海に行きたいと言い出したのは、彼女の方だった。お弁当を作ってくるから食べてくださいねと言ったのも彼女だ。そういえば、つき合ってくださいと言われたのも彼女の方からだったかも。
あれ!?これで、い、い、のかな?
健一《けんいち》は、思った。
クラスメイトの大海千夜子《おおうみちやこ》と初々しく過ごす夏休み。ぎこちない距離感で揺れる彼と彼女の関係は、行きつ戻りつだった――。
が。
存在しないマンションの13階に住むHをしないと眠れない少女・冴子《さえこ》との関係は、非常に気持ちいいかんじだったり。芸術家の不思議少女・綾《あや》は、独自の方向性にぶっ飛びはじめたり。ますます健一の恋や愛への疑問は深まっていく。
普通の17歳健一のややこしくなる日常を淡々と描く、少し切なく可笑しな探求の物語、第三弾!
[#改ページ]
BEFORE READING
〈これまでのあらすじ〉
普通の高校生健一はそれまでHをしたことがなかった。
しかし、ある日知り合った不思議な
芸術家の少女・綾とH(しかも五回も)をしてしまう。
その後なんでかわけもわからないうちに
姉のホタルともHをしてしまう。
その後なんとなく、
綾とアダルトビデオを借りに行ったりなんだりしたが。
今度は知り合ったクラスメイトでHをしないと
眠れない少女・冴子ともHを(しかも四回も)してしまう。
でも、健一はつき合っている彼女、
千夜子とHはまだせずだらだらと関係をつづけている。
それが、健一の
夏休みの前までのできごとだった。
[#改ページ]
ROOM NO.1301 #3
同居人はロマンティック?
新井 輝
富士見ミステリー文庫
[#改ページ]
口絵・本文イラスト さっち
口絵デザイン 菊地博徳
[#改ページ]
目 次
プロローグ 友達は恋愛《れんあい》してるのに
第七話 いつか大人になる日
第八話 千夜子だって初めてだからと友人は言った
エピローグ 姉は俺を嫌《きら》ってる
あとがき
[#改ページ]
プロローグ 友達は恋愛《れんあい》してるのに
[#改ページ]
鍵原《かぎはら》ツバメは相変《あいか》わらずだった。
短大ももう卒業しようって年なのに、未《いま》だに彼氏が出来ない。中学、高校と『恋多き女』なんて不名誉《ふめいよ》な呼称《こしょう》を与《あた》えられてきたというのに、だ。
「ふう……」
ツバメはこの状況《じょうきょう》には自分でも感心するしかないだろうと思う。そして一体何が悪いのだろうかと考えてしまう。
彼氏が欲しい。そう思って集まった短大の仲間たちは一人、また一人と抜《ぬ》けていった。彼女たちには、彼氏ができたからだ。その中には明らかに自分よりかわいくないとしか思えない娘《こ》もいた。だから容姿《ょうし》のせいではないだろうと考えるしかない。
スタイルが悪いってこともない。確かに胸《むぬ》は大きくはないが……。
学歴《がくれき》にもほとんど差なんてないだろう。なにせ同じ学校に通っているのだから。
家柄《いえがら》? まさか。そんな誰《だれ》も彼もがお嬢様《じょうさま》なわけもない。
受け身になってて何もしないなんて、そんな消極的《しょうきょくて》な性格《きせいかく》でも態度《たいど》でもない。
「ってことはやっぱり、性格か」
ツバメはそして悲しい結論《けつろん》に達《たつ》して、また溜《た》め息《いき》をつく。確《たし》かに人より少々、好き嫌《きら》いが激《はげ》しくて、そして感情《かんじょう》の起伏《きふく》が激しいという自覚はあった。友達からは「おこりんば」なんて評《ひょう》されたりすることもある。しかし、それにしたって致命的《ちめいてき》にまずいというわけもないだろうと思う。
ということは……ツバメは考え直して、男運が無いに違《ちが》いないと思うことにする。
するとそのキッカケも何かわかるような気がした。
――そう、あの女だ。私の大っ嫌いなあの女のせいだ。
ツバメはそして、一人の少女のことを思い出す。
有馬冴子《ありまさえこ》。高一の時のクラスメイト。そして自分の彼氏(になるはずだった男)を三回も寝《ね》取った凶悪な女だ。
「そうよ、あの女のせいで私の男運は悪くなったのよ」
口にしてみて、「じゃあ中学の時はどうだったんだろ?」
なんてことを自分でツッコんでみる。でもその答えはとりあえず保留《ほりゅう》した。
そうしないとさっきも自分が振《ふ》られたという事実に押《お》しつぶされそうだったからだ。
「ごきげんよう、鍵原君」
電車に揺《ゆ》られて地元に戻《もど》ってきたツバメが出会ったのは懐《なつ》かしい顔だった。
八雲刻也《やくもときや》。高一の時のクラスメイト。ツバメの友達の大海千夜子《おおうみちやこ》の彼氏である絹川健一《きぬがわけんいち》の親《しん》友《ゆう》らしき青年だった。
百八十はあるだろう長身で痩躯《そうく》の美男子。なのに少々やぼったい気のする眼鏡《めがね》をかけていて、いかにも勉強が出来そうな人間という雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせていた。
「……こんにちは、八雲さん」
ツバメはさほど仲《なか》も良くないということもあって、力のない挨拶《あいさつ》を返す。何が悲しくて男に振られた日に、これだけ好条件《こうじょうけん》の揃《そろ》った、でも彼女のいるらしい男に会わねばならないのかという気持ちが込み上げる。
なんでも刻也は自分と同じ高校にいたくせに、東京大学法学部に現役《げんえき》で合格し、しかもまだ在学《ざいがく》中にもかかわらず、司法試験《しほうしけん》に受かったというエリート中のエリートだった。さらに家は金持ちだという。こんな男をとっつかまえた女がいるという事実がねたましい。
「元気がなさそうだが、大丈夫《だいじょうぶ》かね?」
なのに刻也は気さくに話しかけてくる。
「かもしれないですね」
昔から思っていたが、気の利かない男だとツバメは心の中で呟《つぶや》く。
「君が元気がないのを見ると、昔、君が告白して玉砕《ぎょくさい》した時のことを思い出すのだが――」
刻也はまさかそうではないだろうというつもりで話題《わだい》を切り出したようだが、途中《とちゅう》でそれが大きな過《あやま》ちだと気づいたらしい。
「まさか、そうなのかね?」
「……すみませんね。昔からずっと振られてる女で」
ツバメは本当になんて男だと思う。千夜子はどうか知らないが、どうもこの優等生《ゆうとうせい》と自分は相性《あいしょう》が悪いなと思う。そもそも頭がいい人間は苦手《にがて》だ。偉《えら》そうだし。
「すまない。なれない冗談《じょうだん》など言おうとしたのがよくなかったようだ」
刻也はそう素直《すなお》に謝《あやま》るが、それでツバメの気が晴れるわけもない。
「悪いと思うなら何か美味《おい》しいものでもごちそうしてくださいよ」
ツバメは口をとがらせて、冗談半分でそんなことを言ってみる。刻也を困らせてやろうという意地悪《いじわる》な心が言わせただけだが、彼はそれを真に受けたようだった。
「それで君が元気になるならそうしてあげたいのだが、まだ夕飯というのにはちょっと早い時間ではないだろうか」
「……そうですね」
ツバメは調子《ちょうし》が狂《くる》うなあと思いながら、確かに彼の言う通り、まだオヤツでも食べる時間だなあと時計を確認《かくにん》する。
「それに申し訳ないが、夜は別の用が入っていてね。それまででいいなら、お茶をご馳走させてもらいたい」
「はあ。まあ、それでいいですよ。別に八雲さんとそんなに親しいわけじゃないですし」
「そう、すねないでくれたまえ。さっきの発言は本当に申《もう》し訳《わけ》ないと思っているのだから」
刻也はそう言って本当に困ったような表情を見せる。ツバメはそれを見て、なんだかちょっと意外だなと思った。昔の、そして自分の覚えている彼はずっと同じ顔をしているようなイメージだったからだ。
「じゃあ、ごちそうされてあげますよ」
「そうか。それはよかった」
「で、どこに行こうって言うんですか? 別にその辺の適当《てきとう》な喫茶店《きっさてん》でもいいですけど」
ツバメはそれでどこか適当な店が無かったかなと記憶《きおく》を探《さぐ》るが、刻也はすでに心当たりがあるのかすっと歩き始める。
「五分ほど歩くが、それでもいいかね?」
一応《いちおう》、質問《しつもん》の形ではあったが刻也は特に返事は待たなかった。だからツバメは思った。
頭のいい人は嫌いだ。偉そうだし。
「…………」
ツバメが十分ほど後に座《すわ》っていたのは、八雲家の客間《きゃくま》だった。そこはツバメの家の十畳《じゅうじょう》のリビングとは比《くら》べ物にならないほど大きく、ヨーロッパの貴族《きぞく》の家のような無駄《むだ》に長い食卓が置いてあって、その様にズラ―――っと椅子《いす》が並《なら》べてあった。数えてはいないがきっと片方《かたほう》だけで十五くらい。とにかくこんなに人来るはずねえだろうってくらい大きな客間だった。
そしていくらでも椅子があるというのに、ツバメと刻也は向かい合った席に座っていた。そこに白いエプロンと黒いドレスを着た女性がやってきて紅茶《こうちゃ》を薄《い》れてくれた。いわゆるメイドというヤツだろうかとツバメは思う。
「あ、どうも」
そのメイドらしき女性が去《さ》り際《ぎわ》に会釈《えしゃく》するのに合わせてツバメは思わず挨拶してしまった。それを見て刻也が笑ったような気がした。こっちが緊張《きんちょう》しているのを見て笑うとはけっこう性格の悪いヤツだなとツバメは思ったりする。
「そんなに改《あらた》まることはない。どうせ私しかいないのだから」
それが伝わったのか刻也がそんなことを言って、自分のカップへと手を伸《の》ばした。ツバメは自分もカップを手にして、紅茶を飲むことにする。
「……む」
しかしツバメは香《かお》りだけ吸《す》って、一旦《いったん》、カップを戻した。
「お気に召《め》さないかね?」
刻也が尋《たず》ねてきたが、そういうわけではなかった。
「いえ、ちょっと香りだけで満足って言うか、もう少し味わって飲もうかなって」
ツバメはそう言って目をつぶって先程《さきほど》感じた香りを思い出す。自分の知る紅茶よりずっと香りが強くて、でもそれは鼻につくものではなく、吸い込むとすっと溶け込んで消えるようなそんな記憶《きおく》を辿《たど》る。
「お代わ。が欲しいならいくらでも出すが」
なのに刻也はなんとも風情《ふぜい》のないことを言ってツバメを現実《げんじつ》に引き戻す。
「八雲さんつて彼女相手でもそういう態度《たいど》なんですか?」
「……何かまずいことを言ったかね?」
「まずいってことはないですけど……こっちは香りだけで満足しそうって言ってるんですから、もう少し言い方があるんじゃないですかってことです」
「ふむ……」
刻也は言い返す言葉が思いつかなかったのか、自分の紅茶を飲むことにしたようだった。それでしばらく間が空く。
「これ、なんて紅茶なんですか?」
だからツバメは刻也に質問をぶつけることにした。
「確かブラックパールとかそんな名前のものだったはずだが」
「ブラックパール……」
聞いたこともない名前だ。きっと凄《すご》い高価《こうか》で自分の生活には関係ないようなそういう種類の物に違いないとツバメは思う。
「しっかし本当、弁護士《ベんごし》ってのは儲かる商売なんですねえ」
ツバメは紅茶を一口飲んで、その味わいにそんな感想を覚えた。香りと同じく、強いのだがさっと消える苦味《にがみ》。こんなものが年収数百万の家庭では飲めるはずがないと確信する。
「弁護士?」
なのに刻也は顔をしかめたようだった。
「弁護士なんですよね、八雲さんのお父さんは」
「いや、父はもう弁護士はしていない。今は弁護士事務所《じむしょ》を経営してるだけだ」
「私にはその差はどうでもいい感じなんですけど」
「確かに弁護関係の仕事という意味では大差がないと言えるな」
どうにも細かいなあとツバメは調子の狂《くる》う思いを感じる。
「お父さんが弁護士事務所を経営してるということは、もちろん八雲さんも将来《しょうらい》はそこで働くわけですよね?」
これにはさすがに反論《はんろん》の余地《よち》がないだろうと思うが、刻也がまた顔をしかめるのが見えた。
「いや、私はそのつもりはない」
「え? そうなんですか? じゃあ、別のところで弁護士に? でもまあどっちにしろエリート人生まっしぐらですよね。本当、一時期、一緒《いっしょ》のクラスだったなんて信じられないくらい別の世界の人ですよね」
今度こそ間違ってないだろうとツバメは話を続けるが、やっぱり刻也は苦い表情を見せた。
「いや、私は弁護士にはならない」
「……だったら、なんで司法試験なんか受けたんですか?」
司法試験と言えば難関《なんかん》の代名詞《だいめいし》のような試験だ。それに大学一年生のうちに受かっておいて、弁護士にならないなんて……。本当に頭のいい人の考えることはわからない。
「父に言われたのだ。それが子供《こども》の義務《ぎむ》だと」
「司法試験が子供の義務ですか……」
もしそうなら世界中のほとんどの子供は義務違反《いはん》ということになる。ツバメは今度はお金持ちの考えることはわからないなあと思うしかなかった。
「私は弁護士に向いてるとは思えないし、なりたいと思ったこともないよ」
「でも司法試験には受かったんですよね? それって向いてるってことじゃないんですか?」
「いや、そうではないよ。それに、これはさっきから君も感じてることと思うがね――私は人の相談に乗るのがすこぶる苦手なのだ」
「……なるほど」
ツバメはなんだかひどく納得《なっとく》してる自分に気づいた。失礼な話だが刻也の自己分析《じこぶんせき》はこの件《けん》に関しては確かに正解だと言うしかない。
「ま、そんなわけであまり役に立てる気はしてないが、君の話を聞かせてほしいのだがね」
そして刻也はやっと本題に入ったようだった。そう言えば、愚痴《ぐち》を聞いてもらうためにここにきたんだっけとツバメも思い出す。
「私の謡って言われても……まあ、また男に振《ふ》られましたってだけですけどね」
「それはどういう男かね?」
「友達が合コンを開きましてね、その時、知りあった人です」
「合コンかね」
「合コンですよ。私が行ってるのは女子だけの短大ですから、そういうことでもしないと男との出会いなんてないんです」
「いや、別に合コンをバカにしたわけではなく、私はそういうことをしたことがないので、少し想像《そうぞう》してみただけだよ」
「だったら今度、友達を連れて来てくださいよ。東大法学部だったら皆、大喜びですから」
「あいにく大学に友達と言えるような人物はいない」
「……そうですか」
ツバメは肩《かた》の力が抜けるのを感じながら、まあそうかもなあと思ったりした。万事《ばんじ》この調子だったら、周りの人間も付き合いづらいだろう。しかも司法試験に受かっておきながら、それをどうこうする気のないような変人だ。
「しかしまあ友達ではなくても合コンということであれば参加したがる人間がいるかもしれない。私が参加するというわけにはいかないが、話を振ってみるくらいはしてみよう」
「それはそれは」
「それで一応《いちおう》聞いておきたいのが、君の通っている女子短大というのはどこだね?」
「……唱和女子《しようわじょし》ですけど」
ツバメは少し気後《きおく》れするものを感じながら、その名を口にする。正直、あんまりレベルの高い学校ではないという自覚《じかく》はあった。なにせ自分が入れたような学校だ。
「唱和女子……だったのかね」
刻也が言葉に詰《つ》まったのを見て、ツバメはその思いを強くする。
「すみませんでしたね、レベルの低い学校で」
「む? いや、そういう意味ではないのだが……」
「じゃあ、どういう意味なんですか?」
「いや、知ってる人間が通っている学校だったのでね。しかも君と同じ年の人間だ。世間《せけん》というのは狭《せま》いものだなと思ったということだよ」
「……知ってる人間?」
ツバメは少し考えて、それがどういう人間なのかすぐわかった。
「それは八雲さんの彼女ですか?」
「……そういうことになっている」
なんだか歯切《はぎ》れ悪く刻也がそんな返事をする。照《て》れているのだろうか。だとしたら何を今更《いまさら》とツバメは思う。なんでも刻也とその彼女はもう十年も付き合ってるという。会ったことはないが、千夜子から二人は本当に仲がいいという話も聞いたことがある。
「どんな娘なんですか?」
ツバメはだからちょっと興味《きょうみ》を引かれた。この堅物《かたぶつ》と十年も付き合ってるという彼女が自分と同じ短大に通っているなら、会ったことがあるかもしれないと思ったからだ。
「どんなと言われてもなんとも表現しうらいが……君も話ぐらいは聞いたことがあるんじゃないかと思う」
「と言いますと?」
「彼女はおそらくその短大でもかなり目立つ存在《そんざい》のはずだからな」
「……まあ、八雲さんの彼女ですからね。さぞ、美人なんでしょうね」
結局《けっきょく》、のろけかとツバメは呪《のろ》うような想《おも》いを口にする。
「そういう意味ではなかったのだが」
刻也はそんなツバメの毒《どく》に困惑《こんわく》の表情を浮かべる。しかしツバメはただ本当に刻也と自分は別の世界の人間なんだなあと思うしかなかった。
「…………」
本当になんでこんな日に彼に会ってしまったんだろうとツバメは改《あらた》めて考えてしまう。
「有馬冴子」
そしてツバメは自分の大嫌いな少女の名前を口にする。
「有馬君がどうかしたのかね?」
刻也がそれに反応《はんのう》して、ツバメはそうかと思い出す。刻也は冴子と仲が良かったのだ。
「八雲さんはあの有馬冴子と一緒のマンションで暮らしてたんですよね、高校時代」
「そうだが、それが?」
「ということは知ってたんですよね? 絹川と有馬冴子がそういう関係だって」
ツバメは自分でも不思議《ふしぎ》なくらい憎々《にくにく》しげにその言葉を口にしていた。きっとすごい怖《こわ》い顔をしているんじゃないかと少し冷静《れいせい》に考えてしまう。
「確証《かくしょう》を得たのは随分《ずいぶん》後になってからだが、かなり前からそうではないかと思っていた」
「それっていつ頃《ごろ》なんですか?」
言われて刻也は少し考える仕草《しぐさ》を見せた。それは単に思い出しているというよりは、どう答えるのが良いのか思案《しあん》しているように感じられた。
「一年の夏休みに入る前くらいだろうか」
その答えにツバメは、一瞬《いっしゅん》、どういう意味だろうかと考えてしまった。刻也がそうだと気づいたのがその時期ということは実際《じっさい》はそれよりも前かもしれない。もしそうなら千夜子と健一《けんいち》が付き合い始めてからすぐに、冴子と健一はそういう関係だったということになる。
「その時にはどれくらい怪《あや》しいと思ってたんですか?」
「ほぼ百パーセントだよ。ただ証拠《しょうこ》が無かったし、それが問題とは思ってなかったがね」
「……問題とは思ってなかった?」
刻也の言葉にツバメはカッと血が熱くなるのを感じた。
「そうだが」
「その時には絹川は千夜子と付き合ってましたよね?」
「そうだな」
「なのに八雲さんは問題ないって言うんですか?」
「どちらにしろ絹川君の問題だ。私がどうこう言うことではないと思ったし、今もそう思っている」
「あのですね!」
あくまで冷静な刻也の態度《たいど》にツバメはさらに自分の血が上《のぼ》るのを感じる。
「千夜子と絹川は付き合ってたんですよ? なのに有馬冴子とそういう関係だったことを問題ないと思ってたって言うんですか?」
「少なくとも有馬君にとっては好《この》ましい状況《じょうきょう》だったと私は考えている」
「有馬冴子のことを言ってるわけじゃないんです。私が話してるのは千夜子のことです。八雲さんは千夜子と絹川が付き合ってるのは知ってましたよね? なのになんで絹川が浮気《うわき》していることを黙《だま》ってたんですか?」
「私は大海君とはあの時は友達ではなかったからだろうか」
刻也は少し考えてそう答える。
「でも絹川とは友達で、だから男同士の秘密《ひみつ》ってことで黙ってたってことですか?男ってそういうことを平気で出来るんですか?」
「男一般《いっぱん》のことは私にはわからないが、友達をかばうのは自然な感情だろう。君が大海君を大切に思うように、私が絹川君を大切に思い、守ろうとしたということだ。それに……」
「それになんですか?」
「私は有馬君に幸せになって欲しいと思っていた」
刻也は真剣《しんけん》な顔をして、ツバメを睨《にら》むようにそう告げる。
「だからって千夜子が傷《きず》つくのを承知《しょうち》で黙ってたって言うんですか?」
刻也の考えはツバメには全く理解《りかい》できなかった。あの有馬冴子に対して幸せになって欲しかったと思っていた? だから冴子と健一の関係を黙認《もくにん》した? そんなことまともな神経《しんけい》の持ち主なら考えるはずが無い。そうツバメは思う。
有馬冴子は人の彼氏を三回も寝取《ねと》った女なのだから。そんな女の幸せのために、自分の友達を犠牲《ぎせぃ》にするなんて、そんなこと許《ゆる》されてたまるか。ツバメは何も答えない刻也をじっと見つめる。その日にありありと怒《いか》りを込めて。
「大海君は傷ついたのかね?」
やっと口を開いたと思ったら、刻也はさらに信じがたいことを言い出した。
「は?」
「絹川君と有馬君のことを知って、大海君は傷ついたのかね?」
「傷ついたに決まってるじゃない! 自分の彼氏がずっと浮気してたんだよ? 千夜子は自分のことをどうしたら好きになってくれるんだろうって悩《なや》んでたのに、それに対して大丈夫《だいじょうぶ》だって言いながら絹川は有馬冴子と……」
ツバメはもう言葉を続けるのも嫌《いや》になり口をつぐんだ。それでしばらく間が空いたが、そこに刻也がさらに質問をぶつけてきた。
「大海君はそのことで傷ついたと君に言ったのかね?」
「確かに言いはしなかったけど……傷ついたに決まってるでしょ? 千夜子は優《やさ》しい娘だもん。私に心配かけないようにって一人で全部のみ込んだに決まってる」
「……なるほど、そういう風には考えたことはなかったな」
刻也はツバメの言い分を否定《ひてい》せず、それを受け入れたようだった。
「しかしそれは大海君が一人でのみ込める程度《ていど》のことだったということではないだろうか?」
「さっきから八雲さんは何が言いたいんですか? だから許せって言うんですか? 絹川がしたことや、あの有馬冴子のことを?」
ツバメは本当に頭が混乱《こんらん》するのを覚えた。自分だけ怒っているのがなんだかバカみたいに思えてきた。これだけ腹《はら》の立つことを平気な顔をして言ってのける刻也を見るにつけ、話す相手を間違ってしまったという思いがもたげてくる。
「有馬君のことはともかく、絹川君のことは許した方がいいのではないだろうか」
「……何ですか、それ? いい加減《かげん》にしてくださいよ、本当」
「別に私はどっちでもいいが、君が大海君に友情を感じているならそうするべきだろう」
「だから、何ですか、それは?」
「大海君は許している。私が言いたいのはそのことだ。そして君の人物評《じんぶつひょう》が正しいとすれば、彼女は苦しみを乗り越えて、そうしたのだろう。なのに君が怒っていては、彼女にその苦しみを思いおこさせるだけではないだろうか。私はそう考えたのだが」
刻也はそう言って少し息を吐《つ》き、そして紅茶《こうちゃ》を口にする。
「…………」
ツバメはそれを黙ってみていた。言い返す言葉が見つからなかった。人の相談に乗るのは苦《にが》手《て》だと言っていたが、さっきのは随分《ずいぶん》と的確《てきかく》な指摘《してき》だと思わざるをえない。
「だ、だとしても……有馬冴子のことは許す必要はないでしょ?」
それでも怒りは別の方向から口を動かしたようだった。健一を許すしかないとしても、そっちは関係ない。それは確かだろうとツバメは思う。
「それは君と有馬君の問題だから、全くその通りだろう」
刻也は冴子の味方のはずなのに、静かにツバメの言葉を肯定《こうてい》した。
「そうでしょ?」
「だが、それにしても君が女性としてのプライドを傷っけられたことに限定《げんてい》しておいた方がいいのではないかと私は思う」
「……なにそれ?」
ツバメは不意《ふい》をつかれて毒気《どくけ》を抜かれた気分になる。なんだか怒りが別のどこかから抜けて行くのを感じる。
「私は有馬君が君の彼氏を寝取ったのは、君のためにしたことだと考えている」
「私のためにしたこと?」
ツバメはそう尋《たず》ねながら、自分の怒りが静まった理由を直感的《ちょっかんてき》に理解しているのを感じた。刻也の答えを聞くまでもなく、それがわかった。そんな気がした。
「君の彼氏には君と真剣《しんけん》に付き合う気など無かったということだよ」
「……そんなわけ」
ツバメは口ではそう言ったが、心ではそれを否定していた。
「有馬君はお世辞《せじ》にも評判《ひょうばん》のいい女ではなかった。そんな女に少し誘われたくらいで、ついていくような男と君は本当に付き合いたかったのかね?」
刻也はそんなツパメの心を見透《みす》かしたように、答えづらい質問《しつもん》をする。
「だったら……だったらどうして?」
だからツバメはそれに答えず、質問を返《かえ》す。
「どうして、そうだって言わなかったの? おかしいじゃない。有馬冴子は私がそのことで怒ってるのを知ってたんでしょ? 私がそれを理由に嫌《いや》がらせをした時も何も言わなかった。もし八雲さんの言う通りなら、なんでそうだつて言わなかったわけ?」
ツバメはそう尋ねながら、もうわかっていた。有馬冴子がツバメの彼氏を寝取《ねと》った理由は刻也の言う通りなのだと。でも、それを刻也に否定して欲しかった。そうでなければ自分があんまりにも惨《みじ》めに思えた。
今ごろ、気づいたって、もう謝《あやま》ることはできないのだから。本当は感謝《かんしや》すべき相手だと知ったところで、その気持ちを伝えることはできないのだから。
「……私は有馬君を美化《びか》しすぎているのかもしれないな」
刻也がそんなことを言うのが聞えた。それはさっきまでの自分の言い分に対して、やわらかく否定する言葉だった。でも、それが刻也の優《やさ》しさから出た言葉だということはツバメにはわかった。きっと、ツバメをこれ以上追い込まないようにと思って口にした言葉なのだ。
「なんでよ……」
ツバメはそんな刻也の優しさと自分の思いに疑問《ぎもん》の言葉を口にする。
「なんで知ってたなら、もっと早く言ってくれなかったのよ……これじゃ私が一人で悪者みたいじゃない……」
その言葉と共にツバメは涙《なみだ》をこぼした。やり場のない怒りと、そして謝罪《しゃざい》の念が自分の中からあふれ出ていくのを感じた。
「すまない。私は本当に人の相談《そうだん》に乗るのが苦手だということを忘《わす》れていたようだ」
刻也の声が聞えた。でもツバメはもうそれをまともに聞いてはいなかった。ツバメの思いは過去《かこ》へと、高校一年生の頃《ころ》へと飛んでいた。
冴子のことを目の敵《かたき》にしていた自分。その一つ一つを思い出し、ツバメは涙を流した。
思い込みが激《はげ》しくて、その度《たび》に失敗していた自分。その二つの自分が重なったところに、探《さが》していた答えが落ちていた。
「なんで言わなかったのよ。私の方がバカだって……それで済《す》んだことじゃない……」
あんな女、大嫌い――そうツバメは思う。冴子に対してずっと感じていたその想《おも》い。
でもその理由はもうさっきまでとは違っていた。
[#改ページ]
第七話 いつか大人になる日
[#改ページ]
試験《しけん》が終わればもう夏休みを待つだけだった。
確《たし》かに試験の結果は返って来るし、授業《じゅぎょう》も残っている。でも、それだけだ。
だからもう皆、夏休みに何をしようかってことしか東に無かった。そしてそれは千夜子《ちやこ》にとってもそうだったらしい。
「これでもう夏休みですね」
帰り道の千夜子は嬉《うれ》しそうだった。あまり千夜子は勉強が得意《とくい》ではないらしい。と言っても、絶望的《ぜつぼうてき》な点数というわけではなく、勉強しないとテストで酷《ひど》い点をとってしまいそうだと不安になるだけで、だから今の千夜子はその不安を乗り切った安堵感《あんどかん》に包《つつ》まれているのだろう。
「そうですね」
健一《けんいち》はと言えば、あんまりテスト勉強に必死《ひっし》になったことはなかった。授業を聞いてればそこそこわかったし、特に良い成績《せいせき》を取りたいとも思っていない。高校入試《にゅうし》の時だって、家から近いしランクもちょうどいいからで選んだみたいなところもある。もう少し頑張《がんば》れば上の学校を狙《ねら》えるのにと担任教師《たんにんきょうし》はガッカリしていたが、三者面談《めんだん》にやってきた母親は『息子《むすこ》の意志《いし》を尊重《そんちょう》します』といつも通りのことを言うだけだった。
「あれから夏休みの予定とか決まりました?」
「いや、いつも何にもないんですよね。どうもぼーっとしてるだけで、けっこう幸せな人間らしくて、用事らしい用事を用意する気がないみたいで」
健一は苦笑《にがわら》いをしながら、千夜子の質問にそう答える。
「どこか出かけたりするの嫌いなんですか?」
「嫌いってことはないんですけど……いつも通りのことでけっこう満足できちゃうんですよね。無理《むり》して新しいことをしようとはしないので、だから誘ってくれてどこか行くと、ああこういう面白《おもしろ》いこともあるのかなんてことは思うんですけど、自分からはなかなか」
健一は本当に自分はそういうヤツだよなと思う。保守的《ほしゅてき》というのが適切《てきせつ》かどうかわからないが、あんまり自分は変化を求めて動く人間ではないのだろうと感じることはある。
状況《じょうきょう》が変われば変わったで馴染《なじ》んでしまうような気もするし、それを嫌《いや》がっているとも思わない。でも自分から人を誘ってどうこうというのはない。
以前《いぜん》、姉の蛍子《けいこ》に『自分からは何も出来ない』となじられたことも、今思えばこの辺に関しても当てはまるなという気がする。
「じゃあ、八月の頭に一緒《いっしょ》に海に行くってことでいいですか?」
千夜子は少し距離の取り方を迷《まよ》ったようだったが、以前、話していたことを確認《かくにん》するように尋《たず》ねた。
「八月頭ですか? いいですよ」
「八月の三日、四日、五日の二泊《はく》三日なんですけど」
「あ、はい。二泊三日ですかあ」
「……まずいですか?」
「いや、泊まりで旅行なんて、本当、修学《じゅうがく》旅行くらいしかなかったんで」
「ご家族で旅行とかしないんですか?」
「しなかったですね。両親とも仕事が好きなんで、そんなことするくらいなら仕事してたいみたいなんですよね」
「そうなんですか」
「大海《おおうみ》さんの家は皆《みな》、仲良く出かけたりするんでしょうね。ご両親にはまだ会ったことないですけど、大海さんや悟《きとる》さんを見てるとそんな気がします」
「そ、そうですか?」
千夜子はどうやら兄と自分を同じくくりにされたのに抵抗《ていこう》があったらしい。
「明るく元気でまっすぐで。きっとご両親もそんな感じなんだろうなって」
「……私、そんなにお兄ちゃんに似《に》てます?」
「どこがってわけじゃないですけど、一緒にいると明るい気分になるってところとかそういうところで似てますよね」
「うーん」
千夜子はそうなのかなあと悩《なや》んでいるようだった。
「……嫌でした、そういう言い方?」
「あ、いや、その……そのこと自体は嬉《うれ》しいんですけど、私、お兄ちゃんみたいな人嫌いなので……自分もその仲間なのかなって……」
「違《ちが》うところもたくさんありますけど、やっぱり兄妹なんだなあってことです。それがきっとご両親とも共通《きょうつう》するんだろうなってだけの話で」
「はい、その辺はわかってるんですけど……」
やっぱり兄と一緒《いっしょ》にされるのには含むところがあるらしい。それで健一は話を元に戻すことにする。
「そう言えば、どこに行くんですか?」
「あ、美浦《みうら》海岸です。ここからだと電車で三時間くらいですかね。いつも家族で行く旅館《りょかん》があるんですけど、今年はお父さんが忙《いそが》しくて、家族では行かないことになって、それで」
「美浦海岸ですか」
健一は名前くらいしか知らなかった。神奈川県の南の端《はし》っこの方だったか、マグロ料理で有名なところだったっけかなと思う。
「それであの……ツバメも一緒ですけど、いいですよね?」
ツバメというのは千夜子の友人の鍵原《かぎはら》ツバメのことだった。健一とはちょっとケンカしたこともあったが、あっさり仲直りもした。そんな関係の人間だ。
「いいですよ」
だから健一も気にせず、承諾《しょうだく》することにする。
「……それでですね」
なのに千夜子はちょっと遠慮《えんりょ》がちにそれに続ける。
「なんですか?」
「絹川《きぬがわ》君のお姉さんも誘《さそ》ってくれませんか?」
「ホタルを誘うんですか?」
健一はなんでまたそんなことをと思ってしまう。それにホタルは限《かぎ》りなくインドア派だ。家では本格的に絵が描《か》けないので移動《いどう》するために外には出るが、友達と遊びに行くとか聞いた覚えがない。
「……ダメですか?」
「いや、一応《いちおう》、聞いてみますけど……どうしてホタルなんですか?」
「色々と話してみたいんです。一度、会ったきりだったし、あの時は緊張《きんちょう》しまくりで何も言えなかったですから」
「なるほど」
そうは答えてみるもの、やはり一体、なんの話をするつもりなのか考えてしまう。千夜子と蛍子の接点《せってん》。それがわからず、健一は悩《なや》む。
まさか自分と蛍子の関係に気づいて、そのことを問いただそうというわけもないし……。
「嫌なら別にいいんですけど」
健一が考えている様子を、千夜子は嫌がっているものと思ったらしい。
「嫌ってことはないんですけど、すごく不思議《ふしぎ》だなあと……あんなのと話しても大海さんにはなんのプラスにもならないと思いますけど」
「そうですか?」
「ホタルは絵はうまいけど、話すのは苦手なんですよ。話してても面倒《めんどう》くさくなると、『うるせえ、私の勝手だ』とか言い出しますし」
「……あんまりそういうのはイメージできないですけど」
「あんまり外見ばっかりで判断《はんだん》しない方がいいですよ。黙っているうちはまだいいですけど、しゃべるとガッカリすると思いますから」
「……そうなんですか」
千夜子がそう呟《つぶや》いて本当にガックリ来て肩《かた》を落とすのが見えた。それで健一はさすがに言い過ぎたかなと思う。
「でも一応、聞いてみますよ。僕とホタルはそんな感じだけど、大海さんとだったらそういうわけじゃないかもしれないし……でも、上手《うま》く説得《せっとく》できなかったらその時は許《ゆる》してください」
「いえ、それは全然。そもそもお姉さんが暇《ひま》かどうかもわかりませんし」
「まあ、暇は暇だと思うんですけどね……」
でも暇だからと言って千夜子の誘いに乗るかどうかはわからなかった。なんだか知らないが忙《いそが》しいらしいというのが健一の蛍子に対する認識《にんしき》だったからだ。
「わかりました。それじゃOKだったら教えてください」
「はい」
健一はおかしなことになってしまったなと思いながら、まあ、千夜子がそうして欲しいというのだから話すだけはしてみようと思う。
「それともう一つあるんですけど」
そこにまた千夜子が別の話題を始める。
「なんでしよ?」
「あ、海の話じゃなくて、出かける話でもなくてですね。全然、別の話なんですけど」
「別の話?」
「以前、ツバメが言ってたと思うんですけど、お弁当《べんとう》のことで」
「……ああ、そんな話ありましたね」
「明日のお弁当、私に作らせてくれませんか?」
言われて健一はちょっと前に、千夜子と一緒に本屋に行った時のことを思い出す。一緒に本屋に行きたいと言われて学校帰りに寄った時、お弁当の作り方に関する本を買っていた。あれはどうやら今日のための準備《じゅんび》だったらしい。
「いいですよ」
健一はそう答えて、なんかちょっと違うなと思う。
「いや、もうそれは喜《よろこ》んで」
だから、慌《あわ》ててそう言い直した。
「本当にいいんですか?」
そんな様子が少しおかしかったのか、千夜子が心配そうに尋《たず》ねてくる。
「もちろん。自分で作るより、その方が全然《ぜんぜん》いいですよ」
「美味《おい》しくないですよ、きっと」
「いや、もう全然……って言うと、美味しくないみたいに言ってるようですけど、そうじゃなくて、大海さんが作ってくれるならそれだけでもう楽しみです」
「……すみません。気を使わせてしまって」
「気なんて使ってないですよ。人に何か作ってもらうなんて、最近、ホタルが料理を始めたから食べたくらいで、もうずっとないことですし、本当、嬉しいですよ」
「でもガッカリすると思うんです。本当に美味しくないですから」
「そこまで断言《だんげん》されるとちょっと不安になりますけど」
健一はそう言いながら笑ってしまう。
「いいじゃないですか。ダメならダメで。その時は……夏休みに二人で練習《れんしゅう》しましょう。大海さんが納得《なっとく》できるまで、ちゃんと付き合いますから」
「……いいですね、それ」
千夜子は健一のそんな提案《ていあん》を意外に思ったようだが、しばらくすると笑顔に戻った。
「絹川君に教えてもらうって言うのは申《もう》し訳《わけ》ない気持ちもしますけど……私、頑張《がんば》りますから。絶対、頑張りますから」
「あ、うん」
健一は本当に千夜子が嬉しそうなので、ちょっと気圧《けお》されてしまいそうになる。そういうところでまっすぐな千夜子が眩《まぶ》しいのかもしれない。
「じゃあ、今日はこの辺で」
気づくともう公園のところまで来ていた。千夜子がそう言って別れの言葉を告げる。
「……もう帰っちゃうんですか?」
まだ昼過《ひるす》ぎ。健一はそんなに急いで帰らなくてもと思うが、千夜子の目はなんだか燃えているような光を放っていた。
「今日はこれから特訓《とっくん》しますから」
「特訓ですか」
どうやらすでに千夜子の頭は明日のお弁当のことでいっぱいらしい。
「今は一分一秒が惜しい気持ちなんです」
「……気合い入ってますね」
健一は彼女のそんな情熱《じょうねつ》を感じて、少し名残惜《なごりお》しい気もしたが別れを告げる。
「じゃあ、明日。楽しみにしてますから」
「はい。でも、あんまり期待しないで待っててください。今から頑張ってもそんなに美味しくなるわけじゃないですから……」
「じゃあ、普通《ふつう》くらいの期待度で待ってます」
「はい。それくらいなら、なんとかします。それじゃ今日はこの辺で」
千夜子はそして家の方へと駆《か》け出した。健一はそんな彼女の後ろ姿《すがた》を見送りながら、
――大海さんって、よく走ってる気がするなあ とボンヤリと思った。
スコーンと奇麗《きれい》な音を立てて、一斉《いっせい》に十本のピンが倒《たお》れた。
健一は先程《さきほど》見た光景《こうけい》が何度もリプレイされているかのような錯覚《さっかく》になる。でも実際《じっさい》にはただ、刻也《ときや》が続けてストライクを少しも危《あぶ》なげなく取ってるのを見てるだけだ。
流れるようなフォームで投げられた十八ポンドの緑色のボールはレーンを滑《すべ》り、同じカーブ
を描《えが》いて吸《す》い込まれるように並べられた十本のピンへと突入《とつにゅう》していく。
「うわ……」
健一は1301にあるボウリングのレーンがちゃんと機能《きのう》しているのをその日、初めて知った。ボウリングに興味《きょうみ》が無かったというのもあるが、やはりそういうところも自分は保守《ほしゅ》的な性格《せいかく》なのかなあと思ったりする。
「君もやるかね?」
五度目のストライクを確認《かくにん》して、刻也は後ろで見ている健一の方へと尋ねてくる。
刻也はいつものように涼《すず》しい顔をしたままだった。健一も高一にしては低い方ではないが、改めてみると刻也は本当に背《せ》が高いように見える。
「いや、もうあんなスゴいのを見せられた後じゃ、恥《は》ずかしくて無理《むり》ですよ」
健一は正直な気持ちを告げる。ボウリングなんてしたこともないが、刻也のその技術《ぎじゆつ》が並みではないことだけはわかる。見ている分には簡単《かんたん》そうだが、きっと自分ではまっすぐに投げるのだって難《むずか》しいだろうくらいのことは想像《そうぞう》できた。
「そうか」
刻也はそれを聞いて、静かにそう返事をすると健一が座《すわ》っていたベンチの隣《となり》に座る。
「八雲《やくも》さんがボウリング得意なんて知りませんでしたよ」
健一はそんな刻也が少しも汗《あせ》をかいてないのを見ながらそう話題を振る。
「まあ、自慢《じまん》するようなことではないからな」
「いや、十分自慢できる腕《うで》だと思いますけど。勉強が得意《とくい》なのは知ってたけど、運動も得意なんですね」
「そういうわけではないよ。単に経験《けいけん》の差だ」
「……経験の差?」
「綾《あや》さんはこもりきりのことが多いし、君が来る前はやることがない時はずっとやっていたものさ。それでだよ」
「でも、やっぱりスゴイと思うんですけど。ストライク五速続なんてプロだって出来ませんよ」
「ところがそうでもない」
刻也はそう言って苦笑いをする。
「え?」
「私はスペアが取れないんだ」
「スペアがとれない……」
健一は言われてどういうことなんだろうと思う。スペアというのは一投目《いっとうめ》で倒《たお》せなかった分を二投目で倒すということなのは知っているが……。
「ストライクがとれる投げ方を覚えたというだけだ。それしか練習してないのだよ、私は。どうも状況《じょうきよう》に応《おう》じてとか、時間に追われてとかは苦手なのだ。その点、ボウリングというのは対戦相手がいても自分一人でやるものだし、正確《せいかく》に動きさえすれば結果が出るものだろう? だから徹底的《てっていてき》に練習したということさ」
「それはそれでスゴイ気がしますけど」
「だからどこに立って、どういう歩幅《ほはば》で、どう投げれば、あのレーンでストライクがとれるのかしか私は知らないんだ。きっとボウリング場に行ってやろうとしたら、散々《さんざん》なスコアになるだろうな」
「そういうものですかね……それはそれでスゴイ気もしますけど」
「単に集中できてるか確《たし》かめるためにやってるのだよ。心が乱《みだ》れるとストライクがとれなくなる。そう言う時は心を落ち着けてボールを投げると、少しずつボールが寄ってくる。正しいコースに、だ」
「それって座禅《ざぜん》みたいなものですかね」
「座禅か……そうかもしれないな」
刻也はいつぞやと同じように笑い始めた。健一が、ゲンさんという刻也の知り合いのことを『師匠』と呼んだ時に見せた笑顔だ。
「君の言葉選びのセンスは面白《おもしろ》いな。確かにその通りだ」
「そうですか。それはどうも」
健一は刻也が機嫌《きげん》良さそうなので、やっぱりよくわからない人だなと思ったりもした。学校を間違《まちが》えてると言われるほどの秀才《しゅうさい》なのに、健一の何気《なにげ》ない言葉に本当に感心しているようだった。しかし健一にはそこまで思われる理由がピンと来ない。
「そう言えば、八雲さん」
「なんだね?」
「八雲さんは頭がいいのに、なんでうちの学校なんかにいるんですか?」
それも健一にとってはずっと疑問《ぎもん》だった。明らかに偏差値《へんさち》が違う。学校の授業《じゅぎょう》などレベルが低すぎて逆《ぎゃく》に聞いてないようにしか見えないのに、でもちゃんと学校には来ている。冴子《さえこ》が学校に来ている理由とは別の方向で刻也の行動は意味がわからない。
「本命の受験に失敗してね」
刻也はそう言って笑った。それも健一には意外な気がした。
「そんなにレベルの高いところだったんですか?」
「どうだろうな。世間《せけん》ではそう言われてるが、別に難関《なんかん》とは思っていなかったからな」
「でも、入れなかったんですよね?」
「試験を受けずに入れる高校ではなかったのは間違いなかったようだ」
刻也はそう言って、少し真面目《まじめ》な顔に戻った。
「……ああ、そういう意味ですか」
「でもまあ受けるような精神状態《せいしんじょうたい》ではなかったという意味では、私の能力《のうりょく》が足りてなかったとも言えるな。入学試験のスキルは十分だったが、私にはそれを活かせるだけの精神力がなかったということだ」
刻也はそう言って立ち上がると、またレーンへと向かう。健一は彼の後ろ姿を見ながら、話す気をそがれたように思う。
なんで受けれないような状況《じょうきょう》だったのか? それを開かれることを避けたのだろうと、健一はそれが刻也がここにいる理由なのかなあと感じた。
刻也がここにいる理由。綾《あや》や冴子《さえこ》、そして自分のことを思うと、それを無理に聞きだす気にはとてもなれなかった。
「君の勤労意欲《きんろういよく》には感服《かんぷく》するよ」
それがどういう意味なのかは正確なところはよくわからなかった。難《むずか》しい言い回しをしている時の刻也の言葉はいつもそんな感じだ。そして刻也は大抵《たいてい》、そのように話す。
「いけませんかねえ……」
健一はなんとなく自分の言葉が否定《ひてい》されたような感じがして、そう呟《つぶや》く。それを見て、刻也は慌《あわ》てたようだ。
「いや、悪いと言う意味じゃない。普通、その状況ならもう作らないで済《す》むのを喜ぶものだろうということだよ」
刻也と健一の話してるのは、お弁当のことだった。健一の弁当《べんとう》を千夜子が作ってくれるのは嬉《うれ》しいが、日課《にっか》のようになっていたことなので、なんとなく居心地《いごこち》が悪いなあと話したら刻也が笑ったのである。
「そういうことってありません? 毎目してることって、いざしなくていいって言われても落《お》ち着《つ》かない感じなんですけど」
「まあ、私も明日から勉強しなくてもいいと言われても勉強してしまうだろうとは思う」
「それと同じですよ。まあ、しないのに慣《な》れるまでのことなんですかね」
「しかし君としてはお弁当を作り続けたいというわけかな?」
刻也に改《あらた》めて尋《たず》ねられて、さて、どうなんだろうと健一は思った。続けないのは嫌《いや》だが、しかし続けたいのかと尋ねられると、それはそれで疑問だ。
「うーん。積極的《せっきょくてき》な理由はないかもしれませんが、続けたいような気がします」
「そうか」
刻也はそう言って何事《なにごと》か考えたように眉《まゆ》を寄《よ》せて、またすぐに健一に向き直る。
「だったら私の分を作ってくれないだろうか」
「八雲さんの分をですか?」
「まあ、ずっとというわけではないが、君が暇《ひま》な時にでも。彼女が作るのを止《や》めた時に自分で作るのに腰《こし》が重くなってしまうのはあまり望ましくないだろうと思うがどうだろうか?」
「なるほど……じゃあ、そうします」
健一も少し考えてそう結論《けつろん》した。このマンションを利用するために労働力を提供《ていきょう》するという約束もしていたし、確かに何もしない癖《くせ》がついてしまうといざ自分で作らねばならない時に面《めん》倒《どう》に感じるかもしれない。刻也の提案《ていあん》はいかにも彼らしく合理的《ごうりてき》だ。
「こんばんは」
そんなところにやってきたのは冴子だった。
「こんばんは、有馬さん」
「ごきげんよう、有馬君」
そう言って二人に迎えられて1301に入ってきた冴子は珍しく私服姿だった。普段は学生服のままなので新鮮《しんせん》な気がする。
特に着飾《きかざ》ってるという訳《わけ》ではなく、水色のノースリーブのワンピースに薄《うす》くて白い上着を軽く羽織《はお》っているという清潔感《せいけつかん》のある服装《ふくそう》だった。
「八雲さん、洗濯機《せんたくき》つて使ってもいいんでしょうか?」
しかし冴子は健一たちが座ってるところまでは来ないで、話しやすい距離《きょり》まで来るとそんな質問を口にした。
「構《かま》わない。全自動ではないし、少々面倒だがそれで良ければだが」
「洗剤《せんざい》も使っていいんですか?」
「その分のお金はもらっているものとすでに考えている。どうしても気になるなら、自分用に洗剤を買ってきてくれても構わない」
「わかりました。じゃあ今の洗剤が無くなりそうになったら、今度は私が買ってきます」
「……君も律義《りちぎ》だな、本当に」
真面目《まじめ》を絵に描《か》いたような刻也がそんなことを言うのはなんだか面白《おもしろ》い気がした。健一はそれで冴子の方を見る。
「頑固《がんこ》なんですかね、私も」
冴子もやっぱり笑っていて、健一は同じことを感じているのかもしれないと思う。
「そう言えば、明日、有馬さんはお弁当いります?」
健一は刻也との話を思い出し、冴子にそんなことを尋ねる。
「お弁当?」
「明日からは僕《ぼく》の分は大海さんが作ってくれるそうなんで、僕は八雲さんの分を作ることにしたんですよ。それで、一人作るなら二人でも同じなので、有馬さんもどうかなって」「……私はお昼はあんまり食べないから」
冴子は健一の提案にそう答える。
「そうですか」
それで健一はそう納得するが、そこに刻也が口を挟《はさ》んできた。
「お昼はしっかりと食べた方がいいと思う。君はあまり知らないかもしれないが、絹川君の作る食事はその辺の料理店よりずっと美味《おい》しいのだけ少々、食欲《しょくょく》が無くても食べられるはずだ」
「……その辺はわかってるつもりなんですけど」
「では何が問題なのだね? 昼ご飯を食べないという習慣《しゅうかん》にこだわっているなら、それは不健康《ふけんこう》だから止《や》めるようにしたまえ。そうでなくても君は大層《たいそう》、不健康そうに見える」
「そうですね」
冴子はそれで少し困ったような表情を浮かべた。それを見てさっきまでスゴイ勢《いきお》いで話していた刻也の言葉も止まったようだった。
「いや、その……少々言い過《す》ぎたかもしれないな」
そして歯切《はぎ》れ悪く言葉を続ける。
「私の考えを押し付けたいわけではなかったのだが、君が絹川君のせっかくの提案を断《ことわ》ったので少しムキになってしまったようだ」
「いえ、八雲さんの言う通りだと思います。私も少し頑固でしたよね」
冴子はそう呟《つぶや》くと、少し歩いて健一の方へとやってくる。
「本当に面倒じゃないの?」
「ええ、もうついでですから。あまり量が食べられないということであれば、その辺は調整《ちょうせい》しますよ。なんだったら二人分作るので、八雲さんと二人で分けてくださいよ」
その提案に刻也が面食《めんく》らった顔をする。
「そういうのは勘弁《かんべん》してくれたまえ」
「ですよね。私とそんなことしたくないですよね」
冴子がそれに返事をして笑う。でも刻也は自分の言葉が失言《しつげん》だと感じたらしい。慌《あわ》てた様子を見せる。
「いや、別に有馬君のことを嫌っての発言ではなく……」
「わかってます。他の女の子とそんなことをしては彼女に申し訳ないということですよね?」 冴子が爽《さわ》やかに全く気にしていないというのを笑って示《しめ》す。
「……うむ」
刻也はそれに詰《つ》まったような苦しそうな返事をする。
「それじゃ私は自分が食べられるくらいのお弁当箱を用意しておきますから」
冴子は刻也から健一の方へ視線《しせん》を戻したようだった。
「じゃ、それに合わせて作りますよ。八雲さんはお弁当箱あります?」
「明日の朝までにキッチンの辺りに置いておこう」
「それじゃ、それでお願いします」
健一はまだなんだか落ちつかなげな刻也を見ながら、とりあえず家に帰ろうかなと思う。
「じゃ、僕は今日はこの辺で」
「もう帰るの?」
1301を出る健一に冴子はついて来たようだった。
「あ、うん。とりあえず、ちょっとホタルに相談しないといけないことがあるし」
「そう……」
「何か用があるなら残りますけど……」
健一はそこまで言いかけて、冴子の用がなんだかわかってしまった気がした。
「……今日はどっちでもいいから」
それを察したのか冴子が先に口を開いた。
「お弁当箱持ってこないとだし、お洗濯《せんたく》もしないとだから」
「弁当箱を僕が買ってくるってわけにもいかないですし……どれくらいの大きさかが問題ですものね。あ、洗濯は僕がしておきましようか? その間に有馬さんが弁当箱を買ってくるとかでどうですかね」
健一はさすがに一緒に買いに行こうとは提案《ていあん》できなかった。体を重ねた回数が増《ふ》えても、冴子の外での自分への態度《たいど》は少しも変わらなかった。学校では本当に二人は相変わらず他人のまま。こうやってマンションの中でなら普通に話してくれるのだが、外では一言だって話そうとはしない。健一には相変わらずその理由はわからなかったが、やはり問いただす気にもなれず謎《なぞ》は深まる一方だった。
「絹川君ってエッチなのね、本当」
なのに冴子はそんなことを言い始める。
「え?」
「だって私の洗濯を代《か》わりにするなんて」
「そうですかね……」
健一は普通に家事《かじ》の一つくらいに思っていたが、考えてみたらかなり大胆《だいたん》な発言だったのかもしれないと考え直す。
「いや、うちではホタルのも一緒に洗濯させられているから、そんなに気にしてなかっただけなんですけど……ダメですかね、そういうのは」
「じゃあ私が気にし過ぎてたのかな」
冴子はそういうことを意識した自分の方が恥ずかしく感じたらしい。頬《ほお》を赤く染めて1303の方へ逃《に》げるように歩き始める。
「じゃ、どうしよう? ホタルと話してからまた戻ってくればいいかな?」
健一はそれに追いすがるように話しかける。
「絹川君が気にならないならお洗濯をしてくれてもいいけど」
「……改《あらた》めて言われると気になるかも」
「じゃあ……どうしようかな」
冴子はそう言いながら鍵《かぎ》を開けて1303に入る。
「やっぱり一度帰ってからまた来ますよ」
「それでまた、もう一度、家に戻るの?」
冴子は玄関《げんかん》に上がり、靴《くつ》を脱《ぬ》ごうとしている健一に尋《たず》ねる。
「別にそんな距離じゃないですから。それよりこんな時間にお弁当箱って買えるんですか?」 廊下《ろうか》にかけてある時計を見るともう七時を過ぎていた。
「家に帰って持ってくるだけだから、何時《いつ》でも大丈夫《だいじょうぶ》。中学生の頃《ころ》は自分で作ってたのよ、お弁当」
「そうなんですか」
そんな話をしながら二人はリビングの方へと歩く。そこにはどうやら冴子のものらしい紙袋《かみぶくろ》が置かれていた。服を持ってきたのだろうか。少し袋が傷《いた》んでいるところからして、買ってきた物ではないらしい。
「ちゃんと片《かた》づけるから」
健一の様子を見て取ったのか冴子がそんなことを言う。
「あ、いや、別にいいですよ。そんなに慌てなくても。僕の部屋以外は自由に使っていいって言ってるんですから。それよりなんで最近はお弁当作らなくなったんですか?」
「……ちょっと太ってるのが気になってから、やめちゃったの」
冴子はそう言ってまた押《お》し黙ったようだった。
「有馬さんって……太ってますか? あ、昔の話ですか」
「まだ、ちょっと……太ってるかな。だから、あんまり見られるのは、ね」
言われて健一は、冴子が夏なのに長袖《ながそで》の上着を羽織《はお》っているのを改めて意識《いしき》した。
「そういうものですか」
健一としては冴子の自分が太っているという発言に関しては賛同《さんどう》しかねた。綾や千夜子に比べれば冴子は確かに少し肉付きが良いかもしれないが、別に標準《ひょうじゅん》からしてそんなに太っているという風でもない。むしろ肌《はだ》が白いせいもあって細い印象《いんしょう》だ。
でも女の子というのはそういうものなのかもしれない。自分の許《ゆる》せるレベルから超えていれば、それが太っているということなのだろう。端《はた》から見てとか、体重がどうのということではないのだ、きっと。
「綾さんってなんで、あんなに痩《や》せてるのに胸《むね》は大きいのかな。しかもあれ、寄せてあげてるわけではないんでしょ?」
冴子の方も綾のことを思い出したらしい。そんなことを開いてくる。
「……まあ、何度か生《なま》で見たことはあるからそうじゃないかと」
健一はそんなことを尋ねられてもなあと思ってしまう。
「絹川君のお姉さんもああいうタイプ?」
「え? いや全然《ぜんぜん》。口が悪くてトゲトゲした女ですよ。綾さんとは正反対」
「そういう中身の話じゃなくて、外見の話」
「外見ってことだと……似《に》てるのかなあ。身長は僕くらいで、髪《かみ》はちょっと長くて、少し茶色に染《そ》めてるんですけど」
「痩せてる? 太ってる?」
「まあ、綾さんよりは少しは肉ついてると思いますけど」
「胸は?」
「……大きい方みたいですけど、やっぱり綾さんほどじゃないですよ」
「そう」
冴子が短く返事をして黙《だま》る。それで健一は何だか置いてかれた気がしてしまう。
「どうかしたんですか?」
「絹川君は女への要求水準《ようきゅうすいじゅん》が高そうだなって思ったの」
「……そうなんですかね」
健一は自分ではけっこうそういうことへの要求はない気がしていた。好みのタイプとかそういうのを真剣《しんけん》に考えたこともない。千夜子は千夜子で好きだと思うし、彼女にもうちよっとこうなって欲しいとかそういうのを思ったこともない。
「私の胸触《さわ》ってる時も、綾さんのはもっと大きかったなあとか思ったりするでしょ?」
「しないですよ、そんなこと」
健一はそう言いながら、つい冴子の胸を見てしまう。確かに冴子はそんなに胸が大きい方ではないようだ。いつも服を脱《ぬ》ぐ時は暗くしているので、あまり意識してなかったが綾はもちろん、きっと蛍子よりずっと小さいだろうと思う。
「そうか。絹川君はエッチの最中はすごい集中力でそれどころじゃないのね」
「……それって褒めてるんですか?」
そんなことを言われても健一としては苦笑いを浮かべるしかない。
「多分……」
冴子は急に歯切《はぎ》れの悪い返事をすると、リビングを出て自分の部屋へと歩き出す。でも途中《とちゅう》で立ち止まって振り返る。
「絹川君、帰らなくていいの?」
「今日は僕の食事当番じゃないですから、まあホタルが寝《ね》る前に帰れば、それで」
「お姉さんとの用事って時間がかかるの?」
「どうですかねえ……正直、一瞬《いっしゅん》で終わる気もしますけど。それこそ電話で済《す》ませてもいいくらい。ただ電話はなんかあんまり印象がないんで。ははは」
健一はそして蛍子に電話した日に限《かぎ》って、重大な事件《じけん》が起こっていることを思い出す。
「どんな用なの?」
「単に大海さんがホタルのことを一緒に海に行こうって誘ってるんですよ。で、僕が代《か》わりに開くことになっていまして。どうせ、嫌《いや》だって言うだけなんで聞くまでもないんですけどね」
健一はそこになんの疑間《ぎもん》もないと思っていたが、冴子はそうではないようだった。少し考えて口を開くのが見えた。
「どうかな……ホタルさんは行きたがると思うけど」
「そうですか?」
「それって、もちろん絹川君も一緒なんでしよ?」
「まあ……大海さんとホタルだけで行かれても困りますよね」
「だったら行きたがると思うな」
そしてやっぱり冴子は自分の考えに確信《かくしん》を持っているようだった。冴子は蛍子がどういう外見かと尋ねるほど、蛍子のことを知らないはずなのに。
「じゃあ、賭けますか?」
だから健一は軽い気持ちでそんなことを提案《ていあん》してみる。
「賭ける?」
「ホタルが行きたがったら有馬さんの勝ち。行きたがらなかったら僕の勝ち」
「勝ったらどうなるの?」
冴子は尋《たず》ねて少し笑ったようだった。
「……どうしましょ?」
「考えてなかったの?」
冴子はそう言いながら、なんだか半分くらいは予想しているようだった。
「すみません。なんとなく言っただけです」
健一はそれで頭を下げるが、冴子はなにか考えている表情を見せる。
「じゃあ、私が勝ったら、いつか一つだけお願いを聞いてくれるってことでいい?」
そう尋ねた冴子を健一は、なんだかひどく真剣《しんけん》な顔つきだなと思った。
「いいですけど」
健一はそう答えながら、何かもう頼《たの》むことを決めてたりするのかなと感じる。
「……じゃ、それで」
冴子がまた笑ったのを見ると、健一はやっぱり気にし過ぎたかなと感じる。
「でも、それって僕が勝ったら、有馬さんにお願いをしてもいいってことですよね?」
「そうなるかな……」
「僕が勝ったら、明るいままでエッチしたいとか言い出すかもしれないですよ? それでもいいんですか?」
「……絹川君ってエッチなのね、本当」
冴子は顔を赤くして、何度か聞いたその言葉を口にする。でも、賭けを取り消そうとは彼女は言い出さなかった。
「それが本当に絹川君のお願いだって言うなら……」
「じよ、冗談《じょうだん》ですよ……そんなに本気に考えないでくださいよ」
健一はなんだか落ち着かない気分になっている自分に気づく。冴子との会話は本当に油断《ゆだん》が出来ない。突然《とつぜん》、拒絶《きょぜつ》されたり、突然、受け入れられたりする。
「……冗談、なの?」
冴子がそんなことを尋ねてきた。
「え? いや……」
「明るいままでエッチしたいとは思ってないの?」
健一はその質問の意味を理解《りかい》しかねて、混乱《こんらん》するのを感じる。
「いや……まあしたくないわけじゃないですけど、有馬さんが嫌がるのを無理にしようとまでは別に……」
「そう」
またいっもの短い返事。でも今回はそれだけでは終わらなかった。
「有馬さん……」
見ると彼女は泣いてるようだった。それに気づいて健一は驚《おどろ》いてしまう。
「もう、飽《あ》きられちゃったの、かな……最近、回数も減《へ》ってるし……」
「え、いや、そういうことじゃなくてですね。そもそも四回とか五回というのが多すぎるだけで、むしろ今くらいが普通くらいというか……いや、そう言うことじゃなくて、暗いところじゃないという恥ずかしいという有馬さんの意志《いし》を尊重《そんちょう》したいという気持ちなだけで……」
健一はまた理解できない状況《じょうきょう》になっていることを心のどこかで強く感じた。だが心の大半は目の前の状況を処理しようと四苦八苦しているらしい。
「……本当?」
少し泣きやんだのか潤《うる》んだ瞳《ひとみ》で冴子が尋ねる。
「本当ですよ。明るいのが嫌だってすごい調子で言うから気になってるだけで、もう有馬さんとェッチしたくないって思ってるわけじゃなくて、明るいのはダメの方がずっと優先順位《ゆうせんじゅんい》が高いってことです」
「そう……なんだ」
冴子が確かめるように優《やさ》しく両手を前で握《にぎ》るのが見えた。それに見入っていると、冴子の瞳が健一の方を覗《のぞ》き込んでくる。
健一はそれで息が出来なくなるのを感じる。それを誤魔化《ごまか》そうと必死に口を開く。
「当たり前じゃないですか……もう……そんなことで泣かないでくださいよ」
「泣く気はなかったんだけど……最近、涙もろくなったみたいで」
冴子が一度、目を閉じた。そして背を伸《の》ばしてくる。
「有馬さん?」
冴子の顔が近づいてきて、彼女の名前を呼《よ》んだ健一の唇《くちびる》が塞《ふさ》がれる。
「…………」
すごく短い時間。冴子の唇が健一に触《ふ》れて、そしてまた離《はな》れる。
「有馬さん?」
その意味がわからず、健一はまた彼女の名前を呼んでしまう。でも返事はない。
真っ赤な顔の冴子。その目はもう健一を見ていなかった。
「……やっぱり明るいのはダメみたい」
冴子は小さく呟《つぶや》くと、なんだかうなずいたみたいだった。
「暗いのは、もう嫌《いや》?」
そして俯《うつむ》いたまま、質問をする。
「……い、嫌じゃないですっ!」
健一は少し言葉に詰まりながら大きく返事をする。それに冴子が小さくうなずいて、電気を消しに歩き始める。
「…………」
健一はそんな冴子の後ろ姿を見ながら、必死に自分を抑《おさ》えようと思う。
「…………」
でも、それも部屋が暗くなるまでが限界《げんかい》だった。
行為《こうい》の後はいつも泣いているような気がした。実際《じっさい》に涙《なみだ》を流すほどではないにしても。
綾に襲《おそ》われてしてしまった時も、蛍子を襲ってしまった時も、そして冴子とした今も自分は独り、悲しい気持ちを抱《かか》えている。それが心を全《すべ》て満たすなら、もう二度と同じことを繰《く》り返《かえ》したりしないだろうと思うが、やはりどこかに別の感情も混じっている。そしてそれが間を置くと大きくなり、また自分は同じことを繰り返す。
「流されてるって言うのとはちょっと違うよな」
暗い部屋に健一の小さな声が思いの外、大きく響《ひび》く。
冴子と最初に関係を持った時、自分はまた流されてしまったと思った。でも今はそうは思わない。冴子との関係を望んでいないなら、間違《まちが》っても1303に来なければいいのだ。
1301でだけ話していれば、こういうことにはならない。それを自分は知っている。でも、冴子が望んでいるのを感じると健一は1303に来てしまう。そして、また繰り返す。
なのに、それを冴子のためと割《わ》り切ることが健一にはどうしてもできなかった。冴子のためになっていると思うことはできたし、実際《じっさい》、なっているはずだ。
でも、冴子のためにしていることだと思うことには抵抗《ていこう》があった。
「それでも、いつか慣《な》れるのかな」
自分がしていることに対するこの居心地《いごこち》の悪さや、冴子が寝《ね》てしまった後の一人残されたような寂《さび》しさを受け入れられる日が来るのだろうか。健一はそう考えて、ひどくしっくりこない考えだなと感じた。
「……おやすみ、有馬さん」
健一がそう言った時には、すでに冴子はすっかり寝ついてしまっていた。
ここ数日の冴子を見るかぎり、彼女はとても寝つきの良い方に見えた。少々、音を立てても起きたりはしない。
でも明かりをつけることに対してだけは、過敏《かびん》とも言うほどの反応《はんのう》を見せる。それはきっと、彼女が言うところの、自分が鈍感《どんかん》だというのに関係があるように思えた。
音には鈍感だが、その分、光には敏感なのだろう。それがどうしてかまではわからないが、そのことは彼女にとってあまり話したくないことのように思えた。
だから健一はなるべく静かにリビングを離れて、風呂場《ふろば》へと移動してシャワーを浴びることにした。
なんだかんだで、帰るつもりになってから、かなりの時間が経《た》っていた。
「飯《めし》はこれから作るから、お前は風呂にでも入ってろ」
健一が家に帰った時、ちょうど蛍子は風呂から出たところのようだった。
パンツだけ穿《は》いて、肩《かた》からタオル。まあ、この時期は今までもこんな格好《かっこう》だったと言えば、そうなのだが、やはりなんだかなあと思ってしまう。これから服を着に部屋に戻《もど》るところという気もしない。
「……わかったよ」
健一は色々と言いたいこともあったが、とりあえず蛍子の言葉に従《したが》うことにする。
いつもなら夕飯を食べて寝るような時間だが、蛍子の言い分によるとまだ食べていないどころか、作ってさえいないらしい。健一が帰ってきたら作るつもりだったのか、何か考え事をしている間に時間が過《す》ぎてたのかは知らないが、これからというのは確かのようだ。
まさか蛍子が帰ってきた健一のためだけに食事を作るなんてことをしてくれるはずもないので、蛍子もまだ食べてないのだろう。
「ちなみに今日はエビチリだ」
蛍子はそう言って、ニヤリと笑った。それは先日の口論《こうろん》の時に、ギョウザしか作れないとバカにされたことへの復讐《ふくしゅう》なのかもしれない。でも健一は実は自分がもう風呂に入る気が無いことを見破《みやぶ》られたからではないかとも思った。
「エビチリねえ。なんかホタルって中華《ちゅうか》好きだよな」
「まあ、あまりお前が作らないのを作ろうと思ってのことだ」
「……なるほど」
言われてみると、健一はあんまり中華料理は作ったことはなかったかもしれない。もっともギョウザが中華料理なのかは微妙《びみょう》な感じもするが。
「あ、そうだ」
「なんだ?」
「ホタルに聞こうと思ってたことがあるんだよ」
「私に聞きたいこと?」
蛍子が眉《まゆ》を寄せて、怪訝《けげん》そうな顔をする。
「大海さんにさ、一緒に海に行こうって言われててさ」
「彼女と海にねえ。勝手に行けばいいだろ」
「いや、それでどういうわけか、ホタルも一緒にどうかって言われたんだよ」
健一は自分でもその理由がよくわからないので、素直《すなお》にそう告げる。それを聞いて、また蛍子が眉を寄せるのが見えた。
「私も一緒に来いって? お前と彼女が海に行くのに?」
「そうなんだよ。なんか大海さんは、ホタルと話したいことがあるらしいんだけど……」
健一は事実をありのままに告《つ》げているだけなのだが、蛍子の表情《ひょうじょう》が変わっていくのを見て言葉を止めた。なんだか激《はげ》しく怒《おこ》っている様子だった。眉を吊《つ》り上げ、歯を食いしばっている。
「どうかしたの、ホタル?」
心配して健一が尋ねる。しかし怒《いか》りを抑《おさ》えるのに必死なのか、蛍子は何も言わない。
「……どうしたんだよ、本当。俺、なんか変なこと言った?」
「言っちゃいねえわな」
蛍子がイライラとした口調《くちょう》でそう口を開く。
「だったら、どうして怒ってるわけ?」
「お前が何にも気づかない間抜《まぬ》けだからだ」
「……どういう意味だよ、それ?」
健一は本当に蛍子が何を言いたいのかわからず、戸惑《とまど》ってしまう。
「なんかおかしいとは思わないのか、その話。明らかに変だろ?」
「そうかなあ……」
確かにちょっとは変かと思うが、明らかにと強く言われる程《ほど》かはわからない。
「お前はまあ彼女と海に行くんだから、それでいいかもしれないけどなあ」
「それに付き合わされる自分は迷惑《めいわく》だって言うのはわかるけどさ、何で怒ってるわけ?」
健一はそれがわからず考えてしまうが、蛍子は鼻息を荒《あら》くして睨《にら》んでいるだけだ。
「そのために二泊《はく》三日も時間を取りたくないってことなら、別にいいよ。俺もホタルと海に行きたいってわけじゃないし」
「……なんだって?」
「別にホタルと海に行きたいわけじゃないって」
「その前だ! その前!」
「二泊三日ってこと? あ、そう言えば言ってなかったっけ。ごめん」
「……ごめんって、お前。変だろ、明らかに。泊まりじゃなくても変なのに、なんでそこまでされてお前、疑《うたが》いの一つも抱《いだ》かないんだ?」
「だから、なんの疑いだよ?」
健一のその問いに、蛍子はじっと健一の方を睨みつける。
「ちょっと考えればわかることだ。この一件《けん》には明らかに黒幕がいる」
「黒幕ねえ……」
健一はなんだそれはと思ってしまう。何でそんな大げさな言葉が出てくるのかわからない。
「これは大海《おおうみ》の陰謀《いんぼう》だ!」
「今度は陰謀と来たか」
また大仰《おおぎょう》な単語が出てきた。
「そうだ、絶対《ぜったい》にそうだ」
「そうかなあ……って、大海って悟さんのこと?」
「そうだよ。あの大海妹に、泊まりで彼氏と海に行くなんて、そんな計画を立てられるとでも思ってるのか? しかもそこに私を参加させる? どうしてそんな必要がある?」
「言われてみると確かに……変かな?」
健一はやっと何を蛍子が気にしているのかわかった気がした。千夜子が自分を誘ったこと自体、彼女にしては大胆《だいたん》な行動だと思っていたが、言われてみると彼女の発案《はつあん》ではないという方がスッキリするような気もする。
「アイツは妹とお前をダシにして、私を誘い出すつもりなんだ。そして考えてみろ、お前と大海妹がいい雰囲気《ふんいき》になったらどうなるか……」
「どうなるんだよ?」
「お前達はこっそり姿を消すだろう。そして戻ってこない。そうなったら残ってるのは誰だ?」
「ホタルと悟《さとる》さん?」
「そうだよ。そうやって私を口説《くど》くつもりなんだよ、アイツは! お前はその片棒《かたぼう》を担《かつ》ごうとしてるんだ。お前は自分の姉をあんな男に売るつもりか!」
「……別にそうと決まったわけじゃないし、たとえ、そうだとしても別に悟さんと仲良くしないといけないってわけじゃないと思うけどなあ」
健一はそうは言ってみるが、蛍子はなんだかさらに不機嫌《ふきげん》になったようだった。
「……お前に言われるとなんだかムカツク。マジでムサクサする」
「なんだよ、図星《ずぼし》つかれたからって逆《ぎゃく》ギレかよ」
「うるさい、そんなんじゃない!」
蛍子は怒鳴《どな》ると、ギロリと健一を睨みつける。
「……なんか悟さんに酷《ひど》い目にでもあわされたの? この間、聞いた件以外にも。なんだっけ、胸でしてくれつて言われたんだっけ?」
「手だ、手! 胸でなんて冗談でも言われてたまるか……」
蛍子は激しい怒りに体をわなわなと震《ふる》わせる。そのせいで胸にかかっていたタオルがすこしめくれるのが見えた。
健一はそれで胸の話は綾に聞いたのだったと思い出す。あの時はよくわからなかったが、クラスの人に言われたという綾の話から思うに、あれも悟のことだったのだろうか。
「ごめん。間違えた」
「間違えるな!そんなゾッとすることを想像《そうぞう》させるな!」
「……だから、ごめんって言ってるだろ」
謝《あゃま》っては見るものの、なんでそこまで悟のことを警戒《けいかい》するのか健一にはわからない。
「本当に、何があったわけ、悟さんと?」
「聞きたいのか?」
蛍子が改めてそう尋ねるので、別に聞きたくはないと思い直す。
「いや、まあ悟さんをそこまで嫌ってる理由が知りたいだけで、どういうことがあったのか聞きたいわけじゃないんだけどさ」
「あんな男、初めから嫌いだ。理由なんているか」
蛍子は憮然《ぶぜん》とそう答える。まあ嫌いな人間を嫌いな理由なんてそんなものかもしれない。
しかしここまで露骨《ろこつ》に反応されると、逆に蛍子は悟のことが好きなんじゃないかとさえ思えてきてしまう。実際《じっさい》、特定《とくてい》の男のことでここまで気にしている蛍子の様子を健一は見たことが無かった。
「……じゃあ、ホタルは行きたくないって言ってたって断《ことわ》っておくよ」
健一はしかしこれ以上、話をしてても蛍子が不機嫌になる一方だろうと思って、もう打ち切ることにする。理由はともかく、蛍子が行きたがるとは思ってなかったのだし、特に来て欲しいとも思っていない。なら、早いところ、退散《たいさん》しようと健一は考えた。
「少し考える時間をくれ」
しかし蛍子は急に落ち着いた様子に戻ると、そんなことを言い出した。
「え?」
「少し考える時間をくれと言ったんだ」
「来るの?」
「だから少し考える時間をくれと言ったんだ。行くとも行かないとも言ってない」
「……まあ、いいけど」
健一はあれだけ嫌がってたのに判断《はんだん》を保留《ほりゅう》するという蛍子の態度《たいど》が理解できなかった。
やっぱり悟のことが好きなんだろうか? 千夜子と海に行きたい理由などなさそうだし、そうとでも思わないと理解できない。
「とりあえず、俺は風呂《ふろ》入ってくるよ」
健一は考えてもわからなそうなので、そう言うと逃《に》げるように風呂場へと向かった。
そして途中《とちゅう》、冴子との賭《か》けのことを思い出す。
蛍子が海に行きたがったら冴子の勝ちで、行きたがらなかったら健一の勝ち。この結果はどっちの勝ちなのだろうか? 健一にはその答えもよくわからなかった。
「……どうだ、味は?」
風呂をあがると、本当に料理が用意してあった。一から作ったとしたら、さすがに時間がなかったので下ごしらえをするだけして、健一が帰って来るのを待っていたのかも知れない。そんなことを思うが、健一は特に口にはしない。ただ料理の感想を話す。
「美味いよ。少し辛《から》い気もするけど、その辺は好《この》みだと思うし」
健一は蛍子の作ったエビチリを食べながら、そんな感想を漏らす。実際、最近まで少しも料理をしようとすらしてなかった人間の作ったものとは思えなかった。両親が少しも料理を作らないので、絹川家の人間は料理の才能がないと思っていたが、そういうことでもないのかもしれない。
「もう少し辛さを抑《おさ》えた方がいいのか?」
「いや、ホタルが作る時はホタルの好みでいいんじゃないの?」
健一はそう言いながら、まあ、このくらいでもいいんじゃないかと思ったりもする。
「私はもう少し辛くない方が好みだ」
「……じゃあ、そうすれば良かったのに」
健一はまた訳わからないなあと思ったりする。蛍子はそんな健一の言い分にちょっと不機嫌になった様子だった。
「そうするよ、今度からは」
ムスッとそう答えて、自分も赤く染まったエビを食べる。そしてちょっと溜《た》め息を漏らす。
「……宇美《うみ》は最近、どうしてるかな」
「海?」
「宇美だよ。三条《さんじょう》宇美。私の友達だ」
「ホタルに友達なんていたんだ」
「……一人や二人ならいるだろう、普通に考えて」
「まあ、そうだよな」
「お前も会ったことがあるはずだ。去年の春休みに一緒に帰ってた娘だよ」
「ああ、あの人ね。ちっさくて、元気そうな感じの人だっけ?」
「よく覚えてたな」
「まあ、なんとなくね。そっちこそ、なんでエビチリ食ってて思い出すわけ?」
「宇美は昔、絵を描《か》いてたんだよ。赤の使い方が上手い娘だったから、ちょっとな」
蛍子はそう言って少し寂《さび》しそうな顔をする。
「絵を描いてたって、今はもう描いてないわけ?」
「……まあな。私のせいで絵をやめてしまった」
「なんで?」
「なんでかな。私が絵を描いていてくれるなら、自分はもう描く必要がないみたいなことを言ってたけど……本当はどうだったのかな」
蛍子はしんみりとした口調でそう呟《つぶや》くと、もう食べる手が止まっていた。
「最近はもう会ってないの?」
「卒業してからは会ってない」
「だったら電話でもしてみれば? ケンカ別れしたってわけじゃないんだろ?」
「……まあ、そうだけどな」
しかし蛍子は何か心に引っ掛《か》かるものを感じているようだった。
「ホタルつて普段《ふだん》はガサツなくせに、そういうところ妙《みょう》にナイーブだよな」
「……誰がガサツだ。お前みたいなデリカシーのないヤツに言われたくない」
蛍子はそう言って怒ると、今度はガツガッとエビチリを食べ始める。
「まあ、俺はデリカシーが無いかもしれないけど、でもホタルがガサツなのは間違いないと思うんだけどな」
「うるさい、黙ってさっさと食え!」
蛍子はもう健一の話を聞く気がなくなったらしく、そう怒るとさらに食べる速度をあげる。健一はそれで自分の分がなくなるのではないかと焦《あせ》って、慌《あわ》てて食事に戻る。こっちも負けずにガツガツ食べる。
「……そういえば、最近は唐揚《からあ》げをちっとも作らないが、何か理由があるのか?」
そしてエビがほとんど無くなった頃《ころ》になって蛍子はそんなことを尋ねてきた。
「そうだっけ? 別に普通に作ってると思うけど。ホタルと順番《じゅんばん》に作ってるから順番が中々回ってこないだけだろ」
健一はそう言って蛍子の気のせいだと指摘《してき》する。それで蛍子が引き下がるかと思ったが、違ったらしい。
「理由はどうあれ、唐揚げの頻度《ひんど》が下がりすぎてると言ってるんだ」
「だったら、自分で作ればいいだろ? 俺は俺が食べたいのを作ってるし、ホタルはホタルが食べたいのを作ればいいと思うんだけど」
「唐揚げはお前の担当《たんとう》だ。だから、お前が作れ」
「……俺の担当ねえ」
またなんか意地を張り始めたなあと健一は半ば呆《あき》れながら、別に唐揚げが嫌いになったわけでもないし、作りたくないわけでもないからと自分が折れることにする。
「じゃあ、明日の弁当《べんとう》にでも作るよ。それでいいんだろ?」
さすがに朝ご飯から唐揚げというのもどうかと思い、そう提案《ていあん》する。
「弁当ならいらん」
しかし蛍子はそんな返事をしてくる。
「……なんなんだよ、それは」
健一は本当に何が言いたいのだろうと思いながら、とりあえず明日の夕食は唐揚げにしないとなあと心に刻《さざ》んだ。
次の日、健一が作った弁当には唐揚げが入っていた。と言っても、それは蛍子のためのものではなく刻也と冴子のためのものだったのだが。
朝早く、家を出た健一は1301にやってきて、その冷蔵庫《れいぞうこ》にあるものを睨《にら》みながら、結局、それを選択《せんたく》したのだ。
キッチンには確かに約束した通り、刻也と冴子の弁当箱が置いてあった。刻也のものは装《そう》飾《しょく》のないステンレス製《せい》のもので、冴子のは少し幼《おさな》い感じのする家を模したデザインの小さな弁当箱だった。健一はその二つに適量《てきりょう》ずつ、ご飯を詰《つ》め、空いた部分にレタスを敷き詰め、唐揚げを置く準備《じゅんび》を済《す》ませる。
「うしっと」
揚がり具合を少し軽くなった音で感じた健一は引き上げて、一度、油を切るためにクッキングペーパーの上に載せる。
「おはよう、絹川君」
そんなタイミングで冴子がやってきた。
「おはよう」
健一は素早《すばや》く火を止めて、冴子に挨拶《あいさつ》を返す。
「それ、お弁当用の?」
冴子が近づいてきて、そんな質問をする。
「あ、うん。朝から唐揚げは、ちょっとね」
「そうね」
冴子が機嫌良さそうに笑う。
「絹川君は朝ご飯、もう食べた?」
「え? いや……まだだけど」
「じゃ、一緒に食べましょ。朝ご飯は私が用意するから」
冴子はそう言いながら、トーストを焼くことにしたようだった。そして冷蔵庫をのぞいて、卵を取り出す。
「目玉焼きでいい?」
「いいけど。僕も手伝おうか?」
「いいわ。二人で作るようなものじゃないでしょ?」
「ま、そうかな……」
健一はそうは言われても、なんだか何もしないでそこにいるって言うのが居心地《いごこち》が悪い気がしてしまう。このことを刻也に話したりしたら、また笑われてしまいそうだなとも思う。
「絹川君、昨日はいつ頃《ごろ》、帰ったの?」
フライパンを探《さが》しながら、冴子が尋ねてきた。
「え? 十時くらいかなあ。もしかして、途中《とちゅう》で起こしちゃったかな? だったら、ごめん」
健一は冴子の弁当箱があることの意味を改めて考えて、冴子はあの後、けっこう早く起きたんじゃないかなと思った。家に取りに帰ると言ってたが、まさか真夜中や朝方というのもないだろうと言う気がしたのだ。
しかし冴子が気にしてるのは別のことのようだった。
「私、そういう言い方、あまり好ぎじゃないな」
「……え? そういう言い方ってどの辺り?」
「そう言うっもりじゃないってわかってるけど、なんでかな、落ち着かない気持ちになる」
冴子はそう言いながら、見っけたフライパンをコンロの上に置く。
「謝罪《しゃざい》の言葉も、感謝《かんしゃ》の言葉も私、好きじゃないの」
「……そうなんだ」
意外な言葉だなと健一は思うが、その一方で確かに冴子からそれに類《るい》する言葉を聞いたことがなかったかもしれないと思い出す。
「謝罪や感謝が悪いことだとは思わないし、むしろ大事なことだと思ってるの。だからなのかな、なんだか言葉にするとそれが終わったみたいに感じてしまうのかな」
「……どういうことですか?」
「私だけの感覚かもしれないけど、感謝の気持ちを言葉をロにすると、自分の中から抜けていってしまうみたいな気がして。私、きっと薄情《はくじょう》な人間なんだと思う。言葉にしないように必死に閉じこめておかないと、すぐそういう気持ちが消えてしまうの」
その言葉に健一は、やっぱり冴子は独特《どくとく》だなあと思ってしまう。
「じゃあ感謝の言葉を口にするのって悪いことなんですか?」
「悪いわけじゃないけど……安易《あんい》な感じがして。感謝の方はまだいいけど、謝罪の方が特にね。謝ったかどうかじゃなくて、相手が許《ゆる》したかどうかが大事なはずのに、謝るともう許してもらった気になれるじゃない?」
「……それはそうかも」
「そこで許さないって話になると『こんなに謝ってるのに、なんで許してくれないの?』みたいな話になったりするでしょ? 私、それってすごく変だと思うの。謝った方が偉《えら》いみたいなその言い方って、謝るってことの意味を勘違《かんちが》いしてる気がする」
冴子はそう言いながらも、よどみなく目玉焼きを作っていた。健一は彼女の話に夢中《むちゅう》になっていて気づかなかったが、もう焼き上がろうとしているのが音や香《かお》りからわかる。
「だったら謝らない方がよかったのかな?」
「……あ、別に絹川君にもっとちゃんと謝ってくれってことじゃなくて」
冴子はそれで少し慌《あわ》てた様子を見せて、それから健一とフライパンを交互《こうご》に見て、コンロの火を止めることにしたようだった。
「絹川君の話じゃなくて、私の話。別に途中《とちゅう》で起きたわけじゃないし、そのことで謝って欲しいって意味じゃないの」
「なら、いいんだけど」
でも、それならどうしてこのタイミングでそんな話をしたんだろうと健一は思ってしまう。
「私は言葉ではなく、行動で示《しめ》すべきだって思ってるってこと。本当に悪いって思ってるなら、ちゃんと償《つぐな》い終わるまで口にしてはいけないし、本当に感謝してるなら、相手に同じくらい感謝されるようなことをすればいいんじゃないかってこと。それだけ」  冴子がそう言って出来上がった目玉焼きを皿に盛る。健一はそれを見て、つまりこの朝ご飯は冴子流の感謝の意の表し方なんだろうかと感じる。
「そんなに真剣《しんけん》に考えるような話じゃないから」
気づくと両手に皿をもって冴子がすぐ近くまで来ていた。それで健一はパンが焼き上がるのを待って、それを持って彼女とテーブルの方へと向かう。
「でもだったら、どうしたらいいのかなあとは思ってしまいますよね。有馬さんに感謝したい時、ありがとうって言ったらいけないってこと、ですよね?」
そして健一はテーブルに皿を並《なら》べ座《すわ》る。そして冴子も目玉焼きを並べて、健一の向かいに座った。
「いけないつてわけじゃなくて……私がそう思ってるってこと。他の人のやり方にケチをつける気はないし、そういう意味で言ったわけじゃないから」
冴子はそう言いながら、少し困った顔を見せた。
「……どうしたら絹川君に、わかってもらえるのかな?」
「いや、有馬さんの考えは多分、わかったと思います」
「そうじゃなくて……混乱《こんらん》させてしまったみたいで申し訳《わけ》ないって気持ちを」
冴子はそれで落ちつかなげな気持ちで立ち上がると、机の横を回って健一の隣《となり》まで来る。
「別に謝るようなことじゃないと思うんですけど」
「私が謝りたいの」
冴子はそう言って、そっと健一の頬《ほお》に唇《くちびる》で触《ふ》れる。
「やっぱり明るいところだと……恥ずかしいね」
「……ですよね」
それから冴子は自分からしたことなのに、驚《おどろ》いたような顔をして健一を見た。
「それに1303でだけの関係って言ったのにね……ダメよね、こういうの」
冴子はそう言うと真っ赤な顔を隠《かく》すように顔を伏《ふ》せる。でも座っている健一からはその顔が良く見えた。
「で、さっきのは、恥ずかしいことをしても良いぐらい悪いと思ってたってことですか?」
「……そういうこと説明したら、余計《よけい》、恥ずかしいから」
「あ、すみません」
健一はやっぱり自分はデリカシーが無いのかなと謝り、そしてまた安易《あんい》に謝罪の言葉を口にする自分に気づく。
「また、謝ってますね、僕……そうか、確かにこれじゃダメですよね」
健一が素直《すなお》に自分の非《ひ》を認《みと》めたところで、冴子が身を固《かた》くするのがわかった。
「……有馬さん?」
「え? いや、その……別になんでもないの……」
「それならいいんですけど」
健一はわけがわからず、そう呟《つぶや》いて、やっぱり自分はいろいろなことに真剣《しんけん》ではないのかなあと感じてしまったりする。
「でも、恥ずかしくないなら、この場合、謝罪にはならないわよね」
でも冴子は別のことを考えていたようだった。さっきからずっと自分の謝罪の仕方《しかた》について気にしていたらしい。
「というか、僕はあんまり謝罪って感じはしなかったですけど」
「……そうかな?」
「元々、謝って欲しいと思ってなかったし、有馬さんがキスしてくれて、嬉《うれ》しかったから」
「でも、償《つぐな》いにはなったでしょ?」
冴子が不安そうに座っている健一を覗《のぞ》き込《こ》む。
「どうなんでしよ? さっきのが不満だったってわけじゃないけど、有馬さんが償った気になってるっていうのは、なんかちょっと違う気がします」
健一はけっこう軽い気持ちで言ったのだが、冴子はかなり本気で考えているようだった。
「そうかな? そうよね、許してもらうためにしたってしょうがないんだから……」
「いや、そんなに気にしないでいいですよ。こっちも気にしてないですし」
「考えてみると謝りたいから謝るってのも本末転倒《はんまつてんとう》よね?」
冴子は自分の言ったことが矛盾《むじゅん》しているのに気づいて考え込んでしまったらしい。
「だから、そんなに考えるようなことじゃないですよ」
「そうは言われても……自分で言いだしたことだから……」
健一はそんな様子に冴子も言い出したら退《ひ》かないタイプなのだなあと感じる。
「じゃあ、僕の方からしましょうか」
健一は冗談《じょうだん》でそんなことを提案《ていあん》してみる。なんで朝ご飯を食べようとして、そんな真面目《まじめ》な話をしないといけないのかという思いもあった。
「絹川君の方から?」
冴子が驚《おどろ》きの顔で自分の方を見下ろすのがわかった。健一はそこでこの話は終わるだろうと思ったが、実際《じっさい》にはそうはならなかった。
「……確かに、それで絹川君が気が済《す》むなら、それの方がいいかな」
「マジですか、それ?」
「マジって?」
「いや、本気で言ってるんですかってことです」
「でも謝罪をされる方が納得《なっとく》することをするのが、本当に謝るってことでしょ?」
確かにそれが冴子流の『謝罪』というヤツなのかもしれない。
「でも、いいんですか?」
「あんまりよくはないけど……だからこそのことだろうし」
冴子はそう言ってつま先を立てて、健一より低く座《すわ》る。それでもう冴子は覚悟《かくご》を決めたようだった。顔を上げて、健一の顔を見る。
「いや、でも、僕はそうしたいってわけじゃないし……」
健一の方はそんな風に改めてそうされると逆に戸惑《とまど》ってしまう。
「意地悪《いじわる》なのね、絹川君は」
でも冴子はそう言って目を伏せるだけで、考えを変える気は無さそうだった。
「……意地悪って」
「謝らせてくれないのねってこと」
「だから、もともと謝ってくれって話じゃなかったし……やっぱり恥ずかしいですよ。それにここは1303じゃないし……」
「そうね」
冴子はそう言って立ち上がる。健一は納得してくれたみたいだとホッとするが、残念ながらそうではなかったらしい。
「でも、誠意《せいい》は示したいの。私の身勝手《みがって》でも」
今度は冴子は健一のオデコに唇《くちびる》で触《ふ》れた。
「…………」
不意《ふい》をつかれて健一が固まる。そこに――
「あ――――――――――――――――――――――――――――――――!」
と大きな声が響《ひび》く。
「あ、綾《あや》さん!?」
健一と冴子の声が重なる。入り口の方を向くと、綾がいた。ここのところ見ないなと思ったが、創作作業《そょうさくさぎょう》に没頭《ばっとう》していたらしい。買ってきた服ではなく、白衣を着ているので、きっと間違いない。
そんな綾がズカズカと音を立てて歩いてくるのが見える。
「ずるい、ずるい!」
そして不満を口にしているのが聞える。
「な、何がずるいんですか、何が!」
「冴《さえ》ちゃんばっかり、健ちゃんと仲良くしてずるい!」
「……ずるいとかそういう問題じゃないかと思うんですが」
「冴ちゃんがそういうことするなら、私もしてもいいじゃない」
そう言って綾は健一に抱《だ》きついてきて、キスをしようとする。
「だから、なんでそうなるんですか? なんで?」
健一はそんな綾の接近《せっきん》を回避《かいひ》しながら、わめくように反論《はんろん》する。
「なんでって、冴ちゃんがずるいから!」
「だから、理由になってないです。理由に!」
健一は必死に綾を振りほどくと、飛びしさって彼女から距離を置く。
「ずるいよねえ? 冴ちゃんもそう思うでしょ?」
健一に話が通じないと見て、綾が冴子の方に質問をする。
「……ずるいですか?」
冴子はちょっと考えてそう返事をする。
「ずるいよね?」
それに綾は同じ質問を短く繰り返す。
「……そうですね。ずるいかも」
「じゃあ、私も健ちゃんとキスするってことで」
「だ―――! だから、じゃあじゃないですってば!」
健一はまた迫《せま》ってくることにした綾を牽制《けんせい》する。
「なんで?」
「だから、そうやって僕が悪者《わるもの》みたいな顔で見るのは止《や》めてくださいって」
「だって、この場合、健ちゃんが悪者じゃない」
「悪者じゃありませんー」
「悪者だよ。冴ちゃんは健ちゃんの彼女じゃないのに、キスとかしてるんだもん」
「……ぐぐっ」
「でもそれが悪いことじゃないって言うなら、私がしてもいいんでしょ?」
「そう、なのかな……」
健一が考え込んだどころで、綾がまた接近《せっきん》してくる。
「わわっ! だからですね」
「いいじやない。別にエッチしようとかまで言ってるわけじゃないんだし。ほっぺにチュッくらい。ね、冴ちゃんもそう思うでしょ?」
そして綾は健一を捕《つか》まえて、冴子の方を見る。
「それくらいなら、いいんじゃないでしょうか」
「わ――! 勝手に二人で決めないでください。僕の意志《いし》は関係なしですか?」
「そうは言いながら嬉しいくせに。体は正直だよ、健ちゃん」
「うわあー! なんか変な言葉覚えてる、この人!」
健一は慌《あわ》てふためいてジタバタとするが、冴子はそんな二人を笑って見ているだけだった。
「有馬さんも見てないで助けてくださいよぉ!」
「なんだか二人とも楽しそうだし、いいのかなって」
「良くないです。ちっとも良くないですからっ!」
健一は悲鳴のように叫《さけ》ぶが、やっぱり冴子は笑っている。
「もう体は良くなって来てるみたいだよ、健ちゃん」
そう言って綾は胸を押し付けてくる。正直な健一の体がそれに反応《はんのう》してしまう。
「うぐぐ……だからですね」
「あ、わかった。冴ちゃんが見てると恥ずかしいってこと? じゃあ私の部屋に行こうか。それならいいでしょ?」
「そんなことされたら、それだけじゃ済《す》まない予感がひしひしと……」
「それは健ちゃん次第《しだい》でしょ、ね?」
「だから、ね?――じゃなくて!」
健一はなんとか振りほどいて、また距離を置くと、少し前傾姿勢《ぜんけいしせい》になって綾の接近を許《ゆる》さないように警戒《けいかい》する。ふーふーと肩《かた》で息をして威嚇《いかく》するように睨《にら》みを利《き》かせた。
「……そんなに嫌なの?」
綾がそんな健一を見て、ちょっとしゅんとした顔を見せる。
「嫌って言うか、ダメなんです」
健一は警戒を解かないで、返事をする。
「ダメなの?」
「ダメです」
「……じゃあ、しょうがないか」
綾はそう言って、パッと明るい顔になると健一が座ってた席に座り、そこにあった朝ご飯を食べ始める。
「ちょちょっと、綾さん?」
「なに?」
「それ、僕のなんですけど……」
「あれ? そうなの? でも私、お腹空《なかす》いてるし」
綾は手を止めることなく食事を続ける。それを見て、健一は困ったなと冴子の方を見る。冴子はその視線《しせん》に気づいて、少し笑ったようだった。
「じゃ、もう一人分、作りますから。絹川君はこっちのを。まだ全然手を付けてないし」
冴子は自分のだった分を指してそう告げる。
「いいんですか、それで? それなら自分で作りますけど」
「いいわ。すぐ出来るから」
冴子はそう言ってキッチンの方へと歩き出す。それを見送りながら、止めても無駄《むだ》だろうと健一は感じて席に着くことにする。
「……これ、冴ちゃんが作ったの?」
そこに綾が質問《しつもん》をしてくる。
「そうですよ。僕がお弁当を作ったから、そのお礼にって作ってくれたんです」
「へえ、冴ちゃんもお料理上手なんだ」
「だから、そこじゃないと思うんですけど、気にしどころは……」
「そうかな……じゃあ、どの辺を気にするの?」
「だから、それは僕のために有馬さんが作ってくれたものなんです。それを綾さんが食べたらダメでしょ?」
「ダメだったら、冴ちゃんがダメって言うと思うけどな」
「……まあ、そうかもしれませんけど」
健一は冴子は遠慮《えんりょ》がちなところがあるから言わなかったんだろうと思ったが、実際《じっさい》にはそうではなかったのかもしれないとも感じる。
「ね、冴ちゃん、これ食べたのダメだった?」
なのに綾は何も考えていないのか、直球《ちょっきゅう》の質問を冴子に投げる。
「別にそんなにダメじゃないですよ」
そして返ってきたのはそんな言葉。
「ほら、ダメじゃないって言ってる」
それに勝ち誇《ほこ》ったような綾の顔。
「言ってないですってば。そんなにダメじゃないってことは、少しはダメってことです」
「でもダメとダメじゃないの配分《はいぶん》で言ったら、ダメじゃない方が多いってことでしょ? 白と黒で言ったら、限《かぎ》りなく白に近いグレーってことだから、やっぱり白ってことじゃない」
「……そ、そうなのかな?」
なんだか丸め込まれた感もあるが、綾の言い分も正しいような気もしてくる。
「とにかく、食べたいなら食べたいで、作ってもらえばよかったわけで、僕のを取ることはなかったってことです」
「でも、私、健ちゃんのが欲しかったんだもん」
「知ってて取ったんですか……」
健一は思いっきり脱力《だつりょく》して、しょうがないのでもう朝ご飯を食べることにする。しかしそこに綾は別の話題をつっこんできた。
「そういえば、健ちゃんにお願いがあるんだけどいいかな」
「お願いですか? 変なお願いは嫌ですよ、変なお願いは」
「うーんとね、変かも」
「じゃあ、ダメです」
「そんなこと言わずに聞いてよ。エッチなのじゃないから」
「じゃあいいです。聞きます」
健一はどうやら真面目《まじめ》な話らしいと気づいて、綾の方を見る。正面から見ると白衣の前ボタンが外れてて、胸の谷間《たにま》が大きく見えたが、慌《あわ》てて顔に視線を向ける。
「今日さ、撮影《さつえい》なの」
「撮影……ああ、雑誌《ざっし》のやつですね」
健一はそう答えて、そのために綾と服を一緒《いっしょ》に買いに行かされた時のことを思い出す。
「そうそう。でも昼間だからさ、健ちゃんに一緒に来てってわけにはいかないでしょ?」
「……ですね」
「だから、上手く行くように祈《いの》ってて欲しいんだけど」
綾が真面目な顔でそんなことを言う。
「祈ってればいいんですか?」
「うん。変なお願いだけど、それならOKかな?」
「まあ、そういう変なのなら、OKですけど」
健一はしかしそれはそれでどうなのかなあと思ってしまう。どこでの撮影かは知らないが、綾が一人でそこに向かうのはかなりの困難《こんなん》だろうと想像《そうぞう》できた。
「とりあえず、遅《おく》れないようにしてくださいね。それと寄り道して時間を忘《わす》れたりしないでください。あと、ちゃんと買ってきた服を着ていくことも忘れずに」
「……うん。多分、大丈夫《だいじょうぶ》」
「多分じゃなくて……というか、今、無理かもって考えたでしょ?」
「うん。ちょっとね」
綾はそう言いながら、ひどく嬉しそうに笑う。
「だから、そこは笑うところじゃないでしょ?」
「でも、ほら、健ちゃんがちゃんと心配してくれてるんだなあって思ったから」
「……そりゃ、心配しますよ。コンビニより遠いところに行けないような人なんですから」
健一が本当に大丈夫かなと思ったところで、冴子が戻《もど》ってきて、綾の隣《となり》に座《すわ》った。目玉焼きにトーストと同じメェューだ。
「冴ちゃんも祈っててくれる?」
「はい。どうせ授業中、暇ですから」
冴子はそう返事をして、朝ご飯を食べ始める。
「……暇なんですか?」
健一は冴子が授業を真面目に開いてるように見えなかったのが、気のせいではなかったのを知る。
「学校の勉強なんて、テストの役にしか立たないと思うし。それよりは綾さんのために祈ってる方が大事かなって」
「冴ちゃんってば優《やさ》しい娘なんだ!」
綾は感激《かんげき》して声を上げる。でもなぜか視線は健一に向いている。
「……僕はそうじゃないって言いたいんですか?」
「ううん。健ちゃんも冴ちゃんくらい優しいといいなってこと」
「それって同じじゃないですか……」
「そうかな? 健ちゃんは優しいけど、冴ちゃんレベルじゃないってだけで、健ちゃんが優しくないって言ってるわけじゃないよ」
「そうかもしれませんけど……」
健一は本当になんだか綾が今日はテンション高いなあと思ってしまう。
「冴ちゃんって男の子にモチそうだよねえ。私と違って常識《じょうしき》があるし、気遣《きづか》いもできるし」
そして綾が突然、そんな話題を振る。健一はそれに驚いて、冴子の方を見るが、彼女は冷静に食事を続けているだけだった。
「そんなことないですよ」
冴子が短く答える。
「そうかなあ。健ちゃんも、そう思うでしょ?」
「まあ、綾さんと付き合おうとしたら大変ですからね」
「ぶー」
綾が自分の話をされて口をとがらせる。
「冴ちゃんの話をしてるんだよ、私は」
「有馬さんが自分でそうじゃないって言ってるんだから、いいじゃないですか、それで」
「……なんか健ちゃんって、冴ちゃんに妙《みょう》に優しいよね」
「別に普通《ふつう》ですよ、普通」
「健ちゃんは普通でエッチが出来るんだ」
「ぶっ!」
健一はその言葉に驚き、ゲホゲホとむせてしまう。
「あ、やっぱりしてるんだ」
「あのですね……」
反論《はんろん》しようとするが、事実だし、自分がうろたえてしまったのだから、どうも具合が悪い。
「いいの。別に冴ちゃんと健ちゃんがエッチしても」
「……いいんですか?」
「うん。だって、私、冴ちゃんのこと好きだし」
「そう言う問題かなあ……」
健一は綾の言う意味がわからず、冴子の方を見るが、冴子は恥ずかしそうに視線《しせん》をそらし、話題には参加しそうにない様子を見せる。
「私が言いたいのはね――健ちゃん、聞いてる?」
「あ、はい」
「私が言いたいのは、それなら私ともしようつてことなの」
「……これまた大胆《だいたん》な自説を唱《とな》え始めましたね」
「だって彼女以外とはしないってことかなあと思って、一人でして我慢《がまん》しようとしてたのにさ」
「そんな大胆な告白も聞きたくないです」
「なのに冴ちゃんとは彼女でもないのにしてるんでしょ? そう言えば、お姉さんとも……」
「うわ―――! 何を言うんですか、何を!」
「え? 彼女以外の人としてたなって……あ、これ、言っちゃいけなかったんだっけ?」
綾は本当に悪気が無かったらしい。
「……有馬さんは知ってるから別に良いんですけど」
「あ、そうなの?」
「でも八雲さんは知りませんから、ここでは口にしないでください」
「そうか。ごめんね、健ちゃん。お姉さんとしたことは――」
「だから、もう言わないでいいですから!」
健一は綾は本当はわざとやってるんじゃないかと不安になったりする。
「ごちそうさま」
そしてそうこうしているうちに、冴子がもう食べ終わったようだった。一番、最後に食べ始めたはずなのに、妙《みょう》に食べるのが早い。
「……もう学校に行く時間?」
健一はそれで心配になって時計を見るがまだまだ余裕《よゅう》がありそうだった。
「まだ大丈夫だと思うけど、先に行った方がいいかなって」
冴子はそう言いながら、自分の皿を流しの方へと持っていく。健一はそれを聞いて、やっぱり外《そと》では相変わらず他人ってことなのかなと思う。
「あ、置いておいてくれれば、まとめて洗《あら》いますから」
だから健一はそう告げる。
「そう」
それに冴子は返事をすると、しばらく考えて、綾の顔を見てからまた口を開く。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。あと、お弁当《べんとう》も忘れたらダメよね」
冴子はそう言って、自分の弁当箱に唐揚《からあ》げを詰め始める。
「あ、すみません。途中《とちゅう》で投げ出してたみたいで」
「詰めるくらい、自分で出来るから」
「はい。じゃあ、お言葉に甘《あま》えさせてもらいます」
健一がそんな返事をすると、向かいで綾が口をとがらせた。
「なんか面白《おもしろ》くないなあ、そういう言い方」
「なんで面白くないんですか?」
「よくわからないけど、面白くないんだもん」
「そんなこと言われても……」
そんな不満そうな綾の横を、お弁当を持った冴子が通りすぎる。
「ちゃんと祈《いの》ってますから、綾さんの無事」
「あ、うん。ありがと」
綾がそれだけでもう機嫌《きげん》が良さそうになる。年上のはずなのに、そういうところは子供《こども》のようだなと健一は思う。
「健ちゃんも祈っててよね」
「……わかってますよ」
健一はそう答えると食事を続けることにする。いい加減《かげん》、話してる場合でもなさそうだ。
「健ちゃんが、祈っててくれると思うと、頑張れると思うんだ、私」
でも綾は嬉しそうに話を続ける。
「本当、頑張《がんば》ってくださいよ。撮影《さつえい》するために待ってる人とかいるんですから」
「うん。健ちゃんがいない分も頑張る」
「僕はそもそも行くわけじゃなかったですから」
「ま、そうなんだけどね」
綾が笑ったところで、健一は部屋の外を誰かが通るのを感じた。冴子がもう出かける準備《じゅんび》を済《す》ませたらしい。ご飯を食べるのも早ければ、出かけるのも早いのだなあと思う。
「冴ちゃんは相変わらず、外じゃ話してくれないの?」
そんな様子に綾が質問《しっもん》をしてくる。
「そうなんですよ……なんでなんですかねえ?」
健一は素直《すなお》に尋ね返してみるが、あんまり答えを期待《きたい》していたわけでもなかった。綾が冴子のことを理解《りかい》しているとは思っていない。
「きっとね、冴ちゃんが優《やさ》しくて、健ちゃんのこと大切に思ってるからじゃないかな」
「……どういう意味ですか、それ?」
「宝石を買ってさ、それを大事にしてる入っているでしょ?」
「まあ、いるかもしれませんが、それが一体どういう関係が?」
「私はお気に入りの宝石はいつも付けてたいなあって思うタイプだけど、冴ちゃんはずっと箱の中にしまっておくタイプなんじゃないかなって、そう思ったって話」
「……で、どういう意味なんですか、それ?」
結局、なんの説明にもなってなさそうだと健一は尋《たず》ねてしまうが、綾は不思議そうな顔をして健一を見返す。
「わからなかった?」
「いや、さっぱり……」
「じゃあ、他の言い方を考えておく。健ちゃんにもわかる簡単《かんたん》なヤツ」
綾はそう言って、目玉焼きの黄身に箸《はし》を刺《さ》した。
「……よろしくお願いします」
簡単なヤツという言い方に、健一は礼儀《れいぎ》正しく返事をしてしまう。しかしさっきの綾の話がそんなに簡単な言い方とはとても思えなかった。
午前中の授業中《じゅぎょうちゅう》、綾の言っていた言葉の意味を、健一はずっと考えていた。
そのせいで時々、冴子の方を見てしまうが、今日の彼女はいつもよりはずっと元気そうで、そしてぼーっとしている風でもなかった。本当に言っていた通りに、綾のために祈《いの》っているのかなと健一は思い、自分も少しは祈ろうかなんて思ったりする。
それでもやっぱり綾の言っていた言葉が気になってしまう。
――私はお気に入りの宝石《ほうせき》はいつも付けてたいなあって思うタイプだけど、冴ちゃんはずっと箱の中にしまっておくタイプなんじゃないかなって、そう思ったって話 綾の言うことをイチイチ真に受けていてもしようがないのかもしれないとも思う。彼女は独《どく》特《とく》な感覚《かんかく》で生きている。そしてそれを言葉で表現《ひょうげん》するのは苦手《にがて》らしい。だから、少しも的を射たたとえでないかもしれないのだ。
「でも、二人が全然違《ぜんぜんちが》うタイプってのは間違いなさそうだよな」
健一はそう呟《つぶや》いて、二人とのことを色々と思い出す。そして授業中としては不適切《ふてさせつ》なことを想像してしまい、慌《あわ》ててしまった。
「で、どうしましょう?」
お昼の時間になると、千夜子が恥ずかしそうに尋ねてきた。彼女の手には二つのナプキンに包《つつ》まれた荷物がある。それで健一は千夜子がお弁当を本当に作ってきてくれたのだということを理解する。
「どうしましょうって言うと?」
しかし質問の意味がわからず聞き返してしまう。する右わき腹《ばら》にゴスッと鈍《にぶ》い痛みが走る。
「いてっ」
健一はそれで痛みのした方を振り向いて、ツバメに肘打《ひじう》ち食らわされたことを知る。
「バカね。ここで一緒に食べたら恥ずかしいってことでしょ」
ツバメはそう耳打ちすると、千夜子がオロオロしているのを無視して健一を引っ張って教室を出ていこうとする。
「……もう少し穏便《おんびん》に教えてくれるとありがたかったんだけどなあ」
「今日もやっぱり有馬冴子のこと見てたから、その罰《ばつ》も兼《か》ねたの」
「そうですか……それは、すみませんでした」
本当に冴子に関してのことではツバメは容赦《ようしゃ》が無い。まあ、これに関しては自分にも落ち度があるのだから仕方《しかた》ないわけだが。
「ツバメは厳《きび》しすぎだよ。別に私は怒《おこ》ってないんだから」
そんなツバメに千夜子は抗議《こうぎ》の声をかけるが、ツバメは不敵《ふてき》に笑うだけだった。
「別に千夜子のためにやってるんじゃないの。絹川が有馬冴子のこと気にするのがムカツクからしてるだけ」
「……じゃあ、やめてよ。そういうのは」
「絹川がやめれば済《す》むことでしょ? あんな女のこと気にしないって言ってるのに、気にしてるからいけないんであって……それともやっぱりあの女のこと気にしたいわけ?」
ツバメは千夜子から健一の方に話題を戻す。
「別にそういうわけじゃないけど」
「だったら、気にするのやめる。それで私もムカッカないし、絹川も痛《いた》い目見ずに済むし、千夜子も安心でしょ?」
「……ま、そうだけど。鍵原が言うとちょっと引っ掛《か》かるかな」
健一が反論《はんろん》しようとすると、ツバメがギロッと睨《にら》んできた。それで健一は困ったなと千夜子の方を見る。
「ツバメが有馬さんのこと嫌うのはわかるけど…‥私はやっぱり反対」
「反対って何に?」
「私は有馬さんのこと、嫌いじゃないし、有馬さんのことを理由に絹川君にツバメが暴力振《ぼうりょくふ》るうのも好きじゃない」
かなり強い口調《くちょう》で千夜子が告《つ》げる。
「……はいはい」
それにツバメは少し考えて、そんな風に答えた。
「千夜子がそこまで言うなら、もう止《や》めるよ。でも、私だって有馬冴子への私怨《しえん》でやってるわけじゃないんだからね」
「それは、わかってる……つもり」
千夜子はツバメが折れたので、なんだか急に弱腰《よわごし》になったようだった。
「で、どうするんですか?」
そこに健一はアテもなく歩いているようなので、質問をぶつける。しかしそれにまたツバメが不機嫌《ふきげん》そうな顔をする。
「絹川って本当、自分のせいで私たちがケンカしてるって自覚あるの?」
「……ありませんでした」
「まあったく、本当に適当《てきとう》なんだから、コイツは」
ツバメはあきれ果てたという顔で頭を抱《かか》えるが、千夜子はそれを見て小さく笑う。
「屋上に行きましょうか? 今日は天気が良いですから」
「千夜子も千夜子だよ。なんでそこで怒《おこ》らないわけ?」
「怒るより笑う方が楽しいから」
千夜子の返事に、ツバメはまたさっきと同じように癖を抱える。
「……本当、お似合《にあ》いのカップルですこと」
「ありがと」
ツバメの嫌《いや》みに千夜子は笑うと軽く歩く速度《そくど》を上げて、一番に階段を上っていく。
「絹川、マジで感謝《かんしや》しなさいよ。千夜子みたいないい娘、他にいないんだからね!」
それを追いかける形になった健一にツバメが釘《くぎ》を刺《さ》す。
「わかってるよ。それはきっと」
健一はそう答えて、でもわからないことがたくさんあることを思い出した。
屋上に出ると、本格的《ほんかくてき》に夏が近いのを感じた。高く青い空。雲がほとんどなく、日差しがきつかった。それで三人は日陰《ひかげ》を探《さが》し、そこに陣取《じんど》る。さすがに炎天下《えんてんか》の中で食事をするのは辛《つら》そうな季節にさしかかったなと感じる。
「どうですか?」
今度は千夜子の質問の意味はハッキリわかっていた。自分が作った弁当の感想を求めているのだ。だが、それとどう答えるべきかは別の問題だった。
結論《けつろん》を言えば、あまり美味《おい》しくはなかった。マズイと断《じん》じるほど酷《ひど》くはないが、自分が作った方が美味しいだろうということだけは確かだった。メニューもあまり良くなかった。今朝、ちょうど自分が作ってた唐揚《からあ》げだったのだ。そのせいでどうしても比べてしまう。少し火の通りが悪くて、生っぽい感じが残っている。
「思ってたよりは、ずっと美味しいです」
考えた未に出た健一の答えはそれだった。
「そうですか。食べられないほどじゃないなら、一安心です」
あまり良い答えじゃないかなと思ったが、千夜子はすごくホッとしたような表情を見せる。そしてやっと自分の弁当を拡《ひろ》げて食べ始める。健一はそれを横目に見ながら、自分の分の続きを食べることにする。あまり手を休めていると、本当は食べたくないと思われるかもという気持ちもあった。
「ふむ」
いくつか食べ比べてみると、随分《ずいぶん》と出来不出来に差があるなと健一は感じる。それで改めて千夜子の方を見た。
千夜子の弁当は自分のより随分と黒そうだった。
「……あ」
千夜子は健一の視線に気づいて、慌《あわ》ててそれを隠《かく》す。どうやら千夜子の分は失敗作《しっぱいさく》のようで、つまりは上手く出来た分を健一の方へと回したということらしい。
「そっちも食べさせてくださいよ」
健一はそう言って笑うが、千夜子は必死の形相《ぎょうそう》でそれを隠そうとする。
「ダメですよ。こっちは本当に食べられたものじゃないんですから……」
「僕、どっちかと言うとカリカリなくらいの方が好きなんですよ」
「そうなんですか……でも、やっぱりダメです」
千夜子は健一が覗《のぞ》き込もうとすることからも逃《のが》れようと、立ち上がって距離《きょり》を置く。それで日差しの下で真っ赤になってる千夜子の顔が浮かびあがる。
「そんなに嫌なら、いいんですけど」
千夜子の必死《ひっし》な態度に健一は少し不思議な気がしてしまう。なんでそこまで恥ずかしがるのかがピンと来ない。
「すみません。恥ずかしいです、さすがに……」
千夜子はそう言いながら、そっとその場に弁当を置いて、さらに健一から離《はな》れる。
「えっと……」
「絹川君が食べたいなら、食べてもいいんですけど……恥ずかしいので私が見てない隙《すき》に食べてください」
千夜子がそう言って後ろを向いて、健一から離れるように歩き始める。
「……はい」
健一はそんな彼女の後ろ姿《すがた》を眺《なが》めながら、炎天下に放置《ほうち》された弁当箱へ接近《せっさん》する。
「本当にお暑いことで……」
二人のやり取りにツバメがだれた口調でそう呟《つぶや》くのが聞える。
「すみませんね」
健一はツバメにそう返すと、千夜子が置いた弁当から一つ、唐揚げをもらうことにする。念のため、箸《はし》を逆に持ってそれで自分の弁当の上に置く。
「……もう食べました?」
千夜子が経過《けいか》を確認《かくにん》する質問をする。まだ向こうを見たままらしい。
「あ、今、食べるところです」
「……はい」
千夜子がわなわなと震《ふる》えているように見えた。よほど堪《た》え難《がた》い状況なのだろうか。健一はそう思いながら、唐揚げを口に入れる。
「ふむ……」
見栄《みば》えはかなり黒かったが味はむしろこっちの方が美味しいくらいだった。きっと油を捨《す》てずに同じもので揚げていたせいだろう。そのせいで色が悪くなってるだけらしい。
「こっちの方が美味しいですよ」
「え? そうなんですか?」
千夜子が振り向いて、驚きの表情で健一の方を見る。健一はそれに笑みを返す。
「うん。こっちの方が後で作ったものなんですよね?」
「はい……そういうことまでわかるものなんですか?」
「揚げてるうちに油が悪くなってるんですよ、こっちのは。だから色が悪くなってますけど、油の温度がちょうど良くなってたみたいですね」
「そうなんですか……」
千夜子は健一の言葉に感心して、小さく二度ほどうなずいた。
「ふーん」
そんな二人のやり取りを見てる間に、ツバメも興味《きょうみ》を持ったらしい。ひょいと千夜子の弁当から唐揚げをつまんで食べる。
「うん。まあ、確かに味は悪くない」
「ツバメ……勝手に食べないでよ」
「いいじゃない。あ、そっちも食べていい?」
ツバメはそう言って、今度は健一の弁当から一つ取って食べる。
「……うむ」
そしてツバメが渋《しぶ》い顔をする。
「千夜子ぉ、ちゃんと味見してるわけ、これ?」
「……したよ」
「明らかに、こっちの黒いのの方が美味《おい》しいんだけど」
「黒いのとか言わないでよ……ちょっと色が濃いだけでしょ……」
千夜子がしょんぼりとそう告げた時、ドアが開く音がして、誰かが屋上に上がってくるのがわかった。
それは有馬冴子だった。ぼーっと眠《ねむ》そうな表情をして、夏の日差しの明るさになれるためなのかしばらくその場でじっとしている。
「…………」
それから見回して、健一たちがいるのに気づいて去ろうとする。
「有馬さん!」
なのにそれを千夜子が呼び止める。
「何?」
健一は冴子が無視《むし》してどこかに行くんじゃないかと思ったが、意外にも冴子は立ち止まって千夜子の方を見る。
「有馬さんもお弁当を食べるなら、一緒《いっしょ》に食べませんか?」
そしてさらに千夜子が意外な提案《ていあん》をするのを健一は聞いた。
「どうして?」
「どうしてって……クラスメイトだし……私、有馬さんとあまり話したことないから」
「あまり話したことないのに、一緒に食べたいの?」
冴子は涼《すず》しい顔で軽く拒絶《きょぜつ》する雰囲気《ふんいき》を見せるが、千夜子はそれに気づかなかったのか、無視するように自分の話を続ける。
「こうして屋上で会ったのも、なんかの緑《えん》だと思うんです」
「……そう」
冴子は短く答えて、でもツバメの方を見た。ツバメはそれに睨《にら》むような視線を返す。
「鍵原さんは嫌《いや》がってるみたいだから」
それを冴子は指摘する。
「じゃあ、二人で食べましょうよ」
なのに千夜子は食い下がるようにそう告げると、自分の弁当を取りに戻る。
「何考えてるわけ、千夜子?」
その行動の意味がわからず、ツバメが尋ねる。でも千夜子は確固《かっこ》たる信念《しんねん》があって動いているようだった。
「有馬さんと話す良い機会《きかい》だと思うから」
「……どうしたらそんな風に思えるんだか。絹川もぼーっとしてないで止めなよ」
ツバメはそう言って健一に話題《わだい》を振ってくるが、健一としては特に反対するという気にもなれなかった。千夜子はツバメがずっと嫌っている冴子と仲良くしたいのだろう。それは人を嫌うのが苦手だと言っていた彼女らしい行動のように思える。
「すみません。お弁当の感想は後《あと》で聞かせてください」
千夜子がそう言って、急いで冴子の方へ戻る。健一はそれで食べているのを近くで見ているのが恥ずかしいという意味もあったのかなと感じる。
「絹川……あんた何考えてるのよ」
でもツバメはただ怒《おこ》ることしか今は頭に無いらしい。
「何って……鍵原があんまり有馬さんのこと嫌うから、こうなったんだろ?」
「そうかもしれないけど……千夜子があの女に変《へん》なこと吹《ふ》き込まれたらどうするわけ?」
「どうするわけって言われても……」
健一はやっとツバメが何を怒っているのかわかったような気がした。冴子の影響《えいきょう》で千夜子が妙《みょう》な行動を始めるのを恐《おそ》れているのだ。しかし健一には千夜子がそんなことで変わったりはしないと思ったし、冴子にも悪感情《あくかんじょう》を持っていないのだからどうにも同調《どうちょう》できない。
「とにかく、のん気にご飯食べてる場合じゃないでしょ?」
ツバメはそう言うとゆっくりと千夜子と冴子が消えていった方へと歩き始める。
「どこ行くわけ?」
「様子を見に行くのよ! あの女が千夜子に変なことを言おうとしたら、タダじゃ済《す》まさないんだから!」
ツバメはそう言って鼻息を荒《あら》くしていた。
「……変なことねえ」
健一は、ツバメが冴子のことをどう思っているのか改めて考えてしまう。ツバメによれば、冴子は三度も彼女の彼氏になりそうだった男を寝取《ねと》ったらしいが、そんな話を冴子が千夜子に言うとは思えなかった。
「美味しそうなお弁当ですね」
そこに千夜子の声が聞えて、健一は自分がすっかり忘れていたことを思い出した。
今日の冴子の弁当は、誰でもない自分が作ったものだったのだ。弁当を見るだけで千夜子がそれを見抜《みぬ》けるとも思えないが……かなり危険《きけん》な状況《じょうきょう》ではないかという気がしてくる。
「どうしたの?」
壁《かべ》の後ろに隠《かく》れて冴子たちの様子を窺《うかが》っているツバメが健一に尋ねてくる。
「いや、別に……」
それで健一もツバメにならって、二人の様子を窺うことにする。
二人は屋上の少し段《だん》になっているところに並《なら》んで腰をかけていた。とりあえず表情を見るかぎり、ケンカしている風ではない。千夜子が興味津々《きょうみしんしん》な様子で冴子のお弁当を覗《のぞ》いていて、冴子はと言えば、なんだか違い目をしてどこか別のところを見ているようだった。
「これ、有馬さんが作ったんですか?」
そんな冴子に千夜子が尋ねる声がした。健一は息が詰《つ》まるのを感じる。冴子は学校の外では他人として振《ふ》る舞《ま》うとは言ってたが、どう答えるつもりだろうと健一は冴子の返事を待つ。
「私はこんなに上手には作れないわ」
「じゃあ、お母さんですか?」
「私のお母さんは、お料理とか出来ない人だから」
「そうなんですか……じゃあ、誰なんですか?」
冴子がはぐらかそうとしているのに、千夜子はそれを気にせず追及《ついきゅう》してるように聞えた。健一はそれで、すでに千夜子は気づいているんじゃないかと思ったりする。
「なんて言ったらいいのか、よくわからないんだけど……」
冴子がそう呟《つぶや》くのが聞えた。それで千夜子が不思議そうな顔をする。
「わからないんですか?」
「多分、家族みたいな人。まだ、そう呼べるほど、仲いいわけじゃないけど」
しかし冴子は自然にそんな答えを返す。
「家族みたいな人……ですか」
千夜子はそれがどういう意味なのかわからず、考えてしまったようだった。そこに冴子が自分の考えを重ねるように呟く。
「とにかく、私にとって大切な人ではあると思う」
「……そうなんですか。よくわかりませんけど、その人も有馬さんのこと大切に思ってるんじゃないかって気がします」
「それはよくわからないけど」
冴子は照《て》れたような笑みを浮かべた。千夜子のまっすぐな言葉に面食《めんく》らったのかもしれない。
「大切な人、か」
健一は冴子の言葉を意外に思いながら、やっぱり嬉《うれ》しく感じる。冴子とは色々あったが、冴子が本当は何を考えているのかはわからないでいた。先の言葉が本心からのことかはわからないが、そうであったらいいなと思う自分を健一は感じる。
「何が大切な人よ!」
しかしツバメは冴子の言葉に別の感情を抱《いだ》いたようだった。憎々《にくにく》しげに同じ言葉を繰り返す。
「絹川も騙《だま》されてるんじゃないっての! あの女はね……」
「鍵原の彼氏候補《こうは》を三回も寝取った悪女だって言うんだろ?」
「わかってるなら、デレデレしない! 普段悪い女がちょっと良いところ見せたってだけなんだからね、さっきのは! まったく本当、絹川は千夜子の彼氏って自覚がないんだから……」 ツバメはそれでブツブツと一人で文句《もんく》を言い始める。しかし不機嫌そうな彼女の見てる前で、千夜子と冴子は楽しそうにお互《たが》いの弁当を食べていた。
「……まあ、その辺は反省《はんせい》します」
だから健一はツバメの言葉にそう返すと座って自分の弁当を食べることにする。盗《ぬす》み聞きしてて食べるの忘れるわけにはいかないし、安心したらお腹《なか》が空《す》いてきたのだ。
「絹川君」
放課後、健一をそう呼び止めたのは意外な人物だった。
八雲刻也。長身のクラスメイトが自分の方を見ていた。
「なんですか?」
「今日、私はバイトなので帰りが遅《おそ》くなる。だから私の夕食は必要ない」
刻也の事務伝達《じむでんたつ》風の言葉に健一は素直《すなお》に用件《ようけん》を理解《りかい》する。
「そうですか。わかりました。バイト頑張《がんば》ってください」
「うむ。ありがとう」
そして刻也はスタスタと去っていく。何だか直線《ちょくせん》的な動きで、機械《きかい》で動いているんじゃないかなんて変なことを思ってしまう。
「絹川って、八雲さんと仲よかったんだ」
そんな様子を遠巻《とおま》きに見ていたらしいツバメが健一のそばに寄ってきた。一緒に千夜子もやってくるが、やっぱり彼女も同じようなことを思っているらしい。
「私、八雲さんが人と話してるの初めて見た気がします」
「……そうかな」
健一はそう返事をしながら、自分でもその通りなんじゃないかと思っていた。
「八雲さんって、周りのことを見下してて、話す気が全然無《な》いのかと思ってた」
ツバメがそんなことを言って、健一の背中を軽く二度ほど叩《たた》く。さっさと帰ろうという催促《さいそく》らしい。それで健一も教室を出ることにする。
「別にそんな人じゃないよ、八雲さんは」
健一はツバメの言葉を否定《ひてい》しようと思うものの、実は自分も似《に》たような認識《にんしき》でずっといたりしたので、イマイチ自信が持てない。
「絹川、けっこう仲《なか》いいわけ?」
「……どうかなあ。まあ、クラスでは一番話したことがあるんじゃないかとは思うけど」
それにしたってあのマンションでってだけで、改めて聞かれると、本当に仲がいいのかはわからない。昼間の冴子ではないが、彼との関係を適切《てきせつ》に説明できる言葉は思いつかない。
「まあ、ちょっと怖《こわ》い感じだけど、背《せ》も高いし美形だし、頭もいいし、いいよね、彼」
ツバメはしかしそんな健一とは別のことを思って、笑《え》みを浮かべている。それを見て千夜子が笑いながら彼女に尋ねる。
「なに? 今度は八雲さんを狙《ねら》ってるわけ?」
「……まだそこまで考えてないけど。でも絹川が仲がいいなら、ちょっと考えちゃうかな。八雲さんを誘ってダブルデートってことにすれば、私も二人に当てられっぱなしにならずに済《す》むしねえ」
ツバメの声が軽く弾《はず》んでいた。それで健一は結構《けっこう》本気なのかもしれないと感じる。でも健一はあることを思い出し、それを口にする。
「八雲さんは彼女いるらしいよ」
「え? 本当? まあ、そうかあ……」
しょんぼりとした声でツバメが呟く。でも、まだ十分に盛り上がる前だったらしく、そんなにダメージは受けてないようだ。
「八雲さんの彼女って、どんな人なんですか?」
そこに千夜子が自然な疑問《ぎもん》を投げつけてきた。
「……どんな人なんだろう?」
なのに健一は答えられないのに気づく。彼女がいるらしいのは聞いたが、どんな娘なのかは聞いたことが無かった。年上なのか、年下なのか、同じ年なのか。どこで知りあったどんな娘なのか。ちっとも知らない自分に気づく。
「知らないんですか?」
「うーん。特《とく》に興味《きょうみ》が無かったから、聞いてなかった」
健一は我《われ》ながら間抜《まぬ》けだなと思うが、ツバメはなんだか嬉しそうな顔をしている。
「いいんじゃない、それで。人の彼女なんて、絹川が気にする必要ないし」
「はいはい。僕は大海さんのことだけ考えてればいいって言うんだろ?」
「やっとわかってきたみたいで、よろしい」
ツバメは偉《えら》そうな態度《たいど》でそう言うと、今度は千夜子の方を見る。
「よかったね、千夜子」
「……それじゃまるで、絹川君が人の彼女に手を出すような人みたいじゃない」
「まあ、それくらい警戒《けいかい》してるくらいの方がいいんじゃない、絹川の場合」
「そういうところ、ツバメの考えがわからないんだけど」
千夜子は弱《よわ》ったような表情を見せて、健一の方を見る。
「まあ、有馬さんの件でかなり根に持たれてるみたいだし、しょうがないですよ」
「それはそうかもしれませんけど……」
千夜子はなんだか居心地《いごこち》の悪そうな顔をする。一緒にツバメに抗議《こうぎ》をした方が、千夜子は喜んだのかもしれないと思うが時すでに遅し。
「そう言えばですね、スッカリ忘れてましたけど、ホタルの話」
なので健一は別の話題を振ることにする。
「あ、はい。どうした?」
「なんかよくわからない展開《てんかい》になってて……」
「って言うと?」
「スゴイ嫌《いや》がってたんですけど、少し考えさせてくれって」
「……え?」
「いや、その通りなんですよ。大海さんが海に一緒に行こうつて言ったら、すごい勢《いきお》いで僕のことを非難《ひなん》してきて」
「それは、すみませんでした」
「いや、別にそれはいいんですけど。じゃあ断《ことわ》っておくって言った途端《とたん》、『少し考えさせてくれ』って言い始めて……」
「考えさせてくれってことは……来るってことですかね?」
「そうなんですかね……」
確認《かくにん》を求められても、健一としても困ってしまう。
「本当に嫌そうなら別の人でもいいですよ。たとえば、八雲さんとか……でも八雲さんは彼女がいるから、その人も呼んだら人数増《ふ》えちゃうか……」
千夜子は自分で言いかけて、自分の言い分が間違《まちが》ってると気づいたらしい。しかしそれを聞いてツバメは憎々しげに呟く。
「そう言うことなら私が辞退《じたい》するから、遠慮《えんりょ》なく四人でそれぞれラブラブして来て」
「……もう。そういう意味じゃなくて」
千夜子はツバメの言葉に顔を赤くする。もちろん怒っているというよりは恥ずかしいということだろう。
「絹川君のお姉さんとは話したいですけど、別にその時じゃなくてもいいですから、絹川君が一緒の部屋に泊まっても平気な人を呼んでくれれば」
「なるほど……」
そう言われて、誰がいいかなあと健一は考えてしまうが、ふと思考《しこう》が止まる。
「えっと……それって、このままだと僕はホタルと一緒の部屋に泊まるってことですか?」
「ダメですか? 姉弟だし大丈夫《だいじょうぶ》かなあって思ってたんですけど……」
千夜子は真面目《まじめ》な顔をしてそう告げる。健一はそれは中々に危険《きけん》な提案《ていあん》だろうと思ったが、後ろめたさもあり、逆に否定《ひてい》すると変なのかとも思ってしまう。
「まあ、そんなに気にしなくてもいいのかなあ……」
どうもその辺の加減《かげん》が自分には良くわからないのだろうと思いながら、健一は一人呟《つぶや》く。
普通の姉弟なら、こういう状況《じょうきょう》で気にせず泊まったりするものなんだろうか。健一はそれを問いながら、自分がそうではないことを思い出してしまう。
そして何故《なぜ》かはわからないが、嫌な予感がした。
ツバメと千夜子は、千夜子の家で旅行の計画を立てるという話だった。健一もそれに参加した方がいいかと思ったが、ツバメにこういうのは女の子だけの楽しみと拒《こば》まれた。なんでそんなことになるのか健一にはさっぱりわからなかったが、千夜子もそれを特に否定しなかったので、健一は幽霊《ゆうれい》マンションへと向かうことにする。
「まあ、また悟さんがいたら変な話になりそうだしなあ」
健一は一度だけ千夜子の家に行った時のことを思い出す。以来、千夜子は健一を家に呼ぼうとはしなくなった。よほど悟と自分を会わせたくないのかなあと思ったりするが、本当にそうなのかはよくわからない。確かめる気もあまりないし、無理《むり》してまで千夜子の家に行きたい理由もなかった。
「そういうのも彼氏の自覚《じかく》が無いってことなのかな……」
健一はそんな自分の態度を改めて考えて一人呟く。なんだか最近はわからないことが多すぎて、結論の出ないまま忘れている話が増《ふ》えている気がする。
そして何か大事なことを自分が忘れてるんじゃないかという不安を感じたが、やっぱりそれがなんなのかわからなかった……。
「綾さん!?」
でもその不安の正体を理解したのは、ほんの数分後のことだった。いつものようにマンションの階段を上っている途中《とちゅう》、三階の踊《おど》り場のところでうずくまっている綾を見つけたのだ。その時、綾のことをすっかり忘れていたことに気づいた。
「……だ、大丈夫ですか」
うずくまったまま動かない綾に健一は近づく。綾はそんな健一に気づいたのか顔を横に向けて健一の方をみる。
「きもちわるい」
一瞬《いっしゅん》、何を言ったのか聞き取れなかった。なんだか言葉が壊《こわ》れている感じがした。
綾は泣いているようだった。力が抜けて立ち上がれないらしい。ゆっくりと健一の方を見たまま、それ以上の動きはなく止まっている。
「何があったんですか?」
その質問に綾は首を横に振る。それだけでは何にもわからない。しかし何ごとかあったのは疑《うたが》いが無かった。
そして健一は朝、彼女に言われたことを思い出した。
上手くいくように祈《いの》っていてくれ。そう言われたのに自分は何もしていなかった。
「……とりあえず、ここじゃ誰《だれ》か来るかもしれませんし、部屋に戻《もど》りましょう」
健一は力が入っていない綾を抱《かか》え起こそうとするが、途端《とたん》、綾が顔をしかめる。
「きもちわるいよぉ」
そう繰り返して綾は苦い顔をして、そして嘔吐《おうと》した。それは健一が触《ふ》れたからではなく、ずっと我慢《がまん》してたものが噴き出したのだろうと思えた。それを証拠《しょうこ》に綾の瞳《ひとみ》からは涙《なみだ》が溢《あふ》れていた。
どれくらいの時間が経《た》ったのかはよくわからなかった。
綾を部屋に連れて帰って、片《かた》づけをして、また彼女の部屋に行って……そんな慌《あわ》ただしい時間の過ごし方をしたせいで、なんだかすごく時間が経っている気はした。でも実際《じっさい》にはせいぜいが十数分というところなのだろう。
夕日が沈《しず》む時間なのか、少し冷《つめ》たい空気が流れ始めていた。それが健一を少し落ち着いた気持ちにさせていた。
外の空気を吸いたいと綾が言ったので二人は屋上《おくじょう》に来ていた。幽霊マンションの屋上。そこは不思議な十三階よりもっと不思議な空間のような気がした。ここはあの十三階の上にあるのか、それとも単に普通に十二階の上にあるのか。そう考えると、自分が見ている景色《けしき》も外の世界のものではないのかもしれないという気がしてくる。
「……落ち着きました?」
「ごめんね」
綾は健一の質問には答えず、そう言った。
「いや、別に……いつものことですから」
健一は力なく笑って見せるが、綾は相変わらず沈んだ顔をして、屋上の床《ゆか》に直《じか》に座っていた。
服は汚《よご》れたので着替《きが》えさせた。だから例の白衣姿だった。なのに今日の綾は、いつもの盗れるようなエネルギーを少しも感じさせず小さく縮《ちぢ》んでいるようだった。
「でもやっぱり健ちゃんも、さすがに迷惑《めいわく》だって思ったよね」
「とりあえず、心配でそれどころじゃなかったですけど」
それは正直な気持ちだった。迷惑とか感じる暇《ひま》は無かった。それより何より、一体何があったんだろうという心配する気持ちの方がずっと強い。
「本当、何があったんですか?」
だから尋《たず》ねてしまうが、綾はまた踊り場で見せた苦しそうな顔を見せる。
「……気持ち悪い」
「無理《むり》しなくて良いですから」
健一は慌てて綾に近づいて言葉をかける。しかし無理をさせたのは自分の質間だ。説得力《せっとくりょく》のない発言だなと思う。
「えっと……撮影《さつえい》は済《す》んだんですか?」
だから健一は別の話題を始める。
「それは大丈夫《だいじょうぶ》だった」
綾はそう答えて少し笑った。それは錦織《にしきおり》という綾のマネージャーらしい人に迷惑をかけずに済んだということなのだろうと健一は思う。
「……頑張《がんば》ったんですね」
健一はそう答えて綾の隣《となり》に座ることにする。綾はそれに気づいて、ちょっと健一の方を見る。
「うん」
綾がまた少し元気になったような気がした。一人ではコンビニ以上遠いところへ行けなかった綾がちゃんと撮影《さつえい》に行けたのは、本当に頑張ったとしか言えない。
ということはその後、何かあったのだと健一は理解《りかい》する。それが何かはわからないが、健一は自分の責任《せきじん》を感じる。
こういうことになるのは十分に考えられたことだった。何か問題が起こるのは目に見えていた。もちろん自分には学校があったし、綾と一緒に行くわけにはいかなかった。
でも、なんか方法があったんじゃないかと思う。弱り切っている綾を見るとそう思わずにはいられなかった。
なのに自分は、綾に祈っていてくれと言われたことすら真面目《まじめ》に受け取らずに、のん気に今日一日過ごしていた。綾のことをあまり知らないはずの冴子だってやっていたことを、自分は真剣《しんけん》に考えずにいたのだ。
「すみませんでした」
だから健一は謝った。冴子に言わせれば、それこそ安易《あんい》な謝罪《しゃざい》なのかもしれないが、でもそれ以外にどうしたらいいかなんてわからない。
「なんで健ちゃんが謝るの?」
「僕、こうなるってわかってた気がするんです。綾さんにとって、今日のことが本当に大変なことだって、わかってたはずなのに……真剣に考えてませんでした」
「……そっか」
短く寂《さび》しそうな答え。健一はさすがに綾に愛想《あいそ》を尽《つ》かされたかなと思う。綾には本当に辛《つら》いときに助けてもらったのに、自分は彼女が本当に困っている時には何にも力にはなれないのだなと感じる。
だから綾の顔を見れなかった。それで俯《うつむ》いた。
「健ちゃんのせいじゃないよ」
綾はでも優《やさ》しくそう呟《つぶや》く。でも弱々しく健一に寄《よ》り掛《か》かってくる。
「……綾さん?」
「健ちゃんのせいじゃないよ。悪いのは私だから、悲しそうな顔しないで」
「でも……僕は……」
「健ちゃんは、本当に美しいよね」
綾がそう呟く。それは前にも聞いたことのある言葉だった。それで彼女の方を向くと、なんだか笑っているように見えた。
「前もそんなこと言ってましたよね」
「うん。最初からそう思ってるし、今もそう思ってるから。だから私、自分のせいで健ちゃんに陰《かげ》って欲《ほ》しくはないんだ」
「……よくわかりません」
「そっか。じゃあとりあえず、今日のことは自分のせいじゃないって思ってくれればいいよ」
「それもわかりませんよ。僕のせいじゃないですか……」
「違うよ。私のせいだよ。ずっと逃げてきた報《むく》いを、私が受けただけだよ」
綾はそう言うとゆっくりと立ち上がったようだった。そして健一が訳《わけ》わからず見ている間に柵の方へと歩き始める。
「……綾さん?」
健一はなんだか置いていかれていく不安に駆《か》られて慌《あわ》てて立ち上がる。すると綾はそれに気づいたのか振り返って、健一の方を見て笑った。
「健ちゃんのおかげで私はもう元気になれたんだよ。だから心配しないで」
「……でも」
「何があったのか知りたい?」
「知りたいです。もう話しても平気なら……ですけど」
健一はそう言いながら、綾の表情が曇るのを見て取った。それは嫌がったと言うよりは、また何があったのかを思い出したからのようだった。
「帰りの電車でね、知らない人にオッパイを触《さわ》られたの」
綾の答えはひどく明快《めいかい》だった。
「……チカンですか」
「そう。それだけなんだけど、私はすごく気持ち悪くて、なんとか帰ってきたんだけど……力尽きて健ちゃんに助けられたってわけ」
綾は笑ったが、やっぱりどこか寂しげに見えた。目が潤《うる》んでいた。涙《なみだ》が溜《た》まっていた。
「私、胸《むね》を触られるのって気持ちいいものだって思ってたんだよね。自分で触っても気持ち良かったし、健ちゃんに触ってもらった時はもっと気持ち良かったから。でも、そういうことじゃないんだね。知らない入って怖《こわ》いし、気持ち悪いんだなって、今日、やっとわかった」
「……綾さん」
健一は笑いながらそんなことを言う綾に、悲しみが込み上げてくるのを感じる。彼女は笑っているがとても一緒に笑う気持ちにはなれなかった。
「なんであの人は私が気持ち悪いのに胸を触ったりしたのかな。気持ち悪いって悪いことだって私は思ってるのに……なんでなのかな?」
そして健一はやっぱり自分のせいじやないかと思う。彼女はお金もあるし移動《いどう》にタクシーを使えばいいと自分で言っていた。でもそれは「普通《ふつう》」じゃないからと電車で移動するように言ったのは健一だった。綾がこんなにも「普通」じゃないのに、どうしてそんなことを言ったんだろう。健一はそう思うと自分の馬鹿《ばか》さ加減《かげん》を呪《のろ》う。
「僕が馬鹿なこと言ったせいですよ。綾さんは自分の考え通り、タクシーで帰って来ればよかったんです。そうすれば、こんなことにはならなかったんです……」
「そうなのかな」
綾はそう呟いて、ちょっと考えるように間を置いた。
「でも、それだって私が選んだことだから、健ちゃんのせいじゃないよ」
「だったら、どうして綾さんはあんなになって倒《たお》れてたんですか? 僕がちゃんと綾さんのことを考えてれば……」
健一は自分の無力感《むりょくかん》を感じて声を荒《あら》らげてしまう。
「健ちゃんは十分以上にやってくれてるよ」
でも綾はそんな健一の言葉を優しく否定《ひてい》する。
「健ちゃん以上に私を助けてくれてる人なんていないよ。絶対《ぜったい》にいない」
「……そんなこと言われたって、僕はどうしたらいいんですか? じゃあなんで綾さんがあんなに悲しむようなことになってたんですか?」
「だから、私のせいだって言ってるのに。なんで健ちゃんはわかってくれないの?」
綾はそう言って落ち着かないままの健一の方へと歩いてくる。
「わからないし、わかりたくないです。綾さんのせいにしたって……何にも解決《かいけつ》しないんだから。僕はもっと出来ることがあったはずなんです……なのに……なのに……」
「健ちゃんは美しいよね」
綾はそう言って笑って、健一の右手に触《ふ》れる。
「綾さん?」
「何か私のためにしないと納得《なっとく》できないってことなのかな?」
「……もう遅いかもしれないけど、そうかもしれません」
「だったらオッパイ触って欲しいかな」
綾のそんな言葉に健一は固《かた》まってしまう。そして驚《おどろ》きの顔で綾の方を見る。
「……えっと、なんて言ったんですか?」
「健ちゃんにオッパイを触って欲しいって言ったの」
綾はそう言って笑うと健一の手を引き寄せる。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
健一は何事かわからず、反射的《はんしゃてき》に手を引くが、そのせいで綾が悲しそうな顔を見せた。
「ダメ?」
「ダメって言うか、意味がわからないんですけど……」
「知らない人に触られて気持ち悪かったから、健ちゃんに触ってもらって気持ち良かった時のことを思い出そうかなって……それって変?」
「変……ですけど、まあ綾さんらしいかな」
「別に健ちゃんに謝って欲しいわけじゃないけど、何か私のためにしたいって言うなら、そうしてくれると嬉しいんだけど」
綾はそう言って明るく笑う。騙《だま》してるわけでも、からかっているわけでもなく、本気でそう思っているらしい。
「そんなことでいいなら……いいですよ」
「本当? 言ってみてよかったぁ」
綾はそう言って健一の右手をまた掴《つか》むと、今度は白衣の中に引っ張り込む。
「うわっ! ちょっと……」
健一は驚き抗議《こうぎ》をしようとする。でも綾が安らかな笑顔を浮かべているので、なんだか自分が気にし過ぎなのかなと思う。
「気持ちいいよ、健ちゃん」
半分目を伏せて綾がそう呟《つぶや》くのが聞えた。
「やっぱり健ちゃんだと気持ちがいいんだね。よかった、気持ち良くて……」
健一はひどく複雑《ふくざつ》な気持ちで綾の方を見ていた。彼女はすごく純粋《じゅんすい》にこの行為《こうい》を受け止めているのに、自分はどんどん落ち着かない気持ちになっていく。
綾はいつもエッチなことを考えているのかとずっと思っていたが、彼女はただ気持ちいいことがいいことだと思っているだけで、そこに区別はないのかもしれない。そんなことを感じたりもした。
「ね、健ちゃん?」
「はい?」
「動かしたかったら、動かしてもいいよ」
綾がにこやかにそんなことを言うので、健一は力が抜けるのを感じる。
「……そういうことは、あまり聞きたくなかったんですけど」
「でも健ちゃんって、自分からは出来ない人だから言っておいた方がいいかなって」
「お気遣《きづか》いありがとうございます」
健一は呆《あき》れた口調でそう告げながらも、でもいつものように戻れたのかなと思ったりする。こういう調子の方が二人にとっていいのだろうと感じる。
だから、もういいかなと手を引っ込めた。
「……もう終わり?」
名残惜《なごりお》しそうに綾が尋ねる。
「これ以上は我慢《がまん》できそうにないので」
「我慢しなくていいのに」
綾は笑って、健一に顔を近づけてくる。
「それはダメです」
「なんで?」
「とにかくダメです」
「そっか」
綾は意外にすんなりと引き下がる。きっと綾も健一との距離感《きょりかん》が戻ってきたことを感じているのだろうと思う。
「ね、健ちゃん。私がここにいる理由、聞いてくれる?」
綾が笑いながら、そんなことを言い始めた。
「いいですけど……」
健一はそうは言ってしまったが、きっとただならぬことなんではないかと身構《みがま》えてしまう。
「お母さんが入院しちゃったのが原因《げんいん》なんだ」
「入院ですか? 病気ですか?」
「事故《じこ》。車にちょっと轢《ひ》かれてね。足を折っちゃって身動きが取れなくなったの。三か月くらいで元通りになったみたいだけど」
「……だったら、なんで?」
「私、こんな感じでしょ? だからお母さんは辛《つら》かったんだって。お母さんは普通の人だから、私と付き合ってると疲《つか》れちゃうんだって」
綾はさすがにもう笑ってはいなかった。いつの間にか悲しい表情を浮かべている。
「……そうなんですかね」
「真面目《まじめ》で優しい人なんだよ。だから気にし過ぎちゃったんだと思う。私のことをちゃんと扱《あつか》おうと思ってたせいで参っちゃったみたいなんだ」
綾は健一の顔を覗《のぞ》き込《こ》み、笑うと健一の頬《ほお》を左右に引っ張る。
「へへへ……ふぁにふぉふるんふぇへふか」
「笑っててよ。健ちゃんは笑ってて」
綾はそう言って健一を離す。
「はい……」
「事故自体はまあ、そんなに大したことじゃなかったんだけどね。入院した時に、私がお母さんのことをお見舞《みま》いにもいけない娘《むすめ》だってことがわかっちゃったんだよね。私、気になることがあるとさ、そのままフラフラーっと行っちゃうでしょ? だからお母さんのために病院に行こうとしても途中《とちゅう》で忘《わす》れたりしたんだよね。それだけならまだいいんだけど、病院内でスケッチし始めたりね。それでお母さんは、もうダメだって思っちゃったみたい」
「そうだったんですか」
健一は信じがたい話と思うが、でも今までの綾を思うと目に浮かぶような気がした。
「で、言われちゃったんだよね。私はお母さんのことを愛してないんだって。私はお母さんのこと好きだし愛してると思ってた。でも違《ちが》うんだって……遵うんだって言われたんだ」
綾は笑ってはいたが、瞳《ひとみ》に涙が溜《た》まっていた。
「母親さえ愛せない人間なんだって」
「綾さん?」
「私は自分の母親さえ愛せない人間だって、そう言われたんだ」
「そんなことを……」
「私、作品を作ることでお母さんも喜んでくれてるって思ってた。でも私がこんな風だから、お母さんは苦しんでて、お父さんともケンカしてて……なのに私はケガをしたお母さんのために何にも出来なくて、だったら、こんな風になんて生まれてきたくなんかなかったのに……お母さんは泣くだけだったの」
そう言う綾ももう泣くだけだった。健一に寄《よ》り掛《か》かり、彼の胸にうずくまる。
「逃げてたんだ。私はお母さんやお父さんのことを全然見ないで、見たいものばかり見て、お母さんがそんなに苦しんでるなんて知らなかった。でも知った後でも、やっぱりどうにもならないの。お母さんのこと愛してるはずなのに、お母さんを困らせることしかできない……だから私、家を出て……それでここを見つけたんだよ」
「そんなことが……あったんですか」
「だからここに来てからはずっと作品を作ってた。その間は他のことを忘れられたから。そうしてないと気が狂《くる》ってしまいそうだったから。そのせいで飢え死にしそうになることも何度かあったけど……それでもいいのかなって思ってた。そうすれば、もうお母さんのこと悲しませずに済《す》むんだろうなって……そう感じてた。そんな時なんだ、健ちゃんに会ったのは。健ちゃんが私に生きる希望をくれたんだよ。あの時、健ちゃんが助けてくれて、水を買ってきてくれて……チョココロネも買ってきてくれて、それで私、もう少し生きてみようかなって思ったの」
「そんなに深刻《しんこく》な話には見えませんでしたけど……」
「健ちゃんが見た私は希望を得《え》た後の私だったんだよ」
「……そうだったんですか」
「健ちゃんがさ、ここの住人だってわかった時は嬉《うれ》しかったな。健ちゃんとなら、作品を作ってない時間も楽しく過ごせそうだなって感じた。だから健ちゃんもここに住んでくれるなら、私、生きていけそうだなって。ご飯を作ってくれるとかそういうことじゃなくてね。まだ死ぬのは嫌《いや》だなって……本当に思えたんだよ」
綾はそれで顔を上げると、健一の目の前でポロポロの情《なさ》けない笑顔を見せる。
「そこまで考えてるなんて……全然思ってませんでした」
「うん。言わなかったよね。私、健ちゃんのこと好きとかそういうこと言わなかったよね」
「……ですね」
「でも、そう思ってたし、健ちゃんとならまた外の世界と向きあえるようになれるのかなって感じてたんだ。今日だってだから大丈夫《だいじょうぶ》かなって思ってたけど、やっぱりダメだったね」
「焦《あせ》らなくてもいいじゃないですか。前よりはきっとよくなってますよ」
「そうだね。でも、いつまでここにいられるかはわからないから」
綾は真剣《しんけん》な顔をして健一の方を見た。
「どういうことですか?」
「このマンションからはいつか大人になって出て行かないといけないんだよ。そうじゃなければ、ここにはもっとたくさんの人が住んでるはずだよ」
「……いつか大人になって出て行かないといけない」
健一は言われて初めて、そんな可能性《かのうせい》があることに気づいた。ここが何かなんてあまり真剣に考えたことはなかったし、なぜか住むようになったので気にもしてなかったが、いつか出て行かねばならない日が来るという考えには不思議《ふしぎ》な説得力《せっとくりよく》があった。
しかもそれは始まりと一緒で、突然《とつぜん》で理不尽《りふじん》なものになる。そんな気もした。
「健ちゃんのおかげで私も大人になれるんじゃないかって思ってたけど、今日、やっぱりそんなに簡単《かんたん》なことじゃないんだなって感じたんだ。私はただ、健ちゃんに頼《たよ》るようになってただけだった。それじゃダメなんだよね。それは大人になるってことじゃないよね」
「ここに住めなくなったって……綾さんがいて欲しいなら、一緒にいますよ」
「……そんなの無理《むり》だよ。今はそう思ってても、その時が来ればきっと無理だってわかる。それにやっぱり無理なんだって思う。健ちゃんだってきっとお母さんと同じように、私を重く辛《つら》く感じるようになる。それがわかってるから、私は健ちゃんのこと好きだなんて言えなかった。いつかお母さんに言われたみたいに……私の好きってこと否定《ひてい》されることになるから」
「そんなことないですよ。大丈夫ですよ」
健一はそうは言ってみるが、綾はわっと涙を流して震《ふる》え始める。
「だって違うんだから。私の好きは違うんだから。私の好きは普通《ふつう》と違うんだから。どんなに好きでもそれは違うから……否定されるんだよ」
「……そういうことなら、僕の好きだってきっと普通と違うと思います」
健一は泣いている綾を外からぎゅっと抱《だ》きしめる。それで綾が震えるのが止まる。
「ずっと僕は思ってたんです。自分には恋愛《れんあい》が向いてないって。しかも理由がわからないでいたんです。でも今の綾さんの話を聞いて少しわかった気がしました」
健一は深く遅《おそ》い呼吸《こきゅう》をしながら、その話を続ける。
「僕の好きも普通と遠うんですよね。僕には自分の好きって何かわからないけど、でも周りの人と違うんだろうなあと感じてたんです。そうなんじゃないかと思ったんです」
「……うん。だって健ちゃんは特別だから」
「だから僕はここにいるし、綾さんとこうしてるんだなって。僕も先のことはわからないし、綾さんや僕にどれだけの時間が残されているのかも知りませんけど……信じてみませんか?僕らの出会いは僕らが大人になるために必要なものだって」
「健ちゃんが言うなら信じるよ」
綾がそう言って健一の腕《うで》の下から腕を回して自分もぎゅっと抱きしめてくる。
「というか、きっと本当に普通の好きなんて、どこにもないんじゃないかなって思うんです。普通っぽい人はたくさんいても普通の入っていないみたいに」
「そう、だよね」
「だから、自分の好きがどう普通じゃないかって知って、自分の好きな人の好きがどういうものかを知るってことが……大人になるってことなんじゃないですかね?」
「そっか」
綾がもう一度ぎゅっと強く抱きしめてきた。そして離れて、彼女は笑顔を見せる。
「だったら私は自分が普通じゃないって気づいたから、ちょっと大人なのかな」
「そうかもしれませんね」
「そうか、私の好きを理解《りかい》してもらえるようになるってことなんだね。大人になるって」
綾はさっきまで泣いてたはずなのに、ウキウキとした顔で健一の方を見る。
「……まあ、思いつきですけど、僕もそんな気がしてきました」
「そっか。そうだよね」
綾はそして健一の手を引いて、階段の方へと歩き始める。
「綾さん、どこへ?」
「私の部屋」
「なんで……綾さんの部屋へ?」
「エッチしようかなって思って」
綾がニッコリと笑って、そう告げる。
「って、ちょっと待ってくださいよ。なんでそうなるんですか?」
そうは言っても綾は止まらない。階段《かいだん》を気にせず降《お》りていく。健一は転ばないように必死にそれについていく。
「だって、それが私の好きだから。健ちゃんにわかってもらいたいでしょ?」
「……そうやってすぐ自分の都合いいように理解しないでくださいよ」
「前に買ってきたレースクイーンの水着も着てあげるから。あれ、ちょっと胸がきついんだけど、すぐ脱《ぬ》がしちゃうから大丈夫だよね?」
「だからそういうことじゃなくて、ですね……」
健一はもう完全に綾がその気になっていると気づいて、どうしたものかと思う。
「やっぱり途中《とちゅう》で脱いじゃったらダメなのかなあ、この場合」
「だからそう言う話をしてるわけじゃないし、そもそも僕はレースクイーンが好きなわけじゃなくてですね」
階段を下り終えたところで、健一は踏《ふ》ん張《ば》って綾を引き止めるが、綾は笑ってそれを受け止めるだけだった。
「そうやってムキになって反論《はんろん》する健ちゃんも好きだよ」
「僕のこと好きになってくれるのは嬉《うれ》しいんですけど、もう少し方法を考えてくれると素直《すなお》に喜べるかなって……」
「うん。そう言うと思って、ちゃんと勉強しておいたから」
「うわ――!なんか余計《よけい》な知識《ちしき》身に付けてるし!」
健一が混乱してわめいてるところに、誰かが階段を上ってくる音が聞える。
「どうかしたんですか、二人でこんなところで?」
階段を上がってきたのは冴子だった。
「ちょっとあったけど、健ちゃんのおかげで解決《かいけつ》したの」
それに嬉《うれ》しそうに綾が答える。
「そうですか、私の祈《いの》りも少しは役に立ったみたいですね」
「うん。で、今から健ちゃんにそのお礼をするところなの。だから健ちゃん、ちょっと借《か》りるけどいいよね?」
綾の質問。それにどう答えるのか健一は冴子の顔を見る。この状況《じょうきょう》を救《すく》えるとしたら、それはもう冴子しかいないのは明らかだった。刻也は今日は遅くなると言っていた。つまり彼は助けには来てくれないのだ。
「はい」
なのに冴子はあっさりとそう承諾《しょうだく》してしまう。
「ちよ、ちょ、ちよ、ちょっと! 二人で勝手に決めないでください! おかしいですよ、こんなの、絶対、おかしいです!」
健一はそんな冴子と、そして綾に自らの意志《いし》を強くアピールする。しかしもうどうにもなりそうもない気配が辺りを覆《ただよ》っていた。
「健ちゃんはそうは言ってても、始まったら考え変わるってわかってるし」
「うわー! 有馬さん、綾さんったらこんなこと言ってますよ? 助けてくださいよ!」
健一は必死に冴子に追いすがるが、冴子はニッコリと笑っていた。
「私、きっとおかしいから、それでいいと思う」
「え?」
健一は冴子の言葉に固まり、そんな彼を綾は部屋へと連行する。
「健ちゃんは夜までには返すからねー」
「はい」
冴子の物分かりのよい返事。健一はそれで自分の思考《しこう》が痺《しび》れていくのを感じる。
そして麻痺《まひ》していく自分の心の片隅《かたすみ》で、また例の言葉を繰り返していた。
僕には恋愛は向いてない――と。
[#改ページ]
第八話 千夜子だって初めてだからと友人は言った
[#改ページ]
夏休み――になっても、自分は相変わらずだなと健一《けんいち》は感じていた。
学校に行かなくてもいいのだから、一日中、彼女と一緒《いっしょ》にいる。そういう発想は自分には無《な》いらしい。千夜子《ちやこ》が旅行の準備《じゅんび》でツバメと何かしているらしいというのもあるが、それにしたって、そこで独占欲《どくせんょく》を発揮《はっき》したがったりするのが、普通の彼氏《かれし》というものなのかもしれないなあと思ったりはする。でも思うだけで、行動には移《うつ》さない。そして、そのことで千夜子は何かを言ったりもしない。
そんな日々が続いてたが、結局、それでいいと感じていた。
八月に入って、二日目。夏真っ盛《さか》りの日差しの中、健一は幽霊《ゆうれい》マンションへと向かう。
晴れの日にはマンションがハッキリと見える。青い空に灰色《はいいろ》のビルがそびえているのは、何度見ても奇妙《きみょう》な気がした。
十二階建て。一際《ひときわ》高い。なのに、なんだか彩《いろど》りがなく、寂《さび》しい建物だ。でも、健一はそこについつい足を運んでしまう。
そこの十三階には自分を待っている人間がいるからだ。
「おはよう、絹川《きぬがわ》君」
もうすぐお昼という時間帯なのに、冴子《さえこ》はそう挨拶《あいさつ》をして来る。
「おはよう、有馬《ありま》さん」
でも健一もそのままに返す。
「おはよー、健ちゃん」
綾《あや》はそんな挨拶。
「おはようございます、綾さん」
「ごきげんよう、絹川君」
でも刻也《ときや》だけはやっぱりというかマイペースだ。
「おはようございます、八雲《やくも》さん」
1301で皆で集まっているというのも、なんだか見慣《みな》れた光景になってきた。今までは用がなければ各自の部屋にいたものだが、最近はそうでもないらしい。特に用が無ければ逆《ぎゃく》に1301にいるというのが、彼らのライフスタイルになりつつあるようだった。
「ね、健ちゃん?」
改めて話しかけてきた綾は少々だらしない格好《かっこう》をしていた。裸《はだか》に白衣《はくい》に比《くら》べれば随分《ずいぶん》とマシではあるが、暑いせいなのかなんなのかシャツのボタンが上三つ外れて、黒い下着が直接覗《ちょくせつのぞ》いてたりする。
「なんですか?」
健一はどうしてもそれが気になってしまうが、なんだか敢《あ》えて指摘《してき》するのも間が抜けてるようにも感じる。
「今日、お昼は何?」
そして綾はと言えば、本当にそんなことは全然気にしていないようであった。
「お昼は……えっと、なんでしたっけ?」
健一は綾の質問《しつもん》に、刻也の方を見て尋《たず》ねる。ここでの献立《こんだて》は食費を管理している刻也《ときや》が決定しているからだ。
「今日はそうめんだったかと思う」
「だそうです、綾さん。なんだかひどく署がってるみたいですし、ちょうどいいんじゃないですか?」
健一はそう言って、やっぱり注意することにする。
「いくら暑いからってだらしないですよ。下着見せたりしてたら」
「……やっぱりそうなの?」
綾は改《あらた》めて自分の格好を見直して、それから他の二人の反応《はんのう》に目を向ける。
「その件《けん》に関しては私はすでに注意したはずですが」
刻也が綾の視線を感じて、そんな返事をする。
刻也はと言えばやはりというかなんというかピシッとした格好をしていた。水色のワイシャツを着ているのだが、第一ボタンもキッチリ留めている。暑さはともかく息苦《いきぐる》しくないのだろうか。
「私は……どっちでもいいですけど。綾さんが楽な方で」
冴子の方は淡《あわ》いパステルグリーンのワンピースに、白い薄《うす》い上着を羽織《はお》っていた。時折《ときおり》見かけるところを見ると、どうやらそういうスタイルが彼女はお気に入りらしい。
「有馬君も綾さんを甘《あま》やかすのは止めてくれたまえ」
刻也は冴子の方を見て、少し不機嫌《ふきげん》そうに告げる。
「外に出かける時はともかく、ここにいる時は、くつろげるような格好でいいんじゃないかと思うんですが」
「綾さんは、外出するからって着替《きが》えたりするような人間ではないのだよ。何にでも発作的《ほっさてき》な人なのだ。出かけたいと思ったら、自分の格好など気にせず、出かけたりするのだ。そういう人の服装《ふくそう》に関しては普段から注意するに越したことはないだろう」
刻也は言《い》い張《は》るが、それに綾が不満そうな顔を見せる。
「……そこまで無計画《むけいかく》でもないつもりなんだけど」
「そうですかね? この間など、もうそういう格好をしないと言ったのに、白衣でコンビニで買い物をしてたじゃないですか。しかも買い物だけなら、ともかく……」
刻也《ときや》がそこまで言って口をつぐむ。
「買い物だけならともかく、何?」
「十八歳未満が読んではいけないような本を立ち読みしていましたね、あの時は」
「私は十八歳だから問題ないと思うんだけどな」
「そういうことを言ってるのではないとわかりませんか? あんな格好でそんな本を読んでいたら周《まわ》りからどう思われるのかと考えてくださいと言ってるのです」
「どう思われるの?」
綾が無邪気《むじゃき》にそう尋ねる。刻也が言葉につまるのが見えた。なので健一は割《わ》って入る。
「まあ、もう少し綾さんは自覚した方がいいと思いますよ」
「だから何を?」
「綾さんはその……男から見たら色々とイケナイ想像《そうぞう》を駆《か》り立《た》てる相手なんです」
「そうなの? その割に健ちゃんは私が誘っても乗ってこないし」
「だから、そういう話じゃありません!」
健一は刻也の視線《しせん》を気にしながらそう答えると、苦笑《にがわら》いを浮かべる。
「とにかく綾さんにその気がなくても、周りがよからぬことを思って、もしかしたら実行に移すかもしれないんです。またチカンとかに会いたいんですか?」
「……それは嫌《いや》」
「じゃあ服装にはちゃんと注意してください」
「うん。わかった」
綾はそう言いながら、何を思ったのか背中《せなか》に手を回し、もぞもぞとし始める。
「……あの、何してるんですか、綾さん?」
「え? 下着が見えたらいけないつて言うから、見えないようにしようかな、と」
綾の返事の最中、プチッと音がする。それと共に綾の胸《むね》がなんだか大きくなるように見えた。
「あのですね……」
健一は綾の行動を理解《りかい》して脱力《だつりょく》してしまう。綾は下着が見えるのがいけないと言われたので、ブラジャーを外《はず》す気になったらしい。
「なに?」
「僕が言ったのは、見えないように胸のボタンをちゃんと閉めろということです。下着を脱《ぬ》いだら、今度は別のものが見えてしまうじゃないですか?」
「でもやっぱりブラジャーつて苦しいし、苦手だから」
「苦手だからって脱がないでください。しかも人が見てるところで……」
健一は不思議そうな顔で自分を見る綾を見ながら、本当になんでこうなんだろうと呆《あき》れてしまう。頭を抱《かか》えて、横目で冴子を見ると彼女は静かに笑っていた。
「絹川君や八雲さんが気にならないならいいんじゃないですか?」
「……いや、気になるから言ってるんです。夏向けのシャツは白衣《はくい》ほど生地《きじ》が厚《あつ》くないし、マズイですよね、八雲さん?」
健一が刻也の方を見ると、彼は視線をそらして別の方向を見ていた。綾の方を見たくないという意思表示《いしひょうじ》だろう。
「私も勘弁《かんべん》願いたい」
刻也が不満そうに告げる。でもそれを聞いて綾が口を開く。
「そう言いながら、チラチラとこっちを見てる気がする」
「見ていません。早いところ、もう少しまともな格好《かっこう》になってください」
「……見てる気がしたんだけどなあ」
「だから見ていないと言ってるではないですか!」
刻也は綾とは逆を向いてそのまま怒《いか》りの言葉を口にする。端《はた》から見るとなんとも間抜《まぬ》けだ。
「でも、やっぱり見てるでしょ?」
「見ていません。私は別に大きな胸になど興味《きょうみ》はありません」
「大きな胸に興味はない……ってことは、管理人さんはロリコンなの?」
「ど、どうしたら、そういう推論《すいろん》が出来るのか理解《りかい》に苦しむのですが……」
刻也は向こうを向いたままガックリとうなだれる。やっぱり間抜けな感じがする。
「とにかく。ブラジャーはしてください。そうじゃないと困る人がいるんですから」
健一はこれ以上、二人を口論させてもしょうがないとそう提案《ていあん》する。綾はそれに不満そうな顔をして見上げるように健一を見る。
「しないとダメ?」
「ダメです」
「本当に?」
「本当にです。八雲さんが困ってるってわからないんですか?」
「でも私も困るんだもん。ブラジャーってきついし、暑いし、蒸《む》れるし」
「我慢《がまん》してください。それが嫌なら自分の部屋にいてください」
「健ちゃんは全然、私の部屋に遊びに来てくれないじゃない」
「そりゃ全裸《ぜんら》で寝《ね》るような女の人の部屋に遊びにはいけませんから」
健一が反論したところで、刻也が突然《とつぜん》、むせ始める。
「……で、もう下着はつけたのかね?」
「まだみたいですけど」
健一は力抜けた返事をするしかない。
「それなら綾さん、エプロンでもしたらどうですか?」
そんな中に冴子の声が響《ひび》く。
「エプロン……ですか」
健一は言われて綾を見ながら、そんな姿を想像する。
「胸が隠《かく》れればいいんですよね? だったら窮屈《きゅうくつ》な下着をつけることにこだわらなくてもいいと思うんですけど」
「……なるほど」
そうは言ってもエプロンなんて持っていない。健一は今はとりあえず、ブラジャーをつけてもらう方がいいんじゃないかと思ってしまう。
「エプロンなら私、持ってますから」
しかし冴子《さえこ》はそう言うと立ち上がって歩き始める。1303から取ってくるらしい。
「綾さんはそれでいいんですか?」
「私は……別に今のままでいいし」
「いや、だから、それはダメなんです」
「ダメなのは管理人さんだけでしょ?」
「……僕もダメだし、世間も許《ゆる》しません」
「この際《さい》、世間は関係ないし」
「それはそうかもしれないですけど……」
健一は綾の聞き分けの無さに呆《あき》れてしまう。
「あ、でも健ちゃんが下着つけてる方がセクシーだって言うなら、つける」
「……言うならって言われても」
健一は呆れて刻也に助けを求めて視線を向ける。彼は相変わらず綾とは逆の方を見ていた。
「言いたまえ。それで解決するのだから」
刻也はイライラとした様子でそんなことを言い始める。
「君は黒の下着が好きなんだろう? だったら何も問題がないはずだが」
「……またなんか綾さんに吹《ふ》き込まれてませんか?」
健一はレースクイーンに続いて、黒の下着まで好きなことにさせられている自分に気づく。
「でも、健ちゃんが黒がいいって言うから買ったんだよ」
「それは確かに事実ですけど……」
しかしそれはいつまでも下着売り場にいたくないので言っただけの言葉にすぎない。
「健ちゃんはどっちが好き? ブラジャーつけてないのと、つけてるのと」
「……つけてる方が好きです」
健一は一瞬《いっしゅん》考えてから、そう答えた。
「じゃあ、つけるね」
綾はそれを真に受けたのか嬉しそうな顔をして、ごそごそとブラジャーをつけ直《なお》し始める。ジッと見てるとヤバイ光景が見えてしまいそうだと気づいて、健一も目をそらす。
「あれ、つけることにしたんですか?」
そこに冴子が戻《もど》ってきたようだった。水色のエプロンを片手《かたて》に持っている。それを見て綾が冴子に話しかける。
「うん。健ちゃんがね、下着つけてる方がいいって言うから。健ちゃんって本当に黒い下着が好きみたいなんだ」
「……もうなんとでも言って下さい」
健一は戻ってきた冴子を見て、彼女の好意《こうい》を無《む》にしてしまったなと感じる。
「すみません。わざわざ持ってきてもらったのに」
「いいの。これはここに有った方がいいものだろうし」
冴子は静かに笑うと、そのままキッチンの方へと歩いていく。
「せっかくだからお昼は私が作りましようか?」
そう言いながらエプロンの肩《かた》ひもを通し、彼女はその準備《じゅんび》を始める。
「え? 食事の用意は僕の仕事ですから……」
「時々は私が作ってもいいと思うし。それにそうめんくらいなら、私だって作れるから」
冴子はもうそうすると決めてしまったようだった。冷蔵庫《れいぞうこ》を開けて中を確認《かくにん》したりして、材料のありかを一通り把握《はあく》しようとしている姿《すがた》が見える。
「じゃあ、ごちそうになります」
健一はそれで無理に止めるのも気が引けて、綾の隣《となり》に座《すわ》ることにする。
「なんか健ちゃん、冴ちゃんのことエッチな目で見てる」
「……どこをどうしたら、そんな言葉が出てくるんですか?」
「でもエプロン姿の冴ちゃんを見て、ちょっといいなあとか思ったでしょ?」
「それくらいなら思ったかもしれませんね」
健一はなんで綾がそんなことを言い出すのかわからず、そう言って話題を終える。
「それはそうとちゃんと第三ボタンくらいは留《と》めてください」
「……留めないとダメ?」
「留めないとダメです」
「そっか……留めると暑いし、苦しいんだけどな」
「でも、留めてください」
「じゃあ、留めたら……お料理教えてくれる?」
なんだか予想外の言葉が出てきたなと健一の思考が止まる。
「……料理ですか?」
「うん、お料理。健ちゃん、得意《とくい》でしょ?」
「それはそうですけど……」
健一はなんだろうと思いつつ、まあ、それで綾が納得《なっとく》するならと承諾《しょうだく》する。
「じゃあ、教えますから、これからはちゃんとした格好《かっこう》をしてくださいね」
「うん」
綾はそれで浮き浮きした表情を浮かべてボタンを留める。でも胸のせいなのか非常に留めづらそうに健一には見えてしまう。
「……手伝いましようか?」
思わず、そんなことまで言ってしまうほど、綾の手つきは怪《あや》しかった。
「明日から二泊《はく》三日か」
四人でそうめんを食べることになってから、健一はやっと今日やって来た本題を切りだした。
千夜子たちと一緒《いっしょ》に美浦《みうら》海岸に泊まりで出かける。だからその間は食事の準備《じゅんび》やらは出来ない。そういう話だ。
「いいんじゃないのかね、別に」
刻也はこれといった感想《かんそう》もないようだった。いなければいなくてもなんとかなる。そういうことなのだろう。それで健一は綾に話題を振《ふ》ることにする。
「綾さんは大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「うーん。多分、大丈夫。今、行きたいところもないし。自転車も暑《あつ》いから今はいいや」
綾はそう言って嬉《うれ》しそうに、冴子の作ったそうめんに手を伸ばす。つゆにつけて、ズルズルと音を立てて食べる。
「……まあ、何かしたいことを思いついても、とりあえず我慢《がまん》していてくださいってことで」
「ふん。ほうふる」
綾は食べながらそう返事をするとニコッと笑う。妙《みょう》に機嫌《きげん》が良さそうだ。
「有馬さんは大丈夫ですか?」
それで健一は冴子の方を向く。なにやら考え事をしてるようにも見えた。
「うん。大丈夫」
でも冴子は静かにそう返事をして、やっぱりそうめんに手を伸《の》ばす。
「それならいいんですけど……」
健一はそう呟《つぶや》きながら、冴子はどうするつもりなんだろうなあと思ってしまう。
彼女はエッチをしないと眠《ねむ》れないらしい。自分がいなくなるその二泊の間、冴子はどうするのだろう。それを思うと、彼女の『大丈夫』という言葉の意味もわからなくなってくる。
「心配しないでいいから」
そんな健一の思いに気づいたのか、冴子が付け足すように告《つ》げる。健一はそういうことを言い出した時の冴子が妙に頑《かたく》ななのを知っていた。
「わかりました」
だから健一は何がわかったのかわからぬまま、そう返事をした。きっと詳《くわ》しい話をしようとしても、冴子は同じことを繰り返すだけだろう。
「そんなに責任《せきにん》を感じるようなことじゃないわ」
冴子はそんな健一の気持ちにも気づいたのだろう。そう言って爽《さわ》やかに笑う。
「……でも、もう少し早く言うべきでしたよね」
健一はそれでもそんな煮《に》え切《き》らないことを言ってしまう。
「そうとは思わないけど」
でも冴子はそう言って、残り二人の顔を見るだけだった。
「私は別にその必要があったとも思わないが」
刻也がそれでそんな言葉を口にし、綾がそれを聞いて話し始める。
「私はもう少し早く言って欲しかったかな」
「……すみません」
「あ、そういう意味じゃなくて」
綾はまた嬉しそうに笑う。
「なんですか、その顔は?」
「健ちゃん、ちゃんと彼女と上手くやってたんだなあって安心したってこと。一応、私《わたし》も責任感じてたから、そう言う話は早く聞きたかったってだけ」
綾の言葉に健一はなんだか自分は真面目《まじめ》に考え過《す》ぎなのかなあと思ってしまう。
「なるほど……でも、その割《わり》にこの間はすごく真剣《じんけん》でしたよね……」
健一は力なく笑うと、楽しそうな綾に負けまいとそうめんを箸《はし》ですくった。
家に戻《もど》ったのは夕食時で、だからなのか蛍子はひどく不機嫌《ふきげん》そうだった。
「アイス、食うか? さっき買ってきたばっかりで、あまり冷《ひ》えてないけどな」
でも、それを尋ねる心の余裕《よゆう》は持ちあわせているらしい。蛍子は冷凍庫を開けると中を覗《のぞ》き、それから健一の方を見る。
「あるなら、もらうけど」
健一は答えて、改《あらた》めて蛍子を見る。
風呂《ふろ》上がりなのか蛍子は、また無防備《むぼうび》な格好をしていた。無防備というかもう裸《はだか》に近い。
パンツだけ穿いて、タオルを肩からかけて胸を隠《かく》しているだけの格好。毎度のことと言えばその通りだが、本当、どういうつもりなんだろうと思ってしまう。
「ほい」
蛍子はそんな健一の視線を気にしてないのか、そのままリビングの方まで歩いてくると、アイスを健一に渡《わた》す。五本で三百円くらいで売っている箱入りのアイスの一本だ。チョコレートでコーティングされたバニラアイスらしい。
「ありがと」
健一が受け取ると、蛍子は健一の向かいのソファにがスッと音を立てて座《すわ》って、自分もアイスを食べ始める。
「しっかしお前も明日から彼女と旅行だってのに、他の女と会ってくるとは大した度胸《どきょう》だよなあ、本当」
そして少し落ちついてから、蛍子がそんな話題を切り出す。健一はそれを真に受けるのは止《や》め、逸らすように別の話題を振《ふ》る。
「そういうホタルこそ、結局、そういう格好で俺の前をウロチョロしてるだろ」
「お前があまり家にいないから、気遣《きづか》いするのが馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなったんだよ」
「……ホタルは面倒《めんどう》なことは理由を付けてやらないからなあ」
健一は嫌《いや》みの一つも言ってやろうという気持ちになったが、蛍子はそんな言い分には耳を貸す気は無いようだった。それよりも、少し溶け始めたアイスを食べることに注意が向いてる。
「この格好が嫌だというなら、ちゃんと家にいるようにしろ。そうしたら考えてやる」
「別にもうどっちでもいいよ。ホタルの問題だし、好《す》きにすれば」
健一は蛍子の言い分にそんな風に答える。実際《じっさい》、自分が頭を下げてまでちゃんとした格好をしてもらうなんて馬鹿げている。
「……そうか。じゃあ好きにするさ」
蛍子は顔をしかめてそう告げる。溶けたアイスが滴《しずく》となって蛍子の胸に落ちる。
「つっ」
冷たさに驚《おどろ》く声。蛍子は肩からかけてたタオルでそれをぬぐう。そのせいで隠れていた胸が見えた。
「ホタル、見えてる……」
「別に見たければ見れば良いだろ? こんな格好しておいて見るななんて言う気もないし、言ったこともないだろうが」
「ま、そうだけどさ」
健一はもういいやと思って、自分のアイスを食べることに集中する。すると蛍子の方がそれに張《は》り合《あ》おうと思ったのか、さっきよりもずっと早く食べ始める。
「……まあ、いいけどね」
健一は力なく呟《つぶや》くと、一応確認《かくにん》しておかないとなと思い出したことを口にする。
「明日から俺、出かけるけど、別に問題ないよな? 食事とか作れないけど」
「家に誰もいないのに食事を作る必要があるのか?」
しかし蛍子は予想外の質問《しつもん》で返してきた。
「え? ホタルもどこか遊びに行くの?」
「どこかとはご挨拶《あいさつ》だな。お前が誘《さそ》ったんだろう?」
「俺が誘ったって……ホタルも来るわけ?」
健一はそういう話になってたんだっけなと記憶《さおく》を遡《さかのぼ》るが、どうもハッキリしない。
「行かないと誰が言った?」
不機嫌そうに蛍子が尋ね返す。
「最初に話した時、確《たし》かにそう言った気がするけど」
「その後、考えさせてくれと言っただろう?」
「でも悟《さとる》さんと会いたくないから嫌だって……そういう感じだっただろ?」
「あんなヤツ、シカトだ、シカト。元々、眼中《がんちゅう》にないから気にすることじゃない」
「ホタルが一人で気にしてたような気がするんだけどなあ……」
どうやら、どこかのタイミングで行くということを蛍子が決断《けつだん》していたらしい。自分的には、考えさせてくれの後、どうなったのか聞くのを忘《わす》れていたので、もう行かないものと思っていたが……代わりに誰か連れていくという話もしてなかった。保留《はりゅう》のまま、忘れてしまっていたようだ。
「どうするかな」
健一は想定《そうてい》していなかった展開《てんかい》にうなる。
「何か問題があるのか?」
「いや、大海さんはホタルが来ると思っていないかもしれないなあって」
「勝手に断《ことわ》ったのか?」
「いや、断ってもいないんだけど……でも難色《なんしょく》を示《しめ》していたことは言った」
「勝手なことするな、お前は」
「ホタルが最初に断るみたいな言い方したせいだろ?」
健一はそうは言ってみるが、最終的に確認しなかった自分にも落《お》ち度《ど》があるなと感じる。
「電話したらどうだ、電話?」
蛍子がそんな提案《ていあん》をする。
「電話か……」
「もしくは家わかってるなら会いに行け」
「会いに行けって、もう九時過ぎだぞ。非常識《ひじょうしき》だろうが」
「まだ九時過ぎだろうが。とにかく確認しろ。明日行って良いのかわからんままじゃ寝つきが悪くなる」
「はいはい……」
健一は蛍子の言い分に呆《あき》れながらも、まあそれは自分もそうだなと感じて、蛍子の最初の提案に従い、電話をすることにする。
「電話番号、何番だっけ……」
健一は電話の子機《こき》を手に取ると、自分が千夜子の家の番号を知らないことに気づく。考えてみると一度も電話をかけたことがない。
「お前は彼女の家の電話番号も覚えてないのか?」
「……悪うございましたね」
健一は悪態《あくたい》をついてはみるが、蛍子の方が正しい。
「本当、同情するよ、あの娘には」
蛍子は溜《た》め息《いき》をつくと健一から子機を取り上げ、ボタンを押し始める。
「おい、どこにかけるつもりだよ?」
「大海《おおうみ》の家だろ? あいつ専用《せんよう》の番号でなければ、これであの娘にかかるはずだ」
そう言って押し付けるように蛍子は子機を健一に渡《わた》す。
「ホタル、大海さんの家の電話番号知ってるわけ?」
「あの野郎《やろう》がしつこく繰《く》り返《かえ》したから覚えてただけだ。妙《みょう》なこと思い出させるな」
蛍子は気分悪そうにそう告げると、健一にそろそろかかるんじゃないかと子機を指差す。
「……そか」
そして健一が耳を当てると、すぐに受話器を上げる音が聞えた。
{もしもし大海《おおうみ》ですけど}
女の子の声。大海家は四人家族なので、おそらく千夜子だろうと健一は思う。
「もしもし、絹川《きぬがわ》という者ですが……」
それでも一応、声の若《わか》い母親という可能性《かのうせい》を考えてそんな言い方をしてしまう。
{あ、絹川君ですか。どうしたんですか?}
「大海さん……ですよね?」
{はい。千夜子です}
「あの明日のことなんですけど」
{……何か急用でも出来たんですか?}
「いや、全然、そういうことじゃなくてですね。なんかあやふやなままだったんですけど、ホタルが行くつもりだったらしくてですね」
{はい。私もそのつもりだったですから、別に問題ないですよ}
「あ、そうなんですか……そりゃ、そうですよね。特に行かないって言わなかったですからね」
{はい。だからお姉さんには明日会えるのを楽しみにしてるって伝えてください}
「あ、はい」
健一はなんだか千夜子《ちやこ》が妙に元気だなあと思って、少し自分は抑《おさ》えるような気持ちになる。
「なんでしたら、代わりましようか?」
{いえ、いいです。電話でなんて緊張《きんちょう》しちゃいますから}
慌《あわ》てた千夜子の声。健一はやっぱり千夜子だなと思う。
「緊張するって言えば……真っ先に大海さんが出てよかったです。お父さんとか出たらどう説明しようかなって思っちゃいますよね」
{大丈夫ですよ。なにがなんでも私が一番に出ますから}
千夜子は嬉しそうに答える。
「だったらいいんですけど」
健一はそんな千夜子の言葉に笑ってしまう。
{あ、本気にしてないですね。今日もなんとなく電話かかってくるかなあと思って身構えてたから、すぐ出たんですよ}
「そうなんだ……そっか」
健一は「今日も」と千夜子が言ったことに、ちょっと気になるものを感じる。
「もしかして、いつも電話待ってました?」
{え……いや、そのそういう意味じゃなくて……}
途端《とたん》に千夜子は混乱した様子を見せる。
「あ、そうじゃないんですね。僕、さっき電話しようと思うまで、一度も大海さんの家にかけたことないって気づいて……彼氏としてどうなのかなあとか思ってたんですよ。気にし過ぎですかね。格好悪《かっこうわる》いな、僕は……あはは」
健一はその状況《じょうきょう》を笑って流そうとするが、そこに真剣《しんけん》な千夜子の声が届《とど》く。
{その……実はずっと待ってました}
「え?」
{今日は来るかな、今日は来るかなって……待ってました}
「そうだったんですか……それはすみません。今日、電話しようとするまで、電話番号を聞いてないことすら気づいてなくて……」
{え?}
今度は千夜子の驚《おどろ》く声。
{私、番号教えてなかったでしたっけ?}
「はい。この番号もホタルが昔、悟さんに教えてもらったとかで……。でも、調べればすぐにわかりますよね。同じクラスなんだし」
{でも、教えもしないで私、待ってたってことですよね……}
千夜子の声が小さくなって消えていく。健一はそれできっと電話の向こうで彼女が真《ま》っ赤《か》になって縮《ちぢ》こまってるだろうと想像《そうぞう》してしまう。
「あの……またこうして電話してもいいですか?」
{え? あ、もちろんです。どんどんかけてください。絶対《ぜったい》に私がとりますから、安心してかけてください! お風呂《ふろ》に入ってても絶対に誰にも負けませんから!}
「……そこまでしてくれると逆《ぎゃく》に申し訳ないんですけども」
健一は千夜子のやる気の凄《すご》さに、本当にずっと待たせてしまったんだなと感じる。
{そうですか……}
「あ、もちろん嬉《うれ》しいんですけど、お風呂場から急行《きゅうこう》するほどじゃないってことです」
{はい。じゃあ……ほどほどに頑張《がんば》りますから。あ、でもかけてくれって催促《さいそく》じゃなくてですね。安心してかけてきてOKということで……}
「わかってますから」
健一は千夜子の一生懸命《けんめい》っぷりにほほ笑ましくなってしまう。
「かけたいなって思った時にかけるだけです。それ以上の意味はないですから」
{はい。そういう感じでお願いします}
「じゃあ、そういうことで」
健一は、ひどくかしこまった様子の千夜子に笑みを浮かべながら、今日は電話をかけてよかったなと本当に思う。
「今日は大海さんに会えなかったので、声だけでも開けて嬉しいです」
{すみません。今日はツバメと買い物をしてて……}
「謝《あやま》らなくていいですよ。声が開けて嬉しいって話ですから」
{はい。私も嬉しいです。絹川君からの電話、絶対に自分でとってやるって思ってたのが実現できて、こうして絹川君と話せて……本当に嬉しいです}
「もっと早く電話してればよかったですね」
健一は思いを素直《すなお》に呟《つぶや》き、千夜子の返事を待つ。
{でも、今日こうやって話せた喜びは、もっと早かったら無かったと思いますから……これでよかったんです}
「そうですか。じゃあ、そういうことにしておきます」
{はい。そうしてください}
千夜子はそう言った時、後ろで誰かの声が聞えた。
男の声。どうやら悟に見つかったらしい。なにやら遠くで口論《こうろん》が始まるのが聞える。
「……大海さん?」
{あ、はい。すみません。ちょっとお兄ちゃんが変なこと言うから……もういいでしょ! お兄ちゃんには関係ないんだから! あっち行ってよ!……あ、これはこっちの話で……}
「なんかお邪魔《じゃま》みたいですね」
{いえ。邪魔なのはお兄ちゃんですから、絹川君は気にしないでいいです。だから、邪魔だって言ってるでしょ! こ、これはお兄ちゃんにですから……}
「……それじゃ悟さんにもよろしくお伝えください」
健一はなんだかこのままだとこじれる一方だろうと、電話を打ち切ることにする。
{え? あ、すみません。本当、お兄ちゃんのことは気にしないでいいですから}
「でも、電話続けるのも大変そうですし……明日はずっと話せるんですから、今日はこの辺{そ、そうですよね。それじゃまた明日}
「それじゃまた明日。おやすみなさい、大海さん」
{はい。絹川君もおやすみなさいです}
千夜子のそんな言葉を確認して、健一は通話を終了する。それでふと我に返ると蛍子が睨むような目でこっちを見ていた。
「……にやにやして気持ちの悪い」
「なんだよ。別にいいだろ、彼女と電話してるんだから、にやにやしたって」
「ま、それもそうだ」
蛍子はそうは言いながら、やる気無さそうに部屋を出ていく。
でも蛍子は最後、去《さ》り際《ぎわ》、立ち止まって振り返る。
「おやすみ、健一」
「……お、おやすみ、ホタル」
なんだか聞きなれぬ、姉の就寝《しゅうしん》の挨拶《あいさつ》に健一は思わずどもってしまった。それを見て蛍子は笑いながら去っていく。
「……なんなんだ、あいつは」
健一はやっぱり貴子には敵《かな》わないと、そんな憎《にく》しみの言葉を独り呟《つぶや》いた。
次の日の朝。健一は予想の倍以上の荷物《にもつ》を抱《かか》えて公園へと向かっていた。自分の荷物だけではなく、蛍子の分も持たされていたからだ。
「二泊《はく》三日でこんなに大きな荷物がいるとは思えないんだけどな」
健一は蛍子のを持たされてることには今更《いまさら》、疑問《ぎもん》は感じなかったが、それにしても随分《ずいぶん》な荷物だと思う。海外旅行にでも行くような鞄《かばん》を持ちだしてくる理由がわからない。水着と着替《きが》え以外に何を入れているのだろうか……。
「本当、何をこんなに持ってくわけ?」
「女は男と違って色々大変なんだよ」
蛍子は不敵《ふてき》に笑いながら煙草《たばこ》を吸《す》っていた。それを見るかぎりとても大変には思えない。
「今は俺の方が大変な感じなんだけど」
「ま、そうかもな」
蛍子はそうは言っても、せめて健一の分を代《か》わりに持つとかは考えていなかったようだった。
「にしても、その格好《かっこう》、もう少しなんとかならなかったわけ?」
健一はどうせ文句《もんく》など言っても始まらないと思いつつ、蛍子の服装《ふくそう》のことに話題を移《うつ》す。
「ん?」
蛍子は言われて、何がそんなに問題なのかという顔で自分の格好を確認《かくにん》する。今日の蛍子は白いノースリーブのシャツにホットパンツという出で立ちだった。首に青いメッシュの粗《あら》いマフラーを巻いてるが、それは暑いんだか涼《すず》しいんだかよくわからない。
「どの辺が問題なんだ?」
「……いい年して生足《なまあし》全開ってのはどうかって思うんだけど」
「泳ぎに行くんだ。こんなもんだろ?」
「もう少し大人《おとな》しい格好でもいいと思うけどな」
「……大人しい格好ねえ。そういうのはお前の彼女に求めておけばいいだろう?」
蛍子はそう言って笑うと、日差《ひざ》しを強くし始めている太陽の方を見る。
「しっかし今日は暑くなりそうだな」
「……まあ、夏だからな」
健一はそう答えながら、すでに自分が疲《つか》れ始《はじ》めているのを感じる。
「お前もこれから彼女とお泊まりだってのに元気なさ過《す》ぎだ」
「ホタルのせいもけっこうあると思うんだけどな」
「それよりは私がおやすみって言った後に、また出かけて来たせいじゃないのか?」
蛍子はふふんと鼻で笑うようにして健一の顔を見る。
「……良いだろ、別にそんなに早く寝《ね》なくても」
「まあ、別にそこまでお前のプライベートに口を出す気はないが、彼女のところに会いに行ってたわけじゃないんだろ? その辺はどうかと思うんだがな」
「こっちにも色々と事情《じじょう》があるんだよ」
健一はそう答えながらも、なんとも説得力《せっとくりょく》のない言い分だなと思う。それに事情が有るとは言え、1303に顔を出したことは、やはり褒《ほ》められたことではない。
「まあ、別にその辺もどうでもいいけどな」
「だったら、言い出すなよ」
「お前がどうでも良いことで文句《もんく》を言うから、黙《だま》らせようとしただけだ」
蛍子はそしてまた不敵に笑う。
「……ぐ」
何かの牽制《けんせい》なんだろうか。健一は蛍子がその気になれば、千夜子にこれらの怪《あや》しい状況《じょうきょう》をぶちまけるつもりなのだろうかと感じた。そんなことをして蛍子に何の得になるかはわからないが、言われて困る健一としては従《したが》わざるを得ない。
「というわけで、お前が荷物持つことや私の格好に何か文句があるか?」
「別に……いいけどね」
健一もどうせこういう時に荷物を持つのは男の方だろうと言う気はしていたが……。
「でも大海さんの荷物を持つことになったら、俺の分くらいは持ってくれよな」
「ま、それくらいは譲歩《じょうほ》してやるさ」
蛍子はせめての健一の反撃《はんげき》に少し驚《おどろ》きながらも、なんだか嬉《うれ》しそうな笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
でも、公園で待っていた千夜子は荷物《にもつ》らしい荷物は持っていなかった。
「おはようございます。絹川君、お姉さん」
千夜子は水色と白のハイビスカス柄《がら》のチュニックを着て、もうすでにリゾート気分でいっぱいのようだった。ハワイの観光客のようだなと健一は思う。
「おはよ。ホタルでいいよ、ホタルで」
緊張《きんちょう》している様子の千夜子に蛍子は笑って、そんなことを言う。
「は、はい。じゃあホタルさんってことでいいですか?」
「じゃ、それで」
「はい」
そんな二人のやり取りを見ながら、健一は一段落《ひとだんらく》ついただろうと思って自分も挨拶をする。
「おはようございます、大海さん」
「……おはようございます、絹川君」
改めて挨拶《あいさつ》を返した千夜子は健一の方を見て急に申《もう》し訳無《わけな》さそうな顔になる。
「どうしたんですか?」
「えっと、その……荷物なんですけど」
「荷物がどうかしたんですか?」
「私とツバメは昨日のうちに宅急便《たっきゅうびん》で送ったんですよ。絹川君にもそうするように言えばよかったんですよね……すみません、忘れてました」
千夜子の言葉に健一はなるほどその手があったのかと思うが後の祭り。そこに蛍子が口を挟《はさ》んできた。
「いいの、いいの。こいつ、昨日まで遊んでて、今朝になって慌《あわ》てて準備《じゅんび》始めるようなヤツだから、どうせそう言ってても結果は同じだったから」
「……なんだよ、それ」
健一は不満を感じて呟くが、すぐに口を閉じた。
「事実そうだったろうが、ん?」
蛍子は別に本気で言ってるわけではないらしい。千夜子が自分のミスに気づいてしょげているので気にするなと言ってる……のかもしれない。
「ま、事実は事実だけど……」
「というわけで、この間抜けのために大海さんが気《き》に病《や》む必要はないってこと。こいつには自分の無計画《むけいかく》ぶりを反省する意味でも、この荷物をもって行かせる方がいいわけだ」
もちろん蛍子の分まで荷物を持っているのはそんな理由ではないのだが、千夜子のことを思うと健一もそうだということにした方がいいと感じる。
「……ま、だから大海さんは気にしないでください」
「でも……事前に言ってれば、こんなことにはならなかったと思うんです」
それでも千夜子は自分の責任《せきにん》を感じてるようだった。それに蛍子が笑いながら語りかける。
「大海さんは健一を買いかぶりすぎ。何にも言わないから、ちゃんと考えてるように見えるだけで、本当は何にも考えないだけだから。な、健一?」
「まあ、何にも考えてないってわけでもないけど……時々、すっぽりと抜《ぬ》けたりはするかな」
「そそ。昨日になって私が行くとか行かないとか言い出して電話したりしたようなヤツなんだから、大海さんがいちいち気にしなくていいからさ」
「……じゃあ、お互《たが》い様《さま》ということで」
千夜子が一応《いちおう》、そんな納得《なっとく》の言葉を口にしたのは恐《おそ》らくは本心からではなかった。二人が必死にフォローしようとしてるのに気づいたからだろう。
「ま、配分で言ったら健一の方が九割《わり》以上だけどな」
蛍子はそれに気づいてるのかどうかわからないが、そんなことを言って健一の方を見る。
「……そこまで多いかなあ」
健一は苦笑いを浮かべながら、でもそういうことにしておくかなと思う。
「おっはよー!」
そこに一際《ひときわ》テンションの高いツバメの声が響《ひび》く。やっぱり彼女も手ぶらで、パープルのシャツに、濃《こ》い紫色《むらさきいろ》のショートパンツといういかにも身軽《みがる》そうな格好《かっこう》をしていた。
「おはよう、ツバメ」
「おはよ、鍵原《かぎはら》」
「……えっと、誰《だれ》?」
二つの挨拶に続いて、蛍子が知らぬ顔に質問《しつもん》をする。
「あ、私の友達で鍵原ツバメって言います。ツバメ、こちらは絹川君のお姉さんで――」
「絹川蛍子。よろしく」
千夜子の説明に割り込むように蛍子は名乗《なの》って、ツバメに挨拶《あいさつ》をする。
「よろしくお願いしますっ」
それに元気にツバメは答えると、それからマジマジと蛍子の顔を見て口を開く。
「奇麗《きれい》な人だって聞いてたけど、本当に奇麗な人なんですねっ」
「面と向かって言われると照れるね」
「絹川も美形だけど、お姉さんの方が格好いいですっ」
「そりゃ、どうも……」
蛍子はツバメのテンションに流すようにそう答えると、健一の方を見る。
「鍵原、今度はホタルを狙《ねら》う気になったわけ?」
「……あのねえ。いくら私だって、そこまで節操《せっそう》がないわけないでしょ?」
「ま、言ってみただけ」
健一がそう言って笑うと、千夜子もおかしそうに笑うのが見えた。
「それじゃ、まだちょっと早いかもしれませんけど、全員揃《ぜんいんそろ》ったので行きましようか?」
そして千夜子はそんな提案《ていあん》を始める。
「これで全員?」
蛍子がそれにいぶかしんだ顔をする。
「はい。全員ですけど……他に誰か呼んでるんですか?」
「いや、そういうわけじゃない」
蛍子は何か言いたげな顔をして、それからなぜか健一の方を睨《にら》んできた。
「……なんだよ、その顔は?」
健一は蛍子の視線に言葉を返すが、蛍子は短く呟《つぶや》くだけだった。
「別に」
結局、蛍子が何を言いたかったのかわかったのは、電車を乗《の》り継《つ》いでボックス席に座《すわ》って落ち着けた辺りだった。
席には、千夜子とツバメ、健一と蛍子がそれぞれ隣り合って座っていた。
「確認《かくじん》なんだけども、大海は来ないわけ?」
「大海って……お兄ちゃんのことですか?」
千夜子が不思議そうな顔をして尋ね返す。
「そう。大海さんの兄の大海」
「来ませんけど」
「そうか、来ないのか……」
蛍子が何事か考えて、小さく呟《つぶや》くのが聞える。健一はその隣《となり》でそれを聞いていて、なんでそんなに悟のことを気にするのだろうかと思ってしまう。
「来た方がよかったんですか?」
千夜子は不思議そうな顔のまま、蛍子にそう尋ねる。
「まさか。来ないならこんなに嬉《うれ》しいことはない……って人の兄をそこまで悪く言うことはないわな」
「いえ、私も同感《どうかん》ですから」
千夜子がぶるぶると震《ふる》え始める。何か悟に言われたことを思い出したらしい。
「私はもうお兄ちゃんと旅行なんて絶対に嫌《いや》ですから」
「……そう。ならいいんだけど。いや、私を誘ったのが実は大海のヤツじゃないかって思ってたんだよ。大海さんが私と話したいって理由が思い浮かばなくて」
「そうなんですか? じゃあ嫌がってたって言うのはお兄ちゃんのせいなんですね?」
「まったく、その通り」
「私、この間、会った時に変《へん》な娘《こ》だって思われたんじゃないかって……」
「いや、大海さんには全然、恨みも何もないからさ」
蛍子は千夜子と話している間に、晴《は》れ晴《ば》れとした顔つきになっていた。それを見ていて、健一は本当に悟が来ないのを喜んでいるらしいことを知る。
「なんか言いたそうだな、健一?」
そんな健一の視線に気づいたのか、蛍子が健一の方に話題を振《ふ》る。
「いや……なんだかんだ言っても、悟さんのこと気にしてるのかなって思ってたんだけど、実は本当に嫌いなだけだったんだなあって」
「……何度もそうだって言ったと思うけどな」
蛍子はまた不機嫌《ふきげん》そうな顔に戻る。
「でもホタルってなんか素直《すなお》じゃないところもあるからさ」
「……ほっとけ」
「しっかし本当、ホタルって人が嫌いなんだな。考えてみると、ホタルが人を好きになったとか聞いたことないもんな」
「うるさい、お前に言われたくない。と言うか、お前にいちいち報告《ほうこく》する義務《ぎむ》なんぞない」
「ま、そうだよな。ホタルに友達がいるのだって知らなかったし……」
「何にも知らないくせに決めつけるのはお前の悪い癖《くせ》だ」
「……かもね」
健一はなんだか悟のことを話している時以上に、蛍子《けいこ》が不機嫌になってきたなと感じる。それが何故《なぜ》なのかもわからなかったが、それ以上に健一はこの状況《じょうきょう》に妙な違和感《いわかん》を覚える。
――こう見えてもホタルって彼氏とかいたってことだよな
蛍子に彼氏がいたなんて全く想像《そうぞう》できないが、姉弟にあるまじき関係になったあの日の蛍子の言葉からすれば、そう考えるしかない。もっとも自分はまともな友達すらいないと思っていたのだから、蛍子のことは家でのことしか知らないのだなとも思う。
「どうかしたんですか?」
それで健一の表情が曇《くも》っていたせいだろうか、千夜子が心配そうに話しかけてきた。
「いや、俺もいい加減《かげん》、ホタルのことすら理解《りかい》してないんだなって」
「……私はお兄ちゃんのことなんか理解したくないですけど」
千夜子が急に頬《ほお》を膨《ふくら》ませるのが見えた。昨晩の電話の時のことだろうか。とにかく千夜子は悟に対して怒《おこ》っていることだけは健一にハッキリわかる。
「異性《いせい》の兄とか姉ってそういうもんなんですかね」
そしてそれはなんだか健一を不思議と心落ちつかせたのだった。
電車を降《お》りると、明らかに空気が違《ちが》っていた。
カラッとして潮《しお》の香《かお》りが混《ま》じっている。密閉《みっペい》された空間《くうかん》で冷《ひ》やされた不自然な空気と同じのはずもない。
「ちょっと遠《とお》いんですけどね」
千夜子が申し訳なさそうに告げて、海岸とは別の方向へと歩き始める。
これから三日間世話になるその旅館《りょかん》は千夜子が小さな頃から夏になると毎年泊まっていた場所であるらしい。父方の親戚《しんせき》がやってるそうで、忙《いそが》しい時期だというのに格安《かくやす》で泊めてくれるという話だった。
「どれくらいかかるんですか?」
風で飛んでくるのだろう砂《すな》のせいで、舗装《はそう》された道なのに歩くたびにジャリジャリと音がする。日差しも出がけよりもずっと強く高くなってる。
八月の頭だし、いかにも夏らしい。
「歩くと十分くらいですかね……やっぱり荷物《にもつ》持ちましょうか?」
千夜子が心配そうに尋ねるが、健一はその申し出を断《ことわ》る。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、このくらいなら」
「でも、一人だけ重そうでなんか変かなって、思うんですけど」
千夜子は海へと向かう人間達がチラと健一の方を見るのを意識《いしき》したようだった。
「……ま、そうかもしれませんけど」
健一は自分でもそれを意識するが、視線《しせん》は蛍子の方へと向ける。
「大海さんが持つ必要はないですから」
「なんだ? 私に持てって言うのか?」
蛍子が気づいて不満そうな顔をする。
「元々、お前の荷物だろ?」
「まあ、半分はそうだな」
「半分じゃない。どう見積《みつ》もっても、俺のは三分の一以下だ」
健一はそう言ってアンバランスに両肩《りょうかた》にかけてる荷物を蛍子に示《しめ》す。三分の一とは言ったが、蛍子の荷物の入った鞄《かばん》の方が四倍くらいの大きさはありそうだった。
「数で言えば一個と一個だ」
「数じゃなくて大きさの問題だろう、これは」
健一は呆れてしまうが、蛍子はやっぱり自分の荷物を持つ気にはならないらしい。
「大きいのは無理ですけど、小さい方なら大丈夫ですから」
そんなことを言って千夜子が割り込んでくる。でも健一としては蛍子が持たないなら、自分が持つという選択肢《せんたくし》しかない。
「いいんですよ、大海さんは持たなくて」
健一はそう言いながら蛍子を睨《にら》む。でも蛍子はそれを無視《むし》する。
「じゃあ、私が持とうか?」
そこにずつと様子を見ていたツバメが口を挟《はさ》んでくる。
「絹川も千夜子には遠慮しちゃうだろうし、ま、私の方が千夜子よりは力あるし」
「いいって。自分で持つから」
「……まあ、そういうことならいいけど」
ツバメは納得《なっとく》した振りをして、少し意地悪《いじわる》そうに笑う。そしてこれから進む道を指差《ゆびさ》す。それはかなり水平より高い位置を指していた。
「これからちょっと坂《さか》を上《のぼ》ることになるけど、それでもいいわけ?」
健一がツバメの指差した場所を見ると、確かにそこには旅館《りょかん》があった。だが、それは確かに随分《ずいぶん》と坂を上ったところにあるようだった。距離は無《な》いが、その分、急な坂が目の前に待ち受けている。
「……いいよ、別に」
健一はその光景に怯《ひる》みながらも、そう答えるしかなかった。しかしそんな健一の肩から急に重さが消える。
「まったく、意地《いじ》っ張《ば》りだな、お前は」
蛍子だった。違和《いわ》感を覚《おぼ》えて振り返ると、蛍子が健一の荷物を手に取って、それを肩にかけようとしていた。
「……とか言いつつ、自分のは持たないわけね」
「重い方を姉《あね》に持たせたりしたら、大海さんもガッカリするだろうよ」
蛍子は悪びれる様子もなく、そう言って千夜子の方を見る。
「え? あ、いや、そんなことないですけど……」
千夜子は慌《あわ》てながらも、寂《さび》しそうな表情を見せる。
「大海さんが持つ?」
それに気づいたのか、蛍子がそんな質問をする。
「え?」
「でもこの中身は健一の着替えだよ」
「そ、そうですよね……」
「健一も彼女に自分のパンツなんて持たせたくないよな」
貴子はそう言って笑うと健一の方を見る。
「……まあ、そうかな」
健一は蛍子のせいで、千夜子が真っ赤になって動かなくなったのを見ながらそう呟いた。
「遅いな……」
もう十分は経ったんじゃないかと健一は思うが、実際のところはよくわからない。答えを求めて辺りを見渡すが時計らしいものは見えない。太陽の位置が変わったどうか見ても断言《だんげん》できるほどの自信もない。
「まだかな?」
健一は一人、海岸で待たされていた。
旅館に荷物《にもつ》を置いて、すぐに海に行くことになったのだが、でも健一以外の三人はすぐには来なかった。
それが何故《なぜ》かはよくわからない。荷物を置いて、着替えて海に行く。それだけのことに時間がかかるとは健一には思えないのだが、実際はそうでもないらしい。
女は男と違って色々大変なんだよ――と蛍子が言っていたのを思い出す。朝方、荷物が多い理由を聞いた返事だったが、それが一体なんのことなのか、きっと男の健一にはわからないことなのだろうと思う。
「あのお、お一人ですか?」
そんな健一に話しかけてくる声が聞えた。気づくと見知らぬ少女が三人ほど、こっちを見ている。三人とも随分《ずいぶん》と日に焼けていて、きっともう何度と無く海に来ているのだろうと健一は思う。地元《じもと》の中学生だろうか。
「……いえ、人を待っているんですけど」
健一はなんでそんな三人に話しかけられたのかわからないまま、返事をする。
「それってお友達、ですよね?」
なんだか嬉しそうな顔をして、三人の右端《みぎはし》の女の子が尋ねてきた。
「友達って言うか――」
健一がそう答えかけた時、階段《かいだん》を下りて砂浜《すなはま》にやってくる千夜子たちの姿が見えた。遠目《とおめ》に見るとやっぱりというかなんというか蛍子が無駄《むだ》な迫力《はくりょく》を発揮《はっき》しているのがわかる。
「彼女と彼女の友達と、あと、僕の姉なんですが」
健一はそれぞれを確認《かくにん》しながら、それで間違いないだろうと思う。
「そうなんですか」
しかし三人の女の子はおのおのにそんなことを言うと残念そうな声を出して、おずおずとその場を去っていく。
「……なんか変なこと言ったかな」
健一は結局何だったんだろうと思いながら、そんな三人と入れ違いにやってくる千夜子たちへと視線を向ける。
千夜子とツバメはパーカーを着ていたが、蛍子は相変わらず白いTシャツ姿。散々待たせていたがあんまり変わっているように見えない。一応、その下は水着に着替《きが》えているようだが、やっぱり待たせただけの時間で何をしていたのかと言うと想像《そうぞう》ができなかった。
「なんだ、ありゃ?」
近づいてきた蛍子が開口一番、そんなことを言った。機嫌《きげん》悪そうな顔で後ろの方を親指で指して尋ねてきたところを見ると、どうやらさっきの三人のことを言っているらしい。
「さあ。俺が聞きたいよ、ここで待ってたら、向こうからやってきて俺が一人かって聞いてきたからさ、違《ちが》うって言ったら去ってっただけだし」
なので健一は素直《すなお》にそんなことを答えるが、それで蛍子は顔をしかめたようだった。
「お前もいい加減《かげん》、アホだな」
「……なんだよ、その言い方は」
蛍子の物言いはいつものことだが、弟の彼女やその友達の前でそんな話を普通に言ってのける態度《たいど》にはさすがにどうかと思ってしまう。
「ナンパでしょ、ナンパ」
そこに割って入るようにツバメが笑いながら口を挟《はさ》んでくる。
「ナンパ?」
「そ、ナンパ。友達が一緒だとか聞かれなかった?」
「ああ、言われた。人を待ってるって言ったら、それが友達かって」
「絹川の他が男二人だったら、一緒に遊ぼうって言うっもりだったんだよ、あの娘たちは」
ツバメが当然のことのように答える。ツバメが思い込みが激《はげ》しいタイプであることを差し引いても、おそらく彼女の言う通りなんだろうという気もしてくる。
「そうなのかなあ……」
しかしどうも健一《けんいち》にはやっぱり信じがたかった。それで一人、黙《だま》っている千夜子の方を見る。
「あの、大海さん?」
それでなんだか彼女が元気なさそうな様子に気づく。旅館《りょかん》に着いて別れるまでは元気そうだったのだから、ここに来る間に何かがあったのだろうかと健一は不安を覚《おぼ》えた。
「え、あ、はい。なんでしょ?」
「いや……なんか元気なさそうだから、どうしたのかなって。もしかして、さっきの娘たちのことで怒《おこ》ってます?」
「いえ、そういうわけじゃないです」
千夜子は嘘をついているわけじゃないのだろうが、煮《に》え切らない返事をする。
「でもまあ、ショックはショックだよねえ。彼氏が待ってる間にナンパされてるってのは」
そんな千夜子とは対照的《たいしょうてき》にツバメは笑う。
「そんなこと言われてもなあ……それと気づかなかったくらいだし」
「そういうところが千夜子が心配するところなんだってば」
「……そうなんですか?」
健一は一体何のことかと思い、千夜子の方を見る。
「べ、別に心配してないですよ。ツバメも変なこと言わないでよ」
「そうかなあ。私だったら、ほんの数分、じっとしてるだけでナンパされちゃうような彼氏だったら不安でしょうがないけどな。ま、鼻が高いって気持ちにもなるだろうけど」
ツバメがそう言って健一の方を見て笑う。
「だから、されてないだろ、ナンパなんて」
健一はツバメに反論《はんろん》しようとするが、蛍子がじっと睨む視線《しせん》を感じる。
「されてただろう、明らかに。お前が暇《ひま》そうにしてるのが悪いんだ」
「暇そうにしてるって言われても、こんなに待たされると思ってなかったし……」
「先に海岸に行ってるのが悪いんだよ」
「待っててもしょうがないから先に行ってろって言ったのはホタルだろ?」
健一は確かにそうだったと思い出しながら、そう指摘《してき》するが蛍子はなんとも思わなかったようだった。
「部屋で待ってもらわれても困るからそう言ったが、先に海に行けと言った覚えはない」
「……そうですか」
健一は呆れて反論する気も失せる。しかし蛍子はまだ何か言いたそうな顔を続けていた。
「おかげでお前を探《さが》して歩いてる間に、こっちもナンパをされたんだ。勘弁《かんべん》してくれよ、本当」
蛍子がそう言うので、健一は彼女の顔を見るが、本気で嫌《いや》がってるという感じに眉《まゆ》を寄《よ》せていた。
「……すみません」
そんな二人の間に今度は千夜子の声が割り込んできた。健一は千夜子がそうなったことに責《せき》任《にん》を感じたのかなと思い、慌《あわ》ててフォローを入れる。
「いや、大海さんのせいじゃないよ。僕が勝手に海に行ったからで……」
しかし千夜子の言いたいことはそういうことではないようだった。首を小さく横に何度か振《ふ》って、それから健一の方を見る。
「そういうことじゃなくて、その……今日はちょっと泳ぐような気分じゃなくって……」
千夜子が少し青い顔でそんなことを告げる。元気のなさそうな顔をしていると思ってはいたが本当に体調《たいちょう》が悪いのだろうかと健一は心配になる。
「じゃあ、旅館《りょかん》に戻りましょうか?」
健一はそんなことを提案《ていあん》するが、そこにツバメが笑いながら割り込んでくる。
「いいから、いいから。千夜子は私が責任持って旅館に送り届《とど》けるから、絹川は……お姉さんと泳《およ》いでなよ」
「なんでホタルと泳いでないといけないんだよ」
健一はうんざりとした顔をして蛍子の方を見る。蛍子はそれをわざとらしい笑みを浮かべて受け止めた。
「ま、たまにはそういうのもいいだろ」
「よくないって全然」
「どうせ、お前に出来ることなんてないんだし、そうすればいいんだよ」
蛍子はそう言うと健一の腕を掴《つか》んで引っ張る。健一は不安を感じて千夜子の方を見るが、彼女は弱々しく口を開くだけだった。
「そうしてください。私のことは心配いらないですから」
「……大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」
「はい。ちょっと気分が悪いだけですから。本当、心配しないでください」
千夜子はそう言って力なく笑う。体調が惑いというよりは、何か落ち込んでるらしい。なのに無理をしているのだろうと健一にもさすがにわかった。
「じゃあ、不本意ですがホタルと泳いでることにします。一人だとまたナンパされそうだし」 健一はこれ以上、千夜子に気を使わせないようにと笑って見せるが、どうもさっきの蛍子と同じような顔だったろうなと感じてしまう。
わざとらしい。でも、それでお互《たが》いが気を使っていることは伝わったようだった。
「すみません。なんだか水を差しちゃったみたいで」
だからなのか千夜子はそれだけ言うとツバメと一緒に旅館へと戻っていった。
「……で、何があったわけ?」
千夜子たちが見えなくなるのを待って、健一は蛍子にそう尋《たず》ねた。
「さあな」
「どうせ、ホタルが原因《げんいん》なんだろ?」
「随分《ずいぶん》な言い方だな」
蛍子は不機嫌そうに吐《は》き捨《す》てると、そのまま歩き出した。
「まあ、何もしていないが、原因が私だと言うのも残念ながら正解《せいかい》だ」
追いかけた健一に蛍子のそんな呟《つぶや》きが聞える。
「なんだよ、それ?」
「私が美人だから、あの娘はしょげてるんだよ」
「……自分で言うか、そんなこと」
「別に自分の想像《そうぞう》で物語《ものがた》っているわけじゃない。あの娘がそう言ってたんだよ。お前がいなかったせいで、ナンパされた後でな」
「そうですか」
健一はイマイチ釈然《しゃくぜん》としないが、蛍子も腹《はら》を立てているようなので無難《ぶなん》な返事をする。
「トドメにやっと見つけたと思ったら、お前がナンパされていたわけだ。あの娘が何を思ったか想像してみろ。なんでしょげて帰ってしまったのか。わかるか?」
「姉弟揃《そろ》って、モテるんだなってショックを受けたつてこと?」
「まあ、自分でそういうことを言うのはどうかと思うが、そんなところだろうな」
蛍子はそこで不意《ふい》に立ち止まって、健一の方を見る。
「……なんだよ?」
「お前ももう少し自覚《じかく》を持て。モチるからって調子に乗れって意味ではなく、お前のそういう無神経《むしんけい》さがあの娘を傷《きず》つけてるってことだ」
「そんなこと言われてもなあ」
健一はじゃあどうすればいいのだろうという気持ちになってしまう。そもそも自分が女の子にモテるなんて思ったこともない。そういうところが自覚が足りないということなのかもしれないが、さっきのがナンパだったということすら気づかなかったのだ。とても千夜子が心配するような人間とは思えない。
「というかだな、お前の行動は明らかにおかしいだろうが」
「どこがだよ?」
「私に部屋を追いだされてなんで海に行くんだ? 普通《ふつう》に考えれば彼女のところだろうが。
『ホタルに追いだされたんですよー』って彼女に泣きついてれば、彼女もここまで不安にならずに済《す》んだろうに」
「そんなこと言われたって、ホタルが着替《きが》えてるんだから、大海さんだって着替えてるわけだろ? そんなところにノコノコ顔を出せる訳《わけ》ないだろ?」
「……お前は本当、アホだな」
蛍子はそれだけ言うとまた歩き始める。
「なんだよ、それ?」
「知るか、自分で考えろ。私はノドが渇《かわ》いたから、冷たいものを買う」
蛍子は健一の質問に答えようとせず、そのまま海の家のある方へと向かう。
「なんだよ、それ……」
健一は訳がわからず、不愉快《ふゆかい》な気分をもやもやと抱《かか》えながらそれに続く。なんで海に来てまで蛍子にアホ呼ばわりされて追いかけてるのか自分でも疑問《ぎもん》を感じてしまう。
「そういや、昔、悟さんが言ってたな」
健一はそれでなんとなく千夜子の兄のことを思い出す。
「大海がなんだって?」
「卒業アルバムを持ってきてさ、大海さんがこれを見たら凹《へこ》むって。ホタルと自分を比べたら落ち込むみたいなことを言ってた」
「……何の話だ、それは」
「あの時は大海さんは大丈夫だったけど、ホタルと一緒《いっしょ》に海に来たせいでああなつちゃったんだなって。あの時は悟さんは大海さんが凹まなかったから不満《ふまん》だったみたいだったけど、今日のこと知ったら喜ぶんだろうな」
健一はそう言って、結局、この旅行には参加しなかった彼のことを思い出す。
「お前は本当、アホだな」
だが蛍子は不愉快そうにそう答えると、健一の思考をまた止める。
「なんだよ、それ?」
「お前、本気で大海があの娘を凹ませようと思って、そんなことしたと思ってるのか?」
「……じゃあ、なんで卒業《そつぎょう》アルバムなんて持ってきたんだよ」
「あの娘をからかうためだろうが」
「それって凹ませるためだろう?」
「んなわけあるか」
蛍子は、悟のことなのに妙《みょう》にハッキリと断言《だんげん》する。
「凹まないとわかってるからそういうことをするんだよ。あの娘のことをちゃんと可愛《かわい》いと思ってるから、そういうことをするんだろうが」
「……わけわからないんだけど」
「お前は大海がお前とあの娘を別れさせようとしてるとでも思ったのかってことだ」
「そうは言ってないだろ?」
「あれこれとあの娘の悪口を言ったかもしれないけどな、それを聞いたところでお前があの娘のことを嫌いにならないとわかってたから言つたってことだ。私の話もそうだ。アイツが私のことをあれこれ褒《ほ》めたかもしれないが、それもあの娘を捨《す》てて、お前が私と付き合ったりするとは思うはずがないと考えてるからなんだ」
「まあ、そうだよなあ。ホタルと大海さんを比べるなんて意味ないし」
「……そういうことだ」
蛍子はそう吐き捨てるように告げると、海の家の前でジュースを売っている女性に金を払ってお茶を買った。なんだかさっきよりもまた不機嫌《ふきげん》そうだった。
「俺《おれ》の分《ぶん》はないわけ?」
「欲しければ自分で買え」
蛍子はそう言って健一に百五十円を渡《わた》す。お金まで用意しているなら、なぜまとめて買ってくれなかったのかさっぱりわからないが……きっとムサグサしているからだろう。
「コーラを一つ」
健一は蛍子がお茶を買った女性にそう話しかけて、コーラを受け取り、蛍子を追いかける。
そこに蛍子が何かもごもごと口の中でくすぶってた言葉を告げる。
「とにかくだ」
「……はい」
「大海だって妹をからかうことはしても、別に嫌がらせをしたいわけじゃないってことだ。だから間違《まちが》えても今日のことをアイツに言ったりするなよ。お前の人格《じんかく》が疑《うたが》われるだけじゃなく私が恨まれる」
健一はそんな蛍子の言葉をなんだか意外だなと感じた。いつもは悟のことを悪く言ってるのに蛍子がそんなフォローをするというのは予想していなかった。
「ホタルはやっぱり悟さんのこと好きなの?」
そんな思いが健一の口から疑問として飛び出る。
「アホか。あんな下品《げひん》な男、好きなわけあるか」
「でもだったらなんで俺《おれ》が悟さんのことを悪く思ってるのを訂正《ていせい》したりするわけ? それにさ嫌《きら》いだったら恨まれたっていいだろ?」
「それはだな……アイツに貸《か》しを作りたくないからだ。アイツのことだ、お前がそんな話をしたらそれをネタに私をゆすろうとするかもしれん」
「いや、それはないと思うけど……」
「お前がアイツをどれだけ知ってると言うんだ?」
「まあ、一度会って話をした程度《ていど》しか知らないけどさ」
「私はアイツと一年間、同じクラスだったんだぞ。アイツのやり口は嫌《いや》ってほど知ってるんだ! ちくしょう。思い出しただけでムカついてきた」
「……そうなんだ」
健一はそうは言ってても、なんだか蛍子が本当は悟のことを好きなんじゃないかと思えて仕方《かた》がなかった。
「なんだ、その顔は?」
そんな考えが顔に出てたのか、蛍子が怪訝《けげん》そうな顔をして健一の方を見ていた。
「悟さんじゃないなら、ホタルは誰が好きなのかなって……思ったんだけど」
そう答えた健一を蛍子はジッと睨《にら》むと、また歩き出す。そしてそれを追いかけた健一に聞えたのはこんな蛍子の独《ひと》り言《ごと》だった。
「お前は本当のアホだな」
「……悪うございましたね」
健一はそれに独り言のように小さく返事をする。そして本当に不機嫌《ふきげん》そうなので、もうこの手の話題をするのは止《や》めようと思った。
健一は結局、海に入ることなく、砂浜で座《すわ》っていた。蛍子が自分が泳《およ》ぐので荷物を見張《みは》ってろと言い出したからだ。
白いTシャツを脱《ぬ》いだ蛍子がその下に着ていたのは黒い水着だった。上下に分かれたタイプのもので、上はホルターネックになっていた。
「……黒か」
健一は海で泳いでいる蛍子を見ながら、なんとなくその色が気になっていた。
黒。別段変わった色ということもないのだが、なんだか綾《あや》と買い物に行った時のことを思い出してしまう。あの時、苦し紛《まぎ》れに言った色の水着を蛍子が看ているというのに何か奇妙《きみょう》な符合《ふごう》を感じてしまうのだ。
それにこうして泳いでいる蛍子を見るというのは、健一にとって初めてのことだった。家族でどこかに出かけるなんて、ほとんどなかった。だから学校指定の水着ならともかく、蛍子が自分の水着を持ってるというのも意外な気がしてしまう。
「絹川って、実は泳げないわけ?」
考え事を中断《ちゅうだん》したのは、そんな質問《しつもん》だった。振《ふ》り返って見上げるとツバメが戻《もど》ってきた。水着姿だ。彼女は青と白のいかにもスポーティなイメージのワンピースだった。
「ホタルが荷物見張ってろって言うから、泳ぎに行けないだけ」
「で、お姉さんは?」
ツバメは健一の言葉に健一の側に置いてあるバッグを見て、それから蛍子を探して海の方へと視線《しせん》を移《うつ》した。
「あの辺にいる」
ツバメが見当違いの方向を見てるので、健一は蛍子のいる方を指差す。蛍子は少し人込みから離《はな》れた波の荒《あら》い場所にいた。
「……いたいた」
ツバメがそう言って、遠目に蛍子の様子を確認《かくにん》するのがわかった。
「鍵原たちが戻ってからずっとあの辺で遊んでる」
「じゃあ絹川も行ってくれば? 荷物は私が見張っててあげるからさ」
「……いいよ。別にホタルと一緒に遊びたいわけじゃないし」
健一はそう言って、ツバメが一人なのを改めて確認する。
「それより大海さんは大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「千夜子は……少し気分が悪いだけだって。寝《ね》てるから遊びに行けばって言われたから、まあ私はそうしようかなって。へへへ」
ツバメが少し引きつった笑いを見せる。どうやら嘘をつく時の癖《くせ》らしい。蛍子の言っていたことが本当なら、千夜子が旅館に戻《もど》ったのは体調のせいではなく、気分の問題だ。ツバメはそのことを健一に悟られまいと感じているのだろう。
「なら、いいんだけど」
だから健一は気づかない振《ふ》りをして、そう答える。
「それにしてもさ――」
そしてわざとなのかなんなのかツバメが別の話題を始める。
「お姉さんって胸《むね》大きいよね」
「……は?」
健一は何を言いだすのだろうかと思い、ツバメの顔を確認するように見る。そんな様子がおかしかったのかツバメが笑うのが見えた。
「お姉さんって胸、どれくらいあるの?」
「二つだろ」
「……絹川はお笑いのセンスはナシか」
「鍵原が妙なことを言うからだろ」
「でも、ほら、絹川は家事とかも自分でしてるんでしょ?」
「それがなんの関係があるわけ?」
「だったら洗濯《せんたく》の時にお姉さんのブラとか見る機会《きかい》もあるんじゃないかと。だったらタグが残ってて、何カップかわかっちゃったりするんじゃないの? EとかFとか」
「別にホタルの胸の大きさなんて興味無《きょうみな》いし」
「……まあ、お姉さんの胸だもんね」
ツバメはそう言ってまた一度、蛍子の方を見て、それから自分の胸に視線を向けた。
「むぅ。お姉さんの方が年上とは言え、なんか敵《かな》う気がしないなあ」
ツバメがそんなことを言うので健一もツバメの胸に視線を向ける。正直、あんまり大きくないし、色気のある胸には見えなかった。
「そういう鍵原はどれくらいあるわけ?」
「なに? そういうこと聞く?」
「なんかそういう話題の流れだし、聞いた方がいいのかなって。いつだったかパンツ見たのに喜ばないって怒《おこ》られたしき」
「本当、絹川って空気が読めないって言うかさ、女の子の気持ちとかわからないよね」
呆《あき》れたようにツバメが口を開く。
「まあ、そうかもしれないけど」
「私は胸が無いからどうしようって思ってるのに聞くなってこと」
「でも胸の話をそもそも振ったのはそっちだろ?」
「まあね。でも気にするなら千夜子の胸を気にしなさいよ。私の胸はどうでもいいの」
「……まあ、そうだけど」
健一は本当ツバメは何が言いたいんだろうなあと思ってしまう。
「そそ、千夜子って言えば、あれでけっこう胸があるのよぉ。そういうイメージはないかもしれないけどさ」
「そうなんだ」
健一は言われて千夜子は胸が大きかったかなあと考えてしまうが、どうもそういう事実はなかったような気がしてならない。
「最近、急にらしいけどね。やっぱり彼氏が出来ると胸って大きくなるのかな……ちっ」
何か一人で呟《つぶや》いてツバメは急に不機嫌《ふきげん》になる。
「でも、それって鍵原より大きいって意味じゃないだろ?」
健一は思ったことをそのまま口にするが、やっぱり失敗だったらしい。ツバメがものすごい剣幕《けんまく》で怒《おこ》り出す。
「私の胸はどうでもいいって言ってるでしょ!」
「……ごめん」
「まったく。私は千夜子の話をしてるんだし、絹川は千夜子の彼氏なんでしよ? ちゃんと千夜子の話題に食いつきなさいよ」
「でもほら、女の子ってさ、自分より可愛《かわい》い娘《こ》のことを悪く言ったりするだろ? だからさっきの話も大きいとは言っても鍵原よりは小さいってことなのかなあって……」
「あのねえ、絹川。私はそんな心狭《こころせま》い女じゃないの。お姉さんは素直《すなお》に奇麗《きれい》な人だと思ってるし、千夜子のことは本当に可愛いと思ってるし、だから大事にしてくれっていつも言ってるでしょ? なのになんでそういう考えになるのよ」
「……そっか。確かに鍵原の言う通りだ」
「わかったなら、よろしい」
ツバメはそう返事をすると、なんだか誇《ほこ》らしげに胸を張った。そのせいで胸の小ささがアピールされる形になる。
「で、ちなみに鍵原はどれくらいあるの?」
なので思わず、また聞いてしまった。
「絹川ぁ! お前、そんなに私に殺《ころ》されたいかあ!」
ツバメは鬼《おに》のような形相を浮かべると、健一の背後《はいご》から首《くび》を絞《し》める。チョークスリーパー。
ツバメの得意技《とくいわざ》らしい。
「ぐぎぎ……」
「絹川は千夜子のことだけ気にしてろってことが、これだけ言ってもわからんのかぁ!」
「いや、でも、ほら大海さんに聞くのは気が引けるし」
「だからって私に胸の話を振《ふ》るなっ!」
さらにツバメはきつく絞め上げる。
「そ、それはマジでごめん……」
いい具合《ぐあい》に技が決まっているらしく、健一は意識《いしき》が遠《とお》のいてくるのを感じる。
「何やってんだ、健一」
そんな彼を呼び止めるように名前を呼ぶ声が聞えた。蛍子の声だ。いつのまにか、こっちに戻ってきていたらしい。
「……あ、お姉さん」
ツバメも気づいたらしく、首を絞める手の力がふっと失せる。それで健一はやっとまともに呼吸《こきゅう》できるようになるが、逆に急に酸素《さんそ》が入ってきたせいか息が荒くなって話すどころではなくなる。
「……はぁ、はぁ」
そんな健一の僻に蛍子はやってきて置いてある荷物からタオルを取り出し、それから改めてツバメの方に話しかけた。
「浜辺でレスリングとは、鍵原さんと健一は思っていたより仲《なか》がいいみたいだね」
「え? そんなことないですよ。もういつもイライラさせられてばっかりです」
なんだか妙に女の子らしい口調でツバメが返事をする。自分に対する態度《たいど》とは全然違うなあと健一は思ったりする。
「ま、そういうヤツだわな、こいつは」
蛍子が健一の方をチラと見て、そんなことを言う。
「悪かったな。気の利かないヤツで」
やっと話せるようになった健一は悪態《あくたい》をつくが、蛍子はそんな彼を笑うだけだった。
「何をいまさらって感じだよなあ、そんなこと」
「だったら言うな」
健一は不貞腐《ふてくさ》れてそう言うが、今度はツバメにも笑われてしまう。
「で、大海さんは?」
蛍子が千夜子がいないのに気づいてツバメに尋ねる。
「あ、ちょっと調子が悪いから部屋で寝《ね》てます」
「……そうか。じゃあ私たちも帰るか」
蛍子はそう言って二人が泳ぐ気がなさそうなのを確認するように見たようだった。
「健一も彼女が調子《ちょうし》悪くて寝てるのに、はしゃいでる気分でもないだろ?」
「まあねえ……でもホタルはもう少し泳いでれば? せっかくだし」
「私はもう疲《つか》れたからいい」
蛍子はそう言うと健一の側の荷物を指差す。
「ん? 何?」
「帰ると言ったろ?」
蛍子は髪《かみ》をタオルで拭《ふ》きながら、さっきと同じく荷物を呼び指す。健一は少し考えて、荷物を持てという意味だと理解した。
「やっぱり部屋割《へやわ》り変えた方がいい?」
旅館へと続く坂道を上っている途中《とちゅう》、ツバメがそんなことを言い始めた。どうもツバメの話題の選び方はよくわからないなあと健一は思う。さっきまで夕食の話をしていたはずなのに、気づくと部屋割りの話だ。
「……なんで?」
「絹川はお姉さんと一緒《いっしょ》にいるのあんまり楽しくなさそうだし」
「まあ、それはそうだけど」
健一はそう言って蛍子の方を見る。蛍子は興味《きょうみ》無さそうに前を向いて歩いていた。
「だから絹川がどうしても変えて欲しいって言うなら、私が代わってあげようかなって思ったんだけど」
「別にどうしても変えて欲しいってことはないけど」
健一は素直にそう答える。まあ蛍子と一緒にいたくてしょうがないということはないが、一緒にいるのが嫌《いや》というわけでもない。それにツバメと蛍子を一緒の部屋にしたら、何を話されるかわかったものではないという気持ちもあった。
「……本当、絹川ってバカ」
だが、ツバメは全く別のことを考えていたようだった。ひどく不機嫌な様子で健一の方を見て、口からはぁと空気を吐く。
「まあ、バカだろうけどさ」
にしたってなんなんだと健一は思うが、隣《となり》で蛍子が笑ったのを見て、状況《じょうきょう》を理解《りかい》していないのは自分だけなんだと気づかされる。
「私はね、遠回しに千夜子と一緒に部屋に泊まれるように計《はか》らってやろうって思ったの」
ツバメに言われて、蛍子とツバメが一緒の部屋ならそうなるかとやっと思い当たる。
「……そんなの大海さんは望んでないだろ」
「かもしれないけど、彼氏が少しも心配してないってことを望んでるとは思えない」
ツバメはキツイ口調でそう言うと、それからアメリカ人がするようなわざとらしい呆《あき》れましたというボーズをとって見せた。
「本当、千夜子もこんな男のどこがいいんだか」
「……だよな」
健一はツバメの態度《たいど》に腹《はら》を立てる気にはなれなかった。ツバメの言い分はもっともだ。自分のせいでショックを受けた彼女を、それを彼女が気づいて欲しくなかったとは言え、気づかうのを忘《わす》れるなんて……ろくな彼氏じゃあないと思う。
「でもま、少しはマシになってるかもね」
そんな健一はツバメが小さく呟《つぶや》くのを聞く。
「そうかな」
「前は言っても全然そうだつて思ってなかったみたいだったけど、今は悪いと思うようになったみたいだし」
「……だといいけど」
健一はツバメの言う通りだと思いつつ、それが「少しばマシ」という状況なのかなと考えてしまった。
「本当、なんで二人ともこんなに暗いんだか」
なのにツバメは今度は怒《おこ》り始める。
「へ?」
「千夜子も絹川もちゃんと相手がいるんだから、もう少し幸せそうにできないの? じゃないと彼氏が出来ないって慌《あわ》ててる私がバカみたいでしょうが」
「……それはゴメン」
健一はそう答えながら、ツバメのことを少し羨《うらや》ましいなと思った。
「とにかく、もっとしっかりしてよね? 千夜子は私の親友で、絹川は千夜子の彼氏なんだからさ。私としては二人には幸せになってもらわないと困るんだからっ」
「……はい」
「声が小さいっ!」
「はい」
「素直でよろしい。でも部屋割《へやわ》りを変える話はナシね。今の絹川じゃ千夜子をさらに凹《へこ》ますだけだし。このことに関しては文句《もんく》は言わせないから」
「はい」
健一はそう返事をしながら、なんだかまるで自分が言い出したみたいな話に気づくとなってるなあと思う。それにツバメは千夜子が落ち込んでることを隠《かく》すのを忘れてしまっているみたいだった。
「鍵原に手加減《てかげん》してもらわずに済《す》むように頑張《がんば》るよ」
でも健一はやっぱり気づかなかつた振《ふ》りをして、そう答えた。ツバメはそれに大きくうなずくと、明るく笑う。
「いつもそれぐらい素直だったらいいのにねえ」
ツバメはそう言って、さっきよりも少し大きく笑った。
それから千夜子とろくに話せぬまま、夜になった。部屋に見舞《みま》いに行ったが、千夜子は心配するほどじゃないですからと言うだけで、今は話したくない様子だったからだ。
「…………」
食事をして七時も過ぎると健一はもうやることがなくなっていた。食事《しょくじ》をしっぱなしで片《かた》づけなくてもいいというだけで、なんだか時間を持《も》て余《あま》し気味なのに、隣《となり》の部屋の千夜子のところに行くのも気が引けるし……で本当やることがない。
蛍子の方はと言えば、荷物の中から大きなスケッチブックを取り出して部屋にあるものを描《か》いてるようだった。この大きな荷物は一体なんなのだろうと思っていたが、なるほど絵の道具だったのかと思う。今は使ってるのはスケッチブックと鉛筆《えんぴつ》だけだが、きっと絵の具とかも入ってるのだろう。
「…………」
絵を描いてる蛍子の姿《すがた》というのを健一はそう言えばあんまり見たことが無いなと思う。作品はたくさん作ってるようだし、部屋もデッサンやらクロッキーやらで散《ち》らかってることも多い。だから熱心に絵を描いてるのは事実として知っていたが、それと描いてる姿を見るのとは別のことなんだなと感じる。
真剣《しんけん》で、そして何も言わない蛍子を見ていて健一は、千夜子やツバメが蛍子のことを美人だと言うのもわかるような気がした。見たこともない蛍子の姿に距離《きょり》を感じ、普段《ふだん》よりずっと客観的《きやっかんてき》に見られたからこその感想だろうか。
そして旅行先でも絵を描くなんて本当に好きなんだなと健一は思う。
「風呂《ふろ》にでも行くか」
見られてるのが気になったのか蛍子がスケッチブックを閉じるとそんなことを言い出す。
「……ああ」
健一は急に現実に引き戻されたような気分になった。そして蛍子がそう言い出した以上、そうするのだろうと思い、実際にもそうした。
「あら、もしかして蛍子ぉ?」
風呂場へと向かう短い道の間に予期《よき》せぬ再会《さいかい》が待っていたようだった。再会と言っても自分の知人《ちじん》とではなく、蛍子の知人らしい。
「……静流《しずる》」
蛍子はその知人のことをそう呼《よ》んだ。その知人は長い黒髪《くろかみ》をした蛍子と同じくらいの年の女性《じょせい》だった。蛍子と比べるとかなり肉付《にくづ》きがよさそうな感じだった。健康的でなんというかむちむちしている感じだった。浴衣《ゆかた》を着ていて、濡《ぬ》れた髪から湯気が立ってる。どうやら風呂に入って帰ってきたところらしい。
「やっぱり蛍子なのぉ? こんなところで会えるなんて奇遇《きぐう》ねえ」
妙《みょう》に高いテンションで静流は蛍子に話しかける。対して蛍子はなんだか少しも乗り気ではなさそうだった。まあ、いかにも蛍子が苦手そうなタイプだなと健一も思う。
「まったくだ。お前、お嬢《じょう》のくせに随分《ずいぶん》としょぼい旅館に泊まってるんだな」
「ま、こういうところはこういうところでいいところもあるのよ」
「そういうもんかね。金持ちなら夏はハワイにでも行ったらどうだ。そうしたら私も会わずに済んだんだけどな」
静流は機嫌よく話しているのに蛍子は相変わらずな口調《くちょう》で悪態《あくたい》をつく。健一はそんな二人の話題に入ることができずただ様子を見ているしか出来なかった。
「ハワイねえ。まあ、昔はそういう定番っぽいこともしたけど……ちょっとね」
「ちょっとなんだ?」
「ダメなのよねえ、ハワイの男たちはなんかチャラチャラしてる感じでさ」
「……そういう意味か」
蛍子はうんざりという感じの態度を見せた。
「だから今年はこの辺りの地元の少年を狙《ねら》っちゃおうかなって思って」
なのに静流はすごく楽しそうに笑う。蛍子がそんな自分を嫌《いや》がってることも含《ふく》めて嬉《うれ》しいのかもしれないなんて健一は感じた。
「そりゃ災難《さいなん》なことだな」
「外人は優《やさ》しいから普通《ふつう》の時はいいんだけど、肝心《かんじん》な場面になると物足りないのよねぇ。やっぱりもっとこうギラギラしてて欲しいじゃない、男の人にはさ」
「……そういうヤツだったよな、お前は」
「そういうヤツよ、私は」
静流は蛍子の嫌みにも全く動じる様子もなく、逆に誇《ほこ》らしげにそう答える。
「んなことばっかりしてると、いつか夏休み明けに後悔《こうかい》するようなことになるぞ」
蛍子が静かにそんなことを告《つ》げるが、やっぱり静流は笑い飛ばすような態度を見せる。
「そこはほら、優秀《ゆうしゅう》な医者がついてますから、大丈夫ですのよ、オホホのホ」
「……なるほどねえ。そりゃ用意周到《よういしゅうとう》なことで」
蛍子はそれでもう静流とコミュニケーションを取るのを諦《あきら》めたようだった。健一の方をチラと見て、それから当初の目的通り、風呂場に行くことにする。
「あら?」
しかし静流は健一の方を見た後、そんな蛍子の腕《うで》を掴《つか》む。そしてそのまま少し健一から離れるように歩き始める。
「まだ何か用か?」
蛍子が不満そうに尋《たず》ねる。静流はその質問が要するにもう話したくないという意味だと気づいていたのだろうが、無視《むし》したようだった。顔を近づけて、声を抑《おさ》えて別の質問《しつもん》で返《かえ》す。
「あの子、もしかして蛍子の彼氏《かれし》?」
あの子というのは間違《まちが》いなく健一のことだった。他にこの場に誰もいない。
「……そうだけど、それがなんだ?」
なのに蛍子はそう答えた。いつのまに自分は蛍子の彼氏になっていたのだろうか。
「あ、そうなんだ。そっかあ、それは何より」
静流は蛍子の言葉に心底、嬉しそうな顔を見せる。蛍子の嘘《うそ》を見破《みやぶ》って、笑いものにしてるとかそういう感じではなかった。
「それはどうも」
「私さあ、本当、心配してたの。蛍子ったら絵ばかり描いててさ、他の人に全然興味《きょうみ》無いみたいだったから、いつか頑張《がんば》りすぎて壊《こわ》れちゃうんじゃないかなって。でもちゃんと遊んだりできるようになったのね」
「お前に遊びって言われるとなんかひっかかるな」
「変な意味じゃないわよ。よく学び、よく遊べってこと。でも、そっか。蛍子って男に興味がないのかなあと思ってたけど、単に面食《めんく》いだったのねえ。かなりいい感じの男の子じゃない」
「……それはどうも」
そんな返事に静流が悪戯《いなずら》っぱく笑うのが見えた。静流はそれからさらに蛍子の顔に近づいて、一つの質問をする。それは小さな声のはずだったが、健一の耳にもしっかりと届《とど》いた。
「で、もうやっちゃったの?」
蛍子はその質問に固まったようだった。何も返事をせず、そのまま静流を見ている。
「……まだなの?」
「お前には関係ない」
もう一度聞かれて、やっと蛍子は答えた。それを聞いて静流は蛍子から離《はな》れると、少し考えるような仕草を見せる。
「そうか、今日、勝負かけるつもりだったのかな……だったらごめんなさいねえ、邪魔《じゃま》しちゃったみたいで」
「お前の場合、すでに存在《そんざい》自体が邪魔みたいなもんだから今更《いまさら》だけどな」
「あらあら、相変わらず言ってくれちゃって、もう」
蛍子の険悪《けんあく》な物言いにまったく動じることなく、静流は朗《はが》らかにそう答える。
「じゃ、お邪魔みたいなので私はこの辺で消えさせてもらうわね」
そして今度は自分の方から蛍子の元を離れていく。
「じゃあな」
蛍子はそれに一応の別れの挨拶《あいさつ》をして、健一にさっさと来いと手で合図をする。
「彼氏君もさよなら」
そんな健一の横を静流は通り抜けていく。それで健一も一応、別れの挨拶をする。
「あ、さようなら」
「いいんだよ、お前は」
蛍子はそう言ってさっさと歩き始める。健一はそんな蛍子の方を見たがなんだか気になってしまいやっぱり静流の方を振《ふ》り返《かえ》る。
「…………」
そして静流が自分たちの泊まってる隣《となり》の部屋に入っていくのを見ると慌《あわ》てて、蛍子を追いかけることにした。
「なんかあの人、俺達の部屋の隣に泊まるみたいだけど」
「……そうか」
蛍子は半ば察《さっ》しがついていたという感じでさほど驚《おどろ》いた様子は見せなかった。
「というかあの人って誰なわけ? ホタルの友達?」
「友達……って言えば、そうかもな」
蛍子は悔《くや》しそうにそんな風に静流のことを評《ひょう》した。
「高校時代の部活仲間。名前は有馬《ありま》静流。お嬢《じょう》なのに下品なヤツ」
「ま、その辺は見てわかったけど……」
健一はそう言いながら、静流の名字が冴子と同じであることに気づく。まあ、有馬なんてそんなに珍《めずら》しい名字でもないが。
「男漁《おとこあさ》りが趣味《しゅみ》で、学校じゃ誰《だれ》とでも寝《ね》る女って言われてた。まあ、あの様子じゃ今もそうみたいだな」
「……まあ、さっきの話を聞くかぎりじゃそうなのかな、やっぱり」
健一はまたなんだか聞いたことの有るような話だなと思う。
誰とでも寝る女。それはまさに有馬冴子の学校での風評《ふうひょう》だった。
「なんつったっけ、お前が小さい頃《ころ》、呼んでたビルの名前……亡霊《ぼうれい》マンション?」
しかし冴子を知らない蛍子は別の方向に話題を向けたようだった。
「幽霊《ゆうれい》マンション」
「静流はあのビルのオーナーの娘《むすめ》なんだとさ」
「……へえ」
健一は言われて、また一つ思い出したことがあった。
有馬第三ビル――それがあの幽霊マンションの名前だった。
「……ふう」
風呂《ふろ》から戻ると、やっぱりすることがなかった。蛍子の方が風呂が長いのでまだ帰ってきそうにない。今度は蛍子を見ているということもできない。
だから健一はぼんやりと冴子のことを考えていた。
さっき会った有馬静流という女性。有馬第三ビルという名のあのマンション。その二つと冴子の名字が有馬であることは無関係《むかんけい》とは思えなかった。
関係があると思う根拠《こんきょ》というのもそんなには無いが、静流もかなりタイプは違うがどこか冴子に似《に》ているような気もした。
「やっぱり姉妹《しまい》なのかな、あの人と有馬さんは」
だとしたらなんなんだと健一は思ったが、今頃、冴子がどうしてるだろうと想像《そうぞう》しようとしてもあまりいい気分にはなれないと感じる。
冴子は言っていた。自分はエッチ依存症《いぞんしょう》かもしれないと。そして、男とそういうことをしないと寝ることが出来ないと。
最近はその役を自分が引き受けていたが、今日は違う。そして明日も違う。健一は冴子をあのマンションに残して二泊三日の旅行に出かけたのだから。
「……どうしてるのかな、有馬さんは」
不安な気分になった。自分と冴子は別に恋人《こいびと》でも何でもないことは知っている。毎晩《まいばん》のように肉体を重ねてはいたが、それだって冴子が睡眠《すいみん》をとるための日課のようなものだった。
冴子がそれをどう考えてるのかは知らなかった。聞いても答えてくれないだろうし、あまり聞きたいとも思わなかった。
冴子が自分のことをどう考えてるのか。時々、健一は不安にはなった。だが気にしてもしょうがないことだと思うしかない。冴子はそういうことには何も答えてくれないし、自分たちはそういう関係ではないのだから。
「大丈夫《だいじょうぶ》って言ってはいたけど」
健一は旅行について話したときの冴子の言葉を思い出す。
大丈夫だから。冴子はそう言ったが、それが何故《なぜ》かは教えてはくれなかった。聞いて欲しいようには見えなかったし、聞けなかった。だから健一にはわからない。
「やっぱり……他の人とするってことなのかな」
冴子を独占《どくせん》する権利《けんり》など自分にはないことはわかっている。冴子は誰のものでもない。自分の彼女でもない。だから冴子が寝《ね》るために誰か他の人に頼《たよ》るとしても、それは彼女にとって必要な。となのだし……健一としては受け入れるしかないことだった。
そして健一は本当に不思議な関係だなと思うしかなかった。一緒の部屋に住んで、毎晩のように関係を持っているのに、健一は冴子のことはほとんど言ってもいいほど知らない。
普通の相手とはけっしてしないことを毎日しているのに、普通の相手よりもずっと遠い関係でもあった。マンションの中ではともかく、外では他人同士で、クラスメイトなのに教室で話すことすらしない。
そんな自分に冴子をどうこう言うことなどできるはずがないと思う。彼女はただ必要だからそうしてるのだ。もしかすると自分のことを便利な相手だと思っているだけかもしれない。
「……そうだよな。そして、それでいいはずなんだよな」
冴子はそれを望んでいたし、だから自分を選んだのだ。健一は千夜子と付き合っていて、冴子のことを好きになったりしないから。それが冴子が自分を選んだ理由だった。
1303の鍵《かぎ》を持った者同士だったからではなかったのだ。冴子が健一を選んだのはそれが理由ではない。もしそうなら、あの部屋に連れていった日に健一に自分の事情《じじょう》を話し協力を求めたはずだ。
「それでいいはずなんだよな」
健一はその言葉を繰り返すが、気持ちはそれを否定《ひてい》していた。
私はエッチしないと眠《ねむ》れない。だからするだけなのに、それだけなのに、それだけにしてくれない――冴子はそう言っていた。だから特別なことだとは思ってはいけないと健一は思う。
冴子とのことは『それだけ』のことなのだ。そうでなければいけないのだ。それが出来るから、冴子は自分の側にいるのだから。
「……そうじゃないといけないんだ」
健一は自分に言い聞かせる。だが心は納得《なっとく》してくれなかった。まだ二十四時間も経《た》ってないのに、健一は冴子と会えないことを寂《さび》しいと感じていた。
そして、健一は冴子に会いたいと思う。そんな風に人に対して思ったのは初めてのことかもしれない。健一はそう感じて、冴子のことをまた思い出した。
「きゃっ」
でも健一は短い悲鳴《ひめい》のような声とドスンと響《ひび》く音で我《われ》に返った。隣《となり》の部屋で誰《だれ》かが壁《かべ》にぶつかったらしい。
「大丈夫かな?」
健一は暴力事件《ぼうりょくじけん》でも起きたかと心配したが、すぐにそういうことではないと気づいた。
「もう、お昼からあんなにしてたのに」
「そんなの関係ありません! ダメですか? 僕じゃダメなんですか?」
壁越《かべご》しに二人の人間が話してる声が聞えた。一人は女、そしてもう一人は男らしい。
「……静流って人だよな」
健一は音がしたのが静流が泊まってる部屋だと思い出し、何が起こってるのか理解した。
「ダメよ、ここじゃ。そんなに焦《あせ》って壁に押し付けたりしなくても逃《に》げたりしないから」
「……心配なんです。静流さんは年上で、僕よりずっと大人だから」
「でも、ここじゃ隣の人に聞えちゃうでしょ?」
静流がそう言ったようだったが、それで二人が場所を変えるような気配は感じなかった。なので健一は自分の方が移動《いどう》するしかないのかなと思う。
「……とは言っても、どうすればいいんだよ」
健一は部屋を見渡《みわた》すが、そんなに広くはないし、少々移動したところで壁越しになにやら音が聞えてくることには変わらなかった。
「出ていくか、どうせすることないし」
健一はそう思って部屋《へや》を出ていくことにする。
「どこか行くのか、健一?」
ちょうどドアの鍵《かぎ》を閉《し》めているところに蛍子が戻ってきたようだった。声の方を見ると浴衣《ゆがた》姿《すがた》の蛍子が不審《ふしん》そうに自分の方を見ていた。
「……ま、当《あ》てはないんだけど、そうせざるを得ないみたいなんだよ」
「なんだ、それ?」
蛍子は事情がわからず眉《まゆ》をよせ、それから部屋に入ろうとする。
「入らない方がいいと思うよ」
「だからなんなんだ、さっきから?」
「隣の部屋でさ……」
健一はハッキリとそれを言う気になれず、後は黙《だま》って隣のドアを指差《ゆびさ》した。
「そういうことか、まったく……あの女は」
蛍子はそれで理解《りかい》したらしく、低く小さく呟《つぶや》いた。
「仕方ない、散歩にでも行くか」
そう言いつつ蛍子は鍵を健一から取り上げると、ドアを開けて適当《てきとう》に自分の荷物を部屋の中に放《はう》り込《こ》んだ。着替《きが》えを持って歩き回るというのも落ちつかなそうだなと健一は思う。
「俺はどうすればいいんだよ?」
そうこうしてる間に蛍子がさっさと歩き出したので健一は追いかけるように尋ねる。
「……自分で決めろ」
蛍子は立ち止まることなくそう答えた。
「じゃ、俺も散歩に行くよ」
健一はそう言って蛍子を追いかける。
「しょうがないヤツだな、お前は。一人じゃ何もできないのか?」
蛍子はそう呟きながらも、少し立ち止まったようだった。それを健一は自分のことを待ってくれているのかなと思ったが、蛍子は健一が追いつく前にさっさと歩き始める。
「鍵はやっぱりお前が持ってろ」
そして無造作《むぞうさ》に蛍子は鍵を投げ、健一は慌《あわ》ててそれを受け止める羽目になった。
外は昼間と違って随分《ずいぶん》と涼しかった。そして暗かった。意外に街灯《がいとう》が少ないらしい。
海への道を健一は歩きながら、でもその分、星が奇麗《きねい》だなと思う。海の方は何も灯《あかり》が無《な》くて、本当に星が良く見えた。地元では有《あ》りえない景色《けしき》だ。
「星ってこんなにたくさんあるんだな」
同じことを思っていたらしい。蛍子は不意にそんなことを呟いた。
「俺も驚《おどろ》いてた」
思い出せば子供《こども》の頃《ころ》はもっと暗くて星の見えるところに住んでたはずだが、引っ越して以来、そんなことも忘《わす》れてしまっていたようだった。
「そうか。お前と同じことを思ってたとは……私もヤキが回ったのかもな」
「……どうして、そう言う言い方するんだよ。星が奇麗なんだから奇麗でいいだろ」
「ま、そうだな」
蛍子は健一の言葉を否定《ひてい》せず、そんな言葉を返す。
歩いているうちに車道に出た。それで二人は立ち止まって車が来ないか確認《かくにん》する。
来ない。だから二人で少し足早に渡った。
「花火してるみたいだな」
浜辺に続くコンクリート製《せい》の階段《かいだん》を下りると、少し離れたところで花火をしている一団《いちだん》が見えた。その中の一人が白い浴衣を着ていて、それが時折、花火の光で映《うつ》し出される。
「……とか言いつつ逆に行くわけ?」
健一は蛍子が別の方向へと歩き始めたので慌《あわ》てて、それを追いかける。
「花火がしたいなら、明日、あの娘が元気になったらやればいいだろ」
「ま、そりゃそうだ」
知らない人間の中に入ってまで花火がしたいわけでも、そういうお祭り好きの人間でもない。
蛍子が選んだ道の方が確かに正しい。
「……引き返すぞ」
でも蛍子は小さく呟くと、方向転換《てんかん》する。
「え?」
健一はなぜかわからず、立ち止まってしまう。蛍子はそんな健一の手首を掴《つか》むと引っ張るように花火をしている一団の方へと足早に進む。
「ちよ、ちょっとなんなんだよ?」
「大きな声を出すな」
蛍子は低く小さくだが、逆《さか》らえぬ迫力《はくりょく》で命令[#で]する。
「……はい」
健一は理解は出来ないがとりあえず従《したが》うことにする。歩くスピードを上げる。それで蛍子は掴んでいた手首を放した。
「本当、なんなんだよ、突然《とつぜん》」
健一は自由になった左手を軽く振りながら不満《ふまん》を呟《つぶや》く。
「……静流よりも下品なことを考えてる連中がいたってことだ」
蛍子はそれだけ答えて、もう何も言わなかった。健一は意味がわからず蛍子の顔を見るが、蛍子は顔を海の方へ逸らした。
「…………」
「察《さっ》しろ」
健一がずっと見てるのが耐《た》えられなかったのか、蛍子はそう呟く。
「……察しろと言われても」
「だったら忘れろ」
「ま、どうでもいいけどさ」
健一はそう呟いて、言われた通り、忘れることにする。別に蛍子が妙なこと言い出すのは今に始まったことではない。
それから二人は無言でしばらく歩いた。花火をしている一団の近くを通りすぎるが彼らは二人にはなんの興味《きょうみ》も持たなかったようだった。彼らは彼らだけで盛り上がってる。他の人間のことは気づかないようにしてるのかなと健一は思ったりした。
「なあ、健一」
花火から十分に離れた辺りで、蛍子が不意に健一の名前を呼んだ。
「なんだよ?」
「あまりこういうことは言いたくないんだけどな」
「言いたくないなら言うなよ」
健一はどうせ言うんだろうと思って、とりあえずそんなことを言ってみる。
「あの娘《こ》と付き合ってて楽しいのか?」
そして健一の思ったとおり、蛍子は結局《けっきょく》、言おうとしていたことを言ったようだった。
「楽しいよ」
「そうか。じゃあ質問《しつもん》を変える。あの娘はお前と付き合ってて楽しいと思うか?」
「……それはまあわからないけど、楽しいんじゃないの?」
正直《しょうじき》言うとその辺はかなり自信が無《な》かった。千夜子の方から付き合って欲しいと言ってきたのだし、楽しくないのなら終わってても不思議じゃない関係だとは思うが、本当にそうかと言われると疑問《ぎもん》は残る。
「今日一日、お前とあの娘を見ていたがバランスが悪いとしか思えなかった」
「関係ないだろ、ホタルには」
健一は反射《はんしや》的にそうは言っては見たが、蛍子の分析《ぶんせき》はいつものように正しいと感じる。
「お見合いだな」
「……お見合い?」
「バレーボールで微妙《びみよう》なところにボールが飛んできた時に、誰がとればいいのかわからなくなって、それでお互《たが》い見合っている間にボールが落ちることがあるだろ? それだ」
「……よくわからないんだけど」
「お前もあの娘も相手の出方を見て動くタイプってことだよ。だからどっちも動かないまま、何もできないまま」
「……だったら悪いのか?」
健一は蛍子の言う通りかもしれないが、それを否定したかった。
「悪くないだろうなあ。少なくともお前にとってはな」
蛍子はそう言って立ち止まると健一の方を見る。健一も足を止める。
「でも大海さんにとっては悪いって言うのか?」
「かもしれないってことだよ」
蛍子はそこまでで口を閉じた。健一の反論《はんろん》を待っているようだった。
「かもしれないって言われたら、否定《ひてい》できないけどさ」
「お前にとってはどう転《ころ》んでもいい相手だろうけどな。向こうは必死なんだ。そして必死なのに何も進まないんだ。それをお前はいい関係だと思うのか?」
「……そうだよな」
健一は蛍子の言葉に反論できず、曖昧《あいまい》な返事をする。
「あの娘には何も悪いところはない。いい娘だと思う。でもお前とは合ってない」
なのに蛍子は容赦《ようしゃ》なくさらに言葉を続けた。
「だったらどういう娘が俺に合ってるって言うんだよ?」
健一は蛍子の言葉に無理やりでも割《わ》り込《こ》もうとそんな問いを発《はっ》する。しかし蛍子にはそれは予想の範疇《はんちゅう》だったらしい。何の迷《まよ》いもなくさらりと答えた。
「そりゃ年上で、あれこれ命令するタイプだろ」
「……そんなホタルみたいな女は俺は嫌《いや》だ」
健一はそう呟くと蛍子を置いてそのまま歩き出す。
確かに蛍子の指摘《してき》はどれも正しいかもしれない。でも、そんなこと蛍子に言われたくはなかった。健一と千夜子の間に問題があったとしても、それは二人の問題だ。
「逃《に》げるのか、健一?」
蛍子の言葉に健一は引き戻《もど》される思いだった。立ち止まり、振《ふ》り返《かえ》ると蛍子はさっきと同じ場所でこっちを見ていた。
「問題がない人間関係なんてあるのかよ」
だから健一は蛍子にそう尋《たず》ねる。逃げると言われてはそのままにしておけなかった。
「ん?」
「俺と大海さんの間には問題がある。でもあるからダメなのか? 他の人たちは問題ないから付き合ってるのか?」
「ま、そうだな」
蛍子はどっちともとれることを呟いて笑ったようだった。
「なんだよ、それ」
「いや、お前の言う通りだよな。問題がない人間関係なんて……ないだろうな」
蛍子はそれで健一の側《そば》に寄ってきた。でもそれはただ歩き始めただけで、健一の横を通りすぎていく。
「……だったらなんであんなこと言ったんだよ?」
健一は追いかけるようにそんな質問をする。
「私は問題があったらダメだろうって思ってた」
蛍子はあっさりそう答える。
「だったら本当、余計《よけい》なことだろ、さっきの」
「でもお前だってさっきまで思ってなかっただろ。問題があってもいいって」
「そりゃそうだけど」
健一は言われて、そう考えさせるためにあんな話をしたのかなあと感じた。でもやっぱりただの思いつきかもしれないとも思う。
「なあ、健一」
健一の名を蛍子がまた呼んだ。
「なんだよ。大海さんの話ならもう聞きたくない」
「……ま、関係ないかな」
「ならいいけど」
「なあ、健一。セックスってのはそんなに楽しいのか?」
「は?」
健一は蛍子の口からそんな質問が出てくるとは思ってなかったので固《かた》まってしまう。
「セックスってのはそんなに楽しいのか?」
「……さあ」
健一は改めて尋《たず》ねられて考えてしまった。楽しいかどうかなんて思ったこともなかった。
そしてしてる最中はともかく、その後はいつも後悔《こうかい》ばかりだなあと健一は思い出す。
「ま、楽しいんだろうな。お前なんかそれ目当てで年上の女の所に通っているわけだしな。しかも毎日、毎日」
でも蛍子は健一の沈黙《ちんもく》を肯定《こうてい》と取ったようだった。
「別に……そんな関係じゃないんだけどな」
健一は蛍子が自分と綾《あや》のことを誤解《ごかい》してるのを感じたが、だからと言って本当のことを言うわけにもいかない。
「そういうお前はどうなんだよ」
だから健一は逆に蛍子に同じ質問《しつもん》を返す。
「……私か?」
「ホタルは男が嫌いっぱいし、彼氏がしたがるから仕方なくとかそんなんだろ」
そう言われて蛍子は押《お》し黙《だま》った。
「…………」
健一はそして気まずいものを感じる。なのに蛍子は何も言ってくれない。
「ど、どうなんだよ?」
健一は沈黙《ちんもく》に耐《た》えられず、もう一度尋ねてしまった。だが、さらに気まずさが増すだけだった。答えを知りたいわけでもない質問なんてするもんじゃないと思う。
「お前は好きな相手としたことないのか?」
蛍子がやっと口を開いたが、それは質問の答えではなく、新たな質問だった。
「え?」
「私は男は嫌いだし、セックスも好きじゃない。でも相手が好きなら話は別だ。好きな相手となら……何度でもしたいって思う」
蛍子は健一の方を見ないでそう答える。
「そう、なんだ……」
健一はなんだか意外な答えだなあと感じた。蛍子が正直にこんなことに答えるということ自体、予想していなかった。
でも健一は変だなと感じた。ならなんで蛍子には彼氏の気配がないんだろう。そんなことを思う相手がいるなら、なんで彼氏の気配がないんだろう、と。
「……ごめん、変なこと聞いて」
健一は小さく謝罪《しゃざい》の言葉を呟いて、さっきの疑問《ぎもん》に答えが見つかったような気がした。
蛍子は振《ふ》られたのだろう。でもその人のことを忘れられないでいるのだ。
「ごめん、変なこと聞いて」
だから健一はもう一度、謝罪の言葉を口にする。
「ま、こっちが変なこと聞いたせいだしな」
蛍子は珍《めずら》しく機嫌《きげん》良さそうにそう答えると、また歩く方向を変えた。
もう旅館に帰る気になったらしい。だから健一はそれに続いた。
ノックする音に目を覚ます。
「……はい」
そして布団《ふとん》をもそもそと抜《ぬ》け出してドアを開けると、そこには元気の無《な》さそうな千夜子が立っていた。
どうやらもう朝になっていたようだ。あまり寝た気がしないのに、時間だけは残酷《ざんこく》に現実《げんじつ》を告《つ》げているということらしい。
「絹川君、眠《ねむ》そうですね」
そして元気が無さそうな千夜子に健一は心配されてしまう程《ほど》、眠そうだったようだ。
「あんまり寝《ね》れなかったんですよ」
健一はそして昨晩《さくばん》のことを思い出す。散歩から戻《もど》ってきても、まだまだ隣人《りんじん》たちは元気な様子で結局、また外に出ることになったのだ。そしてそれの繰り返し。
やっと落ち着いたのはもう空が白み始めた頃で、寝れたのはどうやら二時間くらいだ。八時になると朝ご飯が部屋に届《とど》くと聞いていた。だからまだそれよりは前のはずだ。
「何かあったんですか?」
千夜子が心配そうに尋ねてくるが、健一はどう答えたもんだろうと思ってしまう。
「いや、その隣《となり》の部屋の人がうるさくて……」
なんとか無難《ぶなん》な返事を健一はひねり出す。
「じゃあ今晩は部屋取《と》り換《か》えましょうか?」
「え?」
「隣の部屋がうるさいなら、私たちの部屋と取り換えましょうかって。私もツバメもあんまりうるさいの気にならないですから」
「……どうかな、それは」
健一はなんの邪気もなく、気遣《きづか》いを見せてくれる千夜子にどう話したものかと思ってしまう。
「本当なんですよ。もう二人とも寝ちゃうと何が起こっても起きないんです。だから隣がうるさくて寝れないなら、私たちがこっちで寝ますから」
「うーん。でも今晩はもう別の人になってるかもしれませんし」
健一は本当のことを話す気にはなれず、そういってその場は誤魔化《ごまか》すことにした。
「じゃあ今晩も同じ人たちだったら、その時は相談《そうだん》してください。私たちは本当、うるさくても全然平気ですから」
でも千夜子は疑《うたが》いの一つも持たず、そんな優《やさ》しさを見せたのだった。
二日目も似たような時間になるまで海に行かなかった。理由は朝ご飯を食べてからまた寝ていたからだ。
そしてそのせいか、千夜子はまた精神的《せいしんてき》に弱ってるようだった。健一と蛍子が寝ている間に、それを自分のせいだと悩《なや》んでいたのかもしれない。
「荷物は私が見てますから」
千夜子は、健一たちに泳いできてくださいと告《つ》げた。
昨日は旅館に戻ってしまったことを考えると、大きな進歩と言えるかもしれないが、彼女を砂浜《すなはま》に置き去りにして自分の姉や彼女の友達と海ではしゃぐというのもどうかと思う。
「だったら僕も」
それで自分も残ろうと健一は提案《ていあん》しようとするが、ツバメに手首をつかまれる。
「……いいのよ、絹川」
そしてそんなことを耳打ちされる。
「なにがいいわけ?」
「とにかくいいの」
ツバメはそう言ってそのまま健一を引っ張って海の方へと向かう。
「あ、じゃ、また後で」
健一は慌《あわ》てて千夜子に挨拶《あいさつ》する。千夜子は千夜子で慌てて挨拶を返す。
「ま、また、後でですね」
「じゃあね、千夜子」
そしてそれをかき消すようにツバメが大きな声をあげる。
「……で、何がいいわけ?」
健一は千夜子から十分距離を置いたところで手首を放《はな》された。それで改めて質問をする。
「あの娘のしたいようにさせてやれってことだろ」
そう答えたのは蛍子だった。ツバメがそんな蛍子を尊敬《そんけい》のまなざしで眺《なが》め、それから健一の方へ軽蔑《けいべつ》のまなざしを向ける。
「お姉さんはわかってるのに、絹川はなんでわからないかなあ」
「でも、この状況《じょうきょう》はどうかって思うだろ?」
「そりゃそうだけど、千夜子はああ見えても言い出したら聞かないタイプだから。とにかく一人で残るつて決めちゃった以上は、ね。とりあえず、そうさせてあげないと」
「とりあえずってことは、すぐに戻《もど》るわけ?」
「そりゃそうよ。もっとも戻るのは絹川一人だけだけどね」
ツバメはそれでニヤリと笑う。何か企《たくら》んでいるらしいのがそれだけでわかった。
「俺だけ?」
「いい? 今は千夜子は後悔してるはずなの。わかる? 昨日のことや絹川たちが寝不足になるようなことになってしまったことに対して責任《せきにん》を感じてて、だから一人残るって決めたけど、やっぱり一人になっても解決することじゃあないし、やっぱり絹川君と一緒《いっしょ》にいたかったなあって思い始めてる」
「……そうかなあ」
健一はツバメの言葉をイマイチ信用できなかった。いつもの思い込みという可能性《かのうせい》もあるし、どうも信じがたい。
「あのねえ。私と千夜子は親友《しんゆう》なのよ。だから千夜子の考えてることは手に取るようにわかるの。だから私の言う通りにすればいいのっ!」
「……はい」
ますます信じられなくなったが、今はそう返事をするしかなさそうだった。チラリと横目で蛍子を見ると笑いをこらえていた。
「で、どうしろっての?」
それでもここはツバメの提案《ていあん》を受けるしかなさそうだ。健一は覚悟《かくご》を決めて彼女の話に耳を傾《かたむ》けることにする。
「もう少ししたら、絹川は一人で戻って『やっぱり大海さんと話したくて戻ってきてしまいました』と言うの。わかった?」
「はあ」
しかし早くも覚悟が挫《くじ》けそうだった。
「真剣《しんけん》に聞きなさいよ、もう。さっきの話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたけど」
「じゃあ、セリフの練習。はい、言って」
「練習って……」
「言うの! それとも聞いてなかった?」
「……やっぱり大海さんと話したくて戻ってきてしまいました」
「もっと元気よくっ!」
「やっぱり大海さんと話したくて戻ってきてしまいました。ははは」
「そこで笑わない。真剣に言え、真剣にぃ」
「やっぱり大海さんと話したくて戻ってきてしまいました……」
健一は蛍子が隣で笑っているのを気にしながら、真面目な顔でセリフを繰り返す。
「まあ、一応《いちおう》、合格《ごうかく》ということにしておくか」
「それはどうも」
「で、次にいい感じに世間話をする」
「すでに作戦って感じから遠ざかってきたような」
「うっさいわね。アドリブってやつよ、アドリブ!」
「……さっきは練習させて、今度はアドリブですか」
「うっさいわね。絹川が全然頼《たよ》りないから私が考えてあげたんじゃない」
「それは感謝《かんしゃ》してるけど……」
もう少しうまく行きそうなプランにしてくれないかなあと健一は思う。
「で、そうこうして打ち解けた頃に私が戻るから、そうしたら二人で泳ぎに行こうって誘《さそ》うの。いい? ここが肝心《かんじん》だからね」
「……色々と肝心なところが抜けてた気がするけど」
「でもここが一番肝心なのっ!」
「はい」
「で、絹川はお姉さんを探《さが》す振りをしながら、千夜子と人気の無《な》いところへ行くの」
「人気の無いところねえ……」
健一は浜辺を見回すが今日は昨日より人が多いようだった。人気の無いところまで行こうとしたら何キロ歩いたらいいんだろうと思ってしまう。
「なによ、いちいち文句《もんく》言って」
「いや……で、それからどうするの」
「そうしたらこれよ!」
ツバメはそう言って何やらお尻の辺りを探《さぐ》り始める。
「どれ?」
健一はその手際《てぎわ》の悪さに呆《あき》れてしまう。それでもやっと目的のものを見つけたらしくツバメは彼の前にそれを突き出す。
「……これでどうしろと?」
ツバメが取り出したのは、いわゆる避妊具《ひにんぐ》であった。しかも男が使う一般《いっぱん》的なヤツだ。
「絹川はこれが何か知らないわけ?」
「まあ、知ってはいるけど」
「じゃあ、もうわかるでしょ?」
そう言ってツバメはそれを健一の手に握《にぎ》らせる。
「……いやあ、どうかなあ、その作戦は」
健一は呆れ果ててそう呟くが、ツバメはそんな彼を別の意味にとったようだった。
「まあ、絹川も経験無《けいけんな》いから自信が無いのはわかるけどさ」
「…………」
健一は改めてツバメの思い込み力の圧倒的《あっとうてき》な強さを思い出してしまう。
「大丈夫だって。千夜子《ちやこ》だって初めてだから、少々手際が悪くても『そういうものなのかな』って思ってくれるから」
「いや、だから、そういうことじゃなく」
「あ、そうかっ!」
ツバメは何か閃《ひらめ》いたらしく、また自分のお尻の辺りを探る。
「一個じゃすぐ終わった時に困るってことでしょ?」
「は?」
「一個じゃ足りないかもしれないから、二個渡《わた》しておくね」
「……いや、そもそもいらないし」
ツバメの思い込みの強さに半ば感心しながら、健一は綾《あや》とはいきなりなのに五回してしまったことを思い出してしまう。
「というかさあ、何をさせたいわけ、俺に?」
健一はそんな思い出を振り払うように少し大きな声でツバメに尋ねる。
「やっぱり、することするって大事だと思うんだよね。絹川の彼氏としての自覚ももっと恋人《こいびと》らしいことすれば芽生《めば》えるかもしれないし。別に良いじゃない。上手く行っても行かなくても。千夜子は絹川がそういうことをしようとしたってことだけで嬉しいと思うし」
「…………そうかなあ」
やはり、ツバメの思い込みにはついていけないと健一は感じる。
「もし二個でも足りなそうなら、私の鞄《かばん》に箱ごと入ってるから持ってって」
「あの、それはどのタイミングで取り出せということなんでしょうか? 大海さんと話しながら鍵原の鞄を探《さぐ》れとでも?」
「そこは上手くやればいいの。千夜子の気をそらした隙《すき》にどうとでも出来るでしょ?」
明らかに破綻《はたん》した作戦なのにツバメは認《みと》めようとしないらしい。おそらく彼女の心の中では何度もリハーサル済《ず》みの完ぺきな作戦ということになっているのだろう。
「そろそろいいんじゃないのか?」
様子を黙って見ていた蛍子がやっと口を開いたと思ったら、それは催促《さいそく》の言葉だった。健一《けんいち》はまさか蛍子もさっきの話に賛成《さんせい》なのだろうかと考えたが、彼女の顔に浮かぶ笑いをこらえた表情にやっぱりそうではないと気づく。
「……何がいいんだよ?」
「あの娘がそろそろ戻ってきてくれないかと思ってる頃合《ころあ》いだろってことだ」
蛍子はそう言って少し真面目《まじめ》な顔をした。確かにツバメの作戦はともかく、千夜子が戻ってきてくれるのを待ってるということはありそうだった。
「まあ、それはそうかな」
だから健一は戻ることにした。ツバメから渡されたものはいるとは思えなかったが、捨てるのもどうかと思い、とりあえず後ろのポケットに入れた。
「グッドラック!」
ツバメが嬉《うれ》しそうにそんなことを言ってサムズアップの仕草を見せる。
「……運の問題じゃないと思うけどなあ」
でも健一は小さくそうツッコミながら千夜子の元へと急いだ。
「困ります」
さっそくツバメが想定《そうてい》している状況とは違っていた。
健一が人込みを抜けて戻ってくると、千夜子は二人の少年に話しかけられているところだった。どう頑張《がんば》って見ても、とてもその状況を歓迎《かんげい》している風ではない。
「あの、この娘になんかご用ですか?」
健一は二人の少年の背後《はいご》から話しかける。驚《おどろ》いて振り返った少年の顔を見ると、まだ中学生くらい。かなり幼い印象を受けた。
「……いや、別に用ってほどじゃないんですけど、なあ?」
「ええ、ちょっと暇《ひま》そうにしてたんで話しただけで」
二人はそれで顔を見合わせて、そそくさとその場を離れていく。そして少し離れると何事か悪態《あくたい》をついたようだった。
「大丈夫でした?」
それを確認《かくにん》すると健一は、座《すわ》ったままの千夜子の方を見る。千夜子はまだ驚いた様子のままで健一の方を見ていた。
「あ、はい……ただ話しかけられただけですから」
千夜子はやっと落ち着いたのかそんなことを言った。だが健一はどうもそれだけではなかったんじゃないかと感じてしまう。何かかなりショックを受けるようなこと言われたか、されたか。それを隠《かく》そうとしているような気がした。
「なら、いいんですけど」
健一はでもやっぱり気づかなかったことにした。千夜子がそれを言わなかったのは後ろめたいからではなく、これ以上、自分に心配させまいとしているからだと感じたからだ。
「それにしても、どうしたんですか?」
やっと状況を把握《はあく》してきたのか千夜子が健一がいる理由を尋ねる。
「やっぱり大海さんと話したくて戻ってきてしまいました」
そう答えてから健一は、これはさっきツバメに練習させられた言葉だと気づく。
「……ありがとうございます」
千夜子は健一の言葉に驚き、しばらくして目に悲しみの色を宿《やど》した。言ってることと気持ちが明らかに噛みあってない。
「嘘《うそ》じゃないですよ。そう思ったから戻ってきたんです」
「それはわかってますから」
でも千夜子は顔を伏《ふ》せる。
「隣、座ってもいいですか?」
健一は自分だけ立ってるのもどうかと思い、確認だけして千夜子の隣に座る。
「すみません、本当」
それで千夜子の謝罪《しゃざい》の声がすごく近くに聞えた。
「なんで謝《あやま》るんですか?」
「……自分で誘《さそ》ったのに、私がずっとこんな感じで。絹川君も楽しくないですよね?」
「まあ、楽しくはないかもしれませんね、確かに」
健一は千夜子の言葉を否定《ひてい》せず、そう答えた。
「昨日の晩もろくに眠れないようなところに泊めてしまったみたいですし」
「それもそうですけど、いいじゃないですか、別に」
「……いいことないですよ」
「そうですか? 旅行ってそういうハプニングがあってこそだって思いますけど」
健一はそう言って笑う。笑うような場面なのかはよくわからないが、二人して炎天下《えんてんか》で暗い顔をしてるのはどうかと思ったからだ。
「大海さんが元気がないのは心配ですけど、そのせいで来るんじゃなかったとかそんなこと僕は全然思ってないですよ。昨日、寝れなかったけど、それはそれで楽しかったですし」
「……ありがとうございます」
でも千夜子は笑ってはくれなかった。悲しそうな顔をしてさっきと同じことを言う。
「僕もまあ人のこと言えませんけど、大海さんも大海さんでいい加減《かげん》自覚が無いですよね」
だから健一はちょっと別の話題をすることにする。
「どういう意味ですか?」
「僕は大海さんといるとそれだけでけっこう幸せなんです。なのに大海さんて、何かしないと何かしないとって考えてばっかいるみたいに見えます」
「……そうかもしれないです」
「頑張《がんば》ってくれるのは嬉しいですけど、無理《むり》されるのはどうかなって思うんですよ。僕がハッキリしないせいでこうなってるので偉《えら》そうなことは言えないですけど、もっとなんて言うか普《ふ》通《つう》でいいんじゃないかなあって……って言うのはダメですか?」
「ダメじゃないですけど……でも、申《もう》し訳《わけ》なく思います。私、頑張るって言ってるのに言ってるだけで、いつも絹川君に助けられてばっかりですよね」
千夜子はそれで膝《ひざ》を抱《かか》えてうずくまってしまう。
「助けてるんですかね、僕は」
健一はぼんやりとそんなことを呟く。どうもそういう自覚もあんまりない。
「はい。たくさん、助けてもらってます」
「だったら笑ってくださいよ。そうじゃないとそうだってとても思えないですから」
健一はそう言って千夜子の方を見る。千夜子はゆっくりと顔を起こして、驚《おどろ》いたような表情を見せる。
「……そうですよね。そうじゃないと絹川君も責任《せきにん》を感じちゃいますよね」
「とりあえず僕のことに責任を感じる必要《ひつよう》はないですから。本当に気にしてないって言うか、むしろ楽しんでますから。ま、寝れなかった時は笑い事じゃなかったですけど、でもおかげできっとこの旅行のこと何度でも思い出すと思うんですよね。ああ、だからその時、一緒《いっしょ》に思い出すのが大海さんの笑顔《えがお》であって欲《ほ》しいなって……思うんですけど」
「絹川君ってそういうこと突然《とつぜん》、言い出しますよね……」
千夜子は今度は困ったような表情を浮かべ、そして顔を赤《あか》く染《そ》めて視線《しせん》を下げる。
「ダメですか?」
「ダメではないですけど……いきなり言われると困ります」
「困らせたいわけじゃあないんですが」
「あ、でも、嬉《うれ》しい困り方ですから……突然じゃなければいいんです」
千夜子はそれでまだ赤いままの顔で健一の方を見て笑って見せた。それはまだぎこちなかったが、さっきまでの千夜子からすると随分《ずいぶん》と元気になったという感じがした。
「……よかったです。笑ってもらえて」
「私も……よかったです。笑えて」
千夜子はそう言いながらまたうずくまってしまった。でもそれはやっぱり照《て》れ隠《かく》しのようだった。耳まで真っ赤にしてるのがハッキリと見えた。
「大海さんは泳がないんですか?」
なので健一はまた別の話題をすることにする。千夜子がまだ丈《たけ》の長いパーカーを着ていたので、泳ぐ準備《じゅんび》をせずに来てるのかなと思ったからだ。旅館を出る時の心境《しんきょう》を想像《そうぞう》するにそういう可能性《かのうせい》も十分に考えられた。
「荷物見てないとですし」
でも千夜子が心配してるのは別のことのようだった。
「水着は着てきたんですか?」
「……はい」
「なら鍵原かホタルが戻ってきたら一緒に泳ぎに行きませんか?」
「……でも」
千夜子はうずくまったまま煮えきらぬ返事をする。
「ダメですか?」
「恥ずかしいです。絹川君の前で水着姿《すがた》になるなんて……」
千夜子の言葉に、なるほどと思うと同時に、健一はさすがにどうしたらいいだろうと思ってしまう。千夜子の気持ちはわかるがそれではなんのために海に来てるのかわからない。
「恥ずかしい、ですよね、やっぱり」
健一はしかしなんだか妙なことになってきたなあと感じた。このままではなんだか誰と旅行に来たのかわからない。現状、明らかに蛍子と過《す》ごしてる時間の方が圧倒的《あっとうてき》に長い。このままでは蛍子との旅行に千夜子がつきそってる。そんな状況だ。
「……バ力みたいですよね、私」
「え?」
「絹川君が見たくもないのに見られたら恥ずかしいって思ってるなんてバカですよね。ホタルさんみたいにスタイルがいいならともかく、ただの自意識過剰《じいしきかじょう》ですよね」
健一はそう言われて、なんでいつもこうなんだろうなと思う。なんで千夜子は蛍子と比べてどうこうなんて言い出すのだろう。千夜子と蛍子を比べるなんてなんの意味があるのか健一にはさっぱりわからない。そのことは何度となく言っているはずなのに。
「……見たいですよ」
でも怒《おこ》るよりは一つ正直になろうと健一は思う。
「え?」
「見たいですよ。大海さんの水着姿。そういうこと言うとエッチな人だと思われるから言いませんでしたけど、見たいです。ホタルの水着姿なんか目じゃないくらい見たいです」
「……そうなんですか?」
「恥ずかしいから見せたくないって言うなら我慢《がまん》しますけど、見せたくもないもの見せられて僕が困ると思ってるなら、とんでもない誤解《ごかい》ですから」
健一は半ばヤケになっている自分を感じていた。もうバカになるしかない。
「ついでに言わせてもらうと、昨日、鍵原から大海さんが最近、急に胸《むね》が大きくなったって言われて『そうなんだ!』って思ってドキドキしてました。だから見たいです。それはもうすごく見たいです。大海さんがどんな水着を着てるのかも知りたいし、大海さんが水着を着るとどうなのかとか知りたいです」
もう自分でも何を言ってるのかわからないくらいまくし立てた。そんな様子《ようす》を千夜子が観察してるような気配を感じる。
「……それはそれで恥ずかしいです」
「すみません、恥ずかしいヤツで」
健一はふと我《われ》に返り、もう苦笑いするしかなかった。さすがに呆《あき》れられただろうかと思う。でもまあそれも自業自得《じごうじとく》だ。
「もう少し時間をください――絹川君が見たいなら見せますから」
でも千夜子は小さく呟《つぶや》いた。うずくまったままなので表情は見えないが、千夜子は怒ってるわけではなさそうだった。呆れてるわけでも、軽蔑《けいべつ》したわけでもなさそうだ。勝手な希望的観測《きぼうてきかんそく》かもしれないが、なんだか喜んでいるように見える。
「……はい」
「それにしてもツバメはそんなこと言ったんですか?」
「自分より大きいなんてずるいみたいなことも言ってました」
「…………」
千夜子は言葉を失ったみたいだった。その原因《げんいん》が自分に対するものなのか、ツバメに対するものなのかはわからないが、後者だといいなと健一は思う。
「なにやってんの、千夜子?」
沈黙《ちんもく》する二人の間に別の声が飛び込んできた。
「ツバメ……」
千夜子が顔を起こしてその声の主を睨《にら》むように見るのがわかった。二人の元に戻ってきたのはツバメだった。ちゃんと泳いでいたらしく髪《かみ》が濡《ぬ》れている。でもクセっ毛のせいかあんまり印象《いんしょう》は変わらなかった。
「なに? 絹川に妙《みょう》なことでも吹《ふ》き込《こ》まれたわけ?」
ツバメは健一から見て千夜子の向こうに座《すわ》ると、自分の鞄《かばん》を開けてタオルを取り出す。そしていかにも千夜子の話には興味無《きょうみな》さそうに体を拭《ふ》き始める。
「吹き込んだのはツバメの方でしょ?」
「なんの話?」
「む、胸の話よ。なんでそんなこと話すのよっ!」
「えっと……絹川のお姉さんの胸が大きかったからかなあ」
「関係ないじゃない、全然……」
「まあ、そうかもしれない」
ツバメはどっちでもいいという様子で適当《てきとう》にそう答えると、チラと健一の方を見た。
「千夜子と泳《およ》いでくれば?」
それは質問《しつもん》の形ではあったが、ツバメの作戦を次の段階《だんかい》に進めろという催促《さいそく》に違いなかった。
「……もう少し待って欲しいと言われたばっかりだったんですけどね」
健一はそれを遠回しに断《ことわ》ろうとするが、やっぱりそれは許《ゆる》されなかった。
「千夜子の心の準備《じゅんび》なんて待ってたら日が暮れるって。ね、千夜子?」
「……かな」
「というわけで、さっさとそんなの脱《ぬ》ぐように! にひひ」
そう言ってツバメはいきなり千夜子に襲《おそ》いかかる。
「きゃああ!」
そしてツバメは千夜子が嫌《いや》がるのを無視《むし》して、彼女のパーカーを脱がしにかかる。と言ってもそんな複雑《ふくざつ》な構造《こうぞう》ではなく、前方のジッパー一つ下げればそれで終わりなわけだが。
「今更《いまさら》じたばたするんじゃないの。あんただってそのつもりで来たんでしょうが」
「どんなつもりで来たらこんな目に会わされるのよぉ」
健一はそんな様子をどうしたらいいのかと見守るしかなかった。
「うりゃあああああ!」
威勢《いせい》よくツバメが叫《さけ》ぶと千夜子の青いパーカーが空を舞った。夏の青い空に、青いパーカー。健一は何となくシュールな光景だなと思う。
「……うう、なにするのよぉ」
千夜子は手で胸の辺《あた》りを隠しながらツバメに苦情《くじょう》を言う。しかしツバメは不敵《ふてき》に笑って健一の方を見るだけだった。
「興奮《こうふん》した?」
「……しない」
「しなさいよ。自分の彼女が襲《おそ》われて服を脱がされたのよ?」
「むしろ鍵原の行動に正直、退《ひ》きました」
「そっか。じゃ、私は邪魔《じゃま》みたいだし、二人でどこかに行ってくださいな」
ツバメはそう言ってお手上げのボーズを見せる。でも口元は笑っていた。どうやら彼女はうまくいったと思っているらしいことがそれで健一にはわかった。
「あ、あんまり見ないでくださいね」
「……あ、はい」
しかしまああながちツバメの作戦が失敗してるというわけでもないかもしれなかった。何一つ予想通りには進んでないが、元気を取り戻した千夜子と一緒に浜辺を歩くことには成功しているのだから。
「しかし鍵原も本当、強引《ごういん》なことしますよね」
「……そう、ですよね」
千夜子はそう言って落ちつかなげに両腕《りょううで》を胸の辺りで組み直す。どうやら胸を隠そうとしているらしいのだが、腕を動かされると逆に気になってそこを見てしまう。
そして千夜子の水着はあの告白の日の服を思わせた。緑と白を基調《きちょう》にしたワンピースタイプのものだ。デザイン自体はやっぱり控《ひか》えめな感じがした。まあ、これで蛍子と同じく黒いビキニなんて着られてた日にはビックリするどころではすまなそうだが……
「もう少し大胆《だいたん》なのの方が良かったですか?」
そんなことを思っているのが伝わったのか千夜子がそう尋ねてきた。
「似合《にあ》ってるし、いいと思いますけど」
「それって……やっぱり子供《こども》っぽいってことですか?」
「え?」
「お兄ちゃんが『似合ってるって言われても、はしゃぐなよぉ』って言ってたんです」
千夜子はそう呟くと視線《しせん》を下げてプルプルと震《ふる》え始める。思い出しただけでそこまで怒るなんてよほど怒ったんだろうなあと健一は思ってしまう。
「僕は、そうですねえ……子供っぽいというか、可愛《かわい》らしいなあって印象ですけど」
「可愛らしい、ですか」
「さっきなんとなく思ったんですけど、その水着、あの時に似てますよね。大海さんが僕に告白してくれた時のあの時の服に」
「……そ、そうですね」
「だから大海さんらしくていいかなって思ってたんですけど」
「ありがとうございます」
千夜子はなんだかまたさっき聞いたのと同じ言葉を繰り返す。今度は今までよりはずっと堅《かた》苦しくない感じだったが、それでもなんだか少し距離《きょり》を置かれたような気がしてしまう。
「…………」
「ホタルさん、どこ行ってしまったんでしょうね?」
「案外《あんがい》、勝手に帰っちゃったのかもしれませんね」
「それは、ないと思いますけど」
「僕はホタルならやりかねないって感じがしますけど」
そんなことを話している歩いている間に、辺《あた》りにいる人が減《へ》ってきた。海の方を見るとかなり波が高くて泳ぐには向いてないところまで来てしまっていたようだった。それだけ見るとやっぱりツバメの考えた結果になってるような気もする。
「……すみません」
そんなことを思った健一の耳に千夜子の謝罪の言葉が届《とど》いた。
「へ?」
「私のこと心配して戻って来たのって、ツバメの作戦なんですよね。こうして二人で歩いてるのも……ツバメが気を使ってくれたから、こうしてるんですよね。すみません、そんなことに絹川君を付き合わせちゃって」
千夜子の言葉に健一はどう答えたものかと思う。その指摘《してき》は正しいが、でもやっぱり事実かというとちよっと違う気もする。
「それは半分は正解《せいかい》ですけど、半分は外《はず》れですかね」
健一はだからそのまま答える。
「僕はそもそも大海さんと一緒に残りたかったんです。でも鍵原はとりあえず大海さんがやりたいように一人で残させてやれって言ったんですよね。だからそうしただけで、戻ってきたのは僕の意志《いし》ですし、こうしてるのも僕の意志です」
「でも、絹川君には気を使わせてしまったなあって……すみません」
千夜子は納得《なっとく》できないという様子でそんな謝罪の言葉を口にする。そしてそのまま俯《うつむ》いて、何も言わなくなってしまう。
健一も何を言って良いかわからなくなってしまった。それでも二人はそのまま歩き続ける。どこに行くとかそういう意図はない。ただ歩くのを止めるという選択《せんたく》すら出来ず、惰性《だせい》だけで進み続けていた。
「こういうのもう止《や》めませんか?」
健一はそんな状況《じょうきょう》の中、やっと言うべきことを見つけられた気がした。
「それって……もう別れようってことですか?」
千夜子の足が止まり、表情も固《かた》まったのが見えた。
「あ、いや、そういう意味じゃないです。言い方、悪かったですね」
それで健一は慌《あわ》てて両手を振って、千夜子の言葉を否定《ひてい》する。
「えっと、僕が言いたいのは、なんでもかんでも大海さんが悪いって思うってことです」
健一はそう言って足を止めた千夜子に一歩近づいて、自分も足を止める。
「でも悪いのは私ですし、頑張《がんば》るって言ったのも私ですから」
「だからそういうのを止めませんかって言おうと思ったんです」
健一はそれからまた周《まわ》りを見渡した。気づくと本当に人気の無いところに来ていた。無言《むごん》で歩いてる間にかなり人込みから離《はな》れていたらしい。
「昨日、ホタルに言われたんですよね。僕と大海さんはお互い相手の出方を待ってるタイプで、だから合ってないって」
「……そうなんですか」
「まあそうなのかもしれないんですけど、僕はそれならそれでいいと思うんですよ。お互い気がつかなくて、なぜかうまくいかないって言うのは困るかもしれませんけど、そうだってわかってればなんとかなるんじゃないかって」
健一はそこまで言って千夜子の様子を確認《かくにん》する。千夜子は何を言って良いのかわからず、健一の言葉を待っているようだった。
「問題の無い人間関係なんてどこにもないんじゃないですかってことです。大海さんと鍵原は仲いいけど、全然、考え方も違うし、鍵原は思い込んで暴走《ぼうそう》して大海さんの忠告《ちゅうこく》とかも聞かないで迷惑《めいわく》をかけたりするらしいですけど、でもそれを承知《しょうち》で大海さんは友達を続けてるじゃないですか」
「そうですね」
「だから僕たちもそうすればいいんじゃないかって思うんです。最初に決めた通りのことにこだわらなくてもいいと思うんです。確かに大海さんの告白《こくはく》で始まった関係ですし、大海さんが頑張《がんば》るからって言いましたけど、あれはお互《たが》いを良く知らない時のことですから、また改《あらた》めて二人のルールを決めてもいい頃なんじゃないかなって……」
健一は千夜子が俯《うつむ》いて黙《だま》ってしまったのを見ながら、それでも必死に言葉を続けた。そのうちに千夜子が小さく震《ふる》え始めたが、健一は沈黙《ちんもく》が怖《こわ》くてさらに続けるしかなかった。
「大海さんが望《のぞ》んでいるのはもっと確かな好きかもしれないけど、僕は僕なりに大海さんのことを好きになってはいると思います。だから、もうこういうの止《や》めましよう。二人の問題なんだから、ちゃんと二人で解決していきましようよ。大海さんだけが頑張るだけの関係はもう今日で終わりにしたいんです……ま、僕が頑張ってないせいでこうなってるから偉《えら》そうなことは言えないですよね……」
千夜子が本当に何も言わないので、健一の言葉もさすがに尽きてしまった。
「…………」
健一はまたなんだか言わなくていいことを色々言ってしまったのかなと感《かん》じる。ツバメに千夜子の言うことはとりあえず認《みと》めてあげなければいけないと言われたのに、結局、自分は自分の意見を言うだけだなとも思う。
そして頑固《がんこ》なのねと冴子に言われたことを思い出した。普段《ふだん》はいくらでも人に譲《ゆず》るくせに、こういう時に限《かぎ》ってなぜか譲れない人間らしい。健一はそんなことを思う。
「良かった」
なのに千夜子はそんなことを言って健一の方を見て笑った。
「……大海さん?」
「えっと……別れようって話じゃなくて良かったってことです」
千夜子は真っ赤な顔で健一を見て、また俯く。健一は感じる時間がずれているのかなと少し不安になった。でもそれだけ千夜子にとって衝撃《しょうげき》の発言だったんだろうなとも感じる。
「あと、嬉《うれ》しかったです。絹川君が私のことちゃんと考えてくれるってわかって……それと私のこと好きだって言ってくれたのも。だから良かったって思ったんです。さっきの良かったはそういう色々な意味の良かったです」
「……やっと理解できました」
健一はやっと千夜子と自分の時間が合致《がっち》してきたなと思う。
「二人の問題なんですよね」
千夜子はそう言ってまたチラッとだけ健一の方を見た。
「はい」
「問題ってあんまりいい言葉じゃないなって思いますけど、二人の問題って言われるとなんでなのかはわからないですけど……嬉《うれ》しい気がします」
「それは多分、大海さんと僕のってことじゃないかと」
健一はなんとなくそう言ってしまってから、ひどく恥ずかしいことを言ってしまったかなと気づく。それは聞かされた方の千夜子もそうだったらしく、俯いたまま固《かた》まってしまった様子を見せる。
「……でも、本当にそうなんですよね。二人の問題なんです。僕と大海さんの問題なんです」
「そうですね」
千夜子はそう言ってから唇《くちびる》を噛《か》みながら健一の顔を見つめる。まだ顔は真っ赤だったが、その日は何かを伝えようと必死になってるように見えた。
「時間がかかるかもしれませんけど……一緒に解決していきたいです。その、二人の問題ってヤツを……」
千夜子は時々不安そうに目をそらしそうになりながらも、それを健一に伝えようと必死になってるようだった。
「はい」
健一はそれに短く、でも強くハッキリと返事をする。そして千夜子はまた俯くと小さく震え始める。でも怒っているわけではなく、感動してるからなんじゃないかと健一は思う。
「……戻りましょうか?」
健一はちょっと待ってからそう提案すると歩き始めた。千夜子が少し反応《はんのう》を見せたので、声は届《とど》いたらしいと思う。それで千夜子より少し先を健一は歩き始める。
「絹川君……何か落ちましたけど?」
途中《とちゅう》、千夜子がそんなことを言った。
「……え?」
健一は一体何のことだろうと思った。落とすようなものなど持ち歩いてた覚えはない。今の自分は小銭《こぜに》だって持ってないのだから。しかし振り返ってすぐに健一は思い出した。
「これって、その……」
千夜子が拾《ひろ》ったものを片手《かたて》に固《かた》まっていたからだ。千夜子が拾ったもの。それはツバメに渡されたものだ。千夜子を人気の無いところに連れ出して使えと言われたもの。
「いや、そのそれはですね――」
健一は一気に脈拍《みゃくはく》が倍になるのを感じた。カッと自分の体温が上がるのも。
「これもツバメが用意したんですよね」
でも千夜子の二言で今度は心臓《しんぞう》が止まったかと思うほど、脈拍が遅《おそ》くなる。そしてさっきまで暑《あつ》かったはずの日差しや空気が涼《すず》しく感じられるようなった。
「……そ、そうなんですよ。鍵原も困ったやつですよね」
健一はやっと言葉を口にするが、言ってしまってから後悔《こうかい》した。千夜子の目にまた悲しみの色が戻ってくるのが見えたからだ。それを健一はゆっくりと感じる時間の中でハッキリと感じていた。
「やっぱりそうなんですね」
そして悲しみを込めた言葉が千夜子の口から出て、健一に届く。
「……大海さん」
「でもそうじゃない方が良《よ》かった……です」
千夜子はそう言ってまた俯いてしまう。
「それって……その……」
健一はなんと言ったら良いのかわからず戸惑《とまど》うだけだったが、千夜子は突然《とつぜん》、顔をあげると健一を見て顔を真っ赤にする。
「さ、さっき言った。とは忘れてくださいっ!」
そしてそれだけ言うと、手で顔を隠して浜辺を駆け出した。それはもうすごい勢いで。
「お、大海さんっ!?」
健一が呼び止めようと声をかけるが、千夜子はそれよりずっと早く走り去っていくようだった。声が聞えなかったとは思えない。でも止まる気配《けはい》は全くなかった。
「……大海さんってやっぱり足が速いよな」
健一はそんな彼女の後ろ姿を見送りながら、我《われ》ながら場違《ばちが》いなことを呟く。そしてこういうことが今までに何度もあったなあと思い出す。そしていつだったか蛍子が一緒《いっしょ》だった時の記憶《きおく》に思い当たる。
ありゃ、処女《しょじよ》だな――蛍子の言葉を思い出して、健一は色々と千夜子に申し訳ないことをしてしまったと感じた。
「それじゃ、また」
千夜子に関して言えば、二泊《はく》三日の旅行ではプラスマイナス0という感じだった。あれから前のように話せるようになるために残りの時間を使ってしまったとも言える。
「で、お前はさっそく友達《ともだち》のところか」
健一は公園で千夜子とツバメと別れると、蛍子と共に家路についた。
しかし荷物を置くとすぐに健一はまた出かける準備《じゅんび》をする。
「いいだろ、別に」
「まあ、いいけどな。ただそれだけの元気があるなら、あの娘ともう少し一緒にいたらよかったんじゃないのかとは思う」
「それはいいとは言わないだろ」
「ま、どっちでもいいさ。私は眠《ねむ》いから寝《ね》る」
蛍子はそう言って大きくアクビをした。結局、二日目の夜も隣人《りんじん》がうるさくて眠れなかったのだ。最初のうちは蛍子も今日もこっちが譲《ゆず》る義理《ぎり》はないと意地でも眠ろうとしたが、そんな事情を静流が知るはずもない。しばらくして蛍子は怒《いか》りと共に部屋を飛び出し、また朝まで散《さん》歩《ぽ》する羽目になった。そして今日は十時には宿を出るという流れだったので、朝方から眠るというわけにもいかず、そのまま帰ってきたのだった。
「……じゃあ静かに帰って来るようにするよ」
健一も寝てなかったが、だからこそ気になることがあった。
冴子のことだ。彼女がこの二晩《ばん》どうしていたのかはともかく、今、元気なのかを健一は知りたかった。今すぐにでも。
「し、静かに帰って来るのは止《や》めろ」
「……なんで?」
なのに蛍子が訳のわからぬことを言い出したので、出かけようとした足が止まる。
「それはだな……今日は帰ってこなくていいという意味だ。深い意味はない」
「飯《めし》の当番はどっちだったっけ?」
「私は今日はこれから寝るし、飯も適当《てきとう》に食べる。だからお前も適当に食べろ」
話を聞きながら今日は蛍子の番だったかなあと健一は思い出す。でもまあだけど蛍子がそう言うならそれでもいいだろうと健一は考えた。
「じゃ、そうするよ」
健一はそう言って家を出る。改めて出た外は暑かった。真夏の午後二時。天気は暗。暑くないはずが無かった。
「……皆《みんな》、いないのか」
1301を覗《のぞ》いた健一は意外な光景を目にした気がした。
そこには誰《だれ》もいなかった。冷静に考えればお昼の時間もちょっと過《す》ぎてるし、皆、自分の部屋で何かしている方が自然だが、なんだかしっくり来ない。
何かあったのかな。妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎがするのを感じた。でも1302の前を通り過ぎる頃には単に綾が部屋にこもってる時期かもしれないと思い直した。そうなると刻也と冴子だけで1301にいつまでもいるというのは無さそうな気もする。
「有馬さん、います?」
健一は1303のドアを開けて中に入る。呼びかけてみるが返事はない。でもそれはいつものことだ。健一のその呼びかけは自転車のベルのようなもので、冴子に自分の存在《そんざい》を告《つ》げる以上の意味はない。
「あれ、絹川君なの?」
冴子はキッチンにいた。ぼんやりとした視線《しせん》でこっちを見て、健一が健一であることを確認《かくにん》してるようだった。彼女の後ろの流し台には水を汲《く》んだコップが見えた。薬を飲んでいるところだったらしい。
「はい、絹川です」
どう答えていいか考えて、健一はそんな問《ま》の抜《ぬ》けた返事をしてしまう。
「そうか。そうよね。他の人はここには入れないんだから」
「ま、鍵が開《あ》いてれば入れるみたいですけど」
「そうね」
冴子はそう言いながらもまだ意識がどこか別のところにあるようにあらぬ方を見ていた。それから思い出したように台所に並《なら》べてある薬の一つを手に取った。
「それってなんの薬ですか?」
健一はなんだか珍《めずら》しい薬だなと思った。薬自体は白と青のカプセルなのでそんなに珍しくないが、破《やぶ》いて取り出す部分が普通は銀色《ぎんいろ》なのに青《あお》みがかっていた。薄《うす》いメタリックブルーに青い文字。あまり病院に縁《えん》のない健一には見覚えが無いだけかもしれないが。
「……女の子は色々大変なのよ」
冴子は小さくそう呟くとカプセルを取り出して、水と一緒にそれを飲んだ。健一はそんな様子を見ながら、蛍子に旅行の荷物が重すぎることを文句《もんく》言ったことを思い出していた。あの時も女は大変だと言われた。これは要《よう》するに男は知らなくていいという意味なのかなあと健一は思うことにする。
「今日は来ないって思ってた」
冴子は薬を飲《の》み終えるとそう言ってリビングのソファの方へ歩き出した。それで健一も彼女を追いかけるようにリビングの方へと歩く。
「二泊三日だって言いませんでしたっけ?」
「言ってたけど、彼女って言っていたから。遅《おそ》くまで遊んでるかなって」
冴子はソファに座って、弱々しく笑う。健一はその姿に、この部屋に来た頃《ころ》の冴子のことを思い出す。
「調子《ちようし》悪いんですか?」
目の前で薬を飲んでた人間に聞くようなことではないかもしれない。そうは思ったが冴子のことが心配で尋ねてしまう。
「大丈夫《だいじょうぶ》。いつものことだから」
「……そうは見えないですけど」
健一はソファの反対側に座《すわ》ることにする。それに冴子が気づいたのかまた弱々しく笑うのが見えた。
「寝《ね》てないだけ。他はいつも通り」
冴子はそう言いながら健一の方にもたれ掛かってくる。完全に力が抜けているらしく健一は柔《やわ》らかさだけが伝わってくるのを感じる。
「……寝てないんですか?」
冴子の髪《かみ》から嗅《か》ぎ慣《な》れないミント系のシャンプーの香《かお》りがした。普段なら柑橘《かんきつ》系の香りがする。その違いの理由を健一は考えてしまう。
「私、一人じゃ寝れないのよ」
健一がそれを知らないと思ってるかのように冴子がそんなことを呟《つぶや》く。
「それは知ってます」
「だったらなんで寝てないって驚《おどろ》くの?」
冴子は顔だけ近づけて横目で健一の顔を覗《のぞ》き込む。
「だって出かける前に大丈夫って……」
「大丈夫でしょ?」
そんな受け答えに健一は冴子が酔っぱらってるんじゃないかと不安になる。単に寝不足で朦《もう》朧《ろう》としてしまってるだけなのだろうとは思うがそれにしたってなんだか変だ。
「そうは見えませんけど……もう今にも倒《たお》れそうじゃないですか」
「倒れてないし、こうして無事に会えたし……大丈夫でしょ?」
「まあ、そうかもしれませんけど……」
健一は冴子とは元気という状態《じょうたい》に対する認識《にんしき》が違うのかなと感じる。
「私、一人じゃ寝れないのよ」
そこにさっきと同じとことを冴子が繰《く》り返《かえ》す。
「はい」
「絹川君はちゃんと私がちゃんと寝れてた方がよかった?」
健一はなんだからしくない質問《しつもん》だなと思う。
「……難《むずか》しい質問ですね」
健一はそう答えるしかなかった。その質問はつまり健一以外の誰かとまた関係を持っていた方がよかったかということだ。心情的にはノーと言いたかったが、冴子がそれを望んでいるのかは自信が持てなかった。
「絹川君とするようになってからね」
健一が答えないのがわかったのか冴子はまたぼ――っとしながら話を始める。
「は、はい」
「他の人とするのは怖《こわ》いなって思うようになったの。絹川君とということではないかもしれない。窪塚《くぼづか》さんのことがあってからかも。とにかく時期的には一緒だから、その頃からってことになるかな。別に寝れないのは慣れてるし、今は学校行く体力もいらないし、だから大丈夫って絹川君には言ったのよ」
「……そうだったんですか」
健一はそう答えつつ、でもどこか嘘をついているようにも感じた。だったら健一が出かける前に言えばよかった気がする。そんなもっともな理由があるのに言わなかったのは、なんでなんだろう。健一はそう考えてしまう。
「だったら言ってくれればよかったのに」
「心配した?」
「心配しますよ」
「信用無《な》いのね、私」
冴子はそう言いながら体を起こして、健一の方を見て笑う。冗談のようだが冴子が言うとどこか不安にさせる言葉だった。
「信用とかそういうことじゃなくてですね……」
「ごめんなさい」
健一の言葉を遮《さえぎ》って冴子がそんなことを言った。
「えっと……」
健一はそれもなんだか意外に感じる。冴子が謝《あやま》るなんて想像《そうぞう》してなかった。
「心配して欲しくなかったから言わなかったんだけど、逆効果《ぎやくこうか》だったのね」
「そ、そういうことになりますかね」
健一は妙《みょう》に素直《すなお》に気持ちを語る冴子に戸惑《とまど》い、彼女の顔を見る。
「旅行ってお姉《ねえ》さんも一緒だったの?」
「え?」
「お姉さんの煙草《たばこ》の匂《にお》いがしたからそうかなって」
「……そんなに匂いするんですか?」
「そんなにはしないけど、そうかなって思うくらいは」
冴子はソファから立ち上がろうとする。でもすぐにバランスを崩《くず》す。ゆらりとすごく軽そうに倒《たお》れ込んでくる。
「うわっ」
健一は慌《あわ》てて彼女を支えた。
「……大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「絹川君の顔を見て気が緩《ゆる》んだのかな?」
冴子はそれで立ち上がろうとしたようだが、力が抜《ぬ》けて健一にさらに寄り掛かる。
「やっぱり一人で大人しくしてればよかったかな」
冴子は健一のすぐ側でそんなことを呟く。
「……どこか出かけてたんですか?」
「昨日は綾《あや》さんの部屋にお呼ばれしてたの。綾さん、すごくはしゃいでて……見てるだけだったのにすごく疲れちゃったみたい」
冴子はそう言ってまた弱々しく笑った。
「変なことされなかったですか?」
「一緒にお風呂に入ろうとは言われたかな」
冴子はそう言って真っ赤な顔をする。
「あと、一人エッチしたことあるかって聞かれたわ」
「……綾さんらしいというかなんというか」
健一は冴子の言葉に自分が興奮《こうふん》するのを感じる。側に冴子がいてそんな話をされるなんて、今まで無かったことだ。
「その……したことあるんですか?」
それで気になって聞いてみた。
「絹川君って本当、エッチなのね」
でも冴子は答えず、何度か聞かされた言葉を繰《く》り返《かえ》す。
「すみません。いつもそんなことばかり考えていて」
「でも、そのおかげで助かってるから」
冴子はそう言うと立ち上がって部屋を出ていこうとする。
「どこ、行くんですか?」
「……シャワーを浴びるの。絹川君は今日来ないと思ってたから」
「そ、そうですね」
健一は冴子の後ろ姿《すがた》を見送りながら、その後のことを想像してしまう。そして健一はさっきまで腕《うで》の中にいた冴子の感触《かんしよく》を思い出し、なんだか妙にホッとしている自分に気づいた。
その夜は妙な時間に目が覚めてしまった。夜中も夜中。夜の一時だった。
「なんだかすごく照れますね」
「……そう、ね」
時間を持て余《あま》した二人は一緒《いっしょ》に外に出た。部屋の外ではなく、マンションの外。それは健一と冴子にとって初めての経験《けいけん》だった。
知りあってからの一ヶ月ほどで、健一は冴子と何回、肉体関係を結《むす》んだかはわからないほどだった。なのに一緒に外出する。それだけのことをしたことがなかった。
外で話したのもすごく久《ひさ》しぶりだった。どころか数えることが出来るほどの回数しか話したことはないのだ。公園で一緒に鍵《かぎ》を探《さが》した時、そしてその次の学校の行きの二度だ。
「…………」
だからなのかひどく照れ臭かった。一緒に歩いて話す。たったそれだけのことが。
1303ではもっと色々と恥ずかしいことをしているはずなのに。他人には言えない様な悩《なや》みを打ち明けあった仲《なか》のはずなのに。こうして歩く時は、緊張《きんちょう》してしまって話せない。
「涼《すず》しいですね、さすがに夜になると」
昼間の暑さを思い出しながら健一はなんとか話題《わだい》を作ろうとするが、冴子はそれに不思議そうな顔をする。
「今日は涼しいの?」
「涼しいですよ。昼間なんかもううだるような暑さで。今日こそ、泳ぐ日だなって思いながら帰ってきたんですから」
「だったら泳いでくればよかったのに」
「……そうしたら、こうして一緒に歩いたりできなかったじゃないですか」
健一は冴子が笑ってそんなことを言うので、少し悲しい気持ちになる。
「一緒に歩きたかったの?」
「まあ、そのために急いで帰って来たわけじゃないですけど。今、かなりワクワクしてます」
「そうなんだ」
冴子はそれでちょっと視線をそらしたようだった。星を見上げてるのかもしれないと思い、健一も彼女に倣《なら》う。
「やっぱりこの辺は明るくて、星が全然見えませんね」
健一はしょんぼりとした気持ちで呟《つぶや》きを漏《も》らす。
「旅行ではたくさん見えた?」
「はい。この四倍くらいは」
「四倍って言われてもよくわからないわ」
冴子はでも健一の言い方が気に入ったようだった。少し笑った。
「いつか見に行くといいですよ。あ、でも星を見るなら海じゃなくて山の方がいいんですかね? その辺、僕、よく知らないんですけど」
「私も星のことはあんまり」
冴子はそう答えて、また健一の方を見る。
「それに私、色々なことに鈍感《どんかん》みたいだから。目もあんまりよく見えないの」
「そうだったんですか?」
健一はちょっと驚く。冴子が目まで悪いとは知らなかった。
「でも、それなら眼鏡《めがね》でも買えばいいんじゃないですか?」
「眼鏡は……かけようと思ったけど、似合《にあ》わなくて。八雲さんがかけると頭良さそうに見えるけど、私がかけるとなんだかすごく頭が悪そうに見えるのよね」
「そういうのはデザイン次第《しだい》じゃないんですか? 探《さが》せば似合うの見つかると思いますよ」
「でも高いでしょ? そんなに不自由してないし無理に買うこともないかなって」
「……なるほど」
冴子は昔、自分でも言ってたが貧乏性《びんぼうしょう》というヤツなのかもしれないと健一は思う。
「コンタクトとかは?」
「怖《こわ》いわ。目に触《さわ》るって想像《そうぞう》するだけで」
「ですかね。でも慣《な》れれば、すぐに大丈夫になりそうですけど」
「そうかな……」
冴子はその提案《ていあん》を受け入れて検討《けんとう》する気になったようだった。
「それにしても、夜でもけっこう人がいるものなのね」
でもすぐに興味の対象が逸れたらしい。コンビニの前を通り過ぎる時、明るい店内に人がいるのが気にかかったようだ。
「夏休みですからね。昼間は暑いですし、夜の方が楽しいんじゃないですか」
「……そうね。そういうことは考えたことが無かった」
冴子は健一の説明に感心したように呟くと、そのまま道を進む。通りにはさすがに人影《ひとかげ》はあまりなかった。
「そういうことは先に言った方が良かったですか?」
「え?」
「いや、さっきから人の視線を気にしてるみたいなんで」
「あ……うん。私と歩いてるところを知り合いに見られたら、絹川君も困るでしょ?」
「……困りますかね?」
「じゃあそこから大海さんが出てきたらどうするの?」
冴子はそう言って行く先にあるT字路の片方《かたほう》を指す。
「とりあえず慌《あわ》てます」
「でしょ?」
冴子は健一の返事が気に入ったのか笑ったようだった。
「でもまあ話してるだけですし」
「……そうね」
「別にクラスメイトなんだし話すくらいなら普通だと思いますから、まあ一度くらいならいいんじゃないですかね」
「さっきそこで会ったばっかりなんですよ、偶然《ぐうぜん》ですねえ……なんて言い訳《わけ》されたら、私、笑いをこらえる自信がないわ」
「……じゃあ、もう少し説得力《せっとくりょく》のある言い訳を考えておきます」
健一はそう言って笑う。それに冴子も笑った。確かに地元ではあったが、知り合いに会うとは本気では思っていなかった。少なくとも健一はそうだったし、冴子もきっとそうだろうと健一は感じる。そうでなければ冴子がこんな風に笑うとは健一には思えなかった。
「飯笹《いいざさ》君」
だが冴子の表情が急に固《かた》くなった。表情だけじゃない。体全体から受ける印象《いんしょう》もだ。あの話をしてくれない冴子に一瞬《いっしゅん》にして変わってしまったみたいだった。
「…………」
理由はT字路から現《あら》われた少年のようだった。少年と言っても年は健一より少し上。そして背《せ》も高くて屈強《くっきょう》そうだった。
冴子が「飯笹君」と言ったところを見ると知り合いであるらしい。しかもそれは、いい知り合いではないのだろう。
「……有馬」
飯笹の方も冴子の名を呼んだ。やはり知り合いなんだと健一が理解した瞬間、飯笹の視線が健一の方へと向けられる。
「今日はその男なのかよ」
憎々《にくにく》しげに呟いて飯笹が健一の方へと歩いてくる。冴子はそれを動かず、そして何もしゃベらず黙《だま》って見ていた。
「この時問ってことは、これからコイツの家に行ってってことか?」
飯笹は健一に十分に近づくと、今度は冴子の方を睨《にら》んだ。健一は自分を無視されたようで不《ふ》快《かい》な気分になる。
「だったらなんなの?」
飯笹に負けないくらい刺々《とけどけ》しく冴子が尋《たず》ね返す。
「別に。俺が気に入らないって以上の意味はないんだろうな、きっと」
そう言いながら飯笹は健一の方を見た。
「あんたさあ、こいつがどういう女か知ってるの?」
「……詳《くわ》しくは知りませんけど」
「こいつはひどい女なんだぜ。彼女がいる男に手を出して、それで別れさせるんだよ。しかもそうしたら次は別の男を狙《ねら》いやがるんだぜ」
飯笹はそう言いながら健一の肩《かた》に手を置いてぎゅっと力を込める。
「する前はそれは可愛《かわい》い振《ふ》りをしてるけどな、しちまった後はもう別人さ。男とやるためだけにどんな嘘《うそ》でも平気でつくんだ、この女は!」
飯笹はさらに手に力を込めて、そして健一の顔を覗《のぞ》き込《こ》む。
「だから、さっさと逃《に》げた方がいいぜ。それがお前のためでもあるし、俺のためでもある」
「……とてもそうは思えませんけど」
健一は飯笹に対して何を言うべきか考えていたが、結局、思いつくままにそう告げる。
「あん?」
「そりゃ僕《ぼく》は有馬さんのことはあまり知りませんけど、でも有馬さんが男とするためにどんな嘘でも平気でつくなんて……」
「だから言ったろ? するまではそういう風な女を演《えん》じてるんだよ。誰とでもする女なんて噂《うわさ》だけど、いざ話してみるといい娘だなあって思わせる。それがこいつの手口なんだよ」
飯笹はそう低く坤《うめ》くように告げると、今度は冴子の方を睨む。
「それで俺と窪塚佳奈《くぼづかかな》を破局《はきょく》させたんだ。だったよなあ、有馬?」
「そうだったかもね」
冴子は冷たい瞳《ひとみ》で飯笹を見返して、淡々《たんたん》と返事をした。健一はそんな二人のやり取りに驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。
窪塚佳奈という名前には聞き覚えがあった。健一と冴子が知り合うキッカケになったグラスメイトだ。学校でも有名な双子《ふたご》の美少女の姉の方。健一は冴子がその窪塚佳奈の彼氏と寝たことで恨《うら》みを買った話を聞いていた。
「だったかもね――じゃねえだろ? この男の前だからっていい娘ぶってるんじゃねえ」
「その人は関係ない。私はあなたが嫌いなだけ」
「へえ」
飯笹は顔をしかめるとまた健一の方を見た。
「関係ないんだってさ、お前は」
飯笹がそう呟いた瞬間、健一は息ができなくなるのを感じた。
「げほ……」
そして伝わってきた鈍《にぶ》い痛《いた》みと共にその理由を理解《りかい》する。
殴《なぐ》られたのだ。飯笹の拳《こぶし》が健一のみぞおちに入っていた。
「絹川君っ!」
それに気づいたらしく冴子が自分の名を呼ぶのが聞えた。
「…………」
だが返事が出来ない。呼吸《こきゅう》が乱《みだ》れて、足の力も抜ける。
「随分《ずいぶん》と心配されてるなあ、おい」
だが飯笹は健一を掴《つか》んでる肩を持って、引っぽり上げる。
「関係ないわりには、随分と心配してるじゃねえかよ、有馬あ!」
そして飯笹は激《はげ》しい怒《いか》りの声をあげた。
「男とは一晩限《ひとぼんかぎ》りってのも俺を捨《す》てるための嘘だったのかょ? この男が本命で俺はお前に遊ばれて捨てられたってわけか?」
「達《ちが》うわ。それに……飯笹君には窪塚《くぼづか》さんがいたでしょ?」
「でもお前のせいで振《ふ》られた」
「……そうね」
「でもまああんな女、どうでもいいんだよ。少しくらい可愛いからって、やけに偉《えら》そうで、しかも一向にさせようとしねえ。やったら別れるつもりだったんだよ。あんな女、好きでもなんでもなかったんだからなあ」
飯笹は下品な笑《え》みを浮《う》かべ冴子の方を見る。
「可哀《かわい》そうな人」
冴子がそう呟《つぶや》くのが聞えた。
「あん?」
「自分が振られたって現実を認《みと》めれないからって、自分の心を歪《ゆが》めてしまうなんて」
「意味わからねえこと言うんじゃねえよ。第一、その原因《げんいん》を作ったのは誰だ? お前だろうが。なのに何が、可表そうな人だ!」
飯笹は空《あ》いてる手を振りかぶると、それで健一を殴った。
「ぐっ!」
自分の意志《いし》とは関係なく短く声が漏れた。腹部《ふくぶ》からじんわりと痛みが伝わってくる。
「俺は女を殴る趣味《しゅみ》はないから、お前にどう復讐《ふくしゅう》しようかと思ってたけどよ。いい方法が見つかったみたいだなあ」
飯笹は全く健一の方を見ていなかった。冴子の方を見て憎々しい笑みを浮かべている。
「……くそ」
健一はたったの二発でもう体が痺《しび》れてまともに動かなかった。呼吸もやっとこしゃべれるレベルまで回復《かいふく》した程度《ていど》。殴り合いなんてしたことはなかったが、自分がひどく打たれ弱いのだと思い知らされた。
「あん?」
飯笹は健一の呟きに反応《はんのう》して、掴んでいた手を放した。健一はそれで膝《ひざ》が折《お》れてそのまま地面に倒《たお》れる。それで健一は意外にもひんやりとした感触《かんしょく》を頬《はお》に感じる。
「なんか言おうとしたか、お前? お前がどこの誰かは知らねえけどよ、お前はただの生《い》け贄《にえ》なんだよ。だから黙《だま》ってろ」
「誰が……生け贄だ……」
健一は言い返そうとするがまともな声にならない。
「黙ってろって言っただろうが」
飯笹は自分の言う通りにならなかったのが気に入らなかったらしく、今度は足で健一の腰を踏《ふ》みつける。
「ぐばっ!」
また腰だ。さっきと同じくまた勝手に声が漏れる。
「……やめて。その人は関係ないでしょ?」
そしてそこに冴子の声が響《ひび》いた。
「関係ないなら放っておけよ。ただの今晩《こんばん》の獲物《えもの》ならコイツを置いてどっかに行っちまえばいい。そうしたら俺《おれ》もコイツをどうこうする気も失せて家に帰るかもしれねえし、そうでないかもしれねえ。いずれにせよ、お前は別の男を探して今日の寝床《ねどこ》を確保《かくほ》すればいいだけだ。そして俺はお前が人でなしのヤリマンだって納得《なっとく》して明日から安穏《あんのん》に暮《くら》す。そしてコイツはまあ俺の憂《う》さばらしにつきあわされるかもしれねえが、それも今晩だけのこと。お前と今晩寝ようとしたら男にのされて路上《ろじよう》でおねんねする羽目になったってなところだなあ」
飯笹はそうは言いながら冴子が健一を見捨《みす》てないことを確信《かくしん》してるようだった。言葉を続けるごとに声は大きくなり、そして強い怒《いか》りがこもっていくのを健一は感じる。
「どうすれば満足なの?」
冴子が無感情に尋《たず》ねるのが聞えた。それがさらに飯笹の怒りを募《つの》らせたらしい。
「そうだなあ。まずは謝《あやま》れ。私のせいで窪塚さんと別れることになってしまって、すみませんでしたってな」
「わかったわ」
冴子はそう言うと飯笹に頭を下げた。
「私のせいで窪塚さんと別れることになってしまって、ごめんなさい」
「……本当に謝るかよ、この女は」
だが飯笹の怒りは収《おさ》まりはしなかった。むしろイライラとした態度《たいど》を見せる。
「今更《いまさら》、謝られたって、佳奈は戻ってこないんだぜ」
「あなたが謝れと言ったんでしょ?」
「そりゃ、そうだ」
飯笹はだがもう冴子とまともな話をする気になどないようだった。
「次は……またやらせてもらおうかね。いや、違《ちが》うか。お前の方からやってくれって言ってもらおうことにするかな」
飯笹の言葉に冴子はなんの反応も見せなかった。
「お前がラブホに俺を連《つ》れ込《こ》みたいって言うなら聞いてやるぜ。そうしたらコイツはここでこれ以上ケガせずに安心していられるってわけだ。理屈《りくつ》はわかるよなあ、有馬あ!」
飯笹はそれを言うことで冴子を試《ため》しているのかもしれなかった。
「……可哀そうな人」
冴子はそう呟く。
「だったら可哀そうな俺を存分《ぞんぶん》に慰《なぐさ》めてくれよ。そうだな、ここでパンツを脱《ぬ》いで、『私と一緒にホテルに来てください』って言えよ。そうしたら、コイツのことはもう忘《わす》れる。そしてコイツもお前を忘れる。そして俺はいつでもやれる女を手に入れる」
健一はやっと動けるようになってきたのを感じていた。だが動けたとしてどうなるものかとも思う。力で立ち向かったところで到底《とうてい》勝てるはずがない。変に逆《さか》らえば、火に油《あぶら》を注ぐだけだろう。しかも冴子はすでに目をつけられている。この場を逃げ出したとしても、何も解決はしないのも明らかだった。
「…………」
健一にとって一番の結果はこれで冴子が自分を見捨てるということだった。そうなればまあいくらかはさらに殴《なぐ》られたり蹴られたりするかもしれないが、それだけで済《す》む。実際、飯笹もそれを望んでいるように思えた。
飯笹が腹を立てているのはもちろん窪塚佳奈とのこともあるが、それより何より冴子が健一をかばうような態度の方なのだから。
「脱げばいいのね?」
でも冴子はそれを選ばなかった。
「有馬さん!」
健一は冴子の声を聞くといてもたってもいられなくなり立ち上がる。そして飯笹に駆け寄る。
「なんだあっ!」
だが飯笹の反応の方が早かった。怒声《どせい》と共に彼が拳《こぶし》を固めて振りかぶるのが見えた。
「ぎぇっ!」
だがその拳は健一にはぶつからなかった。その前に力をなくして地面に落ちた。飯笹の体と共に前のめりに倒《たお》れて。
「アホは死ねよ、本当」
気づくと飯笹の向こうに帽子《ぼうし》を深々とかぶった少年が立っていた。健一よりもかなり背が低く、長い髪《かみ》を後ろで編《あ》んでいた。
「えっと……」
健一はその突然《とつぜん》の展開《てんかい》に振り上げたままの拳を所在なげに振り回す。
「お前もさあ、男なら命懸《いのちか》けても彼女を守れよなあ。俺が来なかったらどうするつもりだったわけ、本当」
「……そうですね」
「ま、お前らがごねててくれたおかげで、コイツを見っけられたんだけどな。その辺は感謝《かんしゃ》しておこう。サンキュー」
なんだかひどく軽いノリで感謝を述《の》べられた。健一はおかげで状況《じょうきょう》がさらにわからなくなったような気がした。
「あ、でも、こちらこそ助かりました。ありがとうございます」
「いいって、いいって。前から気に入らなかっただけだから、この男が。いつかとっちめてやろうと思ってたんだけど、まあ、正面から渡《わた》り合うとちときついっぱいしさ。お前が引きつけてくれている隙《すき》に、金的必殺《きんてきひっさつ》ってわけだ。あはは」
それは見敵《けんてき》必殺の間違《まちが》いだろうか……などと思ったりもしたが健一は恩人《おんじん》だし、いらぬツッコミはいれないことにする。
「って、有馬冴子かよ。変な女助けちまったぞ、本当。でも、ま、いっか……」
その少年は飯笹に絡《から》まれていたのが冴子だと今更に気づいたらしい。というか名前を知ってるということは知り合いなのだろうか。
「有馬さんの知ってる人ですか?」
健一はそれで気になって冴子に尋《たず》ねる。
「……多分、この人、窪塚さんだと思う」
「え?」「マジで?」
健一とその少年の驚《おどろ》きの声が重なった。
「窪塚日奈《ひな》さんよね?」
なのに冴子は何か確信があるらしく、そう尋ねた。
「なんでわかるかなあ、本当」
日奈と呼ばれた少年は、しばらく考えて冴子の考えが正しいらしいことを口にする。
「窪塚さん……?」
だがその場で健一だけが、その事実を認《みと》められないでいた。日奈のことは確かにろくに知らないが、でもこの目の前の少年が日奈とはとても思えなかった。日奈は佳奈の妹で、学校でも知られている双子《ふたご》の美少女なのだから。
「俺の変装《へんそう》を見破《みやぶ》ったのはお前が初めてだぜ、有馬冴子」
なのに当の日奈はあっさりとそれを認《みと》めて冴子との会話を続けている。
「……それはどうも」
「で、まあ、恩着《おんき》せがましいこと言うようでなんだけどさ。さっき助けたお礼に、このことは黙《だま》ってることにしてくれないかな、本当」
「それは構《かま》いませんけど」
「そっちのヤツもそれでいいよな?」
冴子の返事を聞くと、日奈は今度は健一の方に確認《かくにん》を求めてきた。
「あ、はい」
健一はイマイチ、何がどうなってるのかわからなかったが、そう答えておく。
「じゃ、約束だぜ、本当!」
そして健一の返事を聞くと日奈は、シュタッと腕《うで》を上げ、颯爽《さっそう》と走り去っていった。
「……えっと」
健一はそんな日奈の後ろ姿を見送りながら、一体、何が起こったんだろうかと改めて考えてしまった。なんだかあっさり色々なことが記憶《きおく》から飛んでしまった気がする。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
考えがまとまる前に、冴子の声で健一はまた引き戻される。
「……大丈夫?」
「お腹《なか》」
「あ、はい、そうでした。殴《なぐ》られたんでしたよね、僕」
別に冴子への気遣《きづか》いとかそういうことではなく、本当に忘《わす》れていた。そして思い出したせいかまたジンジンと痛《いた》みが戻ってきた。
「とりあえず、ここから離《はな》れましょうか?」
健一は自分の足下《あしもと》に倒れたままの飯笹の姿を見て、冴子にそう提案《ていあん》した。
「帰りましょう」
だが冴子はそう返事をする。
「そうですね」
健一はそれで来た道を戻るように歩き始める。それに冴子が続く。冴子は横には並《なら》ばず、一歩後ろくらいを歩いているようだった。
「それにしてもなんだったんでしょうね、窪塚さんのあの格好《かっこう》は?」
途中《とちゅう》、健一は話題を振ろうとする。
「わからないし、考えない方がいいような気がする」
行きとは別の意味でうまく会話にならない。
「そうですよね……他言無用《たごんむよう》なんですから、忘れた方がいいんですかね」
「たぶん」
それでもう会話は途切れた。
冴子は暗《くら》く沈《しず》んでいるようだった。行きとは別人のようだ。それはコンビニの明るい照明《しょうめい》の下でも変わらない。むしろ際立《きわだ》ったように健一は肩越《かたご》しに彼女を見て思う。
「ごめんなさい」
もう少しで幽霊《ゆうれい》マンションだという辺りで、冴子がやっと口を開いた。
「そんな言葉でどうこうしても仕方ないってわかってるけど」
健一は立ち止まり振り返る。冴子は泣いてるようにも見えた。
「飯笹って人のことですか?」
「うん」
「別に大したケガじゃないですし、まあ殴《なぐ》られたときはビックリしましたけど」
「それは結果としてそうだったってだけで……もっとひどいことになってたかもしれない」
「そんな可能性《かのうせい》のことまで謝《あやま》る必要はないんじゃないですか」
健一はそこまで冴子が責任《せきにん》を感じている理由がよくわからなかった。確かにとばっちりと言えばそうだが、危《あや》ういということで言えば、冴子の方がよっぽど危うい状況《じょうきょう》だったはずだ。
「僕の方こそ、本当、頼《たよ》りにならなくて、すみませんでした」
健一はそのことで謝ろうとするが、冴子はそれを受け入れてはくれなかった。
「私はいいの。飯笹君のことは私のしたことの結果なんだから」
「……それはそうですけど」
「前にも言ったと思うけど、私、トラブルに巻き込まれやすいの。だからもう、こうして一緒《いっしょ》に外に出るのは止めましよう」
冴子はそしてまた歩き始めた。幽霊マンションに向かって。その言葉を認《みと》めるなら、最後になるかもしれない散歩の道の終わりへと。
「そんなこと言われても……今日のことで、なおさら有馬さんを一人にしたくないとしか思えないんですけど。ま、僕がいても何の助けにもならなかったから……意味ないですけど」
健一はそれを追いかけるように冴子に話しかける。
冴子はすぐには返事をしなかった。健一はそれを冴子がもう話しあう気を持ってないからかと感じる。
「いいの、私は」
でも、そうではなかった。
「こうして世界の隅《すみ》っこでも生きていける場所があるってだけで幸せだから。時々、こうして絹川君に優《やさ》しくしてもらえるだけでも罰《ばち》があたるかもしれない。そう思っているから。それだけでいいの。それだけでいたいの」
健一はその言葉の意味がわからないが、それが決して強がりではないように感じる。それこそが彼女の生き方の根《ね》っこにある大事なもののように感じた。
「じゃあ、しょうがないですね」
だから健一はもうそのことについて踏《ふ》み込もうとは思わなかった。ただ、冴子が一体どんな人生を送ってきたのだろうかと思う。
「絹川君ってやっぱり面白《おもしろ》いのね」
そして冴子はマンションの入り口のところで立ち止まり、健一が追いついてくるのを待つ。健一は冴子とのほんの数歩《すうほ》の距離《きょり》をつめるのが勿体《もったい》なく感じて立ち止まってしまう。
「何が面白いんですか?」
「だって、あの状況で『じゃあ、しょうがないですね』だなんて」
「……ちょっと冷たかったでしょうか」
「だから、面白いって言ったでしょ?」
冴子はそれが嘘《うそ》ではないことを示《しめ》すように笑った。
「なら、いいですけど」
健一はまた冴子が何を考えているのかわからなく感じてしまう。でも冴子は元気になったようで、だからそういう不安は顔に出さないように努める。
「こういうこと言うと絹川君を信用してないみたいで心苦しいんだけど」
冴子は健一を見つめると別の話を始めたようだった。
「私との約束、覚《おぼ》えてる?」
健一は今、目の前にいる冴子とあの時の冴子が一致《いっち》しないのを感じた。でも冴子との約束はしっかりと覚えていた。
私のこと絶対《ぜったい》、好きにならないで欲しいの――瞳《ひとみ》にたくさんの涙《なみだ》を溜《た》めて、自分に願った冴子。それを忘れることはきっとこの先も出来ないだろうと思う。
「大丈夫です、約束ですから、ちゃんと守ります」
健一は本心はともかくそう答えるしかないと思った。それが冴子と自分をつなぐ絆であることはわかっているつもりだった。
「……ありがとう」
冴子は笑う。でもなぜかその日はあの時と同じく悲しみの色を感じた。
でも健一は大丈夫だと思うことにした。そして健一はまた例の言葉を心の中で繰《く》り返《かえ》す。
僕に恋愛《れんあい》は向いてない――。
その時はそれが大丈夫だと思える根拠《こんきょ》だと、感じていた。
だから好きになることはないだろうと健一は思うしかなかった。
[#改ページ]
エピローグ 姉は俺を嫌《きら》ってる
[#改ページ]
旅行から帰ってきた二人は一つのルールを決めた。
それは二人がもう仮《かり》の彼氏・彼女の関係ではないということの確認の儀式《かくにんぎしき》だった。
そのルール。二人きりの時は、お互《たが》いを「健一《けんいち》さん」「千夜子《ちやこ》ちゃん」と呼び合う。そんな形式だけのものでも、健一はここ数日、確《たし》かに何かが変わってると感じていた。
「ね、健一さん?」
千夜子が開いたページを見せながら、健一に尋《たず》ねる。
「なんですか?」
二人はその日、朝から家を出て駅前の本屋に行き、一冊《さつ》の本を買った。
明日から作れる簡単惣菜《かんたんそうざい》一要《よう》するにお弁当《べんとう》のオカズの作り方を記《しる》した本だ。千夜子が夏休みのうちにまともなお弁当を作れるようになりたいということで、健一はそれに付き合う形でまずはその本を買ったということだ。
「健一さんはイカフライ好きですか?」
「イカフライ……どうだろ。言われてみるとあんまり食べた覚えもないし、作った記憶《きおく》もないなあ……」
健一はそんなメジャーなメニーに対してそう感じる自分をちょっと不思議《ふしぎ》に思う。小さな頃《ころ》は食べてた気がするが、自分では作ったことが無いせいか、最近はめっきり食べていなかったということらしい。
「嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないですよ、全然《ぜんぜん》」
健一は千夜子の質問《しつもん》の意味を考えて、とりあえずそう答えた。そして付け加える。
「ただ、作った覚《おぼ》えが無いんで、どうだったかなあ、と」
「作ったことないんですか?」
千夜子は少し嬉《うれ》しそうな顔になる。そしてすぐに少し真面目《まじめ》な表情を見せる。
「なんとなく作ろうつて気にならなかったんですよ」
「なんとなく……ですか」
千夜子はそう言いながら、また本に視線《しせん》を向けた。そして人さし指でなぞるように作り方の書いてある部分を確認《かくにん》する仕草《しぐさ》を見せる。
「それでですね、健一さん」
そして千夜子は急に顔を上げて、健一の方を見る。
「はい」
「私、イカフライの作り方を覚えたいんです」
「でも僕はイカフライ作ったことないですから、教えられないですよ?」
「……そうですよね」
千夜子はちょっと言葉に詰まったような様子を見せる。でも一人で二回ほど小さくうなずくと、話を続ける。
「昨日、考えたんですけど、健一さんの得意《とくい》な料理を私が覚えてもしようがないと思うんですよ。それだときっと健一さんには勝てないですから」
「そうですか?」
「た、多分ですけど」
ちょっと自信無さそうに千夜子が答える。
「それで、それでですね……」
「はい」
「だから教えてもらうということじゃなく、私が作るのに付き合って欲しいんです。料理の基本《ほん》みたいなことは教えてくれるとありがたいですけど、そのメニューに関《かん》しては私が担当《たんとう》するってことにしたいんです」
「なるほど……それでイカフライなんですね」
健一は千夜子の考え方は面白《おもしろ》いなと素直《すなお》に思った。確かに自分の得意なこだわりのメニューを千夜子が真似《まね》ようとするよりはずっと建設的《けんせつてき》な気がする。
「だから、私がイカフライを上手く作れるまでは、健一さんはイカフライを作らないで欲しいんです……それで、いいですか?」
千夜子は最初は元気よく言っていたが、最後の方はなんだかもうかなり弱々しい口調《くちょう》になっていた。自分の考えにはそれなりの根拠《こんきょ》を感じてはいても、それを健一がどう思うかにはあんまり自信が無かったということだろうか。
「いいですよ。ぜひ、そうしてください」
だから健一は笑ってそう答えることにする。それが伝わったのか千夜子も笑う。
「……よかった」
そしてほっとしたのか、周りの空気がそっと柔《やわ》らかくなるのを感じた。
「その代わり、僕が得意な料理で時々、お弁当を作ってもいいですか?」
健一はそんな千夜子の勇気ある提案《ていあん》に応《こた》えようと、そんな質問をする。
「それはちょっと……困ります」
千夜子はしかしまた緊張《きんちょう》した様子に戻《もど》る。
「ダメですか?」
「ダメじゃないですけど……」
「じゃないけど、なんなんですか?」
健一は自分の提案を拒《こば》まれる理由がわからず尋ね直《たずなお》す。
「ツバメにあれこれ言われそうで……困ります」
「なるほど」
健一は言われて、ツバメがどんな言い方をするか思わず想像《そうぞう》してしまった。彼女ならなんの遠慮《えんりょ》もなく、同じお弁当なのに随分《ずいぶん》と違《ちが》うよねえとか言い出しかねない。
「でも、大海《おおうみ》さんにばっかり頑張《がんば》らせてるみたいで……」
健一はそう言いかけて、千夜子が自分を指差したのに気づいて口を閉じる。
「今、大海さんって言いました」
「あ……そうですね。すみません」
「私も恥ずかしいの我慢《がまん》して健一さんって言ってるんですから、健一さんもちゃんと言ってくれないと困ります」
千夜子が少し顔を赤くしてすねた口調でそう告《つ》げる。
「すみません。千夜子ちゃんって言うんでしたよね」
「……はい」
千夜子は改めてそう呼ばれたのが照れたのか顔を伏《ふ》せる。それを見て健一もなんだかすごく恥ずかしいことをしてるような気持ちになる。
「えっと……だからですね、千夜子ちゃんにばかり頑張らせてるみたいでですね」
「はい」
「僕としてはどうかなあと思うんですよ。だから、お弁当も千夜子ちゃんだけが作るんじゃなくて、僕も時々作った方が良いかなと」
「でもお弁当は私が作らせてくれって言い出したことですし」
「だったら別のことをする方がいいってことですかね?」
健一はしかしだったらなにをすればいいんだろうと思ってしまう。自分が得意なことと言ったら料理だろうし、わざわざ苦手《にがて》なことを千夜子のためにしたいと言うのもなんだか違う気がしてしまう。
「……大海さんは僕に何かして欲しいことつてありますか?」
「また、大海さんって言いました」
「えっと……千夜子ちゃんは僕に何かして欲しいことってありますか?」
「ないわけじゃないですけど」
千夜子はそう応《こた》えてまた顔を伏せる。
「あるんですか?」
健一はちょっと意外だなと思いながら、それならそれをしようと心に決める。
「でも……すごくつまらないことだなって思うかもしれません」
そう言って千夜子はさらに小さくなったようだった。顔も見てる間に赤さを増していく。
「いいですよ。と言うか、僕、千夜子ちゃんが何か言ったことで、つまらないなんて言ったことないと思うんですけど……」
「そうですよね……それはわかってるんですけど」
でも自分ではそう思わずにはいられないらしい。千夜子は自分で言いだしてしまったことを後悔《こうかい》しているのか、また小さく、そして赤くなっていく。
でもそれが限界《げんかい》に達したのか突然《とつぜん》、顔を上げて健一を睨《にら》むように見る。
「夏祭りに一緒《いっしょ》に行きませんか?」
そして彼女にしては妙《みょう》に大きな声でそんな質問を口にする。
「夏祭りですか?」
健一は驚《おどろ》きながらそう聞き返し、周《まわ》りの人間も千夜子の方を見たのを感じる。
「……はい」
それで千夜子はまた小さくなって、弱々しく返事をする。
「一緒に行くのはいいですけど、それってどうも違うと思うんですよ」
「……ダメですか?」
「ダメってことじゃなくて……僕も千夜子ちゃんと一緒に行きたいですから、それってお弁当の代《か》わりにすることってことじゃないんじゃないかなって……」
健一はどう言ったら自分の考えてることが伝わるのかなと考えながら、そんな話をする。上手く考えがまとまらないなあと感じて言葉を止めたところで、千夜子が健一の方を見て驚《おどろ》いたような顔をしてるのに気づいた。
「一緒に行きたいんですか?」
「え? 夏祭りにですよね?」
「はい、夏祭りにです」
「そりゃ行きたいですよ。行きたくないって言うと思ったんですか?」
健一は逆《ぎゃく》になんでそんなことを聞かれるんだろうと思ってしまう。
「……行きたいって言ってくれたらいいなとは何度も思いましたけど」
「だったら、何も問題ないと思うんですけど」
「そうですよね……そうなんですよ、何も問題ないんですよ」
千夜子はそれでもなんだか目が回ってるような顔をする。どうやら恥ずかしさが限界に達して頭がオーバーヒートを起こしているらしい。
「とりあえず夏祭りは一緒に行くとして、僕はどうしたらいいんですかね?」
「浴衣《ゆかた》を着てくれると嬉しいです」
千夜子はうわごとのようにそんなことを呟《つぶや》いて、自分の言葉に驚いて口を手で押《お》さえる。
「あ、いや、さっきのはナシですからっ!」
「……ナシなんですか?」
「いや、アリでもいいですけど……そのなんとなく言っただけで……その深く考えたわけじゃないんです。って、同じ意味ですよね、これじゃ……」
千夜子は慌《あわ》ててパニックになってるようだった。おぼれている人間みたいに両手をばたばたとさせる。
「いいんじゃないですか、なんとなくで」
だから健一はゆっくりと告げた。
「……いいんですか?」
千夜子がそう尋ねて、ぴたりと動きを止めた。それは意識《いしき》して止めたというよりは、健一の返事に集中するあまり、他が全部止まってしまったかのようだった。
「いいですよ。いちいち僕がどう答えるかとか考えて不安にならなくてもいいですから」
「すみません……」
千夜子は今度はガックリと肩《かた》を落として、弱々しく謝罪《しゃざい》の言葉を口にする。
「この辺も僕が悪いんですよね、きっと」
健一はそんな千夜子を見ながら、自分のことを振《ふ》り返る。
「そんなことないですけど……」
「僕って昔からそうなんですよ。けっこうなんでもあっさり納得《なっとく》しちゃうから、周《まわ》りを不安にするみたいなんですよね。本当は不満があるけど言わないだけじゃないか、みたいな。でも本当、不満なんて全然無いんですよ。ああ、そうなのかあって驚いてるだけで、反応《はんのう》が薄《うす》いとしてもそのせいなんです」
「……そうなんですか」
「あと、何もしてなくてもそんなに退屈《たいくつ》しない人間みたいなんですよね。小さい頃《ころ》の話ですけど、公園のオブジエを毎日、ずっと見てたらしいんですよ」
「ずっと、ですか?」
「自分ではよく覚えてないんですけど、小学生の夏休み、お昼食べると公園に行って遊ぶでもなく、ずっと見てたらしいんです。本当にずっと。しかも一日だけじゃなくて一週間ぐらい。
お昼食べると公園に行って、夕食の時間になると帰って来るっていうその繰り返し」
「なんで、そんなことをしてたんですか?」
「さあ……自分でも理解《りかい》に苦しみますけど、まあ、でも今でもそういうところがあるかなあという気もするんですよね。だから特別なこととか必要じゃないんですよ。千夜子ちゃんといるなら何も起きなくても、それで満足してしまえるんですよね」
「それは嬉しいですけど……でも、それって一緒にどこかに行くとかって面倒《めんどう》ってことなんですか?」
「別にそれはそれで楽しいんですよ。でもなんて言うんですかね……新しいことが起こってるとそっちばっかり気になってしまうというのか……まあとにかく基本的《きほんてき》にのんびりしたヤツなんだと思います」
健一は自分でも結局《けっきょく》、何を言いたかったのかわからなくなり、それで話を区切ろうとする。でも千夜子はその話に興味《きょうみ》を覚えたようだった。
「そのオブジェってあれですよね、『時の番人』って言うアヤ・クワバタケの?」
「そ、そうですね。あれです」
健一はちょっと綾の名前が出て驚く。そう言えばあれは彼女の作ったものだった。
「あれを一週間も見てて、誰《だれ》か何か言ってきたりしなかったんですか? 学校の友達もあの公園に遊びに来たりしてましたよね、きっと」
「その辺もよく覚えてないんですけど……」
健一はそう言いかけて、何かひっかかる記憶《きおく》を探《さぐ》り当てる。
「ああ……何日目かは忘れましたけど、途中《とちゅう》から女の子と一緒に見てた気がします」
健一は言葉と共に連鎖的《れんさてき》に色々と記憶が戻ってくるのを感じる。
「女の子って……同じ年くらいの娘ですか?」
「多分。僕が小学生だった時だから、まあ向こうもそんなものだったんじゃないか、と。でも学校で見た覚えが無いような子で、誰《だれ》なの? って聞いた覚えがあります。名前は ――」
健一は記憶を掴《つか》みそこねて逃げられたような喪失感《そうしつかん》を覚える。さっきは思いだした気がするのに他のことに気を取られているうちに忘れてしまったみたいだった。
「なんて言ったっけ……」
「覚えてないんですか?」
「ええ。とにかく、この辺の子ではなかつたと思うんですよ。その時にしか会った覚えがないし。それで、そうだ……」
健一はまた別のことを思い出す。
「その子がもう来ないって言うから公園に行くのをやめたんですよ、たしか」
健一は一つ何かが解決《かいけつ》した気になって興育《こうふん》ぎみに呟く。でも千夜子は静《しず》かに別のことを尋ねてきた。
「その人って健一さんの初恋《はつこい》の相手ですか?」
「え? いや、まさか……だってさっきまで忘れてたんですよ?」
健一は何を言いだすんだろうと思いながら、千夜子に返事をする。
「そうですよね……私、何言ってるんでしょうね」
「初恋の相手なら名前くらい思い出せると思いますよ、さすがに」
健一は苦笑《にがわら》いを浮《う》かべるしかなかった。でも、それは思い出せないことに対してではなく、そんな相手がいないことの方だ。
初恋。そんな経験《けいけん》があったなら、自分はもう少し違う人間だったろうなと思う。
「それにしてもなんだか不思議《ふしぎ》な話ですよね。その夏の数日だけ出会った謎《なぞ》の女の子つてことですよね、それって」
「そういうことに、なりますかね」
健一はなんだか不用意な会話だったかなあと感じてしまう。彼女の前で他の女の話をするのはよくないと言われればそうだろうとも思うが、自分としてはそういうつもりはまったくなかったのだから……。
「さらわれないでくださいね」
千夜子が急にそんなことを言い出した。
「え?」
「いや、その娘って実は人間じゃなかったんじゃないかなって……なんとなくですけど」
「人間じゃないって……」
「真夏の亡霊《ぼうれい》とか妖精《ようせい》とかそういうものだったんじゃないかなって」
「……単に日射病《にっしやびょう》で幻覚《げんかく》見てたのかもしれませんよね」
健一はどっちかというとそう考えた方がしっくり来るなあと笑ってしまうが、千夜子は心配そうに自分のことを見ていた。
「えっと……本当に亡霊とか妖精って思ってるんですか?」
「本当にって言われると自信ないですけど……そういうのってまたやってきて、その人をさらってどこかに行くみたいな話を聞くじゃないですか」
千夜子は思いの外、本気で心配してるようだった。それで健一もちょっと考えてしまう。まあ、確かにそうであっても不思議はないかなという思いはある。
あの幽霊《ゆうれい》マンションと自分が呼んでいたビルにしたって、十二階建てのくせに十三階に人が住んでいる。それに比べれば、よっぽどよく聞くパターンの話だ。
「もしかしたら、僕はもうさらわれてるのかも……なんて思ったりしました、今」
そして健一はそんなことを口にする。
「さらわれてるって……今、ここにいるじゃないですか?」
「まあ、体はここにあるんですけど、魂《たましい》の半分とかそれくらいあの時に持っていかれちゃったのかなあとか思うと、自分的にはけっこうリアリティがあるような気も」
「そうなんですか?」
「時々、人と比べると感情とかが弱かったりするなあって思うんですよね。さっきも言いましたけど、退屈だなってあんまり思わないとか。心ここに有らずで何考えてるかわからないみたいなことも時々言われますし」
「私はそんな風には思わないですけど……」
「あの娘が妖精だったら僕の半分は今、妖精の世界にいるのかな。それで、いつかまたあの娘と一緒に会いに来たりするんですかね」
健一は軽い気持ちだったのだが、気づくと千夜子は今にも泣きそうな顔でこっちを見ていた。
「……あの、大海さん?」
思わず、また前の通りの呼び方に戻っていた。でも千夜子は今度は指摘《してき》しなかった。
「もし会いに来たらどうするんですか?」
「どうするんですかね?」
健一は千夜子の真剣《しんけん》な表情に思わず、そんな有《あ》りえるはずの無い状況《じょうきょう》について考えを巡《めぐ》らしてしまう。
自分の魂《たましい》と共に、あの時の少女が会いに来たら、自分はどうするのだろうか?
「詳《くわ》しいことはわかりませんけど――僕はこの世界に残ると思いますよ。素晴《すば》らしいかも知れない妖精の世界よりも、こっちの世界で、僕は満足《まんぞく》してますから」
健一はそう言ってしまってから、千夜子が少しホッとした様子を見せるのに気づく。
「千夜子ちゃんが一緒に行きたいって言うなら行くような気もしますけど」
「……それってなんだかすごく健一さんらしい答えですね」
千夜子は少し呆《あき》れたような様子でそう答えたが、すぐににっこりと笑った。
「でもだから安心しました」
「そうですか。それならいいんですけど……変な話してしまったみたいで……」
「いえ、私の方こそ、ありえないですよね、そんなこと」
千夜子は少しわざとらしく笑う。
「ですよね。あの娘も単に公園の近くに親戚《しんせき》が住んでるとかで、夏休みに遊びに来てたとかそれだけですよ」
健一はそう言ってから、それが一番しっくり来る考えだなと思う。ハッキリと覚《おぼ》えてないせいでなんだかミステリアスな少女のように感じてしまったが、本当のところはそんな大層《たいそう》なものではないのだろう。
「……はるな」
でも忘れようとした時、健一はその名前を思いだした。
「はるな?」
「その娘、自分のことを『はるな』って名乗《なの》ってました」
「はるなって、どんな字《じ》を書くんですかね?」
千夜子の質問に健一は自分もそんなことを聞いたようなことを思い出す。でもその『はるな』の答えは実に分かりやすかった。
「難しいからきっと教えても書けないわ――って言われた気がします。だから僕はまあ呼ぶ分には書けなくてもいいだろうって」
健一はそう答えて苦笑いを浮かべる。自分もその娘も小学生だったのだ。その答えは実に納得いくものだった気がする。
「……ちなみに健一さんは『ちやこ』ってどう書くか知ってますよね?」
千夜子はそう言って健一に、自分の名前について尋ねる。
「えっと……とりあえず、『こ』は子供《こども》の子ですよね?」
健一は突然《とつぜん》の展開《てんかい》になんだか間の抜《ぬ》けた質問を返すのがやっとだった。
その日の昼食は大海家の食卓《しょくたく》でとることになった。それは健一にとっては初めての体験《たいけん》で、しかも料理を作ったのは、千夜子でもなく、千夜子の母親の久美子《くみこ》でもなく、そしてもちろん千夜子の兄の悟《さとる》でもなく、健一だった。
「あらぁ、唐揚《からあ》げってこういうものだったのねえ」
久美子は感心するようにそんなことを言って、笑うともう一つの唐揚げに箸《はし》を伸《の》ばした。どうやら気に入ってもらえたらしい。健一はそう思いながら、改めて久美子を見る。
千夜子の母親は思っていたよりもずっと若《わか》かった。千夜子の兄、悟と自分の姉、蛍子《けいこ》が同じ年だと考えると両親も同じくらいだろうと思っていたが、久美子は自分の母親よりは五歳は若そうだった。会う前は、もう少ししっかりした人と想像《そうぞう》していたが、むしろ千夜子より子供っぽくて表情も豊《ゆた》かで、そして少しゆったりしたペースで話す人でもあった。
「…………」
食卓に座《すわ》っているのは四人だった。健一、千夜子、悟、そして久美子。父親の方は仕事らしい。区役所の役員だとかで、なにか駆《か》りだされているという。
「どうですか?」
一応《いちおう》、確認《かくにん》のために健一は久美子に尋ねるが、隣《となり》に座っていた千夜子の兄、悟が代わりに興奮気味《こうふんぎみ》に口を開く。
「いや、絹川《きぬがわ》君。これは美味いよ。うん。俺、唐揚げってあんまり好ぎじゃなかったけど、それは母さんの唐揚げがまずかったからだなって気づいた」
「……そうですか」
悟のそれは褒め言葉なのだろうが、健一は素直に喜べないものを感じる。久美子の作った唐揚げがどういうものかわからないがあんまりな言い方だろうと思う。
「もう、悟ちゃんったら、ひどいんだからぁ」
久美子もそう思ったらしく、苦情《くじょう》を口にするがどうも口調《くちょう》のせいなのか、あんまり本気で不満を感じてるようには思えない。
「そんなこと言ったって、母さんだってそう思ってるんだろ?」
だからなのか悟にも悪びれた様子もない。
「そうだけどお……母さんの目の前で言うことはないじゃない」
久美子はそれで少し口をとがらせたようだった。なんだかこうして二人のやり取りをみていると母親と息子《むすこ》というよりは、姉弟か何かの会話の様な気がしてくる。
「あぁ、でも本当、驚きよねえ。唐揚げってこんなに美味《おい》しいものだったのねぇ」
そんなことを思ってる健一の様子に気づいたのか、久美子は健一の方を見てにっこりと笑う。
「別に普通《ふつう》ですよ。特別なことは何もしてませんし」
「そうなのぉ? だったら私でも同じように作れるはずなんだけどなぁ」
「調理道具は同じですし、材料もあるものを使いましたから作れると思いますけど」
「そうなのぉ? それはかなりショック……」
久美子はがっくりと肩を落とす。そういう仕草《しぐさ》は千夜子が時折見せるのとそっくりで健一はやっぱり親娘《おやこ》なんだなあと思ったりもした。
「いくつかコツはありますけど……例えば、二度揚げするとか」
「二度揚げ? それって何? 秘密《ひみつ》じゃないなら教えてくれる?」
「秘密じゃないから教えますけど……まあ、言葉の通り、二度揚げるんですよ」
健一は久美子が興味津々《きょうみしんしん》に見てるのを感じながら話を続ける。
「最初、少し低めの温度で揚げて、一度、引き上げて油を切るんですよ。それでしばらく寝《ね》かせて、もう一度、今度は高めの温度で三十秒くらい揚《あ》げるんです」
「……なんでそんなことするの?」
「火の通り加減《かげん》を考えた時に、周りはカラッと揚げようと思ったらその方がいいなって。表面だけ焼いてから、今度は中身だけ暖《あたた》めるみたいなイメージなんですけど……わかります?」
「なんとなくは……」
久美子はそうは答えが正直わかってはいなさそうだった。
「後は衣《ころも》に少しカレー粉を入れるんですよ」
「カレー粉を?」
「そうすると香《こう》ばしくなるんです」
「あ、それはわかるかも」
久美子はそう言って嬉しそうに笑うと、小声で何度も「カレー粉」と呟《つぶや》く。必死に覚えようとしているらしい。
「絹川君さあ、そう言うのって、本に載《の》ってるわけ?」
その隣の悟がそんな質問をしてくる。
「いや、どうなんですかね。別に本を読んだりはあんまりしてないんで。適当《てきとう》にこんな感じかなあと思って作って、後は試行錯誤《しこうさくご》ですよ。もう少しカラッとしないかなあって、カレー粉も試《ため》しに入れてみたらうまくいったから以来、入れてるだけで」
「へえ。適当に作ってるうちにこんな風になるもんなのか」
悟は感心したように呟くが、すぐに次の唐揚げをつまんで口に入れる。
「だから、あれですね。もしかしたら、これ唐揚げっぽいだけで、唐揚げじゃないかもしれませんね」
「ま、これが唐揚げかどうかよりは美味いかどうかだし。いいんじゃない、これはこれで」  悟は実にあっさりとそう答える。
「まあ、そうですよね」
「ただまあ、あんまり美味すぎて彼女が言葉を失ってるのはまずいかなあ」
悟はそう言いながらも笑っていた。健一はその彼女という言葉に自分の隣に座《となりすわ》っている千夜子の方を見る。
「……別にそういうことじゃないってばっ! 変なこと言わないでよ!」
千夜子は健一の視線《しせん》に気づくよりも先に兄への不満を口にする。それから自分が怒《おこ》っているのを見られたのが恥ずかしくなったのか目を伏《ふ》せる。
「そうじゃないってんならなんなんだよ? あ、そうか、絹川君が隣に座ってるので緊張《きんちょう》して何もしゃべれなかっただけかぁ。本当、千夜子はいつまでもお子ちゃまだよな」
悟はそう言って千夜子を笑うが、千夜子はそれに何も答えず、プルプルと体を震《ふる》わすだけだった。どうやら本気で怒っているらしい。
「だめよぉ、悟ちゃん。もう千夜子を怒らすようなこと言わないって約束したでしょ?」
見るに見かねたのか、少しタイミンクが遅《おそ》い気もしたが久美子が割《わ》り込んでくる。
「そんなこと言っても、千夜子が子供なのは本当のことだしなあ。絹川君もそう思うだろ?」
「……えっと」
大海家の三人の視線を感じて健一は言葉に詰《つ》まる。確かに悟の言ってることは間違《まちが》ってない気もするが、本当のことだからって言って良いというわけでもないだろう。
「僕もまだまだ子供ですし、それくらいの方がいいんじゃないかと」
「絹川君は大人だねえ、本当。千夜子と違って」
悟がそんなことを言った時、ドスンと大きな音が鳴った。千夜子が机《つくえ》を叩《たた》いて、立ち上がったのだ。それは以前も見た光景《こうけい》。
「なんで、そんな話ばっかりするのよ、お兄ちゃんのバカ!」
そして千夜子はその時と同じ怒《いか》りの声を上げた。
「これに懲りずに、またいつでも来てくださいねぇ」
久美子は帰ろうとする健一を玄関《げんかん》で見送ってくれた。本心からの言葉だろう。自分の息子《むすこ》と娘《むすめ》が大げんかを始めた様子を見た後なのに、すごくノンビリした人だなと健一は思う。
「……あの」
ちょっと後ろで千夜子が申し訳《わけ》なさそうに顔を伏せていた。
「来てくれるのは嬉《うれ》しいんですけど、できればお兄ちゃんがいない時にしてくれると……嬉しいです」
その言葉に健一は少し笑ってしまった。以前と一緒で千夜子は悟とケンカしたことをすごく後悔《こうかい》してるようだった。
「ケンカするのがいいこととは思いませんけど、でも悟さんと話してる千夜子ちゃんはすごくまっすぐな感じがして僕はいいかなあって」
「そ、そうなんですか?」
千夜子は複雑《ふくざつ》な表情を浮かべていた。ケンカした自分を悪く思ってないということに安心しつつも、スッキリしないものを感じているらしい。
「ああ、そうだわぁ!」
そんなところに久美子が突然大きな声を上げて、手を叩《たた》く。
「お姉さんも一緒に来てもらったらどうかしらぁ」
「……どうどうかしらなのかわからないんだけど」
千夜子は母親の閃《ひらめ》きがなんなのかわからず、そんなことを呟く。
「ほらぁ、絹川君の家はご両親が留守《るす》がちで、いつも二人で食事をしてるわけでしょ? それって寂《さび》しいじゃない。だったら絹川君とお姉さんも家で食べてもらって、それでそれを絹川君が作れば皆《みんな》、幸せになれるって思ったんだけどぉ」
「……お母さん?」
千夜子は母親の提案《ていあん》に頭を抱《かか》えた様子を見せる。
「ダメかなぁ?」
「途中《とちゅう》まではともかく、どうして健一さんが作るってことなるの?」
「だってぇ、私より絹川君が作った方が美味しいに決まってるものぉ。ねえ、悟ちゃんもそう思うでしょ?」
久美子は味方を求めてリビングから顔だけ出して様子を窺《うかが》っていた悟に話しかける。
「ま、母さんの言うとおりだろ」
「だとしても迷惑《めいわく》でしょ?」
「勝手に決めつけるなよ。それは絹川君が決めることだろ?」
そう言って悟は玄関の方に歩いてくる。
「僕はまあ……別にそれでも構《かま》いませんけど
健一は遠慮とかではなく、本当にそう思った。正直、時々妙に不機嫌になる蛍子と二人で食事をするよりは大海家の人たちと楽しく食事した方がいいと思うし、食事を作るなら二人でも六人でも大差《たいさ》はないだろうと感じる。
「じゃあ、そうしましょうよぉ。うん、ぜひ、しましょ。もう今晩からでも」
久美子は健一の返事に嬉しそうにそう答える。
「でも姉はちょっと人見知りするタイプなので」
健一はその話を断《ことわ》るしかないと思って、その返事を口にする。実際《じっさい》、蛍子はあまり他人が好きではないようだし、悟に対してはかなりの怒りを抱えている。きっとこんな話をすれば凄《すご》い勢《いきお》いで罵倒《ばとう》される。
「……ま、絹川には嫌われちまってるしな」
それが言外に伝わったのだろうか。悟は急に笑うのを止めてそう呟く。
「そうなのぉ? うーん、いい考えだと思ったんだけどなぁ」
でも久美子はまだ諦《あきら》めきれないらしい。目をうるうるさせて健一の方を見る。
「すみません。姉には気難《きむずか》しいところがありまして」
「絹川君が謝《あやよ》るようなことじゃないさ。悪いのは俺だからさ」
悟はそう言って、久美子にもう健一を責《せ》めないようにと合図《あいず》をしたようだった。
「でも、本当、絹川君がいいなら遠慮せずにいつでも来てくれていいからさ」
「あ、はい」
「千夜子も……まあ言わないだろうけど、そう思ってるだろうからさ」
悟は千夜子の方を振り返り、驚く彼女を見つけて嬉しそうに笑う。
「……お兄ちゃん」
「お前が言わないから代わりに言ってやっただけだろ? 感謝《かんしや》されこそすれ、怒られるようなこととは思わないけどなあ。絹川君もそう思うだろ?」
「そうですね。僕もそうじゃないと困りますし」
「そういうこと。なので、まあ俺に言われるのが腹《はら》が立つって言うなら、お前も言えよ」
悟はそう言って後ろの方にいる千夜子にこっちに来いと手を動かす。
「今、言うの?」
「絹川君が帰る前に言わないとだろ? それとも本当はもう来て欲しくないって思ってるとでも言うのか?」
「お兄ちゃんがいる時は来て欲しくないとは思ってる」
「ん? あ、なんか千夜子はもう来て欲しくないそうですよ、絹川君」
「だから、そうは言ってないじゃない!」
「でも、来て欲しいとも言って無いだろ」
悟はそれで勝ち誇《ほこ》ったような表情を見せたようだった。千夜子は悟のそんな顔をじっと睨《にら》み、それから健一の方を見て、そして目を伏せる。
「あの……また来てくださいね」
千夜子は恥ずかしそうにそう告《つ》げると動かなくなった。もうそれを言うだけで限界《げんかい》に達してしまったようだった。
「あれが……家族だよなあ」
帰り道、健一は大海家の人々のことを思い出し、そして溜《た》め息をついた。
それはもちろん大海家の人たちに対してではない。自分の家族と比べてのことだ。
今までは自分の家は自分の家だと思ってたし、他と違うからどうかとかそんなことはあまり思ったことはなかった。
昔からそうだったし、これからもそうだろう。それだけの話だった。
でも、大海家の食卓《しょくたく》に参加した今は、いかにも絹川家は奇妙《きみょう》な家だと思うしかない。
両親がほとんど不在《ふざい》。自分が料理を作り、そして姉の蛍子と二人で食べる。それが家族という言葉で表現《ひょうげん》されるものの形とはとても思えなかった。
「それでも昔はあんな感じだった時期も……あったよな」
健一は記憶《きおく》を辿《たど》るが、一年や二年といった程度《ていど》の昔ではないと気づく。
自分が中学に入った頃には、もう両親は不在がちだった。そうなると、もうすでに三年くらい家族らしい家族ではないということだ。
「俺のせいなのかな」
健一は公園についた辺りでそう思い、今日はそのまま家に帰ろうと考える。まだ昼過《す》ぎだし、幽霊《ゆうれい》マンションにはその後でも良い気がした。
「俺が忙《いそが》しい母さんのために料理くらい自分でしようって思つたからなのかな」
だとしたら自分のしたことはなんなんだろうなあと思うしかない。家族のためを思ったことが、結果、絹川家を家族らしからぬものにしてしまったということだ。
しかしそれはそんなに間違《まちが》った考えという気もしなかった。事実、健一の母親は健一が料理を作れるようになるとあまり家に帰ってこなくなったのだから。
夕方過ぎになると電話をしてきた。今日はちょっと帰れそうにないから――と。
そういう電話の頻度《ひんど》が増《ふ》えて、それが毎日になると、逆に電話はかかってこなくなった。言われなくても健一は夕食の準備《じゅんび》をするようになったからだ。母親が帰って来るのを待たずに料理をして、帰って来るなら一緒に、そして帰ってこないなら蛍子と二人で夕食を食べる。そんな毎日に変わっていった。
そういう状況《じょうきょう》に対して、その時は何にも思わなかった。そうするのがいいと思っていたし、疲《つか》れて帰ってきた母親が自分の料理を食べてくれるのは嬉《うれ》しかった。
あなたがいてくれて、本当、助かるわ――そんなことも言ってくれた。
だから、頑張《がんば》ろうと思った。時々は蛍子も料理を作ればいいのにと思ったりもしたが、それでも母親が作らないことに不満を感じたりはしなかった。
母親は仕事で疲れているのだ。自分で出来ることを、そんな母親にやらせることはない。そう思ってたし、そうしたのだ。
「でも、その結果《けっか》がこれか……」
健一はまた溜め息をついた。善《よ》かれと思ってやったことだった。実際《じっさい》、母親も感謝してたはずだ。でもどこかでボタンを掛《か》け違《ちが》えたのだろう。気づくと絹川家は家族としての形を失っていた。しかもかなり前に。
険悪《けんあく》な関係になったわけではない。今でも会えば普通《ふつう》に話をする。でも、それだけだ。
いつのまにか自分は両親に、両親であることを期待しないようになっていた。健一はそれに気づいて、言葉を失った。
そして言葉を失ったのは自分だけではなかったようだった。
「……ホタル?」
いつぞやと一緒《いっしょ》だった。リビングで不機嫌《ふきげん》そうな顔して蛍子が固《かた》まっていた。周りに紙袋《かみぶくろ》が転がっているところを見ると買い物に行って帰ってきて、そのままこうなったらしい。そう思って見ると、服もなんだか余所行《よそい》きという感じのコーディネイトだった。
「…………」
蛍子は健一の呼びかけには反応《はんのう》を見せなかった。聞えてないということはないだろうから、返事をする気力も無いということだと思うことにする。
今度は何があったんだ? 健一はそう思ってから、でもあの時も何が原因《げんいん》か結局《けっきょく》、わからないままだったなあと気づく。そのままにしてたせいで、また爆発《げくはつ》したとかそういうことなのだろうか。
「……その本」
健一は蛍子が本をテーブルの上に置きっぱなしにしているのに気づく。なんだか見覚えのある雑誌《ざっし》だったが、どうも微妙《びみょう》に記憶《きおく》に有るそれとは違う。
『隔月刊《かくげっかん》アーツライフ』。その雑誌の名前は同じだった気がする。つまり、この間見たのとは別の号ということらしい。
「この本がどうかしたのか?」
初めて蛍子は反応を見せた。ということは、この雑誌が元凶《げんきょう》のようだ。
「いや、この間も読んでたなあって……お気に入りの雑誌なの?」
否定《ひてい》されるだろうと思いながら、そんなことを聞いてみる。
「こんなミーハーな雑誌、誰が気に入るか」
「でも、この間も買ってただろ、確《たし》か」
「まあ、な。でも定期購読《こうどく》してるわけじゃあない」
「でも続けて二冊《にさつ》買ってはいるんだろ?」
健一はその理由を自分なりに考えてみる。でも、わかるわけはなかった。なにせ読んだこともない本だ。芸術《げいじゅつ》に関する知識《ちしき》だって乏《とぼ》しい。
「ちょっと学校で話題になってな。それで確認《かくにん》のために買っただけさ」
「……なんなんだよ、それ」
健一は本当に訳《わけ》がわからず、とりあえず読んでみようかなあと思って雑誌に手を伸《の》ばす。蛍子はそれを興味《きょうみ》無さそうに見ていた。
「大した本じゃないぞ」
蛍子はそんなことを呟《つぶや》く。でも健一はそれならこういうことにはならないだろうと思う。
「…………」
そして蛍子の怒《いか》りの原園がわかる前に、健一はまた言葉を失うことになった。その本の表紙には良く知った名前が書いてあったからだ。
特集 アヤ・クツバタケの世界――そう大きく記されていた。健一はそれで以前、綾《あや》が雑誌のために写真を撮《と》るという話をしていたことを思い出した。あの時は写真のことよりも帰ってきた後の方がインパクトがあったのですっかり忘《わす》れてしまっていたが……なるほど、これがその本だったらしい。
健一は少し落ち着きを取り戻すと雑誌を前からパラパラと見ることにする。そしてすぐに見覚えのある物体をそこに見つけた。
「時の番人――だ、これ」
公園に置いてある健一のお気に入りのオブジェだ。どうやら綾の特集《とくしゅう》というのは雑誌の巻頭《かんとう》のものらしい。〈時の番人〉は綾の作品なのだから、そこに載《の》ってるのはまあ理解《りかい》できたが、見知ったものが雑誌に載ってるというのは健一にとっては奇妙《きみょう》な経験《けいけん》だった。
「……そう言えば、お前、それが好きだったな」
蛍子が不機嫌そうに呟くのが聞えた。
「悪いのかよ?」
「別に悪かないけどな、ムカツク」
「……ムカツクって言われてもなあ」
健一は今は蛍子にまともな反応を期待しても無駄《むだ》だなと思うことにする。ムサクサしている時の蛍子は普段《ふだん》とは比較《ひかく》にならないほど、話が通じない。
「やっぱ、読むな」
それを自ら証明《しょうめい》するかのように蛍子は突然《とつぜん》、健一から雑誌を取り上げた。
「なにするんだよ?」
「これは私の本だ。読みたいなら自分で買え」
「……そうですか」
健一は少し腹が立ったが、それでも我慢《がまん》することにした。蛍子がすでにおかしくなり始めているのはわかっていたし、こっちもそれに合わせたらもう泥沼《どろぬま》だ。そしてそれは避けたかった。きっと母親のことを考えていたせいだ。
ほとんど残っていない絹川家の家族としての形。それを健一は守りたかった。だから蛍子とは仲良くしたい。そう思ったのだ。
「なんだ?」
だが蛍子はそうは思ってはくれていないようだった。不機嫌そうな態度で健一を見ている。
「……それはこっちのセリフだよ」
健一は呆《あき》れた口調《くちょう》でそう告げる。
「その雑誌の何がそんなに気に入らないのかは知らないけどさ、俺は関係ないだろ?」
「ま、そりゃそうさ。お前には関係ない」
「だったら俺を睨《にら》むのは止めてくれよ」
健一は蛍子の様子を見ながら、そう言ってみる。また怒《おこ》るかとも思ったが、蛍子は少し落ち着いたらしい。また雑誌をテーブルの上に放り出して、自分は椅子《いす》に座《すわ》る。
「悪かったよ」
そして小さく謝罪《しゃざい》の言葉を口にした。
「いや、別にわざわざ謝《あやま》ってくれなくてもいいけどさ」
「その本も読みたいなら読め。私はもう読まないからやる」
蛍子はそう言うとまた落ち着かない様子を見せて、立ち上がるとそのまま部屋を出ていこうとする。なんだかもう見るのも嫌《いや》になったようだった。
「ま、くれるって言うならもらうけど」
健一は改めて本に手を伸ばそうとするが、すると蛍子の動きが止まったようだった。
「いるのか、それ?」
「ホタルがやるって言ったんだろ?」
まだおかしいままらしいと健一は思いながら、蛍子の方を見て言い返す。
「欲しいと言うとは思ってなかった」
「だったら、やるとか言うなよ」
「私がいらないから言っただけだ」
「……はいはい」
健一はやっぱりおかしいままだと確認《かくにん》して、とりあえず注意を雑誌の方に移《うつ》す。
「なんで欲しいんだ?」
でも蛍子の質問がまた健一を引き戻す。
「なんでって……〈時の番人〉が好きだし、綾さんのことも知りたいし……」
健一は何気なくそう答えたが、蛍子の様子が目に見えて変わるのがわかった。特に後半。綾の名前を出した途端《とたん》、蛍子の目にまた怒りが宿るのが見えた。
「お前、今、なんて言った?」
まばたき一つせず、蛍子は目を見開いて健一を睨むように見ていた。
「何って……〈時の番人〉が好きだしって」
健一は答えながら、蛍子の怒りの核心《かくしん》が何かわかった気がした。
「その後だ」
そして蛍子はその答えを健一に言わせようとする。
「綾さんのことも知りたいしって言ったんだけど……」
それが蛍子とどう関係あるのか? 健一はそう聞こうとしたが、とても最後まで言うことは出来なかった。蛍子が近づいてきて胸《むな》ぐらを掴《つか》んだからだ。
「なんだ、綾さんって?」
「……アヤ・クワバタケのことだろ」
「んなことはわかってる。私が聞いてるのは、そのアヤ・クワバタケのことをなんでお前が『綾さん』なんて親《した》しげに呼《よ》んでいるかだ」
健一は蛍子の言葉に、自分が地雷《じらい》を踏《ふ》んでしまったと認《みと》めるしかなかった。蛍子と綾が知り合いのはずなのに、どうも仲が良くないらしいことには気づいていた。それなのに、なぜこの状況《じょうきょう》で綾の名前を出してしまったのか。健一は後悔《こうかい》するが、すでに手遅《ておく》れらしかった。
「……くそ、また女か」
健一の返事を待たず、蛍子が吐《は》き捨《す》てるように呟く。
「またって?」
「お前には関係ない!」
蛍子は叫《さけ》ぶと掴んでいた手を放して、健一から視線をそらした。
健一はなんだか急に一人で置き去りにされたような不安を覚える。
お前には関係ない。蛍子に何度となく言われたセリフだったが、それは今回ばかりはひどくリアルに健一に響《ひび》いたようだった。
「関係ない……とは思えないんだけど」
健一は小さく呟き、そして蛍子の返事を待った。
「…………」
だが蛍子は別の方を向いたまま、何も言わなかった。
「一体、何があったわけ? 綾さんとホタルの間に」
それで健一は心配になり質問をすることにする。
「お前には関係ないと言っただろうが」
「そりゃそうだけど……こんなに怒るなんておかしいし、さすがに心配になる」
「心配? お前が私を心配するって?」
蛍子はそう言うと振り返って、また怒りの視線で健一を睨《にら》み始《はじ》める。
「しちゃ悪いのかよ。自分の姉を心配するのは悪いのか?」
「……だったら、なんであんな女と仲良く出来たんだ?」
蛍子は健一の質問には答えず、震《ふる》えながら尋ねてくる。
「あんな女って……まあ綾さんは変なところはあるけど……」
「やっぱり、そうなんだな」
健一の返事を待たず、蛍子は何かを結論《けつろん》づけたようだった。
「え?」
「お前が毎日のように遊びに行ってる年上の女ってのは桑畑《くわばたけ》綾だったんだな」
「そうだけど、なんでそんなに怒《おこ》ってるんだよ?」
今更、嘘をついても始まらない。健一は蛍子の指摘《してき》が正しいことを認《みと》める。
「ってことはお前の初めての相手ってのも桑畑綾で、私が服をあげた私ぐらいの背《せ》の高さの女ってのもあの女なんだな」
だが蛍子は健一の質問には答えない。ただ自分の推測《すいそく》が正しいことを口にするだけだ。
「……そうだけど」
健一はここまで蛍子が綾を憎《にく》む理由がわからず戸惑《とまど》うばかりだった。確かに綾は変わっているし困ったところもあるが、それでも本気で怒ったり憎んだりする相手とは思えない。
「…………」
だが蛍子は健一の疑問には答えてくれそうになかった。歯を食いしばって自分の中の怒りと戦っているようだった。その怒りが時々、健一の方を見る視線《しせん》から漏《も》れるのを感じる。
「…………」
黙《だま》ったままの蛍子は視線を落とすと、そのまままた健一の胸ぐらを掴んだ。その手が震《ふる》えているのに健一は気づいた。
「ホタル?」
健一はそれほどの怒りの理由がやはりわからず、彼女の名前を呼ぶ。だが蛍子はやはり返事はしなかった。
ただ、一言。健一が思ってもいなかった言葉を口にする。
「私の処女《しょじょ》を返せ」
それは不可解《ふかかい》な命令だった。理不尽《りふじん》な命令は時々言われてきたが、それとは明らかに違っていた。理解できない。そして反論《はんろん》もできない。そんな一言だった。
「……えっと」
健一は混乱《こんらん》する願の中で蛍子のセリフを繰り返す。
私の処女を返せ。蛍子は確かにそう言った。だが、それは健一の記憶のどこにもはまらない理解不能な言葉だった。
「お前が奪《うば》った私の処女を返せと言ったんだ。私の処女はなあ、あの女のお古にくれてやるようなもんなんかじゃ断《だん》じてないんだよ。わかったか、健一!」
だが蛍子はさらにその言葉を続ける。健一の記憶とは違う現実が蛍子の口から語られている。それはなんとか理解できた。
「何言ってんだよ……だって、あの時、ホタルは……」
ご無沙汰《ぶさた》だったからかもしれない――蛍子はあの時、そう言ってたはずだ。それは蛍子が誰かと肉体関係を持ったことがあるという意味だったはずだ。
「言ったよな。私は言ったよな。ご無沙汰だったからかもしれないって」
「……だよな」
「でも嘘だったんだよ。混乱してる頭で必死に考えた嘘だったんだよ。なのにお前は……」
自分を掴んでいる蛍子の手にさらに力が加わるのを健一は感じた。
「なんで、嘘なんて……」
「じゃあ、本当のことを言えば良かったのか? あの時が私の初めてで、その相手がお前だって、そう言えば良かったのか? それでどうしてくれるんだってわめけば、お前は満足だったのか?」
「そうは言わないけど……」
健一はやっと蛍子が何を言っているのかわかってきた気がした。しかしハッキリとわかる前に蛍子は別のことを健一に尋《たず》ねてきた。
「あの女とは何回したんだ?」
「……あの日だけだよ。綾さんとしたことは今も後悔《こうかい》してる」
健一はなぜそんなことを聞くのだろうとは思ったが正直に答えるしかないだろうと思う。
「そうか。だったら一回だけってことだな?」
「……五回なんだけど」
「五回? お前、あの日だけで五回もしたのか?」
蛍子の手から一度、力が抜けるのがわかった。呆気《あっけ》にとられたらしい。しかしそれもほんの数秒のことだった。さっきまでよりも強い力が加わり、蛍子の方に健一は引き寄《よ》せられる。
「私とは一回で、あの女とは五回もしたのか?」
「状況とか全然違うし、単純《たんじゅん》に比べられても……」
「そうなのかと聞いてるんだよっ!」
蛍子は俯《うつむ》いたまま、大声を張《は》り上げる。
「……そうです」
健一は蛍子の剣幕《けんまく》にそう答え、彼女の次の言葉を待つ。
「だったら服を脱《ぬ》げ」
そしてまた予想してなかった命令の言葉が聞えてきた。
「え?」
「服を脱げと言ったんだ」
「……なんで?」
「私の処女を奪《うば》ったことを悪いと思ってるなら、言うことを聞け」
「悪いとは思ってるけど……」
健一は本当に蛍子はどうしてしまったんだろうと思う。だが、蛍子がこうなってしまったのは自分に責任《せきにん》があるのは感じていた。
「悪いと思うなら責任をとれよ……」
蛍子は震える声でそう告げる。
「悪いと思ってるし、責任をとる気もあるけど……なんで服脱ぐのかわからないんだけど」
「……察《さっ》しろ」
蛍子はそう呟くと掴んでいた手を放した。
「話の流れから察しろよ」
俯いたまま、蛍子は同じ言葉を繰り返す。
「わからないから聞いてるんだろ?」
「わからなくてもいいから、とりあえず服を脱げ」
そして蛍子は同じ命令を続ける。
「……だってヤバイだろ、この展開《てんかい》は」
健一はそんな蛍子にあの時のことを思い出していた。蛍子にバカにされ、思わず襲《おそ》ってしまったあの時のことを。
「ヤバイことをしろって、そう言ってるんだよ」
なのに蛍子はそう言うと、上着を脱ぎ始める。
「ホ、ホタル?」
「今、お前は責任をとるって言っただろ?」
「……それってつまり、またしろってことなの?」
健一は否定の言葉を期待してそう尋ねたが、蛍子は何も言わずにブラウスのボタンを外し始めた。健一が驚きの目で見守る中、蛍子は第二ボタンを外し、続いて第三ボタンも外す。凝った刺繍《ししゅう》の入った黒いブラジャーをつけてるのが見える。
「やめてくれよ、こんなの……」
健一はそれで我《われ》に返る。だが蛍子は無言でボタンをはずすだけだった。
「俺たちは姉弟なんだぞ? ホタルが綾さんに何をされたかは知らないけど、だからってなんでこうなるんだよ? おかしいだろ?」
「うるさいっ! 最初に手を出してきたのはお前だっ! 全部、お前のせいだ!」
やっと蛍子が口を聞いた。ずっと俯《うつむ》いていた顔を起こした。
蛍子は泣いていた。怒ってはいたが、泣いていた。目には涙が溜《た》まり、頬《ほお》にこぼれていた。
「……ホタル?」
「お前のせいで私はおかしくなったんだ。お前がとちくるって私を襲ったりしたから……もう否定できなくなったんだ」
蛍子はまた視線を下げた。すすり泣く声が言葉に混じる。
「お前のせいだ。私はずっと我慢《がまん》しようと思ってたんだ。否定しようと思ってたんだ。なのに、お前がお前が私を襲ったりしたから……」
蛍子はそこまで言うとまた顔を上げた。もう怒ってるようには見えなかった。目を真っ赤に染《そ》めていたのは悲しみの色だけだった。
「お前のことをどんなに好きだったか……もう認《みと》めるしかなくなったんだ」
蛍子はそして健一にもたれ掛かってきた。その体からさっきまであんなにも感じていた怒りのエネルギーを少しも感じない。完全に力が抜けた柔《やわ》らかい感触《かんしょく》だけがあった。
「ホタル……」
健一は離《はな》すと崩《くず》れてしまいそうな不安を覚えてそんな蛍子をぎゅっと抱《だ》きしめた。
「あの女の子とは関係ない。関係あるけど関係ないんだ」
健一の腕《うで》の中で蛍子は言葉を続けているようだった。
「好きなんだよ、健一。お前のことが好きなんだ。そんなのおかしいかもしれないけど、他の男となんて考えられないんだよ。ゾッとするんだ。男なんて……男なんて嫌《きら》いだ」
蛍子の手が探《さが》すように伸びて、健一のことを抱きしめた。でもその力は弱かった。
「でもお前は違うんだ。違うんだよ、健一。お前だけは達うんだ」
蛍子の言葉はそれで終わりだった。でも抱きしめる力が増《ま》した。何も答えられない健一に置いていかれないようにと、蛍子は力を込めたようだった。
「……ごめん、全然《ぜんぜん》気づかなくて」
健一はそう呟いて、ここしばらくの蛍子の不可解だった行動に対する答えが次々に明らかになっていくのを感じていた。
一っ一つはもうハッキリとは思い出せなかったが、全部、同じことだった。
蛍子は嫉妬《しっと》していたのだ。他の女の子と仲良くする自分に対して。でも、蛍子は姉だからそれを言うことも出来ず、苦しんでいたのだ。
「いいんだよ、謝《あやま》らなくても」
蛍子はそう言って顔を上げた。背があんまり変わらないからすごく間近に蛍子がいるのを健一は感じる。
「でも、責任はとってくれ」
さらに顔が近づいてきた。そして次の瞬間《しゅんかん》には健一と蛍子の顔は触《ふ》れ合っていた。
唇《くちびる》と唇で――。
[#改ページ]
あとがき
まず、ご挨拶《あいさつ》より先に、とてもおめでたいニュースを一つ。
すでにご存知の方も多い事と思いますが、あざの耕平先生の最新作『|BLACK《ブラック》|BLOOD《ブラッド》|BROTHERS《ブラザーズ》 1〜兄弟上陸』が富士見ファンタジア文庫から発売されております。
あざの耕平先生と言えば、富士見ミステリー文庫の名を世に知らしめた傑作《けっさく》シリーズ 『Dクラッカーズ』の作者。口コミで50万部を突破したというその人気シリーズ。続いての新作となれば期待するなと言うのが無理と言うものです。
そして期待に震えながら読んだ私の感想と言えば、それはもう帯に記してあった文字の通り。
最・強・傑・作!! の四文字です。
まったく新しい吸血鬼の物語がそこには待ち受けていました!
もしまだ読んでないという方がおられましたら、急いで本屋へ行く事をお勧《すす》めします。
もしこれを本屋で立ち読みしているのであれば、いますぐ『BLACK BLOOD BROTHERS』を探してください。そこには新鮮な感動が待っています。
でも、ご注意を。『BLACKB LOOD BROTHERS』は富士見ファンタジア文庫です。
あざの耕平先生は新たなる地平に旅立ったのです! そう、新たなる地平へ……
[#改ページ]
あの、うらぎりものめ。
[#改ページ]
新井輝「――と、まあ冗談《じょうだん》はこの辺《あた》りにしておいて」
鈴 璃「って、どこからどこまでが冗談なわけ、これ?」
新井輝「え? そりゃまあ想像《そうぞう》にお任せします」
鈴 璃「任せたらダメでしょ、誤解《ごかい》されるわよ?」
新井輝「……そうか。じゃあ、この辺からこの辺」
鈴 璃「ジェスチャーじゃ読者には伝わらないから」
新井輝「そんなこと言われてもなあ」
鈴 璃「つて言うか、こんなこと書いていいわけ?」
新井輝「やだなあ。ちゃんと許可《きょか》取ったに決ってるでしょ?」
鈴 璃「へえ、意外に根回しとか出来るわけね」
新井輝「いや、もう完ぺきですよ。断《ことわ》られないように一緒に中華料理を食べに行って、あざのさんが酔っぱらったところを見計《みはか》らいましたから」
鈴 璃「へえ……って、それじゃダメでしょうが!」
新井輝「え? あ、そうか。あざのさんに頼《たの》むなら、薬ヤってキマっちゃってる時じゃないとらしくないよなあ。しまった、失敗した!」
鈴 璃「今度は別の意味で問題でしょうがっ! って言うか、あざのさんは薬ヤってなんかないでしょうが!」
新井輝「……じゃあどうしろって言うんだよ」
鈴 璃「なんでそこでキレるのよ? ちゃんと正常な判断が出来て、記憶に残るような状態で聞けばいいだけでしょ?」
新井輝「それじゃ怒《おこ》られるだろ、俺が。嫌だよ、そんなの」
鈴 璃「子供かあんたは……」
新井輝「そんなこと言われても嫌なものは嫌だろ」
鈴 璃「というか後で本に載ってるのがバレて怒られるよりはずっとマシでしょ?」
新井輝「……なるほどぉ、そういう風には考えたことが無かったな」
鈴 璃「感心するほどのこと? あんた脳《のう》みそ大丈夫?」
新井輝「医者に程々《ほどほど》にしときなさいと言われたから、まだ大丈夫だと思うけど」
鈴 璃「……自覚《じかく》ナシか」
新井輝「ま、大丈夫だよ。ほら、俺とあざのさんは担当同じだし。まずかったらちゃんとチェック入るよ……多分」
鈴 璃「そこでなんで最後に多分が入るのよ。もっと自信持って言いなさいよ」
新井輝「まずかったらちゃんとチェック入るよ、多分!」
鈴 璃「勢《いきお》いだけで、多分はまだ言ってるし」
新井輝「まあ、絶対と言う事は絶対にないということだよ。床屋《とこや》のパラドックスだね」
鈴 璃「……意味わからないんだけど」
新井輝「まあ、大人には色々な事情があるってことさ」
鈴 璃「そういうレベルとも思えないけど……って言うかさっ!」
新井輝「ん?」
鈴 璃「なんで今回、私、一行《いちぎょう》も出てないわけ?」
新井輝「あれ、そうだっけ……?」
鈴 璃「そうだっけじゃないわよ! 二巻のあとがきで私はプロローグ係だって言ったくせに、プロローグ今回は、あの鍵原《かぎはら》じゃないのよ!」
新井輝「でもほら、君の話もしてるし」
鈴 璃「あんなものしてるうちに入らないわよ。名前が出てないじゃないっ!」
新井輝「それは刻也君がシャイだからで、俺が悪いわけじゃあない。それとも君はあそこでズケズケと君の名前を主張《しゅちょう》するような刻也君であって欲しかったとでも?」
鈴 璃「……そ、そうは言わないけど」
新井輝「だったら何故怒る? 君の名前が出なかったのはむしろ刻也君の君に対する愛なのだよ! 愛! なのに君は出番がないくらいのことで怒るのかね!」
鈴 璃「……刻也君の私に対する愛か。そうか、そうよね」
新井輝「わかったら、もう出番がなかったことで怒るのは辞《や》めてくれまへ」
鈴 璃「わかったわよ。もう過ぎたことはとやかく言ってもしょうがないし」
新井輝「うむ。素直でよろしい」
鈴 璃「でも四巻では出番があるわよね?」
新井輝「……え?」
鈴 璃「あるわよね、もちろん」
新井輝「まだ無いんじゃないかなあ」
鈴 璃「まだって何よ! 言っておくけど四巻よ? 昨今《さっこん》の出版事情を考えたらあんたの本が三巻出るってだけでも奇跡《きせき》なのに、四巻にも私は出ないって言うわけ?」
新井輝「いきなり生《なま》っぽいこと言うな、君は」
鈴 璃「だってそうでしょ? このままじゃ私が出る前に打ち切りってことにもなりかねないし、私、そんなの嫌だからね!」
新井輝「……君もひどい事を言うね」
鈴 璃「とにかく出しなさいよ、一日でも早く!」
新井輝「そんなこと言われても予定というものもあるからねえ。四巻は予告通り、窪塚姉妹《くぼづかしまい》の話だから」
鈴 璃「なんでそういうところだけ予定通りなのよ! そんな予定なんてどうでもいいから私を出せばいいのよ!」
新井輝「……でも出てこないだろう、普通に考えて。だって君は刻也《ときや》君の彼女なんだぜ。刻也君が健一に色々と打ち明けるまでは出て来てもしようがないだろう」
鈴 璃「なんでいきなりマトモっぽいこと言い出すわけ? そこをどうにかするのが作家の力量ってもんでしよ?」
新井輝「……必然性が無いし」
鈴 璃「なぁああああにが必然性よ! あんたの書いてる話のどこに必然性があるのよ!」
新井輝「こことかこことか」
鈴 璃「だからジェスチャーじゃわからないって言ったでしょ?」
新井輝「でも、あんまりハッキリ言うとねえ」
鈴 璃「……自信がないならそう言いなさいよ」
新井輝「というか君がいらぬツッコミをするせいで、まだ挨拶も終わってないんだが」
鈴 璃「いらぬツッコミじゃないでしょ。かなり大事な指摘《してき》だったわよ、全部が全部」
新井輝「そうかもしれないが、挨拶をしてないという事実には変わらない」
鈴 璃「そもそも挨拶から始めず、無用に危険なネタで始めたのはあんたでしょうが」
新井輝「無用に危険とはご挨拶だな」
鈴 璃「じゃあなんの意味があるのよ、あのネタに?」
新井輝「二ページ目を書くのがすごい楽だ。えっへん」
鈴 璃「手抜きのために人をネタにしないでよ!」
新井輝「……ぬう。言われてみるとそうかもしれないな」
鈴 璃「いや、言われなくてもそうだし」
新井輝「というか、なんか長いな。もう随分《ずいぶん》と話した気がするぞ」
鈴 璃「そうね。確か、二巻のあとがきでもう短くするつて言ってたような」
新井輝「まあ、多分、Kさんが計算間違えたんだろう」
鈴 璃「多分って随分、あっさりと……」
新井輝「二巻の時もページ計算間違えてたしなあ」
鈴 璃「……いいわけそれで?」
新井輝「まあ、こっちで出来る事はこっちですればいいわけだし」
鈴 璃「……大丈夫なわけ、その担当」
新井輝「ファンタジア文庫編集長を任せられるほどの逸材《いつざい》ですよ。部下の人から『まあ、K藤時間ですから、三十分ぐらいは待たないとですかね。あはは』とか言われてるけど」
鈴 璃「全然、有能だと思われてそうにないエピソードじゃない、それ?」
新井輝「……本当に有能なのをアピールしても面白くないしなあ」
鈴 璃「また人をネタにしてるしっ!?」
新井輝「いやあ、実際、あれですよ。あとがきのネタなんてそうそうないですよ。作家なんて監禁されて黙々と執筆させられて、そうでない時は病院に行くくらいの人生なんですから」
鈴 璃「あんただけでしょ、そんなの! 普通の作家は絶対、有意義《ゆういぎ》にすごしてるわよ」
新井輝「……そうなのか。じゃあ、俺の人生って一体? もしかして俺、騙《だま》されてる?」
鈴 璃「いや、そこでいきなり自分の存在について悩まれても困るし。というかさあ、友達とかいないわけ?」
新井輝「いるけど監禁されてる時は会えないしなあ」
鈴 璃「だったらもっと早く書いて、普通に暮らせる時間を確保《かくほ》しなさいよ」
新井輝「……なるほどお、そういう風には考えたことが無かったな」
鈴 璃「あんたってさあ、ほん――っとうに社会適応能力《てきおうのうりょく》がないのね」
新井輝「って、しまった!? 挨拶してなかったぞ?」
鈴 璃「バカ、早くしなさいよ! もうページ終わりよ?」
新井輝「とか言ってる間に本当に終わりだ! では続きは四巻でっ!」
鈴 璃「え、これ続くの? 本当に?」
結局、鈴璃の出番のことはうやむやのまま次巻へ続く……?
二○○四年 八月 新井 輝
[#改ページ]
※この作品およびあとがきは言うまでもなくフィクションであり、実在する人物・団体などとはあんまり関係がありません。もちろんですが富士見書房は新井輝を監禁などしていません。
[#改ページ]