ていたからだ、と決めつけていたが、他人の文字だと思えば、まだ考えようはあった。
だが、どうして。
誰かが悪戯《いたずら》する時間はあっただろう。叩き起こされるまで、講義が終わったことにも気づかなかったのだ。バインダーの中に、リーズリーフをはさむぐらいのことはできる。
生憎《あいにく》、こんな子供じみた悪戯をする友人は特定できないほどたくさんいた。
「誰だ……こんなことをしやがるのは……」
そう思うと、意地でも解読したくなる。
どうせくだらないメッセージだろうが、解読できないとなれば、犯人は嬉《うれ》しがるに違いないのだ。
目の前の文字を暗号だと決めつけた大輔《だいすけ》は、新しいリーフ・ノートに、文字を印し始めた。
ほぼ同じ位置に、それと思われる文字を書く。
一つ一つの文字を真剣に睨《にら》んでいると、それがなまやさしい作業ではないことが、はっきりしてきた。
な・は。を・と。ね・れ・ゆ。どうとでも読める文字が多い。
「……くそ……。山岡《やまおか》かよ……」
犯人のほうが先に思い当たる。いくら文字を崩《くず》すといっても、限界があるはずだ。このメモの主は生来の悪筆に違いない。
奥歯を食いしばり、低く唸《うな》った大輔は、文字とさえ認められない模様を、睨んでいた。
耳もとで電話が鳴る。
手を伸ばそうともせずに、紙片を見据《みす》えていた大輔は、メッセージに切り替わった瞬間、顔を上げた。
『えー……と。大輔くんに伝えておいてほしいんですが。あ、ボク、山岡です……』
犯人と目星をつけた相手からだ。らしくもなく言葉を選んでいるのが可笑《お か》しい。大輔専用の電話ではないだけに、どう喋《しやべ》っていいものか、とまどっているのだろう。
『ノートのコピー、俺もとらせてもらうから……ってことで……。えーと、大谷《おおたに》くんがそのまま持ってるから、よろしく』
妙なところで義理がたい男だ。どうせ駅前のコンビニエンス・ストアで大谷に会ったのだろう。わざわざ言ってこなくても、山岡も常習犯だった。
「おい山岡」
『なんだ、いたのか……とっとと出ろよ』
「ノートがどうしたって?」
受話器を取った大輔は、リーフ・ノートを引き寄せた。
『悪い。いやぁ、バッタリ大谷と会っちまってさ。で、俺も借りなきゃって思ってたんだよ。お前も手間が省《はぶ》けるだろ』
悪びれずに言う男の顔を思い浮かべて、大輔は苦笑した。
確かに、頼まれれば断る気はない。
いまさら、なのだ。
「まぁいい。じゃ、ノートはそのまま大谷が持ってんだな」
『そうそう。……んじゃ』
「ちょっと待て。お前……今日大学行ってたか?」
『いいや。お前を捕《つか》まえようと思ってたのに、もういなかったからさ。で、駅前で大谷を見つけて……』
どうやら、悪戯《いたずら》の主は山岡ではないようだ。
「調子のいい奴」
『ま、そういうわけだ。じゃあな……』
耳もとで電話が切られる。
むっと顔を顰《しか》めた大輔は、苛立《いらだ》ち紛《まぎ》れにリーフ・ノートにペンを突き立てた。
その瞬間、紙が真っ黒になる。
「え……」
何かを塗《ぬ》ったというのではない。
熱も、煙も出さずに、紙が炭化したのだ。
「なんだと……」
下手《へ た》くそな文字が散乱していた真っ黒な紙は、白く文字を浮かび上がらせていた。途切れがちな線が繋《つな》がり、こころなしか文字が行儀よくなったようだ。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた大輔は、慎重にペンを引いて文字を見据《みす》えた。
「……を、忘れ……るな。――なんだ? こりゃ……」
――怨《うら》みを忘れるな。いつまでも付きまとってやる。血反吐《ちへど》を吐《は》いて死ね。水に近寄るな。火になる――
文字はそう読み取れた。
脅迫文なのか、警告文なのかもわからない。
水に近寄るな、とわざわざ知らせてくれているくせに、死ね、と言っているのだ。ひどくあやふやで、言葉を綴《つづ》ることに馴《な》れていないような気がする。
悪意があることはわかるのだが“幸福の手紙”との区別はつかなかった。違いといえば、同じ文面を他人にも回せ、というお決まりの文章がないことだ。
何より、普通のものなら、突然炭になったりしないだろう。そのために、馬鹿《ばか》馬鹿しいと一笑に付すことができなかった。
それにしても、近頃、この程度のことでは驚かなくなった自分がたいしたものだと思う。ついこの間までまったく信じていなかったのに、今目の前で起こることは素直に受け入れているのである。だが、現実に起こるのだから仕方がない。
息を吐いた大輔は、電話に手を伸ばし、寸前で手を握った。
いちいち竜憲《りようけん》に頼るのも情けない。第一、何があったと言えばいいのだろう。
なんの心当たりもなかった。
もっとも、当代随一の霊能者《れいのうしや》達に言わせれば、自分は意識せずに化け物達を惨殺しているということだから、怨まれても不思議ではないが。
それにしても、警告を与えるということが、よくわからない。
本当なら、こんな常識はずれの事件は、竜憲に相談するべきなのだろう。しかし、大輔は受話器を取ろうとはしなかった。
女を引っ掛けるために竜憲を呼び出すのは平気だが、自分のためとなると頼りたくはなかったのである。
まだ、何が起こったわけでもないのだ。ただ単に、紙が炭になっただけ。こんなものは、ティッシュで拭《ふ》き取ってしまえばよいのだ。
幸福の手紙という名の、鼠講《ねずみこう》式の脅迫文と同じ。ゴミ箱に捨ててしまえばよい。それで終わりだ。
そのうちに謎《なぞ》も解《と》けるかもしれない。
ざっと机の上を拭いた大輔は、ティッシュをゴミ箱に捨てた。
「さて……と。今日の講義だな……」
試験のためにノートを必要とするような講義ではないが、何も書き留めていないというのが気にかかる。
単なるメモ魔の習性だ。
苦笑を浮かべた大輔は、今日の講義に出ていた知り合いの中で、まめにノートを取る人物を思い出そうとして、眉《まゆ》を寄せた。
誰一人覚えていない。
今日は何にしろ、うまくいかない日のようだ。だいたい、講義中に熟睡したことなど、記憶にある限りないのである。そんな日に限って、真面目《まじめ》な友人の一人も見かけていないとは。
「……なんだかな……」
音を立てて椅子《いす》を引いた大輔は、大きく伸びをすると、部屋を出た。
狭い階段を下りて、まっすぐに冷蔵庫に向かう。
ミネラルウォーターのペット・ボトルを引き出すと、それをぶら下げてリビングに入った。
ビデオ・テープのラックと成り果てている飾り棚を眺《なが》める。
父親の秘蔵の酒が、一番下の棚に隠されていた。
自分を遥《はる》かに追い越してしまった息子の背丈に合わせて、酒壜《さかびん》の席はどんどん下に下りている。そこまで盗み飲みをされたくないのなら、ほかに移せばいいだろうに、父親は飾り棚を頑固に利用し続けていたのだ。
「……もらうよ」
口に出して言うだけ言って、四角い壜を引き出す。
ついでにグラスも出して、たっぷりとダブルの分量、ウイスキーを注いだ。
ミネラルウォーターを少なめに、濃い水割りというのが、大輔の好みだ。水道水の氷などを入れて、せっかくのミネラルウォーターをだいなしにする気はない。
ウイスキーのボトルを飾り棚に戻した大輔は、ミネラルウォーターのキャップをねじった。
その途端、炎が噴き上がる。
反射的に放り投げたペット・ボトルが絨毯《じゆうたん》に転《ころ》がり、高く炎を上げた。
「あ?」
熱くはなかった。だが、痛い。
ただ、茫然と炎を眺《なが》める。なぜか、消そうという意志は働かなかった。熱を感じないせいだろうか。
炎が一瞬に大きくなったというのに、濃いセピア色のウールの絨毯は、焦《こ》げもしない。そのくせ、炎は天井に届きそうなほど高く立ち上っている。
「マジかよ……」
見る間に、絨毯に濃い染《し》みを作っていた水が、蒸発してゆく。
天井も、壁紙もなんの変化もないのだが、水だけがまたたく間《ま》に消えてゆくのだ。
まるで、アルコールを燃やしているかのようだ。いや、臭いがないから、そんな感覚さえない。
「あ……水が……火になる?」
警告の言葉を呟《つぶや》いた大輔は、火の勢いが治まるのを待って、裸足《はだし》で絨毯に触《ふ》れた。
水の感触はない。もちろん熱も。
しかし、まだちろちろと燃えている炎に手をかざすと、鋭《するど》い痛みが走った。
「……馬鹿《ばか》な……」
くるりと踵《きびす》を返した大輔は、キッチンに飛び込むとシンクのレバーを押し下げた。
轟音《ごうおん》を上げて、炎が立ち上る。
「くそ……」
手近にかかっていたフライ返しでレバーを上げ、炎を止める。
頬《ほお》が痙攣《けいれん》した。
水が炎になるというのは、比喩《ひゆ》ではなかったらしい。純粋に、事実を告げられたのだ。
「……なんで俺がこんな目に……」
愚痴《ぐち》を言ってもはじまらない。
大輔には手の打ちようがないのだ。
不承不承、ようやく覚悟を決めた大輔は、電話に手を伸ばした。
情けないと自分でも思うが、こんな超常現象に対処できる人間は、一人しか思いつかなかった。
受話器に触れたとたん、すぐ隣《となり》の花瓶が火を噴き上げる。
黄色い、名前も知らない花が生《い》けられた大振りの花瓶が、炎を吐《は》いていた。花にはまったく変化がないのが、大笑いだ。
「畜生《ちくしよう》……」
水に近寄るな。火になる。
警告のとおりだ。彼が近づくことで、水は火に変わってしまう。
そのまま竜憲の家に向かうべきか、それとも、花瓶の水がなくなるのを待つべきか。
一瞬迷ったが、待つことにする。駅に向かう途中に、小川があった。それが炎を上げたのでは話にならない。
ごくりと唾《つば》を飲んだ大輔は、炎の中でしおれもせずに咲いている花を見据《みす》えていた。
これで、雨でも降られたら。
自分の周《まわ》りに、どれほど水があるのか、いまさらのように感心してしまう。
酒が燃え上がらないあたり、水分ではなく、水と限定されているようだ。少々不純物が混じっていようと、水と呼び慣《なら》わすものは、火となるらしい。それに、ペット・ボトルが口を開くまで炎にならなかったことが、少々の慰《なぐさ》めだ。
しかし、だんだんとひどくなるようである。花瓶には触れたわけではないのだから。
花瓶の口が狭《せま》いせいか、炎は相変わらず勢いよく燃えている。
「まったく……」
自分も、案外肝《きも》が据《す》わっているらしい。
目の前に炎を上げる花瓶があるのに、それを分析しているのだ。
ただし、炎の正体となると、まるで想像もできなかった。
食卓の椅子《いす》を引いて、どっかりと腰を下ろす。
へたに動き回るより、ここでおとなしく待っていたほうがいいだろう。紅蓮《ぐれん》の炎の中に浮かんで見える黄色い花というのも、なかなかの見物《みもの》だった。
「……いい加減にしろよな。言いたいことがあるなら、とっとと言えよ……」
そういえば、これで二度目だ。
ふざけた警告を発する魔物。もともと、滅多《めつた》に見えないのではあるが、何か質が違う気がする。
歪《ゆが》んだ文字でしか意思を伝えられない連中に、少しは同情もするが、これでは対処のしようがない。何が言いたいのかも、わからないのだ。
「怨《うら》みってのはなんだ? 言ってみろよ……」
テーブルに肘《ひじ》を突き、手で顎《あご》を支える。
大きく息を吐《は》くと同時だった。
ごおっと音を上げて、炎が噴き上がる。
騒音と共に、トイレのドアが開く。
ばっと飛び上がった大輔は、テラス窓に張りついた。
なるほど、水洗トイレには水がたっぷりある。さらに状況はひどくなったということだ。このまま、どんどんと影響が広がっていくとしたらどうなるのだろう。地球上の水がすべて蒸発するのだろうか。いや、もしかすると宇宙の……。
「馬鹿《ばか》馬鹿しい。……そんなことがあってたまるか!」
頭を振って、益体《やくたい》もない考えを振りはらう。
いくら熱がないとはいえ、火であることには違いないのだ。おそらく、この炎は無機物には影響を与えないのだろう。それに植物にも。
少なくとも、今のところは火事にはならずにすんでいる。
しかし、大輔が感じた痛みは、それが凶器になることを示していた。
「言え! なんの怨《うら》みだ!」
後ろ手に、テラス窓の錠を外《はず》す。
敵がどこにいるか、炎はまったく頓着《とんちやく》していない。部屋の中を逆巻き暴れ回っているだけだ。それ自体生き物のように見えたが、何か言いたいことがあるのか、単に暴れ回っているだけなのか、わからない。
「どうしろってんだ! 馬鹿《ばか》野郎!」
叫び声を嘲笑《あざわら》うように、炎が渦巻く。
一瞬、背筋が凍《こお》った。
――殺す気か? ――
察したかのように、炎がリビングの中央に集まる。
ほっと息を吐《は》いた大輔は、開けかけたテラス窓から手を離した。
「いったい何が……」
だが、次の瞬間、炎は巨大な鬼の顔になった。
燃え上がる炎が、確かに鬼の顔に見える。ぱっくりと耳まで裂《さ》けた顎《あぎと》を大きく開けて、ぎょろりと目を剥《む》き、大輔を睨《にら》む顔は、それこそSFX顔負けだ。
顎の具合でも確かめるように、口を半開きにして、左右に食い違わせる。
馬鹿にされているような気がする。
怒鳴《どな》りつけてやりたいところだったが、怒りより理性のほうがはるかに勝った。とにかく、話でもなんでも聞いて、退散してもらうしかないのだ。
ぐっと息を呑《の》み、恐ろしくデフォルメされた真っ赤な顔を睨み据《す》える。
「なんの怨みだ?」
声を抑えて問いかける。
頭の中では、竜憲が魔物や霊を説得していた様子《ようす》を必死に思い返していた。
「俺に何が言いたい?」
重ねて問いかけた途端、炎の鬼は巨大な顎を、いっぱいに開いた。
炎の舌がのたうちながら、伸びてくる。
「わっ!」
横に跳《と》び逃げた大輔を、別の舌が襲う。
窓を開こうと伸ばした手に、炎の舌が巻きつく。悲鳴をあげる間《ま》もなく、もう一方の手首にも、足にも。
激痛に声が呑み込まれる。
じわじわと引き寄せられ、巨大な鬼の顎が、近づいていた。振りほどこうと〓《もが》くのだが、なんの抵抗にもなっていないのがわかる。
幾重にも並んだ炎の牙《きば》の列が音を立て、生臭い息が吹きかけられた。
「チクショウ!」
無性に腹が立つ。
人ではない、生命でもないものが、己《おのれ》の怨《うら》みを声高に叫び、襲いかかろうとしているのだ。
怨みを買うようなことをしたのだと、少しでも自覚できれば話はべつかもしれない。しかし、大輔は化け物達を殺しているという意識など、まったくなかった。
「何をしたっていうんだ! 聞いてやろうじゃないか! ええ? 言ってみろよ!」
全身から、怒りの炎が噴き上がるようだ。
おそらく、現実にそうなのだろう。
紅蓮《ぐれん》の炎がひるみ、腕の自由が戻る。
苛立《いらだ》たしげな、腹の底に響く唸《うな》り声があがった。
「言えよ! 言ってみろ!」
顔をかばうようにかざした腕が冷たい。
痛みは相変わらずだが、顔を守るために腕が冷気を発しているのだ。
手足を戒《いまし》める炎の勢いが、再び蘇《よみがえ》ってくる。
物質ではない炎は、衰《おとろ》えるということがないのだろうか。
腕が左右に引かれる。渾身《こんしん》の力を込めて逆らっても、肘《ひじ》が伸びていった。
目の前に迫る紅蓮《ぐれん》の炎の鬼が笑う。
漏《も》れる息も炎だ。勝利を確信して笑う鬼は、巨大な口をいっぱいに開くと、炎の牙《きば》を肩に食い込ませた。
「ぐう……」
歯を食いしばっても、声が漏《も》れた。
長い牙が心臓に突き刺さる。鼓動《こどう》が全身に伝わって身体が跳《は》ね上がり、無様な悲鳴がほとばしる。
――ざまあねえな――
痛みが遠退《の》いてゆく。
このまま死ぬのだろう。
ひょっとすると、美香《みか》もこうやって殺されたのだろうか。病院の真っ白なシーツの上で、黒焦《くろこ》げになっていた女も、炎の鬼に襲われたのか。
焼け焦げもない床の上で、炭になった自分を発見するのは誰だろう。
おそらく、母親だ。
――驚くだろうな……――
すべての感覚が薄れてゆく。
炎の赤さえ見えなくなり、目の前に闇が広がった。
3
「何やってんだ? お前……」
「ぎゃっ!」
肩を掴《つか》まれ、大輔《だいすけ》は悲鳴をあげた。
「なんだそれ……。いくら驚いたって、そりゃないだろ」
全身に脂汗《あぶらあせ》が浮いている。歯の根も合わないほど寒い。炎に対抗しようとして、大輔の身体は冷気をまとっていたのだ。
それが、化け物共を叩き切っている自分の特性の一部なのか、それとも身の内に潜《ひそ》む男の力なのかは、わからない。
だが、命が助かったことだけは確かだった。
「おいおい……どうした? 熱でもあるのか?」
うっそりと顔を上げた大輔は、目を瞬《しばたた》かせた。
「兄貴……」
のろのろと上半身を引き起こし、目の前の男を見つめた。
「なーにが兄貴だよ。人の顔見て悲鳴あげやがって。どうしたんだよ。オバケでも見たのか。ああ?」
兄の顔をつくづくと眺《なが》めて、大輔は大きな息を吐《は》いた。
六歳年上の兄、修一《しゆういち》。大学を卒業した後、そのまま独身寮のある会社に入ってしまい、正月ぐらいしか帰ってこない兄が、どうしてここにいるのか。
「大輔?」
「どうして……。会社、クビになったんか?」
「馬鹿《ばか》言うんじゃねえよ。有給。昨日《きのう》、結婚式だったんだ」
「兄貴の?」
「馬鹿!」
音を立てて大輔の額《ひたい》を叩いた修一は、眉《まゆ》を寄せた。
「どうしたんだ。氷みたいだぞ」
「ちょっと、貧血……」
「そんなガラか?」
それでも、大輔の前に屈《かが》み込んで顔を覗《のぞ》き込む兄は、心配げな顔をしていた。
「ちょっとレポートで徹夜が続いてたからさ。……で、誰の結婚式?」
「高校の時の友達だよ」
見れば、巨大な白いビニールの袋が置いてある。
金で寿《ことぶき》の文字と鶴が印刷されているのが、引き出物の印だった。
「馬鹿《ばか》みたいに、でっけえだろ。これがクソ重いんだ。沢村《さわむら》の野郎、洒落《しやれ》めいたこと言ってたくせに、大袈裟《おおげさ》な式を挙《あ》げやがってさ……。いるか? 二人の写真入りの皿に、ワイン・クーラーとグラス」
大輔の視線に気づいたのか、修一は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
めったに一緒に外出することなどないが、そんな時でも二人を兄弟だと見破る人間などいない。それほど体格も、印象も違う兄は、ゆっくりと立ち上がった。
「何か食い物はあるか? ……と、お前に聞いても無駄《むだ》か」
「披露宴《ひろうえん》だったんだろ」
「昨日《きのう》って言ったろ。第一、金ばっかかけてロクなもんじゃねぇ。……わかるだろ?」
まあ、一理はある。いい加減に頷《うなず》いた大輔は、ささやかな忠告を付け足した。
「……けど、勝手に食い荒らすと、お袋に怒《ど》やされるぜ」
「お前ほど大食らいじゃないよ。……何か食うか? ついでに作ってやるぞ……」
父方の祖父の若い頃に瓜二つだという兄は、大輔より頭ひとつ小さい。華奢《きやしや》というよりは貧弱な身体つきだが、これでも高校の頃に比べれば、十キロは太ったと、自慢していた。
「おい、大輔。返事は?」
「いいよ。これから出かけるし……」
「どこへだ? まだ真っ青だぞ、お前」
立ち上がった弟を、兄は顎《あご》を突き出すようにして見上げた。
「またでかくなりやがったな。二十歳《は た ち》過ぎて、まだ伸びてるんか?」
「兄貴が縮《ちぢ》んだんだろ」
むっと顔を顰《しか》めた修一が、拳《こぶし》を繰り出す真似《まね》をする。
「馬鹿言うんじゃねえよ。……で、どこ行くんだ? 途中でブッ倒れても知らんぞ」
「リョウん家《ち》だよ」
「リョウ? ……ああ、あの悪魔祓《ばら》いの一家か」
「悪魔祓いね……。まぁそんなモンか……」
ふと、大輔は眉《まゆ》を寄せた。
「兄貴……。兄貴は幽霊とか見たことあるか?」
「幽霊? ないぞ、そんなモン。……お前、まさか幽霊を見てブッ倒れてたとか言うんじゃないだろうな」
「まさか。そうか……やっぱり見ないんだな……」
外見はどれほど違っていても、やはり兄弟なのだ。修一も超常現象には縁《えん》がないらしい。遺伝的な体質なのか、それともたまたま鈍い人間が二人、兄弟だっただけの話か。
どちらにしろ、修一には、あの炎の化け物は見えていなかったのだろう。もしかすると、炎の鬼を追い払ってくれたのも、修一かもしれない。
大輔が自分では意識せずに化け物を打ち払っているというのなら、血を分けた兄が同じことをしてみせても、驚くには値しなかった。
「どうしたんだよ。幽霊なんて……。やっぱりおかしいぞ、お前。寝たらどうだ?」
自分が幽霊などと口走るのが、そこまで妙だと言うのだ。
確かに、つい数か月前までの大輔なら、自分から幽霊話など持ち出したりはしなかった。
「ちょっとね。カノジョが見えるとか見えないとか言いだして……」
眉《まゆ》を引き上げた修一は、大輔の言葉を全面的には信用していないようだ。それでも、引き止める気はなくなったらしい。くるりと背を向けると、背の低い間仕切りの向こうに引っ込んだ。
「……おい、兄貴。鍵《かぎ》持ってないんだろ? 誰かが帰ってくるまで、ちゃんと家にいろよ」
冷蔵庫の中身を調べ始めた修一に、とりあえず念を押しておく。
「ああ、今日は泊まってく」
「さびしい奴だな……」
大輔がぼそぼそと呟《つぶや》くのを聞き咎《とが》め、修一がちろりとこちらを見やる。
「なんだって?」
「なんでもないよ。じゃあな」
ぱたぱたと手を振ってみせると、大輔はリビングを出た。
ガラス戸越しにリビングを眺《なが》める。
やはり、リビングで炎に襲われたなどと言っても、この家の人間は誰も本気にはしないだろう。妙に腹立たしい気分で、背を向ける。
途端に、トイレのドアが目に入った。
思わず足がすくむ。
ドアを睨《にら》みながら、そろそろと足を進めた。
ようやくドアの前を通り過ぎ、ほっと息を吐《は》く。
玄関に辿《たど》り着《つ》いた時には、必要以上に疲れていた。自分でも情けないとは思うが、あの炎への恐怖と衝撃はよほど強烈だったのだろう。
靴を履《は》き、また溜《た》め息《いき》。
玄関の扉《とびら》に手をかけようとした途端、背後でガラス戸が乱暴に開いた。
口から飛び出しかける悲鳴を呑《の》み込むと同時に、声がかかる。
「大輔!」
兄の声に思わず安堵《あんど》の息が漏《も》れた。
「なんだよ……」
「帰り遅くなるのか?」
「ああ、そんな遅くは……」
振り返りながら応じると、リビングのガラス戸を押し開け、見知らぬ男が立っている。
だが、次の瞬間。
「途中でぶっ倒れるなよ」
そう言って、にっと笑ったのは、見慣れた兄の顔だった。
竜憲《りようけん》に来てもらうべきだろうか。一瞬、そんな考えが頭を過《よぎ》る。
だが、その考えは即座に却下された。ここに呼ぶということは、修一と竜憲が顔を合わせるということだ。大輔以上におまじないの類《たぐい》はいっさい信じない修一が、竜憲に興味本位で何を聞くか、想像するだけで頭が重くなる。
何より、竜憲を呼び出すためには、兄の前である程度のことは話さなければならないのだ。それを修一が家族に話した日には……。考えただけで目眩《めまい》がする。
恐怖やおぞましさに、見栄とプライドが勝った。
「いや……お袋に晩飯いらないって言っといてくれ」
「ほいよ」
兄の顔が引っ込むのを待って、大輔は玄関を出た。
太陽が妙に眩《まぶ》しい。そろそろ秋風が冷たくなる頃だろうに、空気も生温《なまあたた》かい感じがする。気候まですっきりしないのが、なんとも苛立《いらだ》たしい。
大輔は生温かい大気の中に足を踏み出し、うっそりと周囲を見回した。
いつもの風景。
日中の新興住宅地の、いかにも作りものじみた静寂《せいじやく》があたりを支配している。立派な体裁を整えていても、大輔の家同様、共働きで、半分の家には誰もいないのだ。事情はそれぞれにしろ、不自然な静寂の原因というわけである。
気にしはじめると、何より不気味な環境だった。
何も起こらない。何も起こらない。
自分に繰り返し言い聞かせ、大輔は静かな住宅街を歩き始めた。
側溝は乾いているのか、火を噴く気配はない。
その先の小川。
それが炎に変わってしまえば、逃れる術はない。だが、兄が現れたと同時に、水は水に戻ったのだ。
その効果がまだ続いていると信じたい。
足早に住宅街を抜けながら、大輔は初めて特殊能力を持つ者の、孤独を味わっていた。
どれほど危険な目にあっていようと、誰にも理解されないのだ。それどころか、彼を手助けしてくれる人間は、ひどく限定される。通りすがりの人間が、警察に通報してくれるなどという善意を期待することもできない。
そもそも、警察に対処できるものではないのだ。
唇《くちびる》を引き結んだ大輔は、細い流れを目にした瞬間、肩の力を抜いた。
急な坂道を下って、住宅街のメイン・ストリートに出る。左に曲がれば、すぐにバス停だった。
誰かがバス停の前に立っている。どうやら、タイミングはよかったようだ。駅まで歩いてもそれほどではないが、バスがくるならちょうどいい。
バス停に立った男が、こちらに気づいて、わずかに微笑《ほほえ》んだ。
ぞくりと背筋が凍《こお》る。
どこかで見た顔。そうついさっき、リビングの扉《とびら》から顔を覗《のぞ》かせた男だ。
頭から血が引いた。
それに。
――階段教室の男だ……――
いまさらのように思い出す。
講義の終わった教室の真ん中に、ぽつりと座っていた男。
あの時は学生だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。そのうえ、今度はすぐには消えてくれなかった。
金縛《かなしば》りにあったように、その場を動けない。
先程の恐怖が脳裏を過《よぎ》り、家族への見栄など瞬時に吹き飛んだ。なぜ、竜憲に電話をしなかったのか。後悔の念が一気に湧《わ》き上がる。
突然、目の前を黒い影が過った。
その瞬間に、身体の自由が戻る。
影がバスだと気づくのに、少しばかり時間がかかった。停留所には止まらずに、バスは走り抜けていく。
バス停の前をバスが走り抜けた瞬間、男の姿は忽然《こつぜん》と消えていた。
髪がざわざわと逆立つ気がする。
大輔は反射的に、バスを追って走り出した。
と、急にバスが止まる。
一瞬、躊躇《ちゆうちよ》したものの、大輔は自分のためにドアを開いたバスに飛び乗った。
数人しかいない乗客達の視線が、一斉《いつせい》に大輔に向けられる。
中年婦人の二人連れに、小学生くらいの子供が三人。それに小柄な老人。セールスマン風の男もいる。
だが、あの妙な男の顔はない。
ほっと胸を撫《な》で下ろした大輔は、乗車整理券を取ると、運転手に軽く頭を下げた。
「すみません……」
仏頂面《ぶつちようづら》をした運転手だったが、わざわざ止まってくれたあたり、存外に人の善《よ》い男なのだろう。
大輔は、もう一度息を吐《は》き、空《あ》いた席に腰を下ろした。
第三章 死にたがる人々
1
「あら……いらっしゃい」
大道寺家《だいどうじけ》の玄関前に立った途端に、明るい声がかけられる。
「あ、どうも」
庭に続く小さな木戸から真紀子《まきこ》が、こちらを覗《のぞ》いていた。ぺこりと頭を下げた大輔《だいすけ》に、にこやかに微笑《ほほえ》みかける。
「ちょっと待ってね」
「リョウ、部屋ですか?」
「そうだと思うけど……上がってらっしゃって、呼んでくるわ」
「いいですよ。部屋に行きます」
「あら、そう。じゃ、お庭にいるからって言っておいてちょうだいな」
「はい」
この家に辿《たど》り着《つ》いたからなのか、それとも竜憲《りようけん》の母親の顔を見たからなのか。とにかく、大輔はひどく安心していた。
上がり口に靴を揃《そろ》えていると、竜憲が現れる。
「大輔……ちょうどいいとこに来た。電話しようかと思ってたんだ」
「なんだ」
大輔が気の抜けた顔をして見上げると、竜憲はしげしげと眺《なが》め下ろした。
「なんだってのはなんだ?」
「嫌《いや》な顔するなよ。……だったら、待ってりゃよかったと思ってさ」
「……お前、少しは歩いたほうがいいぞ」
車のお迎えを期待していたとでも思ったのか、呆《あき》れ顔で諭《さと》す竜憲を、大輔は眇《すが》めた目で見上げた。
「違う……」
「何が?」
「いいから、お前の部屋に行こうぜ。……話があるんだ」
「そりゃ、話があるから――」
「……だから!」
竜憲の腕を掴《つか》み、大輔は廊下を歩き始めた。
「なんだよ……おい」
そのまま、竜憲の部屋に向かう。
まったくの素人の自分とは違って、対処方法や撃退方法も知っているはずだ。何より、この家でなら、少々妙なことが起こっても、誰も驚かないだろう。
「おい、大輔。どうしたんだよ」
「ちょっと、話があるんだよ」
部屋に入るなり、周囲を見回す。
水の入っていそうなものは、何もない。玄関の花の生《い》けられた水盤にも変化はなかったし、何より、ここに辿《たど》り着《つ》くまで、問題はなかったのだ。
ほっと息を吐《は》いてベッドに腰を下ろす。
「なんだかね。……どうしちゃったのさ」
机の上の灰皿を取った竜憲は、一つを大輔に手渡した。
「それより、俺に電話ってなんなんだ?」
「ちょっとね……。確かめてもらいたいことがあってさ……」
ぎごちない笑みを浮かべた竜憲は、床に腰を下ろすとベッドに背中を預けた。
胸のポケットから煙草《たばこ》を引き出し、オイル・ライターを点《つ》ける。
ぎくりと背筋を凍《こお》らせた大輔は、その炎を無言で見据《みす》えていた。
おとなしく燃える小さな炎ですら不気味に見える。いつそれが巨大な鬼になるかもわからないと、考えてしまうのだ。
「どうした、変な顔して……」
ぱちりと音を立てて、オイル・ライターの蓋《ふた》を閉めた竜憲は、小さく笑った。
「何かあったみたいだな。今度は、爺《じい》さんの幽霊でも見たのか?」
「まあな……。それより、俺が確かめることってのは?」
煙を吐き出した竜憲は、大輔を見上げた。
唇《くちびる》を尖《とが》らせて煙を吐き出す竜憲は、少し拗《す》ねているようにも見える。
化け物と戦った直後なだけに、ひょっとすると姫神《ひめがみ》が見えるのではとも思ったが、実際は見馴《みな》れた青年がふてくされているだけだった。
妙に子供っぽい表情だ。
苦笑を浮かべた大輔は、自分も煙草を取り出した。
――これは、本当の火なんだ――
震《ふる》える手を叱《しか》りつけて、火を点ける。
「……この前さ、あんたとハンズに行った時、飛び降りを見ちゃったって言ったの、覚えてる?」
「あぁ? ……ああ。けど次の日の新聞にゃ出てなかっただろう? 錯覚じゃないのか?」
「じゃあ、線路の真ん中で人がうずくまってるってのは? ホームから飛び込む女の子とか、橋から飛び降りる男とか……」
「おいおい……」
ふた口しか吸っていない煙草を灰皿にねじ込み、竜憲は大きく溜《た》め息《いき》をついた。
小さなクリスタルの灰皿の底を煙草で拭《ふ》き、執拗《しつよう》につぶしてゆく。紙が破れて煙草がこぼれ、フィルターだけになっても、まだ灰皿の底をこすり続ける。
「リョウ。どうしたんだ?」
「たまんないよ。小学生ぐらいのガキまで、歩道橋から飛び降りたりするんだ。……全部幻《まぼろし》なんだけどさ」
だったらいいだろ、とは言えない。物質的な力はない単なる幻でも、充分に脅威《きようい》になることを、大輔はついさっき身をもって味わわされていた。
「それって、化け物の仕業《しわざ》か?」
「まぁ、化け物のうちのどれかだろうな。死にたがる人間の思いを、そのままこっちに見せているんだと思う。……こんなに人が死にたがっているなんて、知らなかったよ……」
「そりゃ……。一度も自殺を考えたことがない人間は、どっかおかしいそうだからな。心理学の教授に言わせりゃあ……。もっとも、俺はそのどっかおかしい人間のほうに入っちまうんだが……」
目を瞬《しばたた》かせた竜憲は、小さく、口もとだけで笑った。
本当に参っている。
自殺を考えるぐらいなら、どうやって事態を打開するか、そればかり考えている大輔には、理解できなかったが、確かに世の中には死にたがる人間もたくさんいるのだろう。
実際に行動に移す人間は、何百分の一、何千分の一か。とにかく少ないのは確かだ。さらに成功する人間となると、もっと少ない。
単なる思いつきや、一時的な感情で自殺を考える人間の姿を、いちいち見せられていたのでは、竜憲でなくとも参ってしまうだろう。
「俺のほうはそれだけだけどね。あんたにも見えるんじゃないかって思って……。見えないほうが幸せだけどね。――正体が知りたいじゃない」
言い訳がましく言葉をつけ足した竜憲の頭を、大輔は軽く小突《こづ》いた。
苦笑いを浮かべる竜憲が、その手を叩く。
「お前……俺をまたお守りにする気だったな?」
「まあね。……けど、見たくないぞ」
「それはわかる。俺がついてるぐらいで見えないんなら、付き合ってやってもいいぞ。……で、どこへ行く気だったんだ? これから出るんじゃ、どこも帰宅ラッシュだろ」
尻を前にずらせて、ベッドに頭を預けた竜憲は、大きく息を吐《は》いた。
「じつは……、彼女の正体を探《さぐ》ろうと思ってさ……。こう妙なことが続くんじゃ、いい加減嫌《いや》になるだろ? 親父《おやじ》もいないし、鴻《おおとり》は、何か調べものをしてるみたいだし……。今なら、抜け出すのも簡単だしな……」
こんな時間から、どこでどうやって調べようというのか、まったく理解できなかったが、大輔はあえて口にしなかった。
霊能者《れいのうしや》というものが、常人には考えつかないようなものから、情報を得ることはわかっている。
どういう仕組みなのか、考えるだけで嫌《いや》になるのだが、壷《つぼ》や人形と会話するのだ。
今度は、本人が呪《のろ》いの壺《つぼ》になっているだけに、どうやって話をする気なのか、少しばかり興味があった。
「けどまぁ、今日は中止だな」
「え?」
「庭でかあさんに会っただろ? これ以上晩飯をパスすると、また臍《へそ》を曲げる」
目を見開いた大輔は、にっこりと笑う同い年の男をつくづくと眺《なが》めた。
今時、二十歳《は た ち》を過ぎた息子に、夕食を家でとれと強要する親も親だが、言いつけを守る息子というのにも、めったにお目にかかれないだろう。
「幸せな奴だな……」
「何がだよ。あんたがこの前、俺を呼び出しといて、そのまま帰っちゃっただろ? あれからうるさいんだよ。――今度は、必ず夕食をご一緒《いつしよ》してもらってね――だってさ」
声色《こわいろ》を作った竜憲は、肩をうごめかせて座り直した。
「で、あんたの用は? 晩飯さえ食ってってくれるんなら、たいていのことは協力するよ」
露骨に眉《まゆ》を寄せた大輔は、もう一度部屋を見回した。
「どうしたのさ。何か見える?」
「いや……。この部屋に水はあるか?」
「ないけど……。汲《く》んでこようか?」
「やめてくれ!」
大声に、竜憲がびくりと肩を緊張させる。
ゆっくりと振り返ると、腰を浮かせて大輔の隣《となり》に座り直した。
「あんた、変だよ。どうしたのさ……」
変だということに関しては、充分自覚している大輔は、軽く咳払《せきばら》いすると、竜憲の顔を正面から見据《みす》えた。
「……水が、火になる……」
これだけで、何かがわかるはずもないのに、大輔はいったん言葉を切った。
しかし竜憲は口を挟《はさ》もうともせずに、まっすぐに大輔を見据えている。
「最初から言うとだな。……大学のノートに、へたくそな字が書かれてたんだ。読むのがやっと……っていうか、すでに読めない字っていうか……。そうだな……小学生か、幼稚園児の字ってとこだ。で、家で解読しようとしたら、突然、炭になった。字が白くなってな……」
短くなった煙草《たばこ》を灰皿に押しつけた大輔は、肩で息を吐《は》いた。
自分で言っておきながら、三流の怪談話をしているような気になる。合宿やコンパで、女の子を怖《こわ》がらせるためだけにでっちあげる、できの悪い怪談。だが、事実大輔の遭遇した事件はできの悪いホラー映画だった。
「怨《うら》みを忘れるな。いつまでもつきまとってやる。血反吐《ちへど》を吐いて死ね。……っていう脅迫だな。それに、水に近寄るな、火になる。そう書いてあった」
「それは?」
初めて、竜憲が口を挟む。
真剣な表情は、彼がこれを作り話だとは思っていないことを教えてくれた。
大輔が聞かされたのなら、一笑に付すだろう。現実味がないこと、このうえないのだ。
「……それって、紙のことか? ……捨てたよ。普通の灰……っていうより、真っ黒の炭だな。ティッシュで簡単に拭《ふ》き取れたぜ。……で、胸糞《むなくそ》悪いから、親父《おやじ》の酒でも飲んでやろうと思ったら……ミネラル・ウォーターが火を噴きやがった。絨毯《じゆうたん》とか、床とかは無事だけどな。花瓶やらトイレまで火を噴いて、そりゃもうホラーだったぜ」
竜憲の手が伸びる。
「ちょっと目を閉じて。……その火を思い出してくれる?」
額《ひたい》の直前。触《ふ》れるか触れないかのところに手をかざして、竜憲は目を細めた。
「イメージだけでいいからさ……。喋《しやべ》ったほうが思い出しやすいんなら、それでもいいよ……」
言いながら、額の前でゆっくりと手を振る。
目を閉じた大輔は、炎が形作った鬼の顔を思い出していた。
「……熱くはないんだ。痛いけどな……。死ぬかと思ったぜ。ひょっとしたら、本当にそうだったかもな。たまたま兄貴が帰って来て、おかげで消えたんだが……。ひょっとして、あれも幻《まぼろし》か?」
竜憲は何も応じない。
仕方なく、大輔は言葉を続けた。
「食いつかれたんだけどな。手足もえらい勢いで締めつけられたし……。けど、跡は残っていない。……ひょっとすると……。美香《みか》もこうやって死んだのかな、とまで思ったぞ」
「……もういいよ……」
目を開いた大輔は、苦しげに顔を歪《ゆが》める竜憲に、ぎごちない笑みを見せた。
「わかったか?」
「まあね。……確かに、怨《うら》みだな」
「誰の? ……てえより、俺が手当たり次第に化け物を殺してるからか? こっちはなんも覚えてないんだが……」
「違う」
それだけ言った竜憲は、ベッドから立ち上がり、小さく舌を鳴らすと、もういちど腰を下ろした。
「……と、鴻さんはいないんだっけ」
「こんな時だけ、さん付けか?」
「まあね……」
ひょいと肩をすくめた竜憲は、右手の手首を指が白くなるほど、強く握っている。
何が現れたのか、見たのだろう。
確かに、そのために手をかざしたのだろうが、あんなものを見たのなら、気分が悪くなって当然だ。
そのうえ敵の正体がわかっているらしい。
「で、あれはなんなんだ? わかったんだろ?」
「……まあね……」
言いよどむ竜憲を助けるかのように、電話が鳴った。
いつもなら、十回コールしなければ出ないことがあるくせに、さっさと手を伸ばす。
それほど言い難いことなのだろうか。
唇《くちびる》をへの字に曲げた大輔は、煙草《たばこ》に火を点《つ》けた。
「ああ、おばさん。お久し振りです……」
親戚からの電話だろうか。そういえば、竜憲から親戚の話など聞いたことがない。
聞くとはなしに聞いていた大輔は、精一杯煙を吸い込んだ。
「なんだって! サコが! ……わかりました。はい。……はい。じゃ、すぐに……」
受話器を叩きつけるように切り、竜憲はそのまま部屋を飛び出した。
「かあさん! かあさん!」
煙草をもみ消した大輔は、慌《あわ》ててその後を追った。
2
「え……先輩まで……。やだぁ。来ないでくださいよ。こんなみっともない……」
バイクで事故にあったという沙弥子《さやこ》は、案外元気な声で騒《さわ》いでいた。
膝まで切り開かれたパジャマからのぞく右足は、ギブスで固定されている。顔にも包帯が巻かれているが、それは擦《す》り傷《きず》ということだった。
「どうしたんだ? お袋を連《つ》れて来てくれだなんて……。何かあったのか?」
「あ、リョウちゃん。……ごめんね。呼び出しちゃって……。ちょっと変なことがあってさ。それをお袋に話したら、おばさん呼ぶって、騒いじゃって……。まいったな、言い訳だったのに……」
学校で禁止されているバイクを乗り回していて事故にあったとなると、よほど上手《う ま》く言い訳しなければならないのだろう。
沙弥子の両親は、娘がバイクに乗ることをしぶしぶ認めてはいたが、何かあれば取り上げようと、てぐすねひいて待っているという話だった。
「……で、おばさんは?」
「外。……親父《おやじ》がいないから、俺が代わりに話を聞くってことで、お袋はおばさんの話を聞いてるよ」
「なーるほど。よくわかってらっしゃる。さっすがリョウちゃんね」
足を吊《つ》られて、腕と顔を包帯で巻かれる、という壮絶な姿のくせに、沙弥子はいつもどおりだった。
大輔《だいすけ》がいるので強がっているだけかもしれないが。
「本当にたいしたことないのよ。……ちょっと気持ち悪い悪戯《いたずら》電話があってさ……。それが普通じゃないって、お袋に言った直後だったから……」
「悪戯電話?」
聞き返した竜憲《りようけん》は、ちらりと大輔に目をやった。
大輔も無言で頷《うなず》く。
普通の悪戯電話でひるむような娘ではないのだ。一度など、あまりにも可笑《お か》しいといって録音して、それを聞かされたことまである。
気持ちが悪いと言うからには、それなりの裏づけがあるはずだった。
「……だからさ。すっごい陰湿なの。切ったら、家を探し出して嫌《いや》がらせしてやる……って。それが普通じゃないのよ。こう、悪意がビンビン伝わってきてさ……。ひょっとしたら……ううん。絶対、あれは死んだ人だよ」
それは気持ちが悪いだろう。
ただし、相手が死人の場合と、生きた人間と、どちらのほうが気持ちが悪いかと言われれば、答えに困る。
たいていの場合、死人は威《おど》すことはできても、行動には移れない。しかし、人間なら何をするかわからないのだ。
しかも、幽霊を返り討《う》ちにして消滅させても何も言われないが、相手が人間の場合、怪我《けが》をさせただけで犯罪になる。
「死人でよかったじゃないか……」
「ま、ね。生きてるヘンタイのほうが始末が悪いけどさ。……で、バイクで走ってたら、目の前に飛び出されたのよ。その、幽霊か、生きたヘンタイかわからない馬鹿《ばか》に……。ああもう。バイクはオシャカだわ……。一年がかりでバイトして買ったのにぃ……」
と、突然、沙弥子は大輔に手を合わせた。
「センパイ! 感謝してます!」
「あ?」
わけもなく感謝しているなどと言われても、混乱するだけだ。
目を瞬《しばたた》かせた大輔は、問いたげな視線を竜憲に投げた。
竜憲も首をすくめるしかない。
「姉崎《あねざき》先輩って叫んだら、消えちゃったんです。先輩に押しつけちゃったかもしんないけど、先輩なら平気ですよね」
頬《ほお》を引きつらせた大輔は、曖昧《あいまい》に頷《うなず》いていた。
押しつける、というのがなんなのか、彼にはわかっていないのである。
しかし、竜憲はまったく別のところで不機嫌《ふきげん》になっていた。
せっぱつまった瞬間、沙弥子は大輔の名を呼んだ。霊能者《れいのうしや》としては、大輔よりずっと身近にいるはずの自分より、大輔を選んだのだ。
もっとも、咄嗟《とつさ》の場合、必ず解決できる人間に押しつける、というのは、沙弥子のように見られるだけで戦う能力のない人間が、無意識に用いる手段だった。
「サコ。今までにも、大輔を呼んだことある?」
「え? ないよ。そんな……。いくらなんでも……」
沙弥子が他人に押しつけられるぐらいのものなら、たいした力は持っていないだろう。
心配することはない。
母親がここについている必要さえないだろう。
「まぁ、人に押しつけるのはいいけど、もう少し考えるんだな。家から出なければ、こんな目にあわずにすんだんだ。……とにかく、退院するまではお袋についててくれるよう頼むから……。おとなしくしてろよ」
それでも、竜憲は慰《なぐさ》めるように笑ってみせた。
用心に越したことはない。
自分が否応もなく見てしまう、死への願望。そして大輔を襲った遺恨《いこん》。さらに沙弥子まで奇妙な死者がまといついているとなれば、できるかぎりの予防処置を取ったほうがいいだろう。
自宅に帰りさえすれば、律泉《りつせん》の家を守る式神《しきがみ》が、化け物を排除してくれるはずだった。
「大丈夫。明日には検査の結果がわかるから……。足だってギブスはめられちゃってるけど、ただのネンザだし……」
「そうか……」
笑みを浮かべた竜憲は、大輔の肩を軽く叩いた。最初から口を挟む気はなかったのだろう。大輔は小さく肩をすくめて見せただけだった。
「じゃ、お袋を入れてもいいな……」
「うん。……ごめんね。余計な心配かけちゃって……」
事故を起こした直後とは思えないほど、なんの精神的ダメージも受けていない娘は、ひらひらと手を振った。
ドアを開けて、廊下で話し込んでいる二人の母親に視線を投げる。
沙弥子によく似た、はっきりとした目鼻立ちの女は、何度も真紀子《まきこ》に頭を下げていた。
こういった場合、誰より役に立つ人間だということは、夫から聞いているのだろう。なんの疑問も抱かずに、他人に娘を任せようとしている。
「竜憲さん。本当にすみません。……で、何かわかりましたか?」
数代前までは、大道寺家《だいどうじけ》と同じような商売をしていただけに、律泉の人間も霊能力《れいのうりよく》というものを、信じてくれる。それだけに話しやすい相手だった。
「たいしたことないですよ。ちょっと驚かされただけだと思います。昔なら、転《ころ》ばされたぐらいですんだんでしょうけど」
「だから、バイクなんてやめろって言われているのに……」
「まぁ……」
曖昧《あいまい》に笑った竜憲は、母親に向き直った。
「一応、鴻《おおとり》さんに言っとくから」
「ええ。お願いね。……それと、お夕飯は冷蔵庫に入っているから。……姉崎さんも、どうぞ召し上がってくださいね」
大輔はぺこりと頭を下げた。浮き世離れした女だと思うが、不思議《ふしぎ》と苦手ではない。どちらかというと、いい母親だと思う。
「ごちそうになります」
「ええ。たくさん召し上がってね」
「はい」
大輔は重ねて念を押す真紀子に、曖昧《あいまい》に笑い返した。
大食いの子供を見るのが何よりの楽しみだという真紀子は、彼女の心尽くしの料理が、瞬《またた》く間《ま》に消えてゆく現場に立ち会えないのが、一番心残りなのだろう。
「じゃあ、もし、車がいるようだったら、いつでも呼んでよ」
「お願いね」
穏《おだ》やかな微笑《ほほえ》みを見せる女と、深々と頭を下げる女。
二人の女は声を潜《ひそ》めて話し合いながら、沙弥子の病室に消える。
扉《とびら》が閉じると同時に、竜憲と大輔はどちらともなく互いの顔を見合わせると、広い廊下を静かに歩き始めた。
「なんか、つい足音立てないようにとか、考えちゃうよな」
不意に大輔が口を開く。
「あん? そういや、そうだよな。俺達、頑丈《がんじよう》だけが取りえだもんな。縁《えん》がないぶんだけ、緊張しちゃうってやつ? 親父《おやじ》が入院した時もそうだった」
緊張という言葉が、しっくりときたらしく、大輔は納得顔で頷《うなず》いた。
「……むやみに緊張するんだよな」
「健康の権化《ごんげ》みたいだもんね。あんたは……」
「なんでだろうな。病院て、いかにも病院……て感じなのは……」
ぼそりと大輔が呟《つぶや》く。
「は?」
「それこそ、昔の診療所とかはさ。消毒薬の臭いとか、看護婦さんや医者の白衣とかが、病院……て感じだっただろ?」
「そういや、でっかい病院で目も痛いような、真っ白な白衣って見ないな」
「でも、やっぱり病院は病院だろ?」
そう問われて、竜憲は広い廊下の左右を、ちらりと見やった。
竜憲のイメージの中の病院といえば、白々しく明るい病室と、広いばかりで薄暗い廊下。大輔とは少々違う。
だが、それ以前に、なぜ大輔がこんなことを言い出したのかわからない。もっとも、ただの無駄話《むだばなし》と言ってしまえばそれまでだが。
何しろ、意味のないことを、大袈裟《おおげさ》に話してみせるのは、彼の最も得意とする分野だ。
「何言ってんだかなー。それって、病院のイメージ戦略は無駄って言ってんの?」
「そういうことじゃなくて……」
「じゃ、どういうこと? 病人がいるから病院なんだもん。こればっかは、しょむないんじゃない?」
「病人がいるから? ……だよな」
「わっかんないヤツ」
目を眇《すが》めた大輔は、竜憲の顔をしげしげと眺《なが》めた。
「……病人……てことは。なかには死にた……」
「あーっ! やめろ! 馬鹿《ばか》!」
突然、声を張り上げた竜憲を、大輔は呆《あき》れ顔で見つめた。
「静かにしろよ……病院だぞ」
「変なこと言い出すなよな。……あーあ、帰りが憂鬱《ゆううつ》」
「その程度か? 大仰《おおぎよう》なこと言ってたくせに……」
竜憲の顔に邪気のない笑みが浮かぶ。
「サコのほうはたいしたことなかったみたいだしさ。俺らのは、いつものことだろう?」
「おいおい……のんきなこと言うな。お前は知らんが……俺は二度とごめんだぞ。あんな目にあうのは」
「まあまあ。そのうち、なんとかなるって。……真剣に悩むと、つけ込まれるぞ」
悪気がないのはわかる。竜憲にしてみれば、軽い冗談のつもりなのだろうが、大輔にとっては簡単なことではなかった。
それほど、肝《きも》の据《す》わった人間ではないのだ。とりあえず、恐怖が心臓を止める可能性のある、ごく普通の人間なのである。
妙に明るい顔をした竜憲を眺め、大輔は密《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を吐《は》いた。
沙弥子の件はともかくとして、自分や竜憲の周《まわ》りに起こることには必ず意味がある。少なくとも、竜憲が姫神《ひめがみ》に取《と》り憑《つ》かれてからは。
やみくもに姫神の気配につられて近づいてくる有象無象《うぞうむぞう》の雑霊もいるだろう。
だが、始末の悪いことに現実に悪さをするのは、そんなに簡単な連中ではないのだ。
確かに今まではなんとかなっていた。いまだに自分も竜憲も、ちゃんと人として暮らしていられる。
しかし、いずれは。
それも竜憲ではない。自分のほうが、おかしくなりそうなのである。
あの男に乗っ取られるのは、自分なのではないか。漠然《ばくぜん》とした不安でしかないが、そんな気がするのだ。
「なんだよ。深刻な顔しちゃって……」
「え……?」
「言ったろ? 弱みを見せると、つけ込まれるぞ。そういうもんなんだから……」
「そんな顔してたか?」
「ああ。もう、ばっちり」
「あ……そう」
「いつもの自信はどうしちゃったのさ」
大輔は片方の眉《まゆ》を上げて見せた。
小さく咳払《せきばら》いをした竜憲が、言い難そうに口を開く。
「でさ……。思いついちゃったんだけど……」
「なんだよ」
「あんたしばらくウチにいない?」
竜憲に顔を覗《のぞ》き込まれて、どきりとする。
「な……なんでだよ」
「なんでって……かあさんがサコに付いてるからさぁ」
口もとを歪《ゆが》めて見せた竜憲の肩を、大輔は軽く叩いた。
「ようは、お前のお袋さんがいない間ってことだな」
「そうそう。どうせ、明日にゃ、結果が出るし。……たださ……」
「わかってるよ。さっき律泉のお袋さんが、泊まれるように頼み込んでたの、一緒《いつしよ》に聞いてたじゃないか」
「悪いねぇ。ここんとこ、ロクなことないからさ」
「それは、ご同様。……だから、役に立つかは知らねぇよ」
一瞬、眉を寄せた竜憲が、にこやかに微笑《ほほえ》んだ。
だいたい、この笑顔につい魅《ひ》かれてしまう自分が、何より変である。わかってはいたが、それこそ真剣に考えると、不幸になりそうだ。
密《ひそ》かに溜《た》め息《いき》を吐《は》いた大輔は、それ以上考え込むのをやめた。
3
磨《みが》きぬかれた板張りの廊下が、かすかに軋《きし》む。我が家の廊下を歩いているだけだというのに、竜憲《りようけん》は心なしか足音を忍ばせて歩いていた。
家の中が、これほど不気味に思えたことはない。
母親がいないだけで、これほど家の空気が変わるのだ。彼女が滅多《めつた》なことでは家を空《あ》けない理由が、よくわかる。
この家での自分の役割を知ったうえで、彼女はこの家にいるのだ。もっとも、彼女の場合は、それが嬉《うれ》しいようだったが。
「おーい、大輔《だいすけ》。手伝ってくれよ」
居間の扉《とびら》を引き開けながら、声をかける。
「ありゃ……」
大輔の姿がない。
「どこ行ったんだ……」
室内をあらためて見回した竜憲は、ソファーの陰を覗《のぞ》き、ついでに廊下も確認した。
いかに気安い竜憲の家とはいえ、何も言わずに他人の家をうろつき回る男ではない。そのあたりは、堅《かた》すぎるほど真面目《まじめ》な男なのだ。
トイレにでも行ったのなら、台所の横を通るはずである。台所にいた竜憲が、気づかないとは思えなかった。
「なんかあったの……かな」
そうだとしても、妙な気がする。
首を傾《かし》げた竜憲は、ソファーに身体を投げ出した。
「まさか……ね」
といって、嫌《いや》な予感がするわけでもない。
当然ながら、必ず勘《かん》が働くとは限らないのだが。
「しょうがねぇなぁ……たく」
ソファーから立ち上がろうとした、その瞬間、電話が鳴る。
反射的に受話器を取った竜憲は、眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
例の勘が働かなかったのだ。相手が男か女か、受話器を取る前にわかる、ちょっとした特殊能力。
挙《あ》げ句《く》に、相手は何も言わないときている。
「――もしもし」
悪戯《いたずら》電話か。
電話を切ろうとすると、ひどく聞き取りづらい男の声が聞こえた。
『もしもし……あなたね、電話切ったりすると、必ずあなたの家探し出してね――』
沙弥子《さやこ》の言っていた悪戯電話だ。死人からの……。
しかし、なぜここに、かかってきたのか。
『聞いてる? 必ず探し出して嫌《いや》がらせするからね。もしもし……』
くだくだと死者の繰《く》り言《ごと》は続いている。
竜憲はしばらくの間、辛抱《しんぼう》強く、そのくだらない脅迫を聞いていた。何かの意思を汲《く》み取《と》ろうとしての辛抱だったのだが、何もわからない。ただの悪戯電話でしかなかった。相手が死んでいるか、生きているかの違いを除けば。
本当に、たいした相手ではないようだ。それこそ、沙弥子が簡単に誰かに押しつけることができる程度の相手。
「あんた……誰だ?」
圧《お》し殺した声で問う。
『誰でもいいよ』
突然声が変わった。
男の声であるところは同じだが、ぼそぼそと聞こえる暗い声ではなくなり、明瞭《めいりよう》に聞き取れる。
『……塚を壊《こわ》した……冤鬼《えんき》の塚を――水が燃え、炎が凍《こお》る』
「なんだって?」
『姫様に……』
「え?」
それきり、声は途絶《とだ》えた。
「もしもし! もしもし!」
返答はなく、通話音が忙《せわ》しなく繰り返す。
「くそう!」
音を立てて、受話器を置く。
その途端に、呼び出し音が響いた。
慌《あわ》てて受話器を取り、怒鳴《どな》る。
「もしもし!」
『……わっ……』
「誰? 大輔か……。何してんだよ」
『何してんだはお前だろ。わけのわかんないことくっちゃべって、切っちまいやがって……』
「は?」
『はっ? じゃねぇだろ。途中でおっぽり出して、何してんだよ』
「……何を?」
『お前なぁ……。食事の仕度《したく》だよ。食事の!』
どうやら、内線電話らしい。
「どこにいるんだ?」
『こっちの台詞《せりふ》だ! 馬鹿《ばか》!』
「もしかして……台所?」
『そうだよ。さっさと来い』
「……う……うん」
手荒く通話が切られ、竜憲は耳を押さえた。
「たく……もう」
受話器を置くと、のろのろと腰を上げる。
しかし、ようやく理解はできた。大輔がかけた内線の回線を、あのわけのわからない死霊《しりよう》の声が乗っ取ったのだ。どうやら、大輔が沙弥子に悪戯《いたずら》電話の主を押しつけられたのだけは確かだったようである。
問題は後の話し相手だ。
いったい、何を言いたかったのだろう。ひとつだけ確かなのは、大輔の言っていた悪戯書きと共通点があったことだ。
――水が燃え――
ここで考えていても、答えは出そうにない。
「エンキだったよな……」
自分に言い聞かせるように呟《つぶや》き、竜憲は居間を後にした。
それにしても、大輔とどこですれ違ってしまったのだろう。もともとは大輔を呼びに居間に行ったはずなのに。
大輔に聞けば、少しは何かわかるかもしれない。気が急《せ》いて、廊下を走り出した竜憲は、台所に駆《か》け込んだ。
「騒々《そうぞう》しいな。……何も走ってこなくても……」
電子レンジの前に立った大輔が、不機嫌《ふきげん》な顔で振り返る。
「ごめん……」
「ごめんじゃないだろ。……皿くらい出せよ。人ん家《ち》の台所なんて、どこに何があるのかわからん」
「あ……ごめん」
「だから……!」
今、切り出しても、怒りを誘うだけのようだ。気が急《せ》くことには変わりがないが、まずは手伝うしかない。
「……あんたに手伝ってもらおうと思って……さ。居間に行ったんだけど」
皿を棚から出しながら、小声で言い訳をする。
「手伝うって……電子レンジにかけるだけ……」
言いかけて、大輔が溜《た》め息《いき》を吐《は》く。
「……使ったことないんだろう……」
「ま……ね」
「それで、俺を呼びに?」
「ま……そういうことかな」
大輔が再び溜め息を吐く。
「ムニエルくらいだったら、ちゃんと焼いてやったのに。……情けない……。だいたい、お前のお袋は、お前がレンジも使えないこと知ってんのか? いい年して、なんでもお袋がかりの男なんて……」
捲《まく》し立てていた大輔が、不意に眉《まゆ》を寄せ、言葉を途切れさせた。
「なんで、行き違いになるんだ?」
ほとんど反射的に、竜憲はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「何笑ってる」
「変だと思うだろ?」
一瞬、間をおいて、大輔が頷《うなず》いた。
「回り道した……わけはないだろうな。――なんかあったのか?」
「おおあり」
皿を並べる手を止め、竜憲は片目を閉じてみせた。
「さっさと言えよ」
促《うなが》され、箸《はし》を出しながら、話の続きを始める。
「……さっきの電話だけどさ。インターフォン……」
「あ?」
「俺が切っちゃったって言ったろ」
「あ……ああ」
「そんとき、俺、悪戯《いたずら》電話の相手してた」
「あん? 混線なんかしてなかっ……」
大輔を遮《さえぎ》り、竜憲は話を続けた。
「あのサコの聞いたってやつ。――必ず探し出して嫌《いや》がらせしてやるって……」
混線はしていたのだ。死者の電話と。
意味がわからないと言わんばかりに、大輔の目が恐ろしく大きく見開かれた。
「――あんた本当に押しつけられてたんだ。死人の悪戯《いたずら》電話をさ」
「マジかよ……」
大輔の顔が青《あお》ざめている。
くすりと笑った竜憲を、大輔はぎろりと睨《にら》んだ。
「……悪い。……そんなことはどうでもいいんだ」
「なんだと!」
「まあまぁ。……最後まで聞いてくれよ」
大輔はむすりと口を閉じた。
旧式の電子レンジがチンと鳴く。
ぶつくさと言いながらも、大輔は皿を手にして、レンジに向きなおった。
なんとも、妙だ。いつものように、しかつめ顔を突き合わせて話すのがいいとは思わないが、台所で食事の仕度《したく》をしながら話すのも、変だ。
「話していい?」
「聞こえてるよ。お前も手を動かせ。メシくらいよそえるだろう?」
「はいはい」
しゃもじと茶碗を手に炊飯《すいはん》ジャーに近づく。
「こら……まさかそのまま、突っ込む気じゃ……」
「なんで?」
「もういいよ。言った俺が馬鹿《ばか》だった。お前は座ってろ」
大輔が皿を置き、しゃもじをひったくる。
「おばさんもおばさんだ。ここまで使いものにならないなら、お前になんぞ言わずに、俺に頼めよ。俺に……」
「思ってもいないんじゃないの……うちのかあさんの場合」
「使いものにならない息子ってことをか?」
「そうそう。自分が何もやらせていない……っていう意識もないだろうな」
小さく笑った大輔は、納得顔で頷《うなず》いた。
「それは言えてる」
「機嫌《きげん》なおった?」
大輔は片眉《かたまゆ》を引き上げた。
「じゃ、続き。――しばらく聞いてたんだけど、ほんとに陰険なヤツだったんだ。で、その電話の主に、誰だって聞いてみたんだよ。したら、途端に声が変わっちゃってさ」
「どんなふうに?」
「まともに……」
「まともって……」
「最初の奴は聞こえるか聞こえないかの声で、ぼそぼそ話してたんだけど、後の奴はごく普通。内容は、どっちも普通じゃなかったけどね」
眉《まゆ》を顰《ひそ》めた大輔を、ちらりと見やると、竜憲は流しの蛇口に視線を転じた。
「水は燃え、火は凍《こお》る」
「げっ!」
叫ぶと同時に、大輔の大きな身体が大袈裟《おおげさ》に飛び退《の》く。
半《なか》ば唖然《あぜん》と見つめる竜憲に気づくと、大輔はあからさまに顔を顰《しか》めた。
「からかったのか?」
竜憲は慌《あわ》てて、首を横に振った。
「違う、違う。ほんとにそう言ったんだ。……ホントだって。お前のノートの落書きには、炎は凍るってのはなかっただろう?」
「……ああ」
大輔は、不承不承ながら頷《うなず》いた。
「いい? それにまだ続きがあるんだ」
「空気が水になるとか言うなよ。溺《おぼ》れちまう」
「違う」
真顔になった竜憲を見つめ、大輔は手を止めた。
少しだけ間《ま》をおいて、竜憲はゆっくりと口を開いた。
「最初から言うと――塚を壊《こわ》した。エンキの塚を……。水が燃え、火は……じゃない……炎は凍る……だったかな。それから、姫様にって」
大輔は至極真剣な顔で聞いていた。頭の中では自分のもらった脅迫文と、比べているに違いない。
しばらくの間、竜憲は答えを待っていた。
やがて、大輔が、竜憲の正面に座る。
「ひとつ解《げ》せない」
「何?」
「それは、警告じゃないな」
「え? そう?」
「そうじゃないか。……そいつは姫様に報告しているんじゃないのか。そのエンキとやらの塚が壊れたって」
「そう……かな?」
「そうだろうが。……だけど俺がもらったメッセージは、脅迫と警告だった。――あっ!」
「なんだよ、急に……」
眉《まゆ》を寄せる竜憲を、大輔は穴があくほど見つめた。
「そうだ! なんか変だと思ってたんだ」
「だから、何が!?」
「……いいか。俺へのメッセージは……メモないか」
「メモ?」
竜憲が動くまでもなく、台所をぐるりと見渡した大輔は、ボードに下げられたメモ用紙とボールペンに目を留めた。
「もらうぞ」
攫《さら》うようにメモを取ると、テーブルの皿を避け、スペースを作った。
「怨《うら》みを……忘れるな――」
呪文《じゆもん》でも唱《とな》えるように呟《つぶや》きながら、ボールペンを走らせる。
――怨みを忘れるな
いつまでもつきまとってやる
血反吐《ちへど》を吐《は》いて死ね――
「な?」
書き連《つら》ねた単文を、竜憲に指し示すと、少し離してもう一文つけ加えた。
――水に近寄るな、火になる――
「これが?」
「言ってるだろ? この三行は完全な脅迫だろ? ……でもこいつは警告だ」
「だから!」
「頭使えよ、アホ。……お前の電話と同じだろ? 前半と後半の相手が違う」
「ちょっと違うけどな」
「わかってるよ。本質的には違うけど、言ってる意味はわかるだろ?」
「うん」
「今、思ったんだが、脅迫してるのは、そのエンキとやらで、警告してるのは電話の主じゃないのか?」
「ありそうだね」
「だろう?」
「うん」
頷《うなず》いた竜憲は、メモを引き寄せ、しげしげと眺《なが》めた。
「――でも何者なんだろ。第一さ。エンキってなんだ?」
「それがわかれば苦労はないだろう。鴻《おおとり》さんが帰ったら聞いてみるしか……」
不意に竜憲が、メモと大輔を見比べながら、くすりと笑う。
「どうした?」
「さすがにメモ魔のあんたも、これをメモしておく気にはならなかったわけだ。……と思ってさ」
むすりと大輔の顔が顰《しか》められる。
「そういう問題じゃないだろう?」
「……そうそう、そういう問題じゃない……」
そう言いながら、竜憲はくすくす笑いをやめなかった。
第四章 怨霊彷徨《さまよ》う
1
『怨《うら》みが生《は》えておりますな……』
耳もとでささやかれる声に、竜憲《りようけん》は眉《まゆ》を寄せた。
あの、化け物の声だ。大輔《だいすけ》の内に潜《ひそ》む、古代の戦士。そして、姫神《ひめがみ》の恋男。
姫神に従い、この世に彷徨《さまよ》い出た後も、彼女のために戦おうとしている。
一度など、大輔の身体から抜け出して、竜憲を抱きしめていた。
向こうは姫神を抱いているつもりなのだろうが。
「生える?」
身体が触《ふ》れる感覚はない。
もうずいぶん前のことになるのだが、自分の意思ではないとはいえ、男を抱きしめるなどという暴挙に出た大輔は、客間のほうで眠っている。そのせいで、古代の戦士は精神だけ、彷徨い出ているようだ。
「生えるとは?」
再び聞いた竜憲の耳もとで、男が笑った。
『姫様が想い、皆もわかっておりましょう。根《ね》の堅州国《かたすくに》に追われた怨み、理不尽にございますな……』
「教えてくれ、怨みとは、エンキとは、なんだ?」
鴻《おおとり》に聞くまでもない。せっかく、こうして戦士が現れてくれたのなら、彼に聞けばすむことだった。
向こうが答えてくれれば、の話だが。
『わずかな怨みも、集まれば毒となりましょう。まずは……』
戦士は、竜憲の言葉などに耳を貸す気はないようだ。彼の中に潜《ひそ》む美貌《びぼう》の姫神と話している。
姫神の声が聞ければ、話の内容もわかるのだろうが、竜憲には戦士の声しか届かなかった。
それが、よい兆候なのか悪い兆候なのか。姫神と重なり合う部分が多くなっているような気さえする。
「何をする気だ?」
相変わらず、戦士は竜憲の問いには答えない。だが、邪魔にされているということでもなさそうだ。
向こうには、竜憲の言葉は聞こえているのだろう。そして、気が向けば、それなりの答えを寄こしてくれる。
「どうすればいいんだ? あんなものをのさばらせるのが、あんた達の望みなのか?」
『……おおせのとおりに。……もう少し、待ってみましょう』
遠回しな答え。
冤鬼《えんき》とかいう化け物は、姫神《ひめがみ》達に命じられて動いているというわけではなさそうだ。
姫神の存在に引き寄せられて、動き出したのは確かなのだろうが。
「おい、あんた。……せめて名前ぐらいは教えてくれよ……」
『己《おのれ》に問え。器《うつわ》なら、わかるはず』
突然、言葉を返されて、竜憲は目を瞬《しばたた》かせた。
やはり、こちらの言葉は届いていたのだ。
「自分に問うってのは?」
じんわりと、身体が熱くなってゆく。
「おい、あんた!」
竜憲は声を張り上げた。
感触はない。
だが、古代の戦士は姫神を抱いているのだろう。そして、竜憲の身体は、その結果だけを受け取っているのだ。
どうしようもなく、身体が火照《ほて》る。
「やめろ! 何しやがる!」
抵抗しようにも、相手には肉体はない。
竜憲と姫神《ひめがみ》の感覚が、どこかで繋《つな》がっているのだ。愛《いと》しい男を受け入れようと、彼女の身体は燃え上がり、柔軟になってゆく。
「やめ……てくれ……」
勝手に震《ふる》える声が、腹立たしい。
――やめろ! どっかで勝手にやってくれ! 俺を巻き込むな! ――
唇《くちびる》を噛み締めた竜憲は、ただ念じることしかできなかった。
頬《ほお》に触れるシーツが、身体にまといつくパジャマでさえ、過敏になった肌には刺激になる。
――畜生《ちくしよう》! やめてくれ――
身体じゅうの細胞が溶《と》けてゆく。
息が弾《はず》む。
圧《お》し殺そうにも、唇が勝手にわななき、甘ったるい声が漏《も》れる。
それが、自分の声だということが、信じられないほどだ。
――化け物め! ――
こんなことなら、炎の鬼と戦ったほうがましだろう。彼らと、折り合いがつけられるかもしれないと思った、自分を嘲笑《あざわら》うしかないのか。
人の身体を勝手に操《あやつ》り、そのうえ、謂《いわ》れのない感覚を強要する。
――貴様ら……追い出して……やる。……いつまでも、このままですむと、思うなよ……。人を……人間をなんだと思ってやがるんだ……――
思考すら乱れ始めた。
竜憲は、己《おのれ》の心に刻《きざ》むように、怨《うら》みの言葉を呟《つぶや》いていた。
2
早朝、まだ日も昇りきらないうちに、竜憲《りようけん》は道場に向かっていた。
白い小袖《こそで》姿である。
修行《しゆぎよう》をする弟子《でし》達にならって、裏庭の井戸で水をかぶり、形ばかりの禊《みそぎ》をした。
腹が立ってならない。
目につくすべてのものに当たり散らしてやりたいが、竜憲が戦うべき相手は、彼の中にいる姫神《ひめがみ》だった。
自分の力が足りないせいで、彼女に抵抗できないのだ。ならば、今からでもその手段を手に入れなければならない。
道場に行けば、弟子の誰かはいるだろう。初歩的なことでもいい。とにかく、今すぐに一歩を踏み出したいのだ。
道場の隣《となり》にある事務所には、誰もいない。
父親について出かけているのか。
そういえば、大道寺忠利《だいどうじただのり》を頼ってきた者も、怨《うら》みに取《と》り憑《つ》かれていた。
自分も怨みで動いている。
人間にしろ、化け物にしろ、怨みが力を増幅するのだろう。ならば、今の自分も力が増しているはずだった。
「……誰か、いらっしゃいますか」
道場の扉《とびら》の前で、声をあげる。
しんと静まりかえった道場には、人の気配はない。しかし、ある程度の修行を修めた者達が、自分の気配を消せることはわかっていた。
「竜憲です。お願いがあってまいりました」
再び声をかける。
と、扉が、ゆっくりと開いていった。
「……鴻《おおとり》さん……どうして……」
姿を見せたのは、鴻だった。
「どうなさいました?」
「調べものがあるとか……」
「はい。……おおよそのことがわかりましたので、ここで聞いていたのですが」
なるほど、妖鬼《ようき》達と折り合いをつけることができる鴻は、最終的な話を、彼らに聞いていたのだろう。
「……どうすれば、連中と折り合いをつけられるんだ?」
「どうかなさいましたか?」
問いに問いを返されて、竜憲は唇《くちびる》を引き結んだ。
なんと答えればよいのか。
姫神《ひめがみ》の感覚を味わわされて、快感のあまり、気を失ったとでも、言うしかないのだろう。だが、それだけは言いたくなかった。
「……あいつらに操《あやつ》られそうになった。自分を取り戻したい。それと……あんたに聞きたいことがあったんだ」
真っ黒な、虹彩《こうさい》と瞳の区別がつかない目が、わずかに光ったような気がする。
何が起こったのか、鴻にはわかっているのだろう。
そう思うと、再び怒りが湧《わ》き上がってくる。
「わかりました。……どうぞ……」
ついと身体をずらせた鴻は、竜憲を道場に招き入れた。
中は、真っ暗だ。
蝋燭《ろうそく》さえ点《とも》さずに、妖鬼《ようき》達と話し合っていたらしい。
扉《とびら》を閉められると、足もとさえ見えなくなった。
「……こちらへ……」
白い小袖《こそで》が、闇の中に浮かび上がって見える。
その影に従った竜憲は、道場の中央とおぼしき場所に、腰を下ろした。
「……私に聞きたいこととは? まず、それからお伺いいたしましょう」
正面に正座した鴻は、上半身だけが浮いている。紺《こん》色の袴《はかま》は、闇に溶《と》けて何もないように見えた。
「……竜憲さん……」
上半身だけの男が、言葉を重ねる。
軽く息を吐《は》き、顎《あご》を引いた竜憲は、鴻を見据《みす》えた。
「……エンキって……なんだ?」
「冤鬼《えんき》……ですか」
「そう。冤鬼が彷徨《さまよ》い出ているらしいんだ。塚を壊《こわ》されてね。けど、冤鬼ってのが何か、わからないから……」
「謂《いわ》れのない罪を着せられ、殺された者、とでも言えばいいのでしょうか……。怨《うら》みの念が強い、と言われていますが……」
それを封じる塚が、どこかにあるのだろう。塚が壊されたために彷徨い出た冤鬼は、そこここに存在する念を、増幅しているようだった。
「そいつが、人の思いを増幅させるなんてことは、ある?」
「あるかもしれませんね。怨《うら》みという感情は、とても強いものですから……」
「謂《いわ》れのない罪……か」
なかには、本人だけがそう思っているものもあるのだろう。沙弥子《さやこ》にかかってきた電話などいい例だ。
電話の主には、罪悪感などないのだろう。本人はただ単に憂《う》さ晴らしをしているだけだろうから。
だが、電話を受けた人間は、相手に対して恐怖や、嫌悪感《けんおかん》を抱く。なかには殺意を抱く者もいるだろう。
個人にとって善悪などというものは、絶対ではない。人それぞれの正義がある。
もちろん罪もだ。
沙弥子にまとわりついたものは、大輔《だいすけ》が引き受けてしまったのだから、もう問題はないだろうが、今度は竜憲達にそれが降りかかっていた。
怨みがましい、己《おのれ》の気晴らししか考えない、吐《は》きけを催《もよお》すような存在。
道理も何もあったものではない。
そいつにとって、自分の感情こそが、すべて正しいのだろうから。
「水が燃え、炎が凍《こお》るって言われたんだけど……」
「定理の破壊……でしょう。罪がないのに、罰せられた。……この場合、殺された、ということでしょうが。つまり、その冤鬼《えんき》にとって、水が燃え、炎が凍るほど、それは不条理なことだったのです」
「なるほど……」
大輔の遭遇した怪奇現象も、沙弥子が出会った化け物も、そして竜憲が目にした自殺したがる人々も、すべては冤鬼が原因ということだ。
ひょっとすると、忠利が祓《はら》おうとしている“怨み”も、冤鬼が力を貸しているのかもしれない。
「冤鬼の塚が壊《こわ》されたと、告げられたのですね」
「うん。……そいつを封じないと、こんなことがいつまでも起こるんだろうな」
「そうですね」
ほっと、大きく息を吐《は》いた竜憲は、もぞもぞと腰を動かすと、再び大きな息を吐いた。
「もうひとつ聞きたい。……姫神《ひめがみ》の正体は?」
ひくりと、鴻の顔が歪《ゆが》んだ。
知っているのだ。
だが、言いたくないのだろう。
「それは……ご勘弁《かんべん》ください」
皮肉に、竜憲は笑った。
「珍《めずら》しいね。……はっきり言うなんてさ……。いつもなら、なんやかや言って、ごまかすんだろうに……。そんなに重要なことなのか?」
一瞬ためらった後、鴻はゆっくり頷《うなず》いた。
「私の一存では、お知らせすることはできません。先生に相談しませんと……」
「……なるほどね……」
飛鳥《あすか》の昔から伝えられる魔物。確か、そう言っていた。しかし、古代の戦士は根《ね》の堅州国《かたすくに》と言ったのだ。
歴史は得意ではなかったし、古典も好きではない。しかし、根の堅州国が、神代《かみよ》の伝説だということぐらいは、竜憲にもわかっていた。
「……まあいいや。じゃあ、肝心な話だ。……あいつと折り合いをつけるなんてまっぴらだ。どうすればきちんと封じられる? 姫神《ひめがみ》が入ったのは仕方ないとして、操《あやつ》られない方法があるんじゃないか?」
いつもなら、これほど長く話していると、どうしようもない嫌悪感《けんおかん》が湧《わ》いてくるのだが、不思議《ふしぎ》と、鴻が頼もしく見える。
信頼できるのだ。
奇妙だ。
さっきまで妖鬼《ようき》達と話していたせいで、人としての印象が薄れているのかもしれない。彼の内側に潜《ひそ》む巨大な白蛇は、その姿ににあわず、不快な相手ではなかったのだ。
「……どうでしょう。私も、常に自分を保っているわけではないのです。……あれと、話してごらんになりますか? 私にも明かさないことを、竜憲さんになら、告げるかもしれません」
あれ、とは白蛇のことなのだろう。
「じつは……私にもわからないことがあるのです。竜憲さんが、人としての私を嫌《きら》うのは、よくわかります。しかし、あれは……」
「平気だよ」
言い淀《よど》む鴻に代わって、竜憲は告げた。
「それが、不思議なのです。本来なら、あれこそ、姫神に対峙《たいじ》するもののはずなのです」
「え?」
目を瞬《しばたた》かせた竜憲は、鴻の目を覗《のぞ》き込んだ。
「一種の仇《かたき》、とでも言いましょうか……。ですが、竜憲さんは平気だとおっしゃる。姫神が許したのか、それとも……」
「出てこられない、か?」
声が舞い上がる。
姫神《ひめがみ》の仇《かたき》なら、竜憲に何かを教えてくれるかもしれない。
鴻が気に食《く》わないのも、それで説明がつく。鴻とその中に潜《ひそ》む白蛇とは、まったく相容れない存在なのだ。
二つの個性が同居しているからこそ、信用できないと思わせるものがあるのだとすれば。鴻にすら告げないことを、話してくれるとしたら。
それは姫神にとって、都合《つごう》がいいこととは思えない。
「やってみてくれ。……奴を、呼び出せるんだろう? いや、……お前は鴻じゃないよな」
にたりと、鴻が笑った。
『おわかりか……』
「あいつは?」
『今は、私こそがこの肉体の主』
とろりと笑う顔が白くなってゆく。
普段から色の薄い男だが、それが身にまとった小袖《こそで》より、さらに白くなっていった。
「姫神を封じたい。この身体をつかってもいい。だが、ちょろちょろ出てこられるんじゃ、たまらないんだ!」
するりと、鴻の首が伸びた。
と、たちまちのうちに、その姿は巨大な白蛇となった。
『封印《ふういん》を、施《ほどこ》してしんぜよう。あれは、今眠っておる。ちょうどよい……』
白蛇が笑う。
漆黒《しつこく》の瞳に、小さな赤い炎が点《とも》り、見る間に、真紅《しんく》に染まってゆく。
「……この前の礼も言ってなかったよな。……ずいぶん、血を流していたみたいだけど、大丈夫だった?」
白蛇は古くからの友人のように思える。
真っ白い、美しい鱗《うろこ》に血を滲《にじ》ませてまで、竜憲を助けてくれた白蛇。
『あれしきのこと……。そなたが弱れば、あれはつけあがる。無茶はなさらぬこと……』
ひと抱えもあるような胴体が、竜憲の身体に巻きついた。
乾いた感触が、心地よい。
『冤鬼《えんき》など、捨て置きなされ。……そなたを疲弊《ひへい》させるために、あやつらはいくらでも敵を造り出しましょう。いちいち相手をしておったのでは、あれがつけあがるだけ……。……手を、右の手を……』
言われるがままに、竜憲は右手を差し出した。
かっと口を開き、白蛇が牙《きば》を剥《む》き出す。
不思議《ふしぎ》と、恐怖感はない。
その、白い牙が、軽く手首に押し当てられた。
わずかな痛み。
赤い血の玉が湧《わ》き上がり、それを二つに分かれた舌が舐《な》め取った。
『左の手を……』
なんの疑いもなく、左手を差し出す。
再び、蛇は牙《きば》を立てた。
一瞬盛り上がった血の玉は、蛇が舐め取ると同時に、消えてしまう。
針で突いたほどの傷も残らない。
痛みも気にならない程度のものだ。
それどころか、身体から毒が吸い出されてゆく気がする。
化け物を身の内に宿して、知らず知らずのうちにたまってしまった毒が、白蛇の牙で浄《きよ》められてゆくのだ。
『右の足じゃ……』
蛇の首がおりてゆく。
真っ白な胴体がうねり、鱗《うろこ》の一枚一枚が、鈍《にぶ》く光る。
奇麗《きれい》だ。
そっと指で触《ふ》れ、鱗の形を辿《たど》る。
蛇だと思ったのは、その姿のせいだった。だが、この鱗は魚のもの。
龍なのだろう。
鬣《たてがみ》を失い、角《つの》を失い、姿形は蛇となってしまっても、その鱗だけは龍のものだった。
右の足首に、痛みが走る。
汚《けが》れが消えてゆく。
『鱗を選ぶのじゃ……。そなたが選んだものが、護符《ごふ》となろう……。次は左……』
ゆっくりと、目の前を胴体が波打っていく。
竜憲は、うっとりと鱗の流れを見つめていた。
3
ひどく夢見が悪い。
布団の中で煙草《たばこ》をくわえ、大輔《だいすけ》は頬《ほお》を引きつらせていた。
朝夕は寒いほどになったというのに、全身にびっしょりと汗をかいて、飛び起きたのだ。
竜憲《りようけん》を抱く自分。
話には聞いていた。自分の中に潜《ひそ》む古代の戦士が、姫神《ひめがみ》を抱こうとしたと。だが、大輔自身には、なんの記憶もなかったのだ。
それを、夢の中とはいえ、見せつけられた。
しかも、相手は姫神ではなく、竜憲だったのである。
「ムカつくぜ……」
言ってはみたものの、嫌《いや》がっていなかったことは、自分が一番よく知っている。
飛び起きた瞬間、ここが客間で、隣《となり》に竜憲がいないことに安堵《あんど》すると同時に、一抹《いちまつ》の失望を覚えたのだ。
「……飢えてんのかな……。情けねぇ……」
自分から声をかける女が、変死する。それが姫神に命じられた戦士の仕業《しわざ》かもしれないと思ってから、女ひでりが続いていた。
向こうから言い寄る女もいる。しかし、つきあい始めると、女はリードされることを望むものなのだ。
おかげで、結局は逃げられるということが続いている。
どこまで許されるのか、それがわからないことには、女とつきあうということに、臆病になるしかない。
自分とつきあったせいで殺されたのでは、話にならないのだ。
「……くそ……」
夏掛けの布団から抜け出した大輔は、煙草をくわえたまま、足音を殺して廊下に出た。
とにかくシャワーだ。
悪夢を追い払うには、それしかないだろう。
全身で拒絶しながら、それでも甘い息を漏《も》らす竜憲。
今までつきあったどんな女より、そそる表情だった。甘い声だった。
確かに、お奇麗《きれい》な顔はしているが、竜憲をそんな目で見たことは一度もない。
――本当か? ――
邪気のない笑みを向けられて、ただの餓鬼《がき》だと思ったのは、どうしてか。
夢だからこそ、自分の本心が表われたのではないか。
「……なんてこった……」
吐《は》き捨てるように呟《つぶや》き、風呂場《ふろば》に入る。
信じたくはない。信じてしまえば、自分の立っている足場が、根底から崩《くず》れてゆくだろう。
乱暴にパジャマを脱ぎ捨てた大輔は、シャワーのコックをひねった。
刺すように冷たい水が降りそそぐ。
身体が引きしまる。
妄想《もうそう》を追い払い、いつもの自分を取り戻すには、これが一番だろう。
「と……」
煙草をくわえたままだ。
そんなことにも気づかないほど、自分が舞い上がっていたという事実が、再び大輔をうちのめす。
煙草を吐《は》き捨てた大輔は、それが流れてゆく先を目で追った。
排水口のゴミ受けに引っかかり、煙草が崩《くず》れてゆく。煙草の葉がゴミ受けの目を通り抜け、紙とフィルターだけが残っていた。
奇麗《きれい》に手入れされている。
ステンレスのゴミ受けは、髪の毛はおろか、水垢《みずあか》すらついていない。竜憲の母が、丁寧《ていねい》に掃除しているのだろう。
妙な罪悪感。
あの、世間《せけん》離れした母親は、自分の息子がそんな目で見られることがあるなどと、考えたこともないだろう。
いささか素直すぎるが、彼女の子育ては成功しているのだ。
「……まったく……」
ひょいとかがんだ大輔は、煙草の残骸《ざんがい》を拾い上げると、手に握り込んだ。
『急げ……』
「あ?」
耳もとで声がする。
と、シャワーの飛沫《しぶき》の中に、男の顔が浮かびあがった。
「貴様……。貴様のせいだな! あんなモン見せやがって!」
自然と声が大きくなる。
一瞬にして、気分が楽になった。
化け物に見せられた夢だったのだ。そう思えば、何も悩むことはない。
「何が急げ、だ。ああ? とんでもねえモン見せやがって。え? まさかリョウにも見せたんじゃねえだろうな。……お前らに操《あやつ》られるのは、もうたくさんだ!」
『急げ……』
「うるさい!」
言葉を伝えることができない男は、顔を歪《ゆが》めていた。
考えてみれば、急げ、という短い言葉ですら、初めて聞いたような気がする。
勝手に手足を操り、剣をふるう男でも、大輔に言葉を届けることはできないのだ。
「ざまあみろ。お前には何もできねえんだろ!」
シャワーを止める。
同時に、男の姿も消えた。
「まったく……。くっだらねえ。出るんなら、火の鬼が出た時に助けてくれりゃいいものを。何を考えてやがんだ?」
脱衣所に出て、ゴミ箱に煙草の残骸《ざんがい》を投げ捨てる。
バスローブを借りて、タオルを頭から被《かぶ》った。
と、正面の鏡に、文字が見える。
――急げ。食い殺される――
「あ?」
ぽっかりと口を開けた、間抜けな自分の顔の上に、文字が踊る。
「誰がだ?」
見る間《ま》に、自分の顔がぼやけてゆき、代わりに竜憲が映し出された。
顎《あご》を上げて、苦痛に歪《ゆが》む顔。
だが、どこか見る者を引きつけるところがある。
事実。大輔はその表情から目を離せなかった。
――急げ――
再び、文字が踊り、竜憲の顔が掻《か》き消える。
「なんだと!」
ドアを引き開け、廊下に飛び出す。
竜憲の部屋へ。
だが、目の前を影が過《よぎ》った。
「そっちか!」
何も考えられない。
竜憲が化け物に捕《と》らえられて、食い殺されようとしている。そう思っただけで、身体じゅうの血が逆流するようだった。
ちらちらと、視界の隅を過る影を、追いかける。
いつの間《ま》にか、裸足《はだし》で外に飛び出し、道場に向かっていた。
「ここか! 道場なのか!」
影は現れない。
だが、ここしかないのだ。
扉《とびら》に手をかけると、思いがけないほどあっさりと、それは開いていった。
「リョウ!」
開き切らないうちに、身体をねじるようにして飛び込む。
そこには、夢のままの竜憲がいた。
違うのは、白い和服を着ていることと、相手が自分ではないこと。
白い和服の裾《すそ》を割って伸びる足に、 鴻《おおとり》が唇《くちびる》を這《は》わせていた。
「貴様! 何しやがる!」
怒りが全身を染め上げる。
床を踏みならし、鴻に駆《か》け寄ると、長い髪をひっ掴《つか》んだ。
「邪魔だてするな……」
「なんだと……」
こちらを向いた真っ白な顔に、赤い目が光っている。
「テメエ、リョウに何しやがった!」
うっとりと目を細めた竜憲は、鴻の足を撫《な》でている。
愛《いと》しげに。
「この……化け物が!」
渾身《こんしん》の力で蹴《け》り上げる。
鴻の身体が吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
「リョウ。……おい、リョウ!」
まだ、夢見るように虚《うつ》ろな目をした竜憲の肩を掴《つか》み、手荒くゆさぶる。
手首に、そして肘《ひじ》に。足首から膝の裏まで、びっしりとくちづけの跡が残っている。いや、くちづけなどではない。
牙《きば》の跡だ。
ぽつぽつと並ぶそれは、鋭《するど》い牙が食い込んだことを示していた。
血が出ていないのが不思議《ふしぎ》なほどだ。
「鴻……貴様……」
ぐったりと、力の抜けた竜憲の身体を床に横たえ、鴻に歩み寄る。
のろのろと起き上がった男は、何度か首を振ると、顔を顰《しか》めた。
「……まさか……」
「何がまさかだ。貴様、リョウに何をしやがった!」
深い呼吸を繰り返す鴻は、自分が何をしたのか、理解していないようだ。燃えるような赤だった目も、いつもの、黒に戻っている。
虹彩《こうさい》と瞳の区別もつかない漆黒《しつこく》の目は、どちらにしろ化け物のものに見えたが、それでも見慣れているぶんだけ、まだましだ。
「……鴻……」
「……まさか……そんな……」
震《ふる》えているのか。今、この男に何を言っても無駄《むだ》だろう。
くるりと踵《きびす》を返した大輔は、痛ましげに竜憲を眺《なが》め下ろした。
穏《おだ》やかな息が、せめてもの救いか。
眠っているようだ。
「……まったく……。どうしてこんなことになっちまったんだ? この大ボケが」
はだけた胸に、思いがけず形のよい太腿《ふともも》に、目が吸い寄せられる。
「馬鹿《ばか》が……」
それは、自分に対しての言葉だった。
「おいリョウ。いつまで呆《ほう》けてんだ?」
いつもの自分を演じるのだ。
乱暴に身体を引き起こして、頬《ほお》を平手で叩く。肩を鷲掴《わしづか》みにして強くゆさぶり、ついでのように頭を叩いた。
だが、竜憲は目覚めない。
「まったく。……俺は素人《しろうと》なんだぞ。お前が襲われてどうするよ」
言っておいて、ぞくりと肩を震《ふる》わせた。
襲われる、という言葉に、ほかの意味があるなどと、考えたこともなかった。特に、それが男の場合。
「リョウ。おい……。しょうがねえな……」
脱力した身体を抱き上げる。そのまま肩に担《かつ》ぎ上げると、扉《とびら》に向かった。
「頼りになんねえヤツだな。本当に……。バケモンにあっさり騙《だま》されやがって……」
ぶつぶつと文句《もんく》を並べていると、いつもの自分が戻ってくる。
太腿《ふともも》に掛けた手の、妙にねばっこい感触が、ただの野郎の脚を掴《つか》むものになり、背中に感じる息が、意味のないものになってきた。
「……ぼっちゃん……。姉崎《あねざき》さん。ぼっちゃんは……」
渡り廊下の向こうから姿を現した弟子《でし》の一人が、眉《まゆ》を寄せてこちらを見据《みす》えていた。
「さあね。……俺にもよくわかんねえんだ。……ああ、道場で鴻がブッ倒れてる。見てやってくれ……」
一度か二度、顔を見たことがある弟子は、名前も知らない。だが、向こうは大輔が何者なのか、よくわかっているようだった。
それにしても奇妙な図だろう。
裸足《はだし》で、しかもバスローブをまとった大輔が、白い着流しの竜憲を肩に担いでいるのだ。慌《あわ》てて道場に向かう弟子の心中を思い、大輔は小さく笑った。
とにかく、この大荷物をさっさと片づけなければならない。そして、考えるのだ。
騒動を起こす化け物が次々と現れるせいで、肝心の二人のことを忘れていた。
だが、すべては竜憲と自分の中に入り込んだ魔物のために引き起こされている事件なのである。このままずるずると放置することはできない。
母屋《おもや》に入る直前、自分が裸足で庭を走ったことを思い出した。
鏡のように磨《みが》きたてられた廊下を、泥足で踏み荒らすのは気が引ける。
「……ま、いいか……」
息子の命を救ったと言えば、あの母親も文句は言うまい。
急に重くなった肩の荷物を担ぎ直した大輔は、背中を押されて、ぴたりと立ち止まった。
「……え?」
竜憲が大輔の背中を押して、上体を起こしたのだ。
「なんだ? ……どうして……」
「気がついたか?」
「大輔……。どうして?」
ゆっくりと、慎重に竜憲を下ろす。
目を瞬《しばたた》かせる竜憲は、何があったのか、まったく気づいていないようだった。
「……あの龍は……護符《ごふ》が……」
自分の手をつくづくと見つめ、傷を不思議《ふしぎ》そうに撫《な》でている。
「ボケ。魔物に食い殺されそうになってたんだよ」
「そんなはずはない。あれは、封印《ふういん》を……」
大輔を見上げ、わずかばかり眉《まゆ》を寄せる。
「そうは見えなかったな。食われる、 って言ったほうがよっぽど正しいぜ。……あの鴻にな。何があったんか知らないが……」
竜憲は自分から進んで、あの化け物に身を任せていたらしい。それでも、大輔の言葉を信用する気にはなったようだ。
「とにかく、話は後だ。着替えてこいよ。朝飯を作ってやるからさ……」
「あ……ああ」
こんな調子では、いつまた化け物につけ込まれるかわからない。
素直な性格というのは、悪いとは思わないが、ここまでいくと始末が悪いだけだ。相手が人間だと、一応の警戒心をもっているくせに、化け物に対しては素直に信じてしまうのだ。
霊能力《れいのうりよく》などという、普通とは違う力で、対応しているからだろうか。彼らは、音波などという物質的な伝達手段を使わない。
心に直接話しかけてくるのだ。
だからこそ、あっさりと信じてしまうのだろう。
彼らは心で嘘《うそ》をつけるというのに。
「おい。リョウ。何をボケてんだ? 大丈夫か? ……ちっ。しょうがねえな。こいよ、コーヒーでもいれてやる」
いつもどおり怒鳴《どな》りつけ、肩を叩く。
だが、どこか生気のない表情を見せる竜憲を、まっすぐに見つめることはできなかった。
「……何が本当なんだ……」
ぽつりと呟《つぶや》かれた言葉が、ひどく弱々しい。
「俺達がまだ生きてるってことだな。……それと、エンキだっけ? あいつをやっつけるしかないってことだ。残りはそれから考えりゃいいだろ」
「……そうかな……」
「そうだよ」
ふわりと、体重を感じさせない動きで歩き出した竜憲の肩を、大輔は無意識に抱いていた。
「姫様のことも、戦士のことも……。今すぐどうこうできるって問題じゃないだろ。だったら、目の前のバケモンをやっつけようぜ」
大輔は鴻より古代の戦士のほうを信用していた。
少なくとも、彼は普段は人間の顔をしていて、急に化け物に変身するわけではないのだ。
あの、赤く輝く目をした鴻は、絶対に信用できない。
勘《かん》などというものは、めったに働かないが、今回に限って大輔の直感は、そう叫んでいた。
4
どこかで人の声がする。意味が聞き取れず、ざわざわと聞こえるのは、人数が多いせいだろう。
広大なロビーで、人々がさんざめいている。
ちょうど、そんな感じだった。
自分がベッドに転《ころ》がっていることは、竜憲《りようけん》もはっきりと認識していた。寝そべってはいたが、確かに起きていたし、目は広げた本の文字を追っている。
しかし、耳だけは現実ではない音を聞いているのだ。
ひどく奇妙だったが、意外に邪魔にはならない。それどころか、本を読むには具合のよい環境音楽というところだった。読んでいる本が本なだけに、眠くならないのがありがたい。
古事記《こじき》。
ベッドの脇にはほかにも積んである。日本書紀《にほんしよき》に風土記《ふどき》、日本霊異記《にほんれいいき》、宇治拾遺物語《うじしゆういものがたり》、等々。文庫判のものから仰々《ぎようぎよう》しい箱入りのものまで、身の回りにあった読める本を手当たり次第に集めてきたのだ。竜憲が古文書の類《たぐい》を読めるのなら、その冊数は膨大なものになっただろうが、実際にはそうたいした量ではない。
しかし、それに目を通すとなると、まったく別の問題だった。そのうえ、役に立つかどうかもわからないのだ。
根《ね》の堅州国《かたすくに》に追いやられた姫。
竜憲が探《さが》しているのはその記述だった。だいたい根の堅州国というキーワードから、連想しただけなのだ。根の堅州国、イコール記紀。情けないことに、竜憲の知識といえばその程度なのである。
古代史を専攻している友人でもいれば、少しは助言が得られただろう。だが、残念ながら、そんな友人はどこを見回してもいない。
積まれた本の中に書かれているのかもわからないし、あったとしてもそれが竜憲の中の姫神《ひめがみ》と関係があるとも限らない。
ただ、調べてみなければ気がすまなかった。
気を紛《まぎ》らわすため、あるいは逃避行動というほうが正しいのかもしれない。考えるには、知識も経験も足りなすぎるのだ。
だから、読むという作業とはかけ離れた方法で、竜憲は頁《ページ》を捲《めく》っていた。
索引を引き、その頁を斜めに読む。その繰り返し。
馬鹿《ばか》らしいといえば馬鹿馬鹿しい。
「あーあ、やめたやめた!」
本を放り出し、ごろりと天井を振り仰《あお》ぐ。
大勢の声はまだ聞こえている。
聞き取れないのも、相変わらずだ。ざわめく声達は、好き勝手なことを喋《しやべ》り続けている。いや、喋っているようだと言うべきだ。何しろ、ざわざわとしか聞こえないのだから。
何を話しているのだろう。それよりも、どんな連中の声なのだろう。
無駄《むだ》と知りつつ、耳を澄ます。
と、その中に聞き慣れた声が、混じっていることに気づいた。
「リョウ! 聞いてんのか!」
「あれ……」
「……あれじゃないだろう。お前、目ぇ開いて寝てんのか?」
ぼんやりと人の影が見えてくる。それと共に、声のほうは少しずつ遠退《とおの》いていった。
大輔《だいすけ》だ。
目はまともだと思っていたのだが、どうやら大いなる誤解だったらしい。
「あ……悪い」
竜憲は目を擦《こす》り、起き上がった。
すっかり、現実に立ち戻れたようだ。
「何?」
聞き返すと同時に、大輔の顔にひどく不安げな表情が浮かぶ。
「……ほんとにボケてんな。大丈夫か?」
「え? 大丈夫。……ほんと、ほんと。ちょっと本の世界に入っちゃっててさ」
大輔が積み上げられた本を、ちらりと見下ろし、中の一冊に手を伸ばした。
「日本霊異記だぁ? ……どうしたんだ、お前」
表紙と竜憲の顔をつくづくと眺《なが》め、大輔は訝《いぶか》しげに顔を顰《しか》めた。
「言っただろ? 彼女は根の堅州国の……」
「ああ、いい。お前の考えそうなことはわかる」
むっと口もとを歪《ゆが》めた竜憲に、大輔はにやりと笑い返した。
「なんだよ、その顔は……」
「どっかに書いてないかと思ったんだろう?」
しぶしぶ頷《うなず》く竜憲に、大輔は本を差し出した。
「無駄《むだ》だっただろう?」
「まあね……全部は見てないけどさ」
「普通のものには出てないさ。……だいいち、付け焼き刃で調べようとしたって、だめだろうよ。変な学者の研究書でもひっぱり出すならともかく」
「なんでそう思うんだよ。……わかんないだろ? あんただって、立派な素人《しろうと》なんだから」
妙な顔をして、竜憲を見下ろした大輔は、ベッドの端に腰を落とす。
竜憲は思わず身を引こうとしたが、どうにか思いとどまると、大輔を睨《にら》み据《す》えた。
「やめてくれよな。……俺は絶対、おまえなんか襲わないぞ」
少しばかり困った顔をして、大輔はできる限り端に身を引いた。
「マトモなら……だろ」
ぐっと黙り込み、大輔が言葉を探す。
「……冗談だよ……悪かったな」
とりあえず詫《わ》びて、竜憲はヘッド・ボードに背を預けた。
面と向かって皮肉が言えるようになったあたり、どうやら自分にとって、どうでもいいことになりつつあるのかもしれない。
そう思うと、少し背筋が寒かったが。
「それで? 何か用があったんだろ?」
「あん? 用? たいしたことじゃない。お袋さんが今夜は帰れるからって電話くれたんで、知らせに」
「電話?」
竜憲が顔を顰《しか》めたのを、どう取ったのか、大輔は慌《あわ》てて言いつくろった。
「お前がちっとも電話に出ないから、代わりに出てやったんじゃないか」
「……聞こえなかった。ありがと……」
素直に礼を言う竜憲に、大輔は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
「てことは、サコは退院するんだな」
「そういうこと……。一応しばらく、通うらしいけどな」
「下手《へ た》すりゃ、当分通院の付き添いか……」
「嬉《うれ》しそうだな」
「え?」
「お前が運転手だもんな。……どう考えたって……」
沙弥子《さやこ》の母親にしろ真紀子《まきこ》にしろ、自分では運転しない。つまり通院するための運転手は竜憲だということだ。
それもある。
大輔が言うとおり、沙弥子と毎日でも顔を合わせられるというのは、楽しい。
だが、それ以上に今日母親が帰ってくるということに、安堵《あんど》していた。
母親が帰るまで、家に泊まってくれと言ったのは、自分自身だ。理由もなく、大輔を追い返すこともできない。
なにごとによらず説明を求める大輔に、真実を告げることはできない。
特に、今回のことは、実体がともなったわけではないのである。説明をしようにも、どう言えばいいのか、考えつかない。
何より、真実を告げると考えただけで、背筋に粟《あわ》が立った。
同じ家の中にいなければ、大輔に取《と》り憑《つ》いた化け物は、勝手にうろつき回ったりしない。それが唯一《ゆいいつ》の救いだった。
だが、それもいつまで保《も》つか。
大輔の身体を勝手に抜け出すようになった化け物は、確実に力を増幅しているのだ。
「……とにかく、急がないとな。そのうち、完全に乗っ取られそうな気がするんだ」
にやけた笑みを浮かべていた大輔が、一瞬に真顔になった。
「……そんな気配でもあるのか……」
ぼそりと、大輔が聞く。
竜憲は、内心で舌打ちした。
「……わかんないけどね。……彼女の存在感が強くなっているような気がする」
そうとしか言いようがない。
だが、大輔は意外とあっさり、納得してくれた。
「呪《のろ》いの壺は、ついに立ち上がることにしたわけだ。……まあ、無理もないが……。言ってただろ? 封じられるだけましだって。……彼女の正体がわかれば、やっつけられるんか?」
「……何? ……」
大輔を睨《にら》む。
昨夜、どんな目にあったのか、大輔は知らないのだ。
仮にも神と呼ばれる存在を、完全に封じることなど、素人《しろうと》同然の自分にできるとは思っていない。
しかし……。
このまま、彼らに好き勝手にふるまわれるぐらいなら、奴らもろとも殺されたほうがましだった。
「この状況で封じた、だなんて言えるのか? 単なる隠れ家じゃないか。……それとも寝床か? 彼女の敵はみんな知っているんだ。……ここに……」
自分の胸を忌々《いまいま》しげに叩く。
「あいつがいるってことを……。冗談じゃない」
ひょいと眉《まゆ》を上げた大輔は、ゆっくりと本に手を伸ばした。
「そうだな……。俺も、あの野郎に勝手されるのは、いい加減飽《あ》きたな……」
文字だけの本をぱらぱらと捲《めく》る。
タイトルにはうっすらと記憶があったが“日本霊異記”がどんな本なのかも知らない。第一、普通の家庭に揃《そろ》える類《たぐい》の本ではないのだ。
大道寺《だいどうじ》の家だからこそ、探すまでもなく本棚に並んでいるのだろう。
「根《ね》の堅州国《かたすくに》に追われた姫様だろ? わかったよ。図書館で調べてやる」
「ホント?」
ばっと顔を振り上げた竜憲が、疑わしげな目で見つめる。
苦笑を浮かべた大輔は、本を仲間のところに戻した。
日本の神話など、何も知らないと言っていい。神様の名前など、ギリシャ神話のほうが、まだ知っている。
よく考えてみれば、それも妙な話だ。
日本で生まれ日本で育ったくせに、知っている神様となると、伊弉諾尊《いざなぎのみこと》、伊弉冉尊《いざなみのみこと》、それに天照大神《あまてらすおおみかみ》ぐらいか。せいぜい、あと二、三、名前が挙《あ》げられたら、上等の部類だろう。
それも、漢字では書けない。
正月には初詣《はつもう》でに行くくせに、何も知らないのだ。
「……根の堅州国か……」
まずは敵の正体を知るべきだ、という意見には賛成する。
しかし、この家にある以上の資料本など、どうやって調べればいいのだろう。古文書など読めないし、図書館の司書に本を探してもらうにしても、検索の方法がわからない。
まずは、検索の手がかりを得るための、前調査だ。
考えるだけでうんざりするが、やるしかないようだった。
昨夜、大輔の中に潜《ひそ》む男がしでかしたことを考えれば、竜憲の苛立《いらだ》ちは理解できる。
確証はない。
だが、おそらく同じ夢を、見たのだろう。
いまさらのように大輔を警戒する竜憲の態度が、それを証明しているような気がした。
第五章 逢魔が刻
1
夜中の三時。
幽霊だの化け物だのが徘徊《はいかい》すると言われている時間。草木も眠る丑三《うしみ》つ時《どき》というやつだ。
珍《めずら》しく寝つかれず、大輔《だいすけ》はぼんやりと天井を眺《なが》めていた。
半《なか》ば強制的に夕食をご馳走になった後、竜憲《りようけん》の運転する車で帰宅したのが、十時過ぎ。さっさとベッドに入ったのだが、眠りはいっこうに訪れてくれなかった。
目が冴《さ》えて仕方がない。
いつもなら、枕に頭がつくと同時に寝てしまうのに、どうしたわけか、今日に限って眠れないのだ。
夏掛けの布団を蹴《け》り飛ばし、のそりと起き上がった大輔は、机の上の灰皿を引き寄せた。
ライターと煙草《たばこ》も取り、意味のない溜《た》め息《いき》を吐《は》く。
どうして眠れないのか、考えると不愉快《ふゆかい》になる。
「まったく……」
呟《つぶや》いて、煙草をくわえた。
とにかく、今、大輔が考えていいのは“根《ね》の堅州国《かたすくに》に追われた姫”という唯一《ゆいいつ》の手がかりのことだけだった。
「……根の堅州国……ね……」
それだけでは探しようがないと思うのは、自分が古典に興味がなかったせいだろうか。
ライターをもてあそんでいた大輔は、目を細めて石を鳴らした。
思いのほか大きい炎に、一瞬顔を背《そむ》ける。
「……え? ……」
炎は、そのまま氷となった。
「来やがったな……」
水が燃え、炎が凍《こお》る。
異界と混線した電話で、竜憲が告げられたという警告。
水が燃えるほうだけでなく、炎が凍るほうも、大輔が引き受けたらしい。
彼に取《と》り憑《つ》いている戦士のせいか。
この男が根の堅州国とやらに追いやられた姫神《ひめがみ》の戦士なら、確かに怨《うら》みも強かろう。怨念《おんねん》に魅《ひ》かれて、鬼が現れても不思議《ふしぎ》はない。
「ちったあ手伝えよな。ええ? ……俺が死んだら、あんたも困るんだろ?」
低くあざける。
もっとも、水が燃えるのと違い、炎が凍《こお》るほうには、さして恐怖感はなかった。そこいらじゅうで火が燃えているわけではない。それに、氷には炎に比べて、直接死に繋《つな》がる連想がないせいだろう。
一瞬にしてこの部屋が氷河に変わる心配だけはないのである。
ただし、この氷は、冤鬼《えんき》が現れた証拠だった。
「たく、なぁ。……なんで俺なんだ? 理由くらいははっきりさせてくれよな」
口の中で呟《つぶや》いた大輔は、ベッドの上で胡坐《あぐら》をかいた。
はっきり言って、お手上げだ。正直な話、竜憲に押しつけてきたつもりだったのである。
目論見《もくろみ》は大はずれというわけだ。残念ながら、竜憲とは違って、怨霊《おんりよう》退散の真言《しんごん》も知らなければ、呪文《じゆもん》の類《たぐい》などまったく縁《えん》がない。
罪を着せられ、怨《うら》みを残して死んだ者の魂。塚を壊《こわ》され、彷徨《さまよ》い出たという話だが、怨みを晴らせば、成仏《じようぶつ》するのだろうか。今となっては、その怨みを晴らすべき相手も、とうの昔にこの世からは消えているはずだ。
「……まったく、常識ってもんがねぇのかよ……」
いくら、罵《ののし》ったところで、手応《てごた》えというものがない。
ライターの火が凍っただけで終わりだとは思えなかったが、それ以上のことは起こらなかった。
ぼんやりと座ったまま、大輔は自分の部屋をゆっくりと見渡した。
窓からの月明かりが、部屋の中を照らし出している。いまさらながら、カーテンを閉め忘れていたのに気づく。
いや、違う。カーテンは閉じたはずだ。
そろそろと窓を振り返った大輔の目に、半分開いたカーテンが映る。
窓の向こうには、月の輝く夜空。
そして、その夜空を背景に、窓の上から何かが影を作っている。
人が逆さにぶら下がっているようにも見えたが、それにしては異様に腕が長い。そのうえ、だらりと下がった腕は、恐ろしく太いのだ。
大輔はごくりと咽喉《の ど》を鳴らした。
「……冤鬼……か?」
返答があろうはずがない。
だが、代わりに赤く輝く二つの目玉が、かっと見開かれる。
『見るな!』
頭の中で姫神《ひめがみ》の戦士の声が響くのと、赤い眼光に目が引きつけられるのはほとんど同時だった。
忠告は遅かったのだ。
心の中で舌打ちをしながらも、大輔の視線は赤い一対《つい》の目に釘《くぎ》づけになっている。
『馬鹿者《ばかもの》め!』
こうなって罵《ののし》るくらいなら、最初から忠告してくれればいいのだ。
鬼の目の呪縛《じゆばく》から逃れることもできずに、泣き言しか思い浮かばぬ、己《おのれ》の不甲斐《ふがい》なさに呆《あき》れながらも、大輔は赤く輝く瞳を見つめ続けるしかなかった。
あの男の声は聞こえなくなっている。呪詛《じゆそ》や怨《うら》みの声が、濁流のように精神の中に流れ込む。
一人や二人の怨念《おんねん》ではない。何十何百という連中の怨み事が、渦巻いていた。
――なんで、俺がこんな目に!? ――
恐ろしく気分が悪い。
――ふざけやがって〓 ――
少しずつ、自分の思考が凶悪になっていくのがわかる。何に対して怒りを覚えるのかも、徐々にわからなくなっていく。
やがて、すべての思考が、怒りの中に沈んだ。
何もかもが憎《にく》い。
――殺せ! ――
鬼の声が、自分の心の声にすり代わっていく。すべてを打ち壊《こわ》したい。
――大地を血に染めろ! ――
単純で凶暴な欲望が、心を満たす。
――復讐だ! ――
内なる声に突き動かされ、大輔はベッドから飛び降りた。
と、途端に強い力が肩を押さえる。
『戯《たわ》け! お前の敵は目の前にいるぞ!』
耳もとで怒声が響く。
声に耳を貸す気にはならなかった。
――最初に血祭りに上げるのは……――
脳裏に浮かんだのは、なぜか鴻《おおとり》の顔だった。
『目を覚ませ!』
叫び声が、ひどく遠くに聞こえる。
――なぜだ。……に追いやったのは、奴だぞ。……を殺せ! ――
自分ではない自分の心が、姫神《ひめがみ》の戦士を罵る。
『お前らの手など借りん!』
脳髄が打ち砕かれるような衝撃が走る。
大輔は低く呻《うめ》いて、その場にうずくまった。
『戦え!』
頭を振り、顔を上げた大輔の眼前に、白い影が背を向けて立ちはだかっていた。
よろよろと立ち上がると、その影と自分がふわりと重なる。
軽い目眩《めまい》に襲われ、大輔は必死に踏み堪《こら》えた。
「……くそったれ……」
口の中で呟《つぶや》き、窓を睨《にら》み据《す》える。
窓に覆《おお》い被《かぶ》さった黒い影は、相変わらずだらりと両腕を下げ、赤い眼を光らせていた。だが、その眼には、先程のような眼力はない。
ふと気づくと、あの奇妙な剣を握りしめている。
しかも、あの男の手ではなく、自分の手が。
『戦え!』
再び声が命じた。
同時に、鬼の両腕が窓を突き抜け、大輔に向かって伸びる。
無意識に剣を振りかぶっていた。
剣が一閃《いつせん》し、節くれだった腕が、ごとりと落ちる。
ほっとしたのも束《つか》の間《ま》、もう一方の手が肩を掴《つか》んだ。鬼の鋭《するど》い爪が肩に食い込み、目の前に牙《きば》を剥《む》いた鬼の顔が迫る。
あげかけた悲鳴が、咽喉《の ど》の奥につかえた。
遠退《とおの》きそうな意識を繋《つな》ぎ止め、必死に剣を振るう。
確かな手応えがあったと思うと、突然視界が白く霞《かす》んだ。
次の瞬間、身も凍《こお》るようなおぞましい悲鳴が響く。
肩を掴んだ爪が消え、瞬時に視界が元に戻った。
「勝っ……た?」
その場にへたり込み、深く息を吐《は》く。
鬼の姿は文字どおり、消えていた。
だが、切り落とされた腕が、鬼が現実であったことを教えてくれる。
床で蠢《うごめ》く腕は、まだ生きていた。
「げ……」
飛び退いた大輔の目の前で、宙に浮いた腕は、切り口のほうから窓に吸い込まれて消えた。
今度こそ、確かに元の部屋に戻る。
握りしめていたはずの剣も、どこにも見当たらない。
床にごろりと転《ころ》がって、息を整える。
「……助かった……」
思わず、声が漏《も》れた。
『……まだだ』
ひどく小さな声が聞こえる。
「え?」
しばらく神経を集中してみたが、それ以上は何も聞こえなかった。
何がまだだと言うのだろう。
「まだなんかあるってのか? ……もう充分だよ……」
ぶつぶつと呟《つぶや》き、ベッドに這《は》い上がる。
文句が出るのは、自分がまともだという証明だ。
時計を確かめようと、枕元のスタンドを点《つ》けた。
午前三時半。
実際のところ、長い時間だったのか、それとも短い時間だったのか、よくわからなかった。
何より本当に現実だったのだろうか。
大輔は、ちらりと天井を睨《にら》んだ。
「わかってるって、夢じゃない」
ベッドの下に落ちた煙草《たばこ》を拾い上げ、潰《つぶ》れたパッケージを怨《うら》めしげに睨む。
それにしても、何がまだなのだろう。
「まだ、退治しちゃいないってか? 当然だろ? 俺は霊能力者《れいのうりよくしや》じゃねぇんだから……」
大輔は言い訳がましく呟《つぶや》き、煙草をくわえた。
それにしても、不思議《ふしぎ》だ。
大道寺忠利《だいどうじただのり》に何も見ないはずだとお墨付きをもらった自分が、なぜ今になってこんな目にあうのか。
自分に取《と》り憑《つ》いたという姫神《ひめがみ》の戦士の力が、自分の破魔の力を上回っているから、と言われてしまえばそれまでなのだが、生まれてこのかた、普通の人間を通してきた大輔としては、その力関係を理解することが、そもそも難しい。
にもかかわらず、その普通の人間は、異常な事態に正常を保っているだけではなく、前向きに対処しようと努力しているのだ。
「せめて、説明がほしいぜ……まったく」
半分無意識にライターを手に取り、一瞬眉《まゆ》を寄せる。
「……まさか……ね」
ライターはごく普通に着火し、大輔は紫煙を深々と吸い込んだ。
冤鬼《えんき》に乗っ取られそこねたせいで、わけのわからぬ声をずいぶん聞く破目になったらしいのだが、もともと何も感じることができないからこそ、実際に聞くことのできた声は妙に気にかかる。
もっとも、冤鬼の眼に魅入られた瞬間からしばらくの間、心を占めていたのは、理由のわからぬ憤《いきどお》りだけだったのだが。
何か重要なことを聞き逃したような気がするのは、単なる気のせいだろうか。
竜憲や鴻なら、もう少し実のある対応ができたのかもしれない。そう思うと、なおさら口惜《く や》しかった。
「あ? ……鴻だと?」
そうだ。
あの時、敵と思い浮かべたのは鴻だった。
大輔自身が憎《にく》んでいたのか、姫神の戦士がそう認識しているのか。今となっては定かではない。しかし、あの戦士の意思ならば、今度はなぜ止めたのかが疑問になる。
ふと、竜憲の顔が脳裏を掠《かす》めた。
竜憲と鴻。二人を並べて思い出すと、どうしてもあの最悪のシーンを連想する。それゆえに、鴻が敵なのなら、あまりにも情けない。
「だめだな……考えるだけ無駄《むだ》――おっと……」
手にした煙草が、たいして吸わぬうちに、半分近く灰に変わっている。灰の落ちそうな煙草を、静かに灰皿の上まで運ぶ。
赤い火口を取り戻した煙草を見つめていると、妙に嫌《いや》な気分になった。
冤鬼《えんき》の赤い眼光を思い出させるのだろう。
煙草を灰皿にねじ込むと、大輔はベッドに寝転《ねころ》んだ。
何を考えても、今は無駄《むだ》のようである。数時間でもいい。とにかく、きっちりと眠って、それから次を考えるのだ。
自分に言い聞かせ、大輔はスタンドを消そうと手を伸ばした。
途端に電話が鳴り始める。
「な……に……?」
嫌な予感がする。
恐る恐る手を伸ばした大輔は、受話器を耳に押し当てた。
2
深夜の無言電話。
普段なら、その場限りで怒りはしても、ひとしきり文句を並べてしまえば、その先までは気にしないだろう。
しかし、今夜はそうはいかなかった。
なぜ、無視することができないのかは、理屈では説明できない。大輔《だいすけ》が、最も信用しないもの、勘《かん》というやつのせいだ。
その不確かなもののために、夜の夜中に母親の車の鍵《かぎ》をこっそりと持ち出し、こうして車を走らせているのである。
深夜の四時の街路には車の影などなく、ペーパー・ドライバーの大輔でも周囲を気にせずに運転できた。
いらない時に冷静になってしまったのも、その空《す》いた道路のおかげだった。
残りの道程が少なくなるにつれ、なんの根拠もない勘で動いているのだと、理性の訴えが大きくなっていく。
竜憲《りようけん》に何もなかったのなら、それこそ赤恥というところなのだが、この際それもやむを得ない。そう自分に言い聞かせて、アクセルを踏んでいるのだ。
昼間ならクラクションを鳴らされそうなほど、大きく脹《ふく》らんでカーブを曲がり、竜憲の家へと続く坂道に、同じ態《てい》で突っ込む。
急な坂道で、突然重くなった車を、無理やりアクセルを踏み続けて上りきった。
サイド・ブレーキだけは慎重に引く。
「坂道駐車は……ロウギア……」
こういう時に限って妙なことを思い出す。
言葉どおりに行動してた途端、ものの見事にエンストした。単にエンジンを切る前に、ギアを入れ、クラッチを離しただけ。ただそれだけなのに、車体を襲った衝撃は、どうも自尊心を傷つける。
「……う……くそっ……」
口の中で罵《ののし》って、キーを抜く。
「落ち着け……馬鹿《ばか》」
ステアリングに顎《あご》を載せ、大道寺家《だいどうじけ》の門を見やる。
こんな時間だというのに、門は開いていた。
それも、通用門ではなく、正門が大きく左右に開いているのだ。
どうやら、山勘《やまかん》もそこまで外《はず》れてはいないようである。
大きく深呼吸を繰り返し、大輔は車を降りた。
ドアを閉めて、また深呼吸。
「行くぞ!」
自分を叱咤《しつた》して、足を踏み出す。
大輔に取《と》り憑《つ》いた古代の戦士が事前に警告してくれないことは、わかっている。何か起こってはじめて、声を届けることができるのだ。
聞くことができないだけかもしれないが。
夜の夜中に、他人の家を襲うなど、そうそう経験はない。しかも、事前になんの連絡もしていないのだ。
ゆっくりと、あたりの気配を探《さぐ》りながら正門をくぐる。
まさしく、正門という言葉がふさわしい、大時代な門の内側には、篝火《かがりび》がたかれていた。
「おいおい……。時代錯誤もいい加減にしてくれよ……」
それでなくても、大道寺家は時の流れに取り残されたようなお屋敷なのだ。篝火などという装飾品までつけられると、髷《まげ》を結った武者やら、姫君が出てきそうな気がする。
昼間の数倍も広く見える庭。黒く闇に沈んだ庭木が、篝火に照らし出されて、今にも動き出しそうだ。
何かがある。
いくら大道寺の家が特殊だからといって、これは尋常ではない。
悲しいかな、魔物の気配を感じ取ることができない大輔には、それ以上のことはわからなかったが、異変が起こっているのは確かだ。
ばちばちと音を立てて、周囲に火花が散る。
自分が振り回しているという鎖鎌に、何かがぶち当たっているのだろうか。これが冬ならば、静電気の悪戯《いたずら》とでもいってやるところだが、生憎《あいにく》、まだ初秋だ。
しかも、湿気も充分にある。
小さく、大輔は笑った。
以前なら、なんとしても現実的理由を考え出すところだったが、今は超常現象を信じ込もうとしている。
いい加減なものだ。
たとえわずかでも、敵を倒していると、信じたい。冤鬼《えんき》が現れた時、ついでのようにほかのものにまで襲われてはかなわない。
「……リョウ……」
ぽつりと呟《つぶや》く。
竜憲の耳に届くとは思えない。だが、呼ばなければならないような気がしたのだ。
「……あんたか……。リョウを呼べと言うのか?」
自分の内に潜《ひそ》んだ男に問う。
だが、答えはなかった。
「まぁ、いいがな。警告するんなら、早いうちに頼むぜ。……できりゃな……」
皮肉げに告げた大輔は、注意深く足を踏み出した。
篝火《かがりび》の列は、火の粉を上げながら燃えている。くべられている木は、特殊なものなのだろう。かすかな風に流される煙は、芳香を放っていた。
玄関までがひどく遠い。かすかな唸《うな》り声まで聞こえる。
真言《しんごん》なのか、特殊な呪文《じゆもん》なのか、知識のない大輔には聞き取ることもできない声は、道場のほうから流れてくる。
確かに、異常事態だ。
「……まさか……」
鴻《おおとり》が何か企《たく》らんでいるのでは。
竜憲は、自分の意思であの化け物にかかわっていた。
そう思った瞬間、自然と足が道場に向かう。
母屋《おもや》から繋《つな》がる渡り廊下の両側にも、篝火がたかれている。神経質なまでに等間隔に並んだ炎の列は、むせ返るほどの芳香を放っていた。
足音を殺し、呼吸を意識して整えながら、慎重に。
「……大輔……」
ばっと振り返る。
「……リョウ……。どうしたんだ?」
篝火《かがりび》の向こう、裏庭の闇の中から、竜憲が姿を見せた。
「あんたこそ、どうしたのさ」
「ちょっとな。……炎が凍《こお》るってヤツがあったんで、来てみたんだが……」
ちらりと歯を見せた竜憲は、大輔の腕を掴《つか》んだ。
「こっちへ……。そこはまずい」
「何があったんだ? この大袈裟《おおげさ》な……」
「いいから……。ここにいるのがばれるとまずいんだ」
腕を掴まれたまま、裏庭に向かう。
「親父《おやじ》がさ……怨みを祓《はら》えなくて、引き受けて来たらしいんだ。今、それを始末しているところ」
「だったらお前が……。と、そうか……。お前は疑われているんだよな」
姫神《ひめがみ》を封じる器《うつわ》となった竜憲は、霊能者《れいのうしや》達が一番恐れる存在なのだ。しかも、姫神はいつでも表に出られる。
仕事中はけっして近づけてはならない存在なのだ。
「……そういうこと。……けど、親父が連《つ》れてきたのは、ただの怨《うら》みじゃないと思う」
「冤鬼《えんき》か?」
「……うん。そう言ってた」
化け物が、だろう。
「で、何か? 一応、ここで見張っているんだな」
「鴻さんがいないからな……」
ひくりと、頬《ほお》が痙攣《けいれん》する。
竜憲がいまだに鴻をさんづけで呼ぶ神経がわからない。もっとも、彼にしてみれば、鴻の連れている魔物に、姫神を封印《ふういん》するように頼んだだけなのだから、仕方がないのだろうが。
何が行われていたのか、意識していないのだ。
手足に残る牙《きば》の跡も、鴻の魔物が施《ほどこ》した術だと言っていた。
「……そういや、傷は?」
「あ、あれ。もう消えたよ」
竜憲がシャツの袖《そで》をまくって見せる。
しかし、そこには生々しい赤い牙の跡が残されていた。
「どこがだ?」
「え?」
訝《いぶか》しげに、竜憲が大輔を見上げた。
「何もないだろ?」
竜憲には見えないのか。
「そんなはずないだろ! ええ? お前は霊能者《れいのうしや》なんだろうが! 俺に見えて、お前に見えないはずがない!」
「大輔。声が大きい……」
「ふざけるな!」
かっと体温が上がる。
同時に、灯《あ》かりが消えた。
「来た!」
竜憲の視線が、消えた篝火《かがりび》に向けられる。
「ごまかすな!」
「冤鬼《えんき》だ。火が、凍《こお》った……」
「リョウ!」
掴《つか》みかかろうとした手が、反対に掴まれた。
「しっかりしろ! 大輔!」
「鴻はどこだ! あの野郎、ブッ殺してやる!」
「大輔! どうしちゃったんだよ……。大輔!」
竜憲の顔が眼前に迫り、悲痛な声が耳に突き刺さる。
何を言っているのかは、大輔にもわかっていた。だが、湧《わ》き上がる怒りは、止めようがない。
目を抉《えぐ》って、鼻を削《そ》ぎ、それから全身を切り刻んでやる。
「大輔!」
頬《ほお》を打たれる。
ゆっくりと目を眇《すが》めた大輔は、周囲を見渡した。
篝火が、氷の彫刻になっている。内に熱を秘めているのか、芯《しん》が赤く色づいた氷は、心臓の鼓動《こどう》のように脈動していた。
――あれがお前の剣だ――
何かがささやく。
「……そうか……」
「おい、大輔! どうしたんだ! しっかりしろ!」
再び、頬が鳴る。
「どけ。リョウ……」
掴《つか》まれた腕を振りはらい、篝火《かがりび》に近づく。大輔の手を待っていたかのように、凍《こお》った炎は高く立ち上った。
これこそが、己《おのれ》の剣。
手に馴染《なじ》む剣を手に入れた大輔は、唇《くちびる》の端を引き上げると、周囲を見回した。
いた。
鴻だ。
道場の裏手、裏山に続く小路の脇の小屋に、鴻は潜《ひそ》んでいる。
「……そこか……」
なぜ、それが見えるのか。怒りが、大輔に力を与えているようだ。闇に沈む裏山が、そこだけ燃え上がっている。
「見つけたぞ……」
剣を携《たずさ》え、低く笑った大輔は、まっすぐに小屋に向かっていった。
3
「大輔《だいすけ》!」
闇の中にぼうっと浮かび上がる剣を携え、大輔が裏山に向かう。
慌《あわ》てて、竜憲《りようけん》はその後を追った。
「くそ……。取り込まれたのか……」
冤鬼《えんき》に操《あやつ》られているのだろう。わけのわからないことを言い、勝手に怒って、裏山に向かっているのだ。
大輔は、けっして暴力的な男ではない。
頭抜《ずぬ》けた長身に、見合いの体重という外見とは裏腹に、平和的な手段を選ぶ男なのだ。
その彼が、炎が凍《こお》った氷柱をへし折り、剣のように下げていた。
鴻《おおとり》を叩き切る気なのだろう。
「まったく……。どうして冤鬼なんかに……」
走っているようには見えないのだが、大輔の足取りは恐ろしく速い。竜憲など息を切らして追いかけているのに、差はまったく縮《ちぢ》まらないのだ。
唯一《ゆいいつ》の救いは、鴻がそんなところにはいないということだ。
突然、修行《しゆぎよう》をやり直すと言った鴻は、父親が帰宅するのと入れ違いに、家を出ていった。
それにしても、鴻にどれほどの怨《うら》みがあるというのだろう。
傷がどうのと騒ぐからには、彼には傷跡が見えたのだ。あらためて、自分の腕をしげしげと眺《なが》めた竜憲は、訝《いぶか》しげに顔を顰《しか》めた。
何も見えない。
驚くほど治りの早かった手足の傷は、あること自体が不思議《ふしぎ》なものだった。龍の鱗《うろこ》を持った蛇《へび》の牙《きば》の跡は、確かにその場で消えていったのだ。
おそらく、術が最後まで行われなかったせいだろう。
姫神《ひめがみ》を封印《ふういん》する。
その可能性があるとわかっただけでも、ずいぶんと気分が落ち着いた。
大輔は誤解したのだろう。あの白蛇に食われるとでも思ったのか。それとも、彼の目には白蛇が見えなかったのかもしれない。
ありそうな話だ。
鴻をここまで敵視している理由は、それしか考えられなかった。
足早に裏山に向かう間、とりとめもない思いが、頭を過《よぎ》る。
ここ数か月で、大輔の常識が根底から覆《くつがえ》されていることは確かだ。
それにしても、魑魅魍魎《ちみもうりよう》が存在すると認識して以来、彼はやたらとそいつらに操《あやつ》られている。
馴《な》れていないのだ。
だからこそ、見られるようになった彼は、妖鬼《ようき》達の絶好の目標になっている。始末が悪いことに、大輔の力は魍鬼《もうき》達が欲しがるほど強大なのだ。そのうえさらに、古代の戦士の力もある。
なるほど、奴らにとっては、絶好の力だ。
「……まったく……」
弾《はず》む息をごまかすように、苦笑した竜憲は、大輔の姿が消える瞬間を目にした。
「何……」
確か、古い小屋があるはず。
竜憲はそんなものがあることも、忘れていた。
「……まさか……」
重くなった足を、必死で引き上げる。
使われなくなった小屋ではなく、誰も立ち寄らない小屋だとすれば、鴻が籠《こも》っている可能性もあるのだ。
最後の数歩を、竜憲は息を切らしながら駆《か》け上った。
「大輔!」
ばっと扉《とびら》を開く。
「……鴻さん……」
漆黒《しつこく》の目を、仁王《におう》立ちになった男に据《す》え、鴻は正座している。目の前の男が氷の剣を持っていることなど、気にも留めていないようだ。
そう。まさしく氷の剣。
ついさっきまで、氷柱だった武器は、内に赤い炎を秘めた、透明な剣となっている。
「やめろ! 大輔!」
「いいのです。竜憲さん。……冤鬼《えんき》が、こちらに集まっています。すべてが揃《そろ》えば……滅することができます」
唇《くちびる》に浮かぶ笑みが深くなる。
常日頃から張りついている、なんの感情もない笑みではない。心底、彼はこの状況を楽しんでいるのだ。
「……けど……」
「一つずつ片づけても無駄《むだ》です。すべてが揃った時に……」
ごくりと咽喉《の ど》を鳴らした竜憲は、大輔の背中と、鴻の顔を交互に見つめた。
どうしたわけか、大輔は一歩も動こうとはしない。
鴻の目に射竦《いすく》められているのか、それとも、冤鬼《えんき》の力がすべて揃《そろ》う時を待っているのか。どちらにしろ、今すぐ鴻に斬《き》りかかるということはなさそうだった。
「……まさか……大輔もろとも……」
ふと、疑問が頭をもたげる。
楽しげに笑う鴻は、平然と死を予言するような男だった。大義のためなら、自分の命をかけることもいとわないような、大時代な人物。
「……鴻……。答えろ……。まさか冤鬼を殺すってのは、大輔も……」
鴻の目が、わずかに眇《すが》められる。
「竜憲さん。……ご自分を見失われますな……」
「何をする気だ!」
目を怒らせて叫ぶ竜憲を、鴻は頬《ほお》を引きつらせて見つめた。
「……ちっ。やはり私では……。無理があったか……」
真っ白な腕が一閃《いつせん》する。
同時に、大輔の身体がぐらりと揺《ゆ》らいだ。
「鴻……。貴様」
腹の底から搾《しぼ》り出すような声。
「竜憲はそこにおるぞ。そなたが動けば、そやつの命はない。よしか」
低く籠《こも》る鴻の声は、化け物そのものだった。
だが、これは人間の鴻なのだ。
竜憲は大輔を威《おど》す鴻を、憎々《にくにく》しげに睨《にら》み据《す》えた。
あの、白く美しい蛇の振りをしているだけで、この男は爪の先まで、鴻だ。拭《ぬぐ》い去《さ》りようもない嫌悪感《けんおかん》がそれを教えてくれる。
「大輔! 嘘《うそ》だ! こいつには何もできない。こいつは、ただの人間だ!」
びくりと、大輔の背が痙攣《けいれん》する。
「解放してやれ! こんな男に囚《とら》われていることはないんだ。……大輔……。あの蛇を……。白い龍を解放してやってくれ!」
ゆっくりと、ひどくぎごちなく、大輔が振り返った。
「リョウ?」
「そいつを叩き切れ! あの龍を解放してくれ……。頼む。大輔……。あの龍だけなんだ。俺を助けてくれるのは……。大輔……」
「リョウ? 何を言ってるんだ……」
「大輔……。頼むから……」
懇願《こんがん》する竜憲を見据える大輔の目が、ゆっくりと眇められていった。
「龍、だと?」
「そうだ。あの龍が……。あの龍だけが俺を助けられる。ほかじゃだめだ。あいつを封印《ふういん》できるのは、あの龍だけなんだ……」
大輔が唇《くちびる》を噛み締める。細められた目が、竜憲をつくづくと眺《なが》めた。
「……嫌《いや》か? 俺の頼みが聞けないのか……。だったら――よこせ!」
言葉と同時に大輔に飛びかかる。
氷の剣をもぎ取った竜憲は、そのまま鴻に向き直った。
「貴様が……あいつを封じているんだな……」
眦《まなじり》をつり上げた竜憲は、低く唸《うな》ると剣を構えた。
「貴様さえいなければ……」
鴻の肉体が滅びれば、白い龍が解放される。そうすれば、姫神《ひめがみ》を畏《おそ》れる必要はないのだ。理不尽な扱いに唇を噛むこともない。
鴻さえ倒せれば。
自然と笑いが込み上げてくる。
目の前で呆然と立ちつくしている男を叩き切るだけでいいのだ。
それで、すべての苦渋から解放される。謂《いわ》れのない屈辱から、異常な緊張を強《し》いられる生活から。肉親にさえ疎《うと》まれ、警戒される生活が、すべて終わるのだ。
「……そうだ。貴様が……すべての元凶なんだ……」
全身から、青白い炎が立ち上る。
剣が、ひと回り大きくなった。
「貴様が!」
剣を振りかぶり、竜憲は一気に斬《き》りかかった。
4
目の前の霞《かすみ》が一気に晴れる。
ぬるま湯に浸《つ》かったように、どこか鈍《にぶ》かった皮膚の感覚が、痛みさえ伴って戻ってきた。
龍を救えと、鴻《おおとり》を殺して龍を救えと言った竜憲《りようけん》の言葉のひと言ひと言が、脳髄に突き刺さり、すべてが現実に戻ったのだ。
同時に、竜憲の姿が目に飛び込む。
「リョウ! やめろ!」
反射的に竜憲に飛びついた大輔《だいすけ》は、剣を素手で掴《つか》んだ。
「つう……」
燃えるように熱い。
事実、その剣は燃えていた。
氷にしか見えない剣を掴んだ手が、煙を上げる。
肉の焦《こ》げる臭《にお》い。そして音。
「鴻。何してる! 逃げろ!」
「だめです。今、逃げたら……」
「馬鹿《ばか》! 逃げるんだよ!」
渾身《こんしん》の力を込めて、剣を握る。
剣が細ったような気がした。と、同時に、握り込んだ部分から真っ二つに剣が折れ、床に転《ころ》がった。
剣先が炎に戻る。
ぶすぶすと煙を上げていたそれは、瞬《またた》く間《ま》に床に炎を這《は》わせた。
「くそ!」
残った剣をふるおうとする竜憲の身体を羽交《はが》い締めにする。
「どうするんだ! 焼けちまうぞ!」
「今、逃げたら、二度と冤鬼《えんき》を捕《と》らえることはできません」
「それがどうした! こいつらに何ができるってんだ。……とにかく、逃げろ! 話はその後だ!」
竜憲が身をよじる。
これほどの力があったとは。
体格では大輔のほうが遥《はる》かに勝っている。力もだ。そう思っていた。
しかし、いつまで竜憲の動きを止めていられるか、わからない。
それほどの力だった。
頭ひとつ小さい男が、必死に床を踏みしめる大輔の身体を引きずり、前に出る。ゆっくりと、だが確実に大輔の力に逆らい、鴻に向かう。
「鴻!」
足もとから、炎が立ち上る。古い木材は簡単に炎を引き、音を立てて燃え始めていた。
長くは持つまい。
このままでは、三人とも炎に巻かれ、焼け死ぬしかないだろう。
「死ね! 鴻。貴様の血も、肉も、炎に焼かれて、灰になれ!」
竜憲があざけりの声をあげる。
「リョウ!」
ゆっくりと立ち上がった鴻が、竜憲の前に立ちはだかる。
両手を差し出し、指先で奇妙な印を結ぶ。
「鴻! いい加減にしろ! このままじゃ、みんな死んじまうぞ!」
もう限界だと悲鳴をあげる腕を叱《しか》りつけ、大輔は必死に竜憲を羽交《はが》い締めにしていた。床を踏みしめる足に炎が這《は》い、腕ごと胴体を戒《いまし》める腕が、ぴりぴりと痙攣《けいれん》する。
「畜生《ちくしよう》……。鴻!」
煙が視界を遮《さえぎ》る。酸素を求めてあえぐ肺が、痛い。
咳《せき》すらできないのだ。
わずかでも力を緩《ゆる》めれば、その瞬間、竜憲は突き込むだろう。
のんびりと術を操《あやつ》っていられるような状況ではない。
だが、鴻は一歩も引かず、一心に祈り続けていた。
咳《せ》き込みもしないのはさすがだが、感心するより先に、呆《あき》れてしまう。人の精神と生命の安全を守るために存在するのが霊能者《れいのうしや》だろうに、彼はその根本を忘れているのだ。
ただひたすら、強大な魔物と戦おうとしている。
――馬鹿《ばか》野郎! ――
もう声さえ出せない。
竜憲は、この炎と煙を気にも留めていない。
――リョウ! 正気に戻れ! ――
心で叫んでも、仕方がないだろう。
『そのとおり』
ちりちりと頭が痛む。
――どうにかしろ! あんたになら、できるだろう! ――
身の内に忍び込んだものに怒鳴《どな》る。
――畜生《ちくしよう》! もう……だめだ……――
『何もできぬ。……だが』
――だが、なんだ! ――
まだるっこしいほど途切れ途切れに、男の声が頭に響く。
戦士の言葉を聞き取ることができない自分を呪《のろ》う。
『姫様を解放しろ……。あやつの毒を……呪いを……』
「どうすりゃいい!」
叫んだ大輔は、途端に身をよじって咳《せ》き込み始めた。
その腕をするりと抜け出した竜憲が、鴻に突き込む。
身体をよじり、咳き込む大輔は、それでも必死で手を伸ばした。
「リョウ!」
再び咳《せき》の発作。
気づいた時には、竜憲の足を掴《つか》んでいた。
「鴻、逃げろ!」
煙は上に向かう。
当たり前のことを、いまさら思い出す。
床に倒れ込んだせいで、息が楽になる。
炎もない。
「くそ……。また、やられたか……」
確かに、小さな火は燃えていた。だが、小屋全体に走った炎は、幻《まぼろし》だったのだ。水が火になったのと同じ。冤鬼《えんき》が見せた幻なのだろう。
ぶすぶすと煙を上げる木を蹴《け》り飛ばした大輔は、必死で《もが》く竜憲の手を見据《みす》えた。
短い木切れが一本。大輔が篝火《かがりび》から引き出した、薪《まき》だ。
「鴻! どうすりゃいい! こうなりゃ、姫神《ひめがみ》を解放するしかないだろうが!」
その霊能力《れいのうりよく》ゆえに、鴻には真実が見えていたのだろうか。相変わらず、鴻は冤鬼を調伏《ちようぶく》しようとしている。
「くそ! どうすりゃいいんだ!」
暴れ続ける竜憲を、全体重をかけて押さえ込む。
竜憲は敵の姿しか見えなくなっているのだろうか。大輔に向かって攻撃はしない。ただひたすら、鴻に向かうことだけを考えているのだ。
これは竜憲ではない。
彼の意識は、完全に操《あやつ》られている。それは、自分の経験からも、わかっている。
――どうすりゃいい……――
自分は、竜憲のひと言で正気を取り戻した。竜憲にも、そのひと言があるはずだ。
「くそ……」
こんな時に限って、自分でも呆《あき》れるほどよく回る口が、まったく役に立たない。なにひとつ、言葉が思い浮かばないのだ。
「姫様! こいつをどうにかしてくれ!」
竜憲が手にしているのは、小さな木切れだ。これならたいした怪我《けが》もしないだろう。鴻に斬《き》りかからせれば、それで冤鬼《えんき》は抜けるのだろうか。
ふと、弱気になる。
たとえそうだとしても、竜憲が元に戻るわけではない。正気に返らせるためには、何かのきっかけが必要だった。
自分の時はどうだったか。
竜憲の言葉。そして、兄が肩に触《ふ》れた。
わからない。二つの間には、なんの関連性もないではないか。
「くそぉ……どうなっているんだ。お前……どうしちまったんだ。なんでこんなもんに、お前が取り込まれるんだよ!」
『禍《まが》つ神の……呪《のろ》い』
再び、戦士の声が聞こえた。
「それがどうした! くそ! リョウ! おとなしくしろ!」
跳《は》ねる身体は、断末魔の魚のようだ。
陸に上げられ、いつまでも跳ねる魚。
――魚……――
竜憲はなんと言ったか。
蛇のようだが、魚の鱗《うろこ》を持った龍。それが、彼に封印《ふういん》を……。
「そうか!」
暴れる身体を押さえつけ、右手を引き掴《つか》む。必死に木切れを掴む手を引き寄せる。
くっきりと浮かんだ牙《きば》の跡。
「こいつか……。こいつが……呪いか!」
吐《は》き捨てるように言った大輔は、牙の跡に口を押し当てた。
思い切り吸う。
毒蛇の毒を吸い出すのと同じ。
そんなことで、呪いが吸い出せるのか。
一瞬過《よぎ》った不安は、口の中に広がる味で、霧散した。
毒。
吐きけを催《もよお》す、全身が拒絶する味。言葉では言い表すことができない、奇妙な、そして悪意と嫌悪《けんお》としか言いようがない味だった。
慌《あわ》てて吐《は》き出す。
血が混じっている。口の中がただれているようだ。だがそれは、大輔の考えが正しいことを証明してくれるものでもあった。
腕に、肘《ひじ》に、すべての牙《きば》の跡から、毒を吸い出す。
右手が、抵抗をやめた。
次は左手。
腕と共に、上半身が抵抗をやめる。
「……だ……いすけ……」
「この、馬鹿《ばか》が……。何をしてやがんだ?」
「……ああ……」
ぼうっと、竜憲の上半身が光を発する。
「大丈夫か?」
まだ、下半身は暴れようとしている。しかし、意識を取り戻した竜憲は、それを自ら押さえつけていた。
「どいてくれ……」
「わかった……」
注意深く、いつでも飛びつけるように、片膝を立てて、竜憲の動きを見守る。
と、その手に剣が現れた。
いく度かふるったことがある、枝分かれした剣。
七支刀《しちしとう》が、大輔の手の中に忽然《こつぜん》と現れたのだ。
「……な……るほど。あんたは、姫様の戦士なんだな……。だから、彼女が目覚めない限り、何もできないか……」
にやりと笑った大輔は、剣を手にゆっくりと立ち上がった。
「鴻さん……」
「すべて揃《そろ》いました。冤鬼《えんき》を……今、ここで……」
左右の指先と親指で三角形を形作った鴻は、中空を睨《にら》んでいる。
「リョウ……」
「わかっている」
上半身にだけ光をまとった竜憲は、右手を一閃《いつせん》させた。
光がほとばしる。
『ぎゃあ!』
壁の隅が悲鳴をあげる。
同時に、鬼が現れた。
先日目にしたものより、ずいぶんと小さい。だが、それは完全に実体を持っているようだった。すべてが揃《そろ》う、というのは、こういうことだったのだろう。
小さいが、より凶暴になり、そしてより力を増している。大輔が見上げるほどの体格もあった。
「まず首を。……ほかはなりません」
「わかった……」
大輔は、しっくりと手に馴染《なじ》む剣を構えた。
冤鬼《えんき》を切り倒すには順序があるらしい。
だから、腕は勝手に逃げたのだろう。腕だけでも、命を保っていたのは、順序を守らなかったせいか。
「リョウ!」
低く叫ぶ。
同時に、青白い光が、鬼の目に突き刺さる。
『があぁぁ……』
左の目を押さえた鬼が、右手を突き出す。
「リョウ!」
「なりません!」
大輔が飛び込む。
鬼の前に立ちはだかるように立った大輔は、危ういところで剣を止めた。
「ぐっ!」
長い爪が、右肩に食い込む。
かっと開いた口が、眼前に迫った。
片手で剣を突き出し、そのまま払う。
ごとりと音がして、鬼の顔が、半分転《ころ》がった。
下顎《したあご》を残した顔は、吐《は》きけを催《もよお》す。だが、鬼は痛みすら感じていないようだった。
七支刀《しちしとう》には、竜憲の放つ光ほどの力もないのだ。しかし、この剣なら冤鬼《えんき》を葬《ほうむ》り去ることができる。
相手が痛みを感じていようがいまいが。
「首です!」
「わかってる!」
肩に突き刺さった爪は、ますます深く食い込んでくる。松明《たいまつ》でも突っ込まれたようだ。
その爪が、ゆっくりと捻《ひね》られる。
歯を食いしばった大輔は、再び剣を払った。
不様に残っていた頭の残りが、落ちる。
「右足を……」
「くそ……」
腕を叩き落としてやりたい。
この剣は、触《ふ》れるだけで鬼の身体を分断できるのだ。腕を叩き落とすことなど、造作《ぞうさ》もない。この腕を落とさない限り、痛みにひるむこともない鬼は、平然と大輔の右肩を痛めつけるのだ。
「右足だな!」
目の前の足を払う。
ぐらりと身体が揺らぎ、それにつれて跳《は》ね上がる爪が、肩を裂《さ》く。
瞬間、鬼の身体は壁に叩きつけられた。
「次はどこだ!」
竜憲が叫ぶ。
その上体から伸びる光が、鬼を壁に押さえつけていた。
光が固定している。
生き物のように、青白い光がのたうち、鬼の身体に襲いかかる。
『ぎゃあぁぁ……』
のたうち、もだえる鬼。
「左手、左足、右手……」
鴻の言葉どおり、剣をふるう大輔は、最後に胴を断ち切ると、その場にうずくまった。
「大輔!」
「……くそ……」
意識が遠退《の》いてゆく。
それでも、必死で踏みとどまるのは、竜憲の今にも泣きそうな顔があるからだった。
「鴻! どうすればいい!」
「……私では……」
「溶《と》けていく……崩《くず》れて……。大輔……。大輔……」
肩が崩れてゆくというのだろう。そういえば、右肩がまったく動かない。
「どうすればいいんだ!」
「姫神《ひめがみ》に……。癒《いや》しの術は……ほかに……。誰も間《ま》に合いません……」
「姫様! 出てくれ……。頼む……」
大輔の肩を押さえつけ、竜憲が悲痛な声をあげる。
霞《かす》む意識の中で、大輔は苦笑していた。
彼女は出てこられない。まだ封印《ふういん》が残っているのだ。足に残された毒を取り除かなければ。魔物の毒は、彼女を竜憲の内側に縛《しば》りつけている。
「……リョウ……。足……を……」
「え?」
「……毒だ……。そいつが……」
ぐらりと身体が揺れる。
「私が」
鴻が歩み寄る。
その姿を目の端に捕《と》らえた大輔は、歯を食いしばって身体を起こした。
「よせ……。触る……な……。貴様など……」
竜憲の足を掴《つか》んだ大輔は、重たげに顔を上げた。
「……どこだ……あいつに噛まれたのは……」
「大輔……」
「どこだ……」
唇《くちびる》に、肌が触《ふ》れる。
毒を吸う。
唇の端から、だらりと吐《は》き出す。
「やめろ……。血が……」
「うるさい……。俺を殺す気か? ……どこだ……まだ、ある……」
再び触れた肌を、吸う。
もう大輔には、毒を吐《は》き出す力もなかった。唇《くちびる》の端から垂れるに任せて、毒を吸い取り続ける。
悪意と嫌悪《けんお》。その味が、毒を吸い出し続けていることを教えてくれた。
ふと、それが甘くなる。
「……大輔……」
肩を撫《な》でる手が温かい。
痛みが、消えてゆく。
目を開いた大輔は、自分が涙をすすっていることに気づいた。
姫神《ひめがみ》か、竜憲か。
まだ、目は霞《かす》んでいる。
白い頬《ほお》と長い睫《まつげ》が、見えるだけだ。
「……勝ったな……」
「ああ。あんたのおかげだ……」
にやりと笑った大輔は、今度こそ意識を闇に飛ばした。
終 章
目を開いたと思う前に、完全に意識が回復する。
もともと寝覚めはいいほうだが、これほど完全な覚醒《かくせい》というのも珍《めずら》しい。それこそ、スイッチを入れた、という調子で、大輔《だいすけ》は目を覚ました。
「……ああ……腹減った……」
欠伸《あくび》も漏《も》らさず、真っ先に出た言葉がそれ。
圧《お》し殺した笑い声が、降りそそがれた。
「タフだな、あんた……」
視界に、竜憲《りようけん》の顔が現れる。
「動ける? 肩の調子は?」
「肩? なんともないぞ……」
一番目の問いには、行動で答える。
軽く肘《ひじ》を張った大輔は、ほとんど腹筋の力だけで起き上がった。
昨夜何があったのか、はっきり覚えている。だが、それが夢ではなかったかと思えるほど気分がいい。そして、体調も万全だった。
「何時だ?」
「朝の十時」
「……そんなもんか……。ぐっすり寝た気がするのにな……」
苦笑を浮かべた竜憲は、ベッドに肘をついて大輔を見上げた。
「そりゃそうだ。丸々一日寝てたんだ」
「あ?」
「だから、三十時間近く寝てたんだよ」
悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべ、竜憲は新聞を広げて差し上げる。
日付に目をやった大輔は、思い切りよく眉《まゆ》を寄せた。
「三十時間だって? ……なんてこった……」
あらためて、自分のいる場所を確認し、ますます眉を顰《ひそ》める。
「ずっとここで?」
「そうだよ。……運ぶのに往生したんだから……」
竜憲はくすりと笑うと、新聞を大輔に押しつける。
「それだけ寝てたら、身体じゅう痛いんじゃない?」
「まぁな……」
大輔は首を左右に動かして、顔を顰《しか》めた。
「ぴくりとも動かなかったもんな。死体みたいに寝てた……」
その言葉に誇張はないのだろう。目覚めた瞬間の壮快な気分が、まさしく気分だったことがよくわかった。身体の節々が、凝《こ》っていることに、いまさら気づく。
もっとも、軽く身体を動かすことで、ほぐれていく。その程度だ。
「さてと……何食べる? 軽いもんがいいかな」
ひょいと立ち上がった竜憲が、妙に真剣な顔で聞く。
「べつになんでも……」
言いかけた言葉を呑《の》み込み、少しばかり声を潜《ひそ》めて言い直した。
「……そうめん……」
「そうめん? 珍《めずら》しいこと言うな。いいけど……あるのかなぁ。――まぁ、いいや。かあさんに言ってくる」
「あ……待てよ」
部屋を出ていこうとする竜憲を、慌《あわ》てて止める。
「……何? 気が変わった?」
「え? そうじゃなくて……」
立ち止まったまま、見下ろしている竜憲を見つめる。自分でもなぜ、止めたのかよくわからない。
「……鬼は……。――そう、いったい化け物はどうなった?」
出るに任せた言葉を、無理やり理由にする。
「鬼……? 冤鬼《えんき》のこと? ……あれなら、親父《おやじ》と鴻《おおとり》さんが封じたよ。ばらばらに塚を造って……。そうしないと生き返るんだってさ」
「ばらばらに……」
剣の感触が蘇《よみがえ》り、大輔は思わず自分の手を見つめた。
「首が目覚めると、また出てくるってさ。だから首塚は、ウチの裏に……あそこなら壊《こわ》す奴もいないだろ?」
「そうだな……」
大輔はその説明に曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
首から落とせという、鴻の命令が妙に生々しく蘇る。
「誰かが首塚を壊したってことか……」
「そうじゃないの? それこそ、どっかの造成予定地かなんかにあったんだぜ、きっと」
「……言えてるな」
「まったく、簡単になんでも壊してほしくないよな。……迷惑被《こうむ》るのが、そいつらだけならいいけどさ。結局、関係ない人間まで巻き込まれるんだからさ」
ぶつぶつと文句を言う竜憲を眺《なが》めていた大輔は、身体の位置をずり上げ、ヘッド・ボードに背を預けた。
竜憲は気軽に言うが、何も信じない人間との間にある深い溝は、まず埋めることのできないものだ。
確かにただの迷信や妄信《もうしん》の類《たぐい》もあるだろう。だが、その昔、誰もが畏《おそ》れて敬ったものは、けっして根拠のないものだけではないのである。
とはいえ、かく言う自分もその信じない者の一人だったのだから、文句を言う筋合いではなかったが。
「……謂《いわ》れのない罪に死んだ者の憎悪と怨《うら》みが冤鬼《えんき》に変わるって言ってたよな」
「うん。……そうらしいけど」
「あれだけの化け物を作り出す憎悪ってのは、どんなものなんだろうな……」
「さあ、ねえ。最初はともかく、憎《にく》しみや怨みを食って、どんどん化け物になってくみたいだからね。……きっとああなっちゃうと、何を怨んでるかなんてないんだろうな。ただ、近くにある、より強い憎悪やなんかに魅《ひ》かれてくるんだ。……親父《おやじ》の受け売りだけどね」
肩をすくめた竜憲は、ベッドの端に腰を下ろした。
「まんざら喩《たと》えじゃないってことだ……」
「何が?」
「――憎しみは憎しみを呼ぶ――」
「あん?」
訝《いぶか》しげに眉《まゆ》を上げた竜憲に、力なく笑ってみせる。
「なんだよ……変な奴だな。……そのとおりだけどさ」
「……やっぱ腹減ってるな……。なんか食いたい」
「なんだかな。……引き止めたのはあんただぜ」
「腹減った……」
「わかったよ。ちょっと待て。……そうめんでいいんだろ?」
「なんでもいい。すぐに食えるなら」
「わがままー。……ま、いっか……」
立ち上がり、部屋を出ていく竜憲の背を眺《なが》め、大輔は密《ひそ》かに息を吐《は》いた。
彷徨《さまよ》い出た鬼は、格好の餌《えさ》を見つけたのだ。
最初に目をつけられたのは、おそらく鴻だった。見た目にはわからずとも、確かに影響を受けていたはずだ。そして、認めるのも腹立たしいが、次は自分。鴻への嫉妬《しつと》や怒りが、冤鬼を呼び込んだ。
なまじ、力が伴うだけに、ことが大事になったのだろう。
鴻が姫神《ひめがみ》を封じたものを身の内に飼《か》っているというのは、おそらく本当だ。竜憲が白い龍と評したもの。それに対する戦士の憎しみが、引き金になったに違いないのだ。
だが、それだけではない。
変な話だが、鴻と自分の、姫神に対する感情は奇妙に似通《にかよ》っている気がする。
憎しみの中には、嫉妬という感情もある。
――いや、白い龍と戦士のと言うべきなのかもしれないが――
じつのところ、そう言い切る自信はない。自分が戦士の感情に躍《おど》らされているのか、自分自身の本当の感情なのか。
妙な話だが、竜憲は感情は支配されていない。器《うつわ》としての肉体はかなり影響を受けているようだったが。
ところがだ。鴻と自分は逆なのだ。
聞いたわけではないが、不思議《ふしぎ》と確信があった。
小さく溜《た》め息《いき》を吐《は》いた大輔の目が、ふとテーブルの上に置かれた鍵《かぎ》の束に引きつけられる。
「あ……車」
それは自分のものではなかったが、母親の車を持ち出したことを思い出させてくれた。
同時に、いたって現実的な不安が呼び覚まされる。
怒る母親の顔が、脳裏にちらついた。
「……最悪だ……」
不条理で非現実的な不安を、一時忘れるために、大輔は半《なか》ば楽しみながら、母親への言い訳を考え始めた。
あとがき
病気、怪我《けが》ネタから解放されたぞ。でも、あとがきのネタがない、と思っていたら……。
やって参りました。ネタが。
あとがきの締め切りを言われたその日。我々は某《ぼう》バンドのライブに行ったのだが……。CDは聞いて気に入ってたし、整理番号はいいし、楽しみにしていた。かなりノレるだろうと思っていたんだけど……まさかね。このバンドのライブは初めてだったので、どんなものか、と思いながらも、一応最前列に陣取った。つまんなかったら、とっとと後ろに下がって、のんびりと見物してやろうと思って。
まさか首も回らなくなるほど頭を振る破目になるとは……。
最初っからパワーに圧倒されて、気がつくと暴《あば》れていた。スタンディングの最前列というのは、丈夫な柵《さく》があって掴《つか》まっているのにはいいのだが、頭を振るには向かない。鳩尾《みぞおち》の少し下にある柵が邪魔をして、頭だけを振ることになるのだ。上半身はほとんど突っ立ったまま。これはキツイぞ。首が痛くなるほど暴れたんなら、少しは腰や足も疲れるものだが、そっちのほうはなんともない。つまり、負担は全部首にきたのだな。こんなのは初めてだ。ロック系のライブはよく行くのだが、翌日まで痛みが残ったのは数えるほど。それも、ほかに理由がある。直後の徹夜のドライブ。しかも三日連続。……これは本当に痛かったのだが、今回ほどではなかった。
直後に仕事をしたのがいけなかったのかなぁ。翌朝、予想より症状が軽かったので、マジメに仕事をしたのだ。そうしたら徐々に痛みが増《ま》してきて……。
いまだに首が痛い。
座椅子の背にバスタオルをのせて、都合《つごう》のいい角度で首を固定しないと、ワープロも打てやしないのだ。もともと首にバクダンを抱えている私(指を切ったのは私ではない)としては、かなりヤバイ状況である。先天的に首の骨がまっすぐで、衝撃に弱いのだ。自分の筋肉が強すぎるせいで、頸椎《けいつい》がひっぱられてしまい、肩こりがひどくなると症状が出る。いわゆる頸椎ヘルニアというヤツだ。始めは筋肉痛だったから、どってことなかったんだけど、首をかばって肩こりが出て……とってもマズイ。普段から、肩こりしないように気をつけているんだけど、首が痛いのはどうしようもない。病院に行くと、最低でも週に三日はリハビリに来なさいと威《おど》す、コワーイ看護婦がいるし……。前門の虎《とら》後門の狼《おおかみ》。
これはリョウちゃんの祟《たた》りじゃないだろうか。それとも大輔《だいすけ》か……。
今回、化け物は比較的おとなしかったような気がするから、あいつらのどっちかだろう。まぁ、かなり非道な扱いをされていることは認めてやるが、大輔に関しては心は痛くないのだ。友人からも、大輔をヒドイ目にあわせてやってくれという、リクエストがきているし。
「簡単だ。リクエストに応じてあげよう」と答えたものの、「リョウちゃんはなるたけ巻き込まないように」というのは、ちょっちむずかしい。それ以外にとんでもないリクエストをする者もいるし……。
とにかく、主人公が危機に陥《おちい》らなければ、こういう話は成り立たないのだ。
しかし、芸人気質の二人組である我々は、ウケをとるために、どちらかの要望には応《こた》えようと思っている。どっちかは、わかるよね。もちろん、リクエストそのままの話を書くなどということはしない。根性が曲がっているから。
次はどうやって大輔をいじめようかと、考えているのだが、首が痛いだけに執念が籠《こも》っているような気もする。
大輔をいじめるという、当初の予定は(一部、予定外の部分もあるが)着々と進行しているのであった。
万が一、この踏んでも壊れない男を気に入ったなどという奇特な方がいれば、せいぜい善戦を期待してください。我々は負けないぞ!
新田一実
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九三年九月刊)を底本といたしました。
妖鬼《ようき》の呼《よ》ぶ声《こえ》 霊感探偵倶楽部
講談社電子文庫版PC
新田《につた》一実《かずみ》 著
Kazumi Nitta 1993
二〇〇二年一〇月一一日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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