緑幻想 グリーン・レクイエムU
[#地から2字上げ]新井素子 著
目 次
Opening
1
2
3
4
5
6
7
8
決して投函されない手紙1
――箕面夏海の手記
決して投函されない手紙2
――三沢あるいは岡田拓の手記
Ending
文庫版あとがき
Opening
[#ここから1字下げ]
ずっと、想っていた。
何より、大切だった。
あなた――。
[#ここから3字下げ]
――お願い、あなた、そうだと言って。
[#ここから5字下げ]
どうか、判って。
この想いを共有して欲しい。
あなた――。
[#ここから1字下げ]
ずっと、想っていた。
信じていた。
いつか、あなたに会える。
あなたに会えたらあたしは――あたしは。
[#ここから3字下げ]
――遠くで聞こえるピアノの調べ。
[#ここから5字下げ]
あれは、ママの歌。
あたしのよく知っている歌。
あたしをやり場のない|処《ところ》へとおいつめる、あれは、|呪《のろ》い。
[#ここから1字下げ]
連れていって。
あたしのゆけない処へ。
連れていって。
すべての|軛《くびき》を断ち切って。
連れていって。
あたしは一人では行けないの。
たとえば――いちめんのなのはなの|溢《あふ》れる世界へ。
[#ここから3字下げ]
――ママ。
[#ここから5字下げ]
ごめんなさい。
うたわないで。
あの歌を。
帰りたい――帰りたい――帰りたい――。
あの歌を聞くと切なくなる。
もうあたしはあの歌には|縛《しば》られたくない。
あの歌――あたしの呪い――グリーン・レクイエムに。
[#ここから1字下げ]
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
ああ。
どんなに憧れたことか。
いちめんのなのはな。
どこまでも続く淡い黄色の世界。
決してあたしの行けない処。
あなたに会うことさえできたら、きっとあたしが連れていってもらえた処。
……でも、それは、遠い夢ね。
[#ここから3字下げ]
――ママ。
[#ここから5字下げ]
お願い。
あたしを呼ばないで。
帰りたい――帰りたい――帰りたい――。
ママの想いが満ちるのを感じる。
でも、あたしはもう、そこには帰れないの。
ここがおまえの|故郷《ふるさと》だ。
あの人がそう言った時から、あたしの故郷はここになった。
だから、あたしはもう、帰れない。もう、どこにも行かない。
ここがあたしの故郷だ――。
[#ここから1字下げ]
あなた。
ここがあたしの故郷だって言ってくれた。
あなた。
ありがとう。
あたし、ずっと、言ってもらいたかったの。誰かに。
だから、ありがとう。そして――お願い。
どうかあたしをここにいさせて。
あたしをどこにもやらないで。
ママがあたしを連れに来る。
ここの人達があたしを追い詰める。
お願い、あたしを守って。
お願い、あたしを渡さないで。
……でも……それは、無理なのね。
それは、遠い夢。判っていたのに。
だから。
どうか。
これだけは。
あたしは、ここにいます。
いつまでも、ここにいます。
たとえ、この体が|朽《く》ち果てても、心だけは。
たとえ、この体がどこへ連れさられても、想いだけは。
お願い、あなた、あたしをここにいさせて。
お願い、あなた――信彦さん。
信彦さん!
[#ここで字下げ終わり]
☆
ある、初夏の日暮れ時。
山の中腹にある、古びた洋館の焼け跡に、一瞬、突然の落雷のような閃光がさした。その場にいたすべての人達は、たまらず目を閉じ――閉じたまぶたを通しても、なお、その光は人々の脳にまではいりこみ――そして、人々は、知ったのだ。
あれは――光ではない。落雷とみまごうような、あまりの強さ故に光まで伴っているかのように見える――あれは、想い。
そしてその想いは。あたりにいたすべての人々の脳裏をある一つの色に染めあげ、それから。
それは、やがて、じわじわと、あたりにいたおよそすべての人以外のものにも、影響をおよぼしてゆく。それは、決して、表だって人間に判ることではなかったのだが、でも、じわじわと、確実に。
そして。
このお話は、そこから始まるのである――。
1
空が、青い。
臨時に自分のオフィスとなった、白いビルの一室で、|黒田博《くろだひろし》は半ばうんざりしながら青い天井をみつめていた。青い天井――空を。
空が、青い。いい天気だ。そのこと自体は、まあ、結構なことなのかも知れないが、自分のオフィスで仕事をしているだけで陽にやけるというのは、あまり好ましい事態ではないような気がする。日がな一日ビルの中に閉じ|籠《こ》もって、なのにまっ黒に日焼けするだなんて、自然の理というものをまるで無視しているようで。
「ガラスブロックの天井……こんな訳の判らないものを作るくらいなら、そもそも、天井なんか作らない方がいいんだ」
誰にともなく、こう、|呟《つぶや》く。
そうだ、ガラスブロックの天井なんてものを作ってまで、問題のものに太陽の光を浴びせたいのなら、最初から天井なんか作らなければいいのだ。
が。
そうはいかないこともまた、黒田にはよく判っていたのだ。
「……まあ……仕方がないことは認めざるを得ないが……」
この部屋の中に、人は黒田一人しかいない。にもかかわらず、およそ誰にも聞き取れない程度の小声でこう言うと、黒田はそっと自分の背後の壁を盗み見る。彼のデスクのうしろには、急|拵《ごしら》えの、しかし頑丈な壁があり、その壁の中央には、小さな、黒田を含め、ほんの数人の指紋でしか開かない扉がある。そして、その扉の向こうには――。
ストレスが、たまっているのに違いない。
黒田は、それを思うと、軽いため息をついた。
ストレスがたまっているのに違いない。
こんな、ま、言わば超国家的な秘密の中にいて、調査自体はまるですすまず、なのに頑として問題のものの解剖と引き渡し要求をこばみ続けて、それでもストレスがたまらないという人がもしいるのなら、お目にかかってみたいもんだ。
このまま自分にストレスがたまり続けて――そして、そのストレスが臨界点まで達した時――次に起こるのは、何だろう? 胃に穴があき、体がずたずたになり、もうこの仕事を続けていられなくなり……そのあとの自分はどうなるのだろうか?
|三《み》|沢《さわ》――あるいは、|岡《おか》|田《だ》|明《あ》|日《す》|香《か》。
扉の中にある、そのもののことをちょっと考えてみる。
三沢明日香、あるいは、岡田明日香。
報告書によれば、生前の彼女は、自分が何であるのか、ずっと知らずに過ごしてきたらしい。それは、彼女にとって幸せだったのだろうか? それとも、不幸だったのだろうか?
できれば、幸せであって欲しい。
これは感傷だ。そう思いながらも、黒田は、何故か、切実にそう願っている自分に気がついた。
大の大人の、それも結構汚い仕事に手を染めてこなかった訳ではない、黒田博の胃に穴をあけるような秘密。それに直接関連していた、三沢――あるいは岡田明日香。彼女が幸せであったとは思いにくいが――それでも、幸せで、あって欲しかった。何故なら、彼女は……。
……良子。
感傷だ、感傷。
黒田は、自分の心の中にわきあがった、ある思いを|払拭《ふっしょく》するように、あわただしく首を二、三度振ると、そのまま立ち上がり、|苛《いら》|々《いら》とデスクの廻りを歩き――そして、問題の、扉の奥へと、足を踏み入れた――。
☆
「指紋確認……黒田博……部屋の重量、基本時より六十七キログラム増……これは、黒田博の基本体重の許容範囲です……体温確認……摂氏三十六度三分……発汗確認……生体だと認めます」
嫌になるくらいしつこく、扉の前の所定の場所に手を触れた黒田は、待たされた。まず、指紋でここにいる人間が黒田だと確認し、次に、部屋の重量により、他の人間、あるいは黒田と極端に体重の違う人間がいないことを確認し、体温と発汗により、黒田の指紋が、切り取った指によっておされたものではないことを確認し(つまり、黒田の指が生体であるかどうかが確認され)――ようやっと、黒田は、問題の部屋の中にはいることができた。
「良子……また来たよ」
黒田は、ドアを開けたあと、彼の権限で可能な限りのセンサーを切り、あいたドアの中へと走るようにして進みより、問題のものの前まで来ると、そっと、心の中でこうささやく。
良子。
それが、嘘だということは、誰よりよく、黒田が知っている。
良子。黒田の、もうはるか昔の初恋の女性は、勿論明日香ではなかったし、今黒田の目の前にある明日香の体、そしてその容貌と、かつて黒田が真剣に焦がれた良子という女には、似た処はほとんどないと言ってもよかった。第一、現実の良子は、今、この瞬間も、おそらくは黒田の知らない誰かの妻として、子供にも恵まれた幸せな人生を歩んでいるに違いない。
だが。それでも、そんなことは百も承知の上で、明日香は黒田にとっての良子なのだ。どうしてだか判らないのに魅きつけられる、どこがいいとも思えないのに引き寄せられる、謎の、そして永遠の憧れの女性。今の黒田からすると考えられないことだが、もったいなくて手を握ることすらできなかった少女。そして――一度、良子として失われ、今また明日香として失われた、永遠に手の届かない女。
「きれいな髪だ……」
天井がガラスブロックの部屋。その部屋の中で、更にもう一段、ガラスケースで囲われているその物体。故に、黒田は、直接その物体の髪を愛撫することもままならず、ただ、心の中でだけこう呟くと、視線でその髪を愛撫した。
「良子……」
ガラスケースの中にあるのは、|二十《はたち》前後に見える、女性の体。比較的ほっそりしたなんてものじゃない、あきらかに痩せすぎの体躯と、貧血としか思えないような色の白さをそなえた体。貧血――いや、そもそも、色素の沈着が日本人とは違うのかも知れない。とはいうものの、あきらかに白色人種でもないその体色。骨格そのものが、黄色人種にしても惨めすぎ……にもかかわらず、何故か、一種の風格といったものがその体からは|滲《にじ》みでている。
そして――そして、何よりも異様なのは、その、髪の毛。
まず。
長かったのだ、やたらと。
おそらくは、二メートル五十以上はあるに違いない。この女性がこのガラスケースの中に身を横たえる直前まで、生きて――そして、立って歩いていたことを考えると、どう考えても不可能な長さ。何せ、彼女の身長より一メートルも長いのだから。
それに。その髪の毛の、先の方は、おそらく染めていたんだろう、黒い色をしているが、頭についている方、一メートル五十くらいの色は。
人種を問わず、およそ人類にはあり得ない――鮮やかな、深緑色だった……。
☆
三沢、あるいは、岡田明日香。
それが、現在、日本国政府の最大機密事項になっている、この死体の名前だった。現時点において、日本と西側諸国によって存在が推定されている異星人三人のうち一人、そして、存在が確認されているたった一人の異星人。
ガラスケースの中に横たわる女の髪を視線でゆっくりたどりながら、黒田は気の狂いそうだったこの二ヵ月のことを思い出していた。
基本的には、事態をここまでややこしくしたのは、松崎という大学教授の独走というか認識不足だった。
松崎の供述によれば、今回の事件の根は、十数年前にさかのぼることになる。松崎は、十数年前、ある山奥の洋館で、偶然、以前彼の師だった岡田善一郎という学者と、彼によって育てられている五人の子供達に出会ったことがあったのだそうだ。ただ、当時の岡田は極端な程松崎の来訪を迷惑がり、そしてそれをいぶかしんだ松崎は、おそらくは岡田が何よりも隠しておきたかったに違いなかろう五人の子供達の秘密に気がついてしまう。その五人の子供達の髪の毛は――鮮やかな深緑色をしていたのだ。
その髪を見た瞬間、松崎はすべての秘密を知ってしまったと思いこんだ。ある日突然、|失《しっ》|踪《そう》のような形で学界から|退《しりぞ》いてしまった岡田が、最後まで熱心に研究していたのが|光《こう》|合《ごう》|成《せい》で、岡田の究極の夢は、植物の手を借りず、人為的に、あるいは何らかの外科ないしは遺伝子操作処理を|施《ほどこ》した動物によって光合成がなされることで――その子供達は、岡田の研究のゆきすぎが作りあげてしまった、いわば生体実験の産物であったと思いこんでしまったのだ。
松崎は悩んだ。岡田のやったことがもし松崎の思ったとおりのことであったなら、それは人間として許される行為ではない。が、昔の師、それもたった一人の恩師として松崎が尊敬してきた岡田を告発するのはどうしてもためらわれた。それにまた、そんなきれい事はおいておいて、松崎も、科学者の一人として、もし岡田の夢が|叶《かな》ったのなら、そのメカニズムを知りたくてたまらなくもなったらしい。
その上、岡田も岡田で、ある意味でそんな松崎の誤解を助長するような行動をそのあととったのだ。すなわち――松崎にすべてを目撃されたと知った直後、岡田は家に火を放ち、そういうものがあったなら、すべての研究と、そして子供達と自分とを、炎の中に葬ることにしたのである。
が。五人の子供達、そのすべてが火の中で失われた訳ではなかったのだ。子供達にも生き延びたいという意欲があったことだろうし、岡田だってそれまで男手一つで子供を育ててきたのだ、どうしても殺しきれない思いもあったことだろう。年上の三人は、火災をのがれ、どこへともなく消えてしまった。松崎は、そんな岡田の|最《さい》|期《ご》を知ると、感情的にどうしても岡田の罪を|暴《あば》くことができなくなり――こうして、この問題は、三人の子供の行方不明という事実を|孕《はら》んだまま、十数年も、単なる失火による火災として葬られてきたのである。
皮肉なことにも。こうして、一度は途切れた松崎と子供達の間に糸を結んだのは、今度は松崎を恩師としてあおぎみる、彼の門下の|嶋《しま》|村《むら》|信《のぶ》|彦《ひこ》だった。嶋村の、二十五歳という年齢を考えるとあまりにも遅い初恋の相手が、問題の子供達の一人、三沢――あるいは、岡田明日香だったのである。(岡田家全焼の後、問題の子供達は、岡田の母方の親戚でもあり、後に述べるように岡田の唯一の協力者でもあった、三沢良介という医者をたよって彼の家に身を寄せていたのだった。)
松崎は、今度こそ容赦はしなかった。何が何でも、緑の髪をした子供達の秘密をときあかそうとした。
その、協力要請とはちょっと言いにくいような強引な態度のせいか(のち、彼らが異星人と判ってからは、別に松崎の態度にはかかわりなく、とにかく彼らにしてみれば、科学者に自分の体を見せる訳にはいかないという都合があったのだと判るが)、彼らは、松崎から徹底して逃亡しようとする。が、夢子、|拓《たく》の年長者二人は、何とか松崎の手を逃れたものの、結局明日香は一度は松崎に捕まってしまう。
明日香の組織のサンプルは、この時、ある程度、取ることができた。
そして。この時の、宮本秋雄、根岸貴幸、両名の研究によって。
初めて、事態は、はっきりしたのである。
すなわち。
明日香は、ありとあらゆる意味で、人間ではなかった。人間たり得なかったのだ。人間は――いや、人間に限らず、動物であろうが植物であろうが、地球で進化を|辿《たど》ってきた生物は、明日香のような組織を構成し得ないし、逆に言えば、明日香の持っているような組織を持つ生物は、地球の進化の系列に属し得ない。
つまり、松崎の考えは、その基本が間違っていたのだ。
岡田善一郎は、研究の末、人間が光合成をできるようにしたのではない。
そもそも、人間ではない、光合成をする生物を、あたかも人間であるかのように作り変えたのである。
つまり。
いつ、どこで、どうして、彼らが地球に住むようになったのかは判然としないが、彼らは、あきらかにエイリアンであり――どういう事情があってか、岡田はエイリアンが地球人としても通用するよう、彼らの体組織を作り変えたのだ。この時、その手術に協力したのが、明日香達ののちの育ての親となった、三沢良介である。(のち、三沢が、岡田と共に宇宙船が墜落する現場に立ち合ったこと、故に彼らは真実エイリアンであること、事故の生き残り達の希望は母星への帰還だったのだがついにそれを|果《は》たせなかったこと、故に、最後にたった一人残ったエイリアンの女性の願いをいれ、彼女の、そしてその他のエイリアンの子供達を人間形にしようとしたこと、などを松崎に告白した為、この点はおそらく真実であろうとは思われるのだが、数人の学者は、まだ、明日香を、人類亜種であると主張してやまなかった。あとに述べる事情により、三沢良介の身柄がまだ確保されていないので、この点については、議論の余地が残されている。)
この驚くべき――誰も予想をしていなかった事態の展開の為、一時、松崎の研究室はパニックにおそわれた。そして、その|隙《すき》をぬって、一度はつかまえた明日香が、松崎の門下生であり明日香の恋人でもある嶋村信彦と共に逃げだしてしまったのだ。ここで事態は驚異的に混乱し――また。
また。宮本、根岸両名の研究は、更に驚くべき結論を提示しており、この為混乱は、更に二乗された。
明日香達エイリアン(まだ結論はでていないものの、|暫《ざん》|定《てい》的に、ここでは彼女をエイリアンとしよう)の近くにいたり、あるいは彼女達によってある種の影響を与えられた地球の植物は、変化するのである。みずからの意志を持つように。そして、みずからの意志のままに振る舞えるように。その為、植物は、わずかとはいえESPのような能力を獲得することも、認められている。そして、その影響は――きわめて僅かで、遅々としているとはいえ、伝染するのだ!
こと、ここへきて。
もはや事態は、傍観していられるものではなくなった。
今や、明日香と、そして彼女の兄・拓、彼女の姉がわりにして拓の恋人・夢子は、狩られているのだ。人類によって。
そもそも、動物というものを持たない星で発生した(と思われる)明日香達エイリアンにとって、植物を食べるものがいる、この地球という星は、地獄なのだ。草食動物は鬼だろうし、それを食べる肉食動物は悪魔だろう。まして、今、地球を支配している人間ときたら!
潜在的に、彼らエイリアンは、人類に対していわれのない恐怖を抱いている。その彼らが、実際に人類に追われだしたら。その恐怖は、二倍にも三倍にもふくれあがるだろう。そういうエイリアンが、地球の植物に影響を与えだしたら!
全地球上の、総ての植物が、狂いだしかねない。彼らは、伝染力のある影響を植物に与え得るのだし……彼らが、植物に与える影響は、決して、動物に、そして人類にとって好ましいものである筈がない。
それに。
考えてみれば、我々人類は、そして、動物達は、植物に対してどんなことをしてきたというのだ? 踏みにじり、食べ尽くし、ただ食料増産の為のみにその生存を許し、場合によっては『種なし』などという当の植物にとってはたまらなく屈辱的な品種を産み出し……。
全植物が動物に対して|牙《きば》をむく。農作物が、すべて、人類に対して牙をむく。
そんな事態だって、起こり得ないとは言い切れない!
実際、人類は、そうされても文句が言えないようなことを、全ての植物に対して行っている!
明日香は、そして他の二人は、そんな|危《あや》うい人類の危機の導火線なのだ。彼女達を導火線にして、いつ、どこで、どんな火花があがるか知れない。
本来ならば、ここで、この時点で、日本という国が、あるいは国連が、あるいは西側諸国の首脳団体が、この問題に|噛《か》んでしかるべきだったのだ。
だが、実際は、そうはならなかった。
何故なら、松崎が、そのすべてを握り|潰《つぶ》したからだ。
松崎の頭の中にあったのは、『研究』、ただその二文字だったのだとは思う。松崎は、ただ、明日香、拓、夢子、その三人の秘密を、純粋に学問的にときあかしたかったのだと思う。
故に。松崎は、極めて個人的に、追跡しだした。明日香を、拓を、夢子を。
松崎にとって幸いなことには。彼の追跡網が極めて不備であったにもかかわらず、明日香と、そしてその恋人の嶋村信彦が、何とかそれにひっかかってくれたのだ。彼ら二人は、昔の岡田家焼跡で追い詰められ……そして、明日香は、精神的な自殺をした。
精神的な自殺。
明日香達エイリアンの肉体構造が今一つはっきりしていない現段階では、他にちょっとどう言っていいのか判らないのだが――とにかく、その時、その場に居合わせて、明日香のしていることを見ていた人達は、百人が百人、そう思ったのだそうだ。すなわち――明日香は、自分の持てるすべてのエネルギーをただいたずらに放出し……そして、死んでいったのだと。
のち。
おそらくは死骸と思える明日香を収容したあと、松崎、三沢をはじめとする人々は、あたりの環境保全につとめた。明日香の影響を間違いなく受けた筈のあたりの植物をひっこ抜き、それがどのような想いであったにせよ、明日香がいまわの|際《きわ》に地球の植物に与えたかも知れない影響が、全地球規模で伝染するのを防ごうとしたのだ。
そして、やっと、ことここに到って。
日本国政府、および西側諸国は、この問題をきちんと認識する。
松崎が何とか明日香達エイリアンを捕捉しようと努力している間、事態のあまりの大きさに、『これは一研究者レベルでことの収容にあたってはいけないのではないか』と気がついた宮本が、密かに松崎達とは行動を別にし、政府に訴えでた為に。(もっとも、宮本にしても、こういう場合、政府のどの機関に話を通せばいいのかまったく判らなかった為、彼が訴えでてから、実際に日本国政府がこの問題に乗り出すまで、いたずらなタイムロスがかなりあったのだが。)
その、不必要な遅延の為、日本国政府がすべての事態を掌握し、いざ問題の収拾につとめだした時には。
すでに、三沢良介は、岡田家焼跡から姿を消してしまっていた。以来、彼の行方は、|杳《よう》として知れない。故に、三沢が目撃したと松崎に語った宇宙船については、未だに学者達の間で論議がかまびすしい。
また。嶋村信彦の姿も、この時点で、消えていたのである。(のち、北陸のとある県の消印で、彼の退職届けが研究室に届いた。この時も、彼の行方を捜す動きは活発になったのだが……結局、今に至るまで、彼のその後の動きについては、知るものはいない。)
つまり。松崎の認識不足により、いざ事態の収拾にうごきだした日本国政府の手に残されたのは、ただ明日香の死体のみ、という状態になってしまったのである。
が。最初のうちは、まだ、誰もが事態を楽観的にとらえていた。彼らの予定では、夢子と拓、そして三沢良介と嶋村信彦は、すぐにでもみつかる筈だったからだ。三沢良介がみつかれば、明日香達が本当にエイリアンなのかどうか、また、だとしたら何故明日香が地球にいるのか、他のエイリアンがもしいるのならどこでどうしているのか、彼らの母星はどこなのかという点についてはある程度判る筈だし、夢子と拓が見つかれば、彼らの体についての研究も多少進むだろう。三沢と夢子・拓が同時に見つかれば、長年彼らの体をみてきた三沢から、更に具体的な情報を具体的な標本と一緒に手にいれることだってできる筈だ。
だが。そんな関係者の思惑を裏切って、彼らの行方は、依然として、いくら調査を重ねても、どうしても判らないのだ。
夢子と拓、そして三沢良介の行方が不明なのは、まだ、解釈のしようもある。彼ら三人は、自分達が追われているという認識を持って行動しているのだから。だが、自分が追われているという認識がない筈の嶋村信彦まで、行方がさっぱり判らない。これは何とも理解しがたい謎ではないか。
一般に、行方の知れない人間を捜しだすのは、そう困難なことではない。まして、覚悟の|失《しっ》|踪《そう》をしている人間ならともかく、そうでない人間を捜すのはある意味で造作もないことだ。どんな人間でも、必ず一人では生きてゆけないという大前提にのっとって、その人間が連絡をする可能性のある人間、そのすべてを見張っていればいいだけの話なのだから。また、覚悟の失踪をしている人間であっても、彼らのように、顔も特徴もはっきり判っている人間なら、国家権力をもってすれば、みつけるのは決して難しいことではない筈なのだ。この状態で、この四人が国外に出る手段はあり得ず、必然的に、この狭い日本の中のみを捜せばいいということなら、もっと簡単な筈。
なのに。この四人は見つからない。明日香の死から、すでに二ヵ月程も経過しているというのに、手がかりすら、何一つ、ない。
これは。
これは、まったく、あり得ないことなのだ。
また。
明日香の体も、問題なのだ。
『精神的な自殺』。
それはあくまで、あの時、明日香と一緒にその場にいた人の意見。
それを除くと……。
明日香は、今でも、まだ、生きているのだ。
それは、普通一般の意味での『生きている』とは違うかも知れない。でも、『死んでいる』とはいささか言いにくい状況。
何故なら。
明日香の体は、腐らないのだ。衰えないのだ。死斑はまったく現れないし、死後硬直もしていない、顔色も別段変わらない。そう、こうして見ている限りでは、いつ動きだしても不思議はない、まったく生きているとしか思えない状態なのだ。
ただ。彼女の心臓は動いていない。脳波もない。呼吸はしていない。勿論動かないし、この二ヵ月、何一つ口にしてもいないし、水も呑んでいない。|排《はい》|泄《せつ》行為もまったくしていないし、体温は気温と同じ温度で一定している。彼女がもし人間なら、これはあきらかに死んでいるとしか言えない状態。
が。彼女は、少なくとも、人間ではない。彼女の場合、心臓がとまっているからと言って、呼吸をしていないからといって、脳波がないからと言って、果たして『死んでいる』と言ってしまっていいのだろうか? いや、やはり彼女も生物で、心臓と肺とおぼしき器官を持っている以上、これはやはり、死亡しているというべきだろう。が、だとしたら。どうして彼女の体は腐らない? どうして彼女の体はまったく変化しないのだ?
また。『精神的な自殺』をする前の彼女が、とにかく、生きて、動いて、喋り、恋までして、時には水分を飲んでいたという複数の証言がある以上――今の彼女の状態が、少なくとも『生きている』よりはずっと『死んでいる』に近いことは、確か。その場合――彼女達エイリアンの生死の区別は、一体どこでつければいいのか?
これが判らない以上、どうしても。責任者としての黒田も、そして、一個人としての黒田も、彼女の体を|解《かい》|剖《ぼう》するのにうべなう訳にはいかなかった。何せ、彼女は、もしこのまま夢子と拓が見つからなかった場合、人類が手に入れることが可能な、たった一人のエイリアンなのかも知れないのだ。そんな貴重な生物を、まだ生死の区別もはっきりついていないのに、解剖にまわす訳にはいかないではないか。
いや、そんなことがなくたって。
「……りょうこ……」
ついに、黒田、小声でこう呟いてみる。だが、その声は小さくて、ほんとにとっても小さくて、たとえこの部屋に誰がいても、聞きとることはできなかったろう。あるいは――黒田にさえ、実際には聞こえなかったのかも知れない。
いや、そんなことがなくたって。
良子。おまえを解剖するだなんて――あきらかに、死んでしまったおまえならともかく、こんなにも生きているように見える、いや、生きているとしか思えないおまえを解剖するだなんて……決して、私は、許しはしない。
そして――だから。
だから、今、明日香は、天井がガラスブロックの、この部屋のガラスケースの中に、その身を横たえているのである。
明日香を、生きているにせよ、死んでいるにせよ、地球の植物とじかに接触させる訳にはいかない。それは、あまりに、危険。
だが、明日香の死がある意味で確認不可能な今、ひょっとしてひょっとすると生きているかも知れない彼女を、無意味に死へおいやる訳にはいかない。勿論明日香は、何も食べようとはしないし、何も飲もうとはしないだろう。死体に点滴を施すのも、意味がないかも知れないし、場合によっては逆効果になるかも知れない。そんな中でたった一つ、やっても効果はないかも知れないが、逆効果もない方法として――明日香に、太陽の光を浴びせることがあげられる。彼女が、地球の太陽で光合成をすることができたのは確かなのだし、ガラス等の|遮《しゃ》|蔽《へい》|物《ぶつ》を間におけば、彼女が地球の植物に影響を与えることはないというのは、三沢の研究により立証されている。だとしたら、こうして、ガラスブロックの|許《もと》、できる限り太陽の光を浴びせて……。
「……判ってはいるんだ。|所《しょ》|詮《せん》、これも、感傷だろう」
しばらくガラスケースの中の明日香の顔を見つめたあと、黒田は、こころもち肩をすくめ、誰にともなくこう言ってみる。
「そうだ。所詮、感傷だ」
そうだ、所詮、感傷だ。感傷が黒田と明日香の間を結び、感傷が、黒田をして明日香の解剖に反対させる。そしてまた、感傷が、明日香の体を(たとえガラスケース、ガラスブロック越しとはいえ)陽光の許に|曝《さら》す。
「案外……私が、ここの責任者でいられる時間は短いのかも知れないな」
それに。明日香の体を、是が非にも解剖したいと思っている科学者達の間には、すでに、黒田を|排《はい》|斥《せき》しようという動きがある筈だ。また、明日香を――現時点で確認されている唯一のエイリアンの体を――できることなら日本という極東の島国から奪いたい、自分達の許で思うがままに調べたいという、アメリカ側の意向も無視できない。それやこれやを考えあわせると、黒田が今のままの地位を保っていられるのも、所詮、長いことではないのかも知れない。
「だが、まだ」
だが、まだ。まだ、この件に関する責任者は、自分だ。そして、自分がこの地位にいる限り……。
「安心してそこで眠っておいで」
今度は黒田、|台詞《せりふ》を口にせず、ただ心の中だけで、こう明日香に呼び掛ける。
「まだ、安心して眠っていていい。私には――たとえおまえをここに置き続けるのが私の感傷故だと非難されても、まだ、おまえを守ってやるだけの力があるから。今までの人生、決してきれいごとで生きてこなかった分、私は負けるのが苦手なんだ。勝つことにしか、慣れていない。だから、そこでゆっくり待っておいで……」
黒田、それからくるりときびすを返し、かなりの|大《おお》|股《また》ですたすたとその部屋をでてゆきかける。
きびすを返した瞬間から――言い換えれば、明日香のはいったガラスケースに背を向けた瞬間から――ぬぐいさるように黒田の口許からは、さっきまで浮かんでいた優しい笑みが消え、かわりに、ふてぶてしい、自信に満ちた軽い|微《ほほ》|笑《え》みが、仮面のようにその顔にはりついた――。
☆
「黒田所長にお会いしたい。今日こそは、ぜひにも、お目にかかりたいのだ」
「誠に申し訳ありませんが、所長はスケジュールがつまっておりまして、アポイントメントのあるお客様以外は通してはいけないことになっておりまして……」
「それはもう、何回も聞いたよ! だから私は、この間からとれるものならアポイントメントをとりたいと、何回も君に頼んでいるじゃないか! アポイントメントはとらせてもらえない、アポイントメントがなけりゃ会わせてもらえないっていうんじゃ、一体どうやれば私は黒田氏に会えるんだ!」
黒田が、このビルの最上階の自分のオフィスの隣の部屋でじっと明日香を眺めていた頃、その同じビルの一階で、二人の不幸な人物が、机をはさんで言い合いをしていた。
「ですから、あの、スケジュールの調整がつき次第、松崎様のアポイントメントをおとりしますから……」
「君は先週からそう言っている!」
不幸な人物の一人、ここ二週間程、毎日のようにこのビルに通ってきては、黒田に面会を申し込み、その度に断られている松崎貴司は、苛々と、目の前の女の子の机を指ではじく。
実際松崎は、自分が不当な取り扱いを受けていると思えてならなかった。何故なら松崎は、明日香の、あの緑の髪をした子供達の、第一発見者と言っても間違いない人物で――なのに、黒田の主宰する『日本植物研究協会』なる組織が(つまるところそれは、日本政府の代理機関のようなものだったが)この件に噛んで以来、徹底して第三者の立場においやられてしまっているのだ。
最初、まず、松崎は、黒田による徹底的な尋問を受けた。そう、黒田はそれを関係者への事情聴取だと言っていたが、あれは事情聴取なんてものじゃない、断固とした尋問、拷問へいかなかったのが奇跡みたいなものだと、今でも松崎は確信していた。そして、それだけでも松崎は、充分に腹をたてていたのである。
なのに、その上。黒田は、国家権力、警察権力が自分の背後にあることを暗に示したのち、松崎に、この件に関する限りの絶対的な沈黙を要求したのである。これだって、松崎にしてみれば、決して嬉しいことではない。
が、まだ。まだそこまでは、松崎も、理解ができたし、納得もできたのである。
明日香が、そしてあと二人の子供達が、本当にエイリアンであるならば。その件にちょっとでも噛んだ人間が、尋問に近い事情聴取をされるのも仕方なかろうし、また、絶対的な|緘《かん》|口《こう》|令《れい》がしかれるのも無理はないと言える。
が。松崎にとって、どうしても我慢ができなかったのは、そのあとの処置。
本来ならば松崎は、黒田にとって、|三《さん》|顧《こ》の礼をつくしても、その研究スタッフとしてむかえいれなければいけない人物の筈ではなかったのか。何せ、明日香の第一発見者であるし、現代日本の植物学の権威の一人でもあるのだから。
なのに、黒田は、極めて|慇《いん》|懃《ぎん》|無《ぶ》|礼《れい》に、松崎がこの先明日香の件に噛むのを拒んだのだ。こんな失礼な話があるものか――いや、あっていい筈はない。松崎はその処置に激怒し――ああ、この言い方は、適切ではない。
松崎は、激怒と同時に、哀しかったのだ。切なかったのだ。
三顧の礼がどうの、黒田の態度がどうのなんてことは、全部不問にしたっていい。重要なのは、そんなことではない。
ただ、ただ松崎は、自分も研究スタッフの一人に加わりたかったのだ。加わりたいと願っていたのだ。願っていた――切望する――熱望する――いや、懇願したっていい!
どうか。
松崎の希望は、実の処、たった一つなのだ。
どうか私から、明日香を取り上げないでくれ。
岡田善一郎の処で、最初に彼女達を見た時から、私はずっと彼女達を捜し続けてきた。|焦《こ》がれ続けてきたと言っても間違いではない。自分の人生は、自分の研究は、あの時、最初に緑の髪の子供達を見た瞬間から、ただ、明日香の為に、明日香を研究する為だけにあったと言ったって言い過ぎではない。これほどの――これほどの想いを、たとえ日本を代表する誰であろうが、地球を代表する誰であろうが、自分から奪っていい筈はない!
なのに。黒田は、松崎からそれを奪ったのだ。彼が、自分の学者生命の大半を賭けて追い続けた、緑の髪の子供を。
松崎には、それがどうしても我慢できない。許せることではないと思う。できることなら黒田に会って、彼の首を締め上げてやりたい。あるいは……たとえ、黒田の前で土下座することになっても、どうか、自分を明日香の研究に加わらせて欲しい。
「あの、ですから、スケジュールを調整しまして、ですね」
また。もう一人、松崎と同じく不幸な人物、|箕《みの》|面《お》|夏《なつ》|海《み》は、いい加減苛々しながらも、ひたすらそれが表情に出ないように気をつかい、松崎に何とか|厭《いや》|味《み》にならない程度の笑みをみせる。
毎日のようにここへ通ってくる、その松崎の想いを考えれば、確かに、ここで松崎を非難するのはいけないことなのかも知れない。でも、松崎は、もう、充分立派な大人だ。だとしたら、いい加減、判ってもいい筈。彼女の上司、黒田は、決して、人に会えない程忙しい訳ではない。そりゃ、確かにある程度は忙しいのだが、でも、こと松崎に関する限り、あきらかに黒田は彼を避けているのだ。松崎だって、それが判らない年でもないだろうし……だとしたら、いい加減、今の処単なる受付嬢にすぎない自分をわずらわすのはやめて欲しい。
箕面夏海。彼女こそ、ある意味では、今回の明日香の騒動によって、不当に不幸になった人物と言えないこともないだろう。
ついこの間、二ヵ月前には、彼女は、『笠原植物研究所』という、極めて私的な、一研究機関の職員だった。『笠原植物研究所』というのは、功なり名とげた、笠原氏という人物が、私財を投げうって作った、極めて個人的な植物の研究機関で、その主な目的は、日本各地にある、天然記念物指定を受けた植物・および美林の保護と育成であった。笠原老は、自分の人生の末期に、何か人の為になることをやりたいという意欲に取りつかれたらしく、個人的に、天然記念物の樹木や、日本に残された美林を保護する為の基金を作り、それと同時に、この研究所を設立したのだ。
が、ほんの二ヵ月前。笠原老が亡くなるのと同時に、『笠原植物研究所』は黒田という人物により買収され、『日本植物研究協会』などと厳めしい名称に改名され……同時に、ほとんどの職員が、他の企業に転職した。だが、ほとんどの所員が転職してゆく中で、夏海だけが、転職できなかったのだ。(他の職員のほとんどは、植物学関係の学位を一応持っていたので、他企業への転職も、まあ可能だったのだ。――また、『日本植物研究協会』は、所員の転職に実に好意的で、かなりの数の所員の転職の面倒をみていた。――が、夏海は、ただ、植物が好きだというだけでここに就職したのであって、学位もなければ経験もなかった。そんな彼女にも、今よりいい条件での事務職への転職という話はいくつかあったのだが……どうしても植物と関わっていたかった彼女は、その転職を拒否した。)
結果として、彼女は、それまで続けてきた杉の研究を断念せざるを得ず……今の職業は、ほとんど、『日本植物研究協会』の受付嬢となっている。
今となっては。
時々、夏海は、思うことがある。
今となっては、有名企業の一般職や事務職を紹介してもらった時、素直に転職していればよかったと思わない訳でもない。夏海があくまでここに残ることを希望したのは、ここにいれば何とか好きな植物に関わっていられるかも知れないと思ったからで――実際に、今の業務が、黒田の個人秘書兼受付嬢のようなものになってしまった以上、彼女がここにいる意味は、ほとんどないと言ってもいい。
笠原氏の遺族は、何だってこの研究所を黒田なんて男に売り渡してしまったのだろう? 少なくとも、遺族が経済的に困窮しているとは思えなかったし……それに、売り渡すにしたって、もうちょっと相手を選んでもよさそうなものだと思う。黒田のやり方は、どこがどう悪いというものでもないが、でも、陰湿な印象をどうしても彼からぬぐいさることができない。
黒田は、この研究所を買収した直後、ビル内部に徹底した改装工事を施したのだ。改装――いや、もう、これは改築と言った方が正しいのかも知れない。今、このビルを、夏海は個人的に『陰険ビル』と呼んでいるのだが――実際に、このビルは、陰険だと思う。すべての職員にはキャッシュ・カードのような身分証が渡されており、このビルの、すべてのドアは、その身分証がないと開けることができない。夏海をはじめ、下っ|端《ぱ》の職員には決して入ることのできない場所は山のようにあるし、これは|噂《うわさ》だが、奥の方には登録された指紋の持ち主以外開けることのできない指紋錠までついているドアがあるという。どんな秘密研究を奥でやっているのか知らないが、前の、開放的というより不用心な『笠原研究所』時代を知っている夏海にとって、これは陰険としか思えなかった。
だが。
『あんた、もう、二十八なのよ』。
そんな不満が心の中に浮かぶ度、同時に夏海の脳裏を横切るのは、いい加減|諦《あきら》めきったようにため息まじりに言われる、母のいつもの台詞。これは――実の処、ちょっと、こたえる。別に年のことは何とも思わないが(母の頭の中では、二十八という年齢と、まだ結婚していないという事実は、とんでもない不等記号で結ばれているらしいのだけれど、結婚っていうのは年齢でするものではなく、好きな人ができた時にするものだと思っている夏海には、これがむしろ不思議な気がしてならないのだ)、いくら建前では男女は平等な世の中になっているとはいえ、やっぱり今の日本で、何の特殊技術もない女性が一生働いてゆくのは大変だ。とすると、この年で、女性で、今後も結婚の予定がなく、働き続けるつもりなら、仕事や職場を陰険だの何だのってより好みする|贅《ぜい》|沢《たく》が許されるとは思えない。それに、今の職場は(たとえ今、実質が受付嬢であろうとも、一応待遇が研究員である以上)、まがりなりにも専門職。このまま続けていれば、いつかまた、何とか働きながら、技術を身につけることが可能かも知れない。だとすると、職場がちょっと陰険に見えるくらいで、今の仕事を放り出す訳にはいかないではないか。
「……判った。判りましたよ」
いつの間にか。夏海、ふっと放心していたようだ。松崎の、こんな台詞を聞いて、慌てて夏海、現実に心を戻す。
「要するに、黒田氏には私と面会する意志がないんだ。……そんなことくらい、もうとっくに判っていたっていい筈なのに」
「あ、いえ、あの、あくまでスケジュールの都合が、ですね」
やっと判ってくれたのお? 心の中のこんな台詞をおし殺し、夏海、何とか失礼にならない程度の『|爽《さわ》やかな笑顔』って奴を顔にはりつける。
「……いいんだ。もう、うわべを取り|繕《つくろ》わなくて。私は、ほんとに、判った。もう、黒田氏に、何の期待もしない」
「いえ、あの、ですから……」
「いいんだよ、もう。……もう、私も、疲れた」
松崎、いともうちひしがれたような|風《ふ》|情《ぜい》でこう言うと、これみよがしに肩を落とす。今までの松崎の態度、そして黒田の態度によって、多少なりとも心の中で松崎に同情していた夏海、その松崎の|仕《し》|種《ぐさ》を見て、ふっと松崎への同情が四散するのを感じる。たとえ、松崎が、真実どれ程落胆したとはいえ――このあまりにあからさまなジェスチャーは、何だか反感を抱かせる。
「すみませんでした。では」
そこで夏海、いかにも事務的に、しかし笑顔をたやさないまま、松崎との会見を終わろうとした処――。
「だが、これだけは、覚えておいて欲しい。いや、お嬢さん、あなたに覚えておいてもらったってしょうがないな、これだけは黒田氏に伝えて欲しい」
松崎、それでも素直に引き下がらず、何やら捨て|台詞《ぜりふ》を言いそうな気配。
「このままでは、済ませない」
「は?」
「このままでは、済ませないと言ったんだ。私から明日香を奪うなら……それ相応のことは、覚悟しておいて欲しい」
「は? えーと……あの……」
このままでは済ませない。これって……ニュアンスはおだやかだけど、でも、ひょっとして、脅迫ってものじゃないかしら。それに明日香って……黒田と松崎って、ひょっとして、明日香って女性をはさんで三角関係にでも|陥《おちい》ってたの? ううん、それなら松崎だって、何も黒田の職場になんか来ないだろう。だとしたら……この台詞は、何?
夏海、松崎の台詞と、その時の彼の目の色により、瞬時、|戦《せん》|慄《りつ》を覚える。
「明日香は、私の生き|甲《が》|斐《い》だ。彼女の為に、私の人生があると言ってもいい。その明日香を私から奪うなら……黒田さん、私は、全身全霊をあげて、あんたの邪魔をしてやる。決して、あんたの思うようにはさせない」
「え……えーと……」
松崎の目。もう半ば狂信的な色を|湛《たた》えた松崎の瞳は、すでに夏海のことを見ておらず、目の前にいるのは箕面夏海だというのに、まるで黒田博に話しかけるようにしゃべっている。
「これだけを、覚えておいて欲しい。……あ、いや、伝えておいてくれ、黒田さんに」
そして。
松崎は、これだけを言うと、まだ目を白黒させている夏海なんかまるで眼中にないって風情で、そのままくるりと|踵《きびす》をかえし、すたすたと入口に向かって歩いていってしまい……夏海、何が何だかまったく判らないまま、ただ、好奇心のみをやたらと刺激された状態で、その場に残されたのである――。
☆
さて、そのちょっと後。電話にて。黒田は、彼が嶋村信彦探索の為の調査に使っていた横田という人物からの報告を受けた。
「はい。非常に遅れ|馳《ば》せながらですが、|倉《くら》|吉《よし》までの嶋村信彦の足取りがようやく確認できました」
「倉吉……鳥取のか?」
「はい」
「……以前、彼の足取りが確認できたのは、|敦《つる》|賀《が》だったな?」
「ええ。えーと、これまでの嶋村の足取りを確認しますと……まず、岡田家焼失のあと、彼は、各種交通機関を乗り継いで、|一《いっ》|旦《たん》関東へ戻り、|茅《ち》ケ|崎《さき》へ行ったことが確認できました。それから、千葉の|勝《かつ》|浦《うら》にしばらく滞在し、のち、|八《はち》|戸《のへ》まで足を延ばしました。その道中の経路は不明です。八戸で、またしばらく滞在し、今度は日本海側の|能《の》|代《しろ》へゆき、そのあと新潟に数日滞在しています。問題の退職届けは、この近辺で|投《とう》|函《かん》されたものです。そのあとは、|直《なお》|江《え》|津《つ》に寄り、|糸《いと》|魚《い》|川《がわ》に寄り、|黒《くろ》|部《べ》に寄り、|新湊《しんみなと》に寄り、と言う具合に、日本海側をうろうろし、加賀を経由して、敦賀で滞在が確認されています。そして、今、倉吉での足取りが確認され……このままでゆくと嶋村は、海沿いに、日本を半周しそうですね」
「このあとのことはいいんだ。問題は、今だ! 君は、嶋村が今、どこにいると思う? ……いや、そもそも、嶋村が倉吉にいたのは、何日前のことだ?」
「……三日前です……すみません」
「三日? なら、君の調査は、むしろ遅れているのか?」
倉吉の前。敦賀での嶋村の足取りが捕捉された時は、横田が敦賀を訪れる二日前には、嶋村は敦賀にいた筈。その時、二日だった遅れが、どういう訳か、今は三日になっている。
「すみません! ……いや、そもそも、弁解ができるようなものじゃないんですが……でも、弁解させてください。今回の件は、訳が判らないことが多すぎます。……誰か、圧力をかけてるんじゃないですか?」
「?」
「誰か、圧力をかけている人がいると思うんですよ。じゃないと、聞き込み先の反応がどうしても腑に落ちないんです」
「……というと?」
「返答が、おかしいんです。嶋村の特徴をあげて、こういう人物を見なかったかという質問に対して、最初の調査では知らないと断言した人が、二度目の調査では、『ああ、そういえば』って言いだしてしまう。それも、一人や二人のことじゃないんです。何十人もの人間が、そろいもそろって、嶋村が近所にいる時は彼のことを忘れていて、嶋村が遠くへ行ってしまった頃を見計らって彼のことを思い出す、だなんて|莫《ば》|迦《か》なことがあり得ると思いますか? そんな莫迦な話、ある訳がないんです。何か、とんでもない圧力が、嶋村を調査圏内に入れないようにしているとしか……。おまけに、そんな、前後矛盾した答えをだす連中のほとんどが、自分が前後矛盾した答えをしていることにまったく気づいていないみたいだし、その上調査対象はみんな、いわゆる民間人でしょう? こんなことを続けられると、こっちの調査能力だっておかしくなりますよ。誰を信じていいのか誰を信ずるべきなのかの指標がまるでないんだから。……何か、今回の調査に対して圧力をかけうる団体があるんなら、教えていただきたいんです。あるいは、政府内部に黒田さんの方針に反対している集団がある、とか……」
「……いや……」
電話で、黒田、口ごもる。
確かに、明日香の調査から黒田を引きずりおろしたがっている連中は結構いるだろうし、また、別件で黒田を快く思っていない連中も|掃《は》いて捨てる程いるだろう。が、ことこの件に関する限り、黒田の調査の邪魔をしようとする集団がいるとは思えない。また、百歩譲って、外国の情報部の類が、黒田の調査を失敗に終わらせ、その間に自分達の独自の調査を進めているとしても、その場合は、こんな|稚《ち》|拙《せつ》な手段を取らないだろう。一回、嶋村の姿を見たことを否認させたら、そのあとずっと、そのことを否認させ続ける方が、自然だ。
だとしたら――だとすると。こんなに稚拙な方法で、しかも意図的に、嶋村の足取りの調査の邪魔をするもののこころあたりは、たった一つしかない。それは――。
植物、だろうか?
明日香に影響された植物。彼らなら――いや、彼らだけが、そんな稚拙な方法で、とにかく嶋村信彦を守ろうとするかも知れない。
だが。
明日香は、とっくに死んでいるのだ。また、明日香に影響を受けた筈の植物は、あの時、全部、ひっこ抜かれた筈。それに――いくら何でも、距離が遠すぎる。岡田家の焼跡は岐阜で、嶋村の足取りは、神奈川・千葉・青森・秋田・新潟・富山・石川・福井……。いくら明日香の影響力が伝染するとはいえ、この距離は、尋常ではない。まさか植物が新幹線に乗る訳でもないだろうし、どれだけ明日香の影響を受けようとも、やはり植物には移動能力はない筈だし……。
あるいは。
未だに、嶋村の調査を妨害するものが存在すること、また、その妨害の移動速度のことを考えれば、あるいは。夢子と拓が、どうやってか嶋村の先まわりをして、彼のことを守っているという可能性があるのでは……?
いや、まさか。松崎の供述を信じる限りでは、夢子も拓も、嶋村のことを松崎らと同一視して、むしろ憎んでいた筈だ。彼らが、明日香に頼まれてというのならともかく、自発的に嶋村を守ろうとするとは思えない。それに、彼らに頼もうにも、明日香はすでに死んでいる。
明日香はすでに死んでいる……だが、あるいは。万に一つ。
黒田、この可能性に思い到った時、らしくもなく、鼓動が高鳴るのを覚えた。
今でも嶋村の調査を妨害しているものがいることを思えば、万に一つは。万に一つは、明日香が、まだ、生きている可能性があるのかも知れない……?
「……あの……黒田、さん? もしもし、聞こえてますか?」
あまりにも長いこと、電話口で黒田が沈黙してしまった為、横田、不安になったのか、おずおずとこう声をかけてくる。
「あ、ああ、すまんな。……とにかく、公的機関で、嶋村探索の邪魔をするものはない筈だ。そこの処は、変に気を回さなくていい」
「ですが……実際に」
「私が気を回さなくていいといったら、実際、回さなくていいのだ。……ま、これは推測にすぎないが、今までの嶋村信彦の足取りから思うに、どうやら嶋村は、やたらと海に|固《こ》|執《しつ》しているらしいじゃないか。君は、このまま、日本海に沿って、嶋村を捜し続けてくれ」
「ですが……あの、妨害は、実際に、あるのです」
「それは判った。それについて……ヒントと言えないようなものだが、一応、ヒントがある。次からは、聞き込みに回る時、なるべく植物がない処で、なるべく植物と接触していない人物を選んでやってみたまえ。そして……これで、もし、嶋村が見つかれば」
これで、もし、嶋村が見つかれば。その場合、邪魔をしていたのが誰だか、嫌という程よく判る筈。
「は? 植物がない処というと……それは、やはり、問題のものの影響があるということなんでしょうか」
「いや。これは、単に、私一個人のカンみたいなものだよ。気にしないでくれ」
それから黒田、横田に対して二、三の注意を与え、半ば無意識のうちに、電話を切る。電話を切った後でも、黒田、自分で切ってしまったあとの受話器を握りしめて。
「……いや。あり得ない」
自分で自分に言い聞かせるように、こう言うと、軽く首を振る。
「希望的観測に浸るのは、愚かだ」
そう、愚かだ。
明日香は生きている訳がないのだ。それに、たとえ明日香が生きていたって、彼女の影響力はガラス等により|遮《しゃ》|断《だん》される筈なのだから、ガラスケースの中に横たわり、ガラスブロックに囲まれている彼女が、何らかの力を発揮して、嶋村信彦を守っている筈がないのだ。故に、嶋村が、誰か判らないものに、どうやってだか判らない方法により守られているからといって、それをすぐに明日香に結びつけるのは愚かなことなのだ。
だが。
だとしたら――明日香でないとしたら、誰が、どんな方法で、どうして、嶋村を守っているのだ?
どうして?
2
あなた。
好きだった――ううん、好きよ、今でも。
好きなの。とっても好きなの。もう、どう言っていいのかも判らないくらい。
不思議よね。
あたし、自分が、人を好きになれるだなんて、思ってもいなかった。あなたを好きになったあとも、そのことが自分でも信じられなかった。
例えば、恋愛小説の登場人物達。
どうして、たった一人の、それも、欠点も沢山ある人間を、ああまで好きになれるのか。パーフェクトな人間なんて、絶対に存在しないのに、どうしてああもパーフェクトに、人は人を好きになれるのか。
あなたに会って、やっと、判った。
理屈じゃないんだね。
でも、感情だけでもない。
どこがいいとか、どこが気にいったとか、そういう問題だけど、でも、それだけじゃないの。それだけじゃなく、何か、もっとずっと大きな……。運命、だと思う。
勿論、あなただって、完全じゃない。好きじゃない処だって、沢山ある。
でも。
でも、あたしが好きなのはあなたなの。あなたじゃなきゃ、駄目なの。
あなたはあたしのもの。あなたはあたしの運命。あなたは、あたしに会う為に生まれてきたの。
何故って。
あたしはあなたのもの。あたしはあなたの運命。あたしは、あなたに会う為に生まれてきたんだもの。だから、あなただって、そうな筈。
何でなのかしら。時々、自分でも不思議になるの。何であたしは、こんなにあなたが好きなんだろう。あなただけがあたしにとって特別な人なのは何故なんだろう。
子供の頃に一回会ったことがあるから? その時からあなたがずっとあたしのことを想っていてくれたから? ううん、違う。それはきっとみんな逆で、あたし達は運命の決めた恋人同士だったから、小さい頃に偶然会えたんだと思う。そして、運命の決めた恋人同士だから、あの頃からあなたはあたしのことを気にしていてくれたんだと思う。
だとしたら……運命って、ううん、あたしが『運命』って言葉であらわしたいと思っている、この想いは何なのかしら。
とどのつまり、自分でもよく判らないのね。
でも、あなた。これだけは、確か。
好きだった。ほんとに、真実、好きだった。
ううん、今でも、好き。
でも、もう、今のあたしには、あなたを好きだって言える資格がないの。あなたと一緒に歩んでゆく足がないんだもの。今のあたしは、多分、もう、死んでしまった存在。
だから。
あたし達の間にあった、運命の鎖を解き放ちます。
どうか、これからは、あなたの、あなただけの人生を送って。
普通に生活し、平凡な幸せを味わって、そして、いつか、あたしと違って健康で普通の女の子と恋におちて。それから、周囲みんなに祝福される、幸せな結婚をして、そのうち子供も作って、幸せな家庭を築いて、幸せな一生を送って欲しい。ただ――時々。ほんの時々でいいから、あたしのことも思い出してね。あなたの|伴《はん》|侶《りょ》の女の子には悪いけど。
あたしは、それだけで、満足。それ以上、何も、求めない。……ううん、求める資格なんか、ない。
あなた――信彦さん。
好きでした。今でも、好きです。
あなたが、あたしじゃない、ほんとの伴侶をみつけるまでは――あなたのことは、あたしが守ってあげるから。ううん、守らせてもらうから。たとえ体が朽ちたって、この想いだけは誰にも奪わせない。あなたのことは、魂だけになったって、想いだけになったって、必ずあたしが守らせてもらうから。それだけが、今のあたしの望み。今、こうして、体がなくなっちゃっても、ただそのことを考えただけで、心の|芯《しん》がぽっとあったかくなる。今のあたしに残された夢は、多分、これだけだと思うから。
だから、どうか、幸せになって。
あなた。
好きでした。今でも好きです。
愛してます――。
☆
「どうして!」
家具のほとんどない、|無《む》|闇《やみ》に殺風景な六畳間にて。二人の男女が、さっきから、実に激しい言い争いを続けていた。
「判るだろう? それは、やってはいけないことだ」
こう言ったのは、男。今時珍しく、腰のあたりまで伸ばした髪を、首のうしろで無造作にゴムで束ねている。
「なら、あいつらがやったことはどうなの? 明日香を殺すのは、やっていいことだっていうの!」
わめいている女の髪も長い。男と同じく腰のあたりまであり……女が興奮するにつれ、別に首をふっている訳でもないのに、何故か、女の髪は、ざわざわと空中で波打って震える。
「そうは言わない。……それに、おまえだって判っているだろ? 明日香は、何も、人間に殺された訳じゃない。あれは――自殺だ」
「自殺においこまれたら、殺されたのと同じよ! あの男! 嶋村信彦! こんなことになるんなら――明日香の自殺を黙って見ているような男だって最初から判っていれば、絶対、明日香のことをまかせたりしなかったのに!」
「嶋村君のせいじゃない。あの場にいたのが、僕やおまえだったとしても、明日香の自殺は止めることができなかったろう。そもそも、僕らが、あんな方法で死ぬことができるだなんて、あの時までは誰も知らなかったんだから……」
「でも……じゃ、あの、松崎って奴! 拓、あんたはあいつが許せるの? 許していいの?」
女、きっと男を|睨《にら》む。男、妙に|哀《かな》し|気《げ》な色を目に|湛《たた》え、しばらく女の顔をみつめ……やがて、視線を黄ばんだ畳へと落とす。
「松崎を恨んでもしょうがないだろう」
「拓! あんた、どうして! 明日香はあんたの妹なのよ! あたしとあんたは、おばさまから明日香のことを頼まれたのよ! そのあんたがどうして」
「夢子……」
男――拓、しばらくの間目をつむり、それからゆっくりと女――夢子の肩に、両手をのせる。
「しょうがないんだよ……判ってるだろう? 確かに明日香は、僕の実の妹だ。ママは僕とおまえに明日香と|望《のぞむ》のことを託していった。勿論、僕だって、明日香が死んだことに関しては、憤りも怒りも感じている。けど、それは、松崎や他の人間を恨む筋合のものじゃないじゃないか。そもそも、ママ達の乗った船が、事故を起こし、この地球って|惑《わく》|星《せい》に不時着してしまったことが、不幸なんだ。明日香の自殺も、望や|歩《あゆみ》の死も、結局、不幸な事故の結果にすぎないんだよ……」
「……認めない」
拓の両手で両肩をおさえられた夢子、しばらくの間黙りこみ――それから、自分の両手で拓の手をはらいのけ、きっと顔を起こし、まっ正面から拓の瞳を睨みつける。
「あたしは、認めない、そんな理屈。あたしには――あたしには、地球の人類全部より、明日香の方が大切だった。人類が絶滅しようとも、明日香に生きていて欲しかった。だから……人類が、人類を守る為に、明日香を、あたし達エイリアンを迫害しようっていうんなら、あたし達は、自分達の命を守る為に、人類に対して戦いを|挑《いど》んだっていい筈じゃない」
「その人類の中には、三沢のおじさんだってはいってる。おまえは、三沢のおじさんまで不幸にするつもりなのか? 人類に復讐するということは、とりもなおさず、三沢のおじさんにまで迷惑をかけるってことになる」
「三沢のおじさまは……そりゃ……好きよ。あたし達を育ててくれた人だし、恩だって感じてる」
拓の、冷静な反論に、一瞬答えにつまった夢子だが、それでも、あくまで決然と面を上げ、目の前の拓の瞳を睨み続ける。
「でも、それとこれとは話が別だわ。そうよ、問題は、明日香だけじゃないんだもの。あたしと拓、あなたの問題でもあるんだわ」
「夢子……」
「あいつらは、人類は、明日香を自殺に追い込んだだけじゃなく、あたし達にも手を伸ばしてきているのよ! このままでいれば、必ずあいつらは、あたし達を捕まえようとするでしょう。捕まったあたし達は、どうなるっていうの? どう考えても、末路は実験材料よ。エイリアンのサンプルの一つとして、どっかの大学の標本になるのが、いいことだって思えるの? あたしは、嫌よ、少なくとも」
「夢子、おい、夢子。だから――それが嫌だから、僕らは逃げているんじゃないか。これ以上、何を」
「逃げるだけ? あたし達にできるのって、逃げるだけ? 何も悪いことなんかしていないのに? ただ、地球の生物じゃないっていうだけで、一生、逃げてなきゃいけないの? そんな|理《り》|不《ふ》|尽《じん》な話って、ある? ……あたしは嫌だわ、一生、逃げまわるだなんて。だから――三沢のおじさまの問題もあるけれど、あたし達は地球人類に戦いを挑まなきゃいけないのよ。逃げるだけの人生を送らない為にも」
「……夢子……」
「それに、これは、一種の生存競争じゃない。地球の生物は、みんなこれをしてきた筈よ。なら、あたしばっかり非難されるいわれはないわ」
「……僕達が地球上の生物ならね。僕達が、地球産の人類亜種で、地球産の人類亜種が、人類に対して戦いを挑むなら、それは地球の生存競争だ。けど……僕達は、違うだろう? それに、方法が、フェアじゃない。人類との抗争に、まったく無関係の地球産の植物を使うだなんて……」
「他に方法がないじゃない! ……それに、植物だって、多分、嫌だって言わない筈。あいにくあたしは、地球生まれの地球育ちだから、他の星のことは知らないけれど、でも、地球の植物程虐待されている生物って、多分、他にないと思う。彼らだって、もし方法があるのなら、人類に|一《いっ》|矢《し》報いてやりたいと思っている筈。手段がないからこそ、彼らは黙って迫害されている筈なのよ。……その点、あたし達には、手段がある。あたし達と協力すれば、地球の植物にだって、人間に一矢報いる方法があるのよ」
「……夢子……」
拓、黄ばんだ畳に視線を落とし、しばらくの間そのままの姿でい続け――それから、再び、夢子の肩に手をかける。
「僕のことはどう思ってくれてもいい。腰抜けだとでも、何とでも。でも――結論は、駄目、だ。おまえが何と言おうとも、でも、駄目だ。確かに明日香は可愛い僕の妹だし、明日香が死んで僕が悔しくない訳じゃない、それに僕だって、何も悪いことをしていないのに狩られる生活が好きだっていう訳でもない、でも、すべてをひっくるめても、駄目、だ。僕は、どうしても、人類に対して敵対行動をとることを認める訳にはいかない……」
ばしっ。
拓、そのまましばらく目をつむり――夢子の手が、自分の両手をはらいのけるのを感じる。それから、六畳間にお義理のようについている玄関スペースで、夢子が何やらごそごそしているのを感じ、ばたんとドアの開く音がし――拓が、目を開けた時には、部屋の中に夢子の姿はもうなかった――。
☆
二本のレール。あたりはまるで人の手がはいっていない、どこまでも続く雑草野原。そんな中で、きちんと平行して走る二本のレールは、しばしば雑草に埋もれ、|錆《さ》び、場所によってはとぎれているとしか思えない程長い間雑草の海の中に沈み……それでも、雑草の海を抜けると、いつの間にか、また、正確な平行線を描いてどこまでも続いている――。
所在な気に、部屋の隅にたてかけられた|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》しか家具がない六畳間の中に一人|佇《たたず》んでいた拓、ふっと、|瞼《まぶた》の裏に、そんな幻が浮かんだような気がして、大きなため息を一つつく。それから、ごろっと畳の上にだらしなく横たわって。
二本のレール。
そんなものだと思っていた。自分と夢子との関係は。
そりゃ、二人が平凡な一生を送り、平凡に、しかしまわり全部に祝福される結婚をし、子供を作って普通の生活を営んでゆくことは無理だって、最初っから知っていた。だから、拓のイメージの中のレールは、好きなだけ雑草に|蹂躪《じゅうりん》され、時には雑草の中に沈み、錆び、朽ちはてて……でも。でも、いつまでも、どこまでも、たとえまわりの状況がどうなろうと、続いてゆく筈だったのだ。一度は途切れたように見えても、実は、雑草の下で、力強く続いてゆくレール。二人の考え方にはかなり違った処もあったから、一本になるとは思えなかったが、でも、交わることはなくても絶対離れることのない、きれいな平行線を描いて、人生の果てまで続いてゆくレール。
それが……途切れた。
今、行く手を|遮《さえぎ》っているのは、森。雑草の海とは、|桁《けた》が違う。ここでレールの片方を見失ってしまえば、果たして森を抜けた処で再びそのレールを発見できるかどうか判らない、いや、そもそも抜けることが可能とは思えないような森。
畳の上で、目を|瞑《つぶ》る。目を瞑る寸前、黄ばんだ畳のけばが頬に触れ――それに触発されたのか、いつの間にか、拓のイメージの中のレールは、晩秋の景色になっていた。黄ばんだ、処々枯れたり虫に喰われたりしている雑草の海を、どこまでも続く筈だったレール。錆びてはいるけれど、続く筈だったレール。なのに……その先は、広葉樹が葉をおとし、針葉樹が茂る、行く手も知れぬ森。針葉樹が視界を遮り、広葉樹の落葉がレールを隠す。
……夢子。
感情が、激してくるのが、判る。盆の|窪《くぼ》のあたりがむずがゆい。
……夢子。判ってはいるんだ。
拓、無意識のうちに、髪を束ねたゴムをほどく。と、束ねられていた盆の窪あたりの髪を中心に、拓の髪、畳の上でずるずる|蠢《うごめ》く。さながら、メデューサの如く。
……判ってはいるんだ、夢子。でも、同意できない。同意できないんだ!
☆
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「まま。まま、あのね、僕、見たの、明日香ちゃん」
これは夢? 幼い頃の記憶? それとも、イメージ?
「ねえ、まま、まあま。ぼく、見たのよ、明日香ちゃん。妹なんでしょ、あの子が」
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畳の上で寝っころがったまま、拓、今心の中に浮かんだものが何だかよく判らず、|慌《あわ》てて体を起こそうとする。何だろう、今、まるで目の前で起こっていることのようにはっきり見えたもの。あれは――夢なんだろうか? それとも、自分が幼い頃の記憶?
でも。何故か、拓、次の瞬間、それを追求する意欲を失う。何故って、拓にとって、それはあまりになつかしい、あまりに嬉しいイメージで……たとえそれが何でもいい、今はただ、それに思う存分浸っていたいと思ったので。
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『明日香は、元気?』
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夢、あるいは記憶、もしくはイメージ。拓が、それに浸っていたいと思った瞬間、それはどんどん鮮明になり――ついには拓、すっかりそのものの中にとりこまれてしまう。なつかしい――明日香が生まれた頃の、情景。
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「うん。うんと根を振ってる。地面につきたいのね」
『……そう……』
ママは、何故か、哀しそうな声を出す。ううん、ママの声は、普段でも哀しそうなのだ。ママが嬉しそうな声をだしたことなんか――ついぞ、ない。
『でも……可哀想だけど、拓、明日香の根を地面につけないようにね。あの子は、根づいちゃいけないのよ』
「どうして、まま。明日香はあんなに地面が恋しいのに」
『拓ちゃん、ごめんなさいね、駄目なのよ。あたし達のせいなの』
あ。この声は、夢ちゃんのママだ。
「夢ちゃんまま、どうして?」
『ごめんなさい、ほんとにごめんなさい、拓ちゃん。あたし達は、あなたに、いらない|枷《かせ》をおわせてしまった』
「枷って、なあに?」
『……知らなくていいのよ、拓、あなたは、まだ。……とにかく、あなた達には、おかしな制約があるの。あなた達は、根づいてはいけない。絶対、それは、いけないの。何故なら、あなた達は、この星の植物ではない――ううん、そもそも、この星の生物ではないのだから』
「まま?」
『ああ、簡単に言い換えましょうね。あなた達は、よそから来た人なのよ』
「え?」
『……ねえ、拓ちゃん。正直に言ってね。あなたは、この星がきれいだと思う? ずっとここに住んでいたいと思う?』
と、ママ、何故だか急に話を変えた。
「……ごめんなさい、でも……ううん」
ママは明日香を生んでから、あんまり元気がないんだ。ずっと、気分が悪い状態が続いている。だから、できるだけママを刺激するようなことは言いたくないんだけれど――でも、これだけは、駄目。これだけは、譲れない。
「僕……ままには悪いけど、ここ、嫌いだ。どうしても好きじゃないの」
『どうして?』
ところが、案に相違して、ママ、どうやら今の台詞が嬉しかったみたい。聞き返す言葉が暖かい。
「だって……だって、おかしいもの! ここの生き物、みんな、おかしいじゃない? 生き物は……生き物を、食べちゃいけないんだ。そんなの……泥棒じゃないか。そりゃ、ここは、特別におひさまの力が弱い。だから、きちんと御飯を作るのは大変だよ、でも、大変だからってみんながみんな泥棒を始めたら、それこそ大変なことになっちゃうじゃないか。……それも、余っている御飯をとるんじゃない、とっているのは命だよ? どうしてそんな|酷《ひど》いことができるのか判らないし……僕、泥棒の国になんか、あんまり、住みたくない」
『それに……この星の生物の大半、動物って奴は、自分で御飯を作ることができないしね。生まれた時から人を殺して食べるようにできているのよね』
「うん。それも、すごく、おかしいと思うの。生まれつき、人殺しと泥棒をしないと生きてゆけない体なんて、すっごく|傍《はた》迷惑だし……そういう風にうまれついちゃった人達も、ある意味で可哀想だと思うの。あの人達は、殺したくて殺してるんでも、盗みたくて盗んでいるんでもないんだよね。あの人達のやっていることは鬼だけど――岡田のおじいちゃまも、三沢のおじさまも、鬼だけど――でも、望んで鬼になったんじゃないもんね。この星は……草の人達も可哀想だけど、動物の、鬼の人達も可哀想だ。こんな可哀想な世界、僕は、嫌いだ」
『……拓……あなた、いい子に育ったわ』
ママの声。ふるえている。心なしか泣いているみたい。
『それから……もう一つ、聞きたいんだけれど……じゃ、あなたは、この星の、植物の人は好き? 尊敬してる? 木の人とか、草の人とか』
「うーん……木の人は、勿論、好き。物知りだし、優しいおじいちゃんばっかりだし。草の人も、悪い人はいないし、好きだよ。……でも……尊敬っていうのは……時々、できないの」
『どうして?』
「あのね……だって……みんな、勇気がないんだもの。命は、自分のものだよ。自分だけのものだよ。だから、誰でも、自分の命は守らなきゃいけないんだ。生き物が一番最初にしなきゃいけないのは、そのことじゃない? だから、岡田のおじいちゃまなんか、やりたくもないのに、自分の命を守る為に、鬼になって他の生き物を殺してるんだ。でも……木の人も、草の人も、あんまり自分の命を守ろうとしないんだもの。草の人の中には、毎年、同じ季節に必ず死ぬ人がいるじゃない。自分が死んで、あいた場所に子供を生やして、自分の体は子供の為の肥料になるんだ。……こんなの……こんなの……いくら子供が可愛いからって、やるべきことじゃないと思うの。もっと、何ていうか、たとえば、子供の為に他の場所を開拓するとか、そういうことを、ほんとに勇気がある人なら、する筈だと思うの。木の人だって、尊敬できないこと、することがあるんだよね。果物っていうのが……信じられない。果物の果肉って、あれ、子供の為のおっぱいじゃないんでしょ? あれ、動物の為のものなんでしょ? 動物が果物を食べる、で、その動物が移動し、どっかで|糞《ふん》をする。と、食べられた果物の種は、糞にまじってどこか|余《よ》|所《そ》の土地に|蒔《ま》かれ……木の人は移動ができないから、余所の土地に子供を作る為にそうしてるって言うんだけど……でも、これだって、おかしいと思うの。最初から動物に食べられることを目的にして、果物を作るだなんて。きれいな花をつける草の人も、つまりは、きれいな花と蜜で、蜂の人や蝶の人を呼んでるんだよね。花粉を、他の花につけてもらう為に。……これってみんな、どっかおかしいと思うの。そんなことをするくらいなら、何とか移動する能力を、自分で手にいれるべきだし……何ていうのかな、えーと、おもってる」
『おもってる?』
「あ、言葉が、違うかも知れない。地球の言葉って、むずかしいんだもの」
時々、ママ達が|凄《すご》く|羨《うらや》ましくなるんだよね。耳で聞けばまるでピアノの音のように聞こえるママの声、あれは、高度に発達した直接意志伝達言語なのだ。地球のレベルで言えば、一種のテレパシーと言ってもいい。とにかく、まるで言語形態の違う種族にも、聴覚さえあれば、何とか自分の意志を音の形で伝えることが可能な言語。もともとは、自分を含め、彼らの種族の生物であれば、みな、この言語を習得可能なのだが、発声器官がまるで人間とは違う為、人間形への整形手術を受けた時に、自分からは取り除かれてしまった機能。
「おもってる……おもいてる……おもなてる……あ、おもねってる!」
『あ、ああ、おもねる、ね』
「そう。みんな、おもねってると思うの、動物に。だから……どうしても、完全に尊敬することができないの」
『……拓』
と。この|台詞《せりふ》を聞くと、ママ、できる限り身を乗り出して、枝や|蔓《つる》を伸ばしてくる。
『私は……この星にきて、一つ、学んだわ。手っていうのは、あった方がいいのね。こういう場合……手で抱き締めることができたら、どんなに嬉しいでしょうに』
「……まま?」
『あのね。私が、どれ程あなたを誇りに思っているか、あなたに判る? 私は、ほんとに、ほんとに、あなたのことが、自慢ですよ』
「まま……?」
『あなたの思っていることは、そのまま、本当なの。……ああ、あなたがどんなに私の誇りだか、どうしたらきちんとあなたに判ってもらえるんでしょうね』
伸びてきたママの蔓、そのまま、僕の体にからまる。――ちょうど、人間への整形手術をうけた後の僕達の髪が、自分の思いのままにのびていろいろなものにからまるように。
『岡田さんと三沢さんに感謝しなければ。あの人達は、|人《ひと》|喰《く》い鬼なのに……よくまあ、私の息子を、きちんとしたひとに育ててくれたものだわ。……いいこと、このことを胸に刻みこんで。あなたは、私の、誇れる立派な息子だし、あなたの思ったことは、正しいのよ』
「……まま……?」
『でもまた、同時に、これだけは覚えておいて。あなたは、正しいけれど、でも、それは、この星では正しくないのよ。地球は、私達の星とは、各種条件が違いすぎるの。ここでは……歴史の最初っから、草食動物がいた』
「え?」
『いいから、覚えておいて。この星では、歴史の、一番最初から、草食動物がいたのよ。それこそ、バクテリアの時代から。だから、あなたが、植物が動物におもねっているって思うのは、ある意味で、不当です。あたし達の星とは違って、地球の生物は、起源からして、鬼と同居しなきゃいけなかったんだから。それは大変なことだったと思うのよ』
「……まま?」
『あなたの今の考えを、あなたの気高い意志を、ママは、評価するわ。……でも、それを、地球の草の人や木の人におしつけては駄目。あなたとは――私達とは、全然違う進化を、ここの草の人や木の人は遂げてきたんだから。……いいこと、むずかしいことはおいておいても、ただ、これだけは覚えておいてね。ただ、これだけは、決して忘れては駄目よ。……いーい、拓、あなたは、よそから来た者なのよ。あくまで、よそものなのよ。あなたは、ここの星の人達に――動物の人にも、植物の人にも、とにかく、ここの星の人達に――干渉してはいけない。これは、最低限の、ルールよ』
「まま……あの……うーんと、それは……」
『今はまだ、意味が判らなくていいの。ただ、覚えておくだけ覚えておいて。……私達は、死ぬものだった。岡田さんと三沢さんがいなければ、死んでいる筈のものだった。にもかかわらず、私達は、生きてしまった。故に、私達は、幽霊なのよ。決して他の生物に干渉してはいけない、昔どこかにあった生物の影。それが、私達の望み得る最上のもので……|所《しょ》|詮《せん》、私達は、そういうものなのよ』
「まま?」
『おかしな話よね。死ぬ覚悟なんか、とうにできてたんだわ。今でも、勿論、その覚悟を持っている。でも……その覚悟と同時に、信頼してもいるのよ。岡田さんを、三沢さんを』
「……まま?」
『あの人達に任せておけば大丈夫だ、あの人達なら、きっとあなた達をちゃんと育ててくれる。……何故か、そんな気がしてならないの。だから……こんなことを言うのは、|贅《ぜい》|沢《たく》だし、|我《わが》|侭《まま》だって判ってもいるんだけれど、でも、こう言わずにいられないんだわ。……あなた達の、将来が、心配。あなた達が、将来、この星に何かとんでもないことをしないか、それが心配』
ママ、こういうと、かろうじて自由になる蔓で、思いっきりぎゅっと僕のことを抱きしめる。
『拓。あなたに、こういうことを言わなきゃいけないのは、そりゃ、切ないわ。でも、たった一つ、覚えておいて。あなた達は――私達は、地球の生物から見て、よそものなのよ。たとえどんなに地球の生物が異常に見えたとしても、私達にはそれに文句を言う資格なんか、全然ないの。地球の生物に干渉しないで。それは、最低限の、ルール。……あなたを……夢ちゃんやあなたを、そして明日香を生んだのは、私の我侭なんでしょうね。あなた達は、そもそも、生まれてくるべきじゃなかったのよ。こんな星で生まれてきても、所詮、あなた達は、行き詰まるだけ。あなた達は、先のない種。ひとは――あきらかに、未来がない種を、残してはいけないのかも知れない』
ママ、その当時の自分にはよく判らなかった台詞を言うと、深く、自分の中へ潜りこもうとする。それを邪魔したのは、夢ちゃんママ。
『そんなことを言うものじゃないわ!』
夢ちゃんママ。今の夢子がそうであるように、信じられない程気が強く――言いかえれば、信じられない程強い意志を持っていた。
『そういうことを言っちゃいけない。……ああ、拓ちゃん、ごめんね、これは大人のお話だから。拓ちゃんは、ちょっとあっちへ行ってらっしゃい』
僕は、そんな夢ちゃんママの台詞を聞いて、一応温室からはでたものの、でも、何故か、好奇心をかきたてられて、二人の会話を盗み聞いてしまう。
『そんなことを言うものじゃないわ。あなたの言っていることって、最低で、その上絶対子供に言ってはいけないことだわ』
『でも……』
『生物が、何故、生きているのか。その基本を、あなたは無視してる。……すべては、希望が、夢が、あるからよ。希望と夢がなければ、生物は、原形質の状態から、決して進歩はしなかったでしょう。希望と夢がなければ、文明なんてなかった筈よ。あの子達はあたし達の希望。その希望が我侭だなんて、絶対言っちゃいけないのよ。……それに……まして、拓ちゃんは――あの子達は、まだ、自分の運命の本当の悲惨さには気づいていない。そんな子供に、自らの運命が、自らの生命が、望ましいものではないだなんて、決して言ってはいけないこと』
『でも、この状態で、どんな希望の持ち様があるっていうの? 母星への通信は|遮《しゃ》|断《だん》されたままだし、帰還の望みはない。こんな状態で、私やあなたが生んでしまった子は、おそらくは生涯、救いがないままにこの星で生きてゆかなければならないのよ』
『希望は何もない処に生まれてこその希望なんだわ。このままあたし達がここで死に|絶《た》えてしまえば、それこそ何も残らない。あの子達は、おそらくは近々死に絶えるであろうあたし達が、最後に残した希望なのよ』
『でも……そうして残したあなたの子供は、夢ちゃんは――ううん、私の子供だって、拓だって明日香だって、救いがないのよ? 望んで救いがない状態に生まれて来るひとはいない。私達は、何かとんでもない間違いをおかしたのかも知れない』
『でも、あの子は、あたしの夢。あたしの希望』
『…………』
ママ、あまりにも力強い、夢ちゃんママの台詞の前に、|気《け》|押《お》されてしまう。
『あたしのあの人は、死んだわ。あたしとあたしのお腹の中にいる子を守る為に。あの、宇宙船墜落事故の時に。あの人は、自分の体を焼かれながらも、何とかあたしを安全な処へと押し出したのよ。……あたしは、忘れない。死んだって、忘れることができない。あの人が、自分の命を犠牲にしてまで守った、あたしとお腹の中の子――夢子が、罪だなんて、あたしは、決して、決して思わない。たとえ、この地球って星で生きながらえるのが、どれ程救いのない、悲惨なことだとしても……でも、あたしは、それを希望だと思う。夢だと思う。何故ってそれは、あの人が、自分の命と引き換えに手にいれてくれたものなんだもの……』
それから、しばらくして。いくぶん、親達の会話を盗み聞くのに罪悪感を覚えだして僕が移動した時、こんな夢ちゃんママの台詞が、耳の中に残る。それから――もっと悲痛な、ママの声。
『でも、あなたがたとえどんな意見を持っていたとしても、地球人類は、私達の恩人なのよ! 私達は、絶対、地球の生物のやることに干渉できない。ううん、しちゃ、いけないのよ! そう、それは、絶対、しちゃいけないことなんだから!』
そう、それは、絶対しちゃいけないことなんだから!
[#ここで字下げ終わり]
いーい、これは最低限のルール。地球の生物に干渉しちゃいけない。
畳の上でずるずる身|悶《もだ》えしながら。
拓、今まで忘れるともなく忘れていた、自分の記憶の一番底にあった、ひとつらなりのイメージをひっぱりだし、追体験していた。
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ママ。
僕は。
僕は、あなたの教えを守る為に、夢子と|訣《けつ》|別《べつ》しました。
……いや。この言い方は、|卑怯《ひきょう》だ。
ママ。僕は――今の僕は、あの時あなたが何を言いたかったのか、判ります。そして、全面的に、あなたの意見に賛成します。
僕達は、所詮、異邦人。所詮、月日が運んできたこの星への旅人。月日がたてば、この星から消え去るもの。
そして、この星のことは、たとえ、それが僕達の目にどれ程異様に見えても、どれ程許しがたくみえても、この星の人が解決しなければならないこと。僕達には、議決権はおろか、それに口をだす権利すら、ない。
この星の生物に、干渉してはいけない。それは、この星の生物の恩情でいきながらえることができた僕や夢子に許されたことではない。
でも。夢子は、どうやら、意見が違うようです。僕は、夢子と訣別しました。
ママ。
僕は、自分を、そしてママを、正しいと思います。だから、自分の道をゆきます。その道が――どれ程夢子の道と掛け離れていても。
それはしょうがないことだし、だからママに|愚《ぐ》|痴《ち》もこぼせませんけれど……でも、寂しい。僕と夢子が訣別するだなんて、あり得べきことだとも思えない。
夢ちゃんママ、ごめんなさい。夢ちゃんパパ、ごめんなさい。僕は夢子を守る男になれませんでした。
けれど。
夢子との訣別、これが、正しい道だと、僕は思うんです。
僕は――よく判らないけど、嫌なことはそりゃ一杯あるし、明日香の自殺も、自分達がこの先ずっと追われて生きることも、そりゃ嫌だけど――でも、やっぱり、この星が好きらしいんです。今までの、岡田のおじいさまと三沢のおじさんに育ててもらった恩を、忘れたくはないんです。
だから――僕は、自分の思う道を、自分が思うようにいきます。
[#ここで字下げ終わり]
黄ばんだ畳の上で。ほどかれた長い黒髪が、ずるずる動きまわる。そして――頭の、髪のつけ根のあたりが、まるでがぼっと何かを吐き出すように一瞬のたうち、次の瞬間、ずるっと十センチ程も髪が伸びる。その髪の色は――嫌になる程鮮やかな、ダーク・グリーン……。
が、やがて。
悶え続けた髪の動きはゆるやかになってゆき――拓が畳から顔をあげた時には、髪、そのまま素直に重力に従って肩から腰へとすべり落ちる。
拓の目尻には、かすかに濡れた跡のようなものがあったが、それでも、拓、何とか口許に微笑みに見えるような表情をはりつける――。
☆
[#ここから2字下げ]
ママ。
[#ここで字下げ終わり]
さて、一方。
アパートを飛び出したあと、どこというあてもなく、そのあたりをうろついていた夢子、いい加減歩くのに疲れると、ただ、その言葉だけにもたれるように、こう思った。
[#ここから2字下げ]
ママ。
あたしを助けて下さい。
どうか、あたしのやっていることが正しいと言って下さい。
ママ。
お願い。
[#ここで字下げ終わり]
拓と、訣別した。
それはやはり、どれ程気丈に見えても、夢子にとってはとてつもない大事だった。
拓と訣別した――拓と、訣別、した。
本来ならば、そんなことはあり得ようがないことの筈。
夢子。拓。
それは――運命が決めた、一対の筈。夢子には拓以外の伴侶は考えられなかったし、拓にとってもそうである筈。そう、二人は、決して別れることのできない、宿命の伴侶であった筈なのだ。
何故って。
夢子達の親の世代にあたるエイリアン達が事故にあい、宇宙船ごと地球に不時着した時。
不幸にも、夢子の母は、すでに|身《み》|籠《ご》もっていた。
父は、事故による火災から母を逃がす為に、焼死した。
事故の目撃者、岡田善一郎と三沢良介の協力により、不幸な夢子の母達エイリアンは、何とか地球に安住することができ――そして、月が満ちると共に、夢子の母は、母星の環境からすると異常としかいえないような地球の環境下で夢子を生みおとしたのだった。(あまりにも弱すぎる太陽の光だの、草食動物がいる環境だの――充分に強い恒星のもとで、移動可能な植物から進化した生物のみで文明を築いてきた夢子の母達エイリアンにとって、太陽の光がこんなにも弱く、草食動物はおろか、肉食動物までいる地球の環境は、宗教的な『地獄』より更に酷い環境だった。)
この時。女だてらに豪傑で知られている筈の夢子の母、赤児の夢子を見て|号泣《ごうきゅう》したと言う。
「夢子、夢子、可哀想な子。あなたのお父さんがどんなにすばらしい人であったか、あなたが大きくなったらきっとあたしが教えてあげる。あなたのお父さんはね、あたし達を助ける時に、こう言ったのよ。『惚れた女の一人くらい守れなくて男がつとまるか』って。あなたはお父さんを誇りに思いなさい。でも……でも、あなたには、もう、あたしにとってのあの人みたいな、たった一人の男性は現れないのね。可哀想にあなたは、たった一人で……たった一人で、生きてゆかなきゃいけないんだわ! その、たった一人の男性がいる、そのことだけで、人生が輝くような、そんな人に会えないんだわ! ……ああ、ごめんなさい、可哀想な夢子」
この時、すでに、母星への連絡はもう不可能だということが判っていて……夢子の母の、この嘆きは、生き残った二十人余りのエイリアン達の涙をそそったものだった。
が。
その、ほんの一ヵ月後に、事態は変わる。何となれば、生き残り組の一人、拓と明日香の母にあたる人物に、妊娠の徴候がみられたので。
どうやら、彼女は、船に乗る前に受胎していたようだった。が、あまりにも初期な為、それに気づかず、恒星間遊覧旅行に参加し――そして、事故にあったらしい。
がんばるんだよ。
負けちゃいけない。
いつか母星と連絡がつくこともあるさ。
地球の気候がどうしても肌に合わなかったのか、そのあと、どんどん、同じ船にのっていた仲間達が死んでゆき――どの仲間も、いまわの際、拓の母に向かってこう言った。
がんばって子供を生むんだ。
夢子を一人にしないように。
たとえ同性でも、仲間がいないよりはいい。
それが……我々に残された、たった一つの希望。
――そして、拓が、生まれた。
生まれたのが男の子だと知った時、その期待は、やたらとふくれあがってしまった。
そう。
この時点で、拓と夢子は、運命によって規定された、宿命のカップルになってしまったのだ――。
夢子には拓。拓には夢子。
何せ、世界にたった一人ずつしかいない男女だ。夢子がどんな女であろうとも、女であるというだけで夢子は拓の伴侶だったし、拓がどんな男であろうとも、男であるというだけで拓は夢子の伴侶だった。
夢子と拓。
役割が逆だったらよかったのに。
時々、夢子は、そんなことを思わずにはいられなかった。
女にしてみれば気が強すぎる夢子。男にしてみれば繊細すぎる拓。
それが、もし、逆だったら、どんなによかったろう。でも、夢子は、やたらと気丈な娘だったし、拓は繊細な男だった。
で。
そうこうするうちに、明日香が生まれる。初めての――地球で受胎したカップルが生みおとした、地球産の子供。
明日香の誕生が、事態を、よりややこしくしたのだった。
明日香。拓の妹。拓の母が、地球にきてから受胎し、生んだ娘。
彼女が完全な健康体だった為、生き残り、母星への帰還の道をたたれたエイリアン達は、まるで競うようにして自分達が生きていた|証《あかし》、子供を作りだしたのだった――とはいうものの、今になってみると、受胎が可能だったカップルは、当の拓達の母を含む、わずか二組しかなかったのだが。(それまでは、あまりに太陽等の環境が違う地球で、果たして健全な妊娠が可能かどうかは、まったく判らなかったのだ。)
そして、生まれた、歩ちゃん、拓や明日香の弟になる望くん。
夢子と拓。
運命が決めたたった一組の伴侶は、運命により、更にその宿命性を強化していったのだ。
何故なら。同じ両親から生まれた兄妹婚は勿論、たとえ、異父・異母の兄妹であっても婚姻が認められていない彼らの間で、三代目を望むならば、その組み合わせは、たったの一つしかなかったのだから。すなわち――夢子・拓の間にできる子供と、望・歩の間にできる子供。(夢子と望というカップルは、年の差がありすぎた。太陽の運行に完全に生理条件を支配される彼らの|種《しゅ》では、普通、男女は同年齢か、少なくとも五、六シーズン以内の年齢差であることが望まれる。夢子の場合、拓とでさえ、三シーズンも年齢に開きがあり――望との間には、二十数シーズンもの、開きがあるのだ。勿論、地球のシーズンと、彼らの母星のシーズンでは、その長さがまるで違うのだが……十シーズン以上も違う相手との婚姻は、彼らの常識を越えていた。)
かくして。まだ、愛が何か、恋が何か判らないうちから、夢子と拓は、二重の意味で宿命のカップルになり――明日香は、同種族においては決して伴侶をみいだすことのできない女性となったのだった。
が。
やがて、松崎が隠れ住んでいる岡田を見つけるというハプニングの為、岡田の手により、明日香達の母、歩、望が焼き殺される。(この時点では、最初のエイリアンは、すでに、明日香達の母しか残っていなかった。)
結局、残ったのは、明日香と夢子と拓――ここまできても、まだ、宿命の鎖は夢子と拓を結びつけていた。
そう。
夢子は生まれた時からずっとそう教えられてきたのだ。自分の伴侶は拓一人だと。そして、状況がどう変化しようとも、その事実だけは決して変わらず――いわば真理のようなものだと思いこんできたのだ。
なのに。
今、夢子と拓は、訣別した。あり得ないことが起こってしまったのだ。
[#ここから2字下げ]
ママ。
あたし、怖い。
生まれて初めて、あたしは一人になったような気がする。
あたしには、確信があったの。たとえどんなに意見が違おうと、それでも最後には必ず、拓があたしに折れるって。何故ってあたしと拓は、決して他にはあり得ない一対の筈で――あたしが、決して人に折れるような気性ではない以上、どんな意見の相違だって、絶対拓の方が折れる筈だって。
けれど。この問題に関する限り、拓は折れてはくれなかった。
ママ。
あたし、怖いの。ほんとに怖いのよ。
拓が――あの拓が、折れてくれないだなんて……あるいは、あたしのしようとしていることは、やってはいけないことなのかも知れない。そう、ちょっとした意見の相違だの、ちょっとしたあたしの我侭なら、拓は苦笑しながらでも許してくれた筈だもの。
でも。
昔、ママは言ったわよね。
あたしは、ママの、パパの――そして、この星に残されたすべての同種族の希望だって。夢の象徴だって。あたしが存在することは、決して悪でも絶望でもないって。それが本当なら。あたしの存在が罪でないなら、あたしが自分の存在を続けようとすることだって罪ではない筈。
それに――それに、そう、明日香!
今、初めて判ったような気がする。
明日香。ああ、明日香。
あなたがどんなに寂しかったか。あなたがどんなに怖かったか。
今。あたしは、生まれて初めて一人になった。もうあたしにはママはいない。拓も、いない。自分がたった一人だけでこの世界にいるってことがどんなに寂しくてどんなに怖いか、あたしはようやく判ったような気がする。
そして、明日香、あなたはずっとこんな想いを抱き締めてきたのね。
あなたが、たった一人の自分だけの人、嶋村信彦にのめりこんでいったのも、今となってはよく判るような気がする。
その明日香の想いを踏みにじり、この世で明日香と嶋村をついに添い遂げさせなかった人間を――あたしは憎むわ。
明日香。あんたを殺した奴を、あたしは憎むわ。
明日香。ずっと、妹だと思ってきた。可愛かった。幸せになって欲しかった。
そんな明日香を殺したからこそ、あたしは人間を憎んでいたんだけど――今も勿論そうだけど――でも、同時に。でも、それ以上に。
この世の中で、たった一人の、寂しい、怖がっている魂が、やっと添い遂げようとした人との間を裂いたっていう理由で、あたしは、より以上に、人間を憎むわ。憎んでやる。
可能かどうかなんて、よく判らない。勝算なんてまったく判らない。でも。
あたし、呼ぶつもり。宇宙船を。母星の人々を。
この星の植物は、あたし達の影響を受けると、一種のテレパシー能力を有するようになる。
そのテレパシー能力は、一本一本の植物では、そりゃ、お話にならないくらい弱いものだ。
でも、それが、集まれば。全地球規模で集まれば。
巨大な、惑星規模の通信機になる筈だ。
勿論、あたしには、地球の植物にそんなことを命令する権利も何もない。
だから、お願いしてまわるつもり。駄目でもいい、無駄でもいい、でも、お願いしてまわるつもり。
そして――そのお願いの途中で。
地球産のすべての植物が、微弱ながらもテレパシー能力を持つようになり、ひいては、ある程度以上の数にまとまって、人間や、その他の地球の動物に対して、防衛手段を講じることになったって、それのどこが悪いっていうの!
拓は、それに反対した。それだけは許せないって言った。植物が、もし、動物に対して敵対行動をとるならば、それは地球産の植物の中から自発的に生まれた能力によるべきだ、自分達のようなエイリアンが発端になってそういう動きを作るべきではないっていうのが拓の意見で――ある意味で、それは正しいと、あたしも思う。
でも、あたしは。
でも、あたしは、とにかく、許せないのだ。もう、許す訳にはいかないのだ。明日香――あなたを殺した、人間を。そして、植物のことなんか考えもせずに生きている、地球のすべての動物を。
[#ここで字下げ終わり]
☆
……何をしているんだろう、僕は。
そんなことをずっと考えたまま、でも、ずっと膝を抱え、嶋村信彦は、砂浜の上に座りこんでいた。
したいことは、すべて、やった筈だ。
たとえば、明日香の遺髪を、海へ投げる。
これだって、随分前に、もうしてしまった。
何をしているんだろう、僕は。こうして海をずっと見ていて――で、何の意味があるっていうんだろう。何の意味も、ある筈がない。
明日香が死んで――そして、しばらくの間、海ぞいの街を渡り歩いて。で、やっと、信彦は判ったのだ。明日香が死んだ今、もう、彼にとっての人生はない。
こんなことを考えてはいけない。明日香との心の中での約束どおり、自分は幸せな人生を過ごし、健康な嫁さんをもらい、それを明日香に見せてやらなきゃいけない。
そんなことを思いもした。でも、駄目なのだ。
明日香をなくしたばかりの今、ただでさえ異常にそういうことにうとい信彦にしてみれば、他の女の子と付き合うなんて論外だったし……また、彼は、仕事も、明日香と同時になくしていたのだ。
明日香。
植物の化身の女の子。
彼女に恋しているが故に、信彦は植物学を志したのだ。
明日香が死んだ今、信彦は、松崎教授の許で植物学を続けることができる訳がなく、必然的に大学には退職届けを出していた。そして、今、他の就職先を考えようにも……何ら、やりたい仕事がないのだ。
それに、生き|甲《が》|斐《い》。
それも、信彦は、明日香と共になくしていた。信彦のそれまでの生涯は、ひたすら植物学に捧げられており……恋人と、仕事と、生き甲斐と……そして、趣味(信彦にとって趣味と言えるのは、植物学関係のものだけだった)を全部同時に奪い去られた信彦は、今やもう、死人同然だった。
明日香。
この分だと、僕が天国のおまえと会うのは、意外に近いことなのかも知れない。人は、恋人と仕事と生き甲斐と趣味を同時になくしてしまったら――それでも生きて健康な生活を続けてゆける程は、強くない生物なのかも知れない。
信彦、ふっと心の中でそう一人ごち、そんな自分の弱気をせせら笑い――同時に、背筋に、ちょっと異様な感覚を覚える。
……まただ。また、移動した方がいいのかも知れない。
信彦は、のたのたと膝に回して組んでいた手をほどくと、そのままのろのろ立ち上がる。軽くのびをして体をほぐすと、気の向くまますたすたと砂浜の上を歩き出す。
そう、この感覚。勿論錯覚だろうし、錯覚に違いないんだけれど、でも、この感覚があるせいで、彼はより、明日香の死を気分的に認められないのかも知れない。
生前の明日香に約束した、「海へ連れていってあげる」という言葉を守る為、明日香の遺髪を海へ投げようと旅行に出た信彦、それが終わってからも、ただ何となくぶらぶらと旅を続け……その最中に、時々、背筋に妙な感覚を覚えることがあったのだ。何かこうちりちりと、ほんのちょっと感電したような、危険を告げる感覚。それが、何の前ぶれもなく、時々背筋を走るのだ。そして――実に妙なことに、最初、そんな感覚を覚えた時、何の根拠もなく、信彦は、これを明日香からの警告だと思ってしまったのだ。
明日香からの警告。別に自分は彼女に警告を発してもらう必要があることなんて何もしていないのに。第一、明日香はとっくに死んでいて、自分もその死を確認しているというのに。
けれど。その感覚は、不思議な程、たった一晩、一緒に過ごしただけの明日香のにおいがした。勿論、背筋ににおいが感じられる訳ではないのだが……でも、どうしても信彦は、その感覚を明日香のものだと思ってしまって。
ここにこのままずっといてはいけない。逃げなさい。
背筋にちりちりと走る感覚は、不思議なことに信彦には、そういう意味を持ったメッセージだと思えた。ので、しょうがない、信彦は、それを感じると、何ものかに追い立てられているかのように、その場を去ることにしてきた。
不健康だな。こんなことをしていちゃいけない。
のろのろと、その場を立ち去りながらも信彦、ふっと心の片隅でそんなことを思う。
明日香は、もう、死んだのだ。たとえ自分がどう思おうとも、でも、明日香は、もう死んだのだ。だから、明日香の警告なんてある筈がないし、今、自分がそんなことを思うのも、全部、気のせい。こんなことを思っているから――明日香からの警告があるだなんて思っているから――どうしても、明日香の死が、心の中でうまいこと認められず、ひいては、明日香のことから心が離せないんだろう。
でも。そんなことを思いながらも。
信彦は、その、無意識の警告に従って、そそくさとその場を離れる。
もし、この場に黒田がいれば。
黒田は、この状態を見た瞬間、断言しただろう。
明日香は――たとえ、外見がどうあれ、生物学的な状態がどうあれ、それでもまだ、生きているって。今でもまだ、明日香の意識が信彦を守っているって。
何故ならば――黒田の派遣した男達が、どうしても嶋村信彦の消息をつかみ得ない、その理由は……すべて、この、信彦の背筋をちりちり走る、妙な感覚で説明がつくのだから。そしてまた、信彦に関連する(例えば、信彦が泊まった宿の主人等)人が、しばらくの間、こと嶋村信彦に関する限り、記憶|喪《そう》|失《しつ》のような状態になる理由も、これで、ある程度、説明がつく。
が。
信彦は、そもそも、自分が追われていることを知らないし――勿論、黒田も、ここにはいない。
故に、この時点では、誰も、明日香がまだ死んでいないという可能性について、考えはしなかった。そして、それを考えないのだから、勿論、明日香の状態が変わった可能性――近くの植物のみに影響を与えるのではない、もっと広範囲の植物に影響を与えられるようになった可能性なんて、誰も、誰一人として、考えもしなかったのだ――。
3
あなた。
ねえ、あなた。
不思議な話があるの。
とっても不思議な話だと思うわ。
今のあたしには、手足がない。故に、今のあたしは自由に動くことができない。
今のあたしには、五感がない。故に、今のあたしはものを見ることもにおいを|嗅《か》ぐことも音を聞くこともできない。
今のあたしには、口がない。故に、今のあたしは、何もしゃべることができない。
でも。
不思議なことに、今のあたしは、以前よりもずっとあなたのことが判るのよ。今こうして、心の中であなたのことを考えただけで、あなたが今、どこで何をしているのか、何か困ったことはないのか、何かあたしで役にたてることはないのか、全部判るような気がするの。
うん。勿論。それは、全部、『気』がするだけなのかも知れない。全部あたしの気のせいかも知れない。ううん、気のせいだって思う方が確かなんでしょう。でも――どうしても気のせいだとは思えないの。
昔、生きていた頃。あたしには目があった。だから、外の世界を見ることができた。その時だって、ひょっとしたらあたしの目にうつる外界は、全部何かの幻、あたしの脳が見せた|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》だっていう可能性があった筈。でも、人は、生きている時は、決してそんなことを考えないと思うの。目にうつったことは、たとえ、目が単なるレンズにすぎず、その上網膜にうつった像を脳が無意識のうちに修正しているって知ったとしても、でも、やっぱりどうしても現実にしか思えないじゃない。今のあたしの状態がそうなの。こうやって、どことも知れぬ処を漂いながら、ふとあなたのことが判ったような気がする、その『気』こそが真実だと思えて仕方ない。死ぬと――死んだからこそ、こういうことが自然と判ってくるのかしら。
そして。もし、あたしの『気』が真実だとしたら。
あなた、危ないわ。
何か、|邪《よこしま》な――ううん、邪まではいかなくても、でも、あまりあなたに対して好意的ではない意識を持った人間が、あなたのことを追っている。あなたの臭跡をたどってる。
あなた。逃げて。
あたしはできるだけあなたを助けてあげたい。あなたを守ってあげたい。
でも、あたしにはもう手足がない。あなたに警告する口もない。今のあたしができるのは、あなたの為に祈ることだけ。
ああ、もどかしい。何てもどかしいの。
心の片隅が焼けるような想いだわ。あなたに危険が迫っているのが判っていて、なのに祈ることしかできないなんて。
でも。同時に、別の心の片隅は、不思議と落ち着いてしまっているのよ。何故かは判らないけれど、ここでこうして祈っていれば、きっとあなたは助かるって思えるから。
あたしには判らない。あたしはもどかしい。安心しているあたしも確かにいるんだけれど、その根拠を自分でもぜひ知りたいと思う。
あなた、お願い、あなた、お願い、あなた、自分でも気がついて。自分でも自分を守ろうと思ってちょうだい。
この世界、お願い、地球、お願い、この星、お願い、あたしのあの人は、この世界のこの星の人なの。どうか、どうか少しでも慈悲というものがあるのなら、あの人を守ってちょうだい。あたしから命を――手足を、口を、目をとりあげたのはこの世界なんだもの、あたしが守れないあの人を、この世界が守ってくれたっていいじゃない。
お願い、あなた達、お願い、あなた達、お願い、あの人を守って。
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……この世界のどこかで、あたしの願いに対して、『応』という返事がしたような気がするのは……これも、あたしの気の迷いなのかしら……。
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☆
これは……何ていう植物なんだろう。
ここ三日ばかり、松崎が受付へやってくることがなかった。基本的な業務は勿論松崎への対応ではないが、それでも松崎がやってこないことによってずいぶんと精神的なストレスから解放された|箕《みの》|面《お》|夏《なつ》|海《み》は、その日のお昼休み、比較的のんびりとお弁当を食べ、残った昼休みの時間を研究所の中庭でのひなたぼっこでつぶしていた。そんな時、夏海はその植物を見つけたのだ。
これ、何ていう植物なのかしら。深緑色の、細い葉が、すっと十五センチ程ものびている。茎は見当たらず、あるのは葉のみ。それが小さな群落を形成していた。
ちょっと見た処では、それはリュウノヒゲという植物に似ていないこともなかった。ただ、夏海が知っているリュウノヒゲに比べると、異様に葉が細く、また、葉自身にもそう強度がないようで、太陽に向かって伸びるというよりは、ほんのわずかな風が吹いただけでもさっと地面に倒れかかり……。
何だか嫌だな、こうして見ると、これってまるっきり植物っていうよりは、深緑色をした髪の毛みたい。
夏海、ふっとそんなことを思いかけ、慌てて自分で自分の|臆病《おくびょう》を笑いとばす。まさか髪の毛が地面から生える筈もないし、ましてそれが深緑色をしている訳もない。とすれば、これは、ちょっと異様に見えても必ず植物の筈であり……。
リュウノヒゲは、ユリ目ユリ科よね。したら、この草も、きっとユリ科かユリ目の植物で……ユリ目には、|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》みたいに葉がないうちから茎ばかり伸びる奴や、イグサ科のイみたいに普通の葉がない奴や、とにかくちょっと変わった植物がいる筈。うん、リュウノヒゲだって、茎があってそこから葉がでて花が咲き実がなるっていう、ごく普通の植物なのに、なかなかそうは見えない外見してるもんね。これだって、きっとそういう植物の筈。
夏海、|強《し》いて自分を納得させようとしてそんなことを思い、その植物から目を|逸《そ》らそうとし――でも、何故か、どうしてもその植物を、まじまじと見てしまう。
|藻《も》か――その類縁。
深緑色の草が、ゆらゆらと、まるでここが水の中であるかのように揺れる。その動きは、風に吹かれてっていうよりは、さざ波にそよぐ藻のようで、だから『藻』という単語が心の中にうかんだのだけれど、考えてみれば、こんな処に『藻』もその類縁の植物も生えている筈がない。ここは埼玉の山の奥で――どう考えたって、水草の類が生えているような場所じゃない。
深緑色の草が、ゆらゆら揺れる。まるで夏海のことを手招きしているように。とても風のせいとは思えないような、こまやかなニュアンスを|湛《たた》えて。でも、今は、断言できる、絶対、風なんか吹いてなかった。
深緑色の草が、ゆらゆら揺れる。ぴんと指先まで神経がゆき届いたバレリーナが、優しく空を抱くように。不思議に、魅惑的に、揺れ続ける……。
これは多分リュウノヒゲの近縁植物。リュウノヒゲは、ユリ目ユリ科。ユリ目は単子葉植物綱。
ゆらゆらと、風もないのに、さながらここが水の中であるかのように、さながら体全体が柔らかいばねでできているかのように、夏海を誘うが如く揺れる草。その草からどうしても目が離せなくなった夏海、それでもせいぜい正気を保とうと、何とか自分の知っている知識を復習してみる。
ユリ目は単子葉植物綱。だとしたら、たとえ、この植物が何であれ、少なくともユリ目かその近縁であるならば、単子葉植物である筈。けれど……この植物は、葉脈の走り方を見ても何を見ても、単子葉植物の特徴を、まったくそなえていない。では、ユリ目かその近縁というのがそもそも間違いで、双子葉の植物なのかというと……こっちは更に可能性がなさそうだ。
困った。どうしよう。
夏海、正気を保とうと、その植物の特徴を観察しようと思ったのだ。なのに、ちゃんと観察すればする程、その植物、彼女の知っているどの植物とも違ってきてしまい……。でも、双子葉でも単子葉でもないなんてこと、あり得ない筈。
|維《い》|管《かん》|束《そく》。そうよ、維管束を見れば。単子葉と双子葉は、維管束が全然違うんだもの、茎を切断して、維管束の様子をプレパラート標本にしてみれば、|一目瞭然《いちもくりょうぜん》で判る筈。
そう思った夏海、その植物の茎をちぎろうとして、どこにも茎がみあたらないことに|愕《がく》|然《ぜん》とする。
なら、葉は? |気《き》|孔《こう》の分布を調べれば……。
でも。
そこまで思いこんでも、どうしてだか夏海、その植物の葉のサンプルをとることができなかった。どうしてだか――どうしてでも、この植物を傷つけるのは、いけない、許されないことのような気がしてならなかった。
……そうよ。
何も、植物は、単子葉でも双子葉でもなくていい筈。他にもいろんな植物があった筈。単子葉でも双子葉でもないとなると、被子植物門ではないってことになっちゃうけれど……なら、この植物は、被子植物門ではないんでしょう。それは、この植物の状態からすると、ほとんどあり得ないことだけど……でも、とにかく、無理矢理そう思ってしまおう。この植物は、被子植物門ではないのよ。
そして、かわりに。
サンプルを得ようと、その葉をちぎるかわりに、夏海、何故か、そっと手を伸ばし――何だか魅いられたように、その葉に触れてみる。
ひくん。……あ、何、これ。
その葉に触れた、その瞬間。夏海の指は、まるで何かとてつもなく変なものにさわってしまったかのように|痙《けい》|攣《れん》し――それから夏海、もう一回、そっと指先を葉の表面へと伸ばす。
……何だろう、この感じ。
その葉は、ごく普通の、葉なのだ。肌ざわりだってとりたてておかしい訳じゃない、特に熱かったり特に冷たかったりする訳でもない。でも……何だろう、この感じ。
葉に触れた、指先から、じんわりとお湯にひたったようなあたたかさが伝わってくる。じんわりと――物理的に体が温まるような感じの熱じゃない、指先から、直接心が温まるような感じの熱。
……黒田さん。この、陰険ビルの持ち主。
何故だかは判らない。理由も何もなく、ただふいに、夏海、黒田のことを思い出した。不思議に――どうしてだか――このあたたかさが、黒田のものだと思えてならなかったのだ。
まさか、そんな、何を考えてるんだか。
心の表層で、夏海、そんな自分を|莫《ば》|迦《か》にして|嗤《わら》う。確かにこの草は、黒田さんが買収した土地に生えているんだもの、黒田さんのものって言えるのかも知れない。それが頭の中にあったから、黒田さんって個人名がでてきたんだろう。大体が、あの陰険なひとがあたたかいだなんて、どこをどう逆立ちすればでてくる考えなんだかね。
夏海、精一杯、心の中をそんな考えで埋めようとし――でも、気がつくと。
気がつくと、何だか夢中になって、その葉を|撫《な》ぜていたのだ。
そっと……ゆっくりと……本当に、本当に、|慈《いつく》しむように……。
☆
「良子。おまえだね」
さて、一方、その頃、黒田は。
例の部屋で、|明《あ》|日《す》|香《か》の体を前にして、両手をガラスケースの上にのせ――あやうくガラスケースが壊れる程の力を、その両手に込めて、こう呟いていた。
「返事はいい。……いや、おまえに返事ができるとは最初っから期待していない。でも……良子、おまえだろう」
黒田にとって――明日香と二人っきりでいる時の明日香は、すでに『良子』になってしまったらしく、黒田、ただこう言い放つと、ガラスケースの中の明日香を見る。
「嶋村が未だに捕まらないのは、ひとえにおまえの助力のせいだろう? あ、いや、だからどうだと言う気はない。それに、もうとっくに死んだ筈のお前が未だに何か影響力を残しているだなんて、公式の場で発言する気もない。でも……あれはやっぱり、おまえのせいだという気がしてしょうがないんだ」
ガラスケースの中の明日香――黒田にとっての良子――は、勿論、何も言わない。
「ああ、それと、誤解をされたら困るな、僕は確かに、おまえが嶋村に助力をしているせいで、まったく迷惑を|被《こうむ》っていないっていう訳ではない。でも、だからってそれを責める気は毛頭ないんだ。ただ、確認をしたいだけなんだ。あれは……良子、おまえだろ?」
ガラスケースから返ってくるのは、勿論、何もない沈黙。
「……あ……あ。そうか。そうだな。答えが返ってくる筈はないのか。でも……良子……」
黒田の手、ガラスケースから持ち上げられ、そのままぎゅっと握り|拳《こぶし》を作る。そして、しばらくの間。それから。
「でも、良子!」
ばあんと、これが漫画だったらそんな|擬《ぎ》|音《おん》がつきそうな勢いで、黒田、この|台詞《せりふ》と共にガラスケースへと両手をふりおろす。が――かろうじて正気を留めた黒田の両手は、ガラスケースまであとほんの数センチという処で、何とか止まる。
「何がいいんだ! 嶋村の、何がよかったんだ! 何でおまえはそうもあいつをかばうんだ! 言ってみろ、良子、言ってみろ! あいつのどこがそんなによかったんだ!」
台詞の後半は、黒田、完全に公私混同している。黒田が明日香に信彦のことを聞いているんだか、それとも、黒田が思い出の中の良子に他の男のことを聞いているんだか……。
そして。当然のことながら、ガラスケースの中の明日香は、何の返事もしない。
「……いいんだ。莫迦なことを言った。忘れてくれ」
しばらく、そのままの体勢でいたあと、黒田はこう言うとちょっと肩を丸める。それから、|悄然《しょうぜん》としたまま、明日香のはいったガラスケースのある部屋から出てゆこうとし――と、ふいに、聞こえてくる、放送。
「黒田所長、黒田所長、至急外線に出てください。横田様からお電話がはいっております。緊急だそうです」
「横田から……電話?」
黒田、慌ててこの部屋から出ようとして、それから、もう一回、ガラスケースの中の明日香に視線を送る。
「横田から電話ということは、嶋村の消息がつかめたか、あるいは、三沢の消息がつかめたか……いずれにせよ、おまえにとっては嬉しくないニュースだろうな」
黒田が部屋をでていったあと。残された、ガラスケースの中の明日香の髪は――今の黒田の台詞に反応してか、ほんのわずか、動いたようだった。いや――それともそれは、陽の加減だったのだろうか?
☆
「三沢良介がつかまりました!」
電話の中の横田は、やたら元気がよく、開口一番、まず勢いよくこう言った。
「三沢良介? で、どこにいた?」
「意外にも盲点というか……例の岡田家焼跡のすぐ近所の、岐阜の山ぞいのある村にいる処を保護したそうです」
「……そうです?」
「あ、ああ、そうなんです。私は嶋村保護の為にずっと出ていまして、三沢を保護したのは、うちの部下です」
「で、それは……本当に、三沢良介なんだろうな?」
「はい。それは確かです。ただ……」
「ただ? ただ、何だ」
「三沢良介は……その……かなり混乱しているらしくて……|常軌《じょうき》を|逸《いっ》している、と言ってもいいような状態なのだそうで……」
「……常軌を逸している?」
「はい。もうほとんど、まともな日常会話が不可能な状態で……ただ、『夢子が危ない、夢子を何とかしないと』と、それくらいしか、意味のあることを言わないんだそうです。まして、こちらの質問に答えてどうこうするなんて状態ではないらしく、相変わらず、三沢を保護した後でも、問題の夢子と拓との足取りは判らないようで……」
「……判った。もうそれはいい。とにかく、三沢をできるだけ早くこちらへ……いや、私がそっちへ行こう。今、三沢がいるのは?」
☆
危ない。
もう、頭の働きは、判然としない。
最初は自殺するつもりだった。その為に、かなりの量の睡眠薬の類も手にいれた。ついでに、向精神薬の類や、果ては麻薬の類まで手にいれた。それらの薬と――そして、浴びるように飲み続けた酒が作用しているのだろう。もう、頭は、ただそこについているだけの飾りものだ。
危ない。
その、完全に飾りものになってしまった頭で、三沢良介は、ただ、それだけを考えていた。
危ない。
拓はともかく、夢子をこのままにしておいては、危ない。
が。
いかんせん、三沢の頭は、アルコールと薬剤によって、完全に常人としてのまっとうな思考力を奪われていたので――危ないと思いはしても、危ないと判りはしても、夢子の、どの辺がどういう風に危ないのか、もはや、筋道だった思考ができなくなっている。
最初は自殺するつもりだった。
夢子が危ない。三沢の意識としては、まずそれを考えようとしている筈なのに、何故か、三沢の、すでに半死半生となってしまったような頭脳は、三沢の意識とは無関係に回想を始める。
最初は自殺するつもりだった。
明日香、夢子、そして拓。
彼らが人間に掴まってしまったら、彼らの秘密が白日のもとにさらされたら、自殺をするつもりだった。岡田善一郎と共に、明日香達の体を改造した時から、その覚悟はできていた筈だった。だから、明日香が岡田家焼跡で死んだ時――三沢は、それを見届けた後、自殺するつもりだったのだ。
だが――できなかった。どうしても、死ぬことが、できなかったのだ。
一つには、まだ、心配があったからかも知れない。
拓と夢子。
彼らは、明日香とは違い、自分達が地球人でないことを、確かに認識しているかも知れない。自分達が、地球の植物に対して、どれ程致命的な影響を与え得るか、知っていることは知っている。が――だからといって、彼らがまったく無害だとは言えないではないか。何故って、彼らが、あくまで地球人類に対して好意的に振る舞ってくれるとは限らないのだ。地球の動物は、彼らにとっては、|譬《ひ》|喩《ゆ》的な意味でまさしく『鬼』だったし……まして、明日香は、その地球人類が故に、自殺した。そして、それが、それだけが心配で、三沢は死ぬことができなかったのかも知れない。
が。
そんなことは、理屈にすぎない。
今の三沢なら、それが判る。
三沢は――理屈はさておき――死にたくなかったのだ。これが、彼が自殺できなかった、最大の理由。
だって、そうじゃないか。
だって、そうだ。
三沢は、何一つ、自ら死ななければいけないようなことはしていない。三沢には、死ぬ理由は、たったの一つだってないのだ。
そりゃ、確かに、三沢は宇宙人をあたかも地球人のように整形手術した。が――それは、果たして、死ぬ理由になるか?
そりゃ、確かに、三沢は、そのままでは地球に適応しにくい宇宙人を地球に適応しやすいようにした。が、それが死ぬ理由になるのか?
ならない。
三沢の心の中では、かつて三沢がした行為は、どうしたって自殺の理由になり得ず――そして、三沢は、自殺ができなかった。ただ、酒に|溺《おぼ》れ、薬に溺れ……。
……夢子。
アルコールの――そして、薬のせいで、ほとんど用をなさなくなった頭の中で、三沢は、ただそれだけを思い続ける。
夢子。
どうか……どうか、人類に復讐しようとだけは思ってくれるな。
確かに人類は、おまえにとって鬼か悪魔だろう。
確かに人類は、おまえにとっていいことを一つもしてくれなかったろう。いや――いいことをしてくれないどころか、明日香を死においつめたんだ。
けれど――けれど、僕も、人類の一人だ! 一応、人類ではあるんだ!
もし、もし、夢子、おまえが人類に害を及ぼすようなことがあったら……それだけは、僕は、決して、決して許せない。あ、いや、許す、許さないの問題ではない、おまえがそんなことをするならば、僕は一生、おまえを育ててきた自分を人類の一員として許容できなくなるだろう。
頼む――願う――請う。
どういう表現が適切なんだろうか。
とにかく、僕は、頼むし、願うし、請うている。
どうか、人類に害をおよぼさないでくれ、夢子。
そして――そして。
夢子が危険だ。
そう思ってしまう僕は、他の誰よりよく知っている。
夢子。おまえが、人類を憎まずにいられる訳がないということを。夢子。おまえが明日香の復讐をせずにはおれないということを。
「夢子が……夢子が……危ない……どうか……願うから、請うから……」
岐阜の、安酒場にて。横田の手の者に保護されたあとも、もう、何が何だか自分の頭ではまるで判然としない三沢、ただ、うわごとのようにこれだけを言い続けていた――。
☆
これはもう、|妄執《もうしゅう》だ。
そんなことは松崎、百も承知だった。
これはもう、妄執だ。こんなことを健全な人間が考える訳がない。
でも。理性ではそんなこと、百も承知でも、でも、彼は、幻の執念をおいかけていた。
夢子、そして、拓。
黒田は――そして、日本国政府は、松崎から明日香を、あの緑の髪の子供達を奪い取っていった。確かに、あっちにはあっちの理由があるだろう。でも――こっちにもこっちの理由があるのだ。
夢子、そして、拓。
松崎の思いは、まるで酒に酔っているかのごとく、あっちこっちをふらふらさまよい――そして、ここへ帰ってくるのだ。
夢子、そして、拓。あんた達に恨みはまったくない。いや、恨みがあるどころか、あんた達は僕がずっと追い求めてきた、恋|焦《こ》がれてきた人の一部ですらある。
だが、夢子、そして、拓。
僕は、あんた達を追わせてもらうよ。
何故なら、明日香を黒田に奪われた今、僕が、手持ちの駒だけで、かろうじて何とか追跡できるのは、君達しかいないんだから。
夢子、そして、拓。
おそらく、君達は、僕以上に、黒田への――つまりは、人類とでも、その政治権力とでも言う奴への|恨《うら》みにこりかたまっているだろう。だとしたら――そんな、君達の行方は、誰よりも、僕が、僕こそが、推理することができる筈。そして、君達ができることといったら……。
松崎は、部屋の中で、恨みにより半ば狂ったような目を、ひたっと壁の日本地図に据えつける。どうやらそれは子供用の地図のようで、『ほっかいどう』『ほんしゅう』などという平仮名が見える。
夢子も拓も、日本国籍を持っていない。ということは、パスポートだってとれない筈だ。とすると、彼らは日本国内の移動しかできない筈で――国内で、彼らが、ある目的を持って、植物の長とでもいうべきものに面会を求める気なら、おそらくは、目的地は、そう多くはあるまい。
「これは、賭けだが……|屋《や》|久《く》|島《しま》へ行ってみようと思う」
松崎、もうすでに彼しかいない部屋の中で、誰にともなくこう呟いてみる。
「僕もまだ、|縄文杉《じょうもんすぎ》って奴は見たことがないしな。縄文杉が日本の植物の代表だとは思わないが――あいにく、この国には他にあれ程の知名度を持った植物はないようだし」
もう松崎しかいない部屋。昔は――松崎が、明日香の件に|噛《か》むまでは、小学生の彼の長男と幼稚園に通う長女が使っていた部屋。彼の長男と長女は、もうずいぶん前、松崎が黒田の処へ日参しだした頃から、すでにこの家から去っていた。松崎の妻が、松崎に見切りをつけ、でていくのと同時に。
「これが正念場だ」
松崎、誰にともなくこう呟く。
「これが正念場だ。そう、正念場だとも。縄文杉の下で、夢子と拓に会えるかどうか――賭けてみるだけの価値はあるだろう。一週間でも二週間でも、いや、何年だって、待ってみせる。何故ってこれが正念場なんだから」
壁にはりつけられた小学生用の日本地図。部屋の隅に紙袋にいれられたまま忘れ去られたままごと用の小さな食器。そういう――この部屋の主が、松崎ではなかったことを暗示する品物達の間を、ひたっと目を中空に据えた松崎の台詞、何やら妙に不気味に響く。
「黒田は――そして、日本は、地球は、僕から明日香を奪った。そして――妻と、子供さえ、奪った。……あいつらに、思い知らせてやる。そうだ、これが正念場だ。人は、人間から、財産や地位や家族を奪うことはできるのかも知れない。でも、ただ一つ、その人がその人であることだけは――僕が、どういう人間であるのかだけは、けして、決して奪えない筈だ。それを、僕は、実証してみせる。夢子、そして、拓。悪いが、そういう事情で、おまえ達を追い詰めるのは、黒田ではなく僕だ――」
☆
これが三沢良介か。
その日の夕方、黒田、ホテルの部屋の一室で、いつまでも、しどけなく、いぎたなく寝ている男を見下ろしながら、こう思う。
これが三沢良介か。
黒田の許にある報告によれば、三沢良介というのは、奇麗好きでダンディな、ちらほらはえてきた白髪が銀髪に見えるような、一人暮らしの男にしては、最大限に好意的な台詞を、近所の主婦達から向けられてきた男の筈だ。それが、今はどうだろう。|髭《ひげ》とも|不精《ぶしょう》髭ともつかないものが|顎《あご》や鼻の下をだらしなく|被《おお》い、ワイシャツは|垢《あか》じみ、首のあたりには茶色い線までついていそうだ。この分ではおそらく下着もろくに替えてはいないだろうし、寝顔にはうっすら|脂《あぶら》までういてきている。髪の生え際のあたりの白っぽいものは、ふけだろう。
「いつから寝ているんだ」
正直言って黒田は、こんな男と同席するのは遠慮したかった。いや、もっと|忌《き》|憚《たん》なく言うならば、こんな男の半径一メートル以内にはよりたくなかった。が――今は、そんなことを言っている場合ではない。
「保護した時からです――あ、えーと、保護した時から、すでに三沢は、酔いつぶれていて意識が判然としていませんでした。で、保護して、この部屋にいれてすぐ、|高鼾《たかいびき》をかきだしてしまって……以来、ずっと、眠り続けています」
おそらくはまだ酒が切れていないのだ。
考えようによっては病的にすら思える三沢の鼾を聞きながら、黒田、そう思う。
ま、酒が切れていないアル中の人間を強制的に正気に戻す方法はない訳ではないのだが――そして、こんなぼろくずのような男にそういう手段を取ることは何らやぶさかではないのだが――が、これでも一応、明日香の育ての親だ。酒が切れた段階でまともな口がきけるなら、それを待ってもいいだろう。酒が切れて、それでもなおかつ口がきける状態でないのなら、その時はその時でやり方がある。
「私は隣の部屋にいる。いずれ三沢も正気になるだろう。そうしたら、私を呼んでくれ」
黒田、あたかも汚らわしいものであるかのように三沢の体を避け、その部屋にいた横田の配下の男にこう言う。
「え? あの……よろしいんですか? 何でも、こいつを保護するのは、何よりすみやかに行わなきゃいけない命令だって聞いていたんですが……」
「保護するのは、だ。保護してしまったあとは――もし、私の思っているとおり、邪魔をしているのが明日香なら、手出しのしようもないだろう。それに……そうか」
「は?」
「あ、いや、何でもない。とにかく、三沢が目をさましたら連絡するように」
こういいおいて、部屋から出ながら、黒田、今更ながらに今思いついたそのことを考えてみる。
そうだ。
三沢が、嶋村に比べると簡単に手にはいったのは、そのせいがあるのかも知れない。
明日香は――ああ、いや、まだ、そう決めつけるのは早計だ、とにかく、嶋村や三沢を黒田の手に入れさせまいとしている何かは――今までの処、そう積極的な手段を取っていない。せいぜいが、嶋村や三沢と会った人物の記憶を適当に操作するくらいで。
なら。同じように、彼らは、嶋村や三沢の意識も、適当に操作していたのではなかろうか。追っ手が近づくと、何故かそこから逃げだしたくなるようにして。
で。嶋村は、おそらくはまだ正気を保っているから、その無意識の忠告に忠実なのだろう。が、三沢は。この状態を見る限り、意識をまるでもっていないか、あるいは意識を持っていてもそれに従うのは困難な状況。だから、三沢を逃がそうという明日香の思い、ついに三沢には伝わらなかったのではなかろうか。
「……だとすると、面白い結果がでるかも知れないな」
部屋の中の男に聞こえないよう、ほんの小声でこう呟くと、部屋から出てゆきしなに、黒田、もう一回、鼾をかき続けている三沢の方に視線を送った――。
☆
「……見なければよかったと思うのよ、あの人のあんな顔なんて」
「夏海! 起きてるの、夏海?」
焦茶色の木のドアに、軽いノックの音がする。
「でも、そもそもが見ようと思って見たものじゃないんだし……ノックしようと思ったら、むこうから勝手にドアがあいて黒田さんがでてくるだなんて、思わないじゃない」
「夏海! 何ぼそぼそ言ってるの? 起きたの?」
もう一回、さっきよりちょっと強目のノックの音。
「それに、あんなに疲れきっていて……あんなに血走った目をしてるだなんて、思ってもいなかった。……大体あれ、やっぱりあれ、泣いていたのかしら。泣くだなんて……あの人が泣くだなんて……あり得ることとは思えないのに……。第一印象じゃ、もっとずっと陰険な人の筈なのに……いつだって、不愉快になるくらい、|傲《ごう》|岸《がん》な人の筈なのに……。あれじゃ……あれじゃ、何だか、可哀想、だ」
「夏海? ドア、開けますよ? ……あら、嫌だ、この子ったら、まだベッドから出てもいないんじゃない。起きなさい、夏海、もう七時半をまわったのよ!」
「可哀想だなんて思う理由、何もないのにね。見方によっては、あたしの方がずっと可哀想だし、あの松崎って人の方がずっと可哀想な感じだっていうのに」
「夏海? 夏海、あんたそれ寝言なの? ちょっと、夏海!」
箕面家の二階、箕面夏海の寝室にて。その朝、普段だったら七時十五分に階段を駆けおりてきては『寝坊しちゃった!』と叫ぶのが習慣の夏海が、七時三十二分になっても起きた気配がないので、いささか彼女のことを心配した母親が夏海の寝室にはいってみると。ベッドの中の夏海、寝言というにはあんまりはっきりとした口調で、何やらもぞもぞ言いながら、それでもぐっすり眠っている感じなのだ。
「夏海? 夏海!」
目覚まし時計は、七時にタイマーをかけたままでベッドサイドに放り出してあるし、夏海が眠っているのは確からしいのだが、彼女の台詞は寝言というには何だかあまりにはっきりとしすぎている。そんな様子を見て、何となく不安を覚えたらしい夏海の母親、今度は彼女の名前を呼びながら、ベッドの中の夏海の体を軽くゆすってみる。と。
「ん……うー……ふ」
異様にはっきりとしていた夏海の寝言、ぴたっと止み――そして、それから。ベッドの中の夏海、目をつむったまま一回大きくのびをすると、目を開き、同時に左手で|布《ふ》|団《とん》をはいだ。
「夏海? あんた、大丈夫なの」
「え? ……あ……ああ、おかあさん。どうしたの、何よ」
「何よって、あんたが起きてこないから……」
「起きてこないって、まだ七時前でしょ? ……違うの」
「七時三十――ああ、もう四十分になっているかしらね」
「七時四十分! 嘘っ! やだっ! 目覚まし、鳴らなかったのかしら」
夏海、こう言うと慌ててベッドからとび起き、足許に転がっている目覚まし時計をひろう。
「やだ……ちゃんと七時にかかってる。あたし……気がつかなかったのかしら」
「そうみたいね。それより夏海、あんた大丈夫なの?」
「……大丈夫って、何が」
時間を把握した瞬間から、凄まじい勢いでパジャマのボタンをはずしだし、同時にちょっとお行儀悪くナイト・テーブルの脇の|籐《とう》のかごから足にひっかけて下着をひっぱりだした夏海、もう、母親なんて眼中にないって|風《ふ》|情《ぜい》で着替えながら、それでも母親にこう問いかえす。
「だっておかしかったのよ、あんた。何だか凄くはっきりした寝言をずっとぶつぶつ言ってたみたいだし……」
「寝言? ……あたし……そんな癖、なかったと思うんだけど……」
「でも、言ってたわよ。それも、何だか嫌にはっきりした口調で」
「ま、人間、体調によっては寝言くらい言うこともあるんでしょうよ」
あっという間にパジャマを脱ぎ捨てて、下着のままドレッサーをあけた夏海、もう朝の忙しさにまぎれて、母親の相手をする気をなくしてしまったらしい。お義理のようにこれだけ言うと、選んだ服を、まるで競争でもしているかのように、ずんずんずんずん着込んでゆく。
「まあ、あんたが大丈夫ならいいんだけれど……でも、あれは確かに嫌にはっきりした寝言だったわねえ……」
夏海の母親、ちょっと首をかしげながら、それでも今日がいつもの『朝』になったことを喜びつつ、そのまま部屋をでて階下の台所へ帰ろうとする。で、その時、ふと。
「あら、おまえ、また鉢を買ったの? その、糸|屑《くず》みたいな緑の葉っぱ……」
「糸屑なんて言わないでよ。これ、リュウノヒゲ……の親戚みたいなもんなんだから」
その頃、すでにすっかり着替えを終えていた夏海、そのままのろのろしている母親をおいこし、洗面所の方へ小走りにゆこうとする。それから、途中で、ふり返って。
「それに、無駄遣いもしてないんだから、御心配なく。これ、花屋で買った鉢じゃないのよ。研究所に生えてた雑草を、あたしが鉢に植え替えたんだから」
「何も無駄遣いがどうのなんて言うつもりはないのよ」
母親の台詞、いつの間にか階段を駆けおり、洗面所の方へ消えてしまった夏海には、どうやら届かなかったらしい。それが判った母親、ふっと肩をすくめ、そのまま夏海の部屋から出てゆこうとし――それから、思い返したように、窓際に並んでいる各種植物の鉢の方へと歩みよる。
「ほんとにあの子の趣味ったら……まるで|盆《ぼん》|栽《さい》みたいで色気がないったらありゃしない。まして、今度は、雑草ですって?」
そのまま、その雑草――濃い、緑色の、まるで糸屑みたいに細い葉を、そっと|撫《な》ぜる。
「雑草なんかの世話をする暇があるんなら、もっと……あら」
雑草なんかの世話をする暇があるんなら、もっと、若い娘がするようなことがある筈。
そう言いかけた母親の台詞、何故か、ふっと、途切れてしまう。そして、その台詞を言う替わりに、彼女は、何だか狂おしく、その植物の葉を愛撫する。
というのは。その、植物の葉を撫ぜた途端、何故か、やたらと思い出深い、妙な感覚がしたものだから。
昔、夏海を生んだ時。|分《ぶん》|娩《べん》室で、まだ、生まれたばかりの夏海に、右手の親指を与えたことがあった。その時、新生児の夏海は、彼女の親指をぎゅっと握りしめたのだ。それは、別に夏海の意志ではなく、赤ん坊の握力反射ってものだと知ってはいても……でも、何故だか、真実幸せな感じがしたものだった。
昔、自分の夫と恋に落ちた時。どうしてだか、彼の住んでいる処を、ふいに見たくなった。で、住所も何もよく判らない、ただ、どの辺に住んでいるっていうあやふやな話だけをたよりに、それを捜したことがあった。何時間かの捜索のあと、無事、そのアパートをみつけだした時には……特に何って意味があった訳でもないのに、不思議と幸せな気分になれたものだった。
その時みたいな、別に意味がある訳でもない、何故かは判らない幸福感。そんなものが、瞬間、おしよせてきたような気が、した。
この雑草は、確かに雑草なんだけれど……不思議と、そういう、『生まれてきた幸福』みたいなものを湛えている草なんだ。そんな気が、したのだ。
「……ま……その……」
ほんの数秒の間、母親は、その草を愛撫し――そしてそれから。
「ちょっと、夏海! あんた、今朝の卵は、スクランブルなの目玉焼きなの半熟|茹《ゆ》で卵なの?」
慌てて家族の調理責任者の顔になると、母親、そのまま夏海の部屋を出ていった――。
☆
[#ここから2字下げ]
……何でなんだろう。嫌ってたのは、確かなの。なのに、特に何があったって訳でもないのに、不思議と今、あたし、黒田さんを憎めない。ううん、むしろ、可哀想だって思ってしまう。
女の子の感情が、ゆれる。
……良子――いや、おまえは良子じゃないのか。だが、それでも、おまえは良子よりも僕の良子だ。もう誰にも渡しはしない。
[#ここで字下げ終わり]
男の人の感情が、ゆれる。
[#ここから2字下げ]
……妄執かもしれない。いや、そうだろう。でも、明日香、僕はおまえのことをどうしても忘れられない。おまえは、僕の為に生まれてきた生物。
[#ここで字下げ終わり]
男の人の、残留想念が、ゆれる。
[#ここから2字下げ]
……夏海ったら、あれでも女のつもりなのかしら? ああ、ほんとに、あんまり早くお嫁に行っちゃうのも何だけど、いつまでもお嫁に行ってくれないのも心配は心配だわ。
[#ここで字下げ終わり]
ついさっき、女の人の、こんな感情がつき抜けていった。
不思議ね。
こうしていると、何だかいろんなことがよく判る。誰が誰のことを思っているのか、どの思いがこんがらがっているのか、何故だかするっととけてゆきそう。
そして――それから。
[#ここから2字下げ]
……いていいんだよ。おまえはここにいていい。おまえはここにいていいんだ。
[#ここで字下げ終わり]
同時に、何か不思議な声が聞こえてくるような気がするの。
[#ここから2字下げ]
……いていいんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
その声は、今まで聞いた、どの声よりも、優しかった。
[#ここから2字下げ]
……いていいんだよ。おいで。ここに。
[#ここで字下げ終わり]
甘えてしまいそうだった、“私”は。“私”は、その声に甘えて――そして――。
[#ここから2字下げ]
……おいで。ここに。私は何でも受け入れる。私は誰でも受け入れる。およそ、生き物である以上、私が受け入れない道理があるだろうか。だから、おいで、ここに。
[#ここで字下げ終わり]
何だかとっても優しい声。その声の、余りの優しさ故に、“私”はそれを受け入れようとし、そして――そして!
誰なの? “私”は誰なの!
あまりのことに、狂乱しそうになる。
判らない。“私”は“私”が誰だか判らない。
誰なの? “私”は誰? そして、ここはどこ? どうして“私”は“私”が何だか、“私”が誰だか判らない状態で、こんなところにいなきゃいけない?
[#ここから2字下げ]
……ああ、まだ、混乱しているんだ。どうか、心を落ち着けて。
[#ここで字下げ終わり]
こんな、“私”の狂乱状態を見ても、その声は、ひたすら、優しかった。
[#ここから2字下げ]
……私はよく知っている。おまえは私ではないもの。私はおまえではないもの。
[#ここで字下げ終わり]
あなたではないもの? それが“私”だとして、なら、“私”は何なのよ? それだけじゃ、何の答にもなっていないじゃない。
そんな“私”の質問を、まるで微風すらうけていないかのように、その、何だか判らない優しいものは受け入れる。
[#ここから2字下げ]
……ところが、これが、答なのだ。おまえは、私ではない。世の中には、私と、私ではないものがある。おまえは、私ではないものの方だ。
[#ここで字下げ終わり]
だから、それが何の答になるって――ああ。
ああ。
その台詞、すべてを言う前に、“私”には判ったのだ。
それが――すべて、だって。
世の中には、“私”と、“私”ではないものがいる。
“私”は――たとえ、何であれ、“私”だ。
そして、世の中には、そうではないものがいる。
あの、優しいものは、そうではないものの一つだ。“私”ではないものの一つだ。
そして、彼が――あるいは彼女かも知れないが――とにかく、“私”ではないものが、“私”を、自分ではないものの一部として受け入れてくれるのならば――そして、初めて、世界は一つになる。
そして、初めて、世界は一つになるのだ。“私”と、“私”ではないが“私”を受け入れてくれる世界との間で――。
[#ここから2字下げ]
……おいで。
ここにおいで。
ここにいていいんだよ。
[#ここで字下げ終わり]
その声は、ひたすら優しく、こう言い続ける。
ここにおいで。ここにいていいんだよ。
ああ。
“私”は――ううん、今や、“私”は“私”が誰だか判る。“私”は、あたしだ。あたしは――心の中で、軽い呻き声をあげる。
ああ。それが、答えなんだ。あたしが捜していた、答えなんだ。みんなが捜していた、答えなんだ。そして、答えは、いつだってずっと、みんなの前にこうして提示されていたんだ。
おずおずと、あたしは、その優しい声に向かって手を伸ばす――。
☆
「三沢良介……」
目を覚ました後の三沢は、思いの他すんなりと、黒田の尋問に答えていた。
「そう、確かに私は三沢良介といいます。開業医で、病院の所在地は……」
だが。三沢の目は相変わらずどろんとしており――まだ酒が完全にさめきっていないとも、また、見様によっては、妙にひらき直っているとも見えた。
「よろしい、三沢君。そういう風に素直に答えてくれればありがたい。……さて、三沢君、私が聞きたいのは、|煎《せん》じ詰めればたった一つのことだけなのだよ。……三沢、あるいは、岡田明日香。夢子。拓。彼らは何者なのかね」
黒田のこの質問が、素直に心の中に届いたのかどうだか、三沢は質問にストレートに答えるかわりに、まだどろんとした目のまま、黒田にこう反問する。
「その質問に答える前に、一つ確認をしておきたいんです。あなたは、夢子をどうにかすることができますか?」
「え?」
「あなたは、夢子を確実に捕捉することができますか? ……ああ、いや、今となっては、僕がそれを確認することは多分できないでしょう。あなたが夢子を確実に捕捉することができたかどうか、僕はあなたの言葉以外に確認の術がないんじゃないですか?」
三沢、まだ目はどろんとしているものの、不思議に明瞭な言葉づかいで、黒田にこう聞いてみる。
「確かに君には僕の言葉を確認する術はないだろう」
黒田、こう言いながら、三沢にほんのわずか、近づく。それは、ほんの少しとはいえ、三沢を見直したという|仕《し》|種《ぐさ》。酒と薬のせいで、理性というものを失っていても、それでも、ある意味で、ここにこうして立っている三沢は、立派だった。どんよりとしているとはいえ、不思議と、みずからの保身に努めようという色がない、何の|媚《こび》もないまっすぐな瞳をして黒田のことを見ている。黒田は、何となく、そんな三沢の瞳のいろにおされて――できるだけ、三沢には真実を話してやろうという気分になっていた。それに、黒田が話した真実が、たとえ三沢にとって不本意なものであったとしても、|所《しょ》|詮《せん》とらわれの身の三沢には、それをどうする術もない訳だし。
「だが……君は、信じてくれなければいけない。僕を。確かに、僕の言ったことが本当かどうか、君には確認する術がないだろう。だが……この先、僕の言うことは、僕の名誉に賭けて、確実に本当のことだ。……夢子……さんを、保護することは、今の政府の最優先事項だが……必ずしなければいけないことだが……そして、我々、日本国政府はするつもりのことだが……だが、確実にできるとは断言できない」
「確実にできるとは断言できない! はっ! 確実にしてもらわなきゃいけないことだっていうのに!」
「……三沢君?」
「あ、いや、失礼しました」
今や、三沢良介の瞳は、確かにまだ酒のせいでどんよりとしてはいたものの、それでも、妙にりんとしている。
「あなたにしてみれば、そうとしかいいようがないものかも知れませんね。……いや、そうとしかいいようがないんでしょう。……けれど、それでは、僕が困る。いや、人類自体が困るんだ」
「三沢……三沢君?」
今や、黒田と三沢の立場は逆転していた。何故かは判らないけれど、追われる立場の三沢の方が|凜《りん》|然《ぜん》とし、黒田はそれにへつらう立場にいつの間にかなってしまっていた。
「昔――ああ、そういう程の昔でもないか、とにかく以前、同じ問いを松崎さんにもしましたよ。あなたは――あなた達は――いや、個人ではなくて、人間という種族全体をまがりなりにも代表しようっていう人と話すっていうのは――変なものですな。個人ならともかく、人類って種族っていうものと|対《たい》|峙《じ》しようとすると……僕の中にある、忠と孝と義って概念が、奇妙に混乱してしまう」
「え?」
「忠と孝と義ですよ。人間に対して忠であらんとすれば明日香達を追い詰めない訳にはいかない、でも、孝って意味でいえば、実の娘同様の明日香を売り渡す訳にはいかない。――ま、この場合、孝が逆ですがね。そして、義から言えば……僕達だけをたよりにした、哀れな宇宙人達のことを考えれば、義として、彼らを人間に売る訳にいかない」
「宇宙人。今、確かに君はそう言ったね?」
黒田、三沢の半ば投げ|遣《や》りな姿勢に驚きながらも、とにかくこう言うと、傍らにいる男にテープレコーダーをまわすように片手で指示する。
「それはつまり……明日香嬢達は、宇宙人だと……」
「宇宙人ですよ。まぎれもなく。……ま、僕の精神鑑定なんかいくらしてくれてもいいですしね、僕が狂っているって結論をだしたっていいです。ただ、これだけは判って下さい。彼女達は、まぎれもない宇宙人で……そして、そして、何の罪もないんだ!」
「三沢君……何も、私達は彼女達を罪人として追う気は……」
「ないんでしょうね。それは信じます。でも、彼女達は追われるんだ。まるで罪人のように。彼女達は何の罪も犯していないというのに」
「いや、だから、三沢君」
「僕は、薬のせいだか、酒のせいだか、どうも頭が判然としないんです。だから、要点だけを明確に言いますよ。……いいですか、あれはもう、二十何年か前――僕と、岡田のおじさん――ああ、いや、岡田善一郎って言いましょうかね、とにかく、僕と岡田のおじさんは、岐阜の方へ、ちょっとした旅行をしたんです」
「あ……ああ」
もし。もし、明日香達が本当にエイリアンであるのなら。彼女達と、三沢、そして岡田の接点は、この時の旅行しかなかっただろう。それは、いろいろな資料から見て確かなことだし、現に三沢は、過去、松崎にそんな意味のことを言ったという記録もある。ただ、今までそれは、あくまで松崎からの伝聞といった形での資料にしかなっておらず――今、やっと、当事者から細部が聞けるのだ。それが判っている黒田、テープレコーダーの指示をしたあとは、ただただ黙って三沢の台詞に耳を傾ける。
「その時。僕らはとんでもないものに出喰わしちまったんです。最初は|隕《いん》|石《せき》だと思いました。とにかく、前例がないようなサイズの隕石が落ちてくる。そんなつもりで、僕達はその隕石の落下地帯へ行ったんです」
☆
「――あなた! あなた! あなた!」
三沢の記憶の中で。まだあの時の|業《ごう》|火《か》は燃え続けているようだった。
燃える――燃える――燃える。
あたりの木々が燃える。下草も燃える。そして――三沢達が隕石だと信じた、巨大な宇宙船も燃えていた。いや、宇宙船こそが、燃えていたのだ。
「行け! 莫迦、行くんだ!」
「嫌! あなた! あなたがいなければ嫌!」
ふいに、声が聞こえた訳でもないのに、三沢の頭の中にこんな会話が響いてくる。ふと見ると、岡田も同様らしかった。その会話がどこから聞こえてくるのか、落ち着きなくあたりを見回している。
「行け! 子供まで死なすんじゃない! 判らないのか、おまえのお腹の中にいるのは、俺の子だぞ!」
「嫌! あなた!」
「行け!」
どこからともなく頭の中に響いてくる声。その声と軌を一にして、燃えている、すでに|瓦《が》|礫《れき》のような宇宙船の中から、まるで柳の若木のようなものが押し出される。
「あなた! あなた?」
押し出された柳の若木、振り返りながら何とも悲痛な想いをふりしぼる。そう――声が聞こえない以上、彼女の今の様子は、想いをふりしぼっているとしか形容ができないものだった。
「惚れた女の一人くらいまもれなくて男がつとまるか。そして俺は……男だ」
「あなた! あなた! あなた!」
「危ない!」
柳の若木の脇から、ふいに別な木がでてきて、ひったくるようにして柳の若木を炎から離す。
「あなた! あなた!」
ごおっという音がして、次の瞬間、船は崩れ落ちた。あとに残ったのは、何本かの木のみ――いや。残ったものは果して木だと言えるのだろうか? それは、確かに、地球上の樹木に大変よく似た生き物ではあったが、どこかしら、雰囲気が違っていたし……それに、何より、その木々達は、どうやら自分の意図に基づいて動くことが可能なようだ。
「あ……あれは……今のは……」
若き日の三沢、これだけ言うとそのまま黙ってしまう。
「今のは……今のは……」
三沢がずっと尊敬していた岡田さえも、この事態に直面しては、他に何もいいようがないらしく、ただ、そんな言葉のみを言い連ねる。と。
ふいに。
その場の空気の色が、|傍《はた》|目《め》にもはっきり判る程鮮やかに、変わったのだ。
ふいに、高まる、異様な緊張感。
そして、それと同時に、木々がこちらを向いているようなあきらかな気配がし――そして。
まるっきりピアノの音のような、それも、妙にかん高い音が、彼らをとり囲む。それと同時に、どこからともなく、聞くともなく、彼らの頭の中に声が聞こえだした――。
☆
「結論から言おう。あの時、僕達が隕石だと思ったものは、宇宙船だったんだ。そして、その宇宙船に乗っていた木々は、当然のことながら宇宙人。彼らは、観光旅行で地球を訪れていて、この不幸な事故にあったのだ」
もう、黒田も、テープレコーダー係の男も、みじろぎをしない。ただただ、三沢の、余りといえば余りにとっ拍子もない話に、耳を傾けている。
「彼らの星では、進化したのは動物ではなく植物だった。――ああ、いや、もっと正確に言うならば、彼らの世界には、動物はいないのだ。移動能力を持った植物が進化し、知的生命体になった種――それが彼らだと思って欲しい。彼らは、ある程度の運動能力を持つ植物で、高い知能と技術、そして、ある種のESPを持っていた」
「ESP?」
「テレパシーの一種だと思ってくれてそう問題はないと思う。連中は細かい葉のようなものを持っていて、それで光合成をするのみならず、それを共振させることによって一種の言語のようなものを持つのだ。そしてその言葉は、それこそテレパシーのように、我々の脳に直接響く。それは、心で聞けば意味のある連中のメッセージなのだが――音だけで聞けば、さながらピアノのような音になるのだ」
「ピアノのような音――『グリーン・レクイエム』」
黒田、もう自分が喋っているという自覚もなく、ただ、思ったことを口にする。『グリーン・レクイエム』というのは、嶋村と会う前の明日香がよくピアノで弾いていた曲の名であり、同時に、古今東西のどんな曲でもない、彼女自身の作曲と思われた曲であり――そして、松崎の供述によれば、『帰りたい』という、彼女の母の想いを表現したピアノ曲である筈。その『グリーン・レクイエム』が、実は彼女の作曲でも、いや、曲ですらなく、ただ、彼女の母親の、『帰りたい』という想いをそのままうつしとったものであるならば……。
「『グリーン・レクイエム』。あれは、呪いの歌だ」
と。
そんな黒田の思いを知ってか知らずか、三沢、はきすてるようにこう言う。
「あれがなければ、明日香も、もうちょっとは自分の人生というものを歩めただろうに……」
☆
帰りたい。帰りたい。帰りたい。ここにいるのは嫌。ここは私のいるべき場所ではない。私がいるべきなのは私の故郷――木々が歌い、太陽は優しく、そして、風に自らの枝をゆらしながら、自分の幸せを噛み締める場所。
『グリーン・レクイエム』というのは、|畢竟《ひっきょう》、そんな歌にすぎないのだ。
不幸にして故郷を捨てざるを得なかった明日香の母が、生涯歌っていた、望郷の念を主調にした歌。
明日香は――この歌に、|拘《こう》|泥《でい》しすぎたのだ。
あるいは、それは、明日香の年齢によるものなのかも知れない。
明日香が、実の母と死にわかれた時、彼女はまだほんの子供だった。夢子や拓が、ある程度理性をそなえた少女や少年であったのとは違い、明日香は、まだ、ほんとうにほんの子供。
だから、明日香は、彼女の母が、生前ずっと、そして死ぬまで歌っていた想いを、何やら母の遺言めいた、特殊なものだと思ってしまったのかも知れない。
そして。
母の声とピアノという楽器の音が似ていると知ってからは(岡田善一郎と三沢良介による整形手術の為、明日香や夢子、拓たちと、その母達の発声器官は、まるで異なっていた。夢子達はかなり人間風に、人間の声帯にあたる部位で声を出すことが可能だったので、できるだけ人間のようにふるまうよう、喉から声を出すように|躾《しつけ》られていたが、母親達には、人間でいう喉の部位には声帯がない。故に、母親達の声は、彼女達の細かい葉が|醸《かも》し出す、地球でいう処のピアノの音のようなものでしかなかった)、明日香は好んでピアノを弾いた。それも、いまわの際の母の想い――『グリーン・レクイエム』のみを、好んで。
故に。
最後の瞬間、明日香は、どうしても『グリーン・レクイエム』という|呪《じゅ》|縛《ばく》から逃げることができなかった。嶋村信彦と、二人でどこまでも逃げることよりは、『帰りたい』という母親の想いの方を、最後の瞬間、明日香は選んでしまったのだ。
そういう意味では、確かに、『グリーン・レクイエム』は、呪いの歌である――。
☆
「希望は、叶うから、希望だ」
三沢は、こう言うと、ため息をついた。明日香達の母――つまりはエイリアン――の話を聞いていたつもりの黒田、瞬時、突然とんでしまった話についてゆけず、でも、何故か三沢の独白を邪魔する気になれず、ただ、三沢の口許を見つめる。
「が――叶わない希望は、それはすでに希望ではない。それは、妄執以外の何物でもない」
「と……言うと?」
「『グリーン・レクイエム』……明日香の母親達が、『帰りたい』と思った時、それは確かに希望だったのだと思う。が、明日香の代になって、それでも救援の船が来ない以上、もはやそれは、叶う望みのない夢になってしまったのではないか? だとしたら、その希望は、すでにして希望ではない。……いや、たとえ、その希望が叶ったとしても、それはすでに『希望』ではないんだ」
「……と……いうのは……」
「帰れないんだ」
三沢の瞳は、いつの間にかまた、酒に酔ったような茫洋たるものになってしまい、もう、黒田がそこにいることすら、眼中にないように見受けられる。
「明日香の母親達は、確かにエイリアンだった。彼女達は、確かに故郷へ帰りたかったろう。だが――明日香達は、帰れないんだ。明日香は、そして、夢子は、拓は、地球に適応できるよう、整形手術をうけてしまった。故に、今更迎えの船がきたって、彼女達は帰る訳にはいかないんだ。地球に適応できるよう形を変えてしまった彼女達は、今度は逆に、故郷の星には適応できないようになってしまっている筈なんだ!」
「……それは……悲劇だな」
しばらくの沈黙のあと。ゆっくりと一回目を閉じた黒田、ゆっくりとこんな台詞を舌からおしだす。
「そうさ、悲劇だ。……あの子達は――特に明日香は――死ぬまでずっと思っていただろう。『帰りたい』って。だが、あの子達の体は、すでに帰ることができないものなんだ。にもかかわらず、あの子達のあまりに強い『帰りたい』っていう欲求は、あの子達が平穏にこの地球で一生を終えることを許してくれないだろう。その上、君達のような連中は、あの子達が地球産の生物でないというだけで、生涯あの子達を追い回すだろう。……あの子達に、安住の地はないんだよ」
「いやだが……その……もし、地球以外にも、知性を持つエイリアンがいるならば、地球人類としてそういう人達とコンタクトを持ちたいというのは当然のことじゃないか」
「あの子達が外交使節なら、当然のことだろうな。だが、あの子達は、そんなもんじゃない。ただ、この星に流れついてしまった、可哀想な事故の犠牲者の|末《まつ》|裔《えい》なんだ」
「だが、正式な外交使節がない以上、地球側の意向としては」
「そんなことは判っている! あんた達があんた達なりの正義をもってこの件に|臨《のぞ》んでいるんだってことは、よく知ってるさ。だから、僕は言ってるんだ! 夢子を何とか捕捉してくれって!」
「……それは……」
「いいか、判ってくれよ。まず、あの子達は、外交官でも何でもない、ただ、不運にしてこの惑星に漂着してしまった人達の|裔《すえ》だ。『帰りたい』っていう呪縛は持っていても、実際に母星へ帰ることができない、いわば奇形の種だ。そして、明日香は、あんた達の手に、おちた」
黒田は、この三沢の台詞に対して、何といっていいのか判らず――沈黙が、続く。そして、それを破るように。
「あの子達にとって、この星の住民は、みな地獄の生き物なんだ」
三沢、|諄々《じゅんじゅん》と、説いてきかせるように言葉を続ける。
「草食動物がいない星で進化した植物にとって、草食動物がどんなにおそろしい鬼に見えるか、そして、その草食動物を捕食する肉食動物がいる世界がどれ程の地獄に見えるか、想像してみることくらいできるだろ? あの子達にとって、地球はそういう、まさに地獄の星なんだ」
「……それは……想像できるような……気がする……」
「明日香は、いい。明日香は、あんた達に捕捉されたし……すでに死んでいる。拓も、また、いい。拓の性格は大体判っているつもりだが――彼は、理性でこの星のあり方を理解している。私達人間が――草食も、肉食もする生物が、別に悪意があってそういうことをしている訳ではない、いわば、生物としての必然として、どうしても植物や動物を食べざるを得ないんだということを、拓は、理解している。が……夢子は、夢子だけは、困るんだ」
「……というと?」
「彼女は、一番年上で、一番エイリアン達に近い思考をしている。彼女は――彼女だけは、どうしても、他の生き物を殺して喰うのが生理的必然性によるものだという事実を、感覚的に、理解できないんだ。彼女だけは、感覚的、生理的に、他の生き物を喰う人間っていう生物を、理性ある生き物として認識できないんだ。……それに、彼女は……明日香の母親に、明日香のことを直接たのまれている」
「……?」
「明日香の母親――つまり、最後のエイリアンは、望が――明日香の弟が生まれた時からずっと、夢子に彼等のことを頼んできたんだ。当時明日香はまだ、ほんの幼児だったし、拓だってまだ子供だった。故に、明日香の母親は、明日香のことを、望のことを、将来的には夢子に託したんだ。そして、夢子は、それを引き受けた」
「……?」
「夢子は、明日香と望を守るって、明日香の母親に確約したんだ! ……あのエイリアン達の社会において、口約束っていうのは、絶対の証文だ。地球とは、道徳がそもそも違うんだ。そして、夢子は、そういうエイリアン達の文化をひく、最後のものだ。なのに、彼女は望を守ることができなかった。明日香もまた、守ることができなかった。……答えは、一つだろ?」
「……と……言うと……」
「判らないのか? 答えは、一つだ。夢子は、明日香を、望を守るって、どんな契約よりはっきりと、明日香の母親に約束した。夢子は、明日香や拓と違い、地球の生物相を地獄のものだと真実思っている。夢子にとって、地球の動植物のあり方は、宗教的な地獄以外の何物でもない。そして……こんな状況下で、望は、明日香は、人類によって殺されたんだ。とすると、この後、夢子のすることはたったの一つしかないじゃないか」
「たった……一つって……そんな……」
「そう。人類、全体に対する、復讐だ。そして――夢子は、必ず、それをするだろうよ。夢子には、それをする為の手段があるんだし」
「…………」
「夢子には、手段があるんだよ。すべての植物は、夢子のテレパシーに感応する。そして、夢子のテレパシーに応じた植物は、すべて、弱いテレパシーを持つようになるんだ。しかも、その能力には、伝染性があるのだ。もし、もし、すべての植物が、人間だの動物に対して、憎しみを抱いていたら――もっとも、植物が人間だの動物だのに対して憎しみを抱いていないって思える方がどっちかっていうとおかしいと思うけどな――それってかなり恐ろしい結果を引き起こすことになるんじゃないかな」
それってかなり恐ろしい結果を引き起こすことになるんじゃないかな――恐ろしい結果を――あまりにも、あまりにも、恐ろしい結果を!
4
……好き……嫌い……好き……。
花占い。昔、どこかの本で読んだ。
好きか嫌いか、ある人の心をかけて、花弁をむしってゆく占い。
……嫌い……好き……でも、嫌い。
あたし達にとっての植物と、人間にとっての植物はその意味が違う。故に、人間にとって花びらは、単に奇麗なものの象徴で、そしてそれをむしってゆく花占いは、ある意味でロマンティックな占いなのかも知れない。
時々は、そう思いもした。でも、花占いなんて、あたしにはどうしても許容できない。ある人が、あたしのことを好きであるのか嫌いであるのか、それを知る為に、一体どんな人間が、『人体占い』なんてできるんだろう? 人の手足をもいでいって、人の体をさいていって、それで占いができる程、暴虐な人間がいるとは思いたくもないし――もし、そんな人がいたなら、それは人間ではなくて、何か|異形《いぎょう》の化物だと思う。人間の為にも、そう思いたい。
……好き……嫌い……やっぱり好き……?
でも、人間は、おそらくは信彦さんも、極めてロマンティックに、いともロマンティックに、花占いをするだろう。
……嫌い、嫌い、そんなの嫌!
あたしはそう思う。あたしの理性は、そういう、人間でしかない、植物を一段下のものとして見下した、ううん、植物をそもそも生き物だとはあんまり思っていない信彦さんを、否定する。そんなの、まっとうな生き物じゃないと思う。
でも。
それは、教育の違いなんだよね。
信彦さんにとって、植物って、意志や感情があるものじゃないんだよね。
信彦さんがそう思ってしまったって、ある意味で、それってしょうがないことなんだよね。
それが判っているから。
だから、あたしは、たとえ信彦さんが植物に何をしようと、植物のことをどう思っていても、それが理由で信彦さんのことを恨むことができない。
――ううん。
そもそも、あたしは。
たとえ、信彦さんがどんな人間であっても、彼を愛したが故に、彼を恨むことができない。
だから、あたしは、こうしているだけ。こうして、たとえ思いは|千《ち》|々《ぢ》に乱れても、好き、嫌い、やっぱり好き、その答えが自分でも結局よく判らなくても、ただ、信彦さんを、あの人のことを思っているだけ――。
こうして……ただ、ここにいて……。
ねえ、でも!
でも!
でも、ねえ! ねえったら!
返事は期待できない。ううん、そもそも返事があったらこっちが逆に驚くだろう、ただ、心の中でだけあげる想い。心の中でだけ、あげる想いの叫び。
ねえ、でも! でも、ねえ、あたしではないもの!
何かは判らない、そもそもそんなものがあるのかどうかすら判らない、でも、確かにこのあいだ、その存在を感じた、あたしではないもの!
ほんとにあなたはあたしがただこうしていれば、あたしが、この世の中にはあたし以外にあたしでないものがいるってことを知り、そしてそれを受け入れれば――ほんとにあなたは信彦さんを護ってくれるの? ねえ、それは、ほんとなの? ううん、ほんとも嘘もない、あたしがそう思ってしまったのは、何かの幻じゃないんでしょうね。
悩乱。惑乱。
そんな単語が心の中を|過《よぎ》る。
世の中には、あたしと、あたしではないものがいる。
落ち着いて考えてみれば、そんなことって常識っていうか、自明の理の筈。何もわざわざ自分がこんなになってまで――あたしが死んで、死んだあと、ただ信彦さんのことだけが心配で、その為に漂う幻みたいなものになってまで――思わなきゃいけないことじゃないと思う。まして、そんな自明の理が判ったからって、何故か、この世の中のあたしではないものがあたしを受け入れてくれたような気がしたからって、それで信彦さんが安全になるなんて理屈は、通ってないし、そもそも理屈でも何でもないじゃない。
けれど。
でも、あたしはそう思ってしまったのだ。ま、今となっては、確かに他にとる術もないのだけれど――あたしはその、『あたしではないもの』を頼る気持ちになってしまった。だから、お願い。だから、お願い、この、あたしの気持ちを裏切らないで。確かにとっても勝手な思い込みかも知れない、ううん、勝手な思い込み以外の何物でもないって自分でも思う、でも、どうかこの勝手な思い込みを叶えて欲しい。
どうか――どうか――もう、あたしには、祈ることしかできないのだから。
そして。
後半の想いは、ただあてもなく、中空に|迸《ほとばし》り、どことも知れぬ空の下を駆けてゆく――。
☆
あたしはここにいるのよ!
ここにいるのはあたしなのに!
いつとは知れぬ、どことは知れぬ、山奥にて。
そんな想いが、あっちこっちに|弾《はじ》けて――そして、ただ、山にある木々に、吸収されてゆく。
あたしはここにいるのよ!
夢子は――その想いの主は――ただ、これだけを念ずると、ばさっと左手で前髪を払った。
判らないの? ここにいるのは、あたしなのよ!
夢子の想いは、彼女が想いを告げたい相手には、どうやらまるで届かないらしく、むなしく、あたりの木々に|谺《こだま》して――そして、山の木立の静寂の中に吸い込まれてゆく。そんな中で、彼女の髪だけが、いたずらに、まるでメデューサの髪、意志を持った蛇のように、のたうちまわる。
「判らないの! ここにいるのは、あたしなのよ!」
もう、何回目になるんだろう、夢子のこんな叫びは、また|虚《むな》しく宙に消え――。
「あなた! クスノキ!」
耐えがたかったのか、夢子、叫ぶのをやめて、ひたっとそこにあるクスノキを睨む。
「あなたはクスノキよ! その、あなたに、あたしが言うわ! あなた、クスノキ! あなた、聞こえているんでしょう? あたしの言うことをきいて!」
だが。
何故か|嫋々《じょうじょう》として、そのクスノキは夢子に逆らい、風もないのに夢子がいるのとは逆の方向に、その葉を|靡《なび》かせる。
「クスノキ! ……あなた……」
夢子、しばらくの間、ただだまってそのクスノキを見つめ――さかだった夢子の髪が重力に従いばさっと下へ落ち――やがて。
「どうして」
夢子の頬には、すでに涙の跡が刻まれていた。
「どうしてなの? どうしてあなたが――ううん、この星の植物が、あたしに対してそんなかたくなな態度をとるの?」
その答えとして、ざざっと、風もないのにクスノキの葉がゆれる。
「あなたには判らないの? あたしは、あなたの敵じゃない。……そりゃ、あたしの願いはあなたに直接の利益があるとは言い難いかも知れないけれど……でも、あたしは、あなたの敵じゃないわ。なのに、どうして、あなたはあたしにこうも冷たいの」
クスノキは、ただ、困ったように葉をゆらすだけ。
「あたしはたった一つのことがしたい。……昔、この星に漂流してしまった両親がしたかったであろうこと、母星への連絡を。そして、その為に、クスノキ、あなた達の力を借りたい。……あなたは、どうして、あたしにその力ぞえをしてくれないの」
クスノキは――ただ、そこに、いるだけ。
「あたしには、あなた達に報いる|術《すべ》があるわ。あなた達に報いる術――人間をはじめとした他のすべての動物を、あなた達、植物が、充分困らせることができる術が。あたしは、もし、あなたがいいとさえ言えば、あなたがその術を欲しいとさえ言えば、どんな動物にだってあなた達植物が負けないよう、加勢する術がある」
けれど、クスノキは、ただ、ゆれるだけ――。
「なのにあなたは――なのにあなたは、何でそんなにこのあたしに冷たいのよ!」
クスノキは、ただ揺れ……ただ、揺れ……そして……。
『会って、下さい』
風のまにまに、そんな言葉だけが、放り出されたように中空で揺れる。
「どうして? ねえ、どうしてよ?」
夢子は、どうやらそのクスノキの言葉に気がつかなかったらしく、ひたすら、もの狂おしく、クスノキにしがみついては泣きじゃくる。
「ねえ、教えて? あたしの、どこがいけなかったの? どこがいけないの」
軽くクスノキの樹皮を|拳《こぶし》でたたいたりもする。
「昔、あなた達はあたしに優しかった。そりゃ、クスノキ、あなたはあたしに会うのはこれが初めてでしょうよ、昔あたしに優しかった覚えなんて、あなたにはないかも知れない。……でも、あなたに限らず、昔、すべての樹木は、すべての植物は、あたしに対して優しかったのよ。あたしの言うことをきいてくれたのよ。……なのに……お願いをきいて欲しいとは言わない、そりゃ、言いたいけど言わない、せめて、せめてあなた、あたしに口をきいて」
クスノキの葉は、また、揺れる。
「ねえ、どうして? どうして何も言ってくれないの! あたしの言っていることって、そんなに無茶?」
と。
泣きじゃくる、夢子の足許で。堪りかねたかのように、下生えの草達が、その身をよじる。
「泣かないで――泣かないでください」
するすると、足許をくすぐる、イタドリ。心配そうに|仰《あお》|向《む》くムラサキツユクサの花。そして、どこからともなく、伸びてくる、何かの草の|蔓《つる》。
「泣かないで――どうか、泣かないで」
「あなた達――おまえ達」
夢子、クスノキから意識を放して、しゃがみこむと下生えの草を抱きかかえようとする。
「イタドリ、ツユクサ、ドクダミに……ああ、おまえはシダの親戚ね」
「泣かないで」
「泣かないでください」
「あなたが泣くと私も哀しい」
どの意識がどの草のものだか、すでに判然としない、|渾《こん》|然《ぜん》一体となった、混じりあった意識の中で――どの草も、何故かしら哀しそうな|声《こわ》|音《ね》でしゃべる。
「だって……ねえ、あなた達。あたしは何がいけなかったの」
しゃがみこんだまま、そして、下生えを抱きかかえたまま、夢子、ただただこう言い続ける。
「あたしは何がいけなかったの」
「何もいけなくなんかは……」
「いけないことなんかは……」
夢子の手が抱えた下生え達、そして、遠くの方でかやつり草の一群れまでが、こう言うと身を震わせる。
「じゃ、何で、クスノキはあたしの言うことをきいてくれないの! あたしの言うことって、そんなに無茶? 植物が人類に――そして動物に復讐するって、そんなに無茶? そして、いけないことなの?」
いけなくなんかない。当然のことだ。
夢子にしてみれば、下生え達から、何とかそういう言葉をひきずりだしたかったのだけれど――何故か、下生え達、この夢子の|台詞《せりふ》には、無言で答える。そして、それから。
「会って下さい」
不思議にも、それは、さっきクスノキが言ったのと同じ台詞。
「会う? 誰に?」
と、今度は夢子、下生え達の台詞が聞こえたようで、こう反問する。
『会って、下さい』
のと、同時に。
さっきからその存在を無視されたようになっていた|恰《かっ》|好《こう》のクスノキ、再び、こう言う。今度こそはこの台詞、夢子の耳にも届いたようだ。
「会って、下さい。……それからあとのことは、それからあとのこと」
「……?」
「会って、下さい」
今や、クスノキも、下生えも、そしてその他のこの辺にある樹木すべてが、同じ台詞を口にしていた。
「会って、下さい」
「……?」
『私は――あなたが――好きだ』
と。
クスノキの葉が、また、あり得ない方向へと揺れ――同時に、こんな言葉が、流れてくる。
『私は、あなたが好きだ。だから、あなたが哀しんでいると、私も哀しい。……いや、あなた以外の誰でも、とにかく、私は、私ではないものが好きだ。私は、私ではないものが哀しんでいるのを見たくない』
「……?」
『それが私の|業《ごう》なのです。私は――いや、私に限らず、ある程度の年を生きてきた植物は、みんなしょっている、業。私は――私達は、私、そして私達ではないものが好きだ。愛している。彼らの望みを叶えずにはいられない』
「そ……れは……どういう……」
「私達は……植物は……昔から……たった一つのことを、たった一つのことだけを、判って欲しいと思っていました。……私達は、あなた達が好きだ。ただ、この、一つのことを」
この声は、ムラサキツユクサのものなのだろうか。ただ、これだけ言うと、黙ってしまう。
「……どういうこと? それって何の意味なの?」
『言葉どおりの意味です、あなた』
あなた。おそらくは、夢子に対してそう呼び掛けたのであろう、クスノキの『あなた』という単語は、何故か、とっても甘く響く。
『私はあなたに会ったことがない。でも、あなたの言うことは判ります。……昔、あなたに会った、あなたとしゃべった植物達は、確かにみんなあなたに優しかったでしょう。あなたの為に、何かと尽力をしてくれたでしょう。……でも、あなたは誤解している』
「クスノキ……? ね、クスノキ、判らないわ、あたし、あなたが何を言っているのか」
夢子、慌てて、でも、下生え達を決して傷つけないよう、用心しつつ、立ち上がる。勢いよく顔を仰向ける。その夢子の行動からちょっと遅れて、腰のあたりまである夢子の髪がぶるんと揺れる。
『あなたは、私達植物に対して、確かに何かしらの吸引力を持っている。あなたは――どうしても、人間にしか見えないけれど、でも、確かに私達の類縁だ。そう思わせる、そう確信させる、何かは判らないものを、確かにあなたは持っている』
クスノキの葉がまた揺れ、クスノキは、ゆっくりと、こんな台詞をつむぎだす。夢子、途中でそのクスノキの台詞をひったくって。
「思わせるんじゃないの! 確かにあたしは人間にしか見えないかも知れないけれど、でも、人間なんかじゃないのよ! 判ってよ、クスノキ! あたしは、人間じゃないのよ! この星の生物でいうなら、人間なんかよりずっとあなた達に近しいもの、確かにあなた達の類縁なのよ! もし、あたしに植物に対する何かしらの吸引力があるのなら、それって間違いなく、誤解じゃなくて真実なのよ。真実あたしはあなた達の――植物の、類縁なのよ!」
『……だから、あなたは誤解している。……昔、あなたのまわりの植物が、あなたに優しかったとしたら――いえ、間違いなく、それは優しかったでしょう、でも、それは、あなたが私達の、植物の類縁だからじゃないんです。私達は、誰に対しても、優しいんです』
「……クスノキ……?」
『私達は、誰に対しても優しいのです。誰のことも、私達は愛している……』
「クスノキ……ね、クスノキ?」
クスノキは、ただ、そこに立っているだけ。そのクスノキの前で、夢子、半ば気が違ったように、荒々しくクスノキにしがみつき、夢子にしてみればこちらこそ気が違ったとしか思えないクスノキを正気へ戻そうとする。
「ね、クスノキ、あなた一体どうしたの? どうしちゃったの? あなた、何を言ってるの?」
『……会って……下さい。私は、最初から、それしか言えない』
「クスノキ? クスノキ?」
『あなたに植物達が優しかったのは、決してあなたが植物の類縁だからじゃないんです。もっと大きな業として――私達植物は、優しいんです』
「業って……ねえ、優しいのが業なの?」
『業です。私は、私を殺すものにだって、優しくせずにはいられない。何故なら、私を殺すものは、とりもなおさず私ではないもので――私は、私達は、私ではないものに対して限り無い優しさをよせることしかできない。私ではないものは、私ではないが故に、いとおしいものなんです』
「クスノキ? あなたが何を言っているのか、あたしにはどうしても判らない」
『だから、会って、下さい。私には、それしか、言えない』
「クスノキ? クスノキ!」
が。クスノキは、これだけ言うと、すっかり沈黙の殻の中へと閉じ籠もってしまう。とり残された夢子は、しばらくの間、もう何も言おうとしないクスノキの樹皮を抱えていたが、やがて、クスノキのことは諦めたのか、しゃがみこむと、下生え達を相手にする。
「ツユクサ。イタドリ。……ねえ! クスノキは、何が言いたかったの? 何を言おうとしたの?」
「会って下さい」
と。下生え達の間からもれたのは、最前のクスノキとまったく同じ台詞。
「会うって誰に! そして、何で!」
「私達は、私達でないものが好きです」
「私達は、私ではないものを愛するようにできているんです」
「すべての植物は、自分でないものを愛してます」
期せずして、夢子の問いに、何種類もの草が同時に答えたけれど――その答えは、たった一つ。
「だから、会って下さい」
「だから会うって、その『だから』がどこから続くのか、あたしには判らないわよ! あなた達植物が、自分じゃないものを愛しているっていうなら、それはそれでいいでしょうよ! でも、だから会ってくれって、その『だから』はどこから続くのよ! そして、会ってくれっていう相手は誰なのよ!」
夢子、ここでもまたこんな下生え達の抵抗に会うとは思っていなかったらしく、語気も荒く、こう言い|募《つの》る。と。
「私達の、主に」
「植物の、主に」
「世界樹に」
「この世の最初からいた、樹木の人に」
下生え達の、表現こそまちまちであったものの――どうやら、指し示す処は、同じらしい。
「世界樹……植物の、主……?」
夢子にとって、どうやらそんな存在の話は初めてらしく、ただ、|茫《ぼう》|然《ぜん》とその言葉を繰り返す。
「はい。世界樹に、会ってください。世界樹なら、この業のことも含めて、あなたがこの先どうすればいいのか、すべて判っていると思います」
「だって、あの人は世界樹なんですもの。すべて判っていると思います」
「私達が何でこんなにも私ではないものを愛しているのか、それについても、世界樹なら、その理由もその結果も、知っている筈です」
「じゃ――で――その世界樹は? その世界樹は、どこにいるの?」
だが。
夢子のこの質問に対しては、どの下生えも、また、クスノキも、どうしても明快な答えを与えることができなかった。とにかく、会って下さい。それだけが、彼らの望みで――会うべき相手がどこにいるどんな存在なのか、いや、そもそも、会うべき相手が、どこかにいる実在の存在なのか架空の存在なのか、それすら判然とはしなかったのだ――。
☆
……これが……そうなんだろうか。
とにかく、大きな、杉。
幹の直径はいったいどのくらいあるんだろう、その幹の中に、何十畳、いや、ことによっては百畳もの広さの部屋を、すっぽり包んでしまうことができそうな太さ。正面から見ると、そのあまりの太さ故に、逆にその木はちょっと木には見えなかった。木造の――何か異形の生物が作り上げた、巨大なオブジェのようにしかみえない。
太さの割に、高さは余りない。それはこの島が台風の直撃を受けるという地理的な条件下にあるせいかも知れないが――が、『余りない』とは言っても、やっぱりその杉の高さは、一植物、杉として見れば、驚異的としか表現できない。
|屋《や》|久《く》杉は、年輪の幅が非常に密な筈だ。
その杉の前に立ち尽くし、しばらくの間、拓、杉に声をかけることもできずに、ただ何となくそんなことを考える。
非常に密な年輪がつみかさなって、ここまで巨大な木に成長したということは……。
「……ああ、それでか」
いつの間にか、拓の思い、そのまま自然に口から言葉として出ていってしまう。
「それで、あなたには、不思議な威厳があるんですね。あなたに威厳があるのは、その余りの太さ故でも巨大さ故でもない、時間故なんだ。あなたの体の中には、あなたが過ごしてきた時間が――他の生物には、想像もできない程の時間がつまっていて、だからあなたは畏敬されるべき生き物なんですね……」
それから拓、その杉の根元からはじめて、仰向きになった首が痛くなるまで、ゆっくりゆっくり視線を上げる。その杉は、拓の視線が及ぶ範囲を越えてもまだすっと空へと伸びている。
「……来てよかった。きっと、あなたがそうなんだ」
拓、視線をおろすと自分の両のてのひらを見、それからゆっくりと、そのてのひらを杉の木の方へ差し出す。そのてのひらは、その木の直前まですっと伸び――そこで、しばらく|躊躇《ちゅうちょ》したように|竦《すく》む。二、三度拓の腕は震え、ぴんと揃えて伸ばしてあった指は、わずかに内側に折れ曲がる。でも、そのあとで。再びぴんと伸ばされた指は、意を決したように、そっと、その杉の幹に触れてゆく。
「……ああ」
目を|瞑《つぶ》って、どうやらてのひらにだけ意識を集中していたらしい拓、指が杉に触れた瞬間びくっとし――それから、てのひらを、ぴったり杉の幹に密着させる。節くれだった、遠目から見ても平坦だとは言い難い杉の幹の上を、密着した拓のてのひらが|撫《な》ぜる。
「……やっぱり、そうだ。あなたが、世界樹なんでしょう?」
杉の木は、何の反応も示さない。でも、拓、臆することなく、その質問を続ける。
「ねえ、教えて下さい。あなたが、世界樹なんでしょう? ……私は、あっちこっちの樹木の間を旅してきました。いろいろな木に、いろいろな草に聞いてきました。私には、お願いしたいことがあって。どの木も、どの草も、みんな私に優しくこたえてくれました。でも、ある程度より大きな問題は、個々の木々がどうにかできるってものじゃないらしく――それに、私にしても、全世界のすべての植物に個別にお願いをしてまわる訳にもいかない。と――どこでも、どの植物にも、最後にはこう言われるんです。『世界樹に会いなさい』と。世界樹こそは、すべての植物の王、この世の初めからいる植物の中の植物だからって。……隠さないで下さい。隠したって、僕には――いえ、私には判る。……あなたが……そうなんでしょう?」
杉の木は、やはり何の反応も示さない。ただ――杉の木の奥で、何かがゆらりと揺れた気配。
「初めのうちは、世界樹が誰だかまるで判らなかった。植物達も、そういう木がいるということは知っていても、誰もどの木が世界樹だかは知らないんです。ただ、この世に、そういう木がいるってことしか知らない。まして、その木が、日本にあるとは限らない。けれど、私は、日本を出国することができないんですよ。……あせりました。どうしようかと悩みました。ただ、唯一の救いと言えば、夢子も日本からは出国できないだろうということだけで……ああ、これは、あなたには判らない話ですね。とにかく僕は、世界樹を捜して、あるいは世界樹に関する情報を求めて、日本中の原生林を訪ね歩こうと思ったんですよ」
拓――以前、夢子と訣別した時の、そしてその前、明日香が生きていた頃の拓は、もう、ここにはいない。ここにいるのは、げっそりとほおがこけ、元々痩せてはいたものの、今はもう骨にわずかばかりの肉がこびりついているという惨状の、ほとんど拓の残骸とでも言うべき男。それに、何より違うのは、目。明日香が生きていた頃、夢子と一緒にいた頃の、どちらかというと優しい、場合によっては優柔不断ととられてしまいそうな程優しい色をした拓の目は、もうあとかたもなく――ただぎらぎらと、思い詰めたような目の色が印象的だ。
「この島のことを――縄文杉がある、屋久島という島のことを思い出したのは、木曾を歩きまわっている時でした。樹齢何千年という木があるのなら、その木は、まだ、他の木に比べて世界樹のことを知っているのではないか、あるいはその木こそ、世界樹なのかも知れない。そんな期待を持って、僕はここへやってきたんです」
目をつむったまま、ただただ一人言のようにしゃべり続ける拓。と、今の台詞で拓の感情が揺れたのか、拓の、長い、束ねていない髪も、かすかに揺れる。見ると、一体何日人里に下りていないのだか、拓の黒髪の頭頂部分は、すべて、染めていない、見事な深緑色になっていた。
「縄文杉に会って、あの人から、自分は世界樹ではないと聞いた時の落胆は、だから、ちょっと筆舌には尽くしがたいものがありました。縄文杉より年をとった木はおそらく日本にはないだろうし、その縄文杉が違うなら、世界樹は日本にはいないってことになりそうでしたから」
拓、ここで息つぎをすると、てのひらに、更に思いを込める。と――何かは判らない、が、確かに何かの気配が、杉の木の中で動く。
「だから……縄文杉からあなたのことを聞いた時は、そりゃ、嬉しかったんです。日本に――それも、同じ、屋久島の中に、あなたがいるだなんて。……ああ、縄文杉は、確かにあなたのことをよく知っている訳じゃ、ないみたいですね。ま、考えてみれば、植物は移動ができないんですから、それも無理のない話なのかも知れませんが。ただ、彼は、同じこの島の中に、自分よりあきらかに年上の杉がいる筈だ、そして、その杉の許には、普通の人間は決して行くことができない。何故かというと、すべての植物は、人間がその杉の許へ行くことを好まず、必ずその人間の針路を惑わせてしまうからだ。であるが故に、その杉が世界樹なのではないかと、心中密かに思っているってことを話してくれたんです。その話を聞いた瞬間から、僕は思っていました。その……あなたは、多分、世界樹だろうって。今、こうしてあなたに会って……僕の確信は、より深くなったんです」
拓のてのひらから。その時、確かに、妙な感覚が伝わってきたのだ。妙な――何だかとりとめもないような、優しいような、とまどっているかのような、不思議な感覚。そして、それと同時に。
「人間よ」
ふいに、拓の心の中に、こんな声が響き渡る。
「世界樹? あなたですか?」
「いや、違う。私は、ヤマグルマ。主と一緒に、随分と長い間生きてきた、ヤマグルマ」
ヤマグルマ。それは確か、ある意味での杉の寄生植物の筈。杉の木と共に生え、場合によってはしばしば、その宿主たる杉の木を日照の問題で殺してしまう樹木の筈。
「ヤマグルマ? あなたが? どこに?」
「私の姿は、もうここにはない。私が主に寄生していたのは、随分前の話だ。今の私は、もうせんに枯死してしまった。ここにいるのは、私の心のみ」
「じゃ、あなたは、ヤマグルマの」
幽霊。
拓、慌ててそんな台詞を飲み込む。と、ヤマグルマ、笑って。
「幽霊でよいよ。我々の間には、人間のような、幽霊への|禁《きん》|忌《き》はないのだから。……いや、我々にとって、その生き物が死んだあとも、その想いだけが残るのは、いわば自明のことだからな」
「で……では、あの、ヤマグルマの幽霊、あなたは何を」
「ここまで無事に来たことを考えるに、おまえは普通の人間ではないのだろうと思う。ここは、普通の人間には入れない結界。おまえがここにいるということは、とりもなおさず、おまえが植物達に受け入れられているものだということだろうな」
「ええ、私は」
拓が、自分の髪を伸ばして見せようとする、その前に、ヤマグルマの幽霊、そんな拓を制するように。
「だが、おまえがどんな人間であるかは、どうでもいいことなのだ。主の、眠りを妨げるな」
「……え?」
言われて、拓、初めて気がつく。そういえば、杉のこの反応、まるで深い眠りに陥っている人のようだった。
「どんな用件であれ、主の眠りを妨げてはいけない。……主は、もう、何百年も眠っている。このままでいれば、更に何百年も眠り続け、眠っている間は主は生き続けているだろう。……私は、主に、世話になった。私が生きてこられたのも、そもそも私が生まれることが可能だったのも、すべて、主のおかげだ。私の子供達が生きながらえられたのも、結局は、主のおかげだったと言える。つまり、私には主に対する、とてつもない恩がある訳だ」
「別に私は、あなたの御恩返しの邪魔をするつもりは……」
「なくとも、主を起こすであろう? 主のような年になると、起きることは、命を縮めることだ。故に私は、主の眠りを犯すものを認める訳にはいかない」
「起こすなって……でも、そんな! お願いです、ヤマグルマ。私にはどうしても世界樹に聞いてもらいたいことがある。それも、私の個人的な願いなんかじゃない、とっても重大な――全植物に関することなんです」
拓、どこにいるのか判らない、いや、そもそも、幽霊ならどこかにいるってものでもない、見えないヤマグルマの気配を捜し、あちこちに視線を向けながら、それでも、必死になってとりすがるような感じで台詞を続ける。
「生き物はしばしば、非常に重大な、それこそこの世界全体に関わるような問題に出喰わしたと主張することがある。が、それが、真に重大な問題である可能性は、非常に低い」
「ヤマグルマ! どうしてあなたがそんなことを言えるんです! 僕がお願いしたいのは本当に重要な、この先この星の植物達の生き方を決定するような問題で」
「……なあ、人間よ。私はおまえに意地悪をするつもりはないのだ。むしろ、私達植物は、すべて、自分ではないものに対してはでき得る限り優しくあろうと努めている。だから、これは決して意地悪で言っていることではないのだが――本当に、おまえの用件が、植物のこの先の生き方を決定してしまう程重大なものならば、余計せっかく眠っている主を起こすこともないのではないか?」
「何故? 何故、そんなことを言うんです!」
「この世には、真実重大な問題が発生した時、それを|捌《さば》いてくれる適任者が他にいるではないか? たとえ主がおまえの願いをきいたとしても、結局最後に物事がどうなるかは、その適任者の|双《そう》|肩《けん》にかかっている。だとしたら、何も主を起こす必要はあるまい」
「適任者? 誰なんです、それは」
「時、だよ。この世がどういう風に変わってゆくのか、いつの時代でも、それを決定するのは『時』だった。おまえの願い事が『時』の思惑にかなうなら、おまえの願い事はほうっておいても叶うだろう。おまえの願い事が『時』の思惑にかなわないなら、おまえが誰に何を頼んだ処で、それは所詮叶わぬことだ」
「そんな漠然としたそんな抽象的な! 僕の話というのは、そんな抽象論で片づけていいことじゃないんです!」
一瞬、その『適任者』の存在に期待を抱いた分だけ、拓はこのヤマグルマの台詞に|猛《たけ》り狂う。ヤマグルマにいいようにあしらわれたという屈辱感に心が燃える。
「僕の抱えている問題は――夢子が、世界樹を|唆《そそのか》そうとしているのは、この地球から、人間をはじめ、すべての動物を駆逐しよう、あるいはそこまではいかなくても、すべての動物を植物の支配下におこうってものなんですよ! 動物がいない、植物だけの天下。もう二度と、誰にも食べられたり摘みとられたり切られたりすることのない、植物の理想境。そんなもの……時の流れにまかせて、この世に作っていいものなんですか! 地球の生物のあり方を考えると、それはあきらかに不自然だ。……確かにこの星の植物は、不当に虐げられています。僕だって植物だ、それも、植物しか生息していない星から来た植物だ、だから、この星の植物のあり方には、同情もしますし、悲惨だとも思います。でも、だからって! だからって、地球はこういう星なんだ! その地球のあり方を変えるようなことをしていい筈が――あ」
あ。――あ!
しまった。
拓、心中で、|臍《ほぞ》をかむ思い。
しまった。こういう風に話を持ってゆくつもりではなかったのだ。もっとおだやかに話をすすめ、相手が一体どういうことを考えているのか探りながら、こっちの思いをゆるやかに伝えてゆこうと思っていたのだ。一瞬、ほんの一瞬憤激して――で、ついついこんなことをしゃべってしまったが、もし、世界樹が、動物のことをこころよく思っていないなら――そして、それは自明の理だと思われる――、今の喋り方は、あきらかに、|不《ふ》|穏《おん》|当《とう》。下手をすると――夢子がここにこなくても――、今の自分の台詞だけで、最悪の事態をひきおこしてしまいかねない。
「……すべての動物がいない世界。植物だけの、理想境」
拓が茫然としていると、こちらもまた、放心したように、ヤマグルマが呟く。
「いや、それは……それは、あきらかに、おかしいでしょう? ここまできた以上、言ってしまいますが、僕は、それをとめに来たんです。いずれ、夢子という女が――僕と同じで、形は人間だけれど植物の女が、ここへやってくる筈です。彼女の用件は、全世界の植物を使って地球規模の通信手段を作って欲しいということで、そのみかえりに、彼女はあなた達に教えるつもりなんです。人間に対して、動物に対して、反抗する手段を。植物だって、やる気になれば、動物を根だやしにすることができる、そのことを彼女は植物に教えることができるんです。けれど、それは、あきらかに不自然な話でしょう? 彼女も私も、所詮は地球の生き物ではない。この星がどんな地獄だとしても、それを|余所《よ そ》者がああだこうだ言うのはおかしいし、言うべきでもないんです」
最悪の場合には。
こういいながら、拓、心の中ではまったく別のことを考えていた。
最悪の――ヤマグルマなり、世界樹が、動物を根だやしにする方法に興味を持ち、それを実行しそうな素振りが見えた――場合には。夢子と接触をする前に、殺すしかないのかも知れない、この世界樹を。だが……だが、すでに死んでいるヤマグルマは、どうしたらいい? そしてまた、何の罪もない世界樹を、自分の都合だけで殺す、そんなことが許されていい訳はない。
最悪の場合には。世界樹を殺して、僕もここで死のう。この世界では、特に植物にとって、死んだ後も想いが残るのが普通なら、おそらくは僕の想いも世界樹の想いもヤマグルマのようにこの地に残るだろうし――そうしたら僕は、未来|永《えい》|劫《ごう》僕は、この地で世界樹に謝り続けよう。いつ、許してもらえるのか、果たして許してもらえるものなのかどうかも判らないけれど、でも、それしか僕にできることはない。
と、そんな間も。
もうすでに拓は、意識もしていなかったが、拓のてのひらは、ずっとその杉の木の幹に触れており――拓の感情が高揚するたびに、目には見えない、でも確かにそこに存在する、拓の意識のバイブレーションが、杉の木の幹に伝わっていたのだ。そして、拓も気づかないうちに、眠りほうけていたような杉の木の意識、徐々に、徐々に、表層レベルへと昇っており――つまりは、覚醒に近くなっており――そして。
「……動物がいない、植物だけの世界。それは……理想、だな」
一方、ヤマグルマの方も、拓の話があまりにとっ拍子もないものであったせいか、主たる杉の木から意識がはなれ、もっぱら拓の話へと、関心が集中していた。
「そんなことができるのだろうか。……ユメコとかいった、その、おまえと同じ、形は人間でも実は植物の女は、それができるのか?」
「……方法は、あります。いわば、彼女は――僕もですけど――病源体ですから」
と、こんな会話を交わしながらも。拓の意識、段々と、奈落の底へ落ちてゆく。どうやらヤマグルマは、動物を根だやしにする手段というものに興味を持ったらしく――これって、拓にとっては、注意信号。もしこのまま、ヤマグルマの興味が、もっぱらそっちへ向かうようなら……拓は、みずからの責任において、夢子と接触する前に、世界樹を始末しなければならない。
「病源体?」
「ええ。気づきませんでしたか? 僕は、ヤマグルマ、あなたと|流暢《りゅうちょう》に会話をしています。でも、人間には、植物と会話をする術は、ありません」
「…………」
ヤマグルマ、不思議なことに、拓のこの台詞に対して、何やら考え込んだようで返事をしない。
「僕は――夢子もそうですけれど――人間の言う処の、テレパシーってもので、植物と会話をしているらしいんです。で、僕と会話をした植物は、すべて、僕の持っているテレパシーを――いわゆる、人間が言う処の、超能力を――獲得できるらしいんですね。おまけに、それは、伝染するんです」
「……伝染?」
「ええ。僕が、ヤマグルマ、あなたとしゃべったとするでしょう。と、次にあなたが、あなたの近くにいる植物――ああ、あなたはもう死んでいて、実体ってものがないからこれは無理でしょうが――と接触したら。その接触した植物も、この能力を持つことになります。そして、伝染したこの能力は、会話の伝達――テレパシー――だけでなく、他の、いろいろな能力を、新たに植物にうえこむことができるらしいんですよ。例えば、サイコキネシスとか。……移動することができない植物が、サイコキネシス能力を手にいれたら、それってある意味で手を入手したのと同じ効果がありますよね。その上、この能力は伝染するんだし、人間は、植物に手があるだなんて思ってもいない。……この状態なら、植物は、充分、人間に、そして動物に、一矢むくいてやることができると思いませんか?」
「あ……ああ、確かに」
ヤマグルマは、何だか奥歯にものがはさまったような返事をする。でも、拓にとって、あきらかに人間や動物にとって好意的でないその返事は、いわば自分の死刑宣告に等しいようなものだった。
会話の持ってゆき方次第では、確かに、世界樹が自分の味方になってくれる可能性もあった。でも、会話の持ってゆき方に失敗した今、世界樹は、そして、ヤマグルマは、自分の敵でしか、ない。いつの日か、夢子と会ったヤマグルマは、人類を、そして動物を、この星から滅ぼそうとするだろう。だとしたら、芽は、なるべく小さいうちに|摘《つ》んでおかなければならない。
「だとすると……」
拓。初めて、杉から手をひいた。そして、杉と、自分との間を、目測する。そして。
「が――それは、夢だ」
「?」
杉に対して。この距離からどうやったら致命的な損傷を加えることができるだろうとはかっていた拓、このヤマグルマの台詞でその手をとめる。
「それは、夢だよ。叶えられない悪夢、叶えてはいけない悪夢だ。……ユメコといったっけ、その人に、言いなさい。それは、叶えることのできない夢だと」
「……ヤマグルマ……何故?」
ヤマグルマの反応からして、ヤマグルマが確実に夢子の提案にのると思っていた拓、逆にこの台詞を聞いて動転する。
「あなたは……あなたは、何故、そんなことを言うんです? あなたは――いや、植物はすべて、動物を、特に人間を、憎んでいると思っていたのに」
そして、動転した拓、本来の用向きから言うと、あきらかに矛盾した台詞を口にしてしまう。と、ヤマグルマ、そんな拓を笑って。
「おまえ、人間よ。おまえがそんなことを言っていいのか? おまえは、植物が動物を、そして人間を、根だやしにすることは間違っていると思っているのだろう? だとしたら、私が、『それは叶えてはいけない悪夢だ』と言ったら、それに異を唱えてはおかしいのではないか?」
「え……ええ。でも……」
確かにそうだ。ヤマグルマに言われ、拓、それに気づき――そして、そう言った時のヤマグルマの声音が、不思議と拓に好意的なものであったことにも気づき、半ば、ヤマグルマに甘えるようなつもりで、こう台詞を続ける。
「でも、こんなことを言うのはあきらかにおかしいし、僕としては、あなたがそう言ってくれたのなら、このまま引っ込むのが筋だとは判ってはいるんですが……でも、判らないんです。あなたは――あなた達植物は、動物が、人間が、憎くはないんですか? 彼らを根だやしにしたくはないんですか?」
「憎くはない。根だやしするつもりなぞ、ない」
ヤマグルマの声は、実におだやかで――そのおだやかさが、拓には、どうしても、感情的に理解できない。
「どうして? 何故?」
「……では、私が逆に聞こう。何故植物が動物を――特に人間を、憎んでいると、おまえは思うのだ?」
「それは……だって……今まで人間がやってきたことを考えただけでも、憎まれて当然だと思うからです。まず、動物は、植物を食べます。肉食で、直接植物を食べない動物だって、草食獣を食べて生きています。つまり、植物の犠牲の上に、動物は生きていると言えるんです。……人間だって、そうです。人間は、雑食だけれど――だから、勿論、植物を食べます。動物も、食べます。そしてその上……人間は、自分達の都合で、森林を好きなだけ切り|拓《ひら》き、何種類もの生物を絶滅においこみ、放射能等で汚染された地域を作り……」
「植物は――我々は、流星雨も、火山の噴火も、地震も、異常気象も、恨まない。何故、人間だけ、恨まなければいけないのだ?」
「でも、そういう自然現象と人類のやることでは、意味が違う! 人類は、ある意味でわざと、意図的にやってるんです!」
「そう。自然現象と、人類がやることとでは、意味が違う。我々にとって真実恐ろしいのは、自然の方だ。人類がどんなことをしようと、所詮、人類と自然とでは、破壊の|桁《けた》が違う。桁はずれに、人間なんぞより、自然の方が恐ろしいのだ。……それに、人間は、わざと我々を苦しめている訳ではないのだよ。我々は、確かに、人間の、人類の、愚かなふるまいにより傷ついている。が――それは、意図的に、人間が植物を傷つけようとしてやったことではなく――単に、人間が、愚かであるが故だ。……愚かな、|目《め》|下《した》の生物を、愚かであるが故に怒るというのは、まっとうな生物のするべきこととは思えない」
「そ……そんな、莫迦な! そんな、甘い!」
拓の、半ばは悲鳴とでも言うべき台詞、ヤマグルマの、次の台詞に、完全に吸収される。ヤマグルマの次の台詞――さながら、火を吐くような、激烈な台詞に。
「甘くなぞない!」
その、ヤマグルマの台詞が、あまりに強烈であったので。今、再び、拓のてのひらがはずれた、杉の木の幹で、何かがごそっと動いたのだが――それは、誰の意識にも上らずに終わった。
「我々植物は、そして、すべての生物は、この人間という一動物に、およそ史上|稀《まれ》な程の迷惑をかけられた。それを……その迷惑を、愚かな目下の生物が、愚かであるが故に犯した罪だと認識するのは、実に、実に、甘くないことだった! が……我々は、何とか、それを理解できたのだ……。人間は――ああ、これは、人間界の言葉では何と言ったらいいのかな――とにかく、とんでもない莫迦者だった。はた迷惑至極な存在、手あたり次第にあたりのものをみな壊してしまう幼児、破壊の|権《ごん》|化《げ》のような存在。そう、そういったものだったのだよ、人間という存在は。そして……だが――それだけだ。決して、人間は、選ばれたものでも、特殊な生き物でもない。生物が歩んできた歴史の中に、たまたま時々現れる、どうしようもない愚か者。……繰り返して聞くが、何故、植物のような|由《ゆい》|緒《しょ》ある種が、そんな愚か者を、憐れむならまだしも、憎まなければならない?」
「でも……実際、多くの植物は、人間の為に絶滅の危機に|瀕《ひん》したり……」
「人間は、すでに、それに気づいて、修正の方向を――植物と自分達が共存する方向を、何とかとろうと努力している」
「だからって! それでいいんですか?」
「よくはない。が……それが、人間の、限界だろう? ……愚かである者を、その愚かであるが故に責めても、何の益もない。大人は、子供が愚かであるが故に、どんな致命的な被害をうけても――最終的には、それを許さざるを得ないだろう? 子供の、愚かなふるまいを、本気で断罪できる大人はいないよ。それと、まったく同じことだ。我々は、人類の愚かさを、大人が子供のいたずらを許すように許さざるを得ないのだ。……それに、今、人類は、おそらくは本気で自然保護を考えている。二酸化炭素の量を問題にしなければいけない程工業化がすすみ、そしてそれを吸収してくれる植物がいなくなった時、初めて、植物がいかに必要なものであったか、判ったのだよ。……人類が、自然を保護するという。私としては、その言葉には、文句をつけたい。人類は――自然を保護したいのではないのだ。自然が今のままでいてくれないと、人類こそが困るから、だからそれを守りたいのだ。彼らが守りたいのは、自然ではなくて、結局、自分達にすぎないのだ。……言い替えよう。人類は、人類という動物は――自然のバランスについて、そこまで、無知で、莫迦なのだ。自分に|累《るい》がおよばなければ判らない程の無知、そして、まさに自分の為の行動を『自然保護』と言い切って恥じない程度の厚顔、それが、人類だ。……だとしたら、我々植物は、何故、彼らと同じ土俵にたたなくてはならない? ……少なくとも、私は、拒否する。私は、誰が何と言おうと、人類と同じ土俵にたつのは嫌だ。私以外にも、普通の植物はみな、こんな感想を抱いていると思う。……だから、我々は、人類を恨まない。ただ、憐れむだけだ。そもそも、土俵が違うのだから」
「……でも……精神的にどうであれ、今やもう、人類のもっている力は、植物を自由にすることができる程大きなもので……」
「おまえは本当にそう思うのかい? 本当に、人類が、植物を、好きなようにし得ると? もし、おまえが本気でそう思うなら、おまえも、どうしようもない、莫迦だ。……人類は、植物を、我々を、従属させたり根だやしにすることはできない。それは、不可能なのだ。彼らには、二酸化炭素を酸素に変換するシステムがない」
「じゃ、もし、連中がその手段を手にいれたら……そうしたら、あなた達は、どうするんです!」
「植物が役にたっているのは、二酸化炭素と酸素の割合だけじゃない。これは、一番例にしやすいものなのだ。その他にも、動物が、そして人間が、植物に頼っていることは種々あり……人間は、たとえいくら進歩しようとも、そのすべてを、科学力でカバーすることはできない」
『愛している』
と、ふいに。
何とか反論をしようとした拓の機先を制して、こんな声が、あたりに響き渡る。
『間違ってはいけない。愛して、いるのだ』
拓も。そして、ヤマグルマも。
その声に、びくっとして、次の台詞を飲み込んでしまう。
「だ……誰です、あなたは」
世界樹だ。
質問をする前から、拓には、判った。
この声。この響き。まわりのものすべてを|慈《いつく》しんでいるような、不思議に穏やかな、不思議に柔らかい声。この声こそが世界樹の声でなくて、一体何だというのだ? この声の主こそが、世界樹に違いない。
『ヤマグルマ。間違ってはいけない。おまえは……愛しているんだよ』
「主! 起きてはいけない! どうか、どうかおやすみになっていてください!」
ヤマグルマのあせったような声。その声が発せられた後で、さっきよりは随分理性的になった――つまりは、覚醒の状態に近くなった――世界樹の、声が響き渡る。
『もう遅い。私は――目覚めた。……今は、いつなんだろう? この間、私が目覚めたのは、確か、シドッチとかいうばてれんが評判になっていた時だと思うが……』
「シドッチ! ジョバンニ・バチスタ・シドッチ! そ、そりゃもう、三百年も前のことです」
屋久島の歴史を、ある程度は勉強してきた拓、驚きと共にこの台詞を吐き出す。ジョバンニ・バチスタ・シドッチは、宝永五年(一七〇八年)に、侍の真似をして屋久島に密航してきた宣教師だ。
『三百年……まだ、そんなものか。まだ、それしか時間は過ぎていないのか』
世界樹の台詞、どうやら、三百年っていう時間が、あんまり短かったので、むしろそれに驚いているようだ。
『三百年で……人間というものは、変わるものだな。おまえの服装……あの当時なら、ばてれんの妖術者と言われてもおかしくない』
「あ……この恰好ですか? ……あの、今は、ズボンをはいている男なんか珍しくないっていうか、いや、むしろ、ズボンをはいていない男の方が珍しいっていうか……いや、とにかく、そんなことはどうでもいいんです! ただ……ただ」
『ヤマグルマよ。私の眠りを|司《つかさど》っていた、ヤマグルマよ』
拓にとって幸いなことに。
拓の風体が異様なことを理解した後で、その杉の興味は、彼の眠りを護っていた筈のヤマグルマの方へとむいてしまった。
『おまえは、私が眠っている間、何をしていた?』
「何をって……主……」
ヤマグルマは、ただひたすら、困惑しているようだった。
『ヤマグルマよ。私は、おまえに、すべてを託した。おまえは、私の望みを、叶えているのか?』
「はい。……ええ、はい、主よ。できるだけ、私はそうしてきたつもりですが……」
『そうなのだろうか。……この若者からは……』
意図的に、だろうか、世界樹、単語をわざわざ区切って発音する。
『この若者からは……絶望と悲哀と自己犠牲のにおいがする。おまえは、この若者を、絶望させ、悲しませたのではないか?』
「……あ……はい……確かにそれは……でも、主、それは」
と。ヤマグルマの台詞、途端に歯切れが悪くなり――そして、その瞬間。
「主! あるいは、世界樹!」
拓は、もう見ていられなくなって、こんな声をあげたのだ。
世界樹が、ヤマグルマに、どんなことを望んでいたのか、それは知らない。でも……さっきまで、あんなに自信満々だったヤマグルマ、見様によっては尊大にさえ見えていたヤマグルマが、今はもう、見るかげもなくちぢこまってしまっている。世界樹の一言一言に脅えてさえいるように見える。それが、拓には、何だか、あってはならないことのような、たとえ相手が世界樹だとはいえ、そんなことを許しておいてはいけないような気がしたのだ。
「ヤマグルマを責めないで下さい! それは、してはいけないことだ!」
杉の木の声音の中には、明らかにヤマグルマを責めるような音が混じっていて――拓には、それが、何故かどうしても我慢できない。
「ヤマグルマは、あなたが眠っている間、できる限りのことをしていました! ……そりゃ、私は、ヤマグルマの平生を知らない、でも、そんな私にだって、判ることがある。ヤマグルマは、あなたの為に、あなたの為だけに、ずっと、生きてきたんです。あなたには……ずっと眠っていたあなたには、そんなヤマグルマを責める資格なんかない」
不思議なことに。
「おまえ……」
『おまえ……拓、と、言ったか?』
拓のこの台詞を聞くと、ヤマグルマと杉の木は、同じ反応を示した。
「おまえ……拓。どうして私のことをかばうのか?」
ヤマグルマは、拓の助勢が理解できないという声をだす。
『おまえ……拓。愛しているよ。私は、おまえが、私でないが故に……おまえのことが、好きだ』
杉の木は、目を細めてでもいるような声音で、こう、拓に声をかける。それから、杉の木、拓とヤマグルマに同じように暖かい視線を注いでいる気配。そして。
『……ヤマグルマよ。……悪かった』
しばらくの沈黙のあと、杉の木は、ふいに柔らかい声を出すと、ヤマグルマにこう言った。拓、この杉の木の台詞を聞いて、何だか|無《む》|闇《やみ》にほっとする。
『おまえは……よくやってくれていたのだな』
「そんな……主! そんなこと、ないんです」
『いや。この人間の――拓の反応を知って、ようやく私にも判った。……たとえ、拓が、どんな絶望や悲哀や自己犠牲を抱えていたとしても、それはおまえのせいではないのだな。……悪いことを言った』
「いえ、あの、いえ、その、そうではないんです! そうではないんですけれど……あの……」
ヤマグルマは――世界樹の反応、そして、自分をかばってくれた拓の反応のせいで、今の出来事をどう考えていいのか判らなくなっているらしい。ただただひたすら、意味があるようでないことを繰り返し……そして。
拓は、その杉の木と、しょうがなしに、ヤマグルマという媒介物なしで直面することになった。
「あの……世界樹」
拓、今やもう、とり乱して、何が何だか判らなくなっているようなヤマグルマのことはおいておいて、とりあえず、杉の木に、こう声をかける。
「今までのことを説明すると、ですね……」
『ああ。説明して欲しい』
杉の木の声は、あくまで、優しかった。が。
『だが、その名は、やめて欲しいな』
「……は?」
『私のことを、世界樹と呼ぶのは勘弁して欲しい。……それは、あきらかに、分不相応な呼名だ』
「じゃ? ……じゃ? あなたは、世界樹じゃない、と?」
『ああ。……そう呼ばれるものがあることは知っている。が、それは私のことではない――いや、そもそも植物のことですら、ないな』
「え……でも。でも」
拓、半ばすがるようにして、この台詞をつむぎだす。
「でも、あなた以外に、あなた程世界樹に近い木はいませんでした。それに……それに、ヤマグルマだって、半ばは、あなたが世界樹だって、認めていた筈」
『ヤマグルマは、私を世界樹だと思っているかも知れない。この土地の植物は、みなそうだと思っているのかも知れない。でも、本当はね、世界樹というのは、木ではないのだ。ある意味では、生物ですらない。世界樹というのは……“想い”なんだよ』
「……“想い”?」
『そう。はるか昔から、ずっとずっと、連綿と続く“想い”。“おまえが好きだ、私はおまえが私ではないが故に、たとえ何があってもおまえが好きだ”。そういう、すべての植物が――そして、思い出すことさえできれば、すべての生物が、他のすべての生物に対して抱いている“想い”。その“想い”を、植物達は、世界樹と呼ぶ。……もっとも、“想い”というのはあまりに抽象的なものだから、地域ごとにその“想い”の象徴となる樹木が存在していることも、事実だがね。そして、そういう意味では、確かに私は世界樹の一部ではある。……が……どうか、杉とでも何とでも、他の呼び方を、私に対してはしてくれないだろうか? ……世界樹と呼ばれるのは……いくら何でも、|面《おも》|映《は》ゆい』
が。拓に、こんな世界樹の――杉の木の――照れが理解できたかどうか。
その杉の木の台詞が、まだ完全に終わりきらないうちから、もう耐えきれなくなったのか、拓、ただただひたすら、まるで自分がテープレコーダーになったかのように、杉の木にむかって、ありとあらゆることを話しはじめていた。
これまでのこと、自分達のこと、父母の宇宙人のこと、明日香という妹のこと、夢子がしようとしていること、この地球の動物と植物のこと、人間が彼らをどうしようとしているかということ、そして――。
そして。
これは、それまで、拓が自分でも気がついていなかったことなんだけれど。
杉の木に訴えることで、初めて自分でも気がついたことなんだけれど。
昔から、物心ついた時からずっと、自分が、この星でたった一人の男であると思っていたこと、そして、たった一人の男である拓には、たった一人の女・夢子がいたということ。その、たった一人の女・夢子と、主義主張の違い故、心ならずも訣別しなければならなかったということ。
たった一人の女、自分にとってたった一人の女と訣別して――自分が、ほんとうに、真実、孤独であるということ。
明日香のことも、この星のことも、そりゃ、全部、大切だ。夢子が、この星を植物の天下にしてしまうことを、理性ある、宇宙の知的生命体として許す訳にはいかない。
それは、全部、本当のことであるのだけれど。
でも、同時に。
でも、それ以上に。
拓の心をしめているのは、夢子の――夢子との訣別のことで。
自分は、真実、孤独である。
今、この世界で、自分は、たった一人だ。
それを、拓は、杉の木に訴え……その気はなくても、気がつくとそのことを重点的に訴え続け……そして、拓は、判ったのだ。
生物にとって、ほんとうの不幸は、たった一つ。
何よりも、不幸なのは――何よりも耐えがたいのは――孤独であることなのだと。
5
あたしの、好きなもの。
陽だまり。
南むきのベランダ。
天気のいい日。目がさめた時、雨の音がしない朝。
あなた。
そして――地図帳。
あなた、笑うかも知れないわね。おかしいわよね。他の好きなものが、あなたとおひさま関係のものばかりなのに、中に突然、地図帳なんかが混じって。
でも、あたしにとって地図帳は、夢がぎっしりつまった魔法の本だったのよ。
現実のあたしは、どこにも行けない。二十分、植物と接触を持つことができない。そんなあたしが唯一いけるのは、うちの近所の公園だけで、日本全国、世界全部、とにかく、移動する間に二十分以上植物と接触を持つ可能性がある処は、全部、あたしの行けない処なの。
そんなあたしにとって。
地図帳は、魔法の本だった。
だって、開けば、知らない処なんだもの。
四国でもいい、近畿でもいい、北海道でもいい。中国でもいい、マレーシアでもいい、アメリカだのオーストラリアだの南極なんて、もう、遠いってだけで理想。
おかしいわよね。
あたしは、遠い、遠い処からきた生物なのに。この地球上で、あたしより遠くから来た生物はいないだろうっていうのに――なのに、遠いだけで、それはあたしの夢だなんて。
でも。全部、あたしの行きたい処だったの。全部、あたしの行けない処だったの!
地図帳を開く。アトランダムに。
さあ、でてくるのはどの地方? どの国?
あたしは、いくらだって飛んで見せる。夢の翼に乗って。想像力って翼に乗って。
……でも。
それは、夢、よね。
夢は夢、憧れは憧れ。そして、憧れは――幻。
幻は、幻。
あたしだって、いい年だもん、そんなことに気づいても良かった筈。
うん。
……それは、夢、なのよ……。
☆
ここの処、疲れているんだろうなって思う。
箕面夏海は、黒田のことをふと思い――慌てて、思考を、他のものに移そうとする。
でも、駄目。
ここの処、疲れているんだろうな。
黒田さん。ひろしっていうんだって、音だけ知ってる。ひろしが、どういう字なのか、それは知らない。
この間、出張とかで、どっかへ行った。どっかへ――書類によれば、出張先は|函《はこ》|館《だて》なんだけど……それって、どうしても信じられない。
で、出張から帰る時、一緒に、男を同伴してきた。その男っていうのが、何だか精神力も体力も使い果たしたって感じの、心身共にぼろぼろになったような人。服装だって充分ぼろぼろになっていたし、おそらくは満足にお風呂にもはいっていなきゃ、顔だって洗っていないのかも知れない。おまけに、お酒でも呑みすぎたのか――それとも、何か薬の類でも飲まされているのか――どうも、正気じゃないみたいだったし。
あの人は、何をしているんだろう。出張から、ぼろぼろになった男の人をつれかえる。これって、まっとうな会社でまっとうな仕事をしている人の行為とは思えず……じゃ、あの人のしている仕事は、まっとうなものではないのだろうか?
夏海は――不思議だった。
ただ、不思議だった。
自分の心が。
黒田が何やらあやし気なことをしているらしいって気がついても、それで、夏海が心配しているのは、自分のことや研究所のことではないのだ。彼女が心配しているのは、ただ、黒田のことだけ。
黒田さんは、大丈夫なんだろうか?
黒田さん。
その言葉を脳裏に浮かべた時、彼女の心の中に浮かぶのは、妙に底意地の悪そうな目をして、常に|眉《み》|間《けん》にしわを寄せている四十男の姿。確かにおしだしは良かったし、|傲《ごう》|岸《がん》な程自信にあふれた力強い感じはするものの――でも、何やらあやし気なことをしている、夏海にとって昔の勤務先である『笠原研究所』を|潰《つぶ》した、そんな男の、どこら辺に魅力があるっていうんだろう。松崎っていう、立派な大学の教授に、ひたすら居留守を使い続け、そのせいで夏海が|草臥《くたび》れはてる羽目になった、そんな黒田って男に、何の魅力があるっていうんだろう。可哀想だっていうなら、黒田より、あの松崎って教授の方が、ずっとずっと可哀想だった。
そう――それに。
いつからあたしは黒田さんのことを、心の中で考える時も、敬称をつけて、『黒田さん』って呼ぶようになったんだろう。黒田、じゃなくて、黒田さん、と。
確か、最初はあたし、あの人のことを嫌っていた筈だ。あ、ううん、嫌い、という程強い感情じゃなかったかも知れないけれど、でも、好きじゃない。好感なんか持っていなかった筈。このビルだって、陰険ビルって陰で呼んでたくらいだし、その『陰険』という印象は、ひいては黒田さんの印象でもあったというのに。
なのに。なのに、今の彼は、どうしてだか、陰険に見えない。暗い感じも、何やら陰でこそこそ物事を|操《あやつ》っている感じも、今でも確かにするのだけれど――それは、『陰険』じゃなくて、救いようのない孤独、寂しさにしか思えないのだ。
「可哀想だた……」
ふと気がつくと、夏海、いつの間にか声にだしてこんなことを言っている。そして、自分の出した声に自分で驚き、それに続く台詞を喉の奥にのみこむ。
可哀想だた惚れたってことよ。
こう書いた明治の文豪って、誰だったっけ?
可哀想だた惚れたってことなら――今、黒田さんを可哀想だと、救いようなく孤独で寂しい人だと思っているあたしは――やっぱり、黒田さんに……。
あんなシーンを見てしまったのがいけないのかも知れない。
夏海の心の中を、一瞬、ずいぶん前に黒田の部屋の前で彼女が見てしまい、そしてそのまま自分の心の中のひきだしにしまいこんでしまった情景が横切る。
でも……ううん、それだけじゃない。
しばらく前から、不思議と夏海、まわりの人の気持ちが何となくよく判るような気がして、しょうがなくなっているのだ。普段だったら聞き流す母親の愚痴、弟の憎まれ口、黒田の台詞。そんなものの奥に隠されている、その人の真情というものが判るような気がしてしょうがないのだ。そして、そんな目で見ると、暗くて陰険で傲慢にしか見えなかった黒田が、何だかとっても孤独な人に思えてきてしまうのだ。また、何故か夏海、他の誰の気持ちよりも、まず、黒田の気持ちが判るような気がしてならない。
ま、気のせいよ、気のせい。
自分で自分にそう言い聞かせてはみるのだけれど。
――ただ、勿論夏海、『何故か他の人の気持ちが判るような気がする、中でも黒田の気持ちがよく判るような気がする』ようになったのは、研究所の中庭で、不思議な草を見てからだ、そしてその傾向がより強くなったのは、その不思議な草を鉢植えにして、自分のベッドサイドに置くようになってからだってことには、当然、思いいたりもしなかった――。
☆
「あ、あの、お茶を……きゃ」
あの日。夏海には、決して他意は、なかったのだ。
「うわ」
「す、すいません、あの……」
上司に言われ、黒田の処へお茶を持っていった夏海、ドアの前で一回、深呼吸をした。ま、悪いって言えば、この深呼吸が悪かったってことになるんだろうけれど……夏海が深呼吸している、まさにその瞬間、ドアが、向こうから、あいたのだ。開いたドアは、ドアの前にいた夏海のお盆をふっとばし、お盆から落ちた|湯《ゆ》|呑《の》みは、どういう加減でかドアを開けた本人――黒田の足もとに、転がった。そしてその上、中のお茶は黒田のズボンのくるぶしのあたりに、半分程もかかってしまって。
「す、すみません、しみになっちゃうかしら、これ」
「いいんだ、君」
お茶をぶっかけられた|恰《かっ》|好《こう》になった黒田は、当然、不機嫌だった。不機嫌に夏海をおしのけて。
「お茶だなんて……誰が欲しいと言ったんだね」
言われたことは、かなり、理不尽。平生の夏海だったら、怒ったかも知れない。けれど……今の夏海は、判ってしまった。これって、黒田の、虚勢なのだって。
黒田は。何故かは知らない、また、どういうことなのかも判らない、でも、今、人に会いたくはなかったのだ。こっそりと、どこかへ行こうとしていたのだ。それが夏海によって邪魔されたせいで、お茶をかけられた云々ってこととは別に、夏海に対して怒ってる。そして、こういう状態で怒るべきではないって自分で知っているから、なるべくその感情を隠そうとして……結果として、今の黒田は、混乱している。
「あの……すみません」
何故か、そんなことが判ってしまった夏海、とっさにポケットからハンカチをだすと、黒田の足もとを拭こうとかがみこむ。と、黒田、何だかはにかんだような風情になり、そんな夏海の手をおさえて。
「ああ……悪かった。今の言い方は、一方的に、私が悪かったよ」
そう。こと、今の言い方に関する限り、一方的に、黒田の方が悪かったのだ。でも、黒田がそれを認めるのなら、夏海にしても、それ以上そのことをどうこう言う気はなくて……むしろ。
むしろ、何だろう、この心の動きは。
黒田は、そんな夏海の心の動きを知ってか知らずか、とにかく夏海から面をそむけるようにして、そのまますたすた、トイレの方へと歩いていってしまう。そして、夏海は、そして、夏海は、そんな黒田の様子を見て……。
あの人は、トイレへ行った。
そんなことを、心の中で、繰り返してみたりする。
あの人は、トイレへ行った。
何故って、あの人は、泣きたかったからで……何とかそんな気分を一新し、ついでに目に浮かびかけたかも知れない涙の|痕《こん》|跡《せき》を|拭《ぬぐ》うには、顔を洗うのがいいと思い……だから、あの人は、トイレに行ったのだ。どうしても、そんな気がする。
それに、そう、そう考えてみれば。
あの人の目尻にあった、何かの跡、あれは、涙の跡じゃ、なかろうか?
あの人は、自分の涙を人に見せたくなかったから、だからあんなに乱暴な態度をとったんじゃないだろうか?
そして、もし、あの人が泣いていたとして――。
あの人は、何で、何の為に、泣いていたんだろうか?
それに、あの、泣き方。
何故かは知らない、どうしてだって理由がある訳でもない、でも、夏海には、判った。
あの泣き方――あれは、昔を|偲《しの》んでの泣き方だ。何か、昔、黒田さんには辛いことがあったのだ。それを偲んで……あるいは。
|成就《じょうじゅ》しなかった初恋。初めての失恋。何か、そういう、昔の、それもきれいな思い出の為に泣いている。あれは、そういう泣き方に違いないと思う。根拠も何もない、でも、絶対そうなのだと思う。
そう思った瞬間。夏海、胸がどきっとした。どきっ――あるいは、ずきっと。
何て可哀想な人なんだろう、黒田さん。あの人は、泣くことができないのだ。たとえ人目がなくたって、たとえ自分一人しかそこにいなくたって、それでも、決して、泣くことができないんだ。何故ってきっと黒田さんは、今までの人生、ずっと自信にあふれて傲岸に傲慢に生きてきて……だから、自分が泣くっていうことを、自分自身、許容できないんだ。
ああ、勿論これは、事実ではない。事実黒田がそういう人間であるのかどうかは、夏海には判りようがないし、また、その時黒田がたとえ涙ぐんでいたとしても、それは目にごみがはいったせいではないって、夏海に断言できる訳でもない。
でも。その時何故か、夏海はほとんど確信に近いレベルでそう思ってしまい――そして、|一《いっ》|旦《たん》、そう思ってしまえば。
それまでの黒田に、やたらと自信過剰で|不《ふ》|遜《そん》なイメージが強かった分、新たに確信した黒田のイメージは、弱々しく、哀れだった。弱々しく、哀れで、そして、可哀想――。
そして――こうして。
黒田は、夏海にとって、ある意味で、『特別』な男になったのだ――。
☆
好きって感情は……一体、何なのだろうか?
部屋の隅では、三沢が、いぎたなく寝ている。黒田、そんな三沢に舌うちをしながらも、でも、そんなことを考えていた。
『好き』という感情は、一体全体、何なのだろう?
三沢は――今は薬のせいもあって眠っている三沢は――ずっと、いい続けていた。
「明日香が、好きだ。夢子が好きだ。拓が好きだ。彼らの将来を、私ごときのせいで、とざす訳にはいかない」
が。
三沢がどんなことを思おうと、すでに、捜査の網は夢子や拓に伸びており――三沢が、自分を殺そうとしてまで貫こうとした、『好き』だという想いは――結局、あまり意味がなかった。
あるいは。単純にここまで自分をおいこんだ三沢のことだけを考えるなら、夢子や拓の捜索は、一時|棚《たな》あげにしてやればいいのかも知れない。
でも。夢子や拓のことを考えると。そして、明日香達がエイリアンだということを、植物に対する病原体だということを考えると。それは、決してできないことで――そんなことをしてしまったら、黒田は、人類に対する裏切り者になってしまうだろう。つまり、それは――決して、できないことなのだ。
だとすると。結局。
結局、三沢の、『好き』だっていう感情は、誰の為にも役立っていないってことになり――すると、あの感情は、何だったのだ?
『好き』だ、という感情。
人間にとって、確かに、目には見えないけれど、でも、必ず存在する感情。場合によっては、利害関係なんてものを越え、とにかく人間を支配する感情。その感情は――それだけ強い、特定の感情は――結局何だったのだろうか?
好きという感情は、結局、何を産み出すんだろうか……?
☆
……いろんなことが、判った。
いろんなことが、判るよ、ねえ。
あたしは、その辺にうずまく、多種の想いに対して、こう言ってみる。あ――ううん。これは、ひょっとして、昔のあたしの言葉で言い直せば、一人|言《ごと》ってものなのかも知れない。
いろんなことが、判った。
いろいろな人の、いろいろな人への想い。いざ、それが判ってみると、人間って、何て単純な生き物なんだろう。
結局、つまる処は、みんな誰かが好きなのだ。
ややこしい関係、ややこしい事情、複雑に絡みあう利害関係。そんなの――確かに、結果だけ見れば複雑だけれど、原因は、しごく簡単なの。
誰もが、誰かを、好きなんだ。
みんな、誰かを、好きなんだ。
好きな人の為になるよう、好きな人に認められるよう、好きな人を自分のものにできるよう、人間は、頑張って、いろいろなことをして――で、その人間が、何十億もいるんだもの、糸は、もうどうしようもなく、からまっちゃってる。すでに、何が原因で何が結果なんだか、糸だけでは判らないし、判りようもない。
たとえば、あたしのことだって、そうだもんね。
あたしは、信彦さんが好きだ。
原因となったのは、ただこれだけの、ただこれっぽっちの、感情よ。ごく個人的で、きわめて|些《さ》|細《さい》な、どこにでもありふれた、何の変哲もない想い。
なのに。
このことから派生した、糸の何と多いことか。糸の何と複雑なことか。
そして、今でも。
今でも、あたしは、信彦さんが好きだ。彼のことを護りたいと思っている。それが故に、どれ程の混乱がこのさき生じ得るか。
……好きだ、というのは、業だ。
ふいに、誰かの、そんな台詞が、理解できたような気がする。
好きって感情は――一種の、業なのだ。あたしは信彦さんが好き、だからそのせいでいろいろな目にあう、でも、それってみんな、業。
よくは判らない、よくは判らないけれど……。
……。
いろいろなことが、判った。
みんな、誰かが好きで――だから、みんな、何らかの業をおっていて――あたしには、そういうことすべて、よく判る。よく判ってしまう。
だとしたら。
あたしには――それができることなのかどうか判らないけれど――でも、あたしには、することがある。たとえ今のあたしが死んでいたとしても、するべきことがある。信彦さんの為にも、そして、過去、あたしがこの地球に存在したっていう事実が引き起こした波紋に決着をつける為にも、しなければいけないことがある。
それができることなのかどうか判らないけれど……ああ、でも、その時には、助けてくれるわよね、あたしではないものが。
あたしではないもの――あなた。
あなたの言ったことが、あたし、段々判ってきたような気がする。
あなたは、あなたではないが故に、あたしのことを真実|愛《いと》しんでくれるのよね。
だったら――。
あたしは、あなたのことを――あたしではないもののことを、受け入れるわ。だから、お願い、あたしを助けて。
……それからあたしは、今はもうない、空想上のあたしの髪を、するすると地面にむけて、伸ばしてみる。すると、空想上の髪は、空想上の根のような形になり、実在するガラスケースだの、実在する床だの、実在するコンクリートだのを通り抜け、そのまま地面へと達してゆく。
ああ。
根づく、こと。
これこそが、ずっとずっと、生まれた時からずっと、あたしがやりたかったことだったのかも知れない。
空想上の髪が、地面に達した瞬間、一種の感動と共にあたしはそう思い――そして、気がつく。
あるいは。
死んでから今まで、あるいはずっと、あたしは根づいていたのかも知れない。この地面、この地面、夢の中で、無意識の中で、もう何回もふれた覚えがあるような気がする。
地面、地面、地面。何て素敵な感触。
この星に流れついてしまったのだもの、この星に受け入れてもらいたかったのなら、まず、この大地に受け入れてもらうべきだったんだ。
空想上のあたしの髪は、妙に甘い肌ざわりを覚えながら、大地の上を撫であげる――。
☆
……夢を、見た。
不思議ね、あたしは『夢子』って名前なのに、目がさめたあとでも覚えているような夢をみることは、滅多にない。その、滅多にない、夢をみた。
青木ケ原の樹海の中で、目をさました夢子、そんなことを思い、軽く頭をふると、立ち上がる。それから、今みた夢が、何だかあまりに生々しかったせいか、意味もなく、自分のかたわらに生えている、大きな杉の表面を撫でて。
「明日香が……いたわ。この星の、内側に。この星に、じゃなくて、この星の、内側に」
どういう意味なんだろう。呟きながらも、夢子、自分で自分の台詞を|反《はん》|芻《すう》する。
この星に、明日香がいる。
この文章は、意味が判る。
この星の中に、明日香がいる。
この文章の意味だって、判ると思う。つまりは、この星に明日香がいるっていう内容のことだと思うから。
でも。
この星の内側に、明日香がいる。
この文章の意味は……判りかねる。惑星に内側と外側がある訳ではあるまいし、明日香がこの星に埋められているっていう感じでもなかったし……。
「埋められているんなら、まだ、救いがある。|弔《とむら》いの方法として、地面に埋めるっていうのは、一般的なことだし、明日香が埋められたのなら、それってあの子が埋葬されたってことだし。……でも、あの科学者達が、明日香の遺体を埋葬してくれるとは思えない」
それに。夢の中で感じた、この星の内側に明日香がいるってニュアンス、断固として、埋められているってものじゃ、なかった。何ていうか、明日香がこの星に吸収されてしまった、というか、明日香とこの星が一体になってしまった、というか……。
「……何言ってるのかしら、あたし。夢は、夢なのにね」
夢は、夢。夢は幻、夢は現実のことじゃない。
夢子、心の中で、そう強調する。
何故って。そうとでも思わなければ、とても夢子には容認できないようなことを、夢の中の明日香は言っていたのだから。
『夢ちゃん、もう、いいの』
夢の中で。地球の内側にいる明日香、切々と夢子にこう訴えたのだ。
『夢ちゃん、いいの、もう。どうか、あたしの復讐をしようとだなんて思わないで』
「明日香! 明日香、あなたなの、明日香!」
『あたしは幸せだった。今でも、多分、幸せなんだろうと思う。たとえ生きていなくても』
「明日香! もしあなたがあたしのことを考えて、それでそう言っているんなら、あたしのことなんか気にしないで。ううん、それより、死んだあとにまであなたに気を|遣《つか》わせちゃって、申し訳ないと思ってる」
『違うの夢ちゃん、違うのよ。あたしは、ほんっとに、幸せなの、今。今、あたしには、すべてのことが判る。……誰も、悪く、ないの。誰も悪くないのよ、夢ちゃん。だからあたし、誰のことも恨んでない』
「……明日香。もしあなたが、今でもあの嶋村って男のことを気にしてるんなら……それは、大丈夫よ。あたし……確かに、嶋村って男のことを、憎んではいるけど、恨んではいるけど、でも……仕方ない、あなたに免じて、彼のことは許すつもり。個人的に彼をどうこうしようとは、あたし、思ってない」
『違う、夢ちゃん。あたし、信彦さんのことを言ってるんじゃ、ないの。そうじゃなくて、今、思うんだけど……人間は、生きているんだもの、みんな、生きているんだもの、想いが複雑に入り|雑《ま》じっちゃって、何が何だか、表面はもうよく判らなくなっちゃってるけど……でも、誰も、誰も、決して悪くはないの。みんな、誰かが好きなのよ』
「あたしは、あなたが好きだった、明日香。たった一人の、妹として」
『ありがとう、夢ちゃん。そう思ってくれるなら、お兄ちゃんと幸せになって。それが、あたしの、一番のお願い』
「……もう遅いわ。明日香、あたしはあなたが好きだった。だから、あなたを殺した人類を許せない。誰一人として、許せない。人類が、あなたを勝手に追い詰めた以上、あたしも勝手に人類を追い詰めようと思う。……拓とは……もう……この件で訣別してしまったし」
『ああ、夢ちゃん。それをして欲しくなかったのに……』
「どうして、明日香? どうして? あたしはあなたの為に……」
『夢ちゃん、お願い、判って。誰も、悪く、ないの。誰もが、誰かを、好きなだけなの。……誰かを好きだっていうの、決して、責められる感情じゃ、ないでしょ?』
「……なら、あたしはあなたが好きだったのよ。さっきの台詞、撤回するわ。あたしは、あなたの為に、拓と訣別した訳じゃない。あなたを好きだったあたしの為に、あなたの復讐をためらう拓と、訣別したの」
『夢ちゃん……どうして……』
夢の中で。夢子のこの台詞を聞くと、明日香、半ば泣きじゃくりながら黙りこむ。不本意にも明日香を泣かせてしまった夢子も、状況についてゆけないまま黙りこみ――と。
「言葉でどう言っても、その人には判るまい」
ふいに、聞いたことがない声が、夢子と明日香の会話にまじりこんできたのだ。
「誰? あなたは、誰?」
『あなた! どうしてこんな処に?』
その、聞いたことがない声を聞いた、夢子と明日香の台詞は、やけに対照的だった。勿論夢子はその声の主が誰だか判らないから驚いていたのだし、どうやら明日香は、声の主が判ったせいで驚いているようだった。
「明日香! あの声は、誰なの」
『あなた』
「あなた?」
『そう、あなた。あたしではないもののこと』
「あなたではないって……そりゃ、誰だって、あなたではないでしょう」
『そういう意味じゃなくって……本質的に、あたしではないもの、なの、あなたは』
「本質的に、明日香じゃない人はみんな、明日香じゃないわよ」
『そういうことじゃなくて……』
こんな二人の会話に、その声の主、また言葉を挟んでくる。
「私は――そういう名前で呼ばれるのは不本意だが――でも――世界樹と言われるものだ。夢子には、こう言った方が、判りやすいだろう」
「世界樹!」
世界樹! その木こそ、夢子がここしばらく、ずっと捜し続けていた木の筈!
「世界樹! あなたは、どこにいる、誰なんです!」
「……ああ、あの、断っておくが、私は、『世界樹』と言われるもの、だ。世界樹では、ない」
「え?」
「世界樹というものは、実体としては存在しないんだよ。あれは、概念だ。……だが、ともかく、それはまた別の話だ……」
そして――かなり、あく、間。それから。
「夢子、といったっけ、おまえ。おまえはずっと私に会いたがっていたね。もし、今の日本で私に会いたいのなら、屋久島へきたまえ」
「屋久島……縄文杉」
「ああ。もっとも、縄文杉は、私では、ないのだけれどね」
「え?」
「……あまりにもつれすぎた想いは、結局、『物語』になるしか終結のしようがないんだろう。そういう意味で、おまえ達の想いは、おそらく『物語』になるのだろうし……だとしたら、その物語の最終章は、屋久島で|綴《つづ》られるのが、おそらく最も自然だろう」
「……あの……世界樹?」
「どんなに強い愛であっても憎しみであっても、『想い』が作りあげるのは、現実ではない。『夢』か『物語』だよ。現実を作りあげるのは、『事実』と『行動』だ。――ま、その『行動』の、しばしば原動力になるのが、『夢』と『物語』であることは、否定しないが」
「……世界樹?」
「おいで。来なさい。夢子、おまえにも権利がある。こじれ果ててしまったおまえ達の想いが、この地球でどんな物語を描くことになるか、それを見届ける権利が、確かにおまえには、ある」
「世界樹! 待ってください! あたしには、提案がある。あたしには、地球の主権を、人間っていう一動物から、植物へと戻す為の術がある」
「権利というものは、義務をも同時に負っている」
が、その『世界樹』と名乗るもの、夢子の必死の台詞を無視するような感じで、こう言い続ける。
「だから、おまえには義務もまた、同時にあるんだよ。おまえ達の想いが何を作りあげてしまったのか、それを、見に、おいで」
そして――この言葉を最後に、夢子、その夢から醒め――。
と、あとに残るのは。
おいで。
夢の中で。世界樹と名乗るものが言った、この言葉。
おいで。
屋久島まで。
屋久島まで――。
☆
……屋久島。
どうしてなんだろう。
嶋村信彦は、この間から、何度も何度も、繰り返し自分にその問いをぶつけてみていた。だが、いつだって答えは判らない。屋久島――信彦は、かつてそこへ行ったことがなかったし、何かその島に特別の思い入れがあるって訳でもないのだ。なのに――何故か――屋久島。
ここ、二、三日。信彦は、気がつくと屋久島のことを考えているのだった。何かきっかけがあったという訳でもないのに――少なくとも、信彦本人には、何も思いあたることはないのに――気を抜くと、海の底からぽっかりと空気のあぶくが浮いてくるように、信彦の心の底から、『屋久島』という単語が浮かびあがってくる。浮かびあがってきて、で、何が起こるという訳でもないのだが……これは、かなり、不気味だ。どう考えても不自然だという気がする。
以前から、時々感じていた、盆の窪がちりちりするような思い。
考えてみれば、あれだってずいぶん不自然な話だったが……あの思いには、少なくとも、こんな具体性はなかった。ただ漠然と、ここにいない方がいいような気がして、それで信彦は移動をしていたのだが――今回の、この、どうしても心の表面に浮かんできてしまう『屋久島』という単語には、あの時には感じられなかった、妙な具体性と、妙な強制力がある。
「明日香……これは、おまえなのかい?」
すでに死んだ人間にいつまでもこだわっているのは不健康だ。それは判っていても、信彦、ついついここの処の習慣で、最初に『屋久島』って単語が心の中に浮かんだ時、こう自問自答してみた。が……今回は、今までの、そこはかとなく明日香のにおいがするような感じとは、どこかが違う。どこか、もっと強制力があるような、一種、大いなる意志とでも呼びたいような雰囲気があって……。
……けれど、まあ、いいか。
今までだって、ずいぶんと長いこと、ほとんど自分の意志はないような感じで移動を繰り返してきたのだし、ここでもう一つくらい、自分にはまったく意味の判らない移動が増えたって、別に困るってものじゃない。
そんなことを考えると、信彦、弱々しい苦笑を浮かべ――その日、十回目の屋久島って単語が心の中に浮かんだ処で、荷造りを始める。もうたいして残っていない、身のまわりの手荷物を簡単にまとめて――屋久島へ行く為の、荷造りを。
☆
「嶋村の、ほとんどリアル・タイムでの行動が判りました! 今日の昼すぎ、間違いなく嶋村は屋久島に着きました」
ずっと待っていた筈なのに。なのに、黒田、こんな横田の報告を聞いても、不思議と心がおどらない自分を、自分でもいぶかしんでいた。
「あいつ、ほんっとに、自分が追われているっていう自覚がないんですね。本名で、飛行機に乗ったんです。鹿児島から屋久島への国内線で……」
何時何分に、屋久島の空港へその便が着き、そのあと、どこどこの旅館に『嶋村信彦』って名前で予約がはいっていて……云々。
本来だったら、何よりもまず、注意して聞かなければいけない筈の報告を、黒田、何となく、心ここにあらずといった風情で、聞く。そしてそれから、まるでお義理のように、のろのろと、自分が今からただちに屋久島へ行けるよう、チケットの手配を頼んで。
まるでお義理で。
そうだ。実際、今の黒田のこの行動は、義理なのだ。何故なら――これは、黒田を含む上層部の連中以外には誰も知らないことなのだが――今日の終わり、午後五時づけで、黒田、正式に今の仕事をやめさせられる予定になっていたから。
「意外と、敵さんもうまいとこ、ついてきたよな」
なんて、黒田、声に出さずに言ってみる。
これまで、黒田の、どっちかっていうとあまりきれいとは言えないやり方に反発していた連中、また、黒田なんていう|緩衝材《かんしょうざい》なしに直接明日香の体を調べたがっていた連中、そんな奴らが、今回の明日香の件についてだけ、共同戦線をはり――つまりは、黒田との、勢力上の綱引きに勝ったという訳だ。
「良子」
黒田、もう今日を最後に、おそらくは二度とはいれないであろう、明日香の体を安置してあるガラスブロックの天井がある部屋へゆき、これまた心の中で呟いてみる。
「ごめんよ。これでも僕は、かなりがんばってきたつもりなんだが……でも、もう、それも、今日が最後だ。明日からは、見知らぬ連中が、おまえの体をいじくりまわすだろう。ごめんよ、力がたりなくて」
そう言っている間に。つつっと、何か、冷たいものが、黒田のほおをすべり落ちた。黒田は、瞬時、そのすべり落ちたものが何だか判らず――手で拭ってみて、やっとそれが『涙』だってことが判り――|狼《ろう》|狽《ばい》する。完全に、狼狽する。泣くだなんて――涙ぐむんならともかく、実際に泣いてしまうだなんて――それは、黒田にとって、あり得ないことだった筈なのに。
そして、それから。
「良子」
黒田は、明日香の体に向かって、知らず知らず、こう言っていた。
「予約も取ったことだし、行ってみるよ――屋久島に。何だか判らないが、あそこで何かが起こるんだ。そして――ああ、笑ってくれてもいい、何でだかもまったく判らないのに、どうしてだか、僕はそこに行かなきゃいけないような気がする。何が何だか判らないが、とにかくそこで起こることに立ち合わなければいけないらしい。……これは、強迫観念かな」
かくて、黒田は。
本人にも、理由が判らないまま、何かにつき動かされるまま、屋久島に|赴《おもむ》くことになり――また。
また、ここにもう二人、こちらも何が何だか判らないうちに、屋久島へと向かうことになった人物がいた――。
☆
「おかしいの」
その日、箕面夏海は、研究所から帰ってくるとそうそうに自分の部屋へひきこもり、まるでリュウノヒゲのように見える、研究所の中庭で採取した植物の鉢に向かって、話し掛けた。
「そりゃ、確かにここの処、黒田さんの様子はずっとおかしかった。特に、函館の出張から男の人を連れてきた直後からは、おかしかった。でも、今日のおかしさは、いつもの比じゃないのよ」
植物の鉢に向かって話し掛ける。確かに夏海には、昔からそんなことをしがちな心理的な傾向はあったのだが、こと、この鉢に関する限り、その様子って、ちょっと常軌を逸していた。
それまでは、鉢植えの植物に話し掛けると言っても、それって、「いい子ね、プリムラ。きれいなお花を咲かせてね」だの、「どうしたのベンジャミン、ここの処元気がないじゃない。気候が悪いのかなあ」なんていう、植物をはげまし、植物を気づかう声の掛け方だったものが――この鉢については、違うのだ。まるで、人間の友達に話し掛けるように――それも、助言をあてにして、目上の人に話し掛けるようなしゃべり方を、夏海は、その鉢に対してしている。また、話し掛ける、その頻度が、普通ではない。他の鉢に対しては、水をやる時や、枯れた葉や余計な葉を摘む時にしか声を掛けない夏海が、ことこの鉢に対しては、まるで部屋の中に夏海ではない人間がいて、その人のことを無視できず、ことあるごとに話し掛けてしまうって風情の頻度で、声を掛けている。
「どうしたんだろう、黒田さん……。ねえ、どうしたんだろう、おまえ、判る?」
さながらリュウノヒゲのようなその植物の葉を、右手の親指と人差し指ではさむようにして撫でながら、夏海、こう、言葉を続ける。それはあたかも――あたかも、こうしていれば、その鉢植えから、夏海の疑問に対する返事が引き出せるとでも確信しているような|仕《し》|種《ぐさ》。
「あたし……どうすれば、ちょっとでも、ほんのちょっとでも、彼を助けてあげられるだろう……。ああ、余計なことよね、あの人には多分、れっきとした奥さんがいるでしょうに」
それから、こう言うと夏海、まるでそのリュウノヒゲに似た草に感電したかのような態度で、ぱっと草を撫でている手を放す。そして。
「ああ、そうよ、そう。別にあたし、あの人のことを特にどうとか思ってるって訳じゃないわ。だから、奥さんがどうのなんて、関係ないのよ。あたしは……あの人のことを、何故だか可哀想だって思うけれど、でも、それって、愛情故にじゃないんだもの。そんな筈、ないんだもの。だから、これは、同情よ」
かすかに。階下で、インターホンが鳴ったような、音がした。でも夏海、そんなことには勿論気づかず、一旦は放した手を、再び草の上にはわせ、自分に言いきかせるように繰り返す。
「そうよ、同情に、奥さんがいるのいないのって、関係ないんですもの」
と、その時。階下から、母親が、彼女を呼んでいる声が聞こえた。夏海が|訝《いぶか》しく思いながらも、階段をおり、玄関の方へと行ってみると――そこに立っていたのは――この間、黒田が、函館からの出張で連れて帰ってきた男だった――。
☆
「何も聞かずに私を応接室に通してくれてありがとう」
その男は。箕面家の応接室のソファに崩れるように座りこむと、まず、こう言った。
「いえ……あの……あなたは所長のお客さまですし……それが何故、私の家に突然いらっしゃったのかは判りませんけれど……でも、やはり……」
一方夏海は、事態がまったく理解できず、ただおろおろと、こんなことを言う。この男、今日は何だか多少は正気に戻っているようだが――相変わらず、背広やシャツはぐしゃぐしゃだったが、一応髪に|櫛《くし》は通っているし、ひげもあたってはいるらしい――でも何で、こんな男が急に自分の家に来るのだ?
「自己紹介をしよう。私は、三沢という。……この名前に、覚えはないかね?」
「三沢、さん。……さあ……」
この男の職業は、きっと、医者か大学の先生か、あるいは政治家や俳優なんて類の、ある種名士や有名人とされるものだ。夏海、三沢の、妙におしつけがましい自己紹介を聞いて、ふと、こんなことを思う。
「知らないのか。じゃあ……三沢明日香のことは?」
「は? 明日香……さん、ですか?」
明日香。その名前は、聞いたことがある。確か、松崎教授が、以前捨て台詞でその名前を言っていた。
「ああ、明日香のこともよく知らないのか。……なら、君は、あの研究所において、まったくの下っ端なんだね」
……この台詞には。夏海、正直言って、むかっとした。そりゃ、確かに夏海は、あの研究所の、下っ端だ。だが、それを、外部の人にどうのこうの言われる筋あいはない。
と。三沢、敏感にそんな夏海の気配を察したのか、慌てて|咳《せき》払いを二度程して。
「ああ、悪かった。そういう言い方をするつもりはなかったんだ」
つもりがないも何も、あなたははっきり、下っ端って言い方をしたじゃありませんか。そんな夏海の台詞、口の中で言われないままに終わる。何となれば、夏海の母が、お茶を持って応接室に入ってきたので。そして、夏海の母がでてゆくまで、しばらくの沈黙が続く。
「単刀直入に言おう」
夏海の母がでてゆくとすぐ、三沢は身をのりだして、こう言った。
「私は、屋久島へ行きたい。君には、その手配を頼みたいんだ」
「……は?」
数秒の沈黙の後で。夏海、何とも間の抜けた声を出す。何故って――夏海には、常識から言っても、三沢の台詞がまったく理解できなかったから。
あ、いや。三沢が何を言ったか、そして、それがどういう意味なのかは、確かに夏海、理解できる。でも、どうしても理解ができないのは……何だって、三沢が夏海にそんなことを要求するのかってことと、何だって三沢が、さもこの要求は当然のことであるって風情でここにいるのかっていうこと。
「えーと、聞こえなかったかね、私は、屋久島へ行きたいんだ。その、手配を頼む」
「は?」
二回、繰り返して、三沢は同じことを言った。ということは、三沢が言っていることの内容は、まさに三沢の台詞どおりのことだということで――だとしたら、余計、夏海、それが理解できない。
「は? って君、判らないのかね?」
一方、三沢は、夏海の対応に何だか苛々しているようだった。半ばぼんやりしている夏海とは対照的に、かみつくように、台詞を続けて。
「君にだって日本語理解能力はあるんだろ? だとしたら、私の台詞の、どこら辺が判らないんだ?」
「あなたにだって常識ってものがあるんじゃありません? どういう常識を持っていれば、見知らぬ人が屋久島へ行きたがっているからって、あたしがその手配をしなきゃいけないって思えるんです?」
けれど。夏海にも夏海なりの、自尊心ってものがあったのだ。そして、その自尊心、まっこうからこの三沢の台詞に反発してしまい……。
「……え?」
でもって。夏海に、こう言われた時の三沢の表情ったら、なかった。さながら、人形を相手に思うさま文句を言った処、その人形から反撃を喰ったって表情を、三沢はして……。そして、それから。
「またもや、悪かった。どうやら私は誤解していたらしいのだ。……君は、普通の人格を持った、普通の人間なんだね」
「普通の人は、普通人格を持ってる、普通の人間です!」
「あ、いや……そういう意味ではなくて。私は、君のことを、明日香の使いだって思ってしまったんだよ。今日の昼すぎ、ふいに私は正気に返った。これだけだって、今まで飲んでた薬の量を考えると、ほぼ、あり得ないことなのにね。その上、正気に返った私は、何故か屋久島へ行きたくてたまらなくなっていたんだ」
「は……あ……」
何なんだ、この三沢の台詞。夏海、そんなことを思いながらも、でも、三沢がしゃべる関係上、しょうがなしに三沢のこんな台詞につきあう。
「もうこれは、誰かが私を導いているんだと思ったんだよ、あの研究所からの脱出行の時。ドアは私が近づくとあちらからするするあくし、私を見張っているらしい人は、ちょうど私が通る時だけそっぽを向いているし」
「あ……はあ」
三沢っていう人。この台詞からだけで判断すれば、あの研究所の中に監禁されていたのだろうか? うん、どうしても、この台詞からじゃ、そういう解釈しか成り立たない。それに……考えてみれば、黒田さんがこの人を連れてきた時の様子からしても、それってあながちあり得ないことではないみたい。
夏海、耳で三沢のこんな台詞を聞き、口でただ無意識に|相《あい》|槌《づち》をうち……頭でひたすら混乱する。そうすると、やっぱり黒田さんがやっていたのは、何やらいかがわしいことで……とすると、この先、あたしはどうするのが一番いいんだろうか?
「そして……無事、外へ出ることができて……屋久島へ行きたいと思い、お金をまったく持っていない私の心の中に、|閃《ひらめ》いたのは、君のことだった」
「は? あたし?」
「そう。箕面さんの家に行き、箕面さんにすがろう。あの時、何故か私はそう思ったのだ。そう、確信してしまったのだ。……だから、ここに私が来たのは、明日香が導いてくれたからだって思ってしまったし、だから、この先のことについては、君が何とかしてくれる筈だって思ってしまったんだ」
「じゃ……じゃ」
夏海の心の困惑、わきあがる|訝《いぶか》しさは、今では頂点に達していた。この三沢って人は、何なんだ? 結局、あの研究所は何をしてるんだ? 黒田さんは何をしてるんだ? 研究所や黒田さんがいかがわしいとしたら、そこを更にいかがわしい手段で脱出し、それを何らはばかることなくあたしに言う、この三沢って人だって、いかがわしかろう。それに大体……この間っから、その名前が見え隠れしている、『明日香』っていうのは何者なんだろう?
また、そんな訝しさ、できればそんな人達とは関わりあいになりたくないっていう常識的な思いとは別に、まったく素朴な驚き、素朴な同情心ってものも、夏海の心の中にわきあがる。というのは――この人の台詞を信じる限り、この三沢って人、何故かまるで現金を持っていないらしい。だとすると、この人、研究所からうちまで、歩いてきたんだろうか? そりゃ、確かに、研究所からこの家までは、二時間歩く覚悟があれば歩ける距離ではあるのだが――だからってこの人、知らない場所を(それも、大半はほとんど人の通らない山の中だ)、ただあたしのことだけを頼りにして、歩いてきちゃったっていう訳?
とすると、屋久島へ連れてゆく|云《うん》|々《ぬん》はまったく別の問題だとしても、そういう人を、このまま身一つでこの家から追い出しちゃって、いいものなのだろうか? そんなことって、人間がやっていいことなのだろうか。
それに。それにやっぱり、一番気にかかるのは――。
「明日香って……あの……誰なんですか?」
不思議と気にかかるのは、何故か気にかかるのは、その、『明日香』って名前。松崎教授は、確か黒田さんに、『決して明日香は渡さない』なんて|見《み》|得《え》を切っていたと思う。してみると、その、『明日香』っていう女性は、松崎教授にも、黒田さんにも、この三沢っていう人にも、等しく関わりがある女性だってことになり――その上、鍵がかかっているドアが自然に向こうから開いちゃうだの、見張っている筈の人が何故かよそみをしてしまうだのっていう、いわば超自然現象を、すっと三沢って人に納得させてしまう存在でもあり――その人って、つまる処、何なのだろう?
夏海は、それを、知りたかった。――いや、正直に言えば。そんなことは|枝《し》|葉《よう》|末《まっ》|節《せつ》で、夏海、ひたすら、知りたくなったのだ、黒田にある程度以上の関わりを持つらしい、明日香って人のことを。
「繰り返しますけど……あの……明日香って、どんな人なんですか? 誰なんですか?」
でも。当の三沢は、夏海のこの台詞を聞くと、逆に何故かこの会話を打ち切ろうとし始めて。
「……君は本当に明日香のことを何も知らなかったんだね。……悪かった。今までの私の台詞は、すべて聞かなかったことにしてくれたまえ」
こう言うと、夏海の状態におかまいなしに、その場を立とうとする。で、夏海、慌ててそんな三沢をとめて。
「ちょっと待ってください。『明日香』って名前……聞いたことがあるんです。以前、うちの研究所に日参していた、松崎って人が、その名前を言ってました」
「松崎が、ね」
三沢、一瞬、何か苦いものを噛みつぶしたような表情になり、それから言葉をたして。
「彼は、まだこの件に噛んでいるのか。……あ、いや、そんなことは、もういい。悪かったね、すべては私の誤解だったらしい」
「誤解って、誤解って、それはどういう意味なんですか?」
「誤解は誤解だよ。……どうやら、明日香は、君をこの件には巻き込んでいないらしい。だとしたら、私が君を巻き込む資格なんかない。……忘れてくれたまえ」
三沢は、結局、夏海に対して『明日香』のことを何一つ教えてくれないつもりなんだろうか? そう思うと夏海、何だかいてもたってもいられないような|焦燥《しょうそう》感にかられ――そして。
「誤解じゃないかも知れません」
……! この台詞! 決して、売り言葉に買い言葉ってつもりで、夏海、舌にのせた訳ではない。では何故、こんな台詞を言ってしまったのかっていうと……実は、夏海、自分でもよく判らない。
「……というと?」
「誤解じゃ、ないかも、知れないんです!」
「悪いけれど私には、君の言っていることがよく判らない」
「あたしには、判る……」
夏海、まるでうなされているかのように、この台詞を口にすると――そのまま、目を閉じる。と、|瞼《まぶた》の裏に、浮かんでくるのは……残像。柔らかな、緑の、残像。それはさながら、夏海の部屋のあの鉢植えの草が、夏海をかき抱こうとしてその葉を伸ばし、夏海に愛撫しようとしてその葉がすりより……そして、瞼の奥に残していった残像であるかのような――柔らかで、優しい、若緑。
「あたしには、判る。あなたは、行かなければいけないのだ。屋久島へ――物語の、最終章へ」
いつの間にか。夏海は、酔っていた。緑の残像、緑の葉、緑が見せる夢に。そして、心ここにあらず、夢うつつって風情で、ただただひたすら、言葉を続ける。
「箕面君? 箕面、君?」
今度は、三沢の方がぎょっとする。何となれば、この台詞を言った時の夏海、それまでの彼女とはまるで人が違ったみたいで――本人の意志とは関係なく、ただ言葉だけが紡ぎだされてゆくって風情で、目を半分つむったまま、台詞を続けているのだから。
「あなたは、正しい。あたしを頼ったのは、正しい。あたしは、そこへ行くだろう。あたしは、必ず、そこへ行く」
「おい、箕面君?」
そして。
ただただ、三沢が混乱しているうちに。何かに取りつかれでもしたように、夏海はこんな台詞を繰り返す。
「あなたは、正しい。あたしは――あたしは、行かなくっちゃいけないのだ。何故って、明日香が、そう望んでいるから」
「え?」
「何故って、明日香が、そう望んでいるのだから。――あ……ああ」
あ……ああ。この台詞を言ったあと、夏海はしばらくの間、きりきりと体を震わせ、そして、それから。
「あの、君、その、箕面君?」
「あ、はい」
しばらくの、まるで何かに取りつかれたような発作の後で。夏海、この数分間の記憶を無くしたように、三沢の台詞に、相槌をうつ。
「おい、君は、箕面くんか? 確かに?」
「あ……ええ、確かにあたしは、箕面夏海です。それが何か?」
「いや……それが何かって言われると、困るんだが……君、覚えているか?」
「は? 何を?」
「……いや」
三沢は、こう言うと、こっそりとため息をつく。そして、それから。
「いや、覚えていないのなら、それはそれでいいのだ」
「は? あの……?」
「ああ、いや、何でもない。ただ、とにかく……僕は、屋久島へ行こうと思うんだよ」
「はあ」
「そして……君に|便《べん》|宜《ぎ》を|図《はか》ってもらおうと思ったのだが……ちょっと前までは、それは間違った考えだと思っていたのだが……でも、今、はっきり、判った。これは、正しい考え方なんだね」
「は? あの」
「悪いけれど、私を、屋久島まで連れていってくれないか? それも――誠に申し訳ないのだけれど、私が屋久島へ行くだけではなく、君に、私を屋久島へ連れて行って欲しい。……はなはだ非常識な頼みだとは思うのだが……お願いできないだろうか」
「あ……あ、いえ」
三沢のこの台詞を聞くと。何故か――本当に何故か、夏海、ついついこんなことを言ってしまう。
「そう言われれば……そういう風に言ってもらえれば、私としても、別に、何が何でもあなたの役に立ちたくないっていう訳でもなくて……その……」
かくて。
三沢にしてみればすべてうやむやのまま、また、夏海にしてみれば、すべて訳が判らないままに――この二人は、いつの間にか、何故か、屋久島を目指すことになったのである――。
6
昔。
とても、怖い夢を見たの。
あんまり怖い夢だったから、今でもよく覚えている。
その夢の中では。どういう事情があってだか、地球が滅びることが決っているの。それも――あと、ほんの数日のうちに。
当然、地球は、パニック状態。誰も彼もが、我がちに、ただひたすら、目的地もなく逃げていくのよ。目的地もなく――そうよね、地球が滅ぶって時に、どこに他の目的地があるっていうの。
でも。目的地は、ごく|僅《わず》かながら、確かにあったのよ。その時の地球には、恒星間飛行に耐えることができる宇宙船が何千|隻《せき》かできていて、その船に乗ることさえできれば、どことは知れぬ、いつ着くとも知れぬ、どこか、人間が生息可能な処へと、一部の人は移住することが可能だったの。だから、その宇宙船の争奪戦は|熾《し》|烈《れつ》をきわめて……。
そして。どういう運命の|悪戯《いたずら》でか、あたしは、その船に、乗ることができた。とっても|妬《ねた》まれたわ。あやうく、殺されかけたりもした。あたしが、その船に乗ることができるからって。
ところが、地球から離脱し、よその人間が住める環境の惑星に至るまで航海できる宇宙船が、実は凄く怖いものだったの。
というのは。まず、その宇宙船は、一隻につき三人しか人間が乗れない仕組みになっていたのね。おまけに、その宇宙船、三角形をしていて、三角形のおのおのの頂点の処に、一人、人がはいるスペースがあるの。三角形の宇宙船は、その三角の間を細いボルトが|繋《つな》いでいるだけで……三人乗りの宇宙船って言っても、実際の処、たった一人乗りの宇宙船みたいなものじゃない。
その三角形の頂点を結ぶような恰好で、確かに伝声管は走ってはいたのだけれど――でも、それが、何の気やすめになるかしら。おまけに、酸素や水、食料を限度まで積んだせいで、本のような娯楽品を積むスペースは勿論、照明器具だって積むことはできず……その船に乗った人は、乗ったが最後、いつ着くか判らない、自分の|寿命《じゅみょう》のうちには着けない可能性の方が強い、目的地までの旅程をずっと、ただただまっ暗な空間で、ただただ一人でいなきゃいけないの。
確かに、伝声管は、ある。だから、伝声管を通せば、その船に乗った三人の間では、話をすることが不可能って訳じゃないの。でも……そんな環境で、夜も昼もない、何もすることがない刺激のない環境で、三人の他人が同時に起きて同時に眠れる確率って、どのくらいあるのかしら? そりゃ、最初のうちは何とかお互いにあわせるとしても、時間は、いつ果てるともなく、ほとんど無限にあるっていうのに。
で、こんな環境で。その船に乗ったあたしが、ある日、|無性《むしょう》にさみしく、無性に人恋しく、自分でも持て余すような激情のせいで目がさめてしまったとして……その時、あたしの呼びかけに、他の二人は返事をしてくれるかしら? 呼んでも、呼んでも、誰も返事をしてくれる人はなく――ただ、あたしの声だけが、|虚《こ》|空《くう》の中に吸い込まれるように消えてゆくとしたら……そんなの、あたし、耐えられるとは思えない。それに、たとえ返事がなくてもいい、誰かあたしではない人がそこに確かに存在するのを見るだけでもいい、見えなくても、その人の肌に触って、その人がいることを確認するだけでもいい、そんな望みも……この船では、無理なのよ。
まして。
目的地は、ないに等しいのよ。どこかにあるかも知れない、どこにもない可能性がある処を目指しているんだもの、生涯の間に、着けない可能性の方が、高い。
と、すると。途中で、みんな、死んでゆくの。仮に、あたしが一番長生きだったなら……ああ、嫌だ、みんな途中で死んでゆくのよ。そして、二人が死んでしまえば、あとに残ったあたしは、もう会話を交わすことさえ……ちょうどうまいタイミングでお互いに起きていた、たった二人の仲間と会話を交わすことさえ、できなくなるのよ!
……こんなお話が、あっていいんだろうか。
こんな悲劇が、あっていいんだろうか?
おまけに。誰かが死ぬ時、他の二人の意識があったとしたら。その二人は、どんな想いを味わうだろう。この世に、たった二人の自分の同胞、その命が尽きるっていうのに、何をすることもできないんだもの。たとえどんなにその人にいて欲しくても、それってはかない望みだし――せめて、この手でその人のことを看取ってあげたい、せめて、最後の最後、手を握ってあげたいって望みも|叶《かな》えられず……ただ、その人が死んでゆくのを、伝声管越しに、感じているだけ。
これだけでも! これだけでも、こんな悲劇はないってくらいの悲劇なのに……まして、残る二人が、その人の死を知らなかったら? 二人は、いつまでも、いつまでも、その人のことを呼ぶだろう。何故ってここでは、他にすることが何一つないのだから……死んでしまった人のことを、いたずらに、『ただ寝てるだけだ』って思って、何度も何度も呼ぶだろう。いくらでも自分の生活パターンを変えて、いろいろな時間に彼のことを呼び続けるだろう。でも、返事は決して返って来ない……。
……そんなのって!
そんなのって、我慢、出来ない!
人間のできることじゃない!
……かくて。
夢の中で、あたしは|放《ほう》|棄《き》したのだ。その宇宙船に乗るっていう、権利を。
地球に残れば、待っているのは、確実な『死』。
そんなことは、判っていた。判っていても、でも……でも、夢の中のあたし、世界にたった一人の、『生きているあたし』になるよりは――友達が一杯いそうな、『死んでいるあたし』の方が、まだましだと思ったのだ――。
まだましだと、思ってしまったのだ――。
☆
「松崎教授は、もうずいぶん前からいるね」
「あ……ええ」
世界樹がこう言った時、拓は、不思議と静かな気持ちで、相槌をうった。(世界樹は何回か、『どうか、私のことはただ杉と呼んでくれ』と言ったのだが、何度頼んでもいつの間にか拓は彼のことを世界樹と呼んでしまうので――今では、もうこの呼称に慣れてしまっていた。)この屋久島で、世界樹のもと、日々を過ごすようになってから、ずいぶん長い時間がたった。その間に、世界樹の影響を受けてか、拓、どんどん静かな気持ちになってきて……今では、あの『松崎教授』の名前を聞いても、不思議と何の怒りもわいてはこなかった。
「一昨日信彦君もやってきたし、ゆうべの飛行機には黒田さんが乗っていた」
「嶋村君……。彼も来たんですか」
嶋村信彦と明日香の恋物語。明日香が死んだ直後は、信彦のことを恨みはしなかったまでも、二人の恋をいささか苦々しいものだと思っていた拓だったが――今、こうして世界樹と穏やかな時間をしばらく過ごした後では、明日香の為に、明日香がそんな物語を綴れたことを、心からありがたく、嬉しく思っている。そんな拓にとって、信彦は、今やパステル・カラーの世界の中の住人だ。淡い、きれいな色彩で色どられた、なつかしい思い出の国に住む人。
「今日の一番の飛行機には、おそらく三沢さんと箕面さんが乗っている筈だ」
「三沢のおじさん! おじさんは無事だったんですか! ……ああ、よかった、それは嬉しいニュースです。でも……箕面さんって、誰ですか? それから、さっきちょっと名前が出た、黒田って人も、僕は知らない」
不思議なことに。世界樹は、ただ、ここにこうして立っているだけなのに、何故か遠く離れた人間界の出来事をすべて見とおしているようで――今となっては、拓には知りようもない、新たに発生した関係者すべてのことを、さながら旧知の人物のように話している。いや、それに。考えてみれば、世界樹は、まだ直接には、拓以外の人間には、一回も会ったことがない筈なのだ。にもかかわらず、どういう訳か、世界樹がその人のことを知りたいと思った人間は、すべて世界樹にとってはよく知っている人間になるらしい。
「ああ、箕面さんと黒田さん、かね。彼らは、いわば新しい関係者だよ。君達が失踪した後で、関係してきた人物で――明日香のせいで、人生の航路を狂わせてしまったのだから、充分関係者の資格がある」
「……はあ……」
「私はね、そろそろ、呼ぼうかと思うんだよ、彼らを」
世界樹、こう言うと、ちょっと息をつぐ。そして、それから。
「この間っから、夢子が、ずっと私を呼んでいる。ずっと私を探している。……彼女にも、会って話をしたいと思うんだ」
「夢子に……ですか?」
世界樹の許で、しばらく時間を過ごして。かなり温和になった筈の拓、でも、この台詞を聞くと、自分の血が沸き立つのを感じる。今でもまだ、拓にとって夢子というのは特別な女性で――彼女のことを考える時だけ、おそらくは故意に、彼女のことをずっと無視してきた世界樹のことを、ちょっと冷たいのではないかと思ってしまう。
「別に私は彼女に意地悪をするつもりはなかったのだが――形の上では、故意に彼女のことを無視し、彼女に辛くあたってきたような具合になってしまった。この件では、拓、おまえは随分私のことを恨んでいるだろうな」
「あ……ええ……あの、いえ……恨んでなんかは……」
「でも、言いたいことはあるだろう? それも、どちらかと言えば、文句の方でだ」
「え……ええ」
「が、まあ、言い訳を許してもらえるなら、それは私なりの考えがあってのことなのだ。私は待っていたのだよ。関係者がすべて私の許へ来てくれて……最後に彼女が来てくれる日を」
「……彼女?」
「そう。私はできるだけ誠意をこめて、夢子に話をするつもりだが……それでも夢子は、おそらく私の言うことを理解してはくれないだろう。ただ、彼女が一緒に夢子を説得してくれれば、あるいは……」
「……あの……彼女って?」
「関係者がすべて、この島に集まった。ということは、彼女も出てくる決心がついたのだろう。だから、私は夢子に会うつもりだよ。そして――こじれてしまった糸、もつれてしまった糸、そのすべてに決着をつけるつもりだ」
彼女。世界樹が、こんな言い方をする、『彼女』。また、夢子を説得できるかも知れない『彼女』。その彼女にあてはまる人物を、拓は一人しか思いつけず……かといって、その人物がここへ来る筈はなく……いや、そもそも、その人物は、もうどこへも行くことなんかできない筈なのだ。なので拓、この世界樹の台詞がまったく理解できず、ただいたずらに混乱する。世界樹は、そんな拓の様子がおかしかったのか、何だか|喉《のど》の奥で笑っているようなくつくついう音をたて――そして。
「……ああ、来たね」
ふいに世界樹は、何だかやけに優しい声を出すと、こんなことを言った。
「よく来てくれた。おまえを……ずっと、待っていたよ」
と――と!
この世界樹の台詞と共に、あたりの空気の温度が、ほんのちょっとあがったような気が、拓はしたのだ。そして、それと同時に。
ふわっ。
世界樹の根本に半ばもたれるように座っていた拓、何だか優しい、ずいぶん前からよく知っているような、とても懐かしい、泣きたい程に親しい、何かの気配を感じた。その、とてつもなく懐かしく、とてつもなく優しい何かの気配が、ふいに拓のまわりの空気をとり囲んで――拓、その気配に、そっと愛撫されているような感じを覚える。
「え……あ?」
その、気配。最初にたちこめた時から、徐々に、徐々に、濃密になり――今では、まるでポタージュ・スープのように、すっかり拓のまわりをとり囲んでいる。
「これは……これは……」
「やっと来てくれたね、明日香」
世界樹の台詞を聞きながら、拓、慌てて周囲を見回す。勿論、明日香の姿はそこにはなかったし……人間の形をした明日香が、どこかからここへ向かって歩いてきている姿なんて、見ようにも存在しなかったのだが……でも。
「ずいぶん前から、実はおまえはわたしの処へ来ていたんだよ。それは知っているだろう?」
拓をつつむ、ポタージュのような気配が、かすかに揺れる。その揺れ方は、まるでこのポタージュが明日香で、そして、この世界樹の台詞に対して肯定の返事をしたように思えて……これは、一体、どういうことだ?
いや。
そんなことはおいておいても。
自分を包む、ポタージュの気配を、直接肌で感じた時から、実は、拓は、判っていたのだ。
これは――明日香だ。
どんなに姿形が変わろうとも、人間形をしていなくても、いや、そもそも、固体ですらなくても――でも、自分の妹、それもたった一人しかいない妹、今となってはこの世でたった一人の自分の血縁者のことが判らない訳がないではないか。たとえどんなに異常なことでも、今、自分を柔らかく包んでいる気配は、確かに明日香のものなのだし……ということは、この霧は、このポタージュは、明日香なのだ。
「明日香! おい、明日香! ここにいるのは、本当にお前なのか?」
拓、興奮の余り、ついついその霧を手で掴もうとして、自分の手をぶんぶん振り回す。が、勿論霧は人間の手で掴めるものではないので、のばされた拓の腕はいたずらに空を掴む。
「明日香! いるのか? おまえ、生きていたのか?」
「落ち着け、拓」
拓をいなしたのは、いつでも落ち着いているように見える、そして実際、いつだって落ち着いているのであろう、世界樹だった。
「ここにいるのは、明日香の気配だ」
「……気配? ……っていうと……やっぱり明日香はすでに死んでいて、じゃ、ヤマグルマみたいに、これは明日香の幽霊なんですか?」
「幽霊、ね。ヤマグルマの時も思ったのだが……確かに、ヤマグルマや今の明日香は、ちょっと他に表現しようのないものだから、おまえがそう思ってしまうのは無理もないのだが……ヤマグルマや、明日香と、おまえの思っている幽霊ってものとは、ある意味で、まったく違ったものなのだよ。ここにいるのは、明日香の想い、だ」
「あの? どういう意味です? やっぱり明日香は死んだんですか?」
「動物のレベルで言えば、確かに彼女は死んだのだろう。……生命活動は、もう一切、していないようだしな」
「じゃ、今、ここにいるのは……やっぱり明日香の幽霊じゃないですか?『想い』っていうのは、つまりそういうことなんでしょう? 肉体が滅んでしまったあとでも、どうしても|成仏《じょうぶつ》することができず、恨みだけがこうして霧のようなものになってまで残って……ああ、可哀想な、明日香」
「あまり先走らないでくれ、拓よ。ほら、明日香も困って笑っている」
世界樹、どんどん悲劇的な方向へ行こうとする拓の考えをちょっとたしなめ、くすくす笑い――拓のまわりで、霧も、かすかに笑ったように震えている。
「先走るなって、だってそういうことじゃないんですか?」
「そういうことではないんだよ。生き物というのはおまえが思っているよりは不思議なもので、物理的に、肉体的に生きているだけではなく、精神的にも生きているのだ。そして、ヤマグルマの場合、物理的な肉体が滅んでも、まだ精神は生きているし……明日香の場合、肉体は生命活動こそおこなっていないものの、まだ滅びもせず、東京近郊に安置されているし、精神は、まだ、しっかりと生きている」
「……あの……よく、判らないんですが……」
「そういうことだよ。肉体の生と、精神の生は、違う。肉体の生は、いわば精神の生のゆりかごなんだ。普通の個体は、ゆりかごである肉体の生が壊れると、同時に精神の生も死んでしまう。が、その個体が、真実成熟していれば、ゆりかごが壊れた後も、その精神は死にはしない。ゆりかごなしでも生きてゆける。成熟した想いとなって、この星に満ちるのだ。……前にちょっと言ったと思うな、我々には、『幽霊』についての|禁《きん》|忌《き》はないって。それは、こういうことなんだ。肉体が滅んだあとに残った精神は、おまえ達が――人間が言う、世の中に恨みを遺して死んだものの恨みや憎しみの塊ではない、完全に成熟したが故に、肉体というゆりかごなしでも生きてゆける想いのことなのだから」
「じゃ、つまり明日香は……」
「体から、余計な力を抜いてごらん。この地球の想いに、自分の心をあわせてごらん。おまえはもう、それができるのに充分な程は、成熟している筈なのだから」
世界樹が、なだめるようにこう言ったので、拓、不承不承、なるべく体をリラックスさせる。それから、風や、日光や、地面の暖かさに心を同調させるようにして――と。
『お兄ちゃん』
と――と!
どこからともなく、明日香の声が、心の中に響いてきたのだ。どこからともなく、耳で聞いている訳でもないのに、聞き間違いようがない、明日香の声が聞こえてきたのだ!
『お兄ちゃん。ああ、よかった。やっと通じた』
「明日香」
明日香! この声は、明日香の声だ。この『お兄ちゃん』っていうイントネーションは、明日香のものだ。この声は、明日香の、この声は、明日香の……。
気がつくと。拓の目には、いつの間にか涙の粒が浮いていた。明日香。死んでしまったものだと、ずっと思っていた。明日香。どんなにおまえの為に泣きたかったか。明日香。世界樹の説明は今一つよく判らず、だから結局、おまえは事実上死んでしまったのかも知れないが、でも、おまえは今、僕にその声を聞かせてくれた。いつものおまえの、いつもの優しい……そして、何だか、軽くくすくす笑ってでもいそうな風情の幸せそうな声を。明日香。それだけで、満足だ。
『お兄ちゃん、おっにいちゃん』
最後の呼びかけは、まだ明日香が嶋村と出会う前、まだすっかり子供だった時の明日香が、拓に何かおねだりをする時によく使った甘えた声。その当時の明日香のおねだりと言えば、旅行をしたい、とか、海ってものを見てみたい、とか、どうしても拓には|叶《かな》えてやることができないことばかりだったので、いつの間にか、その声を聞くのが苦痛になっていた筈の声。でも、今、こうして、明日香を|喪《うしな》うっていう経験をした後では――当時の、暗い気分なんか一体どこへ行ってしまったんだか、いくらでも聞いていたいような、甘く、なつかしい、ウエハースのような声。
「明日香。おまえ、いるんだね、今、ここにいるんだね、明日香」
『うん』
「そして……願わくば……あんな経験をしたっていうのに、明日香、おまえは今、幸せなんだね? 幸せだっていう、声をしている」
『うん! あたし、それをお兄ちゃんに言いたかったの。言わなくっちゃ、いけないと思ってたの。あたしは今――あたしは今、本当に、ほんとっに、幸せなの』
明日香の声。これは本当に幸せそうだった。拓のことを思いやって、嶋村のことを思って、不必要に取り|繕《つくろ》った声じゃ絶対ない、真実、幸せそうな声。
で、拓、そんな妹の声を聞いて、こちらもまた、真実幸せな気分にしばしの間|浸《ひた》り――と。明日香の声が、急に真面目なものになった。
『だから……お兄ちゃん、夢ちゃんに言って。復讐するのは愚かしいことだって。あたしは……あたしは、これで、幸せなんだもの。本当に幸せなあたしの為に、夢ちゃんが復讐をするのはおかしいって』
この台詞を聞いて、拓の心、実に久しぶりに明日香の声を聞けた喜びから離れ、一転して不幸の中にころげ落ちてゆく。何となれば。
「明日香。僕と、夢子は、訣別したんだ。……夢子はもう、僕のいうことに耳を貸そうとはしないだろうし……大体が、夢子がどこにいるんだか……」
『夢ちゃんは、この島にいるわ』
「あ……ああ、それは確かにそうなんだが……彼女が僕に会う気になるかどうか……」
『あたし、前に夢ちゃんとお話ししたの。夢の中で。どうかあたしのことは忘れて、お兄ちゃんと二人で幸せになってくれって。その時、夢ちゃん、お兄ちゃんとは訣別したって言ってたんだけど……それって、ほんとのことなの?』
「ああ」
『どうして! どうして、そんなことしたの!』
どうしてって……それは、おまえのせいだ。でも、そんなこと、拓、口がさけたって言えない。
『ああ……あたしの、せい、ね?』
と、明日香、何も言えない拓の心中を思いやってか、|哀《かな》し気な声を出す。それを聞いた拓、必死になって首を振ってみせるのだけれど、それが一体何の役にたつのやら。
『でも……それって、哀しいことでしょ? あたし、夢を見たの。何度もいろんな、夢を見たの』
「え?」
『結局、世の中で一番不幸なのは、自分一人になることなのよ。それ以上の不幸って、存在しようがないのよ。……お兄ちゃんにとって、夢ちゃんと別れる以上の不幸って、あり得ないのよ』
「ああ……うん。確かにとっても哀しいことだったよ。あれ以上の不幸は、多分存在しようがないだろう……」
『なら! なら、お兄ちゃん、それを許しちゃいけない。お兄ちゃんと夢ちゃんは、幸せにならなきゃいけないのよ!』
「いや、明日香、確かにそれはそうだと思うよ。でも……」
『大丈夫』
と、拓の反論をまっ正面から封じるようにして、何故か自信たっぷりに、明日香はこう言ったのだ。
『大丈夫。あたしはその為にここへ来たんだから』
「え?」
『世界樹も、判ってくれてる。あたしは、あたしがこの世の中に生を|享《う》けてしまったせいで……あたしが、信彦さんを好きだっていう感情を抱いてしまったせいで……そのせいでもつれてしまった糸、そのすべてをときほぐす為に、ここへやって来たの。あたしが、この地へ、関係者すべてを呼んだのよ。――ま、松崎さんみたいに、招待を待たずに自分からやってきちゃった関係者も、いるけどね』
「明日香! おい、明日香!」
『やってみるつもり。お兄ちゃんには悪いけれど、今となってはもう、あたしにとってこの世の中で一番大切な人は、信彦さんなのよ。彼がこのまま素直に人間社会に受け入れられるようになる為に……彼がこのまま、まっとうな一生を終える為に……あたしは、決着をつけてみせる。すべての|軛《くびき》を振り切って』
拓は、目を、白黒させる。明日香は、自信たっぷりに、こういい切る。そして世界樹は――そして、世界樹は――ただ、笑っているだけ。
ただ、微笑んでいる、だけ――。
☆
その日の、午後。
朝のうちは、まだ多少空に浮かんでいた雲が、一斉に空の青いキャンバスからのき――あきれる程の上天気が、屋久島一帯を|覆《おお》っていた。
どこまで見ても雲一つない空、地上で起こっていることを何一つ知らないとでもいう風情の信じられないくらい能天気に明るい太陽、そして、|元《もと》|栓《せん》が壊れたシャワーのように|惜《お》し気もなくふりそそぐ陽光。そんな環境の中、夢子は、今日もあてどなく屋久島の原生林の中を歩いていた。
「何て天気なんだろう」
もう秋も終り、そろそろ冬。なのに、今日、木々の間を歩いていると、|木《こ》|漏《も》れ|陽《び》の、あまりの暑さに、やたらと汗が流れてしまう。
「大体が、こんな森の中って、ろくすっぽ陽がささず、夏だって涼しいのが普通なのに……今日の天気は一体何だっていうのかしら」
最近の夢子は、一人言が多い。この島へ来てからは、人間社会と|殆《ほとん》ど接触を絶っているから……一体何日、満足な会話をしていないんだか。その分、心の中にたまったことすべてが、一人言って体裁をとって、心の中から出て行ってしまう。
「ああ、ほんとに暑いったらありゃしない……ああ、ほんとに」
ああ。ほんとに。
後半の『ああ、ほんとに』の後に続けて言いたかった台詞を――それでも、夢子は、飲み込んでしまう。『ああ、ほんとに、この島に世界樹がいるのかしら?』。この間っから、何かにつけて、夢子が考えてしまうのはそのことで……でも、それを疑ってしまったら、もう夢子にはつてがない。だから、それは、疑いたくない。また、一方、夢子、世界樹がでてくる夢を見た時の明日香の台詞に――明日香が、真実幸せだっていう台詞に、反発も抱いており、あの夢を、そのまま信じたくもまた、ないのだ。
ああ、ほんとに。
ほんとに夢子の心理はその点複雑で――だから、あとに続けるべき言葉がない。故に台詞は、そこで終る。
「ああ、ほんとに」
と――と。
今日、何度目かの、後ろに台詞が続かない、『ああ、ほんとに』って言葉を夢子が言った直後――ふいに、それまではまったく夢子の台詞に無関心だった、あたりの木々が、反応したのだ。
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
どこからともなく。ふいにこんな台詞を聞いて。夢子、思わずきょろきょろとあたりを見回す。でも、彼女にも、今の台詞を誰が言ったのか、特定できない。
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
その間も、まるであたりの木々、あたりの草、そのすべてが合唱しているかのような不思議な声は続いていて……。
「誰? あなたは誰なの?」
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
夢子、思わずその、どこからともなく聞こえてくる声にこう問いかける。が、半ば夢子が想像していたように、夢子の問に答えるものは誰もなく――ただ、合唱だけが、続いている。
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
「誰よ? 何なの、あなたは? それを教えて貰わなくっちゃ、あたし、どうにも動けない!」
一応、夢子、こう言ってみる。でも、それって完全に、言葉だけ。
何故って。
聞かなくても、夢子には、判っていたのだから。夢子を相手に、こんな誘いをかけてくるものは、この世にたった一つしかない。植物をして、夢子にこんな誘いをかけさせることができるものは、この世にたった、一つしかない。そして、その、たった一つしかない存在というのが、彼女がずっとこの島で探していた存在であり――世界樹なのだ。そうに違いないのだ。
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
「だから、あなたは誰で、どこにいるのよ!」
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
「『こっちよ』は、もう、いいから! 名乗りなさいよ! |卑怯《ひきょう》でしょう! そりゃ、確かにあたしはあなたが誰だか見当がついているわよ! だからってあたしが、|匿《とく》|名《めい》のあなたの言うことを聞くだなんて、思わないで欲しい」
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
でも。夢子のこの台詞、もう、殆ど虚勢だった。何故って、こんなことを言いながらも、夢子の足取り、いつの間にかその声が誘う方へと向いており……。
[#ここから2字下げ]
こっちよ……こっちよ……こっちよ……。
[#ここで字下げ終わり]
かくて、夢子は、抵抗する術もなく、その誘いに乗ってしまったのだ――。
[#ここで字下げ終わり]
☆
ありがたいことに、今日は暖かい。
松崎にとっては、それはとてつもなく嬉しいことだった。
このまま暖かい日が続いてくれるといいなあ。できれば、今年の冬は、暖冬であって欲しい。
松崎は、この間っから、縄文杉のそばで、ずっとキャンプ生活を送っていた。勿論それは、いつの日か縄文杉の前にやってくるだろう夢子や拓を見張る為なのだが――それが、どうやら、最近の彼には随分肉体的な負担になっているようで。
というのは。松崎は、確かに昔、植物関係でフィールド・ワークをした経験もないではないのだが、本質的に、アウトドアにまったく向かないタイプらしいのだ。ハイキングならともかく、登山の経験なんてまったくないし、そもそも自分がテントなんて処で寝起きができるだなんて、やってみるまで自分でも信じられなかった。また、屋久島は非常に上質な水の産地なのだが、それでも松崎、水道ではない処から出る水を飲むのに、かなりの心理的抵抗を覚えていた。その上、更に、電気のない生活なんて、彼にしてみれば縄文時代より前のことにしか思えなかったし、下手に明りをつけてしまえば、夜、それは格好の虫の標的になったし……すべて、非常にささいなことではあるのだが、だが、身のまわりのささいなことすべて、松崎にとっては苦痛だったのだ。
だが。でも。
縄文杉は、松崎が掴んだわらだった。夢子や拓がここへ来るというあてはまったくなかったが、でも、他のあてはもっとない、|溺《おぼ》れる松崎が唯一掴むことのできたわら。そんな貴重なわらを――たとえ日常生活が、どんなに苦痛でも、放してしまう訳にはいかない。
そう思ってずっとこの生活に耐えてきた松崎だったが――事態はそろそろ、そんな精神論ではおいつかない処へ、差しかかってきていたのだ。それが――冬である。
屋久島は、県で言えば、鹿児島になる。日本の中でも、非常に暖かいとされる県の一つ。だが、その山は、九州一の高峰なのだ。屋久島の、海岸あたりが、冬場、たとえどんなに暖かくても、山の上の方はそういう訳にはいかない。冷え込んでくれば、今だって不自由で、今だって不快なこの生活は、もっと不自由にもっと不快になってゆくだろう。そしてそのうち……雪が降るのだ。
雪山!
それを考える度、松崎は、軽い頭痛を覚えた。
雪山! そんな処で、まったくアウトドアに向かない、雪山は当然、夏の登山すら経験したことのない自分が生きてゆけるとは思えない。それに、屋久島の山で、遭難した人は――過去、いない訳ではない筈だ。
だが、それでも。それでも松崎は、この地を去ることができない。何故ってここは、彼が掴んだたった一本のわらなのだから。
だから……だから。そんな松崎にとって、何故か突然暑くなってしまった屋久島の気候は、理由を問わず歓迎すべきことで、実際、彼は素直にそれを歓迎し……。
暖かいのはありがたい。だが、今日は何だか、暖かいだけではなく、妙に日差しがまぶしいな。
そんなことを思った松崎が、何気なく視線を上にあげた瞬間、それが起こったのだ。
一筋――やけにまぶしい、やけに明るい、|蜂《はち》|蜜《みつ》を思わせるようなねっとりした金色の陽光が縄文杉にあたり――その瞬間。これは松崎の目の錯覚なのかも知れないのだが、いや、現実にそんなことが起こる訳がないのだから目の錯覚に決っているのだが、縄文杉が、かすかに震えたのだ。
縄文杉が、震えた? いや、まさか。それに、あの光は何だろう? 木漏れ陽というのは、あんなにまぶしく黄金色をしているものなのか? いや、まさか……あの光は、何か特別のものだ。特別な雰囲気がある。だが……陽光に、特別も何もないだろう?
松崎、瞬時、とりとめのないことを思い――と。
それと同時に。
縄文杉の前にいた、すべての植物が、まっ二つに別れたのだ。右にいたものは右にその体をできるだけ傾け、左にいたものは左にその体をできるだけ傾けて。
「え? ……あの、え?」
松崎、思わず声を出す。さっき自分が考えたこともとりとめがなかったが……これは……これは……とりとめがないなんてものじゃない。植物は、草だけでなく、樹木も、できるだけ体を右に左に傾けている。樹木にこんなことができるだなんて、今の今まで、松崎は思ったこともなかった。でも――ああ、一度強く目をつむってみても、軽く頭を振ってみても、まだ植物は傾いている。
傾いて――違うな。
ふいに松崎、とんでもないことを思って、心の中の緊張のせいか、逆にくすっと笑ってしまう。
これではまるで――僕は、モーゼだ。モーゼの前で、植物の海が、二つに割れた処なのだ。だとしたら、この先にあるのは……約束の地。
かくて。
松崎は、もうすっかり自分が自分ではないような、まるで植物に、その緑に魅入られたような感じで、よろよろと、まっ二つに割れてしまった植物の海の中へと、踏み出していた。
屋久島へきて、もう随分日がたつ。その間の、慣れぬキャンプ生活の心労でか、あるいは、この島へ来る前、箕面夏海に捨て台詞を吐いた時からすでにちょっとおかしかったのか……この事態を、怪しんだり驚いたりぎょっとしたりする感受性は、すでに松崎からは、喪われていた。
☆
さて。今度は、まるっきりぎょっとした人の話をしよう。
信彦は――嶋村信彦は、ほんとにぎょっとしたのだ。その日、午後、白谷雲水峡にて。
その日の午後。信彦は、ほとんどなげやりな気持ちで、白谷雲水峡へ、ハイキングにでかけていたのだ。
あ、とは言っても。白谷雲水峡の名誉の為にも書いておくが、別にそこへ行くということは、決して、自暴自棄な行動という訳でも無分別な行動という訳でもない。むしろ、白谷雲水峡は、ハイキングを楽しむにはなかなかいい場所だ。
だが。信彦の身になってみれば。そもそも、信彦はハイキングなんか、まったくしたくはなかったのだ。ではそれ以外、何をしたいのかというと、それもまったくなく……そもそも、彼には、屋久島へ来る動機も何もまったくなかったのだ。ただ、ある朝目がさめたら、心の中で何かの泡がぱちんと弾け、『屋久島』という単語が心の中からでてゆかなくなっただけ。そんな人間が――一体、なげやりな気持ちになれずに、何をやれるっていうのだ?
ただ。彼にも彼なりの常識があるし、自分自身が社会生活を営んでいるという自覚もある。だから、適当にとった宿の|仲《なか》|居《い》さんに、『ここへは観光ですか?』とか何とか、適当に聞かれれば適当に答えた。適当に答えているうちに、その親切な仲居さん、信彦には目的地も特にやりたいこともないみたいだって判ってしまい、ならばっていうんでハイキングなんか勧められ、生返事をしているうちにお弁当まで作ってもらうことになってしまい……他にやることもなかった信彦、しょうがない、「何で僕は今ここでこんなことをしているんだろう?」って疑問に悩まされながらも、半ばなげやりに、ハイキングをしている訳である。
そしてまた。運動というのはそれなりにストレスには効果があるもので――その日、結構早くからお昼まで、みっちり歩いた信彦は、それなりにハイキングを|満《まん》|喫《きつ》し、それなりに一時は「ここで僕は何をやっているんだろう?」っていう気分を忘れ、適当な処で、中休みをかねた昼食をとることになる。
「……ああ、今日は何だかやけにまぶしいな」
そんなことを呟きながら、適当な処に腰をおろし、お弁当の包みをひろげた信彦――そこで急に異変に出会うことになる。
異変。
そう、それはおおげさではなく、『異変』としか、言いようがないものだった。何故って、お弁当をひろげた信彦の足許にあったヤマイモの蔓が、唐突に信彦の足に巻き付いたのだから……これは、異変と言う以外、何と言ったらいいのだ?
「え? ……ええ?」
信彦、まずは、驚いた。ヤマイモの蔓は、普通、間違っても、そう簡単にのびはしない。ということは、これは、絶対に自然現象ではあり得ない。何かの意志が働いて、で、ヤマイモの蔓が、その為に伸びたと思うべきで……。
「ええ? え? おい? ……おい?」
何かの意志が働いて、で、その為に、ヤマイモの蔓が、伸びる。その、『何かの意志』にあたるものって、信彦にとっては、たった一つしか心あたりがなくて……そしてそれって信じられなくって……信彦は、ただいたずらに、妙な声をあげ続ける。
「明日香! おまえか!」
当然、ヤマイモの蔓は、しゃべらない。
「いや、まさか、明日香は死んだんだ。それははっきりしている。でも……じゃ、おまえは、何なんだ!」
ヤマイモの蔓は、何も言わない。
「おまえ……頼む、あんまり残酷なことはしないでくれ。おまえは……明日香か? もしそうでないのなら、頼むから僕に干渉しないでくれ。そういうことをされると、僕はおまえが明日香だと……明日香の意をうけたものだと思ってしまう。そう思わせておいて……そのあとで裏切るのは、残酷だ」
だが、ヤマイモの蔓は、何も言わない。――いや。ヤマイモは、あるいは、必死になって何かを言っているのかも知れないのだ。ただ……信彦には、植物の声を聞く能力がない。そこで、信彦に判る現象としては――ヤマイモの蔓は、ただただ強く、信彦の足にまきつくだけ。
「おまえ……明日香……いや、死んだ筈だ、いや、その……ひょっとして夢子さん? だとしたら、どうかこんな思わせぶりなことは……明日香なのか?」
信彦の台詞は、もう、支離滅裂。
ただ。それでも。
ヤマイモの蔓がひっぱる力を増し――どうやら、ある特定の方向へと、信彦をひっぱってゆこうとしていると見極めてからは、信彦、もう何も言わなくなった。言えないのだ。……怖くて。
明日香。これはおまえか? おまえは生きているのか? 生きていて欲しい。生きていて欲しい。たとえどんな姿になってでも、例えばこのヤマイモがおまえであったとしても、とにかくおまえに生きていて欲しい。
明日香。でも、死んだ筈だ。僕は確認をした。だとしたらこれは何だ? 僕はもう嫌だ。ここでおまえが生きていると信じて――そののち、おまえが死んだことを再確認するのなんて、僕は絶対に嫌だ。耐えられない。
明日香。これは何なんだ? 聞きたい――でも、聞きたくない。怖い。
かくて。信彦は、はなはだ不本意ながらも、そしてまた、まるで、これから十三階段を登る死刑囚のような表情になりながらも、しょうがない、ヤマイモの蔓が導く方向へと、歩きだしていったのだ――。
☆
さて。
不本意というならば、箕面夏海と三沢のカップルこそ、まさしく『不本意』な目に会っていた。いや、より正確に言うなら、このカップルのうち、とにかく夏海だけが、圧倒的に不本意だった。
夏海にしてみれば。そもそも、発端からして、不本意なのだ。何故、自分がこんなことに噛んでしまったのか、何故、自分がこんなことをする|羽《は》|目《め》になったのか、その動機が、いくら考えても、よく判らない。何が何だか判らないまま、屋久島まで来てしまったものの――この後が、大変なのだ。それはよく判っているのだ。
まず、勤務先である、研究所。昨日までの彼女には屋久島へ旅行するだなんて意志はまったくなかったのだから、当然、休暇願なんてだしてなかった。故に、今日、彼女は自分の勤め先を無断欠勤したことになる。しかも、当日の朝、病気を理由に欠勤の電話もしていない。とすると彼女は、前もっての届けも、当日の連絡もなしに、とにかく無断欠勤をしたっていうことになり……これはもう、殆ど言い|繕《つくろ》いようもないミスではないか。
それから、家。ゆうべは、何が何だかよく判らないまま、とにかく三沢さんと同行して屋久島へ行くと家族に言ってしまった。そして……実際、そうしてしまった。こうなると、三沢さんと自分が何の関係もない、一回会って話しただけで、何故だか一緒に屋久島へ行くことになってしまった、だなんて夏海の説明を、家族が受け入れてくれるとは思えない。それにまた、明らかに仕事でも何でもない、プライベートの、男性と二人だけの旅行を、親が許してくれた理由を考えると……それもまた、怖かった。夏海の親は、彼女の結婚を何より望んで心待ちにしている親は、三沢が独身であり、世田谷に自宅があり、医者であることを知ると、何故か簡単に二人を心よく旅行に出してくれたのだけれど……これは、何か、誤解していないか? まして、確か、おぼろげな記憶の中で、母親は夏海に、『随分年上みたいだけれど、おまえ、いいの?』っていったような気も、しないではない。と、そんな誤解をしている家族の中に、三沢と別れた夏海が一人で帰っていって……それで何の問題も起こらないとは、夏海にはとても思えない。
つまり夏海は、自分でも思わないうちに、自分でも判らない動機で、勤め先と家族との間を決定的にまずくするような行動をとっている訳で……これはもうどうしていいのか、今の夏海にはまったく判らない。
そして、また。同行している三沢の言動が、一々夏海を刺激している。
「ああ、うん、これだよ。僕はこれが欲しかったんだ」
三沢は、|釣《つり》|具《ぐ》店をまわると、オキアミを入手した。オキアミ……はっ、オキアミ! 今、夏海は、自分の勤め先をあやうくふいにしかけているし、自分の家族の間にとんでもない誤解の種を|蒔《ま》いているっていうのに……この時期に、オキアミは、ないんじゃないかと思う。
「こいつをね、こうしてここにいれて……」
三沢、自分の釣道具の中に、オキアミをつめる。
「これがまき|餌《え》になって、で、魚が釣れるんだが……」
あーのーねー。まき餌はどうでもいいの。オキアミだって、どうでも、いい。あたしが気にしているのは、あたしの気になっているのは……ただ、ただ……ただ……。
夏海の怒り、あまりにも無邪気な、あまりにもあっけらかんとした、三沢の表情の為、表出するのをはばかられる。
「さあ、これでアジを釣るぞお。何年ぶりかな、魚つりなんて。昔のカンを腕が覚えていてくれればいいんだが……」
それから。三沢、ふっと夏海の表情を見て、小声でこんなことを言う。
「あのね、そんな心配そうな顔をしなくても、こういう状態になった以上、そのうち明日香の方から絶対何か言ってくるから。僕達は、ただ、普通の旅行客が普通にするようなことをして、待っていればいいんだよ」
「は?」
で――夏海には、この三沢の台詞が判らない。こういう状態っていうのがどういう状態だか判らないし、明日香って人に心あたりはないし……いや、この間っからその名前は何回か聞いてはいるけれど、でもその人が誰だかどういう人なんだか、結局夏海は判らない。
「……ああ。今の状態の君には、これって判らない話だったんだね。……とにかく、君は何も心配をする必要はないよ」
いくら三沢が落ち着いて、いくら頼もし気にそう保証してくれても、当然、夏海はそんな言葉で安心することなんてできない。大体が三沢は夏海の研究所に|拉《ら》|致《ち》された人間なんだし、そもそも落ち着いて考えてみれば、この旅行の旅費も滞在費も――もっと細かいこと言っちゃえば、釣り|竿《ざお》の借り賃もオキアミを買ったのも、みんな夏海のお金だ。
でも――けれど。
三沢の態度が、何だかあまりに堂々と、何だかあまりにあっけらかんとしているものだから、夏海、心の中ではぶちぶち文句を言い続けの癖に、声にだしてはどうしても三沢に文句がつけられない。ただ、とにかく不本意だって顔をして、三沢の後をついて歩くだけ。三沢は、そんな夏海の様子をどう思っているんだか、何だか無闇に上天気な空の|許《もと》、いとも気楽にすたすた港の方へと歩いてゆく。
「港の堤防の処で釣れるって親父さんは言ってたね。堤防って……あれ、かな? ああ、あそこに堤防に登る為のはしごがあるな」
はしご。スカートはいて、バケツを持って(釣り具店の親父さんが、釣り竿と一緒に貸してくれたのだ。どうやらこれに海水をくんで、オキアミでべたついた手を洗ったり何だりするらしい。三沢はすでに、右手にオキアミのビニール袋、左手に釣り竿、右肩にクーラーをさげていたので、このバケツを持ちきれず、しょうがない、夏海、不本意の上に不本意をかさねて、バケツを抱えて歩いていたのだ)、それであんなもん、登るんだろうか? そう思うと、夏海、重ね重ね、重々、とにかく、不本意。
と。まさかそんな夏海の表情のせいではないだろうが、前をゆく三沢の背中が、ふいにぴくんと|痙《けい》|攣《れん》し、同時に三沢の足も、ぴたっと止まってしまったのだ。
ぴたっと止まって――そして。
「おいでって……言っている」
「は?」
三沢のこの台詞は、夏海にとってまったく意味不明だった。
「おいでって、言ってるんだ」
「は? ……へ?」
誰かそばにいるんだろうか? 夏海、思わずきょろきょろとあたりを見回す。でも、そこは、港の釣り場へと続く道の上で、あたりにあるのは、せいぜいがコンクリートで|舗《ほ》|装《そう》された地面と、その隙間から生えている雑草だけ。
「明日香が、呼んでる」
明日香。さっきも明日香、今も明日香。明日香って人が、一体何の関係があるっていうんだろう?
「あ……あの……?」
「聞こえないのか? あの声が」
「え? ……え?」
「聞こえないのか。……そうか、聞こえないんだな、君には。でも、明日香が呼んでる」
声なんか、何にも、聞こえない。もし聞こえるとしたら、それって三沢の幻聴なんじゃないだろうか?
「やだ、あの、三沢さん、どうしたんですか? しっかりしてください」
「……聞こえない人に説明しても無理だが……とにかく、行かなければ。明日香が呼んでいるんだ。僕達はこれを待っていたんじゃないか」
「は? あの……?」
かくて。
三沢は、そのまま、ふらふらと歩きだしてしまった。それまでの堂々とした快活さは一体どこへ行ってしまったんだろうって感じの|茫《ぼう》|洋《よう》とした瞳になって。で、一旦は、何だあれ、何て思って、三沢のことをほっておこうかと思った夏海も――考えてみれば、ここで三沢を見失ってしまったら、そもそもこの先の指針がまったくない。それにまた、時々はごくまともな癖に、時々はここまで病的になる三沢をおいていってしまうのは人道にもとることのような気もして、慌てて三沢のあとを追う。……あくまでも、不本意ながら。
「ちょっと、三沢さん、待って、待ってよ」
また、三沢の足取りは、ふらふらしているように見える癖に、やたらと早く、夏海、追い付くのに精一杯。その上、何とか三沢においついて、そのひじを捕まえたとしても、三沢、ぼんやりとしたまま夏海の手を振り払い、またふらふらと歩きだしてしまう。
「三沢さん! ね、三沢さんったら!」
そして――かくて。
いつの間にか、彼ら二人も、あやふやな、どこにあるのか判らない、植物の結界の中へとはいっていったのだ。三沢は、何かに酔っているかのように、ふらふらと。夏海は――あくまで、断固として、決定的に、不本意ながら。
☆
「……どうしよ、黒田くん、このままじゃまずいよ」
華やかな声が、耳の奥でこだまする。ああ、良子だ。
「このままじゃ、うちの喫茶店、売り上げがマイナスになっちゃう」
「どうしてだよ? ちゃんとコーヒー豆をひいてコーヒー出してるのって、うちの店だけだろ? 何でそのコーヒーがよその奴らのインスタントより不評なんだよ」
高校の、文化祭。収益が得られそうにない、いや、このままでは赤字は必至だっていうんで、良子も黒田も顔をひきつらせている。……一体何だって、こんなに必死になっているんだか。どうせ収益がでたとしても、その利益って、生徒会を通じて、慈善団体に寄付されることが決っているっていうのに。今なら黒田、いっくらだって笑って良子に言ってやれるだろう。たかが高校の文化祭の模擬店で、どのくらい赤字がでたとしたって、そんなの実社会じゃ問題にもならない額だって。何なら自分のポケットマネーで、その赤字、全部|充填《じゅうてん》してやってもいい。それでも問題にならないような額。なのに、それが判っていても、黒田の声、何故かひきつって、何故か良子を責めるようなものになってしまう。良子。たとえおまえが何をしたって、おまえを責める気なんてまるでないのに。そんなことをするくらいなら、自分で自分の首をしめた方がましだっていうのに。黒田の心はそう言っていても、黒田の声はどうしてもそれを素直に表明できない。
「……判んない。苦いんだって、うちのコーヒー」
「どれ、ちょっと飲ませてみろよ……ぶはっ!」
何なんだ、このコーヒーは。これが、コーヒーと呼べるものなんだろうか? あまりと言えばあまりの味に、黒田、思わず、|咳《せき》こみそうになってしまう。
「あ、やっぱ、まずい? 黒田くん」
「まずいなんてもんじゃねー。何とかしなきゃ」
あああ。良子。こんなこと、言いたい訳じゃ、ないのに。確かにこのコーヒーはまずいなんてものじゃないけど……でも、それって良子のせいじゃないだろ? そんなことは、判ってる。それに、もしこれが良子のいれたコーヒーなら、これをまずいっていった奴、俺が出口で待ってて殴ってやったっていい。心では、そう思っているのに、心では、こんなまずいコーヒーの為にいろいろ悩んでいるらしい良子のことをひたすら気づかっているのに……なのに、口からでるのは、全然そんな思いとはかけ離れた台詞。
「誰だよ、コーヒーいれてんの。濃すぎる」
「あ、そうなの?」
ああ、やっぱり。これ、良子のせいじゃ、ないんだよな。そんなことは判っていたんだよな。だって、もしこれが良子のいれたものであるなら……たとえ、青酸カリの水溶液だって、俺は死ぬ前に『うまい』って言えるだけの覚悟があるんだもの。なのに、口から出るのは、まったく違った言葉。
「あ、そうなの、じゃないんだよ、岡田さん。これ、飲んでみろよ」
岡田さん。そうだ、この当時、黒田は彼女のことを『良子』なんて呼べやしなかったんだ。呼んだことなんて一回もなかったんだ。……たとえ、心の中で、日に何回、そう呼んでいようとも。
「うわっ。何、これ、飲めるものじゃないじゃない」
「だから、コーヒーいれてる責任者を呼べって言ってるんだよ。コーヒーってのはなー、沢山豆使っていれればおいしいってもんじゃないんだよ。あたり前のことだけど、適量ってものがあるんだ。このコーヒーいれてる奴、その適量って問題を、まったく無視してる。豆が多ければそれだけおいしくなるってもんじゃない」
黒田は。
夢の中で、高校時代の文化祭へと、タイム・スリップを起こしていた。高校時代の文化祭、黒田と岡田さんがクラスでやった喫茶店の責任者だった、岡田さんとの思い出の時へと。
……ああ。岡田さん。何で忘れていたんだろう、良子の|名字《みょうじ》が岡田だったことを。
が、やがて。夢は終る。|覚《かく》|醒《せい》の時が、近付いてくる。
岡田さん。――良子。
覚醒の時が、近付いてくる。その、半ば眠っている、半ば覚醒している、不思議な意識の中で。ふいに、黒田は、判ったのだ。
明日香――良子だと思っていた。本質的な処で、良子に似ていると思った。それは、今でもそう思う。本質的に、明日香は僕の良子なのだ。一回|喪《うしな》って――そして再び手に入れることができた、二度と喪いたくはない、理想の女性。なのに、そんな明日香は、不思議と容貌その他、皮相的な処が、良子に似ていなかった。その答えが、今、判ったのだ。
やっぱり明日香は、皮相的な処でも、良子に似ていたのだ。どういう無意識のいたずらでか、ずっと忘れていたのだけれど、良子の名字は岡田で――だから、明日香の名字もまた、岡田なのだ。やっぱり二人は、同じ人間なのだ。
三沢良介。これだけ明日香に|固《こ》|執《しつ》している自分が、何故、三沢の調査にあまり力をいれなかったのか。明日香の過去をそうよく知っている筈のない嶋村の捜索に主力をさき、三沢の捜索を二の次にしたのは何故なのか。そしてまた、今、たいした監視もつけずに三沢を放っておくのは何故なのか。その答も、また、判ってしまった。何故ならば、三沢というのは、間違った名前だからだ。彼女の姓は、岡田であるべきなのだ。
とすると。もう一つ、とんでもないことが判る。
嶋村信彦。みつかったと聞いて、もうその任にないというのに、黒田は何故か彼を追ってここまで来てしまった。任を離れた以上、この先、もうおそらくは二度と明日香には会えないだろうっていうのに、にもかかわらず、明日香のそばにいるよりは、嶋村の方を追ってきてしまった。その理由が――判った。
無意識の世界の中で、嶋村は、黒田なのだ。明日香に――良子に愛され、それ故に彼女を精神的な自殺においこんだのは、黒田でなければいけないのだ。だから――嶋村は、実は黒田なのだ。
夢の世界は、くるくる変わる。
くるくる変わって……もう今は。
一瞬、黒田は、三沢のことや、嶋村のことで、何かが判ったような気がしたのだが……あとに残っているのは、何やら楽し気な、文化祭の思い出の残像。
文化祭。ああ、文化祭は楽しいね、確かに。でも……でも。
所詮、それは、お祭り騒ぎ。所詮、それは、疑似体験。
そして――やがて。
黒田は、目覚める。本格的に。夢のことなんか忘れて。
☆
黒田は、目覚めた。本格的に。夢のことなんか、忘れて。
何やら、自分のみた夢の残骸は、それでも黒田、覚えていた。そして――その、夢の残骸の中に、何か特別な意味があるような気は、した。……でも……そんな意味なんか、完全に覚醒してしまった黒田には、判らない。
「ああ……いい天気だ」
朝起きて一回のびをし、御飯を食べのびをした黒田、さて、これからのことに、行き詰まる。
もし、黒田が、それまでの地位にいれば。答えは簡単、彼は、ただそこで、昼御飯の前ののびをし、昼御飯を食べて満足したのびをしていればいいのである。その間に、彼の意を受けた者達が、嶋村のことについて報告をしてくれる筈なのだから。
だが。彼にはすでに、そういう意味でのスタッフが、いなくなっていたのである。ここでは、もし黒田が、嶋村の消息を知りたいのなら、それを黒田に教えてくれることが可能なのは、ただ、黒田の調査のみ。
「その種の調査は、もうずいぶん長いことしていないし、ああいうことをやるのは、面倒くさいんだが……」
だが。その台詞と裏腹に、その日、調査の為に出かけてゆく黒田の表情って、何だか極めて明るいはればれとしたものだった。そんな黒田の表情を見ていると――ここから先、植物が黒田を誘う為にとった手段は、ちょっと意地が悪かったかも知れない。
まず、旅館を出た処で、黒田、その旅館の玄関先に生えている松の根に足をとられて、すっ転んだ。それから、ちょっと行った処で、右に曲ろうとすると、タマシダに足をとられてすっ転んだ。もうちょっと行くと、ベニシダに足をとられて、すっ転んだ。更に行くと、シラタマカズラに足をとられて、すっ転んだ。
「な……何なんだ、これは」
さすがに、この辺まで転ぶと、黒田も、植物の意志ってものを感じだしてしまう。彼らは、どうやら一致団結して、黒田がとある方向へいかないと彼を転ばすようにしているみたいで……で、しょうがない、半ばは好奇心も手伝って、黒田は、植物が黒田を転ばせないでいてくれる方向へと、行くことになるのである。
かくて、黒田は。
何度も何度も転びながら、おそるおそるって感じで、植物達が呼んでいる、問題の処へ――世界樹の結界へと足を踏みいれてゆくことになるのである……。
7
夢子は――そして、松崎は、信彦は、三沢と夏海は、黒田は、気がつくと、いつの間にか、霧の中を歩いていた。
「ついさっきまであれだけいい天気だったのに、いつの間に霧なんか……」
声に出してこう呟いたのは、夢子だろうか。だが、その霧は、正確に言えば、霧とは呼べないものだった。
空気の中に、いつの間にか、何か異質な、通常の空間には存在しない、小さな分子が混じりこんでいるのだ。目に見えない程小さな、うすい緑がかった、大抵の人間にとって、異質な、なのに不思議と穏やかな安心感が得られる分子。ただ、夢子だけが、それを木々の想いだって認識でき――そして。その分子の量が増えるにつれて、段々、あたりの景色がにじんでくる。それは、分子の量が増えたから、あたりの景色にそれこそ霧だの|靄《もや》だのがかかって見えにくいってことなのかも知れないし……あるいは、彼らが、それまでいた人間の通常空間とはちょっと違った処へと移動しつつあるってことなのかも知れない。
あたりの景色がよく見えなくなった、処によってはもうすっかりあたりの景色なんて見えない、回りの様子すらよく判らない霧の中を、同じ目的地へ向かって、何人もの人達が歩いてゆく。と、こんな状況下では、やがて、同じ目的地へと向かう人達は、お互いにぶつかりあってしまう筈。そして実際、霧の中では、そんな出来事が発生しつつあった。
最初にぶつかったのは、夢子と三沢・夏海のカップルだった。
「あ……おじさま! おじさま、どうしてここへ?」
「夢子? おまえ、ほんとうに夢子なのか! どうしていたんだ、おまえ達は、さんざん心配してたんだぞ。拓は? 拓はどこにいる」
「……拓とは……事情があって、行動を別にしているんです。それより、おじさまこそ、どうしてここへ? おじさまは大丈夫なんですか? あたし達のせいで人間に追われたりしてないんですか?」
「あの、この人は、どなたですか……って……え……え……え……な、何、この人、髪の色が緑色してる!」
で、最後に大声をあげたのが、まったく事情を知らない夏海。
「ああ、箕面くん、それはいいんだ。それは別にいいんだよ。……夢子もどうか興奮しないで」
「やだっ! 嘘っ! この人の髪の毛、動くじゃないですか! 風だって……風だって、吹いてないのにっ!」
「おじさま、この方は? ……あたし、これでもかなり、人間に対しては恨みがあるんです。あたしは……明日香を、あんなに孤独で、この世の中にたった一人で生きてきた女の子を、不幸にした、人間って奴らが許せない。一人残らず、殺してやりたい。この人が――どういう人だか知りませんけれど、場合によったら……。あたしはもう、この手で人を殺すことにためらいを覚えるとは思えない」
「夢子! 興奮しないでくれ、頼むから」
さて。その時、地理的に言えば、ちょうどこの二人のうしろの方を歩いていたのが黒田と松崎で、夢子のこの大声、充分その二人の注意をひいてしまった。で、おのおの、自分だけがこの霧の中を一人で歩いていたと思っていた黒田と松崎、前方で大声をあげている人間の存在を知った|途《と》|端《たん》、慌ててそっちへ歩いてゆき。期せずして、興奮して髪をのたくらせている夢子の前で、松崎と黒田がばったり|出《で》|喰《く》わすことになる。
「君は――夢子! 夢子じゃないか! あの、子供達の一人! ああ、やっぱり縄文杉の前で待っていたのは正しかった」
「松崎っ! 貴様、よくものこのことその顔を出せたものだな!」
「おじさまっ! どいて! この男は――この男だけは、許せない。あたしが、あたしが決着をつけてやる」
「夢子。ああ、夢子。どれだけ君に会いたかったか。こんなことを言うと君は怒るだろうが、僕はずっと、岡田先生の処で君達を見たあの時から、ずっと君達に恋焦がれてきたんだ。君と、拓をつかまえるのは僕だって、ずっと、思ってきた。あの黒田なんて奴じゃなくて」
「私が……どうかしたかね、松崎教授。ああ、そこにいるのが夢子さんか。そして――三沢さん! 一体……いつ、どうやって、研究所から逃げ出せたんだ!」
「黒田……さん? どうしてここに」
「え? その声は……すると君は、他人のそら似じゃなくて、本当の箕面君か? 君、何だってこんな処にいるんだ? 君に嶋村を追えだなんて、私は言った覚えがないぞ」
「嶋村を追えって、彼はここに来てるのかね?」
「いや、それよりも……落ち着いて考えてみれば、何で夢子さんや三沢さん、あんたがここにいるんだ? ……松崎さん、あんたがここにいる理由は、何となく判るような気がするが」
「うるさい! 黒田、おまえじゃない、おまえじゃないんだ! 緑色の髪の子供達を、真実追い続ける資格があるのは、おまえなんかじゃないし、日本国政府でもない、西側諸国なんかでもない。私だけだ! 私だけの筈なんだ! 私だけが、ずっと、ずっと、あの時、岡田先生の家を訪ねた運命のあの時から、私だけが、子供達を追い続ける資格を持っているんだ!」
「松崎っ! おまえのせいで……おまえのせいで、岡田のおじさんは死ななければならなくなった。歩を、望を殺させたのも、おまえだ。明日香は……明日香も……」
「そうよ、明日香! 松崎、あたしはあんたを許さない。明日香が死んだのは、あんたと嶋村のせいだ。明日香が哀しむから、明日香の為に、嶋村にあたしは手をだせないけれど……でも、あんたは、話が別よ。あたしが――あたしが――」
突然、気の狂いそうなボリュームで、まるで無意味に|拳《げん》|骨《こつ》でピアノをぶったたいたような、とんでもない不協和音があたりになり響く。それと同時に、夢子の髪が、つけ根の処からするすると一メートルはのび、その髪、松崎の喉へとからみつく。
「夢……おねえさん! やめて下さい! あなたがそんなことをしたら、明日香が哀しむ」
そして。ここで突然、嶋村信彦が彼らの会話に割り込んでくる。信彦、実はちょっと前から、そばに夢子がいることに気がついていて、それでも、今までの|経《いき》|緯《さつ》を考えると自分から夢子に声をかけることができず、夢子に|気《け》|配《はい》をさとられないよう、何となくその辺にいたのだが……事態がこうなると、もう黙ってはいられない。
「お……ねえ、さん?」
一方。夢子にしてみれば、この信彦の言葉があんまり驚きだったらしく、それまでぴんと張っていた、松崎の首を絞めている髪が、ふいにゆるむ。
「ええ、おねえさんです。明日香にとって、あなたは実の姉よりももっと、姉らしい存在だった。だから……明日香の姉なら、僕にとっても姉だ。僕なんかがおねえさんって呼ぶのは、あるいはあなたにとって不本意なことなのかも知れないけれど……でも、明日香がとっても|慕《した》っていたおねえさんなんだもの、あなたはおねえさんです。そのおねえさんがそんなことをしたら……明日香の為に、人を殺したりなんてしたら……明日香がどんなに哀しむか」
「明日香が……あたしのことを……そんな風に?」
夢子の緑の髪、今はもう力なく、だらんとたれさがる。何とかその髪を首から外した松崎、ただただひたすらぜいぜいと荒い呼吸をする。
「明日香が……あたしのことを……姉だって言ってくれたの? それがほんとなら……それがほんとなら、あたしはどんなに嬉しいか……」
すうっと、夢子の髪が、すべて地に落ちる。それから、夢子の髪、かすかに、ほんのわずかに、震えて。
「あの子がずっと好きだった。あの子をずっと守りたいと思ってた。それは、決して、あの子のお母さんに頼まれたからだってだけじゃない、あの子が拓の妹だからだってだけじゃない、あたしは、あの子個人が――誰の子供でも、誰の妹でもない、あの子個人が、好きだったから。そして――もし、明日香がほんのわずかでも、あたしのことをそういう意味で好いていてくれたなら……」
と。
その時。
何故か、急に霧がはれたのだ。
風が吹いたっていう訳ではないし、誰も空気の動きなんか感じていなかった。また、たちこめる時は、いつの間にか気がついたらみんなを囲んでいたって風情の霧が、こんどはやけにいさぎよく、一遍にきれいさっぱりとはれてしまい……。
そして。霧がはれたあとに残ったのは。実際に草がはえているという訳ではない、葉が繁っているという訳でもないのに、不思議と緑のイメージが強い、不思議とあたりが緑色に見える、小さな原っぱと――その中央に、一本の杉の木。どこまでも――それこそ、天にまでひたすら伸びてゆこうとしているような、高い、高い、また、信じられない程ふしくれだって、まるで何本もの杉がからみあっているかのように見える、太い、杉の木。それから、その杉の木の根本の処に、座りこんでいる……男?
そう、それは。実際、人間の男のように、見えた。ぱっと見た感じでは。でも……それは、果して、男なんだろうか? いや、それより前に、人間なんだろうか? いやいや、もっと前に……生物、なんだろうか?
と、そんな疑問を、黒田や夏海達に抱かせる程、その男は人間離れしていた。いや――動物離れしていた、と、言ってもいい。何故って、その男、最初のうちしばらくは、まったく動かず……意識のある行動をとらないなんてもんじゃない、呼吸の為に胸が動くという訳でもない、ほんのぴくりとでもどこかの筋肉が|痙《けい》|攣《れん》することもない、さながら人間の男の彫像のようで……。
また。その男の風体が、いささか突飛でありすぎた。座りこんでいる男のまわりには、二メートルを優に越える髪が野放図に伸びており、その髪は、もう何週間も、洗髪はおろか、|櫛《くし》すらいれたことがないように、ひたすらぐちゃぐちゃとからまって、一部は垢か汚れのせいでか、妙な具合にくっつきあっており……その上、その髪は、深いダーク・グリーンをしている。おまけに、男の顔といわず腕といわず……場所によっては洋服の上にまで、うっすらと緑色の|苔《こけ》のようなものが付着しており……体に、こうまで見事な苔をはやすことができる人間が、いる訳がない。
……拓? これは、ひょっとして、拓?
この場にいる人々の中で。ただ、夢子だけが、あるいはこの男は拓なのかなって思ったのだが……だが、この男の人相と、夢子の知っている拓の人相は、違いすぎた。確かに細かい処は苔に覆われてよく判らないが、拓はこんなに|痩《や》せてなかったし、こんなに鋭角的な顔をしていなかったし……何より、こんなに辛そうな人間では、なかった筈だ。だから、夢子、かけようとした声を一瞬ためらい……と。
と。
「……ああ。よくいらっしゃいました」
彫像のように見えた男、やっと三沢達のことに気がついたらしく、何やらびっくりしたような風情で、ふいに声をあげたのだ。何やらびっくりした風情――おそらくは男、自分の心の中に、あまりにも深く、とっても深く沈みこんでいたので、自分の周囲で何が起こっているのか、それまで殆ど認識していなかったらしい。で、その男の声を聞いて――その男の声を聞いてやっと、夢子、理解する。これは、拓だ。たとえ外見がどれ程変わろうと、でも、これは、拓だ。また、この男の声を聞いて、三沢、やっと気がつく。この男は……あるいは、拓じゃ、ないのか?
「拓! ……あなた、どうしたの? 何があったっていうの?」
「拓? おまえ、拓なのか? どうしたんだ、病気か? 体は大丈夫なのか?」
夢子と三沢が、連続して声をあげる。
「……ああ……夢子。おじさん。心配してくれているんだね、どうもありがとう。……だけど、僕は、別にどこも悪くない。……ああ……心配、しないで」
それから、拓、ゆらりと立ち上がったのだが……その様子は、お世辞にも、普通の人間のものとは思いにくかった。動くのが|大《たい》|儀《ぎ》――と言うより、どうも、自分が動ける生物であるってことを、今の今まですっかり忘れてでもいたような、動作。
「今の僕の様子が、ちょっとおかしいのは……ああ……その……まだ、状態が、人間むけに調節できていないからで……どこも悪くは、ありませんから。……ああ……口を動かしたのは、久しぶりだ。……|成《なる》|程《ほど》、ある程度|唾《だ》|液《えき》がないと、舌ってよく動かないものなんですね……」
「おい、拓! 口を動かすのが久しぶりって、食事は? 水は? おまえだって、水を飲まなきゃ、光合成だけで生きてゆける訳が……」
三沢、ふいに拓がふらっとよろけたもので、思わず一歩、前へでて、拓の体を支えようとする。他の連中――特に、事情がまったく判らない夏海や、ある程度の事情を推測するしかない黒田は、拓の様子に|気《け》|押《お》されてしまって、もはやとても口がきけない。
「ああ……おじさん、ありがとうございます。……大丈夫です。……ああ……どうやらだいぶ、復調してきた。おじさん、ありがとう、もう僕は自分で立てます」
それから拓、ぐるんと一回首をまわし、さっきよりずいぶんなめらかになった舌で、こう、台詞を続ける。
「今日、みなさんにお集まりいただいたのは……僕が代理をしている、ある人物からの、お願いがあるからなんです――」
☆
「……その前に、はっきりさせておきたいことがある」
ごっくん。
思いっきり自分の|唾《つば》を飲み込むと、何とか、黒田、こう台詞を紡ぎ出した。
「私は……その……よく判らないのだが、君によってこの場所へ誘われたのかい? そして……今までのこちらの人々の台詞から推測するに、君が、岡田――あるいは三沢拓くんで……こちらの女性が、夢子さん」
「ええ、そうです。……もっとも、正確に言えば、あなた達を誘ったのは、僕ではなくて、僕が代理している人物なんですが……」
「そうか。手配写真とはあまりに人相が違っているもので……ここまで|面《おも》がわりをされたら、君を捜し出せなかったのも無理はない……」
「逆に、ここまで特徴的な髪をして、体中に苔なんかはやしていたら、写真なんか何一つなくても、すぐに僕が誰だか判るでしょうに」
こう言うと拓、くすくす笑う。それから、再び口をひらきかけた黒田を手で制して。
「ああ、自己紹介はしてくださらなくて結構です。あなたは、黒田さん。名前も、あなたがどういう地位にいるのかも、すべて僕には判っています」
「どうして私の名前まで! それに……考えてみれば、おそらく今まで我々の手からひたすら逃げていた筈の君が、どうして自分から我々に接触をとろうとしたんだい? それも……その……」
それから、黒田、ちらっとかすかに夢子の方を盗み見る。
「その……今まで、あきらかに我々から逃げていた、夢子さんまで――そして、同じく逃げていた嶋村くんや、ついこの間つかまったものの、どういう手段によってだか、再び我々の許から逃げ出した三沢さんまでも、こみで」
「そういう疑問が、おそらくはあなたから出るんじゃないかと思っていました」
拓、こう言うと、再びくすくす笑う。それから、慌てて何か反論しようとしたらしい、夢子や三沢の動きを手で制する。そしてまた……勢いこんで口をきこうとする、松崎をも、制して。
「ああ、松崎さん、あなたもどうか、黙っていて下さい。僕があなたをここへ呼んだのは、決して、僕や夢子があなたの研究に協力するつもりがあるからだって訳じゃなくて……むしろ、逆なんですから。僕も、夢子も、そして、もしここにいたら明日香もね、あなたの研究材料になる気は、これっぽっちも、ないんです。それを、あなたに、心の|髄《ずい》から|納《なっ》|得《とく》してもらう為に、あなたをここへ呼びました」
それから。こう言われて、まるで鼻先を殴られたような表情になった松崎の脇で、こちらはこちらで、自分を呼んだのは明日香ではないと知り、絶望と苦悩を顔中に刻みつけたような表情になっている嶋村にも、拓は、声をかける。
「それから……嶋村くん。明日香が死んだ今となって――明日香が、人間形をした生物としては完全に死んだ今になって、君にこんな招集をかけるのは、ある意味で、とっても残酷なことだって、僕もよく知っている。……だが……どうしても、君には、この場にいて欲しかったのだ。これは、明日香の意志だと思ってくれてもいい。……ただ、もし、君が、このやり方で傷ついたのなら……それは、許して欲しい」
「……いえ……あの……確かにちょっとショックはうけましたが、でも。……そうです、でも! 許して欲しいだなんて!」
信彦、半ば涙ぐみながら、こう答える。
「許して欲しいのは、許して欲しいのは僕の方なんです! 許して欲しいのは、人間の方なんだ! 明日香を……明日香を……あんな形で死なせてしまって……僕は明日香を守らなきゃいけなかったのに!」
「そうよ」
と、ここで、世にも冷たい声で台詞をはさんだのは、夢子。
「そうよ。あんた達が……あんた達人間が、明日香を殺したんだわ。……拓が、何を言う気なのか、あたしは知らない。でも、あたしは、たった一つのことを知ってる。明日香を殺したのは……あんなにさみしい、この世の中にたった一人で存在している、さみしい魂を殺したのは、あんた達よ! 人間よ! 嶋村は、まだ、反省しているからいいとして……まったく反省をしていない、松崎、あんたよ! 黒田だか何だか、とにかく、あんたよ! あんた達よ!」
と、まあ。こんな夢子の、さながら血を|絞《しぼ》るような叫びを聞いて、嶋村はそれまでよりずっとうなだれ、松崎は一瞬鼻白んだような表情になり――ただ一人、黒田だけが、その表情を変えなかった。
「確かに……明日香嬢が死んだのは、不幸な事故でしたね」
のみならず。黒田は、夢子が聞いたら確実に怒り狂いそうな台詞を、しゃらっと口にする。
「黒田――黒田さんって言ったっけね、あんた! あんた、よく、そういうことが言えると思うわ。よく、よくも、そういうことが……」
で、案の|定《じょう》。この台詞を聞いた夢子の髪、またもや伸びて、あやうく黒田の首にまきつこうとしたのだけれど……黒田の、妙に冷静な声が、それを|鎮《しず》める。
「夢子さん。あなただって、常識で考えれば判るだろう。明日香嬢が死んだことは、私達にとっても、大変不幸なことだったんだ。私達が、彼女を殺そうだなんて思う訳がないんだ」
「どうして? 実際、殺した癖に」
「私達は、手つかずの、無事な、生きているエイリアンが欲しかった。……それは、君にも判るだろう? 私達は、死体なんか欲しくはなかったんだ。……そういう意味では、明日香嬢が死んだのは、我々にとっても不幸な出来事だった」
「手つかずの、生きているエイリアンが欲しかった! つまりは、標本として」
「そう。標本は、できるだけ満足なものが……そして、叶うことなら、生きているものが、望ましい」
感情って、不思議なものだ。肉親の情故に怒り狂っていた夢子、あくまで実利的な、あくまで勝手な、この黒田の台詞を聞いて、余りにも怒りすぎたせいで、逆に落ち着いてしまう。そしてまた……おそらくは黒田は、そういう効果を狙って、わざと夢子を刺激するような台詞を言ったのだろうけれど。実際の黒田は……明日香と良子を混同してしまう黒田は、明日香に対して、まったく違う感情を抱いているっていうのに。
でも、たとえ。たとえ、明日香に、あるいは良子に、どんな感情を抱いていたとしても、黒田は決して自分の表情を動かしはしなかったろう。それまでの経歴、そして経験が養ってきた、ポーカーフェイスはこの程度のことでは崩れない。
「……話が、ずれてますね」
拓の台詞。黒田も……そして、他の誰でも、果してこの条件下で、この台詞をちゃんと聞いているんだかいないんだか。
「話が、ずれてますね」
再び拓は、この台詞を口にする。と、どうやら、今度は、大多数の人々が、この台詞に注意を払ってくれたようだ。
「ずれた話を元に戻しますが……まず、黒田さん。僕は、そして、夢子は、死んだ明日香は、確かにエイリアンです。それは認めます」
黒田と――そして、今まで、何で自分がこんな処にいるんだろうって思っていた夏海、拓の、その台詞に驚く。そして、どよめく。黒田、さっきはついうっかりと、明日香達がエイリアンであるという前提で言葉を発したのだけれど……興奮しきっている夢子はともかく、一見いかにも落ち着いて見える拓が、よもやその黒田の台詞を簡単に肯定するとは思っていなかったし……まして、こんなにも淡々と、拓が自分達のことをエイリアンであるだなんて認めるとは思っていなかった。
「でも、黒田さん。僕達は……僕も、夢子も、明日香も、あなた達の実験材料になる気はないんです。僕達のことは、忘れてください。……僕達は……あなたの、そして、あなたが代表する、西側諸国の研究材料には決してなりませんし、また、地球人類をおびやかすような存在には、決してなりませんから……ただ、この、地球の片隅で、僕達が生きていることを、認めてください」
話が……あまりに大きすぎて、また、黒田自身は、昨日づけで本来の役職からは解き放たれてしまっているので……黒田、この拓の台詞に、何とも|相《あい》|槌《づち》をうてない。
と、拓、続いて。
「夢子。おじさん。あなた達が怒っているのが、僕には判る。……二人共、思っているんでしょう? たとえ僕がどんなにまっとうな要求をしたって、どんなに当然のことをお願いしたって、黒田さんを代表とする人類ってものが、僕達を実験材料にしない筈がない、僕達のことをあきらめる筈がないって。そしてそれは……松崎さんにしたって、そうだ。たとえ、今、口先だけで二人がそれを約束してくれたとしても、でも、最終的にその約束が守られる訳がないって。それからまた、夢子、おまえはもっと個人的に、今の僕の台詞に怒っているだろう? おまえには、地球の片隅で、静かにずっと生きてゆく気なんてまるでないんだものね。おまえがやりたいのは、全植物の力を借りての明日香の復讐戦で……おまえは、たとえ、この地球ってものがその結果滅びることになってしまっても、人類ってものが絶滅することになってしまっても、でも、明日香の|仇《かたき》をとりたいんだろう? それは、できないことだ、そして我々は決してそれをしない、って、僕が勝手に言ってしまって、おまえはさぞかし腹に|据《す》えかねていることだと思う」
「そ……それが、判っているなら」
夢子。今、拓が言ったようなことをまさしくずっと思ってきていて、その為に、ただ、その為だけに、世界樹を探していた夢子、拓のこの台詞を聞くと、顔を怒りでゆがめる。夢子の髪が、更に三十センチはのび、震え……でも、相手が拓なので、夢子、その髪を拓の首へとのばすことは、しない。
そしてまた。この、拓の台詞と、それをうける夢子の表情をみて。黒田が、再びごくっと唾をのみ、三沢は、ずっと信じようとしてきた、でも、いくら信じようとしてきても、最終的にはきっと裏切られることになるだろうって判っていた人物の、当然の裏切り行為を目のあたりにして……何とも形容しがたい、情けなさそうな表情になる。
「それが判っているなら、何だってあなたはそこでこんな|御《ご》|託《たく》をしゃべってんのよ! あたしは、嫌よ! 仮に、松崎や黒田って人が、あたし達を二度と追い回さない、あたし達のことは|終生《しゅうせい》ほっといてくれるって確約してくれたとしたって、でも、あたしは、嫌よ。あたしは、そんな取り引きなんかしない。……松崎でも、黒田でも、終生、あたし達のことを追い回せばいいんだわ。あたしは、いくらだって追いかけられてあげる。そのかわり」
そのかわり。こう言った時の夢子の目、何やら危険な想いを満たして、|妖《あや》しくきらりと光る。
「そのかわり――そのかわりに。あたしは、終生、忘れてあげない。あたしは、終生、|怨《うら》んでやる。……明日香を殺した、人間って生き物を。あたしは、終生、|祟《たた》ってやる。もしもできることならば、植物の力を借りて、あたしは生涯人間に対する祟り神になってやるし、仮に植物が力を貸してくれなくたって、単独で、いつまでだって、人間って奴を、|呪《のろ》ってやる」
「……おまえがそういう意見だってことは、よく、判っている。だから、おまえと僕は、訣別したんだ。……だが……その意見が、間違ったものだってことも、僕はよく知っているし……地球の植物は、決しておまえに力を貸してくれないだろうってこともまた、僕は知っている」
で。この夢子の台詞を聞いた拓が、なにがし哀しそうにこう言葉をつぐと、夢子、それに猛烈な勢いで反発して。
「さっきから思ってた。どうして? どうしてあなたにそんなことが判るの? あなただってあたしと同じ、地球の生物ではない植物の筈! そのあなたが、どうして地球の植物を代表しているみたいな口がきけるのよ!」
「きけるんだ……おまえにとっては、哀しいことに。きけるんだよ、夢子、僕は。……ああ、その話はまた、ちょっとおいておいて……どうやらタイム・リミットが近付いているみたいだから、先に他の話をすませてしまいますね」
拓の、この台詞を聞いて。夢子は、またまた、この台詞に猛反発しても、おかしくはなかったのだ。実際、何だか、自分だけが何でもかんでも知っているかのような、自分がこの地球の植物の代表であるかのような、この拓の口のきき方って、夢子の反発をさそって余りあるものだったのだけれど……だが。どうしてだか、夢子、何かに呑まれたように、この拓の台詞に反発するのをやめる。何故って。
何故って。
これは、一体、何なんだろう? 何だか拓、さっきから、話せば話す程、不思議な威厳が増してきていないか? 不思議と拓の台詞、どんどん強くなってきてはいないか?
「黒田さん」
で。転じて、拓が、話の|矛《ほこ》|先《さき》を向けたのは、黒田だった。
「あなたが、今までの地位を今日付けで追われたことを、僕は知っています」
「……!」
……これは。これは、正直言って、黒田にとっても、驚き以外の何物でもなかった。黒田の地位が、今日から変わる。そのことを知っていたのは、当の黒田と、黒田の直属の上司にあたる人物と、今日から黒田の後任となる人物だけである筈。勿論、夏海だってそのことは知らないし、三沢だの松崎だのが知る筈もない。まして……まったく黒田に関係のない、拓がどうしてそれを知っているのだろう?
「あなたの後任の人物は――多分、吉田氏だと思いますが――研究者に、今日にでも明日香の遺体をひき渡そうとするでしょう」
吉田! 何で吉田のことまで知ってる!
吉田のことを知っている人物は、研究所には殆どいない筈だし、以前、黒田と吉田が組んでやったプロジェクトと言えば、どれも機密のものの筈で……その吉田の名前がこうも簡単にでてしまうとは、これは一体、何事なんだ? 拓は……この男は、いつの間にか、どこかの組織と手でも組んだのか? だとしても――もしそうだとしても、こうも簡単に吉田の名前がでてきてしまう以上、我々の組織のどこかに、関係者のどこかに、国家レベルの機密を平気で|漏《ろう》|洩《えい》してしまう、とんでもない奴がいるってことになってしまう。
「……ああ、機密漏洩のことは、心配しなくて、いいです。僕には……特別なルートがありますから」
その、『特別なルート』が、まさに機密漏洩ルートで、それを気にしない訳にはいかないではないか。と、そんな黒田の思いを、拓は、軽くいなす。
「吉田さんは、趣味でゼラニウムの鉢を栽培していましたよね。まさか、あなた、ゼラニウムの鉢を、機密漏洩のかどで告発する訳にはいかないでしょう?」
「ゼラニウムの鉢って、機密漏洩って……まさか、ゼラニウムが機密を漏洩する筈がないし……あ、いや。対象が君達の場合、ゼラニウムの鉢が機密漏洩する可能性もあるのか」
ゼラニウムの鉢。ゼラニウムは、立派な、植物。そして――拓、夢子、明日香は……たとえ見た目がどれ程人間に見えようとも、でも、やっぱり、植物。人間なんて動物と違って、植物には植物同士、何らかの心の交流があるとすると……ゼラニウムから、植物である拓へ向かって、機密が漏洩してしまう可能性は、ない訳ではない。
こんな図式が、黒田の頭の中で、何とか納得のゆく形になるまで、軽く五秒はかかった。そして、その五秒あと。
「で、さて……その、吉田さんですが、彼なら、おそらくは、研究所に着任したのと同時に、明日香の体を移動しようとするでしょうね。彼なら、科学者との間に不必要な|軋《あつ》|轢《れき》を起こすことがないよう、ただちに、明日香の体を、科学者へと引き渡す筈です。……また、彼には、明日香に対する特別な感情なんて、勿論存在していませんし」
「あ……ああ、彼なら、そうすると思う」
「なら……それが、タイム・リミットです」
「え?」
「その瞬間、明日香は、死にます」
「え?」
「え?」
「あの?」
「今、何て?」
多数の声が、この拓の台詞と同時に、交錯した。
「その瞬間……明日香の体を移動しようとした瞬間、明日香は死にます」
また。まったく無表情に、拓はこう台詞を続ける。
そして――次に起こるのは、混乱――。
☆
「生きていたんですか? 明日香は、まだ、生きていたんですか?」
当然のことながら、かみつくような勢いでこう聞いてきたのは、嶋村信彦だった。
「死ぬって……その瞬間死ぬって、じゃ、今でも明日香はまだ生きているの?」
と、これは、夢子。
「明日香……死んだ筈じゃ、なかったのか?」
呆然と、こう呟いたのは、三沢。
「明日香! 生きているのなら、もし、生きているのなら、殺す訳にはいかない!」
これは、松崎。
「明日香……良子……いや、明日香。生きている筈はない、生きている筈はないんだ。だって、あの状態の明日香の、どこをどう見れば生きているだなんて結論に達することができるんだ? あきらかに明日香は、死んでいた筈だ」
と、これが、黒田。
拓は、全員の、こんな台詞を軽くいなし――まるっきり、誰の台詞も聞いていないかのような風情で、言葉を続ける。
「……この場合……『生きている』ってことと、『死んだ』ってことをどう定義するかによって、話はいくらでも複雑になるんですけれど……とりあえず、明日香は、今の時点では、まだ、完全に死んではいません。完全に死んでいないことをもって『生きている』というのなら、確かに、まだ、明日香は生きています」
「生きているんなら! 良子!」
そして。この拓の台詞をきいて、一番最初に取り乱したのは、意外にも黒田だった。
「……電話! どこにいけば公衆電話があるかね? 民家でもいい、とにかくここから一番近くにある電話はどこだ? 私を電話のある処まで連れていってくれ。すぐに、研究所に電話する。すぐに、吉田に電話をしよう。もし、良子がまだ生きていて、そして、吉田の行動によって良子が死んでしまう可能性があるのなら……何としても、それはやめさせなければいけない」
「……良子……?」
で、ためらいがちに、こう口をはさんだのが、夏海。
「あ、いや、明日香だ、明日香。まだ生きているものならば……まだ生きているものならば……」
それから黒田、しゃべっているうちに少しは冷静になってきたのか、慌てて自分の興奮を何とか言い|繕《つくろ》う。
「まだ生きているものならば、殺してしまうのはもったいない。せっかくの、生きている標本だっていうのに」
「あせらないでください、黒田さん。それから……明日香のことは、どうぞ、『良子』と呼んでくださっていいですよ。明日香とあなたが二人っきりの時は、あなたが明日香のことを『良子』と呼んでいたことは、知っていますから」
「拓……くん? 君はどうしてそんなことを……言っておくが、私にはゼラニウムはおろか、どんな植物も観賞する趣味はないぞ!」
「明日香から、聞いているんです。あなたの、良子から。明日香は、そうですね、言うなれば幽霊になって、僕にそのことを教えたんです。……これが、あせらなくていいって言った、もう一つの理由です。今の明日香は、また別の意味では、完全に死んでいます。もう彼女は、動くこともできなければ、しゃべることもできない、何もできない状態で、そしてそれはこのままでは回復不可能なんですから。ですから、今更、明日香の体が死んだとしても、事態には何の変化もないんですよ」
「……?」
「けれど……言い方を変えれば、まだ、明日香は生きていますし……そして、彼女は、永遠に、この地球って星がある限り、永久に、死にません。ある意味で一回死んで……そして、明日香は、不死になったんです」
「拓さん! 判らない! 僕にはあなたの言っていることがまったく判らない」
「ああ、嶋村くん、落ち着いて。どう言えばいいのかなあ……明日香は、帰化、したんだ」
「え? 気化?」
「帰化。帰化植物って、いうだろう? 明日香は、この地球って星に根をおろし、この地球って星に帰化したんだ。地球の生き物になった明日香は、実体のある生命をなくし……かわりに、永遠の生命を手に入れたんだよ。この星には、この地球って星には、この星が滅びるまでずっと、明日香の想いが残るだろう。それが、今、生きている明日香だ」
「……拓? おまえの言うことは……僕にもよく判らない。おまえは一体何を……」
「ああ、おじさん。どう言ったら判ってもらえるのかな。その、つまり……我々が、明日香が死んだ、と思った時点で、彼女は休眠状態にはいったんです。それも、長い、長い、休眠。二度と目覚めることのない筈の、休眠」
「植物の……休眠、か」
この、拓のいう『休眠』って言葉が理解できたのは、どうやら松崎と嶋村、そして夏海だけだったらしい。三人だけが、何となく判ったって表情をして、あとの連中がまったくぼおっとしていたので――そして、どうやら松崎と嶋村には説明をしようって意図が全然ないみたいなので――しょうがない、学者ではないものの、学者になりたくて植物学をかじっていた夏海が、おどおどしながらも、他の連中に解説をする。
「あの……植物っていうのは、時々、休眠って呼ばれる状態にはいることがあるんです。それは、主に、冬の時期、なんですけど。つまりその……動物は、移動ができるから、あたりの環境が自分の|棲《せい》|息《そく》に適さない程寒くなったり何だりすれば、そこからでてゆくことができるでしょう? なのに、植物には、それができないでしょう。うんとおおざっぱに言えば、その為に植物にある能力が、休眠なんです。休眠中は、その植物は、まったく生長しません。あ、この生長は、『成長』とは、字も、意味も違うんですね。休眠中、植物の生長点は、殆どその動きをとめてしまいます。これって、かなりおおざっぱで適当な言い方になりますけれど、動物で言うならば、殆ど死んでいるような状態だと思っていいと思います」
「殆ど……死んでいるような状態……。明日香が、そうだった……」
「でも、死んでいる訳じゃ、ないんです。何より、休眠期をすぎれば、その植物、平気で活動を再開しますから。……えーと……どう説明すればよく判ってもらえるのか……あ、種子! そう、種子なんて、絶好の、休眠の見本です」
「は? しゅし……?」
「|種《たね》のことです、植物の、種。あれ、生きているとはなかなか思えないでしょう? 畑にまかなきゃ何年だって何十年だってずっと種のままでいるし、仮に百年前の種だって、保存状態さえよければ、今、畑にまいても、すぐに芽を出す筈だし。種って、生きているとも思えない、でも、死んでいる訳でもない、不思議な生き物じゃありませんか? あれって、植物の休眠の中でも、かなり完成された形態の一つです」
「種って……でも……種って、卵じゃないの? 鶏の卵は、卵だけじゃ生き物じゃないけど、でも、あっためれば生き物になる。種って、そういうものじゃないの?」
「違います。まず、鶏の卵は……他の何の動物の卵でも、百年はおろか、数年もほうっとけば、必ず腐ってしまうでしょ? 植物の種子にはそんなことがないし……それに、何より。種子は、赤ちゃんなんです。種子は、卵じゃなくて、赤ちゃんなんです」
「それって……どっか、違うの?」
「まるで違います。種子と動物の卵を同列に扱うのは、新生児と受精卵を同列に扱うようなもので、この二つはまるで段階が違うんです。動物の……鳥なんかの卵が、まだ生まれる前の生命だとしたら、植物の種子は、すでに生まれてしまった赤ちゃんが自分の生育に適した時期になるまで、自分自身を凍結している姿なんです」
「今は植物学の講義の時間じゃない!」
と。夏海の台詞に割ってはいったのは、信彦だった。
「明日香は……休眠中なら、明日香は、それでもまだ、生きているんだ。なら……なら……」
「悪いけれど、植物学の講義を続けさせてもらおう」
で、信彦のこんな台詞を、拓が引き取る。
「休眠は、普通、冬場の寒さ等、外的条件がその植物の生育にそぐわない場合に起こる。故に、冬、|芽《が》りんだの|冬《ふゆ》|芽《め》だのを形成した植物は、春の到来と共に、休眠状態からさめ、再び元の生きている植物に戻るのだが……明日香の場合、春は決してこない。明日香の場合、休眠からさめる可能性はまるでない。……故に、今のままでは、明日香はもう、死んだも同じなのだ」
「い……今の状態じゃ、死んだも同じだなんて……拓さん、あなたは、よく、そんなことが言えますね! 明日香は、あなたの妹でしょう? あなたは、妹が好きじゃなかったんですか? あなたは、妹を愛していなかったんですか? もし、愛していたのなら、何であなたはそんなことを言うんです! 死んだっていうのと、死んだも同じことっていうのとでは、まるで意味が違うでしょう? あなたが、もし、明日香のことをほんのちょっとでも愛しているのなら……どうして、可能性に賭けてみないんです。どうして?」
「どうしてって……はなはだ|矛盾《むじゅん》したことを言うようだが、明日香が生きているからだよ」
「拓、あなた、あたし達に通じる日本語が話せないの?」
「話そうと思えば……話せる。だが……」
夢子の責めるような台詞を聞いた瞬間、拓、一瞬|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情になり……そしてそれから、ふっと中空に視線を飛ばし、何か、空中にただよっているものに微笑みかける。ただよっているものからどんなメッセージを受け取ったのか、途端に拓の笑み、ぱっと顔中にひろがり――拓、台詞の後半を口にする。
「ああ、明日香、頼む。判る日本語で、説明してやってくれ」
と。
「お兄ちゃん、ずるい。説明のむずかしい処は、みんなあたしにおしつけた」
ふいに。
夢子の。信彦の。三沢の。松崎の。黒田の。夏海の心の中に、澄んだ、明るい、ちょっといたずらっぽい響きのある、女性の声が聞こえてきたのだ。
「明日香!」
「明日香!」
「明日香!」
そして。その声を聞いた――あるいは、感じた瞬間、夢子・信彦・三沢のトリオは思わずこう叫び――その叫びを聞いて、明日香の声を直接は知らない、あるいはあんまり知らない残り三人は、自分の心の中で聞こえた声が、どうやら明日香のものであるらしいって推測する。
「明日香! 生きているんじゃないか! おまえ、生きているんじゃないか!」
信彦、もう、泣いている。泣きながら……|洟《はな》をすすりながら、空中のどこに視点を定めていいのやら、どこに明日香がいるのか判らないまま、ただただ『生きているんじゃないか』って台詞を繰り返す。
「明日香……明日香……」
夢子は、もう、言葉がでない。
明日香は、六人六様に混乱している彼らに――六人別々に、静かに、話をしだしたのだ――。
☆
「信彦さん……あなた」
明日香の、この声が聞こえた時点で。信彦の瞳には、もう何もうつらなくなった。いや、別に失明した訳ではないのだから、確かに信彦の|網《もう》|膜《まく》にはあたりの景色はうつっているのだ。だが、信彦の想いは、そのすべてを明日香の声だけで占められてしまって……信彦には、明日香以外の、外界ってものが存在しなくなっている。
「明日香。|莫《ば》|迦《か》|野《や》|郎《ろう》。この野郎。生きているなら……生きているなら、何でもっと早く、僕に声をかけてくれなかったんだ。どれだけ……どれだけ、おまえを喪って哀しかったか……ああ、いや、いいんだ、ごめん、そんなことはいいんだ。おまえがいてくれさえすれば……おまえさえ生きていてくれれば、あとのことはどうでもいいんだ」
「信彦さん……ごめんね。あたしは、ずっと、死んでいる間もずっと、あなたのことを、あなたのことだけを想ってた。でも……あなたにあたしの声を届ける手段が、なかったの。今、この、世界樹の結界にまぜてもらって……世界樹の力を借りて、ようやくあなたに声を届かせることができたの。それも……お兄ちゃんに時間を稼いでもらって、ここにいる人達の意識とあたしの想いを同調させて、それで、やっと。……信彦さん、知らなかったでしょう。あたし、今まで――死んでから今までずっと、死んでいる間ずっと、あなたのことを呼んでたの。あなたに話しかけてきたの。でも……今までは、どうしても、それが通じなかった」
「明日香? 死んでいる間って……おまえ、生きているじゃないか。おまえ、生きているんだろ?」
「……ごめんなさい。そういう意味では……あなたのいう意味では、あたしはとっくに死んでいるの。あなたがあたしのことを死んだって思った時、あの時あたしは、死んだのよ」
「嘘をつくな! 嘘を言わないでくれ! だって、休眠っていったじゃないか! おまえは単に休眠しているだけなんだろ? な? そうなんだろ? ね? 時期が来れば……春が来れば、また、生き返るんだろ?」
「……確かにあたしは、休眠にはいった。あれが休眠ってものだって、実はあたしも、知らなかったけど。でも……その休眠は、決してさめることがない眠りだったの。あたしの体は、もう生涯、目覚めない。そういう意味ではあたしはすでに死んだのと同じで……」
「どうして! どうしてあきらめるんだ、おまえも拓さんも! ……今のおまえの状態がどんなものだか、僕は確かに知らないよ。でも……休眠なら、死んではいないのなら、回復する望みだってある筈だろう? 千に一つでも、万に一つでも、どうかその可能性に賭けてくれよ」
「……ごめんなさい、信彦さん。あなたがそう言ってくれるのは、嬉しいわ。とっても、嬉しい。でも……でも、決してあたしは生き返らない。何故なら……あたし自身が、選んじゃったから。……死んでいるあたしを」
「明日香? おまえ、何を……」
「あたしは、あたしとして……三沢明日香として、生きるのをやめたかわりに、この地球の生き物として生きることの方を選んでしまったの。……そういう意味では、確かにあたしは死んでないし、確かにあたしは不死身だわ。この地球って惑星がこの世に存在している限り、あたしもこの世に存在している」
「……明日香……?」
「今では、この地球の植物、そのすべてが、ある意味で、あたしよ。あたしは、そういう存在になって、地上に満ちるわ」
「明日香、おい、明日香」
「生命には、二つの相があるの。まず、それを理解してちょうだい。その二つって、生物学的な意味で生きている生命と、精神的な意味で生きている生命、ね。生物学的な意味で生きている生命には、必ず、終りがある。物質として生きている生命は、必ず、死ぬの。そして、これが、あなた達が普通に言っている、『生きている』ってこと。それから、もう一つ、あなた達は知らないけれど、世の中には、精神的な生命ってものがあるの。物理的な肉体の中で、必要なだけ成熟した想いは、物理的な肉体が死んだあとも、精神的な生命として、この地球で存在することが可能なの。こちらの生命には……ある意味で、終りがないのよ。決して、死なないの。この地球がある限り、地球でうまれた精神的な生命は地球で生きているでしょうし……もし、地球が滅んでしまっても、多分、あたし達は、この宇宙に想いとして満ちることができる筈」
「明日香! 僕には、おまえが何を言っているのか判らない」
「今はまだ、判らなくてもいいわ。ただ、このことだけ、覚えておいて。あたしは……肉体的に生きている、あなた達の言葉でいう『生きている』あたしになるかわりに、精神的に生きている、あなた達の言葉でいう処の『死んでいる』あたしになる方を選んでしまった。だから、あたしは、ここにいるけど、でも、死んでいるのよ。けれど……どうか、あたしが死んだことを、哀しまないで。あたしは……自分で選んで、死んだんですもの。生きるか死ぬかを選べる人なんて、まず滅多にいないわよ。普通は、なし崩しにどっちかになっちゃうんで……その点だけでも、あたしって、幸せな部類なんだと思う。そして……これだけあたしがあなたのことを好きなんだもの、これから先、すべての植物は……つまりあたしは……きっと、信彦さん、あなたのことを愛するわ。生涯あなたは、植物に愛され、祝福された人間として、生きてゆくことができる筈」
「それが何だっていうんだ! え? それが何だっていうんだよ、おい! すべての植物に愛される? そんな必要、僕にはまったくないんだ! たとえすべての植物に怨まれようとも、明日香、おまえがいてくれる、その方がよっぽど僕にとっては必要なことなんだ!」
「……ありがとう。そう言ってくれるのは、嬉しい。でも……でも、そうじゃ、ないのよ。あたしは、人間じゃないし、もう死んでいるし、まっとうな意味では地球の生物でもないし……だから、あたし、あなたにお願いをしたかったの」
「え?」
「あの、ね、信彦さん……。最終的に、あなたは、人間の、それも|健《すこ》やかで、優しい女の人を、お嫁さんにするべきなのよ」
「おまえがいるのに? 明日香、おまえがいるのに?」
「あたしがいるのに。それを言いたくて、あたしはあなたに声をかけてるの。……あなた、どうか、あたしのことは気にしないで、健康で、明るくて、優しいお嫁さんをみつけて。世間一般の、幸せな人生を歩んでちょうだい。それだけを……それだけを、お願いしたかった。あなたの幸せが、つまりはあたしの幸せなんだもの」
「お……おまえ、な」
「どうか、お願い。あなたが幸せになってくれなくっちゃ、あたし、それこそ不幸になってしまうもの」
「お、おまえな、あの、おまえな」
それから、信彦。思いっきり、大声で。
「おまえは、莫迦だっ!」
☆
「夢ちゃん。……お姉さん。あたしの、お姉さん」
さて。信彦とまったく同時に、こう声をかけられたのは、夢子。
「明日香? 生きているの、明日香?」
「夢ちゃん、あのね」
「明日香! 明日香! いるのね? 今、ここにいるのね? あたしはあなたを感じることができる。ああ、明日香、いるのね? ここにいるのね? あなたがここにいてくれて……あたしがどんなに嬉しいか、今、あたしがどれ程幸せだか、あなたに判ってもらえるかしら。ううん、きっと、判らない。明日香、あなたが生きていてくれて……あたしはほんとに……あたしはほんとに……」
夢子。その第一声から、すでに涙ぐんでいる。目に見えない、明日香の気配は、まさかそんな夢子の肩を抱く訳にも背中を|撫《な》ぜる訳にもいかず、しばらくの間、夢子をもてあます。そしてそれから、おずおずと。
「夢ちゃん、あのね」
「ああ、言わないでね。拓と仲直りしてくれだなんて」
ところが、意を決してしゃべりだした明日香の台詞を、いとも簡単に、夢子、さえぎってしまう。
「え? ……あの、夢ちゃん、何であたしの言いたいこと……」
「長いつき合いですもん、あんた達兄妹が何を言い出すか、あたしはよく知っているつもり。……あらかじめ断っておくけれど、嫌ですからね、あたしは。ええ、嫌ですとも。あたしは絶対に人類って奴を許してあげないし、拓とだって和解なんかしないわ。あたしが拓と和解するとしたら、それはたった一つの条件下のみで……その条件って、拓が考えを改めて、あたしと一緒に人類に対して復讐をする気になった時、だけよ」
「……夢ちゃん……。あなたはそう言うんじゃないかって、それがとっても怖かった。それだけが、不安だった」
「明日香。あなたがどこにいるのか判らないけど……でも、明日香、あなたがいくらあたしにそう言ったって、駄目。あたしは、決して、人間を許さない」
「あたしが許していても?」
「あなたが許していても。……確かにあなたは、人間に対して怨みを持ってはいないんでしょう。でも、あたしは、怨んでる。あるいは――ひょっとしたらあなたは、不幸せではなかったのかも知れない。でも、あなたを喪ったあたしは、不幸せだった。……わがままだとでも、勝手だとでも、好きなだけあたしを軽蔑していいわ。でも……今となっては、明日香、あなたを喪った哀しみは、あなたの哀しみじゃない、あたしの哀しみになっているのよ。人類への復讐は、あなたの復讐じゃない、あたしの復讐になっているのよ」
「…………」
しばらくの間、明日香、夢子の心へと働きかけるのをやめ、軽くため息をつく。そしてそれから、意を決したように。
「夢ちゃん。じゃ、復讐の前に、お願いがあるの。少し、前へ進んで」
「え? 何で?」
「夢ちゃんに……見せてみようと思って。この地球の植物が、どんなことを考えているのか、それを」
「明日香……どういうこと?」
でも。こう言いながらも夢子、何となく熱にうかされたような風情で、数歩、前へ進む。と、今では夢子の目の前に、ほんの手を伸ばせば届く処に世界樹があり――。
「植物っていうのが――この地球の、『植物』っていう生命が、どんなものであるのか、夢ちゃんにも判って欲しいと思うの。そして……そのあとで、それでもまだ、夢ちゃんが復讐をしたいのなら……その時は、あたし、もう、とめない」
「……明日香?」
「そこでとまって。そのまま、両手をまっすぐ前へだして」
「え……だって明日香……そんなことしたら……」
「そう。触れて欲しいの。世界樹に。この地球って星の、植物の想いに」
「……?」
夢子、何だか不得要領な顔になり――それでも、ゆっくりと、両手を前へだす。その、夢子の両手が、おずおずと世界樹の幹に触れ――。
と。――と!
「何っ!」
次の瞬間、夢子、まるで世界樹の幹に感電したかのように、両手をそこから離そうとし――でも、どうしても、それができず――ただただひたすら、叫び続ける。
「何よっ! 何なのよ、これ、何なのよこれ、何なのよこれ!」
夢子の瞳からは、とまることなく涙が|溢《あふ》れ続け……そして、夢子のこの叫びは、他の誰にも聞こえなかった――。
☆
「おじさま。ごめんね」
三沢は、意識するともなく、いつの間にか目をつむっていた。そして、目をつむったままの三沢の心に、明日香の声が響き――ああ、目をつむっていると、よく、判る。明日香の声には、何の悲惨さも哀しさもみじんもなく――昔、まだ明日香が三沢|外《げ》|科《か》の二階に住んでいた時なら、きっと明日香、ベランダのお気にいりの場所に腰かけて、足をぶらぶらさせながら、こんな調子でしゃべったんだろうな。
「ごめんね、おじさま」
「明日香。――一体、何を謝ることがあるんだね」
不思議なものだ。目をつむって、今、ここが、三沢外科の二階の明日香の部屋であるって思ったせいか、三沢の声、昔の、薬に|溺《おぼ》れる前の、明日香達にしょっちゅうお小言を言っていた、父親の声になっていた。
「だって……ごめん。ごめんなさい。あたしのせいで……あたしとお兄ちゃんのせいで、おじさま、まっとうな生活ができなくなっちゃったんじゃない?」
「そんなこと、子供が心配するようなことじゃない」
不思議だ。時間がどんどん昔に返っているようだ。昔――岡田のおじさんの処から、拓達が逃げてきた時、恐縮する拓に、三沢は何度この台詞を言っただろう。
「それに……夢ちゃんは、あたしのせいで、人類に復讐する気になってしまった」
……ああ。それは、確かに、ショックだったな。
三沢、不思議と気楽に、そんなことを考える。
夢子は、土壇場で、考えてはくれなかったんだろうか? 夢子を育てた、三沢も人類の一員であるっていうことを。もし、夢子が人類に対して|牙《きば》をむくことになったなら、その夢子を育てた、三沢は人類に対する裏切り者になってしまうっていうことを。
だが……それもこれも、今となっては、何だかどうでもいいようなことのような気がする。
「あたしは時間を戻せない」
と、明日香は、目をつむっている三沢に、何だか至極当然のことを言った。
「あたしは、時間を戻すことができない。だから、あったことをなかったことにすることはできない」
「明日香、あの……」
「おじさまの経歴には、すでに傷がついてしまった。おじさまを、あたし達と知り合う前のおじさまに戻すことは、あたしにはできない。ただ、あたしにできることって言ったらば……」
「……明日香? おまえ、一体何を言ってるんだい?」
「ごめんね、おじさま。ごめんなさい。あたしの判断がほんとに正しいのかどうか、実は自分でも自信がないのよ。こんなことをして、それでおじさまが幸せになれるって保証はないし……でも、これが、これだけが、あたしのできることなの。そして……ごめんなさい。……ごめんなさい……何百回も、何千回も……ごめんなさい……」
この、明日香の台詞を最後にして。三沢の意識は、ふいに、|闇《やみ》に呑まれた――。
☆
「あなたをどうするかが、最後までひっかかっていたのよね」
ふいに、明日香の声が聞こえ、松崎は、慌ててあたりを見回した。でも――どこにも、明日香の姿は、ない。
「ほっとこうかと思ったの、最初は。正直言って、あたし、あなたに好感情を|抱《いだ》いているとはお世辞にも言えないし……だから、あなたがこの世界のどこかでどんなに悲惨な人生を歩んだって、知ったことかって気もするし……でも。でも、それって多分、あなたのせいじゃ、ないのよね」
「明日香? 明日香、いるのか? いるとしたらどこに? おい、明日香」
松崎は、明日香の台詞に何の|頓着《とんちゃく》もせず、ただただひたすら、あたりを見回す。うろつきまわったりも、する。でも――どこにも明日香の姿はない。
「ある日、判ったの。あなたがこうもあたし達に|固《こ》|執《しつ》するのは、多分、あなたのせいじゃなくて、あなたの|業《ごう》なんだって。……だとしたら、あなただって、被害者よね。一概に、あなただけを責めてどうにかなるって問題じゃないって、ある日、あたしは判ったの」
「明日香? せめて姿だけでも……明日香」
「それに、あなたには、奥さんも子供さんもいるんでしょ? ……どうやら離縁された格好らしいけど。それも、あたし達のせいって言えば、せいよね。だとしたら……奥さんや子供さん達の為にも、あなたをほっとくのはいけないことのような気がするの。あたし達があなたに追い回されてとっても理不尽な思いをしたように、今、あなたの奥さんとお子さん達は、きっと理不尽な思いをしている筈。不幸な人を増やすのは、あたしの本意ではないんだもの」
「明日香? どこだ? どこにいるんだ?」
「幸いあなたは、黒田さんの研究所における要注意人物にはなっていないらしい。だから、あたしはここであなたを放り出すわ」
「え?」
「あるいはあたしの行動って、あなたの人生を信じられない程不幸にしてしまうものなのかも知れない。でも、その時は――どうせ全部忘れてるだろうから、思い出してねって言いにくいけど――判ってちょうだい。あなたのせいで、あたし達は、とんでもなく不幸な境遇に|陥《おちい》ったのよ。あなたさえ、岡田のおじいさまをみつけなければ、あなたさえ、三沢のおじさまの前に現れなければ、あたし達はこうも悲惨な運命を|辿《たど》らずにすんだ筈だった。|因《いん》|果《が》|応《おう》|報《ほう》って言葉を、どうか知ってね」
「あ? あの? 明日香? おい、明日香、どうか、姿だけでも……」
「さようなら。この後、あなたは、あたし達のことをすべて忘れて、普通の人生を歩んでください。もし、あなたがあたし達に固執するのが『業』のせいだとしたら、固執する対象がなくなった人生って、さぞ辛い、不幸せなものなのかも知れないけれど……でも、そこまで思いやってあげる必要性を、あたしは感じない。さようなら」
「……え? あの? 明日香?」
「さようなら、松崎さん、二度とお目にかかることはないでしょう――」
☆
「ごめんなさいね、黒田さん」
明日香は、最初っからずっと、黒田に謝っていた。
「ごめんなさいね、黒田さん。あなたを完全に巻き込んでしまった。そして……あなたみたいな位置にいる人は、弁解がさぞ、むずかしかろうと思うし……」
「……ああ、成程。ようやく、構造が読めたよ」
だが、黒田は、そんな明日香の謝罪なんてまったく気にしていない様で、むしろ明るくこんな台詞を口にする。
「大丈夫だ。僕は、完全に、構造を把握した」
「え? 黒田さん?」
「おまえは僕のことを何だと思っているのかい? 気がつくと、何か|得《え》|体《たい》の知れない状態に陥ってしまった民間人とでも?」
「あ……いえ……そうじゃないことはよく判っているんですけれど……」
それにしても。黒田のこの妙な明るさは、何だろう。何か、心底ふっきれたって風情のこの明るさは。
「ディテールは、確かに、判らない。でも、今、僕はおまえの考えの構造が見えたと思う。おまえ……明日香……良子……逃げる気だね?」
「え?」
「逃げるんだろう? 研究所から。……どういう方法を使ってかは、想像もできないが。そして、これまた想像もつかない方法で、今までのこと、おまえというエイリアンがいたって記録、そのすべてを|反《ほ》|古《ご》にしてしまうつもりなんだろう。……どうかね、僕の想像は、違っているかね?」
「……本質的に……あってます……」
「だろ? 良子、莫迦にしちゃいけない。おまえの考えくらい、僕には簡単に読める。そしてその上、そういう事態が発生した時、僕がうまい言い訳ができるかどうかまで心配してくれるのは……ありがたいけれど、逆に僕を莫迦にした行動だよ」
「……ええ……そうかも知れないなって思いますけど……でも……やっぱりさぞかし言い訳が大変だろうと……」
「くどいようだが、莫迦にしちゃいけない。物事で、一番重要で、一番大切なのは、その構造だ。構造さえ理解していれば、|枝《し》|葉《よう》|末《まっ》|節《せつ》の言い訳なんぞ、いくらでもできる」
「そう……なん……ですか?」
「そうなんだ。良子……あ、いや、明日香……さん」
「良子でいいです」
最後の台詞になって、やっと。やっと、明日香、それまで黒田に呑まれっぱなしだった自分の調子を取り戻し――軽い感じでこう言ってみる。
「あたしのことは、呼びたければいくらでも『良子』って呼んでください。その呼ばれ方って、ある意味で、むしろ光栄ですから」
「いや、明日香、さん」
が。黒田、そんな明日香の台詞を、軽く無視して。
「あなたはやっぱり、良子じゃない。……そんなことくらい、もっとずっと前に、判っていなきゃいけなかったんだ……。良子、おまえ、いや、明日香さん、あなたを通して、僕は一体何を見ていたんでしょうね。過去の幻――そういうものかも知れないし、もう二度と返ってこない若かった日の思い出、なのかも知れない。それが今、良子ではない、明日香さん、あなたの声を聞いて、きれいにふっ切れたような気がします。……だが、そんなことはおいておいて――今、僕には、よく判ることが一つ、あります」
「?」
「あなたはやっぱり、不思議な程植物なんですね」
「え?」
「自覚していないのかも知れない、いや、おそらく、自覚することはないんでしょうけれど――植物って、不思議なものですよ」
「……あの?」
「あなたを――植物を見ていると、不思議な程、心が|和《なご》む。不思議な程、幸せだった頃の記憶にひたりこんでしまう。……これが本当のことかどうかは知りませんけれど、あなたを見ている限りでは、あなたの影響をうけた限りでは――僕は思いますよ」
「その……何て?」
「植物は――おそらくは、人間を、おそらくは、動物を――無条件に、愛しているのだと」
植物は――おそらくは、人間を、おそらくは動物を、無条件に愛しているのだと――。
☆
「……ごめんね」
明日香にとって。真実、謝らなきゃいけない人がこの場にいるとすれば、それは箕面夏海で――実際、明日香は、何度も何度も、できるだけしつこく、夏海に謝り続けていた。
「ごめんね、ごめんなさい。あなたは――独立した、人格を持つ、立派な人間なのに、なのにあたしは、あなたを勝手にチェスか何かの|駒《こま》にしてしまった」
「……あの……意味が……」
また、一方。とにかく勝手に謝られても、夏海には、明日香が謝るその根拠がまったく判らなかったので――この二人の会話、別に非友好的って訳ではないにしろ、平行線をたどってしまう。
そして、それから。いつまでも、平行線の会話じゃしょうがないって思ったせいか、明日香、ふいに、こんなことを口にして。
「あなたは、『眼』なの」
「え?」
「あなたの役割は、眼、なのよ」
「……え?」
「誰かに、言いたいことがある訳じゃない。誰かに、言わなくっちゃいけないことがある訳じゃない。……ううん、誰にも、言うべきことを、あたしは持たない」
「……?」
「けれど、あたしは……見ていて欲しいのよ」
「?」
「あなた、どうか、見てて。ただ、見ていて。別にそれを誰に言わなくてもいいし、誰に言っても欲しくないけれど……ただ、見てて」
「……あの?」
「今、あたしは幕を下ろすわ。あたしの想いが作りあげた、あたしの物語に。そしてその時――あなたには、判ることがあるでしょう。植物が、どんなことを思っているのか、きっとあなたには判る筈。でも、その植物の想いを、誰かに言って欲しいとは、あたしは思っていないのよ」
「あの?」
「ただ――見ていて。そして、判って。ただ、見ていて。そして、判って」
「……え?」
そして――その瞬間。
まるで地震のような、大地の揺れが、この世界に満ちたのだった――。
8
その、瞬間。
屋久島で、世界樹の結界が揺れた、その瞬間、その原因となった事態が、埼玉の山の奥、黒田の研究所で起こっていた。
明日香の体がはいったガラスケース。そのガラスケースのまわりには、|白《はく》|衣《い》を着た数人の男と、吉田という人物が立っていて、今、明日香を|覆《おお》っているガラスが、完全に台座からはずされた処。
「その……その生物は、確かに今は死んでいるのかも知れないが、あたりにいる植物にある種の影響を与えることができた生物、だったな」
白衣の男達が、まるで身をのりだすようにして明日香をのぞきこんでいるのとは対照的に、一人、こわごわと、まるで明日香が伝染病の病原体であるかのように、部屋の隅の方に避難していた吉田、いかにもいとわしそうな口調で、こう言う。
「ええ」
「なら、それを早く、君達の研究室に運んでしまうか、あるいはアメリカさんに渡してしまってくれ。私は……たとえ死体でも、伝染性のものを持つ生物とあまり長く一つ部屋にいたくはない」
「ええ、ええ、吉田さん、一刻も早く、明日香嬢は我々が連れてゆきますとも。黒田さんと違って、あなたが実に我々に協力的で、私達は本当に喜んでいます」
白衣の男達の中で最年長に見うけられる人物、今にも|揉《も》み手でもしそうな風情でこんなことをいい、それから、念の為にか、明日香の体にさわり、脈がないことや体温がないことを確かめてみる。
「あ、ただし、報告書は必ず、毎日提出してくれたまえ。解剖したのなら勿論、たとえその生物に何もしなくても、毎日報告書が必要だ。それは、判っているな?」
「ええ、勿論。今日、明日香嬢を連れて帰ったら、この足ですぐ、解剖にまわしますから……通り一遍の報告書なんてものじゃない、実に興味溢れるレポートを送れると思いますよ。CIAの方にも、同じレポートを送っておきますし、ある程度の期間、我々に明日香嬢を完全に任せてもらえるのなら、上層部が思っているよりかなり早く、アメリカとの共同研究態勢にはいれるでしょう」
「……それは、助かる」
吉田、こっそり、安堵のため息をつく。前任者の黒田は、一体どうやってごまかしてきたんだか、実の処アメリカからは、矢のような明日香の引渡し催促状がきていて……正直言って、これから先、それをどうかわしていいのか、吉田はかなり憂鬱だったのだ。
「では……おい、|担《たん》|架《か》だ」
白衣の最年長の男、他の白衣の男にこういい、その男は部屋の隅から担架をひっぱってきて……そして。
白衣の男、三人がかりで、明日香の体を持ち上げ、明日香を担架の上に乗せようとした瞬間――それが起こったのだった。
☆
「……動か……ない?」
その騒動の、第一自覚症状は、実に軽いものだった。
白衣の男、三人がかりでも、どういう訳か、明日香の体を持ち上げることができなかったのだ。
「|仁《じん》|内《ない》、おまえちゃんと足を持っているのか?」
「は、はい、持ってます。でも……持ち上がらない……。|京極《きょうごく》先生の方は、どうなんです?」
「腰がまるで持ち上がらない……。どうなっているんだ、これは? |瀬《せ》|戸《と》君、明日香嬢の体重は……」
「死亡時で三十七キログラムです。まさかこんな……」
「腰、です、京極先生! 腰に、何かがついてます」
「え? 仁内君、何を」
「腰に、何か明日香嬢を台座に固定するものがあるんです。ほら、|爪《つま》|先《さき》だの手だのは、簡単に持ち上がるでしょう? 腰が原因で、明日香嬢は台座から離れられないんです」
「だが……そんなものは何もない筈だぞ?」
そして、第二自覚症状。明日香のはいっていた、ガラスケースをのせていた、台座が急に破裂したのだ。
「え? あ?」
「爆発物か?」
「いえ! いえ、そうじゃありません。これは……これは……」
「台座自体が、破裂したんだ! 何か判りませんし、どうしてだかも判りませんが、台座の中に、急に何か大きなものが出現した様子です」
「何?」
「それも……明日香嬢の、腰のあたりから、発生した模様。現に破裂したのは、彼女の腰の下の台座です」
それから。最後の自覚症状――あるいは、クライマックス。
研究所の、最上階の、明日香をいれたガラスケースのある部屋の床が、まず、割れた。ついで、その下の階、更にその下の階、そのまた下の階……と、際限なく床が割れてゆき……。
「な……何だ?」
「おい、何事だ?」
「危ない! このビル、崩れるぞ!」
「根だ!」
「え?」
「判りませんか? 根、です。明日香の腰から、根が生えています! 根が、根が、どんどんビルを壊して伸びていって……」
「根? どうして? 彼女は死んだ筈じゃなかったのか? どうして根がはえるんだ!」
☆
研究所の外から、その様子を見ていると。その様は、何だかとっても喜劇的で――また、よく、判った。
最初。八階の壁が、妙に震えたのだ。そしてそれから、その震え、八階から七階、七階から六階へと降りてゆき……次の瞬間、ビル自体が、|礎《そ》|石《せき》から、揺れた。それから、ビルのまわりのコンクリートに、ビルを中心にして、次々|亀《き》|裂《れつ》が走ってゆき……その亀裂からは、所々、とんでもなく太い植物の根が顔をだす。
そう。外から見ている分には、事態はそれなりによく判ったのだ。
どうやら、このビルの中心に、とんでもない植物がいるらしいってこと。その植物は、最初八階で根をおろし、次々床を打ち破っては、とにかく大地にまで、その根を届かせた。今、そのとんでもない植物の根が、完全に地面へとおり、四方八方へと、はりめぐっている。そして――そうなると。次に起こるのは。
建物から、わらわらと、人が転がりでてきだした。わらわらと――本能的な恐怖に駆られて、人が、どんどん、こぼれでてくる。
そして――それから。そして、それから。
ばりんっ。
音がして、最初に割れたのは、六階の、窓だった。
そう。充分根をはびこらせた植物は、次に、幹を太らせ、葉をおいしげらせるのだ。
六階の窓が割れ、そこから見事に緑の葉をつけた植物の枝が突き出して――ここからは、もう、言わずもがな。
その間にも。人はでてくる。人はでてくる。下の方の階にいた連中は、気がつくといつの間にか駆けだしていたし、上の方の階にいた連中は、エレベータに乗らず、階段を通ろうってだけ理性があったものから順に、転がりでてくる。
出てくる――人が出てくる――枝が出てくる。
あっという間に、五階の窓が割れた。七階の窓が割れた。そして、その窓をつき破って、植物の枝が出てくる。
「く……崩れる!」
「どけっ! 危ないっ!」
今や。ビル自体が、震えていた。ビル自体の存続が、怪しくなってしまった。
そして。
「な……何だ、これは……。これは、一体、何事なんだ……」
|逸《いち》|早《はや》く避難した吉田が、やっと外へでた頃、音をたてて研究所のビル、崩れだす。
「これは一体何なんだ、何が起こったっていうんだ……?」
悩んでいる吉田を、見知らぬ男が転ばせる。
「あんた、何をしてるんだ! こんな処にいちゃ、危ない!」
転んだ吉田のすぐ脇に、コンクリートの破片が降ってきて……。
「何だ、これは、一体何が起こったっていうんだ……」
まだ呆然としている吉田を、男、かなり荒っぽく、落下する破片がかからない場所までひきずっていってくれる。その間にも、まるで呆然としている吉田をあざ笑うかのように、吉田と男の脇に、いろいろなものが降ってきて……。
化粧タイルが、降ってきた。次々に割れるガラスも降ってきて……そしてまた、コンクリの|塊《かたまり》も、降ってくる。
鉄筋コンクリート造りで、化粧タイルの外壁を誇っていた、あくまで近代的だった研究所のビルは――こうして、崩壊したのだった。
そして。後に残ったのは、一本の木。まだ処々、研究所の|残《ざん》|骸《がい》をまとわりつかせた、巨大な、木。吉田の乏しい知識では、それまで見たことがないような種類の――その巨大さといい、成長速度といい、また、不思議に風にしなる、やわらかな太い幹といい、とても地球の植物とは思えない、植物。
「これが……明日香、なのか。これが……ああっ! 記録!」
記録。今までの、松崎の明日香についての研究、松崎の研究室で根岸・宮本両名がおこなった実験の記録、明日香の細胞の標本、明日香の髪の標本、明日香により影響をうけた植物の標本、そしてその記録。その他、文書の形で、あるいはコンピュータのデータの形でとられていた、すべての記録。研究所が崩れる、そして、内部のコンピュータもおそらくは壊れたであろうこの状況では、明日香に関する記録の一切が、失われてしまう可能性がある。
「急がなければ。せめて標本だけでも確保したいし、コンピュータの内部記憶にはいっているデータは、できるだけフロッピーにうつしとって……」
ところが。理性と落ち着きを取り戻し、できる限り急いで研究所の残骸の中から必要なものを回収しようとしだした吉田を、また、誰かがうしろからはがいじめにしてとめたのだ。
「君、|火急《かきゅう》の用件なんだ。私はここの責任者で……」
おそらくは、吉田をはがいじめにしている人物には、悪意はあるまい。あくまで吉田の身を心配して、とめてくれているのだ。だから、その人物をどなりつけるのは好ましくない、それは判る、それは判るのだが、今は火急の時なのだ。
そんなことを考えながら、苛々と吉田は振り返り、自分をとめている人物の顔を見ようとし――見ようとし――ところが、あるべき位置に、顔が、なかった。
「きゃ……きゃあ、あああ!」
吉田、一瞬の間、自分の目に映ったものが、理解できなかった。殆どあっけにとられていた。そして、そんな吉田の脇で、吉田と吉田をとめたものを目撃した女が、おそらくは彼女にできる最大級の音量の悲鳴をあげて……。
「きゃあっ、きゃああ、何、あれ、嫌、あれ、きゃああああっ!」
吉田だって、悲鳴をあげたかった。自分をとめているのが何かを、はっきり確認したその瞬間から。でも、先に女にパニック状態に陥られてしまった為、逆に吉田、妙に落ち着いてしまい、自分がパニックになることができない。だから吉田、しょうがなしに、変な風に冷静な頭で、今の状態を分析して。
おそらくは、パニックになるな。それも、絵に描いたような、見事なパニック状態に。いや――もうすでに、なっていると言っていいかも知れない。こうなると、自分以外に冷静でいてくれる人間が存在するとは期待できないし……その場合、機密保持と記録の確保は、誰がやってくれるのだろう……?
「う……うわああっ!」
「な……何だあれはっ!」
「逃げろっ! 捕まるぞっ!」
ああ。吉田がそんなことをぼんやり考えている間に、そんな吉田の姿を目撃した人々の間で、すでにパニック状態が発生しているようだ。
一部分だけ妙に落ち着いた頭で、こんなことを考えたあと、吉田、自分をはがいじめにしているものから、何とか逃げることができないか、体の各部にできる限りの力を込めてみる。が――どうしても、吉田、彼をはがいじめにしているものから抜け出すことができない。そこで、しょうがない、吉田は。
「明日香……さん、だね。私は君が生きているとは今の今までまったく知らなかったし……その……こういう状態となった君とは、一体どうやれば意志の疎通が可能なのかも判らないんで……そこで、しょうがない、人間にやるように、今、こうして話しかけているのだが」
彼をはがいじめにしているもの――地下から、突然出現した、植物の蔓、ないしは根としか見えないもの――に、声をかける。
「君は、この先、どうするつもりなんだね? このまま……ここでこうして、私を殺すか? ……確かに、それも、一つの手だ。だが、可哀想だが明日香さん、人類は、もう、止まらないよ。エイリアンがいると知ってしまった人類は、私一人を殺したって、決してあなた達を、夢子さん、拓さんって言ったっけ、あなたの仲間を捜す手を|緩《ゆる》めないだろう。……こういう言い方は何だが、人類と関わってしまったこと、それがあなたの不幸なのだ。私を殺しても、事態はまったく好転しないし、おそらくは君だって逃げおおせまい。この事態を――君は、この先、どうするつもりなんだね?」
と。その時、ふいに。
まるで、この吉田の台詞に対する返事のように。
どこからともなく、ピアノの音が、聞こえてきたのだ。
どこからともなく――いや。あの、木からだ。しなやかな枝が風もないのに揺れ、枝にびっしりと生えている、まるでリュウノヒゲのような長い葉が細かく震え、震えている葉からはどういう仕組みかピアノのような音がして――そしてその音は、やがて一つのメロディになる。明日香の――歌に。
緩い、音階。
のぼる、|旋《せん》|律《りつ》。そして、同じフレーズで、おりる、旋律。リフレイン。また、のぼる、旋律、おりる、旋律、音が一つ、ずれた。そして、メロディは、そのあとひたすらのぼりつめて……。
「な……なに……」
聞くともなしに、その旋律を聞きながら――吉田、気がつくと、涙をながしていた。気がつくと、泣いていた。何だろう、この旋律、何だろう、不思議になつかしい、不思議に昔のことを思わせる……。
そしてまた。それと同時に。
最初、吉田が声を出した時に、研究所の奥で、明日香が何をしたのか、ふいに火がでたのだ。そして、その火、明日香の紡ぎ出すメロディが高まるのと一緒に、どんどん燃えひろがっていって……。
「火だ!」
明日香に捕まった吉田、そして、明日香のメロディに聞きほれていた吉田、気がつくのに随分時間はかかったが、やがてそれに気がついて。
「火だ! 燃えている! 記録が……コンピュータのデータが……いや、それよりも! いや、それよりも、明日香さん、あなたが、あなたが燃えてしまう!」
そう。メロディと共に、どんどん大きくなる火は、当然、研究所の残骸だけではなく、まだ生木の明日香の体自体にもおよんでおり――今、明日香は、明日香がもととなってできた、研究所さえも内部から壊してしまうような、巨大な木は、炎に包まれつつあった。
「判っているのか? 明日香さん? 確かにデータはこの火で始末ができるだろう。でも、あなたも一緒に燃えてしまうんだぞ? あなたも燃えてしまうじゃないか?」
が、明日香は――巨大な木は――こんな、吉田の台詞に、頓着しない。むしろ、以前にも増して、さながらピアノの音のように聞こえる音、大きくなって……。
「そうか。これが、あなたの答えなのか」
こう言った吉田、自分の体が、いつの間にか自由になっていることを知った。いつの間にか、吉田の腕や肩を抱きしめていた、蔓か根は、すっかり消えていて……。
「あなたは最初から死ぬ気だったんだ。最初から、死ぬつもりで、自分が死んで、その上自分に関するすべてのデータを|葬《ほうむ》りさるつもりで……」
と、その時。
そら耳だろうか?
吉田の耳には、明日香の歌う声が――まるでピアノの音のように思われる音が――ふいに、大きくなったような気がしたのだ。
気のせいか――いや。実際、音は、大きくなっている。
今や。
吉田のまわりの、すべての雑草、すべての樹木、すべての花が、不自然に揺れていた。それは、明日香の火事のせいで風が発生した為とはとても思えない動きで――そして、吉田は、その時何故か思ったのだ。
草達が、合唱している。
確かに植物には発声器官はない。だから、植物が歌を歌える訳がない。でも――それでも、まわりの植物は、みんな合唱しているのだ。葉ずれの音で――風に枝をゆすらせて――あるいは、想いだけをこめて、心で。
明日香は燃える。燃え続ける。そして――吉田の目の前で、最後に残っていた研究所の骨組みが崩れ――同時に明日香も燃え崩れる。
明日香は燃える。もう、ピアノの音のような最初に明日香がたてた音は、かすかに、とぎれとぎれにしか聞こえない。上部が燃え落ちてしまっても、それでも明日香は燃え続ける。
が。歌は、まだ聞こえていた。あるいはそれは、吉田の幻聴だったのかも知れないが、歌はまだ聞こえ続けていた。むしろ、大きくなったような気がする。
いまわの際の明日香の想いは――明日香がこの世に托した最後の想いは――あたりの植物の大合唱をひきおこし、そして、おそらくはその植物達に引き継がれてゆくのだ……。
☆
「これは、あの、今、実際に……」
夏海は、これだけ言うと、黙ってしまった。何故って、あたりの空気には、夏海にこれ以上の台詞を続けさせないような雰囲気が満ちており……。
これは、今、実際に、現実の明日香がした経験なのだ。
故に、夏海、誰に何と言われるのよりもはっきり、それを認識してしまった。
どういうトリックを使ったのだか。
世界樹の結界が、ふいに揺れた直後、夏海達の脳に直接、今見たような光景が映しだされ――そして、それは、今、埼玉のあの研究所で、実際に明日香が経験していることなのだ。
「タイム・リミットが、すぎましたね」
そのあとで。妙に落ち着いた声をだしたのは、拓だった。
「今のが――明日香の最後のシーンで、今のが、明日香の最後の言葉です。今の――音楽。グリーン・レクイエムに、よく似ているような」
「違う!」
とても強い声で、こう言ったのは、嶋村信彦だった。
「今のメロディと、グリーン・レクイエムは、まったく違う。グリーン・レクイエムが、ひたすら望郷の思いに満ちた、とにかく帰りたいって曲だとしたら、今のは、まるでそうじゃない。今の曲は……今の曲は……」
「愛してるって、言ってた」
そして、これは、夢子。
「愛してるって、言ってた。最後まで明日香は……最後まであの子は……愛してるって言ってたのよ。はん! 愛する? 何を? はん! 愛する! 誰を?」
「人類を。人間ってものを。そして……すべての動物を」
この声。夏海が、初めて聞く、声。とすると――この声が、ひょっとして、世界樹のものなんだろうか?
「夢子。あなたに、教えてあげたい。夢子、あなたに、教えてあげなきゃいけないと思う。植物が……どんなに動物を愛しているのか」
声は、続く。夏海が、世界樹の声だって思った、声が。
「さっきあなたは私に触ってみただろう? その時、判った筈」
「でも……あの……」
「心理的に、抵抗があるのは、よく判っている。でも、あなたは判った筈だ。植物は、みんな、動物を愛している。愛している。ほんとに、愛している」
「え……ええ」
「愛しているんだよ」
この言葉をきっかけにして、また、世界が一転する――。
☆
さて。
ここは不思議な、精神世界だった。
夏海の意識、ここでは、不思議な程ゆらいでしまう。あたりの空気があんまり優しくて――あたりの空気があんまり優しすぎるので、ここにいると、夏海、箕面夏海って人格を捨て、このままあたりの空気にとけこんでしまいたいような気に、なってくる。
ここは、どこなんだろう? 薄い黄緑の|靄《もや》がかかった、暖かい、とっても居心地のいい世界。
が、やがて、海の中にぽっかり浮かぶ泡のように、夏海の心の中に、『認識』って泡が浮かんでくる。
ここは、植物の意識の中なんだ。何故そう思うのか、よく判らないけれど、でも、そうなんだ。
で――そう思ってみると。
黄緑の靄の中には、処々、濃い緑、ビリジアン、ダークグリーンなんていう色彩の点がにじんでいて、そのにじみが、大きくなったり小さくなったりしながら、おんなじことを呟いているのに気がついた。
愛している。
愛している。
愛している。
右を向いても左を見ても、夏海の脳裏に響いてくるのは、その言葉だけ。
……愛している。
……愛している。
……愛している。
好きだって感情が、ここまで純粋で、ここまで|剥《む》き出しで存在するのを、それまで夏海、見たことがなかった。それに、このにじんでいる緑達の想い、この『愛してる』って言葉は、どうやらそれまで夏海が知っていた『愛』って言葉とは微妙にニュアンスが違うような気もしてくる。
…………愛している。
…………愛している。
…………愛している。
何だろう、この想い。『愛』って言葉には確かに含まれる想いなんだけど、でも、人間の――
特に男女間の『愛』って言葉とは、含む内容が確かに違う。ぎらぎらする熱情も、ひたすら思い詰めるニュアンスも、独占欲も、|嫉《しっ》|妬《と》心も、ここの『愛』の中にははいっていない。ただ、思いやりと、|慈《いつく》しみと、優しさと、歓喜のみの、愛。夏海にはまだ子供がいないから、これは想像するしかないのだが――あるいは、子供を生んだ直後の母親の我が子に対する愛が、こんなものではないだろうか? ――いや。それでも、まだ、違う。もっと動物的な要素が欠落した、もっと観念のみの、愛――。
「嘘よっ!」
と、そんな、想いの中に。ふいに、鋭い声が響き渡る。そして、無条件に、夏海には判った。あれは――夢子の声。
「嘘よっ! あんた達みんな、だまされているのよ! あるいは、どっかおかしいのよ! 愛しているだなんて、どうして言えるの!」
夢子の声。とっても現実的な夢子の声。それが幻のように思えてしまうのは、一体どういう訳なんだか。
「だって、何で愛することができるの? 動物っていうのは、植物を食べるのよ? 植物の犠牲の上に、やっと生きている生物なのよ? あいつら、人喰い鬼なのよ? その鬼を、どうして植物が、犠牲になってる植物が、愛することなんてできるっていうの!」
この夢子の台詞を聞いて、緑色の点達の一部が、ちょっとざわめく。それから、その中の一つが、より大きなにじみになって。そのにじみから、意味のある言葉が紡ぎだされてゆく。
「どうしてって……動物は、他者、だから」
愛している。愛している。愛している。
その間も、世界を覆いつくしている、この合唱はとまらない。
「他者って、つまり、よそ者でしょ? 自分ではないよそ者を、それもあきらかに自分の利益には反するよそ者を、どんな|酔狂《すいきょう》な生物が、愛することができるっていうの」
「植物は――他者を愛する、生物だからだ。たとえ動物が我々の利益に反しようが反すまいが、他者であるというだけで、植物は動物を愛している」
こんな声が聞こえてくる、その間も、周囲に満ちているのは、たった一つの想い。愛している、っていう……。
「な……何を莫迦な。何だってそんな訳の判らない……」
「植物は――我々はみんな、原始の生物の思い出を持っている。原始の生物は、たまらなく他者を思慕した生物だった。原始の生物は、他者を愛する生物だった」
「?」
愛している……愛している……愛している……。
こんなやりとりが交わされる間も、バックグラウンドにずっと聞こえるのは、ささやくようなこんな想い。
「この星に初めて生物が誕生した時――それは、たった一人の生物だったのだ。確かに、その生物は、やがて増えた。でも、増えても増えても、その生物はたった一人の生物だったのだ」
「……?」
「細胞分裂で増える生物。雌雄の別がなく、分裂で増える生物は、しょせん、どれだけ増えたとしても、でも、一人の生物なのだ。最初の一人が際限なく増え……それだけの生き物なのだ。決して、二人にはなれない生き物なのだ」
「……だからって……何で……」
愛している……愛している……愛している……。
「最初のうちは、まだよかった。最初のうちは、意識などというものは存在せず、ただ生きているだけの生き物だったのだから。が、やがて、時がたつにつれ、意識というものができてきて――やがてその生物は認識するようになる。自分のことを、『私』だと」
「あの……それが何を」
愛している……愛している……愛している……。
「本当の不幸ってものを、君は知っているか? 生物にとって、本当の不幸は、死ぬことでも忘れ去られることでもない、世界に自分一人しかいないこと、なんだ。本当の、本当の不幸は、自分がたった一人で生きている生物だって認識することなんだ。この世にたった一人でほうりだされること――それに較べれば、自分が食べられてしまうなんてことの、一体どこが不幸なんだか、こっちが聞きたいくらいだ」
「…………」
「一人でいること。この世の中に、たった一人の命であること。それがどんなに恐ろしく、それがどんなに怖いことなのか、君には判るのか? ……判るまい。今、生きている生物は――生まれた時から他者がいる生物には、決して、この想いは判らないだろう。……長い、長い、時間がかかった。最初の生物が発生してから――次の生物が発生するまで。その間、私達の祖先にあたる、植物の祖先にあたる生物は、ずっと、ずっと、祈っていたのだ。どんな形でもいい、どんな形でもいいから、私を一人のままにしておかないでくれって。どんな形でもいい、どんな形でもいいから、この世に、私以外の他者を――『私』に対する『あなた』を存在させて欲しいって。そして……その願いの果てに生まれた、新しい、『私』ではない生物が、たとえ自分を食べるものだったとしても……一体誰が、それに対して文句を言う気になれるのだ」
愛している……愛している……だから無条件に愛している……。
「でも……それは昔の話でしょ? 今ならもう、雌雄交配の末にできた植物だって一杯いる筈だし、植物にだって仲間は一杯いる筈。まさか未だに、例えばからまつと例えばたんぽぽが、同じ一人の人だって主張するつもりはないんでしょ?」
「だから私達は、動物を愛するのと等しく、植物のことも愛しているよ。……言っただろう? 植物とは、他者を愛する存在だって。別に、動物だけを選択的に愛しているつもりはないが」
愛している……愛している……愛している……。たとえ誰であったって、私ではないものを、他者を、私達は愛している……。
「だってそんな……でもそんな」
圧倒的な愛しているって想いの|洪《こう》|水《ずい》の中で、それでも夢子は、まだがんばって抵抗していた。|頑《がん》として、それだけは認めまいとしている子供のようだった。
「だって、動物だってそうじゃないの? 動物だって、その原始の生物とやらの子孫じゃないの? その論法で言うなら、動物もまた、植物のことを愛していなきゃ嘘だわ!」
「……愛しているのだろうと思うよ。動物もまた、他のすべての生物を」
「嘘っ! それこそ絶対嘘っ! 特に人間に関しては間違いなく嘘っ!」
「……ああそうだね、嘘かも知れない。我々には、正直言って動物が何を考えているのかなんてことは、判らない。想像してみることもできない。だが……我々としては、信じていたい。表現方法が多少違うだけで、動物もまた、我々のことを、無条件で愛していてくれるのだと」
「食べるのが……踏みつけにするのが……愛情だっていうの?」
「表現方法が違うだけかも知れない。……それにまた、動物には、おそらくは我々のような意識の共同体というものがないだろうし、また、個々の動物はある種の植物に較べれば驚く程短命なので、忘れてしまったのかも知れない。原始の生物の、あの孤独、あの寂しさ、あのやるせない想いを。……あと、正確を期す為につけ加えておくと、原始の生物の直接の子孫は、我々植物だ。動物ではない」
「でも……それでも……」
夢子、どうやらまだ抵抗する気らしい。夏海は、どこからともなく響く夢子の声を聞きながら、夢子という存在に、半ばあきれ、半ば感動していた。
実際の処。
この議論は、議論ではないのだ。議論になりはしないのだ。
植物が夢子を説得するとかしないとかって問題ではないのだ。説得も何もない――この世界に触れ、この世界で数分身をさらしただけで、もう、夏海には充分すぎる程判ってしまったのだ。
理屈はどうあれ。また、どんな事情があるにせよ。
植物は、愛していてくれるのだ。すべての動物のことを、無条件に。そしてまた、植物に対して、とんでもなく|酷《ひど》いことをしているというのに――それでも植物は、人間のことも、愛してくれているのだ。理屈ではなく、とにかく愛してくれているのだ。
愛してる……愛してる……愛してる……。
聞こえてくる、緑の呟き。あれを直接心で感じて――その上、あの想いを疑ってみることなんか、夏海にはとてもできそうにない。
いや。
実は、夢子にだって、できないだろう。
何故って。
さっき、世界樹に触れた瞬間。夢子は、泣きだしたではないか。この世界にひきずりこまれるまでもなく、世界樹に触れただけで、夢子は泣きだしたではないか。
あの時。おそらく夢子は、決定的に悟ってしまったのだろう。決定的に、夢子には判ったのだろう。事情は理解できないにせよ、植物は動物のことを無条件に愛しているって。また、人間のことを無条件に愛しているって。
泣いてしまった――どんな言葉で言われるより強く、自分の感情ではっきりそれを知ってしまった夢子には、実の処、もう、この議論での勝ち目はない。夏海も、世界樹も、おそらくは夢子だって、そのことを知っていて……それでも夢子は、ひきさがらない。それでも夢子は、抵抗を続ける。
凄い、人だな。凄い……。事情は、とぎれとぎれにしか判らないけれど、そこまで人類が憎いんだろうか。こういう状態になってまで、それでもまだ世界樹に喰いさがれる程、そこまで人類が憎いんだろうか――いや。
いや。多分、逆。
そこまで、この夢子って人は、明日香って人が、好きだったんだ――。
☆
その世界にはいった時と同様、突然夏海の意識は、世界樹の結界の中に戻ってきた。見ると、どうやらあの植物の世界にはいったのは、夢子と夏海だけのようで、他の人々は、突然夢子が黙りこくってしまったのを、何やら不審そうなまなざしで見ている処だった。してみると、どうやら時間もあまり経過していないのかも知れない。
「夢……子? どうしたんだ、突然黙りこくって……」
不自然な夢子の沈黙がどのくらい続いたんだか、三沢がおずおずと夢子に声をかける。が、夢子、まるで焦点のあっていないような目をして、ずっとぼんやり前を見つめている。どうやら夢子は、まだあの世界で、植物達と必死に議論をしているようだ。
「おじさん。夢子は大丈夫です。今、世界樹と話をしているんでしょう。しばらくの間、ほっといてあげて下さい」
「拓! おまえさっきから何でも一人で判ったような口を|利《き》いて……おまえがあんなことを言っている間に、明日香は……」
「そう、明日香は。死んでしまった。今度こそ、完全に、死んでしまったんだ。何せ燃えてしまったんだから……」
信彦が、まだ呆然としたままで、呟く。
「拓さん。僕をここへ呼んだのは……明日香が燃える処を僕に見せる為、ですか? そりゃ……そりゃ確かに、僕は明日香に酷いことをしました。最後の瞬間、明日香を助けてやることができませんでした。だからって……でも……この仕打ちは、あんまりじゃないでしょうか……」
「莫迦ね、信彦さん」
と。信彦が、怨みのこもったような憤然とした様子でこんな台詞を言った途端、ふいに、さっきまで聞こえていた、あの、ちょっといたずらめいた、女性の声がまた聞こえてきたのだ!
「あ……明日香! え? だっておい……」
「ついさっき言ったばっかりじゃない。あたしは、物理的な生命体としては死ぬことになるけれど、精神的には不死になるって。今だってあたしはここにいるわ。今だってあたしは、信彦さん、あなたのことを見ている」
「明日香……だって……今燃えて……」
「あたしの言うこと、ちゃんと聞いてよね。ちゃんと聞いて、ちゃんと判ってくれてるの、信彦さん」
「おまえ……何だか、前より……その、変な言い方になるけれど、生きている時より明るくなってないか……?」
「うん。明るくなったし、自分に自信も持てるようになった。……この感じ、どう言えば判ってもらえるのかしら。あたしは今、生まれて初めて、心底幸せになったような気がするの。生きててよかったし――死んで、よかった。死んで――肉体が死んで――こうして、地球って星に心が受け入れてもらえて……あたしは初めて、ああ、あたしはここにいるのが許された存在なんだ、ここの生物に受け入れてもらえる存在なんだって、実感できたの」
「……明日香……おまえ……」
「今から先、この星のすべての植物は、あたしよ。これから先、あたしはこの世に満ちるわ。この世に満ちて、いつまでも、いつまでも、信彦さん、あなたのことを愛している。あなたのことを見守ってあげる。……あたしには、地球の植物みたいに、他者、そのすべてを無条件に愛することなんてできないけれど――信彦さん、あなたのことを愛してる。おじさまのことを愛してる。この想いを植物の想いに同調させて、いつまでもずっと、人々のことを愛してゆけると思う。……大地に、初めて、根をおろしてから、あたしには、いろいろなことが、判った。あのね、地面って不思議なもので、根をおろしているとあたりにいる生物の気持ちがみんな、大地へと流れこんでいるのが判るのよ。あの時あたし、生まれて初めて判ったの。それまでは、人間って、特定の人を除いてはみんな怖い存在だったけど――ほんとはそうじゃないんだって。ほんとはみんな、みんな誰かのことが好きで、みんな誰かに好かれたくて、それで生きている存在なんだって」
大地って不思議なもので、あたりにいる生物の想いがみんな大地へ流れこんでいるの。
夏海、そんな明日香の台詞を|反《はん》|芻《すう》して、不思議に思い当たることがある。
そう。子供の頃、はだしで地面にふれるのが、何であんなに快感だったのか。都会の、アスファルトやコンクリートで覆われた地面じゃない、田舎の、|剥《む》き出しの地面を見ると、何であんなに心が安らぐのか。
あるいは。宿命的に、その大地に根をはやして生きていかなければならない生物だから、植物はあんなに優しいのかも知れない。
ふっと夏海、そんなことまで考える。
そうだ、思い出してみれば。子供の頃からずっと、植物を怖いと感じたことはなかった。子供の頃からずっと、どんな人でも人間は、植物があたりに満ちていると安心するのだ。人間はみんな、無意識のうちに、植物が本当に優しい生物であること、人間を愛してくれる生物であることを、きっと心のどこかで知っていて――だから、地面がない、アパートやマンションに住む人は、わざわざ植物の鉢植えなんかを栽培するのだろう……。
「それが判ったから、人間っておそろしい生き物じゃなくて、結局あたしと同じ、植物達と同じ、孤独がとっても怖い生き物だって判ったから、あたし、これから先ずっと、この地球って星に、『愛してる』って想いとして満ちることが可能だと思う。……覚えていてね、信彦さん。記憶の表層からは忘れてしまっても、でも、意識の奥底では、きっときっと覚えていてね。あたしは、ずっと、ずっと、あなたを愛してる」
「何を莫迦な。おまえのことを忘れる訳が……」
「それから、おじさま。おじさまの幸せも、あたしはずっと祈ってる。黒田さん、あなたの意識に触れてから――あなたがあたしのことを好きだって思ってくれたから、あたし、人間がそんなに怖くなくなったの。そのお礼の意味も含めて、あなたの幸せも、あたしはずっと祈ってる。……それから、箕面さん。あなたには、特別に、お願いがあるの」
「あ、はい」
突然名前を呼ばれて――その上、特別なお願いなんて言われたもので、夏海、思わずどきっとする。と、明日香、そんな夏海の緊張ぶりがおかしかったのか、ちょっと笑って。
「あなたの部屋の、窓辺にある――研究所からとってきた雑草の鉢植え、あれを信彦さんにあげてくれない? ……本当に正直なことを言っちゃうと、おそらくあたし、あなたにそれをお願いしたいが故に、あなたにここまで来てもらったようなものなの」
「は? あの……鉢植え、ですか?」
「あれは、あたし。あれは、この星に根をおろしてこの星に帰化したあたし。あたしの意識は、この先この星中に満ちるけど……でもあれは、特別のあたしだから、あれだけは、あの鉢だけは、信彦さんのもとにいたい。……お願いできるかしら?」
「あ、ええ、その程度のことなら……」
「その程度のことじゃないかも知れない。あなたが思っているより、うっとうしいことなのかも知れない」
「明日香、何を莫迦なことを言ってるんだ? もしこの箕面さんって方が、おまえが地球に帰化した、その植物の鉢を持っているなら、箕面さんが嫌だって言ったって、僕は必ず彼女にそれをもらいにゆくし、もしどうしても駄目だって言われれば、たとえ盗みだしたって」
「信彦さん、黙って。箕面さん、お願い」
「判りました。お引き受けします」
そして、夏海がこう言った途端、ふいにもの凄いいきおいであたりに霧がわきだして――。
「ごめんなさい、信彦さん。さようなら、なんてあなたの顔を見ながら言ったら、あたし、きっと泣いちゃうから。でも……さようなら……ある意味で。それから、これから先は、いつまでも一緒よ。いつまでも、いつまでも、あたしはあなたを見ている。あなたを愛してる。あなたを見ている……」
同時に、明日香のこんな台詞がかすかに聞こえ――まるで突然、足許から大地が消失したような感じで、夏海達は落ちだした。どこへともなく、ただただひたすら、落下感が続き――やがて、夏海の意識、ふいにふっと遠くなる……。
☆
顔に何か冷たいものがはりついて、夏海、気がついた。目を開けるとまず視界に飛び込んできたのは、抜けるように青い空と、そして木々の|梢《こずえ》で、――夏海は、どうやら山道とおぼしい処に、仰向けに寝かされていたようだ。額の上には、どうやらぬらしたハンカチとおぼしき物がのっている。
「ああ、気がつきましたよ。お嬢さん、大丈夫ですか?」
と、そんな風に声をかけられたので、夏海、一瞬、誤解した。何かの事情があって、夏海一人があの世界樹の結界からほうりだされ、どこかこの辺で気絶しているのを、地元の人に見つけてもらったのかと思ったのだ。が、よく見ると、夏海にこんな声をかけてきたのは、松崎で。
「え、はい、大丈夫です」
「どうしたんでしょうねえ、私もついさっき、気がついたんですよ。あちらの人達も」
見ると、黒田に三沢、嶋村の三人の姿もある。
「山の中を散歩していた人間が、五人もそろって気を失ってしまうだなんて、そんな莫迦な話は聞いたこともないんだが……この辺で、有毒なガスがでるって話も、聞いたことがないし」
「え、あの、だって?」
松崎さん? 何言ってるんですか?
そう言おうとした夏海に、横から慌てて黒田が声をかける。
「箕面君、ちょっと」
「ああ、あなた達はお知合いですか。なら……あちらの二人のことは、御存知ないですか? あの二人、何でも気がついたら自分達の記憶がまったくないそうで……この辺に変なガスでもでるのかなあ、ほんとに」
……松崎さん? だってあなただってその様子じゃ記憶がないんじゃ……。
殆どそんなことを叫びそうになった夏海だったが、黒田がやたらと手招きするので、とにかくまず黒田の話を聞いてみることにする。
「あの……」
「割と面倒な事態だ。嶋村と三沢には、過去の記憶がまったくない。明日香のことや私達のことはおろか、自分の名前すら覚えていないんだ」
「……!」
「松崎の方には、ある程度の記憶がある。だが、その記憶の中から、明日香にまつわる事実が、全部抜け落ちている。どうやら彼は、今の自分の状況を、研究に熱中しすぎたせいで妻子に逃げられ、その反省と心の整理の為に屋久島へ来、ついに決心して田舎へ妻子を迎えにゆくつもりになった男だ、と認識しているらしい」
「……ああ……」
「おまけに、記憶がない癖に、三沢も嶋村もとにかく一刻も早くこの場を去りたがって、とめるのが大変だった。二人共、記憶がないのを不安とも何とも思っていないようで……三沢の方は、記憶は全然ないようなのに、過去、自分は医者だったって認識だけがあるようで、たとえ治療行為ができなくても、このままどこかの過疎の村か島にでも渡って、そこの医者の手伝いをして一生を過ごしてゆきたいっていうし、嶋村にいたっては、どこかの田舎で畑を作って生きてゆきたいと主張している」
「……まあ……でも……いいんじゃないですか?」
「え?」
「黒田さん、何で二人をひきとめているんです? まさかもう――まさか、研究所も燃えてしまったっていうのに、あの、明日香さんの最期を見たっていうのに、二人を拉致して、明日香さんや夢子さんのことを調べたいって訳じゃ、ないんでしょう?」
「まさか。そこまで私が非情になれるんなら、私はもっと出世している。それに……今更あの二人を拉致したところで、肝心の件について完全に記憶を失っているなら、意味はまったくないじゃないか」
「なら……お二人のこれからの予定って、この先お二人が幸せに生きてゆく為には、いいことなんじゃないでしょうか。……確かに記憶がないのはいろいろ不便でしょうし、何より、どこかの地に受け入れてもらえるまで、当座の生活が大変でしょうけど……でも、このままお二人が、明日香さんや夢子さんのことを苦にしながら逃亡生活を続けるのより、ずっといいことだと思うし……」
「君はまったく判ってないな。私が二人をひきとめていたのは――主に、嶋村を引き留めていたのは、君の為だっていうのに」
「え? あたしの?」
「そう。君は明日香さんに約束しただろうが。……嶋村が、このまま勝手にどこかへ行ってしまって、自分の名前も判らないまま、適当な偽名でどこかの農村で農業を始めてみろ。奴をどうやって見つけだすんだ。奴にどうやって鉢植えとやらを渡すんだ」
「あ……そうか……」
思わずこう呟いてしまい、それから夏海、黒田の顔をしげしげ眺める。
「かといって、今日この時点で嶋村を君の家に同伴して帰るのは、まずい」
「……どうして、ですか?」
「最終的には、研究所も燃えてしまったし、明日香さん達の資料も完全に燃えてしまっただろうから……この、エイリアン騒動は、なし崩しのまま、終ってしまうだろう。それに――これは明日香さんの意図だかどうだか判らないが、今回の事件は、吉田が着任するのとほぼ同時に起こった。だから、吉田の直接の責任にはならないだろうが……また、私の責任にも、ならない筈だ。むしろこうなってしまった今では、あくまで明日香さんの体を動かさなかった、私の判断が正しかったと、上層部は判断するだろう。ということは、私はまたあのプロジェクトの責任者に返り咲くことが可能だし、おそらくはそうなる。そうなったら私は、全力をあげて、このプロジェクト自体をなかったものにしてしまうつもりだ。が、それは、まだ、先の話だ」
黒田は、夏海がすべての事情を理解しているって思った上で、こうしゃべったのだが――あいにく夏海、すべての事情を理解している訳ではまったくなかった。故に、黒田のこの台詞も、半分くらいしか判らなかったのだが――でも、それでも。概ね、黒田が何を言いたいかは、判る。
「今、嶋村が君の家に――ひいては、研究所の近くにやってくるのは、それだけで、危険だ。それを考えると、このまま嶋村を東京へ連れていって、そこで鉢植えを渡すことは、不可能だ。充分時間がたち、嶋村が自分の新しい棲み家を確保した時点で、嶋村から君に連絡してもらうのが、ベストだろう」
「え……ええ。そうですね。それは判ります」
「とすると、嶋村をどこかへやってしまう訳にはいかないだろう? で、それでは、さて。今度は君のお手並を拝見するかな」
「え?」
「君と嶋村は、偶然同じ島へ来ていて、どういう訳か偶然一緒に気絶しただけの他人って関係だ。彼は明日香さんのこともまるで覚えていない。そんな彼にどうやって、君の住所を完全に覚えてもらい、あまつさえ半年以上時がたった時に、君に確実に連絡してくれるよう、約束をとりつけるのかね」
「……あ」
夏海、殆ど絶句する。そうだ、状況は、どう言い繕っても実に実に不自然だ。偶然同じ処にいて、偶然同じ時期に気絶した(これだけだって、超越的に不自然な話だ)、自分の名前も何も覚えていない男に、通りすがりの女が、自分の住所と名前を教える。教えるのみならず、必ず覚えておいて欲しいと懇願する。更にその上、今は連絡してもらっては困るのだけれど、半年以上たったら必ず連絡が欲しいと頼みこむ。そしてその理由といったら、とにかく渡したい鉢植えがある、としか言えない……。どうしよう、こんな不自然な話、嶋村に疑惑を抱かせないよう、うまくしゃべる自信、夏海にはまるでない。まるでないけど、約束した以上、何とかそれをしなければいけない。
その程度のことじゃないかも知れない。あなたが思っているより、うっとうしいことなのかも知れない。
明日香の台詞が、心の中によみがえる。
そうだ、これは、とてつもなくうっとうしい事態だ。どうしていいのかまるで夏海には判らない事態だ。
「ねえ、最後のお嬢さんも気がついたことだし、早く移動をしませんか? もしこの辺で妙なガスがでるんなら、早い処安全な場所へ移動した方がいいと思いますし」
夏海がそんなことを悩んでいると、松崎が脇から能天気な声をかけた。ほんっと、松崎って、夏海にとっては|疫病神《やくびょうがみ》みたいな存在で――どうしていつもこう、夏海の邪魔をするんだろう。記憶を持ってた頃も、そして、記憶をなくしてしまった今も。
それから夏海、この松崎の台詞と共に、ゆっくり移動をしだした三沢と嶋村、そして、苦悩している夏海をにやにや笑いながら見ている黒田に、順に視線を走らせる。順に視線を走らせて――。
ああ。
嶋村のこととは別に、心の中でちょっと嬉しいため息をついて。
ああ、やっぱり、あたし、間違ってなかった。
どうやら明日香さん、黒田さんと心で交流していたみたいだし、気がつかなかったけどあたしも明日香さんと心の交流なんてものをずっとしていたようだった。だからあるいは、あたしが黒田さんのことを好きだって思ってしまったのは、すべて明日香さんの影響なのかな、とも思ったけれど――そして、黒田さんのことが気になりだした時期と、あの鉢植えを自分の部屋に置いた時期のことを考えれば、それっておそらく事実なんだろうけれど――でも、それでも。やっぱり、あたしは、本質的な処で、間違ってなかった。
黒田さん。陰険ビルの主、陰険を絵に描いたような男。でも――この人もやっぱり、いい人じゃない。夏海が嶋村に鉢植えを渡す、そんな個人的な、そんなささいな用件を、それでも約束だからって守ってくれようとする――いい、人じゃない。
きっかけはどうあれ、この人を好いたのは、間違いじゃない。残念なことに、黒田さんとあたしには、年齢的なひらきがあり――この人をあたしが好きになった時には、すでにこの人は妻子がいる年で、だからこの想いは決して結実してはいけないし、また、悟られてもいけない想いだけれど――それでも、間違いじゃ、なかった。
また。黒田さん。陰険ビルの、主。この印象だって、多分、間違いじゃ、なかったんだ。今、夏海がこれだけ困っているのに、なのににやにやと夏海のことを見ているだけの黒田さんって、陰険とまでは言わなくても、でも、意地悪だわ。とっても意地悪だと思う。と、黒田、そんな夏海の視線に気がついて。
「どうしたんだね、箕面君。早く何とかしないと、嶋村は本当にどこかへ行ってしまうよ」
「……意地悪」
ここは、森の中。指紋錠がないと開かないドア、だの、カードの鍵がないと開かないドア、なんてものがない、自然のままの、森の中。だからだろうか、いつになく、夏海、素直に、夏海、正直に、こんな感想を言ってしまう。それにまた、黒田のことを好きだって本気で思ってしまったせいか、そして、その感情は間違ったものではないって思ってしまったせいか、幾分、無意識のうちに黒田に甘えるような気分になっていたのかも知れない。
「あたしが困ってるのって、そんなに面白いですか? ……そんなことばっかりしてると、今に奥様やお子さんに、絶対愛想つかされますから。ええ、それは保証したっていいです」
奥さんや子供の話題が自然にでてきてしまうのは……やっぱり夏海、心の奥底では、それがひっかかっているのかな。と、黒田、いとも気軽に、いとも自然に。
「さいわい、奥様もお子さんもいないから、愛想を尽かされる心配はないんでね」
こう言いながら。黒田は黒田で、妙な感慨を味わっていた。自然なのだ、台詞が。裏の意味を考えたり、|言《げん》|質《ち》をとられることを心配したり、妙にかんぐることもなく、自然に言葉がでてきてしまう。これは一体……どういうことなんだろうか。ここしばらく――ここ久しく、こんなに自然に他人と口をきいたことはなかったような気がする。まるでまだ全然屈折していなかった高校生の頃の自分に戻ったようで……。戻れるのだろうか? 自分さえ、自分の心の持ち方さえ変えれば、何も不必要に暗くなったり屈折したりしない、昔の、良子とすごした高校生の時のような、明るい自分に戻れるのだろうか?
不思議と心が軽くなった黒田、更に明るい調子で、こう台詞をつけ加えてみたりする。
「どうやら箕面君には、その手腕を発揮してくれる気がないみたいだな。それなら、後始末は、|僭《せん》|越《えつ》ながら私がやらせてもらおうか。私なら、何とか嶋村を言いくるめて、半年以上先に、君に連絡をとらせることができるかも知れない」
「……本当に?」
が。当の夏海は、黒田のこんな台詞をまったく聞いてはいなかった。
「疑うのかね? 私は、ずっと、こんな仕事をしてきた。自慢じゃないが……自慢にはまったくならないことだが……人をたばかるのは、得意だよ」
「じゃなくて……本当に、黒田さんには奥様がいらっしゃらないんですか?」
「箕面君? あのね、今は私の家庭事情を云々しているんじゃなくて……」
空が、青い。森は、朝降りた|露《つゆ》のおかげで、適度な水分を含み、すべての葉がつやつやとみずみずしく輝き、下生え達のその下、地面の中で生きている、ミミズも、ダンゴムシも、今日は、元気だ。
そして――空が、青い。
空は、青い――。
決して|投《とう》|函《かん》されない手紙1
[#地から2字上げ]――箕面夏海の手記
どこから書けばいいんだろう。
とにかく今、あたしはこの手紙を書いている。
そして、この手紙を書いているあたし自身を、とっても不思議だなって、自分で思っている。
あああ。あたしって文才ってものが、おそらくはまったくないんだろうな。だってこれじゃ、この手紙を読んだ人、おそらく意味がまったく判らないよね。つまりあたしが何を言いたいのかっていうと、あたしには、この手紙を書く動機も、書く目的も、何か言いたいこともまったくないんだってことを、言いたいの。そして、書く理由がまったくない手紙を書いている自分のことを、自分でも不思議だなって思っているの。(……こう書き直してもやっぱり、意味、判んないかも知れない……。)
でも、それでも今、あたしはこの手紙を書いている。
この手紙には|宛《あて》|先《さき》がない。
また、この手紙は、|投《とう》|函《かん》されることがない筈。だって、あたしが、間違いなく投函しないから。(それに、宛先なしの手紙を投函したって、郵政省が困るだけのような気も、しないでもない。)
でも――なのに。
あたしは今、この手紙を書いている。
何でなんだろうか?
何でなんだろうか――その理由を考える時、思い浮かぶのは明日香さんのことだけだ。
おそらくは、あたしは、彼女の為に、彼女の想いの為だけに、この手紙を書いている。
あの時。明日香さんに見せられた――『眼』としてのあたしが見ることを義務づけられた、植物の想いを見てしまった、あの時から、あたしにとって、この手紙を書くことは必然だったのだろう。それも……できれば、今日のうちに。
明日あたしは黒田夏海になる。
だから。今日、あたしはこの手紙を書かなければならない。箕面夏海のうちに――あたしは、箕面夏海が経験したことを記した、この手紙を書かなければならない。たとえ――宛先がなくたって。
☆
この手紙を読んでいる、あなた。
あたしの予定では、あなたは存在する筈のない人だ。
あたしは、お嫁に行く時、この手紙を一緒に持ってゆき、そして、生涯、この手紙を人に出すことはないだろう。あたしが死んだ場合でも、この手紙を発見した黒田は、間違いなくこの手紙を|破《は》|棄《き》してしまうだろう。(……あ。書いているうちに、気がついた。黒田の方があたしより先に死んでしまう可能性だって、あるんだよね。ううん、年齢を考えると、そっちの方が、むしろ自然。うわわわ、どうしよ、あたしの方が黒田より長生きする可能性なんて、これまではまったく考えていなかったんだ。うーん、この問題については、早急に考えることにしよう。)
だから、あなたは、論理的には存在する筈のない人だ。
でも、もし、この手紙を読んでいる人がいるのなら。
あなたには、知って欲しい。
植物は、真実、愛しているのだ。
すべての他者を。動物を。
そして――人間を。
どうか、このことを判って欲しい。このことを、決して疑わないであげて欲しい。
また、更に、乞い願わくば。人間の方からも、そんな植物の想いに答えてあげて欲しい。植物を、愛してあげて欲しい。
何故って――だって。
だって、植物は、あんなにも純粋に、あんなにも心から、愛してくれているのだもの。たとえどんなことをしたとしても、それでもすべての人間を――。
☆
ここにすべてのあたしの経験を書いたとしても、でも、この手紙を読んだ人が、あの時のあたしの気持ちを判ってくれるとは思えない。だから、あたしは、あえて、あの時の経験をここには書かない。
でも。判って欲しい。特に――もし、この手紙を今読んでいるあなたが、あたしの子供や孫、つまりはあたしの子孫なら。
あの時の感動を、あの時の驚きを、今でもあたしはすべて、覚えている。
それまではあたし、思っていたのだ。植物は――おそらくは人間のことを憎んでいるだろうって。個々の植物、例えばあたしの部屋の鉢植えなんかは、あるいはあたしのことを愛してくれているのかも知れないけれど、でも、植物全体は――きっと、人間のことを、憎んでいるだろうって。
だって。憎まれてもしょうがないようなことを、人間は、植物に対して――ううん、人間以外の生物に対して、いやいや、相手が人間だって、ずっとしてきたじゃない。人間は、勝手に森を切り|拓《ひら》き、勝手にある種の生物を絶滅に追込み、同じ人間同士でもひたすらいさかいを続け……とにかく、憎まれてもしょうがないようなことを、ずっと、ずっと、してきたじゃない。
でも。
あの時あたしは、実感した。
植物は――それでも、植物は、愛してくれているのだ、人間のことを、そして動物のことを、また、すべての生物のことを。
あの時。確かにあたしは、植物の結界に踏み込み、植物のじかの想いに触れたと思う。で、その、植物の想いったら、『愛してる』っていうことだけだって。
あんな、愛を、後にも先にも、あたしは見たことがない。
あんな、愛を、後にも先にも、あたしは体験したことがない。
――とにかく、愛している、愛している、愛している、すべてを。
あれは不思議な体験で――だから、誰に何を言いたいっていう訳ではないにせよ、でも、あたしは、あれは、記録しておかなければならないのだ。
☆
『|惜《お》しみなく愛は奪う』だったかな、昔、読んだ、本のタイトル。あれ、『惜しみなく愛は与える』だったっけ?
この二つって。
意味はまったく逆なんだけど、でも、言ってることは多分同じなんだよね。
愛っていうのはとんでもないもので、与えるにせよ奪うにせよ、とにかく惜しみなく、ありったけのものを与えたり奪ったりしちゃうんだよね。
愛してるって言ったら最後、言った側の人間は、言われた側の人間が、どこまでも自分の陣地に進入してくるのを認めるしかないんだし……逆も、あり、なの。
でも。
植物の『愛』って、多分、また、違うんだよね。
確かに植物は、動物に――そして、自分の愛するものに、惜しみなく、すべてを与えてはいるの。なのに――植物は、決して動物から、すべてのものを奪おうとはしない。ただ、与えるだけ……。
植物は、何もかも、与えているだけ。
☆
最後に。
これ、この手紙を偶然に発見して読んだ人には、まったく意味が判らないことだろうけれど――でも、けじめとして、関係者のその後のことを書いておきたいと思う。
まず――黒田と、あたし。これは、書くまでもない。
嶋村さんとは、あの後一回だけ、会った。明日香さんに言われた鉢植えを渡す時。あの鉢植えを手にした嶋村さん、何だか一瞬、びくっと驚いたようで――あの人、一体何に驚いたんだろう。ただ、その後で、嶋村さんは、とてもとても大切そうに、とてもとても気を|遣《つか》って、あの鉢植えを持って帰った。それ以降の嶋村さんの消息を、あたしは知らない。
三沢さん。彼の消息は、屋久島で別れて以来、まったく判っていない。
松崎さん。この間、ようやっと奥さんと復縁できたのだそうだ。めでたいことだと思う。
それから――あの、研究所。黒田さん(おっと、習慣で、『さん』なんてつけちゃった。あはは、夫のことだっていうのにね。おおっと、まだ、夫になってなかったっけ……って、これは、しゃれ、です)の研究所。
あれは、あの後すぐ、閉鎖された。あたしを含め、全職員には新しい勤務先が紹介されたし、それはそれでいいと思う。
黒田さん――あ、じゃなかった、黒田は、研究所を閉鎖するにあたって、あたしにいろいろなことを説明してくれた。それって殆んどはあたしには訳の判らないことで(黒田はどうやら、あたしが明日香さんの件について、すべてのことを知っているって誤解しているらしいのね。それって間違いなく誤解で、実の処あたし、知ってることより知らないことの方が多いんだけど……それでも、ただ、「うん、うん」って言って、彼の話を聞いてあげている。それで黒田の気がすむのなら、このくらい、お安い御用だって思うし。)、何でも、明日香さんの木のせいで、日本における明日香さん達の研究が殆ど不可能になったらしいの。(あの時いた連中は、怖がっちゃって二度と使いものにならなくなったんだそうな。それに、どういう訳か、昔研究所があった場所に立った人間は、どうしても明日香さん達のことをこれ以上探索する意欲をなくすらしく……これって、多分、あの時、明日香さんの最期のあの時、明日香さんと一緒に歌っていた、あの植物達の影響なのかなって思う。)また、アメリカ側は、あまりの資料の少なさに、とてもじゃないけれど研究を続けていく意志をなくしたみたいで……。
でも、それでも。
しばらくの間は、三沢さんと嶋村さんは、まだ、手配中の人物だった。でも、それも黒田が、何とかごまかしたらしくて、最近はそんな話を聞かなくて……。
そして。
夢子さんと拓さんの消息は――あれから、全然、判らない。
あの二人はどうしたんだか、あたしには知る|術《すべ》がまったくない。
ただ、あたしにできることと言えば。
祈るだけ。
祈るだけ――どうか、あの二人が、今、幸せでありますように。
どうか、あの二人が、今、幸せでありますように。
そして。
どうか、すべての人が、すべての動物が、すべての植物が――すべての想いが、しあわせになる日が、来ますように。
どうか、この世の中すべてが、しあわせな想いで満ちる日が、来ますように。
あれだけあたし達を愛してくれている――あれだけすべての生物を愛してくれている――植物の想いに、報いる為にも。
決して投函されない手紙2
[#地から2字上げ]――三沢あるいは岡田拓の手記
私は今、手紙を書いている。
私は今、手紙を書いている。地面に、風に、空気に――そしてその他、この世の中にあふれる、すべてのものに。
私は今、手紙を書いている。だが、これは人間には読めない手紙だろう。そしてまた――植物と言うよりはどちらかと言うと人間に近いという、私の出自のせいで、植物にも、私の手紙は読めないだろう。
だから。これは、手紙ではないのだ。これは、ある意味で、日記。他人に読ませないことを前提とした、手記。
だが。
人間というのは――そしておそらく、生物というのは、妙なもので、『誰にも読まれない』ことを前提としては、日記すらも書かないものだという。日記だって――日記という名前の、ごく私的な文書でさえ、後日誰かの目に触れることを|意《い》|図《と》して書かれているのが、普通だと言う。
だとすると。私のとっている行動は、非常に妙なものになるだろう。
私が今書いているこの手紙、これこそは、決して、誰にも読ませるつもりはないものだからだ。そしてまた――では、何故、そんなものを書いているのかっていうと……問題が、私一人には、大きすぎるからだ。
あの日。
おじさんや松崎さん達が去っていったあの日、世界樹は私にとあることを話してくれた。
それは、決して誰にも言えない話で――そして、私がそれを誰にも言わないことを見越した上で、世界樹は私にその話をしたんだろう。
だが。
その話は、私一人が負うには重すぎた。
だから、今、私はそのことを書こうと思う。そして……風が吹くままに、空気が動くままに、大地が変動するままに、この手紙を自然に返してしまおうと思う……。
☆
「……なあ、拓」
世界樹のこんな台詞で、話は始まったのだ。
「……なあ、拓よ。おまえに……おまえにだけは、言っておきたいことがある。言っておかなければいけないことがあるんだ」
「あ、はい。……で……何です?」
「……嘘なんだよ」
「は?」
突然、世界樹からこんなことを言われても、でも私は、それに対処することができなかった。大体が、世界樹が何を言っているのか、私には殆ど判らなかった。
「嘘なんだよ」
「……え……っと、言いますと?」
「嘘なんだ、すべてが」
「は?」
「私が夢子に言った台詞、そのすべてが嘘だって、今更おまえが知ったとしたら……おまえは私を許してくれるかい?」
「え? ……あの……?」
「私は、夢子に、言った。すべての植物は、動物を愛しているって。……これは、本当の話だ」
「え……ええ」
私は、ここ、屋久島の世界樹に至るまで、日本全国でいろいろな木々を相手に問答を繰り返してきた。だから、この世界樹の台詞が本当のことだと、これでも肌に染みてよく知っているつもりだ。
「だが、その、動機が、嘘だった。……あ、いや、確かに、一部は本当のことなんだよ。一部は確かに本当のことなんだ。我々の祖先、原始の生物は、確かにこの世の中にたった一人の生物で、だからその生物が、誰であれ、自分を食べるものであれ、食べられるものであれ、他者を受け入れない筈はない、それは真実のことなんだ。だが……それは、所詮、言い訳だ」
「え?」
その時の私には、世界樹の言葉が、まったくと言っていい程、判らなかった。
「……拓よ。おまえ……今の人間のあり方をどう思う? 正直な処」
と。世界樹は、一転して話を変えてしまう。
「正直な処と言われれば……ろくでもない状態だと」
「ろくでもない状態っていうのは?」
「……植物の力を借りて、それでこの地球の主権者たる人間を倒すのは、よその星の生物である私のするべきことじゃないって、今でも思ってます。だから、私は今の地球のあり方に文句は言いませんけれど――文句を言えた義理じゃありませんけれど――でも、人間っていうのは、とんでもないものだと思います」
「とんでもないものって?」
「あいつらは……人間は、何、考えてるんです? 何考えているんだか、私にはどうしても判らない。判りたくもない」
「……というと?」
どうやら。この辺の会話は、世界樹によってある一定の方向へと導かれていたらしいのだが……だが、そんなことは、その時の私には、判らなかった。
「こんなに、素敵な星なのに……こんなに素敵な環境なのに……なのに、人間は、自ら、この素晴らしい環境を破壊しています。こんなことって……信じられない。どうして、人間って、ああも莫迦になれるんです? 生態系を壊したら、自分もその生態系の一つである人間が被害を受けるって判りきっているのに、自然を壊したらそのむくいって全部自分に来るって判りきっているのに……なのに、何でそんな行動がとれるんです?」
「それが……答えだ」
「え?」
「それが、答えなんだよ。我々植物が、すべての動物を愛している、その真実の答えが、それだ」
「……え?」
「……人類の、今の、おまえの言う処のろくでもない行動を、同じ人類が何と言っているか、知っているかね?」
「え……いえ」
「『自然破壊』、と言っているんだよ。『自然破壊』……頭が痛いね。せめて、『環境破壊』って言って欲しいものだ。……ま、実際、そういう言葉を使っている団体もあるが」
「え? ……あの?」
「自然というものは、破壊できるものではない。破壊するものがあるとしたら、それならば、破壊されたものが『自然』なのだ。人間が――生物が、自然の一員である以上、自然が自然を破壊することはできないだろう」
「……?」
「今の状態を素直に見れば、人類こそ、人類のやっていることの被害者だ。人類は、環境を破壊する。どんどん破壊する。確かに、そのせいで、絶滅においやられた種もあるだろうし、とんでもない|憂《う》き目にあっている種もある。が――が、最終的に、最も酷い被害を受けるのは、人類、それ自体だ」
「かも……知れません……」
「昔、同じことを、我々はやったかも知れないのだ……」
「え?」
「昔、我々がやったことは、あるいは今人類がやっているのと同じことだったのかも知れないのだよ」
☆
昔――ほんとの昔。原始の地球には。現在の大気の約二割程をしめている、分子状の酸素は存在していなかった。
「分子状の酸素を地球に作りだしたのが、我々の祖先――ラン|藻《そう》という、光合成生物だった。……ま、それは確かに、原始の地球の大気の中の水蒸気が紫外線によって分解され、分子状の酸素にならなかった訳ではないのだが、割合から言えばそれは|微《び》|々《び》たるものの筈で――非常に長い時間はかかったが、今の地球の大気を作ったのは、我々植物なのだ」
「……ええ。でも、それが何か」
「今人類がやっていることが、環境の破壊だとすれば、それ以上にすさまじい、この星のあり様そのものを変えてしまうようなことを、我々植物は、過去、やったことがある訳だ」
「でも……でも、それを、今の人類の環境破壊と同列に論じるのはおかしいでしょう? 植物のやったことって――大気の中に酸素ができたのって、むしろ、すべての生物の発生に役立った、ありがたいことの訳で……」
「話はまだ続くのだよ。……やがて、酸素濃度はある程度を越えた。人間達がパスツール・ポイントと呼んでいる点で、ここを越えて初めて、やっと酸素呼吸が可能なだけの酸素濃度になったのだ。この時期に、真核細胞生物が現れる」
「はあ……。でも、くどいようですけれど、それと人間達が今やっていることとを比較するのはおかしいんじゃ……」
「……この時点までに、他に生物が出現していなければ、そうも言えるだろう。が――この時にはすでに、生物が出現していたのだよ。酸素呼吸を行なわない、ないしは行なわなくてすむ生物が」
「……え」
これは本当に驚いた。私は不勉強だったので、この星の生物は、すべからく酸素呼吸を行なっていると思っていたのだ。
「嫌気性細菌、と呼ばれる連中がいる。また、|醗《はっ》|酵《こう》というのは、一種の無酸素呼吸だよ」
「……はあ」
「この時点で。酸素呼吸が可能な大気を我々が作りだしてしまった時点で、植物は、すべての嫌気性細菌の未来を閉ざしてしまったようなものなのだ。また、醗酵をする生物だって、あるいはもっと違った進化をとげる可能性があったし、もっと別な未来だってあった筈なのだ。……それから、まだ、ある。実は、生物が地上へと上陸することを可能にしたのも、また、植物なのだ」
「ええ、つまり空気中に呼吸可能なだけの酸素ができて……」
「違う。今の生物が地上で|棲《せい》|息《そく》可能なのは、オゾン層のおかげで紫外線を防げるからだ。オゾンというのが酸素でできていることは知っているね? 地表の酸素濃度がある程度を越えた処で、地球のまわりにオゾン層ができたのだ」
「……はあ。でも、でも、それこそ、いいことでしょう? それこそ、誰の為にも役にたった、素晴らしいことで……」
「あるいは、今の生物にとって有害な紫外線の中で生きてゆける、別の生物が発生することを、決定的に不可能にしたことかも知れない。……我々のやったことが素晴らしいことだって、ありがたいことだって、それは、おまえが今ここに生きている生物だから、言える台詞だ。今、ここに生きている生物じゃない、当時、我々が地球そのものを変えるようなことをしていた時に生きている生物なら――あるいは、我々のやったことを、とんでもない環境破壊、自然破壊だって思うかも知れない」
「でも……だって! そこまで気にしてたら、何だってみんな悪いことになっちゃうじゃないですか!」
世界樹の話を聞いているうちに、私は段々苛々してきた。何だって今、そんな古い、それこそ昔の話をむし返さなければならないのか、今そんなことを言ってしまったら、今この地球で生きている、すべての生物を否定しなきゃならなくなるような、そんな話をしなきゃいけないのか、実の処私にはまったく判らなかったので。
「……ああ、拓。君が苛々しているのは判る。だが、どうか心を落ち着けて、私の言葉を聞いて欲しい。そして、これを判ってもらいたい」
「え?」
「つまり。我々植物は、その気もなかったしそんなつもりもなかったのだが、この地球って星の、かなり初期に、この地球って星に棲息する生物の未来を、ある程度に|亘《わた》って限定してしまったのだよ。……こういう過去があるからこそ、今、人類がたとえ何をやったって、それのどこが『自然破壊』なんだかって、我々としてはつい笑ってしまう」
確かに植物は、地球の環境を破壊はしなかった。むしろ、今、地球に棲息している生物から見ると、環境を整備してくれたようなものだ。でも、環境をまったく変えたっていう意味では、人類のやっている|姑《こ》|息《そく》な環境破壊とは|較《くら》べ物にならないことを、植物はやってしまった。それは、判る。
「だから……自分達が、地球の環境をまったく変えたのだって認識した時から、我々植物は、今の地球の生物、そのすべての母になったつもりでいる。……ああ、母は、勿論、地球だな。だとすると、|乳《う》|母《ば》、かな。そして……どこの乳母が、自分の育てた子を憎めるかね? たとえその子にどんなことをされたとしても。だって、その子をそういう風に育てたのは、他ならない我々なのだよ? ……故に、植物は、すべての他者を――この地球で生きている、すべての他者を、無条件に、愛している」
「…………」
「罪悪感は、持っていないつもりだ。地球って星を、こういう星にしてしまったことについての、罪の意識は。だが、責任感は、持っている。どんなにとんでもない生物が現れてしまっても、どんなに|傍《はた》|迷《めい》|惑《わく》な生物が現れてしまっても、それは、すべて、我々の責任だ。だから、宿命的に、我々植物は、すべての生物を、すべての動物を、愛している」
「…………」
……そうか。
……だから。
だから、あんなにも純粋に、植物は他者を愛してくれるのか。
私は、何とかそれを納得したけれど……でも、これって、あんまり聞きたい話ではなかった。と、世界樹、更に続けて。
「今、我々は、人類のことが一番心配だ」
「え?」
だって。今さっき、人類のやっていることは自然破壊なんてもんじゃないってうそぶいていたのは誰だ? 言ってることが、違うじゃないか。と、世界樹、そんな私の思いを完全に裏切って。
「あ、心配といっても、人類が次に何をするのか、次にどんなことを他の生物がされるのかが心配って訳じゃなくて……人類は、愛してくれるのだろうか?」
「え?」
「今から先。我々は、人類のやることに、口だしをしない。過去、あれだけのことをしてしまった我々は、人類が何をやろうと、口を出す資格がないと思っている。……たとえ、今の生物から見て、どんなに地球の環境を破壊するようなことを人類がやろうと、それって、長い目で見れば、次に来る生物の為の環境整備なのかも知れないから」
自然破壊。今の状態から見ると、自然破壊。でも、それって、ひょっとしてひょっとしたら、あとの世代から見れば、環境整備なのかも知れない。そう、例えばこのまま人類のせいでオゾン層が崩壊したとして……この後でてくるのが、オゾン層がなくても生きてゆける生物なら、あるいはそれって、未来から見れば、その生物の為の環境整備なのかも知れない。
「だから……心配なのは、我々植物が、無条件に、我々のせいで発生してしまったすべての生物を愛しているように……人間は、この先、自分達の棲息には適さない条件にこの地球がなり、そしてそれに適応した生物が現れた時……その生物を、愛してくれるだろうか?」
「…………」
「我々は、人類を、そしてすべての動物を、愛した。人類も、愛してくれるだろうか? 次にでてくる、次の生物を」
おそらく。今の人類は、どういう根拠があるのだか、自分達が最高の生物だと思っているだろう。とすると、彼らが、世代交代を簡単に認めるとは思いにくいし、まして、次にでてくる次の生物を愛してくれるとはとても思えない。
でも。
でも――。
「人類は、愛してくれるだろうか? 我々にできることは、祈ることしかない。どうか、人類が、次にでてくる次の生物を愛してくれますようにって。そして……もし、人類が、次の生物を愛してくれないのなら。我々は、人類に対して、絶望してしまう。我々は、人類を、愛せなくなってしまう……」
そして、こういう、世界樹からは。
夢子に言った、原始の植物の想い、なんていうのも嘘、私に言った、植物の責任感なんていうのも嘘、ただただ、ただただひたすら、人類のことを好きでいてくれる、植物の想いがにじみでていて……。
「どうか、人類が、次にでてくる生物を愛してくれますよう、ただ、我々にできるのは、祈ることだけだ……」
この、世界樹の台詞を聞きながら、私も、ただ、祈っていた。
どうか、人類が、次にでてくる生物を愛してくれますよう。どうか、世界樹の希望を、裏切らなくてすみますよう。
☆
どうか。
今、私は、ただ、祈る。
どうか。
どうか、人類が、次にでてくる生物を快く受け入れてくれますよう。そして、その生物を、愛してくれますよう。
どうか――お願いですから。
Ending
風が、吹く。
風が、なぶる。
嶋村信彦――いや、今はもうその名前はなくしていて、島田京介と名乗っていたが――は、風を見、自分の家の外に出していた、鉢植えを屋内にしまった。この風では、この鉢植えの草には、辛いような気がする。
その、鉢の、草。
実の処、島田京介には、その草が何なのか、判らない。ただ、大事な草だってことしか、知らない。
「京介さーん、畑、見た?」
向こうから声がかかる。その声の主は、この辺の地主で、田村総一郎という男の長女、|香《か》|澄《すみ》のもの。健康で、はちきれそうな|肢《し》|体《たい》をした香澄は、いつの間にか京介を夫とするつもりにすっかりなっていて……そして、不思議な程、京介には、それに対して抵抗がなかった。
……健康で、明るい人を、お嫁さんにするのよ。
誰の声なんだろう、時々、京介には、そんな声が聞こえることがある。そして、香澄は、その条件に反していないと思う。
「京介さーん。ねえ、京介さん、ってばあ」
☆
「駐在さんの奥さん、大丈夫かねえ」
「単なる|虫垂炎《ちゅうすいえん》――ああ、いや、|盲腸《もうちょう》ですってば」
三沢良介――あ、今の名前は、|緑川良行《みどりかわよしゆき》、だが――は、|半《なか》ばうんざりしたように、この台詞を言う。ここは、|過《か》|疎《そ》も過疎、ほんっきで過疎の村で、医者なんて一人しかいない(一人いたのがめっけものだ)。そして医者の助手をやりたいっていう緑川は、あっという間にこの村に受け入れられてしまったのだ。まして――緑川には、医師免許がないものの、でも、医療行為をかつてしたことがあるって知られてからは、殆ど熱狂的に。
「ねえ、緑川さん、うちの子なんだけど……手術の邪魔をする程じゃないんだけれど、でも、頭が痛いんだって……」
「判りました、私がみてみましょう」
かくて。緑川良行の一日は、過ぎてゆく――。
☆
「あんたってば、ほんとの莫迦よ。どうして判らないの」
さて。これは、夢子。
夢子は、ひたすら、怒っていた。
ひたすら――ひたすら――ずっと――ずっと。
夢子は、ひたすら、怒っていた。でも、その怒り方は、日がたつにつれ、少し変わってきたのだ。
もう、夢子は、すべてのことに対して怒っている訳ではない。
ずっと、ずっと、怒っているうちに、やがて、怒ることが――怒りながら植物達と会話することが――段々快感になってきたようなのだ。
「莫迦ね、あんた」
夢子がこう言うと。
「莫迦ではない、私には私の理由がある訳で……」
植物は、こう反論してきた。
今では、夢子は、植物の言っていた、本当の不幸は孤独であること、という言葉の意味が、おぼろげに実感できるような気がする。何度も何度も繰り返し怒り続ける夢子に、繰り返し反論をしてくれる植物。繰り返し言葉をかけてくれる生物がいるというのは――ひょっとしたら、とてもしあわせなことなのかも知れない。
「あんた達は、莫迦よ」
こう叫んだ夢子の|側《そば》を、明日香の想いが、拓の想いが、通り抜けてゆく。
「莫迦だってば、あんた達は」
……こういうのも、いいんじゃないかな。
今。
夢子は、明日香を、拓を、すぐ身近に感じることが、できる。そして、植物達の想いも、身近に。でも、それでも、夢子はこう言ってしまう。
「あなた達って、莫迦じゃない?」「何でそういうことになるの」「だって……でも……やっぱり……あなた達って、莫迦だと思う」
植物をののしりながらも――夢子は、不思議と、充足していたのだ――。
☆
どこか遠い処に。この世ではない処に。
まるで天まで伸びようとしているかのような、巨大な木の根元に。
一つの、彫像がある。
その彫像は、昔はどうやら、祈っている男の姿をしていたらしい。男が、ひざまずき、祈っている像だったらしい。
果してその男は何を祈っていたのだろうか。今では、その像は、なかば以上緑に埋もれて。
だが。
不思議なことに、その木の根元には、他に草は何もはえていないのだ。その像を、なかば以上埋め尽くしている、この緑は、一体どこからでたものなのだろう――?
そして、この不思議な緑が、完全に像をおおい尽くしても――それでもまだ、その彫像は祈り続けるのだろう。
いつまでも、いつまでも、その彫像は祈り続けるのだろう――。
☆
信彦さん。
おひさまが、照ってる。
ここは、あったかいね。
いつまでも、いつまでも、あなたのことを見てるね。
いつまでも、いつまでも、あなたのことを愛してるね。
……好きだよ。
[#地から2字上げ]〈FIN〉
あとがきであります。
これは私の二十一冊目の本にあたりまして、平成二年、四六判ソフトカバーで出して頂いた本の文庫版です。
☆
えーと、自分で言うのも何ですが、私は、かなり、ずぼらでいい加減で適当な奴です。何をやっても典型的な三日|坊《ぼう》|主《ず》って奴でして、大抵のことは長続きしないし、根性はまるでない、努力は何より嫌い。“何とかなるさ”を|座《ざ》|右《ゆう》の|銘《めい》にして、人生、生きてゆきたいもんです。
だから。時々、本の作者紹介で趣味についてふれてある奴とか、昔のインタビュー記事なんか見ると、自分でも驚いちゃうんですよね。
『趣味、水泳、|刺繍《ししゅう》』。うーむ、そんな時代もあったな確かに。『趣味、絵を描くこと、お菓子作り』。嘘じゃなかったんだよね、あの時は。『最近、英語の勉強を改めてやってます』。はい、やってたことはあるぞ。『手品を習いだしました』。はいはいはい、私のお|稽《けい》|古《こ》|事《ごと》が長続きする|筈《はず》がない。
いやー、もう、情けないったらありゃしません。もう数年泳いでないし、一時はあんなに|凝《こ》ってた刺繍、すでに|裁《さい》|縫《ほう》|箱《ばこ》の中に刺繍針がはいっているだけのていたらく(それ以外の刺繍の道具は、みんなどっかいっちゃった)。絵の具はまだ残っているけど、筆の手入れなんかまったくしてないもんなー、またいつか絵を描きたくなったら、まず筆から何とかしなきゃ。そういや、昔は旦那とおそろいのベストだのマフラー、編んだこともあったっけ、でも今の家には編み棒なんかないぞ。
ですので。話が、こと、努力、根性、継続関係にいっちゃうと、もう私、ひたすら赤面して黙りこむしかできないんです。
ですが。こんな私にも、たった一つ、一つだけ、この方面で人に誇れる(……とまではお世辞にも言えない、何とか赤面しなくてすむ)ことがありまして――それが、つまり、本を読むこととお話を作ることなんですね。
これは、これだけは、三日坊主じゃなかったもんっ! 字を読めるようになってから今まで、読書にのめりこんでなかった時期ってまったくないし、字が書けるようになってから今まで、お話作っていなかったこともないぞ。この関係だけは、“努力”、“根性”、“継続は力なり”って奴を、きちんとやってる。(……まあ、まがりなりにも作家やってる人間としてはあたり前だっていう気もしますが……他には、何一つ、三日坊主にならなかったことがないんだもん、このくらい言わせてください……。)
んで。
何だってこんなあたり前のことを強調して書いたのかっていうと……『緑幻想』って、この、|唯《ゆい》|一《いつ》継続しているお話作りの中で、私にとってちょっと特殊なお話だからなんです――。
☆
ある日、ちょっとした事情があって、私、自分の著作リストを作ることになったんです。そしてこれが――ショック、でした。
何故って、その著作リストでは、1989年、私には著作がないってことになり(はい、実際、ないんです)……えええ? 嘘お?
常日頃、“何とかなるさ”で人生をのりきっている私ですが、たった一つ、お話書きだけは、“継続は力なり”を座右の銘にしているんです。(どっちかっていうと書くのが遅い私、“継続は力なり”、“たとえ三日かけて一枚しか書けなくても、四日目にそれ全部破いちゃっても、それでも、継続さえしてれば、いつか必ず書き上がる”って思っていなきゃ、とても長編なんか書けませんもん。)そして……毎日ちゃんと“継続は力なり”! っていって仕事をしてれば、最低でも年に一冊くらいは本を出せる筈で……まったく本がでていない年だなんて、ある筈がない。
ところが。何度確かめても、やっぱり、絶対、1989年には私、一冊の本も出していないんですよね。日記をつける習慣がないので(何回もつけようとしたけれど、全部三日坊主でした……)断言はできませんが、この年サボッていた記憶もない。
おかしい。変だ。
そう思いながらも私、リストを作り続け……1990年にでたのが、『緑幻想』だってことを知って、やっと、何ていうか、納得したのです。
そうか、1989年は、『緑幻想』書いてたんだ……。
☆
今年で私、この仕事を始めて十六年目になるのですが、今までの|処《ところ》、このお話だけです、「げえ、これがスランプって奴かな、ひょっとして」って事態にたちいたったのは。
原稿、書いちゃ破き、書いちゃ破くのは、私の場合、|殆《ほとん》ど癖みたいなもんなんですが、このお話くらい破いちゃった奴も珍しいよなあ。それに、「げっ、どうしよう、まったく書けない」って気分を味わったのも、今の処、これだけ。
暗くなりましたね、人生、この時は。何たってこれまで、“うまく書けない”“思うように書けない”って経験は何度もやってますけど、“まったく書けない”っていうのは初めてでしたから。
それにまた。作家っていうのは嫌な奴でして、それを観察している自分をも、感じるんです。(例えばねえ、初めて失恋した時とか、大切な家族が亡くなっちゃった時なんか、物も食べられない程悲しんでいる自分と同時に、“失恋っていうのはこういうことか”“肉親が死ぬってこういうんだな”って、じっと見ているもう一人の自分がいるんですよね。じっと観察して、感情の起伏のポイントを、心の奥深くに刻みこんで、「よし、これで失恋は書けるな」とか言ってる自分が。)
んで、その、もう一人の自分、じっくり“スランプになった作家”って奴を観察し、それに満足すると、やたら冷静に、自分で自分に客観的なアドバイスなんかしてくれちゃうの。「一ヵ月でいいから締切りのことも何もかも忘れたらいい。あ、あんたにはそれはできないな、なら、とにかく一ヵ月間、無理にでも原稿用紙に|触《さわ》るのをやめる。そうすりゃ、あんたの性格と今までの人生からして、何か書かずにはいられない状態に自然になるぞ」。
このアドバイス、他人に言われたんならともかく……自分にされちゃうとねえ、かなり複雑なものはありますよ。「んなこと言ってる場合じゃない、|所《しょ》|詮《せん》あんたには判らないんだ」って言おうにも、アドバイスしてんのは自分なんだし、私があせる気持ち、誰よりよく判っているのは、やっぱり自分なんだし。おまけに、その観察している自分、冷静な分、正しくて、多分一ヵ月原稿用紙に触らなきゃ、このスランプって治るだろうなって、納得できることだったし。(その上、本当に、原稿用紙に触らなかったら、治ってしまった……。それも、一月、待てなかった。十数日、意思の力でわざと原稿書かなかったら、自然|治《ち》|癒《ゆ》してしまったのよ。それまでは、数十日、原稿用紙の前でうんうんうなって、まったく書けなかったのに。)
と、まあ。
『緑幻想』って、初めての本格的なスランプって奴を体験できたっていう意味で、私にとって特別なお話で、この先、もし、“スランプになった作家”のでてくるお話を作ることがあるのなら、実に役にたったお話なのですが――でも、そんな特殊な話、今の処書く気はないぞ。ということは、ああもう、こういう経験は二度としたくないっていう……お話なのでした。
☆
あと。このお話について書いておきたいことっていったら……“謎の根岸さん問題”っていう奴が、あります。
えーと、本文中にほんの数ヵ所、名前がでてくる、根岸と宮本。(名前がほんの数ヵ所でてくるだけですから、つまりはその、物語の進行にはまったく関係のない、どんな名前でもいい、脇役さんです。)
以前、私は、このお話の|親《しん》|戚《せき》にあたる、『グリーン・レクイエム』っていうお話を書きました。んで、『緑幻想』は、その続編っていうか、親戚筋のお話なので、当然、キャラクターの名前は同じにしようって思ったのでした。『グリーン・レクイエム』の明日香は、『緑幻想』でも明日香、『グリーン・レクイエム』の夢子は、『緑幻想』でも夢子。そんな主役級のキャラクターじゃない、『グリーン・レクイエム』で脇役だった根岸も宮本も、『緑幻想』では、根岸と宮本。
と、そんなつもりで、自分では確認した気分で『緑幻想』を書き――そしたら、抗議のお手紙がきたのでした。すなわち、「『グリーン・レクイエム』では、信彦の同僚は、根津と宮村でした」っていう奴が。
え。確か私、確認した筈なのに。あの人達は絶対、根岸と宮本なのに。
大|慌《あわ》てで私、もう一回確認します。そしたら――そしたら――確かに、信彦の同僚は、根津と宮村になってるうっ!
『グリーン・レクイエム』は、大変運のいい本で、ハードカバーと文庫版以外に、ソフトカバーの愛蔵版って奴を作ってもらえまして、ですので、その本のあとがきで、私、この件にかんしてのお詫びを書きました。私の勘違いで、本来なら根津と宮村になる筈の名前が、根岸と宮本になってしまったって。
んで、今回、『緑幻想』が文庫にはいる為のゲラチェックをしていて……私、またまた、この点が気になってしょうがなくなったんです。
だって、根岸さんは、絶対、絶対、根岸さんだったと思う。名前がでているだけのキャラだけど、この人は根岸さんだったって自信があるぞ。
そこで。どうしてもこの点にだけは自信があったので、私、またまた前の本をチェックしました。したら……やっぱり、この二人、根岸さんと宮本さんなんだよおっ!
な、な、なんなんだ、これは。じゃ、ソフトカバーの『グリーン・レクイエム』のあとがきに書いたことが、全面的に間違っていたのか? いや、そんな、だって確かに、あの時だってチェックした。
答えはとっても簡単でした。
えーと、『グリーン・レクイエム』って話は、奇想天外社って会社から、まず、ハードカバーでだしてもらって、そののち、講談社から文庫をだしていただいたのですね。んでもって、ハードカバー版の『グリーン・レクイエム』では、この二人、根岸と宮本になっていて、文庫版では、根津と宮村になっていたのでした。んで、私、『緑幻想』を書く時、「これが原点だから」って、奇想天外版に準拠し、根岸と宮本って名前を書き、抗議のお手紙を下さった方は、文庫版の方を読んでいて、根津と宮村じゃないかって言ってきて……何せ奇想天外版は、今ではもう手にはいらない本、細かいチェックは文庫版の方でやっている私、そのお手紙であらためて文庫版の方を見て、「げっ、確かに根津と宮本じゃん」って思った訳です。
んで、何だってこんなこと(親本である単行本と、文庫版で、何故かキャラクターの名前が違う)になったかっていうと……あああ、事情を、私は、知ってる。こうやっているうちに、思い出しました。
奇想天外社からハードカバーを出してもらった『グリーン・レクイエム』を、講談社文庫にいれる時。その、文庫の担当編集者の方が、偶然にも根岸さんってお名前だったんです。んで。
「ああ、そう言えばこの本には、根岸っていう人物がでてくるんですよね」
「あ、はい」
「あんまりいい役じゃないですけどね」
文庫版を出す時。根岸さんは、軽い気分でこんなことおっしゃって……そうだ、私が余計な気を|遣《つか》ったんだあっ!
このお話では、根岸さんも宮本さんも、はっきりいって脇役も脇役、名前なんかいらない役です。AさんでもBさんでも、まったく問題がない、新井さんだって|綾《あや》|小《こう》|路《じ》さんだっていいんです。んで……なら。
何も、そんな、どうでもいい名前の人を、よりにもよって担当編集者の方のお名前にしなくたって、いいよなあ。
この時の私、軽くこう思いました。
んでもって、根岸を根津に変える時、ついでに宮本を宮村に変え……。
この時は。
『グリーン・レクイエム』を載せてくれた雑誌は|潰《つぶ》れ、その本をだしてくれた出版社は倒産し、当然、予定していた続編である『緑幻想』なんて書ける予定もつもりも何もなく、軽い気持ちでやったことなんですが……あああ、それが将来、こんな形で響いてくるとは。
肝に銘じました。
たとえ、どんな事情があろうとも、将来、その作品の続編がでる予定なんてまるでなくても、あるいは、続編自体の構想がまるでなくても、でも、キャラクターの名前は絶対変えまい。
今後、この気持ちだけは、忘れずにゆくつもりです……。
(だもんで、このお話では、根岸さんと宮本さんがでてきます。何せ、基本大本がそうなってますから。すみません、こういう事情なので、御理解願います……。)
☆
と、まあ、こんなことを書いているうちに。あとがきに許された枚数を、あっという間に超過してしまいました。
ですので、最後に、感謝の言葉だけ書いて、このあとがきをお終いにしたいと思っています。
このお話を読んでくださった、あなたに。
読んでいただけて、とっても嬉しかったです。どうもありがとうございました。
気にいっていただけたら、これ以上の喜びは、ありません。
そして、また、もし。気にいっていただけたとして。
もしも、御縁がありましたなら。
いつの日か、また、お目にかかりましょう――。
平成五年二月
[#地から2字上げ]新井素子
本書は一九九〇年一月、小社より単行本として刊行されました。
本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九三年四月刊)を底本としました。
|緑幻想《みどりげんそう》 グリーン・レクイエムU
電子文庫パブリ版
|新《あら》|井《い》|素《もと》|子《こ》 著
(C) Motoko Arai 1990
二〇〇一年一〇月一二日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
●講談社電子文庫《好評既刊》
長い髪の娘・明日香。その驚くべき秘密とは!?
『グリーン・レクイエム』