ROOM No.1301 #10
管理人はシステマティック?
新井 輝
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま
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(例)[#ここから〇字下げ]
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底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
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口絵・本文イラスト さっち
口絵デザイン 菊地博徳
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目次
プロローグ 彼はシュートに|恋《こい》してる            5
第十五話 二人は|合縁奇縁《あいえんきえん》                21
インターミッション 彼氏は男に恋してる……わけない!  133
第十六話 それは本人に聞かなければわからない      143
エピローグ|僕《ぼく》はまだ何も知らない            313
あとがき                       330
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MAIN CHARACTERS〈登場人物〉
絹川健一 KENICHI KINUGAWA<<主人公>>
1303号室の住人。なぜか、次々と女性と関係を持ってしまう。
桑畑綾 AYA KUWABATAKE
1304号室の住人で、どこかずれた感覚を持つ芸術家。
大海千夜子 CHIYAKO OOUMI
健一の同級生で、つきあっている。でもHはまだない?
有馬冴子 SAEKO ARIMA
1303号室の住人で健一の同級生。Hをしないと眠れない体質! ?
窪塚日奈 HINA KUBOZUKA
1305号室の住人。双子の姉に恋している。健一とシーナ&バケッツを結成。
錦織エリ ERI NISHIKIORI
美術関係のプロモートをしている金髪美人。綾のプロデューサーを自称する。
ハ雲刻也 TOKIYA YAKUMO
1302号室の住人で、健一の同級生。他の住人から管理人さんと呼ばれる。
ハ雲狭霧 SAGIRI YAKUMO
刻也の妹。何事も好意的に受け取る楽観的な性格だが、兄にはちょっと辛口。
九条鈴璃 SUZURI KUJOU
刻也の彼女。小学生の頃からのつきあいらしい。胸はグラビアアイドル並み。
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プロローグ 彼はシュートに|恋《こい》してる
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|流輝《りゆうき》君は相変わらずだろうか?
そんなことをふと思ってしまった。
というのも、彼は今やちょっとした有名人だからだ。
彼が高校に入ってからの|活躍《かつやく》は相当なものだった。
一年でいきなりスタメン。バスケでは無名だったその高校を高校|総体《そうたい》、国体、全国高校|選抜《せんばつ》で|優勝《ゆうしよう》に|導《みちび》き、それが今も|途切《とぎ》れずに続いている。
去年の冬は高校生ながら日本代表|候補《こうほ》に選ばれ、|実際《じつさい》に各国の選手と戦い、|輝《かがや》かしいと言っていい活躍をした。
そしてそんな彼が中学時代は公式試合に出たことがなかったものだから、どうしてこれほどの|逸材《いつざい》が世に出てなかったのか、彼が当時何をしていたのかということが|噂《うわさ》されるようになったりもした。
おかげで以前は彼が|鈴璃先輩《すずりせんぱい》を待ってる間、ずっとシュートをしていた国道|沿《そ》いのフープは今は観光名所のようになっていた。
バスケの名選手を|夢見《ゆめみ》る|若者《わかもの》たちが集まってきて会話をしてるのだ。
あの|九条《くじよう》流輝が中学時代、ずっとそこで練習していたということをネタにして。
でも実際に何度か彼が練習してる|現場《げんば》を見ていた私からすればどうにも|据《す》わりが悪い光景としか思えない。
彼はずっと一人だった。そして話もしなかった。
彼はシュートが好きで、本当に好きで、時間が|許《ゆる》す|限《かぎ》りシュートをしていたのだ。
それで|誰《だれ》かに|認《みと》められたいとかそんな気持ちはきっと無かった。
ただ|上手《うま》くなりたくて、その方法を自分で考えて、それを|実践《じつせん》してきた。
そんな彼を知っている私にはフープに来て満足してるように見える若者たちの中に|将来《しようらい》、流輝君のようになれる人間がいるとは、とても思えなかった。
「流輝君! 流輝君!」
そんなこんなで練習場を|奪《うば》われてしまったらしい流輝君がその日どこにいたかと言えば、実に意外というか|普通《ふつう》というか、彼の家の庭だった。
そこで彼はおそらくはいつも通りに練習をしていたのだ。それを私は昔もそうしたように話しかけて|中断《ちゆうだん》させる。
「お|久《ひさ》しぶりっす、先輩」
彼は以前の通り、私の|呼《よ》びかけに|面倒《めんどう》くさそうな顔をしながらでも|挨拶《あいさつ》を返してくる。
「お久しぶり、流輝君。それにしても私はいつまであなたの先輩なの?」
私はそんなことを|尋《たず》ねながらも、ちょっとホッとした気持ちだったかもしれない。流輝君は以前のまま、そんな気がしたからだ。
「……やっぱり変すかね? って言っても、代わりにどう呼べばいいのかとか考えたこともないっすからねえ」
それでも流輝君も少しは相手のことを考えるようになってきてるのかもしれない。昔の彼なら「先輩は先輩っすよ」と言って終わらせてた気もする。
「|八雲《やくも》さんじゃ兄さんと|一緒《いつしよ》だから、別に|狭霧《さぎり》さんってことでいいけど」
「……それもなんだか落ち着かないっすね」
流輝君は力の|抜《ぬ》けた|笑《え》みを|浮《う》かべる。
「じゃあ、先輩でいいわ。兄さんと鈴璃先輩が|結婚《けつこん》するまではそれで」
なので私はちょっと話題をずらしてみる。
「……その後はどうするんすか?」
「それはもう、|義姉《ねえ》さんでしょ?」
「まあ、その|頃《ころ》は|俺《おれ》は日本にいないかもしれないっすけど」
流輝君は私の|提案《ていあん》の|是非《ぜひ》には|触《ふ》れず、そんなことを言い出した。
「アメリカ、行くんだ」
そして彼のその発言の意味を私はすぐに|理解《りかい》した。
「まあ、俺の勝手な希望っすけどね」
「少しは|欲《よく》が出てきた?」
「欲?」
「昔はシュートが出来ればそれでいいって感じだったでしょ。シュートするだけならここでもいいし、アメリカに行く必要なんてないでしょ」
「……そうっすね」
流輝君は私に言われるまで自分が以前とは|違《ちが》った考え方をしてるのに気づいてなかったらしい。不思議そうな顔をして考えごとを始めてしまった。
「でも、わかるわ。流輝君、日本じゃ|敵《てき》なしだものね」
日本代表として選ばれて、日本にクジョーありと言われた彼からすればそれも当然のことのように私には思えた。
「そういうわけでもないっすけどね。何人かはいるっすよ」
でも彼にとってはそういう話でもないらしい。やっぱり彼は他の人間とは少しスヶールが違うみたい。
「何人、かね」
「まあ、|頻度《ひんど》というか|比率《ひりつ》というか。そういう問題なんすよ」
「それはアメリカの方が|手強《てごわ》いヤツが多いって事?」
「そうっすね。日本だと全国大会までいかないとそういう|奴《やつ》らと戦えないっすから」
「流輝君は毎日でも強敵と戦いたいってわけね」
それなら|確《たし》かにアメリカに行く方が良いのだろうなと私は思う。でも彼はまた少し違うことを考えていたらしい。
「うーん。より|正確《せいかく》には一日に何度でもっすかね」
「……なるほど。タフね、流輝君は」
とは言え、彼は|暇《ひま》さえあればシュートの練習をしていた。しかも実戦をかなり具体的に想定して。そんなことをしてきた彼は|心身《しんしん》ともにスタミナが|尽《つ》きるようなことはないのだろう。
「でもまあ、|先輩《せんぱい》の言うとおりかもしれないっすね」
別のことを考えてたせいなのか流輝君のその話題がなんなのか私は|一瞬《いつしゆん》わからなかった。
「うん?」
「いや、別にアメリカに行かなくてもシュートはできるって話っすよ」
「ちょっと意地悪で言っただけよ。流輝君はああ言ってたけど、やっぱりバスケが好きだったんだなって」
言ってみれば軽い|冗談《じようだん》。それを|真《ま》に受けられても私としても|困《こま》ってしまう。
「それがそうでもないんすけどね」
「そうなの?」
「バスケも|嫌《きら》いじゃないっすけど、|余計《よけい》なことが多いってのも事実っすから」
「余計なこと、ね」
それはきっと周りが|騒《さわ》がしいとかそういうことなんだろうなと思う。彼は|純粋《じゆんすい》にバスケをしていたいだけなのにあれこれ聞かれるのが|嫌《いや》なのだ。
「まあ、鈴璃がここで練習しててもいいって言ってくれてるから助かってるっすけど、国道|沿《ぞ》いのフープはもう顔も出せないっすからね」
「……でしょうね」
何度か顔を出して練習にならないと気づいたのだろうなと私は彼の言葉から感じ取る。
「俺みたいなプレイヤーになりたいって言うなら俺に会いに来てないで練習した方がいいと思うんすけどね。それを言うと変な顔をされるっすからね」
「……言っちゃったんだ」
やっぱり流輝君だなあと思いながらも私はさすがにあきれてしまった。
「だってそうじゃないっすか。俺に会うとバスケが|上手《りつま》くなるんすか? シュートが入るようになるんすか?」
「まあ、|以降《いこう》の練習に身が入るようになるってことはあるんじゃないの?」
「そういうもんすかね」
流輝君は少しも|納得《なつとく》してないという顔をしていた。それはそうだろう。彼には誰かに|憧《あこが》れて上手くなったなんて、そんな|経験《けいけん》はないのだから。
「憧れなのよ」
だから私もちょっと本当の話をすることにする。
「憧れ?」
「|実際《じつさい》に上手くなりたいわけじゃないの。上手くなれた気になりたい。それだけ」
「……意味がわからないんすけど」
「まあ、気持ちよくなりたいだけなのよ。だからシュートが上手くなる以外にも気持ちよくなれるならそれでもいいの」
「そういうもんすかね」
それでも流輝君はやっぱり納得してないという顔のままだった。
それも無理はないと私は思う。彼はびっくりするほど純粋な人間なのだから。他の人のように別の方法では満足できない。
彼にとってシュートが上手くなることだけが大事なのだ。パスケをするのもアメリカに行くのも、きっとその|手段《しゆだん》に|過《す》ぎない。そんな人間なのだから。
「ねえ、流輝君?」
だから私はちょっと気になってしまった。有名になったせいで昔の練習場を|奪《うば》われてしまったという流輝君が|現状《げんじよう》をどう考えているのかが。
「なんすか?」
「流輝君は高校に入ってバスケ部に入ったことを|後悔《こうかい》してるの?」
世間では彼は成功者だけれど、シュートをするという意味で考えれば、昔よりもずっと|雑音《ざつおん》が|増《ふ》えている。それを彼はどう感じてるのか私は知りたかった。
「|面倒《めんどう》が増えたのは事実っすけどね」
「でもいいこともあった?」
「そうっすね。現実はやっぱり俺が|想像《そうそう》してるのとは|違《ちが》うっすから。バスケ一つとっても俺の予想を時々は|超《こ》えてくれるっすから」
「時々、ね」
「だから、こんな俺にチャンスをくれたバスケ部の|顧問《こもん》と|中沖《なかおき》には|感謝《かんしや》してるんすけどね」
流輝君は少し照れくさそうにそれを口にした。
「流輝君もずいぶんと大人になったのね」
「……大人になったんすかね。最近でも中沖にはいろいろと|叱《しか》られてるんすけど。そっちはどう思われようがかまわないかもしれないけど、チームメイトに|迷惑《めいわく》がかかるってことを|忘《わす》れるなとかなんとか」
「中沖君がねえ」
私は中沖君はそんなキャラだったかなあと考えてしまった。
中学時代の彼は無口でバスケ部でも|浮《う》いてる、どっちかというと|孤高《ここう》なタイプの人間だった気がする。
「あいつ、本当、|外面《そとづら》がいいんすよ。でも練習中は|鬼《おに》っすよ。新入部員がほとんどやめたのも|絶対《ぜつたい》あいつのせいっすから」
「でも、そんな彼のこと嫌いじゃないんでしょ? 練習の鬼って意味では流輝君の方がよっぽどだと思うし」
「俺は他人に自分と同じ練習を強要したりしないっすよ」
「……まあ、それこそ新入部員|全滅《ぜんめつ》よね」
でも、そもそもそういう話じゃないと私は思う。
「そういや、|先輩《せんぱい》?」
なのに流輝君はそこでもうその話は終わっていたらしい。
「何?」
「|婚約《こんやく》されたそうっすね」
そして私は流輝君にそんな話をされてけっこう|驚《おどろ》いてしまった。
「ええ。まあ、父の|事務所《じむしよ》の|若者《わかもの》と結婚すること自体はずいぶん前から決まっていたことだから、むしろやっとって感じだけど」
「先輩ならそう言うだろうっすけどね」
「でも、なんでそんな話を流輝君が?」
「鈴璃が|舞《ま》い上がってて、本当、うざいんすよ。狭霧ちゃんが婚約したなら、私もした方がいいのかなあとかなんとか」
「……なるほど」
それは流輝君にとってはかなり|災難《さいなん》な|状況《じようきよう》なんだろうなと私は感じる。
「そんな|甘《あま》い話じゃないっすよね、これって」
でも流輝君は想像したよりもずっと私の|事情《じじよう》というのを|理解《りかい》してくれていたらしい。
「まあ、|恋愛《れんあい》結婚だけが|全《すべ》てじゃないでしょ? 彼、とってもいい人よ? お父さんが|文句《もんく》なしの人を|探《さが》し出してくれたんだから」
「でも先輩が求めてるのは、そんな誰もがうらやむ人じゃないと思うんすけどね」
流輝君はなかなか|鋭《するど》い|指摘《してき》をしてくる。
|確《たし》かに文句なしの人物だったけど、会って|興味《きようみ》を|惹《ひ》かれたわけでもない。
「なんでそんなことを思うの?」
だから私はその言葉を流輝君に返す。
「俺が一人で練習してた|頃《ころ》は時々来てくれてたっすから」
「だから?」
「でも|優勝《ゆうしよう》した辺りからさっぱり来なくなったっすよね」
それとこれがどうつながるのか、|理屈《りくつ》ではよくわからない。でも流輝君の言わんとすることが私にはわかってしまった。
優勝して世間で|認《みと》められてから会いに来る方が世間的に正しいのに、私はそうはしなかった。
それは私が世間的に正しいことに|価値《かち》を見いだしてないからで、そんな私が世間がうらやむような人と結婚することを喜ぶはずがない。そう流輝君は思っているのだ。
「恋人は好きな物が|一緒《いつしよ》の人がいいけど、結婚するなら|嫌《きら》いな物が一緒の人がいいのよ」
だから私はそんなことを口にして話を|微妙《びみよう》にそらした。
「なんすか、それ?」
「ま、恋人に求める物と夫に求める物は|違《ちが》うってこと」
私はそれでもこの話を|詳《くわ》しくするつもりはなかった。
「……先輩は大人なんすね」
そのせいか流輝君は少しつまらなそうな顔をする。
「両親を|尊敬《そんけい》してるだけよ」
そしてそれが本当に私が結婚を決めた理由であった気がする。
自分の仕事に|誇《ほこ》りを持つ父が選んでくれた人なのだから、私にはそこに不満なんてない。他人から見たら|奇妙《きみょう》に|映《うつ》るとしても私にとっては当然のことなのだ。
「それはちょっと|羨《うらや》ましいっすね」
それに流輝君は|想像《そうそう》もしてないコメントをしてきた。
「羨ましい?」
「うちの親はとっくに俺のこと|諦《あきら》めてるっすから」
流輝君の言葉がどこまで本当なのかは私にはわからなかった。それでも|善良《ぜんりよう》な市民からすればやはり流輝君のことは|理解《りかい》しがたいというのは|疑《うたが》いがなかった。
「そう言えば、|絹川《きぬがわ》さんたちとは最近会った?」
そのせいなのかふと絹川さんのことを私は思い出した。
兄さんも|含《ふく》め、善良な市民には理解しがたい入たちのことだ。
「そういや全然、会ってないっすね」
流輝君は特に|感慨《かんがい》もなくそう答えてきた。
「もう会いたくない?」
だから私はそう|尋《たず》ねてからその理由を考えてしまった。
彼はここ数年でむしろ人付き合いというものを|面倒《めんどう》に考えるようになったのかもしれない。
昔はただ受け入れられず、外にいただけだったけれど、今は|人混《ひとこ》みの中にいるけどそれが|欝陶《うつとう》しいという感じなのだろう。
そんな彼にとってわざわざ人に会うのはかなり|敷居《しきい》が高いことなんじゃ。私はそう思う。
「会いたいっすね、久しぶりに」
でも流輝君の答えはまったく私の考えとは反対だった。
「え? 面倒くさくないの?」
「絹川さんたちなら俺のこと、|先輩《せんぱい》と同じように|扱《あつか》ってくれる気がするんすよね」
「……どういう意味?」
「俺が世間でどう思われてるとか|興味《きようみ》ないっすよね、あの人たちは」
「それはそうよね」
流輝君の言葉は想像してなかったけれど、それでもすっぎりと私の心の中に|降《お》りてきた。
絹川さんはきっと流輝君が有名な、ハスケ選手かどうかなんて関係ない。流輝君がシュート中毒のバスケバカだってことで十分な人なのだ。
「そうか、そうなのよね」
だから流輝君も絹川さんのことを今も覚えている。そして私も。
「ん? なんすか?」
「いや、流輝君の方が絹川さんのことを理解してるんだなって」
私はそう答えながら、ずっと持て|余《あま》していた自分の|感情《かんじよう》の理由を理解していた。
絹川さんがそういう人だから、私は気になっていたんだな、と。
「俺の方が理解してるとしたら、先輩はよほどわかってないんすね」
でも流輝君は私のそんな感情には少しも興味はないらしい。
「かもね」
なのに私は別に|不機嫌《ふきげん》にはならなかった。どころか笑ってしまった。
それは彼が今も彼らしいままであることと、自分もそんなには変わってないという安心感が理由だったのかもしれない。
「なんか先輩って俺にバカにされると笑うっすよね」
そして以前、流輝君の予想外の一言で笑いが止まらなくなった時も|確《たし》かにそうだったなと思い出す。
あの時は流輝君は私を|単純《たんじゆん》で、いやらしい女だと言っていた。
「そうね。流輝君が私を、バカだってわかってくれてるのが|嬉《うれ》しいのかも」
その時だって、きっとそうだったんだろうなと私は思い出しながら答える。あの時にはなんで、そんなにおかしいのかはわからなかったけれど。
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第十五話二人は|合縁奇縁《あいえんきえん》
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「え? |日奈《ひな》? どうして……ここにいるの?」
そう|尋《たず》ねてから|健一《けんいち》はすぐに聞くまでもないことだと思った。
また明日と言って別れた日奈が、これから|佳奈《かな》に告白すると言っていた日奈が、|幽霊《ゆうれい》マンシヨンへ帰る|途中《とちゆう》の健一の前に|現《あらわ》れる理由なんてそうはなかった。
ましてや日奈の顔に|浮《う》かんでいるのが|笑顔《えがお》でないのであれば、それは聞くまでもないどころではなく、聞いてはいけないことだったのかもしれない。
「……健一ぃ……けんいち……」
それが|原因《げんいん》だったのか、それとも別の理由だったのかはわからないが、日奈は健一の名前を|呼《よ》ぶと目から|涙《なみだ》を|溢《あふ》れさせた。
そしてそれを|隠《かく》すように日奈は飛びこむように健一の|胸《むね》に顔を|埋《うず》める。
「ひ、日奈……|大丈夫《だいじようぶ》?」
健一はその|状況《じようきよう》に|戸惑《とまど》いながらも、心のどこかでまた|妙《みよう》なことを聞いてしまったなと思う。
大丈夫ならこんなことにはなってない。なってるはずがない。
「健一ぃ……」
でも日奈には健一の言葉は聞こえていないみたいだった。
「日奈、大丈夫。俺はここにいるから」
だから健一は日奈が落ち着くまで、じっとしてることにする。
「うっ…うぅ……うっく、うっく……うっ……」
でもそれは想像してたよりもずっと、ずっと長い時間が必要だった。
だから健一は考えてしまった。
日奈と佳奈の間で何があったのだろうか、と。
佳奈に|振《ふ》られたのだろうことは聞くまでもなかった。でもただ振られただけなら、日奈がここまでショックを受けるわけはない。それを健一は不思議と|理解《りかい》してた。
日奈は自分で口にするほど、楽観的には考えていない。佳奈がどういう人間なのか、日奈は知っている。そうであって|欲《ほ》しいと思いながら、そうでないことを知っている。だからダメだったとしても、やっぱりそうだよねと心のどこかで|納得《なつとく》する。きっとそのはずだ。
なのに目の前の日奈は何も言えないほどに|傷《きず》つき、ただ泣いてる。泣き続けている。
「大丈夫、俺はここにいるから」
それでも健一は自分が思っていたほど日奈が強くなかったとは思わなかった。
だから健一は考えてしまったのだ。
日奈と佳奈の問で何があったのだろうか、と。
泣きやんだとしても、日奈に笑顔が|戻《もど》るはずもなかった。
彼女はうつむいたまま何も言おうとはせず、ただ力なく健一の手を|握《にぎ》っていた。
「幽霊マンションに行こう」
そんな日奈に健一が|提案《ていあん》できたのはそれくらいのことだった。
|常識《じようしき》的に考えれば、日奈を家に送っていくべきだったのかもしれない。家族の元に返すべきだったかもしれない。でも健一にはそれは出来なかった。
|詳《くわ》しくはわからなくても日奈が今、佳奈に会いたくないのはわかる。
もしかしたら佳奈は日奈を|捜《さが》してるかもしれない。とすれば見つからなければ|騒《さわ》ぎになるかもしれない。
でも、そんなことよりも今は日奈の望むようにしてあげたかった。
あとで問題になるとしても、その時はその時だと思っていた。どんなにそれが問題になるとしても、目の前の日奈ほど自分が傷つくことなどあり得ないのだから。
「…………」
日奈はそんな健一に何も答えなかった。
特に|拒《こば》む様子はないので健一は提案通りに行動することにした。
でもそれ以外のことは何も言えなかったように、何もできなかった。
道中、二人が話すことはなかったし、何か起こることもなかった。
「……他の人には会いたくない」
日奈がやっと言葉らしい言葉を発したのは、幽霊マンションの十三階についた時だった。
健一が十三階のフロアに続くドアに手を|伸《の》ばした時、日奈は立ち止まり、結果として握っていた手が健一を引き|留《と》めた。
「会いたくない……か。だろうなあ」
どうして? そう思う前に、健一はそれを納得している自分に気づく。
何か|嫌《いや》なことがあった時、|誰《だれ》でもいいから聞いて欲しいと思う人間もいる。でも健一は自分はそうでないと思っていたし、日奈もそうなのだろうと感じていた。
聞いて欲しい人には聞いて欲しい。でもそれが|叶《かな》わないなら、一人で泣く。それが自分であり日奈なのだろうと健一は思う。
「だったら、見つからないように1305に行く……ってのもまずいよね?」
健一はそう言いながら、|廊下《ろうか》に誰かいるかもしれないという|可能性《かのうせい》をかなり高く感じていた。
|綾《あや》はどうかわからないけれど、|冴子《さえこ》や|刻也《ときや》はまだ起きているだろうと思えた。
刻也は自室で勉強しているかもしれないが、冴子は健一が帰るのを待っているだろう。それが1301なのか、1303なのか、綾の部屋なのかはわからないけれど、冴子がすでに|寝《ね》ているはずはなかった。彼女は一人では寝ることができないのだから。
「……うん」
そして日奈には別に|確信《かくしん》があるのか、健一の提案に短くそう答えた。
「だったら」
健一は特に提案もなくとりあえずそう言ってから、上りの|階段《かいだん》の方を見た。
十三階に足を|踏《ふ》み入れられないなら、ここにいるのもまずいだろう。とすれば残る|選択肢《せんたくし》は上か下かしかない。
「屋上に行こうか?」
とすれば、そっちを選ぶしかないだろうと健一は思う。
|今更《いまさら》、下に戻るというのもどうかと感じるし、それに屋上は自分と日奈にとっては特別な場所だった。正確には日奈とではないのかもしれないけれど。
健一が初めてシーナの歌を聞いたのは、屋上だった。なぜシーナが屋上で歌っていたのかはわからない。でも日奈にとっても何か思い入れのある場所なのだろうとは思えた。
「うん」
そして健一の|想像《そうそう》が正しかったのか、日奈はさっきよりは少しはっきりと返事をした。その顔に|笑《え》みはまだ戻っていなかったけれど、健一は救われた気分を感じる。
「少し寒いかもしれないよ」
帰り道もそれなりに寒かった。もう秋だし、夜なのだから寒くて当然。それで屋上に|留《とど》まってるとなれば、やはり寒く感じるだろう。そんなことを健一は心配した。
「一人じゃないから……平気」
でも日奈はそう言って階段の方を見た。
「上を向いて歩こう、だね」
そんな日奈を見て健一はシーナの歌を思い出した。
シーナが最初のライブの時に歌ったのも、テレビ|収録《しゆうろく》の時に歌ったのもその曲だった。
最初聞いた時はなんでそんな歌を選んだのかわからなかった。
別に流行の曲じゃない。一回りどころじゃなく昔の曲だ。
でも今ならわかる。あれは決意の歌だったのだ。
一人、悲しく|涙《なみだ》を|堪《こら》えて歩いた|過去《かこ》を、いつか笑えるようになろう。そんな|想《おも》いを|込《こ》めた曲だったのだ。
一人で|悩《なや》んでいた自分を変えようとそう思った日奈の心が選んだ曲だったのだ。
「健一が|温《あたた》かいからって言った……つもりだったんだけど……」
でも日奈は今はそのことを考えていたわけではないようだった。
「……そ、そうなの?」
それで健一はそう言えばずっと手を握ってたなと気づいた。
どっちかと言えば温かいのは日奈の方だろう。健一がそう思うのに、あまり時間はかからなかった。
「何か上にかけるもの、持ってこようか?」
予想した通り、屋上はちょっと寒かった。なので健一はそんな|提案《ていあん》をしてみるのだが、日奈の返答は健一に|寄《よ》り|添《そ》うというものだった。
「こうしてれば十分、暖かいから平気」
「……なら、いいんだけど」
日奈がいいと言うならいいのだろうけど、それでも健一は少し|違和《いわ》感を覚えてしまう。
|座《すわ》ってお|互《たが》いに寄り添うなんて、そんなこと日奈とすることになるなんて思ってもいなかった。思い出してみれば|酔《よ》っぱらった日奈をおぶって帰ったりとか、|比較《ひかく》的|触《ふ》れ合って来た方なのかもしれない。
でも、やはりそれとこれとは|違《ちが》うことのように感じる。
「健一は寒いの?」
それで変な顔をしていたのか、日奈が心配そうに|尋《たず》ねてきた。
「いや、平気だけど」
むしろちょっと熱いかもしれないなんて健一は思う。
「だったら、今は|側《そば》にいて」
でも日奈にとってはそういうことではないのかもしれない。
健一が何か部屋に取りに行く時間すら一人でいたくない。そう思っているのかもしれない。
そこまで大げさな話でなくても1303に健一が|戻《もど》れば、おそらく冴子に見つかってしまうだろう。冴子がそれで|一緒《いつしよ》に屋上に行くなんて、そんなことを言い出すとは思えないが、日奈に何かあったということすら冴子に知られたくないなら同じことだ。
「……うん」
だから健一は日奈の言うとおりにすることにした。
自分は日奈の|恋《こい》を|応援《おうえん》すると決めた。
「ごめんね、健一」
べつのことを考えていたせいだろう。健一は日奈の言葉がどういう意味かわからなかった。
|謝罪《しやざい》なのはわかる。だが、なんのことに関してなのか|理解《りかい》できなかった。
「……えっと、何の話?」
さっきからずっと日奈の置かれた|状況《じようきよう》に追いつけてないと健一は感じる。
それはきっと想像できてなかったからだ。ここまで日奈が|傷《きず》ついていることに健一は違和感を覚えているからだ。
「色々手伝ってもらったのに、こんなことになっちゃったってこと」
でも健一にはその理由をハッキリさせることはできなかった。日奈がそれを言いたいと思ってないのは明らかだ。
「こっちこそ、ごめん。何にも力になれなかった…-みたいだし」
でも聞いた方がいいのかもしれない。そんなことも思う。
時にはシーナのように|強引《こういん》な行動をした方がいい場合もあるだろう。|実際《じつさい》、それで|拓《ひら》けた道だってあった。でも健一にはやはり出来なかった。
「そんなことないよ。健一のおかげで私は|頑張《がんば》れたんだから」
日奈はそう言いながらもうつむいたままだった。
「だと、いいんだけど」
日奈は|確《たし》かに健一のおかげで頑張れたのかもしれない。でもそれがなんなのだろうと健一は思う。
頑張った結果、佳奈に告白できたとして、それが何だと言うのだろう? それで日奈が傷つき、悲しみ、泣いた。あんなにも楽しげに家に帰っていったというのに、今、日奈は健一の|隣《となり》でうつむいている。
「最初から無理だっただけだから」
そして日奈は自分の置かれた状況をそう|結論《けつろん》づけてしまったようだった。
「そんなこと……」
健一は|驚《おどろ》き、|反射《はんしや》的に|否定《ひてい》しようと口を開いた。でもそれ以上、言葉が続かなかった。
そんなことはない。そう思いたかった。でも、そう思いたいだけなのかもしれない。そんな|疑念《ぎねん》を|振《ふ》り|払《はら》えない。
「だから健一が|謝《あやま》るようなことじゃないよ」
そう言って日奈は健一の方を見る。その目には一度止まったはずの|涙《なみだ》がまた|溜《た》まっていた。
「……日奈」
「健一は悪くない。私が、私が出来もしないことを願ったから……こうなっただけ」
そしてそんな|想《カも》いと共に日奈の涙が|溢《あふ》れる。
「全部手に入れるなんて、やっぱり無理だったんだよ」
「……全部手に入れる」
それはシーナとバケッツの間の合い言葉のようなものだった。
一度は健一たちの側を|離《はな》れた日奈が戻ってきてからのスローガンと言ってもいい。健一と日奈はその言葉を信じて行動してきた。
「全部どころじゃないよね。そもそも佳奈ちゃんに私の気持ちを理解するなんて……無理だっために……」
でも言い出したはずの日奈自身がそれをハッキリと否定していた。
健一だって本当にそんなことが出来ると思っていたわけじゃない。そうなればいいと願っていただけだ。
「ねえ、日奈」
だからなのだろうか、健一は意外に冷静な自分を感じていた。
「……なに?」
それで健一は日奈が口にした彼女の姉のことを|尋《たず》ねることにする。
「佳奈さんに言われたの?」
結局、それを聞かなければ話は始まらない。それを健一は聞いてからやっと理解した。
日奈が言いたがってることではないのはわかっていても、やはりそれを知らなければ日奈と話しても会話になるはずもないのだから。
「前から気づいてたよって」
そして返ってきた言葉は健一の予想を|超《こ》えていた。
「それじゃずっと前からシーナが日奈だって知ってたの?」
健一は尋ねながら、やはりそんなはずはないと感じた。
佳奈がそれに気づいてたとはとても思えない。それにそうだったとすれば、日奈が悲しむ理由なんてどこにもない。
「私もそういう意味だって思った」
「……そう思うよね」
誰だってそう思うだろう。
日奈が|隠《かく》してきたことは、自分がシーナだということだったのだから。気づいていたと言われればそれのことだと思うに決まってる。
「|嬉《うれ》しかった。佳奈ちゃんは私のことをちゃんと見ててくれたんだって、そう思えたから」
でも健一が|想像《そうそう》した通りだったなら、こんなことになってるはずはない。
「……でも|違《ちが》ったんだね」
佳奈は、健一や日奈と同じようには考えなかったのだろうことはすぐにわかった。そしてそれが日奈がこんなになってる理由なのだろうことも。
「私は健一のこと好きなんだって」
「え?」
また健一は日奈に置いていかれたような|錯覚《さつかく》を覚える。
「私は健一のこと好きになっちゃって、でも|大海《おおうみ》さんがいるからどうしようかって、ずっと|悩んでたんだって。好きな人にはもう決まった相手がいるからどうしたらいいかわからなくて、困《なやこま》ってたんだって」
日奈の口から語られたことはおよそ|現実《げんじつ》からほど遠かった。でも佳奈にとってはそれこそが事実であり、それに前から気づいていたということなのだ。
「……そういうことだったのか」
それでも言われてみれば、思い当たる節もあった。
日奈が用があると健一を|呼《よ》びつけてみたりとか、スパに行った時の佳奈の|視線《しせん》に|違和《いわ》感を覚えたのもそれが|原因《げんいん》だったのだ。
「笑っちゃうよね。そんなわけないのに」
でも日奈にとってはそんな健一の|合点《がてん》などどうでもいいことだった。
笑っちゃうよね、なんて口にしてはいても、とてもじゃないが笑っている顔ではなかった。
「日奈……」
日奈は涙を流していたが、泣いてるというよりは|怒《おこ》っているように見えた。
「私が好きなのは佳奈ちゃんなのに。ずっとずっと佳奈ちゃんだけだったのに」
日奈の言葉は健一にとっては|今更《いまさら》言われるまでもなくわかってることだった。だが佳奈は|夢《ゆめ》にも思っていなかったのだろう。
佳奈にとって、女の子が好きになる相手は男の子と決まっている。それが|常識《じようしき》だし、そう思ってる人間の方がきっと多い。
「だから私は言ったんだ。私が好きなのは佳奈ちゃんだって。他の誰でもない佳奈ちゃんなんだって。健一じゃなくて、佳奈ちゃんなんだって私はちゃんと言った」
日奈はもはや健一の相づちを待ってはいないみたいだった。少し早い調子でその時のことを言葉にする。
「なのに、なのに……」
でもそれが急に止まった。
なのに。その言葉に続く言葉は、今までとは|逆《ぎやく》の意味に違いなかった。
日奈はちゃんと言った。でも佳奈にはわからなかったのだ。日奈がずっと佳奈のことを好きだったということが|理解《りかい》できなかったのだ。
「日奈ちゃんが私のこと好きなわけないじゃないって、そう言ったの」
「好きなわけないって……」
健一は|驚《おどろ》きながらも、やはりどこかで|腑《ふ》に落ちるのを感じていた。
日奈が、|上手《うま》く行かないことを|覚悟《かくご》していたはずの日奈が、ここまでシ・ックを受けている理由がやっとわかったのだ。
佳奈は日奈の|全《すべ》てを|否定《ひてい》したのだ。なかったことにしたのだ。
他に何もいらない。日奈がそう思ってきたことを、あり得ないと切り|捨《す》ててしまったのだ。
「私が佳奈ちゃんのことを好きだって思ってるのは|勘違《かんちが》いなんだって」
「……そんなわけないじゃないか」
健一は不意に心に|怒《いか》りが|湧《わ》き上がってくるのを感じた。今までは日奈の|態度《たいど》を理解しようと必死だったから|感情《かんじよう》がついてきてなかったのかもしれない。
そんなわけはないのだ。日奈が佳奈のことを好きなのは健一には明らかなことだった。
「そんなわけないじゃないか」
そしてもう一度同じ言葉を口にして、それは佳奈が言ったことと同じなのに全く逆の意味だと気づく。
「勘違いなわけないよね」
それだけじゃなく、日奈もさっき口にした言葉だったことにも。
笑っちゃうよね。そんなわけないのにと日奈は|涙《なみだ》を|堪《こら》えていた。
そんなわけない。その言葉は全部|一緒《いつしよ》だけど、意味は違っていた。
佳奈はあるはずのものを否定した。
日奈はないはずのものを否定した。
そして健一はないことにされたことを否定した。
「勘違いなわけない。勘違いだったら、なんで日奈が泣かないといけないんだよっ。なんで家を飛び出したんだよ? なんで今、ここにいるんだよ! なんで側にいるのが|俺《おれ》なんだよ!」
健一は|疑問《ぎもん》を口にするうちに|次第《しだい》に怒りが|募《つの》るのを感じた。
日奈の告白に対する返事が「ごめんなさい」なら、それで良かった。
佳奈が日奈を好きになれるだろうかと考えてくれさえすれば、それだけで良かったのに。
他に何もいらないと、それだけの覚悟をしていた日奈に対して、それすらもしてくれなかったのだ。
「ごめんね、健一」
でも日奈は健一の感情が高まるのと逆に|沈《しず》んでいくようだった。
「日奈が|謝《あやま》るようなことじゃないよ」
でも佳奈が謝るようなことでもない。それが健一にはわかっていた。
佳奈に悪気はない。悪いことをしたともきっと思ってない。
佳奈は当たり前のことを言っただけなのだ。
佳奈は|普通《ふつう》だからわからなかったのだ。日奈がこんなにも佳奈とは違っていることに。
それこそが本当に当たり前のことだったのに。
「でも、ごめんね」
日奈はそう言って健一の方に|倒《たお》れ|込《こ》んできた。それで彼女の顔が健一から見えなくなる。
「俺こそ、ごめん。力になるって言ったのに、何も出来なかった」
今思えば、こうなるのはわかりきっていた気がした。なのに健一はそれを|防《ふせ》ぐために何もしなかった。
|余計《よけい》なことをしたらいけない。そう思って、結局、何もしなかった。
シーナに言われたことはした。でもそれが佳奈に日奈の気持ちを通じさせることになると本気で信じてはいなかった気がする。
日奈はきっとわかってやってるんだろう。そう思い込むことで、自分は何かしてる気になっていただけ。そんな風にさえ思えてきた。
「……謝らないで」
でも日奈にとって、健一がそう思うことはより|状況《じようきよう》を悪くするだけだったらしい。
「え?」
「謝られたって|惨《みじ》めになるだけだよ。自分がバカだからだってことは|嫌《セいや》ってほど思い知ってるんだから」
「……そんなつもりじゃ」
「わかってる。こんなこと言ったって、健一を|困《こま》らせるだけだって。でも私は言うのを|我慢《がまん》できない。健一も|傷《きず》つけばいいって、そんなこと思ってる。思ってるの、私は」
日奈の言ってることは本当に|無茶苦茶《むちゃくちゃ》になってきている。それを健一は感じた。
「いいよ。それで日奈の気が|済《す》むなら」
だから健一は日奈の言葉をただ受け止めようと思う。でもそれも|逆効果《ぎやくこうか》だった。
「気が済むわけない! 私にとっては佳奈ちゃんが|全《すべ》てだったんだから……私を助けられるのは佳奈ちゃんだけ……だけなんだから……」
日奈は怒り、そしてまた深く沈み始めた。
「……そうだよね」
それで健一もそれに引きずられて、心が重くなっていくのを感じる。
「|怒《おこ》ってよ。私、健一にひどいことを言ったよね? 私、こんなに助けてもらってるのに、それを全部|否定《ひてい》したよね?」
そんな健一に日奈が声を|荒立《あらだ》てる。
「怒れないよ」
でも健一には日奈の言うように怒ったりは出来ない。
「なんで? なんでよっ!」
「俺は傷ついてなんかいないから。日奈の言葉で傷ついているのは、日奈の方だってわかってる。俺はそれを止められないことの方が悲しいんだ。だから怒るなんて出来ない」
健一の言葉に日奈は言葉に詰まって、すすり泣き始めてしまう。
「うう……うっ……うっ」
もう何を言っても|互《たが》いを傷つけるだけ。そう日奈は思ってるのかもしれない。
「ごめん、日奈。何も出来なくて」
佳奈のことで力になれなかっただけじゃなく、ただ話を聞いてあげることすら出来ない。それを健一は|痛感《つうかん》する。
日奈が怒って|欲《ほ》しいというなら、怒ってあげればよかったのかもしれない。それで日奈の気持ちが少しでも軽くなるなら、それでよかったのかもしれない。
「うっ……ううう……うっ……」
でも健一にはそれは出来なかった。
「…………」
倒れ込んだまま泣いてる日奈の|呼吸《こきゆう》を|黙《だま》って聞くくらいしか今、健一に出来ることはなかった。
「ねえ、健一?」
そして|随分《ずいぶん》と時間が|経《た》って、日奈はやっと言葉らしい言葉を発した。
「……何?」
それがいきなりだったので健一は少し|反応《はんのう》が|遅《おく》れてしまう。
「|抱《だ》きしめて……欲しいんだけど……」
日奈は健一の方を見ずに、小さな声でそう言った。
「やっぱり寒いかな?」
健一は随分と夜も|遅《おそ》くなってきたなと改めて感じる。
「……うん」
「だったら1305に行くとか」
そうすれば寒さの中で|震《ふる》えずに済むだろう。健一はそう思ったが、日奈にとってはそういうことではなかったらしい。
「今は健一が|側《そば》にいるって思いたい」
「……そっか」
部屋に行けば、こんなに近い|距離《きより》で話したりは出来なくなるだろう。そういうことを気にしてるのかもしれない。
「ダメ……かな?」
だから日奈にそう|尋《たず》ねられると否定しづらかった。
「いや、それくらいなら……いいけど」
でも抱きしめるって、どうすればいいんだろうなんて|今更《いまさら》、健一は考える。
「前からだと|恥《は》ずかしいから、後ろからで……いいかな?」
でも答えを出す間もなく、日奈はそう言って起き上がって健一の前に|座《すわ》り直す。
「……えっと」
それで健一は日奈に言われたまま、彼女の後ろに回って|膝立《ひざだ》ちの|体勢《たいせい》で抱きしめる。
「こ、これでいいのかな?」
改めて考えてみると、随分と|大胆《だいたん》なことをしてるなと健一は思う。
寒さから日奈を守るためとは言え、彼女を後ろから抱きしめるなんて。
「うん。|暖《あたた》かいよ、健一」
でも日奈はそんなことは思っていないのか、|普通《ふつう》に返事をしてくる。
「なら、いいんだけど」
でも健一は|意識《いしき》し始めたら、止まらなかった。
シーナに|背中《せなか》を|叩《たた》かれたり、|肩《かた》を組まれたことは何度もあった。でもこうして後ろから抱きしめると日奈はシーナよりずっと小さく感じられた。
小さくて細くて、そして温かった。日奈は明らかに女の子だった。
「健一」
声は小さくても、それはハッキリと聞こえた。すごく側にいるのだと改めて感じる。
「なに?」
でも顔が見えず、日奈が何を考えてるのかはわからない。
「やっぱり|勘違《かんちが》いだったのかな」
だから健一はその言葉にすぐに反応できなかった。
「私、佳奈ちゃんの言うとおり、健一のことが好きなのかな?」
「……何を言い出すんだよ、日奈」
「女の子はやっぱり男の子を好きになるものだよね」
「普通はそうかもしれないけど、みんながみんな、そう思う訳じゃないよ」
それは日奈が一番知ってることだと健一は思っていた。
「私さ、小学校の|頃《ころ》は男の子との方が話があったから、きっとそれで勘違いしたんだと思う。
中学に入るとなんだか男の子が|怖《こわ》くなって、それで女の子のことが好きな変な女の子だなんて
考えるようになったんだ」
でも日奈の口から出るのはそうじゃないという|否定《ひてい》の言葉だ。
「……日奈?」
「男の子とエッチするとか|想像《そうそう》するだけでぞっとした。エッチするなら女の子がいいなーってそんなことばかり思ってた。だから勘違いしたんだよね。ただ、私は男の子が怖かっただけで、女の子が好きなわけじゃなかったんだよ」
日奈はそう言いながら、また泣き始めたようだった。それで声は震えても、言葉は止まらない。健一が|戸惑《とまど》ってる問に、日奈はさらに話を続ける。
「この間ね、|試《ため》しに健一のこと想像して、一人でしたんだ。そうしたら、ちゃんと気持ちよかった。男の子となんて思ってたけど、健一とだったら平気だった。だから佳奈ちゃんの言うとおりかもしれないって思うんだ」
日奈の言葉に健一は何を言えばいいのか本当にわからなかった。日奈がそんなことを言い出すとは考えたこともなかった。
あんなにも佳奈のことを好きだと|確信《かくしん》していた日奈が、それを否定するようなことを言い出すとは思ってもいなかった。
「私は本当は健一が好きで、佳奈ちゃんのことは勘違いだったんだって。自分のことは自分がよくわかってるって言うけど、そうじゃないよね。周りの人の方がよくわかることだってあるよね。だから佳奈ちゃんが言うなら、きっと勘違いだったんだよ」
「そんな訳ないっ」
健一はいたたまれず、思わず|叫《さけ》んでいた。
「……健一?」
「周りの人の方がよくわかるって言うなら、俺だって周りの人だ。俺は日奈が佳奈さんのことが好きだって、見ててわかった。本当に好きなんだって、ことあるごとに感じた。それが勘違いな訳……勘違いな訳ない」
でも言ってるうちに健一はそれが自分の希望でしかないのかもしれないと感じた。
|蛍子《けいこ》とのことがあったから健一は日奈に自分を重ねてそう思っていただけなのかもしれないと。あんなにも日奈を|応援《おうえん》しようと思った気持ちすらも、今はおぼろげに感じる。
「ねえ、健一」
でも日奈の方は|逆《ぎやく》に落ち着いたのかもしれない。泣きやんだのか、健一が感じる日奈はさっきよりもずっと|柔《やわ》らかだった。
「エッチしようか?」
でもその口から出たのは健一を|驚《カどう》かせるのに十分な|提案《ていあん》だった。
「……な、何を言い出すんだよ」
|胸《むね》が|激《はげ》しく打つのを健一は感じた。日奈がさっきよりも側にいるのを意識した。
「エッチすればわかる気がする。私の勘違いなのか、佳奈ちゃんの勘違いなのか」
日奈はそう言って健一の手に自分の手を重ねてきた。
「そ、そんなことしなくたってわかるよ。佳奈さんの勘違いに決まってる」
そう思っているのに声が上ずった。確信がない訳じゃなく、日奈の行動に驚いただけだ。そう健一は思う。
「私は自分の勘違いなんじゃないかとけっこう|疑《うたが》ってる。だって今、すごくドキドキしてる」
日奈は今度は健一の手を取って、自分の胸に運んだ。
「……ひ、日奈?」
「ドキドキしてるでしょ?」
日奈に|尋《たず》ねられても健一にはなんともわからなかった。日奈の|鼓動《こどう》よりも、自分の鼓動が早くなってる方がよくわかるくらいになっていたからだ。
「わからないよ、そんなの」
だからそう言ったのだが、それは日奈の胸をより感じることになった。日奈は健一の手をさらに|押《お》しつけたのだ。
「これでもわからない?」
「……わ、わかったよ」
健一はこれ以上の否定は大変なことになりそうだと気づいて|素直《すなお》に|認《みと》めることにする。
「私は自分が思っていた|程《ほど》、変な女の子じゃなかった。男の子が怖かっただけの|普通《ふつう》の女の子だったんだよ。だから佳奈ちゃんが好きとか、そんなおかしなことを言ってただけ。|勘違《かんちが》いで、気の|迷《まよ》いだったんだよ」
でも日奈の言ってることはやっぱりおかしいと健一は思う。
日奈はそう思いたいだけなのだ。佳奈に|拒絶《きよぜつ》されたことがあまりにつらいから、そうじゃなかったことにしたいだけなのだ。
その気持ちはわかる℃|痛《いた》いほどわかる。
「本当にエッチすれば、日奈はそれでいいの?」
でも日奈の本当の気持ちは否定したくなかった。
日奈は佳奈のことが好きなのだ。その気持ちを|理解《りかい》してもらえないとわかっても、それでも好きなのだ。だから日奈はこんなにも|傷《きず》ついて、打ちのめされて、ここで泣いていたのだ。
「……うん。健一とならきっと|大丈夫《だいじようぶ》だから」
だから健一はその言葉に|涙《なみだ》を|堪《こら》えきれなくなった。
そんな言葉、聞きたくなかった。エッチをすればシーナのことも、佳奈のことも|忘《わす》れられるなんて、本心じゃなくても聞きたくなかった。
「そんなの|嘘《うそ》だよ……そんな|訳《わけ》無いんだ……」
だから健一は日奈を強く|抱《だ》きしめて泣いた。
「健一?」
「そんなことのために|俺《おれ》はなんでもするって言ったんじゃないんだ」
日奈が佳奈のことを否定することは、健一との|友情《ゆうじよう》を否定することでもあった。
日奈が|上手《ひつま》く行くなら、自分はどうでもいいと思っていた。でもこんな形で否定されるのは|耐《た》えられなかった。
日奈の気持ちが嘘な訳はない。日奈は佳奈のことが好きなのが本当なのだ。
だからこそ、健一はそのためなら何でもしようと|誓《ちか》った。
でも今は違う。日奈は嘘を信じこもうとしている。そのためには何一つだってしたくない。
日奈はかわいいし、エッチしようと言われてドキドキもしている。でも、そんなことしても日奈も自分も幸せになれたりはしない。
それに、自分とシーナの友情を嘘だったなんて言いたくはなかった。
「嘘なのは日奈の方だったんだよ」
健一は|溢《あふ》れる感情の中で、その言葉を|捕《つか》まえた。
「そんなことない!」
でも日奈は|反射《はんしや》的にそれを否定する。その言葉の意味などわかったはずもないのに。
「俺、学校での日奈のことずっとわからなかった。ちっともリアリティを感じなかった。なのにシーナのことは理解できた。本当にいるんだって思えた」
それは最初にシーナの方を|意識《いしき》したせいじゃなかった。シーナの方がずっと本心で生きていたからだ。
「シーナなんて……私が|演《えん》じてただけのキャラだよ」
「違う! シーナが本当だったんだ。演じていたのは|窪塚《くぼつか》日奈の方だったんだよ。日奈は佳奈さんに好かれたくて、佳奈さんが望みそうな窪塚日奈ってキャラクターを演じていたんだ」
健一はそれでやっとわかった気がした。
「だから佳奈さんはわからなかったんだ。日奈はずっと佳奈さんの前で嘘をつき続けてきたから。だから|今更《いまさら》、本当のことを言われても何を言ってるのと思うしかなかったんだ」
それは今までの言葉で一番|残酷《ざんこく》なものだったかもしれない。
「そんなこと今更わかったってどうにもならないよっ」
日奈は悲鳴にも似た声をあげる。
その気持ちはわかった。痛いほどわかった。もうこれ以上、日奈を傷つけたくないとも思った。でも言葉は止まらなかった。
「シーナが本当だったんだ。佳奈さんのことを好きな日奈が本当なんだ。日奈は俺のことを好きじゃない。そう思って、佳奈さんに否定されたことから|逃《に》げようとしてるんだ」
言わなければいけないと思った。だから言った。
「…………」
でも日奈が何も言い返してこなかった時、健一はそれを|後悔《こうかい》した。
そのせいだろう、健一の心の中に冴子の言葉が|響《ひび》いて、それが|繰《く》り返された。
|皆《みな》が皆、幸せになるために生まれてくるわけじゃないのよと。
|確《たし》かにそうなのだろう。いくら強く望もうがその通りになるなんて、そこまで楽観的には思っていない。
でも、それでもと思う。|全《すべ》てを失ってでも手に入れたいと思ったことくらい、それくらいなら手に入れられてもいいんじゃないかと。
日奈が|欲《ほ》しかったのは、シーナとしての名声なんかじゃなかった。テレビに出て皆に|讃《たた》えられることでもない。健一との友情でもない。
ただ佳奈に理解して欲しかったのだ。いや、そんなことすら望んではいなかった。
佳奈が自分をいつかは理解してくれるのがわかれば、それだけでよかったのだ。
「ごめん、日奈」
なのに、それすら無理だった。だから、それを全部否定してしまいたい。その気持ちはわかる。
「でも、忘れて欲しくなかったんだ。日奈は佳奈さんのこと、大好きだってことを」
痛いほどわかるけれど、やっぱりそれを|認《みと》めてはあげられなかった。
「私だって忘れたくないっ」
口をつぐんでいた日奈がまた悲鳴のような声をあげた。
「健一の言うとおりだよね。私がずっと|嘘《ロつそ》をついてたから、佳奈ちゃんの望む嘘をついてたから、こうなっちゃったんだよね」
「……うん」
「そんなことしたらダメだって、私だってわかってた。いつかその|罰《ばつ》を受けるって思ってた。
でも|怖《こわ》かった。だから出来なかったの。本当のことを言ったら、佳奈ちゃんに|嫌《きら》われる。私が佳奈ちゃんと|違《ちが》う人間だって知られたらって思ったら嘘をつくしかなかった」
日奈は体中に力を|込《こ》めて|震《ふる》えるのを|我慢《がまん》していた。
「わかってる。わかってるから、日奈」
そんな日奈を健一は|優《やさ》しく|抱《だ》きしめた。こわばっていた日奈に|柔《やわ》らかさが|戻《もど》るのがわかる。
「日奈、まだ終わったわけじゃないよ」
そんな日奈に健 が告げたのは冴子に教えてもらったことだった。
「え?」
「まだ日奈には時間があるだろ? 今日は嘘をつき続けてきたせいでわかってもらえなかったけど、本当のことを言い続ければ、いつかわかってもらえるかもしれない」
「……うん」
「その日はまだずっと先かもしれない。その日までに今日よりもずっと|辛《つら》いことがあるかもしれない。またこうして泣くことになるかもしれない。でも、まだ終わりじゃないんだ」
「うん」
それでもやっぱりそんな日は来ないのかもしれない。
日奈と佳奈がわかり合うことなんて無理なのかもしれない。
でもやっぱり健一は信じたかった。そしてその日が来ると思えるなら、きっと日奈はどこまでだって歩いていけるとも。
「だから今日は泣こう。だって、本当に悲しいんだから」
でも今日はその日ではなかった。そして日奈は今は歩き出す力はなかった。
「……うん」
だから二人は泣くしか出来なかった。
もうお|互《たが》いによくわかっていた。それをこれ以上|確認《かくにん》し合っても、もうお互いを悲しませるだけだと。
それを|胸《むね》に|秘《ひ》めて、二人は|黙《だま》って泣くしなかった。
「健一、ハーモニカ|吹《ふ》いてよ」
日奈の言葉に健一は、シーナからもらったハーモニカを取り出して吹き始めた。
「バケツがないからうまく吹けないかもしれないけど」
「いいよ、それでも」
何を吹こうかなんて考えなかった。自然にそれはメロディを|奏《かな》ではじめていた。
上を向いて歩こう。それはシーナがライブで初めて|唄《うた》った曲だった。
今の二人はその歌のように|涙《なみだ》を|堪《こら》えることは出来なかったけれど、でもそれ以外の曲を健一は考えることは出来なかった。
だから日奈の歌がそれに|被《かぶ》さってきた。でもそれはシーナの歌声には|比《くら》べることが出来ないほど、か細く|頼《たよ》りない声だった。
でもそれで十分だった。シーナのように|上手《じさつず》でなくても、どこまでも響くような大声でなくても、それが日奈の本当の歌声だと健一は感じた。
やがて日奈は|力尽《ちからつ》きたのか、|寝《ね》てしまった。
「おやすみ、日奈」
だから健一もそれだけ言うと、もう起きてはいられなかった。
「……うん?」
健一が気づいた時、空はもう明るかった。
すでに朝らしいとぼんやりとした頭で|理解《りかい》する。
「|風邪《かぜ》、引いてない?」
そこに健一を心配する声が|届《とど》く。でもそれは日奈のものではなかった。
「|有馬《ありま》さん?」
どうやら健一が寝ている間に冴子がやって来ていたらしい。彼女はいつも以上に白い顔で日奈とは|逆側《ぎやくがわ》に|座《すわ》っていた。
「おはよう、|絹川《きぬがわ》くん」
そして改めて見てみると自分はいつのまにか|毛布《もうふ》をかけられていた。となりの日奈にも。冴子が持ってきてかけてくれたらしい。
「おはようございます、有馬さん。すみません、何かいろいろ気を|遣《つか》ってもらったみたいで」
健一は|謝《あやま》らずにはいられなかった。冴子が自分がいないと寝られないとわかっているのに、何も伝えず屋上にいただけでも申し|訳《わけ》ないと思っていたのに、寝ている自分たちに毛布までかけてもらったとなると、一方的に|迷惑《めいわく》をかけたとしか言えない。
「私が勝手にしたことだから」
でも冴子にとってはそんなことを謝られる方が|据《す》わりが悪いらしい。
「……そんなことないと思いますけど」
だとしても健一からすれば、そう返されてしまうとやはり|困《こま》ってしまう。
「何かしないと落ち着かなかっただけだから」
それで冴子は少し考えてから、さっきの言葉を言い直す。
「どうしてですか?」
「私はきっとこうなってしまうんじゃないかって、ずっと思ってた」
冴子は日奈に何が起きたのかおよそ理解してるらしい。健一が寝ている間に日奈と話したということはないだろう。
でも冴子は日奈とは別の意味で、佳奈のことをずっと考えていたのだろう。佳奈と|飯笹伸太《いいざさしんた》との|仲《なか》を|壊《こわ》してしまってからずっと、きっと。
だから|意気揚《いきようよう》々と帰って行った日奈が何をするつもりだったのかも、それを送っていったはずの健一が帰ってこない理由もすぐにわかったのだろう。
「だから、こうなってしまったのよね。私がそうなると思ってたから、そうなってしまったのよね」
そして冴子は健一がそんなことを考えている問に、そう|結論《けつろん》した。
「有馬さんのせいだって、そう言うんですか?」
「少なくとも、私はそう感じてる」
冴子はそれからまだ寝ている日奈の方を見る。それで健一は少し声を|絞《しぼ》ることにした。
「でも、有馬さんが気にするようなことじゃ……ないですよ」
冴子が悪いと言うなら、自分の方が何倍も悪い。健一はそう思いながらも、それでもそれを気にするのが冴子なんだとも感じる。
「私だってうまく行くことを願ってはいたのよ。日奈さんには幸せになって|欲《ほ》しいとも願ってた。でもそうなるとはどうしても思えなかった。なのに私は何もしなかった」
冴子はそう言って健一の方を見る。
「…………」
その目がひどく|厳《きび》しいものに感じられて健一は言葉を失う。
「だから、こんなことで|感謝《かんしや》されたくはないの」
「……はい」
冴子は別に健一に|怒《おこ》ってるわけではなかった。怒ってるとしてもきっと、自分に対してだろうと健一は感じる。
冴子は怒っているのではなく、何か悲しい|決断《けつだん》や決意をしたのだ。それが何かまではわからないけれど、そのことは彼女の|視線《しせん》から健一は理解できた。
「有馬さん」
だから健一はそう言いながら、日奈の方を見る。
「なに?」
「日奈はいつか、昨日のこと、ちゃんと受け止められるようになるんでしょうか?」
どんなに悲しいことであっても、時間がそれを解決してくれるのかもしれない。健一は今回ばかりはそれを信じたいと思う。
「私は窪塚さんじゃないから、わからないけれど」
冴子はその|質問《しつもん》に悲しい顔をしてから、口を開いた。
「そうであって欲しいと思ってる」
「そうですね」
でも健一にはそんな日奈を|想像《そうそう》することは出来なかった。
日奈は佳奈のことを好きで好きでたまらなくて、そのためにアイドルになろうなんて考えて、本当になれるところまで行ったのだ。
佳奈に好きになってもらえるなら、他には何にもいらない。そう本当に考えていた日奈が、佳奈に|否定《ひてい》されたことを平気に思えるようになるなんて考えられなかった。
「絹川くんは、ちゃんと受け止められるようになれる?」
そう|尋《たず》ねる冴子もきっと同じことを考えていたのだろうと健一は感じる。だからこの質問は健一に対するものだけれど、自分に対するものなのだ。
私はこのことを受け止められるの? そう冴子は尋ねているのだ。
「きっと、いつか」
だから健一はそう答えて、また日奈の方を向く。
泣き|疲《つか》れて寝てしまったはずの日奈が不思議と笑ってるように見えた。
「そうね。きっと、絹川君なら」
だから健一にはそう言った冴子の顔は見えなかった。
「後で行くから」
そう言っていたけれど、日奈が登校してくる|姿《すがた》を健一は見つけられなかった。
|見逃《みのが》したとはちょっと考えられなかった。遠目にだって、日奈が来たのはわかる。
つまりは日奈は今日、学校に来てないのだ。
「……無理もないか」
なのに佳奈はクラスにいた。健一の方に話しかけてくる様子はない。そして健一にとってはそれ以上のことはどうでもよかった。
怒っていようが|凹《へこ》んでいようが、佳奈の話だ。日奈を完全に否定した佳奈のことを気にしてあげる必要など感じない。日奈が帰ってこなかったせいで、|事件《じけん》とか|騒動《そうどう》につながりそうになければ、それで十分だった。
「いやー、昨日のはもう完全|保存版《ほぞんばん》よねー」
そしてツバメにとって大事なのはテレビのことのようだった。
「……そっか、まだ昨日の話なんだな」
健一は改めてそんなことを思う。シーナ&バケッツがテレビに出てから、まだ半日だって|経《た》ってない。でも健一にはとてもそうは感じられなかった。
でもツバメやッバメの話を聞いてるクラスメイトにとっては今まさに|旬《しゆん》の話題らしい。
「絹川ぁ! おーい、絹川ぁ!」
だからそこに健一を引きずり|込《こ》むことになんの|躊躇《ちゆうちよ》もない。
「……なんだよ、|鍵原《かぎはら》」
なんだよとは言ってみたものの、ツバメがなんの話をしたいのかは察しがついていた。
シーナ&バケッツの話だ。今はそんな気分ではないのだが、それをツバメに察してもらうには彼女は|上機嫌《じさつきげん》すぎた。
「こっち来て、こっち」
|屈託《くつたく》無い|笑顔《えがお》で|教壇《きようだん》に|座《すわ》ってるツバメが|手招《てまね》きする。
「話があるならそっちから来るのが|礼儀《れいぎ》だろ」
なので、そんなことも言いたくなる。
「なによー。|千夜子《ちやこ》が|風邪《かぜ》で休んでるからって外ばかり見て。つまらなそうだから話に加えてあげようって思ってるんだけど、私は」
でもツバメにはツバメの言い分があるらしい。
「いいよ、|俺《おれ》は」
|実際《じつさい》、放っておいてくれという気持ちが強い。
「そうはいかないわよ。シーナ&バケッツの話を聞きたいんだから」
しかしツバメはやはりそんな健一の気持ちには|興味《きようみ》がないらしい。
「なんで絹川君?」
そしてツバメの言葉に彼女の話を聞いてたクラスメイトたちが不思議そうな顔をする。
「あ、そっか。みんな、知らなかったんだっけ?」
それでツバメは本当に初めて、その事実に気づいたらしい。健一はなんだか雲行きが|怪《あや》しいので、|諦《あきら》めてツバメの方に歩いていくことにする。
「そんなに大きな声で話すことじゃないだろ」
健一はそう言って|釘《くぎ》を|刺《さ》したつもりだったのだが、ツバメにはやはり通じない。
「いやいや、ここは大いに|自慢《じまん》をするところじゃないの。だって絹川はシーナ&バケッツのバケッツなんだから」
ツバメが|誇《ほこ》らしげにそんなことを言うと、クラスメイトから|歓声《かんせい》があがる。
「え? 本当なの? あのハーモニカ|吹《ふ》いてたの、絹川君なの?」
そんなことを健一に聞く|娘《こ》まで|現《あらわ》れる。
「……まあ、そうだけど」
だが健一としては、参ったなという気持ちでしかなかった。|今更《いまさら》、自分がバケッツだということが|恥《は》ずかしいなんて思わなかったけれど、あんまり喜ばれても申し|訳《わけ》ない気持ちになる。
「それでさ、絹川あ。みんな、|是非《ぜひ》知りたいことがあるんだけど?」
なのにツバメは相変わらずニコニコとして健一になにやら|尋《たず》ねようと話しかけてくる。
「なんだよ?」
「シーナ&バケッツにメジャーデビューの話とか来てないの? つか来てるわよね?」
ツバメのその|質問《しつもん》にクラスメイトたちが期待の|視線《しせん》で自分の方を見るのを健一は感じる。
「……来てても関係ないよ」
でも期待通りの返事は出来なかった。
「え? なんで?」
それでツバメは不思議そうな顔をする。
「もうきっと、シーナ&バケッツはライブをしないから」
健一にとってそれは当然のことだった。
元々、シーナ&バケッツは佳奈の気を引くためのユニットだったのだ。それが失敗に終わった今、もはや続ける理由はない。
「なんでよ? 昨日、シーナさんが明日も来てくれって言ってたじゃない! ね、みんなも聞いたわよね?」
でもツバメやクラスメイトたちにはそれは|到底納得《とうていなつとく》できるものではなかった。
「|確《たし》かに言ったけど、でも……もう続けられないんだよ」
その理由がわかるのはこの教室の中には二人しかいなかった。健一ともう一人。そのもう一人が本当にその理由を|理解《りかい》してるかどうかはわからないけれど。
「なにそれ? 新手の|焦《じ》らしプレイ? もー。そんなことしなくてもみんな、絹川の話を聞きたくてしょうがないんだから平気よ?」
「|冗談《じようだん》とかそういう話じゃないっ!」
健一はさすがに少し語気が強まる自分を感じた。
「え? マジなの?」
それでツバメも自分と健一の温度差を理解したようだった。
「本当だよ」
その時、ちょうど始業のチャイムが鳴り始めた。だからそれがちゃんとツバメに聞こえたのかはわからなかった。
「残念だけど、本当なんだ」
でも健一はそれだけ言うと自分の席に|戻《もど》った。
|途中《とちゆう》、気になって佳奈の方を見たが、彼女とは視線が合ったりはしなかった。
結局、日奈を学校で見かけることはなかった。
「おかえり、健一ぃ!」
だから健一が日奈に会ったのはその日の夜、1301でのことだった。
「ただいま、日奈……って、どうしたの、その|髪型《かみがを》?」
そしてそこにいた日奈は健一の|想像《そうそう》していた日奈とは|随分《ずいぶん》と|違《ちが》っていた。
日奈はバッサリと髪を切っていた。それはまるで男の子のように。
「私、本当は短い方がさっぱりしてていいって前から思ってたんだ」
でも日奈の言葉を信じるなら、それくらいの方が自然ということらしい。
「……なるほど」
「|似合《にあ》ってない?」
日奈に尋ねられて改めて見れば、今までと違ってたから|驚《おどろ》きはしたけれど、彼女にはその方が似合ってる気もした。
「いや、似合ってる……と思うよ」
「|褒《ほ》める時は自信を持って言わないとダメだよ、健一」
そして日奈はそうは言いながら|機嫌《きげん》よさそうだった。
「そうだね」
「そんなんだから、千夜子ちゃんといつまでもエッチできないんだよ」
「……それは関係ないと思うんだけど」
健一はそう|反論《はんろん》しながら、|妙《みよう》に日奈のテンションが高いのを改めて感じる。
「何かいいことでもあったの?」
|昨晩《さくばんじ》の|状況《ようきよう》が昼間の問に|覆《くつがえ》るはずもない。日奈はきっと佳奈と会ってない。それはわかっていたが健一は聞いてしまう。
「うん。お母さんがね……いや、そうじゃなくて|錦織《にしきおり》さんかな。とにかくまあ、家に帰ったら、錦織さんがいて、まあ、いろいろあって、転校することになったの」
「……えっと」
どういう状況なのか健一には到底想像できなかった。でもそれもまあ、日奈の説明が|下手《へた》というよりは錦織エリという人間が|関《かか》わってきたせいなのかもしれない。
「錦織さんがね、言ってくれたんだ」
でもそういう細かいことよりもずっと大事なことが日奈にとってはあったのだろうことを健一は感じる。
「なんて?」
「あなたが窪塚日奈として|頑張《がんば》るなら、私自身にあなたを歌手としてプロデュースさせて|欲《ほ》しい――って」
「窪塚日奈として……か」
それはもしかすると昨晩、自分が言ったことと|一緒《いつしよ》なのかもしれないと健一は感じた。
シーナという|偶像《ぐうぞう》に|頼《たよ》ることなく、佳奈に望まれる|偽《いつわ》りの日奈でもなく、窪塚日奈として生きていかねばならない。それにエリが前から気づいていたとしても、それは不思議なことではなかった。
エリは好きな人が、その人らしく生きていくことを望んでいた。日奈と会ったことはそんなに無いはずだけど、日奈が自分を偽って生きてることはすぐにでもわかっただろう。
「だから『お願いします』って返事したの」
そして日奈も同じようなことを感じたのだろうことは、その言葉からわかった。
「そしたら転校することになったんだ」
「そう。錦織さんってなんであんなに|段取《だんど》りがいいんだろうね。もう今晩から|寮《りよう》に入っていいことになったんだよ」
「さすがというかなんというか……って、今晩?」
その話は実にエリらしいと思わせるものがあった。でもそれよりも健一を驚かせたのは、それが意味することだった。
「うん。ここには|皆《みな》に|挨拶《あいさつ》しに来たんだ」
そして日奈の答えは、健一の想像を|肯定《こうてい》していた。
「出て行くの?」
それでも健一はそう尋ねずにはいられなかった。そうではないという答えを期待して。
「うん。1305はシーナの部屋だから」
でも日奈はハッキリと|茶化《ちやか》したりもせず、健一の望まぬ返事をする。
「そうだね。そうなんだよね」
日奈の言うとおり1305はシーナの部屋だったのだ。窪塚日奈の部屋ではない。
自分に正直に生きることを選んだ日奈にとっては必要のない、いや、むしろあってはならないものなのだ。
感情の話をすれば、健一は日奈には出て行って欲しくはなかった。でもそれを口にしてはいけないと健一は|理解《りかい》してもいた。
日奈に自分を偽らずに生きうと言ったのは自分なのだ。そしてそうするべきだということには|迷《まよ》いはなかった。
ただ、それが自分の前から日奈がいなくなることだと。それに気づいてなかっただけだ。
「ごめんね、健一。いつも|応援《おうえん》してもらってばっかりで」
日奈はきっと健一が何を考えているかわかっているに違いなかった。
でなければ、いつもとは言わなかっただろう。応援という言葉も使わなかっただろう。
「応援しかできなかったけどね」
だから健一はやはり日奈を引き|留《と》めるようなことはできなかった。
「これからも応援してくれる?」
それが今までの通りという意味でないことはわかっていた。
「もちろんだよ、日奈は俺の親友なんだから」
それでも笑って見送るしかないのだとわかっていた。
「ありがとう、健一」
そしてそれはきっと日奈もわかっていた。
でも二人は笑うしかなかった。
「……おや、窪塚君、その髪型はどうしたのだね?」
そんなところに刻也がやってきたのは、もしかすると偶然ではなかったのかもしれない。
「思い切って切っちゃいました」
これ以上、二人で話していれば、健一か日奈のどっちかが言うべきことでないことを言ってしまったかもしれない。
「それにしたって|随分《ずいぶん》と思い切ったことをしたものだね」
「失恋しちゃったんです」
日奈はそう言って笑う。健一はそれにはさすがにぎょっとした。まさか佳奈とのことをそんなにもあっさり話せるまで元気になってるとは思っていなかった。
「そ、そうだったのかね。それは変なことを聞いてしまったな」
刻也はそこまで|事情《じじよう》を理解してないだろうが、やはり|驚《おどろ》いてた。刻也からすれば本当に|寝耳《ねみみ》に水というヤツだろう。
「すみません、びっくりさせちゃって」
「いや、まあ、別に、びっくりするぐらいは|構《かま》わないが……」
刻也はそう言いながらもかなりうろたえてる様子だった。そういうことを他人に言われることにあまり|慣《な》れていないのかもしれないと健一は思う。
「あと、それに関係あるようなないような感じなんですけど」
「な、なにかね?」
日奈の言葉に刻也が身構えるのがわかった。また何か想像もつかないことを言われるのではないかと思ったのだろう。
「私、歌手になるので、|芸能《げいのう》活動に理解のある学校に転校します」
「それはまた随分と|突然《とつぜん》な話だね」
でも刻也は今度はそんなには驚かなかった。
「その学校は寮があって、私、そこに入ることになりました」
「寮……ということは、けっこう遠いところなのかね?」
「ここからですか? |仲野《なかの》ですから、そんなでもないと思いますけど」
それでも|山手《やまのて》線を|挟《はさ》んで反対側。|神宿《しんじゆく》より先だから、一時間はかからないまでもそれなりに時間はかかる。
「仲野なら通学できる|範囲《はんい》のようにも思えるが……どうやら私が言うことではないようだ」
刻也が|異論《いろん》を|唱《とな》えようとしながらも引っ|込《こ》めたのは、彼がまさに家が|側《そば》にあるのに、ここに住んでることに思い当たったからだろう。
それできっと、そこに何か事情があるのだと刻也は察したのだ。
「私、けっこう朝は弱いんですよ」
「では、学校は近い方がいいかもしれないな」
そして二人はその|件《けん》でそれ以上、つっこまないことにしたらしい。
「それでその、窪塚君。転校というのはいつになるのかね?」
そのせいだろう刻也の話題が少しだけ|戻《もど》る。
「|入寮《にゆうりよう》が今晩なんです」
「……今晩かね」
「と言っても、ここから持って行くものとかないし、家の荷物も置きっぱなしにするつもりなので、本当、私が寮に行くだけなんですけどね」
「とすると、ここに来たのは|挨拶《あいさつ》のためということか」
その挨拶がどういうものかは刻也はすでにわかってるようだった。
刻也にとってはそれは想定内のことだったのかもしれない。
いつかこんな日が来る。そのことは刻也に|限《かぎ》らず、ここに住んでいれば|誰《だれ》でも感じていたことなのだから。
「はい。綾さんにはもう話したので、後は有馬さんですね」
「では、有馬君と話したら行くのかね?」
「そのつもりです」
「そうか。事前に言ってくれていれば送別会くらい|企画《きかく》したのだが……まったく、こんなんでは管理人|失格《しつかく》だな」
「いいですよ、そんなの。|逆《ぎやく》に|寂《さび》しくなっちゃいますから」
「それはそうかもしれないが……君とは最初、ぎこちなかったこともあって|歓迎会《かんげいかい》も出来てなかったからな」
「……歓迎会なんてしてたんですか?」
「有馬君が来た時はね。だが考えてみれば、その時だけだったな」
刻也は少しその時のことを思い出してるらしく、|視線《しせん》が少し上にずれた。
「あの時はキムチ|鍋《なべ》食べたんですよね」
だから健一は刻也の代わりに話に加わることにする。
「健一が作ったの?」
「うん。それで有馬さんがニコニコしながら食べてるものだから、|八雲《やくも》さんは有馬さんのことを、こんなに|可愛《かわい》い女の子だと知っていたかって言い出して」
健一はそんなこともあったなとぼんやりとその時のことを思い出す。
「明るい|女性《じよせい》だと知っていたかと言ったのだ。可愛いとかそんな話はしていない」
でも刻也にとってはそれはぼんやりとでは|許《ゆる》せない|状況《じようきよう》だったらしい。
「あ、そうでしたね。それで綾さんにからかわれて……」
でもその時もなんだかそんなやりとりがあったなと思うと笑ってしまう。
「何も窪塚君の前でその話を|掘《ほ》り起こす必要はないと思うのだが」
「……すみません」
だが刻也にとってはやはり笑い事ではなかったらしく、|怒《おこ》られてしまう。
「それで思い出したが、綾さんは何か言ってたかね?」
そんなこともあって刻也はまた話を少し戻す。
「日奈ちゃんは|偉《えら》いねって、|抱《だ》きしめてくれました」
「そうか。ある意味、あの人らしいという気もするが……ふむ」
刻也は日奈の返事に何か思うところがあったらしく、一人|納得《なつとく》する。
「私、偉いですか?」
それで日奈はそんなことを|尋《たず》ねる。
「うん?」
「私は綾さんがどうしてそう言ったのかわからなかったんですけど」
「私も|実際《じつさい》のところはわからない。綾さんと私はあまり|似《に》てるとは言えないからね」
「そうですよね」
「でも似てるところもある。二人とも弱い人間だから、やるべきことがわかっていても出来ないのだよ」
刻也の言葉に日奈は少し|驚《おどろ》いた顔を見せる。
「……そうとは思えませんけど」
「いや、そうなのだよ。だからそれが出来る人間には|敬意《けいい》を|抱《いだ》かずにはいられないのだ」
刻也はそう言って人差し指で|眼鏡《めがね》を持ち上げる。
「敬意ですか」
日奈はぴんと来ないという顔をしながら、健一の方を見る。
「|俺《おれ》も日奈はすごいと思うよ」
今朝の日奈からこんなことになるなんて、|想像《そうそう》も出来なかった。
もし自分が日奈だったらと健一はそう考えて、1303に引き込もって冴子の|隣《となり》で泣いているんじゃないかと想像する。
「もしそうだとしたら、それは健一のおかげだよ」
日奈はシーナと同じことを言う。その言葉はきっとお世辞でも何でもなく、本当のことなのだろうと健一は感じる。
でも、それでも自分は何を出来たのかと考えてしまう。
日奈は自分で動いて行き止まり、でも自分で出口を見つけて歩き出した。健一はその側でそれを見ていただけだ。
「俺は側にいただけだよ」
だからそれを健一は正直にロにする。
「側にいて、ちゃんと私を見てくれてた。そんなことしてくれたのは、健一だけだよ」
でも日奈は笑ってそれを|褒《ほ》めてくれる。
「側にいて……」
ちゃんと私を見てくれてたそれが日奈にとって大きな力になっていたというなら、それは大切なことだったのかもしれない。
日奈の側にいただけ。でもたとえ側にいても言葉が、心が|通《かよ》わないことだってある。
|逆《ぎやく》に側にいなくたって、|届《とど》く言葉もあるだろう。
「そう。だから、ありがとう、健一」
日奈はそう言うと健一の側に歩いてきて、彼を抱きしめる。
「ひ、日奈っ!?」
健一が驚いてる間に、そっと日奈はまた|離《はな》れていく。
「これが私の最後のわがまま」
しかし一番驚いていたのは、刻也の方のようだった。
「……君たちはその、そういう関係だったのかね?」
かなり|混乱《こんらん》した様子でそんなことを尋ねてくる。
「なんですか、それ?」
でも日奈にとってはそこまで驚くようなことではないらしい。むしろ不思議そうな顔をして聞き返す。
「いや、その……|忘《わす》れてくれたまえ」
刻也はそれで|不穏当《ふおんとう》なことを言ってしまったと感じて言葉を引っ込めようとする。
「八雲さんもして|欲《ほ》しいんですか?」
でも日奈はそれを|許《ゆる》してはくれないらしい。
「い、いや、けっこうだ。私は……君とはあまり仲良かったわけではないしな」
だから刻也はさっき以上に|慌《あわ》てた様子で日奈の|提案《ていあん》を|拒否《きよひ》する。
「八雲さんって冷たい人ですね。私はけっこう八雲さんには親近感を覚えてたんですけど」
「……いや、その。私だって別に君のことが|嫌《きら》いだと言ってるわけではなく」
「抱き合う|程《ほど》、仲良くはないってことですよね」
日奈はそう雷うと意地悪そうに笑って、健一の方を見た。
「日奈はそれくらい仲良かったつもりみたいですけど?」
だから健一は彼女の|視線《しせん》を受けて、刻也の方へと話題を|渡《わた》す。
「絹川君、君までそんなことを言うのかね?」
刻也がそれで|困《こま》った顔をする。でも別に健一としても|嫌《いや》がらせでこんなことをしてるわけではなかった。
もう最後かもしれない。そう感じていたからこそ、日奈に協力してあげたいと思ったのだ。
「八雲さんは|意識《いしき》しすぎなんですよ。私なんかのことでドキドキするなんて変ですよ」
日奈はそう言いながらゆっくりと刻也の方へと歩き出す。
「……いや、君なんかというが、君はその……かなり……|可愛《かわい》い方だと……思うのだが……」
じりじりと刻也は後ろに下がっていく。
「八雲さん、私のことそういう目で見てたんですね」
「……そ、そういう目とはなんだね。君が自分のことを|卑下《ひげ》するから、それを否定しただけで、私は別にやましいことなど少しも考えてはいないし、それに」
刻也が何か言い|訳《わけ》を続けようとした時、日奈がすっと彼の|胸元《むなもと》に飛び込むのが見えた。
「……!」
そして日奈は刻也に|抱《だ》きついて彼の|胸《むね》に顔を|埋《うず》めた。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか。私だって|傷《きず》つきますよ?」
「す、すまない。ただ私はこういうことに|慣《な》れてないだけで……別に嫌がってるとかそういうことではないのだが……」
「それじゃ八雲さんから抱き返してください」
「……そ、それは」
「や、やっぱり嫌がってるんですね、私がこういうことしてること」
「そ、そうではない。ただ、その……絹川君だって一方的にされてただけだし……」
「健一には今朝、たくさん抱きしめてもらったから」
「た、たくさん抱きしめてもらった……とはどういう意味だね? いや、答えなくていい。それは二人の間の話だし、私が今置かれた|状況《じようきよう》とは関係ないのだし、私が聞くようなことでもないと考える」
刻也の|身体《からだ》は|硬直《こうちよく》してるようだが、その口からは小さい声だが続々と言葉が出てくる。
「もう少しぎゅっと抱きしめていいですか?」
「……そ、それなら私から抱きしめる方がマシなような気がするのだが」
刻也のその言葉を聞いて改めて見てみると、刻也と日奈はかなり|密着《みつちやく》していた。
「じゃあ、そうしてください」
「しかし……」
「そうしてください。さもないと……」
「わかった。わかったから、もう何もしないでくれたまえ」
刻也は観念したらしく、日奈の|背中《せなか》へと自分の手を|伸《の》ばしていく。
しかしその時、1301のドアが音もなく開いた。音もなく開いたので、背を向ける形になってる刻也にはわからなかったらしい。
「あ。えっと……こんなことになってるとは思ってなくて……」
刻也がドアが開いたのに気づいたのは、そんな声と共にドアが|閉《し》まった時のことらしい。
「あ、有馬君!?」
そして声だけで誰がドアを開けたのか刻也にはわかったらしい。
「ご、|誤解《ごかい》だ。別に私と窪塚君は何でもなくて! いや、|実際《じつさい》に抱き合おうとしてたが、それにはちゃんと理由があってだね」
そして聞こえてるのかどうかわからない言い訳を彼は|張《は》り上げる。
「あははははは」
そんな様子に日奈は笑いながら刻也の元から|離《はな》れる。
「く、窪塚君?」
「そんなに慌てることないじゃないですか、八雲さんも」
そう言いながら日奈は冴子が閉じたドアを開けに行く。
「有馬さん。有馬さんにも聞いて|欲《ほ》しい話があるんです」
そしてまだ|廊下《ろうか》にいたらしい冴子を日奈は|呼《よ》び止める。それに冴子がどんな返事をしたのかは健一には聞こえなかった。
「私、このマンションを出て行くんです」
聞こえたのは日奈の言葉だけ。今までハッキリとは口にしなかった別れの言葉だった。
「これは有馬さんが使って」
そう言って日奈が冴子に取り出したのは黄色っぽい|金属《きんぞく》の|鍵《かぎ》だった。
1305と|刻印《こくいん》の打たれた、|幽霊《ゆうれい》マンションの部屋を開けるためのものだ。
日奈を見送るために健一たちが外まで出た時、そう言って日奈は鍵をポケットから出した。
「ええ?」
冴子にとってもその|提案《ていあん》は意外なものだったらしく、日奈の顔を見てその意味を読み取ろうとしているらしい。
「やっぱり女の子が男の子と同じ部屋で暮らしてるのってよくないよ」
「……そうね」
そう言いながらも冴子は日奈から鍵を受け取る気はないのか、手を伸ばしたりはしない。
「もう私には必要のないものだから」
でも日奈は冴子に受け取って欲しいと言葉を重ねる。
それを見ていて、健一はきっとあの鍵が無ければもう、日奈は十三階には来れないのだろう
と思った。そして自分も鍵を|失《な》くすようなことになればきっと。
つまりは鍵を|渡《わた》すということは、日奈にとってマンションとの決別の意思|表示《ひようじ》なのだ。
「それなら俺がもらうよ」
それを思うと健一はやはり受け取ってあげるべぎだと感じた。
「そういうことなら、私が受け取るわ」
でも冴子は健一の考えにはどこか|異論《いろん》があったらしい。
「うん。私も有馬さんが持った方がいいと思う」
そして二人はそれで|納得《なつとく》したらしく、1305の鍵は冴子の元に渡る。
「1303は絹川君の思い出の部屋だから」
冴子は健一のことを|気遣《きづか》ったのか、健一の方を見てそう|呟《つぶや》く。
しかし健一にすれば、そこをどちらかが出て行くなら、自分の方だと言われたようで、|微妙《びみよう》に落ち着かない。
「もうここには来ないけど……別に死ぬ|訳《わけ》じゃないから、また会うこともあるよ」
そしてそんな健一を心配したのか、今度は日奈がそんなことを言う。
「そうだね」
別に外国に行くってわけじゃない。健一の両親が住んでるところとそう大差のない場所に行くだけだ。十分に会える|距離《きより》だ。
だが健 の顔は暗くなる。気にしてるのはそんなことではないのだ。
日奈と会えなくなることだけを心配してるわけではない。ここにいる冴子や刻也、それに今はいない綾ともこんな日が来る。それを改めて感じてしまったのだ。
「もう会いたくない?」
でも日奈にそう聞かれてしまうと、そんなことばかり思ってもいられない。
「会いたいに決まってるだろ」
日奈だってそんなことはわかってると健一は感じる。
「じゃあ千夜子ちゃんに|怒《おこ》られないように|許可《きよか》をもらっておかないとね」
でも日奈はそう言って笑う。
「千夜子ちゃんはそんなことで怒ったりしないよ、きっと」
だから健一は思ってることと|違《ちが》うことをしゃべることにする。
「絹川君、駅まで送ってあげたら?」
そこに冴子からそんな提案が飛び|込《こ》んできた。それは同時に冴子はここでお別れという意味でもあった。
「そうですね。日奈がそれでいいなら」
そう言いながら健一は刻也の方を見た。しかし彼は何か言おうとはしていない。
「ちょっとでいいよ。駅までだと帰るの大変だろうし」
それに気づいたのか日奈はそう言って、少し三人と距離をとった。
「今までありがとうございました」
日奈は頭を下げて、お礼の言葉を告げる。|再《ふたた》び、三人を見た日奈の目には|寂《さび》しさの色が宿っていた。
「こちらこそ。君には色々と勇気をもらったよ」
刻也はそれでもいつものように、言葉を返した。
「私も……楽しかった。ライブには最後までいけなかったけど」
それに冴子も続く。
「それじゃ、行こうか」
日奈が二人の言葉を聞いたのを|確認《かくにん》して、健一は日奈の方へ歩き出す。
「うん」
そして日奈は軽く、刻也たちに手を|振《ふ》って別れを告げる。
「さよなら、八雲さん、有馬さん」
そして日奈は二人に|背《せ》を向けて歩き出した。健一は少し速度を上げてその|隣《となり》に|並《なら》ぶ。
「さようなら」
そんな健一の耳に、冴子たちの声が|届《とど》く。
それはまったく同じ、別れの言葉。だから健一はわかってしまった。
もう日奈は|幽霊《ゆうれい》マンションに来ない。それを二人が|理解《りかい》してるということを。
「さよなら――だもんな」
そしてそれはきっとこういうことになることを、二人は以前からなんとなくでも感じていたということなのだろうと健一は感じた。
綾は昔、健一に教えてくれた。
このマンションに住んでる人間はいつか大人になって出て行かなければならない、と。
健一はそれがまだ先のことだろうと思っていた。でも日奈にとってのそのいつかは今日やってきた。日奈が佳奈にその気持ちを|否定《ひてい》されたその次の日に。
それが大人になるということだったんだろうか。健一はそんなことを考えてしまう。
「有馬さんって、いい|娘《こ》だよね」
でも日奈はそれとはおよそ関係のなさそうなことを口にする。
「え?」
「有馬さんはすごく|優《やさ》しい娘だったんだなって」
「……まあ、そうかな」
別に|異論《いろん》は無いけれど、健一はなんの話なんだろうかと考えてしまう。
「私はもっと、自分は自分、他人は他人って感じの人かなあって思ってた」
「それはそれである気もするけど」
「私は今日の今日まで、うん、違うな、さっきまで。さっきまで有馬さんのことをろくに見てなかった。なのに有馬さんはずっと私のことを見てくれてた」
日奈はそう言いながら、健一の顔を見る。
「そうなの?」
「私のことをちゃんと見てくれてるのは健一だけってそう思ってた。でもそれは私が佳奈ちゃんのことしか見てなかったから気づかなかっただけだった」
日奈は今度は照れたらしく、少し|視線《しせん》を|逸《そ》らした。
「お母さんも、錦織さんも私のことを見ててくれてた。八雲さんは私のことを心配してたし、綾さんだって私のことを|応援《おうえん》してくれてた。思い出せば|早苗《さなえ》さんだって、私が佳奈ちゃんとは全然違うってわかっててくれたんだよね」
「そうだね」
でなければ、今、日奈はこうしてないだろうなということを健一は感じた。
「|嘘《うそ》っていうのは、やっぱり|薄《うす》っぺらいものなんだね」
「それはそうだろうけど」
「ちゃんと見てる人は|騙《だま》…せないよね、やっぱり」
日奈はそれを少し悲しげに|呟《つぶや》き、少し息を|吸《す》って続ける。
「騙せるのはちゃんと見てない人だけだって、それがわかったんだ」
「ちゃんと見てない人……だけか」
それが佳奈のことを|指《さ》してることはすぐにわかった。でも健一はそのことよりも、もし日奈の言うとおりなら、嘘というのはなんのためにつくのだろうかと考えてしまった。
本当に騙したい人には通じないのなら、そもそも嘘をつくことに意味なんか無い。
「だから私は正直に生きていくことにしたんだ。|適当《てきとう》な……ううん、|真剣《しんけん》な嘘であっても、それを信じる人は私のことなんかどうでもいい人なんだって、それがわかったから」
日奈はシーナがそうしていたような|不敵《ふてき》な|笑《え》みを|浮《う》かべる。
「……それが日奈にとっての大人になるってことだったのかな」
日奈の笑みは強がりだったのかもしれないけど、健一にはそれだけとは思えなかった。日奈は|傷《きず》ついたし、それが|癒《い》えたわけでもない。
でも彼女はもう立ち上がって歩き出したのだ。まだぎっと立ち上がるので|精一杯《せいいつばい》のはずなのに、彼女は前に進むことを選んだ。
「大人になるって?」
「綾さんがさ、あのマンションはいつか大人になって出て行かなければいけないって、そんなことを言ってたんだ。それで日奈がこうして出て行くのを見て、ああやっぱりそうなんだって、そう感じたんだ」
日奈が出て行くのはなんとなくではない。それは|確《たし》かなことのように健一には思えた。
「……私はちっとも大人じゃないよ」
でも日奈は少し自信なさげな顔をする。
「今は|違《ちが》うかもしれないけど、大人になろうって日奈は思ったんじゃないかな」
健一はそう言ってから、改めて、そういうことだったのかと感じる。
ずっと大人になれたら出て行くとそう考えていた。だからそんな日が来るとは健一には|想像《そうそう》できなかった。でも日奈のように、大人になろうとそう思える日なら、そう遠くないうちに来るのかもしれない。
「もしそうなら、それはやっぱり健一のおかげだよ」
「|俺《おれ》は……何が出来たのかな」
日奈と|一緒《いつしよ》に歩いてきた。そう思っていたけど、改めて考えると実は一緒に歩いてくれていたのは日奈の方なんじゃないかと健一は感じる。
日奈は自分や、他の住人たちに|比《くら》べてずっと強い人間だ。だから彼女は一番最後に来て、一番最初に出て行くのだ。
健一が|幽霊《ゆうれい》マンションで|暮《く》らすことになったのは、蛍子とのことを両親に知られたせいだった。それで蛍子と引き|離《はな》されたせいで、健一は1303を自分の部屋にした。
シーナが十三階の住人だと知ったのは、ちょうどその|頃《ころ》だった。健一は今でも幽霊マンションから離れることができずにいるのに、日奈は今日、そこを出て行く。
日奈は落ち込んでいる健一の前に|現《あらわ》れて、元気を|与《あた》えてくれたのだ。
日奈がいなければ、健一はまだ落ち込んで暮らしていたかもしれない。
今も冴子の|隣《となり》で泣き言を言ってたかもしれない。
なのに、日奈は健一に|感謝《かんしや》してくれる。
「私が私だって気づかせてくれた」
「……私が私」
「シーナじゃなくて、窪塚日奈の方がよっぽど嘘だって。それを健一が教えてくれた。それが私にとっては一番、必要なことだったんだよ」
日奈はそれを本当に|嬉《うれ》しそうに笑みを浮かべて口にする。
「だから日奈は出て行くんだね」
健一はそれが本当にいいことなのか少し考えてしまった。
「うん」
でも日奈はそんな不安は少しも|抱《かか》えていないようだった。日奈は歩くのを止めて、その場でくるっと回って、また笑った。
それで健一も足を止めて日奈の顔を見る。
ここでお別れなんだなと健一は直感した。駅まではまだかなりあるけれど、もう二人で一緒に歩く時間は終わったのだ。
「|寂《さび》しくなるね」
だから言わないようにしていた言葉がつい口から|漏《も》れた。
「うん」
でも日奈はそれを|素直《すなお》に受け止めてくれた。
「でも、もう会えないわけじゃないよね」
それでも健一はやっぱり|確認《かくにん》したくなってしまう。
「会いたくなったら電話して」
日奈はそう言って、ポケットからPHSを取り出す。それは健一の持ってるモデルで色が白のものだった。
「日奈、PHSなんて持ってたんだ」
「錦織さんが持っててくれると助かるって、|貸《か》してくれたんだ。健一の番号も登録しておいてくれてたから」
そう言って日奈はPHSを|操作《そひつさ》し始めた。その様子を見ていたら、健一のPHSが鳴った。
「……っと」
健一は|慌《あわ》ててそれをとろうとするが、着信音はすぐに|止《や》む。
「これで、健一のPHSに私の番号が伝わったんだよね?」
「……多分」
健一はいまいち自信がなかった。なので念のため、PHSを取り出して日奈の番号が着信|欄《らん》に残ってるか確認する。
「じゃあ、健一ともこの辺でお別れだね」
そしてそれが|済《す》むと日奈のそんな言葉が聞こえた。
「俺は駅まで行ってもいいけど」
「いいよ。そこまで|優《やさ》しくされると、決心がくじけそうだから」
日奈は少し悲しげに笑う。
「なら、ここまでにしておくよ」
ここで引き|留《と》めれば。そうも健一は思った。
日奈だって望んで出て行くわけではない。ならもう少し、一緒にいても。そうも思う。
でも、やっぱりそれは出来なかった。
日奈は前に進むことを決めたのだ。なら、健一は親友としてそれを|応援《おうえん》してあげたかった。
「うん」
そしてそのことは日奈にもきっと伝わっていた。
冴子だって刻也だって、きっと綾だって、日奈にもう少し残っていて|欲《ほ》しかったはずだ。でも三人は日奈を引き留めようとはしなかった。
笑って見送ったのだ。ならば、健一だってそうしなければいけない。
「じゃあね、健一」
だから日奈の口にした別れの言葉は短かった。
「元気でね、日奈」
それでも健一は冴子たちと同じように「さようなら」とは言えなかった。
「……うん」
それで日奈は少し|戸惑《とまど》ったようだった。
「どうしたの?」
「えっと……一つだけ言っておかないといけないことを思い出したんだけど」
そう言いながら、日奈はなにか考えてる顔をした。
「|焦《あせ》らなくてもいいよ。俺はまだ、ここにいるから」
健一はそう言いながら、別にもう話なんて無いんだろうなと思った。ただ、ちょっと別れが|名残惜《なごりお》しくなってしまった。それだけなのだ。
「健一に|後悔《こうかい》させるのが目標だから」
そのはずなのに、日奈は健一の予想を|超《こ》えることを言い出した。
「……後悔って?」
引き留めなかったのを後悔するって意味だろうかと健一は考えてしまう。
「|格好《かつこう》いい女になって、あの時、エッチしておけばよかったって後悔させる。それが私の当面の目標だから」
日奈は健一を指さして、それをビシッと告げる。でもその後、すぐに自分で何を言ってるのか|理解《りかい》して顔を真っ赤にする。
「しないよ、そんな後悔」
だから健一は少し笑いながら、さらに続ける。
「だって日奈は親友だから。どれだけ格好いい女になったって、|誇《ほこ》らしく思うだけだよ」
日奈はそれを聞いて少しびっくりしたようだった。でも、しばらくして笑い始める。
「うん。それが健一だよね」
「きっと、そうなんだろうね」
健一としてはそう思って、そう答えた以上、その|結論《けつろん》しかなかった。
「元気でね」
そして二人は同じ言葉を}|緒《いつしよ》に告げて、別れた。
それ以上はもういらなかった。話すべきことはもう話したし、シーナの言葉が心の中で|響《ひび》いていた。
俺たちはまだもっともっと遠くに行くんだぜ? そうシーナは言った。
もう|隣《となり》を一緒に歩いてはいけないのかもしれないけれど。でもお|互《たが》いの道はもっと先まで続いてる。
だから、歩き出さなければいけない。ずっと立ち止まっているわけにはいかない。
日奈がそうしたように。それが|幽霊《ゆうれい》マンションを出て行くことに|繋《つな》がるとしても、いつまでも冴子に|寄《よ》りかかって生きているわけにはいかない。
「……父さん」
そして健一が決意と共にやってきたのは、自分の家だった。
蛍子とのことがあって以来、|不在《ふざい》がちだった両親はもちろん、蛍子も自分も住まなくなってしまった場所だ。
「やっと会えたな、健一」
なのに今日は父親、|啓一《けいいち》がそこで待ちかまえていた。
「どうしたの、今日は?」
父親と会ったのは、蛍子との|一件《いつけん》以来だった。蛍子によれば繹親は健一のことを|忘《わす》れてしまっているらしいということもあって、父親も同じく、健一のことなど忘れてるものだと思っていた。
だがその言葉からすると、父親はずっと健一のことを|探《さが》していたようだ。
「とりあえず、家の前で立ち話もなんだし、中に入ろうか。|一応《いちおう》、自分の家なんだからな」
だが父親はとりあえず、何か問いただそうとかそんな気はないようだった。でもなんだか健一にはそんな|提案《ていあん》もどこか空々しく思えてしまう。
「そうだね」
だから健一は特に反論もせず、父親に続いた。
「それで、どうしたの、今日は?」
そして二人は|食卓《しよくたく》に|座《すわ》って話を始めた。
「まず何から話せばいいか」
だが健一がそうであるように、父親の方もこんな風に改まって話すということになれていないらしい。
それで健一は、こうして父親と二人で話すなんていつ以来だろうと考えるが思い当たらない。
少なくともここ二、三年の話ではないらしい。
「そんなに色々あるの?」
「なにせ、今までずっと話せなかったからな」
父親の言う、今までというのはいつからのことなんだろうと健一は思う。|普通《ふつう》に考えれば蛍子とのことがあってからだろうが、どうも生まれてこの方くらいの意味かもしれないなんて思えてしまう。
「だったら話しやすいのからでいいよ」
それでも健一はそんな|疑問《ぎもん》は口にしない。さっぎ父親のことを空々しく感じたせいか、自分の|態度《たいど》もそれに近いように感じられる。
「そうだな。とりあえず、今日はと言われた件についてだが、私はあれから毎日、少しずつだがこの家に来るようにしていた」
「……そうだったの?」
健一は|驚《おどろ》きながら、それなら「やっと会えたな」と父親が言った意味を理解する。
「だがお前はずっといなかった。学校が|遅《おそ》くなったり、友達の家にいる|可能性《かのうせい》もあったから、時間を変えて遅めに来た時もあった。それこそ終電ギリギリの時もあった。でも健一、お前に一度も会えなかった」
「それは、ごめん」
健一はそこまで父親が自分のために努力をしてるとはついぞ思っていなかった。
以前から家にはろくにいない人だった。仕事が|忙《いそが》しいらしく、仕事場のすぐ|側《そば》に部屋を借りて|暮《く》らしている。そんな人が会えなかったとは言え、毎日、健一のために時間を|割《さ》いて会いに来てくれてるとは|想像《そうそう》もしなかった。
「いや、別に|怒《おこ》ってるわけではないんだ。ただ、お前の疑問に答えただけだ」
「……じゃあ、その話はもう終わり?」
「そうなるな」
健一がまさかそんなことはないだろうと思った|確認《かくにん》ごとに、父親はうなずいて次の話題を考え始めた。なんだか|妙《みよう》なことになってきたなと健一は感じる。
そして健一は別のことを思い出す。
蛍子がPHSを送ってきた時のことだ。そこには父親には気づかれないようにしろという注意の一文があった。その時どころか、今の今までなんのことかわからなかったが、さっきの話でやっと理解ができた。
父親はいつもこの家に来ていたのだ。ということはタイミングが悪ければ、蛍子が両親に|内緒《ないしよ》で会おうとしてたことがバレる。そんな|危険《きけん》もあったのだ。
しかしそれはそれで妙な話のような気もした。もし父親が毎日来ていたのなら、そして健一が家にろくにいないと気づいていたなら、どうして蛍子はそれを知らなかったんだろうか? 父親は健一がいないことを|誰《だれ》にも話してなかった。そういうことなのだろうか?
「そして次は話しづらいが話さねばならないと思っていたことだ」
だが父親はそんなことには|興味《きようみ》がないらしく、なにやら別の話題を切り出した。
「……うん」
見れば父親は|真剣《しんけん》な顔をしていた。
それは健 にとって初めて見る顔だった。思い出してみれば父親はいつも|余裕《よゆう》のある態度を|示《しめ》す人だった。
でも蛍子とのことを知った時、そんな人が泣いた。だから健一はそれにショックを受けたのだと思う。母親はともかく、父親が泣くなんて想像も出来なかったことだった。
「私はずっと|嘘《ほつそ》をついてきた」
父親の告白。それに健一は何の話だろうと顔をしかめた。
「嘘?」
「そして自分のことしか考えられないエゴイスティックな人間なのだ」
しかし父親は健一の疑念に|触《ふ》れず、さらに別の話を始めたように見えた。
「何の話かわからないよ」
「蛍子とお前のことを知った時、私は泣いた。もうこんなことをしないでくれとも言った。だがね、あれはお前たちの|将来《しようらい》を心配して言っていたわけじゃないんだ」
|尋《たず》ねて引き|留《と》めようとしても、父親の話はさらに健一の|理解《りかい》の外へと向かっていた。
「……どういうこと?」
「あれは私が昔のことを思い出して、それで取り|乱《みだ》したからこその言葉だったのだ」
父親はそう言って少し息を|吸《す》った。それで健一はやっと話が自分の方に向かってきたのを感じる。
「昔のこと?」
「私も健一と同じことをしたんだ」
父親の言葉に健一は息を飲んだ。
「それって、その……」
「実の姉と肉体関係を持った。そして姉さんは死んだ――」
父親はまた少し息を吸った。
「自殺をしたんだ」
よく見ると手が|震《ふる》えていた。それはずっとずっと昔、きっと健一が生まれるより前の話だろうに、父親はそのことを思い出すだけで平静ではいられないらしい。
「自殺?」
「私が育った家は地元ではそれなりに大きな家だった。|田舎《いなか》の大きな家というのは、今からは想像もできないような|堅苦《かたくる》しくて古くさいものなんだよ。ましてやお前どころか、蛍子が生まれるよりももっと前の話だ。|女性蔑視《じよせいべつし》なんて、当たり前の話だった」
父親はそこまで言って、健一の方をちらっと見て、また続ける。
「姉さんは父に言われるままに|嫁《とつ》いだ。別の街の同じくらい大きな家にだ。しかし姉は一年もしないうちに帰ってきた。嫁ぎ先での|暴力《ぼうりよく》に|耐《た》えかねてのことだった」
「嫁ぎ先も古い考えの家だったんだね」
「そうだ。だが、父にとってはそれは|許《ゆる》せないことだった。助けを求めて帰ってきた姉さんを、家の|恥《はじ》だと父は|幽閉《ゆうへい》した。父にとって、女性は男の望むとおりに生きるべき|存在《ぞんざい》だったんだろうな。だから姉さんが帰ってきたことを父は周りに知られたくなかったのだ」
「だからって|閉《と》じこめるなんて……|傷《きず》ついて帰ってきたのに……」
「それでも姉さんは|逃《に》げたりはしなかった。いずれ父の|怒《いか》りも|収《おさ》まるとそう信じていた。でも父はそんな人じゃなかった。生まれた時から女性に|人格《じんかく》なんて|認《みと》めてこなかった人だ。姉さんのことも人脈を広げる道具|程度《ていど》にしか思ってこなかったんだろう」
父親の顔はみるみる怒りの顔に|染《そ》まっていった。それほどの|憎悪《ぞうお》というものを自分の父親が|秘《ひ》めていたことに健一はまた|驚《おどろ》きを覚える。
「それで……自殺してしまったの?」
「いや……姉さんが自殺したのは私のせいなんだ」
だがその言葉と共に父親の怒りはふっとどこかに消えてなくなった。代わりに別の|感情《かんじよう》、おそらくは悲しみが顔に|浮《うつ》かぶ。
「姉さんは父に本当に許されないとわかると、|次第《しだい》におかしくなっていった。それも無理はない。姉さんにとっては家しかなく、家は父に|支配《しはい》されていたのだから。その父に|否定《ひてい》されてしまったら、自分の|居場所《いばしよ》が世界のどこにもないということになるのだから」
「……それはわかるよ」
健一は父親の姉に日奈の|姿《すがた》を見た気がした。
それだけのために生きてきた人間が、それを否定される。それがどれだけ|酷《こく》なことかは|想像《モうぞう》するだけでも|胸《むね》が|痛《いた》む。
「私は姉さんのことをずっと愛していた。でも手の|届《とど》かぬ存在だと自分に言い聞かせてきた。
だから父に否定されておかしくなってる姉を、それと気づぎながらも手に入れようとしてしまった。姉が本心で自分のことを好きになってくれるはずはないとわかっていたのに……いや、わかっていたからこそ、私はそうせずにはいられなかった」
だが父親の話は健一のそんな|感傷《かんしよう》さえ許さない重苦しいものだった。
「|支《ささ》えを失った姉さんに手を差し|伸《の》べることで私は自分の願望を満たした。それが身勝手なものだと理解しながらも。思えば私はやはりあの父の|息子《むすこ》だったのだな。姉さんのことを愛してはいたが、姉さんの気持ちを|尊重《そんちよう》する気はなかったのだ。姉さんの気持ちなどない方が自分にとって|都合《つこう》がいいとわかっていたのだから」
父親はそう言いながらもガクガクと震えていた。自分のしてしまったことを心の底から|怖《こわ》がってるように健一には見えた。
「それでも姉さんは日に日に元気になっていった。私が姉さんを必要とすることが、姉さんにとっては救いなのだとそう信じてた時期もあった」
だが|違《ちが》った。それが健一にはもう聞かなくてもわかった。
でもそんな父親を|責《せ》める気にはなれなかった。姉に元気になって|欲《ほ》しいと思っていたその気持ちにはきっと|嘘《うそ》はなかっただろう。ただその|手段《しゆだん》を間違えてしまっただけなのだ。
「皮肉なものだ。姉さんは元気になった結果、自殺した。自分の弟が、自分を元気づけるためにしたことが|耐《た》えられなかったのだ。私は許されなかった。姉さんを|慕《した》って、姉さんを思ってしたことが、姉さんを殺したのだ。私は父よりもずっとひどいことを姉さんにしたのだ」
父親はそこまで言うと大きく息を|吐《は》いた。|肺《はい》に残っていた空気を全部|絞《しぼ》り出すように。
「……だから、|俺《おれ》とホタルのことで泣いたんだね」
健一はやっと父親の言葉を|理解《りかい》できたのを感じた。あの時の|涙《なみだ》の|訳《わけ》も、健一たちのことを心配して言ったわけではないという意味も。
「だがお前たちと私とでは全然違うとすぐに気づいた。お前たちは|互《たが》いに気持ちを|通《かよ》わせていた。私のように身勝手な願望をぶつけていたわけではない。だから、そのことをお前に話さなければと思っていた」
「……それって、もしかして俺とホタルのことを許してくれるってこと?」
健一はまさかそんなはずはないだろうと思いながらも|尋《たず》ねる。
「許すもなにもない。私はお前たちを|応援《おうえん》したいんだ」
だが父親の答えはさらに予想を|超《こ》えるものだった。
「応援……って」
「おおっぴらには無理だし、何が出来るのかも今はわからない。だが、私にお前とホタルのことを応援させてはくれないだろうか」
父親はそう言って深々と頭を下げた。
「父さん……」
それは意外どころか|非常識《ひじようしき》にも|程《ほど》のある|提案《ていあん》だろうと思えた。でも健一は|不快《ふかい》には感じなかった。父親が本気でそれを口にしたのが、ちゃんと伝わってきたからだ。
「そしてこう言っておいてなんだが、一つだけ|頼《たの》みがある」
父親は顔を上げ、健一の方をしっかりと見た。
「なに?」
「母さんはお前とホタルのことで本当に|傷《きず》ついている。だからこれ以上、母さんを苦しませるようなことはしないで欲しい。さっきの話と|矛盾《むじゆん》してるかもしれないが、それだけは守って欲しいんだ」
父親のその言葉に健一は、蛍子のことを|想《おも》い出さずにはいられなかった。
父親も蛍子も母親を大事にしていた。自分の幸せよりも、自分が傷つけてしまった人の幸せを願わずにはいられない。そういう人なのだ。
「……もういいんだよ、父さん」
だから健一は父親を|憎《にく》んだりはできなかった。
「健一?」
「もう|済《す》んだことなんだ。父さんたちには悪いと思ったけど、俺たち、あの後、一度だけ会ったんだよ。その時、母さんのことも聞いた。ホタルの|婚約《こんやく》のことももう知ってるんだ」
健一は蛍子が語ったそのことを一つ一つ思い出した。
母親がショックのあまり、健一の|存在《ぞんざい》を|忘《わす》れてしまっていること。
そんな母親に元気になってもらいたくて、好きでもない男と結婚することにしたこと。
「そしてもう会わないって、そう約束したんだ。もうこれ以上、母さんを傷つけるようなことはしたくないから、そうしようって二人で決めたんだ」
健一はそれを口にしながら、この父親の|子供《こども》だからそうしたのだろうなと感じた。
ろくに家にいない父親ではあったけど、やっぱり自分たちは|似《に》ているのだと感じた。顔は母親の方に似ているかもしれないけれど、中身はきっと父親の方に|寄《よ》っている。
「本当に|頼《たよ》りにならない親だな、私は」
だが父親は|嘆息《たんそく》と共に、そんなことを言い出す。
「そんなことないよ。きっと、本当に大事なことだけは父さんに教わったから」
それは別に|慰《なぐさ》めの言葉ではなかった。
父親が|直接《ちよくせつ》何かを教えてくれたことはきっとないだろう。でも父親の存在、生き方から自分でも|意識《いしき》してなかったことを色々と学んでいたのだ。
だから蛍子は結婚することを選んだ。一番、傷ついたのは母親だから、と。
そしてそれを健一が受け入れたのも、やはり父親の|影響《えいきよう》なのだろう。
今日、こうやって本人から聞くまでもなく、父親が母親をもう傷つけたくないことを健一は理解していたのだから。
「子供は親の|背《せ》を見て育つなんて言うが、本当にその通りなんだな。私は背中すら見せてないダメな親だと思っていたが」
父親はそう言いながらも、もう悲嘆に|暮《く》れた顔はしていなかった。静かな|笑《え》みを|浮《う》かべて、健一の方を見る。
「血は水よりも|濃《こ》いってことかもしれないけどね」
だから健一も知らずと笑っていた。父親に対してそんな|冗談《じさつだん》めいたことを言うなんて、きっと初めてのことだった。
「そうだな」
父親が小さく|微笑《ほほえ》むのが見えた。健一はそれで初めて、父親のことが|理解《りかい》できたんじゃないかと感じた。
父親が自分をずっと嘘つきだと言ったことも今なら理解でぎた。
父親は母親のことを愛して結婚したわけではなかったのだ。今でもきっと愛してるわけではないのだろう。
なぜなら父親は今も姉のことを忘れていない。蛍子がそうであるように、何か理由があって父親は母親と結婚しただけだったのだ。
だから、この家には誰も住まなくなったのだ。
両親が家に帰ってこなかったのは仕事が|忙《いそが》しかったからなんかではなく、家族の|振《ふ》りをするのに|疲《つか》れてしまったからだったのだ。
|全《すべ》ては|舞台《ぶたい》だったのだ。|十分《じゆうぶん》以上に広い家も、家族全員で入れる|風呂《ふろ》も、それを本心から望んで手に入れたものではなく、|偽《いつわ》りの家族を|演《えん》じるために必要だと思って作ったものだ。
だから、この家には誰も住まなくなったのだ。
「……そうか」
そしてそこまで考えて健一は、自分がずっと理由もわからず、感じ続けてきたことの理由がわかった気がした。
自分は|恋愛《れんあい》に向いてない。そう思うのは当然だった。
自分の家で演じられてきた愛とやらが偽りであることを、なんとなく理解していたのだ。
|他《ほか》の人間と意見が合わないのも当たり前のことだった。
自分は偽りの愛を見せられて育ったのだから。
「なんだい?」
健一の|独《ひと》り言に父親は|遅《おそ》まきに|反応《はんのう》する。
「父さんは母さんのことを好きで結婚した|訳《わけ》じゃなかったんだなって」
健一はそう返しながら、不思議と自分の心が|穏《おだ》やかになっていくのを感じた。
両親は愛し合ってる訳じゃなかった。それを知って心が安まるというのもなんだかひどい話だが、でもそれが自分にとって望んでいた答えだったらしいことを健一は知る。
「どうやらホタルは私に似てしまったらしいな」
父親はそんなことを言って、また静かに笑った。
一見、それは無関係なやりとりにも感じられた。でも健一は父親が何を言いたいのか理解できた。
父親は蛍子がなぜ|圭一郎《けいいちろう》と結婚することにしたのかちゃんとわかっていたのだ。
父親がそうしたように、母親のためにそうしたことを知っていたのだ。
「もっと早く、話せてたら良かったのかな」
だから健一はそんなことを|尋《たず》ねた。でもすぐに話したとしても、蛍子はきっと圭一郎と結婚したのだろうなと思う。
蛍子も父親も、やっぱり母親を傷つけることは選べない。そして二人がそうである以上、多分、健一にも無理なのだ。
「きっと今日、その|準備《じゆんび》が出来た。そういうことなんだろうと思うよ」
だからなのだろう、父親はもっと早くという|選択肢《せんたくし》はなかったと考えてるようだった。
「今日、その準備が……か」
そしてその言葉には思い当たるところがあった。
今日もまたシーナ&バケッツのライブがあったなら、自分はここには来なかっただろう。来たとしても、父親の話を聞こうとは思えなかっただろう。そして聞いたとしても、こんな気持ちにはなれなかっただろう。
「それで、健一。お前はさっぎ、もう|済《す》んだことだと言ったが」
そして父親は話を少し|戻《もど》すことにしたらしい。
「え? うん」
「やはり協力させてくれないだろうか」
「気持ちはありがたいけど……何をするの?」
|断《ことわ》りたいわけではないが、今更、何をするのか健一には|想像《そうそう》もつかなかった。
「お前たちはもう会わないことにしたのなら、それに協力させてくれ」
だが父親はまたしても健一の想像を|超《こ》えた|提案《ていあん》を始める。
「会わないように協力するってこと?」
「ああ。とりあえず|結納《ゆいのう》の日取りをお前に伝えた振りをするとかどうだろう?」
父親は|悪戯好《いたずらず》きの|子供《こども》のような顔でそんなことを言い始める。
「……それは|確《たし》かに助かるかもしれない」
そうは言いながら、さすがにとんでもない提案だなと健一は思う。
父親が自分の|娘《むすめ》と|息子《むすこ》が会わないように取りはからうなんて、およそありえない話だ。
「後は|結婚式《けつこんしき》だな。その|招待状《しようたいじよう》も私の方で|握《にぎ》りつぶしておこう。圭一郎君が手を回してしまうかもしれないが、なんとかしてみせるさ」
だが健一はそれが自分の父親なんだなと理解していた。そんな|無茶《むちや》なことを|嬉《きき》々として提案する。そんなことをする人だとは|夢《ゆめ》にも思っていなかったが、さっき父親は教えてくれた。
自分はずっと|嘘《うそ》をついてきた、と。
だからもうわかってる。今日までの父親は全部、父親役を演じていただけなのだ、と。
「父さんは、とんでもない悪人だったんだね」
健一はその|状況《じようきよう》にすっとそんな感想をもらした。だがやはり|不快《ふかい》には思わなかった。
どころか、そんな父親であったことが|嬉《うれ》しくてしょうがないのだ。
「ずっと|黙《だま》っていたがね」
そしてそれは父親も|一緒《いつしよ》のようだった。|誇《ほこ》らしげな|笑《え》みがそれを語っていた。
父親は昔からこういう人間だったのだ。でも|押《お》し殺して生きてきた。
子供たちが自分に|似《こ》て、悲しいことになって|欲《ま》しくはなかったから、理想的な父親を演じようとしてきたのだ。
「それも本当、悪人のセリフっぽいよ」
だが健一にとっては目の前の父親の方がずっと好感が持てた。
「そうだな」
だから二人は笑っていた。
絹川家のリビングで、そうして二人が笑うのは初めてのことだった。でも不思議とその状況に健一は|違和《いわ》感を覚えなかった。
「……あれ?」
健一が1301に|戻《もど》ってぎた時、そこには|誰《だれ》もいなかった。
父親とそんなに長い時間話していたわけではないし、いつもそこに誰かいると決まってるわけではないけれど、なんだかアテが外れたと健一は感じる。
「バイトの日じゃないよな」
健一は、だとすれば冴子はおそらく1303にいるのだろうとあたりをつけた。
もしかすると綾の部屋でみんなでテレビを|観《み》てるということもあるが、冴子が日奈との別れの後、のんきにそうしてるとはちょっと思えなかった。
「ただいま」
だがそれよりもずっと想像できないことが起こってるらしいことに健一は1303に戻ってきて気づいた。
「……有馬さん?」
冴子がソファで|寝《ね》ていたのだ。
「有馬さん?」
|呼《よ》びかけても|反応《はんのう》はない。聞こえていて|無視《むし》してるということもないだろう。
そもそも呼びかける必要すら|普段《ふだん》はない。健一が帰ってくれば、冴子は何かしらの反応を返す場合の方が多かった。
「これは完全に寝てるってことだよな」
健一は少し声量を|絞《しぼ》りながら、一人|呟《つぶや》いた。
だがそれこそ、あり得ない話だろうと思う。
冴子は一人で寝ることが出来ない。だからこそ|幽霊《ゆうれい》マンションにやってきたのだし、だからこそ1303で一緒に暮らしてきたのだ。
それが嘘とか作り話でないことは健一は身をもって知っている。
「……病気なら治ることだってある、か」
でも昨日までがそうだとしても、今日や明日も同じとは|限《かぎ》らない。それに健一は気づく。
昨日までは冴子は一人で寝ることが出来なかった。でも生まれた時からそうだったわけではないだろう。
ある日、そうなったように、今度はそうでなくなることもあり得る。あり得るのだが。
「なんでなんだろうな」
それでもそれを受け入れることは健一には出来なかった。|理屈《りくつ》ではわかっても|感情《かんじよう》がそれを|拒《こば》んでいる。
それはやはり、それだけが冴子との|絆《きずな》だと思っているからかもしれない。
冴子が一人で寝られるようになったら、冴子はここにいなくてもいいのだ。
「……|俺《おれ》って|嫌《いや》なヤツだな」
そこまで|理解《りかい》して、健一は冴子の病気が治らなければいいと思っているらしい自分に気づく。
でも、それもやはり望んでいいことではない。冴子にとっては病気が治って、出て行けることの方がいいことなのだから。
日奈が自分に正直に生きることを選んで出て行ったように、冴子もそうであるべきなのだ。
「その方がいいんですよね、有馬さんは」
でもやはり感情はそれを拒んでいた。ここを出て行く方が冴子のためであるということは、自分を|否定《ひてい》されているような落ちつかなさを感じさせる。
「……うん?」
声が大きかったのか、|眠《ねむ》りが浅かったのか冴子が目を覚ました。
「あ、すみません」
健一はそれで小声で|謝《あやま》り、冴子の顔を見る。冴子は自分の置かれた|状況《じようきよう》がわからないらしく、半開きな目で健一を見ていた。
「……私、寝てたの?」
しばらくしてやっと冴子はその|疑問《ぎもん》に|辿《たど》り着いた。それでもやはり|確信《かくしん》は持てずにいるのが健一にもわかる。
「みたいですよ」
「……そう、なんだ」
冴子は健一の返事を聞いてもまだ半信半疑という様子だった。それだけ冴子にとっても、自分が自然と寝てしまったということは想定外だったのだろう。
「|隣《となり》、|座《すわ》っていいですか?」
健一はまだ|騎《ふ》に落ちてないらしい冴子にそんなことを|尋《たず》ねる。
「いいけど」
そして冴子の返事を待って、隣に座る。
「そう言えば、けっこう|遅《おそ》かったみたいだけど」
そこに冴子の|質問《しつもん》が飛んできた。
「ああ、日奈とはすぐに別れたんですけど、ちょっと家に戻ろうと思って。そうしたら父親がいて、|捕《つか》まってしまったんですよ」
「そう……だったの」
冴子はちょっと|困《こま》ったという顔をした。
「でも|怒《おこ》られたとかそういうことじゃないんです。うまく言えないんですけど、意外に気があったというか……父さんのこと見直したというか……まあ、そういう感じなんです」
健一は自分で言いながら何を話してるんだろうなと思う。
「絹川君はお父さん似だったってこと?」
でもそれなりに冴子には伝わっていたらしい。
「かもしれません」
「お母さんには似てないって気がしてた」
冴子のその言葉に、冴子は健一の親に会ったことがあったのかなと考えてしまう。
「……まあ、男ですからね」
でもなぜか健一はその辺りを冴子に尋ねる気にはなれなかった。別に一言聞けば|済《す》むことだし、何かまずいこともないと思うのだが。
「…………」
そのせいか、会話がぱたりと|止《や》んだ。
「…………」
なんだか気まずいなと健一は思い、冴子の方を見る。だが冴子は|未《いま》だに、自分が寝ていたことを|疑《うたが》ってるのか考え事をしてる様子だった。
「……あの……出て行くんですか?」
何か話さないと。そう思ってるうちに、健一は一番言いづらいことを尋ねていた。
「出て行く? 私が?」
しかし冴子にとってはそんなことはまったくの想定外だったらしい。
「一人で寝られるなら、もうここにいる必要はないって……そう思ったんですけど」
健一は「有馬さんが言い出すんじゃないか」という言葉は飲み|込《こ》んだ。見ている|限《かぎ》り、冴子にはそんな気は全然なさそうだったからだ。
「本当にそうなら必要はない、わよね」
でも言われて、冴子はその通りだと思ってしまったらしい。
「ですよね」
健一は|余計《よけい》なことを言ってしまったかもしれないと|密《ひそ》かに思う。
「今日はたまたま寝てただけだと思う」
しかし冴子は健一とは|違《ちが》うことを考えていたらしい。
「たまたま、ですか?」
「私の……|依存症《いぞんしよう》は|快方《かいほう》に向かってはいるのかもしれない。でも一度、寝てただけで、完治したって思うのはちょっと無理があるわ」
「……それはそうですね。|風邪《かぜ》は治りかけが|危《あぶ》ないってことですか?」
「多分」
冴子はそれにはにかむような|笑《え》みを|浮《う》かべて、すごくそっけなく短く答えた。
「もう少し様子見ってことですね」
「それに治ったからって出て行かないといけないの?」
そして冴子は、ちょっと彼女らしくない|質問《しつもん》を投げかけてきた。
「いけないってことはないですけど」
むしろ冴子の方が治ったら出て行くという意見を持ってるのかと健一は思っていた。なのでそう尋ねられると|逆《ぎやく》に|戸惑《とまど》ってしまう。
「それに多分、私が出て行くのは完全に治ったからではないと思う」
「……そうなんですか?」
健一はなんだか不思議な物言いだなと感じる。
でも日奈のことを考えれば、そういうことなのかもしれない。日奈は佳奈と|上手《ヵつま》く行って出て行ったわけではない。
日奈が出て行くことにしたのは、自分に正直に生きると決めたからだ。とすれば冴子が出て行くのは、寝られないことに|絡《から》むかもしれないけど、それ自体ではないと考える方が自然な気がした。
「それに治るとしてもまだ先のことよ、きっと」
冴子はそう言ったが、健一は本当にそうなんだろうかと思えてならなかった。
まだ先というのがどれくらい先のことを|指《さ》しているのかわからないが、日奈が出て行った今となっては、それをリアルに感じずにはいられなかった。
「それで、その、今日はどうするんですか?」
だから健一はそんなことを聞いてしまう。
「……えっと、|一応《いちおう》、一人で寝られるか|試《ため》してみようかな」
でも冴子は予想してなかった質問らしく、わたわたと|慌《あわ》てた様子を見せた。
冴子が寝るとなれば、1303にいるのはそれを|邪魔《じやま》するようで申し|訳《わけ》なく、健一は1301に行くことにした。
「お|疲《つか》れのようだね、絹川君」
さっきは誰もいなかったそこには刻也がいた。
夜食だろうか。焼きそばを作って彼はそれを食べていた。
「あ、すみません、八雲さん」
それで健一は|謝罪《しやざい》の言葉を告げる。
「うむ? なんのことだね」
「いや、食事は|僕《ぼく》の|担当《たんとう》なのにフラフラしてたせいで」
「ああ、そのことかね。たまには自分で作るのも気分|転換《てんかん》になるから気にしないでくれたまえ」
刻也は別に|気遣《きづか》いでそう言ってるわけではなく、なんとなく|上機嫌《じさフきげん》に見えた。
「なら、いいんですけど」
だから健一としてももうこれ以上の|追及《ついきゆう》はしないことにする。
「窪塚君のことを気にしてるのかね?」
そして刻也の話題は健一が疲れてる理由に|戻《もど》ったようだ。
「あ、いや、日奈とはあの後、すぐ別れたんですよ」
「では、何か別のことでもあったのかね?」
刻也のその|疑問《ぎもん》はもっともなので、健一は少し|迷《まよ》ってから話をする。
「父と|久《ひさ》しぶりに会いました」
「ケンカでもしたのかね?」
「いや、それが……けっこう|和気蕩《わきあいあい》々だったような」
「うむ? ではいろいろとありすぎて疲れたということだろうか」
「そうなるんですかね」
もちろんそういうこともあるだろうが、時間的には大したことのなかった冴子のことが一番のダメ! シかもしれない。健一はそんなことを考える。
「有馬君も心配していたよ」
|微妙《びみよう》に話題は|違《ちが》うようだが、刻也がその名前を口にしたことに健一はかなりどきりとした。
「そのせいかもしれませんね」
それでちょっと口が|滑《すべ》ってしまう。
「む? 有馬君のせいなのかね?」
そう|尋《たず》ね返されると、そうだとはちょっと言いづらかった。
「有馬さんに心配させてしまったんだなって、それで」
「それも仕方ないだろうな。有馬君は窪塚君のことをずっと心配していたからな」
そのことは十分予想できたはずだが、健一には意外なことのように感じられた。
「そうだったんですか」
「彼女にとっても希望だったのかもしれないな。窪塚君が|上手《ダつま》く行くなら、自分もとそう思っていたのかもしれない」
刻也は暗い表情を浮かべ、少し|視線《しせん》を下げた。
「僕もそう思っていたかもしれません」
でも今、がっかりしているかと言えばそんなことはなかった。
それは日奈がちゃんと|納得《なつとく》して出て行くのを見たからだろう。
佳奈とのことは上手く行かなかったけれど、日奈はちゃんと前に進むことを選んだ。
「私も思っていた。シーナ君なら何か|奇跡《きせき》を起こしてくれるんじゃないかと期待してた」
「八雲さんでもそういうことを思うんですね」
健一は感心にも|似《に》た気持ちでそう返していた。
「自分の力だけでどうにかするには、私は小さくて無力だからな」
「それでも何とかするっていうのが八雲さんかと思ってました」
「自分に出来ることは自分でやるさ。だがそれだけで|全《すべ》てが上手く行くなら、誰も苦労などしない。だから時には神に|祈《いの》りたい気分にもなるさ」
「なるほど」
|他力本願《たりきほんがん》ということかもしれないが、そうであることをハッキリと言えることに健一はやはり刻也は自分とは違うなと感じる。
「何も考えずに散歩にでも行ってきたぢどうだろうか」
そんな健一に刻也は|唐突《とうとつ》にそんな|提案《ていあん》を始めた。
「散歩ですか?」
「どっちかというと、何も考えずにという方だが」
「ああ、なるほど」
「君は今日、考えすぎたし、話しすぎたんじゃないだろうか? それなら私と話すのではなく、何も考えないというのが良いように思う。私は他人の相談に乗るのは苦手だからね」
刻也はそんなことを言うが、それは十分に他人へのアドバイスなんじゃないかと健一は思ったりもした。
「そうですね。まだ|眠《ねむ》くないですし、少し歩いてきますよ」
健一はでもそのことは|指摘《してき》せず、|素直《すなお》に助言に|従《したが》うことにした。
「うむ。力になれずに申し|訳《わけ》ない」
でも刻也はやっぱり自覚がないらしい。
「そんなことないですよ。助かりました、八雲さん」
だから健一は軽く頭を下げて1301を出て行くことにする。
「……あ、そうだ」
でもドアに手をかけたところで、気になることを思い出した。
「うむ? なんだね?」
「八雲さんが神に祈りたくなるのって、たとえばどういうことですか?」
何気なく聞いてみたが、刻也にとってはかなり答えるのが|困難《こんなん》な|質問《しつもん》であったらしい。明らかな|当惑《とうわくひ》の|表情《ようじよう》を|浮《う》かべて、健一から視線を|逸《そ》らした。
「……有馬君のことだろうか」
そして小さく、彼はそんな返答をする。
「有馬さんのことですか」
それで健一は|確認《かくにん》するように冴子の名前を口にする。
「いや、その、彼女のことを気にしてるわけではなく、いや、|実際《じつさい》に気にはしてるのだが……」
病気のことであって、|個人《こじん》的な感情の話ではないのだ。|確《たし》かに彼女に幸せになって|欲《ほ》しいとは思っているが……いや、そんな話ではなくだな……」
だがそれが悪かったらしく、刻也は|慌《あわ》てて言葉をつなげていく。
「……はい」
なので健一はこれ以上、|追及《ついきゆう》するのは止めて、素直に出かけることにした。
「じゃ、ちょっと出かけてきます」
「うむ、気をつけて行ってきたまえ」
そして刻也に送られて健一は|廊下《ろうか》に出て、ふと、また立ち止まった。
「八雲さん、病気のことって言ってたけど……知ってたんだ」
そのことを刻也の口から聞いたのは初めてのことだった。だから|妙《みよう》な|違和《いわ》感を覚えたが、少し考えるとそんなに不思議な話でもない気がした。
「八雲さんは有馬さんのお母さんとも知り合いみたいだしな」
それもけっこう前から。なら、それとなく事情を聞いててもおかしくはない。
その時、健一はそれで納得することにしてしまった。
何も考えず。
「あ、絹川|先輩《せんぱい》じゃないっすか」
刻也のアドバイスを健一は忠実に実行していたらしく、知り合いに話しかけられた時、健一は自分がどこにいるかよくわかっていなかった。
「|流輝《り つき》君……ってことは」
相手が|誰《だれ》か|理解《りかい》して、健一はやっと周りが見えた気がした。
そこは国道|沿《そ》いのフープだった。刻也のバイト先のファミレスも向こうに見えた。
「なんすか、ぼーっとして?」
「あ、いや、その……なんとなく歩いてたから」
なんだか|随分《ずいぶん》と歩いてしまったなと健一は改めて思う。
「話しかけたらまずかったっすか?」
「いや、そんなことないよ」
そんな返事をしながら健一はどうしてここに自分が歩いてきたのかと考える。
ここに来るのが日課みたいな流輝はともかく、自分がここに自然と足を向けるのはけっこう意外なことだった。
「今、ちょっと時間あるっすか?」
「まあ、|暇《ひま》つぶしで歩いてたみたいなものだし」
実際、時間を気にする理由は無いのだが、そんなことを流輝が言い出すのは気になった。
彼はバスケをしているのが何より好きで、話とかはあまり好きではないというイメージだった。だから向こうから話しかけてくるということ自体、かなり違和感があった。
「なら、ちょっと聞いて|欲《ほ》しいんすけど、姉が最近、変なんすよ」
「お姉さん……」
健一は変とか変じゃないとか以前に、その姉のことを思い出すのに苦心する|羽目《はめ》になった。
流輝に姉がいるというのは聞いたことがあったが、結局、会ったことはなかった。
わかってるのはファミレスでバイトをしてることと、その送り|迎《むか》えを流輝がしていることくらい。流輝の話を聞いた|限《かぎ》りは|怒《おこ》りっぽいところのある人みたいだが、それは流輝がこういう|性格《せいかく》だからという|可能性《かのうせい》もある。
とにかく、健一からすれば、会ったこともない人でしかなかった。
「まあ、最初から変と言えば変だったんすけど」
「……それもちょっとひどい話な気が」
健一はとりあえず考えてもわからないので、素直に流輝の話に耳を|澄《す》ますことにするのだが、どうもやはり流輝の話はちょっと妙な気がする。
「いや、まあ、とにかく変なんすよ」
「たとえばどんな感じに?」
「そうっすねえ。なんかいつもキョロキョロしてるんすよ。誰かが|尾行《びこう》してるとか、周りにスパイがいるとか思いこんでるみたいっす」
「……それはかなり変だね」
「三日前、|俺《おれ》にまで|嫌疑《けんぎ》をかけてきたっすからね、|重症《じゆうしよう》っすよ。いきなり、『そうだわ! あんたが|出版社《しゆつばんしや》に|情報《じようほう》を売ってたのね! 』とか言って|掴《つか》みかかってきたんすよ」
「出版社に情報……か」
流輝の姉は芸能人か何かなのだろうか。そんなことを健一は|真剣《しんけん》に考えてしまった。
|一般人《いつぱんじん》にとっては出版社に売られる情報なんてそうそうないだろう。
「でも、しばらくしたら『いや、でもあのことをあんたが知ってるわけはないわよね』とか言って勝手に|納得《なつとく》しはじめたんすよね。もう本当、わけわからねーっすよ」
「俺も|訳《わけ》がわからないよ」
本当にわからないことだらけだった。
そもそも流輝の姉が元々どんな人間かわからないのだから、変になった理由なんて思い当たるはずもなかった。
「やっぱ、そうっすよね」
「ごめん、全然力になれなくて」
「いや、いいんすよ。ただ、ちょっと聞いて欲しかっただけっすから。|実際《じつさい》、身近にいる俺がどうしたらいいかわからないことを聞かされても|困《こま》るっすよね」
「困るってことはないけど、さすがにとっかかりが見えないっていうか」
だからって会って話をさせてもらえばどうにかできるかと言えば、正直、自信はなかった。
「んじゃ、|狭霧先輩《さぎりせんぱい》にでも相談してみるっす。すんません。変なこと言っちゃって」
そしてそれが顔に出てたのか、流輝はもうその話題を終えることにしたらしい。
「いや、こっちこそ、力になれなくて」
なんだかちょっと申し訳ないなと健一は感じた。
流輝はどうも周りの人間はあまり信用してない。だから相談する相手がいなくて、それで健一を見かけるなり話しかけてきたのだろう。なのに、自分は「わからない」しか言えなかった。
「そういえば、もう一人の人は今日は|一緒《いつしよ》じゃないんすね」
でも流輝は健一が気にしてるほどは気にしていないらしい。本当にその問題は|棚上《たなあ》げにしたらしく、全然、別の話を始める。
「シーナのことかな」
「そそ、そんな名前の人っす。ロックシンガーだかなんだかの、|帽子《ぼうし》かぶったちょっとちっこい感じの」
流輝の話しぶりから健一は、流輝はシーナにあまり|興味《きさつみ》がなかったんだなと思う。
「シーナがここに来ることはもうないんじゃないかな」
でも健一にとってはやはり大事な人間だったのだ。それを思い出し、少し顔が|曇《くも》ったのだろう、流輝が|眉《まゆ》を|寄《よ》せるのが見えた。
「ケンカでもしたんすか?」
「ケンカなんかしてないよ。俺たちはすごく仲良かった。俺がだらしなくて|叱《しか》られることはあったけど」
「……じゃあ、なんでっすか? 引っ|越《こ》しでもしたんすか?」
「引っ越し……はしたのかな」
「でも引っ越しても仲良かったら会ったりはするっすよね」
「そうだね。でも、きっとシーナに会うことはないと思う。それは変な話だけど、俺とシーナが親友だからなんだ」
でもそのことを話してもきっと誰も|理解《りかい》はしてくれないのだろうなと思った。
日奈と会うことはまだあるかもしれない。でもシーナとはもう会えない。それは健一がシーナの方が本当だと言ったからだった。
シーナを|肯定《こうてい》した結果、シーナとは会えなくなってしまった。それはきっといくら|詳《くわ》しく話してもわからない人にはわからない。そう健一は思う。
「本当、変な話っすね」
流輝はそれに|素直《すなお》に返事をする。
「そうだろ?」
「俺にはシーナって人がどんな人かろくにわからないし、絹川先輩のこともやっぱり大して知らないっすからね。だから二人の間で何があったかなんて、きっとわからないんすよ」
「それは、そうだよね」
健一はそう答えながら、流輝が明るい|表情《ひようじよう》を|浮《う》かべていることに気づいた。
「でも、いつかわかるようになりたいっすね。俺は頭が悪いから時間かかるかもしれないっすけど、それが絹川先輩にとってすごく大事なことぐらいはわかるすから」
そして流輝はその表情の理由を健一に伝えてきた。
「……そうだね」
健一はびっくりしてぼんやりとした返事を返すだけで|精一杯《せいいつばい》だった。
流輝のわからないは、すごく前向きだった。
わからないから、わかるようになりたい。素直にそんな風に思っている。
「全部は無理でも、すごく大事なことくらいはわかりたいじゃないすか」
彼は昔、理解し合えない人とは話しても時間の|無駄《むだ》だと言っていた。でも今は健一とシーナのことをわからないけど、わかるようになりたいと言ってくれる。
「ありがとう」
だから健一はさほど|意識《いしき》せずに|感謝《かんしや》の言葉を口にしていた。
「いや、礼を言われるようなことじゃないっすよ。俺、先輩のこと好きっすから、当然のことっす」
「……うん」
流輝にとっては当然のことかもしれないけれど、それは|普通《ふつう》ではきっとない。
でも普通である必要なんてない。その普通でないことが健一にとって|嬉《うれ》しいのだから。
「流輝のお姉さんのこと、俺で何か出来ることがあったら言ってよ」
ならばと、健一も彼のために出来ることはしようと思う。
何もわからないし、何が出来るかもわからない。でもやろうと思わなければ始まらない。それを健一はシーナに教わった。そして今、流輝に思い出させてもらった。
「じゃあまた会った時に解決してなかったら相談に乗って欲しいっす」
「うん。それくらいなら」
それですぐに解決するはずはない。でもそんなことでも流輝の力になるなら。
「じゃあね、流輝」
だから健一は|随分《ずいぶん》と軽くなった気分でその場を|離《はな》れた。
「またっす、絹川|先輩《せんぱい》」
それは刻也のアドバイスのおかげだという気がした。彼が何も考えずに歩いてきたらどうかと言口ってくれたから、健一は流輝に出会った。
「相談が苦手なんて、全然無いと思うんだけどな」
でも刻也にこのことを話したら、きっとあんなものは相談とは言わないとかそういうことを言い出すのだろうなと思う。
「……そうか、ここって」
そんな帰り道、健一はあることに気づく。
流輝のいるフープから|幽霊《ゆうれい》マンションへの道は、シーナと通った道だった。
そしてそこは飯笹伸太と二度目に会った道でもあった。
最初は冴子と|一緒《いつしよ》で、伸太に健一は|殴《なぐ》られた。でも二度目はシーナと」緒で、そして伸太は意外に気のいい人間だと知った。
冴子のことを一夜|限《かぎ》りと|割《わ》り切れなかったからこそ、健一は殴られた。それは|想像《そうそう》してたより、伸太がずっと|一途《いちず》な|性格《せいかく》だったということでもあった。
佳奈の彼氏だった伸太が冴子と関係を持った。それしか知らなかったから、伸太が冴子のことを|真剣《しんけん》に考えてるなんて想像もしていなかった。
でも今ならわかる気がする。
伸太は冴子のことが心配だったのだ。今にも消えてしまいそうな、そんなはかない彼女のことが|忘《わす》れられなかったのだ。
「有馬さん……」
そしてそれがわかるのは、健一もまたそう思ってるからだった。
父親に会って、もはや家族のことを気にしなくてもよくなったせいで、それはよりハッキリとしたものになっていた。
冴子こそが健一にとって本当の家族なのだ。
自分が帰ったらそこに待っていてくれる人。それは冴子なのだ。
父親でも母親でも、蛍子でもない。
家庭の|温《ぬく》もり。そんなものは絹川家には|存在《ぞんざい》していなかった。なのに冴子はそれを教えてくれる。
「でも……いつか|僕《ぼく》らは出て行くんだ」
どっちが先に出ていくのかはわからない。でも1303に冴子がいつまでもいることはない。
それだけは|確《たし》かだった。
それはごく自然のことでしかないのかもしれない。
人は変わる。時と共に。
高校生のままではいられない。ましてや高校一年生のままではいられない。
来年になればクラスが代わる。同じクラスにもう冴子はいないかもしれない。冴子はいるかもしれないけど、刻也はいないかもしれない。
クラスが代われば、仲良くする相手も変わるだろう。
それはわかってる。
でも1303に冴子がいないことを想像するのは健一には出来なかった。
「……でも、出て行くんだ」
だからやはり、冴子が一人で|寝《ね》ていたことは|捨《す》て置けない問題だった。
冴子がいない生活を健一は想像したくなかった。だが冴子が一人で寝られるようになったのなら、引き|留《と》めることは多分、できないのだろうとも感じる。
日奈が自分に正直に生きることを選んで出て行ったように、冴子が出て行くと言い出した時は笑って見送らねばならない。
「……でも、そんなの、|寂《さび》しいよ」
それでも口からは本心がこぼれた。
今はもう誰も一緒にいないその道で、健一はやっと冴子への|想《おも》いを口にした。
冴子のことを好きにならないと約束した。なんでそんな約束をさせたのか今でもわからないけれど、健一は確かに約束した。
「でも、いなくなったら寂しいよ」
父親とは仲直りしたが、もう会わないと決まったようなものだった。
蛍子とはもう会わないと約束した。
日奈のことは笑って送った。
なのに、冴子と|離《はな》ればなれになるのを想像すると|涙《なみだ》がこぼれそうになる。
でもそのことを冴子に言うのは出来そうになかった。
それはきっと彼女との約束を|破《やぶ》ることになる。そう感じずにはいられなかった。
「……寂しい時に寂しいって言うだけでもダメなのかな?」
それが|許《ゆる》されて|欲《ほ》しいとは思っても、|怯《おび》える自分をそこに見つける。
ただ、思ってることを口にする。それすら出来ないことに健一の心の中でまたいつもの言葉が|響《ひび》く。
僕は|恋愛《れんあい》に向いてない。
自分がそう思っていた理由は父親のおかげでわかった。
でも、恋愛に向いてないことが|解決《かいけつ》したわけでは、少しもなかった。
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インターミッション 彼氏は男に|恋《こい》してる……わけない!
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私、|九条鈴璃《くじようすずり》は自分でもハッキリわかるくらい|混乱《こんらん》していた。
何が混乱してるのかわからないくらい混乱していた。というか、わからなくなってる|状況《じようきよう》が混乱してるってことだから……まあ、とにかく|訳《わけ》がわからなくなっていた。
そもそも|原因《げんいん》は『ああんっ! メガネ様☆』を読んでしまったことだった。
|一巻《かん》を読んだ時はまだ、ただの|偶然《ぐうぜん》と思うことができた。でも二巻、三巻と読み進むにつれて、どう考えてもこれは私を知ってる人間が書いてるとしか思えなくなってきたのだ。
|美里《みさと》ちゃんにそれとなく聞いてみたら、「それは|箇条書《かじようが》きマジックというヤツだよ」なんて言われたけど、|絶対《ぜつたい》にそんな訳はない。
偶然と言うには私の周りにあまりに|似《に》ていた。
メガネ様は明らかに|刻也《ときや》君がモデルだし、その名ばかりの|婚約者《こんやくしや》の|綴理《つづリ》は私にそっくりだった。名前や外見|設定《せつてい》だけでなく、二人の会話の|内容《ないよう》までそっくりなのだ。
五巻になると今度は、綴理に弟が出てくる。名前は|龍記《りゆうき》。長身でスポーツマン。これは私の弟の|流輝《りゆうき》がモデルとしか思えない。
……もちろん、流輝が刻也君に|片思《かたおも》いなんてしてるわけはないけど、ただの偶然でここまでの設定になるはずはないと私は|確信《かくしん》していた。
だから、私はどこかに|出版社《しゆつばんしや》のスパイがいるに|違《ちが》いないと思うようになった。
私の周りか、刻也君の周り。
最初、|純《じゆん》ちゃんも|疑《うたが》ったりした。純ちゃんは『ああんっ! メガネ様☆』の大ファンだし、|編集者《へんしゆうしや》とも|連絡《れんらく》を取り合ってるらしいからだ。でも冷静に考えたら、|順序《じゆんじよ》がおかしい。
『ああんっ! メガネ様☆』の一巻が出たのは私が純ちゃんと知り合う前だし、編集者と知り合ったのも最近のはず。
だから、こいつが|怪《あや》しいというヤツは私の前にはいなかった。そのせいで私には|全《すべ》てが怪しく見える。
弟の流輝まで疑う|羽目《はめ》になったのはそのせいだ。あのシュート中毒が、スパイなんて器用なことをできるわけがないことはわかっていたのに、思わず私は|掴《つか》みかかってしまった。
「……って、|現実逃避《げんじつとうひ》してる場合じゃないか」
でもそんなことより私にはもっと切実な問題があった。
自分が今、どこにいるのかさっぱりわからないのだ。その辺の家の住所を見たところで、どこなのかさっぱりわからない。こんな時、|携帯《けいたい》を持ってれば調べるなり、道案内をしてもらうなりできるんだけど、そうもいかず。
だから私は|途方《とほう》に|暮《く》れていた。そしてとっくの昔に日は暮れていたのだ。
そう、もう辺りは真っ暗だ。残念ながらもう夜中だった。
「それもこれも……あいつのせいだわ」
私は|呪《のろ》いの言葉を|吐《は》きながら、ゆっくりでも歩くことにした。正直、歩きすぎで足が|痛《いた》いけど、立ち止まっててもしょうがない。
ちなみにあいつというのは「キヌガワクン」とかいうヤツ。
自分の周りに怪しい人物がいなさそうなので、私は刻也君の周りにスパイがいるんじゃないかと|密《ひそ》かに調べることにした。
そこで私は刻也君が親しげに付き合ってる男の子を発見したのだ。
刻也君に|直接確認《ちよくせつかくにん》してないので何者かはイマイチよくわかってない。
わかってるのは「キヌガワクン」という刻也君の|呼《よ》ぶ名と、同じ学校だということ。
そしてどうも住んでるところが近いらしいこともなんとなくわかってきた。
要するにお|隣《となり》さんとかそういうことなのだろうとは思うのだけど、私はどうもその「キヌガワクン」が気になってしまう。
というのはメガネ様の彼氏(!)の名前が、|麻川浩一《あさがわこういち》という名前だから。
キヌガワというのがどんな字かは知らないけれど、これがもし絹川であったのなら……それは|想像《そうそう》できないほど|恐《おそ》ろしいことのような気がする。
そんなわけでバイト以外の日、私は密かに「キヌガワクン」の|素行調査《そこうちようさ》をしていた。
もっとも|所詮《しよせん》は|素人《しろうと》のすること。ちっとも成果は上がってないどころか、私は道に|迷《まよ》ってしまったというわけなのだ。
「……うぅう」
私は低くうめくと、足が痛いのを|我慢《がまん》して歩き続ける。
でも不安と|怒《いか》りが|募《つの》っていく。
キヌガワクンとやらが私の|平穏《へいおん》を|乱《みだ》すから、こんなことになったのだ。
「それに、なんであいつは刻也君と仲良くしてるわけ? 刻也君も刻也君よ。あんな風に楽しげに話したりして……」
初めて二人を見かけた時のことを思い出すとひどく|惨《みじ》めな気分になる。
刻也君は本当に楽しそうだった。私にはどこか気を|遣《つか》ったような|態度《たいど》なのに、キヌガワクンとは昔からの友達みたいに親しげだった。
でもそんなに昔からの知り合いのはずはなかった。私は中学までは刻也君とずっと|一緒《いつしよ》だったからわかる。
刻也君がキヌガワクンと知り合ったのは高校に入ってから。
なのに、なのに、なのに。
「なのに、なんであんなに仲いいのよっ。出てこい、キヌガワっ!」
私は惨めな気分を|振《ふ》り|払《はら》うように、怒りの声を発した。
と、その時だった。
「……本当に出てきた」
私は|一瞬《いつしゆん》、自分の目を|疑《うたが》った。
通りの向こうに|人影《ひとかげ》が見えたと思ったら、それがキヌガワクンだったのだ。
出てこいとは言ってみたものの、いざ、出てきたらやっぱりびっくりする。
「でも、本当にキヌガワよね、あれ」
私が確認するためにじっと見ているうちに、キヌガワクンは私に気づく様子がなかったのに、私から|離《はな》れる方向へと歩いていく。
「待ちなさいよっ」
だから私は後先考えずに走り出していた。
どことも知れぬこの場所から|抜《ぬ》け出すためには、キヌガワクンを|逃《に》がしてはいけないと|本能《ほんのう》とか何かそういうものが告げていた。
「はっ……はっはっ……」
でもけっこう遠かったらしく、ちっとも追い付かない。足は痛いし、走ってもちっとも速度が上がってないのかもしれない。
なんで私がこんな目に|遭《あ》わないといけないのよ! そう怒りがふつふつと|湧《わ》き上がる。
「キヌガワァァ――――!」
追い付いた時には私の心は完全に怒りに|支配《しはい》されていた。
「わっ!」
だからキヌガワクンをいきなり後ろから|蹴《け》り|倒《たお》してしまったのは、仕方のないことだったのだ。私が追いかけてるのに気づかず、マイペースに歩いてるコイツが悪いのだ。
「やっと|捕《つか》まえたわよ、キヌガワっ!」
|跳《と》び蹴りで倒れたキヌガワクンを見下ろして、私はハッキリとそう告げた。
でもキヌガワクンは不思議そうな顔をしてこう|尋《たず》ね返してきた。
「えっと……どなたでしたっけ?」
そう言えば私とコイツは初対面だった。
でも、そう気づいた時にはすでに私は引っ|込《こ》みがつかなくなっていた。
[#改ページ]
第十六話それは本人に聞かなければわからない
[#改ページ]
「えっと……どなたでしたっけ?」
と|尋《たず》ねてみたものの、一目でその相手と会ったことがないと|健一《けんいち》は|確信《かくしん》できた。
それくらいその|娘《こと》は|特徴《くちよう》的な人物だったのだ。
小学生かと|見間違《みまちが》いそうな身長。でも着ている服は、|見慣《みな》れない学校の|制服《せいふく》なので、どうやら小学生ではないらしい。
それに小学生にしてはその娘は|胸《むね》が大きかった。
身長の分、胸に栄養が行ってしまった高校生。そう言われれば信じただろう。それくらい彼女のバストは身長に|比《ひ》すまでもなく、かなりのボリュームだった。
こんな人物に以前に会ったことがあればさすがに覚えているだろう。しかもこの娘は、健一の名前を知っていた。
|蹴《け》った後、確かに|絹川《きぬがわ》と健一のことを|呼《よ》んだ。つまりこの娘の方は健一のことを知っている。
こっちは知らないのに、なぜ? しかもなんでいきなり蹴られないといけないのだろう? 何かそれだけのことを知らないうちにしてしまったのだろうか?
「ど、どこ見てんのよ、いやらしいわねっ!」
しかしその娘にとっては、健一の|疑問《ぎもん》は|些細《ささい》なものであったらしい。
どなたでしたっけという当然の疑問には答えず、健一の|視線《しせん》に|文句《もんく》を言う。|確《たし》かに胸を|凝視《ぎようし》するのはよくなかったかもしれないが、そうせずにはいられなかったことは|理解《りかい》して|欲《ほ》しい気もした。
「す、すみません」
それでも健一は|謝《あやま》った。
冷静に考えると、後ろから蹴り倒された挙げ|句《く》、名前さえ教えない相手にそこまで礼を|尽《つ》くす必要があるのかは疑問だが……いやらしい目で見てしまったのは事実なのでしょうがない。
「まったく……」
「それで、その……どなたなんですか?」
健一は聞こえなかったのかもしれないと思って、改めて同じことを尋ねた。
「…………」
それでも返事はない。
とすると聞こえなかったのではなく、答えたくないということらしい。
「|僕《ぼく》、何かあなたにしてしまったんですか?」
なので少し|質問《しつもん》を変えてみる。
「…………」
でもやはり返事はない。なので仕方なく、健一は立ち上がることにする。
「ち、近づかないでよっ」
そしてそれだけのことなのに、その娘はすごく|警戒《けいかい》して身を固めた。
「立ち上がるのもダメなんですか?」
|随分《ずいぶん》とひどい仕打ちだなあと思う。
いきなり蹴り倒した挙げ句、立ち上がるだけで悪者|扱《あつか》いなんて、一体、この娘は自分のことをなんだと思ってるんだろう。
「……それならいいけど」
その一方で本当に彼女が|怯《おび》えてるのかもしれないと健一は感じた。
|実際《じっさい》のところ、力でもリーチでも健一の方が明らかに有利だった。周りは暗くて、|他《ほか》に|誰《だれ》も歩いてる気配はない。そんなところに女の子一人なら心細いだろうなとも思う。
でもやっぱり、理解に苦しんだ。だったら、なんでそんな|状況《じよへつきよへつ》で人を蹴り倒したのか。仕返しが|怖《こわ》いなら、さっさと|逃《に》げるなり、仲間を連れてくればいいのに、彼女はどっちも|選択《せんたく》していない。
「それでその……僕は何をしたんでしょう?」
とにかく、その疑問には答えてもらわないとさすがに|納得《なつとく》が出来なかった。
「全部、あんたのせいよっ」
しかしハッキリとした返答は期待でぎそうにない。
「だからなんの話なんですか?」
「と、とにかく言いたいことは山ほどあるのよ!」
本当に会話が成り立たない。
「だったら全部言ってください。ちゃんと聞きますから」
こっちが聞きたい順番に話してもらえそうにないと気づいて、健一はそんな|提案《ていあん》をする。
「……どういうつもり?」
なのにまた警戒された。
「どういうつもりもなにも、言いたいことが山ほどあるって言ったじゃないですか。だからそれを聞くと言ったんです。何か変ですか?」
「……そうね、ちゃんと|筋《すじ》が通ってる気がするわ」
そうは言いながら納得いかないという顔をしているのが見える。
「だったら、話してくださいよ」
本当になんでこんな目に|遭《あ》ってるんだろうと健一はため息をつきたくなる。
「コーヒーを|奢《おご》ってあげるわ」
でもそこに彼女の言葉がかぶって、健一は固まる。
「はい?」
「コーヒーを奢ってあげると言ったのよ。でも私はこの辺には|詳《くわ》しくないから、|喫茶店《きつさてん》がありそうなところまで案内して」
「……はあ」
蹴られた次は、なんの説明もなしに道案内。健一は本当に自分はどれだけのことをしてしまったんだろうと思わずにはいられなかった。
ツバメだってここまで|理不尽《りふじん》な要求はしないだろう。少なくとも初対面では、|無茶《むちや》なことは言われなかったはず。
「なに? |嫌《いや》なの?」
でも嫌だと思われるのは不服であるらしい。それはいい|加減《かげん》、無理があるだろうと健一も思ったが、|反論《はんうん》してもいいことはなさそうだなとも感じる。
「この時間だとあんまりいいお店は開いてないと思うけど」
喫茶店と言われて、|早苗《さなえ》の店を健一は|想像《ンこつぞう》したが、もうとっくに|閉店《へいてん》してる時間だなと気づく。位置的には|幹久《みきひさ》の店が近い気もしたが、きっともう終わってるだろう。
「別に、静かに話せるならどこでもいいわ」
「……なら、いいけど」
とは言え、どこかあるかなあと健一は考え、わからないけど駅の方に行けばまだ開いてるだろうと当たりをつける。
「で、でも、変なところに連れ込もうとしたら|承知《しようち》しないわよっ」
なのに、あらぬことを考えてると|疑《うたが》われた。
「しませんよ」
一体、自分はなんだと思われてるんだろうと改めて健一は思ってしまう。
それから、彼女にかけられてる|嫌疑《けんぎ》のことを考える。
この|娘《こ》の知り合いに手を出したとかそんな話なのかな? そんな|可能性《かのうせい》に思い当たり、健一は別の疑問を思い出す。
この娘は|何歳《なんさい》なんだろうか? とりあえず小学生ではなさそうだが……。
「……なによ」
でも顔を見ただけでにらみ返されたので聞くのは|止《や》めておく。
なんとなく、その|質問《しつもん》が|地雷《じらい》なのは健一にもわかった。
「ここまで来ればわかるわ。こっちよ」
こんな時間までやってる喫茶店の場所がどこか? その疑問に先に答えを見いだしたのは、|謎《なぞ》の少女の方だった。
「……はあ」
さっきまで道案内をしろと言ってたのに、急に仕切り始めた。
「なによ、そのやる気のない返事は!」
こうなってはよくわからないが、|素直《すなお》についていくしかなさそうなのだが、それすらもなんだか不満そうに言われる。
「この辺、|詳《くわ》しいんですか?」
なので話題を変えようとそんな質問をしてみる。
「前に一度来たことあるだけ。でも喫茶店の場所はわかるわ」
「……なら、助かりますけど」
それでも根本的な疑問は|解決《かいけつ》していなかった。
健一はその娘の進む方向をゆっくりと追いかけながら、一体、どんな人間なんだろうかと考える。
誰かの知り合いだろうか? しかしそんな|恨《うら》まれるようなことをした|記憶《きおく》はなかった。
まあ、|千夜子《ちやこ》をほっぽっといて別の女の子と……ということであればわからないでもなかったが、それを言うとすればきっとツバメくらいだろう。こんな会ったこともない女の子に千夜子のことであれこれと言われるとは思えない。
「そう言えば、あんた名前は?」
不意に理解しがたい質問が飛んできた。
「は?」
こっちは誰か知らないけれど、向こうは知ってるものだろうと思っていたが、どうやらそういうことでもないらしい。だったらなんで、こんなことになってるんだろう。
「あんたの名前を聞いてるんだけど?」
自分は答えないくせに、健一が答えないのは|許《ゆる》せないらしい。
名前を|尋《たず》ねるならまず名乗れという気もしたが、きっとそれを言うと|怒《おこ》られるのだろう。
「……絹川ですけど」
なので、健一は素直に答えた。でもそれは知ってたはずだよなと思い直す。
「どんな字を書くの? まさかキヌは糸の絹じゃないわよね?」
「いや、糸の絹だけど……」
なんでまさかなんだろうか。健一はまた疑問が|増《ふ》えるのを感じた。でも彼女がガクガクと|肩《かた》を|震《ふる》わせ始めたので聞けなかった。
というかなんでそこで怒り始めるのか本当にわからない。
「……じゃあ、念のため聞くけど、カワは三本の川じゃないわよね?」
言動から察するに、そうでないという答えを期待してるのはわかった。でも残念ながら、絹川は絹川なのだから、ノーとは言えなかった。
「えっと……その川です」
「……やっぱりそういうことか」
その娘が小さく|呟《つぶや》いたかと思うと、さらに小さい声でぶつぶつと何か言い始めた。
「えっと……何かまずかったんでしょうか?」
心配になって聞いてみるが、返事はない。彼女は何やら自分の世界に|突入《とつにゆう》してしまったらしい。歩いてはいるが本当に前を見てるかも|怪《あや》しい気がする。
「…………」
「…………」
とは言え、ここまで来ると健一としてはもう彼女についていくしか|選択肢《せんたくし》はなかった。
今なら|逃《に》げおおせるかもしれないが、そんなことをしたら今度会った時、|蹴《け》られるだけではきっと|済《す》まないだろう。
「……あの、|喫茶店《きつさてん》はまだですか?」
健一がやっと彼女に話しかけられたのは、まさに喫茶店の前だった。
開いてる喫茶店があったというのに、彼女がぶつぶつと言い続けたまま、通り|過《す》ぎようとしたので念のため、聞いてみたのだ。
「ここ! そうよ、ここよっ!」
そしてそれは正解だったらしい。やっとこっちの世界に|戻《もど》ってきたらしい彼女が、さも前から気づいていたかのように、店の方を指さした。
「……なんとなくそう思ったんですよ」
健一は小さく呟くと、それを待たずに店に入っていった|謎《なぞ》の少女に続いた。
本当に自分でも何がしたいんだろうと改めて思ったが、もう引き返せないところまで来てるのはひしひしと感じた。
「私が言いたいのは、なんであんたが絹川なのかってことなのよ。しかも糸の絹に、三本の川。
ありえないわよ、|実際《じつさい》」
コーヒーを飲みながらならちゃんと話してくれるのかと期待していたが、なかなか|現実《げんじつ》というのは思い通りにはならないらしい。
「なんでと言われても、父親がそうだったからとしか言えないんですけど……」
それにそんなに|珍《めずら》しい名前でもないだろうと思う。
「そんなことを言ってるんじゃないの。よりにもよって、なんで絹川なのよって言ってるの」
なにがよりにもよってなんだろうか、さっぱりわからない。
「それで、その……君は誰なの?」
よりにもよってというのは、信じられないような悪い|偶然《ぐうぜん》が重なったりすることだろうと思うのだが、相手の名前もわからないこの|状況《じようきよう》では重なる以前に何一つ知らないのだ。
「私の名前なんて関係ないでしょっ!」
でもそれすら謎の少女は話す気がないらしい。
「……関係なくはないと思うけど」
「それにもうとっくにご|存《ぞん》じなんでしょ?」
「……いや、まったく知らないし、それに|俺《おれ》、君と会ったことないよね?」
知ってるならこんなにしつこく何度も聞かずに済む。
「ないけど、知ってるはずよ。|絶対《ぜつたい》にね」
「……絶対に、ですか」
そこまでハッキリ言われると、何かそう思う|根拠《こんきよ》があるのかなと思ってしまうのだが、考えてみればこの|娘《こ》は健一の名前すらしっかり知らなかった。
とすれば|勢《いきお》いで言ってるだけの|可能性《かのうせい》も高い。
「まあ、あんたは女なんかには|興味《きようみ》ないんでしょうけどね」
「……そんなことはないと思うんだけど」
健一はこの娘が何か決定的な|勘違《かんちが》いをしているのだろうということを|確信《かくしん》した。しかしそれが何かまではさすがにわからない。
「だったら、なんで、と……なんでもない。というかそんなわけないじゃない」
そして何か言いかけたところで、彼女はそれを止めて、また一人でぶつぶつ言い始めた。正面に|座《すわ》られてそれをされるとけっこう不気味な気がする。
「本当、誰なんだ、この娘……」
健一はそれであれこれと考えてしまう。まったく無関係なら、そもそも名前を知ってるということもなさそうだし、知り合いの知り合いとかそういうことなのだろうか? しかしだとしてもなんでここまで目の|敵《かたき》にされなければいけないのかわからない。
そんなことを思いながら彼女の方を見ると、|視線《しせん》が合った。|睨《にら》まれた。
「そんなに私の名前が重要なわけ?」
「重要とか以前に人と話す時には相手の名前を知ってた方がやりやすいと思うけど」
そもそもそこまで|隠《かく》すならなんで喫茶店なんかに連れてくるのかわからない。
「|九条《くじよう》よ、九条。下の名前は言いたくないからパス」
「九条……」
聞いたことのある|苗字《みようじ》だった。というか彼女と会う直前に会っていた少年の苗字がまさにそれだった。
九条|流輝《りゆうき》。それが国道|沿《ぞ》いのシープでいつものようにシュートをしている彼の名だ。
「もしかして流輝君の妹さん?」
だから思わず、健一はそんなことを聞いてしまうが、すごい勢いで睨まれた。
「違うわよっ!」
そして|怒《いか》りの声と共にテーブルをガンと|叩《たた》かれた。
「……すみません」
すごい|剣幕《けんまく》で|怒《おこ》られたので思わず|謝《あやま》ってしまったが、だったらちゃんとわかるように説明して|欲《ほ》しいなと健一は思う。
「姉よ、姉! 私が中学生か何かに見えるって言うの?」
「……見えませんよね」
健一は最初、小学生かと思ったという言葉はさすがに飲み|込《こ》んだ。
「いやらしい目で見てるから、そんなこともわからないのよ」
「……すみません」
むしろ、いやらしい目だけで見てれば小学生には見えなかっただろうななどと|余計《よけい》なことを健一は思う。
「で、その……流輝君のお姉さんが|僕《ぼく》になんの用なんでしょうか?」
とは言え、やっとなんだかとっかかりが見えて健一はそこから|攻《せ》めてみようと思う。
「というか、あんた、流輝とも知り合いなわけ?」
でもそれは向こうにとっては想定外の|展開《てんかい》だったらしい。
「えっと……その関係で僕に話があるんじゃないんですか?」
「違うわよ。っていうか、流輝に友達なんていたの? あいつは部活でなじめなくて一人で毎日、シュートばっかりしてるようなヤツなのよ?」
なんだか姉の|割《わり》に|随分《ずいぶん》とひどいことを言うものだなと健一は思う。それとも姉だからひどいことを言うのだろうか。それこそ|蛍子《けいこ》が健一にあれこれと言ってたように。
「まあ、そんなに親しい|訳《わけ》じゃないんですけど、でもさっきも会ってきたところで……」
健一はそこまで言ったところで、大事なことをすっかり|忘《わす》れていたことを思い出した。
「何よ?」
「流輝君が、お姉さんのこと心配してました」
姉が変だと流輝が言っていたが、その意味がやっとわかった気がした。
「流輝が? 私を?」
「流輝君が|出版社《しゆつばんしや》のスパイだとかなんとか言い出したとか。もしかして僕への話もそれ関係のことですか?」
とすれば、この娘は何かある種の|妄想《もうそう》に取り|懸《つ》かれているのかもしれない。
|陰謀《いんぼう》がどうのとかそういうのが彼女の学校で|流行《はや》ってるとか、そういうことなのか。そんなことに健一は思い当たる。
「どうやら、あんたでもないみたいね」
しかし目の前の少女は何か別のことに思い当たってしまったらしい。この|状況《じようきよう》で勝手に|納得《なつとく》されても本当に|困《こま》ってしまう。
「……僕は人違いで|蹴《け》り|倒《たお》されてここに連れて来られたんですか?」
|否定《ひてい》して欲しい気持ちで|尋《たず》ねてみるが、残念ながら希望通りにはならないらしい。
「……まあ、そんなものね」
「じゃあ……もう帰った方がいいんじゃないですかね」
健一は時計を見て、もうけっこう|遅《おそ》い時間だなと改めて思う。となると、このまま彼女を一人で帰すのはどうかと考えてしまった。
この|喫茶店《きつさてん》は知っていたけど、あまりこの辺りの地理には|詳《くわ》しくないようだし、以前、流輝が言ってたように、この|娘《こ》は|確《たし》かに目立つ体型をしていた。
「そうね」
「送っていきましょうか?」
「なんで?」
「なんでと言われても、もう遅いから|物騒《ぶつそう》だし……」
好意で|提案《ていあん》したのに、またすごい|勢《いきお》いで睨まれた。
「変なこと考えてるんじゃないでしょうね。いや、考えてるわね、いやらしい!」
しかもハッキリと|文句《もんく》まで言われる。完全に|中傷《ちゆうしよう》としか言い様がない文句を。
「……むしろそう考える人もいるかもしれないので、言ってみたんですけどね」
そこまで言われたら、もうなんだか勝手にしろという気分にもなった。
こっちはいきなり後ろから蹴り飛ばされ、意味もわからないまま話に付き合わされているのだ。それなのにそこまでしてあげる必要もないとも思う。
でも、彼女は流輝の姉だった。姉の方には何も|義理《ぎり》はないけれど、何か力になれるなら手伝うと流輝に言ったばかりだ。この変になっている姉をこんな夜中に|放《ほう》り出したら、やはり|寝《ねざ》覚めが悪いことになりそうな気もした。
「どうだか」
なのに彼女は相変わらず|疑念《ぎねん》の|視線《しせん》を向ける。
さっきは女の子に|興味《きようみ》がないくせにとののしったくせに、今はいやらしいことを考えてると|疑《うたが》われてる。そう考えると、本当に彼女の中で自分はどういう位置づけなのだろうと思わずにはいられない。
「流輝君はまだいると思うからフープまで送りますよ」
そして思い|悩《なや》んだ結果、健一は一つの落としどころを見つけた。それならここからそんなに遠くないし、そんなに物騒な道のりということもない。
「……それならいいかな」
しばらく考えて、流輝の姉という少女はそう|結論《けつろん》した。
それでもまだ|若干《じやつかん》、疑いの色が目には残っていた。
それでもちゃんとコーヒー代は彼女が|払《はら》ってくれたのがせめてもの救いだった。
「ごちそうさまでした」
だから健一は|素直《すなお》に礼を言ったのだが、彼女は|不機嫌《ふきげん》そうに顔を|逸《そ》らして、そのまま歩き始めるだけだった。
「……本当、何をしたことになってるんだろうな、俺」
そんなわけなので道中は全くの無言だった。
そのせいか、そんなに遠いと思わなかったフープへの道もやけに長く感じられる。
「そういえば、お姉さんはあの国道|沿《ぞ》いのファミレスでバイトしてるんですよね?」
なので話題を|振《ふ》ってみようと思うのだが、やはり好意的な返答は期待できない。
「だから?」
どころかハッキリと|不快《ふかい》という顔をされる。
「いや、流輝君が言ってたので、聞いてみただけ、なんです、けど……」
「それで何が聞きたかったわけ?」
「えっと……その……僕の友達もあそこでバイトしてるんですよ」
「だから?」
「もしかしたら、その……知り合いかもしれないなあ……って」
なんだか本当に|惨《みじ》めな気持ちになってきた。自分はこの娘の|家来《けらい》か何かだったんだろうかとそんな疑念さえ|湧《わ》いてくる。
「それって男?」
「友達ですか? 男ですけど」
「だったら知り合いじゃない」
「……なるほど」
|理屈《りくつ》はよくわからないが、なんとなく|納得《なつとく》できる気はした。
彼女が男に対して|万事《ばんじ》、こんな|対応《たいおう》なら、確かに知り合いなはずはない。
「あんた、今、こいつ、男の知り合い少なそうだなとか思ったでしょ?」
しかしそんなところだけはするどくツッコミを入れられる。
「……すみません」
「まあ、事実だけどね」
でも事実だったらしい。なのに気に入らないみたいな顔をされても|困《こま》る。
「そうなんですか」
本当になんでこんな|理不尽《りふじん》な目に|遭《あ》わされてるんだろうかと健一は改めて思った。
何も考えずに歩いてて流輝に会った時は晴れ晴れとした気分だったのに。
「……これが相談が苦手ってことなのかな」
|刻也《ときや》が言ってたことを健一は思い出す。
刻也のアドバイスとこの|状況《じようきよう》にはなんの関係もない気がする。でもそれこそが刻也が人の相談に乗りたくないと考えている理由だとしたら……わかる気がした。
何も考えずに散歩してみると気分|転換《てんかん》になる。それに|従《したが》った結果、会ったこともなかった人に後ろから|蹴《け》り|倒《たお》されて、こんな風に振り回されるなんて|誰《だれ》に|想像《そうそう》がつくだろうか。
「なによ! |文句《もんく》があるなら帰れば?」
「……いや、その、その友達のことを思い出してただけです」
「ふーん」
健一は彼女の|態度《たいど》を見るうちに、なんで|謝罪《しやざい》の一つもないんだろうとさすがにムカムカした気分になってきた。
|勘違《かんちが》いだか、人違いだか知らないが、それで人を後ろから蹴り倒しておいて|謝《あやま》らないどころか、こっちが悪いみたいな顔をされるのはさすがに納得がいかない。
冴子みたいに、謝るのが|安易《あんい》で|嫌《いや》だから何か行動で|示《しめ》したいというタイプにも見えないし、本当にどういうつもりなんだろう。そんなことを考えてしまう。
「あ、絹川|先輩《せんぱい》!」
そこにちょっと聞いたことのある声が|届《とど》いた。
「流輝?」
それはこれから会いに行こうとしていた流輝の声だった。長身なので遠目にも近づいてくるのが彼だとわかる。
それで健一は正直、かなりホッとした気分になった。フープまで流輝の姉を送っていくまでもなくなったからだ。
「あれ、|鈴璃《すずり》じゃないっすか。ってことは先輩が|保護《ほこ》してくれてたんすね」
流輝はかなり近づくまで姉の|存在《ぞんざい》に気づかなかったらしい。それで不思議そうな顔をしてから、そんな|結論《けつろん》を口にする。
「保護とは何よ! 保護とは! 私は|迷子《まいご》のペットか何かなわけ?」
でも流輝の姉は流輝の物言いがいかにも不満そうだった。
「まあ、それに近いんじゃないんすか? |実際《じつさい》、こんなところにいたわけで」
しかし流輝はそんな姉の態度などいつものことという顔だ。
「うーっ」
流輝の姉は低くうめくと、流輝を|睨《にら》み付ける。
「さっそく力になってくれたみたいで、俺、|嬉《うれ》しいっす」
でも流輝はそれをあっさり|無視《むし》した。健一の方を見ると、小さく頭を下げた。
「いや、そんなに|感謝《かんしや》されるほどのことじゃ……」
「親からこいつが|戻《もど》ってこないってんで電話があって、|捜《さが》してたんすよ。捜せって言われても心当たりもないしどうすっかなあと思ってたら、先輩が連れて来てくれて助かったっす」
流輝が感謝の言葉を言ってる問に、彼の姉は流輝の足を蹴り始めた。自分を無視されたのが気に入らなかったらしいが、本当に理不尽な話だ。
「……|偶然《ぐうぜん》だったんだけどね。流輝のお姉さんだって言うから、フープまで連れていこうと思ったんだけど、そっちから来てくれて助かったよ」
健一が話してる間にも流輝の姉はひたすらに流輝の足を蹴る。しかし|鍛《きた》えている流輝にとっては|痛《いた》くもかゆくもないらしい。
「そうっすよねえ。こいつ、本当に相手するの|疲《つか》れるっすからね」
まったく姉を相手にせず話を続ける。
「あんたに言われたくないわよ!」
それが不満だったらしく、流輝の姉は|怒《いか》りと共に話題に飛び|込《こ》んできた。
「|俺《おれ》に対してなら|怒《おこ》らないつもりっすけど、先輩にまでそういう態度なら俺も怒るっすよ」
だがそれを流輝が|逆《ぎやく》に睨み返して|黙《だま》らせる。
「……なによ」
それでも彼女には何か|抑《おさ》えきれない怒りがあるらしい。
「と、こんなわけなんで、|今晩《こんばん》のところはこの辺でこいつを連れて帰るっす」
なのに流輝は取り合おうとはせず、健一の方に向き直るとまた小さく頭を下げた。
「……そうだね」
そして健一は結局、理由はわからなかったが、流輝の姉から|離《はな》れた方がいいだろうと結論した。いつもこんな調子かはともかく、今日はかなり虫の|居所《いどころ》が悪いらしいことはわかる。話をするならもう少し落ち着いてる日に改めた方がいいだろう。
「それじゃ、本当、助かったっす」
そして流輝はまだ何か言いたげな姉を引き連れて、今来た道を戻っていく。
「いや、うん。おやすみ、流輝……とそのお姉さん」
なので健一はそんな二人をしばらく見送った。
「……ケンカするほど仲がいいって言うけど、あれはあれで仲がいいのかなあ」
まだ何か|文句《もんく》を言い続けてるらしい姉をちゃんと連れて帰る流輝を見ながら、健一はそんなことを|呟《つぶや》いていた。
実際、本当に仲が悪いなら、いくら親に言われたところで捜したりはしないだろう。
「それにしても、すごいお姉さんだったなあ……色々な意味で」
二人が完全に見えなくなってから、健一は歩き出した。
話だけは聞いていた流輝の姉がああいう人間だとは思ってもいなかった。今は変になってるということだったけれど、第一印象がこれでは、ずっとこのイメージを引きずりそうだなとも感じてしまう。
「そういえば、彼女の名前……」
あまり気にしていなかったが、流輝がさっき、彼女の名前を口にしていたのに健一は|今更《いまさら》のように気づいた。
「スズリ……って、誰かに聞いた気が……」
そして健一は|美里《みさと》のことを思い出した。
彼女の友達の名前がスズリだったはず。その友達というのは小学生みたいな|背《せ》なのに、|胸《むね》がどーんだかばーんだか、とにかくすごいという話だった。
「……偶然じゃないよな、これは」
さすがにそんな人間がそうそういるとは思えなかった。
つまりスズリは流輝の姉であると同時に、美里の友達でもあったのだ。
「知り合いの知り合いかなーとは思ったけど本当にそうだったんだなあ」
もっともそれがスズリに|蹴《け》り|倒《たお》された理由ではないみたいだけれども。
「本当、なんだったんだろうなあ」
健一はため自心が出るのを感じた。
無関係な人物ではなかったけれど、やっぱり彼女とのことは|謎《なぞ》のままだった。
「はあ」
そして健一はまた別のことを思い出した。
美里の話では彼女には|素敵《すてき》な彼氏がいるらしい。
「……よっぽど心の広い人なんだろうなあ」
健一は失礼なことと思いながら、そんなことを考えてしまった。
少なくとも自分の周りにはいなかったタイプだなあと思う。あえて言えば、ツバメが近い気もするけど。
「彼氏|一筋《ひとすじ》ってことなのかなあ」
あの、男に対する|徹底《てつてい》的なまでの|距離《きより》の置き方はそういうことなのだろうか。そうも思ったが、だったら自分に|絡《から》んでこないで|欲《ほ》しかったなあと健一は考え直した。
「……お|疲《つか》れのようだね、絹川君」
1301にはまだ刻也がいた。どうやら健一が散歩から|戻《もど》ってくるのを待ってくれていたらしい。
「あ、いえ……今日はいろいろあったから、かと思います」
それがわかったから、散歩に出たせいだとは言いづらかった。そんなことを言ったら刻也はまた自分のせいだと考えるようになってしまうだろう。
「麦茶でも飲むかね?」
刻也は健一の返事を待たず立ち上がる。
「あ、すみません」
なので健一は彼が麦茶を持ってきてくれるのを、席について待つことにする。
「何かトラブルにでも|巻《ま》き込まれたのかね?」
|冷蔵庫《れいぞうこ》から出した麦茶をつぎながら、刻也が|質問《しつもん》をしてきた。どうやら初見でもう|見破《みやぶ》られていたらしい。
「トラブルってほどじゃないですけど、ちょっと人に会いまして」
「……人に?」
刻也は自分の分も麦茶を用意すると、冷蔵庫にしまって席に戻ってくる。
コ人は……ああ、|八雲《やくも》さんの知り合いかもしれません」
「誰だろうか?」
「|狭霧《さぎり》ちゃんの知り合いで、九条君って言うんですけど」
「流輝君のことかね? |確《たし》かに彼は少々とっつきにくいところがあるが、そんなに相手をするのが疲れるタイプではないと思うのだが」
「ああ、流輝君とは前からの知り合いだし、別に彼とは問題ないんですよ」
「とすると、他にも? そう言えば、さっき、一人はと言いかけたね」
刻也はそこで少し|難《むずか》しい顔をした。
「問題はもう一人だったんですよ」
「……うむ」
さらに刻也が難しい顔をするのが健一には見えた。自分はなんか言ってはいけないことを言おうとしてるんじゃないか。そんな気がした。
「まあ、問題と言っても、その|娘《こ》が最初、誰だかわからなかったせいというか……」
なのでちょっと切り口を変えてみることにする。
「……女の子なのかね?」
だがあまり|効果《こうか》的ではなかったらしく、刻也が心持ち身を乗り出してきたように感じた。
「……えっと、女の子だとまずいんですか?」
「いや、まずいということはないが……ちょっと思い当たった人物がいたのでね」
「ああ、八雲さんの知り合いかもしれませんね」
健一がそう言った|瞬間《しゆんかん》、刻也がピシッと音を立てて固まったように感じられた。|実際《じつさい》には音などするはずはないが、それぐらい明らかに刻也はショックを受けたということだろう。
「あの、|大丈夫《だいじようぶ》ですか?」
なので健一はさすがに心配になってしまった。
どうもこれ以上、流輝の姉の話をするのは|得策《とくさく》ではないだろうことがなんとなくわかる。
「も、もちろん、大丈夫だとも……で、その女の子というのは?」
「多分、八雲さんが|想像《そうそう》してる人と|一緒《いつしよ》だと思うんですけど……大丈夫ですか、これ言って?」
そんなこと|今更《いまさら》言ってももうどうともならない気がしたが、刻也にはどうやら心の|準備《じゆんび》が必要であるらしいので、|一応《いちおう》、|釘《くぎ》を|刺《さ》しておく。
「だ、大丈夫だとも」
そう言いながらも、刻也は大きく息を|吸《す》い込み始めた。どうやら|衝撃《しさつげき》に|備《そな》える仕草らしい。
「もう一人というのは……流輝君のお姉さんだったんです」
刻也の息が止まったのを見計らって、健一はそれを告げた。
「……そ、そうではないかと思っていたよ。ははは」
刻也はすでに見切っていたと口では言いながらも、かなりのダメージを受けている様子を見せる。一撃でもうボロボロになってるように健一には感じられた。
「何か、まずいことでもあるんですか?」
「いや、どうやら鈴璃君が君に|迷惑《めいわく》をかけてしまったようなのでね」
「まあ……ちょっとびっくりしただけで、迷惑ってほどのことはないですけど……」
実際にかなりひどい目に|遭《あ》わされたという気もしたが、それを正直に言ったらきっとかなり|強烈《きようれつ》な追い打ちになってしまう。なので健一はちょっと話題を|逸《そ》らすことにした。
「というか、やっぱり流輝君のお姉さんと知り合いだったんですね」
「……うむ」
しかしそれもあまり|適切《てきせつ》な話題ではなかったらしい。うなずくだけうなずくと刻也は固まってしまった。
「…………」
どういう知り合いなんだろう? 健一は|沈黙《ちんもく》の意味を考えずにはいられなかった。
「……あれ?」
しかし考えるまでもなく、自分は答えを知ってるのではないか。健一はそう感じた。
少なくとも答えに|辿《たど》り着くためのパーツはもう|揃《そろ》っている。それに気づいた瞬間、健一の頭の中に答えが|降《ふ》ってきた。
それは|我《われ》ながら|突拍子《とつぴようし》もない答えのようにも感じられた。
だが、色々な人間に聞いた|情報《じようほう》を|総合《そうごう》すると、それは|間違《まちが》いなく|正解《せいかい》だった。
「もしかして……八雲さんの彼女って流輝君のお姉さんなんですか?」
刻也には彼女がいて、一緒にファミレスでバイトをしている。
鈴璃には彼氏がいて、一緒にファミレスでバイトをしている。
そのファミレスは同じ国道|沿《そ》いの店で、そして刻也の妹と鈴璃の弟は知り合いで……。
「…………」
刻也と鈴璃が一緒に歩いてる|姿《すがた》は想像するだに|違和《いわ》感ありまくりだが、それでも|状況《じようきよう》は|結論《けつろん》をすでに出してると言って良かった。
「ち、違いました?」
沈黙に健一は見当違いのことを言ってしまったかなとも思った。
「その通りだ。私の彼女というのは鈴璃君のことだ」
だが少し間をおいて、刻也はやっと重い口を開いた。
「……ああ、それで」
それで、ショックを受けたんだなと思って、また別のことで|肪《ふ》に落ちるのを感じた。
それで、刻也は彼女の話をする時、何か変だったんだな、と。
刻也の彼女と言われて想像するには、鈴璃はあまりにイメージが違う。だから刻也は話しづらかったんだろう。
「彼女は悪い人間ではないのだが……ちょっと思いこみの強いところがあってね。それで君に迷惑をかけてしまったんじゃないだろうか?」
刻也に改めて|謝《あやま》られると、健一としては果たして迷惑だったんだろうかと考えてしまう。
「うーん。実を言うとよくわからなかったんですよね」
「……というと?」
「|僕《ぼく》が絹川って名前なのが何か問題があったみたいで」
「……それはどういう意味かね?」
「よくわからないんですよ、本当。流輝君の話では最近、お姉さんの様子が変らしいということだったんで、それと関係あると思うんですが」
「ふむ……様子が変か……」
刻也はしかし言われてもこれといった心当たりがないようだった。
「僕が何か彼女に迷惑をかけたなら謝りますけど……何をしたのか言ってくれないんですよ。
というか|勘違《かんちが》いとか人違いだったとか。でもそれも今考えると変ですよね。僕が絹川なのが問題だったわけですし」
「……そうだな」
刻也はそう言いながら麦茶を飲み|干《ほ》すと、少しまた顔をしかめた。
「申し|訳《わけ》ないが、この|件《けん》は私に|預《あず》からせてもらえないだろうか?」
「いや、いいですけど……えっと……」
健一はなんだか大事になってしまったんだろうかと|戸惑《とまど》いを感じる。
「まずいのかね?」
「いえ……あの、あんまり|責《せ》めないであげてください。別に僕は気にしてないですから」
そんな|気遣《きづか》いをしなければいけない相手なのだろうかとも思ったが、それでも健一は言っておかねばならないことのようにも感じた。
「君は|随分《ずいぶん》と|優《やさ》しいな。まあ、それは今に始まったことではないが」
刻也はそんな健一の言葉に満足そうに笑う。
「いや、やっぱり八雲さんに|厳《きび》しく言われたら|可哀相《かわいそう》ですし」
「……そうだろうか?」
「そうですよ。彼女、八雲さんのことしか見てないみたいじゃないですか」
そんな人に自分が思い|悩《なや》んでいることを|否定《ひてい》されたら――健一はそこまで考えて、やっと自分の言葉の意味を理解した。
知らぬ問に鈴璃に|日奈《ひな》の姿を重ねていたのだ。
「そ、そうかね?」
だが刻也はそんな健一の考えとは関係なく、顔を真っ赤にして固まってしまった。
健一が1303に|戻《もど》ったのは、それから三十分ほど後のことだった。
刻也とそれだけ話をしたのは、かなり|珍《めずら》しいことだったかもしれない。彼はちゃんと自身を管理して、時間通りに勉強に戻ったりするのが|常《つね》だったからだ。
刻也は刻也なりに、やはり日奈が出て行ったことで健一がショックを受けているのを気遣ってくれてるのかもしれない。別れてから健一はそんなことも思う。
「……|寝《ね》てる、のかな」
それでも健一の注意は|冴子《さえこ》の方へ|移《うつ》っていた。
絹川家から帰ってきた時のように、冴子はまた寝ているかもしれない。そう思うと、いつものように|無造作《むぞうさ》にはドアを開けられない。|慎重《しんちよう》に音を立てないようにと行動をする。
「あれ?」
でもその心配は|杞憂《きゆう》だった。
リビングは|灯《あか》りがついていて、冴子が|廊下《ろうか》を|覗《のぞ》き|込《こ》んでくるのが見えた。
「おかえりなさい、絹川君」
そして冴子も健一に気づいたらしく、|出迎《でむか》えてくれる。
「ただいま、|有馬《ありま》さん」
健一はそれで|拍子抜《ひようしぬ》けした気分になって、リビングに入り、それからソファに|座《すわ》る。冴子はちょっと台所に行くか|迷《まよ》った後、戻ってきて健一の|隣《となり》に座った。
「どこ行ってたの?」
「どこってこともないんですけど……」
|実際《じつさい》、どこということもなかった。なんとなく歩いて流輝と出会い、鈴璃に連れ回されただけだ。
「私が寝てるって思った?」
そして健一は|質問《しつもん》に答えなかったのに、冴子は別の質問をしてくる。
「ちょっと思ってました」
健一は苦笑いを|浮《ドつ》かべてしまった。
「私も努力はしたんだけど……やっぱりそんなに|簡単《かんたん》には無理ね」
「そうですか」
健一は正直言えば、ホッとしていた。これで本当に寝ていたなら、冴子は数日中に|全快《ぜんかい》なんてこともありそうだった。そうなれば様子見をするにしても、もう一ヶ月はかからないことになる。
「絹川君は?」
そんなことを考えたせいで、冴子の質問の意味が健一にはわからなかった。
「はい?」
「絹川君はそろそろ寝るってこと」
「ああ……そうですね」
考えてみると、|昨晩《さくばん》はろくに寝られなかった。時間もそうだが、屋上で知らぬ間に|眠《ねむ》っていたのだ。|身体《からだ》を休めるという意味ではあまり|褒《ほ》められた|状況《じようきよう》ではなかっただろう。
それにいろいろとあった。|精神《せいしん》的にも肉体的にも|疲労《ひろう》が|蓄積《ちくせき》されてても不思議はない。
「なら、もう寝る?」
そう|尋《たず》ねながら冴子が少し|寄《よ》りかかってぎたのかもしれない。健一は彼女がシャンプーの|香りを発してるのに気づいた。
柑橘系《かおかんきつけい》の、少し|甘《あま》い香りだった。
「……僕もお|風呂《ふろ》に入ってきた方がいいですかね」
そして健一はやっと気づいた思いだった。
冴子が寝るということは、自分と身体を重ねることだということを。
「どっちでもいいけど」
それは冴子にとっては|今更《いまさら》、特別なことではないのかもしれない。
たとえ一度、何もせずに寝られたとしても、彼女にとってはそれが|日常《にちじよう》であることには変わりはないのだろう。
「電気は消さないと、ですよね」
だから健一はそう言いながらも、冴子の手に|触《ふ》れた。
電気を消すために立ち上がる。それだけの間でももう彼女と|離《はな》れていたくないと思った。
「……そうね」
冴子の手はいつものように、少しひんやりとしていた。
でも健一にとってはそれは何よりの|温《ぬく》もりだった。
次の日、刻也と|一緒《いつしよ》に登校することになったのは、さほど|驚《おどろ》くべきことではなかったのかもしれない。
考えてみれば、一緒のところに住んでて、一緒に朝食を食べているのだ。同じ学校に行くのに、時間をずらす方が不自然な気がする。
「今日はバイトの日だから、鈴璃君にはちゃんと言っておこう」
朝食の時は上らなかった話題が、二人になったら出てきた。
刻也はやはり冴子に鈴璃の話を聞かれたくはないのかななんて健一は思う。
「昨日も言いましたけど、あんまり|厳《きび》しくは言わないでくださいね」
「わかってる……と言いたいところだが、私もムキになるところがあるからな。君の言葉を|忘《わす》れないように気をつけさせてもらうよ」
刻也の言葉に健一は、彼も変わったなと感じた。
ちょっと前なら彼はムキになるということにもう少し無自覚だった気がする。
「おはようございますっ」
そんな健一の耳に女の子の元気な声が|響《ひび》く。
「千夜子ちゃん?」
健一はその声の|主《ぬし》が|誰《だれ》かわかったところで、少し驚いてしまった。
「おはようございます、健一さん」
「おはようございます、千夜子ちゃん」
|挨拶《あいさつ》をし直してから、健一はその理由がやっとわかった。
「|風邪《かぜ》はもういいんですか?」
千夜子は昨日、病欠していたのだ。その彼女が元気よく|現《あらわ》れたので、なんだかおかしいなとそう思ったらしい。
「はい。最初からそんなに心配するほどのこともなかったですから」
「それなら、いいんですけど」
千夜子が学校を休むなんてかなり|珍《めずら》しいことだったなと健一は今更、思う。昨日は日奈のことで頭がいっぱいだったから気づかなかったが、お|見舞《みま》いに行くべきだったかもしれない。
「ごきげんよう、|大海《おおうみ》君。自分のことは自分が一番よくわかるというが、もしかしたらまだ風邪の引き始めなのかもしれないよ」
そこに刻也が不思議な|指摘《してき》を始める。
「引き始めですか?」
「一度軽く具合が悪くなった後、それが|収《おさ》まるのだが、それは別に|治癒《ちゆ》したからではなく……要するに|嵐《あらし》の前の静けさというわけだよ」
「……でも、きっと|大丈夫《だいじようぶ》ですよ。お父さんも平気だろうって言ってましたし」
千夜子は少し考えた様子を見せて、やっぱり元気そうに|笑顔《えがお》を見せた。
「ならば、いいのだが」
「それにしても最近、二人は仲がいいですね」
そして千夜子は今日、健一と刻也が一緒に登校してることに|興味《きようみ》を持ったらしい。
「そうだろうか? 一緒に登校するのはこれが初めてではなかったと思うが」
だが刻也にすればそんなことを気にされるのが不思議ということらしい。
「二人の後ろ|姿《すがた》がなんだか仲良さそうでした」
でも千夜子にとっては|疑《うたが》いのない事実であるらしい。
「そうだと言うのならそうかもしれないが……というか私はお|邪魔虫《じやまむし》というヤツなのだろうか? む、すまなかった。ここは君たちが二人で登校するべきだな」
しかし刻也は千夜子が何か自分を遠回しに|非難《ひなん》してるように感じたらしい。
「え? いや、いいんですよ。別にそんな意味で言ったわけじゃないですから」
「しかし、だね」
「八雲さんって他の人と|距離《きより》を置いてるみたいだったから、いい|傾向《けいこう》だなってそう思っただけなんです」
「だとしても、ここは君たちが二人でだね」
「そんなこと思ってるのは八雲さんだけだと思いますよ?」
千夜子はそう言って、健一の顔を見た。
「そうですよ。そんな風に気を|遣《つか》う方が変ですよ」
健一はそう答えながら、なんだか千夜子が少しテンションが高いと感じた。
「とは言え、|交際《こうさい》してる二人と一緒というのはこっちがだね」
だが刻也の関心は自分の|微妙《びみよう》な立ち位置であるらしい。
「だったら八雲さんの彼女の話を聞かせてください」
しかし千夜子はむしろそこに切り込んでいくような話題を|振《ふ》ってくる。
「か、彼女の話かね?」
刻也は|一瞬《いつしゆん》、|疑惑《ぎわく》の|表情《ひようじよう》で健一の方を見た。|昨晩《さくばん》の話を健一が千夜子にした。そう思ったのだろう。
「……い、言ってませんよ?」
なので思わず|否定《ひてい》してしまい、|逆《ぎやく》に千夜子に興味を持たれてしまう。
「なんの話ですか?」
「いや、その……まあ、私の彼女の話なのだが……」
そして正直にも刻也はそれを|認《みと》めてしまう。
「それは健一さんはもう聞いたってことですね」
「……聞いたというか、会ったというか」
「会ったんですか?」
千夜子は|驚《おどろ》いた様子で声をあげると、健一の方を見た。
「えっと……そうなるかな……」
だが刻也の彼女に会ったと言い切るには昨晩の出来事は微妙な気がした。
会った女の子が実は刻也の彼女だったと言う方が|正確《せいかく》だろう。
「どんな人なんですか? やっぱり狭霧ちゃんみたいに|綺麗《きれい》な人でした?」
だがそういう正確さよりも、千夜子は彼女がどういう人間なのかを知りたがっていた。
「……えっと」
しかしどうにもコメントしづらい|状況《じようきよう》だった。健一は助けを求めて、刻也の方を見るが、彼は静かに|視線《しせん》を|逸《そ》らす。
「……八雲さん?」
思わず、刻也の名前を|呼《よ》んでしまう。それくらいなんだか|裏切《うらぎ》られた思いだった。
「狭霧ちゃんとは|違《ちが》うタイプなんですか?」
そんなやりとりを見て取ったのか、千夜子の|質問《しつもん》は刻也に向けられていた。
「……まあ、狭霧とはかなり違うタイプだと思うが」
「誰かに|似《に》てるとかないんですか? |芸能人《げいのうじん》とかでも」
「あいにくあまり芸能人には|詳《くわ》しくないのだ」
「私もあんまり詳しくはないですけど……狭霧ちゃんみたいじゃないとするときれい|系《けい》じゃないってことですよね? ということは、かわいい感じですか?」
「そうだな……|背《せ》は低い方だし……そっちに|属《ぞく》するものと思う」
刻也の答えはかなり微妙な気が、すでに会ったことのある健一にはした。
|嘘《うそ》ではないが、何か|誤解《ごかい》させようという意図も感じる。
「背が低い|娘《こ》なんですね。それはちょっと|想像《そうそう》してたのと違うけど、それもアリだと思います。
なんだか年の差カップルみたいでわくわくします」
「わくわくするかね……」
年の差カップルという千夜子の|表現《ひようげん》は、それなりに当たってるような気もした。もちろん|実際《じつさい》には同じ年だが、刻也は|年齢《ねんれい》の|割《わり》に大人っぽいし、鈴璃は……まあ|子供《こども》っぽいところの方が多いだろう。
「今度、|紹介《しようかい》してくださいよ」
そして男二人がなんとも言い|難《がた》い顔をしてるのに千夜子は笑顔でそんな|提案《ていあん》を始める。
「……いや、彼女は別の学校だしな。|壱川《いちかわ》の方なのだよ」
「でも|一緒《いつしよ》のところでバイトをしてるんですよね? だったら時々はこっちに来てるってことですよね?」
「そ、それはそうだが……」
刻也は千夜子の|押《お》しに負けて、助けを求めて健一の方を見た。
「や、八雲さんもいろいろと|忙《いそが》しいから、なかなか|都合《つごう》がつかないんじゃないかな?」
健一はそれを受け止めて、それっぽい言い|訳《わけ》を用意する。
「そ、そうなのだよ」
「私は|暇《ひま》ですから合わせますよ。健一さんみたいにバイトしてるわけじゃないですし」
「……くっ」
予想以上に|粘《ねば》り強い千夜子に思わず刻也は息が|詰《つ》まったらしい。
「こ、こういうのは|縁《えん》っていうのかなあ……」
健一はそれでなんだかわからない言い訳を言いかけて、言葉に詰まる。
「縁か。そうだ、縁だよ」
しかしそれが刻也には何か思い当たったらしい。
「縁、ですか?」
千夜子はそんなやりとりに不思議そうな顔をする。
「縁があれば会うこともあるだろう。君が絹川君と会ったように、だ」
だが刻也は|何故《なぜ》か自信に|溢《あふ》れた顔で、そう告げた。
「……そうですね」
そして|理屈《りくつ》と言うよりは、刻也の|態度《たいど》で千夜子は|納得《なつとく》した様子を見せる。
「そういうのは無理を通そうとすることじゃないですよね」
千夜子はそう|呟《つぶや》いて、三度小さくうなずいた。それで健一は千夜子が本当に納得してしまったことを知った。
「……いいんですか、あれで?」
でも|腑《ふ》に落ちなかったので健一は|尋《たず》ねてみる。
「はい」
それに千夜子は|笑顔《えがお》で返した。
どうにもひっかかる。
健一は午前中、ずっと千夜子が何か変じゃないかと感じていた。
だがどこが、どうということもわからず、休み時間の|度《たび》に、やっぱりいつも通りだなあと思うようになっていた。
|今朝《けさ》、ちょっとテンションが高かったのは|確《たし》かだったけど、言ってみればそれだけだったのかもしれない。昼休みになる|頃《ころ》には、健一はそう|結論《けつろん》づけていた。
そしてそれを|裏付《うらづ》けるように、いつも通りのお昼の時間がやってきた。
「千夜子のお|弁当《べんとう》の|見栄《みば》えも|随分《ずいぶん》よくなってきたわよねー」
ツバメは相変わらず、|余計《よけい》なことを言うくせが止まらない。
人のために作ってきたお弁当を食べた挙げ句、そんなことを言われれば誰だっていい顔はしない。そんなことも彼女はわからないらしい。
「……だからツバメのために作ってきてるわけじゃないんだけど」
「いいじゃん。いいじゃん。絹川って、男のくせに小食だし、私が少しくらい食べた方が助かるんだから」
どころか千夜子に言われても反省する気がない。
「別に助かってないけど」
なので健一としても|黙《だま》って食べてるわけにもいかない。
「本当? 最初の頃なんか、味はともかく見た目は相当だったでしょ? |唐揚《からあ》げなんか真っ黒だったし。週に一度は出てくるイカフライもかなり黒かったし」
「だったら|鍵原《かぎはら》は千夜子ちゃんより|綺麗《きれい》に揚げられるのかよ?」
それでも千夜子は千夜子なりに|頑張《がんば》って作ってくれた。だから健一はそれに|文句《もんく》はなかったし、喜んで食べた。なのにツバメは健一はきっと不満だったと決めつけて話す。となれば健一としても、文句の一つも言ってやりたい気分になる。
「そんなの無理に決まってるじゃない」
しかしツバメはむしろ|誇《ほこ》らしげに、そんなことを言い出す。
「だったら人のやることに文句をつけるなよ」
「でも絹川なら今日のより綺麗に揚げられるでしょ? 千夜子がお弁当を作り始めた頃の絹川の方がまだ|上手《じようず》なんじゃないの?」
「……そうでもないと思うけど。今日のフライはかなりの出来だよ」
健一はツバメと口論をすることの無意味さを改めて感じる。なので話をするのは|止《や》めて、フライを見て、それから千夜子の方を見る。
「そ、そうだといいんですけど」
千夜子が急に照れて|視線《しせん》を|逸《そ》らすのが見えた。
「けっこう朝早く起きて作ったんじゃないですか? 千夜子ちゃんは|病《や》み上がりなんだから無理しちゃダメですよ」
「え? そ、そんなことまでわかるんですか?」
「揚げ物は|慌《あわ》てて作って箱に詰め|込《こ》むとべたっとするんですよ。でもこのフライはそうじゃないから、ちゃんと熱と湯気がこもらないように冷ましたんだなって」
「……はい」
千夜子は健一の|洞察力《どうさつりよく》に感心したのか、しばらくぼーっとしてから小さくうなずいた。
「へー。そういうものなんだ」
そして健一の|隣《となり》でツバメも感心した様子を見せる。
「特にお弁当箱ってのは|密閉性《みつぺいせい》が高いのが多いから。|鞄《かばん》の中でけっこう|乱暴《らんぼう》に|扱《あつか》われるから、こぼれないように作ってるんだろうけど、味のこと考えるとあんまりよくないんだよ」
「なるほどねえ。じゃあ、けっこうすごいのね、このフライ」
ツバメはそう言いながら、健一の弁当に|箸《はし》を|伸《の》ばそうと。
「すごいと思うなら、もう少し|敬意《けいい》を|示《しめ》せよ」
健一は気づいて、さっと|避《よ》ける。
「敬意を込めてじっくり食べようって思ったんだけど」
「……だといいんだけどね」
健一はツバメと口論する無意味さを思い出し、そういうことならとツバメにフライを|渡《わた》す。
「それにしても千夜子、そんなことどうして知ってたわけ? 本とかに書いてあるの、そヲいうこと? それとも作ってるうちに気づくもの?」
ツバメはフライを|上機嫌《じようきげん》に食べながら、千夜子に話を|振《ふ》る。|傍目《はため》にはどうみてもフライに敬意を|払《はら》ってないような気がするが、まあ、ツバメのすることだしなと健一は思う。
「……えと」
だが千夜子からすると、その|質問《しつもん》の方がけっこう|厳《きび》しいものであったらしい。
「まさか絹川に聞いたとか?」
ツバメはしかし知りたいことは知りたいという人間であるらしい。
「そうじゃなくて……お父さんに」
千夜子はなんだか言いにくそうに答える。
「お父さん、料理得意だったんですか?」
健一は最初は意外に感じたが、千夜子の母は明らかに料理が得意ではなさそうだし、もしかしたら料理は父の方の|担当《たんとう》なのかもしれないと思い直す。
「……けっこう得意なんですよ、実は」
なのに千夜子はその事実を|認《みと》めるのが、どうにも|嫌《いや》であるらしい。
「何かまずいんですか? お父さんが料理が得意だと?」
その理由がわからず健一は|尋《たず》ねてしまう。
「ほら、お父さんは……負けず嫌いじゃないですか」
しかし答えを聞いて、健一は|納得《なつとく》いくと同時にちょっとまずいことを聞いてしまったかもしれないと思った。
「……そうでしたね」
「料理に|限《かぎ》った話じゃないんですけど、周りに何か上手な人がいると、その人に勝つまでやってきたみたいで……」
「ああ、わかります」
「今もアヤ・クワバタケ|展《てん》のことで|錦織《にしきおり》さんに|張《は》り合ってて、最近はモディリアー二のことを調べてるらしいんです」
「モディリアー二?」
健一はなんのことだろうと思ってしまう。|綾《あや》とエリはともかく、聞いた覚えのない名前だったからだ。
「モディリアー二って、あの、黒目がない変な絵を|描《か》く人でしょ? アヤ・クワバタケってああいう絵を描く人なの?」
意外と言ったら失礼かもしれないが、ツバメはモディリアー二のことを知ってたらしい。
「ううん。アヤ・クワバタケは立体がメインの人なんだって」
「だったらモディリアー二がどう関係あるわけ?」
「モディリアー二は|若《わか》い|頃《ころ》は|彫刻家《ちようこくか》を|目指《めざ》してたんだって。でも体力と|財力《ざいりよく》が続かなかったから、油絵を描くようになったんだけど、お父さんが言うには、モディリアー二の絵はきっと彫刻なんだろうって」
「絵が彫刻って変じゃない?」
「彫刻を作ってるつもりで、絵を描いてたんじゃないかって。だからああいう絵になってるんじゃないかって」
「へー。それでそれとアヤ・クワバタケがどう関係があるの?」
「……そこまではよくわからないけど、アヤ・クワバタケはまだ若いから、これからは絵を描くようになるかもしれないとかそういう話かも」
「ふーん」
ツバメはわかったのかわからないのか|判別《はんぺつ》のつかない顔で健一の方を見る。
「|美術《びじゆつ》関係の仕事をするなら、|直接《ちよくせっ》関係ないことでも勉強するってことですか」
健一は|素直《すなお》に感心していた。どう考えてもそんなことまで千夜子の父親に求められてるとは思えなかった。それこそエリに|任《まか》せておけば、ちゃんとやってくれるはずだ。
「だから負けずぎらいなだけなんです。勉強してるのだって、錦織さんを|驚《おどろ》かせようとかそんな理由なんです……本当、大人げない人なんですっ」
でも千夜子はそんな父親が|恥《は》ずかしくてしょうがないらしい。
「|僕《ぼく》はそういう人好きですよ」
健一はそこがいまいちわからなかった。
千夜子の父親とは会ったことがある、とても気持ちのいい人だなと思った。千夜子の兄だってそうだった。なのに千夜子はその二人のことを恥ずかしく思っているらしい。
「……そ、そうなんですか?」
「僕の父親がそういう人間だったらなあって思うくらいですよ」
健一の父親が千夜子の父親のようだったら。きっともっと絹川家は|温《あたた》かい家庭になっていただろう。それは|間違《まちが》いなかった。
もちろんそんな|仮定《かてい》は意味のないことだし、今となっては父親のことも|嫌《きら》いではないのだが、千夜子が|羨《うらや》ましいという気持ちも|否定《ひてい》は出来なかった。
「あら、あら、絹川ったら|随分《ずいぶん》と|大胆《だいたん》な発言だこと」
しかしツバメはなにやら別の意味に取ったらしい。
「え? 何が?」
なんのことだろうと健一は思ってツバメの方を見るが、彼女の|視線《しせん》は千夜子の方へと向けられていた。
「千夜子お。絹川は千夜子のお父さんにお父さんになって|欲《ほ》しいみたいよー」
そんなことを言うツバメの視線の向こうで千夜子は真っ赤な顔をしていた。
「そ、そんなこと言ってないでしょ、健一さんはっ」
千夜子はツバメの言葉を否定しようとしているのだが声がいまいち出ていない。
コ言ったわよね、絹川?」
だからツバメは|嬉《うれ》しそうに健一の方を見る。
「……言ってない」
だから健一は視線を|逸《そ》らして、ツバメの言葉を否定した。
お昼のことを引きずっているのか、千夜子とはその後もうまく話せなかった。
「今日は先に帰っててください」
どころか、帰りも|一緒《いつしよ》にはならなかった。何か用があるらしく、千夜子はそう言うと教室をそそくさと出て行く。
「……で、なんで鍵原と帰らないといけないんだ?」
それを知っていたのか、ツバメは当然のごとくに帰路についた健一の|隣《となり》にいた。
「なによ? |嫌《いや》なわけ?」
「嫌って|程《ほど》じゃないけど、鍵原の家、こっちじゃないだろ?」
「いいでしょ。たまには一緒に帰ったって。私たち、友達じゃない」
「……そうだっけ?」
|記憶《きおく》が|確《たし》かなら、ツバメは千夜子の友達で、健一とは友達の彼氏という関係だったはずだ。
「なーに、絹川? そうじゃないとでも?」
でもいつのまにか、彼女の中で友達になっていたらしい。けっこう真顔で|睨《にら》まれた。
「いや、鍵原がそうだって言うなら、そうでいいけど……」
|実際《じつさい》、これだけ毎日のように会話をしてる相手というのもそうはいなかった。ならば友達ということでもいいのだろう、きっと。健一はそう思うことにする。
「じゃあ友達として心配だから聞きたいことがあるんだけど」
でも何かの|前振《まえふ》りでしかなかったらしいのが、その一言でわかる。
「……そういうことか」
軽くため息が出る。
「なによ、心配してあげてたのに! 千夜子は言いたくないことを聞くのはよくないって言うけど、私は知りたいし、それに言ったらスッキリするってこともあるでしょ?」
「そうだね」
|一応《いちおう》、健一のことを心配してのようだが、ツバメが言うとどうしても彼女の都合の方が強く感じられてしまう。
「だから私が聞くのはいいわよね?」
「聞かれたからって答えられるとは|限《かぎ》らないけど」
「いいのよ、それはそれで。私は聞きたいのに|我慢《がまん》してるのってお|互《たが》いによくないってそう思ってるだけだから」
「で、何が聞きたいんだよ?」
健一は|尋《たず》ねながらも、大体の察しはついていた。
「まあ、シーナ&バケッツのことなんだけどね」
「だろうね」
「でもその前に一つ。日奈さんのことも聞きたいんだけど」
「日奈……ちゃんのこと?」
「日奈さん、昨日来なかったでしょ? しかも今日になったら転校することになったとか言うじゃない。どういうことなの、これ?」
「……どこで聞いたんだ、それ?」
健一は思わず聞き返してしまった。
日奈の転校のことは本人から聞いて知っていたが、それをツバメが知っているというのは意外な気がした。
「気になったから|職員室《しよくいんしつ》で聞いてみたのよ」
「他のクラスのことなのに、|随分《ずいぶん》と|大胆《だいたん》なことをするなあ」
「だって|佳奈《かな》さんには聞きづらいじゃない。なんか暗いしさあ。絹川も昨日から元気ないみたいだし」
「それで職員室か……」
「なによ、悪いわけ?」
「いや。|俺《おれ》も鍵原くらい行動力があればよかったなって、そう思っただけ」
「……どうせ、私は考え無しよ。行動だけして、結果が|伴《ともな》わないし」
「でも何もしないで、何にもならないよりはずっといいよ」
「そ、そう?」
ツバメはバカにされたと思っていたらしく、|当惑《とうわく》した顔を見せる。
「日奈ちゃんが転校したのはシーナ&バケッツの話と関係があるんだ」
だから健一はツバメには|真剣《しんけん》に話した方がいいだろうと思う。そうでなくても、ツバメにはシーナ&バケッツのことで色々と|応援《おうえん》してもらった|恩《おん》を感じていた。なのに、こっちの都合で勝手に終わってそれっきりというのはやはりフェアではない気がする。
「どういうこと?」
「実はシーナは日奈ちゃんだったんだ」
自分で言いながら、さすがに|突拍子《とつぴようし》もないかなと健一は思う。
「ああ、だから絹川は日奈さんと仲良かったのね」
しかしツバメの|驚《おどろ》きどころはちょっとずれていた。
「……そこかな、気にするところは」
「いや、まあ、ちょっと変だなあとは思ってたのよね。シーナさん、女の子みたいにかわいかったし。でも女の子だったら、それもまあ、|納得《なつとく》じゃない?」
「それはそうだけど」
でももっと大事なポイントがあるだろうと健一は思う。シーナが佳奈と付き合ってたこととか、その辺りはどうでもいいのだろうかと|疑問《ぎもん》を持たずにはいられない。
「で、なんでシーナさんが日奈さんだと転校するわけ?」
だがツバメは別の疑問を|抱《かか》えたままだった。
「デビューするんだよ。シーナじゃなくて、|窪塚《くぼつか》日奈として」
だから健一としてはツバメの知りたいことだけ話そうという気分になった。
「じゃあ転校って|芸能人《げいのうじん》が|通《かよ》う学校ってわけ?」
「そういうこと」
「なるほどねえ」
それでツバメは知りたいことは全部知った気になったようだ。|素直《すなお》に感心して、すっきりとした|笑《え》みを|浮《う》かべている。
健一からすればなんだかすっきりしない|展開《てんかい》ではあったが、言いたくないことは言わずに|済《す》んだという気持ちもあった。
「あ、そういえばさ」
しかしツバメの話はまだ続くらしい。
「はい?」
健一は内心、かなりギク!! とした。と、同時にそれはやはり気になるよなという気分でもあった。
「絹川はデビューしないの?」
でもツバメが聞きたかったのは、健一が気にしていたこととは全然|違《ちが》った。
「……ああ、その話か」
「自分の話でしょ? それを気にしてあげてるのにその|態度《たいど》はなんなわけ?」
「俺はそういうつもりは最初から無かったから」
シーナに|強引《ごういん》に連れ出され、そして日奈のためにと|頑張《がんば》ってきた。だから日奈が一人で歩いていくと決めたなら、もう自分の出番はない。
「絹川ってそういうところあるよね」
「……そう、かな?」
どの辺りのことをそう言ってるのだろうかと健一は思うが、きっと聞いてもツバメはなんとなくと答えるだけだろう。
「まあ、私はあんまりガツガツした絹川の方が不気味だから、今のままでいいけど」
そのせいか、なんだかひどいことを言われた気がする。
「……それ、|褒《ほ》めてないだろ」
でもそれでツバメの言わんとすることがわかった気もした。
健一は|欲《よく》がない。それをツバメは言いたかったのだろう。
シーナのオマケとは言え、テレビに出られるまでの注目を集めたのだから、|一緒《いつしよ》にデビューすればいいのにそうしない。それが健一らしいということなのだ。
「褒めて|欲《ほ》しかったの?」
だからツバメに改めて問われて、変なことを言ってしまったなと健一も思う。
「いや、そういうわけじゃないし……鍵原には悪いことをしたと思ってるよ」
|実際《じつさい》、褒められるようなことはしてないのだから、褒められなくて当然だった。
「ん? どうして?」
「せっかく応援してくれたのに、勝手に|解散《かいさん》したりして」
それは別にツバメに対してだけの話じゃなかった。ライブに来てくれた人たち全員に言うべきことだ。
「それ言うなら私が勝手に応援してただけでしょ? それに……別に日奈さんとケンカして解散しちゃったってわけじゃないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「それともまさか、日奈さんを|押《お》し|倒《たお》そうとして……『絹川君がこんな人だったなんて! もう顔も見たくありません! 』とか?」
「だからケンカしたわけじゃないって言ってただろ?」
「だったら絹川のすべきことは一つだけじゃない? シーナ&バケッツは解散したって、ちゃんとみんなに知らせること。昨日だって、けっこう集まってたんだから」
「それはそうだよな」
健一はまったく気づいてなかったが、|確《たし》かにその|可能性《かのうせい》は十分にあった。
「ま、本当に解散しちゃったってことなら、私が伝えておいてもいいけど」
「……なんで、鍵原が?」
「だって、テレビで聞きに来ればいいって言ったの、私でしょ?」
「ああ……」
「それに絹川、なんだかんだで|凹《へこ》んでるみたいだし……ファンの子たちに面と向かって言うのつらいでしょ?」
「でも、俺の|責任《せきにん》だろ、それは?」
ツバメがテレビで言ってしまったからと言うなら、健一の方がずっとすべきことが色々とありそうだった。
「だから友達の私が代わりにしてあげるって言ってるんでしょ?」
でもツバメはそんなことはとっくにわかってるという顔をする。
「……なるほど」
健一はちょっと意外なその言葉に、それくらいしか返事が出来なかった。
「何か問題ある?」
「いや、ない……というか、ありがとう、鍵原」
でもしばらくして、ふっと|感謝《かんしや》の念が|湧《わ》いてくるのを健一は感じた。
「なによ、気持ち悪いわね」
「なんだよ、せっかく感謝してるのに」
「別にいいって。私、絹川のおかげでここ数日、鼻高々だったし。それに」
ツバメは|珍《めずら》しく、照れた様子を見せながら続ける。
「私はけっこうバケッツのハーモニカも好きだったから」
健一はその言葉にツバメは意外にちゃんと日奈や健一のことを見てくれていたのかもしれないなと感じた。少しずれたところはあるけど、|真剣《しんけん》に自分たちを|応援《おうえん》してくれていた。
「じゃあ|頼《たの》むよ」
だから、今は言葉に|甘《あま》えることにした。
そうすることが自分にとっても、ツバメにとってもいいことなのだろうから。
「それじゃ私はちょっと|準備《じゆんび》があるから、もう帰るね」
そして本当に、そのためにツバメは今日、|一緒《いつしよ》に下校することにしていたらしい。
「よろしく、鍵原」
だから別れ|際《ぎわ》、健一は彼女にそう言って手を|振《ふ》った。
「|任《まか》せておいてっ」
そしてツバメは小走りで去っていった。
「うーむ……」
しかしいざ一人になってみると、本当にツバメ一人に任せてよかったんだろうかという|疑問《ぎもん》が湧いてきた。
どうもツバメには|頑張《がんば》らねばならない場面で頑張りすぎて|空回《からまわ》りする|癖《くせ》がある。今回がそういう場面なのかはよくわからないけれど……。
「とは言え、|今更《いまさら》、俺が手伝うってわけにもいかないしなあ……」
そんなことをしたらツバメだって|不愉快《ふゆかい》に思うだろう。
それに彼女の話し方から|想像《そうぞう》するに、昨日、ツバメは集まっていたファンをちゃんと解散させてくれたらしい。とすれば今日だって、ちゃんとやってくれる、はずだ。
ということはやはりツバメに任せておくのが正解であって、でも任せられたということでツバメが頑張りすぎてしまうという|危険《きけん》も十分に考えられるし……。
「絹川君?」
そんなこんなが顔に出ていたらしい。不意に話しかけられた。
「……八雲さん」
その相手は刻也だった。なんだか今日は彼とよく会うなと健一は気づく。
「なにか|難《むずか》しい顔をしていたが……窪塚君のことかね?」
「まあ、関係なくはないですが、どっちかというと鍵原のことなんです」
「鍵原君かね?」
刻也は不思議そうな顔をして、それからちょっと辺りを|見渡《みわた》した。
「ええ、鍵原なんです」
それで健一も何かあるのかと思ってその|視線《しせん》を追いかける。
「立ち話もなんだし、公園か、もしくは1301に|戻《もど》って話すというのはどうだろうか?」
気づけば、もう公園のところまで来ていた。
「じゃあ公園で」
1301でも良かったが、まだ|幽霊《ゆうれい》マンションまではちょっと|距離《きより》があったし、|階段《かいだん》を十三階分上らなければいけない。その間に|疲《つか》れて|忘《わす》れてしまうかもしれない。
「うむ。たまにはそういうのもいいだろう」
刻也はそう言って歩き始める。
「おや、刻也君じゃないか」
しかしそれを別の|誰《だれ》かが|呼《よ》び止めるのが聞こえた。
「……ゲンさん、ですか?」
声の|主《ぬし》はパリッとしたスーツを着た男だった。健一の親と同じか、ちょっと上くらいの|年齢《ねんれい》だろうか。少し|痩《や》せていて長身のせいで、なんだか|縦《たて》に引っ|張《ぱ》ってしまったような不自然さを感じたが、その目には元気な光が宿っていた。
「ゲンさん?」
健一はその名を聞いたことがあったが、すぐには思い出せなかった。
「少しはマシな|格好《かつこう》をしたつもりだったのだが、すぐわかってしまったか」
ゲンさんと呼ばれた男は|子供《こども》のような|悪戯《いたずら》っぽい|笑《え》みを|浮《う》かべて、刻也の方に近づく。
「わかります。どんな格好をしていてもゲンさんはゲンさんですから」
「それは|褒《ほ》め言葉と受け取ってもいいのかな」
ゲンさんと呼ばれた男は、十分に近づいてから健一の|存在《そんざい》に気づいたようだった。
「あ、こちらは私のクラスメイトで絹川健一君です。絹川君、こちらはゲンさんだ。私の|沼《ぬま》での|師匠《ししよう》とも言うべき人だよ」
それで刻也が二人の間に立って|互《たが》いを|紹介《しようかい》した。
「……ああ。そのゲンさんですか」
その言葉で健一はやっと思い出した。
あれは|洗濯機《せんたくき》を刻也が持ってきた時のことだ。まだ使えるけど電化|製品《せいひん》が|廃棄《はいき》されている場所があって、そこでのルールを刻也に教えてくれたのがゲンさんということだった。
「ゲンさんというのは|通称《つうしよう》でね。本名は|源静夫《みなもとしずお》と言うんだ。よろしく、絹川君」
そして健一が|驚《おどろ》いてる間に、ゲンさんは|握手《あくしゆ》を求めてきた。
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」
なので|慌《あわ》てて|握《にぎ》り返す。
「それにしてもどうしたのですか、その格好は?」
そして|一呼吸《ひとこきゆう》置いたところで、刻也がそんなことを|尋《たず》ねる声が|響《ひび》いた。
「うむ。いつまでも|世捨《よす》て人のように生きてるわけにもいかないと思ってね。社会|復帰《ふつき》しようと思ってのことだ」
「社会復帰ですか」
「|恥《は》ずかしい話だがね。|娘《むすめ》が死んでからというもの、仕事をする気がしなくてね」
静夫はそう言って、本当に照れるような顔になる。
「娘さんが|亡《な》くなったのですか?」
「それももう|随分《ずいぶん》前だったし、娘は生まれつき、|心臓《しんぞう》の|病《やまい》を|患《わずら》っていたから、長く生きられないことは|覚悟《かくこ》してたつもりだったのだが……やはりそうもいかなかったというわけだ」
静夫はそう言ってから健一の方を見た。
「初対面なのに変な話をして、すまないね」
「いえ、気にしないでください」
健一は|一応《いちおう》、話は聞いていたが、それでも刻也と静夫の会話だと感じていた。だから話が自分の方に飛んできて正直、|面食《めんく》らった。
「なんでなのだろうね。どうも君が他人のように思えなくてね」
しかし静夫はさらに健一を|当惑《とうわく》させるようなことを言い始める。
「……そうなんですか?」
「なんとなく君は彼に|似《に》てるのかもしれない」
そして健一がなんのことかと思ってる間に、静夫は一つの答えを見つけたらしい。
「彼?」
「娘の……彼氏だったのかな。娘はけっこうモテたようでね、何人も男の友達がいたんだ。だから彼が彼氏という感じだったかどうかは私はちょっとわからないのだが、その一人が君に似ているように思えるのだよ」
「どんな人なんですか、その人は?」
自分に似ていると言われると、健一もさすがに気になった。
「もしかしたら君も知っている人間かもしれない。|荊木圭《いばらき》|一郎《けいちろう》というんだが」
「……荊木圭一郎」
|確《たし》かに健一の知ってる名前だった。
蛍子の前に|現《あらわ》れて、社長には|妻《つま》と|子供《こども》がいると|求婚《きゆうこん》をしたという男のことだ。
「当時は高校生だった彼も今では、千人を|超《こ》える会社の社長さんでね。テレビにも時々、出ているから君も見たことくらいはあるんじゃないのかな」
「見たことはないですけど、話を聞いたことは」
それが健一にとって正直なところだった。その気になれば圭一郎の|情報《じようほう》を集めるのはそう|難《むずか》しくないはずだったが、今までそれをしなかったし、彼に会ったこともなかった。
「なら、話は早い。その彼が娘の死をずっと引きずっていたんだ。それほど娘を愛してくれていたのだろう。ありがたい話だ。だが、それと同時に私は|責任《せきにん》も感じていた。娘を失っただけでなく、希望ある|若者《わかもの》の未来を|奪《うば》ってしまったんじゃないかとね」
「荊木さんは婚約されたんですよね?」
健一は静夫の話に|微妙《びみよう》な|違和《いわ》感を覚えていた。どうも蛍子から聞いていた人物|像《ぞう》とずれがある。でも別の人間の話をしているわけではないこともわかる。
「そうなんだ。それで彼に言われたわけだ。私のことで責任を感じる必要はないとね」
静夫はそれを満足げに話す。だが健一はやはりどうしてもひっかかるものを感じる。
「もうゲンさんの娘さんのことは引きずってない、そういうことなんですか?」
「ああ。それが彼なりの私への|励《はげ》ましだったのだろうね。彼が娘のことを|吹《ふ》っ切ったというなら、私もそうしなければ恥ずかしいじゃないか」
静夫はそう言ってから、それを口にしたこと自体が恥ずかしいと気づいたのか、|困《こま》ったなという顔になる。
「……それって娘さんのことを|忘《わす》れたってことじゃないんですか?」
でも健一はそんなことが気になってしまう。
「いや、それはないよ、絹川君」
だが静夫は、はっきりとそれを否定する。
「忘れたというなら、私の所にわざわざ話をしに来る必要はなかっただろう。彼は娘のことをまだ覚えている。気にかけている。だから私の所に来てくれたんだ」
「それは、そうですよね」
そう言いながらも健一にはイマイチわからなかった。忘れたわけでもなく、好きなままで、他の女の人を好きになるという気持ちが|理解《りかい》できなかった。
それに圭一郎はきっと、蛍子のことを好きになったわけではない。
蛍子から聞いた話では、圭一郎は社会的な立場上、妻がいないといけないということだった。
それはつまり、見合いで蛍子に会って|一目惚《ひとめぼ》れしたわけではないということだ。
だから健一はやはり静夫の話にひっかかるものを感じてしまう。
「ゲソさんは、どのような仕事をされるつもりなのでしょうか?」
しかしその理由がハヅキリする前に、ずっと|沈黙《ちんもく》を守っていた刻也が静夫に|質問《しつもん》をするのが聞こえてきた。
「建築デザイナーだよ。昔は|随分《ずいぶん》と|儲《もう》かったものだが、今思えばそれが良くなかったのだろうね。仕事をしなくても生きていけるだけのお金があると、心も|腕《うで》も|錆《さ》びていく」
「そういうものですか?」
「ここ数年の生活はすっかり錆び付いた心を|磨《みが》くためのものだったのかもしれない」
静夫はそう言って、また健一の方を見た。
「絹川君。もしかすると似ているのは圭一郎君ではないかもしれないな」
「……ど、どういうことでしょうか?」
「|娘《むすめ》の周りにいた男の子たちは何か|独特《どくとく》の|雰囲気《ふんいき》を持っていた。絹川君もそれを持っている。
それだけの話かもしれない」
「独特の雰囲気、ですか」
それは要するに、自分も圭一郎たちも|普通《ふつう》の人間ではないということなんだろうと健一は感じた。
どう普通ではないのか|個人差《こじんさ》はあっても、普通の人から見ると何かがおかしいと|映《うつ》るという意味で|一緒《いつしよ》だとそういうことなのだろう。
「とすれば、君も|将来《しようらい》は大物になるのかもしれないな」
「だと、いいんですけどね」
でも健一には静夫の言ったようにはとても思えなかった。
自分は日奈や綾、そして刻也のような特別な人間ではないのだから。
「まあ、大物になることが幸せかどうかは別の話だがな」
そして健一の返事に少し考えを変えたのか、静夫はそう言って笑うと、健一の頭を軽くボンと|叩《たた》いた。
「……あの?」
なぜそんなことをと健一が見上げると、静夫はより大ぎく笑うだけだった。
「|頑張《がんば》れ、少年。私も頑張る」
説明はない。そこにあるのは|笑顔《えがお》だけだった。
「……はい。ありがとうございます」
でもきっと言葉をいくら重ねてもわからないことなのだろうと健一は思った。
なんだか知らないが静夫は健一のことを気に入り、それでエールを送った。それだけでも十分、|感謝《かんしや》できる|事柄《ことがら》のような気がした。
「刻也君も頑張れ」
そしてそれを察したのか、静夫は刻也の方を見た。
「はい。なかなか思うに|任《まか》せませんが、すべきことをしていきます」
「刻也君はそれでいい」
静夫はそれに満足げな笑みを|浮《じつ》かべて、何度かうなずいた。
「じゃあ元気でな」
そしてもう話は終わったらしく、手を|挙《あ》げて彼は別れを告げる。
「ゲンさんこそ、お元気で」
それに刻也と健一は同じ言葉で返した。
「……前からああいう人なんですか?」
健一は静夫の後ろ|姿《すがた》が見えなくなると、知らずにそんなことを聞いていた。
「まあ、|概《おおむ》ね、あんな人だったかと思う。|格好《かつこう》はかなり変わっていたが、中身は以前の通りだ
ったように思う」
「そうなんですか」
健一はかなり意外だなと感じていた。
刻也が|敬意《けいい》を|抱《いだ》いてる大人というのは、もっと刻也をそのまま大人にしたようなそんな人ではないかとそう思っていたらしい。
でも人はむしろ自分にない物を他人に求めるのかもしれない。とすれば、静夫は刻也にとって会話しがいのある相手ということになるだろう。
「結局、立ち話をしてしまったね」
そして刻也は公園に入るつもりだったのを思い出し苦笑いを浮かべる。
「ま、それでもいいんですけど、公園の入り口でずっと話してるというのも変ですよね」
「まったくだ」
刻也は少し笑ったか思うと歩き出した。
「……あれ?」
だが健一が公園に入る前に、ポケットの中のPHSが鳴り出す。
「ん?」
「あ、電話みたいです」
健一はPHSを取り出すと、相手の名前を|確認《かくにん》する。
窪塚日奈。ディスプレイにはそう|表示《ひようじ》されていた。
「日奈からです」
健一はそう言うと刻也の後ろを歩きながら、通話ボタンを|押《お》した。
「……もしもし?」
健一はどうもやはり電話は苦手だなと思いながら、PHSから聞こえる声に耳を|澄《す》ます。
{健一? 今、|大丈夫《だいじようぶ》?}
日奈の声はなんとなく元気そうに聞こえた。
「うん。大丈夫だけど。というか、八雲さんと歩いてるところなんだ。代わろうか?」
{後で代わってくれるのは|嬉《うれ》しいけど、いきなりってそれは私と話したくないってこと?}
「あ、ごめん。別にそういう意味じゃないんだけど……」
{ま、本気でそう思ったわけじゃないけど}
日奈はそれでもちょっと|困《こま》ったのか言葉がそこで止まる。それで少し|問《まあ》が空いた。
「それでなんで電話?」
なので健一の方からそれを|尋《たず》ねることにした。
{会いたくなったら電話してって言ったと思うけど}
しかし変な答えが返ってきたなと健一は思うことになった。
「…ーえっと、それは日奈が|俺《おれ》に会いたいってこと?」
{いちいち真に受けなくてもいいから}
「……ごめん」
どうも話がうまく回らないなと健一は感じる。
{それで、用事って言うのは……まあ、こっちの|都合《つごう》で申し|訳《わけ》ないんだけど}
それで向こうもやっと本題を切り出す気になったらしい。
「うん?」
{引っ|越《こ》したのはいいんだけど、|最低限《さいていげん》のものしかないから、色々買わないといけなくて}
「買い出しに付き合えってこと?」
{うん。ダメかな?}
「いいよ。荷物持てばいいんだよね?」
{重いのは送ってもらうから、|一緒《いつしよ》に回ってくれればそれでいいんだけど}
健一はそれなら別に一人でも出来るんじゃないかと思ったりもしたが、きっとそういうことではないのだろうと考え直す。
「いつ? 今日、これから?」
{そこまではさすがに言わないけど、まあ、早めの方がいいとは思う}
「だったら今週末かな? 場所は?」
{|神宿《しんじゆく》がいいかなあとも思ったんだけど、お店がわからないから、そっちに行こうと思ってる。
駅前なら色々売ってるし}
「こっちに来るの?」
それはかなり意外な|提案《ていあん》な気がした。でも、まあ、特にコレが|欲《ほ》しいというわけじゃなく、|探《さが》して回るということであれば、知ってる土地の方がいいという考えもわからないでもない。
{その方がいいと思ったんだけど}
「だったら、八雲さんにも聞いてみようか?」
{それはちょっと申し訳ない気がするけど}
「聞いてみるだけならいいと思うよ」
健一はそう言うと返事を待たず、刻也に尋ねる。
「八雲さん、今週末、日奈がこっちに来るみたいなんですけど」
「……今週末か。それは土曜日だろうか? 日曜日だろうか?」
「早めの方がいいってことだったので、土曜日じゃないかと」
「それだと私はちょっと|難《むずか》しいな」
刻也はそう言いながらもどうしたものかと考え始めた。
「とりあえず、日奈と相談してみてください。|僕《ぼく》はどっちでもいいんで」
なので、|交渉《こうしよう》は|直接《ちよくせつ》やってもらおうとPHSを|渡《わた》す。
「そうかね?」
刻也はじっとPHSを見てから、それを耳に当てて話を始める。
「もしもし、八雲だが……うむ、そういう話のようだが……」
そして二人で何事か話を始めたらしい。日奈の方の声が聞こえないので、健一にはいまいち会話の意味はわからない。
「いや、別に変な意味ではなく……それは|確《たし》かにそうだが……だがだね、私と彼女は……別に次の日が休みだからというわけではないのだが……むむ、君はそういうことを言う人間だったのかね? ……それはまあ、そうだろうし、|感謝《かんしや》もするが……しかしだね……」
しだいに健一は刻也の言葉を追いかけるのを|止《や》め、自分にPHSがいつ|戻《もど》ってくるのかを考えるだけになった。
「絹川君、君に話があるそうだ」
だから二人がどれくらい話していたのか健一にはよくわからなかった。
「あ、はい……もしもし?」
それでも刻也が土曜日に一緒に行くということにはならなかったらしいことだけは健一にもなんとなくわかった。
{八雲さんは彼女とデートなので無理だって}
「……そういうことか」
しかしそれなら自分もどうなんだろうなと健一は考えてしまった。
千夜子ととりあえず約束はしていなかったと思うが、何か一緒に行こうと|誘《さそ》われてもおかしくない。
{そういえば八雲さんの彼女とは会えずじまいだったな}
でも日奈の|興味《きようみ》はそっちの方だった。
「……俺、昨日、会ったよ」
なので正直にそう言ってみたものの、あまり|適切《てきせつ》な話題じゃない気もした。
{マジで! ?}
でも日奈にとっては興味|津々《しんしん》の話題だったらしい。
「マジで。と言っても、そうと知らずに会ったから、あんまり話せなかったんだけど」
{どんな|娘《こ》だった?}
健一は|素直《すなお》に答えていいものかと思って、刻也の方を見る。すると彼がびっくりするほど|渋《しぶ》い顔をしているのが見えた。
「……えっと、ほら、国道|沿《ぞ》いのフープに九条君っていただろ?」
{うん。でもそれが? ま、まさか……}
「いや……まだそんなにびっくりするようなところじゃないから」
{だよねえ。びっくりさせないでよ、健一}
「勝手にびっくりしただけだと思うけど。とにかく、その九条君のお姉さんだったんだ」
{そういえば、九条君のお姉さん、ファミレスでバイトしてるって言ってたな}
「そうなんだよ。八雲さんの彼女もあのファミレスでバイトしてるって聞いてたから気づきそうなものだったなあと」
{じゃあ、あの時のウェイトレスの中にいたってこと?}
「……いや、あの時はいなかったと思うよ」
もはや|随分《ずいぶん》前のことなので|定《さだ》かではないが、それでも鈴璃がいたかと聞かれれば、いなかったと健一は|断言《だんげん》できた。少しでも見かけたなら、きっと覚えていた。
あの日は彼女はバイトをしていなかったか、何か|裏方《うらかた》の仕事をしていたのだろう。
{そっかあ。でも一度くらいは会っておきたかったな}
「まあ、そのうち会えるかもしれないよ」
健一はそう言いながら、刻也の方を見て、かなり|微妙《びみよう》な|表情《ひようじよう》を|浮《う》かべていることに気づく。
もうこれ以上、鈴璃の話題をするのは好ましくない。それを|今更《いまさら》、健一は|悟《さと》る。
「で、その、土曜日はどうすればいいの?」
なので本題に戻した。なるべく自然に。
{十四時に|比良井《ひらい》駅でいいかな?}
「うん。十四時に」
健一はそれだけの|確認《かくにん》をすればいい話だったなと思う。鈴璃の話を|中途半端《ちゆうとはんぱ》にするから、刻也が変な顔をしてしまうのだ。
「あ、そうだ」
でも一つだけ聞かねばならないことを思い出した。
{なに?}
「綾さんや有馬さんにも来てもらった方がいい?」
健一はその|質問《しつもん》に日奈はイエスと答えるだろうと思っていた。
{いいよ。二人とも出歩くのあまり好きじゃないだろうし}
でも|実際《じつさい》にはノーだった。
「そっか。じゃあ、土曜日の十四時に」
だから健一はあまりそのことに|触《ふ》れず、電話を切り上げることにする。
{うん。じゃあ、土曜日の十四時に。|遅刻《ちこく》するなよっ}
そして日奈は笑いと共に電話を切った。
「遅刻するなよ、か」
健一は最後の言葉を繰り返す。
思えば遅刻らしい遅刻は、シーナ&バケッツのライブくらいだった。
一度目は家に帰り、|孤独《こどく》さに泣いた時。二度目は綾と|中華街《ちゆうかがい》に行って、エッチに|夢中《むちゆう》になって時間を|忘《わす》れた結果だ。
「ろくな理由がないな、俺……」
それは|釘《くぎ》も|刺《さ》されるなと健一は思う。
「どうも今日は鈴璃君の話題が多いように思うのだが」
しかしそれが聞こえなかった刻也からすれば、気になるのはそっちの方だった。
「朝は千夜子ちゃんにいろいろ言われてましたしね」
「女子というのは人の彼女というのが気になるものなのだろうか?」
「まあ、八雲さんの彼女だからじゃないですか?」
健一は確信はないがそういうことなんだろうなと思う。
「私の、だからかね?」
「どんな人なんだろうって、|想像《そうぞう》を|駆《か》り立てるじゃないですか」
「|大海《おおうみ》君は狭霧のような|娘《こ》をイメージしてたようだが」
「まあ、僕もそうでしたけど……ああ、ゲンさんですよね」
「うむ? 何の話かね、それは?」
「僕、ゲンさんはもっとなんというか、八雲さんみたいな人だろうと思ってたんです。すごくきっちりした、|立派《りつぱ》な大人だろうとなんとなく思ってました」
「だ。か実際には|違《ちが》った、と?」
「はい。どっちかというと、八雲さんには無いものを持ってる人だなあって」
「……まあ、それはあるだろうな」
「だから彼女も想像する|限《かぎ》りだと|似《に》たもの同士なんですよ。でも本当はそうじゃないんです」
「お|互《たが》いに無いものを持ってるもの同士ということだね?」
「はい。僕と千夜子ちゃんだって、全然違いますよね」
自分で言ってから、健一はその通りだなと|納得《なつとく》してしまった。
人は似たもの同士の方が仲良くなりやすいのかもしれない。実際、似てるところがない者同士ではきっと話にならないだろう。
でも本当に必要な相手というのは、そういうところにはいないのかもしれない。
「まったく、君の言うとおりだと思う」
そして健一が自分自身感心してしまったくらいなので、刻也もその言葉にはかなり|感銘《かんめい》を受けた様子だった。
「ですよね」
「こんなことなら、君には早く|紹介《しをつかい》しておけば良かったな」
「……え?」
「いや、似合ってないと言われるのではないかと|危惧《きぐ》していたのだが、そういう考え方もあったのかと感心したのだよ」
「ああ」
「それに君に紹介して問題なければ、窪塚君にも安心して紹介できた。なのに私は|一昨日《おととい》までそんな|可能性《かのうせい》すら考えずにいて……そして紹介することができなかった」
刻也の言葉はなんだかもう日奈には会えないと言ってるように聞こえた。
「|縁《えん》があれば会うこともあるだろうってことですよね」
だから健一は|今朝《けさ》の刻也を|真似《まね》てそんなことを言ってみる。
「縁があれば、か」
しかし|逆効果《ぎやくこうか》だったらしく、刻也はより|神妙《しんみよう》な顔をした。
「……何かまずかったですか?」
さすがに真似たことに|怒《おこ》ってるのではないだろうと健一は思う。しかしそれ以外にさっきの言葉のどこにひっかかるところがあったのかは思い当たらない。
「縁というものは一生で決められた量しかない。そんな風に考えたことはないかね?」
刻也の言葉は|疑問《ぎもん》の形ではあったが、健一の|質問《しつもん》の答えにもなっていた。
「決められた量、ですか」
それが刻也の人生観なのだろう。そしてだから、刻也はもう日奈とは会えないんじゃないかと思ってるのだ。
「私はきっと小さい|頃《ころ》からそう考えてきた」
そして刻也はなんだか|他人事《ひとごと》のように、そう|呟《つぶや》く。
「さっき日奈から電話がかかってきたばかりじゃないですか」
刻也がそう考えるようになったのにはきっと何か理由があるのだろう。それは健一が|恋愛《れんあい》が苦手だと考えるようになったように。
でも、だからってもう日奈に会えないと考えるのは、さすがに行き|過《す》ぎだと健一は思う。
「そうだな。君と窪塚君の縁はまだ|尽《つ》きてはいないのだろう」
それでも刻也はやはり考えを変えたわけではなさそうだった。
「それなら八雲さんの方はまだまだ残ってるはずですよ」
だから健一は刻也の|流儀《りゆうぎ》に合わせることにした。
健一と日奈はこの数ヶ月、今までとは|比《くら》べものにならないほど、縁を使ったかもしれない。
それでも電話はかかってきたし、会うことになった。
ならば、刻也と日奈にはまだまだ会う機会が残ってるはずだ。刻也は健一に比べてずっと日奈と会っていなかったのだから。
「……なるほど」
刻也は|驚《おどろ》きながらも、小さく|笑《え》みを|浮《う》かべた。
「ですよね?」
「違いない。私は君に比べれば縁を使ってはいないのだからな」
でも刻也の笑みはまだ日奈に会えるからということではないのかもしれないと健一は感じた。
健一が刻也のこだわりに|理解《りかい》を|示《しめ》した。そのことに対してだったのだろう。
「気になるなら土曜日、|一緒《いつしよ》にどうですか?」
だから健一は思い切って、そんなことを|提案《ていあん》してみる。
機会が限られるというなら、|確実《かくじつ》そうな土曜日に彼女を紹介すればいい。そう健一は思ったのだが、刻也は少し考えが違うらしい。
「いや、|遠慮《えんりよ》しておこう」
「いいんですか?」
「ああ。縁があれば会うこともあるだろう――ということだな」
刻也は今朝言ったことを繰り返す。
縁があれば会うだろうし、無ければ会わない。それは刻也にとっては努力で|覆《くつがえ》そうとするものではないらしい。
そう考えると意外に刻也はロマンティックな人間なのかもしれない。
「わかりました」
だから健一はそれ以上、日奈のことを話すのは|止《や》めた。
自分にとっても、刻也にとっても、まだ日奈と会う機会があるなら、それでいいのだから。
「……土曜日か」
でも改めて考えると、それはひどく先のことのように健一には感じられた。
「……|俺《おれ》、前は何してたんだっけ?」
そんなことを考えてしまうくらい、健一は時間を持て|余《あま》していた。
刻也と一緒に|幽霊《ゆうれい》マンションまで|戻《もど》ってきたのはいいけれど、刻也は自室に戻り勉強を始めてしまった。
1301に顔を出してみても、|誰《だれ》もおらず。どこかへ行こうと|誘《さそ》うシーナもおらず。
しかもバイトもないとなるとやるべきことが健一には思い浮かばなかった。
思い出してみるに、シーナが来るまでは家にいたのだ。
家事をしたり、買い物に行ったり、マンションと行き来してるだけでなんだか時間が|潰《つぶ》れていたように思う。
それがシーナにライブにかり出されてからは、ライブばかりの毎日だった。
「もうライブでハーモニカを|吹《ふ》くこともないんだよな」
健一はそう思いながらも、ポケットの中にハーモニカが入ってるのを|確認《かくにん》した。
シーナにもらった|複音《ふくおん》ハーモニカ。シーナはそれをゴスペルハープと|呼《よ》んでいた。
それを|暇《ひま》を見つけては練習していたのも、なんだか|随分《ずいぶん》と前のことのように感じられた。
日奈と会う週末がやけに遠く感じられるのと同じで、時間に対する感覚がおかしくなってるのかもしれない。そんな不安すら|抱《いだ》く。
「一度にいろいろあったから、だよな」
綾と|中華街《ちゆうかがい》に行って、みんなでシーナ&バケッツをテレビで見て、告白をするという日奈を送って、そして|振《ふ》られた日奈と幽霊マンションに戻ってきて、次の日には日奈は|芸能界《げいのうかい》にデビューするとマンションを出て行った。
バケッツとしてストリートデビューした時もいいかげん目が回るような|忙《いそが》しさだったけれど、ここ数日はそれ以上だった。とすれば調子が|狂《くる》っていても不思議はない気もする。
「しばらくは……のんびりした方がいいのかもしれない」
することがないなら、無理にすることはない。健一はそう思い直し、|昨晩《さくばん》のようにアテもなく散歩でもしてみることにした。
それはそれで何かをすることなのかもしれないけど、それを|確《たし》かめることすらせず、健一は幽霊マンションを後にした。
少し歩くと、お店の前でちょっとした人だかりが出来ていた。
「なんだろ?」
健一はその|状況《じようきよう》そのものにも|疑問《ぎもん》を持ったが、そもそもここにあったのはなんのお店だったかなと考えてしまう。
「……本当、なんの店だっけ?」
とりあえず思い当たらないのは、その店がまだ出来たばかりであったかららしい。
|店構《みせがま》えを見る限り、それはエスニックな感じの料理店らしい。
「……これって」
健一はそれで|興味《きようみ》を引かれて、何かもっとハッキリとわかるものをと|探《さが》してるうちに、|看板《かんばん》を見つけて、少し言葉を失った。
そこにはニメートル近くもあるパエリア|鍋《なべ》を中心に、|金属《きんぞく》パイプが配置されていた。
それはきっと太陽をイメージしたものだろうと思えた。看板にはそれだけの|強烈《きようれつ》なエネルギーが感じられた。|輝《かがや》いてるように感じられた。もちろん看板には発光する部分などないし、日差しが|反射《はんしや》してるわけでもない。だが、確かにそこから何かが|降《ふ》り|注《そそ》いでるようなそんな感覚になるのだ。
「……綾さんのだよな」
その感覚はきっと、<<時の番人>>を初めて見た時のものと|一緒《いつしよ》だった。綾に幽霊マンションに連れていかれた時に見た|門松《かどまつ》のようなオブジェとも。
「あら、健一君じゃない?」
そして健一の確信と共に、答えは向こうからやってぎたらしい。
「錦織さん……ってことはやっぱり、そうなんですね」
健一を見つけて話しかけてきたのは、エリだった。綾のプロデューサーを名乗る|女性《じよせい》だ。
「何が? ……ってちょっと待って、自分で考えるから」
そして綾に|似《に》て、少し変なところがある人物でもある。変さはまたちょっと|違《ちが》うが。
「……はあ」
「あの看板を作ったのは綾なのかってことよね?」
そしてエリは健一の|反応《はんのう》から、彼が何を考えていたのかズバリ言い当てる。
「そうです」
「ま、見る人が見ればわかるわよね。そうでなくても綾のはわかりやすいし」
そう言いながらエリは心なしか|誇《ほこ》らしげな|表情《ひようじよう》を|浮《う》かべていた。
「そうなんですかね?」
「健一君は昔から綾のファンらしいからわかったんでしょうけど」
「……そうなんですかね?」
健一はやっぱりエリとはどうも会話が|噛《か》み合わないなあと思う。察しがいい|割《わり》にそう感じるのは、ペースというかテンポが|独特《どくとく》なせいなのだろう。
「で、なんで健二君がここにいるの?」
そしてそれを|裏付《うらづ》けるように、なんとなく|今更《いまさら》っぽい疑問をエリは口にする。
「いや、まあ、散歩してたら見かけただけなんですけど」
「まあ、そうよね」
そして自分から聞いたくせに、エリはあまり興味のなさそうな顔をした。
「そう言えば、あの看板ですけど……あれって太陽ですか?」
「でしょうねえ。店長に見せたら、鍋を火にかけたところかって言われたけど」
エリはいかにもおかしそうな顔して笑う。
「……ある意味、まんまですけど」
「|南欧《なんべい》のイメージって言ったらやっぱり太陽よね。デル・ソルって|響《ひび》き聞いたことない?」
「時々聞きますけど、どういう意味なんですか?」
コスタ・デル・ソルとかヴィラ・デル・ソルとか。そんな言葉は聞いたことがあるが、それがどういう意味なのかは健一はよく知らなかった。
「英語で言うとオブ・サンってことね。日本語で言うと、太陽のってこと。コスタ・デル・ソルなら、コースト・オブ・サン、太陽の海岸ってことね」
「だから太陽をイメージしたデザインにしたんですね」
なんでいちいち英語で言うのかは健一にはよくわからなかったが、きっとエリがハーフなのに関係あるんだろうなと思うことにする。
「まあ、そんなことを綾が知ってるのかどうかはよくわからないけど。私の注文はパエリア鍋を使って看板を作ってってだけだったし。ひょっとすると店長が言った通り、鍋を火にかけたところって方が|正解《せいかい》かもしれないわね」
「……そうなんですか?」
「ま、表向きは太陽ってことにするけど」
エリはそう言ってニッと笑うと、人だかりの方を指さした。
「なんですか?」
「綾がインタビューを受けてるのよ。あんまり見られるものじゃないから、健一君も|観《み》ておいたら?」
「……ああ、そういうことだったんですか」
そしてやっと健一は人だかりの理由を理解した。
開店前の店の前で、その看板を作った|造形家《ぞうけいか》がイソタビューを受けているのだ。それが何かを|正確《せいかく》に|把握《はあく》してる人ばかりではないだろうが、何か|珍《めずら》しいものらしいというのはきっとわかるのだろう。
「ま、そういうこと。健一君が知らないってことは、綾は言いたくなかったんでしょうけど、まあ、来ちゃったものは仕方ないわよね」
エリはそう言うと健一の手を引いて、その場から|移動《いどう》し始めた。もう少し綾が見やすい場所に連れていってくれるらしいのだが、どうも言動が|一致《いつち》してない気がしてならない。
「……いいですよ」
健一は綾が|秘密《ひみつ》にしていたなら何か理由があるのだろうと思えて、そんなエリに|素直《すなお》に|従《したが》う気にはなれなかった。
「ん?」
「|黙《だま》ってたってことは、|僕《ぼく》に知られたくないってことですよね?」
だから健一はエリにそんなことを|尋《たず》ねる。
「んー。まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
でもエリの答えはなんともあやふやなものだった。
「……どっちなんですか?」
「綾は照れてるのよ、それだけ。秘密にしたいわけじゃなくて、言うのが|恥《は》ずかしかっただけ。
健一君にはそういうことない?」
「照れてる? 綾さんがですか?」
エリは確信を持ってるようだが、健一にはいまいちピソと来なかった。
「ええ。よそ行きの|格好《かつこう》を|普段《ふだん》から会う人にはあまり見られたくないでしょ?」
「そういうものですか?」
「そういうものよ。健一君が観に来てくれたって知ったら、綾は喜ぶわよ、きっとね」
「だといいんですけど」
健一はそれでもエリのような確信は持てなかった。
「お世辞を言う必要はないけど、ちゃんと|褒《ほ》めてあげてね」
エリはでも健一の|逡巡《しゆんじゆん》には本当に|興味《きようみ》がないらしい。|嬉《うれ》しそうにエリはどこかを指さす。
「何を、ですか?」
健一は尋ねながらも、エリの指の先を見る。
「綾、|頑張《がんば》ってるでしょ?」
エリの答えが返ってくる前に、健一はそれを理解していたかもしれない。
「……みたいですね」
健一の|視線《しせん》の先には|確《たし》かに綾がいた。
だが健一の知ってる綾とはかなり|違《ちが》っていた。
よそ行ぎの格好。エリがさっき言ってた言葉の意味もわかった。
確かに普段とは違ってちゃんと身だしなみを整えている。そういう時の綾は確かに美人なのだと感じさせる。でもそういうことではないのを健一は理解していた。
そこにいたのは健一の知ってる|桑畑《くわばたけ》綾ではなく、アヤ・クワバタケなのだ。
だから、何かが違うと感じたのだ。
「本当、別人よね」
エリの言葉を昔なら理解できなかっただろうなと健一は思う。
でもバケッツが自分なのに自分ではなかったように、アヤ・クワバタケも綾であって綾ではない。そのことを健一は実感できた。
「そうですね」
「でも、あれが本当の綾なのかもしれないわね」
「え?」
エリの言葉に健一は|驚《おどろ》きながら、でもそういうこともあるのかもしれないとも思う。
日奈とシーナの関係のように、綾にとっては今の|姿《すがた》こそが本当なのかもしれない。
綾は天才的造形家として生まれ、そして育ってきた。それが家族を苦しめる結果になり、彼女は家を飛び出した。
健一にとっての綾は家を飛び出した後の綾だ。それも彼女なのは確かだけれど、本当の彼女は家で|伸《の》び伸びと物を作っていた方なのかもしれない。
「ま、本当が何かなんて時と共に変わるものだけど」
エリはそう言って、健一の|肩《かた》をポンと|叩《たた》いた。それで健一は彼女が意外に|側《そば》に立っていることに改めて気づく。
「……なんですか?」
健一はそれでエリが綾以上に整った顔の持ち主であることを|意識《いしき》してしまう。
「今回の取材はね、綾が言い出したことなの」
だがエリにとってはそんなことは少しも興味のないことのようだった。
「綾さんが、ですか?」
「いつもなら、そういうのは私がするんだけど。綾は知らない人と話をするの、あまり得意とは言えないでしょう?」
「……ですよね」
「でも、別に|嫌《きら》いってわけじゃなかったんだなあって気づかされたわけ」
「嫌いじゃない?」
「苦手だけど、嫌いじゃないの。綾はね、他の人が嫌いなわけじゃないの。他の人が自分と話すのを|嫌《いや》がってるんじゃないかって、そう思ってただけ」
「……だけと言うにはけっこう|深刻《しんこく》な気もしますけど」
「|実際《じつさい》、綾と話してると|疲《つか》れるって人はいると思うわ。それこそ、健一君のお姉さんは綾と話すの嫌いだと思うわ」
「……ですよね」
エリはやはりそういうところは|鋭《するど》いなと健一は思う。
姉の蛍子がキレたのは、健一が仲良くしてる相手が綾だと知ったからだった。二人の間に何があったのかはよくわからないけれど、蛍子にとって綾が|心穏《こころおだ》やかとは|無縁《むえん》の相手であろうことは|想像《そうぞう》できた。
「でもね、そんなことは話してみないとわからないことだし、それに仕事だから、綾がそうしたいというならそうさせてあげようかなって、そう思うことにしたの」
エリは嬉しそうに笑いながら、また少し健一に顔を近づけた。
「仕事だからですか?」
「もちろん仕事ならなんでもいい|訳《わけ》じゃないけれど。そうね、綾のことを|理解《りかい》したくてやって来る人なら、それはいいことかなってことかな」
「……なるほど」
「それもこれも、綾が自分で言い出したから……じゃないのかな」
エリはそこまで言いかけて、なにか少し|難《むずか》しい顔をした。
「そうじゃないんですか?」
それで健一は不安を覚えるのだが、エリはまた勝手に何か|納得《なつとく》した様子で|笑《え》みを|浮《う》かべる。
「ぎっと、健一君のおかげよね」
「どうしてそうなるんですか?」
「健一君が綾の話をちゃんと聞いてくれたから、綾は人と話す勇気を持てた私はそう思ってるんだけど」
「……だといいんですけど」
健一はエリのようにはやはり|確信《かくしん》を持てなかった。
綾が健一に会ってから変わったというのはきっと|確《たし》かなことだろう。でも、それが自分のおかげなのかと言われると|疑問《ぎもん》は残る。
「他の人のおかげもあるかもしれない。でもね、健一君のおかげでもあるのは確かでしょ?」
「そういうことなら……そうかもしれないですね」
「だから何かお礼をしないとねって思ってるんだけど――」
エリはそれから何か意地悪な笑みを浮かべたかと思うととんでもないことを言い始める。
「綾も|交《まじ》えて三人でエッチするとかどうかしら?」
おそらくは|冗談《じさつだん》なのだろう。冗談なのだろうが、どうもそうとは聞こえないのがエリの|恐《おそ》ろしいところだった。
「……えっと」
だから健一は、どう|反応《はんのう》すればいいかわからず固まってしまった。
「冗談よ。だって綾ともうしないって約束したんでしょ?」
そしてエリはそんな健一が|面白《おもしろ》かったのか、いかにも|嬉《うれ》しそうな笑みを浮かべた。
健一は綾の見えるところにいたけれど、綾には健一が見えていなかったらしい。
「あれ、健ちゃん? どうしてここにいるの?」
インタビューが終わってエリの|姿《すがた》を|探《さが》してるうちにやっと健一がいるのに気づいた。そういう|状況《じようきよう》らしいことが、綾の反応でわかる。
「散歩してたら人だかりがあったので、何かと思ったら綾がいたんですって」
それにエリがまるで見ていたかのように代わりに答える。
「錦織さんが言ったの?」
しかしそれに綾が少し不満そうな顔をした。
「言ってないわよ。ね、健一君?」
「ええ。本当に錦織さんが言った通りで、なんとなく見つけたんです」
健一はエリに|振《ふ》られて|慌《あわ》てて返事をする。
「本当?」
でも綾は|疑《うたが》わしいという|視線《しせん》を投げてくる。
「綾と健一君は不思議な|縁《えん》で結ばれてるんだと思うわ」
エリはそう言って健一の|背中《せなか》を|押《お》して、綾に近づける。
「な、なんです?」
「残りはこっちでしておくから、二人で|一緒《いつしよ》に帰ったら?」
エリは健一の疑問には答えず、綾の方を見てそんな|提案《ていあん》をする。
「……健ちゃんはそれでいいのかな?」
それで綾は健一の方に|尋《たず》ねてくる。
「え? ああ、いいですよ。なんとなく見つけたくらいで、特に今日はこれっていう用事はないですから」
「うん。じゃあ一緒に帰ろ」
綾はそれで|幽霊《ゆうれい》マンションの方へと歩き出す。健一もそれに続こうとして、ふと用事を思い出し綾を呼び止めた。
「あ、すみません、綾さん。夕食の買い出しをしにいかないとかもしれません」
「それは私も一緒に行っていいのかな?」
綾は健一の方を振り向いて、ちょっと|困《こま》ったような|表情《ひようじよう》を浮かべた。
「少しぐらい|寄《よ》り道してもいいんじゃないんですか? どうせ|暇《ひま》なんですから」
だから健一はそう答えた。
それはこのままだとすぐ帰ってしまうという意味でもあったが、それだけではなかった。綾は|脇道《わきみち》に|逸《そ》れることが多いけれど、それでもいいということだ。
「そうだね、健ちゃん」
だからなのだろう。綾は明るい表情を浮かべて、大きくうなずいた。
「ずっと見てたの?」
買い物のことより綾にとっては、健一がいつからあの場にいたのかが気になるらしい。
「人だかりがすでにあったから、そんなにずっとってこともないと思いますけど」
健一は綾の顔を見て、それからエリの言葉を思い出していた。
綾は照れてるのよ――とエリは言っていた。そしてその言葉通り、綾は本当に見られていたことが|恥《は》ずかしかったらしい。
「なら、いいんだけど……」
だからそうは言いながら、なんとなく不満そうに見える。綾がそういう顔をするのはあんまりないが、それでも綾らしいと健一は感じる。
「やっぱり綾さんなんですよね」
「ん? どゆこと?」
「インタビュー中の綾さんは別人みたいだったから、ちょっと心配だったんですよね」
「この|格好《かつこう》のせい?」
綾は不思議そうな顔をして、自分の服の|胸元《むなもと》を引っ|張《ば》ったりする。
「服とかそういうことじゃなくて……本当に別人だったんですよ、多分。さっきまでの綾さんは桑畑綾じゃなくて、アヤ・クワバタケだったんです」
そんな言い方で綾に伝わるだろうかと健一は少し不安だったが、|実際《じつさい》には綾は少し考える顔にはなったが何か思うところがあったらしい。
「……それはそうかも。今までの私だったら、あんな風には話せなかったから」
「僕もライブの時、自分が別人みたいに感じられる時があって、きっとそれは|端《はた》から見てもそうなんだろうなって。だからきっと綾さんもそうなんじゃないかなって」
「うん。でも私はそれならちゃんとアヤ・クワバタケになりたいんだ」
綾の言葉は健一にとってはちょっと意外な気がした。
「そういえば、どうして急にインタビューなんて話になったんですか?」
だから健一はその理由を尋ねる。
「錦織さんが|忙《いそが》しそうだからかな」
「まあ、あの人はいつも忙しそうですよね」
「だから私に出来ることは私でやった方がいいし、今は|迷惑《めいわく》をかけちゃうとしても出来ることを|増《ふ》やして行きたいなーって」
「出来ることを増やす、ですか」
それはやはり意外な気もしたが、もっともな話だなとも感じた。
「それに私は日奈ちゃんみたいにテレビにしょっちゅうとかは無理だから」
「えっと、それは綾さんとどう関係あるんですか?」
「私は私の出来ることをやろうって思ったの。だから|雑誌《ざつし》とかの取材もね、受けて行こうかなって。そしたら健ちゃんたちが私も|頑張《がんば》ってるんだなってわかるでしょ?」
健一はいまいち|釈然《しやくぜん》としなかった。綾の思考が飛び飛びに感じるのは今に始まったことではないけれど、なんだかおかしいなと思える。
「いつも会ってるじゃないですか」
健一はその理由がそこにあるんじゃないかと言葉にしてみて、やっと綾が何を言ってるのかわかった気がした。
綾はもう健一との別れを予感してるのだ。
刻也が日奈にはもう会えないと思ってるように。
「そうだね」
でも綾は健一が|理解《りかい》したのに気づいてか、それ以上はその話はしなかった。綾は|胸《むね》ポケットからサングラスを取り出して、それをかける。
「……なんです、それ?」
その意味がわからず、健一は綾に|尋《たず》ねる。
「まっすぐ歩くために|試《ため》しに買ってみたんだ」
「なるほど」
「|余計《よけい》な物が見えなければ、|寄《よ》り道せずに|済《す》むかなって。意外に役に立ってて、もっと早くに買ってればよかったなって」
綾はサングラスを外すと|嬉《うれ》しそうに健一に見せる。
「何か特別なものなんですか?」
「うーん。どうなのかな。|若干《じやつかん》、|視界《しかい》が|狭《せま》くなるらしいけど、私のために特別に作ってもらったとかそんなものじゃないよ」
綾は一通り健一が見たのを|確認《かくにん》して、サングラスをかけ直す。
「綾さん、頑張ってるんですね」
最近はずっと日奈のことばかり見ていた。そのせいで綾のことをよくわかってなかったんだなと健一は改めて感じる。
「健ちゃんのおかげだよ。私、健ちゃんよりも年上だから、私が先に大人にならないとってそう思ったんだ」
それはきっと本当はいいことなのだろう。でも健一には別れの|前兆《ぜんちよう》にしか思えなかった。
いつか大人になって|幽霊《ゆうれい》マンションを出て行かなければいけない。綾は昔、そう言った。
綾はその時のことを考えて、大人になろうとしている。健一にこれ以上、心配をかけまいと思っている。
「綾さん、ちょっと|頼《たの》みがあるんですけど」
だから健一はそれを|応援《おうえん》しなければいけないのだろうなと思った。
日奈に対してそうであったように、綾が大人になって出て行くというのであれば、それに力を|貸《か》そうとそう考える。
「なに? 私に出来ることなら喜んでするけど」
「ポスターを|描《か》いて|欲《ほ》しいんです。これできっと最後になると思うんですけど」
だから健一は綾に出来ることを、綾がしてきたことをまた頼むことにした。
「ポスターって、シーナ&バケッツの?」
「はい。もう|解散《かいさん》したから、ライブはやれないって、ちゃんとファンの子たちに伝えないとって気づいたんです」
その告知はツバメに|任《まか》せるとは言ったけれど、それくらいはいいだろうと健一は思う。
「……うん、じゃあ健ちゃんがお料理してる間にちゃちゃっと描けばいいのかな?」
綾は少し考えて、そんなことを聞いてくる。
「そうですね。急ぎで悪いんですけど」
「ううん。嬉しいよ、健ちゃんが私を|頼《たよ》ってくれるの。私でも役に立てるんだって、健ちゃんのおかげで思えるのは、すっごく嬉しいよ」
綾はそう言うとなんだかそわそわとした|態度《たいど》を見せる。
「……どうしたんですか?」
「どんなポスターにしようかと思ったら落ち着かなくなって来ちゃった」
「じゃあ、帰ります?」
「うーん。健ちゃんは買い物してきて。私は帰ってポスター描くから」
綾はそう言うとサングラスをかけ直す。もう綾は帰る気になってしまったことがそれで健一にはわかる。
「綾さん、何か食べたいもの、あります?」
だから買い物は自分だけで行こうと健一は思う。
お|互《たが》いに出来ることをする。それはきっとただ|一緒《いつしよ》にいることよりも、ずっと大切なことなのだから。
「食べたいものはないけど、お|鍋《なべ》が食べたいな、|辛《から》いヤッ」
だから綾はそれだけ言うと、|腕《うで》を組んだまま歩き出した。
「食べたいものはないけどお鍋って。お鍋が食べたいってことじゃ……ないのか」
健一はそんな綾の後ろ|姿《すがた》を見送りながら、綾の言葉の意味を考えてしまう。
でもそれはわざわざ考えなければわからないほどのことでもなかった。
辛い鍋。それを綾と一緒に食べたのは一度きりだった。
あれは冴子の|歓迎会《かんげいかい》の時だった。綾が鍋を一人で食べようとしたりしたから、もう作らないと健一が言い出したことを綾は覚えていたのだ。
「……もう平気だよな」
でも今|振《ふ》り返ると、あの|頃《ころ》とはもう自分たちは|随分《ずいぶん》と変わっていた。
刻也と綾はかなり仲が悪かったけれど、きっともう|大丈夫《だいじようぶ》だろう。
冴子の分まで綾はもう食べようとしたりはしないだろう。
「やっぱり大人になってるんだな、綾さんは」
綾が鍋を食べたいと言ったのは、もう平気だという意思|表示《ひようじ》だったのだろう。
刻也は少し|嫌《いや》がるかもしれないけれど、今日はそんな綾を祝ってあげようと健一は思うことにした。
「いつか大人になって……出て行くんだよな……」
そして健一は以前、綾が言っていたその言葉を思い出す。
それを聞いた時は、まだまだそんなこと先の話だと思っていた。
でも案外、もうすぐ近くまで来てるんじゃないかと健一は感じて、日奈のことを思い出す。
「……もう会えないなんてこと、ないよな」
週末に会おうと約束したばかりなのに、健一は不安を消すことが出来なかった。
それはちょっとした|遅刻《ちこく》でしかないのかもしれない。
「……電車が|遅《おく》れてるのかな」
でも健一を不安にするには十分な出来事だった。
約束の土曜日、約束の十四時になっても日奈は|現《あらわ》れなかった。
「絹川君?」
待っているうちに現れたのは別の人物だった。
「あ、有馬さんっ?」
健一はその|状況《じようきよう》にひどく|驚《おどろ》いてしまった。
というのは冴子が|幽霊《ゆうれい》マンションの外で自分に話しかけてくるとは、いくら休日とは言え|想像《そうぞう》もしてなかったからだ。
「私たち、クラスメイトでしょ?」
でも冴子はそこまで驚かれるとは|逆《ぎやく》に想像してなかったらしい。
「……ですよね」
そして言われてみれば、|普通《ふつう》に知り合いなのだから|慌《あわ》てる方が変なのだ。
「どうしたの、こんなところで? 大海さんとデート……よね。だったら私、いない方がいいわよね……」
でも今度は冴子の方が勝手に慌て始める。
「いや、大海さんじゃないですからっ」
なので健一は急いで冴子を引き|留《と》める。
「……じゃあ、|誰《だれ》?」
冴子は不思議そうな顔をして振り返る。
「それ以前にデートじゃないというか」
でも改めて考えると、休日に仲の良い女の子と二人でショッピングなんてやっぱりデートと言われそうな気もする。
「でも、女の子なのね」
「女の子って言っても、日奈ですよ。引っ|越《こ》したけど物が何もないから買い出しを手伝ってくれって言われて……」
健一はそれを説明しながら、なんで|今更《いまさら》こんな話をしてるんだろうなと思う。
その場にいた刻也には一緒に行くかどうか聞いたのに、冴子には今日のことを今まで話そうともしてなかった。
「窪塚さん、ここに来るの?」
しかし冴子にはそれを知らなかったことよりも、日奈が来る方が驚きだったらしい。
「そのはずなんですけど……来ないんですよね。何かあったんですかね?」
「どれくらい待ってるの?」
「十分前には来たのでそろそろ十五分ですけど、約束の時間からだと五分ですかね」
「それなら、ちょっと電車に乗り遅れただけかも」
とは言え、日奈は約束の時間に遅れるようなタイプではなかった気がする。
|不慣《ふな》れな電車の乗り|継《つ》ぎでロスをするにしても、ちょっと遅い気がした。
「乗り遅れただけですかね」
「|連絡《れんらく》先は聞いてないの?」
「ああ……PHSならわかりますよ」
健一は言われてなんで今まで気づかなかったんだろうと思う。
日奈が家を出ていようがPHSならつながるはずだ。電車の中ではどうなのかは知らないが、こっちからかけてきたとわかれば|適当《てきとう》なタイミングで向こうからかかってくるだろう。
「それなら、もう少し待ってからかけてみればいいと思うわ」
「そうします」
とりあえずなんとかなるだろう。そんな気分になったせいか、なんとなく冴子と二人でこうして会ってるのを改めて|意識《いしき》してしまう。
冴子とはそれこそ毎日のように会ってるはずだが、昼間の日差しのなかで|私服姿《しふくすがた》の彼女とこうして話すというのは初めてのことだった。
「あの……ところで有馬さんはどうしてここに?」
それで何か話さないといけないかなと思い、健一は今更の|疑問《ぎもん》を彼女にぶつける。
「え?」
「何か用があって来たんじゃないんですか?」
「用って|程《ほど》じゃなくて、アルバイトの時間まで|暇《ひま》だからウィンドウショッピングでもしようかなって……だけだったんだけど……」
冴子はそのことがひどく|恥《は》ずかしいと感じているらしい。
「だったら有馬さんも|一緒《いつしよ》にどうですか? 日奈もその方が喜ぶと思いますよ」
なので健一はとりあえずそこにつっこむのは|止《や》めておいた。
「……私が?」
「日奈が八雲さんも|誘《さそ》ったんですけど、デートらしくて|断《ことわ》られたんですよ」
「窪塚さんが八雲さんも誘ったの?」
「電話がかかってきた時、その場に八雲さんがいたんで|渡《わた》したんですよ」
「……そうなの」
冴子は少し|難《むずか》しい顔をして何事か考えているようだった。
「おっはよー!」
でも|結論《けつろん》が出る前に、元気な声が健一の耳に|届《とど》いた。
「日奈。おはようじゃないだろ」
それは日奈の声だった。彼女はやっとこの場にやってきたらしい。
「ごめん、ごめん。|寝坊《ねぼう》しちゃった」
そう言ってにこやかに|謝罪《しやざい》の言葉を口にする彼女は、以前とは|違《ちが》った|服装《ふくそう》をしていた。
それこそ|咲良《さくら》が着ていそうな、アイドルっぽい服だ。スカートも|妙《みよう》に短い。
「寝坊しちゃった……じゃないだろ」
健一は|呆《あき》れながらも、思っていたよりずっと元気そうな彼女にホッともした。
「あれ? 有馬さんも来てくれたの?」
そしてそんな|隙《すき》をついたのか日奈が冴子の|肩《かた》に手を置いて話し始める。
「え? 私は来たっていうか、さっきここで絹川君に会って、窪塚さんが来ないって話を聞いてたらってだけで……だから私はこの辺で……」
冴子は|状況《じようきよう》を説明しながら、その場を|離《はな》れようとするが、それを日奈が止める。
「何か用事でもあるの?」
「……用事らしい用事はないけど」
「だったら一緒に買い物手伝って」
そして|戸惑《とまど》ってるらしい冴子に日奈はにこやかにそう告げる。
「……うん」
だから冴子は思わずうなずいてから、自分で|驚《おどろ》く|羽目《はめ》になったらしい。
「健一もそれでいいよね?」
「|俺《おれ》はいいけど」
「じゃあ、決定。荷物は健一が持ってくれるから、有馬さんはアドバイスだけしてくれればいいよ。生活用品とかお母さん|任《まか》せだからさっぱりわからなくて|困《こま》ってたんだ」
そして日奈は|遅《おく》れてきたことを|忘《わす》れるくらいの|爽《さわ》やかさで、冴子の手を引いて歩き始める。
「……う、うん」
冴子はそれに引きずられるように歩き始める。
「|大丈夫《だいじようぶ》かな……」
そして健一はそんな様子にちょっと不安を|抱《いだ》きながらも、それを追いかけた。
「で、そのなんだ、二人は付き合ってるわけ?」
買い出しが一通り|済《す》んで、コーヒーを飲むことになったまではよかったが、日奈がそんな話を始めるとは予想もしてなかった。
「ぶほっ」
おかげで思わずコーヒーを|吹《ふ》き出しかけた。|正確《せいかく》にはちょっと吹き出した。
「き、|汚《きたな》いなあ、健一はー」
「ひ、日奈が|突然《とつぜん》、変なことを言い出すからだろう?」
「でも今日見てた|限《かぎ》りじゃそうとしか思えなかったよ?」
「思えなかったよ? って言われても、そんなわけないだろ」
「そっかなあ。千夜子ちゃんといる健一よりもずっと自然だったよ、今日は」
「うぐっ……」
|痛《いた》いところを|突《つ》かれて健一は思わずうめいた。
「私と絹川君は家族のようなものだから」
でも冴子はそれをひどく冷静に受け止めていたらしい。
「家族ってことはもう|結婚《けつこん》してるってこと? あ、結婚はまだ無理か。つまり結婚を|前提《ぜんてい》に|同棲《どうせい》してるってこと?」
「|兄弟《きようだい》みたいなものってことだと思うんだけど……」
健一は日奈はわざとボケてるんじゃないかとすら思う。というか|今更《いまさら》、健一と冴子の関係について聞きたがるというのも妙な話だった。
「今更、|意識《いしき》するような相手じゃないってこと?」
「……別にそういう|解釈《かいしやく》でもいいよ」
健一は日奈の言葉にやっぱりわざと言ってるんじゃないかという確信を深める。
「で、|実際《じつさい》、どうなの、有馬さん?」
しかし日奈はそんなこと気にもしてないらしく、そのまま突き進むつもりらしい。
「とても大切な人なんだろうとは思うわ」
それを冴子は|柔《やわ》らかく、静かに受け止めた。
「とても大切な人、ね」
日奈は考えるような顔をするが、そこにさらに冴子は切り|込《こ》むように言葉を続ける。
「それは窪塚さんも|一緒《いつしよ》のつもりだけど」
「そ、そうなの?」
そして今度は日奈が戸惑う番だった。
「だから今日は|誘《さそ》ってくれて|嬉《うれ》しかったわ」
「……そう言ってくれるとこっちも嬉しいかな、うん」
日奈はなにやら顔を真っ赤にして|視線《しせん》を|逸《そ》らす。
「何照れてるんだよ、日奈は」
なのでそれは変だうと健一はツッコミを入れる。
「健一、お前はホモか? この|状況《じようきよう》でどうして平然としてるんだよ。有馬さんが誘ってくれて嬉しかったって言ってくれたんだぞ?」
「誘ったの、俺じゃないし……」
というか|論点《ろんてん》はそんなところではないだろうという気もする。
「……少し席を|離《はな》れるわ」
そしてそんな状況で|居心地《いごこち》が悪くなったのか冴子が席を立つ。
「トイレならあっちだよ?」
でも日奈のおかげで、別にそんな理由ではないと健一は気づくが、今度はそのせいで健一が居心地が悪くなる。
「…………」
おかげで健一は何も言えず、冴子を見送ることになってしまった。
「なんだよ、健一。|黙《だま》りこくって」
「……日奈のせいだろ?」
「ここのトイレ、店の外だしわかりづらいんだよ、実際」
「だからって、あの状況で言うことじゃないと思う」
「もしかしたらもう|漏《も》れる|寸前《すんぜん》だったかもしれないだろ? それこそ健一がいるせいでずっと|我慢《がまん》してたんだとしたら、|迷《まよ》ったら大変だ」
「だとしても、それとなく教えるとかあるだろ?」
「……ま、それはそうだ」
日奈はそう言って何か言葉を飲み込んだみたいだった。
「何?」
それが気になって健一が|尋《たず》ねると、日奈は急に真顔で健一の方を見る。
「綾さん、元気か?」
「え? うん。綾さんも|呼《よ》んだ方が良かった?」
そういえば、その|選択肢《せんたくし》もなかったなと健一は思う。
「いや、呼ばなくて正解。呼ばれてたら、泣いてた」
「……泣いてたって、そんなに会いたくないの?」
その|割《わり》には元気かどうか聞いたとかどうも話が見えない。
「会いたくないなんて誰が言った?」
というか完全に読み|間違《まちが》えていたらしく|怒《おこ》られた。
「……ごめん。でもだったらなんで泣くとか泣かないとかいう話になるんだよ」
「泣いてたんだよ」
日奈はそう言ってなんだか健一を|睨《にら》むような顔をした。
「……綾さんが?」
それはわかったが、一体、いつの話なのだろうと健一は思う。
「私が出て行くって話をしたら、綾さんが泣き出しちゃって」
「あの時か……」
健一はそれで日奈を見送る時、綾の|姿《すがた》が見えなかった理由を理解した。綾のことだから|寝《ね》てるか作業に|没頭《ぼつとう》してるのかと思いこんでいたけれど、それなら日奈が綾に伝えておいてくれくらいのことは言っていたはずだ。
「日奈ちゃんは|偉《えら》いねって私を|抱《だ》きしめてくれたけど、ずっと泣きっぱなしだったんだ」
日奈はその時のことを思い出しているようで、少し視線が遠ざかるのが見えた。
「綾さんが私のことで泣くなんて思ってなかったから|戸惑《とまど》っちゃったけど……やっぱり嬉しかったな。私のこと、ちゃんと気にしてくれる人がいるんだって。健一以外にもちゃんといたんだなってわかったから」
日奈の言葉は健一にとってもかなり意外なものだった。
「……うん」
「で、そんな綾さんはどうしてるわけ?」
「元気だよ。日奈のようにテレビに出たりは出来ないけど、|雑誌《ざつし》でインタビューを受けたりするくらいは出来るから、それを|頑張《がんば》るって」
とすれば、日奈と綾は|互《たが》いに頑張る勇気を|与《あた》え合ったんだなと健一は思う。
「そっか。なら、いいや」
でも日奈はあっさりとそう告げると、すっと立ち上がる。
「日奈もトイレ?」
なので思わずそんなことを聞いてしまったが、明らかに失敗だった。
「……健一もあんまり人のこと言えないと思う」
「……そうだね、ごめん」
しかしだったらなんでと健一が思っていると、日奈はにこやかに別れの言葉を告げる。
「私、もう帰るから。有馬さんにもよろしく」
「え? ちょっと待ってよ」
待ってればすぐにでも|戻《もど》ってくるだろう。そう健一は思ったのだが、日奈はまったく別のことを考えていた。
「さっきの言葉で、ちょっと笑って別れられる自信がなくなった。有馬さんが|嬉《うれ》しかったなんて言うなんて思ってなかったんだよ」
日奈の顔を見上げると、彼女は泣きそうなのを|堪《こら》えていた。
「別に泣いたっていいよ」
「そんなことしたら、有馬さんは心配するだろ」
「心配かけたっていいと思うよ」
むしろそうされることを冴子は望んでいるかもしれない。そうとも思う。
「私だっていいと思う。でも、|嫌《いや》なんだ、そういうの」
でも日奈がそう言うなら、健一はもう引き|留《と》められなかった。
「そういうことなら、俺が話しておくよ」
「ありがと、健一。じゃねっ」
日奈は涙を堪えたままの|瞳《ひとみ》で笑い、店を出て行こうとする。
「じゃあね、日奈」
|慌《あわ》てて健一は日奈に別れの言葉を告げるが、聞こえていたのかいなかったのか彼女の|反応《はんのう》はなかった。
「……しかし、どうしたものかな」
そして予想外の一人になり、健一は改めて考えてしまった。
日奈が帰ったことを話しておくとは言ったが、どう説明したものか。
「うーん」
すぐに名案は|浮《う》かばなかったが、幸か不幸か冴子はなかなか戻ってこなかった。
「……|混《こ》んでただけだから」
冴子にそんな言い|訳《わけ》をされて、健一は|悩《なや》みがさらに|増《ふ》えた思いだった。
「あ、うん」
なのでなんだかわからない|中途半端《ちゆうとはんぱ》な返事をしてしまう。
「ところで窪塚さんは?」
そして当然のごとく、冴子の注意はいなくなってる日奈の方へと向いた。
「えっと……帰りました」
でもそれにすら健一はこれという答えを用意できなかった。けっこうな時間があったにもかかわらず。
「急用?」
というか冴子に|嘘《うそ》をつくのは、どうにも気が引けたのだ。
「……照れてたみたいです」
でも心配させたくないという日奈の気持ちもわかる。だから健一はどうしたらいいのかわからないままだった。
「え?」
「有馬さんが嬉しいって言ってくれて、照れてたみたいです。だからなんだか面と向かって言えなくて」
「それで私がいない間に帰ったの?」
改めて|確認《かくにん》されると、ちょっと健一は自信がなくなる。
「……多分」
「そう」
でも冴子はその返事で満足したみたいだった。
「え?」
なので健一としては|逆《ぎやく》に|戸惑《とまど》ってしまう。
「私はちょっと|安易《あんい》だったかなって思ってた」
「安易、ですか?」
聞いたことのある言葉だなと健一は思う。
「|誘《さそ》ってくれて嬉しいなんて……私らしくなかった」
健一は冴子が何を言わんとしてるのか|理解《りかい》した。
|感謝《かんしや》を口にすると、なんだか気持ちが|薄《うす》れるみたいで|嫌《いや》だと冴子は以前言づていた。なのに彼女は日奈に今日のことでお礼を言った。そのことを冴子は気にしてるのだ。
「でも日奈は喜んでましたよ」
「……でもだから帰ってしまったのかもしれない。私が言うべきじゃないことを言ったから、絹川君と窪塚さんの時間を|奪《うば》ってしまったのかもしれない」
冴子は本気でそれを信じてるらしかった。
「そうかもしれないですけど、日奈は喜んで帰れたんですからいいじゃないですか」
だから健一は冴子の考えを|否定《ひてい》することはしなかった。
ただ、それがよかったのだと思うことにした。
綾との時と|一緒《いつしよ》だと思う。二人でなんとなく買い物をするより、お|互《たが》いのことを思って自分の得意なことをする方がいい。
「……そう、ね」
冴子は静かに何か考えて、それから|一応《いちおう》は健一の考えに|賛同《さんどう》を|示《しめ》す様子をみせた。
「一緒にいる時間の長さよりも、ずっと大切なものがあると思うんです」
だから健一は日奈は早く帰ってしまったのかもしれないけど、その方がよかったと改めて冴子に伝える。
「長さよりもずっと大切なもの……か。そうね」
冴子はそれでまた何か考えて、今度はさっきよりも|納得《なつとく》したらしく小さくうなずいた。
「それでこの後、どうしましょうか? まだアルバイトまでは時間ありますよね?」
だから健一は本来するべきことだと思ってそう|尋《たず》ねたのだが、冴子にとってはかなり予想外な返事だったらしい。
「……えっと、ちょっと考えてもいい?」
けっこう本気で|困《こま》った様子でそう尋ね返してきた。
結局、冴子が当初考えていた通りにすることにした。
つまりはウィンドウショッピングだったのだが。
「……本当に何も買わないんですか?」
別にそれに不満があるわけではないが、健一はちょっと不思議な気がしてしまう。
さんざんお店を|巡《めぐ》っても何一つ買わない。その|割《わり》には手にとって、どうだろうかと考えたりはする。でも冴子は本当に何一つ買わなかった。
「私、|薄情《はくじよう》だから」
冴子は健一の|疑問《ぎもん》にそう答える。別に|不機嫌《ふきげん》な様子はないが、健一が戸惑うには十分な返答だった。
「……薄情ですか」
それも以前、聞いた単語だなと健一は思い出す。
|謝罪《しやざい》や感謝の言葉を口にしたくないという話の時に冴子が言っていた。しかしそれと買い物にどういう関係があるのか、ちょっとつながらない。
「|欲《ほ》しいって思うだけで、けっこう十分なの」
「思うだけで……」
「買う前はね、|確《たし》かに欲しいって思ってるはずなのに、いざ手に入れてしまうと、もういいかなってそういう風に感じるの」
「それが薄情ってことですか」
健一はなるほどそういうことかとは思ったが、それが薄情という言葉で|表現《ひようげん》するべきものなのかにはちょっと疑問が残った。
「お母さんがね、私が欲しがってたって言って服を買ってきてくれたりしたんだけど、その|度《たび》に私、もう欲しくなくなってて、それで……何度もがっかりさせたわ」
その疑問が残ってたからこそ、健一は冴子のその言葉からやっと意味が|掴《つか》めた気がした。
母を悲しませた。そのことを冴子は悪く思っているからこそ、そういう言葉の使い方をしてるのだと。
「薄情ならそんなこといちいち覚えてないですよ」
だから健一は冴子にはあまりそう思ってて欲しくないと感じてしまった。
「……そうね」
「お母さんのことをそれだけ気にしてる人が薄情だとは|僕《ぼく》は思えませんけど」
健一は薄情というのは自分のことをこそ言うのだろうと思う。
自分が母にしてしまったことは、冴子が気にしてることなんかよりもずっとずっとひどいことだった。なのに健一はそのことをさほど気にせずに生きている。
「お母さんに|謝《あやま》れてないからよ」
でも冴子にはやはり自分の考えというものがあって、それは健一にはそうそう変えられるものではないらしい。
「有馬さんはお母さんのことを大事に思ってるんですね」
そして健一は冴子が|頑《かたく》なにそう思ってる理由が、かなりの部分、彼女の母親のせいなのだろうとなんとなく感じた。
「どうして?」
「|真剣《しんけん》に向き合いたい相手だから、謝れてないってことですよね」
ちゃんと謝りたいから――冴子は母に対して謝罪の念を|抱《いだ》き続けているのだ。
「そうね」
だから今度は冴子は否定しなかった。
「ですよね」
でもそこで話は終わった。
「そういえば、買おうと思っていた物があったわ」
急に冴子がそんなことを言い出したのだ。だがそれは会話を|途切《とぎ》れさせるためにひねり出したことではなく、本当に|忘《わす》れていたということらしい。
「なんですか?」
「……えっと。やっぱりいいわ」
冴子は自分で言い出した|癖《くせ》に、健一が食いつくとそのことを|否定《ひてい》する。
「売ってる場所まで遠いんですか?」
「ううん。きっと、この目の前の本屋さんにあると思うわ」
「だったら買ってきたらいいんじゃないですか?」
「それはそうなんだけど……」
冴子はなぜかそこで健一から|視線《しせん》を|逸《そ》らした。
健一はどういうことなんだろうと考えずにはいられなかった。
下着とかそういうものであれば、自分が|一緒《いつしよ》に行くのはどうかと思うが、本を買うのに自分が一緒にいるのがまずいという理由がよくわからない。
「早苗さんの本だから」
冴子はそれが答えのつもりで言ったようだが、健一はますます|混乱《こんらん》するだけだった。
「それなら僕も欲しいくらいですけど」
早苗が作家らしいことは知っていたが、その本を読んだことはなかった。そんな話をされたら|俄然興味《がぜんきさつみ》がわくというものだが。
「……|絶対《ぜつたい》にダメ」
もはや理由は関係なく、完全に否定された。
「絶対にダメですか」
そして健一は冴子がそこまで言う以上、きっと本当にダメなんだろうと考えることにした。
「……ま、女の子向けらしいし、男の僕が読んでも|面白《おもしろ》くないってことですよね」
「う、うん。そういうことでいいと思う」
でもなんだか|微妙《びみよう》にニュアンスが|違《ちが》うらしいことに健一は気づいた。
その後、アルバイト先まで一緒に行くことになったのはそんなに理由はいらなかった。
むしろ途中で別れる理由がなかったので、そのまま来てしまっただけだ。
「いらっしゃいませー……あ、絹川さんだ」
そのせいで、健一は予想外の人物と会うことになった。
「や、八雲さん? どうしてここに?」
八雲は八雲でも妹の狭霧の方だった。そして健一は|尋《たず》ねながらも彼女の|服装《ふくそう》を見て、答えに行き着いてしまった。
いつぞや冴子がしていたのと同じエプロンを彼女がしていたのだ。とすれば、彼女がここでアルバイトを始めたと考えるのが自然だった。
「早苗さんに|雇《やと》ってもらいました」
「……ですよね」
|因果《いんが》関係はわかったが、それでも狭霧がここにいるのはどうもおかしな気がした。
そもそも狭霧がアルバイトをしている理由がよくわからない。彼女は刻也と同じように家を出て|暮《く》らし始めたというわけではないだろうし、お金に|困《こま》ってるわけもない。
「なんだか|暇《ひま》を持て|余《あま》してるみたいだったから|忙《いそが》しい時に来てもらってるのよ」
早苗はそう言いながら苦笑いを|浮《う》かべた。というのは客が全くいなかったからだ。
土曜日の夕方だというのに、客がいないというのはなかなかなもののように思う。
前から不思議に思っていたが、なんでこの店はこんなに客が少ないのだろうか? コーヒーは|美味《おい》しいし、|値段《ねだん》だって安い。ケーキはモン・サン・ミシェールに先だって新作が食べられたりする。ろくに|宣伝《せんでん》してないにしても、|確実《かくじつ》にリピーターがやってきても不思議のない店のはずなのだが……。
「そうだったんですか」
でもその|疑問《ぎもん》は健一は顔に出さないように|努《つと》める。
「冴子ちゃんとは……会ったこと無いのかな?」
しかしそうするまでもなく早苗は健一ではなく、狭霧の方を見ていた。
「はい。初めまして、八雲狭霧です。兄から話だけは聞いてました」
そして早苗に|紹介《しようかい》されるまでもなく、狭霧は冴子に|自己《じこ》紹介して頭を下げた。
「八雲さんの妹さん……ですか。あ、初めまして、は……じゃなかった、有馬冴子です」
それで冴子は少し|慌《あわ》てた様子で|挨拶《あいさつ》を返し、頭を下げる。
「もしかして以前、お会いしたことありましたっけ?」
狭霧は顔を上げた冴子の顔を見て、不思議そうな顔をした。
「……いえ。なかったと思いますけど」
「それならいいんですけど。すみません。私、人の顔を覚えるのが苦手で。別の人と|勘違《かんちが》いしたみたいです」
狭霧はそう言うと、さっとなめらかな動きでエプロンを|脱《ぬ》いだ。
「この後は……有馬さんですよね?」
「そのはずですけど」
「なら、なぜ絹川さんも来たんですか?」
「えっと……ちょっと駅で一緒になって、ここに来るなら一緒にってだけで」
そんな冴子の返事を狭霧は聞いていないのか、健一の方を見ていた。
「絹川さん、この後、ちょっと時間ありますか?」
そしてその|質問《しつもん》でさっきの質問の意味もちょっと違ってたらしいと気づかされる。
「……特に用事はないですけど」
「だったらこの後、一緒に|出掛《でか》けませんか?」
「そんなに時間がかからないのであれば平気ですけど」
「一、二時間だと思います」
「それなら、多分」
健一はそう答えながら、自分と狭霧はそんなことをするような仲だったかなと考えてしまった。狭霧と会ったのは数えるほどしかないし、一度目なんて遠目で見ていただけだ。二度目は千夜子と一緒にモン・サン・ミシェールに行った時だったし、遊び相手に|誘《さそ》われるようなことはない気がする。
「じゃあ、後はよろしくお願いしますね、あ・り・ま・さん」
そんなことを考えていたせいか、狭霧がなんだかおかしな発音で冴子のことを|呼《よ》んだように聞こえた。
「あ、はい」
でも冴子は別段気にする様子もなかったので、気のせいだったかもしれない。
「じゃ、行きましょう、絹川さんっ」
そして早苗に別れを告げたかと思うと、狭霧はクルッと|振《ふ》り向いて健一の手首を|掴《つか》んだ。
「じゃあ、また明日!」
健一は慌てて早苗に別れを告げると、狭霧に引っ|張《ぱ》られるままにその場を後にした。
狭霧がとりあえず向かったのはバス停だった。
それは二つ|隣《となり》の駅に向かうバスに乗るためのもので、駅が近いことを考えると駅と駅の間にあるどこかというのが狭霧の目的地らしい。
「……で、その、また買い物ですか?」
しかしそれ以上のこととなるとよくわからないので、健一は聞いてみることにする。これから行く場所なのだから知る|権利《けんり》くらいはあるだろう。
「絹川さんと私って買い物したことありましたっけ?」
「あ、いえ、こっちの話です」
そう言えば今日はなんだか|随分《ずいぶん》と人の買い物に付き合わされてるなと思う。それで何も自分では買ってないというのはけっこう不思議な気がした。
「ところで絹川さんは病院は|嫌《きら》いですか?」
「病院に好きも嫌いもないですけど……って、病院に行くんですか?」
「はい。母の|見舞《みま》いに行くんです」
「それはその……僕が|一緒《いつしよ》に行くような場所なんでしょうか?」
別に|嫌《いや》だということはないが、なんだかおかしな話だなという気はしてしまう。
「絹川さんは兄さんのお友達なんですよね?」
でも狭霧の方は少しもそうは思っていないらしい。
「……そのはずです」
「だったら母が喜びます。嫌でなければお願いします」
「別に嫌ってことはないんですけど、いきなり僕が来たらびっくりするんじゃないですか?」
「|大丈夫《だいじようぶ》ですよ。|心臓発作《しんぞうほつさ》とかはない人ですから」
どうも話が|噛《か》み合わないなと健一は思う。
「いや、そういうことではなくて」
「|絶対《ぜつたい》に喜びますから」
でも狭霧にとっては|議論《ぎろん》するまでもないということらしい。
「喜んでくれるなら行きますけど」
「あ、バス来ましたよ」
そして健一はなんだかわからぬままにバスに乗り、病院に向かうことになってしまった。
健一が連れていかれたのはかなり大きな病院だった。
「ここですか?」
名前は|朴東《ぼくとう》病院。いつぞや聞いた気がする名前だった。
「ここの1302です」
でもそれよりも狭霧の口にした番号の方が健一の|興味《きようみ》を引いた。
「1302……ですか」
それは|幽霊《ゆうれい》マンションでの刻也の部屋番号だった。それが彼の母親が入院してる部屋番号というのは、何か運命のようなものを感じる。
「その番号って、何かあるんですか?」
「え?」
「兄さんもなんだか|神妙《しんみよう》な顔をするんですよ。さっき絹川さんがしたような顔です」
「……まあ、ちょっと気になる数字です」
「男同士の|秘密《ひみつ》というヤツですか?」
「それほどのものじゃないですけど」
でも狭霧に話していいものなのだろうかと健一は考えてしまった。
「聞くなら兄さんに聞いた方が良さそうですね。兄さんの秘密なんですよね、それ」
そして狭霧はそれだけでなんだか察してくれたらしい。
「……そうなるんですかね」
それにしてもと健一は改めて狭霧がなんだか終始楽しげだなと思ってしまった。
母が入院してるという話で来たのに、なんでこんな調子なんだろうとさすがに思う。
でもすぐにその答えはわかった。
「お母さん。今日はお客さんを連れて来たよー」
「こんばんは、狭霧ちゃん。お客さんは……どなたかしら?」
狭霧の母は刻也の母とは思えないほど、なんとも|砕《くだ》けた明るい人だった。入院|患者《かんじや》というには少々活力が|溢《あふ》れている気がする。
「兄さんの友人で絹川健一さん。こちら、母の|桔梗《ききよう》です」
「あ、初めまして。絹川と申します」
そしてそんな空気に|圧倒《あつとう》されてる間に自分の|紹介《しようかい》を|済《す》まされていた。
「初めまして、絹川君。八雲桔梗です」
改めてみれば、桔梗は日本古来の|幽玄《ゆうげん》な美しさをもった|女性《じよせい》だった。狭霧や刻也はどうやら母親|似《に》らしいと健一は感じる。
「すみません、いきなり|押《お》しかけてしまって」
|一応《いちおう》、健一は気にしていたことを口にする。
「いいのよ。刻くんの友達ならいつでも来てくれていいのよ」
でも狭霧の言った通り、桔梗は少しも気にしてる様子はなかった。
「と、刻くん!?」
というか健一は別のことが気になって、なんの話をしていたのか|忘《わす》れるほどだった。
「……刻くんのお友達なんでしょ?」
桔梗はなぜそのタイミソグで|驚《おどろ》かれるのかわからないという顔をした。それで狭霧が横から何か|事情《じじよう》を説明する。
「母さん。兄さんは家の外では刻くんじゃないから」
「あら、そうね……絹川君は刻くんのことをなんと|呼《よ》んでるの?」
「えっと、八雲さん……ですけど」
求められてる答えはそうではないのだろうなと思いながら、|嘘《うそ》をつくわけにもいかないので健一はそう答えた。
「刻くんの方は?」
「……絹川君、ですかね」
「刻くんは|真面目《まじめ》だから、そうなっちゃうんでしょうね」
桔梗はそう|納得《なつとく》すると、健一に別のことを聞いてきた。
「絹川君はどこで刻くんと?」
「えっと……学校ですかね。同じクラスなんです」
と言っても、初めて話したのは幽霊マンションだった気もする。それくらい当時の刻也とは|距離《きより》が遠かったのだ。
「刻くんは教室でクラスの子と話したりするの?」
「最近はけっこうするようになった気がしますけど」
似たようなことを狭霧にも聞かれたなと健一は思い出す。
「そうだとすれば、やっぱり絹川君のおかげなのね」
でも狭霧とは|違《ちが》って桔梗は健一の答えに|嬉《うれ》しそうな顔をする。
「……何がでしょう?」
「この間、刻くんに会った時に感じたわ。|随分《ずいぶん》と大人になったなって」
「それが|僕《ぼく》のおかげなんですか?」
「きっと。刻くんは家を出て行く時は意地っ|張《ぱ》りなただの|子供《こども》だったから」
「そんなことはないと思いますけど。八雲さんは、ちゃんと自分のやるべきことをわかってて、それが出来る人ですから」
コ人でちゃんと出来る人が大人ってこともないでしょう?」
桔梗は不思議なことを言いながら、|優《やさ》しい|笑《え》みを|浮《う》かべる。
「……そうなんでしょうか?」
「そうなのよ」
そして桔梗はそれがどういうことなのか|詳《くわ》しく説明はしてくれなかった。
「そうなんですか」
今は聞いてもわからないことなのかもしれない。健一はそう納得することにした。
「だとすれば、受験に失敗したのも刻くんにとってはいいことだったのね」
「えっと……それはどういうことですか?」
刻也が何か事情があって受験に失敗したという話は聞いたことがあった。
「絹川君と友達になれたことに|比《くら》べればいい学校に行くなんてどうでもいいことじゃないかしら? 勉強だけなら刻くんはどこでも出来るでしょ?」
「そういうものなんですか?」
話の|筋《すじ》はわかったが、随分とすごい話だなあと健一は思ってしまう。
「受験を無事に|済《す》ませられていたら、きっと刻くんは今も子供だったと思う。結果|論《うん》でしかないけど、刻くんは受験に失敗したから幸せになれたのよ」
「受験に失敗したから、幸せに……」
|普通《ふつう》に考えれば受験に失敗するというのはとてもじゃないがいい話とは言えなかった。でもその結果、刻也が幸せになったというなら、それはいいことなのだろう。
「鈴璃ちゃんにも教えてあげないとね」
桔梗はそう言って狭霧の方を見た。
「じゃあ私が言っておく」
そして狭霧はそうなるのを予想してたのか、|戸惑《とまど》う様子もなく返事をした。
「それじゃお願いね、狭霧」
桔梗はそれで満足そうな笑みを浮かべ、ちらっと健一の方を見た。
「それにしても狭霧ちゃんがいきなり男の子を連れてくるからボーイフレンドかと思っちゃったわ」
「残念ながら絹川さんにはかわいい彼女さんがいるんです」
「あら。でもまあ、そうよね。絹川君なら彼女の一人や二人いてもおかしくないものね」
なんでいきなりそういう話題になるのか健一はわからず戸惑う。
「……いや、彼女は普通はいないか一人かだと思いますけど」
「でも普通とは|限《かぎ》らないでしょ?」
桔梗はそう言って狭霧の方を見ると、彼女を|呼《よ》ぶ仕草を見せた。
「……いやまあ、自分が普通なのかと言われると自信はないですけど」
|実際《じつさい》、普通とはとても言えないよなと思う。
彼女は千夜子一人かもしれないけれど、千夜子よりもずっと深い関係を持ってる人間が他にいるのも|確《たし》かだった。
「…………」
健一がそんなことを考えてる間に桔梗は|側《そば》によってきた狭霧に何かを耳打ちした。
「……なんですか?」
健一としてはそれがどういう意味なのか気になってしまった。
目の前で話してた人間がいきなりひそひそ話を始めたら|誰《だれ》だって気になる。
「なにかしらね」
だが桔梗はそれに|微笑《ほほえ》むだけで何も教えてくれなかった。
「ちょ、ちょっとなんですか、それ?」
さすがに健一もツッコミを入れずにはいられなかった。桔梗も狭霧もこっちを見て笑ってるとなるとなんとも|居心地《いごこち》が悪い。
「……えっと」
それで狭霧も申し|訳《わけ》ないと思ったのか、健一の方に戻ってきて耳元でそっとささやく。
「母さんも絹川さんのことを気に入ったみたいですよ」
それはなんだかかなりくすぐったい|響《ひび》きをもった言葉だった。
週末が|慌《あわ》ただしかったせいか、月曜日は一日中、あまり調子が出なかった。
だから、きっと気が|抜《ぬ》けていたのだろうなと健一は思う。
「絹川君、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
だから放課後、|佳奈《かな》に話しかけられてしまったんだとも健一は思った。
「えっと……」
正直言うと、これから健一はバイトに行かなければいけなかった。
でも佳奈がわざわざ話しかけてきたということは少々ややこしい話かもしれないという気もする。だがややこしい話なら、聞きたくないで済ませるとさらにややこしくなる|危険《きけん》もある。
「ダメかな?」
弱気な|態度《たいど》の佳奈は、少し日奈に|似《に》ているかもしれない。そのせいだろう。健一はやっぱり話を聞いておいた方がよさそうだと考え直した。
「これからバイトなんですけど……ちょっと|遅《おく》れるって電話してもいいですか?」
「……うん。ごめんね」
「いえ、まあ、そんなに|忙《いそが》しいバイトじゃないから問題ないと思いますけど」
|謝《あやま》られてしまうと、なんだか申し訳ない気分になった。冷静に考えれば向こうの|都合《つこう》だし、そんなことを思う理由はないのだが。
「じゃあ、ちょっと電話しますね」
そう言いながら健一はPHSを取り出す。|一応《いちおう》、お店の番号を聞いておいてよかったなと思いながら、健一はそれをプッシュする。
{はい、天国への|梯子《はしご》です}
通話ボタンを押したら五秒とまたず早苗が出てくれた。
「あ、早苗さんですか? すみません、絹川なんですけど」
{どうしたの? 何かトラブル?}
「トラブルってほどじゃないんですけど、ちょっと遅れそうなんですよ」
{ま、例によってお客さんはいないから、少し遅れるくらいなら平気よ}
早苗は|爽《さわ》やかにそんなことを言うが、それはそれで平気な|状況《じようきよう》なのかと健一はちょっと考えてしまう。
「すみません。そんなに遅れないと思いますから」
{ちゃんと|連絡《れんらく》してくれればこっちだって|対処《たいしよ》できるから気にしないで}
「はい。じゃあ、すみませんけど、そういうことで」
{それじゃお店で}
通話は終わりだった。少し遅れても気にしないだろうなとは思っていたが、本当にここまで気にされないと|逆《ぎやく》に気になってしまう。
「……えっと、お待たせしました」
でも気にすべき相手は佳奈なのを健一は思い出す。
「引き|留《と》めたのは私だし」
「で、そのどこで話します?」
「アルバイトがあるなら歩きながらでもいいけど」
「……ああ、それなら電話しなくても良かったかもしれないですね」
健一はゆっくりと歩き出した。
「先に言えば良かったわよね」
佳奈の言葉に健一はふと早苗と佳奈の関係を思い出す。
「そう言えばアルバイト先の店長さん、佳奈さんの知り合いなんですよ」
「そうなの?」
「|古西《こにし》早苗さんって言うんですけど」
「早苗さんって、あの早苗さんなんだ」
知り合いと聞いて少しテンションが上がるかなと思ったが、むしろその逆だった。佳奈はあまり早苗にいい印象を持ってないらしい。
「で、あの、その……話ってなんですか?」
なので健一は本来の話に|戻《もど》すことにする。それにどうも話も早めに|片付《かたづ》けた方がいい気がしてきた。
「日奈ちゃんのことだけど」
佳奈の口からその名を聞くのは予想以上にショックだった。
話したいことがそれ以外はないはずなのに、心の|準備《じゆんび》すらしてなかった自分にも|驚《おどろ》く。
「……はい」
「絹川君は知ってたの?」
そして佳奈も自分で話しかけてきたにもかかわらず、やはり話しづらそうだった。
「知ってたって、何の話をですか?」
「日奈ちゃんが好きな人が誰かってこと」
佳奈はきっと|意識《いしき》してそれが誰なのかは口にしなかった。それは健一が知らないかもしれないと思っているからかもしれないが、きっとそうでないと健一は感じる。
「知ってましたよ。聞く前から気づいてもいました」
「……だから絹川君は日奈ちゃんと仲良くしてたんだ」
佳奈はその顔に明らかな|落胆《らくたん》の色を|浮《う》かべてうつむいた。
「そうなるんですかね」
|実際《じつさい》には落ち|込《こ》んでいた健一を日奈が助け起こしてくれたからかもしれないけれど、姉のことで|悩《なや》んでいた者同士だから気づけたし、仲良くなれたのも事実だった。
「私は日奈ちゃんは絹川君のことが好きなのかと思ってた」
「……それは聞きました」
そしてそれを理由に佳奈が日奈の気持ちを|否定《ひてい》したことも。健一はそれを思い出し、心がざわざわとするのを感じた。
「それまで日奈ちゃんが男の子と仲良くしてるのなんて見たことがなかったから、日奈ちゃんが絹川君のことを特別な人だって思ってるんじゃないかって……そうとしか見えなくて」
そしてその心のざわざわは佳奈の言葉を聞くうちにさらに強くなっていく。
「だから、なんだって言うんですか?」
そのせいで健一は自分でもびっくりするくらい強い調子でその|質問《しつもん》を口にしていた。
「……そのせいで日奈ちゃんを|傷《きず》つけちゃったんだよね」
佳奈はビクッとして健一の顔を見たかと思うと、|視線《しせん》を|逸《そ》らすようにまたうつむく。
「そうですね」
健一は色々と言いたいことをぐっと飲み込んだ。これ以上、何かを言えばさっき以上にきつい口調になってしまう。そんな気がした。
「でも、でも……仕方ないじゃない。私も日奈ちゃんも女だし、私たちは|双子《ふたこ》で|姉妹《しまい》なんだから。なのに日奈ちゃんが私を好きになるなんて、それが|恋愛《れんあい》的な意味でなんて……わかるわけない。そうでしょ?」
「そうかもしれません」
でも言葉を飲み込むのもそろそろ|限界《げんかい》だった。なのに佳奈はうつむいて健一の様子を見ようともしていなかった。
「そうよね。わからなくて当然なのよね?」
「そうですね。|普通《ふつう》ならわかりませんよ、普通ならね!」
だから健一はもう|抑《おさ》えられなかった。|怒《いか》りと共に言葉が口から出ていく。
「き、絹川君?」
「わからなくて当然ですよ! そうやって人の気持ちをわかろうともしないなら、わかるわけないじゃないですか!」
なんなんだこの人はと思い、健一は泣いてしまいたい気分だった。
「…………」
なのに佳奈はただ驚いて健一の方を見てるだけだった。
「日奈は別に佳奈さんに好きになって|欲《ほ》しかったわけじゃなかったんです」
そんなことは無理なことだと日奈だってわかっていた。
「日奈は日奈で佳奈さんじゃないから、わからなくても当然ですよ。他人の気持ちなんてわからないですよね? わかるわけありませんよ」
自分だってわからないことばかりだ。だからわからないこと自体はしょうがないとも思う。
「でもわかろうとするくらいしてくれてもよかったんじゃないですか? なのにわからなかったことを当然だって、それを|僕《ぼく》に|確認《かくにん》して、それで|許《ゆる》されようとしたり……そんなのあまりじゃないですか! 日奈はあんなに傷ついたのに、佳奈さんはもうそれを無かったことにしようって言うんですか?」
健一は言い終えて、怒りが抜けきったせいか、さすがに言い|過《す》ぎたかもしれないと心が冷めるのを感じた。
「……絹川君は日奈ちゃんの味方なんだね」
でも佳奈には健一の言葉は少しも|届《とど》いていなかったようだった。怒りも悲しみも、佳奈には|他人事《ひとごと》でしかなかったのかもしれない。
「…………」
健一は日奈が告白した時もきっとこうだったんだなと冷めた心で感じた。
日奈が何を言おうと、佳奈は聞きたいことしか聞かなかったのだ。それでは届くはずもなかった。日奈の|真剣《しんけん》な|想《おも》いであっても、それが届くはずはなかったのだ。
「僕は日奈の味方ですよ。これまでも、これからも」
だからもうそれ以上の話を佳奈にする気にはなれなかった。
「……そうだよね」
そしてそれは佳奈もそうだった。
だから佳奈はもう何も言わず、その場から|離《はな》れていった。
「日奈の味方をしたら悪いのかよ」
そのせいで健一はまだ心の中でくすぶっていた怒りがちりちりと|燃《も》えるのを感じた。
日奈の味方をしたせいで、佳奈を傷つけてしまった。でもそれは佳奈が悪いからじゃないのかと健一は思う。
「どうして|俺《おれ》が佳奈さんの味方をしないといけないんだよ」
佳奈の味方をする理由なんてない。それを確信しながら健一はやはり落ち着かない気分を|拭《ぬぐ》えなかった。
それはきっと、日奈が佳奈のことを好きだったからだった。
佳奈が傷つくことを日奈はきっと望んではいない。自分のせいならなおさらだろう。
「でも……」
やっぱり佳奈のことを許せる気はしなかった。
結局、バイト先の|喫茶店《きつさてん》に|遅《おく》れることはなかった。
しかしそれが良いことなのかどうかはわからなかった。
佳奈に対するムカムカとした気持ちが晴れることはなかったからだ。それがどうやら顔や|態度《たいど》にも出ているらしく、早苗に心配されてしまうことにもなった。
「気分が悪いなら帰った方がいいんじゃないの?」
「……そうですね」・早苗はそれで|困《こま》ってるという様子ではなかったが、それはやはり客が来てないからでしかないだろうと健一は思う。
客にまでこのムカムカを|悟《さと》られるようでは客商売としては|失格《しつかく》もいいところだ。
「あら?」
しかし健一が帰る|覚悟《かくご》を決める前に、ドアのカウベルが鳴って客の|到来《とうらい》を告げた。
「いらっしゃいませー」
客が来たと思った|瞬間《しゆんかん》、健一は心の中で何かスイッチが入るのを感じた。
|給仕《きゆうじ》としての自分というのに代わったらしい。
「絹川君、ちょっと会って欲しい人を連れてきたのだが」
しかしやってきたのは|純粋《じゆんすい》にはお客さんという|訳《わけ》ではなかったらしい。
ドアを開けて入ってきたのは刻也で、その後ろにもう一人いるのが見えた。
「会って欲しい人?」
そしてそれが誰なのかはシルエットを見ただけでわかった。
「もしかして、刻也君の|許嫁《いいなずけ》?」
しかしそれを|指摘《してき》したのは早苗の方だった。
「は、はあ。そうですが。早苗さんは会ったことがありませんでしたね」
それで刻也は少し|困惑《こんわく》の|表情《ひようじよう》を|浮《う》かべながら、もう一人の人物を|紹介《しようかい》した。
「九条鈴璃君です。鈴璃君、こちらはこの店のマスターで古西早苗さんだ」
「は、初めましてっ」
鈴璃は心なしか心躍っている様に見えた。声も上ずっている。初対面の相手には|緊張《きんちよう》するタイプなんだろうか? いきなり蹴られた健一にはちょっと信じられない話だが。
「初めまして、鈴璃ちゃん。って、名前まで」
だが早苗にはそんな|凶悪《きようあく》な人物だという考えはないらしく|上機嫌《じようきげん》で鈴璃に|接《せつ》する。
「私の名前が何かあるんですか?」
そのせいか鈴璃も楽しそうに見えた。とすれば、先日の件は健一の方に|原因《げんいん》があったのだろうか? とてもそうは思えないが。
「いや……刻也君によく|似合《にあ》う名前だなって」
「ええっ! ? そ、そんなこと……ないと……思いますけど……」
そんなことを考えてる間に二人の会話は続いていた。
「……えっと」
健一は何か自分に話があったんじゃないかと思いながら、様子を見るしかできなかった。
「鈴璃君。早苗さんと話すのもいいが、今日は絹川君と話をしに来たのだから」
それに刻也が気づいてくれなかったら、きっとずっと話は続いていたような気がする。
「あ、うん。ご、ごめんなさい」
そして鈴璃は刻也に|謝《あやま》ったかと思うと、健一の側まで歩いてきた。
「この間はごめんなさい」
それから|謝罪《しゃざい》の言葉と共に頭を下げる。しかし|再《ふたた》び健一の顔を見た鈴璃の|瞳《ひとみ》は言葉とは|逆《ぎやく》に、なぜか|怒《いか》りに燃えていた。
「……いえ、こちらこそ」
刻也には本来の目的を|忘《わす》れて話してただけで自然に謝っていたというのに、いきなり蹴っ飛ばしたりしても健一には|素直《すなお》に謝れないらしい。だったら一体、何のためにここにやってきたのだろうと|疑問《ぎもん》が浮かぶ。
「ねね、鈴璃ちゃん。あなた、うちでバイトをする気はない?」
しかしそれはどうやら健一だけが感じてたことのようだ。早苗は鈴璃が気に入ったらしく、いきなり|勧誘《かんゆう》を始める。
「ここでですか?」
「前にね、刻也君も|誘《さそ》ったんだけど、彼女と別のところでバイトをしてるからって|断《ことわ》られたのよ。刻也君と|一緒《いつしよ》にここでバイトしてくれると|嬉《うれ》しいんだけど」
「すみません。そういうことなら私もお断りします」
だが鈴璃にはその気はないらしい。それでも彼女は申し|訳《わけ》ない顔をした。
「残念。でもお客さんとして時々来るくらいはしてくれるわよね」
「……それは、はい」
鈴璃は刻也の顔を一度見てから、問題ないと思ったのかそう答えた。
「じゃあ、今日はケーキセットを|奢《おご》っちゃおうかな」
そしてその返事で満足だったらしく、早苗は刻也と鈴璃を席に案内しながら、そんなことを言い出した。
「あ、すみません」
それで健一はそれは自分の仕事だなと思い出す。
「いいのよ。健一君も気分が悪いみたいだし、今日はお客さんってことで」
でも早苗はそうは思っていないらしい。
「……いいんですか?」
「友達相手に真顔で給仕なんてやってられないでしょ?」
「それはそうかもしれないですけど」
「いいの、いいの。ほら、|座《すわ》って」
そして健一は刻也たちと|一緒《いつしよ》のテーブルに案内されることになった。
「……えっと」
刻也と鈴璃は四人席に向かい合って座っていた。となれば健一が座るべき場所は、刻也の|隣《となり》しかなさそうだった。
「どうしたのかね?」
刻也が立ち上がって鈴璃の隣に|移動《いどう》してくれるなら、|空《あ》いた席に座ることも出来たが刻也にはそういう気はないらしい。
「じゃあ、こちらに……」
そうするしかないよなと健一は思って、刻也の隣に座ることにしたのだがーすごい|勢《いきお》いで鈴璃に|睨《にら》まれた。
「す、すみません。お|邪魔《じやま》して」。
思わず謝らずにはいられない、そんな|視線《しせん》だった。
「いえ、気にしなくていいですよ。私たち、いつも]緒ですから」
でも口では鈴璃は|怒《おこ》ってなどいないと告げていた。
「なら、いいんですけど」
健一は本当に自分は何をしてしまったんだろうかと考えてしまった。
少なくとも|直接《ちよくせつ》何かしたはずはないのだけれど、ここまで|露骨《ろこつ》に怒りの対象にされてるとさすがに不安にもなる。
しかし表向きはもうその|件《けん》は|片付《かたつ》いてるみたいなので、|今更《いまさら》聞くわけにもいかない。
「…………」
健一はそんな|理不尽《りふじん》な|状況《じようきよう》に、佳奈の時とは|違《ちが》って怒りはこみ上げてこないなと気づいた。
それは鈴璃のパーソナリティによるものかもしれないが、側に他の人がいるからかもしれないと健一は思う。
昔、ツバメにキレたことがあったが、その時も二人で家で酒を|呑《の》んでいた。
「……それなら|誰《だれ》か一緒にいてもらえば良かったのかな」
そうすれば佳奈を|傷《きず》つけずに|済《す》んだのかもしれない。佳奈のしたことは|許《ゆる》せないことだったけれど、それでももっと言い方があっただろうとも今なら思える。
「健一君。健一君の分のケーキはちょっと待ってくれる?」
そしてそんなことを思ってる間に、早苗は着々と接客をしていたらしい。
「はい?」
「ケーキがもう二つしか残って無くて。そろそろ|幹久《みきひさ》が来る時間だから、そんなに待たせずに|済《す》むはずなんだけど」
「いいですよ。僕はコーヒーで十分ですから」
そう健一が言った時、またドアのカウベルが鳴った。
「すみません。|遅《おく》れましたー」
だがやってきたのは客ではなく、そして幹久でもなかった。
「また咲良ちゃんなのね」
ケーキを|届《とど》けにきたのは今日も咲良だった。健一にとってはそれはもはや|日常《にちじよう》の光景だが、早苗はやはり不満そうな顔で咲良を|出迎《でむか》える。
「はい。すみません。店長はまたトラブルで」
「ま、今日は咲良ちゃんの方がいいから」
「はい? なんで私の方がいいんですか?」
「それがね。刻也君の|許嫁《いいなずけ》が来てるのよ」
「本当ですか! そんなタイミングで来れるなんて|美味《おい》しいなあ、私」
咲良はケーキをカウンターに置くと、|嬉《うれ》しそうに|奥《おく》にいる健一たちの所へとやってくる。
「く、九条さんっ!?」
しかし鈴璃を|認識《にんしき》した|途端《とたん》、咲良は|驚《おどろ》きの|表情《ひようじよう》を|浮《う》かべた。
「……|御園尾《みそのお》さん」
鈴璃も咲良の名前を知っていたところから見ると二人は知り合いであるらしい。
だが鈴璃が|渋《しぶ》い顔をしたことから|想像《そうぞう》するにあまり良好な関係ではなさそうだ。
「あー、そういうことだったんですか。なんでわからなかったんだろう、私」
でもそれは一方的なものかもしれないと健一は思い直した。というのは咲良の方は|笑顔《えがお》にすぐ|戻《もど》ったからだ。予想外なので驚いた。それだけのことらしい。
「知り合いなの?」
早苗は二人の様子から健一と同じ|結論《けつろん》に達したらしい。
「はい。クラスメイトなんです」
「へー。じゃあ、以前言ってたイメージ通りの|娘《こ》って?」
「そうです、そうです」
そして咲良は早苗の方に近づいていって、何やら楽しげに話を始めた。
「…………」
でも健一が|座《すわ》ったテーブルではそういうことはなかった。
時折、飛んでくる|怒《いか》りの視線を感じながら、健一はコーヒーを飲むしか出来なかった。
心安らがない時間だった。
そんな言葉があるのかどうか知らないが、そうとしか|表現《ひようげん》できなかった。
「……ふぅ」
刻也と鈴璃が|揃《そろ》ってバイトに行くことになって、健一はやっと|解放《かいほう》されたが、その間、およそ場が|和《なご》むことはなかった。
まったくの無言ということはなかったが、どうも鈴璃の話にはいちいちトゲがあった。となれば無言の方がまだマシという気にもなる。
「やっぱり帰る?」
そんなことを心配して聞いてくる早苗はと言えば、かなりの|上機嫌《じようきげん》だった。
鈴璃を本当に気に入ったらしい。
「いや、|大丈夫《だいじようぶ》です」
健一は少なくとも店に来た|頃《ころ》のムカムカした気分は消えているのでそう答えた。
「無理しなくてもバイト代を引いたりしないわよ?」
「え? さっきまでのもバイト代出てたんですか?」
「ええ。わざわざ来てもらったんだから、バイト代は出さないとでしょう?」
早苗は自信満々に言うが、健一にはとてもそうは思えなかった。
「……そういうものですか?」
役に立ってないのに|報酬《ほうしゆう》をもらうというのは|逆《ぎやく》に落ち着かない。
「まあ、いいじゃない。私が|払《はら》いたいんだから」
「……うーん」
健一は改めてこの店は大丈夫なんだろうかと考えてしまった。
今日の客は刻也と鈴璃くらいで、その二人はケーキセットを|奢《おご》られて帰って行ったのだ。
「大丈夫、大丈夫。このお店のおかげで私の|執筆《しつぴつ》活動が|捗《はかど》ってるんだから。まあ、必要|経費《けいひ》みたいなものよ。今日だって、かなり色々アイデアが浮かんじゃったわ」
「なら、いいんですけど」
健一はもう店のありようについて早苗と議論してもしかたないらしいと考える。
「そういえば、あの|娘《こ》ですけど」
なので健一は別の話題をすることにした。
「ん? 鈴璃ちゃんのこと?」
「はい。あの娘なんですけど……なんか|嫌《きら》われてるみたいなんですよね、|僕《ぼく》」
|端《はた》からはそう見えなかったみたいなので、それを言うのはちょっと|自意識過剰《じいしきかじよう》かもしれないなんて思う。
「……そんなところまで|一緒《いつしよ》なのね」
でも早苗は|驚《おどろ》きはしても、健一の気のせいだとは言わなかった。
「なんですか、それ?」
何か心当たりがあるらしい。それに気づいて健一は|尋《たず》ねるが、どうも雲行きが|怪《あや》しい。
「ひょっとすると私のせいかもしれない」
「なんで、そこで早苗さんが出てくるんですか? 早苗さんは彼女に会うの初めてだったんですよね?」
「まあ、それはそうなんだけど……」
しかし考えてみたら、健一も初対面以前にいきなり蹴られた。
「なら、どうしてそんな風に思うんですか?」
「とにかく|誤解《ごかい》だと思う。健一君はぎっと悪くないわ。心当たりないんでしょ?」
「はい。無いんですよ、全然」
でもその|割《わり》には|随分《ずいぶん》な目に|遭《あ》わされてる気がする。
「じゃあ私から今度話しておくわ。フィクションはフィクションだって」
そして早苗の言葉でやっと健一はなんとなく話がわかった気がした。
「それって早苗さんの本に何か関係があるってことですか?」
「ええ。まあ、そうなんだけど」
でも早苗はそれがどういうことなのかを説明はしてくれなかった。
「……|絶対《ぜつたい》にダメ、だもんな」
でも健一はそれを聞き出そうとは思わなかった。土曜日、冴子に言われたことを思い出したからだ。
「うん?」
でも早苗はその時のことは知らない。
「いや、誤解ならいいんですよ。誤解なら」
とは言え、また会った時はどうしたらいいんだろうなと健一はちょっとため息でもつきたい気分にはなった。
「こんばんはっ」
その時、カウベルの音がして客が入ってきた。しかしその様子からして、どうもやはり|純粋《じゆんすい》な客ではないらしいことはわかる。
「……|波奈《はな》さん」
そして予想通り、知り合いだった。しかも佳奈の母、波奈だった。
「こんばんは、絹川君」
波奈は笑っていたが、健一はかなり笑えない気分だった。ここに来る前に佳奈とケンカをしてしまっていたからだ。そうでなくても日奈のこともあった。
波奈のことだからなんとなくコーヒーが飲みたくて来たということは無い気がする。
「こんばんは……」
それで|挨拶《あいさつ》だけするともう言葉が出なかった。
「早苗ちゃん。ちょっと絹川君、借りてもいいかしら?」
なのに波奈はそんなことを一言い出す。
「いいですよ」
早苗は苦笑いを|浮《う》かべながら、そう答えると健一に目で|謝《あやま》る。
「……何か、用ですか?」
とは言え、健一はあまり波奈と話したい気分ではなかった。むしろ|逃《に》げたいという気持ちすら|湧《わ》いてきた。
「元気なさそうだから、話を聞かせて|欲《ほ》しいなって。私たち、友達でしょ?」
でも波奈は健一がそう思っていようとも、彼を店から連れ出す気だった。
「……そうですね」
だから健一も心を決める。日奈を|応援《おうえん》すると決めた以上、波奈から逃げることは出来ない。
「あ、健一君。なんだったら、そのまま帰っちゃってもいいから」
そして早苗は早苗なりに|気遣《きづか》ってくれてるらしかった。
「すみません。今日は全然役に立たなくて」
それを健一は申し|訳《わけ》なく思う。
「いいのよ。私はすっごくやる気出てるから」
なのに早苗は本当に|嬉《うれ》しそうに彼を送り出してくれた。
健一は|怒《おこ》られるんじゃないかと思っていた。
「ごめんなさいね」
でも、|実際《じつさい》に横を歩く波奈から語られたのは|謝罪《しやざい》の言葉だった。
「……ごめんなさいねって、なんのことですか?」
謝るのはこっちの方じゃないのかと健一は思う。健一は波奈の|娘《むすめ》を二人とも|傷《きず》つけた。そのことで謝れと言われたら言い返すことなどできない。そう思っていた。
でも、謝ったのは波奈の方だった。
「まずは佳奈ちゃんのことかな」
そして波奈は佳奈からすでに話を聞いていたらしい。
「……こっちこそ、怒ったりして申し訳なかったと思ってます」
「怒らすようなことを言った佳奈ちゃんが悪いのよ。よりにもよって、絹川君に日奈のことで|許《ゆる》してもらおうなんて……本当、|困《こま》った娘よね」
「佳奈さんも不安だったんですよね」
今ならそれがわかるような気がした。
佳奈はただわからなかっただけだったのだ。そしてわからないまま、日奈は家を出て行くことになった。
「絹川君は|優《やさ》しいのね。でも|腹《はら》が立ったなら怒っていいのよ」
波奈は|珍《めずら》しく悲しげな|表情《ひようじよう》を浮かべて健一の方を見ていた。
「もう十分、怒りました」
そしてそんなことをしなければ良かったと今は思っている。
「私、知ってたのよ。日奈ちゃんが佳奈ちゃんのこと好きだって」
だから謝罪の話はもうしない方がいいと波奈は思ったらしく、別の話を始める。
「それじゃシーナのことも?」
「ええ。あれだけ毎日何かしてれば、さすがに気づくでしょ?」
波奈はそう言いながら、少し苦い顔をする。それを健一は佳奈が気づかなかったせいだと思った。
「ですよね」
でも健一は気づかない|振《ふ》りをした。
「日奈のために色々と|尽力《じんりよく》してくれたのに、|嫌《いや》な思いをさせてしまったわね」
そして波奈が本当に謝りたかったのはそのことだったんだなと健一は感じた。
「いえ。友達として当然のことをしただけですから。それに……|上手《うま》く行かなかったですから、感謝されるようなことじゃないと思います」
でも波奈に謝られるようなことではないと健一は思う。
日奈のために何でもする。そう思ってはいたけど、実際にはなんの力にもなれなかった。だからそれで嫌な思いをするなら、それは自分への|罰《ばつ》じゃないかとすら健一は感じていた。
「これ以上に上手く行くことなんてなかったのよ」
でも波奈はそうでないことを|確信《かくしん》してる様子だった。
「これ以上……は無理だったって言うんですか?」
「ええ。佳奈ちゃんは|普通《ふつう》の|娘《こ》だから、日奈ちゃんの気持ちを|理解《りかい》することは出来ないの。これまでも、これからも。きっと死ぬ時まで」
それは別に悲観しての発言ではなく、波奈にとっては当然のことであるようだった。
「だったらっ!」
だから健一は感情を|抑《おさ》えきれなかった。もう十分怒ったと言ったし、そうだと思っていたのに、まだ自分の中には|炎《ほのお》がくすぶっていたらしい。一気に心の温度が上がったように健一は感じて、それと共に口から言葉が流れ出る。
「だったら、なんで止めなかったんですか? |絶対《ぜったい》無理ってわかってたなら、なんでそんなごとをさせたんですか? 日奈が|否定《ひてい》されることになるってわかってたなら、どうして……どうしてその前に助けてあげなかったんですか?」
しかしそれは|怒《いか》りというよりは不満の声だった。
「そうしてくれてさえいれば、日奈はあんなにも傷つかずに|済《す》んだのに……」
健一はそれを|承知《しようち》で放っておいたというなら、とても波奈を|許《ゆる》せそうにないと思った。
「日奈ちゃんを信じてるからよ」
でも波奈はそんな健一の言葉を静かに全部聞いて、それから一言、そう返した。
「信じてる?」
「日奈ちゃんはこんなところで終わるような人間じゃないの。日奈ちゃんは傷ついて|倒《たお》れたけれど、いずれ立ち上がるの。日奈ちゃんはどこまでも遠くへ行ける。そう信じてるの」
「でも……」
どこまでも。それは日奈が言ってた言葉だった。
「それに|誰《だれ》かが説得したところで、日奈ちゃんは絶対に|納得《なつとく》したりはしなかったわ。日奈ちゃんは自分で納得しなければいけなかったの、自分と佳奈ちゃんは別の人間だって」
波奈は足を止めて、健一の方を改めて見た。
「そうですね」
波奈の言うとおりだろうと健一は思いながら足を止める。
日奈は告白しなければいけなかったのだ。そうでなければ、日奈はずっとそれを|抱《かか》えて、いつまでも佳奈の|隣《となり》で、佳奈と同じ人間の振りをし続けなければいけなかった。
「信じてはくれないかもしれないけど、日奈ちゃんが傷つくのを承知で見ているのはつらかったわ。|怖《こわ》かったし、止めようと何度も思った。佳奈ちゃんに気持ちが通じることは絶対にないんだから」
「波奈さんが|嘘《うそ》をついてるとは思えません」
健一は小さくうなずいて波奈の方を見た。彼女は|震《ふる》えていた。いつもニコニコとなんでもこなしてるような彼女はそこにはいなかった。
「自分の|娘《むすめ》だもの。|全《すべ》ての|痛《いた》みや苦しみから守ってあげたい。でも私はそれはしないことにしたの。日奈ちゃんは私の物ではないから。日奈ちゃんは一人の人間だから。いつかは私の元を|離《はな》れて、どこまでも歩いていく人間だから」
それは言うほど|簡単《かんたん》なことではなかったのだろうと健一は感じる。それでも波奈は見守ることを選び、実行したのだ。
「……そこまで考えてたんですね」
健一は自分がいかにも|幼《おさな》いと思わずにはいられなかった。
自分たちは、ただ|上手《うま》く行くと信じることしか出来なかった。信じるだけで、その結果がどうなるかを考えなかった。不安が悪い結果を|呼《よ》び|寄《よ》せるんじゃないかと|恐《おそ》れて。
でも波奈は|違《ちが》った。日奈が傷つくのを承知で、あえて何もしないことを選んだのだ。
信じるというのは本当はそういうことなのだろう。ただ自分の希望を|押《お》しつけて|現実《げんじつ》から目を|逸《そ》らすのではなく、|冷酷《れいこく》なまでに現実を見つめ|抜《ぬ》くことでしか出来ないことなのだろう。
健一はそんなことをやってのけた波奈を|尊敬《そんけい》せずにはいられなかった。
「それが出来たのは絹川君のおかげなのよ」
でも波奈にとっては、健一こそがその|鍵《かぎ》であったらしい。
「……僕のですか?」
「あなたが日奈の側にいてくれたから、私は日奈は立ち上がれると信じられたの。一人ではきっと日奈ちゃんは何も出来なかった。私にとってはそのままの方が幸せだったのかもしれない。
そうすれば娘たちをいつまでも側で|可愛《かわい》がることが出来たから」
そう言いながら波奈がそれを良しとしていないのは明らかだった。
「でも今は楽しみでしょうがないのよ。日奈ちゃんがどこまで遠くへ行けるのか」
波奈は健一の手を取って、それからにっこりと笑った。
「ありがとう、絹川君」
そして短く、でもハッキリと|感謝《かんしや》の言葉が聞こえてきた。
「……いえ、そんなことまで考えてなかったですから」
健一はそんな感謝の言葉を受け取れるだけの人間だと自分を思うことは出来なかった。
「それと……ごめんなさい、絹川君」
だからまた|謝罪《しやざい》を始めた波奈には|戸惑《とまど》いを覚える。
「え?」
「もっと早くに言いに来るべきだったわよね。絹川君はきっと悪いことをしてしまったと思ってるから、早く、そうじゃないって言いに来たかったんだけど」
波奈は言葉をとめて、はにかむような|表情《ひようじよう》を見せた。
「私もそこまで強くはなれなくて」
健一はそれで波奈も|悩《なや》んでいたんだなと改めて感じた。
「……そうなんですね」
でも健一はそれが不思議と心を|穏《おだ》やかにするのを感じた。
大人になるというのは、もっと|凄《すご》いことなのかもしれないと思っていたけれど、これだけ娘のことを考えて行動できる波奈ですら、健一に|怒《おこ》られるかもしれないのが怖かったのだ。
大人になったって、人はそうやって悩み続けるのだ。
「大人になるのが終わりじゃないんですね」
健一はそう|呟《つぶや》いて、シーナの声が聞こえた気がした。どこまでも行くとそう言った声が。
あの時はただ|夢《ゆめ》の続きのように感じていた。でもそうじゃなかった。
現実の話だったのだ。
|幽霊《ゆうれい》マンションを出て行くことも同じことだった。それは|寂《さび》しいことかもしれないけれど、幽霊マンションはゴールでは決してないのだから。
「そうね」
そのことが波奈に伝わったのかはわからなかった。
「そうなんですよね」
でもそれでいいのだと波奈が言ってくれた気がした。
「だから佳奈ちゃんのことは|許《ゆる》してあげて|欲《ほ》しいの。あの|娘《こ》はこれからも絹川君に|腹《はら》を立てさせるようなことを言うだろうけど」
「佳奈さんのことも愛してるんですね」
そして健一は波奈に自分の父親を見た気がした。
健一の父親も母親がいつか健一を愛するようになるなんて、そんな気休めは言わなかった。
健一の母親は健一を|理解《りかい》することはないだろうとわかっていた。
でもそんな母親でも許してあげて欲しいと言った。それは父親が母親を愛してるからだ。
「ええ。私の|自慢《じまん》の娘ですもの」
波奈はそれを|隠《かく》そうともしなかった。
その|晩《ばん》、|寝《ね》る前の話は自然と波奈とのことになった。
「それが|羨《うらや》ましいの?」
健一が自分の母親と波奈を|比較《ひかく》して、あまりに違うことに気づいたと話した時、冴子は静かにそう|尋《たず》ね返した。
「……羨ましいかどうかはよくわかりませんけど」
そして健一はそう言えば、この前、千夜子の父親が羨ましいと言ったのを思い出した。しかしその時と今ではかなり違うようにも思える。
「絹川君はお母さんのこと|嫌《きら》いなの?」
そう尋ねる冴子はなんだか|責《せ》めてるような口調にも感じられた。
「嫌いっていうか……本当によくわからないんです。|僕《ぼく》もわからないし、きっと向こうもわかってない。それがわかるから……寂しいんでしょうね」
健一はそう言ってから自分が母親に対してそんな感情を|抱《いだ》いていたことに少し|驚《おどろ》いた。
「理解されないのは寂しいわ。たとえ理解されないとわかっていても」
とっくに|諦《あきら》めてるものだと思っていた。でも冴子の言葉で、諦めきれるものではないのだろうなと思い直した。
「父親とはこの間、ちゃんと話せたから、仲良くなれるのかなあとは思ってるんですけど、母親の方はきっと無理なんです」
父親に対してだって、最近まではそう思っていた気もする。でもある日、母親とちゃんと話が出来てわかり合えるとはやっぱり思えなかった。
「仲がいい方がいいことと、仲良くしなければいけないことは違うわ」
それに冴子は、母親とだって仲良くなれるとは言ってくれなかった。でもそれがやはり自分にとって必要な言葉だろうと健一は思った。
「……そうですよね」
出来ないことは出来ない。悲しいけれど、それもやはり|現実《げんじつ》なのだ。
「私もお父さんのことは好きになれそうにないから。悪い人だとは思わないし、むしろいい人なのに……私には好きになれそうにないの」
冴子がそんなことを言い出した時、健一はハッとした。
「すみません。僕、自分のことばかりで……」
健一がそうであるように、冴子だって|複雑《ふくざつ》な家庭の|事情《じじよう》を|抱《かか》えている。そんなことすら自分が|忘《わす》れていたのかと思うと|情《なさ》けなくなってきた。
「ここではそんな|気遣《きづか》いなんていらないの」
冴子はそう言うとちょっと冷たい手で健一の|頬《ほお》に|触《ふ》れた。
「……そうですよね」
冴子は結局、日奈にもらった|鍵《かぎ》を使うことはなかった。時々は健一がいなくても寝られる日があっても、彼女は夜になれば1303に|戻《もど》ってきた。
「絹川君は言いたいことがあれば言ってくれればいいの」
冴子はそして今は健一の側にいる。
「私はそれを聞くと安心する。私が今、ここにいるって感じられるから。自分がここにいる意味があるように思えるから」
冴子はそれでもそれが自分のここにいる意味だとは言わなかった。
「こんな私でも、ここにいていいんだと思えるから」
思えるからと、冴子は言う。
「いてください」
だから健一は冴子の手に触れて、短くそれだけを言った。
それ以上のことを言うと冴子がどこかに行ってしまうんじゃないかと不安になった。
だからまた、例の言葉が心のどこかで|響《ひび》いたのだろう。
僕には恋愛は向いてない――と。
でも、冴子は目の前にいて、笑ってくれていた。だからそれ以上は言わなかった。
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エピローグ |僕《ぼく》はまだ何も知らない
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気づけば季節は冬になろうとしていた。
シーナ&バケッツの活動が無くなってからの|健一《けんいち》の生活はかなり|穏《おだ》やかなものだった。
父親のおかげで家に帰ってないことに対する後ろ暗さはなくなった。それでも時々は|掃除《そうじ》をしに帰ったりはして、そしてさらに|稀《まれ》には父親に会って話をした。
相変わらずツバメが昼食に参加したりもしたが、学校では|千夜子《ちやこ》と|一緒《いつしよ》にいる機会が|増《ふ》えたような気がする。バイトがある日以外なら、一緒に放課後を|過《す》ごす日が増、兄た。
「こんにちわー」
でもバイトがある日は千夜子は好慰ってか、一人で帰る日が多かった。なんでも特訓をしてるらしいが、それでも|途中《とちゆう》まで帰るくらいはしてもいいような気もするし、バイトだって時間できっちり終わるのだから待ち合わせをするという|選択肢《せんたくし》もある。
「どうしたの、|狭霧《さぎり》ちゃん?」
でもその日、バイトが終わる健一を待ちかまえるようにやってきたのは狭霧だった。
「|絹川《きぬがわ》さん、いるかなと思って」
と言ってもまだバイトが終わるにはちょっと早い時間だった。それにこの後、狭霧のシフトというわけでもない。
「……|僕《ぼく》に何か用ですか?」
なので健一としてはなんで狭霧が来たのだろうかと|悩《なや》んでしまう。
「用がないとダメですか?」
でも狭霧からすればなぜそんなことを聞くんだろうということらしい。
「ダメってことはないですけど……」
でもやっぱりなんでだろうと悩んでしまう。
「絹川さんに会いたかったんです」
それに狭霧は|嬉《うれ》しそうにそう答えるとカウンターに|座《すわ》った。
「……それは、どうも」
しかしそんなこと言われても|困《こま》ってしまうなあというのが健一の正直な気持ちだった。
「この後、|暇《ひま》なら一緒に|出掛《でか》けませんか?」
「いいですけど」
健一はそう言いながら、また病院にでも行くのかなと思った。だとすれば|早苗《さなえ》の手前、|用件《ようけん》を明言しないという|可能性《かのうせい》もある。
「だったら、もう上がっていいわよ、健一君」
そして早苗は相変わらず、バイトに|甘《あま》かった。|実際《じつさい》、狭霧が来て話をしてても問題ないわけで、それはつまり客がいないということなのだから、まあ、少しくらいなら|早退《そうたい》してもいいわけなのだが。
「……いいんですか?」
「狭霧ちゃんを|無駄《むだ》に待たせる理由なんてないでしょ?」
早苗はそう言いながら健一の方へと歩いて来る。
「もしかしなくても狭霧ちゃん、健一君のこと好きなんじゃない?」
そしてなんとも|怪《あや》しいセリフを耳打ちする。
「狭霧ちゃんは彼女がいるの知ってますから」
どころか|互《たが》いをまともに|認識《にんしき》したのは、千夜子と一緒の時だったのだ。
それに狭霧の用件は、|桔梗《ききよう》のお|見舞《みま》いなのだ。|刻也《ときや》の友人代表として同行を求められているだけ。早苗が考えてるようなことであるはずもない。
そのはずだった。
しかし早苗の|喫茶店《きつさてん》を出て二人が入ったのは別の喫茶店だった。いつぞや|鈴璃《すずり》に連れてこられた店だ。あまりいい思い出とは言えないし、今日もあまり期待できそうになかった。
「……ちっとも|美味《おい》しくないですね」
というのは、コーヒーを飲むなり、狭霧がそんなことを言い出したからだ。
「……えっと」
健一は一体、この|娘《こ》は何がしたいのかなと思わずにはいられなかった。
病院に行くのかと思ったら喫茶店に行くと言い出し、挙げ|句《く》、コーヒーに|駄目出《だめだ》し。
「あ、すみません。ちょっと声が大きかったですかね」
でも悪気は少しも無かったらしい。その辺はやはりお|嬢様《じよトつさま》ということなのだろうか。
「いや、その……別に文句を言うために|頼《たの》んだわけじゃないんですよ。私、前はコーヒーは特別に好きってわけじゃなかったんですね」
「それが最近、変わったんですか?」
「はい。早苗さんのコーヒーを飲むようになったら、ああ、コーヒーって美味しい物なんだなって。|辻堂《つじどう》さんのお店とか行くと、ケーキと|一緒《いつしよ》に飲むと美味しいコーヒーとか出てきますけど、それもやっぱりケーキありきなわけですよね。でも早苗さんのコーヒーは、それだけで|独《ひと》り立ちしてるというか」
「それはなんとなくわかるけど」
「だから私、コーヒーが好きになったのかなあと思ってたんですけど、やっぱり早苗さんのコーヒーが好きなだけだったんだなあ、と」
「……なるほど」
しかし結局の所はやっぱりここのコーヒーは美味しくないという|結論《けつろん》に変わりはない気がした。あえて言い方を変えれば、好みではないということになるかもしれないが。
「すみません。変なことに付き合わせちゃって」
「いや、まあ……いいんだけど」
と言いつつ健一はコーヒーが苦手だった。なので別の人の方が喜ばれたと感じてしまう。
「というか、それが本題なんですか?」
さすがにそんなこともないだろうなあと健一は思っていた。
「用がないとダメですか?」
でも狭霧は早苗の店に来た時と一緒の返事を返す。
「……もしかして本当に用がないんですか?」
「無いです。|強《し》いて言えば、私が絹川さんに会いたかっただけです」
「……それなら、まあ、それでもいいんですけど」
そしてそうだとわかれば、健一は別にそれでもいいかなと思えてきた。
「また病院に行くのかと思ってました?」
「はい。だから早苗さんの手前、特に用はないみたいなことを言ってるのかと」
「母さんが今、入院してるのは兄さんを待ってるだけですから」
狭霧は笑いながら、不思議なことを言い始める。
「それって……」
「兄さんは家には近づこうとしないんです。父さんに会いたくないからですけど」
「病院にお父さんが来ることはないんですか?」
「無いですね。|絶対《ぜつたい》に来ません。母さんは何度となく入院してますけど、父さんが来たことは一度もありません」
「……それはまたどうして?」
およそ考えられないことだと健一は思う。
「|推測《すいそく》ですけど、母さんが来ないように言ってるんだと思います」
「|余計《よけい》わからないんですけど」
「父さんが悲しい顔をするのを見たくないんだと思います」
狭霧はそう言って少し考えるような顔をした。
「だからって病院に来させないなんてことあるんですか?」
「|普通《ふつう》はないでしょうけど、母さんは特別な病気だから、あり得ると思ってます」
狭霧はそう言って、少し前に乗り出してきた。
「|八雲《やくも》の家の女は代々短命なんです。理由はその病気のせいです。家に伝わる|遺伝病《いでんびよう》があるんですよ」
「……そうなんですか?」
「しかも八雲はそれなりに|由緒《ゆいしよ》正しい家だったので、そのことは|恥《はじ》として|隠《かく》されてたんです」
「恥……ですか」
家というのはそういうものなのかなと健一は、父から聞いた話を思い出す。
「あまりおおっぴらにすることでもないですよね。そこの人間と|結婚《けつこん》すると、|子供《こども》が早死にするってことなんですから」
「……そうですねえ」
「だから母さんは子供を作る気はなかったらしいんですよ。もう自分の代でそんなことは終わらせるとそう思ってたみたいなんですね」
「でも八雲さんや狭霧ちゃんを産んだんですね」
「それがどうも父親に説得されたからみたいなんですけど、その代わりに父親は|妙《みよう》な約束をさせられたみたいで」
「それが病院に見舞いに来ないということなんですか?」
「ま、想像なんですけどね。父さんは絶対にしゃべりませんし、そんなこと」
狭霧はそれで苦笑いを|浮《ひつ》かべる。
「……って言うか、その話だと狭霧ちゃんも、その、病気なんじゃないんですか?」
|一段落《いちだんらく》したところで健一はその話をまとめ直して、その事実に気づく。もし本当なら大変なことなんじゃないだろうかと思ったのだが。
「ええ」
狭霧はあっけらかんと返事をする。
「……ええって」
「話すとびっくりされますけど、私にとっては小さい|頃《ころ》から聞かされてたことですから」
それにしたって、もう少し|深刻《しんこく》な話題ではないのだろうかと健一は思ってしまう。
「絹川さん、私のこと、どう思います?」
「どうって?」
「自分で言うのもなんですけど、私ってちょっと多くの物を持って生まれてると思うんですよ。
母さんも今でこそ入院生活してますけど、|若《わか》い頃はテニスの名プレイヤーだったそうですよ? 東京大学のテニスサークルで父さんと知り合ったとか」
「東京大学のテニスサークルですか」
ということは二人とも学業|優秀《ゆうしゆう》だったということなのだろう。それでスポーツも出来て、美人となれば|確《たし》かに多くの物を持っている気がする。
「だからその分、|寿命《じゆみよう》が短くても不思議じゃないっていうか、そうじゃないと不公平じゃないかなって思うんですよ」
「……なるほど」
明るく狭霧が言うので|当惑《とうわく》はするが、彼女の言い分は説得力があるように思えた。
そして同時に健一は、刻也が|縁《えん》が|尽《つ》きることがあると考えている理由がわかった気がした。
多くの物を持つ代わりに短命である母や妹のいる家で暮らしていれば、運命とはそういうものだと考えるようになるだろう。
「母が入院して|治療《ちりよう》を受けてくれたおかげで、私は|発症《はつしよう》してもすぐに|対処《たいしよ》できるとか言われてはいるんですけどね。でも私は正直言うと、そんなこと信じてないんです。だっておかしいじゃないですか。私はその分、持って生まれてきたんですから」
「でも、それでいいの?」
「いいんですよ。太く短くでいいんです、私は」
狭霧は別に|虚勢《きよせい》を|張《は》っているわけではなさそうだった。健一にはにわかには信じられないことだけれど、彼女が生きてきた問に|辿《たど》り着いた|結論《けつろん》なのだろう。
「申し|訳《わけ》ないなと思うのは父さんに対してですね。親よりも先に死ぬなんて、それ以上の|親不孝《おやふこひつ》なことはないじゃないですか」
「……|凄《すご》いですね、狭霧ちゃんは」
自分が死ぬという|前提《ぜんてい》でそこまで考えてる彼女を健一はそう|評《ひよう》するしかなかった。
「だから父さんの願うとおりにしたいっていうのはあるんですよ。私、高校を出たら結婚することになってるんです。父さんが自分の|弁護士事務所《ベんごしじむしよ》の若くて有望な人を|紹介《しようかい》してくれるそうです」
「狭霧ちゃんはそれでいいんですか?」
「ええ。人に話すと|驚《おどろ》かれますけど、私、父さんのこと、|尊敬《そんけい》してるんです。多分、さっき絹川さんが凄いって言ったのと同じだと思うんですけど、父さんは私が若くして死ぬかもってことを|真剣《しんけん》に考えてくれてるんです。母さんみたいに『狭霧ちゃんは|大丈夫《だいじようぶ》だと思う』なんて、そんなことは言わないんです。大丈夫じゃなくてもいいようにしようとしてくれてるんです。
なかなか出来ることじゃないと思ってます」
「凄い人なんですね」
どうしたって人は|都合《つごう》いい方向に|視線《しせん》を向けてしまう。ましてや、それが愛する|娘《むすめ》のことならそうだろう。
でも狭霧の父という人は、狭霧が生まれる前から、彼女が若くして死ぬかもしれないと|覚悟《かくご》してた人だった。それでも|妻《つま》を愛して、そして狭霧を産ませた人なのだ。
狭霧の言うとおり、それはなかなか出来ることではないだろう。
「だから私、父が|勧《すす》めてくれる人なら喜んで結婚できると思ってるんです」
狭霧の言葉に健一は反論する気も起きなかった。
父親に結婚相手を決められる。それだけを聞いたら|誰《だれ》だって、それでいいのかと思うだろう。
でも狭霧の父は別に自分の都合を押しつけようとしてるわけではない。そうすることが狭霧にとって幸せだと信じて行動しているのだ。
「でも、最近、ちょっと別のことを考えていまして」
なのに狭霧の話がするっと|脱線《だつせん》するのを健一は感じた。
「はい?」
「結婚は結婚でちゃんとしますけど、その前に別の人と恋するくらいはしてもいいのかなって、そう思うようになったんです」
狭霧はそう言ってじっと健一の方を見た。気づくとさっきより|随分《ずいぶん》と顔が近くなってる。
「いいんじゃないですか」
でも健一は狭霧を|見据《みす》えたまま、|素直《すなお》に思っていることだけを口にした。
「……やっぱり|怖《こわ》い人ですね、絹川さんって」
それが狭霧にとってはかなり予想外の|反応《はんのう》だったらしい。彼女は|珍《めずら》しく|戸惑《とまど》い、顔を赤くしたかと思うと視線を|逸《そ》らした。
「あれ? 変なこと言いました?」
しかし健一はなんでそう言われたかがわからず、狭霧をさらに戸惑わせた。
帰路についた健一が考えたのは狭霧の父親のことだった。
刻也から聞いていた父親というのは、あまり良いイメージではなかった。だが狭霧の父親と刻也の父親は同じ人間なのだ。
「……結局、その人がどう思ってるかってことなのかな」
健一はそう結論した。
狭霧は父親を尊敬している。だから、その良さを伝えてきたのだろう。
だが刻也は父親を尊敬できないと感じている。だから、彼から聞く父親|像《ぞう》というのはやはり尊敬できないように感じるのだ。
「とすると本当はどんな人なんだろうな」
健一は刻也や狭霧が|嘘《うそ》をついてるとは思わなかった。でもどっちの話もきっと何かが足りてないのだろうなと感じた。
「……八雲さん?」
そんなことを考えていたせいだろうか。|幽霊《ゆうれい》マンションが見えてきたところで、入り口に誰かが立ってるのが見えた。
遠目なのでハッキリしないが、それはおそらく刻也だった。
「なんで外にいるんだろう?」
健一はそう思いながら、もう少し近づいて|確認《かくにん》してから話しかけてみることにする。
「絹川君っ」
だが、刻也の方が先に確信を持ったらしい。健一が帰ってきたと気づいた刻也は、健一の方へと|駆《か》け出した。
「八雲さん、何かあったんですか?」
その|勢《いきお》いや彼の|表情《ひようじよう》から何かがあったらしいことを健一は察する。
「絹川君、君はどこにいたんだね?」
しかし刻也は健一の|質問《しつもん》には答えず、やけにキツイ調子で|尋《たず》ねてきた。
「え? いや、その……狭霧ちゃんと|喫茶店《きつさてん》に行ってただけですが」
なにかまずいことをしてしまったのだろうかと健一は感じる。
「いや……そんなことはどうでもいい……」
でもそういうわけではなかったらしい。刻也自身がかなり|混乱《こんらん》してるだけのようだった。
「どうしたんですか、本当に」
健一は|胸《むね》の中をざわざわと不安が|支配《しはい》していくのを感じた。
「病院に行かねばならない」
しかし刻也は何があったのかは教えてくれなかった。
「病院……って、|朴東《ぼくとう》病院ですか?」
だが健一にはその場所に心当たりがあった。
刻也の母が入院してる場所だ。刻也の|慌《あわ》てようからすると、何か|病状《びようじよう》に|異変《いへん》でもあったということなのだろう。
「そうだ。この時間、バスでは|心許《こころもと》ない。タクシーに乗ろう。|詳《くわ》しい話はそれからだ」
そう言うが早いか刻也は大通りの方へと走り出した。
「あ、はい」
健一は慌ててそれを追いかける。
「…………」
そして刻也の後ろ|姿《すがた》を見ながら、何かがおかしいと感じた。
刻也は健一が帰ってくるのを待っていたみたいだった。
|確《たし》かに刻也の母親と|面識《めんしき》はある。でも健一がそこにいたならともかく、わざわざ待ってまで連れていくような相手ではないだろう。
それに刻也は、健一が母・桔梗と面識があることを知っていただろうか。狭霧と|一緒《いつしよ》に|見舞《みま》いに行ったことを話しただろうか。
「……八雲さん、ちょっと聞きたいんですけど」
大通りまで出たところで刻也はタクシーを|探《さが》すために立ち止まった。健一は息をついたその|瞬間《しゆんかん》を待って話題を切り出した。
「なんだね?」
「これからお見舞いに行くのは、八雲さんのお母さんですよね?」
健一の質問に刻也は|驚《おどろ》き、そしてひどく悲しい顔をした。
「そうか、君は何も聞かされてなかったのだな……なんということをするんだ……」
刻也はそう言いながら、健一をもう見ていないようだった。何かを思い|浮《セフ》かべているらしく、|焦点《しようてん》が少し遠ざかったのが健一にもわかった。
「……聞かされていなかったって、何のことですか?」
健一はその質問が自分でもなんだか変だなと感じた。
何のことかよりも今聞くべきことがあるように思えた。
「病気のことだ。彼女の病気は治ってはいなかったのだ」
刻也の答えで健一は、自分が本当は何を聞くべきだったか|理解《りかい》した。
何の話かではない。それはもうわかっている。健一たちはこれから病院に行くのだから。
健一が知るべきは、それが誰の話なのかだ。でも健一はそれを聞くのが|怖《こわ》かったのだ。
「それって……」
だから健一は言葉が続かなかった。
それは誰の話なんですか? と口に出す勇気が持てなかった。それはもう答えがわかっていたからだった。その答え合わせをしたくなかったからだ。
「|有馬《ありま》君が|倒《たお》れたんだ」
刻也はそれを苦しそうに告げた。彼も信じたくはなかったのだ。
「有馬さんが……倒れた?」
そして健一も信じたくはなかった。
だが、それが事実なのを健一は|確信《かくしん》してしまった。
刻也はこんな|状況《じようきよう》で|嘘《うそ》や|冗談《じようだん》を言うような人間ではない。それを健一はよく知っていた。
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あとがき
|新井《あらい》|輝《てる》「|千夜子《ちやこ》さんは|走馬燈《そうまとう》をご存じですかな?」
千夜子「走馬燈ですか? あの影絵がくるくる回る|灯籠《とうろう》のことですよね」
新井輝「うむ。その通り。でも私が話したいのは走馬燈その物のことではないのです。|比喩《ひゆ》としての走馬燈のことなのです、千夜子さん」
千夜子「比喩って言うと、〜のようなとか、そういうヤツですよね?」
新井輝「走馬燈のように……と聞いて思い出すことはありませんかな?」
千夜子「あります! あります! あの死んだ時に、人が一生の出来事を回想するってヤツですよね?」
新井輝「その通り。それを|踏《ふ》まえて、周りの|景色《けしき》を見て欲しい」
千夜子「周りの景色ですか? あれ? そう言えば、ここどこなんです? なんだか白い服着て石を|頑張《がんば》って積んでる人がいっぱいいますけど」
新井輝「簡単に言うなら、あの世ですよ、千夜子さん」
千夜子「あ、あの世? っということは、私、死んじゃったんですか?」
新井輝「その通り。そして私も死んでしまったということです」
千夜子「でも新井さんはもう何度もあとがきで死んでたじゃないですか? あ、じゃあ、これから帰る所なんですね? 私、びっくりしましたっ」
新井輝「残念ながらそうではないんですよ、千夜子さん。さすがの私も少々死にすぎたようでしてね。どうやらドラマCDでも死んだのがまずかったらしいのですが」
千夜子「え? じゃあ、このままなんですか?」
新井輝「ええ。まあ、もう次で終わりですから、私がいなくてもどうにかしてくれることでしよう。私ももう死ぬのに|疲《つか》れました。今回なぞは七回くらいまとめて殺されましたからね。さすがにこれは無いな、と。それに同じオチというのも楽そうに見えるかもしれませんが、作家にとってはそれはそれで苦しいものなんですよ」
千夜子「……死ぬのに疲れるっていうのもすごい話ですよね」
新井輝「それをけっこう平然と受け止める千夜子さんもなかなかのものですけどね」
千夜子「というか次で終わりなんですね」
新井輝「ええ。終わりなんですよ、|富士見《ふじみ》ミ……げふんげふん」
千夜子「どうしたんですか、いきなり|咳《せ》き|込《こ》んだりして」
新井輝「いえ。大人の事情というヤツですよ。気にしないでください、千夜子さん」
千夜子「死んだ後もそんなことを気にしないといけないんですか?」
新井輝「立つ鳥|跡《あと》を|濁《にご》さずとも言うではないですか。最後くらいは|綺麗《きれい》にと思うものですよ」
千夜子「そう言えば、しょーとすとーりーず・ふおーのあとがきの続きはないんですか?」
新井輝「あれは続きを書いたら|拙《まず》いでしょう、|流石《さすが》に」
千夜子「私もなんとなくそうじゃないかと思ってました」
新井輝「僕は個人的にはトオルは|攻《せ》めだと思ってるんですよ。つまり、あの話は……」
千夜子「は、話戻りますけど! まだ続きがあるんですよね?」
新井輝「ええ。タイトルももう決まっているんですよ。十一巻のタイトルは『彼女はファンタスティック!』ですよ、千夜子さん。その意味、わかりますよね?」
千夜子「か、彼女!? ということは、もしかして……」
新井輝「そう、ついに|鈴璃《すずり》さんが登場するわけですよ」
千夜子「そ、そっちなんですか?」
新井輝「それは十巻の話でしたね。せっかく登場したというのに、何が不満だったのか……」
千夜子「それじゃやっぱり、わ……」
新井輝「しかしそれも私たちには関係のないことですね。もう死んでいるのですから」
千夜子「そんなことないですよ。最終巻のあとがきもあの世かもしれないじゃないですか」
新井輝「その前向きさはどうかと思いますよ、千夜子さん」
千夜子「そう言えば、外伝みたいのが出るんですよね?」
新井輝「『恋は二人でするもので〜かつて1301にいた君へ』というのが、富士見ミステリー文庫とは違うところから出るのです。内容は|荊木圭一郎《いばらきけいいちろう》とその関係者たちの学生時代の話がメインですね。でも|蛍子《けいこ》お姉さんも出てきます。その辺りは本編とプロローグの関係のごとくなんですよ、千夜子さん」
千夜子「そういう話を聞くとやっぱり、シリーズが終わるとしても|寂《さび》しくないですよね。別にシリーズが終わるからって、|全《すべ》てが終わるわけじゃない。そうですよね?」
新井輝「確かに、そうなりますね」
千夜子「それにまだ次があるじゃないですか。この後、どうなるのか気になって気になって仕方ないんですけど、どうなるんですか?」
新井輝「それは、読んでのお楽しみでしょう。僕らはここで皆を待ちましょう」
千夜子「そうですね……って今、気づいたんですけど。私、まだ一回しか死んでないから戻れたりしないですかね?」
新井輝「え? いや、まあ、可能性はあるかもしれませんが……」
千夜子「だったら私、頑張ってみます。ここで|諦《あきら》めたら負けじゃないですか」
新井輝「千夜子さんは本当、負けずぎらいですね。でもそれも時にはいいですね」
[#地付き]二〇〇八年 八月 新井 輝
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ROOM NO.1301 #10
管理人はシステマティック?
新井 輝
発 行 平成20年9月25日 初版発行
著 者 新井 輝
発行者 山下直久
発行所 富士見書房
平成20年9月26日 入力・校正 にゃ?