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ブルーバレンタイン
新堂冬樹
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プロローグ
足踏みしているようなゆったりとした時間が流れる昼下がりの公園。
ふたりの男の子が競い合うように滑り台を上り、被毛を風に靡《なび》かせるゴールデンレトリーバーが園内を駆け回っている。
砂場ではお兄ちゃんらしき男の子に砂山を崩された幼女が泣き叫び、初老の男性が公園の片隅からそれを微笑ましく眺めていた。
アリサは、ベンチに横たわり、日本で話題になった翻訳物の小説の文庫本を開いていた。
活字から滑らせた視線を、正面のベンチに向けた。
20代後半と思《おぼ》しき母親が、3歳くらいの少女に絵本を読んで聞かせてあげていた。
誰も彼もがまどろむような空気がアリサは苦手だった……というよりも、苦しかった。
アリサが触れてきた空気は肌を刺すような緊張感に満ち、眼にしてきた景色の中に微笑みはなかった。
蘇《よみがえ》りそうになる暗鬱《あんうつ》な記憶の扉を、アリサは慌てて閉じた。
それだけで、鼓動が高鳴り、額に脂汗《あぶらあせ》が滲《にじ》んだ。
意識のスイッチを切り換え、脳内のスクリーンをオフにした。
喜び、怒り、哀しみ、愉《たの》しみ……なにかに反応しそうになったときに、アリサの中で自動的にセンサーが稼働するようになっていた。
一切の感情は、5歳のときに心の奥底に封印された。
それ以来、小鳥の囀《さえず》りを耳にしても、視界を真紅に染めるバラの香りを嗅《か》いでも、無邪気な少年の笑顔をみても、心動かされることはなかった。
そうでなければ、生きてはこられなかった。
『バレンタイン。あと十数メートルで、荷物が届く。荷物はふたつ。グレイの大箱と黒の小箱だ』
耳に嵌《は》められた小型無線から聞こえるコヨーテの無機質な声。
『了解。コヨーテ』
左腕に巻かれた腕時計タイプのマイクに無機質な声を返すと、アリサは文庫本をウエストポーチにしまい、ベンチから身を起こした。
「パパ!」
絵本から顔を上げた少女の視線を追った。正面のベンチの右方向――出入り口から現れた40代の中年男性。
仕立てのよさそうなグレイのスーツを着込んだ男性……大谷《おおたに》は、データに添付された写真と同一人物とは思えないような、柔和な笑顔で少女に歩み寄り、抱き上げた。
歳がいってからの子供は、ひとしおかわいいということか。
出入り口に佇《たたず》む黒いスーツ姿の若い男性が、鋭い視線で周囲を見渡していた。
アリサに巡ってきた視線が止まることはなかった。
先入観念――この世界で、女で得したと唯一思えること。
が、できるボディガードなら、そんな先入観念で気を抜いたりはしない。
鋭いのは眼つきだけ。アリサは、瞬時に男の能力を見抜いた。
アリサが歩を進めるたびに、黒く長い髪が風に掬《すく》われる。
大谷も、妻も、もちろん幼い娘も、近づくアリサに注意を払うふうはなかった。
5メートル、4メートル、3メートル……最初に大谷が、次に妻がアリサのほうを振り返った。
しかし、ふたりには、これから起ころうとしている出来事を予知することができなかった。
アリサがブルージーンズのジャケットの内側に手を入れた瞬間、少女と眼が合った。
泣き出しそうな顔――大人の眼は欺けても、少女には見抜かれていた。
人間は歳を重ねるほどに、先入観念というフィルターが色濃くなってしまう。
子供嫌いの人間が笑顔の仮面で赤子をあやしても泣きやまないのは、内面を見抜かれているから。
幼子は犬と同じ。双眼ではなく心の眼で物事をみている。
少女の涙の浮かぶ瞳《ひとみ》に、アリサは、15年前の自分の瞳を重ね合わせた。
5歳の誕生日。
ほとんど家にいない父と、唯一、過ごせる貴重な日。
いつもより美人な母。いつもより活発な祖母。いつもよりお喋《しやべ》りな自分――父がいることで、家の中がいつもより華やかになった。
ケーキに立つ5本のローソク。揺らめく炎。アリサが、小さな頬を精一杯膨らませ、炎を消そうとしたときのことだった。
儀式を遮るドアベル。玄関に出迎える母。身を強張《こわば》らせる父。
来訪の主がひとり暮らしをしている兄だとわかった瞬間、母が満面の笑みを浮かべ、父の顔が柔和に綻《ほころ》んだ。
対照的に、兄の顔は硬くひきつっていた。
――久し振りだな、元気にしてたか?
息子を出迎えようと立ち上がる父の腕を、アリサは半べそ顔で引いた。
ちょうど、怯《おび》えた眼で自分をみつめる目の前の少女のように……。
アリサは、記憶の扉を閉めた――少女から切った視線を、大谷に移した。
眉間《みけん》に狙いをつけた。サングラスの奥……ひとかけらの感情も残らない氷の瞳で、眉《まゆ》ひとつ動かさずにグロック36のトゥリガーを引いた。
サイレンサーを装着しているので、周囲の人間に気づかれる心配はない。
グロック17の9ミリ弾とは違う、45ACP弾の威力に、大谷がベンチに背中を叩《たた》きつけられるように座り、天を仰いだ。
開ききった瞳孔《どうこう》。事切れているのは間違いない。
マズルを、眉間から心臓に向けた。
ターゲットは二度殺す。ふたり目の父……小野寺《おのでら》に教わったこと。ふたたび、トゥリガーを絞った。
バウンドする大谷――妻の悲鳴。ここで初めて、周囲の人間が異常事態に気づいた。
血相を変えたボディガードが駆け寄ってくる頃には、アリサは実行現場を離れていた。
人形のように立ち尽くし、動かぬ父と半狂乱の体《てい》で泣きじゃくる母を呆然《ぼうぜん》とみつめる少女を視界から置き去りにした。
胸奥で蠢《うごめ》く感情を消去した。
そう、アリサは、任務にマイナスの事柄をパソコンのデリートキーでそうするように瞬時に消し去ることができる――まるで、間違った情報を削除するとでもいうように。
――感情ほど、愚かなものはない。お前の父さんは、優秀なアサシンだった。が、彼はひとつだけ重大なミスを犯した。それは、愛すべき者ができたことだ。
小野寺の言葉を噛《か》み締めながら、アリサは公園の裏口へと駆けた。
見当違いの銃弾がアリサの右斜め前方5メートルの地面を抉《えぐ》る。
シロウトナミノシャゲキジュツ
アリサのコンピュータがデータをインプットする。
データはアリサの次の行動に重要な要素となる。
黒髪を靡かせ針葉樹の木立を疾走するその姿はカモシカのようにしなやかなスピード感に満ち、豹《ひよう》のように隙がなかった。
公園から聞こえるざわめきが遠のいてゆく。入れ替わりに迫る、枯れ枝を踏み折る重々しい足音に聴覚が反応する。
追跡者との距離は7メートルから8メートル。足場の悪さ、追跡者の射撃術、全力疾走しながらの撃発――データを照らし合わせてみると、万にひとつのまぐれ当たりの可能性しかない。
――任務は、万が一の失敗も許されない。1万分の1でも可能性があるなら、その芽を摘むんだ。お前の家族を皆殺しにしたアサシンのようにな。
幼い頃から繰り返し聞かされた小野寺の言葉に、アリサは歩を止めた。
シングルハンド……振り向き様に、真横に倒したグロックのマズルを頬を痙攣《けいれん》させる追跡者――大谷のボディガードに向けた。
トゥリガーにかけた指をくの字に折る。ボディガードは拳銃《けんじゆう》を持つ右腕を上げる間もなく、膝《ひざ》から崩れ落ちた。
俯《うつぶ》せに倒れるボディガードの後頭部。リアサイトからフロントサイトに視線を走らす。
離れた位置からの狙撃《そげき》。7、8メートルの射距離など、四十メートル先のコインを撃ち抜くアリサの腕を以《もつ》てすれば、遠距離のうちに入りはしない。
6歳の誕生日から始まった日に100発の射撃訓練。柔らかな掌《てのひら》は撃発の反動で皮膚が剥《は》がれ、真皮が露出し、箸《はし》を持つこともできず、食事時には器に直接口をつける犬食いをした。
箸は持てなくても、翌日には拳銃を握らされた。
剥がれた皮膚が再生し、また剥がれることを繰り返しているうちに、アリサの掌は6歳の少女のものとは思えないほどに分厚く、まるで象の皮膚のように硬くなった。
掌の傷は癒《い》えて強くなっても、心の傷はいつまでも生々しく口を開いていた。
コイン、空き缶、ペットボトル……小野寺が次々と出すターゲットに向かって、アリサは無心にトゥリガーを引いた。
ほかに、やるべきことが見当たらなかった。いや、やるべきことはあった。
家族を殺したアサシンへの復讐《ふくしゆう》……それだけのために、アリサは女を捨てた。
アリサは、トゥリガーを引いた。ボディガードの後頭部が破裂するのを横目に、駆け出した。
雑木林を抜けた。路肩に停まる濃紺のアウディ。ドアが開き、アリサが助手席に滑り込むと同時に車が発進した。
「仕留めたか?」
アリサは小さく顎《あご》を引いた。
「訊《き》いた俺が野暮だったな」
コヨーテが複雑そうに苦笑いした。
アリサが6歳の頃に、すでにコヨーテは26歳で、アサシンとしての任務をこなしていた。
射撃訓練の際には教官を務めてくれ、また、幼いアリサの世話係的な役割を小野寺に命じられていた。
家族を失ったアリサにとって、ときにコヨーテは兄であり……父であった。
14年のつき合いで、アリサはコヨーテの名前を知らなかった。
それは、コヨーテも同じ。
バレンタインがアリサということも、家族が皆殺しにされたという生い立ちも、なにも知らない。
小野寺の方針だった。
アサシン同士は、任務に関係すること以外の情報交換をしてはならない。
それについての説明はなかった――必要もなかった。
ただ、小野寺の指令に従うだけ。
会ったことのない人間を殺す。それが任務である以上、指令についての説明を受けても意味はない。
組織の中でも、コヨーテは優秀なアサシンだった。
大事な任務には、小野寺は必ずコヨーテを指名した。
困難な任務を、コヨーテは苦もなくこなした。
ディズニーランドで、カップルのふりをしてターゲットの行動を追った。
大久保の路上で、道を訊《たず》ねてターゲットの気を逸《そ》らした。
大阪のとあるマンションのエントランスで、メールボックスを覗《のぞ》くふりをしながらターゲットが出てくるのを待った。
何度か、コヨーテのサポートを命じられた。
無駄のない動き。的確な判断力。精密な射撃術――アリサが立ち会ったいずれの任務も、コヨーテは完璧《かんぺき》だった。
そんなコヨーテも、もう、40歳。
視力、体力、反射神経……年齢を重ねれば、すべてが衰えてゆく。
コンマ一秒の反応の遅れが、命取りになる世界。
2年前。18歳になったアリサの初任務で、コヨーテはサポートに回った。
一切に優先するのは任務遂行ができるか否か――小野寺は、決して情に流された判断はしない。
――ターゲットを狙撃することだけに集中しろ。ほかは、すべて俺に任せろ。
――同じ10メートルの射距離でも実戦はトレーニングのようにはいかない。風速、風量、天候、障害物、ターゲットの動作。実戦ではあらゆる事象が敵になる。だが、最大の敵は緊張と恐怖だ。注意と過敏は違う。警戒と臆病《おくびよう》も違う。ライオンではなく豹《ひよう》を見習え。ライオンの狩りは無駄な動きが多過ぎる。豹は、忍耐強く、警戒心に富み、的確に迅速に獲物を仕留める。
親子ほど歳の離れた新人……しかも女のサポートを言い渡されたコヨーテの胸中が穏やかだったはずはない。
が、彼はそんな素振りを少しもみせずに、初任務のアリサに心構えを説いてくれた。
大谷|重康《しげやす》 44歳 政治経済ジャーナリスト
アリサは、携帯電話に保存していた大谷のデータに視線を落とした。
――某宗教団体から巨額の政治資金を受け取っている現場写真の掲載を取り下げる代わりに、ある政治家にかなりの金額を要求しているらしい。
表向きは出版会社社長。その実、スキャンダル写真をネタに政財界の人間を強請《ゆす》る企業ゴロ。
小野寺が説明するターゲットに関する情報は、いつも、必要最低限のものだった。
もちろん、依頼人の存在を語ったことはない。
不満はなかった。
時、場所、容姿さえ頭に入れば、それで十分だった。
賄賂《わいろ》を受け取る政治家。政治家の弱みにつけ込み強請りにかかる大谷。
どちらに非があるかないかに興味はない。大谷が善人でも悪人でも、指令を受ければこの世から抹殺するだけだ。
「いつから飛ぶ?」
コヨーテが煙草をくわえながら訊ねてきた。
センターでは、ひとつの任務が終われば3ヵ月ほどの休暇が与えられる。
アサシン達は、骨休めを兼ねて強制的に海外に行かされる。
本当の目的は、事件のほとぼりが冷めるまで日本を離れることにある。
行き先は紛争国以外は自由に選択できた。
その気になれば、逃亡することも可能だった。
が、いままでに、逃亡したアサシンはいない。
センターからの追っ手が怖いわけではない。
アサシンが死を恐れるのは鳥が落ちることを恐れるのと同じ――幼い頃からのトレーニングで、彼らは死への恐怖心を完全に拭《ぬぐ》い去られていた。
休暇が終わりセンターに戻ってくるのは、行くべき場所もやるべきこともないから――家族も家もないアサシンには、小野寺が親であり、センターこそが故郷なのだ。
「明日には」
アリサは短く返し、大谷のデータを削除した。
緊急時に海外に飛べるように、センターから渡された、韓国、スペイン、イタリア国籍の変造パスポートを常に携行《けいこう》していた。
李麗水《イヨス》、ビエルサ・カルディナ、ベルトリッチ・ジェシカ……祖父がスペイン人のクォーターであるアリサは、日本国籍以外のパスポートを持っていても違和感はなかった。
また、手塚《てづか》アリサを捨ててバレンタインというコードネームを与えられた以上、いまさら、どんな名前も単なる文字の羅列程度の意味しかなかった。
「そうか。ひとつだけ、訊いておきたいことがあるんだが……」
アリサは、無言でコヨーテのほうに顔を向けた。
「なぜ、掃除をしなかった?」
掃除――ターゲットとともに連れを一掃すること。
今回の任務の場合、大谷の妻と娘のことを指す。
「指令を受けていませんから」
「復讐の芽はどんなに小さくても摘んでおく。指令がないのは、それが我々の常識だからだ」
コヨーテが、物静かな口調で言った。
彼とのつき合いは長いが、声を荒らげたのをみたことがなかった。
「わかるな? バレンタイン」
コヨーテが、フロントウインドウに顔を向けたままアリサを諭した。
アリサは、サイドシートの背凭《せもた》れに身を預け、眼を閉じた。
芽生える復讐心。
言われなくても、わかっていた。
――おいおい、どうしたんだ?
息子を出迎えようとする父を引き止めるアリサに、父は怪訝《けげん》そうに訊ねた。
――なんだ? おかしな子だな。
父が目尻を下げ、アリサの頭を撫《な》でて玄関へ向かった。
行っちゃだめ。
声にならなかった。
父が息子を抱き締めようとしたそのとき……兄の額に真紅の花びらが咲いたように穴が開いた。
――英二《えいじ》!
息子の名を絶叫する父。倒れた兄の背後から現れた見知らぬ若い男性。右手には拳銃。
――お前は……。
父の問いかけを遮る撃発音。父の顔が上を向き、天井を赤い斑点《はんてん》が埋め尽くした。
アリサは咄嗟《とつさ》に、クロゼットの中に身を隠した――息を殺し、扉の隙間から凍《い》てついた視線で部屋の様子を窺《うかが》った。
――あなた!
男性……悪魔が、父に取り縋《すが》ろうとする母の首筋を撃ち抜いた。
アリサのほうに頭を向けて俯せになる母と、木枠のブラインド越しに、一瞬、眼が合った。
思わず、アリサはクロゼットから飛び出しそうになった。
アリサ、出てきちゃだめ。
眼を見開いたまま事切れる寸前の母の瞳が、そう語っていた。
色を失う視界。逃げ惑う祖母。
オババ、オババ……。
声にならなかった――声に出してはならなかった。
悪魔は、冷酷に……冷静に拳銃で祖母の動きを追った。
モノクロの景色で、祖母の両腕が跳ね上がり、父の屍《しかばね》に折り重なるように前のめりに倒れた。
床に広がる血の海に横たわる父、母、兄、祖母の屍に拳銃を向けた悪魔が一発ずつ銃弾を撃ち込み、室内にゆっくりと首を巡らせた。
クロゼットの中のアリサは、小さな掌で唇を押さえ、これ以上ないほどに眼を見開き、立ち尽くしていた。
悪魔は、首もとに青い蝶《ちよう》の形をしたペンダントをつけていた。
恐怖で顔は覚えていなかったが、男性がつけるには派手で女性的なデザインだったので、印象に残っていた。
――みててくれたかい?
部屋を出て行く際に、ペンダントを握り締めた悪魔が呟《つぶや》いた言葉が耳から離れなかった。
「以後気をつけます。ここで、停めてください」
もう、これ以上、この話を続けたくはなかった。
車は、実行現場の新宿から|富ヶ谷《とみがや》の交差点に差しかかったところだった。
山手通りを裏手に入ったところに、アリサの部屋はあった。
「ゆっくりと、静養してこい」
アリサは頷《うなず》き、車から降りた。
車はまったく通っていなかったが、歩行者用信号が青になるまで待った。
ブルージーンズのジャケットの下に忍ばせているグロックが、アリサを慎重にさせた。
どんなに些細《ささい》な違反でも……それがたとえ1パーセントに満たない確率であっても、警察の眼につくようなことはしたくなかった。
青信号を渡り、高層マンションの間を擦り抜けた。一歩奥へ入ると、大通り沿いの近代的な建物とは対照的な古びた民家がぽつぽつと並んでいた。
バブルが全盛時から下り坂に差しかかった頃の頓挫《とんざ》した地上げの爪痕《つめあと》が、平成の中に昭和を残す結果となっていた。
アリサは、山手通りの喧騒《けんそう》が嘘のようなひっそりとした裏路地に建つ、築20年はいっていそうな老朽化したアパートに足を踏み入れた。
高級な物件のほうがセキュリティも整い、また、それだけの家賃を払える貯《たくわ》えもあった。
が、アリサは敢《あ》えて、古い物件を選んだ。
明日という日を考えてはならないアサシンに節約は必要ない。
管理人や警備員の存在に安心できるのは素人だけであり、アリサにとっては、行動をチェックされる邪魔者でしかなかった。
アリサが危機を感じるレベルの相手になれば、民間のセキュリティサービス程度ではどうすることもできない。
1階。ノブを掴《つか》もうとした手を止めた。五感を刺激する気配。アリサが踵《きびす》を返した瞬間……ドアが勢いよく開いた。
男が四人――見覚えのない顔。考える暇はなかった。ステップバックしながらグロックを抜いた。
足もとの土を抉る銃弾の嵐。牽制《けんせい》――トゥリガーを引いた。男達が後方に退がる隙に建物を飛び出した。
路上駐車してある車のサイドウインドウから上半身を出して拳銃を構える男をみて、アリサは切れ長の眼を大きく見開いた。
「どうして……?」
コヨーテがトゥリガーを引くより先に横に飛んだ――飛びながら、車の前輪を撃ち抜いた。残された弾丸はあと一発。たいして敵は五人。スペアのロングマガジンを携行《けいこう》しているが、チェンジしている暇はない。
傾く車体を視界から切り、アリサは駆けた。
建物からさっきの男達と、車から降りたコヨーテが撃発しながら追ってくる。
右、左、足もと……次々と襲いかかってくる銃弾を躱《かわ》すのに精一杯で、反撃する余裕はなかった。
コヨーテ以外の四人も、アリサと同じプロのアサシン。拳銃の構えと着弾点でそれはわかった。
大谷のボディガードとは訳が違う。
正面から猛スピードで迫ってくるバイク。挟み撃ちか?
アリサは駆け足のスピードを落とさず、シングルハンドでバイクの前輪に狙いをつけた。
「お嬢ちゃん、どいてろ!」
バイクの主が叫び、ハンドルから放した両手を素早く腰に当てると前に突き出した。
二|挺《ちよう》拳銃――走るのを止め道を譲るアリサの横を、バイクが疾風の如く駆け抜けた。
フルフェイスヘルメットの首もとから靡く髪の毛。両腕の先でショートリコイルするベレッタM92F。バイクの男が、二挺の拳銃を撃発しつつ五人のアサシンの間に突っ込んだ。
セミオート機能の3連発――都合6発の銃弾が瞬時に放たれた。
アリサの鼻孔を掠《かす》める硝煙。アスファルトに落ちて弾《はじ》ける空薬莢《からやつきよう》。
真っ先に、コヨーテが左胸を真紅に染めながら頽《くずお》れた。四人の男のうちふたりもそれぞれ、腹部と咽頭《いんとう》を撃ち抜かれ人事不省になった。
コヨーテガゲンエキデモ ケッカハオナジ
アリサの脳内のコンピュータがバイクの男の射撃術を分析した。
残るふたりが額に脂汗を浮かべながらも、通り抜けて行ったバイクの男の背中にマズルを向けた。
いかなる状況でも、アサシンに逃げるという選択肢はない。
たとえ100パーセント勝ち目がないとわかっている相手にたいしても、背を向けることはありえない。
命を狙ってきた相手とはいえ、哀しい性《さが》を背負った運命は同じ。
斜めに倒した車体を右足だけで支えUターンするバイクの男。
悲鳴のようなスリップ音――バイクの男は、9時の角度に両腕を向けてトゥリガーを引いた。
額から鮮血を噴き出させたふたりが、スローモーションのように仰向けに倒れた。
男は、両手を放してバイクに乗りながら、僅《わず》か10秒そこそこで五人のアサシンを倒した。
絶妙なバランス感覚、卓越した射撃術――男は、これまでアリサがみてきたアサシンの中でも、次元が違った。
コヨーテがなぜ?
男は何者?
敵か味方か?
いくつもの疑問符の答えを出す前に、アリサはグロックを男に向けた。
ほとんど同時に、男のベレッタがアリサを捉えた。
「おいおい、お嬢ちゃん、命の恩人に拳銃を向けるのか?」
ついさっきまでの背筋が凍りつくような立ち回りが嘘のように、飄々《ひようひよう》とした調子で男が言った。
「お前は誰だ?」
アリサは、気を許さなかった。真の任務を遂行するために敢えて大がかりな芝居を打つアサシンもいる。
「お嬢ちゃん、そんなにかわいい顔をしてるんだから、男言葉はもったいないな」
フルフェイスヘルメットの奥の眼を柔和に細める男。胸内に広がる違和感……笑ったアサシンなど、覚えがなかった。
アリサのリズムが微妙に狂った。
「その呼びかたはやめろ。俺は女じゃない」
アリサは、一切の感情を排除した声で言うと、氷の瞳で男を見据えた。
そう、女として生を享《う》けた手塚アリサは家族とともに死んだ。
女であったが故に、クロゼットに身を隠し、震えることしかできなくても誰にも責められなかった。
が、家族を見殺しにした事実に変わりはない。
あのときの幼子が少年なら、立ち向かったはず。青い蝶のペンダントの男に……。
「底無しに冷たい瞳は、凍えた水の青のようだ。噂通りだな。バレンタイン」
アリサは、微《かす》かに眼を見開いた。
アリサの驚きは、バレンタイン、と男が口にしたことにではなかった。
ほかの組織でも、コードネームを知ることはできる。
しかし……。
――お前の底無しに冷たい瞳は、凍えた水の青のようだ。まるで、水面に映してきた物事をすべて氷塊に閉じ込めるようにな。
2年前。アリサの初任務の前夜。小野寺が、独り言のように呟いた。
「どうして、それを?」
アリサは、男に訊ねた。
「勘違いするな。こいつを脱ぐだけだ」
トゥリガーを絞ろうとしたアリサに男は言うと、二挺のベレッタをブルゾンの下のホルスタにおさめ、ヘルメットを取った。
長く緩やかなウエーブのかかった髪、力強く透き通った瞳、彫刻のように整った鼻《び》 梁《りよう》とシャープな顎のライン。
「ヘリオスだ。名前くらい、聞いたことはあるだろう?」
男……ヘリオスが無邪気に笑った。
――ヘリオスは私がこのセンターを開設したときの、第1号のアサシンだ。3歳で拳銃を握り、13歳で初任務を完璧に遂行した。精神力、動体視力、反射神経、判断力、射撃術。ここで数々のアサシンが生まれ育ったが、いまだに、彼ほどの天才をみたことはない。しかし、もしかしたら、という素質を持ったアサシンに私は久々に巡り合えた。バレンタイン。お前のことだ。火と氷。夏と冬。太陽と月。なにからなにまで対照的だが、ある意味、お前とヘリオスはとてもよく似ている。アサシンは誰しも、闇を抱えているものだ。お前はそれを封印し、彼は解放する。それだけの違いだ。だが、その闇が底無しに深いことに変わりはない。そう遠くない将来、ヘリオスと遭遇するときが必ずくる。コヨーテが、引き合わせてくれる。
鮮明に蘇る小野寺の言葉に、アリサは耳を傾けた。
ヘリオス――ギリシャ神話の太陽神の名をコードネームに与えられた伝説のアサシン。
コヨーテが引き合わせてくれる。そのときは純粋に捉えていたが、引き合わせるという意味が違った。
「ボスは先々、君と俺にセンターを任せようと考えている。それを感じ取ったコヨーテはある組織に魂を売った」
ヘリオスが、それまでと一転したどうしようもなく冥《くら》く翳《かげ》った瞳で言った。
――ある意味、お前とヘリオスはとてもよく似ている。
ふたたび、小野寺の声が蘇る。
小野寺は、後継者を心に決めた時点で、いつの日か、コヨーテが謀反を起こすのを見抜いていたのだ。
「いつまで、そいつを俺に向けているつもりだ。乗れ」
ヘリオスが手にしていた自分のヘルメットをアリサに放るとエンジンをかけた。
「どこへ行くんだ?」
「センターだ。誰かにみられないうちに、はやく乗れ」
「なぜ?」
質問を重ねながら、アリサはグロックをホルスタに戻し、ヘルメットを受け取るとバイクのタンデムシートに跨《また》がった。
「ボスは引退前に、コヨーテが魂を売った組織を潰《つぶ》すつもりだ。君の休暇は返上になる」
ヘリオスがアクセルをふかすと、バイクが地を滑るように走り出した。
アリサはヘリオスの腰に腕を回し、あっという間に置き去りにされる戸籍を持たない五体の屍を無感情な眼でみつめた。
襲ってきた蜂を殺虫剤で殺し、死骸を残したままその場を離れる。
人間を殺すという行為は、アリサにとってそれと同程度の意味しか持たない。
死ねば、ただの肉塊と化し、最後には骨と髪の毛に姿を変えるだけ。
アリサが逆の立場になっても、それは同じだ。
「その組織には、君がアサシンになった原因を作った人物がいるらしい」
風に流されるヘリオスの言葉が、アリサの胸奥の扉をノックした。
小野寺がなぜ、休暇を返上させてまで自分に今回の任務を命じたのかがわかった。
死ぬのを恐れたことはない。
が、まだだ。まだ、死ねはしない。
兄として教官としてアリサを支え、鍛え、一人前にしてくれた恩師の裏切りにたいしてのショックも、青い蝶の男[#「青い蝶の男」に傍点]への復讐心の前では無力だった。
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閑静な住宅街に、ラケットがボールを打つ乾いた音が響き渡った。
移り変わる景色を視界に捉えることができるほどに、流れが遅くなった。
ヘリオスのバイクがスローダウンした。
約30メートル先。この成城《せいじよう》の地ではさして珍しくもない白亜の豪邸が迫ってきた。
ヘリオスが左腕に嵌《は》めた腕時計タイプのマイクに口を近づけた。
高さ3メートルはあろうかという真鍮《しんちゆう》の門扉が音を立てて開き、バイクを迎え入れた。
バイクは、建物の1階部に設けられている駐車場に乗り入れ、螺旋《らせん》状の道筋に誘《いざな》われつつ地下へと向かった。
地上の造りは珍しくなくとも、地下5階まである豪邸はほかに存在しないはずだ。
九百坪の建物総面積のうち、五百坪は地下面積だった。
地下5階まで下ったヘリオスが、大金庫並みの扉の前でバイクを停車した。
バイクに乗ったまま、ヘリオスが大扉の前に設置してあるセンサーのディスプレイに両掌を翳《かざ》した。
大扉が音もなく開いた。ヘリオスはバイクで乗り入れたが、5メートルも進まないうちに特殊防弾ガラスの中扉が現れた。
この防弾ガラスは、ライフル弾をも撥《は》ね返す強度を持っている。
ふたたびバイクを停車させたヘリオスが、天を仰いだ。アイセンサーが作動し、ガラス扉が開いた。
カウンターデスクに座っていたふたりの屈強な警備員が、バイクを降りたヘリオスとアリサに歩み寄ってくる。
「はいよ」
ヘリオスが二|挺《ちよう》のベレッタM92Fを、アリサがグロック36を警備員に差し出した。
センターに入る際は、アサシンは携行《けいこう》している銃火器を警備員に渡さなければならない規則になっている。
「失礼します」
ふたりの警備員が身を屈《かが》め、ヘリオスとアリサのボディチェックを始めた。
「あんたらも、毎回毎回、よく飽きないね?」
ヘリオスが、自分のボディチェックをしている警備員に語りかけた。
「これが私達の任務ですから」
無機質な返答。ヘリオスよりも、彼らのほうがアサシンのイメージに合っていた。
「こういうこと、無意味だと考えたことないか?」
ヘリオスが、ふたたび、警備員に声をかける。
「なにがです?」
「拳銃を預かるだとか、ボディチェックだとかさ」
「考えたことはありません」
「だってさ、これって、ボスの身に危険が及ばないようにするためのもんだろ? 俺がその気になれば、拳銃を渡す前にあんたらは死んでるぜ」
「規則はボスが作ったもの。従うのはあたりまえだ」
アリサは、無意識に口を出していた。
少しでも、小野寺の言うことに反することを言われるのが我慢ならなかった。
小野寺はアリサを救ってくれた。暗闇に閉じ込められ、ただ震えるしかできなかった少女に、生きることの目的を与えてくれた。
「お、ムキになるなんて珍しいな。人間らしい感情が残ってたってわけだ。だが、それは自分のじゃない。ボスの感情だ」
茶化すような口調だったヘリオスが、真剣な視線をアリサに向けた。
「感情は必要ない。そうボスに教えられなかったのか?」
「ボス、ボス、ボス。なんでも、ボスの言うとおりか? じゃあ、ボスがドレスを着ろと言ったら?」
アリサの右手が反射的に腰へと伸びた。
「おっと、ボディチェックをやってて正解だったな」
「異常なしです。どうぞ」
警備員が、ふたりの会話など耳に入らなかったように、カウンターに戻り、三つ目の扉の開閉スイッチを押した。
扉の向こう側はロビーになっており、そこに応接セットが設置されており、亜熱帯産のカラフルな観葉植物が寒々とした空間を和ませていた。
アリサは、ヘリオスに続いてフロアを横切った。
言動はアサシンらしくなかったが、ヘリオスの後ろ姿に隙はなかった。
まるで、彼の後頭部にも眼がついていて、監視されているような錯覚に襲われた。
錯覚ではなく、もし、いまアリサが背後からヘリオスを仕留めようとしても成功する確率は皆無に等しいだろう。
フロアの突き当たりのドアの前で、ヘリオスが足を止めた――ノックした。
「待ってたぞ」
ドアが開くと、濃紺のスーツを着た小柄な男――リカオンがふたりを招き入れた。
アフリカの野犬……リカオンは、飼い犬の数倍の嗅覚を持っているという。
リカオンはアサシンではなかったが、情報収集係としてセンターには欠かせない存在だった。
「今回も、完璧な任務だったそうだな」
各フロアの様子を映したモニターに囲まれたデスクに座った片腕の老人が、満足そうに頷《うなず》きながら言った。
――怖がらなくてもいいよ。おじさんは、君の味方だからね。
15年前。家族が青い蝶《ちよう》の男に皆殺しにあった翌日の朝……クロゼットで立てた両膝を抱えて震えているアリサの前に現れたときから、小野寺の片腕はなかった。
――おじさんは、君のパパの会社の仲間だったんだ。彼から連絡がなかったから、心配になって訪ねてきたのさ。
センター所属のアサシンだったアリサの父からの連絡が途絶えたことにより、不審に思った小野寺が家に赴いた、という話は、ずっとあとから聞かされたことだった。
「襲撃から助けてくださり、ありがとうございました」
アリサは、小野寺の前に歩み寄り、深々と頭を下げた。
ほかのアサシン同様に、小野寺のことは、偽名だろうその呼び名以外、歳がいくつなのか、結婚しているのか独身なのか、一切知らない。
知りたいとは思わない。
あのクロゼットから……漆黒の闇から救い出してくれただけで、十分だった。
「ふたりとも、かけなさい」
小野寺が促すソファに、アリサとヘリオスは座った。
「バレンタイン。コヨーテの件、ショックだったか?」
「ショックではありません。でも、少しだけ驚きました」
「へぇー、ちゃんと敬語を使えるんだな」
茶化すように言うヘリオスを、アリサは睨《にら》みつけた。
「場を弁《わきま》えろ。ボスの前だ」
「いいんだ。ヘリオスは、こうやって軽口を叩《たた》くことでバランスを取っているのだ。お前が、ストイックになって自分を追い込むのと同じだ」
小野寺が、諭すようにアリサに言った。
「ところで、彼の腕はどうだった?」
一流シェフの作った料理の感想を訊《き》くときのように、小野寺の表情は自信に満ち溢《あふ》れていた。
「パーフェクトのひと言です」
アリサは、素直な感想を口にした。
好きになれないタイプではあったが、性格と射撃の腕は別だ。
「ほぅ、お嬢ちゃんに褒められるなんて、嬉《うれ》しいね」
「その呼びかたはやめろと言ってるだろ」
「これからパートナーとなるのだから、いがみ合うのはよしなさい」
「ボス。俺はいがみ合ってませんよ。一方的に、怒られているだけですよ」
ヘリオスが、悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「おふざけはそこまでだ。新しい任務について指令を出す。今回のターゲットはGPCの会長だ。組織の名前くらいは、知ってるだろう?」
小野寺が、アリサの瞳《ひとみ》を窺《うかが》うように覗《のぞ》き込んできた。
アリサは細く鋭角な顎《あご》を引いた。
「GPCはいわゆる、ウチの同業だ。会長は門馬将光《もんままさみつ》。表向きは至光会という、日本最大の新興宗教の教祖だ。バレンタイン。休暇を返上させてまで、お前に今回の任務を命じるのにはわけがある」
言葉を切ると、小野寺はワイシャツの胸ポケットから取り出した吸い差しの葉巻をくわえた。
リカオンがマッチをすり、穂先を炎で炙《あぶ》った。
「門馬は、お前の父の暗殺を命じた男なのだよ」
――その組織には、君がアサシンになった原因を作った人物がいるらしい。
ヘリオスの言葉が、アリサの寒々とした脳裏に蘇《よみがえ》る。
「私と門馬は、子供の頃からのつき合いでね。私が冬なら彼は夏、私が水なら彼は火……とにかく、対照的な性格だった。逆に、その性格の違いがよかったのかな。お互いに干渉せずに、尊重し合い、盟友と呼べるような長いつき合いになった。戦後の混乱した状況で、私達は手を組み、土建業や闇市場で莫大《ばくだい》な利益を得た。金を手にすると、それまでは考えられないような特殊な人間と巡り合う機会に恵まれる。私達は、あるとき、土建業の利権争いでヤクザ組織と対立した。その組織は関東きっての武闘派組織で、愚連隊に毛が生えた程度の私達が渡り合えるような相手ではなかった。利権だけではなく、それまで積み上げてきた資産まで根こそぎ奪われそうになったときに、ひとりの老人が仲裁役を申し出てきた。その老人は、圧力団体会長の肩書の名刺を持っていた。私達は、藁《わら》にも縋《すが》る思いで老人に仲裁役を頼んだのだが、正直、そんなに期待はしていなかった。最悪、なにもかもを失い、一から出直す覚悟を決めていた。数日後、対立していた組織の組長が手打ちの電話をかけてきたときは、狐に摘《つま》まれたような思いだった。私達は、当時で500万の金を包み、老人の名刺に書かれた事務所を訪れた。驚くことに、老人は1円の金も受け取らず、その代わり、自分の会社の傘下に入ることを求めてきた。金を払わなくてもよく、強力な後ろ盾ができるという状況は、私達にとって願ったり叶《かな》ったりの展開だった。が、この老人との出会いが、私と門馬の運命を大きく変えた」
小野寺が眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻み、濃厚な煙とともに大きなため息を吐いた。
「老人が、どんな仕事をしているのかは、まったくわからなかった。だが、広域組織との対立をあっさり解決したことを考えると、ただものではないだろうとは思ったな。じっさい、政治家、警察、ヤクザの上層部を操っていた。ある日、門馬から要人警護のボディガードの会社を設立したいという相談を受けた。私は、老人の幅広い人脈を考えると、需要も多く、必ずうまくいくという確信があった。ところが、会社が形を成すにつれて、首を傾げることが多くなった。まずは、出入りする社員達がとてもボディガードにはみえなかったということだ。ボディガードと同じに鋭い眼をしているのだが、底無しに冷たい不気味さがあった。なにより解せなかったのは、社員達が、くる日もくる日も射撃訓練しかしていないということだった。普通、ボディガードを養成するなら、射撃術も大事だが、警護についての訓練……つまり、雇い主を護《まも》る術《すべ》を身につけるという訓練がまったく行われていなかった。私は、疑問を率直に門馬に問い質《ただ》した。門馬は、悪びれた様子もなく、設立したのは要人警護ではなく、要人暗殺の養成機関だと告白してきた。私は、唖然《あぜん》として、二の句が継げなかった。警護会社だと思っていたからこそ、莫大な資金を投資することを了承したというのに、まったく逆の目的で設立されたとは……怒りよりも、冷めてしまったよ。門馬という男にね」
当時のことを思い出しているのだろう、小野寺の眼には侮蔑《ぶべつ》のいろが浮かんでいた。
「なのにどうして、ボスはセンターを始めたんですか?」
ヘリオスが、小学生のように無邪気に質問した。
「私は、門馬と袂《たもと》を分かつことを決意し、共同経営者として、会社の利益の半分を要求した。門馬は、3日以内に振り込むことを了承した。その日の夜のことだった。自宅に、拳銃を持った男が現れ、妻と娘が殺された。私は、腕を撃たれたものの、その場をなんとか逃げ出した。結果、片腕を失うことにはなったが、命は助かった。自分だけ生き延びようとしたのではない。あることを確かめるまでは、どうしても死ぬわけにはいかなかった」
小野寺の瞳に浮かんでいた侮蔑のいろが、暗鬱《あんうつ》なものに変わった。
アリサは、こんなに感情を表に出した小野寺をみたことがなかった。
「1週間待って、私は銀行口座をチェックした。門馬が振り込むと約束した金は入ってなかった。私の中で、疑いが確信に変わった。彼の作り上げた暗殺者の最初のターゲットは、この私だったんだよ」
アリサは、小さく息を呑《の》み、小野寺をみつめた。
自分と同じ。小野寺は家族を殺され、生き地獄という世界に取り残されてしまったのだ。
「手形のサルベージ、M&A、地上げ……様々な裏稼業に手を染めていた私は、幸い、アンダーグラウンドの住人の人脈が広かった。ある右翼の会長から、10年間、フランス外人部隊に所属していた臼井《うすい》という男を紹介してもらった。フランス外人部隊と言えば、世界最高水準を誇る精鋭達の集まりだ。私は臼井を教官に迎え、施設や武器など、専門家の知識を借りながら暗殺者養成機関の建設に着手した。その傍ら、このヘリオスは3歳の頃から臼井とマンツーマンの射撃訓練に取り組んだ。いまのこの建物が完成するまでに8年の年月を必要とした。臼井の人脈で、五人の傭兵《ようへい》上がりが専属の教官として集まった。その頃には、ヘリオス以外に、アサシン予備軍の子供達が十人に増えていた」
どこから?
喉《のど》もとまで込み上げた言葉を、アリサは寸前のところで呑み下した。
みな、自分と同じような境遇なのだろうか? ヘリオスも……? アサシンの生い立ちを訊《たず》ねるのはタブー――わかっていた。
「予備軍は孤児院から……いまでいう児童養護施設から、臼井が厳選した子供達を養子として受け入れた」
小野寺が、アリサの胸のうちを見透かしたように言った。
「2年後。13歳になったヘリオスは、私の仇《かたき》を取ってくれた。その任務が、我がセンター第1号ということになる。お前は恩人だよ」
小野寺が、眼を細めてヘリオスをみつめた。
小野寺の仇――門馬が送り込んだ腕利きのアサシンを、僅《わず》か13歳の少年が初任務で仕留めたというのか?
アリサは、照れ笑いを浮かべて頭を掻《か》くヘリオスの横顔をみつめた。
「私は、今回の任務が終わったら引退する。門馬がいなくなれば、センターを続けなければならない理由はなくなる。もともと、家族の仇を取るため……門馬への復讐《ふくしゆう》のために始めたことだしな。が、お前達は違う。私の個人的理由のために、潰《つぶ》しのきかない人生を送らせてしまった。これからは、お前達が私の代わりとなりセンターの同志達を率いてくれ。そして、私のことを許してほしい」
小野寺がテーブルに手をつき頭を下げた。
「ボス。そんなことやめてください。俺は、ボスがいたからここまでやってこられたんです。センターの同志のことは、俺とバレンタインに任せて、ボスは好きなことをやってください」
ヘリオスが、熱っぽい口調で言った。心なしか、瞳も潤んでいるようだった。
アリサも同感だった。
あのとき小野寺が現れなければ、どんな人生を送っていたのか想像がつかなかった。
ひとつだけわかっているのは、家族の仇を討つどころか、その存在さえも知らずに終わっただろうことだ。
「お前らしくもない、しおらしいことを言うじゃないか。その気持ち、今回の任務が無事遂行できたときに頂くよ。門馬を仕留めるのは、いままでの任務のように簡単にはいかない。なぜだかわかるか? バレンタイン」
「同じ任務に通じている者同士、手口をよく知っている。それが理由だと思います」
「当たりだ。ボクサーが素人をノックアウトするのは容易でも、同じボクサーを倒すのはディフェンスを知っているだけに難しい。が、ほかにも理由はある。卓越したスピードを持つガゼル、トラップの名人のスパイダー、ロングライフルの達人と呼ばれるゴルゴ、アサシンになるために生まれてきた万能の神、ゼウス。GPCには、四天王と呼ばれるエース級のアサシンがいる。みな、それぞれ凄腕《すごうで》だ。とくにゼウスは、正直言って化け物だ。4年ほど前に、関西で組同士の抗争が勃発《ぼつぱつ》した。構成員九千人の大手組織と、数百人の中堅組織の諍《いさか》いだった。通常、ウチもGPCも、ヤクザの争いに参入することはない。我々は基本的に、正義の剣を翳《かざ》し暴利を貪《むさぼ》る巨悪しかターゲットにしない。ヤクザは、巨悪かもしれないが少なくとも善人を気取ってはいない。悪い人達です、というレッテルを貼られている中で悪事を働くぶん、政財界で大義名分を唱えて暗躍する偽善者よりも腐ってはいない。だが、その抗争は、少しばかり事情が違った。ある大臣経験者の代議士が、中堅組織の枝派が経営しているデートクラブの女を性交渉の最中に殺してしまった。相手が有名代議士と知った中堅組織は、このチャンスを逃すまいと交渉役のヤクザ数人を永田町に飛ばした。一説では、数億単位の口止め金を要求したという話だ。もっとも、事件が白日のもとにさらされたら議員バッジを奪われた上に牢獄暮らしになることを考えると、保身がすべての腐った奴らにとっては、数億が数十億でも闇に葬りたい事実なんだろうがな」
小野寺が、皮肉っぽい口調で言った。
「が、そこは代議士もさるもの、既に、関西きっての武闘派である大手組織に人を介して事件の揉《も》み消しを依頼していた。まあ、その大手組織にも裏金を掴《つか》ませたのは間違いないだろうが、数億という単位にはならなかったはずだ。大手組織にしても、そのときは大金を手にできなくても、大臣経験者に貸しを作っておけば、のちのち、なにかと便宜を図ってもらえるという計算が働いたのだと思う。大手組織は中堅組織にはした金を渡してこの一件から手を引くように求めた。数の論理で言えば、中堅組織が首を横に振るという可能性は皆無に近かったが、数億のシノギが数百万になるとあれば話は違ってくる。交渉は決裂し、両組織は抗争に突入した。抗争といっても、大手組織の一方的な展開だった。ところが、事態は急変した。闇ルートの情報を掴んだ門馬が、中堅組織の援護に出た。もちろん、中堅組織に同情したわけでも、代議士の揉み消し行為に憤りを感じたわけでもない。大手組織を潰して中堅組織に恩を売れば、代議士からの巨額の口止め料にありつけると考えたからだ。奴は、幼馴染《おさななじ》みである私を裏切ったように、昔から、金が何事にも優先する男だった」
「門馬は、四天王を送り込んだわけですね?」
ヘリオスの質問に、小野寺が苦虫を噛《か》み潰したような顔で頷いた。
「まずは、相手方本部事務所をスパイダーが爆破し、四、五十人が死んだ。次に、巣からいぶり出された蜂のように飛び出してきた生き残り組員達をガゼルが駿足《しゆんそく》で追い立てながらサブマシン・ガンで、ゴルゴがビルの屋上からロングライフルで撃ち殺した。これで、二、三十人が死んだ。ゼウスは、建物の中から下水道を通って外へ続く抜け道……本部事務所から100メートルほど離れたマンホールの前で待ち伏せをし、這《は》い上がってきた組長と四人のボディガードを瞬時に仕留めた。四人が凄いのは射撃術だけではなく、入念なリサーチと完璧《かんぺき》な連携プレイだ。本部事務所を襲撃してほんの30分足らずで、組長を含めた百人近い組員を抹殺した。ゼウスを化け物だと言ったのは、これからの話だ。撤退し解散したあと、ゼウスはガゼルからサブマシン・ガンを、スパイダーからC―4を借りて、系列組織の中でも武闘派中の武闘派と呼ばれる組の事務所に単身乗り込み、C―4で建物を爆破し、パニックになる組員達およそ五十人を一掃した。いくらサブマシン・ガンを携行しているとはいえ、ひとりで五十人ものヤクザを片づけるなどありえないことだ。結局、ボスを失い主力組織が壊滅した大手組織は、立会人を立て、中堅組織に手打ちを申し込んできた。つまり、GPCの四天王だけで、九千人のマンモス組織に白旗を上げさせたというわけだ。格下と言われるほかの三人でさえ、現役時代のコヨーテを一撃で仕留めるだけの腕を持っている。それを物差しにして考えると、力が軽く三枚は上のゼウスはまさに怪物と言ってもいいだろう」
「おっそろしいー」
ヘリオスが両手を頬に当て、口笛を吹いた。
「ボスが大事な話をしているときに、ふざけるのもいい加減にしないか」
思わずアリサは、語気を強めた。
養成機関の先輩であろうと、ヘリオスの態度は礼節を欠き過ぎていた。
「バレンタイン。彼の言うことをいちいち気にしていたら、キリがないぞ。だがな、ヘリオス。今回ばかりは、油断は禁物だ。天才と言われるお前でも、ゼウスを倒すのは容易じゃない。コードネーム通り、奴の暗殺技術は神の域に達している。しかも、ほかに超一流のアサシンが三人もいることを忘れるな」
「ボス。ゼウスが神なら、ヘリオスだって太陽神ですよ。心配はいりません。お嬢ちゃんもいることだし、四人の首と門馬の首を、きっちり取ってみせますよ」
いまはなぜか、お嬢ちゃん、と呼ばれたことに嫌悪感はなかった。
それはきっと、ヘリオスが女としてではなく、同志として自分をみてくれたのが伝わったからに違いなかった。
「失礼します」
ドアが開き、白髪交じりの髪を短く刈り込んだ50がらみの男が礼儀正しく頭を下げて入ってきた。
年齢の割に無駄のないひき締まった躰《からだ》つきをしているのはスーツ越しにわかった。
濃く太い眉《まゆ》の下に光る眼光の鋭さに、アリサは自分と同じ匂いを感じた。
「紹介しよう。彼が話に出た、センター創設に貢献し、ヘリオスの教官を務めていた臼井君だ。臼井君はバレンタインと入れ替わりくらいにセンターを離れ、私が経営する私設ボディガード会社の責任者をしていた。今回は、ヘリオスとバレンタインの任務のためにセンターに戻ってきてくれたというわけだ。さっきも言ったとおり、フランス外人部隊に所属していた彼が援護してくれるなら鬼に金棒だ」
「教官、お久し振りです。15年振りですね」
ヘリオスは立ち上がると、屈託のない笑顔で右手を差し出した。
「アサシンらしくないのは相変わらずだが、ずいぶんといい面構えになった。噂は聞いてるぞ。大活躍じゃないか」
柔和に目尻を下げつつヘリオスの右手を握り締める臼井の瞳からは、つい数秒前までの鋭い光は消え失せていた。
ヘリオスノエガオトハ イミガチガウ
アリサの脳内のコンピュータが警告した。
「彼女が、バレンタインかね? 君のことも、耳に入ってるよ。ヘリオスと匹敵する素材が現れたと、ボスが喜んでいてね」
ヘリオスに向けたのと同じ笑顔で言うと、臼井がアリサに右手を差し出した。
アリサはすっくと腰を上げ臼井と握手をした――思いきり右手を引いた。
バランスを崩し前のめりになる臼井の右腕を捻《ひね》り上げ背後を取ったアリサは、左腕を頸《けい》動脈に蛇のように巻きつけ締め上げた。
「な……なにをする……」
顔面を朱に染め、こめかみに血管を怒張させる臼井。
「バレンタイン、なにをする気だ?」
小野寺が大きく眼を見開き問いかけた。
ヘリオスだけは、子供のように笑いを噛み殺していた。
「申し訳ございません、ボス。失礼を承知で言わせてください。過去にどれだけの偉大な実績があろうとも、15年のブランクのあった人間に任務遂行はできません。はっきり言って、足手|纏《まと》いになるだけです」
初めて、小野寺の指令に反対意見をした。
小野寺に言ったとおりに、臼井がチームに加われば任務は失敗に終わる可能性が高い。
父の、母の、兄の、祖母の仇――青い蝶の男への復讐を邪魔することだけは、何人《なんぴと》たりとも許せなかった。
「この小娘が、なにを生意気な……」
「俺が銃を持っていたら、あなたは死んでいた。センターを離れた年月が、あなたを隙だらけの男にした」
アリサは、平板な声音で淡々と告げた。
「わかった。もう、放しなさい」
小野寺が言い終わらないうちに、アリサは臼井の右腕と頸動脈を解放した。
喉を押さえ頽《くずお》れた臼井の喉は、苦しげにヒューヒューと鳴っていた。
「失礼を、お許しください」
アリサは、臼井の大きく波打つ丸まった背中に頭を下げた。
「お嬢ちゃん、俺のこととやかく言えないな。俺達、いいパートナーになりそうじゃないか」
耳もとで囁《ささや》き片目を瞑《つぶ》ってみせるヘリオスが、アリサに握手を求めてきた。
「サポートをよろしく」
アリサは、氷の瞳でヘリオスをみつめながら、拳銃《けんじゆう》のグリップでそうなったのだろう、象の皮膚のように分厚くなった掌《てのひら》をしっかりと握った。
瞬間、ヘリオスの綻《ほころ》んでいた口もとが堅く引き結ばれた。
たとえ伝説のアサシンであろうとも、ターゲットを譲ることはできなかった。
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「あなたがたは、思考というものを軽く考えていませんか? 思考……つまり頭で考えたことは、よくも悪くも具現化する可能性があります。だから、子供が交通事故にあわないかしら、会社が倒産するかもしれない、俺は癌《がん》なのじゃないか……などなど、マイナスの想念で頭を一杯にしていると災い事を招き寄せる結果になります。いいですか? 想念は、いい事も悪い事も叶《かな》うんです。故に、常日頃から、頭の中で考える物事には十分な注意を払わなければなりません。しかし、プラス思考でいるということは、口で言うほど容易ではありません。人間は、放っておけば、90パーセントはマイナスの想念に支配されると言います。なぜだか、わかりますか? それは、物欲と金銭欲に支配されているからです。欲は心を曇らせます。心が曇ると冷静な判断力がなくなり、負の思考が脳内を占領し始めます。負の思考になる一番の原因は、執着です。執着があるかぎり、魂が腐敗し、やることなすことが、悪いほう、悪いほうへと転がります。真の自己啓発を実現したいのなら、物欲、金銭欲の執着を捨て、魂の浄化に努めなさい」
市民球場の特設ステージで濃紫《こむらさき》の紋付き袴《はかま》姿で熱弁を揮《ふる》う初老の男性……門馬を、アリサは無機質な瞳《ひとみ》でみつめていた。
ステージの両|袖《そで》からは、スーツに身を固めた屈強そうなボディガードが客席に鋭い視線を巡らせていた。
客層を大別すると、4割が仕立てのよさそうなスーツ姿の紳士達で、好対照にくたびれ果てたよれよれスーツを纏《まと》った中年男性も4割、残りの2割がやつれた感じの主婦といった割合だった。
身なりや立場は違っても、「神」に縋《すが》りたい気持ちはそれぞれに持っているのだろう。
「結局、金がほしいだけだろう」
ロマンスグレイに染めた頭髪、鼈甲《べつこう》フレイムの眼鏡、特殊メイク仕立てのシミ、頬を膨らませる詰め物――隣に座るヘリオスが、正面を向いたまま腹話術師のようにほとんど唇を動かさずに呟《つぶや》いた。
一方のアリサは、ボサボサの髪に顔色の悪くみえる化粧を施し、出っ歯気味の入れ歯を嵌《は》め、色|褪《あ》せたトレーナーにブルージーンズといった出《い》で立ちだった。
直感――あのボディガードは四天王ではない。
アリサは視線を巡らせた。
ライトスタンドには双眼鏡を構えた小柄な男。レフトスタンドには、やはり双眼鏡を構えた大柄な男。
あのふたりは四天王のうちのふたり――確信した。
「チビがおそらくスパイダーででかいのがゴルゴだ。奴らはああやって、潜入者がいないかどうかをチェックしているのさ」
ヘリオスが、アリサの心を見透かしたように言った。
「ガゼルとゼウスは?」
アリサも、唇を動かさずに訊《たず》ねた。もちろん、顔はステージに向いている。
「ガゼルは客席を回っている。ゼウスはわからない」
「なぜ?」
「三人は写真でみたことがある。が、ゼウスに関するデータは眼にしたことがない」
ヘリオスの囁《ささや》きを掻《か》き消す号泣――右斜め前の初老の男性が、あたりも憚《はばか》らずに大泣きしていた。
ほかにも、方々から啜《すす》り泣きが聞こえてきた。
「人を騙《だま》したことがありますか? 人を傷つけたことがありますか? 人を陥れたことがありますか? 盗みを働いたことがありますか? 暴力をふるったことがありますか? たとえあったとしても、心配はいりません。今生《こんじよう》での執着を捨てれば、あなたの罪は帳消しになります。あなた達は、いつでも、許しを受ける権利を与えられています。私の胸に、安心して飛び込んできなさい。そして、あなたの犯した罪を私にすべて預けなさい」
啜り泣きが、大きくなった。
門馬が、慈愛に満ちた眼で参加者を見渡し、うんうん、と柔和な表情で頷《うなず》いた。
「胡散臭《うさんくさ》い野郎だな。ボスのパートナーだったとは思えないな」
ヘリオスが、アリサにしか届かない声で吐き捨てた。
アリサは、門馬の話に聴き入っているふうを装い、眼を閉じた。
噴き上げる真紅のシャワー。崩れ落ちる父。血の海に泳ぐ祖母。事切れる寸前の母の瞳……。クロゼットの中から覗《のぞ》きみた光景が、瞼《まぶた》の裏に蘇《よみがえ》る。
膝上に乗せた掌《てのひら》をきつく握り、奥歯を噛《か》み締めた。
睫《まつげ》が震え、口内がからからに干上がった。
「実行だ」
眼を開けたアリサはヘリオスに低く短く言い残し、腰を上げると出口へ向かった。
グロックは球場から500メートルほど離れた場所に停車してある車のダッシュボードに入っている。
「お帰りですか?」
出入り口付近にいた細身の男が、すっと歩み寄ってきた。
男は、スタンドにいるスパイダーとゴルゴ同様に、隙がなかった。
駿足《しゆんそく》自慢のガゼル――恐らく間違いない。
「ええ。もっとお話を聴いていたかったのですが、これからパートがあるんです」
己の中の殺気を封印し、おどおどした女を演じてみせた。
「来月、門馬先生の講習会が中野サンプラザで開かれますので、よろしかったらいらしてください」
講習会への誘いをかけながら、ガゼルは、冴《さ》えない女性信者が危険人物ではないかどうかに思考の車輪を目まぐるしく回転させているに違いない。
「はい、ぜひ、参加させてもらいます」
頭を下げ、アリサは球場の外へと出た。
背中に視線が突き刺さる。
特別に、自分が疑われているわけではない。
先入観念を持たないようにしているだけの話。四天王と呼ばれるくらいのアサシンだと、少女であろうと老婆であろうと油断はしないものだ。
「まっすぐ」
タクシーの空車に乗り込み、運転手に告げた。
「ここでいい」
200メートルほど走ったところでアリサは言った。
拍子抜けした顔の運転手に代金を渡し車を降りたアリサは、新しいタクシーを拾った。
「左へ」
左折したタクシーも200メートルで降りた。
本当は球場前の大通りを一直線で行けた距離を、4台のタクシーを乗り継ぎ右折左折を繰り返した。
念を入れ過ぎ、ということはない。ガゼルにインカムで指示を受けた誰かが、尾行していないともかぎらないからだ。
大通りから一本脇道に入った雑居ビルの駐車場に蹲《うずくま》る白のワゴンに乗り込んだ。
ウエストホルスタを巻き、ダッシュボードから取り出したグロックを装着した。
入れ歯を外し、サイドシートに背を預け、眼を閉じた。
深呼吸を繰り返し、心を無にした。
憎悪であれ、それが感情であるかぎり任務の妨げとなる。
1分たりとも忘れたことのない親の仇《かたき》。だが、任務の瞬間だけは、忘れなければならない。
「おいおい、アドリブはまずいな」
眼を開けた。ドライバーズシートに乗り込んだヘリオスが、苦笑しつつ言った。
無視して、ドアに手をかけるアリサの腕をヘリオスが掴《つか》んだ。
「どこへ行く?」
「任務に決まってるだろう?」
「正面も裏口も、信者達が張り込んでいる。その中には、当然、四天王もいる」
「言われなくてもわかっている」
アリサはホルスタから抜いたグロックのマズルをヘリオスの眉間《みけん》に向けた。
「なんのまねだ?」
ヘリオスの顔から笑みが消えた。
「邪魔はさせない。門馬は俺のターゲットだ」
アリサは、無機質な瞳でヘリオスを見据えつつ言った。
「俺のターゲットでもある」
「殺されたのはお前の家族じゃない。放せ」
――ヘリオスだけには、お前の過去を話してある。今回の任務で、お前が暴走しないとはかぎらないからな。
アサシン同士は、互いの過去を話してはならない。
小野寺は、最後の指令で、自らセンターの掟《おきて》を破った。
非難するどころか、感謝していた。
長年の「夢」を、与えてくれたことに。
「だから、放せない。いままでの君なら、このタイミングで実行するはずがない。私怨《しえん》につき動かされて倒せるほど、奴らは甘くない。返り討ちにあうのが落ちだ」
「犬死にする気はない。今回の任務を遂行しても、俺には、まだやり残したことがある」
「青い蝶《ちよう》の男か?」
アリサは頷く代わりに、トゥリガーに指をかけた。
「青い蝶の男の前に、ゼウスがいることを忘れるな」
「ゼウスを殺すまでの話だ」
「奴を甘くみるな。過去の任務で、ボスが俺に忠告したことなど一度もなかった。気を抜くな。全力で潰《つぶ》しにかかれ。ボスは俺にそう言った。俺はいままで、5割の力で任務をこなしてきた。その俺が全力を出さなければ倒せない相手……それがゼウスだ」
「俺の気持ちは変わらない」
アリサは、ヘリオスから視線を逸《そ》らさずに言った。
「バレンタイン。君の目的はなんだ? 親の仇を討つことだろう? 復讐《ふくしゆう》を果たす前に死にたくないのなら、俺の言うことを聞くんだ」
「この腕を放さなければ、俺より先に死ぬことに……」
アリサが言い終わらないうちに、ヘリオスがグロックのマズルを掴み、己の額に引き寄せた。
5秒、10秒……互いの視線が絡み合う。
20秒、30秒……今度は、アリサは視線を逸らした。
「くだらない」
呟き、アリサはグロックをホルスタに戻し、シートに背を預けた。
「やっとわかってくれたか」
「疲れただけだ」
「女のコは、素直じゃないとモテないぞ」
ヘリオスが、アリサの顔を覗き込んで白い歯をみせた。
「これ以上言うと、次は本当に撃つ」
アリサは、ニコリともせずに言った。
「世の中芸人ブームだってのに、ジョークのひとつやふたつ軽く受け流せるようにならないとやってけないぜ」
「ゲイニンブーム?」
アリサは、聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「君、芸人も知らないのか?」
驚いたように眼を見開くヘリオスに、アリサは頷いた。
「歌手の高鳥ミキは?」
アリサは首を横に振った。
「俳優の矢吹純一は?」
首を横に振った。
「マジかよ……。なら、メジャーリーガーのイチローは?」
首を横に振った。
「じゃあ……」
「くだらない話につき合っている暇はない。はやく車を出せ」
「待て。これが最後だ。いまの総理大臣の名前は?」
「丸山清光。馬鹿にするな」
「なんだ。テレビがないのかと思った」
「テレビはない。新聞だけで十分だ」
テレビは娯楽。自分の人生に必要はないものだ。
「なるほど。政治経済の動きだけは任務に関係あるってわけだ」
「そんなことより……」
「はいはい。出発しますよ。お客様、どちらまで?」
ヘリオスが無駄口を叩《たた》きつつアクセルを踏んだ。
アリサの背中が、シートでバウンドした。
眼は閉じなかった。そうすれば、ふたたび門馬の顔が浮かぶだろうことがわかっていたからだ。
次に門馬の顔をみるのは……マズルの先だ。
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3
アーリーアメリカン風のカントリー家具で統一された室内は、清潔感に溢《あふ》れていた。
ヘリオスがソファに座り地図を眺め始めてから、もう、1時間が経つ。
窓際に置かれたリクライニングチェアに座るアリサの右手には、グロックが握られていた。
講習会に出ていたときの変装用の服装から、ヘリオスは黒の麻のジャケットにグレイのジーンズ、アリサは黒のジーンズの上下に着替えていた。
山梨の別荘地。この一帯の建物は、すべてセンターが個人名義で所有している。
つまり、この敷地内には、ヘリオスとアリサしかいないということだ。
「まだか?」
アリサは、別荘の建物に入ってから初めて口を開いた。
「君が焦《じ》れ過ぎて疲れて肩の力が抜けた頃にな」
「ふざけるな」
口ではそう言ってみたものの、ヘリオスがふざけていないのは、地図に穴が開きテーブルを突き通すくらいの鋭利な視線が証明していた。
ヘリオスという男がわからなかった。
不真面目なことばかり口走り、ミーハーな情報に長《た》け、少しもアサシンらしいところがない。
だが、ヘリオスほど、アサシンらしいアサシンはいない。
彼が幼少の頃に眼にした地獄は……。
アリサは、慌ててヘリオスから窓の外へ視線を移した。
バレンタイン ソレハ ニンムニカンケイアルコトナノカ?
ターゲットに悟られずに接近し、二度殺す。
それだけに集中し、日々トレーニングを続けてきた。
任務に無関係なことは、一切、思考から排除してきた。
ほかのことに意識を向ければ、本当の自分に戻ったときにそれ以前よりも苦しみが大きくなる。
興味はアスピリンと同じ――効力が切れたときに、さらに苦痛が激しくなる。
黄色い小鳥の囀《さえず》りが鼓膜に忍び込む。風に掬《すく》われた木の葉が揺れている。枝葉の合間からペンキを塗ったような青空が顔を覗かせている。
小鳥までの射距離は約25メートル。風向きを頭に入れ照準を1センチ右にずらす。日射しに視界を潰《つぶ》されないようにサングラスは必須《ひつす》だ。
雑木林、海、公園、遊園地……どこにいてもアリサの関心事は、いかに確実にターゲットを仕留めるかに向けられていた。
「別荘だな」
唐突に、ヘリオスが呟《つぶや》いた。
アリサはリクライニングチェアから腰を上げ、応接ソファ――ヘリオスの正面に腰を下ろした。
テーブルの上には、門馬の別荘、愛人のマンション、至光会の道場の、三つの建物の周辺地図が並べられていた。
いずれも、山梨県内だ。
「君なら、どこを選ぶ?」
ヘリオスが、ソファに深く背中を預け、煙草をくわえた。
束の間、アリサは3枚の地図を見比べた。
なぜ、ヘリオスが実行地に別荘を選んだのかが、すぐにわかった。
三つの建物の中で、一番、警護が手薄そうなのは甲府市内にある愛人のマンションだが、周辺が住宅街になっており、長時間の張り込みはきつい。
至光会の道場は人里離れた山奥にあり、周囲には観光客も住人もいないが、そのぶん、信者の密度が高く部外者は目立ちやすい。
ヘリオスが選択した別荘地は、愛人宅より警護の眼が厳しそうだが道場ほどの人数はいない。観光客も適度にいるので、紛れ込むことができる。
「同じだ」
「よし。決定だ」
「行動は押さえているのか?」
アリサは、別荘の地図に視線を落としたまま訊《たず》ねた。
任務遂行に好条件が揃っていても、肝心のターゲットが現れなければ話にならない。
「門馬が山梨に宿泊するのは3週間。明日からはしばらく、今日の講習会で至光会に入会した憐《あわ》れなカモ達を洗脳するために道場に詰めるはずだ。あとは、愛人宅で数日を過ごし、別荘に移動する。これが、ボスから聞いた毎年恒例の山梨|行脚《あんぎや》のスケジュールだ」
「別荘には、いつ移る?」
「さあ、それは、その年によってまちまちだ。ただ、ひとつだけはっきりしているのは、最終日は必ず別荘で過ごすということだ」
「最終日まで、待つのか?」
「そうとはかぎらない。山梨を発《た》つ2日前かもしれないし、3日前かもしれない。それよりもまず俺らがやらなければならないことは、実行までに別荘地の周辺状況を把握しておくことだ」
ヘリオスが、アリサの逸《はや》る心を見透かしたように釘《くぎ》を刺した。
「四天王の配置は?」
「門馬の移動先には必ずいるはずだ」
大変な任務になる――そう言葉を続けて、ヘリオスは腰を上げるとテラスへと出た。
5分、10分……ヘリオスは戻ってこない。振り返った。アームチェアの背凭《せもた》れから、ヘリオスの後頭部だけ覗いていた。
「下調べには行かないのか?」
茜《あかね》色に染まった夕焼け空を見上げるヘリオスの背中に声をかけた。
「いまなら、殺《や》れるぞ」
不意に、ヘリオスが呟いた。
「なにを言っている?」
「誰が俺を殺すんだろう……って、ときどき、考えてな」
死の訪れを待ち侘《わ》びているような物言い――わかる気がした。
「たぶん、きれいな空なんだろうな。俺には、東京のスモッグ塗《まみ》れの空のほうが落ち着く」
誰にともなく、ヘリオスが言った。
「俺も同じだ」
アリサも呟きつつ、隣のアームチェアに腰を沈めた。
話を合わせたわけではない。
見渡すかぎり緑一面の高原よりも汚穢《おわい》に塗《まみ》れた路地裏にいるほうが……海の青よりも泥に濁った水溜《みずた》まりをみているほうが心が安らぐ。
いや、安らぐのではなく、少なくとも、胸苦しさに襲われないといったほうが正しい。
誰もが心地好く感じる場所にいると、身が引き裂かれそうになってしまうのだ。
「よく、熱を出してな」
「え?」
アリサは、顔を横に巡らせた。
「ガキの頃の話だよ」
空に眼を向けたまま、ヘリオスが言った。
その瞳《ひとみ》は、哀しげでもなく、かといって、冷めてもいなかった。
ただ、果てしない虚無感だけが広がっていた。
「おでこに載っけられた掌《てのひら》の感触だけが、お袋の記憶だ」
ヘリオスが、感傷に浸るでもなく淡々と語った。
懐かしみかたを忘れたとでもいうように。
いつもの道化のようにおどけた彼よりも、いま、アリサの隣にいる彼のほうが、彼らしかった。
「なぜアサシンになったのか、理由を聞いてもいいか?」
自然に、訊ねていた。
「君と同じだ」
自分と同じ――家族の皆殺し。
同情とは違う。親近感とも違う。だが、アリサは、ほかの人間にはないなにかをヘリオスに感じた。
こんなことは、初めてだ。
アリサは、そんな自分に、戸惑い、動揺していた。
「悪かったな」
思い出させて……という意味で、アリサは詫《わ》びた。
誰かに詫びたのも、記憶になかった。
「驚きだな。君が、悪かった、なんて言うとはね。でも、嬉《うれ》しいよ。君は、軽々しく物を言う女性じゃないからね」
「勘違いするな。いまの言葉に、特別な意味はない」
「これまでの人生で、いまみたいにムキになることもなかったんだろうな。俺って、特別なのかな?」
「いい加減にしろ。自惚《うぬぼ》れるな」
努めて、平静を装って言った。
図星だった。
こういう会話を続けていること自体……話を打ち切り部屋の中に戻らないこと自体、自分らしくなかった。
ヘリオスが、ジャケットのポケットから取り出した紙片をさりげなくアリサの膝《ひざ》上に置いた。
メモをみて15数えたら、地面に伏せて射撃態勢を取れ
テラスに出る前から、このメモを用意していたのだろうか?
疑問符の浮かんだ顔を向けるアリサに、ヘリオスが小さく頷《うなず》いた。
10、11、12、13、14、15……アリサは椅子から飛び下り、地面に俯《うつぶ》せになりながらグロックを構えた。
その直後……立ち上がったヘリオスがホルスタから引き抜いたベレッタを3時の方向に向けて撃発した。
右斜め前方。射距離、約10メートル。繁みから飛び出したふたつの人影――ヘリオスが横に飛んだ。
椅子の背凭れが砕け散った。
「バレンタインっ。右だ!」
仰向けになったヘリオスがトゥリガーを引きつつ叫んだ。左の人影がくの字に頽《くずお》れた。
ヘリオスが言い終わらないうちに人差し指を絞った――右の人影が背中から投げ出された。
ふたりほとんど同時に、テラスの柵《さく》を跳び越えていた。人影に駆け寄り、それぞれが倒した男のフルフェイスマスクの額に2発目を撃ち込んだ。
「四天王なのか?」
アリサは二体の屍《しかばね》を見下ろしつつ訊ねた。
「彼らがそうなら、俺の誘いに乗ったりしない」
ヘリオスが、敵の存在を察知してわざとテラスに出たというのは、予《あらかじ》め用意していたメモが証明していた。
「行くぞ」
ヘリオスが部屋に戻りスポーツバッグを、アリサはリュックを手にした。
ヘリオスの向かった先は、外ではなく、クロゼットだった。
扉を開くと、キャスター付きのチェストが現れた。
ヘリオスがチェストを横に動かした。把手《とつて》のついた床板をアリサは引いた。
地下へ続く階段。最初にヘリオスが踏み入った。クロゼットの扉を閉め、床板から把手を外し、アリサも続いた。
十坪ほどのスクエアな空間。テレビ、ソファ、パイプベッド、冷蔵庫、電話機、モニターカメラ――隠れ地下室には、長期潜伏に備えて生活必需品が設置してあった。
追っ手は、まさか襲撃場所に逃亡者が留《とど》まっているとは夢にも思わない。
人間の心理の裏をかいた作戦だ。
「間一髪ってところだな」
ヘリオスが大きく息を吐き出しながら、勢いよくソファに座ると両足をテーブルに投げ出した。
「尾《つ》けられたのか?」
アリサは壁際のカウンターテーブルに並べられた4台のモニターに視線を向けつつ、背後のヘリオスに問いかけた。
モニターには、正面玄関周辺、リビング、廊下、裏口周辺に仕かけられたピンホールカメラが撮影する画像が映し出されていた。
文字通り針穴ほどの隙間からでも撮影できる特殊小型カメラなので、発見されることはまずありえない。
「いいや。観光客のいない別荘地ということだけで、奴らは最初からこの一帯をチェックしていたはずだ。そこへ、ひと組だけの滞在客。これで疑いを持たないようなら、プロとは言えない」
ヘリオスがすべてを計算の上で敵をおびき寄せていたことに、少しも気づかなかった。
仇《かたき》を前に入れ込み、正面から任務を遂行しようとしていた自分とは大違いだ。
やはり、ヘリオスは伝説のアサシン……天才だった。
「あと30分もすれば、第二群の追っ手が様子をみにくるだろう。こいつらを捕らえ、敵陣の情報を聞き出す。現地視察の手間が省けたってわけだ」
アリサは、ヘリオスの声を背中に聞きながらモニターを凝視した。
画面の中――アリサは、現れるはずのない青い蝶《ちよう》の男を探し求めていた。
ひとつの確信が、アリサにはあった。
青い蝶の男イコール、ゼウスであるということに。
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4
正面玄関周辺の1番カメラ、裏口周辺の4番カメラに、アリサは交互に視線を投げた。
襲撃者ふたりを仕留めてから2時間……ソファに浅く腰かけた同じ姿勢で、アリサはずっと追っ手がくるのを待っていた。
右手に握り締められたグロックには、6発の弾丸が装填《そうてん》されていた。
――ヒョウの忍耐力、チーターの瞬発力、ジャガーの警戒心。ネコ科の動物はアサシンの格好の手本だ。彼らは、獲物を捕らえるために、最高の能力を発揮する。アサシンには、忍耐力、瞬発力、警戒心のどれかひとつも欠けてはならない。今回の任務にかぎって、お前達は彼らを超えた存在にならなければならない。なぜなら、彼らは失敗しても空腹を我慢するだけで済むからだ。いままでの任務なら、お前達もそれでよかった。それは、ターゲットが草食動物だったからだ。だが、今回お前達が仕留めなければならない相手は同属……つまり、肉食獣だ。
門馬暗殺の任務を請け負ったアリサとヘリオスに、小野寺は言った。
たしかに、過去のターゲット達の中に同属はいなかった。
万が一失敗しても、素人相手の任務で命を奪われる可能性は低かった。
しかし、四天王を筆頭とした門馬一派は、アリサと同じ、草食動物を狩ることを生業《なりわい》とした肉食獣なのだ。
小野寺の言うとおり、肉食獣を狩ることに失敗したときに、今度は自分が狩られる番だ。
「現れるのか?」
モニターに視線を貼りつかせたまま、アリサは背後のヘリオスに訊《たず》ねた。
「さっきも言ったろう? せっかちなお嬢ちゃんだ」
「俺が訊《き》いてるのは、四天王のことだ」
「せっかちは俺か」
場にそぐわないヘリオスの高笑いを、アリサは無表情に受け流した。
「まだ、出番じゃないな。紅白で言えば大トリ、相撲で言えば横綱……大物は、最後に現れるって相場が決まってるもんだ」
「余計なたとえはいらない。結論だけ言え」
アリサは、突き放すように言った。
「眉目《びもく》秀麗、ユーモアセンス抜群、天才的射撃術。君は、こんないい男の俺のことを嫌いなのか?」
「ああ、嫌いだ」
アリサは、自分の言葉に違和感を覚えた。
嫌いというのは感情だ。これまでのアリサなら、ヘリオスの問いかけにどちらでもない、と答えたに違いなかった。
じっさい、誰にたいしても、そうだった。
恩のある小野寺にたいしてさえ、好き嫌いではなく、ただ、彼の指令だけは忠実に確実に応えたい……それだけだった。
なにより、好きという気持ちが、嫌いという気持ちが、どういうものなのかがわからなかった。
唯一、感情と呼べるものがあるとするならば、それは、青い蝶の男[#「青い蝶の男」に傍点]にたいしての復讐《ふくしゆう》心だけだった。
そんな自分が、なぜ、ヘリオスに関しては嫌いなどと口走ったのだろうか?
「寒いがあるから暑いがあり、熱いがあるから冷たいがある。どっちかひとつだけならば、寒いか暑いかさえも、熱いか冷たいかさえもわからない。つまり、俺を嫌いだと言うことは、君の中に好きも存在しているってことさ」
「いい加減に……」
1番カメラ――玄関周辺に現れた五人の人影。
アリサは身を乗り出し、モニターを食い入るようにみつめた。
「意外と遅い登場だな」
気配を察したヘリオスもアリサの横に立ち、五人の動きを追いながら呟《つぶや》いた。
「四天王はいないようだな」
アリサは言った。
隙のない身のこなしをみていると、訓練を積んだアサシンであるだろうことはわかる。
が、アリサの眼からみればセンターで中等教育の訓練を積んだアサシンレベルでしかなかった。
「カメラに映る時点でありえない。肉眼でレンズを発見できなくても、当然あるものとして行動するのが彼らだ」
ヘリオスの視線の先では、それぞれ拳銃《けんじゆう》を手にした男達が警戒した様子であたりに首《こうべ》を巡らせていた。
ヘリオスの言うとおり、いくら警戒しても、動きをすべて監視されていたら意味がない。
「あいつでいこう」
ヘリオスがほかの四人になにやら指示を出していた長身の男を指差した。
三人の姿が1番カメラから消え、ほどなくして、裏口周辺を捉える4番カメラに現れた。
アリサは階段を駆け上がり、クロゼットの床板をそっと持ち上げた。
玄関のドアの開く音と足音が聞こえた。
「俺は裏口の三人を仕留める。バレンタイン。君は1番カメラのふたりを頼む。ひとりは、殺すなよ」
アリサは頷《うなず》き、床板を押し上げクロゼットの扉を開いた。リビングに躍り出ると、ソファを盾に身を屈《かが》めた。
近づく足音――勢いよくドアが開き、ふたりの男が踏み込んできた。
左。ソファの背凭《せもた》れからグロックだけを出し、長身の男の右手に狙いを定めトゥリガーを引いた。右腕が跳ね上がり、拳銃が弧を描きながら床に落下した。
マズルが横に流れる。口髭《くちひげ》を蓄えたもうひとりの男の眉間《みけん》から鮮血が噴出した。
口髭男が仰向けに倒れるのが合図のように、アリサの背後からヘリオスが駆け、リビングを飛び出した。
アリサはソファを飛び越え、起き上がろうとする長身の男の顎《あご》を蹴《け》り上げ、既に事切れている口髭男の心臓にとどめの2発目を撃ち込んだ。
硝煙の匂いが立ちのぼるマズルをすかさず長身の男の眉間に向けながら、胸を踏みつけた。
「門馬はどこにいる?」
瞳《ひとみ》同様の無感情な声で、アリサは訊ねた。
男は横を向き、口を割る気配がなかった。
男の耳の横で、銃弾に床が抉《えぐ》られた。
「もう一度訊く。門馬はどこにいる? 言っておくが、今度は外しはしない」
相変わらず、男の口は真一文字に引き結ばれたままだった。
指をくの字に折り曲げた。男の左足が跳ね上がり、裂けたスラックスの膝《ひざ》もとから血が滲《にじ》み出してきた。
額に脂汗を浮かべてはいたものの、男は呻《うめ》き声ひとつ上げなかった。
「門馬はどこにいる? 次は右足だ」
1、2、3、4、5……アリサは口内でカウントした。
「おいおい、失血死させるつもりか?」
リビングに戻ってきたヘリオスが飄々《ひようひよう》とした口調で言った。
訊ねなくとも、三人を仕留めてきただろうことはわかった。
「さあ、おっきだ。いい子にしろよ」
ヘリオスが男の髪と腕を掴《つか》み、ソファへと引き摺《ず》り上げた――用意していた粘着テープで手足を拘束する間、アリサは男の眉間に狙いをつけていた。
そして、いきなり頬を鷲《わし》掴みにし、男の口を開かせるとなにかの塊を押し入れ、掌《てのひら》で顎を突き上げた。
「さあ、口を開けろ」
ヘリオスが、男の鼻を摘《つま》んだ。
1分、2分……男は顔を赤く怒張させながらも、必死に歯を食い縛っていた。
3分が過ぎた頃、ついに我慢の限界に達した男が口を開けたのを逃さず、ヘリオスが素早く手を差し入れ塊を取り出した。
「歯形を取る特殊粘土だ。一度くらい、歯の治療をしたことがあるだろう?」
ヘリオスの目論見《もくろみ》がわかった。
指紋では追えない身もとも、歯形の治療跡からなら可能になる。
「警察の上層部を動かせるのは、お前んとこのボスばかりじゃないというのを忘れるな」
それまで無表情だった男の顔に、微《かす》かながら動揺のいろが走った。
「門馬が別荘に移る日を吐けば、お前以外には手を出しはしない。約束する」
ヘリオスが、男の眼を見据えた。
「5日後だ」
男が、低く掠《かす》れた声で言った。
「もし、その情報が正しくなければ、お前のあとを誰かが追うことになる」
抑揚のないヘリオスの口調に、男の眼の下の皮膚がヒクヒクと痙攣《けいれん》した。
「嘘じゃない。身内に危害を加えないと約束してくれ」
「それは俺が判断する。別荘には、何人のボディガードがついている?」
「毎年、五、六人だ。ボスは、プライベートで大勢を連れ歩くのを嫌っている」
「それは、四天王を含めての人数か?」
「四天王は違う。彼らは、みな別々に行動し、各々の考えで任務を遂行する権利を与えられている」
「ゼウスは門馬のそばにいるだろう?」
アリサは横から口を挟んだ。
「さあ、それはわからない」
「適当なことを言うな」
籠《こも》った撃発音――男の右手の人差し指が飛んだ。
「う……嘘じゃない。俺ら末端のアサシンが、あの方の行動を把握しているわけないだろうが」
末端のアサシン……。
あの方……。
ヤクザ組織のヒットマンあたりに比べれば格段の腕前を持っている男が、ゼウスの名を耳にしたらこの遜《へりくだ》り様だ。
「バレンタイン。こいつは嘘を吐《つ》いてない」
ヘリオスの助け船に、男の顔にあるかなきかの安堵《あんど》のいろが浮かんだ。
「あんたら、凄腕《すごうで》なのかもしれないが、馬鹿な考えは捨ててどこかに消えたほうがいい。四天王と互角に渡り合おうなんて、狂気の沙汰《さた》だ。まあ、あの方に睨《にら》まれたら逃げることは不可能……」
男の顔が天井を向いた。ヘリオスが素早く動き、事切れた男の口の中に前歯を折りながらマズルを突っ込んだ――後頭部から噴出した脳漿《のうしよう》が床を濡《ぬ》らした。
「これ以上こいつの話につき合っても、なにも引き出せはしない。荷物を片づけるぞ」
ヘリオスが何事もなかったようにマズルに付着する唾液《だえき》を拭《ぬぐ》うと、裏口へと向かった。
折り重なる屍《しかばね》が三体。三体とも、額と喉《のど》を撃ち抜かれていた。
一体ずつ、ヘリオスとアリサで屍を地下室に運び入れた。裏口が終わると、リビングの二体も引き入れた。
最後に、五人の所有物が落ちていないかを隈《くま》なくチェックし、空|薬莢《やつきよう》を拾い、床を濡らす血溜《ちだ》まりを掃除した。
新たな追っ手が現れる可能性は高い。そのときに、スーツのボタンや空薬莢、また、血痕《けつこん》が残っていようものなら、すぐに自分達がここに潜んでいることがバレてしまう。
五体の屍を地下室に運び終えたときには、ふたりとも、全身が汗に塗《まみ》れていた。
「やれやれ」
ヘリオスがソファに座り、小さくため息を吐いた。
「5日後まで待つ気か?」
アリサは息を静めながら、ヘリオスと向かい合う格好で腰を下ろした。
「いや、四天王の動きだけは押さえておきたいな」
「押さえるだけではなく、実行日までに数を減らしたほうがいい」
アリサの言葉に、ヘリオスが思案の表情で眼を閉じた。
静まり返った室内に、微《かす》かだが、虫の鳴く声が、夜風が梢《こずえ》を揺らす葉擦れの音が聞こえてきた。
10分は経っただろうか。相変わらず、ヘリオスは熟睡したように眼を閉じていた。
「おい……」
「ガゼル、ゴルゴ、スパイダーの三人を始末できれば、実行日に残るのはゼウスだけだ」
本当に眠ったのではないかと声をかけようとしたアリサを制するように、ヘリオスが口を開いた。
「だが、問題なのは、奴らをどうやっておびき出すかだ」
「明日の講習会にも、三人は監視要員としているはずだ。俺が仕留める」
「どうやって?」
ヘリオスが、眼をまんまるにして訊ねた。
「まずは、スタンドにいるスパイダーかゴルゴをターゲットにする」
「無理だ。球場にいる監視要員は四天王だけじゃない。いったい、どれだけの数がいると思ってるんだ?」
「誰が、球場内で実行すると言った? 奴らだって人間だ。移動するのに消えたり飛んだりはしないだろう? 根気よく張ってれば、ひとりになるときは必ずくる」
「そんなことは、言われなくてもわかっている。だがな、奴らはこいつらみたいなわけにはいかない」
ヘリオスが、五体の屍を見渡しながら言った。
「見損なったな」
「なにが?」
「あんたのことだ。伝説のアサシンというからには、もっと骨のある奴だと思っていたよ。ところが、その実体は、手強《てごわ》いターゲットには腰を引く臆病者だったとはな」
皮肉を込めて、アリサは言った。
「なんとでも言えよ。これは、ボスからの最後の任務だ。慎重の上にも慎重を期して挑む。失敗は、絶対に許されないのさ」
ヘリオスが、強い意志を宿す瞳をアリサに向けた。
その眼をみているだけで、彼がアリサの言うような男でないのはわかった……というよりも、最初からそんなふうには思っていなかった。
ただ、いくら小野寺からの最後の任務だからとはいえ、慎重になり過ぎている。
「今回の任務は、なにも特別じゃない」
「バレンタイン。言っていいことと悪いことがある」
ヘリオスが珍しく、憤然とした表情で言った。
「任務に失敗が許されないのはいつものことだ。それに、この任務はボスのためだけじゃなく自分のためにも成功させなければならない。自信があるから、言ってるんだ」
アリサは、考えられる中で最良のパートナーの瞳を見据えた。
「モニターは俺がチェックしておくから、仮眠を取ったほうがいい。尾行や張り込みは集中力が必要だからな。あ、それから、睡眠不足はお肌の大敵だぜ」
ヘリオスらしかった。
最後はジョークでごまかしていたが、照れ隠しに違いなかった。
「俺が寝ている間に、居眠りするなよ」
アリサは、言った端から後悔した。
「お、だいぶん、人間らしくなってきたじゃないか」
図に乗るヘリオスを無視し、アリサは壁際のベッドに横たわった。ベッドはひとつ。ふたり同時に眠ることはありえないので、ふたつは必要ない。
ひとりのときは、3日でも4日でも眠らないのはザラだ。
夢の中に行っている間にターゲットを見失ったり襲われたりしたなら、笑い話にもならない。
そのぶん、いつでも、どこでも、瞬時に眠りに入ることができる。
特別ななにかをしたわけではない。
いつの間にか、そういう体質になっていた。
草食動物が肉食動物の都合に合わせてくれないように、ターゲットも狙撃《そげき》者の都合に合わせてはくれないのだ。
ヘリオスの背中を眺めるアリサは、不思議な安堵感に包まれた。
この感覚は……なんだろう?
アリサは、雑念を頭から追い払い、まどろみの世界へと足を踏み入れた。
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煙草屋と喫茶店、少し離れたところにコンビニエンスストア――球場の裏口は閑散としていた。
見失わないという意味では人通りが少ないのは好都合だが、そのぶん、こちらの存在もバレやすい。
見通しのいいサバンナでシマウマを狙うライオンと同じだ。
ただ、救いは、裏口から出てきた人間は、アリサが雑誌コーナーで立ち読みをしているコンビニエンスストアの前の道を通らなければならないので、長時間張り込むには絶好の条件だった。
因《ちな》みにヘリオスは、喫茶店近くの路肩に停められているハイエースのドライバーズシートでハンドルに両足をかけ、漫画雑誌を開いている。
ハイエースのボディには「おしぼりクリーニング」の文字が入っていた。
喫茶店の近辺という条件を考慮して、おしぼり業者に探偵だと偽り交渉し、金を渡して業務用の車を借りてきたのだった。
ふた手に分かれているのは、ガゼル、ゴルゴ、スパイダーのうち何人が通るのかわからないし、移動手段がバイクなのか車なのかわからないからだ。
もしかしたなら、裏口ではなく正面から出て行くのかもしれない。
正面と裏口をひとりずつ張る、という選択肢もあった。
だが、ターゲットが個別に行動するとはかぎらない。
今日が無駄になるリスクをおかしてでも、確実性を取るという意見でヘリオスとは一致した。
読みたくもない雑誌を捲《めく》り始めて、まもなく1時間が経つ。
店員にへたな注目を受けないように、すぐにゴミ箱行きになる週刊誌を2冊購入していた。
名前も顔も知らない男性アイドルのインタビュー記事の活字を視線で追った。
軽薄な男性アイドルの笑顔は、ヘリオスのそれとは違う。
思考を止めた。
そんなことは、どうでもいいこと――アリサのページを捲る手に力が入った。
子供連れの男性。違う。ハンドルを握る男。違う。ハンドルを握る男。違う。バイクの男。違う。バイクの男。違う。大柄な男性。違う。ハンドルを握る男。違う。ふたり連れの男。違う。カップルの男。違う。
ウインドウ越しに影が視界を掠《かす》めるたびに、アリサは誌面から顔を上げた。
車やバイクの場合は徒歩よりも判別が難しいが、ヘリオスが待機するバンは裏口を向いて停まっているので、確実にフロントウインドウ越しのドライバーの顔を捉えることが可能だ。
彼が動かないのは、アリサの動体視力に狂いはないということの証明だ。
メモ用紙を片手にしたひとりの若い女性が、周囲に首を巡らせながらバンに近づいた。
左手には、ピンクの首輪をつけたプードルを連れている。
ヘリオスがドライバーズシートの窓を少しだけ下げた。
どうやら、道を訊《たず》ねているようだ。
アリサは、プードルの首輪にぶら下がるお守りの袋を凝視した。
ヘリオスが手短になにかを言い、女性が頭を下げた。
そして、はや足にその場を離れた。
アリサは眼を見張った。
バンのテイル部に置き去りにされたプードル――走り去る女性。
ヘリオスは、プードルの存在に気づいていない。
アリサはコンビニエンスストアから駆け出した。
「ヘリオス、トラップだ!」
アリサが叫び終わらないうちに、ヘリオスがバンから飛び降りた。
バンから離れたふたりの背後――激しい爆発音。熱風に背を押されるように、アリサとヘリオスはアスファルトに伏せて頭を両腕で庇《かば》った。
バンは灼熱《しやくねつ》の火柱に呑《の》み込まれ、アリサの目の前にガラス片の雨とプードルのちぎれた脚が降ってきた。
そこここで悲鳴が上がり、周辺の建物の窓から野次馬が顔を覗《のぞ》かせた。
「スパイダー……」
ヘリオスが呟《つぶや》きかけたとき、彼の鼻先に転がる空き缶が破裂した。
「身を隠せっ」
俊敏に立ち上がったヘリオスとアリサの足もと――アスファルトが、小石を投げ込まれた池のように立て続けに抉《えぐ》れた。
追い立てられるようにヘリオスは路肩に設置された自動販売機の陰に、アリサは路上駐車されている車に身を隠した。
今度はゴルゴ。彼らの息をつかせぬ奇襲攻撃に、その姿さえ捉えることができなかった。
覚悟はしていた。
が、四天王の実力は、アリサの予測を遥《はる》かに超えていた。
彼らは、自分達の動きを完全に見切り、綿密に、それでいて迅速に任務を遂行していた。
いままでの任務で、これほどまでになにもできずに追い詰められたことはなかった。
スパイダーとゴルゴでさえそうなのだから、次元が違うと言われているゼウスは、いったい、どれだけ凄《すご》いのだろうか?
「バレンタインっ、そこから離れろ!」
ヘリオスが大声で叫んだ。
アリサは弾《はじ》かれたように路上駐車の車から離れ、通りを飛んだ――ヘリオスが身を潜める自動販売機の裏に肩から突っ込んだ。
数秒後、ふたたびの爆発音。さっきまで盾にしていた車が炎上した。
ふたり同時に屈《かが》んだ。
間を置かず、自動販売機の裏側が裂け、アリサ達が背後にしているブロック塀が砕け散った。
なんということだ。
バンが爆破され、ライフルで追われた揚げ句に路上駐車されている車の陰に逃げ込むと計算した上で、爆弾を仕かけたというのか?
「くそっ……調子に乗りやがって」
顔色を変えたヘリオスが自動販売機から通りに躍り出た。すかさず、天から降ってくる銃弾の雨がヘリオスを襲う。
華麗なタップを踏むように、ヘリオスが次々と銃弾を躱《かわ》した。
放置された自転車の前輪が吹き飛び、民家の窓ガラスが粉砕した。
ヘリオスの半径1メートル以内で、ゴルゴの放ったライフル弾が次々と着弾した。
ウィービング、ステップバック、サイドステップ、ダッキング……ヘリオスは、間一髪のところですべての狙撃《そげき》弾を躱していた。
並のアサシンなら、とっくに頭を吹き飛ばされているはずだ。
アリサは、着弾ポイントから弾道を逆算し、狙撃手を探した。
右斜めの雑居ビルの屋上。ライフルを構えた長身の男……ゴルゴ。
「3時の方向、屋上だ!」
アリサが叫ぶと、ヘリオスが不意に仰向けに倒れ、上半身を少しだけ起こし、ダブルハンドでベレッタを構えた。
「無理だ」
アリサは思わず呟《つぶや》いた。
射程距離はおよそ40メートル。ライフルならいざ知らず、ハンドガンで、しかも不安定な体勢で屋上のゴルゴを仕留めるのは、いくらヘリオスでも不可能だ。
籠《こも》った撃発音と重厚な撃発音が交錯した。
上半身を捻《ひね》るヘリオス。僅《わず》か10センチ横の路面に穴が開く。くの字に躰《からだ》を折り曲げたゴルゴが、屋上の鉄柵《てつさく》を飛び越え頭から落下した。
重い衝撃音。そこここに撒《ま》き散らされる脳漿《のうしよう》と内臓。耳を劈《つんざ》く野次馬の悲鳴。
ヘリオスが、アリサに向かって茶目っ気たっぷりに片目を瞑《つぶ》ってみせた。
アリサは駆け出し、手足を明後日の方向に曲げているゴルゴの屍《しかばね》――既に崩壊した頭部に止《とど》めの銃弾を撃ち込んだ。
サイレンが遠くから風に運ばれてくる。
これだけの騒ぎになれば通報者がいないほうが不自然だ。
「撤収だ」
アリサは頷《うなず》き、硝煙と白煙のフィルターのかかった裏通りをヘリオスとともに駆け抜けた。
絶体絶命の危機に追い込まれながら、ようやくひとりを仕留めた。
残るは三人……。
門馬の前には、殺人神《ゼウス》が立ちはだかっている。
辿《たど》り着けるのか?
アリサはバレンタイン[#「バレンタイン」に傍点]として初めて、不安という存在と対峙《たいじ》した。
アジトにしている別荘の地下室の空気が、重苦しく沈殿していた。
買ってきたまま手をつけられていないふたりぶんのコンビニ弁当が載せてあるテーブルに足を投げ出しソファに深く身を預けたヘリオスは、戻ってきてからずっと天井をみつめていた。
ヘリオスの真向かいのソファに座ったアリサも、厳しく唇を引き結び、じっと壁を凝視していた。
ふたりの足もとには、五体の屍が転がっていた。
天井や壁にそれぞれがみているものは、敗北という二文字だった。
四天王のうち、ゴルゴは倒した。にも関わらず、ふたりに任務遂行の充実感は皆無だった。
スパイダーとゴルゴ。二対二の戦いで、こちらはひとりを仕留めた。
本来ならば勝ちと言ってもいい結果だが、そうでないのは、ふたりの心がわかっていた。
虚を衝《つ》いたつもりだったが、一切の動きを読まれていた。
嵌《は》めたつもりが、嵌められていた。
ゴルゴを仕留めたのもシナリオ通りに進んだものではなく、追い詰められた末に……というのが、この重苦しい空気の答えだった。
「自信喪失か?」
沈黙を破ったのは、ヘリオスのひと言だった。
「ああ」
アリサの返事に、ヘリオスが驚いたように少しだけ眼を見開いた。
「珍しいな。君がそんなことを認めるなんて」
強がりを言う気力もなかった。
自分のやってきたことが通用しないという体験は、アリサにカルチャーショックを与えた。
誰にも負けない暗殺者《アサシン》になるためだけに、人生のすべてを費やしてきた。
今日の結果は、バレンタインとしてのアリサを全否定するものだった。
「悔しいが、あの場にゼウスがいたなら、と思うと、ぞっとする」
アリサは、絞り出すような声で言った。
一番、認めたくない言葉だった。
だが、次の一歩を踏み出すには、認めるしかなかった。
「心が折れてるなら、足手|纏《まと》いだから任務から降りてもらいたいな」
ヘリオスが、天井に顔を向けたまま独り言のように言った。
「足手纏いだと? 犬に仕かけられた爆弾を教えてやったのは、誰だと思ってるんだ?」
アリサは、ヘリオスの横顔を睨《にら》みつけた。
「俺が気づいてなかったとでも?」
ヘリオスが、天井からアリサに視線を移した。
「気づいていたというのか?」
「ああ。敵は、車を爆破すること以外に、君をおびき出すという目的があった。あの犬を連れていた女は、言わば撒《ま》き餌《え》だ」
「俺が、敵の罠《わな》に嵌まったというのか?」
ヘリオスが頷《うなず》き、そして言葉を続けた。
「君が飛び出してこなかったら、俺は寸前のところで車を発進させて、敵の様子を窺《うかが》うつもりだった。必ず、スパイダーは近くに潜んでいたはずだからな」
アリサは、二の句が継げなかった。
ただ追い込まれただけではなく、まんまと敵の罠に嵌まってしまった……。
アリサの胸の中で、なにかが音を立てて崩れ落ちた。
「四天王は、プロ中のプロだ。誰もが、君よりもトレーニングも実績も積んでいる。雑魚《ざこ》を相手にしているわけじゃないから、落ち込む必要はない。だが、認めるな。認めた瞬間に、敵は、本来の姿よりも大きな存在になる。慎重になるのと気圧《けお》されるのは違う。相手のオーラを感じてしまった段階でその勝負に勝ち目はない」
頭の天辺《てつぺん》から電流で貫かれたような衝撃が走った。
初めて任務で苦戦したことにより、四天王に実力以上の幻影をみたのかもしれない。
ヘリオスにたいして今回の任務に慎重過ぎると注文をつけていた自分が、いつの間にか萎縮《いしゆく》してしまっていた。
ヘリオスのほうは口だけでなく、いざ任務が開始されると実戦で証明してみせた。
アリサは、現段階でのヘリオスとの差を否応なしに思い知らされた。
アリサは、ヘリオスを見据えて顎《あご》を引いた。
「明日は、3時起きで出発だ。道場に出向いてみよう。四天王……いや、もう三天王だな。やっこさん達は、ゴルゴが殺《や》られたことでなにかのアクションを起こすはずだ。動きが出てくるだろういまがチャンスだからな」
「わかった」
「そう素直過ぎると、なんだか気持ち悪いな。夕方の爆撃のショックで、頭でも打ったか?」
言うと、ヘリオスが八重歯を覗《のぞ》かせた。
余計なことを言うな。昨日までなら、そう言っていたアリサだった。
が、いまのアリサは、彼にたいしてそんな軽口を叩《たた》ける立場ではなかった。
――場を弁《わきま》えろ。
小野寺の前でもくだらない冗談を口にするヘリオスにアリサが言った言葉だが、他人のことは言えなかった。
――場を弁えろ。
自分にかけたい言葉だった。
「どうした?」
急に真顔になったヘリオスが問いかけた。
瞳《ひとみ》の奥に宿る優しさに、不意に胸が苦しくなる。
どうしてそんな眼をする?
もう、ずいぶんと昔にみたことのある同じような温かな瞳……体内からすべての酸素が失われたとでもいうように、この場にいるのが苦しくなった。
そんな眼で、俺をみるな。
アリサがアリサと呼ばれていた頃は、その瞳が……優しさが心地好《ここちよ》かった。
が、幸せな体験は、二度と取り戻すことのできない思い出になった瞬間に最大の苦痛と化す。
やめろ……やめないか……。
堪《たま》らず、アリサは眼を逸《そ》らした。
「バレンタイン……」
「悪いが、先に仮眠を取る。お前が寝る時間がなくなってしまうからな」
なにかを言いかけたヘリオスを遮り一方的に言うと、アリサはベッドに横になった。
☆ ☆ ☆
「怖くないから、こっちにおいで」
放牧されている馬の横で、父が手招きした。
普段家にいない父がふらりと帰ってきて連れて行ってくれたのは千葉の牧場だった。
馬は怖いから遊園地がいいと言うアリサの願いを、人込みはきらいだから、と父は聞いてくれなかった。
「お馬さんに蹴《け》られるのいやだもん」
母が読んでくれた絵本に白馬に蹴られた悪者ギツネの躰《からだ》がバラバラになった話があり、それ以来、馬のことが怖くなってしまったのだった。
「大丈夫だって。アリサはゴンスケじゃないんだから」
「本当に蹴られない? バラバラにならない?」
「ああ、平気だよ。いいコは蹴られないから安心しなさい」
父の優しい笑顔に促され、アリサは怖々《こわごわ》と歩を踏み出した。
「ほら、怖くないだろう?」
父が言いながら、アリサを抱き上げると小さな手を馬のたてがみに導いた。
牧草を食《は》んでいた馬が、心地好さそうに眼を細めた。
「どうだい?」
「うん、怖くない。とっても、かわいい」
アリサは、今度は父の手を借りずに自分から馬の首筋を撫《な》でた。
「写真を撮りましょうか?」
観光客らしきよく陽灼《ひや》けした男性が、にこやかに声をかけてきた。
「うん、お馬さんと一緒に写真を撮る!」
「よしよし、待ってろ」
父が、アリサを馬の背に乗せてくれた。
「娘だけ、写してください」
右手を伸ばしてアリサを支える父が観光客に言った。
「そんなこと言わず、お父さんもご一緒にどうぞ」
「私は写すなと言ってるだろう!」
カメラを構える観光客に怒鳴る父。
いつも穏やかな父が、こんなに大声を出したのをみるのは初めてのことで、アリサの笑顔は強張《こわば》った。
表情を硬くしたのは観光客も同じで、結局、シャッターを押すことなく立ち去って行った。
「ごめんな。びっくりさせてしまって」
父が、アリサの頭に手を乗せて言った。
「パパ、どうして怒ったの?」
「パパはね、写真を撮られるのがきらいなんだ」
「ふーん」
「でも、悪かった……」
タイヤがパンクしたような音が空気を切り裂き、父が仰向けに倒れた。
父の額からは、まっ赤な血が垂れ流れていた。
「パパ……パパ!」
「次はお前だ」
アリサの絶叫に、誰かの声が重なった。
アリサは、視線を父の屍《しかばね》から声の主に移した。
さっきの観光客が、カメラの代わりに拳銃《けんじゆう》を握っていた。
首には、トップに青い蝶《ちよう》が象《かたど》られたペンダントをかけていた。
アリサの泣き声が、銃声に塗り替えられた。
観光客が消え、代わりに天井が視界に広がった。
夢だった。
だからといって、安堵《あんど》感はない。
父が青い蝶の男に殺されたのは事実なのだから……。
それにしても、不思議な夢だった。
最後の観光客が父を狙撃する以外は、父に牧場に連れて行かれたのも、写真を撮ろうとした観光客に怒鳴ったのも、すべて実際にあった出来事だった。
いまのアリサになら、父がなぜ遊園地などの人込みを避けたのか、写真を撮られることをあれほど嫌ったのかがわかる。
父だけではなく、アサシンなら、それが常識だ。
空気が肌を突き刺した。
気配は、パーティションの向こう側から漂ってきた。
アリサは枕の下のグロックを手に取り、眼を閉じた――五感を研ぎ澄ませた。
驚きがないと言えば嘘になる。
が、先入観念で判断はしない――まさか、が命取りになる世界。
裏切らないのは、自分だけだ。
数秒前までよりも色濃くなる気配。いつでも応戦できるように、アリサは薄目を開け、仰向けのままそっと膝《ひざ》を立てた。グロックを握る前腕の筋肉に力を込めた。
ゴムで言えば、極限まで伸ばし切った状態だった。
一切の疑問を頭から追い出し、その瞬間を待った。もう、完全に眼は見開いていた。
凝縮する空気――パーティションの陰から現れる人影。
アリサは毛布を人影に向かって蹴り飛ばし跳ね起きると、すかさずトゥリガーを引いた。
人影……ヘリオスが自ら後方に倒れ込み一回転しながら弾丸を躱《かわ》した。
追い討ちをかけようとしたアリサの足もと――床をヘリオスの放った銃弾が抉《えぐ》った。
ステップバック。飛び退《の》きつつ、ヘリオスの右膝に狙いをつけた。
ダイビングするように床に頭から突っ込んだヘリオスが、横に転がりながらマズルの照準をアリサに合わせた。
銃弾の嵐が襲い来る。ベッドに駆け上がったアリサはヘリオスの背後に回った。
ダブルハンド――三角形を作るように突き出した両腕をヘリオスの背中に向けた。
撃発、撃発、撃発。転がり続けるヘリオスの躰から4、5センチ離れた床に次々と穴が開いた。
劣勢のはずなのに、どこかヘリオスには余裕が感じられた。
己を追う銃弾も、ギリギリのところまで引きつけて躱しているようにみえた。
フェイント――今度はヘリオスの転がる進行方向に着弾させた。
ポーズボタンを押した動画のようにヘリオスの回転が止まった。
更なる驚愕《きようがく》。片手で倒立したヘリオスが、ベレッタを持つ右腕をアリサに向けた。
間一髪――ベッドに尻餅《しりもち》をつくアリサ。銃弾がアリサの頭上の壁にめり込んだ。
砕け散るコンクリートの白粉に視界を奪われた。それは相手も同じ条件だ。
瞬時の判断で腹這《はらば》いになるアリサ――白粉のないクリアな視界。
もらった。
ヘリオスの腹を目がけてトゥリガーを絞った、絞った、絞った! 瞬間、ヘリオスが消えた……いや、驚くべき跳躍力で垂直にジャンプしていた。
宙で火を噴くグロック。アリサは仰向けになりながら、指を絞った。
既にヘリオスの姿はなかった――信じられないスピードで前方回転を繰り返しベッドに飛び乗り、アリサのグロックのマズルを掴《つか》んだ。
「テストは、終わりだ」
「テスト? なんのつもりだ?」
「俺は、80パーセントの力で君を仕留めようとした。その俺と互角に渡り合ったんだから、君は十分に四天王と戦える」
自分は、試された。それも80パーセントの力で……。
こんな屈辱はなかった。
ヘリオスが天才的アサシンであるのはわかる。ゴルゴを相手にしたときも……そしていまも、彼に卓越した戦闘術があるのは疑いようもなかった。
だが、ヘリオスが伝説だろうと天才だろうと、同じ任務を命じられたアサシンであるかぎり、互角の立場だ。
なにより、励まされているということがアリサのプライドを傷つけた。
「俺が80パーセントの力しか出さなかったからといって、気落ちすることはない。狙う側より狙われる側が不利なのは君も知ってるだろう? 不意を衝かれた君だって、20パーセント減の力しか出せなかったはずだ」
ヘリオスが、アリサの心を見透かしたように言った。
それが、善意からきている言葉なのはわかっていた。
が、その気遣いが、よけいにアリサを惨めな気分にさせた。
「何様のつもりだ?」
低く震える声が、アリサの唇を割って出た。
「さあ。神様じゃないのだけはたしかだ」
ヘリオスが口もとを綻《ほころ》ばせた。
もちろん、アリサは笑えるはずがなかった。
「お前みたいなふざけた男と、家族の仇《かたき》を討つ気にはならない」
グロックのマズルを掴む手を振り払おうとしたが、ヘリオスは離さなかった。
「奴らを倒したいと思っているのは、君だけじゃない。大人になれ、バレンタイン」
ヘリオスが、アリサの瞳を射貫《いぬ》くような鋭い眼でみつめた。
怒り、哀しみ、憎悪、歯痒《はがゆ》さ……瞬時のうちに、ヘリオスの瞳から様々な感情が窺えた。
ヘリオスと門馬の間に、いったいなにが?
「放せ」
脳内に芽生える疑問を消去し、アリサはヘリオスの手を振り払った。
――ターゲットのことだけを考えろ。それ以外は、いかなる者の言動にも興味を示してはならない。好奇心は感情移入の始まり……それは、アサシンにとって死を意味する。
記憶の中の小野寺の声に、アリサは従った。
ヘリオスと門馬がどういう関係であろうと、アリサの任務には関係のないことだ。
「もう、邪魔はしない。ゆっくり休め」
ヘリオスは労《いたわ》るように言うと、ベッドから下りた。
パーティションの向こう側へと消えるヘリオスの背中を、アリサは視界から消した。
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6
薄闇に包まれた山道に、バイクのエンジン音が鳴り響く。
タンデムシートの上で、アリサの躰が何度もバウンドした。
愛宕《あたご》山こどもの国から山道を30分ほど進んだあたりで、ヘリオスがバイクを急速にスローダウンさせ、右へとハンドルを切った――獣道《けものみち》を奥へ進んだ。
侵入者を検問するように伸びる木の枝が、ヘルメットを乾いた音で叩《たた》いた。
エンジン音がフェードアウトし、バイクから飛び下りたヘリオスがヘルメットを脱ぎ、小さく息を吐き出した。
「あと、3キロってところだ。ここからは歩きで行こう」
あと3キロ――至光会の道場がある私有地の入り口までの距離。
風下とはいえ、これ以上近づくとエンジン音が聞こえるおそれがあった。
講習会で参加させた者達を洗脳する目的の道場周辺には、百人以上の信者がいるらしい。
もちろん、ただの信者ばかりではなく、中には訓練を積んだアサシンも相当数交じっているに違いない。
そして、四天王の残り三人も……。
アリサは頷《うなず》き、ヘルメットをハンドルにかけた。
ヘリオスは米軍用のアリスバッグから取り出した土色のシートを広げ、バイクを覆った。
有事のために備え、エンジンキーはつけたままだった。
アリサが太腿《ふともも》にベルトで装着したポーチから抜いたサバイバルナイフであたりの木の枝を手当たり次第に折り、シートの上に次々と重ね合わせると、ヘリオスは掻《か》き集めた落ち葉や草をさらにその上に被せていった。
15分ほどで、バイクが周囲に溶け込んだ。
山道からも4、50メートル奥に入ったところなので、よほどのことがないかぎりみつかりはしない。
周囲と同化しているのは、バイクだけではなかった。
黒の迷彩色のミリタリーウエアに黒のジャングルブーツ――アリサとヘリオスも、山|籠《ご》もり用に完全装備していた。
ただの山籠もりとは違う。
腰にはグロック36とマガジンがおさめられたホルスタとマガジンポーチ、背中には予備の弾丸が50発、チタン製の鍋《なべ》、皿、マグカップ、ナイトビジョン、赤外線スコープ、マグライトなどが詰まったバックパックを背負っていた。
「行こう」
ヘリオスが、足を踏み出した。
アリサも右手にグロック、左手にナイフを握り締めあとに続いた。
まだ薄暗かったが、マグライトは遠方まで光が届く可能性があったので使わなかった。
ブーツの底で、小枝が音を立てて折れた。
3キロの道程とはいえ、平坦《へいたん》なアスファルトとは違い、この雑木林のコンディションでは1時間はかかるだろう。
センターでは、バックパックに50キロのプレイトを入れ、10キロの山道を行軍するという訓練があった。
それに比べれば、5キロそこそこの装備で3キロを行軍するのはわけがない。
ただし、訓練と違い、いつ、敵に発見されるかもしれないという危険がつき纏《まと》う。
足もとで蠢《うごめ》く黒い影――アリサはナイフを上から下へと振り下ろした。
マムシの首が刎《は》ね飛び、木の幹にぶつかった。
ヘリオスは進路を妨げる枝葉や蔓《つる》を、躰の前でX字に腕を動かしながらナイフで薙《な》いでいた。
前方と左はヘリオスが、右と背後はアリサが注意を払いながら歩を進めた。
地面が急斜になり、険しくなってきた。
フクロウの鳴き声が森閑とした空間に寂しげに谺《こだま》していた。
ふたりとも、息ひとつ乱さずに足場の悪い斜面を登った。
激しい葉擦れの音――ヘリオスとアリサが歩を止め、ほとんど同時にベレッタとグロックのマズルを持つ右腕を上空に向けた。
闇空に羽ばたく黒い影……カラスだった。
鬱蒼《うつそう》とした雑木林を、黙々と歩いた。
ミリタリーウエアの下が微《かす》かに汗ばんでいたが、相変わらず互いの呼吸に乱れはなく、土を踏み締める音だけが静寂の中で自己主張していた。
どのくらい歩いたのだろう……梢《こずえ》の合間から覗《のぞ》く空が白み始めてきた。
「もうすぐだ」
ヘリオスが立ち止まり、コンパスと地図を交互にみながら言った。
「あと、どのくらいだ?」
アリサは周囲に視線を巡らせながら訊《たず》ねた。
「そうだな。15分ってところ……」
ヘリオスが急に言葉を切り、アリサの肩を掴《つか》み地面に伏せた。
耳を澄ませた。微かに、人の話し声と足音が聞こえてきた。
左前方。3、40メートル向こう側の藪《やぶ》から白い衣服……作務衣《さむえ》が覗きみえた。
至光会の道場の方角から歩いてきたようだ。
二、三、四、五人……全員、男だった。ひとりだけ、緑の作務衣を着ている者がいる。
懐中電灯を手に世間話をしている様子から察すると、五人は純粋なる信者に違いない。
恐らく、巡回班なのだろう。
「緑」
ヘリオスが呟《つぶや》いた。
「白はどうする?」
アリサも呟き返した。
「わかってるだろう?」
アサシンじゃないのに? 喉《のど》まで出かかった言葉をアリサは呑《の》み下した。
そう、わかってること。
異変を主人に伝えるのが、忠実な犬というものだ。
アリサは頷く代わりに、バックパックから取り出した赤外線スコープを手早くグロックに装着した。
隣では、ヘリオスが同じ作業をベレッタに行っていた。
腹這《はらば》いのままダブルハンドで構えたグロックの先……およそ10メートル前方の白作務衣の信者の額に赤い点が浮いた。
「3、2、1」
ヘリオスの囁《ささや》きに合わせて、トゥリガーを引いた。
ふたりの白作務衣が弾《はじ》かれたように背中から地面に叩きつけられると、残りの三人がパニックに陥った。
マズルを横へ動かした――ふたり目の白作務衣が倒れた瞬間に立ち上がり、ヘリオスとともに駆け出した。
ひとりだけ残った緑作務衣の信者が、驚愕《きようがく》の表情で立ち尽くしていた。
あまりの恐怖に、金縛り状態になっているようだった。
「ちょっと、つき合ってもらおうか?」
ヘリオスが、マズルを信者のこめかみに突きつけた。
「あ……あ、あなた達は、だ、誰……」
信者の股間《こかん》にシミが広がり、アンモニア臭が立ち上《のぼ》った。
アリサはグリップで信者の後頭部を痛打した――ヘリオスが中腰になり、くの字に折れる信者を肩で担ぎ上げた。
☆ ☆ ☆
「次の巡回はいつだ?」
樹木に縛りつけた緑作務衣の信者に、ヘリオスが訊ねた。
四体の屍《しかばね》は繁みの中に運び入れ、バイクと同じようにカムフラージュしていた。
信者は、至光会の警備部の所属でありC班の班長だった。
警備部はA班からF班まであるらしく、3時間ごとに五人ひと組で巡回している、というのがヘリオスが聞き出したことだった。
「ひとつの班が巡回に要する時間は?」
「い、1時間です」
信者が、ヴィヴラートした声で言った。
黒目は、鼻先に突きつけられているベレッタのマズルに向けられていた。
「1時間を過ぎても戻らない場合はどうなる?」
今度は、アリサが訊ねた。
「ま、まず、携帯に連絡が入り、そ、それでも繋《つな》がらなかった……ば、場合は、次の班が早めの巡回を開始します」
C班が道場に戻らなければならない午前6時まで、あと30分しかない。
つまり、30分の間になんらかの手を打たなければ、D班が出動するというわけだ。
「幹部の携帯番号は?」
ヘリオスが言いながら、信者の作務衣のポケットから携帯電話を取り出した。
「え……ど、どうしてですか?」
青|褪《ざ》めていた信者の顔が、よりいっそう血の気を失った。
「電話をかけるからに決まっているだろう」
「そ、それは、か、勘弁してくだ……」
信者が、己に突きつけられるグロックをみて息を呑んだ。
「選択肢はふたつしかない。どっちを選ぶんだ?」
アリサは、冷え冷えとした声音で言った。
ヘリオスは、この男を使ってさらに上の立場の信者をおびき出すつもりに違いなかった。
リスクはあるが、現時点ではそうやって人質を増やしながら四天王に辿《たど》り着くしかない。
「わ、わかりました……。かけます……かけますから、命は助けてください」
信者がうわずり、吃《ども》りながら幹部の番号を告げた。
「誰の番号だ?」
「警備部の部長です……」
「そいつは、組織でどの程度の位置にいる?」
「きょ、教祖様のボディガードを務める、十人の中のひとりです」
観念したのだろう、信者は躊躇《ちゆうちよ》なく至光会の内部事情をバラした。
門馬のボディガードをしているということは、その部長がアサシンである可能性は高かった。
が、だからといって、四天王の動きを知っているとはかぎらない。
現に、別荘で生け捕りにしたアサシンは、彼らについてなにも知らされていなかった。
反面、四天王の情報を掴んでいる幹部が皆無とも言い切れはしない。
とにもかくにも、ひとつずつ、可能性を追い求めて行くしかない。
ヘリオスが、いま聞いたばかりの携帯電話の番号をプッシュした。
「打ち合わせをしなくてもいいのか?」
アリサは訊ねた。
ヘリオスは、信者に幹部とどういうふうに話すかを指示していない。
「その必要はない」
ヘリオスが携帯電話を耳に当てながら、トゥリガーを引いた。
脳漿《のうしよう》を樹皮に撒《ま》き散らした信者が白目を剥《む》いた。
「おい、どういうつもり……」
「もしもし、警備部長さん? 俺はヘリオスと呼ばれている者だが、いま、おたくらのC班の班長さんの命を貰《もら》った」
「な……」
絶句するアリサに、ヘリオスが少年のような無邪気な微笑みを向けた。
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C班の班長を置き去りに、ヘリオスとアリサは当初進んでいたコースから大きく迂回《うかい》し、生い繁る藪《やぶ》の中に伏せていた。
さっきと同じように、至光会の道場までは、徒歩で10分ほどの近距離だった。
ただ、さっきと違うのは、近距離は近距離でも、ふたりが身を潜めている場所は、道場の建物の裏手だということだ。
――いま、おたくらのC班の班長さんのを命を貰った。
いま頃、樹木に縛りつけられ事切れている同志を発見した警備部の人間は血相を変えてヘリオスとアリサを探し回っていることだろう。
敢《あ》えて、至光会の幹部に配下を殺したことを告げた目的……ヘリオスがなにを考えているのか、アリサにはわからなかった。
「なぜ、幹部を呼び出させなかった?」
アリサは、樹木の間から4、5メートル先の獣道《けものみち》に視線とマズルを向けたまま、隣のヘリオスに囁《ささや》き声で訊《たず》ねた。
「雑魚《ざこ》を捕まえても意味はない。四天王の耳に入ったとすれば、奴らは必ず裏を掻《か》こうとするはずだ」
つまり、四天王が、配下が殺された場所とは真逆のコースを捜索すると見越し、奇襲攻撃をかけるつもりに違いない。
「相手が警戒している状況下では、奇襲とは言えないな」
アリサの言葉に、ヘリオスが頷《うなず》いた。
「条件は、五分と五分だ」
そして、厳しい表情で自分に言い聞かせるように呟《つぶや》いた。
微《かす》かな物音……枯れ葉を踏み締める音が聞こえてきた。
それも、複数だった。
ガゼルか、スパイダーか、それとも、ゼウスか?
背筋に緊張が走った。
が、現れた三人のスーツ姿の男達は、隙のない動きから恐らくアサシンに違いないが、四天王ではなかった。
「罠《わな》だな」
アリサが言うと、ヘリオスがふたたび頷いた。
罠――あのプードルを使ったときと同様に、自分達の所在を割り出そうとしているに違いない。
三人は、それぞれ拳銃《けんじゆう》を構え、四方に注意を払っていた。
ひとりが気配を感じたのか、藪……アリサとヘリオスのほうへ歩み寄ってきた。
残るふたりとの距離は約5メートル――バレずに始末するのは難しい。
しかし、男はどんどん藪に近づいてきた。
近くに、スパイダーが網を張っているのは間違いない。
じっと息を潜め、獲物がかかるのを待っている。
だが、このままでは、どちらにしても発見されてしまう。
「いくぞ」
アリサはヘリオスに言うと、狙いを男の眉間《みけん》に合わせ、トゥリガーを引いた。
同時に、ヘリオスがダッシュした。
頭を後方にのけ反らせた男が仰向けに倒れた。
ふたりが仲間の異変に気づいたときには、ヘリオスの指は既にトゥリガーを引いていた。
ひとりが倒れ、最後に残ったひとりが、捨て身でヘリオスに突っ込んできた。
「撃つな!」
アリサは叫び、ヘリオスの腕を掴《つか》むと藪の中へと引っ張った。
「どういうつもりだ?」
走りながら、ヘリオスが訊ねてくる。
アリサは男との距離を十分に取ると、トゥリガーを引いた。物凄《ものすご》い爆発音――男の躰《からだ》が散り散りに破裂した。
「スパイダーか?」
弾《はじ》かれたように振り返るヘリオスに、アリサは頷いた。
アサシンにしては、ヘリオスに立ち向かうときの男はあまりにも無謀過ぎた。
ヘリオスを仕留めるというよりも、道連れにしようというふうにみえたのだ。
「今度は、知っていたとは言わないよな?」
「ああ。君が止めなければ、俺もバラバラになっていたところだ」
「気を抜くな。奴らは、近くに……」
アリサが言い終わらないうちに、軽く二十人は超えるだろうスーツ姿の集団が獣道のほうから追ってきた。
さすがに、ふたりで二十人を相手にするのはきつい。
アリサとヘリオスは、並走しながら雑木林の奥へと駆けた。
障害物の多い環境は、大人数を分断するに適している。
背後から迫ってくる撃発音――目の前の樹皮が抉《えぐ》れ、枯れ枝が弾け飛んだ。
ヘリオスが足を止めず振り返り様に撃発した。時間差でアリサも続いた。
追っ手の先頭グループのふたりが糸が切れた操り人形のように前のめりに倒れた。
ふたりの屍《しかばね》が視界から遠ざかった。いや、アリサの躰が宙に浮いた――仕かけられていたワイヤーが足首に絡みつき、コウモリさながらに逆さ吊《づ》りになってしまった。
知らず知らずのうちに、スパイダーのトラップに追い込まれていたのだ。
「バレンタイン!」
ヘリオスの叫びが合図とでも言うように、追っ手の拳銃が一斉に火を噴いた。
5メートルの高さで宙吊りになったアリサは、躰を捩《ねじ》るようにして銃弾を躱《かわ》した。
動くたびにワイヤーが足首に食い込み、激痛が全身に走った。
ヘリオスがサバイバルナイフでワイヤーを切りつつ、追っ手に向かって牽制《けんせい》の撃発をした。
視界が早送りになり、背中を地面に痛打した。
が、グロックだけは手放さなかった。
ヘリオスがアリサの盾になり、二十人近い敵を相手に孤軍奮闘した。
アリサは立ち上がろうとしたが、腰から下が痺《しび》れて動かなかった。
ひとり、ふたり、三人……ヘリオスは次々と敵を仕留めたが、銃撃の嵐が止むことはなかった。
アリサは上半身だけ起こし、扇形に取り囲む敵――樹木から顔と腕だけを覗《のぞ》かせる男の額に照準を合わせトゥリガーを引いた。
男がくずおれるのを見届ける間もなく、飛んできた銃弾がアリサの耳もとの土を抉り取った。
跳弾から割り出した位置。9時の方角――アリサはグロックを持つ右腕を左に薙《な》ぎ、岩陰で腹這《はらば》いになり拳銃を構える男の額を撃ち抜いた。
「うざったい虫けらめ」
ヘリオスが腰に手を伸ばした。二|挺《ちよう》拳銃。右から左にヘリオスが両腕を動かすと、射撃態勢に入っていた何人かが、アクション映画のワンシーンのようにドミノ倒しになった。
アリサも、3時、5時、8時の方向にグロックのマズルを巡らせた。
残る敵はふたり。約5メートル前方の樹木と倒木の陰に伏せていた男達は、明らかに動揺していた。
ヘリオスが樹木の男に、アリサは倒木の男をターゲットに絞った。
乾いた撃発音の連続。大きくバックステップしたヘリオスの足もとの切り株が一瞬にして蜂の巣となった。
5、6メートル先の樹々の間を横切る黒い影。
野犬か?
いや、違った。あまりのスピードにそう思ったが、黒い影は人間だった。
「ガゼルだ」
ヘリオスが言いながら、黒い影――ガゼルをマズルで追った。
が、驚異的なスピードについていけず、ヘリオスは撃発することすらできなかった。
強力な援軍を得て勢いを取り戻したふたりの男がヘリオスに拳銃を向けた。
援護射撃。トゥリガーを引いた。ひとりは眉間、ひとりは左胸。邪魔者は片づいた。
ガゼルが手にしているのはサブマシン・ガン……眼にも留まらぬはやさで駆けつつ、銃弾の嵐をヘリオスに浴びせかけてきた。
ダイビングするように頭から藪の中に突っ込むヘリオス。動けぬアリサが流れ弾を受けぬよう、できるだけ遠くへ離れようとしているのがわかった。
ヘリオスは、転がり、横転を続けるだけが精一杯だった。
サブマシン・ガンとハンドガンでは、それだけですでにかなりのハンデになる。
加えて、ガゼルのスピードは驚異だった。
しかも、はやさに任せて闇雲に走っているだけではなく、緻密《ちみつ》な計算の上に立ち、常にヘリオスの動きを読んでいた。
彼がなぜ、四天王と呼ばれているのかがわかった。
が、劣勢にみえるヘリオスも、まだまだ冷静だった。
アリサもダブルハンドで援護を試みるが、マズルを向けたときにはガゼルの姿はそこになかった。
転がり続けていたヘリオスが樹木にぶつかった。
行き止まり。フェイント――誘い。アリサにはすぐにわかった。
絶体絶命の窮地であっても、先のない逃避先を選ぶような男ではない。
ガゼルは歩を止めず、銃弾をヘリオスに集めた。
ガゼルも読んでいた。ヘリオスが、足を止めさせようとしていたことを。
ガゼルに負けない敏捷《びんしよう》さで立ち上がったヘリオスは、樹木に飛びつくと猿のようにするすると登った。
瞬間、困惑したようにガゼルの動きが遅くなった。
だが、すぐにザブマシン・ガンを上向きにし、ヘリオスを撃ち落としにかかった。
眼を疑った。
ヘリオスが空を飛んだ――宙からガゼルに向かって撃発した。
ステップでもなくジャンプでもなく、ガゼルは走り続けることでヘリオスの奇襲攻撃を躱した。
ガゼルは、脚力が武器として十分に機能している。
クッションの利いた藪に落下したヘリオスがガゼルから3メートル先の位置にベレッタを向けた。
ガゼルが踵《きびす》を返したそのとき、ヘリオスが時計回りに回転してトゥリガーを引いた。
転倒するガゼル。左の太腿《ふともも》が鮮血に染まっていた。
続けてトゥリガーを引くヘリオス――ガゼルの手からサブマシン・ガンが弾け飛ぶ。
ヘリオスがダッシュして駆け寄り、立て続けに3発の銃弾を放った――右の太腿を抉り、両腕の肘《ひじ》関節を砕いた。
そして最後にサバイバルナイフを手にし、左右のアキレス腱《けん》を断ち切った。
生け捕りにするつもりなのだろう。
ガゼルなら、門馬や同じ四天王のゼウスの情報を掴んでいる可能性が高い。
ヘリオスがダルマ状態になったガゼルを引き摺《ず》り起こし、肩に担ぎ上げるとアリサのもとへ歩み寄ってきた。
五感に触れる気配。アリサは、ヘリオスの背後に視線を移した。およそ10メートル向こう側で蠢《うごめ》く黒い影――何者かが樹木の裏側に身を隠した。
眼を凝らした。樹木から微《かす》かに突き出る棒状の物質……アンテナ。
「ヘリオス! そいつを捨てろっ」
アリサは叫んだ。
「落ちた弾みに頭でも打ったか?」
「さっきと同じだ!」
表情を崩しかけたヘリオスの頬が強張《こわば》った。
ガゼルを放り出したヘリオスがアリサを抱え上げ、駆け出した。
耳を聾《ろう》する爆音――弾け散るガゼルの肉体。
5メートル、10メートル……爆風に背を押されるようにヘリオスがジャンプした。
「姿を現せ!」
すっくと立ち上がったヘリオスが、黒い影が蠢いた場所……約20メートル離れた樹木にダブルハンドで構えたベレッタを向けた。
鼓膜を震わせる低い唸《うな》り声。樹木の陰から現れたのは、三匹のグレイハウンドだった。
蟻のように細く括《くび》れた腹には、ウエストポーチが巻かれていた。
それがなんなのかが、アリサにはすぐにわかった。
この雑木林のそこここに、スパイダーの大きな大きな蜘蛛《くも》の巣が張り巡らされているに違いなかった。
「ゴー!」
どこからか聞こえたかけ声を合図に、三匹が大きなストライドで地表を飛ぶように駆け出した。
チーターさながらのスピードでヘリオスとアリサに向かって全力疾走する三匹。
「左端を頼む!」
ヘリオスは言うと、右端と中央のグレイハウンドを立て続けに撃ち抜いた。
ほぼ同時に、アリサも撃発した。
広がる静寂を、バサバサと羽ばたく音が切り裂いた。
三匹はフェイント――反対側から、一羽の鳩が飛んできた。
アリサは上半身を捻《ひね》り、トゥリガーを絞った。
4、5メートルほど離れた宙が爆音とともに緋《ひ》色に染まった。
「趣味は動物虐待か? くそ野郎が」
火薬の匂いを含んだ煙とともにふわふわと舞う羽毛を視線で追いながら、ヘリオスが吐き捨てた。
「ひとまず撤退だ」
ふたたびアリサを担ぎ上げたヘリオスが、険しい藪道を奥へと進んだ。
「悪いな」
スパイダーのトラップにかかり足手|纏《まと》いになったことをアリサは素直に詫《わ》びた。
この窮地に歩けないのは、ヘリオスにとってもアリサにとっても致命的な状況だ。
この雑木林には、まだまだ、予測もつかないトラップが仕かけられているに違いなかった。
「おいおい、ガラにもないことを言うのはよしてくれ。この上、雨にでも降られたらたまったもんじゃないぜ」
からかうように、ヘリオスが言った。
「茶化すな。本当に、申し訳ないと思っている」
「ふたりの人間爆弾に殺人伝書鳩……君がいなければ、俺は三度死んでいた。謝られるどころか、礼を言いたいくらいだ」
ヘリオスが、しんみりとした口調で言った。
その間も、ただ歩くだけでなく、地雷を踏まないように慎重に一歩ずつ足を踏み出していた。
「それにしても……少しはダイエットしろよ」
「ふざけるな」
ヘリオスの肩で、アリサは口もとをほんの少し綻《ほころ》ばせた。
そんな自分に、驚きを隠せなかった。
笑ったのは……もう、思い出せないほどに遠い昔の話だった。
☆ ☆ ☆
「そろそろ、休んだらどうだ?」
どうしようか迷った末に、アリサはヘリオスに声をかけた。
過酷な足場をヘリオスは、スパイダーが仕かけたトラップの波状攻撃を逃れてから、アリサを背負ったまま2時間以上は歩き続けていた。
センターでは、山道を何時間も歩き続けるトレーニングをこなしてきたとは言え、訓練とは違い、極度の緊張が体力を奪い、その疲労度は比べ物にならないはずだ。
「お気遣いはありがたいが、いつ、奴らが追いついてくるかわからない。スパイダーから、当然、門馬に連絡が行っているだろうからな」
足取りがふらつくことはないが、さすがに、ヘリオスの呼吸は乱れていた。
が、彼の言うとおりだ。
いまここで歩を止めるのは、猛獣が牙《きば》を研ぐサバンナで野宿をするようなものだ。
月の沙漠《さばく》を はるばると 旅の駱駝《らくだ》が行きました
金と銀との 鞍《くら》置いて ふたつ並んで行きました
金の鞍には銀の甕《かめ》 銀の鞍には金の甕
ふたつの甕は それぞれに 紐《ひも》で結んでありました
先の鞍には王子さま 後の鞍にはお姫さま
乗ったふたりはおそろいの白い上着を着てました
曠《ひろ》い沙漠を ひとすじに ふたりはどこへ行くのでしょう
朧《おぼろ》にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと
沙丘を越えて行きました
黙って越えて行きました
肩の上で揺られながら、アリサは歌を口ずさんだ。
少しでも、ヘリオスの気晴らしになれば、と思ったのだ。
「いいな。なんて歌だ?」
「なんだ? 『月の沙漠』を知らないのか?」
幼い頃から外界と隔離されトレーニングに明け暮れていたアサシンが、学校で習う童謡を知らなくても不思議ではなかった。
ただ、芸能人やドラマのことに詳しいヘリオスが意外なだけだった。
「『月の沙漠』か。タイトルもいいな」
ヘリオスが、しみじみと言った。
「普通の人達が知っていることを覚えることで、なにか取り戻せるものがあるのかな、って必死だった。でも、大人になって鯉幟《こいのぼり》を上げても、こどもの日を祝うことはできないんだよな」
そして、哀しげに笑った。
ヘリオスの気持ちは、痛いほどにわかった。
「小さい頃、いつも寝るときに母さんが子守唄に『月の沙漠』を歌ってくれた」
ヘリオスになら話してもいい。そういう気分になった。
「そうか」
「お前の親は……」
「静かに」
ヘリオスが立ち止まり、眼を閉じた。
「足音が聞こえる。まだ遠いが、かなりの数だ」
言い終わらないうちに、ヘリオスが駆け出した。
アリサにも、足音らしき物音が微かに聞こえた。
「俺を下ろせ」
「馬鹿なことを言うな」
「お前ひとりなら逃げ切れる」
険しい藪の中を、人を背負ったまま逃げ切るのは至難の業だ。
「君を見殺しにできるわけないだろう!」
ヘリオスが叫ぶように言った。
「俺の腕を、甘くみるな」
「とにかく、だめなものは……」
視界が急激に縦に流れた――続いて、激しい衝撃に襲われた。
「しくじった……」
アリサの下敷きになったヘリオスが、苦痛に顔を歪《ゆが》めながら声を絞り出した。
「大丈夫か!?」
ここでヘリオスまで歩けなくなったなら、一巻の終わりだ。
「ああ、ダメージはたいしたことはない。それより、ここからどうやって抜け出すかだ」
ヘリオスが自分の言葉を証明するように立ち上がり、5メートルはあろう上の出口を見上げた。
「さあ、掴まって」
ヘリオスが、アリサに背中を向けて屈《かが》んだ。
「馬鹿言うな。無理に決まってるだろう?」
「そんなもの、やってみないとわからないだろう?」
アリサは頷き、這うようにヘリオスの肩に掴まった。
ヘリオスがロッククライマーのように土壁に手をかけ、登ろうと試みた。
だが、土壁が粘土のようにあっさりと抉れ、1メートルも進まないうちにずり下がった。
「ほら、言っただろう?」
「七転び八起きって諺《ことわざ》があるだろう? あと、六回は転べるぜ」
振り返ったヘリオスが片目を瞑《つぶ》り、今度は別の場所……僅《わず》かに飛び出た枝を掴んだ。
やはり土質が柔らかいのだろう、躰が浮く前にすっぽりと枝が抜けた。
三度、四度、五度、六度、七度――場所を変え……掴むところを替えて挑んだが、結果は同じだった。
「もう、七回転んだぞ?」
「だから、次は成功するのさ」
ヘリオスのウインク。
なぜだろう?
そんな冗談めいた会話のやり取りをしている場合ではないのに、アリサの心は気持ち悪いくらいに落ち着いていた。
「さあ、みてろよ」
八度目のチャレンジをしようと土壁に手を伸ばしかけたヘリオスが、後方に飛び退《すさ》った――アリサを地面に下ろし、ダブルハンドでベレッタを天に向けた。
数秒後に、ロープが垂れ落ちてきた。
「僕は味方です。掴まってください」
頭上から降ってくる声。まだ若い。
首《こうべ》を巡らせるヘリオスと、束の間、眼が合った。
「門馬の手下が追ってきます。僕を信じてください!」
男の必死な声に、ヘリオスがアリサに向かって頷いた。
「どの道、このままじゃ結果はみえている。一か八かだ。いつでも撃てるように頼む」
言うと、ヘリオスがふたたび屈んだ。アリサを背負うと、ロープを力強く握り締めた。
アリサは、左手一本と両足でヘリオスの躰に掴まり、右手に持ったグロックを頭上に向けた。
また、スパイダーの罠か? それとも……。
地上が近づいてくるたびに、緊張感が高まった。
出口まで、3メートル、2メートル、1メートル……顔が地面に出た瞬間に、グロックの狙いを人影につけた。
「う、撃たないで……」
樹木の幹に縛りつけたロープを綱引きのような格好で握っていた男が、腰を抜かして座り込んだ。
薄汚れ破れたジーンズに長袖《ながそで》のトレーナー……傷だらけで泥と血に塗《まみ》れた男の顔はまだあどけなく、青年というよりも少年といった感じだった。
歳はアリサよりも五つか六つ下……14、5歳にみえる。
「ここで、なにをしている?」
アリサは、グロックのマズルで少年の額に狙いをつけたまま、低く短く訊ねた。
「し……至光会の道場へ行くためです」
「なぜ?」
「僕の父さんは、至光会に騙《だま》され、お金を全部取られて自殺しました……。あなた達、至光会と戦っているんでしょ? お願いしますっ。僕も、一緒に連れて行ってください」
少年が、大きな瞳に一杯の涙を浮かべながら懇願した。
「仇討《あだう》ちでもするつもりか? 助けて貰《もら》ったことは礼を言っておくが、連れて行くわけにはいかない。ここは、子供がいるような場所じゃない。死にたくなければ、さっさと家に帰れ」
アリサと少年のやり取りを聞いていたヘリオスが話に割って入ると突き放すように言った。
「僕がゼウスの居場所を知っていても、帰れっていうんですか?」
少年が腰を上げつつ言った。
「なに!?」
少年に背を向け足を踏み出しかけたヘリオスが立ち止まり、振り返った。
「おい、連れて行ってほしいからって……」
「待て。嘘を吐《つ》こうにも、ゼウスの名は知りようもない」
「そう言えば、そうだな」
アリサの言葉に、ヘリオスが思案顔で頷いた。
ゼウスの存在は、アサシンである者しか知らないはずだ。
「お前がどうして、ゼウスの居場所を知っている?」
アリサは、少年に向けていたグロックを地面に向けて訊ねた。
「ゼウスは、僕の兄だからです」
「なんだって! それは、本当なのか!?」
ヘリオスが頓狂《とんきよう》な声をあげた。
この少年がゼウスの弟などと……あのゼウスに兄弟がいたなどとは、俄《にわ》かには信じられなかった。
「奴らがもう近くまできています。僕、いい隠れ家を知ってるんです。話は、そこで聞いてください」
言い終わらないうちに、少年が雑木林の奥へと歩き出した。
狐に摘《つま》まれたような顔でアリサをみたヘリオスも、すぐに顔を戻してあとに続いた。
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トラップの落とし穴から10分ほど歩いたところで、青年は立ち止まった。
そして、藪《やぶ》を掻《か》きわけると、漆黒の空間がぽっかりと口を開いた。
たしかに、見事に草藪にカムフラージュされたこの洞窟《どうくつ》は隠れ家と呼ぶに相応《ふさわ》しい。
「入りましょう」
青年がハンドライトで闇を切り取ると、一斉にコウモリが羽ばたいた。
奥へ進むほどに、ひんやりとした空気が頬を撫《な》で、生臭い匂いが鼻孔に忍び込んだ。
「滑らないように気をつけてください」
足もとの岩肌は濡《ぬ》れ、苔《こけ》が生えていた。
アリサを背負っているヘリオスは、一歩ずつ慎重に地面を踏み締めていた。
約10メートル前方に、ハンドライトとは別の灯が点《とも》っていた。
ランタンのようだった。
「ここが、僕の秘密基地です」
青年が振り返り、白い歯を覗《のぞ》かせつつ右手で洞窟の行き止まりの岩壁の前の空間を指した。
「ヨーロッパの一流ホテル並みだな」
ヘリオスが軽口を叩《たた》きながら、アリサを2メートル四方はありそうなモスグリーンのマットの上に下ろした。
見た目は薄いが、マットはふんわりとしたクッションが利いていた。
「このマットの中身の素材は高密度のポリエチレンフォームで、地面の凸凹の吸収能力に優れています。移動時は、書類|鞄《かばん》程度のサイズのバッグに収納できるんですよ」
青年の口調は、家具屋の店員のようだった。
アリサは、周囲に視線を巡らせた。
座椅子タイプの青いチェア、ガスコンロ、ステンレス製の皿、マグカップ、鍋《なべ》、封筒形のシュラフ、小型ラジオ、保存食の数々……ヨーロッパの一流ホテルは言い過ぎだが、キャンプなら十分にできる品揃えだった。
「ランタンはマントルタイプの固形燃料を使っていて、14時間連続で燃焼します。保存食のほうはアルファ米を使っていてかなりの期間もちます。ひとパック二食分で、お湯を注ぐだけでOK。おかずはビーフカレー、笹身《ささみ》、鯖《さば》の味噌《みそ》漬け、帆立……疲労回復のカカオ99パーセントのチョコレートもあります」
「ずいぶんと用意がいいな」
青年の演説が終わると、ヘリオスが呆《あき》れたように言った。
「僕、サバイバルオタクだったんですよ」
青年が、屈託なく笑った。
「ま、でも、俺らは用意してきた荷物はナップザックごと放置してきたから、君がキャンプオタクで助かったよ」
「キャンプオタクじゃなくて、サバイバルオタクです。キャンプオタクっていうのは、設備の整ったキャンプ場なんかでテントを張る人達で、僕の場合は、埼玉、群馬、山梨……観光地じゃない山にひとりで籠《こも》って野宿していたんです。野宿と言っても、より実戦に近い状況にするためにテントも張りません」
青年が自慢げに説明しながら、コンロに火をつけ鍋をかけるとペットボトルのミネラルウォーターを満たした。
「じゃあ、実戦慣れした君といれば安心だな」
ヘリオスが、くわえた煙草の穂先をコンロの火で炙《あぶ》り、アリサの横に腰を下ろしながら苦笑いを浮かべた。
「またまた、あなた達こそ……あ、そうだ。まだ、自己紹介をしていなかったですよね? 僕は、卓也って言います。よろしく」
「俺は圭一、彼女は優子だ」
ヘリオスが、澱《よど》みなく答えつつ青年……卓也の差し出した右手を握った。
アリサの名前まで口にしたのは、返答に詰まるかもしれないと心配したのだろう。
「あ、話の続きですが、圭一さんと優子さんこそ、本物の拳銃《けんじゆう》を持っていたじゃないですか! グロック36ですよね!? グロックは、各国の公安、警察に幅広く採用され、オーストリア軍の制式拳銃でもあり、特殊プラスチックを使用したことで寒冷地帯での凍傷を防ぐというメリットがあるんですよ!」
卓也が雑誌かなにかの受け売りのようなセリフを興奮口調で捲《まく》し立てた。
「あ、釈迦《しやか》に説法でしたよね。あの……圭一さんと優子さんは、警察の人ですか?」
卓也が、遠慮がちに訊《たず》ねてきた。
アリサは、ヘリオスがどう答えるかに興味があった。
「どう思う?」
質問を質問で返すヘリオス。
「女性がヤクザなわけないし、銀行強盗にもみえないし、やっぱり警察関係……それも、公安でしょう!?」
「まあ、それは肯定も否定もするわけにはいかないな」
「図星だ! だって、公安は刑事警察と違って潜入捜査や諜報《ちようほう》活動を主としているから、名前が入っているものは一切身につけず、署内でもその存在を知る者はいないんですよ! たとえ奥さんであっても、任務を明かせないんですよね?」
「俺らが公安捜査官だとしたら、そうかもな」
のらりくらりと躱《かわ》しながらも、卓也に自分達を公安だと思い込ませる話術はたいしたものだった。
「今回は、至光会の信者を装った潜入捜査中に身分がバレ、銃撃戦の末に追われた……これも図星でしょう?」
「そろそろ、俺らも君についての質問をしてもいいかな?」
「あ……ごめんなさい」
卓也がバツが悪そうに舌を出した。
「さっき、ゼウスがお兄さんだと言っていたよね?」
答える立場になったとたんに、卓也の表情は、いままでとは一転して暗く沈んだものになった。
「父が至光会に入信したのは、兄の影響なんです」
「ゼウスの?」
思わず、アリサは口を挟んだ。
「はい。兄とは歳が13歳離れているんですが……僕が2歳の頃に兄は家出をしたらしいんですが、15年くらい経ったときにふらりと戻ってきたんです。それで、父と僕に、お世話になった人の講演があるから一緒に出席してくれないか、って」
「そのお世話になった人というのは、至光会の門馬のことか?」
ヘリオスの問いに、卓也が頷《うなず》いた。
「会場には、百人くらいの人が集まってました。信者の人達が、医者に見捨てられた不治の病が治った話や、潰《つぶ》れかけていた会社が奇跡的に立ち直った話などを2時間くらい続け、最後に、門馬が出てきて至光会に入れば救われるみたいなことを言ってました。父は、すっかり門馬の話を信じちゃって……」
「つまり、ゼウスは、君のお父さんを入信させるのが目的で15年振りに家に戻ってきたんだな?」
卓也が、きつく引き結んだ唇を震わせ、ふたたび頷いた。
「入信してからの父は、仕事を辞めて、魂の成長のためだとか言って貯金を全部至光会に預けたんです。最後には、魂を完全に浄化するためには家を売って道場で生活をしろと言われたらしく、僕は止めたのですが、お前も幸せになれるって話を聞いてくれなくて……。だけど、それからすぐに門馬に騙《だま》されていると気づいたんです。家を売ったお金を至光会に払ったあとに、道場に引っ越そうとしたら、担当の信者がこう言いました。前世のカルマが深過ぎてまだ邪念が残っているから出家は認められないと。でも、父にはもう1円のお金も残ってなくて、なんとかお願いしますと頼み込んだのですが認められないの一点張りでした。その後、担当の信者にもまったく連絡が取れなくなって、さすがに、父も門馬の目的がお金だったとわかったんです。けれど、もう、そのときは家も出て行かなければならなくて、立ち退き前日の朝、僕が起きたら、父は首を吊《つ》って……」
そこまで言うと、卓也が声を詰まらせ、頬を大粒の涙で濡らした。
「あ、煮立ってますね」
卓也は、手の甲で頬を拭《ぬぐ》いながら、レトルトの豚汁のパックを沸騰する湯に入れた。
「そのときゼウスは、どうしていたんだ?」
アリサは訊《たず》ねた。
「兄は、父が家を売る手続きを済ませた直後に、また、どこかへ消えました。父の通夜にも出てこなかったし……自分の父親を至光会のために利用するだなんて、僕には信じられません」
卓也が、膝の上で拳《こぶし》を握り締め、唇を噛《か》んだ。
話を聞いているかぎり、ゼウスは15歳のときに家を飛び出し、門馬と出会ったことになる。
それから15年振りに家に戻ってきたときには当然洗脳されていただろうし、門馬のロボットとなった彼には父親はもはや他人同然だったに違いない。
「なぜ、お兄さんがゼウスだとわかったんだ?」
ヘリオスの質問は、アリサも疑問に思っていたことだった。
「家で兄が誰かに電話をかけているときに、ゼウスです、って言っているのを聞いたんです。ずっと、なんのことなのかわかりませんでした。でも、父の仇《かたき》を討つために道場に忍び込んだときに信者達が噂話をしているのを耳にして、兄が恐ろしいことに関係していると知ったんです」
「どんな噂話だ?」
今度はアリサが訊ねた。
「ゼウスと呼ばれる幹部が、警察に駆け込もうとしたり弁護士に相談しようとする信者の口を封じているって……」
兄を語る卓也の顔は、恐怖に強張《こわば》っていた。
弟は、本当の兄の姿を知らない。
その信者達が話していたことは、まさに噂話程度に過ぎなかった。
教団を訴えようとする信者をいちいち殺していたら、それこそ何百人単位になるだろう。
ゼウスは、そんな安っぽい殺しはしない。
「君がそこまで知っているのなら、本当のことを言おう。俺らは、君の予想通り公安だ。教団壊滅のために、門馬とゼウスを追っている。だから、お兄さん……いや、ゼウスについて君の協力を仰ぎたいんだ」
ヘリオスが、真剣な眼差しを卓也に向けて言った。
もちろん、卓也の話を鵜呑《うの》みにしているわけではない。
また、騙そうとしているわけでもない。
真実を明かせない以上、公安に成り済ましてはいるが、その言葉通りにヘリオスは、卓也の協力を得て至光会を潰すつもりだった。
「やっぱり、そうだったんですね! 僕でよければ、いくらでも協力しますよ!」
卓也が瞳《ひとみ》を輝かせて言った。
「ありがとう。じゃあ、早速、ゼウスについて訊《き》きたいんだが……君のお兄さんは、家ではどんな感じだった?」
「さっきも言いましたが、兄が家出したときは幼くて記憶にないんです。17歳のときに戻ってきてからは1年くらい一緒に暮らしていたんですが、会話らしい会話もなくて……。とにかく、無口で眼が凄《すご》く冷たい人でした」
「みた目の感じは? 髪型とか、身長とか?」
「髪型は、圭一さんみたいに長くて、身長は180は超えていました。体型は筋肉質でした。あ、そうそう、一度、兄がお風呂から上がったときに裸をみたんですけど、全身に物凄《ものすご》い傷痕《きずあと》があったんですっ」
卓也が興奮気味に言った。
「どんな傷痕なんだ?」
「ミミズ脹《ば》れになっている細長い傷とか、丸っぽい傷とか……」
卓也が豚汁のパックを水泡の立つ湯から取り上げふたつのマグカップに移し入れると、アリサとヘリオスに差し出した。
ヘリオスは受け取ったマグカップを地面に置いて無言で立ち上がると、洞窟の壁際に歩み寄った。
「なにをしてるんですか?」
問いかける卓也に答えず、じっと佇《たたず》んだヘリオスは顔を上に向けてなにかを探していた。
「圭一さんは、なにをしてるんですか?」
同じ質問をアリサに投げかける卓也。
「すぐにわかる」
アリサは素っ気なく答えた。
4、5分……息を殺して壁を見上げていたヘリオスが、突然、ジャンプした。
「マサイ族の一員になれるかな」
白い歯を覗かせながら、戻ってきたヘリオスの右手にはコウモリが握られていた。
「そんなの捕まえて、なにをやる気なんですか!?」
卓也が頓狂《とんきよう》な声を上げた。
ヘリオスは、マグカップを手に取りペットボトルの蓋《ふた》に豚汁を垂らした。
怪訝《けげん》そうな顔の卓也がみつめる中、親指と人差し指でコウモリの口を開かせ、蓋に溜《た》まった豚汁に二、三度息を吹きかけてから流し込んだ。
「毒見完了。異常なし」
しばらくコウモリの様子を観察していたヘリオスが、卓也に微笑みかけた。
「疑うなんて、ひどいじゃないですかっ」
卓也が、顔を真っ赤に紅潮させて抗議した。
「疑う疑わないの問題じゃない。当然のことだ」
冷めた口調で言うと、アリサはマグカップに口をつけた。
疲弊した躰《からだ》の隅々に温かい豚汁が染み渡り、細胞が活性化していくようだった。
「だって、僕はあなた達を助けたんですよ!? なのに、どうして毒を入れなきゃ……」
「安心させておいて殺す。それが毒殺だ」
抗議を続ける卓也を遮り、アリサはにべもなく言った。
「ごめんごめん、悪かったな。彼女の言いかたはきついが、俺らの任務は常に命の危険と背中合わせだから仕方がないんだ。親切顔して近づいて命を奪おうとする敵もいる。言うなれば、俺らはペットじゃなくて野生動物だ。ペットは人間が抱き寄せたり頭を撫でると喜ぶが、野生動物は逃げるか牙《きば》を剥《む》くかのどちらかだ。だからといって、野生動物を責めることはできない。毎日安全な場所で餌を貰《もら》うペットにとっては味方の人間も、生きるか死ぬかの環境で生活している野生動物からすれば敵にしかみえない。なつかないからといって文句を言うのは人間のエゴだ。彼らは、生きるために必死なんだよ。サバイバルオタクなら、わかるだろう?」
不満げながらも、卓也が小さく頷いた。
「でも、ありがとうな」
ヘリオスが片目を瞑《つぶ》り、コウモリを手放すとマグカップに口をつけた。
「うまい! 定食屋なら500円は取れるぜ」
ようやく、卓也の口もとが綻《ほころ》んだ。
細長い傷は刃物、丸っぽい傷は銃創……ふたりが会話している間、アリサは卓也の言ったゼウスの全身に刻まれた傷のことについて考えていた。
恐らく、実戦かトレーニングの段階で受けた傷なのは間違いないが……。
「ゼウスが、なにをやっている男なのか知っているのか?」
アリサは訊ねた。
「さっきも言ったとおり、門馬に盾突いた信者を……」
「奴は、信者なんかじゃない」
「え?」
「GPCという暗殺組織のアサシン……つまり、暗殺者だ」
アリサが言うと、卓也が絶句した。
「兄が、暗殺者?」
「それも、万能の神と言われるほどのアサシンだ」
ヘリオスが、アリサの代わりに答えた。
「君の話でいけば、ゼウスは15歳の頃に家を出たことになる。それまでは、アサシンになるための訓練はしていない。奴は過去に、ひとりでヤクザの事務所に乗り込み五十人のヤクザを殺したことがあるという。それだけの凄腕のアサシンなら、幼少の頃から訓練を受けているはずだ。一流のピアニストが3歳や4歳の頃から鍵盤《けんばん》に触れているようにな」
ヘリオスも、アリサと同じ疑問を抱いていたようだ。
じっさい、彼も、3歳の頃からセンターでフランス外人部隊上がりの教官に射撃訓練を受けており、ゼウスが家を出たという歳よりも若くして小野寺の家族を皆殺しにしたアサシンを仕留めるという初任務をこなしていた。
「でも、僕は嘘なんか吐いてません! 兄が、電話でゼウスと言っているのをたしかに聞いたんです!」
卓也が、ムキになって言った。
「君が嘘を吐いているとは言っていない。が、そのゼウスは影武者かもしれない」
「影武者?」
卓也が、きょとんとした顔で首を傾げた。
アリサも同感だった。
ゼウスは、いまだかつて誰にも姿をみられたことがない。
そんな男が、たとえ自宅であっても、しかも電話でゼウスと名乗るとは思えない。
理由はわからないが、ヘリオスの言うとおり、卓也の兄がゼウスの影武者である可能性は高い。
ヘリオスが頷き、そして続けた。
「それも、君の兄貴ひとりじゃなく、ほかにも大勢いるんじゃないかと思う」
「じゃあ、僕は、なんのお役にも立てませんね」
卓也が、落胆した表情で言った。
「もともと、役には立てない。プロのアサシンを相手に、戦争ごっこをしているお前になにができる?」
冷たく突き放すアリサに、卓也が泣き出しそうに顔を歪《ゆが》めた。
卓也の身を案じて、そう言ったわけではない。
助けてもらったことへの感謝はあっても、それと素人と任務をともにすることとは別だ。
今回の任務で小野寺がチーム入りを勧めたヘリオスの教官だった臼井のことでさえ、アリサは足手|纏《まと》いになると断ったのだ。
卓也と行動をともにするくらいなら、老いていたとはいえ、元フランス外人部隊の傭兵《ようへい》だった臼井のほうがまだ役に立った。
「ひどいよ……僕にだって、協力できることくらい……」
声を詰まらせながらも必死に耐えていた卓也が、ついに泣き出した。
「卓也の言うとおりだ。彼にも、協力できることはある」
「ほんと!?」
卓也の顔が、パッと明るくなった。
「お前、本気で言ってるのか? 訓練も実戦の経験もない素人と行動をともにするということが、どういうことかわかっているのか!?」
アリサは、血相を変えてヘリオスを問い詰めた。
「ああ、わかってるさ」
涼しげな顔でマグカップを傾けるヘリオス。
「経験や実戦がなくても、卓也にはゼウスの弟という最大の武器がある」
「影武者の弟なら、意味がない。お前も、本物のゼウスじゃないと言っただろう?」
「ああ、たしかに言ったさ。だが、可能性はゼロじゃない。どの道、ゼウスへ繋《つな》がる道は皆無に等しい。それに、いままでの復讐《ふくしゆう》ごっこで得た至光会にたいしての知識で、俺らの役に立つ情報があるかもしれない。なあ、卓也。至光会やゼウスについて、君が知っていることを教えてくれないか?」
「僕が知ってること……」
「門馬の行動、ゼウスの行動、なんでもいい。どんな些細《ささい》なことでもな」
「うーん、なにがあったかな……あ!」
首を捻《ひね》っていた卓也が、思い出したように手を叩いた。
「どうした?」
ヘリオスとアリサは同時に身を乗り出していた。
「情報と言えるかどうかはわかりませんが、門馬は、研修期間中に、土曜の深夜になると偉い信者の人達と道場を離れて別の建物でなにかの会議みたいなことをしているそうです」
「誰からの情報だ?」
アリサは険を含んだ声で訊ねた。
こんな素人の情報に乗って、家族への復讐を台無しにされたくなかったのだ。
「ウチの父が道場に通っているときに、ほかの信者が話していたのを聞いたと言ってました」
「その別の建物というのは、どこだか知ってるのか?」
「ここから1キロほど下ったところに、ログハウスっぽい建物があります。二、三度、様子をみに行ったことがあるんですけど、土曜日以外は誰もいないみたいです。建物の前には、お酒のボトルや缶が一杯捨てられてました」
「信者には執着を捨てろだのなんだの言っておきながら、自分達は酒盛りか。いい気なもんだ。今日は火曜日か……じゃあ、木曜日あたりに、下見に行ってみるか。案内できるか?」
「おい……」
「君は黙っててくれ。俺は、卓也に訊いているんだ」
ヘリオスが、それまでにない厳しい口調でアリサを制した。
「もちろんです。でも、どうするんですか?」
「土曜までに、中に忍び込み、門馬達が到着するのを待つ」
「いい加減にしないか! 本当に門馬がくるかも、何人のボディガードがいるかもわからない状況で、こいつの言うことだけを信じて任務を実行するつもりか?」
退《ひ》くつもりはなかった。
ヘリオスのことは信頼している。過去に、小野寺以外でこれだけ気を許した存在はいない。
が、信頼しているのはヘリオスであり、ヘリオスの信頼する卓也ではない。
卓也がへたを打ったところで、誰も責めることはできない。
また、責めたところで、家族の仇を討てなかった事実はどうしようもない。
――最終的に頼れるのは、自分の力と勘だけだ。
幼い頃から、小野寺にそういうふうに教え込まれてきた。
「じゃあ訊くが、道場にいる信者やボディガードの数は? たしかに、門馬が現れるのか、何人のボディガードがついてくるのかわからない。だがな、確実に言えるのは、道場よりも人数は少ないってことだ」
「俺が問題にしているのは、人数じゃない。ボスの指令は、俺とお前のふたりに下した任務だったはずだ。確実に門馬を仕留める。それを最優先にするべきじゃないのか?」
「おい……」
ヘリオスが、卓也に視線を向けた。
すぐにその意味がわかった。
が、公安と装っているのを忘れたわけではなかった。
真実を知れば、卓也が恐ろしくなり離れて行くと思っての計算の上だった。
「あなた達は……警察の人じゃなかったんですか?」
卓也が、狐に摘《つま》まれたような顔で訊ねてきた。
「俺達は公安の捜査官などではなく、ゼウスと同じアサシンだ。門馬を抹殺する任務を請け負った」
絶句する卓也の唇が微《かす》かに震えていた。
ヘリオスが、お手上げのポーズで小さく首を横に振った。
「サバイバルごっこを、やめる気になったか?」
アリサの問いかけに、卓也が強い意志を宿した瞳を向けてきた。
「いいえ。僕も、門馬を殺そうと思ってましたから」
うわずってはいるものの、卓也は怯《ひる》むことなくきっぱりと答えた。
「門馬だけじゃない。お前の兄……ゼウスも殺すことになる」
畳みかけるアリサから視線を逸《そ》らさず、眼をまっ赤にした卓也が頷いた。
アリサは、卓也からヘリオスに視線を移した。
「バレンタイン。俺を信じろ。そして、俺のやることすべてを」
憎らしいほどに、自信に満ちた表情でヘリオスが言った。
「つき合ってられない。勝手にしろ」
アリサは吐き捨てるように言うと、ヘリオスと卓也に背中を向けて横になった。
が、口で言うほど呆れても失望してもいなかった。
ヘリオスとなら、きっと……。
アリサは、心を過《よ》ぎる思いを打ち消し、眼を閉じた。
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9
「あれです」
道なき道を進んで20分ほど経った頃に、先頭を歩いていた卓也が立ち止まった。
卓也が指差す先――樹々の間から、2階建てのログハウスが覗《のぞ》きみえた。
卓也の隠れ家に匿《かくま》ってもらった2日間で、スパイダーのトラップにかかり転落した際に痛めた脊椎《せきつい》の痺《しび》れはなくなり、完調ではないにしろかなり歩けるようになっていた。
不幸中の幸い――最終的に歩けるようになったとしても、あと4、5日動けなかったら、死人も同然だった。
卓也の情報では、土曜日に数人の幹部信者を引き連れた門馬がログハウスに集まるという。
そこではなんらかの打ち合わせが行われるのかもしれないが、その後には必ず酒盛りが始まるらしい。
門馬を仕留める絶好のチャンスに動けないのは、たとえ息をしていてもアサシンとしては生きているとは言えない。
「よし。俺が様子をみてくるから、君達はここで待っててくれ。バレンタイン、頼んだぞ」
ヘリオスはベレッタをホルスタから抜き、アリサに言い残すと樹々の向こう側へと消えた。
頼んだぞ、の意味は、もちろん、待機中に襲撃された場合に、すっかり傭兵《ようへい》気取りで顔に墨を塗っている卓也を守ることだった。
「ねえ、バレンタインさんは、どうして暗殺者《アサシン》になったんですか?」
切り株に腰を下ろした卓也が興味津々の表情で訊《たず》ねてきた。
「もう三度殺されてるな」
アリサは、周囲に注意を払いつつ呟《つぶや》いた。
「え?」
「敵が潜んでいたら、そんな無防備に休憩している間に三度殺されてると言ったのさ」
「あ……」
卓也が慌てて切り株から腰を上げ、前後左右に視線を巡らせた。
「生まれたばかりの赤ん坊が、急に歩けるとでも?」
「ちょっと、それ、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。俺は6歳、ヘリオスは3歳の頃から銃を握っている。戦争ごっこをやっているお前に、なにができる?」
「そりゃそうだけど……そんな言いかたしなくてもいいじゃないですか!?」
卓也が憤然とし、不満げに唇を尖《とが》らせた。
「お前を死なせたくないから。そう言ってやりたいが、残念ながら、俺は自分の目的の邪魔をされたくないだけだ」
会話している間中も、アリサの五感はトンボの羽音も逃さないほどに研ぎ澄まされていた。
「目的って、門馬を殺すことでしょ? だったら、僕も同じ……」
「同じじゃない。お前の父親は自殺した。たしかに門馬が殺したようなものかもしれないが、家族を目の前で皆殺しにされた俺とは違う」
「え……目の前で皆殺し……?」
「ああ。それまで優しく頭を撫《な》でてくれていた父が、普通に微笑みかけてくれていた母が、いつも庇《かば》ってくれていた祖母が、一瞬のうちに殺された。呆気《あつけ》ないものだった」
「ヘリオスさんも?」
「そうだ、皆殺しだ。だから俺達とお前とでは、背負っているものが違う」
卓也が、神妙な顔で俯《うつむ》いた。
家族を皆殺しにされたという話が、よほど衝撃的だったのだろう。
が、自分とヘリオスは話ではなく、この世の生き地獄を双眼に刻み込まれたのだ。
「お、また子供いびりか?」
戻ってきたヘリオスが、沈痛な表情をする卓也にちらりと視線を投げて軽口を叩《たた》いた。
「僕、子供じゃありません!」
「大人は、そういうことでムキになったりしないもんだ」
憤然とする卓也に、ヘリオスが諭すように言った。
「ヘリオス、どうだったんだ?」
「卓也坊っちゃんの言うとおり、鼠一匹いやしない」
「もう、ヘリオスさん!」
卓也が、顔を真っ赤にして抗議した。
「おい、いい加減にしろ。ガキをからかっている場合じゃない。行くぞ」
「あ、バレンタインさんまで!」
アリサは卓也を無視し、サバイバルナイフで枝を払いながら雑木林を踏み進んだ。
未舗装の道を挟んだ向こう側に、ログハウスは建っていた。
なんの変哲もない、よくある別荘と変わりなかった。
アリサは、十分に注意を払いながら敷地内に入った。
常用されていないことは、伸び放題の草むらが証明していた。
ホルスタから抜いたグロックを片手に、アリサはドアに背中を預けて建物内の気配に意識を集中させた。
ヘリオスを信じていないわけではないが、万が一、ということがある。
――生き残るには十分な注意が必要だが、殺されるのは一瞬だ。
万が一が億が一でも、警戒を怠らぬようにというのが、小野寺の教えだった。
ノブに手をかけると抵抗がなかった。予想に反して、カギはかかっていなかった。
「開いてるぞ。お前か?」
アリサは振り返りヘリオスをみた。
「いいや。俺は周辺をチェックしただけだ」
「いつも、開けっ放しみたいですよ。盗られるものなんてなにもないからじゃないですか?」
警戒するアリサに、卓也が言った。
息を止め、ドアを開けた――ヘリオスと同時に踏み込んだ。
腰を落としたダブルハンド。背中合わせになり、互いにマズルで半円を描き360度をカバーした。
丸太と切り株で作ったテーブルと椅子、暖炉、白のクッションソファ……室内は、テーブル上の散乱したビールの空き缶とツマミの残骸《ざんがい》以外はきれいに整頓《せいとん》されていた。
「ここまで整理してんだから、食ったもんくらい片付ければいいのによ」
ヘリオスが呆《あき》れ顔で囁《ささや》いた。
「離れるな」
アリサは卓也に言うと、シャワールームの扉を開けた。その間に、ヘリオスはトイレをチェックしていた。
「次は上だ」
卓也を挟み、アリサが2階を、ヘリオスが1階を向き、背中合わせのまま階段を上った。
2階のドア。ノブに手をかけ、開くと同時に腰を落としマズルを部屋に向けた。
2階はベッドルームだった。セミダブルのベッドには真新しいシーツが敷かれていた。
窓から差し込む心地好い朝陽が、緊迫した空気に不似合いだった。
アリサはクロゼットに近づいた。無意識に足が竦《すく》んだ。
ブラインド越しに覗いた血の惨劇。事切れる直前に合った母の眼が脳裏に蘇《よみがえ》る。
思考のスイッチをオフにした。
マズルをクロゼットに突きつけながら、扉を開けた。
ヘリオスは膝《ひざ》をつき、ベッドの下を覗き込んでいる。
「ゴキブリ一匹いないな」
立ち上がり、ヘリオスが言った。
「これから、どうするんですか?」
卓也が、どちらにともなく訊ねた。
「今日は、身を潜める場所を探すだけだ。あとは、土曜日の早朝から奴らが現れるのを待ち、仕留めるのさ」
ヘリオスが卓也にベレッタを向けつつウインクした。
「な、なにをするんですか! 危ないじゃないですか!」
卓也が、顔面|蒼白《そうはく》になって後退《あとずさ》った。
「冗談だよ、冗談……おい、どこに行くんだ」
部屋を出るアリサの背中に、ヘリオスの声が追ってきた。
「待機するなら1階だ」
振り返らずに短く言うと、階段を駆け下りた。
アリサは、真っ先にトイレに向かった。
「やっぱり、お前もここだと思うか?」
背後からヘリオスが言った。
「ここは玄関の正面だから奴らが入ってきた瞬間に襲撃できる。様子を窺《うかが》うこともできるしな」
トイレのドアには2ミリほどの隙間があり、顔を寄せると玄関から入ってきた人間の姿をみることができた。
「自販機でジュースを買ってきますけど、なにか飲みます?」
卓也が、ふたりに訊ねた。
アリサはいらないと言い、ヘリオスはブラックのコーヒーを頼んだ。
「潜伏場所が決まったところで、打ち合わせに入るか」
卓也が出て行くと、ヘリオスがダイニングテーブルに移動した。
あとに続いたアリサは、テーブルの上に散らばるツマミ類の残り滓《かす》の中から、食べかけのサラミを手に取った。
「敵を、門馬を含めて六人と想定しよう。ボディガードが、銃器を携行《けいこう》している可能性は低い。ヨーイドン、であっさりカタはつくだろう。が、それはゼウスがいない場合の話……おい、どうした?」
ヘリオスが、指先で摘《つま》んだ食べかけのサラミを凝視するアリサに怪訝《けげん》そうな顔で訊ねた。
「門馬達が集まったのは、先週の土曜日だよな?」
「ああ。卓也の話では、打ち合わせと称した呑《の》み会は、研修期間中の土曜日にしか行われないと言ってたよな。それが、なにか?」
「5日前のものなら、もっと乾燥してるはずだ」
アリサの言葉に、ヘリオスが弾《はじ》かれたようにサラミをみた。
「まさか……」
問いかけるヘリオスにアリサが頷《うなず》くと、ほとんどふたり同時に椅子から立ち上がり、窓へとダイブした――ガラスの破片とともに、外へと飛び出した。
肩から地面に着地し、一回転して起き上がった。ゴールを目指す競走馬のように、ヘリオスとアリサは並び走った。
通りを駆け渡り雑木林に飛び込んだ直後に、背後で爆音が聞こえた。
地面に伏せたアリサの頭上から、バラバラと木片が舞い落ちてきた。
緋色の炎に包まれるログハウスを、ふたりは呆然《ぼうぜん》とみつめた。
「今回は、君に謝らなければならないかな」
ヘリオスが、火柱を上げる建物をみつめながら呟いた。
「いや、俺も見抜けなかったから同じだ」
アリサは、力なく首を横に振った。
「しかし、驚いたな、バレンタイン。スパイダーが、あんなに若い少年だったとはな」
「ああ」
――今度のターゲットは、いままで相手にしてきた奴らとは次元が違う。
崩れゆく建物をみつめるアリサの耳に、小野寺の言葉が説得力十分に蘇った。
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10
「天王寺のおっさん、わざわざ組長を呼び出したりして、なんの用事ですかね?」
ステアリングを握る江口が、ルームミラー越しに東亜に視線を投げながら言った。
「さあな。だが、光矢《みつや》も一緒に、ということから考えると、消えてほしいと思っている奴がいるんだろうよ」
東亜は、サイドシートで無表情に正面をみつめる光矢の横顔に視線を向けながら言った。
光矢は、東亜のボディガードを務めているが、組には所属していない。
光矢は、たとえるならばCIAのような存在であり、秘密裏に東亜会の障害となる組織や人物を破壊、抹殺する、というのが仕事だ。
自衛隊員だった光矢は、実戦を求めて20歳の頃に旧ユーゴスラビアに単身渡り、傭兵《ようへい》としてクロアチア紛争にセルビア軍として参戦した。
5年の紛争を終えた光矢は日本に帰国したわけだが、内紛など起こりようもない平和な地で、彼が身を置く場所はアンダーグラウンドしかなかった。
が、闇世界の象徴のヤクザでさえも、殺人が日常の地で死と隣り合わせの生活を送っていた彼には刺激が足りなかった。
結局、光矢が選択したのは、組織に金で雇われ殺人を生業《なりわい》とする、ヒットマンの道だった。
彼にとっては、雇用主が政府からヤクザに変わっただけの話であり、人を殺して報酬を貰《もら》うという点においては傭兵時代の生活と同じだ。
ただ、気を抜けば銃弾が飛んでくる紛争地とは違い、日本では常に狙う側なので、任務としては比較にならないほど楽に違いなかった。
光矢との出会いは、いまから5年前。東亜会の忘年会の席で、悪酔いした西尾という組員がカウンターでひとり静かに呑《の》んでいる彼にちょっかいを出したのがきっかけだった。
――おい、ニイちゃん。ひとり寂しく黄昏《たそが》れてねえで、一緒に呑もうや。
――いえ、結構です。
――おいおい、このニイちゃん、俺とは一緒に呑みたくねえんだって。
西尾がこれみよがしの大声で言うと、三人の組員が光矢の席を取り囲んだ。
――今日は、東亜会の組長さんがきてらっしゃるんだぞ? 一杯くらい、つき合ってくれや。
――酒、きらいじゃないんだろうよ? ただ酒が呑めるぜ?
――さあ、行こうや、ニイちゃん。
――ひとりで呑んでるのが好きなもので、お誘い、ありがとうございます。
光矢は、四人のひとりひとりに、丁寧に頭を下げた。
――そこまで断るっちゅうのは、慇懃無礼《いんぎんぶれい》ってもんだぜ? あ? さ、行こう……。
光矢の腕を、西尾が引っ張ろうとしたそのときだった。
光矢が立ち上がった直後に、鼻血|塗《まみ》れの西尾が仰向けに倒れていた。
――俺の背後に回るんじゃない。
それまでと一転したドスの利いた声音で言うと、光矢が三人を見渡した。
――て、てめえ、ぶっ殺すぞ!
――アニキに、なにすんだっ、こら!
――ざっけんじゃねえぞ!
三人が気色ばみ、光矢に殴りかかった。
ひとりのみぞおちに肘《ひじ》をめり込ませ、そのままバックハンドの裏拳《うらけん》でもうひとりを殴りつけ、最後のひとりの顎《あご》を爪先で蹴り上げた。
10秒もかからず、三人が床に崩れ落ちた。
東亜は、我が眼を疑った。
過去にいろいろな腕自慢をみてきたが、光矢は次元が違った。
――待て!
熱《いき》り立つ若い衆を東亜は制し、光矢に歩み寄った。
――お前、凄《すご》い腕してるな。どうだ。ウチの組に入らんか?
――ヤクザは嫌いだ。
――ほう、はっきり言うねぇ。なら、組に入らず俺につく気はないか? 返事はすぐでなくてもいい。気が向いたら連絡をくれ。
たいした期待もせずに、東亜は光矢に名刺を渡した。
――俺は、なにをすればいい?
予想に反して、翌日、光矢から電話が入った。
以降、光矢は、東亜個人のボディガードとして、東亜会のために様々な秘密任務をこなしてきた。
車窓の景色の流れが緩やかになった。
東亜を乗せた漆黒のメルセデスは、赤坂の一《ひと》ツ木《ぎ》通り沿いの中華飯店の前に停まった。
光矢が素早くサイドシートから降り、リアシートのドアを開けた。
体格は平均的な光矢だったが、その身のこなしにはまったく隙がなかった。
江口が、光矢とは対照的な屈強な体躯《たいく》を揺らしつつ、中華飯店のドアを開けた。
店員に促され、フロアの奥に向かった。
「お連れのお客様がいらっしゃいました」
店員が、観音開きのドアを薄く開き、声をかけた。
「東亜様、お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
天王寺の秘書の榊原《さかきばら》が現れ、東亜達を中へと招き入れた。
「忙しいとこ、悪かったね」
上海蟹《シヤンハイガニ》や紹興酒《しようこうしゆ》の並ぶ特大のテーブルの椅子にふんぞり返っていた天王寺が、葉巻を持つ手を上げた。
「ご無沙汰《ぶさた》しております」
東亜は、深々と頭を下げ、天王寺の正面の席に着いた。
高級そうな濃紺のスーツのボタンがはち切れそうな腹回り、白髪のオールバック、脂ぎった陽灼《ひや》け顔……天王寺は、とても80の老人にはみえなかった。
「君達も、座りなさい」
天王寺が、背後で佇《たたず》む光矢と江口に言った。
「なにを呑むかね?」
「ビールをお願いします」
「君達は?」
天王寺が、江口と光矢に視線を移した。
「組長と同じで」
「私も」
「お食事のほうは、どうなさいます?」
「食べてきましたので、結構です」
榊原が広げようとするメニューを、東亜は手で遮りながら言った。
「どうだね? 稼業のほうは?」
天王寺が、音を立てて蟹|味噌《みそ》を啜《すす》りながら言った。
「先生のおかげで、儲《もう》けさせてもらってます」
東亜は、彼が待っているだろう言葉を口にした。
天王寺|亘《わたる》。20年前まで8年間首相を務め、以降、陰で政界を操るキングメーカーとして君臨している。
時の首相が、重要な議題が挙がるとまっ先に天王寺の事務所に伺いを立てに行くという、ようするにフィクサー的存在だった。
天王寺の計らいで、東亜会のフロント企業である建築会社や不動産会社はずいぶんといい目をみてきた。
東亜は見返りとして、天王寺を糾弾する右翼団体や人権団体との交渉、排除、抹殺を請け負ってきた。
「いまや関東を牛耳る大組織の組長さんにそう言ってもらえるのは光栄だね」
天王寺が、蟹の身がついた唇を皮肉っぽく歪《ゆが》め、紹興酒を呷《あお》った。
「そうなれたのも、先生のお力です」
言いながら、東亜は、この自己顕示欲の塊のような男が、誰を抹殺させる気なのかに思惟《しい》を巡らせた。
過去に、天王寺の指示で東亜は、光矢を使ってひとりの人間を闇に葬った。
その人間とは、天王寺が地元新潟のゼネコン企業から賄賂《わいろ》を受け取っていたことを嗅《か》ぎつけ脅迫してきた右翼団体の会長、三船《みふね》だった。
バイクに跨《また》がり待機していた光矢は、愛人宅から出てきて迎えの車に乗り込もうとした三船を、約30メートルの射距離を物ともせずに一撃で仕留めたのだった。
「とりあえず、乾杯といこうか?」
ウエイターがビールを運んでくると、天王寺は紹興酒のグラスを宙に翳《かざ》した。
グラスの触れ合う甲高い音が、東亜には、天王寺がこれから告げるだろうターゲットの鎮魂歌に聞こえた。
「わしの懇意にしている男が発起人に名を連ねる真海《しんかい》宗という宗教法人があるんだが、ちょっと、困ったことに巻き込まれているようでね」
乾杯後、ひとしきり新規公開株についての話をしていた天王寺が、唐突に切り出した。
天王寺が、新興宗教団体から多額の政治献金を受け取っていることを東亜は知っていた。
「じつは、真海宗の教祖である高砂《たかさご》天命が末期の肝臓癌を患い都内の病院に極秘入院しているんだが、もう、長くはないそうだ。高砂の跡目を継ぐのは、理事長を務めている松波孝之助と囁《ささや》かれている。だが、ここにきて、我こそは真海宗の二代目教祖だと名乗りを上げる男がおってな。なんでも、高砂の義理の弟で、至光会という宗教団体の教祖をやっている門馬なる男だそうだ。話によれば、門馬に高砂は、自分亡きあと真海宗を義弟である門馬に譲渡する、という遺書を書き残しているらしい」
「しかし、その門馬という男は、別の宗教団体の教祖なのでしょう?」
東亜は、単純な疑問を口にした。
「異なる宗教法人を複数所有してはならないという法はない。だが、純粋に教義を究めようとしている者なら、法律云々の前にそういう発想になりはしないがね」
「つまり、金ですか?」
東亜の問いかけに天王寺は、フカヒレスープを啜りつつ頷いた。
「門馬の目的は、年間数百億とも数千億とも言われるお布施だ。真海宗の教祖になり、たんまり甘い蜜《みつ》を吸ったら、ゆくゆく、至光会に吸収するつもりなのだろう。まったく、強欲な男だ」
天王寺が、吐き捨てるように言った。
あんたもな。心で、東亜は毒づいた。
真海宗が門馬の手に渡れば、巨額な献金が一切入らなくなる。
ようするに、天王寺が門馬を目の仇《かたき》にするのも、金が理由なのだ。
あと10年あるかどうかの残り少ない人生なのに、墓場まで金を持って行くつもりなのか?
突然、天王寺がテーブルを叩《たた》き、その手を東亜に向けた。
掌には、潰《つぶ》れた蠅《はえ》が付着していた。
「わしはな、餌の匂いを嗅《か》ぎつけて横入りしてくる卑しい奴が大嫌いでな。できれば、この蠅のようにしてやりたいくらいだよ」
天王寺が暗に仄《ほの》めかすと、榊原が席を立ちアタッシェケースを東亜の足もとに置いた。
「お受け取りください。蠅は、甲府の山奥にいます。詳しい採集地は、追ってご連絡致します」
東亜は、アタッシェケースの把手《とつて》を掴《つか》み持ち上げた。
重さからして、5000万。間違いはないだろう。
「採集が終わりましたら、同じ鞄《かばん》をお持ちしますので」
意味ありげな笑みを浮かべ、榊原が席に戻った。
成功報酬と合わせて1億。決して安くはないが、真海宗が門馬の手に渡ったときの損害から考えれば、微々たる金額だ。
「わかりました」
「東亜君。山に入るときには、十分に注意を払いたまえ。蠅の周囲には、とびきり強力な毒を持つオオスズメバチがいるそうだ。以前の採集と、同じに考えたらアナフィラキシーショックであの世行きだ」
「ということらしいが、大丈夫か?」
東亜は、鋭い眼光を湛《たた》える天王寺の瞳から視線を光矢に移した。
「あなた方には猛毒を持つ蜂でも、俺にとっては蜜蜂程度のもんです」
光矢の言葉に、天王寺が大声を上げて笑った。
「このおニイちゃん、気に入ったぞ。では、もう一度、蜜蜂退治の前祝いで乾杯といこうじゃないか」
上機嫌でグラスを掲げる天王寺に、東亜、光矢、江口、榊原が次々とグラスを触れ合わせた。
また、聞こえた。
門馬のための鎮魂歌が……。
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11
窓の外に雑木林が広がって15分ほど経った頃に、ハマーがスピードダウンした。ハマーに続いていた後ろのバンも停車した。
「100メートルほど行ったところから、至光会の私有地になります」
ドライバーズシートの江口が、リアシートの東亜を振り返って言った。
「後ろのバンの奴らを合わせて十二人。ウチの精鋭部隊ばかりが揃っている。大丈夫か?」
東亜は、隣に座っている光矢に訊《たず》ねた。
ハマーの車内には、ほかに、坂井と須川という東亜会きっての腕自慢ふたりが乗っていた。
坂井は元空手のインターハイ優勝、須川は元ボクシングの日本チャンピオンという華々しい実績があった。
後ろのバンに乗っている十人も、坂井や須川ほどではないにしろ、それぞれ荒事には自信のある兵ばかりだった。
「足手|纏《まと》いにならなければいいんですがね」
涼しい顔で言う光矢とは対照的に、坂井と須川の表情が強張《こわば》った。
「おい、てめえ、誰に物を言ってんだ!?」
サイドシートの坂井が、血相を変えて詰め寄った。
「何様のつもりだ? あ!?」
須川も、光矢を睨《にら》みつけた。
「街中の喧嘩《けんか》とは違う。これは、殺し合いだ」
光矢のぞっとするような瞳に、坂井も須川も黙りこくった。
ふたりともかなりの武闘派ではあったが、弾丸飛び交う戦地で数々の修羅場を潜って生き抜いてきた光矢とは次元が違う。
「俺の指示に従っていれば、任務は成功する。あんたらは、余計なまねはしないでくれ」
光矢が、憎らしいほどの自信に満ち溢《あふ》れた口調で断言した。
「俺も同意見だ。光矢は、ウチの組に入る前は日々殺し合いがあたりまえの環境にいた。彼の言うように、これは戦争だ。門馬の側近の信者には、光矢と同じ傭兵《ようへい》経験者がいるらしいからな。個人のプライドは捨てて、任務成功だけを念頭に置いて行動しろ。つまり、光矢の指示に従えということだ。わかったな?」
坂井と須川が、渋々ながらも頷《うなず》いた。
「ところで、光矢。門馬をどこで……」
唐突に、光矢が東亜の躰《からだ》に覆い被《かぶ》さってきた。
リアウインドウのガラスに穴が空き、頭上に熱風が走った。
「窓を3分の1開けろっ」
光矢に命じられた坂井がパワーウインドウのスイッチを押した。
下がった窓から銃口を出した光矢が雑木林に向けて引き金を引くと、緑の作務衣《さむえ》をきた男が木の上から落下した。
2発、3発……光矢が銃口を右に左に移動させつつ立て続けに引き金を引いた。
木の陰から、繁みから、同じ緑の作務衣を着た男が転がり出てきた。
「なにやってんだっ。はやく、車を出せ!」
須川が、江口に怒声を浴びせた。
「だめだ。もう、手遅れだ。一掃するぞ。拳銃《けんじゆう》を携行してついてこい!」
言い終わらないうちに、光矢がサブマシン・ガンを携えドアを開けた。
光矢がハマーから飛び降りると、周囲からゆうに三十人を超える緑の軍団がぞくぞくと姿を現した。
坂井と須川、そしてバンにいた十人も拳銃を手に光矢のあとに続いた。
誰かの発砲音を合図に、激しい銃撃戦が始まった。
東亜はシートに這《は》いつくばり、窓に頭を眼の位置まで上げた。
光矢がマズルで半円を描きつつ、サブマシン・ガンを撃発した。
タタタタタッ、という乾いた音が雑木林の空気を切り裂くと、四、五人の信者がくずおれた。
バンに乗っていた十人の中のふたりが頭から血を噴き出し、仰向けに倒れた。
ハマーのボンネットを盾にした坂井と樹木に身を潜めた須川がそれぞれひとりずつを仕留めたが、組員の何人かが頭や胸を鮮血に染めて事切れていた。
「坂井、3時の方向だっ」
光矢が叫びながら駆け、サブマシン・ガンを連射した。
ドミノのように倒れる五、六人の信者。光矢の声に反応した坂井が拳銃を持つ腕を右に向けて引き金を絞った――奇襲しようとした信者が腹を押さえて前のめりになった。
車内にまで雪崩れ込む耳を聾《ろう》する撃発音の嵐。リアウインドウの向こう側に立ち込める硝煙。折り重なる屍《しかばね》の山――目と鼻の先で展開される地獄絵図に、東亜は金縛りにあったように動けなかった。
救いは、華麗なる動きと的確な射撃術で敵をバタバタと倒す光矢の存在だった。
残るは、東亜会が五人に至光会が十人。倍のハンデがあるようにみえるが、光矢がいれば十人力だ。
敵の銃弾が、光矢に集まり始めた。
光矢は、まるでタップを踏むように銃弾の集中砲火を躱《かわ》した。
東亜の視界にいきなり信者が現れ、拳銃を向けた。
「おいっ、江口!」
江口がリアシートに飛び移り、東亜の盾になった。
激しい衝撃音。江口の肩越し……リアウインドウに、破裂した信者の顔がぶつかった。
「うわっ……」
悲鳴を上げる江口。
垂れ落ちる眼球をみて、胃液が逆流した。
赤い斑《まだら》模様のリアウインドウの向こう側に、光矢の姿が現れた。
「間一髪でしたね……」
江口が蒼白《そうはく》な顔で振り返った。
光矢がいなければ……と思うと、ぞっとした。
「全部、片づいたみたいですよ」
江口が、掠《かす》れた声で言った。
「開けろ」
東亜の声も掠れていた。
江口がドアを開け、よろけるように外へ出た。
自分で命じておきながら、ドアが開いても東亜はしばらく車から降りなかった……というより、足が震えて降りることができなかった。
「一掃しました」
光矢が車に歩み寄り、息ひとつ乱さず涼しげな顔で言った。
背後で、表情を失い激しく肩を上下させる坂井や須川とは大違いだった。
「ごくろうだった」
声がうわずらないようにするのが、精一杯だった。
「組長、いったん、引き揚げましょう」
江口が、周囲の屍の山を見渡しながら言った。
「なぜ?」
光矢が、江口を見据えて訊ねた。
「なぜって、これだけの犠牲者が出たんだ。残ってるのは、お前、坂井、須川の三人だけだぞ!? それで、至光会の道場に乗り込もうって気か?」
「門馬ひとりの首を取るくらい、三人もいれば十分だ」
「腕に自信があるんだろうが、調子に乗ってんじゃ……」
江口の声が、撃発音に呑《の》み込まれた。
頭部を破裂させた坂井と須川が、折り重なるように倒れた。
江口が足を竦《すく》ませるのとは対照的に、光矢は素早くドアを閉め車から離れた。
光矢から十メートルほど離れたところで、黒い影が走った。
熊か? いや、もっと俊敏だ。ならば野犬か?
黒い影が走り去った瞬間に、江口の背中がリアウインドウにぶつかった。
熊でも野犬でもない。あの疾風は、獣ではなく人間だ。
東亜は、驚きを隠せなかった。
影の動きはあまりにもはやく、顔どころかどんな服を着ているのかさえ判別がつかなかった。
光矢が影を追った。我が眼を疑った。常人離れしたスピードを持つ光矢が、影の動きについていけてなかった。
立ち止まった光矢が、サブマシン・ガンで周囲を牽制《けんせい》しながら首を前後左右に巡らせた。
リアウインドウ越しにも、光矢の表情が強張っているのがわかった。
光矢がマズルでサブマシン・ガンを乱射した。乾いた撃発音が空気を切り裂いた。
いままでの光矢なら、射距離、風の向き、自分の動き、相手の動き……そのすべてを綿密に計算した上で一撃でターゲットを仕留めていた。
こんなに、闇雲に引き金を引く光矢をみるのは初めてだった。
あの光矢が動転しているというのか……?
俄《にわ》かには、信じられなかった。
不意に、光矢の背後――樹木の陰から、男が現れた。
後ろに結った髪。黒い戦闘服越しにもわかる筋肉質の躰。細く括《くび》れたウエストにたいし、異様に広い肩幅。
あの男が、坂井、須川、江口を一瞬で仕留め、光矢を翻弄《ほんろう》している男なのか?
男は、東亜の7、8メートル先にたしかに存在している。が、不思議なことに、まったく気配を感じなかった。
光矢はまだ、背後に立つ男に気づかず、無人の空間にサブマシン・ガンを乱射していた。
光矢に、男の存在を教えなければ……。
だが、東亜の躰は凄惨《せいさん》なシーンの連続に金縛りにあったように動かなかった。
男がポケットから取り出したコインを、光矢の背中に向かって親指の先で弾《はじ》き飛ばした。
気配を感じた光矢が振り返り、コインを片手で払うとサブマシン・ガンを男に向けた。
あのまま背後から撃てば確実に光矢を仕留められたというのに、自ら存在を気づかせる行為の心理が、東亜には読めなかった。
しかも、拳銃を持った右腕はダラリと下げたままだった。
「お前、ゼウスか?」
光矢が、男に訊ねた。
男は無言のまま、光矢を見据えていた。
その姿は威圧するでもなく、リラックスさえしているようにみえた。
ゼウスとは、いったい何者だ?
天王寺の言う「オオスズメバチ」とは、この男のことなのか?
たしかに、男の動きは次元が違った。
人を殺すために生まれてきたような光矢が、完全に後手後手に回っていた。
あのままでは、光矢でさえも倒されていた可能性が高い。
そうなれば、もちろん自分の命もなかっただろう。
だが、もう、大丈夫だ。
なんのつもりか知らないが、男が遊び心を出したおかげで完全に形勢は逆転していた。
「答えたくないのなら、それでもいい。どうせ、死ぬんだからな」
「会長の手足になるのなら、命を助けてやってもいい」
男が、初めて口を開いた。
下腹を震わせるような低く重厚な声だった。
「お前、なにを言っている? 自分の置かれている状況がわかっているのか? 命|乞《ご》いするのは、お前のほうだ」
光矢が、唇を吊《つ》り上げて薄く笑った。
東亜も同感だった。
男が撃発態勢に入るには、腕を上げなければならない。
その上、光矢のサブマシン・ガンにたいして、男は拳銃だ。
どちらが有利なのかは、言うまでもなかった。
「お前じゃ、俺を倒せない」
まったく感情の籠《こも》らない口調で男が言った。
「なんだと? お前、正気か?」
「試してみればいい」
光矢がさっと血相を変え、サブマシン・ガンを連射した。
次の瞬間、弾丸の雨に蜂の巣のように抉《えぐ》られた地面の上から男が消えた。
いや、消えたのではなく、上空にジャンプしていた。
3、4メートルは跳んでいるだろうか。物凄《ものすご》い跳躍力だった。
慌てて光矢がマズルを上空に向けたが、時既に遅し――男の拳銃が宙で火を噴いた。
光矢の額に穴が空き、仰向けに倒れた。
背中から着地した男が前方回転して起き上がり、とどめとばかりに心臓を撃ち抜いた。
「嘘……だろ……」
東亜は、それだけ言うのが精一杯だった。
東亜会の任務で無敵を誇っていたあの光矢が、圧倒的に有利な状況にもかかわらず、一方的に殺《や》られてしまった。
正気に戻った東亜は、凍《い》てつく躰を強引に従わせ、ドライバーズシートへと這《は》うように移動した。
震える指先でエンジンキーを回そうとしたときに、パン、というタイヤが弾ける音とともに景色が斜めに傾いた。
5、6メートル先。シングルハンドで拳銃を構える男の腕が跳ね上がると、さらに景色が傾いた。
「くそっ」
ダッシュボードを開けて拳銃を手にした東亜は、男がいるほうとは反対側のドアから脱出した――藪《やぶ》の中へと駆け込んだ。
男が、ハマーのボンネットを飛び越え物凄いスピードで追ってきた。
迫りくる足音。逃げ切れない。そう悟った東亜は、振り向き様に引き金を絞った。
弾丸が樹皮を抉った。そこに、いるはずの男の姿はなかった。
顔を正面に戻すと、いるはずのない男の姿があった。
「誰に頼まれた?」
シングルハンドで拳銃を横に倒し構える男が、無表情に言った。
東亜は息を呑んだ。
拳銃を突きつけられていることにではない。
初めてまともにみた男の顔は、無感情などという次元ではなかった。
果てのない洞窟《どうくつ》を彷彿《ほうふつ》とさせる漆黒の双眼は剥製《はくせい》のように動きがなく、東亜は、向き合っている相手が本当に人間なのか? と疑った。
死神……そう、男からは、生のエネルギーがまったく伝わってこなかった。
「そ、それは、言えない……」
東亜は、辛うじて残っているヤクザの組長としてのプライドで拒絶した。
「死ぬことになる」
わかっていた。この男なら、朝起きて顔を洗うとでも言うように、引き金を引くだろう。
彼は、人を殺すことに微塵《みじん》の罪悪感も躊躇《ちゆうちよ》もないに違いない。
どう考えても、男の幼少時代の姿が想像つかなかった。
いったい、どんな修羅場を眼にすれば、男のような瞳《ひとみ》になるのか? いま、まさに死の足音が聞こえているというのに、東亜は、考えずにはいられなかった。
「答えても……殺すんだろう?」
干涸《ひから》びた声で、東亜は訊ねた。
「誰に頼まれた?」
男は、東亜の問いかけを無視して、同じ質問を繰り返した。
「て、天王寺……」
視界が、黒く染まった。
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12
ゆうに二百平方メートルはありそうなホテルのスイートルーム。
リクライニングチェアに身を預け経済新聞の株価に眼を通していた天王寺の足を、催促するように月恵《つきえ》が舌先で舐《な》めた。
「なんだ?」
天王寺は新聞紙を閉じ、月恵を見下ろした。
「ご主人様。餌をくださいませんか?」
四つん這《ば》いの全裸姿――首輪から伸びる鎖に繋《つな》がれた月恵が、縋《すが》るような眼を天王寺に向けた。
「腹が減ったのか?」
天王寺の問いかけに、月恵が遠慮がちに頷《うなず》いた。
「仕方のない雌豚だな」
言いながら、天王寺はナイトテーブルからイチゴの入ったボウルを手にし、足もとに置いた。
「どっちがいい?」
天王寺は、シャンパンと赤ワインのボトルを翳《かざ》しつつ訊《たず》ねた。
月恵が、やはり遠慮がちにシャンパンのボトルを指差した。
「『プリティ・ウーマン』を気取りたいのか?」
皮肉っぽく唇の端を歪《ゆが》めた天王寺は、ボウルにシャンパンを注ぎ込むと、泡立つゴールドの液体に浸るイチゴを右足で踏み潰《つぶ》した。
「シット!」
天王寺の声にお座りをした月恵が、緩やかなカーブを描く腰を待ちきれないとばかりにくねらせた。
「ステイ、ステイ、ステイ……」
天王寺は月恵にお預けを命じながら、踵《かかと》を使ってイチゴの実を擂《す》り潰すように踏みつけた。
「よし!」
イチゴが十分にペースト状になったのを見計らい、天王寺は餌を食べることを許可した。
ふたたび四つん這いになりボウルに顔を突っ込もうとした月恵の頭を、天王寺は蹴り飛ばした。
「まずは、こっちからだろうが?」
天王寺が、潰れたイチゴに塗《まみ》れた右の足を月恵の鼻先に突きつけた。
「申し訳ございません」
月恵が手を使わずに、天王寺の足を舐め始めた。
「よし、いいコだ。じゃあ、食べてもいいぞ」
天王寺の許可が出ると、月恵が嬉々《きき》としてボウルに顔を突っ込みペースト状のイチゴを啜《すす》り始めた。
天王寺は月恵の頭を足で踏みつけつつ、携帯電話を手に取り番号ボタンをプッシュした。
『はい、榊原です』
「東亜から連絡は?」
『いまのところありませんが』
「どういうことだ? もう、8時間以上も経ってるんだぞ?」
『すみません。何度も携帯に連絡を入れてるんですが、コールは鳴っても電話に出ないんですよ。いったい、どうしたんでしょうか?』
榊原が、困惑した声で言った。
「ほかの奴らの携帯も鳴らしてみろ。まさか、返り討ちにあったってことはないだろうな?」
至光会には、四天王と呼ばれる凄腕《すごうで》のヒットマンがいるらしい。
光矢といえども、100パーセント倒せるという相手ではない。
『光矢がいるので、それはありえません。あの男は、化け物ですよ』
「まあ、どうでもいいが、絶対に失敗は許されん。もしものときは、いまのお前の立場はないと思え」
『はい。引き続き連絡を取ってみます』
「まったく。使えない奴だ」
天王寺は吐き捨て、携帯電話をベッドに放った。
「おい、今度はここをきれいにしろ」
天王寺は、股間《こかん》を指差し月恵に命じた。
月恵が天王寺のガウンの腰紐《こしひも》に手をかけたとき、部屋がノックされた。
「誰だ?」
天王寺は、不機嫌な声をドアに投げた。
「すみません。榊原です。東亜と連絡がつきました」
天王寺は舌を鳴らし、月恵を押し退《の》けた。
「入れ」
仕方なく、天王寺は榊原を招き入れることにした。
ドアが開いた。
「なんだ、間の悪い男だな。電話で済むこと……」
天王寺が文句を言いかけたとき、榊原の顔が破裂した。
月恵の悲鳴――前のめりに倒れた榊原の背後から、ひとりの男が現れた。
黒い戦闘服。褐色の肌。死人の眼。
「だ、誰だ……貴様は?」
天王寺の問いに答えず無表情に歩み寄ってきた男が、右腕を上げた。
籠《こも》った撃発音。後頭部を撃ち抜かれた月恵の脳漿《のうしよう》が、天王寺の頬に付着した。
男が、爬虫類《はちゆうるい》を彷彿《ほうふつ》とさせる体温のない瞳《ひとみ》で天王寺を見据えつつ、右腕を上げた。
「天王寺亘か?」
男の低く陰鬱《いんうつ》な声に、天王寺の躰は金縛りにあったように動かなくなった。
「お、おい……ま、待て……待ってくれ……」
「天王寺亘か?」
男が、同じ質問を二度繰り返した。
「そ、そうだ……あ、あんたは誰なんだ?」
「ゼウス」
男の顔が、視界から消えた。
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13
枯れ葉が擦れ合うような微《かす》かな物音。
ヘリオスと背中合わせの格好で横歩きをしていたアリサは足を止め、胸前に突き出した両腕の三角形の頂点に握られているグロックで素早く半円を描いた。
「どうした?」
背中越し――囁《ささや》き声でヘリオスが訊《たず》ねてきた。
「誰かいる」
アリサの言葉に、ヘリオスの緊張が伝わった。
いや、正確に言えば30分前に撃発音が聞こえてから継続している緊張感が強まったに過ぎない。
あどけなきアサシン――スパイダーのトラップから間一髪逃れたアリサとヘリオスは、いったん、甲府市内へと引き返し廃墟ビルで数日を過ごした。
流れを変えたかったというのが、雑木林からの退却を決断した理由だった。
――覚悟はしていたが、お前ほどのアサシンでもここまで苦戦するとはな。
ヘリオスからの報告を受けた小野寺のため息が、耳から離れなかった。
――主役不在でもこの有様か……。でも、まあ、四天王のうちふたりを倒したのだから、よしとしなければな。
小野寺は、ヘリオスに、というよりも自らに言い聞かせているようだった。
たしかに、僅《わず》か数日の間に何度も命を落としかけた。
すべての動きを読まれ、後手後手に回ってしまった。
これで、ゼウスがいたら、果たしてどうなっていたのか?
――これからが勝負だ。ゴルゴとガゼルを失った門馬は、いよいよ、ゼウスに出動を命じることだろう。
アリサとヘリオスの働きにたいし、小野寺が満足しているかどうかはわからない。
ただ、絶対に門馬を倒してほしいという小野寺の切なる思いだけはひしひしと伝わってきた。
門馬の刺客に妻と子供を殺された小野寺の気持ちは、青い蝶《ちよう》の男に家族を皆殺しにされたアリサには痛いほど伝わった。
ふたたび至光会の私有地に舞い戻ったアリサとヘリオスがしばらく山道を歩いていたときに、風に乗った複数の撃発音が聞こえてきたのだった。
「おい」
囁くヘリオスが、10メートルほど先の繁みに視線をやった。
繁みの中で、なにかが蠢《うごめ》いた。眼を凝らした。白色の衣服……男女の判別はつかないが、至光会の信者であることは間違いない。
アリサとヘリオスは顔を見合わせ頷《うなず》き合うと、ふた手に分かれて走った――信者を挟み撃ちにした。
20代と思《おぼ》しき若い男性信者は、距離を詰めるアリサとヘリオスに気づかないほどになにかに怯《おび》え、躰《からだ》を震わせていた。
「至光会の信者だな?」
アリサが問いかけても、腰を抜かしたように両足を投げ出した格好で座り込んだ男性信者からはなんの反応も窺《うかが》えなかった。
焦点の定まらない瞳《ひとみ》、半開きの口、垂れ流れた涎《よだれ》、股間《こかん》に広がる黒いシミ……男性信者が正気でないのはすぐにわかった。
「おい、なにがあったんだ?」
警戒心は解かず、ヘリオスがベレッタのマズルを向けながら男性信者に近づいた。
「ば、化け物……化け物……」
男性信者が、うわ言のように繰り返した。
「化け物がどうした?」
アリサが訊ねると、男性信者がゆっくりと腕を上げた――その震える指先は、通りのほうを指差していた。
ヘリオスが、窺うような視線を向けてきた。
視線の意味――信じるか否か?
ヘリオスが疑念を抱くのも無理はない。
また、スパイダーのトラップかもしれないのだ。
アリサが頷き、通りに向かって足を踏み出すとヘリオスも続いた。
10メートルほど歩いたところで、緑の作務衣《さむえ》姿の信者が無数の弾丸を浴びて事切れていた。
さらに2、3メートル進むと、ふたりの緑作務衣の信者が躰中を蜂の巣にされて折り重なっていた。
三人の銃創から察して、使用された銃器がサブマシン・ガンであるのは間違いない。
「なにが起こったんだ……」
ヘリオスが呟《つぶや》いた。
五感を研ぎ澄ませ、慎重に歩を進めた。
枯れ葉一枚落ちる音も聞き逃さず、視界を掠《かす》める蜂も見逃さなかった。
前後左右だけでなく、上空にも注意を払った。
相手はゼウスとスパイダー。どんな奇襲をかけてくるかわからない。
しかし、殺《や》られているのは至光会の幹部信者だ。
ということは、ゼウス達の敵が存在することになる。
「あれをみろ」
ヘリオスが硬い声で囁いた。
約5メートル前方の開けた空間に連なって停車するハマーとバン――2台とも、窓ガラスが銃弾に撃ち砕かれていた。
車の周囲には、ざっと見渡しただけでも五十体はあろうかという屍《しかばね》の山が築かれていた。
緑の作務衣姿、スーツ姿、スエット姿……屍の服装は様々だった。
スーツとスエットの屍は、風体からしてヤクザに違いなかった。
暴利を貪《むさぼ》る新興宗教団体と利権の匂いには敏感なヤクザ。争う理由はいくらでもある。
ヘリオスが、周囲を警戒しながら藪《やぶ》から踏み出した。アリサはいつでもヘリオスを援護できるようにグロックのマズルを巡らせつつあとに続いた。
「この戦場を制したのは、どっちなんだろうな……」
独り言のように呟き、ヘリオスが屍をチェックして回った。
至光会の屍もヤクザと思しき屍も、そのほとんどが見事に急所を撃ち抜かれている。
双方とも、かなり腕の立つ者同士の争いだったことが窺えた。
「ん?」
ヘリオスが、一体の屍の前で立ち止まると腰を屈《かが》めた。
「知り合いか?」
「ああ。こいつはたしか、東亜会のヒットマンだ。光矢と言ったかな。彼は海外の外人部隊で活躍していた傭兵《ようへい》上がりで、相当な腕利きだったはずだ」
ヘリオスの顔からは、微《かす》かな驚きが読み取れた。
「それだけの腕利きが殺られたということは、勝者は至光会ということになるな」
アリサの言葉に、ヘリオスが頷いた。
額と心臓を撃ち抜かれている光矢の屍の傍らには、サブマシン・ガンが転がっていた。
「この銃創は拳銃《けんじゆう》だ。サブマシン・ガンを持っている殺しのプロの光矢を拳銃で仕留めることのできる男は……」
ヘリオスが険しい表情で言葉を切った。
「ゼウス」
アリサが言うと、ヘリオスが小さく頷いた。
「満を持しての大トリのご登場ってわけか?」
口では茶化してはいるが、周囲を見渡すヘリオスの眼はこれまでになく怖かった。
アリサは藪の中にふたたび戻った――腰を抜かす白作務衣の信者の額にグロックのマズルを突きつけた。
「ゼウスはどこだ?」
「だ、誰のことですか?」
「死にたくなければ、正直に言うんだ」
アリサがトゥリガーに指をかけると、白作務衣の信者が失禁した。
「無駄だ。こんな下っ端の信者がゼウスのことを知るわけがない」
ヘリオスが、アリサの肩に手を置き言った。
「邪魔をするな。ゼウスはどこだ?」
ヘリオスの腕を振り払い、ふたたび白作務衣の信者に問い詰めた。
額に真紅の花びらを咲かせ仰向けに倒れる兄。天井に赤い斑点《はんてん》を作る父の鮮血。父の屍に折り重なるように前のめりになる祖母。アリサの前で俯《うつぶ》せに倒れる母。
――みててくれたかい?
青い蝶の形をしたペンダントを首につけた悪魔……ゼウスの声がアリサの鼓膜に蘇《よみがえ》った。
家族を皆殺しにした男――迫りくる怨敵《おんてき》の気配に、アリサは平常心を失っていた。
「ほ、本当に知らないんです……」
「だったら、死ぬまでだ」
「やめないか!」
ヘリオスが、グロックのバレルを掴《つか》んだ。
白作務衣の信者は、恐怖のあまり失神していた。
「邪魔をするなと言ったろう?」
「バレンタイン、気持ちはわかるが焦るんじゃない」
「俺は、焦ってなんかいないっ」
アリサはヘリオスの手をグロックから振り切り、切り株に腰を下ろした。
見抜かれていた。アリサは、焦っていた。そして、イラ立っていた。
宿敵、ゼウスが残した圧倒的な足跡を目の当たりにして、心乱されていた。
「察するよ」
ヘリオスが、労《いたわ》るように声をかけながらアリサの隣の切り株に座った。
「憎んで憎んで憎み抜いた相手はすぐ近くにいるのに、姿を現さない。しかし、爪痕《つめあと》だけはしっかりと残している。それも、強烈なやつをな」
「お前、なにが言いたい?」
「恐怖を感じるというのは、別に恥ずかしいことじゃない」
「俺が、ゼウスを怖がっているというのか!?」
アリサは気色ばみ、ヘリオスに食ってかかった。
「怖ければ震えるがいい。つらければ弱音を吐けばいい。哀しければ泣けばいい」
「貴様っ、俺を馬鹿にしてるのか!」
アリサは、右の拳《こぶし》をヘリオスに飛ばした。腕の動きが止まった――ヘリオスが、アリサの手首を掴んだ。
「放せっ、放せ!」
ヘリオスの手から逃れようとしたが、腕はピクリとも動かなかった。
「バレンタイン。たまには、女に戻っても誰も責めはしない」
ヘリオスが、哀切な瞳でアリサをみつめた。
どうしようもなく、心が震えた。そんな自分に、無性に腹が立った。
アリサは、空いている左手をヘリオスの頬に叩《たた》きつけた。
「男に生まれたお前に、男として生きなければならない俺の気持ちのなにがわかる!?」
アリサは、激しい口調で言うとヘリオスを睨《にら》みつけた。
ヘリオスの瞳には怒りではなく、よりいっそう哀しみの色が増した。
そんな眼で、俺をみるな……。
アリサは、心で訴えかけた。
遠い昔に、忘れかけていた自分が蘇りそうになる。
家族の愛に包まれ無邪気に振る舞っていたあの頃……手塚アリサだった時代の感情が……。
「泣き虫で、怖がりな子供だった」
アリサは、独り言のように語り始めた。
ヘリオスが、掴んでいたアリサの手首を放した。
「部屋が暗くなるのが怖くて、寝るときは電気をつけたままにしていた。誕生日に父が買ってくれたウサギの縫いぐるみを、いつも抱いていたよ」
――お前の友達を連れてきてやったぞ……ほら!
ひさしぶりに帰宅した父が、アリサの目の前に差し出したのは、1メートルくらいありそうな特大のウサギの縫いぐるみだった。
――うわぁ、おっきい! パパ、ありがとう!
アリサは、自分より大きなウサギの縫いぐるみに抱きつき、顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
――アリサは、将来、動物のお医者さんになるんだろう?
――うん! アリサね、病気になったウサちゃんやワンちゃんを元気にしてあげるの。
あの頃、大人になったら動物の命を救う職業に就くと心に誓っていた少女の15年後は、皮肉にも人間の命を奪うアサシンになっていた。
「俺の胸の奥底の部屋には、あのときのままの5歳の少女がいる。いままで、どんな任務のときも、少女の存在を意識したことはなかった。少女が部屋にいることさえ忘れていた。が、少女の瞳に焼きついた、あの青い蝶の男がターゲットの今回だけは、気を抜けばバレンタイン以外の人格が顔を覗《のぞ》かせるんだ……」
アリサがバレンタインになって、誰かに、というよりも、ひとりのときも含めて弱音を吐いたのは初めてのことだった。
自分でも、信じられなかった。
逆を言えば、精神的にそれだけ追い詰められているのかもしれない。
そして、もうひとつの理由……。
アリサは、ヘリオスから眼を逸《そ》らした。
不意に、ヘリオスの腕がアリサの肩に回され、抱き寄せられた。
不思議と、抵抗する気が起きなかった。
ヘリオスの胸の中で、アリサは込み上げてくる感情から懸命に眼を逸らした。
沈黙が続いた。躰が震えていた。いや、震えているのはアリサではなかった。
「おい……」
言葉をかけようとしたアリサは絶句した。
ヘリオスが、肩を震わせていた。それだけでなく、目尻に光るものがみえたような気がした。
アリサの躰に回されていたヘリオスの腕に、力が込められた。
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14
至光会の道場――三十畳のリビングで、テーブルに両足を投げ出しソファに深く身を預けた門馬は、食前酒のドンペリ・ゴールドを傾けていた。
カウンターに備えつけられた鉄板で専属のコックが焼くステーキの香ばしい香りが、門馬の空腹に拍車をかけた。
酒も肉も、至光会では禁止されている。もちろん、教祖である門馬が戒律を破っていると信者に知れたなら、示しがつかない。
故に、このリビングの存在は、コックと一部の幹部信者しか知らない。
床には北極熊の毛皮が敷き詰められ、100インチの特大プラズマテレビやロマネ・コンティやマーテルといった高級酒が並ぶサイドボードが設置してあった。
板の間での寝泊まり、麦飯と豆乳だけの食事といった厳しい条件下で修行している信者達からは想像のつかない贅沢《ぜいたく》な空間がリビングには広がっていた。
コックが、肉汁が滴る400グラムのステーキを、切り分けることなく皿に載せると門馬のもとに運んだ。
「お待たせ致しました。お召し上がりくださいませ」
コックが言い終わらないうちに、門馬はステーキを鷲掴《わしづか》みにしてかぶりついた。
門馬は今年78になるが、寿司《すし》五人前、焼き肉三人前をペロリと平らげるほどの食欲|旺盛《おうせい》ぶりだった。
インターホンのベルが鳴った。壁に備えつけられたテレビに映る青年の姿を認めた門馬は、コックにドアを開けるように命じた。
「失礼します。相変わらず、エネルギッシュですね」
スパイダーが、あどけなさの残る顔を綻《ほころ》ばせながら門馬のもとへ歩み寄ってきた。
スパイダーはまだ17歳、同年代の少年達は恋やスポーツに夢中になっている年頃だ。
彼との出会いは、養護施設に将来のアサシン予備軍をスカウトしに行ったときのことだった。
GPCでは、全国の養護施設を隈《くま》なく回り、身寄りのない幼児を引き取り養子縁組をして、アサシンになるための訓練を受けさせていた。
施設には女性とふたりで訪れ、子宝に恵まれない夫婦を演じた。
もちろん、どんな子供でもいいというわけではなく、遊んでいる姿や会話から性格を読み取り、アサシンとしての適性があるかどうかを確かめるのは言うまでもない。
長野の養護施設で、門馬はとんでもない光景を目の当たりにした。
建物に入った瞬間に、足もとに張ってあった縄跳びに園長が引っかかり、俯《うつぶ》せに転倒したのだ。
すぐに子供の悪戯《いたずら》だとわかったが、仕かけはそれで終わらず、ちょうど倒れた位置にあった風船が派手な音を立てて割れるとメリケン粉が園長を白く染めた。
――このコがいいね。
門馬は、来客の前で恥をかかされた園長に怒られていた子供を指差し、養子縁組を即決した。
――え? はっきり言って、このコは悪知恵が回って手を焼きますよ。
ほかにいい子が一杯いるのに、とでも言いたげに、園長は怪訝《けげん》そうな顔で門馬をみつめた。
悪知恵が回るからこそ、門馬は即決したのだ。
少年を引き取った門馬は、元警視庁の爆弾処理班を教官につけ、その他のアサシン予備軍の子供達とは違うプログラム……火薬と爆薬についてのノウハウを徹底的に叩《たた》き込んだ。
推進薬、発射薬、炸薬《さくやく》、起爆薬、爆破薬、発光剤……様々な火薬と爆薬を、おもちゃを使い、遊び感覚で教えていった。
少年の飲み込みははやく、6歳の頃には、ヨウ素液とアンモニア水を使う、ちょっとした爆薬を作れるほどになっていた。
少年が13歳になったときに、至光会の被害者団体の弁護士の車にC―4――プラスチック爆弾を仕かけて爆殺したのが、スパイダーとしてのデビューだった。
以降、少年は、そのコードネームのように姿をみせずに、広範囲に張り巡らせた網にターゲットがかかった瞬間に抹殺するという手法で、門馬に多大なる貢献をした。
「お前ほどの天才少年が、たったふたりを消すのに失敗を重ねるとは、珍しいではないか?」
門馬は言いながら、ひと房のにんにくを生のまま口に放り込んだ。
強烈な刺激が食道から胃壁に駆け巡る――20代の頃から続けているこの習慣が、老いてなお血気盛んでいられる原動力だと門馬は信じていた。
「ゴルゴさんとガゼルさんが殺《や》られてしまうくらいですから、ただものではありませんね」
スパイダーが門馬の正面に腰を下ろし、ステーキの切れ端を皿から摘《つま》んで口に放り込んだ。
四天王、幹部信者の中でも、門馬を前にこんな行為ができるのはスパイダーだけだった。
門馬は、ゼウスとは違った意味で、スパイダーを特別扱いしていた。
ゆくゆくは、スパイダーを後継者にするつもりだった。
年齢と実力から言えばゼウスこそ跡目に相応《ふさわ》しいが、彼に人を育てることはできない。
ゼウスも、ほかのアサシン同様に孤児だった。
が、ほかと違うのは、彼らがなんらかの理由で親兄弟を失っているのにたいし、ゼウスの場合は5歳の頃に就寝中の両親を刃物で滅多刺しにした、ということだ。
5歳の子供がなぜ両親を殺したのかの原因は、ゼウス自身しか知らない。
門馬が情報を集めたかぎりでは、虐待などはなかったという。
ならば、幼子が両親を惨殺する理由が見当たらない。
導き出された結論はひとつ。ゼウスには、生まれつき心がない――そうとしか、考えられなかった。
引き取ってからゼウスと接するうちに、門馬は確信を深めた。
ほかの子供達と違い、ゼウスはトレーニング以外の時間になっても、ひと言も喋《しやべ》らなかった。
トレーニング期間の短い子供達は、ひとたび自由時間になれば、大声で騒いだりじゃれ合ったりと、年相応の無邪気な顔を覗かせるものだが、ゼウスはいつも、ひとり離れた位置でその日習った拳銃《けんじゆう》の構えかたやナイフの握りかたを反復していた。
その姿は、5、6歳の子供と言うよりも、ストイックなボクサーのようだった。
――好きな遊びは?
ある日、門馬は、モデルガンを使ってアソセレススタンスの練習をしていたゼウスに訊《たず》ねた。
――人殺し。
ニコリともせずに短く答えるゼウスに、門馬は底知れぬ恐怖を感じたものだ。
――どうして、人殺しが好きなんだい?
恐怖と同時に、門馬は湧き上がる好奇心を抑え切れなかった。
ゼウスは、門馬の問いかけには答えず、ただ、冥《くら》い瞳《ひとみ》を向けるだけだった。
門馬は、そのとき悟った。
この少年の瞳の冥さは、トラウマなどの後天的なものが原因ではなく、先天的なもの……つまり、母親のお腹から出てきた瞬間からそういう眼をしていたのだろう、ということだった。
「ゼウスと比べてみてどうだ?」
門馬は、楊枝《ようじ》で歯の隙間に詰まった肉片を取り除きつつ訊ねた。
「ボス。ゼウスさんと比べられる人間なんて、いるんですか?」
スパイダーが、飄々《ひようひよう》とした顔で言った。
「たしかにな」
うんうん、と満足げに頷《うなず》く門馬。
小野寺はかけがえのない盟友だった。
安酒しか呑《の》めない時代から、苦楽をともにしてきた。
互いに支え合い、天下を獲《と》ろうと誓い合った。
そのときの感情に、嘘はなかった。
が、両雄並び立たず――天下人はふたりいらないということに、あるとき気づいた。
なぜ、心境の変化があったのかはわからない。
ただひとつ言えることは、茨《いばら》の道をともに歩んできたからこそ……認め、尊敬しているからこそ、全力で潰《つぶ》しにかかった。
――本人と息子を、取り逃してしまいました。
小野寺家抹殺を命じたアサシンからの報告。そのとき門馬は、手痛いしっぺ返しを予感した。
予感は的中した。小野寺の秘蔵っ子……ヘリオスの身も凍るような逆襲撃に門馬はエース級のアサシンを失った。
スパイダーは、ヘリオスを甘くみている。
なにより、バレンタインのことを……。
「アリサ……」
呟《つぶや》く門馬の瞳は、哀切に彩られていた。
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15
うっすらと射し込む月明りだけを頼りに、アリサとヘリオスは歩を進めた。
ふたりの背にあったリュックは、さっきまで小休止していた場所に埋めてきた。
ハンドガンと弾丸以外の不要物は、すべて置き去りにしてきた。
不要物――そう、敵を倒す道具以外に、必要なものなどなにもない。
退路を絶つ。ゼウスとスパイダーを倒し、門馬の息の根を止めないかぎり、もう、あとに退《ひ》く気はなかった。
不退転の覚悟。それくらい追い込まなければ、今回の任務を遂行できない。ふたりの考えは一致した。
ヘリオスが歩を止め、アリサを振り返った。
ここから先は、至光会の私有地だ。
一歩足を踏み入れた瞬間から、どれだけのトラップが張り巡らされているか……何十、いや、何百のアサシンが潜んでいるかわからない。
完全なるアウェー。不利は、百も承知だった。
当初は、道場での講習会を終えた門馬が別荘に移動してから、任務を遂行する計画だった。
至光会の道場では、スパイダー、ゴルゴ、ガゼルの三人を始末し、実行日に四天王をゼウスひとりにするのが目的だった。
スパイダーはいまだ仕留めることはできていないが、ゴルゴとガゼルの抹殺には成功した。
ここで一旦《いつたん》、退散し、当初の計画通りに別荘で門馬を襲撃するという選択肢もあった。
だが、ふたりの出した結論は、道場で一気に任務を遂行する、というものだった。
焦っているわけではない。
ただ、この数日間で、ボディガードの数が減ったところでゼウスとスパイダーがいるかぎり、状況はなにも変わらないということがわかったのだ。
「バレンタイン。俺達は、ボスから最重要な任務に選ばれたアサシンだ。お互いに子供の頃から、過酷な特訓に特訓を重ねてきた精鋭だ。自信を持って行こう」
ヘリオスは、アリサに、というよりも、自分に言い聞かせているようだった。
僅《わず》かな間に、ヘリオスの頬はこけ、ずいぶんとやつれたようにみえた。
しかし、眼力は失っておらず、その瞳《ひとみ》は爛々《らんらん》と輝いていた。
アリサは頷《うなず》き、マガジンをリリースすると、グロックの装弾数をチェックした。
マガジンをグリップに戻し、ヘリオスをみつめた。
「あなたに、従います」
尊敬の念を込めた瞳で、素直な思いを口にした。
短い期間ではあったが、アリサにとってヘリオスは信頼に値する特別な人物だった。
アサシンとして、人間として、そして……。
湧き上がる感情を封印した。
アリサがこれから挑もうとしていることに、その感情は不必要どころか、マイナスにしかならなかった。
今度は、ヘリオスが頷いた――豹《ひよう》のしなやかさで、ヘリオスは至光会の敷地に踏み込んだ。
アリサもあとに続いた。
中腰でベレッタを構えた格好だが、ヘリオスの駆けるスピードは半端でなくはやく、ついて行くのが精一杯だった。
50メートルほど走った頃に、ヘリオスが歩を止めた。
3、40メートル前方に、雑木林に不似合いな灰色の要塞《ようさい》のような巨大な建物が現れた。
「衛兵を気取ってるつもりか?」
アリサは、樹の陰に身を隠しつつ、門扉の両側にふたりずつわかれて剣呑《けんのん》な視線を巡らす四人の信者を凝視して言った。
「突破するぞ。いいな?」
軽い感じで訊《たず》ねてはいるが、ヘリオスの表情は緊迫感に満ちていた。
「ああ。一気に潰《つぶ》す」
アリサは、答え終わらないうちに樹の陰から飛び出した。
2、30メートルほど近づいた頃に、緑の作務衣《さむえ》姿の四人の「衛兵」がヘリオスとアリサの襲撃に気づいた。
アリサは、立ち止まらずにトゥリガーを引いた。ほとんど同時に、ヘリオスも撃発した。
声を発する間もなく、三人が揃って夜空をみた。
「お兄ちゃん。門馬のところへ案内してもらおうか」
ヘリオスがベレッタのマズルを突きつけながら、20代前半と思《おぼ》しき「衛兵」に問いかけた。
「お、お前ら……誰だ?」
「衛兵」が、目の前で繰り広げられた突然の惨劇に顔色を失いながらも訊ねてきた。
「誰でもいい。門馬のところに案内しろ」
アリサは「衛兵」のこめかみにマズルを押しつけ、ヘリオスの言葉を繰り返した。
「会長の居場所なんて……」
「幹部信者が、教祖の部屋を知らないとは言わせない」
アリサは、「衛兵」の言い訳を遮り、トゥリガーに指をかけた。
「しかし……いま、『悟りの間』にいらっしゃるかどうかわからない……」
「いなかったら、それでいいさ。それより、さっさと案内したほうがいい。俺の相棒は、人を殺すことをなんとも思っちゃいない」
ヘリオスの芝居染みた口調に、「衛兵」の顔が蝋《ろう》人形のように白っぽく染まった。
「あ……案内すればいいんだろう!? 案内だけはするから!」
「行け」
叫ぶ「衛兵」の背後に回ったアリサは短く言うと、後頭部にグロックのマズルを突きつけた。
「待て」
ヘリオスの硬い声。アリサは足を止め、首を巡らせた。
建物の周囲は不気味なほどの沈黙に包まれ、人影は見当たらなかった。
シングルハンド――ヘリオスが地面に向けて発砲した。
約3メートル先。アリサの足もとの地面に、大人三人は入りそうな穴が開いた。
「あの坊やは、どこかで俺らを見張っているらしい」
ヘリオスが言葉を発するのを待ち構えていたように、強烈なライトに囲まれた。
トゥリガーを引いた。くずおれる「衛兵」を尻目《しりめ》に、アリサはステップバックした。
視界を灼《や》かれ、まったく周囲がみえなくなった。
眼を閉じ、五感を集中させた。その間も、とにかく足は止めなかった。
動きを止めたら最後……蜂の巣になるのは確実だ。
姿はみえないが、地表から伝わる振動でヘリオスもステップを踏んでいることがわかった。
乾いた撃発音が、トタン屋根に落ちる雨音のように鳴り響いた。
撃発音から弾道を計算した。サイドステップを踏んだ。
頼るは、己の勘しかなかった。
四方八方から撃発音が鳴り響く。
眼を閉じたまま、トゥリガーを引いた。
相手の数もわからない状態だが、ひとつだけ言えるのは無抵抗のままならいつかは殺《や》られるということだ。
耳もとを風が掠《かす》めた。直後に、火傷《やけど》したような激痛が耳朶《じだ》に走った。
「バレンタイン!」
眼を開けた。ヘリオスも眼を開けていた。互いに頷き合い、グロックとベレッタ……それぞれのトゥリガーを引きながら建物に向かって駆けた。
無数の弾丸が足もとを抉《えぐ》った。無謀なのはわかっていた。が、光の外に出なければ、いつまでも盲目状態が続く。
優れた世界チャンピオンでも、目隠しされては相手が素人でも勝ち目はない。
眼前に迫るライトを、アリサは撃ち抜いた。
ぽっかりと広がる闇に、アリサとヘリオスは突っ込んだ――光の外に出た瞬間に、ヘリオスが地面に片膝をついた。
「大丈夫か!?」
ヘリオスに肩を貸し、アリサは闇に馴れた視界に蠢《うごめ》く人影に撃発した。
間を置かず、立て続けにトゥリガーを引いた。
バタバタと、人影が倒れた。
「俺に構わず行け」
「馬鹿を言うな」
アリサはひとり残ろうとするヘリオスを一喝し、建物には向かわず雑木林に足を向けた。
傷を負ったヘリオスを連れて、建物に突入するわけにはいかない。
約5、6メートル後方から、二十人を超える人影が追ってきた。
右足を引き摺《ず》りながらも、振り向き様にベレッタを連射するヘリオス。
三人の人影が倒れた。アリサもグロックを連射した。さらに三人が倒れた。それでも、まだ、かなりの数が残っている。
ヘリオスが、太腿《ふともも》のポケットから取り出した物体を口もとに持っていったあとに、後方に向けて下手で放った。
手榴弾《しゆりゆうだん》。アリサは、ヘリオスを抱きかかえてダッシュした。
数秒後……物凄《ものすご》い爆音とともに熱風が背中を灼いた――アリサとヘリオスは、藪《やぶ》の中に前のめりに倒れ込んだ。
振り返った視線の先には、スーツを着た男達が折り重なり倒れ、その周囲にはちぎれた腕や足が転がっていた。
五体満足の屍《しかばね》にも、手榴弾の破片が躰《からだ》中に突き刺さっていた。
「M67か?」
アリサは訊ねた。
M67は、爆発とともに破片が高速で飛散し、周囲15メートル以内の対象者を殺傷する、アメリカ陸軍の破片手榴弾である。
映画でよく描写されているように、手榴弾で数メートルも吹き飛ばされるというのは現実ではありえない。
「俺の趣味じゃないが、多勢に無勢の任務だからな。念のため、用意していたのさ」
頷き、ヘリオスが苦笑いを浮かべた。
「まだ、あるのか?」
「あるにはあるが……」
ヘリオスは、パンツのポケットからM67よりもひと回り小さな手榴弾を取り出した。
「閃光《せんこう》弾か?」
「こいつを使って、建物に突入しようと思ってな」
閃光弾は、手榴弾のように殺傷力はないが、破裂と同時に大音響と閃光の威力で対象者を数秒間ショック状態に陥らせて意識を失わせ、その間に敵陣を占拠……という使われかたをする。
これも、映画などでは対象者の視覚と聴覚を失わせるという描かれかたをされているが、間違った認識である。
「だが、まずは足の治療だ。いまの騒ぎで、すぐに追っ手が現れる。移動するぞ」
アリサはヘリオスの腕を肩に回させ、立ち上がった。
「ひとりで歩けるさ」
「とろとろ歩かれると俺が迷惑だ」
アリサは、できるだけ感情が出ないように素っ気なく言うと、雑木林の奥へと進んだ。
同じ雑木林の中とは言え、さっきまでとは違い至光会の敷地内なので、よりいっそうの警戒が必要だった。
ひときわ藪《やぶ》の深い周囲から遮蔽《しやへい》された空間にヘリオスを連れ込み、切り株に座らせた。
アリサはヘリオスの右足……迷彩パンツの裾《すそ》の部分をサバイバルナイフで切り裂いた。
ふくらはぎの皮膚と筋肉の傷口の歪《いびつ》さ、そして射出口がないことから察して、弾丸はラウンドノーズ型かフラットノーズ型が使われているに違いない。
このふたつの弾頭は、貫通力を目的とした鋭角なタイプと違い、ラウンドノーズ型がボール状に、フラットノーズ型が平面状になっている。
このタイプの弾丸は、衝突面積が大きく、必然的に傷口も大きくなり、対象者に与えるダメージは鋭角な弾頭を持つスピッツアー型やボートテイル型とは比べ物にならないほどに大きい。
衝突面積が大きいだけでなく、貫通せずに体内にとどまった状態で筋肉組織や骨を壊すので、殺傷能力が高くなる。
ヘリオスが被弾したのはふくらはぎ周辺なので命に影響はないが、歩くのは困難になる。
松葉杖《まつばづえ》でもつけば日常生活に問題ない程度に歩くことはできるが、松葉杖をついて任務はこなせない。
ターゲットを追うときには走らなければならず、追われれば逃げなければならない。
踏ん張りが利かないので当然射撃精度は落ち、咄嗟《とつさ》の動きにも対応できなくなる。
なにはともあれ、筋肉組織が壊死《えし》する前に、体内にとどまった弾丸を摘出することが先決だった。
ヘリオスが差し出すライターを受け取ったアリサは、ナイフの切っ先を炎で時間をかけて炙《あぶ》った。
本当は、消毒液がほしいところだった。
いまになって、リュックを置いてきたことを後悔したが、仕方がない。
それに、もしリュックを背負ったままならば、さっきの襲撃の際に、視界を奪われた状態での銃撃の嵐を躱《かわ》すことはできなかっただろう。
「我慢しろよ」
十分にナイフの切っ先が熱せられたのを確認し、アリサは言った。
ヘリオスが頷き、自分の右腕の袖口《そでぐち》を噛《か》んだ。
切っ先で、ふくらはぎの傷口を抉った。袖口を噛むヘリオスの顎《あご》に力が入り、額に大量の玉の汗が噴き出した。
躊躇《ちゆうちよ》をせずに、肉を抉り続けた。切っ先に、硬いものが当たった。掻《か》き出すように、ナイフを撥《は》ね上げた。
ヘリオスの顔が苦痛に歪んだ。
が、決して声を出すことはなかった。
肉に深く食い込んでいた弾丸の先端が現れた。
二度、三度と、ナイフを撥ね上げると血に濡れた弾丸が飛び出し地面に転がった。
ヘリオスの足に撃ち込まれていた弾丸は、フラットノーズ型だった。
アリサはナイフの刃全体を熱し、広がった傷口に押し当てた。
ジュジュジュッという音が耳に、肉の焦げる匂いが鼻孔に忍び込んだ。
ふたたび熱したナイフを押しつけて傷口を完全に塞《ふさ》ぐと、アリサは迷彩服の上を脱ぎ、歯を使ってTシャツの袖を破いてヘリオスのふくらはぎに巻きつけた。
「冷やしたいところだがな」
「十分だ。ありがとう……」
ヘリオスが、汗|塗《まみ》れの顔に無理に微笑みを浮かべた。
「いったん、敷地から撤退しよう」
「いや」
ヘリオスが、首を横に振った。
「その足で、戦えると思ってるのか?」
「敷地の周囲は、もう、完全に包囲されているだろう。が、たしかにいまドンパチになるのはきつい。とりあえず、奥に避難しよう」
「どれだけ避難しても、ここは敵陣だ。スパイダーのどんなトラップが仕かけられているかわからないだろう?」
「袋の鼠と取るか敵の懐に飛び込んだと取るか……俺は、もう、あと戻りする気はない」
「玉砕する気か?」
アリサは、ヘリオスの眼を見据えて訊ねた。
「行くぞ」
ヘリオスは、樹木にしがみつきながら立ち上がった。
「俺の質問に答えてないぞ」
アリサの問いかけにヘリオスが振り返り、冥《くら》い瞳を向けた。
「片足がきかなくても、命を犠牲にするなら、ゼウスを道連れにすることはできる。そのときは、門馬は任せたぞ」
それだけ言い残すと、ヘリオスは右足を引き摺りながら歩き出した。
☆ ☆ ☆
幽玄な空気に包まれる雑木林は、敷地内も外も変わりなく見渡すかぎり樹木の海だった。
20分は歩いていたが、足を怪我《けが》しているヘリオスの歩調に合わせていることと、トラップを警戒していることで距離自体はそんなに進んでいなかった。
「少し休むか?」
「いや、まだ大丈夫だ」
歩き出して、初めて言葉を交わした。
ヘリオスは平静を装っているが、かなりつらいに違いなかった。
身を休めるにしても、建物から離れておく必要があった。
「そうか。じゃあ、もう少し……」
アリサは口を噤《つぐ》んだ。気配がした。ヘリオスの顔にも緊張が走った。
約10メートルほど離れた木陰から、ふたりの男が現れた。
アリサは眼を見開いた。
男達はふたりとも、上半身裸だった。
しかし、アリサが驚いたのは、ふたりの躰に粘土のような白っぽい物質が貼りつけられていることだった。
「C―4か……」
ヘリオスが呟《つぶや》いた。
コンポジション4――通称C―4は、四種類の爆薬が混合され、ゴムと練り合わせて作り上げられている。
通常の爆弾装置と違い、必要なぶんだけ切り取って使うことができ、信管を外せばX線装置や金属探知機に反応しないため、よくテロで利用されている。
破壊工作員やゲリラなどが建物を爆破するために使うだけのことはあり、その威力は凄《すさ》まじく、10メートルの距離で起爆されれば間違いなく木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になる。
男達は、粘土の端から飛び出した金属……信管と思われるピンに手をかけていた。
あのピンを抜けば、起爆装置が作動するという仕組みだ。
「お前達、門馬に指示されたのか?」
アリサの問いかけにも、男達は無表情に立ち尽くしているだけだった。
ガラス玉の瞳が、男達が完全に洗脳されていることを証明していた。
「いろんなトラップ作ったけど、やっぱり一番確実に相手を仕留められるのは、自爆テロなんだよね」
ふたりの背後から現れた青年……スパイダーが、飄々《ひようひよう》とした口調で言った。
「いい加減、あなた達を仕留めないと、ゼウスさんにお目玉食らっちゃうからね」
八重歯を覗《のぞ》かせ無邪気に笑うスパイダーが、アリサにはとてつもない悪魔にみえた。
☆ ☆ ☆
「お前みたいなタイプは嫌いじゃないが、ちょっと、アサシンという稼業をナメちゃいないか?」
ヘリオスが、スパイダーに微笑みかけた。
この状況でも、ヘリオスは余裕に満ちているようだった。
C―4を上半身に装着したふたりの男。アリサとヘリオスまで10メートルの距離はあるが、信管を引けばC―4の威力で確実に粉々になるのは間違いない。
もちろん男達の命もないが、だからこその自爆テロだ。
「ナメてなんかいませんよ。ただ、任務を愉《たの》しんでいるだけです」
「人を殺すのが愉しいってわけか?」
アリサは悟った。スパイダーへの質問は時間稼ぎだ。
「いいえ。人を殺すことが愉しいんではなくて、それまでのプロセスが好きなんです」
「トラップを仕かけることか?」
「ええ。冷静沈着なプロの人達の驚いた顔をみるのが、なによりの愉しみなんです」
スパイダーが、少年のように瞳を輝かせて言った。
「じゃあ、いまは最高に愉しいだろう?」
「そうですね。伝説の天才アサシンのヘリオスさんと、次代のエース、バレンタインさんが死を前にした瞬間に立ち会えたわけですからね。しかも、僕の仕かけたトラップにかかった」
「君はたしかに秀逸な技術を持っている。天才と言ってもいいだろうな。だが、それがゼウスの上に行けない理由だろうな」
「どういう意味……」
目にも止まらぬはやさで動くヘリオスの右腕。乾いた撃発音――転倒したスパイダーが左足を抱えのたうち回った。
「ボスも一緒に吹き飛んでもいいのか?」
信管に手をかけたふたりの人間爆弾に、ヘリオスは淡々とした口調で言った。
ふたりを撃てば爆破する。しかし、彼らの雇い主であるスパイダーがこの場を離れられなくなったとなれば、C―4を作動させるわけにはいかなくなる。
四天王であるスパイダーに狙いをつけるとは、さすがはヘリオスだ。
「アサシンである以上、爆弾ばかりじゃなく、すべてにおいてスキルアップしておかないとな。バレンタイン。確保だ」
ヘリオスはベレッタを向けたままスパイダーに言うと、アリサに命じた。
アリサは、ゆっくりと歩を進めた。
人間爆弾は、自爆が任務なので拳銃を所持していない。
任務遂行ができなくなったいま、彼らの価値は置物程度でしかない。
アリサは擦れ違い様に、ふたりの頭を撃ち抜いた。
スパイダーを無表情に見下ろしたアリサは、グロックを連射した。
右足と両腕――これで、翼をもがれた鳥も同じだ。
もう、蜘蛛《くも》の巣を張ることもできない。
この獲物は大物だ。いままで捕らえた信者と違い、門馬やゼウスについての情報を知っているはずだ。
「門馬は建物にいるのか?」
「僕を……誰だと……思っているんです?」
スパイダーは口もとを綻《ほころ》ばせているが、声は切れ切れで、額には脂汗がびっしりと浮いていた。
「どこの部屋だ?」
四天王がそう簡単に口を割るとは思えないが、アリサは無視して質問を続けた。
「あなたが……逆の……立場なら……ボスを……売るような……真似《まね》……をしますか?」
もちろん、売ったりはしない。たとえ、命を失っても……。
任務を失敗した時点で、スパイダーも死を覚悟しているに違いなかった。
それでも、アリサは自分が質問を続けるだろうことがわかっていた。
「門馬はどこにいる?」
「今度は……なにに生まれ変わろうかな……」
空に視線を泳がせたスパイダーが、唐突に呟《つぶや》いた。
微笑みを浮かべてはいるものの、その瞳は底なしに哀しげだった。
「門馬の居場所を言わなければ、死ぬことになる」
アリサは、グロックのマズルをスパイダーの額に向けながら低く短く告げた。
「死ぬことは……僕ら……にとって……憧《あこが》れじゃないんですか?」
スパイダーは言うと、静かに眼を閉じた。
彼のひと言に、胸が締めつけられる思いだった。
死ぬことが憧れ……この想いは、平和な日常を送っている者には永遠に理解できないだろう。
「バレンタイン」
振り返った視線の先で、ヘリオスがアリサをみつめて小さく頷《うなず》いた。
スパイダーの言葉に共感したのは、自分だけではなかった。
アリサは天を仰ぎ、トゥリガーを引いた。
梢《こずえ》の合間から覗《のぞ》く恨めしいほどの夜空に、乾いた撃発音が吸い込まれた。
☆ ☆ ☆
スパイダーの死に顔は、四天王とは思えないほどにあどけなかった。
「正直、羨《うらや》ましい、という気持ちがある。俺は、変かな?」
スパイダーを見下ろしながら、ヘリオスが独り言のように呟いた。
アリサは首を横に振った。
「俺達のような環境で育った者なら、お前と同じ気持ちだ」
沈黙が広がった。
10分、20分……ふたりは、スパイダーの傍らでじっと黙ったまま佇《たたず》んでいた。
彼は、何度も自分達を殺そうとしていた敵だったが、いまとなって残るのは、どうしようもない虚無感だった。
「ゼウスには、同じような感情にはならないだろうな」
ヘリオスが、沈黙を破った。
なにげないひと言だが、アリサにはヘリオスの言いたいことがすぐにわかった。
スパイダーにはまだ人間らしさがあったが、ゼウスには皆無だ。
「スパイダーはどちらかと言うと、俺に似ている」
「ゼウスは、俺に似ているとでも言うのか?」
ヘリオスは質問に答えず、無言でアリサをみつめた。
「君の瞳は、みる者の肌を切り裂くほどに冷たい。それだけ、心も凍えているんだろうな。だが、ゼウスの心は、凍えてさえいない」
「なにが言いたい?」
「ゼウスは、幼い頃に父親に首を絞められたり、母親に川に突き落とされたりしたらしい。ほかにも、両親は何度か我が子を殺そうとしたが、強運というか悪運というか、ゼウスは奇跡的に生き延びた」
唐突に、ヘリオスが口を開いた。
「なぜだ? 親は、子供を守るものだろう?」
「そうとはかぎらない。歓迎されずに生まれた命もある」
「親は、ゼウスを産みたくなかったということか?」
「これもボスから聞いた話だが、ゼウスは母親がレイプされて生まれた子供らしい。しかも、そのレイプ犯は、当時2歳だったゼウスの兄を惨殺して鬼畜の行為に及んだそうだ。つまり、ゼウスは憎悪の対象として生まれたってわけだ」
「憎んでいるなら、産まなければいいじゃないか?」
ゼウスを庇《かば》う気は微塵《みじん》もない。だが、彼の出生はあまりにも悲惨過ぎた。
「両親は、長男の仇《かたき》を討つために敢《あ》えてゼウスを産んだ。ゼウスは、親に復讐《ふくしゆう》されるために生まれた子供だ」
呪われつつ生まれた子供。アサシンの神なる男の出生の秘密を聞いて、謎が解けたような気がした。
「俺達は、愛すべき人間を失ったことで心を捨てた。だが、憎悪の中で生まれたゼウスには、捨てる心さえなかった。5歳の頃に、ゼウスは、寝ている両親を刃物で滅多刺しにしたそうだ」
「ボスがどうしてそれを?」
アリサは、単純な疑問を口にした。
「ボスも門馬も、アサシン予備軍を孤児院で集めていた。門馬の前にボスはゼウスと出会い、職員に話を聞かされたらしい。その職員は、ボスが訪《たず》ねてすぐに亡くなったそうだ」
「ボスが先に接触していたのなら、なぜ門馬のところに?」
「もともと心がないから、忠誠心も生まれない。ゼウスに殺しのノウハウを叩《たた》き込むのは危険だと判断したそうだ」
「じゃあ、門馬のためになぜ任務を?」
「門馬のためじゃない。奴が任務を遂行しているのは、人を殺したいからだ」
ヘリオスの言葉に、驚きはなかった。
憎悪しか知らないゼウスが、他人にたいして憎悪の感情しか抱けないのはごく自然な流れだった。
彼にとっては人を殺すということは、ゴキブリをみかけたら叩き潰《つぶ》すということと同じくらいにあたりまえの行為に違いなかった。
「四天王も、ついにひとりになった。残るは、神だけだ」
「お前の足では無理だ。神の相手は、俺がしよう」
アリサは、無表情に言った。
誰かのことを死なせたくないと思ったのは、初めてのことだった。
「こんなことを言いたくはないが、君ではゼウスに勝てない」
「片足が使えない人間よりはましだ」
「君には、生きていてほしい」
ヘリオスが、アリサの瞳をみつめて言った。
その言葉の意味が、アリサにはとても深いものに思えた。
「お前に決められることじゃない」
「お願いだ、バレンタイン。俺のために、生きると言ってくれっ」
「ヘリオス、お前……」
ただならぬヘリオスの剣幕に気圧《けお》されたアリサは絶句した。
赤く充血した瞳には、うっすらと涙が滲《にじ》んでいた。
「いったい……どうしたんだ?」
「いまは、理由は言えない。ただ、君のために戦わせてほしい」
俺のために生きると言ってくれ。
君のために戦わせてほしい。
ヘリオスは、いったい、なにを言っているのだ?
まったくわけがわからなかったが、説明し難い感情が込み上げ、アリサの胸の奥を鷲掴《わしづか》みにした。
「くだらない。行くぞ」
アリサは吐き捨てるように言い残し、足を踏み出した。
言葉とは裏腹に、なにかがアリサの心を動かしそうになった。
ヘリオスの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いた。
五感のアンテナを張り巡らせた。トラップの名手……スパイダーがいなくなっても、気は抜けなかった。
次に立ちはだかるのは、間違いなくゼウスなのだから。
アリサ、ヘリオスの順で藪《やぶ》の中を進んだ。
ヘリオスの額にうっすらと汗が浮いていた。
負傷した右足は、ただ歩くだけでも相当にきついのだろう。
しかし、一点を睨《にら》むようにみつめるヘリオスの瞳は力強かった。
ヘリオスは死ぬ気ではないのか? という危惧《きぐ》が頭を過《よ》ぎった。
アサシンとして生まれた以上、死が常につき纏《まと》うのは宿命だ。
だが、宿命として受け入れるのと、命を捨てるのは違う。
「俺達の任務は門馬暗殺だ。障害はふたりで排除すればいい」
振り返らず、アリサは唐突に言った。
「君が援護をし、俺がゼウスを仕留める。ふたりで排除するつもりだが?」
「前線に行くのは、フットワークを使える俺が適任だ。お前こそ、援護に回れ」
「さっきも言ったろう? 君じゃ、ゼウスを倒すことは……」
「ごまかすな」
アリサは、ヘリオスの言葉を遮った。
「なぜ死に急ぐ?」
「誰も死に急いでなんかいない」
「俺もアサシンだ。パートナーに庇ってもらおうとは思わない」
「道場は近い。お喋《しやべ》りは終わりだ」
ヘリオスが言うように、樹々の合間から至光会の建物が覗きみえた。
「豪華な出迎えだな」
豪華な出迎え――建物の周囲に溢《あふ》れる緑や白の作務衣《さむえ》姿の信者達。
異常事態に、腕に覚えのある信者達が襲撃者の侵入を防ごうと総出で警備に当たっているに違いなかった。
ゆうに、百人はいるだろう。
腕自慢が揃っているのだろうが、プロはいない。
アサシンがいれば、こんなに大人数での警備は必要ない。
人垣が視界を邪魔し、敵の襲来を見落としてしまうからだ。
結論――道場にいるアサシンはゼウスひとりしか残っていない。
が、そのひとりが、百人の素人よりも手強《てごわ》いのだった。
「こいつの出番だ。一気に突っ込むぞ」
ヘリオスが、閃光弾《せんこうだん》を翳《かざ》してみせた。
「走れるのか?」
「足が折れても走ってみせるさ」
明るい口調で言い、ウインクするヘリオス。
すべてを達観したヘリオスを前に、アリサは頷くしかなかった。
「GO!」
ヘリオスが、足を怪我しているとは思えないスピードで駆け出した。
異変に気づいた信者達が一斉に振り返った。
ヘリオスがピンを抜き、閃光弾を信者達に向けて高々と放り投げた。
視界を灼《や》く強烈な光、耳を聾《ろう》する爆音、立ち上ぼる白煙……蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う信者達。
混乱に乗じて、雑木林を飛び出したヘリオスとアリサは急斜面を駆け下り、至光会道場、と墨で書かれた木製の看板のかかった門扉を潜り抜けた。
立ち直った勇敢なる十数人の信者達が、ふたりのあとを追ってくる。
丸腰の彼らを、無謀とは言いたくなかった。
門馬の命を守ることだけがすべての男達。
人を殺すためだけに生まれてきた自分は、死ぬためだけに生まれてきた彼らの気持ちがわかるような気がした。
アリサは足を止めず、振り向き様にトゥリガーを絞った。
呆気《あつけ》なく崩れ落ち、事切れる男達。
建物の正面玄関へと続く砂利道は、数十メートルはあった。
途中には、門馬をモデルにしたのだろう、両手を空に向かって広げた銅像が聳《そび》え立っていた。
玉砕覚悟の追っ手達の処理は、アリサが引き受けた。
ヘリオスには、ゼウスにだけ集中してほしかった。
間違いなく、建物内で牙《きば》を研ぐ悪の神に……。
金張りの観音開きのドアが開き、中世ヨーロッパの騎士を彷彿《ほうふつ》とさせる鎧《よろい》姿の男ふたりが飛び出してきた。
それぞれの手には、サーベルが握られていた。
ヘリオスとアリサの発砲した銃弾が撥《は》ね返された。
頭から足の先まで鎧で覆われているので、拳銃での攻撃は通用しなかった。
サーベルを翳し襲いかかってくる騎士達。ステップバックでサーベルを躱《かわ》すアリサ。
サーベルを振り下ろすたびに、不気味な金属音が鳴った。
フェンシングさながらに騎士が半身の姿勢で突き出してくるサーベルの切っ先が、頬を掠《かす》めた。
ビュンビュンと唸《うな》りを上げて飛んでくる切っ先を躱すのが精一杯だった。
これだけ重い鎧に身を固め激しい動きをしているにもかかわらず、騎士は息ひとつ乱していない。
剣術のプロに違いなかった。
ステップバックを続けているうちに、足を取られて尻餅《しりもち》をついた。
風を切りながら振り下ろされるサーベル。横に転がり、切っ先を避《よ》けた。
騎士の攻撃を躱《かわ》すのが精一杯で、反撃する余裕がなかった。
このままでは、仕留められるのは時間の問題だ。
視界を過《よ》ぎったヘリオスも、苦戦を強いられていた。
足を痛めているので、フットワークも悪い。
が、アリサには、ヘリオスを救出している余裕はなかった。
変幻自在に伸びてくるサーベル。右足を飛ばし、踵《かかと》で騎士の脛《すね》を蹴りつけた。
バランスを崩し前のめりになる騎士。逃さなかった。騎士の手首を掴み、力任せに引き込んだ――サーベルを奪い立ち上がった。
体勢を立て直そうとする騎士の鉄仮面の眼の隙間に、切っ先を突き立てた。
濁音交じりの絶叫に続き、鉄仮面が赤く塗れた。アリサは悶《もだ》え苦しむ騎士の顔面を踏みつけ、鎧の繋《つな》ぎ目……露《あらわ》になった喉《のど》をグロックで撃ち抜いた。
アリサは首《こうべ》を巡らせた。
ヘリオスが痛めている右足で、騎士の顎先《あごさき》を掠るように蹴りつけた。
フラフラとよろめく騎士の足を払い、倒れた相手に馬乗りになるヘリオス――鉄仮面の眼もとにマズルを押しつけ、トゥリガーを引いた。
「タイムトリップしたような気分だったぜ」
ヘリオスが振り返り、白い歯を覗かせた。
「ヘリオス、大丈夫か……」
「ようやく、おでましか」
ヘリオスがアリサの問いかけを遮り、空を見上げた。ヘリオスの視線を追った。
建物の屋根の上。黒い繋《つな》ぎ服に身を包んだ褐色の肌をした男が、無表情に立っていた。
氷海を思い起こさせるどこまでも冷たい瞳。眼が合うだけで、凍りついてしまいそうだった。
あれがゼウスか……。
ついに姿を現した怨敵《おんてき》の姿をみて、アリサは、なぜ、彼が「神」と呼ばれているのかがわかった。
いつもより美人な母。いつもより活発な祖母。いつもよりお喋りな少女。
少女の5回目の誕生日。
年に数回しか家にいない父の存在が、部屋の雰囲気を華やかなものにしていた。
炎を揺らめかせる五本の蝋燭《ろうそく》をアリサが消そうとするのを、ドアチャイムが遮った。
突然の来訪者は、ひとり暮らしをしていた兄だった。
少女は、父の腕を引いた。
訪ねてきているのが兄であるのはわかっていた。
だが、そのとき少女の胸は、理由もなく、父を行かせたくない、という思いに支配されていた。
これまで聞いたことのないような大きな音が少女の鼓膜を切り裂いた。
赤く染まった天井をみつめるように、父は仰向けに倒れた。
気づいたときには、クロゼットの中に身を潜めていた。
兄の背後から現れた悪魔は、父の屍《しかばね》に取り縋《すが》ろうとする母の首筋を撃ち抜き、悲鳴を上げて逃げ惑う祖母の背中に銃弾を浴びせた。
悪魔は、少女のモノクロの視界の中で、動かなくなった最愛の家族の額を一発ずつ撃ち抜いた。
小さな掌《てのひら》で唇を押さえ、ただ、震えるしかできない少女の眼に映る青い蝶《ちよう》のペンダントが、家族の流した血に映えていた。
――みててくれたかい?
悪魔は、ペンダントを握り締め、誰にともなく呟いた。
――お前の底なしに冷たい瞳は、凍えた水の青のようだ。まるで、水面に映してきた物事をすべて氷塊に閉じ込めるようにな。
アリサの初任務の前夜。小野寺が独り言のように言った。
ブルーバレンタイン。いつの日からか、そう呼ばれるようになった。
15年前の悪夢は、少女の瞳を哀しいほどに冷たく無感情なものにした。
「お前が死ぬ前に、ひとつだけ訊《き》いておきたい」
アリサの問いかけに、ゼウスがゆっくりと首を巡らせた。
「俺の家族を、なぜ殺した?」
アリサは、知りたかった。
知ったところで、家族が……5歳の少女が戻ってくるわけではない。
それでも、父が、罪なき母が、兄が、祖母が、虫けらのように命を奪われた理由を知っておきたかった。
「アサシンにターゲットを殺す理由はいらない」
躰《からだ》の芯から凍りつくような声で言うと、ゼウスの姿が消えた……いや、上空にジャンプしていた。
「この戦いが終わったら、俺が真実を教えてやる。だから、絶対に手を出すな」
言い終わらないうちに、黒い影……ヘリオスが物凄《ものすご》いスピードでダッシュした。
真実……。
アリサはヘリオスの言葉に思惟《しい》を巡らせながら、目にも留まらぬはやさで交わろうとするふたりの「伝説」の戦いを懸命に視線で追った。
☆ ☆ ☆
空から撃発するゼウス。ヘリオスの足もとで土が跳ねた。ヘリオスは足を止めず、着地するゼウスにシングルハンドでトゥリガーを絞った。
ヘリオスの銃弾が地面を抉《えぐ》るときには、そこにゼウスの姿はなかった。
籠《こも》った撃発音の3連発。アリサには、ゼウスが走っているだけにしかみえなかった。横に飛びながらゼウスにマズルを向けるヘリオス。また、ゼウスが消えた。
いや、跳躍していた。人間離れしたジャンプ力。ふたたび中空で狙いをつけるゼウス。今度はヘリオスが消えた。
もちろん、じっさいに消えているわけではないが、あまりにもはやいふたりの動きは肉眼で捉《とら》えることができない。
ふたつの影が、アリサの目の前で駆け巡る。
天才と神。身体能力、動体視力、射撃術――ふたりの次元は、人間レベルを超越していた。
あまりにもふたりの動きがはや過ぎて、ヘリオスに釘《くぎ》を刺されるまでもなく、援護射撃さえできなかった。
不意に、ゼウスが仰向けに倒れた。微《かす》かな戸惑い。ヘリオスが足を止めトゥリガーを引こうとした瞬間、ゼウスのH&Kが火を噴いた。
跳ね上がる左腕。後方によろめくヘリオス。素早く立ち上がったゼウスがH&Kを連射した。
肩から地面に突っ込み銃弾を躱《かわ》すヘリオス。トゥリガーを引くゼウスの左手が腰に回った――もう一|挺《ちよう》のハンドガン……マカロフ。
二挺拳銃の銃撃の嵐に、ヘリオスが横転を続けた。
ヘリオスは、途切れなく襲いかかる銃弾から逃れるのに精一杯で、反撃する余裕もなかった。
両腕を前方に突き出しながら、じりじりと距離を詰めるゼウス。
横転、横転、横転――銃弾に追われるヘリオス。
――この戦いが終わったら、俺が真実を教えてやる。だから、絶対に手を出すな。
踏み出しかけたアリサの足を、脳裏に蘇《よみがえ》るヘリオスの声が止めた。
行き止まり――樹木がヘリオスの横転を遮った。
脳内で谺《こだま》するヘリオスの声をシャットアウトした。
「馬鹿……。死んだら、真実を教えるもなにもないだろう」
アリサは呟《つぶや》き、ゼウスのガラ空きの背中にマズルを向けた。
ゼウスの右手が後ろに回った。目の前に現れた漆黒の洞穴。ステップバック。足もとで砕ける小石。背中に、眼がついてるのか?
「動くな!」
踏み出そうとするアリサに、ヘリオスが叫んだ。
驚愕《きようがく》が胸に広がった。
振り向かずにアリサを牽制《けんせい》するゼウスも凄《すご》いが、絶体絶命の状況の中でアリサの動きを把握しているヘリオスも常人離れしていた。
銃弾の嵐――飛び散る樹皮に立ち込める硝煙。
アリサは、思わず眼を瞑《つぶ》った。
ターゲットの前で眼を閉じるなど、言語道断。しかし、そうせずにはいられなかった。
撃発音が止んだ。恐る恐る、眼を開けた。
蜂の巣になった樹木。ヘリオスとゼウスの姿は見当たらない。
首を横に巡らせた。左前方。約10メートル先で、雑木林に向かって疾走するふたつの黒い影。
アリサは胸を撫《な》で下ろす間もなく、ふたりのあとを追った。
ヘリオスは、険しい藪《やぶ》の中にゼウスを誘い込むつもりだ。
怪我をした状態で、障害物のない平坦《へいたん》な場では不利と判断したに違いない。
だが、足場の悪い雑木林はゼウスのフットワークも殺されるが、ヘリオスにとっても足によりいっそうの負担がかかる。
アサシンの神を相手に、射撃の確実性が問われる勝負を挑んだということか?
ヘリオスが足を止め、振り向いた――トゥリガーを絞った。
ゼウスが飛んだ。近くの樹木にしがみつき、猿のようにするするとよじ登る。人間離れした腕力と脚力だ。
右腕を上に向け、ゼウスに狙いをつけるヘリオス。撃発。枝に飛び移ったゼウスが、両手を放し逆さにぶら下がった。
コウモリの体勢で、H&Kとマカロフを連射するゼウス。ステップバックで躱すヘリオス。
ゼウスが頭から落下した。いや、自ら枝に絡めていた両足を解いたのだ。
地上までの距離はおよそ5メートル。膝を抱き躰《からだ》を丸め、両足から着地するゼウス。
入れ替わるようにヘリオスがジャンプした。約3メートルの高さで伸びる木の枝を掴《つか》み、逆上がりの要領で回転した。
揃った両足が天を向いたとき……ヘリオスが両手を離した。遠心力の勢いでさらに高くに舞い上がるヘリオスが、空中でトゥリガーを引いた。
虚を衝《つ》かれたゼウスが、銃撃を躱そうとして足を切り株に取られた。
バランスを崩し尻餅をつくゼウス。着地したヘリオスの爪先がゼウスの右手を蹴りつける。H&Kが弧を描きながら藪の中に消えた。
ゼウスがヘリオスの足を薙《な》ぐように横に払った。仰向けに倒れるヘリオス。
ふたりが、ほとんど同時に立ち上がった。
ゼウスの右のハイキック。ダッキングするヘリオス。頭上で空を切る右足を軸にし、今度は左の回し蹴りがヘリオスの顔面を襲う。
両手をクロスし防御するヘリオスだが、後方によろめいた。
前蹴り――ゼウスの踵《かかと》が、垂直にヘリオスの左の膝を蹴りつけた。
膝《ひざ》を抱え前屈《まえかが》みになるヘリオスの顎《あご》を、ゼウスの爪先が蹴り上げる。
よろめきつつも、必死に踏みとどまるヘリオス。ゼウスの頭が沈んだ。横蹴り。ヘリオスの胃袋に突き刺さる靴底。くの字になり胃液を吐くヘリオスのガラ空きの後頭部にゼウスの肘《ひじ》が落とされる。
ガックリと膝をつくヘリオスの頭を抱え、反動をつけた右の膝を顔面に叩き込むゼウス。
鼻血を撒《ま》き散らし背中から倒れるヘリオスに、マカロフのマズルが向けられた。
眉《まゆ》ひとつ動かさずにトゥリガーを絞るゼウス。横転――間一髪で躱すヘリオス。
無表情にマカロフを連射するゼウス。横転、横転、横転。必死に銃弾から逃れるヘリオスを追い詰めるゼウスは、まるで小動物をいたぶる虎のようだった。
アリサは、我が眼を疑った。
いままで、圧倒的な強さをみせていた伝説の天才が、一方的にやられていた。
反撃らしい反撃もできないまま、ゼウスに好きなように攻め込まれていた。
――だがな、ヘリオス。今回ばかりは、油断は禁物だ。天才と言われるお前でも、ゼウスを倒すのは容易じゃない。コードネーム通り、奴の暗殺技術は神の領域に達している。
小野寺の危惧は、現実のものとなっていた。
ゼウスには、一分の隙もなかった。精密機械のように、相手の何手先も読んで動いている。
――奴は、化け物だ。
蘇る小野寺の声に、頷《うなず》いている自分がいた。
手出しをしないのは、ヘリオスの言いつけを守っているからではない。
しないのではなく、できないのだ。ヘリオスと向き合っていても、ゼウスは背中でアリサを監視している。
横転しながら発射したヘリオスの銃弾が、見当違いの方向へと飛んで行った。
ゼウスがヘリオスの右腕を踏み、不意に振り返るとトゥリガーを引いた――手首に物凄い衝撃が走り、弾《はじ》き飛んだグロックが藪の中に消えた。
「手応《てごた》えはあった。だが、俺の敵ではない」
ヘリオスの額にマズルを戻したゼウスが、体内の血液が氷結するような冥《くら》く冷たい声で言った。
ベレッタを持つ腕を踏まれたヘリオスは、反撃の芽を摘まれた。
アリサは、丸腰のまま突っ込んだ。ふたたび振り返ったゼウスがマカロフを連射した。
横に飛んだ。マカロフのマズルが追ってくる。回転する視界の端でヘリオスの下半身が跳ねた――蹴り上げた爪先がゼウスの顎を捉えた。
よろめき後退するゼウスに、すかさずヘリオスがトゥリガーを絞った。
脳が揺れていたのだろう、コンマ一秒反応が遅れたゼウスの太腿《ふともも》を銃弾が貫いた。
膝立ちになったゼウスにヘリオスが、ベレッタを横に倒して、追い討ちをかけた。
ステップバック。ゼウスが間一髪躱した。
立ち上がったヘリオスがゼウスの周囲を走った。シングルハンドで構えたマカロフのマズルを時計回りに動かしヘリオスを追うゼウス。
が、ヘリオスの動きがあまりにもはやく、なかなか狙いをつけ切れない。
ヘリオスが足を止め、今度は逆向きに走り出した。時計と反対回りに動くゼウス。フェイント。ヘリオスは足を止め、ガラ空きになったゼウスの背中にベレッタを向けた。
ダッキングし、瞬時に急所をずらすゼウス。ヘリオスの放った弾丸は肩を撃ち抜いた。
畳みかけるように、ゼウスの背を目がけてトゥリガーを絞るヘリオス。頭から地面に突っ込んだゼウスが、逆さになった状態で撃発した。
意表を衝かれたヘリオスが脇腹を押さえて屈み込む。
ヘリオスの眉間《みけん》に狙いをつけるゼウス。横に飛ぶヘリオスのマズルが火を噴いた。今度はゼウスが横に飛ぶ。
目まぐるしい展開。ふたりの動きを視線で追うのが精一杯だった。両者とも、怪我をしているとは思えなかった。
互いの攻撃を寸前のところで躱すという、一進一退の攻防が続いた。
ふたりの射撃術、マガジンチェンジのタイミング、銃弾の躱しかた……どれを取っても超一流で、これが並のアサシンなら数秒でカタがついていることだろう。
ヘリオスとゼウスがそれぞれ樹木を盾にし、激しい銃撃戦を展開した。
互いに申し合わせたように、撃発音が止んだ。
不気味な静寂が雑木林を支配した。
弾切れでないのは、息を殺しトゥリガーを引くタイミングを窺《うかが》うふたりが証明していた。
無闇な撃発では倒せない相手だということを、互いに悟ったのだろう。
剣の達人同士が対峙《たいじ》しているような、息の詰まる緊張感に空気が張り詰めていた。
5分、10分……双方は、銅像のように微動だにしなかった……というより、少しでも気を抜くと殺《や》られてしまうので身動きできないのだ。
不意に、樹木の陰からヘリオスが飛び出し、ゼウスが身を潜める樹木に突進した。
焦《じ》れたのか? それとも気でも違ったのか?
「ヘリオスっ、戻れ!」
思わず、アリサは叫んだ。
5メートル、4メートル、3メートル……千載一遇のチャンスとばかりに、樹木の陰から狙いをつけるゼウス。
その距離が2メートルに詰まったときに、ゼウスの指がくの字に曲がった。高々と跳躍するヘリオス。己の頭上を見上げたゼウスの顔に、珍しく動揺のいろが走った。
ゼウスの背後に着地したヘリオスが躰を密着させ、ゼウスの首に腕を回した――ほとんど同時に、後頭部に押しつけられるベレッタのマズル。
「じゃあな、神様」
額に真紅の花びらを咲かせたゼウスの躰が、ゆっくりと前のめりに倒れた。
ぴくりともしなくなった屍《しかばね》の後頭部にとどめを刺す撃発音が、空に吸い込まれた。
ヘリオスが、その場に膝から崩れ落ちた。
「大丈夫か!?」
アリサは駆け寄り、ヘリオスを抱き留めた。
「ああ。脇腹は掠《かす》り傷だ。緊張の糸が切れた脱力感ってやつだ。こうみえても、ナイーブだからな、俺は」
いま死闘を演じていたのと同じ人間とは思えないような無邪気な笑みを浮かべるヘリオス。
「とにかく、お前は躰を休めたほうがいい。門馬は、俺ひとりで十分だ」
「平気だって。それより……」
ヘリオスが、アリサを押し退けよろよろと立ち上がった。
「約束を果たさないとな」
「約束?」
「戦いが終わったら、すべての真実を教えてやると言ったよな?」
「ああ、そうだったな」
ヘリオスとゼウスの激烈な戦いに、アリサはそのことを忘れていた。
「女のコが好きな男のコにチョコレートとともに愛を告白する日は2月14日……バレンタインデーだということは、お前も知ってるだろう?」
「それがどうした?」
知っていた。
が、幼い頃から人を殺すためだけの特訓にすべての時間を費やしてきた自分にとっては、無縁の話だった。
「チョコを貰《もら》った男のコは、3月14日にお返しをする。これがホワイトデーだ」
「お前、いったい、なんのつもりだ? そんなくだらない話よりも、はやく、真実というやつを教えろ」
アリサは、いら立った口調で言った。
ヘリオスが、なにを言いたいのかがまったく理解できなかった。
「まあ、そう焦るな」
「ゼウスが現れた時点で、門馬はもう道場を抜け出しているだろう。無駄話をしている暇はない」
「もう、門馬を追う必要はない」
「なに? それは、どういう意味だ?」
アリサは眉をひそめ、ヘリオスを見据えた。
「その前に、話の続きをさせてくれ。俺の解釈では、ホワイトデーはあくまでもお返しで、愛の告白じゃない。そこで、俺は考えた。バレンタインデーが冬なら、夏に男の告白の日を作ればいいんじゃないかってな」
ヘリオスが、場に不似合いな悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべた。
「今日は、7月14日だろう? 真夏をイメージした空の青、海の青……そして、青春の青。ブルーバレンタインデーとでも名付けようか。君のコードネームと同じだ」
「さっさと、本題に……」
アリサが言いかけたときに、ヘリオスがピンクの包装紙に包まれた細長い小箱を差し出した。
「バレンタイン。どうやら俺は、初めて恋というものを知ってしまったようだ」
「お前……俺をからかってるのか?」
口の中がからからに干上がり、鼓動が早鐘を打った。掌が汗ばみ、膝が震えた。
どんなに強大なターゲットを前にしても、こんなふうになったことはなかった。
自分の感情をコントロールできないことなど初めてだった。
「俺がからかっているようにみえるか?」
ヘリオスが、じっとアリサをみつめた。
「ふざけるな」
耐え切れず、眼を逸《そ》らした。
戦いの相手なら、決して視線を外すことはなかった。
だが、今回だけは勝手が違った。
「開けてくれないか?」
「その必要はない」
「なら、俺が開けるさ」
「勝手にしろ」
アリサは、視線を逸らしたまま興味なさそうに言った。
が、言葉とは裏腹に、アリサの意識はヘリオスの手もとに向いていた。
この胸の高鳴りはなんだ? 幼い頃に、母にプレゼントを貰ったときに似たような感覚になった覚えがあった。
なにを考えている? この感情は毒であり悪だ。これだけ人を殺しておいて、恋愛など……。
目の前に、なにかが翳《かざ》された。それは、ペンダントだった。
ペンダントトップに吸い込まれる視線――アリサは凍《い》てついた。
「お前……どうして……それを?」
アリサの瞳に映る青い蝶が、あの夜の惨劇を呼び起こした。
☆ ☆ ☆
「君の家族を皆殺しにしたのは、ゼウスじゃない。この俺なんだ」
絞り出すような声で、ヘリオスが言った。
アリサは、声を発することもできずに立ち尽くした。
目の前が、赤く染まっている。父の血で、母の血で、祖母の血で、兄の血で……。
血の海で眉ひとつ動かさずに悪魔の所業を行ったのが、ヘリオスだというのか?
そんな馬鹿な話が、あるわけがない。
「俺の家族が殺されたということはもう知っているよな? そのときのアサシンは……門馬の任務を受けた君のお父さんだったんだ」
氷結する思考――時間《とき》が止まった。
ヘリオスの家族を殺したアサシンが、父?
父が、門馬の任務を受けた?
なにを言っている? ヘリオスはいったい、なにを言っているのだ!?
「じつはそのとき俺と親父だけは、命からがら逃げ出せた。だが、ある日突然、親父が姿を消した。代わりに現れたのは、冷たい眼をした男だった。男は、幼い俺に銃を握らせた。男は、くる日もくる日も俺にマネキン人形をターゲットに見立てた射撃訓練を行わせた。わけがわからなかったが、小さな手でトゥリガーを引き続けた。そのうち、俺は気づいた。銃を握っているときだけは、悪夢を忘れることができるということにな。が、銃を手放した途端に母と姉が血塗《ちまみ》れで倒れているシーンが頭に浮かび、哀しみに襲われた。俺は、1分……いや、1秒でも、哀しみから逃れるために射撃訓練に没頭した。最初はマネキンに掠りもしなかった銃弾が、10発放ったうちに2発、3発、4発と命中し出すと、射撃訓練自体が愉《たの》しくなっていった。1年が経つ頃には、拳銃を握るのが現実逃避のためではなく、うまくなりたい、という欲望に変わった。そんなとき、姿を消していた親父が突然、俺の前に現れた。久し振りに会った親父は、片腕だったよ」
「まさか……」
息を呑《の》むアリサの混乱する頭の中に、ある男の顔が浮かんだ。
「ボスは、俺の親父だ」
俺を担ぐ気か?
あまりに衝撃が大き過ぎて、声にならなかった。
「『強くなれ。そして母と姉の仇《かたき》を討つんだ』。再会した親父が、最初に俺にかけた言葉だ。それまで、わけもわからずトゥリガーを引き続ける毎日を送っていた俺に、はっきりとした目標ができた。母と姉の仇を取るために強くなる。俺は、いままで以上に射撃訓練に没頭した。母と姉の仇を取るために強くなる。俺は、一心不乱にトゥリガーを絞った。母と姉の仇を取るために強くなる。俺は、人生のすべてを射撃訓練に費やした。薄暗い地下室の外では、何度も季節が変わった。10歳になる頃には、元フランス外人部隊の男……教官でさえ命中できなかった60メートルの射距離からコインを撃ち抜くという芸当を軽々とやってのけるまでになっていた」
「本当に……お前が、お前が俺の家族を……?」
ようやく、声を出すことができた。
ヘリオスが、底なしにせつなげな瞳でアリサをみつめつつ、ゆっくりと顎を引いた。
「『時はきた』。親父は、13になり全課程を修了した俺の首にお袋がつけていたペンダントをかけ、ベレッタを手渡した。憎悪の化身となった青い蝶の男は、仇を、そして仇の家族を皆殺しにした……」
クロゼット越しに広がる血塗られた光景……無表情に、既に事切れている家族の屍にとどめの銃弾を撃ち込む青い蝶の男が、いま、アリサの目の前にいる。
膝の震えが、唇の震えが……そして、心の震えが止まらなかった。
――みててくれたかい?
あのとき青い蝶の男……ヘリオスがペンダントを握り締めながら語りかけた相手は、己の母親だったのだ。
アリサが、フロントサイトの先にみていた、憎んで憎んで憎み抜いてきた男の母と姉を、自分の父親が任務で殺していたというのか? なんという皮肉……なんという残酷な運命。
アリサがもし、ヘリオスの立場でも同じことをしただろう。
しかし……しかし、だ。許せはしない。最愛の家族を血の海に沈めた怨讐《おんしゆう》の敵だけは、絶対に許せはしない。
「センターに連れられてきた5歳の少女をみたときに、俺は、鏡で自分と向き合っているような錯覚に陥った。そして、覚悟した」
ヘリオスは言葉を切り、事切れたゼウスの右手からマカロフを引き剥《は》がし、アリサの足もとに放った。
「いつかは、この日がくるだろう、ってな。さあ、銃を拾うんだ、バレンタイン」
ヘリオスは言うと、アリサにベレッタのマズルを向けた。
「どうして……どうして、お前なんだ? ヘリオス」
絞り出すような声で、アリサは問いかけた。
「母と姉を殺された。だから、復讐した。君も、同じだろう? 長年追い求めた復讐の敵は、目の前にいる。なにをもたもたしている? 君はなんのために、女を捨てた? アサシンらしく銃を手に取り、俺と勝負しろ!」
ヘリオスの一喝に、弾かれたようにアリサは銃を拾い上げた。
そう、ヘリオスの言うとおり――共感も躊躇《ちゆうちよ》もいらない。
必要なのは、アリサの視線の先に佇《たたず》む「敵」の心臓に銃弾を撃ち込むことだけだ。
☆ ☆ ☆
アリサの視界が、色を失った。
もし、神がいると言うのなら、どうして、自分をこんなに苦しめるのか?
家族を皆殺しにしただけでは、物足りなかったのか?
15年前のあの日……少女は心を失った。
時間を経て、少女は大人になり、女を捨てた。
もう二度と、戻れないと思っていた。
違った。
同じ傷を持つ存在……ヘリオスとの出会いが、アリサの胸の奥深くに閉じ込められていた「少女」の眠りを覚ました。
揺れ動く感情に戸惑った。かつて経験したことのない胸の疼《うず》きが、アリサの心を迷わせた。
恋愛感情。聞いたことはあった。
だが、それがどんな気持ちになるものなのかは、アリサにはわからなかった。
恋人。みたことはあった。
だが、それがどんな存在なのかは、アリサにはわからなかった。また、知りたいとも思わなかった。
アリサに必要なのは、ターゲットを仕留める技術となにごとにも動じない強靱《きようじん》な精神力……それがあれば、十分だった。
ただ、無意識に願っていた。
ヘリオスが、命を落とさないことを……。
そんな気持ちになったのは、初めてだった。
アサシンとして育てられた以上、誰かを殺しても……誰かが死んでも、それがあたりまえの世界だ。
任務を下されれば、幼子を持つ父親でも、病弱な妻を持つ夫でも、躊躇《ちゆうちよ》なくトゥリガーを引いた。
任務を下されれば、名前も知らない初対面の人間でも、躊躇なくトゥリガーを引いた。
自分が生き延びたいと、同志に生き延びてほしいと、祈る資格はない。
それでも、祈った。
ヘリオスに、死んでほしくはないと……。
そのヘリオスが、アリサを氷の瞳にした張本人だったとは……。
マズルの先――ベレッタを構えるヘリオスが震えていた。
いや、震えているのは、自分の指先だった。
「貴族の決闘としゃれ込んで、3、2、1……といこうか?」
ヘリオスが、最初に会ったときと同じ、冗談めかした口調で言った。
いま、目の前で無邪気な微笑みを浮かべる天使と、あのとき、無表情に家族を皆殺しにした悪魔が、同一人物とは思えなかった。
「本当のお前は、どっちなんだ?」
声になったと思う。自分でもわからないほどに、薄く掠《かす》れた声だった。
「バレンタイン。俺達に、本当の自分なんてあるのか?」
ヘリオスが、冥《くら》く哀しげな瞳《ひとみ》でアリサをみつめた。
この瞳こそ、素のヘリオスなのかもしれない。
「数は……お前がカウントしろ」
赤く充血した眼をカッと見開き、アリサはヘリオスに言った。
アリサは悟った。
ふたりには、トゥリガーを引く選択肢しかないことを……。
ヘリオスが頷《うなず》き、向けた背に、アリサも背中を合わせた。
「いいか?」
「ああ」
ヘリオスの問いに、今度はアリサが顎《あご》を引いた。
「3……」
ヘリオスの声と同時に、アリサは足を一歩踏み出した。
「2……」
緊張感に強張《こわば》りかけた足で、二歩目を踏み出した。
次の一歩……この一歩を踏み出したときに、すべてが終わる。
長年の夢が、叶《かな》うのだ。
木の葉を揺らす風、ヘリオスの息遣い、そして自分の息遣い……それまで聞こえていた一切の音が、鼓膜から遠ざかった。
無音の中で、アリサの集中力が研ぎ澄まされた。
「1……」
ヘリオスが数える最後のカウント――振り返った。ヘリオスと眼が合った。ほとんど同時にトゥリガーが引かれた。
交錯する撃発音……いや、銃撃は重ならなかった。
ガックリと片方の膝を地面に突くヘリオスの下腹部に、どす黒いシミが広がった。
ヘリオスの拳銃からは、硝煙が立ち上っていない。
「お前……」
アリサは駆け出し、ヘリオスの右手から滑り落ちるベレッタを拾い上げマガジンをリリースした。
「どういうつもりだ!?」
空のマガジンを握り締めたアリサは、震える声で叫んだ。
「ずっと……この日を願っていた……」
仰向《あおむ》けに倒れながら、ヘリオスが独り言のように呟《つぶや》いた。
「じゃあ、わざと……」
ヘリオスの脇に四つん這《ば》いになり、アリサは訊《たず》ねた。
「俺が本気……に……なったら……勝負に……ならないだろう?」
涙に歪《ゆが》む視界で、ヘリオスの口もとが微《かす》かに綻《ほころ》んだ。
「馬鹿が……お前、アサシンだろうっ。弾を抜くなんて……恥を知れ!」
怒りではなく、叱咤《しつた》だった。
死ぬはずがない。伝説と言われた男が……天才と言われた男が、こんな形で人生の幕を下ろすはずがない。
「君への罪悪感だけで……生きてきた……」
次第に薄くなるヘリオスの声……どうしようもない絶望感が、アリサの胸に広がった。
「逃げるのか!? 自分だけ、苦しみから逃げるのか!」
喉が嗄《か》れるほどに叫んだ。
確実に遠のいてゆくヘリオスの意識を呼び戻すとでも言うように……。
「これを……」
ヘリオスの右手が、ゆっくりと上がった。
指先にかかった青い蝶のペンダントが、ゆらゆらと揺れていた。
「俺に、どうしろと?」
「君に……貰《もら》ってほしい……。これは……お袋の形見だ……ずっと……肌身離さずに……」
ヘリオスが激しく咳《せ》き込み、吐血した。
「わかった、わかったから、もう、なにも喋《しやべ》るな」
アリサは、ヘリオスの手からペンダントを受け取りながら諭すように言った。
自分でも信じられないくらいに、怨讐《おんしゆう》の敵を許した瞬間だった。
「あり……が……とう……」
乾いた唇が微かに動き、ヘリオスの瞼《まぶた》が落ちてゆく。
「死ぬなっ、ヘリオスっ。死ぬな!」
ヘリオスの躰《からだ》を揺すり、声のかぎりに叫んだ。
「おいっ、ヘリオス、おいっ、おい……」
ヘリオスの瞼が完全に瞳を覆った。
「ヘリオス? おい……ヘリオス……ヘリオース!」
天を仰ぐアリサの叫喚《きようかん》が、闇空に吸い込まれた。
頬を、ひと筋の熱い液体が伝った。
泣いている、と気づくまでに少しの時間がかかった。
涙など、もうとっくの昔に涸《か》れているものだと思っていた。
少なくとも、残りの人生で涙を流すことはないと思っていた。
違った。
まだ、氷のような冷たい瞳を溶かす哀しみという感情が自分にも残っていた。
泣くな。この男は、父を……罪なき母を、兄を、祖母を殺した青い蝶の男だ。
家族の復讐を果たすために、心を捨てたのではないのか?
アリサは、己に言い聞かせた。
だが、涙が止まることはなかった。
――どうやら俺は、初めて恋というものを知ってしまったようだ。
「アサシンが恋をするなんて、お前は大馬鹿野郎だ……」
アリサは呟き涙を拭《ぬぐ》うと、腰を屈《かが》めた。
安らかに眼を閉じるヘリオスは、まるで熟睡しているようだった。
騙《だま》されたな。
そう言って、いまにもひょっこりと眼を開けて起き上がってきそうだった。
アリサは、青い蝶のペンダントを、そっとヘリオスの手に握らせた。
「これは、お前が持っているべきだ」
言い残し、アリサは立ち上がった。
向かわなければならない場所は、門馬のところではない。
アリサは藪の中から拾いあげたグロックを手に取り、じっとみつめた。
「待っていてくださいますね?」
押し殺した声で言うと、アリサは足を踏み出した。
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エピローグ
山梨のときとは打って変わったビルの群れが、闇に包まれた窓の外に流れていた。
アリサは眼を閉じ、リアシートに深く背を預けた。
――任務ご苦労だった。オフィスにきてくれ。
教官の臼井《うすい》から手渡されたメモ用紙に書かれていたオフィスとは、晴海埠頭《はるみふとう》に建つ4階建てのビルのことだった。
小野寺の数ある表稼業のうちのひとつに、運送会社があった。
運送会社の1階は倉庫になっており、センター本部に行く時間がないときにアリサは、何度か射撃練習に訪れたことがあった。
広大な面積があり、人気がなく、海に囲まれているという環境は、射撃をするのに好都合な条件が揃っていた。
小野寺に、オフィスに呼ばれたことは一度もなかった。
今回にかぎってなぜ、センターではなくオフィスなのか……。
配下が真実を知ったと悟ったのか、それとも、最初からそのつもりだったのか……ひとつだけわかっているのは、彼にはアリサの知らない貌《かお》があったということだ。
グロックを握り締める汗ばんだ手が、震えていた。
親のように慕っていた。
恩師として尊敬していた。
彼を信じて、見知らぬ者の命を奪ってきた。
彼のためなら、喜んで死ねた。
ヘリオスが、嘘を吐《つ》くはずはない。
が、信じられなかった……というより、信じたくなかった。
「お客さん、そろそろ着きますよ」
眼を開けた。
車窓の景色は、いつの間にか海に変わっていた。
街灯を照り返す海面は、宝石をちりばめたようにきらめいていた。
広大な駐車場に建つビルまで、およそ30メートルの位置でアリサはタクシーを降りた。
潮の香りが鼻孔をくすぐり、海岸から吹き荒《すさ》ぶ風が黒髪を掬《すく》った。
アリサは、ゆっくりと歩を進めた。
静寂な空間に唐突にモーター音が響き渡り、建物のシャッターが上昇した。
ビルの一階の倉庫には、二十人ほどのスーツ姿の男がサブマシン・ガンを携え並んでいた。
ざっとみたかぎり、知っている顔はひとりもいなかった。
向き合った瞬間に、かなりの訓練を積んできた者達だということがわかった。
ひとりで立ち向かうには、無謀過ぎる構図だった。
なにより、アリサのグロックには、もう2発の弾丸しか残ってはいない。
予想できない状況ではなかった。
が、ヘリオスやゼウスの拳銃《けんじゆう》を手にしようとは思わなかった。
人事不省にするための1発、念押しの1発――小野寺に教えられたやりかた。
今回も、それを実践するだけだ。
「やはり、情を出したか」
男達の列が左右に分かれ、中央から小野寺が歩み出てきた。
「射撃術、判断力、反射神経……我が息子ながら、俊哉《としや》は天才だった。だが、ひとつだけ、欠点があった。優しさだ。俊哉は、幼い頃から、捨てられた子猫をみつけては拾って帰ってくるような、心優しい性格をしていた。捨ててこいと命じても、隠れて餌を運んでやるような、そんな奴だった」
複雑な表情で、小野寺が言った。
「その優しさは、アサシンとして致命的だった。私は、俊哉が隠れて面倒をみていた子猫を銃殺するように命じた。泣きながら拒否していた俊哉だったが、最後には諦めて引き金を引いた。俊哉は、丸2日部屋に籠《こも》って泣き続けていたな。3日目に、部屋から出てきたときには、いままでみせたことのないような笑顔を私に向けた。普通なら、無感情になるところだがな。子供ながらに明るく振る舞うことで、心の均衡を保とうとしていたんだろう。が、無邪気な笑みを浮かべれば浮かべるほど、俊哉の心が死んだことが伝わってきた。1日15時間、飯も食わず、水も飲まず、無心でターゲットに向かって引き金を引き続けるようになった。俊哉の射撃術は、驚くほどのスピードで上達した」
遠くをみる小野寺の瞳《ひとみ》は、まるで、息子の射撃術の上達を哀しんでいるかのように冥《くら》く翳《かげ》っていた。
「もう、聞いたとは思うが、俊哉の初任務は、門馬の右腕的存在だったアサシン……お前の父親を抹殺することだった。任務後、私は敢《あ》えて、新しくセンターに入った少女があのとき俊哉が皆殺しにした家族の子供だと告げた。俊哉の心から、本当に優しさがなくなったかどうかをたしかめるためだ。そうですか。俊哉は、眉《まゆ》ひとつ動かさずに言った。合格。私はそう思った。心が悲鳴を上げているときほど、俊哉は子供のように笑うのが癖だからな」
たしかに、ヘリオスが無邪気に笑えば笑うほどに、アリサは物哀しい気分になった。
ヘリオスは、微笑みの裏に隠されている素顔を決してみせようとはしなかった。
だからこそ、余計にそんな彼の姿が痛々しかった。
「だが、違った。俊哉の心は死んではいなかった。本心では、お前の家族を奪ったことをずっと悔やんでいたんだな。15年間、気づかなかったよ。もしや、と思ったのは、今回の任務でお前とチームを組ませてからだった。もちろん、本人から聞いたわけじゃない。
親としての勘というやつだな。私は、ひとつだけ俊哉を試した。任務が終わったら、『掃除』をしろと命じたのさ」
アリサは、小野寺の言葉に息を呑《の》んだ。
掃除[#「掃除」に傍点]とは、隠語でパートナーのアサシンを抹殺することも意味する。
正直、小野寺がそれをヘリオスに命じていたという事実がショックだった。
――これからは、私がお嬢ちゃんの親代わりだ。
小野寺の言葉を信じ、アリサはついていった。
ときには優しく、ときには厳しく……小野寺も、本当の親のようにアリサに接してくれた。
唯一、信頼できる存在だった。
唯一、心を開ける存在だった。
彼のためなら死ねる――それだけの「愛」を、小野寺は与えてくれた。
「お前が生きている。それが俊哉の答えだった」
「いつから……ですか?」
初めて、アリサは口を開いた。
小野寺の「愛」が、いつまで真実だったのか……知りたいのは、それだけだった。
「最初からだ」
にべもなく答える小野寺に、アリサは耳を疑った。
「初めて施設でみたときから、それは決めていた。お前はいずれ、真実を知る。そのときに、恩師は復讐《ふくしゆう》すべきターゲットに変わる。私の最大の目標は、門馬を抹殺すること……それを成し遂げたら、センターをヘリオスに譲り、一線から身を引くつもりだった。あいつは、良心などという馬鹿げた感情に押し潰《つぶ》され、私を裏切った。愚かな奴だよ」
小野寺が、口惜《くや》しげに唇を噛み締めた。
「私が、憎かったと……?」
「ああ、憎かった。私の愛すべき妻と娘の命を奪った門馬が、お前の親父《おやじ》が憎かった。私がセンターを始めるきっかけになったのも、それが原因だからな。お前の親父があんなことをしなければ、私と俊哉は、まっとうな道を歩むことができた。私は誓った。最大、最高の復讐を……仇《かたき》の娘を一流のアサシンに育て上げ、仇を抹殺することをな」
アリサに向けられた小野寺の眼は、憎悪にたぎっていた。
しかし、アリサの瞳は、不思議なほどに静かだった。
憎悪は必要なかった。
必要なのは、憎悪ではなく決断だった。
「いままで、ありがとうございました」
アリサの言葉に、小野寺が微《かす》かに眼を見開いた。
嫌味も皮肉もなかった。
小野寺は、自分を救ってくれた。彷徨《さまよ》っていた自分を、導いてくれた。
最初に眼にした物にたいして一切の疑いも持たずに親だと信じ込む鳥の刷り込みのように……たとえ導かれた先が氷の世界であっても、アリサには、そこが自分のいる場所だった。
いまでも、小野寺はアリサにとって「親」だ。
しかし、「親」でも、許されない罪がある。
アリサの家族を皆殺しにした罪――小野寺の妻と娘を殺した罪。
「娘」として、最高の恩返しは、ふたりの親に罪を償わせることだった。
自分の罪も含めて、ともに……。
「悪く思うな、バレンタイン」
小野寺がつらそうにアリサから視線を逸《そ》らし、後方に下がった。
よく訓練された軍用犬のように、二十人の男達が一斉にサブマシン・ガンを構えた。
アリサは凍《い》てつくような冷たい眼で男達を見据えながら、2発しか弾のないグロックを手に、銃弾の嵐の中に向かって駆け出した。
[#地付き](完)
角川単行本『ブルーバレンタイン』平成19年12月31日初版発行