二分割幽霊綺譚
[#地から2字上げ]新井素子
目 次
Opening いつにもまして暗い朝
PARTT 想い出すのもたまらん話
PARTU うっかり死ぬのはあんまりだ
PARTV 分割された幽霊
PARTW そして大地のあちら側
PARTX もぐら大戦争
PARTY 遺伝子の輪をくぐり抜け
PARTZ 何とかやっとこおこした火事
Ending 少しばかりは明るい明日
文庫版へのあとがき
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Opening いつにもまして暗い朝
深い、喪失感を味わっていた。
砂漠のどまん中に、俺はいた。一面続く、うすい、かわいた茶色。茶色の砂は、見事にかわききっていて、さらさらと、風にのり、流れる。流砂。描かれる模様。巨大な円盤状の太陽。
呼吸が荒い。毛穴という毛穴から、まだ汗になる前の水分が、半ば暴力的に奪いとられてゆく。いきおい口をあけてあえげば――風に乗り、口の中にはいりこんでくる砂。歯をくいしばると、奥歯にこびりついた砂が、ぎりっという、耐えがたい音を発する。
俺は、一人だった。見渡す限り続く、水気のまるでない茶色の大海原の中で、たった、一人。
水をくれ。水が欲しい。
誰にともなく、こう|呟《つぶや》く。呟く|為《ため》に口をあければ、口の中にわずかにあった唾液すら、無残に蒸発してしまう。
喉が渇いていた。頭が痛かった。くらくらした。水が欲しい。
水が欲しい。水をくれ。水はないか。水。
その欲求が心の中で極限にまで高まったその時、それは、おこった。
腕が――俺の右腕が、つけ根から急に消失したのだ。切断されたのではない、最初から右腕なんてものは存在しなかったかのように、血の一滴も流さず、痛みもなく、きれいさっぱりと。
そして。右腕の消失と同時に。目前、五メートルくらいの|処《ところ》に女があらわれた。
うすい|更《さら》|紗《さ》をまとった女。砂漠の――姫。彼女はまっ|青《さお》なガラスの壺を持っており、その中からは、かすかに水のにおいがした。
水を持った女。この、人影のまるでない砂漠に、突然現われた女。その女を見ただけで、俺は心がなごんでゆくのを感じていた。右腕なんか、どうでもいい。俺にその水をくれ。
ところが。いくらあがいても、何故か俺はその場を動くことができなかった。ほんの数メートル先。そこには、水を持った女がいるというのに。
あの女に近づきたい。水が欲しい。
強く、そう念じる。と、今度は左腕がつけ根から消失した。そして、それに呼応するかの如く、体を動かしもしなかったのに、女、|先《さき》|程《ほど》よりは俺に近づいていた。あと、三メートル。
その後は、それの繰り返し。右足がなくなる。女は、あと二メートルくらいの処。左足がなくなる。女はあと一メートル。胴がなくなる。女、すぐそこ……。
けれど。腕も足もない俺は、女から壺をうけとることができなかった。女は、俺に水を飲ませてくれようとしたのだが、胴のない俺の口にいくら水を注ぎこんでも、それは首からすぐ下へ落ち――あつい砂へと、しみこんでゆくだけ。
水を飲む為の胴が欲しい。壺をうけとる為の手が欲しい。
そう思ったとたん。俺はもとの五体満足な姿にもどり――砂漠の姫は、消えてしまった。ただ、あたりに水のにおいを残して……。
そして、深い、喪失感。
「|砂《さ》|姫《き》」
俺は、かすかにこう|呟《つぶや》いたと思う。砂漠の姫――砂姫。
とたんに、頭にひどいショックをうけ、目が|醒《さ》めた。
☆
頭が、がんがんしていた。一瞬、本当に目から星がでた。うー、ベッドの脚。ベッドから転がり落ちるのはまだしも、転がり落ちてベッドの脚に思いっきり頭をぶつける、というのは、あまりといえばあまりの|寝《ね》|相《ぞう》ではなかろうか。
時計の針は、五時をさしていた。午前五時、か。とても俺の起きる時間じゃない。もう一回寝なおすか――と思いかけ、やめる。この頭。そして、喉。
やたらと喉が渇いていた。このせいであんな夢みたのかな。何か、ひりひりする|程《ほど》、渇いている。
酒はほどほどにしよう。こんなになるまで、飲むもんじゃない。二日酔いの朝、毎度おなじみの反省をして――と、思い出してしまう。こんなに酒飲んだ原因を。
砂姫。みんなあいつのせいだ。何だってまた、あんな女、ひろっちまったんだろう。重たい後悔。
頭をさすりながら、ベッド|直《なお》す。とにかく目は醒めちまったんだし、この頭痛じゃ寝なおす気にもなれんし、やんなきゃいけない課題もあった|筈《はず》だし、とすると論理的結論としては、起きるべきなんだろうな。|判《わか》ってます、起きるよ。
頭を軽く二、三度振って、何とか人心地つくと――あ、駄目だ。また暗い気分になってきた。暗い気分――大体、部屋自体がそもそも暗いんだから。
晩夏――いや、初秋っていうべきなのかな、この時期の日の出って、まだか。電気つけなきゃ、椅子か何かに激突しそうな|程《ほど》、暗い。
マンションの二階。南向きの大きな窓のある部屋。面倒だから、夜、雨戸閉めずにカーテンひいただけで寝るだろ。と、|平《へい》|生《ぜい》だと、起きた時、やたら明るいんだよな。その明るさに慣れちまってるから、久方ぶりのこの暗い朝は……くらーい気分になるのに充分。
一応、着替えなぞしてから、カーテンあける。どういう|訳《わけ》か、俺、女の子だったりするから、やっぱ、下着姿でカーテンあける訳にはいかんでしょうが。と。
と。
うわあお。何だこれ!?
目の下、全部、土だった。つち!
そりゃ、普通――道路か何かに面してるんでなければ――窓の外、目の下は土だろうって? そうだよ、確かに。いつだって、窓から下を見れば土があったよ。そういう情景だったら、俺もそんなに驚きゃしないよ。
問題は、土の位置なのだ。俺の部屋、二階。故に、土は三メートルくらい下――にあれば、こんなに驚きゃしない。ほんの一メートルたらず下、つまり夜中に地面が二メートル|程《ほど》も持ちあがってきちまったから、驚いたんだ。
何だ何だ何だ、夜中に地震でもあって、このマンション、二メートルばっか、もぐっちまったのか?
一回、そう思いかけて、すぐそうではないことに気づいた。地面がもりあがったんじゃない、地面の上に、誰かが土の山、作ったんだ。
気をつけて見れば、土がもりあがっている――土の山ができているのは、俺の部屋の前のあたりだけ。高さ二メートル、はば四メートルくらいの土の山。
|可《か》|哀《わい》|想《そう》に、こんなもんができちまったら、俺のま下の部屋の住人、完全に日照権、奪われちまうぜ――俺のま下の部屋の住人。
|東《あずま》くらこだ。東くらこ――俺のま下の部屋に住んでる女の名前。東くらこ――そうだ、あいつだ。
まるで意味もなく、確信する。この土の山は、絶対東くらこが作ったもんだ。そうに決まってる。いくらこのマンションが妙なところとはいえ、このマンションの住人の中で、多少なりとも土に関係あるのは東くらこだけだし、いくらこのマンションが妙なところとはいえ、土の山が自然発生するとは思えん。
このマンションは、妙なところ。こう書いた以上、やはり、このマンションについて多少なりとも書くのが義務ってもんだろうか。
ここ――第13あかねマンションは、13、という数がいけなかったんだろうか、一種、現代のお化け屋敷みたいなマンションだ。
砂姫(あとで書くけど、同居人)に言わせれば、ここ、いろいろなパラレル・ワールドの接点になってて、空間がゆがんでいるのだそうだが――この解釈は、ちっと、どうかと思う。この大東京のまん中、飯田橋に、何が悲しくてそんなSF的なマンションが建つんだよ。俺は、もっとずっと素直に、ヘルハウスみたいな呪われたマンションだと思ってる。
具体例をあげると、まず、|何故《な ぜ》かよく人が消える。ある日|唐《とう》|突《とつ》にいなくなっちまう訳。で、一週間とか一ヵ月とかして、また唐突に現われるんだが(あ、中には、消えたっきり二度と再び帰ってこない人もいる)、|殆《ほとん》どの人は、消えていた間のことを一言もしゃべらず、すぐひっこしていってしまうから――|余《よ》|程《ほど》、異常な体験をしたのだろうと思う。
また、時々、ドアの内側とか窓の外とかが、通常見慣れた普通の場所ではなくなる――唐突に、ドアの中が大海原になっちまったり、砂丘になっちまったりすることがある。一度なんか俺、自分の部屋にはいってドア閉めたら突然、何故か新宿駅西口に出ちまったんだぜ。仕方ないからもう一回電車に乗って家へ帰ったが――これも、普通では、ないと思う。
その他、やれ誰もいない|筈《はず》の部屋から女のすすり泣きが聞こえただの、夜、廊下を黒い影が横切るの、その手のうわさにはまるで不自由しないマンションなのだ。何でTV局が取材に来ないのか、不思議なくらい。
で、まあ、普通の感受性を持ちあわせた人間は、こんなとこに、一ヵ月、いつけやしない。おかげで家賃は信じられない程安く(大家も、たたりが怖くてここつぶせないらしい)、故にまだ大学生だっていうのに、俺、十二畳ワンルーム、バストイレつきの部屋に住める|訳《わけ》。
あん? そんなとこによく住めるって? いいんだ、俺は。むしろ、こういう処の方が住みやすい。命なんて、いつなくしてもいいと思ってるし――あんまり、人間とつきあいたくないしな。定住者のほとんどいない呪われたマンション。はっ、潜在的自殺志願者にとって、これ以上住みやすいところが、他にあるかよ。
☆
話の進行上、ここらで自己紹介なんてのを、しておくべきなのかも知れない。
俺、斎藤|礼《のり》|子《こ》という――今は。今、二十一の女。あん? 女で一人称代名詞が俺[#「俺」に傍点]なのは気持ち悪いって? ま、そうだろうな。俺だって知りあいにそんな女がいたら、気色悪いと思うよ。だから俺、一応人前では[#「では」に傍点]、あたしとか言ってんだぜ。うー、何たるサービス精神。あたしって一言いうたびに、果てしなく自分がおかまになった気がして……。
あ、今の文、注意して読んでくれた? 今は[#「今は」に傍点]、斎藤|礼《のり》|子《こ》って言うって書いたろ。昔は、斎藤|礼《もと》|朗《あき》っつったの。十三の時まで。昔は俺、男だったのだ。
とにかく俺、中二のなかばまで、自分のことをかたく男と信じて育ってきた。親だって何だって、みんな俺のこと男だって思ってた。(というより、俺、その頃までは、少なくとも外見的には完全に男だったのだ)
あの頃は楽しかったな。俺はちょっとしたガキ大将で――中二で背が一七〇あったし(今は一七五、ある)、剣道初段だった(今は四段)。剣道部の主将で、全国大会で一回優勝してる。わりと男前でもあった。彼女だって、ちゃんといたんだぜ。一つ下の、|真《ま》|弓《ゆみ》|美《み》|絵《え》|子《こ》っつうの。軽い天然パーマで、目がくりっとしてて、ちっこくて可愛い女の子だった。キスまでの仲。
で。こんな環境で、ある日突然、女になってしまったのだ。
|仮《か》|性《せい》|半《はん》|陰《いん》|陽《よう》っつうんだって。遺伝子的にはもともと女だったんだけど、外見――っていうか、性器が男性のような|格《かっ》|好《こう》してた訳。それが、とあることがきっかけで、判ってしまったのだ。何か、ごくまれにある病気らしい。
まあ、そのあとはえらい騒ぎだった。長男だと思ってた子が実は次女だったんだから……おふくろは泣くし、親父は酒ばっか飲むし、姉貴は何とも言いようのない暗い顔するし、医者は手術すすめるし、カウンセラーはぐだぐだ言うし。俺は完全にノイローゼの一歩手前までいっちまった。しまいには、五体満足のくせに、「君の気持ちは判るけど」なんてほざいたカウンセラー、はったおしてやりたくなった。
とにかく、カウンセラーと何だかんだ“お話しあい”なんぞをした結果、最終的に、俺は、女になることになった。遺伝子的に、じゃなくて、外見的にも。手術だぜ手術――思い出したくもないっ!
で、転校、一人でひっこし。
「ねえ、斎藤さんとこのお坊ちゃん、実は女だったんですって」
なんて言われるのには耐えられそうになかったし――大体、学校行って、どうしろっつうんじゃ。
「えー、斎藤です。今日から女になりました」
って言えっつうのか!?
美絵子に別れも言えなかった。
「ごめん、美絵子。実は俺……女だったんだ」
……言えるかよ! そんなこと!
で、とにかく隣の区へひっこし(おふくろはついて来るっつって泣いたけど、俺、断った。何よりも、台所でこっそり泣くおふくろ、見ているのが耐えられなかった)、中学校かわり――斎藤礼子としての人生が始まった。
女子中学生。そして、女子高生。そんなもんやって――しみじみ、思った。男っつうのは、何て|可《か》|哀《わい》|想《そう》な生物だろうと。
だって、女! あれ、何だよ!
一応、それまでは俺、健全な男子中学生やってたんだぜ。週刊誌のヌードグラビア見ちゃどきどきし、下級生が二月十四日に「先輩……あの、これ」とか言ってチョコレートおしつけて走ってきゃかわいいと思った。
けど。いざ、自分で女やってみれば。
これ程、あつかましく、猫っかぶりで、おっとろしい生き物って、他にいないぜ。男の方が|余《よ》|程《ほど》純情可憐。
「えー、田村くん? 何よお、真澄、あんなの[#「あんなの」に傍点]がいい訳? あの、ひょっとこみたいな顔のがあ?」
「ちょっと、ひょっとこはひどいよ。彼、あれで結構かあいい[#「かあいい」に傍点]んだから」
「かあいい[#「かあいい」に傍点]? あれがあ? 石川くんの方がまだかあいい[#「まだかあいい」に傍点]わよ」
あんなの、だと! かあいい、だと! これが、女が男に対して言う|台詞《せりふ》かよ。大体、女の子が、女の子って生き物が、男の品定めするだなんて、ありかよ。
それに。何だって女は、この手の話、好きなんだろうな。この手の――誰と誰がつきあってて、どの辺までいってて(AだのBだのCだの)だなんて話。それも、|素面《しらふ》で。俺さ。本当、可哀想で見てらんなかったぜ、うわさの種になる男を。
女の子の方は、ついうかれて言っちまうんだろうよ。「あのね……あのね、|内《ない》|緒《しょ》よ。あたし、ついにやっちゃったの。……うん。キス。……この間、二日にね、ほら、金子くんとね、スケート行ったでしょ。で、金子くん送ってくれて……で……」よもや金子は知らんだろうなあ。金子と由佳がキスしたっての、三日後には由佳の友人大多数が知ってるなんて、おぞましいこと。それも――運が悪けりゃ、金子のその時の台詞から、キスの角度まで、全部しっかりばれてんだぜ。
そりゃ、俺だって――男だってさ、時々、「森井、あいつ、すげえ胸あんのな」、「北原の方がいいぜ。森井とは顔が違う、顔が」なんてやってた事実は、否定しない。けど、何で女がそんなことやるんだよ!
それに。生理のこと、まさか、女体の神秘とまでは思ってなくても、一応、たいへんなんだろうな、出血するってことは相当痛いんだろうか、なんて思ってた俺――耐えらんなかった、この会話。
「ね、斎藤さん、あれ持ってる、あれ……ナプキン。タンポンでもいいんだけどさ」女だろおまえは! んなもん、人に借りずに自分で用意しとけ! 「水泳見学すんの? かぜ? ……何だ、あれかあ。タンポン使えば? ……はいんないの?」はいんないの、とは何だ、はいんないの、とは! まして。生理中の女の子に対して、「うー、よるな、うつる」って台詞、あれは一体何なんだ! 生理っつうのは伝染病かよ!
……とにかく、俺、中三の時点で、完全に女に対して幻滅した。幻滅――本当言うと、もう、近よりたくもない。|大和《やまと》|撫子《なでしこ》は、つつしみとか品位とかって言葉を、一体どこへおっことしてきちまったんだよ。
そして、|今《いま》|更《さら》、男に対して夢は抱けず――また、男と友達づきあいもできず。(俺、眼鏡はかけてるけど――もともとハンサムだったろ、自分で言うのも何だが、すげえ美人になっちまったんだ。姉貴が、ミス東京都だもんな。で、俺、姉貴よか……顔、整ってんだよ。胸がないからミス何とかにはなれないけど、それにしても、中学、高校と、ほとんどクラス一の美女だったんだ。で、俺と親しくなった男は……例外なしに、友情以外のもんを俺に期待しちまうのだ。んな気持ちの悪いこと、できるか)
で、結局。俺は、人生に幻滅した。
何度、生きるのやめようと思ったか判らない。それでも死ななかったのは、死に対する恐怖のせいと、もう一つ、長男の責任。万一俺が自殺なんかしたら、おふくろが後追い心中しかねない。
とにかく、俺、生きて動く幽霊みたいになりながらも、|齢《よわい》二十一の今日まで、何とか生き続けてきた訳。いい加減、一人ぼっちにも慣れ、ぼさぼさ長髪、大抵の男とはつりあわん身長、だらしない|格《かっ》|好《こう》、ヘビースモーカー、なるべく似合わない眼鏡って要素で男さけて。
で、一週間前に砂姫ひろっちまって――あー、思い出したくもない!
けど、これいつまでも想い出さずにいたら話が続かんし……。
土の山の話、書く前に、とりあえず、一週間前からの俺の恐慌状態について、書いとこうと思う。
PARTT 想い出すのもたまらん話
一週間前、土曜日のこと。俺は、授業おわると、一人で学校の近くの喫茶店に行った。コーヒーなんぞ飲みながら、“ぴあ”ひろげて。何かいい映画ないかな、明日暇だしなっていう、ごく軽い気分で。
で。|唐《とう》|突《とつ》に声かけられた。
「あれ、斎藤?」
俺は斎藤|礼《のり》|子《こ》であるからにして、思わずふり返る――と。目の前に化物がいた。
身長一七五っつうのは、相当に高い。が、その俺よりも更にひとまわり高い――一八○は軽くこしてる――がっしりとした男が、つっ立っていた。これだけなら、別に、いいんだよな。けど、その男、ひどく体格と不釣り合いな顔してて。天然パーマの髪が肩まで、目はぱっちりと色白で、おまけに童顔。こんな顔の男がプロレスラーみたいな凄まじい体格してたら……不気味だった。
「あの……どなたでしょうか」
俺は一応、女言葉で答える。
「え?」
男は、一瞬、何ともいえない表情をした。それから。
「失礼。知りあいの斎藤って男[#「男」に傍点]にそっくりだったもんですから」
こう言ったから、どっか行くかと思ったら、男、俺の隣に腰かけちまった。
「しかし本当に似てますね、うしろ姿が。斎藤|礼《もと》|朗《あき》って男なんだけど、親戚じゃありませんか」
……本人だよ。とはまさか、言う|訳《わけ》にもいかず。一所懸命考える。斎藤礼朗を知ってるからには、俺の中学、あるいは小学時代の知りあいだろう。誰だっけかな……。この髪、目鼻だち……へ?
「ま…|真弓猛《まゆみたけし》?」
思わず言ってしまう。美絵子の一つ違いの兄で、俺の親友――だった男。たしかに、顔だちや雰囲気は真弓によく似てる。(真弓って、よく間違われるんだけど、名字なんだよね)けど……あいつ、中学時代、前から二番目だったぞ。よくまあ……育ったもんだ。
「え? 僕のこと……知ってるんですか」
当然のことながら真弓、きょとんと俺を見る。
「え、えーと、|礼《もと》|朗《あき》は、あたしの兄なんです。あ、あの、その、双子の。よく兄から話を聞いてました」
「へえー。礼朗の妹さん。いやあ、あいつに妹がいるだなんて、知らなかったなあ」
そりゃそうだろう。俺だって知らんわい。
「で、礼朗は今、何してます? なつかしいなあ。今、どこにいるんです? できれば今度、会いたいなあ」
今会ってるよ。
「えーと、その……」
困る。えーい、しかたない。
「死にました」
「え!?」
急に真弓の声、はねあがる。
「なくなったんですか?」
「ええ、あの、ガンで」
「え! あいつが! ガンで!」
嘘だろ! 真弓、涙ぐんでやがる。
「そうですか……あいつが……ガンで……あんな、殺しても死にそうにない奴が……」
殺しても死にそうになくて悪かったな。
ずずって、一回、鼻すすりあげると、真弓、何とか普通の声をだした。
「あいつ、中学の時、突然転校しちまったんですよね――いや、転校したでしょう。あのあと、僕、妹と一緒に、剣道の大会は大抵行くようにしてたんですよね。妹がね、会いたがって会いたがって」
……美絵子。俺のことは忘れてくれ。
「妹さん、今、何してます」
とはいうものの、一応、こう聞いてしまうのは――未練、だろうか。
「今は短大いってます。何か、来年、コンパで知りあった男と結婚するんだって……」
ずでっ。
「いや、しかし、|礼《もと》|朗《あき》が死んだなんて……あ、妹さんは何ておっしゃるんですか」
「|礼《のり》|子《こ》です」
“もとあき”と“のりこ”。字は同じだけど、音変えたから、だいぶ印象が違う|筈《はず》。
「そうですか。礼子さん、気をおとさないようにね。あいつは……いい奴でしたね」
「あ……はあ」
「本当にいい奴だったんですよ、親分肌で。僕なんか、何度あいつに助けてもらったか|判《わか》らない」
かといって、俺の手なんか握るな真弓。気味悪いわい。
「そうかあ……。あいつ、死んじまったんですかあ……。それにしても、あいつ、何だって転校したんですか、あんな唐突に」
「えーと、あの……本人が、余命いくばくもないって知りまして、で、転校、という形にして、で、すぐなくなったと」
「え!? じゃ、あいつ、転校してすぐなくなったんですか」
「え……ええ、まあ、そんなもんです」
「そうだったんですか……知らなかったなあ」
真弓は、よりきつく俺の手を握りしめる。やめてくれよ、本当にもう。これでおまえ、俺をなぐさめてるつもりか?
「それにしても、何で礼子さんは、礼朗と同じ中学に来なかったんですか? あ、あそこにいなかったですよね」
「え、えーと、あ、あの、双子は縁起が悪いという言い伝えが……」
いつの時代の話だ。
「へえ。それで他の中学に。けど……僕があいつん|家《ち》へ遊びに行った時も、あなたに会いませんでしたねえ」
「ええ、あの、その、つまりですね、親類の家にあずけられていましたので」
「はあ。そうなんですか」
信じられない話だけど――|礼《もと》|朗《あき》の死を聞いて動転してんのかな、いや、昔から、そういえばこいつは無類に素直な男だった――真弓、俺の説明をすんなりうけいれる。
「で、|礼《のり》|子《こ》さんは今、どちらにおすまいなんですか」
それ聞いてどうすんだよ。少し、あせる。
「え、えーと、あの……」
とはいうものの、とてもじゃないけど、今更、自分が|礼《もと》|朗《あき》だって事実を告白する気になれず、俺仕方なしに住所を言う。と、真弓の表情が変わった。
「第13あかねマンション!? じゃ、ひょっとして、山科さんとか……東さんがいるんじゃありませんか?」
「ええ」
|山《やま》|科《しな》|義《よし》|行《ゆき》も、|東《あずま》くらこも一階の住人だ。
「あの……真弓さんは何であのお二人を……」
俺、一応おずおず聞いてみる。真弓の実家は知ってるんだが……よもやこいつ、あのマンションの近くに下宿なんて……してないだろうな。
「山科さん、イラストレーター、してるでしょう。僕の先輩なんですよ――つっても、山科さん、油絵で、僕、ピアノなんですけど」
えっ。山科って、うちの大学の油絵科卒? じゃ、露骨に俺の先輩じゃないか。
それにしても……うー、信じたくない。真弓がピアノ弾くのかよ。こいつ、ピアノたたき壊さずに弾けるんだろうか。でも、そういえばこいつ、昔から多少神経質なところがあったな。細心の注意を払いながら、ピアノたたく真弓。まあ、想像できんこともない。
「へーえ、そうかあ。あそこに住んでるんですかあ。ね、礼子さん、東さんと会うことがありませんか?」
その時のくちぶりにより、俺、少し安心。真弓は東嬢にほれてんだ。ほっ。昔の親友に口説かれるっつう、最悪の事態は、これで何とかなった。
「えーと……まだ、ほんとに、会えばあいさつするくらいの関係です」
「そうですかあ……いや、そうでしょうね。山科さんもそう言ってました。東さんって、何ていうか、一種こう……人をよせつけないムードがありますよね」
東くらこ。一所懸命想い出してみる。どんな女だったっけ?
割と、日本的な顔だちだった。そう、あくまで白い肌――こう書けば聞こえはいいが、一種病的に白い肌だ――、黒髪は長くストレート――こう書けば聞こえはいいが、生まれてこのかた、|殆《ほとん》ど美容室へ行ったことがないような長さだ――。でも、それは、まあ、いい。ただ。
あの女も、第13あかねマンションに平然と住むだけあって、相当変わった女だった筈。確か……あ、そうだ。
あの女が今いる部屋――一階の南側――には、二年くらい前まで、杉本夫妻っていう夫婦が住んでたんだって。(これは、もう二年以上もここに住んでいる、むかいの根岸って女に聞いた)何でも、地中生物学っつうのが専門の学者夫婦で、みみずやもぐらを飼ってたんだそうだ。で、一歳になる女の子がいて……この状態で、ある日、一家三人そろって、ふっと消えちまったんだって。
それから、二年たって。気がつくと、そこの部屋には東くらこが住んでいた。(本当に、ふってわいたように、気がついたら、いたらしい)彼女は、自分のことを杉本夫妻の娘だと主張して(まるで年があわないのだが)、結局、いすわってしまった。
で、彼女の格好なんかが、また、凄かったそうだ。発見された時着ていた服っていうのが、二十数年着古したようなボロで、社会常識、まるでなし。家賃、という単語、知らなかったらしい(結局、大家がさんざ説明して納得したようだが)。で、彼女、家賃を絶対お|札《さつ》で払わないんだって。もうこれ、伝説になっちまってる。全部、硬貨。ま、お札も硬貨もお金であることに違いはないのだが。
ま、人の好みは人の好みであって、俺と真弓の好みが違うのはあたり前……とはいっても。真弓もまたずいぶんかわった好みしてんな。
「でも、その、人をよせつけない|処《ところ》っていうのに、何か一種のいじらしさを感じるんですよね。何ていうのかなあ……人にうちあけることのできない重荷をかかえて、でも、一所懸命、けなげに生きてるって感じで」
「あ……はあ……」
目を細めて、本当に|愛《いと》しいものについてしゃべっているような表情の真弓。俺……何つうか、しばらく、|呆《あっ》|気《け》にとられていた。と、真弓、俺の気のないあいづちで、急に照れくさくなったのか、一転して話題を変えた。
「僕、割と山科さんと親しいんです。山科さんがあのマンションにひっこす前、僕ン|家《ち》に下宿していたもんで」
ああ、そういえば真弓ン家は、下宿屋やってた。
「で、僕がまた、山科さんと同じ大学来たでしょう。そんな縁もあって、時々、山科さんのところへ遊びに行くんですよ。そうですかあ、あそこに斎藤の妹さんがいただなんて」
俺、ひっこそうかなあ。
「今度、うちに遊びに来ませんか」
「え、え、何で」
思わず叫ぶ。いくら何でも――俺、この姿で、美絵子に会うの嫌だ。
「美絵子――妹にね、会ってやってほしいんですよ」
やだっつうに。
「こんなに|礼《もと》|朗《あき》に生きうつしなんだもの、会わせてやりたいなあ。一卵性双生児ですか」
……|莫《ば》|迦《か》。一卵性で性が違うか。ああ、そういやこいつ、理数系全滅だっけ。
「今週はお暇ですか?」
「あ、あの、駄目です」
「じゃ、来適は」
「いえ、あ、あの、ちょっと……」
…にぶいっ。俺が嫌がってんの、判んねえのかよ、真弓!
「いつでも暇な日言って下さい。それにあわせますから」
「いえ、あの、その……」
で、結局、二週間後の日曜日に、約束しちまった。……俺も弱いなあ。
☆
何だかんだ言い訳して、何とか真弓をふりきると、俺、その晩一人で酒飲んだ。これが飲まずにいられるかよ。
日曜日には、かぜひいてみようかな。何とかうまいこと理由作って、美絵子すっぽかそう。男心――っつうか、女心は、これでいろいろデリケートなんだ。
言い|訳《わけ》考えつつ、終電のなくなった街を歩く。上野から飯田橋。歩けない距離じゃないし、酔いざましにはちょうどいい。
「やだ! やめてよ、いやらしいわね!」
と。かんだかい女の声がした。あの角まがったとこ、かな。この辺は、今の時間帯じゃ人通り滅多にないし、女の子がよっぱらいにでもからまれてるんだろうか。まあ、通りかかったことだし、この場合やっぱ助けてやるべきだろうな。
走って角をまがる。ちょうど角のとこの家に、わりと大きな柿の木があって、枝が一本、何とか外からでもとれるとこにあった。悪い、とか心の中で|呟《つぶや》いて、俺、その枝をおる。一応、|竹刀《しない》の代用品さえあれば、並みの男にはまけない自信がある。
角をまがったとこ、街灯の下。
美絵子! ……じゃないけど。俺、思わず叫びそうになった。真弓に会ったせいかな、その女、美絵子そっくりに見えた。
天然パーマのくりいろの髪、胸まで。ぱっちりした二重まぶた、形のいい鼻、口紅塗ってる訳でもないのにまっ赤な唇。齢の頃は十五、六の、正直言って、美絵子より美少女。
その女の右手つかんで、雰囲気暴走族のお兄ちゃん風の男、二人。二人共、四〇〇tクラスのバイク、そばにおいてる。
「なんだよう。そっちからコナかけといて、|今《いま》|更《さら》いやだもねえだろ」
今しゃべった男。唇がぼてっと厚くて、全体的に脂ぎった感じ。俺、こういうタイプ、生理的に嫌いなんだ。美絵子風容貌の女(つまり、もろ、好みのタイプ)が、どうみても好ましくない男にべたべたされてんのって、それだけでももう、許せん気がする。
「おい、よせよ。嫌がってんだろ」
重心左足にのせ、半眼って感じで男達|睨《にら》みつける。二人共、今まで俺にはまるで気づいていなかったようで、あせってこっちむく。女の子は、脂ぎった男の手をふりはらって、定石どおり俺の方へ駆けてくる。たすけてえ、なんて叫んじまって。おっ、かっわいい。
「なんだよ、|邪《じゃ》|魔《ま》すんのかよ」
「おまえ、男か? 女か?」
脂っぽくない方が、悩んでる。だろうな、俺、背は一七五あるし、胸はないに等しく、ジーンズはいて(誰が何と言おうと、俺、絶対にスカートはかんぞ。気色悪い)、髪は腰あたりまである。(おふくろがさ、言う訳。|礼《もと》|朗《あき》、いや礼子、おまえも可哀想だけど、何とか女になじんでおくれって。本当、涙ためて俺の行く末を案じてる訳。こりゃ、髪くらい伸ばして、せいぜい女のふりしてやんなきゃ、悪いよ)男言葉|遣《つか》えば男に見えるし、女言葉遣えば女に見える。
「さあな。言っとくけど、俺、有段者だからな。そっちが丸腰なら、勝負にならんぞ」
と、一応注意はしてやったんだが。二人共、無謀なんだよな。
結局、二分後には、二人共、大地とお友達になってしまった。脂っぽい方は、ささやかな嫌悪の情をこめて、もろに胴うったから……さぞ、苦しかろう。つっても、同情してやる気は、まるでないが。
でもって、三分後。俺は女の子にお説教はじめてた。
「あんたも悪いんだぜ。こんな時間に女の子一人でこんなとこうろついてりゃ、襲って欲しいって言ってるようなもんだ」
この場合、自分が女だってことは、無視することにした。
「はーい」
女の子は、一応素直にこう言った。それから俺の顔みて。
「あの、あたし、|砂《さ》|姫《き》っていいます。砂の姫って書いて、さき。……あなたは?」
「んなもん、どうでもいいよ。金持ってるか?」
「どうして?」
「車がひろえるとこまで送ってやるから、早く帰れよ。両親、心配してるぜ」
「お金、百六十円しかない」
しっかたないな。何の因果だ。俺が、見知らぬ女の子のタクシー代まで出すのかよ。
「それに、家も両親もないのよ、あたし」
「莫迦。ふざけるな。早く帰れ」
「だって本当にないんだもおん」
女の子は、軽くほっぺたふくらますと、俺の腕に腕をからめた。(かわいくない、と言えば、完全に嘘だな)
「ね、あなたの|家《うち》いこ」
「やだよ」
「どうしてえ? あたし、あなたのこと気にいっちゃった。あなた、あたし、嫌い?」
……で、にっこり。俺の理性、完全にまけた。この子……かわいすぎる。
「本当にあたし、お家ないのよ。一晩でいいからとめてくれない?」
ま、精神的には俺、男だけど、肉体的には同性なんだから、一晩くらいとめてやってもいいかな。そう思った矢先、女の子、何かを手の中でちゃらちゃらいわせた。……あ。俺のキイ・ホルダー。昔、美絵子にもらった奴。
「Motoaki……もとあきっていうの」
「あ……まあ。お、おい、それ、どうやって」
「へへへーだ。とめてくんなきゃ返してあげないよおっだ」
「おい、こら」
「うふ。冗談」
砂姫はこう言うと、べたっと俺の腕に抱きついた。こいつ、笑うと左のほおにえくぼができるんだ。
「さ、もとあき君。いこ」
☆
家につくなり、砂姫はひたすらはしゃぎだした。きゃあ、立派なマンション、わあ、バスついてるう、とか言って。このマンションの家賃が、もうべらぼうに安いってことは、俺、話さない。
「ね、バス借りていい?」
「ああ」
で、砂姫が入浴している間、俺、ほけっと煙草ふかして。家出娘かな。名字なんていうんだろう。明日こそ家に帰さなきゃ。一応、年長者の責任つう問題もあるしな。
「家出人じゃないのよ」
ふいに背で声がして、あせる。
「大抵の人がそう思うみたいだけど、違うの」
砂姫は、湯あがりの上気した肌をバスタオルでくるんで、立っていた。思わず、男だった頃の気分になって、つばのみこむ。それから、何とか声を出し。
「早く服着ろ。パジャマ、貸してやろうか」
砂姫、何でだか、あきらかに不服そうな顔してこっちを|睨《にら》む。
「ね、どうして」
甘えた声。
「何が」
「何でそんなに|素《そっ》|気《け》ないの。あたしって、そんなに魅力ない?」
こう言われて、ようやく悟った。砂姫は、俺のこと、男だと思ってんだ。そうだよな。俺の名前、|礼《もと》|朗《あき》だと思ってるんだから。
「ね」
そして、次の瞬間。砂姫は、バスタオルを床におとしたのだ。
「あたし、欲しくない?」
☆
たく、まあったく、えーい、この!! この女の性道徳はどうなってんだ! 助けなきゃよかった。ほっときゃよかった。
砂姫は露骨に、男だった頃の俺のタイプの女だったし、俺、まだ、意識的には男だから、んなことされれば挑発されないこともないし、とはいえやはり今俺は女で、女である以上女相手にどうしようもない訳で……ぐじゃっ。
俺は、何とかなけなしの理性をふりしぼって、砂姫にパジャマ投げつけ、無理矢理ベッドにつっこみ、毛布だけうばって、ソファで寝た。いくら何でも、こんなややこしい状況下で、レズに走りたくない!
と。そんな俺の耳許で。砂姫、何つったと思う?
「|礼《もと》|朗《あき》さん、あなたって……意外と紳士なのね」
たまらんよ、俺は、本当にもう。
いくら女に夢は抱くまい、女は魔物だって判っていても、この件は、やはり、それなりにショックだった。十五、六の女の子が、「あたし、欲しくない?」だと! ざっけんじゃねえよ! ……もし、俺がずっと男だったら……おそらく、この誘惑には勝てなかったろう。それを思うと、口惜しくもおそろしい。
女は、魔物だ。女、怖い。女……あーもう、寝られん! 砂姫はベッドの中で、くーかくーか寝息たててるっつうに……畜生! この!
心の中で、何度も|呪《じゅ》|詛《そ》の言葉を繰り返し、やたらめったら寝がえりをうっているうちに、それでも何とかようやく少しうとうとしたらしい。ふと気がつくと……朝、だった。
☆
何やらことことという音がして、目がさめた。起きてまず、ベッドへ目をはしらせ――砂姫の姿はない。
ほっと一息つこうとして……うわっ、出た! 俺のシャツを無断で着て(一応、俺、背が一七五あるだろ。男物着てる)、シャツの下からにょっきりふとももをのぞかせた砂姫は(おい! 朝っぱらから人の理性を攻撃すんな!)、なかなかまめまめしく、台所で働いてた。
「おはよ、|礼《もと》|朗《あき》。朝、お豆腐となめこのおみそ汁と、サケでいい?」
「……あ、ああ」
思わず答えてから。
「おい、なめことみそ、どうした?」
俺、とても料理なんてできんから、ひややっこ用の豆腐、焼くだけでいいサケしか買ってないぞ。
「なめことおみそとだし用のかつおぶしは、おむかいの根岸さんにもらっちゃった。あとでお礼しといて」
「お、おい、ちょっと」
「だってえ、まだ、お店あいてないよ」
……だろうな。まだ七時。
「やっぱり、ほら、あたしとしては、大切なあなたに、しっかり朝御飯たべて欲しいじゃない」
大切なあなたあ? いつからそうなったんだ。
「でも、ちょっと意外。あたし、十五かそこらに見えるじゃない。こんな朝っぱらから男の部屋にいて、で、朝御飯の材料借りにいったら、当然“わー、ふしだら”って目でみられるかと思ってたのよね。根岸さん、全然そんなこと気にしてないみたい」
そりゃそうだろう。根岸嬢は俺が斎藤礼子[#「礼子」に傍点]であることを知っている。女の子が女の部屋にとまって、ふしだら路線で見られちゃかなわん。
「あのね、|礼《もと》|朗《あき》」
ふと気づくと、砂姫は何やら熱っぽい目で、俺の方をじっと見ていた。
「あたし、あなたのこと、すごおく、気にいっちゃったの。もうしばらくここにいていいでしょ」
おい、冗談!
「駄目」
いくら何でも、ああ、とは言えん。
「ね、どうして。どうしてよ。あたし、もうあなたのこと、誘惑しないから。……そのかわり、浮気しても怒んないで欲しいけど……」
「おい、ちょっとまてよ。砂姫、おまえね」
「お説教、やだ。おみそ汁が煮つまるよ」
「みそ汁よりこっちの方が大事!」
「なあによ」
「おまえがどんな育てられ方をしたのかは知らん。でも、若いうちにあんまり遊ぶと」
「お説教、やだってば。それにあたし、もう若くないもん」
「若くないって、十五、六でね」
「十五、六じゃないもん。|桁《けた》が違うもん」
「俺はふざけてないんだぞ」
「あたしもふざけてない。当年で三百歳以上よ。礼朗よかずっと大人」
「その台詞のどこがふざけてないんだ!」
「あ、あー。きずついちゃうな。礼朗だから本当のこと教えてあげたのにい」
「おーお、勝手にきずつけ。とにかく、俺の部屋におまえをおいといてやるのは今日でおわりだ」
「あ、そうお」
砂姫、ぷっとふくれる。か……かわいくなんかない! か……わいいと思ったら身がもたん。
「じゃ、いいもん。斎木さんとこへ行こうかな、おむかいの。あの人、今朝、あたしのこと、割ともの欲しそうな目で見てたもんね。あの人、雰囲気割とプレイボーイ風じゃない? ああいう、自分で自分のこと、もてるって信じてる男って、割とすぐひっかかんのよね」
斎木? むかいの? おい、ちょっと待てよ。あいつ、この俺にまで色目使ったことあるんだぜ! あんな男に砂姫が抱かれる……うー、許せん!
「お、おい、ちょっと待てよ砂姫」
俺――自分でもある点、だらしないと思える程おひとよしになってしまう。
「斎木はよせ、斎木は。あいつは真性プレイボーイだ。あとで泣くのはおまえだぞ」
「あたし、真性プレイガールだもん」
も……何をか言わんや。
「それに、|礼《もと》|朗《あき》君としては、あたしを追い出したいんでしょ。いいの。判ってるの。あたし。あなたの御迷惑になるのなら、おいて下さいなんて無理言わない」
よせよお。その言い方だと、何か、俺が砂姫、捨てたみたいじゃないか。
「おい、砂姫。あんただって、別に男なら誰でもいいって訳じゃないんだろ。もう少しその、何つうか自分を」
「あたし、男なら誰でもいいの」
……こ、これが十六の……。
「それに、斎木さんて、割とおいしそうじゃない」
お……おいしそうだとお! こ、これが十六の娘の言う台詞か!?
「あ。礼朗、誤解したあ。あたしの言うのは、何ていうかその、お食事としてみておいしそうだってことで……」
「……おまえ、人肉喰うの」
「まさか」
「じゃ、どこが誤解なんだよ!」
「ま、その話は、しだすと長くなるからよそうよ。とにかく、あたし斎木さんとこ行くからね」
「駄目!」
「どおしてえ? どうして礼朗があたしのすることに文句言える訳え?」
「ね……年長者の責任!」
「だって、ここにいちゃ駄目、斎木さんとこ行っちゃ駄目っていうんじゃ、あたし、困る」
「困らないっ! 家へ帰れよ、家へ!」
「家、ないんだってば。何度言わせるの」
ふてくされて俺を見上げる砂姫。その目線は……何ていうのか、一種あらがいがたい魅力を持っていて……。
魅力。そんな生やさしいもんじゃない。魔力だこれは。俺は……こっちを見上げる砂姫の目から、目を外せなくなっていた。視界一面にひろがるひとみ。……んな、莫迦な。かすかな、理性の抵抗。人間の目が、そんなに大きい訳はない。
しかし。気づくと、俺の視界は、砂姫の目で一杯になっていた。俺の視線のゆくところ――その、すべてに、砂姫の目。砂姫の――それも、ひとみの部分だけ。ひとみ――虹彩。その中で、ちろちろ燃える、緑色の炎。
虹彩は、黒か、茶色か――とにかくその類の色である筈。緑色の訳が――しかし。
虹彩の奥でさわぐ緑色の炎が、急にめらっと燃えあがり――砂姫の目は、すべて、緑色になった。かすかに視界の端にかかる、まっ赤な唇。あれは――血の色。血の色の唇からのぞく、真珠の白。歯。その歯は、八重歯というにはあまりにもとがっていて――そして。
そして、次の瞬間、理性がけしとんだ。
俺は無我夢中で砂姫を抱きしめ、砂姫は積極的に俺の抱擁にこたえ――あ。
やばい。まずい。これはいけない。
俺は――今の俺は、女なんだ。
俺は、|慌《あわ》てて、砂姫からはなれた。何とはなしに、一メートルもとびのいてしまう。
「……え?」
砂姫、ぼんやりと、かたすかしを喰ったように、俺をみつめる。……ほっ。先刻の緑の目は、やっぱり、光線の加減か何かだったんだ。今の砂姫の目は、ごく普通の|焦《こげ》|茶《ちゃ》。
「あの……」
砂姫、ちょっと口ごもって。それから。実に――実に何とも妙なことを言った。
「あなた……ひょっとして、人間じゃないの?」
「へ?」
今度は俺がきょとんとする番。二人して、まる二分、お互いの顔を見つめあい。それから、砂姫の、ただでさえ大きな目、急に一杯にみひらかれる。
「えー! まさかあ!?」
「へ? まさかって何が」
「まさかと思うけど……でも他に考えようがない……|礼《もと》|朗《あき》君って、女なの?」
急にそんなこと言われたら……あせるぜ。でも、今の機会をのがしたら、もう、俺が女だって告白するチャンスはない。俺は、覚悟をきめて、息を吸った。
「そう。俺、女なんだ」
「……信じられない」
砂姫、ただただ口をあける。
「雰囲気、完全に男だったのに……そうよ。このあたし[#「あたし」に傍点]が、男と女を間違う訳ない。……けど……本当に男だったら、あたしに言いよられて、そんなに平静でいられる訳ないし……」
そりゃちょっと自信過剰の台詞だぜ。そう言おうとして、思いとどまる。確かに普通の男なら、あんな風に砂姫にみつめられ、で、平静でいられる訳、ない。
「ね、どうして?」
砂姫はひたすら俺に喰いさがる。
「あたし、男みたいな女の人、とか、女みたいな男の人を見わけるのって、自信があるの。確かに礼朗って、体型はすごく中性的だと思う。体型だけ見たら、あたし、あなたのこと、男とも女とも判らなかったと思う。でも……精神、っていうか、感じは、あきらかに自分を男だと思って、男として育てられてきた人のそれだったわ。どうしてこんなことがあり得るの」
「うーん……」
困る。ちょっと常人には説明しにくいし、第一説明したくない。でも……考えてみれば砂姫は、何だか充分常人じゃなさそうだし。
「大体、もとあきって、どこをどう押しても男名前でしょ? 何でもとあきが女なの」
仕方ない。俺は、砂姫に――絶対内緒にするって約束つきで――俺のおいたちを話すことになった。
☆
「ふーん……」
砂姫は、俺のおいたちを聞いても、笑ったりしなかった。
「それで、今はのりこさんっていうの」
「そう」
「それはまた何とも数奇――っていうか、可哀想な運命ね……」
「だろ。な?」
俺は――初めて他人にこの話をし、初めて共感を得られた俺は――いきおいこんでこう言う。と、砂姫、さながら年下の子に言いきかせるかの如く、ゆっくりとした口調で。
「違うの。誤解しないでね。あたしがあなたのこと、可哀想って言ったのは、人生半ばにして性が変わったからじゃないの。あなたの神話と……その後のことを考えて。あなたの神話、全面的に崩れたのよね……」
神話?
「あのね、女の子は男の子に対して男性神話っていうのを、男の子は女の子に対して女性神話ってものを、それぞれ、いだいちゃうものなのよ。――まだ、お互いの実態を知らないうちは、女の子は男のこと、強くてたくましくてたよりになって、自分を守ってくれるものだと思っちゃう訳、無条件に。男の子が女のことをどう思うかは、あたし、判んないけど……でも、とにかく実際以上に思っちゃってる筈なの。で、それは、お互いに未知の――判らない、神秘的な部分が、どこかしらあるからなのよね。でも、あなたみたいに、思春期半ばで両方の性を経験しちゃったら、とても神秘的、だなんて思えなくなっちゃうでしょ、男性も、女性も。今まで夢を抱いてた分だけ女性には失望するだろうし、今更男性神話なんていだけっこないし」
ま……な。確かに俺、今更、男にも女にも何の夢も抱かないし、期待もしてない。と、砂姫、黙ってる俺の表情みて。
「あ、違うの。誤解しないでね。あたしが礼朗のこと可哀想だって言ったのは、別に神話の崩壊のせいじゃないの」
ゆっくりと、俺の体をはいまわる、砂姫の視線。
「あのね、神話である以上、女の子にとって男の子って、永遠の異邦人――エイリアンなのよ。男の子にとっての女の子もそう。で……エイリアンの実態を知っちゃったら……そしてそれに幻滅したら……一番大切なところが見えなくなるじゃない。男と女は、それぞれ別種の――エイリアンだとしても、でも、あくまでも基本的なところでは同種だってこと。異邦人っていったって、それは、地球っていう一つの星の上での異邦人なのよね。基本的には、同種なのよ。同じ人間な|訳《わけ》。相手の神話が崩壊すれば、おそらくはその一番基本的な処が、見えなくなってしまうと思うのよね。そういうのって……悲劇だわ。悲劇じゃない?」
「…………」
残念ながら、俺には、砂姫の台詞の大半が理解できなかった。ただ、判るのは砂姫の目のいろ。真剣に俺を見ている、砂姫の目のいろ。
と、砂姫、急に軽くくすっと笑って、続けた。
「うん……まるで……あたしの運命みたいよ」
「へ? 砂姫も昔、男だったのか?」
俺、何となく、その砂姫の表情がたまらなくて、思いっきり莫迦なことを言ってしまう。
「まさか。でも、数奇さの点では、ちょっと人後におちないわよ……」
それっきり、砂姫は口をつぐんだ。しばらくの――主観的には十数分におよぶような、客観的にはほんの数十秒の――沈黙。それから砂姫は口をひらいた。
「判った。今度こそ本当に、あたし、出てゆく。斎木さんも、誘惑しない」
え? ……何つうか……こう……こんなに急に下手に出られると、困るんだよね。
「どうして」
「どうしてって、|礼《もと》|朗《あき》――あ、失礼、|礼《のり》|子《こ》さんとしては、あたしにいて欲しくないんでしょ? ただでさえ、かなり数奇なあなたの運命を、あたしっていう果てしなく数奇な女の子加えて、さらにどうしようもなく数奇にしちゃっちゃ……申し訳ないもの」
……え。おい。嘘だろ。これがあの砂姫の台詞かよ? あの、人を人とも思わない、男ならだれでもいいだなんてうそぶく、あの砂姫の台詞? こんな……ま、聞きようによっちゃ、神妙なのが?
「で……じゃ、お宅、この先どうするんだ」
思わず真面目な声で聞いてしまう。
「ん……」
砂姫は、なんとなく、うれいを含んだような声を出す。
「ん……と、そうねえ……とりあえず、どっか他の――ディスコでもパブでも行って、男の子ひっかけるわ。そのあとのことはそのあとのことよ」
「お、おい。男ひっかけるっておまえ」
「ストップ。お説教やめて。……あのね、ちょっと説明できないんだけど、あたしも、あなたにまけずおとらず、数奇な運命に|弄《もてあそ》ばれてんの。あたしの場合、月に一人は別な男誘惑しないと生きてゆけない。……今までそうして生きてきたし……これからだって、そうやって生きてゆくわよ」
そうやって生きてゆくわよ。こう言った時の砂姫はまっすぐ前をみつめていて――とてもお説教できそうにない雰囲気。そう。その台詞は、どこか――とっても|基《もとい》のところで、殉教者とか、何かそういう類の人の台詞みたいな――妙に崇高な雰囲気をたたえていたから。
「その……」
で、我ながら莫迦みたいだと思う、次の台詞がでてきちまう訳。
「どうしても、他の男誘惑しないと生きてゆけない訳?」
「うん……どうしても」
と――珍しく、えらく真面目に、砂姫。……俺、負けた。精神的に。
「……判った」
仕方ないから、この台詞をしぼりだす。
「俺のことを誘惑しないって約束するなら、ここにおいてやる」
「え……だって……」
「いい。俺がおいてやるって決めたんだ。おまえが……たとえ何であっても、とにかくおいてやる。……ただし、俺は、これ以上誘惑するなよ」
「ん……OK」
「それから、斎木も駄目だ」
「OK。……でも、本当に、いいの?」
俺のことを莫迦だと思いたい奴は、そう思え。とにかく、俺は――何か判らんが、俺は――この条件で首をふっちまったのだ、|縦《たて》に。
まさか……ここで首を縦にふっちまった為に――まさか、砂姫のせいだけとは思えん。俺には、いささかばかり、もともとそんな要素があったんだろう――こんなにも[#「こんなにも」に傍点]、数奇な運命に、もてあそばれるとは……予想の外だったもんで。
☆
以上、果てしなくどっか妙な会話の結論として、俺はメシを喰っていた。砂姫は、何だか今は食欲がないそうで、ほけっと俺の煙草ふかして。
と。ノックの音がした。
「はあい」
砂姫が、明るい声を出してドアあける。今日は誰とも約束ないし、たずねてくる人のあてもないから、どうせ新聞の勧誘とかそんなもんだろう。なら、砂姫にまかしときゃいい。てんで俺、食事をやめずにいると。
「あれ……斎藤さんは?」
ドアの処で男の声。あれ?
「あ、います。どなた?」
「真弓といいます」
真弓の野郎だ。俺は、箸をおくと深呼吸。これ忘れちゃいけない。俺は女だ。
「あら、真弓さん、どうなさったんですか」
うっ、完全におカマになった気分。砂姫の奴、俺が女言葉|遣《つか》ったもんで、必死に笑いをこらえてやがる。
「え、特に何か用っていうんじゃなくて……僕、今、山科さんのとこに遊びに来てるんですよ。で、二階の斎藤さんが、僕の小学、中学時代の親友の妹さんだって話をして……、したら、山科さんが、よかったら遊びにこないかっていうんです。今、パーティやってるもんで」
「パーティ?」
「山科さん、今度、割と大きな童話シリーズの装丁やることになったんだそうで、それじゃおいわいしなきゃって……で、うちうちでパーティ。……あ、よろしかったらこちらの方も、いらっしゃいませんか?」
「あ、あたし?」
必死で笑いをこらえていた砂姫、顔をまっ赤にしながら聞く。
「中学時代の親友の妹さんってことは、あなた、礼子さんのお兄さんかお姉さんの……」
「ええ、斎藤|礼《もと》|朗《あき》の――|礼《のり》|子《こ》さんの双子のお兄さんの親友だったんですけど……。あ、あなた、礼朗は、知ってるんですか?」
「あ、あは、あの、ええ、はい、知ってるっていえば知ってます。……はは、そうか、礼子さんは礼朗の双子の妹な訳ね、|成《なる》|程《ほど》」
「え? まさかあなた、|礼《のり》|子《こ》さんと|礼《もと》|朗《あき》と別々に知りあった、二人が兄妹だって知らなかったって訳じゃないでしょ」
「え……ええ、……」
砂姫、身体を二つに折って、いかにも苦し気に笑いをこらえている。真弓の方は、どことなくきょとんとした表情。
「ほんとに一緒に知ってます」
それでも何とか砂姫、この台詞をしぼりだす。
「じゃ、何で、今更そんな基本的事実に気づくんです? こんなにそっくりなのに」
「そ、そ、そうよねえ……あは、本当にそっくり……」
「それにしても、礼朗は可哀想ですよ。あんなに若いうちに死んじまうなんて」
「し……死んじまう……」
……駄目だ。砂姫、ついに耐えられなくなってしまったらしい。完全にけたけた笑いだす。真弓は一瞬ぽかんとして……それから段々、おこりだしたようだ。ま、親友の死を笑う女がいたら、無理のない反応。
「ごめんなさい。あとから行きます」
俺、ついこう叫ぶと、ドアをばたんと閉じた。ここで、礼朗の死をめぐって、真弓と砂姫にけんかされちゃたまらん。
「あ、あの」
ドアの外で真弓が何か言ってる。俺、精一杯の大声で叫び返して。
「すみません! この子、礼朗の死があまりにもショックだったんで、その話をされると、多少精神的に変調をきたして、笑いがとまらなくなるんです!」
……んな理屈、あるんだろうか。俺、もう、知らん。普通の人間なら、こんな莫迦莫迦しい理屈でとても|納《なっ》|得《とく》はすまいが……何つったって、相手は真弓だ。こいつの、あの無類の素直さをあてにするしかない。
砂姫は、そんな俺の気も知らず、体を二つにまげたまま、喉をぜいぜいいわせながら、ひたすら笑い続けていた。
「あは、ははは、礼朗君、死んだ訳」
「ああ」
俺、こころもち|撫《ぶ》|然《ぜん》。
「そうよねえ……あは、ここに礼子がいて、で、礼子と礼朗が同一人物であることを知られたくなきゃ、片っぽ殺すっきゃないわよねえ……ふふ……でも、あ、もう駄目、おかしい……」
☆
五分後。やっと笑いのおさまった砂姫は、もう、死にそうな顔をしていた。ま、五分ぶっ通し笑ったんだから、無理はないと言えば無理はないんだろうけど……喉はもう、完全にかれてて、顔中笑いじわ。おまけに笑い続けた為に相当腹筋を酷使したらしく、腹おさえてる。
「同情する気はないぞ」
でも、俺、そんな砂姫に冷然とこう言い放って。あいつが笑ったのは、俺[#「俺」に傍点]の死なんだぞ。どこの世界に自分の死を笑われて喜ぶ奴がいるかっつうんだ。
「う、うん……ごめん」
何とか息をととのえて、あえぐように、砂姫。
「悪いとは思ってたんだ、うん、本当に。何とかとめよう、とめようと思ったんだけど……ごめんね、傷ついた?」
「ま、別にそれはいいけどさ」
俺も甘いんだ、本当に。
「けど、俺、言っちまったぜ。……まあ、あの場をおさめるにはそれしか方法がなかったんだけど……山科って奴の処へ行くって」
「それがどうかした訳?」
砂姫は平然と聞く。俺が、あんまり真弓に近づきたくないと思ってることなんか……全然、考えてもいないらしい。
「ね、山科さんって、男? 女?」
「男。山科善行とかいったと思う」
「そうかあ、おとこ、ね」
砂姫、何だか舌なめずりしている感じ。男――あー!? こいつ、山科を誘惑する気か?
「斎木さんが駄目なら、その山科さんって人に期待してみよう」
「お……おいっ」
「|勿《もち》|論《ろん》、会ってから考えるけどね」
☆
砂姫は、そのあと一時間くらい、かいがいしく台所で立ち働き――まだ見ぬ“男”の為に、サンドイッチ、カナッペ、鶏のからあげを作った。パーティならおつまみがいるだろうっつって。
それから二人して、仕方なく山科って男の部屋に行く。砂姫、必要以上にしなを作って、真弓に謝る。
「ごめんなさい、先刻は……。あたし、|駄《だ》|目《め》なんです。|礼《もと》|朗《あき》君のことを聞くたびに、軽いヒステリーおこしちゃって……泣きたいんだけど、泣けなくて……笑いだしちゃうんです」
真弓は――実にまったく、素直な男だ――この無茶苦茶な説明を聞いて、納得したらしい。砂姫と礼朗の関係をたずねたりして。
「いとこなんです。あたし、斎藤砂姫っていいます」
おい、勝手にいとこになるなよな。
俺はその間、山科善行を眺めていた。何となく、ほっとする。砂姫の趣味が俺タイプなら、大丈夫、砂姫は山科さんにはほれないだろう。……でも、何で俺がこんなことでほっとしなきゃいけないんだ?
山科さんは、話によれば二十五の――でも、三十程度に見える男だった。えらく角ばった筋肉質の体つきで――俺と正反対。なのに背は一六五もなく――俺と正反対。部屋の中はお世辞にもきれいとはいえず、また、本人も、あまり身だしなみに気をつかう方には見えなかった。この辺は、俺と似てないこともないんだが――まさか砂姫、俺の汚ない|処《ところ》が気にいった|訳《わけ》じゃないんだろ? ちょっといやらし気な、口ひげなんかはやしてる。
「|東《あずま》さんに声かけたのか?」
山科さん先刻から、そのことばかり真弓に聞く。そうか、こいつ――真弓が東嬢に片想いだって知ってて、で、パーティにかこつけて、東嬢と真弓にきっかけを作ってやろうとしてたのか。つうことは、俺も砂姫も、刺身のツマ。
もっとも真弓、この台詞聞くたびに見事にまっ赤にそまってたから……駄目だ。こんな気の弱さじゃ、女一人、口説けやしない。
「あの、お料理作ってきたんです。よかったらおつまみにでもって思って」
砂姫は――ああそうかそうか、こいつ、好みもへったくれもなく、男なら誰でもいいんだ――一応、真弓を懐柔するのに成功すると、今度は山科さんにコナかけだした。
「あ、どうも」
山科さん笑顔を作る。口ひげのせいだろうか、何かいやらしいな。
それにしても、砂姫が料理作ってきたの、正解だった。山科さん家、本当、何もありゃしない。サントリーホワイト一本と、するめとさきいか、柿の種。これだけでパーティだなんて、おこがましいぜ。砂姫が一品一品、料理をとりだすごとに、山科さん本当に|嬉《うれ》しそうな顔をする。
「すごいなー。これ全部、砂姫さんが作ったんですか」
「ううん、|礼《のり》|子《こ》と一緒に。礼子、これで割と家庭的なんですよ」
よしてくれよ、おい。それで俺に花もたしてくれたつもりか!?
「あ、うまい。うまいですよ、これ。こっちのからあげもなかなかいける。へえ、砂姫さんも礼子さんも、お料理上手なんですね」
「やだ、そんな、お世辞ばっかり」
「いや、お世辞じゃない」
へん。勝手に二人で意気投合してくれ。
「ほら、礼子さんもどうぞ」
山科さんがグラスを出してくれる。
「水割りでいいですか」
「あ、どうも」
いくら日曜だからって、昼からのむのか。うーむ……。
「礼子さんは真弓と大学一緒なんですって? ピアノですか」
「いえ、油絵です」
「へえ。じゃ、俺の後輩になるんだ」
「ええ……まあ」
「で、どんなの描くんです? よかったら今度見せて欲しいな」
何となく、微笑んでごまかす。俺、本当いうと、あんまり、自分の絵を人に見せたくないんだ。――特に、ある程度関係のある人――友人とか、近所の人とかには。
絵は、俺が女になっちまってからはじめた趣味で――何とか暗い気分をごまかそうと思って描きだした絵だから――本当に暗いのだ。あまりにも、暗いのだ。ま、その暗い処が、俺の個性っていえば個性なんだろうけれど、どうにも救いのない絵だってよく言われる。
「斎藤さんの今後の課題は、もっと人生を愛することだと思う。斎藤さんの絵からは、失望とか絶望とか――それも、まるで救いのない絶望しか感じられない」と、これが、俺がしょっちゅう合評で言われる台詞。なまじ、技術がちゃんとしてるから――自分でも、部屋においときたくない程、暗い絵になってしまう。
「絵には、本当にストレートに人柄が表われますからね。斎藤さんの絵なら、きっと、上品にまとまってるんでしょうね」
山科さんこう言ってから、急に|慌《あわ》ててつけたす。
「あ、すいません。ほめたつもりなんだけど」
あ、そうか。品よくちっちゃくまとまってるってのは、スケールが小さいってことになるな。
俺は、あいまいに笑って、その台詞をうけ流すと、机の方に目を走らせる。こいつはどんな絵、描くんだろうか。いくつか放ってあるイラストボード。ふうん……。絵柄は人柄ね。してみると山科さんって、人のよさは真弓とどっこいどっこいか。
何か、童画というのが最も正しいような絵だった。実に素直で優しい絵。これが山科さんの人柄をあらわしているのだとすれば……しあわせな男だな。
と。
「やっぱり、趣味っていうか、――おしごとが同じだと気があうのかしら」
やばっ。砂姫が|拗《す》ねてる。そういや先刻から、山科さん俺とばっか話してるもんな。
「あ、あの、わたし、東さんに声かけてきますね」
俺、何となく、立ちあがる。
「え、あの……」
あせるなよ、真弓。ちゃんと誘ってきてやるから。
「東さん、おむかいの部屋なんですもの。声くらいかけてあげないと」
「あ、頼みますよ斎藤さん。真弓の奴、ちょっと気が弱くて、あんまり親しくない女の人には声かけにくいらしくて」
☆
トントン。二度ノック。それから、少し間をおいて、また、トントン。
「東さん……お留守ですか」
呼んでみる。しばらく待っても、返事はない。
やだな。ぜひ、東嬢にいて欲しかったのに。このままだと、山科さんはひたすら俺にばかり話しかけ、砂姫がふくれて真弓手持ち無沙汰って感じになりかねない。東嬢がいれば、俺と真弓と東嬢で話して、砂姫と山科さんとでカップルって感じになるだろうに。
そう思って、未練がましく、もう一度ノック。でも、まあ、俺としても、あんまり砂姫が山科さんにしなだれかかるとこ見たくないし……これでいいか。
そう思って、帰ろうとして、何気なく、ノブに手をかける。カチャ……え?
何だ、このドア、鍵かかってない。東さんも不用心だな。危ないじゃないか。
少し、外側へ開いてしまったドアを、閉めようとする。その時、ちらっと部屋の中が見えて……え!?
え!?
何だ、あれは?
思わず、人の家だということも忘れて、しげしげと中をのぞきこんでしまう。ドア大きくあけて。
一体全体……何なんだこれは。
とても普通の女の子の部屋とは思えなかった。あまりにも、ないものが多すぎる。大きな|処《ところ》では、洋服だんす、机、本棚がない。
そして。台所には、調理器具がまったくなかった。これは、女の子の部屋としては、ずいぶん異常なことではなかろうか。本当になべ一つ――おさいばしも、おたまも、|包丁《ほうちょう》も見あたらないんだぜ! ついでに言うと食器棚、というものが存在しておらず……東さんって、家では絶対調理しない人なんだろうか。おまけに。もっと異常なことには……ベッドがない。
このマンションは、十二畳ワンルーム、バストイレつき、という奴だから、バスルームにベッドをもちこまない限り(まあ、そういう物好きがいるとは、俺、絶対思わん)、視野にベッドがなきゃいけないのだ。(ま、ふとんという手も、あることはあるが、このマンション、あくまで洋室って気分で造られているのだ。おしいれは小さいし、たたみじゃなくて木の床だし。これはやっぱり、ベッドのセンだと思うぜ)
でも。そんなことより何より、最大に異常なのは……部屋の中心部。
何度も、目をこすった。けど、それ[#「それ」に傍点]は断固として消えることを拒否しており……でも。何でこんなとこにこんなもんがあるんだ?
カーペットも何もしいていない床のどまん中に、土の山があった。三十センチ平均くらいの高さで、直径一メートルの円を描き、部屋の中央部にある土。これは……あきらかに、異常[#「異常」に傍点]だ。普通ではない。何だって……何だって、マンションの一室のどまん中に、土、盛りあげなきゃならんのだ? まさかここで何か栽培する訳じゃあるまいし……それならそれで、プランターなぞというもんがある。
五分、じっと、ぼけっと、土の山を見つめていただろうか。やっと俺、正気にもどった。五分間みつめ続けても、土の山は消えなかったから……とすると、これは、ここにあるんだろう。実際に。
ま、いいさ。
俺、自分で自分に言いきかせる。世の中にはいろんな人がいるんだから……東嬢は、どろんこ美容術でもやってんのかも知れないし……あんまり、人のことに首つっこむもんじゃない。
とはいっても、この光景はあまりに異常で、俺は、そのあと、山科さんのとこへもどっても、|生《なま》|返《へん》|事《じ》以外、何もできなかった。
☆
結局その晩。俺、あまりの欲求に耐えかねて――ミダス王の耳を見た床屋の気分がよく|判《わか》る――砂姫に、東さんの家の話をしてしまった。……これがいけなかった。俺、もっとよく、砂姫の性格を理解しとくべきだった。
砂姫は、俺の望んだ反応――へえ、本当、とか言いながら、熱心に俺の話に耳を傾けてくれるっつう奴――をまるでせず、もっとずっと過激に、そのうち、すきを見て、東さん|家《ち》にしのびこんでみると言いだしたのだ。
「しのびこむっつうのは、少し行きすぎだよ」
なんていう、俺の反論には、まったく耳をかさず。
「あたし、これから、山科さん口説く都合もあるし、しょっちゅう一階へ行くと思うんだ。だから、注意して、その東さんって人の家、みとくね」
何だよ、砂姫、やっぱ山科さん口説く気になっちまったのかよ。そう思うと俺、どことなく何となく気分が悪く……その話は、それっきりになった。
☆
水曜日の夜だった。砂姫が、課題に必死になってる俺をつついたのは。
「何だよ」
俺――時々反省はするんだぜ、けどどうしても駄目――絵を描いている時だけは、本当に真剣にやってるから、|途中《とちゅう》で|邪《じゃ》|魔《ま》されると駄目なのだ。目一杯不機嫌って声だしてしまう。
「ん、あのね、ちょっと……」
砂姫、何か言いかけ、俺の|見《けん》|幕《まく》に驚いたのか、ちょっと鼻白み――それから、まっすぐ描きかけの俺の絵を見て、眉をしかめた。
「それ……人の顔……よね」
「自画像。課題の。で、それが何か?」
こんな、意味のない会話で、精神集中ぶっ壊されたのが|口惜《く や》しくて、ついつい口調がきつくなる。
「|礼《もと》|朗《あき》(結局、砂姫は、人前では俺のことのりこ、と呼び、二人きりの時はもとあきって呼んでいる)の顔? それが?」
「自画像に他人の顔描いたって話、あんまり聞かねえだろ」
「そりゃそうだけど、礼朗、あなた、そんなに暗い目……してるわね、今は」
「うるせえな」
俺、段々本気でむしゃくしゃしてきた。俺がどんな絵描こうと、砂姫にああだこうだ言われる義理はない。
暗い絵――ああ、そうだよ、確かに俺の絵は暗いよ。けど、一体全体どうやって俺に明るい絵が描けるってんだ。
芸術ってのが、どんなもんだか、俺は知らない。が、俺にとって絵を描くというのは、常に、自分の心の底へ潜ってゆく作業なのだ。
ゆるやかに、おりてゆく。海に潜るかのように。最初のうちは、まだ陽の光が届き、心の中の雑多なものが見える。山科の野郎、気に喰わねえ、とか、昨日の夕飯はうまかったとか。が、やがてもっと潜ると――そんな感情はぐずぐずに溶け、俺はもはや、何も考えていないかのような状態になる。それでも俺は潜ってゆく。
最初の一筆をおく前に、俺はすでに、自分の潜れる最深部にいる。そこでは、およそ、俺という人間の深みからいえば、最高のものを見ることができる。本当の俺自身、そして本当の対象物。
その時。かかってしまうのだ。絶望という名のフィルターが。平生は、気分次第でごまかせる。忘れていることだって、できなくはない。しかし……心の底まで降りてゆけば。そこには必ずいるのだ。人生に対する絶望って名の化物が。
俺の心の最深部に絶望があったとしたら、どうして俺に明るい絵が描ける? 底にあるのが絶望だとしたら、俺は絶望を通してしか、物を本当に見ることはできない。
俺の絵の成績が、担当教授によってひどくまちまちなのは、おそらくはここに理由があるに違いない。俺の絵は(自分で言うのも変な話だが)、技術的には相当のレヴェルに達している。とすると、問題になるのは、俺の絵にほのみえる、俺の人生観。俺の人生への絶望を可ととるか不可ととるかは、ほとんど、教授の人間性によってしまうのだ。
「んで? まさかおまえ。俺が何描いてんのか知りたくて声かけた訳じゃねえだろ」
砂姫があんまり黙りこくっているから、俺|苛《いら》|々《いら》とこう聞いてしまう。
「あ……うん。……でも……あのね、本題にはいる前に、ちょっとしゃべっていい?」
「なんだよ、もう」
「ん……あのね、|礼《もと》|朗《あき》、絵、やめたら」
何だよ|唐《とう》|突《とつ》に。
「体に悪いよ。つまりあなた……毎日、絵を描くごとに、自分の不幸を再確認してる訳でしょ? そんなの、体にいい訳ない」
……へん。俺は黙って鼻をならした。言いたい放題、言ってやがんな。体に悪い? 別に|構《かま》やしねえよ。俺なんて――どうせ、生きてたって半分死んだようなもの――もともと幽霊なんだ。幽霊が体の心配するだなんて、は、ギャグだぜ。
「絵を描くことによって、一時的にでも現実から逃避してるのなら……それだって、ほめられたことじゃないけど……でも、まだ、いいのよ。けど、絵を描くごとに不幸を認識しなおしてるんじゃ、本当にどうしようもないじゃない」
「るせえな、本当に。放っといてくれよ。おまえに関係、ねえだろ」
俺は冷たく――本当に冷たく、こう言いはなった。ちょっとばかり、砂姫、傷ついたかなって怖れ。でも、砂姫は、そんな俺の台詞を、平然と聞き流して、笑った。
「まあ……関係ないっていえば関係はないんだけどね」
何ともさみしげな笑。
「でも……どうせ描くんだから、過去の|辛《つら》かったことを想い出し、|辛《つら》さにひたりきって描くよりは、今の楽しいことか何か考えながら描いた方がいいんじゃないかなって思ったの」
過去、辛かったって訳じゃない。今だって辛いんだ。でも……さすがにそれは言う気になれなかった。
と、砂姫は一瞬の沈黙の後、いつもの調子にもどった。
「でね、用事なんだけど、ちょっと来て欲しいんだ」
「どこへ」
「今、あたし、|善《よし》|行《ゆき》ンとこで(いつの間にか砂姫は、山科さんのことを、姓ではなしに名の方で呼ぶ|程《ほど》、親しくなっちまってた)おしゃべりしてたの。そのあと、ここへ帰ろうとして、例の|東《あずま》さんとこの前通って……したらね。何か、部屋の中で音がすんのよね」
そりゃ、東嬢だって生きてんだから、音くらいたてるだろうよ。
「で、それが何か?」
「にぶいわね、|礼《もと》|朗《あき》は。お宅、その土の山のこと、気になってるんでしょうが」
「ま……な」
おまえ程じゃないけどな。
「じゃ、今、チャンスじゃない。インスタント・ラーメンあったでしょ」
「ああ」
「それ二つくらい持ってね、あたし連れてゆく訳。この間ここにひっこしてきたいとこで砂姫っていう子です、よろしく、とか言って。で、あたしが、ひっこしそばのかわりに、ラーメン渡すじゃない。と、中が見える訳よ。もし、土の山があったら、あたし、いかにも無邪気って顔して、あら、何ですかあ、とか言って、勝手に彼女の家ン中へあがっちゃうから」
……どこが無邪気だ。
「ね、行こ。気になってるんでしょ」
俺、先刻の想いをぬぐいさる為、頭を数回ふり、何とか明るい顔を作る。
「ほら、じゃ、話きまった。ラーメン二つもらうね」
☆
ドアの前まで来て、俺は心中舌をまいた。だから女って怖いっつうんだよ。砂姫の表情は、実に見事で――どっから見ても、つい最近、東京の親戚をたよって上京してきた田舎娘だ。つい先刻まで、実に砂姫に似合っていた、濃いピンクのミニ・スカートや、うすい青のブラウス、ひもネクタイ、かなりいなせに着こなしていた俺の男物上着が、まるで借り物のように見える。最初から都会の水になじんでいた女じゃなくて、上京ついでに買った服が、まだ肌になじんでないって感じ。だから逆に、いかにもおさなく、無邪気に見えてしまう。
女っつうのは、天性の役者だな、まったく。中学、高校時代の認識をもう一度呼びもどされ、俺、ため息をつく。おーお、どうせこんなもんだろうよ。で、純真な男が手玉にとられるんだぜ。たっまんねえ。
トントン。軽くノック。……返事なし。
トントン。もっと強くノック。……返事なし。
ドンドン。なかばやけでノック。……全然、返事なし。
「変ねえ」
砂姫、無邪気な表情作るのやめて、いつもの砂姫にもどり、こう言う。
「先刻は確かに中で音がしたのに」
「じゃ、あれだろ、東さん、一回帰ってきて、またすぐ出かけたんだ」
俺としては、砂姫がまるで無邪気なイモ娘演じるとこは、あまり見たくないって腹もあったもんだから、これで帰りたくなってる。けど、好奇心って魔物にとりつかれた砂姫は、とてもこれじゃ満足できないようだ。
「ね、礼朗……鍵、かかってないんじゃない、ひょっとして」
ノブにかけてある砂姫の右手を、俺、つかむ。
「よせよ、人の家なんてのぞくもんじゃない」
「あーら、人のこと言えた義理?」
あ、あ、あ。砂姫、ドア、開けちまった。
☆
ドアの内側――つまり、部屋の中は、この間とたいして変わりはなかった。同じように土の山。
「あ、よせよ」
なんて、俺の制止を聞く訳もなく、砂姫はウエスタン・ブーツを脱ぐと、勝手に人の家ん中はいっちまった。土の山をしげしげと眺めまわして。急に、手を振る。おいでおいでって感じで。
「ちょっと、|礼《もと》|朗《あき》……。これ、土の山じゃない。穴よ」
「あな!?」
「うん。東さん、床板はずして、トンネル掘ってるみたい」
「どれ……」
ついつい俺も、靴を脱いでしまう。
本当に……穴だった。横から見たんじゃ判んないんだけど、上から見ればよく判る。中央部に大きな穴があって……それは、ちょっと行った|処《ところ》で、北側に折れている。トンネル。
「ね……こっちに銀行とかあったっけ」
「まさか今頃、古典的にトンネル掘って銀行強盗もねえだろ」
トンネルの下に東嬢がいるかも知れない。そう思うと、いきおい、俺も砂姫も小声になる。しかし……銀行強盗のセンを否定すると……何だって、東嬢はトンネルなんか掘ってるんだ!? 全然……判らん。
これは、泥んこ美容とか、室内での野菜栽培なんてのよりはるかに大きな謎で……良識にしろ、常識にしろ、知識にしろ、すべての“識”がつく単語を動員しても、解釈が成りたたない。
どうやっても、全然解釈ができないものっていうのは、それなりに一種の恐怖感をともなってしまうので……俺と砂姫、どちらからともなく“行こ”って台詞をしぼりだしていた。
☆
そのあと、二、三日は、まあ、何ごともなくすぎていった。何ごともなく――つって、いいのかなあ。俺はいつも通り学校へかよい――ちょっと新婚の気分だった。家にはいつも灯りがついていて、家にはいると砂姫がエプロン姿で「お帰んなさあい」。夕飯はできてるわ、朝起きれば朝飯はできてるわ、メシ喰って夕刊読んでる間に風呂はわくわ、もうその点については申し分ない。それに。これが信じられないんだが――食費、俺一人の頃よりむしろ安あがりなのだ。まあ、外食やめたから、その分安あがりになったっていうの判らんでもないが、にしても、砂姫が。本当こいつ、何食ってんだって感じなんだよな。
食事は、いつも一人前しか作らない。一人前――勿論、俺の分。ダイエットしてるんだそうだが、ありゃ、ダイエットじゃなくて断食だぜ。あんた、一日中何も喰わんダイエットって、想像つく?
真弓は、何だかんだ言って、しょっちゅう山科さんのところへ遊びに来てた。真弓が来るたび、お人よしの山科さんは、東嬢に声かけてみろと言うらしいんだが……。結局、三十分もためらった末、決死の思いで真弓が行くと、東嬢は大体留守だそう。
「真弓君って、ほんっと、かっわいいのよね」
砂姫は、その模様を俺に話してきかせるたび、こう言っちゃまっ白い歯をみせて笑った。口紅も塗らないくせに|何故《な ぜ》かいつもまっ赤な唇が、きゅっと動いて作る、笑い。何か、たまんなくセクシー。
「本当――冗談じゃなく、決死の覚悟[#「決死の覚悟」に傍点]って顔して行くのよね。でね――聞かなくても、あ、東さんいないんだって、すぐ判る訳、顔見てると。決死の覚悟が、露骨に失望[#「失望」に傍点]になるんだもん」
一方山科さんは――俺、本当判らんよ、あいつって。砂姫が、だぜ、あの可愛くて妙にいろっぽい砂姫が、陰に陽にひたすら口説いてんのに、何かっつうと俺んとこ来んの。思うにあいつ、今までほとんど女と縁がなかったんじゃないか? どう見ても美男子とはいえないし、ついでに、会話術にすぐれてるとか女心をそそるのがうまいとかって美点もないしな。だもんで、急に思いもかけぬ美女に口説かれ、どうしていいか判らず、比較的第三者的立場にいる俺んとこへ逃げてくる。と、まあ、こんな図式。
東嬢については、俺、あまりふれたくない――というか、判らない。時々でかける。それも朝、七時だったり、正午だったり、かと思うと夜中だったり、とにかくまるで脈絡のない時間に。これはいいとしても、その後。家に帰ってくるとほぼすぐ、東嬢、消えちまうのだ。あ、東さん帰ってきた――ってんで真弓が何だかんだ誘いに行くと、留守な訳。俺と砂姫は、例の土のトンネルの問題で、真弓と山科さんは真弓の恋愛の問題で、彼女の動静には気をくばっている。それらの間をいとも軽々とすり抜けるって感じで、東嬢、消える訳。
「あたし思うんだけど、あの人、絶対、トンネル使って外出してるのよ」
この砂姫の意見に、俺も賛成なんだけど……ただ、どうしても、このトンネルの必然性が判らない。別に誰かに動静を見張られてるって訳でもなきゃ、尾行を毎日されてるって訳でもないんだろ? そんな|一《いっ》|介《かい》の女の子が、自宅から、どこへ行くにせよ外へ出るのに穴を掘る必然性、というのをまるで思いつけない。故に、東嬢のことは、何も判らない。
――というのは。逃げ、だな。
認めるよ。それは。確かに、俺、逃げてんだ。東嬢のことから。
二、三度、東嬢に、会った。山科さん、砂姫、真弓、俺と東嬢ってメンバーで、お茶をのんだことも、あった。単なる、会えばあいさつする程度の隣人っていうのより深く東嬢を知ってしまうと――俺、何ともやりきれない気分になってしまったのだ。
似ているのだ。あまりにも。おふくろと。
言葉のはしばし。真弓に対する態度。山科さんの仕事への気づかい。俺の酒量への忠告。どこもかしこも、ある種の母性愛のようなものに満ちていて。
ひょっとしたら。東嬢、あのトンネルの中に、自分の子供をかくしているのではあるまいか。そんな気がした。
ある程度以上長時間おしゃべりしてると、必ず、東嬢、部屋へ帰りたくてたまらない、というそぶりを示すのだ。まるで、あの部屋の中に、彼女の帰りを待ちわびている者がいるかのように。ドライブにさそっても、何にさそっても、頑としてある時間以上部屋からはなれたがらず――そして、それを全然苦痛に思っていないんだよな。愛する子供が、あの部屋にいる。だから、母親たるわたしがあの部屋からはなれたがらないのは当然で――それは、苦痛でも何でもない。むしろ、子供の面倒を見るのは楽しい。そんな感じが、ひしひしとした。
で、また同時に|納《なっ》|得《とく》した。あの、無類に素直で、男というよりは男の子という雰囲気の真弓が東嬢にほれるのは、ごく、当然のことだったのだ。何つったって東嬢は、露骨に“母!”って人なんだから。コインロッカーに赤ちゃんすてたりする、母性の欠落した女の増えてる現代では、珍しい|程《ほど》、母性的な女なんだから。
そして。このように種々様々、謎とかやっかいごととかに彩られた日常生活の中で、最もやっかいでかつ訳が判らんのは――砂姫。砂姫の、あの、手あたり次第に誰でもいい、男を口説くことにかけた情熱。その情熱の、まあ当然の結果として、土曜日が来る――。
☆
土曜日――つまり、昨日の、夜六時半。例によって例の如く、俺の夕飯のしたくをする間中、砂姫は、おっそろしく|上機嫌《じょうきげん》だった。鼻歌うたいながらキャベツきざみ、いとも楽しげに米をとぎ。
「およっ」
食卓には何とまあ、同居生活始まって以来のサービス、よく冷えたビールなんてのまでついてる。
「どうしたんだ、一体」
「んっとね、|御《ご》|飯《はん》、これでしょ、おふろ今すごくあつめだから、きっと御飯おわるころには、はいりごろよ。湯あがりに、冷蔵庫の中にもう一本ビールあるからね。それから、本棚の隅に――礼朗のセブンスター、そろそろなくなりそうだから、新しいのおいてある。あとね、オーブンの中は、いじらないでね。あしたの朝、少しあっためると、オーブンの中からフレンチ・トーストでてくるからね。で、この、黄色いおなべの中に、明日の朝用のスープ」
「明日の朝って……あ、そうか、おまえ、ついに帰る気になったのか」
「違うもん。今日ね、善行ン家のお夕飯作るの」
「……で、うちの夕飯がすこし早めなのか。ん? まてよ? なら何だって、明日の朝のまで……」
「今日は内側からチェーンかけちゃっていいからね」
「お、おまえなー」
「大丈夫。心配しなくてもお昼前には帰ってきて、お昼御飯作ってあげる」
「俺が心配してんのはねー」
「ん? 何よ」
ことっと、軽く左に首をかしげて、砂姫。
「何って、ほら、その、男の家にだな」
「あ、やーね、|礼《もと》|朗《あき》、やいてんの」
「|莫《ば》|迦《か》! 誰が男にやくか」
「んじゃ、何よお」
何よおって言われると困ってしまう。砂姫、見かけより芯は大人みたいだし、自分のやってることは判る年だろうし、してみると俺があいつと山科さんのことをどうのこうの言うのは、やはり馬にけられて死んじまう口だろうし……。
「……判ったよ。行けよ」
「やだあ、礼朗、怒んないでよ。ちゃんとあたし、礼朗のとこ|戻《もど》ってくるから。本当に好きなのは礼朗だけなんだからね」
チュって、軽く俺の首筋にキスすると、砂姫、楽し気にエプロンたたむ。……じゃ、山科さんは何なんだ?
でも。今日はお食事楽しいお食事、なんて口ずさみながら、山科さん家へ夕飯作りに行く砂姫を見てると……う……俺、何も言えなかった。
ま、いい。もう、いい。いいやっかいばらいだ。
一所懸命、自分で自分にそう言いきかせて。やけ酒ってのも変な感じで、とにかく七時頃から飲みだして、九時頃ダウン、十時すぎたら白河夜舟……で。
次の日――日曜日の朝。二日酔いの喉のかわきも手伝って、俺、五時なんていう信じがたい時間に目をさますはめになり、窓の外に土の山のある、いつにもまして暗い朝をむかえてしまうのである。
PARTU うっかり死ぬのはあんまりだ
「ふ……ん」
顔を洗い、ついでに歯もみがき、ぬとぬとしていた口の中をさっぱりさせた俺、こう呟いたまま、五分ばかり窓辺に立ちつくしていた。実は、この土の山は、二日酔いの産物であって、顔を洗えば消えてなくなるってセンを希望してたんだが……甘かったみたいだな。
|東《あずま》くらこか。
今までのことから、この山を作ったのは東くらこに違いない、とは思っていたんだが……しかし、なあ。
別に、土の山作っちゃ悪いってことはないだろうし、東くらこの部屋がまっ暗になったって、俺には関係ないんだし……とはいえ、これは、一人東くらこの問題じゃねえもんな。こんな、地上一メートルのところに窓があるとすると、今まで二階だったから、泥棒の心配もせず、雨戸あけて寝てたんだが、これからはそうもいかなくなるしな。
いや、そんな利害関係はさておき。
今まで、俺と|砂《さ》|姫《き》が、東くらこの部屋にあったトンネルの話を他人にしなかったのは、人の部屋を勝手にのぞきこんだって罪悪感故だった。ところが今回の場合、何の罪悪感もなしに、この話を人にできるんだ。
朝、五時ちょっと。この時間帯が憎らしい。こんな早い――それも日曜の朝でなきゃ、俺、となり近所をたたきおこして、この土の山、見せるのに。知り得た情報が異常であればあるほど、人にそれを教えたくなるのが、人の世の常。
あ……まてよ。今日、砂姫は、山科さんのとこだ。
一語一語、区切るようにして想い出す。砂姫は、実に楽し気に、山科さんのところへとまるって宣言していったし、山科さんだって、砂姫が山科さんのところへとまったことを、俺が知ってるってことを知ってんだろう。とすると、そんな朝、俺が山科さんとこへ行ったら、お互いにさぞ、ばつが悪かろうなあ。なんつったって、朝。昨日の今日だもの。
……あ。駄目だ。ひでえ。
つらつらそんなことを考えて、俺、|愕《がく》|然《ぜん》とした。気がつかないうちに、すっかり、むしばまれちまった。砂姫に。
七年かけて――女になってから、七年かけて、俺はきずきあげたつもりだった。今更、とてもじゃないけど、男にほれる気のおこらない自分、かといって、女には愛想を尽かした自分を。どうせ一生独り者なんだから(俺の場合、正常の女より、女性ホルモンの分泌がずっと少ないから、妊娠、出産はまあ無理だろうと思う。それに、そんなことしたかないし。生理だってたまにあるかないかだしな)、一生一人できままに暮らせたら、それでいい。そう思ってきた|筈《はず》だった。なのに。
ほんの[#「ほんの」に傍点]――ほんの[#「ほんの」に傍点]一週間、砂姫と同居しただけで、それが崩れ去ってしまったのだ。
考えてみりゃ、砂姫は、はじめて俺が|仮《か》|性《せい》|半《はん》|陰《いん》|陽《よう》のことをうちあけた人物だし、女になってしまった俺を気味悪がることもなく一週間一緒に暮らした人物でもあるし……そう。雰囲気的に、パートナーって気分になっちまってたんだ、いつの間にか。
何かあった。それを人に――砂姫に、話したい。
駄目だ、思考パターンが、すっかりそうなっちまってる。
砂姫に話して、で、どうなるって訳じゃない。でも……話したい。話して、“えー、どうしてえ!?”とか“何よこれ”とか、二人でうめいてみたい。
……ちぇっ。孤独になれるのに、ずいぶん時間がかかった。そう、七年かけて、やっとって気がする。ところがそんな――七年かけてやっと手にいれた孤独も、ほんの六日、人と|一《いっ》|緒《しょ》に暮らしただけで、すぐどっかいっちまう。
そんなもんかよ。そんなのってありかよ。あんまりだぜ、そりゃ。これから一生、孤独を相手にしなきゃならん人物――俺にとって。
……だよな。そうだよ。
昔の――砂姫と同居する前の俺なら、山科さんなんて、単に一階下にすんでる男。それだけの関係だった|筈《はず》だ。こんな土の山が出現したって、誰かに話したい、なんて思考がおこる筈はない。山科さんの“や”の字を思い出す前に、自分一人でこの事態に対処すべく行動をおこしていたろう。
どうせ砂姫は山科さんと寝たんだ。
強いて、そう思おうとする。
いつか、砂姫だって、俺からはなれていくんだ。
そう。だとしたら。昔のように、俺はあくまで俺として――斎藤|礼《のり》|子《こ》一個人として、この事態にあたらなきゃいけない。
俺は、軽く首を二、三度ふると、今までの考えをおいはらい――誰かと相談してこれからのことを考える斎藤礼子じゃない、とにかく斎藤礼子として、この件にカタをつける気になっていた。――いや。そう、なった。なるようにした。
☆
土の山は、二階の窓から、すぐ足をのばせば届く|処《ところ》――一メートルとはなれていない処にあった。
とりあえず、ここに出てみるか。そう思って、玄関から靴をとってくる。靴をはいた足を伸ばす。まだ、手は窓につかまったまま。
足が、土の山にふれる。ずぶっと足が三十センチくらい土の山にもぐる。割とこれ、もろいな。しかし、足はこれ以上、土の山にもぐる気配をみせない。これならいいか。
俺、窓わくから手を放してみる。ずぶ。|更《さら》に五センチくらい、土の山に足がもぐったけど、そこでストップ。ふーむ。
山は、全然、ふみかためられた様子が見えなかった。つまり、ここに土の山を作った誰か[#「誰か」に傍点]は、単に土をここにもりあげてみただけって感じ。そして、山の北側には、これだけの土を供出するにたる穴は掘られてなかった。
とすると。穴が掘られたのは南側かな。あるいは、全然別のところで穴が掘られており、そこの土がここにはこばれただけかも知れない。ま、いずれにせよ、ここからでは穴の南側、見えない。土の山の南側へ行ってみなければ。
俺が、こう思った、という事実を、一体どこの誰が責められるというのだ。よもや――よもや、穴の掘られていたのが、土の山のどまん中で、南側へ行く為に中央部をとおった俺が、こんな目にあうことになるとは……予想してたら、絶対に、こんな道通らなかった!
☆
中央部にむかうにつれ、確かに妙な感じがしたことはしたんだ。ずぶずぶと、足が四、五十センチ、土の山にめりこんだ。
……あれ。少し、意外に思った。この辺の土って、いやにやわらかいんだな。他のとこよか、二十センチくらい|余《よ》|計《けい》にめりこんじまう。
そう思いながらも、俺、めりこんだ左足に重心を移して、右足を山のほぼ中心部にはこんだ――とたん。
とたんに。
ずぶずぶずぶずぶっ……。
体全体が、すごいいきおいで、めりこみだしたのだ。
うわっ、やばい。
と思った時にはもう遅い。俺の体は、重力の法則にしたがって、どんどん下へと落ちていった。
しまった。空洞部――つうか、穴があるのは、中央だったんだ。こんなことを、おっこってるさなかに思ったって、遅いんだよね、これは、まったく。
うわ、わああああー。
声にならない叫びをあげつつ、俺が下まで落下したのは、すぐのことだった。
五メートル。いや、十メートルあったのかな。いずれにせよ、相当の距離を落下したにしては、意外にスムーズに、俺、着地した。下手すると、骨の一本や二本折るかも知れない。そう思ってた割に、かすり傷|程《てい》|度《ど》ですんだのは……下に、何やらごにょごにょ、ぬるぬるしたものがあったせい。
何だろう。ごにょごにょ……。手をのばす。つめたくて、動いていて、ぬるぬるするものが|山《やま》|程《ほど》。この、ぬるぬるの山におっこって助かった……とは思っても、このぬるぬるの感じ、お世辞にも、いいとは言えない。
ぬるぬる。何だろう。なでまわす。何か、雰囲気的に、細くて、長くて……。
長虫というのは、蛇のことである。
ふっとそんなことを思った。何となく……何となあく、俺の下にあるもの、感じが蛇に似ている。細くて長くて……うわあ!!
うわ! うわあ! うわ! うわ!
かすかに、俺がつき破った|処《ところ》から陽の光がさしている。んなもんがさしているから判ってしまう。うわ! うわ! うわ!
俺の……おれの下にいるの、みみずだ!!
みみずのだい大群!!
こんな表現すんのは、変かも知れない。変かも知れないけど、ほんとに、大群じゃすまない、だい大群のみみず!
みみず! みみず! みみず!
俺、みみずは好きじゃない。|断《だん》|固《こ》、好きじゃない! いくら、下にみみずのだい大群がいたから怪我しなくてすんだと言えども好きじゃない!
うごめくみみず。んなもんの上にいるだなんて……気、気が狂う!
必死になって、はいのぼろうとした。盛大に悲鳴をあげつつ。おい、|砂《さ》|姫《き》! |山《やま》|科《しな》さん! 助けてくれ! しかし、周囲の土の壁は――何か、ふんわりともりあげただけって感じで、全然、かたくないのだ。足がかりになるどころか、さわっただけでぼろぼろ崩れおちてしまう。
喉がかれる頃――生まれてはじめて、盛大きわまりない悲鳴の一個連隊を産出したものだから、ものの二、三分で喉がかれた――、俺、|納《なっ》|得《とく》。駄目だ。よじ登ろうとすると、まわりの壁がくずれて危ない。下手をすると、みみずと一緒に生き埋めになっちまう。それだけは、断固、さけたい。
みみずは刺さない。みみずはかまない。みみずに毒はない。みみずは人を喰わない。
呪文のように、何度かこう心の中で|繰《く》り返して。
そうだ、みみずっていうのは、単に気色悪いだけで、人体に害を……しかし気色悪い。とにかく落ち着け、死にたくないなら落ち着かねば。
深呼吸二回。その間も、足のまわりをみみずがのたくっているのを感じる。うー、落ち着け!
落ち着くと、更にはっきりと、自分のおかれた悲劇的状況が判ってきた。
砂姫にしろ、山科さんにしろ、誰にしろ、この状態の俺を発見したって、助けようがないだろう。まず、俺の姿が判るところまで穴の中心部に近づいたら、その人間もおっこってくるだろうし……。万一、そんなに穴の中心部に近づかず俺を発見することができたとしても、はしごもロープもかけようがない。穴におちた人間を周囲の人間が救出できるのは、穴のまわりがかたい地面であるからだ。この穴の四囲、どこの壁にせよ、俺の体重をささえるためのロープやはしごがかかったら……それだけで、崩壊、俺、生き埋め。
とすると。何とか俺、自力でここを出なければ……あ。
穴の北側――つまり、|東《あずま》嬢の部屋の地下へむかう方向に、かがめば通れるくらいの横穴があいている。東嬢の部屋にあったトンネル。それに、ひょっとして、続いているのだろうか。だとしたら……。
しかし、待てよ。おい、これは一体全体何なんだ? 東くらこって女は、部屋の下に穴掘って、万単位でみみず飼ってんのか? これは……銀行強盗より更に謎だな。
ゆっくり、一歩一歩、横穴へむかって歩く。一歩すすむごとにぐにゃって、みみずの感触。ちゃんと靴はいて土の山におりたのがせめてもの救いだぜ。
ぐにゃ。ぐにゃ。ぐにゃ。
なるべくみみずをふみ殺したくないので、大またに歩く。数歩行った処で、横穴にぶつかる。わお! 神様感謝! 横穴の中、みみずの数がぐんとへってる。
そっと、できるだけみみずのいない処に左手ついた。それから、あたりのみみずをつかみ、大いそぎで横穴からかき出す。そして右手ついて。
ほぼ、よつんばいに等しい格好で、下の土のかたさを手で確かめつつ――また横穴の途中にたて穴でもあって、ずぼっなんてもぐっちまったら、あんたそりゃ悲惨以外の何物でもないぜ――そろそろ進む。二メートルばかり進むと、ぼんやり前方の道が見え――しめた。この先ちょっといった処に、光源があるんだ。きっと、東くらこの部屋の灯りに違いない。
そろり。そろり。そろり。安心した直後っていうのは、油断がうまれがち。そう思っていっそうそろそろ進む。そして。
ついに俺、出口とおぼしき丸い穴にたどりついた。穴のむこう側から光。俺、大いそぎで穴を抜ける。――と。
と。
「誰?」
すごい顔してふりむく一人の女。背は低めで、まっ白の顔、体つきは細っこく、人形のような黒いストレートの髪。|東《あずま》くらこ。
「そ……そっちこそ……何なんだこれは」
彼女の口調があんまり激しかったから――それに、俺のついた処が、東くらこの部屋なんかじゃなく、もっとはるかに異様な処だったから――俺、ついつい|気《け》|圧《お》されてしどろもどろになる。
「斎藤さん……? お二階の? どうしてこんな処にいるの」
こんな処――本当にまったく、何て処!
地下にできた、部屋だった。中央にぼんやり灯り。つっても、電気とか、ローソクみたいな、俺の理解可能な灯りじゃなくて……中央部に、直径五十センチたらずの穴があいていて、そこからあかりがもれているのだ。この――地下数メートルくらいのところの、更に下からもれてくる灯り。
そして。この部屋――六畳間くらいのサイズの部屋で、天井の高さが平均二メートル程度――、何にせよ、機械エトセトラで掘ったもんじゃない。手か――何か、とにかく、人の力で掘ったもんらしい。
形が、全然幾何学的ではなかった。本当に適当に掘ったって感じ。その、一種生物的とでも言うべき穴の形が、妙に異様で無気味だった。
おまけに。この部屋の壁、無数に穴があいている。俺の来た方だけじゃなく、合計、十いくつも。
地下を|縦横無尽《じゅうおうむじん》に走るトンネル群。そのトンネル群の、交差点っつうか、まじわる処。ここは、何かそんな所みたいだった。
「お……お宅、何だってこんな穴掘ってんだ。ついでに、何だ、あの山は」
「山?」
「土の山だよ。あんたのせいだろ、あれ。二階の俺の部屋へ届く程の巨人な土の山」
あんまり異常事態が続く為、ついつい俺、無意識に男言葉になったんだけど、さいわい東嬢、その異様さには気づかなかった。
「今……何時です?」
かわりに。山って言葉聞いてあせりだしたような表情の割には妙なことを、彼女、聞く。
「今……五時三十九分。山……つうか、穴におちたショックで、俺の時計が壊れてないなら」
「五時半? 斎藤さん」
およっ。何だ、東くらこ。俺のこと、とがめるような目つきで見ている。
「何だってあなた、今日に限って、こんなに早起きなんです」
「お宅の知ったこっちゃないだろ! それよりどれだ、上のお宅の部屋に通じるトンネルは」
びくっと東くらこの顔色がかわる。
「俺は知ってるんだぜ。お宅が、部屋のどまん中に妙なトンネル掘ってるっつうの。ま、俺は大家じゃないからさ、お宅が部屋のどまん中に穴掘ったって知ったこっちゃないけど……けど、夜中に人の部屋のどまん前に、土の山一個作って、その下にみみずのだい大群飼っとくとは何ごとだ。その件については抗議したい」
「ごめんなさい」
俺の抗議の声を聞くや否や、実に素直に東嬢は謝った。
「あの山、普段なら、あなたが起きる前――六時頃に埋めるんです。今日に限ってあなたが早起きしちゃったから……」
「普段なら? つうことは、あの山、毎晩できては毎晩埋められてんのか」
「いえ、たまにですけれど」
「な……何だって……」
「あの下……みみずがいて、良かったですね。みみずが一メートルくらいの層作ってるからあなた助かったんです。あのみみずの真下には、かなり大きな岩盤が埋まってるんです。それに直接ぶつかってたら……」
おそらくは即死だったろう、確かに。
「あそこ、岩盤のおかげで、みみずが下方に逃げられないんです。だから、あそこ、とらえてきたみみずためておくのにちょうどよくて……。毎晩、みみずをつかまえてきてはあそこにおいて、あとでひつじ飼いがみみず移動させ、そのたびあの穴、埋めてきたんですけど……。ごめんなさい、まさか、今日に限ってあなたが早起きするなんて」
何か……二の句がつげなくなってしまった。彼女、みみずを数万匹――いや、ひょっとすると、億、兆の単位かも知れない――も集めてきちゃ、あそこにためて……で、ひつじ飼いだあ? ひつじ飼いとみみずと、何の関連があるんだ?
「と、とにかく、だな、東さんよ。お宅がみみず何匹集めようと、そりゃお宅の勝手だろうから、そのことについては文句言わんから……俺をここから出してくれない?」
東くらこは、しばらく悩んだような顔をしていた。困ったわねえ。その顔は、あきらかにそういう感じ。
「あの……一つ、お願いがあるんですけど」
「ん?」
東嬢おずおず口を開く。
「あなたが、今日ここで見たことは、できるだけ人に言わないで欲しいんです」
ほらきた。こういうと思ってたんだ。
「ん……ま、判った」
本当言うと、あんまり判ってない。とてもこんな無茶苦茶な話、人に言わずにいる自信がない。
「でも、人間って嘘つきますでしょ……」
おーおー東さん。まるで自分が人間じゃないようなこと、言うじゃないか。
「かといって……いつまでもあなたをここに閉じこめておく訳にはいかないし……」
あたり前じゃ。
「でも、他の人間がこのことを知ったら、絶対ここを放っておいてはくれないだろうし……困ったわねえ……あ、そうだ」
しばらく困ってから、おもむろに東くらこ、喜びの表情作る。
「斎藤さん、記憶喪失になって頂けませんか?」
へ? そんな、はればれとした|屈《くっ》|託《たく》のない、まるで、“百円貸して頂けませんか”って調子で、こんな|突拍子《とっぴょうし》のないこと言われても、俺、困る。
「ね、いいでしょ。お願いします」
「あ、あのね東さん」
ようよう台詞をしぼりだす。
「記憶喪失っていうのはね、本人がなろうと思ってなれるもんじゃない訳。お願いしますなんて言われても、俺、困る」
「あら。あれ、なろうと思ってなれるもんじゃないんですか」
ちょっと何だよこの女は。
「じゃ、どうすればなれます?」
「どっかにひどく頭ぶつけるとか、|余《よ》|程《ほど》強いショックをうけるとか……」
「じゃ、あの、頭ぶつけて下さいません?」
「やだよ!」
どうなってるんだ、この女は。俺が|呆《あき》れてつったってると、東嬢、段々困ってきたみたい。
「そうですねえ……あなたが嫌だっておっしゃってるのに、無理に頭たたいて、記憶喪失になるかわりに死なれたりしても困りますものねえ。こんな処で死なれたら、腐敗臭が上の部屋までただようし……」
人の死をそんな観点で問題にするな、おい!
「まして、いくら何でも、これだけ大きな肉はちょっと食べられそうにないし……」
……何か俺……怖くなってきた。この東嬢。
狂ってる。そうとしか、思えなかった。夜な夜な地下にトンネル掘ってみみずなんて集めてるから狂っちまったんだ。いや、狂ってるからそんなことしたのかな。とにかく、狂ってる。
狂人を相手に妙なこと言って、間違って殺されちまったら大変だ。俺、そろそろと後退しだす。比較的上の方へのびているトンネルが三本。とにかく、このうち一つは、多分東嬢の部屋へ続く奴だろう。とすると、確率は三分の一。これにかけてみるしかないかな。
「あ、そうだわ」
ふいに東嬢、大声を出す。びくん。
「催眠術って手があった! これから、あなたに催眠術かけて、ここで見たことは全部忘れてもらって……で、そのあと、帰してあげます。これでいいかしら?」
「へえへえ」
判ったよ。かかったふりしてやるよ。何かこう……ガキの相手している気分。別にいいよ、おままごとのかわりに、催眠術ごっこぐらい、つきあってやるよ。
「あ、でもまって」
東嬢、またもや大声あげる。今度は何思いついたんだ?
「斎藤さんの服、泥だらけですね」
「帰って洗うからいいよ」
「でも、記憶をなくして、で、帰ってみたら泥だらけだったら、不審、抱きません?」
「抱かない抱かない」
「ううん、やっぱり、抱きますよお、普通」
「俺、普通じゃないから」
もうやだよ、ガキの相手は。
「でも、やっぱり抱きそうな……あ、そうだ」
今度は何思いついたんだよ。
「斎藤さん、二、三日、失踪しません? 失踪して、ようやく帰ってきたら、服が泥だらけで記憶がない。この方が、何となく、それらしいと思いません?」
「その方が|余《よ》|程《ほど》不審を抱くよ」
いくら何でも、失踪だなんて、してやれるか。子供の相手してやるのにも、限度がある。
「あら、だって、ほんの一時間分くらい記憶がなくて、で、泥だらけになってたら、まず部屋の近くのむきだしの地面にうたがいのまなざしがむくんじゃないかしら。つまり、例の穴のあった庭に。その点、二、三日行方不明になっていれば、疑うべき範囲がぐっと広くなるでしょ? まず、自宅の庭なんて考えないもの。ね、斎藤さん、失踪しましょ」
こいつ……ガキみたいに、とてつもないことをポンポン言う割には、かなり筋のとおった思考をしている。なんて――思ってる場合じゃない!
「いや、ほら、その点についてはさ」
しどろもどろ二、三語呟き。じりじり後退――と。
と。
あん?
俺の理性は、催眠術なんぞかけられなくとも、充分、トンズラかけそうな具合になってきていた。何となれば……穴からっ穴からっ!
一瞬、あたりが少し暗くなったのだ。部屋の中央部にあった、光がもれているところの穴から……それ[#「それ」に傍点]が顔をのぞかせていた為。
それ。信じられない。信じたくない。こんなもん、生物学的に、だぜ、存在していいんだろうか!?
そこにいたのは、全長一メートルくらいの巨大もぐらだった。
☆
「…………」
俺、口を、二、三度開閉させた。あ、あれ、あれ、あれ、とか何とか言いたかったんだが声にならず。と――と! 更に、更に俺の精神に攻撃をかけるべく、それは信じがたいことをした。
「女王様」
しゃべったのだ! 多少イントネーションや発音はおかしいけど、まがりなりにも日本語を!
「なあに」
東嬢は、平然と巨大もぐらにほほえみかける。
「“狼”をつかまえました」
おおかみ? も、俺、これ以上動物みたくない。みみずともぐらで充分だ。
「御苦労様。で?」
「“狼”の始末に困っているのです。まだ死んでいません。あの、心臓は動いているけれど、体は動かない状態なのです」
「ああ、気絶しているのね」
「放っておけば、また、“羊”をくいあらすでしょうし……」
……この上羊かよ。もう許して欲しい。
「いっそ、“狼”を外へ出してしまおうかと思っているのですが……」
「そうねえ。……下の者共では、“狼”食べられないの?」
「さあ……、まだ、もぐら族は“狼”を食べたことはないので……無理ではないかと」
何か、先刻から、彼女の思考って、食べることばっかだな。
「かといって、わたしの部屋に、唐突に“狼”があらわれるのは、おかしいわよねえ」
……|莫《ば》|迦《か》と言いたければ言え。俺、ついうっかり、大声で叫んじまったのだ。
「やめろ! 一階に狼なんかがあらわれたら……砂姫が、山科さんの部屋にいる砂姫が危ない!」
「あら、“狼”は、人間を食べたりしないわよ」
あのねー、世の中には、食べられること以外にも、危険というものは存在しているのだよ。
「女王様、そちらの人間は?」
一メートル巨大もぐらは、初めて俺に気づいたようだった。じっとこっちを見て……うっ。俺、もぐらと視線あわしちまった。たまんねえ。
「あ、斎藤さん。そうだわ、ウォグラ、この人の始末も考えないと」
「我々には、ちょっとこのサイズの人間は食べられそうにないなあ……」
どうして? どうしてもぐらって、喰うことっきゃ考えないんだ!?
「食べるのは無理よ」
「とすると、どうしたらいいのでしょうか」
「二、三日、気絶――“狼”のようにしておいて、そのあと、記憶をとって、帰してあげようと思っているの。ほら、例のモゲラの催眠術、あれ使って」
「はい、判りました」
何故か巨大もぐらは、すぐに催眠術を納得したようだった。
「それじゃ、モゲラを呼んでちょうだい。あ、あと、それから、“狼”もつれて来て欲しいわ」
「はい」
こと、ここに到って、俺、ようやく、ぽけっとこの様子を見てるの、やめた。今まで、どっかへとんずらかいてた理性が返ってくる。
逃げなければ。誰が何と言おうと、逃げなければ。こんなとこで、もぐらに催眠術かけられて記憶を失うの嫌だし、ついでに、断固、こんな狭い空間で狼と同席したくない。
俺、しゃにむに天井あたりのトンネルにとびついた。ずるっ。土くれが、おっこってくる。駄目だ、ここ、とても登れん。えーい、横の穴。
「駄目よ、斎藤さん、ちょっと待って」
東嬢は、何故俺が|慌《あわ》てだしたのか判らないって感じのおだやかな声を出し、俺のジーンズを軽くつかんだ。
「ちょっと記憶だけ取れば、すぐ帰してあげますからね。別に全然、痛くなんてないのよ」
何となく、本物の、切れる刃物を手にいれてお医者さんごっこをはじめた子供のような――無邪気な、無邪気だからこそおそろしい笑顔をうかべ。
「どけ!」
俺は――いくら何でもこの状態で紳士としてふるまうことなんかとてもできない――東嬢を前方へつきとばし、走りだした。と。つめたい――ぬれている訳ではない、けど何かそんな感じの、一種毛皮じみたもの[#「もの」に傍点]が急に俺の手をつかんだ。
「わっ!」
慌ててそちらの方をむく。と――いつの間にか、巨大もぐらが数頭――も、ここまでもぐらが巨大化すると、匹って感じじゃない――あっちこっちの穴からはい出してきていた。
「こら。女王様に何をするのだ」
「×××××、××、××!」
「××! ×××××××!」
うち、一頭だけが日本語をしゃべり、他の連中は――うーむ、もぐら語なんだろうか――全然意味のつかめない奇妙な音を出した。
うわっうわっうわ。
俺が――あ、また理性が逃げてしまった――呆然としている間に毛皮におおわれたもぐらの手は、ぺたぺたと俺の体中にまとわりついてくる。
「あ、ありがとう、おまえたち。ちょっとその人、つかまえといてね。今、モゲラとウォグラが来ますから」
えーい、俺は仮にも人間だ。それも、人間の中でも身長的にいって大きい部類の人間だ。もぐら如きにつかまってたまるか。
そう思いはしたものの……このもぐら、結構、力あるんだ。それに、俺の方も、無気味だと思う気持ちがプレッシャーかけるのか、思うように動けない。前後左右からもぐらにおさえつけられちまうと……俺、動けん!
じりじりしていると、むこうから、しゃらんって音が聞こえてきた。あ……金時計抱えた巨大もぐらが一匹。
「おまたせしました、女王様」
「ああ、モゲラ、御苦労様」
金時計は――まさか純金ってことはあるまいが――実に、見事に、光っていた。目がすいつけられる――金時計から視線をはずせない。そして――金時計のうしろに輝く、二つのこはく色の点。何だろう、あれ。金時計のうしろ――宝石? まさか。こはく色の――もぐらの――目。
「あなたは段々眠くなります」
一本調子のどこかイントネーションがおかしいもぐらの声。それを聞くと……嘘だろ! 俺、本当に眠くなっちまった。
「眠く、ねむうくなって、もうまぶたが開きません」
目が、俺の意志に反して、|徐《じょ》|々《じょ》に、徐々に、閉じられてゆく。
「そう、はい、体をリラックスさせて……ゆったりと……あなたは今、とってもいい気持ちです」
俺の心は俺の体をはなれて、ゆったりとその辺の空間をただよいだした。あたたかい、でも、まるで水中であるかのように、そこはかとない抵抗感のある空気。ふわっ。体が持ちあがる気分。
「……ところで女王様、この人間、どうすればいいんでしょうか」
かすかに、モゲラの声が聞こえる。あたたかい、濃い桃色の闇の中で、俺の意識の中にはいってくるのは、その声だけ。
「ああ、そうか……まだ、それを言ってなかったわね。とりあえず、二、三日、気絶させといてくれる?」
「キゼツ……?」
「ああ、生きているんだけど、意識がどこかへ行ってしまったって状態。ほらあの、“狼”みたいに」
「判りました。“狼”のようにすればいいのですね。……あなたはもう、動けません。意識が体をはなれて、“狼”のようにどこかへ行ってしまいました……。ほら、これがお手本の“狼”です。あなたの意識は、“狼”のように体をはなれてしまったのです……」
目前に、狼がおかれた――らしい。俺、目も見えず、力もはいらず、皮膚感覚もなく、ただ|呆《ぼう》|然《ぜん》とそこに立っていたのだが――それでも、何故か、気配で判った。今、俺の前に、狼がいる。
不思議と怖いとは思わなかった。俺の前の狼――こいつも、俺と同じように、気を失っていて――とにかく、体が動かない筈。そう、俺もこいつも同じ!
「ほーら、気分いいでしょう、段々、もっともっと気分がよくなってきました。あなたは、今、“狼”と同じ状態――何でしたっけ?」
「気絶」
東嬢の声が、かすかに聞こえる。
「そう、気絶をしているのです。“狼”と同じなんです。あなたは……狼と同じようになります……」
段々、聞こえてくる声が、かすかになってくる。
「気絶……します……狼の……ように……あなたは……狼……です……狼と同じ……です……体中の力が……抜けてゆき……」
体中の力が抜ける。この単語を聞いたとたん、本当に俺の力、全部抜けたらしい。感覚が全然ないから判らん、全然ないから判んないけど……俺、本当、手で頭かばおうなんてしようともせず、ごとっとうしろむきに倒れた感じ。
やばいよな。
ぼんやりと、そう思う。やばいぜ。あんな感じで、後頭部からひっくり返ったら。今頃、頭のうしろに、相当ひどいこぶができてるだろう。相当ひどいこぶ――もし、もうちょっとやばかったら。
「わ!」
かすかに、モゲラ氏の悲鳴が聞こえた。
「倒れた!」
「大丈夫か……あ……死んでる」
そう。もうちっとやばかったら、死んでしまうかも知れん……へ?
「女王様! 倒れた拍子に……死んでしまいました」
「死んだ? 本当に?」
東嬢の悲鳴のような声。
「ええ。あたりどころが悪かったらしくて……まあ、あれだけのいきおいで倒れたんだから無理もありませんが……」
「可哀想に、口から血を吐いている……」
別の、ウォグラとかいった、大型もぐらの声。
それを聞いたとたん、全身にきゅっと妙な感触を覚え……大変だ! 頭に血がまわっていない! 心臓の音が、段々、段々、間遠になる。おい、ちょっとまってくれよ、おいっ!
……俺は……死んでしまった。
☆
呆然自失、していた。
何というのか、その、何というのか、あの、うわあ! 俺、死んだ|訳《わけ》!?
そりゃ、確かに、いつ死んでもいいとは思っていた。もともと、幽霊みたいなもんだとは思っていた。けれど。
いつ死んだっていいっつったって、多少は死に方ってもんに注文があったんだぜ。女の子かばって悪人の凶弾に倒れる、なんて無茶はいわない。が、せめて、普通の交通事故とか普通の病気とか、とにかく普通に死にたかった。こんな……催眠術かけられる筈だったのに、ついうっかり転んで死んでしまう、なんて……。これじゃあんまりだ。あんまり|莫《ば》|迦《か》|莫《ば》|迦《か》しすぎる。人間の尊厳なんて単語は、この場合、どこ行っちまうんだよ!
しばらくの間――肉体レヴェルをはなれてしまうと、時間の経過はまるで判らず、あれから、まだ数分しかたっていないかのような気もしたし、同時に、数時間たっているかのような気もした――呆然として、そして、俺、気づく。
俺は、今、どうやら東嬢の部屋にいるらしい。見えはしない、聞こえはしないけど、雰囲気で判る。俺の死体を、よっこらしょって感じで東嬢が部屋にはこびあげ、巨大もぐらがわらわらと穴により、東嬢の部屋のどまん中にあった土を外へ運びだし、それから例の巨大な土の山を埋める作業にとりかかっていた。
あ……証拠が。俺の姿が消え、|砂《さ》|姫《き》が不審に思ったとしても、その証拠が。埋められてしまう。
巨大もぐらの指揮にあわせて、数百匹の普通サイズもぐらが仕事をしていた。うえー、これだけの数のもぐら。よく集めたなあ。
そして納得。これだけの数のもぐらがいれば、一夜にして土の山をきずいたり、あるいはそれをならしたりするのも、そんなに大変じゃないだろう。
なんて、俺があっけにとられているうちに、もぐら達は一礼すると、地面の中へもぐっていってしまい、東嬢は床板を穴の上にしいた。それから、カーペット。
これで、トンネルの跡は完全に消えてしまった……。
「さて」
それから彼女、俺の死体のそばにすわって。
「どうしようかしら……わたし、こんなにお肉、食べられないし……」
どうして!? どうしてこの人、殺す―→食べる路線の考え方しかできないんだ!!
「しかたないわねえ……山科さんとか、斎木さんとかに食べてもらおうかしら」
んな莫迦な!
「でも、このままの形じゃ無理よねえ……。そうだわ、シチューとか、作ってみましょう」
それから、東嬢、机のひきだしをあけた。と、そこには、小銭が山程。泥のついた奴も、結構ある。……まさかと思うけど、この人の経済って、夜間、もぐらに、おちてる小銭ひろわせて成りたってるんじゃないだろな?
「にんじんと、じゃがいもと、たまねぎ買えばいいのかな。あ、あと、おなべと包丁、まな板もいるわねえ」
東嬢、本気で俺のシチュー作る気かよ!?
やめてくれえ! そう、絶叫、したかった。
しかし、死んでしまった俺に、絶叫ができる訳がなく……。
せいぜいがとこ、俺にできるのは、東嬢に霊魂となって、くっついて歩くだけ。
東嬢、大きめのショルダーバッグに、なみなみと(本当、こんだけ一杯つめこめば、なみなみとって感じだと思う)小銭をつめこむと、まず、山科さんの部屋へ行く。
トントン。
軽くノック。……返事なし。
トントン。
もう一回ノック。と。中でごそごそ音がして。
「はあい……」
眠たそうな声、眠たそうな顔、眠たそうな……砂姫!
……ま、判ってた。そりゃ、砂姫だって、山科さんだって、れっきとした女と男なんだから。……若い女が、まあ若い男の家にとまりにいくっつったら、することって一つしかないだろうよ、確かに。
けど、なあ、砂姫。いくら何でも、もうちっと、つつしみ[#「つつしみ」に傍点]ってあっていいんじゃないか? そんな、はっきりと、それを見せつけなくたってさ。
砂姫は、パジャマがわりに、男もののワイシャツを着ていた――ワイシャツのボタン、三つめ(三つめ! 三つめ!)まではずして。故に、もろ、見えてしまう、ブラジャーしてない胸。寝乱れた髪。
そして。部屋の奥のベッドでは――そりゃ、毛布、なんていうありがたいもんがあるから、露骨には見えないけどさ――全裸の山科さんが、くかーなんていびきかいて寝てた。
「あの……何?」
砂姫の方としても、多少、予定が狂ったって顔してた。そうだよな、普通、この手のシーン見ちまったら、失礼、とか言って、ドア閉めんのが礼儀だろ。なのに東嬢、しげしげとベッドの中の山科さんみつめてんだもの。
「包丁とまな板、貸して頂きたいんですけど……ね、いいんですか」
「何が」
「山科さん、かぜひくんじゃないかしら」
いやー、この台詞聞いた時の砂姫の顔ったらなかったぜ。あ・ぜ・ん。本当、あぜんとしてやんの。
「え……あ……はあ……」
「あの、もしよろしかったら、わたしの服、お貸ししましょうか? 山科さん、服も持っていないんですか」
「……あ……あの」
いくら何でも、ここまで無茶苦茶なカマトトってのは、あり得まい。でも……するってえと、何かなあ。東嬢は東嬢で……どんな性教育、うけてきたんだろう。
「いえその……大丈夫、服はありますから。彼、別に、着るものがなくてはだかでいる訳では……」
「え? あ……ああ、判りました」
ふいに、またもや東嬢、大声をあげた。
「発情期ですね!?」
発情期! 本当に東嬢、こうどなっちまいやがんの!
「は……はつじょうきっていえば……あの……そうではあるのですが……」
反対に、砂姫の方がしどろもどろになる。
「へーえ、知らなかった。人間の発情期って、夏なんですね!」
「いえあの……大体一年中……ちょっとお! 何言わせんのよー」
「何って……何か、いけないこと言いました?」
「あ……あのね、女の子はそういうこと言っちゃいけないの」
あ、あは、ははっ、あの砂姫が――あの[#「あの」に傍点]砂姫が、お説教してるぜ!
「え?」
東嬢、きょとんとして。
「発情期って、男性言語なんですか?」
「え、そういう訳では……けどね……あの……」
ざまみろ、砂姫め。俺ほっといて、よその男に色目なんか使うから、こういうことになるんだ。
「えーと、とにかく、まな板と包丁と……それだけ?」
砂姫、あきれたのかどうしたのか、その二つを東嬢に渡す。
「あと、できれば大きなおなべと、塩とこしょう……」
「はい」
砂姫は、それらのものを東嬢に渡すと、ばたんとドア、閉めた。
☆
……そのあとのことについては、俺、あまりふれたくない。
東嬢は、なべエトセトラを部屋におくと、たまねぎ等を買いにいった。そして……!! そして、うっうっうっ。
お、おれの、お、俺の、皮をはぎやがった! 皮はいで、血抜きして、骨にそって肉切りとって……本当にシチューにしちまいやがんの! シチュー煮こむのに、五時間かけたかな、とにかくシチュー!!
うっ、うっそ……だろ!
俺は、男泣きっつうか、女泣きっつうか、とにかく泣いた。有史以来、シチューになった人間って、いるのかよ。泣いて、泣いて、とにかくシチューはできてしまった。
呆然自失。催眠術をかけようとした結果、間違って死んじまったっていうだけでも、許せん気がするのに……間違って死んじまった上に、シチューにされてしまった。
ありかよ、こんなの!
故に。夕方ごろ。東嬢が出かけるのに、俺、同行しなかった。放っとけっ! 泣かせといてくれっつうんじゃ! 有史以来――いや、人間発生以来、こんな莫迦な死に方、二つとあるか!
そして、何はさておき、あせったのである。東嬢が、山科さんと真弓つれてもどってきた時は。
☆
「砂姫さんも来ればよかったのに」
真弓は、ずっとこう言っていた。はんっ! 山科の野郎、砂姫の名を聞くたび、赤くなってやがんの。おまけに、昨夜はひどく疲れましたって感じで、目の下に|隈《くま》は作るわ、ほおはこころもちげっそりしてるわ。実にまったく……世話ねえな。
「ごめんなさい、半ば無理矢理、お夕飯に誘っちゃって」
あくまでもしおらしい東くらこ。
「いえいえ、シチューが余っちまったなんて、実に嬉しいですよ。何か今日は朝から妙な脱力感があって、ろくにめし喰ってないんで……いやあ、嬉しいなあ。な、真弓」
おーお、そうかよ。そいつは御苦労さんでしたっつうんだ。
「いや、こいつはね、|先刻《さっき》っから……東さんに夕飯に誘われてから、もう喜んじまって」
「いや、そんな……。でも、東さんって、割と家庭的なんですね。シチュー、五時間もかけて煮こんだんですか」
喜ぶな真弓! その肉は、おまえの親友の俺だぞ!
「いえ……やだあ」
照れる東嬢。そして、夕飯はなごやかにはじまり――くそ! 真弓の野郎、俺の肉のシチュー、三杯もおかわりしたな――山科さんと真弓は、シチューをほぼ、たいらげてしまった。山科さんに至っては(余程昨夜疲れたらしい)残ったの後で食べるっつって、なべ、持ってっちまうし。東嬢は――さすがに、いくら何でも人肉のシチューを喰う気にはなれなかったらしく――わたし、もう、食べましたから、とか言って。
かくて。俺は。
泣き、わめき、叫び、口惜しがりながらも――最終的には、すっかり、完全に、真弓と山科さんに食べられてしまった……。
☆
夜。
月が昇りだすと。
俺、変な話だけど――何て言っていいか判らないんだけど――活力が満ちてくるのを感じた。
活力。違うな。
今なら。何ていったらいいのかな、今なら、俺、幽霊になれそうな気分。多少なりとも、自分を実体化できそうな気分。
んでもって、俺は、すぐさま、気分を実行してみるつもりになった。少なくとも、東嬢には、うらめしやの一声も言わずにはいられない。
……本当。この頃まで、俺、意識としては東嬢のすぐ近くにいたんだぜ。よもや、こういうことになろうとは、全然思っていなかったんだ。
とにかく、俺は、さあ実体になるぞって決心すると、おもむろに幽霊ポーズをとった。両手を下むきにたらし、かなし気な声で。うらめしやー。
☆
うらめしやー。
俺は――いや、この先、区別の為、きちんと書いとこ、俺の左半身は――こう言った。
ベッドで煙草を吸いながら、ため息なぞついていた、山科さんのそばで。
☆
うらめしやー。
俺は――俺の右半身は――こう言った。
ステレオの脇で、ヘッドホーンつけ、いとも機嫌よく鼻歌なんぞうたってた、真弓のそばで。
PARTV 分割された幽霊
「うわ! 何だ!」
煙草|咥《くわ》えてほけっと――見ようによっては、思い悩んでるとも見えるポーズをとっていた|山《やま》|科《しな》さん、俺の姿見て、もの凄い音量の悲鳴をあげる。
「あれ……れ、山科……さん?」
てっきり|東《あずま》嬢の脇に出現すると思っていた俺、思わず目をみひらく。
「そう! 俺は山科善行だぞ! 誰か知らんがお宅がその、そんな格好であっても一応幽霊だって主張するなら、とりつく相手を間違ってる!」
山科さん叫ぶ。こういうこと言う人も珍しい……よなあ。と、山科さんの表情、一転して。
「君……きみは、斎藤……さん?」
「……ああ」
「どうしてだ! 俺、君に何も悪いこと……いや、確かに裏切ったけど、それはあくまで俺の個人的な思いいれだし……そりゃ、君に興味というか、そういうのはいだいてて……で、|砂《さ》|姫《き》ちゃんを……それはひどいとは思って……けど、だからって、だからって何だって、俺が斎藤さんのこんな[#「こんな」に傍点]幽霊にとりつかれるんだよ!」
「……ごもっとも」
俺、あぜんとして答える。よ……よもや、こういうことになるとは、俺としても、思っちゃいなかったんだ。確かに山科さんは、俺の肉を半分くった。だからって、山科さんのとこに、こんな無茶苦茶な幽霊がでるとは……。
山科さんのとこにでた幽霊、俺の――俺の、左半身だけ!
☆
「……斎藤!?」
|真《ま》|弓《ゆみ》、叫ぶ。
「……ああ」
しかたないから、俺、こたえて。
「あ……あの、まよわずに成仏してくれ。ぼ……僕、君の妹さんには全然手を出してないぞ」
真弓は、あせっている割には、まあまともなこと言った。
「判ってる……おまえが、斎藤|礼《のり》|子《こ》に手を出してないってことは……」
「じゃ……じゃ何で!? 何だってそんな無気味な幽霊姿になって、僕のそばに出てくるんだ……」
うーむ。何と説明すりゃいいんだ? 俺の左半身が山科さんの部屋であぜんとしているその時、俺の右半身はここであぜんとしていた。
俺の格好。どういう訳か――山科さんと真弓が、俺の肉を半分ずつ食べたせいだろうが――見事に、二分割されていたのだ。左眼、左の鼻の穴をふくむ、顔の左半分、首の左半分、胴の左半分に左手左足は、山科さんのとこ。おなじく右半分は真弓のとこにでて。有史以来、こんなにも無茶苦茶な格好で人前に出た幽霊は、俺が初めてだろう。
「あ……ひょっとして、斎藤、おまえの墓、まっ二つに割れたのか? それでそれを直して欲しくて……」
「……そういう訳じゃない」
困る。俺の左半身の方は、比較的楽に、山科さんに事情を説明していたけど――真弓の方は、山科さんより、数段、気が弱いのだ。先刻のシチューが人肉だなんて話をしたら、ショック死するかも知れない。俺は、思いやりのある幽霊なのだ。
「じゃ……何で? それに斎藤……おまえ、中学の時死んだにしては……いやに育ってるな。死後も、霊って育つのか?」
そうだ。真弓の場合、この大いなる誤解をまず、何とかせにゃならんのだ。真弓の心の中では、斎藤|礼《もと》|朗《あき》と|礼《のり》|子《こ》は別人なんだから。
「あのな、真弓。慌てるなよ。落ちついて聞けよ。俺は、斎藤礼子だ」
「え!? 礼子さん、死んじゃったんですか」
「ああ」
「それにしても、その言葉づかい……まるで|礼《もと》|朗《あき》だ……」
「ああ。いいか、こころして聞けよ。礼子と|礼《もと》|朗《あき》は、同一人物だ」
「へ?」
「礼子は、|礼《もと》|朗《あき》なんだ」
「え? ……|礼《もと》|朗《あき》、じゃあんた、女装してたのか!」
「……違う。いいか、おちついて聞いてくれ。|礼《もと》|朗《あき》は、女だったんだ」
「……んな莫迦な。だって……おい、|礼《もと》|朗《あき》、僕達は一緒にお風呂にはいった仲だろ」
おまえな、誤解されるような言い方すんなよな。修学旅行や林間学校で班が一緒だったと言って欲しい。
「あの……どういうことだか、判るように説明してくれる?」
かくて。俺は、仕方なしに、真弓に今までのことを説明しだした。
☆
「とすると……あの肉は……斎藤さん!?」
山科さんがいくら真弓より図太いとはいえ、夕飯のシチューが実は人肉だった、というのは、それなりにショッキングなことだったらしい。
「そう」
「だって……東さんはチキンだっていったぞ!」
「そりゃ、いくら何だって、人間の肉ですがどうぞっつう訳にはいかないでしょうが」
「そりゃまあそうだろうけど……一メートルもあるもぐらだの、みみずの大群だの、俺、とても信じられない」
「じゃ、この俺の姿はどう説明すんですか、この幽霊姿は!」
「しかし……」
「嘘だと思うなら、砂姫に聞いてみて下さい。あいつ、知ってますよ。東さんの部屋の中に土の山があったこと」
砂姫の名を聞くと、山科さん、急にぽっと赤くなった。うー、腹たつな。
「とにかく、そういう事情で、俺は幽霊になったんです。了解?」
「でも……何で東さんがもぐらをあやつれるんだ」
「んなこと知りませんよ」
「それに……大体、お宅の話は、無茶苦茶すぎるよ。唐突に人の部屋あらわれて、んなこと言って――それを信じられると思うのか!」
段々、山科さん、興奮してきた。ま、無理ないといえば無理ない。山科さんにしてみれば、今までの生活とか経験とか、すべてくつがえされる気分なんだろうから。今までの人生観かけて俺にくってかかってる。そんな感じ。
「信じられなきゃ信じられないでいいけれど、じゃ、信じないとしたら、何だって俺はこんな姿になってるっていうんです」
「それは……」
二分割された幽霊なんて格好になった俺に、合理的に説明をつけようと、山科さん、必死に考えこむ。その姿を見ていると……俺、山科さんに、しみじみ“同情”ってのを感じてしまった。
生物的――というか、社会的にみて、男の方が異常事態に適応しにくいんだよな。割と若いうちから、妻と子供と親と――とにかく家族やしなって、社会的に地位を築いてゆこう、だなんていう、現実を背おわなきゃならんから。肩にどっぷり現実生活をしょっちまった人間が、あまりにも非日常的な二分割幽霊に一メートルのもぐらなんてのを、あ、そうですかっつって納得できる訳がない。
けど。今は、そんなことに同情してる場合じゃない。
「お宅が……幽霊のような格好をしている……というか、どうも幽霊であるらしいってのは、まあ、認めるよ。けど、他のことは……大体、俺が……この俺が、よりによって礼子さんを食べちまっただなんて……考えられない。考えたくもない」
もぞもぞ、何とか台詞をしぼりだす山科さん。
「ちょっと待ってて下さい」
俺、多少山科さんに同情したせいもあって、こう言ってやる。
「そのうち、真弓が来ますから。二人そろったとこで……動かしがたい証拠っての、探しに行こうじゃないですか。東さん家の床板、あげてみりゃすぐ判る」
「……真弓が来るって……」
「あいつには俺の右半身がついてんです。そのくらい判る。……とにかく、あいつが来て、俺の話が嘘じゃないってことが判ったら……協力して下さい。俺の……死んじまった俺の、仇をとるのに」
☆
「|礼《もと》|朗《あき》……」
真弓は、これだけ言うと、絶句した。
「おまえ……何て……可哀想な奴なんだ……」
「別にいい、同情してくれなくて」
「けど……本当に……悪かったな」
「あん?」
「美絵子に会って欲しいだなんて言っちまって。あれは……やっぱり、何だろ、礼朗としては辛い台詞だっただろ」
「いいよ、もう」
俺、根がお人よしにできてるもんで、ついついこう言ってしまう。それから……少し、悩んで。こいつに仮性半陰陽の話はしたけど、人肉シチューの話、してないんだ、まだ。俺の左半身はこのころ、山科さんに人肉シチューの話してて――あの山科さんでさえ、あれだけショックうけた訳だろ。真弓は――一人前の男というより、まだ男の子の真弓は――下手すると失神するだろうなあ。
「でも……その、|礼《もと》|朗《あき》の|礼《のり》|子《こ》さんは……何で死んじまったんだい」
「ちょっとあおむけにひっくり返ったら――後頭部うっちまって……あたりどころが悪かったんだ」
「そうか」
真弓は、何故かしみじみ、納得[#「納得」に傍点]という表情を作った。
「今、礼子さんの死体、あのマンションにある訳だね。で……それを埋葬して欲しくて、僕のところに幽霊になってでてきたのか」
……少し、違うんだよな。
「いや……。俺の死体は、もうちっと、とっ拍子もない処にある」
「ああ、なかなか発見できないところにあるのか。それで、その場所を教えたくって……」
「……いや。永久に発見できないところにあるんだ。もう、消化されちまったろうから……」
「……しょうか? 火事の中か何かで死んだ訳?」
「いや、しょうか違いだ。消火、じゃない、消化。……食われちまった方」
「食われた!? 食われただって!? おまえ、ワニとかライオンとかに……」
「あのな」
ゆっくり、一語一語、区切って言う。
「頼むから、落ち着いて聞けよ。驚くなよ」
「大丈夫。もう充分、驚いてるから。これ以上、とても驚けない」
どうかな。あやしいもんだ。そうは思ったものの、これ以上思わせぶりな会話続けるのは嫌だったんで……俺、意を決して、言うことにした。
「俺の死体、半分は、おまえのお腹ン中にあるんだ」
「え?」
「俺を喰ったの、ライオンでもワニでもなくて、おまえと山科さんなの」
「へ?」
「ここに、俺の右半身がいるだろ。山科さんのとこに俺の左半身がいる。おまえに喰われたから、俺、別に何の恨みもないおまえのところに出てきちまったの」
「は!?」
「東嬢がね、俺の死体加工してシチュー作ったんだ。おまえ、そのシチュー、先刻喰ったろう」
「だって……おい冗談……僕が食べたのはチキンのシチュー……」
「あれ、チキンじゃなくて、人肉シチューだったんだよ。俺の肉」
「えー!!」
どたっ。ばたんっ。どたどたどた。
真弓は、口をおさえて立ちあがると、すさまじいいきおいでトイレに駆けこみ、猛然と……吐きだした。
「真弓! 猛! お、おまえな」
「うえっうえっうえっ」
「そりゃおまえ、喰われた当人がそばにいるのに、あまり失礼じゃないか」
「うえっうえっうえっ」
「よせよおいっ! 俺、間違ってもおまえん家のトイレにとりつきたくない」
夜な夜なトイレの脇に出てきて“うらめしやあ”なんてやる右半身だけの幽霊なんておぞましいもの、死んでもなりたく――あ。もうすでに死んでる。
ひとしきり、吐きおえると――ほ。シチューは完全に消化ずみで腸へ行っちまったらしく、たいして吐けなかった――真弓、ようよう人心地がついたみたいだった。恐怖――というより、あからさまに気色悪いって目をして、便器にもたれ、俺を見ている。
「ほ……ほんとに……僕の食べたシチュー……|礼《もと》|朗《あき》の……肉なのか……」
「残念ながら本当だよ。それともおまえ、俺がこんな姿になってまで――死んでまで、わざわざおまえをだましに来ると思うか」
「確かに……君の格好はその……幽霊風に見える。幽霊風に見えるが……」
「幽霊風、じゃなくて、そのものずばり幽霊なんだよ」
くて。
真弓、便器にもたれて、気絶してしまった。
☆
「あ、駄目だ」
山科さんの脇にいた俺の左半身、うめいた。
「あの、山科さん、悪いんだけど、真弓ン家へ電話してくれますか」
「どうして」
「真弓、気絶しちまったんです。おこすよう言ってやって下さい」
「……気絶させといてやれよ。あいつ、体に似合わず繊細なんだから……」
「それは判ってます。でも、あいつ、割ととんでもない処で気絶してるから……」
「どこ?」
「トイレの中」
「……判った」
山科さん電話に手を伸ばす。
「……もしもし、真弓さんのお宅ですか……あ、美絵子ちゃん」
ずきん。やっぱ――こんな姿になっちまっても、美絵子の名を聞くと、心がいたむ。
「山科ですけど……お久しぶりです。ええ。ちょっと猛君を……」
受話器から聞こえてくる声に耳をすます。美絵子の――何年ぶりに聞くんだろう、昔とほとんどかわらない、なつかしい美絵子の声が聞こえる。お兄ちゃん、あにきいっ電話よおっていう奴。
「……ごめんなさい、何か、兄の姿が見えないんです」
ややあって、美絵子の、つくった、上品そうな声が聞こえてくる。
美絵子、おまえ、本当に莫迦なのな。その癖、全然かわってないよ。送話器、手でふたもしないで、あにきい、でんわあっなんて叫んじまって、そのあとでいくら上品ぶったって、仕方ないのに。俺さあ、それ、中学ン時も注意してやったろ。全然かわっちゃいないんだなおまえは。……かわいい。
「でも、部屋に電気ついてましたから……多分、ちょっと煙草か何か買いに行っただけだと思います。……すぐ帰るんじゃないかな。帰ったらお電話するよう、伝えておきます」
「あ……あの」
山科さん少し悩む。それから。
「かなりシチュエイションが異常なんで……どう言ったらいいか判らないんだけど……トイレ、のぞいてくれますか」
「は? お手洗い?」
「ええ。何となく、その……猛君、そこにいそうな気がする」
「……はあ。でも、お手洗いの中にいるんなら、返事すると思うんですが……」
「その……あの、ですね、猛君はお手洗いの中で、気絶しているような気がするのですが」
「はあ?」
妙な声をたてながらも、美絵子、お手洗いへと駆けてゆく。ぱたぱたって音、まあお兄ちゃん! って叫び。それから、ややして。
「す、すみません」
美絵子の声、相当うわずっていた。
「ちょっと兄、その……貧血か何かおこしてるみたいであの……あとでこちらからお電話します」
がちゃん。電話は切れた。
☆
「お兄ちゃん。どうしたのお兄ちゃん。……ちょっと、おかあさーん」
美絵子。俺の右半身は、もう……もう、万感胸にせまって、ひたすら美絵子を見ていた。
(あ、美絵子がトイレのドア開けた時から、俺、消えている。幽霊ってのは、こういう時便利だと思う)
大きくなったな、美絵子。胸なんてもう、実に見事に育っちまって……。Bカップだろ。あ、それにおまえ、眉そろえてんのか。……きれいだよ。きれいになった。天然パーマの髪、カーリーにしたんだね。かわいいよ。
俺がしみじみと、えらくトイレにふさわしくない感慨にひたっているうちに、美絵子の叫び声にひきよせられて、真弓のおじさんがやって来て(おひさしぶりです)、必死に真弓をベッドヘはこび(おまえは育ちすぎじゃ)、そのあと、おばさんと二人で何やらおろおろしていた。
「どうしたんだろう……」
「あなた、救急車を呼んだ方がいいんじゃありません?」
「でも、お兄ちゃん、何だか吐いてたみたいよ。酔っぱらってんじゃない?」
「いや、とすると、急性アルコール中毒ってことも……」
と。しばらくもぞもぞしてから、真弓、ようやく正気にもどった。急に、がばっと上半身、ベッドにおこして、一声。
「|礼《もと》|朗《あき》!」
……俺の名を叫びやがんの。
「猛! どうしたんだ?」
「あれ、おとうさん。……あ、あの……いえ……」
「のみすぎか?」
「いえ、全然のんでません。ちょっと夕飯のシチューが悪くて……」
「食中毒か?」
「いえ、大丈夫です」
……この家もかわらんなあ。真弓家って、何か、もともとは地方の旧家らしくて――で、猛はその跡とり息子。その分、厳しく|躾《しつけ》られたんだそうで、猛、昔から、両親に敬語使ってしゃべんの。
とにかく、多少妙な表情をしながらも、御両親は退出した。あとに残ったのは……美絵子。
「……お兄ちゃん、どうしたの」
「あ、いや、その……」
「ね、今、“もとあきっ!!”って、叫んだでしょ? あれ……どういうこと」
「あ、あの、いや、その、ちょっと|礼《もと》|朗《あき》の夢を見ていたんだ」
「夢……? あたしも時々見るわ。|礼《もと》|朗《あき》の夢」
……美絵子。いい子だ。
「でも……彼がひっこした時はさんざ泣いたけど……あれも、今にして思えば、中学時代のよき想い出よね。おまけに、彼、ひっこしてすぐ死んだんでしょ? ……変な話だけど嬉しい」
うれしい? 俺は耳をうたがった。
「マキなんか、可哀想なのよ。中学時代、ずっとあこがれてて、で、ついに告白できなかった彼がいる|訳《わけ》。でさ……昨日、クラス会があったんだ。で、来たなかに、何つうのかな、ものすごーくみっともない――みっともなさの極致って感じの男がいたんだって。二十で露骨にサラリーマンって感じの。それが彼だったんだって。……ひどかったよ。そのあと、一緒にのみに行ったら。荒れちゃって。……ま、無理ないと思うけど。……|礼《もと》|朗《あき》死んじゃったってことは――彼に関する限り、そういうのって、絶対ないじゃない。やっぱ、あれよ、昔の――別れた恋人が、成長してみっともなくなるって、最大の悲劇よね」
……!
「それにさ、あたし、あのひとに――和成さんに、|礼《もと》|朗《あき》のことしか話してない訳。全然恋愛経験がないって言ったら、すごくうそみたいじゃない。だから、中学で別れた――で、別れてすぐ死んじゃった人を今まで思ってきたって。こう言うと、かっこいいと思わない?」
……!!
「だから、お兄ちゃん、彼に言っちゃ駄目よ。忠明さんのこと。……ね?」
……!![#「!!」は底本では「!!!」]
「でも、和成さんにのりかえてよかったって思ってんのよね。忠明って、結局、三流企業にしか就職できなかったじゃない」
……!![#「!!」は底本では「!!!!」]
俺……恥ずかしいけど俺……ただただひたすら、呆然としていた。
今のが美絵子の|台詞《せりふ》かよ!? 美絵子――俺が七年間、胸の奥に秘めていた女の。
そりゃ、確かに、今までずっと思ってたよ。女は魔物だ、女は怖いって。けど、その“女”って中に、美絵子ははいっていなかったのだ。美絵子は特別――の筈、だったのだ。中学の時の美絵子は、本当にかわいかったんだ。こんなこと、平気で言うような女じゃなかったんだ。絶対――。
……いや。判ってるよ。判ってますよ。結局のところ、それは、“俺がそう思ってた”ってだけの話で――美絵子だって、“女”だったんだ。それだけの話。それだけの……はっ。
美絵子が出てってすぐ、真弓はベッドの上に正座して俺に謝った。
「すまん、|礼《もと》|朗《あき》……」
「……いや……判ってたんだよな。あいつだって生身の女だし……」
「……すまん。兄として謝る。すまん……」
「いいってば。謝るなよ。……んなことされると俺、ひたすらみじめになる」
「すまん……」
そうだよな。高校、大学って女の群れにまじって、で、判ってた筈だ。女っつうのがいかにおそろしい生き物かってこと。なまじ女に夢を抱いた俺がいけないんだ。
「ところでさ、真弓。ちょっと頼みがあんだけど……」
「何でも聞く。何でも言ってくれ」
「山科さんとこへ行ってくんない? おまえのあこがれの的である、東嬢のばけの皮をはがしたいんだが」
「あ……あこがれの的でなんか……」
正直だな、真弓は。まっ赤になっちまいやがんの。
「……おまえもさ、女に夢を抱くのは、やめた方がいいと思うぜ。男の方が|余《よ》|程《ほど》純情可憐なんだから」
なんて、俺の忠告、真弓は全然聞いていないようだった。
☆
その間。山科さんと、俺の左半身は、決して遊んでいた訳ではないのだ。こっちはこっちですることがあった。
山科さんが、調べものをすると言いだしたのだ。全長一メートルをこすもぐら。そんなもんが、果たして、生物学的に存在していいのかどうか。
しばらく、いろんな本と格闘していた山科さん、ふいに声をあげた。
「へえ……あり得る訳だ」
「何」
俺、山科さんの本をのぞきこもうとする。そうか、一メートルをこすもぐらって、いるのか。
「どこです? 中南米? アフリカ?」
「何が? 俺があり得るって言ったの、食事のことだぜ」
「食事?」
「ああ、これ、見てみな」
つって、山科さん、俺に本を示す。“土壌動物の世界、渡辺弘之著”ってやつの八十四ページ。
「真弓が|東《あずま》さんに……その……だろ。で、東さん、杉本夫妻の一人娘って主張してるじゃないか。で、買ってみた訳」
成程。そういえば杉本夫妻って、地中動物の研究家だったもんな。地中動物の研究家の自称娘がもぐらの女王。妙に符節があっているような、無茶苦茶なような。
「何……“モグラはきわめて|貪食《どんしょく》なけもので、十時間も食べずにいると死ぬ、少しも欠食できないといわれる。ヨーロッパのモグラでは、一日にミミズを四十八個体、あるいは、六十個体、自分の体重と同じくらい食べたといった報告がある”。……ひえ! 自分の体重と同じくらい!」
つうことは、俺だと一日に五十八キロ。五十八キロの肉……うえー。考えたくもない。俺、二百五十グラム以上のステーキ、喰えんぞ、一食に。一日三食ステーキ喰って……一キロにもいかない。それがやっとだっていうのに……五十八キロ?
「俺、相当大食漢のつもりなんだが……それでも、せいぜい一食に一キロ半――二キロは無理かな。――あ、すごく腹が減ってる時で、それが上等の肉の時に限るぞ」
……山科さん。だから太るんだ。しかし、それにしても二キロ。体重の三十分の一程度。
これを考えてみると、もぐらってのは、本当によく喰うんだ。よく喰う――いや、すさまじく、喰う。
|成《なる》|程《ほど》、東嬢がもぐらの女王なら、手近な肉を見て、何はともあれ喰うことを考えても不思議はないな。彼女、四十キロくらいはあるだろうから……たとえ、どんな安い肉でも、毎日四十キロ食べてたら……まあ、破産だ。
「こうなっちまうと……」
山科さんは、妙にしげしげと俺の顔をみつめる。
「最初、突拍子もなく聞こえた分だけ、逆にリアリティ、感じちまうんだよな。その、もぐらがまず喰うこと考えるっつうの……」
だろ。リアリティどころか、真実なんだから。
何てやってるうちに。真弓は、ようやく、家を出た。
☆
俺――俺の左半身は、変な話だけど、すごくうきうきしていた。もう少しだ。
今、飯田橋で地下鉄おりた。今、改札ぬけた。今、地上へ出た。今……。
俺の右半身が近くまで来ている。これだけで嬉しかった。もうすぐだ……もうすぐだ……ドアチャイム!
「あ、俺!」
「あ、俺!」
俺の右半身と俺の左半身は、お互いに相手を認めると、ひしっと抱きあった。
「う……気色悪」
真弓が、ぼそりとこう呟いたことなんか――左半身しかない人間と、右半身しかない人間が抱きあうことがいかに気色悪いことかなんて――全然、気にする気にも、なれなかった。
☆
「……要は、どうやって東さんを部屋の外に出すか、だな」
俺達四人――いや、三人っていうべきなのかな、山科さんと真弓と俺左半身と俺右半身――声をひそめて相談していた。真弓は、東さんの無実を信じるって叫んでたし、山科さんもまだ、もぐらだのみみずだのの話は信じられないって言ってる。俺も――ま、それはそうだと思うから、まず証拠を見せてやるって|啖《たん》|呵《か》をきったんだ。証拠自体は、東嬢が部屋から出れば割とすぐみつかるはず。あそこのカーペットはがして、床板あげれば、トンネルがあるんだから。ただ、そのためには、東嬢にどっか遠くへ行ってもらわないといけないんだよな。
「役得だ。真弓、彼女をデートに誘っちまえよ」
山科さんは、東嬢のおそろしさを知らんから、平気でこんなこと言えるんだ。
「昨日の夕飯のお礼ですって、食事でもおごったら? 映画の一本も見て、食事して、お茶のめば、四時間はつぶせる」
「う……うん」
「で、その間に、俺、あの女の部屋にしのびこんで、床板あげてみるよ。何もなかったらそのまま床板おろしてカーペットしいちまうから」
「あ……ああ」
「男だろ真弓。女の子一人くらい、映画に誘えるよな」
「ん……うん……やってみる」
……だいぶこころもとないな、こりゃ。
「じゃ、こっちはこれでかたがついたが……今、もう十二時まわったろ。いくら何でもこれから女の人を誘うってことはできないから……証拠探しは明日でいいか。な、斎藤」
「ああ」
俺の左半身と右半身、同時にうなずく。山科さんは――ま、俺もその方が気楽だけど――いつのまにか、感覚的に[#「感覚的に」に傍点]、俺を男扱いしている。
「とすると、今晩はこれで寝よう。真弓、とまってけよ」
「うん」
「で、その……」
いささか、困ったような目つきをして、山科さん、俺を見る。
「斎藤は……」
「……幽霊も寝るんだろうか?」
俺、困った。いまだかつて、幽霊になったことがないもんだから、いきおいこういう基本的事実が判らないのだ。
「……ベッド、使う?」
「うーん……」
「使うなら、俺と真弓はソファか何かで……」
「うーむ……」
と。トントン。急に、ノックの音。俺達三人、顔を見合わせる。
「……どなたですか」
山科さんが、おそるおそるって感じで聞く。三人共一瞬、あ、東さんかなって思っちまったんで。
「あたしです」
砂姫の声。
「ああ、ちょっと待って」
山科さんドアの脇へ行き、俺を見る。俺、次の瞬間、体中の力を抜いた。こうすると、消えることができるのだ。
「どうぞ」
砂姫は――おい、おまえ、暴漢にでも襲われたのかよ――凄い格好をしていた。
まず、髪が乱れていた。細い、やわらかい、天然パーマのかかった髪。それを何度もひっかきまわしたらしい。ほつれきっている。そして、服。二、三ヵ所かぎざきがあって、おまけにところどころ泥がついている。顔も手足も、同じく少し汚れていたし、つめがまっ黒だった。
「……ど……どうしたんですか」
「|礼《もと》|朗《あき》――え、あ、ううん、|礼《のり》|子《こ》が消えちゃったの。こころあたり、ない?」
ごくん。男達二人が、息をのむのが判った。二人共、こころあたりは|嫌《いや》って|程《ほど》ある|筈《はず》。でも……ちょっと説明しにくいこころあたり。
「今朝、うちに帰ったら、ベッドの中はもぬけのからだったのよね、靴もなかったし……」
せかせか髪をかきあげる。
「それだけなら別に驚きはしないんだけど……でかけたって思うけど……中からチェーンロックかかってたんだもの」
「は……はあ」
「で、とにかく、チェーン外して中にはいったのよね」
「どうやって」
思わず真弓が口をはさむ。俺もそれを聞きたい。あれ、外からあくのかよ?
「チェーンひきちぎって」
「ひきちぎる?」
「あ、ううん、ペンチで切って」
また乱暴なことするなあ……。
「とにかく、部屋のすみずみまで見たけど、もと――のりこの姿が、ない訳。これはもう、窓から出たとしか思えないじゃない。あ、窓はあいてたの。何の必要があって二階の窓から外へ出たのかが今一つ判んないんだけど、とにかく庭へおりてみた訳。したら……地中二メートル程度のとこに、もと――のりこ、埋まってんの!」
「え?」
男二人、叫ぶ、幽霊の俺も、心の中で叫んだ。どうして? どうしてそれが砂姫に判るんだ!?
「ううん、今の表現、不正確。埋まってたの、一時期。で、すぐ移動したんだわ」
「どうしてそう思う訳」
おずおず山科さんが聞く。
「地中二メートル――正確には、一・八メートルくらいのところで、あの子、数t出血したのよ。O型Rh+、多少貧血気味で、ゆうベビール三本とホワイトホースだいぶのんだ人間の血が数滴、地中一・八メートルのとこにあったんだもん。その血液の所有者はあの子だわ。で、出血して――お昼の時点で七時間程度。でも、死体とか生きてるあの子とかは、あそこの地中にはいないの。本人がいれば、もっとずっと血のにおいがする筈ですもの」
「……ちょっと。ちょっとまって」
山科さん、とうとうとまくしたてる砂姫を手で制した。
「何で、そんなわずかな血が、そんな深いとこにあるって判るの」
「においよ!」
「砂姫ちゃん……君、血のにおいって判るのかい?」
「……善行はAB型Rh+、少し糖分過剰。真弓さんはA型……Rhね?」
「あたった……」
真弓が呆然と言う。
「Rhなんて、滅多にない型なのに……」
「どうして……どうして、においで血液型まで判るんだ……」
「あたし、そういう体質なの! ……あん?」
それから砂姫は、何だか……犬のように、鼻をぴくつかせた。
「あなた方……何かあたしにかくしてるわね! ……あ……二人共、礼子の行方知ってるんだ!」
「ど……どうしてそれを」
莫迦だな真弓。判んねえのかよ。砂姫は――あんまり信じたくないその特殊な鼻を使って、お宅達が何かかくしてることをさぐりあてた。(おそらくは、血液中のアドレナリンの増加か何かをめやすにしたんだろう)でも。後半部は、カマかけただけの台詞だぜ。
「はーん、そうなの、やっぱり」
砂姫、つかつかと部屋の中にはいってくると。
わっ!
幻覚じゃない! 今度ははっきりと判った! 砂姫の目が、急に緑に染まった!
それとほぼ同時に、二人の男はふらふらと砂姫の方へ近づいてゆき……おい! どうしたんだよ!
二人の目からは、完全に理性の色が失われていた。まず、山科さんが猛然と砂姫に抱きつく。抱きついているのか、さばおりをやってるのかよく判らんって感じで、砂姫は抱きつかれたまま、優雅に首をすこしかたむけ、山科さんの首筋に顔をうずめ――おい!
山科さんの首筋に顔を埋めた砂姫、少し、口をあける。糸切り歯が異様に大きく、とがっている。砂姫の歯って、こんなだっけ――いや。こんなに外見的特徴がはなはだしい歯なら、もっと早くに気づいている筈だ。あり得ないことだけれど――あり得ないことだけれど、砂姫の歯、急にのびたんだ!
そして。しみじみ優しい声で。
「ごめんね、善行。でも、少しだけ、ね。貧血にならないくらい……」
こう言って。こう言って砂姫、山科さんにくいついたのだ。
山科さんの、肌色というよりは多少赤味がかった黄土色に近い首筋。そこに、まっ赤な砂姫の唇。それと、異様な――異様故に美しいコントラストをなしている、まさしく純白の歯。その歯が、ずぶずぶ山科さんの首筋に埋まって……二度ばかり砂姫ののどぼとけが動いたろうか。
あぜんとしているうちに、砂姫は、山科さんから唇をはずした。歯――異様にとがった糸切り歯の先に、赤ぐろいものがついている。
「あなたは、一回寝たら、このことは忘れる」
砂姫がこう言うと、山科さんは、まるで感情のこもらない声で、その台詞を繰り返した。
「そして、あたしの言うことには、一回ねむるまで、何でも素直に従う」
また山科さん、砂姫の台詞を復唱する。
「OK。じゃ、次、真弓君」
砂姫がこう言って真弓の方を向くと、真弓は、誘蛾灯にすいつけられる虫さながら、ふらふらと砂姫の方へ歩みよってくる。そして。
そして!
真弓は、みずから少しかがみ、首をかたむけ、砂姫の糸切り歯がおのれの首にくいつきやすいポーズをとったのだ!
☆
も、この後のことは書かない。このあと、約一分半にわたって、先刻と同様のことがおこった。男達二人は、まるでふぬけのようにほけっと天井をみつめ……気絶してんだろうか。その割には、体が倒れないところが偉いけど。
「……さて、お二方」
砂姫は我がもの顔に部屋の中へはいりこみ、ドアを閉め、二人を見まわした。
「白状してもらいましょうか。|礼《のり》|子《こ》はどこにいる訳」
「ここにいる」
まるで、感情のこもらない、二人の声。
「ここ?」
「そう、この部屋」
「嘘……そんな……いないじゃない!」
砂姫、バスルームのドアあけ、おしいれあけ、叫ぶ。
「でも、この状態の人間が嘘つける|筈《はず》ないし……」
「砂姫」
しかたないから俺、声かけた。姿はあらわさず声だけ。
「|礼《もと》|朗《あき》! どこ!」
「心の準備してくれ。今、あらわれるから。俺――その――かなりグロテスクな格好してる」
「礼朗! どこよ!」
「いいか、出るぞ、驚くなよ」
って言ってやったのに。俺の左半身と右半身が出現したとたん。
「きゃあーあー!」
ゆうゆう百ホンに達する、おっそろしい大声。隣近所に聞かれたらどうするってんだ。
「も……もとあき!?」
それにしても、気絶しなかったのはめっけもん。
「ああ」
俺――左半身と右半身は、当然といえば当然だが、まったく同時に声を出すので一々区別はいらないと思う――、答える。
「ど……どうしたの、そのかわり果てた姿」
「実は……かくかくしかじかで」
しかたないから俺、砂姫に今までのこと説明する。それから、声を荒くして。
「ところで砂姫。俺、見ちゃったんだぞ。今のは何だ今のは」
「ん? 今のはって?」
幽霊相手にとぼけんだから。
「山科さんと真弓の血を吸ったろう。かくしたって駄目だ。俺、見たんだから」
「……ん」
「おまえ、吸血鬼だったのか」
「ん……うん……」
「じゃあ……」
言ってから俺、自分の台詞のおそろしさに気づく。一度死んじまうと、割とすごいこと平気で言えんだな。
「じゃあ……真弓も山科さんも、目がさめると吸血鬼に……」
「なる訳ないでしょ」
何故か砂姫は、怒ったような口調でこう言った。
「言っちゃ悪いけど、ブラム・ストーカーって相当頭悪かったのよ。ドラキュラから血を吸われた人が、そのまま全員吸血鬼になってごらんなさいよ、いくらヘルシング博士ががんばったって、吸血鬼退治できる訳ないでしょ。大体――ドラキュラはどうかしらないけど、あたし、最低で月一度は人の血吸わないと生きてゆけないんだから。月に一人、吸血鬼ができて……で、その吸血鬼が月に一人吸血鬼増やしてったら、いまに、日本人全員吸血鬼になっちゃうじゃない。……ねずみ講じゃあるまいし」
「……はあ。ごもっとも」
「大体、あたし達と伝染病を同一視して欲しくないわ。あたし、生まれた時から、ホモ・サピエンス――人間じゃないもん。人間が吸血鬼になるんじゃなくて、吸血鬼は人間の亜種なんですからね。もともと違う生き物なのよ」
「あ……はあ」
そんな、胸はって言えるようなこと……でもないとは、思うんだが。
「それに、あたしにしてみれば、人間の、吸血鬼の扱い方も気にいらないのよね。嫌がる人を無理矢理吸血鬼にしている訳じゃないし……一種の愛の献血運動じゃない」
日本赤十字が聞いたら、貧血おこすような台詞だ。
「ここに、あたし――つまり、一月に一度は人血とらないと死んでしまう人間が――人間亜種がいる訳よ。で、そのあたしが男の人から、彼が死なない、貧血もおこさない程度の血をもらうって行為の、どこが献血と違うのよ。……大体において、血を吸うって行為自体、一種のキスの変型でしょ? で、男の人にとって、あたしって――自分でいうのも何だけど、かなり魅力のある存在じゃない。一応、若くてピチピチしてるみたいに見えるしね。売春って行為がある以上、男の人は、まあその、あたしみたいな女の子と、そんな風な関係になってみたいって、潜在的な願望持ってる訳じゃない。で、あたしは血をもらって、男の人は、何かそういうほんわかとした想い出もらって……完全に、ギブ・アンド・テイクじゃない? ジュース一本の赤十字に較べたら、はるかに良心的よ。ジュース一本より、女の子一晩買う方がずっと高いんだから」
……ま、そういう理論も成りたつことは成りたつ……んだろうか。何か、完全に男の人間性ってのを無視してるような気もする。でも……あー! もう、判らん! とにかく、実害らしい実害がないんなら、全部、いいことにしちまおう!
「おまけに、人間のお医者様より、はるかに正確に、病人を診断できるのよ、あたし達。ガンの人とか、とにかく病気の人の血って、まずいんだもん、圧倒的に。人間ドックにはいって、血液検査をしてもらうかわりだと思えば、はるかに安あがりじゃない。違って?」
「は……あ」
「で、何? |礼《もと》|朗《あき》としては、こういうあたし[#「あたし」に傍点]に文句つける気?」
「つ……つけない……」
……駄目だ。完全に、迫力まけ。砂姫の方が、俺よか数段迫力がある。
「そう。よかった」
俺が、文句つけないって言ったとたん、砂姫、|相《そう》|好《ごう》を崩した。
「何でか判らないけど、吸血鬼って不老なのよね。ある程度――大人に近い年になると、老化がとまっちゃうの。だから、あたしが三百歳以上だっていうの、本当なのよ。……ね、|礼《もと》|朗《あき》には、昔から本当のこと、教えてたんだから」
かといって、礼言う気にはなれんわい。
「あ、それからこの二人がおきても、あたしが吸血鬼だってこと言っちゃ駄目よ。あたし、昼間は起きてられるし、十字架見ても大丈夫だけど、心臓にくいうちこまれてなお平気でいられるかどうか、自信ない」
「山科さんも真弓も、本当に死んだり吸血鬼になったりしないんだな?」
「うん。保証する。それに、善行は特別なの。あたし、普段は間違っても、二日つづけて同じ人の血を吸ったりしないもん。ただ今日は……どうしても|礼《もと》|朗《あき》の行方を知りたかったから……血をちょっと吸った時って――一種の催眠状態になるのよ。大体、あたしが血を吸おうと思って|睨《にら》んだだけで、男なら絶対自失するしね」
……|成《なる》|程《ほど》。いつぞやの、あの狂おしい気分を思いだす。あれで自制できたら凄いよなあ。
そうか。それに、何となく、ほっ。山科さんがあんな顔してたの、あれ、前の晩はりきりすぎたせいじゃなくて、貧血のせいか。
「それにしても……そんなに俺のことを心配してくれた訳」
多少、感謝。
「当然。あたし、あなたを愛してるもん」
……!
「思うんだけどね、人間って……愛してるって言葉の意味を、すごくせまく使ってない? さも重要な言葉であるかのように誤解してさ。いやしくも、この世の中で生きている生物ならば、まわりのものすべてに、愛情を抱く筈だと思うのよね、ふりそそいでくれる陽の光に、影を作ってくれる木々に、食べられてくれる動物達に。そういう意味で、あたし、間違いなく、人間全部、愛してるわ」
……なんだ。
「それにね、|礼《もと》|朗《あき》はまた、ある意味で特別よ。あたしって、存在自体が多少異常じゃない。だから、数奇な運命にもてあそばれる人って……すごい、連帯みたいなもん、覚えちゃうのよね。何つうか……やっと仲間をみつけたって感じで。まして、二分割された幽霊なんて、これはもう、露骨に異常じゃない」
「……はあ」
「だから……許せないのよね」
ふいに、砂姫の表情がかわる。はげしく怒っているかのような、表情。
「|東《あずま》さんって。あれだけのトンネルを掘って、もぐらを自在にあやつれる人なら、相当不可思議な運命をたどってきてると思うの。でも……だからって、無闇に人を殺すべきじゃないと思わない? 礼朗が、彼女の捕食の対象だっていうなら、話は別よ。でも、彼女、お宅を食べなかった訳じゃない。食べないものを殺し、それを勝手に、その生物を捕食の対象としない種――それも殺したのと同種――に食べさせるなんて、ひどいわよ」
うーむ。俺は、単に、殺され死体をはずかしめられたって観点で怒ってんだけど……砂姫はずいぶんややこしい怒り方すんだな。
「許せないわよ、絶対に。一言、怒ってやんなきゃ。あの人、お百姓さんありがとうって気持ち、もってないのかしら」
お……お百姓さんありがとうって、じゃ、何か、俺は稲かよ!?
「とにかく、許せないのは、俺も同じだ。……で、砂姫。この二人どうする?」
山科さんと真弓は――俺達の会話が聞こえてるんだかいないんだか――ぬぼーっと、つったっていた。
☆
「うわっうわっうわっ」
次の朝。俺は半ば暴力的に――音声による暴力でもって、たたきおこされた。(あのあと、とにかく男達二人は砂姫の命ずるままベッドにくずれ、それ見て砂姫も寝るっつってベッドにもぐりこみ、セミダブルのベッドに男二人女一人が寝てるのはあまりにも説明しにくい状況であるからにして、俺は必死に砂姫を説得し、二階へいかせ……したら俺も眠くなってきちまったの。で、仕方ないから、空中にうかんだまま眠り――山科さんの叫び声で目をさましたって訳)
「ひえっ!」
真弓も同時に叫び声あげる。どうも山科さん、ベッドで隣に人間がいるんで――習慣でかな、真弓を抱きよせちまったらしい。
「な、なにするんですか!」
「わ、わるいっ、真弓だとは」
男達二人、ちょっと顔を見合せ、それから。
「砂姫は?」
「砂姫さんは?」
ほぼ同時に叫ぶ。それから。
「どうしてこうなっちゃったんだ?」
「おはよう」
このまま、この場を上から眺めてんのも変だから、俺、仕方なく声かける。
「斎藤?」
「|礼《もと》|朗《あき》?」
男達、同時に声あげた。それからあたりを見まわして。
「……どこにいるんだ?」
☆
「そうか。やっぱ、幽霊だもんな」
山科さんも真弓も、しゃべりながら着替えだす。
「朝、陽が昇ると、見えなくなっちまうのかあ……」
三人して、さんざ、「おい、どこにいるんだ?」「ここだってばここ」「ここってどこだよ?」っていう言いあいをして、で、ようやく判ったのだ。かすかに雨戸のすきまからさしこむ太陽光線。どうも、あれがいけないらしい。まあ、考えてみれば、しごくあたり前の話なんだけど、幽霊って陽の光のもとでは、姿が消えちまうんだ。
「昨日は……どうなったんだ」
ひとしきり、俺の捜索がおわり、そのまま寝たもんでよれよれになっちまったズボンはきかえながら、山科さんが聞く。
「砂姫さんが来たとこまでは覚えてんだけど……何か、そのあと、急に記憶がとぶんだよね」
「あ、僕もそう。何か……」
こう言って、真弓、少し赤くなる。
「えーと」
俺、少々考えて。納得できる理屈をつけなきゃな。
「砂姫、必死になって姿の見えなくなった俺をさがしてくれたんです。で……その……疲れ果てちまって……」
「で?」
「この部屋にはいったとたん、安心したのか気を失っちまって……。気を失ってたおれて……」
ここからが、無茶苦茶苦しい言い訳になる。
「山科さんにぶつかって……山科さんもたおれて……山科さんが真弓にぶつかって……二人そろって気絶した」
「……二人そろって気絶……。で、砂姫さんは」
「すぐ気がついたんです。で、二人を床の上にねかしとく訳にいかないから、俺と協力して二人をベッドまではこんで……」
「斎藤と協力?」
「あの場合しかたないから、俺が幽霊になったって話、砂姫にしたんです」
「へえ」
真弓、声をあげる。
「そんな話を聞いたあとで、僕達をベッドへ。砂姫さんって……気丈なんだなあ」
ああ。おまえよか、余程図太いよ。
「でも……あの位置関係で、俺が真弓までまきぞえにしてたおれるかなあ……」
山科さん一人が思案顔。えーい、話題かえよう。
「あのさ、山科さん」
「ん?」
「せっかく着替えおわったとこで何ですけど、下着とっかえたら? 着たきりすずめじゃ不潔ですよ」
「あ……ああ、そうだな。昨日は風呂にもはいれなかったし」
山科さんベルトはずし、洋服だんすのとこまで行き、ズボンと下着ぬぎ、そして。
「おいっ!」
大音声。
「まさかと思うけど斎藤! そうか、姿は見えなくとも、おまえ、俺のこと見えるんじゃ」
「ええ」
何さわいでんだこの男は。
「失礼! 女の子の前で!」
慌てて山科さんブリーフかかえてバスルームへ逃げる。けど……俺の左半身、山科さんにとりついてる訳。山科さんがバスルームへ行くと、俺の意志を無視して、左半身もバスルームへ行っちまうんだよ……なあ。おまけに、バスルームは殆どすきまなく、従って太陽光線がはいんない訳。
「斎藤! ついてくるな!」
「……俺の意志じゃないんです。それに……気にしなくていいですよ、んなもん、見なれてるから」
「……!!」
あー! 山科さん! 誤解した! 口、ぽかんとあけちまって。
「…………」
かといって、誤解をとく気にもなれず、誤解だって説明する気にもなれず――俺、呆然と中空にういてた。ま、この騒ぎで山科さん、真弓と自分の位置関係追求する意欲、なくしたみたいだったけど……何か、俺一人が貧乏くじひいちまったような……気分……。
☆
こっちが何とかごたごたをしずめ、山科さんと真弓がかろうじて着替えおわった頃、ノックもせず、唐突にドアが開いた。砂姫。
「おっはよ、みなさん。良く眠れた?」
こいつだけ、異常に元気。
「あ……おはよう。早いですね……」
「もう九時よ。朝ごはん、作ってあるの。|礼《のり》|子《こ》の部屋まで来てくれる?」
「え……あ、ども……でも……何かそこまでやってくれると」
山科さんが少し困ってる。
「あら、当然よお。二人共、礼子の仇、とってくれるんでしょ。だとしたら、朝御飯作ってあげるのくらい」
男達、二人、顔を見合わせる。二人共、とにかく東嬢がそんなに異常な人物であるのかどうかを確かめたいと思っている状態であって、俺の仇をとろうってつもりはまだ、ないのだ。
「がんばってね、あんな無気味な幽霊になっちゃった礼子の為にも。ね?」
ウインク。女って、つよいんだから、本当に。これで二人共、否って言えなくなっちまいやがんの。
☆
「基本的なセンとしては、それでいいと思うわ」
昨日、俺達がたてた作戦――って言える|程《ほど》、高級なもんじゃないな、とにかく東嬢を真弓がおびきだすっていう奴――を聞くと、砂姫、参謀長官よろしく重々しくうなずく。
「ただ、真弓君に万一のことがあった時……」
「大丈夫だ。俺がついてる。万一のことがおこりそうになったら、俺がすぐ連絡してやるから」
空中から、俺、保証。
「そか。じゃ……とにかく、やってみよう」
☆
このあと。真弓は何故か、一時間もかけて一度自宅へ帰った。東さんをデートに誘うにさいして、よれよれのGパン、しわになっちまったシャツじゃ嫌だって主張して。んなさあ、着かざってみたって、たいしてかわりゃしないと……あ。かわった。よりひどくなった。
髪を一所懸命とかし、ドライヤーまでかけ、うすい紫のカラーシャツ着て紺系のズボン、上着、少し赤のまじったネクタイしめた真弓は……。あんまり可哀想だから、感想はのべない。
あっ|莫《ば》|迦《か》、よせ! トレンチコートなんて着るんじゃない。どう見ても、十八くらいにしか見えない、それも異様に背の高い男が渋くきめてみようなんて、出だしからして無茶なんだ。高校生って顔で、青年紳士って格好、果てはどっかから借りてきたようなコート。これは……あ、結局感想言っちゃった……ギャグだぜ。
……あのなあ、女じゃないんだから。鏡の前で何度見たって、おまえの顔、かわりゃしないよ。おまえの顔だと――これって本人にとってはひどい悲劇なんだろうけど――渋い男向きじゃない訳、|造《ぞう》|作《さく》からして。かわいいってセン狙わないと、手のつけようのない顔な訳。
なんて、いくら心の中で思っても、さすがに、それを口にできる程、俺――俺の右半身はひねてない。故に、この間、俺は終始無言だったのだ。おまけに、陽がでてるうちは、俺の姿、見えないしな。
これが、真弓にえらい誤解を抱かせてしまった――らしい。そうとしか思えない。のちの真弓の行動を思い返してみると。
☆
一方、その間、山科さんと砂姫は、何もすることがなかった。とにかく、真弓が帰ってきて、東嬢をさそいだすまでは。
で。山科さんと砂姫にすることがない、というのは、俺――俺の左半身にもすることがないってことで、当然、俺、黙って空中にういていた。
これがいけなかったらしい。あるいは、俺が真弓についてゆくって宣言したことが。山科さんは、何か妙に――ここにいるのは、山科さんと砂姫だけだって思ってしまったよう。
「……砂姫」
砂姫は、朝食のあとかたづけをし、コーヒーをいれ、ようやく一段落、煙草くわえたところだった。その間、約三十五分、山科さんは無言で砂姫をみつめており、三十五分後の台詞だったから、これは、そこはかとない重さを感じさせた。
「何?」
一方、砂姫は、そんなこと全然知ったこっちゃないって感じの、底抜けに明るい声をだす。
「……その……」
「何よ」
「妙なことを聞くようだが……」
何だか山科さんすごく言いづらそう。
「おととい、俺、おまえに……何か……したな」
「ん? 何かって何」
「いや、あの……おまえが夕飯作りに来てくれて……食べたあと……急におまえに抱きついたとこまでは覚えてるんだ。そのあと……気がついたら朝で……俺、何も着てなくて……おまえが俺のシャツ着て朝食作ってたろ」
「うん」
「あの時、やっぱり俺……何か……した、よな」
「だから何かって何よ」
「その……何か」
「ふ……ん」
砂姫は、ちょっと困ったような目をして、山科さんを見る。それから。
「気にしないでね」
「いや……気にしないったって……」
「あたし、気にしてないから」
「しかし……」
「気にしないでよ」
「でも……」
「気にしないで欲しいの」
「砂姫」
急に山科さん、おそろしい声をだす。
「あの、俺にこういうこと言う資格があるとは思わない。確かに、弁解の余地なく、悪いのは俺の方だ。でも、おまえ……おまえ、それでいいのか」
「いいって何が」
あっけらかんとした砂姫の声。これ、本当に砂姫はあっけらかんと言っているのだろうが……聞きようによっては、砂姫が、えんえんと山科さんからかっているように聞こえる。
「その……ひどくありきたりな台詞だが……そして、俺に言う資格のない台詞だが……もっと自分を大事にして欲しい」
「してるわよお。あたしだって、あたし、大切だもん」
「砂姫! ちゃかすな!」
「ちゃかしてないってば」
多少、うんざりした砂姫の台詞。それから。砂姫は、決して言ってはいけない台詞を言った。
「やだな、善行ってば。みかけによらず、純情なのね。……かわいい」
「砂姫!!」
叫んでから思った。しまった。会話がこういう風に進行した以上、決して俺は口をはさんではいけなかったんだ。
「おまえ、言っていいことと悪いことが……。山科さんは、純情でもかわいいんでもない、誠実なんだ!」
でも。ついつい耐えかねて叫んでしまう。
「斎藤! いたのか!」
山科さんの声は――悲痛だった。ことの成り行きをどう察したのか、砂姫は次の瞬間立ちあがる。そして。
「おつかいに行ってくる!」
と叫ぶと、この場を逃げだした。
☆
さて、その頃。
真弓は、ようやく着替えおわって、家をあとにしていた。途中花屋でまようこと数十分。えーい、花なんていらん! どうしても持ってゆきたいなら、単にバラでいいじゃないか!
俺としては、こう叫びたくて叫びたくてしかたなかったのだが……他に人のいる花屋で、幽霊が叫ぶ訳にもいかず……。
真弓は、ピンクのバラにしようか、オレンジのバラにしようか、さんざまよったあげく、深紅のバラの花束を作った。うっ……。五千円札一枚、あっち行っちまった。
…………。
心の中を、何ともいえない、嫌な気持ちがはしる。
五千円札一枚。別に、額の大小を論じる気はないのだが……これで充分、判ってしまう。
真弓は、本気なのだ。
東さんのことを、「ちょっといかす」とか、「なかなかいいんじゃない」とか、思っているんじゃない。ごく――ごく、真面目に、ほれているのだ。
中二から大三まで。かなりブランクはあった。しかし――しかし、真弓は俺の友人なのだ。それも、俺が親分肌で、子分として真弓。その真弓が本気でほれた女。
俺は――その女が、俺を殺した女であるってことより何より、どこか異常な女であるってこと故に、|心《しん》|底《そこ》、心配した。
真弓――いや、猛。おまえ……。
☆
「すいません……」
その頃、俺の左半身は、他に何とも言いようがなく、山科さんに謝っていた。
「……悪かった……」
「……何でおまえが謝るんだ」
山科さんの、低い声。
「いや……」
俺、言いよどむ。
「いやその……砂姫に、悪気はなかったんで……」
「はん」
山科さんは、せせら笑った。
「悪気なしでかわいいなんて言われたら、もう男もおわりだな」
「いや……だから……」
「だから何だよ」
「えーと……」
しばし、沈黙。それから山科さんは、軽くため息をついた。
「悪い」
「……何が」
「斎藤にあたったって、しかたないよな」
「…………」
そして、またしばらくの沈黙。
山科さんは、軽く笑をうかべると、砂姫の残していったセブンスターに手をのばした。ゆっくり火をつけて、ゆっくり煙吐いて。それから、ちょっとなさけなげな、何ともいえない微笑。
思った。しみじみと。これ口にすると、また山科さん傷つくだろう――だから言えない。心の中でだけ。
山科さん。山科さんって……つっくづく、けなげな人なんだなあ。何か……砂姫の気分、判らなくもない。男に言っちゃいけない言葉なんだろうけど……それは判ってるんだけど、でも……。何か――たまんない。たまんなくけなげで――本当に、いい人、というか、かわいい、というか、他に表現のしようがないような……。
やっぱ、砂姫の吸血鬼論って、間違ってるよ。すごく基本的なとこで。山科さんみたいに、それを本気で気にやんじまう男がいるんだから。こんな……無茶苦茶、いい人が。
俺は、何ていっていいのか判らず、しばらく黙って……じっと、上へと昇ってゆく煙をみつめていた。
☆
十五分くらいして、砂姫、帰ってきた。
「……善行」
ドアからちょこんと首のぞかせて。
「ん?」
「まだ……怒ってる?」
「別に」
おまえな、砂姫。そういう聞き方しちゃいけない。また山科さんのプライド、ひっかいてるじゃないか。
「そ? よかった」
でも、山科さん優しいの。全然気にしてないって感じで、砂姫の為にドア開けてやる。それから、中空の方へ目をむけて。
「おい、斎藤。真弓は?」
「ん、先刻、地下鉄のって、今、飯田橋の二つ手前。あと十五分くらいでつくかな」
何気なく答える。
「でも、これって便利ね。|礼《もと》|朗《あき》には悪いけどさ、ここにいて真弓君の居場所が判るっていうの」
「ま、な」
「もとあきって誰だ?」
山科さん、ふいに口をはさむ。あ、やばい。
「この間から、砂姫も真弓も、“のりこ”と“もとあき”って名前、ちゃんぽんにして使ってるだろ」
「あ……あの……」
砂姫、ちょっと困ったように、俺の方むいて。俺――何となく、すごく自然にこの台詞を口にした。
「俺の死んじまった双児の兄の名前。あんまり似てるし、俺、男言葉つかうから、時々、真弓なんか、間違うんだ」
「へえ。でも……それって可哀想だな」
「はん。どして」
「だって斎藤は、その、もとあきって人じゃなくて、のりこさんなんだろ。ちゃんと一人前の人格を持っている人を、他の名前で呼ぶのは失礼だよな」
「ああ……そうだな」
「それに……そう呼ばれてるせいか、何か斎藤、無理して男っぽくふるまってるみたいで……」
「……そうか……な」
何故か、俺、しみじみ素直にこう言った。無理して強がっているみたいに見える。無理して男みたいにふるまっているように見える。ちょっと前なら、言われただけで腹の立ちそうな台詞。でも、それが何故か、そんなに気に障らない。
「今までさ……俺、もとあきになりたかったんだよ、凄く。のりこじゃなくて。男になりたかったんだ」
死んじまって――肉体レヴェルをはなれたせいだろうか。ごく、素直に、言ってしまえる思い。
「でも、おまえ、女の子だろ」
「ああ、そうなんだ。何の因果でか、俺、女なんだよな。……本当に何の因果でか。生まれついた性別ってのは、変えようがないんだし。……死んじまってから言うのも何だけど、俺、もっとちゃんと女の子やっときゃよかった」
もっとちゃんと女の子やっとけば。女だったら、生まれた時からずっと女、女のプロって女だったら。どうするだろう。
山科さん――山科善行に軽くもたれかかる。じっと見つめる。肩抱いてやる。どれが正しいのかな、多分、肩抱いてやるのは違うだろうな、とにかく。
ありがとう。
この一言を表現する、最も適当なポーズ、思いつけたろうに。
そうだよな。女が、そうなれなかった男の言葉づかいして、男名前で呼ばれるっていうのは……あるいは、いや絶対、いたいたしいみじめな――可哀想なことなんだ。今まで、誰もそんなこと言ってくれなかったから、思いもしなかったけれど……確かにそうなんだ。俺はもう――礼朗ではないのだから。
ありがとう。
本当に……できることなら、こう言ってみたかった。
PARTW そして大地のあちら側
こほん。こほん。えーと。
|真《ま》|弓《ゆみ》、|東《あずま》嬢のドアの前で、たっぷり二分間、つっ立っていた。やたらに咳払いして、やたらにもじもじして。
「やあ、東さん、昨日はどうも。お礼に映画でも見ませんか……何か、ありきたりだなあ、やあ、東さん、映画のただ券二枚もらったんだけど……こんな偶然、ある訳ない。やあ、東さん、僕、君と映画を見たいんだけど……直接的すぎる。やあ、東さん……」
……何もさ、人ン家の前で、こういうこと、練習しなくてもいいと思うんだ。そんな|莫《ば》|迦《か》なことしてるから、こういうしっぺ返しをくらうことになる。
ばたん。
急にドアがあき、真弓、ドアに激突。
「あ、ごめんなさい」
ドアの内側で、東嬢、あわててる。
「何か、ドアの前で映画がどうのって声が聞こえたんですけど……何ですか」
あーあ、可哀想に。真弓、まっ赤になってしどろもどろ。
「あ、あの、夕飯のただ券が二枚……映画のお礼に……その、お茶を……」
「は?」
「あの、その、昨日のお礼に、映画見ませんか、映画、あの、で、お茶のんで、食事をすると、四時間は楽につぶれるんですが」
「あの……真弓さん、四時間時間をつぶしたいんですか?」
「いえ、その、東さんが、つまり、僕にあなたの時間を四時間ばかり頂けないでしょうか」
「あ……はあ……」
「昨日は、お食事をどうも、あの、吐いちゃったりして申し訳ないと、でも、あの、僕はあなたを信じているので」
「はあ?」
……支離滅裂も、ここまでいけば、一種芸術だと思う。
「あの……よく判らないんですけれど、こういうことですか? 昨日の夕飯のお礼に、映画おごりますって」
「はい、そうですっ!」
「あの……気になさらないでね。本当に」
あーあ、やっぱ。遠まわりな断わられ方かな、これは。
「気になんてしていませんっ!」
真弓、そんなことは思いつけもしないのだろう、更に声をはりあげる。語尾なんて、もう、絶叫調。
「ただ、僕はあなたと映画を見たいんですっ!」
東嬢――これは無理もない話だが――しばらく、呆然としていた。それから、じっと真弓を見て。何か、すごく優しい目。くすっと笑う。
「はい、判りました。おつきあいさせて頂きます。……ちょっと待って下さる? 着替えてきますから」
「はいっ! 待ってます!」
真弓は、バラ渡すのも忘れ、心底しあわせって表情作った。
☆
「信じられない話だが、……真弓、東さん誘うのに成功したぜ」
俺の部屋で。あまりといえばあまりの真弓の言動にすっかり毒気を抜かれ、先程までの多少しんみりした気分もどっか行っちまい、俺の左半身、呟く。
「信じられないってことはないだろうが。映画にくらい、誰だって」
「そりゃ、|山《やま》|科《しな》さんが真弓の支離滅裂さを知らんから言える台詞だよ。……あれは、凄かった。あれは|並《なみ》|大《たい》|抵《てい》じゃない」
「……そんなもんかな」
「そんなもん。……あ、今、二人して部屋を出ていった。……あーあ」
あたり前といえばあたり前だが、俺の右半身の見たことって、同時に俺の左半身にも判るのだ。故に俺の左半身、ここにいながらにして、真弓の様子が手にとるようによく判る。あーあ。何つう、アンバランス。
真弓は、前に書いたような――どっちへころんでもギャグっつう格好だろ。それに較べて東嬢のきれいなこと。
長い黒髪を、胸までのばして、うすいピンクのブラウス、紺の長いスカート、紺の上着を着た東嬢。ピンクのブラウスが、実にきれいにはえる。それ程、色が白いのだ。おとなしそうで、清潔な感じ。ま、俺のタイプじゃないけどさ、それでも仲々の美女ではある。
「今、階段おりた。今、マンション出た。お……およっ、真弓の奴、すげーな」
「何が」
「タクシー奮発する気だぜ、手あげたもん。お、おわっ」
「……今度は何だよ」
「すげっ、すげー、真弓! まるで、王女様におつかえしてるみたいだ。タクシーのドアおさえて立ってる」
「……斎藤」
ん? 何だろ、山科の奴、暗い声。
「あんま、ちゃかすな。あいつ、真剣なんだよ。可哀想だろ」
「あ……ああ。すまん」
「ま、別に俺に謝んなくたっていいけどさ。男が本当にほれた女をデートにさそうって、結構、大変なんだぜ」
「あ……ああ」
俺にも身におぼえがある。
美絵子。最初にキスした時。俺さ、ま、それまで週刊誌なんかでいろいろ読んでたし、ちゃんとしたキス[#「ちゃんとしたキス」に傍点]っつうの、してやりたかった訳。本当に。で、舌いれて……とたんに、訳判んなくなっちまったんだ。気がつくと俺、相当目一杯口あけてて……夢中であいつの口にむさぼりついていた。で、美絵子としては、歯があたって痛かったんだって。痛くないよう、一所懸命口あけて――結果、あごはずしかけた。そのあと、俺がキスに慣れるまで、美絵子、真剣に悩んでたらしい。初体験が痛いっていうのは、本で読んだことがある。でも、キスが痛くていいもんなんだろうかって。
それにしても。
「おい、山科……」
「ん?」
「おまえってさ……」
このあとは、何故かしら照れて言えん。でもおまえって……ん? おまえ? 山科? あれ? いつの間にか敬語がどこか行ってしまった。
「俺が何だよ」
こっちみてる山科。ちょっととぼけた、軽い笑を含んだ視線。駄目だよ、おまえ、それ。そんな目つきされたら、とても先輩とか目上とか思えないじゃないか。何かもっと……。
もし。女の子が男のことかわいいっていうのがこういう感情だとしたら。男としては許せない言葉であっても、かわいいって言われて、女怒っちゃいけないんだ、きっと。だってこんな……他に表現のしようがあるかよ。こんな……感情。こんな――どんな?
「何でもねえよ」
何故か俺、少し赤くなって、わざとぶっきら棒にこう言った。
☆
「留守……だな」
山科――えーい、もう誰が敬語なんて使ってやるか――と|砂《さ》|姫《き》と俺の左半身は、十五分後、東さん家のドアをノックしていた。
「留守……へもってきて、鍵、かかってる。どうする斎藤」
「う……うーむ」
困った。今まで二回は、偶然鍵がないところへでくわしたからうまくいったのであって、こういう状態は、予想していなかったのだ。
「平気よ。あたしにかして」
何故か、砂姫がしゃしゃりでてきた。そして、ノブをつかみ……わっわっわっ!
「わっわっわっ!」
山科が、俺と同じことを叫んでいた。何となれば、砂姫――ドアを、鍵を、ひきちぎっちまったんだもの!
「お……おまえ……よく……」
「うふ」
砂姫、ウインク。そういえば、俺の部屋のチェーンも、ペンチで切ったというよりは、ひきちぎられたって格好してたし……。あ、そうか。ドラキュラって――というか、吸血鬼って、べら棒な力持ちなんだ。
俺がそれを納得する前、とにかく俺達は東さんの部屋にはいっていた。
☆
「これが……問題のカーペットだな」
「ああ」
山科、若草色のカーペットをもてあそびながら。
「これをはがすのには……うん、邪魔なものは何一つない」
こう言うと山科は、若草色のカーペットを、とにかくたたみだした。その間砂姫は、台所に立ちつくし。
「……ちょっとお、|礼《もと》|朗《あき》」
「ん?」
「これ見て、これ」
よそン家の、生ゴミいれの中、注目してやがんの。
「これ、にわとりの羽、よね」
「……ああ」
どう見ても、にわとりの羽としか見えないもの多数、そして、どう見ても人間のものではない骨。
「ひょっとして……東さんの言うとおり、善行達がたべたのって、チキンなんじゃ……」
「……じゃ、俺のこの姿はどう説明すんだよ」
「ま……それもそうなのよねえ……」
なんて言っているうちに。山科は、床板を、はがしだしていた。
☆
「東さん、何見たいですか」
新宿まで出て。何だよ真弓、まだ何見るのか決めてなかったのか。
「あら……何だか先刻のお話だと、ただの券があるって……」
「あ、そうでした……わっ……まずい」
「どうしたの」
「ただ券買っとくの忘れた……」
……|呆《ぼう》|然《ぜん》。ここまで素直な人間って、存在論的にあり得るんだろうか。東嬢はひとしきりくすくす笑った。
「ちょっと……信じられないわ……ね、真弓さん、もうちょっとしっかりしてね」
「あ、はい、すみません」
「ううん、そんなことじゃなくて」
東嬢、やさしく真弓の腕にふれる。小心でかよわい獣にふれるように。
「わたし、ちょっとあなたが心配よ。ちょっと……ううん、本当に」
これが俺を料理した女だろうか。東嬢、何だか――何だかひどく、|慈《いつく》しみといたわりに満ちた目で、真弓を見ている。
「そんなことで、生きてゆけるのかしらあなた。他の人にだまされたり、踏みつけにされたりしそう……。本当に……心配だわ」
「いえ、そんな……」
「それとも、わたしの考え方が間違っていたのかしら。あなた、この齢まで無事生きてこられたんですものね」
「は?」
「その……ね」
東嬢、ゆっくりと言う。
「今までこう考えてきたのよ。いたらぬ考え方かも知れないんだけど、人間って、嘘ついたりだましたりかけひきしたりする動物でしょ」
「ええ……まあ」
真弓、少し顔色が悪くなる。真弓が今やってんのも、一種の嘘でありかけひきだもんな。まあ、考え方によるけど。
「だからわたし、そんな人間と対等にやってゆく為には、こちらもある程度かけひきしなきゃいけないと思ってたのよね。でも……何か……あなたって……全然、そういう意味で人間っぽくないのね」
「いや……そんな」
「真弓さんって、そんなにまっ正直で、今までちゃんと生きてこられたのよね……」
「あ……はあ」
「わたしも考え方、変えなきゃいけないかしら……」
「あ、あの、いえ」
真弓、ひたすら口ごもる。口ごもって。お、折よく新宿御苑。へ? 映画見るっつったんだろ、こいつ。何だってこんなとこまで歩いてきちまったんだ。
「あの、ですね、その……僕、割と信じちまう方なんですよね」
「何を」
「人間性善説――いや、基本的には、大悪人はいないって考え方を」
☆
「この床板があがるのか……と。よっこいしょ」
かけ声と共に、山科は床板をあげた。案の定、床板はもともと切りとられていて……実に簡単に動き、そして……中央部にぽっかりと、穴。
「うわっ、本当に穴あいてる……」
「何だよ。信じてなかったのか」
「いや、ま、しかし……とにかくおりてみよう」
山科、穴に足をふみいれようとする。と、砂姫がそれをはがいじめにして。
「ちょっと待ってよ。本当に気が早いったら……。いろいろ、いるでしょ」
「何が」
「例えば懐中電灯。それにロープ。これ、深そうよ、結構。何の用意もせずにはいっちゃったら、きっと下まで落ちて怪我をする」
ま、これの下に偶然みみずがいるとは思えんし……大体、いて欲しくない。
「あと、武器の類も、一応、持っておいた方がいいと思う。|礼《もと》|朗《あき》――ああ、|礼《のり》|子《こ》の話を信じるならば、下には“狼”がいるんだもの」
「あ……ああ」
「ちょっと待っててね、そういうもの、持ってくるから。武器は……善行に包丁があればいいわよね」
「あ、俺の木刀もってきてくれ」
思わず言ってしまう。木刀。そう、刀があれば、間違ってももぐらにつかまることはなかったろうに。
「だって……お宅……持てるの?」
うっ。
「いい、持ってきてくれ。俺が使う」
山科がこう言ってくれた。
砂姫が、部屋を出ていったあと、俺は感謝の念をこめて、山科にウインクした。(ま、生前の俺は、ウインクなんて器用なことできなかったけど、今、どうせ左半身しかない訳だろ。両目つむったって、ウインクになるわい。……もっとも、この時の俺の姿、山科には見えなかったって……あとで気づいたんだけど)
☆
真弓と東嬢は、何故か――ま、そこの方が|茶《サ》|店《テン》よか安い――新宿御苑にいた。仲むつまじくベンチにすわったりして。
「人間……性善説?」
「そう。元来悪い人間はいないっていう、便利な説です。僕、自分でも時に莫迦だなって思っちまうんだけど……およそほとんどの人間を、無条件に信用しちまうんですよ。小さい頃、いじめられっ子だったせいかも知れない」
「どうして? 小さな頃にいじめられて、人間不信になるっていうなら判るんだけど」
「あのね」
真弓、緊張をほぐす為か、やたらと煙草を吸う。ベンチの下にころがる、ショートホープの群れ。
「僕、童顔でしょ。ついでにいうなら、髪はくりいろで天パーだし……。女の子っぽいって言われても、無理ないですよね」
「ええ……まあ……」
「でね、よく、男女っつってからかわれたんですよ。小さい頃、僕は天文学――って言う|程《ほど》高尚なものじゃないが、とにかく星に興味があってね。僕のことを男女なんていう友人より、ずっと星空の方が好きだったんです」
真弓が、真面目にこの話をしているのが、痛い程つたわってくる。で……俺は、悩んでしまった。真弓は、もう、中学生の真弓猛って男の子[#「男の子」に傍点]じゃない。れっきとした、真弓猛という男[#「男」に傍点]だ。一人前の男が、こんな、自分が子供の頃の嫌な思い出だなんて恥ずかしい話をしょうとしているなら……それは、俺の聞いていいもんじゃない。本来ならば、俺は絶対、ここで席をはずすべきなんだ。それが礼儀ってもんだ。
が、俺は……真弓のそばをはなれるってことが、そもそもできないんだよな。
「でね、他のもの――クラスメートとか、そういうの、一切無視したんですよ――いえ、しようとしたんですよ。僕には僕だけの世界があるって感じで。クラスメートの方も、ある程度そういうことって、察しますよね。で……結果が、村八分」
「……まあ」
「ま、無理ないと思いますよ。あの時の僕は本当に嫌な子だったから。……でもね。小学校五年の時に斎藤――あの、ほら、二階の斎藤さんの……その……お兄さんに会って、急に僕、人格に変換をおこすんです」
人格に変換……俺、こいつに何かしたっけ?
「あの人は……彼は、僕のはじめての友人だったんです。僕ン家って――まあ、これはあんまり本筋に関係ないけど、共かせぎだったんですよ。母親は日曜しか家にいない訳。ところが斎藤の母親は毎日家にいて……あたり前だけど、ぎょうざなんて作るんですよ。……感動だったな、斎藤のおばさんと、ぎょうざ作った時なんて」
……嘘だろ。あんなもんの、どこが感動だ。面倒の間違いだろうか。
「ま、斎藤はね、普段母親が家にいるって環境だったから、どう思ったかは知りませんよ。でも、僕にとって……手造りのぎょうざって、はじめてだったんです」
……へーえ。
「凄く嬉しかったな。斎藤はぶちぶちいってたけど、ぎょうざ作るのって。いや、ぎょうざ作るのが楽しかったんじゃない、平日、家にいて、ぎょうざ作る母親ってものを確認するのが――そんな存在があるって思うのが、そもそも、楽しかったんです……でね、それ以来、僕、斎藤の家にいりびたりに近い感じになるんですよ」
へーえ。あれがぎょうざの為とは知らなかったわい。
「でね、いりびたってみると……いつの間にか、斎藤って――いや、人とつきあうのって、夜、天体望遠鏡のぞいてるのよりおもしろいってことに気づくんですよね。斎藤は割と親分肌で、僕のこと、いろいろとかばってくれたし」
「へ……え」
「そいで、ま、|先刻《さっき》も話したけど、斎藤はあの頃、クラスのガキ大将でね、僕、いつの間にか、その一の子分みたいな感じになってて――したらね、誰も僕のこと、|苛《いじ》めなくなった」
「やっぱり、人間って、勝手なものね」
「違うんですよ」
真弓、きっぱりとこう言いきる。
「僕も最初はそう思ったんです。バックに斎藤がいるから、みんな僕のこと苛めなくなったって。ところが……違うんですよ。僕はそれまで、目立たないよう、隅の方で一人で考えごとしてる子だったんですよね。ところが、斎藤とつきあいだしてから、僕、みんなとよく遊ぶようになった。……僕が苛められなくなった真の原因は、斎藤とつきあうようになったことじゃなくて、僕がみんなと遊ぶようになったことだっていうのが、判ったんです」
「は……あ」
「人間って、実は気が弱いんですよ、何だかんだ言っても。一人では、とても生きてゆけない。だからみんな、友達と遊ぶ――他の人間とつきあいたがるんです。それをしない人がすぐそばにいると、怖くなる訳。それがようやく最近判ったんです。怖いから、苛めてみる――反応をためしてみる。その気持ち、判りませんか」
「ま……まあ」
「そう思ったとたん、何だかすごく嬉しくなってね……。嬉しいっていうのも、妙な言い方だけど……実に人間らしい[#「人間らしい」に傍点]と思いませんか。みんな、生まれながらにして、小[#「小」に傍点]悪党なんですよ。そんな、すごい悪党でもない、どこからどこまで善人でもない、ちょっとした小悪党。小悪党規模なんですよ、悪いことやるって言っても。ちょっといじわる、とか、ちょっとやっかみ、とかね。完全無欠の人間より、こっちの方が、ある意味で、たよりになると思いませんか」
「たよりになる……ねえ」
「ええ。誰にでもみんな、ちょびっと悪人の部分と、沢山善人の部分があるんです。だから誰でも、人を傷つけた痛みも、人に傷つけられた痛みも知っている訳。どんな痛みも知らない人とか、傷つけられる痛みしか知らない人より、両方知っている人間の方が、いざっていう時、絶対たよりになると思いませんか」
「……はあ」
「それに……その方が、自分にとって正当ですよ」
「あん?」
「自分にとって、正当。世の中に、善人と悪人と普通の人とがいるって考え方が、どれ程自分を甘やかす為のものであるか、僕はよく知っているつもりです」
「……どういうこと」
「苛められていた時、よく思いました。みんなあいつらが悪いんだって。もっと――最悪の時期にはね、新聞の記事を空想するのだけが楽しみで」
「新聞の……記事?」
「そう。真弓猛君(小学四年)が、○月○日夜七時、自宅の二階のベランダから飛び降り、なくなりましたっつう奴。動機は、クラスメートの集団苛めのようです、なんて載ったら……僕を苛めたクラスメート、苦しむんじゃないか、後悔するんじゃないかって、そればっかり夢想して。こういう、今にして思えばどうしようもない甘えばかり、抱かせるんですよ。すごい悪人がいて、みんなそいつが悪いんだって思うことは」
「それって甘え」
「なんですよ」
めずらしく、真弓、強引に人の|台詞《せりふ》を奪いとった。
「だって、その時、僕……自分の方に悪いことがあるかどうかなんて、ちっとも真面目に考えなかったんですから。考えたとしたって、僕はこれしか[#「これしか」に傍点]してない、なのにあいつらはこんなに[#「こんなに」に傍点]したっていう、相手を責める目的で考えただけで……。真面目に[#「真面目に」に傍点]自分の非を考えたことって、いっちども[#「いっちども」に傍点]、なかったんだ。相手が悪人だと思ってしまえば、反省なんて、いらないでしょう。こういうのって――|卑怯《ひきょう》ですよ」
「あなたって……」
東さん、ゆっくりと何かを言いかけ、真弓をみつめる。それから。
「あなたって……本当に、いい人なのね」
東嬢は、こう言うと、ゆっくりと、にっこりと、笑った――。
☆
「はい、これ包丁。それから……本当に善行、これ使うの」
「ああ」
俺さ……木刀って言ったつもりだったんだ。今度、暇があったら、砂姫に教えてやろう。木刀と|竹刀《しない》は違うもんだって。砂姫が持ってきたの、竹刀だ。
「もぐらが相手なら、竹刀で充分だろう」
と、山科が言ったってことは、山科は一応竹刀と木刀の区別、知ってるってことか。
山科、二、三度竹刀を振ってみる。……こいつにも、暇みて剣道、基本から教えてやろう。とろい振り方。
「じゃ、行こうか」
っつって、山科、まず竹刀を穴の中におとす。
「わっ、やめてくれ!」
俺、思わず叫んじまう。
「いくら安物とはいえ、俺亡きあとは、俺の形見の品になる竹刀だぞ。朝晩、素振りを二百回やった竹刀だ。折れたらどうする」
「あ、悪い」
山科、ちらっと上見て。
「けどさ、俺、形見の品って言葉も、形見自体も、気にいらないんだ。おまえさ、それが気にいったなら、ずっと幽霊になって俺にひっついてろよ。品物が人間のかわりになるもんか。俺、形見の品より、生きてるおまえ――いや、死んだおまえの幽霊の方が、よっぽど好きだぜ」
「あ……ども」
……他に言い様があるかよ。
「じゃ、いくぞ」
山科は、砂姫がどこかの角にむすびつけたひもにぶらさがりながら、こう叫んだ。
☆
「……す……ごい、地下道、ねえ」
砂姫、ぽかんと口をあけ放ってこう言う。
「あ……あ」
って山科の返事も、半ば呆然とした奴。
「…………」
俺も、黙って口あけてる。この間は、かなりあせってたんで、ゆっくりあたりを観察もできなかったんだが、こうしてみると、ここは本当にすごい地下道だった。
上。これは|東《あずま》さんの部屋。
下。どこにあるか判んないけど、下の方にはとにかく、俺がまよいこんだ地下道がある|筈《はず》。
左。何はともあれ、トンネル数本。
右。同じく、トルネル数本。
これだけトンネルがいっぱいあれば、とにかく当初の目的――東嬢が、どっかおかしい人物であることの確認はできたんだが――が。
これだけ|山《やま》|程《ほど》トンネルがあれば――ちょっとばっかし、中をのぞいてみたくなるのが、人情ってもんではなかろうか。
「どうしよう。……あたしとしては、ちょっと、中、のぞいてみたいな」
案の定、砂姫がこう言った。
「うん……俺としても、そうしてみたいのはやまやまなんだが……これだけ道がいりくんでると……」
「迷子になる可能性大だよな」
「うん……確かに。……あ、こうすれば? ね、こうしようよ。とにかく、このロープ、ずっと握ってゆく訳。で、ロープが届かない処まで来ちゃったら、東さんの帰ってくる前――真弓君が東さんひきとめとくことができなくなった頃みはからって、ロープづたいに上の部屋へもどるの。こういうの、どう?」
「ん……OK」
俺達は――俺と山科は、重々しくうなずいた。
☆
「あの……ですね」
東嬢の、「あなたって、いい人ね」っていう台詞を聞いたあと、真弓は、数分間、黙っていた。黙ってうつむいて。……それから、おもむろに顔をあげ、一言一言、必死に、しゃべりだす。
「あの、ですね、つまり、その……」
何だよ、おい。幽霊である以上、会話に加われない筈の俺も、ついつい口をはさみたくなってしまう。そんなもどかしさ。
「つまり、あの、僕は……」
しばらくの小休止。
「僕は……東さん、しかしその……とにかく、あなたがそんな風なことを言うからには、言わなきゃいけないことがあるんですが、つまり……」
「つまり、何ですか?」
東さん、にこやかに――とってもにこやかに、笑った。
「いやそのつまり……僕、その、僕、ですね」
真弓が、精一杯しゃべっているのが、よく判った。故に……俺、多少、おびえてしまう。おい、何を言う気だ、こいつ。
「僕、僕ですね、その……」
「その?」
「その……あなたに、嘘ついていることがあるんです」
☆
「うわあ! 大変だ!」
俺の左半身は、地下道で目一杯の叫び声をあげた。新宿で、たった今、真弓が東嬢に何もかも告白しようとしている!
ところが。地下道の方では。誰も、“何が大変なんだ?”なんてこと、聞いてくれなかった。なんとなれば――何ともタイミングよく――あるいはタイミング悪く、地下道の方でも“大変”になっちまってたもんだから――。
☆
「うわあ、何だこれは!」
俺が叫ぶのとほぼ同時に、山科も叫び声をあげていた。ななめ左下の地下道にロープをたらして、そこへおりようとした山科、足が地につけられず、必死でロープにぶらさがっていた。
「ロープ、ひっぱりあげてくれ! とてもこの下には降りられん!」
「きゃあ!」
下のぞきこんだ砂姫も、悲鳴をあげていた。確かに、この下には降りられない。まともな人間性を持った男が、ここに降りられるとは思えん。そんなのって、あまりに残酷。
何となれば、下――というか床――というか、洞窟の底一面、もぐら! 土が見えない。わさわさもぐら。ここに山科が降りたら、間違いなく十数匹のもぐらを踏みつぶしてしまうだろう。
「ちょっと待ってて」
砂姫は叫ぶと、ロープに手をかけた。さっすが、吸血鬼。軽くみつもっても六十五キロはあろうという山科つきロープを、いとも軽々とたぐりよせる。
「あ……ども」
何とか山科が俺達のいる処へもどってきたとたん。
「きゃあ!」
砂姫が、また、耳をつんざくような悲鳴をあげた。
「何だ」
「きゃあ、もぐら!」
わっ、もぐら! 下にいたもぐらが、何故か|一《いっ》|斉《せい》に動きだし――みんな、上の俺達のいるところめざして、進んできている!
「×××! ××! ×××××!」
「×! ×××!」
もぐら達は口々に妙な音を出し、会話をしながら、上へ上へとのぼってくる。それは――決して、俺達になついて、で、近づいてくるような感じではなかった。ビー玉のようなもぐらの目。そして、雰囲気。
そこには、まがうかたなき、殺意があった。
どういう訳か判らない。何で俺達がもぐらに恨まれるのかは、判らない。しかし、これだけは判る。もぐらは、あきらかに、俺達を殺そうとしている。
「おい、山科!」
無意味に叫ぶ。
「おまえ、あんだけの大群のもぐらを、竹刀で何とかできるか!」
「できない!」
山科、即座に叫び返す。ま、そうだろうな。でも。
歯ぎしり。あまりに口惜しくて。
確かに、対象――もぐらは、あまりにも小さい。竹刀で相手をするには、小さすぎる――が。
が。今は、竹刀が、あるのだ。俺が、あれを握ることさえできれば。それさえできれば、俺は、自信を持って断言できる。もぐらに、これ程、おびえなくていい。
精神力。非常にとらえどころのない話で申し訳ないのだが、竹刀を握ることさえできれば、俺は、精神力――殺気において、このもぐら達を圧倒する自信がある。圧倒できる確信がある。砂姫を――そして、山科、を守ってやれる自信がある。そう。俺に、実体さえあれば。
昔――男だった頃。いや、今も。
俺には自信があった。たとえ、どんなことがあっても、俺は美絵子を、砂姫を、山科を、真弓を――恋人を、友人を、守ってやれるという。
俺は、口べただ。多少、ひねくれた口のきき方しかできない。十の優しさを持っているとしたら、一しか示せない。ひょっとしたら、根が暗いのかも知れない。
けど。それでも。そんな俺が、自己嫌悪をたいして覚えずに生きてこられたのは――ひとえに、この、自信のせい。
ひとたび何かあれば、俺は、恋人を、友人を、守ってやれるという。
なのに。今の俺は、何もできないのだ。何も――そう、何も。
「逃げましょ!」
砂姫が叫ぶ、何もできない今の俺としては――逃げるしか手がない!
「砂姫、とりあえず、手近な穴、てらしてみてくれ。もぐらのいない穴におりよう!」
「OK!」
そして、この後。俺達は無事、もぐらのいなかった、左側二つめの穴へ逃げこみ――やっとこ逃げこんで息をきらしているとうしろから先刻のもぐらがおいかけてきて――その穴の中にあった更に別の穴へとびこみ――トンネルの中を走り――。情ない話だけど、俺達三人、もぐらの大群に追われつつ、ひたすら逃げていった。そうこうするうちに。俺達、複雑な、あまりにも複雑なトンネルの中で、完全に迷子になってしまった。
☆
俺の左半身が洞窟で迷子になっている頃、俺の右半身は公園でやきもきしていた。
真弓! この野郎! おまえ、何を言う気なんだ!
俺が、右半分しかない幽霊だなんて、無茶苦茶無気味なものじゃなかったら、この場で「わあ!!」って叫びだしたい処。
「実は僕……いえ、僕と山科さんと砂姫さんの三人は、共謀してひどいことをしようとしていたんです」
「ひどいことって?」
軽く指で髪をかきあげつつ、東嬢、聞く。黒髪が陽に透けて、軽く茶がかる。
「その……斎藤ね、彼女が……あなたに殺されたっていうんです」
「え!?」
東嬢の顔色、何だか妙におどおどした、でも、おびえてるだけじゃない、困惑しているようなものに変わる。
「あの人……死んでないわよ。気絶してるだけよ」
「え!?」
真弓にしてみたら、東嬢が今の台詞を、言下に否定すると思っていたのだろうから……こういう複雑な否定とも肯定ともつかないことを言われると、とまどうらしい。
「とにかく、僕の処に昨夜、斎藤の……世にも不気味な斎藤の幽霊がでまして……右半分だけなんです」
不気味で悪かったな。今もくっついてるわい。
「とにかくその斎藤の幽霊が、彼――あ、いえ、彼女は、東さんに殺されて、シチューにされて、で、僕と山科さんに喰われたっていうんです。で……東さんの部屋の床下に、大きなトンネルがあるって……山科さん達は、僕があなたを映画に誘っている間に、そのトンネルを調べることになっているんです」
東嬢の顔色、まっ青になる。俺だって、できることなら、顔色まっ青にしたいよ。たく、この、莫迦真弓! 今、トンネルん中では、俺達三人、迷い子になってんだぞ! ここで東さんにとって返され、もぐら共に攻撃されたら、山科達が危ないじゃないか。
「さて」
一回息つぎすると、真弓、前にも増してぺらぺらしゃべりだした。
「僕は、あなたに、どう考えても教えてはいけないことを教えちまったんです。あなたが……あんまり僕のことを正直だなんて言うものだから。こっちが勝手にしゃべっといて、で、こういうことをあなたに要求するのは筋違いかなって気もするんだけど……あなたに聞きたい。あなたは、本当に斎藤を殺したんですか」
「わたしの答が、果たして本当かどうか、あなたにどうして判るの」
ゆっくり、確かめるように、東嬢、しゃべる。
「それはもう、信じるしかないんだけれど……」
甘い! 甘いんだよ真弓、おまえは!
「ただ、僕には自信があるんです。中学以来、僕は人を全面的に信じることにしました。で――全面的に人間を信じた場合、信じられた人間は、決して、信じた人間をうらぎれないんです。それが僕の人間性善説の根拠で――それが僕の自信なんです。東さん、あなたは決して……決して、ここまであなたを信じた人間を裏切れないでしょう。だから……あなたは、僕に、本当のことを言ってくれます」
内心、かすかに舌をまいていた。この、真弓の――迫力に。
彼は、本当に、自分の全人格、全存在、全人生をかけて、東嬢を信じているのだ。人を信じて、で、だまされれば、怪我をするのも真弓、傷つくのも真弓だ。本当に信じた人に裏切られれば、真弓の全人格は、ほぼ完全に崩壊するだろう――少なくとも、崩壊の危機にさらされるだろう。それほど、ひたむきに、真弓は人を信じている。
確かに、これは、甘えかも知れない。けれど――これだけ盲目的に、これだけひたむきに、人間を信じられる人物が、他のどこにいる? これ程までに信じられれば――とてもこいつを裏切れない。万一、こんな奴を裏切ることができる人間がいたとしたら、そいつは、人の一生をめちゃくちゃにするのに何の後悔もおぼえない、本当の大悪人だけだろう。
本当の悪人はいない。そういう信念があって、で、初めて可能になる、ひたむきな、信頼。
東嬢は、一瞬、視線をそらしかけ、しかし、どうしてもそらすことができず――実際、それ程の迫力が真弓にあったのだ――じっと真弓をみつめ、そして。
ほうっと息を吐くと、こう言った。
「……判りました」
ゆっくりこう言うと、立ちあがる。
「行きましょ」
「何で! 返事は!」
真弓、思わず東嬢の肩に手をかけ、また彼女をすわらせる。
「歩きながらじゃ駄目?」
「駄目!」
「じゃ、かいつまんで言うわね。わたし、斎藤さんを殺してません。斎藤さんの肉も料理してません。まして、それをあなたや山科さんに食べさせる、なんて、絶対していません。仮に、斎藤さんを殺したとしても、わざわざそれを加工して、元来人間を捕食の対象としていない人間に食べさせるなんて、絶対しないわ。そんなことするくらいなら、あなた方じゃなくて、もぐら達にあげます」
何か……何か、ずいぶん妙な言い訳……だなあ。
「ただ、わたしの部屋の下にトンネルがあるのは本当なの」
「え!」
「困るの。あの中に、人間なんかに踏みこまれたら。わたし達、人間を食べないし、人間――文明人はわたし達を食べないから、別にふみこまれても、そういう意味での敵対関係は発生しない筈なんだけど、人間って、もぐらより大きいじゃない。わたしのかわいいもぐら達が、踏みつぶされるおそれがあるの」
「?」
東嬢は、確かに日本語を話していた――けれど。内容が内容だから、とにかく、彼女の話す台詞の意味は、まるで俺には理解できなかった。人間はわたし達を食べないって……何だよ、東嬢、まさかもぐらじゃあるまいに……。
「それに、一部|新《しん》|参《ざん》|者《もの》の間には、人間をこころよく思わない者達がいるのも確かだし……この状態を下手に放っておくと、もぐら達も、山科さんと砂姫さんも、危ないわ」
それは言える。二人共、今、一所懸命もぐらから逃げてるところだ。
「?」
にしても。トンネルの中の状況を何も知らない真弓には、やはり、この台詞すべてが謎だったようで……呆然と口をあけている。えーい、まどろっこしい男だなおまえは。
呆然としつつ、まだ東さんの手を握っている真弓を、半ばひきずるようにして、彼女、立ちあがる。軽く小首をかしげて。
「……できるかしら……」
芝生ではない、むきだしの土があるところにしゃがみこむ。真弓は、呆然と東嬢をみつめていた。
東嬢、軽く地面をさわった。それから――表面をなで、モールス信号風に、土をノック。トントントン、トン、トントン、トントントン……。
と。数分、待っていると、急に地面にぼこっと穴があいた。普通のもぐらにしては、異様に大きい穴。でも、穴があいただけで、もぐらがでてくる様子はみえない。
「ウォグラ……?」
東嬢、穴にむかって話しかける。と、忘れもしない、例の巨大もぐらの声が、穴から聞こえてきた。
「はい、何でしょう、女王様。緊急信号が聞こえたそうですが」
「トンネルの中に、異物が――人間が二人程、まぎれこんだらしいの。おそらくは、もぐら達、すごく興奮してしまうと思うの、人間みたら。今、モゲラが第五期移民に催眠術かけてるところでしょ? その順番を待っている、もぐらとヒミズ、気をつけてちょうだい。ひょっとすると、トンネルの中で、人間を襲っているかも知れない」
「……はい。で、その人間の方は、どうしましょうか」
「それは、私が帰ってからやるわ。とにかく、もぐらやヒミズが人間を殺さないように、もぐらやヒミズが、人間に殺されないように、注意して」
「判りました」
それから、中で軽くごそごそ音がする。東嬢は、その音を確認すると、穴をふさいだ。そのまま呆然としている真弓をつれて――というより、東嬢が移動したら、呆然と真弓もそれにくっついてったのだが――公園を抜ける。表通りに出て、手をあげて。
「おい、ちょっと待て……」
俺、つい、思わず、こう叫んでしまう。判断がつかなかった。東嬢はあきらかに一つ、嘘をついている。俺の死体の料理なんかしてないっていう奴。とすると、山科と砂姫が危ないっていうのも、実は嘘で、こいつ、山科と砂姫に殺意を持って、とって返そうとしている処なのかも知れんのだ。……が。確かに山科と砂姫が、もぐらに追われているのも事実で……。
俺としては、彼女を、足どめした方がいいのか、しない方がいいのか!?
「……誰?」
東嬢、軽く不審気な表情を作って、俺の方――声のしたあたりを見つめる。えーい。幽霊も、姿が見えんと、全然迫力がないな。
「斎藤|礼《のり》|子《こ》の幽霊だ」
俺、低くおし殺した声でこう言う。
「え? 誰の、何ですって」
「斎藤礼子の幽霊」
「え? 誰? どこ?」
「さいとうのりこのゆうれい!!」
思わず、大声で叫び返してしまう。うー、大声で叫ぶ、なんてのは間違っても幽霊がしちゃいけないことだな。幽霊は、やっぱり、低くおし殺した声で“うらめしやあ……”っていうから、幽玄な感じがするのであって、大声で“俺は幽霊だぞおっ”ってなことを叫んじまうと……こんな、明朗活発な幽霊があっていいもんか。案の定、東嬢、全然怖がってもくれず、目一杯不審そうな顔であたりを見まわしていた。ついでに……道行く人々が昼ひなかに“ゆうれい!!”だなんて叫んだ莫迦な男の顔見ようと、こっち方面に注目しちまっている。
それから、東嬢、一瞬きょとんとして、また、ちゃんと手をあげた。むこうから走ってくるタクシー、助手席あたりに赤い文字が見える。やばい。空車だ。
「おい……真弓、おい」
道ゆく人の注目を集めぬよう、こっそり真弓に耳うちしたんだけれど……先刻からしきりに首ひねってぽかんとしていた真弓は、全然俺に気づいてくれなかった。
なんてやっているうちに、東嬢はタクシーをとめ、すばやく乗りこみ、あやうくドアが閉まる寸前に、真弓が|慌《あわ》てて中にもぐりこむ。
かくて俺は、幽霊史上記録に残るような大声をだし、なおかつ完全に無視されてしまったという、世にも可哀想な幽霊になり果ててしまった。
☆
「ここは……どの辺なんだろう」
だいぶ走って、だいぶあちらこちらのトンネルにもぐりこみ、全身泥だらけになった頃。ようやく、もぐら達がおいかけてくる気配がなくなった。勿論、とっくにロープはどっかいっちまってる。
「……判ると思う?」
さすがに|砂《さ》|姫《き》も、肩で息してる。
「思わない」
俺一人、申し訳ないんだけど、平然。だって、俺、一応幽霊だもんな。山科が走ってくれれば何もしなくても動いてしまう。
「……あん? 見て」
と。砂姫、急に懐中電灯を消した。
「おい、まっ暗闇ン中で何を見ろって」
全文言う前に判ってしまった。まっ暗闇だから見えるもの。かすかなあかり。ななめ前方左下のトンネルから、かすかなあかりがもれている。
「あ!」
思わず叫ぶ。
「これ、この間の……みみずトンネルから抜けた時の感じとよく似てる。これ……この先に、例の……俺が殺されたトンネルがあるぜ」
「この……光源の、下?」
「ああ」
山科と砂姫、ゆっくりと顔を見合わす。それから、砂姫が代表して口をきく。
「行ってみましょ」
「偶然とはいえ、ここまで来ちまったんだからな。こんな、中途半端に好奇心刺激されたまま帰るの、嫌だ」
山科が、|律《りち》|義《ぎ》にこう続ける。
「おい、ちょっと待てよ」
俺、一応、|釘《くぎ》さして。
「先刻っから逃げてばっかで全然忠告できなかったんだが……東嬢がとって返してきてるぞ」
「え? 何で」
「……真弓が全部しゃべっちまった」
二人、うめくような表情で顔を見合わす。
「やっぱ、あいつの性格からみて、こういう作業は無理だったんだよなあ……」
「ま、そうでしょうねえ……」
「で、東嬢がもどってくるとすると、ちゃんとした人間の領分であるところの地上に、だね、|戻《もど》っといた方が無難なんじゃないかと思うんだ」
「それはそうなんだが斎藤……おまえ、判るか」
「何が」
「地上への道」
「……あいにく。砂姫は?」
「……ごめん。そう聞いたってことは善行も……?」
「……悪い」
しばらくの、無気味な、沈黙。やがて、ようやく砂姫が口ひらいた。
「ここで、上へ行こうとしてトンネルの中ぐるぐるまわって、で、そのうち電池がきれて闇の中で死ぬことになるのより、下へおりてみた方がいいんじゃない? あかるいってことは、下、どっかぐるぐるまわって、とにかく地上へと続いてる筈よ。地上なら、神楽坂の方へでようが、九段下の方へ出ようが、ま、何とかなるわ」
「……だな」
俺達三人、軽く肩をすくめあった。砂姫が、また、電灯をつける。三人で、そろそろと、あかりがもれる穴の方へ進んで。
「ロープがなくても何とかなりそうよ、この感じだと。これ、穴じゃなくて、ちょっと急な坂って感じだわ」
「OK。じゃ、まず俺が行ってみよう」
先にまちかまえている処が――何せ、俺が殺された処であり、あの日、東嬢がいた処なんだから――敵の本拠地って感じのとこだと思うと、すでに一度死んだ俺ですら、背筋がぴりぴりするのを感じる。
「俺が降りて、安全そうだったらそう言うから。砂姫はそれからおいで」
「うん」
山科は、そろそろと、その明るいトンネルの中に足を踏みいれた。
☆
あー、たく、もう。何というタイミングの悪さ。
山科が、ちょうど覚悟をきめてトンネルに足をふみいれたとたん、東嬢の乗ったタクシー、第13あかねマンションの前についちまった。
「ね、先刻の台詞、一体どういう意味なんです? もぐらが何ですって?」
ようやく呆然自失の態から復調した真弓、タクシーの中で、しきりとこう聞いていたんだけど、東嬢は、それに生返事しかしなかった。とにかく、何聞いても、
「着けば判るから。お願い、今は、ちゃんと説明している時間がないんです」
って、言うきり。
☆
「斎藤。ここは、ま、安全だな」
無事、トンネルの下の、かなり広い部屋にたどりついた山科、あたりをうかがいながらこう聞く。
「ああ」
この部屋は、完全に無人だった。ひとっこ一人、もぐら一匹、みみず一匹、狼一頭いない。中央部に、直径五十センチくらいの穴があいていて、そこからあかりがもれている――いや。もれている、というのは、いささか表現として、不正確だろう。その下、ちょっと行ったところで、すぐ地上なのだ。なんか、そんな感じがする程、明るい。
「上下感覚が無茶苦茶になる部屋だな――これの、更に下に地上があるだなんて」
「ああ。……砂姫を呼ばなきゃ。当分、単独行動はよした方がよさそうだ」
「そうね。もう来てるわよ、呼ばなくても」
いつの間にか、うしろに砂姫が立っていた。
「おい、いつの間に……」
「なかなか呼んでくれないから、何かあったかと思ったじゃない。心配させないでよ」
お、なかなか泣かせる台詞。信じられないけどさ、砂姫って時々、すごい|健《けな》|気《げ》なの。俺が行方不明になった時の探し方だって、なかなか泣かせるしさ。
「あ……ん、これ……」
と。砂姫、また、鼻をすこしぴくつかせた。
「この下には、生物が、やたら沢山いるわね……」
「地上ならあたり前だろ」
「うん、それはそうなんだけど……。なんか人間……じゃない生物が沢山いるみたい」
「……もぐらか」
俺と山科、同時に、おそるおそる聞く。
「もぐらもいる。あと……もぐら亜種みたいな……あ! 人間がいる! O型の人、少し貧血気味」
「東さんかな」
「違う」
俺、それだけはきっぱり断言できた。
「彼女、今、ようやっと部屋にたどりついた処だ」
「どうしよう……」
軽いとまどい。でも、まよっている時間的余裕あまりなさそうだ。
「行くしかあるまい」
山科が、少し重々しく言う。俺達三人、軽くため息なぞついて、いささかのろのろと、その穴に近づいた。
☆
「あ……あずまさん、あの、あずまさん」
真弓は、またもや――本当によく呆然自失する男だ――ほけっと東嬢のうしろにつっ立っていた。東嬢はマンションにつくや否や、自分の部屋に駆けこみ、穴をのぞきこんでいた。(あ、俺も山科も砂姫も、とても自分がはいったあとで、床板おいて、カーペット敷くなんて器用なこと、できなかった)
「この穴、なんなんです。銀行強盗でもする気だったんですか」
……古風な想像力だ。砂姫と、どっこいどっこい。
「いいから、黙って。……あなたもついてくる?」
東嬢は、なかなか運動神経が発達しているらしく、ぽん、と穴にとびこむと言う。完全に彼女に主導権を握られてしまった格好の真弓、一呼吸してから、慌てて叫ぶ。
「行きます行きます。おいてゆかないで下さい」
そして。どしん、という感じで穴の中におっこちた。
☆
「……!?」
一方、例の地下室風空洞から、明るい処へおりた時――いや、そもそもおりる前から――俺達は、声にならない叫びをあげ続けていた。
重力の変化――少し、違う。重力が、混乱している。
その穴は、穴であるからして、当然下にある筈だ。下にある穴へおりると――当然、おちる筈。穴の下方へむかってひっぱられる筈――なのに。
何故か、その穴を境にして、重力が逆転していた。
俺達、穴へおりたんじゃなくて、中途でくるっと一回転したような感じで、穴から顔をだした格好になっていた。一体どういう仕組みになっているのか――そこは、地上だったのだ。
「ここ……間違いなく、神楽坂でも九段下でもないな」
「ああ……とても、飯田橋あたりとは思えん」
飯田橋は、一応、山手線が東京都に描く円のまん中あたりにある訳。千代田区と新宿区の境。本当に、もろ東京、もろ都会っつうとこな訳。同じ東京都でも、練馬世田谷板橋みたいな住宅街じゃない。ビル街。
その、飯田橋のマンションからトンネルにはいった筈なのだ、俺達は。そのあとも、一時間ちょっとあるきまわっただけ。それも、一時間分遠くへ来た、というよりは、一時間迷子になっていたと言う方が正確。
なのに。
何だこの景色は?
ずっと続く地面。ずっとずっと続く地面。心があらわれてゆくような――こんな状況じゃなかったら、ぜひ一度お弁当持ってハイキングに来たくなるような――そんな処だった。
むきだしの、アスファルトじゃない、土。処々に、草。なずな、ぺんぺん草、かやつり草、たんぽぽ、しろつめ草、三つ葉、すみれ。つるのあるのは昼顔、|女郎花《おみなえし》にむらさきつゆ草。みやこわすれにどくだみ、むらさき大根。
そして。はるか地平線のかなたまで、家が一軒もない。ずっと、ずっと、野原――。
処々に木。柿の木、栗の木、さくらの木、つつじ、あじさいの群、ぐみの木、いちょう、もみじの木、木、木。
空は。淡いラヴェンダー色だった。夕暮れ、陽がおちる少し前――しかし、決して、あざやかな夕焼けではない頃。オレンジの夕焼けと、|群青《ぐんじょう》がおりてくる夜のさかい、ほんのわずかな夕暮れ時の、優しいラヴェンダー。
何という、景色だったことだろう。何という。
絵。他に、考えようがない。
俺の、暗い絵ではない。ゴーギャンの原色にあふれた情熱的な絵、クレーのコンポジション、ゴッホの狂気じみた天才の絵、ブラックの……全部、違う。
強いてあげれば、セザンヌの……いや。
もっと、ずっと、童画だ。この景色を描くとしたら、山科なんか、うってつけではあるまいか。
優しい――どこまでも優しい、絵だった。何もかもを許し、何もかもを肯定し、何もかもを愛した絵。ここは、そんな絵の中の情景だ。とても現実とは――。
そうだ。動物の姿が、見えないからだ。惜しみなく奪う愛ではない。惜しみなく与える愛が――植物が、植物のみが、満ちあふれている世界なんだ、ここは。
そして。小さかった、太陽が。太陽の位置から言えばま昼なのに、あたかも夕暮れ時のような錯覚を覚える。それ程小さい太陽。
「北海道か……さもなきゃ外国だ……」
山科が|呆《ぼう》|然《ぜん》と言う。
「おい、何で飯田橋の下に、北海道が――まして外国があるんだ!」
叫んでしまう。
「だって……他に考えようがないだろ! 少なくともここは東京じゃない。で――日本には、こんなに広い平野部は、関東平野しかない|筈《はず》だ。四囲を見まわして、山が見えないなんて。強いてあげれば石狩平野とか……濃尾平野とか……。でも、俺、濃尾平野――名古屋には行ったことがある。だから断言するけど、ここ、濃尾平野じゃない」
「俺、北海道に行ったことはないけど、ここ石狩平野じゃ絶対ないよ! 断言する。石狩平野に家が一軒もなく、道路もなく、とにかく人為的なものが何一つもないだなんて、聞いたことない!」
「ここ、外国でもないわよ」
砂姫も、断言した。
「外国に行くと太陽が縮むだなんて、聞いたことない!」
「北極地方とか南極地方とかはどうだ?」
「こんな暑いのに? 大体、何で飯田橋から一時間歩いて南極なのよ!」
「とすると……」
「結局……」
「ここ、どこ……?」
と、砂姫が言ったとたん。
「うわあ!」
山科が、すっさまじい音量の叫び声をあげる。
「認める! ここ、外国でも北海道でもない! 南極でも北極でも、地球じゃない! だって……だって、あ、あれ、何なんだ!?」
俺と砂姫、ふり返る。ふり返って……うわあ!
俺達から、十数メートルはなれた|処《ところ》に、みみずの群れがいた。みみず……つって、いいんだろうか。しかし、あれは確かに、みみずだ。
あん? 十数メートルもはなれて、よくみみずが見えたなって? そりゃ、見えるわい。こんなもん。
だって。そのみみず、一般の“みみず”って概念をまるで無視していて――全長が三メートル以上あるんだぜ! こ……こんなんありかよ? こんなん、みみずっつっていいのかよ!?
☆
山科達が呆然としている間、真弓もやはり呆然と、東嬢のあとをついて歩いていた。東嬢は、まあ当然とはいえ、トンネル内の地理にやたらと|詳《くわ》しく、一秒だって迷ったりしない――いや、そんなことよりも。
俺の左半身と俺の右半身は、何か目に見えないきずなで結ばれているようで――というか、同一人物だから、お互いの距離が、何となく、判るのだ。先刻から俺の右半身、全然まようことなく着実に俺の左半身に近づきつつある。ということは、東嬢も俺達に近づきつつあるってことで……。
東嬢は、どうやって、こんなに正確に俺達の位置をつかめるんだろう。少し考えて、すぐ判った。違う。
東嬢は、俺達のあとを|尾《つ》けている訳でも何でもないんだ。単に、このトンネルの中心部――おそらくは、この北海道でも外国でもない不可思議な世界へと通じる異様な穴のあいている、あの部屋めざして歩いているに違いない。俺達が、一時間もかけて迷子になりつつ歩いた道のりを、迷いもなく最短距離をとっているせいだろう。ほんの十数分で。
その間、真弓はというと――東嬢は、相当暗いところでも、目がよく見えるのだろう、灯りというものを全然考慮してなかったから――けっつまずき、転び、おっこち、相当悲惨な目にあっていた。
「真弓……おい、猛」
道中何度も、東嬢に聞こえない程度の声でこいつに呼びかけたんだけど、駄目。全然、ゆとりないみたい。東嬢についてゆくだけで必死って感じ。どうしようもないな、こりゃ……。
ついに東嬢、例の、妙な穴のあいている部屋についちまった。うす暗い――でも、今までまっ暗闇の中を歩いてきたことを考えれば相当あかるい光のもとで。東嬢、いったん、真弓の方をふり返った。
そして。
「きゃあ!!」
何故か、まっすぐ俺の方を見て、すっさまじい音量の悲鳴をあげたのだ――。
☆
「きゃあ!!」
その、すっさまじい音量の悲鳴は、例の不可思議な穴を出たあたりでうろうろしていた俺達――俺の左半身と山科、砂姫の方にまで充分聞こえた。
「何だどうした」
みみずの群れから目を放し、山科が叫ぶ。
「しっ」
俺、小声でこう言うと、指一本たててみせた。
「二人共、早く走れ。今、この真下に、東さん達が居る」
二人共、充分あわ喰った表情になると、|慌《あわ》てて二、三歩動く。それから。
「……走るって、どっちへ?」
「えーい、俺にも判らん」
「こっち」
砂姫が、先頭きって走りだした。
「この世界に、すくなくとも一人は人間が――いかにも人間のような、人間としか考えられない血のにおいの生物がいるの。どうせ行くあてないなら、その人の処へ行きましょ」
草原の上を、砂姫が導く方へと走る。はふ。こんな時だけど、ふと思ったりして。
うらやましい。
山科が。砂姫が。自分の体を持ち、生きている人間が。
そりゃ、俺、生前から自分のこと、一種幽霊みたいな存在だと思ってた。男であった頃の斎藤|礼《もと》|朗《あき》は戸籍から消え、かわりに出現した斎藤|礼《のり》|子《こ》はどうしても女[#「女」に傍点]になじめず。男と友達づきあいするには女としてのキャリアが浅すぎ、男と恋人としてつきあうのは気持ち悪く、女とつきあうには女にあまりに失望し。結局、この人間社会の中で完全に人間から疎外された存在になって。生きてても、この先、いいことはあまりにもなさそうで、思い出だけにひたりきって生きるにはまだ若すぎる。死んでもいい。いっそ、自殺しちまおうかな。
生前は、こう思っていたのだ、確かに。
だけど。今。走っている砂姫と山科を見ると。
こいつらはさ、走れる|訳《わけ》。自分の体を使って。まして、自分の体だから、走れば息がきれ、疲れる訳。
肉体的疲労感。ここしばらく感じてない。あれは――今にして思えば、何て気持ちのいいものだったんだろう。
そして。はだしの下は、地面なんだ。大地。あるいは草原。
草の上を、はだしで、(ま、山科は靴下、砂姫はストッキングはいてはいるが)走るなんて、ここ何年――いや、十何年していないだろう。俺の生まれた街は、道のほとんどがアスファルトだった。はだしで歩くアスファルトも、太陽の熱を吸い、ほんのりあたたかかったが――土は。
昔――まだ、礼朗だった頃。土を――泥をこねて、遊んだことがあった。隣の女の子につきあって、泥団子作ったこともあった。あの肌ざわりは。そして、土の上をはだしで走った時の肌ざわりは。
アスファルトが悪いっていう訳じゃない。俺、あの感じ、結構好きだ。けど、土とアスファルトは違った|筈《はず》、どこか。
こいつらは、今、その土の感触を――芝生ではない、自然に適当に生えた草の感触を、満喫している。ま、逃げてんだから、満喫とはいかないかもしれんが、とにかく、味わっている。
それがたまらなくうらやましかった。
俺の体。
欠点だらけだったよ、確かに。虫歯は数本あった。よく腹をこわした。うおのめが一つあった。左足の薬指に。歩くと痛んだ。二日酔いの時は、本当に体をうらめしく思った。まして、途中で性が変わった時は、本当、できそこないだと思った。
けど。
俺の体。あれは間違いなく、俺の体[#「俺の体」に傍点]だったんだ。絶対に、シチューになっていいもんじゃなかった。
「あ!」
俺が(走んなくて済むから、この三人の中じゃ一番気が楽だった。おまけに、一度死んだ人間――いや、幽霊は、少なくとも死ぬ心配はいらんからな)一人で、のほほんと連中をうらやましがっていたら。砂姫が急に声をあげた。
「何だ?」
「あ……あれ」
いつの間にか、土の間から、無数のもぐらが顔をだし、一斉に俺達のでてきた穴へむかって進みだしていた。
☆
「何で? どうして? 何故よ?」
|東《あずま》嬢は、ぶっとおし疑問詞を発し続けていた。相変わらず、顔を、俺――俺の右半身の方へむけながら。俺は、真弓の顔をちらっとながめ、再び東嬢の方を向き、|納《なっ》|得《とく》する。今の疑問詞は、真弓にむけたものじゃない。少なくとも、方向からおしはかるに、俺にむけられたものだ。と。
「斎藤?」
真弓が、呆然と俺を見ている。
「おまえ、いつの間にこんなとこに……」
……ああ。これで納得。ここ、陽の光――少なくとも、地上の、いわゆる太陽の光――がはいらないんだ。で、俺の幽霊が見える|訳《わけ》。理科の図表にでてくるような、断面図つき右半分だけ幽霊なんだから、東嬢が悲鳴をあげても無理ないだろう。
「いつの間にも何も、最初からずっとおまえと|一《いっ》|緒《しょ》だったよ。今までは見えなかっただけだ」
一応真弓にこう言ってやる。
「え……あ……ええ!?」
真弓、一人で勝手にうろたえている。
「ずっとってことは、新宿にいた時も……おい、その……」
いい。一人でうろたえさせとこ。
「あなた……」
真弓は一人でうろたえさせといていいとはいえ、東嬢はそうはいかない。
「どうして? 何で、そんな不気味な|格《かっ》|好《こう》して、そこにいる|訳《わけ》?」
「何でって、そりゃ、お宅が、山科と真弓に半分ずつ、俺を食べさせたせいだろうが。俺だって好きこのんでこんな格好になってる訳じゃない」
つっても東嬢、あんまり感動――っつうか驚かない|訳《わけ》。
「嘘よお。斎藤さん、しっかりして」
なんて言ったりして。
「わたし、真弓君にも、山科さんにも、あなたの肉なんて食べさせた覚えないわ」
「お宅ねえ、いい加減にしろよ。真弓ならごまかされるかも知れないけど、俺は喰われた本人だ。そんな言い訳が通用するかよ」
「そんなこと言ったって、わたし、あなたの肉だなんて……」
「|今《いま》|更《さら》とぼけたって仕方ないだろ。いい加減|往生際《おうじょうぎわ》が悪いぞ」
「……|判《わか》ったわ」
東嬢、しばらく黙ってから、ふいに肩をすくめてみせた。
「何であなたがそんな妙な誤解を抱いたのか知らないけど……ついてらっしゃい」
「あん?」
「わたしがあなたを料理してないって証拠、見せてあげるから」
☆
「やん! やだ! もぐら! 何でもぐらがあんなにいるのよお!」
砂姫、やん、やだ、までは多少大声で言ったのだけど、そのあとの台詞、尻すぼみに小声になってゆく。あんまり大声だしてもぐら達の注目を集めたくない。無意識にそう思ったに違いない。
「しい……なるべく、もぐら達の注意をひかないようにしようぜ……」
山科も、小声で言う。
「何というか……この状況でもぐらに襲われたら……おそらく助かる訳がないだろうし……」
「ああ」
俺も小声で答える。もぐら達は例の穴のまわりに集まって、中をのぞいている。……変だ。
この先、もうちょっと行くと、木々の中にはいる。森、とまではいかなくても、割といっぱいはえている木々の中に。そこにはいれば、俺達の姿は見えなくなるだろう……が。今は。
俺達の姿、丸見えな訳、早い話が。現に、もぐらの中にも、こっちをちらっと見た奴がいる。なのに。もぐら達のうち、どの一匹も俺達を襲おうという意志を持っていないようで……。まるっきり、俺達、無視されている。これは、あの闇の中で光っていた無数の目、殺意のかたまりのようだったトンネルの中のもぐらのことを考えると、変ではないか。
それに。雰囲気が……変だ。
ヒッチコックの鳥にしろ何にしろ、ある種の生物だけが、|平《へい》|生《ぜい》見なれている限界を越えて多数あつまれば、おのずと、そこには、ある種の雰囲気が発生する|筈《はず》。異様なものがかもしだす恐怖。それが、まるっきり――欠落していた。
何でもぐらがあんなにいるの! そう、砂姫は叫んだ。しかし。
そのもぐらは、全然、怖くなかった。一種保護してやらねばならないもの――かよわい、ちいさな、おどおどした生物に見える。
そう。幼稚園児の集団だ。そんな雰囲気。それも、悪ガキ風の幼稚園児じゃなくて、まだ広い世界になじんでいない、たよりになるのは先生のスカートだけって感じの、幼稚園児。あの穴の中に彼らの先生――つまり東嬢がいて、みんな、東嬢を無闇やたらとしたっていて……彼女のスカートにまとわりつきたくて仕方がないのだ。何か、そんな感じがした。
「……|礼《もと》|朗《あき》、どうしたの」
砂姫の、かすかな声。俺、慌てて正気にもどる。ああ、今はこんなことを考えてる場合じゃないんだ。とにかく逃げなければ……。
☆
「×××! ××! ×××××!」
どこからともなく、何とも言えない音がした。音――声。それも、聞きおぼえがある奴。この声は……もぐら。
ふと見ると、穴から、無数のもぐらが首をだしていた。
「×××! ×?」
もぐら達は、|一《いっ》|斉《せい》に、東嬢に何か話しかけている。こっちの方を嫌な目で見て。
……そうか。判った。
先刻、東嬢、俺の右半身幽霊みたとこで悲鳴あげたじゃない。だからもぐら達、誤解したんだ。真弓か――あるいは、半分しかない幽霊の俺が、彼女に何かしたんじゃないかって。
「ああ……大丈夫よ、わたしは」
案の定、東嬢、全もぐらに対してこう叫ぶ。
「叫んだりしてごめんなさい。|先刻《さっき》はちょっと驚いたものだから。みんな、もう、自分の家に帰っていいわよ。私は本当に大丈夫だから」
もぐらに説明してやんの。こいつら、日本語判るんだろうか……。そう思った矢先、先頭にいたもぐらが何やらしゃべりだした。その……何とも言いようがない、妙な音で。きっとこれがもぐら語で、このもぐらは他のもぐら達に事情を説明してるんだろう――と思うと、不気味だった。
やがて。俺と真弓が呆然としているうちに――いや、真弓は、呆然というより、とり乱しているうちに、だ。こいつ、がたがたふるえてやんの。歯の根があってない――もぐら達は三々五々消えてゆき、あとには、通訳もぐらと数匹が残る。
「ちょっとごめん……わたし、そっち行くわ」
東嬢がこう言うと、通訳もぐら達は、心得たって顔をして、数歩どく。東嬢は、もぐらがのいてできたスペースに手をかけ――穴をくぐってしまった。
☆
「……あ……あ……」
砂姫の、声にならない叫びを聞いたとこで、俺と山科はふり返る。そして。
「…………」
同時に、声にならない叫びをあげたりして。
一体全体、東嬢ってどんな人なんだろう。彼女がほんの二言三言事情を説明しただけで、早くも大抵のもぐら達が、地面の中へ――自分の穴へと、もぐりこんでいた。
「ま……もぐら、いなければいない方が……いいと言えばいいのよね」
あきれ返って、砂姫。
「うん、まあ……」
同じく、あきれ返って、山科。
「ま、それはおいといてさ」
俺は、東嬢が、もぐらに何やら事情説明とおぼしきことをしたっていうの知ってるから、もぐら達が一斉にひっこんだことには、あまり感銘をうけずに言う。
「その……砂姫の言ってた、この世界にいる、もう一人の人間っつうのはどこだい」
「ま、あそこね……と思うわ」
砂姫が指したのは、はるかあっち、ずっと先の方、少しはえている木の陰のむこうに、ぽこんとそこだけ盛りあがっている、高さ八十センチたらずの土の山だった。
「あ……あん中に、人?」
「まあ、ねっころがってはいってるって思えば、はいれないサイズでもないでしょ?」
「ああ……まあ」
それは、高さ七十から八十センチ、長さ二メートルすこしかけって感じの、土の山――というか、土の長方体だった。幅は……どれくらいあるんだろう。ここからでは、よく判らない。
「でも……あれだと、中に埋まってるって感じにならんか?」
と、これは俺。
「あら、もう少し近よってみないと……あれ、上に土がかぶさっているかどうか、|礼《もと》|朗《あき》に判る?」
「判らん、まだ、確かに」
その長方体は、長方体として認識するのがやっとっていう距離で、上にふたのように土が、のっているか否かなんて、ここからではまだ見えないのだ。
「その……砂姫の言うところの、いかにも人間のような人ってのは、生きてるのかい」
思わず聞いてしまう。もし、この土の直方体の中に埋まってんのなら、完全に死んでるだろう。
「うん、生きてるよ、間違いなく」
砂姫は、平然と肯定した。
「生きてる時と死んでからって……血がかたまったりするから、におい、違うの、少し。あそこにいる人は、まだ、絶対生きてる」
とか何とか言っているうちに。
俺達、結構、その土の山に近づいてきつつあった。やはり、上に土はかかっていない。処々に|肌《はだ》|色《いろ》が見える。
つまり。もう少し判り|易《やす》く説明すると、ですね、こうなる|訳《わけ》。
あそこに人が一人いる。その人物はまだ生きてはいるが、一種、死んでいるのに近い状態――つまり、眠っているか何かしている訳。で、その人物を囲うように、四囲に土の壁ができている。土の壁にさえぎられて、中にその人物がいることは――まあ、普通の身長のもぐらでは決して判んない。そんなとこ。
「あれは……」
更に数歩近づいて、俺、言う。
「あれは……」
思わず駆けだしたくなり、実体のない自分に歯がみする。それほど意外な人物だったのだ、土の壁の中によこたわっていたのは。
だってあれは。
もし、俺の記憶に、俺の目にあやまちがないのなら。
だって。あれは――。
PARTX もぐら大戦争
「よっこいしょっと」
|東《あずま》嬢は、なかなか可愛いかけごえをかけると、穴から身をのりだす。ついで、|真《ま》|弓《ゆみ》も。
「……何です、これは」
真弓は、俺や|山《やま》|科《しな》と同じ反応を示していた。
「何だってこんな……下にある穴にはいったのに、穴をよじのぼったような感じになるんです」
「ああ、重力が逆転してるのよ」
東嬢、平然と言う。
「少し、気をつけてね。ここ、パラレル・ワールドの接点だから。人間には何も影響ないみたいだけど――少なくとも、わたしには何の影響もないんだけど、この重力の逆転現象とこちら側の世界の環境、もぐらの遺伝子には影響あたえてるみたいだから」
「い……でんし?」
「うん。何か、余分なDNAが活性化しちゃうみたい。もぐら、この世界へ来て二、三代すると、進化するのよね」
……んなもん、どうやって気をつければいいんだ!
真弓は、意味が判ったんだかどうだか――理科系全滅、性別の違う一卵性双生児がいると思ってる男だから、DNAの活性化って言葉、判んないんじゃないか? ――ほけっとしてる。東嬢、そんな真弓にはあまり注意を払わず、こっちむいて。
「斎藤さん、聞こえてる?」
「あ……ああ」
「何であなたがそう思ったのかは知らないけれど……とにかく、あなたが死んだっていうのは――そして、死体を真弓君と山科さんに食べさせたっていうのは誤解だっていうの、今、教えてあげる」
「あ……ああ」
東嬢はずんずん歩きだし、それにつられて真弓も歩きだし――必然的に俺の幽霊も、真弓にくっついて移動をはじめていた――。
☆
「だって……」
「おい、斎藤……」
「いやしかし……」
俺と、|砂《さ》|姫《き》と、山科は――いや、台詞の順序でいけば、砂姫と山科と俺は――呆然とそれを見ていた。
何で?
どうして?
これがここにあっていい訳はあるまい。
俺の頭の中を、やつぎばやに意味のないフレーズが駆け抜ける。
いやしかし。
しかし何と言っても。
何と言ってもでも。
でもこれがここにあっていい訳はない。
他にどうしようもないから、意味のないフレーズの山を築いてみる。他にどうしようもない――だって。
だって。何で――何だってこんなとこに、こんなもんがあるんだ!?
こんなもん。
俺の[#「俺の」に傍点]、死体[#「死体」に傍点]。
一応、目は閉じているものの、しかし無念の形相うかべた、もう、見まごうすべもない、露骨に俺の死体。
身長一七五。女性ホルモンがあんましないもんで、胸、なんもなし。かといって、男というにはあまりにきゃしゃ。|勿《もち》|論《ろん》、ひげがはえたり喉仏がでっぱったりという、男性の特徴皆無。かなり洗いざらしの、紺の色がおちたジーンズ。男物Mのシャツ。ベスト。ベルトは割と太い奴。――これ、すべて、失踪時の俺の服装。髪は結構長く胸まで。床屋にあまりいかなくてすむ、まして、美容室なんて無気味なとこへよりつかなくて済む、という考えと、せめて女の子なんだから髪の毛くらい伸ばしたらっていう母親の考えと、両方をかなえる為の打算的髪型。
顔。メタル・フレームの眼鏡かけて、相当色が白い肌。ぱっちり二重まぶたで、唇が割とちいさく、まあ美人といえる顔。これは――毎朝、顔を洗う時に鏡の中でお目にかかる俺の顔そっくりだった。
……これは、間違いなく、俺だ。
見えないけど、左足つけ根と右足ふくらはぎにほくろがあるに違いない。そして、へその左ななめ十センチ下に。それ確認できたら、否定しようがない――いや。そんな、死体の身許確認みたいなことしなくても。
「|礼《もと》|朗《あき》、あなたにひょっとして、双児の兄弟とかいた? ああ、一応、いることにしてんのよね。でも一応じゃなく真実のところは」
「いない……親が俺にかくしてるんでなければ。それに、断言するよ。これ、俺の双児の兄弟じゃない、俺だ」
におい――というか、一種の雰囲気。感じ。それは、間違いなく、俺のものだった。何つっても、俺は俺だぞ。この世界で一番俺に親しく、一番俺とのつきあいが深いの、俺にきまってんじゃないか。その俺が、俺に判らん訳がない。
「でも……その、だぞ、昨日のおまえの|台詞《せりふ》では、おまえの死体、俺と真弓が喰ったって……」
「ああ」
叫んじまう。
「喰われたんだよ確かに俺は! なのに何で俺がここにいるんだ! 喰われた筈の俺はどこ行ったんだ!? それに、ここの俺が生きているなら、俺、何で幽霊になってんだよ!? 俺、二人いたのか!?」
自我、というか、何というか、この世にただ一人の存在、として築きあげてきた俺の自意識は、徐々に崩壊していった。ここに、眠っている俺がいる。一方、喰われてしまった俺がいる。また、幽霊になって――二分割された俺が二人いる。おい、一体全体どの俺が俺だ?
もし。
これを考えると、おそろしさの余り、肌が|粟《あわ》だった。
もし、間違って今、ここにいる俺が目をさましちまったらどうしたらいいんだ? 俺の幽霊が生きている俺と会話する。嫌だ、そんなおそろしい、何ともおぞましい事態は絶対嫌だ。
「おい……逃げよう」
あんま、真弓のこと笑えないな。俺の体はがくがくふるえていた。歯の根があわない。
「俺、俺が怖い。万一この俺がめざめちまったら、俺はどうしたらいいんだ。俺、とても俺となんて会話したくない。俺、この世の中で一番、この俺が怖い」
「おい斎藤……何だって?」
「ちょっと文がややこしすぎるわよ……」
「俺、俺が怖いの! やだよこんなの……」
なみだ声。あーやだ、みっともない。女々しいっちゃありゃしない。けど……。
本当に怖いんだよお。
山科は、少し眉をひそめ、それから優しく俺の――幽霊の方の俺の肩に手をおこうとして失敗し(山科の手、俺の肩つきぬけちまったの)、それから慌てて俺の肩を抱こうとし、これも失敗し(肩からめりこんで内臓方面から手がつきでてしまった)、気がついて俺にふれる五ミリ程前で手をとめ、とにかく俺の肩を抱いてるってポーズを作った。そして。
「判った。斎藤……いや、|礼《のり》|子《こ》さん。行こう」
「行こうってどこへ」
こう言った砂姫を|睨《にら》む。
「とにかく、ここを離れよう。ね? ……生きている自分なんて、死んだ女の子の見るものじゃない」
「……うん」
俺、弱々しくうなずく。俺が幽霊で、山科の手が俺の肩をつき抜けちまうのが、|哀《かな》しかった。今、ここで、肩でも抱いててもらえたら――そうすれば少しは落ち着けるかも知れないのに。
「いい子だから気をしずめて……悪かったね、気がきかなくて」
「うん……ううん……」
軽く、しゃくりあげる。山科は――|善《よし》|行《ゆき》は、その大きな右手を広げ、それを俺の目の前の方においた。俺の視界から、生きている俺が見えなくなるよう。そして、ゆっくりと、その場をはなれだした。
☆
俺が(えーい、何と説明すればいいんだ! 現時点で俺の個体数、三だぞ!)――幽霊の方の俺左半身が、生きている俺のそばをはなれだした頃、幽霊の方の俺右半身は、生きている俺に近づきつつあった。
「おい、ちょっと! どこ行くんだ」
生きている俺に近づくにつれて、俺右半身、何とも怖くなってきた。
「ちょっと……よそうよ、そっち行くの。なあ、東さん、どこ行く気なんだ」
「あそこに土の山が見えるでしょ」
おそれていたとおり、東さん、俺が――生きている俺が横たわっている土の山を指す。
「斎藤さんの体、あそこで眠ってる筈なの。ほら、二、三日失踪してもらって、それから帰すつもりだったから。……あなた、死んでないのよ」
んな無茶苦茶なあ。
「じゃ、どうして俺、こんな幽霊なんかに」
「それが全然判んないの」
「んな無責任なこと……とにかく、あそこに生きている俺がいるのは判ってる。判ってるから……あっち行くの、よそう」
「え? 判ってる? どうして」
「今|先刻《さっき》確認したんだ。確かに俺、あそこにいるんだ……」
俺、またも泣きそうになってしまう。
「俺、もうどうしていいか判んないんだよ。俺って……本当は二人いたんだろうか。やだよ、もう、判んないんだよ、やなんだ。こんな……死んじまった俺が、まだ生きている俺を見るなんて事態」
段々、語尾が金切り声に近くなる。
「嫌って言ったって……あなた、生きているのよ、まだ、確かに。わたしがあなた殺した、だなんて思われたら困るから」
「思わない。もう思わないから……だから、そっちへ近づかないでくれよ」
「だって、あなたにしたって、こんな――生きているのに幽霊になっている、だなんて異常事態、嫌でしょ。だとしたら」
「生きてんのに幽霊になってるのも嫌だけど、死んだ俺が生きてる俺見るの、もっと嫌だ!」
「……ヒステリーなんておこさないでよ。もう少し冷静になって」
……ヒステリー? こういうの、ヒステリーっつうの? 女の子に、ヒステリーおこすなってたしなめられるとは……女々しい。
「もう少し冷静になって、ちゃんと説明してちょうだい。あなた、今、生きている自分を確認したって言ったわね」
「あ……ああ」
「いつの間に? それに、どうしてあそこに生きているあなたがいるって判ったの」
「砂姫が……砂姫があの山の中に、生きている人間がいるって主張して、で、それを見に行ったら……俺だった……」
「砂姫さん、どこ? 山科さんも一緒?」
「それ聞いてどうすんだ」
おろおろしながらも、とにかくこう言う。間違っても誘導|尋《じん》|問《もん》にひっかかって、砂姫達の居場所、あかさないように。
「危ないの。今まで生きていられるのが不思議なくらいだわ。道中、もぐらの群れに襲われなかった?」
「……襲われた」
「やっぱり。その時、もぐら、ふみつぶしたり……した?」
「いや。さすがにそんな残酷なことはできん」
ほっ。東さん、実に安心しきった、ため息をつく。
「よかった……」
俺にしても、東嬢が立ちどまってくれて、よかった。東嬢が立ちどまれば、今ンとこ会話に全然加わらず、ほけっとつったってる真弓も立ちどまるし――そうすれば俺、俺の生きている姿に近よらなくて済む。
「でも、何だってもぐら達が襲ってくるって……」
あの襲われ方はかなり|理《り》|不《ふ》|尽《じん》だと思ってるから、いきおい俺、こう聞いてみる。
「やっぱり、長いこと地表――この世界じゃない、本当の世界の地表――で暮らしていたもぐらの中には、人間を――特に誰をってことなく、人間全体を恨んでいる者が、かなりいるの。その連中って、やっぱり、人間をみつけると、憎しみをおさえきれないみたいだから……」
何でだ? 俺、素直に納得しかねた。人間――人類の為に、絶滅においやられている種とか、人類が食べる種、たとえば、日本狼とかクジラとか、にわとりとか豚とかが人間を憎むのは、判らないでもない。けど……何で、もぐらが人間を憎むんだ?
「でも、まあ、山科さん達がこちら側へ来ちゃっているんなら、そんなに心配はいらないわね。人類を恨んでいるもぐらやヒミズ――第五期移民は、本当の世界の地表の方にいるんだから。この世界にいるもぐらなら、他生物に関して、恨みだの何だのって感情を抱いてないだろうし」
確かに、この世界のもぐら達は、俺達にまるで無関心だった。
「でも、砂姫さん達が、自分達の本来の世界にもどる時が危ないのよ。……それに、砂姫さん達の記憶も、一応、けしておかないと」
東嬢は、それから、真弓の方をちらっと見た。
「それに……申し訳ないけど、真弓君の記憶も消さなきゃね」
☆
その頃、俺の左半身、山科、砂姫は、一応生きている俺が見えない処まで来ていた。
「で……どうすんの、これから」
とにかく山科が、俺の肩を抱くポーズをとったまま、ずんずん歩いて来ちまったんで、何となく仲間はずれにされたような気がしてんだろう、多少不愉快そうに、砂姫がこう言った。
「どうするもこうするも……」
山科は、すこし言いよどんで――おそらくは言いよどんでる間に、何とか言うべきことをこしらえたんだろう――こう言った。
「とにかく、ここを出なけりゃ。できれば……真弓もつれて。東さんが斎藤を殺したって点については、生きてる斎藤を見ちまった以上、多少疑問が残るんだが……けど東さんが普通じゃないってことは、よく判ったつもりだ。とにかく、その、普通でない東さんと、こんな――彼女のホームグラウンドみたいな所で対決するのはさけたい。まずは、普通の人間が支配している、普通の世界にもどりたい」
「あ、ちょっとまった」
俺、慌てて、こう言う。
「今しがた、東嬢とした会話によれば、それやばいみたいだ」
「やばい? どうして」
「何か判んないけど、とにかく、この世界のもぐらは、俺達に関して中立的というか、俺達なんかどうでもいいって態度をとってる|訳《わけ》。けど、あの、トンネル内のもぐらは……。おぼえてんだろ、連中は、俺達――人類に対して、あからさまな敵意を抱いてる」
「何でだ。|礼《のり》|子《こ》さん、何かもぐらに恨まれるようなこと、したのか」
「いや。俺にも全然判らん。でも、何か連中、人間全体を憎んでるって……」
「おっどろいた」
砂姫が、あきれたような声を出す。
「あなた達、本当に、何故自分達がもぐらに憎まれてるか、判らないの?」
「砂姫、おまえ、判るのか?」
「やだなあ……人間って、もう、果てしなく鈍感なのねえ。人類に恨みを抱いていない生物って、一部の飼い犬とか飼い猫くらいしかいないわよ」
「どうして!?」
俺と山科、思わず、同時に叫んでしまう。
「どうしてって……だって、人類って、もぐらの――ま、他のどの生物のも含めて、生活圏、めちゃくちゃにしたじゃない。何であんなことしておきながら、恨まれてないんだなんて思えるの」
「生活圏……めちゃくちゃに?」
「あのね、もぐらっていうのは、地中生物な|訳《わけ》。これだけ建物つくって、道路アスファルトでかためちゃったら、そこに本来住んでたもぐら達が喜ぶとでも思ってんの?」
「あ……」
「それに、たまに残ってるむき出しの地面――農地みたいなところに、平気で農薬まいたりするじゃない」
「あれ、もぐらを殺す為じゃないぞ!」
「みみずがだいぶ死ぬわよ。その農薬みみず一杯たべるもぐらだって……」
「あ……」
「他にも、地面パワーショベルで掘り返すわ、妙なもんはまくわ、もぐら達にとって全然嬉しくないこと、繰り返してんじゃない」
「でも……住むのには家がいるし、農作業全体に対して農薬が果たした役わりっていうのは相当大きいし……」
「だからね、誰もそれが悪いとは言ってないじゃない。人間としては、それって仕方のないことでしょ? けど、もぐらとしては、そんなことされたら怒るのあたり前じゃない。だから、もぐらから憎まれたってあたり前だって認識しなさいよってこと」
「うーん……」
俺と山科、何となく目を見あわす。
「大体、地上って、もともといろんな生物が雑居してた|訳《わけ》よ。なのに、最近、どう? 特に東京なんて、住んでる生物っていえば、人間とそのペット、あとはゴキブリくらいじゃない。他の動物――たぬきにしろ、きつねにしろ、鳥にしろ何にしろ、動物園でしかお目にかかれないっていうの、無茶苦茶異常事態だと思わない? ……あ、別に、だから人間が悪いって言う気はないのよね。人間にだって当然言い分があるだろうし、連中が、悪気なく、単に自分が住みやすいような環境作りをした結果、こうなっちゃっただけだっていうのは判る。……けど、こうなっちゃった以上、せめて他の全動物の憎しみの|的《まと》であるってことくらい、認識しといて欲しいなあ」
砂姫、こう言ってから、ぺろっと舌を出す。
「なあんてね。あたしも、人間亜種――ううん、人間なんだから、あんまり偉そうなことは言えないけどね」
「ま……それはともかく」
山科、砂姫の演説がおわったところで、かろうじて声をしぼり出す。
「俺達が、もぐらに恨まれているって事情は判った。……でも、とすると、どうすればいい?」
☆
「消すって……僕の記憶を……はは、そんな……」
真弓、口ではもごもごこう言い、顔には苦笑いとも照れ笑いともつかない笑いを浮かべていたけど……それでも、数歩、あとじさった。やはり、さすがに、ここまできて、彼も東嬢を不気味に思いはじめたよう。
「斎藤……どうしよう……」
「だから言わんこっちゃないっつうんだ!」
何て、今更言ってみたところではじまらん。
「どうしようって何が? まず、斎藤さん、山科さんと砂姫さんの居場所を教えて」
東嬢は、何で真弓が慌てだしたのか、全然判っていないようだった。|後生楽《ごしょうらく》な人だ。
「とにかくその……逃げるのは……まずいよな。あの穴へ逃げてももぐらに追っかけられるのがせきの山だし、山科達と合流するのはさけたいし……」
「斎藤! おまえ、ひとごとだと思ってそんな……」
「どうして逃げるの? 別に、あなたに危害を加えようとは」
「あのね、東さん」
俺、しかたなしに……東嬢に事情を説明してやる。
「人間にとって、記憶っていうのは一種の財産なんだ」
「財産……お金?」
「大切なものってこと。だから、記憶を抜かれるっていうのは、危害を加えられるってのと同義なの」
「へえ。それは知らなかった。じゃ、わたし、ひょっとして斎藤さんにも悪いこと」
「したんだよ、お宅にその気がなくても」
場面がそもそも、あかるいラヴェンダー色の空、きれいな地面、ところどころパステルカラーの緑じみた草ってんじゃ、緊迫感の出しようもないな。あまりに牧歌的。
「ごめんなさいね」
東嬢、しゃらっと謝る。
「知らなかったものだから。……第四期移民のもぐら達までは、一応、全員、本当の世界にいた頃の記憶、抜いたのよね。だから、これが悪いことだとは思わなかったの」
……ああ。記憶がないから、こちらの世界にいるもぐら達は、人間見ても憎しみを感じないのか。
「でも、少なくとももぐら達を見ている限りじゃ、|余《よ》|計《けい》な記憶って、ない方がいいみたいよ。何か……物騒なんだもの。記憶抜かずにこの世界へ連れて来たもぐら達って、みんな一度は、地表におどり出て、アスファルトとかビルとか破壊したいって思うみたいなの」
「そりゃ……確かに、物騒だわなあ。でも、俺達別に、記憶があっても、アスファルトもビルも壊そうと思わないよ」
「そのかわり、この地下の国を壊そうと思うでしょ」
「思わない、思わない」
俺と真弓、合唱する。
「まゆみ……」
俺、かすかに真弓の方へ寄り、そっぽ向きながら、さりげなく耳うち。
「やっぱ逃げよう……ここ、少し――いや、あまりにも見とおしがよすぎる。東嬢が一言声かけたら、もぐら達、すぐおまえをつかまえることができそうだ」
「ああ……でも、確かにここ、あまりにも見とおしがよすぎるから……逆に逃げようがない……」
それは、確かに言えるのだ。
「何こそこそ話してるの」
東嬢、きょとんと聞く。
「とにかく」
「ぎゃあ!!」
と。東嬢が、何か言いかけたとたん、真弓が、世にも破壊的な音響で悲鳴をあげた。何だろうってふり返ると――あ。例の、一メートル近くある、巨大もぐら。その一匹が、穴から顔を出している。ああ、そうか。真弓は巨大もぐら見るの、初めてなんだ。新宿では、ウォグラ氏、姿見せなかったもんな。
「あら、ウォグラ。どうしたの」
東嬢、台詞を中断して、ウォグラ氏の方を向く。
「女王様、大変です!」
ウォグラは、何だか、異様にあせっているようで――俺達には目もくれず、こう叫ぶ。
「わっ! もぐらが口きいた!」
真弓は一声こう叫ぶと――え?
「下で――いや地表で、――何というか、本当の世界の方で――反乱がおこりました! こちらの世界へ抜ける穴のあたりは|東《あずま》もぐらが、本当の世界へ抜ける穴のあたりはヒミズが占拠しています!」
「まあっ!」
東嬢叫ぶと――東もぐら[#「東もぐら」に傍点]? え? まさか、まさかと思うんだけど、東くらこっていう名前……東もぐら[#「東もぐら」に傍点]からとった……みたいだな――穴に近づく。こっちには全然注意を払っていない。
今がチャンスなんだよ、おい、真弓! 今をのがしたら、逃げる機会、もうないかも知れないんだぞ! なのに。
なのに、何だっておまえ、気絶なんかしちまうんだ!
☆
「おいっ!」
気絶した真弓を、俺の右半身がもてあましている時、俺の左半身はこう叫んでいた。
「真弓を助けてくれ!」
「あいつ、どうかしたのか!」
「ああ。東嬢があいつの記憶を抜きとるって言って――逃げようと思ったら、ちょうどあいつの脇に巨大もぐらが出現して、そいつが……何つったかな、本当の世界の方で|東《あずま》もぐらとヒミズが反乱おこしてどうのこうのって言ったんだ。東嬢、今、それに気をとられてて、真弓の方がお留守なんだ。だから、今が逃げるチャンスなのに……あいつ、気絶しちまってる」
「どうしよう」
「決まってんだろ、砂姫! あいつ助けるんだ」
「違うわよ、助け方よ。あたし達がまっすぐ東さんの近くへ行ったら、あの人、またこっちに関心むけるかも知れないでしょ」
「ちょとまてください」
俺達がこんなこと言ってると、急に足の下から、えらくたどたどしい日本語が聞こえた。
「え?」
思わず下むく。と、地面から顔だけちょこんと出して、普通サイズのもぐら。
「わっ! もぐらが口きいたっ!」
っていう山科の驚きは、この際、ほっとくことにする。
「ちょとまてください。あたいま、なんていいまたか」
「あん?」
「ちょっと待って下さい。あなた、今、何て言いましたかって言ってるみたい」
砂姫が通訳(というのだろうか?)してくれる。
「ごめさい、にほご、へたです」
「あ……いや。で、何だって?」
「もぐらとしみずがなですて」
「あん?」
「もぐらとヒミズが、何ですって」
また、砂姫の通訳。江戸っ子もぐらかな、しみず、だって。
「何か反乱おこしたって……」
俺、思わず教えてしまう。だって……このもぐら。
まっ黒な、つぶらな瞳を、じっとこっちにむけている。つぶらな……本当に、まんまるの。
ぬいぐるみ。それも、うんと可愛い奴。その目の位置にはめこまれた、黒いビー玉。まっ黒で、適当にかがやいていて、本当に純真なひとみ。そんなものを連想させる、ひたむき、という概念がそのまま瞳になったかのような、瞳。
「ハンラン……? ハンラン、なですか」
どうやら、このもぐらの日本語学習、まだ中途らしくて、反乱という言葉が判らないらしい。
「えーと……何つったらいいのかな、支配している人にそむいて、戦さをおこすこと」
「シハイ……なですか? イクサ……なですか?」
うーむ。こういう概念の説明はむずかしいな。
「戦争……判るか? たたかうこと」
「タタカウ……?」
「けんか。これは判るか? 気にいらねえ奴がいて、そいつが近くに来て、で、お互いにぶんなぐりあったりけとばしあったりするのを、けんかっつうんだけど」
「きにいらないやつがちかくに……テリトリーおかされたとき、あいてやっつけるのがけんかですか」
おっ。テリトリーを侵された、ときましたな。なかなかむずかしい単語、知ってんじゃねえか。
「そう、そんなもん。それで、戦争っていうのは、そのけんかの、ものすごく大きい奴。判る?」
「はい」
まっくろおめめのもぐら君、一回、ぺこんとうなずく。
「んで、反乱っつうのは、まあ、その、一種の戦争みたいなもんだ」
「もぐらとしみずのけんか……しみずがもぐらのテリトリーおかす……てりとりいおかす……」
もぐらは、しばらく考えこんでいたようだった。あのさ、俺、主張しときたいんだけれど、この時は、本当に知らなかったんだぜ。何故、もぐらが、テリトリーをおかされる、だなんてややこしい言葉をしっていたかって理由。地球の地表では、もぐら達は自分のテリトリーってもんを持っていて、そこに他のもぐらだのヒミズだのがはいってくれば戦うんだけど、ここ、食物がゆたかな地中世界では、その必要がないんだ。だから、東嬢、もぐらのその本能を、心理操作で除去してたんだ。その、心理的なキーワード、たたかい、を、俺が教えちまったせいで、トンネルの中のもぐらとヒミズの戦いが、地中世界へまで飛び火するだなんて……思いもしなかったんだ。
それから。もぐら、また、ひたっと俺をみつめる。一回うなずくと、深くお辞儀して。
「どもありがとでした。ども」
そして。ぽこんと、土の中に消えてしまった。
「あ、いえ……」
ついついこう呟いたりして。それから俺、山科と砂姫の方むいて。
「ヒミズって……何だ?」
「やだあ、知らないのお?」
と、砂姫がいかにも|莫《ば》|迦《か》にしたような声をあげ、山科沈黙。
「もぐらによく似た小動物よ。ほら、昔、ちょっと木のしげってるとこなんかに、よくいなかった?」
「……昔っていつ」
つい、こう聞いてみる。
「ん……と、大正時代には……昭和初期だって……あ、ううん、田舎の話、田舎の」
そっか。こいつ、生きて動く日本史だもんな。なんつったって、|齢《よわい》三百歳以上。
「とにかく、もぐらみたいなもんか」
「もぐらより少しちっちゃいよ」
「じゃ、東もぐらっていうのは?」
一応、生きて歩く日本史に敬意を表して、聞いてみる。
「んっと……日本の二大もぐらの片っぽね。この辺……東京あたりのもぐらは、たいてい東もぐらよ。もう一つ……伊豆より西に分布してんのが神戸もぐら」
「へえ……砂姫は――あ、いや、砂姫さんは、地中生物でも研究してんの?」
山科が聞く。
「ううん、別に……。ただ、三百年近くも――あ、ううん、十六年も生きてれば、いろいろ知っちゃうわよ」
「十六年で……いろいろ知っちゃうのか……」
二十代後半の山科、こう呟いたりして。ま、そんな劣等感は覚えなくていいんだよ。砂姫とは桁が違うんだから――なんて、言う訳にもいかず。
「おい、それより真弓」
「あ……うん」
俺達、妙なもぐらの介入のせいで、かなり毒気を抜かれながらも、そろそろと、気絶している真弓の方へ歩いていった。
☆
その頃、真弓達は――というより(何つっても真弓は、気絶なんていう、男として実に恥ずべきことをしてんだもんな)、東さん達は。
「もう少し今の状況を詳しく説明して」
東嬢の声は|凜《りん》としていて――女の子、というより、大将って感じの声になっている――|有《う》|無《む》をいわさずって感じがしている。
「あの……ですね」
一方、ウォグラは、大将が留守の時に、とんでもない失敗をした、一兵士よろしく、多少うわずった声をだす。
「女王様の命令で(それでも女王様の命令で[#「女王様の命令で」に傍点]って、強調するとこがにくいと思わない?)とりあえず、第五期移民、それから、まだまとまっていない第六期移民を放っておいて、その、人間救出――というか、人間によってもぐらが踏みつぶされないように、見張ることに専念したのです」
「そんなことはいいから。それで」
「その間、第五期移民の主たるものは、放ったらかしになってしまい……彼らが、反乱――というのも変だな、ともかく、対ヒミズ戦争をはじめてしまったのです」
「というと?」
「つまり……元来、もぐらとヒミズは、きわめてよく似たところの多い種なんです。……今、我我の世界で、もぐらとヒミズが仲良くやっているのは――いやそもそも、これだけ沢山のもぐらだのヒミズだのが共存できるのは、モゲラの催眠術による心理操作のせいもありますが、この世界に、エサが、全員を養ってもなお余る程あるからで……もし、エサがろくにない世界――まして、地面が|殆《ほとん》どない世界に連中がいるとしたら、この二種は、完全に敵になるんです」
「それはそうでしょうけど……ここは、そんなとこじゃないのよ!」
「けれど、今まで連中がいた世界は、そんな処[#「そんな処」に傍点]だったのです! 地面のほとんどがアスファルトでおおいつくされ、あるいは家が建ち――みみずにしろ何にしろ、もぐら達の捕食の対象になる生物が殆どいない。今まで、東京及び東京近郊で生きてきたもぐらが、どれ程すさまじい生存競争をやってきたか判りますか? そんなもぐらやヒミズ達に、地下の楽園があると言ったところで、そうおいそれと信じられやしません。そして連中は――トンネルの中で、もし、将来、食糧がなくなったら生存競争の相手になるであろう生物に出喰わしてしまった」
「食糧は充分あるわよ! 土地だって! 何故それを」
「たとえ、理屈でそれが判っていても、連中はここ――東京で、生きてきたもぐら達です。本能的に、食糧に危機感を抱いても、無理はないでしょう。おまけに……ここは、東京なんです。この国で人間の一番多いところ。これがどういう意味か、判りますか?」
「じらさないで欲しいわ」
「もぐらも、ヒミズも、非常に強く人間から影響をうけているのです! いいですか、人間には、利益の相反する二つの種族が仲よくやってゆく、という発想はありません」
その言い方はちょっとないと思うよなあ。
「歴史でやったでしょう、いわゆる民族問題――黒人と白人、とか、インディアンとか……。黒人も白人も、ホモ・サピエンス――同一種ですよ。同一種で戦争をする――殺しあうのは、人間の大きな特異点です。あるいは、たとえ民族が同じであっても、利益が反すれば――すぐ戦争を始めるんです。殺しあい。それも片方が片方を食べる、といった、生命維持の必要上の殺しあいではありません。別に、片方を殺さなくても生きてゆけるのに、何故か殺しあいをはじめてしまうんです」
「|今《いま》|更《さら》、人間界七不思議なんて、聞きたくないわ。結局それでどうなったの」
……戦争が、人間界七不思議の一つ……ねえ。まあ、気分は判らんでもないけど、あんまり、いい気持ちはしない。
「えー、つまりですね、第五期移民も、第六期移民も、お互いに――もぐらはヒミズを、ヒミズはもぐらを敵だと思っていて、おまけに、敵は殺すべきだという人間の考え方を、まだ身につけたままなのです。結果として……我々が少し目を離したすきに、戦いだしてしまい……」
「モゲラは? キォトラは? みんな、何してるの? 何故やめさせないの?」
「それは女王様があの現場を見ていないからで……やめさせようがないのです」
「何故!?」
こう叫ぶ東嬢の声は、悲鳴に近かった。
「将がいないからです。|烏《う》|合《ごう》の衆がおのおの勝手に戦っているので……。女王様のおっしゃっていた人間達を、女王様が御心配なされたとおり、第六期移民のもぐら達が|一《いっ》|斉《せい》においかけだしました。そして、暴走した第六期移民のもぐらは、第五期移民のヒミズの群れに出喰わしてしまい……」
「わたし、行きます」
東嬢は、きっぱりと、こう叫んだ。
「ウォグラ、入り口をあけて」
「あ、女王様、危ないです」
「いいから! わたしがとめなきゃ、誰にもとめられそうにないじゃない! その、もぐらとヒミズの|莫《ば》|迦《か》|莫《ば》|迦《か》しいあらそいを!」
「しかし女王様……」
「のいてっ!」
東嬢、こう叫ぶと、ウォグラをおしのけ、穴の入り口に手をかけた。そして。
そして、可哀想に――と言うべきか、さいわいにも、と言うべきか――真弓は、完全に東嬢にもウォグラ氏にも無視され……そこに、気絶したまま、とり残されてしまったのである。
☆
「今だ!」
俺、叫ぶ。
「今っきゃない! 山科、走れ!」
「どうした!」
俺の叫びにつられ、走りだしながらも山科、こう聞く。
「東嬢も巨大もぐらも、真弓無視してどっか行っちまった! 真弓を助けるチャンスは今しかない」
三人して一所懸命、走る。(つっても、ま、俺は走る山科にとりついているっていうのが正解だったが)走りだしてみると、山科は、そのこぶとり、といった体つきに似合わず、結構速かった。――いや、結構、なんてもんじゃない。相当、速かった。
「おまえ……速いな」
「笑うかも知らんが、一応これでも、陸上でインターハイに出たんだ」
へえ……。砂姫が、みるみる小さくなってゆく。
「何だって|先刻《さっき》逃げる時、こういう風に走んなかったんだ」
「砂姫――さん、おいてか?」
「あ……ああ」
そうか。(ま、これは山科は認めたがらんだろうが)砂姫、腕力では絶対、山科より強い訳。おまけに、これは俺しか知らないことだが、吸血鬼って、相当|頑丈《がんじょう》にできてる筈だしな。その砂姫を――それでも一応女の子の砂姫を、何かあった時、守ろうとしてくれた訳か、こいつ。これでも。
割といい奴だ。
この評価、変えてやるぜ。
おまえ、めっちゃくちゃ、いい奴だ。
数分走ったところで、真弓に出喰わす――いや、ねっころがってる真弓、ひろう。
「真弓! おい、猛君! しっかりしろ!」
山科、二、三回軽く真弓のほおたたく。でも駄目、全然真弓、目をさまさない。
「おいっ! 真弓! しっかりしろっ! んなこっちゃ、東さんにすてられるぜっ!」
って、俺達(俺左半身と俺右半身。うーん、これが本当の俺達だ)も叫ぶ。けど、駄目。
「……|礼《のり》|子《こ》さん。どうしよう」
「ん……この穴ン中――元の世界へもどるのは、まだ、ちっとばかしやばそうなんだ。とすると、しばらく――とにかく、下のもぐらとヒミズの戦争っつうのがおさまるまで、俺達ここにいなきゃいけない訳なんだから……とりあえずは、先刻までいた、木の比較的はえてるとこ――多少なりとも視界をさえぎるものがあるとこまで、逃げた方がいいと思う」
「とすると、こいつを担いでもってくしか……」
「ないだろうね」
山科は、顔をしかめると、何とか真弓を抱きあげた。
「う……」
うめいたりして。
ま、それも無理ないとは思うぜ。だって、真弓、一八○くらい背があって、がっしりしてて……多分、体重は九十キロはあるだろう。それに対して山科。こいつ、背が一六五だから……六十数キロ、あって七十だろうからな。
「お……重い」
よろける。よろけて、あやうく真弓をおっことしそうになり、また何とか体勢をととのえて、歩きだそうとして……二歩あるいて、また、よろける。
「おい、そいつ、おっことしちまえよ」
「んなことできるか」
「いや、おっことしゃ、目をさますんじゃないかと……」
「駄目だよ、危険すぎる。おっことして、頭でも打ったら」
「ま、そりゃそうだな」
なんて悪戦苦闘しているうちに。ようやく砂姫がおいついた。
「ね、この子、どうするつもりなの」
「あの木の方へ持ってこうと思って」
「ふ……ん」
砂姫、真弓を抱いてる山科の上から下まで視線をはわせる。
「かして、善行」
「ん? 貸すって何を」
「真弓君。あたしが持つわ」
「無理言っちゃいけない。女の細腕で」
って言いながらも山科、よろける。
「いいから砂姫にまかしちまいなよ。砂姫の方が多分力あるぜ」
「何を|莫《ば》|迦《か》な。とにかくこいつは俺がはこぶよ……わっ!」
「わっ!」
山科が叫ぶ。俺も叫んじまう。
砂姫! お、おまえな。いくら力があるからって……。
砂姫は、ひょいと、真弓をかかえた山科を持ちあげちまったのだ!
「ね? あたしの方が力あるでしょ」
山科が青くなって口をぱくぱくやってんの見て、砂姫、にっこり笑う。それから山科を地におろして。
「さ、あたしに貸して」
今度は山科も、嫌だとは言わなかった。
☆
真弓を抱いた砂姫は、いとも軽々と……ひょいひょいひょいと、まるで何も持っていないかのように、なだらかな土の上を歩きだした。
「砂姫……おまえまさか、ウェイトリフティングでも……」
「やってたのよ」
砂姫、平然とうけながす。
「ちょっと凄いでしょ」
「いや、おおいに凄いが……しかし、よくその、筋肉のありそうもない腕で……」
吸血鬼と人間とでは、おそらく筋肉の質が違うんだろうよ。
それにしても。一応、このことが一件落着したら、俺、じっくり砂姫に聞いてみよ。
吸血鬼って、一体全体、どんな生き物なんだ?
確かに、ヴラム・ストーカーの描くドラキュラは、やたら力が強かった。吸血鬼カーミラは、砂姫風美少女、チョコレートか何か飲むだけで、食事はしなかった|筈《はず》。(もっとも俺思うんだけど、チョコレートって、やったらカロリーあったんじゃないっけ?)萩尾望都の描くメリーベルなんて、ふれたらこわれそうなイメージがあった。クリストファー・リーだったっけ、とにかく昔映画で見た吸血鬼は、何か妙にセクシーだった。
そして、砂姫は。どれにもあてはまるところがあるような、全部あてはまらないような……。
俺の、無責任な思考は、すぐ、とぎれた。
何となれば――な・ん・と・な・れ・ば。
でてきたんだ、もぐらが! 処々に、もぐらよかもうちっと小さめの、どっちかっていうとネズミみたいなイメージの奴もいる――これがヒミズだろう。
もぐらとヒミズが、何故かぽこぽこ地面から首だして。砂姫も、山科も、それを踏まないよう、一所懸命足のおき場を考えつつ歩いてるみたいだ。
ただ。もぐら君もヒミズ君も、俺達には全然関心を払わず――それはいい。でも。
お互いに。
もぐらはヒミズを、ヒミズはもぐらを、はしっと睨んでる。まるで――そう、まるで、宿敵に出あったかのように。
地下で――というより、元来の人間の世界で、もぐらとヒミズが戦争してんの知ってるような雰囲気だな。一瞬そう思って、はっと気づく。
知ってる筈だぜ! 俺が――俺が、教えちまった!
☆
その後のことは――その後一時間くらいの間におこったことは。俺、とても詳しくなんか書きたくない。ざっと書くのも嫌だ。でもまあ、省いちまう訳にもいかないだろうし……。
山科、真弓かかえた砂姫、俺の三人は、何とか無事、木の生えてるところについた。あと五百メートルくらいって感じのとこまで行くと、そのあとはもう、もぐらやヒミズを踏まずに歩くのが難儀じゃって感じになったけど、それでも無事、ついた。
しかし……しかし、まあ。よくこれだけのもぐらがいたもんだぜ。
地下にいたもぐらが、全部地面にべたっとひろがると――一面のもぐら。(あ、今、都合上もぐらで統一して書いてるけど、ヒミズもいる|訳《わけ》)むき出しの地面がほとんど見えない。それ程圧倒的にもぐらだらけ。
「うっ……」
「気持ち悪い……」
砂姫も山科も、こう|目《ま》のあたりにもぐらの大群見ると、何か、心理的にめげるみたい。|先刻《さっき》おわれてた時は、トンネルの中でよく見えなかったし……それに、おそらくは、先刻の数倍はいそうだ。
……で。これだけのもぐらとヒミズが、何もしないで地面にべたっとなっているだけでも充分不気味なのに……更に輪をかけて不気味なことに、そのもぐらとヒミズが、戦いだしたのだ。
双方とも、武器は持っていない――ま、これはあたり前だ。攻撃用のつめとか、鋭いきばとかもない。故に本当に肉弾戦って感じで……おまけに。
おい! 戦争すんなら、もうちっとそれらしくやってくれ! 別に、軍学か何か学んでそれにもとづいてやれ、とは言わないから……せめて、きちんともぐら軍とヒミズ軍に分れて、大将か何か決めてやれよ! こんなごちゃごちゃ、ゆきあたりばったり、相手をみつけたらとびかかる、みたいなやり方は、やめて欲しい。まるっきりの大乱戦。
「どっちが優勢なんだか……さっぱり判らんな」
「ああ……」
手前の方では、ヒミズの数の方が多いらしく、ヒミズが優勢。ななめ前方ではもぐらの数の方が多く、もぐらがおしている。左うしろの方はもぐらの……。
おまけに。|処々《ところどころ》、もぐら団子(他に言いようがない)みたいなもんができてんの! 一匹のヒミズにもぐら数匹が襲いかかり、それ見た他のヒミズ数匹がそのもぐらに襲いかかり、更にそれ見たもぐら数匹がヒミズに襲いかかり、更にそれ見たヒミズが……っていう奴。もぐらだかヒミズだか判別のできない、小動物の群れが数十匹集まっておしくらまんじゅうしている。そんな感じになっちまってる。
「あれだと……内側の方にいる奴、どれが敵でどれが味方だか、判んないんじゃないか……」
思わず呆れて山科が呟く。
「ああ。大体、内側の方の奴、外からこんなにおされて、動ける訳がない。あれの内側はいっちまったら、もう、自分が何やってんのか判んないんじゃないのか」
「多分ね。……あれだと、相当、圧死が出そう……」
砂姫の声が、暗くしずんでしまう。
そう。確かに、ボタン一つで核爆弾か何かが破裂して、一瞬にしてみんなふっとんじまう近代戦争は悲惨だぜ。自動小銃か何かで、だだだだ……って相手を殺しまくる奴も、悲惨だと思う。日本の武士なんかの、刀できりむすぶ奴だって、血は大量に出るし、腹なんか切ったら腸ははみ出すし、なかなか死にきれないし、悲惨だよ。
でも。悲惨さの点では、このもぐらVSヒミズ戦争も、そうそう滅多にひけはとらないと思う。
だって。ゆきあたりばったり、目についた相手にかみつき――相手が死ぬまでそれを続けることによって成りたってんだぜ、この戦争。その間、休みも何もなしで。おそらく、この戦争で出る死者は、全身打撲とか、圧死とか、出血多量とか、衰弱死とかいう奴ばっかだろう。どれもこれも、なかなか死にきれず、相当途中で苦しむものばかり。
「もぐら帝国の崩壊に結びつくだろうな、これ」
「どうしてさ」
「これ、数の戦争だもの。実数は判んないけど、もぐらもヒミズも、目立ってどっちかが多いって訳じゃないだろ。仮に、もぐらが一万でヒミズが九千だとするよ。と、この戦争がおわるまでには、ヒミズが九千、もぐらが九千くらい死んでて、残った千のもぐらだって、相当弱ってんじゃないのか? で……」
|成《なる》|程《ほど》。もし、このままの状態が続いたら――早晩、ここにいるもぐらとヒミズの大半は疲れ果て、なし崩しに死んでゆくだろう。
「とめ……なきゃ。とめようよ」
砂姫、うわずった声あげる。
「こんな悲惨な、こんな莫迦な死に方、させちゃいけないわよ。あんまりみじめで可哀想だわ」
「もぐら達が全部死んじまえば、俺達、安全に地上へもどれるんだぞ」
俺、一応、この点を注意してやる。と、砂姫、おっそろしい――鬼もかくやって目つきで、俺を|睨《にら》んだ。
「誰の台詞よ」
「あん?」
「誰の台詞よ、それ。何でそんなこと、思えんの」
……やば。本気で砂姫、怒らせちまったみたいだ。
「おい、ちょっと、ごめん、ちょっと言ってみただけ……」
「ふざけないで欲しい。あそこで――目の前で今、何万、ひょっとしたら何百万って命が死んでゆくんだからっ! それを、何、わずか数人の命を助ける為に、数百万の命を奪う|訳《わけ》」
「いや、その、ごめん……」
「この地球の上で生かしてもらってるくせに、よくそんなことが言えるわね。いやしくも、自分がこの生命共同体の中で生かしてもらっているって自覚があったら、絶対そんなこと言える訳ないわよ。そうよ、判ってんの? あなたが生きてゆく為に、お天道様があなた照らしてくれて、植物が酸素作ってくれて、数多くの生物があなたに食べられてくれてるのよ」
「でも……あの、もぐらだって、みみず喰うだろうが。みみず喰って――他の生き物殺して生きてる訳だろ」
「そうよ。誰だって――どんな生物だって、他の生物の犠牲なしには、びた一秒[#「びた一秒」に傍点]だって、生きてゆけないんだから。だからそんな、自分を生かしてくれる他の生物を殺していいのは、それが、自分が生きる為に必要不可欠な時だけよ。お食事っていうのは、そういう、神聖な――感謝の念なしにはとりおこなえない、一種の儀式なのよ。それを何? 食べる訳でも何でもなく、それをしないと自分が死ぬって危機にたちいたった訳でもないのに、何百万って生命が死んだ方が都合がいいですって? あなた、それでも生物なの」
「ごめん……」
「謝ってすむ問題じゃ――謝ってどうこうって問題じゃないわよ。あなたの考え方って、どっか凄い根本的なところで、おかしいのよ。大体それで」
「ちょっとごめん」
ふいに山科が、会話に口はさんだ。そして。
ぱん。
少し、軽い音。それから、呆然と口をあける砂姫。山科、軽く砂姫のほおをはたく――いや、ほおをさわったっていう方が正確かな、とにかくそんな風なことをした。
「な……何」
よもや、こんなとこで自分がぶたれるとは予想だにしていなかったのであろう砂姫、呆然と口をあける。
「いや……ごめん」
のほほんと山科、謝って。
「でも、今、そんなこと口論してる場合じゃないだろ。それに……何ていうのかな、ことの是非はおくとして、|礼《のり》|子《こ》さんとしてはそう思っちまった訳だ。思っちまったことは、今更本人にも変えようがない訳だし、まして、それについて怒ったって、仕方ないだろ」
「そ……そりゃ、そうだけど……」
「その上、礼子さん本人が、そんな台詞を言っちまったことを、一応反省している」
しゅん。俺、一応は反省していたものの、更に深く反省ポーズを作る。
「これを今更君が何と言ったって……仕方ないだろ」
「ま……それはそうだけど」
「俺達人間はね、万物の霊長だ、なんて言って、勝手に思いあがっていたのかも知れない、確かに。だけど……それは、逃げる訳じゃないけど、今までの教育のせいで……それについて、礼子さんを怒ってみたって、仕方ないんだよ」
「…………」
「まして、本人は反省している。砂姫ねえ、君、これ以上彼女をおいつめて、どうするつもりだったんだ……」
「…………」
「な? 思っちまったことは、仕方がない。言っちまった台詞も、二度ともとには戻らない。とすれば、礼子さんが反省したところで、この件はピリオドだろ」
「う……ん」
砂姫、のろのろとうなずく。
「じゃ、この件はこれでおわりだ。……な?」
砂姫、再びのろのろとうなずくと、ゆっくり、こっちを向いた。
「先刻はごめん、|礼《もと》|朗《あき》」
「いや……」
俺の方としても、何と言っていいのか困ってしまう。
「確かに俺……おまえに言われるまで、生かしてもらってる、なんてこと、考えたこともなかったし……すまん」
「ううん。あたし、あせりすぎてたみたい。人間が、自分は一番えらいんだって考え方から抜けでるまでは、ずいぶん時間がかかるのよね。それ忘れて……礼朗は、一応、反省みたいなもん、してくれてたのに……ごめん」
「……すまん」
二人して、謝りあって。何か……何というのか、俺、すごく……罪悪感っていうのとは違う、でも、それによく似た感情、おぼえていた。
砂姫を、本気で怒らせちまった。人間の中で、俺だけを特別扱いにしてくれる女の子を。そして――砂姫が怒るのも無理はないんだ。決して砂姫は理不尽なことで怒っている訳ではなく……。
情けなかった、俺、たまらなく。
「|礼《のり》|子《こ》さん、そんな、沈まないで」
山科が何とか俺の気をひきたててくれようとする。
「いや……沈んでる訳じゃなくて……情けなかったんだ。俺、今まで、あまりにも何も考えずにいたんだと思うと……」
「そりゃ、俺だってそうだよ。けど……すんだことをずっとぐじぐじ悩んでいても仕方ない訳だろ。今まで何も考えなかったのなら――これから何か考えるようにすればいいんだよ。……な?」
「ま……そりゃ」
そりゃそうだけど。そう言いかけて気づく。そりゃそうじゃない! 山科や真弓にとっては、そうかも知れない。けど、俺にとっては。
「ん……何……」
もぞもぞと、真弓が動きだす。どうやら、ようやく、気絶からさめたらしい。
山科と砂姫が、何とか真弓をたすけおこして立たせてやって、今の状態の説明をしている間、俺は一人でおちこんでいた。
だって。山科や、真弓には、“これから”があるけど――あの二人は、“これからやりなおす”ことができるけど……俺、できないんだ。俺には未来がないんだ。自嘲的にこう言うのでもなく、自虐的にこう言うのでもなく、世の中はす[#「はす」に傍点]にかまえてこう言うのでもなく。
本当に――俺には、これっぽっちも、未来がないのだ。だって俺――間違いなく俺、死んじまったんだもの。死んじまってんだもの。死人にやり直しはない。死人に未来はない。
俺が、何故、昇天することもできず、こんなとこにいなきゃいけないのか――ようやく、ほんの少し、判ったような気がした。
未練がありすぎるんだ。
生きてる時は――それに、死んでからしばらくの間は、俺、よもや自分が、現世に未練があるだなんて、思ってもみなかった。これっぽっちも思っちゃいなかった。
生きてる時から、幽霊だと思ってた。死んで幽霊になっちまってからも、ま、こんなもんだぜなんて思ってた。
けど。生きてる時と、幽霊になってからは――あまりに違うことが、たった一つ、あるんだ。
幽霊は、やり直すことができない。幽霊は、たとえ見えたとしても、たとえしゃべれたとしても、結局、この世界に何一つ関与できない、アウトサイダーなんだ。本人がアウトサイダーをきどるのと、本当に、他者からみてもアウトサイダーになっちまうのとは、全然違う――この二つの間に、とてつもなく深いさけ目がある。
生きてるうちに、気づきたかったな。こんなこと。
生きてるうちに、考えたかったな。いろんなこと。
生きてるうちに……。
気づくと俺、いつの間にかうずくまって……泣いていた。少し。
声はたてない――たてられない。涙がおちても、それは地面につかないうちに消える。幽霊のだす涙には、実体がなくて……そんなものが、地面にしみこむ訳にはいかないだろう。
「おい……|礼《のり》|子《こ》……さん」
「|礼《もと》|朗《あき》……」
三人が、妙に重たい声で、俺に話しかけてくる。うずくまって泣いている俺を、円でとりかこむようにして。
「|礼《もと》|朗《あき》……」
「そうだよね……ごめん。君に、やり直しはきかないんだ……」
山科、なぐさめようとしても、今回ばかりは言葉がみつからないよう。
「|礼《もと》|朗《あき》、ごめん……。今まであなたが、あんまり平然と幽霊やってたから……つい、あなたが死んだってこと……実感できなくて……何か、生きてそこにいる仲間みたいに思えちゃって……ごめんね……」
砂姫の声は、重たくかすれている。砂姫の方が、泣きだしちまいそうだ。
「ごめんね……ごめん」
「いや……いい……」
何がいいんだかよく判らない。でも、こう言っちまう。いや、いい。いいよ、砂姫、おまえがおちこむことはないんだ。おまえは、明るく脳天気な吸血鬼やってりゃいいんだ。おまえが――脳天気と陽気と適当が服着て歩いてるみたいな、そんなおまえまで、おちこむことはないんだ。そんなおまえにまでおちこまれちまったら、俺――俺、どうしようもないじゃないか。おまえがおちこむような事態っつったら、もう、本当に救いがないみたいじゃないか。
いつかは、俺も、納得するよ。死んじまったってことは、本当に救いのないことだって。でも――今はまだ。今はまだ、ようやく生きてることに未練をもちだしたところ。だから今はまだ、半分生きてるみたいな感じで、おまえ達の仲間みたいな感じで、扱ってて欲しい。……な。
だから。いや……いい。
奥歯を、軽く、舌でさわる。まだ治療中の虫歯一本。それから、ゆっくりと唇をかんで。そして、口をあく。口をあいたら。言ってやろうじゃないか。喉元まで出てきている|台詞《せりふ》。
「いいんだ……俺、ちっと、弱気になってたみたいだから。砂姫に泣かれると困る」
「どう……して」
そして。この台詞を言っちまったら。笑ってやるよ。にっこりと、とはいかないまでも、せめて、にやっと|嗤《わら》う程度には。それから、言うんだ。
「女泣かすと後がひどいからな」
なるべく、からかうような、そんなひびきをもたせて。
「やだ……|莫《ば》|迦《か》」
「はん、何が」
つって、こわばったほおを、何とかリラックスさせて。で。
「んなさあ、みんな、落ちこむなよ。俺、暗いムード、嫌だ。明るくやろ。少なくとも……状況設定がギャグなんだから。なあ」
俺だってさ。俺だって、その気になりさえすれば、これで結構|健《けな》|気《げ》になれるさ。“なあ”のあたりの声が、多少ゆれていたって、そのくらい、目こぼししてくれ。
「あ……ああ」
山科が、ちょっと呆然と声をだす。それから、優しく唇を動かして。
「ああ」
今度のは、本当に明るい――少なくとも、そう思える程度に明るさをよそおった声。
「ああ、そうだな。なぐさめるつもりで、落ちこんじまうってのは、ひでえよな」
「ああ、ひどい」
ゆっくりと、四者四様の微笑み。山科、あんたさ、気が弱そうに見えんのは、実は優しいからなんだな。一見優しそうに見えて実は気が弱い、なんていうのと違う、一見気が弱いように見えて、実は優しい。本物の優しさ。あんたの微笑ってのが、一番それらしく見えるぜ、本当。
ゆっくりと、風が吹く。何の木だろう、広葉樹の葉がゆれて。もぐら達の動きが、何だか風にあおられる波のように見えた。ゆっくり、ゆれる、茶の波。生きている波。
俺、少し、目を細めてみる。ゆれる、茶の波。生きている、波。
俺、転生なんて、信じてないけど――でも、ひょっとしてひょっとしたら、来世はもぐらかも知れんしな。そして――あの波は、今、生きているんだ。今、生きて動いて――まだいかようにでも、やり直しができる奴ら。
助けてやろうな。
自分に言いきかせるよう、心の中で呟いてみる。
助けてやろうや。あいつらが、やり直しのきかない身分になっちまってから、後悔することのないように。
やり直しのきかない身分になっちまってから、後悔することのないように……。
PARTY 遺伝子の輪をくぐり抜け
「やめて! やめなさいよ! お願いだから!」
俺達が、多少しんみりして、でも精一杯明るくふるまおうとしているところへ、急に大声がきこえてきた。あ――|東《あずま》嬢。いつの間にか穴からでてきて、おまけに背後に十匹以上の巨大もぐら従えた東嬢、涙声でひたすらこう訴えてる。
「やめろっ! おいっ!」
「×××! ×××!」
うしろの巨大もぐら達も、|一《いっ》|斉《せい》に何やら叫ぶ。
「あれだもんな……」
「ああ……」
俺と山科、木の陰から首だして、肩すくめあう。
「あれって何が」
「女王様であるところの東嬢がやったって、ああ――みんな、言うこと聞きゃしないんだ。ま、あんだけ頭に血がのぼってんだから、無理ないとは思うけど」
「そう……ね」
ようやく|砂《さ》|姫《き》も、納得したような声を出す。
「こんな状態で、部外者のあたし達が何か言ったって……まず、おさまらないでしょうね」
「ああ」
「正攻法じゃ駄目だな」
山科、この世界へ来て初めて煙草くわえる。そのまま、そこへあぐらかいて。
「ここはまず、どうやればあの争いをやめさせることができるか、それを考えるとこから始めなきゃ」
「|善《よし》|行《ゆき》、そんな悠長な」
「急がばまわれ。これが一番の早道」
っつって、深々と煙草吸い、ふうって煙はく。うまそう。俺も吸いたい。
「一本くれ」
「あ……ああ」
って山科、俺にハイライトの箱さしだし、それから妙な顔して。
「おまえ、吸えんの?」
「ああ」
って答えてから、質問の趣旨にきづく。そうだ、こいつ、俺が――生前の俺が煙草吸ったかどうか聞いてんじゃなくて、今、幽霊となった俺が、煙草なんつうもんを物理的に吸えるのかどうか、聞いてんだ。
「え……と……やってみる」
やってみる。……吸える訳ないんだよ早い話が! まず、箱から煙草一本とりだすことすら……とりだすことすら。手が、箱、つき抜けちまう。
「えーいくそっ!」
「……は。無理みたいね」
砂姫が煙草一本抜いて渡してくれたんだが……それすら、うけとれん。
「やめよう」
山科、まだ二、三口しか吸ってない煙草を地面でもみけす。
「何か、禁煙中の奴の前で、これみよがしに吸ってるみたいな気になる」
「俺のことは気にしなくていいぜ。煙さえ、みせびらかさないでくれれば」
そう。あの煙さえ、みせびらかさないで……ん? けむり? そうだ、け・む・り。
「火事だ!」
「え、どこ」
「どこだ火事は」
真弓、こういう時だけ嫌に素早く立ちあがって、あたりをきょろきょろ見まわす。
「あ、違う、悪い」
俺、|慌《あわ》てて否定。
「今、火事があるって言ってる|訳《わけ》じゃないんだ。火事おこすってどう?」
「火事……?」
「そう。今、たった今、目の前で大火事がおこったら、けんか続けようもないだろ。ほら、犬のけんかに水ぶっかけるのと同じ」
「……|成《なる》|程《ほど》、火事か。それは名案」
って真弓がもちあげたのに。
「じゃないわよ」
すぐ砂姫に否定されてしまった。
「この、ただただだだっ広い平原の何を燃やす訳? 燃えそうなもの、何もないよ」
……それはいえる。でも、そこはかとない抵抗。
「木は?」
「生木なんて、そう簡単に燃えるもんじゃない」
と、これは山科。
「それに大体、仮に火事をおこせたとしてもだよ、そのあと、どうするんだ。火が燃えている間は、確かにもぐら達、戦争をやめるかも知れない。でも、火が消えちまったら」
うーん。
「確かにそれはそうかも知れない」
なんて、真弓まで、ころっとねがえっちまって。
「大体――半永久的に火事おこしとく訳にもいかないし」
「と、この名案はおクラ入りか……」
「ま、そんなもん」
「とすると……」
しばらく沈黙。みんな、それはそれは真面目な顔してる。と、砂姫が。
「ね、基本的なとこから考え直していこうよ。まず、この、もぐらVSヒミズ戦争の直接の原因は何」
「地上にいた頃のもぐらとヒミズのエサあらそい」
「……原因は食糧か。とすると、これ、すごおくやっかいね」
砂姫、軽く視線を上へむける。
「そうだわ……おそろしい程、やっかいだわ。人間の戦争と違って、目的が抽象的でない――食糧なんて、生命維持に絶対必要なものよね。原因が具体的で、本能に近ければ近い程、あらそいをとめるのはむずかしくなるわ」
「それに、お互い、将がいてその|許《もと》で戦ってるって訳じゃない。こういうけんか程、とめにくいものはない」
「おい、ちょっとまてよ。マイナス要因ばっか列挙しても仕方ないだろ」
「だってマイナス要因しかないんだもん」
うーん。少し考え。あ。
「あ、プラス要因、あるかも知れない」
「何?」
「この世界の食糧状況だよ。東嬢達、第五期移民とか、第六期移民とか言ってたろ。移民をうけいれる際に、考えなしにどんどんうけいれるってことはないだろうから……おそらくは、この世界の食糧状況、すごくいい|筈《はず》だ」
……思いだした。あの、だい大群のみみず達。それに、この世界にいた、あの巨大みみずの群れ。あんなもんを週に一度導入したり、あんなもんがいるんだからな。それはそれは食糧状況、いい筈だぜ。
「でもそれって仮定でしょ」
「東嬢に聞いてみりゃいいさ」
俺、にっと|嗤《わら》う。お、ちっとばっか、ハードボイルドの気分。
「俺にしたって、いろいろ彼女に言いたいことあるしな」
「お、おい、ちょっと……」
真弓が、何故かおどおど、俺の方を見て言う――俺の方、いや、俺のうしろ。
「何だよ」
っつって、俺がふり返ろうとしたら。
「わたしに言いたいことって何です?」
……まうしろに、東嬢が、つっ立っていた――。
☆
「あなた達は……本当に、人間って種族は……」
東嬢は、何故かえらく怒っているようだった。何も内容のあることが言えず、ひたすら同じ台詞を繰り返している。
「本当に人間って種族は……何で……何だってあの、無邪気でかわいいもぐらに、あんなひどいこと教えたんです」
「……どんなひどいこと」
「利害関係の対立する二者は、共存できないだなんて……今、直接の利害関係がなくても、のちのち利害関係が対立するであろう者は、早めにほろぼした方がいいだなんて……この、もぐらとヒミズの戦争の基本原因は、連中が人間の思想なんかにかぶれたせいですよ!」
「そこまで言うのは、言いすぎなんじゃない」
砂姫、東さんをみるや否や、多少ふんぞり返るようにして――東さんの方が、砂姫より背が高いのだ――腕を腰にまわす。|睨《にら》みつけるようにして。
「たしかに人間は、他の生物のお手本になるような、理想的な生き物じゃないわよ。もっと正直に言っちゃえば、人間の|真《ま》|似《ね》なんかしたら、ろくなことはないだろうと思う。でも、人間が、僕らの真似をしてくれって言った訳じゃないし、人間がもぐらを教育した訳でもないでしょ。もぐらが勝手に人間の真似をしたのよね。勝手に真似しといて、で、それについてどうのこうの言うのは……それこそ、ちょっと勝手なんじゃない」
ななめ下方から、砂姫の視線、東嬢をねめつける。と、さすがに東嬢、いささか鼻白んだ顔になる。(砂姫は、なかなか派手な、西洋風の目鼻だちのはっきりした顔をしているので、その砂姫が睨むと、かなり迫力があるんだ)
「ま……それはそうなんでしょうけど……」
「そうよ」
歯ぎれの悪い東嬢の|台詞《せりふ》、砂姫のあまりに歯ぎれのよすぎるしゃべり方に圧倒されっ放し。
「それに大体、あたし、お宅のこと、許せないの」
「わたしを……許せない?」
東嬢、いつの間にか逆転して、責められる方にまわってしまった自分の立場に、多少驚いているみたい。
「そうよ。あなた、|礼《もと》|朗《あき》に――いえ、斎藤さんに、何したの」
「その……気絶させただけ……」
「嘘おっしゃい! 何で、気絶させられただけで、彼が――彼女が、こんなに異様な幽霊にならなきゃいけないの。普通じゃないわよ、こんな幽霊。それこそ、本人がいってるみたいに、殺されて、料理されて、この二人に食べられた、とでも思わなきゃ、理解できないじゃない、この幽霊の格好」
この二人、と言うところで、砂姫、山科と真弓を指す。指されたとたん、二人共、いたずらをしかられた子供のように、びくっと体ふるわせて。……そうなんだ、こいつが本気で怒ると、さすが三百年も生きているだけのことはあって、とにかく迫力があるんだもん。
「で……|礼《もと》|朗《あき》の、斎藤さんの言ったことを信じるなら――そして、あたし、この状態で人間が嘘つける訳ないって信じてる――あたし、あなたを許せないのよ! ……別にね、人間を殺すのが、そんなに悪いことだとは言わない。もし、あなたが、生きてゆく上で人間を食べる必要があるなら……あなたの捕食の対象が人類なら、人間殺したって、それは無理のないことなのよね」
山科と真弓、話の進行がまったく予想外だったのだろう。ぽかんと口をあけ放ってる。
「なのに! あなた、殺した|礼《もと》|朗《あき》を――斎藤さんを食べなかったじゃない! 食べなかったのみならず、それを、人間を捕食の対象としていない――人肉を食べることをタブーにさえしている人間に食べさせるなんて! 最低よ! あなただって、生物で、他の生物を食べて生きているなら、もうちょっと、生命に対する尊敬の念を持ちなさいよ!」
深々と息を吸う。
「お百姓さんありがとうっていう素直な気持ち忘れたら、生物やってらんないわよ!」
「……うん。それは、あなたの言うとおりだと思う」
砂姫の、吸血鬼的論理の展開に、山科も真弓も――そして勿論俺も、あぜんとしていると。東さんだけは、何故かしみじみ、そのとおりねって感じの声を出す。
「本当、あなたの言うとおりよ。あなた、人間にしては、いやによく道理をわきまえてるわ。本当、人間で、ここまでちゃんと考えてる人がいるとは思わなかった」
「まあね」
は。何とでも言ってろ。人間じゃない生物が、二人そろってお互いほめあって、どうするっていうんだ。
「だからわたし……断言するんだけど、わたし、斎藤さんを殺してなんかいない。まして、その肉を、加工して人間になんか食べさせてない。……本当よ」
「だって、|礼《もと》|朗《あき》は、冗談で幽霊になれるような人じゃないわよ」
……あたり前だ。俺じゃなくたって――誰だって、冗談で幽霊になる奴がいるかよ。
「だって……わたしが山科さんと真弓さんに食べてもらったシチューって、間違っても斎藤さんの肉なんかじゃなかったわ。……わたしだって、その辺、ちゃんと考えてる。わざわざ加工してまで、あの肉、人間のお二人に食べてもらったのは、あの肉が、人間の捕食の対象になる生物だったからよ」
「人間の捕食の対象になる生物って……だって、それじゃ何で彼女、こんな無惨な幽霊になるのよ。大体、その生物って、何なの」
「“狼”よ」
「おおかみ!?」
俺、叫ぶ。
「人間が狼を喰うかよ!」
……喰うんだろうか。俺、こう叫んでから、考える。日本狼が絶滅したのって、まさか、日本人が日本狼を食べたせい……じゃ、ないよなあ……?
「食べるじゃない。チキンライスとか、チキンカレーとか、ローストチキンとかっていって」
「へ?」
「何で狼がチキンになるの。チキンって、にわとりよ」
「だから、にわとりが“狼”なんだってば」
「え?」
……話の筋が、全然みえない。
「チキンはにわとりで、狼はウルフよ」
「だって、“羊”を食べるのが“狼”でしょ?」
「にわとりって、羊喰ったっけ?」
俺、思わず本気でこう聞いてしまう。食べないだろうとは思うけれど、絶対食べないと断言はできない。
「そんな話、聞いたことない。ま、にわとりは肉食……いや、まてよ、でも……ま、羊だって肉では……けど……サイズが全然違うじゃないか」
山科、少しうろたえ気味に、こう答える。
「ちょっとまって。普通、人間界の常識では、にわとりは羊を食べないことになってるわよ……と思うわ」
砂姫の表現がいささかあいまいなのは、砂姫も、にわとりは羊食べないって断言していいのかどうか、自信がないからなのだろう。
「そりゃ、にわとりの飼料の中に、こまぎれの羊の肉をまぜれば……食べるかしらね?」
誰も答えない。今まで、そんな|莫《ば》|迦《か》なことした人がいるって話、聞いたこともないし……。
「あ、別に羊じゃなくて、牛を食べるっていってもいいわ」
「うし?」
東嬢の無茶苦茶な台詞に、一同絶句。牛肉をエサにしてにわとり飼ってる農家の話なんて、聞いたこともない。
「……ちょっと待って。あなたの言うところの、“羊”とか“牛”って何なの? どうも、あなたの、羊や牛に関する知識、あたし達のそれとは違うみたいだわ」
「“羊”も“牛”も、まとめて――集団で飼われていて、で、のち、食べられたり何だり、人々の生活に役だつものよ」
「要するに、牧畜の対象となるもののことを、あなた、“羊”とか、“牛”とか思っちゃってる訳ね」
「え?」
東嬢、不審そうな声を出す。
「牧畜の対象となるものを“羊”って言うんじゃないの?」
「おい、嘘だろっ!」
俺、思わず叫んでしまう。
「あんた、何年日本人やってんだ! 日本語の意味くらい、正確に覚えとけ! 羊も牛も狼も、人間とかもぐらとかヒミズとかと同じで、ある生物群を指しているんだ!」
「えっ? そうだったの? ……ごめんなさい。わたし、羊、とか、牛、とか、狼、とかって生物、見たことがないものだから……ついついうっかり、牧畜の対象となるものが、羊、あるいは牛って呼ばれて、それを襲う生物を狼って言うんだと思っちゃったの。……ごめんなさい、まだ、人間になってから三ヵ月しかたっていないものだから……」
もう、誰も――ここまで異常なシチュエーションが続いちまうと――東嬢の、まだ人間になって三ヵ月しかたってない、なんて台詞には、驚かなくなっちまった。
「とすると」
砂姫、聞く。
「あなたが言うところの、羊とか牛って、いわゆる生物群を指す日本語でいうと、何になる訳?」
「ん……と、一番近いのがみみずかな?」
みみず! 成程にわとりは……確かにみみず喰うな。
「わたし達、人間のいいところを学ぼうっていうんで、ちょっと小耳にはさんだ牧畜の真似ごとみたいなのをやってた訳。で……みみず飼いがいて、みみずを襲う生物――にわとりがいたから、おのずとそれを、“羊”と“狼”って呼べばいいって思っちゃったの」
「とするとその……」
真弓がようやっと口をはさんだ。
「僕達が食べた“狼”っていうのは……」
「ちゃんとした日本語では、にわとりっていうのかしらね、やっぱり」
「にわとり」
真弓、心底安心したような、嬉しそうな声を出す。
「そうかあ、にわとりかあ……。いやあ、にわとりですかあ」
「じゃ、本物のチキンシチューだ」
山科も、嬉しそうな声をだす。
「にわとりなら、食べられる。そうか、本物のチキンシチューか」
放っとくと、二人しておどりだしそう。心底しあわせそうに、にわとりにわとりって騒ぎまくり。
「でも……」
砂姫が、ゆっくりと口をはさむ。
でも。俺もそう言いたい。
「何で善行と真弓君がチキンシチュー食べると、礼朗が二分割された幽霊になっちゃうの」
「その間の因果関係が、全然、判んないの」
あーん。そんなん、ありかよお!?
「|礼《もと》|朗《あき》が実はにわとりだった……まさかね」
「砂姫。もうちっとありそうな可能性を考えてくれ」
うんざりと、こう言ってから、でも、あせる。
俺、本当に人間だったんだろうか。
まさかと思うけど、俺、人間だという長い長い夢をみていたにわとりなのかも知れない。そうだ、俺が人間だったって、一体誰に断言できる。
俺はたった一人、この世の中でたった一人の、斎藤|礼《のり》|子《こ》という存在だ。この、基本大前提――ここに、我あり、唯一無二の我ありっつうのが――いとも簡単に、先刻、崩れたとこ。
それに。どう見ても人間に見えた――まさか彼女達が人間じゃない、だなんて、思いもしなかった二人――砂姫と、東嬢は、人間じゃなかったんだ。砂姫は吸血鬼だし……東嬢は……東くらこって、多分、東もぐら。
とすると。俺が人間であったって証拠は、一体全体、どこにあるんだ。
俺の人生において、出だしでは俺は男だった。なのに。中途で俺は女になった。
男として不完全――そもそも、染色体的には男ではない。
女として不完全――染色体的には女であっても、意識や過去の経験はすべて男のもの。
人類が、男と女で構成されているとしたら、じゃ、俺は何だ?
果てに、俺は幽霊になった。
男でなく、女でなく、幽霊にもなり、おまけにもう一人の俺はまだ生きている。
とすると。ここにもう一つ――実は俺はにわとりだったって要素がはいったって、俺、驚かんぞ。絶対、驚いてやんない!
「……ちょっとお、|礼《もと》|朗《あき》。まさかあなた、本気で、あるいは自分はにわとりだったのではあるまいかって思ってんじゃないでしょうね?」
俺が、あまりに長いこと沈黙したせいで、砂姫が、するどく口をはさむ。
「あ……ん……でも。一体、どこのどいつに俺がにわとりじゃなかったって断言できるんだ!」
尻あがりに声が大きくなってしまう。やば、またヒステリーみたい。おわりあたりの台詞が、ほぼ絶叫調だったんで、山科と真弓、手をとりあって喜ぶのを一時中断。
「じょおっだんじゃないわよ! あたしにはちゃんと目があるんですからね! あなた、絶対、にわとりじゃなかった」
「そうだよ。そんな……いくら何でも、自分がにわとりだっただなんて」
「んなこと判んねえだろ! 世の中には、確かなもんなんて、何一つないんだ。俺、いやって程、今日、それが判った。ここに俺の幽霊がいて、で、あっちに生きている俺がいて、おまけに俺は真弓達に絶対食べられてて、もひとつおまけに、真弓達が食べたのは絶対ににわとりなんだ!」
思い出していた。東嬢の部屋の生ゴミいれの中。どう見ても、にわとりのものとしか思えなかった骨。羽。
「だとしたら……ここまで矛盾する要素がひしめきあってんだ、ここにもう一つ、俺は実はにわとりだったってのがはいったって、どこに不思議があるんだ!」
「あなたはにわとりじゃなかった! あなたが、そんなに自分を信じられないっていうなら、あたしが言うわよ。あなた、にわとりじゃない!」
はん。何とでも言え。この、無茶苦茶な状態をどう解決つける方法があるってんだ。そんな超ウルトラC、あったら見せてもらいたい。
「大体そんなことより……俺が、斎藤|礼《もと》|朗《あき》が、一人の人間じゃなくて、現時点で二人――生きている俺と死んでいる俺がいるってことの方がよっぽど不思議だろ。よっぽど無茶苦茶だろ。俺は、この世の中に一人しかいない人間じゃなかったんだ。スペアのいる人間だったんだ。そんな莫迦なことがあり得るんなら、俺が実はにわとりだったっていうのも、俺が実はもぐらだったっていうのも、俺が実は狼だったっていうのも、あり得るじゃないか!」
俺は実は狼だった。
何故だろう。こう叫んでからあせる。この台詞が妙に――実にしつこく、頭の中にひびいた。俺は――おおかみ。
俺は、実は、狼だった。
あなたは狼です。
“狼”って、人間の言葉では“にわとり”よ。
無意味な――仮に意味があっても、全然意味の判らないフレーズが、頭の中を行ったり来たりしていた。これは……一体……。
とたんに、頭の中がコアセルベートになった。
まだ、生物が発生する前、太古の海にあった生命のもと。濃い、栄養ジュース。アミノ酸たちが、きちんとあるべき姿に結合すれば、それは生命を――きちんとまとまる、何かを形成する筈。ただ、その為には。刺激が欲しい。何か――この、頭の中のコアセルベートに。
「|礼《のり》|子《こ》さん!」
俺、|余《よ》|程《ほど》呆然としていたのだろうか。山科が俺をゆすっていた。ゆする――いや、この表現は不正確。山科は、俺のまわりの空間を、ゆすっていた。
「おい、大丈夫? どうしたんだ?」
それが、どこかすごく遠い処の声にきこえる。
「しっかりしろよ! のりこ! あんた、にわとりじゃないんだ! 何故ならば――そう、これが正しい論理だよ、俺達が喰ったのはにわとりで、それはおまえじゃないんだ! おまえの体は、|先刻《さっき》のところで、まだ、生きているだろ!」
「…………」
「それは、決しておまえが二人いるってことじゃないんだ。もっとずっと簡単な――先刻から考えてたんだ。あそこにあるのがおまえの肉体で、ここにあるのはおまえの心――生霊みたいなもんなんだよ、きっと」
あ……。かみなり。
何故か、俺ぼんやりそんなことを考えていた。かみなり――何だっけ。
コアセルベート――かみなり――刺激。
何だっけ?
「判るか、おい、|礼《のり》|子《こ》! おまえは、決して、そんなあやふやな存在じゃない。この世で、たった一人の――この世にたった一人しかいない、斎藤礼子なんだよ! あの生きてる体と、ここにいるおまえは、あわさって一つになるんだ!」
かみなりだあっ!
唐突に、頭の中のコアセルベートは、まとまりだした。そうだ、そうなんだ。すべてのものは、それが本来あるべきところへ戻らなければならない。
俺は、目をつむりさえすれば、心を落ち着けさえすれば、すべてを想い出すことができる筈。すべてを。
あなたは……狼……です。
そうだったんだ!
俺は――えい、畜生っ! ――俺は、俺は、本当に何て莫迦だったんだろう。俺が、ほんのちっと、莫迦な誤解をしたばっかりに……。
「やましなっ!」
かみつきそうないきおいで、叫んだ。本当言うと、胸ぐらにつかみかかりたい。
「な、なんだよっ」
「ありがとよっ!」
「……え?」
俺は――俺の、その、お礼を言うにはあまりにものすごい剣幕に|気《け》|圧《お》されて口あけてる山科の方から、くるりと東嬢の方にむきをかえた。
「ちょっとっ! 東っ! 一つ答えろ。死んだのは……もぐらだな?」
「え?」
「俺に催眠術かけた時、死んだのは俺じゃなくてもぐらだな[#「俺じゃなくてもぐらだな」に傍点]? あと、にわとり」
「え……ええ。あなたの下じきになって、もぐらが二匹死んで……その時、つい興奮して、わたしがにわとりふんづけてもぐらの処へ行っちゃったから……だから、わたし、そのにわとりの死骸を無駄にしない為に、シチュー作ったんだけど……今更それが何か?」
うわあおおお。
心全体が、叫び声をあげていた。
俺は――俺は、まだ生きてるんだ!
「山科、山科、山科!」
力まかせに山科の厚い胸板をぶったたく――いや、ぶったたこうとした。あいにく、俺の手は、山科の胸板ン中にもぐっちまったけど。えーい、霊の格好だと、喜びもろくに表現できないな。
「お、俺、死んでなかった! 生きてんだよっ! 俺の体のとこ、もどってくれ。何とかもどってくれ」
「あんなにはなれたがってたのに……?」
ことの成り行きが全然のみこめず、ぼけっとしていた砂姫、不審そうな顔できく。
「ああ。俺――帰るんだ」
「どこへ」
「すべてのものは、それが本来あるべき姿へ帰らねばならない」
「え?」
「俺、生き返るんだよ[#「生き返るんだよ」に傍点]! 頼む、山科、真弓、東さん。一度、生きてる俺の体のとこまで、ひき返してくれ。そうしたら」
狼――もぐら――ヒミズ――にわとり。そう、すべてのものは、それが本来あるべき姿に。
「そうしたら、俺、このもぐらとヒミズのけんか、やめさせてやる」
☆
この一言は、東嬢に非常に大きな興奮を与えたらしく、彼女、数頭の巨大もぐらに先導させ、俺達が何とか、あの俺の生きている体の許へたどりつけるよう、道を作ってくれた。
そう。
ことのおこりは、俺の――気が動転していた俺の、誤解だったのだ。
俺は、もぐらに催眠術をかけられた。
気絶しろ。これが、もぐら達が俺に与えた指示。ところが、残念ながら、もぐらは気絶というものを知らなかったのだ。で……表現が。
“狼”のような状態になるように。
おまけに。おわり近くなって俺、連中の声がほとんど聞きとれなくなってしまっていた。もともと、もぐらの声って、人間にききとりやすいもんじゃないし、軽い昏睡状態にはいってたものだから。あなたは、“狼”のようになります、の、あなたは、“狼”のとこまでしか、満足に聞きとれなかった。
俺イコール狼。頭の中に、潜在意識の深いところに、いつの間にかこのフレーズが、しみついていた。そこへもってきて。
次にはいった情報が、“死んでしまった”だった。まず、自分のことが頭にあった俺、当然、これの主語は、斎藤|礼《のり》|子《こ》だと思っちまったのだ――が。正しくはこの情報には主語がなかった訳で、ここで死んじまったのは、俺じゃなくて、もぐらだったんだ。俺をとりおさえていたもぐら。すごいいきおいで倒れた俺。その俺の、下じきになって死んでしまったもぐら。
そうだよな。いくら、ばたっと倒れたりしても、下にクッションになるもの――もぐらがいて(だってもぐら達、前後左右から、俺おさえてたんだぜ。どっちへ倒れても、もぐらがいた筈)、おまけに下がやわらかい地面なら。こんなとこで人間、間違っても死なん!
ただ。俺にとって、唯一不運だったのは、俺をおこそうとして(つまり、俺の体の下の仲間を救おうとして)、東嬢が、にわとりをふみつぶしちまったこと。深層意識下で、完全に“狼”(つまりにわとり)に同調していた俺、ここではじめて、自分が死んだって感覚味わう。
これだって、俺がもうちょっと落ち着いてりゃ、すぐ、間違いに気づいた筈だ。だって、俺が死んじまったって実感したのは、“死んだ”って声きいた少しあとだったんだから。
そして。ここで、完全に、にわとりと自分とをとり違えてしまった俺、意識だけが体をはなれて――にわとりにくっついちまったんだ。
このあとだって、ま、少し落ち着きゃ、判った筈なんだ、間違いが。仮にも、五十八キロもある俺の体――ま、そのうち肉が半分しかないにしたって、そんな山のような肉を、二人の男が食べきれるもんか。山科――あの、太っちょ山科だって、三キロが限度っつってんのに。肉が半分だとしても、三十キロ弱だぜ。男二人で食べきれる量じゃない。まして、自分の体重より重い人間を、誰の手伝いもなしに、たった数時間で、東嬢が調理できるもんか。
ま、死んじまったにわとりさんには誠に申し訳ない話だが……俺は、生きてるんだ! 俺は、生きてたんだ! 今、まさに生きてるんだ!
わあお!
☆
「ここにあるのが――失礼、生きてるんだから――ここにいるのが、斎藤|礼《のり》|子《こ》さんの体なんだけど……」
何とかかんとか、生きている俺の体のそばにたどりつくと、東嬢、多少言いにくそうにこう言った。
「そ……その……で、どうすればいいの」
「手、たたいてくれ」
そう言いながら、俺、自分の体をみおろす。背は高い――女にしては高すぎる。胸も、あまり、ない。完全に男性形という訳ではないが、やはり、女性として見ると、コンプレックスに悩まされても仕方ないくらい、小さい。
でも。おとがいから首への線。肉のあまりない腕。まろやかな腹。これは、あきらかに女のもの。女の――女性の、体。
だよな。俺、女なんだもの。
皮肉な感じでもなく、自嘲をこめた感じでもなく、ストレートにこう思うことができた。
だよな。俺、女だもの。
「手たたくって……普通に、ぱんって?」
「そう。普通に。ぱんって」
俺、こう言うと目をつむった。きつく。
「じゃ……いくわよ」
東嬢、かなり|怪《け》|訝《げん》そうな声で言う。おそらくは、他の連中も、きつねにつままれたような顔してんだろう。
そして――とにかく。
とにかく――そして。
東嬢、手をたたいたのだ。強く、ぱんって。催眠術師が、女の子をおこすようないきおいで。
ぱん、と。
☆
ぱんっ!
その音と共に、俺、何とも妙な感覚を味わっていた。
吸いこまれるのだ。巨大な、電気掃除機の前に立っていたかのように。
吸いこまれる――深い、深いところへ。
貧血――それも、立ちくらみなんかより、よっぽどひどい奴。そんな感じ。
目の前を、ピンクだの、黄色だの、いろいろな色の輪が、とおりすぎてゆく。あれは……本、だ。何故か、そう思う。あれは、本。今までの――生まれてから今までの、いろいろなこと。どこかで読んだいろいろな情報。誰かに聞いたいろいろなこと。それがつまっている本。
遺伝子、という奴かも知れない。今までの――種族としての、俺の記憶。単純な、海中を単なるタンパク質としてただよっていた頃から、ずっと続いている俺の家系。その家系を、その家系の中の一生物の生涯を、すべて記憶している本――遺伝子。
そんなことを思っているうちに。黄色い輪は、どんどん大きくなっていった。
俺、思った訳、最初。
この黄色い輪――記憶がある以上、この世の中で俺よりかしこい人って、いる訳ないって。
そして、気がつく。以前――もう、はるかに昔、これと同じ経験、したことがある。これと同じ――誕生のプロセス。
そうだ、誕生。うまれてくる時、遺伝子の設計図にもとづいて、俺の形ができる時。その時、俺は、どれ程の喜びにふるえていたことだろう。
俺は、何でも知っているのだ。本当に何でも。どんな真理、どんな感情、どんな歴史も、すべてこの――生物としての記憶の中に埋まっている。
俺は、この世の中で最もかしこく、最も真理に近づき――いや、この世の中でただ一人、真理を完全に把握した人間。その俺が、生まれる。
俺は、何にでもなれるだろう。一国の王にも、哲学者にも。救世主にだって、その気になればなれる。何故なら、すべての真理は、この俺の[#「この俺の」に傍点]中にあるのだから。
けれど、そんな思いは、黄色い輪の哄笑で、すぐうち破られた。
誰でも、生まれる前はそう思うのだ。思いあがるんじゃない。
黄色い輪――遺伝子は、そう言って笑った。
おまえはすぐに、何もかも忘れた、何も知らない赤子になるのだから。
どうして。生まれる前の俺、必死に抗議。俺の知識を奪うことは、人類の損失だ。
何故なら。笑い声は、近く遠く、黄色の遺伝子が発しているようでもあり、別な何かが発しているようでもあった。
何故なら。本当は、おまえは、何も知らないからだ。おまえの今の知識は、すべて借り物。砂上の|楼《ろう》|閣《かく》。
今一度、白紙になって、もう一回すべてのことを知りなおす。生きて――自分が経験して――そして、初めて、すべての知識は本物になる。ただ知っているだけのことと、実際にやって知ったことの違いを、その時おまえは知るだろう。
嫌だ。俺、必死の抵抗。今、俺は充分、何もかも知っている。もう一度、それを知りなおす必要なんてない。嫌だ。忘れるのは嫌だ。何で、何もかも忘れて、誕生しなきゃいけない。
意識が、オーバーラップした。
今、黄色い輪の中をくぐっている意識。二十一年前、母の胎内でもがいていた意識。その二つがかさなって。
二十一の俺と、生まれる前の俺は、同時に叫んでいた。
何で、何もかも忘れて、誕生しなきゃいけない。
人間というのは、いろいろなことを――楽しいことも辛いことも、何もかも――経験して、で、はじめて、遺伝子の中の知識を自分のものにするのだ。そして――得た知識で。おまえははじめて、おまえはようやく知るだろう。何故、おまえが生きているのか。生涯かけてその答を探すのが人間だ。
その為には、必要。本物の、知識が。知っているだけの知識ではない、やってみてはじめて得た知識が。
今にそれが判るだろう。
経験しないと判らないことが、どれ程世の中に沢山あるか。
今に――。
二十一の俺と、生まれる前の俺は、そう説かれて、妙に納得したような、妙に反発を覚えたような、何ともいえない感覚を味わっていた。
いつだったかな。電車の中で。美絵子と口論したことがあった。
あいつが、また、|莫《ば》|迦《か》なこと言う訳。フォークソングの、それも失恋か何か歌った奴聞くと、泣けることがあるだなんて。俺、それを目一杯莫迦にしたもんだった。と、美絵子、きっと俺の方を見て。
「|礼《もと》|朗《あき》は今までふられたことないんでしょ」
ああ。自慢じゃないが、俺はそれまで、ふったことはあってもふられたことはなかった。
「だから判んないのよ」
だから判んないのよ。そのフレーズが、たまらなく憎たらしかった。
「はん。やだね俺は。一人で夜、ヘッドホーンか何かつけて歌聞いて泣くだなんて、おまえ、恥ずかしくない訳。自己陶酔もそこまでいきゃ見事だぜ」
なんつってさ。
けど。美絵子と別れて少しして。俺、ようやく判ったのだ。状態によっては、ああいうもんって、泣いてしまうこともあるって。
美絵子と一緒に聞いたことのある曲。昔、美絵子とかわしたことのある会話に似た歌詞。そういうもの、全部、駄目。不覚にも、目頭がじんときてしまう。
そういう状態がいいとは決して、思わなかった。今でもそういうのって、極めつきの自己陶酔だって思ってるし、女々しい行為だとも思ってる。でも。自分でそれがいいと思わなくても、そうなってしまうケースがある。泣く気がなくても泣いてしまうことがある。
ようやっと、それが、判った。あの時。
そうなんだよな。そうなんだよ。経験しないと判んないことって、結構、あるんだ。
黄色い輪は、ずんずんずんずん大きくなって――俺は、その輪の中を、次々くぐっていった。巨大な黄色い輪――そして。
そして、目が。目が、つぶれそうだ。
目がいたい! いたい程、まぶしい。
そんなに光が強かったって訳じゃない。久しぶりだったのだ。すごく、久しぶりに、俺、光を見た。だるい体。
「あ……おい」
「|礼《もと》|朗《あき》……? 見える?」
何人かの影が――ええい、あまりにまぶしくて、顔の判別ができん――心配そうに俺をのぞきこんでいた。まるで、目の手術して、その包帯とった時みたいなとり扱われ方。
やがて、目が光になれてくる。慣れてきて――全員が、まるで後光をしょってたみたいだったのが、ようやく普通に近い状態になる。
俺のことを、心配そうに見ている山科。泡喰って震えている真弓。軽く唇をかんで、俺の顔をみおろしている砂姫。
「よお」
唇の左の端だけあげて、微笑を作ってみせる。かなり苦労を要したけど――ほんの一日体から離れていただけで、こんなに体動かすのにコツが必要だなんて思わなかった――何とかそれは、微笑にみえる表情となった筈。
「斎藤」
山科、何とかこう言って、笑ってみせる。少しひきつった笑顔。
「おまえ本当に……」
「あん?」
「おまえ本当に……生き返ったな」
☆
俺、何とか起きあがる。
あたりの空気が、なまあったかく、体にまとわりつく。生あったかい空気――うー、久しぶりっ。
それから、大きくのびをする。立ちあがって、土の山から出てきて、屈伸なぞして。動く! 動くんだよな、腕が。そして、足の裏にしっかりと、地面の感触。地面の感触……わお! 久しぶり!
「ね、どういうことなの? |礼《もと》|朗《あき》、どうして生き返ったの」
「生き返った訳じゃないんだ」
砂姫の頭に手をのせる。俺の手がふれる、砂姫の髪。その、さらさらとした、感触。わりと小さな砂姫の頭。
「俺ね、もともと死んでなかったんだ。死んだと思ってたのは、俺の誤解だったの」
「あん?」
いぶかる砂姫に、簡単に事情を説明する。それから、山科の胸を軽くげんこつでたたいてみる。
「よお、山科。俺……生きてんだよな」
「ああ」
山科も、軽く俺の鼻の頭をはじく。
「確かに生きてんだよ」
山科の手から、竹刀を受けとる。軽く二、三度振って。この、竹刀の手ざわり。竹刀が風をきる感じ。久しぶりの――ほんの一日やらなかっただけで充分久しぶりの、竹刀の手ごたえ。
「よっ」
一度、竹刀を放りあげてみる。それから、落ちてきた竹刀を宙でうけとめ。雑巾をしぼるような要領で、両手をぴんとのばし、竹刀、かまえる。思いっきり力をいれた左手が心地よい。腕から伝わってくる、生きているって実感。
それから、ゆっくりと、東嬢の方を向く。にって笑ってみせて。
「大丈夫だよ。んな心配そうな顔しないでも。俺、ちゃんと約束守る。ちゃんと、もぐらとヒミズの戦争、やめさせてやる」
ウインク。
「おい、礼子さん……本気か」
「ああ。まるっきり、本気」
「どうやって」
「あててみな」
右手から左手へ。左手から右手へ。竹刀を二、三度、移動させてみる。わざとぱしっと音をたてて。
「……全然判らん」
「おい、山科」
軽く山科の肩抱いてみる。
「おまえさ、それはないんでないか」
「あん? 何が」
「全然考えてみもせず、判んないとはさ」
「いや、だってさ」
山科、妙な笑顔うかべて、俺の手を払う。
「けど、おまえこそ、それはないんじゃないか」
「何が」
「今のポーズだと、まるでおまえが男で、俺が女だ」
くすっ。そんなもんなんだろうよ。俺、性別なんてものを超越した生き物なんだから。
「でさ、東さん、俺が行動おこす前に、ちっとばかし聞いときたいことがあるんだ。この世界、一体全体何なんだよ。少なくとも、ここ、俺達のいた世界とは違うよな」
「ええ」
東嬢、しきりに背後を――戦争している、もぐらとヒミズとを気にしながら、しゃべりだしてくれた。
☆
何つうのかな、砂姫流にいえば、東さんも目一杯数奇な運命の持ち主だった。
もともと、彼女の御両親が第13あかねマンションに住んでた|訳《わけ》。つまり、彼女が杉本夫妻の一人娘だっていうのは、本当だったのだ。で、彼女の父親は、大学の教授で、母親が助手だったの。両方とも、専門は生物学――それも、地中生物の研究。
だもんで、彼女の家には、もぐらとか、ヒミズとか、みみずとか、トビムシとか、ダンゴムシとか、いろいろいたんだって。で、まあ、その状態で育てば、みみずを気持ち悪いと思わない、割とめずらしい女の子ができあがっていた筈。御両親の住んでたところがここ――第13あかねマンションでさえなければ。
前にも書いただろ。ここ――第13あかねマンションって、何とも妙なところだって。よく人が消えたり、ドア開けると急に今まで見たこともないような妙な世界が見えちまったりするところだって。東嬢の御両親も、それにまきこまれちまったらしいんだ。
「父によれば、ここって、亜空間――っていうか、パラレル・ワールドにすぐ行けちゃう――何だか、異様に空間がゆがんでいるところらしいんです。とにかく、両親と、当時まだ一つだったわたし……ある日突然、この世界へ来ちゃったんです」
この世界。何というのか――植物の楽園みたいなとこだったらしい。陽は適当に照ってて、植物はあっちこっちにしげり。そこへ、人間三人と、そのペット――というか、実験材料だった地中生物沢山がやってきた訳。動物がいない広い地面のある世界――ここでは、もぐらにしろ、みみずにしろ、ダンゴムシにしろ、みんな、それなりにしあわせに生きることができたらしい。(もぐらが、やたらにみみずを喰うっての、前に書いたよな。そんなもぐらを数匹飼っていたんだから、東嬢のうち、もともとやたらみみずがいたんだ。もぐら一匹に対して、数百から千くらい。おまけに、こっちの世界に来た時期っていうのが、ちょうどみみずの繁殖期で、この世界、スタートの時点から、エサの無闇にゆたかな、もぐらにとっての天国だったらしい)
「ただ……やっぱり、ここの環境のせいでしょうか、両親と一緒にやってきた地中生物が、みんな、少しおかしくなっちゃったんです」
何つうのかな、例の、モゲラ氏とかウォグラ氏みたいに(モゲラ・ウォグラ、っつうのは、何と、もぐらの学名だってさ)、数世代たつうちに、やたら巨大になっちまったのだ。もぐらもみみずもダンゴムシも。中でももぐらは、突然変異か、あるいは亜空間にきちまったショックの為にか、知性を持つようになる。それをまた、杉本夫妻が教育しちまって、最終的には、人間なみの知能レヴェルのもぐら――日本語話せるもぐらが出現する。
やがて。東嬢が十一の時に、ダンゴムシ、絶滅。そして、東嬢が十三の時に、御両親がなくなってしまう。そのあと東嬢は、巨大化したもぐらに育てられる|訳《わけ》。
で。もぐら達にとってみれば、東くらこの御両親は、いわば恩人にあたる|訳《わけ》。だから、その恩人の娘の東嬢を、まるで女王のように、いつくしみ、あがめて育てたんだ。(東くらこっていう名前は、やっぱ、育ての親の東もぐら[#「東もぐら」に傍点]からとったんだって)
そして。東嬢が十九の時。あるもぐらが、まったく偶然に、地表へつながるトンネルを掘っちまったの。例の、重力逆転現象がおこるところ。
それまでも、あそこにトンネル掘ったもぐらは、沢山、いたらしい。でも、どのもぐらも逆転現象を、気味悪がってしまい、それ以上そのトンネルを掘り下げようとは思わなかったのだ。(どうやら、逆転現象がおこるのは、あの穴のあいている|処《ところ》だけらしい)
ところが。ある勇敢な――あるいはむこうみずな――もぐらが、その穴を掘りすすみ、ついにもといた世界の地表に出てしまったのだ。
大さわぎになった。もぐらにとっても、地表は一応、なつかしい故郷なのだ。ちょっとのぞいてみたくはあるが――かといって、この巨大化した姿で地表に出たら、人間にどんな目にあわされるか判らない。そこで、もぐら達の間に、地表へ続くトンネルを掘り、時々そこにもぐっては、地表をながめ、なつかしがるという流行がおこった。(数十匹のもぐらが、おのおの逆転現象のある処をくぐり、好みで地表へ続く穴を掘ったから――結果として、あのトンネルの内部が、いやにややこしくなったのである)
事故も、いくつかおこった。アスファルト、というものを知らない若いもぐらが、アスファルトをあくまで掘ろうとした結果、うえ死んだとか、穴――全長一メートルをこすもぐらが掘るから、結構大きな穴になるのだ――に、あやまって他の生物が落ちるとか。(ついこの間まで、彼らを悩ませていた“狼”は、人間のペットのひよこが、穴に落ちて、この世界で育ってしまったものらしい)
こうなると、東嬢としても、あまり冷静ではいられない。地表――つまり、故郷。両親が、すんでいた所。ものごころつく前、自分もすんでいた所。それに、もぐらと違って、東嬢は、地表にあらわれても、別に不思議はない体形をしている。
地表に行ってみたい。そんな東嬢の願いをきいた巨大もぐら達、一致団結して、東嬢の為に穴を掘った。昔、東嬢の御両親がすんでいた部屋へ続く穴。
こうして。人間界についての一般常識を何も知らない東嬢、ある日唐突に、あの部屋にあらわれることになる。
ただ。この世界と、人間界とでは、時間の流れがまるで違うのだ。それも、だいぶ、規則性なしに。人間の世界の一時間が、こちらの世界では三日間になってしまったり、また、三十分になってしまったり。故に、東嬢がいくら、自分は杉本夫妻の一人娘だって主張しても、誰もそれを信じてくれないってことになる。(だって東嬢、人間界の時間の感覚では、二、三年しか失踪してないんだぜ。なのに、二十年分はたっぷり、育っちまってる。それに、彼女としては、毎日規則正しく、人間界へやってきてた|訳《わけ》。ただ、彼女の世界と人間界の時間感覚が違う為、彼女は、いつ家にいるのかが判らない、謎の人物として俺達にあやしまれる破目におちいったのだ) で。まあ、とにかく、人間世界にやってきた東嬢、すぐに時間感覚どころではない、異常なことに気づくのだ。
何、これ。これ、何なの、この、アスファルト!
もぐらが。ヒミズが。ダンゴムシが。みみずが。とにかく、ありとあらゆる地中生物が。これじゃ、ろくに住めないじゃない。こんなに――とにかく、露出している地面が、これしかないのなら!
幼年期を地中生物学者――地面をアスファルトでおおうことを、あまり喜ばない人種――に育てられ、少女期をもぐら――地面をアスファルトでおおうことを、まったく喜ばない生物――に育てられた東嬢、あまりにもひどい失望、そして反発をおぼえる。
東京。この、大都会に。
人間がすめればいいってもんじゃない。人間がすめるだけじゃ――人間しか住めないんじゃ、あまりに環境として、なさけない。
かといって。東嬢は、アスファルトを、ビル街をこわす、どんな手段をも持っていなかった。まして、それを壊した時の、人間の反撃に耐えうるだけの力なんて、持っていなかった。
そこで東嬢、決心する。
わたしを育ててくれたもぐら達。見ててね。今、わたしが、あなたの種族に恩返しをしてあげる。地表で、あなたたちの種族――もぐらが、ここまで徹底して迫害されているのなら、いいわよ、こっちへいらっしゃい。東京があなた達を住まわせてくれないのなら、いいわよ、全員、わたしが面倒みようじゃない。
そうよ、それがわたしの使命だわ。
東嬢、目一杯、りきんでしまう。
そう。いつか、俺の抱いた感想――東嬢があの穴の中に、自分の子供をかくしているのではあるまいかっていう奴――あれ、ある意味では、正しかったのだ。
完全に成長しきってしまえば――成人になってしまえば、当然、もぐらより人間の方が大きく、強い。少女期をもぐらに育てられた東さん、一転して、全もぐらのお母さんって立場に立つ。おまえ達、みんなわたしが守ってあげるからね。そうだ、東さんが、偉大なる母ってイメージだったの、あたり前だ。彼女は、二、三人の子供の母じゃない、もぐらやヒミズって、生物群全体の母なんだから。もぐら界、ヒミズ界の聖母マリア様だったんだから。
そして。移民として、もぐらとヒミズ、また、食糧としてのみみずを集めだしてすぐ。東嬢は、当然といえば当然のことに気づく。
全もぐら、全ヒミズは、人間を憎んでいるのだ。
この状態を放置しておく訳にゆかなかった。建設途中のもぐら帝国の住民が、地表の人間とあらそうだなんて|真《ま》|似《ね》、させる訳にゆかなかった。
そこで、東嬢、考え、思案にくれ……。
夕方の街を歩いている時だった。東嬢が、電気屋にあった妙な箱――TVに気づいたのは。箱の中では、小さくなった人間が、何だかんだしている。それが、ちょうど、どこかのスペシャル番組で、催眠術をあつかっていた奴だったのだ。それを、何とはなしに、東嬢、じっと見た。
金時計。この間、モゲラが地中でひろってわたしにくれたもの。それとよく似たものを使って……。
ここで東嬢、とてつもないことを思いつく。金時計。そうよ、あれがあるんだから。あれを使って、移民のもぐら達に催眠術、かければいいんだわ。そうやって……。
金時計をひろってきた関係から、モゲラ氏にその役割がふられた。モゲラ、何とか本を見ながら催眠術をマスターし、もぐらもヒミズも、戦い、だの、テリトリーあらそい、だのを忘れたような日々をすごし……そして……。
☆
「とすると、この世界では、もぐら達の捕食の対象になる生物――みみずエトセトラは、割といっぱい、いるんだな」
俺、念をおすって感じで、東嬢にきいてみる。
「ええ。もともと――仮に、もぐらが一日に食べるみみずの割合を一とすれば、みみずは数百いるんですから」
「とすると……移民でもぐらやヒミズがやってきても……それって、直接には生存競争にはつながらない訳だな」
「ええ」
俺としてはさ、これだけ聞きゃ、あとはどうでもいい訳。
「じゃ、あれでしょ、そもそもこの世界では、生存競争、ないんじゃない。もぐらとヒミズが争う理由なんて、何も……」
砂姫、半ば涙ぐみながら言う。
「そうなんです。ここは、地下の楽園の|筈《はず》――だったんです。もぐら達が、人間の影響さえ、受けていなければ」
「それすべて人間のせいにしちまうのは、ちっと、ひどいんでないかい」
俺、にっと笑ってみせる。
「元来、すべての生物は、生存競争強いられてきたんだから。その、抜きさしならぬ本能まで、こっちのせいにされちゃたまらん」
そう。ここは、確かに楽園で――楽園っつうのは、異常な世界なんだ。
ものごとはすべて、それが本来あるべき姿に。ものごとはすべて、それのもとの姿に。
そうしさえすれば、もぐらにしろ、ヒミズにしろ、戦争なんていう人間界七不思議やってる暇、なくなる。
火事、おこしてやろうじゃないか。この、何一つ、燃えるもののない世界で。半永久的に、決して消えることのない火事を。すべての生物は、楽園に住むことができず、決して消えることのない火事の中をかいくぐって、で、生きているのだ。急に、火事のない世界へきたら、とまどって、やがて、自分達で火事、おこしちまっても無理はない。自分達で火事――戦争を。
待ってろ。今、俺が火をつけてやる。今。
「行くぞ」
俺、竹刀を右手にさげると、顔をあげた。きっと|睨《にら》みつける。前方を。
そうだよな。すべての生物が、火事かいくぐって生きているとしたら、もぐらさん、ヒミズさん、とにかくこの世界の生物、あんまり甘やかされすぎてるもん……な。
……な。
PARTY 何とかやっとこおこした火事
「お、お、おい|礼《のり》|子《こ》さん、行くってどこへ」
と、山科が、だいぶ心配そうに――いささかどもってさえいる――聞く。
「いったん、地上へ行く。で、燃料をもってくるよ。お宅ら、ここにいてくれ――ちっとばっか、危ないかも知れん」
「冗談だろ。かよわい女の子一人で」
「はっはん、そっちこそ、冗談。俺のどこが――竹刀持った俺のどこがかよわいんだ」
「そうよね」
砂姫、大きくうなずく。
「女の子がかよわいっていうの、固定観念にして欲しくない」
……ま、砂姫のかよわくなさはまた、一種異常だけどね。
「とにかく、世間的一般的常識では、女の子はかよわいんだ。俺も行く」
「……判った。じゃ、真弓、東嬢を守っててくれ」
「あ……ああ」
唯一人、この論争に加わんなかった真弓――は、おそらく、一番体が大きくて、一番筋肉があって、一番かよわいんだろう……なあ。
「じゃ、行くか」
山科が、俺達をうながした。それから、俺の頭こつんってたたいて、小声で。
「適材適所って言葉があるだろ。真弓は、あんまり優しすぎるから、こういうことに不向きなんだ。莫迦にしちゃいけない」
……は。何か俺、こいつに思考パターン、読まれてる気がしてきた。
☆
……すげえ。すげえ量のもぐら。
俺、圧倒されて唇をかむ。
これは……予想より、はるかに大変なことになりそうだ。
俺達のいた木の陰。それから、東さんに先導されて何とかたどりついた、俺の体があった木の陰。
あの辺にも、山|程《ほど》、もぐらがいた。確かに。歩くのが困難な程。
でも、あの辺なら何とか――もぐらを踏まないように注意して、一歩一歩進めば、何とか歩けたんだ。
「ここは……おい、ここは無理だよ」
山科が、ほぼ悲鳴に近い叫びをあげる。
木の全然ない、穴まであと五百メートルくらいの|処《ところ》までくると。
一面のもぐら、一面のもぐら、一面のもぐら、地面が見えやしない! まったく……これでは、歩くこと自体、不可能だ。
「……きっと、トンネルの中で戦争してたもぐら達が、こっちへ出てきちゃったんだわ。ものすごい密度」
砂姫がうめくように言う。
「東さん呼んできた方がいいんじゃない?」
「あの人でも、道を作ることは不可能だと思う……。それに、俺、彼女をこのメンバーに加えたくないんだ。だから、真弓にみはっててもらってる」
「あん?」
「あの人連れて来ちまったら最後、のちのち、やたらもめることになるのは必至なんだ。それはまずい」
「でも……とすると?」
とすると。
地面の上は、とても、歩けない。でも、俺達の力では、ここからトンネル掘ることなんて、できる訳ない。まして、空も飛べない。とすると。
結論は、たった一つ。
たとえ、歩けなくたって、地面の上を歩いてゆくしか、ないのだ。
右手の竹刀をみつめる。先刻はあれ程頼りになると思った竹刀が――今は、まるで役たたず。
だよな、こんな棒、相手をなぐる以外役にたちゃ……あ。棒。
「おい、こっち!」
俺、もぐら達をさけ、必死のいきおいで後退しだした。あの――木のはえてるところへ。
「どうするんだ」
もぐらがだいぶすいてきた処で、山科、不審そうに聞く。
「のいてな」
「あん?」
「のいてな。危ねえんだよ」
自分が――下手すりゃ、歌うたいだしかねない程、高揚してんのが、よく判った。両手に思いっきり力をこめる。竹刀を正眼に構え、ちょっと息をととのえて。そして、ふりかぶる。
「は」
ぱしっ。軽い音をたてて、枝が一本、折れた。
「何だ。枝、折りたかったんなら、言や折ってやったのに」
「るせ。ちょっと竹刀ふってみたかったんだ。単に折るんなら、俺の方が上背がある」
折れた枝は、ちっとばかし、長すぎた。それを更に二つに折る。それから。
「山科。ネクタイくれ」
「へ? ああ」
山科は、無造作にネクタイはずし、放ってよこした。山科のネクタイ使って、竹刀の先に枝をくくりつける……。あ。やば。何か十字架みたいになっちまった。ちょっと考えて。
「おい、砂姫」
砂姫に、十字架見せないように、首だけふり返って聞く。
「おまえ、包丁持ってたよな」
「うん。はい……何すんの?」
「いいから貸せ」
髪をうしろで|束《たば》ねる。その束ねたもとの所を左手で持って、包丁うしろにまわして。
「お、おい、のりこ」
山科の叫び声無視して、髪を切る。俺、結構髪の量多いんだな。三十センチちょっとの髪の束。それを、形を崩さないよう、そっと地面におく。
「お、おい、どうして」
「砂姫。おまえ、三つ編みってできるか?」
「ん……うん」
砂姫も呆然と口あけてやがんの。
「じゃ、この髪、適当にわけて、三つ編みしてくれ」
「どういうこと?」
「この髪使って、ロープみたいなもん作ってくれってこと」
理由が判らないままに、でも、一所懸命、砂姫、三つ編みはじめる。俺、その様子を見てから、山科の方むいて。
「……何で俺が髪切ると、おまえがショックうけるんだよ」
「いや……女の人にとって、髪って特別なもんなんだろ……よくまあ、あんなに思いきって……」
「俺にとって、髪は全然特別のもんじゃないんだ」
むしろ、おまえにとって特別のもんみたいだな。ちょっと額が後退気味だぜ。
「それに……俺、髪の長い女の人って好きなんだよね」
「そのうち、また、伸ばしてやるよ」
言っちまってから、あせる。何だ、今の|台詞《せりふ》は、何なんだ!
山科は、一瞬、細い目をくりっと開いて――えーい、赤くなるな、俺が困る! ――それから、口の中で何やらもぞもぞ|呟《つぶや》いた。どうやら、「でもショートカットも似合うような気がする」っつったよう。
「えー、その、何だ、あと、上着くれないか」
山科が妙な反応しめすから、つられて俺までしどろもどろになってしまう。
とにかく、何とか表情を厳しいものにして――何で山科が赤くなったくらいで、俺の口許がゆるんじまうんだよ、おい! ――砂姫の作ってくれた三つ編みロープを一本手にとる。それから、十字架の上の処に、髪のロープでもう一本横木をくっつけて。それに、山科の上着をくくりつける。
「おい、山科……言いにくいんだがこの上着、ちっと破いていいか?」
「あ、いいよ、どうせ安物」
お言葉に甘えて、裏地をやぶく。それを横木にまわして――え? これ、安物? ダーバンの綿百パーセントって、安物……じゃないと思うぞ、俺は。山科は、そっぽ向いてて視線つかまえようがないし……。
と、砂姫が俺の髪をそっとひっぱった。頭にくっついてる方、その切口に軽くキスして。
「ありがと」
俺は、返事がわりに、軽く喉の奥で、けって音たてて肩すくめてみせた。そう。俺にしろ、山科にしろ、今はそんなこと考えてる場合じゃないんだよな。
☆
何とも表現のしようのない、妙なもの――竹刀に横木二本くくりつけて、それに布はった、真四角の巨大なうちわみたいなもん持って、俺達、再びもぐら団子の群れのとこまでとって返してきていた。
「あ、判った」
ふいに砂姫が|素頓狂《すっとんきょう》な声をあげる。
「|礼《もと》|朗《あき》、それでもぐらかきするんでしょ」
「あたり」
「もぐらかき?」
「雪かきのもぐら版」
俺、そのまま、竹刀製もぐらかき器を、地面ともぐらの間につっこむ。ゆっくり持ちあげて……やった。五十センチかける四十センチくらいの空間のもぐら、だいぶ少なくなった。これなら歩ける。
「|成《なる》|程《ほど》」
山科が、軽く口笛吹いた。
「俺が、とにかくもぐらかくから、ぴったり俺にくっついてきてくれ」
そっと、もぐらが沢山のっかった竹刀を、別のもぐらの上にかたむける。あんまり急にもぐら落として、怪我をさせぬよう、そっと。これ……結構、そっとおろすとこに力がいるな。
「貸せよ」
と。山科が俺の前に出てきて、もぐらかき器をひったくった。
「それは俺がやろう。適材適所っつったろう? 少なくとも、こういうことに関しては、俺の方がむいてるみたいだ」
っつって、ウインク。へったくそ。おまえのだと、ウインクしてんのか眉しかめてんのか、よく判んないじゃないか。
「|礼《もと》|朗《あき》」
軽く砂姫につっつかれる。
「物想いにふけるのは、あとにしましょうね」
「あん? 物想いになんか……あ」
あ。俺が|莫《ば》|迦《か》なこと笑ってるうちに、山科、どんどんもぐらかいて進んでやがる。俺、|慌《あわ》てて山科のあとに続いて。と、そんな様子を見て、砂姫、軽く笑ってウインクした。
ちえっ。こいつのウインク、きまってやんの。
☆
かくして。十数分後には俺達、何とか例の穴の脇にたどりついていた。
「貸せ」
山科から、巨大うちわと化した竹刀うけとると、上着とネクタイ、はずす。この先、トンネルの中は、かなり細いところもあるだろうし、これ、邪魔だ。
「ほれ、上着」
「お、ども」
|成《なる》|程《ほど》山科らしい。こんな表現できる程、俺、こいつについて詳しくはないけど――実に、実に、山科らしい。破けた上着、平然と着ちまいやがった。それから|律《りち》|義《ぎ》にも、ネクタイしめて。
「じゃ、行くか」
「おう」
こう言ったから、すぐ穴にはいるかと思ったら。山科、苦笑いうかべて、ふり返る。
「何だよ」
「女の子が、“おう”もないもんだ」
「へっ。るせっ」
軽く、山科けとばす。あいつが、穴の中にはいっちまったの見届けてから、ほんとに小声で――絶対、あいつに聞こえないような小声で。
「はい」
☆
穴の中にはいる時、例の、逆転現象――重力がひっくり返るのを、少し、感じる。それから、どっち行くべきかとまどってる山科に。
「まん中の奴だ」
「え?」
「正しい道だよ。俺、二回めだからな。真弓が、東さんとここへ来た時、俺、道順みといた」
「ああ……成程」
山科、砂姫、俺って順で、トンネルをすすむ。まん中の砂姫が持ってる、懐中電灯だけが光源。
「もぐら達が、あっちの世界へ出ててよかったな」
「うん……ここで追いかけっこやってたら、また迷子だもんね」
なんて言いつつ、俺達、のそのそと穴の中をすすむ――。
☆
「次、左……あとはほとんどまっすぐだ」
「あとどれくらい?」
さすがに、三人共、息ぎれがしてきた。穴の中におりるのと、穴の中をのぼるのとでは――特に、まわりの土があんまり硬くない場合――後者の方が、ずっと大変なのだ。
「もう少し。あと、五、六分で出口だ」
「ここ……かな。これ登ると、東さんの部屋からのびてるトンネルじゃないか」
前方が、かすかに明るい。
「ああ、それ」
「よし」
あと少し。そう思ったところに、えてして油断が生まれがち。
山科は、どうやら、少しいそぎすぎたようだった。いそいで、やわらかい土の壁に力をこめて腕をのせ――わっ!
急に、まっ暗になった! 砂姫の懐中電灯のあかりが見えない。やばい、土がどこか、くずれたんだ。
「砂姫! 大丈夫か!」
そう言おうとしたんだが、さき、まで言ったところで、口の中に土がはいってきてしまった。
ななめ前方。ななめ前方を少し掘れば、すぐ助かる|筈《はず》。そうは思っても、体が重い。
「のりこ」
脇で、かすかに――口の中に土がつまったような、もごもごって声が聞こえた。
「山科、無事か」
何とかこう言う。とたんに、俺は、左側に土よりあたたかい弾力のあるものを感じる。あ、山科の体。
山科も、ほぼ同時に、俺の体に気づいたようだった。しっかり、俺を抱きしめる。
「俺が……掘るから……動くな……」
かすかに、そう言っているのが判る。
「下手に動くと、またどこか崩れる」
ああ。そう思いはしたよ。確かにそうだろうよ。けど。
動かずにはいられない。
暗闇に対する本能的な恐怖。それと――もっとずっと生理的な――そろそろ、本格的に息が苦しくなってきた!
ななめ前方! ななめ前方!
頭の中を、盲目的にそのフレーズがかけ抜ける。
ななめ前方を掘りさえすれば。
が。まっ暗の中、前後と右、三方を土に囲まれた俺は――|唯《ゆい》|一《いつ》土でない左側だって、山科の体の脇はすぐ土だ――方向感覚がまるでなくなっていた。手あたり次第、あたりの土をかきわけようとする――と。更に、手を動かしたのが悪いんだろう、顔に土があたるのが判る。
えーい、くそ! 八方ふさがりだ。えーい。どうしよう。
どうしよう!?
と。何かが――山科の手が、無意味に、いや、むしろ、状態を更に悪化させるよう動いている俺の右手をおさえた。そのままきつく、山科の胸に体をおしあてられる。
おい、やめろよ、山科。苦しいんだよ。せめて手で土をかくくらい――でも、それは逆効果か――けど何もせずにはいられない。
感情が、あっちこっち、暴走しだしていた。
このままでは、まずい。このままでは、心理的にパニックにおそわれる。
と。
その時。
俺は、何やらすごくなつかしい――すごく昔に聞いたことのある――優しい音を聞いた。
……とくん……とくん……とくん……。
優しい声。優しい動き。
それは、山科の心臓だった。
生き物。優しい生き物。あたたかい生き物。
|唐《とう》|突《とつ》に、判ってしまった。
生き物の鼓動というのは、太陽なのだ。あったかくて、自分を包みこんでくれて、優しくて、安定しているもの。それがあるから、生きてゆけるもの。でも、あまりにあたりまえすぎて、平生、絶対気づかないもの。
血液が、体の中の海だとしたら、心臓は体の中の太陽なんだ。
生物が、太陽の光につつまれて、太陽の祝福を浴びながら、体をのばすことがまったく自然なことのように、生物が二つ、体をあわせて相手の心臓の音を聞くことは、まったく、自然なことなのだ。子供のうちは、母親の鼓動に包まれて。母親の腕をはなれたら、相棒の――パートナーの鼓動につつまれて。そして、いずれは、自分の鼓動の中に子供をつつみこんで。
ゆっくりと、ゆっくりと、俺は、意識を失っていったらしい。気が遠くなって――でも不思議と怖くはなかった。
死ぬ筈がない。
そういう確信があったから。
俺のほおがあたっている。山科の心臓。そのあたりに、山科の、胸の筋肉がある。それが、必死になって動いているのが、感じとれる。動いている――掘っているのだろう。
だから大丈夫。
信頼。はっはん。生きて動く人間不信の俺が。
けど。心臓の音に包みこまれた今となっては、人を信頼するのは、全然違和感のない、当然のことに思えた。
そして――ひっぱられてる?
ひっぱりあげられている。山科ごと。俺。あん?
とたんにあたりは明るくなって、呼吸が楽になった。自由になった右手で顔をこすり、口の中の土を吐き出し……砂姫。
「よかったあ。善行ひっぱったら、|礼《もと》|朗《あき》もついてきたあ」
「んな、人をおまけみたいに言うなよ」
俺、恥ずかしさの反動もあって、吐いてすてるように言う。
「その様子なら大丈夫だな」
ひとりごちた山科の台詞、聞こえないふりして。あー、恥ずかし。俺――なっさけないな、俺、ひっぱりあげてもらうまで、山科の腕の中で、生まれたての仔猫みたいにがたがた震えてたんだ。
よっこいしょ。自力で、まだ埋もれてる下半身を穴からひっぱりだす。
「しっかし、砂姫ちゃん、君よく……」
「あたしが一番力あるもん。せーの、で、土かきはじめたら、あたしがトップになるのあたりまえじゃない。けど、|礼《もと》|朗《あき》が善行に抱きついててくれて、よかったあ。善行の腕はかろうじて発見できたけど、礼朗の方、全然どこにいるか判んなかったんだもん。ほんっとに、礼朗が善行に抱きついててくれてよかったあ」
……頼むぜ砂姫。あんまり抱きつく抱きつく言わんでくれ。顔が……ほてってしまう。
「けど……帰り、どうしよう。こっちのトンネル使えそうにない」
山科の方も多少照れてるのか、|慌《あわ》ててこう言う。
「大丈夫よ」
砂姫、平然と。
「判んない? こっちのトンネルは、最初――この妙なトンネルにはいった時、善行がはいろうとして、下にもぐらが一杯いて、慌ててやめたトンネルよ。……ってことは、ここ通らなくても、何とか下まで行けるってこと」
最初山科が足おろしたトンネル。てことは。
「おい、砂姫!」
思わず砂姫に抱きつく。
「ってことは、ここ、ゴールだな!」
「うん」
砂姫、にっこり笑って、上を指す。
「懐中電灯がなくて、どうして明るいのでしょうか? 答。東さんのお部屋がそこだからです」
☆
このあとのことは、多少、はしょらせて頂く。
まず、俺達、地上――ほんっとに、ひさかたぶりの、地上へ出た。山科に金とってこさせて、そろって外出。
そりゃ、人々の好奇の的になったよ。俺達三人共、ものの見事に泥だらけで、俺は、まったくみっともなく髪ぷっつり切ってるし、山科はやぶけた背広着てるし、砂姫みたいな、そもそも存在論的に人目をひく美女が泥まみれなんだから。
そして、俺達はとにかくペットショップへ行き、ペルシャ猫とシャム猫のつがいを買ったのだった。(最初は、つがいでなくてもいい――っつうか、つがいの必要性なんて、まったく考えてもみなかったんだよな。でも。そう、生き物ってのは、何だかんだ言ってもペアになってるのが正しい姿なんだ)
「べつに、こんなちゃんとした血統書つきじゃなくたって、ノラ猫でいいんじゃない?」
砂姫は、こう言った。俺もそう思ったんだけど、ノラ猫の夫婦を二組もつかまえる|余《よ》|裕《ゆう》なかった。
そして。俺は、火事をおこしたのだった。
物事は、すべて、それが本来あるべき姿に。
捕食の対象――みみずが、充分いる世界で、もぐら達が戦争する。これは、本来、おかしいのだ。異常なのだ。あまりにも(そう、この点で東さんの言ったことは正しい)人間的すぎる。
では、何故人間が、こんなにも異常になってしまったのか。
それは――おそらく、それは。思いあがりのせい。自分が、この世界で一番えらいっていう――砂姫流に言うところの、自分を生かしてくれる、他の生物への感謝の念が、ない|為《ため》。
そして。何故そんなことになったのかといえば――おそらく。
人間が、食物連鎖の頂点に立っているから。人間だけが、他の生物を喰うだけで他の生物の役にたたない。大型肉食獣だって、死ねば小型肉食獣のエサになったり、腐っておのが体を植物達のエサにするのだ。
だから。俺は、地下に猫をつれていったのだ。猫がいれば、もぐらは、食物連鎖の頂点に立てない。もぐら自体を捕食の対象とする生物が来ちまったんだから。
自分をとって喰う生物――自分より強い生物――小型肉食獣がいる世界で。どこの阿呆もぐら、阿呆ヒミズが戦争――意味のない戦争を続けられるかよ。一致団結して逃げるなりなんなりしなけりゃ、とって喰われちまうっつうのに。
猫が、ほんの一声鳴いただけで、戦争は、いとも簡単に、消えてしまった。本能的恐怖――この生物は俺達を喰う、という、種族的本能がはたらいたに違いない。大体、ここに導入されたもぐらとヒミズが東京都に住んでいたものである限り、連中にとって最も怖いのは猫だろうからな。猫と犬。東京にいる肉食獣は、まずこの二つ。そして、犬というのは大体において、鎖につながれていて、行動の範囲が限られているが、猫はそんなことないもんな。
ペルシャ猫は、ふみゃーう、とか鳴いて大きくのびをし、さっともぐら達がひいてしまったあと、残されたもぐらの死体をしげしげ見つめ、鼻先でつついた。その長い毛をぶるっと震わせて。
シャム猫は、もうちょっと行動的で、地面にもぐりかけたヒミズを、前足でおさえた。東さんが小さな悲鳴をあげ、慌ててその猫の尻尾をつかむ。
……ちょっと可哀想だな。そう、思いはした。でも――。
「まあ、エサを充分に与えておけば、そんなに積極的に猫はもぐらを食べないと思うよ」
きっとこっちを睨んだ東嬢に、小声で言う。
「あと……猫があまり派手に増えすぎないよう――ある程度越したら、猫、ここから少しずつ、出した方がいい。四匹共立派な血統書があるから……子供のもらい手に不自由はないと思う」
東嬢の手が、こきざみに震えている。放っとくと爆発しそうだ。
「その……いろいろと文句があることは判ってるけど……少なくとも、もぐらとヒミズが全滅するよりましだろ」
「ええ……一応、感謝は[#「は」に傍点]します」
少しの沈黙のあと、東嬢、ゆっくりとこの台詞をしぼりだす。感謝は[#「は」に傍点]します。えらく大量のものが奥歯にはさまった言い方。
「あーずま、さん」
と。いたくゆっくり、山科が口はさんだ。
「いろいろ言いたいことはあるだろうと思う。けどさ、それ、地上にでてからにしてくれない? こいつだって、一所懸命、一旦土に埋もれかけてまで、戦争やめさせてくれたんだから。文句言うにしろ、何にしろ、せめてお風呂はいったあとにしてやってくれ」
☆
お風呂にはいって、体中および髪あらって――西洋風バスだったもんで、都合三回お湯かえなきゃならなかった。俺の前にはいった砂姫だって、それくらいしただろうから……うー、水道代! ――、服着替えて、砂姫にきちんと髪切ってもらって。ようやく、人心地がついた。やっと生き返ったって実感味わいながら、二人分くらいの食事して、コーヒー三杯胃に流しこみ、セブンスター五本たてつづけに吸うと……生きててよかったあ。
俺が、六本めのセブンスター|咥《くわ》えたところで、ノックの音。
まず、おなじく風呂はいって、さっぱりした表情の山科。ついで、さっぱりはしたものの、落ち着かない、真弓。(ま、身長が一八○以上ある男が、身長一六五の男の服借りてんだから、落ち着けって方が無理だろう)そして、最後に。これは完全にかりかりしている、|東《あずま》嬢。
「とりあえず、まあ、おすわんなさいよ」
東嬢が何か叫びだそうとする。その瞬間に、実にタイミングよく山科が、おっとりした声を出した。
「|礼《のり》|子《こ》さん、お茶でも出してくれる」
「あ……ああ」
俺が立つよりも早く、砂姫、立ちあがると食器棚からティ・カップを二つ、出してきた。
「あと、その……このうち、ティ・カップ二つしかないから……」
東嬢と真弓がティ・カップ、砂姫は巨大なマグ・カップになみなみと紅茶をいれ、俺と山科は、御飯のお茶碗で紅茶を飲むことになった。
その間、山科が、「うわ、これでお茶のむのか」ってうめいてみたり、砂姫がけたけた笑いだしてみたり、なかなか明るい空気が場に流れたのだが……。
「斎藤さん」
やがて。砂姫の笑い声が消えるのを待ちかまえていたかの如く、東嬢、暗い声でしゃべりだした――。
☆
斎藤さん。
わたし、あなたに、本来ならば感謝をしなければいけない立場なんだろうと思います。感謝はしてます。確かに。
でも、それ以上に――それ以上に、わたし、哀しいんです。なさけないんです。
確かにあなたのしたことで、もぐら達の戦争はおさまりました、ええ、確かに。でもね、あれは――もぐらが食物連鎖の頂点にいるのがいけない、だからその上の生物を導入するっていうの……あれは、神の論理です。違いますか? 超越者の論理なんです。
例えば、今、アメリカとソ連が戦争はじめたとするでしょ? ずっと、とめようもない状態で。と、それをとめる最も楽なやり方は、利害関係のまったく対立する強力な第三者を出現させること――つまり、どこかの宇宙人が、地球に攻めこんでくればいいんですよね。そういう状態で、身内間のあらそいを続けられる人って、まず、いないですもの。
けれど、実際にアメリカとソ連が戦争はじめたって、そこに宇宙人の軍隊ひっぱってこようだなんて思う人間は、存在しないでしょ? 仮に、宇宙人に知りあいがいたとしても。
何故かっていえば、人間にとって、人間というのは、国籍が違おうと、利害が対立しようと、同じレヴェルの生き物だからです。アメリカ・ソ連の戦争に宇宙人を介入させようとする人は、超越者――人間を、ゲームの駒としか思っていない人です、もしいたとしたら。
斎藤さん。あなたのやったことは、それです。あなたの解決方法は、超越者の理論によるものです。あなたは、一匹一匹のもぐらにまるで愛着も持っていなければ、人格すら認めていない。ゲームの駒を扱うようにもぐらを扱っているんです。違いますか?
それがね、なさけないんです。
もぐらだって、人間だって、この地球の上で、生かしてもらっている生物でしょ? だとしたら、単に自分が人間であるっていうだけで、たったそれだけの理由しかないのに、どうしてもぐらを一段下の生物だってみなせるんです。
……東嬢の声は暗くて、いつになく、使いなれないかたい言いまわしを使おうっていきごみが感じられて、だから俺、つらかった。まったく、彼女の言うことはもっともだと思う。それが判るから、|余《よ》|計《けい》、つらかった。
でも。
けれど、俺にだって言わせて欲しい。
あの状態で、一体他にどうしろって言うんだ?
もっと言うならば。
東嬢の言うことは判る。しかし、俺はどうしても自分のおこないを反省することができなかったんだ。
今、時間が仮にもどって、もぐら達がまだ戦争をやっていたとしたら。俺、やはり猫をつれてきちまっただろう。火事をおこしちまったろう。
だって他にやりようがないじゃないか。
他にやりようがない。それが、よく判っているから、だから俺は、反省も後悔もできなかった。
後悔なり、反省なりができれば、まだ俺は救われたに違いない。悔いあらためなさい。そうすれば、救われます。
しかし、俺は、そもそも悔いあらためることができないのだ。
感情が、袋小路にむかいだしていた。論理も、完全に袋小路においつめられていた。このままだと、俺の感情も、俺の論理も、東嬢の圧迫によっておしつぶされてしまう。
そして。俺には、反撃のチャンスすら、ないのだ。東嬢の言うことももっともだ、と思ってしまったが最後、反撃することもできやしない。
ただただ、痴呆のように、迫りくる追手に――俺の心をおしつぶそうとする、東嬢の論理に、おびえるだけ。
そして。
俺の心が崩壊する寸前。その時、俺は救われたのだった――。
☆
「きゃ!」
とうとうと、俺をおいつめる言葉を並べたてていた東嬢、思わず小さな悲鳴をあげた。何となれば――無茶苦茶だな、この男は――山科が、ひえた紅茶を、東嬢の頭にぶっかけたから。
「大丈夫。砂糖いれてませんから、そんなにべとつかないし、ちょっと洗えばすぐ落ちますよ。ミルクいれてあったから、むしろ髪の美容にいいかも知れない」
「や……やましなさん、あなた……」
「頭をひやしなさいって意味です。今のは。ま……それにしては、紅茶がぬるかったかも知れないけど」
にっこりと、笑う。それから煙草を灰皿の中で乱暴にもみ消して。
「あなた、意外と|莫《ば》|迦《か》なんですね、東さん」
不審そうな東嬢の表情をまったく無視して、もう一度、軽く笑顔を作ってみせる。それから、急に丁寧語を使うのをやめ、普段の口調にもどって。
「まだ気がつかない訳? |礼《のり》|子《こ》さんが、みずからを神ときどって、神の論理とやらをふりかざしたんじゃなく、お宅が彼女を勝手に神にしたてたんだぜ」
「え?」
ゆっくりと、次の煙草をくわえる。百円ライターを近づけて。かすかにぼっと赤くなる、火口。
「人間は、神じゃない。人間のすることに、百パーセント正しい――完全に正しいことを要求するのは、そもそも無理なんだ。人がベストを尽くしたって言う時は、その人間の思考範囲の中で最上のことをしたって意味なんだ。それは、神様みたいに、すべてをわきまえた上での最上じゃないから、いろいろぼろは出るかも知れない。だけど、多少悪いところ、多少思いあがったところがあるって理由でその人間を責めるならば、人間に限らず、すべての生物は何もできなくなっちまうだろ」
ゆっくり、灰を灰皿におとす。その動作を見ていて、俺ははじめて納得し、理解した。俺は、救われたのだ。
今まで、心の中でうずまいていた、種々の思考、袋小路の中であがいていた種々の思考が、ようやくまとまった。
そう。たとえ何と言われようと、俺は猫をつれてきたことを、反省も、後悔もできない。何故なら、俺の思考範囲内では、あれは最上のことだったのだから。
「それにね。東さん。礼子さんの猫のことを言うのなら、例えばお宅のみみ」
「あのね」
砂姫、ふいに山科の台詞を途中からひったくる。それは言っちゃ駄目。そんな感じで。それから。
「こんな状態で、更にあなたを追いつめるの嫌なんだけど、これだけは言わずにおれないから……言っちゃうわね。あのね。東さん。あなた、この子を責める前に、自分のしたことについて、少しでも反省してみた?」
「わたしが……反省?」
「そう。あなたが、反省。この子のしたことを、神の計画って言って責めるなら、あなたのしたことは何だったの」
「わたしの……したこと?」
「そう。元来、どんなに生活圏が狭くなったって何だって、もぐらっていうのは、こっちの世界に住んでいるものでしょ? それを地下のあの世界につれていったのは、東さん、あなたよ。判ってる、言わなくても。それは人間がもぐらの生活を圧迫したからだ……|云《うん》|々《ぬん》って台詞は。だけど、元来は、それがどんなに不当なことであっても、もぐらは黙って、生活圏を圧迫され続ける以外、手はなかった筈なのよね。あなたの、地下帝国に移住するなんて、思いつきもしない、そもそも論外だった筈よ。あなたは、礼朗が地下帝国に猫を導入したことを神の計画っていって責めるけど――じゃ、そもそも、もぐらとかヒミズとか、地中生物を別の世界へ移すって考え方は、神の計画じゃなかったの?」
砂姫がこう言った瞬間。東嬢は、何とも表現のしようのない顔をした。一瞬びくっと――まるで、思ってもいないことを言われたって表情をつくり、そして。そして、徐々に、思ってもいないようなことを言われた顔、は、言われたことを理解した――理解したからこそ深くきずついた顔へかわってゆき――そして。
そして、彼女の顔は、急に崩れたのだった。
今にも泣きそうな、よかれと思ってしたことが実は罪だったと知った、子供の顔に。
「そんな……そんな……あんまりだわ」
「あんまりじゃないの」
砂姫は、優しく、言いきかせるような声になる。
「あなたのしたことは――もぐらを、地下へつれてきたってこと自体が、あなたの言うところの神の計画だったのよ。あなたは全もぐらの為を思ってこういうことをしたんでしょうけれど……でも、それはやっぱり、もぐらを駒としかみなしていない人の考え方だった。でもね。今更あなた、それを後悔も反省も、できないでしょう。しかたないのよ。そんなものなんだから」
東嬢は、見ていて可哀想なくらいうなだれていた。それから、ゆっくりと、俺の方を見て。哀しいくらい、明瞭な――はっきりした声で、こう言ったのだった。
「……ごめんなさい」
「あ、いえ、あ、いや、その」
俺、思わず、口ごもる。
「ごめんなさい。確かに……言われてみれば、その通りなんだけど……でも……」
でも。そう言った時の東嬢のひとみは、比較のしようもない程、きれいにきらきらと輝いていて。
「でも……だからって……けど、やっぱり……」
東嬢は、二、三語、言葉にならない音を発した。それから、みるみるくしゃくしゃと顔をゆがめて。
「でも……」
泣きだしたみたいだった。そして、おそらくは、泣き顔を誰にも見られたくない、という、|健《けな》|気《げ》な決心をしたのだろう。でも……の言葉のあとに、何とか続けて。
「ごめんなさい」
こう叫ぶや否や、彼女は走りだしていた。俺の部屋の外へ。おそらくは、彼女の部屋へ。
「真弓」
東嬢が、駆けて行ってしまったあと、半ば呆然とドアを眺めていた真弓を、ふいに山科がつついた。
「今がチャンスだ」
「え?」
「今が、いい機会だ。東さんは、今、すごくさびしく、すごく切ないに違いないんだ。今、とっても――人に近くにいて欲しいんだ。人に、なぐさめて欲しいんだ」
「あ……だから……その……」
まだ、どうしていいのか判らない風情の――東嬢が弱気になっているところになんか、とてもつけこむことのできない風情の真弓をつっついて。
「まさかと思うけど、真弓、お宅さ、すごくさみしい気分でいる、すごく人肌恋しい気分でいる東さんを、一人で放っとくようなひどいこと、しないよな」
山科っつうのも、存外、悪い奴なのな。この一言が真弓にとって、どんな意味を持ってるか知らない訳でもあるまいに。
「あ……あ、うん!」
真弓は――昔から、少し、単純なのだ――|慌《あわ》ててこう答える。
「うん」
そして、東嬢をおいかける形で、すぐ部屋を出てゆく。
「よっしゆっきくん」
砂姫、そんな彼を見ながら、すごく軽々しい調子で言う。
「駄目よお、あんな純情な人達をからかっちゃ」
「からかってなんていないよ」
山科、重々しく答える。
「東嬢には真弓みたいな人間が必要なんだし、真弓は東嬢にほれてるんだ」
「ま……それもそうなのよね」
砂姫はこう言ってにっこり笑うと、再び、山科の方を見て。
「そして、東さんにとって真弓君が必要だったみたいに、今の|礼《もと》|朗《あき》にも善行が必要で、で真弓君が東さんにほれてるみたいに、善行も」
「おい砂姫!」
俺と山科、思わず同時に叫んでしまう。おい砂姫! 奇妙な、二重奏。
「なあに?」
砂姫は、自分の台詞がこの奇妙な二重奏にぶった切られたことなど全然気にしていないかのように、にっこりと微笑んだ。それは、いつもの砂姫の、コケティッシュな、多少軽薄な感じのする笑みではなく、完全に成熟した女の――大人が、子供をなだめるような、微笑み。
「いや、だっておまえ……」
山科、妙にへどもどして――考えてみればこいつの立場が一番複雑なんだよな――砂姫と俺の顔を、かわりばんこに見る。
「だって、なあに?」
「でも、砂姫、おまえああいうこと言ったけど、俺は……」
俺も、言いかけた台詞を途中でのみこむ。俺は――俺は男になんかほれる気ないぞ。そう……言えなくなっている自分に気づいて。
「あのね、善行。あたし、あなた、好きよ。でも、それって単に好きってだけであって、それ以上の感情じゃないよね。……あなたの方だって、そうでしょ」
山科、何やらもぞもぞと口の中で呟く。それじゃ男としての責任が、とか、二十五の男が十六の女の子にあんなことしてどうのこうの、とか。
「あのね、礼朗。お宅の方だって、いい加減覚悟をきめなきゃ。何はどうあれ、あなた、女の子だもの。今更男にもどれるとは思ってないでしょ」
「あ……あ、うん……」
今度は俺の方がもぞもぞ言う番。確かに今更男に戻れるとは思ってないし……大体、そんなに男になりたいって訳でもない。でも……。
「それにね、礼朗。あなた、気がついていないみたいだけど――気づきたくないみたいだけど、あなたって、本当は、まるっきり女の子なのよ。いい加減、気づいちゃいなさいよ。俺は不幸だ、俺は孤独に慣れしたしんだ、俺は一人で何だって解決してみせるっていうのは――ちゃんと翻訳すれば、誰かにそばにいて欲しいってことだって」
「砂姫、あのな、でも」
言いかけてやめる。砂姫の台詞の大半が――ものの見事に正しいって、判ってしまったから。
「んふっ」
砂姫、もぞもぞ言ってる俺達二人を、交互に見較べると、軽く、くすっと笑った。今度の笑顔は、もう、いつもの砂姫の――コケティッシュな、多少子供じみた、ほんの少し軽薄な笑顔。それから、ピンクの舌でちょっと上唇なめて。
「おつかい、行ってくるわ」
唐突に、ひょいっと立ちあがる。軽々と身をひるがえし、俺達があっけにとられているうちにドアがバタンと閉じて。
「あ、おい……」
「あいつ同じ手、二度も使いやがって……」
残された俺達二人、所在無げに相手の顔みつめあって。……おい、山科、おまえさ、そんなにしげしげと俺の顔見ないでくんない? 何となく、視線が顔、なめまわしてるような気がしちまうじゃないか。
山科は、うすく、笑顔を作ってみせると、煙草、くわえた。それから左のポケットさぐって。しばらくポケットひっかきまわして、少し困惑したような表情作った。
「何? ライター?」
「あ、ああ」
「ほれ」
俺、ライター放ってやる。山科は、口の中で、あ、どうもとか何とか呟き、煙を吐きだすと目を細める。
「火、貸して」
「はいよ」
俺も、煙草、|咥《くわ》えてみる。
俺達はそのあと、たっぷり十分間、黙って煙草を吸い続けた。山科のハイライト。俺のセブンスター。灰皿に、二種類の煙草がたまってゆく。吸い口が茶色のハイライト。吸い口が白のセブンスター。
何でかな、その情景は、ひどくなつかしく、いいもののように思えた。
久しぶりだ。久しぶりに、こういうのもいいな。灰皿の中の二色の吸いがら。
「妙だな」
いつの間にか、口にだして呟いていた。
「何が」
「灰皿の中に、二種類の吸いがらがたまってゆくって、久しぶりだって思ったの」
「それのどこが妙な訳」
「久しぶりも何も、こんな情景は初めてだ」
「初めて? お宅、煙草おぼえたばっか?」
「ううん、人づきあいがよくなくてね……。二人して、しんみり、向きあって……話すでもなくこうやっているのって、初めてだ」
初めて。嘘だな。
昔、時々、やったような気がする。美絵子と喫茶店か何かで。目前の、少しさめかけたコーヒーを、意味もなくブラックで飲みながら、美絵子がチョコパフェの山を崩すのを見ていた。あの時も、ずっと黙っていたような気がする。成田が(あ、これ、中学校の時の親友)夜俺ん家来て、一言「ふられた」っつって、俺が父親秘蔵のジョニ黒か何か持ちだした時も、二人して黙って、こはく色の液体の中でゆっくり溶けてゆく氷を眺めていたような気がする。
それは、何ていうのか――凄く妙な感情の動き。決してつらい沈黙じゃない。所在ない何話していいのかよく判らない沈黙じゃなくて――お互いに、話さなくてもいい、言葉をかけあう必要のない沈黙だった。妙な――いとおしさ、という単語が一番似つかわしい沈黙。(あ、言っとくけど、当時、俺は男だったんだからな。成田にほれてた訳ないぞ)
今、二人して吸いがらの山を築きながら、俺はそんなことを考えていた。
とん。軽く、灰皿のふちはたいて、灰を落とす。その時、俺の煙草と、ちょうど同じ動作をしていた山科の煙草がぶつかった。どちらからともなく、顔見あわせて。
「まいったな……砂姫ちゃんって、まるで俺よりずっと年上みたいだ。危ないとこだった」
山科、苦笑をうかべると、ゆっくり口を開く。
「危ないとこ?」
「あやうく、東さんに絶対言っちゃいけないこと、言っちまうとこだった。あの人のみみず」
みみず……あ、そうか。
「あの人、結局、母性本能の人なんだよね。全もぐらのお母さんって感じで――もぐらと、もぐら以外の地中動物と、はっきり区別しちゃってるだろ。もぐらは我が子、他のは違うって。地中動物全体に同じ愛情そそぐなら、みみずがもぐらに食べられるのだって、我慢できない筈じゃないのか、もぐらのエサ用にみみず導入している以上、お宅の猫について責める権利はない――あやうくこう言っちまうとこだった。砂姫ちゃんがとめてくれなきゃ」
「……成程、そりゃ言っちゃいけないよなあ。下手すりゃ東さんの精神、壊れちまう」
「そう。判ってたんだけど、つい興奮してね」
……俺の精神が壊れかけてたから? そう思ってから山科の顔見ると――駄目だ。とても――何故かとても恥ずかしくて……直視できない。
やみくもに立ちあがる。小走りに本棚へむかい、一番下の棚、ひきだしの脇の観音開きの扉に手をかけて。
「飲む?」
「……本棚を?」
「莫迦かおまえは」
観音開きの扉の中、本にまぎれてホワイトホースのびん、隠してあんだよね。まれにうちに来て、礼朗、可哀想な子ねっつって泣く母親に、くるたびごとに減る中身を見せたくなくて。
「俺よかいい酒飲んでるな」
「悪いか」
「いや、もらえる分にはいい酒の方がいい」
ティ・カップの中に氷二個ずつぶっこんで、少し水少し酒。だいぶ濃い。
「ティ・カップにはいってると、まるで紅茶みたいに見える……」
「一々うるさいな。やんないぞ」
「判った判った。どんな風に見えようと、要は中身が酒でありゃいいんだ」
「そう。ほれ」
チン。ティ・カップは、それでも一応、グラス二つあわせた時のような鋭い音をたててくれた。
「乾杯」
「お宅の、そのどうしようもない可愛気のなさに乾杯」
「え……」
俺、多少上眼使いに山科を見上げ――ようとして、そもそも身長の関係上、それが不可能なことに気づき、仕方ないからちょっと不安そうな顔して山科みおろす。(だって、靴はかなくても、俺の方が約十センチ、山科よか高いんだぜ)
「俺……そんなに可愛くないか」
「そういうとこは充分可愛いんだけどね」
何だよ、笑うなよ、おい。
「口が悪いのは性格だ。男言葉は長年の習慣。もうどっちもなおんないよ」
「判った。判ってる。いいよ。いい……」
台詞の後半、完全に笑っちまってる。
「いくら外見が可愛気なくても、本質的には可愛いんだって判ってるからいい、気にしなくて」
……勝手に笑っててくれ。俺、もう、知らん。もう知らんよ何も。顔が少しほてってんのも、これ、全部、酒のせい!
「お、おい|礼《のり》|子《こ》、何も一息に全部飲んじまわなくたって……大丈夫か」
「大丈夫。もう一杯作ってこよ」
「顔が赤いよ」
「いいんだよ酒のせいなんだから」
もう一回冷蔵庫の脇へ行って。山科に聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの小声で。
「いろいろと……ありがと」
言っちまってから、すぐ後悔。恥ずかしい。さり気なく山科の方見ると、ほっ。全然聞こえてないみたいだ。
「氷、持ってきちまいなよ。水と。こっちも二杯目が欲しい」
「OK」
氷おいて、水とりに台所へむかおうとする俺の手首を、山科が、軽くおさえた。思わずびくっとする。と、山科、半ば立ちあがって俺の耳に口よせて。
「どう致しまして」
き……聞こえてたのかよ。
「お宅も充分……」
「ん?」
「お宅も充分、可愛気のない男だな」
山科は、何も言わずに、少し、笑った。
☆
約一週間後。
俺は、この嵐のような――一度死んで初めて本当に生きたいと思って、吸血鬼だのもぐらの女王だのパラレル・ワールドだのに出喰わし、生き返った一週間をふり返りながら、酒を飲んでいた。とある女性と差しむかいで。
「ほんっとによく似てるのねえ」
天然パーマをカーリーにした、ちょっと小柄の女性――真弓美絵子は、今日五度めのその台詞を言う。
「そうかしら」
一応、俺もこの場合は女言葉つかって。
「うん、ほんっとに。街でばったり会ったらきっと間違ったと思うくらい。|礼《もと》|朗《あき》って昔、割と女顔だったでしょ。女装させたら美人になるって思ってた。……やっぱり、美人よねえ」
俺は、何とか美絵子に会えるくらいには――昔、美絵子の恋人だった、斎藤礼朗の妹として会えるくらいには、感情の整理ができていた。
やがて、かれいの唐あげだのあじのたたきだのがなくなる頃には。女二人って|気《き》|易《やす》さもあったんだろう。美絵子、段々、酔いがまわってきたよう。
「……でね、クラス会おわった後でマキが――島田さん、島田牧子、覚えてる……訳ないか。|礼《のり》|子《こ》さん、礼朗じゃないもんね。とにかく、そのマキが、泣く訳。何が哀しいって、昔好きだった人が、成長して、昔のかっこよかったおもかげがなくなるのって、耐えられないって」
で。いい加減酔った美絵子、このあいだ真弓にむかって言ってた話を、むし返しだした。俺、思わず心理的に身構える。そして。
「だから、あたし、言ったのよね。あたしなんか、むしろその点しあわせだって、礼朗、死んじゃってて、彼に関する限り、成長してみじめになった姿を見ることは決してないって。自慢しちゃった。自慢しちゃったのよお」
段々後半が涙声になる。
「そしたらマキが、そうねえっつうの! そうね、だって……。そうね……」
美絵子は、妙な――目に一杯涙をためた、今にも泣きだしそうな笑をうかべて、こっちをむく。
「そうねって納得されたらあたし、どうずればいいの。そうなのよって言うしかないじゃない。そうなのよ、死んじゃった以上、もう、成長してみっともなくなった礼朗を見るおそれはないのよって。成長して、みっともなくなっていようが、素敵になっていようが、あたし、そもそも、どんなに見たくったって、もう礼朗を見ようもないのよ。だから精一杯虚勢はったのに……それを言うのが口惜しくて自慢したのに……納得されちゃった……。納得されちゃったらあたし……どうしたらいいのよお」
……美絵子。
美絵子。俺は。
美絵子。やっぱりおまえ、昔と全然変わってなかったよ。可愛くて、いじらしくて、ちょっとみえっぱりで、そこがまた可愛いのな。
美絵子……。
「美絵子……さん」
俺、万感の思いをこめて、美絵子の肩をそっと抱いた。中学の時より、だいぶ成長して、ふっくらとした女の肩が、そこにあった。
「今度、結婚することになったの……。結局、いろんなことあったけど、あの人と結ばれるのが、最上の結末だと思うのよね。だから、言っちゃうの。|礼《もと》|朗《あき》も忠明も、過去のBF全部――そのうちの誰と較べたって、今の恋人が一番素敵だって。……心の中にお墓があるのよね。昔、別れた人達の。でね、あたしが一言、昔の恋人より今の彼氏の方が、素敵だって言うたびごとに、昔の恋人のお墓に土がかかる訳。一つかみずつ」
俺は、ずっと、黙って、あじ[#「あじ」に傍点]をつついていた。美絵子――何も言えないから、黙ってあじ[#「あじ」に傍点]をつつく。美絵子。
そのあと、酔って、電柱わきで吐いてしまった美絵子を抱えて送ってゆきながら、俺は心の中で何度も繰り返していた。
美絵子。俺、結局女になっちまって、おまえとハッピーエンドをむかえることはできなかったけど……それでも。初恋の相手が、おまえだったことが嬉しい。おまえだったことが。
☆
その間。真弓――猛の方は、ほとんど毎日、第13あかねマンションにいりびたりだった。何か、真弓としては、女の独り身で、もぐら達の世話をしている東さんに、ひどく心をうたれたみたい。東さんと一緒に、僕も終生もぐらの世話をするんだ、なんて、けなげな志を抱いているらしい。ついには――どうやったか、あんまり考えたくないんだけど――自宅のグランド・ピアノを地下へはこびこんで、もぐらとヒミズに囲まれて、ショパンの夕べなんてやってるみたい。
一方、東さんは、あの次の日、俺のとこへやって来て、正式にこう言っていった。
「ごめんなさい、この間は。……あの後、砂姫さんや山科さんに言われたこと、おちついていろいろ考えてみたんです。で……もっともだなって思って。……確かに、わたしのやってることって、私流に言うところの思いあがった考え方で、神の計画だなって自分でも思うんですよね。でも、もうわたし、悩まずに、自分のベストを尽くしてみようと思ってます。……毎週土曜日の六時から、真弓君が、“もぐら達を囲むピアノの夕べ”っていうの、開いてくれることになったんですよね。もしよかったら、聞きに来て下さい」
☆
その間。砂姫は砂姫で、個人的にいそがしかったみたい。
俺と山科の件については、あいつ、割とずぼらなもんで、あれでいいと思っちまったんだよね。あれで充分、キューピッド役、果たしたって。
でまあ、今の砂姫の最大関心事は、山岸桂一郎って男のこと。
二階のむかい側、根岸美弥子嬢の友人らしいんだけどね、それが越してくることになった訳、今度。俺の隣の部屋へ。
で、まあ、引っこしにあたって、家具をはこびこむ為部屋のサイズ計るだの、隣近所にあいさつするだのしてたんだけどね。うちにあいさつに来た、山岸って男みて、砂姫が異様に興奮しだした訳。例によって例の如く、きゃあ、おいしそうっつって。
で、目下砂姫は、いかようにして山岸桂一郎を口説くか、その前に山岸桂一郎と根岸さんの共通の友人である、斎木杳ってのを口説いた方がいいのか、なんて、楽しみながらプランたててる。相変わらず、俺のうちに住んでて、何かっつうと「礼朗は特別よ」とのたまうものだから、ついに最近は山科が妙な嫉妬いだくようになっちまってる。
かくして。何だかんだと言いながらも――大団円、なのである。
Ending 少しばかりは明るい明日
むかい風が、心地よい。
地下鉄、お茶の水駅おりてすぐの橋の上で。俺、欄干にもたれて、風にむかって、じっと川面を見ていた。真下を国電がのたくた走っている。のたくた走る中央線――いも虫だよな、イメージにおいて。
山科とまちあわせしていた。午後一時に。これから、映画観に行くんだ。はっはん、女の子としては初めてのデート。
「待った?」
やがて、のそっと山科が隣へやってきた。
「ううん。全然」
一度使ってみたかったんだよな、このフレーズ。そのわりには、足許に吸いがらが五つもころがってるけど。
「どしたの、今日はまるで女の子みたいじゃない」
「怒るぜ」
「ごめん。……あのさ」
歩きだした俺を制して、山科が言う。
「ちょっと聞いて欲しいんだけど。……こんなことって、お宅に言うべきことじゃないと思うし、言っちゃいけないことだって判ってんだけど」
「砂姫のこと?」
「そう。カン、鋭いね。俺――少し悩んでるんだよね。砂姫。あの子、あれでいいんだろうか。今、山岸君とかいう子、口説くんで必死だろ」
「……ああ」
「何か……俺の言える台詞じゃないんだけど……もっと自分を大切にして欲しいような気がする」
お宅の言いたいことは判るよ。けど、あいつ、人間じゃないし……人間界の道徳が通じる生物でもあるまい。
「俺……何か、責任、感じちゃうんだよね」
「お宅が責任感じることはないよ」
「けどさ……」
困った。何故、責任感じなくていいのか、その理由、とても説明できそうにない。けど……。
「あのさ、東さんって、あれ、一種独得な人だろ。もう殆ど人間とは言えないくらい」
「ああ」
「砂姫もね、実をいうと、ちょっと特殊な人なんだ。殆ど人間とは言えないくらい。……お宅さ、あいつに口説かれた時、まったく自制心、なくしただろ」
「あ……うん……」
山科、少し赤くなってる。
「あれって無理のない反応なんだよね、あいつにかかったら。それにあの|莫《ば》|迦《か》力――ちょっと普通の人間でない気がするだろ」
「うん……」
「俺だって、かなり特殊な人間だもんな。人生半ばにして性別がかわったんだから」
「何?」
「あ、いや、別に……いずれ、話したい時がきたら話すよ。俺もね、女の子のくせに一人称代名詞が“俺”になることでも判るように、かなり特殊な人間だったの。……とにかく、砂姫は特殊な人間で――男口説かないと生きてゆけないんだ」
俺の説明のしかたが悪かったのか、あるいは、内容が異常すぎるせいか、山科、けげんな顔してる。
「何つったらいいのかな、もし、もぐらのこと知らなきゃ、お宅、東さんを異常だ――っつうか、正しい生活に導いてやんなきゃいけないと思うだろ。毎日毎日地面に穴掘ってる、なんてさ」
「まあ……な」
「同じことだよ。お宅は、砂姫のこと、まだよく知らないから、あっちこっちの男口説くのを見て、生活を正してやんなきゃ、なんて思うんだよ。砂姫にしてみれば、それは、ふしだらなことでも、自分を大切にしていないってことでもない、東さんが穴掘るのと同じで必然なんだよね」
山科に、そんなことを話しながら、俺、妙な|安《あん》|堵《ど》を覚えていた。
男ってさ、可哀想な生き物なんだよな。俺、昔男だったから――男の勝手なところ、とか、汚ないところ、とか、みんな判ってる――つもり。だから、今更男になんか、夢を抱けないと思っていた。
けどね。こうしてみてると、男って、女に夢を抱いてる分だけ、純情で可哀想な生物だって思えてくる。
山科。本当に、砂姫のことに責任感じちまってるんだろうな。あいつのやってること、知りながらも。真弓だって、東さんは健気だって|一《いち》|途《ず》に思いこんでて。おまえの方がよっぽど健気だよ。
砂姫とかね、東さんの方が、ずっと図太くてたくましく生きてるよ。砂姫は山科の悩みも知らずに、「きゃあ、おいしそう」だし、東さんは東さんで、「やはり神の計画だろうと、何だろうと、東京都中のもぐら、移住させることにしたの」っつって開き直ってるし。最近は、それがわたしの使命なんだわって感じで、迫力まででてきた。
その二人に較べて。こんなことを(ま、事情を知らない山科にしてみれば、とても、“こんな”ことじゃないんだろうけど)、一所懸命悩んでる山科は、男達は、何と健気で、何と純情で、何と可愛いんだろう。
かといって。女だって、図太くたくましいだけじゃないんだよな。美絵子。ずいぶんなこと言われたと思っていた。でも――あの台詞の背景を思ってみれば、むしろ、そう言ったおまえがいじらしい。
途中で性別が変わったのって……ある意味で、悲劇よね。男性と女性って、いわばお互いに、異星人みたいなもんでしょ。異星人――別の、種族。だから、女性は男性に、男性は女性に夢を描くのよね。その点、|礼《もと》|朗《あき》は、両方とも知っちゃってるから、夢の描きようがないもの。――あ、ちょっと待って、誤解しないで。あたし、お宅がどっちに対しても、夢を抱けないから悲劇だって言ってるんじゃないの。女の子に対して抱いていた夢が崩れて、男の子にはそもそも夢を抱きようがなくて――そうやって、二つの種族の悪いとこだけまとめて見ちゃったら、一番肝心なとこが見えなくなると思って――それが可哀想なの。
一番肝心なとこ――別の種族っていったって、|所《しょ》|詮《せん》、両方共、地球上の人間って種族だってこと。根本的には、同じ生き物だってこと。
砂姫の台詞を、思い出していた。
根本的には、同じ生き物。根本的には、どっちも――優しくて、みえっぱりで、ちょっと莫迦で、いじらしくて、一途で、健気。
俺――自分で自分を愛せるように、男って、愛することができるような気がしてきた。女って、愛することができるような気がしてきた。自分で自分に夢を抱くことがないように、男にも女にも夢は抱かないけど、両方共の欠点も判ってるけど……でも、両方共、とってもいじらしくて可愛い。
「うーん……」
山科は、半ば|納《なっ》|得《とく》したような、半ば悩んでいるような、妙な表情をうかべる。
「そんなもんなのかなあ……」
「そんなもん、そんなもん」
それから、ハイライト|咥《くわ》えて。幾分、考えこむような表情で、煙を吐きだす。
「確かにさ……この間っから思ってるんだけど……東さんが妙な人ってのも納得するし、砂姫が普通じゃないっていうのも判るような気がするし……。パラレル・ワールドの入り口なんてもんがあるんだから、あのマンションって、変な連中ばっかり集まっちまうとこなのかも知れないな。第13あかねマンション、だなんて、一見普通そうな名前やめて、“類は友を呼ぶマンション”、とでもすればいいんだよな」
俺も、ま、普通じゃないしね。何となく、納得して、うなずく。それから、俺も煙草咥えて。
「真弓も結局ひっこしてきちまうし……」
「え? 真弓、第13あかねマンションに住む訳? 何でまた」
「あいつも、普通でない所じゃなきゃ住めない体の持ち主になっちまったんだよ」
「どうして」
真弓が吸血鬼だったなんて話、知らないぞ。
「あのね……出るんだよ。夜、半分の幽霊が。俺のとこと、あいつのとこに」
「え!?」
俺、生き返って以来、こいつらの処へ出た覚え、ない。
「いや、おまえじゃない、おまえじゃ。……俺んとこに……にわとりの左半身、真弓のとこににわとりの右半身」
お……思わず。思わず煙草の煙吸ったとこでふきだしちまって……むせる。|咳《せき》こむ。苦い。おいしくないっ。
「お、おい、大丈夫か」
|慌《あわ》てて山科が背中さすってくれた。
「おまえが悪いんだぞ、幽霊になってとりつくだなんて前例示しちまったから……。大人しく昇天する筈のにわとりが、真似はじめたんだろうよ」
俺の口許にあった煙草は、ふきだした拍子に落下をはじめ――あーあ、川。汚しちゃいけないとは思うんだが。
「本当にもう……笑いごとじゃないんだから」
山科、ふてくされながらも懸命に、背中さすってくれる。俺、そんな山科の手を、多少うとましく、かなりありがたく思いながら、別のことを考えていた。
今なら。今ならば、思いっきり優しい絵が描けそうな気がする。絶望以外の、もっと優しいもののはいる絵が。
俺の一生なんて、まるで喜劇だ。ばかばかしい一生だ。いつ死んだって、たいして差なんかあるもんか。
そう思っていたのが、不思議な|程《ほど》、おかしかった。
そう。人生なんて、ある意味じゃコメディなのな。コメディ――実に、ユーモラスな。humorous――ユーモラス――を、中学校の時human――人間――の形容詞形か何かと間違ったことがあった。(あ、一応注意しとくけど、humanは名詞じゃなくて、そもそも形容詞だからね)あの時は、受験前で、あーこんな|莫《ば》|迦《か》なミスしてって思ったけど、案外、本当にそんなもんなのかも知れない。人間って――人生って、どっかちょっと喜劇なの。
でも、喜劇――コメディなら。少なくともそれは、悲劇の一生なんてのに較べればずっと明るいし、楽しいもんじゃない? こうして咳こみながら、必死に背中さすってくれる山科の手なんか感じると――しあわせですらある。
優しくて、みえっぱりで、ちょっと莫迦で、いじらしくて、健気な連中に囲まれてんなら、そしてこの先何度でもやり直しがきくのなら――生きるのって、案外、楽しいもんなのかも知れない。本気でやるだけの価値のあることなのかも知れない。
かも知れない――いや多分、きっと。
ようやく、咳がとまって、まだ多少おろおろしている山科の頭、軽くつっつく。
「映画、遅れるんじゃないか」
そう言いながら、聞こえるような気がした。
まだ火のついていた煙草が、水に落ちて消える“じゅっ”って音が。今まで、どうにもならない悩みを繰り返すだけで、ただただ何となく、いつ死んだっていいやって思って生きてた、無気力な日々が消える、“じゅっ”って音が。
「ああ……そうだな。行こうか」
「ん」
背中、軽くおされる。こころもち、山科によりそうような風情作ってみる。
消えちまえよ。あの、無気力で怠惰な過去。
消えちまえよ。あの、暗く、何一つ作りださなかった、同じ悩みのリフレインの過去。
そう思って、心の中で、レクイエムを歌ってみる。俺の過去に捧げるレクイエム。
じゅっ。
〈Fin〉
文庫版へのあとがき
あとがきであります。
これは、私の十冊目の本にあたりまして、二十一歳の春に書いたお話です。
☆
ずいぶん長いこと――そして、今も――実は、私、ずっと不思議に思い、悩んできたことがあるのです。(書いてしまうとあきれられてしまうかも知れない。実際、二十を越えた人間が真剣に悩むようなことじゃないんですが。)人は、何故、吸血鬼を怖がるのだろうか? 小説に出てくる吸血鬼は、何故あんなに怖がられるのか。(ね? 実際、悩むようなことじゃないでしょ。)
でも。とはいうものの吸血鬼って、やっぱりとてもそう怖いものだとは思えないの。だって吸血鬼におそわれた場合の弊害って、せいぜい自分自身が吸血鬼になってしまうってことくらいで(ま、その間のプロセスとして一回、死にますが)、これ、どう考えてもそうおそろしいことやいまわしいことには思えないんです。
だって。吸血鬼の第一の特長(あえて特徴[#「徴」に傍点]じゃなくて特長[#「長」に傍点]と書きました)って、不老不死なんだもの。(ついでに言うと、吸血鬼の方は、おおむねみなさん美男美女でセクシーですね。おまけに小説によっては、もの凄い怪力が発揮できたりもするしね。そのうえ、大体、食費というものがいらない生活様式を営んでいらっしゃるようだし……。)
普通の小説で、「不老不死になる秘薬ができた、ただし服用すると一時仮死状態になる」っていう設定がでてきたら、普通の作中人物は、まあ大体その秘薬を手に入れようとして必死になるでしょう? なのに、吸血鬼ものに関する限り、大体全員一致でその秘薬の生きた製造工場破壊にはげむことになってる。
これは、不当な吸血鬼差別だと思いません?
(ま、確かに吸血鬼になることによるデメリットっていうのも、あることはあるんですけどね。十字架にさわれなくなるとか、ニンニクが駄目とか、昼外に出られない、太陽の光にあたれない、バラが枯れる……エトセトラ。あ、銀製品が駄目だってパターンもあったっけ、あと、鏡にうつらなくなる、とか。でも、クリスチャンじゃない私は生涯十字架にさわれなくてもそう困りはしないと思うし、不老不死になる為の食事療法としてニンニクを食べるなって言われればそれ実行するくらい何でもないし、結婚前はどうせ夜型だったんだし実は今でも夜の方が仕事しやすいし、バラが枯れたってさして困るとは思えないし、銀製品は高いから使えないならそれはそれでいいし、どうせ鏡にうつして悦に入る容姿でもないし……。私の場合、吸血鬼になった為のメリットとデメリットをはかりにかけると、圧倒的にメリットが勝つんですよね。)
と、まあそんなことをぐだぐだぐだぐだずっと考えてきた結果、砂姫というキャラクターの原型が、半分くらいできました。
(それに、ま、小説にでてくる“吸血鬼”ってイメージじゃなくて、土着信仰的な吸血鬼は、気持ち悪いと私も思う。夜な夜な墓場を抜けだして人をしめ殺しちゃ血をすする生きている死者ってイメージは、ね。それに、自殺した人間が吸血鬼になるっていう民間伝承をふまえると確かにいまわしいかなっていう気もするし――キリスト教社会において、自殺は罪です――、有名なドラキュラのモデルって言われるヴラド・ツェペシュなんかとは、どう考えてもお友達になりたくないしね。――ヴラドくし刺し公。この人は、罪人だのむほん人だのをくし刺しにして殺すっていうよくない趣味をもってまして、更に、くし刺しの死体に囲まれて夕食会なんかひらくという信じられない趣味まで持ってたそうです――。)
それから。もう一つ吸血鬼について私、悩んでいることがあるのです。
吸血鬼に血を吸われた人がみんな吸血鬼になるとしたら――大丈夫かしらね、人間って残っていられるのかしら。ううん、そんなねずみ講みたいな食性を持っているとしたら、そもそも吸血鬼って、存在不可能なんじゃないかしら。
仮に一人の吸血鬼が一週間に一回だけ食事するとしますね。と、一週目で吸血鬼は二人、二週目で四人、三週で八人、十六人、三十二人……って続きまして、何と二十七週目にして一億三千四百二十一万七千七百二十八人の吸血鬼ができてしまう計算になるんです。日本に一人吸血鬼が上陸したら最後、半年目には日本全国津々浦々、存在するのは吸血鬼だけってことになっちゃう。(この場合、新生児で吸血鬼になっちゃった人は悲惨ですね――。不老不死の赤ちゃんという、おそろしい状態やることになるんだから。)
でもって。万一吸血鬼が一日一回食事したら。日本列島は一月もちません。
万一、吸血鬼が一日二回御飯たべたら。九日目の晩で日本全滅、十一日目の昼には、ほぼ人類絶滅です。(十一日目の昼で四十二億九千四百九十六万七千二百九十六人の吸血鬼だぜ。)
吸血鬼の食事がもし人間の血だけだったら。吸血鬼って、発生したあと十一日の命ってことになっちゃって――とてもこんな不合理な食性の生物が存在できる訳がない! (あ、一応一回死んでるから、生物じゃないのか……。)
ま、今のは途中で殺される吸血鬼が一人もいないって想定のもとでの計算なので、吸血鬼始末人か何かががんばればもうちょっと吸血鬼一族の寿命はのびるでしょうが。でも、ねずみ講式増え方っていうのはなかなかにおそろしいものなので、そういう増え方している以上、この世に一人吸血鬼が発生したら、ま、人類はもって数年だと思われます。
これもまた、あんまりだと思いません? 吸血鬼なんてとっても魅力的なキャラクターなのに、計算するとどうしても存在に無理があるだなんて。
だもんで。いつしか私、“自分の小説にでてくる吸血鬼”って存在を考える時に、その吸血鬼から、“伝染する”って要素を抜くようになってしまいました。
こうしてできたのがこのお話にでてくる、砂姫というキャラクターです。
☆
このお話には。吸血鬼の他、みみずさんがやたら沢山でてきます。主人公が、山のようなみみずの上におっこちるシーンまででてきちゃって――で、おおむね、このシーンは、不評なようなのですね。気持ち悪いんだって。
そういう他人の意見を聞いて。やっとこ私、気がついたのでした。あ、普通みみずって気持ち悪がられるんだっけ。(と書けばお判りのように、私自身はみみずって全然気持ち悪いと思えないの。あの方々がぐちゃぐちゃごちゃごちゃ地面の中をうごきまわってくれるおかげで土地や畑が肥えるのだ、と思うと、ありがたい方々ではないか。)
一般的に長い生物って、どうやら嫌われるらしいのですね、みみずさんとかへびさんとか。で、これは最近気がついたのですが――私って、長いの、平気なの。ふっと気がつくと、うちに多数いるぬいぐるみの中には、やたらと長いものが多いし。(ついに二十匹の大台にのってしまったキャットテイル――これは別名ネコヘビと言われてまして、その言葉から形状を想像して下さい――とか、身長二メートル五十のニシキヘビのぬいぐるみとか。みつけたら、みみずさんのぬいぐるみも欲しいと思っております。)それに私、仕事で一メートルを越す生きているニシキヘビさんを抱いたこともあるんだよね。その時も、恐怖感ってまったく抱かなかったし……。(なかなか人に慣れていて、かわいいヘビさんだったっていう理由もありますけれど。)
何で長いと人に気持ち悪がられるのか。これもまた、不当な長いもの差別なんじゃないだろうか……なんて、このお話を読み返して、また、しみじみ思ってしまったのでした。
☆
このお話が最初に単行本として出たあとで。割と大勢の方がどうやら“ヒミズ”というのを架空の生き物だと思っていらっしゃるということを知り、驚きました。あれはちゃんと実在の生き物です。百科辞典にもちゃんと出てるんだぞお。(ただし、国民百科をひいたら、ヒミズ―→モグラって書いてあってちょっとずっこけ、更にモグラをひいたら、まず、『食虫目モグラ科のうち、水生のデスマン亜科、半地下生のヒミズ族を除く地下生の哺乳動物の総称』って書いてあって大巾にずっこけましたが。ま、とにかくヒミズっていうのは、『完全な地下生活者になりきっていない、いわば半モグラともいうべき存在』だそうです。)
私、何となく子供の頃からヒミズっていう生き物がいることを知っていたので(もぐらって生き物がいることは、ま、常識だよね? ヒミズも、同じ、常識の範囲の生き物だと思っていた)、『生物の先生に聞いたけれど先生もヒミズって知らなかったので新井さんが作ったものだと思ってました』とか、『ミミズとのごろあわせで作ったものじゃないんですか』って意見を聞くたび、ぶっとびました。可哀想にヒミズって、どうしてこんな無名の生き物になっちゃったんだろう……? (だって少なくとも、エリマキトカゲやヤンバルクイナやイリオモテヤマネコなんかより、一般的な日本人にとってずっと身近な生き物だと思うけどなあ。)
☆
では、最後に。
これを読んで下さったみな様に。
読んで下さって、どうもありがとうございました。気にいっていただけると、とっても嬉しいのですが。
で、もし。
もし、気にいっていただけたとして、そして。
もしも御縁がありましたなら、いつの日か、また、お目にかかりましょう――。
昭和六十一年一月
[#地から2字上げ]新井素子
本作品は一九八三年三月、単行本として小社より刊行され、一九八六年三月、講談社文庫に収録されました。
|二《に》|分《ぶん》|割《かつ》|幽《ゆう》|霊《れい》|綺《き》|譚《たん》
講談社電子文庫版PC
|新《あら》|井《い》 |素《もと》|子《こ》 著
(C) Motoko Arai 1983
二〇〇二年六月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
KD000213-0
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このテキストは電子書籍版(HTML)をテキスト化し、
講談社文庫版
昭和61年3月15日 第1刷発行
を底本として、あれこれ調整しました。
Macな方は、目次や見出し行のギリシャ数字が文字化けしますので適宜置換してください。