ROOM No.1301 #9
シーナはヒロイック!
新井 輝
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま
[#]…入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから〇字下げ]
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
底本データ
一頁17行 一行42文字 段組1段
[#改ページ]
[#改ページ]
口絵・本文イラスト さっち
口絵デザイン 菊地博徳
[#改ページ]
目次
プロローグ |友達《ともだち》は|仕事《しごと》に|恋《こい》してる 5
第十四話 二人は|一喜一憂《いつきいちゆう》 23
エピローグ |姉《あね》はそれでも男に恋してる 213
あとがき 228
[#改ページ]
MAIN CHARACTERS <登場人物>
絹川健一 KENICHI KINUGAWA <<主人公>>
1303号室の住人。なぜか、次々と女性と関係を持ってしまう。
桑畑綾 AYA KUWABATAKE <<H済み>>
1304号室の住人で、どこかずれた感覚を持つ芸術家。
大海千夜子 CHIYAKO OOUMI <<プラトニック? >>
健一の同級生で、つきあっている。でもHはまだない?
有馬冴子 SAEKO ARIMA <<H済み>>
1303号室の住人で、健一の同級生。Hをしないと眠れない体質。
窪塚日奈 HINA KUBOZUKA-SHEENA- <<童貞>>
1305号室の住人。双子の姉に恋している。健一とシーナ&バケッツを結成。
窪塚佳奈 KANA KUBOZUKA
日奈の姉。ちょっぴり短気だが、日奈をとてもかわいがっている。
鍵原ツバメ TSUBAME KAGIHARA
千夜子の友人で、同級生。シーナ&バケッツのファン。
綱川蛍子 KEIKO KINUGAWA <<H済み>>
健一の姉。通称ホタル。健一と関係を持つが両親に引き離される。
八雲刻也 TOKIYA YAKUMO
1302号室の住人で、健一の同級生。管理人さんと呼ばれる。
[#改ページ]
プロローグ |友達《ともだち》は|仕事《しごと》に|恋《こい》してる
[#改ページ]
|咲良《さくら》ちゃんは|相変《あいか》わらずだった。
色々と考えてるようで、意外にというかけっこう|天然《てんねん》で、|妙《みよう》に空気が読めないところがあったりする。
そして今日だって、やっぱりそうなのだ。
「あ、|日奈《ひな》ちゃんだ」
|錦織《にしきおり》さんが次の用があるって席を|離《はな》れたと思ったら、今度は咲良ちゃんがやってきた。
どうやら例の『|組織《そしき》』は意地でも私と|佳奈《かな》ちゃんを二人きりにさせてはおかないつもりらしい。とすれば錦織さんも咲良ちゃんも組織の人間ということか……。
「こんにちわ」
などと|密《ひそ》かに|陰謀説《いんぼうせつ》を心の中で展開しながらも、私はつとめてにこやかに咲良ちゃんに|挨拶《あいさつ》をする。
「……ね、日奈ちゃん、この人、もしかしてSAKURAじゃないの?」
そして|隣《となり》で佳奈ちゃんは咲良ちゃんの登場にそんな|風《ふう》に|驚《おどろ》いていた。
佳奈ちゃんにとっては、咲良ちゃんは|芸能人《げいのうじん》のSAKURAなんだなあと|改《あらた》めて思う。
本当、佳奈ちゃんって芸能人が好きだなあ。というか|案外《あんがい》、佳奈ちゃんは女の子でもありっぽいような気がしてぎた。まあ、私と咲良ちゃんじゃかなりタイプが|違《ちが》うけど。
「うん。咲良ちゃんとはデビュー前からの知り合いなんだ」
「そ、そうなの?」
佳奈ちゃんは私と咲良ちゃんが|仲《なか》がいいらしいことがかなり|意外《いがい》だったらしい。
「それで……その……お|邪魔《じやま》してもいいかな?」
そしてそんな感じで咲良ちゃんがどうしたものかという顔で私に|尋《たず》ねてきた。
「どうぞ、どうぞ。もういくらでもお邪魔してください」
でも答えたのは佳奈ちゃんの方。
「あ、私、日奈ちゃんの|双子《ふたご》の姉で、|窪塚《くぼつか》佳奈です。初めましてー」
そして|自己紹介《じこしようかい》を始めたのも佳奈ちゃんの方。
「……はじめまして、でしたっけ?」
でも咲良ちゃんはちょっと|不思議《ふしぎ》そうな顔をする。
「え? お会いしたことありましたっけ?」
そして二人はなんだか私のことなんかすっかり忘れてしまったらしく話を始める。
「ああ……ちゃんと話したことはなかったですね。私が一方的に|観《み》てたから知り合いのつもりでいました」
「え? ええ? それって、どういうことですか? 一方的に観ていたのは私の方なはずですけど……って、私、SAKURAさんのファンなんです。新曲もCD買って、今度、カラオケで歌おうと思って練習中なんです」
「そうなんですか。それはありがとうございます」
咲良ちゃんはいきなり営業スマイルを|浮《う》かべると、ぺこりと頭を下げる。
「それでその……|厚《あつ》かましいお願いなんですけど……|握手《あくしゆ》してもらっていいですか?」
「え? いいですけど……私なんかと握手したいものですか? 日奈ちゃんのお姉さんなんですよね、佳奈さんって?」
「いえ、もう、こうして話してるだけでも夢みたいですよ。握手してもらったら私、|心拍数《しんぱくすう》が上がりすぎて|倒《たお》れちゃうかも……」
「……そういうものですかね?」
咲良ちゃんは佳奈ちゃんのテンションの高さにちょっと困ったなという顔をして、ちらっと私の方を見た。
「そういうものなんです!」
でも佳奈ちゃんが私が何か|反応《はんのう》する前に声をあげた。
「じゃあ、倒れない程度でお願いしますね」
それで咲良ちゃんは佳奈ちゃんと握手することにしたらしい。
「ありがとうございますっ」
佳奈ちゃんはそれに気づいて咲良ちゃんの手を|握《にぎ》る。そんなに芸能人と握手したいなら私が
いくらでも握手してあげるのになあ……なんて思ってもしょうがないってことは私は残念ながら知っていた。
「それで佳奈さん。ちょっと話、|戻《もど》しますけど」
咲良ちゃんは|十分《じゆうぶん》に握手したと思ったところで手を離すと、また話を始めた。
「はい、なんでしょう?」
「佳奈さんのことを私、以前から知ってたんですよ」
私はその言葉に身を固くした。咲良ちゃんが何を話そうとしてるのか|想像《そうぞう》がついたからだ。
咲良ちゃんが佳奈ちゃんを知っていた理由。それを私は知っている。
「……どうしてですか?」
でも佳奈ちゃんにはさっぱり心当たりがないらしい。
「私、シーナ&バケッツのファンだったんですよ?」
そして私と佳奈ちゃんの温度差の意味を咲良ちゃんは理解してはくれなかった。出来れば話して欲しくなかったことをあっさりと言われてしまう。
「そ、そうなんですか?」
「私はバケッツさんの方のファンでしたけど。佳奈さんはファンの中でも目立ってましたから|覚《おぼ》えてたんです」
「そ、そうだったんですか……」
佳奈ちゃんは咲良ちゃんに|意識《いしき》してもらっていたということでまんざらでもないという|様子《ようす》だった。でも私はとてもじゃないけど、喜べる|状況《じようきよう》じゃなかった。
「……って、そんな|昔話《むかしばなし》はどうでもいいですよね」
そしてそれに咲良ちゃんもやっと気づいたらしい。|事情《じじよう》はわからなくても私がイライラしてるのはさすがにわかったらしい。
「いえいえ、そんなことないですよ。私のことなんかをSAKURAさんが知っててくれてすごく|嬉《うれ》しかったですから」
でも佳奈ちゃんはまだ気づいてない。まあ、気づかれても困るんだけど……なんでそんなに|見事《みごと》に私の|存在《そんざい》を忘れられるんだろうと思ってしまう。
「ご|注文《ちゆうもん》は?」
そんなところに咲良ちゃんがすっかり忘れていた注文を取りにウェイトレスさんがやってきた。
「レモソティーをお願いします」
咲良ちゃんはメニューも見ずにそう答える。どうやらいつもそれにしてるとかそういうことらしいなと私は思う。
「ホットでよろしいですか?」
でもウェイトレスさんにつっこまれたので、そうでもないかもしれない。
「はい、ホットでお願いします」
咲良ちゃんはそれににっこりと返すと、それから佳奈ちゃんの方を見た。
「レモンティー好きなんですか?」
それで佳奈ちゃんはウェイトレスさんが|去《さ》っていくのを|確認《かくにん》してから、咲良ちゃんにそう|尋《たず》ねる。
「そんなに好きではないんですけどね。とりあえず、どこにでもあると思ったので」
「だったらブレンドとかでいいんじゃないですか?」
「うーん。コーヒーはちょっと……」
「嫌いなんですか?」
「あ、コーヒーは好きなんですよ。すごく好きなんです」
「だったら、なんでレモソティーなんです?」
「|美味《おい》しいコーヒーを知っちゃったから、かな。なんかもうそこのコーヒi以外は飲む気にならないんですよね」
「わ、なんか|格好《かつこう》いいですね、それ」
「……そうですか? あ、そのお店、きっと佳奈さんの家の近くですよ?」
「え? そうなんですか? じゃあSAKURAさん、うちの近所に住んでるんですか?」
「私、昔、『モン・サン・ミシェール』でバイトしてたんですよ」
「え? 本当ですか? 『モン・サン・ミシェール』なら私の家のすぐ近くですよ? でもお店でSAKURAさんを見かけた|記憶《きおく》はないですけど……」
「まあ、毎日出てたわけじゃないし、それに昔はかなりイメージ違いましたからね。メガネもかけてなかったですから」
「え? SAKURAさんって言えば、センスのいいメガネで有名なのに、昔はかけてなかったんですか?」
「あはは。実は|伊達《だて》なんですよ、これ。あと、メガネは自分で選んでるわけじゃないんです。
友達にセソスのいい|娘《こ》がいて、その娘にいつも|頼《たの》んでるんです」
「……そ、そうだったんですか。それは|衝撃的《しようげきてき》な事実です」
「がっかりしました?」
「いえ、そんなことないですけど。私、色々、|勿体《もつたい》ないことをしてたのかなあって。その|頃《ころ》、ちゃんと|周《まわ》りが見えてたらSAKURAさんと友達になれてたかもしれないってことですよね?」
それを言うなら、今だってかなり勿体ないことをしてるんじゃないかなあと私は思ったりするけど、それを言うと|恥《はじ》ずかしいのでやっぱり言わないことにする。
「今からでもいいんじゃないですか?」
そして私がそんなことを思ってるというのに、咲良ちゃんは佳奈ちゃんが喜びそうなことをあっさりと言ってのける。
「え? 本当ですか?」
「佳奈さんは日奈ちゃんのお姉さんですから……っていう理由は変ですかね?」
私はそれは変だろうと思ったけど、佳奈ちゃんからすれば理由なんてどうでもいいのは聞くまでもなくわかる。
「変じゃないです。全然変じゃないです」
本当、佳奈ちゃんはツッコミには向いてない性格だなあと思う。
「じゃあ、今度、|比良井《ひらい》に行くことがあったら、その時、|一緒《いつしよ》に|喫茶店《きつさてん》に行きましょうか? さっき言った美味しいコーヒーのお店なんですけど」
「うわー、信じられない。SAKURAさんに|誘《さそ》ってもらえるなんて……」
なんて佳奈ちゃんが答えて|夢心地《ゆめごこち》とでも言った方がよさそうな顔をした時、ウェイトレスさんがレモンティーを|運《はこ》んでぎた。
「レモンティーです」
「あ、どうも」
それでちょっと咲良ちゃんの注意がそれて、二人の会話も|途切《とぎ》れた。
「そういえば咲良ちゃんはなんでここに来たの?」
なので、そんなことを聞いてみた。どうして私と佳奈ちゃんが話してるのに来たのか。それを知らないと気が|済《す》まなかったからだ。
「えっと……私、喫茶店が好きだから」
でも咲良ちゃんから帰ってきたのは意外というか、なんというか、色々な意味でなんとも言い|難《がた》いものだった。
「知らない喫茶店を見ると、とりあえず入ってみようかなあと思ったら、日奈ちゃんがいたってだけなんだけど」
「……すごい|偶然《ぐうぜん》だね」
私は|呆《あき》れるしかできなかった。
「本当、すごい偶然ですね。というか、これは|運命《うんめい》ですよね」
でも佳奈ちゃんはその偶然を|奇跡《きせき》とでも|言《い》い|換《か》えたいくらいの|勢《いきお》いらしい。
まあ、好きな芸能人が向こうからなんとなくやってきたのだから、そう思うのはそんなに変ではないのだけど。
「大げさですよ。それにこのお店を意識したのは錦織さんみたいな人がいたのが見えたからなんです。別にどこでも喫茶店なら入るってわけじゃないですから」
咲良ちゃんは佳奈ちゃんほどは運命とか神様を信じてないらしく、そんなことを言う。
「それ、きっと錦織さんですよ。咲良さんが来る前にここで話してたんです」
「あ、そうだったんですか。ということは錦織さんのおかげなんですね、佳奈さんに会えたのは。|感謝《かんしや》しないとですね」
「感謝したいのは私の方ですよー」
佳奈ちゃんは|心底《しんそこ》そう思ってるみたいだった。錦織さんと知り合ったのは私がいたからとかそういうこともちょっと考えてくれると嬉しいんだけどななんて|拗《す》ねたくもなる。
「そういえば、佳奈さんはこの後、何か用事とかありますか?」
「特にないですけど……明日は会社だからそんなに|遅《おそ》くならないようにってだけで」
「それじゃ一緒にパーティに行きませんか? まあ、パーティってわざわざ言うほどじゃなくて、身内でちょっと集まるってだけなんですけど」
「それってもしかして、その……芸能人の方々が集まるんですか?」
「まあ、芸能人の人もいますけど、友達を連れて六人くらいでってだけです」
「……そういうところに私みたいな人間が顔を出していいんですか?」
「いいと思いますけど。佳奈さんは友達じゃないですか」
「……いいのかなあ。すごく嬉しいけど」
佳奈ちゃんは少し|困《こま》ってるという顔で私の方を見た。
本当はすごく行きたいけど、でも|場違《ばちが》いだと思われたくないとも思ってる。それが私にはわかる。
「いいと思うよ。咲良ちゃんもいいって言ってるんだし」
だから私はそう言ってあげる。やっぱり佳奈ちゃんにはどこまでも|甘《あま》くしてしまう私なのだ。
|望《のぞ》まれてることを言わないなんて私にはできない。
「う、うん。そうだよね。せっかく誘ってくれてるのに|断《ことわ》るなんて|失礼《しつれい》だよね」
だから佳奈ちゃんは自分のしようとしてることを|必死《ひつし》に|正当化《せいとうか》しようとする。それがわかっててそのままにしてるのが、本当に佳奈ちゃんのためになるのかはわからない。でも私にはそれを注意することなんてできないのだ。
そんな佳奈ちゃんが嫌がることなんてできない。できるわけ無い。
「日奈ちゃんも来てくれるよね?」
なのに咲良ちゃんは私が心から佳奈ちゃんの行動を|歓迎《かんげい》してるみたいに思ってるみたいだった。
「……私はこの後、別の用事があるから」
用事があるのは本当だけど、なんだか自分でもちょっと言い訳っぽいなと感じる。行きたくないからそんなことを言い出したみたいだ。
「そうなの?」
それに驚いた声をあげたのは咲良ちゃん、ではなく佳奈ちゃんの方だった。
「うん。だから佳奈ちゃんは咲良ちゃんと遊びに行ってきたらいいよ」
本当は私だって佳奈ちゃんと一緒に行きたい。でもそれはさすがにできなかった。
こんな気持ちのままお酒なんか飲んだら、何を言い出すかわからない。せっかくのパーティをしらけさせてしまう自分が|容易《ようい》に|想像《そうぞう》できた。
そろそろ|引《ひ》き|際《さい》なんだななんて思う。この間も会ったし、今日も|随分《ずいぶん》と話した。
私と佳奈ちゃんは双子の|姉妹《しまい》だけど、別れたカップルでもある。もう昔のように当たり前に会っていられる関係じゃない。佳奈ちゃんはそう思ってないかもしれないけど、そうだってことを忘れたらいけない。
だから私は家を出たし、今、ここにいる。それを忘れてはいけないのだ。
「……日奈ちゃん、その用事って言うのが何かわからないけど、そっちには私が参加したらまずいのかな?」
なのに佳奈ちゃんは私の言葉を|否定《ひてい》する。それは私にとっては意外な言葉だった。
佳奈ちゃんは芸能人と仲良しになれる方を選ぶと思っていた。咲良ちゃんの誘いを断るようなことを言うはずはないと思っていた。
「だ、大丈夫だと思うけど……咲良ちゃんと一緒に行った方が楽しいと思うよ」
私の用なんて佳奈ちゃんにとってはどうでもいいことだとわかっていた。だから言い訳とか|誤魔化《ごまか》しではなく、そう言った。
なのに、佳奈ちゃんはちょっと悲しい顔をした。それが私には苦しい。すごく苦しい。
「やっぱり邪魔かな?」
「じゃ、邪魔じゃないけど……咲良ちゃんがせっかく誘ってくれてるんだし。ね、咲良ちゃんも佳奈ちゃんと一緒にパーティに行きたいよね?」
私は佳奈ちゃんの顔を見ていられなくなって、咲良ちゃんの方を見る。
佳奈ちゃんに聞こえないなら「助けて一って|叫《さけ》びたいくらいの気持ちだった。
「え? 佳奈さんは日奈ちゃんと一緒に行きたいみたいだからそうした方がいいんじゃないかな?」
なのに咲良ちゃんはちっとも助けてくれる気なんてなさそうだった。わかってないのか、わかってて|敢《あ》えて|無視《むし》してるのかはわからない。
だから、私は咲良ちゃんは相変わらずだなと改めて思う。
「……本当、それでいいの、佳奈ちゃん?」
「うん。日奈ちゃんとはめったに会えないし、もう少し一緒にいたいから」
そして佳奈ちゃんも相変わらずだなと思う。そんな嬉しくて、そしてすごく|残酷《ざんこく》なことをにこやかに私に|告《つ》げるなんて佳奈ちゃんにしかできない。
「う、うん。佳奈ちゃんがいいなら、それでいいけど」
だから私にはそれを否定するなんてできなかった。
佳奈ちゃんがいいなら、それでいい。私は昔からずっとそうだったし、今もやっぱりそうなのだ。
私だって相変わらずなのだ。
「それじゃ私、そろそろ行きますね」
そしてそんな答えが出るのを待っていたのか、咲良ちゃんは立ち上がった。
いつのまにかレモンティーを飲み終えている|辺《あた》り、なかなかに|油断《ゆだん》のならない人間だなと感じたりもする。
「あ、はい。今日は断っちゃったけど、次は|絶対《ぜつたい》時間取りますから、誘ってくださいね」
でも佳奈ちゃんはそんなこと少しも思っていないらしい。
「はい。絶対、誘いますから、一緒にコーヒーを飲みに行きましょうね」
咲良ちゃんはそれに|笑顔《えがお》を浮かべると、小さく手を振り、それから私の方を見る。
「じゃあね、日奈ちゃん」
そしてちょっと|意地悪《いじわる》な笑顔を浮かべる。どういう意味か|計《はか》りかねる|表情《ひようじよう》の変化。
「またね、咲良ちゃん」
でも私はいつも通りの笑顔で別れを告げる。
「うん、またね」
そしてそれで|正解《せいかい》だったらしい。咲良ちゃんは|満足《まんぞく》げに笑ってその場を離れて行く。
佳奈ちゃんは咲良ちゃんがお金を|払《はら》ってる間も、店の外に出て見えなくなるまで手を振っていた。もう咲良ちゃんがこっちを見てないにもかかわらず。
「ね、日奈ちゃん、次の用まで、まだ時間あるの?」
「え? うん。まだ、ちょっとあるかな」
「じゃあ、どうしようか? ちょっとならこのままの方がいいのかな?」
そんなことを|尋《たず》ねる佳奈ちゃんの顔が随分と|側《そば》に感じられた。佳奈ちゃんはずっと私の隣の席に座っていたのだ。
向かいの席が二つ|空《あ》いてるのに。
「別のお店に行くとなると|探《さが》す時間もあるし、すぐに出ることになるかも」
だけど私はそんな座り方は|大歓迎《だいかんげい》だった。だから、別の言い方で、このままでいいよねと言ってみる。
「それじゃ|移動《いどう》しない方がいいかな」
そしてそれは|無事《ぶじ》に佳奈ちゃんに|届《とど》いたらしい。
「でも|長居《ながい》するのは悪いから何か|頼《たの》もうか? 今までの分は錦織さんが|奢《おご》ってくれたし、これからの分は私が出すよ」
そんな|幸運《こううん》に私は|上機嫌《じようきげん》だったと言っていいと思う。まあ、上機嫌じゃなくても佳奈ちゃんに奢ってって言われたらいくらでも奢るけど。
「本当? じゃあ、ホットケーキとか頼んでもいい?」
と思ったけど、それはちょっとどうなんだろうと思ってしまう。
「ちょっと私もお|腹空《なかす》いてきたかなって思ってたから、一緒に頼んじゃおう」
でももちろん、つっこんだりしない私。
だって佳奈ちゃんが食べたいって言うんだから、食べさせてあげたい。そのためなら私だってホットケーキを食べたかったことにするくらい当然のことだ。
「やっぱり私たち、双子なんだね」
そしてそれが私のついた|嘘《うそ》だなんて少しも気づかない佳奈ちゃん。
「うん、そうだね」
でも私はそんな佳奈ちゃんが好きだから|文句《もんく》なんて言わない。
それは嘘をついてるってことかもしれないけど、私の心からの|言葉《ことば》でもあるのだ。
私は昔からずっと佳奈ちゃんが好きだし、喜んで欲しい。そう思って生きてきた。
佳奈ちゃんが喜んでくれるなら、他のことはどうでもいい。そう思って生きてきた。
「私たち、双子なんだよね」
だから、その言葉は本当。
少なくとも佳奈ちゃんにとっては、ずっとずっと本当のことなのだ。
[#改ページ]
第十四話 二人は|一喜一憂《いつきいちゆう》
[#改ページ]
やはり|浮《う》かれていたんだなと、|健一《けんいち》は重い体を感じながら思う。
ライブの後はもう立ち上がれないほど|疲労《ひろう》していた。体中のエネルギーを|使《つか》い|尽《つ》くした。
それでもシーナに手を引かれ立ち上がり、|幽霊《ゆうれい》マンションへと戻ってくるうちに|普通《ふつう》に歩けるくらいには|回復《かいふく》していた。
体のダメージに関してはけっこう回復が早い方なのかもしれない。そんなことも思う。
でも|傍目《はため》にはやっぱり調子が悪いよヶに見えたのか、それとも状況を考えてのただの|気遣《きつか》いだったのか、|冴子《さえこ》は健一に、今日はどっちでもいいから――と言った。
そしてどっちでもいいと言われたのに、健一は冴子と|一緒《いつしよ》に寝ることを選んだ。しかも|普段《ふだん》より|激《はげ》しいくらいに。
「……どっちかというと|有馬《ありま》さんの方が|疲《つか》れてたのかな?」
いつもより少し早く目が|覚《さ》めた健一はシャワーを|浴《あ》びてリビングに戻ってきた。
なのに冴子はまだ寝ていた。|珍《めずら》しいことだなと健一は思う。
冴子はちょっとした|物音《ものおと》でもけっこう目が覚める方だと健一は|認識《にんしき》していた。寝てすぐくらいはそうでもなかったが、朝方になればうっかり起こしてしまうことも多かった。
なのに今日は健一が起きて|随分《ずいぶん》と|経《た》つのに寝たままだった。
部屋はカーテンで|遮光《しやこう》されていたけれど、|隙間《すきま》からもう朝日が差し込んできていた。|真《ま》っ|暗《くら》と言うほどは暗くない。
「こうして見てたら|怒《おこ》られるかな?」
そんな|薄明《うすあ》かりの中、健一は冴子の|寝顔《ねがお》を見る。
けっこう|珍《めずら》しい体験かもしれない。健一は改めて思う。
家に帰っていた|頃《ころ》は寝ている冴子を気遣って静かに帰るようにしていた。その時はこんな|風《ふう》にのんびりと彼女の寝顔を見るなんて|余裕《よゆう》もなかった。
1303で|寝泊《ねと》まりするようになってからは冴子の方が先に起きていたし、健一が先に起きたとしても|意識《いしき》がしゃんとする前に冴子が起きるのが|常《つね》だった。
「……ん」
冴子が小さく寝返りを打った。まるで自分の|視線《しせん》を|嫌《いや》がってるみたいだと健一は感じる。
だからやはり見ているのは|止《や》めて、台所の方へ向かった。
ちょっと水を飲もう。そんな理由も考える。
「……おはよう、|絹川《きぬがわ》君」
|蛇口《じやぐち》からの水の音で冴子は目を覚ましたらしい。水道水がコップ一杯になると、冴子の声が後ろから聞こえた。
「おはよう、有馬さん」
健一は振り返って、彼女に朝の|挨拶《あいさつ》をする。それから手に持ったコップをどうするべきか考えた。
「えっと……水、飲みます?」
自分のために|汲《く》んだ水だったけれど、この状況でそのまま飲んでいいものかと|疑問《ぎもん》が浮かぶ。
「あ、うん」
そして冴子は小さくそう答える。健一はやっぱり冴子の方が疲れてるのかもしれないと|改《あらた》めて思いながら、彼女の|側《そば》によって水を|渡《わた》す。
「はい、どうぞ」
「うん」
冴子は|掛《か》け|布団《ぶとん》を左手で|押《お》さえてずり落ちないようにしながら、右手でコップを受け取る。
その|仕草《しぐさ》に健一は、毎晩のように体を|重《かさ》ねてはいても冴子が|肌《はだ》を見せようとしないということを思い出す。だから健一は自分の水を汲むためにもまた台所の方へと戻る。
「絹川君って、本当にタフなのね」
そんな健一の後ろからまた冴子の声が届く。水を飲んで|一息《ひといき》ついたらしい。
「え?」
でもそれが聞き慣れた言葉とは|微妙《びみよう》に違ったので健一は|一瞬《いつしゆん》理解が追いつかなかった。
「元気よねって話」
「ああ……そうですね。自分でもちょっとびっくりしてます」
健一はそう答、兄ながら蛇口を開いてコップに水を|注《そそ》ぐ。その間にも冴子との会話は続く。もしかすると彼女の|独《ひと》り|言《ごと》でしかないのかもしれない。
「ライブの後、立てなくなって地面に|座《すわ》り|込《こ》んでたって聞いたけど」
「そのはずなんですけどね」
健一は十分に水が入ったのを確認すると蛇口を|閉《し》める。そして冴子の方を向く。
「|僕《ぼく》は回復が早いのかもしれません」
「それは、そうかも……」
冴子が何かを言いかけて口をつぐんだように感じられた。でも待っていても、次の言葉は出てこないので、健一は|代《か》わりに話を続ける。
「あと考えてみるとあの時、疲れてたのは体じゃないですよね。気力を|消耗《しようもう》してたのかなあとか思ったりもします」
|実際《じつさい》、カメラの前でというプレッシャーは確かにあったけど、したことはいつもの通り、ハーモニカを吹いただけだ。いつもより曲数が多かったり、ダンサーたちと一緒に|踊《おど》ったというわけでもない。
いつも以上に気合いを入れてハーモニカを吹いた。それだけ。
だとすれば消耗したのは体力より気力の方だろう、きっと。
「そうなのかな」
でも冴子はその|辺《あた》り、ちょっと違う認識のようだった。
「それになんだか有馬さんの方が疲れてたみたいですよね」
「そう?」
「だって、いつもならすぐに起きるじゃないですか」
「……ずっと寝てたの、私?」
冴子はちょっと|落《お》ち|着《つ》かない様子を見せる。
「あ、僕が早く起きすぎただけなんですけどね。普段は起きてしぼらくぼーっとしてると有馬さんも目を覚ますじゃないですか。なのに今日はシャワー|浴《あ》びて戻ってきてもまだ寝てたから、ちょっと珍しいなって思ってたんですよ」
「……見てたの?」
「え?」
「寝てる私のこと見てた?」
今度は冴子が|怒《おこ》ってるみたいに見えた。少し|普段《ふだん》より強い|口調《くちよう》というだけだろうか。
「いえ……そんなに熱心には」
「……なら、いいんだけど」
そしてそんな|反応《はんのう》に起きるまで|観《み》ていなくてよかったらしいと健一は思う。
「でも本当、|大丈夫《だいじようぶ》ですか?」
「え?」
「いや、有馬さんは疲れてないですかってことなんですけど」
「あ、え、うん。疲れてはいないと思うというか、そうだとしても気持ちのいい疲労感だと思うし……って、変な意味じゃなくて……」
冴子は自分が何か変なことを言ったと思ったらしい。
「バイトが楽しいってことですよね7・」
でも健一は冴子が言いたいことがわかった気がした。楽しいことをして疲れた時は、むしろ気分はいいものだ。自分にとってライブがそうだったように、冴子がバイトで前より|忙《いそが》しくなったとしても以前より気分がいいというのは想像できた。
「……うん」
なのに冴子は|妙《みよう》に小さく返事をした。それから本当に聞こえないくらいの声で何事かを|呟《つぶや》いた。健一にはそれは聞こえなかったし、|敢《あ》えて確認するようなこととも思わなかった。
聞くべきことなら、ちゃんと聞こえるように言っただろう。
「絹川君、そろそろ|朝《あさ》ご|飯《はん》の時間じゃない?」
そしてそれは|間違《まちが》いではなかったらしく、冴子は別の話題を切り出した。
「あ、そうですね。|綾《あや》さんはともかく、|八雲《やくも》さんはそろそろ起きてくる時間かもしれません」
実際、そんな時間になろうとしていた。でもまだ少し|猶予《ゆうよ》はありそうだなとも健一は思う。
それが伝わったのか冴子はまた別の話を始めることにしたらしい。
「絹川君は楽しいことがあったら、しばらくはもう楽しくなくても平気?」
「え?」
でも本当に別のことだったので、健一はなんのことかと考えるので|精一杯《せいいつい》だった。
「ここに来てすぐの頃、|歓迎会《かんげいかい》があったでしょ? 私はあの時、すごく楽しかった」
「僕も楽しかったです。綾さんが八雲さんをいじりすぎなければもっと良かったんですけど」
健一はそう答えながら、その直後、冴子のテンションがひどく下がっていたのを思い出した。
どうやら冴子はそのことを話そうとしてるらしい。
「私、普段よりも|盛《も》り|上《あ》がるとその後、反動が来るのかなって。楽しくないのに無理してるわけじゃないはずなのに、それが終わった後、すごく|惨《みじ》めな気持ちになるの」
「……僕もそうかもしれません」
健一は歓迎会の時はそうでもなかったが、|千夜子《ちやこ》の家族と食事をした時はそうだったかもしれないと思い出す。
「昨日はどうだった?」
「昨日? ライブの後ですか?」
どうだっただろうと健一は考えてしまう。そんなことを|改《あらた》めて意識していなかった。
それに帰り道はシーナと一緒だったし、1301でもみんなが待っていてくれた。
「どうだった?」
「一人だったら惨めだったかもしれませんね」
ハッキリと考えがまとまる前に、言葉になって答えは出ていた。
もしライブの後、幽霊マンションではなく自分の家に帰っていたら。両親も、|蛍子《けいこ》もいない、誰もいないあの家に戻っていたら。
あんなにも楽しいライブの後だったのに、自分は一人泣いていたかもしれない。そんなことを思う。
「……そうよね」
そしてそのことを冴子は|半《なか》ば予想していたみたいだった。自分がそうであるように、健一もそうだろうと思っての話だったらしい。
「だとすると昨晩のことは、僕のわがままなんですかね」
なのに健一がそう言うとは思っていなかったらしい。冴子は驚いた顔をする。
「え?」
「有馬さんがどっちでもいいって言った時、僕が疲れてるから無理しなくていいって意味かなあって思ったんですよね。でもなんだかそれが|遠慮《えんりよ》されてるみたいで、だから無理なんかじゃないって示したかったんですけど……」
言いながら健一はだからってちょっと張り切りすぎたかもしれないと感じる。
「……そう、なんだ」
「でも、そうじゃなくて、僕は一人になりたくなかったのかなって。ライブの|興奮《こうふん》が|冷《さ》めたら惨めな気持ちになるんじゃないかって、それを|恐《おそ》れてたのかもしれないって、有馬さんの話を聞いてるうちに思いました。僕は――」
そこまで言いかけて、健一はちょっと|迷《まよ》った。その先を言っていいものかと。
「有馬さんに一緒にいて欲しかったのかもしれません」
でも|素直《すなお》なその気持ちは|自然《しぜん》と口を出ていた。
「……そう」
冴子はそれに短く、小さく答えるとしぼらく何も言わなかった。
変なことを言ってしまったかもしれない。健一は生まれた|沈黙《ちんもく》にどうしようもない不安を感じる。
改めて考えると、まるで告白みたいだった。
冴子には自分のことを好きになるなと約束させられているのに、それを破ってしまったんじゃないかと感じる。冴子はそれで怒ってしまったんじゃないかと。
「誰でもいいから側にいて欲しいって気持ちは私にもあるから」
でも冴子は別に怒ってるわけでもなかった。少なくとも声の|調子《ちようし》からはそうとは思えなかった。|穏《おだ》やかで、でもどこか悲しげに、|肯定《こうてい》とも|否定《ひてい》とも取れる言葉を口にした。
「……ですよね」
健一は冴子にいて欲しかったと言ったが、それに深い意味はなかったのかもしれない。
いつものように冴子の側にいた。それが別の人でも|大《たい》した違いがない。冴子はそういう風に受け取ったらしい。
「ところで絹川君、朝ご飯は大丈夫?」
そして本当にどうでも良かったのか会話はちょっと前に|巻《ま》き|戻《もど》った。
「あ……そうですね」
でも時間だけは|経《た》っていたので、健一はそろそろ本当に|準備《じゆんび》を始めないといけない時間だと気持ちを|切《き》り|替《か》える。
「私はシャワー浴びてから行くから」
冴子はそうでなければ|手伝《てつだ》うつもりということを健一に伝えてくる。
「大丈夫ですよ、朝ご飯ですから」
でも健一はそんなこと気にすることではないと答えてその場を急いで|離《はな》れる。
「それじゃまた後で1301で」
健一がこうしていては冴子はシャワーを浴びに行くことすら出来ないのだということに気づいたというのもある。
「……うん」
だからだろうか、冴子はちょっと|恥《はじ》ずかしそうに返事をするだけだった。
○
「うはよー」
意外にも最初に1301に姿を|現《あらわ》したのは綾だった。
綾の場合は朝ご飯の時間だから起きてきたというよりは、起きたので来たら朝ご飯の時間だったとかそんな感じなわけだが。
「おはようございます、綾さん」
健一が挨拶を返した時、ちょうど健一は|冷蔵庫《れいぞうこ》を開けたところだった。綾の分まで作るべぎか考えていたので、ちょうど良いタイミングだったとも言える。
「綾さんも朝ご飯食べます?」
「うん、食べるー」
「ハムエッグでいいですか?」
ちょうど|卵《たまご》が四個残っていた。綾が来なければその|選択肢《せんたくし》はなかっただろうと思いながら、健一は|尋《たず》ねてみる。
「健ちゃんが作ってくれるならなんでもいいよ」
「じゃあ、ハムエッグにしますね」
「うん」
そう言いながら、綾は席に|座《すわ》らず、キッチンの方へとやってきた。
「なんですか、綾さん?」
「何もせずに待ってるよりも作るところを見せてもらおうかなって」
「……まあ、いいですけど」
とは言え、あんまりジロジロ見られるとやりづらいなあとは思う。それにわざわざ観るほどの料理というわけでもない。
ハムを焼いて、その上に卵を割って落とすだけだ。
「ところで健ちゃん、なんか元気ない?」
でも早くも綾の|興味《きようみ》はハムエッグから健一へ移っていたらしい。
「ライブの疲れが残ってるんですかね?」
とは言え、綾はいつもそんなものなので健一はそんな返事をしてみる。
「うーん、そうじゃなくて。なんか|落《お》ち|込《こ》んでるとか傷ついてるとか、そっちの方」
「……そんなに|深刻《しんこく》に弱ってるってことはないですけど」
でもなんとなく心当たりはあった。
冴子と部屋で別れた後、健一は改めて考えてしまったのだ。
自分と冴子はどういう関係なのかとか、シーナのことに夢中で千夜子を|放《ほう》って|置《お》いてるのはどうなんだろうとか、そういったことだ。
いつもと言えばいつものヤツだ。僕に恋愛は向いてない。そんな想い。
昨日の晩はそれでもいいと思った。でもやっぱりあれは乗せられてそう思ってただけなのかもしれない。そんなことを少し|冷《ひ》えてきた心が|囁《ささや》いてきたのだ。
「でも、ちょっとは|凹《へこ》んでるってこと?」
わざわざ聞いて|貰《もら》うほどのことではないと言ったつもりだったが、綾にはそうは聞こえなかったらしい。余計に気にさせる結果になったらしい。
「いや、まあ、ちょっと……恋愛ってどうやってするものなのかなって思ってただけです」
なので健一はそう言ってこの話を終わらせることにする。
「恋愛?」
でも綾の反応を見るとこれも言い方が悪かったらしいと気づく。
というか、危険な発言だったかもしれないと健一は|今更《いまさら》に気づく。
「ええ、まあ……」
二人きりなのに、そんなことを言ったら綾なら健一のことを|襲《おそ》おうと思うかもしれない。そう健一は|警戒《けいかい》する。
「それは|普通《ふつう》の恋愛のこと?」
でも|杞憂《きゆう》だった。綾は|真剣《しんけん》な顔をして尋ね返してきた。
マ見? ああ、そう、なんですかね……」
健一はその|展開《てんかい》に|若干違和感《じやつかんいわかん》を|覚《おぼ》えながら、もうけっこう前のことを思い出した。
あれは綾が雑誌の写真|撮影《さつえい》をしに行った時のことだ。その帰り、綾は|痴漢《ちかん》に襲われて、それを健一は|慰《なぐさ》めた。その時、自分は綾に何かを言った。
それがまさに普通の恋愛って話だった。
「普通の恋愛のことはよくわからないけど、私は健ちゃんのことが好きだよ?」
そして綾もやっぱりその時のことを考えているのかなと健 は感じる。
「……それは、どうも」
「それで私は|幸《しあわ》せだし、別に普通の恋愛というのをしたいと思わないけど、健ちゃんは普通の恋愛がしたいの?」
「したいって言うよりは、しないといけないかなあって思ってるんです、多分」
普通の恋愛が出来れば幸せになれるとは思ってない気がする。ただこの落ち着かない気持ちが普通の恋愛が出来てないせいじゃないかとそう感じるだけだ。
「健ちゃんの彼女さんのことは私もよく知らないけど」
そして綾は千夜子の話を始めたらしい。普通の恋愛の話をしてるのだから当然そうなっても|不思議《ふしぎ》ではないのだが、健一はやっぱり違和感を覚えてしまう。
「……はい」
「彼女さんがそう言ったの?」
綾の質問に健一はすぐに答えが返せなかった。
答えはわかってる。千夜子はそんなことを言ったことはない。
健一さんと普通の恋愛がしたいんです――なんて彼女は言ったことはない。そのはずだ。
「……言ってないですね」
「そう思ってそうなの?」
その質問もさっきのと同じくらいに健一を|詰《つ》まらせる。
「……どうでしょう?」
でも綾の言いたいことがなんとなく健一にはわかるような気がした。
千夜子がそうして欲しいと思ってるわけじゃないのに、なんでそんなことを健一は気にしてるのか?――ということだ。
「だったらいいんじゃないかな」
そして綾は別の言い方でそれと同じことを言ったらしい。
「そうですよね」
それを健一は|全《まつた》くその通りだなと思った。
「このままでいいのかはわからないけど、そのことでそんなに|焦《あせ》らなくてもいいと思う。彼女さんが健ちゃんに求めているのは普通の恋愛とは限らないんだから」
「ですよね」
健一は綾の言葉に|納得《なつとく》しながらも、なんでそんなことに気づかなかったんだろうと考えてしまった。
少なくとも千夜子が普通の恋愛というのを求めているとは思えなかった。もしそうなら早い時期にきっと二人は終わっていたはずだ。
「それにさ出来るのも|大事《だいじ》だけど、出来ないなら出来ないって気づいてるってことが大事なんじゃないかなって私は思うんだ」
それは昔、自分が綾に言ったことと同じだなと健一は感じる。
「出来てるつもりで出来てないって方が|怖《こわ》いってことですよね?」
「出来ないことは出来ないんだから仕方がないんだよ。だから彼女さんがどうしても普通の恋愛をしたいってことであれば、健ちゃんとは無理なのかしれない。でもね出来ないってわかってれば|他《ほか》の方法を|提案《ていあん》できるんじゃないかなって思ったんだ」
「他の方法ですか」
「うん。私は言葉で|上手《うま》く人に気持ちを伝えるのは|苦手《にがて》だけど、でも絵を描いたり|金属加工《きんぞくかこう》をするのは得意だから。だからそれで気持ちを伝えればいい。私は健ちゃんと話しててもあんまり喜んでもらえないけど、作品を作った時なら健ちゃんは喜んでくれるよね? 一緒に完成したってことに喜んでくれるよね?」
「……そうですよね」
確かにその通りだろうと思う。
相手が普通の恋愛だけを求めてるなら、それに|応《こた》えることは自分には出来ない。少なくともハフの自分には。
でも、そうじゃないなら、何かあるんじゃないだろうか? 普通の恋愛以上に|代《か》わるだけのものはないかもしれないけれど、何かあるんじゃないだろうか?
自分は恋愛に向いてない。そう思ってるからこそ見つけられるものがあるんじゃないだろうか。そう思ってない人は探そうとすら思わないその何かを。
そしてもしかしたらそれを探してるうちに、自分が恋愛に向いてないと思ってる理由がわかるようになるかもしれない。そうすれば――と考えた健一の|脳裏《のうり》に昨日シーナに言われた言葉か|響《ひび》いた。
――|俺《おれ》たちは全部、手に入れるぜ
あの時はただ|雰囲気《ふんいき》に押されてるだけかもしれないと思った。それが出来る|根拠《こんきよ》なんて考えもしなかった。
でも、出来るのかもしれない。自分一人では出来なかっただろうことが。
シーナ&バケッツなら出来ると思ったけど、シーナだけじゃなかった。綾だってこうやって目分を助けてくれている。
今すぐは無理でも。いつか自分にだって出来るようになるかもしれない。
それはまだいつかもわからない先のことだったけど。そう思うことは出来た。
「元気気出た?」
そんな健一の|心《こころ》の変化を綾は|的確《てきかく》に読み取っていたようだった。
「……はい。今、出来ないからって|焦《あせ》る必要はないんですよね」
出来ないことを出来ないって思って何も出来なくなるよりは、別の何かを探せばいい。
|日奈《ひな》だってそうしていた。日奈のままじゃ|佳奈《かな》に気持ちを伝えられない。だから日奈はシーアになった。シーナなら、歌ならその気持ちが伝わると信じて。
「うん。私はそう思うよ」
綾はそんな健一の気持ちを肯定してくれる。
それは綾だからかもしれない。綾が変だからそう思うだけかもしれない。
でもそうだとしても健一はいいと思った。それが自分がやっぱり変だからだとしても。
それで何か別のことを探す気になれるなら。それで。
「ありがとうございます、綾さん。また助けられちゃったみたいですね」
そして結局、いつもこんな感じだよなと健一は思う。
綾には普段は|困《こま》らされることも多い。でも本当に聞いて欲しいことはちゃんと聞いてくれる。
てれに比べて、自分は綾に何をしてあげられてるのかと考えてしまう。
「助けるために言ったわけじゃなくて、思ってることを言っただけなんだけどね」
でも綾の方は自分はあまり力になってないと思ってるらしい。
「同じですよ。綾さんの言葉で僕は助けられたんだから」
「そっか。それって、私は健ちゃんを|励《はげ》ますのが|得意《とくい》ってことかなあ」
綾はそう言って新しいおもちゃを手に入れた子供のように|嬉《うれ》しそうに笑う。
「かもしれないですね」
話すのは苦手だけど、励ますのが得意。そんなことだってあるんじゃないかと思う。
「ね、健ちゃん?」
「なんですか?」
「もしそれで本当に|感謝《かんしや》してくれてるっていうことならでいいんだけどね」
「なんですか、改まって」
「この聞、|約束《やくそく》したじゃない? 一緒に|中華街《ちゆうかがい》に行こうって。あれ、本気でちゃんと考えて欲しいんだ」
綾の言葉に健一は自分が約束を守る気が全然なかったのかなと思ってしまった。
「えっと……行かなくてもよかったんですか? 僕はさっきのことと関係なく行くつもりだったんですけど」
だからそんな確認の仕方になってしまう。
「じゃあ、さっきのことと関係なく一緒に行くってことでいいかな?」
それで綾はちょっと考えを変えたらしい。
「はい。でも、いつがいいんですかね?」
「えっと……いつがいいっていうのはないんだけど、もうちょっと先がいいかな」
「そうなんですか? じゃあ都合が良くなったら言ってください」
「うん」
綾はそう言いながら、何か考え事を始めたみたいだった。
「おはよう」
そしてその時、冴子が1301にやってきた。
「……あ」
それで健一は朝ご飯を作るのを忘れていたのを思い出し、|慌《あわ》ててコンロに火をつけた。
○
その日、教室に入ると、|教壇《きようだん》の前に人が集まっているのが見えた。
「まあ、あの良さは|実際《じつさい》に聞かないとわからないけどねー」
そして教壇のところで人を集めてるのがツバメだとわかると、健一はもう少し早く来るべきだったかもしれないと感じた。まあ、早く来ても結果は同じだったかもしれないが。
「ツバメはなにしてるんですかね?」
いまいち|状況《じようきよう》を理解できていないらしい千夜子は健一の|隣《となり》でそんな|疑問《ぎもん》を口にする。
「……まあ、あまり|褒《ほ》められたことじゃない気はします」
健一には大体、それがなんなのか|察《さつ》しがついていた。
ツバメは何かの|自慢話《じまんばなし》をしてる。しかもそれがクラスの人間に|興味《きようみ》を|覚《おぼ》えてもらえるような囚容で、さらにこの今日というタイミングであることを考えると――きっとシーナ&バケッツの話なのだ。
「止めた方がいいですかね?」
「うーん、どうでしょ……」
千夜子なら止められるかもしれないが、今日のツバメは中々に|手強《てこわ》そうだなと思う。もし千佼子の意見を聞く気なら、千夜子と健一が来るまで待ってたような気もする。
「あれ、シーナ&バケッツの話ですか?」
そして人だかりの間から|漏《も》れてくる話を聞くうちに千夜子にもそれがわかったらしい。
「多分ですけど。昨日、シーナ&バケッツをTVが取材に来てたんですよ」
「え? そうだったんですか?」
千夜子はさすがにちょっとびっくりしたようだった。そう言えば、そのことを千夜子にはハッキリと伝えていなかった。シーナ&バケッツのことはあんまり|快《こころよ》く思っていない気がしていたので、あえて言おうと思わなかったせいだろう。
「そうなんですよ、実は。それで多分、|鍵原《かぎはら》はファンの一人として取材を受けたとかそんな話なんじゃないかと」
「……じゃあッパメがTV番組に出るってことなんですか?」
それでも千夜子は別に|怒《おこ》ってるという|風《ふう》ではなかった。本当に知らなかったので|驚《おどろ》いただけらしい。
「それもちょっとよくわからないんですけどね。僕もその番組を観たことないのでわからないですけど、何人かに取材をしてたみたいなので使えそうなところを使うだけのような」
「……そうなんですか」
千夜子はそれで少し|難《むずか》しい顔をした。でもそれは健一の言葉が気に入らなかったとかではなく、放送後のツバメのことを想像してしまったのだと思う。
要するに、好きな人が出来た時と告白後みたいなことにならないかと心配したのだ。
TV番組に出られると今は喜んでいるし、そのことをみんなの前で自慢しているけど、もし編集でカットされたらツバメの|態度《たいど》が反転することは|容易《ようい》に予想できた。
でもツバメ本人とその話を聞いてる人聞たちはそんな心配をしてる様子はない。
「それで鍵原さん、そのバンドって今日もライブやるの?」
「そりゃやるんじゃない? シーナ&バケッツはほぼ毎日ライブやってるし」
どころかすっかり|事情通《じじようつう》としてツバメはクラスの人間に|認《みと》められてしまったらしい。
「どこ行けば観られるの?」
「駅前。中止の時は駅にポスター|貼《は》ってあるからすぐわかるんだよね。しかもこのポスターもちょっと格好いいんだ。誰が|描《か》いたか知らないけど、けっこう有名な人の作品ね、きっと」
「へー。じゃあダメでもいいから行ってみようかなー」
そんな感じで着々とクラスメイトがライブ見学ツアーでも始めようという|勢《いきお》いだった。その真ん中でツバメが|鼻高々《はなたかだか》に話を続けている。
「このままで大丈夫ですかね?」
それを観てて千夜子はさすがに心配になったようだ。
「まあ、放送されないって決まったわけじゃないけど……」
でも、なんとなく放送されないんじゃないかという気持ちの方が強かった。それはツバメが絶対告白すれば|上手《うま》く行くと言ってる時のことを思い出すからだろう。
「そうじゃなくて、健一さんのことです」
ところが千夜子が心配してたのはそのことではなかったらしい。
「え? 僕ですか?」
「このままだとクラスの人たちがライブを観に行くんですよ?」
「ああ……それはかなり|照《て》れますよね」
とは言え、|指摘《してき》されるまではそんなこと気にしてもいなかったなと気づく。昨日のことがあったのでその程度のことで|今更《いまさら》うろたえたりしなくなったのかもしれない。
「それにシーナ&バケッツを観に行ってるってだけで、ツバメがあれだけ注目を集めてるんですよ?」
「……ですよね」
そのこと自体は理解できたが、千夜子が何を言いたいのかはイマイチわからなかった。
「健一さんがバケッツだって知られたら、もっと人が集まってくるんじゃないですか?」
「……そうですね」
そんな対応に自分でも|間抜《まぬ》けだなと健一は感じる。確かにただの観客のツバメですらTVに出るかもということで注目されているのだ。そのバンドのメソバーとなればそれ以上の注目を集めても|不思議《ふしぎ》はない。
その|理屈《りくつ》はわかるのだが、でもなんだかピンとこない。
「心配じゃないんですか?」
千夜子に確認されても、やっぱり同じだった。
「いや……|所詮《しよせん》、バケッツですし。シーナならまだわかりますけど」
「でもツバメであれなんですよ?」
千夜子はそう言って人だかりを指さす。女子が七人ほどに男子が三人。それが全部、クラスの人間だと考えるとかなりの数のような気もする。
「|黙《だま》ってれば平気じゃないですかね」
「……ツバメが言うかもしれないじゃないですか」
「それでもまあ、一時的なものですよ、きっと。番組が放送される頃にはみんな、忘れてるんじゃないですか?」
実際、そんなものだろうと思う。今日、ライブに行こうかなんて話になってるけど、本当に来るかどうかだって|怪《あや》しいものだよなあとすら思ってしまう。
「健一さんはデビューする気とかないんですか?」
なのに千夜子はずっと|真剣《しんけん》にそのことを考えているらしい。
「え? デ。ヒューですか?」
流れ的にはそうなるかもしれない。それくらいは考えたことはある。でもシーナ&バケッツはそもそもそんなことを目標にしてる、ハソドではないのだ。
日奈が佳奈とすごく仲良くなりたいから作っただけなのだ。
「番組で取り上げられたのを期に全国で|注目《ちゆうもく》を集めるとか……あると思うんですけど。シーナさんの歌はすごかったし、健一さんのハーモニカだって、すごく|魅力的《みりよくてき》でしたから、TV局の人だって取材に来たんだし、このままで終わりってわけじゃないですよね」
そう言われて、千夜子は別にシーナ&バケッツを|評価《ひようか》していないわけじゃないってことを健一は思い出す。むしろすごいから|距離《きより》を置きたいとそう言っていたのだ。
でもやっぱり千夜子にそういうことを言われるのは意外な気がしてしまう。
「千夜子ちゃんはどう思いますか?」
だから健一はそのまま千夜子に|尋《たず》ねてみた。
「え?」
でもそれは千夜子にとっては意外なことであったらしい。
「千夜子ちゃんは僕がデビューした方が|嬉《うれ》しいですか?」
「えっと……」
千夜子は言葉につまり|真剣《しんけん》に考え出してしまった。
「そんなに難しい質問でした?」
なので心配になって聞いてみる。
「いえ、そんなことはないんですけど……なんとなくただの質問に思えなくて」
「ただの質問ってどういうことですか?」
「その……デビューできそうもないならそれほど気にする質問じゃないと思うんですけど、健一さんがその気になったらなんとかなっちゃうと思うとプレッシャーが」
そう言いながら千夜子の目には|闘志《とうし》が|漂《ただよ》ってるように見えた。|負《ま》けず|嫌《ぎら》いの血が|騒《さわ》いでるのだろうか。そんなことを健一は思ってしまう。
「……そういうことですか」
「そういうことなんです」
それからまた千夜子はあれこれと先の可能性を想像し始めたらしい。そんなに真剣に考えなくてもいいんじゃないかなとも健一は思うが、今更にどうでもいいですとか言うと怒られるかもしれないので結論が出るまで待つことにする。
「…………」
でも|一向《いつこう》に答えが出てきそうにないので、やっぱりずっと待つのは|止《や》めた。
「で、どっちなんですか?」
「えっと……|複雑《ふくざつ》です」
そしてそれが現状での千夜子の回答だったらしい。
「複雑……ですか」
まあ、確かにすぐに答えが出ないんだからそうなんだろうなあとは思う。
「|単純《たんじゆん》に考えるとやっぱり嬉しいかなあ……って思うんですけど……」
「そうですか」
千夜子でもやっぱりツバメを|取《と》り|囲《かこ》んでるクラスメイトのようなところもあるんだなあなどと当たり前のことを健一は感じる。
「でもさすがにちょっと手強いですよね」
「手強い?」
とは言え、やっぱりちょっと千夜子は他の人間とは|一味《ひとあじ》違う感じがした。
「その……佳奈さんが健一さんと仲良くしようとするくらいなら戦えるかなあって思うんですけど、シーナ&バケッツがデビューしてってことになると|敵《てき》が多すぎる気が……あ、でも、大丈夫ですから。戦いますよ、私?」
そこで戦うという言葉が出てくる辺りが、実に千夜子らしい気がする。でもそれを|指摘《してき》したら|凹《へこ》んでしまうかもしれない。
「いや……|仮《かり》の話ですし、そんなに|頑張《がんば》ってくれなくてもいいですよ」
なんとなく聞いてしまったことでそこまで真剣に考えてくれるというのは嬉しくもあったが、|迷惑《めいわく》をかけてしまったかなあという気にもなった。
「でもそんなに仮の話ってわけでもないと思うんですよ」
「そうなんですかねえ」
「ああ、もしかしてデビューってことになると転校しちゃうんですか?」
まあ、本当に芸能活動が|忙《いそが》しくなったならそういうこともあるんだろうなとは思う。でもそノれはやっぱり無いような気がする。それはそこまで忙しくならないというわけではなく、そうなったら|本末転倒《ほんまつてんとう》だからだ。
「そういうことにはならないと思いますけど」
「そうなんですか? 芸能人って活動に理解がある高校に入ってるイメージですけど」
「それはそうなんでしょうけど……僕は|地元《じもと》を離れたいとは思ってないので」
「でもそれだと色々と|不便《ふべん》じゃないですか?」
それはそうなんだろうなあと健一は素直に思った。
「だからあんまり乗り気じゃないのかもしれませんね」
それに転校なんてことになればどうしたって|窪塚家《くぼつかけ》は|大騒《おおさわ》ぎになってしまう気がする。それ窪でにシーナの|秘密《ひみつ》を佳奈が理解してくれてればいいけれど、それならそれで転校するなんて必要もないわけで、要するにそんなことは心配するだけ|無駄《むだ》なのだ。
「……少し|勿体《もつたい》ない気がします」
でも千夜子はそんなことを言い出す。そしてそれはそうなのかもしれないと健一は思う。
自分のことはともかく、シーナのあの歌はもっと大勢の人に聞いてもらうべきなんじゃないかとは感じていた。
でもそれを日奈は望んでいない。日奈にとってあの歌も、それを可能にする才能も手段でしかないのだ。それをよそから見て、勿体ないなんて言うのはやはり違う。
日奈の望みはそんなところにない。それを知ってるので、やっぱり違うと感じる。
「僕はともかくシーナはメジャーデビューは望んでないと思うんですよね」
「そうなんですか? じゃあ健一さんの方がデビューに真剣ってことですか?」
「うーん。相対的にはそうなるんですかね」
でも本当に相対的な話だ。マイナスとゼロならゼロの方が大きいだろうけど、ゼロを大きいとは考えないだろう。
「ってことは、健一さんがソロデビューの方が現実的ってことですよね?」
「いや、それはそれでなさそうですけど」
昨日は|伸吾《しんご》さんに褒めてもらったけど、やっぱりシーナあってのバケッツということには違いないと思う。シーナがデビューしないなら、バケッツだけでもなんて流れにはやっぱりならないだろう。
「わかりませんよ?」
「そうですかねえ。じゃあ聞きますけど――」
それで健一はまたさっきと似たような質問をすることにする。
「僕だけでもデビューした方が千夜子ちゃんは|嬉《うれ》しいんですか?」
でもそれはさっきとはかなり違う質問だったらしい。
「……もっと複雑です」
とりあえず千夜子は少なくとも.|諸手《もろて》を|挙《あ》げて|賛成《さんせい》ということはなさそうだった。なので健一はデビューのことではなく、何がそんなに複雑なのかを考えることにした。
○
「それは、嬉しいけどライバルが増えるってことだと思うけど」
でも自分で考えててもわからないので、健一は人に聞くことにした。
バイト先の店長である|古西早苗《こにしさなえ》に、だ。
「でもそれはシーナと一緒でも同じですよね?」
それなら千夜子の返答は「やっぱり複雑です一とかそんな感じだったんじゃないかと思う。
「それはそうね」
そして早苗もそれには同意のようだった。
「なんで、もっと複雑になっちゃったんですかね?」
「ファンの目が全部、健一君に向けられるとか?」
「でもシーナ&バケッツでデビューした時より、その数は少ないんじゃないですか?」
「うーん。それもそうかもしれない」
早苗はそれで少し考え込んだ。それで店内に|沈黙《ちんもく》が落ちる。
本当にお客さんがろくに来ない店だなと健一は改めて思った。早苗はこの|喫茶店《きつさてん》は|趣味《しゆみ》みたいなものとは言ってたがさすがに心配にもなってきた。
「わかったわ!」
でも早苗は考えてたのはお店の|将来《しさつらい》ではないらしい。
「……なんですか?」
「健一君はハーモニカ担当なわけでしょ?」
「そうですね」
「だったら一人でデビューはないんじゃないかしら?」
「なるほど……シーナじゃない誰かと組まされるってことですか」
「そうそう。それがもしかしたら女の子かもしれないじゃない。そうしたらいつも 緒にいる相手がその|娘《こ》になるってことにならないかしら?」
「……なるほど」
でもそれを言っちゃうとシーナは実は日奈で、女の子なのですでにそういう状況だという気もする。それが問題ならすでに複雑どころじゃない状況かもしれない。
「しかもその娘は絶対にかわいいと思うのよ。歌が|上手《うま》いだけじゃダメでしょう、芸能人なんたから」
「ですよね」
「そんな娘と全国ツアーとかを死にそうな思いをしながらすることになったら、どうしたって気になる相手になるわよね」
「どうしたってことはないと思いますけど……」
でもまあ、千夜子よりもずっと一緒にいる時間が|増《ふ》えるだろうなあということは想像できた。
とは言え、それはすでに冴子とそんな関係なので、それが問題ならやっぱりすでにアウトな感じなのだが。
「でもまあ、可能性はあるわよね?」
「その娘に彼氏がいるかもしれませんし」
「まあ、そうねえ」
「あと組まされるのが女の子とは限りませんよね? 男二人のユニットがダメって言うならシーナ&バケッツはアウトなわけですから」
「まあ、|私的《わたしてき》にはそっちでもいいんだけど、でも彼女が気にしたのはその辺じゃないかしらね?」
「……そうなんですかね」
健一は早苗の話は確かに|一理《いちり》はあると思ったが、あの|瞬間《しゆんかん》に千夜子がそんなことまで考えていたとはちょっと思えなかった。
「まあ、健一君はモテたくてやってるわけじゃないんだものね」
そして健一がイマイチ|納得《なつとく》してない様子に早苗はそんなことを言い出した。
「そうですね」
「そのことは彼女も知ってるのよね?」
「だと思いますけど」
結局、そこなのかなと健一は考える。今更そんなことで心配されるなら、それこそツバメがそうであるようにもう少し千夜子に怒られててもいいんじゃないかと思えてしまうのだ。
「彼女は健一君がこういう性格だって知ってるわけで、だったら心配する必要ないわよね」
「そんな気がするんですけど」
とは言え、冴子や日奈との関係を考えるとそうも言ってられない気もする。そんな気はなくても手を出してしまうことがあるということに関してはかなり信用のおけない人間である|自覚《じかく》はある。
「そうねえ」
でも早苗はそんなことは知らないし、別のことを考えているみたいだった。なんとなく悲しげな|表情《ひようじよう》を浮かべて、健一の方を見た。
「なんですか?」
それが気になって健一は尋ねてしまう。
「いや、その……人は変わってしまうものだから」
「それは、そうですよね」
健一はそう|応《こた》えながらも、これは何か|一般論《いつぱんろん》で話してる|訳《わけ》じゃないというのを感じた。それが具体的になんのことかわからないけれど、早苗は信じてた誰かに|裏切《うらぎ》られるようなことがあったのを思い出したかもしれない。それも悪意とかそんなことではなく、ただ時がそうさせてしまったとかそんなような。
「今の健一君には心配のいらないことだけど、デビューして人気が出たら健一君だって変わってしまうでしょう? それが彼女が心配するような人間かはまた別の話だけど、今とは別の人間になってしまうのは間違いないわ」
「……そうですね」
より千夜子の望む自分に変わる可能性だってある。でもそれがなんなのかわかってない自分では確かにそれはいかにも|危《あや》うい未来だなと健一は感じた。
それに千夜子は健一がデビューすることを素直に喜んでるわけじゃなかった。それでは望まぬ方向に変わってしまうのを心配されても不思議はない。
「あ、ごめんなさいね」
そして健一はそのことで想像以上に真剣な顔をしてしまったらしい。|視線《しせん》を起こすと早苗がなんだか|怯《おび》えた顔をして|謝《あやま》ってる|姿《すがた》が見えた。
「いえ、やっとどういうことかわかったような気がしました」
「なら、いいんだけど……えっと……」
そうは言いながら早苗は|失敗《しつぱい》したなあと思ってるらしい。ちょっと視線が|泳《およ》いでる。
「あ、そうだ! 健一君、スパとか|興味《きようみ》ないかしら?」
「スパですか?」
なんだか最近、ちょっと聞いた単語だったなとは思う。
「この間、エリちゃんにもらったんだけど、私、そういうの興味ないし、|薫沢《かおるざわ》にあげるのもシャクだし、冴子ちゃんはいらないって話だったし」
そう言いながら早苗はカウンターの向こうにある引き出しを順番に|開《あ》けては|閉《し》める。どうやらどこに入れたか忘れてしまったらしい。
「スパか……」
それで健一は改めてなんで聞いたのかを思い出す。確か千夜子から聞いたのだ。ツバメがチケットをもらったとかで佳奈と日奈を|誘《さそ》って行ってくるとかそんな話だった。
「あった、あった。これこれ……五枚ってのがちょっと|中途半端《ちゆうとはんぱ》な感じもするんだけど。健一君の家は何人家族?」
「四人ですけど」
でも家族で行くと言うことはありえないだろうと健一は思う。なにせまだ母親の脳内では三人家族のままかもしれないのだ。
「じゃあ四枚でいい? 一枚は別の人を探すか」
「いや、家族では行かないと思いますし……」
「そう? じゃあ健一君の知り合いで誰か行きたい人にあげてくれる?」
そして早苗はチケットを|渡《わた》してきた。それで彼女は|随分《ずいぶん》とホッとした表情になる。
「そんなにこのチケット持ってるの|嫌《いや》だったんですか?」
なのでそんなことを健一は聞いてしまった。
「え? 嫌ってことはないんだけど、またエリちゃんが来た時に絶対聞かれると思うから」
「その時にまだ引き出しに入ってるとまずいってことですか?」
「ま、そんなところかな……だって、ほら、エリちゃんでしょ?」
早苗はわかるでしょ? と顔で伝えてきた。でも健一にはイマイチなんのことかわからない。
ただ、どうしてそんなにまずいのかを早苗は話したくはないのは理解できた。
だから健一はとりあえず自分が受け取っておけばそれでいいんだろうと思うことにした。
○
知り合いで誰か。そう言われてたので健一はバイトから帰ると1301で、そのチケットの|貰《もら》い手を探すことにした。
「私はとりあえず行く予定はなさそうだな」
だが|刻也《ときや》にそう言われてしまうと、その時点で終わった感じがした。
「私もちょっと……」
冴子がそう言い出すことは想像も出来たし、早苗がすでに|断《ことわ》られたことを教えてくれていた。
しかも今は刻也と冴子しかいなかったので、本当にタイミングとしてはあまりよくない感じだった。
「……やっぱり学校で聞く方が良かったですかね」
少なくともここの人間とでは一緒に行くという|選択肢《せんたくし》はなさそうだなあと今更思う。なのに五枚も貰ってきて自分はどうするつもりだったのかと考えてしまう。
「やはり|大海《おおうみ》君を誘うのが良いと思うのだが」
刻也の意見はもっともだった。まず最初にそこに聞くべきだと自分でも思う。
「でも男女別っぽいんですよね。二人で行ってお|互《たが》い入るだけ入って帰ってくるっていうのはどうなんでしょうか?」
「むぅ。それに女性の風呂というのは長いものだからね」
「ですよねえ」
水着着用ということなので、温水プールみたいなものだと考えれば、むしろ|混浴《こんよく》でも普通のような気もするのだが、そういう|施設《しせつ》ではないらしい。
「それに……五枚なんですよね」
自分と千夜子で二枚。まだ三枚もある。二回行くという手もあるが、それだと一枚|余《あま》る。そんな計算を健一はする。
「ばんはー」
そんなところに綾がやってきた。
「こんばんは、綾さん」
健一が挨拶をすると、綾は三人で何を話してたのか興味を持ったらしい。
「なに? なに?」
「いや、バイト先でスパのチケットをもらったんですけどね」
「スパって何?」
「まあ、大きなお風呂みたいなものです」
「大きなお風呂に入りたいなら、私の部屋に来ればいいのに。そうしたら私も一緒に入れるし、健ちゃんも嬉しいでしょ?」
「いや……入りに行きませんし、そもそもこのチケットをどうしようって話ですから」
「ええi。でも入りたいならいつでも入りに来ていいよ? |覗《のぞ》いたりしないから安心していいから」
なんだかわざわざそう言われると|罠《わな》を|張《は》られてるような気がする。
「その件は改めて考えるので……」
「本当?」
「とりあえず、今はチケットの話をしましょうよ」
「うん。でも私もいらないかなー」
「まあ、そう言う気がしてました」
「そう言えば|錦織《にしきおり》さんがスパに行きたいならチケットをあげるわよって言ってた気がする。その時は何のことかわからないので断っちゃったけど」
「……なるほど、じゃあ、そのチケットかもしれませんね、これ」
「そうなの? ・」
「錦織さんに貰ったって人から貰ったんです」
「え? バイト先で貰ったんだよね?」
「いや、だからバイト先の店長さんが錦織さんの知り合いで」
「そうなんだ。そのバイト先って、冴ちゃんの所と一緒だよね?」
「ええ、そうですけど?」
「じゃあ冴ちゃんは錦織さんに会ったことあるの?」
綾のその|疑問《ぎもん》は|微妙《びみよう》に|筋《すじ》が通ってない気がした。早苗とエリが知り合いなことと、エリと冴子が会ったことがあるかはあまり関係がない。
「え? 私ですか?」
だから冴子も急にそう言われてちょっと|戸惑《とまど》った|様子《ようす》だった。
「うん。冴ちゃん、錦織さんに会ったことある?」
「ありますけど……」
「じゃあ|管理人《かんりにん》さんは?」
そして話は|何故《なぜ》か刻也の方に飛んだ。
「私ですか?」
「うん。管理人さんは錦織さんに会ったことある?」
「その錦織さんというのは、綾さんのプロデューサーという人のことですか?」
「うん。その錦織さん」
「では会ったことはないかもしれません。別の錦織さんになら会ったことはありますが、かなり珍しい|苗字《みようじ》ですし何か|縁者《えんじや》かもしれませんね」
「管理人さんの知ってる錦織さんはどんな人なの?」
「そうですねえ。父親の知り合いという以上のことはあまり知りませんが。若くて美しい人でした。名前は確か……錦織エリだったかと思いますが」
「……それは錦織さんじゃないかな?」
綾が刻也の言葉に不思議そうな顔をする。そしてそれは健一も同意見だった。
「僕もそんな気がしますけど」
「そうなのかね?」
しかし刻也にはイマイチ同意しかねる感じのようだった。でもそれも健一には少しわかる気もした。綾の話から想像していた「錦織さん一と実際のエリはかなり|隔《へだ》たりがあったからだ。
「錦織さんは二十代|半《なか》ばくらいの女性ですよ? ハーフだそうで|金髪《きんばつ》で|蒼《あお》い|瞳《ひとみ》が|印象的《いんしようてき》な人なんですけど」
「それならおそらく同℃人だろうな。同じ名前でそんなにも|特徴《とくちよう》が|似通《にかよ》ってる人間というのもそうそういるとは思えない」
とは言いながら刻也はやっぱりまだ|納得《なつとく》しかねてる様子だった。
「でもなんか違うんですかね?」
「いや……私は錦織|女史《じよし》のことを|弁護士《べんごし》か何かだとずっと思っていたのだ。なので綾さんのプロデュースをやってるという話とつながらないのだろう」
「なるほど」
健一はそれで|一段落《いちだんらく》したなと思ったが、考えてみるとそれを確かめるための話をしていたわけでは全然無かった。
「って、綾さん、何の話ですか、これは?」
「え? 錦織さんの話でしょ?」
「えっと、錦織さんと知り合いであることを|確認《かくにん》してどうしたかったんですか?」
「ん? 冴ちゃんが知り合いみたいだったから聞いてみたかっただけなんだけど、そうしたら管理人さんまで知り合いでびっくりだよねー」
「……確かにびっくりですね」
まあ、それはそれで確かに|奇妙《きみよう》な|縁《えん》だなあという気はする。日奈もエリとは|面識《めんしき》があるわけだし、要するに知らぬ|問《ま》にここの住人全員がエリの知り合いだったということになる。
「で、そのチケットはどうするの?」
そして綾は自分で別の方向に|振《ふ》っておいて、そんなことを聞いてくる。
「だからそれを考えてたのに綾さんがって……話をですね……」
健一はでもそこで|文句《もんく》を言うのは止めて|仕切《しき》り|直《なお》すことにしようと思う。
「オッス! 皆、おそろいで何してんだ?」
でもそこにまた新たに一人やってきた。それは|他《ほか》でもないシーナだった。
「いや、それがさあ……」
なんだかまたややこしいことになりそうだなと健一は思うのだが、シーナは健一の言葉を待たずすごい勢いで彼の方へと|詰《つ》め|寄《よ》ってきた。正確にはチケットの方だ。
「こ、これ、どうしたんだ、これっー7…これア;ルアクアの無料チケットだよな? なんでこれがここにあるんだ?」
そして目にもとまらぬ|早業《はやわざ》でそれを手に取ると自分の物であったかのように健一に押しつけるようにして確認した。
「いや、貰ったんだけどさ、どうしたものかと……」
「じゃあいらないのか? 健一はいらないのか?」
「いや、いらないってわけでもないけど」
「なんだ? じゃあいるのか?」
「いや、そういうことでもない気も」
「どっちなんだよ! ハッキリしろよ! いるのか? いらないのか? ・」
なんとなくキレ|気味《ぎみ》にシーナは|叫《さけ》ぶ。そこまでムキにならなくてもいいんじゃないかとも健一は思ったが、やっとその|態度《たいど》の理由がわかった気がした。
「シーナ、欲しいの?」
「ああ、欲しいぜ? むしろすごく欲しいぜ? 欲しいなら綾さんのオッパイを|揉《も》めってことなら確実に揉む気だぜ?」
「その辺はどうかと思うけど……それ貰ってどうするの? 佳奈さんと行くとか?」
「ああ、佳奈ちゃんと行く気|満々《まんまん》だぜ? なにせ……おっとこの先は|企業秘密《きぎようひみつ》だぜ」
「……なら聞かないけど、ちょっと無理あると思うなあ」
シーナは実は日奈なわけで、今はこんなテンションで行く気満々だが、綾と一緒に風呂に入ろうとした時のように|途中《とちゆう》で失敗しそうな気がする。
「ん? まあ、そのなんだ……佳奈ちゃんと一緒に行きたい女の子がいてだな、その|娘《こ》にあげたらすごく喜ぶんじゃないかなあとかそんな話だ」
「佳奈さんと一緒に行きたい女の子ね」
それは要するに日奈のことだろう。
「ああ、かなり一緒に行きたい女の子だぜ」
「なら、まあ、いいかな。で、五枚ともいるの?」
健一は意外にシーナも|冷静《れいせい》かもしれないと考えを改めた。
「いや、二枚でいいぜ。俺は行かないからな。残りは健一が彼女と行けばいいぜ」
「彼女は一人しかいないからなあ・・…・」
「だったら鍵原を|誘《さそ》えばいいだろ、鍵原を。この間のお|礼《れい》に」
「……なんか鍵原にお礼をするようなことあったっけ?」
「俺……というか、その佳奈ちゃんが行きたいって|娘《こ》がめっちゃ|感謝《かんしや》してるって話だよ!」
なぜかまたキレ気味に言われた。
「あ、そうなんだ。じゃあそうするか。千夜子ちゃんも一人よりは鍵原がいた方がいいだろうし」
「うん。そうしろ。それでなんの問題もないよな? だから俺がこれを二枚貰ってもなんの問題もないよな? 俺と会ったこともないはずの女の子がチケットを貰ってても|不自然《ふしぜん》じゃないよな?」
「いや、最後のは不自然だと思うよ?」
「……健一、お前も本当に|細《こま》かいヤツだな」
「いや、だって変だろ?」
健一は言いながら周りを見る。でも残りの三人は別にシーナにツッコむ気はないらしい。
「私は別に変だとは思わなかったが」
「私も……そうかな……」
「私は……よくわからないけど、どっちでもいいと思うよ?」
三人はそれぞれに健一の方が細かいと言ったことを|告《つ》げる。
「……あれ? 僕が変なこと言ってました?」
「まったく。空気読めよ、絹川! って感じだぜ」
そしてそのせいなのかシーナは実に|堂々《どうどう》と|悪態《あくたい》をつく。
「……そうなのかな」
なんだか知らぬ間に|悪者《わるもの》にされてしまった感じではあったが、とりあえずチケットの件は|片付《かたづ》いたので良しとすることにする。
「よし! じゃあライブに行くぜ、ライブ!」
そしてシーナは次にすべきことを健一に|示《しめ》す。
「そうだね」
「佳奈ちゃんがクラスメイトを引き連れてくるらしいぜ、|今晩《こんばん》」
「佳奈さんがねえ……」
気づくとライブツアーの|案内係《あんないがかり》は佳奈に変わっていたらしい。
「つまり俺たちが|無様《ぶざま》な|真似《まね》をしたら佳奈ちゃんが|恥《はじ》をかくってことだからな」
「うわっ……それは|責任重大《せきにんじゆうだい》だな」
「シーナ&バケッツ用語で恥をかくってのがどういう意味か知ってるか、健一?」
「は?」
その質問以前に、シーナ&バケッツ用語というのは何のことだろうと思う。しかしシーナにとっては|常識《じようしき》だったらしい。
「俺がお前を三回殺すってことだ。知らないなら覚えておけ」
「……はい」
そしてそれはあながち冗談でもないので、健一はしっかりと|記憶《きおく》に|刻《きざ》むことにした。
○
そんなこともあって気合いを入れたせいか、クラスメイトたちはすっかりライブの常連になってしまったらしかった。おかげでクラスでのツバメの|株《かぶ》もかなり上がったようだ。それがいいことなのかどうかはまだわからなかったが、でもいいことだったと思いたい。
そんな|状況《じようきよう》のまま|迎《むか》えた週末、健一はさっそくチケットを使うべく行動を開始していた。
千夜子とツバメを誘ってアールアクアに行くことにしたのだ。でも電車の中で|早速《さつそく》、ツバメは|愚痴《ぐち》をこぼす。
「あれだけ教室で注目されてるのに、なんでか彼氏は出来ないのよねえ」
「まあ、シーナ&バケッツのファソは女の子の方が多いからなあ」
実際、ツバメの話に|興味《きようみ》を持ってたのも女の子の方が多かったし、その中に興味のありそうな男以外は|連日《れんじつ》来るようなことにはならなかったようだ。
「さりげにモテ|自慢《じまん》? あんた、いい|度胸《どきよう》してるじゃないのよ? この私と千夜子の前でそんなことを言うなんて|命《いのち》がいくつあっても|足《た》りない|行為《こうい》よ?」
「……なんでそうなるかなあ」
そしてせっかく誘ってあげたというのにツバメは別に感謝などしていないようだった。これならチケットは無駄にした方が良かったかもしれない。そんなことも思う。
「|理由《りゆう》は二つ! 一つはあんたは千夜子の彼氏だってこと! もう一つは私に彼氏がいないってこと!」
「二つ目は|明《あき》らかにただの|僻《ひが》みだろ」
「だからなんだっての? 人間は感情の生き物なのよ? 筋が通ってても気に入らない人間なら許せない。そういうものでしょ?」
「……そこまでハッキリと言われると|反論《はんろん》する気にもならないなあ」
「まったく。千夜子も言ってやってよ! このバカに」
ツバメは健一に悪態をついて千夜子の方を見る。
「人の彼氏をバカって言うツバメも|相当《そうとう》なもんだと思う」
でもそんな彼女に向けられたのは|怒《いか》りの視線だった。
「そ、それはそうよね……ははは……」
そしてやっと自分が間違ってるということに気づいたらしい。
「というかさ、ツバメはちょっと教室でシーナ&バケッツの話をしすぎだと思うよ?」
「なんでI? いいじゃない。|旬《しゆん》の話題なんだし、みんな、聞きたがってるし」
「知り合いが多いと健一さんがやりづらいって知ってるでしょ?」
千夜子が少し|口調《くちよう》を|抑《おさ》えてそう言ったせいか、ツバメは納得しかねるという顔をする。
「そうかな。全然、平気そうだけど。ね、そうでしょ、絹川?」
「まあ、前よりは|慣《な》れたけど、気にはなるけどな」
「でもまあ、今更、どうってことないでしょ? TVカメラの前であんだけのハーモニカを吹いて見せたんだから、クラスメイトの一人や二人いても平気よね?」
「……まあ、聞きたいなら来てもいいけど、どっちかというとやっぱり|恥《はじ》ずかしいよ」
健一は|控《ひか》えめにそんな返事をしたが、それが悪かったらしい。
「ほら、大丈夫って言ってるじゃない」
ツバメは千夜子に自分の|解釈《かいしやく》を堂々と語り始めた。
「健一さんはそうは言ってないと思うけど」
「言ったわよねえ?」
それでおかしいなあという顔をして健一の方に顔を向ける。気づくと何故か健一、ツバメ、千夜子の順でつり|革《かわ》に|掴《つか》まっていた。
「……言ってないと思うそ」
「ちょっと恥ずかしいけど、どんと来いってさっき言ったわよね?」
「言ってないって。恥ずかしいから出来れば止めて欲しいって言ったんだよ。|正直《しようじき》言うと鍵原が一番遠慮して欲しい」
「何それ? 私のおかげでファンが増えたのよ? なのになんでそんなこと言われないといけないわけ?」
「いや、だから……知り合いが来ると恥ずかしいって話だろ」
「そんなこと言って、私が来てるの|全然《ぜんぜん》気づいてなかったくせに」
「……まあ、それはそうだけどさ」
「だったらどっちでもいいんじゃない」
「意識するってことだよ」
「だから意識しなければいいだけのことでしょ? |無我《むが》の|境地《きようち》ってヤツ? 集中すると周りが消えてゾーンってのに|突入《とつにゆう》するんでしょ? それなら私がいてもいなくても全然関係ないじゃない。つまりそっちの問題よね」
「……じゃあそこまで俺が|悟《さと》ったら来てもいいよ」
いつものことだが話し合いが通じる相手ではないなと健一は理解した。とにかくライブに行きたいのだから、どんな理由をつけてもその結論は変わらないということだろう。
ある意味、そのポジティブさは|羨《うらや》ましい気もするが、やはり時と場所は選んで欲しい。
「っていうかさあ、そろそろ千夜子も来ればいいんじゃない?」
しかしまだまだツバメのポ・シティプさは限界に達していなかったらしい。
「え? 私が?」
千夜子はまさかそんな展開になるとは思ってなかったらしい。
「千夜子を差し置いて私やクラスの女の子が盛り上がってるのが問題なんでしょ?」
「……そんなこと言ったかな、私」
「言ってないかもしれないけど、千夜子はもう少し絹川の|活躍《かつやく》を見てあげるべきだと思うな。
本当に格好いいんだから。普段はこんな感じで『顔はいいのになあ……』って思っちゃうようなヤツだけど、バケツをかぶると逆に|格好《かつこう》いいんだから不思議よねえ」
「また、健一さんの悪口を言った」
「え? いつ?」
本当にそんなつもりはなかったらしい。ツバメは驚きの表情を浮かべる。
「並日段はこんな感じでって」
「……ああ、その……ギャップってヤツ。下げて上げる方がなんか印象いいじゃない。それよ、それ」
「下げる必要ないし」
「……そうね。そこは確かに私が悪かった。でもさ、絹川だって千夜子に|応援《おうえん》してもらいたいでしょ?」
そして|分《ぶ》が悪いと見て、ツバメは千夜子と組み合うのを止めたらしい。
「嬉しいけど、やっぱり恥ずかしいかなあ。それにファンの|娘《こ》もあんまり嬉しくないんじゃないの? まあ、千夜子ちゃんはそんなに|派手《はで》に|応援《おうえん》したりはしないと思うけど」
「そんなの佳奈さんがいても平気なんだから関係ないでしょ?」
「……まあ、そうかな」
佳奈のシーナに対する応援っぶりでも問題ないのだから、千夜子が来てもファンの娘が|退《ひ》くってことは無いような気もする。
「じゃあ千夜子も来るってことで」
そしてそれで点を|稼《かせ》いだとツバメは思ったらしく、また千夜子の方へと戻る。
「……行かないよ、私は」
「なんでよー。それで全部丸く|収《おさ》まるじゃない? それともそんなに|嫌《いや》なわけ? 彼氏を応援するのがそんなに嫌ってどうなのよ、それ?」
「別に嫌とは言ってないじゃない」
「じゃあ、なんでよ?」
「いいでしょ、別に。私も健一さんもそれで納得してるんだから」
「ふーん。二人だけの秘密ってことですか。それはお|熱《ねつ》いことで……」
「時々、思うんだけど、ツバメは私と健一さんが仲良くするのが嫌なの?」
「そんなわけないでしょ? むしろ二人が仲良くしないからイライラしてるくらいよ。今だって手も|繋《つな》いでないしさ。それってどうなのよってな感じですよ」
ツバメはあきれ|果《は》てましたというポーズを取ってみせるがさすがにそれには健一も思うところがあった。
「|間《あいだ》に入って二人のテンションを下げてるヤツの言うことじゃないと思うそ、それ」
「あれ? 本当だ。じゃあ、お二人はこっちで仲良く手を繋いでてください」
それでツバメは千夜子の後ろに回ると、健一の方へと押す。
「ちょ、ちょっと、ツバメ?」
「それとも|未《いま》だに手すら繋いでないなんて言わないわよね?」
「……そりゃ繋いだことはあるけど」
「じゃあいいじゃない。はい、さっさと繋ぐっ!」
しかしツバメがそう言った時、車内のアナウソスが聞こえて、|程《ほど》なくして目的地である|粋道橋《すいどうばし》につくことが判明する。
「あれ? こんなに近かったっけ、粋道橋って?」
そして|口論《こうろん》の|最中《さいちゆう》の時間がすっ飛んでたらしく、ツバメがそんなことを|呟《つぶや》くのが聞こえた。
「で、さっきの話はもう忘れたの?」
電車を降りたところで、ツバメは健一と千夜子に手を繋ぐように改めて言った。意外にといつか普通にしつこい|性分《しようぶん》だなと健一は思う。
「わかったよ。繋げばいいんだろ?」
「なんで嫌そうに言うのよ。彼女と手を繋げるのに嬉しくないわけ、絹川は?」
「鍵原がいなければ嬉しかったと思うよ」
「あっそ。じゃあ、私は違う方を見てるのでどうぞ」
そうやってツバメに口を|尖《とが》らされるともう何をしに来たんだかわからなくなってきた。
「……すみません、健一さん」
千夜子はそんな状況を|申《もう》し|訳《わけ》なく思ってるらしい。
「いえ、千夜子ちゃんが気にすることじゃないですよ」
健一はもうとやかく言うのは|止《や》めて、素直に千夜子と手を繋ぐことにする。別にそれ自体は災なことではないし、嫌なんてことはもちろんないのだから。
「あれ? 絹川君たちも同じ電車だったんですか?」
しかしちょうど繋いだところで、知ってる人間が話しかけてきた。
「……|奇遇《きぐう》ですね」
などと言ってみたが、まあ、同じ時間になるかはともかく今日来るというのは十分予想の|範《はん》町だった。さすがに平日にさっと来てさっと帰るというわけにはいかないので、この週末が最迷のタイミングだったのだから。
「奇遇ねえ?」
しかしだからこそタダの偶然とは思わない人間もいた。それ.はもちろん、ツバメ。|疑惑《ぎわく》の|眼差《まなざ》しで健一と日奈の顔を|交互《こうご》に見つめ、それから千夜子の方を見る。
「なんか変じゃない、これ?」
「そうかな?」
でも千夜子は別段どうとも思ってないようだった。
「変だって。なんか最初から思ってたのよね。三枚ってなんか変だもの。|出所《でどころ》も.ハイト先の店最にもらったんだっけ?」
それがツバメはとにかく納得がいかないらしい。
「……そうかな?」
「そっちはなんで今日来たの?」
そしてツバメは今度は日奈に尋ねる。
「え? 私たちですか?」
でも日奈は驚くだけで返事らしい返事は出来ない。
「日奈がチケットを手に入れたって言うから一緒に来ただけよ」
なので代わりに佳奈が答える。
「日奈さんがねえ……日奈さんも絹川と同じところでバイトしてるわけ?」
「そ、そうじゃないですけど」
「じゃあなんで、同じタイミングでチケットをもらうのかなあ」
「私はあの……錦織さんというちょっとお世話になってる人からもらったんです」
日奈はツバメの疑いの眼差しに負けて、ちょっと視線を|逸《そ》らしながらそんなことを言う。
「で、絹川は誰さんだっけ?」
「俺は|古西《こにし》さんって人だけど、その人が錦織さんの知り合いなんだよ」
「ヘー。出所は同じなのね。じゃあ、いっか」
それでツバメはなんだか納得したらしい。
「……いいのか」
「よくわからないけど、その錦織さんって人が知り合いに|配《くば》ってるってことでしょ?」
「そうだろうね」
「じゃあ、いいじゃない。なんかおかしなところある?」
ツバメはそれでにこやかに歩き始めた。
「ま、ないよな」
健一はなんだかイマイチ|釈然《しやくぜん》としないものを感じながらも、もうつっこまないことにした。
「……錦織ってけっこう|珍《めずら》しい|苗字《みようじ》ですよね」
そしてそんな健一の隣で千夜子が小さく呟くのが聞こえた。
「多分、そうじゃないかと」
「お父さんが以前、話してた人、覚えてます? |桑畑綾記念館《くわばたけあやきねんかん》の話の時のことなんですけど」
「はい」
健一は千夜子の父親がエリと知り合いだったことをその言葉で思い出した。
「その人、錦織って苗字らしいんですよ。やけに美人だなあと思ってたら実はハーフで、ファーストネームがエリスって言うんだそうです」
「エリス……ですか」
そんな話は健一は|初耳《はつみみ》だなあと思う。ハーフなのは聞いたことがあったけど、本当はそういう名前だったとは知らなかった。
「その人とさっきの人は同じ人なんですかね?」
「同じ人だと思いますけど」
健一は素直にそう答えてから、なんでそれを知ってるのか聞かれるんじゃないかと思う。
「ですよね。錦織なんてそんなにいないですよね」
でも千夜子はただ笑ってそう答えるだけだった。
「あー、絹川君が来るって知ってたらなあ」
そんなところに佳奈の|嘆《なげ》く声が届いた。
「え? なんですか?」
「アールアクアって男女別でしょ?」
「そうみたいですね」
「シーナさんを誘っても一人でつまらない思いをさせるだけかなあって思って|遠慮《えんりよ》してたんだけど、絹川君が来るなら誘っても良かったんだなあって」
「……なるほど」
とは言え、呼んだところで絶対にシーナが来るわけはないのを健一は知ってる。
「絹川君だってシーナさんが来た方がよかったでしょ? だってこのメンツじゃ絹川くん、一人で|男湯《おとこゆ》に入ってることになるでしょ?」
「そうですね」
でもまあ、それは佳奈や日奈が来る前から決まってたことなので、今更どうということもない話のような気もする。
「今からでも呼んだらいいんじゃないですか?」
そしてそんな状況に千夜子が|恐《おそ》ろしい提案を始める。
「えっー7"」
「そんなに驚くことですか?」
「いや……その|発想《はつそう》はなかったなあと」
というか|実行不可能《じつこうふかのう》ですと健一は心の中で静かにつっこんだ。シーナは本当は日奈であり、目の前にいる女の子なのだから。
「お風呂は無理でもその後、一緒に食事とかならいい気はするけど……私、シーナさんの|連絡先《れんらくさき》、知らないから……絹川君、|頼《たの》んじゃってもいい?」
でも、心の中だったので佳奈は千夜子の意見に乗って来る結果になってしまった。
「えっと……じゃあ僕はちょっと時間余りそうなんで、その間に相談してみます」
もちろん|実際《じつさい》にはそんなことはできないわけだが、そうとでも言っておかないと|引《ひ》っ|込《こ》みがつかない状況だった。
「あ、そうしたら、日奈もシーナさんと会えるってことだよね?」
そしてそれで佳奈の方は安心したらしく、その興味は日奈の方に|移《うつ》った。
「え? 私? 私は……別にシーナさんには……会わなくてもいいかなあ……」
なので今度は日奈の方が困り果てる番だった。
「シーナさん、いい人だよ。格好いいし。でも、日奈ちゃんは絶対にシーナさんのこと好きになったらダメだからねっ」
「……う、うん。大丈夫だと思うよ。私、佳奈ちゃんとは男の子の趣味違うし」
「ま、そうだよね。日奈ちゃんは……うん、大丈夫だよね」
そして健一はそんな二人のやりとりにちょっとした不安を覚えた。それは一瞬、佳奈がこっちを見た気がしたからかもしれないし、なんだか日奈が嬉しそうに見えなかったからかもしれない。とにかく、この偶然の出会いがいい方向に|働《はたら》いてないなあと思えたからだ。
「……打ち合わせとけば良かったんだよな」
健一は一人そう呟くと、動き出した佳奈と日奈の後を追いかけた。
○
でも|杞憂《きゆう》だったらしい。
健一自身は見事に時間を持てあましたという意味では失敗だったが、風呂から上がって|合流《ごうりゆう》した四人は実に|御機嫌《ごきげん》そうだった。
普段は仲の悪いツバメと佳奈ですら|打《たつ》ち|解《と》けてる気さえする。
「絹川がいなくて本当に良かったわよ」
そしてその|調子《ちようし》のまま、ツバメは健一に|妙《みよう》な話題を振ってくる。
「なんだよ、それ」
「日奈さんがね、すごいのよ」
そう言ってツバメは日奈ではなく佳奈の方に視線を向ける。
「私もびっくりしちゃったわ」
「はあ……」
そんな風に二人で盛り上がられても健一としてはなんのことだかという感じだ。
「……そんな話をしなくてもいいじゃないですか」
そして日奈としてはあまり嬉しい話ではないらしい。なので健一としては|救《すく》いを求めて千夜子の方を見る。
「私からはちょっと……言えないです」
でも千夜子はこの件に関しては|触《ふ》れたくないらしい。
「……そうですか」
女の子だけの秘密というヤツだろうか? だったらそもそも振らないでもらいたいというのが正直なところだった。
「ヒントを言うと、。ヒキニかな」
でもそんな健一がツバメは楽しいらしい。
「それ、まんまじゃない」
そして佳奈も。嬉しそうにニコニコとしている。
「ビキニですか……」
ビキニと言われて日奈の方を見れば、まあ答えはわかるような気がした。
「あ、あんまり見ないでください」
日奈は恥ずかしそうにそう|告《つ》げながらも、その行動で答えを教えてくれた。彼女は|両腕《りよううで》で|胸《むね》を|隠《かく》した。つまり胸の話をしてるのだ、ツバメと佳奈は。
「す、すみません」
しかしそんな話をされてもなあという気持ちにもなる。ツバメも普段は他の女の子に興味を持つなと言ってるのに、こう言うときは|面白《おもしろ》がってるようにしか見えない。本当、どうしろって言うんだろうと健一は思う。
「わかった?」
「……まあ、なんとなくは」
「でもまあ、あれは想像つかないと思うなあ。ねえ、佳奈さん?」
「そうよねえ。ま、大きさだけなら大海さんと同じくらいではあるし」
「いやあ、|双子《ふたご》なのにあんなに違うんだねえ」
「いいじゃない。私のことはどうでも」
「でも、あれ、佳奈さんがこないだ買ったのだよね? って、これはもしかしてすごいヒントだったかな?」
「ヒントっていうかまんまでしょ、それ。もう鍵原さんたらっ」
「ごめん、ごめん。でも絹川は|鈍《にぶ》いからこれくらいでちょうどいいと思うな」
そして本当になぜかこの二人はすっかり|意気投合《いきとうごう》してしまったらしい。その|原因《げんいん》がどうやら日奈の胸というのが本気で|奇妙《きみよう》だが、まあ仲がいいのはいいことのような気もする。
「さっきのでわかった?」
そしてまだ笑いながらツバメは健一に尋ねてくる。
「……日奈さんが佳奈さんの買ったビキニを着たらすごく似合ってたってこと?」
ヒントがまんまというのだからそういうことだろうと健一は思う。
「うーん、|惜《お》しい!」
でもまだ正解ではなかったらしい。
「違うのか……」
「似合ってるって言うのとはちょっと違うんだよね」
「……似合ってないのに、二人でネタにして笑ってるってのはどうなの?」
「でも、ほら……いい意味で似合ってないのよ。いい意味で」
いい意味でとか言われても、似合ってないと言われれば悪い意味だろうと思う。まあ、格好
悪い服が似合ってないとかならいい意味かもしれないが。
とにかく似合ってないのが|好《この》ましい|状態《じようたい》だったということらしい。そしてヒントは佳奈の方が買ったビキニということだから……。
「ビキニが小さすぎたってことかな?」
「そういうこと!」
ツバメは。ピシッと健一のことを指さして|満面《まんめん》の笑みを浮かべる。
「で、それでなんでそこまで受けてるわけ?」
「もう|想像力《そうぞうりよく》が|貧困《ひんこん》なんだから絹川は……」
「……ってかさあ、鍵原はいつも千夜子ちゃんのこと以外は気にするなって言ってるよな? それでなんで俺が日奈さんのビキニ姿を想像しないといけないんだよ?」
「まあ、日奈さんに関しては|別格《べつかく》だなって思ったのよ。うん。だって日奈さん、女の私から見ても|可愛《かわい》いもの。だから絹川が気にしちゃってもしょうがないかなって」
|記憶《きおく》が確かなら、ツバメは以前、日奈は可愛いから|要警戒《ようけいかい》だとか言ってた気がする。それがなんで今はようこそいらっしゃいましたとか言わんばかりになってるのだろうか。それが健一には不思議でならない。
「……じゃあ俺が日奈さんと付き合ってもいいわけ?」
それで健一はそんな疑問をぶつけてみた。
「え?」「……え?」「えええっ!?」
でもそれに反応したのは残りの三人の方だった。
「それはちょっと難しい問題ね」
そして一番、バッサリと切り落とすべきツバメだけが真剣にその可能性を|検討《けんとう》してるらしい。
「鍵原、お前は誰の|味方《みかた》なんだよ?」
なので健一も静かにつっこみたくもなる。
「そりゃ千夜子の味方だけど……ねえ?」
「ねえって言われても……」
「日奈さんは可愛いから、それもありかなあって思うでしょ?」
「思ってるのは鍵原だけだろ」
「でも絹川だってあのビキニ姿を見たら考えを変えると思うわよ?」
「じゃあ見ない。鍵原も見せようとしないし、想像させようとしない」
「ふーん。絹川も千夜子の彼氏としての自覚が出来てきたってわけ?」
「それを一番|要求《ようきゆう》してたのは鍵原のはずなんだけどな。なのになんでそれが|不満《ふまん》なんだよ?」
「だって……あの。ヒキニはちょっと|反則《はんそく》だったから。ねえ、佳奈さんもそう思うでしょ?」
ツバメはそう言って佳奈の方に話題を振る。
「そうよねえ。あれはちょっとシーナさんには観てもらいたくないなあって思った」
「……そんなにですか」
健一はその心配は|無用《むよう》なことだとは思うものの、佳奈までそんな態度なのでよほどのことなんだなあと思う。
「いやあ、本当、あれはねえ」
そしてツバメがそれを思い出しながら|感慨深《かんがいぶか》げに|繰《く》り|返《かえ》す。
「も、ももも、もう、いいじゃないですかっ」
それでついに|耐《た》えきれなくなったらしく、日奈が|悲鳴《ひめい》のような声をあげる。
「……ダメだった?」
そしてそれが意外そうな顔をツバメはする。
「なんで男の人の前でそんな話を|延々《えんえん》とするんですか? しかも絹川君相手に……」
「えっと、いいネタは|鮮度《せんど》の高いうちにってことかな。それにあの|下乳《したちぢ》については黙っていられなかったというか」
「し、し、下乳って……」
|必死《ひつし》に|反撃《はんげき》に転じた日奈だったが、その単語でもはやその|勢《いきお》いも|途絶《とだ》えたらしい。
「下乳……」
あまり聞き慣れない言葉だった。|詳《くわ》しくはわからないが、やはり胸の話なのだろうと健一は考える。
「き、絹川君まで話に乗るんですか?」
そしてそれが聞こえてしまったらしい。日奈が顔を|真《ま》っ|赤《か》にして|非難《ひなん》の目で|睨《にら》んできた。
「いや、その……これだけ話を振られたらどうしたって……考えちゃいますよね?」
健一は日奈から視線を逸らして、千夜子に助けを求める。
「……健一さんまで」
でも千夜子もあんまり面白くは思ってくれてなかったらしい。
「そ、その……聞き慣れない単語だからなんのことかなあって思っただけですよ。別に日奈さんのビキニ姿を想像したとかそんなんじゃないですから」
「本当ですか?」
健一の|言《い》い|訳《わけ》に千夜子と日奈の声が|重《かさ》なる。
「ほ、本当ですよ?」
「でもまあ、今はしてなくても後で絶対想像するわよねえ」
やっと|収《おさ》まりそうな|気配《けはい》だったのにツバメがそれを|蒸《む》し|返《かえ》す。
「……だとしたら全部、鍵原のせいだと思うんだけどな」
健一はさすがにそれには反論せずにはいられなかった。
「私じゃなくたって、あの下乳の話はする! 絶対する!」
「少なくとも千夜子ちゃんは……してませんでしたよね?」
「……はい」
でも千夜子もかなり気にはなっていたらしい。自分から言うわけにはいかないと言ったがどうでもいいこととは認識していなかったようだ。
「まあ、とにかくこの話はここで終わり。日奈さんは嫌がってるし、俺も聞きたくない。どうしても話したいなら鍵原と佳奈さんだけでってことで」
なので健一はもうこれ以上続けるのをやめることにした。
「はいはい」
ツバメも|残念《ざんねん》そうだがそれに一応賛同したらしい。
「そういえばさ、連絡してくれた?」
それで佳奈が健一に話しかけてくる。
「ああ……シーナにですよね?」
そしてそれは思い出すにけっこう重要な話題なんじゃないかと思う。なのになんでさっきまで日奈の下乳の話をしてたのかと考えてしまう。
「シーナさんはいつ頃来るって?」
「いや、それがその……今日はどうしても抜けられない用事があるらしくて」
もちろん連絡など取ってないわけだが、抜けられない用事があって来れないということに関しては健一は確信を持っていた。
「そう、なんだ……せっかく日奈を|紹介《しようかい》できると思ったのに」
「さっきまでの話だと、やっぱり紹介しない方がいいんじゃないですかね」
「……そ、そうかも。私が男の子だったら、やっぱり日奈の方がいいもんね」
そう呟いて、佳奈がため息をつく。
「そんなことないよ、佳奈ちゃん。私より佳奈ちゃんの方がずっと可愛いよ。シーナさんだって私より佳奈ちゃんの方が|圧倒的《あつとうてき》に好きだよ」
日奈がそんな佳奈を|励《はげ》まそうと声をかける。
「だといいんだけど……シーナさんは日奈に会ったことないから、だから私でもいいって思ってるだけかもしれない……よね……」
でも|逆効果《ぎやくこうか》だったらしい。佳奈はすごい勢いでしょげていく。さっきまでにこやかに日奈の胸の話で盛り上がってた人間と同じとはとても思えない様子だ。
佳奈はすっかりシーナが来るつもりでいたのだろう。それが来ないとなり、自分をないがしろにされたと感じたのかもしれない。
「大丈夫だと思いますよ。シーナは佳奈さんの|性格《せいかく》が好きなんですから」
正確にはかなり|体目当《からだめあ》てでもあった気がするけれどそういうことにしておく。
「……それはわかってるけど」
でも、それで少し佳奈も安心したようだった。
「本当、大丈夫ですよ。日奈さんのことをシーナが好きになることはないと思いますし」
その理由を言うことは出来ないが、それは確実なことだった。
「絹川君がそう言うならそうなんだろうけど」
それでもやはり佳奈は何かひっかかってるらしい。
「佳奈さんはシーナが信じられないんですか?」
なので健一はちょっと切り口を変えることにする。
「え?」
「シーナが|適当《てきとう》な気持ちで佳奈さんのことを好きだって言ってるって思ってるんですか?」
「……そうは言わないけど」
「だったら信じてあげてくださいよ。シーナは本気で、他の誰でもない佳奈さんのことが好きだってことを」
健一はそう言ってから、日奈がどれだけ真剣な想いでいるのかを改めて思い出す。
他の誰でもない佳奈だからこそ、日奈はシーナになって、その想いを|遂《と》げようとしてるのだ。
他の誰かでいいなら、日奈はこんなにも苦しい想いをしてるはずもないのだ。
「……うん。そうだよね。なのに日奈と私を比べるなんてシーナさんに|失礼《しつれい》だよね」
そしてその言葉は佳奈の心に届いたらしい。
「だと思いますよ」
それで健一はホッとした気持ちになる。
「なんかさー、絹川ってさ、時々、格好いいよね」
なのにそんな様子がツバメはちょっと面白くなかったらしい。
「なんだよ、それ?」
「自分のことにはむにゃむにゃした感じなのに、シーナさんのことになるとビシッと『信じてあげてくださいよ』とか言いだしたりとか」
「悪いのかよ?」
そんなことはないと否定することは出来なそうだけど、ツバメに言われるとどうにも|釈然《しやくぜん》としないのはどうしてだろうか。
「普段もそうだったら千夜子ももう少し安心して暮らせるんじゃないのってだけ」
ツバメはそう言って、千夜子の方に同意を求める。
「……別に心配して暮らしてなんかいないんだけど」
でも千夜子は明らかに同意してない様子だった。
「え? そう? あ、むしろ逆? 普段から格好良かったら、そっちの方が心配だよね?」
「……普段から格好いいと思うんだけど、私は」
それに千夜子は小さな声で反論したようだった。
「そう?」
ツバメは不思議そうな顔をして、改めて健一の方を観る。
「だから鍵原は本当、どうして欲しいんだよ? 別に鍵原が俺のことどう思っていようがどうでもいいけどさ」
「どうでもいいなら、どうでもいいじゃない」
「それをいちいち口にされると気になるってことだよ」
健一は|呆《あき》れた気持ちでそう呟くが、ツバメがそれで納得してくれるはずもなく。
「だったら、もっと二人の世界を作ってればいいじゃない。私の話になんか耳を|貸《か》さなければいいだけでしょ?」
そしてッパメは千夜子を|引《ひ》っ|張《ば》って健一の|側《そば》まで|連《つ》れてくる。
「な、なに、ツバメ?」
「私が話しかけるのも気が引けるくらい仲良くしてればいいのってことでしょ」
そしてダメ|押《お》しとばかりに健一にぶつかるくらいに千夜子をツバメは押してきた。
「……す、すみません、健一さん」
それでも|謝《あやま》るのは千夜子の方だ。
「いえ、千夜子ちゃんが気にするようなことじゃないですよ」
健一はそんな千夜子を|支《ささ》えながら、ツバメの方を睨む。でもツバメはだから何? と言った顔をすると日奈の方へと歩き出す。
「……まったく」
なので健一はもうツバメのことを気にするのは止める。
「本当、すみません」
そんなところに千夜子の|謝罪《しやざい》の言葉が聞こえる。
「でもまあ、鍵原の言う通りでもありますよね」
だから千夜子と話す方が色々な意味でいいだろうと健一は考え直す。
「……え?」
「千夜子ちゃんと仲良くした方がいいですよね。せっかくこうして皿緒に来たんですから」
「……ですよね」
千夜子はそう言いながら健一と一度離れ、それから手を伸ばしてきた。それに気づいて健一は千夜子と手を繋ぐ。
「千夜子ちゃんは今日はどうでした?」
ちょっと|照《て》れるなと思って、ツバメたちの方を意識したが、向こうは向こうで何か別の話題で盛り上がってるらしい。だから健一は千夜子の方を観る。
「え? あ、スパの話ですか? えっと……楽しかったですよ?」
「なら、いいんですけど」
というか、そうでないとちょっと困る。
「でもやっぱり何か違うなとも思いました」
「そうなんですか?」
でも安心していいところでもなかったらしい。
「健一さんと一緒に来たのに別々で、私はまだツバメたちと一緒だったから楽しかったですけど、健一さんはどうなんだろうなってそんなこと考えてました」
「ああ……そういうことですか。でも僕も面白かったですよ。ちょっと時間が|余《あま》り|気味《ぎみ》だったのは確かですけど、こういうところ来たの初めてでしたから」
健一はなんだかまた千夜子に自分のことを心配させてしまったのかなと感じる。
「健一さんは家族ではあまり外出したりしないんですよね」
「ですね」
千夜子の話に全くその通りだなあと健一は思う。家族でスパに出かけるなんて今までもなかったし、これからもないだろうと感じる。
「そう言えば、この間、来た時の話なんですけど」
「はい?」
「|偶然《ぐうぜん》なんですけど、ホタルさんが一緒だったんですよ」
「……ホタルが?」
それはどんな偶然だろうと健一は思ってしまう。
「ホタルさんの友達で|三条《さんじよう》さんって人がアールアクアの常連なんだそうです。それで時々、一緒に来てるとか」
「そうだったんですか」
千夜子のその話に健一はだったら今日も来てた可能性があるのだろうかと考えてしまう。
「その時、聞いたんですけどホタルさん、今度、|結婚《けつこん》するそうですね」
「……みたいですね」
そのことはもちろん知っていたが、千夜子の口からそれを|告《つ》げられるとやはりちょっとショックだったかもしれない。
「しかもその……出来ちゃった結婚だって話で……私、そんなにホタルさんと仲いいわけじゃないですけど、本当に|予想外《よそうがい》でびっくりしちゃったんですよね」
「……まあ、びっくりしますよね」
健一は静かに|相《あい》づちを打ちながらも、さすがに自分が|動揺《どうよう》してるのをハッキリと感じた。
蛍子が出来ちゃった結婚をする。その本当の意味を健一は知っていたからだ。
「ホタルさんてそういうイメージが全然なかったし、健一さんもそんなこと一言も言ってなかったから:・…やっぱり秘密にしてうって言われてたんですか?」
「そうですね」
健一はそれはどこからどこまでの話だろうかと考えてしまう。でも千夜子の質問はそんなに難しいことを聞いてるわけではなかった。
蛍子が結婚すること。そのことだけだ。
「だったら、いいんですけど」
だからなのだろう。千夜子はあっさりそのことは納得した様子だった。
「すみません。黙ってて」
「いえ、いいんですよ。結婚の話もホタルさんから直接聞いたわけじゃなくて、後から来た三条さんに聞いたんですよ。ホタルさん|自身《じしん》が話したくないことを、健一さんが代わりに話すのも変ですし」
「なら、いいんですけど」
「だから秘密にしろって言われてたならそれでいいんです」
千夜子はそれで少しホッとした様子を見せた。どうやら健一に余計な心配をさせまいとかそういうことではなく、本当にそれでいいと思っているらしい。
「そうじゃないかもしれないって思ってたんですか?」
その理由がわからず、健一は思わず尋ねてしまう。
「え? えっと……その、多分、そうなんだろうなあとは思ってたんですけど……」
「でも、違うことも考えてたんですね」
「あの……この間、|狭霧《さぎり》ちゃんに会ったんですよ」
千夜子は|蛍子《けいこ》の話をしてたはずなのに、なぜか|刻也《ときや》の妹、狭霧の話を始める。
「狭霧さんに、ですか」
健一にはその繋がりがさっぱりわからない。
「その時、狭霧ちゃん……の話はどうでもよくてですね」
なのに千夜子は何かを言いかけて口をつぐんだ。心なしか顔が赤いように見える。
「えっと……なんの話なんですか?」
「いえ、その……私も狭霧ちゃんもそういうキャラなのかなあって話をしたんです」
「そういうキャラ?」
本当に何の話なのか健一にはわからなかった。蛍子の話と|未《いま》だにどう関係あるのか見えてこないのだ。
「出来ちゃった結婚とかそう言ったことを話したらいけないキャラです」
「……話したらいけないキャラですか」
健一はやっと繋がったらしいということだけは理解できたのを感じる。
「出来ちゃった結婚ってことは、その……子供が出来るようなことをしてたってことじゃないですか。そういうことを私にするのをみんな、|遠慮《えんりよ》してるみたいなんですよね。だから健一さんもホタルさんのことを話しづらかったのかなあって心配してたんです」
千夜子の話は健一には正直、.ピンと来なかった。全くと言っていいほど事実から遠い心配だったからだ。
「いや、本当にそういうことじゃないですよ」
本当はもっともっと別の理由だ。
健一と蛍子が子供を出来るようなことをした。その結果、絹川家は|崩壊《ほうかい》してしまった。なのにまた健一と蛍子は|過《あやま》ちを|繰《く》り|返《かえ》したのだ。
そのことを千夜子に言う気にはとてもなれなかった。それだけのことだ。
「ですよね」
でも千夜子はそんな理由だとは|夢《ゆめ》にも思っていないらしい。それも無理はない。健一はそのことを少しも千夜子には話したことがないのだから。
話すべきこととは思わない。そんな話をされても千夜子だって困るだろう。それにもう終わったことなのだ。
もう蛍子と会うことはない。偶然、すれ違うことはあっても、自分たちの|意志《いし》で会うことはない。そう約束したことだ。それを今更、千夜子に話してどうなると言うのだろう。
それをして|救《すく》われるのはきっと健一だけだ。一人、秘密を|抱《かか》えて|罪悪感《ざいあくかん》に|苛《さいな》まれることから解放される。
でもそれは自分のしたことの責任を千夜子にも押しつけるのと同じことだった。
蛍子が今でも好きだから――と千夜子に別れを告げたいわけじゃない。蛍子だってそんなごとを望んではいない。
蛍子は健一には千夜子とちゃんと付き合っていて欲しいと思ってるはずだ。自分のせいで二人が別れたと知れば、蛍子は苦しむことになるだろう。
「でも……俺、あの時は……」
それで健一が思い出したのは蛍子のことでも、千夜子のことでもなかった。
TVの|収録《しゆうろく》の日のことだ。収録の前にシーナに言われたことだ。
俺たちは全部、手に入れるぜ――と。
それに自分だって同意したはずだった。全部、手に入れるとライブに|挑《いど》んで、|見事成功《みごとせいこう》させたはずだ。
なのに今の自分はなんなのだろうと改めて思う。
あの時の自分は普段の自分とは違っていた。絹川健一ではなくシーナ&バケッツのバケッツだった。
あの時の本当になんでも出来るんじゃないかという感覚は今はない。
蛍子のことを黙ってることだけで|一杯《いつぱい》一杯になってる。そんな自分に全部、手に入れるなんて|到底《とうてい》出来るとは思えなかった。
「……どうしたんですか?」
気づくと千夜子が心配そうに健一の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》んでいた。
「え、あ、いや……」
「私が変なことを言ったせいですか?」
「いえ、全然関係ないことを思い出して、それで……」
実際、千夜子のことではなかった。
「シーナさんのこと、ですよね?」
なのに千夜子にはそれなりに心当たりがあったらしい。
「……ですね」
「|頑張《がんば》りすぎないでくださいね」
そして千夜子は|突然《とつぜん》、そんなことを言い出した。健一が何を考えていたのか確認もせずに。
「あ、はい」
なので健一は|張《は》り|詰《つ》めてたガスがふっと|抜《ぬ》けたような|脱力感《だつりよくかん》を覚える。
「頑張るのはいいことですけど、頑張りすぎるのはよくないです」
「……はい」
それでも健一は千夜子はなんの話をしてるのだろうかと考えてしまう。ただ自分が難しい顔をしてたので、|一般的《いつぱんてき》なアドバイスを|贈《おく》ってくれてるだけなのかもしれないが。
「お父さんに言われたんですけどね。頑張るのが目的になったらダメだって」
「はあ」
「何か目的があって、それを|達成《たつせい》するために頑張ってるはずなんです。どんなことでも。私の詰で言えば、お|弁当《べんとう》のことですよね。私が健一さんに喜んでもらいたくて始めたことですけど、私、気づくともっと料理が|上手《うま》くならないとってそれぼかり考えていて。でもそれもやっぱり|手段《しゆだん》でしかないんですよね。上手い方が喜んでもらいやすくなるけど、でも私が料理が上手くなるかどうかじゃないんですよね」
「そうですね」
千夜子の話はもっともだったが、やはり健一には自分の考えていたこととそれがどう繋がるのかはよくわからなかった。
「家の台所で|悪戦苦闘《あくせんくとう》するよりもっと大事なことがあるはずだって、お父さんに言われるまで私、忘れてたんですよね。健一さんが喜ぶのは|美味《おい》しい料理じゃないってことに。健一さんはちゃんと言ってくれてたのに、私が作ってくれるならそれが嬉しいって。なのにそれじゃダメなんだって、私、ずっと関係ないことをやって、それで上手く行かないって苦しんで。当たり剛なんですよね、関係ないことやってたらダメなんて。なのにそんなこともわからず、私、一人で苦しんでたんです」
千夜子は|時折《ときおり》、健一の様子を見ながらそんなことを話し続ける。
「シーナさんのことで何を|悩《なや》んでるのかまでは私はわかりませんけど、多分、さっきの健一さんは頑張りすぎてたんだと思います。そういう顔をしてたんです。私がお父さんにからかわれた時と同じ顔なんです、さっきの」
「……そういうことですか」
健一はやっと千夜子の言わんとすることが理解できた気がした。
「だから、頑張りすぎないでくださいって。それだけなんですけど」
千夜子はそこまで言い終えて、|緊張《きんちよう》が|解《と》けたらしい|笑《え》みを浮かべる。
「頑張ってるんですかね」
千夜子のそんな|気遣《きつか》いは嬉しかったけれど、健一はそれを|素直《すなお》に受け取れなかった。
頑張るどころか、自分が何も出来ないんじゃないかと不安を感じていたところだったからだ。
でも少し考えてみれば、それは実は同じことなのかもしれないとも思う。
出来もしないことをしなければいけないと思いこむ。それこそが頑張りすぎるという状態なのかもしれない。
「頑張ってると思いますよ」
そして千夜子にとってはそんなことはずっと前からわかっていたことのようだと健一は彼女の返事から感じる。
「どうしてそう思うんですか?」
だから健一はその理由を知りたいと思った。|迷《まよ》い無く、健一が頑張ってると答えられる、その理由を。
「シーナ&バケッツのファンが|増《ふ》えてるからです」
千夜子はそれをやはり当たり前のことのように答える。
「ファンが増えていると頑張ってるってことになるんですか?」
「頑張るって言うのは、今は出来ないことを出来るようにするってことです。|自《みずか》ら望んで成長するってことです。シーナさんやファンの|期待《きたい》に|応《こた》えたいと思っていて、ファソが増えているなら、それが何よりの|証拠《しようこ》……だと思うんですけど」
千夜子の言葉は最後の方は少し自信なさげに聞こえた。でもそれは答えに疑問があるというよりは、少ししゃべりすぎたかもしれないという彼女なりの遠慮だったのかもしれない。
「ファソの数が増えてるのはただの結果だと思ってました」
健一はそう言いながら、確かにそうなのかもしれないとも感じる。
ファンの期待に応えてきただけ。そんな風に思っていたけど、それは自分が考えていたほど、当たり前のことではないのかもしれない。
「いい結果ですよね」
千夜子は健一の言葉を使って、さっきまでの話を言い直したようだった。すごくシンプルで、珍しい言葉ではないけれど、そう思っていなかった自分に健一は驚きさえ感じる。
「そう、ですよね。いい結果なんですよね」
いい結果が出てること。そのことこそが何よりの証拠なのだ。
「はい。いい結果なんです」
千夜子は嬉しそうに笑みを浮かべた。それはやっと健一に言葉が届いたことを感じ取っての|安堵《あんど》の笑顔だったのかもしれない。
「いい結果、なんですよね」
頑張ってるなら、それは何かの形で|現《あらわ》れる。それが千夜子の|持論《じうん》であるらしい。そしてそう言われてみれば、健一は確かに頑張っていた気がしてきた。
ライブの時、伸吾が話しかけてくれた。それは頑張ったからだ。
シーナ&バケッツのライブに佳奈が来たことも、|美里《みさと》の期待に応えて来たからだ。美里はバケッツのファソだった。とすれば、佳奈が来ることになったのはバケッツの、健一の頑張りによるものだったと考えてもいいのかもしれない。
偶然に助けられてきたことも確かだけど、だからって|全《すべ》てが運だったなんてことはなかった。
目分は何にもしてないとすら思っていたげど、そうじゃなかった。
日奈の恋を応援するために。そのためにずっと頑張ってきていたのだ。
TV収録の時、シーナはぶっつけで行くと言った。でもそれはなんの|準備《じゆんび》もなくという意味じゃない。
何度となくやったライブの|経験《けいけん》、そしてシーナ&バケッツ目当てにやってきてくれる人たち。
それがいたからこそ出来たことだった。
それがそこに|揃《そろ》っていたことは偶然でも運でもない。健一と日奈が頑張ってきたからだ。
「ちゃんと頑張ってる時は|辛《つら》くないんですよ。辛いのは頑張れないからなんです」
千夜子のその言葉に健一は、ライブが出来なくなってた頃のことを思い出す。
ライブをしているのは楽しかった。日奈の恋を応援するためにと始めたことだったから、佳奈が来るまでは|半信半疑《はんしんはんぎ》だったのは確かだけれど、でも楽しかった。
辛かったのは、シーナが来なくなり、ライブが出来なくなった時期だ。でもそれはライブが出来なかったからじゃなく、日奈を応援することが出来なかったからだったのだ。そんなことに今更のように健一は気づく。
「そうか、だから……だったんだ」
そして健一は今度は蛍子のことを思い出す。
離ればなれになり、何も出来なかった頃のことを。蛍子のために何をすればいいのかわからなくて、何も出来なかった。その時のことを。
「もっと早く気づいていれば、何か出来たのかな」
もうそれは|全《すべ》て|過去《かこ》のことだったけれど、健一はそれでも考えてしまった。
蛍子のために頑張れていれば、少し違った今があったんじゃないか、と。
「今からでも平気ですよ、きっと」
そんな言葉に健一はハッとして千夜子の方を見る。
千夜子は健一が何を考えているのかまではわかってないはずだ。なのに冴子と同じことを千夜子は言ったのだ。
それは別の形ではあったけれど、同じことを伝えようとするものだった。
その言葉自体はけっこうありふれたものかもしれない。でもそれは今、自分が必要としている言葉だったのだ。
「まだ、結論は出てないんですよね」
だから健一は心が静かになるのを感じる。だからだろうか、冴子の別の言葉を思い出した。
健一を救えるのは、千夜子だけだと言った彼女の言葉を。
大海さんだけが特別なのよ――と冴子は言った。その時はなんのことか健一にはわからなかった。今もどうして冴子がそこまでの確信を持っているのかはわからない。
でも、きっとそうなのだろうと思えた。
千夜子だけが幽霊マンションとは関係ないところにいて、でも健一の|側《そば》にいる特別な人間なのだ、と。
「でも本当にダメそうなら、私に相談してください」
それが伝わったのか、千夜子はふと|和《やわ》らいだ表情を浮かべる。
「はい」
だから健一は自分も笑って、千夜子と繋いでる手にちょっと力を込めた。
この手を離してはいけないと強く思いながら。
○
にもかかわらず、次の日、健一が手を|繋《つな》いで出かけることになったのは別の人間だった。
「それにしても、なんで|中華街《ちゆうかがい》なんですか?」
そこへ向かう電車の中でそれを聞くのも今更な気もする。
「んー? ほら、中華|鍋《なべ》を一緒に買いに行こうって|昔《むかし》、言ったよね?」
しかも聞いてみたところで、綾がイマイチわからない返答をするのはいつものことだった。
「いや、別に中華鍋は中華街まで行かなくても買えるというか、中華街に中華鍋って売ってるんですか?」
「中華街なんだから売ってるんじゃないかな」
「とりあえず調べたわけじゃないんですね?」
「うん。だって、中華だよ?」
「まあ、中華ですからねえ」
さすがに中華街のどこかには売ってるだろうけど、それよりはもっと|調理器具《ちようりきぐ》を|専門《せんもん》で売ってるようなところに行った方が確実な気がする。
「あと、健ちゃんにさ、ラーメンの作り方を習おうと思ってたからかな」
「……それは別に1301で|済《す》むんじゃ」
「その|辺《あた》りもあって頭の中が中華っぼかったんだと思う」
「頭の中が中華ですか」
なんとなく言わんとすることはわかるが、そこだけ取り出すとかなり変な想像をして変な感じがしてしまう。
「それで錦織さんに中華街の話をしたら、だったらって知り合いの人の中華料理屋さんを紹介してくれたんだ。だから健ちゃんと一緒に行こうかなって言うのもなんか変かな?」
「いえ。最初からそう言ってくれればよくわかったような」
健一はそう言いながら、やっぱりなんか変かもしれないなあと感じる。結果はそうでもないが最初の部分がどうにもおかしい。
でもまあ、そんなところが綾らしいという気もする。最近はちゃんと話が通じるようになってきたと思っていたが、なんだか一緒に|神宿《しんじゆく》に買い物に行った時に戻ったみたいだった。
綾は久々に一緒に出かけられるということで浮かれているのかもしれない。
「健ちゃんのパイト先の人とも知り合いらしいよ、その人」
綾は自分でもよくわかってない感じでそんなことを言い始める。
「じゃあ|辻堂《つじどう》さんたちとも知り合いなのかな」
「辻堂さんって誰?」
「錦織さんと早苗さんの知り合いで、世界的なパティシエの人なんですけど」
「じゃあ、きっとそうじゃないかな」
綾にはその辺りを説明してもよくわからないようだった。まあ、綾からすれば知らない人同士の話だしどうでもいいことなのだろう。
「となると、その人も相当にすごい人なんだろうなあ」
「錦織さんが中華街に行くならってわざわざ紹介してくれた人だから、普通の人ってことはないと思うけどね」
綾の言葉は素直に納得できるものがあった。エリが|中途半端《ちゆうとはんぱ》な人や店を綾に紹介するわけはない。
「本当、すごい人ばっかりなんだなあ、錦織さんの知り合いって」
それが|仕事柄《しごとがら》ということだけならまだわかる。でも実際はそうではなく、高校時代の友人とかクラスメイトとかそういう繋がりなのだ。
「それって|類《るい》は|友《とも》を|呼《よ》ぶってヤツかな」
「多分、そうなんでしょうねえ」
そういう意味では綾や十三階の住人たちを思わせる。こっちはすごいというよりは変だという繋がりなのかもしれないけれど。
「ま、会えばわかるよ、会えば」
そしてそんなことは考えてもしょうがないとばかり綾がそんなことを言った。
「ですね」
だから健一はそれに素直に納得して、その人物に会える時を楽しみにすることにした。
○
中華街というと|四湖浜《よこはま》にあるというイメージで、四湖浜駅から歩いて行けると思っていたが実際にはそんなことはちっともなかった。
四湖浜駅からさらに数駅電車に乗って、|最寄《もよ》り駅についても駅からけっこう歩かなければ、中華街までは行けない。駅前に門があるけれど.、そこからまだまだあるのだ。
「……この辺りまで来るとさすがに中華街っぽいですね」
三つ目の門が見える所まで歩いてきて、健一はやっとイメージ通りの|景色《けしき》になってきたなと感じる。|途中《とちゆう》、学校の間を歩くことになった時はどうなることかと思ったが、そこからそのまままっすぐ進んだだけで一種の|異空間《いくうかん》が待ち受けていたという感じだった。
と言っても、それは本当によく写真などで見るいかにもな中華街というところだった。駅前にあったのよりもう一回り大きな門があって、そこごこに肉まんやごま|団子《だんご》を売ってるお店がある。駅前ではそんなに目立ってなかったが、ここまで来るとけっこうな人がいた。どうやら別の駅からでも来れるらしいなと健一は感じる。それとも来たら帰らず、ずっとうろうろするような場所なのかも。
「そうだねえ。ここがきっとテレビで|映《うつ》す時に使うところじゃないかな」
そして綾は何か|手帳《てちよう》のようなものを見てから、辺りをキョロキョロと見渡す。どうやら何か調べてきたものを|書《か》ぎ|留《と》めてあるらしい。落とさないように|紐《ひも》がついていて首から|提《さ》げている辺りは|見栄《みば》えとしてはどうかと思うが、綾の場合、それくらいの|保険《ほけん》は必要な気もする。
実際、その手帳の助けなしにここまで来られたかが疑問だったことを考えると、綾が自分で用意したというよりはエリが綾のために用意してくれたものなのだろう、きっと。
「で、|肝心《かんじん》のお店はどこにあるんですか?」
それを健一は今もまだ知らなかった。地図もあるし大丈夫だよと綾が言うので、お店の名前も何も聞いてなかったのだ。
「ここを右に曲がって行くみたい」
綾は手帳をじっと確認してから、言った通り右の方へと歩き出す。健一は手を繋がれていたので綾に引っ張られる形で歩くことになる。
「その先は?」
「もうけっこう近いみたいだよ。次の次の曲がり角を左に曲がって、後はまっすぐ行けば右側に見えるんだって」
「次の次を左で……」
そんなに|複雑《ふくざつ》ではないが、実際のルートを頭の中で想像するのは|困難《こんなん》だった。なにせ来たこともない場所だ。でも綾の方が意外に|余裕《よゆう》そうな顔をしている。
現にもう手帳は見ていない。もうすっかりそこまでの道のりを|記憶《きおく》しているらしい。
女性は地図を覚えるとかそういうのは苦手みたいな話を聞いたことがあるが、綾はそういうわけではないらしい。よそ見が多くて、その後、何をしてたか忘れてしまうというそれ以前の問題があったから綾はその手のことが|苦手《にがて》なイメージがあったが、図面を記憶したり、それを頭の中でいじることに関しては|超人的《ちようじんてき》な能力を持っているのかもしれない。
「そういえば、健ちゃん」
でもやっぱりそのままお店まで行けるわけではないらしい。綾が|不意《ふい》に立ち止まる。
「……なんですか?」
「ここに|飯店《はんてん》ってあるでしょ?」
綾は左側の大きな|建物《たてもの》を|指《ゆび》さす。
「はい」
その先にはその建物の通りの大きさの|看板《かんばん》があった。どうも中華街は|横長《よこなが》の看板が好きらしい。そして、そこには確かに綾の言うとおり、飯店の二文字があった。
「飯店ってなんだか知ってる?」
「飯店と言うくらいですから、レストランか何かじゃないんですか?」
なにせ飯のお店だ。ご飯を食べさせてくれる所だろうと考えるのが自然だろう。
しかしそう答えてから、改めて建物を見てみると、どう考えてもレストランという感じではなかった。大ぎいし、何より高い建物だった。
一階は確かにレストランという感じだったが、二階より上はそうではないらしい。明らかに二階より上は|窓《まど》の|間隔《かんかく》が|狭《せま》い。
そもそも十何階も全部レストランなんて、いくら中華街とは言え変だろうと感じる。とすれは一体、この建物はなんだろう?
「ホテルなんだって」
綾が疑問の答えを教えてくれた。
「ホテル?」
意外な答えなので聞き返してしまうが改めて見てみると確かにそんな感じがする。
ホテルの一階にレストランがあると考えれば、それは普通のことのように思えた。
「|泊《と》まるところだよ」
「それはわかりましたけど、なんでホテルなのに飯店なんて字なんですか?」
「さあ? 中国ではそう書くってだけじゃないの?」
「知ってて言ったんじゃないんですか?」
「うん? テレビで飯店って書くけどホテルなんですよーって言ってたから、健ちゃんにも教えてあげようと思っただけ」
「……それはありがとうございます」
知らなかったことなので教えてもらえたのは嬉しいが、イマイチすっきりしないなとも感じる。
「でね、錦織さんがここに部屋を取っておいてくれてるらしいから、中華街をうろつき|疲《つか》れたら|一休《ひとやす》みすればいいって」
そして、それが綾の本題だったらしい。
「なるほど」
とは言え、中華料理を食べに来たのだし、それで歩き疲れたりするものなんだろうかなんて思ってしまう。まあ、中華鍋とおみやげを買う必要はあるので、適当に買ったところでいったん、部屋に置いておけるとかは助かる気もする。
「というわけなので、ここはこの辺にして、この先のお店に行くよ」
そしてそんなことを考えてる問に綾は次の行動を始めたらしい。今日はなんだか本当に綾のナ。ヒに|頼《たよ》りっぱなしだが、意外に順調に目的地を|目《めざ》指せている。それは改めて考えるとすごいことのような気がする。
「あ、はい」
綾がちゃんと外を歩けるようになったのか。それともエリのナビゲーションに何か秘密があるのか。その辺りはわからないが、綾はよそ見をせずに進んでいく。
「ん? 健ちゃん、どうしたの?」
それで綾のことをじっと見ていたせいだろう。綾が|不思議《ふしぎ》そうな顔をして健一の方を見る。
「いえ、その、今日はやけに順調だなあって。|昔《むかし》はビデオを|借《か》りに行くだけで何時間もかかったのに今日は|遠出《とおで》してるのに無駄な時間がかかってないじゃないですか」
実際、遠いので移動に時間はかかってるが、|寄《よ》り|道《みち》らしい寄り道はしていない。
「それは健ちゃんが手を繋いでくれてるからだよ」
「そうなんですか?」
綾はその答えにかなり自信を持ってるみたいだが、健一からするとなんのことかさっぱりわからない。
「だってずっと手を繋いでたでしょ?」
そして事実である以上、それに|詳《くわ》しい理由などどうでもいいというのが綾の考えらしい。しかし手を繋ぐくらいなら以前にもしてたし、その時はもう少し寄り道をしてた気がする。
「それだけで寄り道しなくなるんですか?」
「それだけじゃないけど、けっこう重要なことだと思うんだけどな、私は」
「……まあ、その辺りは実際に|効果《こうか》が上がってるみたいなのでいいですけど」
そして健一は出かける前に綾が手を繋ぐことにこだわったのを思い出す。
千夜子とのことがあったので、どうかなとも思ったが綾はそうじゃないと|迷惑《めいわく》をかけるからと繰り返していた。
「健ちゃんは手を繋ぐの嫌い?」
「嫌いってことはないですけど、やっぱり慣れないですよね」
「それってドキドキするってこと?」
「まあ、ドキドキもしますけど、そわそわするというか……」
こんなところをツバメに見られたらどうしようかとかは考えてしまう。まあ地元じゃないのでここまで来ればそんな心配もほとんどいらないとも思うけれども。
「じゃあ、|腕組《うでく》もうか?」
でも綾はそんなことは少しも心配してないらしい。
「……そっちの方がドキドキすると思うんですけど」
そして綾の提案は|逆効果《ぎやくこうか》としか思えないので、健一はそれを|指摘《してき》する。
「うん。ドキドキするよね」
でも綾にとってはそっちの方が良いということらしい。言われてみれば、それはそうだなあという感じがする。
にっこりと笑ってそんなことを言われると、なんだかそれに応えない方が悪いようなそんな気分にすらなる。
「腕組んだ方がいいんですか?」
なので、とりあえず尋ねてみた。
「うーんと……とりあえず、いいかな。手を繋いでもらってないとよそ見しちゃうかもしれないし」
でも綾は自分で言い出したことなのに、それに否定的な返事をする。
「そういうものですか?」
その辺りも|含《ふく》めて健一は|戸惑《とまど》ってしまう。
「とりあえずお店につくまでは手を繋ぐってことで」
「……はい」
何かのおまじないなのだろうか? 健一はそんなことを思うしかなかった。
目的地を知ってるのは綾だけなのだから健一としては順調についてくれる方が嬉しいのだが、いまいち|釈然《しやくぜん》としない展開だ。
とは言え、もうすぐみたいだし、そこを|追及《ついきゆう》するよりも大人しくついて行った方がいい気はした。
エリや早苗の共通の知り合いらしい人がどんな人なのか想像する方が大事な気がした。
その時は。
でもお店の|扉《とびら》には|臨時休業《りんじきゆうぎよう》の|札《ふだ》がかかっていた。
「……閉まってますね」
「だね」
「ここで間違いないんですか?」
そう思わせるだけのお店ではあった。あまり大きくないし、|看板《かんばん》らしいものもない。知らなければうっかり通り過ぎてしまいそうで、かなり想像していた店とは違う。
それにエリが段取りをしてくれたなら、こんな|間抜《まぬ》けなオチにはならないだろうと思えてなbない。だから何かの間違いじゃないかと健一は考えたのだが、綾には確信があるらしい。
「うん。ここだよ。この写真の通りでしょ?」
綾はそれで手帳を開いて、健一の方へ見せる。綾の言うとおり、そこには目の前の店がちゃんと|写《うつ》っていた。違うのは臨時休業の札がかかってるくらいだ。
「みたいですね」
とすると、本当に|不測《ふそく》の|事態《じたい》だったということなのだろうか。少なくとも数日前から休みだったという感じではない。
健一は辺りを見渡す。それで小さな黒板を発見する。お店の入り口の横にある普段ならランチメニューとかを書いてあるところだ。そこにどうやら臨時休業の理由が書いてあるらしい。
それを健一は読むことにする。
「……ふむ」
「どうしたの、健ちゃん?」
綾がそんな健一の行動を不思議そうに尋ねてくる。
「店長さんが|事故《じこ》で入院しちゃったみたいですね」
理由はけっこう長く書いてあったが、要するにはそういうことらしい。
「それって|怪我《けが》をしちゃったってことだよね?」
「ですね。この店長って人が、錦織さんの知り合いの人なんですかね?」
「だと思うよ。ほとんど一人でやってるようなお店だって錦織さんが言ってたから」
「……じゃあ臨時休業でも|仕方《しかた》ないですね」
それで健一はこの店が大きくない理由がなんとなくわかる気がした。
人気がないのではなく、きっとここの店長という人は、あまり|大勢《おおぜい》を|雇《やと》ってまで店を大きくしたくないのだ。その理由まではわからないけれど、|頑固親父《がんこおやじ》のラーメン屋のようなそんなこだわりを健一は感じる。
「とは言え、どうしたもんですかね、これは……」
事情は理解したが、予想外の展開に健一は次に何をすればいいのか考えてしまう。
「このこと、錦織さん、知ってるのかな?」
そこに綾の疑問が聞こえてきた。
「知ってたら行っても|無駄《むだ》って言ってきそうなものですよね」
「そうだよね」
それにこの店長さんは錦織さんの知り合いであるらしい。知り合いが入院してるとなれば教えてあげた方がいいような気がする。
「ちょっと電話してみます」
それで健一はPHSを取り出すと、電話帳をめくってエリの番号を探した。
「錦織さんに?」
コ応、伝えておいた方がいいかと思うので」
それから健一は通話ボタンを押して、エリが出るのを待つ。
{もしかしなくても今、中華街よね? 一|挨拶《あいさつ》もナシにいきなりそんな質問が飛んできた。
「えっと、あ、あの……錦織さんですよね?」
なのでさすがにちょっと不安になって聞いてみる。でも|冷静《れいせい》に考えてみると、そんなことをしてくるのはいかにもエリらしかった気もする。
{ごめんなさいね。予約キャンセルって話がこっちに来てて、伝えようとはしてたんだけど、上手くつながらなかったのよ}
「ああ、そうなんですか。こっちもちょうどその話をしようと電話したんですけど……じゃあ知ってるんですね?」
{理由までは聞いてないけど、お店が開けられないって話はさっき}
「どうもですねえ、店長さんが事故で入院しちゃったらしいんですよ」
{……事故ねえ。それはまた|随分《ずいぶん》と|激《はげ》しい展開になっちゃったわね一エリはそれでもあまり|慌《あわ》ててる様子はなかった。
「えっと……お|見舞《みま》いとか行った方がいいですかね?」
{え? あ、それはこっちで行っておくわ。健一君だって初めて会うのが病院ってのも嫌でしょ?}
「嫌ってことはないですけど……まあ、知り合いってこともないですし、変ですかね」
{まあ、|機会《きかい》があればちゃんと紹介させてもらうわ。なので今日のところは、別のお店で食事して来てくれる? あ、|領収書忘《りようしゆうしよわす》れないでね? ちゃんと代金はこっちで|払《はら》うから}
「いやまあ、お昼くらいなら自分のお金で出せますけど」
{私が|奢《おご》るつもりで組んだ話なんだから、ちゃんと奢らせてよ。むしろお|詫《わ》びで何かしないとって思ってるくらいなんだから、ここで|自腹《じばら》切られた日にはどうしたものだかって感じよ一「……はあ。じゃあ、領収書もらっておきます」
{って言うか、ホテルで食べるといいわ}
「ホテルですか」
健一はそう言われて、途中で綾に聞いたホテルのことを思い出す。
{ご飯も|美味《おい》しいし、部屋代と一緒に私の方に|請求来《せいきゆうく》るようにしておくから。それならお金のことは心配せずに食べられるでしょ? }
「……じゃあそうさせてもらいます」
別にお金の心配はしてなかったのだが、きっとここはエリの言うとおりにすべきなんだろうなあと健一は思う。
{本当、ごめんなさいね。わざわざ出かけてもらったのにこんなことになっちゃって一そしてエリは改めて|謝罪《しやざい》の気持ちを口にした。
「いえ、錦織さんのせいじゃないですし」
でもそんなに気にするところだろうかと健一は思う。どう考えてもエリが心配すべきはその知り合いの|安否《あんぴ》の方ではないのだろうか?
{……だと、いいんだけど一なのにエリはなんだか自分のせいだと考えてるみたいだった。
「とりあえずホテルの方に引き返すことにします」
{そうね。じゃあこっちは今から連絡しておくわ}
「はい。お願いします。それじゃ、これで」
それで健一は電話を切ろうと思った。話も終わったし、後はエリの返事を待てばそれでいいと考えたのだが。
{ちょっと待って、健一君一エリはまだ話があったらしい。
「はい? なんですか?」
{健一君は早苗さんのところでバイトしてるのよね? }
「はい、そうですけど」
一体なんの話だろうかと健一は思う。エリが健一の|理解《りかい》を|超《こ》えた話をするのは今回に限った話ではないが、なんでこのタイミングでそんなことを確認して来るのか本当にわからない。
{だったら|幹久《みきひさ》には一度くらい会ったかしら? }
「いえ……一度も会ったことないですね」
なんでも早苗に頭が上がらないので、幹久はケーキを届けに早苗の喫茶店にちょくちょくやって来てるらしい。でも健一がバイトの時はなんだかんだで|咲良《さくら》が来ることになるのが常だった。なので健一からすれば、咲良が届けに来るものだという認識なのだが、改めて言われるとかなり妙な話だなと感じる。
{そう……一度も、か一それでエリは電話の向こうでため息にも似た息を|漏《も》らす。
「会ったことないとまずかったんでしょうか?」
{え? いや、こっちの話。ごめんなさいね、変な話しちゃって。綾も|退屈《たいくつ》してそうだし、話はこの辺にしましょう。それじゃね、健一君一そして健一がなんだかわからないままなのに、エリは電話を切ることにしたみたいだった。
=口われて見てみれば綾がこっちをじっと見ていた。
「あ、はい。それでは、錦織さん」
なので健一は慌ててそう告げると電話を切った。
「えっと……代わりにホテルで好きなだけ食べればいいって話でした」
そして綾の方を見て、|要約《ようやく》を告げる。
「ごめんね、健ちゃん」
なのに綾から出てきたのは謝罪の言葉だった。
「……なんで|謝《あやま》るんですか?」
「わざわざ来てもらったのに、こんなことになっちゃって」
「いや、綾さんが悪い|訳《わけ》じゃないですし……まあ、ちょっと楽しみにはしてましたけど、今日ほ綾さんを喜ばすために来たんですから、そんな申し訳なさそうな顔されても困りますよ」
それは正直な気持ちだった。
「それはそうなんだけど……」
でも綾が申し訳ないと思ってるのも正直な気持ちらしい。
「とりあえず立ち話もなんですし、ホテルに行きましょう」
なので健一は話を|逸《そ》らすことにする。
「じゃあ、道を戻ればいいのかな?」
綾は少し考えたような顔をしたが、すぐに|柔《やわ》らかい笑顔を浮かべた。
「みたいですね」
「じゃあさあ、後は健ちゃんにお|任《まか》せでいいよね?」
それから今度は綾が|意図《いと》のわからない質問をしてくる。改めて考えると綾とエリは似てるなあと思う。それがエリが綾に色々と教えてるせいなのか、|元々《もともと》何か通じる物があったのかはよくわからないけれど。
「……まあ、中華街には詳しくないですけど、それは綾さんも同じみたいですし。戻る道くらいは僕でもわかりますからそうしてくれていいですけど」
「それじゃ、腕組む?」
そしてさらに綾はよくわからない質問をしてきた。さっきはよしておいて、今はそうするという理由が健一にはやっぱりわからない。
「綾さんがそうしたいのであれば、どうぞ」
でもさっきから綾がそれをずっと|我慢《がまん》してたように感じられて、だから健一は|敢《あ》えて断らないことにした。元々、綾へのお礼のためのお出かけだったのだし、予定が|狂《くる》って落ち込んでる祓の提案を蹴るのはさすがに気が引けた。
「え? いいの?」
なのに綾は意外そうな顔をして聞いてくる。
「綾さんが言い出したんじゃないですか」
でも健一からすればそっちの方が意外という感じだった。
「でも健ちゃんって私がそうしたいって言うと、いつもダメって言うし」
「いつもではないと思うんですけど……ダメなことはダメと言ってるだけです」
「……そうかなあ。私がしたいことに限ってダメって言ってる気がするんだけどなあ」
そして綾は|拗《す》ねたような顔をする。
「えっと……腕、組まないんですか?」
なので健一はそれだけ言うと歩き出す。今まではずっと綾に引っ張られて来たが、今度は健一が引っ張る形になる。
「じゃあ、組むね」
綾がそう答えたかと思うと、急に綾の|感触《かんしよく》が健一の手から消えた。健一はそれに不安を覚え丸振り返ったが、そこには|間近《まぢか》に綾の顔があった。
腕を組むために少し歩く速度を上げたらしい。
「どうしたの、健ちゃん?」
そして尋ねるが早いか、綾は健一に|巻《ま》き|付《つ》くように腕を組んでくる。
「いや、その……ちゃんとついてきてるか心配になって」
「これでも心配?」
綾はそう尋ねながら、ぎゅっと健一の腕に自分の体を|押《お》しつけてきた。
「…・・dやっぱり腕組むのやめましょうか?」
健一は綾の柔らかさを感じて、今度は別のことを心配しなくてはならなくなった。
「いいって言ったのにー」
でも綾はそんな健一の心配の理由がわからず、口を|尖《とが》らせて|抗議《こうぎ》をするだけだった。
○
エリはそれなりと言っていたが、ホテルの食事はかなり|美味《おい》しかった。確かに少し日本人の|好《このみ》みとは違った味付けのものもあったが、それはやはり中華街という|場所柄《ばしよがら》、好みに合わせるよりは本場の味で出すというのが理由なのだろうと健一は感じた。
「……あの料理、けっこう高かったんじゃないですかねえ」
健一は食後、部屋に通されてそれを改めて感じた。というのはそのホテルが本当に|豪華《ごうか》だっ兀からだ。
ロビーからしていかにも中華な赤を|基調《きちよう》にした|荘厳《そうごん》なイメージだった。部屋はそれに反して汗風ではあったけど、二人でちょっと休むために使うにしては妙に広かった。想像以上のグレ-ドに健一は少し|腰《こし》が引ける思いだったが、綾はいつも通り、のんきな様子だった。
「うーん。でもまあ、錦織さんがいいって言ってたならいいんじゃないかなあ」
綾は普段はそう見えないけど世界的なアーティストなのだ。エリの|手腕《しゆわん》のおかげもあるがそ孔で年に|何億《なんおく》と|稼《かせ》いでいるらしい。となれば、このくらいのホテルを利用しても不思議はないりかもしれない。
「……ですかね」
とは言え、健一の方はただの高校生である。綾の知り合いなだけで、世界的なアーティストcもなければ、年に何億も稼ぐどころか、時給千円くらいのバイトで週に数時間働いてるだけり人間だ。さすがにちょっと|金銭感覚《きんせんかんかく》の違いを感じてしまう。
「それにしても広いねえ」
でもさすがに綾もこんなところに来たのは初めてらしい。
「ですねえ。腹ごなしに使うだけじゃ|勿体《もつたい》ない気が……」
入り口を入ったところだけでも十分広いのに、他にもいくつか部屋があるらしい。それを確かめるために健一は部屋の|奥《おく》の|扉《とびら》へと進んでみる。
「こっちは|寝室《しんしつ》みたいですね」
ダブルベッドなのだろうか。明らかに一人で|寝《ね》るのには大きなベッドが、少し|離《はな》れて二つ|並《なら》んでいた。
二つあるということは大きいけど一人用ということだ。何とも|贅沢《ぜいたく》な話だ。
「ちょっと寝ようかな」
綾はそんなことを言って小さくあくびをしたみたいだった。それを見ていたら健一もなんだか|釣《つ》られてしまった。たっぷり食事を|摂《と》ったせいで血がお|腹《なか》に|溜《た》まっているらしい。
「そうですねえ。まだ一時前ですし、少し休んでもいいかもしれないですね」
なので健一も|睡眠《すいみん》とまでいかなくてもちょっと横になるのはアリかなと思う。ライブの時間までに戻ればいいのだから時間はまだまだある。
「うん、じゃあ寝よ。うん、寝よ」
そして綾はまた健一の手を引っ張るように歩き始める。
「は、はい」
今日はなんだかリードされっぱなしだなと健一が思っていると、綾は手を離さないままでベッドに飛び込んでいく。
「うわっって」
健一はそれに引っ張られて|一緒《いつしよ》のベッドに転んで倒れる。
「健ちゃん、大丈夫?」
そんな健一をおかしそうに綾が見ていた。
「そう思うなら飛び込む前に手を離してくださいよ」
「でも手を離したら健ちゃん、逃げちゃうかなって思って」
「……逃げるって」
健一はそんな綾の言葉がなんとなくわかるような気がした。スパの帰り、千夜子に感じたのこ同じようなことを綾は感じてるのかもしれない。
「このベッド大きいし一緒でいいよね?」
やっと起き上がった健一の耳元で綾がそう尋ねた。
「……一緒に寝るんですか?」
確かに十分に大きいし二人で寝ててもうっかり落ちてしまうということはないだろう。でもてれとこれとは話は別な気もした。
「ダメ?」
「いや、まあ……いいですけど」
だけど健一はハヅキリとそれを|否定《ひてい》できなかった。いつもダメって言われてると綾に|指摘《してき》さ孔たことが気になっていたのかもしれない。ダメかと改めて尋ねられると、なんだか否定しがκいものを感じてしまう。
「じゃあ、健ちゃんはこっちね」
それで綾は安心したのか手を離すと、ちゃんと|枕《まくら》のある方へ移動していく。
「……はい」
健一は言われるままに綾の|隣《となり》に移動すると、改めて綾の顔を見る。
「どうしたの、健ちゃん?」
でも見たかったのは顔ではなかったかもしれない。|普段《ふだん》とは違ってちゃんとした服を着てることに健一は少し注意が行っていた。
「そのまま寝ると|搬《しわ》になっちゃいますよ?」
「あ、そっか」
言われて綾はベッドから|飛《と》び|降《お》りるとクローゼットの方へと向かう。
「……これかな?」
そしてそこを開いて中から.ハスローブを出して健一に見せる。
「だと思いますよ」
「健ちゃんも着る?」
「いや、僕はこのままでも平気ですから……って、綾さん?」
そして綾は健一の返事を待たず、服を|脱《ぬ》ぎ|出《だ》していた。
「なに、健ちゃん?」
「いや、その……いきなり服を脱がれても困るんですが……」
とは言え、そう言っても綾が気にしないのは健一もわかっていた。
「え? なんで?」
綾は不思議そうな顔をしながらも、服を脱いで下着姿になる。|不幸中《ふこうちゆう》の|幸《さいわ》いと言っていいのか綾はちゃんとブラジャーをしていた。その色が黒というのがちょっと気になったが、ちゃんど付けていてくれたことには|感謝《かんしや》したいと健一は思う。
「だからそう言いながら当たり前のように脱がないでくださいよ」
なので健一は視線を逸らすことにした。言っても綾が脱ぐのを止めないのだからそうするしかない。
「……別に見てもいいのに」
でもそれが綾には不満だったらしい。
「少しは|恥《はじ》じらいってものを持ってくださいよ」
「その方が健ちゃんが喜んでくれるならそうするけど」
「そう言う問題じゃなくてですね」
健一は綾を見ないまま、会話を続ける。
「私にはね、そう言う問題なんだよ、健ちゃん」
だからその声がすごく聞近に聞こえて健一は|驚《おどろ》いてしまう。知らぬ問に綾はすぐ後ろまで近ついて来ていたのだ。
「あ、綾さん?」
それでも健一は|振《ふ》り|返《かえ》ることは出来なかった。綾がその後、服を着直していた|気配《けはい》はなかった。バスローブくらいは着てくれただろうか。そんな時間は無かったような気がする。
あのままの姿で健一の方へと歩いてきた。そうとしか考えられない。
「私はいつも健ちゃんに喜んでもらいたいって思ってる。でもそれがよくわからないから、健りゃんを|怒《おこ》らせちゃったりするよね」
声はもう間近どころか、もう|触《ふ》れ|合《あ》うくらいの|距離《きより》に感じられた。
「いや、まあ、その辺はいいですけど……って言うか、今日は僕を喜ばすためのお出かけじゃぼくて、綾さんへのお礼だったはずで、僕のことはこの|際《さい》、どうでもいいって言うか……」
健一は|突然《とつぜん》の|事態《じたい》に明らかに|焦《あせ》っている自分を感じた。さっきまで|一緒《いつしよ》に寝ようと言われてもこんな風にドキドキはしなかった。
眠いからただ寝る。それくらいにしか思っていなかった。
なのに今は全然、別の意味に聞こえる。
「じゃあ私がして欲しいことを言ってもいいのかな?」
言葉と共に綾が健一に|触《ふ》れてきた。それで後ろから健一は|抱《だ》きしめられる形になる。
決して強くはなかった。でも十分だった。それだけで健一は逃げることはできなかった。
「……そのために来たはずなんですけど」
健一はそう答えながら、でも出来ることと出来ないことがあるとは思っていた。そして今、起ころうとしてるのは出来ないことの方であるとも感じていた。
なのにそれを口にすることは出来なかった。どころか心のどこかでそれを否定する声が響いていた。
――俺たちは全部、手に入れるぜ
それはシーナの声だった。
全部なんて手に入るわけはない。そんなことはわかってる。でも、そう信じたい。そして信した結果、あのライブの感動があったのだ。
信じなければ始まらない。それをシーナは|実践《じつせん》して見せてくれた。そしてそれを|後押《あとお》しして? れたのは冴子だった。
冴子が信じていれば|叶《かな》うことがあると教えてくれた。そして自分の考えを信じることも。
――絹川君は自分がおかしいと言うなら、ちゃんと自分のおかしさで判断するべきだよ。|世間《せけん》で悪いと言われてることをしたから自分が悪いと言うなんて……それこそ自分への裏切りだと思うそう言って冴子は綾や蛍子に対して健一がしたことを|肯定《こうてい》してくれた。
健一の言う「|非道《ひど》いこと一が二人を幸せにしたのだ、と。
「健ちゃんが|嫌《いや》なら、私、|我慢《がまん》しようと思ってた」
綾の声は|震《ふる》えていた。悲しそうだった。
「……はい」
だから健一はただ相づちを打つしかできなかった。
「でも私、健ちゃんとエッチがしたいってずっと思ってたんだよ」
「ですよね」
実際、綾はそれを|隠《かく》すようなことはなかった。いつもそう言ってたし、健一はそれが何かの|冗談《じようだん》とは少しも思っていなかった。
なのに健一はいつも綾との|接触《せつしよく》から逃げていた。
「エッチって二人で気持ちよくなってこそだとも思うんだ。でもね、やっぱり私、健ちゃんとエッチがしたい」
綾はそう言って健一に触れていた腕にぎゅっと力を込めた。そこから健一は綾の発する熱と|微妙《びみよう》な|振動《しんどう》を感じる。
綾は|震《ふる》えていた。声だけじゃなく、体まで。それに気づいて健一は言葉を|失《うしな》う。
「お礼を理由にこんなこと言うのは嫌だったけど……でも、これで最後にするから」
それでも綾の言葉は続く。健一の返事を待つことすら出来ないと焦ってるかのように。
「だから、今日だけはエッチしてもいいよね? 私、健ちゃんとエッチしてもいいよね?」
そして健一が何も言えないでいる間に綾はそう|呟《つぶや》いた。でもそれ以上の言葉も行動も何も無かった。抱きしめていた腕も震えるだけで動かない。
「…………」
ただ、ただ健一の返事を待っていた。
「……そんなに|真剣《しんけん》に考えてたんですね」
健一はそれを知らなかったはずはないと自分でも感じた。口に出してから、自分で何を言ってるんだろうとすら思った。
「……うん」
だから綾が小さくうなずいた時、彼女が抱ぎしめてきていた腕にそっと手を乗せた。
綾はなんだか冷たくなってるように感じた。震えていたのは寒かったからなんじゃないか。
そんな風にすら感じた。
でも実際はそうではないことを健一だってわかっていた。
綾は|怖《こわ》かったのだ。だから震えていたのだ。自分のこの思いを|否定《ひてい》されることが。
でも綾はそれを口にした。否定されるかもしれないと思いながらも。
「僕はずっと正しいことを言ってるつもりでした」
だから健一はその|覚悟《かくご》に真剣に向き合わなければと感じる。
「うん」
「実際、正しいことを言ってたかもしれません。でも、それが悪かったんですよね」
健一は再び、冴子の言葉を思い出す。健一のしたことは|非常識《ひじようしき》だったかもしれないけど、それが綾や蛍子を幸せにした。そう彼女は教えてくれた。
なのに健一は正しいことを言って、言い続けて、そして綾を悲しませた。不幸にさせた。
「ううん。健ちゃんが悪い訳じゃないよ。私が変なだけだから」
でも綾はそんな健一を|責《せ》めたりはしなかった。
「だからですよ。綾さんも、僕も変なのに、僕はただ正しくあろうとした。そんなことする必嬰もないし、してもしょうがないことだったのに」
健一に冴子は教えてくれた。
自分がおかしいと|嘆《なげ》くなら、ちゃんと自分のおかしさで判断して生きるべきだ、と。失敗した時だけ、自分がおかしいからと言うなんて、それこそおかしいことなのだ、と。
「僕は|怖《こわ》かったのかもしれません。自分のおかしさで判断して生きるのが。自分の判断で何か取り返しのつかないことになってしまうことが」
「私だって怖いよ」
綾の震える手に健一は手を|重《かさ》ねる。それで綾がふっとゆるんだように感じられた。
「でも綾さんは自分の判断でずっと生きてた。その大切さを僕に示してくれてた」
綾の言うこと、やることが|全《すべ》て正しいとは思わない。でも綾は気持ちいいことはいいことだと信じて生きている。そんな風に自分の生ぎ方を持っていることを示してくれていた。
「そんな|大層《たいそう》なことじゃないよ。私はただ自分がしたいようにしてただけ」
「今は僕もどうしたらいいかわかりませんけど、でも綾さんとエッチしてもいい道を探すことは出来るはずですよね」
それを口にすると健一はいかにも楽な方へ楽な方へと生きていたのだなと改めて感じた。
自分はただ綾に|甘《あま》えていたのだ。|困《こま》った時だけ力になってもらい、綾が本当に望んでいることをしてあげようとは思わなかった。
それは良くないことだと世間の|理屈《りくつ》で勝手に|納得《なつとく》しようとしてた。
同じ否定するのでも、ちゃんと自分の理屈でするべきだった。世間ではそうだからなんてそんな理由を持ち出すべきじゃなかった。
「それじゃ、健ちゃん……」
「僕だって、綾さんと……したいんですよ」
でも、怖かった。それを認めることが。その結果、綾が喜ぶのはわかっていても、そうしていいと自信を持って思えなかった。
「健ちゃんっ!」
綾が今まで以上に健一を抱きしめた。ぎゅっと強く。
でも痛みや苦しみはなかった。綾は強いけど、柔らかく、そして気づけば|暖《あたた》かかった。
「僕だってしたかったんです。でも怖いんです」
それでも自信は持てなかった。二人ともそれを望んでいても、それが二人にとって良いことだと確信は持てなかった。
なのに否定の言葉はもう出なかった。綾から伝わってくる|温《ぬく》もりだけが確かなことだった。
「うん。私もずっとしたかったよ」
綾の口からも、健一の口からも否定の言葉が出ることはなかった。
「綾さん……」
「健ちゃん……んっ」
お|互《たが》いのその口が|塞《ふさ》がれてからは、もう|肯定《こうてい》の言葉すら出なくなった。それで二人はずっと|我慢《がまん》していたことを、ただ実行するのに|夢中《むちゆう》になった。
そしてそれを止める者はそこには誰もいなかった。
○
健一が目を覚まして最初に思ったのは、今は何時だろうかということだった。
その答えはすぐわかった。四時だった。
寝てはしまったがそれ自体はそんなに長い時間ではなかったらしい。それを時間とまだ寝ている綾の姿が教えてくれた。
「……綾さんはいつも幸せそうだよな」
その寝顔を見て健一は思う。でも本当にそうだったろうかとすぐに思い直した。
いつだったか同じようなことを綾に直接言ったことがあった。その時、綾は健一がいるから辛せで、だから健一から見るとそうなんじゃないかと教えてくれた。
でも考えてみれば綾はいつも幸せそうなわけじゃない。
後ろから抱きついて震えていた綾は幸せそうだっただろうか? 答えは|否《いな》だ。幸せそうだったならどうして健一は綾の真剣さに気づいて、彼女の望みに|応《こた》えたのだろう。
「俺が綾さんを幸せそうにしてる――そう思ってもいいのかな」
いつだったか刻也に言われた時は全くピンと来なかった。
綾や冴子を明るくしたのは健一だという話だった。それが本当のことなのかは今もわからない。でもこの綾の寝顔は自分の行動の結果なのだと健一は感じる。
自分はまた|間違《まちが》ったことをしてしまったのかもしれない。でもその間違いが綾を幸せにしたのだろうことは|誇《ほこ》っていいように思えた。
「でも……やっぱり俺は変なんだな」
それでも健一は|性交渉《せいこうしよう》に関して、他人とは違う考えを持ってるように感じてしまう。
健一にとってそれは|快楽《かいらく》を求めての行動ではなかった。始まってしまったら夢中で|我《われ》を忘れてしまうということもあるけれど、気持ちいいとかそういうのはわからない。だからそのためにしてるとはとても思えなかった。
|敢《あ》えて言えば、嬉しい。そう感じるためなんじゃないかと健一は思う。それもまた一種の快釆かもしれないけれど、でもきっと違うのだろうと思う。
どうしても|埋《う》まらない、普段は|寂《さび》しいと感じている心が|満《み》たされる。それを求めているのかもしれない。
「だとしたら……失礼な話だよな」
綾でなくてもいいのかもしれない。そう思うと急に|罪悪感《ざいあくかん》を覚えた。
綾としたことには|罪《つみ》の意識はないのに、そのことが|非道《ひど》く重く感じられた。
誰でもいいわけじゃない。それは確かだけれど、結局、自分が求めているのは、|寂《さび》しくないこ感じられること。だとすれば、やはり何かがおかしいのだ。
「……ん? ・」
健一のつぶやきが気になったのか、綾が目を覚ました。
「おはようございます、綾さん」
「うはよー、健ちゃん」
綾は寝ぼけたまま、|挨拶《あいさつ》を返してそれから、健一の方へと顔を|転《ころ》がした。
「そう言えば時間大丈夫?」
そして健一と同じことを考えたらしい。
「まだ四時過ぎですよ」
「そっか。じゃあ、まだ大丈夫だね」
綾はそう言うと健一を見上げながらニッと笑った。
「一時間半もあれば帰れますから、もう少しゆっくりできますよ」
「うん? そうじゃなくて、まだエッチでぎるよねって話」
綾は当たり前のようにそんなことを言ってのける。もはや最初の目的とかすっかり忘れてるりしい。
「……中華鍋を買うとか言ってませんでしたっけ?」
「中華鍋は自分で作るからいいよ。私、|金工《きんこう》ならお手の物だし」
「だったらなんで中華街に来たんですか?」
「健ちゃんと一緒に来たかったからだと思うけど」
そしてどうやら本当にそうだったらしいことを健一は理解する。
「もしかして初めから、こういうつもりだったんですか?」
「うん」
「うん、じゃなくて……」
「だって私、ずっと健ちゃんとエッチしたかったから」
「……そうでしたね」
「だから私、健ちゃんに|迷惑《めいわく》かけないようにって、何度も中華街に来て練習してたんだよ」
「何度も来てたんですか?」
言われてみるとなんだか色々と不自然なことがあったなと健一は思い出す。
行きたいと言いながら、少し時間が欲しいと言ってみたり、|寄《よ》り|道《みち》もスケッチも全然しなかワたり。全てはその練習が理由だったのだ。
「最初は錦織さんに手伝ってもらって、後は一人で。それだけやれば後は健ちゃんが手を繋いuてくれればなんとかなるって錦織さんが言ってたんだけど、その通りだったよね」
「……そういうことだったんですか」
手を繋ぐこと自体には意味はないけれど、綾はそれを文字通りの意味にとらえたらしい。
「帰りは健ちゃんに任せていいんだよね?」
そしてその質問は腕を組んでもいいんだよねという意味だと言うことを健一は理解する。
「いいんじゃないですか」
でももう健一はそれを嫌がったりはしなかった。そんなことをして地元で発見されたら問題匹なるかもしれないが、その時はその時だと思えたのだ。
「いいの?」
なのに綾は逆に不安そうな顔をする。
「綾さんがそうしたいって言い出したのになんで聞き返すんですか?」
「……迷惑だよね、やっぱり」
そしてそれが不安の理由であったらしい。
「いいですよ、迷惑で」
でも健一はそんなことをもう心配してはいなかった。
「迷惑でいいの?」
「それが嫌ならとっくに逃げてますよ」
そしてそれが正直な答えだった。
「健ちゃんって……やっぱり変だよね」
なのに綾はそんなことを言う。
「ダメなんですか?」
「ううん」
綾はちょっと眠そうに笑う。
「私、そういう健ちゃんが好きなんだ。私、|綺麗《きれい》でぴかぴかなものよりも、傷ついたり|凹《へこ》んでたり|錆《さ》びてたりしてる、そういう個性的な方が好きなんだよ」
「そうでしたね」
綾がスケッチするのはそういう物ぼかりだとずっと前に教えてくれた。でもそれが自分と結ひつく物だとはついさっきまで思ってもいなかった。
「だから、もっと健ちゃんとエッチしたいんだけどなー」
綾はそう言いながらも健一に飛びついてきたりはしなかった。|寝転《ねころ》がったまま、健一の方に|微笑《ほほえ》みかける。
「一緒に|寄《よ》り|添《そ》って寝るってだけではダメですか?」
健一はそんな綾の横に寝転がりながら、そんな提案をしてみる。
「ん? それでもいいかな」
寄り添って寝るだけ。それでも十分だと綾は納得したらしく、体を横にして健一の方を見る。
健一もそれに応えて綾の方へと体を倒した。
「……これはこれでなんだかエッチですね」
「うん。想像してたよりもずっとドキドキする」
お互い|裸《はだか》でただ向き合うだけ。それだけなのに健一は|鼓動《こどう》が|高鳴《たかな》るのを感じた。そんな体の変化は|心臓《しんぞう》だけに終わらず、体中へと伝わっていく。
「……えっと」
そしてそれは健一の体に予定外の変化を引き起こす。
「健ちゃんの体はまだ満足してないみたいだね」
それに綾はすぐに気づいて、健一の|間近《まぢか》で笑みを浮かべる。
「……みたいですね」
そうなってしまったら、二人とももう寝てるだけなんてわけにはいかなかった。
○
そんなこんなでライブの時間はギリギリだった。
お客さんを待たせるなんてことまではならなかったが、帰る予定の時間はぶっちぎりでオーーハー。|幽霊《ゆうれい》マンションの前でシーナに|待《ま》ち|伏《ぶ》せられて、帰ってきたと思ったらそのまま駅前に|直行《ちょっこう》するという|展開《てんかい》になってしまった。
「……なんでそんなに|怒《おこ》ってるの?」
そんなわけでライブが|無事《ぶじ》に終わってもシーナはずっと|不機嫌《ふきげん》な|様子《ようす》だった。
|健一《けんいち》は|暗《くら》がりの中、シーナの後ろを歩きながら、以前にもこんなことがあったなと思う。
「お前が|遅刻《ちこく》したからだろ」
そしてシーナはその時と|全《まつた》く同じ返事をする。
「それはそうだけど」
だからなのだろう。健一もやっぱり同じ|言葉《ことば》を|返《かえ》していた。
「さぞ、楽しかったんだろうなあ」
「……何が?」
なんだかいつまでも同じだなあと思っていたが、さすがに以前とは違う展開になった。シーナは立ち止まったかと思うと|振《ふ》り|返《かえ》って、健一を|睨《にら》み|付《つ》ける。
「何がじゃねえだろ? |綾《あや》さんと|中華街《ちゆうかがい》に行って|遅《おそ》くなったのに、綾さんとの以外の何が楽しかったって言うんだ?」
「……そうだね」
「予定時間ぶっちぎり。しかも|嬉《うれ》しそうに|腕《うで》を|組《く》んで帰ってきて、楽しくなかったとは言わせないからな」
「……うん」
確かに遅刻したのは悪いと思うが、でもなんでシーナに綾と|仲良《なかよ》くしたことを|責《せ》められなければいけないんだろうなあとも感じる。
これがツバメに「あんた、|千夜子《ちやこ》の彼氏って|自覚《じかく》がないんじゃないの?」って言われたら|全面降伏《ぜんめんこうふく》するしかなさそうだが。
「楽しかったんだな? めちゃくちゃ楽しかったんだな?」
「お|目当《めあ》てのお店には行けなかったし、予定外のこともあったけど……」
というか予定外のことぼかりだったりだなと健一は思い出す。
「まったく。お前は|俺《おれ》のパートナーって自覚が|足《た》りないんじゃないか?」
そしてそんなことを思っている間にシーナはツバメのようなことを言い出した。
「パートナーの自覚ねえ」
「今日はこれから『ストリートグラップラー』でシーナ&バケッツ|特集《とくしゆう》が流れる日だぞ?」
「うん。それは知ってるけど」
それなのに|浮《うわ》ついた気持ちでいるなということだろうか。それは確かにそうだなと健一は思ったのだが、どうも|違《ちが》うらしい。
「そういう大事な日は|余計《よけい》なことはせず、|正座《せいざ》で|待機《たいき》が|基本《きほん》だろうが!」
「……そうなの?」
前半はともかく後半は|意味不明《いみふめい》だった。なんで正座なんだろうか? シーナは確か、|和風《わふう》なのはキャラじゃないってことになってたんじゃないのだろうか?
「そうなんだよ。なのに、お前は綾さんと中華街でいちゃいちゃしてたってわけだ」
「……でも、それもシーナ&バケッツのTV|収録《しゆうろく》の|告知《こくち》をするために協力してもらったお|礼《れい》だったわけで」
実際、そんな理由だった。つまり、これはシーナ&バケッツの活動の|一環《いつかん》と言えなくもないというわけだ。
「でもお前だって楽しかったんだろうが!」
しかしそれを言われると弱い。というかエッチに|夢中《むちゆう》になって帰りに遅れたのだから、もう楽しんでたどころではない。
「……それは悪かったと思ってるよ」
なので堂々と|反論《はんろん》することはでぎなかった。
「俺は佳奈ちゃんとデートするのも|我慢《がまん》して、十三階でずっと待ってたんだぞ? しかも今日、テレビ放送するってのを告知するためにポスターを作ってたんだ。なのにお前がいつまで|経《た》っても帰って来やしないから|管理人野郎《かんりにんやろう》と|貼《は》りに行く|羽目《はめ》になったんだからな」
「……ごめん」
それは確かに失敗したなあと健一は思う。いつぞやシーナが来なくなってた時期、|刻也《ときや》が一楯にポスターを貼りに行ってくれたが、今日はシーナと行ってくれたということらしい。シーナと刻也は|相容《あいい》れない|存在《そんざい》らしく会えばケンすることも多い。そんな二人が一緒に貼りに行くことになったなんて、それは確かに怒られても仕方がない。
「謝るくらいなら最初からするなよ」
そしてシーナはそれだけ言うとぷいっと顔を|背《そむ》けて、そのまま歩き出した。
「……ごめん。|八雲《やくも》さんと|一緒《いつしよ》にそんなことしてるなんて全然思ってなかった」
健一はそんなシーナを追いかける。パートナーとしての自覚がないと言われたが、そういうことをしてたなら自分も|手伝《てつだ》うべきだったと|素直《すなお》に思う。
「まあ、管理人野郎は今日は|穏《おだ》やかなもんだったけどな」
だからどんな|罵声《ばせい》が出てきても甘んじて聞かないといけないと思っていたのだが、シーナが口を開いて|告《つ》げた言葉はまったく予想外のものだった。
「……そうなの?」
「もう気持ち悪いくらい、俺に|理解《りかい》を|示《しめ》してた。どころか、今まで自分の考えばかり押しつけて悪かったとか言いだしやがって……」
シーナはそれで体中がかゆいのかあちこちかき始める。
「……何か問題があるの、それ?」
「アリアリだろうが! |明《あき》らかに俺だけが|悪者《わるもの》だろ、この展開は!」
「まあ……そうだね」
なんだかケンカし続けるのが二人にとってベストな関係だったとでも言ってるみたいに健一には聞こえた。
「しかも、あいつはだな……」
シーナはそこまで言いかけてさらに健一から顔を|逸《そ》らした。
「まだ何かあったの?」
「あいつはだな……」
「どうしたの?」
「今までのことがあるから|図々《ずうずう》しいと思われるのは|覚悟《かくご》の上で言わせてもらうがって……|前置《まえお》きした上で……」
「前置きした上で?」
健一がそう|尋《たず》ねると、シーナはぐるんと頭を回転させたかと思うと健一の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》む。
「友達になってくれないだろうかとか言いやがったんだぞ! オイ、信じられるか、健一? あの管理人野郎が俺に頭を下げて、仲良くしてくれって言ったんだぞ?」
そして目の前なのに大声でそんなことを告げると、シーナはまた健一からわざとらしいくらいに|視線《しせん》を|外《はず》す。
「……いいことだと思うけど」
とは言え、確かに意外な展開ではあるなと健 は思う。ちょっと想像が出来ないが、シーナの|態度《たいど》を見る限り|嘘《うそ》とも思えない。
「ああ、いいことだよ。まったくいいことだよ。だがな、さっきも言った通り、そんな展開になったら俺だけが悪者になるんだよ。わかる? 俺様、大ピンチって?」
「……シーナは八雲さんが|嫌《ぎら》いな|訳《わけ》じゃないんだろ?」
「そりゃ嫌いじゃないさ。むしろ好きだね。あいつは格好いいよ。本当、嫌になるくらいね。
蹟でっかちの|優等生《ゆうとうせい》だろうと思ってたら、意外にいいヤツだしな。しかも自分のするべきことを持ってて、本当にそのために|努力《どりよく》してる。そこになんの|迷《まよ》いもないしな」
シーナの言葉は|褒《ほ》めてるはずなのに、なんだか|調子《ちようし》だけ聞いてると|必死《ひつし》に|罵倒《ばとう》してるようにしか聞こえない。
「だったら、シーナも仲良くすればいいだけだと思うけどな」
と健一は言いながらも、シーナは|昔《むかし》、刻也が正しいのでやりきれないと言っていたことを思い出す。さっきからのシーナの言葉はその|辺《あた》りに根ざしてるのかなと感じた。
「ああ、だから言ってやったさ。お前はいちいち|許可《きよか》をもらわないと|友達《ともだち》にもなれねえのかってな。俺はとっくにお前のことは友達だって思ってたってな」
|口調《くちよう》は相変わらず|不満《ふまん》そうなのだが、明らかに内容は|逆《ぎやく》だった。
「……そうなんだ」
しかしだったらなんでそんなに不満そうなのだろうかと健一は考えてしまう。
「そしたら、あいつ、今度、ファミレスに来てくれとか、その時は彼女を|紹介《しようかい》するとか言い出したんだぜ? おいおい。なんだ、それって感じだろ?」
「いいんじゃないかなあ、別に……」
「ああ、いいよ。全く。俺が気にしすぎてただけだってわかってホッとしたさ。大いにホッとしたね。しかも彼女を紹介してくれるらしいぜ? 今まで話題にするのも|避《さ》けてた彼女を。俺が友達だからって理由でだぜ? どんだけ仲良くなってんだよ、俺?」
「……さっきから何が不満なのかさっぱりわからないんだけど」
健一はいくら聞いても、いくら考えてもわからないので|改《あらた》めて|尋《たず》ねることにした。
「言っただろうが、お前がパートナーとしての自覚が|足《た》りないからだって」
「それは聞いたけど、さっきまでの話とそれがどう関係あるんだよ?」
「だからだな……」
シーナはそう言いながら、今度は|鼻《はな》の頭をかいた。
「なんなの? ・」
何かすごく言いにくいことなのかと健一は考える。
「その場に健一がいてくれたら良かったのにって言ってるんだよ」
「……それだけ?」
でも意外と言ってもいい|程《ほど》、シンプルな答えだった。
「それだけだと? 俺とあの管理人野郎が仲良くなれたんだぞ?」
「いや、それはけっこう重要なことだけども、なんでそこに俺がいた方が良かったのかわからないんだけど」
というか自分がいたらそういう状況は|発生《はつせい》してなかったんじゃないかと思うのだが。
「お前はあいつとそういう会話をしたことがあるのか?」
「……ないけど」
「だったら一緒にいれば三人でまとめて友達になれただろ。その方が感動的なシーンだった。
俺はそれを言ってるんだ。なのにお前はここまで言っても『はあ? 』って顔をしてやがる」
シーナはそれでブツブツと|小声《こごえ》で何事か|呟《つぶや》き始めた。
「うーん。やっぱりそれはなかったと思うよ」
なので健一は|反論《はんろん》しておくことにする。
「なんだとー?」
それにシーナは顔を健一の方へ向け、怒りの目で|睨《にら》んできた。
「俺がいたら八雲さんと一緒に行くなんてなかったと思うし、三人だったら八雲さんはそんな話をしなかったよ、きっと」
でもハッキリとそう告げると、シーナは|渋《しぶ》い顔を浮かべた。
「……かもな」
とは言え、シーナの言いたいこともわかる気はした。
「でも、俺もその場にいたかったよ。シーナと八雲さんが仲良くなれた現場にいたかった」
だからそれを言葉にして伝える。
「わ、わかってねえなあ、健一。俺たちは|確認《かくにん》するまでもなく友達だったんだぜ?」
それにシーナは|照《て》れたのかまた顔を|背《そむ》けてそんなことを言い出す。
「そうだね」
すでにさっきの言葉と|矛盾《むじゆん》してるが、そこを|追及《ついきゆう》してもしょうがないと健一は思う。
「というかだな、健一!」
そしてその辺のおかしさはシーナの方もわかってたらしく、|誤魔化《ごまか》すために話題を変えてぎた。またこっちを睨むようにして話を始める。
「は、はい」
「俺はお前に相談したいことがあったんだ」
「……相談?」
「なのにお前は綾さんと出かけたまま帰ってこなかったからだな……」
それがどうやらシーナが本当に怒ってた理由らしい。なるほどそれは確かにパートナーとしての自覚が足りないと言われても仕方ないかもしれないと健一は思う。
「相談って、デビューするとかそういう件?」
だから|真面目《まじめ》に聞こうと思ったのだが、シーナは逆に不機嫌になったみたいだった。
「大事な話ってのはこんな風に歩きながら、流れで言うものじゃないんだよ」
「……相当に大事な話だったってことか」
しかも想像よりずっと重要な話だったらしい。その|覚悟《かくご》をもって幽霊マソションに来たのに|肩《かた》すかしを食ったということなら、シーナの怒りも|納得《なつとく》がいった。
「そうだよ!」
「……それは本当、ごめん。これから帰って|落《お》ち|着《つ》いた頃に聞くよ」
「聞くよじゃねえだろ? 聞かせてくださいだろ?」
そして|意地悪《いじわる》そうな|笑《え》みを浮かべてシーナはそんなことを言い出す。
「……聞かせてください」
自分の|反省具合《はんせいぐあい》を|試《ため》されてるのかと思い、健一はその通りにする。
「シーナ様のお|悩《なや》みを聞かせてください、だ」
でもそれだけではシーナは納得してくれなかったらしい。
「シーナ様のお悩みを聞かせてください」
なので健一はシーナに言われた通りにする。
「ぶっ」
でも返ってきたのはシーナの笑いを|堪《こら》える顔だった。
「……シーナ?」
「|冗談《じようだん》に決まってるだろうが。俺たちはパートナーだぞ? 俺が主人でお前が|下僕《げぼく》か? 違うだろ?」
「……そりゃ違うけど」
でも昔、どっちかというと俺の方がボスだと|流輝《りゆうき》に|主張《しゆちょう》してた気がする。
「俺たちは友達だろうが。お前の方が多い気がするがヘマをしてもお|互《たが》い|許《ゆる》す。そういう関係じゃないのか?」
「……だと思ってたんだけど」
ずっと怒ってたのはシーナの方だった気がするのだが、今は|妙《みよう》に|上機嫌《じようきげん》なので|騙《だま》されていたということなのだろうか。それともさっきので気が晴れたのか。
「まあ、お前がちょっと綾さんといちゃいちゃしてたのでお|灸《きゆう》を|据《す》えてやろうってだけだ」
「……だけって|割《わり》にはしつこかった気がするけど」
いや、|実際《じつさい》にしつこかった。そう思うと健一の心にも|静《しず》かな怒りの|炎《ほのお》が|燃《も》えてきた。
「あん?」
「それにシーナが言ったんだろ?」
「なんのことだよ?」
「全部を手に入れるって言い出したのはシーナのはずだろ? 綾さんのこと俺はちょっと|邪険《じやけん》にしすぎてた気がしたから、今までの分、仲良くして何が悪いんだよ?」
そして健一は自分でもびっくりするほど、堂々とそんなことを言っていた。
「……まあ、悪くはないわな」
シーナはそんな態度に明らかに|面食《めんく》らった|様子《ようす》だった。
「だからシーナはシーナで佳奈さんとデートして、ライブもばっちりこなして、テレビを見ればそれで良かったんじゃないのか? 全部手に入れるってのはそういうことだろ?」
「言うようになったじゃねえか、健一」
シーナは健一の反論に笑っていた。
「だろ?」
「それでこそ、俺の|相棒《あいぼう》だ。シーナ&バケッツのバケッツだ」
それを告げたシーナの顔は本当に満足げだった。やっと|対等《たいとう》になれた。そんなことを喜んでいるらしい。
「でもそれも全部、シーナのおかげだよ」
だから健一はそんな自分を|誇《ほこ》らしく思った。
「そうじゃないだろ? お互いのおかげだ。ま、お前にとっては俺のおかげだから一緒かもしれないけどな」
シーナがそう言い直した理由に健一は思い当たるところがあった。
「シーナ&バケッツだからここまで来れたんだよな」
それはTV収録の日、健一が感じたことだった。それを健一は初めてシーナに告げる。
「そうだな。シーナも.ハケッツも半人前だった。ぺらっぺらな|若造《わかぞう》だった。でも俺たちはライブを続けてここまで来た。そして今日、やっとお互い、一人前になったんだぜ」
でもシーナはそれを当たり前のように受け止めていた。それはシーナもずっと同じことを感じていたということだった。
「|随分《ずいぶん》遠くまで来たね」
健一はシーナに初めて会った時のことを思い出す。あの時は自分は|冴子《さえこ》を守ろうとして|飯笹伸太《いいざさしんた》に|殴《なぐ》られ|倒《たお》れていた。それを助けてくれたのがシーナだった。
その後、|蛍子《けいこ》のことで落ち込んでいた健一の前にシーナは現れた。あの時のシーナはまだ幽霊マンションのことを知らなかった。そして健一は日奈がなんでシーナとして暮らしてるのかも知らなかった。
ライブをしようと言い出したのはシーナだった。|楽器《がつき》なんて知らないという健一にハーモニカをくれたのもシーナだった。だからずっとシーナのおかげだと思っていた。
でも今ならわかる気がする。シーナは一人では不安だったのだ。健一なら自分の話に乗ってくれるんじゃないかとそう思ったからこそ動き出せたのだ。
――俺が本物になれたのだとしたら、それはお前のおかげだぜそんなことを言うシーナに健一は|戸惑《とまど》った。でも今ならわかる。シーナは|照《て》れて|誤魔化《ごまか》そうとしたわけじゃなく、本当にそう思って言ってくれたのだ。
シーナだけでは無理だった。バケッツだけでも無理だった。シーナ&バケッツだからここまで来れたのだ。
「よせよ。まるでもうゴールみたいじゃないか」
でもシーナはそんな健一の言葉を否定して|不敵《ふてき》に笑う。それは健一の想像してなかったことだったけど、それでもひどくシーナらしい行動だと思えた。
「そうだね。俺たちは全部、手に入れるんだもんな」
だから健一にはその言葉の意味がわかった。
全部だ。|欲《ま》しいもの|全《すべ》て手に入れるまではゴールじゃない。そのことを健一は再確認する。
「俺たちはまだもっともっと遠くに行くんだぜ?」
それをシーナがさらに確認するために言葉にしてくれた。
「だよな。俺たちは不可能を可能にするために|結成《けつせい》されたチームだもんな」
「ああ。俺たちなら出来るさ、いつか必ずな」
シーナは不敵な笑顔を浮かべていた。そして知らずに健一も同じ顔になっていた。
なのに健一はシーナに一瞬、蛍子を見た思いだった。
あの|新雄々《しんおお》|久保《くぼ》駅で見かけた蛍子だ。すごく元気そうだったのに、母親に対する|呵責《かしやく》に|苛《さいな》まれていたあの姿。それが|何故《なぜ》か思い出されてしまう。
「……どうした?」
それをシーナも変に思ったらしい。
「いや……単に|疲《つか》れたのかな。綾さんに振り回されて帰ってきたと思ったらライブで、休む|間《ま》もなかったから」
多分、そうなんだろうと健一は思うことにする。綾とホテルで過ごしたことと何かが|重《かさ》なったりしただけかもしれない。
「おいおい。今日の本番はこれからだぜ、健一?」
でもシーナはテソションを上げて、健一の肩を組んでくる。元気そうだった。
「そうだね。TV放送の日だもんな。って、今日は家に帰らなくていいの?」
「ああ。友達のところに|泊《と》まるってことで話がついているぜ」
「そうなんだ」
なんだかちょっと意外だなと健一は思う。それこそ佳奈と一緒にテレビを見て一緒に|盛《も》り|上《あ》がるものと思っていたが、|冷静《れいせい》に考えればシーナとしてそれをするわけにはいかないので、そういう|選択肢《せんたくし》になる方が|自然《しぜん》だった。
「そう言えば、綾さんで思い出したが」
そしてシーナはそんなことを言い出して健一をぎくりとさせる。
「な、なに?」
「|咲良《さくら》ちゃんって言ったっけ?」
なのに何故かシーナの話題は咲良のことに移る。
「咲良ちゃんのことシーナは知ってたっけ?」
「ん? そういやなんで健一が知ってるんだ?」
「いや、俺はバイト先にケーキを運んで来てくれるんで知り合ったんだけど」
「そっか。俺は|伸吾《しんご》の妹だってんで紹介してもらった」
シーナのそんな言葉に、収録の日に伸吾から聞いた妹というのが咲良だったということを健一は理解する。言われて見れば、アイドル|志望《しぼう》でパイトをしてるという辺りも完全にかぶっていた。
「で、咲良ちゃんがどうかしたの?」
「咲良ちゃんの話じゃなくてさ」
「……咲良ちゃんの話だったと思うけど」
「咲良ちゃんの隣に胸の大きな|娘《こ》がいて、あれは綾さん|並《なら》だったかもなって言いたかったんだけど、ちょっと名前がうろ|覚《おぼ》えだったってだけだ」
「……なるほど」
しかしこの|期《こ》に|及《およ》んでもシーナはまだ大きな胸に|惹《ひ》かれ続けているらしい。
「なんだよ、そのノリの悪さは」
「佳奈さんに今度、言いつける」
「て、てめ、託! そんなことをしたら九十九回死ぬだけでは|済《す》まさないぜ? きっちり百回殺すからな!」
「……まあ、一回殺せば十分だけどね」
「なんかこの辺りだけはどうも意見が合わないよなあ。健一が|巨乳好《きよにゆうず》きなら色々な人が|幸《しあわ》せになれるってのに|惜《お》しいよなあ」
シーナの言葉には本当になんでここまで意見が合わないのかなあとは感じる。
「そうかなあ」
「少なくとも俺は一緒に盛り上がれて楽しいぜ」
でもシーナに笑顔でそう言われると、ちょっと戸惑ってしまう。
「そんなことが幸せなの?」
だから健一は聞き返した。
「そんなことも幸せなのさ」
シーナがそんな返答をした時、二人は幽霊マソションまで帰ってきていた。
○
「あ、帰ってきた、帰ってぎた」
十三階まで|辿《たど》り|着《つ》いた健一たちを|迎《むか》えてくれたのは、綾だった。でもその時、綾がいたのは|廊下《ろうか》で1301では無かった。
「ただいまです、綾さん」
そのことに|違和感《いわかん》を覚えながら健一はとりあえず|挨拶《あいさつ》。
「どうしたんですか、綾さん? 俺のこと待ち遠しくてそこで待っててくれたんですか?」
でもシーナはポジティブにその状況を受け止めたらしい。
「シーナ君のことは別に待ち遠しくなかったけどなあ」
そして綾はそれをあっさりばっさりと否定する。
「……うぅ。軽いジョークだったとは言え、そこまでハッキリ言われると|凹《へこ》む」
「とりあえず彼女がいる男の言うジョークじゃないと思う」
健一はシーナがショックを受けてるのを見ながら、|改《あらた》めてなんでなんだろうと思う。
「というか私には冗談には聞こえなかったけどなー」
綾はでも少しも自分の行動を不思議とは思ってないらしい。
「そう言えば、なんで綾さん、ここに?」
なのでやっぱり聞いてみることにする。
「冴ちゃんも管理人さんも私の部屋でテレビ|観《み》てるから、二人が帰ってきて1301で待ってたらかわいそうだなあってね」
「……なるほど」
もちろん|嘘《うそ》をついてるとは思わないが、やっぱりちょっと想像しづらい状況だった。
冴子と刻也が綾の部屋でテレビを観ている? そもそも二人が別々にでもテレビを観ていること自体、ちょっとピンと来なかった。
「だから健ちゃんたちも私の部屋に来るといいよ」
「あ、はい」
そしてどうやら綾がみんなでシーナ&バケッツをテレビで観るために|準備《じゆんび》してくれていたことを健一は知る。以前、色々と買ったので観に来て欲しいみたいなことを言っていたが、そういう意味だったとは軽い驚きも覚える。
「……で、どうなのよ、実際?」
でもシーナはまだダメージが|抜《ぬ》けてない様子で健一の方を見ていた。
「なんの話?」
「俺は今日もイケてるよな? ライブの時、|格好良《かつこうよ》かったよな?」
シーナの質問に健一はさっきまでそんな話をしてたっけと考えてしまう。
「だと思うけど」
「なんかお前に言われると|見下《みくだ》されてる気がするんだよなあ」
「なんだよ、それ」
「今日のお前は男の|香《かお》り……フェロモソっての? なんかそういうの|漂《ただよ》わせてる気がするんだよなあ。ファンもなんだかそれに当てられて目がハートマークになってたぜ」
「そう?」
さっぱりそんな|実感《じつかん》は無かったが、シーナの|自信《じしん》が|揺《ゆ》らいだせいで|余計《よけい》なことを心配してるだけだろうと思うことにする。
「……そうだよ」
「まあ、そう言う日もあるかもね」
なのでまともに取り合わず、健一はシーナの手を|引《ひ》っ|張《ば》ると綾の部屋に|久々《ひさびさ》にお|邪魔《じやま》することにした。
「……これ、全部買ったんですか?」
ベッドくらいしか生活感のなかっだはずの綾の部屋は|一変《いつぺん》していた。
「うん」
なのに綾にとってはすでに当たり前のことであるらしい。
綾の部屋は|普通《ふつう》に大きな家のリビングという感じになっていた。星が見える|天井《てんじよう》はさすがにそのままだったが知らぬ間に色々な家具が|置《お》かれていた。その中でも一番、目を引いたのは映画館のスクリーンだろうかと思わせるような巨大なテレビ。それを|囲《かこ》むように自い|革製《かわせい》のソフアが|並《なら》んでいた。
「ごきげんよう、二人とも」
そのソファに刻也と冴子が|座《すわ》っていた。健一たちがやって来たのに気づいたらしく、|挨拶《あいさつ》を返してきた。
「おかえりなさい、|絹川《きぬがわ》君とシーナ君」
そして刻也と冴子は|腰《こし》を上げると右の方に|寄《よ》った。どうやら|真《ま》ん|中《なか》は健一たちに|譲《ゆず》るということらしい。
「健ちゃんはどこに座る?」
それに気づいたのか綾が尋ねてくる。
「僕はどこでもいいですけど」
健一はそう答えながら、まだ部屋の変化への驚きが抜けなかった。
「じゃあ、健ちゃんは私の|隣《となり》ね」
でも綾はそう言うと、冴子が譲った|辺《あた》りに、要するに真ん前に|陣取《じんど》る。それから|空《あ》いてる左の席をぽんぽんと|叩《たた》く。
「そこが僕の席ってことですね」
まあ|敢《あ》えて|断《ことわ》る理由もないしと健一はそこに座る。
「俺は野郎の隣か?」
そしてその状況を理解してシーナはさらに健一の左にボスッと音を立てて座った。
「ん? シーナ君、冴ちゃんの隣が良かった?」
それで綾が不思議そうな顔をして|尋《たず》ねる。
「俺は綾さんの隣っつうか、|膝《ひざ》の上が良かったぜ」
健一越しにシーナはそう答える。だが答えはわかっていたようなものだった。
「私はそれは嫌だな」
綾はバッサリとそれを否定する。
「……ですよね」
そしてシーナは健一から離れるように|倒《たお》れる。その|光景《こうけい》に座ってるのにショックで倒れるとは|器用《きよう》だなあと健一は思ってしまう。
「……シーナは佳奈さん、|一筋《ひとすじ》じゃなかったっけ?」
「うっさい。こういう時、ちょっとくらい|役得《やくとく》があってもいいって思って何が悪い」
「役得ねえ……」
こういう状況で何かあって、それを役得というのだろうか。ちょっとわからない。
「って、そういえば綾さん?」
でもそれよりもずっと気になっていたことがあったので、健一は尋ねることにする。
「ん? 何? 健ちゃんなら膝の上に乗ってもいいよ?」
「そうじゃなくてですね……この家具、どうしたんですか?」
「えっと、|通販《つうはん》で買った?」
「買った? じゃなくて、だってここに|運《はこ》んでもらうなんて無理ですよね?」
不思議な|鍵《かぎ》を持ってる人間しかこの十三階には来れない。そうである以上、通販でと言われても|素直《すなお》に|納得《なつとく》できない。
「うん。冴ちゃんのお母さんに住所を|貸《か》してもらってね、一階に|届《とど》いたのを管理人さんに手伝ってもらって、ちょちょっとね」
「ちょちょっとねって……」
とりあえずそんな軽い発言ではない気がする。いつだったか|洗濯機《せんたくき》を運ぶのを|途中《とちゆう》から手伝った経験から言えば信じられない労力がかかってる気がする。
「意外に|簡単《かんたん》だったよね、管理人さん?」
でも綾はそうは思ってないらしい。
「ええ。まあ。一度に来たわけではありませんでしたし」
そして刻也もどっちかというと綾に賛同してる様子だった。もしかしてあの洗濯機の時の|反省《はんせい》を|活《い》かして体を|鍛《きた》えていたとかそういう話なのだろうか。
「なら、いいんですけど」
健一は刻也の方で不満はなさそうなので、とりあえず飲み込んでおくことにする。それよりも驚いたのは、綾と刻也がそんなことを何度となくやっていたということだった。それを一度として|目撃《もくげき》しなかったし、|一言《ひとこと》も|相談《そうだん》もされなかったことに健一は何とも言えぬ|疎外感《そがいかん》を覚えた。別に自分に|秘密《ひみつ》にする理由も思いつかない。
それに綾は冴子の母に住所を|借《か》りたとも言っていた。ということは綾も冴子の母親と|面識《めんしき》があるらしい。冴子がバイトの|面接《めんせつ》に行って帰ってこなかった時、刻也が冴子の母親と知り合いらしいことを知った時も落ち着かない気持ちにされたが、今はそれ以上かもしれない。
冴子の母親に会ったことがない。それは|別段《べつだん》驚くべきことではないのかもしれない。でも綾も刻也もとなると自分も知っててもいいんではないかと健【は感じる。
「何かまだおかしなところある?」
そんな健一の顔を気づくと綾が|覗《のぞ》き|込《こ》んでいた。
「いえ……|有馬《ありま》さんのお母さんってどんな人なんだろうなって、ちょっと思っただけです」
「うん? すっごく|優《やさ》しくて|綺麗《きれい》な人だったよ。冴ちゃんはお母さん似だよね、きっと」
そして綾の返答は気づくと、冴子への質問に変わっていた。
「えっと……外見はけっこう似てるかもしれませんけど」
冴子はその質問に答えるのには何か|抵抗《ていこう》があるみたいだった。健一が話に聞いていた|範囲《はんい》では、ちょっとタイプが違う感じだったが、あれは中身の話だったかもしれない。
「私も|美佐枝《みさえ》さんと有馬君はそっくりだと思うが」
そして冴子の奥で刻也がそんなことを言い出す。
「そ、そうですか? 私はお母さんみたいには綺麗じゃないですし……」
冴子は刻也の言葉にかなり|居心地《いごこち》の悪い様子だった。ちょっと顔を赤くしてそわそわした態度を見せる。
「あー! じゃあ、もしかして、あれか?」
そんな冴子を見ている健一の後ろでいきなりシーナが大声を上げる。
「……どうしたの、シーナ?」
「いつだったか、俺が入り口のところですれ違った人、あれが有馬のお母さんだったんじゃねって話だよ」
「シーナだけの体験を|語《かた》られてもなあ……」
「長い|黒髪《くろかみ》でしずしずって歩く人だろ? 見かけた時、『なんだ、この大人版、有馬冴子は? 信じてくれないかもしれませんが私は未来からやってきましたとか言い出すんじゃね? 』って思ったんだぜ?」
「……それよりは有馬さんのお母さんって思う方が|自然《しぜん》だと思うなあ」
「口元にほくろがあってさi。なんつうか、これが大人の女の|魅力《みりよく》って言うのかなあって。うちの母親も見習って欲しいぜ、本当」
シーナの言い分もいい|加減無茶苦茶《かげんむちやくちや》だが、その話が本当であるならば冴子の母親に会ったことがないのは自分だけになる。そのことに健一は気づく。
「多分、それ、お母さんです」
そしてシーナの発言を聞いてるのが|辛《つら》くなったのか、冴子が|白状《はくじよう》するように|咳《つぶや》く。
「やっぱりそうなのかー。で、名前なんて言ったっけっ・」
「えっと、は……じゃなくて、有馬美佐枝」
「親の名前聞かれて|苗字《みようじ》はいらないだろ、苗字は。有馬ってけっこうお|茶目《ちやめ》だなあ、オイ」
「……そ、そうよね。ちょっとお母さんの話題で|混乱《こんらん》してる、かも」
でも健一には冴子がつい親の名前に苗字をつけてしまった理由がわかっていた。
冴子の母親は本当は有馬|姓《せい》ではないのかもしれない。冴子は有馬|十三《じゆうぞう》の|愛人《あいじん》の|娘《むすめ》として有馬家に入ったのだから。
「なんか、ちょっと今日の有馬|可愛《かわい》くね?」
でもシーナは|気楽《きらく》な様子で健一にそんなことを尋ねてくる。
「っていうか今日のシーナはかなり女の子に|飢《う》えてる気がするんだけど」
「かもな。ちょっと佳奈ちゃんと話してなくて|溜《た》まってるのかもしれないぜ」
「だったらライブの後、ちょっと話せばよかったのに」
「でも話してたらお前みたいに時間を忘れて|遅刻《ちこく》しちゃったかもなー」
「……そうだね」
まだ根に持っていたらしい。意外にしつこい性格だったようだ。
「ところで綾さん、|録画《ろくが》はちゃんと出来るんですか?」
シーナは健一がそれで|黙《だま》ったのを見て取って、また綾に話しかけた。
「その辺は管理人さんに頼んでおいたんだけど……大丈夫だよね?」
綾が冴子|越《ご》しに刻也に尋ねる。
「ええ。|配線《はいせん》も録画予約も|完壁《かんぺき》です」
それに刻也は|誇《ほこ》らしげに|応《こた》えて、|眼鏡《めがね》をかけ直す。
「へー。刻也はこういうの|得意《とくい》だったんだ」
シーナがそんな感想を|漏《も》らす。健一はそれを聞いて彼が「刻也一と当たり前のように言ったことに驚きを覚える。しかし刻也にとってはそれほど意外ではなかったらしい。
「これくらいは|特殊《とくしゆ》な|技能《ぎのう》など無くても出来る|範囲《はんい》だよ」
名前よりそれを|褒《ほ》められたことの方が刻也は気になった様子だった。
「俺はこういうの|苦手《にがて》だから、ちょっと|尊敬《そんけい》する」
でもシーナはさらに刻也を褒める。
「別に|難《むずか》しいことはない。ビデオの接続などわざわざ色分けしてあるしな」
「どうもそれがよくわからないんだよなー。もういっそ、そこにしか|刺《さ》さらないようにしておいてくれって感じなんだけどなあ、俺は。全部、|丸《まる》い必要あるのか、実際?」
「|製作工程上《せいさくこうていじよう》の問題だろう。そこまで違う物にすると|金型《かながた》が多く必要になる」
「そういうものかねー」
そしてシーナと刻也は三人越しに会話を続けていく。この二人がぽんぽんと会話するなんて健一にはちょっと信じられなかった。
「どしたの、健ちゃん?」
そんな様子に綾が小さな声で話しかける。
「いえ。二人の共通の話題がこんなところにあったんだなあって」
「うん。管理人さんがAV関係に|詳《くわ》しいなんて私も知らなかったよ。って、そう言えば、健ちゃん?」
「なんですか?」
「AVで思い出したんだけど、ここならアダルトビデオも|見放題《みほうだい》だから冴ちゃんが気になるならいつでも来ていいからね」
「……来ませんよ」
というかそれを冴子が聞いてるところで言ってたら本当に意味がない。でも冴子は|別段《べつだん》、それに何かツッコミを入れて来たりはしなかった。
「何か飲み物持ってきましょうか?」
ただそうやってシーナ&バケッツ|特集《とくしゆう》の準備の|確認《かくにん》をする。
「冴ちゃん、大丈夫だよ。飲み物はそこの|冷蔵庫《れいぞうこ》に入ってるから。ポテトチップも買って、そこの|棚《たな》に入ってるよ」
でも綾は冴子が立ち上がる前に、用意がされてることを教える。
「すみません。場所とテレ。ヒじゃなくて、そういうことまで」
「いいよ、いいよ。ソファに座ってテレビ見る時はコーラとポテトチップってのやりたかっただけだから」
「そうなんですか?」
冴子はそれにはちょっと不思議な顔をしたが、やはり立ち上がると冷蔵庫の方へと歩き出した。彼女はそれくらいは自分でやろうと思ったらしい。
「あ、僕も手伝いましょうか」
なので健一はそう|提案《ていあん》する。
「大丈夫よ、これくらい、私一人で出来るから」
でも冴子はそれを自分だけでしたいのかそんなことを言って断った。
「なら、いいんですけど」
それでなんとなく手持ちぶさたな感じがした健一のところに冴子はやってきてペットボトルに入った冷えたコーラを|渡《わた》す。
「はい、絹川君」
「あ、どうも」
そして冴子はそのままシーナや綾たちにも渡していく。そんな冴子を健一はちょっと|距離《きより》を感じながら|眺《なが》めていた。
「……どうした、健一?」
そんな健一に隣からシーナが話しかける。
「なんだろ、俺、ちょっと有馬さんと距離を開けすぎてたかなあって」
そうなんとなく答えてしまったのは、きっと冴子本人のことではなく、冴子の母親のことが|原因《げんいん》だろうと思った。
自分だけが冴子の母親に会ってないこと。それが何か特別な意味があるとも思えないのに、不思議と気になった。
「まあ、彼女じゃないんだからほどほどでいいんじゃねえの?」
でも本当にシーナはそんなことどうでもいいという態度だった。
「そうだね」
だから健一はもうそのことは気にするのを|止《や》めて、とりあえずコーラを飲むことにした。
○
そしてポテトチップを食べながらTVを観てる間に、ついにその時はやってきた。
「そろそろだ」
それを最初に|指摘《してき》したのは刻也だった。
「健ちゃんたちの出番はすぐなの?」
しかしそれはあくまで番組の始まる時間に過ぎない。綾がもっともな疑問をぶつけてくる。
「……どうなんでしょ? オープニングでちょっと出るかもしれませんけど、本格的な出番がいつかは。シーナ知ってる? ・」
そして自分でも聞かれるまでわかってないのに健一は気づいてシーナに聞いてみる。
「ちょっ、静かにしろ! ナレーションが聞こえないだろ」
だがシーナはすでに|臨戦《りんせん》モードらしい。目がギラギラと|輝《かがや》いてる。そしてそれはさほど間違ってなかったらしい。
{今日の特集は|比良井《ひらい》で活動してるヴォーカル&ハーモニカの|絶妙《ぜつみよう》なハ、ーモニー、シーナ&バケッツ! 一そんなDJの声が聞こえてきた。
「うお、来たぜ。シーナ&バケッツ言ったぜ、おい」
それにシーナが|鼻息《はないき》を|荒《あら》くする。
「……私、ドキドキしてる」
それに反応したのかどうか冴子のそんな呟きが聞こえた。
「ああ、もっとドキドキしていいぜえ。つうか、なんかエロいな今日の有馬」
それにシーナが当たり前のようにセクハラまがいな発言をする。
「そ、そうかな……」
それに冴子は当然|戸惑《とまど》ったようだが、それもシーナにとっては望む展開だったらしい。さっきとは別の意味で鼻息を荒くするのが健一には聞こえた。
「でも、出番はまだみたいだね」
なので話題を逸らす意味で健一はそんなことを言ってみる。
「だな。しっかしドキドキするぜえ。やっぱり放送前にチェックしておけばよかったぜ」
「え? そんなチャンスあったの?」
「当たり前だろ、変なこと放送されて困る|危険性《きけんせい》もあるからな」
でもそれはシーナとTV局の人間の間だけの会話で終わってたらしい。まあ、その時、へぼってた自分にも責任はあるのだが。
「……だったら俺はチェックしたかったなあ」
「人生はサプラーイズだぜ、健一。チェックしますかって聞いてくれたけど、プロの|腕《うで》を信じてるぜって返しておいただけだけどな」
「た、頼むよお」
そうこうしてる間にテレビでは新曲紹介が流れていた。番組が|切《き》っ|掛《か》けでメジャーデビューしたグループのその後の活動を追いかけてるということらしい。
「本当にこの番組が切っ掛けでデビューして有名になってる人がいるのね」
それに冴子がそんな感想を漏らす。
「みたいですね」
「私でも名前聞いたことあるようなグループがこの番組でってけっこう意外な気がする」
冴子がそんなことを言うので、どうやら今、流れてる曲はかなり有名なものらしい。でも健一にはその手の情報は|全《まつた》くなく、DJのコメントを素直に信じるしかできない。
{そしてCMの後はシーナ&バケッツの特集をお送りします一そしてコーナーが終わり、CM前にそんなナレーションが入る。
「やべえ、|緊張《きんちよう》する。トイレ行っておけばよかったぜ」
それにシーナがどこまで本気なのかそんなことを言い出す。
「今からでも行ってくれば……」
なのでとりあえず|素直《すなお》に|提言《ていげん》してみたが、やっぱり何か間違ってたらしい。
「くわ―――――――――――!」
軽くチョップされた。
「なんで怒るんだよ?」
「そんな緊張感のないことが出来るか!」
「そ、そうなの?」
だったらなんでそんなこと言い出したんだろうと健一は思ってしまう。
「次? 次?」
そして綾が目を輝かせながら、一人咳くのが聞こえた。シーナの発言の|意図《いと》は不明だが、とりあえず自分もテレビに集中した方が良さそうだと健一は思う。
そしてその|途端《とたん》、見知った光景が飛び込んできた。駅前の広場。そこに四人の女の子が立っていて息を吸い込む姿が見えた。
{シーナ&バケッツさいこ―――――――――――!}
声を合わせて|叫《さけ》んだ言葉は健一たちへの応援だった。
「|鍵原《かぎはら》さんたちね、これ」
冴子がそのことを一番に|指摘《してき》した。確かにその通りだった。そこにはツ。ハメと咲良、それに知らない女の子が二人いた。
「佳奈ちゃんはいないのかよ」
シーナが不満の声をあげる。だが健一は|密《ひそ》かにツバメが出ていることにホッとしていた。
インタ。ヒューを受けたことを|自慢《じまん》していたが、これで全く出番が無くて荒れるという状況は|回避《かいひ》できただろうと思えた。
「あ、健ちゃんたちだ」
そうこうしてる間に映像はシーナのインタビューに変わった。健一はその後ろにかろうじて|映《うつ》ってるという感じだ。|端《はた》から見ると|露骨《ろこつ》に|疲《つか》れてて|情《なさ》けないことこの上ない。
{なんでヴォーカル&ハーモニカなのか? そりゃそれだけで十分だって思ってるからかな一その一方でシーナが堂々とした態度で受け答えをしていた。放送的には先だが、実際にはライブの後だと考えると本当にシーナはタフだなあと改めて感じる。
「同じ人物のはずだがTV越しに見ると随分と格好良く見えるものだな」
刻也がそんなことを呟く。
「そうですね」
冴子がそれに同意する。健一はそれでシーナが怒るんじゃないかと思って、シーナの顔を見るがテレビに見入っていてそれどころじゃなかったらしい。
「健ちゃんはしゃべらないの?」
綾はそんな|映像《えいぞう》にちょっと不満らしい。
「僕は疲れてへばってただけですからインタ。ヒューは……」
「そうなんだ」
「ああ、でもハーモニカの|演奏《えんそう》はそのうち流れるかも」
健一がそう言った時、インタビューが終わり、場面が|切《き》り|替《か》わる。
ダンサーたちの|踊《おど》りが終わったかと思うと、シーナの声が|響《ひび》く。
「…………」
途端、健一も|含《ふく》め、もう|感想《かんそう》を口にしてる場合ではなくなっていた。画面に|釘付《くぎづ》けになっていた。
画面の中にシーナが歩いて現れる。
(……聞いてた人にはこう見えてたのか)
ただ健一だけはその時、何が起こっていたのかを思い出す。
全部手に入れるぜと動き出した。それは画面からはわからない。でも健一にはその時のシーナの気持ちが思い出された。
シーナの歌う『上を向いて歩こう』が部屋中に響いた。そんなに大ボリュームにしてたわけではないはずなのに、部屋中の空気をシーナが|支配《しはい》したような|錯覚《さつかく》に|陥《おちい》る。
考えてみれば|聴衆《ちようしゆう》としてシーナの歌をまともに聴いたことは健一にはなかった。
いつも健一はシーナの後ろで聞いていただけだった。
(正面から聞いたら、こんなにも響くんだ)
健一はそれで千夜子のことを思い出した。
シーナの歌が|凄《すご》すぎて|怖《こわ》いと言った彼女の気持ちが初めてわかった気がした。なんの準備もなくこんなものを聞かされたら、確かに自分の意見なんて失ってしまうかもしれない。
録音でこれなのだから、直接聞かされたら。そんなことを考えると|背筋《せすじ》を冷たいものが走るのを感じる。
「…………」
そして綾も冴子も、そして刻也が実際にそうなってしまってるようだった。予想以上のシーナの歌の|迫力《はくりよく》に完全に|呑《の》まれているのが健一にはわかった。綾たちは前のめりになってテレビに襲いかかるんじゃないかと不安になるほど|真剣《しんけん》に画面を見ていた。
三人は何一つしゃべらなかった。ただシーナの歌声に聞き入っていた。それだけの力があの日のシーナには|宿《やど》っていたのだと健一は改めて感じる。
(これがシーナ&バケッツだったんだ)
健一はずっと気づかなかった自分たちの姿を見た思いだった。
「……ふぅ」
そして一曲終わったところで、やっと綾たちは|一息《ひといき》ついたようだった。しかしそこにバケッツのハーモニカが饗日く。
「これ、健ちゃんの音だよね?」
それに綾が反応する。さっきまでとは明らかに違う反応。
「ですよ」
「だと思った」
綾は背もたれに寄りかかって目をつぶると、大きくゆっくりと息を吸い込む。それは綾だけではなく、冴子も刻也も|互《たが》いを見たわけでもないのにそうした。健一はそれをちょっと不思議に思いながら、画面の方に視線を移した。
「……これが。バケッツ」
その時にはバケッツは画面の中心にいた。自分が思っていたよりはずっと静かな|動作《どうさ》で、ハーモニカに息を送り込んでいるのが見えた。
自分のはずだという|知識《ちしき》と目の前の光景が|一致《いつち》しなかった。吹くのに|精一杯《せいいつぱい》でどんな音になってたかなんて聞こえてなかったんじゃないかと思えた。
でも|端《はた》から聞く自分の、いやバケッツの|奏《かな》でる|音色《ねいろ》はびっくりほど|澄《す》んでいて、優しく自分の心に響いた。
「……なんだ、これ?」
健一は知らずと|涙《なみだ》がこぼれそうになっていた。自分の吹いた曲でそんなことになるなんて想像もしてなかった。自分だというどこかに引いた線がなければ泣いていたかもしれない。
「これがバケッツなんだぜ、健一」
シーナはそんな健一の顔を見ていたのかもしれない。そう呟くのが聞こえた。
「……みたいだね」
ぼんやりとそれに答えるので精一杯だった。耳も頭も、そして心も、ハケッツの|演奏《えんそう》に|夢中《むちゆう》かのようだ。
そうこうしてる問にダンサーたちが踊りを止めて立ち止まってしまうのが見えた。
伸吾が|謝《あやま》っていたのはこのことだったのかと健一は思う。
立ってハーモニカを吹いてるだけ。それは映像的にはあまり面白いものではなかった。だからこそ伸吾たちはそれを助けてやろうと思ってくれたのだろう。
だが一人、一人とダンサーが足を止める|絵面《えづら》は決して|見栄《みば》えのいいものではなかった。
踊らないでいいにしても、|邪魔《じやま》にならないように消えなきゃいけないのに、立ちつくして聞いてたよ――伸吾がそう語っていたことの意味がやっとわかった。
でも綾たちはそんなことを少しも気にしているようには見えなかった。きっとあの日の|聴衆《ちようしゆう》もそうだったに違いない。あの時、皆の|意識《いしき》はバケッツの演奏とそれを聞いてる自分の心に集中してたのだ。
自分がそれほどのことをしてたなんて思うのは健一には|抵抗《ていこう》があった。だが目の前で展開してる映像はそれを彼に教えてくれる。
その考えが間違っていないのだ、と。
「……こんなことってあるのね」
冴子の咳きが聞こえた。気づけば曲は終わっていた。どころかCMになっていた。
「どうしたんですか?」
なんだか心配になって健一は冴子に尋ねる。
「|何故《なぜ》かはわからないけど、泣いてたわ、私。音楽を|聴《き》いててそんなことになることなんてあるのね」
冴子の返答は伸吾が言ってたことを彼女なりに言い直したものだった。
「……自分でもびっくりしました」
だから健一も素直に受け止めるしかないと感じる。
「どうだ、びっくりしたか!」
そこにシーナが|勝《か》ち|誇《ほこ》った様子で大声を上げる。
「うん。びっくりした」
でも冴子はそれを素直に|肯定《こうてい》した。
「私もびっくりしたよ。二人とも|全然方向性《ぜんぜんほうこうせい》は違うし、何がどうなんてことまで私には言えないが、|凄《すご》いというのだけはわかったと思う」
刻也がやっと言葉を|取《と》り|戻《もど》した様子で話を始める。
「ふははは。見たか、シーナ&バケッツの実力を」
「|大《たい》したものだ。こんなことを毎日のようにやっていたとは、正直に|恐《おそ》れ|入《い》ったよ」
「だったら明日から聴きに来てもいいんだぜ? そうだ、彼女を連れてきてやれよ。俺たちと友達って教えたら|好感度《こうかんど》アップ間違いナシだぜ」
「それも|検討《けんとう》に|値《あたい》するよ。確かに聴かせてあげたいとは思ったからな」
「なんだ、こいつ、のろけかよー」
シーナの言葉は内容に反して、上機嫌だった。刻也に自分たちの音楽が認められたのが|心底《しんそこ》、嬉しかったのだろう。
「……で、綾さんはどうだったですか?」
そしてさっきからなんの|反応《はんのう》もしてない綾にシーナは気づいたらしい。
「んー……イっちゃったみたい……」
綾はそれにぼーっとしたままそんな返事をする。
「ま、マジっすか!」
シーナの鼻息がまた荒くなる。
「だって健ちゃんとしてるみたいな気分になってー」
でも綾の次の発言でそれは怒りの荒さに変わる。
「健一ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」
「……な、なんでしょう?」
シーナの|剣幕《けんまく》につい健一は|丁寧《ていねい》な|口調《くちよう》になってしまう。
「どういうことだ、これは? まさか、お前……」
シーナの怒りの|追及《ついきゆう》が始まる|瞬間《しゆんかん》、健一は画面の変化に気づく。
「あ、CM終わった」
「くっ、運のいいヤッめ!」
そしてシーナは|尋問《じんもん》より番組のチェックの方が大事らしく、テレビの方に集中する。
「……ふう」
気づけば番組はシーナ&バケッツ自身ではなく、ファンの方を取り上げるパートに入ったらしい。
「あれ、また、鍵原さんだわ」
冴子がまた最初にそれを指摘した。
{と、に、か、く、聴きに来て! 私が言いたいのはそれだけ! 聴いて|文句《もんく》があるなら私が聞くけど、絶対にそんな人いないって信じてるから一そしてツバメは一人でインタビューを受けていた。その内容は健一が|勝手《かつて》に想像していたものと全然違っていた。
教室で|繰《く》り|広《ひろ》げられていた自分の|自慢話《じまんばなし》。それをテレビカメラの前でも展開してたのかと思っていた。
でも実際には全然違っていた。
本当に応援の言葉だった。ファソがもっと増えて欲しいというそれだけだが、健一にはそれが意外で、でもすっと心に飛び込んでくるのを感じる。
「鍵原のヤツ……こんなこと言ってたのか」
いつもこうならもう少し話しやすい相手なんだけどなあと健一は思う。
「ちょっと|惚《ほ》れた?」
そこにシーナが尋ねてくる。
「惚れはしないけど、ちょっと見直したかな」
「俺は大いに見直したね。いい|娘《こ》じゃん、鍵原さん」
「時々おかしくなるけどね」
でもそんな余計なことを言いながら、健一はけっこうシーナに|賛同《さんどう》していたと思う。
「……よかった」
そんな健一の耳に冴子の小さな呟きが聞こえてきた。
「何が、ですか?」
なので思わず尋ねてしまう。
「え? べ、別にただの独り言だから……」
でも聞いてはいけない言葉だったらしい。なんだか変な言い訳だが健一はそれ以上、追及するのは|止《や》めた。
「そいや有馬はどうなんだ?」
それでシーナが後ろから冴子に話しかけるのが聞こえた。
「え? 私が何?」
「有馬もライブに来るかってこと」
シーナの言葉に健一は冴子の答えは決まってると感じた。
冴子がそんなところに顔を出すわけはない。健一はそれをかなりの確かさで思っていた。
「えっと……ライブってさっきのよりずっと|凄《すご》いの?」
でも冴子は別の質問で返した。
「まあ、さっきのは特に|気合《きあ》いが入ってた時のだからな。でも|生《なま》の方がスゴいのは確かだな」
「それはそう、よね……」
そうやって何事か考え込んでいる冴子に健一はもしかして観に来る気になってるのだろうかと考えてしまう。
今までの冴子であればそんなことは検討することすらなかったはずだと思っていた。
「で、どうなんだ、実際?」
「……やっぱり、怖いわ。それに疲れちゃいそうだから」
それでも結局は冴子は来るのを|拒《こば》むことを選んだようだった。
「なんだよー。そのラブホテルまで来たのに|生理《せいり》になっちゃったみたいな展開は」
それにまたシーナは当たり前のようにセクハラまがいの発言をする。
「二人の音楽に不満があるわけじゃないんだけど」
「わかってる。わかってる。有馬はインドア系だもんな」
「うん。だから今日の録画を見て|我慢《がまん》するわ」
冴子は|申《もう》し|訳《わけ》なさそうにそう咳く。それを見ていて健一は改めて、彼女の変化に気づいた。
冴子が最後の最後で来るのを|躊躇《ちゆうちよ》したのは、夜が怖いのでも、体力のことでもないのだろうことは健一にもわかった。
きっとその理由は佳奈だった。佳奈がその場にいることを冴子は思い出したのだ。そんな場に自分が行くわけにはいかない。そう思い直したのだ。
「健一、お前も誘えよ。お前だって有馬に来て欲しいだろー」
でもシーナにはそれがわからないらしい。もしくはわかってるのかもしれないけど、キャラ的にそう言うしかないということなのかもしれないが。
「俺は有馬さんが|我慢《がまん》するって言うならそれでいいと思う」
なので健一としてはそう答えるしかなかった。
「じゃあ、いっか――って話してる間に特集終わってるぞ、オイ?」
「……みたいだね」
そしてすっかりお互いの話に|夢中《むちゆう》になってたことに健一は気づいた。
○
「すみません。今日は泊まるつもりだったんですけど……」
番組の録画を見終わるとシーナはやっぱり帰ると言いだし、結局、健一は日奈を送っていくことになった。
「いや、気にしないでください。やっぱり帰った方がいいと思ってましたし。少しくらい遅くなってもそうした方がいいですよ。明日は学校ですしね」
明日はと言ったが時間的にはすでに今日と言ってもいい時間だった。なので、さすがに今日はちょっと遅いかなと思う。そのせいだろうか、日奈が|酔《よ》っぼらった日のことを思い出した。
あの日はそれでも帰ると日奈が言って、結果、佳奈に見つかり怒られた。そしてしぼらくシーナが幽霊マンションに来なくなったのだ。
そう言えば、あの日も自分はライブに|遅刻《ちこく》しそうになったな。そんなことも健一は思う。
「それもそうなんですけど……」
でも日奈が気にしてるのは健一が考えていたこととは全く違っていたようだ。落ち着かない様子で少し視線を下げる。
「他にも何か理由があるんですか?」
健一はなんだろうと考えてしまった。自分でも|妙《みよう》な話だなと思うが、シーナよりも日奈の方が何を考えているのかわからないことが多い気がする。
「佳奈ちゃん……に、やっぱり会いたいなって」
でも、その答えは特に予想外とかそんなものではなかった。むしろ健一はなんで気づかなかったんだろうと思う。
「それはそうですよね」
「でも、もう寝ちゃってますかね。佳奈ちゃん、寝るの早いし」
「どうなんですかね? あの番組観てたらいつもよりは|興奮《こうふん》して起きてたりしそうですけど、語り合う相手がいないなら、そろそろ寝ちゃってるんですかね」
健一は何度かお邪魔したことがある|窪塚家《くぼつかけ》のリビングを思い出す。
佳奈があそこに友達を呼んで観てたということはないような気がした。
母親の|波奈《はな》なら一緒に盛り上がってくれたりするのだろうか。それにしたって、そんなに長い時間ではないだろうと思う。
日奈が帰ってくる予定だったのなら、その時まで待ってるというのはあるだろう。でもそうでないなら|適当《てきとう》なタイミングで寝てしまうに違いない。それがすでに来たか、まだこれからなのかは|微妙《びみよう》だけれども。
「こんな時間にこれから帰るって電話するのも|非常識《ひじようしき》ですよね?」
「そうですねえ。特に家の電話にとなると」
健一の知る限り、佳奈も日奈も|携帯《けいたい》電話は持っていなかった。なので電話するとなると佳奈だけを起こすだけでは|済《す》まなくなるだろう。
「そうですよね。まだ皆、起きてればいいんですけど……お父さんは確実に寝てるだろうし」
日奈は残念そうにそう呟く。
「でも、なんとなくなんですけど、佳奈さんはまだ起きてる気がするんですよね」
なので健一は特に|根拠《こんきよ》もなく、そんな話を始める。
「私も、です。なんとなく私が帰ってくるって待っててくれてるような……って、勝手な思いこみですよね、やっぱり」
「そうでもないんじゃないですか? 双子なんだし、そういうの|通《つう》じ|合《あ》っててもいいかなあなんて僕は思いますけど」
「私も……そうだったらいいなって思います」
日奈はそれを口にしてから、自分でも驚いたという顔をして恥ずかしそうに健一から視線を|逸《そ》らす。
「だったらいいですよね」
健一はそんな日奈に対して、本当にそうだったらいいなと思う。それを日奈がどれだけ望んでいるかは健一にもわかるような気がした。
「……あ、あのですね」
でも日奈の|口調《くちよう》がちょっと変わったのを健一は感じ取る。
「はい?」
「今日のTV放送を観てて、どう思いました?」
「どうって……シーナの歌って正面から聞くとこんな風なんだなあ……とか。あ、ほら、僕はずっと後ろからしか聞いてなかったんで……って、そういう話じゃないですか?」
健一は話すうちに日奈が困ったような表情を浮かべるので、どうやら質問の意図が違ったらしいことに気づく。
「デビューした方がいいかどうかって話ですよ」
「ああ、そういうことですか」
以前もそんな話をしてたし、確かにそのことをもう少し自分も意識してても良かったなと健一は思う。
「どう思いました?」
「うーん。このままじゃ|勿体《もつたい》ないとは思いました」
そう言ってくれたのはエリだったかもしれない。シーナが本物であるならば、それを眠らせておくわけにはいかないと。それを健一はやっと自分でも感じた。
「私は、有馬さんみたいな人がけっこういるんだろうなって思いました」
「……どういう意味ですか?」
健一は日奈の言葉に|一瞬《いつしゆん》ついていけなかった。
「もっと聴きたいなって思ってても、色々な事情があって聴きに来れないって人たちがってことです」
「ああ、なるほど。この近所ならまだしも、そうじゃない人はちょっと難しいですよね」
今まではそもそも聴きに来たいと思う人が少なかった。聴きに来た人たちだけがそう思う状況だったのだから、来たいけど来れない人なんて気にする必要もなかった。
でも、今日からは違う。聴きに行きたいけど行けない人がいるのだ。身近なところでは冴子が。そして|他《ほか》にもきっと、日本のあちこちに。
「だから私、やっぱりデビューした方がいいかなって……そう思いました」
日奈のその言葉は今までの流れからすれば自然なことだったけれども、それでも健一には意外なことに感じられた。
「いいんじゃないですか」
でも健一は意外ではあったが、気持ちとしては賛同していた。
「それは健一……さんも一緒にデビューしてもいいってことですか?」
なのにそう尋ねられて、健一はちょっと驚いてしまった。
「え? あ? そうか……僕も一緒なんですよね」
「そうですよ。シーナとバケッツで、シーナ&バケッツなんですから」
でもそれを日奈に|念押《ねんお》されるのはどうにも違和感があった。
「そ、そうですよね」
「で、どうなんですか?」
「いや、うん。前にも言いましたけど、日奈がそうしたいって言うなら協力しますよ。一緒の方がデビューしやすいならそうするし、シーナだけでいいって言われたら、その時は応援するだけにします」
その気持ちは前から変わってないなと健一は改めて感じた。
「健一さんは本当に私のために力を貸してくれてるんですね」
日奈はそう言って、なんだか泣きそうな顔をした。でもそれは悲しいからではなく、|感極《かんきわ》まったとでも言うようなそんな表情だった。
「何をすれば日奈の力になるのか、今でもよくわかってないんですけどね」
だからだろうか、健一はなんだか|申《もう》し|訳《わけ》ない気持ちになる。日奈が|誤解《ごかい》してるとは思わないし、自分ではそうしたいと確かに思っている。
でも本当に力になれてるのかは、正直に言えば自信がなかった。
「今、すごく力になりました」
そんな健一の不安を吹き飛ばすように日奈は元気にそう告げた。
「そ、そうですか?」
それがなんだかまぶしくて健一は|戸惑《とまど》いすら覚える。
「私、思い切って今晩、アタックしてみます」
でも日奈の|勢《いきお》いは止まらない。
「アタック?」
「佳奈ちゃんに本当のことを話します」
日奈の言葉に健一はついに来るべき時が来たのだと感じた。
「告白するんですね」
告白。それは二重の意味でそうであるべき言葉だった。
佳奈を好きだということ。そしてシーナが実は日奈であること。そのことを佳奈に告げるということだ。
「はいっ!」
でも日奈はもうそれで|怖《お》じ|気《き》づく様子はない。
「確かにいいタイミングかもしれないですね……って、もしかしてライブの前に相談したかったことってこのことですか?」
健一はシーナに遅刻しそうになったことで言われたことを思いだした。
「……そうです」
それにはさすがに日奈も照れた様子を見せる。
「そりゃ、怒りますよね」
それほどの重要な決心について相談しようとしてたのに、肩すかしを食らったなら、それは怒られても仕方ないという気がした。
「もう怒ってないですよ。そりゃ健一さんが帰ってこないのには腹を立ててましたけど、でもあの時に相談出来てたら、きっと今日じゃなくてもいいなって思ってた気がします。今日しかないって思い切れなかった気がするんです」
「じゃあ、その方がよかったんですかね?」
「だと思いますよ。やっぱりタイミングって大事ですよね」
日奈はそう言って元気な笑顔を浮かべる。そこには不安も|気負《きお》いも感じられなかった。
|全《すべ》ての準備が|整《ととの》っているという確信。それがそこにはあった。
「佳奈さん、起きてるといいですね」
そして気づけばもう窪塚家の近くまでやってきていた。
「起きてますよ、きっと」
まだリビングに|灯《あか》りが見えた。|誰《だれ》かが起きてる。それがわかる。
「……えっと、僕はどうしたらいいんですかね?」
ただ見送ればそれでいいのだろうか。それとも成功の返事が来るのを待ってたらいいんだろうか。そんなことを健一は考えてしまう。
「応援しててください」
でも日奈の答えはどっちとも違っていた。ただ、いつもの通りの健一でいてくれればいいと日奈は思っていたらしい。
「じゃあ、そうします」
だから健一は今日は|素直《すなお》に幽霊マンションに帰ることにする。
今晩は佳奈と話すことでいっばいだろうし、|報告《ほうこく》は明日でもいい。そう思ったのだ。
そして日奈は自分の家まで戻ってきたのを確認して、それからまた健一の方を観た。
「それ以外のことは、私が頑張りますから」
「明日、結果を聞かせてください」
だから健一も笑顔で見送ることにする。
「はい。楽しみに待っててください。それじゃあ、今日は……じゃなくて、今までずっとありかとうございました」
日奈は笑顔を浮かべながら、三回頭を下げた。
「いいですよ、お礼なんて。それに、これで終わりなんかじゃない。そうですよね?」
それはシーナが今日、言ったことだった。
俺たちはまだもっともっと遠くに行くんだぜ?――とシーナは言った。
全部を手に入れるのだ。佳奈に告白して終わりじゃない。シーナ&バケッツはメジャーデビューをしてストリートライブに来れない人たちにもその歌を聞かせるのだ。そして今はわからないけど、もっと他にも自分たちのすべきことが待っているのだ。
「……そうでした。まだまだゴールじゃないんですよね。でも健一さんが一緒にいてくれるなり、私、どこまでも行ける気がします」
それはなんだか愛の告白みたいにも聞こえた。でもそんなことはないことは健一にはよくわかっていた。
「行きましょう、どこまでも」
日奈は|親友《しんゆう》なのだ。日奈は学校でも|評判《ひようばん》の美少女だけど、健一にとっては男の友達だった。
口奈はシーナであり、健一はシーナの親友なのだから。
「はい」
だからこんなところで日奈は立ち止まっていてはいけない。
「それじゃ、また明日」
「それじゃ、また明日」
そしてそれを日奈もわかってるようだった。
だから健一は笑顔でその場を|去《さ》った。日奈も笑顔だった。
だから帰り道、何も不安なんて感じなかった。日奈の笑顔を思い出すだけで、|幸《しあわ》せな気持ちになれた。
なのに健一の頭には例の言葉が響く。
僕には恋愛は向いてない――と。
でもそれは日奈と自分の関係を|揺《ゆ》るがすものではなかった。
日奈は親友なのだ。恋愛なんて向いてなくたって、関係はない。そう思っていた。
[#改ページ]
エピローグ |姉《あね》はそれでも男に恋してる
[#改ページ]
|玄関《げんかん》を|開《あ》けると、|佳奈《かな》ちゃんがパジャマ|姿《すがた》で歩いていた。
「……ただいま、佳奈ちゃん」
佳奈ちゃんは今さっきお|風呂《ふろ》から出たばかりらしい。リビソグに向かう|途中《とちゆう》だったところに私が帰ってきた。そんな|状況《じようきよう》らしい。
「おかえり、|日奈《ひな》ちゃん」
|湯上《ゆあ》がりのせいなんだろうけど、佳奈ちゃんの顔が赤くて、なんだか|照《て》れてるように私には見えた。私の予想外の|帰宅《きたく》に|驚《おどろ》いてくれてるなら|嬉《うれ》しいけど、そこまで|贅沢《ぜいたく》は言えない。
「お|母《かあ》さんは?」
「もう寝ちゃったよ。テレビ|観《み》たら、すぐに」
「そうなんだ」
だったら、なんで佳奈ちゃんはまだ起きてるんだろうと思う。しかもお風呂に入ってたなんて、やっぱりいつもの佳奈ちゃんとは違う。
「私は日奈ちゃんは遅くなっても帰ってくるんじゃないかって言ってたんだけどね。お母さんは、それでも佳奈ちゃんが待ってれば|十分《じゆうぶん》でしょって」
私はそんな佳奈ちゃんの言葉にドキッとしてしまった。
それは運命と言ってもいいんじゃないかと私は感じた。私が告白しようと思って帰ってきた
ら、|普段《ふだん》なら寝てるだろう佳奈ちゃんが起きて待っててくれたのだ。
しかも風呂上がりで私が帰ってきた|瞬間《しゆんかん》に目があった。こんな|偶然《ぐうぜん》はそうそう|無《な》いはず。
「……やっぱり今日しかないよね」
だから私は小さく|咬《つぶや》き、決意を固めた。まだ|靴《くつ》も脱いでないのに、玄関に立ったまま、私は|健一《けんいち》にもらった|勇気《ゆうき》を|振《ふ》り|絞《しぼ》る。
「え? なに?」
「ちょっと|聞《き》いて|欲《ま》しいことがあるんだけど」
それを言うだけで足が|震《ふる》えた。声も震えていたかもしれない。
でも|逃《に》げたいとは思わなかった。|緊張《きんちよう》してはいたけど、|怖《こわ》いとは感じなかった。
「聞いて欲しいことって……もしかして|恋愛関係《れんあいかんけい》かな?」
佳奈ちゃんの言葉に私はさっきとは別の意味でドキッとした。
聞いて欲しいことってだけで、そう来るとは意外だった。佳奈ちゃんはもう少し|察《さつ》しが悪いものだと私は思っていた。
「こ、|心当《こころあ》たりあるの?」
なので私はなるべく|平静《へいせい》を|装《よそお》って|尋《たず》ね|返《かえ》す。そうでもなければ、そんな流れにはならないだりうとは思いながら。
「うん。前から気づいてたよ」
佳奈ちゃんはそれをずっと待ってたとでも言わんばかりの、|優《やさ》しく|穏《おだ》やかな顔を浮かべていた。私はそれにまたドキッとしてしまう。
「き、気づいてたの!?」
私は小さく|叫《さけ》んでしまっていた。
佳奈ちゃんが前から気づいてたなら、私のしてきたことは|一体《いつたい》なんだったんだろうと思う。
でも考えてみれば|有馬《ありま》さんは一目でシーナが私って気づいてたし、佳奈ちゃんがそれにいつまでも気づかないって方が|不自然《ふしぜん》な気もした。
「うん、もう|随分前《ずいぶんまえ》から」
佳奈ちゃんは私が驚いてるのがおかしいのか、にこやかな|笑顔《えがお》を浮かべてた。
「そ、そそそ、それっていつ?」
「二学期が始まった頃だったかな」
「二学期が始まった頃……」
それって佳奈ちゃんがライブに来たか来ないかの頃ってことで、ということは佳奈ちゃんは取初から私のことに気づいていたってことになる。
って、ことはシーナとして佳奈ちゃんと付き合ってたことは全部意味がなかったってこと? だとしたら佳奈ちゃんは思っていたよりずっと|意地悪《いじわる》なのかもしれない。
……そんな佳奈ちゃんも好きだけど。
「私の方から聞くようなことでもないし、いつ言ってくれるのかなあとずっと思ってたんだけどね」
「そ、そうなんだ。じゃあ|悩《なや》んでた私はバカみたいだね」
私はホッとして体中の力が抜けた思いだった。足の震えは止まったけど、今度は足に力が入らないことを心配しなければいけなかった。
「そんなことないよ。他の人から見たら変なことではあるし、悩んで当たり前だと思う」
そんな言葉に私は今度は|涙《なみだ》が出そうだった。
佳奈ちゃんの言葉は昨日、今日、考えて出てきたものじゃないってことを私は感じた。佳奈ちゃんが私が言うのを本当に待っていてくれたのは|間違《まちが》いなかった。
「……佳奈ちゃん」
だから何を言ったらいいのか私は|逆《ぎやく》にわからなくなってしまった。
帰り道、|組《く》み|立《た》てたはずの告白プランがのっけから|崩壊《ほうかい》してしまった。でもそれは|嬉《うれ》しい|誤算《ごさん》というヤツなので、今は|慌《あわ》てなくても平気だろうと自分を|落《お》ち|着《つ》かせる。
「うん。だからわざわざ言わなくても平気だよ」
そして佳奈ちゃんは私が|混乱《こんらん》してることすらお|見通《みとお》しという感じだった。
「……だといいとは思ってたけど」
でもそれが|現実《げんじつ》になると逆に私は|焦《あせ》ってしまっていた。
「私たち、|双子《ふたご》の|姉妹《しまい》だもの。お|互《たが》いの気持ちがわかって当たり前じゃない」
でもそんな私が佳奈ちゃんはすごく嬉しいみたいだった。お姉さんとして|理解《りかい》のあるところ乞|示《しめ》せてる自分が楽しくて仕方ない。そんな感じに私には見える。
佳奈ちゃんは私が思っていたよりずっと意地悪だったのだ。もちろん、そんな佳奈ちゃんも灯きだけど。
「……う、うん。でもやっぱり、ちゃんと自分の言葉で言いたいんだ」
もうわかっててくれてる。それがわかっても私は、やっぱりそれに|甘《あま》えて終わりたくはなかった。ずっと、ずっと伝えたかった言葉なのだから、今、|勇気《ゆうき》があるうちに言いたかった。
「うん。それが日奈ちゃんの|望《のぞ》みならそうして」
でも佳奈ちゃんに|改《あらた》めて、こっちを見られると私も勇気がくじけそうだった。
返事はわかってる。オッケーだって先に言ってくれたようなものだ。
「わ、私――」
なのに、佳奈ちゃんの目を見てハッキリと言えなかった。怖くて目をつぶってしまう。
「私、佳奈ちゃんのことが好き。|昔《むかし》からずっとずっと愛してた。だからシーナとしてじゃなく、口奈として私と付き合ってください」
それでも|想《おも》いは口に出来た。
「…………」
返事はなかった。聞こえなかっただけだって私は思った。緊張しすぎて私の頭は音を|処理《しより》する余裕がないんだってそう思った。
それから目をつぶってるせいかもしれないって思った。だから目を開けて視線を上げる。玄閃の上にいるパジャマ姿の佳奈ちゃんの顔へと視線を向ける。
「…………」
|満面《まんめん》の笑みを浮かべてるはずの佳奈ちゃんの顔を私は見た。そのはずだった。
「日奈ちゃん?」
でもそこにいたのは驚きの顔を浮かべていた佳奈ちゃんだった。さっきまでとはまるで別人だった。
|全《すべ》てを理解してそこで私の言葉を待っていてくれたはずの佳奈ちゃんは、もうそこにはいなかった。いや、最初からいなかったのだ。
「佳奈ちゃん……は、わかっててくれたんだよね?」
佳奈ちゃんはずっと|誤解《ごかい》してたのだと私はやっと理解した。でも気づくのが遅すぎたのが私にはわかった。
佳奈ちゃんがわかっていたというのは、私の佳奈ちゃんへの想いじゃなかったのだ。なのに仏はそうだと思いこんで、とんでもない|告白《こくはく》をしてしまった。
「日奈ちゃんが好きなのは、|絹川《きぬがわ》君じゃなかったの?」
佳奈ちゃんもやっと自分が誤解してたということに気づいたみたいだった。
「……何言ってるの?」
佳奈ちゃんがそう誤解する|原因《げんいん》はいくつもあったと思う。
私は男の子に関しては確かに健一とだけ仲良くしていた。それが佳奈ちゃんには恋に|映《うつ》ったんだろうことは理解できた。
でも私はそんな話はしてない。
佳奈ちゃんに今さっきちゃんと伝えた。
私は佳奈ちゃんが好きだって。
シーナは私なんだって。
なのに佳奈ちゃんは私と健一の話をする。その話しかしない。
「|大海《おおうみ》さんって彼女がいるのに好きになっちゃってどうしようかって悩んでたんでしょ?」
「……私、そんなこと言ってないよ」
佳奈ちゃんは私が言ったことを|必死《ひつし》に|否定《ひてい》してるみたいだった。
「言ってないけど、そうだったんでしょ? だから私、|相談《そうだん》されたら大海さんを|敵《てき》に回すことになっても日奈ちゃんを|応援《おうえん》するって、そういうつもりだったんだよ?」
どころか佳奈ちゃんの心はどこか遠くに行ってしまったみたいだった。佳奈ちゃんの体のずっと|奥底《おくそこ》なのか、それともずっと|過去《かこ》なのか。今さっきまでそこにいたはずの佳奈ちゃんが今はもう目の前にいない。
「私はそんなことは言ってないよー・ちゃんと言ったよね? 私、佳奈ちゃんに言ったのよね? 私が好きなのは誰か……ちゃんと言ったよね?」
だから私は大声で|叫《さけ》んでいた。夜遅くだってことも、お母さんやお父さんのことも気にならなかった。
目の前から消えてしまった佳奈ちゃんを|呼《よ》び|戻《もど》したくて私は必死だった。
佳奈ちゃんに自分の想いが届くなら、|他《ほか》には何もいらなかった。
全部、手に入れるぜなんて|格好《かつこう》いい言葉なんてもういらない。
佳奈ちゃんに私の気持ちが|届《とど》くなら、他のことはやっぱりいらない。
|全《すべ》て|失《うしな》ったって|構《かま》わない。佳奈ちゃんが私の話をちゃんと聞いてくれるなら、それで。
「……日奈ちゃんが私のこと好きなわけないじゃない」
でも私の想いは|厚《あつ》い|壁《かべ》に|阻《はば》まれて届かなかった。佳奈ちゃんの|常識《じようしき》は私の言葉を|軽々《かるがる》と|粉砕《ふんさい》した。
そんなことはあり|得《え》ない――と。
「だったら! だったらどうして私はこんなに苦しいの? どうして悩まないといけなかったの? 佳奈ちゃんにわかってもらえないことがなんでこんなに悲しいの?」
涙も出なかった。ただ、悲しかった。|悔《くや》しかった。
「日奈ちゃんはきっと|勘違《かんちが》いしてるんだよ」
なのに佳奈ちゃんには届かない。私の気持ちが受け入れられないのなら、それでもいい。でもそんなものがあるはずもないと言われるのだけは|耐《た》えられなかった。
佳奈ちゃんが私のことを好きになってくれなくてもいい。
私が佳奈ちゃんを好きなことをただ知ってくれれば、それで。
「勘違い? 勘違いって何?」
でも、それすら佳奈ちゃんは|許《ゆる》してくれなかった。
そんなものは私が心の中で作り出した|妄想《もうそう》でしかないと思っている。
「絹川君が好きなのにそれが|上手《うま》く行かないから、別の形でその気持ちを|叶《かな》えようとしてる、こか」
「そんなわけない! 私は健一と会う前から、ずっと佳奈ちゃんが好きだったんだよ? 佳奈りゃんに告白したいから、健一に|手伝《てつだ》ってもらってただけ。なのに、なんで佳奈ちゃんはそん媒|非道《ひど》いことを言うの?」
私は大声でわめきながら、佳奈ちゃんに質問をぶつけ続ける。でもその全ての答えを私はとっくに知っていた。
それは佳奈ちゃんが佳奈ちゃんだからだ。
佳奈ちゃんがそういう人だって、私はずっと前から知っていた。
佳奈ちゃんには私の気持ちなんてわかるはずはないって知っていた。
佳奈ちゃんがシーナの正体を理解してるはずがないってことも知っていた。
でも信じたかった。
佳奈ちゃんだって変わってくれる、と。私が望む佳奈ちゃんに変わってくれる、と。
そのために私はシーナ&バケッツとして活動してきた。
|夜遊《よあそ》びしてると佳奈ちゃんが心配するのをわかっていたのに。不安がらせるようなことはしたくなかったけど、それ以外に道はないって思っていた。
「…………」
でも、その道の先に私の望む佳奈ちゃんはいなかった。
目の前にいるのは言葉を|失《うしな》い、私を悲しそうな目で見ている佳奈ちゃんだ。
「……こんなのって無いよ」
もう佳奈ちゃんと話せる言葉は思いつかなかった。
佳奈ちゃんはそこにはいないのだから。私の話に耳を|貸《か》してくれない人に伝わる言葉なんて、想いなんてどこにもない。
「日奈ちゃん?」
それでも|条件反射《じようけんはんしや》のように佳奈ちゃんは私の名前を呼ぶ。
「ごめんね、佳奈ちゃん。|訳《わけ》わからない妹で」
私はそれが|耐《た》えられなかった。もうその場にいられなかった。
|拒絶《きよぜつ》するならハッキリと拒絶して欲しかった。でも佳奈ちゃんはただ無かったことにしようとした。私が言ったことは何かの間違いだとしようとした。
それだけが私にとっての|真実《しんじつ》だったのに――。
「日奈ちゃん!」
私は逃げ出した。玄関を飛び出して、外に出た。
それを佳奈ちゃんが追いかけてきたかどうかなんて確かめたくもなかった。
佳奈ちゃんの声は聞こえてこなかった。
「バカ! バカ! バカァ!」
私は叫びながらアテもなく走り続けた。
バカなのは自分だってわかっていた。
佳奈ちゃんに|期待《きたい》していいことじゃないってわかっていた。
でも、望まずにはいられなかった。
だから私はバカなんだってわかっていた。
それでも望み続ければ現実になると信じたかった。
「バカッ!」
消えてしまいたかった。佳奈ちゃんのようにさっきのことを無くしてしまいたかった。
でもそんなことが許されるわけもないと私は理解していた。
だから|周《まわ》りを気にせず叫び、どこへとも知れず走り続けた。
暗い町中はどこも一緒に見えたし、どこでもよかった。
家から遠ざかっているなら、それで。
どこか行きたいところがあったわけじゃない。
どこでもいい。遠いところへ行きたかった。
「うわっ」
でもそうも言ってられなかった。
こんな遅い時間でも人はいた。それに私はぶつかって|転《ころ》んだ。
「す、すみません……」
こんな時でも|反射的《はんしゃてき》に|謝罪《しやざい》の言葉は出るんだななんて自分でも思う。気持ちなんて少しもこもっていなくても|謝《あやま》るくらいはできるのだと私は初めて知った。
「大丈夫ですか?」
でもぶつかった相手はそんな私にも手を|差《さ》し|伸《の》べてくれた。
「……大丈夫です」
私はまだ|慣《な》れない目でその手の|持《も》ち|主《ぬし》を見上げる。それでやっとお互いの視線が|重《かさ》なる。
「え? 日奈? どうして……ここにいるの?」
私がぶつかったのは健一だった。
そこには私をちゃんと見てくれるただ一人の人間がいた。
[#改ページ]
あとがき
|新井輝《あらいてる》「どうも、初めまして、新井輝です」
|狭 霧《さぎり》「は、初めましてですか?」
新井輝「ん? |僕《ぼく》、何か変なこと言いました?」
狭 霧「え? だって、これ九巻ですよ? しょーとすとーりーずも三巻出てるわけですから、初めましてってことはないと思うんですけど」
新井輝「……ん? そう言われて見ると確かにおかしな気が。でも以前にあとがきを書いた|覚《おぼ》えはないんですよね、|不思議《ふしぎ》なことに」
狭 霧「そ、そうなんですか?」
新井輝「そこで|驚《おどろ》くということは、君は以前の僕のことを知ってるんですか?」
狭 霧「知ってるような知らないような。私もあとがきに出たのは初めてですから」
新井輝「それなら初めましてでいいんじゃないんですか? 僕も君も初めてなわけですから」
狭 霧「……えっと、そうですね。そんな気がしてきました」
新井輝「では、|改《あらた》めて――どうも、初めまして、新井輝です」
狭 霧「どうも、初めまして、|八雲《やくも》狭霧です」
新井輝「さて、この本が出る頃にはドラマCDシリーズの第三弾が上下巻で発売されてるはずuすが、|皆《みな》さん、もう聴いてくださったでしょうか? |書《か》き|下《お》ろしのオリジナルストーリーに媚え、|恒例《こうれい》のあとがき? も|収録《しゆうろく》されてますので、まだの人はぜひ|購入《こうにゆう》してくださいね」
狭 霧「……やっぱり変じゃないですか、それ?」
新井輝「え? なんでです?」
狭 霧「恒例のあとがき? というのを新井さんが書き下ろしたってことですよね、それ」
新井輝「……ん? そう言われてみると確かにおかしな気が。ということは僕は以前にあとがきを書いたことがあるってことなのか?」
狭 霧「なのか?――と聞かれても、そう言ったのは新井さんなわけで」
新井輝「むー。確かにその通りなんだが、どうにも思い出せないんだよ」
狭 霧「でも、ドラマCDを作ったことは覚えてるんですね?」
新井輝「ああ。収録に行って、|尊敬《そんけい》していた|声優《せいゆう》さんから台本に書いてもいない|罵倒《ばとう》のセリフをアドリブで言われたのはしっかり覚えてる」
狭 霧「それは、あとがき? の話ですよね?」
租井輝「そうですね」
狭 霧「その台本はもちろん新井さんが書いたんですよね?」
新井輝「そう言われてみると書いた気がするな。それではラジオ番組風で|千夜子《ちやこ》とツバメが出てて、それで……最後に僕は死んだんだ」
狭 霧「死んだんですか? じゃあ、なんでここにいるんですか?」
新井輝「……それがよくわからないんだ。死んだはずなんだけど、その後、|蛍子《けいこ》様にも殺された|記憶《きおく》がある」
狭 霧「蛍子様? 蛍子さんのこと、新井さんは蛍子様って呼んでるんですか?」
新井輝「当たり前だろう! 蛍子様があーって、何を言ってるんだ、僕はっー7"」
狭 霧「本当になんだかわからないんですけど、新井さん、大丈夫ですか?」
新井輝「……うむ。|疲《つか》れてるのかもしれない。それに慣れないあとがきで|緊張《きんちよう》してる気もする。
こんな風にキャラクターとの対談形式の文章でのあとがきなんて初めてだから」
狭 霧「……いや、それはないと思うんですけど。二巻からこっち、ほ蔭そんな感じだったはすですよ?」
新井輝「そ、そうだったかな……それは本当に記憶にないんだけども」
狭 霧「まあ、記憶にないんじゃしょうがないですね。それはそうとドラマCDの話はしなくていいんですか?」
新井輝「ああ、そうそう。ドラマCDの話だったね」
挟霧「そうですよ」
新井輝「『ROOM No.1301 ドラマCD#3 〜お姉さまもドラマティック?〜』というタイトルで上巻、下巻同時で九月二十一日に発売してます。内容は文庫の三巻をメインに二巻のエビローグや四巻の序盤を加えて再編集しています。上巻は|綾《あや》、下巻は蛍子様中心で構成されてま丁が、両方通して|聴《き》くと楽しめるような|仕掛《しか》けもあるので、ぜひまとめて購入してください」
狭 霧「声優さんのこととかはいいんですか?」
莉井輝「第二弾からツバメ役で|斎藤千和《さいとうちわ》さんが|参加《さんか》しています。第三弾にももちろん登場してますので、ファンの方は要チェックですよ?」
狭 霧「斎藤千和さんって、『ケロロ|軍曹《ぐんそう》』の|夏美《なつみ》役の人ですよね? すごい有名な人なんだからもっと出番の多いキャラで|起用《きよう》した方がいいんじゃないですか?」
耕井輝「やっぱりキャラってのがあるからね。というか、ドラマCD作るって話になった時に、扇藤千和さんがツバメ役をやってくれるならいいですよと条件を出したのです」
狭 霧「その割にドラマCDの第一弾には出てこなかった気がしますけど」
耕井輝「うむ。今、思うと|無意味《むいみ》な条件だったね」
狭 霧「というかなんでそんなにこだわってたんですか、斎藤さんに」
耕井輝「いやー。以前にも別のところでドラマCDを出したことがあったんだけど、その時に才ーディションで斎藤千和さんの声を聞いて、以来、この人といつか|一緒《いつしよ》に仕事をしたいなあと思ってたってわけなんですよ。それが二〇〇四年の話だから、もう三年以上前ですね」
伏霧「そこまで思ったなら、その時に|起用《きよう》すればよかったんじゃないですか?」
新井輝「そこは|大人《おとな》の|事情《じじよう》というのもあってね……」
狭 霧「あ、なんか聞いちゃいけないことだったんですか、そこは?」
新井輝「まあ、原作者があれこれとわがまま言い過ぎると|現場《げんば》は|途方《とほう》に|暮《く》れてしまうという話さ。なので今回は一ヵ所だけ、ここはお願いします、と」
狭 霧「で、それが第一弾には出てこないキャストだったんですね」
新井輝「そうなるかな」
狭 霧「それにしても、新井さん、なんでそういう記憶はちゃんとあるんですか?」
新井輝「……ん? そう言われてみるとおかしな.気がするな。三年以上前のことは覚えてるのに、あとがきを書いた覚えがないってのは|矛盾《むじゆん》しているような」
狭 霧「もしかして、あとがきだけ記憶がないんですか?」
新井輝「……どうだろう? なにせ記憶にないのだから、何を覚えてないというのもわかりづらい気がするよ」
狭 霧「それはそうですね。じゃあ、シリーズを最初から思い出してください」
新井輝「最初は……健一が千夜子に呼び出されてって話だったはず」
狭 霧「基本的に本編はどの巻もプロローグで五年後の話で、本編が始まって、エピローグで終わるって構成になってるはずですよ?」
耕井輝「でも二巻にもプロローグは無かったよね? プロローグが始まったのは三巻からのはすだけど……」
扶霧「え? 一巻からありましたよ、プロローグ――って、もしかして新井さん、|先輩《せんぱい》のことをすっかり忘れてませんか?」
耕井輝「先輩? 君に先輩のキャラなんていないだろ?」
狭 霧「じゃあ、しょーとすとーりーず・すりーの最初の話はなんでした?」
耕井輝「『|俺《おれ》と|鍵原《かぎはら》とお|試《ため》しの|合《ごう》コンプレイ』だよね? ツバメが健一を|無理矢理《むりやり》に合コンに|誘《さそ》う話で……って、違うのかな、もしかして?」
狭 霧「なんか変だと思ってたんですよね。ここっていつもは先輩の|担当《たんとう》なのに私が出てるのはなんでなのかなあ、とか」
耕井輝「だから、その先輩ってのは|誰《だれ》なの?」
狭 霧「まあ、覚えてないならいいですけど、次のあとがきでは気をつけた方がいいですよ? 先輩、ぜ――――――――――――――――――ったいに|怒《おこ》ってますから。四巻の時の比じゃないことになりますよ、きっと」
新井輝「……よくわからないけど、気をつけます」
[#地付き]二〇〇七年 九月 新井 輝
[#改ページ]
[#改ページ]
ROOM NO.1301 #9
シーナはヒロイック!
新井 輝
発 行 平成19年10月15日 初版発行
著 者 新井 輝
発行者 山下直久
発行所 富士見書房
平成20年9月26日 入力・校正 にゃ?