新津きよみ
婚約者
目 次
第一部 従兄――いとこ――
第二部 婚約者
第三部 夫
第一部 従兄――いとこ――
1
その日、雪子が小学校から帰って来ると、玄関に父親のものではない男物の靴が揃《そろ》えられてあった。
――誰《だれ》かお客さまかしら。
靴の大きさと形から、父親よりずっと若い男の靴なのは明らかだった。
「雪子」
母親の千恵子が、二階に上がろうとする雪子をリビングルームから呼んだ。「こっちに来て挨拶《あいさつ》なさい」
雪子は気が重かった。昔から、人見知りする性格なのを自認している。小学校のクラスでも、誰とでも仲よくなれるタイプではない。本当に気心許せる友達が少数いればそれで幸せ、と感じられる人間だった。
初対面の人間に、そつない挨拶をするのが苦手だったし、緊張を隠すために無理して微笑《ほほえ》もうとする自分を、客観的に見るのも嫌だった。
しかし、雪子は〈いい子〉だった。一人っ子として、両親に愛情をたっぷり注がれ、大切に育てられた。恵まれた環境を与えてくれた両親に恩を感じている彼女は、人前で両親に恥をかかせるようなことをしたくなかった。
リビングルームのソファに、千恵子と、見知らぬ男女が座っていた。母親くらいの年のふくよかな女性と、すらりとした二十歳前後の男性。
「えっ、この子が雪子ちゃん? まあ……」
女性のほうは、あんぐりと口を開けて雪子を見上げた。
「こんなに大きくなったの?」
その女性は、雪子を頭のてっぺんから足の先まで見て、「いま、身長どのくらい?」と聞いた。
「何センチだったかしら」
と、千恵子が、知っているくせに、なんだか嬉《うれ》しそうにとぼけて娘に聞いた。
「一メートル五十七センチです」
雪子は答えた。違和感にとらわれていた。相手が誰かもわからないのに、いきなり身長を聞かれ、それに素直に答えてしまった自分に、恥ずかしさも覚えていた。母親の鈍感さにも腹が立った。千恵子は、その女性の驚きぶりをおもしろがっているようで、紹介もしてくれない。
「クラスでも大きいほうじゃないの? 今年で十一歳になるんですってね、雪子ちゃん。ああ、ユキちゃんって呼んでたのよ、伯母《おば》さん。でも、もう雪子さん、って感じだわ。伯母さんのこと、憶えてる?」
憶えてなどいなかった。雪子は、首をどう振っていいのかわからず、あいまいに微笑んだ。
「憶えてないだろう。だって、ユキちゃんは、まだ赤ちゃんだったんだから」
と、千恵子とその女性に挟まれていた若い男が言った。まぶしいほど白い歯がのぞいた。
見知らぬ男性に、「ユキちゃん」と呼ばれた瞬間、雪子の背筋を悪寒とも快感ともつかぬ、不思議な感覚が這《は》い上った。それは、生まれてはじめて知る感覚だった。雪子の周囲には、彼女を「ユキちゃん」と呼ぶ男性はいない。父親は「雪子」と呼ぶし、学校の教師は「影山さん」と呼ぶ。雪子の通う私立のS学園では、「生徒同士も名前でなく、名字にさんづけで呼び合いましょう」と指導していた。
「そうよね。九年もたつんですものね」
千恵子が言い、遠い日を思い出すような懐かしそうな目になった。「瑞枝《みずえ》さんたちがロスアンジェルスに行ったのが、この子が二歳のとき。憶えているはずないわ。でも、雪子には伯父さまのこと話してあったはずよ。アメリカからきたクリスマス・カードだって見せたことがあるでしょう?」
父親の姉の夫――つまり、自分のたった一人の義理の伯父《おじ》、高木秀太郎については、雪子は聞かされた記憶があった。雪子には、伯父(叔父)と呼べる存在は、秀太郎一人しかいない。千恵子にも姉がいたというが、結婚前に病死してしまったと聞いている。
「あ、ああ。ごめんなさい。雪子ちゃん、びっくりするわよね、いきなり」
瑞枝さんと呼ばれた女性は、「座って」と手招きした。肉づきのいい手だった。
雪子は、彼女の息子らしい男性と向き合う形になった。彼は、やはり懐かしそうなまなざしで雪子を見ている。雪子は、頬《ほお》が火照っているのがわかった。
「わたしはね、高木瑞枝。雪子ちゃんのお父さんのお姉さん。つまり、お父さんと姉弟なの。で、この子はわたしの息子で、賢一。雪子ちゃんのお父さんには、甥《おい》にあたるわけね。だから、雪子ちゃんとはいとこ同士になるの。いとこって知ってる? あ、ああ、もちろん知ってるわよね。わたしったら、赤ちゃんのころの雪子ちゃんの面影がちらついて、つい子供扱いしちゃって。ごめんなさいね」
瑞枝は、肩をすくめた。
賢一と呼ばれた息子は、「賢一です、よろしく」と雪子に挨拶し、「僕のほうはユキちゃんがオムツをしていたころをよく知ってるから、よろしく、と言うのは、はじめまして、みたいでおかしいけど」と照れくさそうに言った。
「まあ、オムツだなんて、懐かしい。そうよね、そんなころだったわよね」
千恵子は、声のトーンを上げ、高らかに笑った。瑞枝も笑い、賢一も笑った。雪子だけが笑わなかった。ただ、ぎこちない微笑を顔に張りつけ、居心地の悪さを感じていた。
自分は賢一という男とは、初対面のつもりである。そんな相手に、「ユキちゃん」と親しげに呼ばれた上に、「オムツをつけた自分の姿」まで見られていたと知って、たまらない恥ずかしさと屈辱を感じた。二階に上がってしまいたかった。が、彼女の足は動かなかった。「宿題があるから」と、席をはずしたければはずしてもよかったのだが。
賢一の存在には、目を離させなくする何かがあった。意志の強さを表すように眉《まゆ》が濃く、目が大きく、鼻筋が通り、唇が厚い。健康的な肌の色。引き締まった身体《からだ》。座っていても、背が高いのがわかる。玄関に脱いであった靴は、父親のものよりずっとサイズが大きかった。
何もかも異質だった。父と母と自分。三人で暮らすには広すぎる7LDKのこの家に、まったく異質の男が異質の空気をまとって入り込んで来たような気がした。
その空気は、異質だが、少なくとも新鮮には違いなかった。
「雪子です。よろしく」
雪子は、緊張して頭を下げた。千恵子が娘の分の飲み物を取りに、台所へ行った。
「あとでお母さんから話があると思うけど」
その千恵子の後ろ姿をちらりと見て、瑞枝は声を落とした。「賢一がね、今度、東京の大学に入ることになったの。伯父さんと伯母さんは、またロスに帰らなくちゃいけないの」
雪子は、高木秀太郎が「大学教授」と呼ばれる職業についているのを思い出した。
「千恵子さんが『どうせなら、この家に下宿したら?』と言ってくださったんだけど、そこまで甘えるのもどうかと思って。賢一にも、この機会に一人暮らしを経験させるのもいいと思うし。それで、お父さんが経営しているアパートの一室を借りることになったの。すぐそばだから、雪子ちゃんにも何かとお世話になるかと思うけど、よろしくお願いね」
父親の影山澄夫は、建築家である。雪子が小学校にあがる前に、平屋だった自宅を仕事場つきの三階建てに建て替え、敷地の一部を売り、残りの一部に当時としてはモダンなアパートを建てた。家を建て替えるきっかけになったのは、雪子の祖父母の相次ぐ病死だった。祖父母は資産家で、都内にしてはぜいたくすぎるほどの広い土地を持っていた。
「どうぞよろしくお願いします」
賢一は、かしこまって、開いた膝《ひざ》に手をあて、深々と頭を下げた。細いジーンズの股間《こかん》あたりの布がひきつられて、中心がふっくら盛り上がった。雪子はドキッとした。父親も学校の男性教師も、ジーンズをはかない。
「こ、こちらこそ」
おかしなほど、声がうわずってしまった。が、幸運にもその声の大半は、台所のミキサーの音にかき消された。
千恵子がトレイにオレンジジュースの入ったグラスを載せ、運んで来た。千恵子は、雪子には絞った手作りのジュースしか飲ませない。それで、作るのに時間がかかる。
「雪子ちゃんには話したんだけど」
と、瑞枝が言いかけたのを、「聞こえたわ」と千恵子が引き取り、「そういうわけよ」不自然なほど明るい声を出して、雪子の前にジュースのグラスを置いた。
瑞枝と賢一の前には、紅茶が出されていた。雪子は、自分のグラスの鮮やかなオレンジ色に、彼女たちと自分との厳然とした年齢の隔たりを感じた。澄夫と千恵子は、「コーヒーや紅茶をあんまり早くに飲み出すと成長が止まる」と言い、薄くいれたコーヒーさえも雪子に飲ませようとしない。
「賢一さんは、すごく優秀なのよ。東京大学に合格したんだから。お母さんの自慢の甥よ」
千恵子が言った。雪子は、母親の話の展開の仕方を奇妙に思った。
「だからね、あなたも賢一さんにそばにいてもらって、あやかりなさい」
――あやかる?
雪子には、理解できない表現だった。
「ああ、しっかり勉強を見てもらいなさい、ってこと。それにしても、瑞枝さん、偉いわ」
と、千恵子の矛先が瑞枝に向けられた。「アメリカに九年もいて、賢一さんにちゃんと日本の大学受験用の勉強もさせてたなんて」
「偉くなんかないわよ。たまたま、いい家庭教師があちらで見つかっただけ。高校生くらいになるとね、日本の大学を受けるための受験勉強用の塾なんかに行ったりするの。家の中では日本語を話してたし、日本の友達も多かったから、不自由はしなかったわ。わたしは、母親として何にもしなかったのよ、ほんと」
「もう、瑞枝さんったら、いつも『わたしは何にもしない』なんだから」
雪子は、千恵子が、瑞枝をいたずらっぽい目で睨《にら》むのを見た。目の奥に、ほんの少しきつい光があった。
「実はね、お母さんは」
今度は、千恵子の関心が娘に向く。「あなたの勉強を見てくれることを条件に、賢一さんにうちに下宿してもらおうと思っていたんだけど、瑞枝さんに断られちゃったの」
「断られた、だなんて」
瑞枝は、ぶるぶるとかぶりを振った。ふくよかな頬と二重|顎《あご》が揺れた。雪子は、なぜこんな太目の母親からこんなスマートな男の子が生まれたのだろう、などと考えていた。が、よく見ると二人の顔立ちは似ていた。瑞枝は、やせたらきれいになる顔立ちだと思われた。雪子は、記憶にはまったくなかったが、この人は昔はやせていたのでは、と思った。
「下宿させてもらおうなんて、あまりにも図々しいと思ったから。それにね、千恵子さん。この子、すっごくたくさん食べるのよ。一緒に住んだら、お米はすぐになくなっちゃうし、おかずも三人分、作らなくちゃいけないしで、とっても大変よ」
瑞枝は、呆《あき》れた顔で言った。息子の賢一は、否定もせずに、首をすくめてみせた。
「そんなこと、苦にならないわ」
千恵子が言った。
「お母さんは、料理が上手です」
雪子は言った。千恵子も瑞枝も、賢一も、ハッとしたように雪子を見た。その視線で、雪子は、自分が場違いな発言をしたのだ、と気づいた。
「あら、嫌だ。娘にほめられるなんて」
千恵子は、我に返ったように言い、続けた。「でもね、わたしは専業主婦で、料理が仕事だもの。本当に苦にならないわよ。賄《まかな》い付きの下宿のつもりで、一緒に住んでもらってもかまわなかったのよ。でも、それじゃ賢一さんも気がねするでしょう。勉強に専念できないかもしれないし、思いきり遊べないでしょうから、だったら、アパートで一人のほうが、と思ったの」
「たまには、叔母さんのおいしい料理をごちそうにあがります」
賢一が言った。
「どうぞ、どうぞ。賑《にぎ》やかなほうがうちはいいわ。いつも三人きりで寂しいのよ。雪子も小さいころは、よくしゃべったけど、最近は、ご飯を食べたらすぐに二階にあがっちゃうし。そういう年頃なのかしら」
千恵子は、困ったように眉《まゆ》を八の字にして、雪子を見た。
自分のことを話題にされるのは、雪子には耐えがたかった。人間は成長する。自分もいつまでも、昔のような〈何でも包み隠さず親にしゃべる無邪気な〉娘ではない。千恵子は、そのことをわかっているはずなのに、ときどき電話で友達に、まるで楽しい遊びのように同じような愚痴をこぼしたりしている。
「思春期なのよ。わたしは女の子を育てたことがないけど、この子にだって反抗期はあって大変だったわよ。異国にいたし。おかげで、ストレスがたまって、こんなに太っちゃった」
瑞枝は笑った。
「おふくろが太ったのは、ストレスのせいじゃないだろう。単純に甘いものをたくさん食べるからさ」
賢一が、涼しい顔で言ってのけた。
「あら、母親に憎まれ口きいて」
「賢一さんもけっこう、ずばりと言うのね」
「反抗期がまだ続いてるのよ。わたしのこと『おふくろ』なんて呼ぶの」
「いいじゃない。おふくろって響き、すてきだわ。いまの男の子はみんなそうよ」
「でも、女の子がそうは呼ばないでしょ?」
「だからいいんじゃないの。うらやましいわ。賢一さん、とってもたくましそうだし」
「見かけだけ。中身はまだまだ子供よ」
「それはそうよね。ついこのあいだまで、高校生だったんだもの」
母親二人は、楽しそうにおしゃべりを続ける。
雪子は、母親たちから賢一に視線を向けた。二人の視線が絡み合った。賢一は、〈お互い、話し好きな母親を持つと大変だよね〉と言いたげな、やさしい寛大そうな目をしていた。雪子はたじろいで、目をそらした。
「呼び方と言えば」
ふっと瑞枝が、表情を和らげた。「雪子ちゃんの記憶にはないのかもしれないけど、昔は賢一のことを、『おいちゃん、おいちゃん』と呼んでたでしょ?」
「そうだったわね」
千恵子がうなずいた。「あのころ、瑞枝さんたちは国立《くにたち》にいてよく行き来してたし。ちょうどいまの雪子くらいの年だった賢一さんは、雪子とよく遊んでくれたわ。この子は賢一さんになついていて、『お兄ちゃん』と呼ぶつもりが、『おいちゃん』になって、『おいちゃん、おいちゃん』とくっつき回ってたわね」
そんなことも、ひとかけらも記憶にはない。雪子は答えようがなかった。
「みんなが、賢一のことを『お兄ちゃん』と呼ばせようと教え込んだんだったわ」
瑞枝が言い、賢一が「憶えてるよ。ユキちゃんを喜ばせるつもりが、高い高いをして、おっことしそうになって泣かしちゃったり。僕もユキちゃんに対しては、兄貴ぶってたからな」と言った。
「賢一さんも雪子も同じなのよね。一人っ子で兄弟がいない。本当は、雪子の下に、弟か妹を作ってあげたかったんだけど」
「おたくは、遅くなってようやくできたのが雪子ちゃんで、うちは……わたしが賢一を産んでから病気をしてしまったし」
瑞枝が目を伏せた。その言い方で、雪子は、瑞枝がかかった病気が、女性の身体特有の言いにくい病気なのだと直感した。女性には、子宮という器官がある。卵巣で卵を作って子宮で子供を育てる、と先日、保健体育の授業で教わったばかりだった。
「僕には、やっぱり『ユキちゃん』だな」
と、唐突に賢一が言った。雪子の胸は高鳴った。「そうとしか呼べない」
「賢一にとっては、雪子ちゃんは妹みたいなものだものね」
瑞枝が言い、ねえ、と雪子の同意を求めるように見た。
「そうね、兄と妹みたいなものね」
雪子が何も言わないのに、千恵子がそう決めつけて言った。
「また、『おいちゃん』と呼んでくれてもいいよ」
「おいちゃん、なんて、おじさん、みたいでおかしい」
雪子は、ぶっきらぼうに言い返した。自分の知らないことをよく知っている三人に、からかわれているみたいで、背中や腰がくすぐったかった。
「そうかな」と、賢一がおもしろがって対抗するように口を尖《とが》らせた。「可愛《かわい》いじゃん」
「可愛くない」
雪子は即座に返した。顔がいっそう火照るのを感じた。その火照りを鎮めようと、グラスに手を伸ばした拍子に、グラスをあちら側に倒してしまった。オレンジジュースがこぼれ、賢一の膝にかかった。
「あらあら、雪子。何してるの。ほら、ふきん持って来なさい」
千恵子が中腰になり、グラスを起こした。「落ち着いているようで、案外そそっかしいのよ、この子」
雪子は、「ごめんなさい」と謝るなり、台所へ駆けて行き、ふきんを取って戻った。
賢一は、自分のハンカチで濡《ぬ》れた膝を拭《ふ》き、「大丈夫だよ。ちょっと濡れただけだから」と雪子を見上げた。雪子はふきんを手に、どうしたらいいかわからずおろおろしていた。「じゃあ」と賢一が、雪子に手を伸ばしてきた。ふきんを雪子の手から受け取り、「ありがとう」と言った。
グラスを片づけ、雪子は三人に告げた。「宿題があるので失礼します」
そそうをした自分をこれ以上、おとなたちの――彼女の目には、賢一もおとなの仲間入りをしているように見えた――さらしものにしておけなかった。
「賢一、雪子ちゃんの宿題、見てあげなさいよ」
瑞枝が賢一の肘《ひじ》を突いた。「あなた、家賃はただにしてもらうんだから、その分、家庭教師を一生懸命して恩返ししなくちゃ」
「い、いいんです」
雪子は、慌てて手を振った。「自分でやりますから」
「見てもらいなさい、雪子。ほら、このあいだの算数のテスト、思い違いのミスがあったじゃないの」
千恵子も真剣な顔で言い、苦笑顔になって瑞枝と賢一を見た。「もう五年生になるでしょう。けっこうむずかしいことを習うのよ。わたしじゃもうだめ、ついていけそうにないわ」
「よおし、じゃあ、あのユキちゃんがどれくらい成長したか、見てあげようかな」
賢一が腰を上げた。
かたくなに拒否するのも、おとなげないと雪子は思った。勝手にすれば、と心の中でつぶやくと、先に二階へ駆け上がった。少し話しただけで、母もそうだが、伯母さんも鈍感なところがある女性だと雪子は感じた。鈍感とはいえ、この二人に長く見続けられると、内心の動揺を悟られそうで怖かった。
雪子は、〈新鮮な異物〉といきなり対面したことで、はっきり動揺していたのだった。
賢一の立てるスリッパの音が階段を昇って来る。階下で母親たちが、さっきより声を落として話すのがかすかながら聞こえた。
「そう、雪子ちゃん、五年生になるの。じゃあ、もうそろそろね」
「ええ、そろそろ」
それが、何のことを指しているのか雪子にはわかった。母親たちの話し声が賢一の耳にも届いたかと思うと、雪子はそれこそ雪のようにかき消えてしまいたい気持ちがした。
賢一と再会したこの年の八月。十一歳の誕生日の翌日に、雪子は初潮を迎えた。
2
「影山さん、お兄さんができたんだって?」
「あれ? 影山さん、一人っ子じゃなかった? あとからお兄さんが生まれるわけないじゃない」
「あっ、そうか。でも、隠し子が突然現れた、ってこともあるでしょ?」
雪子のところに大学生が来たらしい、といううわさは、あっというまにクラス内に広まった。雪子の通うS学園は、入学金や授業料がよそに比べて高いので、経済的に余裕のある家庭の子供が多い。そういう家庭は、なぜか子供の数が少ない。雪子のような一人っ子は珍しくなく、いてもせいぜい二人である。雪子のクラスで、一人だけ上に兄、下に妹がいるという、三人兄弟の友達がいる。
「お兄さんじゃなくて、いとこよ。従う兄と書く、いとこ。つまり、パパのお姉さんの子供。パパのお姉さんは、わたしの伯母さん――瑞枝伯母さま、って呼んでるんだけど――ってことになって、いとこは、パパとママにとっては甥になるわけ。いとこの両親は、いまロスアンジェルスにいるの。東京の大学に通うことになって、一人で日本にいるの。まあ、うちに下宿してるような形ね」
休み時間にクラスメイトたちに囲まれ、雪子は自慢げな口調で言った。実際は、自分の家ではなく、敷地内のアパートに住んでいるだけだったが、クラスメイトも教師も保護者たちも〈あの一帯は影山さんの家〉と認識していることを、雪子は知っていた。自分の口からすらりと出た「いとこ」という響きが、耳に心地よかった。
「いとこって、わたしにもいるはずなんだけど、全然、会ってない」
「昔、ちらっと会っただけで、いまはもう全然」
「だいたい、そんなにカッコいいいとこのお兄さんなんて、いないもん」
「カッコいいだけじゃなくて、すごく頭いいんですって? 東大って聞いたけど」
「うちの高校から東大行く子なんて、毎年一人いればいいよね」
「ロスにいたんでしょ? それで、どうして日本の大学受かったの?」
「影山さん、勉強教われていいね」
「うちで英語しゃべる?」
兄弟の少ないクラスメイトたちにとって、雪子がそうだったように、〈異性のいとこ〉の存在は、たまらなく新鮮に思えたようだった。
「大学で、何を勉強するんですか?」
宿題を見てもらった最初の日に、雪子は賢一に尋ねた。
「経済をね」
と答えて、賢一は、「経済っていうのはね」さらにくわしく説明しようとしてか、ちょっとまじめな顔つきになった。
「あっ、いいです。新聞に経済欄があるのは知ってますから」
雪子は、手のひらをひらひらさせた。経済を学ぶとはどういうことか、実際にはよくわからなかった。が、そのよくわからないことを真剣に学ぼうとしている賢一が、雪子の目には知的で頼もしく、洗練された男として映った。賢一は、雪子がくわしく知りたいと言えば、「マルクスがね」「エンゲルスがね」と、経済史をさかのぼって懇切丁寧に説明し出しそうな雰囲気だった。雪子は、八歳年下のいとこの質問を、子供が聞くことだからとバカにしたりはしない態度に、好感を持った。
二人になってみると、雪子は自分でも驚くほど素直に賢一と向き合えた。賢一は、赤ん坊から二歳までの雪子を記憶していると言った。だから再会した瞬間、懐かしそうな表情になって、「ユキちゃん」と昔の呼び方で呼んだ。二人の母親の前で賢一にそう呼ばれたときは、彼もおとなと一緒になって雪子を子供扱いしたようでムッとしたが、口うるさくて鈍感な母親たちの姿が消え、一対一になってみれば、自分に近い存在であることを実感した。賢一は、小学生の雪子と対等に接してくれる。そのことが嬉《うれ》しかった。
「おふくろは、外では『わたしは何にもしない』なんて言ってるけど、あれでけっこう教育ママだったんだぜ。一度、塾をさぼってブラブラしてたら、『信じていたのに』なんて泣きつかれて弱っちゃった。母親の涙も、女の涙には違いないからね。僕、そういうのはだめなんだ。うちのおふくろ、感情の起伏が激しくて、口うるさいところがあるんだよ。まあね、昔から、どこの母親も心配症にできてるものらしいけどさ。本当は、おふくろから解放されてせいせいしてるんだ。あっ、これ内緒だよ」
宿題を教える前に、雪子の緊張をほぐすためか、賢一は、ため息混じりに愚痴を言った。それで、実際、雪子の緊張はとけた。賢一が、おとなの側でなく自分の側に立った気がした。口うるさい母親を持つ一人っ子同士、という点で共感が生まれたのかもしれない。
賢一は週に三度、雪子の家に「東京のおふくろ」の手料理を食べに来るようになった。ダイニングルームでの食事のあと、二階の雪子の部屋に上がり、「いとこ」から「家庭教師」に変身する。
いとこであり家庭教師である賢一を、雪子は「賢一さん」でも「お兄ちゃん」でもなく、「先生」と呼んだ。勉強を教わるのだから「先生」がいちばんいい。「先生」という呼び方を見つけた雪子は、賢一とのちょうどいい距離も見つけた気がした。賢一のほうは、九年前に呼んでいたように「ユキちゃん」と呼んだ。
初潮を迎えて雪子は、不安と安堵《あんど》を得た。雪子のクラスでは、彼女より身体《からだ》の小さな子にもう生理が始まったりしていたので、それが始まったことが一つの大きな安心となった。が、同時に、寂しくもあった。
――わたしはもう子供ではない。
――自分の意志に関係なく、わたしの身体はどんどんおとなの女へと近づいていく。
そのことの寂しさや不安や恐怖は、自分の赤ちゃん時代を知る異性を身近に置き、彼を「先生」と呼び、甘え、慕い、尊敬することで、紛らわせることができた。この人といれば、自分はいつまでも「可愛いユキちゃん」でいられる気がした。
雪子のクラスメイトには、初潮を迎えて急におとなびたり、急激な身体の変化を受け入れられずに、口数が少なくなる子も多かったが、雪子は逆だった。〈女の子〉から〈女性〉になった日を境に、雪子は変わっていった。人見知りをし、引っ込み思案だったのが、何かがふっきれたように活発で明るくなった。
それには、成績の上昇も関係していた。賢一が家庭教師としてついた日から、雪子の成績はぐんぐん伸びた。模擬試験を作って解かせてみて、理解度を確かめる。彼のきめの細かい指導の仕方が、雪子にぴたりと合っていたのだ。賢一と出会ってから、読書の傾向も変わった。勧められた本をよく読むようになった。
賢一が雪子の家庭教師になって一年。雪子が一度、風邪でダウンして休んだほかは、賢一は一日も個人指導を休まなかった。
六年生の最初のテストで、雪子は学年のトップクラスに躍り出た。
テストの結果が発表された日。雪子の家で、成績アップのお祝いと賢一の二十歳の誕生祝いが開かれた。
「雪子の成績が上がったのは、賢一君のおかげだよ」
このところ仕事が忙しく、夕飯の席にもいないことが多くなっていた澄夫は上機嫌だった。
「あら、わたしが優秀な生徒だからよ」
雪子は、頬《ほお》をふくらませた。
「先生が優秀だからだよ」
賢一が、横目で睨《にら》むようにして言い返した。二人は、互いに「生徒がいいから」「先生がいいから」と言い合い、しまいには笑い合った。一年のあいだに、冗談を言ったり、憎まれ口が叩《たた》けるほど親密になっていた。
「よかったわ、本当に。そろそろ雪子をどこかの塾に通わせなくちゃと思っていた矢先に、賢一さんみたいな優秀な家庭教師に来てもらえて。それに雪子、賢一さんが来てからとっても明るくなったし。やっぱり家族は多いほうがいいのかしら」
千恵子ももちろん上機嫌で、手のこんだ料理に加えて、ひいきの店から上等な刺身を取り寄せたりして、食卓を飾った。雪子もデザート作りを手伝った。
「でも、大学のほうは大丈夫なの? すっかり賢一さんの好意に甘えた形になっちゃったけど、そろそろ自分の勉強が大変になるころじゃないの?」
千恵子は、ちょっと不安そうな顔で言った。娘の優秀な家庭教師を失う事態になるのでは、と恐れる顔だ。
「ユキちゃんに教えることが僕の勉強にもなりますから」
賢一は笑顔でそんなふうに答えた。そして、「ホント、叔母さんの料理っておいしいなあ」と、一口カツにかぶりついた。瑞枝が呆《あき》れて語ったように、賢一の食欲は旺盛だった。賢一が家庭教師に訪れない日には皿の数の少なくなる食卓を見て、澄夫は「男の子がいないと量も半分で済むんだな」としみじみと漏らした。それを聞いて雪子は、〈パパは本当はもう一人、男の子が欲しかったのでは〉と感じた。
気持ちいいほどの食欲を見せる賢一を、千恵子も澄夫も目を細めて眺めている。雪子は、そんな光景を、〈まるで家族みたい〉と思った。
――家族みたいだけど、家族じゃない。家族じゃないから……すてきなのよ。
雪子は、アルコール分がゼロのシャンペン風炭酸飲料水が入ったグラスを手に、賢一の横顔をちらりと見て、内心でつぶやいた。八人がけのゆったりした無垢《むく》材のテーブルに四人の座る位置は決まっている。澄夫の前に賢一、千恵子の前に雪子だ。
賢一は、「従兄《いとこ》」であって、「兄」ではない。それは、はっきりなぜか理由がわからなかったが、胸をときめかせる喜ばしい事実ではあった。
「あっ、そうか」
突然、澄夫が何かに気づいたように声を上げた。「今日は雪子のお祝いばかりじゃなかったね。賢一君がおとなになったんだった」
「あ……そうだったわ」
千恵子もはたと気づいたように、手を打った。リビングボードのふたを開け、いそいそとグラスを取り出す。澄夫と同じグラスを賢一の前に置くと、「今日から、ビールが飲めるのよ」とまぶしそうに言った。
「まあね、賢一君は外ではもう飲んでるんだろうけど」
「いえ、まあ、その」
賢一は、そのあたりはあいまいにして、遠慮がちながら慣れた手つきでグラスを差し出した。
「まあ、一杯いきなさい。今日から賢一君は、少年Aでなくなる。めでたい日なのかめでたくない日なのかわからんがね」
澄夫は、苦笑して、甥《おい》のグラスにビールを注いだ。
――おとなになった……?
雪子は、その事実に少なからぬショックを受けた。いままで自分の側についていた賢一が、今日からおとなの側に立ってしまう。自分を置き去りにして、どこか遠いところへ行ってしまうような気がして不安になった。
「わたしも今日はいただこうかしら」
千恵子も、娘と同じノンアルコールのドリンクを飲みほすと、グラスを夫に差し出した。
「じゃあ、乾杯しよう」
澄夫の声で、雪子は我に返った。グラスを掲げる。かすかに指先が震えている。
「ビールと言えば思い出すわ」
千恵子が、夫と義理の甥のグラスを交互に見て、懐かしそうに言った。「雪子がようやくコップを一人で持てるようになったとき。パパの飲みかけのビールが入ったグラスを、この子、口につけちゃったのよ。あまりにまずかったんでしょうね、すぐに口を離したからよかったけど。あのときの雪子の苦そうな顔。わたしたち、あら、大変、とびっくりしながらも、おかしくて笑っちゃったわ。いま思い出しても、とっても可愛かったわね、あの顔は」
「そんなこと、全然憶えてないわ」
雪子は、ムッとして言った。子供であることを自覚させる会話を始めた母親の鈍感さに腹が立った。
「ユキちゃん、成績アップおめでとう」
賢一が雪子のグラスに、自分のそれをぶつけた。澄夫と千恵子が、賢一にならう。
「あ、うん。先生もお誕生日おめでとう」
雪子もようやく微笑を取り戻して、乾杯に加わった。
目の高さに掲げたグラスの中に、無数の透明な泡が立ち上る。隣の賢一のグラスでは、そして両親のそれでも、茶色っぽい泡が弾けている。
――わたしだけが、まだ子供だ……。
疎外感を雪子は味わった。複雑な気持ちで彼女は乾杯した。身体はおとなの女になったけれど、実際の年齢が〈おとな〉になるまではあと八年もあるのだと思うと、めまいにも似たくらくらした感覚に襲われた。
――先生は待っていてくれるだろうか。わたしがおとなになる日まで、いまのような変わらぬ楽しい日々が続いているだろうか。
そんなことを考えている自分に、雪子は驚いた。
食事が終わり、デザートになった。賢一は、雪子が作ったババロアをまたたくまにたいらげた。
「ねえ、どうだった? おいしかった?」
「うん。いちばんうまかったのは、生クリームのデコレーションかな」
「それは市販のを泡立てただけ。ババロアのほうは、味がもう一つだって言うのね?」
「まあ、そういうこと。叔母さんのより柔らかめだった。叔母さんのような腕前になるには、まだまだ修業が足りないね」
賢一のそんな憎まれ口を聞いて、雪子はホッとした。今日、二十歳になったからといって、賢一は急に変わるわけではないのだ。
「じゃあ、行こうか?」
ごちそうさま、と言ってすっと席を立った賢一を、千恵子がふちをほんのり赤く染めた目で見上げた。「あら、今日もお勉強するの?」
「賢一君。今日はいいじゃないか」
ビールからブランデーへと飲み物を変えていた澄夫も、名残惜しそうに引き止めた。
「毎日の積み重ねが大事なんです。ユキちゃんの成績に関しては、僕は責任重大ですからね。なあ、ユキちゃん」
「えっ? あ、うん」
雪子もナプキンで口を拭《ぬぐ》って立ち上がった。彼女も、今日は個人授業はお休み、と思い込んでいたのだった。
「偉いわね、賢一さんって。勉強するのも教えるのもとても熱心。だから東大に入れたんだわ」
千恵子が、潤んだ尊敬のまなざしで義理の甥を見た。
二階の自室に二人きりになると、雪子はいつになくドギマギした。「おとなになった」という父親の言葉が耳の奥に残っている。そんなはずはないのに、今日の賢一は昨日までの彼とは違う、と思ってしまう。
アルコールを飲んだ賢一を間近で見ながら勉強するのもはじめてで、胸がドキドキした。
賢一は、明らかにいつもと違っていた。それは、やはりアルコールのせいだった。声のトーンがいつもより高く、いつもより饒舌《じようぜつ》で、いつもより舌が回らなかった。ときどき数字を言い間違えた。彼の大きな目の白い部分が、かすかに充血していた。いつもはほとんど意識しない喉仏《のどぼとけ》の動きが目についた。
酔っていても、賢一の思考能力は衰えてはいなかった。算数の答案用紙をじっくり見て、間違えた問題に似た応用問題をささっと作り、雪子に解かせた。
「今日は算数だけにしておこう」
三問解かせると、賢一は、よしっ、とかけ声をかけて雪子の教科書と参考書を閉じた。
「成績が上がったお祝いに、ユキちゃんに何かあげよう」
「えっ?」
雪子は思わず、ノートから賢一の手元に視線を移した。何か思いがけないプレゼントでも用意されているのかと思ったのだ。が、彼は手ぶらだった。
「何かほしいものない?」
賢一は、太くて長い右手の人さし指で、机をこつこつ鳴らしながら聞いた。
「ほしいものって……」
雪子は当惑した。「だって、何かあげるのはわたしのほうでしょ? 今日は先生のお誕生日なんだから」
「えっ? 俺《おれ》に何かくれるの?」
賢一は、両手のひらを上に向け、首をすくめた。彼は、叔父と叔母の前では礼儀正しく「僕」と言うが、雪子と二人きりになると「俺」になる。いつのまにか自然にそうなった。雪子は、家族の中で自分にだけ特別気を許してくれているようで嬉《うれ》しい。
「さっきのババロアがプレゼントでした」
いたずらっぽく言うと、「なあんだ、ガクッ」と、賢一は肩を落とすしぐさで応じた。
「だって、わたしのおこづかい少ないの、知ってるでしょ?」
こづかいや食べ物などの家の中でのしつけ、校則に関しては、雪子の両親は厳格なのだ。ほしいものがあるときは言いなさい、と言い、毎月、クラスの平均よりはるかに少ない額のこづかいしかくれない。
「まあ、いいか。あの柔らかすぎるババロアで我慢しとこう」
賢一はため息をついて、「じゃあ、そっちのほしいものは?」とまた尋ねてきた。
「いろいろありすぎて、とくにこれと言ってほしいものはないんだ。不思議だよね」
「それは、ユキちゃんが恵まれすぎてるからだよ」
賢一は、ふっと遠い目をした。
「わたしが? そうかな」
物質的にはそうかもしれない。だけど……と思って、いとこの整った横顔を見た。寂しそうな陰があった。知的な大学教授の父親と息子想いの専業主婦の母親。賢一自身も、恵まれた環境にいるのは間違いない。「何か嫌なことでもあるの?」と、聞こうと思ったがやめた。賢一が笑顔でごまかすのはわかっていたし、いまの楽しい雰囲気を壊したくなかったのだ。
「恵まれてるかもしれないけど」
雪子は口を尖《とが》らせた。「これで、けっこうストレスたまってるのよ。やりたいことを抑えられて」
「ストレスなんて、いまどきの小学生が使う言葉か?」
賢一は、あはははと大口を開けて笑い、雪子のおでこを指でちょこんとこづいた。
雪子の身体を電流が走った。それを悟られないように、「あ、痛っ」とおどけてみせた。雪子は、そんな自分を〈おとなの女になりつつある自分〉だと自覚していた。
雪子は、「性感帯」という言葉を雑誌で読んで知っていた。性感帯とは、触られて「ピクリ」としたり、気持ちのよい場所だと認識していた。人間の身体のいろんなところに、その「性感帯」が散らばっていて、そこを刺激されたから自分が「気持ちよかったのだ」とちゃんと呑《の》み込んでいた。
その「感覚」を味わいたくて、賢一の前でわざと子供っぽいことを言ったり、おちゃめなところを見せる自分に、雪子は気づいている。
最初に賢一に「ユキちゃん」と呼ばれたときに、雪子の背筋を這《は》い上った悪寒とも快感ともつかぬ感覚。それは、クラスの友達にも言えない恥ずかしい感覚ではあったが、〈ふたたび味わいたい、えも言われぬ感覚〉でもあった。あれから一年。雪子は、賢一と二人きりになると、わざとその感覚を味わう機会を自分のほうから作っている。さりげなく、したたかに……。
「たとえば、どういうストレスだ? やりたいことって何だ?」
ほら、言ってみろ、聞いてやるからさ、というふうに賢一が大きく腕を組んだ。彼は、十年あまりをアメリカで過ごしたせいか、身ぶり手ぶりが多く、見ていて楽しい。
「たとえば……わたし、紅茶とかコーヒーを飲んでみたいんだ。だけど、うちでは飲めないじゃない。パパもママもわたしのこと子供扱いして、カフェインがいっぱい入っているものは、成長が止まるからだめだって本気で思ってるし」
勉強の合間に千恵子が運んで来る飲み物も、雪子用には、フレッシュドリンクか日本茶か、精神を落ち着ける作用のあるカモミールティなどの、ハーブティである。
「やりたいことって、紅茶やコーヒーを飲んでみたいってことか?」
賢一は、すっとんきょうな声を上げた。「そんなことだったのか」
「わたしにとっては大変なことなの。隠れてこそこそ飲めないし」
「見つかったら怒られる、か。いい子のユキちゃんにはできないことだよな。じゃあ、よっしゃ」
賢一は、景気づけのように大きな手のひらを打って、「それをプレゼントしよう。喫茶店に連れてってやるよ」と言った。
「えっ? だ、だめよ。学校帰りに喫茶店に入るのは、禁止されてるもの。マクドナルドだってだめなんだから」
「保護者がいればいいんだろ?」
「あ、うん……でも、保護者って……」
そこまで言って、雪子は思いあたった。「そうか。先生は、おとなになったんだっけ」
「ほら、立派な保護者だろ? 俺と一緒で怒られるわけないよな」
賢一は、胸を張った。
「あ、うん。そうだ」
雪子は目を輝かせた。「成人の保護者が同伴であれば――」で始まるいくつかの校則が思い浮かんだ。
「学校の帰りでなくてもいいさ。たとえば、休みの日は? 叔父さんと叔母さんに話して、ユキちゃんを映画に連れてってやるよ。その帰りにお茶すればいいじゃないか。お茶だけじゃなくていいよ。食事もおごってやる。カレーライスくらいならね」
「映画?」
「嫌い?」
賢一が、やや不安そうな目で雪子の顔をのぞきこんだ。
「う、ううん、そんなことない。学校で観るのは、文部省推薦のやつばっかりで退屈だし」
「何が観たい?」
「何って……」
必死に考えたが、思い浮かばない。
「ええっと、ユキちゃんには……ドラえもんあたりかな?」
「ひどい。わたし、もう子供じゃないのに」
雪子はふくれたが、すぐに破顔した。子供扱いされることも、相手が賢一なら許せる。賢一は、いとこの反応をおもしろがっているだけなのだ。からかいながら、雪子が少しずつおとなの女へと成長していく過程を暖かくやさしく見守ってくれているようで、雪子は嬉《うれ》しくなるのだった。
――早く俺に近づけよ。一日も早く俺のいる場所に来いよ。一緒にコーヒーを飲み、一緒に酒を飲んで楽しもうぜ。
そう言ってくれているように、雪子は感じるのだった。
「観るなら、恋愛映画がいいな、わたし」
照れを隠すために、天井を見上げて雪子は言った。「すごくロマンティックなやつ」
「恋愛映画? ユキちゃんが?」
案の定、賢一は大きな目をさらに見開いて、大げさに首を突き出した。
「いいじゃない、わたしが観ても」
「いいよ。でもなあ、俺、恋愛映画なんてくわしくないからな」
賢一は、椅子《いす》の背もたれに背を預けて、こちらも天井を見上げた。天井には、壁紙と同じ細かな花柄のクロスが貼《は》ってある。雪子は、最近、母親が選んだ自分の部屋の壁紙やベッドカバーやカーテンの模様が、気に入らなくなってきている。ベッドカバーとカーテンは、クマのぬいぐるみとリボンがアレンジされた揃《そろ》いの柄で、ひどく幼く見える。
「でも、まあ、見つけとくよ」
賢一は明るく言って、立ち上がった。
――先生とのはじめてのデートだわ。
と、雪子は思った。賢一も、それを楽しみにしているらしいことは、その表情からうかがえた。
3
オードリー・ヘプバーン主演の『ローマの休日』、それが賢一が選んだ恋愛映画のプレゼントだった。
「ユキちゃん。オードリー・ヘプバーンって知ってる?」と、次の家庭教師の日、勉強を始める前に賢一は聞いた。
「知ってる。『ティーンズ・メイト』にもよく出てるもん。わたし、ああいう髪型やファッション大好き」
「銀座で、リバイバル、やってるんだよ。リバイバルって知ってる? ときどき名作と呼ばれる古い映画を選んで、まだ観ていない若い人たちに楽しんでもらったりするんだ」
「えっ? じゃあ、あのきれいなまんまのオードリー・ヘプバーンが見られるわけ?」
あははは、と賢一は笑った。「当然じゃないか。映画自体が古いんだから。このあいだ来日したときのヘプバーンを見たけど、あれじゃイメージ壊れるよな。大丈夫、スクリーンの彼女は永遠に年をとらない。永遠の妖精《ようせい》だよ。それにしても、ユキちゃんは、やっぱり、そのあたりは子供なんだな」
雪子は、「やっぱり」と言われたことで少し傷ついた。賢一の中で自分は「子供だと思ったけど、案外おとな」なのか「やっぱり、まだ子供」なのか、どう位置づけされているのか、不安になった。いままでは前者のほうだと思っていたが、いまの言い方は明らかに後者ではないのか。
――やっぱり、自分のいる場所に彼女が来るまでは、まだまだ時間がかかる。
賢一がそう判断したのではないか、と思うと焦りを感じた。待つ時間に耐えられずに、そのあいだに彼が〈正真正銘、誰《だれ》かおとなの女性〉を捜してしまう可能性もある。
――わたしは、いったい、何を心配してるのよ。
雪子は、抑えようとしても胸の動悸《どうき》がさらに激しくなるのを感じた。自分がクラスメイトに比べてませているのは自覚している。背が高いことや、おとなっぽい顔立ちから、黙っていれば中学生に見られることも知っている。「早熟」という言葉も、その意味も、本やテレビから学んだ。ませているからこそ、早熟だからこそ、それを周囲に気《け》どられないように、わざと明るく子供っぽくふるまう術も身につけた。だが、小学六年生の自分が、大学二年生のいとこを将来〈独占〉しようと思うまでに気持ちが高まるとは、自分でも予想外のことだった。再会した日に感じた、あの〈新鮮な異物を迎えた〉ことの動揺は、恋の芽生えゆえのものだったのだ……。
雪子は、賢一と出会ってはじめて、父親以外の男性を好きになる感情を知った。初恋の相手が、賢一、ほかならぬいとこだったのだ。
「わかってたけど、ちょっと心配になっただけよ」
雪子は、顎《あご》を上げた。
「俺《おれ》も、あれなら観ても恥ずかしくないからさ」
「恥ずかしくないって、じゃあ、どういうのなら恥ずかしいの?」
おとなびた口調を崩さずに、雪子は尋ねた。
「そりゃ、現代のやつで日本のやつさ。俺と同時代に生きている等身大の日本人の青年が、泣いたり笑ったり、キスしたりしているやつ。時代が昔だと、なんか昔の時間に逃げ込めたり、異国の映画だと、ここではないほかの場所で起きていることと割りきれて、観ててもそれほど恥ずかしくないんだな。SFとかファンタジー映画と一緒だね。『これは俺の目の前で起きていることじゃないから』と思うと、安心して映画に感情移入できる」
雪子は、くすりと笑った。ホッとした。やはり賢一の根本の部分は変わっていない、と思った。なあんだ、自分を対等に扱ってくれているじゃないの、と再確認することができたのだ。
賢一は、自分の思ったことを十二歳の雪子の実年齢に合わせた言葉に〈翻訳〉して表現しようとはしない。思ったことを思ったとおりに言う。それは、二人の感性が年齢を超えて共鳴し合っている、と彼が認めているからにほかならないのではないか。
――ユキちゃんは見かけは十二歳だけど、中身はもうおとなの女性。
でも、そう思っていることをいとこには気づかれたくなくて、ときどきこうやって子供扱いしてごまかす。そう雪子は、賢一の心理を分析した。
澄夫も千恵子も、映画に行くことをあっさりと許可した。
「賢一さんが一緒なら安心だわ」
と、千恵子は言った。「でも、本当に雪子となんかでいいの? ほかに一緒に行く人はいないの? ガールフレンドとか」
ガールフレンドと聞いて、雪子はドキッとした。が、賢一は言下に「いませんよ、そんなの。だいたい、学部にまともな女の子なんかいやしないですよ」と答え、雪子の胸を撫《な》で下ろさせた。
それは想像できていたことだった。賢一は、一度も大学にいるはずの女友達の話をしたことがない。東大とはいえ、女子学生もクラスに何人かはいるはずである。ところが彼の口からは、女性名が一度も出たことがないのだ。それは、賢一がはなからクラスメイトの女性を相手にしていない、ということではないのか。雪子はそう推測して、安心感を得ていた。
「プレゼントは映画がいい、と言ったのはユキちゃんだけど、僕自身も実は観たかったんですよ。英語なんて現地にいないとどんどん忘れますからね。とくに英語の恋愛表現なんか、ためになりますよ。ユキちゃんの勉強にもなると思うし」
最後の言葉は、千恵子には効いたようだった。
「そうね。そろそろ雪子も英語の勉強、始めたほうがいいかもしれないわね」
雪子は、賢一と顔を見合わせ、小さく目配せした。本当は、「プレゼントはコーヒーか紅茶がいい」と言ったはずなのに、それを黙っていてくれた賢一の思いやりが心にしみた。
五月の連休明けの日曜日。カレンダーどおりの五月晴れの日だった。雪子は、晴れ上がった空にちょっとがっかりした。雨降りならば傘がさせる。二つ並ぶ傘に「邪魔くさいよね」と言って自分の傘をたたみ、賢一の黒い傘に気軽に入り込み、相合い傘で歩くことができる。そのチャンスが奪われたわけだ。恋人同士なら躊躇《ちゆうちよ》する行為でも、いとことなら照れずにできる行為もある。
賢一は、襟に赤いストライプの入ったグリーンのポロシャツにジーンズ姿で現れた。
雪子は、迷ったすえにオレンジ色のワンピースに白いボレロのアンサンブルを着た。その色の組み合わせが、いちばん自分の顔が引き立って見えることを知っていた。雪子は、色黒というほどではないが、間違っても「色が白い」とは言われない小麦色の肌だ。その名前から「雪国で生まれた色白の子」を連想されやすいが、ときどき自分の名前を呪《のろ》いたくなることがあった。小麦色の肌に合うのは、季節なら夏、色なら明るい黄色やオレンジなのである。
「ふーん、ユキちゃんも、けっこうおしゃれなんだね。よそゆきって格好すると、すごく決まるんだね」
玄関先で賢一にそう言われ、雪子は、素直にありがとうと言えず、「へーえ、先生も、いちおうよそゆきのポロシャツなんて持ってたんだ」と冷やかしてしまった。家庭教師に来るときは、Tシャツやトレーナーである。
映画館には、若い世代から雪子の両親の世代に至るまで、カップルの姿ばかりが目についた。「やっぱり、恋愛映画だからかなあ」と、賢一は席を探しながらため息をついた。
――いとこ同士のカップルなんか、ほかにはいないだろうな。
そう思って、雪子は周囲を見回した。大勢の中で、自分たちが選ばれた二人のようで誇らしかった。
手をつなぎ合っている二人がいる。頬《ほお》を寄せ合っている二人がいる。それは、そうしないと互いの気持ちが離れてしまうせいだ、と雪子は思った。しょせん他人と他人の結びつきである。ちょっとケンカしただけで別れてしまう男女の関係を、雪子は雑誌や本を読んで知っていた。子供には聞かれていないつもりでいるかもしれないが、「××さんのとこ、うまくいってないみたいよ」と、千恵子が澄夫に話しているのを、雪子は盗み聞きすることもある。愛情で結ばれた、もともとは他人同士の男と女の絆《きずな》が、いかに脆弱《ぜいじやく》であるか、雪子はすでに直感でわかっていた。
――わたしと先生は、いとこなんだもの。固い絆よ。一生、この絆は壊れない。
映画を観ているあいだも、雪子は、自分たちは特別だ、という優越意識を引きずっていた。
――わたしたちは、手を握り合ったりはしない。でも、それは、わたしたちが「いとこ」だからだ。けれども、隣であくびをしたり、居眠りをしたりもしない。それは、わたしたちが「兄妹」ではないからだ。
スクリーンの中の「王女」――オードリー・ヘプバーンは、雪子になり、スクリーンの中の「新聞記者」――グレゴリー・ペックは、賢一になった。追手から逃げ、川へ飛び込み、川岸に泳ぎついた二人が、寒さに震えながら口づけを交わすシーンで、思わず雪子は呼吸を止めた。息遣いが隣の賢一に伝わるのが恥ずかしかった。左隣の賢一のほうからも、息を止めているような気配が伝わってきた。
映画が終わっても、雪子は甘ずっぱい余韻の中にいた。
「あっ、ユキちゃん。泣いてる」
鼻をぐすんとさせた雪子を見て、賢一がはやしたてた。
「女の子はみんな、泣くものよ」
涙を見られて気恥ずかしくなり、雪子はふてくされたように言った。
「やっぱり、何度観ても、永遠の妖精が演じる永遠のおとぎ話だな」
「何度も……観たの?」
観る前には、そんなことはひとことも賢一は言わなかった。
「三度目かな」
「前は……誰と観たの?」
「ロスで友達と」
賢一は、友達が女とも男とも言わなかった。
「じゃあ、つまらなかったんじゃないの? 三度目なんて」
「いや、何度観ても感動する。本当だよ」
賢一は、にっこり笑った。白い歯が光った。「ただね、この映画って、女の子向けってイメージがあるだろ? 大の男が、大好きな映画です、と言うのは恥ずかしくってさ。とても大きな声では言えない。ユキちゃんがつき合ってくれて助かったよ」
雪子は、それを言葉どおりに受け取った。好きな映画は、遠慮のいらない人間と観るのがいちばん楽しい。その相手が自分だと言われたことは、たまらなく嬉しかった。
「じゃあ、コーヒー飲みに行こうか」
賢一は、座席を立った。
「わたし、アイスクリームが食べたいな。スペイン広場の石の階段で、アイスクリームなめてるヘプバーンを見たら、わたしもなんだか食べたくなっちゃった」
「食いしん坊」
と、賢一が雪子のおでこを突いた。「それじゃ、アイスクリームでもコーヒーでもカレーでも、なんでも全部おごってやるよ」
「サンキュ」雪子は、幸福感に包まれた。
映画館のロビーを出ようとしたとき、「おい、高木」と誰かが呼んだ。二人は振り返った。売店の前に、賢一と同じくらいの年の男性と、やはり同じ年頃の女性二人が立って、こちらを向いていた。
「よおっ、桜井」
賢一は手を挙げてから、雪子に「大学の友達だよ」とささやいた。三人が近づいて来る。雪子は、あとに続く連れの女性二人のほうが気になった。彼女たちも、やはり賢一の大学の友達なのだろうか。
「観に来たのか?」
桜井が頭一つ高い賢一に聞き、視線を雪子に向けた。雪子は軽く会釈した。
「観終わったところ。そっちは?」
「これから」
桜井は言って、「何だ、おまえが来るとわかってたら、誘えばよかった」と不機嫌そうな声で言った。
「桜井は、映画研究会にいるんだよ」
賢一が雪子に言った。
「こちら、妹さん?」
桜井が、すぼめたような形のままの口で、賢一に聞いた。好奇心のこもった光が目に宿っているのが、雪子には見てとれた。
「いや、いとこだよ」
賢一は、肩をすくめて答えた。雪子は、ぶっきらぼうに「こんにちは」とだけ挨拶《あいさつ》した。桜井の「こんにちは」に、後ろの女性二人の柔らかい「こんにちは」の声がかぶさった。
「何だ、いとことデートか」
桜井は笑った。雪子は、彼の口調に揶揄《やゆ》するような響きを感じて嫌悪を覚えた。桜井は、顎と小鼻が張ったごつごつした顔立ちで、頭が大きく、足が短く、全体のバランスのすこぶる悪い男だった。
「おまえ、幽霊会員だぞ」
桜井は、賢一を睨《にら》んで言った。「たまには出て来いよ。会員だって、ずいぶん増えたんだからな」
「悪い悪い。映画観るのって、けっこうしんどくてさ」
賢一は、悪びれずに言った。雪子は、話の流れから、賢一が大学では映画研究会というサークルに入っていて、めったに顔を出さない状態であることを理解した。
「しんどくても、いとことなら観られるのか? おまえ、変わり者だからな」
桜井は、粘っこい視線で雪子を見た。
――変わり者?
どういう意味だろう、と雪子は思った。いい意味であるはずがなかった。
「ああ、家庭教師をしてるっていうのは、そちらのいとこだったのか」
「ユキちゃん。影山雪子さんだよ。おふくろの弟の子供なんだ。俺が教えるようになってから、ぐーんと伸びた。ユキちゃんは、俺の可愛《かわい》い優秀な生徒だよ」
俺の可愛い優秀な生徒、と言われて、雪子は頬を赤らめた。
「ユキちゃん?」
後ろの二人の女性が顔を見合わせ、あら、というように微笑《ほほえ》み合った。背の高さが二人ともほぼ同じだ。成人女性にしては小柄なほうだろう。ストレートの長い髪をしたほうは、目を見張るほど色白できれいだった。もう一人は、目鼻立ちがはっきりした、どちらかといえば浅黒い女性だった。こちらは、ショートカットである。
「この二人、気になるだろ?」
桜井が、賢一を上目遣いに見て言った。その言葉で、雪子は、賢一が桜井をでなく、後ろの女性二人を見ていたのだ、と気づいてハッとした。賢一は、二人のうちの色白の女性を見ていたに違いない、と思われてならなかった。
「紹介が遅れたけど、うちの映研にいるはずの高木賢一。めったに顔を出さないけどね。こんなハンサムな男がいたなんて、映研に入ってよかった、と思ってるんじゃない、君たち。どう? 感想は?」
と、桜井は、女性二人に矛先を向けた。
「塚本です」と、長い髪のほうが言い、もう一人が「吉川です」と言い、二人で揃《そろ》えたように頭を下げた。
賢一も「よろしく」と頭を下げ、つられて雪子も挨拶した。
「塚本さんと吉川さんは、N女子大なんだ。伝統あるうちの映研に入会したい、と言って訪ねて来てくれた。何しろうちは、女子が少ないからね。女性は大歓迎だ」
桜井は、丸い腹を突き出すようにして言った。
「ホント、大歓迎ですよ。じゃあ、僕もそのうち顔を出そうかな」
賢一が、女性二人にとびきりの笑顔を――と雪子には思えた――見せた。雪子は、「僕」と自分を呼び換えた賢一を、横目で観察した。彼の視線が、ショートカットより長髪の女性のほうに多く注がれているように感じた。
N女子大学の名前は、雪子も知っていた。雪子の通うS学園は、小学校から中学、高校、短大まであるが、高校から毎年五人ほどN女子大に入っている。雪子は、なぜ東大のサークルにほかの大学の学生が入れるのかよくわからなかった。が、一つわかったことがあった。それは、大学生にはそうした特権があり、自分にはその権利はない、ということだった。彼女たちは大学生で、自分は小学生。その差は、天地がひっくり返っても縮めることはできない。そのことをはっきり悟った。
「『ローマの休日』を観たい、と言い出したのはわたしなんです」
色白の長髪が、髪をかきあげながら言った。爪に桜色のマニキュアが塗られていた。
「『ローマの休日』の新しい鑑賞法を教えてあげようと思ってね」
自信たっぷりの口ぶりで、桜井が引き取った。「あの映画、細かく観ると、いいかげんな点がいろいろあるんだな。おまえも知ってるだろ? スペイン広場の後ろにある時計。同じシーンなのに、撮り方によって時間がバラバラだ」
「あ、ああ」
賢一が、わずかに鼻じらんだような声を出した。
――何てよけいなことを言うやつだろう。
と、雪子は思った。連れの女性二人も、〈えっ、そうなの?〉というふうにかすかに眉《まゆ》をひそめた。
気まずくなった空気を和らげようとしてか、賢一が「何度観ても、感動する映画……」と言いかけた。が、塚本という長い髪の女性が同時に「雪子ちゃん、中学生?」と聞いたので、どうぞお先に、というふうに手のひらを上に向けて彼女に話を譲った。
「ごめんなさい」
塚本は慌てたように謝って、「何年生?」と雪子にふたたび質問した。
「六年です」
小学校、を省略して、雪子は答えた。反応は予想できていた。案の定、塚本も吉川も、まあ、という形に唇を作った。桜井の反応がいちばんオーバーだった。目を見開いてみせて、「まさか中学のじゃないよな。中学は六年までないもんな。それにしても、最近の小学生はよく育ってるな」と言った。雪子は、自分がまるで荷物のように扱われたようでムッとした。その感情を隠さずに、背丈のそう変わらない桜井を黙って睨みつけた。
「そろそろ、入ったほうがいいんじゃないですか?」
と、ショートカットもその場を救うように促した。
「ああ、じゃあ、またな」
桜井をはじめ映画研究会の三人は、場内に消えた。
「あの桜井っていう人、嫌な感じ。これから観るっていうのに、興ざめなことを言うんだもの。せっかくの甘い余韻が台なしじゃないの」
雪子は、桜井が吸い込まれて行ったドアを睨んだままでいた。
「ユキちゃん、傷ついた? ごめんな」
賢一がため息をついて、桜井のかわりに謝った。「あいつはずけずけ言うやつなんだけど、でも、悪いやつじゃない。はっきりしてるだけに、憎めないっていうか」
雪子は、一緒になって桜井を責めない賢一に物足りなさを覚えたのと同時に、友達の悪口をけっして言わない彼の姿勢を尊敬すべきものだとも思った。
4
生まれてはじめて飲んだコーヒーなのに、思ったほど心はときめかなかった。銀座で飲むコーヒーの味は……おいしかった。思ったとおりのおとなの味で、自分が欲していた味だとわかった。だが、「親に隠れてインスタントでない正真正銘のコーヒーを飲んでいる」というスリルは、味わえなかった。理由はわかっていた。あることが引っかかっていたせいである。
――先生のまわりには、わたしの知らない世界がある。大学へ行けば、化粧をして爪を染めた、きれいなおとなの女性がいる。
そのことを、雪子は目の当たりにしたからだった。
「アイスクリームはいいのか? クリームパフェでもいいよ。何でも頼めよ。コーヒーだけじゃ苦いだろ?」
苦虫を潰《つぶ》したような顔でコーヒーを飲んでいたのだろう。和光の近くのカフェレストラン。丸いテーブルを挟んで、砂糖を入れただけのコーヒーを飲んでいた賢一が、雪子の顔色をうかがうようにして言った。
「いいの。太るから」
「気にしてるのか?」
賢一が、ふうっと吐息を漏らした。
「何を?」
「さっきの桜井の言葉さ。あいつ、本当にデリカシーってものがないんだよな。ああ、デリカシーって、ユキちゃん、わかる?」
「繊細な神経、ってことでしょ?」
「ピンポーン。最近の小学生はよく育ってるな、はないよな。俺もそう思う」
「じゃあ、そう言ってくれればよかったじゃない」
雪子は、口を尖《とが》らせた。
「そりゃ、桜井だけだったら言ってやったさ。だけど」
「だけど?」
「ほかに二人いただろ? あいつは、案外、ええかっこしいのやつだから、女の子二人の前で注意するのは悪いかなと思って。わかった。あとであいつに個人的に注意しとくよ」
「別に、注意なんかしてほしいんじゃないの。そうじゃなくて……」
自分でも何をどうしてほしいのか、言いたいことの収拾がつかなくなった。ただ、〈先生って、ちょっと八方美人のところがあるよ。女性の前では友達に注意できないなんて、先生だってええかっこしいじゃないの〉と責める気持ちがあるのは事実だった。だが、賢一にそれをストレートに言うのはためらわれた。あの二人の女性――とりわけ髪の長い色白のほう――に、嫉妬《しつと》していると思われるのが嫌だった。嫉妬の正体を、真正面から見つめる状況に陥るのも怖かった。
雪子は、自分でもなぜこんなに苛立《いらだ》つのかわからず、気持ちをもてあましていたのだった。
「何でもないの」
雪子は、怒ったように言ってコーヒーの残りを飲むと、「行きましょう」と席を立ってしまった。自分の苛立ちの理由を、賢一に詮索《せんさく》させる時間を与えたくなかった。
「ちょ、ちょっと待てよ、ユキちゃん」
賢一は慌てて伝票をつかむ。たてこんでいるレジのところに彼を置き去りにしたまま、ガラスの一枚扉を押し開ける。足早で晴海通りに向かう。斜めにかけた布のポシェットが弾み、ボレロが風でめくれ、膝《ひざ》小僧が出る長さのワンピースの裾《すそ》が足にまつわりついたが、かまわずにずんずん歩いた。
「ちょっと失礼」
突然、中年の男性が、雪子の行く手を阻《はば》んだ。「お嬢さん、中学生? いくつ?」
夏用のスーツをきちんと着込んだ、三十歳くらいの長身の男だ。
「十五歳です」
思わず、雪子の口からうそが飛び出た。〈違う自分になりたい、早くおとなになりたい〉という気持ちが、無意識に年齢をサバ読ませたのかもしれない。
「十五歳。ちょうどいいね」
なぜちょうどいいのか、何にちょうどいいのか、雪子にはわからなかったが、男はそう言って、唇の端だけ持ち上げるような微笑を見せた。
「ちょっとお話があるんだけど。モデルなんかに興味ない?」
雪子は後ろを振り返った。まだ賢一は店から出て来ない。レジのところに、客が二組ほど並んでいたのを思い出した。精算に手間取っているのだろう。雪子が外で待っていると思っているのかもしれない。
「あります」
雪子がそう答えると、男は、ぱっと明るい表情になり、「そう。じゃあ一緒に来て」と彼女の腕を取った。思わず軽くうめくほど、力がこめられていた。男は、すぐ左横にある建物に雪子を連れ込んだ。階段を上がりかけたとき、「ユキちゃん!」と呼ぶ賢一の声が後ろで上がった。声に緊迫感があった。雪子は胸をつかれた。
「やっぱり、わたし、帰ります」
雪子は、男の腕をもぎ取ると、ころがるように階段を駆け降りた。男が舌打ちするのが後ろで聞こえた。
雑踏の中を縫うようにして、晴海通りを有楽町方面へ向かう賢一の姿が見えた。途中で立ち止まり、きびすを返す。賢一が、早足でこちらに戻って来る。雪子は、公衆電話の陰に身を隠した。
「ユキちゃん、ユキちゃん」
血相を変えて女の子を捜し回る青年の姿に、通行人が不審げな顔を向ける。
――もっと心配して。もっともっと、わたしを呼んで。もっともっと、わたしを捜して。
心臓がとくとくと鳴っている。
中年の女性に、賢一が何か尋ねた。女性は首をかしげる。賢一は頭を下げ、また駆け出す。雪子の前を走り過ぎた。よもや隠れているとは思わないのだろう。雪子のいるあたりに、ちらりとも視線をよこさない。
通過する瞬間、賢一の荒い息遣いが聞こえた気がした。顔色が青ざめているのがわかった。強烈な西日を受けたグリーンのシャツは、目が痛くなるほど鮮やかだ。その緑色の背中に、黒々とした不安が張りついていた。
胸が締めつけられた。雪子は、それ以上、隠れていることができずに飛び出した。
「先生!」
声が届いたのだろう。賢一の背中が一瞬、凍りついたように動きを止めた。振り返る。雪子を認めると、険しかった彼の表情が、一瞬にして緩んだ。全身から安堵《あんど》の湯気が立ち上っているように見えた。氷の塊に沸騰したお湯をかけたときのようだった。
「よかった。ユキちゃん、心配したよ」
賢一が駆け寄って来た。息をはあはあ言わせ、肩を上下させている。泣き笑いのような賢一の顔を見たら、涙がまぶたに盛り上がった。
「いったい、どうしたの?」
賢一が、通行人から逃れるように、雪子を脇《わき》へ連れて行った。「いきなり飛び出して行ったんで、びっくりしたよ。外へ出たらいないじゃないか。ユキちゃんに似た女の子が中年の男と一緒にいた、と聞いて、そいつに連れて行かれたかと思って焦ったよ」
「心配……した?」
「あたりまえじゃないか!」
怒気をこめた声で、即座に賢一は返した。大きな声だったので、通行人の何人かが、この奇妙な組み合わせの男女に好奇な視線を投げかけて行った。
「ずっとずっと捜すつもりだった?」
「ああ」
「見つからなかったら、どうするつもりだったの?」
「見つかるまで捜したさ」
「でも、見つからなかったら?」
「ユキちゃん」
困らせるなよ、と言いたげに、賢一は首を大きく横に振った。「そういうときは、警察に届けるつもりだ。もちろん、叔父さんや叔母さんにもすぐに連絡する」
「わたし……モデルにならないかって、男の人に強引に連れて行かれそうになったの」
「本当か?」
賢一が雪子の両肩に手を置いた。かすかに震えていた。
「中学生と間違われたみたいなの。どういうモデルかは……わかるだろ? って」
「それで、ユキちゃんは何て言ったんだ? 男に、何か……されたのか?」
賢一が、生唾《なまつば》を呑《の》み込むのが、その喉仏《のどぼとけ》の動きでわかった。
「すごい力でつかまれた。いいお金になるからって。わたし、おこづかいが少ないから、だからちょっと心が動いて、ついて行きそうになったの。すぐに済むって言われたし。でも、スカートめくるだけでいいよって言われて、怖くなって。その人、少女ばかりに声をかけているみたいだった。ロリ……何とかっていう雑誌があるの?」
自分でも怖いほど、すらすらとうそが並べられた。ロリコン――ロリータ・コンプレックスという言葉も、雑誌から仕入れたものだ。彼女の頭にインプットされた辞書の中に、それについての正確な記述はなかったが、〈いかがわしい言葉〉として分類されていた。
賢一の喉仏が、また動いた。
「途中で、振りきって逃げて来たの」
「バカだな。何で、そんなのについてったんだよ!」
賢一が怒鳴った。
「だって……」
「ユキちゃんに万が一のことがあったら、どんなに叔父さんや叔母さんが悲しむことか。ユキちゃん自身が傷つくんだぞ」
賢一は、雪子の身体を揺さぶった。心臓の鼓動まで伝わってきそうな勢いだった。
「その男がここにいたら?」
賢一は、ハッとしたように周囲を見回して、「いたら、ぶっ飛ばしてやる」と怒りで顔を赤くして言った。
「先生、怪我《けが》してもいいの?」
「これでも俺、ロスで柔道を習ってた。腕力に自信はある。いまは、俺がユキちゃんの保護者なんだから、守るのは当然だろ?」
「…………」
「ユキちゃんは、まだ小学生なんだ。だけど……そんなことは関係ない。街を歩けば、中学生だと思う男もいっぱいいる。いや、高校生だと思うやつもいるかもしれない。いや、ユキちゃんが小学生だろうと中学生だろうと高校生だろうと、そんなことは関係ない。ユキちゃんは気がついていないかもしれないけど、君は女の子であり、でも同時に女性であって、すごく魅力的なんだ。だから、言い寄って来る男もいる。これから身体と一緒に心も成長していく、とても大事なときなんだよ。そういう大事なときにいる君を、みんながみんな、良識のあるおとなの目で暖かく見守っていてくれるとはかぎらない。この世には、不本意かもしれないが、君の心を踏みにじってもののように扱っても平気な、悪いおとなもいっぱいいるんだ。わかるかい?」
君、と呼ばれたのははじめてだった。雪子は、不思議な陶酔感の中で、こくり、とうなずいた。賢一の言葉が、耳を撫でる心地よいメロディのように感じられた。
「だから、俺のそばを絶対に離れちゃいけない。わかったか?」
雪子は、ふたたびうなずくと、両手で顔を覆い、賢一の広い胸に埋めた。幼子のようにただただ泣きたかった。受け止めていてほしかった。賢一の腕から、一瞬、力が抜けたように感じた。その腕が、遠慮がちな動きで肩から背中に回された。厚い胸だった。懐かしいせっけんの匂《にお》いと、汗と柑橘《かんきつ》系のコロンが入り交じった匂い、そのほかに、特定はできないが何かこげくさいような匂いがした。
――ごめんなさい、先生。心配かけて、ごめんなさい。
好きな人の胸に顔を埋め、心の中で謝ることはひどく快感だった。
「ホント、驚いたよ」
賢一の、やや戸惑ったような、くぐもってうわずった、不思議な響きの声が言った。
賢一の胸から顔を離し、雪子は顎《あご》を上げて、間近でいとこの顔をじっと見つめた。大きな瞳《ひとみ》が澄んでいた。鼻筋がすばらしくきれいに通っていた。自分とは似ていない、と思った。父にも似ていない、と思った。だが、この人は、自分の父親の姉の子供なのだ、それは紛れもない事実だ、と思った。
――わたしたちは、つながっている。
雪子は、全身でそのことを感じ取った。
――わかった。先生の言うとおりにする。わたしは、先生のそばを絶対に離れない。
目でそう答えた。
賢一が、怒りすぎたことの言い訳みたいに、「これでユキちゃんを迷子にしたら、俺、アパート追い出されるかもしれない。そうなったらヤバイだろ?」と、手で首を切るしぐさをして言った。「俺は住むところを失う。路頭に迷うことになる。ああ、路頭に迷うって言葉、知ってる?」
雪子は、目のふちに涙が乾ききらずに残っているのを感じながら、微笑《ほほえ》み、うなずいた。「『路傍の石』の路に、頭でしょ?」
山本有三の『路傍の石』は、去年の夏休みに出された自由研究用に読んで、感想文を提出した本だった。本を選んでくれたのは、賢一だった。
「ねえ、走ったらおなかすかない? わたし、やっぱりチョコレートパフェが食べたくなっちゃった」
雪子は、涙を拭《ぬぐ》うと、子供っぽい明るい口調で言った。賢一の口から、「俺のそばを絶対に離れちゃいけない」という言葉を引き出せた喜びに浸っていた。雪子が隠れて見ていたときの、賢一の慌てぶりは本物だった。心から雪子のことを心配していた様子だった。あれは、演技でできるものではないと思った。
――何があっても、俺がユキちゃんを守ってやる。
賢一の言葉が、雪子の中で少しずつ変化し、どんどん重みを増していく。
――君は気がついていないかもしれないけど、見かけは女の子だけど、中身はもうおとなの女性なんだよ。俺にとっては、すごく魅力的な女性なんだ。
「よし、パフェでも何でも食いに行こう。俺も久しぶりにバナナパフェでも食おうかな」
肩の荷が下りたせいか、賢一もはしゃぎすぎなほど明るい声を張り上げた。
5
大学が夏休みになると、賢一は両親のいるロスアンジェルスへ帰った。ほんのひと月足らずだったが、雪子にはとてつもなく長く感じられた。
雪子は、「俺《おれ》がいないとだれるんだな」と賢一に言われたくないために、賢一がいたときと同じスケジュールで勉強をした。そして、ひたすら本を読んだ。学校では、「中学生、高校生向け」として分類されているような本の類を、はしから読んだ。活字に逃げ込んでいるあいだは、賢一のことを忘れられたし、一冊本を読み終えると、一歩おとなの世界に近づくように思われたからだ。
雪子にとって、大きなできごとが二つあった。
一つは、鍵《かぎ》付きの日記帳を買って、日記をつけ始めたことだった。それまでも、思いつくままにノートに詩を書いたり、予定を書き込んだりしていたのだったが、自分の心を映す鏡のような役割ではとらえていなかった。思いのままを綴《つづ》る日記をつけることは、自分を溺愛《できあい》している両親に秘密を作るようで、悪い気がしていたのだ。留守のあいだに母親に読まれるかもしれないという心配もあった。
新宿のデパートの文具売り場で、鍵のかかる日記帳を見つけたとき、雪子は「これだ」と思った。それは、日記帳を入れるケース自体に鍵がかかる頑丈なもので、クラスメイトの何人かが持っているようなちゃちな作りではなかった。雪子は、ためておいたお年玉をはたいてそれを購入した。
一ページ目に書いた文章は、あの「先生の言葉」だった。できることなら、あのときテープレコーダーを持っていたかった。「先生の言葉」を録音しておきたかった。もう一度、そっくりそのまま賢一に繰り返して言ってほしかった。
だが、それは無理だ。雪子は、記憶にある〈彼の言葉の断片〉を、毎日脳裏でつなぎ合わせ、反芻《はんすう》してみた。どこかに書きとめておくことはできなかった。ふらりと部屋に入った千恵子が、片づけでもするふりをして目にとめたら困ると思ったのだ。
忘れてしまわないうちに――忘れるはずはなかったのだが――と、雪子は「先生の言葉」を、日記の最初に書き写した。
ユキちゃんは、まだ小学生だけど、そんなことは関係ない。一歩街を歩けば、中学生だと思う男も、いや高校生だと思う男もいるかもしれない。ユキちゃんの年代の女の子は、本当は女の子だけど、でも、ユキちゃんは違うんだ。君は気がついていないかもしれないけど、中身はもう立派なおとなの女性なんだよ。俺にとっては、すごく魅力的な女性なんだ。
絶対に俺のそばを離れちゃいけない。何があっても、俺がユキちゃんを守る。ユキちゃんに言い寄って来るやつは、俺がぶっ飛ばしてやる。
実際には、賢一はもっと長くしゃべっていたように雪子は記憶している。細かな表現を忘れてしまったのが、残念でならなかった。が、大好きな人が自分のことを真剣に語っているという現実にうっとりしてしまい、半ば酔ったような状態で聞いた言葉とはいえ、肝心な箇所を聞き逃すはずはなかった。そう言いきれる自信はあった。雪子は、賢一がしゃべったことを要約して、日記に書き残したつもりでいた。自分に都合よく曲解したり、自分で創作した部分があるなどという意識は、微塵《みじん》もなかった。
雪子は、日記帳を使うときは、必ず最初のページを読み、しまうときにも、必ずそこを読んでからしまった。
「先生の言葉」は、数日もたつと「先生の告白」になって、雪子の座右の銘のようになった。一字一句間違えずに、完璧《かんぺき》に記憶してしまった。
もう一つの大きなできごと。それは、ある事実を知ったことだった。
きっかけは、三階から降りるときに、リビングルームで交わされていた両親の会話を耳に挟んだことだった。
「瑞枝には、結婚するときにきちんと財産分けをしたつもりだ。君が心配することはない」
最初に耳に入ってきたのは、澄夫のそんな言葉である。
――財産分け?
雪子は、以前にも、似たような表現を聞いた記憶があった。〈女性は、結婚するときに実家の財産をもらって持って行くのだろうか〉と、訝《いぶか》しく思ったものだ。
「でも、あちらは賢一さん一人だし。どうするのかしら」
「あっちの家のことは、あっちのことだ。口を挟む問題じゃない」
雪子の気配に気づいたのか、夫婦はそこで会話を打ち切った。
雪子は、両親にあることをたまらなく確かめてみたくなった。が、「なぜそんなことを聞くの?」と尋ねられて、返答に詰まるのが怖かった。
その日はちょうど、杉並区の中央図書館に行くところだった。自分でその〈あること〉を確かめてみようと決めた。
図書館で法律関係の本を探した。六法――という用語は、学校で習って知っていた。
まず『六法』関係の本を、手当たり次第めくってみた。
どれを見ても、「婚姻の成立」に関しては、次の二項目が含まれていた。
「男は、満十八歳に、女は、満十六歳にならなければ、婚姻をすることができない」
「直系血族または三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」
雪子は、直系血族とは何か、調べなくても漠然と感覚でつかめた。問題は、「三親等内の傍系血族」とは何か、であった。親族の中のどこまでの範囲を指すのか。
法律用語の基礎知識について書かれた本を、夢中で探した。ようやく、「親族図」というものが示されたページを探しあてた。そして、自分と賢一の関係が、親族図の中では、傍系の四親等にあたるとわかったときは、心臓から流れ出た血液が一気に頭に昇った。こめかみが脈打った。
――わたしと先生は、結婚できるんだわ。
結婚できない関係だ、と思っていたわけではなかった。だが、結婚できる関係かもしれない、とはっきり自覚していたわけでもなかった。とにかく、賢一とのあいだに「結婚」という二文字を持ち出すのは早すぎると考え、意識的にその言葉を避けていたのだった。二人の関係をあいまいにしておきたかったのだ。賢一は、雪子の家庭教師である。雪子に勉強を教えるのが役目で、雪子は知識をどんどん吸収していく段階にいる。そんな発展途上の大事な時期にいる自分が、賢一との〈生まれながらの固い絆《きずな》〉を意識しすぎて、勉学を疎《おろそ》かにすれば、両親はもとより、賢一自身にも嫌われてしまう。それが怖かった。
けれども、国の法律も雪子と賢一の結婚を認めている、その事実を知ったことは、雪子を包む世界の色が一変したほどの大きなできごとだった。
――先生は、知っているだろうか。
東大にストレートで合格したほどの秀才が、知らないはずはないと思った。
――先生のあの「告白」は、わたしたちが将来、結婚できることを知っていたからこそ、したものではないのかしら。
――そうよ、そうに決まってるわ。あのときの先生の目の輝きは、本物だった……。
雪子の日記は、賢一との将来に関する自問自答で埋まっていった。
そして、賢一が帰国したとき、雪子の日記はすでに彼女の生活の一部になっていた。
雪子は、千恵子の運転するベンツで、成田空港に賢一を迎えに行った。空港を見学したい、という娘の申し出を母親が素直に受け取ったのだ。税関を通過して来た賢一は、暗い顔をしているように見えた。雪子は気になった。久しぶりに帰ったロスアンジェルスの親元で何かあったのかしら、と思った。たとえば、賢一が以前つき合っていた現地の女の子とのトラブルか何かだ。が、雪子は、アメリカ時代に賢一にガールフレンドがいたかどうかも知らなかったので、推測のしようがなかった。
けれども、二人が「お帰りなさい」と声を揃えて出迎えると、彼の顔がひと月前の明るい笑顔に切り替わった。
帰国してから三日ほど、賢一は「サークルの合宿につき合わなくちゃいけないから」と、影山家に顔を出さなかった。顔を出したときは、アメリカみやげと、合宿で訪れたという飛騨高山《ひだたかやま》のおみやげをいっぱい抱えていた。
その夜は、澄夫が日本建築学会の会合で不在だった。雪子へのおみやげは、ハワイあたりでよく売っているようなヤシの木が描かれたTシャツと、マカデミアナッツだった。
「合宿って、桜井さんや、あのN女子大の人たちも行ったんでしょ?」
シャネルの香水を手に満足そうな千恵子を横目で見て、雪子はさりげないふうを装って聞いた。
「桜井は行ったけど、塚本さんたちは来なかったよ。野郎ばっかり」
その返事を得て、雪子は安心した。けれども、賢一が、吉川というショートカットの女性のほうの名前を出さず、色白の長い髪のほうに「たち」をつけたのが、少し気になった。女性二人でいるときは、彼がつねに「塚本さん」のほうを意識しているように思えたからだ。
「あのね、今夜は賢一さん、あなたのことで大事なお話があるんですって」
香水の瓶を脇《わき》にどけると、千恵子は言い、口元を引き締めた。
「大事な話?」
ドキッとする表現だった。雪子はその日の朝に、一冊の恋愛小説を読み終えたばかりだったのだ。そこには「いいなずけ」という古めかしいけれど、胸をざわつかせる言葉が何度も登場した。いいなずけ、とは、小さいころから双方の親が決めた婚約の相手のことを言う。幼なじみや遠縁といった間柄で決められることが多いらしく、雪子が読んだ小説の「いいなずけ」も幼なじみの男女だった。
小説の余韻を引きずっていたので、「大事な話」と聞いて、思わずその「いいなずけ」に関連させてしまった。
「大事な話って、な、何よ」
雪子は、身構えて、千恵子から賢一へ視線を移した。今日はなぜか、賢一はいつも澄夫が座る席についている。二人に見つめられる形になって、いっそう雪子は緊張した。
「あなたの将来のことよ」
千恵子が言った。
――あなたにはまだこのお話、早すぎるかもしれないけど。でも、いいなずけ、って言葉もあるし。
――いとこ同士はね、結婚できるのよ。賢一さんは、あなたとの結婚を望んでいるの。
――パパもママも、一人娘のあなたを賢一さんにもらってもらうのが、いちばんいいと思うの。
心臓の鼓動が早くなった。雪子は、母親の口から続いて出るであろう言葉を予想し、待った。しかし、できれば先に、賢一と二人で話をしたかった。
「賢一さんはね、あなたのいまの成績で、S学園に居続けるのはもったいないと言うのよ」
「えっ?」
一瞬、意味が呑《の》み込めなかった。
「あそこにいたら、確かに、エスカレーター式に中等部、高等部、短大へと進める。それにしても、ある程度の成績を維持して行かないといけない。だから、ママは、あなたがみんなに遅れをとらないようにと、賢一さんに家庭教師についていただいたの。ほかのお友達だって、みんな必死に勉強について行こうとして、塾に行ったりしてるでしょ? でも、賢一さんの教え方があまりにもすばらしかったから――賢一さんは、そんなことはない、ユキちゃんが頑張ったんです、なんて言ってくれるんだけど――、あなたの成績が期待していた以上に伸びたのよ。パパもママも、本当はすごくびっくりしてるの。あなたにそれだけ潜在能力があったことにね。ああ、潜在能力っていうのは、やればできる力があったってこと。こんなこと言うと、娘を自慢しているみたいに聞こえるけど、あなたはもともと、とても負けず嫌いですごく集中力のある子だったのよ。あなたが三歳のころだったかしら。デパートで、せがまれてきれいなビーズをいっぱい買ってあげたのね。ほら、糸に通してネックレスにするあれ。手先を使う細かな作業だけど、あなたはすべてのビーズを通すまでけっして作業をやめなかった。ネックレスが何本、できたかしら。ふつうの子なら、一時間もやったら飽きてしまうのに、あなたはたっぷり半日、黙々と糸にビーズを通していた。とても真剣な顔で、とても楽しそうに。
初等部の受験のときは、ママ、すごく神経遣ったわ。あなたにもいちおう受験勉強させたしね。パパは、そう、お金を使ったわね。初等部に入れさえすれば、あとは保証されてると思ったし。言ってみれば、そう、パパもママも楽をしたかったのね。あなたに苦労をさせたくなかったのね。受験、受験で青春を終わらせたくなかった。青春時代をのびのびと過ごしてほしかった。だけど、それとは違う考えもあるんだなって、賢一さんの話を聞いて考え直したのよ」
そこで千恵子は、右隣の賢一をちらりと見て、微笑んだ。賢一は、一つ大きくうなずいたが、まだ自分が話を引き取ろうとはしなかった。
「自分の力を最大限に引き出す。そのことの大切さを感じたの。同時にね、あなたを取り囲む環境がいかに大切かも痛感したの。雪子は、賢一さんに隠れた能力を引き出してもらったのよ。ちょっとむずかしいかもしれないけど、それは賢一さんという環境がよかったから。それと同じように、学校という環境もとても大事なものなの。パパもママも、S学園の校風はとても気に入ってるわ。できれば、短大までと考えて、あなたに初等部を受験させた。でも、やっぱりあそこはぬるま湯ね。そこそこの成績をとってさえいれば、短大まであげてもらえる、そんなふうに考えて、手を抜いて……という言い方は悪いけど、どの子も自分でかげんして勉強している。そんな感じがするの。それは、一部の子は、もっと上の大学をめざしてがむしゃらに勉強しているけど。それは、やっぱりほんの一部でしょ? 朱に交われば赤くなる、という言葉があるように、まわりがみんな『この程度の勉強で短大まで行かれるなら手を抜こう』って感じの勉強の仕方だと、あなたもそれに影響されかねないの。実際、賢一さんが来るまでのあなたは、宿題はちゃんとやるけど、それ以上の勉強はやらなかったでしょ? 本だって、自分の好みのものばかりしか読まなかった。賢一さんが来てから、あなたの読書の幅はぐーんと広がったわ。それは、賢一さんというあなたにとってのよき〈司書〉ができたから。家庭も大切だけど、学校という環境は、子供にとってすごく大きなものなの。パパにも相談したんだけど、学校という環境を思いきって変えてみるのもいいんじゃないかと思うの」
ねえ、というふうに千恵子は、賢一と顔を見合わせた。賢一は、またうなずき、ようやく口を開いた。
「ユキちゃんは、挑戦という言葉をどう思う?」
「挑戦?」
賢一の口から吐き出されたその言葉は、凜《りん》とした美しい響きを伴っていた。
「たとえば、走り高跳びでユキちゃんは一メートルを楽々飛んだとする。次のバーは一メートル五センチだ。これもユキちゃんは、楽々クリアできるとわかっている。だから飛ばない。次のバーは一メートル七センチ。これは、楽々ではないが飛べば飛べるかもしれないと思う。君は飛んでみる。飛べた。で、次のバーは一メートル九センチだ。飛べるか飛べないかのギリギリのライン。ユキちゃんは飛んでみたいと思う。でも、失敗するのが怖い。もしかしたら飛べるかもしれない。でも、失敗したときが怖いから、君は飛ぶのをやめた。棄権した。ところが、君と同じように感じる友達がいて、実力は君とほぼ同じ。彼女は勇気を出して飛んでみた。バーすれすれだったが、飛べた。ユキちゃんは、彼女をすごいと思う。悔しい、うらやましいと思う。自分も飛んでみればよかった。飛べたかもしれないと思う。だけど、もうユキちゃんの番は過ぎた。君は棄権したんだ。チャンスを放棄したんだ。勇気を出して飛んでみて飛べた友達と、ユキちゃん。二人のその後の人生にどんな違いがあるだろう」
賢一は、自分の前に出されていたハーブティを一口飲み、雪子に考える時間を与えた。
「勇気を出して挑戦してみた友達には、間違いなく自信が生まれたと思う。自分の力を最大限発揮する喜びを知ったと思う。逆に、ユキちゃんには、ああ、あのとき……と、あとで後悔がつきまとう。本当は自分には飛べる力があった。ただ自分の意志で飛ばなかっただけよ、という言い訳をする。その後、似たようなチャンスが巡ってきたとき、その友達は前にもできたんだという自信から、もう一度挑戦してみる気になる。前向きな姿勢が、ふたたび成功をもたらす。一方ユキちゃんは……前にチャンスを逃したときと同じような恐れをふたたび抱き、萎縮《いしゆく》してしまう。そして、似たような状況の繰り返しになる」
「ねえ、ユキちゃん」
黙っている雪子に、千恵子が遠慮がちに言った。「このままS学園の中等部へすんなり進むことが、あなたの幸せだとママは思ってたわ。でも、そこはあなたにとっては一メートル五センチのバー。楽々飛べることがわかってるから、あなたは飛ぼうとしないんじゃない? つまりこれからの人生、あなたには力を出し切るというチャンスがこないかもしれない。そういう機会に恵まれないのは、不幸かもしれないと思ったの。賢一さんはね、あなたがその気になれば一メートル九センチのバーも必ず飛び越せる、と考えてるのよ」
「一メートル九センチ?」
雪子には、体育の授業で、飛び越せたと思った瞬間、つま先が触れ、むなしく落下してしまったバーのイメージしか湧《わ》いてこなかった。
「そのバーが、J女子学院なの」
千恵子が言った。その名前を口にするのには、自分自身も勇気がいったのだ、というようにため息をついた。
「J女子学院?」
雪子の前に、一メートル九センチどころか、エッフェル塔の高さの鋼鉄の太いバーが現れた気がした。J女子学院は、S学園と同じように女子ばかりを集めた、中、高一貫の私立校である。高等部からは毎年数十名が東大に合格する、都内でも指折りの難関私立中学だった。
「そ、そんなの無理よ」
雪子は、おそれをなしてかぶりを振った。なぜ賢一が、そんな高いバーを自分のために用意したのかわからなかった。
「ほら、そうやってはなから無理だと決めつけてしまう。そういうのもS学園のぬるま湯的校風だと思う。最初から、ちょうどいい場所を先生も生徒も決めていて、そこに安住するのが幸せだと考えている。いまの世にはそぐわない、控えめを美徳とする、型にはまった良妻賢母型の女性を作るのが、あそこの目的のような気がして。僕は本当はあんまり好きじゃないんだ。そこを選んだ叔父さん、叔母さんには悪いんだけど」
そう言って、賢一は千恵子を見て、すみません、というふうに頭を下げたが、口調には少しの妥協も遠慮も感じられなかった。千恵子は、いいのよ、と言って微笑《ほほえ》んだ。
雪子は驚いた。自分の通っている学校が、将来〈良妻賢母型の女性〉を作るのを目的とした学校であるなどとは、考えたこともなかったからだ。
「問題にしているのは、校風ばかりじゃない。いまのユキちゃんにライバルがいないこともだ。中等部に進んで、外部から新しい子たちが多少は入ってくるかもしれないけど、やはり似たり寄ったりの考えの親に育てられた、似たり寄ったりのお嬢さまばかりだと思う。部屋の空気もたまには入れ替えないと淀むように、学校という環境もずっと同じメンバーだと淀むと思うんだ。人間が成長し、飛躍するためには、新しい空気と刺激は絶対に必要だよ。総入れ替えはまず望めない。だったら、淀んだ空気の狭い部屋から、ユキちゃん、君が飛び出せばいい。刺激を求めてね。新しい環境には、君のよきライバルがいるかもしれない。よきライバルはよき友達でもあるんだよ」
雪子は、返す言葉も考えられずに、ただ唇をかみしめていた。自分に「よきライバル」も「よき友達」もいないことを賢一に見抜かれている、と思った。賢一がいれば友達なんていらない、と思っていたのも本当だった。
「実はね、僕にも刺激があった。よきライバルがいたんだ、ロスでね。でも、一度も会ったことがなかった。僕だけが意識していたライバルと言おうか。僕についていた日本人の家庭教師が、日本の大手の進学塾から資料を取り寄せてくれてたんだ。そこで行っていた全国一斉模擬テストも入手してくれた。いつも上位に名前が載るやつがいた。名前は、高井健二。高い井戸の、健康の健の二番目の二だ。なんか似てるだろ? 名前が。最初はそれで意識してしまったんだけど、そいつはすばらしくできるやつだった。どんなに僕が頑張っても、そいつには勝てなかった。あいつが九十五点のときは、僕は九十三点。頑張って九十九点のときはあいつは百点。おかしな話だよな、あいつは僕のことなんか知らないのに、一方的にこっちがライバル視してたんだから。だけど、彼のおかげで僕は頑張れた」
「その人、いま同じ大学にいるの?」
彼の話は、千恵子も初耳だったのだろう。ふと気になった、というふうに賢一に尋ねた。
「同い年のはずだから、機会を見て捜してはいるんだけど、いまのところ出会ってはいません。でも、あんなに優秀なやつだったんだから、いまもきっと頑張っていることと思います」
賢一は、彼をライバル視していた、と強い言葉を言いながら、爽《さわ》やかな笑顔を見せて続けた。「僕はね、学歴社会がすべてだとは思わない。だけど、努力すること、可能性を試してみることはとても大事なことだと思う。その結果、成績が上がって、いい大学に入れたら、それはやっぱり自信につながるし、やりたいことを選ぶための選択|肢《し》も増える。ユキちゃん、君は将来何をしたいんだい?」
「な、何って……」
二人でいるときにも、賢一はこんな質問を向けることはなかった。雪子は困惑した。手のひらにじっとり汗をかいていた。千恵子も〈娘が将来したいこと〉を聞くために、真剣な顔をしている。
「できれば、語学を生かした仕事を、と思ってるけど」
思いつきを言葉にしただけだった。アメリカに長く住んでいた賢一は英語が得意だ。雪子の頭の隅に、将来賢一のよき伴侶になるためには自分も語学ができなければ、という思いがあったせいであろう。
「そうか、やっぱり具体的にしたいことがあったのか」
賢一が声を弾ませた。隣で、千恵子も大きくうなずいた。
「英語の教師? 通訳? それとも商社に勤めるとか?」
賢一がたたみかけた。
「翻訳とかできればいいな、と思って」
翻訳、ととっさに口をついて出たのは、本好きの少女としての自然な連想だった。
「『不思議の国のアリス』なんかを、原書で読んでみたいと思うことはある。それに……先生と観た『ローマの休日』にとても感動したの。字幕スーパーを見なくても、英語が全部理解できるようになればいいな、と思った。字幕スーパーを考える仕事もおもしろそう。まだはっきりこれがしたい、と決まってはいないんだけど、いろいろやってみたい」
「そういう夢があるのならよけいに、挑戦したほうがいい」
思いつきの漠然とした夢ではないか、と雪子は恥ずかしくなったが、目を輝かせた賢一を見て、引っ込みがつかなくなった。将来の夢や展望を持たない女など彼の眼中にないとしたら、自分は彼の理想に近づかなければならない、と焦ったのだ。
「それだったら、T外語大あたりが、ユキちゃんの夢を叶えるにはいちばんいいかもしれない」
具体的に大学名まで出されて、雪子はますます引っ込みがつかなくなるのを感じた。T外国語大学に進学するのは、毎年、トップクラスの中でも一、二名である。それも、初等部からエスカレーター式であがった子はまず進学できない。賢一も言ったとおり、最初から高い山には登ろうとしない安定志向ののんびりとしたお嬢さまが多いせいだ。
「ママも、あなたがT外語大に入るような子になってくれれば嬉《うれ》しいわ。鼻が高いし」
千恵子は、ちょっと目をしばたたいた。東大生の義理の甥《おい》に太鼓判を押された娘が、急にまぶしくなったかのようだ。
「で、でも、J女子学院なんて」
雪子は、真っ向から抵抗するつもりもなかったが、いまさらながらも遠慮がちに言ってみた。「身のほどしらず、って言葉もあるじゃない」
「その場合には使わないよ」
賢一は笑って言った。「僕はユキちゃんを一年半も見て来たんだ。ユキちゃんより僕のほうが、ユキちゃんのことを客観的に分析できる。少なくとも、成績の面ではね。君の実力は僕がいちばんよく知ってるよ」
母親の前でも「君」と呼ばれたことは、自分を一人のおとなの女性と対外的にも認めているということではないか、と雪子は思い、そっちのほうに気を奪われた。
「実を言うと、ママだって最初は信じられなかったのよ。でも、賢一さんの言うとおり、雪子の実力をいちばんよく知っているのは、週に三度もあなたの勉強を見ている賢一さんだわ。東大生の賢一さんが太鼓判を押すんだもの、ママは賢一さんの洞察力、分析力を信じることにしたの。わかりやすく言えば、人の能力を見抜く目の確かさをね。確かに、驚くほどあなたの成績は上がっているんだし。いまは不安かもしれない。でも、まだ半年以上あるのよ。そのあいだにさらに成績をアップさせて、ひとつ、ここは挑戦してみるのもいいんじゃないかしら」
「もちろん、これからの半年は特訓だ。週に三日と言わず、四日でも五日でもつき合うつもりだ。休みの日には一日中でもつき合うよ。ユキちゃんに、自信がない、なんて言わせないようにする。それだけの自信は僕にはあるんだ」
賢一の口調には熱がこもっていた。千恵子は、そんな義理の甥を、潤んだような目で見ている。雪子は、「週に四日、五日」という数字の大きさにめまいを覚えていた。
「ユキちゃん、僕と二人三脚でやって行こうよ。挑戦しようよ」
「雪子。賢一さんもこう言ってくださってるのよ。決断しなさい。パパも賛成しているのよ」
――僕と二人三脚でやって行こうよ。
真っ赤な紐《ひも》で結び合わされた、賢一の右足と自分の左足だけが、雪子の脳裏にぽっかり浮かんだ。なぜ、真っ赤な紐なのか、雪子は不思議に思った。そして、〈赤い糸〉からの連想かもしれない、と思いあたった。
――どうして先生は、こんなに真剣になっているのだろう。わたしのために、なぜこんなに熱くなっているのだろう。
答えは一つしかない、と思った。
「将来、ユキちゃんに俺が理想とする女性になってほしい。俺にふさわしい女性になってほしい」
賢一の目が、そう語っているように雪子には見えた。まるで魔法をかけられたようにのぼせあがった。胸に熱いものがこみあげた。
――先生は、ただ性急な人ではなかった。わたしの将来を自分の将来に重ね合わせて考えることのできる、名前のとおりとても思慮深い、賢い人だった。
雪子は、自分の見方に自信を持った。日記に書き写した「先生の告白」が彼の言葉でよみがえった。あの「告白」はうそではなかった、と確信した。賢一は、やはり自分を一人の魅力ある女性として認めてくれているのだと思った。認めてくれてはいるが、法律的にも結婚できるとされる十六歳という年齢までにも、まだ雪子は達していない。
――先生は、わたしが先生の妻になるのにふさわしい教養を身につけるまで、じっくり待つつもりなんだ。ううん、ただ待つだけでなくて、一緒にそのときに向かって歩もうとしているんだ。
――ユキちゃんの人生は、俺の人生にも深くかかわってくる。先生はそう考えているからこそ、こんなに熱心にわたしの進む道を説いているのではないか。
――本当は、いいなずけ、という言葉を出したいのに、先生なりにその言葉の重みを意識しすぎて控えているのかもしれない。
雪子は、あの色白の「塚本」という女子学生のことも意識していた。彼女はN女子大学の学生である。T外語大学は、ランクとしては彼女の通う大学よりずっと上である。東大生の賢一とのつり合いを考えたら、やはり自分は賢一が勧める大学を目ざすべきではないか。「塚本」の存在が、雪子のライバル意識をあおり、野心を駆り立てた。
――先生自身も、T外語大卒の女性程度でないと自分とつり合わない、と考えているのかもしれない。わたしも、もっと自分自身を磨き、高めなくては。
――先生が望むなら、先生が選んだ「わたしの進むべき道」なら……。
ためらう理由はなかった。愛する人に賭《か》け、彼の言葉を信じる以外に道がないのは、雪子には明白なことだった。
「先生が大丈夫と言うのなら、わたし、挑戦してみるわ」
雪子は言った。が、やはり不安はあった。失敗したら、賢一に嫌われるのではないか、愛想をつかされるのではないか、という不安だった。不安が、口調を無愛想なものにした。
賢一と千恵子は顔を見合わせ、安堵《あんど》したようにため息をついた。千恵子が、「賢一さんがついているけど、でも、頑張るのは雪子、あなたよ」と、目にきつい色をたたえて言った。
わかってるわ、というふうに雪子はうなずき、視線を母親からいとこへ移した。雪子の目には、賢一が昨日までよりずっとおとなっぽく映った。
*
T外国語大学へ進学し、賢一のパートナーとしてふさわしい知性と教養を身につけ、将来は語学を生かした仕事をする。
将来の目的ができた雪子は、いちばん近い目的――J女子学院に合格する――に向かって、必死に勉強した。しかし、その将来の目的が、自分が描いていた夢であるのかどうかは、彼女にはわからなかった。
賢一と結婚するのは、確かに雪子の夢だった。けれども、そのために、国立の難関校である大学に進学したり、語学を生かした仕事をすることは、彼女の描いていた夢とは呼べなかった。雪子は、賢一が望むのなら、将来、彼の母親や自分の母親と同様に、家庭を守るだけの主婦になってもいい、と考えていたのだった。
けれども、賢一の理想が、〈自分と対等に仕事ができる知性あふれる女性〉であるのなら、その理想に近づくことが自分の幸せだと考えを切り替えた。雪子は、そうした柔軟性を自分の若さゆえのものだと自負していた。
――わたしの人生は、すべてこれからなのよ。先生が引いてくれたラインを突き進むだけでいい。先生がわたしを導いてくれる。
二学期から特訓は始まった。賢一は、前にも増して厳しい家庭教師になった。同じ漢字を二度続けて書き間違えたり、計算でケアレスミスをしたりすると、雪子の手を容赦なく定規で叩《たた》いた。最初は、賢一の大げさなスパルタ式指導法かと思い、叱《しか》られることに快感を覚え、わざと間違えてみたりしたが、賢一が甘えも許さないほど本気だとわかると、雪子に手を抜く余裕はなくなった。「この程度のことを一度で覚えられないほど君はバカなのか」と幻滅され、嫌われるのが怖かったのだ。雪子も本気になった。頭から、受験以外のものを排除した。受験と先生は、同義語だった。
そして、雪子は見事、J女子学院の中等部に合格した。
影山雪子。十二歳。鍵《かぎ》付きの日記帳に「高木雪子」と、将来、自分の新しい名前になるかもしれない名前を記し、何ともいえない幸せに包まれた春だった。
6
新しい環境には、よきライバル、よき友達がいるかもしれない。――賢一が言った言葉は、現実になった。
笠原夏美《かさはらなつみ》は、名簿順で雪子の次だった。夏美が練馬《ねりま》区内のその公立小学校からJ女子学院に入ったのは、小学校創立以来はじめてのできごとだという。
入学式のあとクラスごとに分かれ、名簿順に並ばされたとき、「ねえ」と雪子の背中を突いてきたのが笠原夏美だった。肩にかからない長さの、少し天然パーマがかった髪。前髪を垂らさずに、素朴なデザインのピンでとめていた。瞳《ひとみ》の輝きに聡明さを感じた。
「あれ、持ってる?」
夏美は、両方の人さし指で四角い形を描いた。雪子はぴんときて、うなずいた。
「一つ、ちょうだい」
貸して、ではなく、ちょうだい、と夏美は言った。そのストレートな物言いが雪子は気に入った。いままでのクラスメイトにはいなかったタイプだと思った。やはり彼女も、雪子の知っていた世界に、異質な空気をまとって入り込んで来た〈異物〉だった。
「緊張してたのか、急に始まっちゃったみたいなの」
雪子には、このクラスメイトが少しも緊張しているようには見えなかった。自分のほうがよっぽど緊張していると感じていたので、彼女に急激に親近感と共感を覚えた。雪子は、賢一の言葉を信じて猛勉強し、見事合格はしたものの、はたしてレベルの高いクラスメイトたちについて行けるかどうか、不安でならなかったのである。誰も彼もが才媛《さいえん》に見え、自分のまわりにバリアを築いているようで、友達など作りたがっていないように見えたのだ。
「自分が生理でもないのに、ちゃんといつも持ってるんだ」
トイレから出て来た夏美は、感心したように雪子に言った。
「ママがね、女の子はいつ何があるかわからないから、持ってなさいって」
「ふーん、きちんとしつけられてるんだ。一人っ子?」
「うん」
「やっぱりね。なんかそういう雰囲気だから」
一人っ子と周囲に悟らせる雰囲気とは何だろう、と雪子は思った。
「笠原さんは?」
「弟がいる。……ねえ、笠原さんっての、やめにしない? 名前で呼んでよ。夏美でいいよ。いや?」
「ううん、いやじゃないけど、……名前で呼ぶのに慣れてないもんだから」
「まあね、S学園みたいなお嬢さま学校から来たんじゃ、そうかもしれない。あそこ、影山さん、笠原さん、って呼び合うんでしょ? お父さま、お母さま、とか、パパ、ママ、って呼んでいる子も多いって聞くし。でも、珍しいよね。ああいうところから、受け直してここに来るなんて。S学園じゃ物足りなくなるくらい、成績がよかったんでしょう」
思ったことをずけずけ言う夏美の姿勢が、雪子の気持ちをほぐした。賢一と出会ったときと同じような、新鮮なときめきを感じた。
「すごくよかったってほどじゃないけど。親や先生……あっ、ううん、家庭教師に勧められてね」
「家庭教師? すごい。家庭教師がついてたんだ」
「ついてなかったの?」
「塾に通っただけ。大学生?」
「うん、その人が優秀な先生だったの」
「あっ、さっき、先生って言いかけたの、家庭教師のことか。変だと思った。だって、S学園の先生がここを勧めるなんて珍しいもん。東大生とか?」
「そうよ」
一人っ子だと言いあてたり、先生と家庭教師を結びつけたり、夏美はかなり勘の鋭い頭の回転の早い子だと雪子は思った。そのことに警戒心より、尊敬の念を抱いた。
「じゃあ、高かったでしょ?」
「何が?」
「時給よ。東大生の家庭教師の相場って、高いんだよ。うちはとても無理。両親ともふつうの公務員だもん」
「ただだったの」
「ただ? ボランティアで勉強見てくれた、って意味?」
「そう……かな。家庭教師はいとこなの。瑞枝伯母さまの息子よ」
「伯母さま……ね。あなたが呼ぶと、違和感ないよね」
夏美は肩をすくめた。「へーえ、親戚なの」
雪子は、賢一に家庭教師についてもらうことになったいきさつを、夏美に話した。
「やっぱり、あなた、お嬢さまなんだね。お父さんが建築家で、アパートを経営してるのか。じゃあ、きっといいおうちに住んでるんでしょうね。雑誌に出てくるような広くてきれいなおうちに。今度、遊びに行っていい? あっ、その東大生のいとこってのがいるときにしてね。顔見たいから」
夏美が賢一に関心を抱いた。雪子は、困ったなと思った。しかし、夏美の目的は、ほかのことにあった。
「わたしね、東大を目ざしてるの。だから、本物の東大生に会ってみたいんだ」
彼女は、声も落とさずに大学名を明瞭《めいりよう》に発音した。
「いまから、もう進路とか決めてるの?」
「うん、東大を受けることは決めてる。親も受けろって言ってるし」
「すごいのね。わたしなんか、将来のことは全然……」
家庭教師でいとこの先生が、T外語大を勧めているからそこを目ざすつもり、とは言えなかった。自分の足でちゃんと立ち、自分の頭でちゃんと考えている夏美に対し、自分がひどく頼りなげで恥ずかしく思えたのだ。
「親は当然考えてるよ。うちはね、父親が東大を目ざせってうるさいの。自分のはたせなかった夢を娘に、ってところかな。弟は小学校四年生だけど、こちらはもう成績のほうは諦《あきら》めてて、将来、プロ野球の選手にさせようとしてる。あのアマちゃんの弟じゃどうかな、と思うけど。うちはそう、息子は野球、娘は頭のほうで勝負させよう、って感じの家庭ね」
「笠原さ……夏美さんって偉いわね。親の夢を叶《かな》えてあげようと努力するなんて」
「偉かないよ。どうせどこか受けなきゃいけないんだったら、挑戦する気になるところがいい。わたしもそう思ってるだけ」
先生に考え方が似ている、と雪子は思った。先生が女だったら、夏美のようになるのだろうか、と想像したが、少し違う気もした。が、「挑戦」という言葉を使った彼女は潔く、美しかった。
「でもさ、わたしたちっておかしいよね。名簿に、雪子と夏美が続くんだもん。冬と夏。季節だったら、正反対だよね。まあ、生まれも育ちも正反対とまでは行かなくても、かなり違う気はするけどね」
会って一日で、二人は互いに惹《ひ》きつけられた。
だが、雪子はやはり、裕福な家庭で厳しくしつけられたお嬢さまだった。意気投合したクラスメイトを、彼女が望むままにすぐに家に連れて来るのはためらわれた。ずけずけものを言う夏美が両親の前で、不快感を与えるような発言をしたら困ると考えたのだ。だが、彼女は、場所をわきまえることのできる頭のいい子だった。雪子は、そのことを見極めてから、五月の連休明けに夏美を自宅へ招いた。
雪子にできた仲のよい友達が、「東大を目ざす」と宣言してはばからないクラスメイトと聞いて、千恵子は当然のこと、澄夫も夏美に興味を示した。
「うちの親、あんまりうるさくないけどね、でも、びっくりさせるようなことは言わないでよね」と、夏美に釘《くぎ》をさしておいたのだが、友達の両親の前に出ると、夏美は別人のようになった。グレープフルーツジュースを出されると、「恐れ入ります」などとかしこまり、グラスに口をつけるときは、「いただきます」と言った。雪子は、澄夫と千恵子が、〈きちんと敬語を使える聡明な子じゃないの〉という顔になったのを見てホッとした。
千恵子の夏美への質問は、ほとんどが家庭のことと、将来の進路のことで占められた。夏美は、それらに過不足なく答えた。「東大を目ざすのは、どうせ極めるのなら頂点を、という父の言葉にそれもそうだと思ったからです。法律関係の仕事に進みたいと思っています。なれるのだったら弁護士に」
弁護士に、という言葉に、澄夫と千恵子は顔を見合わせ、驚いたように目を見張った。
そこへ、賢一が少し遅れてやって来た。
「ごめんごめん。レポート書いてたら遅くなっちゃって。ユキちゃんの家庭教師でいとこの高木賢一です」
賢一の顔を見るなり、夏美はすっとソファを立ち、「笠原夏美です。ユキちゃんのよきライバルで、よき友達です」と自己紹介した。賢一は、あれっ、という表情をし、笑顔を雪子に向けた。雪子は、目で〈先生のこと、話してあるの〉と答えた。
「賢一さんの言ったとおりになったわね」
と、千恵子も微笑《ほほえ》んで言った。「雪子には刺激が必要だったのかもしれない。夏美さんのようなハキハキした元気なお友達ができて、本当によかったわ。これからも、いい意味で、夏美さんにどんどん影響されなさいね」
「うん。雪子もこれからは、のほほんとばかりしてられないぞ。夏美さんは、いまから東大を目ざしているし、将来、弁護士になりたいという明確な目標もある。人生設計がちゃんとできている。おまえのような温室育ちの甘えん坊は、夏美さんのような友達にどんどん刺激を受けたほうがいいのかもしれんな」
澄夫までが、雪子と夏美を〈よき友達〉というより〈よきライバル〉の関係でとらえた。「おまえも、いちおうT外語大を目ざしてるんだろ? まあな、一流の翻訳家になるためには、そのくらい出ていたほうがやっぱりいい。目標があるってことは、二人ともとても幸せなことだよ。せいぜい刺激し合って、お互いに頑張ってほしいね」
「何だ、ユキちゃん。ちゃんと目標があったんじゃないの。そんなこと、わたしには全然言わないんだもん」
夏美が、雪子の両親や賢一の前であることを意識して、すねるように口を尖《とが》らせて言った。
「だ、だって、まだ自信がなかったから」
「自信がない、自信がないって、ユキちゃん、いつもこうなんですよ。そのくせ、英語はわたしよりできたりするんだから、もう」
夏美が雪子を睨《にら》んだ。
「そうなの?」と、千恵子が、夏美と雪子を見比べた。
「そうなんですよ。ユキちゃん、入ったらいきなり英語はトップクラスになっちゃって。誰かにあてて答えられないと、たいていユキちゃんのところに回るんです」
「一度か二度だけじゃないの」
雪子は、大げさに言われて恥ずかしくなった。将来、いとこが語学を生かした仕事につきたがっている、と知ってから賢一は、受験勉強の合間に雪子に英語を教え始めた。外国の恋愛小説や映画が好きな雪子には、英語を勉強することが少しも苦痛ではなかった。基礎を学んでいたことが役立って、J女子学院に入学してから、英語の授業は驚くほどよく理解できた。教師にもクラスメイトにも「あの子は英語ができる」と認められていることが、雪子の自信につながった。ほかの教科でトップになろうとまでは思わなかったが、賢一という心強い家庭教師がついているかぎり、自分は大丈夫という安心感があった。
「せっかく昇り調子なんだから、その調子を崩さないようにね」
千恵子は、満足そうに微笑んで、ねえ、と夫の同意を求めた。澄夫も、そうだよ、とうなずいた。
「ユキちゃんのお部屋に行ってもいいですか? ユキちゃんの優秀な先生に、ちょっと教わりたいところがあるので」
途中で席をはずし、賢一と三人になることは打ち合わせてあったが、待ちきれないように切り出したのは夏美だった。澄夫と千恵子は、少し面食らったような顔をしたが、「もちろん、どうぞ」と言った。
雪子の部屋で三人になると、夏美は雪子のベッドに腰を下ろし、ふうっとため息をついた。「あーあ、緊張して疲れちゃった」
「あれれ、緊張していたようには見えなかったけど」
いつもの自分の椅子《いす》に座った賢一が、あの真っ白い歯をのぞかせる笑顔になって言った。
「そう見せないようにするのが大変なの。で、緊張しちゃった」
夏美の言葉に、賢一は、はははと笑った。「夏美さんって、ユキちゃんとはまったく違うタイプなんだね。でもさ、性格が正反対くらいのほうが、いい友達になれるんだよ」
「相性がいい、ってことでしょ?」
「うん。そう言いたかったんだ。先に言われちゃったね」
夏美と賢一の会話は弾んだ。雪子は、夏美という人間は、人の懐にすんなり入って行ける特技を備えた人間かもしれない、と思った。口では「緊張しちゃう」などと言いながら、はためには物怖じしているふうにはちっとも見えない。
雪子は、賢一に、夏美と自分がどうタイプが違うのか聞いてみたかったが、いまする質問ではないと思った。
〈夏美が先生を好きになっちゃったらどうしよう〉
ちらりと、そんな心配が脳裏をよぎった。予防線を張っておかなかったことを後悔した。東大生の賢一が、「東大を目ざす」と宣言した夏美に興味を持たないはずはないと思われた。夏美にはまだ、自分の賢一に対する気持ちがどんなに真剣なものであるかを話していない。
だが、雪子は心の片隅で、〈夏美が先生を好きになるはずがないな〉とも思っていた。夏美のことを、〈人の懐にはすんなり入り込めるが、その場所に居つかない人間である〉と、どこかで感じたせいかもしれなかった。
「ユキは謙遜《けんそん》してるんですよ。家庭教師に恵まれたから、わたしは合格できたんだって。でも、わたし、わかってるんです。ユキって底力がありますよね」
「あれ? ふだんはユキって呼ぶの?」
賢一が首をかしげた。
「いちおう彼女の両親の前では、ユキちゃんと呼びましたけど、ユキちゃんとか雪子さんとか雪子って呼ぶの、なんかイメージじゃなくて」
夏美は答え、ねえ、と雪子の横顔をのぞきこむようにした。「雪子って、雪女みたいなイメージがあるんだもん、気持ち悪くて。ユキは、純白の雪を連想させるような色白の日本的な子じゃないしね」
「失礼しちゃうわね。どうせわたしは色黒よ」
賢一の手前、雪子はふくれて言い返した。が、色白の日本的な子、という表現を聞いて、瞬間的に脳裏に浮かんだのは、あの「塚本」という女子大生の顔だった。
「色黒ってほどじゃないよ。健康的な小麦色だよ。俺《おれ》は、雪子って名前、いいと思うけど。叔父さんと叔母さんの出会った日が、珍しく東京に大雪が降った日だった。それで、子供が生まれたら雪のつく名前にしようと決めたんだったよね。この話、ユキちゃん、知ってるだろ?」
「うん、聞いたことある」
親の出会いの話を繰り返されるのは、照れくさいものだ。
「じゃあ、なんでユキのこと『雪子ちゃん』って呼ばないの? 雪子って名前、好きなんでしょ?」
夏美は、臆《おく》せずにずばりと賢一に尋ねた。
「それはね……なぜなんだろう。赤ちゃんのユキちゃんを抱いた叔父さんが、『雪子って名前をつけようと決めてたけど、この子を見たらスノーの雪って感じじゃないね』と言ったのが、すごく受けたせいかな。ああ、俺もさ、赤ちゃんって真っ白、ってイメージがあったんだよね。ところが生まれたのは、猿みたいに赤黒い子で、白かったのはお尻《しり》だけだった。それも、蒙古斑混じりのお尻。あとで聞いたら、赤ちゃんってみんな猿みたいだと言うじゃないか。けど、第一印象が強烈だった。俺、ああ、この赤ちゃんは、スノーの雪じゃなくて、カタカナの『ユキちゃん』のイメージだな、と閃《ひらめ》いたんだ。呼びやすいし、可愛《かわい》いしね。それで『ユキちゃん』になったのかな」
賢一は、足にキャスターのついた椅子を揺らしながら言った。
「おかしい。ユキの先生は、ユキの真っ白いお尻を見ちゃったんだ」
夏美が冷やかした。
「いまだって……白いわ。雪のようにね」
雪子は言い、それとなく賢一の顔を見上げた。夏美は眉《まゆ》を寄せ、息を止めたような顔になり、そしてひと呼吸おいたあと、けたたましく笑った。
賢一は、やはり一瞬ハッとしたような表情を作った。そして、夏美につられるように笑い声を上げた。
7
雪子は、夏美を西武新宿線の下井草《しもいぐさ》の駅まで送って行った。二人は、駅の前のファーストフードの店に入った。J女子学院の校則は、S学園に比べると驚くほどゆるやかだった。アルコールを置いていない店ならば、生徒同士で入ることを禁じてはいなかった。制服も、標準服としてブレザーとスカートがあるだけで、ブラウスは白いものならばデザインは問わず、靴下の色も髪型も自由だった。が、髪を茶色に染めたり、パーマをかけるような子はいなかった。おしゃれに費やす時間を勉強に費やす。けれども、勉強に必死になっている姿を見られることを美徳とせず、適当に遊んだりはしゃいだりするふりをする。中には本当に何かに熱中している子もいるが、かといって勉強だけは疎《おろそ》かにしない。――そんな感じのバランス感覚に優れた子ばかりが揃《そろ》っていた。
「ユキのいとこってハンサムだよね」
甘いものが大好きな夏美は、バニラシェークを飲みながら、予想どおり賢一の話題から入った。
「そうかな。いつも見てるとそうも思わないけど」
コーヒーを飲みながら、雪子は心にもないことを返した。中学生になったら、外でコーヒーを飲むことに罪悪感を覚えることもなくなった。両親は気づいているようだが、志望校に合格したごほうびとして認めているのか、外で飲むコーヒーについては何も言わない。が、家ではまだ娘にコーヒーを解禁してはいない。
「ハンサムだよ、間違いなく」
夏美は言って、大きくうなずいた。「だけど、わたしの趣味じゃないな」
「えっ?」
雪子は、自分の聞き間違いではないか、と耳を疑った。
「わたし、ああいうのだめ」
「ど、どうして?」
胸がドキドキした。趣味なのに趣味でないと言ってみて、相手の反応を確かめる。そういう屈折した性格の子はクラスに何人もいる。
「欠点が一つもない男。完璧《かんぺき》な男っているでしょ? ユキの先生って、そういうタイプで、どこかとっつきにくい」
「だけど、けっこう楽しそうに話していたじゃない、夏美」
賢一が自分の趣味でない、と聞いて、雪子は〈やっぱり〉と思った。本能的に、賢一と夏美は合わない、とわかっていたのだ。だが、一方で、まだ警戒もしていた。
「合わせていただけよ。向こうもフランクに話しているようで、どこかわたしに壁を作っていたみたいだった。これ以上は立ち入らせない、とラインを引いて人とつき合う人。先生のこと、そんなふうに感じたな」
「そ、そうかな」
夏美のその分析が、あたっているのかあたっていないのか、雪子にはまったくわからなかった。賢一がどういう姿勢で人とつき合う人間なのか、など考えてみたこともなかったからだ。雪子の目に映る賢一は、自然体の彼だった。少なくとも、自分と接するときは絶対に壁など作っていない、と思いたかった。
「要するに、相性、そう、先生とも話したじゃない、相性がよくないのよ。わたしとユキの先生は」
「でも、ほんの少し話しただけじゃないの」
「それでもわかるもんよ、相性がいいかどうかなんて。ユキとわたしだって、『ああ、気が合うな』ってすぐにぴんときたんだから」
雪子は、夏美が本心とは逆の感情を言っているのかどうか、訝《いぶか》った。が、夏美の口調も態度もまた自然体に見えた。
「好きなんでしょ?」
「えっ?」
「先生のこと、好きなんでしょ?」
「…………」
「図星みたいね」
「…………」
「心配しなくても大丈夫よ。わたし、本当に趣味じゃないから。これからも、先生のことは好きにならないと思うよ。好きなんでしょ?」
雪子は、自分と同い年のこの友達に心の奥底まで見透かされているような気がした。うなずきはしなかったが、自分の否定しない態度がそれを認めたのだと思った。
「すぐにわかったよ」
雪子は、黙ってコーヒーを飲んだ。薄くて粉のざらつきが舌に残る、まずいコーヒーだった。ふと、銀座で賢一と飲んだあのふくよかな味わいのコーヒーを思い出した。賢一の厚い胸に顔を埋めたとき、たった一つだけ特定できなかった匂《にお》い。あれは、煎《い》った豆の香ばしい匂いだったのだと、いまわかった。
「どうして……わかったの?」
「ユキを見てればわかるの。先生を見つめる目が、うるうるしてたもん」
二人はしばらく無言で、それぞれの飲み物をストローやプラスチックのさじでかき回していた。
「ねえ」
と、雪子は言い、かすれた声に気づいて、咳払《せきばら》いをした。「夏美にわかって、親にわからないはずないと思わない? もしかして……気づかれてるのかな」
「親に気づかれているかどうか、心配してるの? だったら大丈夫よ。知られてないと思う」
「本当?」
「うん、大丈夫」
「でも、あんな短時間に夏美に見破られちゃうなんて。親とはずっと一緒にいるんだよ。週に何度も、先生と一緒にご飯を食べてるし」
夏美の勘の鋭さはとうにわかっていたが、自分の気持ちを打ち明ける前に気づかれてしまったことは、やっぱり雪子にはショックだった。それだけ自分のどこかにすきがあったということだ。
「親にはね、見えているけど見えてないのよ」
「見えているのに見えてない?」
「いとこって関係は、盲点なんじゃないかな。兄と妹じゃないから、近親相姦《そうかん》ってわけじゃないけど、あまりに近すぎて見えない関係と言うのかな。紙に書かれた文字も、近すぎるとぼけて読めないでしょ? それと同じよ。ユキのパパとママには、先生とユキが兄と妹のような関係にしか見えなくて、それ以上の関係は読み取れないってことね。ユキは一人っ子だし、両親はユキがお兄さんをほしがっていて、逆に先生のほうは妹をほしがっていると思っているのかもしれない。先生のことをお兄さんみたいに頼りにして甘えている、そんなふうに感じているだけかもしれない」
夏美の比喩《ひゆ》は、なるほど、と手を叩《たた》きたくなるほどの説得力があった。雪子は、夏美の観察眼、洞察力にすがりついてみたくなった。
「夏美に見抜かれていたのはショックだったけど、でも、そのとおり。先生はわたしの……初恋の人なの」
雪子は素直にこの友達に心を開く気になった。身体《からだ》から力が抜けて、気分が楽になった。夏美の言葉にうそはない、と思った。彼女を信じよう、と決めた。
夏美はちょっと肩をすくめて、照れくさそうな顔で言った。「いとこを好きになっていけないってことはないもん。いいじゃん。わかる気はするな。ああいう優秀ないとこに勉強を教わっているうちに、あこがれが恋に変わる。学校のすてきな先生にあこがれる気持ちかな。そんなカッコいいやつ、学校にはめったにいないけどさ。そういう気持ち、わたし、わかるよ」
「あこがれ?」
「ユキの気持ちの中には、あこがれの気持ちもあるんでしょ?」
「あるかもしれない。でも、それとはちょっと違うの」
「違うって?」
「熱に浮かされたみたいに、年上のいとこにあこがれている。そういう感じでは全然、ないの。わたしは夏美が思っているよりずっと落ち着いてるの。わたしたちは、堅実で真剣なの」
雪子は、飲む気をなくしたコーヒーの紙コップを脇《わき》にどけて、指を組んだ両手をカウンターに載せた。
「わたしたちは……堅実で真剣?」
夏美の、黒々と太い眉《まゆ》が寄った。
「パパもママもまだ知らないの。でも、わたしたち、将来、結婚するつもりでいるの」
雪子はついに告白した。告白してしまうと、肩の荷が下りたみたいにすっきりした。こんなにも早く、大事なことを打ち明けることのできる親友ができた喜びにも浸っていた。誰《だれ》にも話さずに一人で思い悩むには、重すぎる感情だった。
「約束……したの?」
夏美は、上目遣いにそう聞いて、ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだように見えた。
「約束って?」
「だから、先生とよ。確かに、いとこ同士は結婚できる。でも、ユキはまだ十二歳。ううん、今年で十三歳よ。結婚なんて早すぎない?」
「いまは早いとは思うけど、でも、大学を卒業してから、と考えてるのよ」
「大学を卒業したら結婚しよう、と先生と約束したの?」
「約束したわけじゃない。でも、わかるの」
「わかるってどういうことよ。『結婚しよう』と言われたんじゃないのね?」
夏美の口調は怒ったようになった。雪子は苦笑した。
「先生は、そんなに性急な人でも、愚かな人でもない。ちゃんと時期というものがわかってる人だし、わたしの親への配慮もできる人なの。結婚のことはまだ、公にしてないわ」
「二人のあいだの約束ってこと?」
「わかるのよ、わたしには。先生の気持ちが痛いほど。先生も悩んでいる。わたしより年上で、成人しているからこそ悩んでいる。それがわかるの。わたしがおとなになるまで待つことが不安になったり、わたしにどう気持ちを伝えたらいいかわからず、迷ったりしている。わたしの心と身体の成長を待っているのね。ストレートに『結婚してくれ』と言われたわけじゃない。でも、先生だけの言葉で気持ちを伝えてくれた。一年前だった。映画を観たあと、先生は告白した。わたしのことを、自分にとっては、一人の魅力的なおとなの女性と変わらない、と言った。一生、わたしを守る、と言ってくれた。わたしに言い寄る男はぶっ飛ばしてやる、と熱っぽく言ったわ。そして……強く強く、抱き締めてくれたの」
告白しながら雪子は、賢一に背中に腕を回されたときの感触を思い出して、うっとりと目を閉じた。身体の芯《しん》が熱く、濡《ぬ》れたようになった。下着の中が湿っぽく感じた。
「本当なの、ユキ」
驚いたのだろう。夏美は短い言葉のあと、口をつぐんだ。雪子は、〈夏美が東大を目ざそうがどうしようが、やっぱりわたしのほうが彼女よりおとなで、おとなの男性に選ばれた魅力ある人間なんだ〉と自覚して、優越感を抱いた。
「本当よ。先生は、将来の妻が自分とつり合う女性でないと困ると思って、わたしにT外語大を目ざして一生懸命勉強するように熱心に勧めたのよ。S学園の中等部に進むつもりだったわたしに、強引に進路変更をさせたのは、先生なのよ。わたしの将来を先生が決めたの。わかるでしょ? それだけわたしのことを大切に思っていたからよ」
「そうか」
夏美は我に返ったように、拍子抜けしたような声を出した。「大好きな先生のひとことで、うちを受験することに決めたのか。おかしいと思ったのよね。ユキはすごく野心家って感じでもないし、ギスギスしてもいない。ユキみたいなおっとり育ったお嬢さまがなんでJ女子学院を、と不思議な感じはしてたのよ。やっぱり好きな人のひとことって大きいのね。天をも動かす力があるんだ」
雪子は、夏美が、〈ユキのほうが先生に熱をあげている〉と決めつけていることが気に食わなかった。
「先生の必死の思いがわたしに伝わったのよ。鈍感なパパやママにはわからなかったでしょうけど、わたしにはわかった。先生にとってわたしは、自分の人生の一部なのよ。受験勉強を二人三脚で乗りきろう、と言ったのは、つまり人生を、という意味だったのよ」
「ユキ」
夏美は、ふうむ、と吐息を漏らした。「先生に強く抱き締められたってのは、本当なの?」
「本当よ。銀座の路上で。人目もあったけど、先生は気にしなかった」
「それ以上のことは?」
「それ以上って?」
「わかるでしょ?」
「ないわ」
「じゃあ、抱き締められたのは一度きり?」
「うん」
「そのあと……我慢してるのかな」
「自分を抑えてるのよ。先生はそういう理性も分別もある人だもの」
「でも、そういう理性も分別もある人が、銀座の人通りのあるところで、ユキを抱き締めるかな。なんだか性格と行動が結びつかないのよ」
「信じないって言うの?」
こんなに懐疑的になるのは、自分より先に〈将来の婚約者〉を得た友達への嫉妬《しつと》だろうか、と雪子は思った。
「そういうわけじゃないけど、そういう衝動的な行動を取るような人とはほど遠い印象を受けたから」
「信じないのね」
雪子はため息をついた。「持って来てよかったわ」
「何を?」と夏美が、雪子の手提げ鞄《かばん》をのぞき見た。雪子は、家を出るときに急いで鞄にそれを投げ込んでよかった、と思った。
「これを読めば信じる気になると思う」
雪子は、化粧箱の鍵《かぎ》を開け、赤い革表紙の日記帳を取り出した。「ここに、先生のプロポーズの言葉が書いてあるの」
「先生が……書いたの?」
夏美は、表紙からその持ち主へ顔を上げた。目に驚きの色が現れていた。
「まさか。わたしが、先生が言ったとおりのことを書きとめたのよ。忘れないうちに急いで書いたのよ。その日のうちに書いたから、一字一句そのとおりとは言えないけど、九割がたはこのとおりよ」
その日に書いたもの、という部分はうそだったが、そうでも言わないと最初から疑ってかかる態度の夏美が信用しないと思ったのだ。
夏美は、無言で、「先生の言葉」、すなわち「先生の告白」を読んでいた。雪子は口を挟まなかった。いらいらするほど長い時間、日記を見つめていて、夏美は視線を上げた。目から驚きの色は消えていなかったが、その色に不安げな色が重なっていた。
「これって、どういう状況で言った言葉なの?」
「状況? それはね……」
雪子は、映画を観たあと喫茶店でお茶を飲んだこと、喫茶店から雪子だけ先に外に出た話をした。多少、脚色を加えた。――外で先生が来るのを待っていたら、男の人が来てわたしの腕をつかんだの。「モデルにならないか」ってね。断る暇はなかったの。引きずられるように連れて行かれて。でも、ハッとして、手を振りほどいて引き返したわ。先生がわたしを捜し回っていた。わたしを見つけた先生が、わたしの肩に手を置いて、すごく真剣な顔をして怒ったの。そして言った。わたしが日記に書き写したとおりの言葉をね……。
雪子は、なぜ喫茶店から飛び出したのか、そのときの自分の苛立《いらだ》つような感情を説明することを省いた。それを説明するなら、映画館で賢一の大学のサークル仲間に会った話もしなくてはいけなくなる。夏美によけいな材料を与えずに、純粋に日記に書き写した「先生の告白」だけを読んでほしかった。そこから何が読み取れるか、どういう感情がうかがえるか、それだけを聞きたかった。
「ユキ。……言いにくいんだけど」
と、夏美は声を落とした。「誤解してるんじゃないかな」
「誤解?」
「先生は、その日、ユキの保護者だったわけでしょ? 保護者として、ユキとはぐれてしまった責任を感じたのよ。それで、必死にユキを捜し回った」
言葉を選ぶように、夏美はゆっくりと言った。
「それはそうかもしれない。でも、先生は、わたしを叱《しか》ったとき、保護者として叱ったつもりが、つい本音が出ちゃったのよ。わたしを連れて行こうとした男は、いかがわしいロリコン雑誌か何かのモデルに誘ったんだと思う。そのことで先生は、わたしに注意した。ここには書かなかったけど、世の中には、わたしをモノのように扱っても平気な男がいっぱいいるって、だから気をつけなさいって。でも、注意しながらつい、本音が口をついて出たのよ。いつもはユキちゃんって呼ぶのに、君って呼んだのもそう。君に魅力を感じる男がいる、と言うところを、君は俺にとってはすごく魅力的な女性なんだ、と言ってしまったり。人間はね、興奮すると本音が出る動物なの。夏美も、そういう人間心理、知っておいたほうがいいよ」
「それはそう思う」
うん、と同意するふりをして、夏美は「でも」とすぐに続けた。「先生のケースは、ユキが自分の都合のいいように解釈している可能性もあるんじゃないかな。それに、ユキは先生の言葉を録音したんじゃないでしょ? 人がしゃべったことをしゃべったとおりに記憶するって、すごくむずかしいことでしょ? だから、そう、水かけ論だっけ? そういう言葉も生まれるんじゃないの。言った言わない、のケンカね。先生は、部分部分はそういうふうにしゃべったかもしれないけど、ユキが誇大解釈した部分もあるんじゃないかな」
「誇大解釈? そんなこと絶対にないってば」
録音していない、と言われればそのとおりだ。確かに雪子は、賢一がした微妙な表現までは記憶している自信はなかった。だが、彼の言おうとしたことのニュアンスは、確実にとらえられたという自信はあった。
「じゃあ、先生に確かめてみた?」
「えっ? そ、そんなことはしてないよ。また同じような状況を作るなんて、無理だもの」
「先生は、そのあともユキに、似たような告白をした?」
雪子はかぶりを振り、「だから、わたしにはわかるって言ったじゃない」とため息混じりに言った。「先生はね、興奮して本音を言ってしまったことを反省しているのよ。恥ずかしがっているのよ。わたしが先生の本音に気づいてしまったかもしれないとは、あっちも気づいているかもしれない。それはそれでいい、そのほうがスムーズに事が運ぶ、くらいには考えてるんじゃないかな。だったら、そっとしておいてあげるのが思いやりってもんでしょ? 気づきながら、二人ともその話題には触れない。そういう微妙な関係を、わたしたち維持してるの。わたしにしても、もう一度はっきりと先生の気持ちを確かめるようなことをしたくはない。頭に恋愛のこと、結婚のことしかない、浮わついた女の子だと思われたくない気持ち、夏美もわかるでしょ? 先生は、わたしのことを一人のおとなの女性と同じくらい魅力的だと認めてはいても、わたしを自分の理想に近い女性だと認めてはいても、現実のわたしは中学に入ったばかり。理想と現実とのギャップを埋められずに、悩んでいるのよ。解決法は一つ。わたしがおとなになることだけ。あと……七年ね。ううん、大学を出るまではおとなと認めたくないかもしれないから、あと十年。わたしにできることは、あと十年で、先生の理想の女性像に一歩でも近づくこと。そして、先生を待たせる気にさせること。先生の気持ちが変わらないように、ううん、先生の気持ちを変えさせるような女が現れないように祈ること。そういう女が現れたとしたら、……その女が先生を誘惑したときね。だって、先生のまわりには、いろんな武器を持ったおとなの女がいっぱいいるから。化粧をしたり、マニキュアを塗ったりして、着飾った女が……」
「ねえ、ユキ」
夏美に遮られて、雪子は、自分が何かにとりつかれたように熱っぽく語っていたことに気づいた。
「何?」
「あのね……」言いかけて、夏美はやめた。
「どうしたのよ。わたしがあまりに冷静に自分たちの関係を分析したんで、夏美、驚いたんじゃないの? わたしってけっこう、男心がわかるでしょ?」
「危険なんじゃない?」
夏美は、友達の冗談めかした自慢を、からかってはこなかった。
「危険って何が?」
「そうやって、将来のことまでどんどん思い描くこと」
「あら、夏美だって、人生設計ができてるじゃない。東大出て、弁護士になるんでしょ?」
「それとは違うよ。わたしの夢は、わたし一人の力でできること。でも、ユキのは、自分だけじゃなくて、先生がかかわってくる。先生がユキと同じように考えていなくちゃ叶《かな》えられない夢よ。でも、本当に先生がユキと同じように考えているかどうかは……」
「一度の告白じゃ、信用できないってこと?」
雪子は、顎《あご》を上げ、きっと夏美のほうを向いた。わずかにわし鼻になった友達の、眉毛《まゆげ》の濃い男性的な顔立ちにはじめて嫌悪を覚えた。
「信用できないっていうより、もっと慎重になったほうがいいんじゃないかな、と言いたいだけ」
「わたしはいつだって慎重よ。だから、少なくとも親に気づかれないようにしてるんだし。わたしにはよくわからないけど、先生もわたしも一人っ子。結婚となると、そう、いろいろあるらしいし」
いつか澄夫と千恵子が小声で交わしていた会話がよみがえったが、その内容が具体的に何を指していたのかは、いまだによくつかめていない。
「ちょっと考えてみて」
夏美は、少し口調を和らげた。「先生が、ユキに自分とつり合う女性になってほしいからT外語大を勧めた、とユキは考えてるでしょ? でも、もし本当に先生がそう考えているとしたら、そういう打算的な考え方をする男って嫌なやつだと思わない?」
「…………」
「自分が東大だから、妻もそれに見合う学歴を、だなんて。ユキが好きになる男の人って、そういう人でいいのかな」
「先生は、学歴がすべてじゃない、とちゃんと言ったわ。でも、挑戦する姿勢が好きなんですって。わたしの中にある可能性を最大限に引き出すこと、将来の選択肢を増やすことに、燃えてくれたのよ。先生は、とても向上心のある、建設的な人なのよ。わたしの言い方が悪かったかもしれないけど、先生は本当にわたしのためを思ってT外語大を勧めてくれたの。先生はね、建前ばかり言っているどこかの政治家や教師たちとは違うの。わたしには、ちゃんと本音を語ってくれたのよ」
夏美になぜこの気持ちが伝わらないのだろう、なぜ彼女に真実が見えないのだろう、と思うと、雪子はもどかしさに胸が痛くなった。「先生はね、将来を予見することができる人なの。そういう能力がある人なのよ。だって、夏美とのこと言いあてたんだから」
「えっ?」
「環境を変えると、いい刺激になるって。よき友達ができるって。ほら、できたじゃないの。先生の言うことはあたるのよ。夏美だって認めるでしょ?」
夏美は、雪子の反論をどう受け止めたのか、それには答えずに、じっと友達の目を見つめた。そして、「もっと慎重になったほうがいい、と言ったのはそれだけじゃないんだ」と話を戻した。「ユキが書き写したっていう先生の告白。――ユキちゃんに言い寄って来るやつは、俺がぶっ飛ばしてやる。それだけ聞けば、ユキちゃんをほかの男には渡さないぞ、っていうふうに聞こえる。でも、わたしが先生から受けた印象と『ぶっ飛ばす』って言い方に、なんか違和感があったのよね。で、ユキから状況を聞いてわかった。先生は、ユキを『モデルにならないか?』と強引に連れて行こうとしたその男をぶっ飛ばす、って言ったのよ。将来に渡ってユキに言い寄って来る男はみんな、じゃなくて、特定の男をね。先生の言葉一つとっても、ほかの意味にもとれるでしょ? その可能性を考えて、もっと慎重になったほうがいい。そう言いたかったの」
雪子は、胸がムカムカしていたがかろうじて抑え、なるべく冷静になろうと努めながら言った。
「夏美も見たでしょ? わたしが先生を好きなように先生もわたしを好きでいる。戸惑いながらもわたしを愛している。さっき先生が、赤ちゃんのときのわたしのお尻《しり》のことを話題にしたとき、わたし、『いまだって白いわ、雪のように』と言ってみた。あのときの先生の動揺ぶり、戸惑いぶりを、夏美、見てたでしょ? あれは、先生がわたしを女として意識しているからなの。でも、そういう自分の気持ちを見つめるのが怖いから、わざと赤ちゃん時代のことを持ち出してみて、わたしをからかってごまかすの。わざと妹みたいに扱うの。先生のそういう混乱ぶり、戸惑いぶりをわたしはちゃんと知ってるのよ。知っていて、そっとしてあげているの。波風立てないようにしてるの。たまには、わたしもわざと子供っぽく妹みたいにふるまって、先生に合わせて安心させてあげるの。それは、わたしが正真正銘、おとなの女になるまで、先生に平静心を保って待っていてほしいからよ」
「ユキ……」
どういう意味か、夏美はゆっくりとかぶりを振った。否定したようにも、感心しての動作のようにも見えた。そして、バニラシェークの残りを、ストローを使わずに音を立ててすすり、言った。「先生は、本当に、ユキとの結婚まで意識しているのかな」
「いとこだから、かえって意識するってことはあるんじゃない?」
自分がそうだったので、雪子はそう答えた。
「でも、結婚となると二人だけの問題じゃないわ。ユキも先生も一人っ子。もしかしたらユキの両親は、娘に婿養子を、と考えているのかもしれない。叔父さんや叔母さんがどんなに娘の将来を心配しているか、先生にわからないはずがないと思う。もし、本当にいまからユキとの結婚を望んでいるのなら、ユキがおとなになるまでずっと二人だけの秘密にしておこうとはしないんじゃないかな。ちゃんとユキの両親に話すと思う」
「だから、いまはその時期を待ってるのよ」
「ユキのお父さんだって、自分の仕事を継いでくれる人をお婿さんに、と望んでいるかもしれない」
「そんなはずない。パパは事務所を持っているけど、跡継ぎのことなんてひとことも言ったことがないし。もし、いま考えているんだったら、わたしの将来のことに口を出すはずじゃない? でも、パパもママも、先生とわたしが決めた進路に反対しなかった。将来は、T外語大を出て翻訳関係の仕事につくっていう……」
「それは、翻訳家という仕事が、結婚して家でできる仕事だと考えているからかもしれない。だから喜んで応援する気になったのかもしれない。T外語大は自宅から通えるし。とにかく、いまの段階で、ユキの両親と甥《おい》である先生のあいだでは、ユキとの結婚を見越しての将来を考えてないってことじゃない? 結婚は、二人だけじゃなく、家と家の問題でもあるし」
雪子は、ついに怒りを抑えられなくなった。どう言っても違う方向から即座に切り返してくる夏美の頭のよさに、苛立ちを覚えたのかもしれない。
「どうして、そんなにつっかかるのよ」
「つっかかってなんかいない」
「うそ。まるで、言いがかりをつけてるみたいじゃない」
「そ、そんなことないってば」
夏美は、ちょっとひるんだように身を引き、首を小刻みに振った。
「わかった」
雪子は言った。「夏美はおもしろくないのね。わたしに嫉妬《しつと》してるんだ。先生のことは趣味じゃない、なんて言っておいて、そのくせ、わたしに先生みたいな関係の男の人がいることに我慢ならないんだ。だから、最初からわたしたちの仲を壊そうとしている」
「そ、そんなことするわけないじゃない。わたしはただ……」
夏美が唇を震わせた。言葉を探しているようだった。
「やっぱり、話さなければよかった。見せなければよかった」
まぶたの裏が熱くなった。友達にというより、調子に乗って、大事な日記帳を見せてしまった自分自身に腹が立った。雪子は、日記帳をケースにしまわずに、手提げ鞄《かばん》にケースごと投げ込んだ。
スツールから降りた雪子の腕を、ためらいがちに夏美がつかんだ。「待ってよ。わたし、ユキのことが心配なの。だから……」
「離して」
雪子は、冷ややかな声で言った。夏美が、胸をつかれたように手を離した。
「わたしはただ……ユキのことが好きだから」
夏美がつぶやくように友達の背中に言った。雪子は聞こえたが、聞こえないふりをして店を出た。
8
夏美と口をきかない日々が続いた。夏美が話しかけてきたのを、雪子が無視したのがきっかけだった。しつこく「ねえ、ユキ」と追いかけて来たので、無視するだけではわからないと思って、「もう友達とは思わないから」と言ってしまった。訣別宣言に等しかった。
学校で会っていながら、帰宅してからも電話をし合っていたほどの仲である。千恵子は、娘が食卓の席で親友の話題を出さなくなったのを訝《いぶか》しく思ったらしく、「ねえ、夏美さんと何かあったの?」と聞いた。「うちに来て、何か気に入らないことでもあったのかしら。あなたはまだ夏美さんの家には呼ばれていないんでしょ? ママ、夏美さんの家のことも知りたいんだけど」
「彼女の家のことなんて、わたし、知らないわよ。きっと狭い家なんで、友達には見せたくないんじゃないの?」
雪子は、あとで自己嫌悪に陥るほど、意地の悪い言い方で返した。
賢一も、雪子の変化に気づいたようだった。夏美と会ってから三週間ほどたった家庭教師の日に、「英語で『類は友を呼ぶ』って、どう言うと思う?」と質問してきた。雪子は首を横に振った。すると、賢一がノートにすらすらと文字を綴《つづ》った。流れるようにきれいな字だった。
Birds of a feather flock together.
「feather というのは、鳥の羽根のことだよ。同じ羽毛の鳥は相寄る、類をもって集まる」
「覚えておきます」
雪子は、生徒になって言った。鳥の羽根にくすぐられたように、背中がむずがゆくなった。どこか懐かしい感覚だった。
「ユキちゃんと夏美さんは、似たところがあるから惹《ひ》かれ合うんだよな」
賢一が、自分が書いた英語の諺《ことわざ》にアンダーラインを引きながら言った。
「でも、先生は、このあいだ、わたしと夏美とはまったく違うタイプだって言ったじゃない」
「そんなふうに言ったっけ?」
賢一の口調がとぼけた感じだったので、雪子はムッとし、「言いました」と口を尖《とが》らせた。
「そりゃ、育った環境が違うからね。ぱっと見たときの印象が全然違うと思った。だけど、話してみると似ている部分はある。それがわかった」
「わたしたち、どこが似てるの? どんなふうに?」
「そうだな、何かきっかけがあると一生懸命になれるところかな」
「きっかけがあると一生懸命になれるって、夏美にとってのきっかけって?」
「それはわからない。深く話したわけじゃないから。でも、彼女にも、ユキちゃんが将来の進路を決めたように、弁護士を目ざそうと思ったきっかけが必ずあるはずだよ。たった十二や十三で、将来、自分の進む方向を決めることができる。それは、そうそうないことだよ。俺だって、自分のやりたいことがぼんやり見えてきたのが、十七くらいのときだったし」
「先生……」
「何?」
賢一は、シャープペンの先をノックしながら、顔を振り向けた。最初に会ったときより、賢一の顔の輪郭が引き締まり、精悍《せいかん》な顔立ちになった気がした。賢一もまた、成人した後も〈成長〉しているのだと思った。成長というより成熟なのかもしれなかった。
――わたしが将来の進路を決めたのは、一人で、じゃないよね。先生も一緒に決めたことだよね。わたしの将来は、先生の将来でもあるんだよね。
雪子の喉元《のどもと》まで、それらの言葉がせりあがった。聞いてみたかった。確認してみたかった。
けれども、できなかった。あまりに互いを意識しすぎて、ぎくしゃくした関係になるのが怖かった。照れ屋の賢一が、そのぎくしゃくした関係から一時的にでも逃れるために、ふだんは考えもしない行動をとりそうに思えて怖かったのだ。たとえば、年の違いすぎるいとこへの自分の思いに罪の意識を感じ、その思いを断ち切るために、やけになって好きでもない女性と親しい関係になってしまったり……といった類の行動だ。時期がくるまでは、自分の気持ちをこの年下のいとこに悟られないようにと、さりげなくふるまおうとしている賢一の努力を、無駄にすることはできなかった。
――お互いに、お互いの気持ちに気づかないふりをする。
――おとなの倫理観、道徳心を刺激するような言動は避ける。
――そうやって五年がたち、七年がたち、わたしがおとなになったところで、先生は双方の両親の前で正々堂々と「プロポーズ」する。
そういう暗黙のルールと了解が、賢一と自分のあいだにはある、と雪子は思っていた。
「わたしたち、実は、すごくつまらないことでケンカしちゃったの」
雪子は白状した。
「やっぱりそうなのか。つまらないことって?」
賢一が膝《ひざ》を乗り出してきた。
「本当につまらないことなの。もう忘れちゃっているような。だけど、どちらも意地っ張りだから、譲れないの。ごめんね、のひとことが言えないの」
「ふーん、そうか」
賢一は微笑《ほほえ》んだ。「よくあることだよ、ユキちゃんくらいの年には」
そういう経験を経て、心も身体もおとなになって行くんだよ。俺に近づいて来るんだよ。――雪子は、彼の言葉がそう続く気がした。自分の場所にやって来るためのプロセスを積み重ねている雪子を、賢一がやさしく見守ってくれていると受け取った。
「夏美さんのほうも、同じように思っているはずだよ」
「そうかな」
「ユキちゃん、いま学校がつまらないだろ?」
「うん」
仲良しグループはクラスにすでにいくつもできてしまっていて、いまさらよそへは入っていけない雰囲気だったが、群れずに自分の道を進むクラスメイトも何人かはいて、一人で行動しても不自由はなかった。とはいえ、つねに夏美とつるんでいた雪子が、話し相手を失って寂しくないはずはなかった。
「夏美さんもそうだよ。勉強ばかりの毎日じゃ味気ない。向こうだって、早くユキちゃんと仲直りしたがってるさ」
*
賢一に励まされた形になった。雪子は、自分が親友とケンカもするけれど、時期がきたら仲直りもきちんとできる人間だと、彼に印象づけておきたかったのだ。
「ねえ、帰りにサーティーワンに行かない?」
放課後、雪子のほうから勇気を出して夏美に話しかけた。
「おごってくれるなら行く」
「しょうがない、一つだけね」
「じゃあ、行こっ」
あっけないほど簡単な仲直りの仕方だった。二十二日間続いた口をきかない期間は、アイスクリーム一つで終了となった。
「ごめんね、ユキ」
ストロベリーアイスをなめながら、最初に「謝罪」を口にしたのは、夏美のほうだった。「わたし、やっぱり応援することにしたよ」
「応援?」
「うん」
夏美は、自分のカップを、シンプルにバニラアイスが入っただけの雪子のそれにぶつけてきて、小さく乾杯のしぐさをした。「だって、よく考えたら、ユキと先生のこと、わたしが反対する理由なんか全然ないもん」
「…………」
「反対してたわけじゃないけど、ユキにはそう受け取られたかな、という気がしないでもない。わたし、ちょっとしつこすぎたし、自分でも理屈っぽすぎたと思う。認めたくないけど、やっぱりユキにあんなすてきな人がいるのが悔しかったんだと思う。なんか熱くなりすぎてた」
あまりに素直に自分の非を認められてしまい、雪子は拍子抜けした気分になった。
「あのね、あれから、それとなくわたしのまわりを見てみたんだけど、うちの両親は同い年同士の結婚で、母親の姉のところは、二つ姉さん女房で、父親の弟のところは、奥さんが七つ年下なの。近所には、奥さんのほうがひと回り年下っていう夫婦もいるし。つまり、何を言いたいかと言うと、夫婦にはいろんな組み合わせがあるってことね。いとこ同士の結婚なんて珍しくないみたいよ。おばあちゃんに聞いたら、戦時中はけっこうあったんだって。夫が戦死しちゃったんで、お嫁さんが夫の弟と再婚、ってケースも珍しくなかったんだってよ」
雪子は、夏美が〈冷戦中〉にも、雪子と賢一の将来のことを考えていてくれていたのだと知って、胸が熱くなった。やっぱり友達っていいものだな、先生の勧めにしたがって、思いきってJ女子学院を受けてみてよかった、と心から思った。
「いまはユキが十三歳で先生が二十一歳だけど、ユキが二十二歳のときに、先生は三十歳。八歳の差は縮まらないけど、二十二と三十だったら、結婚してもおかしくないよね。そう考えたら、何もわたしがいまむきになって反対することもないかな、と思ったの。じっくり見守ってやろう。そのくらい寛大になるのが友達ってもんだよね。ユキが言ったように、ユキがおとなになるまで、波風立てないようにじっくり待つのがいいのかもしれない」
「本当に、そう思う?」
「うん。好きな人と一緒になるのがいちばんだと思う。それに、ユキが先生のことで頭がいっぱいで勉強も手につかないっていう状態じゃないでしょ? 先生の存在があるからこそ、一生懸命勉強できるんだし、将来に夢も希望も持てる」
「そう言われれば、そうだけど……」
「どうしたの? 嬉《うれ》しくないの?……あっ、溶けちゃうよ」
雪子は、慌てて溶け出したバニラアイスをスプーンですくいあげた。そして、「夏美の態度がころっと変わったんで、なんだか気持ち悪くなっちゃったのよ」と、舌を出した。折れてくれた友達に素直に感謝するのが照れくさかった。
「応援してくれるのはありがたいけど、絶対に先生に悟られないようにしてね」
「わかってる」
夏美が、大まじめな顔つきでうなずいた。
「わたしたち、おとなになるまでは、あくまでもごく自然につき合っていかなくちゃいけないの。いとことしてね。いとこ同士の恋愛は、人の道にはずれたものじゃないけど、先生の中には、中学生のわたしをあんまり女として意識しちゃいけないという自制心が働いて、そう……心の葛藤《かつとう》があるの。わたしのほうは、このあいだ夏美も言ったように、学校の先生にあこがれるような気持ちとして、一般的にも理解できる感情でしょ? 本当はもっと真剣なものであっても、表面上はね。でも、先生のほうはそうじゃない。わたしたちのことが公になったら、責められるのは先生のほうだよ。不道徳だと言われる。何にもしてなくても、何かしたと思われて、淫行《いんこう》とか言われる。だから……ね、わたしたちをそっとしといて。間違っても、はやしたてたりしないでね。そんなことしたら、おとなになるまでに、わたしたち、壊れちゃうかもしれないんだから」
雪子は、意識的に怖い顔をして、夏美に念を押しておいた。夏美は、困惑したような表情を浮かべながらも、「わかった」とはっきり言った。
「ああ、よかった。すっきりしたわ」
雪子は、バニラアイスの残りをスプーンですくって食べた。しばらく夏美は黙って、自分のストロベリーに専念していた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
口に運びかけたスプーンを止めると、夏美は遠慮がちに聞いてきた。
「何?」
「もしも、もしもよ、ユキがおとなになる前に、先生に別のおとなの女の人が現れたら、先生がその人を……本気で好きになっちゃったら、ユキ、どうする?」
「先生が待ちきれなかったら、ってこと?」
なぜ、いままたこんな質問をしてきたのだろう、と雪子は訝《いぶか》った。けれども、自分でも考えないようにしてきただけで、とても心配な問題ではあった。
「待ちきれない、ってことになるのかな」
夏美は小さく微笑んで、首をかしげ、「ほら、ユキも言ってたでしょ? 先生のまわりには、いろんな武器を持ったおとなの女がたくさんいるって。お化粧もきれいな服も、おとなの女の武器なわけでしょ? わたしたちはまだそういう武器を持てないじゃない」と言った。
「前にも言ったけど、そういう女が現れないように必死に祈るの。それから、具体的にどうしたらいいかわからないけど、先生の気持ちが変わらないように努力する。待たせる気にさせる。いまわたしにできることは、先生の言うとおりにすること。それしかないと思わない? そうでしょ?」
「あ、う、うん」
「わたし、先生が『受けろ』と言った中学を受けて入ったわ。先生は、わたしが自分の期待にこたえてくれて、喜んでいるはずよ。わたし、先生の言いつけには忠実なの」
「でも」
と、夏美は短く言葉を切って、咳払《せきばら》いをした。言いにくそうな雰囲気だ。「それでも、先生がほかの人を好きになったら? 誰かに心変わりしたら?」
「先生を誘惑するような女が現れたら」
と言って、雪子はため息をついた。我知らず、興奮してしまっていた。「そういう女は、わたしがぶっ飛ばしてやるわ」
「えっ?」
夏美が眉《まゆ》を寄せて、ハッとしたように雪子に顔を振り向けた。夏美の、髪の毛の分け目のあるほうの左顔は、なぜか右のほうより落ち着いた柔らかい印象を与える。その位置だと、彼女の鼻にある段もあまり気にならない。雪子は、夏美と隣り合うときは、彼女の左側に座るのが好きだった。その彼女の目に、驚きの色が浮かんでいた。
「嫌だなあ、冗談だよ。本当に、ぶっ飛ばすわけないじゃない」
雪子は笑った。
「そうよね」と、夏美も、上半身からおどけたように力を抜いて、ほっとしたように言った。
「でも、殺してやりたい……と思うかもしれない」
「ユキ」
夏美の顔から、さっと笑いが引いた。
「だからさ、そうならないように祈ってよ。友達として、応援してよ。見守ってよ。ねっ、夏美」
9
夏休みのあいだに、雪子は十三歳になった。誕生祝いの席には、賢一がいた。雪子は、「おめでとう」と祝ってくれた賢一に、口では「ありがとう」とだけ言い、心の中で、〈あと七年でわたしは成人する。先生、それまでちゃんと待っててね〉とつけ加えた。
その席で、千恵子が澄夫と顔を見合わせ、一瞬、眉《まゆ》を寄せてから、賢一に「今年はいつ、ロスに戻るの?」と遠慮がちに尋ねた。賢一は、「今年は行きません」と答えた。雪子は、賢一の横顔に影が走ったのを見た。
「先生、どうして行かないの?」
「もう里帰りするような年じゃないだろ? 三年にもなるといろいろあるんだよ」
「大学が忙しくなっちゃったの?」
雪子は、賢一が家庭教師に割く時間が負担になったのではないか、と思って聞いた。
「そうよね、賢一さん。雪子にも夏美さんというよきライバルができて、この夏休みから一緒の夏期講座に通うことになったことだし、そろそろ自分の勉強に費やす時間を増やしたほうがいいかもしれないわね」
千恵子が先回りして、賢一のかわりに言った。
「え、ええ、僕もそろそろ……とは思ってます」
彼は、去年の夏より長めに伸ばした前髪をかき上げて、はにかむような笑顔で言った。
雪子は驚いた。彼の口から、「ユキちゃんに教えることは、自分の勉強にもなりますから」という前回と同じ言葉がすらりと出てくるものと予想していたのだ。
「えっ、だめよ」
思わず雪子は、叫ぶように言ってしまった。千恵子も、賢一も、澄夫も、胸をつかれたような顔で雪子を一斉に見た。
「だ、だって、まだわたし、自信がないもん。勉強、ついていけなくなっちゃうかもしれない。まわりはみんな、すごく優秀なんだよ。わたし、先生に教わってるから、ようやくみんなについていけてるの」
賢一に対する自分の熱い気持ちを親に悟られたのではないか、とびくびくして、雪子は子供っぽい抗議するような口調で続けた。
「また、自信がない、か」
賢一が笑った。つられて、ぽかんとしていた千恵子も澄夫も、しょうがないね、というふうな苦笑顔になった。
「夏美さんにも言われただろ? ユキちゃんは自信がない、自信がないと言いながら、しっかりみんなをリードしてる。ついていけなくなんかないじゃないか」
「でも……」
「この子は、いつまでも甘えん坊なの。誰かについていてもらわないと、誰かにいつも『大丈夫』と言って、背中をなでていてもらわないとだめなのよ。やっぱり一人っ子のせいかしら」
千恵子が言った。「でも、いいのよ、賢一さん。この子のことは気にしないで。大学三年といえば、早い人はもう就職のことを考えてるでしょ? 雪子がここまで来られただけでもう十分。あとはこの子の力でどこまで伸びるかよ。志望校に入るだけの力を維持できるかどうか」
「それだけの力は、ユキちゃんにはあります」
と、賢一は、千恵子と澄夫に力強く言っておいて、「ユキちゃん」と、右隣の雪子に顔を振り向けた。「何も、家庭教師を辞めるつもりはないよ。僕だって、ユキちゃんを個人的に指導するようになって、教えるってことに、なんかすごく目覚めちゃったし。本当にいい勉強になるんだよ。将来、教師になるのもいいかな、なんて本気で考えたくらい。だけど、親父を見ていると、学者は自分に向かない気がしてね。いまから大学院に残るつもりのやつも、上級国家試験を受けるつもりのやつもいるけど、僕は民間の企業に行くつもりなんだ。でも、まあ、三年生だから、将来を見越した勉強に精を出さなくちゃいけない時期ではあるんだ。ユキちゃんの家庭教師は、週に一度で十分かな、そう思い始めている」
――週に一度?
雪子は、年に一度、と言われたに等しいほどのショックを覚え、一瞬、気が遠のいた。年に一度の連想から、七夕の笹の葉と彦星と織女星を思い浮かべた。笹の葉は枯れ、空は曇り、星は見えなかった。
「授業で生じた疑問点や質問を、週に一度、まとめて受けてあげるよ。いまだって、ユキちゃんの理解度はぐーんとアップしている。教え始めたころは、正直言って呑《の》み込みの悪さにいらいらしたこともあったよ。だけど、訓練すれば理解する速度というのも上がるものなんだよ。勉強のこつみたいなものを、ユキちゃんはもうちゃんと習得してる。ユキちゃんがJ女子学院に合格したところで、僕の任務はほぼ終わったようなもんだし。これから塾に通い出すとすれば、ユキちゃんのほうもけっこう忙しくなるじゃないか。それに、中学時代はいちばん楽しい思い出を作れる時期でもある。大学受験まで勉強ばかりというのもつまらない。学校にも慣れてきたんだし、そろそろ何か部活動を始めてもいい。せっかく夏美さんといういい友達ができたんだ」
「あ、う、うん」
ここまで言われると、引き止める言葉がなかった。どう引き止めてみても、自分のわがままにしか聞こえない気がした。それに、賢一自身、来年の就職活動を控えて、大事な時期にさしかかっているということは、雪子も心得ていた。自分の一時的なわがままで、賢一の将来を左右してはいけない。
――先生の将来は、わたしの将来でもあるんだから。
「週に一度で十分だろ? なあ、雪子」
澄夫は、じゃあ、この話題はこれでおしまい、というふうに娘から甥《おい》へと視線を向けた。「ところで賢一君。将来は、世界に通用するビジネスマンを目ざすのか? わたしはまた、お父さんのように大学教授になるものと思っていたんだが」
「学者もすてきだけど、ビジネスマンもいいんじゃない?」
千恵子が横から口を挟んだ。「銀行員? 商社マン? ディーラーってのもいいわね」
「そうですね」
賢一は、あいまいに笑い、将来、自分が進む道を明言することを避けた。
雪子はふと、夏美が言った言葉を思い出した。――結婚となると二人だけの問題じゃないわ。ユキも先生も一人っ子。もしかしたらユキの両親は、娘に婿養子を、と考えているのかもしれない。
――先生は、わたしたちの将来のことを考えて、わたしの両親の意見を聞いてから、進む道を慎重に決めるつもりなのかもしれない。
雪子は、そんなふうに感じた。だが、賢一が自分の父親と同じ道を歩んでも違和感はない、とは思っていた。学者の妻になるのも、それなりに魅力を感じていたのだ。学究肌の賢一には似合っている、と思った。
教えることに目覚めたという彼が、父親と同じ職業を選ばないのには、それなりの理由があるのだろうか、と考えた。たとえば父親の仕事に尊敬の念を抱けないというような場合だ。
しかし、いずれにしても、賢一が選ぶ道ならば雪子は何でもかまわなかった。
「わたしね、演劇部に入ろうかと思ってるの」
家庭教師の回数を減らす、と言い出した賢一に甘えた言葉を言いすぎた自分を反省して、雪子は前向きに言った。
「演劇部?」
賢一の表情が明るくなり、千恵子と澄夫のそれが不安げに曇った。
「いいじゃないか。J女子学院の演劇部といえば、数々の賞をとっていることで有名だ。演劇においても一貫指導をとっているという。中等部と高等部、合同で練習したりするんだろ? 厳しい先輩も多いかもしれないけど、いっぱい吸収できるものもあるはずだよ」
賢一が思いのほか乗り気になったので、雪子はこちらでも引っ込みがつかなくなるのを感じた。本当は、演劇部に興味はあったものの、「近寄りがたい部」という雰囲気があって、入部するのを迷っていたのだ。
「夏美のほうがやる気になってるんだけど、わたしもいちおう演劇に興味はあったの」
「伝統ある部だから、かえって大変じゃないのかしら」
千恵子が言った。部活動に時間を取られることで、娘の本業が疎《おろそ》かになるのでは、と心配している口ぶりだ。
「ほら、この子、昔から一つのことに熱中するところがあるでしょう? それこそ、生活が演劇部中心に回り出したら……」
「進学校ですから、教師たちもそのへんは考慮してますよ。それに、伝統ある部で活動していたという事実は、大学の推薦枠にも有利なんですよ、叔母さん」
賢一のひとことは大きかった。
「何も没頭しなくても、所属していたという事実だけでもいいじゃないか。どうせ雪子じゃ、主役ははれないんだから。せいぜいチョイ役で出るだけだよ。その他大勢のお星さまの役とか蝶々《ちようちよう》の役とかね」
澄夫も、そんな消極的な言い方で賛成した。
「ひどいな、パパ。幼稚園のお遊戯じゃないんだからね」
雪子が言うと、三人は笑った。「でもね、演劇って舞台に立つだけじゃないと思うの。確かに、舞台の上のほうが目立つし、華やかだけどね。わたしがやりたいのは、裏方のほう。その点は夏美と共通しているんだけど」
「ふーん、夏美さんなら、宝塚の男役ができるかな、と思ったんだけどな。でも、もう少し背がほしいね。ユキちゃんの身体に夏美さんの顔を載せたら、立派に男役が演じられるかな」
賢一が言った。
「えっ? それって、わたしの身体つきが男みたいだってこと? そりゃよく育って背は高いかもしれないけど、わたしのこの女らしい肉体が男役向きだなんて言われちゃ、傷つくな。夏美の顔が男役向きなのはわかるけど」
雪子はせいいっぱいふくれてみせた。賢一が笑った。澄夫も千恵子も笑った。娘への愛に満ちた屈託のない笑いだ。
雪子は、両親の笑顔を見て安心した。娘の胸の奥深くに、いとこへの煮えたぎるような熱い想いがしまいこまれているとは、爪《つめ》の先も思いつかないような表情に見えた。
*
賢一が家庭教師に来る日は週に一度に減ったが、松阪牛や刺身などの高価な食料品のギフトをもらったときなどは、千恵子が夕飯の席に賢一を誘った。けれども賢一は、二回に一回は、「ゼミのレポートをまとめなくちゃいけないので」「友達と約束がある」「図書館に行くから」などの理由で、誘いを断った。
「本当にそんなに忙しいのかしら。飲み会ばかりでもないと思うけど。家庭教師以外の日に食事することに遠慮してるんじゃないかしら」
断られてがっかりしている千恵子に、澄夫はこう言った。
「賢一君も、もう三年だからな。本当に忙しいんだろう。こちらの食事の時間にきちんと合わせて帰って来るのも、けっこう面倒なものだよ。あんまり束縛したり干渉しては、可哀想《かわいそう》だよ。男の子の場合は、大学生ともなると、飯時に帰って来ることなんてほとんどなくなるそうじゃないか。このあいだの建て主もそう言ってたぞ。いくら親戚だと言っても、ずるずると甘える関係になるのを避けているのかもしれない。賢一君なりにけじめをつけているつもりなんだろう」
雪子も、賢一が食事に来る回数が減ったことに、寂しさを覚えた。だが、父親の言ったことは確かにそのとおりかもしれない、と思い、賢一に同情もした。夏美には弟しかいないが、大学生や社会人の兄や姉を持つクラスメイトから、家庭内の話を耳に挟むことがある。「家族の基本は食卓を囲むことから」というのが影山家の方針だが、そういう家庭がけっして主流ではないことを雪子は感じている。
――うちに来ることが、先生の気持ちの負担になってはならない。
けれども、家の中で賢一と顔を合わせる機会が減ったことは、やはり寂しかった。うっそうと木が生い茂った庭を隔てて隣に建つアパートに住んでいるとはいえ、同じ屋根の下に住んでいるわけではない。まじめに学校に通うことが日課の雪子に、賢一の様子を細かく知ることはできなかった。賢一の部屋の明かりが見える位置に自分の部屋がないことも、雪子を寂しくさせた。週末、千恵子と焼いたケーキなどを持って彼の部屋を訪ねても不在のことが多かった。家庭教師に訪れた彼に「日曜日、どこへ行ってたの?」としつこく聞くのはためらわれた。愛する人をあまり束縛してはいけないと思ったのだ。
週に一度、水曜日だけ来るようになった賢一だったが、回数が減った分、その二時間の密度が濃くなったように雪子は感じた。雪子はわざと質問を多めに用意しておく。すると、規定の時間を超過しても賢一はすべての質問に熱心に答えて帰る。それが雪子には、賢一が自分と濃密な時間を過ごしたがっているように見えるのだ。
――家庭教師の回数を減らしたのは、本当にわたしの実力を評価してのことだったんだわ。
――ここは、パパやママのアドバイスに素直に従っておいて、わたしとの関係を大切にしたかったのね。先生は、やっぱり、それほど慎重で思慮深い人だったんだ。
――先生は、自分の将来も真剣に考え始めている。それは、自分の将来がわたしとの将来でもあるからよ。
雪子の日記は、水曜日だけ分量が多くなった。自分の見方を肯定するような文章を綴《つづ》る一方で、不安にもかられた。
――先生がわたしと会う回数を減らすということは、それだけほかに費やす時間が増えるということだわ。たとえば、大学のサークルなどに……。
雪子の脳裏に、夏美の言葉がよみがえる。――もしも、ユキがおとなになる前に、先生に別のおとなの女の人が現れたら、先生がその人を……本気で好きになっちゃったら、どうする? 雪子は、不安な思いも日記に書き綴った。花占いではないが、気がつくと独りごとのように「先生を誘惑するような女が現れる、現れない」と繰り返している自分がいた。
成人するまであと七年。その七年という歳月は、やはり雪子にはとてつもなく長いものだった。自分は七年間待てる自信はあるが、先生を七年間待たせられる自信はない。先生の周囲に波風さえ立たなければいい。けれども、〈誰か〉がその波風を立ててしまったらおしまいだ。
――その誰かって……。
まぶたの裏にちらつくのは、なぜかあの塚本という女子大生だった。が、賢一のまわりにいるおとなの女性は彼女だけではない。きれいに化粧をして、着飾った、成熟した女たち……。
雪子の中で、不安な思いがふくらんでいった。夏美と知り合う前なら一人で思い悩んでいたであろうが、いまは親友がいる。雪子は、夏美に相談した。演劇部に入るかどうかまだ決めかねている時期で、稽古風景を見学に行ったときだった。四十名の部員を抱える伝統ある演劇部では、夏休み中も稽古がある。
「わたしたち、やっぱり演劇部に入ろうよ。で、先生に、参考のために、大学の演劇部がどんなものかのぞいてみたいと言ってみるのよ。先生のことだから、どこか連れて行ってくれるんじゃない? 向学心や向上心を示すユキを、先生はまたまた見直すかもよ。先生自身、とても上昇志向の強い人だから、絶対に喜んでくれるって。ユキが先生と会う回数が減って寂しいんだったら、先生の日常がどんなものか不安でたまらないんだったら、こっちからそれとなく偵察に行けばいいのよ。待っているばかりじゃだめ。そうでしょ? ユキが先生に積極的にかかわっていかなくちゃ。それも、あくまでもお勉強家の中学生らしくね。先生だって、ユキの明るく前向きな姿勢に、ゆっくり焦らず待つ気になるかもしれない。ときどきそうやって自分を印象づけていれば、先生も下手な誘惑に絶対に負けるはずないよ」
夏美がそう提案した。雪子は、親友の思いつきに胸が躍った。
演劇部には面接試験があった。面接の席には、中等部と高等部の顧問、部長や副部長が顔を並べた。
「できれば裏方をやってみたいんです。わたし、照明や美術に興味があるんです」
夏美は積極的だった。自分の希望を熱く語った。雪子は、右に同じ、というふうに控えめに「わたしも」と言い添えた。
驚いたことに、高等部の顧問である三十代半ばほどの男性教師が、「舞台に立つ気はないか?」と雪子に聞いてきた。雪子と夏美は顔を見合わせた。夏美は一瞬、戸惑った表情を見せたが、「やりなさいよ」と小声で言い、手で親友を押し出すしぐさをした。
「わたし、そういう経験ありませんけど」
と、腰が引けた雪子に、今度は中等部の女性顧問が「経験がないほうがいいのよ。すれてなくて。あなた、タッパがあるし、舞台映えしそうだわ。発声練習なんかは徐々にやっていけばいいのよ」と言った。居合わせた上級生たちも、じっと雪子を見つめていた。そのまなざしが顔に突き刺さった。
「わたしにできるのなら……やってみたいです」
と、雪子はためらいがちに言った。賢一に「入る」と言ってしまった手前、どんな条件を出されようととにかく入部する以外になかった。
面接を終えて外に出ると、夏美が言った。「よかったじゃない、ユキ。やっぱりユキはきれいだから、裏方じゃもったいないと思われたのよ。わたしだって、そう思うもん。ユキはよく言うじゃん。磨けば輝く原石みたいだって。そんな感じがするよ。ユキみたいな人材が役者にほしかったんだよ、きっと。挑戦してみなよ」
夏美は言葉数が多かった。声が多少うわずっていたが、それでも祝福しているのは間違いなかった。
「夏美が裏方で、わたしが舞台に立つなんて……。なんだか悪くって」
「い、いやだな、そういう遠慮は。わたし、最初から裏方をやりたいって希望したんだよ。だから希望が叶《かな》えられて嬉《うれ》しいの。さあ、入部祝いだ。お茶飲みに行こうよ」
夏美は、足下にころがっていたコーラの空き缶を、威勢よく蹴《け》った。カラカラと空き缶はころがった。次は、雪子が蹴った。その次は夏美が。そして、また雪子が。七回目に夏美が蹴った空き缶が、路上に駐車していた高級車のタイヤに当たった。パンチパーマの男が運転席から顔を出して、「こらっ、おまえら」と怒鳴った。二人は、ハッと顔を見合わせた。夏美が「逃げろ」と叫んだ。二人は、ころがるようにして逃げた。路地へ入って、息を落ち着かせた。二人は笑った。涙が出るほど笑いころげた。
10
「わたしたち、演劇部の面接、合格したの。それで……夏美がね、大学の演劇部をのぞいてみたいって。いま夏休みだし、映画研究会にいる先生にお願いするのはどうかとも思ったんだけど、夏美がぜひお願いしてみて、って言うもんだから。だめかしら」
雪子は、夏美を前面に出して賢一に切り出してみた。
「おめでとう。よかったじゃないか、演劇部に入れて。いちおう簡単な試験があるとは聞いていたけど、君たち二人なら絶対に大丈夫だと思っていたよ」
賢一は、手を叩《たた》いて喜んでくれた。そして、うーむ、と腕を組むと言った。「そうだな。せっかくやるんだったら、少しレベルの高い、かといって商業演劇ではない身近な芝居を見たほうがいいかもしれない。いいものをたくさん見て、目を肥やしたほうがいいんだ」
「先生のとこには演劇部ってないの?」
目的は、ふだん雪子がのぞき見ることのできない彼のテリトリーを、偵察することである。話をそっちにもっていった。
「あるけどさ、野郎ばっかりでつまんないよ。質もそんなに高くないし」
賢一は肩をすくめたが、ハッと思いあたったように「そうだ」と手を打った。「知っている劇団でいいところがある。学生劇団だけど。ちょうど今月末に下北沢《しもきたざわ》の劇場で上演することになっている。よかったら、手始めにまずそれを一緒に観に行かないか? 俺もいちおう招待状もらってるしさ。話をすれば、舞台裏ものぞかせてもらえるかもしれない。照明や美術、演出の話なども聞けるかもしれないよ」
彼が口にした劇団名は、『夢色集団』といった。雪子はもちろん聞いたことのない劇団名だ。いくつかの大学が集まって合同で劇団を作り、自分たちのカラーを出した芝居を年に一度の割合で上演しているのだという。
――先生と一緒の座席で舞台を観られる。
雪子は心が弾んだ。中学生になってからは、校則もゆるやかになり、親もうるさくなくなったので、映画が観たければ勝手に生徒同士で映画館に行けるようになった。したがって賢一に保護者のかわりをしてもらわなくてもよくなったのだ。できれば休日、賢一と映画に行きたかったが、「休みの日まで束縛しては可哀想。大学三年生ともなれば休日も自分なりの過ごし方があるはずだ」という両親の考え方に阻まれて、雪子が気軽に誘うことができなくなっていた。
雪子は、これからも、「演劇の勉強のため」を口実に、賢一を引っ張り出すことができると喜んだ。
八月下旬のその日。雪子と夏美にとっては、夏休みもあと一週間という慌ただしい時期だった。
賢一とは劇場で待ち合わせることにして、雪子と夏美は一緒に下北沢へ行った。こぢんまりとした劇場のことを「小屋」と呼ぶらしいが、その劇場は、ビルの中にあるものの、まさに小屋と呼ぶのがふさわしいほどの狭さだった。客席は五十人も入ればいっぱいになる。
入口でチケットを渡してパンフレットをもらい、指定された席に向かう。まだ賢一の姿はなかった。座席でパンフレットを開いて、雪子はホッとした。最初に劇団の代表者による『夢色集団』設立の言葉が書いてある。七つ並んだ大学名の中に、N女子大学の名前がなかったからだ。賢一から「いくつかの大学が集まって合同で劇団を作り」と聞いたときから、もしかしてN女子大学も参加しているのでは、と心配していたのだった。
――N女子大学の名前があったからといって、あなたは何が心配だと言うの?
雪子はそう自問してみた。あの塚本という色白の女子大生のことが気にかかっているのだろうか。彼女みたいな女性が舞台に立つのを、賢一と一緒に観るのが、それほど自分にとって胸をざわつかせることなのだろうか。
――なぜすぐに彼女に結びつけてしまうの?
「ここ、狭いから幕がないじゃない? どんなふうに暗転するか興味あるよね」
隣に座った夏美に声をかけられて、雪子は我に返った。舞台までは十メートルもない。役者の息づかいが聞こえてきそうな距離にある。その中心にブルーがかったスポットライトがあたり、中心にバラの花束が置かれている。
「なんか、すごくミステリアスな雰囲気だよね。『バラの行方』なんて題名もすごく思わせぶりだし。推理劇だっていうけど、どんなかしら」
夏美に言われて、芝居の演目や、推理劇であることをようやく思い出した雪子だった。それほど、賢一と一緒に芝居を観る、という事実のみに頭が占められていたのだった。
もう一度パンフレットに目を通そうとしたとき、「もう来てたの?」と階段の後ろから声がした。振り返ると、賢一だった。一人だ。わかってはいたものの、雪子は安心した。誰か大学の友達――それも女友達――を連れていたらどうしよう、と不安にかられていたのだ。雪子にとって、賢一の大学の友達は、自分の立ち入れない領域で、自分の知らない会話を賢一と交わす、〈未知の恐怖〉を感じさせる存在なのである。
「古典を舞台にかける学生演劇ってのは、けっこうあるものなんだ。だけど、シェークスピアのハムレットなんかやっても、内容が古くて役者が青くさいもんだから、どうしても下手なのが目立つ。そこいくと、ここはオリジナルばかり手がけている。それもほとんどがミステリーだ。推理劇を選んだのは、頭を使って観れば、ユキちゃんも夏美さんも、眠くならないだろうと思ってさ」
賢一は、雪子の右隣に座ると、そう言って笑った。入口に近い場所から、賢一、雪子、夏美の順に座っている。夏美が、賢一と隣同士になるように配慮してくれたのだ。
「眠くなんかなりませんよ。わたしたち、まじめに勉強するつもりなんだから。ねえ、ユキ」
夏美は、雪子の前に身を乗り出して言うと、「ユキから聞きました?」と上目遣いに賢一を見た。
「何?」
「ユキ、役者に抜擢《ばつてき》されたんですよ。裏方はわたしだけ」
「えっ?」
賢一が見開いた目を雪子に向けた。雪子は「抜擢されたなんて、やめてよ」と慌てて手をひらひらさせた。恥ずかしさもあって、その話は賢一にはしていなかったのだ。
「あっ、やっぱり話していなかったんだ。そういうおめでたい話はすぐするもんだよ、ユキ」
「そうか、すごいじゃないか。ユキちゃん、役者か。それじゃ、よけい生の舞台を観て勉強したほうがいい。これから発声練習なんかもするんだろ? セリフの言い回し、身体の向き、歩き方、役者の動き一つ一つを参考のためにじっくり観るんだね。そうか、そのうちユキちゃんの芝居が観られるんだな。これは楽しみだ。俺が観に行ってもかまわないだろ? ぜひ観せてくれ」
「あ、う、うん」
返事をしたとき、ブザーが鳴って、会場が暗くなった。胸がドキドキした。賢一に「ぜひ観せてくれ」と言われたせいか、なんだか自分が舞台に立つような気がしてきた。華やかな衣装をまとい、化粧をして、舞台に立つ自分。それを客席から見つめる賢一。その光景を想像しただけで、雪子は陶然となった。
――舞台に立つって、それだけ自分の魅力をアピールするということ。いつの日か先生に、女優としての自分を見てほしい。
役者という言葉は、華やかな女優という言葉に置き換わった。雪子は、つい先日まで舞台に立つ気など少しもなかったくせに、いまは自己顕示欲で満ちあふれているのに気づいた。
――英語劇なんかをやったら、先生はどんなに感心することだろう。わたしの中に新しい魅力を見つけてくれるかもしれない。
想像することに気をとられていたので、芝居が始まっても、雪子は舞台上に没頭できなかった。若いサラリーマンが出て来てバラの花束を拾うが、バラのとげで指を怪我《けが》し、地面に叩き捨てる。そこへベビーカーを押した主婦が現れる。彼女もその花束を拾うが、気味悪そうな顔をして、ベンチの上に置くと立ち去ってしまう。場面が変わり、若い女の死体。そばにあのバラの花束。刑事が現れる。バラの花束が調べられ、とげについた血液が検出される。そして、また場面は変わり、最初の若いサラリーマンの住む団地。彼と彼の新妻と生まれたばかりの子供の団らん風景。謎《なぞ》めいた女性が登場し、探偵が登場する……。
だが、関連のない人間ばかりが登場するストーリーに、雪子はついていけないものを感じていた。ため息をつこうとしてハッとした。左隣の夏美も右隣の賢一も、身じろぎ一つせずに舞台を見据えているのがわかった。二人とも芝居に引き込まれているのだ。「ねえ、このあとどうなるのかな」などと、賢一に耳打ちできる雰囲気ではなかった。
――もう少し熱を入れて観ていれば、こんがらかった糸がつながって、おもしろくなってくるのかもしれない。
雪子は、二人に聞こえないほどの小さな吐息を漏らすと、背もたれに深く寄りかかり腰をすえて観る体勢をとった。
そのときだった。舞台の上手《かみて》から、一人の女性が現れた。喪服の女だった。彼女の周囲が、一瞬、ハレーションを起こしたかのように輝いて見えた。黒い服をまとった雪女がひそやかに現れたようだった。半|袖《そで》の黒いワンピースの袖から、裾《すそ》から伸びた、きゃしゃな手足。つばのあるレースの黒い帽子に隠れた白い肌。血なまぐさい推理劇なのに、そこだけ何事もなかったかのような静謐《せいひつ》な空気が漂っていた。
――まさか……。
彼女が正面を向き、立ち止まった。つっと顔を上げた。雪子は息を呑《の》んだ。予感があたったことで、心臓がどくどく鳴り始めた。
「喪服の白雪姫みたい。きれいな人ね」
夏美が顔を近づけてきて、ささやいた。
雪子は、右隣を見た。が、賢一は、雪子の気配にもまるで気づかないかのように、まっすぐ舞台を見つめている。横顔が憎らしいほど整っていた。いつもより賢一が美しく見えた。それは、彼が何かに心を奪われているせいだと思えた。
――どうしてなの? なぜ彼女が出演してるの?
「そうよ」
と、喪服の白雪姫は言った。「殺されたのは、わたしの姉。わたしたち、子供のときに離れ離れになったの」
「くさいセリフね」
夏美がまた耳打ちしてきた。「でも、はまってるけどさ」
「……姉に再会したのは、小学校四年生のときだったかしら。あの日は雪が降っていたわ」
塚本のセリフが続く。雪子は、彼女の口元だけを見つめ続けていた。きゃしゃな体格のどこからこれだけの声量が出るのだろう。彼女の声は、こちらの胸の奥底までしみ入ってくるかのようだ。
舞台がやや明るくなるのを待って、雪子は震える指でパンフレットを開いた。上演前には細かく見る気もしなかったキャストの欄にすばやく目を走らせた。
喪服の女を演じているのは、紛れもないあの「塚本」だった。
役名の下には、「塚本由貴」とあった。
――由貴? ユキ?
首筋に熱したこてを押しあてられたような、熱くて痛い衝撃を受けた。
やがて、喪服の女は下手《しもて》に消えた。その後の展開はほとんど頭に入らなかった。ただ、いつまた彼女が姿を現すか、それだけに神経が向いてしまった。結局、彼女は最後の場面まで現れず、最後もまた喪服姿で登場した。
芝居が終わった。恒例になっているのか、登場人物が舞台に勢揃《せいぞろ》いし、それぞれ手を広げたり、振ったり、にこやかな笑顔を浮かべたりして、観客にアピールした。塚本由貴もいた。気のせいか、賢一のほうを見ている。
挨拶《あいさつ》が終わり、舞台の上はただの埃《ほこり》くさい空間と化した。白っぽいライトに、細かな粒子が立ち上るのが映し出されるのを、ぼんやりと雪子は眺めていた。
「どうしたの? 終わったよ。芝居にのめりこんじゃったの?」
夏美が、雪子の目の前で手のひらを上下させた。
「意外な結末だったんで、衝撃でぼうっとしてるんだろ?」
賢一が言って、反対方向から手のひらを差し出し、こちらも上下させた。
「あの人、出てたよね」
雪子はぽつりと言って、賢一へ顔を振り向けた。
「あの人?」
賢一は眉《まゆ》を寄せたが、思いあたったらしく、明るい表情になった。「塚本さんのこと? そうか、ユキちゃん、彼女と顔を合わせたことがあったんだったね」
「塚本さんって誰《だれ》?」
夏美がパンフレットに目を落としたのと同時に、賢一が「ほら、柴田葉子をやった人」と答えた。
「柴田葉子? あ、ああ、あの喪服の白雪姫ね」
「喪服の白雪姫?」
「喪服が女をいちばん美しく見せるって、本当なんだね」
夏美の言葉に、賢一は「喪服の白雪姫か。うまくつけたもんだな」と感心したように首を振った。
「塚本さんって、N女子大の人じゃなかったの? どうしてこのお芝居に?」
雪子は聞いた。
「あ、ああ、友情出演というか、頼まれて断りきれずに出たってところかな。彼女、N女子大のほうでも演劇部にいるんだ」
「でも、賢一さんたちのサークルにもいるんでしょ?」
「ユキ、知ってるの?」
夏美は、雪子の横顔の鋭さに気づいたのだろう。顔をのぞきこむようにして聞いてきた。
「前に、先生と映画を観に行ったとき、映画館で一緒になったのよ。東大の映画研究会の会長に連れられて来てた」
「映画館? あ、ああ」
夏美は、わずかに顔を険しくさせた。
「うちにはさ、あのとき一緒にいた吉川さんに頼まれて入ったんだよ。うちは基本的に、外部からの入会は大歓迎なんだ。もっとも女性にかぎるけどね。これは会長の桜井の方針。吉川さんは、桜井の高校時代の後輩でね、桜井に強引に誘われたのさ。ああ、桜井は一浪している。あのとき、桜井は『女性二人がどうしてもうちに入会したいと言って来たので』みたいなことを言ってたけどさ、あれはうそ。実は桜井が頼み込んだんだ。吉川さんは一人じゃ心細くて、形だけでもいいからと塚本さんを誘ったというわけ。だから、本来は、塚本さんはN女子大のバリバリの演劇部員なんだよ」
賢一が、つっかえもせずに語ったのが、よけい雪子の神経を苛立《いらだ》たせた。塚本由貴に関する情報を、賢一が把握しているということだ。
「塚本さんって、頼まれたら断れない人なのね。あっちにもこっちにも顔を出す」
皮肉をこめて雪子は言った。その皮肉が賢一に伝わってもかまわないと思った。自分が塚本という女に嫉妬《しつと》している、と思われてももうかまわなかった。
――先生が、わたしの気持ちを試そうとして、わたしにやきもちを焼かせようとして、あえて彼女のことを隠していたのなら……。
「まあ、そうだね。熱心に頼まれたら断れないところがあるのは確かだね。『夢色集団』も女優がいないわけじゃないからな。でも、まあ、柴田葉子役の適役はいなかったんだろう。それを捜していたら、彼女に行きついたってところかな。彼女も、最初は辞退したようだけど、口説き落とされて仕方なく出たらしいよ」
仕方なく出た、という感じではまったくなかった。塚本由貴は、堂々と演じていた。――と雪子は思った。堂々と、嬉々《きき》として、楽しそうに。
「招待状をもらったっていうのは……」
雪子は、おそるおそる探りを入れた。
「ああ、塚本さんからもらったんだ」
腹が立つほどあっさりと、賢一は認めた。「君のことを話したら、『いとこの方もお友達もどうぞ』ってね、招待券を三枚くれた」
「塚本……由貴っていうのね」
雪子が言うと、胸をつかれたような顔をして、夏美がパンフレットを見直した。そして、「あっ、本当だ。ユキと同じだ」と、すっとんきょうな声を上げた。
「ああ、そうだね。ユキちゃんが雪子で彼女は由貴だ。偶然だよね」
いま思い至ったように、賢一はのんびりした声で言った。
雪子は思い出していた。塚本由貴と連れの吉川は、あのとき顔を見合わせ、あら、というような顔をした。あれは、賢一がいとこの雪子を紹介したときだった。「いとこのユキちゃん」と。あら、という表情をしたのは、「あら、同じ名前ね」という意味だったのではないか。
「でもさ、ユキがスノーの雪子で、あっちはスノーじゃない由貴。なんか変な感じだよね」
夏美が言った。賢一が「そうだね」と笑った。雪子は笑わなかった。笑えなかった。夏美は、雪子が笑わない理由に気づいたらしく、咳払《せきばら》いをした。そして、「ずいぶん色が白かったけど、あれ、白塗りしてたんじゃないの?」と言った。雪子を勇気づけるつもりだったのだろうが、これも成功しなかった。「彼女、地が白いんだよ」と、賢一がそのままずばりを言ったからだ。
「どうせわたしは色黒ですよ」
雪子は、賢一にではなく、夏美に言った。おどけた雰囲気にしなければいけないことはわかっていた。
「あっ、ユキ、すねてる」
と、夏美が肘《ひじ》を突いた。「ユキだって白塗りして舞台に立てばいいじゃん」
雪子も、ぎこちない動作で夏美を突き返した。
「楽屋、行こうか?」
賢一が、じゃれ合っている二人を呆《あき》れたような顔で見て言った。
「はい、行きます」
その言葉を待っていたように夏美が立ち上がった。雪子もそれにならった。雪子は気づいていた。賢一が少しも自分の苛立ちに気づくそぶりを見せないことに。
――無視しているのかしら。気づかないふりをしているのかしら。
楽屋へ向かう賢一の数メートルあとに、二人は続いた。「ねえ、ユキ」夏美が小声で呼んだ。「塚本由貴って女のこと、気にしてるの?」
「別に」
「だけどさ……」
「本当に、気にしてないってば」
「大丈夫だと思うよ」
「えっ?」
「先生、彼女のこと何とも思ってないよ。何とも思ってないから、気軽にわたしたちを誘ったんだよ」
「そう思う?」
「うん」
雪子は、親友の洞察力、鑑識眼を信じようと決めた。
「やきもち焼いてるんだったら、やめたほうがいいよ。見苦しいから」
そう言って夏美が笑ったので、雪子も気分がほぐれた。
――先生とあの塚本由貴が……。
と、心配したのは本当だったが、夏美に言われてみれば、取り越し苦労かもしれないと思えた。
「何こそこそ内緒の話をしてるんだ?」
賢一が突然振り返ったので、二人はビクリとした。
楽屋の前には人だかりがしていた。賢一の姿を認めると、刑事役をしていた長身の男が、「ああ、塚本さん?」と心得た顔で聞いた。「いま呼びます」
雪子と夏美はまた顔を見合わせた。
――やっぱり、先生と塚本由貴のことは、みんなももう承知している仲じゃないの?
不安な色を浮かべた目で、雪子は親友に語りかけた。
夏美は、大丈夫よ、というふうに小さくかぶりを振った。
すぐに舞台衣装のままの塚本由貴が顔を出した。ただし、つばの広い帽子はかぶっていない。
「ごめんなさい。まだ化粧を落としてないの。お化粧、濃いでしょ? そういう役だから仕方ないんだけど」
塚本由貴は恥ずかしそうに賢一を見上げて言うと、雪子に笑顔を向けた。「観に来てくださったのね。雪子さんでしょ? わたしは塚本由貴。あのときはちゃんと自己紹介もしないでごめんなさいね」
「いいえ」
返す言葉が見つからなかった。雪子は「こんにちは」と固い挨拶をし、頭を下げた。近くで見る塚本由貴は、蝋《ろう》を塗り込めたような滑らかできれいな肌をしていた。真っ赤な口紅は、塗ったばかりのように艶々《つやつや》輝いていた。雪子は、三日前に右の頬《ほお》にできたにきびが急に気になり、頬に手のひらをあてた。舞台ではあれほど大きく堂々と見えたのに、目の前にいる彼女は、最初に会ったときと同じ小柄な女子大生だった。
「わたし、雪子の友達で、笠原夏美です。今日はとても楽しかったです。やっぱり大学の演劇ってレベルが違いますね」
夏美が、調子がいいほどにこやかに挨拶した。
「雪子さんに夏美さんね。塚本です、よろしく。高木さんからお二人のことはうかがっています。二人ともとても優秀なんですってね」
「そうでも」と、夏美が照れ笑いを浮かべ、ねえ、と雪子を見た。雪子は何の反応も返さなかった。
楽屋のドアが開いて、出て来た女性の肩が賢一の背中に触れた。「あら、ごめんなさい」と、女性は大げさに手を合わせて謝り、通路のほうへ歩いて行った。
「ここ、通り道で邪魔になるわね。よかったら中にどうぞ」
塚本由貴が、三人を楽屋に招き入れた。殺風景なおしろいくさい空間には、誰の姿もなかった。「ここのほうが落ち着くね」と、賢一が言った。
「いまみんな、観に来てくれた友達たちと舞台で写真を撮ったり、おしゃべりをしに出払ってるのよ」
「へーえ、楽屋ってこんな感じなの」
夏美は興味を示し、部屋の中を見回した。
十畳ほどの空間。足下がひんやりするのは、コンクリートの打ちっぱなし仕上げのせいのようだ。壁二面に鏡が何枚もはめこまれている。鏡の前は一枚板のカウンターだ。右手に給湯室があり、その奥は洗面所らしい。
一枚の鏡の前のカウンターに、あの黒いつば広の帽子が載せてあった。塚本由貴の化粧台なのだろう。雪子の目はそこに釘《くぎ》付けになった。
「演劇部に入ったんですってね」
塚本由貴が、中学生二人に言った。「J女子学院の演劇部と言えば有名だわ。今度、上演するときは、ぜひわたしも観たいわ」
雪子は、ハッとして塚本由貴へ顔を向けた。彼女の言い方に、何か賢一のそれと共通するものを感じ取ったせいだった。彼女が賢一から〈雪子の情報〉を得ているのは間違いない、と思った。二人のあいだで、雪子のことや夏美のことが話題になっているということだ。
――どうしてなの? 先生とわたしのあいだでは、塚本由貴のことなど、今日の今日まで話題にもならなかったのに。
意識してはいた。けれども、雪子は彼女のことを賢一の前で一度しか口にした憶えはなかった。
「わたしは舞台に立つことはないけど、ユキは将来の女優候補なんですよ。面接でいきなり『役者をする気はない?』なんて聞かれちゃったんだから」
夏美が、雪子の背後から肩に手を置いて、ねえ、ユキ、と言った。
「わかるわ」
と、塚本由貴がぽつりと言った。気がついたら、彼女と賢一は戸口を背にして、二人並んで立っている。
「雪子さんには、なんて言うか……きらりと光るものがある。舞台に立たせてみたい、と思わせるものがある」
そう続けた塚本由貴の目に、優しさと鋭さが同居した不思議な輝きがあるのを雪子は見た。落ち着かない気分だった。
「そういうこと言われても、わたしにはわからないけど」
雪子は、すねたようなふてくされたような言い方で、下を向いた。
「いつもこうなんだよ」
と、賢一が意識的にか高い声を出した。「ユキちゃんはね、こっちが大丈夫、と言っているのに、『自信がないの、わたし』なんてね。中学受験のときもそうだったんだ。俺が太鼓判を押しているのに、信じようとしないんだからな」
「そんなことないわ」
雪子は、きっと顔を上げた。「わたし、先生の言うこと信じたじゃないの。だから、一生懸命勉強した。J女子学院なんてハードルが高すぎると思ったけど、一生懸命練習して、飛び越えた。先生の言うことを信じようとしないなんて、そんなの、うそだわ」
雪子の勢いに気圧されたように、三人とも胸をつかれた顔になった。雪子は、それで自分の失態に気づいた。
「あ、ああ、わたしのほうは裏方なんです。ユキと一緒に面接受けたのに、『あなたも舞台に』とはまったく誘われなかったんです。これでもいちおう女の子ですからね、ショックだったんですよ。わたしにはきらりと光るものなんて、誰も見出してくれないんですよね。みんな、見る目がないと言うか」
その場を救うように、夏美がおどけた調子で言った。
「あら、ごめんなさい。夏美さんの中にきらりと光るものがない、と言ったわけじゃないのよ。あのね、その……」
と、塚本由貴が慌てたように言い、救いを求めるような目を賢一に向けた。
「わかってますって。うちらも写真、撮りに行きましょうか? わたし、舞台の上で一度、写真を撮ってみたかったんです」
夏美の声はあくまでも明るい。
「そうだね、行こうか」
賢一も言った。「ここは落ち着くけど、おしろいくささと煙草くささには閉口するよ。窓もないし、あまりいい環境とは言えないね」
「ねえ、ユキ、行こう」
動こうとしない雪子を、夏美が心配そうな声で促した。
「わたし、ここで待ってるわ。もう少しここにいたいの」
雪子は言った。賢一と塚本由貴が顔を見合わせた。賢一の喉仏《のどぼとけ》が動いた。
「わたし……楽屋の雰囲気って好きみたい。ここにいると落ち着いた不思議な気分になれるの。ここは、舞台に上がる前の準備をする場所でしょう? もう一人の自分、違う自分になる準備をする場所。そういう魅力があるのかもしれない」
「あ、ああ、そういう魅力に雪子さんもとりつかれたのね。わたしもそうなの。じゃあ、ここで待っててね。写真撮って来るから。雪子さんもあとで」
塚本由貴が、ややうわずったような早口で言った。
三人が部屋を出て行き、雪子は一人になった。
雪子は、ためらわずに塚本由貴の化粧台の前に進んだ。鏡の中に自分がいた。おしろいっけのまったくない素顔の自分だ。
「わたしにだってできる」
雪子は、そう口に出していた。
――わたしと塚本由貴との年齢差は、違う自分になることで埋められるんだわ。舞台に立つということは、中学生のわたしが二十歳の成熟した女性にも、三十歳のキャリアウーマンにも、三十五歳の主婦にもなれるってことなんだから。
化粧ポーチの脇《わき》に口紅が一本立っていた。操られるように手を伸ばし、ゴールドのキャップをはずした。ケースをひねると、先が丸みを帯びた真っ赤な塊がゆっくりと押し出されてきた。それは、舞台のせりに似ていた。毒々しい血の赤。
唇に塗ってみた。一瞬で、小麦色の肌の色が純白に変わった。
――塚本由貴が、こんなもので先生を誘惑しようとしているんだったら。わたしだって変身できる。いますぐおとなになれる。七年でも十年でも、一瞬で飛び越せる。
雪子のまぶたの裏に、暗がりで見た、すばらしく整った賢一の横顔がちらついた。
雪子は、黒いつば広の帽子を手に取り、かぶった。前髪がすっぽり隠れた。思ったより軽い帽子だった。違う自分になった気がした。少なくともそこにいるのは、中学一年生の自分ではなかった。
「そうよ」
と、雪子――柴田葉子は言った。「殺されたのは、わたしの姉。わたしたち、子供のときに離れ離れになったの」
鏡の中は、客席になった。雪子はセリフを続けた。「……姉に再会したのは、小学校四年生のときだったかしら。あの日は雪が降っていたわ」
雪子は手のひらを上に向けて、天井を仰ぎ見た。天井は曇天の空と化していた。その空から紙を切り刻んだような四角い雪が舞い降りてきた。手のひらに受けると、パサパサした紙の雪は冷たさを持った本物の雪に変身した。
「姉妹がひしと抱き合う感動的な再会なんかじゃ、全然なかったわ。そういうのは、そう、ドラマの世界の中だけよ」
雪子は、柴田葉子として笑った。自分をあざ笑うように、自分に注目するすべての人間をあざ笑うように、高らかに笑った。
笑いがやむと、きっと顔を正面に戻し、「大っ嫌いよ」と吐き捨てた。鏡の中で、柴田葉子の顔が歪《ゆが》んでいた。激しい動きで、黒い帽子がずれていた。
「死ねばいいと思ってたわ、お姉ちゃんなんか。お姉ちゃんを見ていると、まるで自分を見ているような気がした。まるで鏡の中の自分……」
目の焦点がある箇所で合い、雪子の身体は凍りついた。鏡の中に、本物の柴田葉子、塚本由貴がいた。
雪子は慌てて帽子を脱ぎ、後ろ手に隠すようにして、くるっと向きを変えた。塚本由貴が楽屋の入口に立っていた。
「ご、ごめんなさい」
と、雪子は震える声で言った。「無断で帽子なんかかぶってしまって」
「いいのよ」
塚本由貴は、穏やかなやさしい声で言い、首を横に振った。芝居をしているような柔らかな振り方だった。そして、微笑を浮かべると、すっと腕を前に伸ばし、きれいな姿勢できれいな拍手をした。
「雪子さん、すごいわ。わたしよりうまいくらいよ」
「そ、そんな……」
拍手は続いている。乾いた響きが耳に痛かった。穴があったら入ってしまいたいくらいだった。雪子は、「やっぱりわたしも上に行きます」とドアへ向かった。塚本由貴に自分のセリフを聞かれてしまった恥ずかしさで、顔が火照っていた。
「どうした?」
後ろから賢一が顔をのぞかせた。続いて、夏美も。「あのね、上がすごく混んでるの。最初に楽屋で記念写真を撮ろうか、っていう話になって」そこで、異様な雰囲気に気づいたらしく、夏美は口をつぐんだ。
「ど、どうしたの、その顔、ユキ」
その顔と言われて、雪子ははじめて、自分が塚本由貴の帽子を無断でかぶっただけでなく、彼女の口紅も無断で使ったことを思い出した。
「あのね、雪子さん、すごいのよ。わたしの、ううん、柴田葉子のセリフを全部、完璧《かんぺき》に記憶しちゃってるの。一度観ただけでよ。わたしの代役で出られるくらいうまかったの。わたしたち、雪子と由貴でしょ? 名前で親近感を持っていたけど、さっきの迫真の演技を見て、ますます近づいた気がして嬉《うれ》しいわ」
塚本由貴が、興奮した口調で、そのときの様子を語ってみせた。
「ユキ……」
夏美が、呆然《ぼうぜん》とした顔を親友に向けた。
賢一も、あっけにとられたような顔をしていたが、ふっと表情を崩し、「ユキちゃんの記憶力がすごいのは、俺《おれ》がいちばんよく知ってるよ。受験勉強で実証済み」と塚本由貴に言った。そして、雪子へ向くと、「だけどさ、その顔はいただけないね。ユキちゃんにその真っ赤な口紅は似合わないよ。やっぱりユキちゃんには素顔がいちばんよく似合う。それじゃ、まるで七五三だよ。ああ、ユキちゃんの七五三のときの写真を見せてもらったことがあるんだ。叔母さんがロスに送ってくれてね。なんだかそのときの顔とだぶって見えちゃうよ」と、笑いながら言った。
――七五三? 先生にとって、口紅を塗ったわたしは、三歳や七歳のときのわたしと変わらないってわけ?
抑えようと思ったが、無理だった。まぶたの裏が熱くなった。視野がぼやけた。塚本由貴が、真顔で賢一にひとことふたこと何かつぶやくのが見えた。夏美が「七五三はあんまりじゃない? 先生」と口を尖《とが》らせ、賢一に抗議する姿がぼんやり見えた。
雪子は、夏美と賢一のあいだをすり抜け、楽屋を飛び出した。
「ユキ!」
夏美が追って来た。雪子は立ち止まらなかった。ビルの階段を駆け降りた。二階の踊り場で夏美に追いつかれた。背は自分のほうが高いが、足は夏美のほうが早いのを、雪子は忘れていた。
「待ってよ。ユキの気持ちはわかるけど、でも……逃げないで」
雪子は親友と向き合った。二人とも息をはあはあ言わせていた。夏美の額に汗が浮かんでいた。
「友達ならわかるでしょ? あれ以上、あそこにいられない。わかるでしょ、夏美」
はじめて思いきり泣けた。雪子は、夏美の肩で泣いた。
「わかるよ。だけど、みんな心配するよ」
「みんなって」雪子は顔を上げた。
「先生と……塚本さんが」夏美は、少しおどおどした口調で答えた。
「塚本由貴が心配するはずないわ」
「ユキ……」
「わたし、笑われたのよ、あの女に」
「そ、そんなふうに考えちゃだめよ」
「先生にも」
「先生は、ユキのことを笑ったんじゃないと思う。確かに、七五三のたとえはひどいと思ったけど。でも、あれは親愛の情で……」
「親愛の情? 愛情じゃないのね」
「それは……」
夏美は、視線をわずかにさまよわせたが、「でも、とにかくいまは戻ろうよ。『一人芝居しているところを見られちゃったんで、照れちゃったんです。今度は照れずにお稽古しましょう』、そんなふうに言って平気な顔して戻ろうよ。先生を安心させてあげようよ」
「できると思う?」雪子は、弱々しい笑みを浮かべて聞いた。
「…………」
「夏美ならできるかもしれない。性格、明るいし、先生のこと何とも思ってないから。でも、わたしにはできない。好きな人の前であんな恥をかかされて。セリフを聞かれただけじゃなくて、拍手までされたんだよ。もう戻れない。いまは戻れない。ねえ、お願い、夏美。夏美だけ戻って。うまくごまかして。『楽屋の空気で気分が悪くなった』と言って。ううん、朝からかぜぎみだったと言って。うまい言い訳しといて」
雪子は、夏美の手を振り払って、階段を駆け降りた。
「ユキ!」夏美がしつこく追いかけて来た。
「お願いだってば」
雪子は、振り向くと、身体を二つ折りにして声を振り絞った。本当に頭痛も腹痛もした。「わたしをほっといて。一人にして。友達なら、わたしのことが好きなら……お願い」
雪子は駅まで走った。通りすぎる人が、自分に好奇の目を向けるのがわかった。もう夏美が追いかけて来る気配はなかった。ホッとしたと同時に寂しさも感じた。新たな涙が出てきた。トイレに駆け込んだ。くしゃくしゃの顔が鏡に映った。雪子の顔の中で、真っ赤な唇が、赤い色紙でも切り抜いてぺたんと貼りつけたかのように浮いていた。雪子は、はじめて自分の顔を客観的に見た思いがした。ぽってりと厚い、羞恥心《しゆうちしん》を失った鈍感さをたたえた唇だった。まるでいまの自分のようだ、と思った。
思いきり顔を洗った。涙も一緒に洗った。が、洗うあとから湧《わ》いてきた。
11
笠原夏美にとって、男性と二人で喫茶店に入るのは、これがはじめてだった。雪子には、高木賢一のことを「趣味ではない」と言ったが、それは「大嫌い」という意味ではなかった。好きか嫌いかどちらかに分類すれば、間違いなく「好き」の部類に入る。だが、賢一に夢中になっている親友の前では、「先生のことは好き」とは言えなかった。彼女に違う意味で受け取られるおそれがあったからだ。だから、そっけなく「趣味じゃない」とおとなぶって宣言したのだった。
けれども夏美は、賢一に会って少し話をしただけで、「この人は絶対にわたしを好きにならない」と直感もしたのだ。自分を愛する可能性のない男を、夏美は好きにならない。無駄な情熱は使わない。使うなら、自分の将来のために使う。それが夏美の生き方だった。自分でもさめていると思う。エゴイストかもしれない、とも思う。雪子のように愛する男に情熱を捧げられるタイプの女性がうらやましい。だからこそ、雪子に惹《ひ》かれるのかもしれない、と思っている。雪子は、同性の夏美の目から見ても、どこか守ってあげたくなるところのある魅力的な女性だった。
もともと夏美は、誰かに守られるより、誰かを守りたいという傾向が強い性格である。それは、彼女の育った環境も大きく影響している。彼女の弟、笠原|忠志《ただし》の存在が……。
「楽屋で気分が悪くなったなんて、うそだろ? ユキちゃん、どうしたんだろう。あんなふうに帰ることはなかったのにね」
奥まった丸テーブルにつくと、賢一は煙草を取り出して言った。夏美は、雪子から彼が煙草を吸うとは聞かされていなかったので少し驚いた。その表情に気づいたのか、「ああ、ユキちゃんの家ではね、遠慮してるんだ。叔父さん、吸わないしさ」と言い訳のように言った。「ユキのことで話があるんですけど」と思いきって切り出した夏美を、賢一は「じゃあ」と、近くの軽食が食べられる喫茶店に誘ったのだった。夜の公演のために小休止を取るところだった塚本由貴とは、楽屋で別れた。
「本当に、先生、わからないんですか?」
夏美の中で、じわじわとふくれあがる得体の知れない感情があった。「おなかすかない? 何を頼んでもいいよ」と言われたが、彼女はアイスコーヒーだけを頼んだ。雪子の気持ちを思えば、とてもクリームパフェを食べる気にはなれなかった。子供だと侮られたくはなかった。賢一にも、そして……塚本由貴にも。
夏美の前にアイスコーヒーが、賢一の前にホットコーヒーが運ばれてきた。砂糖だけ入れて、賢一は間を置いた問いに答えた。「何が?」
そのしぐさが、夏美には、賢一がとぼけたように見えたので、少し腹が立った。
「ユキの気持ちです」
「ユキちゃんの?」
賢一が、白いコーヒーカップから口を離して言った。指が長かった。夏美は、〈ユキはこの指にも惚《ほ》れたんだ〉と、しみじみとその美しい指を眺めた。煙草の箱は取り出したものの、煙草を抜き出そうとはしない。
「先生にわからないはずないと思います。ユキは傷ついたんです。好きな人の前で恥ずかしい思いをして、それで、いたたまれなくなったんです」
「好きな人……って?」
賢一の顔が怪訝《けげん》そうになった。
「先生です。ユキは先生のことが好きなんです。愛しているんです」
友達の気持ちを代弁しただけなのに、夏美の頬《ほお》は火照った。火照りを鎮めるために、彼女はアイスコーヒーに口をつけた。グラスに口をつけてから、ストローを使わなかったことに気づいた。
賢一は、表情を動かさずに夏美を見つめていた。そして、小さく咳払《せきばら》いをした。夏美の予想ははずれた。彼女は、賢一が「まさかそんなことはないだろう」と、一笑に付すような態度に出ると予想していたのだ。
「先生はどうなんです? ユキのことが好きじゃないんですか?」
「好きだよ」賢一は即答した。
「好きなら、ユキのことを待っていてください。ユキの気持ちを揺すぶらないでやってください。ユキがおとなになるまで」
「ユキちゃんを待っていてください、というのはどういう意味なのかな」
賢一の声のトーンが落ちた。
「わかってるんでしょ? ユキの気持ち。ユキは先生と結婚する気でいるんです。間接的に……先生にプロポーズされたつもりでいるんです」
言ってしまった。しかし、夏美はもう引き下がれない、と覚悟した上で打ち明ける気になったのだった。
「俺と結婚だって?」
今度は、すっとんきょうな声だった。
夏美は、一年以上前の、あの映画を観た日の話をした。雪子があのときの賢一の言葉をどう受け止めたかを話した。聞いているうちに、賢一の顔がだんだん険しくなっていった。聞き終えると彼は、「それは彼女の、ユキちゃんの誤解だよ」と言った。「あのときは、ユキちゃんを捜すことだけで頭がいっぱいだった。頭の中が真っ白になっていた。だから、ユキちゃんを見つけたときは、本当にホッとして、全身から力が抜けてしまった。彼女は、おかしな男にほいほいついて行ったんだ。ロリコン雑誌のモデルにスカウトしようとした男にだよ。危なっかしくて見ていられなかった。だから、ついきつい言葉で叱《しか》ってしまったのは憶えている。だけど……正確に、何をどう言ったのか、よく憶えていないんだよ。ユキちゃんが魅力的なのは……事実だ。世の中の男どもがユキちゃんをどんな目で見ているか、そのことをよく考えるようにとは言った。悲しいことに、この世がけっして健全な世の中でないこともね。小学生の彼女にその思いがどこまで通じたか、本当は心配だった」
賢一は、諦《あきら》めにも似た笑みを唇の端に浮かべて、ため息をついた。「だけど、やっぱり心配したとおりだったんだね。彼女には通じていなかったんだ。そんなふうに、俺の言葉を誤解していたなんて」
――やっぱり……。
夏美は、唇をかみしめたいような思いで、内心でつぶやいた。雪子が書き取ったという「先生の告白」を見たときに感じた違和感は、間違っていなかったのだと思った。夏美自身、雪子の言葉より、自分の直感のほうを信じていた。それでも、彼女との友情を大切にしたかったので、信じるふりをしていた。
――でも、まだ希望はある。
夏美は、すばやく気持ちを切り替えた。いま通じていなくても、これから通じればいい。時間はたっぷりある、と考えた。
「先生と結婚したい、というのはユキの希望というか夢で、それが彼女の中で妄想のようにふくらんでしまった部分はあると思うんです。ユキは本当は、それが自分の希望であることに、心のどこかで気づいているはずです」
夏美は、言葉を選びながら、この親友のいとこの説得にあたった。「先生だって、ユキが好きなんでしょ? いまは先生が二十一歳でユキが十三歳。でも、七年たてば、二十八歳と二十歳です。ユキはおとなになります。それまでユキを待ってあげてください」
「待つって……」
賢一の顔から微笑が消え、戸惑いの表情に変わった。
「ユキの気持ちが変わらないのは確かなんです。ユキの気持ちをわかってあげてください。静かに待ってあげてください」
「…………」
「ユキの気持ちになんか、全然気づかなかった、とは言わせません。ユキは、先生の言葉を誇大解釈していたかもしれないけど、でも、そうした彼女の気持ちは言葉の端々で先生に届いていたはずです。ユキはそれなりに信号を発していました。わたしにはわかります。先生とユキはあんなに仲がいいじゃないですか。相性が合うのは間違いないんです。いまは年の差が気になるかもしれませんが、十年、七年、ううん、ほんの五年でその差は縮まるはずです」
「夏美さん」
賢一は、唇が乾くのだろう、唇をなめた。それでも足りなかったのか、コーヒーで唇を湿らせてから続けた。「正直に言おう。彼女の気持ちにはうすうす気づいていた。だけど……気づかないふりをしていた。気づきたくなかった。まさか、と思う気持ちもあった。銀座あたりを歩く男にとっては、彼女は一人の成熟しつつある女性に映るかもしれないけど、俺にとってはやっぱり可愛《かわい》いいとこなんだよ。これからも、いとことしてのいい関係を続けていきたいんだ」
「いまはそれでもかまいません。でも、さっきも言ったように、五年後、七年後、その差は必ず縮まるんです。先生とユキは、いとこ同士ではなく、一人の男と女の関係になれるんです。先生が、世間体というようなものにとらわれているんだったら、いまは静観していてもらってもいいです。ユキが成人したら、先生の望みどおり、T外語大を卒業して一人前の翻訳家になったら、どうか結婚してください。いとこ同士が結婚できることを、先生だって知っているはずでしょう?」
氷が溶け出したアイスコーヒーにもかまわずに、熱っぽく語り続ける夏美を、賢一は不意をつかれたようなまぶしそうな目で見つめていた。
「それは、彼女がおとなになるまで待って、結婚するという意味かな」
その表現を口にするのがつらそうな声で、賢一は言った。
「障害がなければ、結婚できるでしょう?」
「夏美さん」
賢一は、組んだ腕をテーブルに載せた。ポロシャツから伸びた二の腕の筋肉が、きれいに引き締まっていた。やはり完璧《かんぺき》な肉体と顔を持つ男だ、と夏美は親友のいとこのことを思った。そして、やはり自分とは相性が悪い、と思った。高木賢一という男には、あまり〈本能をかきたてられる匂《にお》い〉というようなものを感じなかった。けれども、なぜ自分が惹かれない彼に親友の雪子が恋こがれ、強く惹きつけられているのかはわかる気がした。
――この世にただ一人のいとこだから。
それしかないと思われた。兄より遠い、けれども、結婚して夫にすることができる、という意味では、兄よりもずっと近い存在のいとこ――従兄――だからだ。雪子は、その遠くてすばらしく近い存在の賢一に、心の底から執着してしまっているのだ、と夏美は思った。
「それは考えられないよ」
「いま考えられなくても、ううん、考えなくてもいいんです。ユキをそっとしておいてあげて。そして、考えるのは五年先でいいんです」
「五年先も……たぶん、同じだと思う」
「えっ?」
「俺の中では、いまのユキちゃんは、オムツをしていたころのユキちゃんで、高い高いをしてやったら、キャッキャッと喜んでいた二歳のころのユキちゃんで、金魚のふんのように俺にくっつき回っていたユキちゃんで、口紅を塗っておすましして撮った七五三の写真のユキちゃんなんだよ。五年先も、十年先も、それは変わらないと思う。ユキちゃんのことは、いとことしてしか考えられない。一人の女性としては愛せない。それは……十年たっても同じだよ」
「うそだわ、そんなの!」
夏美は思わず叫んだ。入口近くのテーブルにいた客たちと店員が、一斉にこちらを見た。声を落として彼女は続けた。「ユキちゃんのことは妹みたいに思っている。そんな陳腐なセリフを言わないで。妹みたいだ、と言いながら、異性として愛してしまう関係は、古今東西、腐るほど小説に書かれています。わたしのまわりにだっています。卒業してから、高校の先生と結婚した知り合い。戦時中や田舎では珍しくなかったといういとこ同士の結婚。すべて、師弟関係や、兄のように慕っていた、妹のように可愛がっていた関係が、男女の愛に形が変化したものなんです。わたしは、ごまかされません。ユキの気持ちは純粋です」
自分でも、興奮しすぎて、何に対して〈ごまかされない〉などと言っているのだろう、と頭が混乱した。それでも、立ち止まるのが怖くて、夏美は一方的に言い募った。「先生だって、ユキの魅力には気づいているじゃないですか。それは女性としての魅力じゃないんですか? 彼女は子供じゃありません。彼女もわたしも同い年です。十三歳、中学一年生です。でも、考えることはおとなの女性と変わりないんです。同じように男の人を好きになり、同じように傷つくんです。それは、ちょっとばかり早熟かもしれません、わたしたち。でも、本当に考えることは、感性は変わらないんです。どうか、世間一般の常識、価値観、道徳観というようなものから解き放たれてください。自由にのびのびと考えてください。ほら、先生だって、ユキが愛しいでしょ? 先生が彼女を冷静に諭してくれれば、必ず彼女にも通じます。先生さえひとこと『待っていてほしい』、そう言ってくれれば、ユキは救われるんです。先生の言動に一喜一憂しなくてすむんです」
賢一は、脇《わき》に置いたままだった煙草に手をつけた。一本抜き出すと、「いい?」と夏美の了解を求めた。夏美がそっけなく「どうぞ」と言うと、店のマッチで火をつけて吸った。一回、二回、三回、煙を吐き出し、透明なガラスの灰皿に揉《も》み消した。もったいない吸い方だが、いまの彼の気持ちを表している、と夏美は思った。
いま煙草を吸った手で、賢一は前髪をかき上げた。男性にしては柔らかそうな髪質だ。夏美は身を乗り出した。彼が大事なことを語る、と直感したからだ。
「君は、自分たちが子供じゃない、と言うけど、俺から見ればひどく危なっかしげで、やっぱり子供だよ」
君、と呼び方を固定した、決めつけたような言い方に、夏美は反論の言葉を用意する暇がなかった。
「自分の感情とうまく折り合いをつけられるのが、おとなというものじゃないかな。不快なことがあっても、顔に出さずにしまっておく。腹の中で怒って顔でにこにこするのも、ときには必要だ。だけど、ユキちゃんはそのあたりがうまくできない。俺の大学の友達に会ったときもそうだった。桜井は確かに、口の悪いやつなんだけどね。ユキちゃんが気分を害したのがわかった。でも、その場はにっこりして、あとで俺にだけ怒りをぶつけてほしかった。俺はユキちゃんとずっと接して来たから、ほかにもいろいろあった気がする。そして、思い込みの激しさ。これはやっぱり、おとなになりきれていない人間の特徴だと思う。ユキちゃんが、保護者としてつき添った俺の言動を誤解したのがそうだね。自分の足下以外は見えなくなる。視野が狭くなるんだ。ほかの人への配慮がなくなる。
さっきのユキちゃんの態度。彼女は、たぶん、誰も来ないと思って自分の世界に入り込んでいたんだろう。観たばかりの芝居の余韻に浸って、自分の演技に酔っていた。そこへ塚本さんが不意に現れた。ユキちゃんは少女じみた自分の行動が恥ずかしくなって、いきなり逃げ出してしまった。確かにユキちゃんは傷ついたかもしれない。だけど、塚本さんもまた傷ついたんだ。君がユキちゃんを追いかけて行ったとき、塚本さんは自分の何げないひとことがユキちゃんを傷つけたのではないか、とひどく気にしていた。あの心配の仕方は、ソワレの公演に響くほどだった。君が彼女のことを成熟したおとなの女性と変わらないと言うのなら、彼女が塚本さんに対してあんな態度をとるはずがないんだ。彼女の口紅を無断で使ったのは、ユキちゃんのほうなんだからね。まずは失礼を詫《わ》びて、ああいう行動をとったことの理由を述べるべきだろう」
賢一の言う〈彼女〉が、最後は、塚本由貴を意味していた。その発音の仕方に、心なしか親しげな感情がこもっているように思えた。
――先生は、ユキちゃんが傷ついたことより、塚本由貴という女友達が傷ついたことを心配してるの? それって、もしかして……。
「でも、ユキの羞恥心をあの喪服の白雪姫、いえ、塚本さんの拍手があおったんです。塚本さんにその気はなかったでしょうけど、ああいう場面を見つけたら、せめてそっとしておいてあげるのが思いやりじゃないかしら。近づいて小さな声で呼びかけるとか、気づかないふりをするとか」
「塚本さんは、ユキちゃんの演技をほめたんだ。ユキちゃんの記憶力に感心したんだ。だから素直にそのことを言った。帽子を無断でかぶったり、大事な舞台化粧用の口紅を勝手に使われたことを責めずにね。そうした彼女の思いやりが君たちにわからないとしたら、やっぱり君たちはそこまで感受性が育っていないんだ。おとなの常識とか良識がまだ備わっていないんだ。そういうことにならないか? 確かに、君たち二人は、ふつうの十三歳の子たちに比べて早熟だ。頭がいい。感性は鋭い。それでも、やっぱりまだまだなんだよ。真っ赤な口紅が似合うような年じゃないように、心の一部もまだ成熟しきっていないんだ。それは事実なんだよ。誰もが認める事実なんだ。俺だって、いま思えば……そうだった。悔しいけど、君たちのころの俺は、子供だった」
何か反論しなければいけない、と夏美は焦った。だが、混乱した頭では言葉を生み出すことはできなかった。その〈成熟していない子供の親友〉のために、こんな屈辱的な場を設け、親友の気持ちをもどかしい思いにかられながら自分の言葉に置き換えて伝え、「あと五年待ってください」などと必死に頼んでいる自分もまた、〈成熟していないおとなにはほど遠い子供〉なのだろうか。そうだとしたら、自分はなんて中途半端な、なんて悲しい時期にいるのだろう、と思った。
「そうかもしれない。だけど、そうじゃない。わたしたちは子供だけど、子供じゃない。おとなの女の人が、わたしたちみたいなことしないって言えるかしら。ユキが二十歳になって、わたしが二十歳になっても、やっぱりこんなふうに同じことをしていると思う」
そんなふうに文字どおり子供っぽい反論をしながら、夏美の目は潤んできた。
「すばらしいと思うよ」と、賢一が言った。
「えっ?」
「君たちの友情さ。いや、夏美さんのユキちゃんを大切に思う気持ちかな。だけど、いくら友情が厚くても人の気持ちは変えられない。それは憶えておいたほうがいい」
「先生の気持ちの中には、もうユキが入り込む余地はないんですか? いまそう結論を出してしまってもいいんですか?」
夏美は食い下がった。「先生はいま、一人でしょ? つき合っている人がいないのなら、ただじっと待ってあげてもいいじゃないですか。人間の気持ちは永遠に変わらないものじゃないんです」
「ユキちゃんの気持ちについても、同じことが言えるよ。彼女は、熱病にかかっているだけかもしれない」
「いいえ、ユキの気持ちは変わりません」
矛盾していることを言っているのはわかっていた。それでも夏美は宣言した。「絶対に変わらないんです。この世に先生がいるかぎり。ユキはわたしと違って、お嬢さまとして育っています。家具調度品、美術品、骨董《こつとう》品、芝居、芸術と、優れた本物を見る目が養われています。ユキは、自分の価値観や美意識に自信を持っているんです。それが彼女の魅力でもあるんです。本物を見る目は、ものに対しても人に対しても同じです。ユキは、本物を見る目で先生を見て、先生を選んだんです。だから、先生はユキにとって絶対なんです。それは未来|永劫《えいごう》、変わりません」
「じゃあ、これも正直に言おう」
賢一は、ふうっと伸びをすると言った。「どの程度をつき合っていると表現するのかよくわからないが、たまに二人きりで会う仲の女性ならいるよ。つまり、デートってことになるかな」
夏美は息を呑んだ。死刑を宣告されることがわかっている被告人になったような気がした。「大学の友達だ」
賢一は名前を言わなかったが、その雰囲気からすでに夏美は察していた。
「さっきの塚本由貴さんですか?」
賢一はうなずいた。
やっぱり、と夏美は思った。胸が締めつけられた。最悪の結論を引き出してしまった、と気づいた。自分さえ、こういう機会を持たなかったら、賢一に親友の本当の気持ちを伝えようと思いつかなかったら、彼女の親友は「先生の告白」を信じ、その言葉に酔った幸せな状態のままでいられたのに、と思った。
「彼女のこと、好きなんですか?」
知ってしまった以上、遠回しの質問はできなかった。
「好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと答えると思う」
賢一は、ずるいと思えるような答え方をした。
「それは、ユキのことも同じでしょう?」
夏美は切り返した。
「ユキちゃんは、中学一年生の可愛いいとこだ。塚本さんは、同い年の女友達だ」
その違いは決定的だ、というふうに賢一も切り返した。夏美は不思議だと思った。雪子にとっては、いとこである賢一が、将来の伴侶には彼以外考えられないというほどの大切な異性なのに、賢一にとってはそのいとこであることが、異性だと意識できない壁になっている。どこがどう違うのだろう、と思った。どこも違わない気もすれば、永遠に交わらない二本の線路ほどのかけ離れた違いのような気もした。
「塚本由貴さんのほうはどうなんですか?」
「彼女からは、つき合ってほしい、とはっきり言われた」
賢一の言葉に、夏美は驚いた。舞台の上では別だったとはいえ、ふだんは楚々《そそ》とした塚本由貴のどこに、そんな大胆さが潜んでいるのだろう。
「好きだと告白されたんですね?」
賢一は、ふたたびうなずいた。
――もう、どうしようもないわ。先生は、あの女に惹かれている。わたしの直感に狂いはないのよ。
結論は出ているというのに、夏美はもがきあがいた。どこかに針の穴ほどでいいから、ユキを助ける道はないものかと必死に捜した。舞台に喪服の白雪姫が現れたとき、雪子の顔が動く気配を感じた。そのとき、雪子は賢一を見たのだろう。そして、賢一はおそらくまっすぐ舞台を見ていたはずだ。舞台の上には、塚本由貴がいた。
雪子の不安を、そして自分の不安をも払拭《ふつしよく》するために、「大丈夫よ。先生、彼女のこと何とも思ってないよ」と軽い調子で言ったが、実際は夏美自身、自分の言葉に自信がなかったのだった。
「だったら、どうしてわたしたちを誘ったんですか? 塚本由貴さんの出るお芝居なんか、どうしてユキに観せたんですか?」
あとはただ、雪子への思いやりを欠いた賢一を責める言葉しか出てこなかった。
「どこかで、気づいていたのかもしれない。どこかで、ひどく不安だったのかもしれない」
賢一は、宙を見つめて言った。「さっきも言ったように、ユキちゃんの気持ちにはうすうす気づいていたんだ。若いだけにつっ走ったら怖いと思った。一途になられたら面倒だと思った。怖かったんだ。だから、気づかないふりをして、ユキちゃんにそれとなく彼女を、塚本由貴さんを見せたかったんだろうと思う」
「そのこと、塚本さんには?」
「いや」
賢一は、ゆっくり首を振った。「話してはいない」
「どうして……」
声が詰まった。夏美は、手をつけるのを忘れていたアイスコーヒーを飲んで、言い直した。「どうして、よりによって、ユキと同じ名前の人なんか選んだんですか? 先生は、いまは塚本さんのことを『塚本さん』と呼んでいるかもしれません。でも、そのうち『由貴さん』と呼ぶかもしれないんですよ。いえ、『由貴』と呼び捨てにするかもしれない。ふざけたときは『由貴ちゃん』と呼ぶかもしれない。呼び方は同じ『ユキ』であって、でも『ユキ』じゃないなんて。そんなの、ひどい。ひどすぎると思います。いちばん傷つくのは、先生でも塚本由貴さんでもない、やっぱりユキだと思います」
夏美は、それ以上涙をこらえられずに席を立った。
「わかった」
賢一が、思いつめたような声で引き止めた。
夏美は立ったまま、彼の次の言葉を――まさに宣告を待った。
「ユキちゃんがずっと誤解したままというのも都合が悪い。このまま知らないふりをし続けるのも、彼女には残酷すぎるかもしれない。ユキちゃんにちゃんと話すよ」
「ちゃんと話す?」
「俺の気持ちをね」
「待って」
夏美の全身から力が抜けた。席に座り込んだ。「ちょっと待って。ユキのために待ってあげて。そんなに急がないで。先生は、塚本さんとつき合ってはいるかもしれないけど、でも、いますぐ結婚するわけじゃないんでしょ? だったら……」
――だったら、まだ望みはある? わたしはそう言いたいのだろうか。いや、そうじゃない。でも、とにかく待ってほしいのだ。結論を早急に出してほしくはない。ユキに決定的なひとことを突きつけてほしくないのだ。
夏美は、混乱する頭でめまぐるしく思い巡らせた。
「わかってるよ」
賢一が穏やかに言った。「ユキちゃんがとても繊細な子であることは承知している。あの子は、繊細さと大胆さが同居している、そういう子だ。ユキちゃんには、段階を踏んで、少しずつ理解してもらうよ。少しずつ、俺の気持ちをね」
12
四日後の水曜日。夕飯の席に現れた賢一に、雪子は用意していた笑顔で言った。
「先生、このあいだはごめんなさい。わたし、あのときちょっとおかしかったの。先生も言ってたけど、あの楽屋、空気が悪かったでしょ? いま思えばあれ、煙草の煙やらおしろいやらが混じった匂《にお》いだったのね。うちはパパも誰も吸わないから、煙草の匂いって苦手なの。あの日は朝から体調が悪かったし。そこへもってきて、わたしの拙《つたな》い一人芝居。あれは、お芝居に感動したせいもあるんだけど、ちょっとまずかったよね。まるで、万引きの現場を見られた少女みたいに突然、逃げ出しちゃったりして。恥ずかしかったのと気分が悪かったからだけど、あの行動はとてもそう思えないよね。もっと場を心得たほうがよかったと反省しています。先生にも夏美にも、それから……塚本さんにも、ご心配おかけしました。本当にごめんなさい」
一気に放出してしまったら気が楽になった。賢一は、「あ、ああ」と言ったきり、戸惑ったような表情で雪子を見つめている。
「本当にまだまだ子供ね、この子って」
特製の中華風サラダを大きめのボールに入れ、トレイで運んで来た千恵子が、苦笑して言った。澄夫は、顧客との打ち合わせが長引いているようで、まだ食卓にはついていない。
「聞いたら、この子だけ早く帰って来ちゃったっていうじゃないの。いきなりベッドに倒れ込んで、『ママ、頭が痛い』ですって。この子、熱出しちゃったのよ。かぜひいたらしくて。次の日、夏美さんがお見舞いに来てくれたけど。あの子、友達想いのやさしい子よね。それにしても、雪子ったら、賢一さんに連れられてお芝居観に行って熱出しちゃうなんて、知恵熱を出していたころと全然変わらないわね。きっと楽しいお芝居観て、興奮したんでしょう」
あの日、幸運にも熱を出したのは、本当だった。微熱程度だったが、夏かぜをひいたのだ。それが朝から体調が悪かったという言い訳につながって、雪子は救われた気がした。
「治るのも早くて、次の日、夏美さんが来るころにはケロッとして。この子が三、四歳のときがそうだったの。さっきまで元気だと思っていたのが、ぐったりなって、あれよあれよというまに熱を出したり、かと思うと、ウンチしたら急に元気になっちゃったり。あら、ごめんなさい、ご飯時に」
「そう、まだわたしって、子供なんだ」
雪子は、ちろっと長い舌を出した。「あーあ、おなかすいた。ねえ、先生。今日は先生の大好物のロールキャベツなんだよ」
「あ、う、うん」
賢一は、先日とはうって変わったはしゃいだ雪子のペースについていけないようで、戸惑いの表情を続けていたが、ロールキャベツと聞いて、前に出されたスープ皿を見た。ふつうより大きめに作ったロールキャベツが三つ入っている。
「今日は、生クリームを多めにしてみたのよ。賢一さん、好きでしょ?」
千恵子が、スプーンを渡して言った。
「え、ええ、もうこれには目がありません」
そう応じて、賢一もようやく笑った。
雪子は、賢一のその様子を見てホッとした。子供っぽくふるまうのも、明るくふるまうのも、すべて雪子の緻密《ちみつ》な計算の上でのことだった。
食事の途中で、澄夫が現れた。四人の会食はいつもどおりに会話が弾んだ。
食事が終わり、雪子と賢一は二階の雪子の部屋へ上がった。参考書を広げようとした雪子に、「始める前に」と賢一がやや遠慮がちに切り出した。「夏美さん、お見舞いに来たんだろ? 何か言ってなかった?」
「何かって?」
参考書から顔を上げて、雪子は聞いた。
「だって、あんなふうに友達が飛び出して行っただろ? 夏美さんはあのあと、『ユキちゃんに、気分が悪くなったから先に帰る、って言われた』と報告したけどさ。彼女は俺たちのことどんなふうに言ったかな、と思って」
俺たち、という言い方に雪子は引っかかったが、先日、夏美と話し合ったような作戦で行こう、と決めたからには、方針は崩せなかった。雪子は、笑顔を保った。
「先生もそうだけど、とくに塚本さんが『わたしのひとことが雪子さんを傷つけたんじゃないかしら』とすごく心配していた、って言ってた。それもそうだよね。あんな逃げ出し方をしたんだから。で、わたし、お二人に謝ろうと思って。だから、先生、塚本さんに謝罪する場を設けてくれない?」
意識的に軽い口調を心がける。
「えっ?」
賢一は、思いがけなかったのか、背筋をビクッとさせた。椅子《いす》がギシッと音を立てた。
「だって、いまのままだと針のむしろ状態で、つらいんだもん。わたし、夏美にも言われて、本当におとなげなかったな、と反省したの。いくら自分の世界に入り込んでいたとはいえ、塚本さんの帽子をかぶったり、口紅を使ったりしたのは、いけないことだし。あのときは……なんだか、たまらなく別の自分になりたかったの。おとなになれる気がしたの。それで気がついたら、口紅を真っ赤に塗ったくっていた。自分では似合うつもりでいたのね。演じようとしていた情熱的なおとなの女に、すっかりなりきっているつもりでいたの。だけど、先生に言われてハッとした。わたしの顔から、あの口紅は浮いていた。それもわからず演じ続けるわたしはピエロもいいところ。おとなになるには、どんなに外見をおとなぶって見せようとしてもだめ。まず内面を磨かなくちゃ。それに気づいたの。うちの演劇部がわたしにくれる役だって、きっと化粧なんかいらない、素のままのわたしで演じられる役に決まってると思う」
「そうだよ、ユキちゃんは素のままがいちばんきれいだ」
「でしょ?」
雪子は、顎《あご》を上げて得意げなポーズを作ってみせた。「こういう時期って、長い人生から見たら、星のまたたきみたいにすごく短い瞬間なんだよね。過ぎてから『ああ、もったいなかった。もっとのびのびと楽しんで生きればよかった』って思う。あんなに背伸びすることなかったんだ、って思う。そういうもんだって気づいたんだ。夏美もそう言ってくれた」
「夏美さんは……ほかには、どう言ってた?」
賢一は、探るような目で尋ねた。
「ほかには、って……別に」
雪子は、なぜ賢一が〈夏美が自分にどう言ったか〉にこだわるのか、訝《いぶか》しく思った。夏美からは、お見舞いに来たときに一部始終を聞かせてもらっている。夏美の話はこうだった。
――「ユキに言われたとおりに報告したからね。二人ともすごく気にしていたようだったけど、『ユキの気分が直ったら、わたしから聞いてみます。ユキのことだから大丈夫』と言って安心させといたよ。先生は楽屋に残ったけど、わたしはつまんないから帰ったの。本屋に寄ってハンバーガー食べて、一人寂しく帰ったよ。もう帰っているかと思ってユキのところに電話したら、かぜひいて寝てるって言うじゃない。少しそっとしておいてあげようと思った。あの二人? わたしの勘だとたまにデートはしているみたいだね。だけど、まだ恋人同士って仲には至っていない感じ。お互いに好意は持っているような感じだけど、先生にとって塚本さんは、大学生の仲間、ガールフレンドってとこかな。わたしが残って、二人の様子をじっくり観察したほうがよかった? でも、大丈夫。あのあと二人きりじゃなかったから。塚本さんはソワレもあったから、すぐ劇団の人たちと打ち合わせに入っちゃったみたいだし、先生は先生で図書館に行く予定があったみたいだから」
雪子は、賢一に「夏美はわたしが気分が悪いからと帰ったあと、先生たちに報告に行って、一人でつまんないからと先に帰った、と言ってたよ」とだけ伝えた。もちろん、賢一と塚本由貴のことを夏美がどう報告したか、などについてはひとことも触れなかった。
「ふーん、そう」
賢一は、顎を揺すり、「ユキちゃんはユキちゃんで、俺たちを傷つけたんじゃないか、と一人思い悩んでいるんじゃないかと思ってさ。なんか気になっちゃったんだ」とこちらも軽い調子で言った。
「まさか、わたし、そんなにデリケートな女じゃないよ。今日、先生に謝って、次に塚本さんに謝ったら、それできれいさっぱり忘れようと決めてるし」
雪子は笑った。
「そんなこと、こっちも承知してたけどさ」
賢一も笑った。
「夏美もね、賛成してくれたの。先生に話して、塚本さんに謝る場を作ってもらったほうがいいって。だめ?」
「だ、だめなことなんかないよ」
賢一は、面食らったように顎を引き、目を見開いた。「塚本さんも喜ぶと思うよ」
「お邪魔かしら」
雪子は、横目で賢一を睨《にら》むようにして言った。
「お邪魔……って?」
「先生、塚本さんと二人きりでデートしたいんじゃないの? そこにいとこのわたしなんかが加わってお邪魔かな、と思って」
「そ、そんなことないよ」
雪子の愛するいとこは、たじろいだ様子を見せた。たじろがせるようなセリフも、雪子がそう計算して作り出したものだった。
雪子は、一昨日、見舞いに来た夏美に相談を持ちかけた。
…………
「ねえ、先生があの塚本由貴にどんどん惹《ひ》かれていくかもしれない可能性はあるでしょ? 少なくとも好意は持っている。でも、いまならまだ間に合う。塚本由貴の誘惑をストップさせることができると思うの」
「誘惑?」
「気づかなかったの? 夏美。塚本由貴は、先生のことが好きなのよ。わたし、自分が先生を好きだからわかるの。自分と同じ目をしている女は見抜けるのよ。彼女は絶対に先生を愛している。強引に誘惑しようとしている。彼女の武器はおとなの武器。それに対抗できるのは、夏美、何だと思う?」
「な、何かしら」
「若さよ」
「若さ?」
「そう、若さ。わたしが塚本由貴に勝てるとしたら、その武器は若さしかない。若さは、素顔であり、柔軟性であり、素直さであり、吸収力であり、瞬発力であり、立ち直りの早さであり、突き抜けたような明るさであり、そして、漲《みなぎ》るような生命力である……。いい言葉でしょ? わたしが考えたんだけどね。わたし、塚本由貴と同じ土俵に立とうと思うの。ただし、使う武器は違うもの。それで彼女と戦う。先生が、わたしと彼女、どちらを選ぶかよ」
「先生に……告白するの? ぎくしゃくした関係になりたくない、波風を立たせずに静かに待ちたい……んじゃなかったの?」
「先生を恥ずかしい立場になんか絶対に立たせないわ。わたしはあくまでも、自然体で、素のままの自分で先生と向き合うの。先生に、やっぱりわたしの原石のような魅力のほうがいい、と気づいてもらうの。塚本由貴に惹かれたのは一時的なもの、と気づかせるの。そのためには、多少手荒なこともしなくちゃいけなくなるかもしれないけどね」
「て、手荒なことって何よ」
「それは、まあいろいろよ」
「ユキ、何を考えてるの?」
「何って、別に具体的にどうしよう、なんて考えてないけどさ」
「でも、その顔は何か企んでる」
「企んでるだなんて、怖い言葉だな。でも、そうだな、ちょっと考えてることはある。幻滅させればいいってね」
「幻滅?」
「要は、先生が塚本由貴みたいな女を嫌いになればいいんでしょ? ああいう女に幻滅すればいいのよ」
「何か仕掛けるつもり?」
「嫌だな、わたし、そんな怖い女じゃないって。でもさ、一般的に考えて、大学生同士のつき合いなんて長くは続かないよ。夏美もまわりを見てごらん。学生時代のつき合いが円満に続いて結婚までに至るケース、どれくらいある?」
「うーん、あんまりないね。社会人になったら、ほかに目移りしちゃうことって多いって聞くし。学生結婚なんてあんまり聞かないな」
「でしょ? つまり、先生がもし塚本由貴に誘惑されたとしても、その想いは数年で萎《しぼ》んじゃう可能性が大きいのよ。ううん、早いときは一か月。大学時代の恋なんて、そう、はしかみたいなもんよ。だから、わたしはゆったりとかまえることにしたの。焦らず気長にやるの。段階を追って、二人の恋がはしかみたいなものであることに気づかせていくの」
「それって、意図的に壊す、ってことじゃないの?」
「本当に強ければ、外から圧力がかかっても壊れないもんでしょ? 壊れるほうがおかしいのよ。わたしは別に、ブルドーザーで塚本由貴を押し潰《つぶ》すわけじゃないわ。ゆっくり焦らずやっていくの」
「ゆっくり……焦らず……段階を追って?」
「とにかくさ、もたせればいいんだもん。わたしがおとなになるまでに、先生がいくつの誘惑にあおうと、それが壊れればいいの。そして、最終的にわたしに行きつけばいいんだもん。ほかの女と結婚まで、ううん、婚約まで至らなければいいんだもん。最悪、その寸前で阻止すればいいのよ。いい考えでしょ? 夏美、応援してくれるよね。先生に言い寄ってくる女を静かにぶっ飛ばす作戦、とでも名づけようかな。この作戦、一緒に実行してくれるでしょ? やってくれるよね、友達だもん」
「あ……う、うん」
「乗り気じゃないみたい」
「そ、そんなことないよ。ユキが、自然体で先生に接する、というのには大賛成だし」
…………
賢一の困惑した顔を見ながら、雪子は夏美との約束を思い出して、思わずにやっとしそうになった。
「じゃあ、なるべく早く設定して。わたし、あのお芝居観て、個人的に塚本由貴さんのファンになっちゃったし。今度、ゆっくりとお話をしたいなと思って。演劇論なんかもいろいろ聞きたいな」
――敵を倒すには、まず敵に近づき、敵を知ることから。そして、油断させること。
これも、雪子の作戦の一つだった。
「あっ、それから、わたしがユキちゃんで塚本さんがユキさんじゃ、こんがらがるでしょ? わたし、塚本さんのこと『お姉さま』と呼ばせていただくわ。いいでしょ?」
――塚本由貴と自分とを、姉と妹の関係に固定してしまう。あちら側からは、同じ土俵に立ちにくくする。「お姉さま」と甘えるふりをして、彼女から本音を引き出す。
それも、作戦の一つだった。
「あ、ああ、かまわないんじゃないかな。じゃあ、彼女の予定を聞いておくよ」
13
その週の土曜日。雪子は、吉祥寺《きちじようじ》の井《い》の頭《かしら》公園近くにあるフレンチ・レストランに、賢一と連れ立って出かけた。そこは塚本由貴が選んだ店だった。彼女は、吉祥寺のアパートに一人住まいをしているという。賢一が塚本由貴に、雪子が会いたがっていると告げると、彼女は「それじゃ、わたしがお昼をごちそうするわ」と、声を弾ませて喜んだようだ。
雪子は、今年の夏用に千恵子に買ってもらったワンピースを着た。胸に切替があって、下は紺色、上はオレンジ色。小麦色の雪子の肌をいちばんきれいに、中学生らしく清楚《せいそ》に、そして、去年の夏よりはおとなっぽく見せる色でデザインだった。賢一と『ローマの休日』を観たときに着ていた、あの記念すべき洋服は、もう着られなくなっていた。
塚本由貴は、近所の店らしく、軽装で待っていた。とはいえ、Tシャツにジーンズ姿ではない。ノースリーブの黒いサマーセーターに花柄のフレアスカートだ。露になった二の腕がまぶしいほど白かった。
二人が入って行くと、窓側の予約席にいた彼女は、すっと立ち、やや不安をたたえたような笑顔で迎えた。
――黒い袖《そで》なしのセーター……。
雪子には、それが、塚本由貴もまた綿密に計算した上での服装だと思われた。黒はおとなの女の色だ。二の腕をすっかり出すのは、自分の身体に相当自信がないとできない。千恵子などは、「このあたりに肉がついてきたし、しみも一つ二つ浮いてきて、もうノースリーブなんか着られないわ」と嘆いている。
――わたしが、清楚であることと素顔を武器にするなら、彼女は、やっぱり成熟したおとなの女の色気で戦うつもりなんだ。でも、そこに女子大生の知性を加えようとしてもだめよ。わたしは、先生がご指名の難関大学をめざす聡明な中学生なんだからね。
そういう宣戦布告の意味もこめて、雪子は塚本由貴ににっこり微笑みかけ、「このあいだは、ご心配おかけして申し訳ありませんでした」深々と頭を下げた。
「こちらこそごめんなさい。わたし、雪子さんに何かとんでもないひどいことを言っちゃったのではないかと思って、心配してたの。雪子さんへの配慮が足りなかったことを反省しているの。ごめんなさいね。どうか許してね」
謝るのは自分のほうなのに、大げさなほど謝罪の言葉を口にする塚本由貴に、雪子は苛立《いらだ》ちを感じた。
「もういいんです」
思わず強い語調で言い返してしまった。「あ、ああ、すみません。悪いのはわたしのほうだと言いたかったんです。先生にも言われたんですよ。あの口紅は、塚本さんの大事な舞台道具。それを無断で使うなんていけないことだって。やっぱり口紅って、わたしには似合いませんよね。わたし、口紅って本当はあんまり好きじゃないんです。でも、演劇部に入ったから、いずれお化粧しなくてはいけなくなるかもしれないでしょ? そのときのことを考えて、どんな顔になるだろう、と想像したんです。気がついたら、あんなふうに試していて。好奇心強いんですよ。でも、考えてみたら、あまりいいものじゃないですよね。口紅って食べ物と一緒に口に入っちゃう。まるで毒を食べているみたいでゾッとします」
雪子は、化粧することへの批判を含めて、ゾッとします、と肩をすくめたところで、改めて塚本由貴の口元を見た。そして……青くなった。彼女は、ピンク色のほんの薄い口紅しかつけていなかった。先日の毒々しい赤ではない。今日の塚本由貴は、全体に薄化粧なのだ。弓形の眉《まゆ》も描いているのを感じさせない自然の色と形だし、肌の色も透明感があって薄くファンデーションを伸ばしているだけなのがわかる。
だが、薄化粧は、素顔でいることとは全然違う。素顔のときの彼女より、格段にきれいでいるはずだ、と雪子は思い、胸が痛くなるほどの焦りを覚えた。いま雪子が見ている塚本由貴は、確実に賢一も見ているのだから。
塚本由貴は、舞台の上でも、舞台から下りても美しかった。目の錯覚かと思いたいが、それは紛れもない事実のようだ。
雪子は悔しかった。塚本由貴が舞台化粧のようなどぎつい化粧で現れてくれれば、自分との違いが引き立ったのに、と思った。これでは、素顔であることの自分の武器が、本来の威力を発揮できないではないか。
「そうなのよね。わたしも、ああいう派手な舞台化粧は本当は苦手なのよ。でも、舞台に立つあいだは我慢してるの」
薄化粧の塚本由貴は、そう応じて微笑《ほほえ》んだ。そして、「じゃあ、雪子さんのお許しを得て、安心したところで、席につきましょうよ」と促した。
レースのカフェカーテンのかかった出窓のそばの、四角いテーブル席だった。テーブルセッティングがされていた。塚本由貴の前に雪子と賢一が並ぶように設定されている。
賢一が塚本由貴の前に座ったのを見て、雪子は「わたし、塚本さんの隣がいいな」と甘えた声で言った。「近くでお話ししたいの。だめ?」
「えっ? あ、ああ、どうぞ」
塚本由貴は、面食らったような顔をしたが、すぐに手で招くしぐさをして、ウエイターに頼んでセッティングを変えてもらった。
女性二人が、賢一一人に向き合う形に座る。
「お昼のコースでいいかしら。ここはね、キッシュがとてもおいしいの。雪子さん、キッシュはお好き?」
「ええ、大好きです」
「ユキちゃんのとこはね、お母さんがすごく料理上手なんだ。料理教室を開けるくらいの腕前でね。叔母さんの作ったサーモンとアスパラガスのキッシュは絶品だよ。なあ、ユキちゃん」
賢一が叔母の自慢話をした。
「絶品ってほどじゃないけど、わたしもあれは大好き。一度、わたしがパイ生地を作ろうとして、生クリームの分量を間違えてパサパサになったじゃない。あれから、キッシュはママに任せることにしたの」
雪子は、二人だけに通じる話をすることで、塚本由貴に疎外感を与え、優越意識を感じようとした。
――この位置なら、先生がわたしたち二人を見比べられる。わたしが先生と並んでいたんじゃ、先生は塚本由貴だけを見つめることになってしまう。彼女一人に先生の意識が集中する。それは絶対にだめ。許せない。
席替えをしたのも、雪子がそう計算してのことだった。
「まあ、雪子さんのお母さんって、そんなに料理が上手なの。すごいわね。でも、そんなにいつもおいしいキッシュを食べているんだったら、ここを選んだのは間違いだったかしら」
塚本由貴は、美しい眉を曇らせた。それが雪子には、芝居がかったしぐさに見えた。
「そんなことありません。たまには外で食べたいんです。うちは昔から、あまり外食をしないほうなので。父が、母の手料理が好きなんです。それで、影響されてわたしも。でも、いくら母がプロ並みの腕前でも、主婦は主婦です。外でプロが作ったおいしいものを食べるのは、自分が作るときの参考にもなります。わたし、最近、よく母の手伝いをするんですよ」
雪子は、円満な家庭で育った娘であることを強調した。塚本由貴に対してではなく、賢一に対して、〈家庭的な要素を持つ女〉だと認識させようとしたのだ。
「そう。うらやましいわ、雪子さんのおうちって」
ふと塚本由貴が、寂しげな微笑を口元に生じさせた。「ご家族の仲がいいのね。雪子さんを見ていると、昔のわたしを思い出すわ。わたしも母が生きていたら……」目を細めてそこまで言って、彼女はハッとしたように口をつぐんだ。
「塚本さんを産んだお母さんは、ちょうどユキちゃんの年に病気で亡くなったんだよ」
「ごめんなさい、しんみりした話をしちゃって」
塚本由貴が言い、「じゃあ、注文しましょうね。嫌いなものがなければこのコースで」とウエイターを呼んだ。きびきびと注文している。「飲み物は、フレッシュ・オレンジジュースでいい?」と雪子に聞く。「じゃあ、それを」と雪子は言った。賢一はグラスワインを、塚本由貴は雪子と同じものを頼んだ。
「あの……さしつかえなければ、うかがいたいです、塚本さんのお話」
雪子は、身体を塚本由貴のほうへ向けた。「わたしの年でお母さんを亡くしたなんて、さぞかしおつらくて大変だったでしょう?」
「ユキちゃん」
賢一が、たしなめるような口調で雪子を呼んだ。
「あら、いいのよ。こういうお話、雪子さんのこれからの人生に少しでも役立てばいいんですもの」
塚本由貴は、賢一から雪子に視線を移した。「母が死んだとき、弟はまだ小学校二年生だったの。少なくとも、わたしが弟の面倒を見なくちゃいけなくなって……、面倒と言っても、中学一年生にできることなんてかぎられてるわ。お弁当作りや夕飯の支度ね。ろくなものは作れなかった。でも、甘えっ子の弟は母親べったりだったから、わたしがほんの少しでも母親がわりができればいいと思った。父は造園業をしていて、毎日、とても忙しかったの。わたしが高校に入学したとき、父は再婚したわ。再婚同士だった」
そこで塚本由貴は、テーブルに視線を落とした。再婚同士、という言葉が複雑な重みを感じさせた。父親の再婚が娘の生活に何らかの影響を与えたのは間違いない、と雪子は推測した。
「新しい母は……死んだ母より十も若かった。四歳の男の子を連れていた。わたしは、どういうふうに新しい家族を作っていけばいいのか、ううん……本音を言えば、どう新しい母親と折り合っていけばいいのか、義理の弟とどう接していけばいいのか、わからなかったのね。とにかく、弟が新しい母に嫌われてはいけない、それしか頭になかったの。それで……変に弟に厳しくあたるようになってしまった。しつけも前より厳しくした。叱《しか》られる前に先回りして叱ってたわ。弟は、わたしを怖がって、避けるようになった。母親も、そんなわたしを煙たがるようになった。家族が、わたしのせいでぎくしゃくしてしまったのね。不器用な人間なの、わたしって」
「もうそのくらいでいいじゃないか。忘れたいことの告白は」
賢一が言った。
――先生は、すでにこの話を塚本由貴から聞いているんだわ。
それは間違いない、と雪子は思った。身体が熱くなった。
大きな皿を台にして一回り小さい皿に載った前菜が運ばれてきた。会話が中断した。
「ああ、これがお薦めの白身魚のキッシュ。白身魚を肉団子みたいに丸めて焼くの。今日のは……」
「目鯛です」
塚本由貴のあとを、ウエイターが引き取り、ごゆっくり、と去って行った。三人は、「うまそうだな」という賢一の声を合図のようにして、フォークとナイフを手にした。飲み物も続いて運ばれてきた。
雪子はさっきの塚本由貴の話の続きが気になって仕方がなかった。打ち切った賢一が恨めしかった。
――先生が塚本由貴の話をわたしの耳に入れたくないのは、わたしを子供扱いしているせいだろうか。わたしには理解できない話、と決めつけているせいだろうか。
「わあ、おいしい。このほくほくしたまろやかな味が、何とも言えない! こういうの食べられるって幸せだわ」
キッシュを一切れ、口に放り込んで、雪子はオーバーなほどの喜びを示した。それはうそではなかった。すり身にした目鯛のさくさくした舌ざわりと、舌の上でチーズとバターがとろける感じが絶妙だった。
「ねっ、おいしいでしょ? よかった、雪子さんに気に入ってもらえて」
塚本由貴は、肩をすくめてみせた。少女のようなあどけないしぐさだった。
「わたし、最近、自分はなんて恵まれているんだろうと思うんです。以前は、こういうおいしい料理が食べられることが当然のように思っていたけど、世界に目を向ければ、アフリカあたりでは食糧不足で死んでいく子供たちがいっぱいいる。自分の生きている世界って、なんて狭いんだろうとしみじみ思うんです。そんなふうに視野を広げて考えると、自分の悩みがごくごくちっぽけなものに見えてきます。世の中には、いろんな人生があるんだな、とつくづく思います。さっきの塚本さんのお話も……こんなことを子供のわたしが言っては生意気かもしれないけど、わたしが塚本さんの立場だったら、と想定して考えると、深い意味があるような気がするんです」
雪子は、一切れの目鯛のキッシュから、最前の塚本由貴の生い立ちの話へもっていった。
塚本由貴は、胸をつかれたような顔を雪子に向けた。そして、「おいしいキッシュに似合わない、つまらない話じゃなかった?」と聞いた。雪子は、いいえ、とかぶりを振った。
「家庭に、自分の居場所がないというのは、とてもつらくてみじめなものよ。わたしがそうだったの」
塚本由貴は、雪子に励まされたのだろう、声のトーンを食事の前のものに落として続けた。「でも、おかしいわね。わたしのおかげで、弟は新しい母親になついたの。お姉ちゃんが怖いから、母親の背中に隠れる、って形でね。それに、弟に弟ができたのもよかったのかもしれない。男の兄弟同士には、姉のわたしにはわからないけど、相通じるところがあるみたいね。いま思えば、母は……二番目の母のことだけど、彼女もまた、娘とどうつき合っていけばいいかわからずに、手探り状態でいたんでしょうね。男の子は扱い慣れていたから、弟はうまく扱えた。まだ甘えたい年頃だったし。でも、わたしみたいな思春期の女の子は、扱いにくかったのね。もてあましていたんだと思う。それで、わたし、自分の居場所を見つけに岡山から東京に出て来たの。父も母も『大学へ行かせてやる、それだけの余裕はあるから』と言ったわ。わたしは、ためらわずに『東京の大学を受ける』と言った。そのとき、母がホッとした顔をしたのがわかった。母はわたしがあの家から出て行くつもりでいると知って、肩の荷が下りたのね。これで、厄介払いができる、お互いに気を遣って暮らさなくてもよくなる、と思ったのかもしれない。だから、いまここにいるわたしは、逃げて来たわたし。おかしいでしょ? 雪子さん。でも、それが本当なの。雪子さんのように、将来に大きな夢なんてないの。ただただ、居場所がほしかっただけなの。家から逃げ出したかっただけなの。家族の中で孤立していたわたしが、捜し当てた場所がここだったの」
雪子は、まるで役者のセリフを聞くように、その滑らかな語りを聞いていた。
賢一が咳払《せきばら》いをし、怒ったような口調で、「食べるときは食べようよ。ユキちゃんもしつこいぞ。人には触れられたくない部分があるんだ」と言った。
「いいじゃない、先生」
雪子は、ムッとして顎《あご》を上げた。「塚本さんが、いまのわたしの年のときに経験したことなんだよ。もしママが死んで、新しいママが来たら……なんて考えると、わたし、身体が震えてきちゃう。だから、塚本さんのそのときの気持ちはよくわかるの。わたしたちね、女同士、年齢を超えて共鳴し合う部分があるの。いまの話を聞いて、いっそう塚本さんがわたしに近づいた気がしたわ。先生、どうせわたしが聞いても、何もわかりはしない、そう思っているんでしょ? 失礼しちゃうわね。わたしをあんまり見くびらないで、って言いたいな」
賢一は、困惑の表情で、口に入ったキッシュのかけらを咀嚼《そしやく》することも忘れている。
ふふふ、と塚本由貴が笑った。「高木さん、雪子さんに叱られちゃったわね。でも、本当にそのとおりだと思うわ。雪子さんとわたしは、その感性においてほとんど変わらないのよ」
その言葉にドキッとして、雪子はきっと彼女のほうを向いた。それは、まさに自分が言いたかったことだった。外見は、薄化粧と素顔の違いはあるが、中身は変わらない。同じ女同士。二十一歳の感性と十三歳の感性に、さほどの開きはない。
――これって、あなたを女として意識しているわ、という意味ではないか。
「あ、ああ、うん、そうです。そうなんだよ、先生。肝に銘じてくださいね」
雪子が睨《にら》みつけると、賢一は「怖いな」とようやく表情を和らげた。
「よかったわ、話しちゃって。なんだか気分が楽になったみたい。考えてみたら、こんな話、そのへんにごろごろころがっているつまらない話よね。でも、自分の心のうちにだけしまっていると、何かとてつもない大きな秘密のように、比類ない悲劇のように思えてきちゃう。だから、こうやって吐き出したほうがいいのよ。それがわかって嬉《うれ》しい。雪子さんが聞き役になってくれたおかげよ。ありがとう」
「言われてみればそうだな」
賢一が、拍子抜けするほどあっさりと、態度を翻した。「心の中にたまったものを排泄《はいせつ》する行為は、カウンセリングの基本だ。それで気分が楽になるんだったら、そうしたほうがいいのかもしれない」
――先生は、塚本由貴の背負っている重い過去に、同情しているんじゃないかしら。
賢一が塚本由貴を見つめる目に、やさしい色が加わったのに気づいて、雪子は胸がざわざわした。さっき塚本由貴が雪子に話した内容は、すでに賢一が彼女から聞かされているものであることは間違いない。こういう深刻な話を、大勢人の集まるコンパのような賑《にぎ》やかな席で披露したとは考えられない。
――二人は、お互いの過去を話すほど、親密なつき合いをしているのかもしれないわ。
だが、呼び方は、まだ「高木さん」「塚本さん」である。雪子は、その呼び方に希望をつないだ。まだ望みはある、時間はある、と確信した。
雪子の塚本由貴に対する憎しみと嫉妬《しつと》は増した。賢一の同情を引くのもまた、彼女なりの〈誘惑〉の一つだと考えたからだ。
先生に気づかせなくては、と雪子は思った。
――塚本由貴のような暗い過去を背負った陰気な女と、ずるずると深い関係にはまっていくと、必ず厄介で面倒なことが起きる。いまは彼女に同情を寄せているかもしれないけど、そのうちきっと彼女の存在が重苦しいものになる。わたしのように何の不自由もない家庭でのびのび育った女の、明るさ、天真|爛漫《らんまん》さがたまらなく愛しくなるのよ。不幸は不幸を呼ぶ。先生の将来に暗い影を落とす。家庭的に恵まれたわたしなら、先生の運勢を切り開いてあげられる。心の安定をもたらしてあげられる。先生、幻惑されないで。お願い、一時的な同情であることに早く気づいて。お願い、気づいて。
「わかるよ」
賢一は、口をもごもごと動かしてから、ぼそりと言った。「ユキちゃんは、女同士、年齢を超えて共鳴し合う部分がある、と言ったね。それは、女同士だけじゃない。性別を超えても共鳴するものはあるんだ」
「えっ?」
雪子はドキッとした。隣を見ると、塚本由貴は目を伏せている。雪子は、彼女が心得た表情なのを見てとった。
「俺にも……似た部分はあるんだ」
塚本由貴さんと、という言葉を省略して、賢一は続けた。彼の皿は空になっていた。塚本由貴は、音を立てないようにフォークを動かしている。雪子の手は止まった。
「似た部分って?」
「ユキちゃんは、俺の家庭もユキちゃんの家庭と同じように、何の問題もなく円満だと思っているだろ?」
「違う……の?」
「そうだった。そうだと思っていた。少なくとも、去年のクリスマス・イヴまでは。でも、そうじゃなかった。この夏、ロスに帰らなかったのは、親父に会いたくなかったせいだよ」
「お父さんがどうかしたの?」
「おふくろを……裏切ったんだ」
「裏切ったって?」
「ユキちゃんの年なら、もうわかるだろ?」
「女の人が……できたの? 瑞枝伯母さまのほかに?」
「できたんじゃなくて、いたんだね。ずっと隠し続けていたんだよ。ロスに留学生として来ていた女性だ。子供まで……作っていた。男の子をね」
「うそでしょ?」
思わずその言葉が出た。信じたくなかった。
「うそじゃない。おふくろはいま、ロス郊外にある友達の家に身を寄せている。通訳ガイドをしている学生時代の友達のところにね。ときどき連絡をとっているけど、おふくろはアルコールに溺《おぼ》れているらしい。おふくろをそんなふうにした親父を、許すことはできない。彼女は子宮の病気をしている。どうやら、そのころらしいね、親父の裏切りは。そのことも許せない。いずれ、ちゃんとした話し合いがもたれると思う」
「伯父さまに子供までいただなんて、信じられない」
それ以上、言葉が見つからずに、救いを求めるつもりで雪子は塚本由貴に顔を振り向けた。が、彼女は膝《ひざ》の上に手を置いて、黙ったままでいる。その様子に雪子は苛立ちを募らせた。この話も塚本由貴は、とっくに聞かされている、そういう表情でいたからだ。聞かされたときは雪子と同様に驚き、動揺したが、いまはその感情もだいぶ落ち着いている、そんな余裕ある涼しげな表情に見えたのだ。
「一見、幸せなようで、実は壊れかかっている家庭なんて、いくらでもある。自分の家庭も例外ではない。恵まれた幸せな家庭だと思っていたけど、それは見せかけだった。そのことに気づいた。だからよけい、ユキちゃんの家庭は貴重なんだ。仕事熱心だが、食卓の席には極力つくようにする父親。料理上手で家庭的な母親。親想いで、成績優秀で健康な娘。ユキちゃんの家がうらやましかった。家庭教師の日は、だから楽しかった。しかし、一方で、ユキちゃんの幸せそうな家庭を見るのがつらくもあった。あ……いや、それで家庭教師の日を減らしたわけじゃないんだ。それは、本当にユキちゃんに勉強以外のことにも時間を割いてほしかったからだ」
「パパとママは? いまの話、知ってるんでしょ?」
胸に熱い鉄の塊のようなものを抱えながら、雪子は聞いた。いつか、両親がリビングルームでこそこそ話していたのを、立ち聞きしたことがある。あれは、賢一の両親の不仲を、賢一より一足早く耳に入れていたのではないか。そう思った。
賢一はうなずいた。
「わたしだけが知らなかったのね」
賢一に向かっては言ったが、塚本由貴に向けてのものだった。
「話す時期を待ってたんだよ」
賢一の言葉に、塚本由貴がかすかにうなずいたように見えた。雪子の頭に血が上った。が、爆発してはいけない、と自分を抑えた。作戦よ、冷静に作戦を進めるのよ。そう自分の、何かがはぜるようなちりちり音がする胸に言い聞かせた。
――そうか。先生と塚本由貴は、似た者同士だったのね。傷ついた者同士、急速に惹かれ合ったんだわ。
――お互いの同情が深い愛に形を変えるまでに、何とかして壊さなくてはいけない。
雪子は、急き立てられるような思いで息苦しくなった。
「わたし、席をはずしましょうか」
塚本由貴が、遠慮がちに口を挟んだ。「おうちのことですもの。わたしがいては……」
その行動は、雪子には彼女の〈点数稼ぎ〉のように映った。気配りのできる控えめな女であることを、彼に印象づけようとしているように見えた。
「いいんだよ」
賢一は、小さく微笑んで首を横に振った。「ユキちゃんには、また改めて両親から話してもらうようにする。叔父さんも叔母さんも、俺の気持ちを配慮して黙っていてくれたんだよ」
身内のことを、なぜ赤の他人の塚本由貴になど話したのだ。雪子は、賢一を責める思いで満たされた。彼女の身の上話を聞かされ、同情したのだろうが、だからといってつられて自分の不幸を打ち明けることはないではないか。
――先生って、そんなに弱い人だったの?
――塚本由貴は、将来にたいした夢もなく、ただ逃げ場を求めて東京に来たような女よ。そういう女は、同情を買いそうなやさしそうな男を捜して、すぐにその胸に逃げ込もうとするのよ。
賢一を責める言葉と警告を促す言葉が、喉元《のどもと》で止まっている。
雪子は、塚本由貴が、逃げ場所――安住の地として目をつけたのが、賢一のたくましい腕や広い胸だったのだと悟った。
――その場所は、わたしが将来住む場所よ。あなたには絶対に渡さないからね。
雪子は、自分の〈作戦〉が第二段階に入りつつあることを自覚した。
「それは、先生の思いやりなのね」
雪子は、せいいっぱいの笑顔で言った。その笑顔もまた、塚本由貴に向けてのものだった。「わたしに知らせると動揺すると思って、黙っていてくれたのね」
「あ、ああ、うん、まあね」
賢一は、虚をつかれたような顔になって、照れくさそうに答えた。
「それだけ心配されるほど、まだわたしは成長していないってことなのね。でも、わたし、そういう暖かい気遣いに素直に感謝しなくちゃな、と思うようになったの。パパもママも心からわたしを愛してくれているし、わたしのことを心から心配してくれる。先生もそうなんだな、とわかったの」
自分は、恵まれた環境や自分を取り囲む人間に感謝する心を忘れない人間であること、それを誇りも奢《おご》りもしない人間であることを、雪子は言葉を探して必死に強調した。が、言葉の地味さや柔らかさにもどかしさを覚えた。塚本由貴が、家族内の不幸を売り物にするなら、自分はあくまでも円満な家庭の幸せ、家族の絆《きずな》の強さを前面に押し出さなければいけない、と思ったのだ。
「せっかくのごちそうだ。身内の恥をさらすような話はもうやめにしよう」
賢一が、景気づけのように膝を打った。カボチャのポタージュが運ばれてきた。スープのあいだは、会話は少なくなった。メインディッシュは、子羊の香草焼きだった。
「ユキちゃん、塚本さんといろいろ演劇の話をしたかったんじゃないのか?」
器用に子羊の骨を取り除きながら、賢一が言った。
「あ、ああ、そうなんです。その話に入る前に、塚本さんの了解を得ておかなくちゃならないことが」
気をとり直して、雪子は〈作戦〉に入った。「塚本さんのこと『お姉さま』と呼んでいいですか? 『ユキちゃん』が『ユキさん』と呼ぶのは、なんだか恥ずかしいし、紛らわしいでしょ?」
「えっ? ああ、どうぞ。そう呼んでくれてかまわないわ。わたしには弟しかいないから、なんだか嬉しいわ。雪子さんみたいな可愛《かわい》い妹がいてくれると」
塚本由貴は、本当に〈姉のような笑顔〉を見せて言った。
それから、雪子の観た映画、読んだ本の話になった。次には、塚本由貴の好きな映画、好きな本の話になった。賢一が、二人の会話の断片をつなぐ上手な司会役を務めた。
チョコレートムースのデザートになり、最後のコーヒーが出された。
「コーヒー、いいんだろ?」と、賢一が小声で雪子に聞いた。雪子は胸がきゅんとなった。懐かしさが胸にあふれた。はじめて飲んだコーヒーの思い出が、賢一のあの「告白」へとつながる。
「雪子さん、おうちではコーヒー禁止されてるんですって?」
塚本由貴が、ブラックのままのコーヒーを口につけて言った。
――先生は、そんなことまでこの人に話しているんだ。
ふたたび胸がざわついた。
「それは小学生のときの話です」
そう雪子は答えた。あなたと感性はほとんど変わらない、と雪子の人格を認めたようなことを言っておいて、コーヒーで差をつけたことに優越感を抱かれたように思って、気分が悪かったのだ。
「あっ、そうだ。本の話をしていたのに、思い出さなかった」
賢一が、わずかに嗅《か》ぎつけた不穏な空気を吹き飛ばすように、明るい声を出して、隣の椅子《いす》に置いたビニール袋に手を差し込んだ。袋から一冊のこぶりな本を取り出すと、「これ、頼まれていた本」と塚本由貴に差し出した。書店の名前の入った袋には、ほかにも何冊か本が入っているようだ。雪子は、本好きの賢一があいた時間に読むために持ち歩いているのかと思っていた。
「ああ、どうもありがとう」
受け取った本の表紙を、彼女は大事そうに撫《な》で、めくって中を見た。文庫本よりは大きく、単行本よりは小さい、表紙がぺらぺらしたあまり見かけない種類の本である。
「フランスの戯曲論なんだ」
賢一は雪子にそう言って、舌をかみそうなフランス人の名前と本の題名を発音したが、雪子には正確に聞き取れなかった。
「原書で読むの?」
本をのぞきこんだ雪子に、「わたし、フランス文学を学んでいるの。高木さんがわたしが探していた本をたまたま持っていて。時間はかかるかもしれないけど、どうしても読んでみたいの」と、塚本由貴は答えた。目が輝いていた。紛れもなく知性の輝きだった。
英語なら話題に入っていけるが、フランス語となると雪子はさっぱりわからない。
「第二外国語でちょっとかじっただけの俺が、持っていても仕方がない本なんだ。昔、おふくろからプレゼントされた本でね、貴重なものなんだよ。おふくろはさ、あれでも、すっきりやせていたころは文学少女だったんだよ。大学でやっぱりフランス文学を学んでいた。ちょっと夢見がちで世間知らずなところがある。子供の俺でもそう思う」
その夢見がちで世間知らずなところが、夫に愛人を作らせることにつながったのかもしれない。そんなニュアンスを含ませて、賢一は重い口調になった。が、それに気づいたらしく、「返すのは、いつでもいいよ」と、明るい調子で塚本由貴に言った。
「そんなに大切な本をお借りしていいのかしら」
塚本由貴は、媚《こび》を含んだような声で言って、キルティングの大きめの白いショルダーバッグにその本をしまいこんだ。「では、大事に読みます」そして、バッグを椅子の背もたれと背中のあいだに戻した。
雪子は、お気に入りのポシェットを持参して来た。ハンカチにティッシュペーパーにポーチに一つ入れた生理ナプキン。お財布。アドレス帳にリップクリームに櫛《くし》。せいぜい持ち物はその程度だからだ。ところが塚本由貴は、大きめのショルダーバッグを用意して来た。
――先生から、本を渡されることになっていたからだわ。
雪子は、二人だけの約束を作られたことに、本の中身が自分の触れたことのないフランス語だったことに、強烈な疎外感と屈辱感を覚えた。
――わざとやったんだわ。
強烈な疎外感と屈辱感は、塚本由貴への憎悪につながった。雪子の中で、〈次の作戦〉が具体的に形をなした。
「今日は来てくださって、どうもありがとう。とても楽しかったわ」
ランチタイムも終わりが近づいてきた。賢一に促されて、招待した形の塚本由貴が、そう締めの言葉を述べた。
三人が席を立つ。塚本由貴がバッグから赤い財布を取り出すのを見た賢一が、「無理するなよ。割り勘でいこう。俺が二人分出すよ」と小声でささやいた。「いいの。わたしが誘ったんだから」「いや、食事をしたいと言ったのは、ユキ……いや、こっちだよ」と、二人でもめ合っている。
雪子は、「あっ」と声を上げた。二人が会話をやめて、雪子を見た。雪子は、椅子の背からかけてあったポシェットを取ろうとして、ふたを開けたまま、床に落としてしまったのだった。中身が床に散らばった。リップクリームが、賢一の足下にころがった。
賢一がかがみこみ、リップクリームを拾おうとする。そのすきに精算しようと思ったのだろう。塚本由貴が赤い財布を持ってレジのほうへ小走りに向かった。
賢一は、そばにあった手帳にも手を伸ばした。雪子は、すばやく、椅子に置いたままになっていた塚本由貴のバッグに手を差し入れた。手に触れた本をつかみ出し、背中に隠してしゃがみこむ。そして、「もう落ちてないかしら」と賢一の顔を見た。賢一が「はい、どうぞ」と拾ったリップクリームと手帳を雪子に渡し、きょろきょろと見回した。「大丈夫みたいね」雪子が言うと、賢一は立ち上がった。レジのほうを心配そうに見る。雪子は、彼の視線が自分からはずれたのを確認して、あの本を床に置いた。急いで立ち上がる。靴の先で本をテーブルの下に押し込む。一方で、塚本由貴のショルダーバッグをつかもうとした。ところが、先に賢一にバッグの紐《ひも》をつかまれてしまった。
賢一はレジの塚本由貴のところへ行き、精算をすませた彼女に「ごちそうさま。散財させちゃったね」とやさしげに言うと、バッグを渡した。塚本由貴は、紳士的な行為に恥じらうように微笑み、そっと受け取った。雪子は、二人のあいだに一瞬、親密そうな空気が流れたのを感じた。
「ごちそうさまでした」
雪子もにっこりして、礼を言った。胸が激しく波打っている。
塚本由貴が財布をバッグにしまおうとした。雪子は、彼女の腕に自分の腕をからませた。本が紛失していることに気づかせたくなかったのだ。
塚本由貴が面食らった顔をした。賢一も同様だったらしく、「何だよ、ユキちゃん。どうしたの」と、やや声をうわずらせて言った。
「いいでしょ? 塚本さんは、わたしのお姉さまなんだもん。ねえ、お姉さま」
雪子は、甘えた声で塚本由貴にすり寄った。ヒールのあるバックベルトのサンダルをはいた彼女と、ぺったんこの靴をはいた雪子は、ほぼ同じくらいか、雪子のほうが少し大きいくらいだった。
三人は店を出て、並んで歩いた。雪子と塚本由貴の後ろを賢一が歩く。駅に向かっている。
油蝉《あぶらぜみ》の鳴き声が耳に突き刺さる。後ろから、賢一の汗の匂《にお》いが微風に乗ってくる。井の頭公園の入口で、雪子は足を止めた。蝉の声に急き立てられ、ハンカチで拭《ぬぐ》っても額に汗が噴き出る。
「ねえ、お姉さまの家って、このあたり? アパートに住んでるんでしょ?」
「えっ? あ、うん。近くだけど」
「じゃあ、ちょっと寄っていい?」
塚本由貴と賢一の視線が合った。賢一の顔に、動揺の色が走った。
「先生は、お姉さまの部屋に行ったことある?」
雪子は聞いた。賢一に対してというより、塚本由貴に対して、サディスティックな喜びを感じていた。彼女の反応のほうを見たかった。
「な、ないよ」
賢一が照れたように言い、塚本由貴は無言でいた。賢一に助けを求めるような目を向けている。
「わたし、一人暮らしの女子大生の部屋って、ちょっとのぞいてみたいんだけど。だめかな」
雪子は、塚本由貴の腕を揺すった。「一人暮らしに、すごくあこがれてるの」
「わたしの部屋なんて、雪子さんの部屋よりずっと狭いのよ。あんな広くてきれいなおうちじゃないわ」
塚本由貴は、困惑したように言った。やんわりと拒否されたように雪子は感じ、カッとした。
「あら、お姉さま、わたしの家に来たことなんかないじゃない。それとも、先生のアパートに来たときに外から見たとか?」
「賢一……いえ、高木さんのアパートなんか行ったことないわ。話を聞いたことがあるだけよ」
賢一の名前をうっかり呼んでしまい、塚本由貴は取り乱した。発言を撤回するかのように、頭をぶるぶると横に振った。
――賢一さん? 二人は、ときどき名前を呼び合っている仲なんだわ。「賢一さん」と呼ばれた先生は、「由貴さん」と呼び返すの? それとも「由貴」と呼び捨てに?
――ユキ……それは、わたしの呼び名じゃないの。この女は、焦ってるんだわ。先生を、一刻も早く自分のものにしてしまおうとして、過激な誘惑に走っているんだわ。何とかしなくてはいけない。
雪子は、背中に火をつけられた気がした。何かに、誰かに、あおり立てられていた。たきつけられていた。気が急いて、胸が熱く、息苦しくなった。
「ユキちゃん。いいおとなをからかうなよ。塚本さん、困っているじゃないか。俺たちは、そんな仲じゃないよ」
――いいおとな?
賢一の言葉が、鋭く胸に突き刺さった。自分と塚本由貴と、雪子とを、明確に分けた言葉だった。
――やっぱり、先生にとってわたしは子供なのね。子供として見られているのね。
そう見るようにさせたのは、ほかでもない、この塚本由貴だ。彼女のせいで、自分が幼く見えるのだと思った。塚本由貴の生い立ちが、彼女におとなの女の陰影を与えている。そこに、賢一が自分の家庭の崩壊を重ね合わせ、共感を覚えている。守ってあげなくてはいけない存在として、賢一が彼女を見ている気がした。
「じゃあ、先生は遠慮したら?」
雪子は、そっけなく言った。「わたしは女だからいいでしょ? お姉さまは、わたしを先生のように子供扱いはしない。一人の対等な女性として見てくれる。だから、友達としてお姉さまのお部屋に招かれてみたい。それだったらおかしなことないでしょ?」
「えっ? あ、うん、まあ」
賢一は首をすくめた。
「わたしの部屋なんか、見てもたいしておもしろくないと思うけど。でも、どうぞ。歓迎します」
賢一を気遣うようにちらりと見て、塚本由貴は雪子に微笑《ほほえ》んだ。
「あっ……じゃあ、俺は帰るよ」
賢一が、駅の方角へ向かって数歩後退し、おどけた調子で大きく手を振った。
「あら、先生。わたしが一緒なら別にいいのに。女性の部屋を男一人で訪ねるのは問題あると思うけど、わたしといういとこが一緒なのよ。何をそんなに気にしてるのよ」
雪子は、塚本由貴と二人きりになるのが目的だったが、賢一が帰ると言ったときの彼女の反応が見たくて、しつこく誘った。
「い、いいんだよ。読みたい本があるから」
賢一は、怒ったように、手をひらひらさせて拒否した。
「ふーん、そんなに忙しいならどうぞ。わたしは、お姉さまの部屋でコーヒーでもいれていただいて、さっきの先生の大事な本でも見せていただくわ。フランス語だって、メルシー、ボンジュールくらいは知ってるのよ。ねえ、マドモアゼル塚本」
マドモアゼル塚本と呼ばれて、塚本由貴は我に返ったように雪子を見た。
「ああ、ええ、雪子さん。それだけフランス語を知っていれば十分よ」
そして、本と言われて思い出したのか、バッグの中に手を差し入れた。
「じゃあ、俺はここで」賢一が手を振る。
「じゃあね、先生、バイバイ」雪子も可愛らしく手を振る。
「あっ……」
緊迫感を伴った塚本由貴の声が、賢一と雪子の動作を止めた。
「ないわ」
「ない?」
賢一が顔をしかめ、駆け戻って来た。
「あの本がないの。賢一さんから借りた本が」
「うそだろ?」
「でも……」
塚本由貴は、必死になってバッグの中に顔を突っ込まんばかりに探している。「本当にないの。確かに入れたはずなのに」
「お姉さま、入れたっけ?」
雪子は、さりげなく言った。塚本由貴はハッと顔を上げ、雪子を見た。
「わたしが見てたら、お姉さま、先生から受け取って、本をめくって、それで……椅子《いす》の背に置いたような気がしたんだけど」
「ううん、バッグに入れたわ」
塚本由貴が、即座にかぶりを振った。そして、ねえ、というふうに賢一へ同意を求める視線を上げた。
「先生、憶えてる?」
「入れた……気がしたけど、でも、そう言われてみると、俺もよく憶えていないんだ」
賢一は、ごくりと唾《つば》を呑《の》み込んだ。喉仏《のどぼとけ》が動くのを見るのは、雪子には快感だった。
「確かに入れたわ。本当よ」
「でも、ないんでしょ?」
雪子は、塚本由貴のバッグの口をのぞきこみ、「なさそうね」と首をすくめた。「やっぱり、お姉さま、入れ忘れたんじゃない?」
「どうしよう。置き忘れて来ちゃったのかしら。大事な本なのに」
塚本由貴が賢一を泣き出しそうな顔で見た。二人は、同時に行動を起こそうとした。賢一が、塚本由貴の動きを手で制した。
「いいよ、俺が店に戻って見て来る」
「じゃあ、わたしたち、お姉さまの部屋で待ってるわ。この近くでしょ?」
「え? あ、ええ、そこを入ったところのアパートよ」
塚本由貴の返事は、賢一に向けられていた。
「それにしても、お姉さまもしっかりしているようで、案外抜けてるのね。先生の大事な本を、バッグに入れ忘れちゃうなんて。わたしだったら、絶対に落とさないようにがっしり抱きかかえているんだけどな」
雪子は、「じゃあ、取って来る。大丈夫、店にあるよ」ときびすを返した賢一の背中に、聞こえるように大きな声でぶつけた。
「なかったらどうしよう」
賢一が行ってしまっても、塚本由貴は不安そうに小さなこぶしを顎《あご》にぶつけていた。
「あるってば。お部屋で待ってましょうよ」
雪子は、彼女を促した。部屋へも連れて行こうとせず、賢一から借りた本のことに全神経を集中させている彼女が腹立たしかった。塚本由貴のかわりに自分が取りに行く、とすぐさま駆け戻って行った賢一の行動力と熱意、やさしさと寛大さが憎らしかった。
――やっぱり塚本由貴は、二人きりのときは、先生を「賢一さん」と呼んでいるんだわ。
それは、さっきの「賢一さんから借りた本」という言葉で証明された、と思った。とっさに、ふだんの呼び方が口をついて出てしまったのだろう。
――でも、いいわ。これで、先生の塚本由貴に対する評価が確実に一ランクは下がるから。
雪子は、無言で自分のアパートに向かう塚本由貴の隣を歩きながら、溜飲を下げた。こうやって、少しずつ塚本由貴の〈点数〉を落として行けばいいのだ、と考えた。いま賢一が彼女に九十点を与えているのなら、それを八十五点、八十点、七十点、と少しずつ点数を下げて行けばいい。賢一に失望感を与え、幻滅させればいいのだ。
14
塚本由貴のアパートは、出窓のある白い外壁の二階建てのこぎれいな建物だった。建物の名前は『サンハイツ』。二階へ伸びる階段も彼女は無言で昇って行く。ガラス玉のついたキーホルダーにぶら下がった鍵《かぎ》を使ってドアを開けたところで、ようやく声を出した。
「ごめんなさいね。雪子さんにも不安な思いをさせてしまって」
「いいんです」
床がフローリングの奥に細長い1Kの部屋は、きれいに片づいていた。ソファベッドと卓上の鏡台、机と本棚があった。台所と部屋の間仕切りに、小さな丸テーブルが置かれ、椅子が二つあった。
――リカちゃんハウスのような部屋だわ。
雪子は思った。狭くて、家具も少なく、すべてがコンパクトだ。が、その感想は口に出さずにおいた。
「狭くてびっくりしたでしょ? 雪子さんのような立派なおうちで育ったお嬢さまには」
塚本由貴は、雪子に部屋側の椅子を勧め、自分は通路を兼ねた台所に立った。小さなシンクに幅の狭い調理台に二つしかないガスレンジ。七畳はたっぷりある雪子の家の台所の、ドイツ製のシステムキッチンの半分も長さがなかった。
「麦茶でいいかしら」
塚本由貴は、シンクの下のほうにセットされた、これもコンパクトな冷蔵庫から麦茶の入った容器を取り出し、ブルーのグラスに注ぎ分けた。
テーブルに二つグラスを置き、彼女は台所側に座った。そして、自分に言い聞かせるように言った。「わたし、何をぼんやりしてたのかしらね。確かに本をバッグに入れた感触が指先に残っているのよ。でも……そんなこといくら言い張ってもだめよね。やっぱり、どうかしてたんだわ。雪子さんが言ったように、わたしってどこか抜けたところがあるのかもしれない」
「大丈夫だってば。店に置き忘れたなら絶対にあるはずだから」
そう励ましながら、雪子は苛立ちが募るのを覚えた。
店に本があるのはわかっている。自分がテーブルの下に置いて来たのだから。店に戻った賢一がそれを見つけるのは、時間の問題だ。賢一は本を持って笑顔で戻って来るだろう。「あったよ」と。そして、塚本由貴は安堵《あんど》する。「よかったわ」と本を抱き締める。それで終わりではないか、と雪子は想像したのだ。うっかり置き忘れたが、戻ってみたらあった。よかった。これからは気をつけようね。――それで、この一件がすぐに賢一の頭から忘れ去られそうな気がして、自分のしたことが無意味に思えてきたのだ。
――ただ隠すだけじゃなくて、どこかに捨てちゃえばよかったんだわ。たとえば井の頭公園の池の中に……。
雪子は後悔した。だが、そのチャンスがあったとしても、自分はできなかった気もした。雪子もやはり賢一を好きなのだ。賢一の大事にしている本を池に捨て去る行為までは、とてもできない。
二人は座ったきり、当然、会話は弾まなかった。雪子は、部屋を見回した。机の上には、丸い時計と笠《かさ》がチューリップの花びらの形をした卓上スタンド、それにプラスティックの赤いファイルケースが立ててあった。中には手紙の類が入っているようだ。
「先生、ここに来たことないの?」
建物そのものは新しい。おそらく塚本由貴が最初の住人だろう。
「いいえ」と、塚本由貴は、かすかに警戒の色を顔ににじませて言った。
「あら、そう? 先生はこのアパートを知っていたみたいだったけど」
塚本由貴は、賢一にアパートの場所を、「そこを入ったところ」と教えただけである。
「それは……高木さんがここの住所を知っているからじゃない? サークルにはみんなの住所録があるから」
「お姉さまの住所を、先生が暗記してたってわけ?」
「たまたま、資料を送ってもらう機会があったから、そのときにアパートの名前を覚えたんじゃないかしら」
「ふーん」
雪子は顎《あご》を上げ、塚本由貴の細面の小造りの顔を、右から、左から観察した。「でも、お二人、仲がいいんでしょ?」
「えっ?」
「だって、先生のこと、賢一さん、って呼んでたじゃない」
「そ、そうだったかしら」
「呼んでたわ」
「…………」
塚本由貴は、麦茶の入ったグラスを両手に包み込み、「見つかったかしら」と話をそらした。
「先生のこと、好きなんでしょ?」雪子は、核心に迫った。
「雪子さん……」
塚本由貴は、困惑したような微笑を顔に張りつけている。
「隠さなくてもいいじゃない。顔にそう書いてあるもん」
「…………」
「気をつけたほうがいいよ、お姉さま」
「えっ?」わずかに赤く染まった頬《ほお》が引き締まる。
「先生、女の人にやさしいのよ。けっこういろいろ問題起こしてるみたいだから」
「問題って?」
「だから、いろいろ」
「…………」
「あっ、やっぱり好きなんだ。お姉さま、すごく心配そうな顔してる」
雪子は、塚本由貴の顔を指さし、自分の口に手をあててからかった。
「嫌ね、雪子さんったら。心配なのは……本のことよ」
――うそ。そればかりじゃないくせに。
返すべき言葉を喉元で呑み込んだとき、階段を駆け上がる足音が響いてきた。
二人は同時に腰を浮かせた。ドアにノックの音がした。塚本由貴が鍵を開けた。ドアからのぞいた賢一の顔は曇っていた。
「なかった……の?」
おそるおそるといった感じで、塚本由貴が尋ねた。たたきに立ち尽くし、息を切らせた賢一は、短く「ああ」と答え、唇を歪《ゆが》めた。
雪子は、思わず「そんなはずは」と言いそうになった。
「店の人に聞いたけど、そんな本はなかったと言う。椅子もテーブルの下も見たんだけどね」
賢一は、荒い息をしながら言った。
「どうしよう」塚本由貴が、両手で口を覆った。
「ほかのお客が持って行ったとか?」
雪子は言った。近くの席にカップルが、窓側の二つテーブルをつなげた席に中年女性の五、六人のグループがいたのを思い出した。テーブルの下になければ、店の者が気づいて拾い、そのまま隠してしまったか、客の誰《だれ》かが黙って持ち出したかだ、と雪子は推理した。
「さあ、それはわからない。ただ、俺《おれ》たちが出たあとに出て行った客たちはいたようだけど。でも、たとえあの本を見つけたとしても、持って行ってしまうとは……」
考えられない、という当惑した顔を、賢一は雪子から塚本由貴へ向けた。
「どうしよう。このまま見つからなかったら、出てこなかったら」
と、塚本由貴が声を震わせた。語尾が泣き声になっていた。
「店の人には頼んでおいたよ。もし、誰かが俺たちの持ち物だと気づいて、あとを追いかけて来たのに追いつけなかったとしたら、たぶん店に戻るだろうから、そしたら保管しておいてほしいってね」
「でも、それにしても、時間がたってるわ」
雪子は、わざと振り返り、机の上の丸い置時計を見た。目覚まし時計なのだろう。女子学生の持ち物にしては幼い、数字板にミッキーマウスの絵柄のある周囲が赤い時計だった。塚本由貴が実家から持って来たものかもしれない、と雪子は思った。
「あの本はすごく貴重なものなんでしょ? 文学少女だったお母さんの記念の本とか」
雪子は、冷ややかに〈本を紛失した〉塚本由貴を責めた。
「出てくるよ、そのうち」
賢一は言った。その言葉が、自分というより、塚本由貴に対してのものだと感じて、雪子の頭に血が上った。「名前でも書いてあるの?」
「いや……」
「じゃあ、どうやって出てくるって言うの? 拾った人が警察にでも届けるかしら」
「わたし、明日もあさっても、あのお店に行ってみるわ。届いているかもしれないから」
塚本由貴が、目に涙を潤ませて、必死な口調で言った。
「届かなかったら?」
雪子は聞いた。塚本由貴は黙った。
「そしたら……しょうがないさ」
賢一が、ふっと力を抜いて、明るい声で言った。
二人の女は、同時にこの整った顔立ちの男を見た。
「しょうがないさ」と、賢一は繰り返した。「世界にたった一冊の本、ってわけでもない」
「でも……」
何か言葉を探さなければいけない、と雪子は焦った。あっさり「しょうがない」と諦《あきら》めた賢一に、拍子抜けした気分だった。もっと執着しなければだめよ、先生。と、心の中で声を張り上げた。
「いえ、世界にたった一冊の本よ」
塚本由貴がかわりに言った。瞳《ひとみ》に真摯《しんし》な輝きがあった。「お母さまにいただいた本でしょう? 世界に二冊とない貴重な本だわ。わたしのせいよ。わたしが迂闊《うかつ》だったの。わたしが不注意だったの。探せなかったら、わたし……」
「探せなかったら、お姉さま、どうするの?」雪子は、意地悪く突っ込んだ。
「そしたら、わたし……」
一瞬、ひるんだ目をしたが、塚本由貴はその目に強く鋭い光をよみがえらせた。何か言いかけたのを、「ユキちゃんだったら、どうする?」と、賢一が割って入り、雪子に質問した。
「わたしなら?」
雪子は戸惑った。その質問が自分に差し戻されるとは予想していなかったのだ。強い光を宿したままの由貴の目が、雪子に向けられる。
「わたしなら」雪子は繰り返して、深呼吸をし、そしておもむろに言った。「死んでお詫《わ》びするわ」
由貴が目を見開いた。しばしのあいだ、静寂があった。
賢一のけたたましい笑い声が、静寂を破った。
「先生……」
「賢一さん」
二人の女は、同時に、好きな男をいちばん慣れ親しんだ呼び方で呼んだ。
賢一の笑い声が弱まる。口元は緩めたまま、賢一は言った。「死んでお詫びします、だなんて、大げさすぎやしないか? そう思ったら、おかしくってさ」
ふたたび腹を抱えて笑っている。
「で、でも、だ、だって、わたし……」
雪子は、賢一の〈笑い〉の意味を考え、動揺した。
緊張で引き締まっていた塚本由貴の顔も、思いがけない賢一の笑いに出会って、ほぐれ始めている。
賢一の笑い声が下火になった。「あのさ」と彼は、笑いすぎてかすれた声で言った。「やっぱりユキちゃんが考えそうなことだな、と思ってさ。まじめな顔で『死んでお詫びするわ』なんて言うんだからな。ホント、ユキちゃんの言動には度胆《どぎも》を抜かれるよ」
「だ、だけど、そんなに大切なものをなくしたことを考えたら、その責任の重さに死を考えても不思議じゃないでしょ? 本当に死ねるかどうかは別にして。だから、そう言っただけなんだけど」
計算が狂った、と雪子はようやく気づいた。どう失態を補おう、と必死に考え始める。
「うらやましいわ」
塚本由貴がぽつりと言った。「思ったことを思ったとおりに言える雪子さんって、とってもすばらしいと思うわ。わたしも、そう言えたらどんなにいいかしら」
「で、お姉さまのほうのユキちゃんは、どう答えるつもりだったの?」
賢一が、質問をされるべき当人に戻した。
「わたしは、残念ながら雪子さんみたいなユニークな答えはできないわ。あたりまえの、陳腐なことしか考えられない。洋書を取り揃《そろ》えてある本屋や古本屋を探したり、いろんな大学の研究室をあたって同じ本を探し、譲ってもらえなかったらコピーさせてもらう、とかね。わたしには想像もつかないことを考える雪子さんの大胆さや若さを、本当にうらやましく思うわ。雪子さん、まぶしいくらいに輝いている。素直でのびのびしている。若いって、それだけですばらしいことね」
雪子の耳には、塚本由貴の形のいい小さな口元から紡ぎ出された言葉が、次のように響いた。――若いって、それだけバカになれるってことなのね。
塚本由貴自身、まだ二十歳そこそこなのだ。彼女が、雪子の若さを心からうらやんでいないことは明らかだと思った。
賢一と塚本由貴は、顔を見合わせて微笑《ほほえ》んでいる。
――わたしに勝ったつもりなんでしょう?
雪子は、はらわたが煮えくり返るような思いで、塚本由貴の横顔を見つめた。若さを武器にして彼女に勝つつもりが、それを逆手に取られて敗北したことを思い知った。悔しかった。みじめだった。塚本由貴が、愛する男に「ユキちゃん」と呼ばれて、喜んでいるのがわかった。賢一が塚本由貴を「ユキちゃん」と呼んだ。頭に「お姉さま」をつけようがどうしようが、「ユキちゃん」は「ユキちゃん」だ。その響きが鼓膜に張りついたままはがれない。こめかみのあたりの血管が収縮している。
「冗談よ」
雪子は言い、笑った。無理やり作った笑顔のせいで、顔の筋肉が引きつった。「嫌だな、先生もお姉さまも本気でわたしが言ったと思ったの? ウケを狙《ねら》って言ったに決まってるじゃないの」
「ウケを狙っても、普通はなかなか言えないよ」
あっさりと賢一は言い、ねえ、と塚本由貴に同意を求めた。塚本由貴も、感心したように目を細めてうなずく。
「お姉さまがあまりに深刻ぶった顔をしていたから、つい冗談を言ってからかってみたくなったのよ」
その場の緊迫した空気を和らげるための配慮。そう受け取ってもらえないだろうか。雪子は、祈るような思いで言ったが、その思いは賢一には届かなかったらしい。大学生の二人は、すっかり緊張から解き放たれた表情でいる。からかわれているのは雪子のほうだ。顔の皮膚の一枚下は熱く火照り、腹部の皮の下もやはりぐつぐつと熱く煮えたぎっていた。
「俺のほうも、冗談なんだよ」
賢一が咳払《せきばら》いをして、一歩進み出た。「実は、あったんだ」きまり悪そうに低い声で言う。
二人の女は顔を見合わせた。その顔の前に、あの本が差し出された。賢一が背中に隠し持っていたらしい。
「ど、どこに?」塚本由貴が、つっかえながら聞き、そろそろと本を受け取った。
「ユキちゃん、知ってるだろ?」
いきなり賢一が、雪子のほうを向いた。微笑はそのままだが、心なしか目がきつかった。
雪子は、心臓にこぶしを打ち込まれたような衝撃を受けた。一瞬、息が止まった。
「し、知ってるって?」
動揺を読まれないように、雪子は顎《あご》を上げてとぼけてみせた。
「ほら、あのときさ」
賢一が、軽い口調で首をすくめた。「ユキちゃんが自分のバッグを落としたとき。中身が床に散らばった。俺、拾ってやったじゃないか。あのとき、椅子《いす》にあった塚本さんのバッグも傾いたんだよ、きっと。そこから本が滑り落ちたんだ」
「で、でも……」
賢一が、雪子が故意に本を落とした現場を見ていなかったとわかって、いちおう安心したものの、うっかりしゃべってボロを出してはまずい。雪子は、言葉を探しながら、必死にあのときの状況を思い出そうと試みた。
「全部拾ったと思っていたけど、考えてみたら、レジのほうが気になっていて、よく見なかった。俺たち、気づかなかったんだよ。本はテーブルの下のずっと奥に入り込んでいたしね」
「そうなの?」
塚本由貴が、上目遣いにすがりつくように賢一を見た。そして、彼がうなずくと、心からホッとしたように大きなため息をついた。「よかったわ、本当によかった」
「じゃあ、わたしが間接的に落としたって言うの?」
雪子は、相手が違うと気づきながら、自分に非がないとわかってあまりに素直に喜びすぎる塚本由貴に腹が立って、彼女につっかかった。
「おいおい、そういう意味じゃないさ」
今度は、かわりに賢一が、塚本由貴をかばうように言った。なおさら雪子は腹が立った。もちろん、かばわれる塚本由貴に対してだ。
「気づかなかっただけ、と言ってるのさ」
「いずれにしても」
と、塚本由貴がまじめな顔で言った。「わたしがいけないの。わたしがよく自分のバッグを確かめなかったせいよ。ごめんなさい」
「それは、俺が渡したから」
「でも、やっぱり確認しなかったわたしがいけないの。注意が足りなかったの」
「やめてよ」
雪子は、二人のかばい合いを遮り、「先生も先生よ。悪趣味じゃない? あったのになかった、なんて驚かして。先生こそ、やることが子供っぽすぎるんじゃないの?」と本気で怒った。怒りながら、情けなくなった。
「あ……ああ、ごめん」
賢一は、苦笑いして頭に手をやった。責めながら、すでに雪子は彼を許していた。走りすぎたせいか、笑いすぎたせいか、驚きすぎたせいか、賢一の柔らかそうな前髪が乱れ、はらりと一束額にかかった。瞬間、汗とコロンの匂《にお》いが香った。雪子には懐かしい、あのときの匂いだった。雪子は胸が苦しく、切なくなった。
――いまでなくてもいい。あと何年後か、三年後、いや、五年後でもいい。この人の腕に抱かれたい。
――いとことしてではなく、女として。
切実に、雪子はそう願った。この人を誰にも渡したくない、と思った。その五年後のために、自分たちの関係を守り抜きたい、と願った。
「ユキちゃんが言ったとおり、俺がいちばん子供っぽいのかもしれないな。君たちがどう反応するか、見てみたかったんだ。ちょっとした悪ふざけのつもりだったんだよ。だって、君たち二人、ユキちゃんもお姉さまユキちゃんも演劇部の役者だろ? ユキちゃんはこれからかもしれないけどさ。こういうシチュエーションに出くわしたらどう反応するか、興味があったし、君たちの演技の勉強にもなると思ってね。しかし、『死んでお詫びするわ』には、やっぱりまいったな。逆立ちしても俺には思いつかないセリフだよ」
賢一は、その言葉を思い出したのか、ふたたび高い声で笑った。
塚本由貴も「高木さんがいちばん悪いわ」と言って、軽く睨《にら》みつけた。
「おっと、女性二人に責められて、俺、びびるな」
賢一は、おどけて肩を震わせる。
「でも、よかったわ。ホッとした。わたしね、心臓が飛び出すかと思ったくらいドキドキしたのよ。ほら、いまでもまだ脈打っている。雪子さん、ほら、ここに手をあててみて」
塚本由貴は、雪子の右手を自分の左胸に導いた。柔らかいふくらみの下方に触れて、雪子はドキッとした。
「ほらね、心臓がドキドキ鳴っているのがわかるでしょ?」
「え? あ、うん」雪子は面食らった。
「いつもは意識しないけど、心臓ってここにあったんだって、実感しちゃったわ、わたし」
塚本由貴は、ため息をついてみせて、小首をかしげた。彼女のほうこそ、子供じみた、少女っぽいしぐさに見えた。
「たまには、このくらい驚くことって必要なのかもね。心臓の存在を意識するためには」
そう言って塚本由貴は、安堵《あんど》を得たゆえの余裕のあるとびきりの笑顔を見せた。その彼女の笑顔を、賢一の目がとらえたのを雪子は見逃さなかった。
――この場は負けたわ。あなたのほうが、自分を先生に印象づけるのに成功したわね。
雪子は、負けを認めた。だが、あくまでも〈この場〉だけだった。
「汗かいてるわ。高木さんにも麦茶あげる」
安心したために態度が気安くなった塚本由貴は、賢一を台所にあがらせた。自分の椅子を勧めた。背の高い賢一が入ると、1Kの空間は、ますます狭くなった。塚本由貴は、賢一の隣に立った。雪子だけが玄関のほうを向く形になった。
雪子の目は、玄関の靴入れの上に置かれた透明なガラスの丸い器に止まった。そこは、何種類もの鍵《かぎ》を入れる場所になっているようだった。ガラスの器の横には、さっきこの家の住人が使ったキーホルダーつきの鍵が置いてあった。
15
夏休み最後の夏期講習の帰り、雪子ははじめて夏美の自宅に誘われた。夏美の家は、練馬区の大泉町にあった。二人の通うJ女子学院は文京区にある。雪子の家も夏美の家も、学校の近くというわけではないので、学校帰りにどちらかの家に寄るというような機会はほとんどなかったのだ。
「すぐそこは埼玉。だけどここはいちおう東京都。だから、このあたりの人は、東京都にしがみついて無理して一戸建てを買ったって人ばかり」
夏美は、バス停で降りて細い道を歩きながら、自嘲《じちよう》ぎみに言った。
「ユキ、驚かないでね。うちなんか、ホントちっちゃいから。一流建築家の大邸宅とは全然違うからね」
「驚かないよ、そんなの」
雪子はそうは言ったものの、実際に『笠原』とかまぼこの板ほどの表札のかかった、門扉から玄関ポーチまで一メートルもない青いスレート瓦の木造一戸建てを見たときは、そのせせこましさにびっくりした。周囲には似たような一戸建てがびっしり並んでいるから、同時期に売り出された物件だろう。隣家の壁とのあいだは、子猫がようやく通り抜けられるほどの狭さだ。
「ほら、びっくりしたくせに」
家の前で、夏美は雪子の顔を横目で愉快そうに睨んだ。
雪子は、ふと戸惑った。夏美がいままで自分を自宅に呼ばなかったのは、本当にこの小さな家を見られたくなかったためだろうか。だが、彼女の性格から、そんな些細《ささい》なことにこだわるとは思えなかった。しかし、今日になって、「ねえ、わたしの家に来ない?」と誘っただけの理由はあるに違いない、と思った。「うるさい親は、二人とも仕事でいない」と聞いている。いちばん親しい友達を両親に引き合わせる目的でないのは明らかだった。
「忠志、いる?」
玄関ドアを開けて、すぐに夏美は奥へ――といってもすぐ目の前にリビングルームらしいドアが見えたが――声をかけた。
「あっ、うん。お帰り」
一枚ドアを隔てたすぐ向こうで、少年の声がはっきり応じた。むせ返るような土の匂いがする。見ると、たたきに泥のついたシューズが脱ぎ捨ててあった。
「弟が帰って来ているみたい。野球の練習に行ってたんだけど」
「弟さん、将来プロ野球の選手を目ざしてるんでしょ?」
雪子の家で、夏美がそんなふうに話していたのを憶えている。
「あ、ああ、うん」夏美があいまいに言って、「どうぞ」と遠慮している雪子を中へ誘った。遠慮していたのは、雪子の家の四分の一にも満たない面積のたたきで、一人ずつ靴を脱がないとぶつかりそうだったからだ。
夏美に続いて、雪子はいちおう洋間になっているリビングルームへ入った。一階は、その奥の台所と八畳ほどのこの部屋だけのようだ。
「こんにちは」
ダイニングテーブル――それがリビングテーブルのかわりもしていた――に座っていた少年がぺこりと頭を下げ、口をもごもごさせながら言った。テーブルには、ドーナッツを載せた皿とパックのままの牛乳があって、彼はそれをおやつにしていたらしい。
「こんにちは」雪子も頭を下げた。
「弟の忠志。こちら、お姉ちゃんの友達の影山雪子さん。話したことあるでしょ?」
「うん」
忠志は左手でドーナッツをほおばりながら、人懐こそうな瞳《ひとみ》を向けてくる。よく日焼けしている。
雪子は、一目見て、忠志の身体の異変に気づいた。彼の身体はアンバランスだった。Tシャツの右|袖《そで》の先が、絞ったように細くなっていた。
「姉ちゃん、俺《おれ》、またちょっと出て来る。中畑んちで勉強するからさ」
「あんまり遅くならないようにね」
「うん。じゃあ、ごゆっくり」
忠志は、風のように姉とその友達のあいだをすり抜けて出て行った。雪子は、夏美の弟が消えたドアを呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
「わかったでしょ?」と、夏美が言った。
「…………」
「まあ、そのへんに座ってよ。うちは、お客が座るところと家族が食べるところが一緒で悪いけどさ」
雪子は、四つあるうちのダイニングチェアの玄関側の一つに座った。忠志が座っていた席の真ん前だ。
「うそだってわかったでしょ?」
冷蔵庫からコーラの缶を二つ持って来て、雪子のはす向かいに座り、夏美は聞いた。
雪子はプルリングを引いた。しゅっ、という気持ちのいい音がした。雪子の両親は、家ではコーヒーと同様、娘がコーラの類を飲むのを喜ばない。夏美はグラスを出す気もないようだ。雪子は缶に口をつけて飲んだ。心の火照りを冷ましたかった。忠志のアンバランスな肉体を目の当たりにしたことの衝撃は大きかった。
「忠志が将来、プロ野球の選手になれるはずがないよね」
「わからないよ、それは。だって……」
片腕を失っても野球を続けた人の話を、どこかで読んだことがある、と雪子は続けたかった。が、それはもしかしたら小説の中の話かもしれなかった。
「気やすめはいいのよ」
夏美は弱々しく微笑《ほほえ》み、自分もごくごくと喉《のど》を鳴らしながら、コーラを飲んだ。缶から離した口のまわりに泡がついている。
今日の夏美は、雪子の目には、いつもと違って映った。顔が引き締まり、おとなびて見える。
「いまはさ、何とか左手だけで草野球やってられるけど、将来はね……。わかったでしょ? わたし、ユキのところでうそついたの。うちは両親共働きの、小さな一戸建てに住む、子供二人の平凡な家庭だよ、と言いたかったんだ。本当のことを隠すことなんてなかったのにね。平凡な幸せを演じたかったのかもしれない。うそをついたことが、弟に済まなくて。心のどこかに弟の存在を隠したい、という気持ちがあったのね。いつかはユキに話さなくちゃいけないと思ってたけど、最初は忠志が義手をはめたときにしようかな、なんて考えてたし」
「…………」
「弟は三歳のときに事故に遭ったの。ここに引っ越す前に住んでいた狭山《さやま》のほうでね。近所に放置してあった工作機械に挟まれて、右手を失った。子供のわたしにも、その機械を放置していた相手が絶対的に悪い、とわかった。だけど、世の中は、子供のわたしにはわからない複雑な仕組みになってた。相手は、敷地に柵をしておいた、『立入禁止』と札があったはずだ、親の監督責任もある、なんて主張した。もちろん、相手の刑事責任は問われたけど、結局は示談となって弟の治療費、慰謝料が支払われることになった。わたしは、お父さんにもお母さんにももっと怒ってほしかったの。二人とも家の中では、わあわあ泣いてたわ。弟の将来が可哀想《かわいそう》だって。忠志は、いたずら好きで、すごく活発な子だったから、野球好きのお父さんはよく『こいつ、将来はプロ野球の選手だな』って言ってた。わたしが嫉妬《しつと》するくらい、お父さんは忠志を可愛がっていたわ。家の中ではあれほど悲しみを隠さない二人が、外に出ると違うの。悲しさを、つらさを見せまいとふんばるの。その姿がわたしには……理解できなかった。被害者なのに。
わたしは大金なんていらない。ただ、誰がいちばん悪かったか、それをちゃんと世の中に公にしてほしかった。新聞のいちばん目立つところで、その人の責任を問うてほしかった。あとでわかったんだけど、相手はその土地一帯を持つ地主だった。わたしたちが住んでいた借家もそこのものだった。そして……ここもよ。わたしは、弟の腕を失わせるきっかけを作った相手の土地なんかによく住めるな、と思ったけど、おとなはそうじゃないのね。悲しみに耐えて、理不尽なことに耐えて、そういう場所に住めるのよ。子供のために何がいちばんいいか、なんて天秤《てんびん》にかけてね。大きくなるにつれて、わたしも少しずつわかってきた。家の中に一人でいい、強い人間がいることの大切さを痛感したの。経済的にも、法律的にもね。発言権のある人間が」
「それで、夏美は弁護士を?」
「だから弁護士を、とはっきり決めたわけじゃないけど、だんだん弁護士がいちばんいいかなと思うようになったんだ。障害者に冷たい社会だってことは、普通に暮らしていてもびんびん感じるしさ。それに、わたしが勉強頑張ると、家の中が明るくなることに気づいたしね。『わたしが弁護士になって、忠志みたいな立場にいる子を法律的に守ってやるよ』そう言ってから、うち夫婦仲がよくなったんだよ。笑いも多くなったしね。単純でしょ? みんなで弟を守って行こうと気持ちが一つになって、なんだか家族の絆《きずな》が強くなった気がするんだ。親は、できのいい娘のために一生懸命仕事するしさ」
夏美は、あははと乾いた笑い声を上げた。
「夏美、偉いのね」
返事はわかっていたが、そう言うしかなかった。
「やめてよ」
予想通りの言葉を、夏美は返した。「偉くなんかないよ。弟を恥じる気持ちが、わたしのどこかにあったってことだから。ユキにもいままで話せなかった」
「ありがとう、夏美」
口の中のコーラの苦みが甘みに変わるのを感じながら、雪子は言った。
「お礼を言われるようなことじゃないってば」
「うん。だけど……。でも、なんだか言いたかった」
「忠志はいちおう、普通学級に通っているの。でも、これからが大変ね。本人は、本気でプロ野球の選手になるんだって言ってる。あの子が現実を知るときが……怖いんだ」
「大丈夫よ。こんな強い味方がいるんだし」
「うん」と、夏美はうなずいた。「あの子の明るさに救われている感じかな」
雪子は、鼻の奥がつーんとした。弟って、兄弟って、いいもんだな、と思った。ふと、先生がいとこではなく兄だったら、と考えた。だが、兄だった場合の自分の心理を推測することはできなかった。それほどまでに、現実のいとこである賢一の存在が、雪子の前で肥大化していたのだ。いとこでない賢一など、考えられなかった。
「でもさ、こんな家族、ざらにいるんだよね。別にわたしが特別じゃないんだ。いろいろあるから、家じゃなくて家族なんだよね。わたし、何で家に族ってつけるのかな、と不思議に思ったことがあるんだ。族というほど群れているわけじゃないのに。でも、一人一人がいろんな面を持っていて、それぞれに問題を抱えていて、それが集まっているのが家族だと思うようになったら、家族って呼び方はぴったりだと思えてきた」
夏美は、視線を友達ではなく、弟の座っていた椅子に向けて言った。
雪子は、先日の賢一と塚本由貴との会話を思い出した。幸せそうに見えた賢一の家庭も、塚本由貴の家庭も、やはりそれぞれに問題を抱えていた。そのことで、二人は共鳴し合っているように思えた。
――わたしの家庭だけが、わたしだけが何の問題もないと言うの? わたしは恵まれすぎた幸せなお嬢さま?
違う、と雪子は内心で否定した。問題はある。不幸なことが起きる予感はある。
――先生を塚本由貴に奪われたら……。
それは、紛れもなく雪子の身には〈不幸〉だった。
「先生の家も、塚本由貴の家も、外からはわからない問題を抱えていたの」
雪子は、先日の話を夏美にした。夏美の家庭の話を聞いたあとで、少しは冷静に話せる気がしていた。
「そう」と、夏美はため息をついた。
「先生は、間違いなく塚本由貴に同情したわ。わたしは、太刀打ちできない」
「ユキ、諦《あきら》めたの?」
唐突に夏美が聞いた。雪子は、胸をつかれて親友を見つめた。友達の目に、わずかに安堵《あんど》の色のようなものが浮かんだのを見てとったのだ。
「諦めなんかしないよ」
憮然《ぶぜん》として雪子は言った。「家のことでは、太刀打ちできない、と言っただけよ。でもね、同情も誘惑の一つ。そう思ったの。塚本由貴の作戦の一つなの」
「作戦の一つだなんて。そんなことないと思うよ」
夏美も少しムッとしたのか、口を尖《とが》らせた。コーラの缶を脇《わき》にどける。
「あっ、ごめん。同じように家庭に悩みを抱えている夏美は、気を悪くしたかもしれないね。でも、そういうつもりで言ったんじゃないの。塚本由貴が、家の問題を話せるほど先生を身近に感じていたことがしゃくだったの。話した彼女も、黙って聞いてあげた先生も憎らしい。夏美だって、いままで忠志君のこと、わたしに黙っていたじゃない。塚本由貴だって、黙っていようと思えば黙っていられたはずだわ。でも、先生には話した。それは、先生を特別な人と考えているからよ。彼女は、わたしへの対抗心から、わざと先生の前で同情を引くような打ち明け話をしてみせたのよ。あれも、彼女の演技の一つ、作戦の一つなのよ」
「塚本さんは、ユキにも話したんでしょ? だったら、ユキのことも好きなのよ。ユキの前で、わざと先生を誘惑しようなんて考えてはいなかったと思う。ユキへの対抗心があったなんて、演技や作戦の一つだなんて、考えられな……」
「夏美は、あの場にいなかったからわからないのよ」
雪子は、ぴしゃりと言った。夏美は、頬《ほお》をぶたれたように一瞬目をつぶり、口をつぐんだ。
賢一が塚本由貴に謝罪する場を作ってくれることは、夏美に話してあった。だが、その報告はまだしていなかった。電話ではできなかったのだ。家には専業主婦の千恵子がいる。こみいった話は立ち聞きされるおそれがあった。
「そのことも聞きたかったんだけど」
夏美は、眉《まゆ》を寄せた。「ユキは、ユキの作戦どおりに、明るくふるまったんでしょ? 中学生らしく、素顔のユキのままで」
「ばかみたいだったわよ」
吐き捨てるように雪子は言った。耳にこびりついたまま離れない塚本由貴の言葉がよみがえる。
――若いって、それだけですばらしいことね。
雪子は、今度も脚色を加えて話した。単純に、塚本由貴が賢一から借りた本を店に置き忘れた、と伝えた。店に様子を見に行き、戻って来た賢一が、ある目的を持ってうそをつき、〈演技〉したことはそっくり報告した。
「先生って、そんないたずらをする人なの?」
夏美は、驚いたように目を見開いた。「それじゃ、悪ふざけの領域よね」
「悪ふざけのつもりはなかったかもしれない。でも、先生があんないたずら心を起こしてくれたおかげで、わたしは……」
雪子は唇を噛《か》んだ。あのとき塚本由貴に味わわされた屈辱感が、ふたたび体内に沸き起こった。
「でもさ、ユキ。大事な本だとはいえ、たかが本一冊で、死んでお詫《わ》びするわ、なんて大げさすぎるよ。死っていう言葉は、インパクトが強すぎる。冗談で言ったにしても、やっぱり聞いたほうはびっくりすると思うけど」
「だから、本気じゃなくて、たとえ話なの。わたしはね、塚本由貴にそれだけの責任を感じてほしかったの。最初から許してもらおうと考えていたとしたら、ずうずうしすぎると思ったのよ」
「最初から許してもらおうと考えていたのがわかったの?」
「そういう甘えが……ちらりと見えた気がしたのよ」
雪子は、興奮してうわずった声で言いつのった。「塚本由貴の言うことなすことには、つねに計算を感じるのよ。媚《こび》や嫌らしさがプンプン匂《にお》ってるわ。あのセリフ、彼女、計算した上で言ったに違いないわ」
雪子は、塚本由貴が雪子の手を自分の胸元に導いた様子を話した。あのときの芝居がかったしぐさ、表情をこと細かに伝えた。
「計算した上で、って?」
夏美が、目をしばたたいた。冷えたコーラを一気に飲んだためか、目が充血している。
「先生に与える影響に決まってるじゃない」
雪子は、そんなことまで言わせる夏美にも腹を立て、同時にもちろん塚本由貴にも腹を立てて、怒気を含んだ声で言った。「あの人はね、演技することが身についちゃってる人なの。中学生のわたしや夏美でさえ、恥ずかしくて言えないようなセリフをすらっと言えちゃうのよ。わたしのことを『思ったことを思ったとおりに言える雪子さんって、とってもすばらしいと思うわ』なんてほめたふりして、本心では全然そうは思っていない。彼女は、思ったことを思ったとおりに言いはしない。そうしたら、自分が知的に見えないとわかっているから。思ったことと正反対のことを、しらっとした顔で言ったりやったりできる。そういう二つの顔の使い分けができる恐ろしい女なのよ」
「…………」
「先生はね、少女のわたしの中にかいま見たおとなの色気より、おとなの女である塚本由貴の中にちらりとのぞいた少女っぽさ、あどけなさ――あくまで演技のね――それに、くらくらっとしちゃったのよ、惑わされたのよ。あの女の見え透いた演技に先生は見事に引っかかり、感動した。そうよ、あのときの先生の表情は、感動したときのものだった。塚本由貴が小首をかしげ、『心臓がここにあったんだって、わたし、実感しちゃったわ』と吐き気を催すほど幼いセリフを言ったときの、あのときの先生の表情。わたしには忘れられない。ねえ、夏美、わかる? 十三歳のわたしが、二十一歳の女の少女っぽさ、あどけなさ、無邪気さ、純真さ、そう、うわべのね、そういうものに負けたのよ。こんなばかな話ってある? こんな悔しいふざけた話ってないでしょ? あの女の仕掛けた罠《わな》に先生はまんまと引っかかり、わたしは彼女の作戦に負けたのよ。化粧だって、わざと薄くして来たわ。そのくせ、着ているものはおとなの黒でおとなのノースリーブ。よく小説に、したたかな女、ってのが出てくるけど、塚本由貴がまさにその手の女なのよ」
「ユキ……」
夏美は、友達の勢いに気圧されたようにひと呼吸おいて言った。「塚本さんが、行動の一つ一つを計算していると言うのなら、お店に本を置き忘れたことも彼女の計算なの? あの人、とても慎重そうな人に見えた。そんな人がうっかり本を置き忘れるとは思えない。考えられるとしたら……」
「だ、だから、わざと忘れたんじゃない? それも計算なんだよ」
雪子は、コーラを飲もうと缶を取り上げたが、あまり残っていなかった。炭酸がもう抜け始めている。
「先生が取りに戻るのも計算してのこと?」
「先生の性格なら、自分が戻ると言い出すはずよ」
「じゃあ、先生が本があったのに『なかった』とうそをついたのは? 先生のうそも、演技も計算していたの? 先生の演技を彼女が見抜けたはずないんじゃない? 前もって、打ち合わせでもしておかないかぎり」
そこまで言って、夏美はハッとしたように顎《あご》に指をあてた。
「どうしたの?」
「う、ううん、何でもない」夏美はかぶりを振った。
「先生が『はい、あったよ』と素直に本を渡せば、そのときはそのときで、やっぱり無邪気に喜んだのよ。あの女のことだから、ほかのセリフをちゃんと用意してたに決まってる。どっちにしても、おとなの女の中に少女らしさをのぞかせるような絶妙なセリフをね」
雪子は、ふたたび悔しさがこみあげてきて、思わずちっと舌を鳴らした。「あんなことになるとは……」
「えっ?」
「あ、ううん」今度は、雪子が首を横に振った。
「雪子、このあいだ、先生に気づかせると言ってたよね。塚本由貴に惹《ひ》かれたのは、一時的なものだったって。そのためには、多少手荒なこともしなくちゃいけない、とか言ってたでしょ? 幻滅させればいい、とも言ってたよね。先生に言い寄って来る女はぶっ飛ばすんだって」
「よく憶えてるね」
客観的に聞くと、我ながらその言葉のきつさに呆《あき》れた。照れくさくなり、雪子は首をすくめた。
「何かしたんじゃないの?」
「何かって?」
「たとえば、雪子がすきを見て先生の本をお店に置いて来たとか……」
「何を言うのよ! わたしがそんなことするわけないじゃない」
ストレートに突かれて、雪子は動揺し、激しい口調ではねのけた。
「ごめん。でも、雪子が『手荒なこと』と言ったのが気になってたから。前に話したとき、雪子、すごく熱くなってたから」
夏美の口調が弱まった。
「そうは言ったけど、でも、先生を失わないために、何をどうすればいいのかなんて、わたしには具体的にわからない。何も仕掛けられない。そんな頭はないし、勇気もない。わたしって、自分で言うのもなんだけど、やっぱり純粋な普通の女の子なのよ。塚本由貴とは違うの。夏美はわかってくれるでしょ? どうして先生がそのことに気づかないのか、わたし、もどかしくて悔しくて……」
雪子は、言いながら涙がまぶたに盛り上がるのを感じ、驚いた。自然に泣けてきたのだ。それは、はっきりと〈演技〉だった。
夏美が、おろおろするのがわかった。雪子は、心の中で、〈夏美、ごめんね〉とつぶやいた。どこかで調子が狂ってしまった。それがどこであったか、雪子は知っていた。夏美の弟、忠志を見てからだった。
そのときに雪子は、夏美が〈向こう側の人間〉であることに気づいたのだ。自分の〈共犯者〉にはなれない人間であることに。
最初は、夏美に正直にすべてを告白するつもりだった。先生と塚本由貴の仲がこれ以上発展しないようにと、どんな〈手荒なこと〉をしたのか、秘密めいた雰囲気の中で話すつもりだった。そして、二人の仲を決定的に壊すにはどうしたらいいか、夏美の知恵を借りるつもりだった。だが、雪子はあったままを告白することはできなかった。自分でも、こんな展開になるとは予想していなかった。
夏美に障害者の弟がいるという過酷な現実に直面して、雪子は打ちのめされていた。親友の家庭もまた、深刻な悩みを抱えている。塚本由貴の家と、賢一の家と同じだ。それがわかった瞬間、夏美は向こう側の、あちら側の人間になってしまった。
雪子は、自分のしたこと、しようとしていることが、障害者の弟と向き合い、強く前向きに生きている夏美の目にはどう映るのか考えた。そして、〈悪事〉にしか映らないであろうと、判断した。これからしようとしていることが、夏美の〈良識〉に阻まれそうな気がして怖かったのだ。夏美にも塚本由貴にも、愛する弟がいる。夏美は、友達の自分よりライバルの塚本由貴の立場に共感し、同情するだろうと思えた。
雪子は、疎外感と孤独を味わった。
――わたしには悩みがない?
――はたしてわたしは、そんなに幸せな女なの?
違う、と雪子は思った。この世に一人しかいないいとこ――高木賢一――と結ばれないのなら、世界中を捜してもこんな不幸な女はいない、とまで思った。
「塚本由貴が先生を愛しているのは間違いない。先生のことを我を忘れて『賢一さん』と呼んでしまったのよ。呼んだくせに、あの女はとぼけた。でもね、先生はわたしの前では、彼女を直接名前では呼ばなかった。だけど、わたしのいないところで、どう呼んでいるかはわからない。それを確かめたかったんだけど、あんな突発事件が起きたからチャンスを失った。まだわたしに望みがあるかどうか確かめるチャンスをね」
潤んだ目を向けられて、夏美は戸惑ったように背筋をビクッとさせた。
「次のチャンスを考えてるの?」
「わからない。二人のそばにいて、ただじっと待つしかないのかもしれない。先生が、わたしのほうを振り向いてくれるのを」
わたしって大うそつきね、と呆れながら、雪子は言った。何もせずにじっと待つ気など毛頭なかった。
雪子はもうすでに、取り返しのつかないことをしてしまっているのだ。
――塚本由貴の部屋から玄関の合鍵《あいかぎ》を盗み、鍵屋へ持って行って、その合鍵の合鍵を作らせた。どれが玄関の鍵かは、塚本由貴が使ったキーホルダーつきのものを見てしっかり目に焼きつけた。あの日、帰りがけに、すきを見て靴入れの上にあったガラスの器から、同じ型の鍵を選び出し、さっとポケットにしまったのだった。洗面所を借りたときだった。塚本由貴と賢一は、彼女の本棚の前にいて、何か本の話をしていた。部屋にはラジカセから『いとしのエリー』が流れていた。躊躇《ちゆうちよ》する間はなかった。玄関の鍵は、ふだんはキーホルダーつきのほうをメインとして使うはずだと思った。合鍵のほうは、しばらく持ち出しても大丈夫だろうと考えた。ガラスの器には、ほかの鍵に交じってビー玉やイヤリングや貝殻など、細かなものが飾りのようにいっぱい詰まっていた。合鍵を作らせた鍵屋は、塚本由貴の家からも自宅からも遠い店を選んだ。もちろん、はじめて入る店だった。塚本由貴の部屋から持ち出した合鍵は、まだ元の場所に返していない。そして、作った合鍵もまだ使用してはいない。
――これからよ……。
この鍵のことを言ったら、夏美はどう思うだろう。軽蔑《けいべつ》するだろうか。雪子は、不安になって友達を見つめた。絶対にこの友達のまっすぐな正義感に拒絶される、と思った。片腕を失った弟をかばい、愛し、一生守り抜く覚悟でいる夏美の正義感に。
「待ってもだめだったら? 先生と塚本さんが、誰も止められないくらい愛し合うようになったら? 二人が婚約したら? 結婚するようなことになったら?」
仮定ごとに息を呑《の》み、夏美は雪子にたたみかけた。
――諦《あきら》めるわ。
そういう答えをわたしから引き出したいのだろう。雪子には夏美の気持ちが理解できた。傷が深くならないうちに、友達に好きな男を諦めさせたい。そう思うのは、友達として自然な感情だ。
「結婚なんてしないよ。婚約までもいかないよ」
だが、雪子は演技でも「諦める」とは答えられなかった。とはいえ、どうやったら「結婚しない、婚約までもいかない」状態にもっていけるのか、その状態になるのを阻止することができるのかを、彼女に言うこともできなかった。
「雪子、本当に何も考えてない? なりゆきにまかせる? 手荒なことをしようなんて思ってない?」
不安な色を瞳《ひとみ》にたたえた友達を見て、雪子は笑った。「何もしないから大丈夫よ。わたしはね、塚本由貴とは違うよ。あんなしたたかな女じゃないよ」
16
新学期が始まった。演劇部の活動は、一年生は週に二度と決められた。最初の半年程度は、雪子も夏美と同じように裏方の手伝いをし、舞台の仕組みを勉強することになった。
九月も半ばを過ぎたころ、雪子は次第に落ち着きをなくしていた。塚本由貴のアパートの鍵は、持ったままでいる。家では日記帳のあいだに挟み、外出するときは鞄《かばん》の中に入れて持ち歩いた。
雪子はチャンスを待った。家庭教師に来た賢一に「お姉さま、あれからどうしてる? 元気?」と聞き、その答えが得られたのは九月の三週目の水曜日だった。
「ああ、ちょっと実家に用事ができてね、一週間ほど留守にすると言ってたね。昨日からいないはずだよ」
塚本由貴の実家は、岡山にあるはずだ。一週間も留守にするという。チャンスはいましかない、と雪子は思った。それとなく、「塚本由貴の身辺で何か変わったことはなかったか」聞いておいた。賢一の話の内容からは、少なくとも塚本由貴が部屋の合鍵をなくしたのに気づいた形跡はうかがえなかった。
木曜日には、部活動があった。金曜日、塾を終えて、雪子は新宿駅で夏美と別れた。七時になるところだった。空腹など感じなかった。夏美の姿が見えなくなったところで、中央線のホームへ向かった。
*
塚本由貴の部屋から盗み出した鍵が使えるかどうかは、賭《か》けだった。住人である彼女が、ガラスの器から玄関の合鍵がなくなっていることに気づけば、そして、そのことに不安を覚え、警戒し、錠前ごと鍵をつけ替えてしまえば、この鍵は使えないのだ。
電球が一つついただけの通路は、薄暗かった。けれども、雪子にはそのほうが都合がよかった。鍵屋で作ってもらったほうの鍵を差し込む。すんなり入った。が、回るかどうかが問題だ。緊張のあまり、手のひらに汗をかいた。
かしゃりと反回転し、鍵がはずれた手ごたえがあったときは、心臓も一緒に反回転したように感じた。心臓のあたりを手で強く押さえなければ、うめき声が漏れてしまいそうだった。
雪子は、そっとドアを開けた。真っ暗だった。持参した小型の懐中電灯を使おうかどうか迷った。が、その明かりが外からはどのように見えるか想像すると、怖くて使えなかった。このアパートは、台所のすりガラスにも、ベランダ側の掃き出し窓にも雨戸はない。カーテン越しに懐中電灯の明かりが漏れたら、目にした人間が不審がるのは間違いない。かえって電気をつけたほうが疑われないだろう、と考えた。万が一、大家か住人が目撃したとしても、「ああ、実家から戻って来たんだな」と思う程度であろう。都会の生活に染まった塚本由貴は、住人に行き先さえ告げていないかもしれない。
玄関というより、台所の電気をつけた。以前と同じ空間――だが、夜の静まり返った空間――がそこにあった。
ゆっくりしている暇はない。靴を脱いで、すぐに奥の部屋へ行った。そこの電気はつけずに、卓上スタンドの電気だけをつけた。ベッドサイドに置くようなきゃしゃなスタンドで、光も弱かった。
見憶えのある赤いファイルケースが立ててあった。手紙の束を抜き取った。急いで調べる。封書、はがき、ダイレクトメール、演劇の案内……。差出人名が「高木賢一」になっている手紙やはがきの類はそこにはなかった。
次に、引き出しの中と本棚を調べた。日記や雑記帳の類がないかと探した。授業に使っているらしいノートばかりが十冊ほど、本棚や引き出し、机の上から見つかった。
――少女趣味の女のくせに、日記はつけてないのかしら。
雪子の脳裏で、時計の針がかちかちと刻まれた。一秒が早くなった。焦った。日記をつけているとしても、彼女が持って行ってしまった可能性もある。
外で人の話し声がした。雪子はビクッとした。あまりにも近くに聞こえたからだ。ベランダのある南側は道路に面している。
――わたしは、何をしているのだろう。
罪悪感と緊張のためか、後頭部ががんがんする。心臓から送り出される血液の量がふだんと違うせいだろう。
――先生と塚本由貴の関係を物語る〈決定的な証拠〉を見つけて、どうしようと言うの?
わからなかった。ただ、じっと待つことだけはもうできない、そうわかっていただけだ。手をこまねいているあいだに、どんどん二人の関係が進行しかねないように思えたのだ。耐えられなかった。つらかった。気が狂いそうだった。
一瞬、我に返り、手を止めたときに、机の脇《わき》にあるくずかごが目に入った。
大きめの茶封筒や、丸めた紙くずや使ったティッシュペーパーがのぞいている。反射的に手が伸びた。茶封筒の裏には、雪子の聞いたことのないカタカナの会社名が印刷されていた。
丸めた白っぽい紙を拾い出したのは、本能的にだったのかもしれない。
広げた途端に、そこに書かれた文字が塚本由貴の手によるものだとわかった。ノートの筆跡と一致する。
丸めてあったのは、朝顔のイラストが左下に小さく印刷された、縦に罫線《けいせん》の入った便箋《びんせん》だった。雪子は、しわを伸ばして、スタンドの明かりで文面を読んだ。
前略 もう夏もおしまいかと思っていたら、昨日、近くの八百屋さんで西瓜《すいか》を見かけました。真ん丸い大きな西瓜でした。わたしは一人暮らしなのも忘れて、思わず「これください」とお店の人に声をかけそうになりました。それほどおいしそうな西瓜だったのです。
賢一さんは、スイカと書きますか? それとも、すいか? わたしはやっぱり「西瓜」です。小さいころに家族で食べた西瓜は、なぜあんなに甘かったのかしら。わたしは薄く切ったのをいくつも食べるのが好きでしたけど、弟は西瓜は大きく切るものと思いこんでいましたね。半分ぺろりとたいらげたこともあるんですよ。いまは……どうでしょう。
父の病気のために、帰省しなくてはならなくなりました。いい機会なので、都会を離れて自分の気持ちをよく見つめて来ようと思っています。
賢一さんは、「そんなばかなこと」と否定しましたけど、やっぱりわたしにはわかります。賢一さんにとっては、「従妹のユキちゃん」かもしれませんけど、雪子さんは違います。賢一さんを一人の男性として愛しているのは間違いないと思います。
やはりわたしは少しのあいだ、賢一さんから離れているほうがいいのではないでしょうか。雪子さんの気持ちを思うと、なんだかすまないような可哀想な気がするんです。彼女がもう少し大人になるまで、待ってあげてもいいのではないかしら。
わたしも雪子さんと同じくらいのときに、ある先生を好きになりました。いま思うと、母を失った悲しみを癒《いや》してくれる存在を、家の外に求めたかっただけかもしれない、と冷静に自分の気持ちを分析できる一方、いまあのころに戻っても、「この人と一緒に逃げてもいい」くらいの強い気持ちになれるであろうとも思えるんです。十三、四歳のころのわたしは、ある意味で、いまのわたしよりずっと大人だったような気がするんです。不思議ですね。
それだけ一途で、感覚が研ぎすまされ、感受性がいまより豊かな時期だったのかもしれません。雪子さんを見ていると、昔のわたしを思い出すんです。雪子さんの中にわたしが住んでいるような気がするんです。
賢一さんのお気持ちは嬉《うれ》しいです。でも、賢一さんのことを従兄としてではなく一人の男性として好きでいる雪子さんを見ていると、彼女を刺激するのが怖くなります。具体的に何が怖いのか、と聞かれるとちょっと困りますが……。雪子さんの黒目がちの澄んだ切れ長の目に見つめられると、ほんの少しの心の動きを悟られそうで怖いんです。雪子さんの羨《うらや》ましいほど恵まれた生活環境、十三歳とは思えないほど大人っぽいきりっとした顔立ち、体格のよさにコンプレックスを抱いているのかもしれませんね。
先日もどきっとするようなことを言われました。雪子さんは、賢一さんがわたしをここに送って来たことがあるのではないか、と疑っていました。うまくごまかせたかどうか自信がありません。
わたしのことを気遣って、お急ぎになる必要はありません。幸い、父は発見が早かったので、手術後しばらく休養すれば、また元の仕事ができそうです。とはいえ病気は癌《がん》です。いつどうなるか心配ではあります。父は胃のレントゲン写真に影が写っている、と言われたときに「じゃあ、由貴の花嫁姿を見られずに死ぬのか」と思ったそうです。それを聞いてまぶたが熱くなりました。父には義母のことでずいぶん苦労をかけたからです。
実家ではまた猫を飼い出したそうです。猫と言えば、あのときのことを思い出します。車にはねられて道路脇に横たわっていたあの白い猫。桜井さんは「そんなの保健所が始末するだろう。ほっとけ」と言ったけど、賢一さんは「埋めてやろうよ」と服が汚れるのも構わずに、猫を抱き上げました。あのとき、わたしは賢一さんに急速に惹《ひ》きつけられたのだと思います。
「このまま放置されるのはこの猫の望むところじゃない。猫にだって美意識や自尊心はある」
あの言葉が胸にじんときました。猫の自尊心を問題にした人なんて、それまで
そこで終わっていた。まだ余白は一行あった。書き損じた形跡はない。文面が気に入らなかったのか、単純に下書きなのか。形の整った小さな字が、びっしり連なっていた。
塚本由貴が賢一にあてて書いた手紙の書き出しなのは、明らかだった。
――塚本由貴は、わたしの気持ちに気づいていた?
腰のくびれが理想に近づくのはまだまだ先だ、と思っている自分の裸体を、賢一と並んで見物されたようなショックを受けた。それも、塚本由貴が賢一の腕を引っ張って来て、「ほら、ごらんなさいよ」と笑いながら見せたような状況だ。
賢一のほうは、塚本由貴から雪子の気持ちを聞かされても、「そんなばかなこと」と取り合わないでいる。
――先生は、本当にわたしの気持ちに気づいていないの? それともいとこに特別な感情を抱いている自分が恥ずかしくて、ごまかすしかなかったの?
どちらにしても、先生がわたしと塚本由貴のあいだで揺れているのは確かだわ、と雪子は思った。賢一が自分を〈女として意識している〉としても、対外的に「いとこが好き」と宣言できる状態にないのは前々からわかっていたことだ。
雪子は、手紙に出てくるいくつかの表現が気になった。――彼女がもう少し大人になるまで、待ってあげてもいいのではないかしら。わたしのことを気遣って、お急ぎになる必要はありません。
――何を待つの? 何を急ぐの?
置時計の秒針の音が、急に気になり出した。かちっかちっ……。残酷なほど軽やかに時を刻んでいく。時を刻む針の音の向こうに、メロディが流れる。メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。三歳から始めて小学校四年で挫折《ざせつ》したピアノ教室で習い、自宅のピアノでさわりだけ弾いた曲。
――まさか、二人は結婚を?
まさかね、と雪子は誰もいない空間で大きく首を振った。病気の父親に娘の花嫁姿を見せるために結婚を急ぐ。そんなのはドラマの中だけのことだ。それに、塚本由貴は父親の病気のことを、この手紙の中ではじめてくわしく伝えている雰囲気だ。
――これも計算?
目の前で時を刻んでいた時計が、いきなり心臓で時を刻み始めた気がした。
――塚本由貴は、わざとこの手紙の中に「花嫁姿」などという文字を書いたのではないか。なぜなら、先生を刺激するために。先生に「結婚」を意識させ、早く結論を出させるために。自分との将来を決定づけるために。
そう思って手紙を読み返すと、二十一歳の女性が書いたにしては、やはり幼さを装った作為的な箇所が透けて見えてきた。すいかを「西瓜」と書いたところなどもそうだ。
手紙は暗記した。暗記力には自信があった。そして、もとのように丸めてくずかごに捨てた。室内は蒸し暑かった。肌がべとつき、喉《のど》が締めつけられるようで息苦しい。
ふと髪に何かが触れた気がして、ドキッとして振り返った。低い天井に張りついたシーリングライトの垂れ下がった紐《ひも》の先だった。
そのすぐ向こう、ソファベッドの隣の壁に、何か白いものがぶら下がっていた。最初はカーテンかと思った。が、窓もないそんな場所にカーテンがあるはずがない。タペストリーだろうかとも思った。
部屋の電気をつけようかどうか迷ったとき、目が薄明かりに慣れた。雪子の目はその形をはっきりととらえた。
――白いレースのロングドレス。
雪子は、もうためらわずにシーリングライトの紐を引いた。十分すぎる量の光が室内に満ちあふれた。
壁に掛かっていたのは、純白のウエディングドレスだった。
腰にペチコートを入れてふくらませないデザインの地味なラインのドレス。オーガンジーの透けた長い袖《そで》と胸元。裾《すそ》と胸元に少しあるだけの花の刺繍《ししゆう》。それは、心臓の高鳴りを確かめさせようとして雪子の手を胸に導いた彼女の幼さには似合わないほどにおとなっぽい、シンプルで上品なデザインのウエディングドレスだった。
――なぜ、こんなものが塚本由貴の部屋に?
顔と言わず頭と言わず、どこもかしこも熱く火照り、雪子は混乱に陥った。ウエディングドレスを着る機会は、一つしか考えられなかった。
結婚。賢一との結婚だ。
「うそうそうそうそっ」
混乱した頭に、賢一とそのドレスを着た塚本由貴とが並んだ写真が、大量に流れ込んできた。二人の結婚式を撮影した夥《おびただ》しい数のスナップ写真だ。雪子は、うそうそ……とつぶやきながら、純白の薄い布をつかんだ。指に吸いついてくるようなシルクの肌ざわりだった。ハンガーから引き抜いた。
――あの女は、こんなシナリオまでちゃんと用意してたんだ。
――わたしのことを気遣って、お急ぎになる必要はありません。……なんて控えめなことを書いておきながら、ちゃんと先生との結婚を思い描き、こんなドレスまで用意していた。
布をつかむ腕がぶるぶると震えた。シルクの布にしわが寄りそうなほど力が入った。雪子は、ドレスを手から滑らせた。それは、床の上に艶《つや》やかな皮膚を持った白い生き物のようにうずくまった。
雪子は、言霊《ことだま》という言葉を連想した。口に出した言葉に魂が宿るという。何度も繰り返していれば、それが実現するのだ、と雪子は解釈していた。願えば叶《かな》う、という言葉も同時に連想した。塚本由貴は、ウエディングドレスを現実に用意することで、賢一と結婚したいという願望を現実のものにしようとしたのではないか、と推理した。
――先生と二人で選んだものではありえないわ。
手紙から推測するかぎり、賢一と婚約した気配はない。塚本由貴が、先走って勝手にウエディングドレスを用意したとしか考えられない。
――なんてしたたかな女なの。なんてずる賢い女なの。卑怯《ひきよう》で卑劣で醜い野心家。二面性を持った用意周到なうそつき女。
どう形容してもし足りなかった。うそつき女であることは、手紙で証明されている。
――うそつき! 先生は、塚本由貴のアパートまで送って来たことがあるんじゃないの。
賢一までそれを隠していたのは、塚本由貴に口止めされていたからだとしか、雪子には考えられなかった。部屋には入らなかったかもしれない。けれども、部屋の前までは来た。塚本由貴が、賢一に送らせるように仕向けたのに違いない、と考えた。
――ここに、こんなものがすでに用意されていることを、先生に伝えなければいけない。
塚本由貴が、どんなに計算高く、うそつきであるかを教えなければいけない、と雪子は思った。が、すぐに、それを知らせれば、自分が無断でここに入ったことを知らせることになる、と当然ながら気づいた。
盗み出した鍵を使って、塚本由貴の部屋に入ったことを知られたらどうなるか。
賢一に軽蔑され、嫌われることは間違いない。賢一という人間は、道路端で死んでいる猫を抱き上げたことからもわかるが、正義感の強いやさしい人間である。そのことを雪子は承知していた。その点は、賢一のことを「趣味ではない」と評した夏美に似ている、と雪子は思っている。似ているからこそ反発し合うのだと。
――先生に嫌われたくはない。
しかし、では、どうすれば、塚本由貴という女の、あの清純そうな顔に隠された恐ろしい素顔をあばくことができるのか……。
雪子にはわからなかった。
しばらく呆然《ぼうぜん》と、ドレスを見下ろしていた。
――絶対に、塚本由貴には着せない。
そう強く思った。絶対に、だ。では、切り刻もうか、と考えた。探せばハサミがあるだろう。なければナイフでも包丁でもいい。
だが、その喉元《のどもと》に突き上げてくるような願望も、成就することはできなかった。雪子のしわざだとわかれば、賢一は決定的に自分から遠ざかってしまう、と思った。彼の正義感、道徳心が、空き巣や泥棒じみた行為を、どんな理由があっても許さないであろうことは明らかだった。
「これは、わたしが着るのよ。わたしが着るはずのものだったのよ」
気がついたら、鏡台の前にいた。両側に深い引き出しが、中心に浅い引き出しが三つの卓上鏡台だ。その木目の模様から、雪子は、千恵子が点《た》てた抹茶を載せるのに使っている和風のお盆と同じだと気づいた。確か、鎌倉彫りと呼ばれているものだ。
雪子は、みずばしょうとおぼしき花の彫り物が施された観音開きのふたを開け、三面鏡にした。きちんと整理されているのだろう、台の上には化粧水の瓶とクリームの容器しか出ていなかった。両側に深い引き出しが、中心に浅い引き出しが三つ。
引き出しの中を改めた。化粧品がぎっしり詰まっていた。右側の深い引き出しの奥に、外国製の煙草がまるで隠すようにしまわれていた。女性向きの軽い煙草、とテレビのCMで宣伝されているものだ。
――先生の前で堂々と吸わずに、隠れてこそこそ吸ってるんだわ。
塚本由貴への怒りが増した。
雪子はワンピースを脱ぎ、ドレスをまとった。意外なほど身体にフィットした。ドレスの丈はちょうど床につく長さだった。低めのヒールを履けば、引きずらないきれいな丈になると思われた。
――まるで、わたしのために誂《あつら》えたみたいじゃないの。
――塚本由貴は、着やせするタイプなのかもしれない。おとなの女は、見かけよりずっと肉が詰まっているのかもしれない。
ウエディングドレスに素顔は似合わなかった。雪子は、真ん中の二段目の引き出しから見憶えのある口紅を探し出して、唇に塗った。
エキゾチックな顔立ちになった。雪子は、うっとりと鏡の中の自分を見つめた。きれいだと思った。この姿を見たら、先生の心はきっとわたしのところに戻って来るに違いない、と思った。見せたいと望んだ。が、できるはずがなかった。
突然、電話の音が静寂を破った。雪子の心臓は飛び跳ねた。
台所のカウンターの上に置かれた電話機には、留守番電話機能がついていない。雪子は、ただ鳴り続ける電話を見つめていたが、そのうち怖くなった。十回を数えても鳴りやまなかったからだ。まるで自分がここにいることを、電話をかけた人間は知っているかのようだ。
急いでドレスを脱ごうとした。腕を回して背中のファスナーを降ろそうと顎《あご》を下げたとき、布が引き上げられてオーガンジーの布に、唇の一部が触れた。あっ、と息を呑んだ。襟元に赤い口紅がわずかだがついてしまった。
それが目的だったかのように、目的を果たしてホッとしたかのように、電話のベルは鳴りやんだ。雪子は、ドレスを脱いで、持っていたハンカチでルージュを拭《ふ》いた。が、赤い色は拭き取れず、わずかに残る。水を使おうかとも考えたが、薄くて繊細なシルク繊維だ。しみがついてしまうおそれがある。
――こんな小さなしみに気づくはずないわ。
諦めて、ハンガーに戻した。壁に掛けられたウエディングドレスは、着る前とは少し表情が違って見えた。雪子は、自分の体型が薄い布に残ってはいないかと不安になり、ドレスの裾を引っ張り、布を引き伸ばした。
部屋を出るときには、盗んだ合鍵をたたきの隅のほうへ落としておいた。塚本由貴が、合鍵をなくしたことに気づいていたとしても、何かの拍子に落ちた鍵に気づかずに今日までいた、という状況を作り出すために。部屋を出て、作らせた合鍵で施錠をすると、静かに階段を降りた。
17
雪子の頭から、塚本由貴の部屋で見たあのウエディングドレスの繊細なシルエットが消えなかった。次に賢一と会ったとき、塚本由貴の〈企み〉のことが何度も口から出かかった。が、結局、「お姉さまはもう帰って来たのかしら」と、彼女の様子を賢一から探り出すことしかできなかった。塚本由貴は、翌週には東京に戻っていた。いちばんつらかったのは、夏美と何度も顔を合わせながら、ひとことも相談できないことだった。障害を持つ弟を身体を張って守っている夏美を知ってから、親友はどこか遠い存在になってしまった。雪子と同じレベルではしゃいだり、怒ったり、泣いたり笑ったりができない人間として、雪子の中では位置づけられた。
そのよそよそしさに気づいたのか、夏美は、「どうしたのユキ、最近、元気ないじゃない」と心配そうに聞いてきた。
「別に、いつもと同じよ」
そう答えた雪子を、「考えすぎかもしれないけど、ユキ、わたしの家に来てから何か変わったみたい。やっぱり弟に会わせたのがまずかったのかな」と、夏美は違う方向で解釈したようだった。
雪子は、思わず「そんなこと言う夏美って嫌い!」ときつく言い返してしまった。〈どうせあなたには、わたしの立場なんか理解できないよね。わたしたち、違う世界に住んでいるから〉と決めつけられたようで、ふたたび疎外感と屈辱を味わったのだ。
二人のあいだがぎくしゃくした。事故が起きたのは、そんな気まずさを引きずっていた最中だった。
十一月に催される中等部、高等部合同の文化祭に向けて、演劇部の稽古にも連日熱が入っていた。雪子は、大学の演劇部にいる塚本由貴への対抗意識もあって、賢一や夏美に心を打ち明けられない孤独な状態にいながらも、練習を休まずにいた。その日、夏美は雪子と顔を合わせたくなかったのか、「体調がすぐれないから」という理由で部活動を休んだ。
雪子は、稽古が始まる前の舞台作りの一部を任された。背景である舞台装置の設置である。合板で作った高い塀の横の大木の枝に、はしごを使い、綿で作った雪を絡ませていた。
眠れない夜が続いていたのも原因の一つだったのだろう。天井から吊《つ》り下がった赤いセロハンをかぶせた照明に、目がくらんだせいもあったのだろう。爪先の力が抜けた。はしごが揺れた。誰かが「危ない!」と叫んだ。後頭部からじわりと湿った闇《やみ》が押し寄せてきて、次の瞬間にはすべてが闇と化した。貧血を起こしたのだ。
意識を失う直前に、雪子はどちらかの足の骨が鈍い音を立てるのを聞いた。
*
はしごから転落して、雪子は左|大腿《だいたい》部を骨折し、自宅の近くの病院に入院した。医者から「一か月は入院することになります」と言われた。そのあいだ学校を休まなくてはならず、澄夫も千恵子も勉強が遅れることを気にしたが、雪子が気にしたのは違うことだった。一か月後に退院できても、そのあと足が完璧《かんぺき》な状態に戻るまで、当分は行動が制限される。それは、雪子が〈何も仕掛けられない〉ことを意味した。
足を固定されたベッドの上で、雪子の想像は悪いほうへ悪いほうへとふくれあがった。夏美は、その場に自分がいなかった責任を感じたのだろう、ほとんど毎日のように、授業をまとめたノートを持って見舞いに訪れた。そんな夏美にも雪子は心を閉ざしたままでいた。夏美が自分の足がわりになってくれるとは、到底考えられなかった。たとえ足がわりになることを承知してくれたとしても、どう頼んでいいのかわからなかった。雪子には、いまの段階で、賢一と塚本由貴の仲を壊すために、何をどう仕掛けたらいいのか、考え出すだけの余裕も頭もなかった。切断された左足をばたつかせる悪夢を見て、背中に汗をぐっしょりかくほどにその衝動を抑えるのに苦労したのは、あのウエディングドレスを切り刻みたい、という願望だった。
最初に賢一が病室に現れたのは、千恵子に伴われてだった。次には、一人で来た。雪子は喜んだ。が、その次には塚本由貴と彼女の友達の吉川さなえと連れ立って来た。賢一を女子大生に取られたようで悔しかった。だが、三人であることにまだ安心していた。ところが、次に来たときは、塚本由貴と二人だった。塚本由貴は、花とマドレーヌを持って来た。そのマドレーヌの入った包装紙が、横浜の山下公園近くの店のものであるのを見て、雪子は嫌な予感に襲われた。彼女が賢一とそのあたりをデートしたのだ、と直感した。賢一は日焼けし、彼女の頬《ほお》はバラ色に輝いていた。その夜、雪子はベッドでもつれ合う賢一と塚本由貴の生々しい姿を夢に見た。そんな艶《なまめ》かしい夢を見たのは、生まれてはじめてだった。
三十三日後、雪子は退院した。そして、嫌な予感は的中した。自宅で開かれた家族だけの退院祝いの席で、雪子は千恵子の口から、賢一と塚本由貴が婚約したことを聞かされた。
「あなたにはいままで黙っていたけど、瑞枝伯母さまのところは……うまくいってないのよ。その……つまり、ロスで伯父さまと別居してるの。いずれ離婚するかもしれないわ。そんなこんなで、賢一さんはずいぶん悩んでいたのよ、表面上は明るくふるまっていたけど。それが直接のきっかけになったわけじゃないけど、賢一さんの目が救いを求めるかのように家の外に向けられたのは確かね。心の支えとなってくれる女性が必要になったのよ。塚本由貴さんという方とは、雪子の入院中にはじめてお会いしたわ。雪子と夏美さんはもうとっくに会っていたんですって? 賢一さんが紹介してくれたの。そのときは『婚約者です』とは紹介しなかったけど、でも、なんとなくいい雰囲気だったから、親しいつき合いをしているのだろうと察しがついたわ。N女子大の三年生ですってね。とても可愛らしい感じのいい方よ。婚約を決めた直接のきっかけは、その塚本由貴さん側にあるわね。塚本さんって方は、あまり家庭的に恵まれていない人らしくて、実の母親が雪子の年に亡くなったあと、継母とは折り合いが悪かったらしいの。お父さんが胃ガンの手術をしたとかで、だいぶ気弱になってらしたんでしょう。
賢一さんが、塚本さんのお父さんを安心させるためにも、せめて婚約だけでも在学中に、と急いだんでしょうね。結婚式自体は、卒業してからになるらしいけど。それでも、塚本さんのお父さんはずいぶんお喜びのようよ。病床でホッとされたんでしょうね。学生で結婚するのは早すぎるかもしれないけど、賢一さんほどしっかりした子なら、将来は約束されているようなものだし、婚約という形なら別に問題はないわ。そういうわけで雪子、奇遇にもあなたと同じ『ユキ』さんが、あなたの義理のお姉さんみたいな存在になるわけなの。賢一さんは、あなたにはいとこだけど、義理のお兄さんみたいなものだし。あなたもあまり小姑《こじゆうと》みたいに意地悪しないで、仲よくやっていってね。雪子は素直な子だから、ママは心配してないけど。でも、世の中には、兄嫁をいじめる小姑って言葉が、歴然とあるくらいだから」
退院してはじめて、賢一が家庭教師に訪れた日。
「塚本さんと婚約したんですってね。先生、おめでとう」
雪子は、せいいっぱいの笑顔で祝福の言葉を述べた。
「あ、ああ、ありがとう。まだ学生だからな、何だか照れるよ」
賢一は、面食らったような顔をしたが、白い歯を見せて応じた。
「先生、わたしが気づかなかったと思ってるの? 最初から二人はすごくお似合いだと思っていたんだよ。夏美もそう言ってたし」
「そ、そうか?」
「お姉さまも水くさいんだから。先生のこと好きなくせに、『高木さん』なんてしらじらしく呼んじゃって。わたしのこと、なんだか意識してたみたい。おかしいよね、先生とわたしはいとこなんだから。小姑みたいでうるさい女の子だと思われたのかな」
「そんなことないと思うよ。彼女は……ユキちゃんのことが大好きだよ。妹みたいで可愛いってね」
「お姉さま、ウエディングドレスを着るのかしら」
「そんなの、まだまだ先だろ? まだ卒業もしてないんだからさ」
――やっぱり先生は、あの部屋にウエディングドレスがあるのを知らないんだ。
雪子は確信した。
――あの女はね、隠れてこそこそ煙草を吸うような女なのよ。彼女が二面性を持っていることは、確かだわ。
塚本由貴に誘惑され、彼女の魅力に惑わされている賢一の目を、何とかして醒《さ》ましてあげなければ、と決意した。
18
松葉杖がとれて、普通の生活に戻れたのは、十一月も半ばを過ぎたころだった。雪子は運動会も休み、文化祭の行事にも参加しなかった。
ひたすら、足が正常な状態に戻るのを待っていた。そして、ただただ一つのことを考えていた。
――二人の婚約を破棄させる。
雪子は、冷静な計画者に、指揮官に、そして実行者になろうとした。日記帳に〈作戦〉を書き出した。そうすること自体、すでに冷静さを失っているなどと考えもしなかった。
1 先生が塚本由貴を嫌いになるような事件を起こす。
2 塚本由貴が先生を嫌いになるような事件を起こす。
3 先生にほかの女を近づける。
4 塚本由貴にほかの男を近づける。
いくつか書き出してみたが、どれもひどく時間がかかりそうな作戦に思え、気が遠くなった。3と4は、誰かの応援を求めなくてはいけない。作戦としては成功したとしても、裏で糸を引く雪子の存在が容易に知れてしまうと思われた。1に関しては、すでに小さな事件を起こしている。だが、雪子の想像もつかない展開になり、かえって雪子の立場を脅かすこととなった。二人の熱を冷まさせるような大事件など、とても思いつきそうにない。
雪子は、日記帳を閉じた。どうしても、脳裏からあのウエディングドレスのシルエットが消え去らない。
――塚本由貴が、いまの段階ですでにウエディングドレスを用意していることを世間に知らせれば、彼女の打算的な性格が先生にもわかり、先生は婚約を考え直すのでは……。
雪子は、閉じた日記帳をもう一度開いた。そこに、こう書いた。
5 塚本由貴の身辺で事件を起こす。たとえば空き巣。彼女の部屋を荒らし、金品を盗み出す。彼女は被害届けを警察に出す。警察が彼女の部屋を調べる。ウエディングドレスの存在も明るみに出る。荒らした際に、ドレスを汚すか破くかし、それも被害を受けた証拠品になるようにする。煙草も、箱から抜き出して至るところにばらまいておく。
思いつきに胸が高鳴った。すばらしい思いつきだと悦に入った。塚本由貴は、身辺で起きた事件に深く傷つくだろう。傷を癒《いや》すのにかなりの時間を費やすかもしれない。ウエディングドレスが着られなければ、とりあえず結婚式は延期になる。その前に、ドレスの存在を賢一のほうが怪訝《けげん》に感じ、彼女の計算高さに失望するかもしれない。
雪子は、自分の思いつきが、客観的にはひどく短絡的なものに見えるかもしれない、などとは少しも考えなかった。いや、ちらとそういう思いが脳裏をよぎったかもしれないが、彼女はあえて目をつぶったのだった。いまを逃せば、ウエディングドレスを世間に公開するチャンスはない。うそつきの彼女のことだ。賢一に「ねえ、ドレスを買っていい?」と甘え、あたかも婚約が決まったあとで買ったように工作するかもしれない。雪子は焦りを覚えた。
実行するのは、早ければ早いほうがいい。与えられた時間はあまりない。
雪子は、賢一を通して塚本由貴の予定を聞き出した。
「わたし、お姉さまにお芝居の台本を見てほしいんだけど。お姉さまが、それぞれの役をどう解釈するか知りたいの」
「彼女は、クリスマス・イヴに催される芝居の稽古でいま忙しいらしいんだ。泊まりがけの稽古が終わってからじゃだめかな」
その泊まりがけの稽古の日程を、雪子は頭の中に書き写した。
塚本由貴の部屋に忍び込み、空き巣のように見せかけて荒らすには、姿を目撃されるおそれのある日中ではまずい。昼間は学校があるし、休日に外出すると、親に行き先を詮索《せんさく》される。
十一月の最後の金曜日。曇りがちの天気で、幸い、明日まで雨は降らないでしょう、と天気予報が告げていた。雨が降ると、アパートの周囲に足跡が残る。そこに雪子の靴型が残れば、疑惑の目が向けられてしまう。
一日中、落ち着かなかった。英語の授業であてられて、うわのそらで聞いていた雪子は答えられず、教師に「影山さんがわからないなんて珍しいわね。入院中もちゃんと予習、復習していたはずなのに。仲よしの笠原さんがノート届けてくれてたんでしょ?」と嫌みを言われた。授業のあと夏美にも「どうしたの?」と心配された。親友の言葉が「ユキ、先生が婚約したことがショックなの? つらい気持ちはわかるけど、まだわたしたち若いんだよ。お願いだから気持ちを切り替えて。立ち直って」と慰めの言葉に転じて続くのを、雪子は無視した。そして、「今日は一緒に帰れないから」とつっぱねた。今日は、ではなかった。退院してからずっと、雪子は夏美を避けてきたのだった。鞄《かばん》の中には、手袋と懐中電灯と、塚本由貴の部屋の合鍵がしまいこまれていた。制服のコートは、幸運にも目立たない黒だ。
決行の時間が、刻々と近づいてきていた。
19
あのウエディングドレスは、先日と同じ場所に同じシルエットを浮き上がらせて掛かっていた。雪子は、懐中電灯の明かりを下に向けた。なるべく窓側にあてないようにしなければいけない。靴はたたきに脱いだままにしなかった。ビニールの袋に入れ、手袋をはめた左手に提げている。万が一の場合、ベランダから逃げられるようにだ。
置時計の時を刻む針の音を、一瞬、自分の心臓の鼓動と間違えそうになった。それほど、雪子の心臓は鼓動を早めていた。
――何からどう手をつけようかしら。
雪子は、気分を落ち着けるために深呼吸をした。アパートの鍵など針金を使って簡単に開けてしまう、熟練した泥棒のふりをするつもりだった。部屋を荒らしたものの、思ったほどの収穫が得られなくて、腹いせに目にとまったウエディングドレスを汚して行った泥棒。雪子の考えた泥棒像はそれだった。冷蔵庫の中のものをばらまいたり、部屋の真ん中に脱糞《だつぷん》したりして、部屋を汚して行く泥棒がいることを、雪子は聞いたことがあった。
「まずは机からね」
雪子は声に出した。自分のしていることが、それほど大それたことではない、ただのスポーツだと思い込みたかったのかもしれない。現金があれば、一万でも二万でもいいと思った。
引き出しに手をかけたときだった。
外階段に足音がした。雪子はハッとして、手をとめた。
――塚本由貴が帰って来るはずがない。彼女は泊まりがけで稽古をしているはずだもの。
二階の住人が帰宅したのだろうか。雪子は、祈るような思いで足音がこの部屋の前を通り過ぎるのを待った。
だが、次の瞬間、雪子の身体もあたりの空気もぴしりと凍りついた。
鍵を鍵穴に差し込む音がしたのだ。間違いなくこの部屋だ。
――ど、どうしよう。塚本由貴が帰って来た?
鍵を持っている人間は、塚本由貴しか考えられなかった。躊躇《ちゆうちよ》している暇はなかった。雪子はベランダのほうへ目を向け、窓から逃げようかと考えた。が、物音が聞かれてしまうと恐れた。ベッドのほうへ後ずさりした。
ドアが開く気配がした。もう時間はない。雪子は、懐中電灯の明かりを消した。荷物を胸に抱え、とっさにベッドの脇《わき》のクロゼットに張りついた。塚本由貴が自分を見つけたときの驚愕《きようがく》の表情、彼女の口から発せられる悲鳴を想像して、膝《ひざ》ががくがくと震えた。闇《やみ》に溶け込んでしまえたら、と本気で願った。
――クロゼットの中に隠れるしかない。
隠れたとしても、その場しのぎにすぎず、遅かれ早かれ見つかってしまうのは明白なことである。けれども、それしか選択|肢《し》がなかった。
クロゼットのドアを開ける音が先だったのか、〈それ〉が先だったのか、夢中でドアの丸いつまみを引っ張った雪子にはわからなかった。
何かがぶつかる鈍い音。空気を裂くような音。「あっ」と叫んだ女の声。そして、ビニールから空気が少しずつ漏れるようなぶしゅぶしゅいう音。
雪子にわかったのは、自分がクロゼットに身を隠す音が、それらの一連の音によってかき消されたことだけだった。吊り下がった衣類のあいだに荷物を置き、うずくまった。祈りの形に手を合わせ、胸に押しつけ、息を潜める。
――な、何が起きてるの? さっき叫んだのは塚本由貴じゃないの?
岩がころがるような音がした。テーブルの足が床をこすり、椅子《いす》が転がる派手な音のあとに、布を裂く音が続いた。
「だ、誰か」
塚本由貴の声が、クロゼットのドアを隔てたすぐそばで上がった。悲痛な響きだった。
「誰か、助けて」
頬《ほお》を張る乾いた音がした。紙が裂けるような細い悲鳴が上がった。
「静かにしろ」
男の低い声。苛立《いらだ》ちと怒気と、そして恐怖を含んでいる。「騒ぐと殺すぞ」
――殺す……。
雪子は縮み上がった。
――だ、誰なの?
賢一の声ではない。だが、賢一と同年代の若い男の声のように思われた。
雪子は、全神経を耳に集中させた。「うぐっ」という空気の漏れるような音のあとには、床を蹴《け》る音のほかは細い悲鳴も聞こえなくなった。さるぐつわをされたのだろうか。男が暴力で女の自由を奪う様子が、その非日常的な音だけでまざまざと脳裏に浮かんだ。
盛んに床を蹴る音が続く。雪子は、思わず「ひっ」と喉《のど》を鳴らした。そのまま喉が渇ききってしまった。
「静かにしろってのが、わからないのか」
男の低い声に、頬を打つ音が混じる。「殺されたいのかよ」
床を鳴らす音がやんだ。
――殺す、殺す、殺す……。
雪子は、自分の身が切られたような鋭利な痛みを感じて、反射的に縮こまり、目をつぶった。五感を閉ざしてしまいたかった。両耳をふさいだ。胸から手が離れた瞬間、心臓がごとりと大きな音を立ててひっくり返ったように思ってびっくりした。
板一枚隔てた外で起きている事態の重大さは、十三歳の雪子にもわかった。塚本由貴は見知らぬ男に襲われているのだ。男は彼女のあとをつけて来たのだろう。鍵を開け、部屋に入った彼女を背後から襲い、口をふさいで一緒に部屋になだれこんだ。……そういう状況であることは、もう間違いなかった。
――助けなくちゃ。お姉さまが殺される。出て行くのよ。お姉さまを助けるのよ。
――大丈夫よ。男は、「静かにしていれば殺さない」という意味のことを言ったわ。じっと待つのよ。何が起きているかなんて想像するのはやめなさい。
――お姉さまは、すぐそこで男に暴行されている。あなたは黙って見過ごせるの?
いろんな声が脳裏でこだました。
――いま外に出れば、男はびっくりするだろう。その隙《すき》をついて、男の頭を殴るのよ。女が二人なら何とか男をやっつけられるかもしれない。
――でも、そんなにうまくいくかしら。男は大男で、考えているよりずっと力のある男かもしれない。刃物を持っているかもしれないし、もしかしたらピストルも……。わたしもひどい目に遭い、殺されるかもしれない。隠れていたわたしを見て、男の怒りや興奮をあおるようなことになったら……。
雪子は、目を開けた。ドアのわずかな隙間から薄暗い空間が見えた。男は、電気スタンドの明かりをつけたのだろう。耳から両手も離した。その途端、異様な声が聞こえた。
男のうめくような、あえぐような、はあはあ息を切らせる声。狼《おおかみ》の短い遠吠えにも、衣擦《きぬず》れの音にも似ていた。
雪子の喉元《のどもと》に吐き気がこみあげた。すぐにまた耳をふさいだ。手袋をはめた手のひらで円を描き、耳の奥に轟音《ごうおん》を作った。轟音でその異様な音をかき消してしまいたかった。
どれだけそうしていただろう。誘惑に勝てずに、すっと両手を耳から離した。
その瞬間、「畜生、よくもやりやがったな」と、男の猛り狂った声が鼓膜に飛び込んできた。雪子は胸をつかれて、クロゼットの奥に背中を張りつけた。
うぐぐ、と布の隙間から漏れるようなか細い声。頬を叩《たた》く乾いた音。身体のどこともわからぬ場所を打つ鈍く湿った音。何かを投げる音。何かにぶつかる音。ドアの外は混乱し、緊迫していた。
雪子は膝に頭を載せ、両腕で抱え込んだ。耳は腕でさっきよりずっときつくふさがれた。
クロゼットのドアに、ばあんと大きな衝撃があり、雪子の腰は浮いた。その拍子に、クロゼットに掛かっていた上着が一枚、するりとハンガーから滑り落ちて、どさっと床に落ちた。厚い生地のためか、中にいる雪子にはかなりの音量に響いた。
雪子は、両耳をふさいでいた手を離した。男の足音が近づいた。心臓が大きく波打つ。雪子は、頭を上げずに息を殺してじっとしていた。
――お願い、ドアを開けないで。どうかわたしに気づかないで。お願い、来ないで、来ないで。お願いだから。
必死に祈った。
そのとき、何かが倒れる音がした。
「な、何だ?」
男の注意が、そちらのほうに向いたらしい。「驚かすんじゃねえよ」男は、ひとりごとのように言った。いままでとは違う弱々しい声だった。
雪子は、ふたたび両耳を腕で挟んだ。ただただ過ぎてほしかった。クロゼットの外で起きていることが嵐だとすれば、一秒でも早く嵐に去ってほしかった。
ゴオゴオと渦を巻くような水音が、耳の奥で続いている。その水音に、ときどきかすかに、異質な声ともつかぬ音が混じった。
どれほどたったであろうか。雪子は目を開け、耳をふさいでいた腕をどけた。
静かだった。だが、その静けさを信じるものかと思った。
ふたたび待った。六十秒を数えた。
静かなままだった。
――男はいなくなった?
雪子は迷った。
――声を出してみようか。
だが、そうすることはひどく怖いことに思えた。目で確かめるのが先だと思った。クロゼットの左側のドアを数センチほど押し開けた。電気スタンドの弱い、場違いにロマンチックな明かりが見えた。男がいる気配はなかった。それでも、やっぱり怖かった。声を出さずにまた六十秒数えた。
一分待って、雪子はドアを全開し、半身を乗り出した。勇気を振り絞って、「お姉さま? 由貴さん?」と、小さく呼んでみる。
応答はなかった。
胸騒ぎがした。塚本由貴が、暴行魔に連れ出されたとは考えられなかった。
雪子は、意を決してクロゼットからすっかり身体を出した。
いまはソファの状態になっているソファベッドの横に、鏡台が横倒しになっていた。ふたは閉まっている。そして、ソファベッドには、誰かがあおむけに寝ていた。
雪子は息を呑《の》んだ。
口にガムテープを貼《は》られた半裸状態の塚本由貴が、口が壊れて捨てられたマネキン人形のようにそこにころがっていた。破かれたブラウスの胸元からこぶりの乳房がのぞき、黄色いフレアスカートは腰までめくれ上がり、足首のところに白い布がくしゃくしゃとなって絡まっていた。
――ひどい。
悽惨《せいさん》な光景に、全身が総毛立った。
「お姉さま……」
雪子は、愕然《がくぜん》として塚本由貴を見下ろした。彼女の首筋には、生々しい赤黒いあざができていた。彼女がしていたらしいベルトで思いきり締めつけられていたのだ。雪子はベルトに手を伸ばし、ハッとして引っ込めた。
――死んでいる。
そう直感した。塚本由貴の目は、見開かれていた。理不尽な目に遭った驚きと恐怖をその瞳《ひとみ》の奥に張りつかせて。
――触れてはいけない。
頭の片隅から命令が下りた。続いて、この場にある何一つ動かしてはいけない、という命令も。
「ごめんなさい、お姉さま」
雪子は、涙声で塚本由貴の死体に言った。「助けてあげられなくてごめんなさい」
そして、死体から目をそらした。
――早く立ち去るのよ。
雪子は、塚本由貴の死体に背中を向けた。玄関に歩き出して、後ろ髪を引かれた。まぶたが熱く痛くなった。爪先《つまさき》から頭の先までぶるぶると震えた。
「お姉さま」
雪子はこらえきれずに、つい五分前まで生きていた塚本由貴の傍らに戻り、かがみこんだ。せめて目だけでも閉じてあげたい、そう思った。
手袋をはめた手で、塚本由貴の見開かれていたまぶたを、そっと閉じてやった。まだ暖かかった。
「ごめんなさい。許してね」
雪子は、顔を覆って泣いた。
*
塚本由貴の死体は、翌日、大学の女友達――吉川さなえによって発見された。司法解剖の結果、彼女の膣内《ちつない》から精液が検出された。血液型はA型だった。
雪子は、いつ捜査の手が自分に及ぶか、気が気ではなかった。あの夜どこにいたかと聞かれたら、その動揺からすべてを告白するはめになるのでは、と想像した。自分は人目に触れないようにうまく逃げ出したつもりでも、誰かが自分を目撃していたかもしれない、と不安にさいなまれた。
だが、被害者の遺体に残された強姦《ごうかん》の跡と、暴行をうかがわせる部屋の状況が、犯人を男性と断定する決定的な手がかりとなった。都内で、暴行事件と暴行未遂事件が連続して何件か起きていたことも、事件と関係あるのではと推測された。
雪子には、誰もが同情の目しか向けなかった。
千恵子は娘に言った。
「ママはね、あなたや夏美さんには、こんな悽惨な事件、できれば知ってほしくないくらいなの。中学生のあなたたちにはショックが大きすぎるでしょ? 賢一さんの心中を思うと、慰める言葉もないわ。賢一さんは、しばらく誰にも会いたくないそうなの。そっとしておいてほしいんでしょう。世の中には、ひどいことを言う人もいるのよ。塚本さんが暴行されたと聞いて、婚約者の賢一さんを疑ったりね。二人ともまだ若いから、男女関係のもつれか何かで言い争いになって、賢一さんが弾みで塚本さんを殺してしまった、とかね。それを強盗殺人に見せかけたんだろう、なんてね。塚本さんの目が閉じていたでしょう。生前、被害者と親しい関係にあった者の犯行だろう、なんてもっともらしく推理するのよ。ひどいことを考える人もいるものね。ほんと、腹が立つわ。賢一さんにかぎって、そんなことするはずないじゃない。でも、まあ、アリバイがあったから、そういう疑いも一時的なものになったんだけど。賢一さん、血液型はO型だしね。
あの日、塚本さんは稽古場からあるものを取りに自宅に帰ったんですって。どうせちゃんとしたお稽古をするなら、舞台衣装もつけたほうがいいからってね。その舞台衣装というのが、本当に可哀想なんだけど、なんとウエディングドレスなのよ。稽古で使うと汚れるでしょ? 本番までにあんまり汚しちゃいけないからって、使うのを控えていたそうなんだけど、あの夜の稽古にはどうしても着たかったんでしょうね。お芝居に使ったら、いずれ賢一さんとの結婚式にも着る予定だったのかもしれない。とっても清楚《せいそ》で可愛いドレスだそうよ。塚本さんが自分でデザインして自分で縫ったものだったらしいわ。部屋の中はめちゃめちゃだったけど、純白のそのドレスは、まったく汚れていなかったんですって」
第二部 婚約者
1
二人の乗ったBMWは、山間部の闇《やみ》の中を走っていた。
影山雪子は、さっきから左手の薬指に違和感を覚えていた。その指にだけ、重くて冷たい感触があった。計器類を照らすランプに、薬指がきらりと光る。気高く甘い輝き。だが、人工的な輝きでもあった。
指輪の送り主は、隣にいる。ハンドルさばきが軽快な運転手だ。今日、彼は彼女の〈婚約者〉になった。
「なんだか映画みたいでキザだけどさ。君の指のサイズは聞いてたし、ちょうどいいのを銀座で見つけたから」
彼はそんなふうに言って、ドライブの途中に立ち寄ったレストランで、リボンのかかった箱をテーブルに載せた。さりげなくしたつもりだろうが、動作には芝居がかったぎこちなさが感じられた。
箱を開けた雪子は、ほとんど条件反射的に「まあ、きれいなダイヤモンド」と口にし、指の先でつまみあげ、目の高さでその輝き具合とカットを確かめた。それは、身体《からだ》の一部に刷り込まれた〈そういうときの反応〉だったのだろう。だが、喜びの表現には違いなかった。彼は満足そうな表情だった。
「日取り、決めなくちゃね」
運転席から彼が言った。
「あ、ああ、そうね」
「急がないと、ジューン・ブライドになれなくなっちゃうな」
「あっ、うん。そうね。でも……」
別にジューン・ブライドにこだわるつもりはないのよ。式は六月でなくてもいいの。と、雪子は心の中で続けて、無理やり頭を押さえつけていた不安が持ち上がるのを感じた。いままで、面と向かってその不安の正体を見つめるのを避けてきたのだった。
――このまま、この人と結婚してしまっていいのだろうか。
――わたしは、ほかの誰か……を待っていたはずではなかったの?
この指輪を返してしまえば、彼とのつき合いは終わりになる。だが、そのあとに自分には何が残るだろう、と雪子は考えた。何も残りはしない。未来に自分を待っているものはない。
雪子は、あてのないものを待ち続ける日々に疲れていた。そんなときに現れたのが、隣にいる指輪の送り主の彼だった。彼が、待ち続けるだけの日々から自分を救い出してくれそうな気がした。彼との出会いが、すなわち〈ほかの誰かを待っても無駄だよ〉ということの証しだと思った。
一流大卒の一流企業に勤める三歳年上の男性。背は雪子より高く、肩幅もある。男性にしては色白で、鼻筋が少し曲がっていることをのぞけば、整ったハンサムな顔立ちの部類に入る。次男で、家業を継ぐ必要はない。ビジネスで使う範囲の英語をしゃべり、飛距離を誇るゴルフをし、話題になった本を読む、色ではブルーとグレーが好きなごく普通の男だ。育った家庭環境も雪子に似ていた。
学生時代にも、そして卒業してからも、雪子に「好きだ」と言ってくる男はいた。プロポーズされたこともあった。だが、雪子は「自分にはまだしたいことがあるから」「わたしはあなたにふさわしい人間じゃないから」などというあいまいな理由で、交際を断って来た。いつも心の片隅には、賢一がいた。塚本由貴の死後、大学を辞め、傷心のままにロスアンジェルスへ帰ってしまった賢一がいた。賢一からはその後、澄夫と千恵子と雪子あてに、「こちらで大学に入り直しました。いまは、友達のインテリアショップを手伝っている母と一緒です。父と母は離婚しました」という短いはがきが一通、届いただけだった。
雪子は、T外語大学を卒業後、大手の外資系の製薬会社に就職した。医薬品についての文献や論文を、日本語に翻訳する仕事を任されて三年になる。
――待っていれば、賢一さんはわたしのところに戻って来るかもしれない。
その望みだけにすがって雪子はひたすら勉強し、賢一と約束した第一志望の大学に入った。だが、合格を知らせても、賢一からは合格を祝うはがきはこなかった。
雪子は、成長に合わせて呼び方を「先生」から「賢一さん」に変えた。が、そう名前を呼ぶ機会も、日常の中ではほとんどなかった。食卓に賢一の名前を出すことは、影山家ではタブーに近いものになっていた。賢一を話題にすることは、塚本由貴の死を連想することにつながる。賢一のことは忘れようとしても忘れられなかった。どうやったら忘れられるのだろう、どうやったらこの苦しさから逃れられるのだろう、ともがいていたときに、いまの彼を紹介された。背格好が賢一に似ていた。二時間デートするあいだにほんの数秒、「賢一さんに似ている」と思わせる表情をすることがあった。
それだけで、特別な関係を結んだ。だが、彼は賢一を超える存在にはならなかった。
――あれから十二年もたったんだわ。
雪子は、助手席の窓外に目をやった。
十二年たっても、塚本由貴を殺害した暴行犯は捕まっていない。
「でも、何?」
雪子の沈黙の長さを訝《いぶか》ったのか、彼の長い首がひねられた。
雪子は我に返り、顔を彼に向けた。自分の隣に、〈婚約者〉がいることなど忘れていた自分に驚いた。意識した途端、左手の薬指が重さを増した。彼が微笑《ほほえ》んだ。雪子は、微笑につき合った。
二人の顔が正面に戻ったとき、「あっ」と同時に声を上げた。ヘッドランプに白いものが浮かび上がった。雪子は最初、道路の左側から柔らかい羽毛の塊が転がり出てきたのかと思った。彼がブレーキを踏んだ。車のボディが何かを撥《は》ね飛ばした。目の高さに舞い上がったとき、一瞬、生き物の背中の丸みが見えた。網膜にくっきりと猫の形が刻まれた。
「ぶつかったわ」
雪子は、婚約者の腕をつかんだ。硬直していた。
数十メートル進んで車は停止した。婚約者と自分の頭ががくんと揺れた。
「ねえ、何か撥ねたみたい」
雪子は、婚約者の腕を揺さぶった。
「猫だ」婚約者は、つぶやくように言った。
「戻って見ましょう」
「猫だよ。白い猫だった」
「わたしも猫じゃないかと思うけど、でも確かめましょう」
「猫だよ」
婚約者は、何かにとりつかれたように正面を向いたまま、断定的に言った。「人間じゃないよ」
人間じゃない、と言った婚約者の真意が雪子にはつかめなかった。
「人間じゃないけど、でも……」
「野良猫だよ」
婚約者は、不思議な生き物を見るように雪子を見た。二人とも、猫がころがっている後方を振り返りはしなかった。振り返っても見えはしない。漆黒《しつこく》の闇を従えているだけだ。
「野良猫かもしれない。でも、どこかで飼っている猫かもしれない」
「野良猫に決まってるさ。別荘地からはずいぶん遠いよ」
婚約者の口調が、不機嫌なものになった。
雪子は、婚約者に誘われて、彼の父親が持っているという山梨県内の別荘地にドライブに来たのだった。別荘地の周囲には、大手の観光会社が経営するホテルやゴルフ場があった。そこで食事をして、別荘地を回り、帰るところだった。
「野良猫でも猫は猫よ。死んじゃった……かもしれない」
自分の声が震えているのに気づいて、雪子はゾッとした。紺色のボディのBMWが、真っ白い猫を撥ね飛ばし、血まみれの変わり果てた姿にしたかもしれないと思って、気味悪さと恐怖を感じた。
「たぶん、死んじまっただろう。だけど、仕方がないさ」
婚約者は言った。「いきなり飛び出して来たんだから」
「あれじゃ、避けられなかったわ。仕方がなかったわ」
「だろ? じゃあ、いいじゃないか。戻って見るまでもない」
婚約者はいらついているようだった。「そう、避けられなかった」と、自分に言い聞かせるようにつぶやくと、BMWをスタートさせた。苛立《いらだ》ちを払拭《ふつしよく》するようにアクセルを踏み込んだ。
雪子は驚いた。「ねえ、どうして? どうして行っちゃうの?」
雪子は、正面だけを見据えて走らせる婚約者を見、後方を振り返った。何も見えなかった。走って来た道の先が闇に溶けている。
「じゃあ、どうしろって言うの? 撥ねちゃった僕が悪いのか? 君はさっき、仕方がなかった、避けられなかった、と言ったじゃないか」
「仕方がなかったけど、避けられなかったけど、でも、撥ねちゃったんだから、せめて様子を見てあげましょうよ」
「死んでるよ、もう。ボロぞうきんみたいになってるさ」
かすかに婚約者の横顔が笑ったように、彼女には見えた。が、それは笑ったのではなく、恐怖と罪悪感を紛らわせるために口のまわりの筋肉をゆるめただけだった。
「ずたずたになってるかもしれない。でも、やっぱり戻るべきよ」
雪子は、猫の死骸を想像して背筋が寒くなった。「せめて道路の端に置いてあげましょう。お墓を作ってあげてもいいわ。ねえ」
そう言って、婚約者の左腕に触れた。小刻みに震えていた。
「あのままにはしておけないわ。そう思わないの?」
「戻ると遅くなる」
「たった五分のことじゃないの」
「どこに埋めるんだ?」
「だから、そのへんに」
「そのへんの土が、簡単に掘れるわけがない。第一、掘るような道具は積んでない」
「抱いて帰るわ」
「抱いて帰る?」
きっと婚約者が雪子を向き、またきっと正面に顔を戻した。
「マフラーに包んで帰る。帰ってどこかに埋めるわ」
「汚れるよ。カシミヤだろ?」
「いいの、汚れても」
「車が汚れる」
「…………」
「シートに猫の血がつく」
「つかないようにするわ」
「車の中が臭くなる」
つづら折りの道に入っていた。婚約者は、まるで憎しみを叩《たた》きつけるような形相で、ハンドルを握り締めている。スピードは緩めない。彼女は左右に揺すぶられて、気分が悪くなった。
「お願い、停めて」
低い声を振り絞った。婚約者は答えなかった。
「停めて!」
雪子は、婚約者の腰にしがみついた。
「お、おい、やめろっ」
すさまじい急ブレーキの音がし、タイヤがきしんだ。がたんと車が停止した。
「危ないじゃないか。何だよ」
婚約者は顔を紅潮させ、興奮で肩を上下させた。
「停めてって頼んだのに、停めてくれないからよ」
雪子は顔を上げた。額に冷や汗が湧き、前髪がべったりと張りついているのがわかった。
「夜だぞ。外は寒い。猫一匹で、何で貴重な時間をロスしなきゃいけないんだ」
フロントガラスで何かが動いた気配がした。ハッとして二人はそちらを見た。雨粒があたっていた。
「ほら見ろ、雨まで降ってきた。十一月の雨だ。雪になるかもしれない。こんなところでうろうろしてられないぞ」
「猫を轢《ひ》いたのよ」
「わかってるよ」
婚約者は、苛立ちと怒りと恐怖を含んだ声で、たたみかけるように答えた。「猫だよ、白い猫だよ。猫を撥ねた。猫を轢いた。猫を殺した。だけど、猫だ。人間じゃない。殺したのは猫で、人間じゃない。子供でも、赤ん坊でも、老人でもない。猫だよ、猫、猫、猫、猫、猫、猫だ。一匹の猫だ。イッツ・ア・キャットだ。たかが猫一匹だ」
婚約者は、自分が狂気をまき散らしてしまったと恥じたのだろう。トーンを抑えた甘えたような声で続けた。「悪かったよ、僕が悪かった。猫を撥ねて悪かった。だから、そっとあの猫の冥福を祈る。でも、仕方ないじゃないか。不可抗力だよ。そんなに僕を責めるなよ」
「わたしはね、撥ねたことを責めているんじゃないわ。わたしが運転していても、たぶん避けられなかった。そうじゃなくて、停まってあげなかったことを責めてるの。あのまま放置しておいたら、あとから来た車に次々に轢かれてしまうかもしれないわ。それじゃ、あまりに可哀想《かわいそう》じゃないの」
「こんな山奥、車なんてめったに通らないよ。ほら、すれ違う車だって、後続車だっていないじゃないか」
「夜だからよ。明日になったら通るわ。そしたら……」
「車に轢かれる猫はいっぱいいるよ。東京でもよく見かける。撥ねたからって、運転手は車に乗せやしないよ。次の車が、よけられなくてまた轢いたりしてる。そのうち、保健所あたりが回収に来るんだ。轢いた人がいちいちお墓を作ってやってたんじゃ……」
「わたしが言いたいのはそんなことじゃなくて……」
雪子は、まぶたの裏が熱くなるのを覚えた。
――賢一さんだったら、こんなことはしない。
賢一の笑顔が脳裏に浮かび、雪子は懐かしさと切なさで胸が締めつけられた。
「何なんだよ、泣くなよ」
婚約者は、女を泣かしたことでオロオロし始めた。「君って、そんなに猫が好きだったのか? 飼ってたっけ?」
雪子は首を横に振った。
「猫が好きで好きでたまらないってほどじゃないんだろ?」
「そうだけど……」
確かにそうだ。猫がいないと夜も明けないというほどの猫好きではない。自分でも、なぜこんなに猫に執着しているのかわからない。
「だったら、そんなにこだわるなよ。そりゃ、寝覚めは悪いかもしれないけど、反射神経が鈍いのは猫の習性だよ。あの猫の運命だと思って諦《あきら》めるしかない。こんな山の中をうろつくあの猫が悪い。なあ、そうだろ?」
「あれが人間だったら?」
「ばかなこと聞くなよ」
「人間だったらどうする?」
「そんなこと決まってるだろ。一刻も早く病院に運ぶか、救急車を呼ぶ」
婚約者は、運転席側のドアポケットに差し込んである携帯電話を顎《あご》で示した。
「猫も同じよ」
「何ばかなこと言ってるんだよ。猫を轢いて救急車呼んだら、こっちの頭を疑われる」
「猫にとっての救急車が、轢いた車なのよ」
婚約者は、ぶるぶるとかぶりを振り、言った。「戻ってどうすればいいんだ。どうすれば気が済むんだ?」
「気が済むのか、なんて、そんな言い方しないで。ただ……猫を撥ねたことを可哀想だと思って。誠意を見せて。猫にも自尊心はあるのよ」
「誠意だって? 自尊心だって?」
婚約者は、呆《あき》れたような声を上げた。「誠意ならいつも見せてるじゃないか。その婚約指輪だって、せいいっぱいのものを買ったつもりだよ。君のようなお嬢さまには一カラットのダイヤじゃ不満かもしれないけど、僕としては親にも頼らずに、自分の貯金だけで買った記念すべきはじめての指輪だよ。誠意ってやつを、猫にも見せろと言うのか? 猫に指輪でも贈ればいいのか? 猫に小判ならぬ猫にダイヤね。猫の自尊心? 何だよ、それは。バカバカしい。こんな雨の中、外に出たらかぜひくぞ。僕はいま、会社を休めないんだからな。大事なときなんだ」
「わかったわ」雪子は、ぽつりと言った。
婚約者は、ようやく理解してもらえて、ホッとしたような顔をした。ギアをローに入れる。その手を彼女は制した。
「引き返して。あなたは外に出なくていいわ。林の中へ猫を置いて来る」
「本気か?」
婚約者が生唾《なまつば》を呑《の》み込む音が、車内に不気味なほど響いた。
「本気よ」
「傘はないぞ。僕はここにいるからな」
「いいわ」
「わかった。どこかでUターンする」
婚約者はため息をつき、車を発進させた。
2
雨足は激しくなっていた。雪子の足下には、道路に叩きつけられ、ぴくりとも動かない猫の死骸《しがい》がころがっていた。雪子は位置を確かめるために、一瞬だけ懐中電灯で照らし、すぐに明かりをそらした。道路に、黒々とした血だまりができていた。
雪子は、フードつきのコートをはおっているのさえ忘れていた。雨のしずくが髪を伝わって滴り落ちた。マフラーで猫の死骸をくるみ、胸に抱えた。やせた小さな猫だった。ダスキンのハンディモップほどの重さもなかった。まだぬくもりがあった。
こめかみがずきずきと鳴った。
――この光景は前にも見たことがある。
デジャヴ現象とでも言うのだろうか。雪子は、確かに見たことがある、と感じた。首筋をぞろりと生暖かい空気が撫《な》でた。思わず振り返る。誰かが立っている気配を感じたのだ。
けれども、誰もいなかった。
――いるはずないじゃない、こんな山奥に。
雪子は、助手席のドアを開け、婚約者に言った。
「後ろに乗るわ」
「そのへんの草むらにでも放り込んでおけよ」
婚約者は言った。ひんやりと冷たい声だった。猫のぬくもりのほうが勝っている、と雪子は思った。
「どうせなら、こんな寂しい場所じゃなくて、家の近くに埋めてあげたいの」
婚約者は、憮然《ぶぜん》とした表情を彼女に向けた。
「シートが汚れるなら、トランクは?」
「ゴルフの道具が積んである」
「ちゃんと包めば大丈夫よ。あなたの大事な道具を血で汚さないから」
「バッグのほかに、デカチタンが裸のまま積んである」
「…………」
「言ったとおりにしろよ。林の中に置いて来る、と言ったじゃないか」
「デカチタンと撥《は》ねた猫と、どっちが大事なの?」
婚約者は、バカバカしいといったふうにふうっと大きな吐息を漏らした。そして、吐き捨てるように言った。「デカチタンだよ」
「そう」
「おいおい」
婚約者は、手のひらをひらひらさせた。「ちょっとしたジョークだよ。まあ、半分は本気だけどね。だって、一本、六万八千円もしたんだぞ。今度、部長とラウンドするときに使うつもりのやつだ。よく飛ぶと評判のドライバーだってさ。あのね、僕は君の身体を心配してるんだよ。びしょ濡《ぬ》れじゃないか」
雪子は、小さなため息と小さな身震いを一つした。
「埋めて来るわ。待ってて」
「かぜひくぞ」
ドアを閉めようとした彼女に、婚約者は身を乗り出して言った。「埋めなくてもいいだろ。置いて来るだけで」
「お墓になるような場所を探すわ」
「いいかげんにしろよ」
婚約者はいらいらしたように、運転席のドアをバンと強く叩いた。そして、車を降りて、雨を避けるように肩をすくめながら彼女のそばへ来た。
「君はそんなに博愛主義者だったのか? そこまで極端な動物愛護主義者だったのか?」
「そんなんじゃないわ。わたしは普通よ」
「普通じゃないよ。猫を轢《ひ》いたら墓を掘って埋めなくちゃいけない、という法律でもあるみたいじゃないか。それを守らない僕を罰しようとしている」
「そんな、大げさだわ」
「大げさなのは君のほうだ。何でそんなに依怙地《いこじ》になる。何でそんなに猫にこだわる。昔、たたられでもしたのか? 轢いてしまった。可哀想だ。済まなかった。だけど、驚いた反動でこっちが事故らなくてよかった。あの猫に心から謝罪し、心から感謝する。それでいいじゃないか。何で僕より猫の肩を持つ」
「そういうわけじゃ……」
「猫のほうを尊重している」
「尊重するとかしないとかの問題じゃないの。これは……誠意の問題なの」
そして、わたしの贖罪《しよくざい》の問題なの、と雪子は内心でつけ加えた。
「ほう、そうか」
婚約者は、男性にしては――というより賢一に比べて――細く尖《とが》った顎をしゃくり上げた。
「僕には誠意がないと言うんだな。君は、婚約者より野良猫のほうが大事なのか。そんなに猫が大事なら、猫と一緒にいればいいさ」
婚約者はそう言うなり車に戻り、運転席に乗り込んだ。
3
彼は、声を出さずに数を数えた。二十まで数えて婚約者が戻って来なかったら、少し脅かしてやろうと考えた。あれだけ言えば、「悪かったわ。意地を張りすぎた」としおらしく帰って来るのが普通の女というものだ。猫の死骸をそのへんに放置し、寒さに身を縮めながらあたふたと戻って来るのが、素直な可愛い女というものだ。何も東京まで死骸を持ち帰って墓を掘らなくても、道路からそのへんにどかすだけで十分じゃないか。それがたいていの人間が考える常識ってものじゃないか。そう考えた。
二十まで数えたが、ドアは開かなかった。
――本気で、林の奥まで入って行ったのか?
「ばかじゃないか」と彼はひとりごち、かぶりを振った。傘もささずにびしょ濡れになって、正気じゃない、と思った。
彼は、非常点滅表示灯を消した。ギアを入れ、車を発進させた。興奮で気持ちが高ぶった。――これは脅しだぞ。
方向転換ができるところまで走って、停めた。彼女の視野からはすっかりはずれている。車のエンジン音が彼女に聞こえたはずだと思った。
――いまごろは、置いて行かれたと思って、さぞかし慌てていることだろう。彼女は怖がっているはずだ。目を覚まさせるにはいい。ちょっとは薬になったかもしれない。
彼は、元の場所まで戻った。三本、杉の大木が並んだ場所だと目印を憶えておいたので、すぐにわかった。婚約者の姿は見えなかった。
彼は、窓を開け、林の茂みに向かって婚約者の名前を呼んだ。返事はなかった。もう一度呼んだ。やっぱりなかった。
「君を置いて行くわけないだろう。ちょっと脅かしただけだよ。早く行こう」
やさしい声で呼びかけた。応答はなかった。
彼は、トランクを開け、ゴルフバッグの外ポケットからウインドブレーカーを引っ張り出して着た。フードもかぶった。
雪子が墓を掘ると言った、林へと足を踏み入れた。が、奥まで進むのはためらわれた。
「おーい、聞こえるか?」
応答はない。
「ばかな……」
彼は愕然《がくぜん》とした。五分待ってみた。もう一度呼びかけたが、黒い茂みからは何の応答もない。さらに五分待って、彼は車に戻った。寒さの限界だった。
――どこかで迷子になったのかもしれない。
彼は、ハンドルに額をつけ、頭を抱え込んだ。ものすごい音がして、心臓が飛び跳ねた。クラクションに頭が触れたのだ。彼はハッとして窓の外を見た。が、けたたましいクラクションの音に気づいて雪子が戻って来る気配はない。
――まさか、どこかで事故に遭ったのでは?
林の奥に谷があるのか、川があるのか、このあたりの地形について彼はまったく知らなかった。父親の所有する別荘に来ても、ゴルフやテニスをするだけで、付近を散策することなどなかったからだ。
――それとも、ほかの車に拾われたのか。
そう思って、ほんの少しの希望に包まれた。が、すぐにそんなはずはないと思い直した。猫を轢いてから、まだ一台もほかの車を見かけていないのだから。
ふと、明日の大事な会議のことが思い浮かんだ。部長は時間にうるさい人間である。かぜをひいて月曜日の会議を休んだ彼の同期の男を、「気持ちがたるんでいるからだ」と決めつけた。遅刻は許さない。気持ちがしゃんとしていれば病気などしない、という厳しい考えの持ち主だった。
――明日の会議は、絶対に休めない。
気がついたら、車を発進させていた。またたくまに数キロ走ってしまった。頭の片隅で、「戻れ」という意味を示す後方へ伸びた矢印が点滅している。彼はわかっていた。戻らなくてはいけない。が、一方で、戻って彼女が見つからなかった場合を考えるのも怖かった。
――ある程度、賑《にぎ》やかな場所まで行って電話をかけよう。
携帯電話をちらりと見た。だが、どこへ電話をかければいいのだ、と思い、また不安に襲われた。
――おまえは、警察に捜索してもらうつもりか? 「なぜ、こんなところで婚約者がいなくなったのか」と聞かれたら、何と答えるつもりなんだ。「ケンカして彼女を置き去りにして来ました」と言ったら、どう思われるか。
――ああ、あんなに強情でわがままな女だとは思わなかった。素直そうなきれいな顔にだまされたのかもしれない、俺は。だけど、冷静に考えれば、彼女ほど条件のいい女はいない。父親は有名建築家だし、いろんな面で俺と釣り合いのとれる女だ。こんな些細《ささい》なことでケンカ別れしたら、彼女を紹介してくれた部長の顔を潰《つぶ》すことにもなる。部長は、専務から紹介されたと言うしな。どうすればいいんだ。
何かうまい言い訳はないか、と彼は思い巡らせた。
そのとき、ニャアオ、とか細い鳴き声がした。彼は、心臓に氷を押し当てられたような冷たさと恐怖を覚え、息が止まりそうになった。ルームミラーへ、次にサイドミラーへ、そして運転席と助手席の窓の外へ、視線を走らせた。
何もいなかった。
――気のせいか。
ホッとして正面を向いたとき、視野の隅にそれが映った。
ルームミラーに二つの目が光っている。
「わあっ!」
彼はブレーキを踏んだつもりで、アクセルを踏んでしまった。車体が右に、左に大きく振れた。急いでブレーキペダルに足を移し、勢いよく踏み込んだ。衝撃とともに車体は停止した。
後部座席に、婚約者がいた。ルームミラーに映ったのは、彼を見つめる婚約者の二つの目だったのだ。
「どうしてそこに」
彼は言い、おそるおそる振り返った。婚約者は濡《ぬ》れそぼり、マフラーにくるんだ猫の死骸を抱いて、ひっそりと座っていた。
「あ、危ないじゃないか。もう少しで事故を起こすところだった」
「…………」
「いまのは……」
「猫の鳴き声、聞こえた?」
彼の婚約者は言った。
「あ、ああ」
「この子が鳴いたのよ」
婚約者は、死んでしまっている子猫の頭を撫《な》でた。
「この子がって……死んだんだろ?」
「聞こえたでしょう?」
「…………」
彼は、恐怖で口が開かなかった。
「わたしも、死んだのよ」
婚約者は、寂しそうに微笑《ほほえ》んだ。「どうして死んだと思う?」
彼は、そんな質問には答えられなかった。が、頭の中では、彼女が死んだであろう場面を想像した。
――猫の墓にする場所を捜していて、猫を抱いたまま、足を踏みはずして沢に転落した。岩に頭を打って即死した……。
即座に浮かび上がったのは、そういうシーンだった。
「殺されたのよ」
「…………」
「苦しかったわ、とても。屈辱的だったわ。愛していた自分の肉体が、ボロぞうきんのようになってしまうの。さっきまで描いていた夢や、さっきまで抱いていた希望が、一瞬のうちに消えてなくなるのよ。自分の意志に関係なく、すべてを断ち切られ、すべてをもぎ取られてしまうの。苦しみは、痛みは、悔しさは、人間も猫も同じよ」
そう語る婚約者の唇は、生気を失って紫色をしている。
「お、降りてくれ。降りろ、降りろ!」
彼は気が狂ったように叫び、目をつぶった。猫と婚約者の幽霊など見たくはなかった。
「僕を責めに来たのか? 僕が猫も君も殺したって言うのか? 僕のせいじゃない。君がいけないんだ。君が猫一匹にあんなに執着したせいで……」
彼はふっと目を開けた。婚約者は消えていなかった。雨の匂《にお》いと血の匂いに混じって、婚約者がつけていた香水の匂いがした。永遠に見続けても、この女は消えないという気がした。
彼は、何かおかしい、と思った。
「君だろ? 雪子さんだろ? 本物の雪子さんだろ?」
「わたしは、雪子じゃないわ」
「脅かすなよ」
彼は、とり乱したのが恥ずかしくなって、とり繕うように微笑んだ。「僕が非情にも君を置き去りにしたと思って、怒ってるのか? 悪かった。あれは……ポーズだよ。わかるだろ? ほんのちょっと脅かしただけさ。君を置いて行くわけないだろ? 機嫌を直してくれよ。こんな仕返しするなよ。子供っぽいな、まったく」
彼は苦笑し、「じゃあ、遅くなるから行くよ」と、ふたたび愛車を発進させた。
車は、ゆるやかなカーブを二つ抜けた。
「『わたしは、あなたに轢かれた猫よ』なんて言い出すんじゃないだろうな。君が猫の鳴き声をまねたんだろ? わかってるよ」
彼は、沈黙が深く重くなったのを感じ、ルームミラーをのぞきながら陽気に言った。
「…………」
「怖い芝居は勘弁してくれよ、もう」
「わたしは、雪子じゃないわ」
婚約者は、抑揚のない声でふたたび言った。
「わかったよ。芝居を続ければいいさ。君は、中学からずっと演劇をやっていたというから、お芝居は得意だろうよ。で、いつ乗った?」
「あなたが捜し回っていたとき」
「隠れてたのか?」
彼の中に怒りがこみあげたが、怒りより羞恥《しゆうち》や恐怖の感情のほうが上回っていて、強い言葉が出なかった。
「あなたが気づかなかっただけよ」
「そうか。横になってたんだな、後ろで。黙ってるなんて、人が悪い」
彼はぎこちなく微笑んだ。すべてのできごとをちゃかそうと試みた。
ニャアオ、と猫の鳴き声がした。彼は胸をつかれて、ルームミラーを見た。
ニャアオ、ニャアオ……
か細い鳴き声が続く。だが、婚約者の唇は固く閉じられたままだった。
「そうか、その猫、生きてたんだな?」
彼は、声に怒気をこめて振り返った。「死んだと思わせてたのか。悪ふざけもいいかげんにしろよ。そこまで芝居することはないだろう」
婚約者は、無表情だった。無視されたと思って、彼はムッとした。
ブレーキに足をかけるのと同時に、彼は前に向き直った。車をどこかに停めて、ゆっくり彼女と話し合おうと思った。少しくらい東京に帰るのが遅くなってもかまわない。いまなら冷静になれる、と思った。撥《は》ねた猫が、瀕死《ひんし》の状態かもしれないが、とにもかくにも生きていたと知って、ほんの少し気持ちが楽になり、罪悪感が弱まったせいもあった。
フロントグラスに何かが張りついていた。すぐにはそれが何かわからなかった。雪の大きな塊がガラスに弾けて飛び散り、そのような形になったものかと思った。
だが、雪にしてはおかしかった。赤い斑《まだら》があった。
それが猫の死骸だと気づいたとき、彼はブレーキのかわりにアクセルを踏み込んでいた。
たっぷりと枝をつけた手を広げた熊のような大木が、すぐ目前に迫っていた。
4
「賢一さん、ふつつかな娘ですけど、雪子をどうかよろしくお願いしますね」
千恵子は、ハンカチで目頭を押さえながら言った。
賢一は、「こちらこそ」と短く応じ、隣にいる雪子を見た。
――やっと賢一さんが、ううん、あの「先生」がわたしのものになったんだわ。
雪子は、感慨に浸っていた。
「じゃあ、乾杯しようか。かた苦しいことは抜きだ。賢一君は、もともと家族の一員みたいなものなんだから」
澄夫が、シャンパンの入ったグラスを高く掲げた。
雪子と賢一は、雪子の両親であり、賢一の叔父と義理の叔母である二人に、「おめでとう」「よろしく」と祝福と歓迎の言葉を添えられて、乾杯した。
雪子は、フランス製のシャンパンに口をつけた。おいしいと思った。
「思い出すわね」
千恵子が、グラスをペンダントライトの明かりに透かして懐かしそうに言った。「昔も、こんなふうに乾杯したことがあったわね。雪子の成績アップと、賢一さんの成人をお祝いした日。あのとき、賢一さんはビールを飲んだのよね。でも、雪子がお酒を飲める日はまだまだ先だった。だって、雪子はまだ小学生だったんだもの」
「そうですね。雪子さんは、まだユキちゃんだった」
賢一が、ふとグラスを宙に浮かせて言った。
雪子は、かすかに痛みと寂しさが胸に湧き起こるのを感じた。賢一が半年前に突然、帰国してから、彼は雪子を「ユキちゃん」と呼んだことはない。すっかりおとなの女になった雪子を見て「雪子さん」と呼び方を改めたというより、アメリカにいたときからずっと〈会ったら雪子さんと呼ぼう〉と決めていたような感じを受けた。雪子は、十三年ぶりに会った賢一から、一度でいいから以前のように「ユキちゃん」と呼ばれたかったのだ。
「あのころは、こんなふうになるとは思いもしなかったわね。ねえ、あなた」
と、千恵子が、娘が成長した分、しわの寄った目尻《めじり》に乾ききらない涙をためて言った。
「ああ」
と、澄夫もうなずいた。「だが、これがいちばんいい形だった、とも思えるね。あの当時はわからなかった。いや、予想もできなかった、と言ったほうが正しい。人生とは……不思議なものだ。何が起こるかわからない」
「それにしても、賢一さんも雪子も可哀想だわ」
そう言って、感極まったように千恵子が手で口元を押さえた。嗚咽《おえつ》が漏れ、それをハンカチで封じ込めようとする。
「ママ」
雪子は、困惑した顔で千恵子を見た。澄夫は泣き出した妻をたしなめず、自身もグラスを見つめ、過去を顧みているかのようだ。
「ごめんなさい。おめでたい結納の席なのに、泣いたりして」
千恵子が無理やり微笑んだ。「ママはね、すごく嬉《うれ》しいのよ。こういう形がいちばんよかったんだと気づいたし。パパもね、言葉数は少ないけど、本当はとても感謝してるの。賢一さんが雪子と、そして……この家のことをそんなに大事に考えてくれていたんだとわかって。賢一さんのおうちの不幸を喜ぶようで心苦しいんだけど、それが賢一さんの本心なら辞退する理由なんて微塵《みじん》もなかったの。『親父の高木家とは縁を切ります。僕は僕として新しい家で雪子さんと一緒に生きていけたら、と思っているんです』、賢一さんのあの言葉を聞いた夜、わたしたちは涙が止まらなかったの」
賢一は、ロスアンジェルスの母親の元に戻って大学に入り直し、そこで建築学を学び、外資系の住宅メーカーの設計士となって帰国したのだった。そして、日本での仕事に慣れたころ、雪子に突然、プロポーズした。
「でもね、本当なら、もっと盛大な結納式ができたはずでしょ? 仲人さんもきちんと立てて。それなのに、あなたたちはごくささやかに人前結婚で済ませてしまうというし、雪子はウエディングドレスも着ないというわ。しかも、最初は結婚式もしないというあなたたちに、夏美さんが強引にお膳立てしてくれたんでしょ? 会費制の披露宴といい、花嫁衣装を着ない結婚式といい、何だかみじめすぎて雪子が可哀想」
「二人が決めたことだろ? いいじゃないか。わたしたちが口出しすることじゃないよ」
澄夫は、今度は妻をたしなめた。
「わかってます。わかってるけど、この子たちの気持ちを思うと……。本来は盛大に祝福されるべき結婚を、あまり派手に披露できない二人のことを考えると」
「ママ、わたしたち、そんなことまったく気にしてないの」
雪子は、笑顔を作って首を横に振った。
「いいのよ。ママにまで本音を隠さなくても。賢一さんにしても、まだあの事件は解決していないのだから、傷となって心に残っている。この子にしてもそうよ。あの事故から、ようやく二年たったところ。この子だけが、奇跡的にかすり傷で助かったあの事故……。二人とも、まだ過去を引きずっているのよね。二人とも同じように、婚約者を失っている。自分たちの幸せが、他人の犠牲の上に成り立つ幸せのようで、結婚することに後ろめたさがあるのね」
「やめなさい。賢一君も雪子も、忘れたがっていることなんだから」
「わたしだって忘れたいわ。でも……世間は忘れていない。とくに雪子のことは、まだ記憶に新しい。なんだか雪子が悪いみたいにあちらから言われたときは、わたし、すごく悔しくて夜も眠れなかったわ」
千恵子が、涙を潤ませながらも、憤慨したことを思い出したのか、頬《ほお》を赤くした。
雪子の婚約者は、指輪を贈られたその日に、ドライブ中に事故を起こして死んだ。婚約者が運転をあやまって立ち木に激突したのだった。
雪子はその事故の状況を、地元警察の聴取でこう答えた。――猫を撥ねました。可哀想だから死体を埋めてあげようと、わたしが抱いて乗せました。その直後、事故が起きたんだと思います。
あいまいな答え方をしたのは、事故の前後の記憶が失われていたためである。救出されたときに雪子は、白い子猫の死骸を抱いて後部座席で意識を失っていた。その状況から推察して、かすかな記憶を引き出したのだった。だが、「猫を抱いて車に乗った」程度の記憶しか彼女にはなかった。専門家によれば、悲惨な事故や事件に遭った人間は、その前後の記憶を失うことがよくあるという。婚約者を失った雪子に、事故のつらい記憶をよみがえらせようと試みる者はいなかった。
雪子は、事故によって軽いむち打ち症にかかった。その後遺症のためか、季節の変わり目などには頭痛が起きるようになった。いまでも、頭痛薬は手放せない。事故の前後のことを一生懸命思い出そうとすると、こめかみに鈍痛が生まれ、思考能力が麻痺《まひ》するのだ。
婚約者の両親は、雪子を逆恨みした。「息子は猫が嫌いなんです。猫の汚れた死骸《しがい》なんかを乗せたから、あの子は動揺してハンドル操作をあやまってしまったんでしょう。あの子はとても繊細な子だったから。おそらくあなたが、どうしても撥ねた猫を乗せたい、と言い張ったんでしょうね。自分ではそのときの記憶を喪失した、なんてとぼけているけど。あの子は、後部座席になら乗せてもいい、とそこまで譲歩したんでしょうよ。そういうやさしい子なのよ。雨の中、しかも暗い山道を運転するのは、すごく神経を遣うものなのよ。あなたにもっと思いやりがあったなら、あの子は死なずに済んだのに」
雪子は、左手の薬指にはまっていたダイヤモンドの指輪を遺族に返した。雪子と同様、無傷だった。
「せめて、雪子にウエディングドレスを着せてあげたかったわ」
千恵子が、しんみりとして言った。
「それは、僕もそう勧めたんです」
と、賢一が言った。
そのとおりだった。雪子が拒否したのだ。ウエディングドレスを着ることだけは、できなかった。雪子はそれを、〈賢一さんさえ手に入れれば、もう何も望むものはないから〉と自分の中で理由づけをしていた。
「あなたも本当は着せたいんじゃないの?」
千恵子は、夫に水を向けた。澄夫は、「その話はもういいかげんにしなさい」と言い、咳払《せきばら》いで答えた。
玄関チャイムが鳴った。四人は顔を見合わせた。結納の席に招いている人間はいない。
インターフォンのモニターに、宅配業者の顔が映った。
「わたし、出るわ」
雪子は、立とうとした千恵子を制して、玄関ホールに出た。自宅での結納は、仰々しいものではない。賢一はスーツを、雪子は白いワンピースこそ着ているが、四人で会食を兼ねて、結婚式の進行と今後の生活について話し合う場を設けただけである。雪子は、賢一に「婚約指輪は必要ないわ。ペアの結婚指輪があれば十分よ」と言った。そのため、婚約指輪を贈り、贈られるような儀式もない。今日の結納のことは、誰《だれ》にも知らせていなかった。
「影山雪子さまにお届けものです」
門の向こうから、大きめの箱を抱えた配達員が声を張り上げた。
雪子は、機械的に受け取り、受領印を押した。大きさに比べて軽い箱だ。玄関に入って、はじめてまともに差出人名を見た。背中に冷水を浴びせられたようになり、慄然《りつぜん》とした。
塚本由貴
差出人名は、そうなっていた。伝票に、住所や電話番号はない。
箱が急に重くなった。雪子は降ろすことも捨てることもできずに、抱えたままでいた。
「どうしたの? 雪子。届け物って何?」
遅いのを訝《いぶか》った千恵子が奥から出て来た。娘の蒼白《そうはく》な顔を見て、「ど、どうしたの?」と眉《まゆ》をひそめた。
雪子は、黙って箱を差し出した。掛け布団でも入っていそうなかさのある箱だった。
千恵子は、伝票の同じ場所を見て、顔色を変えた。娘の顔を見、ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》んでから、「中身は何かしら」と表情のない声でつぶやくように言った。
雪子は、それを「ここで開けてみなさい」という言葉に受け取った。賢一に見られる前に確かめずにはいられなかった。デパートのものではない包装紙を破ると、イブニングドレス姿の女性のイラストが印刷された白い箱が現れた。雪子は、震える指でふたを開け、床に置いた。
ひと目見て、それが何かわかった。白くて柔らかいシルクの輝き。
ウエディングドレスだった。
「もしかしてこれ……」
千恵子は、不安と恐怖をたたえた目をゆっくり娘に向けた。
雪子は、胸のあたりのデザインに見憶えがあった。だが、「そうだ」とは言えるはずがなかった。雪子は電流を受けた気がして手を引っ込め、宙に浮かせた。そのしぐさを見て、母親は弾かれたように、「ちょっとあなた」と、ふたの開いた箱を抱えてリビングルームへ戻って行った。雪子は、呆然《ぼうぜん》として母親のあとに従った。
「これ、見て。塚本由貴さんからよ」
「塚本由貴さんだって?」
澄夫と賢一は、同時に席を立ち、千恵子が手にした箱へと駆け寄った。千恵子は、それをソファの上に置き、おそるおそるたたまれていたドレスの肩の部分をつかんで箱から引き出した。そして、自分の身体《からだ》の前にあて、「ウエディングドレスよ」と、もう誰もが知っていることを気味悪そうに言った。
「なぜ、塚本由貴さんがよこすんだ。塚本由貴さんというのは、その……」
澄夫は、言いにくそうに賢一を見上げ、視線を入口にたたずんでいる娘に移した。
「そうよ。あのウエディングドレスよ」
と、千恵子が怒気を含ませた声で引き取った。「このデザインは、聞いたとおりのものだわ。透けた袖《そで》と胸元の刺繍《ししゆう》。ほら、塚本さんが殺されたときに部屋にかかっていたというドレス。お芝居で使う予定だったあれでしょ?」
「そうなのか」
澄夫が、口では妻に聞きながら、視線を賢一に向けた。
賢一は、眉を寄せ、黙っている。雪子は、戦慄《せんりつ》を覚えていた。「塚本由貴」と書かれた筆跡、それが記憶にある塚本由貴自身の筆跡に似ていたからだ。
「お、おい、まさか、あの世から送られて来たなんて言うんじゃあるまいな」
澄夫が、困惑の微笑を浮かべて言った。
「たぶん」
と、賢一がつぶやいた。三人は、賢一を注視した。「たぶん、由貴さんのお父さんが送ってくれたんだと思います」
「由貴さんのお父さんが?」と、千恵子が眉を寄せた。
雪子は、賢一が「由貴さん」と呼んだ瞬間、彼との距離が数メートルは遠のいた気がした。賢一は塚本由貴のことが話題になると、昔のように「塚本さん」とは呼ばずに、「由貴さん」と呼ぶ。雪子は、「由貴さん」と呼ばれた塚本由貴に嫉妬《しつと》してしまう。とっくにこの世にはいないというのにだ。塚本由貴に、自分の名前をとられた気がするからだ。名前とともに、自分に付随したすべてのものを奪われる――すなわち、のっとられる――ように思えてならないのだ。
「だけど、名前がないじゃない」
雪子は、送り主を「塚本由貴の父親」と断定した婚約者に驚いて、かすかにつっかかるような口調で言い返した。
「驚かせるつもりはなかったと思うよ。ただ、由貴さんのお父さんのような立場にある人間が、どう僕たちを祝福していいかわからなかったんだろう」
賢一は、説得力のある力強い声で雪子に言った。「あるいは、由貴さんのお母さん、ああ、義理のお母さんだけど、由貴さんのお母さんが、そう勧めたのかもしれない。生きているあいだに娘とうちとけられなかった贖罪《しよくざい》のような意味でね。由貴さんが、芝居で使う予定だったこのドレスを、自分の結婚式に着たあと、君にも着てもらいたがっていたらしいのは事実だよ。僕は内緒にされていたけど、そのことは、彼女が死んだあと、彼女の友達の吉川さんから聞いたよ。吉川さんは、葬儀が終わってからそのことを友達の父親に伝えたんだろう。いちおう吉川さんに確認してみようとは思う」
「そうね。由貴さんのお父さんにしてみれば、幸せの象徴のようなウエディングドレスを、娘の死後もずっと手元に置いておくにはしのびなかったんでしょうね。由貴さんがドレスを雪子に着せたい、という娘の遺志があったからこそ、家族の方々はお棺にドレスを入れなかったのね、きっと」
千恵子が言い、ドレスをそっとソファの背にかけた。
――本当に、あのウエディングドレスなのかしら。同じデザインのまったく別のものではないのか。でも、だとしたら、いったい誰が何のために作らせたの?
――本当に、塚本由貴の父親が送って来たものだろうか。違うとしたら? 誰が送ったというの?
――まさか塚本由貴自身が?
雪子は、すぐ目の前にあるドレスに手を伸ばそうとしたが、どうしても指先を光沢のあるその布に触れることはできなかった。
死者からのプレゼント――その言葉が、ドレスに触れるのをためらわせた。
「好意なら受け入れてあげたい、しかしな……」
澄夫が、どうにも気味が悪い、という表情で口ごもった。
「僕は、雪子さんさえよければ、死んだ由貴さんの遺志をくんであげてもいいのでは、と考えますが」
賢一の言葉に、澄夫と千恵子が不安げな視線を娘に投げた。
「わたしは……」
雪子は、自分が判断を委ねられているのを感じ、焦った。
「嫌なら着なければいいさ」
澄夫が、憮然《ぶぜん》とした表情で言った。「賢一君には悪いが、君の婚約者が着るはずのものだったものを、雪子に着せるのはあまりにも残酷すぎやしないか?」
「あなた」
千恵子が、媚《こび》を含んだような声で柔らかく呼びかけた。「残酷なんてことはないと思うわ、わたしは。塚本由貴さんは、雪子が『お姉さま』と呼んで慕っていたくらいの人なのよ。雪子のこともとても可愛がっていてくれたというし。死んだ人は帰っては来ないわ。雪子がこれを着ることで、塚本さんの遺志も生かせてあげられて、賢一さんの慰めにもなれば、それでいいじゃないの。わたしは、雪子がこんなきれいなウエディングドレスを着てくれるだけで、それ以上は望むことがないくらい幸せなのよ、母親として」
千恵子がふたたび、目頭にハンカチをあてる。そのしぐさに、澄夫も心を動かされたようだった。「そりゃ、雪子さえよければ」
「わたしは、わたしは……」
雪子は、三人に急かされるような視線を感じて、震える指でドレスの肩口のあたりをようやくつかんだ。はじめてウエディングドレスを目にし、死んだ塚本由貴の思い出に浸って動揺している、そんなふうに見せなければ、と思った。だが、ドレスを手にした目的は別にあった。
雪子は、胸元の繊細な刺繍を見るふりをして、ある部分を見た。
襟口のその部分に、うっすらとピンク色のしみがついていた。
――これは、わたしがつけた口紅だわ。
間違いないと思った。しみがついている位置、量からして、十四年前のあのドレスと同一だと確信した。十四年の時を経ても、その光沢は衰えず、透き通るような白は色|褪《あ》せない。
「気に入らないの? 雪子」
千恵子が、ドレスを手にしたまま硬直した状態の雪子に聞いた。「いいのよ、無理しなくても。着たくなければ着なくてもいいの。でも、ママはね、こんなチャンスでもなければ、あなたが一生花嫁衣装を着てくれないと思ったから、なんだか執着してしまって」
――これは着られないわ。ううん、生理的にじゃなくて、物理的に。
喉元《のどもと》まで出かかったが、絶対に三人には言えない秘密だった。雪子は十三歳のときに一度、このドレスを着ている。塚本由貴の部屋でだ。裾丈《すそだけ》はあの当時で、低めのヒールに合わせてぴったりなくらいだった。中学生で百六十二センチあった雪子の身長は、あれから七センチ伸びて百六十九センチになった。塚本由貴は、百五十五センチ程度の身長だったはずだ。
――このままじゃ、丈が短すぎる。それに、胸だって二十一歳のときの彼女より、わたしのほうが豊かだわ。細みのデザインのこのドレスが、いまのわたしに着られるはずがないのに、どうしてみんなそのことに気づいてくれないの?
雪子は、苛立つような泣きたいような思いで、胸がいっぱいになった。
「わたし、あのころのお姉さまよりずっと背が高いわ。丈が合うかしら」
雪子は、控えめに言った。娘が着る気になっていると判断したのだろう、すかさず千恵子が提案した。「少しくらいなら、裾を出せるんじゃない? どうしてもだめなら、裾にレースをつけてデザインをごまかすって手もあるし。とにかく着てみなさいよ」
「そうだな。よくわからんが、こういうウエディングドレスってのは、大きめに作ってあるのかもしれん」
と、娘の意志を尊重しようという方針に即座に切り替えた澄夫が、妻を後押しするようにのんきなことを言った。
「これは、由貴さんが舞台衣装として自分で縫ったものだった。代役のことも考えて作ってあったんじゃないか? だったら、叔父さんが言うように最初からかなり大きめに作ってあるのかもしれない。舞台では、裾をピンでとめたりしてね」
賢一までも、そんな大ざっぱなことを言った。が、次の言葉が雪子に決心させる決め手となった。
「僕も、君のウエディングドレス姿は、本当はとても見たいんだ。着せたかったけど、君が拒否したから実現できないものと諦《あきら》めていた」
――賢一さんは、それほどまでにわたしの花嫁姿を見たいの?
――いいわ、着てみても。着られないとわかれば、賢一さんも、パパもママも、諦めてくれるだろう。
雪子は、不安な思いを抱えながらも、「じゃあ、とにかく試着してみるわ」と言い、自分の部屋へドレスを持ってあがった。
*
信じられなかった。ウエディングドレスは、まるで雪子のために誂《あつら》えたかのように裾丈、袖丈《そでたけ》、肩幅、バスト……すべてサイズがぴったりだった。
――そんなばかな。こんなはずがないじゃないの。
十三歳のときに着て床すれすれだった丈が、あれから七センチ身長が伸びた現在、やはり同じ床すれすれの丈であるはずがない。雪子は、裾をめくって確かめた。あげを下ろしたような跡はどこにもなかった。大体、こんな薄い生地のあげを下ろしたりすれば、以前の丈の跡がどんなに丁寧にアイロンをかけてもかすかに残るものである。布のどこにも自然なしわ以外の線は見あたらない。
――これは、十四年前のあのドレスじゃない。
ドレスを着た背中のあたりに、悪寒がじわじわと生じた。真綿で全身を締めつけられるような感覚だ。
――誰かが、いまのわたしに合わせてそっくりのデザインでドレスを作り、その上、同じ位置に口紅のしみをつけた……。
その誰かは、十四年前の雪子の一連の行為を、何らかの形ですべて知っていた人物ということになる。雪子は、不安のあまり、薄いシルクの布が何かの生き物のように肌に吸いついてくるような恐怖を覚えた。それは、血を抜き取られる感覚に似ていた。塚本由貴が、一針一針に賢一への熱い思いをこめて縫ったドレスだ。その針で背中を突かれ、血を抜かれそうな気がして怖くなった。
「きれいだよ、とても」
背後で声がし、雪子はハッと振り向いた。ドアを開けて、賢一が立っていた。
「待っていられなくて、見に来てしまった。……すごくきれいだ」
しばらくそこにたたずんでいたような雰囲気があった。
「賢一さん」
雪子は、当惑して、手の甲までオーガンジーの透けた布が覆いかぶさった手をもみ合わせた。「なんだかおかしいの。まるでわたしのためにオーダーしたみたいに、ぴったりなの」
その不可思議さを、賢一はまったく問題にしていないかのように、口をポカンと開けて雪子のウエディングドレス姿の美しさに見とれている。
「ねえ、どうしてかしら。これ、本当にお姉さまのドレスなのかしら」
「彼女は、いずれ君に着せたいと思って縫ったんだ。最初から君に合わせて作ったのかもしれないよ」
その返事が、どんなにおかしなものか、賢一はまるで気づいていない。雪子は面食らった。面食らいながらも、ふと賢一の――愛する人の――「すごくきれいだ」という言葉の前には、そんなことどうでもいいじゃないの、と意識的に頭から排除する方向に傾いているのに気づいた。
「でも、いまのわたしは昔のわたしじゃないのよ」
「よくはわからない。彼女には、あのときすでに、いまの君が見えていたのかもしれない」
「予知能力があった人なの?」
雪子は、塚本由貴が賢一にあてて書いた手紙の文面を思い出した。あの中で彼女は、「雪子さんは賢一さんを一人の男性として愛しています」と、はっきりと書いていた。
「普通の女性だったよ」
賢一は、かすかに微笑んだ。短い微笑。何ともいえない哀感の漂う微笑だった。その短い微笑を雪子に印象づけたのを後悔するかのように、賢一は雪子を不意に抱き寄せた。衣擦《きぬず》れの音がした。賢一は、耳元でささやいた。
「ユキ……コ」と。
雪と子のあいだに、わずかに間があったように雪子には思われた。
――ユキは、由貴のユキだ。
だが、気のせいよ、と必死に打ち消した。
――わたしは雪子で、「ユキ」じゃない。塚本由貴は死んだ。この世にはいない。殺したのはわたしじゃない。助けてはあげられなかったけど、彼女が死んだのはわたしの責任じゃないわ。そして、わたしはいま、こうして生きている。生きて、賢一さんに「きれいだ」と言われ、抱き締められて、名前をささやかれている。
雪子は、めまいがするほど幸せだと思った。それで十分だと思った。
5
「みなさま、本日は、高木賢一さんと影山雪子さんのためにお集まりいただいて、ありがとうございます。これからお二人の新たな家庭のスタートをお祝いする会を開きたいと思います。
司会はわたし、笠原夏美です。雪子さん、いえ、雪子とは、中学時代からの長いつき合いです。
ああ、ここでお断りしておきます。今日のこの会は、派手派手しいことをしたくないという二人を強引に口説き落として、わたしのわがままで開くことになったようなものです。みなさんの前でみなさんを立会人として指輪を交換する人前結婚式と、ささやかなる披露宴です。いわゆる何々家と何々家の結婚式、というかた苦しさとは無縁の、本当に心から二人を祝福し、自分たちも楽しもうという、ちょっとずうずうしいくらいくだけた集まりです。おめでたい席だからと禁句があるわけではありません。気分がのってきた方は、どうぞお好きなときにお好きな歌を二人のために歌ってあげてください。その際には、歌詞に神経を遣う必要はありません。ペドロアンドカプリシャスの『別れの朝』を歌いたい人は、遠慮なくどうぞ。踊りたい人は、タンゴでも黒田節でも結構です。とにかく、自由な表現方法で、お祝いの気持ちを素直に表現してください。歌詞に神経を遣わないでほしい、禁句はない、と申し上げましたが、でも、わたし個人としては、たとえば『二人は本日、杉並区役所で入籍を済ませました』というような言い方はしたくありません。二人は入籍したのではなく、新しい戸籍を作ったのです。どちらかがどちらかの家に入るのでもなく、二人だけの新しい家を作るのです。そこで、わたしの提案です。これからは、入籍と呼ばずに、作籍とか創籍とか呼びませんか?
あっ、司会役の自己紹介が遅れましたが、わたしは駆け出しの弁護士でありまして、夫婦別姓運動と『入籍と呼ぶのをやめよう運動』を推進しております。何か失礼な発言がありましても、ああ、あいつはまだ未熟な弁護士だから、とお許しください。まじめな話、わたしは『障害者の教育を受ける場を広げる運動』の活動もしています。興味のある方にはのちほどパンフレットをさしあげます……じゃなくて、強制的に出席者全員に配布します。
というわけで、まるで言い訳のように自分の歯に衣着せぬしゃべり方を強引にみなさまに納得していただいたところで、雪子とわたしの関係をぶっちゃけて話してしまいましょう。
雪子は、あのお嬢さま学校のS学園から、わたしは練馬区立の地味な小学校から、J女子学院の中等部に進学し、そこで意気投合しました。生まれも育ちもまったく違いますが、何がわたしたちをこんなにも惹《ひ》きつけたんでしょう。それは、いまだに謎《なぞ》です。でも、性格的には似たところがあります。一度こうと決めたら決心がゆるがないところです。雪子もわたしも結局は、知り合った当時にお互い語っていた夢を叶《かな》えました。雪子はT外国語大学を出て、外資系の製薬会社『B』の海外広報部で、おもに医薬品に関する文献を日本語に翻訳する仕事や、研究員の通訳を務める仕事をしてきました。結婚退職してしまいましたが、彼女の積み重ねてきたものは無駄にはなりません。翻訳の依頼の話も何件かきているそうです。将来は、文芸作品を翻訳したい、という夢も抱いております。彼女のことですから、家庭と両立して必ず叶えられると思っています。
それからわたしたちは、中学、高校を通じて演劇部に入っていました。高校二年の文化祭で、雪子はあのマクベス夫人を演じました。わたしは主役のマクベスを……と言いたいところですが、照明係でした。舞台の上の雪子演じるマクベス夫人をいかに美しく照らし出すか、それがわたしの仕事でした。わたしの腕がよかったというより、雪子の熱演のおかげで舞台は成功しました。罪の意識に耐えかねて死を遂げるマクベス夫人。雪子にはまるで本物のマクベス夫人の魂が乗り移ったかのようでした。雪子がその気になって本気で芝居を続けていれば、どこかの劇団に引っ張られ、いまごろは女優になっていたかもしれません。でも、彼女は自分の最初の夢に絶えず執着していました。演劇部時代の話をすると長くなりますので、わたしの話より、あとで会場にある当時のパンフレットやアルバムをご覧ください。
さて、みなさまもすでにご存じかと思いますが、ここにいる二人はいとこ同士です。高木賢一さんは、雪子の家庭教師でもありました。そのころ雪子は、賢一さんを『先生』と呼んでいました。わたしも、つられて『先生』と呼んでいました。ここは、当時の懐かしい呼び方に戻りましょう。雪子にとって先生は、頼りになるいとこのお兄ちゃんであり、優秀な家庭教師の先生でした。きれいで聡明で気品を漂わせた雪子は、通学途中で会う男子学生たちにとても人気がありました。雪子は、しょっちゅうわたしに『どこそこの学校の誰がかっこいい』だとか、『あの子にラブレターをもらったけど趣味じゃない』とか話していました。こちらがひがんでしまうほどの大モテぶりでした。わたしたちのあいだでは、先生の話題など一度も出たことがなかったので、あのころの雪子は、先生を男性として意識したことなど一度もなかったと断言できます。だから、本当に不思議な気がするんです。なぜ、いつ、このようなことになってしまったのか……。男と女はわからない、とつくづく実感しました。もしかしたら、十四年間二人が離れていたのが、二人の気持ちをいとことしての意識から男女としての意識に切り替えるのに、役立ったのかなと思うんです。
これも、みなさまの大半はご存じかと思いますし、あえて隠すことでもないので触れてしまいますが、二人のあいだには非常につらい過去がありました。先生の婚約者であり、雪子が『お姉さま』と呼んで慕っていた女性の死です。東京大学の経済学部にいた先生は、悲しい事件を思い出させる日本を離れ、傷心を癒《いや》すためにロスアンジェルスに戻りました。考えることがあって、現地の大学に入り直し、まったく畑違いの建築学を専攻しました。偶然にも、雪子のお父さまと同じ仕事に就くことになった先生は、いわゆる影山家に婿養子に入る――わたし、こういう言い方は嫌なんですけど――のではなく、雪子と新しい家庭をもう一つ作る形で、雪子との結婚を決意しました。新居はその昔、学生時代の先生が間借りしていたアパートです。ここを二年前に、雪子の将来の新居用に建て直していたんですね。ご両親の一人娘へ注ぐ愛情の深さが感じられます。プロポーズは先生からです。そのあたりは、のちほど本人におうかがいしたほうがおもしろいでしょう。雪子が、「先生に、賢一さんにプロポーズされたの」と電話をかけてきたときの、興奮してうわずった声をわたしは憶えています。わたしは、雪子が自分の中では『いとこで家庭教師の先生』の域を出ない男性にいきなりプロポーズされたことで、驚き、戸惑っているのかと受け取りました。でも、違いました。わずか数か月のあいだに、雪子の気持ちもまた早い速度で変化を遂げていたんですね。雪子は、十三歳のころの雪子とは違います。先生がおとなの女性としての雪子の魅力に気づいたように、雪子にとって先生も、いとこからパートナーにすべき男性として意識する存在に、ある瞬間にまったく見事に切り替わったんです。
もちろん、二人がお互いをパートナーにしたい、と思うに至った背後には、同情に似た感情も含まれていたかもしれません。二人には共通した悲しい体験があります。二年前に、雪子もまた婚約者を交通事故で失いました。その悲しみを乗り越えた二人が再会し、強く惹きつけられたとしても不思議ではありません。それゆえに、強い結びつきと言えるのかもしれません。もともと先生と雪子は……いとこ同士です。先生も雪子も一人っ子です。それぞれにとってたった一人のいとこが、……雪子であり、……先生なのです。ほかの夫婦より結びつきは……何倍も、いえ……何十倍も強いはずです。雪子は、自分の実力で舞台で主演を勝ちとり、目ざす大学に入り、翻訳家になる夢を叶《かな》えつつあります。向上心が豊かで、行動力のある女性です。女のわたしから見ても、人生を切り開くたくましさに恵まれた、とても意志の強い魅力的な女性です。彼女を見ていると、『初志貫徹』という言葉が自然に浮かびます。初志貫徹……本当にそのとおりです。
将来、先生と結婚することなど、十三歳の彼女の夢の中には……爪《つめ》のかけらほどもなかったことです。だって、……雪子にはそのころ、好きなアイドルがあれこれいっぱい……いたんですから。先生なんて眼中にない……って感じでした。先生のせの字も……出なかったし。でも……こうなってみると、何かこう……この形がいちばんよかったようにも思えるから……不思議です。昔からの雪子の夢……だったような錯覚を……覚えるんです。いえ……そんなことは、彼女にしてみれば……実際には、……それこそ……夢にも願わない……ことでした……けど……。
すみません。司会者が感極まって、泣いたりしてはいけませんね。最後は涙声になってしまい、お聞き苦しかったことをお詫《わ》びします。でも……雪子のウエディングドレス姿を見たら、こらえていたものがこみあげてきてしまって……すみません。だって雪子、ウエディングドレスは着ない、なんて言ってたんですもの。わかっていたことではあるけど、でも、雪子がこんなにきれいだなんて……わたし、旧友としてなんだか嬉《うれ》しくて……もう言葉にできないくらい嬉しくて……。雪子、おめでとう。先生、おめでとう」
第三部 夫
1
雪子が賢一と住むことになった新居のマンションは、十世帯が住んでいたアパートを建て替えたものだった。一階は数台駐車できるガレージ。二階と三階の東側半分を二人の新居にあて、もう半分を賃貸用の広めのワンルーム・マンションにして、四戸作った。
設計はもちろん、澄夫が手がけた。娘の意見を取り入れただけあって、住みやすく合理的に、そして美しく設計されていた。雪子の注文は、「遊びのある空間を作ってほしい」だった。たとえば、対面式キッチンへの出入り口は、アーチ型にデザインされている。リビングルームの一部は吹き抜けになっていて、そこから三階の寝室の両開きの丸い窓が見える。リビングルームからテラスへつながる床には、やはりアーチ型にかたどった大理石をはめこんだ。部屋に曲線があると心が安らぐというのは、建築家・影山澄夫の基本コンセプトだった。
結婚の報告を兼ねてのロスアンジェルスへの新婚旅行は、賢一の仕事が多忙である時期だからという理由で来年に延期した。そのかわり、結婚披露宴の翌日、二泊三日の軽井沢旅行に出かけた。
賢一と暮らし始めて一か月がたった。雪子が賢一のセミダブル用のベッドシーツと、自分のシングル用のそれとを洗ってベランダに干した日に、夏美が新居をはじめて訪れた。
「土曜日だというのに、賢一さんは留守なのよ。休日出勤なんですって。二人|揃《そろ》って迎えたかったんだけど、ごめんね」
夏美が手みやげに持って来たケーキをミントンの皿に載せ、揃いのティーカップでフォションの紅茶を出して、雪子は言った。「外資系の会社のくせに、中身はまるでワーカホリックの日本人」
「留守のほうがいいよ。いろいろ話せて」
夏美は、いたずらっぽく笑った。電話で賢一が留守だと聞いて、やって来たような口ぶりだった。結婚式の前にも新居に誘っていたのだが、先輩の女性弁護士と共同事務所を開いている夏美は、仕事が忙しくてなかなか暇を見つけられなかった。
「うまくいってる?」
夏美は、新居の中を見せて、とも言わずに身を乗り出して聞いてきた。
「まあまあね」
「ふーん」
夏美は肩をすくめて、持参したケーキにフォークをつけた。
雪子は、この中学以来の友達の口元にできた吹き出物をぼんやりと見ていた。夏美はまだ独身だ。いや、当分、結婚はできないだろうと雪子は思う。東京大学の法学部を卒業した年に司法試験に合格した才媛《さいえん》にとって、いまは猛烈に仕事をする時期で、ほかに目を向けるゆとりなどない、と雪子にはわかっていた。寝る時間も惜しんで仕事をしているのだろう。生活の不規則さが、その吹き出物に現れていると思った。仕事も持ち帰り徹夜する。食事がわりにケーキを食べて済ます。二十七歳の女とは思えぬ、学生の延長のようなそんな不健康な一人暮らしが想像できた。
「夏美、今日はゆっくりできない? 夕飯食べて行けば? そのころには賢一さんも帰って来ると思うから」
「そうしたいんだけど、今日はうちに帰らなくちゃ。週末だしね」
「そうか。残念ね」
夏美が勤務する共同事務所は、虎ノ門にある。彼女は、就職と同時に練馬の実家を出て、上落合《かみおちあい》に部屋を借りた。だが、週末には実家に帰り、長女としての役割を果たす。弟のことが心配なのだろう、と雪子は思う。夏美の弟、忠志は、結局、プロ野球選手になる夢を果たせなかった。野球は大学時代まで続けた。片腕のピッチャーとして、新聞に取り上げられたこともあった。福祉関係の大学に進み、卒業後は、スポーツ用品を扱う会社に就職した。
「夏美、ありがとう。あんなすてきな結婚式と披露宴を企画してくれて」
ティーカップをソーサーに戻して、雪子は言った。今日の紅茶は、いつもより苦くはいった気がした。
「そのことなら、もうとっくに……」
「でも、あのときはばたばたしてて、ちゃんとお礼を言えなかったから」
「あんなんで、本当によかったのかな」
夏美は、照れたように言い、フォークで少し大きめにケーキのスポンジ部分を切り取った。そして、「あれ、雪子は食べないの?」と友達の手元を見ていま気がついたように言った。
「賢一さんが帰って来てから一緒に食べようと思って」
「それは、ごちそうさま」
夏美は、冷やかして笑った。彼女は昔から、食べ方が早い。ケーキもまたたくまに食べてしまった。
「もう一つどう?」
「わたしを太らせる気? もういいよ」
雪子は、夏美の空いた皿をさげた。リビングルームに戻ると、夏美はソファに背をもたせかけて煙草を吸っていた。「ああ、吸っていい?」
「どうぞ」
雪子は苦笑して、事後承諾した。結婚前はわからなかったが、賢一は煙草を吸う。それもかなり強い煙草だ。灰皿はリビングルームと賢一の書斎と寝室に用意されている。夏美は、学生時代から煙草を吸い始めたようだ。同じ時期に、思いきって髪を男のように短くした。雪子のほうは、中学時代からあまり髪型は変わらない。おとなになってゆるくパーマをかけたくらいだ。
「シーツ、干したんだね」
夏美は、長めの煙草を指に挟んで、顎《あご》でベランダのほうをしゃくった。「結婚って、晴れた日にシーツを二枚干すことか」
「何よそれ」
「別に。いまふっと浮かんだだけ。名言でしょ?」
雪子は、それには答えずにあいまいに微笑《ほほえ》んだ。夏美がなかなか本題に入れないでいることに、雪子は気づいていた。最初に、「うまくいってる?」と聞いたときに、「まあまあね」としか答えてもらえなかったことで拍子抜けしたのだろう、と思った。夏美は、友達の口から結婚生活への不安や期待の言葉が吐き出されるのを待っていたのだろう。それで、話題を漠然と「結婚」へとつなげるのに違いない。
雪子は、十三歳のあの事件の直後から、遠ざかっていた夏美との距離を縮めた。塚本由貴――お姉さま――を突然、忌まわしい事件で失い、呆然《ぼうぜん》自失していた時期は、彼女との距離を縮めるにはちょうどよかった。雪子が、あの事件にほんの少しでもかかわっていたなどとは、誰《だれ》もが夢にも考えなかった。
二人のあいだでは、こんな会話が交わされた。
「お姉さまがあんな酷い死に方をしたのは、わたしが心のどこかでそう望んでいたからじゃないかしら。わたしが間接的に殺したようなものじゃない?」
「そんなふうに自分を責めちゃだめよ。ユキが先生のことで塚本さんを意識し、憎んでいたのは事実だけど、でも、そのこととあの事件とは何の因果関係もないのよ。偶然よ」
「でも、そんなふうに割りきれない。先生が苦しむのを見るのもつらいわ」
「先生は、ユキが塚本さんに嫉妬《しつと》していたことなど、ちっとも気づいていない。先生の悲しみは、時間しか癒《いや》せないと思う。そっとしておいてあげるしかないよ」
自責の念にかられ、涙を見せ、賢一を思いやる雪子を、夏美は腕のことで友達にいじめられた弟をかばうようにやさしく慰めてくれた。
塚本由貴の死に何らかの責任がある、と自分を責める雪子に、夏美は同情した。そして、友達の自分が支えてあげなくては、と強く心に決めたようだった。二人はもとのように、いや、それ以上に親密になった。夏美は、あの事件以来、雪子のことを「ユキ」ではなく「雪子」と呼ぶようになった。「ユキ」という呼び名は、塚本由貴の「ユキ」につながり、忌まわしい事件を思い出させてしまうとの配慮かららしかった。
事件後、賢一が大学を辞め、ロスアンジェルスへ戻ると言い出したときは、反対する澄夫と千恵子のそばで、雪子も言葉には出さなかったが、〈日本にいて。わたしのそばにいて〉と目で訴えた。だが、賢一の決心は固かった。彼は、「ロスへ戻るのは、両親のことと自分の将来を考え直す意味もあるんです」と言った。そのとき、賢一の両親、雪子にとっての瑞枝伯母さま夫婦は、離婚寸前の状態にあった。
事件から四か月後に、彼はロスアンジェルスへ発ってしまった。ゆきずり殺人の可能性が高くなり、捜査の難航が予想されたせいもあった。出発のときに澄夫は、「元気でな」の言葉に「事件のことで何か進展があったら、こちらから連絡するよ」と言い添えた。だが、半年に一度、要約すると「進展が見られず」という内容の警察からの連絡を、手紙に書いて送っただけだった。
雪子は、いつか必ず賢一は戻って来る、と信じていた。そのときのために、賢一との約束を守ろうと決めた。進学する大学は、賢一が決めてくれた学校以外には考えられなかった。そこに受かりさえすれば、賢一から何らかのたよりがありそうな気がした。演劇に打ち込んだのは、賢一のいない寂しくつらい日々を演劇に夢中になることで乗りきるためだった。英語劇も上演した。部活動に時間をとられながらも、雪子が第一志望の大学に合格できたのは、部活動そのものが受験勉強に役立ったためもあったのかもしれない。
だが、その第一志望の大学に合格した知らせに、入学式のときに撮った写真を添えて送っても、賢一から返事が来ることはなかった。
大学を卒業してから五年。こうして、賢一と夫婦と呼ばれる間柄になって、どこもかしこも新しい家の中にいる。
――こんなに幸せでいいのだろうか。
賢一のパジャマを物干しざおに干し、どこに洗濯バサミをとめようか、と一瞬考えるとき、彼のハンカチにアイロンをかけ、折りめをストライプの模様に合わせようか、と一瞬迷うときなど、ふっとそう思い、雪子は怖くなるのだった。吸い込まれそうに深く青い空の一点から、誰かに見つめられている気がして、ふと手を止める。
誰かとは、塚本由貴だった。
十四年前のあの日。惨劇が起きている最中、雪子がクロゼットに隠れていたことは、雪子しか知らない。犯人が気づいたなら、犯行のあとでクロゼットを開け、雪子の口を封じたはずだ。塚本由貴も知らなかったのは間違いない。知っていたなら、自分の名前を呼んだはずだ、と思うからだ。
けれども、死んでからの塚本由貴は、雪子には別だった。
――死んだら、人間は神のような存在になるのではないか。
どこにいても生前、自分とかかわりのあった人間を見つめ、観察することができる。その内面をのぞき見ることができる。十三歳のときからずっと雪子のその考え方は変わらなかった。
罪悪感が消えない。贖罪《しよくざい》の気持ちを引きずっている。
――あのとき、自分がすぐに救急車を呼んでいたら、彼女は助かったかもしれない。
――あのとき、すぐに警察に通報していたら、犯人はまだ近くにいて捕まったかもしれない。
しかし、その考えが浮かぶたびに、〈そんなはずはなかった。彼女はすでに死んでいた。十四年間捕まらない犯人が、半日や一日通報が早まっただけで、すぐに捕まったはずがない〉と即座に打ち消して、雪子は安心を得ていた。
「あっ、そうだ。写真を持って来たの。雪子、すごくいい表情で写っているから」
夏美がはしゃいだ声を出した。雪子は、現実の二十七歳同士に引き戻された。夏美が撮った写真の雪子は、どれも表情がほぐれてよく撮れていた。
「やっぱり、夏美に撮ってもらうと緊張しないのかな」
「それにしても、すごく似合ってたよね、このドレス」
夏美は、雪子に渡した写真を、また一枚ずつ取り返しながら、まじまじと見つめて言った。受験勉強をしすぎたせいか、夏美は高等部に入ったころから眼鏡をかけ始めた。だが、司法修習を終え、事務所探しを始めたときにコンタクトに変えた。眼鏡をかけると、鼻に段があるのがよけい目立つから、という理由で。
「ドレスのことだけど……」
雪子は、なるべくさりげなく言った。
「塚本由貴さんのお父さんが送ってくれたものだったんでしょ?」
写真からつっと目を上げ、夏美は聞いた。彼女にはそう話している。
「賢一さんが、お姉さまの大学時代の友達に聞いてくれたんだけど、やっぱり送ったのはお姉さまのお父さんだったそうよ」
雪子は、塚本由貴について語るときには、「お姉さま」と呼ぶようになっていた。そう呼ぶことで、生前、いかに自分が彼女を慕っていたのかを外に対して印象づけたかったのかもしれない。自分と同じ名前を持つ彼女を、死後もその名前では呼びたくない、という意地も、静かに見つめれば心のどこかに見つけられた。
雪子は、賢一からその後、「吉川さんに聞いたら、彼女が由貴さんのお父さんに勧めたようなことを言っていた。それにしても、『由貴さんのお父さんったら本当に送ったのね』と驚いていたけど」と聞かされていた。しかし、雪子が、直接塚本由貴の父親に確認したわけではない。なんとなく胸がざわざわするような不安にかられた。
だが、賢一の言葉を信じたかった。雪子は、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、あのウエディングドレスを着た。みんなに「きれいだ」「女優のようだ」とほめられ、うんざりするほど祝福の言葉を浴び、それに笑顔で応じながらも、いつこの幸せの象徴のようなドレスが魔のドレスに変わり、自分の身体を締めつけてくるのか気が気ではなかった。このドレスのどこかに見えないように針が隠してあって、着た人間が指輪を交換した瞬間、薄い布からぬっと頭を出し、凶器となって柔らかな皮膚をぶすりと刺してくるのでは、などと想像した。
だから、披露宴が終わり、それを脱ぎ捨てたときはホッとした。
――死者が着るはずだったウエディングドレスを着たたたり。
そんなものを、雪子は、罪の意識も手伝って、本気で信じていたのだった。まして、不気味な送られ方をしたドレスである。けれども、結婚披露宴が無事終わり、順調に結婚生活が始まると、いまの賢一との生活を平穏に維持していくことに執着する気持ちが強くなった。
――わたしたちのあいだに、少しくらいつじつまの合わないことがあっても、あえて追及するようなことはしたくない。わたしは、賢一さんに選ばれたんだから。
そう思っていた。
「あのドレスは、どこも直す必要がないくらいぴったり身体に合っていたのよ。夏美も見たでしょ?」
「うん。でも、それは雪子のサイズに合わせて直したんでしょ?」
「違うの。だって……」
小さなサイズを大きなサイズに作り直すことはできないでしょ? と、言いたいのをぐっとこらえて、雪子はこう続けた。「送られて来たのを着たら、ぴったりだったの」
ウエディングドレスのサイズのことは、あの場に居合わせた四人しか知らないはずだった。
「本当?」
いまはじめて聞いた夏美は、少し驚いたように顎を引いた。
「おかしいでしょ?」
「でも……」
夏美は、法廷で揺るがない論理と滑らかな弁舌を武器に戦っている弁護士らしく、合理的な理由づけをしようと試みた。「もともとは舞台衣装だったのよね。ああいうのって、大きめに作って、着る人によって裾《すそ》を仮縫いしたり、ピンでつまんだりするものでしょ? 着る予定だったのは塚本さんかもしれないけど、代役を立てる場合もあるんだし。たまたまもとのサイズが雪子にちょうどよかったんじゃない?」
「同じことを、父も賢一さんも言ったわ。でも……」
「何か気になるの?」
「あのドレスは、お姉さまが演じる役に合わせて、お姉さまが自分の手で縫ったのよ。役のイメージに合わせてデザインも考えて。そのことは、お通夜のときに大学の演劇部の人たちに聞いて知ったわ。だから、代役のことを考えて少し大きめに作ったにしても、大きすぎるわ。とくに裾丈がね。お姉さまはあのころ、百五十五センチくらいしかなかったのよ。いまのわたしより十四、五センチも低かったの。最初から、十センチも長く裾丈を設定するかしら」
「塚本さんがやるはずだった役って、悪女だったそうね。男をだまし、たぶらかして、前妻を殺させ、自分が妻の座に座る。悪女の仮面をつけた清楚《せいそ》な花嫁。そのイメージで作ったドレスだったんでしょうね。汚したくなくて、稽古では使わなかったそうじゃないの。いよいよ本番というときに直すつもりでいたのよ、きっと。布を切るのがもったいなくて、最初から十センチも長く縫ってしまう女性心理ってのもわかるわ。ペチコートでも入れてふくらませれば、もっと丈は必要になるわけだし」
「それは、わたしもそう考えたわ。だけど……」
だけど、何だと言うのだろう。雪子は、あまりにもウエディングドレスのサイズにこだわりすぎていることで、親友の前でボロを出すのが怖かった。夏美だけが当時の雪子の本当の気持ちを知っている。知っているからこそ、結婚披露宴の席上、旧友としてあんなうそを並べたてられたのだ。
「やっぱりつらかったのね」夏美がため息をついた。
「えっ?」
「塚本さんが着る予定だったウエディングドレスを自分が着た。そのことの罪の意識が雪子を苦しめているのね」
「…………」
「塚本さんが、舞台で着たドレスを賢一さんとの結婚式でも着る予定でいて、さらに雪子に贈る予定でいた。そのことで雪子は、傷ついたんじゃないの? 賢一さんも賛成したんだし。結局、塚本さんの遺志を尊重することになったんでしょ?」
「そんなにこだわってるわけじゃないわ。試着してみたらぴったりだったんで、惜しくなっちゃったのよ。賢一さんに……『きれい』だと言われたし」
夏美が、前より大きなため息をついて、微笑んだ。
「プライドが傷つけられたのね。塚本さんが着る予定だったウエディングドレスを着るなんて、お下がりみたいで嫌なものだし、ましてや彼女は死んじゃってるわけだし……。それで平気な顔をしていろっていうほうが無理な話よね。だけど、塚本さんがそのつもりで縫ったからこそ、いまの雪子にぴったりのサイズになったのかもしれないじゃない」
「わたしがあれから七センチ伸びることを予想できた?」
「できないことじゃないわ。科学的にはできるわよ。わたしだって、雪子はあと五センチや十センチは伸びると思ってたわ」
そう言う夏美は、百六十センチの平均身長に落ち着いた。
「五センチと十センチじゃ違いすぎるじゃないの」
「でも、ロングスカートの丈としては違いすぎないわ」
「じゃあ、まるで、お姉さまがわたしの現在を予測していたみたいじゃないの」
雪子は、気味悪さも手伝って、怒ったような口調で言った。
「そんなことは思ってないけど」
夏美は、ちょっと面食らったような表情をした。「でも、偶然よ。ウエディングドレスのサイズがいまの雪子にぴったりだったのは偶然だってば」
――偶然じゃないわ。
雪子は、心の中で叫んだ。
――偶然なんかじゃない。あのウエディングドレスは、そう……伸びたのよ。
「わたしのときに貸してね。丈、詰めるから」
夏美は、雪子の心中とは裏腹に無邪気に言った。
「いいわよ」
問題のドレスは、家に置いておきたくないので、箱に入れて実家の納戸にしまってある。
「だけど、夏美、結婚する気あるの? 六法全書とでも結婚すれば?」
友達をからかえるまでに、雪子には気持ちの余裕が生まれた。少なくとも、自分以外にはあのウエディングドレスの〈不可思議さ〉に気づく人間はいないと知って、安堵《あんど》を得たためかもしれなかった。その安堵は、確実にいまの幸せな生活の維持につながっていた。
雪子は一時、賢一を疑ったこともあったのだった。十三歳の自分の身体にぴったり合ったドレスが、二十七歳のいま少しの直しもせずに着られるはずがない。同じデザインの別のドレスを作らせて送った者がいるとしたら、塚本由貴のごく身近にいた人間しかいないと思った。そこで、疑いの目は賢一に向けられた。しかし、賢一がなぜそんなことを自分にするのか、その理由が皆目わからない。現に賢一は、雪子にプロポーズし、円満な家庭生活をスタートさせている。妻にしようとする女を気味悪がらせる必要など考えられないではないか、と思った。
次に雪子は、塚本由貴の友達だった吉川さなえを疑った。塚本由貴から雪子のことを聞かされていた彼女が、自分の友達と結婚するはずだった賢一を雪子にとられたことに嫉妬し、友達の復讐《ふくしゆう》を果たすために同じデザインのドレスをプレゼントするという嫌がらせに出たのではないか、と。しかし、あの事件から十四年もたっている。吉川さなえの内部で、それほどの屈折した感情が育っていたとは、とても考えられなかった。
「雪子はね、塚本さんが自分が縫ったウエディングドレスを最後には自分にプレゼントするつもりだったと知って、そのやさしさと思いやりによけい自責の念を募らせているのよ。お姉さまは、心の底から雪子のことが好きだった。でも、雪子はそうじゃなかった。あのころの雪子は、確かに塚本さん、ううん、お姉さまを憎んでいたし、チャンスがあったら何か仕掛けようとしていた」
「…………」
「そうでしょ?」
夏美のやさしかった目に、鋭さが加わった。「憶えてる? 塚本さんが賢一さんに借りた本がなくなったこと。あれは、雪子は否定したけど、わたしは……雪子が本を隠したんじゃないかと疑ったわ。そうしても不自然でないほど、雪子は思いつめていたもの。先生と彼女の仲を壊そうとしていたように見えた。実際は……どうだったの?」
「あれは……わたしがやったのよ」
雪子は、十四年目にして白状した。一つ軽い罪を認めることで、それとは比較にならないほど重い罪を覆い隠すことができる。そう考えたのだ。
当時、雪子が犯した罪は三つ。いや、複合したものを数えればその二倍にものぼるだろうか。――賢一が塚本由貴に貸した本を、すきを見て隠したこと。塚本由貴の部屋の合鍵を盗み、それをコピーして部屋に無断で入ったこと。再度、合鍵を使って部屋に侵入したこと。クロゼットの中で、室内で起きていることを明確に把握していたのに塚本由貴を助けに飛び出さなかったこと。彼女の変わり果てた姿を発見したのに、警察に通報しなかったこと……。
「やっぱりね。……そう言いたそうね、夏美。でもね、せいぜいがあそこまでだった。先生とお姉さまの仲が壊れればいいと望んだわ。でも、十三歳のわたしにはそれ以上、何もできなかった。それだけまだ子供で、でも、開き直って先生に……ううん、賢一さんに愛を告白して、『どちらを選ぶか決めて』と迫るほどの無鉄砲さや大胆さを恥ずかしくなく持てるほど子供ではなかった。いま考えれば、ひどく中途半端で、ひどく不安定な時期だったわ。あのころのわたし……たちって。なぜあんなことができたのかと不思議に思うし、いまあのころに戻っても、また同じことを繰り返してしまう気もするし」
夏美は、まばたきせずに雪子の言葉に聞き入っていた。瞳《ひとみ》には共感の輝きがあった。
「二度と戻りたくないと思わせるような怖い魅力も秘めているし、もう一度戻りたいと強烈に思わせるような魅力も秘めている。あのころって、とっても不思議な時期だったよね。思い出すと、胸が締めつけられる」
夏美も、どこか遠くを見つめる目で言った。
「雪子は、望みどおりに先生と一緒になれたのよ。それは、塚本さんが殺されて、この世からいなくなったからじゃない。雪子の深層心理にあった『お姉さまがいなくなれば』という気持ちと現実の事件とは、直接的には何の関係もないの。愛する人をほかの女にとられたくない気持ちは、年齢を越えてすべての女に共通する、ごく自然な感情よ。あの事件とは別。先生はね、いまの、二十七歳の雪子を選んだのよ。後ろめたさなんて全然感じる必要はないわ。過去のあやまちも、こうして告白したんだし、すっきりしたでしょ? ウエディングドレスをもう一度着ることなんてありはしないんだから、何も不安がらずに賢一さんと楽しく暮らしなさいよ。もう過去にとらわれることなんてないよ」
雪子は、まぶたの裏が熱くなった。
――一生、この友達は本当のことを知らずにいるだろう。
そう思ったら、何か自分が彼女を裏切っているような気がして、つらく切なくなった。
「でも……あの事件は終わっていない。わたしたちがいまの生活を大切にするために過去を忘れてしまったんでは、お姉さまが可哀想《かわいそう》すぎない?」
雪子は、この旧友から重い罪をうまく覆い隠せたことに安心して、あたかも自分が塚本由貴の不運を嘆いているように見せた。
「それはそうだけど……」
夏美の口調が重くなった。「でもねえ、雪子。これは賢一さんにははっきり言わなかったけど、あの事件は来年で時効を迎えるわ。ああ、時効って知ってるでしょ?」
「殺人事件の時効は十五年ということくらいしか」
「正確にはね、公訴の時効ってことになるの。刑事訴訟法の第二百五十条、公訴の時効の期間で、死刑にあたる罪については十五年、と規定されているの。塚本さんは、強姦《ごうかん》されて殺された。これは死刑に相当する罪だから、来年の十一月でちょうど十五年」
夏美は、中等部以来の友達から新進気鋭の弁護士の顔になって説明した。
「じゃあ、あと一年と一か月ね。捜査は続けられているのかしら」
「表面上はね。でも、本部はとっくに解散してるし、実際の捜査員は数人じゃないかしら。それも、何か情報が入ってきたら、動くような形でのね。時効は、もともと、時間の経過によって社会の犯罪に対する応報感情が消滅するので、刑罰権も消滅するという考えや、時間の経過により、証拠が散逸し、真実の発見が困難になるからという考えに基づいて作られたものなのよ」
「最後の一年で犯人が捕まるようなケースはまれなの?」
雪子は、弁護士としての友達に聞いた。雪子自身、〈声〉だけ知っているあの男――塚本由貴を殺した男――が、いままで捕まらずに逃げ延びていることが気になってたまらなかった。
「ほかの罪で捕まって、その供述から過去の殺人事件が発覚したケースはあるわ。窃盗犯の指紋をとってみたら、過去の殺人現場で検出された指紋と一致したとかね。でも、塚本さんの部屋には、特定できない指紋はあったけど、犯人が残したものかどうかはわからないわ。もし犯人が手袋か何かをはめていたとしたら、現場に指紋を残さなかった可能性は高いわ」
指紋、と聞いて、雪子は白い手袋を思い浮かべた。あの日、雪子は手袋をはめていた。
「指紋か」
そうつぶやいて、雪子は結婚指輪をはめた左手を見た。家事のために結婚前より少し手が荒れている。マニキュアも透明なものしか塗らなくなった。捜査のために、と言われて雪子も指紋をとられたことを思い出した。あまり気持ちのいい体験ではなかった。賢一もとられた。塚本由貴の部屋に入った可能性のある者の指紋はすべてだ。だが、それだけだった。どの指紋が特定できないもので、どの指紋が怪しいか、当然ながら雪子たちの耳には情報として入ってこなかった。
「あれから十四年もたつのよ。いまならDNA鑑定ができるんじゃない? お姉さまの身体には、その……強姦された形跡が残っていたんでしょ?」
「精液から血液型がA型の男だとわかってるわね。塚本さんの口にはガムテープが貼《は》られていたけど、そういうところに犯人の体毛や汗が付着していることもあるわ。抵抗した塚本さんの爪《つめ》のあいだに犯人の皮膚がわずかに残っていることもね。でもね、それにしても、何か比較するものがなければ、DNA鑑定をしても無駄なのよ。たとえば、すべての犯歴者のDNA鑑定をすることなんて不可能だし、莫大な費用と時間がかかる」
「じゃあ、あと一年で犯人が捕まる可能性は……」
「賢一さんの前では言えないけど、一パーセントもないでしょうね」
夏美は、厳しい口調で言って、かぶりを振った。
「お姉さまのまわりにいた若い男を、もう一度洗い直すなんてことは、いまさらしないのかしら」
「若い男?」夏美が、ふっと顔を曇らせた。
「あっ……だって、犯人は若い男の可能性が高いって。あのころ、都内で何件か、似たような暴行事件や未遂事件が起きていたでしょう? 一人暮らしの女子学生や若いOLのあとをつけて、鍵《かぎ》を開けた瞬間を狙《ねら》って部屋に入り込み、暴行する。その被害者の話では、犯人は覆面をかぶっていたけど声や全体の感じから、二十歳前後の若い男だったとか。だから、若い男を中心にお姉さまの交遊関係などを調べていたじゃないの。その男は、お姉さまを殺したあとも同じような犯行を重ねていないともかぎらないんじゃないのかしら。もちろん、殺害には至らなくても、女性に暴行を与えるような犯罪を。そういう類似犯から、真犯人が絞れないかなと思って」
雪子は、自分の失言に気づいて、慌てて当時の捜査の状況と自分の推理に言及した。雪子が〈若い男〉と断定できるのは、あの声を手がかりにしてである。クロゼットの中で聞いたあの声。〈賢一さんと同年代の声だ〉と直感したあの声。
「ああ、そうだったよね、若い男」
夏美が、険しかった表情を和らげた。「弁護士なんかやってると、言葉にひどく敏感になっちゃうのよ。相手が、まだ断定されていないことを事実のように断定したりすると、なんかこう、突っ込みたくなっちゃうのよね。わたしもしょっちゅう、検事にあげ足取られているから、言葉に神経遣うのよ。気にしないで」
「別に、気になんかしてないわ」
「言葉にも慎重になる仕事だけど、刑事事件にも慎重になるのよ」
夏美は、肩をすくめて続けた。「確かに、あのころ、似たような手口の暴行事件が都内で三件、起きていたけど、同一犯人のものと断定していいかどうか迷うところね」
「でも、あの手口は間違いなく……」
「わたしも、同一犯人だとは思ってるわ。でも、わたしが言いたいのは、捜査はもっと広い視野で慎重に行われるってこと。この十年間にかぎっても、宅配業者を装った似たような犯行も続々起きていることだし。同一犯と見せかけた別の男の犯行、とも考えられるでしょ? もっと言えば、女性の犯行で、精液はあとから膣内《ちつない》に注入しただけとか」
「そんな……」
「わかってる。そんなばかなことは、わたしも思っていない。でも、可能性としては考えられるってこと。女性に対する暴行事件は、一度成功すると味をしめて、二度三度と起こす率が高いのよ。女性を痛めつけること自体が快感になったりしてね。それに女性のほうは、心も身体《からだ》も深く傷つき、世間に知られることを恐れて警察に届けないケースも多い。それを見越してやるんだから、とても卑劣な犯罪よね。でも、あの事件に関して言えば、あのあと二年間は、類似事件がなかった。それは何を意味するのか。暴行で快楽を遂げて済ませるつもりだったのが、塚本さんのときは興奮して殺してしまった。それで怖くなってなりを潜めた。もともと一種のフラストレーションを解消するために続けていた犯行だったとしたら、怖くなったのと自分の何かしらの欲求が満たされた時期が一致して、もうか弱い女性を襲わなくても済むようになったか。女性を襲って犯すという衝動が抑えられないのも、一つの心の病気だと考えると、その病気が治るきっかけが何かあったとかね」
「あのころ二十歳前後だとすると、いまは三十五前後よね。会社では働き盛りの年代だわ」
「賢一さんと同じね」
夏美は、リビングボードの上に飾ってある、軽井沢に旅行したときの写真の入った写真立てを見て言った。
「えっ? ああ、そうね」
雪子は、なぜウエディングドレスを着た結婚式の写真を飾らないのか、と訝《いぶか》しがられるのを恐れてそわそわと言った。
だが、夏美の意識は、弁護士らしくすぐにさっきの捜査の話に戻った。「塚本さんの交遊関係については、事件のあとに徹底的に捜査したはずよ。演劇部にいた男性たちは、刑事のしつこい聴取に辟易《へきえき》したと思うわ。いまなら想像がつくけど。そこまでやられて何も出なかったんだから、やっぱり犯人は塚本さんをたまたま見かけてあとをついて行っただけのゆきずりの男と見ていいでしょうね。塚本さんと面識のない男。目撃者でもいればよかったんでしょうけど、不幸にもあのアパートは帰りの遅い一人暮らしのOLやサラリーマンばかりが住んでいたから。一人だけ、階段を降りる足音を聞いたという近くに住むおばあさんがいたわね。でも、それだけじゃね」
――わたしは聞いているのよ。犯人の〈声〉を聞いているのよ。
雪子の叫びは、もちろん〈声〉になっては弁護士の友達に届かなかった。
雪子は、ときどき怖い夢を見る。怖い夢には三つの種類がある。
小さいころ、しつけの厳しかった父親に叱《しか》られて和室の押し入れに入れられた夢。押し入れの中にいると、誰《だれ》かが部屋に入って来る気配がする。「この部屋には誰もいないな」とつぶやく男の声は、聞き憶えのあるあの低い声。塚本由貴を殺した男の声だ。雪子は、震えながら膝《ひざ》を抱えて隠れている。すると、いきなり男が「誰かそこにいるだろう」と、どすをきかせた声を出す。無言で首を必死に振る雪子。畳をする足音が近づいて来る。ふすまに男の手がかかる……。そこで目が覚める。
そして、次は猫の夢だ。雪子が車を運転していて、飛び出して来た猫を撥《は》ねる。猫は道路に叩《たた》きつけられ、その死骸《しがい》はボロぞうきんのようになる。
最後は、ウエディングドレスの夢だ。あのドレスを着て、雪子は教会に向かっている。時間を気にしているのは、式の時間に間に合わせるためだ。三角屋根の教会のドアを開ける。そこには、すでに花嫁がいた。隣には賢一の後ろ姿にそっくりの男が。二人は手をつないでいる。「賢一さん?」と雪子は呼ぶ。彼が振り向く。やはり賢一だ。すると、隣の女性もつられて振り向く。塚本由貴だ。塚本由貴が、雪子とまったく同じウエディングドレスを着て、賢一の隣に寄り添って微笑んでいる。「賢一さんは、わたしと結婚したのよ!」そう叫んだところで、いつも目が覚める……。
雪子は、そうした夢を見るのは、すべて良心の呵責《かしやく》からだとわかっていた。
――わたしがあのとき、お姉さまを助けてあげていれば、お姉さまは死なずに済んだ。そうしたら、あのウエディングドレスを着て賢一さんと結婚式を挙げたのは、お姉さまのほうだった。
――わたしが婚約者を事故で死なせてしまったのは、猫を助けたせいだ。猫を助けなければ、婚約者は死なずに済んだ。
「賢一さんとは、あの事件について話したりするの?」
夏美が、遠慮がちに聞いてきた。
「あんまり話さないわ」
「賢一さんには、思い出したくないことなのかもしれないわね。雪子を将来の伴侶《はんりよ》にしようと決めたんだから、あまり過去に目を向けるのはよくないと思っているのかもしれない」
「そうなのかしら」
「そうなのかしら、って?」
「賢一さんはね、本当におかしなほど昔のことを話したがらないのよ。ううん、事件のことだけじゃないの。それ以前の楽しかった日々のことも。わたしはときどき、賢一さんに家庭教師をしてもらっていたときのことなど、懐かしくて話すんだけど。彼は昔の話題を避けているみたいなの」
「雪子、結婚生活が楽しくないの?」
夏美の目に、不安げな光が宿った。
「そんなことはないわ。でも、ちょっとばかり寂しいの。賢一さんは、気のせいか食卓に話題を用意して帰って来るみたいなの。今日はこの話題、明日はこの話題、と話す内容を決めておく。それは、何とか彗星《すいせい》の話であったり、経済の話であったり、本の話題であったりするんだけど、わたしには、昔の話題をわたしが切り出す前に、自分からほかの新しい話題を提供しているように見えてならないの。わたしだって、たまには賢一さんとの、ううん、先生との懐かしい思い出話をしたいときだってあるのに。そんなとき、ふっと〈ああ、賢一さんにはまだ過去がふっきれていないんだな〉と思うの。〈まだお姉さまのことが忘れられないのでは〉と思うの。わたしを見ながら、〈彼女が雪子ではなく由貴であったらどんなによかったか〉と思っているんじゃないかしら、なんて気を回してしまうのよ」
雪子は、弱々しく笑った。脳裏には、ベッドで賢一に抱かれている自分がいる。ベッドの中で賢一はやさしい。耳にキスをし「ユキコ」とささやいてくれる。だが、その「ユキコ」の最後の「コ」が、ときとしてかすれて聞こえないときがあるのである。
賢一はつぶやく。「ユキ……コ」と。そのとき、雪子はこう思う。
――賢一さんは、わたしを抱きながら、お姉さまの面影をだぶらせているのではないか……。
「雪子、あのね……」
夏美は、何か言いかけたが、視線を宙にさまよわせた。
「何?」
「あ、ううん、別に」
夏美は明るくかぶりを振って、ソファを立った。「そろそろ帰らなくちゃ。弟が職場の野球チームに入ったのよ。その報告を聞く約束をしているから」
帰るとき玄関先で、夏美は言った。「ああ、最近、頭痛はどう? あの事故あたりから、ときどきひどい頭痛に悩まされていたでしょ?」
「しばらくおさまっていたけど、このところまた起こるの。でも、大丈夫よ。病院で検査したら、腫瘍《しゆよう》ができてたりはしてなかったから」
こめかみのあたりがじーんと痛み、耳鳴りがし、気が遠のくような瞬間が訪れると、決まってあたりが暗くなる。雪子は、自分が貧血でも起こすのではないかと不安になり、近くに椅子《いす》があればそこに座り、なければ木や壁につかまって、じっと痛みが去るのを待つ。家にいればすぐに頭痛薬を飲む。日常生活に支障をきたすほどではなかったが、いつ痛みがやってくるかびくびくしながら過ごすのは、精神的なストレスになる。
――多分に心因性のものですね。
医者に言われた言葉を、雪子は脳裏で反芻《はんすう》した。
2
その日も帰宅した賢一に、「今日ね、夏美が来たのよ」と弾む声で話しかけた雪子は、「ふーん、そう」という気のない彼の返事に、気勢をそがれてしまった。そして、彼は「翻訳の話はどうしたの? 依頼きてるんだろ?」と話題を転じた。
――夏美のことをあまり話題にしたくないのは、過去を思い出させることに通じるからかしら。
雪子は、夕食を整えた食卓を見て、そんなふうに感じ、一抹の寂しさを覚えた。自分たちには過去はないものと諦《あきら》め、未来だけをまっすぐ見つめて生きて行ったほうがいいのではないか、という思いがちらと胸をよぎった。
「新しい生活に慣れるまでは、しばらくお話のほうは断っているの」
「もったいないじゃないか、せっかくの才能を眠らせるなんて」
しばらくは家庭のことに専念したい。賢一のために料理を作ったり、部屋の模様替えをしたり、庭の手入れをしたい。雪子は、そう考えていたのだった。
「文芸作品の翻訳をしたい。雪子の夢はそうだったよな」
ダイニングテーブルのいつもの席について、賢一は身を乗り出した。
「え? あ、うん、まあね」
――わたしの夢は、賢一さん、あなたと結婚することだったの。それが叶《かな》えられたいま、翻訳家になる夢はもうどうでもいいの。わたしは、賢一さんの可愛《かわい》い子供を産んで、パパとママのそばで幸せに暮らしたいのよ。
もちろん、本音は明かさなかった。
「出版社で文芸翻訳を担当しているやつがいるんだよ」
賢一の目が輝いた。
雪子には、賢一にそんな友達がいたなどとは初耳だった。
「それがさ、すごく偶然なんだけど、例の高井健二なんだよ」
「高井健二?」
誰だろう、と雪子は記憶を探った。
「憶えてないだろうね。彼の名前は、確か、俺《おれ》が雪子にJ女子学院の受験を勧めたときに出したと思う」
「ハードル……の話?」
鮮やかに記憶がよみがえった。賢一が雪子に語った言葉は、一字一句、くっきりと脳裏に刻みつけているつもりの雪子である。手がかりさえあれば容易に思い出すことはできる。
「賢一さんがロスにいたとき、日本から送られてくる模擬テストのトップクラスにいつも名前があって、勝手にライバル視していた人ね? 確か、賢一さんと同学年だった」
「そうだよ。さすが君は記憶がいい」
賢一は、おどけたように目を見開いて笑った。「先日、そいつと偶然、知り合ったんだよ。異業種交流パーティーってやつでね。名刺を見て『あれ』と思った。いろいろ話すうちに、彼があのライバルの高井健二本人だとわかった。彼は、いま友愛書房の編集者をしている。君のことを話したら、今度、ぜひ仕事をお願いしたいという。飛躍するにはいいチャンスだと思うよ」
雪子は、「挑戦する姿勢が好きだ」という賢一の言葉を思い出し、懐かしさに胸が締めつけられた。その言葉に雪子は忠実に従った。受験に挑戦し、恋のライバルに挑戦した……。
「高木賢一と高井健二。名前の印象がよく似ている。賢一さんは、そんなことから彼を意識するようになったのよね。でも、模擬テストでトップクラスにいた彼と学生時代に出会わず、三十五歳になったいま出会うなんて、人生って不思議よね。高井さんは、やっぱり同じ東大にいたの?」
「いや、彼は……」
賢一が、少し言いよどんで口にしたのは、都内のある私立大学であった。名の通った大学ではあったが、高校時代全国模擬テストでトップクラスをとっていた男にしては、意外に思うほどのレベルの大学だった。しかも、一浪して入ったのだという。
「高井さんは、パーティーに婚約者を連れて来てたんだ。彼女のほうが、ここの新居に興味を示してね。君のお父さんの名前も知っていた。将来のために、ぜひ新居を拝見したい、と言うんだよ。それで、どうかな、高井さんと婚約者をうちに招待してもかまわないかな」
賢一は、声に遠慮をこめて言った。「家に呼ぶとなると、君がいろいろ大変だろうから、面倒なら別にいいんだ」
「面倒であるはずないじゃないの」
雪子は、即座に返した。
――賢一さんが、意気投合した友達とその婚約者の彼女を家に招いてくれた。
そのことに、雪子は、涙が出るほど感激していたのである。
過去の話を避けるような態度をとってきた賢一に、雪子はなんとなくよそよそしさを覚えていた。賢一に、二人の家庭を育て、盛り上げていくつもりがない気がして、雪子は寂しかったのだ。だが、そんな賢一が友達を家に招くという。ホームパーティーは、夫婦の絆《きずな》の固さを外部に示し、家庭の暖かさやありがたみを認識するよい機会である、と雪子は思っている。賢一が積極的になってくれたのが嬉《うれ》しかった。自分の招いた客をもてなす新妻の姿を見て、賢一が妻を見直すのではないか、と考えた。
「ぜひ連れて来て。わたし、お料理に腕をふるうわ。ケーキを焼こうかしら。それとも、ババロアがいい? ワインも用意しようよ。でも、その前に、中華にするか和風にするか、イタリアンにするかフレンチにするか、メインのお料理を決めなくちゃね。よーし、腕によりをかけて作るぞ」
新婚家庭にはじめて招く客に、雪子は心が躍った。
*
十月半ばの土曜日。雪子は朝からはりきっていた。メインの料理は、賢一が好きなパエリヤと決めた。パエリヤにしよう、と閃《ひらめ》いたのは、賢一が「そうだな、あの立食パーティーのときに、高井さんの婚約者の皿には、サフランライスが載っていたな」とつぶやいたからだった。高井健二に料理をほめられるより、やはり同性にほめられたほうが嬉しいものである。サフランライスにカレーやビール風味で煮込んだ鶏肉の組み合わせも考えたが、パエリヤがいちばん豪華で食卓に映えると思った。スープは、トマトソースがベースの野菜たっぷりのミネストローネにした。デザートに、チーズケーキを焼いた。
客が来る六時が迫ってきた。もう食卓はすっかり整えられている。赤ピーマンやラディッシュを彩りとして添えたサニーレタスのサラダに、サーモンマリネ、昨日作った焼き豚も細長い皿にきれいに切り並べて置かれている。あとは、パエリヤとスープを温めるだけである。
「だいぶ冷えたみたいだよ」
氷を入れたガラス器のワインクーラーからシャブリを取り上げて、賢一が言った。賢一も朝から、部屋の掃除、窓|拭《ふ》きといそいそと家事に参加してくれた。そんな家庭的な夫の姿を見るのは、雪子にはとても嬉しいことだった。
「婚約者の人って、飲む方かしら」
有田焼の箸《はし》置きに高級塗り箸を載せながら、雪子は言った。
「パーティーでは、ワイングラスを手にしてたけど、雪子ほど飲む女性かどうかはわからないな。なにしろ雪子はほうっておくと、一本空けちゃうからね」
「うそ。一本空けたのは賢一さんでしょ?」
二人は笑った。雪子は、ワインは嫌いではないが、一人で一本空けるほどの酒豪ではない。賢一につき合って飲むうちにかなり強くなった。二人で酒を飲むのが、十三歳のころの雪子にとっては、夢の一つだった。
「もうじきね」
雪子は、壁の掛け時計を見た。十五分前である。「準備OKね」食卓を見回して、一つ一つの料理や皿を指さし点検していた雪子だったが、「あっ」と気づいた。
「どうしたの?」
「セルフィーユを忘れたわ」
「セルフィーユって?」
「ハーブの一種で、独特の香ばしさがあるの。パエリヤにパセリと一緒に散らしたかったのよ」
「なくてもいいんじゃないの? パセリがあれば」
「だめ。今日は完璧《かんぺき》にしたいんだもの」
雪子は、もう一度時計をちらと見て、エプロンをはずした。「買って来なくちゃ」
しかし、ハーブを取り揃《そろ》えている店となると、思いあたる店は一つしかなく、少し距離がある。
「ねえ、ハーブだったらお義母《かあ》さんが作ってるんじゃないの?」
「あっ、そうか。わたしったら、そんなことも忘れていた」
「実家っていう店は、すぐそこにあるんだからな」
賢一は、雪子のおでこを指で突き、白い歯を見せた。
雪子は首をすくめ、舌を出して見せた。幸せだと思った。小学生のころ、同じようなことを賢一にされたことを思い出した。はるか昔のような気も、つい昨日のことのような気もした。
千恵子は、ハーブ屋が開けるくらいの種類のハーブを中庭で育てている。昔から、料理の添え野菜としてよく使っていた。
「まあ、お客さまが見える日だったの? だったら、ママが手伝ってあげたのに」
実家に顔を出すと、千恵子が一緒に住んでいたころの娘に言うような口調で言った。
「いいの。賢一さんのお客さまなんだから。妻のわたしが一人でやらなくちゃ」
雪子は、目と鼻の先にある実家には意識的に頼らないようにしてきた。自分が母親とあまりべたべたすると、賢一が嫌がるのではないかと考えたのだ。賢一は「たまには、お義父《とう》さんやお義母さんと一緒に食事をしようよ」と気を遣って言ってくれるのだが、「だめ。実家と婚家とのけじめはちゃんとつけなきゃ」と雪子ははねのける。「へーえ、君って案外、古いんだな」と賢一は感心したように首を振る。
「デザートは?」と、千恵子が聞いた。
「チーズケーキ。ばっちりうまく焼けたんだよ」
「そう」
千恵子は、自分の出番がないことが寂しそうだ。「セルフィーユだけでいいの?」
「あっ、もらえるなら何でももらって行く。パパのとっておきのブランデーなんかない?」
少し甘えると、千恵子はホッとしたように表情をほぐした。
「まあ、現金な子ね。ブランデーはパパのためにとっておくの」と言い、ほかの葉っぱも何枚かちぎってくれた。「ほら、ディルとルーコラ。ディルは、刻んでサラダのドレッシングに混ぜなさい。ルーコラは、サラダの横にちょっとだけ添えて。ゴマ風味は好き嫌いがあるから」
数枚のハーブを手に、雪子は自宅に戻った。玄関は二階にある。階段を上がり、鍵のかかっていないドアを開ける。御影石《みかげいし》のたたきに、きちんと揃えられた二足の靴があった。男ものと女もの。フェラガモの黒いパンプスは、雪子のよりひと回りサイズが小さかった。
――もう来ちゃったんだわ。
スリッパを揃えて出しておいてよかった、と雪子は思った。スリッパに足を滑り込ませたとき、玄関ホールの向こうのリビングルームから賑《にぎ》やかな笑い声が流れてきた。賢一の声とほかの男の声だ。女性の笑い声は、鈴をころがすようで可愛らしい。
「高木と高井。よく似てるんで、あのときも間違えた。二人一緒に振り返ったんでしたよね」
賢一のものではない男の声が言った。
雪子は、ドキッとした。喉《のど》につかえていた食べ物が、塊ごと胸に下り、今度はそこでつかえて、じわじわと痛みを広げていくような感覚を覚えた。
――この声は、聞いたことがある。
スリッパを履いたまま、身体《からだ》は動くのを拒否していた。賢一の声も、女性の声もときどき混じるが、雪子の耳は、その男の声を拾うことに集中していた。
「世の中、どこで誰が自分を意識しているか、わからないもんだな。高木さんにそこまで意識されていたとはね。僕は青春の挫折《ざせつ》というやつを経験しましてね。高木さんのご期待に添えずに、回り回っていまのような仕事に。だけど、いまになってみれば自分の人生に回り道があったことを後悔してませんけどね。ははは。……まあ、そういうことです。運命の人との出会い、それですべて報われます。ちょっとのろけちゃったかな、ははは」
雪子の背中を、ぞろぞろと夥《おびただ》しい数の虫が這《は》い上っていく。こめかみが熱を持った。指先が痺《しび》れてきた。
――似ている。あの声に似ている。あの男の声に似ている。わたしがクロゼットの中で聞いた、あの粘り気のある低音。
――似ているんじゃない。あの男の声そのものよ。あの男の息遣いよ。わたしがすぐ耳元で聞いた、あのおぞましい声。
めまいがした。雪子は、思わずパキラの幹に手をかけた。葉が揺れた。雪子は床にくずおれた。籐《とう》の飾り籠《かご》に入れた鉢が動いた。
「雪子?」賢一が奥から呼んだ。ドアが開き、「どうした、雪子」と、夫の緊迫した声が続いた。
雪子は顔を上げた。めまいはおさまっていた。頭痛に襲われる予感に不安になり、動かずにいたが、幸いこめかみの熱は引いていた。一時的なめまいだったらしい。
「あっ、ううん、大丈夫。走って来たら、ちょっとめまいがしただけだから」
雪子は、そろそろと立ち上がった。「ほら、このハーブ、香りがきついでしょ? それでくらっとしちゃって。もういらしてるのね」
「あ、ああ。君が出てすぐにね」
唇を湿らせ、深呼吸をすると、雪子は夫についてリビングダイニング・ルームに入った。リビングのほうのソファに座っていた男女が、緊張を含んだ笑顔で立ち、「お邪魔してます」と揃って挨拶《あいさつ》した。雪子と同じくらいの背の高さの中肉の男性と、小柄な女性。二人とも手にワイングラスを持っている。
「ああ、食前酒と思って君の作った梅酒をご賞味いただいている」
賢一が言い、「妻の雪子です」と雪子を紹介したあと、「友愛書房の高井健二さんと、婚約者の水谷恵理子さんだよ」と二人を妻に紹介した。
三人は、口々に自己紹介を繰り返した。水谷恵理子が、「この梅酒、とってもおいしいです」とにっこりした。茶色がかった長い髪の、うさぎのような二本の前歯が印象的な可愛らしい感じの女性だった。
「お腹をすかせていらしてください、と言われたんで、本当にそのとおりにして来ました。奥さんは、お料理がとても上手だそうで。楽しみにうかがいました」
高井健二は、屈託のない笑顔を見せて、率直に言った。雪子は、賢一が自分のことを〈料理上手な妻〉と話していたことを結婚後はじめて知って、ちょっと驚き、くすぐったくなった。
面と向かい、その声を聞くと、さっきの衝撃は薄らいできた。迷いが生じた。声の印象より、姿形全体から受ける印象のほうが濃くなってしまったせいだろうか。
――たまたま声が似ているだけの別の男かもしれない。
「雪子さんって、想像どおりの方でした。背がすらりと高くてモデルさんみたいできれい。頭もいいし、お料理も得意だし、飾りつけのセンスもすごくいいわ。そして、こんなすてきなおうちとすてきなご主人。わたしのあこがれの女性です」
水谷恵理子は、舌ったらずで幼さの残る口調で言った。雪子は、彼女が自分より年下であろうと、その言動から察した。
案の定、高井健二が「彼女とはひと回り年が離れているんです。まだまだ幼いところがあってね。料理のこともこれからいろいろと勉強したいようで」と、照れくさそうに、だが、どこか誇らしげに彼女の言葉を補った。
ひと回り年下といえば、今年二十三歳だ。雪子より四つ年下の計算になる。
「じゃあ、食卓のほうへどうぞ」
雪子は、二人の客をローラアシュレイのテーブルクロスのかかったダイニングテーブルへと誘い、自分はキッチンへ入り、スープを温めた。
「じゃあ、ワインを抜いてるよ」
カウンター越しに、賢一が威勢のよい声を上げた。「ああ、そうだ。フランスワインをおみやげにいただいた。年代物のボルドーだそうだよ」
「ありがとうございます」
カウンターの窓から顔をのぞかせて、雪子は礼を言った。火にかけた鍋がぐつぐついい出した。雪子がそちらに気をとられた瞬間、高井健二が「お口に合うかどうか。彼女が選んだものなんですよ。彼女、ワインに関しては知識が豊富で。カルチャーセンターのソムリエ養成講座なんかに通っているんです」と、やはり自慢げに言った。
雪子は胸をつかれた。今度は鼓膜が熱を帯びた。
――やっぱり、似ている。あの男の声に似ている。
――似ているんじゃない。あの男の声よ。
顔を見ずに、声だけ聞いたほうが、よりその印象が明確になるのだと思った。記憶の輪郭が浮かび上がりやすくなる。
――でも、似ているだけで、あの男だという証拠はない。偶然よ。
打ち消すはしから、
――じゃあ、この胸のざわつきは一体何なのよ。わたしの耳がはっきりとあの男の声を記憶しているからじゃないの? 偶然なんかじゃない、これは運命的な再会なのよ。天がそう仕組んでくれたのよ。
雪子の中で、別の声が強く言い返す。
――落ち着くのよ、雪子。たとえ彼があいつだとしても、あいつはわたしの顔など知るはずがない。わたしはあのとき隠れていたんだから。
雪子は、スープを食卓に運んだ。ワインのコルクが抜かれ、クリスタルグラスに注がれ、乾杯の声がかかる。
高井健二が、水谷恵理子が、雪子の作ったスープの味つけをほめ、マリネの風味をほめ、焼き豚の柔らかさと甘みをほめ、ドレッシングの絶妙な調合をほめる。賢一と高井健二が、それぞれの仕事の話をする。水谷恵理子が相づちをうつ。雪子は、料理の進み具合を見る。水谷恵理子が、雪子の父親の話をする。高井健二が日本の住宅事情の話へと発展させ、賢一が建築学へと話題を広げる。メインのパエリヤが食卓に出る。料理の話でまたひとしきり盛り上がる。「赤が肉に合うとはかぎりませんよ」と賢一が言い、客が持参した赤ワインを開けた。雪子は赤ワイン用に新しいグラスを用意した。
「ボルドーワインのコルクって、どうして長いか知ってます?」
水谷恵理子が、抜いたコルクを手にした賢一に聞いた。賢一が「さあ」と首をかしげる。すると彼女は、鼻の穴をわずかにふくらませて、知識を披露した。
「長期間保存しながら熟成させていくタイプのワインは、ワインを瓶詰めにするときに瓶首――ああ、この上の隙間《すきま》ですね――そこに残る空気の量を、できるだけ少なくするためにコルクを長くする必要があるんです。ボルドーワインって、ワインとしては長寿でしょ? コルクの弾力性を保つためにも長いコルクを使うんです」
「へーえ、そうなの」賢一が、感心したように言う。
「じゃあ、雪子さん」
と、ほめられて気をよくした水谷恵理子は、今度は雪子に質問を向けた。「ボルドーワインの瓶の底がくぼんでいるのは、どうしてだと思います?」
「さあ、なぜかしら。割れにくいように?」
本当にわからずに、雪子は首をかしげた。
「ぶどうの果皮から溶け出した色素は、熟成の過程で沈殿物になるんです。これをワインの澱《おり》と呼びます。この澱は、どんどん瓶の底にたまっていくのね。ワインを飲むときには、この澱を取り除かなくてはいけないの。それを集めやすくするのが、この瓶のここ、そう、くぼみなんです」
「それ、ソムリエ講座で全部習ったことだろ?」
高井健二が、婚約者の横顔を満足げな顔で見て聞いた。
「そうよ。まじめに勉強してるでしょ?」
水谷恵理子は、年上の婚約者に媚《こび》るような目で答え、雪子に視線を戻した。「ボルドーって、赤も白もいろいろな品種のブレンドで作られているの。それで、複雑な味わいになるんですね。柔らかくてエレガントで、複雑なおとなの味がする。ボルドーワインは、だから女性的なんです。わたし、ボルドーワインって、雪子さんに似ている気がします」
「そんなふうに言われると、なんだか恥ずかしいわ」
雪子は、顔を赤らめた。水谷恵理子は、講師か誰かの受け売りを知識の一つとしてしたのであろうが、雪子には言葉以上の意味があるように感じられたからだ。恥ずかしさを隠すために、パエリヤを各自の皿に取り分けた。
話題がふたたび料理に戻った。パエリヤは、材料を吟味し、腕によりをかけただけあって、雪子も満足できるできばえだった。
高井健二も賢一も、ワイン好きだ。雪子は、〈ワインのあとはウイスキーかしら〉などと思いながら、デザートはまだ早いと判断した。二人の男性の会話は弾んでいる。高井健二は冗談好きのようだ。彼が口にしたジョークに、賢一が笑い、水谷恵理子が「またあ」などと嬌声《きようせい》を上げる。高井健二は、目と目のあいだがくっつきぎみの、顔の中心にパーツが集まった顔立ちだが、ハンサムなほうである。
――よく食べ、よく飲み、よく笑うこの男が、本当にあのときの男だろうか。
「お台所、拝見したいんですけど、いいかしら」
水谷恵理子が、紙のナプキンで唇を拭《ぬぐ》って、甘えた調子で言った。雪子は、ハッとして高井健二から視線をそらした。
「あ、ああ、どうぞ」
「彼女、新居を拝見したくてうずうずしてたんです」
横合いから、婚約者が言い訳のように言った。
「女性は家のことが気になるもんですよ。どうぞ遠慮なく隅々までご覧ください」
賢一が、少しも嫌そうでなく言った。
男性二人を残して、雪子は水谷恵理子に家の中を案内した。リビングダイニング・ルームからキッチン、浴室、家事コーナーを設けたユーティリティ、トイレ、納戸、和室、雪子の書斎。吹き抜けの階段。三階のトイレ、賢一の書斎、将来の子供部屋、客用の和室、そして寝室。
「うらやましいくらい部屋数が多いんですね」
水谷恵理子は、壁紙や照明、家具や調度品を見るたびに、「素敵」や「可愛い」を連発した。ひととおり部屋を見て回り、最後に寝室に落ち着くと、ドレッサーの椅子を引き出して座り、鏡の中の雪子に話しかけた。
「やっぱり、ご実家の近くに住むのは理想じゃないですか?」
「母が近くにいてくれるのは心強いけど、あまり頼らないようにしているの。自分を甘やかすことにつながるから」
「へーえ、雪子さんって偉いんですね。わたしだったら、毎日母に頼っちゃうな」
鏡の中から現実の雪子へ視線を移して、彼女は言い、少し表情を引き締めた。「雪子さんとご主人って、いとこ同士なんですってね。だから、高木さん、こういう生活にもすんなり溶け込めたんですね」
「えっ?」
「同じ屋根の下ではないにしても、奥さんの実家に同居しているようなものでしょ? マスオさん的生活を嫌う男の人って多いけど、その点、いとこだったらもともと親戚《しんせき》だから、変なわだかまりもないし、いいなと思って」
「あ、ああ、そういうことね」
「わたしも、実家に二世帯住宅を建てるつもりでいるんですよ。健二さんの実家は名古屋で、彼は次男。わたしの家は、下町だけどいちおう都内で、狭いながらも土地があるんです。結婚したらそこを建て替えて……と考えていたんですけど、一緒に住んでもいいという男の人がなかなか現れなくて」
「あら、でも……」
高井健二はどうしたのだ、と雪子は訝《いぶか》った。
「あっ、わたしったらおかしな話、してますね。この話、健二さんには内緒ですよ。短大のときも、会社に入ってからも、つき合った男の人はいました。でも、みんな結婚の話となるといい顔しないんですよね。わたしみたいに最初から、実家の近くに自分の気に入った家を建てて住む、と決めている女が苦手みたいで、尻込《しりご》みしちゃって。その点、健二さんはすごく解放された考え方をする人だったんです。二度目のデートでわたしが将来の話をしたら、『僕は別に妻の両親と住んでもかまわない』って。それに、『僕はもう三十半ばだ。理想と現実のギャップも心得ている。将来のことは真剣に考えたい』という言葉が、すごくおとなっぽく感じられて、ぐっときちゃったんです。たくましさと誠実さが現れている気がしました。それでわたし、この人を逃したら、もうこういう考えをする人とは出会わない気がして、すごく執着してしまったんです。
わたしには、結婚に関して譲れない条件というのがあったんですね。それは、高価なダイヤモンドを贈られるよりずっと大事なことだったの。ああ、婚約指輪はまだもらってないんだけどね。いつでもいいからって言って。転勤のない仕事、これが条件だったの。夫の転勤で家から離れて各地を転々とし、借家暮らしが続くのって、わたし耐えられないんです。結局、母のそばから離れたくないんですね。子供を産んでからも実家のそばにいたら、母に面倒見てもらえるでしょ? これって、女の賢い生き方だと思いません? だから、それを実現した雪子さんはとても利口な方だと思うんです。本末転倒って言うのかしら。条件を満たしていたからつき合い始めた彼に、ぐんぐん惹《ひ》かれてしまって。もうちょっと背がほしかったけど、でも、なかなかにハンサムだし、まあいいかと思って。さっき高木さんも話していたけど、もともと彼はすごく頭のいい人なんですよ。中学時代は、『絶対に東大に入れる』と先生に太鼓判を押されていた人なんです。高校時代に、本人はグレたと言ってますけど、そのへんはわたしも聞かないことにしてるんです。いろいろあって第一志望には入れなかったけど、でも、いまの出版社もいちおう名の通ったところだし、やりがいがありそうだし、彼もわたしも満足してるんです」
水谷恵理子は、あっけらかんとして自分の過去や、彼への気持ちを語った。雪子は、とっさには言い返す言葉が出なかった。
「でも、雪子さんも、わたしたちが来る前に、実家に何か借りに行ってらしたんでしょ? やっぱり実家のすぐそばで暮らすのは理想ですよ。この家といい、理解ある旦那さまといい、家でできる仕事といい、やっぱり雪子さんはわたしのあこがれの生活を実現した、すばらしい女性です」
そういうことにしておこう、と雪子は微笑《ほほえ》んだ。そして、自分のほうの質問に切り替えた。「高井さんと知り合ったのは?」
「半年前です。わたしが勤めていたのが映画会社で、試写パーティーで出版社の人と知り合う機会があったんです。その中に高井さんもいました」
「そう。……恵理子さんは、血液型は何型?」
「あっ、もしかして、血液型占いですか? 雪子さん、そういうのくわしいですか? わたしはB型で彼はA型です。相性、どうなのかしら」
高井健二の血液型は、聞くまでもなく婚約者が教えてくれた。
「いいと思うわ。少なくともわたしたちよりは。わたしたちはO型同士。可もなく不可もない夫婦ね」
「そんなことありませんよ。雪子さんと高木さんはいとこ同士だもの。相性うんぬん以前に、神さまから認められている理想の夫婦なんですよ」
水谷恵理子の言葉に、ドキッとした。過去に自分がそう考えたことがあったのを思い出したからだ。賢一と自分の関係は、この世に二つとない。それゆえに絆《きずな》は固く、誰にも壊すことはできないのだと考えた。絆を壊そうとする者は殺してもいい、とさえ思った瞬間があった。
――高井健二の血液型は、A型だ。あの男もA型だった……。
A型は日本人に多い血液型だ。高井健二がA型だからといって、すぐにあの男と結びつくわけではない。だが、少なくとも血液型が一致したという点では、〈あの男〉に一歩近づいた。
「雪子さん、これからも家族ぐるみのおつき合いをしてくださいます? わたし、雪子さんにお料理を習いたいし」
水谷恵理子が顔を輝かせた。
「え、ええ、こちらこそ」
「彼、ドライブが好きなんです。よかったら今度、紅葉を見にどこかへ行きません?」
*
階下に降りると、驚いたことに男性二人は、将棋盤を挟んで向かい合っていた。
「賢一さん、それどうしたの?」
賢一が将棋を指すとは、雪子は知らなかった。将棋盤や駒が家にあったことさえ知らなかったのだ。
「あっちの大学にいたときに始めてね、少しやるんだ。おかしな話だけど、教わったのは日系人だよ。納戸から引っ張り出して来た」
「高木さんに、『将棋は指しますか』と聞いたら、目が輝きましてね」
と、高井健二が、駒を並べる手を止めて言った。
「健二さんは将棋好きなのよ。始めるといつ終わるかわからないんだから」
と、水谷恵理子が口を尖《とが》らせ、「いいですよね、雪子さん。わたしたちはわたしたちで楽しむから。ねえ、結婚式のときのアルバム、拝見させてもらっていいですか? ビデオがあればそれも拝見したいわ」
「写真はあるけど、ビデオはないのよ。地味な結婚式だったから」
アルバムを見せるとなると、あのウエディングドレスについての質問にも答えなければいけない。そのことで気が重かったが、ダイニングテーブルで将棋を始めてしまった二人を見ると、自分たちはソファに場所を移さなくてはいけない雰囲気を察した。
「じゃあ、わたしたちはデザートをいただきましょうか。チーズケーキを焼いたの」
「わたし、お手伝いします」
女性二人は、台所へ入った。水谷恵理子が、「まだ男性陣は飲みますよね。じゃあ、わたし、水割りでも作ります」と言い、思ったよりてきぱきとグラスや氷を用意し出した。雪子が「適当にそのへんのものを出してね」と指示すると、冷蔵庫から取り出したスモークチーズやサラミをきれいに切って、マイセンのブルーオニオンの皿に盛りつけたりした。
雪子は、二人分のコーヒーをいれた。将棋に興じている男性たちを横目で見ながら、女性二人はリビングルームのソファでくつろぎ、デザートを食べた。
水谷恵理子は、料理についていろいろ聞いてくる。「簡単で見栄えのする料理は何か」と聞かれ、あれこれ答えているうちに、彼女はメモを取りたいと言い出した。
雪子はメモ帳に、千恵子から伝授された料理のレシピを書いていた。男性たちの口数は少なくなった。勝負に熱が入っているのがわかる。うーむ、といううなり声や、語尾が消えるようなつぶやきが聞こえるだけだ。
突然、高井健二が「畜生」と声を張り上げた。雪子は、ビクッとしてメモ用紙から顔を上げた。が、水谷恵理子のほうは意にも介さないようで、コーヒーを飲んでいる。
「そこまで読めなかったな」
舌打ちに、高井健二の悔しさがこもった言葉が続いた。いつのまにか、指に煙草を挟んでいる。賢一から一本もらったようだ。
賢一は、相手の言葉が聞こえなかったかのように、平然として盤を見つめている。次の一手を考えているのだろう。形勢は賢一に有利らしい。
「いつもそうなのよ」
心得ている顔で、水谷恵理子は肩をすくめ、小声で言った。「男って勝負がかかるとどうして熱くなるのかしら。彼ったら、夢中になって『畜生』なんて汚い言葉を使うのよ。わたしの父も将棋をやるんだけど、父と指していてもそう。でも、父は全然気にしないの。かえって、将棋の仲間ができて楽しそうで。まあ、それも、彼に決めた理由の一つかな」
――畜生、畜生、畜生……。
雪子の耳の奥で、あの男の声がこだまする。
――あのときと同じだ。あのときは「畜生」のあとに「よくもやりやがったな」が続いた。あの「畜生」と怒気と苛立《いらだ》ちをこめて振り絞った声。あの声に、声質も音の高さもイントネーションも似ている。
――いいえ、そっくりよ。
雪子は、心臓ばかりか、手首の静脈まで激しく脈打っているのを感じた。あの男の声を、身体全体で聴き取った、と思った。
――十四年たてば、声も変わるものだろうか。
しかし、賢一に関して言えば、十四年前の声といまの声にまったく変わりはない。三十五歳では、まだ声帯に衰えは見られないのかもしれない。
確かめたい気持ちに雪子はかられた。だが、どうやって確かめればいいのかわからない。
――高井さんは、十四年前の十一月、どこで何をしていました?
――塚本由貴さんという人を知っていますか?
――殺された彼女が、賢一さんの婚約者だったことを知ってますか?
質問だけが、次々と脳裏を巡る。
「ねえ、雪子さん。結婚式の写真、見せてくださる?」
水谷恵理子が言った。雪子は閃《ひらめ》いた。自分の部屋からアルバムを二冊持って来ると、そのうちの一冊を広げた。
「わあ、きれい。おとなっぽいドレスね。わたし、こういうの大好き」
水谷恵理子は、雪子のウエディングドレス姿を見て、予想したとおりにミーハーな興味を示してきた。「これ、誰のデザインですか? きっと有名なデザイナーのものなんでしょうね」
「わたしが『お姉さま』と呼んでいた人が、自分でデザインして縫ったものなの」
雪子は、意識的に声を大きくした。「でもね、その人、わたしが十三歳のときに死んでしまったの」
「死んだ?」と、高井健二の婚約者は顔を曇らせた。
「殺されたのよ」
「うそっ!」
水谷恵理子が弾かれたように叫んだ。その声は、二人の男の注意を惹《ひ》いた。内容の想像がついたのか、賢一は眉根《まゆね》を寄せている。
「塚本由貴さんといって、当時、女子大の三年生だったわ。演劇部にいたの。賢一さんと……婚約してたのよ。だから、このウエディングドレスは、本当は塚本由貴さんが着る予定だったの」
水谷恵理子は、一瞬、息を呑《の》んだあと、「ど、どうして殺されたんですか?」と聞いた。
「アパートの自分の部屋で、犯されて首を絞められて殺されたのよ。犯人はまだ捕まっていないの。十四年前の十一月だったわね」
雪子は、事実を報告する事務的な口調で言った。
「雪子、よせ」と、賢一が静かな声で制止した。
水谷恵理子が、自分が叱られたように思わず首をすくめ、見開いた目を雪子に向けた。雪子は、高井健二を見ていた。高井健二は、婚約者よりさらに大きく目を見開いていた。心はもう将棋盤にはないようだった。
「お客さまに聞かせる話じゃないだろう」
抑揚のない声で言って、賢一は将棋に戻った。高井健二も、促されて目を将棋盤に戻した。
――動揺はしたわ。
雪子は高井健二の様子から判断した。けれども、それが、事件の犯人だったための動揺なのか、殺人事件にかかわった人間が身近にいたことを知ったための驚きなのかどうかは、判断できなかった。できるはずがなかった。雪子は、こめかみに鈍痛を感じた。
3
雪子は、クロゼットの中に隠れていた。身体を丸め、息を潜めていた。微動だにしないつもりだった。ところが、ハンガーに掛けられていた服が一枚、はらりと落ちた。布のくせに床で弾んで思いがけなく大きな音がした。
「誰だ?」
ドアの外で男が怒鳴った。「誰かそこに隠れているだろう。出て来い!」
雪子は、破裂しそうな胸を手で押さえながら、必死にかぶりを振った。
――来ないで、お願い。わたしを見つけないで。
必死に祈る。見つかったら最後、殺されることはわかっている。
――あのときと同じだ。あのときと……。
雪子の願いも虚しく、ドアは乱暴に開けられた。明かりを背にして、男の顔の輪郭が浮かび上がった。
男は、高井健二だった。
「見つけたぞ」
と、高井健二は言った。「おまえ、ずっとここに隠れていたな。見ただろ?」
「見てません」
雪子は、そのことをアピールするように固く目をつぶり、首を振り続けて言った。「見てません、見てません」
「何を見てないんだよ」
高井健二が、笑いながら聞く。
「何って……」
「だから、何を見てないんだよ」
雪子は、目を開けた。そこにあるはずの〈死体〉がなかった。塚本由貴の死体がなかった。
「何だか知らないけど、おまえは見たと言う」
高井健二は、薄ら笑いを浮かべた顔で、愉快そうに言った。「見られたからには、おまえも殺さなくてはいけないな」
――おまえも? やっぱりそうなんだ。この男がお姉さまを殺したんだわ。
「やっぱりあなたね」
雪子は、あえぐように言った。「あなたがお姉さまを……そうなのね?」
男の手が伸びた。雪子は、押し入れからつまみ出される子猫のように、たやすく男の手につかまり、引きずり出された。高井健二は、手にベルトを持っていた。そのベルトに見憶えがあった。
「お姉さまを殺したのは、あなたね? あなたがやったのね?」
雪子は言った。声がかすれた。
高井健二は、黙って首を横に振った。
「うそよ、うそ。あなたよ。わたしは知っているわ」
高井健二は、首を振り続ける。その振り方が、次第に激しくなる。髪が揺れ、顔の肉が左右に伸びたり縮んだりする。高井健二の顔は、形を変えていく。
「賢一さん……」
気がついたら、彼の顔は、高木賢一の顔に変わっていた。
「どうして、賢一さんに?」
雪子の喉《のど》に伸びてきた手は、賢一のものだった。賢一の手には、あのベルトが握られている。
「ごめんなさい、賢一さん。わたしがお姉さまを見殺しにしたの。でも……」
やめて、殺さないで、の言葉は、喉にぴたりと張りついた。
雪子は、自分の着ているものが中学時代の制服であることに気づいた。
「ユキ……ユキ……ユキ……」
遠くから自分を呼ぶ声に、二十七歳の雪子は目を覚ました。全身に鉛の重しをつけられ、深い海の底に沈められていたのを、いま引き揚げられたような感覚の中にいた。
腕に暖かい感触があった。ハッとして身体をひねると、雪子のシングルベッドの横にパジャマ姿の賢一が立っていた。彼の腕が自分の腕に触れていたのだ。
「うなされてたよ」
と、賢一は言った。雪子は身を起こし、額に手をあてた。冷や汗をびっしょりかいている。
「何か……言ってた?」
「いや」
「わたしの名前を呼んだ?」
「ああ」
「何て?」
「何てって……」
賢一は、唇の端だけに弱い微笑を浮かべた。「雪子、に決まってるだろ?」
――本当に? 賢一さんは「ユキ」と呼んだんじゃなかったの? いつもそうやって、わたしを抱きながら、心の中で「由貴」と呼んでいるんじゃないの?
雪子は、胸に生じた疑惑を追い払うように、賢一の胸に抱きついた。怖かった。この人を失いたくない、と切実に思った。十四年間かかって手に入れた最愛の人を、何があっても手放したくはなかった。
「どうしたんだ?」賢一は、面食らっている。
「怖い夢を見たの。そっちに行っていい?」
「あ、ああ」
雪子は、賢一のセミダブルのベッドにもぐりこむと、ふたたび夫の胸に顔を埋めた。懐かしい匂《にお》いがした。この人は昔からこの匂いだったのだ、と思い、ようやく安心感に包まれた。
「どんな夢を見たの?」
賢一が聞いた。雪子は、夫の胸の中で答えた。
「わたしがお姉さまになって、見知らぬ男に絞め殺されそうになる夢よ」
「高井さんたちに、あんな話をするからだよ。昔のことを何も知らない人間に、ああいう話はしないほうがいい。相手を戸惑わせ、驚かせるだけだよ」
「でも……」
雪子は、胸から顔を上げ、夫の顔を見た。「あの事件は、あと一年で時効を迎える。賢一さんだって、気にならないはずがないでしょ? わたしのことを気遣って、あの事件に触れないようにしているんだったら、そんな必要はないの」
「…………」
「賢一さん自身が思い出したくないから?」
賢一は何も答えずに、反対側のサイドテーブルに長い腕を伸ばし、煙草を一本抜き取った。
「ねえ、賢一さんの本心はどうなの? あと一年で犯人が捕まらなくてもいいの? 賢一さんには黙っていたけど、このあいだ夏美が来たのよ。弁護士として、あの事件のことを話して行ったわ。彼女によれば、ほかの事件で逮捕された人間が、昔の余罪も自供するというようなラッキーなケースでもなければ、残り一年で事件が解決する望みは薄いそうよ」
賢一は、黙ったまま煙草を吸っている。朝の煙草は苦みを感じるのだろう。眉間《みけん》のしわが深い。
「このままだったら?」
「仕方ないだろう」
賢一は、煙草の煙と一緒に苛立ちを吐き出したようだった。「事件を捜査するのは警察だよ。俺たちにはどうしようもない」
「時効があと一年に迫ったせいかしら。わたし、最近、お姉さまの夢をよく見るのよ。まるで、お姉さまがわたしに乗り移ったみたいに」
「雪子」
賢一は、妻の背中に左腕を回し、遠慮がちに撫《な》でた。楕円《だえん》形を描くようなためらいがちな指の動きだった。雪子は、はじめて彼にそうされたときのことを思い起こした。銀座で、映画を観たあとだった。あのときもやはり、遠慮がちな指の動きだった。
――賢一さんは、いつもどこかわたしと距離を置いている。先生であったときも、婚約者であったときも、夫になってからも……。
「殺されたお姉さまの無念な気持ちが、そのへんに漂っているような気がするの。そして、いつも見つめられている気がするのよ」
そう言って、雪子は夫の反応を見た。夫は、ふうっと小さなため息をついた。口の中に残っていたわずかな紫煙が寂しげに吐き出された。
「忘れろよ」
賢一は言った。「昔のことは、もう忘れろよ」
*
気がつくと、賢一のベッドに寝ていた。一瞬、状況が把握できなかった。賢一の姿はない。時計を見ると八時だった。頭が重い。雪子は、ぼんやりした頭で、うなされて夜中に起きたこと。賢一に背中を撫でられているうちに気分が落ち着き、睡眠薬を飲んでふたたび眠りについたことを思い出した。頻繁に起きる頭痛は、二年前の交通事故の後遺症でもある。雪子は、医者から頭痛薬と一緒に睡眠薬を処方してもらっていた。
カーディガンをはおる。少し腕を動かしただけで、頭がふらついた。リビングルームへ行くと、賢一がキッチンに入っていた。バターと牛乳とはちみつの甘いふくよかな香りが漂っている。
「今日は日曜日だよ。もっとゆっくりしていればいいのに」
カウンター越しに、賢一が起きて来た妻に言った。「いまホットケーキを焼いているんだ」
「賢一さん、お料理なんかするの?」
「当然じゃないか。学生時代は、これでも一人暮らししてたんだぞ、ここで。雪子がいちばんよく知ってるじゃないか」
フライパンにホットケーキをひっくり返して、賢一は楽しげに答えた。
「あっ、そうか」
「そりゃ、本当は毎日でもお義母さんの手料理を食べに行きたかったけど、それじゃ一人暮らしの意味がないんでね。たまには、ここで手料理をしていたさ」
「ふーん、なかなか手際がいいのね」
こんがりきつね色の焦げ目がついたホットケーキに見とれて、雪子は言った。ますます家庭的になっていく夫に感激していた。賢一は、結婚してから「叔母さん」と呼んでいた千恵子を「お義母さん」と、同様に澄夫を「お義父さん」と呼ぶようになった。最初はぎこちなかった呼び方が、最近は板についてきた。そんな夫の順応性を見るのも、雪子には嬉《うれ》しかった。少なくとも、現在の生活を受け入れているということだからだ。
「今日は、久しぶりに映画を観に行かないか?」
「映画?」
「何でもいいよ」
「あ、うん。わたしも観たかったんだ。でも、何を……観よう。観たかったのがあったんだけど、あれ、何だったかな」
雪子は、いきなり賢一に誘われたので、どぎまぎしてうろたえた。結婚以来、賢一は建前は完全週休二日制の会社であるはずなのに、週に二度きっちり休めたためしがない。のんびりと「映画に行こう」などと言い出したのは、はじめてのことだった。
――家に友達は招くし、料理もやり出すし、休日に映画につき合ってもくれる……。賢一さんは、やっぱり過去のことよりもわたしとのいまを、未来を、大切に考えてくれようとしているのかもしれない。それだけ、家庭を大切にしてくれているんだわ。
雪子の胸に、ちらりと苦い後悔がよぎった。彼が招いた友達のはずの高井健二と婚約者の水谷恵理子に、十四年前の事件の話をしたのはまずかったかもしれない、と思った。
――高井健二が、あのときの男かどうか、確かめようなどという考えを起こしたわたしはバカだったわ。
――世の中に、似たような声の持ち主などいっぱいいるわ。わたしは男の顔を見たのではなく、声を聞いただけじゃないの。十四年前に一度聞いただけの男の声を、正確に記憶しているはずがないじゃないの。
――でも、なぜわたしは、高井健二の声があの男の声だ、と思い込んだりしたのだろう。あれは、まさに一瞬で、身体全体で〈直感した〉という感じだった……。
雪子は、でも、と湧き上がる疑問を無理やり押さえつけた。いまの平凡な幸せを大切に守りたいのであれば、過去を掘り起こさずにそっとしておくことだ、と考えた。
朝食をとり、午前中に新宿に出かけた。雪子が選んだ映画は、サスペンスタッチのアクション映画だった。雪子は、映画そのものももちろん楽しんだが、いちばん楽しんだのは、〈愛する夫と一緒に映画を観ている事実〉そのものだった。
映画が終わり、遅めの昼食を三越デパートの近くのレストランでとっているときに、賢一の携帯電話が鳴った。映画館では電源を切っておいたのだった。電話が鳴った瞬間、雪子は嫌な予感に襲われた。仕事の電話なのは間違いないと思った。仕事を気にしていないふうの賢一だったが、映画を観ているあいだも何か気がかりなことがあり、そわそわしている感じは隣の席から伝わってきた。
「悪いけど、現場に来てほしい、という電話なんだ。トラブルのうちにも入らないことだけど、クライアントはトラブルだと大騒ぎしている。設計した俺があいだに入らないと、ちょっとおさまらないようなんだよ」
「えっ? あ、ああ、しょうがないわよ、仕事なら。買い物は一人で済ませるから」
映画を観て、食事をしたあとは、小田急ハルクのインテリア館に寄って、ファブリック類を見る予定になっていた。結婚祝いに千恵子の友人からもらったクッションカバーが、どうも部屋のインテリアにしっくりしない感じがして、雪子は自分の趣味に合ったものを買い求めたかったのだ。和室に置く民芸調のフロアスタンドもほしかった。
「映画のあとはデパートに寄らないか? 小田急ハルクで民芸家具の展示販売をやっているようだよ。小物もあるそうだ。君も何か買いたいものがあると言ってたじゃないか」と言い出したのは、賢一だった。
雪子は、少し寂しい気もしたが、休日、ここまでつき合ってもらっただけで満足だとも思った。
小田急線に乗るという賢一と新宿駅で別れて、雪子は一人、小田急ハルクへ向かった。時間をかけて、輸入の生地を使ったクッションカバーを選んだ。テーブルクロスとベッドカバーを作るつもりで、ファブリック・コーナーで余るくらいの分量の共布を買った。
ふと賢一が言った民芸品の展示を見ようと思いたった。特設会場が設けられたフロアに向かう。北海道や松本などの民芸家具、けやきや桐を使った重厚な家具、あじろ編みや松竹梅の彫りを施した装飾性の高い家具などの大きなものから、各地のこまごました民芸小物まで取り揃えて、コーナー別に展示されている。
雪子は、和風のものは嫌いではない。暮らしやすいから、と新居は和室が一間だけの洋風の家にしてしまったが、〈せめて二間は和室がほしかったわ。そしたら、もっと民芸品が飾れたのに〉などと思いながら、じっくり見て回った。
――将来は、賢一さんに設計してもらって、信州の安曇野《あずみの》あたりに和風の別荘を持つのもいいかもしれない。
夢はふくらんだ。そこに、澄夫と千恵子を招き、千恵子のために作った茶室で抹茶をいれ、みんなで優雅に過ごすひと夏を想像した。
夢が中断した。それが目に飛び込んできた。鎌倉彫りの家具と小物が置かれたコーナーに来ていた。
和風の鏡台があった。畳に座って化粧をするタイプの卓上鏡台だ。木地に美しい亀甲柄が刻まれている。半三面鏡になっているのだろうか。観音開きのふたに、二枚にまたがって大胆な牡丹《ぼたん》が彫られている。深い引き出しが中心に一つ、左右に小さな引き出しが二つずつ。
鏡台のデザインは、塚本由貴が使っていたものとよく似ていた。
塚本由貴の部屋にあった鏡台には、ふたの表面にみずばしょうを彫ったような模様があった。雪子はあの鏡台のふたを開け、ウエディングドレスを着た姿を鏡に映し出したのだった。あのとき雪子は、まだ十三歳だった……。
「こちらの鏡台は、ご存じでしょうが、鎌倉彫りです。駿河《するが》の伝統職人芸が生かされた、なかなかいい品でございますよ」
背後から、店員の男性が話しかけてきた。「まがいものはたくさんありますが、腕のいい職人の手による品は全然作りが違います。最近は、洋風住宅が増えまして、寝室にはドレッサーを置くのが常識のようになりましたが、やはり日本人ですからね。和室にこういった鎌倉彫りの鏡台をインテリアとして置かれますと、お部屋が大変格調高くなり、引き締まります。着物を着るときなど、こうした鏡台が一つありますと、とても重宝しますよ。お母さまからお嬢さま、そのまたお嬢さまへと、時代を超えて長く愛用していただけるお品でございます」
雪子は、あいまいな笑顔で応じて、その売り場を離れた。めまいがした。
塚本由貴の部屋にあった鏡台が、壁に掛かっていたウエディングドレスが、クロゼットの丸いつまみが脳裏によみがえる。
――同じ鎌倉彫りの鏡台でも、こちらは牡丹。あちらはみずばしょう。同じ品であるはずがないじゃないの。
――でも、偶然なのかしら。あれとよく似た鏡台が、いきなりわたしの目の前に現れるなんて。
雪子のために誂《あつら》えたかのようなウエディングドレス、あの男の声とそっくりな声を持つ高井健二、塚本由貴が使っていたのとよく似た鏡台……。
それらの相つぐ出現は、何を意味するのか。まるで運命のいたずらのようではないか。誰かが仕組んでいるようではないか。そう考えたら、顔から血が引いた。
雪子は、踊り場の隅に置かれた喫煙所のベンチに座った。バッグを開くと、内ポケットに頭痛薬が入っている。水なしでも飲めるように身体が慣れている。
めまいはおさまり、いつもの鈍痛がこめかみあたりにきていた。こめかみが脈打つ速度が早まると、痛みは当分おさまらないのはわかっている。早く飲まなければ、と気が急く。目の前が暗くなり、指先に震えがきている。錠剤の入ったシートをバッグから取り出した。飲む量は一度に一錠と決められている。量を過ぎると危険なので、一錠ずつ切り離して携帯していた。一錠、押し出すのにいつもの二倍、時間がかかった。吹けば飛んでしまいそうな小さな白い錠剤を一つ手のひらに載せ、ホッと一息ついたとき、誰かが横からぶつかって来た。隣に座ろうとしてよろめいた初老の男性だ。その瞬間、手のひらから錠剤がこぼれ落ちた。錠剤は床に跳ね、階段をころがり、行方がわからなくなった。
「ああ、すみません」
老眼鏡をかけた初老の男性は、雪子に謝り、煙草を取り出した。錠剤のことなど気がついていない様子だ。
雪子の内部に、言いようのない虚脱感と疲労感が広がった。バッグに余分な錠剤が入っているかどうか、確認する余力も残っていなかった。雪子は、両手で顔を覆い、ひたすら頭痛が引くのを待った。意識が遠のいた。
4
「結婚によって、環境が変わったこともストレスの原因になっているのかもしれません。環境の変化が身体《からだ》に及ぼす影響というのは大きいですから」
白衣を着ない精神科医は言った。
「でも、わたし……幸せなんです。それなのに、なぜ以前より頻繁に頭痛が起こるようになったんでしょうか」
雪子は、主治医に救いを求めて言った。
主治医は微笑《ほほえ》み、うなずいた。「たぶん、あなたは幸せだろうと思いますよ。幸せすぎる自分に不安を感じてはいませんか?」
「…………」
「いまが幸せであればあるほど、その幸せが将来も続くかどうか心配になる。いまの自分の幸せと過去の自分のそれとを比較したくなる。いまの幸せを得るために費やした膨大な時間や人間を、振り返ってみたくなる。人間はそういうものですよ」
白衣を着ない分、インテリアに白を多く使った清潔感あふれる面談室で、銀縁の眼鏡をかけたスマートな中年医師は穏やかに語った。彼のメンタル・クリニックは都心にあるせいか、彼自身がテレビ映えする容貌《ようぼう》で、アメリカで精神医学を学んだという輝かしい経歴の持ち主のせいか、最近よくワイドショーなどで取材を受けている。
雪子は、二年前の交通事故で軽いむち打ち症にかかった。そちらの治療は、大学病院で行い、完治したが、その後も原因不明の頭痛が続いていた。大学病院の医師に紹介されたのが、赤坂にあるこのクリニックだった。
雪子は、三日前に小田急ハルクで頭痛を起こした。ふだんなら頭痛薬をすぐに飲めば、十五分ほどで徐々に痛みは引いていくのだが、薬を落としてしまったあのときは痛みは激しくなる一方だった。
そして……雪子の記憶は途絶えたのだ。気がついたら、痛みはおさまっていたが、腕時計を見るとベンチに座ってから四十分も経過していた。
――痛みに耐えられずに、一時的に失神状態になったのだろう。寝てしまったのかもしれない。
雪子はそう思った。確かに、気づいたときは、眠りから覚めたときのようなぼんやりした状態だったのである。
ある一定の期間の記憶が失われた、という経験は、交通事故のときに一度している。二年たってもやはり、婚約者が事故を起こした前後のことは思い出せない。猫を撥《は》ねたこと。自分が車を停止させたこと。猫の死骸《しがい》を抱き上げ、マフラーにくるんだこと。雨が降っていたこと。そのくらいしか思い出せない。発見されたときに、後部座席で猫の死骸を抱いて気を失っていた、と言われ、〈猫嫌いの婚約者がわたしのわがままを聞いてくれたのだろう〉と推測したのである。婚約者が事故を起こした直接の原因は、いまだによくわからない。
「いま出している頭痛薬は、即効性のあるものです。劇薬とまでは呼べませんが、それに近いものです。一度に何十錠も出すことは危険でできないんですよ。その……あやまった飲み方をされては困りますからね。それに……睡眠薬もそろそろ控えたほうがいいかと思います。あなたは結婚されているんですからね」
「…………」
「赤ちゃんを産む予定はおありなんでしょう?」
*
主治医に「赤ちゃんを産む予定はおありなんでしょう?」と聞かれてから、雪子は電車に乗っても、家に帰ってテレビをつけても、赤ちゃんの姿が目の前にちらつくようになった。結婚して二か月。子供などまだまだ先だ、と考えていた。いや、子供のことはあえて考えないようにしてきたと言ったほうが正しい。賢一とのあいだに子供の話は、一度も出たことがなかったのだ。
それよりも、雪子にとっては、夫と自分のあいだにわずかに感じられる溝を埋めることのほうが大事だった。それは、建具と柱のあいだに生じた隙間《すきま》のようなものだった。それを埋める前に子供の話を持ち出しては、ますます賢一の気持ちが自分から遠のくように思われた。
二人のあいだにある溝。それは、間違いなく「由貴」だった。雪子が賢一に抱かれているときに聞く、「ユキ」というささやきだった。賢一は「雪子」と呼んでいるつもりらしい。実際に、そう呼んでいるのだろうと雪子は思う。だが、感じるのだ。そう聞こえるのだ。
「ユキコ」ではなく「ユキ」と……。
――賢一さんは、わたしを愛しているのではなく、わたしの背後にいるお姉さま、「由貴」を愛している。「由貴」をあのような形で失ったことの悲しみが、まだ癒《い》えていない。
それが、賢一が自分にもう一つ心を開いてくれない理由だと雪子は解釈していた。「由貴」の記憶に通じる過去を進んで話したがらないのもそうだ。自分を「ユキちゃん」と、たとえおふざけでも、昔の呼称で呼んでくれないのもそうだ。
しかし、一方で雪子は、
――妊娠さえしてしまえば、お姉さまの「由貴」を超えられるかもしれない。
という望みも抱いていた。浅はかな望みと言えるかもしれない。
家庭に未知の人間を増やし、夫と妻でしかなかった二人が、父親と母親になれば、二人の関係も次第に変わっていくのではないか。賢一の中から過去へのわだかまりが自然に消滅していくのではないか。もちろん、子供の成長は、時間の経過を意味する。時間の経過がそれぞれの過去の傷を癒してくれるのではないか、自分の中にある罪悪感も紛らわせてくれるのではないか、と考えた。
――賢一さんに、子供のことを話してみよう。わたしたちは夫婦なんだから。
けれども、その夜、残業で遅くなった賢一に、子供のことを切り出すチャンスはなかった。
そして、翌日の午前中。寝室に掃除機をかけていた雪子は、玄関チャイムの音に気づいた。掃除機は、持ち運ばなくてもすむように、各フロアの要所要所に掃除機の吸い出し口を取りつけたセントラル・クリーナー方式にしてある。実家の建て替えのときにいち早くこれを取り入れた澄夫が、娘の新居にも勧めた。雪子はホースを床に置き、階下へ急いだ。
「Y急便です」
インターフォンのモニターに、ガレージの横の門扉に立つ宅配業者の顔が映った。雪子は、実家や部屋を貸している住人の荷物を預かることがたまにある。だが、顔見知りの配達員は「高木さんへお届けものです」とはっきり言った。「そちらへ運んでよろしいでしょうか」
「え? あ、はい、どうぞ」
運ぶというからには、かなり大きな荷物らしい。
ドアを開けると、がっしりした配達員がダンボールに入った、高さが七、八十センチはあるかと思われる荷物を抱え、顔を紅潮させて階段を上がって来るところだった。ふう、と息をつき、配達員は荷物を玄関のホールに運び入れた。
「お願いします」
差し出された伝票を見て、雪子の身体は凍りついた。配達員が、「何か?」と怪訝《けげん》な顔をした。
「あ、いえ、いいんです」
雪子は我に返り、伝票に受領印を押した。
小田急ハルクの家具売り場から届いたものだった。中身を見なくても、雪子にはそれが何かわかっていた。
送り先は、確かに高木雪子の住所である。だが、宛名が違う。
高木由貴様
記憶にある塚本由貴の字で、そう書いてあったのだ。そして、送り主はデパートの店員のものらしい字で「御本人様」となっていた。
――高木由貴が、高木由貴に送った? 高木雪子ではなく、高木由貴に?
どういうことなのだろう。雪子は混乱した。ウエディングドレスが送られて来たときと同じだ。あのときの宛名は「影山雪子」で、今回は「高木由貴」だが、筆跡は同じである。
――お姉さまが、あの世からわたしあてに送って来た?
――いいえ、わたしあてじゃない、自分あてよ。お姉さまが死ななければ、賢一さんと結婚していたのはお姉さまのほうなのだから。お姉さまが、「高木由貴」になっていたはずなのだから。
雪子は、ダンボールから宛名の書かれた伝票をむしり取り、丸めた。薄い紙がはがれずにダンボールに残った。それも、必死になってむしり取った。固い紙に人差し指の爪《つめ》が割れた。
丸めた紙をもう一度広げてみた。
高木由貴――左右対称《シンメトリー》の美しい名前。
――「高木雪子」にはない、完璧《かんぺき》なバランス、完璧な美を持った名前だわ。
そう思った瞬間、雪子は、自分の身体のほうのバランスを崩しそうな危うさに襲われた。爪をかみ、めまいに耐えた。
リビングルームで電話が鳴った。雪子は、その電話のベルに助けられた形になった。意識を電話に切り替えることができた。
――死んだ「由貴」が、あんな贈りものをするわけがないじゃないの。
――誰かがあなたを恐がらせるためにやっているのよ。
誰かはわからないが、その誰かの術中にはまってはいけない、と雪子は自分を戒めた。
「はい、高木です」
受話器を取る。
「友愛書房の高井です。先日は大変ごちそうになり、ありがとうございました」
高井健二の声だった。
「もしもし……?」
「あ……はい、どうも」
とっさに声が出なかったのは、あのときの状況が再現されたような錯覚を覚えたせいだった。自分はクロゼットの中。塚本由貴を殺した男はクロゼットの外。姿が見えず、電話線を通じて流れてくる声は、ドア一枚を通して耳に達したあの声と、やはりとてもよく似ている。
「先日は、ご主人と将棋に熱中してしまい、また奥さんのおいしい手料理に夢中になって、すっかり仕事のことを忘れてしまいましたが、どうでしょう。そろそろ、翻訳の仕事のほうをお始めになる気はありませんか?」
高井健二は、先日感じたのと同様のなれなれしい口調で、そう持ちかけてきた。
「は、はい、やらせていただけるのでしたら」
雪子は、耳に神経を集中させて言った。才能を眠らせておくのはもったいない、という賢一の言葉が励みにも重荷にもなる。
「では、午後にでもおうかがいしていいでしょうか。一つ、リーディングをお願いしたい作品があるのですが。作品をざっと読んで、簡単にシノプシスをまとめていただきたいんです。この本のセールスポイントなどを、的確にまとめてもらえれば助かります」
学生時代から、翻訳ミステリーや推理劇が好きで、読んだり観賞して来た雪子である。そのあたりも賢一が高井健二によく話しているのだろう、と思った。
「わかりました。では、お待ちしております」
5
デパートから届いた品は、送り返すこともできたのだが、雪子はそうしなかった。梱包《こんぽう》をほどき、ぽってりと大きな牡丹《ぼたん》の花が彫られた卓上鏡台を、八畳の和室の衣桁《いげた》の隣に置いた。
賢一に確かめたかった。あの日、「民芸家具の展示を見に行こう」とデパートに誘ったのは夫である。
――賢一さんは、鎌倉彫りのこの鏡台があそこに展示されていたことを、知っていたのかもしれない。
――でも、なぜ賢一さんが、こんなものを送って来るの? しかも、「高木由貴」の名前で、彼女の筆跡をまねて。
どうしても、賢一のしわざだとは、雪子には考えられなかった。では、誰なのか。思い巡らせても心あたりはない。
約束の二時に、高井は訪れた。雪子は、リビングルームに彼を招き入れた。布張りのソファの上のクッションを見るなり、高井は「このあいだとまた違いますね」と言った。
「カバーをつけ替えたんです」
と、雪子は言い、クリスタルの灰皿を高井のほうへ押しやった。彼が煙草を吸うのは、将棋を指し始めたときに手にしたのを見て、知っていた。
「あっ、結構です」と、高井は灰皿を断った。今日は吸わない、という意思表示だ。
雪子は、コーヒーがいいか紅茶がいいか尋ね、後者がいいと答えた彼に、フォションのレモンティーをいれた。キッチンに立っているあいだも、高井は世間話を絶やさない。「彼女が奥さんの料理をすごくほめていました」という話から、翻訳小説に出てくる料理に関する用語には精通しているか、という話に発展した。
「最近は、あちらの小説にハーブの名前がいろいろ出てきましてね。奥さんなら、くわしいので安心して頼めるかな、と思いましてね」
高井は、テーブルに一冊の原書を載せた。「イギリスの女性作家のものなんですよ。庭の手入れが唯一の趣味だった専業主婦が、ある日突然、夫に失踪《しつそう》される。夫の残した会社の後始末をしながら夫を待つうちに、一人で生きることに目覚めていく、そういうストーリーらしいんですが、細かなところは訳してみないとつかめないんです」
「文芸書の翻訳経験がないわたしにできるかしら」
雪子は、警戒心を読まれないように、さりげなく、頼りなげに言い、紅茶のセットをテーブルのはしに置いた。
「奥さんの……いや、雪子さんの読解力は信じてますよ」
と、高井は、奥さんから「雪子さん」に言い換えて、微笑んだ。上まぶたにくぼみがあり、そこにできた影と目の下の隈《くま》が、彼の生活の不規則さと心理的な陰影を暗示しているようで、なんだか不気味な気がした。
「奥さんと呼ぶのも、仕事上おかしなもんですから、ずうずうしく雪子さん、とお呼びしますよ」
「どうぞ」
「出版までこぎつけるかどうかは、内容次第です。リーディング料はもちろん、お支払いいたします」
「わかりました。お引き受けします」
「ああ、よかった」
高井は、吐息を漏らし、ソファにもたれかかった。手を伸ばし、紅茶にレモンを浮かべる。
雪子は、彼の口元をじっと見つめていた。
――ティーカップには、彼の指紋が、彼の唾液《だえき》がついたはずだわ。これをそのまま警察に送り、匿名《とくめい》の手紙をつけたら。
――匿名の手紙? どう書くの?
――「この男は、十四年前に塚本由貴さんを絞殺した男かもしれません。このカップに唾液と指紋がついています。照合してみてください」と書くのよ。
――警察は、手紙の差出人のほうを注目するわよ。あなたのことを必死になって捜すわ。
――だから匿名にするんじゃない。
――人権問題が絡むわよ。夏美さんに聞いてみるといいわ。相当容疑が固まらないと、指紋を提供させるのだってむずかしいご時世なんだから。本人が「捜査令状を見せてください」と言って拒否したらどうするの?
――そのときは……。
――ほら、答えられないじゃないの。あなたは高井健二に恨まれるわよ。彼が真犯人にせよ、そうでないにせよ。自分の身辺を調べられたら、あなたが関係しているとすぐにわかってしまう。賢一さんは彼の知り合いよ。昔、ライバル視していたことから、おかしな形の友情が芽生えている。将棋仲間でもあるわ。あなたが、なぜ高井健二に目をつけたか、理由を聞かれたらどう答えるの?
――それは……。
――あのときクロゼットに隠れていました、と告白するつもり?
――……。
――ほら、また答えられないじゃないの。そんなあやふやな段階で、彼を真犯人かどうか確かめようなんて考えるのは、やめることね。あなた、怖いんじゃないの?
――でも、わたしは……。
――なぜ、わざわざ波風を立てたいの? 自分の平穏な生活を守りたいんじゃなかったの、あなた。なぜ自分から過去を掘り返すの? あなたはちゃんと、彼の、賢一さんの奥さんの座におさまっているのよ。
――なぜ、こんなにこだわるのか、それは……わたしにもわからないのよ。
「どうかしましたか?」
高井がティーカップから口を離して、首をかしげた。
「いいえ、別に」雪子は、ハッとして彼の口元から視線をそらした。
「そんなに見つめられていると、恥ずかしくなりますね。雪子さんみたいにきれいな人だと、とくに」
雪子は、高井のお世辞が聞こえなかったふりをして、本をめくった。読みやすそうな内容だった。
「このあいだ、彼女が写真を見せていただいてたでしょう?」
高井は、ティーカップをテーブルに置くと、身を乗り出し、話題を転じた。声のトーンが妙に高くなっている。「ご主人、高木さんには婚約者がいたとか」
「ええ」
聞かないふりをして、やはりしっかり聞いていたのだ、と雪子は思った。だが、犯人でなくても興味を持つ事件ではある。
「その婚約者は殺されたんですか?」
「はい」
雪子は、先日話した殺人事件を、高井の前で今度も事務的に繰り返した。彼の反応をうかがった。
「十四年もたつのか。じゃあ、来年で時効ですね」
だが、高井は、けさ新聞に出ていた殺人事件を語るのと少しも変わらない落ち着いた口調で、一傍観者としての興味を示してきた。「あれかな、最近、検挙率が落ちているというけど、十四年もたつと事件そのものが忘れられちゃうのかな」
「忘れてはいませんけど」
「あっ、すみません」
高井は、居住まいを正し、しまったという顔をした。雪子には、彼がそういう表情を芝居で作ったように見えた。
「雪子さんが、お姉さま、と慕っていたくらい親しい人だったんだから、さぞかし悔しいことと思います。高木さんにしてみても。だけど……やっぱり、捜査のほうはどうなんでしょうか、あと一年だからって急に何か進展が見られるというものでもないんでしょう? そのあたりは……」
「どうでしょうか」
あいまいに聞かれたことには、雪子はあいまいに答えることにした。気のせいか、彼が〈捜査の進行状況〉を、関係者の雪子から聞き出そうとしているように思えてしまう。
――ずばりと聞いてみるのよ。
――何て?
――塚本由貴さんを殺したのは、高井さん、あなたでしょう? ってね。
――できないわ、そんなこと。さっきあなたが言ったじゃないの。あやふやな段階で、彼を真犯人かどうか確かめようなんて考えるのは、やめたほうがいいって。
――でも、あなたは突き止めたいんでしょ? 確かめたいんでしょ?
――え、ええ。
――じゃあ、やるしかないわね。
――でも……。
――ほら、やっぱり怖いんじゃないの。自分の生活が足下から崩れてしまうのが。
――違う方法を考えるわ。
――ほかに、どういう方法があるって言うのよ。
――あるわ。必ずあるはずよ、必ず何かあるはずよ。
「警察からは、何も言ってこないのでしょうか。その……遺族の方に」
高井に、雪子の内心の葛藤の声が届くはずがない。彼は、〈捜査の進行状況〉を探る質問を進めた……ように見えた。
「塚本さんの遺族は、岡山にいるんです。くわしいことはわかりません」
「でも、高木さんがこうして雪子さんと結婚なさったということは、その……事件のことがふっきれたということじゃありませんか? もう十四年もたっているし」
雪子は、答えずにまたあいまいな笑顔を返した。
「そうですよ」
と、高井は何を思ってか、力強く言った。「ご主人は奥さんを愛しているんですよ。過去のことなどにこだわる必要はありませんよ。過去は過去、未来は未来です。あっ、よけいなことを言っちゃったかな」
「わたしたちは過去をふっきっても、塚本由貴さんを殺した人には、ふっきれていないかもしれない。ふっとそんなふうに思うことがあるんですよ」
一瞬、高井は虚をつかれた顔をしたが、真顔になって「ああ、わかります。犯人はどこかにいるかもしれないんですからね」と言った。
「生きていれば、ですけど」
雪子のつぶやきのような言葉に、高井は、ふむとため息をついた。少し沈黙があった。
「じゃあ、これで失礼します。また連絡します」
高井が腰を上げた。
雪子は、玄関まで案内しようと先に立った。和室の開き戸は開け放ってある。リビングルームのドアのところで、雪子は何げなく和室のほうへ顔を振り向けた。つられて、高井もそちらを向いた。開放された空間には目を向けるもの、という人間心理を計算しての動作だった。
「あら、落ちてるわ」
雪子は、和室に入り、衣桁に掛けてあったはずの小紋の着物を拾い上げた。袖《そで》を広げて、ふたたび衣桁にふわりと掛ける。その隣には、午前中に届いたばかりのあの鎌倉彫りの卓上鏡台が置いてある。
「すみません」と、ドアまで戻る。高井の視線は、雪子を通り越してあの鏡台に向けられている。眉《まゆ》が寄り、顔の陰影が濃くなっているように見える。後頭部のあたりの古傷がうずくときのような表情だ。
「どうかしました? 鎌倉彫りの鏡台ですけど」
雪子は聞いた。
「あ、ああ、そうなんですか、鎌倉彫りね。このお宅は、どこを見てもとても趣味がいい。僕にはちょっとまねができませんね。金がかかりすぎる」
彼は、視線をあちこちに移して、笑った。
――この鏡台に見憶えがあるのだろうか。
彼の表情だけから判断するのは、最初からわかっていたことだが、不可能なことだった。鏡台を見て、彼の表情に動揺が走ったのは事実だが、動揺の正体を正確にあばくことはできない。
『あとは、あれだけよ。あれするしかないじゃないの』
いきなり、どこからか声が聞こえた。
「えっ?」
雪子は、天井を見上げ、次に高井を見た。
「何か言いました?」
「いえ……」高井は、訝《いぶか》しげに首を振る。
確かに、誰かの声――女性のものと思われるささやくような細い声がしたのだ。気のせいか、塚本由貴の声に似ていた。雪子は寒けを感じた。同時に、こめかみに鈍痛が生じた。
――痛みが起こらないうちに、早く帰さなくちゃ。
服用している頭痛薬や睡眠薬のような強い薬が、妊娠可能の状態にいる女性の身体によくないのは常識である。雪子は、医者のアドバイスもあって、なるべく飲まないようにすることに決めたのだった。
「寒くならないうちにどうですか」
高井が玄関ホールで切り出した。「彼女が、雪子さんの熱烈なファンになっちゃったようなんですよ。お二人と一緒に旅行をしたい、と言い出しましてね」
「旅行?」
「ご主人もドライブがお好きなようですね」
「ええ、軽井沢へも車で」
一階のガレージには、シルバーメタリックのアウディA6のアバントが駐車してある。休日に乗る程度で、賢一はふだん南青山の会社まで電車で通勤している。
「雪子さんは、運転はなさるんですか?」
「学生時代に免許は取りましたけど、遠出はしません」
二年前に婚約者が事故を起こして死んでから、自分でハンドルを握るのは極力避けている。運転中に突然、頭痛を起こすのが怖いのだ。近いところなら買い物に出かけるが、少し遠いところとなると、賢一に運転を任せてしまう。
「どうですか。近いうちに紅葉を見に行きませんか。恵理子は、山の中のロッジに泊まって、自分たちで料理をして楽しみたい、と言うんです。僕も彼女も、アウトドア人間なんですよ」
雪子の渡した靴べらを使って革靴を履きながら、高井は言った。雪子は、高井が婚約者を「恵理子」と、呼び捨てにするほどの仲にすでになっているのだと悟った。
「え、ええ、楽しそうですけど」
社交辞令でそう答えた途端、こめかみに焼きごてを押し当てられたような痛みがさした。
「会社でたまに使っている貸別荘が、山中湖の近くにあるんですよ。食料を持ち込んでバーベキューでもやりませんか? ちょっと季節はずれかもしれませんが。今年は夏が暑くて長かったですからね。十一月頭なら、まだ十分楽しめますよ」
「え、ええ」
「本音を言えばですね、ご主人と夜通し、将棋をやりたいという理由もあるんですよ。このあいだの仇《かたき》を何としてもとらないとね」
先日、高井は賢一に負けたのだった。
雪子は、〈仇をとる〉という強い表現にドキッとした。高井の顔は笑っていたが、彼の中に潜む何か黒々とした、胸の底にこびりついてはがれない悪意といった感情の塊を、目の奥にのぞき見た気がしたのだ。
「バーベキューは、夏のほうがいいかもしれませんが……」
この男とその婚約者と、二夫婦で一昼夜を共にしたくない、という嫌悪感が胸に湧き上がった。山荘で過ごすなら、賢一と二人きりのほうが断然、楽しい。ところが、ほとんど同時に、相反する感情も湧き起こった。
『来年の夏なんて遅いわ』
――遅い?
雪子には、自分が思ったことなのか――内心でつぶやいたことなのか――、誰かが耳元でささやいた言葉なのか、判別がつかなかった。
『いますぐ行くのよ』
かすかにその声が言った。押し殺したような、か細い女性の声だ。
――お姉さま?
雪子は、心の中で呼びかけた。けれども、その声は答えなかった。
「恵理子のほうもはりきっているんです。アウトドアの料理なら、わたしも得意よ、なんて意気込んじゃってね。ワインを持ち込んで楽しくやりませんか? ご主人にも電話しますよ。たまには外に出て、パアッと騒ぐのも必要ですよ。世界が広がりますし、ストレス解消になります」
「そうですね。……山中湖なら、父が設計した別荘がありますけど」
「えっ? それはいい」
高井は、大げさなほど喜んで、手を打った。「じゃあ、そこで……なんて言うと、ずうずうしいかな。でも、この話を聞いたら、またまた恵理子が『ぜひ、拝見したいわ』なんて言い出しますよ」
高井は、愛想のよい笑顔を崩さずに帰って行った。
彼の姿が見えなくなった瞬間、すっぱいものが胸元にこみあげてきた。雪子は、洗面所へ行き、吐いた。鏡に映った顔は蒼白《そうはく》だった。
そして、雪子は、今度ははっきりとその声を聞いた。
『チャンスが来たじゃない』
6
吉川さなえの現住所は、N女子大学の卒業者名簿を調べてわかった。雪子は、以前、テレビで各種の名簿を扱う会社があるのを知って驚いたことがあった。それを憶えていたのである。N女子大学の卒業生は、エリートサラリーマンの見合い相手として人気が高く、卒業生名簿をそこに持ち込めば、高く購入してもらえるらしい。閲覧するには費用がかかる。
吉川さなえは、結婚後の姓を、青沼といった。職業欄に「主婦」とあり、雪子は彼女の年代から、漠然と子育てに奮闘している姿を思い描いた。住所は、埼玉県川口市。カタカナの建物の名前に一で始まる四|桁《けた》の数字が続いているから、高層マンションの一室だと思われる。
雪子は、彼女の家の近くまで行って電話をかけたほうが、彼女が会う気になってくれるのでは、と推理した。
高井が来た翌日、雪子は川口へ行った。JR川口駅を出て、すぐに電話した。午後の二時を回っている。不在ならば電話をかけ直して、次は会う約束を取りつけようと思った。
「はい、青沼です」
四度のコールで、幸い受話器は上がった。吉川さなえは、いまの姓を名乗って電話に出た。
「吉川さんですね?」と雪子は確認した。「そうですけど」吉川さなえの声に、警戒の色が現れた。雪子は、まず「高木雪子です」と名乗って、彼女の反応を見た。
「あっ、あら、どうも」
青沼さなえは、雪子を「高木賢一と結婚した女性」として憶えていた。
「すぐ近くまで来ているんですが、お話ししたいんです」と告げると、彼女は警戒の上に意外そうな色を声に重ねて、「子供がいますのでちょっと」と躊躇《ちゆうちよ》した。
「少しの時間でいいんです。玄関先でもいいですから」
雪子は食い下がった。
「じゃあ、駅前の西公園で。リリアという建物があるほうです」
『リリア』と巨大な看板の掛かった総合文化センターのエントランス前の広場で、雪子は待った。五分もしないうちに、ベビーカーを押した女性が現れ、かなり手前で雪子に会釈した。雪子の中に、すぐに十四年前の面影を見つけたらしい。
雪子のほうは、彼女に会うまで、彼女の顔についてぼんやりした記憶しか残っていなかった。青沼さなえとは二、三度会っただけである。ショートカットで丸顔で小柄。顔の面積に対して、目や鼻や口の作りが大きい。そんな印象しかなかった。
「本当に、お久しぶりですね」雪子は言った。
「本当に」と、青沼さなえも受けた。そのあとの言葉を呑《の》み込んだような雰囲気だった。
雪子は、塚本由貴の郷里での葬儀には、学校があったので参列しなかった。アパートで行われた仮通夜の席に顔を出し、目礼したのが、青沼さなえと会った最後だった。
「結婚なさったのに、お祝いもしないですみません。上の子が今年小学校で、この子に手がかかって忙しくて」
青沼さなえは、何か牽制《けんせい》するような口調でせかせかと言った。
二人は、ベンチに並んで座った。青沼さなえは、ベビーカーを脇《わき》に置き、ハンドルに片手を置いた。ベビーカーの中の子供は、眠っている。
「何か月ですか?」
雪子は、眠っている子供を見て聞いた。十月にしては厚めの毛布が胸元までかけてある。
「五か月なの。上の子とあいだが開いてしまって」
「可愛い寝顔ですね。お名前は?」
「美保です」
「美保ちゃん。いい名前ですね」
青沼美保、と雪子は、心の中でフルネームを呼んだ。「小学生のお子さんは?」
「男の子で達郎というの」
青沼達郎、と今度も心の中で呼んだ。
「おかしいのよ」
と、青沼さなえが、娘の寝顔を見ながら言った。「わたしはいつも学校で、名簿が後ろのほうだったの。あいうえお順だと、吉川であとのほうでしょ? でも、達郎は二番目。一番目は相沢哲也君」
子供の話をする青沼さなえの表情は、十四年ぶりに思いがけない人物にいきなり呼び出されたというのに、柔らかかった。が、ふっと現実に戻ったように顔を引き締め、言った。「雪子さんは、影山雪子さんから高木雪子さんになったのね」
「ええ」
「高木さんからわたしのことを?」
子育て中の主婦に、あまり無駄話をする時間はない、と気づいたのだろう。青沼さなえは、警戒心のこもった口調で本題に入った。目尻《めじり》のしわもきつくなった。
雪子は、直接それには答えずに、「こちらこそ、正式に結婚のご挨拶《あいさつ》も申し上げずに失礼しました。おわかりでしょうけど、わたしからはご報告しづらくて」という前置きから始めた。
「つかぬことをうかがいますが、塚本さんが縫った舞台用のウエディングドレス、あのあとどうなったかご存じですか?」
「ウエディングドレス?」
青沼さなえ――雪子はもう、彼女の中に以前の「吉川さなえ」の面影をすっかり重ね合わせていたが――は、眉《まゆ》をひそめた。
その表情を見て、雪子は〈やっぱり〉と思った。彼女の眉のひそめ方は、十四年間、彼女の心の引き出しにそのウエディングドレスがしまわれたままだったことを意味していた。大学時代、賢一の大学の映画研究会に〈越境〉入会していた仲間だとはいえ、その特殊な事情もあって、彼女のような立場の人間を結婚式に招待することは控えたのだった。賢一が雪子と結婚したのは、学生時代の仲間から風のうわさに耳にしたのだろう。
「わたしは、ご承知かと思いますけど、塚本さ……いえ、由貴とは同じ大学でしたけど、演劇部には入ってなかったの。だから、聞いた話です、としてしか話せません。あれは、いちおう舞台衣装でした。生地代などは部費から出ていたそうよ。ですから、由貴のお父さんも、遠慮して棺《ひつぎ》にドレスを入れなかったんでしょう。高木さんも……ご主人も、『花嫁姿で見送りたくはない』と申されたようですよ」
そんな話は、夫の口から雪子は聞かされたことはなかった。
「あのあとドレスがどうなったか、わたしもよくわからないんです。由貴があんなことになってから、昔の仲間ともあまりつき合いがありませんし」
「そうですか」
いまの青沼さなえ、いや、吉川さなえの話で十分だった。
――ウエディングドレスは、お姉さまの遺族のもとになんかなかったんだわ。彼女のお父さんが送ってよこしたはずがなかった。
――賢一さんの話はうそだったんだ。吉川さんに確認したなんてうそだったんだ。
第一子のあとすぐにでも第二子がほしかったのに恵まれず、七年たってようやく恵まれた三十五歳の主婦、吉川さなえが、雪子に罠《わな》を仕掛けた様子は少しも見られなかった。彼女の頭の中は、家族のことで占められており、十四年も前の親友のために復讐《ふくしゆう》するなどという考えがそよとも浮かぶ余裕はないと思われた。
「ウエディングドレスがどうしてそんなに気になるの?」
吉川さなえは聞いた。ベビーカーの中で、美保ちゃんが目をつぶったまま、低くうなった。母親は、ちらりとそちらを見て、雪子に視線を戻した。彼女の手は、ベビーカーのハンドルを握り、小さく揺すっている。
「結婚式にあのドレスを着たんです」
「結婚式にあのドレスを着た?」彼女は、おうむ返しにした。
「式の前に届いたんです。内輪だけの結婚式でしたけど」
「送り主は?」
雪子はかぶりを振った。
吉川さなえはぽかんと口を開け、左手で顎《あご》を撫《な》でた。しばらく沈黙したあと、ハッと胸をつかれた顔になり、「わたしじゃないわよ」と言った。「わたし、そんなことしないわ。だって、あれは……由貴が着る予定のものだったのよ。由貴が引き取って、自分の結婚式に。だから、最初から彼女が自分の身体に合わせて……」
「わかってます」
雪子は、ベンチを立った。もう十分だった。
「それを聞きに来たの?」
吉川さなえも立ち上がった。手は、ベビーカーから離れていない。怒ったような、憮然《ぶぜん》とした表情を雪子に向ける。
「失礼しました。お元気で」
雪子は、吉川さなえとベビーカーの赤ちゃんに会釈をすると、きびすを返した。心臓の動悸《どうき》が一歩あるくごとに激しくなる。
「やっぱりそうだったのよ」
内心でつぶやいたつもりが、無意識に声に出していた。斜め前から来た通行人が、彼女の口元を見て気味悪そうに肩をすくめた。
――やっぱりそうだったのよ。
今度は、心の中で吐き捨てた。
――お姉さまは、塚本由貴は、わたしに着せるつもりなど微塵《みじん》もなかった。彼女は自分が着たかった。自分が着て、それが最後のつもりだった。ほかの誰にも着せたくなかったのよ。
――塚本由貴は、そんなにやさしくも、寛大な心の持ち主でもなかった。
――彼女は、わたしに賢一さんを奪われたくなかったのよ。何が何でも、賢一さんを自分のものにしたかったんだわ。わたしと同じように。
心臓の動悸の音なのか、こめかみを打つ脈の音なのか、わからない音が雪子の体内で鳴り、彼女を駆り立てた。塚本由貴の部屋で聞いたあの時計の秒針の音にも似ていた。
不意に笑いがこみあげてきた。雪子は、色のきれいなタイルをはめこんだ歩道の上で、足を止め、笑った。しゃがみこみ、身体を二つ折りにして笑った。笑いが止まらなかった。
いま、雪子は悟った。塚本由貴は、自分と同じだったのだ、と。自分と寸分変わらぬ女だったのだ、と。
*
「早速今日、会社に高井さんから電話があったけどさ、文化の日前後はいかがですか、なんて聞かれてね。いいかげんな返事もできないから、君に聞いてからと思って。雪子、山中湖の別荘にどうぞ、って誘ったんだって? 彼、すごく喜んでたよ」
会社から帰るなり、玄関先で賢一は言った。
「わたしは、別に……」
誘ったわけではなかった。行きたいのか、行きたくないのか、雪子は自分の本心をつかめずに迷っていた。わかっていたのは、〈行くと何かが起きる〉ということだった。何かが何かわからないが、漠然とした恐れが心の中に棲《す》んでいる。
「俺はおもしろいと思うよ。気晴らしになる。紅葉を見るのもいいし、サイクリングするのもいい。何と言っても外で食べるバーベキューがうまいよ」
洗面所で顔を洗いながら、賢一は続ける。「雄大な富士山を見ていると、頭痛なんか吹っ飛んじゃうぞ」
賢一は、いつも夕食のあとに入浴する。
「そうね」
キッチンに入り、雪子は意識的に明るい声を出した。「たまにはいいかもね、そういうの」
前髪を濡《ぬ》らした賢一が、リビングルームに来てさらに言った。「君は、高井さんみたいな人が苦手みたいだね」
「えっ?」
雪子は、サラダにパセリを散らす手を止めた。高井についてどう思っているかなど、賢一に話したことはなかった。
「違う?」
賢一は、雪子が用意しておいた缶ビールを開け、グラスに注いで聞いた。
「苦手ってわけじゃないけど……何て言うか、本音が見えない人って感じはするわね。でも、嫌いじゃないわよ。仕事だってしやすそうだし」
雪子は、食卓にサラダを運んで言った。今日の献立は、ロールキャベツである。
「リーディング、順調に進みそう?」
賢一は、ビールを飲んで聞いた。
「うん、まあね。おもしろそうな内容よ」
「最初の一冊の評判がよければ、どんどん注文がくるようになるかもな。そうなったら君は忙しくなる」
そういう状態を望んでいるような口調で、賢一は言った。
「そうなったら、家の中のことが疎かになるわ」
「いいじゃないか」
賢一が言下に返したので、雪子は面食らった。「そうなったらなったで、家の中のことなんか、手を抜いたっていいさ。外食が続いたって、俺《おれ》が帰ってから一緒に飯を作ったって、かまわない。手が回らなかったら、人を頼んでもいいんだから」
雪子は、〈忙しくなったら、お義母さんに助けてもらえば〉と言わなかった夫に感謝はしたが、家事の手を抜いてもまったく平気、と考えている夫にも少し驚いた。
――賢一さんには、いまの生活が息苦しく感じられるの? わたしが完璧《かんぺき》に家事をこなそうとしている姿が、うっとうしく映るの?
――なぜ、賢一さんは、あんなうそを? あのウエディングドレスを送ったのは賢一さんなの?
――吉川さなえさんに確認してわかったわ。あのドレスは、お姉さまの作ったドレスじゃない。同じデザインで誰かが作らせたものよ。でなければ、わたしの身体にぴったり合うはずがない。
――でも、なぜ? わたしとの生活を、最初から壊すつもりで結婚したの?
――でも、それだったら、わたしの身体のことを心配して、気分転換を勧める必要はないじゃない。自分からこんな生活、すぐにでも壊してしまえばいいんだもの。
雪子は、ストレートに夫に疑問をぶつけられない状態に苛立《いらだ》ち、不安を覚えていた。自分への賢一の愛は身体全体で感じている。彼に、愛情がないのに妻を愛している〈器用な演技〉などできないと信じている。
だが、賢一がうそをついたのは、事実である。それを確かめることが、二人の幸福につながるのか、崩壊へつながるのかは、わからなかった。わからないから怖かった。
昨日、帰宅した賢一は、和室にある鎌倉彫りの鏡台を見て、一瞬、ギクッとしたようだった。ほんの一瞬だが、背中が硬直するのがわかった。そして、「買ったの?」と雪子に尋ねた。
「デパートで見て、衝動買いしちゃったの」と、雪子は答えた。賢一は、牡丹《ぼたん》が彫られたふたを開けて、しばらくその鏡台を見ていたが、「いいものだね」と言っただけだった。「お姉さまの部屋にも、こういう鎌倉彫りの鏡台があったように記憶してるわ」と雪子が水を向けると、彼は「そうだったかな。男にはこういうものはよくわからない」とそっけなく言い、和室を出た。雪子は、賢一がもし何らかの意図があって「高木由貴」あてで送ったものであれば、自分からそう告白してくれることを望んだ。が、賢一は、そうしなかった。本当に彼が送ったものでないのか、送った上でうそをついているのか、見極める術はなかった。
――デパートの店員に聞けばわかるじゃないの。必ず買った人間がいるはずなのだから。
鏡台のことも、謎《なぞ》として残されたままである。
賢一への不信が育っていく。けれども一方で、彼との生活を大切にしたいという願望も、日々強くなっていく。
雪子は、内心で葛藤《かつとう》していた。
「高井健二って男はさ」
と、賢一が、昔は自分のライバルで、現在は妻のクライアントになるかもしれない男に、話を戻した。「どこか俺と似ているところがある気がするんだよ」
「似ている?」
雪子は、ドキッとした。雪子にとって、高井健二は、ただの高井健二ではない。あの男とそっくりな声を持つ男なのだ。
「あいつは昔、挫折《ざせつ》を味わった。人生が、ある地点から思いどおりに進まなかった。俺もそうだ。時期はずれてたし、質もちょっと違うけどね。彼の挫折は高校時代で、俺のは大学時代。信じていた家庭が崩壊して、そして……あんな事件が起きた。あのころ、自分の進路について迷っていたのは確かだよ。これで本当にいいのかってね。あれが……きっかけになった。進路を百八十度変えたのは、親父に裏切られたことで、意地や復讐の気持ちがあったせいかもしれない。もう一つ別の家庭を作ってしまった親父へのね。雪子の家庭がまぶしく見えて、そして……いつのまにか、お義父さん、いや、あのころは叔父さんだったけど、お義父さんの家庭を大切にする、地に足のついた生き方が輝いて見えていた。世界経済より、自分の家。人間の住む家、息遣いの感じられる空間を大切にし、快適に演出するのが仕事のお義父さんの姿に、無意識のうちにあこがれていたんだろうと思う。
あいつの挫折の原因が何だったかは知らない。だが、あれほど成績優秀だった、東大受験組に入っていたあいつがなぜ、という疑問はあった。挫折を味わったという点で、何かこう、すごく共鳴してしまった。いや、共鳴ではなかったかもしれないな。パーティーで出会い、あいつがあの高井健二だと知ったとき、そして俺の知っていたあいつのその後を知ったとき、雪子には軽蔑《けいべつ》されるかもしれないけど、俺は優越感を味わった。成績でどうしても彼を越えられなかった自分が、いまは彼を越えている。そんなふうに思ってしまった。俺もまた屈折していたんだね。どうしても越えられなかった存在の彼への興味と、優越感を持ち続けたいがために、あいつとつき合い出した。だけど、そのうちそんなことはどうでもよくなった。彼のほうの屈折がずっと前にふっきれていたのがわかったからさ。その意味で、あいつのほうがやっぱり俺を越えていると思った。すごいやつだと思った。
あいつを見ていると、人間ってみんな同じなんだ、人生、捨てたもんじゃない、と思えてくるんだ。青春時代に挫折や失敗はつきもので、自分の力だけでは解決できないこともある。ちょっとしたことで挫《くじ》け、道をそれるのが青春時代で、おとなになれば取るに足らないことだったことがわかる。あいつを見ていると、もう一人の自分を見ている気がして、静かに過去を振り返ることができる。過ぎ去った日々を、懐かしく思い出せるんだ。あいつは、俺を日本の大学に入らせた原動力でもあるんだからね。その意味では恩人だよ。雪子と再会させてくれた。そうだろ? そりゃ、ちょっとお調子者で、ずうずうしくて、口が悪い気がするところはあるけど、それも過去に挫折を経験しているせいかな、と思うと、屈折した心理に自分でどうにか折り合いをつけて乗り越えてきたんだから、と思うと、不思議に許せる。高井健二は、俺の過去と……どこかでつながっている気がするんだ」
「…………」
「あいつとは、おかしな形の優越感もコンプレックスも持たずに、自然体で接することができる。俺が心のどこかで、中学、高校と、逆立ちしても勝てなかったやつ、として尊敬しているせいだろうと思う。いまがどうであれね」
「高井さんを……尊敬してるの?」
尊敬の二文字を口にするまでに時間がかかった。
「変かな」
賢一は笑った。十四年前と変わらぬ笑顔だった。
「でも……」
「えっ?」
否定の接続詞から始めた妻に、夫はわずかに眉《まゆ》を寄せた。
「賢一さん、はじめて昔のことを、ちょっとだけ……話してくれたわね」
「あ、ああ、そういうことか。そうだったかな」
賢一は、照れくさそうに肩をすくめ、ビールを飲んだ。
「そういう考え方もできるのね。高井健二さんが、わたしたちを再会させてくれただなんて。賢一さんって、心の広い人だなと思って」
「何だよ」
賢一は、ふざけて怒ったような声を出した。
「高井さんが苦手だと思ったのは、仕事が関係しているのと、ほら、賢一さんと将棋を指したときに本気になってたでしょ? 負けたら次は絶対に仇《かたき》をとってやるぞって。あの執念がなんだか怖かったの」
「執念だなんて、大げさだな。……あっ、鍋が煮え立ってるよ」
雪子は、慌ててキッチンへ走った。
「将棋はスポーツみたいなものなんだから。修羅場になっても見ないふりをしていればいい。よし、じゃあ、十一月二日にしようか」
「え、ええ」
「俺はまた、君があの婚約者の子が苦手なのかと思ってね。雪子をあこがれの女性だと公言してるだろ? それで精神的に負担になっているのかと思った」
「恵理子さん? いまふうの子って感じはするけど、はっきりしてて好きよ。それに、わたしね、一人っ子でいつも誰かに面倒を見てもらってきたから、頼りにされると嬉《うれ》しいの。頼られる感覚が新鮮なのよ」
雪子は、シチュー皿に盛りつけたロールキャベツを、食卓に運んだ。
「夏美さんを別荘に誘うのはどうかな」
唐突に賢一が提案し、雪子は戸惑った。「夏美を?」
「結婚以来、ちゃんと招いたことなどないだろ? 司会のお礼もまだ正式にしてないし。彼女にとっても、いい気分転換になると思うよ。彼女は働きすぎだよ。一日くらい休養が必要だ」
「そうねえ。夏美がいたら楽しいけど」
――賢一さんが、わたしの親友を大切にしてくれる。どんどん過去のことがふっきれている証拠じゃないの?
雪子は、夫の変化を喜んだ。嬉しかった。
夫と自分のあいだに解決せずに横たわっている謎など、あえて目を向けなくてもいいのでは、と気持ちが傾いた。
「声をかけてみるわ。でも、高井さんのほうはかまわないかしら」
「大丈夫さ。パーティー好きのやつだから、一人増えようが、全然かまわないと思うよ。場所も貸別荘じゃない。気がねはいらないよ」
「わたしも、夏美がいると楽しいわ」
いつもより食卓が明るく、弾んだ。
ロールキャベツを一口食べて、賢一がふっと皿から顔を上げた。
「これ、学生時代に食べた叔母さんの、いや、東京のおふくろの味だ」
*
その夜、夢に塚本由貴が現れた。
塚本由貴は、自分がデザインしたあのウエディングドレスを着て、彼女が住んでいたアパートの部屋の、鏡台の前にいた。
鏡の中から、隣に立った雪子に微笑《ほほえ》みかけた。
「賢一さんとの結婚式に、このドレスを着たのね?」
「わたしが着たのは、そのドレスじゃないわ」
雪子は、鏡の中の塚本由貴に言った。
「あら、このドレスよ。わたしが贈ってあげたんじゃないの」
塚本由貴は、挑戦的な微笑を浮かべて言った。
「違うわ!」
「わたしの名前で届いたはずよ」
「送られては来たわ。でも、あなたが着ているそのドレスじゃない。だって……」
「確かめてみればいいわ。本当にこのドレスよ。寸分違わずこのドレスよ」
「うそよ」
「サイズのことが気になるのね。ふふふ」
「…………」
「同じデザインのものを誰かが作ったとでも思ってるの? わたしが作らせたと? わたしにどうしてそんなことができるの?」
「…………」
「わたしはもう死んでるのよ」
「…………」
「あなたが見殺しにしたんじゃないの」
「やめて!」
雪子は、口紅のケースを手にしていた。中身をひねり出すと、驚くほど赤いものがせり出た。鏡に映った純白のドレスめがけて、雪子は赤い口紅を振り上げた。
「あなた一人を、幸せにはしないわ」
塚本由貴は、高らかに笑った。勝ち誇った笑いだった。口は耳まで裂け、般若《はんにや》の面のようになっている。
雪子は、狂ったように口紅を振り回した。血しぶきが、純白のドレスにではなく、鏡に飛び散った。いつのまにか、口紅は包丁に変わっていた。
――ああ、わたしは本当に、お姉さまを殺してしまった。
声にならない叫び声で目が覚めた。いつものように、全身に冷や汗が噴き出ている。頭に鈍痛がある。隣のベッドは空だった。
――賢一さん、トイレにでも行ったのかしら。
階下で物音がした。雪子は、寝室のドアをそっと開けた。階段まで行くと、階下のリビングルームに薄明かりが漏れていた。どうやら和室の明かりのようだ。
静かに階段を降りた。開き戸の一方だけが開いていた。和室にたたずむ賢一の後ろ姿、右肩のあたりがぼんやり見えた。その位置から、何を見ているかは容易に把握できた。
賢一は、真夜中に起き出して、あの鎌倉彫りの鏡台をじっと見ていたのだった。彼の右肩がぐらりと傾いたように見えた。だが、彼が傾いたのか、自分の身体が傾いたのか、雪子にはとっさには状況が呑《の》み込めなかった。
あの声が聞こえてきた。頭の芯《しん》に微妙な振動が起きている。
『ほら、賢一さんはわたしのことが忘れられないのよ』
――誰?
雪子は、喉《のど》をふさがれたような息苦しさと痛みを覚え、聞いた。
『もう、気づいているんでしょ?』
――お姉さま? 由貴……さん?
『言ったでしょ? あなた一人を幸せにしないって』
――……。
『わたしを追い出したいのなら、やってもらうしかないわ』
――やるって何を?
『そのことも、もう気づいているじゃないの』
――わ、わからない、わたしは。
『あなたにはそれだけの責任がある。そうじゃなかった?』
――……。
『心配しないで。あなたは眠っていればいいのよ。やるのはわたし』
――何をどうやるの? 眠っていればって?
『わたしがいるかぎり、あなたは苦しみ続けるんじゃなかったの? 賢一さんのことが信じられなくなってもいいの? ほら、彼はあの鏡の中に、あなたじゃなくてわたしを見ている。わたしを懐かしんでいる。わかったでしょ? あなたはわたしで、わたしは……あなたなのよ。わたしたちは、同じ「ユキ」なのよ』
7
カレンダーは十一月だが、まだ十月の秋晴れという形容がぴったりの青空が広がる日だった。雪子は、賢一の運転するアウディの助手席に乗り、山梨の山中湖目ざして出発した。どちらが先についてもいいように、別荘の合鍵は高井に渡してあった。
「夏美さん、遅くなるかな」
中央自動車道の河口湖ICを降りたところで、賢一が言った。
「夕飯には間に合うようにする、と言ってたけど、遅くなりそうな感じだったわね」
雪子は、夏美との電話の会話を思い出した。大学時代、一度だけ夏美を山中湖の近くにある別荘に誘ったことがあった。運転免許証をとりたての雪子が、「練習のために別荘までドライブしたいんだけどつき合って」と言ったのを、夏美が「怖いから」と辞退した。結局、澄夫の運転で、夏美を交えて一家で泊まるはめになった。夏美は、「雪子が運転できるなら」と奮起して、自分も次の夏休みに教習所に通い、免許をとった。いまでは仕事や家族のために、自家用車を手放せない生活を送っている。
断られるのを予想して誘ったのだったが、案に相違して、彼女は「あそこならまた行きたいな。いい気分転換にもなるし」と誘いにのった。だが、やはり夏美は弟想いの長女である。「弟の野球の試合につき合わなくちゃいけないから、少し遅くなるけどいい? 雪子のところみたいに高級外車じゃなくても、無事たどりつけるかな」と言った。夏美の愛車は、中古のカローラである。彼女自身は、「小回りがきいて、扱いやすい車」と気に入っている。
東富士五湖有料道路に入り、山中湖ICで降りて、国道一三八号線に出る。別荘までは三十キロほどだ。
雄大な富士山が、その裾野《すその》まで青空にくっきり映えている。雪子は、後部座席に積んだ自分の荷物をちらりと振り返った。好天とは裏腹に、彼女の心には厚い雲が垂れ込めている。ゆうべ荷物を詰めた。そして、けさチェックした。入れた憶えのないものが、大きめの黒い化粧ポーチの中に詰め込まれ、ヴィトンのボストンバッグの隅にしまいこまれていた。雪子は、それを取り出そうとした。そのとき、あの声が制止した。頭の血管が切れるかと思うほどの、激しい痛みが雪子を襲った。雪子は、その化粧ポーチに手をつけるのをやめた。
ホテル・マウント富士を越えてしばらく走る。東海自然歩道から少しはずれたところに建つ煉瓦《れんが》の煙突が目立つ洋館。それが澄夫が設計した別荘だった。雪子が小さいころは、家族で年に二度は訪れていたが、雪子が成長してからは、澄夫がたまに顧客を招待する場として使用する程度だった。
中二階を設けた、スキップフロアのある造りで、一階は靴のまま入れるようになっている。中二階が書斎で、三階が寝室である。
「あら、高井さんたち、先に来ているみたい」
門から入った百坪ほどのスペースに、黒いボディのマークUが駐車してある。
車の音を聞きつけて、恵理子が弾むような足取りで玄関ステップを駆け降りて来た。高井の姿も玄関に現れた。
「いまかいまかと待ってたんですよ」
高井が、車から降りた二人に、手を掲げた。恵理子が「思っていたよりずっとすてきな別荘ね。雪子さんのお父さまの設計した別荘に泊まれるなんて、わたし、すごく幸せ」と、はしゃいで言った。二人は、ジーンズに揃《そろ》いのピンク色のトレーナーを着ていた。
「まるで、新婚旅行みたいね」
雪子が冷やかすと、賢一が「婚前旅行だろ?」と言い換えてこちらも冷やかした。
「ねえ、雪子さん。そのへんを散歩しない? 食事のしたくはもっとあとでもいいでしょ?」
「あ、うん」
建物に入り、寝室の一室に荷物を収め、食料品を台所に運んでから、雪子は恵理子と散歩に出かけた。恵理子の気分は高揚していた。歩きながらも景色を楽しむより、雪子から結婚生活のこまごましたことについて聞き出すことに夢中になっていた。雪子は操縦しているつもりなどないのに、「夫の操縦法について教えて」などと、目を輝かせて聞いてきた。料理を教えるならそれなりに楽しいが、抽象的な質問が重ねられるのには閉口した。恵理子の目的が、〈雪子のような生活をどうしたら手に入れることができるのか〉探ることにあるような気がしたからだ。恵理子の目には、自分の生活が理想的なものに映っていることも気が重かった。彼女を幻滅させるような事態が、近いうちに必ずくる。そんな予感に襲われ、怯《おび》えた。
『彼女は邪魔ね』
不意に、あの声が言った。頭の芯の痺《しび》れが、声になったような感じだ。
「子供のことは、考えてるんですか?」
「えっ?」
「賢一さんの子供のことですよ」
あの声に気を取られていた雪子は、恵理子の声に現実に戻った。
「あ、ああ、そうね。授かるものなら早いほうが、とは思ってるわ」
「いいですよね。子供をこういうところに連れて来られると。情操教育……って言うのかしら、自然に触れさせるのっていい教育になるものね」
「そうね」
雪子は、生返事をしたものの、恵理子の言葉で、自分と賢一のまだ見ぬ子供を強烈に意識してしまった。そうなったら、どんなに幸せだろうか、と想像した。自分の育った家庭が崩壊した賢一が、安定した幸福な家庭を手に入れたがっているのを、彼女は感じている。子供が生まれたら、子煩悩な父親になるだろうと思う。二人とも一人っ子だ。雪子は、兄弟がいないことが寂しかった。少なくともいとこの賢一が現れるまでは、つねに家庭に千恵子がいても、寂しかった。賢一にしても、一人っ子で寂しかったのは同じだろうと雪子は思う。
――産むなら二人、いや、三人でもほしい。
そう願っている。だが、可愛い子供たちに囲まれた平凡で幸せな家庭を得るには、乗り越えなければいけない障害がある。
『ほら、あなたは、子供たちに囲まれた賢一さんとの幸せな家庭、とやらがほしくてたまらないじゃないの。だったら、もう戻れないわ。彼女のことは、何とかする』
――何とかするって?
『わたしに任せるはずじゃなかったの? あなたは眠ってなさい』
――怖いわ。
『ふふふ、意気地なしね。昔のあなたはどこへ行ったの? 一度こうと決めたら、何があってもやり遂げる執念のあなたは』
「あっ」と、雪子は声を出したらしい。恵理子が、「どうかしたの?」と怪訝《けげん》な声で聞いた。雪子は、「とっても空気がおいしいわ。思わずため息が出るくらい」とごまかした。彼女が言ったとおり、もう自分の力では自分を引き戻せないことはわかっていた。
*
日が陰り始めたころ、テラスでバーベキューを始めた。下ごしらえは女性で、焼くのは男性。恵理子は、「わたし、こういう料理なら得意なの」と言い、冷凍パックのとうもろこしや、じゃがいもを軽く茹《ゆ》で、串《くし》に刺すだけの〈料理〉をした。
紅葉の残る秋とはいえ十一月だ。日が陰ると、急に肌寒くなった。別荘にはガスストーブと暖炉がある。夕方、賢一と高井が近所から焚《た》きつけにする枯れ枝を拾って来た。「雰囲気出すために、暖炉灯さない?」という恵理子のリクエストにこたえて、火を灯した。裏の小屋には、薪《まき》も少量だが残っている。澄夫が、近くの親しいペンションのオーナーに頼んで、たまに別荘内を点検してもらっているのだ。
テラスへ続く掃き出しのガラス戸を開放し、暖炉の明かりを間接照明のように演出すると、ロマンチックな雰囲気が醸《かも》し出された。
「夏美さん、遅いな」賢一が言った。
「時間的には、もうそろそろ来てもいいはずなんだけど。途中で迷っちゃったのかしら」
「とにかく、乾杯だけでもしちゃおうか」
高井と恵理子を気遣って、賢一がドンペリニヨンの瓶に手を伸ばしたとき、屋内で電話が鳴った。
「夏美かもしれないわ」雪子は電話に出た。
「ああ、雪子? わたし。まいっちゃったわ。後ろのタイヤがパンクしちゃったみたいなの」
「いまどこ?」
「国道に降りたはずなのに、どこにいるかわからないの。近くにいることは確かよね。でも……迷っちゃったみたい。もしかしたら、教わったのと反対方向に来ちゃったのかもしれない」
携帯電話で電話してきたらしい。雪子は、夏美が足がわりのように自家用車を乗り回しているのに、「ボンネットなんて一度も開けたことがないんだ。エンジンってどこに入ってるの?」と、のんきな話をしていたのを思い出した。弟の忠志が昔から機械に興味があり、家の中の電化製品が故障したときなどは、彼が一手に修理を引き受けている。左手だけで器用に直すのだそうだ。おそらく車に関しても、弟に頼りっぱなしであろうことは想像できた。
雪子は送話口を押さえ、「夏美から。道に迷って、おまけにタイヤがパンクしたみたいなの」と賢一に告げた。嫌な胸騒ぎがしていた。思いがけない事態が、と驚いたのと同時に、やっぱり、と妙に現状を冷静に受け止めている自分がいる。
賢一が表情を引き締めて、雪子から受話器を奪った。夏美に場所の目印などを聞いている。電話を切ると、肩をすくめて三人に言った。
「俺が迎えに行くよ。始めていてくれ」
「その彼女、大丈夫かな」
高井が、少し深刻そうな顔つきで言った。「もう暗いよ」
「大丈夫よ。女弁護士さんでしょ? だったらしっかりしてるわよ」
恵理子が、何の根拠もないことをあっけらかんとして言った。
「とにかく、飲んで食べていてくれよ。夏美さんを無事に連れて来るからさ」
そう言って、賢一はジャケットをはおると、アウディのキーを持って外に出て行った。
8
「寒くなったわね。中に入らない?」
恵理子が身震いして言った。「やっぱり、テラスでバーベキューをするのは、せいぜい十月中旬までよ。それでもこのあたりじゃ寒いかもしれない」
森の中でバーベキューをしたい、と自分で言い出したことなど忘れたかのように、恵理子は責任を婚約者に押しつけるような不機嫌な口調だった。寒さには弱い体質らしい。
「そうだな。焼いたものだけ中に運んで、ダイニングテーブルに載せておこう。あとは、高木さんたちが来たら、また焼こう」
高井は、手にしたシャンパングラスを手に、ライトをつけたテラスから室内に入った。
雪子も、トレイに皿や食べ物を載せて室内に戻り、ガラス戸を閉めた。カーテンを閉めようとした彼女に、恵理子が言った。
「せっかくだから、外の景色を見ていたいわ。寒いのは嫌だけど、景色は楽しみたい。照明が灯っていて雰囲気があるもの」
ここはペンションの集まった場所からはだいぶ離れている。外からのぞかれるような心配はない。
「恵理子さん。身体が冷えるなら、ホットレモネードでも作ろうか」
雪子は言った。
「わあ、嬉《うれ》しい。お願いします」
暖炉に近いソファに座った恵理子が、甘えた声で言い、手をこすり合わせた。
雪子はキッチンに入り、ふつうに作るより少し時間をかけてホットレモネードを作った。そして、カウンターの上の電話機の先に手を伸ばした。指先が震える。
『時間がないわ。チャンスは待っていてくれない。早くするのよ』
あの声が言った。
「わたしができるのは、ここまでよ」
小さな声で、自分に通達する。最後|通牒《つうちよう》のつもりだった。
雪子が作ったホットレモネードを、恵理子は「いままで飲んだ中でいちばんおいしい」と、手のひらに包み込み、その温かさと酸味を子供のように喜んで飲んだ。
「二人とも遅いな」
婚約者の向かいに座った高井が、居心地悪そうに言った。男性の友達がいないと、飲むのにも話すのにも調子がもう一つ出ない、といった感じだ。
「夏美を捜すのに手間取っているのかもしれない」
雪子は言い、時計を見た。賢一が出てから四十分がたっている。「そのうち、夏美の携帯から電話がくるでしょう」
「夜は長いんだから、ゆっくりやってましょうよ。健二さん、ホットウイスキーにすれば?」
寒がりの恵理子が言った。高井は「いや、ワインでいい」と答え、「じゃあ、赤ワインを一本開けてゆっくり待つか」と、ため息をついた。
「わたしもおつき合いします。今日はなんだか……酔いたいの」
「えっ?」
恵理子が、驚いた目で雪子を見た。「雪子さんでもはめをはずしたいときがあるの? そんなふうに見えなかったけど。いつもおしとやかな奥さま、って感じで」
「あら、これでも学生時代は、意識を失うほど飲んだこともあったのよ。演劇部の打ち上げなんかでね」
何もかも忘れてしまいたくて酒に逃げた時期があったのは、事実だった。学生時代の雪子は、賢一との約束を果たしたのに、はがき一枚ももらえないことに苛立《いらだ》ち、気分がむしゃくしゃしていた。投げやりな気持ちから、酒の席で隣り合っただけの男とラブホテルに行った。それが初体験だった。
「うそみたい」
恵理子は膝《ひざ》を乗り出してきた。
高井も、好奇心をその求心的な造りの顔に表して、身体《からだ》を起こした。好色そうな微笑も口元に浮かんでいる。「ふーん、雪子さんは数少ない良妻賢母型の女性かと思っていたのに。人は見かけによらないね」
「ねえ、夏美さんって人は、雪子さんの中学以来の親友なんでしょ?」
恵理子の興味は、あこがれの女性、雪子の親友に移った。「弁護士になるからには、すごく優秀な女性だったんでしょうね」
「ええ、すばらしく頭がよかったわ。自分の将来の目的に向かってバリバリ勉強していた。わたしと違って、少しもよそに気をとられないの」
「よそに気をとられないって?」と、恵理子が聞いた。
「かっこいい人がいても、見向きもしないの」
「へーえ。それでいまも独身なの?」
「男なんか目に入らないのかもね」
「会ってみたいね、そういう女性って」
と、高井がうなずきながら言った。「男に全然興味ないって顔をした、すばらしく知的な女弁護士さんってのにね」
「あら」
と、恵理子が婚約者のほうをきっと向いた。「わたしとは全然タイプが違うって言うの? だから会いたいの?」
「そ、そんなこと言ってないだろう」
高井は、慌てたように左手をひらひらさせた。
「どうせわたしは、つまらない女ですよ。雪子さんや夏美さんみたいに頭もよくないし、雪子さんみたいに料理の才能だって……あんまりないし」
「ばかだな。こんなところで何を言い出すんだよ」
高井はおろおろしている。
「雪子さんが、今夜ははめをはずしたいって言ったから、わたしもそうしようって決めたの。今夜は本音を言うんだ。ねえ、健二さん、自分にはわたしのような頭のよすぎない女がちょうどいい、そう思って奥さんにしようと決めたんでしょ? 適当に可愛くて土地つき。そうでしょ?」
雪子は、恵理子が、自分自身もある意味での〈打算〉で高井を夫にしようと決めたので、高井のことも疑っているのだと思った。
「何からんでるんだ。恵理子、呂律《ろれつ》が回ってないぞ」
「からんでなんかいない。酔ってなんかいないってば」
恵理子の舌は、明らかにもつれていた。
「恵理子さん」
雪子は、彼女の肩を抱いた。恵理子は、雪子の肩にもたれかかってきた。
「ああ、眠くなっちゃった」
「おいおい、恵理子」
高井は、戸惑った顔を婚約者から雪子へ向けた。その目に遠慮がちな光がある。眠ってもらっては困る、という顔だ。
「影山澄夫の別荘に泊まれるっていうんで、なんだかゆうべ興奮しちゃったのよ。で、あんまり眠れなくて……ああ、眠い」
「車の中で気持ちよさそうに寝てたじゃないか」
「健二さんの運転で、気持ちよく眠れるわけないじゃないの。高速、飛ばすんだもん」
「そうかな、ぐっすり寝てたけどな」
「ちょっとぉ」と、恵理子がけだるそうに頭を起こし、とろんとした目で婚約者を睨《にら》んだ。「雪子さんは繊細で、わたしは鈍感だって言うの? わたしはね、本当は、神経が細やかで、すごく繊細な女なんだから。ただ……そう見えないように……演技してるだけ。そう……女なんてね、いくらでも……演技できるんだから。ねえ、雪子さん……そうだよね?」
雪子の返事を待たずに、恵理子は雪子の肩で気持ちよさそうに寝てしまった。
「少し上で休ませましょうか。恵理子さん、疲れているのよ。ほんの三十分でも眠れば、疲れはとれるものよ」
「あ、う、うん。そうですね」
そうは言ったが、高井はどう行動していいのかわからない様子で、婚約者の肩の上で宙に手をさまよわせている。
「わたしがベッドに連れて行きます」
雪子は、恵理子の腕を自分の肩に回し、「ほら、もう少し。頑張って」と声をかけ、体重を預けてくる彼女に階段を昇らせた。この階段が永遠に続いてくれればいい、と望みながら。
酔いたいのは、雪子のほうだった。だが、どんなに飲んでも酔えない状態にいることは、わかっていた。
9
「通じないな」
賢一は受話器から耳を離し、首を振った。
「テラスに出ていて電話の音が聞こえないんじゃないの?」
夏美は言い、自分の携帯電話を賢一から受け取った。「山の中で電波が届きにくいってことはあるけどね」
「それにしても、東京からかけているわけじゃない。すぐ近くにいる」
「そうね。それに、電波が届かないときはそう言うはずだし」
「発信音もしないんだ」
「コードが抜かれてるとか?」
夏美は言って、「そんなばかな」と自ら打ち消し、首をすくめた。「もしそうだとしたら、都会の喧騒《けんそう》から解放されて、ゆっくりと森の休息を楽しみたいためにしたとか?」
「そんなことはないと思うけど……何かの拍子に抜けて、気づかずにいるってことはあるかもしれない。でも、まあ、都会の喧騒から解放されたいっていう気持ちはわかるよ。俺だって、仕事のことはたまには忘れて、と雪子に言われて、携帯電話は持たずに来た」
「それで、山の中の迷い子を捜すのに手間取ったってわけね」
夏美は、小さく笑い、携帯電話をバッグにしまった。「わたしだってそう。たまには仕事を忘れなくちゃと思った。誘ってくれて嬉しかったんだ。でも、これを家に置いて来る勇気はさすがになかった」
夏美の愛車、中古のカローラは、ふだん手入れを怠っている主人に抗議するかのように、国道一三八号線に入り、主人がホッとしたところで右側の後ろのタイヤに釘《くぎ》を踏ませた。主人はそのころ、友達がファクスで送ってきた案内図を頭の中に再現していた。見えていていいはずのホテルが見えない。方向を間違えたのかと不安になった、まさにそのときだった。
夏美は、タイヤを取り替えたことなどなかった。
「しかし、夏美さんがこんなに方向音痴だったとはね。反対方向へ向かっているよ、と車が教えてくれたのかもしれないね」
賢一の言葉に、夏美は少し気分が楽になった。彼の運転するアウディが現れたときは、まさに孤島にヘリコプターが現れた気がした。
「人間って、完璧《かんぺき》じゃないからおもしろいのよ。これで、タイヤも難なく取り替えられるような女だったら嫌みでしょ?」
「まあ、そうだね」
賢一もにこりとしたが、すぐに口元を引き締めた。「この状態を、電話で雪子たちに伝えられないとなると、悠長にタイヤなど取り替えていないで、俺の車で帰ったほうがいいな」
「そうね。わたしの車なんて誰も盗みやしないだろうし」
「明日の朝早くにでも、取りに来よう」
二人は、カローラの後部を声を揃えて押し、路肩からさらに茂みのほうへ寄せた。
「まあね、いっそ誰か盗んでくれたら、新車を買うふんぎりがつくかもね」
夏美は、それでも中古のカローラに未練があった。輪が四つ連なった飾りのついたシルバーメタリック車の助手席に乗り込む前に、ちらりと自分の愛しいカローラを振り返った。
高級外車の走りごこちは、自分の中古車のそれとはまるで違った。滑るように走る、という表現がぴったりだった。夏美は助手席で、優雅な気分を味わっていた。
――わたしは、いつになったら助手席で眠りながら走れる身分になれるんだろう。
そんなふうに思い、仕事に追われるだけの日々を反省した。
「夏美さんが来てくれて、本当によかったよ」
運転しながら賢一が言った。
「そりゃ、親友の旦那のたっての願いじゃ、断るわけにはいかないじゃないの」
雪子から誘いの電話がある前に、賢一が虎ノ門の夏美の共同事務所を訪れたのだった。「雪子のためにぜひ、来てほしい」と言う。
夏美にしても、中学以来のこの友達が、最近になって頻繁に頭痛を起こしているらしいことが気がかりだった。
賢一はこう言った。「彼女は、何ていうか、家庭を自分の理想に近づけるのに必死なんだ。ときどき頑張りすぎて倒れるんじゃないか、と心配になるくらいね。もう少し肩の力を抜いてほしい、と思うこともある」
夏美はこう返した。「でも……わかってるでしょ? 雪子には、先生……ううん、高木さんとの結婚生活が人生の最大の夢だった。それを実現させたんだから、はりきるのは当然じゃないかしら。彼女にとっては、高木さんがすべてなのよ。わたしが勧めた夫婦別姓運動にも加わらなかったくらいなんだから」
「あ、うん、だけど、そういうことじゃないんだ。いや、そのことはあとでいい。……いまは、ただ彼女の頭痛の原因になっているストレスを取り除いてあげたくてね。医者によれば、家庭の外に目を向けるのも旅行も、ストレス解消に通じるそうだ。だから、仕事を勧めた。そして、計画したのがこの旅行さ。夏美さんのような気の許せる友達がいてくれたら、彼女もずいぶんリラックスできると思うんだ」
雪子のために――そう言われて、夏美は、忠志が参加した野球大会の観戦のあと、打ち上げに一緒にと誘われたのを断って、ポンコツの愛車を飛ばしてやって来たのだった。
「雪子の頭痛は、二年前の交通事故の後遺症とも考えられるけど、ひどくなったのはやっぱり結婚が決まったあたりからよね」
夏美は、ハンドルを握る賢一の節のきれいな指を見て言った。
「ああ」
「喜びが大きいと、不安も大きいのかしら」
「…………」
「やっぱり、あのウエディングドレスのことが引っかかっているんじゃないかしら。あれを着てから雪子、なんだかおかしくなったみたい。あのドレスは、確かにすごくよく似合っていたけど」
「…………」
「ドレスは、塚本さんのお父さんが雪子あてに送ってくれたものなんですって? でも、悪趣味よね。何も『塚本由貴』の名前で送って来なくても。雪子は、まるで誂《あつら》えたみたいにドレスが身体《からだ》にフィットしたことを不思議がってたわ。塚本さんが自分のために縫ったものなら、ドレスの丈がもっと短いはずだって。でも、塚本さんは舞台衣装として使ったあと、自分が着て、さらに雪子にプレゼントするつもりだったんでしょ? だったら、もともとサイズは大きめに作ってあるはずよね。雪子は、亡くなってから塚本さんのやさしさに触れて、だいぶショックだったみたい。ウエディングドレスのお下がりなんて……というわけでもないんでしょうけど、女心としてはプライドが傷つくわよね」
「俺も、それは不思議だった」ぽつりと賢一が言った。
「えっ? 何が……不思議だったの?」
「ウエディングドレスが雪子の身体にぴったり合ったことだよ」
「どうして……?」
「あれは、由貴が自分の身体に合わせて縫ったものだ。彼女が舞台衣装を自分の部屋に置いていたのを、俺は知っていた。彼女から聞いたんだ。由貴と婚約したとき、雪子にウエディングドレスのことをそれとなく聞かれて、俺はごまかした。由貴と婚約したことで、雪子がショックを受けていたのはわかっていたからね。若い彼女を刺激したくなかった。少女だった彼女には、予測不可能な行動を起こしそうな怖さがあった。あのとき……雪子が送られて来たドレスを試着したのを見たとき、俺は……腰を抜かしそうなほど驚いた」
「賢一さん」
夏美は、思わず、雪子の呼ぶ呼び名で高木賢一を呼んだ。
「あのウエディングドレスは、俺が送ったんだ。由貴の名前で、由貴の筆跡に似せて。彼女から昔もらった手紙を見て、字をまねた」
賢一はまっすぐ前を向いたまま言った。夏美は、彼の長い首に浮き出た喉仏《のどぼとけ》が、ためらいがちに動くのを見た。
「なぜ……そんなことをしたの?」
「雪子に、本当のことを言ってほしかったんだ」
「本当のこと?」
「妻になる彼女に、隠し事はしてほしくなかった。たとえそれが、十四年前のことでもね」
「隠し事って? 雪子が何を賢一さんに隠しているって言うの?」
不吉な予感が胸をついてくる。夏美は、自分の車より明らかに広いスペースの中にいて、息詰まるような緊迫感に包まれた。
「雪子は昔、由貴のアパートの合鍵《あいかぎ》を盗んだ。吉祥寺のレストランで三人で食事をした日だよ。俺は、雪子の手の動きを見てしまった。見ながら、しかし、雪子にも由貴にも言わなかった。なぜ雪子がそんなことをしたのか、単純に興味があったし、あの二人の仲をできれば、決定的に壊してしまいたくなかったんだ。男としてずるかったのかもしれない。由貴は、合鍵が盗まれたことなど気づかなかった。ふだん使わないものだったからね。だが、由貴が父親の手術のために岡山へ行き、しばらく留守にしたあとだった。帰って来て少しして、彼女が『なんだか部屋の様子がちょっと変なの。でも気のせいかしら』と言った。俺はハッとして、何かなくなっているものはないかどうか聞いた。彼女は『ない』と言う。気のせいだろう、で片づけてしまった。俺は、雪子が俺たちの目を盗んで持ち出した鍵のことが気になった。少ししてから『留守中空き巣が入ったりして、鍵などを盗まれていたら怖いよ』と、それとなく言ってみた。そしたら、鍵は合鍵含めてすべてあるという。一つなくなったような気がしていたけど、思い違いだったとね。俺は、自分の目の錯覚だったのだろうか、と思った。雪子のことを疑っているから、すべて雪子が悪く思えてしまうのだろうかとね。あの手の動きも気のせいだったのだ、と思おうとした。
しかし……あんな事件が起きた。そして、ウエディングドレス。婚約者として部屋に入れてもらったときに、すぐに見つけた。最初は舞台衣装にするということは聞いていた。俺は、由貴が着るはずだったドレスを抱き締めた。そのとき、ふと気づいた。襟元にうっすらと赤いものが付着していた。『口紅かもしれない』と直感した。胸がざわついた。『本番まで絶対に汚したくないの』と言っていた由貴だ。彼女が不注意で口紅をつけた、とは思えなかった。『雪子がやったのでは。彼女はやっぱりあの鍵で部屋に入ったのでは』という疑いが、俺の中で濃くなった。合鍵をコピーして、また元に戻しておけば持ち出したことがわからない」
賢一は、何かにとりつかれたかのように、淡々としゃべっていた。「もし、雪子が由貴の部屋に無断で入り、ウエディングドレスを着たとしたら……。大胆な行為だと思った。怖い少女だと思った。だけど……彼女がしたことは、それだけだった。いや、本のことももしかしたら、彼女のしわざかもしれない、とちらと考えたこともあった。それにしても、彼女がしたことはそれだけだ。あの事件とは何のかかわりもない」
「賢一さんが塚本さんに貸した本を隠したのは、そう、雪子よ。十四年たって、雪子がわたしに告白してくれたわ」
夏美も、まっすぐ前を向いて言った。「あのころの雪子なら、そのくらいやりかねないと思った。だって、賢一さんのことが死ぬほど好きだったんだもの。好きな人のためならどんなことでもしかねなかった。だけど、雪子はまだ十三歳だった。わたしと一緒。いま振り返ってみると、確かに幼かった。自分ではおとなと変わらないつもりでいたけど、やっぱり子供だったと思える。いつだったか、賢一さんにもそんなふうに言われたよね。とにかく、十三歳の雪子には、その程度の知恵しかひねり出せなかったのよ。鍵を盗んだとしたら……それは、重大な犯罪だけど、塚本さんの部屋に入って、ウエディングドレスを見つけたときの雪子のショックを想像したら、胸が潰《つぶ》れるような気がするわ、いまでも。雪子はそれを着てみたかもしれない。口紅を塗ってみたかもしれない。でも、それだけだったんじゃないかしら。雪子は、ほんのひととき、違う女になってみたかったのよ。賢一さんの、ううん、あのときは先生の婚約者を超えて、先生の奥さんになってみたかったのよ。彼女は、役者としてすごく才能があったんだもの。演じることで、つかのま先生の花嫁の気分を味わった。悲しいけど、それくらいしかできなかったのよ。だって……雪子は、足の骨折が治って退院したあと、二人の婚約を聞いて祝福したじゃないの。涙を隠して笑顔を見せた。つらかったと思う。できれば、わたしの胸で泣いてほしかった。泣いて泣いて、気分が晴れれば、友達としてそれだけで嬉《うれ》しかった。だけど、彼女はそうしなかった。おとなになったのよ。諦《あきら》めることもおとなになった証拠でしょ?」
賢一は、かすかに「ああ」と、ため息のような返事をした。
「それで、雪子を試したの? 口紅のついたウエディングドレスを送って、十四年前の罪を告白させたかったの?」
「彼女の反応を知りたかったんだ。ドレスは由貴の実家にはなかった。葬儀のときに棺《ひつぎ》に入れてはどうか、とまわりに勧められたけど、どうしてもそれだけはできなかった。心の隅に、雪子のことが引っかかっていたせいかもしれない。このドレスを燃やしてはいけない、という注意信号がどこかから発せられていたんだろう。結局、来年の舞台に使うってことで、大学の演劇部に引き取られた。雪子にプロポーズしてから、必死にドレスの行方を調べた。もう大学にはなかった。由貴と親しかった吉川さんの耳に入らないように注意した。幸い、彼女は出産を控えて大変な時期だった。学生時代の友達とも疎遠になっていたらしかった。ドレスはあった。東京近郊の格安の貸衣裳屋にね。十四年たっているのに、信じられないほど色|褪《あ》せていなかった。店の主人も不思議がっていたほどだ。しかし、『これは、シンデレラのガラスの靴ですよ』とも言っていた」
「シンデレラのガラスの靴?」
「身体に合う人がなかなかいないんだ」
「…………」
「あれは、由貴が自分の身体にぴったり合わせて縫ったものなんだよ。由貴の体型とほぼ同じ女性でないと入らない。背中のファスナーも上がらなければ、腕も入らない」
「確かに、身体の線がきれいに出るデザインのドレスだったわ。だけど……じゃあ、どういうことになるの?」
夏美は息を呑《の》んだ。喉《のど》が渇く。
「店の人は、そろそろ処分しようか、と思っていた矢先だったと言った。回転が悪いドレスを置いておいても無駄だからね。しかし、捨てようとしてもできなかったと言うんだ。あのドレスが持つ高貴な輝き、不思議な魅力、そう魔力といったものに負けてね。客は『わあ、このドレスすてき』と必ず手に取ったらしい。だが、着られず諦《あきら》める。ところが、そのドレスの掛かったすぐ隣のドレスが、飛ぶように借りられていく。どこに置いてもそういう不思議な現象が起きたという。主人はお守りのようにして、あのドレスを置き続けた。俺が、もともとは婚約者のものだった、と事情を正直に話すと、主人は納得してくれた。お守りではあるけど、気味も悪いので、そろそろ手放したがっていたんだね。俺はドレスを買い取った。そして、雪子に送った。着られるはずがないのはわかっていた」
「十三歳のときに雪子が一度、着ていたとしたら、そのときの体型はドレスにぴったりだったのかしら。ああいうドレスは、ヒールの高さで調整するように、丈は少し長めに作るものだわ。バストも専用のブラジャーをつけて高くしたりする。……二十一歳の塚本さんと十三歳の雪子。二人は、年齢を超えてちょうど同じドレスを着られる体型だったのかもしれない。だけど、二十七歳の雪子はどうなの?」
「十四年分、成長しているさ。よく育っている、とその昔、口の悪い俺の友達は評したけど」
ジョークを交えたような言葉を、賢一は真顔で言った。
「じゃあ……どうして着られたの? ドレスに直しはなかったって」
夏美は胸をつかれた。「それで、雪子は不気味がってたんだわ。どうしてわたしの身体にぴったりなんだろうって」
「俺も不気味だった。着られるわけがないと知っていて、着るように勧めたんだからね。彼女がどう戸惑い、どう行動するか、それを知りたかった。昔の罪を――彼女がやっていたとしたら――、告白してほしかった。だが、彼女は、自分の部屋で、純白のドレスを着た花嫁になっていた。信じられなかった。驚いたが……驚きを上回るほど、彼女は美しかった。俺は一瞬、自分の目を疑った。雪子が由貴になったような錯覚を覚えた。だけど、やっぱりそこにいたのは紛れもなく雪子だった」
「そんなことってあるかしら。十四年間、誰も手を加えなかったドレスでしょ? 小さなドレスが大きくなるわけないじゃないの」
「そう……あのドレスは、雪子の身体に合わせて伸びたとしか思えない」
「そんなばかな」
「俺もそう思う。だけど事実だよ」
驚愕《きようがく》と恐怖と苛立ちが詰まった沈黙が、しばらく続いた。夏美は、どこをどう走っているのか場所の見当などとっくにつかなくなっていた。闇《やみ》が深く濃くなっていることだけは確かだった。
「塚本さんは」
由貴さんは、と言い換えて、夏美は沈黙を破った。ずっと〈そのこと〉を考えていた。「雪子に着せるつもりなどなかったのね。舞台も代役を立てるつもりなど、はなからなかった。由貴さんは、自分だけが主役で、自分だけが賢一さんの妻でいたかった。そういうことじゃないのかしら」
賢一は、夏美の強い口調を予想していたように、一つ大きくうなずいた。
「俺は、責任を感じている。確かに、あのドレスを着てから雪子はおかしくなった。姑息《こそく》な手段を使って、彼女に昔の罪を告白させようとしたばかりに、彼女の中に眠っていた何かを目覚めさせてしまった。雪子は、夢にうなされるようになり、頭痛を起こしやすくなった。ウエディングドレスが誘発したんだ。次は、鏡台だった。偶然見つけたあの鏡台だった」
「鏡台? ウエディングドレスが、なぜ鏡台を誘発したの? どういうこと?」
鏡台については、賢一は言及しなかった。
「最初は、罪の意識から、自分を責めているのだと思った。十四年前に由貴の部屋に無断で忍び込んだことのね。だが、なんだか様子が違うと思い始めた。俺は……面と向かって、彼女に聞けなかった。夫婦だというのに。雪子のほうからすべてを打ち明けてくれるのを待っていた。昔とちっとも変わらない。俺は、彼女の本当の姿を知りたいと思いながら、知るのが怖い男なんだよ。俺が彼女の精神状態を不安定なものにしてしまったんだ。自分の妻をどんどん袋小路に追い詰めてしまった」
「雪子のことが好きなんでしょ? だから結婚を決意したんでしょ? それとも、由貴さんのことがまだ忘れられなかったの? 由貴さんのかわりに雪子に復讐《ふくしゆう》しようなんて考えたわけ? それで結婚したとしたら、わたし、賢一さんを、ううん、先生を絶対に許さないわ」
「雪子を……愛している」
「先生にとって雪子は、永遠にオムツをしていたユキちゃん、自分のあとを金魚のふんのようにくっついて回っていたユキちゃん、七五三の着物を着ておすまししていたユキちゃん……じゃなかったの? 雪子のことは、いとことしてしか考えられない。一人の女としては愛せない。それは、十年たっても同じだ。あのとき、先生ははっきりそう言ったわね」
「違う」
空気が漏れるような返事をして、賢一は小さく首を横に振った。「俺は、夏美さん、君に言ったね。十三歳の君たちは、自分ではおとなの感性を持った少女だと思っているかもしれないが、実はまだまだ子供だって。その言葉は、そのまま俺にもあてはまった。二十一歳の俺は、いまの俺から見ればまだまだ未熟だった。あのときは、いま持てる感性、価値観が絶対だと思い込んでいたんだ。絶対的な自信があった。だけど違った。ロスに戻り、まったく畑違いの建築学を学ぶにつれて、絶対だと思っていた価値観が揺るぎ始めた。そのうち、ふっと俺の頭の中を占める存在の大きさに気づいた。その存在は、ユキちゃんだった。第一志望の大学に合格したと手紙がきた。写真が同封してあった。ユキちゃんはもうユキちゃんではなくなっていて、雪子さんになっていた。美しかった。写真の中の彼女は、前向きに見えた。俺との誓いを守って、勉強に演劇に励み、夢を叶《かな》えていた。輝いていた。次に会ったときにはもう『ユキちゃん』とは呼べない予感が、俺の中に生まれていたよ。
俺は、脳天を叩《たた》かれた。夢から覚めたような気がした。永遠なんて言葉がどんなに虚しい言葉か、自分の家庭の崩壊を前に痛感していたころだった。人間は変わる。成長する。雪子の写真を見てそう思った。だが、変わらないものもある。あるとすれば、それは愛だ。いや、ただの愛じゃだめだ。そのことは、親父とおふくろに裏切られて、十分学習している。変わらない愛とは何か。それは絶対的な関係の上に築かれた愛だ。固い絆《きずな》だ。俺は悟った。ユキちゃんと俺こそ、その固い絆だったんだとね。彼女と一緒なら、うまくいく。両親が失敗したような失敗はしない。なぜなら、俺たちは選ばれた関係だからだ。運命的な関係だからだ。この世にたった一人のいとこ、雪子と俺。どんなことがあっても自分たちの絆を守ってみせる。そう思った。だからこそ、彼女にすべてを見せてほしかった。過去に何があったのかを……打ち明けてほしかった」
夏美は、親友のいとこの横顔を見た。にじんでよくは見えなかったが、十四年の時を経ても、その端正な輪郭は崩れていなかった。
――いまごろ気づくなんて、何よ……。
夏美の盛り上がったまぶたが、さらに熱くなった。
――この人って、昔からこうだった。神経質そうに見えて、柔軟性がありそうに見えて、どこか鈍感で頑固で、自分の考えに固執する人だった。それは、自分の知性と美貌《びぼう》と美意識に自信のある男にありがちの欠点、と言えるかもしれない。わたしとは相性が悪かった。それは、いまでもそう。でも、雪子の最愛の人だ。親友の最愛の人だからこそ、やっぱりわたしにとっても……愛しい人なのだ。この感情は、けっして「恋」ではない。恋ではないけれど、でも、もしかしたら、それに近い感情なのかもしれない。わたしは、雪子の最愛の人を、雪子と同じように愛しいと思っている……。
「追いつめられた人間は、それ以上後ずさりできないとわかると、きびすを返して攻撃的になる。いまの彼女がそうだ」
「どういうことなの?」
賢一の言葉は、賢一と二人だけのドライブで生じた甘い気分を、〈妻の親友〉という立場に戻らせるのに十分だった。
「雪子は……由貴になったんだと思う」
賢一の目は、深い闇の向こうに伸びる、道ではない何かを見ているようだった。
10
「恵理子さん、眠ったわ」
雪子は、階段を降りながら階下の高井健二に言った。
「あ、ああ、そう。ずいぶん神経がず太い女だよな。あっ、これは彼女には内緒に願います」
高井は、おどけたように首をすくめて言った。二人になったことで照れが生じたのだろう。
「それにしても、遅いですよね。電話くらいくれてもいいのに」と、落ち着かない様子で、そわそわと腕時計を見、暖炉を見た。「あ、ああ、薪《まき》は十分ですね」
「夏美を見つけるのに時間がかかったのかもしれないわ。タイヤを取り替えるのにも手間取るだろうし」
雪子は、高井のすぐ隣に座った。背もたれが格子の模様になった、シートだけに布を張った木製のベンチ。樫《かし》の木を使っているらしく、どっしりと重厚感がある。高井の尻《しり》の重みで綿の入った布が沈み込み、彼の尻がわずかに雪子よりにずれた。彼は、ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。雪子は、背中に隠していたそれを、ソファの高井と反対側に置いた。
「飲みましょうよ」
雪子は言い、高井の手からワイングラスを奪い取った。一口飲み、「もっとついでちょうだい」と差し出した。操られるように高井は、ボルドーワインをついだ。雪子は、暖炉の火にワイングラスをかざし、手の中で揺らした。
「血みたいに赤いってうそね」
「えっ?」
高井は面食らい、動揺をごまかすように微笑した。「そ、そりゃ、ワインだからね」
「血は……こんなに澄んでなかったわ。濁っていた。こんなに冷たくなかった。熱かった。こんなに甘くなかった。苦かった」
「酔ったんじゃないの? ご主人によれば、そんなにアルコールは強くないって言うし」
高井が、上半身をわずかに遠ざけた。
「今夜は酔いたい、と言ったでしょ?」
「あ、うん。だけどさ……まだ二人も来ていないことだし、あんまり早くいっちゃうとまずいよ。ペースをわきまえなくちゃ」
そんな忠告など耳に入らなかったように、雪子はグラスを傾けた。血より甘くて冷たくて、澄んだそれを味わった。そして、また「ついで」とグラスを高井の目の前に突き出した。
「ゆ、雪子さんって、意外にからむんだな。血が熱くて苦かっただなんて、昔、吸血鬼だったの? 女吸血鬼とか」
高井は、戸惑いがやや引いて、雪子の酔い方をおもしろがる態度になった。
「そう、わたし、吸血鬼だったの。男の血をいっぱい吸ったのよ」
雪子が顎《あご》を上げ、高井を見つめると、彼は一瞬、困惑した顔をしたあと、破顔した。「いやあ、雪子さんっておもしろい人だね。だけど、その言葉、僕、本気にしちゃうな。だって、雪子さんってすごく色っぽいんだもの。泣かした男も一人、二人じゃないんだろうね」
「十本の指じゃ足りないわ」
雪子は微笑《ほほえ》んで、高井のあいている両手を見た。指が太く長く、角ばった爪《つめ》がそれに比例して大きく立派だ。ワイングラスを彼の口元へ近づけた。「飲まない?」
高井がグラスを受け取ろうとしたのを、遠ざけ、「わたしが飲ませてあげる」と言った。今度も一瞬、ためらったが、彼は容易に応じてきた。彼の口へ赤い血を注ぎ込む。彼のピンポン玉のような喉仏《のどぼとけ》が小気味よく動く。
「もういいよ」というふうに、高井が顎を動かした。雪子は唇へ強くグラスを押しつけ、離さなかった。ワインが顎を伝わり、こぼれた。室内は、暖炉の熱のせいで暖かい。トレーナーを脱いで、シャツ姿になった彼の、ストライプのワイシャツに赤いしみを作った。グラスは空になった。
「あっ」ワイングラスから解放された高井が、ワイシャツを見てたじろいだ。
「赤いしみってきれいね」
雪子は言い、そのしみの上を左手の人さし指でなぞった。高井が身体《からだ》をぴくりとさせた。雪子は、その指を高井の股間《こかん》に這《は》わせていった。
「ゆ、雪子さん」
高井は、腰をもぞもぞと動かした。
「わたし、なんだか身体が火照るの」
雪子は、高井の肩にもたれかかってささやいた。「赤いものを見ると、興奮するみたいなの。そう身体ができてるの」
「じょ、冗談だろ?」
高井は、面食らいながらも微笑を絶やさずに、聞いてきた。
「女にこんなことまで言わせるなんてひどい」
雪子は、高井の右手首を左手でつかむと、自分の胸へと導いた。前開きのニットのカーディガンは、身体にフィットしたもので、雪子の八十六センチのCカップのバストがくっきり浮き出ている。高井は声を失い、されるままになっている。彼の手のひらが雪子の胸に触れた。と、彼はハッと手を引っ込めようとした。その手首を雪子はつかんだまま離そうとしなかった。
「もうそろそろ帰って来るころだよ。だめだよ、こういうことは」
高井はかすれた声を出した。雪子は、あえぐときの彼の声を聞いた気がした。
「いいじゃないの。キスする時間くらいはあるわ」
雪子は高井の耳元でささやいた。高井の息が荒くなった。雪子は自分の唇を彼のそれに近づけた。高井は顔をそむけなかった。
唇が触れたと思った瞬間、雪子の体内を悪寒が走った。彼女の意識は、唇ではなく手に集中していた。
ガチャリ
その音と感触に、高井は身体を硬直させた。キスは、直前で中止になった。彼が音と感触のしたほうを見る。彼の目が驚愕《きようがく》の色をたたえて見開かれた。
「な、何するんだ? 雪子さん」
高井は、呆然《ぼうぜん》として自分の右手を見た。雪子は、鎖でつながれたもう一つの手錠の先をぐいっと引いた。彼の右手が高く掲げられた。手錠の片割れを、背もたれの格子の部分にはめた。彼は、木製の重い三人掛けソファに囚人のようにつながれた。頭を背もたれにもたれかけ、上半身をのけぞらせて座る形になった。
「何のまねなんだよ」
高井の顔から、好色を含んだ微笑が消え、怯《おび》えと恥辱と怒りの色がその目に浮かんだ。
「こういう遊びもおもしろいのよ」
雪子は、高井の顎を指でひと撫《な》でした。「自由を奪われた格好でするのって」
「そ、そういう趣味があったの? 悪いけど、僕はつき合えない。ご主人、高木さんとは違うんだ。手錠をはずしてくれ」
まだ高井の中には、少しは微笑む余裕があるようだ。
「鍵《かぎ》はないわ」
「えっ?」
「鍵は持って来なかったの」
「冗談だろ?」
「東京に戻ればあるけど。このままの格好で戻る?」
雪子は、高井から離れ、笑った。「ソファとセットで売ったら、いい値で売れるかも。とってもおもしろい光景よ」
「冗談はやめろよ」
高井は手錠のはまった右手をがしゃがしゃさせた。足でセンターテーブルを蹴《け》った。右足、左足。テーブルはひっくり返った。載せてあったワイングラスが割れ、倒れたワインボトルから毒々しい赤い液体が床にこぼれ出て、血だまりのようになった。その声には、微塵《みじん》も、この人妻との戯れを楽しむ余裕が残っていなかった。
「上には恵理子もいる。もうじき目を覚ますかもしれない。ご主人も友達を連れてじきに帰って来るんだぞ」
その低い、威嚇《いかく》するような声は、雪子の感情を激しく波立たせ、苛立《いらだ》たせた。彼の声は、どすをきかせたつもりだろうが、微妙に震えていた。
雪子は、化粧ポーチから果物ナイフを取り出した。高井の伸ばした足が届かない場所に立ち、彼に見えるように垂直に刃を突き立てた。
「ど、どうしようと言うんだ」
高井の声が、いきなり高くなり、裏返った。喉をひりひりこするような声。凄《すご》んだような声からひるんだ声への急激な変化に、雪子はあざ笑った。
「怖がってるの?」
「やめろよ、やめてくれ。そのナイフは……何なんだよ」
「ナイフは切るためにあるんじゃないの。知らないの?」
「果物を……だろ?」
「人間だって切れるわ」
「そういう趣味があったのか? 男を痛めつけて楽しむ趣味が」
「あなたはどうなのよ」
「あなたはって……」
「忘れたの? あなたがわたしにしたことを」
「僕が君にしたこと? 何言ってるんだ」
「忘れたとは言わせない。忘れたのなら、思い出させてやる」
「君は……何か勘違いしてるんじゃないか。それとも、勝手にストーリーを作ってその世界にどっぷり浸かっているのか。よそうよ、こんなこと」
高井の口元に、懇願のためとも恐怖のためともつかぬ弱い微笑が生まれた。
「わたしの勘違いかどうか、確かめてやる。あなたに白状させてやる」
雪子は、荷作り用の紐《ひも》を化粧ポーチから引き出し、ナイフとともに手にした。
「どうする気だ」
「あなたは、雪子から事件のことを聞き出そうとしたじゃないの。自分に関係していたからでしょ?」
ナイフの刃先をゆるやかに回しながら、雪子は言った。
「雪子から? 雪子からって、どういうことだ。君は……」
「あなたに殺された女よ」
一瞬、その言葉の意味することがわからないというふうに、高井は眉《まゆ》をひそめた。が、ひと呼吸置いたあと、全身を狂ったようにばたつかせた。
「やめなさい!」
雪子は叫び、ナイフをすぐ近くの一人掛けのソファのシートに突き立てた。ぶすり、というより、ぷすり、と控えめな音がした。が、果物ナイフは見事に突き刺さった。雪子は静かに抜き取って、切っ先を高井の顔のほうへ向けた。その音に、高井はぴたりと動きを止め、顔を蒼白《そうはく》にした。
「ほら、果物ナイフだって、布は切れるじゃない。高井さん、あなたのシャツは簡単に切り裂けるわ」
「おまえは狂っているのか? 中等部からずっと演劇部にいたと言ったな。こういう狂った芝居が得意なのか?」
高井の顔は、恐怖に引きつっている。シートを切り裂いたばかりのナイフを見て、恐怖が増幅したようだ。
「狂っていたのは、あなたのほうじゃない?」
雪子は冷ややかに言った。「あなたの声を聞いた雪子が、わたしを目覚めさせてくれたのよ。雪子はあなたの声しか知らない。だけどわたしは、あなたの声だけじゃなく、感触を知っている。体温も、汗の匂《にお》いも口臭も、すべて知っている。あなただって、思い出すはずよ。わたしを抱けば」
「やめろ」
何かの記号のように、高井は言った。「やめろ、やめろ」
「やめて、と叫んでも誰も助けに来ない。狂った獣のような男の耳には、わたしの悲痛な叫び声が届かない。全身の骨が折れ、身体が八つ裂きにされるような苦痛、襲いくる汚辱と恥辱の嵐。あなたにわたしの苦しみがわかる?」
「言っている意味が……わからない」
「わかるようにしてあげるわ」
雪子は、高井の右足のすねにナイフを突き刺した。加減したつもりだったが、買ったばかりの刃こぼれのない鋭い刃は、簡単にジーンズを貫き、肉を裂いた。一瞬で抜き取った。デニムのごわごわした生地の裂け目から、ごぼごぼと鮮血があふれ出た。
「ぎゃあっ」
高井が凄《すさ》まじい苦悶《くもん》の声を上げた。左手で刺された患部をかばおうとする。その手を、雪子はヒールの先で蹴《け》り上げた。彼は、弾かれたように手を引っ込め、陸揚げされた魚のように身体をぴくぴくさせ、声を絞り出した。
「死んじまう。血を、血を止めてくれ」
暴れると、出血量が増えると思ったのだろう。高井はもがくのを止め、背を丸めて、身体を縮めた。その口からは低いうなり声が漏れている。その格好は、背わたを竹串で抜き取る手間を省いて揚げたときの、丸まりすぎた不格好なえびフライに似ていた。
雪子は、痛みでおとなしくなった高井の足を、紐で縛った。紐の先をソファの足にくくりつけた。ついでに、唯一自由になっていた左手の手首も縛り、紐の先を右手から少し離れた場所にくくりつけた。
高井健二は、奇妙な格好の〈降参〉をしている。
無様な彼の姿を見るのは小気味よかった。だが、彼女の高ぶった激情は、そんなことでは収まらなかった。
雪子は、傷口から湧《わ》き出る血を、果物ナイフの刃先にすくい取った。それを静かに男の口元に持っていった。男は顔をそむけた。ナイフが追った。
「下手に動くと、顔も切ることになるわよ。鼻をそいでもいいの?」
男は硬直した。雪子は、ナイフの刃先に付着した血液を、彼の唇へ運んだ。「なめるのよ」と、ナイフの柄で唇をこじ開けた。
「ほら、血って苦いでしょ? 熱いでしょ? 濁っているでしょ? ボルドーワインのぶどうの品種の数など比べものにならないほど、いろんなものが混じっているせいよ。人間はね、死ぬときに味わうのがこの血の味なの。わたしは、否応なくこれを味わわされた。あなたに首を絞められて、わたしの口の中が鉄錆《てつさび》の味のする生温かい液体で満ちた。それを、最後の晩餐《ばんさん》にしてわたしは死んでいった。死にたくはなかった。将来に夢があった。賢一さんと結婚したかった。わたしが賢一さんの妻になるはずだった。雪子が、じゃなくてわたしが。わたしは婚約者のまま葬られた。永遠に」
「狂ってる」
高井は、目をつぶり、つぶやいた。雪子は、彼の頬《ほお》を左手で張った。一瞬、ナイフを持った右手で打ちそうになり、瞬時に気がついて左手に変えたのだった。高井の口の中で、ごぼっという、たまっていた水道の水が最後に排水溝に吸い込まれるときのような音がした。
「何を始めようってんだ」
彼は、か細い声でまたつぶやいた。ほんの少しばかり血を失っただけで、彼の顔は青ざめている。
「自分のしたことを白状してもらうわ。簡単なことでしょ? 本当のことを言えばいいんだから」
雪子は、自由のまったく奪われた高井を見下ろして、笑顔でやさしく答えた。
「君は、何か誤解している。人違いしている。俺《おれ》を、君の知り合いを殺した犯人だと思っているんだったら、思い違いもいいところだ。俺は殺された……何とかいう女なんて全然知らないんだ」
苦痛に顔を歪《ゆが》めて、高井は声を振り絞った。まぶたが落ちくぼみ、目の下に隈《くま》ができ、頬骨の高い彼の顔には、青と黒の陰影がくっきりとできていた。
「あなたが殺した女は、塚本由貴よ」
雪子は言った。鼻の奥が痛くなり、涙が出た。「あなたがわたしを殺したのよ。この顔、この声、この匂い、間違いないわ」
雪子は、ナイフの切っ先に誘導されるかのように、自分の顔を男の鼻先に近づけた。匂いを嗅《か》いだ。犬のようにくんくんと嗅いだ。そして言った。「やっぱりあなたよ。この身体が記憶している」
「証拠がない」
「証拠?」
ふん、と雪子は鼻先で笑い、覆いかぶさって息を吹きかけた。
「いいか? た、たとえ……拷問で白状したとしても、それは白状したことにはならない。だ、誰だって、こんな苦痛を味わえば、やっていないことをやった、と言うだろ?」
彼の前に仁王立ちになった雪子は、微笑んで次の言葉を促すように、顎を軽く振った。
「俺の声を録音しようってのか? ビデオで告白シーンを録るつもりか? そんなことしたら、君のほうが訴えられるぞ。人権侵害だ。いま、何世紀だと思ってるんだ。こんなこと、許されると思ってるのか?」
雪子は顎をしゃくった。思いのたけを吐き出してしまいなさい、という合図だった。
「た、たとえ、俺が告白したとして……いや、そ、それは、苦痛に耐えかねての虚偽の告白だけど……お、俺は、そ、そんなに痛みに強くないんだ。テープに録音されたとしても、そ、それで、そのへんのグラスか何かについた指紋を、テープと一緒に警察に提出したとしても、こ、こんな非人道的な拷問の上で録音したテープや指紋など、な、何の証拠にもならないんだ。何の証拠能力もないんだ。冷静になってくれ。人間性に目覚めてくれ」
「冷静になって、人間性に目覚めてくれ、か」
笑わせるんじゃないわよ、と言い、雪子はふたたび彼の身体に覆いかぶさっていった。彼の恐怖の色をたたえた目は、まばたきを忘れている。雪子は、ナイフを持ち替え、柄の先を彼の股間《こかん》に押しつけた。
「ぎゃあっ」
高井が、身体をくねらせた。雪子は、力をこめた。彼の口から「うぐっ」という空気が漏れるような音がした。
「つ、潰《つぶ》さないでくれ」
「使えなくなるから?」
雪子は、ナイフを股間から引き離し、柄を持った。刃先で天井のほうを指した。「そうなったら破談になるわね」
ため息を一つ。そして、ソファの斜め前にある一人掛けの肘《ひじ》掛け椅子《いす》に座った。しばしナイフから解放されたと思ったのだろう。高井は、雪子より長い悲痛なため息をついた。ストライプ柄のシャツの胸が盛り上がった。
「警察なんて頼ってないのよ。ただ、あなたに『君をやったのは自分だ。悪かった』と言わせることができたらそれでいいの。あなたの口から、そのひとことさえ出ればね。苦痛のためにその場しのぎに言ったのか、本心で言ったのかは、わたしが判断するわ。ううん、わたししか判断する者はいないのよ」
雪子は、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、穏やかに言った。「だって、わたしはもう死んでいるんだもの。何をしても許されるのよ」
「し、死んでいるって? き、君は死んでなどいない。ここにいる……じゃないか」
高井は、常軌を逸した女を相手に言葉が通じないもどかしさに、懇願口調で言った。
「わたしは雪子じゃないわ」
「…………」
「まだわからないの? あなたが殺した塚本由貴。そう言ったじゃないの」
雪子は、高井のシャツのポケットからのぞいていた煙草の箱を引き出した。一本、煙草を取り出し、箱を捨てた。ポケットに一緒に入っていた百円ライターで火をつけた。紫煙を彼の顔に吹きかけてから、椅子に戻る。
「き、君は……多重人格なのか? それとも……芝居か?」
高井は目を細めた。まばたきを忘れていたせいか、涙で目がにじんでいる。
「彼女は『ユキちゃん』と呼ばれていた。賢一さんはわたしの耳元で『ユキ』とささやいた。わたしは雪子で、雪子はわたしなのよ」
「ど、どっちでもいい。俺を自由にしてくれ」
雪子は、煙草の煙を吐き出すことで、それに答えた。
「雪子の中に棲《す》んでみて、わたしたちが寸分変わらぬ女だということがわかったわ。わたしは、雪子が、ううん、ユキちゃんが怖かった。あの子はまだ十三歳だった。でも、変に老成したところがあって、早熟だった。豊かな胸。長い手足。きりっとした骨格。あの子の黒目がちな目に見つめられると、わたしは心の中まで見透かされそうで怖かった。聡明で知的な子で、わたしには脅威だった。あの子の親友の恐ろしく頭のいい夏美って子も含めて、わたしにはめざわりな存在だった。わたしの中にコンプレックスを生じさせる。わたしが信じていなかった、女の友情なんていう甘ったるい言葉を喚起させる。親しいと思っていた友達が、わたしの複雑な家庭環境を面倒に思って去って行った。最初は、親身に相談にのってくれていた友達だった。それから、女友達とは距離を置いてつき合うようにしたのよ。信じられるのは、ただ一人。将来のパートナーにすべき男性だった。
本当に、恐ろしい十三歳だったわ。賢一さんのことで、わたしにかまをかけたりしてね。わたしは、手紙を書いて賢一さんに注意を促そうとしたり、必死だったわ。十三歳の女と二十一歳の女の心理戦……。
ユキちゃんが賢一さんを愛していることは、一目見てわかった。わたしと同じ目をしていたから。賢一さんとあの子はいとこ同士だった。世界に二つとない関係には、逆立ちしても勝てないと思った。わたしは、絶対に賢一さんをあの子にとられたくなかった。譲る気はなかった。賢一さんはわたしの救いの主だったから。孤独を救ってくれた大切な人。彼女のような経済的にも、家庭的にも恵まれた、何の悩みもないお嬢さまには奪われたくなかったのよ。
だから、わたしは……あの子の前で、賢一さんに自分の魅力を印象づける絶好のチャンスを逃さなかった。あの子は、少女のくせにおとなっぽい。身体も成熟しつつある。舞台に立つと、わたしより存在感がある。だったら……と考えたわ。わたしには、演技力という武器がある。それだけは、年の功だけあの子より身についている。ある日、賢一さんから借りた本がなくなった。いまは、あの子のしわざだったとはっきりわかるけど、あのときは本をなくした事実に激しく動揺していた。賢一さんの大切にしていた本だった。
『探せなかったら、お姉さま、どうするの?』とあの子、ユキちゃんは聞いたわ。賢一さんもわたしの答えを待っていた。わたしは必死に考えた。どう答えたら、ユキちゃんに差をつけられるか。あの子とは違う、成熟したおとなの女の魅力を、おとなの良識を、おとなの節度を、おとなの落ち着きを、どうやったら印象づけられるかってね。だって、若さと無鉄砲さでは、とてもユキちゃんに太刀打《たちう》ちできないもの。でも、賢一さんがその場を救ってくれた。『ユキちゃんだったら、どうする?』と賢一さんは、あの子に質問をふってくれた。そしたらあの子、やっぱり子供ね。背伸びしていたつもりでしょうけど、化けの皮がはがれたのよ。『死んでお詫《わ》びするわ』ですって。ばかみたい。賢一さんは噴き出した。あのときのあの子の顔。ほめられて当然なのになぜ笑われるの、とぽかんとした顔。いい気味だと思った。勝ったと思った。賢一さんの、ユキちゃんの若さや大胆さを魅力と感じる限界を超えた、と思ったわ。
そして、すばやく計算した。わたしはあの子の手を自分の心臓のあたりに導いた。たっぷりの演技力でね。賢一さんの熱い視線を感じたわ。完全に勝った、とわかった。あの子の少女らしさ、ひたむきさを、わたしが演じた少女らしさ、ひたむきさが凌駕《りようが》した。快感だった。でも、ユキちゃんも負けず嫌いな気の強い子ね。『ウケを狙《ねら》った冗談です』なんて苦しい言い訳をして、態勢を変えようとしたわ。でも、しょせんガキはガキね。そこまでよ。そのあと、わたしたちは急速に親密になったわ。結ばれたのもあのあと。似たような境遇を強調して、同情を引いて始めたつき合いよ。そう、わたしのほうから接近したのよ、賢一さんに。
雪子がわたしを目覚めさせてくれてから、わたしはいろんなことを知った。雪子もまた、わたしが思っていた以上に恐ろしい少女だったこともね。雪子は、わたしの部屋に忍び込み、無断でウエディングドレスを着たのよ。口紅までつけて、鏡の中に映していた。わたしはばかよね。あの子を見くびっていた。誰かが忍び込んだなんて、微塵《みじん》も想像しなかった。だから、あのしみを発見したとき、試着したときに自分が知らずにつけたと思ってしまった。しつこいしみ抜きは、デリケートな生地には禁物なのよ。残念に思ったけど、そのままにしておいたわ。
あの子は、それだけじゃない。そのウエディングドレスを世間に公開しようとした。わたしが、賢一さんとの結婚を想定してドレスを作ったことを知らせるためにね。あのドレスは、わたししか着られないようにジャストサイズで作ったのよ。それなのに……幸運ね。身体が成熟しつつあった少女体型の彼女には、ブラジャーで補正しなくてもまさにぴったり合った。あのときはね……。そして、あの夜。あなたがわたしを背後から襲った夜。なんと雪子は、クロゼットに隠れていたのよ。あのときは、知るよしもなかったわ。隠れていて、助けてくれなかった。見殺しにしたのよ。わたしの死体を発見してからも、警察に通報しなかった。助けを呼ばなかった。呼べるはずがないわよね。彼女は、合鍵を使って、無断で侵入したんだから。自分のほうの罪が発覚するのが怖かったのよ。
だから……わかる? わたしはもう死んでいる。被害者の証言は絶対的な価値を持つけど、死んでいたら採用になるはずはない。でもね、雪子は生きてるの。いまはちょっと眠ってもらってるけど。雪子はあなたの声を聞いているわ。あの子が証言すればどうなるかしら」
「ばかな」
高井は、ようやくそれだけ言えた、というふうに、荒い息の中で短く言った。
「信じられない?」
「警察が、信じる、はず、ない、じゃ、ない、か」
今度は、とぎれがちに言った。
「そうねえ」
雪子は立ち上がり、火のついた煙草を高井の目の前に突き出した。煙が目にしみるのだろう、高井は目をしょぼしょぼさせた。
「あの子が、ユキちゃんが証言する気になるかどうか、わからないから。だって、あの子は最愛の賢一さんとの結婚生活を、ただただ守り抜くことだけで精一杯なんですもの。だからこうするの。わかるでしょ? あなたに納得してもらうために、長い長い雪子と由貴の物語を披露したわけよ」
「よ、よせ。やめろ」
高井は、自分の眼前で、煙草で円を描く多重人格の女に、恐怖を募らせた。煙草の行方を追う目もぐるぐると回る。その様子に、雪子はおかしくなった。
煙草を吸い、煙をもう一度、彼の顔に吹きかける。彼は咳《せき》こんだ。
「ねえ、消してくれる?」
その意味を測りかねたのか、高井は不安そうに生唾《なまつば》を呑《の》み込む。
「口に押し込んだら消えるんじゃない?」
高井は、激しくかぶりを振り、歯を食いしばる。
「そう、唾液《だえき》で消すのは嫌なの? じゃあ、こうするしかないわね」
雪子は、煙草を彼の右手の甲に強く押しあてた。
「ぎゃあっ!」
高井が、凄《すさ》まじい悲鳴を、その固く結んだばかりの唇から漏らした。悲鳴を無視して、雪子は人の皮膚を灰皿がわりにして煙草を揉《も》み消した。
「ばかね。口で消したほうが熱くなかったんじゃなくって?」
雪子は、煙草を手の甲から離し、床に投げ捨てた。そして、高井の頭の後ろに回り込む。彼の肘《ひじ》を曲げた中途半端な万歳の形に挙げられた、二本の手を、その指の先をじっくりと見る。
「本当は、わたしの人生を返してほしい。高木雪子のじゃなくて、高木由貴の人生をね。雪子は賢一さんの妻の座にいるのに、わたしは賢一さんの婚約者のまま。死んでもずっとそのまま。婚約者の座から二度とその上には這《は》い上がれない。この悔しさがわかる? 婚約者のまま、妻でいる雪子の中に居続けなければならない、この屈辱がわかる? わたしの目的は一つ。あなたに自分の罪を告白させ、わたしに謝罪させること。殺したっていいのよ。わたしは殺人犯にはならない。わたしは死んでいるんだから。なるのは雪子のほう。……でもね、それはできない。雪子は賢一さんの妻よ。賢一さんに汚名を着せたくはないの」
陶酔感の漂う声の調子に、高井は不気味なものを感じ取ったのだろう。首をひねって、雪子を見上げた。「な、何を始める気だ?」
「指は十本あるわ。したがって爪《つめ》も十枚。一枚ずついただくわ」
「ひっ」
と、高井が喉《のど》を鳴らした。「やめろ、やめろ、やめてくれ、やめてくれ、やめろ、やめてくれ。やめろ、やめてくれ、やめろ、やめてくれ」と、壊れたレコードのように繰り返す。
雪子は、フレアスカートのポケットからそれを取り出した。透明なキャップをはずす。小型の錐《きり》だった。鋭く尖《とが》った先端を、彼に向けた。
「ナイフにしようか、ピンセットにしようか、あれこれ考えたんだけどね、爪と肉のあいだって狭いでしょ? だから、錐に決めたの。千枚通しでもよかったんだけど、たまたま家にあったのがこの錐だったから」
「わあっ」
高井は、まるで吠《ほ》えるように叫び、両手をぎゅっと握り、固いこぶしを作った。鎖が木にあたってがしゃがしゃと音を立てた。死んでも指を出すまいとしているかのようだ。雪子は思わず笑った。
「手のひらを強力ボンドで椅子《いす》に貼《は》りつけてからはがすって手もあるから、隠しても無駄よ。それに、握ってもなかなか爪って隠れないものなのよ。ほらね」
雪子は、錐の先で、右手の甲にできたばかりの火ぶくれを軽く突いた。高井の口からうめき声が漏れ、握りこぶしからわずかに力が抜けた。
「楽しみでやるんじゃないわ。それなりに意味があるのよ。そのことをよおく承知してね。爪はね、表皮の角層が変化してできたものよ。根元に爪母《そうぼ》と呼ばれる細胞群があって、ここで絶えず新しい爪が作られているの。それで毎日、〇・一五ミリぐらいずつ爪が伸びるのよ。十四年前の爪は、理論上では、そっくり生え変わっているはずね。でもね、わたしにはそう思えないのよ。あなたの指がわたしの中をまさぐった。わたしの内部をこねくりまわした。思い出すだけでもおぞましいわ。爪にわたし自身が残ったはずよ。爪はすっかり生え変わったかもしれない。でもね、ほんのわずかな隙間《すきま》から爪の内部へ、そう、白い半月のほうにまでわたしが侵入していったかもしれない。あなたの爪の中にわたしが残っているかもしれないと思うと、わたしは気が狂いそうになるの。わたしの痕跡《こんせき》をあなたの中に残したままにはしておけないの。そうでないと、死んでも死にきれないの」
「お願いだ。やめてくれ。ほかのことなら……何でもする。話し合おう。爪をはがさないでくれ」
高井は、涙をためて懇願した。握りこぶしはすっかりほどけていた。
「死人とは話し合えないわ。悲しいことに」
雪子の頬《ほお》にも、一筋、涙が伝わっていた。「本当に、悲しいのよ。つらいのよ。悔しいのよ。言葉に表せないくらいにね。だから……こうするしかないの」
感情をすべて押し殺した。雪子は、手術台に立つ外科医になった。死刑囚を絞首刑にかけるときの刑務官になった。
右手の小指。まずそれを選んだ。いちばん小さく、はがしやすそうに見えたからだ。左手で男の手の甲を押さえつけ、錐の先を爪の甲にあてた。
ひっ、ひっ、と男が妙に高いうわずった声を出した。錐の先端を指の先の皮膚のほうへずらす。手のひらにせいいっぱいの抵抗を感じた。押えつけている甲は暖かく、指の先は冷えていた。
高井は、「嫌だ、嫌だ、嫌だよぉ」と、と駄々っ子のように泣き出した。ジーンズの股間《こかん》のあたりの色が変わっていた。失禁したのだ。その声を雪子は楽しんだ。
錐の先端が、爪と肉のあいだの薄皮を探りあてた。高井の爪は、短く切り揃《そろ》えてあった。この旅行を前に、昨日切って来たというふうに。爪の形は四角く、色は健康的なピンクだ。白い半月の部分が平均より大きく、甘皮にささくれは見られない。指を酷使する職業ではない、ごく普通の働き盛りの男の爪だ。
雪子は、柄に力を加えた。爪が、一瞬、ピンク色から白に鮮やかに切り替わった。高井が叫んだ。うめいた。力を加え続ける。
錐の先端は、わずかに固い一点を通過すると、一ミリずつじりじりと進んでいった。針の侵入地点から、血が湧《わ》き出た。じゅわ、じゅわ、じゅわ。最初はぽつんと小さなきれいな点だったのが、血は横に広がり、縦に伸びた。じゅく、じゅく、じゅく、と音が雪子の耳の奥で楽しげに弾む。
「はがすなあっ!」
高井が絶叫した。口を開け、あえいでいる。叫ぶこと、あえぐことに神経を集中させ、苦痛を散らそうとしているのだろう。雪子は、耳を近づけて、高井がぶつぶつ呪文《じゆもん》のように吐き出している言葉を聞き取った。「痛い、やめてくれ、痛い」だった。それは、雪子が――塚本由貴が、口にしようとしてもできなかった、あのとき男の手によって封じ込められた言葉だった。
「そう、人間は痛いときには『痛い』と、自分の意志に反することをされているときには『やめて』と言うのよ。自分で味わって、はじめて知るのよ」
高井は、嫌だ嫌だ、の延長のように首を左右に振った。
「爪をはがすのはペンチのほうが楽かしら。一気に、がいい? それとも徐々に、がいい?」
雪子は、血の気の引いた高井の顔を頭のほうからのぞきこんで聞いた。
「この痛みが、延々と続くのよ。爪の数だけ。手が終わっても、足があるわ。耐えられなかったら、白状するのね。正直に告白するのね。『わたしがやりました』ってね」
錐を爪から引き抜き、また同じ場所まで突き刺して、雪子は言った。今度はするりと入った。「わたしがあなたを犯しました。わたしがあなたを殺しました。ほら、言うのよ」
目をぎゅっとつぶり、鼻の頭に冷や汗を浮かべて、高井はかぶりを振り続ける。ジーンズの右足の脛《すね》から下は真っ赤に染まっている。
「爪をはがすと熱が出るのよ。苦しみ続けるのよ」
雪子は、ふたたび錐を引き抜いた。押さえつけていた左手を彼の手から離し、軽く天然パーマのかかった硬めの髪をつかんだ。高井の髪型は襟足を長くした、賢一と似たスタイルだ。その髪をぐいっと引き、彼の頭をのけぞらせた。顔に血が集まった。
「俺は……知らない」
高井は言い、まぶしそうに目を薄く開けた。
雪子の胸に、激昂《げつこう》した感情の波が押し寄せてきた。雪子は尖った錐の先端を、高井の右目のすぐ上にかざした。
「脅しじゃないのよ。わたしは本気よ」
苛立《いらだ》ちが、高ぶった感情をさらに波立たせた。
高井が「ああ……」という絶望の声とともにふたたび目をつぶった。その右目のほうを雪子は、指でこじ開けた。白目がむき出た。錐の先端を、男の目に近づけていく。まつげに触れた。男の顎《あご》はがくがく震えていた。その震えのせいで、鋭利な針が目玉を突いてしまいそうだった。
そのとき、車のエンジン音がした。窓にライトがあたった。
雪子はハッとして、後ずさった。高井が、ぱっと目を開ける。
「帰って来た。帰って来たぞ」
庭のほうへ顔を振り向け、感極まったような泣き声で言った。それは、あたかも勝利宣言のように雪子の耳に響いた。
11
賢一と夏美が、中で起きていた事態を予想していたかのように、緊張した面持ちで玄関に飛び込んで来た。
「悪かった。手間取っちゃって……」
言いかけて、賢一はホールから広間へ切り替わるステップの二段目で、立ちすくんだ。後ろから続いた夏美も、息を呑んで足を止めた。
高井がソファからホールへ這《は》って行く。「助けてくれ、この女は狂っている」
「雪子」
賢一と夏美は、同時にそれぞれ妻と、親友の名を呼び、異様な動作を続ける高井から彼女へと目を移した。
雪子は、ソファの後ろで立ちすくんでいた。車の音を聞いてから、高井の手にはめた手錠をはずし、紐《ひも》をほどいた。
「怪我《けが》をしてるわ」
夏美が我に返ったように言い、高井のところへ駆け寄った。高井の這ったあとに血を引きずった跡と、水で濡《ぬ》れた跡がついている。
「あいつがやったんだ。ナイフで僕を刺したんだ。狂ったんだ。いや、もともと狂っていたんだ。君は弁護士だろ? だったら助けてくれ」
高井は、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして、夏美の足にすがりついた。
「ど、どういうこと?」
夏美は、しゃがみこみ、高井の腕を取りながら、呆然《ぼうぜん》としている親友を見上げた。
「雪子、どうしたんだ」
賢一も、いま我に返ったように妻のもとへ駆け寄った。雪子の肩を抱き、心配そうに顔を見つめた。
「とにかく怪我《けが》の手当てをするわね。救急箱はある?」
夏美が、少し冷静さを取り戻した声で聞いた。
「中二階の納戸にあるわ」
雪子は言った。夏美は、そう答えた親友へちらと目を向けると、階段を駆け昇って行った。
「高井さんが……」
この男が、と言い換えて、雪子は夫の顔を救いを求める目で見た。「恵理子さんが気分がすぐれないと言って、寝室に行ってしまったら、急にわたしに襲いかかって来たの。それで、わたし、果物ナイフで……。ほら、りんごをむくために持って来たナイフよ。夢中だったの。気がついたら突き刺して……」
「うそだ!」
高井が遮り、雪子を左手で指さした。小指の爪に錐の先端をねじりこまれた右手は、かばうように胸にあてている。「じゃあ、これは何なんだ」と、右手を甲のほうを向けて挙げ、そろそろと小指を立てた。小指は痙攣《けいれん》していた。爪が赤黒く変色していた。「高木さん、あんたの奥さんは異常だよ。手錠を持っていた。誘惑するふりをして、僕の右手に手錠をかけ、左手と足を縛った。そして、錐で爪をはがそうとしたんだ。それだけじゃない。目に突き刺そうとした」
階段の上で物音がした。夏美が昔ふうの木箱の救急箱を手に、たたずんでいた。階段を、彼女が落とした薬の瓶がころがった。瓶は高井の足元までころがっていった。
「早く、早く手当てしてくれ。出血多量で死んじまうよ」
高井の悲痛な声に現実に引き戻されたかのように、夏美は駆け降りた。救急箱を床に置き、ふたを開け、急いで包帯やガーゼを取り出す。
「雪子、どうしてそんなことを?」
賢一が聞いた。
「賢一さん」
彼女の視野には、高井も夏美ももう入ってはいなかった。「賢一さん」と、彼女はもう一度呼んだ。懐かしい〈現実の響き〉だった。彼女の口から直接発せられる声だった。
「会いたかったわ」
賢一の目に、驚愕《きようがく》と戸惑いの色が生じた。
「賢一さんといるときには、わたしは出て来られなかった。そう……ものすごい力で雪子に阻まれていたのね、きっと」
「由貴」と、賢一は彼女を呼んだ。「由貴なのか、君は」
「わかるのね?」
彼女の目の輝きが増した。「会いたかった、とても」
彼女の肩を抱く賢一の力が弱まった。
「抱いて、しっかり抱いて」
彼女は、賢一――婚約者の胸にしがみついた。以前より――十四年前より、自分の顔の位置が高かった。婚約者の顔と自分の顔との距離が縮まっていた。
「雪子はどうした」
「雪子のことは言わないで。ユキちゃんは、まだ少女じゃないの。賢一さんは、あの子じゃなくておとなのわたしを選んだのよ。忘れたの?」
賢一は、彼女――婚約者の身体からすっと離れ、後ずさった。一メートルほどの距離を置いて向かい合った。「なぜ、君が現れたんだ。雪子はどうしたんだ」
「賢一さん」
婚約者は唇をかみ、悲しそうな顔をした。「いまに、いまという時間に縛られているのね? 思い出して。本当は誰を愛していたのかを。わたしたちがどんな時間を過ごしたのかを。あのときに戻って。わたしは戻って来たのよ」
「君は死んだんだ」
賢一は、抑揚を抑えた声で言った。婚約者の耳には、冷たい響きを伴って聞こえた。
「死んだから忘れたと言うの? 死ねば愛はなくなるの?」
彼女は、自分の胸に両手をあて、交差させた。
「苦しんださ。由貴、君を忘れるためにね。時間がかかった。時間が……俺を立ち直らせてくれた」
「時間? 十四年という時間が? わたしはあのときのままで、あなたの前にいるわ。二十一歳のままのわたしが、あなたの前に戻って来たのよ。あなたの時間も巻き戻るわ」
「いや」
賢一は短く言った。「戻れない」
「ひどいわ」
婚約者は、低い声で言った。「自分の意志で死を選んだんじゃない。殺されたのよ。人生をいきなり断ち切られたのよ。わたしには雪子と同じように、夢も希望もいっぱいあったのよ。あなたの婚約者から妻になるという幸せが、すぐ目の前にあったわ。その幸福な生活を目前にして、わたしのすべては奪われたのよ」
「由貴……」
婚約者は、愛しそうに賢一を見ていたが、きっと高井のほうへ顔を振り向け、さっき爪をはがしかけたほうの右手で彼を指さした。「あの男がわたしを殺したのよ」
高井の足に止血の手当てを施していた夏美が、弾かれたように顔を上げた。賢一も高井へ鋭い視線を向けた。
「う、うそだ」
高井は、あえぐように言った。
沈黙があった。高井は、自分が弁明を求められていると悟ったのだろう、止血手当てをされてひと安心したのか、ため息をついて続けた。「なんで俺なんだ。何の根拠があるんだ。でたらめだよ。濡れ衣だよ。えん罪だよ。ねえ、弁護士さん、助けてよ。おわかりのようにこの女は、多重人格者なんだ。最初は芝居でやっているのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。頭のどこかのねじがはずれているんだ。もともと俺のことを、うさんくさい男だと思っていたんだろうね。愛する旦那の友達としては、認めたくない種類の男だったんだろうよ。やさしげで楚々《そそ》とした奥さまの顔をして、変につっかかってきた。才能がありながら、あまり仕事に執着するふりを見せなかった。おかしいと思っていたんだ。あんたの奥さんは妄想狂だよ。俺のことをどうしても、その塚本……由貴さんとやらを殺した犯人に仕立てあげたかったんだろう。拷問して吐かせようとした。ほら、正気じゃないだろ? 妄想を抱くきっかけはわからなくはないんだけどね。塚本さんが襲われたとき、奥さんはクロゼットに隠れていたそうだよ。合鍵をコピーして無断で部屋に入ってね。見殺しにしたんだそうだ。警察にも通報しないで。どうやら、二人は恋のライバルだったようだね。ひどい話だね。好奇心をそそられる話でもある。まるで小説のようだ。おそらく、罪の意識から逃れようともがいているうちに、妄想にとりつかれてしまったんだろう」
「妄想じゃないわ」
婚約者がきっぱりと言った。「雪子は、クロゼットの中に息を潜めて隠れていた。そして、あなたの声を聞いた。わたしは、覆面の下のおぞましい息づかいを、瀕死《ひんし》の状態で聞いていた。あなたの感触を全身で味わっていた。雪子とわたしは、目撃者であり、被害者だったのよ」
「何を根拠に言うんだよ」
もういいかげんにしろよ、と高井は声を張り上げてから、「ねえ、弁護士さん」と、いきなり甘えた声で夏美に呼びかけた。「こんなことが許されるの? 十四年間、沈黙していた目撃者が、ある男の声を聞いて犯人だと言う。しかも、声の目撃者だよ。それは……目撃者と呼ぶのかな、それとも耳撃者と呼ぶのか。それでもって、十四年前に殺されたという女が目撃者の中に現れて、わたしの身体が犯人を憶えている、その男がそうです、と言う。その上、彼女は……いや、もうどっちの女だかわからない、二人してその男を拷問にかけて吐かせようとした。男は吐かなかったからいいようなものの、痛みに耐えかねてやってなくても『やった』と言ってしまったら、現実にやったことにされちまう。『やってない』と言い続けるかぎり、拷問は続いたかもしれない。これはまさしくリンチだよ。こんなことが人道的に許されるのかい? こんなことに証拠能力があるわけ?」
「それは……」
夏美は困惑し、かわりに答えてほしそうに賢一へ視線を預けた。
「本当なのか、雪子。いや、由貴。雪子がクロゼットに隠れていたというのは」
賢一が、婚約者に聞いた。
「雪子がそう言ったわ。もちろんわたしに面と向かって言ったんじゃなくて、わたしが感じただけだけど。彼女の日記からも企みがわかったわ」
「そして、君のほうも本当なのか? 高井さんがあのときの……君を襲い、自由を奪って……殺した男だっていうのは」
ややためらいがちに賢一は、質問を重ねた。
「わたしの身体が感じてるわ」
その答えを聞いて、賢一は高井の前へ歩み出た。高井はビクッと身を震わせ、「な、なんなんだよ。信じたのか?」とひるんだ。
「すまなかった」
と、賢一は高井に詫《わ》びた。「雪子がひどいことをしてしまった。その刺し傷は、病院へ行かないとだめだ。行こう」
夏美も、「そうね。止血はしたけど、病院でちゃんと手当てしないと」と、顔をしかめた。
「事情は聞かれるかもしれない。明らかにナイフで刺したとわかる足の刺し傷の上に、その爪《つめ》の傷だ。医者が警察に連絡するのは仕方ない。覚悟はできてるよ。雪子の精神状態が不安定だったのに気づかなかったのは、夫の責任でもある。俺が責任を取るよ。事情を聞かれたら、すべてを正直に話そう。恥をさらすことになるかもしれないが、仕方がない」
賢一が言い、頭を下げた。
「い、いいよ」
高井が、賢一と夏美の前に、それぞれ手のひらを差し出し、ひらひらさせた。「さ、さっきのような話をしたところで、だ、誰も信じないだろ? 身内の恥をさらすようなものだよ。そ、そりゃ、痛いけどさ、自分であやまって刺した傷だとかなんとかうまくごまかすよ」
「医師は、自分で診て不審を抱いた傷に関しては、警察に届ける義務があるのよ。たとえ身内同士のケンカだろうが何だろうが。それに……感染症の心配もあるわ。医者に行きましょう」
夏美は、はじめは弁護士の顔で、次に、傷を負わせた〈加害者〉の親友の顔をした。
「それだったら、こうすればいい」
高井は、痛みを忘れたかのような明るい笑顔を作った。とはいえ、バスタオルと包帯できつく傷口を縛った足と、絆創膏《ばんそうこう》を貼った指はやはり痛々しい。「知り合いに整形外科医がいる。そいつに頼んで、内密に治療してもらうんだ。ちょっとお金を弾んでね。別にこの種のことを穏便に済ませようというのは、珍しいことじゃない」
「弁護士として、それはできないわ」夏美が、かぶりを振った。
「医者が警察に伝えたら、もしかしたら俺たちは警察に呼ばれるかもしれない。事情を聞かれて、ひょっとしたら高井さん、あなたのことも……念のため、調べることになるかもしれない。そうなったら、本当に心苦しいけど、あなたも妻に疑われたままでは気持ち悪いでしょう。指紋の提出なんてことになるかもしれないけど、その節はぐっとこらえてよろしくお願いします。こんなことを言い出してしまった雪子がいけないんですが。夏美さん、警察は、雪子の話をどこまで信用するだろうか。弁護士としての君の感触は?」
賢一は、妻の親友であり弁護士である夏美に、意見を求めた。
「そ、そうね」
夏美は、戸惑いを表情に浮かべて、賢一から高井、そして賢一の婚約者へと視線をさまよわせた。「十四年前のあの事件で、クロゼットに隠れていた人物がいた、というのは重大な手がかりになる。雪子……そう、雪子でいいのよね、彼女がそのとき聞いた男の声がどんな声だったか、警察に証言すれば、もうほとんど時効寸前だった事件が間違いなく動き出す」
「だから、信じないってば」
声に苛立ちをこめて、床に座り込んだ高井が吐き捨てるように言った。「あんたたちの奥さんで、ええっと友達は、自分のことを雪子じゃない、と言ったりするんだぞ。いきなり違う人格が現れたりする異常人物なんだ。誰がそんな人間の証言を信じるんだ」
「多重人格者かどうか判断するのは、専門家の仕事よ。本人の、ううん、夫である賢一さんの了解さえあれば、専門家の立ち会いのもとに警察で話をできるわ」
夏美が、ムッとした顔で反論した。
「ああ、君たちも毒されてるのか? こんなおかしな女に振り回されていていいのか? 早くかたをつけようよ。あんたたちは、あの恐怖を味わわなかったから、こんなに冷静にしていられるんだ。ナイフを突き立てられ、煙草の火を押しつけられ、生爪をはがされてみろよ。そんなのんきなことは言ってられないぞ」
高井は、ああ、と声を漏らし、紐で縛られた跡が手首に残る左手で、床をばあんと叩《たた》いた。そして、「あそこにいる女はね」と、きっと雪子だか由貴だかわからぬ女を睨《にら》みつけた。「わけのわからんことをまくしたてた。嫉妬《しつと》に狂った女の醜態とやらをたっぷり見せてくれた。ヘドが出そうになるほどね。どちらかがどちらかの部屋に忍び込み、ウエディングドレスを無断で着ただとか、口紅を塗って、その姿を鏡台に映してうっとりしただとか……」
「鏡台?」
黙っていた婚約者が、胸をつかれたように自分を殺したと信じている男へ、すっと氷のように冷たい視線を送った。「わたしは、鏡台なんて言葉は、一度も使ってないわ」
「う、うそだ」
高井はうろたえ、視線を宙にさまよわせた。
「言ってないわ。本当よ。テープを聞いてもらってもいいわ」
婚約者は、賢一と夏美を交互に見て言った。小型のテープレコーダーは、広間の隅に置かれた観葉植物の鉢の裏にセットしてある。セットしたのは、雪子だ。
「だったら、きょ、鏡台と言ったのは、ほ、ほら、あれだよ。あんたの家で、鎌倉彫りとかいう鏡台を見ただろ? それが頭の中にあって、ごっちゃになっちゃったんだよ」
高井は、しどろもどろになって説明した。
「十四年前の十一月に、わたしの部屋で見たからでしょ? あなたはわたしの裸をじっくり見たくて、恐怖にひきつる女の顔をたっぷり見たくて、机の上のスタンドの明かりをつけた。犯したのは床の上だけど、わたしの遺体を横たえたのはソファベッドだった。すぐ隣に鏡台があった。だけど、あのとき鏡台のふたは閉まっていた。あれは、ふたを開けると三面が鏡になるタイプのものよ。亡くなった母の形見だった。ふだんはふたを閉めている。そういうものにくわしくない男性が見ても、すぐに中が鏡になっているとは気づかない。それなのにあなたは、わたしが『鏡に映した』と言っただけなのに、『鏡台に映した』と受け取った。あの部屋に、わたしの部屋に、入ったことがあるせいじゃないの? わたしを殺したのはあなただからでしょ? 誰も知るはずがない、などと思ってはだめよ。知っているのよ。神が? いいえ、あなたが殺した女が知っている。被害者は死んだあとも、犯人を憶えているものなのよ」
高井は、目を見開き、脈絡なく「知らない」というひとことをつぶやいた。
「じゃあ、聞くわ。雪子の家の和室で見たのは、どういう鏡台?」
「よ、よく見えなかったよ。ただ、ああいうの、よく田舎にあるじゃないか。男だって、知っているやつは知ってるさ。三面鏡ってやつだろ? ふたに何か彫ってあった。花の模様だよ」
「どういう模様?」
「ど、どういうって……花だよ。つんと伸びた花。上のほうが開いた花」
「それは、みずばしょうよ。雪子のところにあったのは牡丹《ぼたん》。デパートで見つけて、わたしがわたしあてに送ったのよ。懐かしくなったのと、そう、雪子を怯《おび》えさせて、追い出すためにね。わたしが出現する回数を増やすためよ。みずばしょうは、母の形見の鏡台の模様。あなたが見たのはわたしのほうよ」
「き、記憶違いだよ。た、確か、ど、どこかで見たような気がしたんだ。お、おいおい、人間の記憶なんて、あやふやなものだよ。ね、ねえ、高木さん、ねえ、弁護士さん」
高井は、二人に向かって、お願いします、というふうに手をこすり合わせた。
「こうなったら、頭のおかしな妻につき合ってもらって、高井さんに身の潔白を芝居でも晴らしてもらう以外に道はないですね」
賢一が穏やかに言った。「どうせあと一年で時効です。そうなったら、犯人の遺留品、毛髪や血液型鑑定の結果、などは遺族の了解を得て、処分するか引き渡されます。その前に、あなたの身の潔白を証明するために、あなたの毛髪や指紋を提供していただけませんか? 減るものではありません。警察も、あなたが精神的苦痛や肉体的苦痛を受けるに至った経過を聞いたら、たとえガセネタでも興味は持ちます。いちおう傷害事件ですからね。被害届けを出してください。ここには弁護士がいる。彼女の社会的立場も考えて、この事件をなかったことにはできません。わたしたちは、そう、あなたに償う義務があります。ねえ、夏美さん」
「えっ?」
夏美は、ふっと顔を上げ、賢一の視線の先を見て、思いあたったようにうなずいた。「あ、ええ、グラスからもいちおう指紋が採取できます。そこのワイングラス、これは言葉が悪いですけど、押収していいですね。予備の絆創膏についたあなたの体毛も。それから、これは当時、事件を担当した検事に聞いた話だけど、現場から検出された指紋の中には、特定できなかったものが数個あるそうなの。たとえ犯人が手袋をはめていたとしても、手袋っていうのは完全防具じゃないのよね。材質によっては、はめるときについた指紋がそのままどこかに付着してしまうし、汗がにじみ出て現場に体液を残すこともある。検事は、照合する指紋さえ現れれば、と話していたわね」
「畜生」
つぶやきがあった。恐ろしく低く、うめくような声で、声の主を特定するのに一瞬の間があった。声の主は、高井健二だった。
12
「おまえら、まるで罠《わな》にはめるように俺を追い込む気だな。下手な芝居しやがって、うそくせえ」
高井の形相は変わっていた。顔が歪《ゆが》み、顔のあちこちに不吉な影ができていた。
「何が何でも俺を、警察に引っ張って行く気だな? こういうシナリオが最初からできてたのか? あんたの奥さんから話を聞いてたのか?」
賢一が答えなかったので、高井は夏美を見た。夏美は、この男のそばにいるのが怖くなって、身を起こし、後ずさった。足を怪我《けが》し、動けずにうずくまった彼を、三人が取り囲む形になった。いちばん距離を置いているのは、賢一の婚約者だ。
「ち、違うわ」
夏美は言った。言ってから、こう答えてもよかったのだろうかと不安になった。だが、賢一は夏美の言葉に同意も反論もしなかった。
「なぜ、由貴を殺したんだ」
賢一は聞いた。責める口調ではなかった。ただ静かな深い悲しみがこめられた声だった。夏美は、賢一が、高井を〈塚本由貴を殺した犯人〉と決めつけたことに驚いた。弁護士の彼女は、賢一の心理的に高井を追い詰めようという作戦にはとっさに加担したが、まだ彼が犯人だと断定する自信はなかったのだ。
しかし、高井健二ははっきりと認めた。
「俺の顔をひっぱたいたからさ。俺に逆らったからさ。騒ぐと殺すぞ、と脅すとたいていの女はおとなしくなる。覚悟する。彼女もそうだった。おとなしくなったと思って気を抜いたら、あいつは自由になった右手で俺の頬《ほお》を打った。ばかな女だぜ、俺を怒らせて。プライドってやつがひどく高い女だったんだろう」
「悔しかったのよ」
婚約者――塚本由貴は、低い声でそれに答えた。「賢一さんだけの身体《からだ》でいたかったのに、あんたみたいな男に汚されたのが、悔しくて、悲しくて……」由貴は、両手で顔を覆った。
「むしゃくしゃしてたんだ、あのころ。入りたくもない大学に一浪して入って、昔の友達がみんな輝いてまぶしく見えた。中学の同窓会に出たのがまずかったんだ。ひそひそ話が耳に入った。『あいつも落ちぶれたもんだな。昔秀才、いまは凡才』、そんなふうに俺のことを話していた。しかし、それが直接のきっかけじゃない。女にふられたんだ。ばかにされたんだ。英美という名前だった。英語の英に美しい。そいつは、ある日、突然、『あなたのひがみや屈折にはつき合ってられないわ』と言って、三歳年上のエリートサラリーマンと婚約して、海外赴任について行ってしまった」
賢一と夏美は顔を見合わせた。由貴は、顔を覆ったまま、少し離れた場所にある一人掛けのソファに浅く腰を下ろしている。
「おまえの挫折《ざせつ》の原因は何なんだ」
と、賢一が尋ねた。
「挫折?」
高井がすっとんきょうな声を上げ、目を細めて賢一を見上げた。が、すぐに、ああ、と納得した顔になった。
「高校三年の途中までトップクラスにいた俺が、なぜそのまま東大に進めなかったのか、そういう意味かい? 東大に入るために日本に来た優秀な高木賢一君にしてみれば、不思議でたまらないんだろうね。君の目標は、そこにしかなかっただろうから。簡単なことさ。母親が息子の家庭教師とできちゃったのを、その息子が見ちゃったからさ。おふくろは、完璧《かんぺき》な女性だった。小さいころから、整理整頓好きで、しつけも厳しかった。おふくろは、だらしない女が大っ嫌いだった。いつもきちんとしていて、家でも崩れた格好などしなかった。だけど、厳しいだけじゃなくて、愛情が深かった。小学生のころ、身体が弱かった俺はいじめを受けた。そのいじめに身体を張って抗議し、俺を守ってくれたのは父親ではなくおふくろだった。理想の……女だった。それなのに、信じられなかった。高校二年から三年にかけて、親父は北海道に単身赴任した。
あれは、俺が塾の合宿で家をあけた夜だった。急に腹痛を起こした俺は、家に帰された。電話をいれずに直接家に帰った。鍵を使って中に入った。音楽が流れていた。俺は『ただいま』と言おうとして、ハッとした。音楽とは別の異質な声が奥から聞こえてきた。男と女の……あのときの声だった。俺は飛び出しそうな心臓を押さえながら、足音をしのばせて近づいた。そして、ドアの細い隙間《すきま》から見た。男と女が絡み合っていた。あとは……言わなくてもわかるだろ。良妻賢母の鑑《かがみ》みたいな顔をしたおふくろが、別人のように乱れていた。あれほど女の足が上がるものかと思うほど足を高く上げていた。まるでこんにゃくのように、くねくねしていた。おふくろの尻は驚くほど白かった。整理整頓魔のはずが、スカートやら……下着が、そのあたりに脱ぎ捨ててあった。それで、俺のすべてが覆った。あっけない。簡単なものさ。俺は自堕落になった。気持ちいいほど成績が急降下した」
「お母さんには……」
自分の見たことを話したのか、と夏美は聞きたかったのだが、その質問は残酷すぎると気づいた。
高井は、夏美の質問を察して首を横に振った。「おふくろと家庭教師、ああ、大学生だったよ。二人は俺が情事――あのころは、そんな言葉、知りはしなかったけどね――を見た二か月後に死んだ。息子の堕落のほんのさわりだけ見てあの世に行けたんだから、幸せというものさ。おふくろは、息子に気づかれているとは夢にも思わなかっただろう。いままでと変わりなく、厳しく、やさしく、たとえ息子に対しても礼儀正しく接した。あんな媚態《びたい》など、日常生活では想像もできないかのように。二人は、おふくろの運転する車で事故を起こして死んだんだ。表面上は、家庭教師をして遅くなった大学生を家に送り届ける途中の事故だった。だから、おかしなうわさは幸い、立たなかった。親父も知らない。おそらく、三年前に病気で死ぬまで、おふくろが不倫していたことなど知らなかっただろうね。親父は、おふくろを信じきっていた男だったから。というより、おふくろを侮っていたんだろう。二人がいなくなって、せいせいしたから勉強をする気が起きたかって? ははは、そんな単純なものじゃなかったね、人間心理ってのは。俺の堕落はかくして起き、それでも余力で入った二流の大学で、ゼミの教授に拾い上げられたところで目が覚めて、終わった。マスコミ関係のゼミだった。かくして俺は、まあまあ名の通った出版社に就職できた。これでいいかい、優等生の高木賢一君」
「君の知らなかった母親の一面を見て、君が大切にしていた理想の母親像が汚されたってことか? それで、憎悪が死んだ母親のかわりに女性一般に向けられたのか?」
賢一が、静かな憤りを声にこめて追及した。
「おふくろの名前は、美里といった。美しいに山里の里だよ。壁に掛ける額は、神経質なほど俺に確かめさせた。『ねえ、曲がってない? ちょっと右が下がっていない?』ってね。まっすぐに掛けないと気持ち悪い、そういう性格だったんだ。ものを置くときもそう。線を引くときもそう。まっすぐに。ます目に字を書くときもそう。はみだしてはいけない。右上がりも左上がりもだめだ。バランスのいい字。名前のとおり、左右対称の美が好きな、そう……シンメトリーな美しさを持った女性だった。髪も真ん中から分けていた。左右の目の大きさも同じで、顔に歪みがなかった。凜《りん》とした美しい女だった」
高井は、遠くを見つめるような目をした。新しい涙がにじんでいた。
「美里……英美……そして、由貴」
夏美はつぶやいた。
「すべて字で書くと、シンメトリー、左右対称な名前だ」
賢一が、あとを引き取った。
由貴がふっと顔を上げた。惚《ほう》けたような顔をしていた。「わたしを……わたしを知ってたの?」
「一度、舞台を観た。髪を真ん中分けにした古風な役だった。パンフレットを見たら、由貴と名前が載っていた。俺は興味を持った」
「わたしのあとをつけたの?」
「偶然だよ。N女子大生だとは知っていた。あの夜、たまたま合宿をするとアルバイト先で耳にした。稽古場は近くだった。アルバイトが終わったあと、稽古場になっている建物の前を通った。あの女が出て来た、由貴という名前の女がね。俺はあとをつけた。電車に乗って、降りて、そしてあのアパートへ。後ろ姿を見ていたら、彼女がおふくろに、英美に見えてきた。最初は、脅かしてやろうと思っただけだよ。いままでの女のようにね。鍵を開けて部屋に入る瞬間を後ろから羽交い絞めにする。そういう手口で、何回かうまくいった。女を犯しているときは、頭の中におふくろの姿態が浮かんだ。おふくろを犯しているような気分になった。そう、俺を裏切ったおふくろに復讐《ふくしゆう》している気分にね。そのときだけは、すべてを忘れてすっきりできた。だが、また同じだ。俺は自分の人生が、あの時点でねじ曲がってしまったことを恨み、おふくろを恨んだ。おふくろはいいさ、息子想いの良妻賢母のまま清らかに死んでいったんだからな」
「あなたは、お母さんを憎みながら、どこかでお母さんの死を悼んで、失った愛を求めていたんだと思う。あなたにとってお母さんは、理想の女性だった。あなたはお母さんを愛していたのよ、女性として。だから、父親より若い、けれども自分より年上の、知的でたくましい若い男に汚されて……怒り狂ったのよ。それは……潜在意識の中で、あなた自身がしたいことだったんだわ」
夏美は言った。
「分析はよせ」と、高井は、紙をすぱっと切るような鋭い声で言った。鼻の穴がふくらみ、頬が紅潮していた。ずばりと心理を言いあてられたせいだ、と夏美は思った。
「ほかにも襲った女性がいるのか? 彼女たちも、左右対称の名前の持ち主なんだな」
賢一の口調は、冷静な刑事の尋問に似ていた。
「よく憶えてないよ。二人……いや、三人。亜由美という名前は憶えている。アルバイトをしていたコンビニで、宅配便の手続きをしたことがある。そのとき名前を書き込んだ。名前と顔を見て、興味を持った。あとは……憶えていない」
「当時の似たような手口の事件を調べれば、被害者の女性はわかるわ。でも……彼女たちが被害届を出しているかどうかはわからないけど」
夏美も、弁護士としての口調を心がけて言った。
「由貴との接点は、一度きりの観劇だったのか。それで、捜査線上には浮かんでこなかったんだな」
賢一がため息をついた。
高井は、覚悟を決めたのか、すすり泣いている。彼の喉《のど》をひきつらせるようなすすり泣きだけが、森の中の洋館に響く。暖炉の火が消えかかっている。
「俺は親父に裏切られ、高井、おまえはおふくろに裏切られたのか」
賢一がぽつりと言った。夏美は、二人の同い年の男を交互に見た。二人の中に、十四年前の大学生の顔を見た気がした。
「由貴さんに……由貴さんに謝罪して。悪かった、と謝って」
と、夏美は高井に言った。高井は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ソファにいる由貴に顔を振り向けたが、すぐに夏美に戻した。そして、「俺は信じない」と言った。「彼女が、俺の殺した女だなんて……絶対に信じない」
「そうよ」
由貴が、不意にすっくと立ち上がった。三人とも彼女に注目した。「わたしは由貴じゃない」
「君は……」賢一が彼女に数歩近づいた。「雪子に……戻ったのか?」
「これから、わたしが雪子になるのよ」
由貴は言い、両手を広げた。「雪子を追い出して、わたしが由貴ではなく雪子になる。そう、『ユキちゃん』と呼ばれていたあの『ユキコ』にね」
「追い出すって、どういうことだ?」
「わたしが出現する回数を増やしていくのよ。いままでだって、わたしが雪子に命令する立場にいたのよ。今回のことだって、いまのままでは賢一さんとの幸せな生活が望めないわよ、と脅したら、覚悟したようだった。やったのはわたしだけど、雪子も共犯なのよ。睡眠薬を用意して、恵理子さんに飲ませたのも、電話のコードを抜いたのも彼女よ。車のタイヤがパンクしなかったら、夏美さん、あなたも賢一さんも眠ってもらうつもりだった。雪子は賢一さん、あなたの子供をほしがっていた。頭痛薬や精神安定剤を飲みすぎるのは、身体によくないと言い聞かせて、頭痛を起こす回数を頻繁にさせた。それで、わたしが出やすくなったのよ。わたしが雪子を凌駕《りようが》していって、ついに彼女を追放してしまう。それがわたしの目的だったの」
しゃべりながら由貴は、賢一に近づいて行く。
背筋を伸ばし、手を広げ、美しい微笑を浮かべて語る由貴は、まるで舞台の上の女優がセリフを読んでいるように夏美の目には映った。
「ねえ、賢一さん。昔に戻りましょう。楽しかったあのころに。わたしはようやく賢一さんの妻になれる。婚約者と呼ばれる屈辱から解放される。このときをどんなに待っていたか」
「待っていた?」夏美は、眉《まゆ》をひそめた。
「そうよ、待っていたのよ。夏美さん」
由貴は、楽しげに夏美の名前を呼んだ。「このときのために、わたしは雪子に協力してあげたのよ。雪子が大好きな先生、そう、賢一さんと結婚できたのは、わたしのおかげなのよ。それもあって、彼女はわたしには頭が上がらないのよ。気づいたのは最近みたいだけど。彼女がわたしに弱みがあるのは、わたしを見殺しにしたせいだけじゃない」
「ど、どういうことなんだ」
賢一が、つっかえながら聞いた。
「雪子の婚約者を殺してあげたわ」
夏美の背筋に戦慄《せんりつ》が走った。「だ、だって……」と思わず口にしていた。
「はじめて出現した日よ。あの日、雪子は『この人と結婚してしまっていいのだろうか』と激しく葛藤《かつとう》していた。賢一さんのことが忘れられなかったのよ。車が猫を撥《は》ねた。彼女は車を停めさせ、猫を抱いた。同じだった。賢一さんとわたしが、道端で車に撥ねられて死んでいた猫の死骸《しがい》を見つけ、賢一さんが抱き上げたときと。『猫にも自尊心や美意識はある』と、あのうっとりするような言葉を語ってくれたときよ。あのとき……わたしが呼び出された。わたしは雪子の婚約者に事故を起こさせ、死なせた。だからこそ、いまこうして雪子は、賢一さんと願いどおりに結婚できているのよ」
「うそだ」賢一は、かぶりを振った。
「信じたくないの? わたしが雪子のためにしてあげたことが、そんなに気に入らないの? わたしには肉体がないのよ。だから、こうやって雪子に寄生するほかはないの。悔しいけど、婚約者のわたしが妻の雪子にね」
由貴が生前の婚約者に近づく。婚約者は後ずさる。
「あなたは、雪子の身体に乗り移ったの?」
夏美の言葉が、由貴の足を止めさせた。由貴は、寄生している女の親友ににっこりした。
「乗り移ったんじゃない、雪子だ。雪子が由貴を産み出したんだ。雪子の罪の意識がね。雪子と由貴。『ユキ』という同じ呼び名が、雪子の中に別の人格を生ませる要因となったんだよ。それから、演技だ。二人とも、演技をすることが日常的になっていた。雪子が、自分の立場にいるのは本来なら『由貴』ではないか、と思い始め、彼女の姿を自分にだぶらせているうちに、現実と演技の境がつかなくなっていったんだ。だから、君は由貴なんかじゃない、雪子なんだよ!」
賢一が叫んだ。
「雪子は、わたしを見殺しにしたのよ。この男から聞いたでしょ? クロゼットに隠れ、わたしが犯され、殺されるのを、息を潜めて待っていたのよ。最愛の人の婚約者がこの世から消えるのを、わくわくして待ってたんだわ」
「雪子は、そんな女じゃない。雪子は……」
「そういう女を愛せるの? 合鍵《あいかぎ》を盗み、コピーして無断で部屋に入り、ウエディングドレスを着たり、クロゼットに隠れたり。そんな犯罪者をあなたは愛せるの?」
「雪子は俺だ」
「えっ?」由貴の目が濁った。
「俺には……雪子の気持ちがわかる。雪子は君のアパートの合鍵を持ち出した。部屋に無断で入り、君のウエディングドレスを着た。クロゼットの中に隠れて息を潜めていた。彼女も怖かったんだよ。彼女はまだ十三歳だったんだ。だが、それが直接、君を死に追いやったんじゃない。俺は、雪子を許している。雪子のすべてを受け入れているんだ」
「うそよ」
由貴の唇が震えた。
「俺は、そういう雪子を愛している。俺たちは……いとこなんだ。俺は、いとこだからこそ彼女を愛せることに気づいた」
「うそよ」
さっきよりも震える声で、由貴は言った。「賢一さん、はっきりわたしに言ったじゃない。『ユキちゃんのことは、いとことしてしか考えられない。一人の女性として見られない。それはあと十年たっても同じだ』って。あれはうそだったの?」
「十年たてば、人は変わるんだ。あれから十四年たった。雪子も俺も……変わった」
賢一はそう答え、後ろにいる夏美に、そして、膝《ひざ》を抱え込み、背を丸めている高井に、彼らも同じだよ、というふうに視線を投げた。
「変わらないのは、わたしだけ。そういうことね」
由貴は、泣き笑いのような表情で言った。
しばらく誰も動かず、しゃべらずにいた。暖炉の火が完全に消えた。夏美は、急激に室内の空気が冷えたのを感じた。
いきなり由貴が動いた。長いソファのほうへ弾かれたように動くと、何かをつかんだ。果物ナイフだった。柄を両手で握り、賢一のほうへ突き出した。
「やめて、由貴さん」
夏美は、由貴の名前で雪子の姿形をしている女に呼びかけた。
「賢一さんを雪子にとられるくらいなら、わたしが殺す」
由貴は、唇をわななかせて言った。
賢一は身動きしなかった。
「あなたが賢一さんを刺したら、雪子が刺したことになるわ。お願い、やめて」
夏美は声を振り絞った。
由貴の手は震えていた。切っ先が揺れる。不意に彼女は、ナイフを捨てた。賢一の脇《わき》をすり抜け、中二階へ続く階段に向かって走り出した。
「由貴!」賢一があとを追った。夏美も続いた。由貴は、中二階から三階への螺旋《らせん》階段を上がるところだった。
「来ないで!」彼女は叫び、振り向いた。その勢いに、切迫したものを感じ取って二人は踊り場で足を止めた。
「わたしは雪子の身体の中にいるわ。雪子が死ねば、わたしも死ぬ」
由貴は、艶然《えんぜん》と微笑んだ――ように夏美には見えた。舞台女優のようだった。三階の窓から身投げするつもりだということがわかった。夏美と賢一は、顔を見合わせた。賢一が階段を駆け昇った。
由貴は前に向き直った。その瞬間、裾《すそ》の長いフレアスカートが、手すりのあいだに挟まった。彼女はスカートの裾を引いた。三センチヒールの靴の爪先《つまさき》が、ステップの蹴込《けこ》みにぶつかった。
彼女はバランスを崩した。身体がよじれた。落下する瞬間、彼女はこう思った。
――この身体は扱いにくい。この身体にはまだ……慣れてないんだわ、わたしは。
*
「ユキ」
「ユキ……コ」
「ユキコ、ユキコ」
遠くから、名前を呼ぶ声がする。ユキと呼んでいるのか、ユキコと呼んでいるのか、彼女には判別がつかなかった。ユキとは誰かしら、ユキコとは誰だったかしら、と彼女は、額に文鎮でも載せられたような鈍痛のする頭で考えた。どう漢字をあてるのだろう、と考えた。
目が開いた。男と女の顔があった。二人は、それぞれ男と女の声で「ユキコ」と彼女を呼んだ。不安そうな中に、親しげな響きがこもっていた。
「ユキコか?」と、男が聞いた。彼女は、反射的にうなずいた。
13
コーヒーのおかわりをしたときに、ガラス戸の向こうに待ち人が映った。紺色のトレンチコートの襟を立て、ベルトをきりっと締めて着ている。映画に出てくるキャリアウーマンみたいだわ、と雪子は彼女を見て思った。夏美は、ガラス越しに雪子に手を挙げ、にっこりした。
「お待たせ」
店に入り、テーブルに来た夏美は、息を切らせていた。「ごめんね、十五分遅刻しちゃった」
「いいのよ、あなたは忙しいんだから。それより、こちらこそ、こんなところに呼び出しちゃってごめんなさい」
コートを脱ぎ、隣の椅子《いす》に書類|鞄《かばん》とともに置くと、夏美は店内を見回した。「へーえ、これがあの問題のお店」
吉祥寺の井の頭公園近くのレストランである。
「変わってないの?」
「うん、十四年前とほとんど同じ。少し改装したみたいだけど、椅子の位置や飾ってある絵はまったく変わってないわ」
夏美に「今後のことで話がしたい」と言われたとき、雪子は自宅ではなく、この吉祥寺のレストランを指定した。十四年前に、由貴が雪子と賢一を招いてくれた店だ。この店で、雪子は賢一が由貴に貸した本を隠した。あれが、二人を婚約に至らせる結果につながった……。
あのときと同じ場所で、同じテーブルについている。
「夏美、なんだか顔が明るいね」
同じものを、とウエイターに頼んだ夏美に、雪子は言った。
「えっ、わかる?」夏美が頬《ほお》を紅潮させた。
「恋人でもできたの?」
「あっ、うん」
「誰よ、誰。教えて」雪子は、身を乗り出した。
「わ、わたしじゃないよ、弟」
「忠志君?」
「弟の身体に理解を示してくれる人が、ようやく現れたみたいなんだ。会社の野球部でマネージャーをやってる女性なんだけどね。どうやら結婚までたどりつけそう。時間はかかったけど……待っててよかった」
夏美は、鼻を一つ、すすって言った。今日は珍しく眼鏡をかけている。
「おめでとう」
「うん、ありがとう」
夏美はそう言って、顔を引き締めた。「で、雪子のほうだけど」
「あ、うん」
雪子も背筋を伸ばした。「覚悟はできてるわ」
高井健二が警察に出頭するのにつき添ったのは、弁護士の夏美だった。高井から採取した髪の毛と、十四年前に現場に残っていた犯人のものと思われる短く硬い髪の毛の形状等が一致した。由貴の部屋からは、高井の指紋は検出されなかったが、世田谷《せたがや》区内に住んでいた女性の部屋から検出された指紋と彼のものとが一致した。その女性も、当時、由貴と似たような手口で何者かに暴行されかかったが、悲鳴を上げて難を逃れた被害者の一人だった。彼女の名前は、「亜由美」である。現在までに、高井の欲望のはけ口とされた被害者で、名前が判明しているのは、その「亜由美」と「益美」の二人の女性である。
「高井健二は、いまのところ自供が一貫しているわ。別荘で、弁護士と友達を前にして、罪の意識から十四年前の殺人を告白したってね。事件の話題が出た。当時の被害者の婚約者だった男が、いま目の前にいるという事実が重すぎて、罪の意識に耐えられなかった。そんなふうに話しているわ。爪の怪我《けが》は枝を拾っているときにとげを刺した傷、足の怪我は、被害者を慕っていた女性に責められての発作的な自殺のためらい傷、そんなふうに供述しているけど、裁判ですべて覆すかもしれないわ。ああ、煙草の火傷痕《やけどあと》だけはごまかせないと思ったみたいね。親しい人を殺された憎しみから、自分が吸っていた煙草を取り上げられて、雪子に押しつけられたもの、と言っているわね。でも、いまは、雪子のこと、あっ、由貴さんのこと、と言ったほうがいいかな、とにかく、雪子のことを持ち出してすべてを正直に話しても、信用してもらえず、かえって自分の心証が悪くなると考えているらしいの。あっちの弁護士にもそこまでは話してないようだわ。でもね、裁判で翻ったら……そのときは、雪子、わたしがついている。わたしが弁護する。こっちには録音したテープもあるし」
しかし、そのテープを公開すれば、雪子の〈病気〉のことも明るみに出てしまう。それを思ってか、夏美は自分自身に言い聞かせるように、「大丈夫よ」と大きくうなずいた。
「でも、夏美」
雪子は、胸の高鳴りを抑えて言った。「そんなことしたら、弁護士としての、夏美の立場が危うくなるんじゃないの? だって、夏美はあの場に居合わせて、起きたことを全部見ているんだもの。事実を伏せておくなんて……」
「弁護士は、依頼人の不利益になることは話さないものなの。それに、雪子はわたしの友達だよ。中等部からの友達だよ。そのときはそのとき。わたしも……覚悟できてるって」
「夏美……」
雪子は、中等部時代の夏美の顔を、いまの彼女のそれにだぶらせた。変わっていなかった。少なくとも、自分が変わったよりは。
「それより、身体のほうは?」
「あ、うん、大丈夫。治療は順調に進んでいる。頭痛も起こらなくなったし」
「由貴さんが……諦《あきら》めてくれたのかな。賢一さんのあの言葉を聞いて、自分の出る幕はない、と悟ったのかもしれないね。『俺は雪子だ。俺は雪子を愛している』ってね」
「…………」
「由貴さんも……可哀想《かわいそう》だよね。幸せを手に入れる一歩手前で殺されてしまって。あの声は、雪子の声だったけど、あの言葉は……由貴さん自身のものだったのね。真犯人を追いつめたのは、由貴さんの執念だったのかしら。それとも……」
「わたしの中にあった罪の意識?」
そうかもしれないわね、と雪子は自分の言葉にうなずいた。「お姉さまは、やっぱりわたしを恨んでいたんだわ。当然よね。わたしがお姉さまに賢一さんを渡すまいとして、いろいろ仕掛けたんだもの」
「でも、賢一さんも言ったように、雪子のしたことが直接、彼女を死に追いやったんじゃないわ。賢一さんは雪子を許してくれたじゃないの」
「夏美、あなたは?」
「わたし? わたしは……やっぱり、賢一さんと同じよ。『雪子は俺だ』の心境かな」
夏美は、照れくさそうにちょっと笑った。
「夢を見ていたみたい」
雪子は言った。いつからいつまで夢を見ていたのか、正確にはつかめないが、そんな気がしている。自分の中に「由貴」の人格が生まれているらしいことには、デパートから鎌倉彫りの鏡台が届いた直後からうすうす勘づいていた。ときどき頭の芯《しん》を震わすような声がした。「あの声」が、由貴の声に似ていると気づいた。あの声は鋭く、厳しく、強かった。雪子は、その声に支配されているのを感じた。だが、はじめて客観的に「由貴の人格」を知ったのは、今月になって雪子のカード会社から「ご利用代金明細書」が届き、そこにあの鎌倉彫りの鏡台の金額を見たときだった。由貴は、雪子のカードで買い物をしていたのだった。おそらく、買い物の控えなどはその場でゴミ箱にでも捨ててしまったのだろう、と雪子は思っている。
窓の外を、白いコートを着た女性が通った。雪子はその白いコートを目で追った。夏美に視線を戻すと、彼女もちょうどそのコートから親友に視線を戻したところだった。
「あのウエディングドレス」
二人は同時につぶやいた。つぶやいたきり、ドレスの話題はしなかった。
夏美の書類鞄の中で、何かがピーピーと鳴った。
「あっ、呼び出しだ」
夏美は舌を鳴らし、それを鞄から取り出した。ポケットベルだった。標示板の数字を見て、「あの件だ」とつぶやき、雪子へ顔を上げた。「ごめんね、ちょっと電話して来る。あ、ああ、忙しすぎるのもよくないと思って、携帯の持ち歩きをやめたの。で、かわりにポケベル。でも、やっぱり縛られるのは同じなのよね」
雪子は微笑した。どうぞ、と目で合図した。夏美は席をはずした。レジの横にある電話で、どこかにかけている。
雪子の脳裏に、あのウエディングドレスのほっそりした繊細なシルエットが浮かんだ。
「いつまでもこんなところに置いておかないで。あなたのものなんだからおたくへ移して。次は、夏美さんが着るんでしょ? かさばるのよ、これ」
そう言って、千恵子がウエディングドレスの入った箱を納戸から運び出した。雪子はふたを開けた。母と娘は、同時に叫び声を上げた。十四年の時を経てもまったく色褪《あ》せていなかったはずのあの純白のドレスが、数百年を経たドレスのようにぼろぼろに崩れていたのだった。
――ドレスが持っていた〈魔力〉が消えたんだわ。
雪子は、そう解釈した。あのウエディングドレスは、昔と変わらぬ姿のままで、十四年間雪子を待ち続けた。着たのは雪子だが、着せたのは由貴だ。由貴自身が、何としてでもあのドレスを着たかった。その執念が、ドレスに〈魔力〉を与えたのだ、と。だが、そんな話は誰にしても、信じてもらえそうになかった。
夏美は、まだ電話をかけている。ときどき頭を下げたり、空いている右手を「違う」というふうに振ったり、すっと背筋を伸ばして眼鏡に手をかけたり、有能な女性弁護士の貫禄を漂わせている。
――夏美がいてよかった。
雪子は思った。思った瞬間、こめかみに鈍痛が生じた。
――夏美がいてよかった? どうして?
自問した。
――どうしてって……。だって、彼女は親友だもの。十四年間、ずっと親友だった。
――本当にあなたの親友なのかしら。あなたの味方なのかしら。
――本当にって?
――彼女は、何かあなたを助けてくれた? あなたの邪魔をしたんじゃなかったの? 大好きな先生を諦めるように勧めたり、由貴さんと婚約したときに祝福するように勧めたり……。彼女は、最初は、あなたの友達であると同時に、ライバルだった。違う? 彼女がいたから、あなたも必死に勉強した。
――違うわ。わたしが必死になったのは、賢一さんのひとことがあったから。
――本当にそうかしら。あなたは彼女を意識してたわ。彼女もあなたを意識してたはずよ。
――でも、それはいい意味でよ。刺激し合ったのよ、わたしたち。
――そう思っているのは、あなただけじゃなくって? あなただけが役者に選ばれたとき、彼女が悔しさを感じなかったとは思えないわ。彼女はいつもあなたを、羨望のまなざしで見ている。恵まれた家庭、恵まれた容姿、そして、よき理解者である夫の存在。彼女の弟の存在を知ったときから、彼女はあなたの完全な理解者ではなくなった。そうじゃなかったの?
――彼女は、自分を抑えられるのよ。そういう聡明な女性なの。弟想いで、正義感が強くて、友情をとても大切にする人なのよ。
――そう思えるんだったら、あなたっておめでたいわね。どこの世に、そんな完璧《かんぺき》な女がいるかしら。そのことは、自分でよく知っているんじゃないの? 賢一さんのことで、彼女が本当に親身になってくれたと思ってるんだったら、本当にあなたはおめでたいわ。
――なってくれたわ。夏美は、賢一さんのことを「趣味じゃない」と言った。わたしと夏美は、似ている部分もあったけど、正反対な部分もあった。だからこそ、安心して相談ができたのよ。
――本当に「趣味じゃなかった」のかしら。彼女は自分の本心を隠していたのかもしれないわ。自分の気持ちを抑えることに慣れすぎて、打ち明けないままできたのかも。
――賢一さんを好きだったって言うの? まさか……。
――いまも……かもしれないわよ。思い出してごらんなさい。彼女は、出会ったときからずっと、あなたのことを客観的に見ていた。裏返せば冷ややかに見ていたことにならない? 距離を置いて見ていたのよ。
――でも、それは、夏美がとても聡明で知的な女性だから、ちゃんと状況を判断してわたしにいろいろアドバイスしたのよ。それは、腹が立つようなこともあったけど……。
――聡明な女は、緻密《ちみつ》な計算ができるわ。賢一さんとの今後のこともね。最近、彼女きれいになったと思わない? 顔が輝いてるわ。弟の結婚が決まったせいだけかしら。恋している女はきれいになるものよ。
――やめて。彼女はわたしの結婚を祝福してくれたわ。披露宴を企画してくれた。その事実は動かせないわ。ほら、やっぱり彼女はわたしの味方じゃないの。
――それは彼女があなたに、あのウエディングドレスを着せたかったからよ。あれから、あなたの苦悩は始まったんじゃないの。罪の意識を感じさせるようにした。そこまでちゃんと計算してたのよ。
――そんな……、そこまで計算したなんて、そんなはず……。
――彼女はいつも阻止したわ。わたしが賢一さんと結ばれることを。あの女の味方になって、あの女と一緒になって。
――あの女って? 味方って? だから、わたしの味方でしょ?
――味方かしら? 夏美は弁護士よ。あなたは、夏美に生殺与奪の権を握られているようなものよ。彼女の弁護次第で、あなたはどうにでもなるんだから。賢一さんの妻、という座も奪われるかもしれない。
――そんなの、うそよ。
――たとえば彼女が、あなたの精神鑑定を求めたらどうする? あなたは頭のおかしい人間として、社会の片隅に追いやられてしまうわ。賢一さんも失うことになる。
――う、うそよ。
――ほら、あなたの敵でしょ?
――……。
――あの女、雪子の親友だから、当然、あなたの敵よね。
――……?
――あの夏美って女は、これからも、いろんなところで口を出してくるわ。本当にめざわりな女よね。あなたの言ったとおりだわ。
――めざわり? わたし、そんなこと言ったかしら。でも……言ったような気もする。そう、そうだわ。夏美はめざわりな女……。
高木雪子は、自分の頭が混乱し始めているのに気づいた。
笠原夏美という女が、自分の何だったのか、思い出せなくなっている。
スーツの上着の襟にひまわりのバッジをつけた女が、にこやかに雪子の席に戻って来た。
角川文庫『婚約者』 平成9年12月1日初版発行
平成12年10月10日9版発行