健一《けんいち》は考える。
ぼくは、どうすればいいんだろう。
「……わたし、しないと眠れないの」
目の前の女性、冴子《さえこ》は言った。
いったい、ぼくはどうすればいいんだろう。
それは、たぶん自分が恋愛にむいていないから。いや、そもそも恋愛が何かなんて自分にはとうてい理解できないから、そんな気がする。
でも、でも目の前にいる女性を泣かせるのはよくないことだと、なんとなく思う。
普通の高校生・健一はクラスメイトの千夜子《ちやこ》とプラトニックな関係を続けながら、不可思議なマンションの13階で奇妙な同居人たちとの共同生活を始める。感情を表に出さない男、刻也《ときや》。一般的な感覚が欠落した芸術家、綾《あや》。そして、隣に男性がいないと落ち着かない冴子。
恋という謎の答えに向かって、健一は着実に一歩一歩進んでいく……の、か?甘く、可笑しく、切ない健一の探求の物語第二弾!
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MAIN CHARACTERS
<登場人物>
絹川健一――KENICHI-KlNUGAWA
1303号室の住人。本編の主人公。
絹川蛍子――KEIKO KINUGAWA
健一の姉。通称ホタル。健一とH済み。
大海千夜子――CHIYAKO OOUMI
[#大前OOMAE?]
健一の彼女?つきあっている。健一とHはまだ。
鍵原ツバメ――TSUBAME KAGIHARA
千夜子の友人でクラスメイト。
桑畑綾――AYA KUWABATAKE
1304号室の住人。どこかずれた感覚を持つ芸術家。健一とH済み。
八雲刻也――TOKIYA YAKUMO
1302号室の住人。管理人さんと呼ばれている。
有馬冴子――SAEKO ARIMA
友人の彼氏を寝取るという噂を持つ少女。
九条鈴璃――SUZURI KUJYO
刻也の彼女。
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ROOM NO.1301 #2
同居人は×××ホリック?
新井輝      富士見ミステリー文庫
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口絵・本文イラスト さっち
口絵デザイン 菊地博徳
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目 次
プロローグ 友達は恋愛《れんあい》している その2
第五話 私を好きにならないでと彼女は言った(前編)
第六話 私を好きにならないでと彼女は言った(後編)
エピローグ 弟は私を嫌ってる
あとがき
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プロローグ 友達は恋愛《れんあい》している その2
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やっぼり九条鈴璃《くじょうすずり》は相変わらずだった。
出会って五年にもなろうというのに、初めて会った時と変わらない気がする。背丈《せたけ》はもちろん、髪形《かみがた》も顔つきも記憶《きおく》のまま。そして何より考え方の根本にあるものは何も変わってない。
健一《けんいち》は大学二年生、鈴璃も短大二年生と年齢相応《ねんれいそうおう》の学籍《がくせき》を持っている。でも彼女の外見は背丈だけ見れば小学生だった。今時の小学生と比《くら》べればむしろ低い方かもしれない。正確《せいかく》なところは知らないがきっと百四十はないだろう。なのに彼女の胸《むね》は年相応どころかグラビアアイドルも驚《おどろ》く大きさだ。だから彼女は「背の方に栄養が行けばいいのに」なんて言ったりするが、それに関してはその通りだと健一も思う。
そんな鈴璃と健一の関係は、一言で言えば『親友の彼女』ということになる。鈴璃の彼氏である八雲刻也《やくもときや》とは高校時代、三年ほど一緒《いっしょ》のマンションで暮らしていた。十二階建てのマンションの十三階。その二号室が刻也の部屋で、三号室が健一と今はもういない有馬冴子《ありまさえこ》の部屋だつた。
「それはきっと愛情《あいじよう》じゃなくて同情だよ――か」
鈴璃が呟《つぶや》いたのは、その有馬冴子が健一に告げた言葉だった。冴子と自分の関係を聞かれて、健一が鈴璃に教えた言葉でもある。
そして今、二人は喫茶店《きっさてん》にいた。駅から近い割《わり》にはあまり流行《はや》っていない店だ。二年ぶりの再会《さいかい》を祝って(?)、ちょっとそこで話すことにしたのだ。
窓際《まどぎわ》の席に座《すわ》ったので、時々、通行人がこっちを見るのを健一は感じる。もう会社員が帰宅《きたく》するような時間になったのだろう。外には人がけっこう多い。
「そう言ってたけどね」
冴子とのことは、健一にとってはあまり心温まる記憶というわけではないが、鈴璃は全く気を使う様子はなかった。
「で、どういう意味なの、これ?」
鈴璃のつり上がった目が興味深《きょうみぶか》げに健一の方をじっと見つめる。
「……どういう意味なんだろうね。そう言われたことだけは確《たし》かだけど、なんで有馬さんがそんなことを言ったのかは今でもよくわからないな」
「ふーん」
そしてそれだけのことを聞いたくせに、鈴璃はもう興味が失《う》せたようだった。それを知って健一は時計を見た。彼女と会ってから一時間が経《た》とうとしているのに気づく。
「九条さんは、この後、用事とかないの?」
「ん? 友達と会う約束してるけど。あと一時間くらいかな。良い暇《ひま》つぶしになってるから心配しなくていいよ」
「……なるほど」
「もう私と話してるの飽きた?」
「そういうわけじゃないけど」
「それとも絹川《きぬがわ》君の方に用事があるわけ?」
「いや、そういうわけでもない。単にこうして話してていいのかなって思っただけ」
「良くなかったら絹川君を置いてさっさと行くから大丈夫《だいじようぶ》」
「……なるほど」
健一はやっぱり相変わらずだなと思う。確かに彼女に余計《よけい》な気遣《きづか》いなどいらないのだろう。彼女は自分もそれをしなければ、それを他人に求めもしない。少なくとも刻也以外の相手には。それが健一の認識《にんしき》だった。
「そう言えばさ、この間、絹川君をテレビで見たよ」
それを証拠《しょうこ》に鈴璃はマイペースにそんな話題を健一に振《ふ》ってくる。
「へ?」
「見てなかったの?」
「……いや、全然」
「ああ、夜だったし、彼女とのエッチに夢中《むちゅう》でそれどころじゃなかったわけね」
「……それはそっくり九条さんに返す」
健一は彼女のボケに力なく返す。健一にとっては軽いツッコミ。だが鈴璃はそれに突然《とっぜん》大声をあげる。
「い、いやらしいこと言わないでよ! 私と刻也君はそんな関係じゃないんだから!」
「ごめん。変なこと言った」
健一は自分でこっちに言ったくせに、なんでそんなに過剰《かじょう》に反応《はんのう》するのかなあと思ったりもする。鈴璃は「いやらしい」が口癖《くちぐせ》で、その手の話題には妙《みょう》に過敏《かびん》。そういう話題を自分に向けられるのをとことん嫌《きら》う。
「で、僕《ぽく》がテレビに出てたって話はなんなの?」
「そうそう。ほら、NHKで夜やってるんだけど、気鋭《きえい》の新人を紹介《しょうかい》する番組、知ってる?」
「ああ、見たことあるような無いような」
「それで日奈《ひな》ちゃんを紹介する回があってさ。その時にちょっと出てたってだけ」
「……日奈ちゃんを紹介する回で、なんで僕が出てるんだろ?」
日奈ちゃんというのは窪塚《くぼづか》目奈のことだ。健一や刻也が住んでいた不思議なマンションの住人の一人で、今は作詞家《さくしか》であり作曲家であり歌手であり女優《じょゆう》であり、とにかく色々活躍《かつやく》している人間だ。健一と同じ年だからまだ二十歳《はたち》だが、すでにかなりの有名人。そんな彼女がテレビで紹介されるというのはわかるが、自分が出てたというのは心当たりがない。そもそも知らぬ間にテレビに出ているというのも奇妙《きみょう》な話だ。
「『シーナ&バケッツ』 のバケッツって絹川君なんでしよ?」
鈴璃にそう言われて、健一は合点《がてん》が行くのを感じる。
「ああ、それか……懐《なつ》かしいなあ。『シーナ&バケツツ』かあ」
それは健一が日奈と組んでやっていたストリートミュージックのバンド名だった。シーナと言うのが日奈で、バケッツの方が健一。
「まあ、バケツを頭にかぶってたから顔なんて見えなかったけど」
「……だろうね」
人前でそんなことをするのが恥《は》ずかしいと言った自分のために日奈が考えてくれたァイデアだ。顔が見えたら意味がない。
「うちの学校でもファンの娘《こ》いたよ」
「日奈ちゃんの歌は凄《すご》かったからなあ」
「日奈ちゃんじゃなくて、バケッツの方。絹川君ってハーモニカ上手なんだってね」
「……別に上手《うま》いことないよ。あの頃《ころ》、ちょっと吹《ふ》いてただけだし」
「そうなの? 『バケッツの方も、バケツなんてかぶってるけど格好《かっここう》いいんだよ。ハーモニカも上手だし』 ってはしゃいでた娘がいたよ」
「まあ、そういうところだと三割増《わりま》しくらいに聞こえるんじゃないの? 正直、日奈ちゃんの歌の後に吹くのはけっこう泣き入ってたくらいでさ」
「そうなんだ。で、まだ持つてるの、ハーモニカ」
「あ、持ってるよ。日奈ちゃんにもらったものだし……そうそう今日、ちょうど持ってる」
健一はそれを思い出し鞄《かぼん》から取り出そうとするが、鈴璃が冷静に口を挟《はさ》む。
「別に聞かせてくれって話じゃないんだけどね」
「……そうですか」
健一は、やはり相変わらずだなと思うが、さすがにげんなりした気持ちになる。
「日奈ちゃんにもらったって言ったけど、昔、日奈ちゃんが使ってたヤツなの?」
「……たぶん。二人でストリートライブしょうって誘《さそ》われて、楽器なんてハーモニカとピアニカとトライアングルしか知らないって言ったら、これあげるからって渡《わた》されたんだよ」
健一はその時のことを思い懐かしい気持ちになってそんなことを口にするが、鈴璃は気づくと顔を引きつらせてこっちを見ていた。
「……いやらしい」
「………どこが?」
「有馬さんだけじゃなくて、日奈ちゃんともそんな関係だったんだ」
「……想像力《そうぞうりょく》たくましいですね、九条さんは」
「なによ、その言い方。とぼける気?」
「とぼけるも何も日奈ちゃんとは……友達だったから」
「何言ってるのよ! 使ってたハーモニカでしょ? それつて間接《かんせつ》キスじゃない」
「ああ、そういう意味ね……」
健一はその言葉には相変わらずを通り越《こ》して、鈴璃の頭の中は中学生の頃のまま止まっているのかと思ってしまう。体の大半は小学生頃から止まっているょうだし、そんなにそう考えても違和《いわ》感もないのだが。
「しかし、よくそんなの残ってたなあ。『シーナ&バケツツ』 の映像《えいぞう》なんて……」
「日奈ちゃんのお姉さんがさ、熱心な追っかけで、知りあったファンの人が撮《と》ったのをもらって保存《ほぞん》してたんだって」
「日奈ちゃんのお姉さんが……」
健一は鈴璃の言葉にちょっとホッとした気持ちになった。しかしその理由がわからず、鈴璃は健一の態度《たいど》を誤解《ごかい》したようだった。
「絹川君って日奈ちゃんのお姉さんと仲悪かったんだっけ?」
「一時期、恨《うら》まれてたけどね。でも、別に僕が佳奈《かな》さんに何かしたわけじゃなくて」
「いいよ、別に言い訳《わけ》なんて。私、興味《きょうみ》無いし。思い出したから聞いただけ」
「……だと思いました」
本当に相変わらずだなと健一は思う。
「そうそうテレビつて言えばさ――」
そしてまた何やら話題が変わる。気づくと日奈の話題は終わっていたらしい。
「絹川君のお姉さんを見たよ」
「ホタルをテレビで? なんでまた……」
「日テレで深夜、若《わか》いやり手社長を紹介《しょうかい》する番組があるんだけど見てる?」
「九条さん、深夜番組好きなの?」
「……いいでしょ、私の趣味は」
「まあ、いいけど。僕はその番組は見たことない、とりあえず」
「あっそ。で、そのお宅訪問《たくほうもん》でさ、美人の奥《おく》さんってことで絹川君のお姉さんが出てたの。蛍子《けいこ》って名前だったよね、絹川君のお姉さん」
「……あ、うん。蛍《ほたる》の子供《こども》で蛍子。そっか」
「奥さんが美人で芸術家《げいじゅつか》ってことで、結構《けっこう》長い時間出てたよ。もう子供もいるのね。旦那《だんな》さんも美形だからなのかな、子供も男の子なのにすっごい可愛《かわい》いの。羨《うらや》ましいょねえ。あんなおっきな家に住んでさ、あんなに可愛いんだもん。もう生まれた時から勝ち組って感じよね」
「刻也君はそういうの好きじゃなさそうだけどなあ」
「……いいの。刻也君と一緒《いっしょ》なら貧乏《ぴんばう》でも私、平気だから」
「いや、貧乏と決まったわけじゃないけど」
健一は苦笑いをしながら、少し控《ひか》えめに尋《たず》ねる。
「ホタル、元気そうだった?」
「元気そうだったけど……って、絹川君のお姉さんでしょ」
「そうなんだけど。最近、会ってないから。旦那さんにも会ったこと無いし。あはは」
健一はその事実を口にしてもう笑うしかなかった。
「結納《ゆいのう》とか結婚式《けっこんしき》とかで会わなかったの?」
「……うーん。会わなかったんだよね、これが。結婚式も呼《よ》ばれなかったし」
「結納はともかく、結婚式は参加するものでしょ? 変な家族なのね。絹川君の家は」
「そうだね……自分でもそう思う」
健一はそれも否定《ひてい》できない事実だなと感じながら、なんでそうなってしまったのかを思い出す。でも鈴璃はやっぱり自分の話を自分のペースで続けるだけだった。
「お姉さんの子供さ、なんか絹川君に似《に》てたな。小さな頃《ころ》の絹川君はあんな感じだったんだろうなって気がした」
突然《とつぜん》のそんな話題に健一は思わず言葉につまるのを感じる。
「……変かな、それ?」
「まあ、絹川君のお姉さんの子供だもんね。しかも男の子なら似てて当たり前か」
「そんなに似てた?」
「別に。そういう気がしただけ」
「:…どっちなんだか」
健一は鈴璃のそんな話し方にもう少し適当《てきとう》に聞く振りだけしてればいいのかなと思ったりする。彼女は話したい話をしてるだけなのだから、それがきっといいのだろう。
「そういえば、絹川君」
そう思っていたら鈴璃がなにやら改まって、健一の方に話しかけてくるのが聞こえた。
「なに?」
「今から言う話、絶対《ぜったい》に刻也君に言ったらダメだよ」
「いや、言おうと思ってもきっと言えないと思うから……」
健一は念を押《お》されたが、力が抜《ぬ》けるのを感じた。ちょっと前に彼女はそのことで、理解してくれているものだと思っていたが違《ちが》っていたようだ。
あのマンションの十三階の住人たちは今はもうバラバラに暮らしていて、お互《たが》いなぜか会うことができなくなっている。それを健一はあの頃にもう一生分会ったからだと感じていた。その言葉自体、刻也が別れる前に言った言葉で、鈴璃も刻也から同じようなことを聞かされているはずなのだが。やはり関係者以外には信じられる話ではないのだろう。
「でも、絶対に言ったらダメだよ」
だが鈴璃は自分のことで精《せい》いっぱいの様子だった。真剣《しんけん》な瞳《ひとみ》でこっちを見てはいるが、それは健一を観察するためのものではないようだ。
「……わかった。絶対に言わない」
「絶対に絶対だからね」
「絶対に絶対言わないから、何?」
健一は一体、何をそんなにムキになってるのかと真剣に聞かないと失礼だなと考える。しかし鈴璃はなんだか予想外のことを言い出した。
「刻也君もさ、レースクイーンとか、好きなのかな……」
「刻也君『も』 って言われると、他《ほか》にも好きな人がここにいるみたいなんだけど」
「絹川君は好きなんでしょ、レースクイーン?」
「……好きじゃないって。それは誤解《ごかい》。大きな誤解」
「そうなの? 刻也君も綾《あや》さんも、大海《おおうみ》さんもそう言ってたよ」
「皆《みんな》がそう思ってるだけで、僕はそう思ってない」
健一はもういい加減《かげん》、そのことは忘《わす》れていたのにと思い出しながら、反論《はんろん》するのに息が切れるのを感じる。
「……そうなの?」
「というか別に僕の趣味の話じゃなかったと思うんだけども」
「そ、そうそう。刻也君の好きなことって何か知らない?」
「でもさあ、レースクイーンが好きだったとして、どうするの?」
「どうするって言われても……」
鈴璃は自分の体を見回しながら、泣きそうな顔を始める。
「どうしたら、いいのかな?」
「:‥いや、別にレースクイーンは好きじゃないと思うから気にしなくてもいいよ」
鈴璃が目に涙《なみだ》を溜《た》めているので、健一は軽い気持ちで言ったのに参ったなと思う。普段《ふだん》はいたって強気で自分勝手にすら見えるのに、こと刻也の話になると、こんな感じになる。それを自分は忘れていたらしい。
「ごめん。本当、刻也君はレースクイーン好きじやないから気にしないで」
「……そんな適当な慰《なぐさ》めなんていらない。どうせ私のいないところで、二人でレースクイーンの話で盛《も》り上がってたんでしょ? やっぱり足が長い方がいいとか。刻也君は背《せ》が高いし、彼女もそうだったらいいなって……思ってるんでしょ?」
鈴璃はそれでグスッと鼻をすすって泣き始めてしまったようだった。
「嘘《うそ》じゃないってい……というか本当、僕はレースクイーン好きじゃないし……いや、そういうことじゃないか……」
健一はそうは言っても鈴璃が泣きやみそうにないので、本当に困《こま》つたなと思う。周りの人間もそれが気になったのかチラチラとこっちを見るような視線《しせん》を感じる。
「これはその……刻也君に言うなって言われてたんだけどさ……」
健一はそれで刻也と昔、話したことを思い出す。絶対に鈴璃には言うなと釘《くぎ》を刺《さ》されたことだが、この状況《じょうきょう》ではそれを言った方がいいような気がした。
「……なに?」
「刻也君はその……キミのことがずっと好きだって言ってたよ。でも自分は背が高いから似合《にあ》ってないって思われてるんじゃないかって」
「……本当?」
「つい速く歩いちゃって、彼女をおいてけぼりにしてしまう自分には彼氏の資格《しかく》はないんじゃないかって悩《なや》んでた。だからさ……」
「そっか―…そうか、刻也君がそんなことをねえ」
鈴璃はいつのまにか泣きやんで、美味《おい》しいものを食べたときのような笑顔《えがお》を浮《う》かべていた。さっきとはうって変わった満面の笑み。
「えへへ……そうかあ、そんなこと気にしなくていいのに……もう、刻也君たら……。刻也君になら何度置いてかれても追いかけちゃうんだから、平気なの」
そして鈴璃はいないはずの刻也と会話でも始めたようだった。もう目の前に健一がいるのも見えていないらしい。そんな鈴璃を見て、健一は彼女はやっぱり恋愛《れんあい》をしてるのだなあと感じる。ずっと昔から、そして今も。
でも自分はどうなんだろうと健一は考えてしまう。
僕《ぼく》は恋愛は向いてない。そう根拠《こんきょ》もなく思っていた自分をまた思い出す。
「それは愛情《あいじょう》ではなく同情だよ、か」
健一は鈴璃には聞こえないだろうと思いつつも声を絞《しぼ》ってそんなことを呟《つぶや》いた。
「あれは恋愛じゃなかつたってことだよな……」
冴子は自分の彼女ではなかったのだし、それで良いはずなのに、そう思うのには抵抗《ていこう》があった。心のどこかでそうではないと思っているらしいのがわかる。
そして健一は、冴子の『お願い』 のうちの一つを思い出す。彼女のたった二つのうちの一つの 『お願い』を。
私のこと絶対、好きにならないで欲しいの――それが本当はどういう意味だったのか。それすらわかってないのに気づいて、健一はやっぱり自分は恋愛に向いてないのだろうと思うしかなかった。
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第五話 私を好きにならないでと彼女は言った (前編)
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その時の冴子《さえこ》の言葉が嘘《うそ》だとは思わなかった。
「私がさっき窪塚《くぼづか》さんにぶたれてたのはね、昨日、私が窪塚さんの彼氏と寝《ね》たからなの」
およそ信じがたい言葉なのに、なぜか嘘とは思えない。
「それって……」
思えば、そんなに彼女の言葉の意味に確信《かくしん》を持てたことはそうはなかった気がする。そしてだからこそ、健一《けんいち》は真っ白になる頭の中でぼんやりと考えていたのかもしれない。
僕は恋愛は向いてない――幾度《いくど》となく繰り返した言葉がまた戻《もど》って来たのは、きっとその時の冴子にこの先のことを感じていたからだった。
健一にとって有馬《ありま》冴子は、幽霊《ゆうれい》のような少女だった。
肌《はだ》が青白いからかもしれないし、重さを感じさせない歩き方のせいかもしれない。
有馬冴子の席は窓際《まどぎわ》の一番前にあって、夏の到来《とうらい》と共に強くなっていく日差しの下で、いつも眠《ねむ》たそうにしているのは知っている。
冴子は外を見ていることも多かった気がする。授業《じゅぎょう》をちゃんと聞いている風には見えない。でも、誰《だれ》もそれを注意する様子もなかった。
冴子のことを誰もがいないことのように扱《あつか》っている。そんな風に感じることすらあった。
彼女のいないところで、およそ事実とも思えない噂話《うわさばなし》をすることはあっても、冴子に話しかけたりする人間はクラスには不思議といなかった。そしてそれは生徒同士だけの話ではなく、教師《きょうし》もそうであるように思えた。
窓際の一番前の席。そこに座《すわ》っているのに、どの教師も冴子を指名して何かさせるようなことはなかった気がする。単に気にしていないので記憶《きおく》に無いだけかもしれないが。
千夜子《ちやこ》のことにしたつて健一はろくに覚えていなかった。クラスの女子の名前と顔がどれだけ一致《いっち》するかどうかも怪《あや》しい。だから冴子のことも、ただそう思ってるだけで実際《じっさい》には違《ちが》うのかもしれない。そう考える方が自然な気もしていた。
「絹川《きぬがわ》、ちょっといい?」
いきなり耳元で女子の少し怒《おこ》ったような声。三時間目の休み時間、クラスの男子と話している時のことだ。
「……どうしたの、鍵原《かぎはら》?」
耳にかかった息にこそばゆさを感じながら、振《ふ》り向くとそこには鍵原ツバメの顔があった。大海《おおうみ》千夜子の友達で、『恋《こい》多き女』として皆《みんな》に知られているクラスメイトだ。
ツバメは千夜子とも、そして冴子ともかなり違うタイプだった。喜怒哀楽《きどあいらく》が激《はげ》しく、そして大抵《たいてい》は楽しそうな顔をしている。そんな元気いっぱいの少女だ。
しかし、その時の彼女の顔には引きつった満面の笑《え》みが浮《う》かんでいた。
「ちょっと二人で話したいことがあるんだけど」
「二人で?」
健一は尋《たず》ねながら、そう言えば千夜子はどこだろうと教室の中を探《さが》す。しかしどこにも見当たらない。トイレにでも行ってるのだろうか。
「そ、別に重要な話し合いの最中ってことはないでしょ?」
「ま、それはそうだけど」
健一は少し口の先にだけ苦笑いを浮かべると、さっきまで話してたクラスの友人たちに確認《かくにん》の視線《しせん》を投げる。彼らもやはり苦笑いを浮かべており、同情の視線で健一の方を見ていた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
健一はそれでなんの用かはわからないが、ツバメに同行することにする。友人たちはそれにやっぱり笑いながら、おのおのが別れの言葉を告げる。
「お気を付けて」
「絹川、喰われないようになぁ」
「ああいう連中とつきあってて楽しいわけ?」
そんな彼らの態度《たいど》に腹《はら》を立てたのだろうか。少し先を歩くツバメが振り返りながら、健一に尋ねてきた。そう言いながらもツバメは階段《かいだん》を上り始め、どんどん教室から遠ざかっていく。
「……まあ、そこそこには」
健一はとりあえず気の抜《ぬ》けた返事をする。彼らとは特に仲が良いわけではなかったが、そんなに嫌《きら》うほど不愉快《ふゆかい》な人間とも思ってない。
「あっそ」
返事が気に入らなかったのか、返事の仕方が気に入らなかったのか、ツバメはやはり怒ったようだった。短くそう言うと歩く速度を上げる。それで階段を上る彼女の異常《いじょう》に短いスカートがヒラヒラとする。置いてかれる形になった健一の目にチラとパンツが見える。
「鍵原、パンツ見えてるよ」
健一は目をそらしながら、少し歩く速度を上げることにする。
「別にいいよ。見られてもいいパンツだし」
「……どういうパンツなわけ、それは?」
「うるさいなあ。別にいいでしょ、私のパンッなんだし」
「まあ、鍵原がそう言うならいいけど」
そうは言いながら、健一は本当、何が言いたいのかわからないでいた。とにかくさっきからずっと自分に腹を立てているらしいことだけはわかるのだが、全く心当たりがない。少なくとも彼女に悪いと思われるようなことに関しては。
「って言うか、なんか絹川って失礼なヤツじゃない?」
健一が横に並《なち》んだところで、ツバメが睨《にら》むような顔をしてそんなことを言い始める。
「女の子のパンツが見えたんだから、もう少し喜べば?」
「わざと見せようとしてるってことなら、そうした方が良かった気もするけど……っていうか、そんな話をしたくて教室から引っ張《ぱ》り出したわけ?」
「そうじゃないけど……」
ツバメは今度は少し泣きそうな顔をして、立ち止まる。それに気づいて健一は彼女よりも一段高いところで止まる。
「じゃ、なんの話なの?」
そして上からそんな風に尋ねる。ツバメはそれがしっくりこなかったのか、ゆっくりと階段を二つ上がると、今度は一段上から健一に話しかけてくる。ツバメは千夜子ほど背《せ》は低くないので一段高いところだと、少しだけ健一より目線の位置が上になる。
「ヤリ魔《ま》サセ子のことを絹川が気にしてるみたいだったから確認しようと思っただけ」
「……誰それ?」
「さっき授業中《じゅぎょうちゅう》に何度も見てたでしょ?」
「だから、誰の話? そんな変な名前の人、僕《ぼく》の知り合いにはいないし……」
「男子の間ではそう呼《よ》んでないわけ?」
「……呼んでないけど」
健一は本当に誰のことだろうと考えてしまう。そして女子の間ではそんな名前で通っている人間がいるというのも意外な気がする。
少なくとも千夜子は、間違《まちが》ってもそんな言い方をしないだろう。
「有馬冴子」
ツバメが頬《ほお》を少し膨《ふく》らませながら、その名前を口にする。
「うちのクラスの有馬冴子。知ってるでしょ、彼女の噂《うわさ》。男子の間ではどうか知らないけど、女子は皆《みんな》、そう呼んでる」
「……皆はさすがに呼んでないと思うけどなあ」
健一はそう呟《つぶや》きながら、なんでツバメがこんなにも不機嫌《ふきげん》なのかなと思うしかなかった。確《たし》かに授業中にちょっと冴子のことを見ていたかもしれないが、別段、とやかく言われるようなこととは感じない。
「まあ、皆ってのは大げさかもしれないけど、とにかくあの女のこと見てたでしょ?」
「……そうかな」
「見てたよ。私が確認しただけでも、三度見てた」
「きっとそれで全部だと思うけど」
「だとしても、見過《みす》ぎ」
「見過ぎって……別に有馬さんを見ようとしてたわけじゃなくて、外を見ようとしたら単に視《し》界に入っただけだし」
「だったら外を見ない。授業中なんだから先生と黒板を見てればいいでしょ?」
「それを言うなら鍵原は鍵原でなんで僕を見ているのかと思うわけで」
「私は千夜子のために、絹川を見張ってるのよ」
「見張ってるって……」
健一は真顔でそんなことを言い始めるツバメに少し力が抜《ぬ》けるのを感じる。
「絹川って千夜子にあんまり興味《きょうみ》無さそうだから」
「そんなことないんだけどなあ……」
「別に千夜子のこと好みじゃないなら、好みじゃないでもいいの。他《ほか》の娘《こ》のことが好きならそれでもいい。でもね、あの女だけは絶対《ぜったい》にダメ。あの女の方がいいなんてことになったら、千夜子がかわいそうでしょ?」
ツバメはそんなことを力説するが、健一には正直ついていけなかった。
「……いや、別に大海さんが好みじゃないってこともなければ、有馬さんに乗り換えたいなんて少しも思ってないんだけど」
それが正直な気持ちだった。だがツバメは疑惑《ぎわく》の視線を向ける。
「本当に?」
「本当に」
「なら、いいんだけどさ」
ツバメは少しトーンを抑《おさ》えた声でそう呟く。
「というか、本当になんでそんなに気にしてるわけ?」
「だって、あの女はそういう女なんだよ。そりゃ、噂の全部が全部、本当とは思ってないけど、それでも何人かの男とヤッてるのは事実だし」
「そうなんだ……」
ツバメがやけに自信満々に言うので、健一は力の抜《ぬ》けた感じでそう呟く。
「ヤッたって自慢《じまん》してる男が何人もいるし、絹川だって聞いたことあるでしょ?」
「いや、僕は別に」
「それに……」
ツバメはそう言いかけて言葉を飲み込《こ》んだようだった。
「それに、何?」
「あの女、私の彼を寝取《ねと》ったんだよ」
「……それは良くないな、確かに」
「と言っても、付き合ってって言っただけで、付き合う前だったけど」
「それは彼氏じゃないんじゃ……」
「でもOKっぽかったし、きっと彼になってたの!」
「……なのにそれを邪魔《じゃま》されたから恨《うら》んでるわけ?」
「しかも一度や二度じゃないんだよ? 三回もそういう目に遣《あ》わされたんだから、私」
ツバメは怒《いか》り、また泣きそうな顔をする。健一はそんな彼女を見て、忙《いそが》しい娘だなあと思ったりする。
「三回もねえ……」
「だから絹川があの女に取られたら、千夜子が悲しむだろうなって、そう思ったわけ」
「……考え過ぎだと思うんだけどなあ。有馬さんとは話したこともないし、どんな娘かもちっとも知らないからなあ。逆《ぎゃく》にそんなことを言われて、なんか意識《いしき》するかもしれないって心配するくらいの話なんだけど」
「あんな女を意識しちゃダメだからね!」
ツバメは今度は本気で腹《はら》を立てたような顔をする。
「いや、だから鍵原が変なことを言うから気にするかもって話だよ」
健一はうかつなことを言うだけ損《そん》だなと思い、また教室でそうしたように苦笑いを浮《う》かべる。
「と、とにかく!」
そんな健一に怒《おこ》ったのかどうかわからないが、ツバメが強調するようにハッキリとした口調でそうやって話を切り出す。
「とにかく?」
「絹川は千夜子の彼氏だって自覚が足りないんじゃないの?――って私は思うわけ」
「彼氏の自覚……ねえ」
健一はそう呟《つぶや》きながらも、きっとそうなんだろうなあと思う自分を感じた。そもそも彼氏というのがどういうものなのか健一にはピンと来なかった。そしてだから思うのだろうなあとも感じる。
僕《ぼく》は恋愛《れんあい》は向いていないのだとい――。
「……絹川君?」
有馬冴子が不安げな表情で自分の名前を呼《よ》んでいた。それでどうやら自分が別のことを考えていたせいで心配をかけたらしいと気づく。
「あ、いや、ゴメソ……ちょっとショックで意識飛んでたかも」
健一は苦笑いをしながら話を続けようとするが、冴子は安心したのか、急にまた表情を殺した顔に戻《もど》る。
「じゃあ、もう聞きたいことはないでしょ?」
そう確認して冴子はその場を去ろうと決めたようだった。質問《しつもん》の形をとってはいたが、もうこれ以上聞くなという圧力《あつりよく》を健一は感じる。
「そうだね……」
健一はなんで彼女はこんなにも頑《かたく》ななのだろうかと思う。
そして改めて、冴子がなんだか教室にいる時の彼女とは別人のようだなと感じた。普段《ふだん》の彼女はもっと弱々しく、その存在《そんざい》を主張《しゅちょう》するようなところは全く無いように思っていた。ただふわっと風のようにそこにあるだけのような、そんなイメージだったのに、目の前の彼女はなんだかひどく硬く重々しい気がする。
同じ物質でも気体と固体では性質《せいしつ》が違《ちが》うように、彼女もまた状況《じょうきょう》でここまで変わるのだろうか? そんなことを思ってしまう。
「さようなら、絹川君」
冴子の告げた別れの言葉はどこか寂《さび》しげだった。それに違和《いわ》感を覚えつつ、健一も別れの言葉を返す。
「さようなら、有馬さん」
そして健一はそれでいいのだろうと思った。彼女にどんな訳《わけ》があるかなんて知る必要もないことなのだろうと考えた方がいい。
ツバメの言葉じゃないが、自分は大海千夜子の彼氏なのだ。有馬冴子のことを必要以上に気にする理由などないのだ。
「……あれ?」
しかし別れの言葉を告げたのに冴子は立ち止まった。短く驚《おどろ》きの声をあげて、そして辺りをキョロキョロと見渡《みわた》し始める。
「どうしたの?」
そんな彼女の態度《たいど》に、健一の注意は再《ふたた》び、冴子の方へと戻る。
「絹川君には関係ないから」
冴子はそう呟きながら、少し姿勢《しせい》を低くして背《せ》の低い木の間をのぞき込み始める。
「何か無くしたの?」
健一はきっとそうだろうと思い、彼女を追いかけることにする。
「そうだけど……絹川君には関係ないから」
冴子は健一にそう返事をする。なんだかひどく厳《きび》しい物言いのような気がした。でも健一はそれを気にせず、笑いながら食い下がることにする。
「見られたら恥ずかしいものだったりするなら先に帰るけど」
「別に恥ずかしいものではない……けど」
冴子は少し戸惑《とまど》った様子を見せて、言葉を詰《つ》まらせたようだった。それを見て取って、健一はすかさず提案《ていあん》することにする。
「だったら一緒《いっしょ》に探《きが》させてくださいよ」
「……お礼を期待されても困《こま》るし、一人で探せるから」
冴子の声がまた厳しい感じに戻るのを感じる。健一はそれになんとなく八雲刻也《やくもときや》のことを思いだした。だからなのか、冴子が実はいやがってるわけでもないんじゃないかと思う。
「そんなに何かをするのに対価《たいか》を求めたりするもんなんですかね」
健一は不意をつくように別の切り口から質問をする。
「……え?」
「尻餅《しりもち》ついてるクラスメイト助けたり、鞄《かばん》を拾ったりするのに下心はいらないし、別に探し物を手伝ったくらいで何か求める必要もないと思うんですけど。まあ、ドブさらいを一日中しろって言われたら、なんかお礼をしてもらってもいいだろうって思うけど……無くしたつて言ったって、この辺のどこかにあるわけですよね?」
「……たぶん」
「だったら、ほんの数分じゃないですか。二人で探せばその半分でしょ? それをするってそんなに大層《たいそう》なことなんですか?」
「その辺りは人によると思う」
冴子は淡々《たんたん》とした口調でそう答える。少し不機嫌《ふきげん》そうな感じがした。
「僕はどっちかと言うと、このまま帰って『ちゃんと見つかったのかなあ』 って思う方がしんどいくらいなんですけど。だから、さっさと見つけて『見つかって良かったなあ』 って思いながら帰りたいんです」
「……そう」
冴子は詰まったようにそう返事をすると、少し間を置いて言葉を続けた。
「じゃあ止めない方が絹川君のためってことなのね?」
「うん。この程度《ていど》のことで感謝《かんしや》される気は全然無いし、さっきも言ったけど自分のためだから」
健一はそう言いながら、少し自分でもわざとらしいなあと思うくらいに笑ってみせる。
「で、何を探せばいいわけ?」
健一の質問にも冴子は少し困ったような顔をしたようだった。
「鍵《かぎ》」
「鍵? 有馬さんの家の鍵? そりゃ見つからないと困るよね……」
健一はそんな大事なものなら、なんで一人で探そうと意地になっていたのだろうと思う。しかし冴子はそんな健一の考えを否定《ひてい》するようなことを言い始める。
「私の家の鍵じゃないから、見つからなくてもいいと言えばいいの」
「そうなの?」
健一は、じゃあ一体なんの鍵なんだろうと考えてしまう。
「お守りみたいなものなの。拾い物だし、無くても困るものじゃないんだけど」
「なるほど……」
そうは言われてもなんだか妙《みょう》な話だなと健一は思う。拾い物の鍵をお守りにしてるって……どういう状況なのだろうか。
「どんな鍵なの?」
健一は木の下をのぞき込んだりしながら、冴子に聞こえるように質問《しつもん》をする。
「えっと……変な鍵」
しかしその返事はなんだか間が抜《ぬ》けたものだった。
「……変な鍵?」
「黄色っぽい金属《きんぞく》の鍵で、真ん中に筋《すじ》が入ってるんだけど、鍵山がなくて……作りかけのものみたいなんだけど、部屋番号は刻《きざ》んであって……」
少したどたどしい冴子の返事に健一はそんな特徴《とくちよう》をした鍵を自分が持っているのを思い出す。
冴子が説明しようとしている鍵は、例の幽霊《ゆうれい》マンションのものとしか思えなかった。
「それって……」
「けっこう大きめに1303って書いてあるの」
「1303?」
健一はその番号にさっき自分がポケットに入れた鍵のことを思い出す。自分の鍵をいつのまにか落としたのかと思って無造作《むぞうさ》に自分のポケットに入れてしまったが、冴子の話を聞くにあれは彼女のものだったということだろうか?
その答えを求めてポケットに手を入れると、そこには予想通りと言っていいのか、二つの鍵《かぎ》が入っていた。
「……もしかして、これ、かな?」
健一は取りだした鍵を冴子に見えるように差し出す。そしてそこには自分でも信じられないが、同じ鍵が二つ並《なら》んでいた。
黄色っぽい金属でできた、鍵山のない変な鍵。そしてそこには大きめに1303という部屋番号が刻んである。
「そうだけど……なんで二つあるの?」
冴子が驚《おどろ》いた顔をしてそんな質問をするのが聞こえた。しかし健一はどう答えていいのかわからなかった。この鍵が本当のところ何なのかなんて健一は知らなかったのだから。
わかってるのは、どっちかが自分ので、もう一つはきっと冴子のものだろうということだけだった……。
「とりあえず、どっちが有馬さんの鍵なのかわかるかな?」
健一はだから苦笑いを浮《う》かべながら、少し間の抜けた質問を返した。
冴子は自分の鍵を迷《まよ》わず選んだようだった。どっちでも変わらないので、適当《てきとう》に選んだだけかもしれないが、健一にはその辺のことはよくわからない。
それから健一は冴子を連れて、例の幽霊マンションへと向かうことにした。公園からすぐのところにあったし、あの不思議な建物のことは説明してもわかってもらえる気がしなかった。綾《あや》から説明された自分がそうであったように、実際《じっさい》にそうであるということだけが確《たし》かなことで、およそ現実《げんじつ》とも思えない話だからだ。
「でも、あのピルって十二階建てよね?」
冴子は幽霊マンションのことを知ってるようだった。自分がそうであったように、小さな頃《ころ》に建った高い建物なので記憶《きおく》にあったのかもしれない。
「そうなんだけど、鍵を持って階段《かいだん》を上ると十三階に行けるんだよ」
健一は経験《けいけん》的に知っているその事実を彼女に話すが、それでもやっぱり信じられない話だよなあと思ったりもする。
「不思議な話ね」
なのに冴子はふんわりと受け止める。それに健一は驚き、思わず聞き返してしまう。
「……信じたの?」
「嘘《うそ》なの?」
「いや、嘘じゃないけど……信じられる話なのかなって……」
「ここで嘘をつく理由も思いつかないし、本当なんでしよ?」
「……まあ、そうなんだけど」
そうこう言ってる間に、健一はもうマンションの前まで来ていた。
「ここなんだけど」
健一はそう言いながら入り口を指さし、そしてマンションを見上げる。
なんの飾《かざ》りもない灰色《はいいろ》のコンクリートのままの十二階建ての建物だった。それが少し曇《くも》った空に溶《と》け込《こ》むように消えていくのが見える。
「知ってる。この鍵はここの十三階の部屋のなのね?」
「ああ、うん」
健一は冴子が妙《みょう》に物分かりがよくなったような気がして逆《ぎやく》に戸惑《とまど》ってしまう。鍵を探《さが》す前の彼女はあんなにも人を拒絶《きょぜつ》する風だったのに、今は何を言っても信じてくれるようなそんな柔《やわ》らかさを感じる。
「いちいち階段を上らないといけないから大変なんだけどさ」
健一はそう言いながらマンションに入る。冴子はそれに少し遅《おく》れる形で続く。そして二人は十三階に向けて階段を上っていく。
「……ここって勝手に使っていいものなの?」
「僕《ぼく》より先に住んでた人の話だとそうみたいですね。電気も水も使い放題だけど、家賃《やちん》も電気代も水道代も請求《せいきゆう》されないそうです」
「じゃあ寝《ね》るところには困《こま》らずに済《す》むのかな」
冴子がそんなことをボソリと呟《つぶや》くのが聞こえた。
「え?」
「私、家に帰れないから、そういう場所があったら助かるなって思ってたの」
冴子は当たり前のように答える。
「そうなんだ……」
「母さんに会いたくない事情《じじょう》があって……別にケンカしてるってわけじゃないんだけど。って別にそんな話を聞きたいわけじゃないかな」
冴子はそれだけを言って、それ以上の詳《くわ》しい説明はする気が無いようだった。それで健一が何も話さないせいで、二人の間に沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れる。
「…………」
「…………」
二人は無言のまま、階段を上る。冴子の方は印象通りというか、体力が無いのか息を切らし、途中《とちゅう》から歩く速度が落ちてきたようだった。
「……大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ちょっと辛《つら》いかも」
それでも冴子が自分の状況《じょうきょう》を告げたのは健一が尋《たず》ねてからだった。それで健一は踊《おど》り場のところで少し休むことにする。そこで階数を確認《かくにん》すると、まだ六階だった。
「やっぱりシンドイかな、十三階は?」
健一は冴子を心配してそう尋ねるが、冴子は壁《かべ》に寄《よ》り掛《か》かりながらも笑って答える。
「すぐ慣《な》れると思うわ」
「……なるほど」
健一はまたなんだか冴子が固くなったような感触《かんしょく》を覚える。どうしてこうも別の人のような気分にさせるのか、健一は理由がわからない。
「ねえ、絹川君」
そんなことを思っていると逆に冴子の方から話しかけられた。
「ここつて鍵を持ってない人は来れないの?」
「試《ため》したことはないけど、来れないみたいですね」
「そうか……じゃあダメかな」
冴子はそれで少し影《かげ》を落としたような顔をする。
「……何が?」
健一はそれに考え無しに尋ねるが、冴子は少し笑った様子を見せる。
「知ってるでしょ、私の噂《うわさ》」
「それって、その……」
「男の人を連れ込もうと思ったんだけど、無理なんだなって思ったってこと」
冴子は言葉を濁《にご》して逃《に》げようとした健一を捕《つか》まえるように、そんなことを言い始める。
「……そうなんだ」
健一は観念したような気持ちになってそう呟く。
「それに絹川君の部屋でもあるんだし、そんなの迷惑《めいわく》よね」
「……まあワンルームじゃないから、有馬さんの部屋は自由に使ってくれてもいいけど」
健一はそう答えながら、でもさすがにそれはどうかなとも思う。
「絹川君って……面白《おもしろ》いことを言うのね」
なのに冴子はそれを本気に取ったようだった。感心したようなそんな口調。
「え?」
「男の入って、もう少しどっちかしかないのかなあって思ってた」
「どっちかしかないって?」
「そういうのはダメだって言うか、自分も仲間に入れろって言うか」
冴子はそう言って健一が驚《おどろ》くのを見て、また笑ったようだった。
「なのに絹川君は、私が私の部屋で何をしょうが構《かま》わないって言うから、面白いなって思ったんだけど」
「……まあ、なんかちょっと普通《ふつう》じゃないらしいね。自分ではそうは思ってないんだけど、時時、そういうことを言われる。特に普通じゃなさそうな人に」
健一は苦笑いを浮《う》かべるしかないなと思う。
「それって私が普通じゃないって意味?」
「詳しくは知らないけど、有馬さんが普通って感じはしないけどな」
「……そうね」
冴子はそれで嬉《うれ》しそうに笑ったようだった。なんでこの状況でそういう笑いが出るのか健一にはわからない。
「ね、絹川君」
「……何?」
「さっき私の部屋でなら自由にしてもいいって言ってたけど、そこに絹川君を誘《さそ》ったらやっぱり迷惑なのかな?」
冴子の言葉に健一は、彼女の噂を改めて思い出す。彼女が学校の男子ととっかえひっかえ関係を結んでいるというそういう噂を。
「……それって僕に君の相手をしろってこと?」
「そう」
冴子は当然のようにそう答える。
「そういうつもりで、ここに連れて来たんじゃないんだけど」
健一はしかし自分でも不思議なくらい不機嫌《ふきげん》にそう呟《つぶや》く。
「それはわかってるけど、でも二人が同じ部屋の鍵《かぎ》を持ってるっていうのはそういう意味なのかなって思ったりしない?」
「思わないけど」
健一の返事に冴子は少し笑った。なんで笑うのか健一にはやはりわからない。
「絹川君ってやっぱり面白いね」
冴子はそう言って歩き始める。息が整ったのでまた階段《かいだん》を上る気になったらしい。それに気づいて健一は階段を上る。
「……何が面白いのか、さっぱりわからないんだけど」
健一は不機嫌にそう呟いて、やはり隣《となり》で笑っている冴子を見る。
「本当に見返りを求めずに行動してる辺りかな」
冴子は自分が健一を不機嫌にさせてしまったことに責任《せきにん》を感じたのか、少し真面目《まじめ》な顔をしてそんな答えを口にする。
「それは笑うようなことなのかな?」
「笑ったのは、そこじゃなくて、それを恥ずかしげもなく口にしてたところ。きれい事を言ってるだけで、本当はやっぱり私とエッチしようと少しくらいは思ってるかなって感じてたんだけど、そうじゃなかったんだなって」
「だからって笑うわけ?」
健一はなんだか本当に冴子が何を考えているかわからず、自分でも不思議なくらいイライラしているのを感じてしまう。
しかしそれも次の冴子の言葉で終わりだった。
「嬉しかったの」
「え?」
「私のことを噂通りだと知っても本気で助けてくれる人がいたんだなってわかったから。だから笑ったの」
冴子はそう言うと健一から視線《しせん》を逸《そ》らしたようだった。それに健一はなんだか不安を覚える。
「……とか言って、そうやって笑うわけ?」
「笑ってるわけじゃなくて――」
冴子はそう言いながら、歩きを止めたようだった。
「自分で言ってて恥ずかしいって思っただけ……なんだけど」
そして振《ふ》り返った冴子の顔は泣きそうな程《ほど》に困《こま》った様子で、そして真っ赤に染《そ》まっていた。
「……なるほど」
健一はそんな冴子の顔を見ながら、ふとツバメに言われたことを思い出していた。
絹川は千夜子の彼氏だって自覚が足りないんじゃないの?――と。
「僕は基本《きほん》的に家に帰ってるから、ここは有馬さんが好きに使っていいよ」
1303についた健一は、ここが自分の昔住んでいたマンションに酷似《こくじ》していることやそれぞれの部屋が元は誰《だれ》の部屋だったかを説明すると、最後にそう付け加えた。
「私は奥《おく》のご両親の部屋を使わせてもらうわ。母さんとはワンルームのマンションでずっと暮らしてたから、それだけでも広いくらいだし、逆《ぎゃく》に落ち着かないわ、きっと」
しかし冴子はなんだか遠慮《えんりょ》がちにそう答える。
「だったらホタルの部屋を使えば? こっちの方が狭《せま》いからいいんじゃないですか?」
「でも絹川君は自分の部屋を便うんでしょ? これだけ部屋があるんだし隣《とな》り合ってる部屋を二人で使わない方がいいかなって思うんだけど」
「……そっか」
健一は冴子の気遣《きづか》いなのかなと感じながら、そう返事をする。
「でも本当、僕は家に帰ってるし、それに1301があるから全部、使ってくれていいよ」
「1301って何?」
「えっと……ここのフロアに住んでる人たちが使える共有のスペースなんだ。鍵を持ってる人間はその番号の部屋と1301に自由に入れるってわけ。だから僕はそこだけでも十分だし、それでいいかなって」
「でも、絹川君が1303の鍵を持ってるってことは、ここを使っていいってことだと思うんだけど」
「ま、そうだけど……」
健一はなんかまた冴子が固体のようになったなと感じながら、煮《に》えきらぬ返事をする。それでしばらく考えて、こっちが折れることにする。
「じゃ、時々使わせてもらうよ。だから僕の部屋だけは開けておいて」
「うん、わかった」
冴子はそう言って、なんだかまた笑ったようだった。それに健一はやっぱりよくわからないと思ったが、でも喜んでいるようなのでそれでいいのだろうと感じる。
「それじゃ僕は今日はこの辺で帰るから」
そして健一は別れを告げる。
「さようなら、絹川君」
それに冴子も応《こた》えてそう告げる。その言葉は公園で聞いたのと全く同じ言葉だったが、健一にはなんだか別の言葉のように聞こえた。
「健ちゃん!」
しかし健一にはそのまま家に帰るのは許《ゆる》されていなかったようだった。
1303を出るとそこには綾が待っていた。
桑畑《くわばたけ》綾。1304に住む芸術家《げいじゅつか》らしき十八才の女性《じょせい》。今日もいつものようにパンツの上に白衣だけという格好《かっこう》をしている。
そしてなんだか少し不機嫌《ふきげん》そうに健一には見えた。
「……どうしたんですか、綾さん? お腹減《なかへ》ってるんですか?」
「お腹も減ってるかも……でも、それより気になることがあるんだけど」
「なんです?」
「さっき健ちゃん、誰かと一緒《いっしよ》じゃなかった?」
「……一緒でしたけど、何か問題でもあるんですか?」
「あー、なんか開き直ってる」
「何が言いたいんですか、一体? 新しい住人が見つかったから連れてきただけですよ」
「新しい住人?」
「このフロアに入るための鍵《かぎ》を持ってる人です。綾さんが僕《ぼく》を連れてきたみたいに、僕も連れてきただけです」
「それでさっそくエッチしちゃったんだ……」
綾はどこまで本気なのか少し泣きそうな顔をしてこっちを見る。
「……してないですよ。綾さんと一緒にしないでください」
「あの時、一緒にしたのは健ちゃんだったと思うけど」
「……あのですね」
健一はヤケに絡《から》むなあと思いながら、中の冴子に聞こえるかもしれないと1301に向かうことにする。
「でも、そうじゃないなら、なんで健ちゃんの部屋に一緒に入ってたわけ?」
それを追いかけながら綾が尋《たず》ねてくる。
「その人、1303の鍵を持ってたんです。だから1303に連れて行っただけです」
「……それってどういうこと?」
「どういうことも何もそのままなんですけど。僕もなんでかはわかりませんけど、確《たし》かに彼女の持っている鍵は1303だったから、その鍵はここの鍵だよって教えただけです」
「……彼女ってことは、やっぱり女の子だったんだ」
「やけにこだわりますね。鍵を持ってる人を連れてきたらいけなかったんですか?」
「いけないことはないけど、なんか嫌《いや》だなとは思った」
「……僕だって女の子の部屋に一緒に住もうなんて思ってませんよ。僕には帰る家があるんですから、そんなに気にしないでください」
「そっか、そうだよね」
綾はそれで笑うと、急に力の抜けたような表情《ひょうじよう》を浮《う》かべる。
「なんですか、今度は?」
「いやあ、安心したらお腹すいちゃって。あはは」
綾は明るくそう告げる。
「それは何か作れって催促《さいそく》ですか?」
「うん。さすが健ちゃん、わかってらっしゃる」
綾はそれでまた明るく笑うと健一を押《お》すようにして1301に入った。
数分後、綾は本当に楽しそうに焼きそばを食べていた。健一はと言えば、特にお腹が空《す》いてないこともあって、後片《あとかた》づけのために、綾が食べ終わるのを待っていた。
「本当、綾さんって、いつも楽しそうですよね」
健一は特に他意もなくそんなことを呟《つぶや》く。自分だってそんなに悩《なや》み多き人生を送ってるという風でもないが、今の綾を見ているとそう思わずにはいられない。
「……そかな。私だって、悲しいこともあれば不機嫌な時もあるよ」
「まあ、綾さんだって人間ですから、そういうこともあるんだろうけど、想像《そうぞう》できないって言うのか。僕が見ている限《かぎ》り、そういうのが見えないんですよね。大体、ぐったりしてるか楽しそうにしてるかどっちかじゃないですか」
そう言われて綾は少し食べる手を止める。それで健一はさすがにちょっと言い過ぎたのかななんて思うが、別に怒《おこ》ったというわけではないらしい。
「それは健ちゃんがいるからだよ」
「そうなんですか?」
「健ちゃんと一緒だと楽しいから、健ちゃんからすると私はいつも楽しそうに見えるんじゃないかな」
「……なるほど」
そうは言ってみるが、じゃあ健一がいない時の綾がどんな様子なのかなんてやはり想像できない。まあ、それは別に綾に限った話ではなく、誰であってもそうなのだが。
それで健一は刻也との話を思い出す。彼は綾を「陰気《いんき》な女性《じょせい》」と言っていた。あの時はなんでそんなことを言うのかと思ったりもしたが、刻也の前では綾は本当にそういう人間なのかもしれない。そうなると、綾が今言ったこともなんとなくわかるような気もする。
「そう言えば綾さん、ちゃんと補給《ほきゅう》してます?」
刻也の話を思い出したからだろう。健一は別のことも一緒に思い出した。
「へ? なんのこと?」
しかし綾は当然、そんな話題の展開《てんかい》にはついてこれない。
「いや、ここの冷蔵庫《れいぞうこ》の中身って八雲さんが買って入れてるものなんですよね? 時々、こうやって食べてるわけで、その分、ちゃんと買ってきてますかってことなんですけど……」
健一は話してるうちに、綾が不思議そうな顔をしたままなのに気づいて、聞く必要もないかなあと思い始める。
「うん、買ってきてない」
綾がそれを察したのか、そんな返事をする。
「それじゃダメじゃないですか……」
「そんなこと言っても、私、買い物って苦手で、コンビニより遠くへは一人じゃいけないって健ちゃんだって知ってるでしょ?」
「……そうでしたね」
健一はその辺りの事情を思い出し、しまったなあと改めて感じる。
自転車の修理《しゅうり》をするために商店街の外れのペンキ屋まで行くのが大冒険《だいぼうけん》な彼女にとっては、近所のスーパーに行くのだって大変なのだ。そうでなければ隣《となり》の駅前にあるビデオショップにアダルトビデオを借りに行くのを手伝わされるなんてことになるはずもなかったのだ。
勝手に食べても構《かま》わないが補給しておいてくれと言われたのに、何も対処《たいしょ》していなかったとすると刻也は怒っているかもしれない……。
「そうだ、健ちゃん、買い物で思い出したんだけどさ」
「……なんですか?」
健一は自分が悩《なや》んでるのに、明るいままの綾にちょっと頭が痛《いた》くなるのを感じる。
「今度さ、服を買いに行きたいんだけど、付き合ってくれないかな」
「服? やっとちゃんと普通《ふつう》に服を着る気になったんですか?」
健一は尋《たず》ねながら、改めて綾の方を見る。今日も今日とて、彼女はパンツいっちように白衣を着ているだけだ。そんな格好《かっこう》でコンビニに行ったりしているらしいが、店員やお客たちは彼女のことをどう思っているのだろうなんて余計《よけい》な心配までしてしまう。
「うーん。そういうのとはちょっと達《ちが》うんだけどね。それに、そうなったら健ちゃんもちょっと残念でしょ?」
「別に残念ってことはないです。ホタルもそうですけど、もう少しちゃんと服を着てくれている方がありがたいですし」
健一は正直な気持ちを口にするが、綾は少し悲しそうな顔を見せる。
「……そっか健ちゃんは、一回しちゃうともう興味《きようみ》の無い人なんだ」
「なんですか、その人聞きの悪い言い方は?」
「あ、一回じゃなくて五回だったっけ?」
「……だからですね」
「でも結果そうなってるし」
「それはそうですけど……別に興味が無くなったとかじゃなくてですね……僕には大海さんという彼女がちゃんといてですね……って、そういう話ではなく!」
健一はそこまで言って慌《あわ》てて話題を元に戻《もど》す。
「なんでまた服を買いに行きたいなんて思うようになったんですか?」
「あ、そうそう、そういう話だったね」
「そういう話だったね、じゃないですよ」
「ほら、私って何か別のことが割《わ》り込《こ》むとすぐ忘《わす》れちゃう人だから。思い出すとこの話をしようと思って部屋を出たら、健ちゃんが誰か別の人と1303に入るのが見えたので忘れてたみたいだし」
「綾さんらしいというか……。で、なんで服を買いに行きたいんですか?」
「今度出る本でね、私の作品を紹介《しょうかい》してくれるんだって。で、私の写真も載《の》せようって話になってて、それ用に服を買った方がいいかなって」
「そういうのって、自分で服を選ぶもんなんですか? 雑誌《ざっし》に載せるならスタイリストさんとかが選んでくれたりするような気がするんですけど」
「どうなのかなあ。よくわからないけど小さい写真みたいだし、小奇麗《こぎれい》な格好ならそれでいいって言われたけど……」
そう言いながら綾は改めて自分の姿《すがた》を見て、それから健一の方を見て笑う。
「さすがにこの格好じゃマズイかなあって。あはは」
「まあ、その辺は僕も同感ですけど……」
「で、実は結構《けっこう》前に言われてたんだけど、色々あって忘れてて、そろそろマズイから何とかしろって一言われてるんだよね」
綾はそう言いながらやはり笑っている。
「……いや、そこ笑うところじゃないと思うんですけど。そういうことなら急いで買いに行った方が良いんじゃないですか? もしくは昔の写真で済《す》ますとか」
「昔の写真って、小学生の頃《ころ》のでもいいの?」
「いや、さすがにそれは昔過《す》ぎじゃないかな……高校生の頃の写真とかないんですか?」
「うーん。私、あんまり写真とか好きじゃないから。小学生の頃はお母さんとかお父さんが撮りたがったからあるんだけど、中学に入った頃からはそういうことも無かったから……」
そう言いながら綾は少し暗い顔をしたような気がした。それで健一は、千夜子の家に行った時のことを思い出した。あの時、千夜子の兄、悟《さとる》から見せてもらった卒業アルバムには綾の写真は一枚《いちまい》も無かった。彼女が卒業しなかったから無いのも不思議じゃないと思っていたが、もしかすると当時の彼女には写真を撮る機会すら無かったのかもしれない。
悟の話ではあまり学校に来なかったようだし、修学《しゅうがく》旅行とかにもきっと行っていないんじゃないかという気がする。綾がそういう団体《だんたい》行動に向いているとはとても思えない。
「で、いつ行けばいいんですか?」
そんなこともあって、やっぱり断《ことわ》ってはいけないのだろうと健一は思う。
「えっとね……多分、今週中かな」
「……じゃあ、明日にしましょう。なんかギリギリにしてるとヤバそうだし」
健一はそう言ってからジッと綾の方を見る。
「なに?」
「そのかわり、ちゃんと食べた分は買っておいてくださいよ。八雲さんがバイトをして稼《かせ》いだお金で買ったものなんですから」
「そうは言われても……私、買い物って苦手だし……」
そんなことを言う綾を、健一は欲《ほ》しいものを買ってくれないで泣いている子供《こども》のようだなあと思ったりする。
「わかりました。じゃあ、お金だけください。僕が家の買い物のついでに買ってきますから」
「ほんと? さすが、健ちゃん!」
何がさすがなのかわからないが、綾はそう言って嬉《うれ》しそうな顔をすると、ポケットに手を入れてお金を取り出す。
「これで足りるかな?」
そう言って綾が取り出したのは五万円ほどだった。そういうお金を無造作《むぞうさ》に白衣のポケットに入れてるあたり綾らしいとは思う。
「多分、一万でもお釣りが来ると思います」
健一はそれで一万円だけ受け取ると、さっそく買い物に出かけることにした。今日の夕飯の当番は自分だったからだ。
「ただいま」
家に帰る頃《ころ》には外はけっこう暗くなっていた。とは言っても、夕飯の時間には十分な間があったので怒《おこ》られるような状況《じょうきょう》ではない……はずなのだが。
「……おかえり」
リビングの椅子《いす》に座《すわ》っている姉の蛍子《けいこ》の声は異常《いじょう》に不機嫌《ふきげん》そうだった。外が暗くなろうとしているのに電気もつけずに座っている辺り、何かただならぬ気配を感じてしまう。
「なんかあったの?」
健一は電気をつけながら蛍子の前を通り過ぎて、キッチンの方へと向かう。
その時、健一は蛍子の手に『隔月刊《かくげっかん》アーツライフ』なる本が握《にぎ》られてるのを発見した。それが一体どういう雑誌なのか芸術《げいじゅつ》には無頓着《むとんちゃく》な健一にはわからなかったが、きっとそれが蛍子が不機嫌な理由なのだろう。家に帰ってきて、それを読んでいるうちに今の状況になったのに違《ちが》いない。
「で、ホタル、夕飯はいるわけ?」
しかし健一はあえてそれに気づかぬふりをして、ただ夕飯の話をすることにした。迂闊《うかつ》につつけば収《おさ》まりかけていた怒《いか》りに油を注ぐかもしれないと思ったからだ。
「いるに決まってるだろう。食べなければ死んじまう」
蛍子はムスッと呟《つぶや》くとじっと健一の方を睨《にら》む。何か言いたそうだが、健一はこういう時の姉をまともに扱《あつか》おうとすると酷《ひど》い目に遭《あ》うことを経験《けいけん》的に知っていた。
「……大げさだなあ。一食くらい抜《ぬ》いたって死ぬ訳《わけ》ないだろ?」
だからそう言って笑って流す。
「そうかもな。そりゃそうだ」
蛍子はそれだけ言うとまた押《お》し黙《だま》ったようだった。それで健一は蛍子の無言のプレッシャーを感じながらも夕飯作りを始めた。
「で、彼女とは上手《うま》くいってるのか?」
料理を作っている間も、食べている間も一切《いっさい》口を開かなかった蛍子が久々《ひさびさ》に口にしたのはそんな質問《しつもん》だった。健一はそれを皿を洗《あら》いながら聞く。
「……別に普通《ふつう》だよ」
どう答えたものかと考えて、健一はそんな風に返事をした。自分でも思うが、間の抜けた返答の気がする。
「普通ねえ」
だからなのか蛍子がそんな風に呟くのが聞こえた。
「普通じゃ悪いのか?」
「お前から普通なんて言葉が出てきたんで、意外に思っただけさ」
蛍子はそれだけ言うとまただんまりを決め込む気になったようだ。
「……そうかな」
健一はなんだか他の人間にも似《に》たようなことを言われたなあと思いながら、皿洗いを続ける。
そしてそれが終わるまで蛍子はずっとリビングに残っていた。
それで健一はなんとなく自分が原因《げんいん》ではないのだろうなあと感じる。もしそうなら蛍子は自分の見えるところから姿《すがた》を消すだろうという気がする。
「そういうホタルはどうなんだよ?」
そして片《かた》づけを終えた健一は、自分の部屋に戻《もど》ろうとリビングの方へと歩き、蛍子へと質問をする。
「……どうってなんだ?」
「ホタルは彼氏とかいないわけ?」
そのどうということのない質問に蛍子は怒った様子を見せた。ギロリと健一を睨んだかと思うとそのまま立ち上がって部屋を出ていく。
「……いるように見えるか?」
そして去り際《ぎわ》、振《ふ》り返ってそんなことを言った。それは質問の形はしてはいたが、すでに答えを確認《かくにん》する必要などなさそうだった。
「…………」
それから健一は階段《かいだん》を上っていく蛍子を見送りながら、迂閥なことを言ってしまったなと思う。そして立ち去ったのを見て、今度は完全に自分のせいだなと考える。
「しばらくはそっち関係の話題は振らないようにしないとだな……」
健一はそう呟いて、蛍子が部屋に戻ったのを確認して自分も階段を上る。蛍子のことはもうしばらく様子を見たほうが良さそうだなと思いながら。
朝になって少し機嫌が直ったらしい。
健一は蛍子の様子を見てそう思ったが、それも結局のところは自分が迂閥な話題を振ったことに関してだけのようだなとも感じる。昨晩《さくばん》、帰ってくる前に怒っていたことに関してはまだ収まってないらしい。
「……なにか、私の顔についてるのか?」
じっと見ていたのだろうか。蛍子はパンをかじりながら憎々《にくにく》しげに尋《たず》ねてくる。
「いや、別に……」
ここでハッキリと指摘《してき》できない自分の心の弱さを健一は感じるが、それは勇気ではないと彼の記憶《きおく》が告げる。勇気と無謀《むぼう》は違うのである、きっと……。
「今日の講義《こうぎ》は午後からだし片づけは私がしておくから先に学校に行けばどうだ?」
蛍子は健一にそんなことを言い始める。健一はそれを少し意外に思いながら、あんまり顔を見たくないのかなとも感じる。
「……じゃ、よろしく」
そして無理に反論《はんろん》するようなことでもないしと健一は短く返事をすると、部屋に戻って出かける準備《じゅんび》をして、さっさと学校に向かうことにした。
「有馬さん?」
公園を過《す》ぎた辺りで、健一は少し前を歩くのが有馬冴子だと気づいた。黒く長い髪《かみ》とか青白い肌《はだ》とかそういう外見的特徴《とくちょう》ではなく、何だか今にも倒《たお》れそうにブラブラと歩いている姿が彼女なんじゃないかと健一に教えてくれた。
それで健一は軽く駆《か》け出して彼女に追いつこうとする。
「有馬さん、おはよう」
そしてもう声が十分届《とど》くだろうという距離《きょり》になったところで、挨拶《あいさつ》の言葉をかける。
「…………」
しかし返事はなかった。ブラブラだし調子が悪いのかなと健一は思いながら、もう一度、彼女に話しかけることにする。
「有馬さん、おはよう」
「…………」
しかしやっぱり返事はなかった。
「有馬さん?」
健一は冴子を追い抜《ぬ》いて、彼女の顔を振り返りながら彼女の名前を呼《よ》ぶ。人違《ひとちが》いではなく、やっぱり有馬冴子だった。なのに彼女は返事をしない。
「どうしたの、有馬さん?」
「…………」
「調子悪いなら寝《ね》てた方がいいんじゃないの?」
「…………」
「……どうしたの、有馬さん?」
本当に返事がないので健一は心配になったが、冴子はそれでやっと返事をする気になったようだった。しかしそれも返事とは言えないような宣告《せんこく》の言葉。
「外では私には話しかけない方がいいですよ」
「……なんで?」
健一は冴子の言葉の意味がわからず聞き返す。
「知ってるでしょ、私の噂《うわさ》」
しかし冴子はその言葉だけ残して学校とは違う方向へと歩き始める。
「有馬さん?」
健一はその行動の意味はわからないが、自分が拒絶《きょぜつ》されたのだなということだけは理解《りかい》できた。しかしその理由がわからない。
あの後、1303に残った冴子に何かあったのだろうか? 綾や刻也から自分のことを聞いて幻滅《げんめつ》したとかそういうことなのだろうか……。
「……まあ、そうなってもおかしくないくらいのことはしてるか」
健一はそしてあの幽霊《ゆうれい》マンションに行くようになってから起こったことを思い出す。千夜子に告白されたにもかかわらず、その日のうちに綾と関係を持ったこと。1301で綾と話してたのを冴子が聞いていれば、それを悟《さと》ったかもしれない。そうでなくてもあの後、綾が冴子に会って話してしまったということもありそうだった。特に悪意は無くても口が滑《すべ》ったということは十分考えられる。
それに……蛍子とのこともある。綾とのことは、まだしもあれは人に知られれば軽蔑《けいべつ》されてもしょうがない。あのことを知ってるのは蛍子と綾だけだが、やはり綾が話してしまったという可能性《かのうせい》もある。
「でも、そういうことじゃないか……」
一通り自分のことを考えた後、健一は別に自分に対して怒《おこ》っているとかではなかったなと思い出す。
冴子は、自分の噂のことを気にしていた。何故《なぜ》かはわからないが、冴子が自分を拒絶していたのは向こう側の理由だったらしい。
「おはようございます、絹川君」
健一がそんなことを考えている間に誰《だれ》かが彼の側《そば》まで来ていた。健一は自分の名前を呼ばれたのに気づいて、その相手を探《さが》す。
「あ、おはようございます」
どうやら自分を呼んだのは大海千夜子だったようだった。なんだか朝から彼女に会うのは珍《めずら》しいなと健一は感じる。
「昨日はすみませんでした」
そして千夜子は突然《とつぜん》、謝罪《しやざい》の言葉を口にする。
「……昨日ってなんだっけ?」
健一は心当たりがなく、思わずそんなことを呟《つぶや》く。
「昨日はちょっと調子に乗ってしまったみたいで、軽蔑されたかなって……」
歯切れの悪い小さな声で千夜子が答える。
「あ、いや、全然、気にしてなかったから、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
健一はそれで千夜子が何を言ってるのか理解して、慌《あわ》ててそんなフォローをする。
千夜子が気にしてるのは交際《こうさい》一か月になったのに浮《う》かれていたこと、そして残り二か月で健一に好きになってもらうと口にしたことらしかった。千夜子はそれを気に病《や》んでいたようだが、むしろ健一はそういうことを言われてしまうのを気にしてたくらいだった。
ツバメの言葉じゃないが、千夜子の彼氏としての自覚が足りないんじゃないかと思う。
「こっちが謝《あやま》らないといけないって思ってたくらいだから、本当」
健一はそう言って、いつもより小さくなってるようにさえ見える千夜子の手を引いて歩き出す。それに千夜子は少し驚いたようだが、少し遅《おく》れて彼に続く。
「あのその……絹川君は全然悪くないですから気にしないでください」
「でも、記念日を忘《わす》れてたのは僕《ぼく》だし……それに……」
「それに、なんですか?」
「あと二か月で好きになってもらうって言われたのがショックだったかな」
健一の言葉に千夜子が体を硬《かた》くしたのが、握《にぎ》っている手を通して伝わってくる。それで健一は立ち止まり、千夜子の方を見る。
千夜子もそれに気づいて立ち止まって、健一の方を見ると小さく頭を下げた。
「すみません……偉《えら》そうなこと言ってしまいましたよね?」
「そうじゃなくて……そういう風に見えてるんだなって」
「……どういう意味ですか?」
「僕は大海さんのこと好きなつもりだったんだけど、そう思ってはくれてなかったんだなって、あの後、一人になってから気づいたんです」
健一の言葉に千夜子は、短く「あっ」と驚きの声を上げたようだった。それが、そういうつもりで言ったからなのか、そういうつもりじゃなかったからなのかは健一にはわからなかったが、どっちでもあまり変わらない気はした。
「昨日、鍵原に言われたんですよね。僕は大海さんの彼氏だって自覚が足りないんじゃないかって。これってきっと言葉は違《ちが》うけど、同じ意味ですよね」
「ツバメがそんなこと言ったんですか……」
千夜子は本当に驚いている様子だった。どうやら千夜子の知らないところでツバメが苛立《いらだ》ってそういうことを言ったということなのだろうと健一は感じる。
「さっきも大海さんと会って、ああ一緒《いっしょ》に登校とかってあんまりしたことなかったんだなって気づいたりしましたし」 健一はそう言つてから、少し力を抜《ぬ》いた笑いを浮かべる。
「いや、本当、恥《は》ずかしながら僕は女の子と付き合ったことないから、どうしたらいいかとかわからないんですよ。そのせいで大海さんが、当然するようなことを僕がしないからって凹《へこ》んでるんだとしたら申し訳《わけ》ないなって……思ってたりするんですけど……」
健一は千夜子が何も言わなくなってしまったので、逆《ぎゃく》に自分が餞舌《じょうぜつ》になるのを感じる。しかしそれも千夜子が本当に口を開かないので、自分も言葉を続けていられなくなる。
「あの、大海さん……大丈夫ですか?」
心配になり千夜子の顔をのぞき込《こ》む。すると彼女は泣くのを必死にこらえてるようだった。
「……すみません。そんなこと思ってもらいたいわけじゃないんです」
健一の視線《しせん》に気づいたのか千夜子はそのまま顔を上げて口を開く。
「いや、その大海さんを責《せ》めてるわけじゃなくて……反省してるんです、自分のことを」
「だとしても一緒ですよね。私のせいでそういうことを考えて不安になったりとか……そういうのを望んでるわけじゃないんです」
「……僕は別に不満だってことじゃないんです。大海さんと付き合ってなかったら、こんなこと考える機会もなかっただろうし」
健一はそう言いながら笑って、また千夜子を引っ張《ぱ》るように歩き始める。それで千夜子は転びそうになるが、それが彼女を笑顔《えがお》にしたようだった。
「楽しいことばかりじゃなくてもいいと思うんです。恋愛《れんあい》ってそういうものじゃないのかもしれないけど、大海さんと話すことで得るものがあって、それを良かったって思えるなら、僕はそれはいいことだと思うんです」
「……そうなんですか」
「そういうこと言ってるから、好きじゃないって思われちゃうのかな?」
健一はそれで苦笑いを浮かべる。
「いえ。私はそう言ってもらえて嬉《うれ》しいです」
千夜子はそう言いながらもまた視線を伏《ふ》せたようだった。しかしそれは嘘《うそ》をついているとかではなく、いつもの恥ずかしさからの行動に違いない。
「本当のこと言うと……こうやって手を引っ張ってもらって学校に行きたいなって思ってたんです。でも言い出したら、子供《こども》っぽいって思われるかなって……」
健一はそう言われて、自分が千夜子といつの間にか手をつないでるのを思い出す。
「あ、すみません。なんかいつのまにか……手を握ってたみたいです」
「謝るようなことじゃないですよ。前にも言ったじゃないですか。いつでもOKだって」
「でも、その時、学校だとちょっと恥ずかしいって言ってたような」
健一はそう言うと、千夜子がまた慌《あわ》てた様子を見せたのでちょっと笑ってしまう。
「で、ですよね、そう言いましたよね、私……」
「学校行く途中《とちゅう》はどっちって考えたらいいんですかね?」
「なんだか今日の絹川君は意地悪です」
千夜子はそう言いながら怒《おこ》ってるわけではなく、戸惑《とまど》っているようだった。
「このまま学校行くとクラスの人に見られちゃいますよね……」
千夜子はそれで少し迷《まよ》ってから手を放す。そして健一の方を真っ赤な顔で見上げる。
「嫌《いや》ってわけじゃないんですけど……もう少し時間をください。やっぱりクラスの人たちに見られたら恥ずかしいかなって……あ、別に絹川君が恥ずかしい相手ってことじゃなくて、絹川君は私には不釣《ふつ》り合いなほど素敵《すてき》な人ですけど、そう言う人と私が付き合ってるってことが身の程《ほど》知らずで恥ずかしいってだけで……」
「大丈夫《だいじょうぶ》。悪い意味だって思ってないから」
健一は必死に言い訳を続ける千夜子を安心させるようにそう話しかけると、でももう一度だけ彼女の手を触《さわ》る。
「でも、もう少し手を握っててもいいかな?」
「……あ、はい。全然、OKです! そのせいで遅刻《ちこく》しちゃってもOKですから!」
千夜子はなんだか今にも煙《けむり》を噴《ふ》きだしそうな赤い顔をしていたが、でもすごく嬉しそうだった。そして健一はどうして今までそうしてあげなかったのだろうと思う。
「それで、あの……」
そんな千夜子がまた視線をさげて、何か言いたそうな態度《たいど》を見せる。
「なに?」
「絹川君、今日の放課後は用事とかあります?」
「今日……はちょっと先約があるけど、何かあるの?」
そう答えると握ってる手から力が抜けるのが伝わってくる。どうやらかなり本気でガッカリさせてしまったらしい。
「いえ、先約があるんならいいんですけど……」
「それって今日じゃないといけない用事?」
「いえ、全然、そうじゃないです。ちょっと買い物に付き合って欲しいなって……本屋さんなんですけど……」
「そういうことなら明日で良ければ付き合いますけど」
「ほ、本当ですか?」
「……それくらいでそんなに喜ばれると、逆《ざゃく》に心配になっちゃいますよ。そんなにスゴイことなんですか、それって」
「そ、そうですよね……すみません。私の方こそ、絹川君の彼女って自覚が足りないのかもしれないですね」
千夜子はそう言いながら嬉しそうに笑っていた。それで健一は昨日のことを本当に気にしてたんだろうなあと感じて、自分のことぽっかり考えていたのを恥ずかしく思った。
どこで手を放すのか。それを二人は決めかねていた。
健一としては別にずっと握っていても良かったが、あまり学校に近づきすぎると千夜子が本当に煙を噴くかもしれないという不安はある。
「そろそろ……限界《げんかい》かな」
健一は横断《おうだん》歩道で待ちながら、そう呟《つぶや》くと慌てて手を放した。
「……どうかしたんですか?」
それで千夜子は不安そうに呟く。
「ごめん。クラスの娘《こ》にもう見られたかも」
そう言いながら健一はもっとシリアスな状況《じようきょう》かもしれないなんて思ったりもした。その相手がクラスメイトでも特に見られたくない相手だったからだ。
自分たちが横断歩道で待っているところへ通りを渡《わた》ってくる二人の女子の姿《すがた》が見えた。その一人がクラスメイトの窪塚佳奈《かな》だった。そしてもう一人は双子《ふたご》の妹である窪塚目奈《ひな》。二人はいかにも仲良さそうに寄《よ》り添《そ》うように歩いていた。
「…………」
先に健一の視線《しせん》に気づいたのは妹の日奈の方だった。そしてそれが伝わったのか佳奈の方も健一を見るのがわかった。
途端《とたん》、佳奈の浮《う》かべていた笑顔《えがお》は消え、怒《いか》りとも幅しみとも見える光がその日に宿る。
そして健一はその日を昨日も見たことを思い出す。有馬冴子を結果的に助けた時に、彼女が自分に対して向けた視線だ。
「……あの」
気づくと千夜子が心配そうな顔をしてこっちを見ていた。自分のせいだと思ったのだろうか。健一が視線を向けると申し訳《わけ》なさそうに小さく頭を下げた。
「いや、大海さんのせいじゃないから」
そう答えながら健一はその場で動けないでいた。
佳奈と日奈の二人はそのまま横断歩道を渡ってきて、そして健一たちが待っていた信号が青くなると先に渡っていく。
「……何かあったんですか?」
二人が十分に遠くなったところで、千夜子が小さな声で尋《たず》ねてくる。
「ちょっとね……」
「それがさっき言ってた先約ってヤツですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
健一は千夜子に余計《よけい》な不安を与《あた》える必要もないだろうと、事情《じじょう》を話すことにする。
「昨日、公園で窪塚さん――お姉さんの方だけど――が、有馬さんとケンカしてたんですよ。それで事情も知らずに現場《げんば》に駆《か》けつけたら……恨《うら》まれちゃったみたいで……」
「そんなの逆恨《さかうら》みもいいところじゃないですか。絹川君は少しも悪くないですよ」
「……でもまあ、怒りをぶつけてる途中に邪魔《じゃま》が入ったから、残っちゃったんじゃないかな。それで、あんな感じに」
「八つ当たりですよ、それは」
千夜子はひどく不満そうな顔をするが、健一はそんな千夜子の顔を見ると笑ってしまう。
「……なんで笑うんですか?」
「え? なんかこんなことで怒《おこ》ってくれるんだなあって」
「怒りますよ。だって八つ当たりなんですよ! なのに親の仇《かたき》ー!みたいな顔をして絹川君のこと睨《にら》んで……絹川君は悔《くや》しくないんですかー」
「悔しい……ってことは全然無いけど。もう終わったことだし、まあそのうち、怒りも収《おさ》まってくれると思うから、まあいいかなって思ったりしますけど」
「私は悔しいです! 断然、悔しいです! 私の彼氏を悪者みたいな日で見やがって、がおー!って感じです」
千夜子が真面目《まじめ》な顔でそんなことを一言い始めるので健一はまた笑ってしまう。
「……なんで笑うんですか?」
「いや、ごめん。僕のために怒ってくれてるのに笑うところじゃないですよね」
「そうですよ……私、真剣《しんけん》に怒ってるのに……」
千夜子はそれですねたような顔を見せる。それで健一は彼女の頭を撫《な》でながら、一言。
「ありがとう。僕のために怒ってくれて」
「……これくらい、お安い御用《ごよう》です」
千夜子はそれで照れたのかそんなことを言って学校へと駆け出した。
健一にとって有馬冴子は、幽霊《ゆうれい》のような少女だった。
肌《はだ》が青白いからかもしれないし、重さを感じさせない歩き方のせいかもしれない。
でも有馬冴子の席は窓際《まどぎわ》の一番前にあって、夏の到来《とうらい》と共に強くなっていく日差しの下で、いつも彼女が眠《ねむ》たそうにしているのは知っている。
そして今日も冴子は窓際の一番前の席で外を見ていた。それは今までと何にも変わらない光景なのだが、窪塚佳奈のあの目を見た後では健一には全く違《ちが》ったもののように感じられた。
――どうして有馬さんは学校に来れるのかな
健一はそう思わずにはいられない。冴子は間違いなく多くの人間の恨みを買っている。なのに彼女は毎日、ちゃんと学校へ来て、そしていつものように外を見ているのだ。
健一はそれをとても真似《まね》できないと感じる。しかも彼女は授業《じゅぎょう》を楽しんでいる風でもない。友達がいるようでもない。
なのに彼女は毎日、学校へ来ている。しかも何事も無かったように。
その辺りは健一には到底《とうてい》信じられないことのように思えた。昨日、彼女と話した限《かぎ》り、無神経《むしんけい》でそういうのが少しも気にならないという風ではなかった。自分が何をしているのかもわからず、無茶《むちゃ》をし続けてるということもないだろう。
彼女は自分が何をしているのか理解《りかい》している。その上で彼女は学校へ来ているのだ。
――なんでそんなことができるのかな
健一はそれほどの強い気持ちの理由を知りたくて、何度となく冴子の方を見てしまう。でもわかったのは、今日の彼女はいつにも増《ま》して眠そうだということ。そして、彼女のことを教師《きょうし》たちが確《たし》かに見ないようにしているらしいということだけだった。
「絹川ぁ!あんた昨日、人が言ったこと聞いてなかったんでしょ?」
昼食を外で食べようと教室を出たところで、健一はツバメに後ろから首を絞《し》められた。チョークスリーパーというプロレスの技《わざ》の真似なのだろうが、きっちりと首を押《お》さえられ健一は呼吸《こきゆう》が詰《つ》まるのを感じる。
「く、苦しいって……マジで……」
健一はしかし今日は彼女の言い分が正しいと認《みと》めるしかなかった。
「性懲《しょうこ》りもなくあの女のことを見てたでしょうが! 言葉で言ってわからないヤッは体で教えるしかないわなぁ!」
そう言いながらツバメはさらに締め上げる。
「ツバメ……そこまでしなくていいから……」
そんな様子を見ていて千夜子が助け船を出してくれるのが聞こえた。それでツバメの力が緩《ゆる》むのを感じる。
「本当、千夜子は甘《あま》いんだから、今日は完全に絹川が悪いんだよ? ね?」
「今日は僕《ぼく》が悪いかなあ、確かに……」
健一は息を整えながらツバメの言い分に賛同《さんどう》する。
「まったくなんなのよ。人がせっかく忠告《ちゅうこく》したのに、逆効果《ぎゃくこうか》だったわけ?」
「……あんまり鍵原の話は関係ないんだけど」
健一はそう一言って、ツバメにも昨日の話をした方がいいのかと思う。だが、その答えが出る前に千夜子が口を開いた。
「絹川君は昨日、有馬さんと窪塚さんがケンカしてるところを見ちゃったんだって。有馬さんのことを気にしてたのはそのせいだよ」
「……窪塚さんとケンカねえ。詳《くわ》しい事情《じじょう》はわからないけど、どうせあの女が悪いんでしょ」
ツバメが思いっきり先入観で決めつけたような話をする。しかしそれは満更《まんざら》、間違いというわけではなく、きっと本当のことなのだということを健一も知っていた。
有馬冴子は一昨日の夜、窪塚佳奈の彼氏と寝《ね》たのだ。そこに何か特別な理由があったのかもしれないが……やはり悪いのは有馬冴子の方だろうと言う気がする。
「まあ、そうみたいだね」
だから健一は短くそんな言葉で彼女の言い分を肯定《こうてい》する。
「じゃあ、あの女を見ること無いでしょ? それとも絹川は悪い女に魅《ひ》かれるタイプなの?」
「悪い女に魅かれるタイプねえ。そういうことは考えたこともなかったなあ」
健一は今度はツバメの言い分を否定《ひてい》したつもりだったが、彼女はそうは思わなかったようだ。
「あ、一瞬《いっしゅん》、そうかもとか思ったでしょ?」
「いや、全然思ってないけど」
「そっかあ。なんかおかしいなあと思ってたら、そういうことだったのかあ……」
ツバメはそんなことを言いながら何度もうなずく。どうやらなにやら色々と納得《なっとく》できることがあったらしい。
「……だから、別にそんなことはないって言ってるのに」
「絹川がそう思ってるだけで、端《はた》から見たらそうとしか見えないし。ね、千夜子?」
「え? 何?」
突然《とつぜん》、自分に話題を振《ふ》られて千夜子は戸惑《とまど》った様子を見せる。
「絹川が千夜子にイマイチ消極的なのは、絹川が悪い女が好みなんじゃないかって話」
「……そうかな。私はそう思ったことはないけど」
「あーあ。千夜子は絹川を美化しすぎ。そりゃもしそうだったら千夜子が不利だから認《みと》めたくないのはわかるけど、ちゃんと現実《げんじつ》は認めないとダメだよ」
「そう言う話をツバメに言われるのはちょっと心外」
「どいうこと?」
「ツバメはいつも好きな人できると、もう私が何言っても『そんなことない!』 って言うだけで、後で『やっぱり千夜子の言う通りだったよぉ……』 って話ばかりじゃない」
「うぐっ……」
千夜子の予想以上の手痛《ていた》い反撃《はんげき》を受けてツバメが短く坤《うめ》く。
「それに私は別に有馬さんのこと、ツバメが言うほど悪い人だって思ってないし、だから有馬さんを絹川君が心配するのも悪いこととは思ってない」
「千夜子は甘い! 甘すぎるってば。あの女の噂《うわさ》を知らないわけ?」
「いくつかは聞いたことはあるけど……きっとなんか事情があるんだよ。全部が全部、本当ってわけじゃないだろうし」
「全部じゃなくても十分ひどい女だと思わないわけ?」
健一が黙《だま》っているうちに二人はそんな口論《こうろん》を続けている。それを健一は、なんだか奇妙《きみょう》な光景だなと見る。
それにツバメは気づいたらしい。
「元はと言えば絹川のせいなのに、何、一人のん気に構《かま》えてるわけ?」
「いや、僕《ぼく》の言いたいことは大海さんが言ってくれてるからいいかなあって」
「……さいですか。二人は私が思ってるより、ずっとラブラブだったと言うことですね。はいはい。私が悪うございましたよ」
ツバメはそう吐《は》き捨《す》てるように言うと、くるりと方向転換《てんかん》して当初の予定通り、昼食を食べるべく歩き出す。
「……なんかまた怒《おこ》らせちゃったかな?」
健一はそんなツバメの後ろを追いかけながら、小声で千夜子に尋ねる。
「ツバメは私のこと心配してくれてるんです。それだけですよ」
「それならいいんだけど……って、心配させてるのは僕のせいだからよくはないか」
「いいんですよ。私は心配してないですから」
「……なるほど」
健一はそれで力の抜《ぬ》けた返事をするが、その時、ツバメが振り返るのが見えた。
「本当、二人は仲が良くてよろしゅうございますなあ」
「……そんな理由で怒られても困《こま》るんだけど」
健一は苦笑いを浮《う》かべそう答えると、助けを求めて千夜子の方を見る。
「ですよね」
千夜子も似《に》たような顔をしてこっちを見ていた。
「いつも思うんだけどさあ」
昼食を食べ始める頃《ころ》には、ツバメの機嫌《きげん》はよくなっていたようだった。
「……何?」
健一はそんな彼女のテンションについていけず、とりあえず聞き返してしまう。
「絹川のお弁当《べんとう》、美味《おい》しそうだよね」
「……いつもそんなこと気にしてたわけ?」
「いや、うちの弁当は適当《てきとう》だから羨《うらや》ましいなあって思ってるだけで、寄越《よこ》せとかそういう意味じゃないんだけどね」
ツバメのそんな話に、本当は催促《きいそく》してるのかなと健一は思ってしまう。
「……文句《もんく》を言うなら自分で作ればいいんじゃないの?」
「毎朝早く起きて弁当作るなんて私には無理無理」
「じゃあ文句を言わない方がいいかなと思うなあ」
「だから文句は言ってないでしょ? 絹川のお弁当が美味しそうで羨ましいと言っただけ」
「……まあ、そうか」
健一は結局のところなんなのかわからなくなるのを感じながら、まあ大した意味のある会話ではないのだろうと思うことにする。
「しかし実際《じっさい》のところ、どうなわけよ?」
「何が?」
「絹川も彼女の手作り弁当が食べたいー! とか思ったりするわけ? ぶっちゃけ、千夜子にはそれだけのお弁当は作れないと思うわけ、で、す、が!」
「今日の鍵原、なんかすごくトゲがあるような気がするんだけど」
健一は困ったなあという顔をして千夜子の方を見る。すると千夜子はどうやら健一の答えに興味津々《きょうみしんしん》だったらしく目が合ってしまう。
「……そうだよ、ツバメ。なんでそういうこと言うの?」
「なんでって……千夜子が聞きたがってそうだから代わりに、ね」
「……聞きたがってないし」
「じゃあ、将来《しょうらい》の私のための情報収集《じょうほうしゅうしゅう》。愛のある美味しい弁当と、愛のある美味しくない弁当のどっちがいいかって男子代表、絹川健一君に質問《しつもん》してるわけ」
「どっちも愛があるなら美味しい方がいいに決まってるじゃない……」
千夜子が呆《あき》れた声でそう呟《つぶや》くのが聞こえる。
「ということは、絹川は千夜子のお弁当はいるはずもないと」
ツバメがそんなことを言うので、健一はさすがに黙ってられずに口を開く。
「いや、別に僕の弁当には愛はこもってないから……」
「とてもそうは思えないんだけどなあ。いかにも毎日毎日、ちゃんと手間かけて作ってそうだもん。そういうマメなお母さんがいて絹川は幸せだよねえ」
「……本当、何が言いたいんだか」
間違《まちが》いだらけのツバメの認識《にんしき》に健一はどうつっこんだものかと考えてしまう。
健一の弁当は自分で作ったものだし、別に手間などかけていない。母親は子供《こども》の世話より仕事に熱中していて、正直、あまり料理が得意ということもない人なのだ。
「ツバメ、そのお弁当は絹川君が自分で作ってるんだよ」
千夜子がゆっくりとした口調でそう告げるのが聞こえた。
「え、本当?」
「……まあ、行きがかり上、そういうことになってる」
健一は驚《おどろ》いて自分を見ているツバメにそう答える。
「うちの両親は全然、家に帰ってこない人たちだから、自分で作らないといけないんだよ」
「ふへー。意外に複雑《ふくざつ》な家庭の事情の持ち主だったんだ」
「まあ二人揃《そろ》って仕事大好き人間ってだけなんだけど」
「ってことは、ますます千夜子の弁当なんていらないってこと?」
「なんか無理にでもそういう結論《けつろん》に持っていこうとしてるとしか思えないんだけど」
「だって自分でそこまで作れるなら、わざわざ千夜子に作ってもらう必要なんてないでしょ?」
「そういうのって必要とかそういう話なのかなあ……」
「でも自分で作る方が美味しいなら、その方が面倒《めんどう》がないじゃん。嫌《きら》いなものを食べさせられることもないし」
「……そうかなあ」
健一はツバメの言い分はそれはそれで明快《めいかい》な気はするが、でもなんだか賛同《さんどう》しかねる気がした。それは千夜子の手前、そういうことにしておかなければという気遣《きづか》いというわけでもなく、なんだか自分とツバメの価値《かち》観の違いによるもののようだった。
「僕は自分と違うことを考えてる人の話とかって面白《おもしろ》いと思うんだけどなあ」
「……なんの話?」
「いや、だから自分が考えないような料理とか出てくると嬉《うれ》しいんじゃないかなあって思うし、それを大海さんが作ってくれるって言うなら、喜んで食べる気がするってこと」
「さいですか。こりゃ、また憎《にく》たらしいことを言ってくれるねえ、今日の絹川は」
散々自分の方から話題を振《ふ》っていたのにツバメはそう言って悪態《あくたい》をつく。
「だから千夜子以外の女の子に興味を持ったりするわけだ、絹川は」
「……本当、今日は随分《ずいぶん》と絡《から》んでくるなあ。なんかあったわけ?」
「あったでしょ? 昨日、忠告《ちゅうこく》したのにあの女のこと、気にしてたじゃない」
「それはそうだけども……」
「千夜子は構《かま》わないみたいなこと言ってるけど、私は全然構ってるつてこと」
「そういう日本語はないと思うなあ、きっと」
「とにかく! 絹川は千夜子の彼氏なんだから、他《ほか》の女には目をくれるなってこと!」
ツバメはどうやらそれを言いたかったらしい。なんだかそれで彼女はスッキリした顔になる。
「それ自体はわからないでもないけど……どのレベルの話なのかなあ」
「どのレベルもないの! 他の女の子は見ない、気にしない、話さないの三原則《げんそく》を守って暮らせばいいのよ」
「……それを守ろうとするとこうして鍵原と話してること自体すでに問題なんだけど」
「ああ、そうですね。そうですとも。だからもう話さない。お二人は私が心配する必要もないみたいですし、お邪魔虫《じゃまむし》は去りますよ。じゃあね!」
ツバメはそんなことを言うと、突然《とつぜん》、食べかけのままの弁当《べんとう》を閉《と》じて立ち上がる。
「ツバメ、どうしたの?」
千夜子が心配して話しかけるが、もうツバメは言葉通りいなくなるつもりでいるようだった。
「自分で言いだしたことだし、千夜子も私がいない方がいいでしょ?」
「私、そんなこと言ってないでしょ?」
「じゃ、私が二人にもう当てられるのが嫌《いや》だからってことで」
そう言ってツバメはにこやかな表情を浮《う》かべて去っていく。
「本当、何が言いたいんだろうなあ……」
健一はそんなツバメの行動についていけず、すでに何度か繰り返していた言葉をまた口にする。千夜子の方は悲しそうな表情《ひょうじょう》を浮かべていたが、戸惑《とまど》ってはおらず、ツバメの行動の理由を察してる様子だった。
「私が話せないでいたから、気をつかってくれたんです」
「……なるほど」
言われて健一は確《たし》かにさっきからツバメとばかり話してたなと気づくが、それにしたってツバメの行動には納得《なっとく》しかねる。
「後は二人で話せということなら、もう少し穏便《おんびん》に去ってくれてもいいのになあ」
「そうですよね……ツバメはちょっと思い込《こ》みの激《はげ》しいところがあるから」
「ちょっとかなあ……」
健一はあのツバメをそういう風に評価《ひょうか》する千夜子の態度に、少し笑ってしまう。
「……かなりですかね」
千夜子はその笑いの意味に気づいたのか、おずおずと言い直す。
「僕にはそう見えるけど、でも大海さんはちょっとってことでもいいんじゃないかな」
健一はその方が千夜子らしいと思って、そんなことを言ったりするが千夜子はそれには力なく笑うだけだった。
「私……ツバメが有馬さんのこと嫌《きら》ってる理由は知ってるんです」
「嫌ってる理由?」
「有馬さん、ツバメの彼氏……になるかもしれない人を横取りしたんです。ツバメは詳しく話してくれないから、どういう状況《じょうきょう》だったのかは知らないんですけど」
「それは僕もちょっと聞いたよ、昨日。だから有馬さんに近づくのはやめろって言われた」
「それで、それでですね。でも私、有馬さんが悪い人には見えないんですよ。あんまり話したこと無いし、ツバメが嘘《うそ》ついてるってつもりもないんですけど……ツバメの言うことが本当だとしてもなんか理由があるんじゃないかなって……でも理由があっても人の彼氏を横取りするなんていいことのはずないですよね……」
千夜子の話はなんだかあっちこっちに飛び回ってるようで、健一はなんのことか次第にわからなくなってくるのを感じる。それは千夜子自身もそうらしく、声が小さくなって最後には聞こえなくなる。
「……えっと、どういうことなのかな?」
「自分でも何を言ってるのかよくわからないんですけど……きっと矛盾《むじゅん》してるんです、私」
「なら、まあ無理して結論《けつろん》出さなくてもいいような気も」
「そうなんですけど……ですから私が言いたいのはですね……」
千夜子はそれでもなんとか自分の想《おも》いを言葉にしようと悪戦苦闘《くとう》してるようだった。
「よくわからないんです。たとえば、窪塚さんとのこととか」
「って言うと?」
「窪塚さんとケンカしてるわけですよね? なのに今日も有馬さんは学校に来てますよね?私、それが不思議な気がするんですよ。ツバメはそんなことを気にするような女じゃないって言うんですけど、私にはそう思えなくて。でもそう思うだけの理由ってのも無くて……」
「それは僕も気になってたんですよ。窪塚さんの。とに限《かぎ》らず、色々な噂《うわさ》があってかなり居心《いごこ》地が悪いんじゃないかって思うんだけど、それでも学校に来てるわけで。でも授業はあんまり真面目《まじめ》に受けてるようでもないし、友達がいるようにも見えないし、なんでそこまで学校に来てるのかなって……って、ちょっと論点違《ちが》うかもしれないですけど」
「……きっと考えてもわからないんですよね」
千夜子は健一が話してる間に自分の考えをまとめていたようだった。
「ツバメとは友達で仲よいのに、彼女が男の人を好きになる気持ちとか全然理解《りかい》できなかったんですよね、私。絹川君のことを好きになるまでは考えてもわからなかったんです。身近な人の気持ちだってわからないんだから、有馬さんのことなんてわかるはずないですよね」
「……それは確かにそうかもなあ」
健一は千夜子のその言葉に納得いくものはあった。
「それに、せっかく二人になったのに、こんな話してたらツバメに怒《おこ》られちゃいますよね」
「それもそうだ」
健一はそれで何か二人で話すのに適当《てきとう》な話題を探《さが》すが思いつかない。
「…………」
それは千夜子の方も一緒《いっしよ》らしく、二人は言うべき言葉もなく、お互《たが》いを見て力のない笑いを浮《う》かべるしかできなかった。
「……あの、夏休みってどうしてます?」
そんな中、やっと話題を見つけたのは千夜子の方だった。緊張《きんちょう》した顔で質問《しつもん》をする。
「夏休み?」
「どこか家族で旅行とかそういう予定あります?」
「今のところはって言うか、うちの両親は仕事大好きだから、そういうことはきっと予定してないですよ、きっと」
「そうですか」
千夜子はそう答えて、ホッとした様子で全身の力を抜《ぬ》く。
「えっと……それってどういう質問なんですか?」
「あ、いや、その……暇《ひま》なら一緒に海とかに行きませんか? って言おうと思ってたんです。あ、海じゃなくて山でも良いです。絹川君はどっちが好きですか? あ、その前に暇かどうか聞かないとですよね?」
「暇かどうかはさっき言ったけど」
「そ、そうですよね。じゃあ……何を聞くんでしたっけ?」
千夜子は本気でパニックになってるらしく、自分でももう何を言ってるのかわからなくなってるらしかった。
「えっと……暇だし、大海さんが誘《さそ》ってくれるなら、海でも山でも行きますよ」
それで健一はゆっくりと笑ってそんな返事をする。
「本当ですか?」
「そんなに驚《おどろ》くようなことじゃないと思うんですけど。僕は大海さんの彼氏なんだし、暇なんだから断《ことわ》る理由なんてないじゃないですか」
「そ、そうですよね……」
千夜子は言葉とは裏腹《うらはら》に真剣《しんけん》な顔をしてぎゅっと拳《こぶし》を握《にぎ》って、何度もうなずく。
「じゃあ考えておきます。詳しいことが決まったら、また相談させてください」
「相談って言い方も大げさな感じですけど」
「で、ですよね……えっとなんて言ったらいいんでしょ?」
「いや、改めて言い直す必要はないと思いますけど……とりあえずどこか行こうとか考えてたりするんですか?」
「本決まりじゃないんですけど、泊《と》まりで海に行こうかなって。家族で毎年行ってたんですけど、今年は行かないみたいなんですよ」
「泊まりで海ですかぁ。それは楽しみですね」
健一はどこの海なんだろうなあと思ったりしたが、千夜子は何かに気づいたらしく、また急にオロオロとし始める。
「あの、あのですね。悪くとらないで欲《ほ》しいんですけど……」
「何?」
「二人じゃなくて皆《みんな》でですから」
「あ、はい。家族で行ってたって話なのでなんとなく四人くらいで行くのかなあって勝手に思ってたんですけど……そういう認識《にんしき》でいいんですよね?」
「……はい。それで全然OKです」
千夜子はそう言いながらも、妙《みょう》にしょんぼりしているようでもあった。
「じゃあね、千夜子」
ツバメは健一に別れも告げずに帰った。そのことは少なからず千夜子を不安にさせ、そして健一はもっと不安になったのだ。
「鍵原、もしかして本当に僕と話さないつもりなのかな」
だから帰り道の二人の話題はどうしても鍵原ツバメの話になってしまう。千夜子以外の女のことを気にさせないためというツバメの意図はそういう意味ではちっとも達せられてない。
「……そういうつもりではないはずなんですけど」
千夜子はお昼の時ほどは、ツバメの行動に確信《かくしん》をもってはいないようだった。
「しかし急にこんなことになったら逆《ざゃく》に気になっちゃいますよね」
健一はそんな千夜子の代わりとでも言わんばかりに明るい口調でそれを話す。
「そうですよね……ツバメって思い込みが激《はげ》しいところがあるから、これがいいって思うとこだわっちゃうんですよね」
「……ま、そんな感じはする」
でなければどうしてクラスで彼女が『恋《こい》多き女』なんて言われてるかと言うところだ。
「それでその……形だけでもいいので、明日、ツバメに謝《あやま》ってくれませんか?」
「え?」
「ああなっちゃうと彼女、ムキになっちゃうんで、適当《てきとう》なところでこっちから折れないとどこまでもいっちゃうんですよ」
「……なるほど」
健一はきっとそういうことが何度となく二人の間であったんだろうなあと思う。
「ツバメも悪気はないし、別に絹川君のことを嫌《きら》ってたり本気で怒《おこ》ってたりするわけじゃないんです。ただ、そう言いだしたからそうするんだって……思い込んでるんです」
「でも明日会ったら、普通《ふつう》に話しかけてきたりしそうだけどなあ」
「それならそれでもいいんですけど。あ、絹川君が悪いってことは全然なくて、ただ……」
「向こうから謝りづらいからキッカケを作って欲しいってことでしょ?」
健一はそう言って笑ってみせる。千夜子はすぐにこっちが誤解《ごかい》したと不安になるようだから、早めにちゃんとわかってる態度《たいど》を見せてあげる方がいいのかなあと健一は思ったりした。
「は、はい」
「まあ、ケンカしてるわけじゃないし、大丈夫《だいじょうぶ》と思うけど」
「そうですけど……やっぱりツバメは私の友達だから」
「うん。じゃあ明日の状況次第《じようきょうしだい》だけど、まだ引きずっているようだったら、こっちから謝るようにしますよ」
「……すみません」
「謝るようなことじゃないですよ」
健一がそう言うともう公園が見えて来た。それは二人の別れの時間が近づいていることを意味している。健一はそれに気づいて、千夜子の方を改めて見る。
「……なんですか?」
それが気になったのか千夜子が尋ねてくる。
「今日は用事があるから、もうお別れなんだなって思ったら、もう少し大海さんを見ておきたいかなって」
「いきなりそういうことを言われると……何を言っていいのかわからないんですけど」
千夜子はそれでもじもじとし始め、顔を真っ赤にさせる。
「……すみません。変なこと言ったみたいで」
「いえ、変なことじゃなくて、すごく嬉《うれ》しいんです。ただ、いきなり言われたので驚《おどろ》いちゃっただけでですね……もしまた言いたいなら言ってくれてOKなんですけど……と言っても別に催促《さいそく》してるわけじゃなくて、謝るようなことじゃないという意味で、その……」
千夜子はさらに顔を赤くして、自分でももう何を言っているのかわからなくなっているようだった。
そうこうしているうちに二人は公園まで来て、別れることになる。
「今日は大海さんの優《やさ》しさが色々わかって良かつたです」
「……優しさですか」
「有馬さんのことを噂《うわさ》だけじゃなく判断《はんだん》しようとしたり、その有馬さんのことを悪く言う鍵原のことを思い込みが激しいだけって言うのって、優しさなんじゃないかなって」
「どうなんでしよ。私、人のことを悪く思うのが苦手なんです。そういうの居心地《いごこち》が悪くて。だから、ツバメには甘《あま》いとか言われちゃうんですよね」
「だったら甘くていいんじゃないですか。僕はそっちの方がいいと思います」
健一はそんなに真剣《しんけん》な意味で言ったわけではなかったが、千夜子は目を輝《かがや》かせて大きく何度もうなずいた。
「わかりました。私、どんどん甘くなります。そうですよね、甘い方がいいですよね」
健一はそんなことにも一生懸命《けんめい》な様子の千夜子をほほ笑《え》ましく感じ、そしてなぜだか羨《うらや》ましいなと思った。
自分が早かったのか、彼女が遅《おそ》かったのか。健一はそう考えてから、きっとどっちもだろうと結論づけた。
そうでなければ先に帰ったはずの冴子に追いつくはずもない。
「有馬さん」
朝の様子から見てきっと返事はないだろうなと思いながらも、健一は一応《いちおう》、彼女の名前を呼《よ》んでみる。
「…………」
そしてやはり返事はない。
それにしても彼女が向かっているのが幽霊《ゆうれい》マンションというのはちょっと意外な気がした。呼んでも返事をしないような相手と同じ場所に向かっているということ自体、健一にはしっくりこない。
そして冴子は今朝にも増《ま》して調子が悪そうだった。怪《あや》しい足取りでフラフラと歩いている。今にも倒《たお》れそうだが、病院に向かってるということでもなさそうだ。
「有馬さん、大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「…………」
無言。でもそれが返事なのかもしれなかった。健一はそれで冴子との会話を諦《あきら》め、少し歩く速度を上げる。冴子にしても無言で一緒《いっしょ》に歩くのは望んでいないだろうという気はした。
そして一足先に幽霊マンションについた健一は、本当に冴子の態度《たいど》についてまた考えてしまう。なぜ彼女は自分と会話をするのを拒《こば》んでいるのだろうか。
昨日はちゃんと話せていたと思うし、極度の人見知りというわけもない。
「やっぱり昨日、あの後、何かあったのかなあ……」
健一はそう結論して、その原因《げんいん》らしい人に会うことにする。一緒に買い物をする約束をした1304の住人、桑畑綾に。
「……本当に何も話してないよ。まだ顔もろくに見てないし」
綾は1301にいて、そして健一の疑問《ぎもん》にそう答えた。いつもの格好《かっこう》で机《つくえ》に座《すわ》り、今日はコンビニで買いだめしてきたらしいクッキーを食べている。
「じゃあ、八雲さんかな」
「それも無いと思う。管理人さんは、有馬さんのこと気づいてないみたいだし」
「……じゃあどういうことなんだろ?」
「多分だけど」
「なんですか?」
「健ちゃんが部屋に隠《かく》してた、レースクイーンのアダルトビデオを見つけてショックを受けたんだと思う」
「いや、だからレースクイーンは関係ないですから。そんなの持ってないし、隠してもいませんから、ショックを受けるはずもないんですけど。本当、そのネタは引っ張《ぱ》りすぎですから、もうやめてください」
「うーん。じゃあ他《ほか》の理由つてこと? なんだろう……健ちゃんの変わった趣味《しゅみ》って言うと」
「いや、別に僕《ぼく》の変わった趣味のせいだって決まったわけじゃないし……」
「じゃあ普通《ふつう》に、彼女がいるのに私とエッチしたことを聞いちゃって、そういう人なんだって思ったとか」
「……それはちょっと否定《ひてい》しがたいところですけど、あの時はまだ彼女がいなかったし」
「じゃあその後、彼女がいるのにお姉さんと――」
「わ―――! 何を言い出すんですか、何を!」
「いや、私の心当たりを並《なら》べてるだけ」
「だからってですね……そういうことは話さないでください」
「……そういうもの?」
「そういうものです」
健一はそう断《だん》じながらも、他に本当になんの理由があるのだろうと思ってしまう。まあ、話していないとはいえ、自分がそういうことをした人間である事実は変わらないわけで、それをなんとなく感じ取って嫌《いや》がられてるというようなことはあるのかもしれないとも思う。
「ね、健ちゃん、嫌《きら》われてるから話してくれないって思う必要もないんじゃない?」
「じゃあどんな理由で話してくれないんですか?」
「たとえば……たとえば……たとえば……」
綾は詰《つ》まったのか同じ言葉を繰り返すだけだった。
「……何か考えがあって言い出したんじゃないですか?」
「とりあえず言ってみただけでした。あはは」
「……はあ」
健一はそんな綾の言動に呆《あき》れながらも、やっぱり考えてもわからないんだろうなあと改めて感じる。綾もいい加減《かげん》でかなり変だからと言うのもあるが、もう一か月くらい付き合ってるのに本当に言動が読めない。それに比《くら》べれば、冴子のことを理解《りかい》できないのはすごく当たり前のような気にもなる。
「……もう少し様子を見るしかないのかなあ」
「それでいいんじゃないかな」
綾はそう言うとニッコリ笑って立ち上がる。
「でさ、話なら出かけながらしようよ。ね?」
「へ?」
綾に手を引かれ、健一はどうやらもう綾が出かける気になったらしいことを知る。
「って、その格好《かっこう》で行くんですか?」
健一は綾の格好を改めて見て、それはないだろうと思う。
綾はいつもと同じ格好なのである。白衣の下はパンツだけ。しかもかなりの巨乳《きょにゅう》。外は夏本番になろうかという勢《いきお》いでかなりの暑さ。綾が汗《あせ》をかきやすい体質《たいしつ》かどうかまでは知らないが、ちょっと考えるだけで色々とマズイことになりそうだ。
「服が無いから買いに行くんでしょ?」
なのに綾はそれに疑問を持っている健一が不思議みたいな顔をする。
「……とりあえず僕はまだ警察《けいさつ》のご厄介《やっかい》にはなりたくないです」
「なんで警察のご厄介になるの?」
「そんな格好で都市を徘徊《はいかい》してたら、捕《つか》まります」
「そうかなあ……逆《ぎゃく》に気にされない気がしてるんだけど」
「む。そう言われてみると……ってそういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうことなの?」
健一はそう言われて、なんだかいつものことだが、綾と話していると自分の常識《じょうしき》がむしろ間《ま》違《ちが》っているんじゃないかという不安に駆《か》られる。しかしここは断じて綾の言葉にしたがってはいけないと心を強く持つ。
「とにかく、もう少し普通の格好をしてください」
「どうやって? アダルトビデオを借りに行った時の格好でいいならそれでもいいけど」
「あれも……あれでちょっと問題がある気がするなあ……」
健一はそれでタンクトップにオーバーオールという姿《すがた》の時の綾を思い出す。
「だったら他に服なんてないし、このままということで」
「だからそれはダメです!」
「……そういうもの?」
「そういうものです」
「じゃあ……どうするの? また蛍子ちゃんに服をもらうの?」
「うーん。それもなんかマズそうなんだよなあ。よくわからないけど機嫌《きげん》悪いし……」
「それじゃ買い物に行けないし、撮影《さつえい》にこの格好で行くことになるけど」
「……だから僕が悪者みたいな目で見るのはやめてください」
健一はジロリと睨《にら》むように自分を見ている綾に呟《つぶや》く。それでなんか無いかなあと思って部屋を見渡《みわた》し、机《つくえ》の上にクッキーが散らばったままなのを見っける。
「それもそのままにしていくんですか?」
「……管理人さんに叱《しか》られるかな?」
「たぶん」
「じゃあ、片《かた》づける」
健一はそれで綾が片づけを始めたのを見ながら、どうしたものか考える。
「とりあえず適当《てきとう》な服を僕が買ってきますよ」
「健ちゃんが買ってくるの、私の服?」
「綾さんに買いに行かせるのは色々な問題がありそうだし……ちゃちゃっと行ってきますから、綾さんはその間に準備《じゅんび》しておいてください」
「準備って言ってもここの片づけ以外何かあるの?」
「……髪洗《かみあら》ったり化粧《けしょう》したりとかしないんですか?」
「お化粧なんてしたことないし、しないよ」
綾はそう一言って力なく笑うと、白衣のポケットに手を入れて健一にお金を渡す。
「じゃ、これでよろしく。私は片づけたら1304に行くから、健ちゃんもそっちに来てくれる?」
「ま、ここで着替《きが》えるわけにはいかないでしょうし、それで――」
そして健一は1301を出て、買い物に向かうことにする。
しかし健一の足は階段《かいだん》の途中《とちゅう》で止まった。
「……大丈夫《だいじょうぶ》、有馬さん?」
冴子がまた壁《かべ》によりかかって息を整えてる現場《げんば》に遭遇《そうぐう》したのだ。自分が綾と会って話してる間にまだここまでしか来てなかったとすると、やっぱり調子が悪いのだろうと健一は思う。
「そのうち慣《な》れると思う」
冴子がそんな返事をする。健一はそれでなんだかすごく久《ひさ》しぶりに冴子の声を聞いた気がした。自分で話しかけたのに返事が返ってきたのが意外で言葉に詰《つ》まってしまう。
「心配いらないから」
それを冴子は自分の言葉を信用しなかったのかと思ったらしい。別の言葉で同じようなことを健一に伝えようとする。
「そう。ならいいんだけど……」
健一はそうは言いながら、冴子がいつにもまして青い顔をしているのに気づく。息が荒《あら》いのは疲労《ひろう》のためだけじゃないんじゃないかと不安になる。
「絹川君」
そんな健一に冴子が真剣《しんけん》な顔をして彼の名前を呼《よ》ぶ。
「はい」
「外では私には話しかけない方がいいと思う」
「……なんで?」
「話しかけられたのに無視《むし》されるなんて嫌《いや》でしょ?」
「それはそう思うけど……」
健一はしかしそれは自分の知りたい答えではないなと感じる。そりゃ無視されるのは気分が良くないが、知りたかったのは、なんで無視するかの方なのだ。しかしそれに関しては聞いても教えてくれないのだろうという気がした。
冴子の態度《たいど》がまた硬《かた》くなっている。健一はそれを感じて、こっちの疑問《ざもん》に冴子が気づいていないのではなく、敢《あ》えて避《さ》けたのだろうと思う。
「じゃあ1303でなら話しかけてもいいのかな?」
だから健一は質問《しつもん》の方向を変える。
「……絹川君が私と話したいなら」
冴子はやはり硬い態度のままそう答えた。
「それよりも絹川君」
「なに?」
「何か用事があったんじゃないの? しかも急ぎの」
「……あ」
健一は言われて、そう一言えば綾の服を買いに行く途中だと思い出す。
「じゃ、また後で」
それで健一は冴子に別れを告げて、走り出す。冴子も心配して欲しくなさそうだし、今はそうした方がいいのだろう。健一はそう感じた。
「……えへへ」
「なんですか、デレデレして」
服を買って戻《もど》ってきてから冴子に会う時間はなかった。健一が買ってきた服を着た綾がすぐにでも出かけようと言って聞かなかったからだ。
健一が買ってきたのは、あまりサイズが問題になりそうもない服だった。綾の正確《せいかく》なサイズなど健一にはわからない。
なのでグレーのキヤミソールワンピースの上に、マリンブルーの大きめのTシャツ。どっちも少し丈《たけ》が余《あま》るかもと思っていたが、綾が着ると胸《むね》のせいなのか背《せ》が高いせいなのか、そんなでもなかった。
「ほら、デートみたいだし。健ちゃんが買ってきてくれた服ってのもポイント高いよね」
「……なんのポイントですか」
「なんだろ。私的なハッピー指数みたいな感じ?」
「感じ?――とか言われてもよくわからないんですけども」
健一はそう言いながら駅への道を急ぐ。地元だと誰《だれ》かに見られると具合が悪いかもなあという思いもあったが、何より綾が例の寄《よ》り道を始めると本当にいつまで経《た》っても目的地にたどり着けないからだ。
「ほら、よそ見しないでくださいよ」
油断《ゆだん》するとどこかに行きそうな綾をつなぎ止めるように健一は目配せをする。
「だって、こっち方面に来たの久しぶりだから気になって」
「だから気にしないでください。今日の目的は何かわかってます?」
「私の服を買うこと」
「そうです。だからスケッチブックだって持ってくる必要なかったと思うんですけど」
「いや、それがこれは持ってきておいた方がいいんだな、これが」
「……もう寄り道する気満々ですか」
「そうじゃなくてね……無ければその辺の物に描いちゃうから。シャーペンが無かった時なんか私、指噛《か》みきって血で描いてたんだよね、気づくと」
「そういうことはする前に気づいてください」
「私、描こうと思ったらもうそれしか頭に無くなっちゃうから……」
綾はそれで少し考えたようなことをして、それから健一の方を見て質問をする。
「ね、健ちゃん、腕組《うでく》んでもいい?」
「腕組むって……僕《ぼく》は彼女ともそんなことしてないんですけど、一体、綾さんは僕のなんだって言うんですか?」
「え? 健ちゃんの……」
綾はそこで小首をかしげて、少し考えてまた口を開く。
「初めての女?」
「ぶっ!」
「あれ、間違《まちが》ってた?」
「間違ってはいないですけど、天下の往来《おうらい》でそんなこと言わないでください」
「……そういうもの?」
「そういうものです」
「そっかあ、良い考えだと思ったんだけどなあ」
「全く脈絡《みゃくらく》がわからなくて、良いとか悪いとか以前の問題なんですけど、僕からすると」
「だからね、私と健ちゃんが腕を組むでしょ?」
「はい」
「そうしたら私は健ちゃんをずっと見てるだけで目的地に着けるかなって」
「……そりゃまた随分《ずいぶん》と大胆《だいたん》な発想ですね。色々な意味で」
健一は呆《あき》れた口調で言ってはみたものの、それなりに効果《こうか》はあるかなあと思う。しかし地元で綾と腕を組んで歩いていたりすると、どこの誰が見てるともしれないので危険《きけん》な気もした。
そのことを誰かに問い詰《つ》められた時に、「ああしておかないと迷子《まいご》になるんです」などと本当のことを言っても信じてもらえそうもない。
「……やっぱり却下《きやっか》」
健一がそう結論《けつろん》した時、すでに綾の姿《すがた》が周りから消えていた。
「綾さん!?」
どうやら考えてる間にどこかに行ってしまったらしい。
「本当に外に出れない人だなあ……」
健一は力なく呟《つぶや》くと、まだそう遠くには行ってないはずの綾の姿を探《さが》した。
結局、目的地である神宿《しんじゅく》につくまでに二時間かかった。一人なら駅までかかっても十分。さらに電車に乗って二〜三十分の道のりである。三回、綾の姿を見失ったのが敗因《はんいん》だろう。
せめてもの救いは綾があまり都会には興味《きょうみ》を持たないことだった。神宿駅前の繁華街《はんかがい》では綾が心魅《ひ》かれるようなものはあまり無いらしい。
そして、きらびやかな店の中に入ってしまえば、さらにそういうものは少なく健一は比較《ひかく》的安心した気持ちになれた。少なくとも普通《ふつう》の洋服を買う店のうちは。
「……下着買うのまで付き合わせないでくださいよ」
健一は明らかに場違いな自分を意識《いしき》せずにはいられなかった。しかしその一方で綾からあまり離《はな》れると気づくとどこかに消えたりしそうという不安もある。
ちょうど会社が終わった時間なのかOLたちがけっこうな数いるのが見える。彼女たちは下着を物色しながら、なぜかその場にいる学生服姿の少年――絹川健一――の様子を窺《うかが》っている。
「ねね、健ちゃん、健ちゃん」
「……だから名前を呼《よ》ばないでください」
健一はいつぞやと同じパターンだなと感じる。あの時はアダルトビデオで男たちに囲まれていて、実際《じっさい》のところ犯罪《はんざい》っぽい感じだった。しかし今は犯罪ではないのだろうが……逃《に》げ出したい気持ちは遥《はる》かに強い。
「ごめん、ごめん。でさ、健ちゃん」
「だから……名前は呼ばないでください」
「じゃあ、なんて呼んだらいいの?」
「呼ばないでいいですから、早いとこ選んで次の店に行きましようよ」
「そんなこと言われても……」
「僕の話のどこに問題があるんですか?」
「健ちゃんは何色がいいのか聞きたいんだけど、どうやって聞けばいいのかなって」
「また呼ぶし……というか僕の色の趣味《しゅみ》なんて関係ないじゃないですか。綾さんが好きな色を買えばいいんです。それで終わりです」
「だから健ちゃんの好きな色を聞いてるんだってば」
「……僕の好きな色なんて関係ないです」
「そうかなあ……まあでも脱《ぬ》がしちやえば色なんて関係ないか」
「……あのですね。なんでそういう話になるんですか?」
「だって服とか下着つて自分を見る相手のためのものでしょ? 自分の姿なんて鏡くらいでしか見れないんだし」
「それは、そうかもしれないですね」
「だったら健ちゃんが喜ぶ色の方がいいじゃない? ね?」
「そう言われると違う気がするんだよなあ。なんでだろう……」
健一はまた自分の常識《じょうしき》が怪《あや》しくなるのを感じる。
「で、何色がいいの?」
「……だから何色でもいいですよ」
「そんなこと言わず、正直に教えてよ」
「下着の色にうるさい高校生ってのもどうかなあ……って思うんですけど、正直」
健一はそう呟《つぶや》きながら、またいつぞやと同じ展開《てんかい》だなあと思う。健一の好みのアダルトビデオを借りるまで帰らないと駄々《だだ》をこねられた時、結局、綾は最後まで折れようとしなかった。今回もきっとそうなるに違《ちが》いない。
つまり長引けば長引くほど、自分が不利ということである。
「じゃ、じゃあ黒で」
健一は特に考えもなしに目についた色を口にする。
「黒!? 黒なの? じゃあ黒にしようっと。そっか黒かあ」
「……別にそんなに好きじゃないですから、全部、黒にしたりしなくていいですよ」
「えー! じゃあ他《ほか》は何色がいいの?」
「そんなの自分で考えてください」
「……だったら全部黒にする」
口をとがらせて綾がすねたようにそう告げる。なんだか急に子供《こども》っぽく見える。そして怒《おこ》ったように尋《たず》ねて来る。
「黒、好きなんだよね、健ちゃんは?」
「…‥た、多分」
その剣幕《けんまく》に押《お》されて健一はそんな返事をする。しかしそれでは綾は納得《なっとく》してはくれなかったようだ。
「たぶんなの?」
「いや、かなり、おそらく、きっと好きです」
「じゃ、やっぱり黒にしよう」
綾はニッコリ笑うと店員の方へと歩いていく。なにやら相談事を始めたようだったが、きっと自分が聞くような話ではないのだろうと、健一はそれを遠目に見ているだけにしょうと心に誓《ちか》った。
「しっかし、随分《ずいぶん》と買い込《こ》みましたね……」
両手いっぱいの荷物のかさを感じながら健一はエスカレーターを降《お》りていく。綾はそんな健一より一つ高い段《だん》に立ってニコニコとしている。
荷物の量を考えると綾は普通の格好《かっこう》をする気になったということらしい。あまり吟味《ぎんみ》するのが面倒《めんどう》くさいのでお金を気にせず買いまくっただけかもしれないが。
「まあ健ちゃんも何度もこんなことするの面倒でしょ?」
「そうは言っても、季節ごとに服ってのは替えるものなんですよ」
健一はもちろん気づいてるだろうと思って呟くが、綾は本気で驚《おどろ》いている様子を見せる。
「……あ、そうか」
「そうかじゃなくて……」
「でもまあ私、あんまり暑さ、寒さが気にならない方だから」
「そう言われてもお腹《なか》が減《へ》らないから食べずに倒《たお》れちゃう人でしょ、綾さんは」
「ま、そうなんだけど。そんなに出かけないし、マンションの中だけならあんまり問題はないんじゃないかな」
「……ま、それもそうですね」
そうこうする前にエスカレーターが終わり、さらに下の階に向けて降りようと乗り換《か》えようとする。しかし綾がそれについて来てないことに気づく。
「まだ何か買うんですか?」
「眼鏡《めがね》はどうかなあ」
「眼鏡?」
「私ってほら、目が悪いでしょ? だから眼鏡かけた方がいいかなって」
「……今どき、眼鏡なんて普通かけないですよ。視力《しりょく》の矯正《きょうせい》ならコンタクトの方がいいんじゃないですか?」
「うーん、コンタクトはダメだと思うんだよね」
「なんでですか?」
何か彼女の美的センスにそぐわないのだろうかと思ったりするが、どうも違うらしい。
「私、そのまま寝《ね》ちゃったりする人だから、コンタクトは外し忘《わす》れるでしょ。それって怖《こわ》いじゃない、やっぱり」
「……なるほど、確《たし》かにそれはダメかもしれませんね」
「でも、健ちゃんは眼鏡は嫌《きら》いなんだ?」
「いや、嫌いってことはないですけど……最近は皆《みんな》、コンタクトなんじゃないかなって」
「じゃ眼鏡も買おう」
「……なんかコンビニでポテトチップも買おうくらいの気軽さですね」
「うん。もうついでだし、欲しいものはとりあえず全部買っておこうかなって」
そう言って綾はそのままエスカレーター近くの眼鏡屋へと向かう。
しかし眼鏡を買うという決断《けつだん》に比《くら》べると、どの眼鏡を買うかという決断には随分と時間がかかった気がする。というか綾は例のごとく決断しなかったわけで、健一が決めるのを待っていたというのが正直なところなわけであるが。
「……眼鏡はすぐかけるのに、服は着替《きが》えないんですね」
地下へと続くエスカレーターに乗りながら、健一はそんな疑問《ぎもん》を口にする。自分で選んだ服なのであまり文句《もんく》は言いたくないが、正直、あまりセンスがいいとは思えなかった。パンツ白衣よりはマシだろうとサイズの合いそうな安いのを見繕《みつくろ》っただけだからだ。
それに比べればずっと高価《こうか》で、そして似合《にあ》ってそうな服を色々と買い込んだのに綾は相変わらずの格好でいた。行きと違《ちが》うのはきっとブラジャーと眼鏡だけだ。
「お気に入りの服を着替える必要はないと思うけどな」
「……それ、気に入ってたんですか?」
「うん」
「だったらこんなに服を買わなくても良かったような……」
「この服、健ちゃんはあんまり気に入ってなかったみたいだったから、これは私用で、買ったのは健ちゃん用ってことにしようかなって」
「……意味がわからないんですけど」
「だから私が着て嬉《うれ》しいのがこれで、健ちゃんが見て嬉しいのが……そっち」
綾はそう言って健一が抱《かか》えている荷物を指差す。
「なるほど……よくはわかりませんけど、分類はわかりました」
健一はそう言ってエスカレーターが終わるのを感じる。
後は地下道を通って駅まで戻《もど》ればいいだけ――そう思った時、また綾は別のところに興味《きょうみ》を覚えたようだった。
「……水着かあ」
地下にはこれからの季節に向けて新作の水着を展示《てんじ》、販売《はんばい》してるスペースが用意されていた。
カラフルなそして布《ぬの》の面積の少なそうな水着が無数に並《なら》んでいる。明らかに大人向けのデザインのものばかりで、健一は自分のクラスメイトたちには到底《とうてい》似合わなそうだななんてことを思う。でも綾がフラフラと売り場の方へと近づいていくのが見えた。
「……綾さん、水着いるんですか?」
その言葉で綾が立ち止まって振《ふ》り返る。
「うーん。そう言われるといらないかな。海とかプールとか行かないよねえ、私」
綾はそれであははと笑い、興味を失ったようだった。しかし −。
「あ、あれ、あれ見て、健ちゃん!」
「……だから名前を呼《よ》ばないでください」
「そう言う健ちゃんだって私のこと呼んだじゃない」
「ま、それはいいとして、何ですか、一体?」
健一がそう尋《たず》ねると綾は急にタカタカと素早《すばや》い足取りで水着売り場の方へと歩き出す。それを荷物に振り回されながら健一は追いかける。
「ど、どこ行くんですか?」
「あれ、あれだよ、健ちゃん」
十分に近づいて疑《うたが》いの余地《よち》のない距離《きょり》まできた綾が指を差したのは、上下のセットになっている一つの水着だった。青とシルバーのテカテカした布地で作られたこの中では比較《ひかく》的、露出《ろしゅつ》度の低いデザインのものだ。下はパレオというよりはスカートのようになっていて……。
「だからですね……」
健一は綾の言わんとすることがわかり、思いっきり脱力《だつりょく》するのを感じる。要するにこの水着はレースクイーンのコスチュームっぽかったのである。というかまさにそれを意識《いしき》したものだった。だから健一が気に入るだろうと綾は思つたに違いない。
「色が好みじゃない?」
「……それ以前に何度も言ってますが、僕《ぼく》は別にレースクイーンは好きじゃないですから」
「そうなの? 好きそうな顔して見てたじゃない、ビデオ」
「だからそういう世間が誤解《ごかい》するようなことを言うのは止《や》めてください」
「じゃあ、こういうの好きじゃないの?」
「……まあアリかナシかと言われればアリですけど、そういうことじゃなくてですね」
「アリなら買おうっと」
「だからそういう話じやないって部分に注目して欲しいんですけど……」
そうは言ってみるが綾はやっぱり聞いてはいないようだった。
「後で買っておけば良かったなあって思うのも嫌《いや》だし、念のため買っておくということで」
「だから……というか念のためってなんですか? 念のためって?」
健一はもう何を言っても無駄《むだ》なんだろうなあと、綾が店員を呼ぶのを恨《うら》めしく見ていた。
「ね、健ちゃん、違う色のもあるらしいけど、これでいいのかな?」
そしてやっぱり綾は自分のペースでことを運んでいる。
「どう、健ちゃん?」
水着を自分の胸《むね》に当てて、健一の答えを綾は待っていた。
帰り道はタクシーに乗り込んだ。電車が混《こ》む時間なので、綾が乗るのを嫌がったからだ。健一も大きな荷物を抱えて乗り込むのに気が引けたこともあって、それに一応《いちおう》は賛同《さんどう》したのだがやっぱり勿体《もったい》ないなあという気にはなってしまう。
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫。私、めったにお金使わない人だし、こういう時くらいしか使わないから」
綾はそんな健一とはまったく違う意見だった、お目当てのものをちゃんと買えたということもあってご機嫌《きげん》の様子だ。
「……まあ、今日使ったお金からすれば大した金額《きんがく》にはならないかもしれませんけど」
健一は呟《つぶや》きながら、本当、いくらお金を使ったんだろうと思う。さすがに百万円はいかないだろうが、十万単位で使っていたのは疑いがない。
「ダメかな?」
「まあ、綾さんのお金だから好きに使ってもいいとは思いますけど、それが普通《ふつう》じゃないってことは理解した方がいい気はします」
「ふむ。普通じゃないか……じゃあ荷物が無い時は電車に乗るようにする」
「そうしてください」
健一はなんだか妙《みょう》に聞き分けがいいなあと感じながら、改めて本当に色々買ったなあと今日のことを思い返す。
「そう言えば……鞄《かばん》とか買わなかったですけど良かったんですか?」
「私の荷物なんてスケッチブックくらいだし」
綾はだから必要ないんじゃないかと思ってるようだ。
「まあ、本当にそうならいいんですけど……」
「それにブランド物のバッグなら多分、部屋のどこかにあると思うんだ」
「それって……どういう意味ですか?」
「リトンだかミトンだか、そんな名前のバッグのデザインに協力したから見本が送られてきたんだよ」
綾のその言葉に健一は以前、千夜子の家でそんな話を聞いたのを思い出す。
「ウィトンですよ、ウィトン」
「ああ、そう。そのウィトン」
「そっか……綾さんってそういうことしてる人なんですよねえ。やっぱりスゴイ人なんですね」
「すごいのかなあ。私、そっち方面には疎《うと》いからよくわからないんだけど、健ちゃんはそういうの詳《くわ》しい方なの?」
「いや、全然、詳しくないです。ウィトンのことは彼女から聞いたんですよ。今年、ウィトンコレクションで日本人のアーティストとコラボレーションしたシリーズがあって、その日本人って言うのが綾さんだって」
健一は真剣《しんけん》に話をするのだが、綾の興味《きょうみ》はなんだかずれているようだった。
「日本人のアーティストってことは……ウィトンって外国の人?」
「……いや、そんな名前の日本人はきっといないと思うんですけど。フランスの有名なブランドですよ。ロイ・ウィトンって一言ったら、世界中の人が知ってますよ」
「へえ。そっか」
「そっかって他人事《ひとごと》みたいに……」
「だって私は錦織《にしきおり》さんに頼《たの》まれて『こんな感じかなあ』 って絵を描《か》いて送っただけだし」
「……誰《だれ》ですか、錦織さんって」
「私の……マネージャーというかプロデューサーというか、とにかく私の作った作品を買ってくれる人」
「なるほど、そんな人がいたんですか」
言われてみれば綾が自分で自分の作品をどうにかできるはずもないし、そういう人がいないとどうにもならないだろうなあという気はする。
「いつもは勝手に思いついたのを作って送り付けてるだけなんだけど、あの時はいくつかバッグ渡《わた》されて、なんか考えてくれって言われたから考えたんだよ」
「それでそれが世界中に売り出されちゃったわけですか?」
「みたいだねえ。外にあんまり出ないから私はよくわからないんだけど。あはは」
綾がそう言って笑うので、健一は本当、興味がないんだなあと思うしかない。綾にとっては恩のある人が頼んできたのでそうしただけでその後のことはどうでもいいのだろう。
「健ちゃん、欲しい?」
「……え?」
「そのバッグ。どうせ私、使わないし、欲しいならあげるよー」
「いや、ああいうのって女性《じょせい》向けですよね?」
「まあ、健ちゃんが使うとは思ってないけど、誰かにあげたら喜ばれるかもよ。蛍子ちゃんは……どうかわからないけど、たとえば健ちゃんの彼女とかそういうの欲しい人?」
「知ってたから興味はあるんでしょうけど……」
健一はそれでちょっと心が揺《ゆ》れるのを感じる。でも人にもらったものをあげるというのも抵《てい》抗《こう》があったし、それに申し訳《わけ》ないが千夜子にはそういうブランドバッグとかが似合うとはあまり思えなかった。
「やっぱりいらないです。彼女へのプレゼントなら自分でなんとかします」
「……そっか。そういうの健ちゃんらしいね」
綾は自分の申し出が断《ことわ》られたことに少し悲しい顔をした。それが気になり健一は尋《たず》ねる。
「それってどの辺のことを指して言ってるんですか?」
「もっと楽に気持ち良くなれるのに、それを選ばないところ」
「……それって褒め言葉ですよね?」
「うん。そうだよ」
綾はなんでそんなことを聞くのかという顔をして健一を見る。そして急におかしそうに笑い始めた。それはきっとからかっているというよりは、当惑《とうわく》した健一が面白《おもしろ》かったということだろう。
そんな当たり前のことをなんで聞くの?――綾の笑顔《えがお》がそう告げているような気がした。
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第六話 私を好きにならないでと彼女は言った (後編)
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その時、大きな荷物を抱《かか》えて幽霊《ゆうれい》マンションの階段《かいだん》を上《あが》っているのは健一《けんいち》と綾《あや》だけではなかったようだった。
「…………ふぅ」
四階を過《す》ぎたところで健一は他の十三階の住人を発見する。
八雲刻也《やくもときや》。綾は彼のことを「管理人さん」と呼《よ》んでいるが、別に彼はそんな役割《やくわり》を与《あた》えられた人間ではなく、単にだらしない綾にあれこれと共同生活のルールを諭《さと》すような生真面目《きまじめ》な性《せい》格《かく》というだけである。そして彼は健一のクラスメイトでもあり、学校では入る高校を間違《まちが》えてると言われるほどの優等生《ゆうとうせい》として知られていた。
「八雲さん、なんですか、これ?」
そんな彼が抱えて登っているのはどうやら洗濯機《せんたくき》のようだった。しかも今どき珍《めずら》しい二槽式《にそうしき》の全自動ではないタイプの。よく見ると水色の外装《がいそう》はけっこう薄汚《うすよご》れていて、それが普通《ふつう》に古いものだろうというのがわかる。
「洗濯機だが」
健一の疑問《ぎもん》に、真面目な顔で刻也がそう答える。
「それくらいは見ればわかるんですけど」
健一はどこまで本気なんだろうと思いながら、力なく笑う。
「コインランドリーでは不経済《ふけいざい》なので『沼《ぬま》』から拾ってきたのだ」
「沼?」
「近所に粗大《そだい》ごみの不法投棄《とうき》をされている場所があって、そこから有用なものを見つける者たちはそこを『沼』と呼んでいるのだよ」
「……それは全然知りませんでした」
健一はなんだかちょっと意外だなという気がしてしまった。そういうものがあったりすることもそうだが、刻也はもっとこう勉強一筋《ひとすじ》でそういうことには全く興味《きょうみ》が無いイメージだったからだ。
「運ぶの手伝いましようか?」
健一はそれでそんなことを提案《ていあん》するが、刻也は少し顔をしかめたようだった。
「今の君にそんな余裕《よゆう》があるようにはとても思えないが」
「……あ、そうですよね」
言われて健一は自分が綾の買い物を抱えていることを思い出す。
「じゃ、ちょっと待っててください。これ、置いてきますから」
「別にそこまでしてくれなくて構《かま》わないのだが」
「二人で運んだ方が早いし、楽ですよ。本当にすぐ戻《もど》ってきますから」
健一はそう言って階段を駆《か》け登ろうとするが、さっきからどうしたものかと思っていたらしい綾を発見して足が止まる。
「……綾さんは待ってなくていいですから」
「そうじゃないかなあって思ってたんだけどね。あはは」
綾はそう言うと刻也に手を振《ふ》って、健一に続いて階段《かいだん》を上ることにしたようだった。
「けっこう重いですね」
健一は洗濯機《せんたくき》の予想以上の重さに、素直《すなお》にそんな感想を漏《も》らした。これを途中《とちゅう》までとはいえ、一人で持ち上げて来たのだから刻也は体力がある方なのかもしれないなんてことも思う。
「マンションの前まではゲンさんが台車で運んでくれたんだが、この階段は自分で運ぶしかないからな」
しかし当の刻也はと言えば、そんなことはおくびにも出さず淡々《たんたん》と階段を上っていく。
「ゲンさん?」
「『沼』に集まる仲間の一人だよ。本名は私も知らない」
「若《わか》い人なんですか?」
「いや、おそらく三十後半から四十前半くらいと思う」
「……知らないんですか?」
「お互《たが》いの事情《じじょう》は詮索《せんさく》しないというのが暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》なのだよ。他《ほか》にもそういうルールが色々あるのだ。私も最初は捨ててあるものだから自由にしてしまっていいのだろうと思っていたが、そのせいでゲンさんに叱《しか》られ、教えられた」
「じゃあゲンさんは八雲さんの師匠《ししょう》なんですね」
「師匠……なるほど確《たし》かにその通りだな。そう言う風に考えたことはなかったが、言われてみるとその通りだ」
なんだか妙《みょう》に感心した物言いで刻也が呟《つぶや》くのが聞こえる。
「……何か変なこと言いました?」
「いや、君の言葉は非常《ひじょう》に鋭《するど》いと思っただけだ。私自身、ゲンさんをどう捕《と》らえていいのかわからずにいたのだが、さっきの君の言葉で『師匠』であることに気づかされた」
「なるほど。それは何よりです」
そうは言ってみるが、何をそんなに刻也が感心しているのかは健一にはよくわからなかった。なんとなく言った言葉がどうやら刻也の心にヒットしたらしい。
「……この辺で一休みするかね」
十階を過ぎた辺りで、刻也がそれを提案して踊《おど》り場で二人は休憩《きゅうけい》することにする。
「そうですね……」
健一は洗濯機を置くと、ふうと大きな息を吐く。そして刻也にならって汚《よご》れてなさそうなところを選んで階段に腰掛《こしか》ける。
「実を言うとけっこう前からかなりしんどかったんですよ」
そして笑いながら刻也にそんなことを話す。
「実は私もだ」
刻也も息を整えながら、そう言って笑う。それを見て健一はホッとした気分になる。
「そうだったんですか? 自分から手伝うと言った手前、もうダメですって言いづらくて黙《だま》ってたんですけど」
「私は一人で大丈夫《だいじょうぶ》と言ってしまったので、先に音《ね》を上げるわけにはいかないと思っていた」
刻也がそんなことを言うので健一は笑ってしまった。それで刻也も釣《つ》られて笑う。
「……じゃあお互い、無駄《むだ》な意地を張《は》ってたってことですか」
「そういうことになるな」
健一はそう言って笑っている刻也を見て、そう言えばこんな風に彼と話すのは初めてだなと気づく。
「……なにかね? 油でも顔についてるのかね?」
それでじっと見ていたせいだろうか、刻也が顔をしかめて尋《たず》ねてきた。
「いや、八雲さんが笑ったところを初めて見たなって思ってただけです」
「そうか。そうかもしれないな。私はさっき、綾さんがちゃんと服を着てるのを見て驚《おどろ》いてたりしたんだが、それと似《に》たようなものだろうか」
「きっとそんな感じです」
健一は刻也の妙なたとえ話にまた笑ってしまう。
「君は本当にいつも楽しそうだな」
そんな健一を刻也がそう評《ひょう》する。
「……ですかね?」
「まあ、一度、ひどく落ち込《こ》んでいるのを見たことがあるので、ただの印象でしかないことはわかってるのだが、やはりそう思わずにはいられないものが君にはあるよ」
「そういう話、昨日、綾さんとちょうどしたんですよね。僕《ぼく》から見ると、綾さんはいつも楽しそうだって。そう言ったら、自分だって楽しいことばかりじゃないって言われたんですよね。きっとそういう状況《じょうきょう》なんですよね、これ」
「そうだと思う。私には綾さんがいつも楽しそうというのは理解に苦しむが、それこそがこの話の重要なところのようにも感じる」
「……どういう意味ですか?」
「君も私が思っているほど、楽観的な人間ではないのだろうと思い直したということだ」
「……どうですかね。自分でもけっこう楽観的な人間って気はしてますけど」
健一は生真面目《きまじめ》な態度《たいど》の刻也にそう言って笑いかける。刻也のことをそんなに知ってるわけではないが、きっと彼に比《くら》べれば自分は何にも考えずに適当《てきとう》に生きている人間なんだろうと思う。そしてそれを『楽観的』という言葉で刻也が表現《ひょうげん》したことに関しては特に文句《もんく》を言う気にはなれなかった。
それが伝わったのか、刻也はまた神妙な顔つきに戻《もど》ったようだった。
「これは前にも言ったことのように思うが」
「はい。なんですか?」
「君はこんなことをしていて楽しいかね?」
「こんなことって言うのは八雲さんの手伝いをするってことですか?」
「今回に限《かぎ》るならそうなるが、もう少し広い意味で取ってくれても構《かま》わない」
刻也はまた少し顔をしかめたようだった。何か言いづらいことを口にしたということだろうか。健一はそんなことを思いながら、刻也の質問《しつもん》の答えを口にする。
「楽しいですよ」
「……そう言うとは思っていたが、良ければ理由を聞かせて欲《ほ》しい」
「理由ですか……理由、理由……」
「いや思いつかないなら無理に答えてくれなくてけっこうだ」
「楽しいって言うのとはちょっと違《ちが》うかもしれませんけど……誰《だれ》かの役に立ってるって思えるのは僕にとっては、けっこう心躍《おど》る状況なんですよね」
「なるほど。そういうことか」
「それは僕が勝手に思っているだけの錯覚《さっかく》かもしれませんけど、それで僕が楽しいならそれでもいいかななんて思うんですよね」
健一は自分でそう言いながら、自分がそんなことを考えていたのかと驚いたりもした。しかしそれは今まで気づかなかったというだけで、なるほど確《たし》かにと納得《なっとく》のできる内容《ないよう》だった。
「錯覚などではないよ」
刻也が立ち上がり、また洗濯機の方へと向かう。
「え?」
「今回……いや、少なくとも私に関してのことに限って言えば、君のその心情《しんじょう》は錯覚などではなく正しいものだと断言《だんげん》できる」
「えっと、それって……簡単《かんたん》に言うとどういう意味なんでしょう?」
健一は難解《なんかい》な刻也の物言いに思わず考えてしまうが、刻也もそう尋ねられてどう言えばいいのか考えてしまったようだった。眼鏡《めがね》をかけ直し、考えをまとめようとしてるのが見える。
「簡単に言うと……私は本当に君に感謝《かんしや》してるということだ」
「それでも結構難《けっこうむずか》しい感じがしますけど、僕がそう思っててもいいということですよね?」
健一は刻也の言葉をそう解釈《かいしゃく》することにする。
「ま、そういうことだろう」
そしてそれはそんなに間違っていたわけではなかったらしく、刻也はすぐに返事をした。
「というわけで、申し訳《わけ》ないがもう少しだけ協力してくれないだろうか?」
しかし刻也はやっぱり相変わらずの調子でそう確認《かくにん》するのだった。
「……ですね」.
健一はでもそれは彼の口調がそうなだけで、きっと自分の言いたいことは伝わったんじゃないかなと思うことにする。
「ところで、これどうするんですか?」
「修理《しゅうり》して使おうと思っている。肝心《かんじん》な部分は応急処置《おうきゅうしよち》で動くのを確認しているので、これで洗濯《せんたく》にかかる費用がかなり削減《さくげん》できるはずだ」
「洗濯にかかる費用なんて、考えたこともなかったなあ」
健一は自分と刻也の金銭《きんせん》感覚の違いを感じ、そんなことを呟《つぶや》く。
「私も一人で暮らそうと思うまでは考えたこともなかった。自分の服が洗濯されているという事実と、そこには洗濯にかかる費用と手間とがあるという事実が繋《つな》がっていたのだ」
「うちは親が出かけっぱなしなんで、洗濯をする手間はわかってるつもりでしたけど、お金は親に全部出してもらってますから、そっちはちょっとピンと来ないですね」
「私もバイトをしてお金を稼《かせ》いでいると言っても生活費だけだよ。学費は親に払《はら》ってもらっているし、家賃《やちん》、光熱費はここに住むことで払わずに済《す》ませている。自立を目指しているとは言ってもまだまだ先は長そうだと思うこの頃《ごろ》だよ」
「でも、僕からするとずっと考えてますよ。いや、僕なんかと比べてもしょうがないんでしょうけども」
「私からすれば君の方が自立に近い位置にいるように見えるが」
「……そうですか?」
「曖昧《あいまい》な言い方で申し訳ないが、君には生活力とでも言うべきものがあるように思う」
「……生活力ですか」
「状況《じょうきよう》を上手《うま》く乗り切る能力《のうりょく》というのだろうか……いや、よくわからない話をしてしまったようだ。すまないが、忘《わす》れてくれ」
「……はあ」
健一はそうは言われてもどういう意味なのだろうかと考えてしまう。でも健一にはとりあえず有り物の材料で適当な料理を作れることとかくらいしか思いつかなかった。
「絹川《きぬがわ》君」
そんな健一の名前を刻也が改めて呼《よ》ぶのが聞こえた。
「は、はい?」
「もう一つ、頼《たの》まれてはくれないだろうか?」
「なんでしよ? 僕にできることであれば構《かま》いませんけど」
「今日の夕食を作って欲しいのだ」
「いいですよ。そのくらい、いつものことじゃないですか」
「私の分だけではなく、君の分や綾さんの分もだ。洗濯機のおかげで浮《う》いたお金で、遅《おく》ればせながらではあるが君の歓迎会《かんげいかい》をしたいのだ」
「僕の歓迎会ですか?」
「君に準備《じゅんび》させて君の歓迎会というのもおかしな話だが、私や綾さんがするよりは君の満足の行くものになるんじゃないかと思う。予算は私が出すので、買い出しや料理は君に任《まか》せてもいいだろうか?」
「それは全然構いませんけど……一つお願いがあるんですが、いいですか?」
「なんだね?」
「有馬《ありま》さんも誘《さそ》っていいですか?」
「有馬さん……というのは有馬冴子《さえこ》のことか? 彼女にどういう関係があるのだ?」
「理由はよくわからないんですけど昨日から1303に住んでるんです」
「1303に……有馬冴子が?」
「ええ。彼女も1303の鍵《かぎ》を持ってて、それで連れてきたんです」
「なるほど……そういうことなら彼女も誘わないわけにはいかないだろうな」
「料理は何か皆《みんな》で食べられるようなものを考えますし、そんなに予算も変わらずに済むようにしますから」
「いや、別に予算のことは気にしてくれなくてもいいが」
「じゃあ他《ほか》に何かマズイ理由でもあるんですか?」
健一は刻也が少し言い淀《よど》んでいるように感じて、そう尋《たず》ねる。
「別に私は構わない。君が良いというならそうすればいいと思う」
しかし刻也はそんな風に返事をするだけだった。その言葉を聞くかぎり、刻也はむしろ健一のことを気づかっていたようだが、当の健一にはその心当たりは全くなかった。
「有馬さん、います?」
1303のドアを開けて最初にしたのは、中にいるかもしれない冴子に呼びかけることだった。一応《いちおう》、お互《たが》い勝手に使ってもいいことにはなってるが、そういう気遣《きづか》いはした方がいいんじゃないかと思っていた。それはきっともうここが自分の部屋ではなく冴子の部屋というイメージだったからだろう。
それに、本当に冴子がいるのを確認する必要もあったのだ。
「……なに?」
居間《いま》の方から冴子の返事が聞こえた。落ち着いた雰囲気《ふんいき》の声に、上がっていいのだろうと思って健一は靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、廊下《ろうか》を歩き、冴子の元へと向かう。
冴子はソファに座《すわ》ってぐったりとしているように見えた。側《そば》に鞄《かばん》が落ちていて、服が制服《せいふく》のままなのは着替《きが》えるだけの余裕《よゆう》もなかったということのような気がした。
「あのさ……」
それにしてもおかしな光景だなと健一は感じる。昔の自分の家で、自分の今のクラスメイトがそうしてる。それがなんだか現実《げんじつ》とは思いづらい。
「今晩《こんばん》、皆で有馬さんの歓迎会をしようって話になってるんだけどどうかな?」
「……私の歓迎会?」
「正確《せいかく》には僕と有馬さんの歓迎会で、もっと正確には『八雲さんのいい感じの洗濯機《せんたくき》見つかって良かったねパーティ』でもあるんだけど」
「楽しそうね」
冴子が少し上体を起こして、小さく笑った。
「……それは参加するってことかな?」
「絹川君がいいなら、私には別に用事なんてないし」
健一は冴子の返事に、また微妙《びみょう》な違和《いわ》感を覚える。それは刻也の言い方に似《に》ていたのもあるが、きっと思っていたよりアッサリと冴子が受け入れたからだろうと感じた。
「私はいいけど、絹川君はいいの?」
「え?」
「絹川君は家に帰らないといけないんじゃないの?」
「……あ、そうか」
健一は言われて、そう言えばと蛍子《けいこ》のことを思い出す。今日は自分の食事の当番ではなかったので、最悪、帰ってから食べるということにすればなんとかなりそうな気もするが。
「とりあえず、電話はしておいた方がいいかな……」
どうも昨晩から機嫌《きげん》が悪いみたいだし、勝手な判断《はんだん》は惨劇《さんげき》につながるかもしれないという不安がする。
それで健一は記憶《きおく》を辿《たど》り、廊下にある電話の元へと向かう。
「……これちゃんと使えるのかなあ」
そこに置かれていたのは記憶の通り、旧式《きゅうしき》のいわゆる黒電話というヤツだった。当時からしてすでに古くて、今どきダイアル式の電話というのでどうかと思ってた記憶がある。それにここから電話がかけられるという事実もなんだか冷静に考えるとおかしい。どうしてこの部屋まで電話線が引かれてたりするのだろうかとか、何番にかければここにかかるんだろうとか今は必要ない疑問《ぎもん》も浮かんでくる。
「絹川君の家って厳《きび》しいの?」
それで思い悩《なや》んでいたのが悪かったのか、心配そうな冴子の声が聞こえてきた。
「え? いや、うちの両親はかなりゆるゆるだけど。というか放任《ほうにん》を通り越《こ》して放置って感じ」
「……じゃあなんで電話するの?」
「それはホタルが……って言うか、有馬さんがキッカケだったような」
「私はただ、この部屋があるのに家には帰っているって言ってたから、今日はそうしなくていいのかなって思っただけ。深い意味はなかったんだけど、絹川君が急に慌《あわ》て始めたようだったからどうしたのかなって」
「あ、ああ、なるほど……」
「ところで蛍《ほたる》ってなんのこと?」
「ああ、僕《ぼく》の姉です。絹川蛍子。蛍の子供《こども》で、ケイコ。ホタルはあだ名です」
そんな風に健一は姉のことを説明するが、冴子はそれに一つの疑問を押《お》し挟《はさ》む。
「お姉さんは煙草《たばこ》吸《す》うの?」
「え? なんでわかったの?」
「ホタル族って知ってる? ホタルって呼《よ》び方はそれが由来なのかなあって、なんとなく」
「ああ、それもあるみたいですね。父さんが昔、ベランダで煙草吸ってるホタルのことを見て、そんな風なこと言ってました」
「絹川君のお姉さんって随分《ずいぶん》、年上なの?」
「え? 三つ上ですけど。某《ぼう》美大の一年生です」
「……本当にゆるゆるなのね、絹川君のご両親は」
冴子はそれでまた小さく笑うと、電話を指差した。
「電話しないの?」
「あ、そうでした……」
健一はそれで慌てて自分の家の番号をダイアルする。ジーコ、ジーコと音を立てて電話をかけるなんて何年ぶりだろう。
{もしもし絹川ですが}
程《ほど》なくして電話が繋《つな》がった。やはりというかなんというか不機嫌そうな蛍子の声。
「あ、健一だけど」
{健一か……まあ健一だわなあ}
「なんだよ、その言い方は」
{で、どこをほっつき歩いてるんだ、お前は}
「いや、ちょっと今日、皆《みんな》で食事をすることになったんだよ」
{そうか、それは好都合だ。私はやる気も食欲《しょくよく》も全く出ないので夕食の準備《じゅんび》をどうしようかと思ってたところだ。そういうことなら今晩はパスしよう}
「……たまには食事を抜《ぬ》いてもいいけど、昼飯は食ったの?」
{食ってない}
「じゃあ夕食は少しでも食った方がいいと思うけどなあ」
{ほっとけ}
「まあ、ほっとけと言うなら、ほっとくけど」
{それよりなにより、まさかと思うが}
「なんだよ」
{『皆で食事をする』 っていうのは、乱交《らんこう》パーティの隠語《いんご》か何かか?}
「……昨日から少し壊《こわ》れかけてる気はしてたけど、本当に壊れたみたいだな」
{なんだと?}
「じゃなかったら、なんで『皆で食事』が『乱交パーティ』になるんだよ」
{この間、お前が電話してきた時は童貞《どうてい》を捨《す》てた日だったからな。今回もそれに近い展開《てんかい》なんではないかと思っただけだ}
「……むう」
{今、例の友達のところにいるんだろう? そこで皆でとくれば、乱交パーティだろう}
「ホタルの思考にはもうついていけん……俺《おれ》をなんだと思ってるんだ、ホタルは……
{実の姉だろうがなんだろうが盛《さか》りまくる思春期のガキんちよだろう。私の認識《にんしき》はそんなに間《ま》違《ちが》っているかなあ}
「ぐっ」
{……で、食事はともかく、家には帰ってくるのか?}
「まあ、遅《おそ》くはなるかもしれないけど、家には帰るよ」
{遅くなるなら帰ってこなくていい。むしろ帰って来るな}
「なんだよ、その言い草は」
{私は風呂《ふろ》入って寝《ね》る。寝てるところに帰ってこられると迷惑《めいわく》だ}
「……そうですか。じゃあ帰るとしても気づかれないように帰りますよ」
{そうしろ}
「じゃあね」
健一はそれで電話を切る。蛍子はそれに何か返事をしたようだったが、もう受話器を置こうとしているところだったので健一には聞こえなかった。
「絹川君ってお姉さんとは『俺』って話すのね」
そう言われて、健一はそう言えばさっきからずっと冴子がいたのを思い出した。それを考えるとかなり危険《きけん》な会話をしていた気がする。
「……俺って言ってた?」
「俺って言ってた。『俺をなんだと思ってるんだ、ホタルは……』って」
健一はその指摘《してき》に、確《たし》かにそうだなあと思うが、しかしさっきの会話でのツッコミどころはそこじゃないだろうという気もした。
「私には『僕』って話すのに、お姉さんには『俺』なんだなあって。お姉さんとは仲がいいのね、絹川君は」
「どうもその辺がよくわからないんですけど。さっきの会話を横で聞いてて、どうしてそう思えるのかなあ」
「仲が悪いお姉さんと『乱交パーティ』なんて会話を交えるとは思えないけど」
「……そこですか」
「まあ、それは冗談《じょうだん》だけど」
冴子はそう言って笑う。笑うのも、冗談を言ったのもなんだか彼女のイメージからすると違うような気がしてしまう。
「冗談ですか」
「仲がいいという表現《ひょうげん》がしっくりこないなら……飾《かざ》らない関係って言い換《か》えてもいいかな。より素《す》に近い状態《じょうたい》で話せるってことを、私はとりあえず『仲がいい』と言ったの」
「素に近い状態で話せる……って言われると、まあそうかなあという気はするかな」
「私は兄弟いない状態で育ったから、姉弟《してい》ってそういうものなんだって言われたら、そうなのかなあって思うだけなんだけど」
健一はそんな冴子の言葉に、自分と蛍子の特別な関係を思い出してしまう。
「……僕もよそのことはよくわかりませんけど、あんまり普通《ふつう》とは言えない気はします」
「そう……ちょっと羨《うらや》ましいなって思ったりしたんだけど、姉弟だからってさっきみたいになれるってわけじゃないのね」
「……その辺もよくわからないんですけど、本当」
「そう? 横で見てるかぎり、絹川君は楽しそうだったけどな」
冴子はそう言ってまた笑う。それは少し意地悪な、でも奇麗《きれい》な笑顔《えがお》だった。
「きっと僕はなんでも楽しそうに見える人間なんですよ」
それがなんか照れ臭《くさ》くて健一はそんな風にすねた物言いをする。
「それで絹川君、パーティの準備《じゅんび》はしなくていいの? もう用意は済《す》んでるの?」
「え? いや、これからです。皆《みんな》で鍋《なべ》を食べようかなあって思ってるんで、あんまり準備には時間かからないんですけど」
「鍋? 夏なのに?」
「暑いからこそ、逆《ぎゃく》に熱くて辛《から》い鍋を食べてさっぱりしようかなとチゲ鍋を考えてるんだけど、嫌《きら》いだったりします?」
「私、好き嫌いは無いから」
「一つのところから取り分ける料理の方が皆で食べてるって感じがするかなって思ったんですけど……違いますかね?」
「言われてみると辛い鍋って言うのもアリかな。それにチゲ鍋なら作ったことあるから材料わかるし、私が買って来てもいいかなって」
冴子のそんな提案《ていあん》に健一は、今度はかなり驚《おどろ》いてしまった。
「……ダメかな? それとももう買い物は終わってるの?」
「いや、これからですけど……そのちょっと意外だったなあって。有馬さんからそういう提案が出てくるのが」
「そうかな……そうよね。でも私、こう見えてもお母さんと住んでた頃《ころ》は、料理の担当《たんとう》だったのよ。あんまり上手ではなかったけど。でも買い物くらいなら出来ると思う。安いお店だってちゃんと知ってるのよ。お肉はスーパーより、商店街で買った方がいいとか。最近はまた事情《じじょう》が変わってきてるのかな」
「うーん、あんまり変わってない気がするけど。最近は豚肉買うならスーパーの方が安いかなあ。豚ロースとか、あんまり売れない肉は、だけど」
「そうなんだ。詳《くわ》しいのね、絹川君は」
「まあ、この間までは毎日、飯作らされてたからね」
「でも絹川君はお姉さんいるんでしょ?」
「まあ、いることはいるけど……さっきの電話の相手だから」
健一は苦笑《くしょう》する。冴子もそれで笑う。
「うちのお母さんもそんな感じ。奇麗な人だけど家事とかてんでダメでね。まあ、今は自炊《じすい》なんてしなくてもどうとでもなるんだろうけど、私がけっこう貧乏性《びんぼうしょう》なのかな。ちゃんとご飯作りたくて、それで」
「うちはホタルが作らないくせに、自炊にこだわってて。まあ、それもどうもワガママってわけじゃなくて、共同生活における役割分担《やくわりぶんたん》ってヤツだったらしいんだけど……じゃあホタルは何をしてたのかって言うと、謎《なぞ》なんだよね」
「でもまあ親の心、子知らずって言うし、きっと何かしてくれてるんだと思う。私もお母さんの世話を一方的にしてる気だったけど、そうでもなかったんだなって気づくことも多いし」
「そういうもんですかね……」
健一はそうは言ってもピンと来ないなあと感じていた。冴子の方は母親だが、自分の方は姉。親代わりと言っても、親は親でちゃんといるのだし、蛍子がどこまでその役割を背負《せお》っているかなんてよくわからない。
「それで、絹川君」
「はい?」
「そろそろ買い物に行った方がよくない?」
「あ、そうですね……じゃあ一緒《いっしよ》に行きましょう。四人分だから意外にかさ張《ば》るかもしれないし……」
健一は今までの流れから普通《ふつう》にそう言っただけだったが、途端《とたん》に冴子の態度《たいど》がまた固くなるのを感じた。
「……………」
「……あれ、変なこと言いました?」
「一緒は……ダメ」
ぎこちなく冴子の返事が聞こえた。さっきまで笑っていたはずの顔もなんだか引きつってるようにさえ見える。
「なんで?」
そんな状況《じょうきょう》で当然のような疑問《ぎもん》を健一は口にする。しかし冴子の返事はなんだか予想とは違《ちが》っていた。
「……聞きたいの?」
「いや、その、言いたくないようなことなら聞きませんけど……」
健一はそう言いながらも、疑問はより深く強いものになるのを感じてしまう。
さっきまであんなに普通に話していたのに、なんでこういうことになったのだろう。自分のことを嫌ってるわけではないと感じてたが、それは自分の思い違いだったのだろうか。
そして健一は刻也との話を思い出す。『沼』の住人同士の暗黙《あんもく》のルールがあるということ。健一はここにもきっとそれに似《に》たルールがあり、自分はそれを無意識《むいしき》に破《やぶ》ってしまったのだろうなあと感じる。
「すみません」
健一はだから謝《あやま》り、その申し訳《わけ》なさを彼女の役に立つことで償《つぐな》うことにする。
「買い物は僕が行ってきますから、有馬さんは疲《つか》れているみたいだし休んでてください」
その言葉は健一にとっては誠意《せいい》のつもりだったが、冴子はそれを喜んではくれなかった様子だった。どころかなぜか悲しい顔をして、健一の方を見る。
「……うん。そうした方がいいよね」
でも、冴子は健一の提案を受け入れる言葉を口にする。しかし健一にはそれが言葉通りの意味ではないのだろうという不思議な確信《かくしん》はあった。
「それじゃ、また夕飯の時間になったら呼《よ》びに来ますから」
そして彼女がなぜ悲しい顔をして、その一言葉を告げたのかわからなかったことに妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎを感じてしまう。
それがいつか後悔《こうかい》の原因《げんいん》になるんじゃないかという言い知れぬ不安。それを抱《かか》えて健一は部屋を出ていくしかなかった。
湯気の向こうの冴子は、隣《となり》に座《すわ》っている綾よりもむしろ機嫌《きげん》が良さそうに見えた。それ自体はいいことなのだが、健一はそこにやはり不安と疑問を感じてしまう。
一緒に買い物に行こうと提案《ていあん》した時の彼女の態度は何だったのだろうか。楽しそうに食事をしている冴子を見ていると、それこそ夢《ゆめ》でも見ていたのだろうかという気持ちにもなる。
あんなにも必死に何かを拒絶《きょぜつ》した彼女こそ、何かの間違いだったのではないか、と。でも健一はそれが嘘《うそ》でもなければ、勘違《かんちが》いでもないことを知っている。
確《たし》かにあの時、冴子は自分の提案を拒絶したのだ。疑《うたが》いの余地《よち》の無いほどハッキリと。
「……絹川君」
話しかけてきたのは刻也だった。男女に分かれて二人ずつ座っていたので、刻也は健一の隣にいて少し身を寄《よ》せて小声で呼びかけてきたらしい。
「なんですか?」
「君は有馬冴子があんなに明るい女性《じょせい》だと知ってたかね?」
刻也の質問《しつもん》というのは、実に当然の疑問だと思えた。教室で見かける冴子と今の彼女は本当に別人のようだ。
「いや……僕《ぼく》も今日知りました」
「そうか……これも何か君のおかげなのか?」
「と、言いますと?」
「綾さんも随分《ずいぶん》とご機嫌そうだし、私は何もしていないのだから、君が何かをしたんじゃないかと思ったわけだが」
「……綾さんの方はともかく、有馬さんに関しては心当たりはないんですけど」
健一は正直なところを述《の》べる。冴子に関しては本当にわけがわからないのだ。教室ではああだったが、本当はこういう女の子だったということを考えるのが自然だが、それにしたって納《なっ》得《とく》しがたい現実《げんじつ》が目の前にある。
「あ、なんかあっちも二人で話してる」
そして少し大きな綾の声が健一たちの会話に割《わ》って入る。
「……別に変な話をしてるわけじゃありません」
健一は綾の期待には添《そ》えないと先手を打つ。
「じゃ、なんの話をしてたの?」
「八雲さんが、有馬さんのことをこんなに可愛《かわい》い娘《こ》だとは知らなかったと」
「ぶっ!」
突然《とつぜん》、横で刻也が噴《ふ》き出しそうになるのをこらえる音が聞こえた。刻也は慌《あわ》ててタオルを掴《つか》むとそれで顔を押さえ、ずれた眼鏡《めがね》を直す。
「……私はそんなことは言っていない。誤解《ごかい》を招《まね》くような言い方は止《や》めてくれたまえ」
「あれ、そうでしたっけ……」
「私はただ、あんなに明るい女性とは知らなかったと言っただけで……可愛いとかそういう評《ひょう》価《か》をしたわけではない」
妙にうろたえた様子を見せて刻也がそう答えると、今度は綾が口を開く。
「じゃあ改めて聞くけど、可愛いとは思ってないの?」
「……そういう質問に答える義務《ぎむ》は私にはありません」
「義務はないけど気になるよね? ね、冴ちゃん」
綾が嬉《うれ》しそうに冴子の方に話題を振《ふ》る。
「私は八雲さんのことクールな人だと思ってましたけど、けっこうお茶目な人っぽくて安心しました」
それを聞いて刻也が立ち上がって大声で叫《さけ》ぶ。
「だ、誰《だれ》がそんな話をしろと言った! 私は別に君にどう思われようが関係ない! 断《だん》じて興《きょう》味《み》はない!」
「……そんなにエキサイトしなくても」
健一はそこまで刻也が興奮《こうふん》するわけがわからず、横で静かにツッコミを入れる。
「し、しかしだな……」
刻也は肩《かた》で息をしながら落ち着こうとはしている様子を見せる。しかしそこに綾がまた口を挟《はさ》んできた。
「管理人さんって怖《こわ》い人だと思ってたけど……単に女の子が苦手な人だったんだ」
「そういうわけではありません」
「でもいつもスゴイ怖い目で私のこと睨《にら》んでたし。あれも単にどうやって話しかけたらいいかわからず考えてただけなんだ」
「そうではありません。綾さんがだらしないから話したくなかっただけです。自分の部屋の中はともかく共同スペースまで勝手にされるわけにはいかないから、私は共同生活者として言うべきことを言っていただけで」
それを聞いて、今度は冴子が口を開く。
「ああ、だから管理人さんって呼《よ》ばれてるんですね」
「そうそう。もうそこまで言わなくてもいいじゃないってくらい、あれこれ言うの」
「その辺はイメージ通りですよね、むしろ」
「でも、本当は女の子とまともに話せない寂《さび》しい男の子だったわけ」
綾のその言葉を聞いて、また刻也が声を荒《あら》げる。
「勝手に自分のイメージを私に押《お》し付けるのは止めてくれませんか?」
「……そうやってムキになるのが逆《ぎやく》に怪《あや》しいよねえ。ね、健ちゃんもそう思うでしょ?」
そして突然、今度は健一に話題が戻《もど》ってくる。
「え? いや僕は別にそうは思いませんけど」
「じゃあ聞くけど、学校での管理人さんはクラスの女の子とかと話してる?」
「……どうなんでしよ、あんまり意識《いしき》して見てなかったけど、そういうのは見たことが無いような気が」
「ほら、やっぱり」
それで綾が勝ち誇《ほこ》った笑《え》みを浮《う》かべて、刻也の方を見る。健一はそれを見て、自分の知らないところで余程《よほど》、ひどく叱《しか》られて恨《うら》んでいたのだなあと思う。
「クラスの女の子と話してるところを見られたことが無いくらいで寂しい男の子呼ばわりされるのは大変、心外です」
「でも実際《じっさい》、そうなら間違《まちが》いなく寂しい男の子だよね」
「……単にクラスに話したいと思うような女の子がいないだけです」
「わ! 本当に話したことなかったんだ!」
「だから何だって言うんですか!」
「なんというか……寂しいを通り越《こ》して、イタい男の子だったんだという感じ?」
ここぞとばかりに綾は刻也にダメージを与《あた》える言葉を叩《たた》きつける。
「ぬぐぐ……」
「言い訳《わけ》すればするほど墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》るだけだから素直《すなお》に認《みと》めちゃえばいいのに。別にそれが悪いって言ってるわけじゃないんだし。ね、冴ちゃん?」
「私も女の子のことが眼中《がんちゅう》に無い優等生《ゆうとうせい》よりは、今の八雲さんの方が親近感が持てるかなあって思いますよ」
「誤解《ごかい》しているようだから言っておくが、私はどっちかと言わなくても前者の方だ。だから別に親近感など持ってもらわなくて結構《けっこう》だ」
刻也は肩を震《ふる》わせて、そう呟《つぶや》くが綾はやはりまともに聞く気はないらしい。
「まだ言ってるし。ぷっ」
「ぷって笑ったな! ぷって!」
それに刻也は激高《げっこう》するが、綾は少しもひるむことなく笑ったまま彼を見ている。
「だから、言い訳はしなくていいって言ってるのに。ねえ、健ちゃん」
「……いや、ここで僕に振られても困《こま》るなあ」
健一は刻也が心底、怒《おこ》ってるようなので綾の問い掛《か》けをそう軽く流すと、静かに刻也の方に視線《しせん》を向ける。
「とりあえず座《すわ》りましょうよ。食事中ですし」
「確《たし》かに……君の言う通りだ。少々、大人げなかったな、私としたことが……」
健一の言葉に我《われ》を取り戻したのか刻也は自分にそう言い聞かせるようにしながら席に着く。
「綾さんも綾さんです。せっかくのパーティなんだからケンカしないでください」
「……ケンカじゃなくて、少し盛《も》り上げようかと思っただけなのに」
「じゃあ盛り上げ方に気をつけてください」
「……でも冴ちゃんも楽しかったよね?」
「そうですね。八雲さんがこんなに楽しい人とは知りませんでした」
冴子は邪気《じゃき》の無い笑みを浮かべてそんな返事をする。それを聞いて隣《となり》で刻也がまた震え始めるのを健一は感じる。
「有馬さんも綾さんに乗せられてそういうことを言うのは止《よ》してください」
「……ですよね」
冴子がそう返事をすると、全員が何を話していいのかわからなくなったのか1301は静《せい》寂《じゃく》に包まれる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
それで仕方なく、健一は鍋《なべ》に手を伸《の》ばす。話している間にかなり煮《に》えてしまっていた。しなしなになったニラを取って健一は肉と共に口に入れる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
他の三人もそれにならう。そして無言のまま、四人は黙々《もくもく》とチゲ鍋を食べる。
「……有馬さん」
そんな沈黙《ちんもく》に耐《た》えきれず、健一は斜向《ななめむ》かいに座っている冴子に話しかける。
「なんですか?」
「有馬さんって辛《から》いの得意なんですか? すごく平気そうな顔をしてますけど」
「得意なのかな……単に鈍感《どんかん》なんです、きっと。色々なことに」
「なるほど」
健一がそう呟き、また会話が途切《とぎ》れそうになった時、今度は綾が口を開く。
「冴ちゃんばかりじゃなくて、こっちにも話しかけてよ」
「……いや、そんなこと言われても」
「なんかあるでしょ? 私、辛いの苦手だからその辺の話題とか」
「もうそれは今、聞いたのでいいです」
「いいですじゃなくて、聞いて」
「いや、もう聞きましたから」
「じゃあ、服装《ふくそう》のこととか」
綾はそう言って買ってきたばかりの服を着ていることをアピールする。
「買い物に付き合わされたのは僕だから、それも知ってます」
「……今日の健ちゃんって意地悪だ」
「いつもとそんなに変わらないと思いますけど。というかですね」
「お、来た来た」
「来た来たじゃなくて……」
「で、何?」
「鍋食べるのに、新品の服って絶対間違《ぜったいまちが》ってると思いますけど」
「……そういうもの?」
「そういうものです」
健一がいつものようにそう指摘《してき》すると、今度は沈黙を守っていた刻也が口を開いた。
「こういう時こそ汚《よご》れていいように白衣を来てくればよかったんですよ」
「……もう管理人さんの前では、あの格好《かっこう》しないことにする」
綾が口をとがらせ、すねた態度《たいど》を見せる。
「正しい指摘をされたのに、そういう態度は戴《いただ》けませんね」
「別に管理人さんはムッツリスケベってヤツらしいからやめるってだけ。遠目にスゴイ目で見てたのは、私のことエッチな目で見てたんだな。ずっと勘違《かんちが》いしてたけど、絶対そうだ」
「私は断《だん》じてそんなことしていない!」
また刻也は立ち上がり大声で叫《さけ》ぶ。
「だから、そういう風に怒《おこ》るのが何よりの証拠《しょうこ》だって言ってるのに。ね、冴ちゃん?」
「私も今の状況《じょうきょう》だけ見ると『ああ、そうなんだ』と思っちゃいました」
「……思わないでくれたまえ」
刻也はなんとか怒《いか》りを抑《おさ》えて、ムスッとしたまま席に着く。それを見て取って健一はまた綾の方に怒りの視線《しせん》を向ける。
「綾さん、だからそういうことは言わないようにって言ってるじゃないですか」
「でも、限《かぎ》りなく怪《あや》しいんだから仕方ないじゃない」
綾の返答に刻也がボソリと呟《つぶや》く。
「……怪しくない」
怒りを抑え、逆《ぎゃく》に静かになっているその言葉に健一は寒気を感じる。
「とにかく……もう八雲さんをいじるの禁止《きんし》」
「禁止って言われても、健ちゃんが私と話さないからそれくらいしかすることがないのが悪いんでしょ?」
「だからそういうのを選択肢《せんたくし》に加えるのはもう止《や》めてくださいって言ってるんです」
「だったら、ちゃんと私と話してよ」
「わかりましたよ……」
健一はそれで仕方なく、綾の方に話題を振《ふ》ることにする。
「そう言えば、綾さんは辛いの苦手なんですか?」
「うん。苦手」
ひどく簡単《かんたん》な言葉に健一は続ける言葉を失う。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
それでまた全員、何を言えばいいのかわからなくなり1301はまた沈黙に包まれる。
「……綾さん、その服はどうしたんですか?」
「健ちゃんと買ってきたの」
今度は予想の範囲《はんい》内ではあったが、やっぱり健一は続ける言葉を失う。
「……綾さん、わざとやってません?」
「え?」
「そうやって話題をさっさと終わらせて、また八雲さんの方の話にするつもりでしょ?」
「そんなこと考えてないよ。健ちゃんの質問《しつもん》がつまらなかったからだよ、続かないのは」
「ぐ……綾さんが振ったネタだったと思うんですけど」
「そこを上手《うま》く料理するのが健ちゃんの腕《うで》の見せ所じゃない」
「他人任《ひとまか》せですか……」
健一はそれで助けを求めて刻也の方を見るが、どうも彼はまだいっぱいいっぱいのようだった。健一との会話を聞いてるうちにさらに綾への怒りが募《つの》っているらしい。
「そう言えばさ、健ちゃん」
なのに話の主導権《しゅどうけん》は綾が握《にぎ》っているようだった。
「……なんですか?」
「健ちゃんの彼女って友達いないの?」
「いますけど……それがなんなんですか?」
「その娘《こ》、女の子?」
「まあ、女の子ですけど」
「だったらその娘、管理人さんに紹介《しょうかい》してあげたら?」
その瞬間《しゅんかん》、ピキッっと空気が切れる音が聞こえた気がした。
「……綾さん。もう止めましょうよ、そっち方面は」
健一はその音を立てた張本人《ちょうほんにん》であろう刻也の方を恐《おそ》る恐る見ながら、そう呟く。
「そういうお気遣《きづか》いは無用です」
刻也はそう告げる。その口調は冷静なものだったが、逆に健一は怖《こわ》いものを感じる。なのに綾はやはりのほほんと彼に話しかける。
「いらないの、彼女?」
そんな質問に刻也がまたピクリと震《ふる》えるのが見えた。
「もういますから」
「そんな嘘《うそ》つかなくていいから」
「嘘ではありません。れっきとした事実です」
「そんなこと言われても、今までで一番説得力ない発言って感じだよね。ね、健ちゃん?」
「だから、かき回すだけかき回して、こっちに振るの止めてくださいってば!」
「ほう、絹川君。君も私のことを疑《うたが》っているのかね?」
「いえ、疑ってませんよ。全然、疑ってません。八雲さんがそう言うんですから、いると思います。はい」
健一は刻也を必死になだめようと早口にそう告げるが、綾は別の方向へと向かっていた。
「でもクラスの女の子と話したこともないような人に彼女なんているわけないって。ねえ、冴ちゃんもそう思うよね?」
それを聞いて、健一はもうダメだと心の中で叫ぶ。しかし冴子は静かにそれに答える。
「私は……彼女いるって思いますけど。しかもすごくその娘のこと大事にしてそうだなあって気がします」
「…………」
冴子以外の三人はそれに完全に言葉を失った。沸騰寸前《ふっとうすんぜん》だった刻也から何かが抜《ぬ》けるのが健一には見えた気がした。
「冴ちゃんつて変わってるね」
そしてやっと口を開いたのは綾だった。自分が振った話題が予想外の方向へ転がったことの感想がそれだったらしい。
「単に頭に血が上っていたからかもしれませんけど、もっと早い段階《だんかい》で自分から彼女の話をしていれば、ここまで話が転がることもなかったと思うんです」
「だから、それは本当は彼女がいないから」
「私はそうじゃなくて、八雲さんは自分が笑われることよりも、彼女を笑われるのを避《さ》けたかったんじゃないかなって思ったんです。もちろん本当のところはわかりませんけど、そっちの方が素敵《すてき》じゃないですか」
「……うん、その方が素敵。じゃあ、そういうことにしておこう」
綾はなんだか納得《なっとく》した様子を見せ、今度は刻也の方を見た。刻也はと言えば、驚《おどろ》きの表情《ひょうじょう》で冴子の方を見ていて、綾の視線《しせん》には気づいていない様子だった。
「ごめんね、管理人さん。彼女のことまでバカにしようとしちゃって」
「……私をバカにしたことに関しての謝罪《しゃざい》はないのですか?」
「あ、そっちもか。そっちもごめんね」
「あまり真剣《しんけん》な謝罪という気はしませんが、こちらも大人げない態度《たいど》でしたから、それで良しとしましょう」
「うん。じゃ、それで」
綾はそれから机《つくえ》の真ん中の鍋《なべ》に視線を戻《もど》して、また鍋を食べ始める。
「早く食べないと全部食べちゃうよー」
綾がそんなことを言い始めるので、健一も鍋に箸《はし》を伸《の》ばす。
「辛いの苦手だったんじゃないんですか?」
「うん。でも健ちゃんの料理だから、ほら、冴ちゃんにはあげたくないかなって」
「そういうこと言うなら、もう鍋は金輪際《こんりんざい》作りません」
「なんでー! 素直な気持ちの表《あらわ》れなのにい!」
それで綾は口をとがらせて不満を述《の》べるが、他の三人は笑うしかない。健一も刻也も、そして冴子も笑いながら、鍋に箸を伸ばし、綾の分まで取ろうという勢《いきお》いで具をつまんだ。
鍋を食べ終えても健一が片《かた》づけをするのを待ちながら、四人は一緒《いっしょ》の部屋で時間を過《す》ごしていた。もう鍋も無くなり、パーティも終わったのに誰《だれ》も部屋から出ていこうとしない。
[#パーティー?]
そういう時間を過ごしたのは初めてのことだった。1301は確《たし》かにここに住む者のための共用のスペースだが、大体はご飯を食べに来て、それで去っていく。それだけの場所だった。
タイミングが合って、三人がそこに集まることはあったが、それは本当にそういう偶然《ぐうぜん》によるものでしかなかった。今日のように皆《みんな》で集まることを意図して集まったことはなかったのだ。
「……いつもこんなことしてるんですか?」
しかし冴子だけはそれを知らなかった。彼女がここに来たのは昨日のことで、今まで三人がどうしていたのかは知らない。だからそんなことを彼女が聞くまでは、健一もそのことに気づかずにいた。
それでキッチンごしに三人の話題に耳を傾《かたむ》ける。
「いつもしていたら私の精神力《せいしんりょく》もたないだろうな」
それに刻也が答えるのが聞こえた。自嘲《じちょう》気味な色がこもっている。
「じゃあ時々ですか?」
「私の知るかぎり、初めて」
二番目の質問《しつもん》に答えたのは綾の方だった。
「初めて……なんですか?」
冴子は驚いた様子で綾を見て、そして刻也の顔を見る。
「うむ。私の知るかぎりでもそうだな」
「そうなんですか、私、てっきり……いつもこんな感じなのかなって」
「そうだな、初めての割《わり》には上手《うま》くいったんじゃないかと思う」
刻也がそう少し誇《ほこ》らしげに答えるのが聞こえた。しかしそこに綾の茶々が入る。
「管理人さんが言うとなんかエッチだよね」
「私は綾さんの耳と脳《のう》がおかしいんじゃないかと思いますが」
「ごめん。管理人さんはまだだったんだね」
「……いい加減《かげん》、そっち方面から離《はな》れてください。有馬君に、いつもこんな話をしていると思われるじゃないですか」
「管理人さんとはこんなに話したのは今日が初めてでね。今までは大抵《たいてい》一方的な通達だったかなあ。だから、こういう話は普段《ふだん》はしてないよ」 綾は刻也の怒《いか》りを無視して冴子の方に話しかけたようだった。
「大丈夫《だいじょうぶ》、わかってますから」
冴子がそう言うのが聞こえた時、健一は洗《あら》い物を終えた。濡《ぬ》れた手をタオルで拭《ふ》いて、さっきまで座《すわ》っていた席に戻る。
「それで……ちょっと考えていたんですけど」
それを見ていたのか冴子が少し真剣な顔をして話題を切りだした。なんだろうと思っていると彼女はスカートのポケットに手を入れて財布《さいふ》を取り出す。
「なんだね?」
刻也が何か大事な話なのかという気配を感じ、やはり真剣な顔で尋《たず》ねる。そんな刻也の視線《しせん》を受けて冴子は財布からお金を取り出した。
「……これ、皆《みな》さんに渡《わた》しておいた方がいいかなって」
そう言って冴子が机《つくえ》の上に置いたお金は全部、一万円札でそして十数枚《まい》はありそうだった。
「……なんだね、これは?」
刻也は途端《とたん》に怪訝《けげん》そうな顔をする。健一も何が言いたいのかわからず、刻也を見て、それから綾を見る。綾は話についていけなかったらしくポカーンとした顔をしていた。
「そのお金どうしたの?」
綾がもっともな質問をする。高校一年生が持っているにしてはけっこうな金額《きんがく》だ。
「別に変なお金じゃないです」
冴子がそんな言い方をしたせいで、健一は逆《ぎやく》に冴子に関する噂《うわさ》を思い出した。その中には彼女が学校の男子と寝《ね》て相手からお金を取っているというものもあったし、援助《えんじよ》交際をして中年男性《だんせい》から大金をせしめているというものもあったのだ。変なお金じゃないというのは、要するにそういうことで得た金ではないということだろう。
そしてそれを敢《あ》えて否定《ひてい》したのは、自分や刻也がそう思ってるだろうと冴子が感じているということに違《ちが》いなかった。
「母に生活費としてもらっているものを貯《た》めておいたものです」
「その大事なお金をなぜ渡そうと思うのかね?」
「ここで共同生活するなら、当座《とうざ》の生活費として払《はら》っておいた方がいいかなと。今日の……会費って言うんですか? それも払わないとでしょうし」
「今日の鍋《なべ》に関しては私のおごりだ。一番古くいる者として先輩《せんぱい》風を吹《ふ》かしたかったんだなと思ってくれればいい」
「……そうですか」
「しかし共同の生活費としてお金を入れるという君のアイデァは採用《さいよう》してもいいかと思う。とはいえ、この金額はいかにも多い。私の計算、まだ概算《がいさん》だが、それによれば月二万もあれば十分だ。持っていると使ってしまうというなら私が責任《せきにん》もって管理しても構《かま》わないが、君はちゃんとその辺りが抑制《よくせい》できるようだから、とりあえず今月分として二万だけ預《あず》かっておこう」
それを横で聞いていて綾が笑いながら、また妙《みょう》なことを言い始める。
「本当に管理人さんっぽくなってきたね」
「綾さんがそう言うのを止《や》めないので、私も影響《えいきょう》されたのでしよう」
しかし刻也は今度は怒《おこ》ることなく、そう返すと成り行きを見守っていた健一の方に視線を向ける。
「……僕《ぼく》もですか? そんなに持ち合わせがないんですけど」
「いや、君には労働力を提供《ていきょう》してもらおうと思っている。もっと俗《ぞく》な言い方をするなら、体で払ってもらうというヤツだな」
「管理人さんが言うとなんかエッチだよね」
それにまた綾が茶々を入れる。
「綾さん。繰り返しますが、おかしいのはあなたの耳と脳の方です」
「ま、綾さんはともかく、僕はどうすればいいんですか?」
「つまりは料理を時々作ってくれればいいということだ。君の手が空いている時だけでいい。
君はそもそもここに居着《いつ》いているわけではないし、そういうことでどうだろう?」
「ああ、それなら全然OKです」
「君の料理の腕《うで》は確《たし》かだし十分対価《たいか》をもらう資格《しかく》もあると思うが、そういうことで了解《りょうかい》してくれると助かる」
「いや、もう全然、それでいいですよ」
健一はやっぱり刻也が妙に遠慮《えんりょ》がちな様子なのが少し気になる。しかし綾は気にしてなかったようだった。
「私は?」
「綾さんはここに住み着いてますからね。私の買ってきたものを勝手に食べてるようですし、有馬君と同等かそれ以上の対価を要求します」
「……それって簡単《かんたん》に言うとどういう意味?」
「つまり絹川君以上に働くか、二万以上払うかどっちかを選べということです」
刻也が睨《にら》むような視線で綾にそう告げる。綾はそれに一瞬《いっしゅん》、表情《ひょうじょう》を凍《こお》らせ、その後、力なく笑い始めた。
「じゃあ、お金を払うってことで……二万以上ってことは三万円でいいの?」
「二万五千円ということにしましょう」
「細かいなあ、管理人さんは」
「こういうことはキッチリするべきなだけです。私の性格《せいかく》とは関係ありません」
「そうかなあ……関係あると思うけど」
綾はそれで服のポケットを探《さぐ》るが、いつもの白衣じゃないのに気づいたらしい。
「どうしたんですか?」
「お金はいつもの服につっこんであるから、今はないみたい」
「じゃあ後日、徴収《ちょうしゅう》します。忘《わす》れずに用意しておいてください」
「……面倒《めんどう》くさいよ、やっぱり」
「この程度《ていど》で面倒とか言ったら何もできないと思いますが」
「あ、いや、こっちの話。いつも通り、白衣を着てれば一発だったのになあってこと」
綾はそう言って健一の方を見る。
「やっぱりいつも通りの方がいいのかなあ、健ちゃん」
「……普通《ふつう》の服を着るのに慣《な》れればいいだけだと思うんですけど」
健一はほんとうに綾は芸術《げいじゅっ》関係以外はダメなんだなあと改めて思う。
「健ちゃんはどっちの方が好み?」
健一への質問《しっもん》なのだが、刻也の方が先に口を開く。
「私はもうあんな格好《かっこう》で歩き回られるのは拒否《きょひ》したい」
「管理人さんには聞いてない」
「好みの話ではなく、このフロアの風紀の問題です。この先、また住人が増《ふ》えた時のことを考えれば、綾さんのあの格好に関しては今のうちに矯正《きょうせい》しておくべきでしょう」
「うわ、本気で管理人さんになる気になってる!?」
「なってますとも」
刻也がそれで不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべる。今までは一方的に綾にやりこめられていたが、こうなると刻也の方が強く見える。
「……あの、さっきから言ってる綾さんの格好ってなんなんですか?」
そんな様子を見ていた冴子がそんな疑問《ぎもん》を口にする。
「君には信じがたいことだろうが、彼女は下着一枚《いちまい》の上に白衣を羽織《はお》るだけの格好で生活していたのだよ。しかも汚《よご》し放題。汚《きたな》くなったら捨《す》てて新しいのに着替《きが》えるという無計画っぷり」
「白衣は汚れたら捨てるものなんだよ。油彩《ゆさい》とか洗《あら》ったって落ちないんだから」
「……そんなことは当然知っています」
「そうかなあ。本当は知らなかったでしょ?」
「そんなことはありえません」
「そうかなあ。一瞬、驚《おどろ》いた顔をした。冴ちゃんも見たでしょ?」
「私は気づきませんでしたけど」
冴子がそう言って少し笑う。
「とにかく……ハッキリしてることは、あの格好で出歩くのはこれを機にもう止《や》めるべきだということです」
「……どうしてそういう話になるのか全然わからない」
「わからなくてもいいので、そうしてください」
「無茶苦茶《むちゃくちゃ》言ってる」
「無茶苦茶なのは綾さんの素行《そこう》の方です。私の言ってることは至《いた》って順当な結論《けつろん》です」
「……そうかなあ。私、あの格好の方が楽だから、やっぱりあれでいいや」
「綾さんの都合を聞いてるわけではありません」
「私だって別に管理人さんの都合を聞いてるわけじゃないし」
「私は個人《こじん》的な都合の話をしているわけではなく……」
「じゃあ多数決で決めよう」
綾はそう言って健一と冴子に目配せする。
「今までの通りでもいいと思う人!」
そしてそう言って綾が手を上げる。それに冴子が続いた。
「私はどちらでもいいと思います」
「僕も、まあ、あんまり無理させても良くなさそうだし、少しずつでいいんじゃないかと」
さらに健一も続く。
「絹川君、キミもか……」
刻也はガックリとうなだれながらそう呟《つぶや》いた。
「……大丈夫《だいじょうぶ》?」
1303に入った瞬間、冴子は急に元気がなくなったようだった。
健一は自分が買い物に行って準備《じゅんび》をしてる間に、冴子が少し寝《ね》て元気になったものかと思ってたが、実際《じっさい》はそうではなかったらしい。冴子はただ刻也や綾の手前、元気そうな振《ふ》りをしていたらしい。
「私、鈍感《どんかん》らしいから」
ソファに沈《しず》むように座《すわ》っている冴子が力なくそう答えた。そんな彼女に健一は台所から汲んできた水を渡《わた》す。
「……調子が悪いならそう言ってくれればいいのに」
「皆《みんな》でいた時は楽しかったし、調子悪くはなかったから油断《ゆだん》したのかな」
「病院に行った方がいいなら付き合うけど?」
「そういうんじゃないから。ただ、ここのところ寝てないの」
「……昨日は寝なかったの?」
健一はそれで今日一日、なんでいつも以上に冴子が元気ないのかわかったような気がした。
「うん」
「うん、じゃなくて……一体、徹夜《てつや》で何を……」
健一はそう言いながら自分なりに考えてみるがさっぱり浮かばない。何か冴子に寝ずでやるような趣味《しゅみ》があるとは思えなかったし、それにそこまで眠《ねむ》いなら学校を休むとか授業《じゅぎょう》中に寝るとかそういう手もあるだろうにと思う。
「……私、何してたんだろう。やっぱり懺悔《ざんげ》かな」
他人事《ひとごと》のように冴子が呟く。なんだか目の焦点《しょってん》が合ってない。
「懺侮って……窪塚《くぼづか》さんのこと?」
「それもあるけど……色々なことよ。一晩《ひとばん》中でも終わらないくらいの数の懺悔」
「……そういうの良くわからないけど、今日はとりあえず寝た方がいいと思うよ」
「うん。寝た方がいいのはわかってる」
「だったら……そっか、僕が邪魔《じゃま》してるのか」
健一はそれで冴子が飲んだコップを受け取るとまた台所に向かう。
「邪魔ってことはないし……いてくれた方が眠れるかもしれない」
「じゃあ寝るまで一緒《いっしょ》にいようか? その前に布団《ふとん》を敷《し》いた方がいい?」
「……布団はいらない」
冴子はそう呟いて、戻《もど》ってきた健一の方を見る。
「私、独りだと眠れないみたいなの」
「それなら昨日言ってくれれば良かったのに」
「絹川君にあんまり迷惑《めいわく》かけたくなかったから」
「どっちかというと自分のせいでフラフラになられる方が迷惑な気が……」
健一は話すごとにうつろになっていく冴子の視線《しせん》を感じながら、どうしたらいいのだろうと思う。このまま会話をしてれば寝れるということはないような気がする。
「……隣《となり》に座ってもいい?」
健一は少し考えてそうすることにする。座ってる冴子の前で突《つ》っ立っているのは自分も落ち着かないが、冴子だって落ち着かないだろうと思った。
「いいよ」
冴子が短く答えるのを確認《かくにん》して、健一はちょっと距離《きょり》を置いて冴子の隣に座る。二人掛《が》けのソファの端《はし》と端。微妙《びみょう》な空間を隔《へだ》てて健一は冴子を感じる。
「……有馬さん?」
しかししばらくするとその空間は消えてなくなった。冴子が健一にもたれ掛かってきたのだ。冴子の少し低い体温がそこから健一に伝わってくる。
「邪魔?」
「いや、そういうわけじゃないけど……このままだと有馬さんが寝た後、動いたら起きちゃうかもしれないし……」
「寝たらきっと起きないと思うから」
そして懐《なつ》かしいシャンプーの香《かお》りが健一の鼻をくすぐる。昔、蛍子が使っていた柑橘系《かんきっけい》の香りのするシャンプーだ。どうやら冴子はこの1303で頭を洗《あら》ったらしい。
「ねえ、絹川君」
「はい?」
「お姉さん、煙草吸《たばこす》うって言ってたけど、あんまり吸わない人なの?」
冴子がボンヤリとそんなことを尋《たず》ねてくる。一体、どういう意味の質問《しつもん》なのだろうと思う。
「けっこう吸うみたいだけど、父さんが部屋の中で吸うの禁止《きんし》してるんですよ」
「そっか……だからか」
「……だからって何?」
「絹川君はあんまり煙草臭《くさ》くないなって……それだけよ」
健一は言われて、そもそも自分は煙草臭いのだろうかと心配になる。喫煙者《きつえんしゃ》と一緒に暮らしていると染みつくものなのだろうか。
「そんなに臭《にお》うかな?」
「ううん。全然、臭わない」
なんだか言ってることが矛盾《むじゅん》してる。
「でも臭うんでしょ?」
「多分、普通《ふつう》の人にはわからないくらいの匂《にお》いだから」
「鼻だけは敏感《びんかん》なの?」
健一が冴子が何度か言った、自分が鈍感と言う言葉を思い出しながらそんなことを一言う。
「鼻も鈍感」
「……そうは思えないけど」
「煙草の匂いだけなの。それ以外の匂いが全然わからなくて……だから煙草の匂いはわずかでもわかるし、それがなんだか落ち着くの。それだけよ」
「……煙草の匂い好きなの?」
「あんまり好きじゃない」
また何か矛盾している気がする。
「さっき落ち着くって……」
「うん。少しだけするとね、落ち着くの。本当に静かだと逆《ぎゃく》に落ち着かないってそういう感覚なのかな。うるさいのは嫌《いや》だけど、何も音がしないと怖《こわ》い。だから少しだけ音がするのがいい。そういう感じ」
その言葉を聞く間に寄《よ》り掛かってる冴子から力が抜《ぬ》けるのがわかった。見ると冴子は安らいだ笑《え》みを浮《う》かべてこっちを見ていた。
それは昨日、今日と色々見てきた冴子のどの顔とも違《ちが》った無防備《むぼうび》な子供《こども》のような顔だった。それで健一は自分の鼓動《こどう》が早くなるのを感じる。
「…………」
もたれ掛かってる冴子にそれが聞こえてしまうんじゃないかと健一は思い、それがまたさらに鼓動を早くする。
「……寝《ね》れそう?」
それを紛《まぎ》らわそうと健一はそんな質問を口にする。
「どうかな。随分《ずいぶん》、楽にはなったけど」
「まあ、帰ってこなくてもいいって言われてるし……なんなら一晩《ひとばん》付き合うよ。あ、いや、変な意味じゃなくて」
言ってしまって、健一は本当に余計《よけい》なことを言ったと思うが、冴子は特にそれには反応《はんのう》を見せず、相変わらずの顔でゆっくりと目をつぶるだけだった。
「お姉さんは帰ってきて欲《ほ》しかったんだと思うから、帰った方がいいよ」
それで冴子が眠《ねむ》ったと思ったが、どうやらそうではなかったょうだった。
「……帰ってくるなってハッキリ言われたんだけど」
「だから帰ってきて欲しいって気持ちの裏返《うらがえ》しよ、それは」
「もう寝るから帰ってきても起こすなみたいなこと言われたし」
「それは、今すぐ帰ってこいって意味でしょ」
「……そうかな」
健一はなんだか当然のように冴子がそんなことを言うので急に不安になる。確《たし》かになんだかケンカしたみたいな状況《じょうきょう》のまま放置しておくのはどうかという気持ちはあったが、これで本当に寝てて起こした日にはさらに悪化しそうだという不安もある。そして健一としては後者の想《そう》像《ぞう》の方がずっとリアルだった。
「私は眠れないから、もう帰った方がいいと思う」
「……でも、独りになったら懺悔《ざんげ》を始めて眠れないんでしょ?」
「眠れないから時間つぶしに懺悔するの。それだけ」
健一はじゃあなんで眠れないのだろうと思う。それは多分、口にも顔にも出さなかったはずだが、冴子はその疑問《ぎもん》の答えをボンヤリと口にする。
「私ね、エッチ依存症《いぞんしょう》ってヤツなんだと思う」
「……は?」
健一は虚《きょ》を突《つ》かれて間の抜けた声を上げてしまう。音量も少し大きかったかもしれない。
「エッチ依存症。エッチをしないと眠れないの。それだけ」
「それだけって……それはかなり重大な告白のような気がしますが」
健一は混乱《こんらん》して何だか逆に丁寧《ていねい》な言葉遣《づか》いになってしまう。
「誤解《ごかい》しないで欲しいんだけど……エッチが好きなわけじゃないの。ただ、しないと眠れないみたいなの」
「……しないと眠れない」
「色々な相手としたけど気持ちいいとか、その人のこと好きなんだなとかそういうことは思ったことないの。どっちかというときっとエッチは嫌《きら》いだと思う。でもね、エッチをすると安心するの。微《かす》かな煙草《たばこ》の匂いと一緒《いっしょ》。エッチをしてね、男の人が満足した様子で隣《となり》にいてくれるとね、自分を見守ってくれてるって気分になれる。そうすると寝れるの」
冴子はそんなことを健一が言葉を失っている間に、どんどんと続ける。
「そうじゃないか……そうじゃないとね、眠れないの。それだけ」
「それだけ……って」
健一は一体、冴子が何を言ってるのだろうかと理解するので精《せい》いっぱいだった。
エッチ依存症? しないと眠れない? そういう言葉の意味はわかっても、それが一体、今の自分の置かれた状況《じょうきょう》になんの意味があるのか、それが結びつかない。
それだけ健一は混乱《こんらん》していた。なのに冴子はボンヤリとそれを何の疑間もなく口にする。それが本当に訳《わけ》がわからない。
「……それだけでいたいの」
冴子のそんな言葉が聞こえたかと思うと、急に冴子の体に力が戻《もど》ってきたようだった。柔《やわ》らかかった彼女の体が固くなり、そして何度か体験したあの心の固さまでもが戻ってきたように健一は感じる。
「有馬さん?」
「やっぱり私、ここを出ていく」
冴子はそう言ってフラフラと立ち上がろうとして、結局、ソファにまた倒《たお》れ込《こ》む。
「出ていきたいならそうしてもいいけど、もう少し休んでからの方がいいよ」
「でももう限界《げんかい》」
「何が……このまま出ていく方が限界を超《こ》えそうな気がするんだけど」
「これ以上、絹川君たちに迷惑《めいわく》をかけること。嫌《いや》なの、そういうの私」
なんのことを言ってるのかはわからないが、冴子のエネルギーが全《すべ》て集まったかのような視《し》線《せん》がそれが本気であることを語っていた。
「……嫌だって言うなら、僕《ぼく》だってこのまま出てかれるのは嫌だ。鍵《かぎ》を探《さが》した時にも言ったけど、あれこれ心配するくらいなら、ちゃんと助けた方がいいんだ。有馬さんが迷惑をかけたくないから出ていきたいというのに反対したくないけど、それは僕にとってはすごい迷惑だってことは知って欲しい。そして僕は別にこうしてることはちっとも迷惑だとは思ってない。だから迷惑かけたくないって言うなら出ていかないで欲しい」
「頑固《がんこ》なのね、絹川君は……私が嫌だって言っても引き止めるとは思わなかった」
「だって、それは誤解だから……」
「でも私は迷惑をかけることになると思う。絹川君が今はそう思わなくても、きっと私はどんどん重くなっていくから」
「だったら持ちきれなくなったら、そう言う。だから迷惑かけてるなって思うのはその時にして欲しい」
「……本当、頑固なのね」
冴子はそれで笑ったようだった。少し柔らかさが戻ってきたようにも感じる。
「でも出ていくしかないと思う」
「なんで?」
「私の寝《ね》る場所はここには無いから」
冴子はそう告げて、今度は悲しそうに笑う。
「さっきの話、嘘《うそ》じゃないの。適当《てきとう》なことを言って出ていく理由をこじつけてるわけでもないの。自分でも信じたくなんかないけど、事実なの……だから私には無理なの。ここに住み続けるなんて……できない話なの」
「…………」
「何言ってるんだって思うでしょ? でも本当なの。少なくとも私の中では絶対《ぜったい》的な真実なの。そうじゃないって思おうとしたことは何度もあったし、昨日の晩《ぼん》だってそう思ってた。さっきだって絹川君や八雲さんや綾さんと話しながら、そうじゃなかったらずっとここにいれるって思ってた。でもここに戻ってきて、昨日のことを思い出したら、やっぱりそんなの無理なんだって……私は……おかしいの。でもおかしいのが私なの」
健一は目の前でそれを告げる冴子をずっと見ていた。しかしたまらず口を開く。もう悲痛《ひつう》な冴子の言葉を聞いてられなかったし、自分の方の溢《あふ》れる気持ちも抑《おさ》えていられなかった。
「信じるよ。いや、本当はもっと前からわかってた気がする」
健一はそして冴子の言葉が辛《つら》く感じる理由を知った気がした。辛いのは冴子ではなく、自分の方だったのだ。自分がそう言う話を聞くのを拒《こば》もうとしていたのだ。それに気づく。
「……絹川君?」
「ここにいる人はきっと皆《みんな》、おかしいんだ。どこかおかしいんだよ。八雲さんのことは良く知らないからわからないけど……僕も綾さんもおかしいんだ。おかしいからここが無ければ生きていけないんだよ。だから、有馬さんもおかしいんだ。おかしくないなら、ここにいるはずがないんだから……でも、僕は……僕はそれを認《みと》めたくなかった」
健一はそれを口にすると、もう自分を誤魔化《ごまか》していられないのを思い知った気がする。
「ここはそういうところじゃないんだって、僕はおかしくないんだって思おうとしてた。あんなにあの時、後悔《こうかい》して自分を最悪だって思ったのに、綾さんに救われてそれでもう解決《かいけつ》した気になってた。でも僕はちっとも変わってなかったんだ。僕はやっぱりおかしいんだ。おかしいから……ここにいるんだ」
「絹川君……何を言ってるのか、私、わからないわ」
「そうだよね……」
健一はそれで少し落ち着くと改めて冴子の方を見る。
「おかしいからって、出ていく必要はないんだ。そういう有馬さんだから、きっとここに来たんだ。なのに僕は自分はそれに関係ないと思おうとしてた。ごめん。そのせいで……有馬さんを苦しませたよね」
「……絹川君を責《せ》める気なんてないけど」
冴子はやはりなんの話をしてるのかわからないという顔をしていた。それを見て、健一は落ち着くのを感じながら、また冴子の隣《となり》に座《すわ》る。
「もう気づいているかもしれないけど、僕は綾さんとエッチしたことがある」
「……うん」
「しかもそれは僕が大海《おおうみ》さんに告白された日のことだった。後で返事を聞かせてくださいって言われて帰った後、僕は綾さんに出会って……エッチをした」
「うん」
「その時、僕は自分を酷《ひど》いヤツだなって思った。あんなに一生懸命《けんめい》に告白してくれて、僕がどういう返事をするのか考えているだろう相手がいるのに、僕はその日会ったばかりの綾さんと関係を持ったんだ」
「……私は別にそれをそんなに酷いことをしたようには思えないけど。綾さんだって、それを責めてるようでもないし。それに大海さんに告白したならともかく、告白されたことにそこまで誠意《せいい》を感じる必要もない気がする」
「でも、僕は自分が許《ゆる》せなかった。許せなかったはずなんです」
「頑固なのね。その辺は」
「そして僕はその後、もっと酷いことをしたんです。大海さんと付き合うことにした後……」 健一はさすがにそこで言い淀《よど》んだ。そしてそんな自分をまた許せないと感じる。さっき自分に立ち向かおうと決めたのに、もうその心が挫《くじ》けている。そう感じた。
「僕はある日、ホタルを押《お》し倒《たお》したんです」
「……ホタルって、絹川君のお姉さんよね?」
「そうです。僕は自分の姉に欲情《よくじょう》して襲《おそ》いかかったんです」
健一はそれを断言《だんげん》しつつも、また心が逃《に》げていくのを感じる。冴子の顔が見れなかった。その言葉に何を彼女が思ったのか、それを知ることから逃《のが》れようとしている。
「…………」
沈黙《ちんもく》があった。短い沈黙。そこに時々、時計の動く音が混《ま》じる。それが続く。
カチ、カチ、カチ、カチ……。それが長い沈黙であることを示《しめ》していた。
一秒が何分にも感じられるとかそんな話ではなく、本当に時間が過《す》ぎていく。なのに冴子は何も言わずそこにじっと座っているようだった。
「……やっぱり私はおかしいみたい」
「え?」
「絹川君の気持ちが全然わからないの」
冴子はそう言いながら、またもたれ掛《か》かってくる。それは言葉の意味が拒絶《きょぜつ》ではないということを示すためのようだった。冴子はまた柔《やわ》らかく感じた。
「なんでそれを酷いことだって思うのか、私にはちっともわからない。わかってもらいたくて言ってくれた言葉にこんなことしか言えないなんてって思うけど、でもそれが正直な気持ちだから……」
「今度は僕の方が意味がわからないんだけど……」
「だって綾さんもホタルさんも幸せそうだもの。以前の二人のことは私知らないし、ホタルさんには会ったこともないから勘違《かんちが》いかもしれない。でも、絹川君の言う『酷いこと』が二人を幸せにしたんだと思う。だから私はわからない。なんでそんな幸せな出来事を、絹川君は『酷いこと』なんて言うの?」
健一は冴子の問いに答える言葉が無かった。
「だって……酷いことだよ」
「でも、きっと酷いことじゃない。それを酷いことだって思ってるのは絹川君だけ。でなかったら、なんで綾さんはあんなに幸せそうなの? 絹川君と話してる綾さんが幸せなのを、絹川君は綾さんがおかしいからって……そう言うの?」
「そうは言わないけど、でも……」
「さっき、おかしい自分から逃げようとして、私を苦しめたって謝《あやま》ってくれたけど……でも今、また絹川君は逃げている気がする。ちゃんと見つめるってそういうことだよ。過去《かこ》がどうで今がどうで、そして未来がどうなるか。それを他《ほか》の人の物差しで測って、他の人のせいにするってことが私は逃げてるってことだと思う」
「……そうだね」
「絹川君は自分がおかしいと言うなら、ちゃんと自分のおかしさで判断《はんだん》するべきだよ。世間で悪いと言われてることをしたから、自分が悪いことをしたって言うなんて……それこそ自分への裏切《うらぎ》りだと思う」
健一は冴子の柔らかだが、決して優《やさ》しくないその言葉にまた言葉を失った。
自分への裏切り。冴子のその言葉が自分に突《つ》き刺《き》さるのを感じた。
「私の、絹川君に迷惑《めいわく》って言うのも同じかもしれない。私は話してないことや、先々のことを考えて言ってるけど……絹川君は本当に迷惑とは思わないかもしれないんだから。でも私は自分の判断で、それが迷惑だと決めたの。そしてそれに従《したが》うことにしたの」
冴子はそう言ってショックを受けたままの健一の方を見る。それに気づいて健一も彼女の顔を見る。
強い決意。でも悲しい色が目に宿っていた。
「……でも、それはやっぱり間違っていると思う」
だから、健一はそれを口にした。
「どうして?」
「わからない。でも間違ってると思う」
「……頑固《がんこ》なのね、本当」
「さっき、有馬さんは言ったよね。綾さんやホタルが幸せそうだから、僕のしたことは『酷《ひど》いこと』じゃないって」
「言ったけど」
「それって人を幸せにすることは正しいことってことだよね」
「……そうなるかな」
「だったらなんで正しいことをしてるって言う有馬さんはそんなに悲しそうなんだろう。幸せじゃなさそうなんだろう」
「…………」
「どこかが間違ってるんだと思う。そして有馬さんは気づいているのに、それを誤魔化《ごまか》して僕を説得しようとしてる。どこかはわからないけど、でも有馬さんが本当に正しいなら、もっと嬉《うれ》しそうに出ていけるはずなんだ。僕だって……もっと快《こころよ》く見送れるはずなんだ……」
「世の中がそんなに全部うまくいくわけないじゃない」
冴子は健一の途切《とぎ》れ始めた言葉に、そう言って割《わ》って入る。
「皆《みんな》が皆、幸せになれるように生まれてくるわけじゃないのよ」
サラリと冴子はそう続ける。静かに、何も跡《あと》を残さないような声で。
「そんなの嘘《うそ》だ」
それを吹《ふ》き飛ばすように健一が呟《つぶや》いた。それは決して大きな声ではなかったが、でも冴子は驚《おどろ》きの表情《ひょうじょう》を浮《う》かべていた。
「嘘って……」
「世間ではそうなってるかもしれないけど……僕はおかしいからそれを嘘って決めた」
「決めたって……そんな……こと言ったって……」
冴子は戸惑《とまど》いの言葉を口にする。しかしそれを見て、健一は逆《ぎゃく》に自分の心がハッキリしていくのを感じる。
「やっぱり嘘なんだ。それは有馬さんにとっても嘘なんだ。嘘じゃないかもしれないけど……嘘だって思いたがっている」
健一は言うごとに言葉に力がこもるのを感じた。やっと冴子の姿《すがた》が本当に見えた気がした。闇《やみ》に隠《かく》れて消えようとしていた冴子の手を捕《つか》まえた。そんな気がした。
「……でも、やっぱり本当のことよ」
「僕は信じたいんだ。それが嘘だって。そして信じられる気がするんだ。ここで僕らがこうしていることだって世間は信じない。ここに来られない人は皆、きっと嘘だって言う。でも、僕は知ってる。ここは本当にあって、そして僕は綾さんに会って、確《たし》かに救われたんだ。あの晩《ばん》、確かに綾さんに助けられて、だから家に帰れて、それでホタルとだって仲直りができたんだ」
「やっぱり嘘だと思う。全《すべ》ての人が幸せになんて、信じられない」
冴子はやはりそう言った。でも、そこにはまた柔《やわ》らかさが感じられた。
「でもこの不思議な十三階が住人を幸せにしてくれるってことは、私は信じても良いと思う」
「有馬さん」
「だから、それが信じられなくなるまでは――」
冴子はそう言って目を閉《と》じた。それは自分の言葉に耳を澄《す》ますためのように健一には見えた。
「ここにいるわ」
「だから、それが、信じられなくなるまでは、ここにいるわ――か」
健一はその言葉を柔らかく触《さわ》るように繰り返す。冴子がそれを心の中で繰り返しているのか、同じリズムで三回うなずく。
そして目を開いて健一の方を見る。
「それでいい?」
「……うん」
「でも寝《ね》られないのは問題よね」
冴子はでも笑っていた。さっきまでの疲《つか》れを忘《わす》れたような安らかな笑顔《えがお》。健一はそれを見て、彼女が言った言葉を思い出す。
――単に鈍感《どんかん》なんです、きっと。色々なことに。
冴子は自分の痛《いた》みに鈍感なのかもしれない。疲れていることも、調子が悪いことも。全部、忘れてしまえる人間なのかもしれない。それを冴子は『鈍感』という言葉で表しただけなのかもしれない。
「だったら、ずっと側《そば》にいるよ」
健一はだからせめてそんな彼女の近くにいてあげたいと思った。それが彼女にとって良いことなのかどうかはわからないけれど、そうしたいという気持ちの方が強かった。
「本当に……頑固《がんこ》なのね」
冴子はそれで目を閉じて、健一に寄《よ》り掛《か》かる。やわらかく冷たい彼女の体の感触《かんしょく》が伝わってくるが、健一は今はひどく落ち着いた気分になっていくのを感じる。
でも眠《ねむ》くはならなかった。ただ呼吸《こきゅう》が少しずつゆっくりになっていくのを感じる。そして静かな部屋の中で健一は、自分の呼吸が冴子の呼吸に重なるのを感じる。
また時計の音が聞こえた。カチ、カチ、カチとどこまでも続く音。でもそれは時の流れを告げるのではなく、今ある景色の一つのように感じられる。
「絹川君……寝ちゃった?」
「いや……まだ起きてるけど」
「話しておかないといけないかなって思うことがあるんだけど」
「なに?」
「窪塚さんのこと」
冴子は目を開けて健一の方を見る。
「……聞きたくないかな?」
「話したいなら聞くよ」
「なんの言い訳《わけ》にもならないけど、私、別に窪塚さんの彼と寝る気はなかったの」
「……うん」
健一はそれに静かにうなずく。なんとなく、それは聞くまでもなく知ってることのように感じられた。
「一昨日はね、誰《だれ》か側にいてくれる人がいればそれでよかった。だから窪塚さんの彼を選んだの。それが一番面倒《めんどう》が無いって……あの時は思ってたのよ」
「うん」
「彼女がいない男の子つて……怖《こわ》いの。一度、寝ると彼女みたいに思われるから。私はエッチしないと寝れない。だからするだけなのに、それだけなのに、それだけにしてくれない」
「……でも、それって特別なことなんだから。それだけなんて、普通《ふつう》は思えないと思う」
「うん。だから、遊びって割《わ》り切ってくれる人がいいの。本気にならない人がいいの。彼女がいる人なら、しても大丈夫《だいじょうぶ》だって思った。それが問題になるなら、彼女が大事なら、しないと思ったし、したとしても黙《だま》っている。そう思ってたから。だから誰も傷《きず》つかないって……そう信じてた」
「……でも、違《ちが》ったんだね」
健一の言葉に、冴子は無意識《むいしき》にうなずいたようだった。自分でもそれに驚《おどろ》いたのか、不安そうな日で健一を見る。
「私には窪塚さんの彼が何を考えていたのかは全然わからない。彼は窪塚さんがエッチさせてくれないって不満を持っているみたいだった。別に彼とする気はなかったけど、一緒《いっしょ》にいてくれるならって思った。それは私にとっても都合のいいことでもあったから。だから、したの。
それが彼にとっても私にとっても良いことだと思ったから」
冴子の言葉に健一はさっき自分が言った言葉を繰り返す。
でも違ったのだ。冴子のその行動の結果、窪塚佳奈《かな》は彼氏と破局《はきょく》し、そしてその怒《いか》りは冴子と、そしてその現場《げんぼ》に遭遇《そうぐう》した健一に向かうことになったのだ。
「私は酷《ひど》いことをしたのよね? 私の身勝手が窪塚さんを傷つけて、そして絹川君にも迷惑《めいわく》をかけたんだから」
「そうだね。ま、僕《ぼく》はともかく、窪塚さんの方は確《たし》かな気がする」
「絹川君は……迷惑だって思ってないの?」
「思ってないよ」
「……そう」
冴子はそう言って健一から目を逸《そ》らして、しばらく何も言わなかった。
それで健一は冴子が寝《ね》てしまったのかと思った。
「絹川君」
でも、冴子はやはり寝ていなかった。
「なに?」
「お願いがあるの」
「お願い? 別にいいけど、僕にできることなら」
「……わざわざ、お願いするようなことですらないかもしれないけど」
「いいよ。そういうの慣《な》れてる。というかむしろ命令されてあれこれする方が慣れてるから、いちいち断《ことわ》ってくれなくても全然」
健一は軽い調子で笑ってみせるが、冴子は真顔で彼を見ていた。
「……ごめん、大事な話なんだよね」
それで健一も真剣《しんけん》に彼女の言葉を待つ。
「私のこと絶対《ぜったい》、好きにならないで欲《ほ》しいの」
それが冴子の願いだった。
「……好きにならないで欲しい?」
健一はなんで冴子がそんなことを言ったのか理解《りかい》できず、その言葉を繰り返す。
「絶対に好きにならないで欲しいの。それを私に約束して」
それを改めて口にした彼女の目には涙《なみだ》が溜《た》まっていた。悲しくも強いその気持ち。それがどこから湧《わ》いてくるものなのか健一にはわからなかった。
「そんな約束にどんな意味があるの?」
健一はそう尋《たず》ねるが、冴子はそれには黙《だま》って首を横に振《ふ》る。そしてまた健一の方をじっと見つめて口を開いた。
「お願いだから……約束して。そうしないと私、ここを出ていかないといけないの」
「どうして……」
そう言いかけて健一は口を閉《と》ざす。その問いの答えはもうわかっていた。さっきと同じだ。無言の否定《ひてい》。冴子が決して語ろうとしない何かに、この約束の理由があるのだろう。
「絹川君は大海さんが好きなんでしよ?」
「それはそうだけど」
「だったら、私のこと、好きになるなんてこと……ないよね?」
冴子が確認《かくにん》するようにそう尋ねる。それを普通ならきっと肯定《こうてい》するだろうと健一は思った。
「……わからないよ。僕は自分の気持ちが一番わからない。今はそうだって思ってても、いざとなると違うことをするかもしれない。だから、そんな約束はできない」
でも健一は正直な気持ちを口にする。それが冴子の一番望んでいない言葉かもしれないと思いはしたが、そうしなければならないとも感じていた。
「僕がどんな人間なのかはさっき話した。大海さんがいても、僕はホタルを押《お》し倒《たお》したんだ。だから有馬さんを好きにならないなんて約束できない」
「……でも、約束を守れるって信じることはできると思う。それを信じて欲しいの。絹川君は私との約束を守れるって」
冴子の言葉に健一はそれが二人のたどり着いた結論《けつろん》のように思った。
「信じて約束をしてくれってこと、だよね?」
「……うん」
それが冴子のギリギリの譲歩《じょうほ》なのだろう。そして健一にとってもそうだった。
約束を守れるとは言い切れない。でも約束を守れないとも言えない。なら約束を守って欲しいという冴子の期待に応《こた》えたかった。
「わかった。約束する」
だから健一はそう言った。その言葉にどんな意味があるのかはわからない。でもそれが冴子を助ける唯一《ゆいいつ》の方法なのは確かな気がした。
「僕は絶対に有馬さんを好きにならない。そう約束する」
「……うん」
冴子はそれに短くそう応えて、また押し黙った。そしてまた目を伏《ふ》せて、力を抜《ぬ》いて健一に身を任《まか》せる。
「…………」
それで健一は改めて考えてしまった。この約束の意味を。どうして冴子はそんなにもこの約束にこだわったのだろうか、と。
でも健一の思考は冴子の言葉で途切《とぎ》れる。
「ね、絹川君、電気消してもいい?」
「え? あ、いいけど……」
「私、明るいのダメなの」
冴子の言葉に、健一は妙《みょう》な違和《いわ》感を覚える。教室での冴子はいつも窓際《まどぎわ》で外を見ている。そんな彼女が明るいのがダメなんてことがあるのだろうか。
そんなことを思ってる間に冴子は立ち上がり壁《かべ》についているスイッチで電灯を暗くする。
「…。随分《ずいぶん》、暗くするんですね?」
健一はそれでも暗さに目が慣《な》れるのを感じ、冴子が戻《もど》ってくる気配を感じる。
「絹川君は明るい方が好き?」
「別に明るいのに好きも嫌《さら》いも……」
健一がそう答えかけた時、布《ぬの》のすれる音が聞こえた。
「有馬さん?」
音は冴子の近づいてきた方向から聞こえた。そしてそれはさらに続く。健一はその昔が何か知りたくて冴子の名前を呼《よ》んだが、返ってきたのは答えではなく、確認の言葉だった。
「私のこと絶対《ぜったい》、好きにならないって……約束できる?」
「……はい」
健一はその返事で近づいてきた冴子を見て、やっとさっきの疑問《ぎもん》の答えがわかった。
暗闇《くらやみ》に立つ冴子はすでに、制服《せいふく》を脱《ぬ》いでいた。そしてそれはなんのためかは、もうハッキリしていた。
「あ……」
でもその答えを言う前に健一の口は塞《ふさ》がれる。柔《やわ》らかく冷たい冴子の唇《くちびる》によって。
やっぱり自分はおかしいんだ。
健一は目を覚まし、最初にそう思った。隣《となり》ではまだ冴子が寝《ね》ていた。
外はまだ暗いがもう朝が近いんじゃないかという気がした。それで結局、少し蛍子のことを思い出す。
「……怒《おこ》られるかな」
健一はそう呟《つぶや》いて、そんなことで心配してる自分はやっぱりおかしいと思う。
帰ってこなくていいと言った相手に怒られるのを心配してる場合ではないのだ。
寝る前に自分のしたことは、もっと許《ゆる》されざることのはずだ。でも冴子の寝顔を見るととてもそうは思えなかった。
寝れないことを語ることもできず苦しんでいた彼女が、今、静かに寝息を立てている。そしてそれが自分のした許されざることによって得られたものなのかは確《たし》かなことだった。
自分のしたことは悪いことなのだろうか? その疑問には「そうだ」と答えるしかない。
でも、それだけではないと思いたかった。それが人には言えないことであっても。
「結局、また流されてしまったってことなのかな……」
健一はそれに関してもそうなんだろうなあと思うしかない。でも、やはりそれだけではないと思いたかった。
「やっぱり帰るか……」
健一はそう思い立つと服がどこかに行ってしまってるのに気づく。
それでゆっくりと立ち上がると部屋の間取りを思い出し、電灯のスイッチを探《さが》す。暗くても昔、ずっと暮らしてた部屋だ。見当《けんとう》がつくと思っていたが、どうも距離《きょり》感が違《ちが》うらしい。すぐに壁までの距離を測りかねる自分に気づく。
「と……」
それでもなるべく音を立てぬように静かに移動《いどう》して、健一は壁をさすりスイッチを探《さぐ》り当てる。スーッとレバーを右に動かすと部屋がそれに合わせて明るくなっていく。
「……絹川君?」
少し加減《かげん》を間違えたらしい。明るくしすぎたせいで、冴子が日を覚ましてしまう。
「ごめん……起こす気は無かったんだけど……」
健一は声に呼ばれる形で冴子の方を見て、彼女も裸《はだか》なのに気づく。
「ダメ!」
甲高《かんだか》い悲鳴。冴子が自分の胸《むね》の辺りを隠《かく》しながら叫《さけ》ぶ声に健一は慌《あわ》てて目を背《そむ》けて、手探りで電灯をまた暗くする。
「……うわ」
また加減を間違えて、今度は真っ暗にしてしまう。でも、とりあえずそれでいいだろうと健一は思って、一つ深呼吸《しんこきゅう》をして落ち着くことにする。
「……ごめん。明るいの嫌いなんだよね」
「怒ってるわけじゃないの。恥ずかしかったから、つい大声を上げただけで……」
そう言いながら冴子は移動しているようだった。それが止まって、今度はごそごそと何かしている音がする。きっと体を隠すものを探してたんだろうと健一は思う。
「もう電気つけて、大丈夫《だいじょうぶ》だから」
そしてそれが正解《せいかい》だったらしく、冴子のそんな言葉が聞こえる。
「……今度は僕が恥ずかしいかなと思い始めました」
健一は自分はまだ裸だと改めて気づいて、何か自分も隠すものを探そうと思った。
「……いつも、その、暗くしてしてたんですか?」
少し落ち着いたところで、健一はそんなことを尋《たず》ねてしまった。
明るい部屋の中で、冴子はタオルケットを体に巻《ま》いてソファに座《すわ》っていた。その下はきっと裸なのだろうが、それは恥ずかしいとは感じないのだろうか? とも思うが、それは口には出さない。
「そんなこと聞くなんて、絹川君って思ってたよりエッチなのね」
冴子はそれをそんな風な言い方で軽くいなしたようだった。しかし不愉快《ふゆかい》に思っているという風でもない。それを見て健一は、彼女は自分よりずっと大人なのだなと思ったりする。
「ですかね……」
「そんなに気になる?」
「……いや、まあ、なんかさっきの大声がまだ耳に残ってて」
「誰《だれ》とでも寝る女があんな風に叫ぶとは思わなかったってこと?」
「そういう意味じゃないけど……それに話を聞くかぎり、誰とでも寝るってわけじゃない感じがしたし」
「相手を選んでいても、次々に別の人としてれば『誰とでも寝る』って世間では言うと思う」
「まあ、そうかな。そうだね」
健一はなんだか上手《うま》くはぐらかされたなと感じつつも、冴子が元気そうで良かったなとも思う。昨晩《さくばん》の寝《ね》る前の冴子とはまるで別人のような余裕《よゆう》を感じてしまう。
「ちなみにさっきの絹川君の質問《しつもん》の答えはイエス」
「え?」
「いつも暗くしてたってこと。知りたかったんでしょ?」
「……まあ、そうですけど」
健一はなんだか冴子のテンションが高いのを感じる。やっぱり別人のようだ。
「他《ほか》に聞きたいことは?」
「……そうやって改めて聞かれると聞きづらいな」
「そうだと思ったから聞いたの」
冴子はそう言って笑う。なんだか本当に楽しそうだ。
「でも、どうしようかな、これから……」
そして、そのままのテンションでなんだか悩《なや》み始めた様子を見せる。
「どうするって?」
「私、同じ人とは二回しないことにしてるの……って言っても、一晩だけって意味」
「すみません……何度もして」
健一は思わず謝《あやま》る。冴子はそれを聞いて、ぷっと吹《ふ》き出した。
「そんなことで謝られても困《こま》るわ」
「そうですね……で、なんでしたっけ……」
なんか大事な話の腰《こし》を折ってしまったらしいので健一は自分は静かにしておこうと冴子の方を見る。
「私ね、同じ人は一晩限《かぎ》りって決めてるって話」
「一晩限り……ですか」
健一はそれで、冴子の噂《うわさ》を思い出す。彼女が男をとっかえひっかえしているとか、学校中の男子を狙《ねら》っているというのも、そうなると事実無根というわけではないのだろうか。
「何度もすると色々なこと要求されそうで怖《こわ》いの」
「色々なことですか」
健一はどういう意味なのか考えながら冴子を見る。冴子は気恥ずかしそうに視線《しせん》をそらす。
「……絹川君ってエッチなのね」
「え? あ、いや、あ、そうか。そういう意味ですよね……すみません」
つまり、あんなことやこんなことということかと健一は思う。
「知らない人相手ってのも怖いの、私」
「僕《ぼく》は知ってる人の方が後で色々問題になりそうな気がしますけど……」
「次の日から気まずくなるようなことはいきなりできないかなって、期待してのことなの。男の入ってそういうところではナイーブだから」
「……なるほど」
健一はイマイチ実感は無かったが、言われてみるとそうだなと思う。
「知らないオジサンとだと、やりたいことだけして逃《に》げてもいいわけでしょ? しかも実は心中覚悟《かくご》の人だったりして『お前も殺して、俺《おれ》も死ぬ!一緒《いっしょ》に死んでくれ!』とか言い出すかもしれないし」
「……そう言う人に偶然遭遇《ぐうぜんそうぐう》する確率《かくりつ》は凄《すご》く低い気がしますけど」
「そうね。でも私、トラブルに巻き込《こ》まれやすいみたいだから」
「だからって、そんな人にはやっぱり会わないって思うけど……」
「でも、知ってる人ならそういうことは絶対《ぜったい》に無いでしょ」
「まあ、そっちの方がそう言う意味では安全ですね、確《たし》かに」
健一はそれはそれで筋《すじ》が通ってるのは感じるが、やっぱり冴子の考えはかなり独特《どくとく》なような気がした。彼女は妙《みょう》な噂を流されることは恐《おそ》れておらず、その日が安全であるかどうかの方を重視してる……ということなのだろうか。
「八雲さんを誘《さそ》うのはさすがにまずいわよね」
「え?」
「八雲さんよ。管理人さん」
「……どうなんでしょうね。あんまり気が進みませんけど、僕も」
健一はこんなことを提案《ていあん》したら彼はどう思うんだろうと考えてしまう。そして冴子の特殊《とくしゅ》な事情《じじょう》を知った今でも、やはり自分の知り合いが冴子と関係を持つというのはあまり気分のいいものではないなと感じる。
「ね、絹川君は八雲さんに彼女がいるって思った?」
そんな健一に笑いをこらえながら、冴子が尋《たず》ねてくる。
「え? 彼女いるんじゃないんですか?」
「私は……微妙《びみょう》かなあつて思ってる。あの時は綾さんがこれ以上、変なこと言わないようにああは一言ったけど……少なくとも、経験《けいけん》は無いと思うな」
「……そう言うのってわかるんですか?」
「色々な男の人としてるからわかるわよ――って言わせたい?」
冴子は意地悪そうな笑《え》みを浮《う》かべてさらりと釘《くぎ》を刺《き》してきた。
「いや、そういう意味ではなく……僕はそう言うのさっぱりなんで」
「けっこうわかるかな。人との距離《きょり》の取り方とか、傾《かたむ》き方とかで」
「傾き方……?」
「八雲君って、向こう側に倒《たお》れてる人なの。人と話す時。だからそうなのかなって」
「向こう側に倒れてる……」
要するに少し引いてるということだろうか。
「絹川君は彼女とはしてないでしょ?」
「……そういうのもわかるんですか?」
「絹川君と大海さんって一緒に歩いてるのを後ろから見ると、こう――」
そう言って冴子は両手の人さし指を並《なら》べて立てて、それを左右に離《はな》すように動かす。
「頭が離れてるのよ」
「……それは知りませんでした」
健一はなんとなく冴子の言うところの「傾き方」と言う言葉の意味がわかった気がした。
「傾き方は人それぞれなんだけど、相手によって変わるの。それを見てれば、お互《たが》いの関係がわかるような気がするの」
「なるほど……今度、観察してみます」
健一は感心してそんなことを言うが、それがおかしかったのか冴子は短く笑ったようだった。
「……それにしても、今晩《こんばん》からどうしたらいいと思う?」
「どうって言われても……とりあえず僕ではまずいんですよね?」
「絹川君だって迷惑《めいわく》でしょ?」
冴子が少し顔を寄《よ》せた気がした。それで息がかかる。
「迷惑だから言ったわけじゃなくてですね……。有馬さんが同じ人とはもうしないって決めてるってことだったからで、それが別にどうでも良いというなら……」
「大海さんのことは平気なの?」
「……彼女、悲しみますかね、やっぱり」
健一は自分でも何を言ってるのだろうと思う。そんな分かりきったことを、しかも冴子に聞いてどうするのだろう。
しかし冴子の返事はそれを肯定《こうてい》するものではなかった。
「どうかな。彼女は強い人だから……私にはよくわからない」
「どっちにしろ、もう手遅《ておく》れですよね。もう……こうなってしまってるんだし」
「綾さんやホタルさんのことは私にはわからないけど、私との関係で言うなら……黙《だま》っていれば大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。後は絹川君の心の問題」
「……どういう意味ですか?」
「私、外では絹川君とは話さないし他人のままでいるから。昨日の夜のことは、この部屋の中だけの秘密《ひみつ》ってことにできると思う。それよりも問題は……」
冴子がそう言って少し顔を赤らめて、視線《しせん》をそらすのが見えた。
「他にも問題があるんですか?」
「いやその……」
そしてさっきまで余裕《よゆう》を見せて笑っていたはずの冴子が急に落ち着かない様子を見せる。
「私ってエッチな娘《こ》だったんだなって、思っちゃったから……絹川君とはもうこれきりにした方がいいかもしれないって……」
「……え?」
「昨日も言ったと思うけど、私、エッチが好きなわけじゃないの。き、気持ちいいとかそういうことも思ったことなくて、しないと眠《ねむ》れないから、してるだけって思ってたんだけど……」
「言ってましたね、そういうことを」
「絹川君っていつも心ここにあらずって感じで、目の前にいる人もちゃんと見てるのかなって不安にさせるような人だなって思ったのに……エッチの最中は……すごい鋭《するど》いのね。ちょっと反応《ほんのう》しただけなのに、容赦《ようしゃ》なく攻《せ》めてくるんだから……」
「それって……あの……」
健一はやっと冴子が何を言おうとしてるのかわかったような気がした。支離滅裂《しりめつれつ》な彼女の言い分を総合《そうごう》すると、それはつまり……。
「昨日はその……感じちゃったってことですか?」
「あんなにずっとされたら、誰だって……そうなると思うし……多分、私がってことじゃなくて……絹川君が……特別、エッチなだけで……男の人が一日に四回もできるなんて……知らなかったし……」
健一はそう言いながら真っ赤な顔をして俯《うつむ》いていく冴子を見て、己《おのれ》が高ぶっていくのを感じた。さっきまで大人のような余裕を見せていた少女が、今は必死に昨日の自分の反応を否定《ひてい》しようとしている。
「………そういうこと言う有馬さんも十分、エッチな気がしますけど」
健一はなんだか意地悪な気持ちになっていくのを感じた。さっきまでとは立場が逆《ぎゃく》になった気がして態度《たいど》が大きくなっていく。
「そういうこと、言うなんて……本当に絹川君ってエッチなのね……」
そして消えそうな声で呟《つぶや》く冴子の顔をのぞき込むように見る。彼女は俯いていたが、沈黙《ちんもく》に不安を感じたのか助けを求めるような視線で健一を見上げた。
「私、変になってる……かも」
冴子の赤い唇《くちびる》がそう告げるのが見えた。
「……僕も変になりそうです」
健一はそう言いながら、もう自分がまともじゃないのを感じていた。
「私のせいよね……」
冴子を抱《だ》き寄せて、その唇に触《ふ》れる。それで冴子の動きが止まったようだった。しかし健一が離れると、冴子の唇は短く、拒絶《きょぜつ》の言葉を発する。
「やっぱりダメ……」
「ダメって言われても……」
健一は自分の止まらぬ気持ちに急《せ》き立てられながらまた彼女に近づく。
抱きしめた彼女は柔《やわ》らかかった。そしてその声も、きっと心も。冴子の言葉と態度の矛盾《むじゅん》に健一の心が一瞬《いっしゅん》止まる。そこに冴子の言葉が流れ込んできた。
「さっきのは明るいのは恥ずかしいから……だから……」
さっきの拒絶の言葉は、健一が感じたのとは別の意味だった。
「じゃあ、暗ければいいんですか?」
だからもう止まらなかった。
健一が家に帰った時にはもう外は明るくなっていた。朝ご飯を食べて学校に行く時間にはまだ早いが、もう新聞配達は終わる頃《ころ》だった。
蛍子を起こさないようにと静かに家に入った健一は、台所に向かい朝ご飯の準備《じゅんび》をする。朝は普段《ふだん》はあまり食べないが、ひどくお腹《なか》が空《す》いていた。
「乱交《らんこう》パーティは楽しかったか?」
そんなところに音もなく蛍子が入ってくる。どうやら起こしてしまったらしい。階段をいつ降《お》りてきたのかわからなかったが、換気扇《かんきせん》の音で聞こえなかったのだろうかと思う。
「だから乱交パーティじゃないって……」
そう言い返したものの、あんまり偉《えら》そうに反論《はんろん》できるような状況《じょうきょう》ではない気もした。半分くらいは当たっていると言えなくもない。
「でも、随分《ずいぶん》と楽しいことは楽しかったと」
蛍子はそれを察したのかそう言って、リビングのソファにボスッと音を立てて座《すわ》る。
「こっちは最悪の気分だ。腹は減《へ》るし、弟は無断外泊《むだんがいはく》するし」
「ホタルが帰って来るなって言ったんだろ?」
「本当は帰ろうと思ってたけど、楽しくて時間も忘《わす》れたって方に私は賭《か》ける」
「……いつも思うんだけど、なんで自信満々にそういうことが言えるわけ?」
「お前の行動パターンはわかりやすいからな」
蛍子はそう言うと健一が置いておいた新聞を手に取り、適当《てきとう》にめくり始める。
「わかりやすいのか……俺……」
健一はそれで蛍子の言葉が止まったので、朝ご飯の準備の方に集中することにする。後ろでチンと音を立ててトーストが焼き上がり、健一はそれを合図にフライパンに敷《し》いたベーコンの上に卵を割《たまごわ》る。
じゅっと音を立てて、透明《とうめい》な卵の中身が白く固まっていく。
「私のはベーコンいらないからな」
そこに蛍子の声がまた飛んでくる。
「だったら自分で作れば」
「無断外泊の罪《つみ》を償《つぐな》い、しばらく食事はお前が担当《たんとう》しろ」
「単にもう面倒《めんどう》くさくなっただけだろ、それ……結局、ホタルはギョウザしか作れないし」
「焼きそばだって作れる。姉をバカにするのは止《や》めろ」
「だったら弟をバカにするのはやめろ。焼きそばくらい誰《だれ》でも作れるし、そんなこと自慢《じまん》するなよな」
健一は黄身に火が通り始めたのを確認《かくにん》して火を消して、出来上がったベーコンエッグを皿に移《うつ》す。それで次を作ろうと思ったら、気づくと蛍子がすぐ側《そば》まで来ていてベーコンエッグとトーストをさらっていく。
「おい、さっきベーコンいらないって言ってたくせに」
「気が変わったんだよ。自分の分はこれから作ればいいだろ?」
「まあ、そのつもりだったけど……」
健一はこれ以上、口論する気になれず、冷蔵庫《れいぞうこ》を開けてまたベーコンを取り出すところから始めることにする。
「で、お前、いつ帰ってきたんだ?」
「別にどうでもいいだろう?」
「良い訳《わけ》あるか。私はお前の保護者《ほごしゃ》代わりだ。常識《じょうしき》的な時間に帰って来るなら、学校終わった後何してるかまで詮索《せんさく》する気はないが、朝帰りに関しては見過《みす》ごすわけにいかない」
「……友達のところに泊《と》まってたんだ」
「友達ねえ。女だろ、やっぱり」
「女だとなんだって言うんだよ?」
「彼女でもない女友達のところにお泊まりしておいて、なんだって言うんだと来たか」
蛍子のその言い分にはさすがに健一はぐっと言葉につまる。
「お前、そのうち彼女を泣かすぞ、んなことばかりしてる、と。本当に何が不満なんだ。あの娘《こ》でダメならお前、一生、恋愛《れんあい》なんてできないぞ」
「んなこと、ホタルにとやかく一言われたくない」
「それともお前はあれか……年上の方が好みなのか?」
「さあね」
健一はまともに話す気になれず、そんな返事をする。しかしそこにかみつくように蛍子の言葉が響《ひび》く。
「ちゃんと答えろよ。お姉様が聞いてるんだろうが」
「俺《おれ》がどんな好みしてようが自由だろ?」
「まあ、ちゃんと家に帰って来るならなあ……」
そう一言われると健一もあまり強くは出れないが、蛍子のこの執拗《しつよう》な追及《ついきゅう》は何か別の理由があるような気がしてならない。
「それに関しては以後、気をつけるので今回は見逃《みのが》してくれよ」
健一は自分の分の料理を終えて、台所からリビングの方へと移《うつ》る。
「……まあ、初犯《しょはん》だからな、よしとしてやる」
蛍子はしばらく考えてそう判断《はんだん》したようだった。それで健一はホッとして、初めてちゃんと蛍子の方を見れた。
「あれ? ホタル、ちゃんと服着てるんだ」
健一はそれでそんな感想を漏《も》らした。それは別段《べつだん》不思議なことではないのかもしれないが、寝起《ねお》きのまま降りてきたにしては、蛍子は普段《ふだん》よりずっとちゃんとした格好《かっこう》をしていた。いつもならTシャツに下はパンツだけとかそんな格好だが、パジャマを着ているのだ。
「……お前は姉を裸族《らぞく》か何かだと思ってるのか?」
「いや、だってこの季節なら、もっと適当な格好だろ。寝起きの時なんかパンツだけとかで父さんに怒《おこ》られたりしてたし」
「なんだ、また姉の胸《むね》が見たくなったのか。それならそう言え
「誰がそんなことを言ったんだよ! 俺はただちゃんと服を着るようになったんだなって褒めただけだ」
「ちなみに、あんまり褒めてるようには聞こえなかったぞ」
「まあ、これからもそうしてくれってこと」
「また襲われると困るからな。あの一件以来、あんまり薄着をしないようにしてる。それに今頃《ごろ》気づくとはお前の観察力の無さには感心するしかない」
「……そうだったかなあ」
健一はそれでなんで今更《いまさら》、そんなことに違和《いわ》感を覚えたのかと記憶《きおく》を探《さぐ》る。
「あの時は裸《はだか》で寝てたろ……確《たし》か」
「あの時っていつだ? いずれにせよ、裸で寝てたことはない。お前の適当《てきとう》な記憶力で姉を嘘《うそ》つき呼《よ》ばわりするのはやめろ」
「そうだっけ? ほら、服をくれって俺が言った時だよ。あの時、ホタル、ドァを開けようとしたら、服着るまで待ってろって言っただろ?」
健一がその記憶に確信をもって尋《たず》ねると、蛍子は言葉を失ったようだった。
「…………」
「ほら、やっぱりそうだ。何が適当な記憶力で姉をバカにするなだよ。ホタルの方がよっぽど適当じゃないか」
「あ、あれはだな……」
「なんだよ? 確かに服を着て無いって言ってたぞ」
「だから……いや、うん。あの時だけは裸で寝てた。でもあの時だけだ。一糸纏《いっしまと》わぬ姿《すがた》で寝てたのはな。おっと、想像《そうぞう》するなよ」
「……言われなくてもしないし」
「そうか……だったら、さっさと学校へ行け。私はまた寝るけどな」
そして蛍子は吐《は》き捨《す》てるようにそう言うと、そのまま部屋を出ていく。
「洗えとは言わないけど、流しに持っていくくらいはしろよ……」
健一は残された自分と、蛍子の食べた後の皿を思い、そう呟《つぶや》いた。
あまり寝てないせいで、少し興奮状態《こうふんじょうたい》だった気がする。しかしそれも食事をして、落ち着くと収《おさ》まってきた気がする。
そのせいだろう。気分が落ち込《こ》んできた。きっと比較《ひかく》してということでしかないのだろうが、冷静に現状《げんじょう》を把握《はあく》しようとしている自分に気づかされる。
またしても自分は爆弾《ばくだん》を抱《かか》えてしまった気がする。特に昨晩《さくばん》はともかく、今朝の冴子とのことは最悪だと思った。なにせ、本当にただの浮気《うわき》だ。
性欲《せいよく》に負けました――というだけのことだ。
あの状況《じょうきょう》でそれを止められる人間は本当に聖人君子《せいじんくんし》くらいのものだろうとか言い訳《わけ》したところで、やっぱり悪いことをしたという事実は変わらない。
綾とのことは事故《じこ》だったかもしれない。蛍子とのことも、そう言えないこともない。
でも今朝のことは事故ではない。そして健一はこれからもそれを続ける気でいたのだ。それは一体、どういう神経《しんけい》が決定したことなのか。今、冷静に考えると理解《りかい》に苦しむ。
絹川は千夜子の彼氏だって自覚が足りないんじゃないの?――とツバメは言っていたが、もう言い返す言葉はありそうにない。あったら、あんなことをする以前に、しなければいけない状況にすらならなかったはずだ。
「お前、そのうち彼女を泣かすぞ……か」
そして、その言葉を思い出すと蛍子の方がそう言う意味ではよっぽど状況を理解してるような気がした。ろくに話をしてないのに、自分よりも蛍子の方が正しく認識《にんしき》している気がする。
そして蛍子のその言い分は本当にもっともだ。蛍子に言われたので思わず反発したが、そんなはずはないとはとても思えない。
「……ふぅ」
とりあえず溜《た》め息をついた。もう自分が取り返しのつかないところにいるのを今更のように感じた。そこにいつからいたのか。それはわからないが……確かに自分はもう十分にヤバイところまで踏《ふ》み込んでいる。
「絹川君」
そこに元気な明るい声。
「……大海さん」
そしてそれは千夜子《ちやこ》が自分を呼んだ声だった。健一は振《ふ》り向いて、少し足早に自分に向かってくる千夜子を見守る。
声と同じく元気で明るい少女だった。蛍子は彼女に何か不満があるのかと言ったが、本当にその通りだと思う。彼女でダメなら一生恋愛《れんあい》なんてできないとも言ってたが、それもその通りだろう。
でも、また健一は感じてしまう。いつものあれだ。
僕《ぼく》に恋愛は向いてない――。
きっとそれも間違《まちが》っていない。それがどういう意味で、なんでそう思うのかはわからない。でも、千夜子を見ているとそれに疑問《ぎもん》を持つだけ無駄《むだ》なような気がしてくる。
「昨日の用事、そんなに大変だったんですか?」
そして自分を気づかう彼女の言葉。
「え?」
「疲《つか》れてるみたいだから……そうなのかなって……」
千夜子は自分が見当違いのことを言ったのかと不安になったようだった。しかし健一は間違っているのは彼女ではなく、自分の方だとハッキリと自覚する。
「いや、うん。疲れてると思うよ。心配してくれてありがとう」
「そんな感謝《かんしや》されるようなことじゃないですから」
「……でも、ま、わかるほど疲れてるかな?」
「なんとなくです。なんとなく」
「そっか……」
「それにしても、そんなに大変な用事だったんですか?」
千夜子が取り戻《もど》した無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》。それに健一は正直に答えることは出来なかった。
「まあ用事の方はそうでもなかったんだけど……予定外のことが色々あってね……」
嘘《うそ》ではないが、本当とも言い難《がた》い言葉だ。健一はそう感じる。
「……じゃあ、まだ早いですしゆっくり歩きましょうか」
でも千夜子はおずおずと手を伸《の》ばしながら、そんな提案《ていあん》をしてくれる。
「……うん」
健一はそんな彼女の手の柔《やわ》らかさを感じながら、やっぱり自分には何かが欠けているのだろうなあと思うしかなかった。今、自分はこんなに彼女の優《やさ》しさを感じてるのに、また例の言葉を心の中で繰り返したからだ。
僕に恋愛は向いてない −。
そうでなければ、どうして自分はこんな状況になっているのだろう。健一はそう思いながら、千夜子に向かって心持ち頭を近づけた。
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エピローグ 弟は私を嫌《きら》ってる
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高校三年を控《ひか》える春休み。なのに絹川蛍子《きぬがわけいこ》は学校にいた。
しかも美術準備室《びじゅつじゅんびしつ》。美術部の部室である美術室の隣《となり》にある小さな部屋だ。本来は美術の授《じゅ》業《ぎょう》のための資料《しりょう》を雑然《ざつぜん》とでも置いておく場所なのだろうが許可《きょか》を得て使わせてもらっている。
静物デッサンをするためだ。一日で終わらないその作業を続けるためには、そのままにしておいても怒《おこ》られない十分なスペースがいる。春休みなので美術室を使ってもいいのだが、誰《だれ》かが勝手に使うことも考えて顧問《こもん》の荒幡《あらはた》が準備室を貸《か》してくれたのだ。
そして蛍子は今日もデッサンにいそしむ。それは実に単調な作業と言ってよかった。白い石膏像《せっこうぞう》を見て、その形を陰影《いんえい》を紙に正確《せいかく》に写し取る。それだけの、作業だ。しかしそれだけの作業が、始めると何時間でもかかる。
白い紙のどこに木炭《もくたん》を使って黒をおくのか。それを練りゴムですくい取るのか。石膏像と目の前のイーゼルに置かれた紙の間を見比《みくら》べながら繰り返す。そこには芸術性《せい》や創作性《そうさくせい》というものは何もない。ただの技術《ぎじゅつ》的な修練《しゅうれん》でしかない。剣道《けんどう》で言えば素振《すぶ》りのようなものだ。しかしそれなくして思い通りに絵を描《か》くことなどできない。
だから蛍子はそれを続ける。それだけのために春休みを全て使う気ですらあった。そして蛍子にとってはそれは自然な選択《せんたく》だった。
「もう大変なのよ、これが」
「突然《とつぜん》、できるなら私は弟の方がいいなあ」
しかしそれに付き合ってくれているらしい美術部員の二人は違《ちが》うようだ。蛍子が石膏像を睨《にら》んでいる後ろで何やら話をしている、ずっと。昼過ぎに学校に来たから、かれこれ三時間。ただ話すために来たということだろうか。
「……あのさ」
蛍子はずっと無視《むし》していたが、さすがに我慢《がまん》ならなくなり、デッサンを中断《ちゅうだん》。二人の方を見る。それでその一人、背《せ》の低く髪《かみ》の短い少女の方が困《こま》ったような笑顔を見せる。
三条宇美《きんじょううみ》。一年の時に美術部で知り合って以来の友達だ。
「邪魔《じゃま》だった、かな?」
「邪魔ってことはないけど、もっと有意義《ゆういぎ》に過ごせば? わざわざ春休みに学校に来て何をしてんだか……」
「それがさ、静流《しずる》の家が大変なことになってるんだって」
もちろん蛍子は二人の話の内容《ないよう》を聞きたかったわけではない。でも宇美は今さっき話したことを言いたくてしょうがなかったらしい。そしてもう一人の、少し肉付きの良い髪の長い方の友人、有馬《ありま》静流が話に加わってくる。
「そうなのよ。蛍子は興味《きょうみ》無いかもしれないけど、うちの父親に愛人がいるのが発覚してさあ、お母さんがカンカンでさ。しかもその愛人にね、娘《むすめ》がいてさ……って、これはもちろんうちの父親とその愛人の子供《こども》なんだけど……って、そういう話は興味が無い?」
しかし話している間に蛍子の顔を見て、自分が場違いなことをしていることに気づいたらしく、口を閉《と》じる。
「ない」
そして蛍子は駄目押《だめお》しの意思表示《ひょうじ》をする。
「でもさあ、友達の家庭が崩壊《ほうかい》しかかってるんだから、もう少しなんかあるんじゃない?」
しかし宇美の方は諦《あきら》めてなかったらしい。蛍子に食い下がる。
蛍子はそんな宇美をいつものことだなあと感じる。宇美だけは蛍子が噛《か》みそうな顔をしても平気で近づいてくる。大人しそうな外見のくせに、本当は噛みつかないことを知って近寄ってくるのだ。けっこう強者《つわもの》なのだ。
「そうかもしれないけど、今はデッサンの時間だし、そのために学校に来てるんだ」
蛍子はそれでもしょうがないなと思う。木炭を置いて、二人の話に加わる。
「蛍子のそういうところ、私、好きだなあ」
宇美は蛍子を評価《ひょうか》してニッコリと笑う。なんだか少し芝居《しばい》がかってる。
「で、なんでそれで家庭崩壊になってるわけ?」
蛍子が少しやる気なさげに尋《たず》ねると、静流の方が大げさに口をあけて笑った。
「あはは。別にそこまでの話じゃないよ。単にうちの母親が怒《おこ》ってて、うちの兄貴《あにき》連中がその娘に欲情してるだけ」
「だけって……その娘ってつまり静流の妹で、その兄貴連中の妹でしょうが」
「そうなんだけどさあ。まあここまで知らずに育ったわけでしょ? しかも、ほら、愛人の娘ってのがポイントでさあ」
「って言うと?」
「体で金もらってる女の娘だから、見栄《みば》えはいいのよ。しかも母親に教育されたんだかなんだかしれないけど、男を惑《まど》わすテクニックを持ってるから……」
「母親の方はともかく、娘の方までそうとは限《かぎ》らないと思うけど」
蛍子はうんざりしたように吐《は》き捨《す》てる。どうにもその手の話題は苦手だ。男と女とかそういう生臭《なまぐさ》い話がどうにも受け付けない。
「ま、うちの兄貴連中がその娘に色めき立っちゃっててさあ……ああ、男ってやっぱりケダモノなんだなあって思ったわけ」
しかし静流はそんな蛍子の気持ちなど無視して自分の話を続ける。その途切《とぎ》れた会話を拾うように宇美が加わってくる。
「とか言いつつ、静流はそのケダモノが大好きなんでしよ?」
「時にはね。でも基本《きほん》的には私を酔《よ》わせてくれる紳士《しんし》を募集《ぼしゅう》してますのよ。おほほ」
静流はそれでわざとらしく貴婦人《きふじん》のようなボーズをとって笑う。
蛍子はそんな静流が正直、あまり好きになれなかった。資産家《しさんか》の娘でお嬢《じょう》だが、どうにも下品で適《かな》わない。別に悪い人間とは思わなかったが、部室に来て昨日捕《つか》まえた男がどうこうとかそんな話されても嬉《うれ》しくはない。今日はそういう話題ではないが本当になんでわざわざここに来てるのだろうと思えてしまう。
「私は今日、突然《とつぜん》弟ができて、それが可愛《かわい》い子だったらちよっといいかもって思うかなあ」
しかし宇美はそんな静流も嫌《きら》いではないようだった。普通《ふつう》にそんな会話に乗っている。
「本当に? 私は絶対《ぜったい》無理だなあ」
「ま、私の場合、実際《じっさい》にそうなったらってことじゃなくてさ、想像《そうぞう》の世界ね。小学三年生くらいの可愛い男だったら、もう仲良くしちゃう」
「まあ、宇美はお子様だもんね。本人も好みも」
静流はそう言って宇美が怒つたのを見て、蛍子の方へと視線を向ける。
「やっぱり興味無い?」
「だからさっき、無いって言ったろ?」
蛍子はムッとしながら答えるが、静流はそんな蛍子へと微笑《ほほえ》みかける。
「本当、蛍子はムキになりすぎ。コンクール用の作品もあがったんだから、少しは休めばいいのに。そんなに毎日、毎日、絵ばっかり描《か》いてて楽しいわけ?」
「楽しいさ。そうでなければこんなことするわけないだろ?」
「……ま、そうだけど。でもさあ、こうして話すのだって楽しいでしょ? 蛍子は私と話しても楽しくないかもしれないけど。でも楽しさって色々とあると思うからさ、絵ばっかり見てないで他《ほか》のことを知ろうとしても良いんじゃない?」
「それで静流は男あさりってわけ?」
「ま、人生勉強。男の子もさ、ちゃんと近づいてみれば一人一人違《ちが》うの。口説き方だって、キスの仕方だって、本当、十人……なんだっけ?」
「十人十色《といろ》」
「そそ、それなわけ」
「全然、説得力無い」
蛍子はやっぱり気が合わないなと思ってしまう。
「そう言えばさ、蛍子って弟いるんじゃなかったっけ?」
それを察したのか静流が不意に話題をねじ曲げたようだった。
「……いるけど」
「本当に弟がいる人間としては、どう? 突然、弟ができたらそれって恋愛《れんあい》対象とかになりそうな感じとかする?」
「……するか、アホ」
蛍子は本当に話題に乗る気になれず、そんな言い方をしてしまう。静流は困《こま》ったねと言う顔をして宇美の方を見た。それで宇美が蛍子に向かって話しかける。
「ねえ、蛍子の弟さんってどんな感じ? やっぱり蛍子に似《に》て美形なのかな。だとしたら、ちょっといい感じなんだけど」
「ガキだよ、ガキ。三つ下だから、まだ中学生。今年、受験生」
「うーん。ガキなのはいいけど、もう少し下の方がいいなあ」
「いいなって言われても、宇美のためにうちの弟がいるわけじゃなし」
「ま、そうなんだけど。で、どうなの? 美形なの? 背《せ》は低い? 女の子の服を着せたら似合いそうな感じ?」
「……私には似てないし、美術《びじゅつ》にも全然興味《きょうみ》もない、ただのガキだよ」
「で、背は?」
「背は低くない。女の子の服なんか似合わない」
「ふむぅ」
宇美はがっかりしたという顔をしている。少しキツく言い過《す》ぎたかもしれないと蛍子は思う。しかしそんな蛍子に宇美が無表情《むひょうじょう》でつかつかと近づいてくる。
――怒《おこ》ったか?
そう蛍子は思ったが全然違った。突然、宇美の手が伸《の》びて蛍子の胸《むね》を掴《つか》む。
「勿体《もったい》ないよねえ。この巨乳《きょにゅう》、使わないなら私にくれてもいいのに」
「ぎゃ―! な、なにすんだ、この!」
蛍子は慌てて引き離そうとするが、宇美は一足先にすでに避難していた。その辺は妙に要領がいい。
「……なんなの、一体?」
「いやあ、だってせっかくモテそうな外見してるのに、本当に男の子の話題が嫌いだから」
「だからって人の胸を触《さわ》るな」
「だって、私にはないものだから羨《うらや》ましいんだもん」
宇美は自分のほとんどない胸を触って、それからアハハと笑う。
「でも本当、男あさりしろとまでは言わないけどさあ。少しは男の子と話した方がいいよ。やっぱ食わず嫌いってのはちょっとね」
その間に静流がまた話に割《わ》り込《こ》んでくる。
「食わず嫌いって、静流が言うとなんかヤバい感じ」
「……宇美も人のこと言う割に下品」
「ごめん」
宇美は笑ってるが、蛍子はやはり笑えなかった。それでムスッとしてたのが気になったのかまた静流が蛍子の方を見る。
「私も美術のことはあんまりわからないけど、蛍子ってさ、自分の中にこもり過ぎって感じするんだよねえ。デッサンしてるうちはそれでもいいけど、もっと色々と世界を知った方がいいと思うよ、本当。芸術家って結局、自分の世界勝負なわけでしょ? 頭でっかちで技術《ぎじゅつ》ばっかりの絵なんて私、魅力《みりょく》あるとは思わない」
静流の言い分にはそれなりに理がある気もするが、どうにも賛同《さんどう》しかねる。それは結局、静流の結論《けつろん》が気に入らないからだろう。
「で、男と話せって?」
「そうそう。蛍子のこと狙《ねら》ってる男を紹介《しょうかい》するからさ、話してみたら?」
言われて蛍子はある人物のことを思い出し、うんざりした気分になる。
「……大海《おおうみ》なら論外。これは先に言っておく」
大海というのは静流のクラスメイトの大海悟《さとる》のことだ。ちょっと前に、静流に用があると美術部に来てから何かと絡《から》んでくる鬱陶《うっとう》しい男だ。
「わお、名前覚えてるなんて脈アリかな」
なのに静流はそう言ってニヤニヤとする。
「だから全く興味が無いって言ってるのがわからない?」
「そんなに嫌《きら》うことないじゃない。大海っていいヤツだよ」
「どの辺が? この間、『付き合ってくれなくてもいいから、手でしてくれ』って言いやがったんだぞ。そんなヤツと付き合いたいって思うヤツの気がしれないって」
まったく信じられないヤツだ。何が悲しくて彼氏でもない男にそんなことをしなければいけないんだ。蛍子はそれを思い出して本気でもう勘弁《かんべん》してくれという気持ちになる。
なのにやっぱり静流は楽しそうだ。
「そ、それそれ。その後にさ、すっげー凹《へこ》んでたから、私が『慰《なぐさ》めたげよっか?』って言ったのに大海のヤツ、断《ことわ》ったんだよ。あの時は愛を感じたね、蛍子への」
「……だったら下品同士、仲よくしてれば?」
蛍子はもうあきれ果ててそういうしかない。でも宇美はそれを聞いて、なんだか嬉《うれ》しそうな顔をしている。
「ちょっといい話だよねえ、それ」
「どこが……」
「まあ起承転結《きしょうてんけつ》で言ったら結の辺りかな」
「ほとんどダメってこと、それ?」
蛍子はなんで宇美はそんなになんでも楽しそうなんだろうとか思ってしまう。宇美が嫌《いや》がることというのは何かないんだろうかと、少し意地悪な気持ちにもなる。
「だったら宇美が付き合えば?」
「え? いいよ。私はショタ萌《も》えだから」
「……ショタ萌えねえ」
蛍子はなんだかよくわからない単語を言ってニコニコしている宇美に、やっぱり適《かな》わないなあと思った。
「……あ」
帰り道、蛍子は予想外の人間とすれ違《ちが》った。それは相手もそうだったらしく、短驚《おどろ》いた声をあげるのが聞こえた。
そしてその相手は、おそらく自分にではなく隣《となり》を歩いている宇美に向かって小さく頭を下げて、そのまま通り過ぎる。その相手は蛍子の良く知った人間で、弟の絹川健一《けんいち》だった。
よそよそしく頭を下げて去っていった弟のことを考えて、蛍子はなんだかイライラしてくるのを感じる。なんでもう少し堂々とできないのだろうかと思えてしまう。
「ねね、さっきの誰《だれ》?」
でも宇美はやっぱり楽しそうだ。
「さっきのって?」
「さっきの美少年よ、美少年!」
「……ああ、あれか」
「あれかって! ま、蛍子ったら私の知らないところでああいう子と仲良くしてたわけね?宇美ちゃん悲しい……」
なんだか妙《みょうな》テンションで宇美がそんなことを言い始める。
「……仲よくしてないし」
「もう照れちゃってぇ。そっか、大海君はともかく男に興味《きょうみ》ないと思ってたら本命がいたとはねえ。あれと大海君じゃ悪いけど勝負にならないよねえ。って言っても私基準《きじゅん》だけど」
宇美はひどく嬉しそうにそんなことを言うが、蛍子はどんどん気持ちが冷え込むのを感じるだけだった。
「……盛り上がっているところ申し訳《わけ》無いけど、あれが弟」
「弟? 蛍子の?」
「他人の弟は他人でしょうが」
「あ、そうか。というか、もう全然オッケーじゃない! メッチャ好み。紹介してよ。それともあれかな、彼女いるのかなあ。いるよねえ。モチそうだもんね」
「……さあ。どうしても知りたいなら本人に確認《かくにん》を取ってみるけど」
「じゃあ、どうしても知りたいってことで、よろしくー!」
「にしても、ああいうのがショタ萌えってヤツなわけ?」
「ちょっと大きいけど、まあリアルだとああいうのもアリかな」
「……意味わからないなあ、そういう方面は」
蛍子は宇美が別世界の住人なんじゃないかなとちよっと思った。
「で、健一」
夕飯を食べながら蛍子は宇美の言葉を思い出して、一応《いちおう》聞いておかなければならないとそんな質問《しつもん》をした。宇美は明日もデッサンをする蛍子と一緒《いっしょす》に過ごすために学校へ来るらしい。その時、聞くの忘《わす》れたと返事をするわけにはいかない。
「なんだよ」
健一はそんな蛍子に警戒《けいかい》したような視線《しせん》を向ける。
「お前、年上の女は好きか?」
「年上の女?」
「たとえば、私みたいな女だ」
「だったら嫌《きら》いだ」
健一はあっさりとそう答え、そのまま食事に戻《もど》る。
「そうか」
そして蛍子も食事に戻った。
次の日は昼過ぎから五時間、黙々《もくもく》とデッサンをした。
静流がデートだかなんだかで来なかったからだ。宇美はだからずっと黙《だま》って蛍子を見ていたようだった。途中《とちゅう》、何度か席を立ったようだが、きっとトイレだろうと蛍子は思う。
「で、弟さんはどうだったの?」
蛍子が片《かた》づけを始めたところで、宇美は待ちに待ってたらしく尋《たず》ねてきた。
「年上は嫌いなんだと」
蛍子はその言葉で宇美の質問に答える。嘘《うそ》ではないが微妙《びみょう》に間違っている気がした。でも特に訂正《ていせい》しようとか説明しようとかも思わない。
「年上はダメかあ……ま、中学生から見たら私たちはオバさんかもねえ」
「……そうかな」
「私は中学の頃《ころ》は、高校生ってもう大人だなあって思ってたけどなあ。大学生とかもう想像不能《そうぞうふのう》だったし」
「言われてみればそうか」
「じゃ、もう二年待ってみるかなあ」
「その時は私たちは本当に大人になってるかもよ」
「……そうかな。私が大人になるなんて、ちょっと想像できないんだけど」
宇美がそう言ってニコニコ笑うと、本当にそんな気もする。しっかりしてないわけではないが、なんだか子供《こども》っぽいというのは確《たし》かだ。
「にしても宇美さ、付き合ってくれるのに文句《もんく》を言う気はないけど」
「ないけど?」
「毎日来るなら自分も描《か》けばいいのに。デッサンが嫌《いや》なら、別の絵でも。そうでもないと静流が来ないと何もすることないでしょ?」
「それは時間が勿体《もったい》ないってこと?」
宇美はそう言いながら、自分はそんなこと思ってないということを顔で語る。
「私、絵を描いてる蛍子のこと見てるの好きだから、別に暇《ひま》ってことないよ」
「……そういうものかね」
「それにさ、私、もう絵はいいやって思ってるの。蛍子の絵を見てたら、ああ才能があるってこういうことなんだなあって思っちゃったから諦《あきら》めちゃった」
「諦めちゃったって……私、けっこう宇美は良いもの持ってるって思ってるんだけど」
「そうなの?」
「色がね。特に赤。思いきった使い方するなって感心させられたよ、何度も」
蛍子は本当に思ってることを口にするが、宇美は何だか珍《めずら》しく悲しそうな顔をする。
「そういう風に言ってくれるのは嬉《うれ》しいけど、本当、もういいから。私さ、絵を描くと褒《ほ》めてもらえるから描いてただけなの。蛍子みたいに絵のために毎日デッサンなんて、そんな根性《こんじょう》はないから」
「……そう」
蛍子はこれ以上何か言うのは宇美が嫌がりそうだなと思って、それだけで口を閉《と》ざした。それで宇美も黙っていて、急にまた美術準備室《ぴじゅつじゅんびしつ》に静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れる。
「……………」
それで何か話さないとと蛍子は思う。でも、そういうのはやっぱり苦手だった。いかに普段《ふだん》宇美に話題を頼《たよ》ってるのか思い知らされた気分だ。
そこに、ドアをノックする音に続いて自分を呼《よ》ぶ声。
「絹川いるか?」
「あ、はい」
蛍子は沈黙《ちんもく》を破ったその声に感謝《かんしや》しながら、ドアのロックを解除《かいじょ》するために立ち上がる。
それでドアを開けるとそこにいたのは美術部顧問《こもん》の荒幡だった。まあ、他《ほか》に来そうな人間なんていそうもないのだが。
「絹川、頑張《がんば》ってるみたいだな」
荒幡は完成間近の蛍子のデッサンを見て、そう告げる。
「別に……いつも通りです」
蛍子は男嫌いで通ってはいたが、この四十過《す》ぎの顧問だけは尊敬《そんけい》していた。蛍子に学校を代表してコンクールに出展《しゅつてん》するように言ったのも彼だったし、そのために必要なことは全部してくれた。だから蛍子は作品作りに集中できたし、おかげで完成させることができたのだ。そして今日もこうやって準備室でデッサンをできるように計らってくれたのも彼だった。
蛍子の両親は特に反対もしないが、それでも特に蛍子の美術への想《おも》いを汲《く》んでくれたりはしなかった。それと比《くら》べれば感謝《かんしや》してもし過ぎることはないだろうという気がする。
「それで、どうしたんですか? わざわざ観《み》に来てくれたんですか?」
「いや、それがな……」
蛍子の前で荒幡の顔が曇《くも》る。何か良くないニュースだろうかと蛍子が身構《みがま》えたところで、荒幡が言葉を続ける。
「絹川の作品、学校代表としては出展できないことになった。すまない」
「……え?」
蛍子は何を言ってるのだろうと思った。彼が自分からそうするから作品を描けと言ったのに、なんでそんな話になるのだろうか。まったく意味がわからない。
「誰かが私の作品は学校の代表に相応《ふさわ》しくないって言ったんですか?」
それなら仕方ないかもしれない。蛍子はそうも思った。自分なりには自信作だったが、でもそれと周りの評価《ひょうか》が一致《いっち》するとは限《かぎ》らない。
「いや、絹川の作品は校長も含《ふく》め、皆《みんな》、満足していた。だから絹川の作品で行くということになっていた」
「じゃあ、なんで?」
「もっと相応しい作品が持ち込《こ》まれたんだよ」
蛍子はその言葉に頭を何かで殴《なぐ》られたような錯覚《さっかく》を覚える。それで平衡《へいこう》感覚を失いよろよろと彼女はさっきまで座《すわ》っていた椅子《いす》まで戻《もど》る。
「……なんですか、それ。そんな無茶苦茶《むちゃくちゃ》な話ないですよ」
宇美が怒《いか》りの声を上げるのが聞こえた。
「まったくだな。私も信じがたい決定だ」
「誰なんです? この学校に、美術部に蛍子以上の作品を作れる人間なんて……いるんですか? いないですよね?」
「美術部にはいないな。いたら誰が絹川に出展しろなんて言うか」
「だったらなんで……」
宇美が泣きそうな声で荒幡に食ってかかる。しかし蛍子はそれを聞きながら、嫌《いや》な記憶《さおく》が蘇《よみがえ》るのを感じていた。
もっと相応しい作品。そんなものを作れる人間を知っていた。だが、その人間は作品を作るのが好きなだけだからと美術部に入るのを拒《こば》んだのだ。だから、その人間が今回の話に関《かか》わっているはずがない。あるはずがない。
「桑畑綾《くわばたけあや》だよ」
しかし遠くで荒幡がその名前を口にするのが聞こえた。
「三条は知らんかもしれんが、絹川は知ってるだろ? あの桑畑綾が新作を学校のために使っていいと言ってきたんだ。それで校長を含めて皆、だったらそっちで行こうって話になった。私は最後まで反対したが……」
「そうですか。そんな気がしてました」
蛍子は静かにそう答えた。やっと平衡感覚が戻ってきたが、とても立ち上がる気にはなれなかった。
「桑畑はもう世界でも認《みと》められているアーティストだ。高校野球にプロの選手が参加するようなものだ。だが、学校の良い宣伝《せんでん》になると校長たちが盛《も》り上がってしまってな。私はそんなことは芸術《げいじゅっ》の冒涜《ぼうとく》だと思ったし、反対もした」
「でも力及《およ》ばなかったんですね」
蛍子はそう言って自分を納得《なっとく》させようとする。しかし荒幡の謝罪《しゃざい》の意味はそこにはなかったようだった。
「だが最終的には私も賛成《さんせい》した」
「……え?」
蛍子はさすがにもう落ち着いてはいられなかった。数の暴力《ぼうりょく》で押《お》しきられたのならいい。最後まで自分のために頑張ってくれたと言うなら納得できた。でも違《ちが》った。その理由を開かずに納得できるはずが無かった。
「なんで……先生が賛成なんて……したんですか?」
「絹川なら見ればわかるはずだ」
そしてそれが理由だった。
「見ればわかる?」
「私のした事は、人としても、教師《きょうし》としても許《ゆる》されないだろう。だから許してくれと言う気はない。だが、挫折《ざせつ》したとはいえ、私も芸術の道を目指した男だから、できなかったのだ。あの作品を見てはもう……お前の作品を押すことはできなかった」
その言い分は到底《とうてい》、納得できるものではない。だが荒幡が不誠実《ふせいじつ》なことをしているわけではないことはわかる気がした。
「絹川には才能《さいのう》がある。それは間違いない。だが、桑畑は特別なんだ……だから今回のことで美術の道から離《はな》れたりしないで欲しい」
「……勝手な話ですね」
蛍子はそんなことを吐《は》き捨《す》てるが、荒幡はそれを甘《あま》んじて受ける。
「勝手な話だ。だが、絹川にはわかるはずだ。私にすらわかったことだ」
そして荒幡は胸《むね》ポケットに入っていた封筒《ふうとう》を取り出して、蛍子にそっと渡《わた》す。
「なんですか、これ?」
「桑畑の家への案内図と私の名刺《めいし》が入っている。私の言葉では納得できないだろうし、もう少し落ち着いてからでいい。彼女の家に行ってくれ」
「……わかりました」
蛍子はそう答えるしかなかった。震《ふる》える荒幡の手が彼の辛《つら》い心情《しんじょう》を伝えている。
――この人が悪いわけではない
蛍子の心の中でそれが静かに告げられる。この人は悪くない。むしろ、純粋《じゅんすい》なだけなのだろうと蛍子は感じる。そうでなければ、こんなに真面目《まじめ》に本当の話などしないはずだ。
自分が大事なら、校長のせいにすればいいのだ。皆がそう言ったからと言い訳《わけ》することだってできたはずだ。
でも、この人はしなかった。そして、許せとも言わない。
「すみません。もう少しデッサンをしていってもいいですか?」
だから蛍子はそう言って、もう切り上げたはずのデッサンへと戻《もど》る。荒幡はそれに許可《きょか》を出し、その場を去っていく。
「…………」
そして蛍子がデッサンを終える二時間の間、やっぱり宇美は蛍子の側《そば》に居続《いつづ》けた。
絵だけは自分を裏切《うらぎ》らないと思っていた。
自分には他の人間とは違う才能があると信じていた。そして絵がそれだと思っていた。
でも、その結果がこれだった。
それでも絵に向かっている時間はそれを忘《わす》れられた。だからずっとデッサンを続けていたかった。だが、そうはいかなかった。
デッサンは完成し、そしてそこにはそれをずっと待っていてくれた友人がいた。
だから蛍子は帰ることにした。それが自分の置かれた状況《じょうきょう》を思いださせるとしても、もうこれ以上、そのことに宇美を付き合わせるのも、そして絵を描《か》くことに付き合わせるわけにはいかなかった。
「キッツいな……本当」
宇美と別れると、そんな言葉が漏《も》れた。もう笑うしかなかった。
どうして荒幡は本当のことを言ったのだろうと思う。
多くの先生が学校が売名行為《こうい》のために綾を利用することにしたと言ってくれれば自分はどんなにか気が楽だっただろうかと感じる。
それなら人が裏切ったと思えた。そうすれば、こんなに辛い気持ちにはならなかっただろう。
なのに、彼は「絹川ならわかるはずだ」と本当のことを言った。
「わかるかよ、こんなの……ちくしょう……」
蛍子は一人吠《ほ》えて、そして公園に見覚えのある人間の姿《すがた》を見つける。
それは傍目《はため》に見て十分、妙《みょう》な景色だった。暗い公園で月の光の下、不可思議な形のオブジェに一人見入っているのだ。それが弟の健一以外なら無視《むし》して去っていただろう。
「おい、健一……健一?」
蛍子が近づいても健一が一向に気づかないので、彼の耳を引っ張《ぱ》りその名を呼《よ》ぶ。
「ててて……って、ホタル?」
痛《いた》みで健一は我《われ》に返ったようだった。本当に意識《いしき》がさっきまでなかったみたいに、不思議そうな顔を蛍子に向ける。
「大丈夫《だいじょうぶ》か、お前? こんな寒空に一人でこんな物見てるなんて」
「……いいだろ。俺《おれ》、これ好きなんだよ」
健一は言い返してはみたが、自分でもさっきまでの自分を変だと思っているらしい。声が少し弱々しかった。
「好きなのか」
蛍子はそう言って家に向かって歩き出す。健一も続く。そんな気配を感じながら、蛍子は健一が見ていたオブジェの作者のことを思い出していた。
桑畑綾。自分のコンクールの出展《しゅつてん》を阻《はば》んだ世界的アーティストが、小学生の頃《ころ》、作ったものだということを蛍子は知っていた。
「お前にあれの善《よ》し悪《あ》しがわかるのか?」
「芸術《げいじゅつ》とかよくわからないから良いのか悪いのかなんてわからないけど、好きか嫌《きら》いかは俺の気持ちなんだから自由だろ?」
「ま、そうだな」
蛍子がそう答えたのに健一は不審《ふしん》に思ったらしい。少し蛍子の前に顔を出して、彼女の方をのぞき込む。
「なんかあったの?」
「……なんだよ、いきなり」
「いや、いつもなら文句《もんく》言ってくる気がして、変だなって。絶対《ぜったい》、『お前の自由ってのはその程度《ていど》か?』とか言ってくると思ったんだけど、違《ちが》ったからさ」
「わかってるなら、そんなことを言わせるようなことを言うな」
「ま、そうなんだけどさ……本当、なんか変だぞ、ホタル。やっぱりなんかあったんだろ?」
健一の言葉に蛍子はなんでそんなことを言われなければいけないのだろうと思う。でも、それは腹《はら》が立つというよりは、情《なさ》けなさが理由だった。
弟に心配されている自分が許《ゆる》せなかった。自分はそんなみっともない人間じゃなかったはずだと蛍子は思う。
「……ないよ。何もない」
だから、そう返事をする。弱音《よわね》など吐《は》かない。絹川蛍子は弟の前で弱音を吐くような女ではないのだ。そう心に刻《きざ》む。
「そうかな……」
でも健一がさらに追いかけてきた。
「そうだよ」
「じゃあ、なんで元気がないわけ?」
健一の問い。蛍子はそれに心にも無い言葉で返す。
「お前が公園で奇行《きこう》を繰《く》り広げていたので萎《な》えただけだ」
「奇行ってなんだよ、奇行って」
「知らないなら、辞書でも引け」
「そういうことじゃないだろ。人のしたことを奇行とか言いやがって」
「じゃあ、他《ほか》にあれをどう言えばいいって言うんだ、お前は?」
「……まあ、そうだけど」
健一はそれで納得《なっとく》したらしく、もう蛍子のことを心配するのは止《や》めたようだった。そして蛍子は健一は不機嫌《ふきげん》そうだが、これで良かったと思うことにした。
すでに夜遅《おそ》かったが、蛍子は思いきって綾の家を訪問《ほうもん》することにした。
もう少し気持ちの整理ができてからでもいいと思わないでもない。でも考えたり、時間が経《た》てばできるようになるとも思えなかった。なら、少しでも早い方がいい。
絹川なら見ればわかるはずだ――その言葉だけが心の支《ささ》えだった。見ればわかるというなら、見るしかない。そして、見なければわからないのだろうとも思う。
綾の家は蛍子の家からそう遠くない場所にあった。歩いて十分程度。でも少し駅からは離《はな》れていて暮らしには不便そうな奥《おく》まった場所だ。
一般《いっぱん》家庭よりは確《たし》かに大きいかもしれないが、世界的なアーティストが住んでいるにしては質素《しっそ》な感じのする白い家屋だった。だが庭はこの辺りの家では珍《めずら》しく広い。そこには白い大きめの離れがあるのが見える。
「すみません。夜分遅く」
蛍子は玄関《げんかん》のチャイムを鳴らして、最初に出てきた女性《じょせい》に頭を下げる。
「あら……綾のお友達かしら?」
おそらくは四十前後くらい。上品な物腰《ものごし》のその女性はきっと綾の母親だった。実利優先《ゆうせん》で情緒《じょうちょ》を解《かい》さない自分の母親とは別の世界の人間だなと蛍子は思う。
「絹川蛍子と言います。美術部の顧問《こもん》の荒幡先生に聞いて……」
蛍子はそう言って顧問の名刺《めいし》を取り出そうとするが、綾の母はそれを止めるような仕草をみせて柔《やわ》らかく笑う。
「聞いてます。あなたが近々来るだろうから、その時は作品を見せてあげて欲しいと」
「……そうですか」
蛍子はでもさすがにこんな時間に来るとは思っていなかっただろうなあと居心地《いごこち》の悪さを感じる。でも綾の母は嫌《いや》な顔一つ見せず、そんな蛍子を離れの方へと連れていく。
「でも綾は今、寝《ね》てるかも」
綾の母が不意に困《こま》ったという顔をするのが見えた。それで蛍子はそんなに遅かったかなと思う。学校を出たのが七時だから、まだ八時かそのくらいのはずだが……。
「あ、いえ、綾は普通《ふつう》の人とは別の時間で暮らしてるものだから。三日間起きてたと思うと、今度は一日中寝てたりとかそういう娘《むすめ》なのよ。だから私もいつ寝て、いつ起きればいいのかよくわからなくて。一人でご飯とか作れる娘《こ》でもないし……」
「大変ですね」
それでこの女性は顔色が悪いのかなと蛍子は感じる。
「でも、綾に会いに来たわけじゃないですものね」
「あ、はい。作品だけ見せていただければ、すぐに帰りますので」
「そう。多分、起きないとは思うけど、作品を作りあげたばかりだから、静かにしてあげてくださいね。きっと疲《つか》れているはずだから」
綾の母はたどり着いた離れのドアを開けようと鍵《かぎ》を差し込《こ》む。しかし鍵は元から開いていたらしく逆《ぎゃく》にロックがかかってしまったようだった。
「あらあら……あの娘ったら不用心なんだから……」
それで綾の母はもう一度、鍵を開け直し、扉《とびら》を開く。
「ごめんなさいね。汚《きたな》いところで」
入った途端《とたん》、散らかり放題なのがわかった蛍子に、綾の母がそんなことを告げる。
「いえ……私の部屋も似《に》たようなものですから」
蛍子は綾の母にこれ以上、気遣《きづか》いをさせまいとそう答える。
「普段《ふだん》はもう少し奇麗《きれい》なんですけど……なんて言い訳《わけ》しても仕方ないわよね」
「私も作品作りが佳境《かきょう》に入ると、他のことには気が回らなくなりますし、親にも弟にもそのことで叱《しか》られます」
「そう。芸術家《げいじゅつか》っていうのは、そういうものなのかしらね」
綾の母はそう言って玄関から見える奥の扉を指差す。
「あの先が綾のアトリエです。作品もきっとそこに……」
綾の母はそれ以上は足を踏《ふ》み入れる気が無いのか立ち止まると、蛍子にそう説明をする。
「お邪魔《じゃま》します」
蛍子は靴《くつ》を脱《ぬ》いで上がり、綾の母に言われた通り、綾のアトリエを目指した。
「…………」
扉を開けた瞬間《しゅんかん》、蛍子は自分がどこにいるのかわからなくなった。
ただ、その向こうにあったものに目を奪《うば》われた。でも、それがなんなのかはわからない。その代わりに自分の意識《いしき》の全《すべ》てがそれで埋《う》まり、溢《あふ》れていくのがわかった。
迫《せま》ってくる。そのアトリエに置かれた物体が動いているはずはない。だが自分の認識《にんしき》の中でそれが大きくなっているのがわかる。
そして自分がそこから弾《はじ》き出される。自分が自分の中から。
自分がそこにいるという認識をする余裕《よゆう》すら残っていない。それがわかった。
「……はあはあ」
蛍子はそれで我《われ》に返って、自分が随分《ずいぶん》と長い間、息をしてなかったのに気づいた。どれくらいの時間だったのかはわからないが、綾の母はもう姿《すがた》を消していた。
気づいたおかげで呼吸《こきゅう》が戻《もど》り、荒《あら》く大きく酸素《さんそ》を取り込もうとしているのがわかる。
こんな馬鹿《ばか》なこと――蛍子はそう思いながらも、自分の体験や感性を否定《ひてい》することはできなかった。
呼吸するのを忘《わす》れるなんて。呼吸なんて意識せずに体が勝手にやっていることだ。止めるために意識をしたって……そうそうできるものではない。
「……そういうことか」
息が整い、呼吸が落ち着いてくると、心も穏《おだ》やかになってきた。そして顧問の言っていた言葉を思い出した。
絹川なら見ればわかるはずだ――。確《たし》かにわかった。これと自分の絵と比《くら》べれば、自分だってこっちを選ぶ。
桑畑は特別なんだ。顧問がそう言ったことの意味もよくわかった。自分の才能《さいのう》や努力など、この作品の前では無力に等しい。
あの公園のオブジェを小学生の頃《ころ》に作った人間。そう聞いた時は、綾をただ早熟《そうじゅく》な人間だと思おうとしていた。だが、綾はあの時からさらに進化を続けていたのだ。
「たまらないね、本当」
蛍子はまだ別人のように感じる体を動かしてアトリエの奥《おく》へと入っていく。
改めてみると、本当に大きなアトリエだった。おそらく自分の部屋の三倍以上はある。そして高さも三倍くらいはあった。南向きの窓は全面ガラス張《ば》りで星と大きな月が見えた。
「ふう……」
そして、蛍子は改めて呼吸を意識する。綾の作品をまた見るために心の準備《じゅんび》が必要だった。
「なんなんだよ……これは……」
床《ゆか》に散らばった金属片《きんぞくへん》の中で、君臨《くんりん》するように月光を受けて綾の新作が立っていた。
一言で言えば竜巻《たつまき》のようだった。いくつもの螺旋《らせん》が一点に集約して、全てを飲み込むエネルギーを発している。そんな風に見える。
そのオブジェクトには何一つ稼働《かどう》する場所など無かったが、まるで部屋中を荒《あ》らし回り、さらに飲み込む相手を求めて、今は一休みしているようなそんな気持ちにさせた。
「これが桑畑綾の新作か……」
確かに、見ればわかる。言われた通りだった。でも、それは蛍子の心を救ってくれるという意味ではなかった。
顧問《こもん》の荒幡がなぜ自分との約束を違《ちが》えたのかは理解《りかい》できた。これを見た後で蛍子の作品を選んだとしたら、それは確かに裏切《うらぎ》りだろう。
自分が顧問の荒幡の立場ならそうする。そうしなければいけない。それは人として、教師《きょうし》として間違っているとは思う。
でも、そうする。そうしないなら、きっと蛍子は荒幡を尊敬《そんけい》などしてこなかっただろう。
「……誰《だれ》?」
アトリエの奥から声がした。そこには白いキングサイズのベッドがあって誰かが寝《ね》ていた。
誰かが? 蛍子は自分で思ったことに間が抜《ぬ》けてるなと思う。
桑畑綾に決まっている。ここは彼女のアトリエなのだから。
「お邪魔してます」
蛍子は挨拶《あいさつ》をしながら、起こしてしまったのかと申し訳《わけ》なく感じる。
「誰え?」
でも綾は寝ぼけているらしく、同じ質問《しつもん》を繰《く》り返す。
「絹川蛍子です。美術部の」
「蛍子ちゃん? 蛍子ちゃんがなんでいるの?」
綾は蛍子のことを覚えていたらしい。一緒《いっしょ》のクラスになったこともなければ、何度か美術部に勧誘《かんゆう》しようとした程度《ていど》の関係なのに。それとも単に名前を繰り返してるだけなのか。
「桑畑さんの作品を見せてもらおうと思って」
「あ、そうなんだ……」
綾はそれで納得《なっとく》したらしく改めて目をこすり、ベッドを降《お》りると蛍子の方へと歩いてくる。
「でも、蛍子ちゃんが私の作品を見に家まで来るなんて意外だったな」
綾が嬉《うれ》しそうにそんなことを言うのが聞こえた。その言葉自体、蛍子には意外だ。
「なんで?」
でもただその理由を聞き返す。
「私、蛍子ちゃんには嫌《きら》われてると思ってたから。美術部に入れって言われたのに、私が断《ことわ》ったから怒《おこ》ってるのかなって」
綾はなんだか嬉しそうだった。怒ってたと思っていた相手が、家まで来てくれたのだから喜ぶのはそんなに変なことではないかもしれない。でも、蛍子はその綾の言葉に落ち着かない気分になっていくのを感じる。
「それだけ?」
蛍子はその訳に気づく。綾はなんで自分がここに来たのか少しも気づいていない。
コンクールに出展《しゅってん》するはずだった蛍子の代わりに新作を綾が出すことにしたからこそ、今、蛍子はここにいるのに。綾はそのことをなんとも思っていないのだ。
「それだけって……それだけだけど」
「コンクールのことで何か、私に言うことはないの?」
蛍子は綾がとぼけているのかと思い、ストレートにそう尋《たず》ねる。怒《いか》りが表に出ていたのだろう、急に綾が脅《おび》えたような表情《ひょうじょう》を見せる。
「……コンクール?」
「知らないの?」
そんな馬鹿《ばか》なと思いつつ蛍子は尋ねるが、綾は首を振《ふ》る。
「知らない」
「知らないって……」
蛍子が綾の言葉をどう理解していいものかと思っている間に、綾は綾なりに状況《じょうきょう》を分析《ぶんせき》しようとしてくれていたらしい。
「きっとお父さんが出したんだと思う。私、コンクールとか興味《きょうみ》ないから」
興味ないから。それは以前にも綾から聞かされた言葉だった。美術部に誘《さそ》った時、彼女は確《たし》かにそう言っていた。だからわかるような気がした。
本当にその通りなのだ。彼女の言うように父親が勝手にしたことなのだろう。作品を作ることしか興味がない彼女の知らぬところで、そうしたのだろう。
でも、怒りは収《おさ》まらなかった。なら、なんで自分がこんな目にあっているのだろう。そのやり場の無い気持ちが口を溢《あふ》れて飛び出す。
「興味ないって……あなたはそれでいいかもしれないけど、私は、私は……」
「どうかしたの?」
「三か月かけて描《か》いた絵が無駄《むだ》になったんだ。私が描いた絵より、あなたが作った作品の方が学校代表に相応《ふさわ》しいって……そう言われたんだ」
蛍子は自分でも八つ当たりだなと感じる。でも綾がこんなだからこうなったというのは一つの事実だった。他人に興味が無いなら、一人で勝手に作品を作ってればいいのだ。一人で静かに勝手にしてればいいのに。
「じゃあ辞退《じたい》すればいいのかな?」
だが綾にはそんな気持ちは届《とど》いていないようだった。蛍子はその言葉にカッと自分の体温が上昇《じょうしょう》するのを感じる。
「いいのかなって……何言ってるか、わかってるの? それがどれだけ人を傷《きず》つける言葉だかわかって言ってるの?」
自分でそんな言葉を一言うなんて恥《はじ》だ。だが、綾の言葉はそれだけのことを言わせる内容《ないよう》だったのだ。
「わかってないと思う。私、そういうの苦手だから」
でも綾はそう素直《すなお》に答えるだけだった。
「……馬鹿にしてるわけ?」
「私、わからないの。だからどうすればいいか、教えて。そうしたら、そうするから」
綾は本気でそう思っているのかもしれなかった。でも、そうだとしても綾の言葉を受け入れることはできなかった。怒りと悲しみが蛍子の心を満たしていく。
「……なんだよ、それは」
「わからないの。私が話すと皆《みんな》、そう言うことを言うんだ。でも怒ったり、悲しい顔されるのは嫌《いや》なの。笑われるのはいいけど、そういうのは嫌。蛍子ちゃんが怒ってるのも、悲しい顔するのも嫌。だから、教えてよ。蛍子ちゃんはどうしたら喜んでくれるの?」
「そんなの……」
蛍子は綾の悲しそうな声を聞いて、怒りが悲しみを押《お》しつぶすのを感じる。自分や綾の悲しみなどもうどうでも良かった。
「そんなの私が知るか!」
だから怒りと共に声が弾《はじ》けた。
「……蛍子ちゃん」
綾が驚《おどろ》きの目でこっちを見るのがわかった。でもそれに向きあう気にはとてもなれない。そして自分の吐《は》き出した怒りからも目をそらすように、蛍子はその場から逃《に》げ出した。
自分のしたことへの責任《せきにん》を放棄《はうき》しているのは綾の方だと言い訳《わけ》をしながら。
それでも次の日も蛍子は学校へ行き、デッサンをした。静流も、そして宇美もその日は来なかった。でも、蛍子は一人でもいいと思う。そう言う日があるのも構《かま》わない。
昨日までやっていた分は完成していたが、デッサンのネタには事欠かない。石膏像《せっこうぞう》はいくつもあったし、同じものでも向きを変えれば別物になる。
そしてデッサンをしている間は心が落ち着く。それだけは確かだった。
「はい?」
ドアをノックする音がしていたようだった。集中していて気づかなかったということは、けっこう前から叩《たた》いている人間がいたのかもしれない。
「ちょっと待って」
蛍子はデッサンを中断《ちゅうだん》すると、ドアの方へと歩く。そして一体、誰だろうと思う。昨日と一《いっ》緒《しょ》で顧問《こもん》の荒幡だろうか。だとしたら、ちょっと顔を合わせたくないなと感じる。
「……元気そうだね」
でもドアの向こうにいたのは宇美だった。彼女はスカートを押さえるように前で大きな荷物を抱《かか》えている。大きさの割《わり》に薄《うす》いそれは、きっと絵だなと蛍子は思った。それも自分が描いて、荒幡に託《たく》したものだろう。
「まあ、ね。いつまでも落ち込んでてもしょうがないし」
蛍子はそれに気づかなかったことにして、宇美を部屋に招《まね》き入れる。それで宇美は机《つくえ》の上にそれを大事そうに置いて、蛍子の方へと歩いてくる。
「これ……渡《わた》してくれって」
そして封筒《ふうとう》を取り出した。昨日、荒幡からもらったものと同じタイプのものだ。それはつまり荒幡からのものということだろう。蛍子はそう思って受け取ると、特に糊付《のりづ》けなどされていないことに気づく。
「これ、荒幡先生が?」
「うん。さっきまでケンカしてたんだ。蛍子が落ち込んでるかなって思って」
宇美は、でも違《ちが》ったねと、失敗したのを誤魔化《ごまか》すように笑う。
「落ち込んではいるよ。でも、もう先生を恨《うら》んではいない」
「そっか」
「昨日、桑畑綾のアトリエに行ったから、先生の言ったことの意味はわかったと思う」
「そうか。じゃあ、ケンカするだけ無駄だったね」
宇美は笑うと、椅子《いす》を引っ張《ぱ》ってきて座《すわ》る。蛍子もそれを見て自分の椅子に座る。
「……嬉《うれ》しいよ。私のことで先生とケンカしてくれて」
蛍子は宇美の方を見ずにそう呟《つぶや》く。
「本当に?」
「今日、宇美が来てないのも気になってた」
「そんなこと言っても絵描いてる時は全部忘《わす》れてたんでしょ?」
「まあね……」
蛍子は本当にそうだなと思う。
静流に言われた時はそうではないと思ってたが、やっぱり自分は逃げているのかなと感じた。
絵を描いていればなんでも忘れられる。昨日のことも、宇美が来なかったことも。無心になれる。絵に向きあっている時は、他のことを忘れられる。
そのために絵を描いているとすれば、それは褒《ほ》められたことではない。蛍子はそう思う。
「蛍子。絵描くの止《や》めないでね」
でも宇美がそんなことを言うのが聞こえた。
「止めないよ」
蛍子はそう言ってみたが、どこまで本気の言葉なのだろうと思ってしまう。
「諦《あきら》めちゃった私が言えた義理《ぎり》じゃないけど、蛍子は私の夢《ゆめ》なの。勝手な話だけど、私の分も絵を描いていて欲《は》しいんだ」
蛍子はそう言われて宇美の方を見た。顔を伏《ふ》せていて目が見えない。泣いている。そんな風にも見えた。
「桑畑さんがどれくらい特別なのかは私は良く知らない。でもね、蛍子だって特別だよ。だから私、諦めたんだから。そうじゃないなんて……私、思えない」
「ありがとう。心配してくれて」
蛍子はそれだけしか言えなかった。宇美の期待に応《こた》えることを約束することはできない。
「ううん。友達だもん、これくらい当たり前のことだよ」
それがわかったのか宇美は顔を上げて、ニッコリと笑う。
「それが当たり前なら、友達ってのは大変だ」
蛍子は呆《あき》れたようにそんなことを口にする。満面の笑《え》みは無理だが、笑うくらいはできた。そしてさっき渡された封筒を思い出す。顧問の荒幡が宇美に託《たく》した手紙。
――すまない。でも君のことも、この絵も嫌《きら》いにならないで欲しい。
短く、そしてシンプルな言葉。恐《おそ》らく筆で書かれただろう文字が荒幡らしい。
「……んなこと言われてもな」
蛍子はそう呟いてもう本当に彼のことを怒《おこ》ってはいないのだなと思った。
もうわかっている。悪いのは彼ではない。そして綾でもない。
「悪いのは……誰なんだろうな」
それから蛍子は二時間ほどデッサンをして作品を抱《かか》えて家路につく。そこにはやっぱり宇美がいて、彼女はただ黙《だま》って彼女のことを見ていたようだった。
蛍子は家についてから、自分がやはりまともに動いてないなと感じた。
持ち帰ってから、もうこの絵はいらないから捨《す》てようと考えたのだ。それなら学校で捨ててしまえば良かったのに。
「アホか、私は」
蛍子はリビングのソファに座って、そんな自分を評《ひよう》する。
「誰がアホだって?」
ちょうど出かけようとでもしていたのか、健一がリビングに顔を出す。自分の悪口でも言われたとでも思ったのだろう。
「心当たりがあるなら、お前かもなあ」
「だろうと思った」
健一はそう言いながらも、どうせいつものことだと思ったのか大して気にも留めていないようだった。台所に向かう途中《とちゅう》で、蛍子の大きな荷物に気づき尋《たず》ねてきた。
「なにそれ?」
「絵だ」
「この間、描いてたやつ? コンクールに出すとかなんとかの?」
「そうだよ」
「……でも、なんでそれがここにあるわけ?」
「出せないことになったので、返却《へんきゃく》されたからだ」
蛍子は憮然《ぶぜん》とそう答えるが、健一は特に気にもしてない様子を見せる。
「で、それどうするの?」
「……捨てる」
本当にそう決めていたわけではないが、健一に尋ねられるとそう答えてしまう。
「捨てる? なんで?」
「コンクールに出そうと思ってたアテが外れたからだ」
「いらないの、それ?」
「いらないから、捨てるんだろうが」
蛍子はもう話すのも嫌《いや》になり立ち上がって、絵を手に取ろうとする。そんな蛍子を呼《よ》び止めるように健一が口を開いた。
「じゃあ、それ、俺《おれ》にくれよ」
中々に耳を疑《うたが》う言葉。健一が、そんなことを言うとは想像《そうぞう》だにしていなかった。
「くれって……どうするつもりだ?」
「どうするって……絵なんだから飾《かざ》って、見るんだろ?」
「それはまあ、そうだ……」
蛍子は健一にもっともなことを言われて、言葉が止まる。
「ホタルのことは好きになれないけどさ、ホタルの絵は俺、好きなんだよ。だから、捨てるくらいなら俺にくれ」
健一はそう言って蛍子の方に手を伸《の》ばす。もちろんその手の上に乗るほど蛍子の絵は小さくないが、その仕草で彼が冗談《じょうだん》を言ってるのではないのはわかった。
「しかし、それは初耳だな」
「そうだっけ……なんかいい気分になるんだよな。和《なご》むって言うの? ま、ホタルが描《か》いたって言うとなんかひっかかるものはあるけど、人を憎《にく》んで作品を憎まずということで」
「アホか」
蛍子はそう呟《つぶや》いて健一を置いて部屋を出ていこうとする。それを健一は自分への悪口だと思ったようだが、蛍子が言いたかったのはさっきと同じく、自分がということだった。
「なんだよ、アホって」
「アホはアホだ。アホだからアホなんだよ」
「……子供《こども》か、ホタルは」
「中学生のガキに言われたかない」
そんな口論《こうろん》をしてる間に蛍子と健一の距離《きょり》は離れていく。それに気づいて健一が追いかけた。
「絵、くれないのかよ?」
「やっぱり捨てないし、お前にはやらん」
「なんだよ。今、さっき捨てるって言ったばかりだろ?」
「うるさい。自分で描いたものをどうしようが私の自由だろうが」
蛍子はそう言いながら、階段《かいだん》を上って自分の部屋へと向かう。健一はそこまでは追う気にはなれず、蛍子を睨《にら》むような視線《しせん》を階段の下から送る。
「なんだ、姉のパンツがそんなに見たいのか?」
「誰《だれ》が、んなもん見るか!」
健一はそれで怒《おこ》ってまたリビングの方へ戻《もど》ってしまったようだった。蛍子はそれを確認《かくにん》して自分の部屋の方へと向かう。
「アホか、私は」
ノブに手をかけた時、蛍子は自分が泣いてるのに気づいた。こぼれた涙《なみだ》が腕《うで》に落ちるのがわかった。それで手の力が抜けて、体の力も抜けて蛍子は廊下《ろうか》にへたり込む。
床《ゆか》についた足の部分からひんやりとした感触《かんしょく》が伝わってきた。
「……本当、アホだよな」
なんで、あんな言い方をしたんだろう。蛍子は自分に問う。
自分の絵を健一が欲《ほ》しいと言ってくれたことに、なんで自分はあんなことしか言えないのだろうか。自分がそう言われて嬉《うれ》しかったことを、なぜ健一に伝えなかったのか……その理由はわからない。健一には本当に素直《すなお》になれない自分がいる。それくらいしか。
ただ、一つだけハッキリしたことがわかった気がした。
――自分にはやはり絵しかないのだ。
誰が何と言おうが、それだけは確《たし》かだった。それが自分の望みであり、そしてそれを喜んでくれる人間もいるのだから。
「あの女のために誰が筆を折ってやるかよ」
蛍子は綾のことをそう結論づけると涙を拭《ふ》いて立ち上がった。
そして部屋に入って片《かた》づけを始める。それは作品の構想《こうそう》をまとめる前の蛍子の儀式《ぎしき》だった。
[#改ページ]
あとがき
新井輝「どうも、お久しぶりです。新井輝《あちいてる》です。やっと『ROOM NO.1301』の二巻を皆さんにお送りすることができました……って、今回、あとがき何ページあるんでしたっけ?」
担当K「えっと……ちょっと待って計算するから」
(三日経過)
担当K「七ページかなあ、多分」
新井輝「随分待たせた割に、なんか自信なさげですね」
担当K「いやあ、僕、ページ計算苦手なんだよね。そのせいで桜庭《さくらば》さんにも迷惑かけちゃってさあ。でもおかげで『G0SICK』のあとがきも評判いいみたいだし、結果往来《けっかオーライ》だよね。てへっ」
新井輝「そんな前向きな萌《も》えキャラみたいなこと言っても、迷惑かけたことには変わらないんですけど……」
担当K「いや、まあ今回はオッケー大丈夫だって」
新井輝「本当ですか?」
担当K「……じゃあ計算しなおすから、ちょっと待って」
(三日経過)
担当K「やっぱり八ページだったよ」
新井輝「僕も自分で計算してみましたが、八ページでした」
担当K「新井さんは数字には強いなあ」
新井輝「しかし八ページも何を書けばいいんですかね? 僕、あんまりあとがき書-の得意じゃないし、八ページも書いたことないですよ?」
担当K「友達に『狛犬泥棒』とかそういう面白いキャラがいればそれを書いてくれれば」
新井輝「いや、それもう『GOSICK』で桜庭さんがやったネタだし」
担当K「じゃあ、違う面白いキャラで」
新井輝「それってあんまり変わってない気がしますが」
担当K「じゃあ、違う面白いネタで」
新井輝「だから、それが何か聞いてるんですってばっ!」
担当K「そんなこと言われても、そういうのを考えるのが新井さんの仕事でしょ?」
新井輝「まあ、そうなんですけど……むぅ」
担当K「普通、作家って言うのは、あとがきのネタをためておくものでしょう」
新井輝「じゃあキャラ面談ってのはどうですかねえ」
担当K「なにそれ?」
新井輝「僕が『R00M N01301』の各キャラと面談をして今後の展開について話し合うんですよ」
担当K「意味解《わか》んない」
新井輝「……じゃあ書くので、それを読んで判断《はんだん》してください」
担当K「じゃあ、それで」
キャラ面談‥大海千夜子《おおうみちやこ》(主人公の彼女)の場合
新井輝「さて何か、今後の展開で要望などありますか?」
千夜子「要望ってわけじゃなくて、一つ、質問《しつもん》があるんですけど、いいですか?」
新井輝「質問? まあいいですけど、なんですか?」
千夜子「この作品のヒロインって、その誰なんですか? あ、いや、私がヒロインなのがいいってことじゃなくてですね、よくわからないので、ちょっと聞いておきたかっただけで……」
新井輝「なるほど、なかなかに鋭《するど》い質問ですね」
千夜子「……で、誰なんですか?」
新井輝「いや、答えを聞いたら、大海さんが嫌《いや》がるかなあと思って」
千夜子「……じゃあいいです」
新井輝「ちなみに巻ごとに違《ちが》う構成になってます。一巻は……大海さんが会ってない人ですね」
千夜子「私もそんな気がしてました。って、答えてるじゃないですか!?」
新井輝「まあ、そうとも言います。ちなみに二巻は大海さんが会ってる人です」
千夜子「それって……やっぱり私がヒロインじゃないってことですよね?」
新井輝「いえ、大海さんがヒロインになる巻もきっとこの先あるだろうという話です」
千夜子「……そうなんですか?」
新井輝「まあ、可能性の話でしかないですが」
千夜子「何か、私に恨《うら》みでもあるんですか?」
新井輝「別に大海さんには何も。基本的にヒロインっぽいキャラが嫌《きら》いなだけです。なんかむかつくんですよね」
千夜子「うう」
担当K「――ねえ、新井さん。もう少し明るくならないの?」
新井輝「明るくですか?」
担当K「読者はこういうのは望んでないと思うんだよね。作者がキャラをいじめても面白くないよね?」
新井輝「なるほど。そうかもしれません。ちょっとキャラの選択《せんたく》を間違《まちが》えた気がします」
担当K「いや、キャラの選択ってわけじゃないと思うよ」
新井輝「そうですかねえ。とにかく書き直してみます」
キャラ面談‥桑畑綾《くわばたけあや》(主人公の初めての人) の場合
新井輝「さて何か、今後の展開で要望などありますか?」
綾 「要望じゃなくて、一つ、質問があるんだけど」
新井輝「なんかさっきと同じ展開のような気がするけど、なんですか?」
綾 「一巻のあとがきで、眼鏡《めがね》っ娘《こ》は出てこないみたいなこと言ってたけど、二巻に出てきてないかな?」
新井輝「え? マジで? どこに? そんなの書いた覚えないんだけどなあ……」
綾 「第五話で私が健ちゃんと買い物に行った時さ、眼鏡買ってるでしょ?」
新井輝「あ、本当だ。全然、気づかなかった」
綾 「気づかなかったって……本当に気づいてなかったの?」
新井輝「うん。まったく。なんかいつもこんな感じなんだよなあ。特に出す気はなくても、自然に出てる。一巻の時は頑張って出さないようにしてたんだけど、気が緩《ゆる》むとこれだ! ちくしよう! ガッデム!」
綾 「まあ、別に出てきてても私はいいけど」
新井輝「しょうがない。三巻が始まったら、眼鏡は粉砕《ふんさい》しよう」
綾 「なんでそんなことするの? 私が健ちゃんと買った思い出の眼鏡なのに」
新井輝「このままじゃ、また新井輝は眼鏡っ娘大好き人間って思われるだろう?」
綾 「もう思われてると思うし、否定する理由もない気がするんだけどな」
新井輝「何をぅ? 僕は別に眼鏡なんかどうでもいいんだ。僕が好きなのは女医さんなんだ。眼鏡ではなくむしろ白衣萌《はくいも》えなんだよ!」
綾 「……だから私は白衣着てたんだ」
新井輝「まあ、キミは別に女医さんでは全然ないけどな」
綾 「でも、なんか白衣着るのイヤになってきたかなあ」
担当K「――ねえ、新井さん。もう少し爽《さわ》やかにならないの?」
新井輝「爽やかにですか?」
担当K「読者はこういうのは望んでないと思うんだよね。作者がキャラに気持ち悪がられても面白くないよね?」
新井輝「なるほど。そうかもしれません。ちょっとキャラの選択を間違えた気がします」
担当K「いや、キャラの選択ってわけじゃないと思うよ」
新井輝「そうですかねえ。とにかく書き直してみます」
キャラ面談‥九条鈴璃《くじょうすずり》(刻也《ときや》の彼女) の場合
新井輝「さて何か、今後の展開で要望などありますか?」
鈴璃 「要望じゃなくてさ、一つ、質問があるんだけど」
新井輝「なんかまた同じ展開のような気がするけど、なんですか?」
鈴璃 「私、いつ出てくるの?」
新井輝「もう出てるじゃん。毎回、プロローグでバッチリ!」
鈴璃 「プロローグじゃなくて本編に、だよ」
新井輝「本編にねえ……いつかなあ」
鈴璃 「いつかなあ、じゃなくて」
新井輝「いやあ、よくわからないんだよね。とりあえず刻也君がメインの巻になったら出てくるんじゃないかなあ。でもその前に窪塚姉妹《くぼづかしまい》の話があるし、とりあえず三巻も有馬さんの話だから……早くても五巻以降かな」
鈴璃 「五巻以降って……それっていつ出るわけ?」
新井輝「さあ。とりあえず三巻は八月に出るけど、四巻は早くても年末だろうし」
鈴璃 「つまり今年中には私は出ないってわけ?」
新井輝「だからプロローグに出てるんだけど」
鈴璃 「私って、刻也君の彼女なんでしょ? ちゃんと刻也君と仲良くするシーンで出してよ」
新井輝「そういうのはどの道、無《な》いから。だって、この話は健一の愛の探求の物語だし」
鈴璃 「ええ!? じゃあ私はずっと絹川君と話してるだけなの?」
新井輝「まあ、他にもイロイロするけど、とりあえずはプロローグの担当かなあ」
鈴璃 「なんで? 私だけ五年後だけなんてイヤだからね!」
新井輝「イヤって言われても、どうせ成長してないって設定なんだから大差ない……」
鈴璃 「な、なんですって?」
新井輝「え? あ、いや……その失言でした」
鈴瑞 「きええ――――――――――――――――――――!」
新井蝉「ぐぎゃ―――――――――――――――――――――――――!」
新井、鈴璃の攻撃で絶命。
担当K「――三巻からはあとがきは短くしようね」
新井輝「じゃあ、それで」
二○○四年 五月   新井 輝