有馬《ありま》さんはシャワーを浴《あ》びている
健一《けんいち》はまだ乾いていない髪《かみ》を気にしながらソファに座《すわ》り、そんなことを想像《そうぞう》した。
ここまで音はしない。でも、わかる。さっきまでは自分がシャワーを浴びてたし、人れ代わりに冴子《さえこ》がお風呂場《ふろば》へと入ったのだ。
でもそれがどんな光景《こうけい》かと想像するのは困難《こんなん》だった。昨晩《さくばん》に限《かぎ》らず、冴子とは何度となく体を重ねてきた。なのに彼女の裸体《らたい》を想像することが健一には出来ない。
改《あらた》めて考えると実に不思議《ふしぎ》なことだが、健一は冴子の裸《はだか》を一度も見たことが無《な》かった。冴子と体をを重ねる時はいつも部屋が暗いからだ。豆電球《まめでんきゅう》一つつけない。カーテンも閉め切って月明《つきあ》かりさえない。そうでなければ彼女は服を脱《ぬ》がない。その辺《へん》は本当に徹底《てってい》している。
「もう何回したかもわからないくらいなのに」
健一はそれで本当に何回したんだろうと考えてしまった。大体三回ずつとして三ヶ月で――。
「百回くらいかな?」
改めて考えるととんでもない数だった。チリも積《つ》もればなんとやらだが、それ以前《いぜん》にさすがに毎日のようにしすぎな気がする。
冴子はエッチをしないと眠《ねむ》れないらしい。にわかには信じられない話だが、それはどうやら事実《じじつ》らしく、そのせいで眠れずフラフラになっているところは見たことがある。だからそうならないようにということで、冴子とエッチをしている……はずなのだが、どうもそうとは言《い》い難《がた》い回数になってしまっている。
「……さすがにまずいな、これは」
その数が誰《だれ》にわかるということもないだろうが、その事実に健一は危機感《ききかん》を覚える。というか冴子は健一の彼女でもなんでもなくて、健一には大海《おおうみ》千夜子《ちやこ》という立派《りっぱ》な彼女かいるのだ。でもその彼女とはエッチをしたことはなくて、もっと言うとキスだっでしたことがない。手をつなぐのも彼女に言われてだったし 腕《うで》を組むむのもそうだった。なのに冴子とは彼女に求められている気がして、毎日のように……してしまっているのだ。
「どうしたの?」
冴子の声がして、健一は我《われ》に返る。悩《なや》んでいるうちに体を洗い終えて戻《もど》ってきたらしい。
「え? えっと……」
しかし尋《たず》ねられたところで、素直《すなお》に答えられるような性質《せいしつ》の問題でもなかった。
「エッチなこと……考えてた?」
それが顔に出たのか冴子が追及《ついきゅう》するかのように質問を重ねてくる。
「いや、その、エッチのことを考えてたのは事実ですけど、エッチなことを考えてたわけじゃなくて……」
そのせいで健一は焦《あせ》って自分でもなんだかわからない言《い》い訳《わけ》をしてしまう。
「絹川《きぬがわ》君って本当にエッチなのね」
「だから、エッチなことを考えてたんじゃないんです」
「でもエッチのことを考えてたんでしょ?」
そう言いながら、でも冴子は怒《おこ》っているわけではなさそうだった。タオルで髪を拭《ふ》きながら優《やさ》しい笑《え》みを浮かべ健一の横に座る。
「……はい。でもその具体的《ぐたいてき》な話じゃなくて、その回数のことを考えてたんです」
「回数って……エッチの回数?」
「……はい」
改めて指摘《してき》されると本当に我ながらバカなことを考えていたなという気持ちになる。ても冴子はそれを笑ったりはしなかった。
「昨日が……四回だったから、百四回かな」
どころか真顔《まがお》でそんなことを言い始める。それに健一は驚《おどろ》かずにはいられない。
「えっと……数えてたんですか?」
「え? あ、その……覚えている範囲《はんい》の話だから。別に毎回数えているわけじゃないし……」
冴子は自分の言ったことがかなり恥《は》ずかしいことだと気付いたのか真っ赤な顔をしてうつむく。
「じゃあ、それ以上してたってことですか?」
覚えている限りで百四回ってことは……一休、本当は何回したんだろう……。そう思うとさっきよりもずっと分自のしてきたことが実感を伴《ともな》ってくるのを感じる。
「……そうなるかな」
それは冴子の方もそうらしく、冴子は視線《しせん》を逸《そ》らして立ち上がる。
「そろそろ朝ご飯《はん》の時間だから……1301に行かないと……」
そして、それだけ告《つ》げると健一の返事を待たずに、足早《あしばや》に歩き始めた。
1301。そこはこの『幽霊《ゆうれい》マンション』の本来は無いはずの十三階に住む者たちが集《つど》う場所だ。最近の健一はそこで朝ご飯を食べるのがすっかり日課《にっか》になっていた。
でも、いつもそうしているからって、いつも通りになるとは限らない。それを健一は思い知る。
「私、二泊ほど外泊することになります」
それを言い出した冴子はさっきまでとは別人のようだった。実際、同じ人物の発言とはとても思えない。さっきまて同じ部屋にいて、昨晩もずっと一緒《いっしょ》にいたというのに、健一は初めてその話を聞いたのだ。耳を疑《うたがう》うしかない。
しかもその時、1301には四人の人間がいた。
健一と冴子と他に二人。それから察《さっ》するに部屋で二人きりの時に話すよりも皆《みな》の前で話す方が楽《らく》ということなのだろうか? それも変な話だ。
「いつからかね?」
しかし通称《つうしょう》とはい管理人《かんりにん》さんと呼ばれる刻也《ときや》はその辺《あた》り、かなり冷静《れいせい》だった。冴子がハッキリと言わなかった部分を的確《てきかく》に尋ねる。
「今晩からです」
冴子は事実だけを答える。なんだか彼女には似《に》つかわしくない事務的《じむてき》な態度《たいど》だった。外での冴子らしいといえはそうだが、やはり健一は別人のようだなと感じてしまう。
「今晩からかね……うむ」
刻也はその答えにそう呟《つぶや》き、今度は健一の方を見て尋ねてきた。
「絹川君。君も一緒なのかね?」
予想外《よそうがい》の質問だった。
「え? そういうわけじゃないですけど」
「そうか」
健一の返事に刻也は小きくうなずく。
「……一緒の方がいいんてすか?」
健一は質問の意味がわからず、あれこれと考えてしまう。刻也は冴子の特別な事情《じじょう》は知らないはずた。しかし知らないなら、なぜそんなことを尋ねたのだろう?
「あ。いや、そうではないんだ。単《たん》に有馬君も絹川君もいないとなると食車は私が作らねばならないのかなというだけだよ」
しかし刻也の考えはそんなに難しいことではなかった。むしろ考えすぎていたらしい。
「ああ。そういうことですか。僕《ぼく》はいますから、食事はちゃんと僕が作りますよ」
「そうか。なら私としては有馬君を引き止める理由はない」
刻也は納得《なっとく》した様子《ようす》で冴子にそう告げる。しかしそれを聞いて健一は、でも大丈夫《だいじょうぶ》なのかなと不安になった。それはもちろん食事のことではなく冴子のことだ。
誰かとエッチしないと眠れない。そんな冴子が外泊などして大丈夫なのだろうか? どこかに出かけるとなるとかなり体力を消耗《しょうもう》するだろうし、それで二晩寝れないのだから冴子にとってはそうとうキツい状況《じょうきょう》になるはずだ。
「大丈夫だから」
そんな健一に向かって冴子が呟いたのが聞こえた。驚いてそっちを見ると、笑うことなく静かな表情を湛《たた》えた冴子がそこにいた。
「大丈夫ならいいんですけど」
そしてその顔の冴子に言われてしまうと健一としてはもう踏《ふ》み込《こ》めない。だから表向きは納得したことにする。
「綾《あや》さんはどうですか?」
そしてそんな空気の中でさっきから眠そうな顔をしたままの綾に刻也が尋ねる。
「私は……大丈夫かな。冴ちゃんがいなくても健ちゃんがいてくれるなら、うん」
綾はあまり真剣《しんけん》ではない様子でそう答える。眠そうなだけではなく、実際に眠いらしい。
「では、残るは絹川君だけだな」
刻也はそう言ったが、もう健一の答えは決まっている。
「僕は大丈夫です」
本当はそうかどうかなんてわからないがそう答えるしかないのだ。
「じゃあ、すみませんけど、そういうことで」
冴子は確認を終えると何も無かったかのように食事に戻る。そんな様子を見ていた健一の心の中にまた疑問が浮かぶ。
本当に大丈夫なのかな?――と。
その大丈夫がどういう意味なのか自分でもよくわからなかった。
それに冴子はどこに泊《と》まるつもりなんだろう?という新たな疑問も浮かぶ。でもそんなことは考えてはいけないことだと健一にはわかっていた。
冴子は別に自分の彼女でも何でもないのだ。体を重ねるのだって、そうしなけれは彼女が眠れないから。それだけの話なのだ。健一にとってはそれは素直に納得できることではなかったが、でもそれだけのことでないとなったら、冴子は出ていくしかないと言っていた。
だから心配をしてはいけない。たとえ、誰か別の男のところに泊まるという意味であっても……それを止めてはいけないのだ。それが冴子が引いた健一との境界線《きょうかいせん》なのだから。
○
その日、学校から帰ってくると、もう冴子は出かけてしまった後だった。
「……挨拶《あいさつ》くらいはしたかったな」
朝食の後もろくに話ができなかった。あの別人のようになった冴子には話しかけてはいけない。そのことが経験的《けいけんてき》にわかっていたかりだ。
そのこと自体はいつもの通り。寂《さび》しいけれど、いつも通りだ。でも二日もここを離《はな》れるということは初めてのことだ。夏休みに健一の方が二晩、外泊をしたことはあった。その時は冴子はここでずっとじっとしていたらしい。
でも今回はそうではない。とこかに出かけてそこに二晩も泊まるのだ。あの誰かとエッチをしなけれは寝ることの出来ないという冴子が。
「でも……俺と有馬さんは、それだけの関係なんだよな……」
誰もいない1303にいると冴子がここに来た時のことや、やはり出ていくと言った時のことが思い出された。健一にこれ以上|迷惑《めいわく》をかけたくないと言った冴子。そして、自分のことを絶対に好きにならないでくれと言った冴子。その時の冴子は真剣で、そして悲しげだった。
たとえ体を何度重ねても、それはただの日課であり、それを理由に冴子に特別な思いを抱《いだ》いてはいけない。それは理解《りかい》している。だから、いきなり外泊すると言われても気にしてもいけないはずなのだ。
でもそれはやはり理屈《りくつ》でしかないと思う。感情はこの現状を寂しいと訴《うった》えてくる。
「たった二晩のことのはずなのにな」
健一はそう呟いて、それが自分にとって、全然、『たった』なんかではないことを強く感じる。感じてしまう。
今晩、冴子と会えない。それだけのことで自分の心がこんなにも締《し》めつけられるなんて健一は想像もしたことがなかったと思う
「彼女でも何でもない――そのはずなのに」
でもいくら理由を増やしても、感情はさっきと同じ結論《けつろん》しか出してはくれなかった。
そんな気持ちのまま1301へとやってきた健一を持っていたのは、綾だった。
「……あれ、どうしたの?」
さすがにもう眠くはないらしい。健一とは対照的《たいしょうてき》な明るい笑顔がそこにはあった。
「いや、有馬さんはもう出かけちゃったみたいだったんで……挨拶くらいはしたかったなあって思ってただけです」
そうは言ってみるが、やっぱりそれだけということはない。それが理由で今、自分は明らかに落ち込んでいる。
「大丈夫だよ」
でも綾はそれにニッコリと笑う。
「……大丈夫ですかね」
「うん。冴ちゃんは大丈夫だよ。ちゃんと約束を守る子だもん。冴ちゃんが大丈夫って言った以上、心配する方が失礼って言うのかな。多分、そういうことなんだと思う」
「ですね」
その理屈はわからないが、綾の言葉《ことば》には不思議な説得力《せっとくりょく》があった。単に彼女の元気のある言葉が健一にエネルギーを与えてくれているというだけのことかもしれないが。
「それでさ、健ちゃん」
そして綾の心配はそこで終わったらしい。
「……なんてすか?」
「今晩は夕食はなに?」
「えっと……なんでしたっけ? ここのところ、有馬さん任《まか》せっぽい時が多かったから、その分も頑張《がんば》らないとですよね」
「ま、そんなに頑張るようなことでもないけど。健ちゃんは普通に作っても美味《おい》しいし」
「ま……そうかもしれませんけど。綾さん、何か食べたいものとかあります?」
「食べたいもの? うーんとね……ラーメンかなあ。ほら、あのお母さんのラーメン」
綾は自分の母親が昔作ってくれたというラーメンの話題を口にする。最近、それを健一が再現《さいげん》したことで、どうやら綾のお気に人りのメニューになったらしい。
「それは綾さんの担当だと思いますけど。作り方を教えるのはいいですけと、食べたいから作ってというのはどうかなって思います」
「あ、そうか。じゃあ……明日、チャレンジしてみるよ」
「それは明日の晩は綾さんが作ってくれるってことですか?」
「うん。今晩はちょっと自信がないから明日ね」
「その辺りはよくわからないけど 楽しみにしておきます」
「うん。まあ、ただのラーメンだけどね」
「ま、それ言っちゃうとそうですけど。綾さんの手料理ってことになると、ちょっとしたイベントかな、と。で、とりあえず今晩はどうします?」
「うーん。まあ、なんでもいいや」
「何でもいいってのも困《こま》っちゃうんですけど」
「うーん。でも、ラーメン以外は思いつかないし、健ちゃんの作るものならなんでも美味しいから、なんでもいいかなって」
「……そういうことならいいですけど」
健一は少し照《て》れるのを感じなから部屋の奥のキッチンにある冷蔵庫《れいぞうこ》の方へと歩く。そこに刻也が用意してくれた献立表《こんだてひょう》が貼《は》ってある。
「今日は予定だと唐揚《からあ》げみたいですね」
それを読み上げて健一は綾の反応を確認する。
「やたっ! 健ちゃんの作る唐揚げって美味しいんだよね」
綾は予想以上に喜《よろこ》んでいるみたいだ。
「きっきはなんでもいいって言ったような」
「だから健ちゃん作るものなら何でも美味しいからって言ったと思うけどな。しかもそれが唐揚げだったら美味しいこと確定《かくてい》なわけで、それを喜ぶってそんなに変?」
「……いや、全然、変じゃないですよね」
そして自分の言い分が変なのかなと感じる。それから健一はいつのまにかまた自分の心が随分《ずいぶん》と変化しているのを感じる。綾と話してるうちに心はもう寂しいと訴えるのをやめていた。
「薄情《はくじょう》なヤツだな、俺《おれ》って」
そして健一は一人呟いて、でもそれでいいんだと思うことにした。冴子がそれを望んていたのだからと自分に言い訳をしながら。
○
しかし次の日、朝起きるとやはり冴子がいないということを思い出すことになる。寝る前は必死《ひっし》にそれを忘れようとしてたのに、やはり無理《むり》だったらしい。そして情けないことにそれは心がではなく、体の方からの訴えによってだった。
「……ここんところ毎日だったからな」
どんなことても慣《な》れるのだろうかと健一は思う。毎日、毎日、冴子と体を重ねていたせいで、体はそれを当然のことのように受け止めるようになっていたらしい。
だから体は不満を訴えてくる。なぜいつもの通りにしなかったのか? と尋ねてくるのだ。
「そんなの……有馬さんがいないからだろ」
そして健一は自分にとって冴子がどういう存在なのか改めて考えてしまった。
「ごきげんよう、絹川君」
そんなモヤモヤした健一とは対照的に、すっきりとした人間が1301で待ち受けていた。彼の名は八雲《やくも》刻也。学校が休みの土曜日の朝だというのに、いつも通りきっちりとした服装《ふくそう》をして決まった時間に起きて生活をしているらしい。
「おはようこざいます、八雲さん」
「……何かあったのかね?」
そして健一の様子は傍《はた》から見てもちょっとおかしかったらしい。
「いや、何もないです。だから変なのかもしれません」
「……ふむ。それは有馬君がいないせいかね」
「そうですね。有馬さんはここに来てからはずっといましたから」
「それはそうだが……別に彼女は君の彼女とか恋人というわけではないのだろう?」
「まあ、そうなんですけどね」
健一は刻也の言葉にそう答えながら、なんだからしからぬ話題だなと感じる。
「うむ? 今度はどうしたのかね?」
「いや、八雲さんとそういう話をしたことってなかったような気がして。八雲さんって彼女とかの話を避《さ》けてるみたいなところがあるし」
「……まあ、そうたな。少々、品《ひん》のない話だったかもしれない」
「いや、ま、僕が品のないこと考えたせいですし、八雲さんが悪いってわけじゃないですよ」
「そうかもしれないが……むぅ」
刻也は言葉に詰《つ》まってしまったらしい。
「……えっと 今晩は綾さんがご飯を作ってくれるそうです」
だから健一も話題がなく、そのことを思い出したように刻也に告げる。
「綾さんが料理をするのかね?」
「みたいてすね。前からちょっと作る気にはなってたみたいてすけど、有馬さんがいないから、それでやる気になったんですかね」
「……ふむ。それは楽しみだと言いたいところなのだが」
「やっぱり不安ですか?」
「いや、今晩はバイトでね、夕ご飯の時間には戻ってこれそうにないのだ」
「あ、そういうことですか」
健一は刻也のバイトのシフトについて完全に把握《はあく》しているわけじゃないが、そういう日が時々あるのは知っていた。きっと本当なのだろう。
「冷《さ》めても大丈夫なものなら、残して置いてくれれば後で食べるのだがね」
「いや、それがラーメンなんですよ」
「……そうか。残念だよ。せっかくやる気になってくれたのに食べることができないなんてね」
刻也のそんな言葉に嘘《うそ》はないようだった。
「じゃあ、そう言ってたと伝えておきます」
「起きてきたのなら自分で言うが、そうてない場合は申し訳ないが伝えておいてくれると助かる」
「はい。わかりました」
そしてどこまでも真面目《まじめ》そうな対応《たいおう》の刻也に健一はちょっとホッとした気分になるのを感じた。
昼頃《ひるごろ》になっても綾は1301に顔を見せなかった。どうやら寝ているらしい。綾はずっと起きている時もあるが、ずっと寝ている時もある。明らかに他の人間とはサイクルというか時間の流れが違うらしい。
そしてそんな綾を持っている間に、刻也はバイトに出かけてしまい、健一はすることもないので街《まち》に出ることにした。
「千夜子ちゃんは今日は用があるらしいし……一人だと特にすることもないよなあ」
街を歩きながら健一は彼女である千夜子のことを思い出す。この土日は会えそうにないという意味では冴子と一緒の状況なのに、随分と気にしていなかった。それに改めて驚く。
「問題だよなあ、これはこれで」
しかし問題なのは言うまでもなく自分だ。
まあ千夜子とはちゃんと話してたし、ちゃんと会えないことを納得《なっとく》して別れの挨拶をしたというのは事実。でも、状況を考えるに自分は千夜子よりも冴子と付き合ってるかのようだ。もちろん、そんな事実はないのだが……。
「あら、健一君じゃない」
そこに不意《ふい》に健一の名を呼ぶ声が聞こえた。大人の女性の、妙《みょう》に嬉《うれ》しそうな声色《こわね》。声の主《ぬし》を探《さが》すとニッコリと笑顔を浮かべる知った顔がそこにあった。
「……錦織《にしきおり》さん」
その女性は錦織エリ。綾のプロデューサーという女性で、一度、彼女に連れられて事務所に行ったことかあるが……それはあんまりいい思い出とは言えない。綾から健一との関係を聞いていたらしい彼女に押《お》し倒《たお》されて、そのまま襲《おそ》われてしまったのだ。
エリはプロデューサーなんて仕事をしているが、まだまだ若いし、ハーフらしく日本人離れした美貌《びぼう》の持ち主だが……やっぱり騙《だま》されて連れ込まれた揚《あ》げ句《く》の行為《こうい》というのは色々な意味でどうかと思ってしまう。
「嫌《いや》ねえ。そんなに警戒《けいかい》することないじゃない」
そんなことを考えているのを察《さつ》したらしく、エリは困ったような衣情を浮かべた。
「……あ、いや、その」
「でも、まあ、自業自得《じごうじとく》か。そう思われるだけのことはしたわけだしね」
エリは自分で言いだしておいて、そう一人で納得したらしい。そういっところは本当に頭の回転が速い。健一の返事を持たず、さらに次の話題に進むつもりらしく、また口を開く。
「で、その、健一君、今、暇《ひま》ある?」
「……まあ、暇はありますけど」
「だから警戒しないでいいわよ? 今日はそういうつもりじゃないから」
「じゃあ なんなんですか?」
「せっかく会ったんだからお話でもどうかしら?もちろん、私の事務所とかではなく、その辺の喫茶店《きっさてん》で。それなら安心でしょ?」
「それならいいです」
正直、なんで会ったら話をするのかはわからなかったが、特に断《ことわ》る理由もないかなと思う。
「じゃ あの店にしましょうか?」
そしてエリは適当《てきとう》に店を選ぶと健一の手を掴《つか》んで歩き出した。
「……は、はい」
やはり強引《ごういん》な人だなと健一は思った。
「すごい空《す》いてますね」
正直、心配になるくらい客がいなかった。昼過ぎという時間帯が喫茶店にとってどういう時間帯なのかはわからないが、他に客がいないとなると大丈夫なのかなという気持ちにもなる。
「ま、こんなもんじゃないかしら」
でもエリは特に疑問を持っていないらしい。早速《さっそく》出てきたアイスコーヒーを飲みながら、そんな感想を漏《も》らす。
「そういうものですかね?」
「まあ、特に美味しいというわけでもないし 店内も普通《ふつう》だもの」
こういう意見はエリが言うと説得力があった。詳《くわ》しくは知らないが綾の作品以外にも色々なものを売り出しているらしい。そういう人間が言うのだから問違いないという気持ちにさせられる。
「それはそうですけど」
「お店側も客が来ないの前提《ぜんてい》で持ちかまえてるわけだし、いいんじゃないの?」
言われて見渡《みわた》すと店長らしき人が一人いるだけで他に店員の姿はない。
「……なるほど」
なので素直に納得してしまう。
「というのが、嘘という可能性を考えてみるというのはどうかしら?」
なのにそれをひっくり返すようなことをエリが言い始めた。
「ど、とういう意味ですか?」
「確かに私の言ったことは筋《すじ》が適ってるわよね。でもそれも全部私の書いた筋書きって可能性もあるんじゃないかってこと」
「それはその……」
言われて健一は激《はげ》しく不安がもたげてくるのを感じた。
「この喫茶店を選んだのは私だってのは覚えてる? 私はそもそも健一君をここに連れ込むつもりだった……かもしれないわよね」
そんなことを言うエリの後ろの方で店長らしい人が奥へと引っ込むのが見えた。
「……えっと、マジてすか?」
それで心の中の不安が大きくなる。
「私はなんであんなところにいたのかしら? 健一君に会うために待ち受けていたとしたら、ここの流行ってない店に私が手を回していたとは……考えられない?」
エリが怪《あや》しい笑みを浮かべ尋ねてきた。
「……考えられます」
だから健一の心は不安でいっぱいになった。そしてどうして自分はこういう状況になるまでそれに気付かないのだろうと思ってしまう。
「あははは」
でもエリは突然笑いだす。
「……あの?」
「そんなの冗談《じょうだん》に決まってるでしょ?」
「そうなんですか?」
しかしそう言うわれた後でも、やっはり冗談じゃないんじゃないかという思いが残る。
「だって健一君に会えるかどうかはわからないでしょ?」
「いや、錦織さんならそこまで計算して……とかやりかねない気も……」
「あら……そうなの? でもさすがに無理」
エリはそれてニッコリと笑うと、さっそく別の話を始める。
「今日は有馬さんのところでお昼をいただいて来たのよ。健一君に会ったのは本当に偶然《ぐうぜん》」
「あ、そうなんですか」
エリの言う有馬さんというのは、冴子の父、有馬《ありま》十三《じゅうぞう》のことらしい。
「でも健一君がそのつもりなら、私が企《たくら》んでたってことでもいいわよ?」
「……いや、そのつもりじゃないですから」
「あら……この間は気持ちよくなかった?」
「気持ちよかったですけど……って、何を言うわせるんですか! 何を?」
「え? けっこうサービスしたつもりなのに、もう求めてくれないってのも寂しいなあと思って」
言われて健一はちょっと思い出してしまう。
「……いやま、それはそうですけど」
「健一君は綾とはあれっきりなんでしょ? ってことはそんなにアレコレ経験しているわけじゃあないと思ってたんだけど……そうでもないのかしらね?」
疑問形《ぎもんけい》で口にしながりもエリの視線がその答えを求めて健一の顔やら体を探《さぐ》るように動く。
「……えっと」
「胸でされたのは初めてだったでしょ?」
エリはにっと笑うと、とんでもないことを口にした。
「……えっと」
「どうやら正解みたいね」
「わかるんですか?」
「わかるわよ。あの時のことを思い出して、今の健一君の顔を見れば」
「……うぐ」
エリの言葉はハッタリかもしれない。ても指摘《してき》自体は正しいので困ってしまう。
「あとはそうねえ……」
「聞かないでくださいっ!」
だから健一はエリの言葉を止めるしかない。
「……ま、男の子の経験をあんまり追及するのも良くないわよね」
「そういうことにしておいてください」
本当に心からそう思う。それにこんな話をしていると、まだしたことの無いことにチャレンジさせられそうだ……それは避けたい。
「でも、今日の健一君は顔に『すごくしたい』って書いてあるわよ」
「うえっ!?」
エリの指摘に顔が引きつる。それはエリの言葉だからと言うのもあるが、それなりに心当たりがあるからだ。
「ね、健一君?」
そんな健一にエリは優しく尋ねる。
「は、はい」
「綾としたら?」
「えっと……」
「私とはその気がないなら、もう無理にしろとは言わないけど……綾とは最初にしたきりなんでしょ?」
「そうですね……」
「あの娘、あなたのせいで目覚めちゃって持《も》て余《あま》しているみたいなのよねえ」
エリは笑いながらそう言うので、どこまで本気かはわからない。
「……そんなこと言われても」
「まあ、無理にとは言わないけど、綾としてあげてもバチは当たらないと思うわよ。私はそうなってくれた方が嬉しいし、綾もそれを望《のぞ》んでいる。それに原因は健一君なんだからね? その辺はちゃんと考慮《こうりょ》して欲しいかな」
「……うーん」
でも、だからって、それはどうなのかなと思ってしまう。そりゃ一度は関係を持ってしまった相手だが、でもそれを理由にずるずると続けるというのはいけないことだと感じる。
「綾のこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないです。むしろ好きですよ」
それは本心からのことだと思う。
「じゃあ真剣に検討《けんとう》してくれる? ちなみに知ってると思うけど、綾はあなたのこと大好きよ」
エリは不敵《ふてき》とも見える笑みを浮かべて、ハッキリと健一にそう告げた。
○
「……それはわかってるんだけどなあ」
夜になってもエリに言われたことが頭の中で繰《く》り返《かえ》されていた。だかり健一は思わずそれに言い訳めいたことを呟いてしまう。相当《そうとう》、心に深く刻《きざ》み込《こ》まれてしまったらしい。
綾はあなたのこと大好きよ――エリのその、言葉が嘘だなんて思えなかった。実際、綾本人からもそうだというオーラがビシビシと伝わってくる。そこに人づてで補完《ほかん》されてしまうと、もう気になってしまってしょうがない。
「どうしたの、健ちゃん?」
そして我に返ると、すく目の前に綾がいた。しかも買い物袋を抱《かか》えて。どうやら頑張って買い物から帰ってきたらしい.
「……あ、いや、その」
そしてよそ行きの格好《かっこう》の綾を見て、健一はうまく返事が出来ない自分を意識《いしき》してしまう。
「持ってる問にお腹《なか》空いちゃった?」
でも綾は今は料理のことで頭がいっぱいらしい。まあ、ほとんどしない料理をするとなれば意識もそっちに向かうだろう。
「そんなにでもないですけど……確かにお腹は空いてるかもしれません」
「じゃあ、早速作ろうか。基本的には私が作るから、健ちゃんは隣《となり》で間違《まちが》ったらツッコんでくれるかな? それくらいはいいよね?」
「あ、はい。もちろん」
そして綾が本当に真剣に料理に取り組む気らしいことを感じて、健一はちょっと不謹慎《ふきんしん》だったななんて思った。
「どうかな?」
出来上《できあ》がったラーメンを挟《はさ》んで健一は綾と向かいあっていた。食卓《しょくたく》に綾が作った料理が並《なら》んでいるというのは、なんとも不思議な光景だ
「……美味しいですよ」
でもそれは現実のものだ。口に入れた麺《めん》から広がる味がこれが夢とかではないと教えてくれる。
「本当?」
「初めてとは思えないくらい上手です」
「健ちゃんも初めてとは思えないくらい上手だったよ」
「……なんの話ですか」
「えっと……エッチの話」
「僕は料理の話をしてたつもりなんですが」
「あ、そうだよね。うん、私の作ったラーメン。どうかな?」
「だから美味しいって言ったと思うんですけど」
「あ、うん」
そう言って綾はにこっと笑うと、今度は自分の分を食べ始める。
「……美味しいね」
そして自分でも驚いたらしく、静かに呟く。
「たから美味しいって言ったじゃないですか」
「うん。そうだよね」
綾はうんうんとうなずくと、健一の方をまっすぐ見る。
「ありがと、健ちゃん」
「……なんで、そこでありがとうなんですか?」
「えっと……きっと健ちゃんのおかげだろうとおもったからかな」
「ほとんど綾さんがちゃんと自分でやったと思いますけど」
「うん。でもところどころやっぱり手を借《か》りたし、作り方教えてくれたのも健ちゃんだし、それに私を信じて作らせてくれたからだと思うんだ。だから、やっぱりありがと、健ちゃんなんだ」
「……なるほど」
なんか途中《とちゅう》がおかしかった気もしないでもないが、感謝の気持ちは伝わってきた。
「でね、健ちゃん?」
「なんですか?」
「今日も冴ちゃんいないでしょ?」
「そうですね」
「だから私とエッチしない?」
「……は?」
なんとなく流れで聞いていたが、そこで健一の思考《しこう》はピタッと止まった。
「やっぱりダメかな?」
「……ダメです」
そう言いながら、健一はちょっと悩んでいる自分に気付く。いつもよりずっとその断ろうという気持ちが弱いらしい。
「ほら、料理がうまく出来て良かったな記念《きねん》とかそういうことでもいいから」
だからなのか綾が食い下がってくる。
「……そういう記念でエッチするというのもどうかと思うんですけど」
そう言いながら、健一はエリとの会話を思い出してしまう。そのせいなのか体がなんだかムズムズとしてくる。
「健ちゃん、冴ちゃんとはしてるんでしょ?」
「……してますけど」
それ自体はとっくにバレているので今更《いまさら》否定しづらい。
「いつもしてるの?」
「いつもってわけじゃないですけど」
でも、ほとんど毎日だったりはするので、その辺り、歯切《はぎ》れが悪い感じがする。
「じゃあさあ、代わりでいいから」
そしてなんだか綾が寂しそうな目でそんなことを言ってきた。
「代わりって……」
「冴ちゃんの代わりでいいから。払とはエッチしないって健ちゃんが考えてるのはわかってるつもりだから……冴ちゃんの代わりってことで……エッチしてくれないかな?」
綾のその言葉にはなんだか不思議な説得力がある気がした。
そして健一は結局、そんな言い訳を待っていたんしゃないかと思う。綾としたくないなんてことはやっばりない。ただ一度したからもう後は何度でも同じ。そんな風《ふう》に思う自分を恐《おそ》れていただけだったのかもしれない。
「…………」
そしてそんな、心の透《す》き間《ま》に綾の言葉と気持ちがドッと流れ込んできた。
「今日だけだから。冴ちゃんがいないし、お料理がうまく出来たからだから。だから……エッチしようよ、健ちゃん」
「……こんなに真っ暗な中でするの?」
食事の片づけもせず、健一と綾は1304へと向かった。そこは綾の部屋で、そしてそこの電気は珍《めずら》しく消えていた。
健一が消したのだ。それはあくまで特別なことだと思うための儀式《ぎしき》のようなものだ。
「いつもこんな感じですよ」
そう言いながら、健一はけっこう明るいなと思う。綾の部昆は窓が大きくて、いつも丸い月が出ている。カーチンも閉まらないし、その明かりが部屋の中を照《て》らしていた。
「暗いのって逆にエッチだね」
でも綾はそうは思っていないらしい。綾にとっての経験は明るいところでしかない。
「あの時はすごく明るかったですよね」
「……うん。健ちゃんの顔もよく見えた」
「僕も綾さんの顔がよく見えました」
でも今はよく見えない。
「今は見えない方がいいよね。私、冴ちゃんの代わりなんだもんね」
「……そうですね」
健一はその言葉を心に刻《きざ》み直《なお》す。
「しゃべらない方がいいかな?」
「どうでしょ?」
「しゃべるとさ、私っぽいよね」
「というか 綾さんですから」
「うーん。でもそれじゃダメだよね」
「……そうなんですかね」
実際《じっさい》、どうなんだろうと思う。やっぱりそんなことは言い訳でしかない。代わりとか言ってみたって、今、すぐ側《そば》にいるのが綾なのはよくよくわかっている。
「しゃべらないようにするから、健ちゃんはしたいようにしていいよ。でも健ちゃんにされると声は出ちゃうかな……ってそういうことを話してるから私っぽいのかな?」
「そんな気がします」
「じゃ、これでもうしゃべるの止《や》めるね」
そして綾がいったん言葉を切り、最後の言葉を口にする。
「健ちゃん、キスしていい?」
「え……」
返事が出来なかった。返事をする前に柔《やわ》らかい感触《かんしょく》が伝わってきた。
「…………」
そしてすぐに離れる。軽く触《ふ》れただけのキス。
それが健一の気持ちを激しく動かす。
もう一度、触れたい。そういう衝動《しょうどう》が胸の中から沸々《ふつふつ》と湧《わ》いてくる。
さっきの感触を思い出し、心の中で再生《さいせい》する。
でももう思い出せない。だから、もう一度と体が訴えてくる。
「…………」
綾は自分で言った通り、もう話すのは止めたようだった。健一もしゃべらないから、聞こえるのはお互いの息遣《いきづか》いだけだ。
荒《あら》くなっていく自分の呼吸《こきゅう》。そしてそれに乗《の》せられるように綾の息も荒くなっていく。
もう一度、触れたい。今度は心が訴えた。さっきの感触をもう一度と自分が求めているのがわかる。不意打《ふいう》ちをくらい去られた相手を、追いかけて捕《つか》まえろと心が告げる。
「……やっぱり、やめましょう」
でも口から出たのはそんな言葉だった。心も体も綾を求めていたが、でも健一の何かがそれを否定する。そして自分の言葉に健一は説得されたのを感じた。
「やめちゃうの?」
「やっぱりこういうの嫌です」
でも体は綾の唇《くちびる》をまだ探している。
「……私とエッチするの、そんなに嫌?」
「そうじゃなくて……綾さんはやっばり綾さんじゃないですか。こんな風に有馬さんの代わりになんて……綾さんにも失礼ですよ」
それでも体はまだあきらめてはくれなかった。だからだろう、綾も納得してくれない。
「いいよ、失礼でも。私、それでも健ちゃんとエッチすればきっと幸せだから」
「僕は嫌です。有馬さんにも失礼だし……僕はやっばり綾さんのことを大切に思ってるんです。だから、こんなの止めましょう。今晩は平気でもきっと僕はもう明日から……綾さんと話もできなくなります」
その言葉は体にも染《し》み透《とお》ったようだった。そして本当に自分はなんでこんなにもワガママなんだろうと思う。綾は代わりでもいいと言ってるのに、それを嫌だと拒否《きょひ》する。それで本当に綾は喜ぶのかどうかわからない。でも自分の納得のために拒否することを選んでしまう。
「話できないのは嫌だな」
そう口に出した綾がとんな顔をしているのかは見えなかった。でも声は問違いなく、拒絶《きょぜつ》された悲しみの色をしている。
「それに、やっぱり嫌だな」
なのに、そこには喜びの色も感じられた。
「……綾さん?」
「冴ちゃんの代わりじゃ嫌だな。そういうの気持ち良くないと思う」
そしてそんな否定的な言葉とは裏腹《うらはら》に綾の声はさらに明るくなっていた。
「だから冴ちゃんの代わりじゃ嫌だって言ってくれたのはね、嬉しいことだと思ったみたい」
「……ですよね」
健一はそれでホッとした気持ちになる。自分のワガママとも言える気持ちを綾がちゃんと受け止めれてくれた。
「電気つけていいよね?」
そして綾は明るくそう尋ねる。
「はい」
健一の返事と共《とも》に綾は彼の側を離れたみたいだった。暗《くら》がりの中、綾が動く気配が伝わってくる。暗闇に目が慣れているとは言え、少し離れられるとよく見えない。
「……スイッチの位置わからないんですか?」
しかし、一向に部屋は明るくはならない。心配になって尋ねる。
「うん? スイッチの位置はわかるよ」
「だったら、なんて電気つけないんですか?」
健一が訳がわからず尋ねると、ちょうど部屋が明るくなった。単に苦戦《くせん》していただけかと思ったが……実際には全く違った。
「……あのぉ、なんで綾さん、服を脱いでるんですか?」
スイッチのところに立っていた綾は白衣《はくい》どころかパンツも脱いでいた。
「あの時も私、全部脱いでたでしょ? だからエッチする時はそうした方が私らしいかなって思ったんだけと、変かな?」
どうやら綾は健一の言葉を別の意味に取ったらしい。それが健一にもわかった。
「……えっと」
「というわけで、これからちゃんと私とエッチしょう。ね 健ちゃん?」
綾はそう言ってニッコリと笑うと、またベッドで驚いている健一に向かって飛び込んだ。
「くわ――――――――――――――――!」
○
1303へと逃げ込んでから、そろそろ十二時問になろうとしていた。
「……さすがにもう大丈夫かな」
健一は部屋から出ることが出来なかった。少しでもドアを開けようものなら綾が乗り込んでくる。そんな不安がぬぐえなかったからだ。
こうと決めた時の綾の集中力にはすさまじいものがある。作業《さぎょう》に没頭《ぼっとう》すれば三日でも四日でも平気な綾からすれば、半日くらいの待《ま》ち伏《ぶ》せなどなんの苦《く》もないのかもしれない。そう思うとまだまだ安心は出来なかった。
とはいえ、ずっとここにいるわけにもいかない。様子を見るためにドアを開けようとした時、自然にドアのロックが外れた。
「え?」
誰かが外から鍵《かぎ》を開けたらしい。それで思わず健一は身構《みがま》えたが、開いたドアの向こうに見えたのは冴子だった。
「……どうしたの?」
冴子が不思議そうな顔をして尋ねる。
「あ、いや、えっと……」
健一は混乱《こんらん》した頭の片隅《かたすみ》で危機が去ったのを理解した。1303の鍵を開けられるのは冴子に決まっていたし、彼女が帰ってきたとなれば綾ももう無茶《むちゃ》なことはしない……はすだ。
「綾さんと何かあったの?」
そんな考えが顔に出たのか冴子はそんな質問をしてきた。
「わ、わかります?」
「わかるって言ううか……きっき、綾さんかがっかりしたような顔で部屋に戻っていったから」
「……なるほど」
ということは待ち伏せか続いていたらしい。
「とりあえず部屋に戻ってもいい?」
そして冴子は少し疲れた表情で健一に尋ねると、そのまま奥の部屋へと何かった。その足取りはフラフラとしていた。
やはり冴子は寝ずにいたらしい。それが健一にはわかった。
それから数分後、健一と冴子はソファに座っていた。急に糸が切れたみたいに冴子が健一に寄《よ》り掛《か》かり、それを健一が支《ささ》えるような形になる。
「……大丈夫てすか?」
そんな質問をしても答えはわかってるような気もした。
「寝てないだけだから」
「なら、いいんですけど」
そして予想通りの返事に、いつものようにそう答えてしまう。正直、自分でも何がいいんだろうと思ってしまう。こんなにも弱っている冴子のことをいいなんで言えるはすが無いのに……。
「…………?」
聞こえない程《ほど》、小さな声で冴子が何かを尋ねたらしかった。それが突然《とつぜん》だったので、健一にはハッキリ聞こえなかった。
「えっと……なんて言ったんですか?」
「綾さんとエッチしたのって聞いたの」
さっきよりは少し大きな声だった。でもそれはやはり小さくて、そして思いもよらない質問だった。聞き違えたんじゃないかと思う。
「……そう思います?」
「思わない」
そして事分でそう言い始めたくせに、冴子は先に目分で否定するようなことを言い始めた。
「えっと……」
「そうかなとも思ったけど……それなら綾さんが部屋の外で持ってたりはしないかなって」
「……ですよね」
しかし、しようとしたのは事実だった。別に言い訳するようなことではないかもしれないけど、ひどく罪悪感《ざいあくかん》がもたげてくる。
「男の人ってしないと体に悪いんでしょ?」
なのに冴子は今度はすごく間の抜けたような質問をしてくる。
「そうなんですかね?」
「絹川君みたいに毎日しているような人はいきなり二日もしないと体に悪いと思う」
「……そうですかね」
まあ、確かに体はかなり不満を訴えているようなそんな気はする。
「だからエッチしてるのかなって思ってた」
「すごくしたいとは思いましたけど、やっぱり綾さんとは……違うような気がして」
「えっと……大海さんとってこと」
「あ、そ、そうですよね」
「でも、しなかったの?」
そう尋ねてきた冴子はなんだか喜んでいるような感じがした。単《たん》に少し元気が戻ってきたのをそう感じてしまっただけかもしれないが。
「あ、はい。綾さんに言われて……ちょっとその気にもなったんですけど……」
「……そう」
そう短く答えた冴子の声は、ひどく悲しげに聞こえた。健一にはそれが何故《なぜ》かはわからない。
「してた方が良かったんですか?」
だからそんなことを聞いてしまう。
「そうかもしれない」
でも冴子は自分でもよくわかっていないような言葉を続ける。
「ても、そうでなくてホッとしてる気もする」
「……どっちなんですか?」
「わからないわ。疲れてるから、頭がうまくまわらないみたい」
そして冴子は健一の方に倒れるように体を任《まか》せてきた。
「……もう寝ます?」
そしてそれを支えながら、健一は冴子の顔をのぞき込んで尋ねた。
「そうした方がいいかな」
健一はそんな返事にそっと彼女をどかすと、部屋の電気を消すために立ち上がる。
「電気、消した力がいいんですよね?」
そして念《ねん》のために確認する。それは、言葉通りの意味でもあったし、本当にこれからエッチをするのかという意味でもあった。
「うん。でも……」
それに頷《うなず》きながら、冴子が何かを言いかけるのが聞こえた。
「でも……なんてすか?」
「今日はあまり体力が無いから……絹川君の期待には応《こた》えられないかも……」
そんな言葉に健一は、こんな時でも冴子は自分のことを気にしてくれてるらしいことを知る。
「大丈夫ですよ」
だから健一は電気を消し、暗い中をゆっくりと冴子のところへと戻った。
それから何時間か後。
息を切らして健一は自分たちの状況を確認する質問を口にする。
「これで何回ですかね?」
「……百十回」
その返事に、健一はどうやら記録を更新してしまったらしいことに気付いた。
〈おしまい〉