「もうムカツク! ムカツク!」※[#文中の!は全て右上がりに傾いた物。]
それは、とある月曜日のことだった。
鍵原《かぎはら》ツバメにギロリと睨《にら》まれた。健一《けんいち》は彼女である大海《おおうみ》千夜子《ちやこ》と一緒《いっしょ》にいい気分で登校してきたところだというのに、なぜそうなるのか? そう思って彼女を見るとかなり不機嫌《ふきげん》な様子《ようす》。そうでなくても吊《つ》り気味《ぎみ》の目と眉《まゆ》が吊り上がりまくっていた。短く固そうな彼女の髪《かみ》も怒《いか》りのせいなのかピンピンとはねているようにも見える。ま、これはただの寝癖《ねぐせ》かもしれないが……。
とは言えツバメが怒っているのは自分が原因ではないのは健一にはわかっていた。
「で、今日は一体なんなんですか?」
ツバメは何か腹が立つと健一に当たるようなところがあった。本人は否定するだろうが、健一から見ると八つ当たりとしか思えないことが多々ある。まあ、普段《ふだん》から怒らせるようなことをしているのも事実なので……仕方ないところもあることはあるのだが。
ちなみにツバメと健一の関係は、ツバメ曰《いわ》く、「友達の彼氏」であり友達ではないらしい。その割にはけっこう話しているし、都合のいい話し相手にされている気もしないでもない。
「痴漢《ちかん》よ! 痴漢!」
「痴漢ですか」
そして健一は思った通り、自分とは本当に関係なかったことを知る。
「昨日、電車に乗ってたら痴漢にあったの!」
ツバメはそこまで言い切ると、急にゾッとした表情を浮かべる。さっきまで真っ赤だった顔がすっと白く変わる。
「はぁ。それは災難《さいなん》だったね」
「そうやって淡々と返されると、すっごいムカつくんだけどっ!」
でも、すぐにまた赤に戻った。まあ、白いままよりは元気そうで良いが、怒りが自分に向いているのは、あんまりよろしくない。
「そんなこと言われてもなあ」
それに、自分はいつもそんな感じだろうと思う。そういう反応が嫌《いや》なら自分に話を振《ふ》らなければいいのにとか考えたらいけないのだろうか?
そんなだからテンションが低いとか怒られるわけだけど、それはもう自分の性格とか性分《しょうぶん》とか言われるものなので今更《いまさら》、怒られても困る。
「男ってなんだかんだ言っても痴漢を容認《ようにん》する生き物なんだよねえ」
「そうは言ってないだろ? 痴漢は犯罪《はんざい》だし、良くないって思ってるよ」
「でも私と一緒に怒ったりしないじゃない?」
「それは別に痴漢に限った話じゃないし」
「……それは私がつまらないことで怒り過ぎってこと? あームカツクっ!」
ツバメはそう言って拳《こぶし》を握って怒りを表現する。
健一としてはどう応えたものかわからない。それで見るに見かねたのか、ずっと黙《だま》っていた千夜子が口を開いた.
「えっと……おはよう、ツバメ」
しかしそれは痴漢の話ではなく、ただの挨拶《あいさつ》だった。そう言えは、挨拶もしてなかったなと気づき、健一もそれに続く。
「おはよう、鍵原」
「……おはよう、千夜子」
それはツバメもそうだったらしく、少し冷静《れいせい》な様子を見せて挨拶を返した。この辺り、さすが付き合いが長いというか、扱《あつかい》いになれているというか、二人は友達なんだなと思わされる。
「千夜子も私が怒り過ぎって思う?」
「うーん。私、痴漢にあったことないからわからないけど、健一さんに怒るのは違《ちが》うかな」
「……ま、そうだけどさ」
ツバメはでもやり場のない怒りをどうしたらいいんだろうと渋《しぶ》い顔をする。
「って言うか、千夜子?」
「何?」
「その口ぶりからすると千夜子は痴漢にあったことないわけ?」
「うん。そう言ったでしょ?」
「……ま、言ったし聞いてたけど」
ツバメはそれは変だなという顔をする。
「うん。変かな?」
「変じゃない? 私だって五回くらいあるよ」
「そんなこと言われてもあったことないし」
素直《すなお》にそう答えた千夜子をツバメはじっと見つめる。顔を見て、その視線は下へと移動する。
「どうよ、それは」
そして急にまた健一の方へツバメは怒りの視線を向ける。
「……何だよ、今度は?」
「おかしいと思わない?」
「それは鍵原より千夜子ちゃんの方が痴漢にあいそうだってこと?」
「そりゃそうでしょ? 千夜子の方が大人《おとな》しくて可愛《かわい》いタイプだし、それに……胸も大きいし」
ツバメはそう言ってまた千夜子の方を見る。
「む、胸は関係ないでしょ、胸は!」
千夜子はそれで顔を赤くして腕《うで》で胸を隠《かく》す。
「関係なくないよねえ、絹川《きぬがわ》?」
「まあ、痴漢も触《さわ》り甲斐《がい》のある方がいいと思うんじゃないかなあ」
「それはそうよねえ」
そしてなんだかいやらしい目でツバメは千夜子の方を見る。
「……で、でも胸だけじゃないと思うし」
千夜子は否定しようと思っているようだが、その辺りどうにも歯切れが悪い。恥《は》ずかしさで血が上って頭が回らなくなっているらしい。
千夜子は背が小さくて、大人げ。いかにも可愛いというタイプだ。なのにこっそり胸が大きかったりするのは本人としても気になるようだ。※[#大人げ:大人しげ?]
「ま、そうだけど、やっぱり千夜子の方が痴漢が喜《よろこ》びそうなキャラよね?」
「俺も痴漢するなら鍵原よりは千綾子ちゃんの方がいいかな。鍵原なんて痴漢されたら、その場で酷《ひど》い目にあわされそうだし……」
「ぶっ殺すっ!」
健一の言葉にツバメがさっきまでよりさらに大きな声で叫《さけ》ぶ。すでに来ていたクラスメイトは何事かと振り返ったが、声の主がツバメと気付いて落ち着いたらしく、すぐ元に戻った。クラスメイトたちにとっても、それはツバメが怒ってるのはまあいつものことくらいの認識《にんしき》らしい。
「そこで怒られてもなあ。自分で千夜子ちゃんの方が痴漢にあいやすいって言ったんだろ?」
「間題は後半の方でしょ? その場で酷い目にあわされるとかその辺」
「でも、それ言ったら『ぶっ殺す!』とか言ったわけで。そんなに間違ってないってことだろ?」
「まあ、そうなんだけと、絹川に言われるとムカつくってことよ」
言われて健一はまあ面と向かって言われれは怒りもするかと思い直す。
「にしても千夜子はなんで痴漢にあわないわけ?」
ツバメはすっかり自分が痴漢にあったことは忘れてしまっているかのようだった。まあ、話しているうちに別の話になってるのはツバメからするといつものことだが。
「多分、電車とかあまり乗らないからかな」
そんな疑問《ぎもん》に千夜子があっさり返答をする。
「……なるほど」
「大体、駅まで行けば用は済《す》むし」
「でも時々は遠くに行ったりするでしょ? ほら、この間、神宿《しんじゅく》に行ったって言ってたし」
「そういう時は健一さんも一緒だし」
「……それはそうか」
ツバメは千夜子の返事に納得した様子を見せる。しかしすぐにまた不機嫌そうな顔に。
「つまりそれって私に彼氏がいないのが悪いってこと?」
「そ、そんなことないよ」
千夜子は突然のツバメの怒りに言葉につまる。
でも端《はた》から見てると、ツバメの言い分はなんだか的《まと》を射《い》ているのかなあと健一は思ってしまった。
「なによ、その目! 絹川も同意見ってわけ? ムキ――――――――――!」
そしてそれに気づいたツハメが怒りの声を上げるのが聞こえた。
「ってな、ことがあったんですよ」
――よほど気になっていたのか健一はその日の夜、別の人間にも痴漢の話をした。
その別の人間というのは健一がちょくちょく訪《おとず》れている不思議《ふしぎ》な場所の住人たちだ。
十二階建てのビルの十三階。そんなあるはずのない場所に住んでいる一風《いっぷう》変わった人間たち。
彼らは1301と呼ばれる十三階の一号室に集まり、食卓《しょくたく》を囲《かこ》んで話をするのが日課《にっか》だった。
今日は全員が揃《そろ》っておらず、健一と同じく1303の住人である有馬《ありま》冴子《さえこ》、そして通称・管理人《かんりにん》である1302の八雲《やくも》刻也《ときや》がそこにいた。
「痴漢は……私もあったことないわ」
冴子は答えてから、それをなんだかふしぎなことだと思ったようだった。
彼女はなんでも『エッチしないと眠れない』ということらしく、健一とはつまり……そういう関係だ。しかもほぼ毎日だったりする。
そして冴子は色々と黒い噂《うわさ》があった。
誰《だれ》とでも寝《ね》る女とか言われてて、健一と知り合う前は実際《じっさい》にもそうだったみたいなことも本人から聞いた。
そんな人問だから色々な男にちょっかいを出されたりする。だから痴漢にあったことがないというのは本人にとっても意外だったのかもしれない。
「……出不精《でぶしょう》だからかな、やっぱり」
そして冴子はそう結論《けつろん》づけたようだった。言われてみると冴子はいつも部屋にいてじっとしているようなイメージだ。披女のことを良く知らなかった頃《ころ》は、背白い肌や長い黒髪から幽霊《ゆうれい》みたいだなと思ってたりもした。そのイメージの過りだとすれば、まあ納得できる話だ。
「八雲さんはどうですか?」
それで健一は向かいの席に座っている刻也に尋《たず》ねる。彼はそれに驚《おどろ》いた顔を見せた。
「私が痴漢になどあうはすがない」
健一もまさかそんな可能性を聞きたかったわけではない。長身《ちょうしん》痩躯《そうく》で真面目《まじめ》そうな眼鏡《めがね》をかけたこのクラスメイトが痴漢にあってるとしたら、それは大事件だ。※[#長身痩躯の躯の字は、「身區」]
「いや、そうじゃなくて身近な人で痴漢にあった人とかいませんかってことです」
「あ、ああ、そういうことかね」
刻也は少しずれた眼鏡をかけ直しながら、どうだったかなと記憶《きおく》を探り始める
「やっぱり五回も痴漢にあってるって言う鍵原の方が珍《めずら》しいタイプなんですかねえ」
「いや、そういうわけでもないだろう」
刻也が急に不機嫌そうな態度《たいど》を見せる。普段は冷淡《れいたん》とすら思える彼が露骨《ろこつ》に目に怒りの炎を灯《とも》していた。
「……ど、どうしたんですか?」
「別に痴漢などする人間がいるのが許せないというだけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
そう言って刻也が健一を睨む。俊一としてはなんだか自分が痴漢をしたようなそんな気持ちにさせられる。
「そ、そう言えば、八雲さんは法学の勉強をしているんでしたっけ……」
なのでちょっと話題をそらしてみる。以前、聞いた話では刻也は司法試験《しほうしけん》というのを受けるために日夜勉強しているという。司法試験は普通、大学生や大学を卒業した人間が受けるものなのだが、刻也は高校一年生なのにその勉強に躍起《やっき》になっているらしい。
「まったく。世間では痴漢の罪に対する意識が軽すぎるのではないのだろうか? 確かに痴漢は強制《きょうせい》わいせつまで行かない場合は刑法《けいほう》で裁《さば》かれるようなものではないが……」
しかし刻也はそれで弁護士《べんごし》とか裁判官《さいばんかん》になりたいというわけではないという話だった。なので、そういう怒りというのは彼らしくないという気がしてしまう。彼は法律というものをむしろ憎《にく》んでいるのかとすら健一は思っていた。
「彼女さんが痴顔にあったんですか?」
冴子も似《に》たようなことを思っていたらしい。自分の感じた違和感《いわかん》の理由を求めてそんな疑問を口にする。
「……私は別にそのような私怨《しえん》によって怒っているわけではない」
刻也はそれに歯切れ悪く、否定とも肯定ともとりづらい返事をする。
「ただ、私は痴漢というものがだね」
さらに身を固くし、刻也が続けるが冴子はそれをゆったりと受け止める。
「悪いことですよね、とても」
「そ、そうだ。わかっているならいいのだが」
刻也はそれで自分がまた無用に感情的になっていたことに気づいたようだった。でも冴子はそれを責めるでもなく、健一の方を見る。
「絹川君もわかってるわよね?」
「ええ。もちろん」
健一はそんな冴子の必要以上に追い込まないようにする気遣《きづか》いというものに感心《かんしん》してしまう。
「しかし、そういうものかもしれないな」
そこに刻也が落ち着いた様子で口を開く。
「え? 何がですか?」
「いや、理由はわからないがね。痴漢に狙われる人間は何度でも狙われるし、狙われない人間は全く狙われないものかもしれないと思ったのだよ」
「……かもしれないですね」
「正直、鍵原君が痴漢に狙われやすいタイプというのは理解に苦しむが、何か狙われる理由があるのだろうな」
「狙われる理由……鍵原がねぇ……」
しかし改《あらた》めて考えてもよくわからない。ツバメ自身が言うように、ツバメよりはよっぽど千夜子の方が狙われやすそうな感じがする。
「鍵原さんは普段はあんな感じだけど、いざ痴漢にあうと何も言えないタイプな気がする」
そこに冴子が自分の意見を口にする。
「そう、ですかね?」
「それに、これは私の推測《すいそく》でしかないけど、その場で言えなかったから絹川君たちの顔を見て、わーっと言いたくなったんじゃないかな」
「……なるほど」
それは言われてみると納得できる気がした。
要するに自分はツバメにとって文句《もんく》を言いやすい相手ということなのだろう。そう考えると損な役回りだ。
「うはよ〜」
そんなところに眠そうに桑畑《くわばたけ》綾《あや》がやってきた。
1304の住人。彼女は弱冠《じゃっかん》十八蔵で世界でも有名な造形《ぞうけい》家らしいのだが、みすぼらしい白衣を着てふらふらと歩いてくる姿を見るかぎり、そんな凄《すご》そうな人にはちっとも見えない。
「もう夜ですよ、綾さん」
健一は綾の時間感覚のなさに気づくとツッコミをいれていた。
「そっかあ。じゃあ、こんばんは〜」
綾は半分寝ぼけてるらしいのに訂正《ていせい》する。
「こんばんは」
「こんばんは、綾さん」
「ごきよう」
それに他の三人も安心して挨拶を返す。
「……なんか話してたの?」
そして三人の方へと歩いてきた綾がそんなことを尋《たず》ねてきた。机にはご飯《はん》はのってないので、そうだと推測《すいそく》したらしい。
「ええ。ちょっと」
健一はそれでまあ秘密にするようなことでもないだろうと素直《すなお》に話すことにする。
「ちょっと痴漢の話を」
「痴漢?」
綾がそれに反応したかと思うと急に動きが止まり、顔面がさあーっと蒼白《そうはく》になった。
「えっと、綾さんっ」
その理由を健一が理解する前に綾は壮大《そうだい》に嘔吐《おうと》した。
「…………」
でも逆に健一たちは凍《こお》りついて、しばらく動かなかった。いや、助けなかったのだ。
「すっかり忘れてました。すみません」
十分ぐらい経《た》ったのだろうか。
健一は屋上でフェンスに寄りかかりながら夜風《よかぜ》に当たり、自分が大切なことを忘れていたことを思い出していた。
それは綾が昔、痴漢にあったのが原因《げんいん》で吐《は》いたことだ。もうすっかり当人も忘れているものと勝手に思っていたが、実際《じっさい》にはまだまだ心に刺《さ》さったトゲとして残っていたらしい。
「健ちゃんが謝《あやま》るようなことじゃないよ」
隣では、まだまだ元気のない綾が無理して笑っていた。吐き気は治《おさ》まったらしいが、顔色はまだまだ悪い。なのに笑ってるのは、見ていて辛《つら》い。逆に辛い。
綾は確かに造型家としては天才だ。でもその分、色々と欠けているようなところがある。外に出かけることもまともに出来ず、近所のコンビニより違いところとなると一人では出かけられない。
そんな綾だから痴漢にあって吐いてしまったのだし、それだけ深い心の傷だったのだ。なのに健一はそんなことも忘れて綾にうっかりとまた痴漢のことを思い出させてしまった。
「健ちゃんがね、謝るようなことじゃないよ。悪いのは私だから」
なのに綾は健一を責《せ》めない.痴漢の話をした健一が悪いのではなく、そんなことで吐いてしまう自分が悪いと思っているらしい。
「……でも僕が悪いですよ、今回は」
「皆《みんな》が平気なことなんだもん。私がしっかりしないといけないってだけだよ」
綾はそう言って少し元気が戻ったらしい笑みを浮かべる。
「でも冴ちゃんには迷惑《めいわく》かけちゃったよね」
言われて健一は冴子や刻也が1301でまだ後|始末《しまつ》をしているのかなと思う。そして最近はこういうことが多いなとも。
冴子はいつだって健一がしてしまったことの尻《しり》拭《ぬぐ》いをしてくれてるような気がした。本人にそのことを言えばきっと、「ただの役割分担《やくわりぶんたん》でしょ」みたいなことを言うのだろうが。
「……そうですね」
でもやっぱり迷惑をかけたというのは間違いないと思う。本人がそれを不快に思っているかは関係なく、それは事実だろう。
「だから、このままってわけにはいかないと思うんだよね」
そう言って綾は少し健一の側《そば》に寄ってきた。
「そうですね」
「で、考えたんだけとね」
「はい」
「健ちゃんが痴漢するってのはどうかな?」
「そうですね」
健一はそう答えてから、綾の提案《ていあん》が無茶苦茶《むちゃくちゃ》なものであることに気づく。
「……は?」
そして今更《いまさら》のように疑問を口にする。
「健ちゃんが痴漢するのがいいと思うんだ」
「なんで、僕が痴漢しないといけないんですか? 全然、意味がわからないんですけど……」
と言いながらも健一はなんだかちょっとわかってしまった気がしていた。
「健ちゃんにしてもらうと気持ちいいでしょ?」
「いや、気持ちいいかどうかは綾さんの主観《しゅかん》の問題ですから」
「うん。じゃあ気持ちいいのね。だからさ、痴漢の話をして思い出すのが、健ちゃんとのことだったら吐いたりしないで済むと思うんだ」
そう言いながら、綾はヘヘヘと笑う。まだ力がない感じではあったが、なんだか楽しそうだ。
「でも痴漢はまずいんじゃないですか? 犯罪だし……」
「じゃあ、えっと、痴漢プレイってヤツ? それに私が望んでやることなんだし犯罪ってことはないと思うんだけどな」
「痴漢プレイですか……」
まあ無理やりというわけではないし、綾が承諾《しょうだく》しているのであれば犯罪というわけではないのかもしれない。
「そそ。雪辱《せつじょく》の痴漢プレイってヤツだよ」
「いや、そんな言葉ないと思いますけど」
「そうかな? ま、そうか。とにかくさ、あの時もね、途中《とちゅう》で健ちゃんが逃げなければ今日だって吐かなくて済んだと思うんだ」
綾はそう言って以前、吐いてしまった時、健一を部屋に連れ込もうとした話を始める。
「……でも、綾さんとはもうエッチをしないって決めたんです。あれだって無理やりだったし」
「うん。だから本番って言うの? 最後までしろって言わないから協力してくれないかな」
「その協力ってのが痴漢プレイじゃなけれは、僕も責任は感じてますし、いいんですけど」
「……ダメかな?」
そう確認してきた綾の顔はさっきよりもずっと青くなってきていた。健一が拒《こば》んでいるせいで、また吐きそうになることを思い出してきたのかもしれない。
「もう少し何か無難《ぶなん》な方法はないんですか?」
「とりあえず 胸触る?」
「だから全然、無難じゃないんじゃないかと」
「でも、あの時もそれで随分《ずいぶん》と良くなったし」
「ま、そうでしたけど」
健一はそんなことを言われたので、どうしても綾の胸に目が行ってしまう。
綾はかなり痩《や》せているのに胸だけは丸く大きかった。正確なサイズなど知らないが、きっとFとかGとかもう少しJとかそんな感じだ。少なくとも胸の大きな健一の姉の蛍子《けいこ》よりは一回り大きい。
なのにパンツ一丁の上に白衣を着ているだけなんて無防備《むぼうび》な格好《かっこう》をしている。改めて見ると、すごく危険《きけん》な映像《えいぞう》が飛び込んできてしまう。
「いいよ、触っても」
「……だからですね」
「って言うか、触って欲しいの。そうしないとまた吐いちゃうかもしれないし。それで健ちゃんが凹《へこ》んで辛そうな顔をするの見たくないし。ね?」
「ね?って言われてもですね……」
「揉《も》んだり舐《な》めたりしてとか言わないから」
「……言ってるし」
健一はしかしあんまり拒んでもいられないという気もしてきた。なにせ放っておけば本当に吐いてしまいかねない。
「触るだけだから。ね?」
そんな健一の逡巡《しゅんじゅん》に気づいたのか綾が駄目押《だめお》しの言葉を口にする。
「さ、触るだけですよ?」
「うん。触るだけ、触るだけ」
綾はそれでニッコリと笑うと健一の右腕《みぎうで》を掴《つか》んでそれを自分の白衣の中に引っ張り込む。
「うわっ!」
健一はその素早《すばや》さに驚くが、すでに彼の手には柔《やわ》らかい感触《かんしょく》が伝わってきていた。それが健一の記憶を揺《ゆ》さぶり、脈拍《みゃくはく》を上げる。
「でも、揉みたければ揉んでもいいからね?」
しかし陵の言葉ですぐに冷静に戻った。
「……揉みません」
「じゃあ、つまむとか?」
「何をですか……」
「乳首とか?」
「とかじゃなくて……って言うかですね?」
健一は本当に綾はどこまで本気なんだろうと思うが、彼女の顔を見ると文句を言う気も失せる。
「落ち着いたよ。ドキドキもしてるけど」
綾は柔らかな笑顔を浮かべて健一の方を見ていた。血の気も戻ってきてるみたいだった。
「じゃ、じゃあ、とりあえず一安心ですね」
そう言いながら健一もドキドキしてしまうのを感じた。普段はあんまり気にしないようにしてるが綾は美人だし、それに今は胸を触ってる。しかも嬉《うれ》しそうに笑ってすぐ側にいるのだ。それでドキドキするなと言うのは十五歳の少年である健一にとっては厳《きび》しすぎる。
「でも、いつもいつもこうしてもらうってわけにもいかないよね、やっぱり」
「そうですね」
「ってことは痴漢プレイかな、やっぱり」
「……その結論《けつろん》もどうかと思うんですが」
しかし健一もそれしかないのかなあという気がしてきていた。
実際にそれで効果《こうか》があるのかどうかはわからないが、綾がそれを提案《ていあん》してきたという辺りにそうした方がいいんじゃないかと思わせるものがあった。結局、綾の気分の間題なのだし彼女の望む解決方法しかない気もする。
「その、仮にですけど」
「うん。仮にっ」
「仮に痴頭プレイをするとして、どうやってやるんですか?」
健一は痴漢はもちろん痴漢プレイなどしたことはなかった。だからそんなことを聞いてみる。
「やっぱり電車に乗るんじゃないの?」
綾は当然のようにそう答えた。
「で、電車でするんですか?」
「うん。だって痴漢されたのは電車に乗ってる時だったし」
「……ですよね」
健一はやっぱりそれは無理かなあと思う。
でも、他に方法など思いつかなかった。
一時間後。二人は埼京線《さいきょうせん》に乗っていた。
埼京線というのは名前の通り埼玉と東京を結ぶ電車である。健一たちが住んでいる比艮井からすると東京の反対側を走っていて普段は決して乗らないような路線《ろせん》だった。しかし綾にとってはこれに乗ることに無味があるらしい。
「なんかね、埼京線って痴漢が多いので有名な電車なんだって。混んでる上に駅と駅の間が長いからとかなんとか」
そんなことを言って笑う綾は余所行《よそい》きの服を着ていた。痴漢プレイのためとは言え、さすがにいつも過りの格好で電車に乗るわけにもいかない。
だから上は白いブラウス、下はベージュのタイトスカートといったOLみたいな服に着替えてから出かけたのだ。
「……だからって、それに乗る必要はないんじゃないかと」
健一は電車に乗ってた時に痴漢されたと言うなら、その乗ってた電車でするべきなんじゃないかと思うが、もうここまで来てしまった以上、手遅れという気もする。
「まあ、ほら、こういうのは気分だから」
綾が笑う。そうこうしている間に電車は猪毛袋《いけぶくろ》駅に止まり、沢山《たくさん》の人が乗り込んできた。
「うわっととと……」
開いたドアとは逆の方に陣取《じんど》っていた健一たちは人の壁《かべ》に押される。
気づくと綾はドアに押し付けられ、健一はその後ろに密着《みっちゃく》していた。
「……すっごく近くになったね」
綾は頗だけ少し振り向くと健一に微笑《ほほえ》む。
「そ、そうですね」
自分の悪意ではないとは言え、こんなに綾に接近したのは久しぶりのことだった。健一はその場を離れようと思うが、もちろん電車の中にそんなスペースはない。そして健一が身動きできないでいる間に電車が動き出した。
「と……」
それでまたバランスを崩《くず》して健一は綾にもたれるような体勢《たいせい》になってしまう。
「そろそろ始める?」
何かの合図だと勘違《かんちが》いしたのか綾がそんなことを聞いてくる。
「……あのですね」
「でもあんまり遠くまで行くと帰るの大変だし、健ちゃんもそろそろ覚悟決めて始めちゃった方がいいと思うんだよね」
「それはそうかもしれませんけど……」
しかしいざとなるとやっぱり抵抗があった。一度は関係を持った相手とは言え、綾は彼女でもなんでもないし、俊一には大海干夜子という彼女がちゃんといるのだ。
「人助けなんだし、ね?」
でも綾はすごく乗り気だった。躊躇《ちゅうちょ》している健一の手を掴んで自分の胸まで持っていこうとする。これでは健一が痴漢ではなく、綾の方が痴漢みたいだ。
「わかりました。するならちゃんと自分でしますから……」
そうなってしまうとなんだか本末転倒《ほんまつてんとう》だなと健一は覚悟を決めることにする。
「うん……やっぱりドキドキするね」
綾が小きな声で呟《つぶや》くのが聞えた。
「そういうこと言わないでくださいよ」
あんまり意識すると逆にヤバイ。健一はそう思うともう考えるのを止めた。綾に持っていかれた手で彼女の望む通りに胸を揉むむことにする。
「行きますよ?」
前にも触ったことがあるはずが、改めてその大きさに驚く。大きいだけでなく、ずっしりと重い。それに下着をつけているせいか、以前より詰《つ》まってるようなそんな感触を受けた。
「……あん」
綾が小さく声を上げるのが聞えた。
「こ、声出さないでくださいよ」
それで触一は慌《あわ》てて綾に耳打ちする。
「わかってるつもりだったんだけど……健ちゃんの手がすごく気持ち良くて」
「……というか名前を呼ばないでください」
「ごめん。今度はちゃんと我慢《がまん》するから」
「願みますよ、本当」
健一はそれで溜《た》め息《いき》をつく。
「あ……それ、気持ちいい……」
しかし綾はそれだけでピクリと反応してしまったようだった。
「綾さん……」
「ん……名前呼ばれると感じちゃうかも」
「えっと……ツッコんだだけですから」
「でも耳元で言われると 感じちゃうの」
「全然、我慢してないように聞えるんですけど」
「我慢してるよ、すごく。でも、すごく感じるから仕方ないの」
「……そういうこと言わなくて良いですから」
健一はどうしようかと思ってしまう。もっとこっそりとやって綾が満足したらそれで帰れると思っていたが、こんなんではとてもじゃないがそれは無理だろうと思えてくる。
「指|噛《か》んでるとかどうかな?」
綾が小声でそんなことを提案してくる。
「……それでいいなら、そうしてください」
健一はもうかなり自分の頭が麻痺《まひ》しているのを感じずにはいられなかった。いちいち綾の言うことに反応していたら、本当にいけない気持ちになってしまいそうだった。
それで健一は綾が指を噛むのを見ると、また胸を揉む。さっきよりはずっと優《やさ》しく触ったかどうかもわからないような強さで。
「あん」
でもさっきよりも敏感《びんかん》に綾が反応した。
「……綾さん?」
本当に綾は我慢するということができないのだろうかと健一は思うしかない。
「だって気持ちいいんだもん。あ、健ちゃん、離れちゃタメだよ」
「なんでですか?」
「……足がガタガタしちゃってもう立ってられないみたい」
「みたいって……」
一体、どうしてそんなことになってしまっているんだろうと思う。
「なんでかな。自分でだとこんなことないのに」
「……そういうことも言わなくて良いですから」
健一はそれでもう何をしていいやらと思うが、その間にも電車が揺れて、その度に綾は声を上げそうになって必死に指を噛んでいた。
「ああん。そんなにされたら我慢できないよ、健ちゃん」
「そんなにって……何にもしてませんが。というか名前を呼ぶのは止めてくださいよ」
「でもさっきから胸が揺れてて……あん」
綾は言いかけて、そこまでで口を閉じる。必死に指を噛んで漏れようとする声を抑《おさ》える。
「綾さん……もう止めましょう」
そんな様子を見ているともう健一としても続けられる気がしない。
「そんなこと言わないで……続けて」
でも綾は切なげにそんな呟きを漏らす。
「とは言ってもですね」
もう限界だろうと健一は思ってしまう。
「ちゃんと我慢するから……このままじゃ前と同じだよ? 私、もう……冴ちゃんに迷惑かけたくないし、健ちゃんに何度も助けてもらわないとなのも嫌なの」※[#もらわないとなのも:もらわないとならないのも?]
「それはわかりますけど……」
でも、これ以上やったら絶対に綾が大きな声を上げてしまい、結果、見つかる。そうしたら痴漢プレイじゃ済まない。
「お願いだよ、健ちゃん。次の駅まででいいから。そうしたら素直《すなお》に帰るから」
綾は泣きそうな顔を健一に見せる.そう言うわれてしまうと健一としてももう止めるわけにもいかなかった。
「……約束ですからね」
健一は綾にそう確認したが、本当は自分に対するケジメのようなもののように感じた。
次の駅まで。そう決めることで、自分の中で何かがカチリと昔を立ててはまった気がする。
「ん…あん……」
そうなるともう何も怖《こわ》く感じなかった。まるで他人事のように健一は自分の手が綾の胸に触れてそれを揉んでいるのを感じていた。それは最初は強く、時に優しく。そして全体的に揺らすようにしていたかと思えば、不意《ふい》に先端《せんたん》へと攻め上ったりもした。
「け、健ちゃん……積極的《せっきょくてき》すぎ……だよう……」
それに綾は息も絶《た》え絶《だ》えの様子だった。声を出すのを我慢するので精いっぱいらしい。
「じゃあ止めますか?」
でも健一の手は止まらなかった。自分で不思議なくらい意地悪な気持ちになっている。
「や、止めちゃダメぇ……あと、胸だけじゃなくて他のところも……お願い……」
「他のところってどこですか?」
そんなことを尋ねながら健一の手は下の方へと移動していた。ブラウスの上を滑り、スカートの生地の感触を確かめ、俊一の指はさらに下へと降りていく。
「……そ、その辺」
綾が小さく呟くが健一の指はそのまま下がり、綾の太ももをなぞる。
「ここですか?」
「……もうちょい上へ」
「もうちょい上じゃわからないですよ」
声を出すなと釘《くぎ》を刺《さ》していた健一は、自分から綾に口を開くようなことを言っていた。
「健ちゃんていつも意地悪だけど……ん……今日は特別意地悪だよね」
「そんなことないと思いますけど。むしろ今日はサービスしてるはずですけど」
そう言いながら健一は綾が望んでいるのとは違うところを触る。下がっていた手は今度は前から後ろへ移動しながら、今度は上へと向かう。
「そこ……じゃないよぉ……」
否定的なことを言いながらも綾は喜んでいるようだった。健一はスカートの上から綾のお尻《しり》を触り、綾の反応を見る。
「ああん……らめぇ……そこそれ以上、ダメぇ」
「じゃあ、どこなんですか?」
「どこって……前の方だよぉ」
「前の方ってどこですか? いつもは平気で言ってるじゃないですか、綾さん」
「あん……い、意地悪しないでぇ。言うから、言うから触ってぇ」
綾がそれで答えを言おうとした時だった。
「この人、痴漢してます!」
急に女性の大きな声が聞えた。
「……!」
我に返って健一は声の方を振り向いた それはきっと一瞬《いっしゅん》の出来事のはずだが、健一にはひどくゆっくりに感じられた。
血の気がす――っと引くのを感じた。頭の方から足の方へと血が降りていく。それとともに頭が冷たくなったように感じられた。
それでも視線は混雑《こんざつ》した電車の中をさ迷《まよ》い、声の主を探す。
「この人、この人です!」
そこにまた女性の声が飛び込んできた。
人込みの中、その女惟は手をあげていた。いや、上げさせていたという方が正しい。サラリーマンの手を触ってそれを上へと持ち上げていた。
「…………」
健一はその手を捕まれている男がうなだれていく様子をじっと見つめていた。そしてやっと理解する。女性の言う痴漢というのは自分のことではないということを。
「……健ちゃん?」
しかし綾はそんな健一の驚きにはついてこれなかったみたいだった。何が起こったのかわからないのかぼんやりとこっちを見ていた。
「本物の痴漢がいたみたいです」
そして健一がそう答えた時、電寧は伊田橋《いたばし》駅に到着《とうちゃく》したようだった。
「今日は楽しかったね、健ちゃん」
比良井駅から歩きながら幽霊マンションへと向かう途中《とちゅう》、綾は本当にご機嫌の様子だった。
「僕はドキドキでした」
しかし健一は素直に楽しんでもいられない。
あの痴漢にあっていた女性の声を聞いて、血の気が引いたのを思い出すと、本当に危《あや》ういところだったと思う。いや、もちろん、合意《ごうい》の上だったし、痴漢をしていたというわけじゃないのだが、それにしたってやっぱり電車の中であんなことをするなんてどうかしてた。
「楽しくなかったの?」
健一の態度に綾は少し前に出て覗《のぞ》き込《こ》むようにして尋ねてくる。
「……楽しくはなかった気がします」
「そうかなあ。健ちゃんも途中からはけっこう楽しんでたと思うんだけどな」
綾はでも今はそうじゃないらしいということを確認して不思議そうな顔をする。
「意地悪なことを言う健ちゃんに私、すっごくゾクゾクしちゃったんだけどな」
「……それはどうも」
「私、イッちゃったみたい、あの時」
綾はそんなことを言って嬉しそうに笑う。
「綾さん?」
「久しぶりだからちょっと自信ないけど、あれってきっとそうだと思うんだ」
「……そうなんですか」
綾は本当に楽しそうだなあと健一は思う。自分はもう社会的に終わったかと思って生きた心地《ここち》がしなかったのに、綾はその頃、夢心地だったということらしい。
「私はすごく楽しかったよ」
元気のない健一に綾は改めてそう告げる。
「みたいですね」
「だから、健ちゃんにももう少しくらい喜んでほしいな」
「でもまあ、さすがにちょっと……びっくりしすぎました」
思い出すだけでゾッとする。あの女性の持ち上げていた手が自分だったら、今ごろ、どうなっていたことか。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。だって、私が頼んでしてもらってたことだし。ま、怒られはするかもしれないけど」
「……そうかもしれませんけど」
「それに、きっともう大丈夫だって気がするんだ」
「……何がですか?」
「痴漢の話されても、もう気持ち悪くないよ」
綾がそう言って笑った時、健一は自分がまた大事なことを忘れていたのに気づかされた。
「……そういう話でしたよね」
「うん。これからはね、痴漢の話されたら、今日のことを思い出すと思うんだ。健ちゃんに意地悪なことされて、でも感じちゃったこととか」
そんなことを綾は屈託《くったく》なく笑いながら話す。
「……改めて言われると照《て》れますよ」
「うん。だからさ、健ちゃんにも笑って欲しいんだよね。気持ち悪いってことはないけど、申《もう》し訳《わけ》ないって思っちゃうから。痴漢って言われるたびにさ、また健ちゃんに迷惑かけちゃったんだなって思うのも健ちゃんは好きじゃないでしょ?」
「ですね」
そんなことを言われたら、もう笑うしかないと健一は思う。そりゃまあ、本当にびっくりしたし、色々とドキドキさせられたが。
「だからさ、楽しい取い出ってことにしようよ」
「わかりました。そうします」
そして健一は本当に綾は不思議だなと思う。世間知《せけんし》らずで常識《じょうしき》もなくて、すごく打たれ弱いのに、でも健一が凹んでいると元気してくれる。※[#元気に?]
自分の興味のあることしか知らないけど、綾はそのことに関しては自信を持って生きてるようにも感じられる。
「今日は楽しかったです」
だから健一はそう答えて笑った。それを見て綾はゆったりとした笑みを浮かべる。えへへ、と。
「私はすっごく楽しかったよ。それにとっても気持ち良かった。だから、いい日だったなって何度も何度も思い出すよ、きっと」
「……僕も思い出しますよ、きっと」
それはちょっと千夜子に対しては申し訳ないことではあったけど。
「そういう時って、健ちゃんもエッチな気持ちになるの?」
なのに綾はまたそんな妙《みょう》なことを尋ねてくる。
「……あの、ですね?」
「え? 違うの? 私、思い出したら一人でしちゃうと思うんだけどなあ」
「……そういうことは言わないでください」
「そういうもの?」
「そういうものです」
「そっかあ……じゃあ、こっそりするね」
でも綾はやっばり自分の考えに忠実《ちゅうじつ》だ。
「じゃあ、そうしてください」
なので健一はそれを否定するようなことはせず、ただ苦笑《にがわら》いを浮かべる。
「じゃあさ、帰って続きをしようか?」
綾はそう言って健一に腕を絡《から》ませて来る。そしてそのまま引っ張るようにして駆《か》け出《だ》す。
「え? ちょっと…綾さん?」
綾の発言、そして行動に健一は戸惑《とまど》いながら、それでも綾を追いかけるように走る。
「私ばっかりじゃ悪いよね、やっぱり」
綾は健一に顔を近づけて小声で呟く。
「……それはそうかもしれませんけど」
「健ちゃんにも気持ち良くなって欲しいんだ」
「その気持ちもわかりますけど」
でも実際に行動に出られても困ってしまう。自分と綾は恋人同士というわけでもないのだし。
「じゃ、気持ちを汲《く》んでくれると嬉しいな」
でも今の綾には何を言っても無駄《むだ》そうだった。
こうなってしまうともう健一の言葉は届かない。
「……有馬さんたち、起きてるかな」
だから健一は幽霊マンションの住人たちに一縷《いちる》の望みを託《たく》す。第三者の意見なら綾も耳を貸《か》すかもしれない。
「ん? 冴ちゃんがどうかしたの?」
「……いや、誰か反対してくれないとピンチだなあって」
「冴ちゃんは反対なんかしないよ、きっと」
綾はそう言って自信あり気に笑う
「……ですかね」
そして健一はそう言えばと思い出す。あれも綾が痴漢にあった日のことだ。健一を綾が部屋に連れ込もうとした時、冴子が通りかかったが彼女は綾を止めてはくれなかった。むしろ綾のの行動を奨励《しょうれい》するようなことを言ったのだ。
「……うぅ」
健一は自分がいつのまにか危険《きけん》な状況に陥《おちい》っているの知る。
「管理人さんは反対するかもしれないけど……きっともう寝てるか、部屋で勉強してるよね」
「ですよね」
そして最後の希望も断《た》たれたことを健一は認《みと》めるしかなかった。
「お礼をしたいだけたよ」
それでがっくりとした健一に綾はぎゅっと腕を抱いて微笑《ほほえ》みかける。
「そのお礼ってのが問題なんです」
「でも気持ち良くなりたいでしょ、健ちゃんも?」
「その方法が問題なんです」
「もう痴漢プレイは嫌?」
「あんまり気が乗りません……」
「じゃあ、他のプレイにしようか? あ、そうだこの間しそこねた、レースクイーンの格好してってのはどうかな?」
「だから、それはもう金輪際《こんりんざい》忘れてください。僕は別にレースクイーンは好きじゃないですし」
「えー! 健ちゃん、絶対、レースクイーン好きなはずだよお」
「……だから、なんの根拠《こんきょ》があってそんなことを言うんですか?」
健一は反論《はんろん》しながらも、もうダメかもしれないと思えてくる。
「健ちゃん、足が長い女の人、好きでしょ?」
「……だとしてなんなんですか?」
そもそもそうかどうかも自分ではよくわからない。ただ傍《はた》から見ててそう思える根拠というのがあるのなら否定できない気もする。
「だからさ、足が見える格好って好きなんだと思うんだよねー」
「そうなんですかねえ……」
「スカートだったらフレアスカートより、タイトスカートの方が好きでしょ?」
「そうかなあ……」
言われて考えてみるが、そもそもスカートの種類《しゅるい》なんて良く知らない。
「そうだよ、絶対そうだって。だから今日はレースクイーンプレイにしよ、ね?」
「ね? とかそういうレベルの話じゃあないですから、それは明らかにっ!」
「え――――! なんで?」
しかしそうこうしている間に、幽霊マンションが見えてきてしまう。
だから、せめてまだ夜空が見えてるうちに星に願おうと思う。
八雲さんが僕たちが帰ってきたのに気づいてくれますように――と。
※痴漢は犯罪です。絶対に止めましょう。
おしまい