[#特大見出し]『FAKE/states night』
[#地から2字上げ]成田悪悟
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)誰《だれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)前髪|如《ごと》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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プロローグ『FAKE』
狭間。
荒野の闇の中に浮かび上がるその街は、確かに『狭間』とでも言うべき存在だった。
昼と夜、光と闇といった『隔絶境界』などではない。同じ側に与する存在による『調和境界』――それが、この『スノーフィールド』と呼ばれる都市の特徴だった。
魔術と魔法ほどの差異はなく、人と獣よりは異質な存在を区切る分水界。
言わば、黄昏と早暁の色の混ざり合わせる曖昧な地境。区切りを付けるというよりも、混じり合った絵の具が集約することによって生み出された黒い中心点とも表現できる。
それは例えば、街と町の境界であり、自然と人との境界であり、人と都市との境界であり、夢と眠りとの間に存在する曖昧の泥を想像させる。
アメリカ大陸西部。
ラスベガスからやや北の位置に存在するこの都市の周囲は、そのように奇妙なバランスによって成り立っていた。
北にはグランドキャニオンを連想させる広大な渓谷。西には乾燥地域には似合わぬ深い森。
東に広がる湖沼地帯に、南には乾燥した砂漠地帯が広がっている。
およそ農地というものとは無縁だが、東西南北をそうした性質の土地に囲まれ、中央に座する都市だけが異質な存在として周囲から浮き上がっている状態だ。
自然と人工物のバランスが取れている、未来を見据えた新興都市――眼を輝かせてそう評する者もいるが、現実には、この街は傲慢に傲慢を重ねた思想が見え隠れする。
周囲に広がるありのままの形をした自然物。その狭間――様々な色が混じり合ったその中心点に、その街は自らが自然の調律者であると言わんばかりに、『黒色の台座』となって周囲の森羅万象全てを天秤にかけているように感じられた。
20世紀に入ったばかりの頃は、先住民族達の居住地が点在する他は何も無い土地だったと記録されている。
しかしながら、70年程前から急激な発展を遂げ、21世紀を超した現在は人口80万人を抱える都市へと変貌を遂げていた。
「急激な発展、というのはどこの土地にもある事だがね。そんな街でも、調査対象となるとあらば、自然とその出自に疑念の眼を向けようと言うものだ」
そう呟いたのは、青黒いローブを纏った老齢の男だった。
今にも雨が降り出しそうな、星一つ無い夜。
都市の西側に広がる森林部の外れ――やや薄まった木々の間から双眼鏡を覘きつつ、老人はレンズの向こう側に見える高層ビル群の明かりを見て淡々と語り続けた。
「しかし……最近の双眼鏡は実に便利だな、ボタン一つでピントを合わせてくれるとは。使い魔を一々放つよりも手軽になるとは、全く嫌な時代になったものだ」
どこか忌々しげに呟いた老人は、背後に立つ若い弟子に声を掛ける。
「そう思わないかね、ファルデウス」
すると、ファルデウスと呼ばれた青年は、老人から2mばかり離れた木に寄りかかったまま、疑念を含んだ声で問い返す。
「そんな事より、本当にそれほど気を張らねばならぬものなのですかね?その……『聖杯戦争』とやらは」
――『聖杯戦争』――
神話の時代か、はたまた御伽噺の中に現れるような単語を口にした途端、青年の師匠は顔から双眼鏡を離し、呆れたような目つきで口を開く。
「ファルデウス、本気で言っているのか?」
「いえ……その……」
ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪そうに目を反らす弟子に対し、老人は頭を振りつつ怒気混じりの溜息を吐き出した。
「確認しておく事もないと思っていたが……君は『聖杯戦争』についてどれだけ理解しているのかね?」
「事前に渡された資料には一通り目を通しましたが……」
「ならば解るだろう。如何に確率が低い話だとしても、『聖杯』と名の付くものが顕現する可能性があるとするならば――子供の噂話の中だろうが、我々は踏み込まざるをえない」
「それは魔術師全ての悲願でもあり、単なる通過点でもあるのだからな」
[# unicode21d5]
かつて――闘争があった。
舞台は東洋のとある国。
その中でも単なる地方都市に過ぎない場所で、人知れず行われた闘争だ。
だが、その闘争の内に秘めたる圧力は凄まじく、確かに、『聖杯』と呼ばれる奇跡を巡る、一つの戦争であったと言えるだろう。
聖杯。
其は一にして無限の奇跡。
其は伝説。
其は神の世の残滓。
其は到達点。
其は希望――されど、其を求めるは絶望の証。
聖杯という単語自体、時と共に、場所と共に、人と共にその姿を変えながら語られ続ける存在だが――このケースでは、所謂『聖遺物』としての聖杯とは少々意味合いが異なっている。
その闘争において、聖杯は『あらゆる願いを叶える願望機』として顕現すると言われていた。
言われていた、というのは、その聖杯を奪い合う戦いが開始された時点では、『聖杯』と呼ばれる願望機は存在していなかったからだ。
聖杯よりも先に顕現するのは、七つの『魂』。
この星の上で生まれ息吹いたあらゆる歴史、伝承、呪い、虚構――ありとあらゆる媒体の中より選ばれた『英雄』の魂を、『サーヴァント』と呼ばれる存在として現代の世に顕現させる。
それが『聖杯戦争』の根幹であり、聖杯の顕現に必要とされる絶対条件でもあった。
人間とは比べものにならないほどに強力な魂同士を呼び出し、互いに潰し合わせる。
それぞれの英雄の召喚者となった『マスター』と呼ばれる魔術師達が、ただ一人に許される聖杯取得の権利を巡っての殺し合い。その闘争こそが『聖杯戦争』と呼ばれるものだ。
殺し合いによって破れた魂を聖杯となる器へと注ぎ、それが満たされる事によって初めて願望機が完成するというシステム。
恐らく、その舞台は世界一危険な蟲毒壺となった事だろう。
本来姿を秘匿しなければ魔術師達が、ひっそりと闇を闊歩し、人知れず戦乱の火蓋を切る。
更に、『聖杯』と名の付く存在を監査するという目的で『教会』から派遣されたの監督者も加わり、蟲毒壺は血生臭い輝きを見せながら圧倒的な魂達によって清められるのだ。
そして、現在――
東洋の島国で過去に五度行われたという『聖杯戦争』。
かの闘争と同じ兆候が、アメリカの地方都市で沸き上がりつつあるという話が持ち上がる。
魔術師達を統括する『協会』は秘密裏に調査を行う事となり、こうして一人の老魔術師とその弟子が派遣される形となったのだ。
[# unicode21d5]
「……ふむ、そこまで理解しているのならば十分だ。だが、ファルデウス。そこまで識っていながら君のその投げやりな態度は感心できん。事と場合によっては『協会』全体の問題となり、あの忌々しい『教会』も出張ってくる事になるだろう。もっと気を引き締めたまえ」
戒めの言葉を紡ぐ師に対し、ファルデウスは尚も懐疑的な言葉を口にする。
「ですが、本当にこの土地で?聖杯戦争のシステムはアインツベルンとマキリ。そして遠坂が提供した土地によって組み敷かれたものでしょう?それを誰かが掠め取ったって事でしょうかね……70年も前に?」
「ああ、真実だとするならば……最悪の場合、この都市自体が『聖杯戦争』の為に作られた、と言う可能性もある」
「まさか!」
「可能性の話だよ、『聖杯』を追い求めた例の三家は、聖杯を手にする為にそれこそ何でもやったと聞く。そもそも、何者が『聖杯戦争』をこの町で再現しようとしているのかも掴めていないんだぞ?それこそマキリやアインツベルンの縁者が出てきても驚かんよ。……遠坂の縁者は今は時計塔にいるのみだから、それは無いと思うがね」
完全には三家の関与を否定せぬまま、老魔術師は再び双眼鏡に目を向けた。
もう午後11時を回ろうかというのに、都市の明かりは殆ど明度を落とす事無く、曇天の夜空に朗々と己の存在を誇示している。
数分ほど観察を続けていた老魔術師が、次の段階だとばかりに、レンズ越しに霊脈の流れを視る為の術式を準備し始めた。
その様子を背後から見ていた弟子は、神妙な顔で師の背中に問いかける。
「もしも本当に『聖杯戦争』が起こるとすれば、我らが『協会』も、『教会』の信仰者達も黙ってはいないでしょう」
「ああ……あくまで兆候に過ぎんからな。地脈の流れに異常があると、時計塔のロード・エルメロイが言っていたのだが……彼の弟子ならともかく、彼自身の推測は粗が目立つからな。こうして現地まで出向いて確認するというわけだ」
疲れたように笑いながら、老魔術師は自らの願望を語り出す。
苛立ちと嘲りを入り交じらせた声色で、弟子か、あるいは己に対して縷々と述べる。
「もっとも、英霊なぞ聖杯の下ごしらえが無ければ召喚できるものではない。英霊の召喚が成されればその時点で疑惑は確信へと変わるのだが ……そうなって欲しくはないものだ」
「おや、意外なお言葉ですね」
「私個人としては、ただのデマであって欲しいと思っているよ。仮に何かが顕現したとしても、それが贋物の聖杯で在って欲しいというのが本音だ」
「さっきの話と矛盾してませんか?聖杯は魔術師の悲願であり通過点だと……」
眉を顰めながら尋ねるファルデウスに、師は忌々しげに首を振った。
「ああ……そうだな。だが、仮に真なる聖杯と呼ぶに価するものだとすれば、全くもって忌々しい事だ。このような歴史の浅い国にそれが顕現するなど……。正直、多くの魔術師は『根源に到達できるのならば関係ない』と言うだろうが、私は違う。どうにも、礼儀知らずの若造に寝台を土足で踏みにじられた気分だよ」
「そういうものですか」
尚も淡泊な調子で言葉を返す弟子に、老魔術師は本日何度目かの溜息をついて話を変える。
「しかし、本来の場所とは異なる土地で、如何なるサーヴァントが召喚されるのか……」
「全く予想ができませんね。アサシンはともかく、他の五種に関しては召喚者次第ですから」
ファルデウスの返答に、師は苛立たしさを隠しもせずに叱咤の言葉を紡ぎ出す。
「おい、アサシンを除けば残り六体だ。先刻自分の口から七体のサーヴァントと吐き出したばかりだろう!しっかりしてくれ!」
聖杯戦争に喚ばれる英霊には、それぞれクラスが与えられる。
セイバー《剣士》
アーチャー《弓兵》
ランサー《槍兵》
ライダー《騎乗兵》
キャスター《魔術師》
アサシン《暗殺者》
バーサーカー《狂戦士》
召喚された英霊はそれぞれの特性に合わせた存在として顕現し、己の業を更に研ぎ澄ます。
剣の英雄ならばセイバーとして、槍を用いた英雄ならばランサー。
殺し合いを始めるにあたり、互いの真名を告げる事は弱点や能力を晒す事になるため、通常はそうしたクラス名でことを進める事となる。また、それぞれのクラスによって闘争におけるスキルにも多少の差異が生じる。
例えばキャスターの『結界作成能力』や、アサシンの『気配遮断』がそれにあたる。
言わば、それぞれ違う特性を持ったチェスの駒のようなものだ。
手駒は一つだけ。しかもバトルロイヤルという変則的なチェス。指し手たるマスターの力量次第で、どの駒にも盤を制するチャンスが存在する。
そうした、言わば聖杯戦争の常識の中の常識であるという部分を言い損じた事に、師は弟子の不承を嘆いたつもりだったのだが――
叱咤をされた側の男は、無表情だった。
飄々と聞き流すわけでもなく、反省の色を見せるわけでもなく、ただ、淡々と言葉を紡ぐ。
「いいえ、六柱ですよ。ミスター・ランガル」
「……なに?」
刹那――違和感が、老魔術師ランガルの背を走り抜けた。
ファルデウスが自分の事を名で呼ぶなど、これが初めての事だ。
何を巫山戯ているのだと怒鳴りつける所だったのかもしれないが、ファルデウスの冷え切った視線がそれを押しとどめる。
沈黙する師に対し、男は淡々と無感情な顔を蠢かせ、師の指摘した『間違い』を指摘する。
「日本で行われた聖杯戦争のクラスは確かに七柱というのがルールでした。しかし、この町の場合は六柱です。こと闘争において最も力を発揮すると言われる『セイバー』のクラスですが……この偽りの『聖杯戦争』には存在しないんですよ」
「何を……言っている?」
ギチリ、と背骨から音がする。
体の中に張り巡らされた魔術回路が、通常の神経が、血管の全てが、ランガルの耳に違和感を通り越した『警報音』を響かせている。
弟子は――少なくとも数分前までは弟子だった筈の男は、一歩こちらに踏み出しながら、感情を消した声で自らの言葉を紡ぎ出した。
「マキリとアインツベルンと遠坂、彼らの生み出したシステムは実に素晴らしい。それゆえ、完璧にコピーする事はできなかった。完全にコピーした状態で始めたかったのですが、何しろシステムを模倣した第三次聖杯戦争はトラブル続きでしてね。本当に参りました」
明らかに20代中盤としか思えない青年が、まるで視てきたかのように70年以上前の出来事を語り出す。
そして――不意に表情に険の色を込めたかと思うと、口の端を紐で引いたように歪めながら、あくまで淡々と自らの感情を吐き出した。
「貴方は我が国を『若い』、と仰いましたが……だからこそ、覚えておくべきですよ、御老体」
「……何?」
「若い国を、あまり侮るべきではない、と」
ギチリ ギチリ ギチ ギチチ ギリ ガキリ ギチ ギチリ
ランガルの全身の骨と筋肉が軋みをあげる。理由は警戒か、あるいは怒りによるものか。
「貴様 ……ファルデウスではない……のか?」
「ファルデウスですよ?もっとも、その名以外の真実を貴方に見せた事はありませんが。ともあれ、『協会』については本日、この瞬間まで多くを学ばせて頂きました。その点についてはまず謝礼を述べるべきでしょうか」
「……」
魔術師としての経験を長く積んできたランガルは、目の前の男についての認識を一瞬にして『弟子』から『敵』へと切り替える。
それなりに長い時間を共にしてきた男を、出方によっては次の瞬間に殺すべく感情をスイッチさせたのだが――それでも、ランガルの全身からは警戒音が鳴り響いたままだ。
魔術師としての腕は既に確認している筈だった。
力を隠している様子も無かった。それは、自分が協会の間諜に関わっていた経験からも確信できる。
しかし、その経験の全てが、目の前の状況が危険であると告げているのも確かな事だ。
「つまり、外部組織から協会へのスパイだったというわけか。私の前で魔術師を志すと口にした瞬間から」
「外部組織、ねえ」
粘つくような声を漏らし、ファルデウスは相手の誤解を正そうとする。
「協会も教会も、協会に所属しない異端の魔術集団がこの聖杯戦争を仕掛けていると考えているようですが――全く、どうしてこう……いや、いいでしょう」
あとは話す事など無いとでも言うかのように、ファルデウスは一歩前へと踏み出した。
殺気や敵意は特に感じられないが、こちらに何かを仕掛けようとしているのは確実である。
ランガルは、ギリ、と歯冠を噛み擦らせ、体の重心を滑らかに移動させ、相手の行動に対応する為の布石を完成させる。
「……舐めるなよ、若造」
同時に、自ずから先手を打つ方策を脳髄の中に展開させ、魔術師としての闘争に踏み切ろうとしたのだが――
その時点で、彼は既に敗北していたようなものだった。
魔術師としての騙し合いの時点で、ランガルは既に弟子だった筈の男に敗れており――
「舐めてませんよ」
冷ややかに呟く青年は、最初から魔術戦を仕掛けるつもりなど無かったのだから。
「だから、全力でお相手させて頂きます」
呟くと同時に、ファルデウスはいつの間にか手にしていたライターに火をつけ、空だった筈の手には一瞬にして一本の葉巻が握られている。
|物体招致《アポート》のようにも見えたが、魔力が流れた様子は感じられない。
怪訝な顔をするランガルに、男はニコリと――今までとは違う、心の底からの微笑みを浮かべてその葉巻をくわえ込んだ。
「ふふ、手品ですよ。魔術じゃない」
「……?」
「ああ、そうそう、我々は別に魔術師の集団ではありませんので、あしからず」
緊張感の欠片もない調子で呟きながら、男は葉巻に火を付けた。
「我らが合衆国に属する組織。その一部にたまたま魔術師もいたというだけです」
男の言葉に、ランガルはほんの数拍だけ沈黙した後、口を開く。
――「なるほど。で、その安物の葉巻が、貴様の全力とどう関係がある?」
魔力構成の時間稼ぎも兼ねて、そう口にしようとした瞬間――
老魔術師の側頭部を小さな衝撃がえぐり抜き、全ては一瞬にして決着した。
ボァ、という、重くしめった破裂音。
老人の頭蓋を簡単に貫いた弾丸は、減速と共に鉛の体を四散させ、脳髄の海を焼き切りながら跳ね泳ぐ。
貫通することの無かったその弾丸は、脳味噌の中で歪な跳弾を繰り返し、瞬時にして老人の体の活動を停止させた。
そして――既に絶命している事は目に見えて分かる状態だと言うのに、追い打ちを掛ける形で数十発の弾丸が突き刺さった。
方向は一カ所からではなく、発射の感覚と合わせて十カ所以上らかの狙撃が考えられる。
明らかなオーバーキル。執拗な破壊。
ラップに合わせて踊る操り人形のように、老いた体は力無い四肢をくゆらせる。
「滑稽なダンスをありがとう」
赤い飛沫を背景にグチャリグチャリと舞い回るランガル。その生き生きとした骸を前にして、ファルデウスはゆっくりと手を叩きながら賞賛の言葉を紡ぎ出した。
「30歳ほど若く見えますよ、ミスター・ランガル」
数分後――
血溜まりの中に倒れる師の前で、ファルデウスは一歩も動かぬままだった。
ただし、周囲の森には先刻とまるで違う空気が広がっている。
迷彩服を纏った男達が、ファルデウスの背後の森の中に数十人単位で散開していた。
その『部隊』は一様に黒い目出し帽を被っており、彼らの手にはそれぞれ、無骨にして精密なデザインの黒い塊――消音器付きのアサルトライフルが握られている。
表情は愚か人種すら判別できぬ状態の男達。その中から一人がファルデウスへと歩み寄り、姿勢を正して敬礼しながら口を開く。
「報告します。周囲に異常はありません」
「御苦労さまです」
部下の態度とは対照的に、柔らかい言葉を返すファルデウス。
彼はゆっくりと老魔術師の遺体に歩み寄り、その死体を薄い微笑みと共に見下ろした。
そして、背後にいた部下達に、振り返る事の無いまま言葉をかける。
「さて……君達は魔術師という物をよく御存知ないでしょうから、少し説明しておきましょう」
いつの間にか彼の周囲に散開していた軍服の男達が整列しており、一言も発さずにファルデウスの言葉に聞き入っていた。
「魔術師は、魔法使いではありません。そんな御伽噺や神話のような物を想像する必要はなく……そうですねえ、せいぜい、日本産のアニメーションやハリウッド映画を想像していただければ結構です」
師だったものの肉塊の前にしゃがみ込み、その一部を素手で掴んで摘み上げる青年。
不気味な光景ではあったが、非難する者はおろか、眉を顰める者すら存在しない。
「殺されれば死にますし、物理攻撃も大抵は効きます。中には蠢く水銀の礼装で数千発の散弾を防ぐ実力者や、体に住まう蟲に意識を移して生きながらえる魔人もいますが――まあ、前者は対戦車ライフルは防げませんし、後者もミサイルが直撃すれば、ほぼ確実に死にます」
男の発言をジョークと受け取ったのだろう。無表情だった迷彩服の男達の間に失笑が漏れる。
だが――次の発言を聞いて、その笑いはピタリと収まる事となった。
「例外は……この人のように、そもそもこの場にいなかった場合です[#「そもそもこの場にいなかった場合です」に傍点]」
「……どういう意味ですか、ファルデウス殿」
硬い言い方で尋ねる部下の一人に、ファルデウスは笑いながら死体の一部を放り投げた。
表情を変えずにそれを受け取った部下は、指先の一部と思しき肉片を見て、声を上げる。
「……なッ」
ライトに照らされた肉片の断面は確かに赤く、白い骨も確かに露出していた。
だが、決定的な違いがある。
肉と骨の隙間から、光ファイバーのような透明の繊維が何本も露出し、それが現時点をもってして糸蟲のように不気味に蠢いていたからだ。
「義体というか、まあ、人形です。ミスター・ランガルは用心深い諜報屋ですからね。こんな場所に本体で来るような間抜けではありません。今頃、本体は協会の何処かの支部、あるいは自らの工房で慌てふためいている事でしょうね」
「人形……?まさか!」
「いやあ、大した技術ですけど、違和感は完全にぬぐえてませんでしたね。不自然な点を隠す為には老人の外観は都合がいいのでしょう。そうそう、彼よりも腕のいい魔術師の女性が作る人形は、本体と何一つ変わらず……DNA鑑定すら通ってのけるらしいですよ?」
他人事のように語るファルデウスだったが、部下は訝しげに眉を顰めながら、上役である男に対して意見を述べる。
「ならば、先刻の会話も筒抜けという事ではありませんか」
「かまいません。予定通りです」
「は……?」
「わざわざ非合理的な『冥土の土産』を語ったのは、それを『協会』に伝えてもらう事が目的だったんですから」
ファルデウスは、贋物の肉塊と贋物の血溜まりの上で空を仰ぎ、霧雨が降り始めた闇の空を眺めて、満足そうに呟いた。
「これは、我々なりの……魔術師達への警告と宣伝[#「宣伝」に傍点]ですので」
そして、この日、この瞬間を皮切りとして――
偽りの聖杯の壇上で踊る、人間と英霊達の饗宴が幕を開けた。
[#改頁]
プロローグ『アーチャー』
その男は、結局の所はどこまでも魔術師であり――
しかしながら、どこまでも澱んでいた。
偽りの聖杯戦争。
この儀式が東洋の島国で行われた物の贋作であるという事を理解しながらも、彼はその事実を鼻で笑った。
――下らん。
――真似だろうがなんだろうが、結果さえ同じならば何の問題も無い。
尊き魔術師ならば、他人の作り上げたシステムは載らず、聖杯戦争を組み上げた三家のように自らそれを生みだそうと思うのだろうが、彼の場合は手っ取り早く、他者が用意したものの尻馬に乗る道を選んだ。それはそれで合理的な考えであるとも言えるのだが。
最初から『贋作』として執り行われる聖杯戦争に、彼はどこまでも本気であり、誰よりも気合いを入れていたと言っても良いだろう。
すなわち、彼は最初から覚悟を決めてこの町に現れた。
最初に噂を聞いた時は、単なる風聞の類と笑っていたが、ランガルの手によって伝えられた一方は協会を静かに揺るがし、その振動は多くの魔術師達を通じて彼の耳にも伝わった。
彼はそれなりに名のしれた魔術師の家系ではあったが、その力は緩やかに下降の道を辿っており、現時点での当主である身として少なからずプレッシャーを感じていた。
それなりの理論も知性も技術も持ち合わせていた彼は、ただ、魔術師の家系として積み上げてきた純粋なる『力』だけが不足している状態であり、それが彼をより一層苛立たせる。
通常ならば、その力の技術を研鑽し、より素養のある子孫へと魔術刻印ごと引き継がせるべきだったのだろう。
だが、彼は焦っていた。
自らの子もまた、自分よりも魔術師としての素養の落ちる事を確認してしまったからだ。
徐々に魔術師としての素質が薄れ、ついに魔術の世界との縁を経つ事となった家系も数多く存在する。
――冗談ではない。
――マキリのようになるのはまっぴら御免だ。
協会にも、通常の企業や組織と同じように多くのしがらみが存在する。
子孫を繁栄させる為の手段を得るには、まず強い魔術師の血統たらねばならない。
そうした矛盾に晒された男は、魔術師であり、未熟でもあった。
彼は偽りかもしれぬ聖杯戦争に全てを賭け、このスノーフィールドという町に、聖杯戦争というテーブルにありとあらゆるチップを乗せたのだ。
財産も、過去も、未来すらも。
――大丈夫だ、上手く行くさ。
己の覚悟を示す為に、先の無い息子は既に間引いてきた[#「先の無い息子は既に間引いてきた」に傍点]。
止める妻も始末した。
繁栄をもたらさぬ女に未練はない。
だが、魔術師としての矜恃が理解されなかった事は少なからずショックだった。
あんな女に生ませたからこそ、素質の無い息子が生まれたのだろう。
だが、あの女が今の自分の『ランク』で手に入る上限だ。
さらに自分の位を上げるには、この戦争に勝ち残るしか無い。
仮に聖杯がまがい物であったとしても、『聖杯戦争』と名の付くものを勝ち抜ければ、それだけで魔術師としてのアドバンテージは上がる。戦いの仮定で『根源』への道を掴む事もできるだろう。
あるいは、アインツベルンやマキリの業を識る事ができるかもしれない。
如何なる結果になろうとも、聖杯戦争は自らの魔術師としてのランクを上げるものだ。
なんと緩いギャンブルだ。
最低でも、賭けた以上のものは確実に取り返せるのだから。
そのように、様々な利益を思い描きながらも――彼は、自分が敗北して完全に家系を終わらせる可能性については考えていなかった。
だが、考えないのにはそれだけの理由がある。
彼には勝算があった。
少なくとも、自らの息子を始末するに価するだけの勝算が。
――しかし……これが令呪か。聞いていたものとは少し違う紋様だな。
男はそう思いながら自分の右手を見て、それこそ生まれたばかりの我が子を見るように、愛おしい笑みを顔面に貼り付けた。
閉じた鎖を思わせるその入れ墨は、聖杯戦争のマスターとして選ばれた証のようなものなのだという。
――だが、これが宿ったという事は……
――認められたのだ!この私が!マスターとして!
――すなわち、あの英霊の主として!
言いながら、男は静かに傍らに置いた布包みに目を向け――
もう一度、笑う。
笑う。笑う。
笑う。
スノーフィールドの北部に広がる大渓谷。
赤い岸壁が連なる渓谷から程近い場所の山岳部に、その洞窟は存在した。
元々は天然の洞窟だったが、現在は人払いの結界を始めとして、魔術師が生み出した『工房』として機能している状態だ。
ランプの明かりに照らされながら、魔術師は静かに布包みを持ち上げ、その中にある者を懇切丁寧に取り出した。
それは――鍵だった。
だが、単なる鍵というのは少々憚られる代物だ。
それは余りにも装飾過多であり、ちょっとしたサバイバルナイフほどの長さと重さを持ち合わせている一品である。
鍵を彩る宝石一つとっても、魔術的、金銭的、共に多大なる価値を持ち合わせていると思われた。
――過去の聖杯戦争においては、『それ』を蛇の化石で呼び出したと聞くが……。
――この遺物ならば、より確実に『それ』を呼ぶ事ができるだろう。
かつて――彼の家系にまだ力があった頃、やはり今の自分と同じように、全てを賭けてその鍵を手に入れ、あるものを探し求めたのだという。
この世の全ての物が詰まっていると言う、黄金郷の宝物殿。この鍵は、その縹渺たる伝承の奥にある扉を開く為に使われた物に相違なかった。
財に興味があるわけではない。ただ、その宝物の中にはあらゆる魔術的な宝具が秘められている事だろう。
結局、先人が証明したのは鍵が本物のであるという一点のみであり、結果として蔵を見つける事は叶わなかった。鍵自体にも未解明の魔力があるようだが、今の時点では全く関係の無い事だ。
自らが望む英霊の遺物。それこそが召喚において最高の触媒となり、より確実に自らの望むサーヴァントを手に入れる事ができるのだ。
――時も満ちた。
――始めるとするか。
彼は静かに立ち上がると――彼は瞬時に笑みを消し、感情も打算も全て忘れ、自らが臨む儀式に全ての意識を集約させる。
感覚が一点に統合され、研ぎ澄まされ、必要無い階層の官能の一切合切が遮断される。
神経とも血管とも異なる、体中に張り巡らされた目に見えぬ回路。
その中に、やはり不可視の熱水が走り抜けるのを感じながら――
男は自らへの祝詞であり、万象の天秤への呪詛でもある召喚の文言を吐き出した。
数分後。
彼の人生と、この闘争に賭けた数々の代償。
そして、彼がこだわり続けた魔術師としての家系。
全ては一瞬。ただの一瞬。
ほんの数秒のやりとりで、彼の存在は、あっさりと終焉を迎える結果となった。
[# unicode21d5]
「やった……ハハ、ハハハハハ!やったぞ!」
目の前に現れた『それ』を見て、魔術師は思わず言葉を漏らす。
相手の真名など確認するまでもない。
自分が何を喚ぶのか、最初から理解できていた事だ。
喜悦の笑みだけが喉の奥から押し寄せ、僅か数秒の間とは言え召喚した英霊を放置する、
英霊の顔にはあからさまに不快の色が浮かんでいるが、英霊として喚ばれた己の義務を行使する。もっとも、その英霊がそれを『義務』などと受け取っていたかどうかは疑問だが。
「……答えよ。貴様が不遜にも王の光輝に縋らんとする魔術師か?」
黄金色の髪、黄金色の鎧。
豪奢を極めた外観のサーヴァントは、こちらを見下す形で問いかけた。
だが、問われた言葉の内容に思わず鼻白み、眼前に存る絶対的な『力』を実感しつつも、僅かな苛立ちを沸き上がらせる。
――サーヴァント風情が何を偉そうな!
魔術師としてのプライドが威圧感に押し勝ったが、自らの右手に輝く令呪の疼きを感じて済んでの所で冷静さを取り戻す。
――……まあ、この英雄の性質からすればそれも仕方在るまい。
ならば、最初にハッキリと解らせて置かなければならないだろう。
あくまでもこの戦いにおいて、主が自分であり、サーヴァントとして顕現した英霊などただの道具に過ぎぬという事を。
――そうだ、その通りだ。この私が貴様の主だ。
令呪を見せつけながら答えを放つべく、右腕を前に差し出し――
その右手が、無くなっている[#「無くなっている」に傍点]事に気がついた。
「……え?あ?」
形容する言葉もなく、呆けた声を洞窟内に響かせる。
血の一滴すらも出ていないが、確かに、直前まであった筈の右手がない。
慌てて自らの手首を顔の前に持ってくると、焦げた臭いが鼻腔を強く刺激する。
手首の断面からは煙が薄く立ち上っており、焼き切られているというのは明白だった。
それを認識した瞬間、脊髄と脳に痛みの流れが伝播し――
「ひがぁ……ぎひがぁぁぁぁぁっぁぁぁあっぁぁぁ!あぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁあぁ!」
悲鳴――悲鳴――圧倒的、悲鳴。
巨大な蟲の鳴き声さながらの絶叫を響かせる魔術師に、金色の英霊は退屈そうに口を開く。
「なんだ、貴様は道化か?なれば、もっと華美のある悲鳴で我《オレ》を愉しませよ」
眉一つ動かさず、相変わらず驕傲に振る舞うサーヴァント。どうやら、右手の消失は英霊の手によるものではないらしい。
「ひぁ、ひぁ、ひぁぁっぁぁっぁぁ!」
理解の範疇を超えた出来事に、魔術師は完全に理性を崩しかけたが――魔術師としての脳髄がそれを許さず、強制的に精神を落ちつかせ、即座に体勢を立て直す。
――結界の中に……誰かがいる!
――私としたことが、何という迂闊!
本来ならば、工房と化したこの洞窟に誰かが入ってきた時点で気配を察知できる筈だった。しかし、サーヴァント召喚の決定的な隙を突かれた為に、洞窟内に満ちた英霊の魔力に紛れて気付く事が出来なかったのだ。
だが、結界に合わせてそれなりの罠も張り巡らせていた筈だ。それが発動した気配はなく、闖入者がそれらを解除して進んできたとすれば、相当に油断のならぬ相手だと推測できる。
残った右手で魔術構成を練りながら、気配のする方角――洞窟の外へと向かう穴道へと叫び上げた。
「誰だ!どうやって私の結界を抜けてきた!」
すると――次の瞬間、洞窟の闇からの声が響く。
ただし、魔術師ではなく、金色のサーヴァントに対して。
「恐れながら……偉大なる王の前にこの身を晒すお許しを頂きたく存じます」
不意に声を掛けられたサーヴァントは、ふむ、と一考した後、やはり傲岸な態度を見せる。
「よかろう。我が姿を拝謁する栄誉を許す」
「……ありがたき幸せ」
その声は――透き通るような無垢さと、全てを悟りきったような感情の無さを揃えていた。
続いて、岩陰より姿を現したのは――ただでさえ若く受け取れた声の印象から、さらに数歳若い――12歳前後の、褐色の肌の上に艶やかな黒髪を掲げる少女だった。
深窓の佳人というべき形容が相応しい、下品さの無い華美な礼装。端正な顔がその衣装によって更に引き立てられているが、表情にはそれに見合った華やかさは感じられない。
ただ、粛々と畏まった調子で一歩工房内に踏みだし、祭壇上の英霊へと恭しく一礼をした後、裾が土に塗れる事を気にもかけずに跪く。
「なッ……」
完全に無視された形となった魔術師は、目の前の少女の力が計りきれずに、憤る事もできずに怒りを喉の奥へと押し込めた。
英霊は少女の恭しさが当然であるとばかりに、視線だけを向けて力ある言葉を押しつける。
「我《オレ》の前に雑種の血を飛び散らせなかった事は褒めてつかわす。だが、喰うに価せん肉の臭いを我《オレ》の前に漂わせた理由について、弁解があるならば申してみよ」
一瞬だけ魔術師の方をちらりと見据え、少女は跪いたまま英霊に対し申し立てる。
「恐れながら、王の裁きに委ねるまでもないと……蔵の鍵を盗みし賊に罰を与えました」
言いながら――少女は自らの前に一つの肉塊を取り出した。
それは、確かに先刻まで魔術師の体の一部だったものであり、令呪によって英霊との魔力の筋道を繋ぐ接合部――つまりは、魔術師の右手である。
金色の英雄は、少女の言葉にフム、と足下を見下ろし、台座に置かれた一つの鍵を手に取り――興味なさげに投げ捨てた。
「この鍵か、下らん。我《オレ》の財宝に手を出す不埒物など、我が庭には存在しなかったからな。造らせたは良いものの、使う必要が無いと捨て置いたに過ぎん」
「……ッ!」
その行動に衝撃を覚えたのは、右手首の痛みを遮断する為の呪文を呟いていた魔術師だった。
彼の先祖が全てを賭けて追い求めた『蔵』の鍵。
魔術師の家系として唯一と言っても良い誇りであったその偉業を、ゴミのように投げ捨てられたのだ。しかも、自らが奴隷として、道具として扱うべきサーヴァントという存在に。
憤慨のあまり、呪文を唱えるまでもなく右手の痛みが薄らいだ。
だが――そんな彼に追い打ちを掛けるように、褐色肌の少女は首だけを魔術師に向け、威圧と憐れみを込めた声を浴びせかける。
「それが王の意向なら、貴方とこれ以上命のやりとりをするつもりはありません。どうか、お引きとり下さい」
「なッ……」
「そうすれば、命までは取りません」
「―――――― ――――――――」
刹那、魔術師の意識が簡単に支配される。
自らの内より沸き上がった憤懣が魔術回路を支配し、言葉すらあげる事もできず、左手に集めた全ての魔力を暴走させる。
ありったけの呪いと熱と衝撃が込められた黒い光球が、勢いよく少女の顔面を呑み込むべく空間を切り裂き――疾る、奔る、趨る。
ほんの一呼吸の間すらなく、魔力の奔流は少女を押し流すと思われた。
だが、そうはならなかった。
「(    )」
無音の詠唱。
少女は口を開きつつも、音も無く己の中で魔術の構成を紡ぎ出す。
だが、瞬時にして膨大な魔力が少女と魔術師の間に沸き上がった。
まるで、極限まで呪詛を圧縮したが故に無音に辿り着いたとでも言うような、圧倒的詠唱。
最後の瞬間――魔術師は見た。
少女の前に現れた、自分の身長の倍はあろうかという巨大な炎の顎が、自分の放った魔力をあっさりと呑み込み――――――
――違う。
最後に思い浮かんだ言葉。
果たして何をもって『違う』という言葉が出たのか、それを考える暇すら与えられない。
――ちがッ……ち、ちがッ……こんなッ
自分が死んでも家系は続く。魔術師である彼はせめてそう思おうとしたのだが……その家系の後続を、つい数日前に自らの手で始末した事を思い出す。
――ちがう!違う!ここでッ……死ぬッ……私が……?違う、ちが……
――違う違うちが―――――――――
―――――――――――――
そして――魔術師は姿を消した。
彼の人生と、この闘争に賭けた数々の代償。
そして、彼がこだわり続けた魔術師としての家系。
全ては一瞬。ただの一瞬。
ほんの数秒のやりとりで、彼の存在は、あっさりと炎の中に呑み込まれる結果となった。
「お見苦しい所をお見せ致しました」
人を一人殺したというのに、少女は平然と英霊に頭を垂れる。
金色のサーヴァントは、さして興味が無いといった視線を送りながらも、今しがた彼女がつかった魔術について口にする。
「なるほど、我《オレ》が不在の間、貴様らがこの土地を支配していたわけか」
今の魔術は、彼女の内から直接沸き上がった魔力によるものではない。
恐らくは、この土地自体のもつ霊脈を利用した魔術だろう。
それを肯定するように、少女はそこで初めて表情を浮かべ、顔を地に向けたまま、どこか寂しげに言葉を返した。
「支配ではなく、共生です。……御推察の通り、このスノーフィールドの土地を出れば、私の一族はただの人にございます」
「雑種は雑種に過ぎん。魔術の有無など区別する程の差にはならぬ」
自分以外は全て同等とでもいうような傲慢なものいいに、少女は何も言い返さない。
彼女の右手には、既に魔術師の右手にあった筈の令呪が転写されている。
魔力の流れが魔術師から少女に移り変わった事を確認しながら、英霊はやはり変わらぬ威光を放ちながら、やはりどこか退屈そうに――しかし、どこまでも堂々と言い放つ。
「ならば改めて尋ねよう。貴様が、不遜にも王の光輝に縋らんとする魔術師か?」
金色の英霊。
英雄の中の英雄。王の中の王と言われるその存在に――
少女は力強く頷き、再度、敬意の籠もった一礼をしてみせた。
[# unicode21d5]
「……私は、聖杯を求めているわけではありません」
洞窟の外に向かう道すがら、少女は静かに言葉を紡ぐ。
少女は、自らを『ティーネ・チェルク』と名乗り、黄金のサーヴァントを得て聖杯戦争へと参加した。
だが、彼女は聖杯を求めるわけではないという、矛盾ともいえる言葉を口にし、それに続いて詳しい真意を言葉に変えた。
「この土地を偽りの聖杯戦争の場として選び、すべてを蹂躙しようとしている魔術師達を追い払いたい……我らの悲願はそれだけで御座います」
あっさりと『この聖杯戦争を潰す』と呟いた少女に対し、金色の英霊――六種類用意されたクラスの中で、弓兵《アーチャー》のクラスとして再度この時代に顕現したと言う『王』は、さして興味も無さそうに言葉を返す。
「我《オレ》も聖杯などに興味はない。本物ならば我《オレ》の宝を奪おうとする不埒な輩どもを罰し、贋物ならばそのままこの儀式を執り行った輩ごと誅するだけだ」
「ありがたき御言葉」
少女は例を言った後、尚も自分達の素性について語り続けた。
「このスノーフィールドは、1000年前から我々の部族が共生してきた土地……東よりこの国を制した者達からの圧政からも守り抜いた土地です。それを、政府の一部が魔術師などという連中と手を組み……わずか70年で蹂躙されました」
言葉に悲しみと怒りを織り交ぜて語る少女に、英霊は特に感慨を抱いた様子は無い。
「下らんな。誰が上に乗ろうと、全ての地は我《オレ》の庭に帰するのだ。庭で雑種が諍いを起こそうと、本来ならば捨て置く所だが……それが我《オレ》の宝を掠め取ろうとする輩ならば話は別だ」
あくまでも自分の事しか考えていない男に、少女は何を思ったのだろうか。
特に不快を抱いたわけでもなく、呆れたわけでもない。
彼はどこまでも王として振る舞い、だからこそ王として認められるのだろう。
一瞬だけその傲岸さに羨望のような感情を抱き、気を引き締め直して洞窟の外に踏みだした。
洞窟の外にて彼女達を待っていたのは――数十から数百を数える、黒服の男女。
少女と同じように褐色の肌をした者が多いが、中には白人や黒人の姿も見受けられる。
あからさまに堅気ではないと解る雰囲気を持った大集団が、渓谷の麓まで何台もの車で乗り付け、洞窟を厚く取り囲んでいる状態だった。
彼らは洞窟から出てきた少女と、その傍らに立つ威圧的な男を目にし――
一斉にその場へと跪き、少女と『英霊』に対して敬服の意を表す。
「こやつらは何者だ?」
淡々と尋ねる王に、ティーネは自らも跪きながら答えを返す。
「……我らの部族が生き延び、魔術師達と対抗すべく、都市の中に作り上げた組織の者達に御座います。私が父の後を継ぎ、総代としてこの戦にも選ばれた次第です」
「ほう」
多くの人間達が一斉に自分を崇敬し、跪いている。己の肉体が存在していた頃の光景を思い出したのか、金色の王は僅かに目を細め、少女に対する認識を僅かに改めた。
「雑種同士とはいえ、随分と慕われているようだな」
「王の威光を前にして言われては、ただ恐縮する他ございません」
「我《オレ》の威を借りようとするだけの事はある。それなりの覚悟でこの戦に挑んではいるようだ」
「……」
光栄と受け取るべき言葉だが、少女には不安もあった。
目の前の『王』は、そう言いながらも、やはり退屈そうな感情を隠しもしていないからだ。
そして次の瞬間、彼女の不安が的中したとばかりに、英霊は淡々と言葉を紡ぎ出す。
「だが、所詮まがい物の台座。我《オレ》以外に引き寄せられた有象無象などたかが知れておろう、そんなものにいくら裁きを下そうが、無聊の慰めにはならぬ」
言うが早いか、彼はどこからか、一本の小瓶を取り出した。
その瞬間を見ていた黒服は後に述懐する。『空気が歪んで、その中から一本の小瓶が直接英霊の手中に落ちた』と。
美しい装飾が施されているものの、一体何を素材としているのか解らない。陶器なのか硝子なのか、滑らかな表面は半透明に透き通り、中になんらかの液体が漂っているのが見える。
「児戯ならば児戯らしく戯れ程度に相手をしてやるのが相応しかろう。我《オレ》が一々本気になるまでもない。本気を出すに価する敵が出るまでは、しばし姿を変えるとしよう」
彼はそう呟くと、そのまま瓶の蓋を開け、それを飲み干そうとしたのだが――
まさにその瞬間。
偶然というよりは、何かの運命が作用したとしか思えないタイミングで――
大地が、啼いた。
【―― ̄ ̄――__―― ̄ ̄――】
『!?』
ティーネも、彼女の配下たる黒服の集団も、一斉に空を仰ぎ見る。
遠くから聞こえてきたのは、天と地を揺るがす、巨大な咆吼。
だが、咆吼というには余りにも美麗な音で、まるで巨大な天使か何か、あるいは大地そのものがが子守歌を歌っているような音だった。
それでいて、その音が遙か遠く――スノーフィールドの西方に広がる森の方角から聞こえてきたという事も分かる。
物理法則すら無視したその鳴動に、ティーネは何故か確信する事ができた。
これは、何かが生まれた事を示す産声のようなものであり――
それは恐らく、途轍もなく強力なサーヴァントなのであろうと。
一方、その声に動きを止めたのは、アーチャーとて同じ事だった。
口につけかけた瓶を持つ手を止め、そこで初めて、金色の王は強い感情を顔に貼り付ける。
それは――仮に彼を以前から知るものならば、滅多に見られるものではないと驚きを見せる事だろう。かの『王の中の王』は激高しやすく、決して泰然自若とは言い難い存在であったが――果たして、こんな顔をする事があるのかと。
「この声は……まさか」
彼の目に浮かんでいたものは、驚き、焦燥、そして――感動。
「……お前なのか?[#「お前なのか」に傍点]」
ティーネはそう呟いた英霊の表情を見て、ほんの一瞬だけ、彼から王としての威圧感が揺らいだ事に気がついた。
だが――次の瞬間、アーチャーの顔には王としての傲慢な威圧感が戻り、高く高く、ただひたすらに空高く笑い声を響かせる。
そして、一頻り笑い終えた後――
「ハッ……なんという事か!斯様な偶然に巡り合うも、我《オレ》が王たる証と謳うべきか!」
先刻までの退屈に満ちた表情が嘘のように、彼の顔には歓喜と英気が満ちあふれていた。
「雑種の小娘よ!喜べ、どうやらこの戦、我《オレ》が本気になるべき価値となったようだ!」
らしくない事を口にしながら、胸が空いたとばかりに饒舌になる英雄の王。
「かの広場での決闘の果てに向かうも一興か。……いや、もしもあやつ[#「あやつ」に傍点]が狂戦士として顕現していたのならば、あるい
は――いや、言うまい。雑種に一々拝聴を赦す事でもなかろう」
上機嫌になりつつも、自分が王である事は欠片も損なわず、くつくつと笑いながら咆吼の震源を見据え――傍らに跪いたままのティーネに声をかける。
「面を上げよ。ティーネ」
突然名前を呼ばれたティーネは、驚きながらも言われるがままに英霊の顔を見上げた。
すると、ティーネの手に、先刻まで王が手にしていた小瓶が投げ渡される。
「若返りの秘薬だ。使う必要はなかろうが、今の我《オレ》には不要となった。ありがたく拝領せよ」
「はッ……?は、はい!」
驚き目を開く少女に、アーチャーは僅かに視線を向け、威厳に満ちた声を口にした。
「我《オレ》の臣下となるならば、一つお前に命じておく事がある」
一方のアーチャーは、こちらには目もくれぬまま、だが、実に機嫌の良さそうな声で王としての言葉を賜った。
「幼童ならば少しはそれらしくせよ。万物の道理の解らぬうちは、ただ王たる我《オレ》の威光に目を輝かせておれば良い」
それは皮肉混じりの言葉だったが、あまりにも力強い言葉だった。
一族の為に感情を捨てた筈の少女は、英霊の言葉に、僅かに揺らぐ。
感情を捨てたつもりだからこそ、目の前の男に心底からの敬意を払いつつ――少女はまだ目を輝かす事ができず、ただ申し訳なさそうに頭を垂れた。
「努力致します」
ともあれ――こうして、一組のサーヴァントとマスターが戦の中へと躍り込む。
英雄王ギルガメッシュと、土地を奪われた少女。
彼らはこれが偽りの聖杯戦争と知りながら、ただ、我を通す為だけに全てを賭ける。
この瞬間より、王と少女は君臨する。
偽りしかない戦の中を、己という偽らざる真実に塗り替える為に。
王の戦が、幕を開けたのだ。
[#改頁]
プロローグ『バーサーカー』
英国倫敦某所
時計塔。
それは、通常ならばロンドンの観光名所として受け取られる単語だろう。
だが、魔術師達の間では全く違う意味合いを持つ単語となる。
数多くの魔術師達を統括する『協会』の本部であり、同時に、まだ若き魔術師達を育てる為の最高学府。
まさに魔術師と総本山とでも呼ぶべき場所で、英国そのものの歴史と比肩するとされるその場所からは、過去に多くの優秀な魔術師達が排出され――それぞれが新たなる歴史を生みだし、魔術というもの全体の格調を高くする。
「ファック……」
その時計塔が誇る『最高学府』の校舎に、厳かな印象とは違った空気の言葉が響き渡った。
「君はあれだ。一言で表すならばアホだな」
最初にそうした罵り声を上げたのは、長髪を靡かせる30前後の男だった。
赤いコートの上に黄色い肩帯を垂らし、その上には如何にも不機嫌といった表情を浮かべて、眼前の若者に何やら苦言を呈しているようだった。
だが、一方の若者は絶望的な表情で――
「そんな!せめて二言以上で表して下さい!」
と、どこか噛み合わない答えを返す。
「馬鹿でアホだ。それ以外に形容のしようがない」
ムスリとした顔で呟く男に、若者は尚も食い下がる。
「いや、どうしても参加したいんですよ教授!アメリカで始まるっていう聖杯戦争に![#「アメリカで始まるっていう聖杯戦争に」に傍点]」
「ファック!こんな廊下で堂々とその単語を口にする所がアホだと言っている!全く……君はどこでその事を知ったんだ?」
周囲に誰もいない事を確認しながら、教授と呼ばれた男は縋り付いてくる若者の頭を忌々しげに引き剥がした。
彼はこの魔術師達の最高学府の教授であり、『ロード・エルメロイU世』と呼ばれている存在だ。本名は別にあるらしいが、彼を知る者は皆敬意を込めてロード・エルメロイU世と呼んでいる。
まだ若くありながら、時計塔の中でも最も優秀な教師と言われ、彼に教えを受けて巣立っていった生徒達は、その誰もが優秀な魔術師として世界に羽ばたき、時計塔の中でも数多くの栄誉に輝いている。
ゆえに、彼は魔術師達の間でも尊敬の念を集め、『プロフェッサー・カリスマ』や『マスター・V』、『グレートビッグベン☆ロンドンスター』など、実に多くの二つ名を与えられている。
もっとも、彼自身はこれといった功績もなく、弟子だけがどんどん輝いていく姿に苛立ちを感じている様子だが――
現在彼が苛立っているのは、現役の教え子である目の前の青年に対してだ。
どこで『聖杯戦争』を知ったのかという質問に、青年はケロリとした表情で言葉を返す。
「昨日、地下講堂で教授や協会の幹部の人達が会議開いていたじゃないですか。ランガルさんってあの有名な人形師の人ですよね?俺、初めて生で見ましたよ!」
青年の言葉を聞いて、エルメロイはタダでさえ苛立たしげな顔を更に曇らせ、冷静なまま自らの生徒の顔面にアイアンクローを極めこんだ。
「ど・う・し・て・あの会議の内容をお前が知っている?」
「いや、ちょっと気になって盗み聞きを」
「極秘の報告会だぞ!?何重にも結界が張ってあっただろう!」
自らの師である男の詰問に、青年は申し訳無さそうに目を反らしながら答えを返す。
「ええ、その、悪いと思ったんですけど、俺どうしても気になって……」
「試しに部屋そのものの結界にハッキングを仕掛けたら、うまくいきました[#「試しに部屋そのものの結界にハッキングを仕掛けたら、うまくいきました」に傍点]」
――沈黙。
魔術の話に『ハッキング』という単語を用いるのは、彼に限らず若い生徒達の間でしばしば見受けられる。実際にはハッキングともクラッキングとも関係無い行為なのだが、要するに『結界をすり抜けて、誰にも気付かれずに会議の内容を傍聴した』と言っているのだ。
フラット・エスカルドス。
彼はロード・エルメロイU世の教室の生徒でもあり、同時に最古参の人間でもある。
まだ年若き少年の頃にエルメロイの生徒となった彼は、そのまま時計塔を卒業できずに何年もの時を過ごしている。
彼の事を一言で表すならば、ロードの言う通り罵りの言葉しか出てこない事だろう。
だが、もっと多くの言葉を用いて彼の事を語るならば――「魔術の技術と才能は底知らずだが、それと引き替えに魔術『師』としてもっと大事な部分をどこかに落としてきた男」と言うのが相応しいだろう。
地中海の魔術師の家系、エスカルドス家の長男として生を受け、過去に類をみない魔力回路とそれを制御する才能を持っていると期待されたのだが――
いかんせん、彼は魔術はともかく、魔術師とは正反対の気性の緩さを持ち合わせていた。
元々は期待の神童として他の教授に師事していたのだが、多くの教師はほどなく胃痛を訴える結果となり、最終的に『貴方しかいない』とエルメロイU世に預けられる事となった。
それから数年。彼は魔術の才能こそ他の生徒達を追い越して成長し続けていた。他の教師ではこうはいかず、そこはマスターVの面目躍如と言った所だろう。
だが――その他の問題が積み重なりすぎて、未だに時計塔を卒する事ができぬ身である。
本来ならば放り投げて構わない所を『中途半端で放り出せるか』と律儀に受け持ち続けるエルメロイU世であったが、今回という今回はその選択を後悔しかけていた。
「才能のある馬鹿というのは、本当に始末に負えんな……」
怒る事を通り越して、どこか悟りを開いた僧侶のように穏やかな声色となるマスターV。しかし顔は相変わらず仏頂面のままで、ポン、と自らの教え子の肩に手を置き、言葉をかける。
「今のは聞かなかった事にしておく。だからこれ以上私の平穏の邪魔をするな」
「先生に迷惑は掛けません、ただ、ほら、何かヒーローを召喚する為のアイテムがいるんでしょう!?それ、どうやって手に入れたらいいのか解らないんですよ!ナポレオンの肖像画とか持って行ったらナポレオン召喚できるんですか!皇帝なら最強じゃないですか!」
「私がナポレオンの英霊なら契約する前に君を銃殺している所だ!」
このまま走って逃げだそうかとも考えたが、聖杯戦争に何か思う所でもあるのか、やや声に真剣みを帯びさせ、改めて問いかける。
「……。フラット、君はあれだ……どうして聖杯を求める?君に魔術的根源を求める程の魔術師らしさがあるとも思えんが。まさか卒業したいからとか、いつまでも卒業させない私に一泡吹かせたいとかいうわけではないだろう?」
しかし、フラットはその問いに対して、完全に相手の想定外である答えを吐き出した。
「見たいからです[#「見たいからです」に傍点]!」
「……なんだと?」
「だって、超カッコイイじゃないですか!聖杯なんて!あのヒットラーやゲッペルスが第三帝国の為に追い求めて、秦の始皇帝やノブナガやゴジラも追い求めた一品ですよ!本当に存在するなら、どんなのか見てみたいじゃないっすか!」
「ゲッペルスじゃない、ゲッベルスだ。あとゴジラは別に追っていない」
どうでも良い部分の誤りだけを指摘し、そのまま黙り込むエルメロイ。
てっきり怒鳴り返されるかと思っていたフラットは、おっかなびっくり教授の次の言葉を待っていたが――やがて、教授は静かに溜息を吐き、優しく言い聞かせるような声を紡ぎ出す。
「魔術師同士の闘争というのがどういうものか理解しているのか?死ぬよりも悲惨な目にあ
った挙げ句に結局殺されるかもしれんのだぞ?」
「その覚悟をしてでもみんなが追い求める物なんでしょう?ますます見たくなるじゃないですか!」
あっさりと答える青年に、よく考えろと怒鳴ろうとしたが――
――多分こいつは、よく考えても同じ答えを出す。
という真理に辿り着き、別の方面からの問いを投げかけた。
「お前は、それだけの為に相手を殺す覚悟があるのか?」
「うッ……。殺さないで勝てる方法とかは……チェスで決めるとか……」
「ああ凄い!相手の魔術師がチェスの世界チャンピオンなら承諾してくれるかもしれんな!」
「……難しい問題ですよね。他の英雄とかも凄く凄く見てみたいし、できれば仲良くなりたいじゃないですか!英雄を6人も友達に出来たら、これ、魔術師として凄いでしょ!世界征服だって夢じゃないっすよ!」
途中から趣旨が完全にずれているフラットの言葉を聞いて、エルメロイは完全に沈黙する。
ところが、怒鳴りつける事も呆れる事もしなかった。
顎に手を当て、暫し何かを考えているようだったが――
やがて、ハっと正気に戻り、
「……駄目に決まってるだろう」
と、にべもなく突き放した。
「ま、ま、ま、頼みますよ教授!いえ、グレートビッグベン☆ロンドンスター!」
「本人を目の前にして二つ名で呼ぶな!しかもよりによってその二つ名を選ぶか普通!?馬鹿にしてるだろ、お前、絶対に私を馬鹿にしているだろう!」
「そこを何とか!新しい二つ名を考えてあげますから!絶対領域マジシャン先生とか!」
「死ね!」
[# unicode21d5]
結局冷たくあしらわれたフラットは、あからさまにションボリとしながら学府内をうろついていた。もう20歳になろうかという青年の姿にはとても見えず、「とぼとぼ」と口で呟きながら長い階段を下っていた。
すると――
「あ、丁度良かった」
と、階下にいた女性から声をかけられる。
時計塔の事務員の女性で、手には大量の郵便物と――一つの小さな小包を抱えていた。
「これ、あなたのところの教授への荷物よ、渡しておいてくれるかしら」
そうして、彼は先刻一方的に突き放された教授へと荷物を届ける事になったのだが――
――うう、まだ怒ってるだろうな。
と、ネガティブな想像をしつつ長い階段を上る最中――彼は箱の中身が気になって、透視の魔術で中にある物を確認する。
それは、何か儀式で使われるような、禍々しいデザインの短剣のようだった。
次の瞬間、彼の研ぎ澄まされた透視能力は、ナイフの刃に彫られた銘を見て、全身に電流が走ったような感覚に囚われる。
――これは……もしかして!
――教授……!俺の為に[#「俺の為に」に傍点]!?
自分勝手ここに極まれりな勘違いをした少年は、その箱を持って走り出す。
箱の中には色々と文字が刻まれていたが、自分には全く読めない文字だ。恐らくは異国の魔術的な説明書きか何かだろう。
だが、その文字の内容を解読するよりも先に、彼は一心不乱に学舎の中を駆けだした。
[# unicode21d5]
「ファック……また来たか」
廊下の奥から走ってくる姿を見つけて、エルメロイU世はあからさまに嫌な顔をしたのだが
――フラットは手にした小包を掲げながら、聖杯戦争とは無縁の言葉を吐き出した。
「教授ッ……こッ……こッ……この荷物ッ……おれッ……俺にッ!」
100mを超す距離を全力で駆けてきたせいか、急速に酸素不足となったフラットは息も絶え絶えにその箱を差し出した。
一方の教授は、何事かと箱を見たのだが――そこに書かれていた住所や包装紙のロゴマークなどを見て、ああ、と頷きながら尋ねかける。
「ああ、こいつは……なんだ、君はこれが欲しいのか?」
その問いに対し、ヘッドバンキングをするようにブンブンと首を縦に振る青年。
「まあいい。君が欲しいならくれてやる。私には必要の無い物だ」
教授の答えを聞いて、フラットは人生で最大と言ってもいい輝きを顔の上に浮かべて見せた。
「ありがとうございます!本当に……本当にありがとうございます!俺、教授の弟子で良かったです!」
半分涙ぐみながら駆け去っていく弟子を見て、呆れたように呟いた。
「まったく、私の若い頃とは正反対の奴だな。恐らく透視で中身を見たんだろうが……あいつ、そんなに欲しいものが入ってたのか」
「なんにせよ、これで聖杯戦争の事を忘れてくれるならばいい事だ」
[# unicode21d5]
数ヶ月前――
教授は自室で趣味である日本産のゲームに興じた後、丁寧な事に、ゲームソフトのパッケージに同梱されていたアンケートハガキを記入していた。
わざわざ高い切手を貼ってエアメールで送るわけだが、その物珍しさが項を奏すのか、アンケートハガキの抽選による関連商品などが部屋の中に所狭しと並んでいた。
もっとも、彼はそうした商品の殆どに興味がなく、純粋にゲーム会社に意見を反映して貰うためだけに送り続けているだけなのである。
そして、数ヶ月後 ――
本当に欲しい商品があれば直接注文して買いそろえるタイプの彼は、小包に書かれた日本のメーカー名を見て『またいつもの特典商品だろう』と判断し、目を輝かせながら迫ってくるフラットに開封もせぬまま贈呈してしまったのだ。
彼の判断した通り、それはいつもの通り、ゲーム関連のプレゼントだった。
彼はメーカー名から、ロボットを主体としたゲームのアクションフィギアか何かだと思っていたのだが――
実際は、『大英帝国ナイトウォーズ』と書かれたシミュレーションゲームのものだった。
そして、その特典の商品とは――――――
[# unicode21d5]
数日後スノーフィールド市中央公園
頭上に燦々と太陽が輝く昼下がり。
フラットは準備もろくにせぬまま飛行機に飛び乗り、そのままアメリカへと渡航していた。
聖杯戦争について、大雑把には調べたものの、細かい点についてはまるで理解していない。
そんな状態の、参加資格云々以前の問題であるフラットなのだが――
彼は現在、自分の右手に浮かんだ紋様を嬉しそうに眺めていた。
「カッコイイなあ、これ。令呪ってのを使うと消えるのかな、これ」
しげしげと手をさすり、時折何かを呟き――次の瞬間、がっくりと肩を落とす。
「消えちゃうみたいだ。よし、令呪は絶対に使わないようにしよう!」
如何にして『使うと消える』というシステムを見抜いたのか、その場に『聖杯戦争』の関係者が居たらつかみかかって詰問する所だろう。
だが、運が良かった事に、回りには一般人の親子連れなどしか見あたらない。
フラットはそのまま暫し令呪を眺めた後、手にした布包みを開け広げた。
中から出てきたのは、ひと振りのナイフ。
禍々しいデザインの、黒と赤を基調とした悪趣味な一品だ。
歯止めはしてあるものの、刃の光沢などはどことなく高級感を感じさせる。
「でも、本当に教授には感謝しなきゃね。なんだかんだ言って、俺の為にこんなにカッコイイ遺物を用意してくれたんだから!」
箱から取り出した後も自らの勘違いに気付く事はなく、寧ろ、より一層誤解を深めながらこの土地まで来てしまったのだ。
そして――あろうことか、聖杯は彼を選び、聖杯戦争への参加資格である令呪をその身に宿らせたのだ。
ただ、ナイフと令呪を見比べながら――彼は先刻と同じように、時折何かを呟き続ける。
三十分ほど経った頃だろうか――
他の令呪の持ち主達が知れば卒倒しそうな出来事が、その公園の中で巻き起こる。
それは正しく奇跡とでも言うべきもので、仮に彼の師であるエルメロイU世がここに居たら、とりあえず3度ほど膝蹴りを入れた後で苛立たしげに賞賛する事だろう。
奇跡と呼ぶべきか偶然と呼ぶべきか、あるいは彼自身の才覚を理由とするか。いずれにせよ、彼の成した事は、ある意味でこの偽りの聖杯戦争に対する多大なる侮辱であるとも言えた。
ただし、それを知覚したのは当のフラット本人だけだったのだが。
『問おう……汝が我を召喚せしマスターか?』
「は、はいッ!?」
ヤケにハキハキとした声が響き渡り、思わず声をあげて周囲を見渡す。
だが、周囲には家族連れやカップルが闊歩するのみで、どうにも
『今の返答は肯定と見て良いのかね?ならば契約は完了だ。共に聖杯を望む者同士、仲良くやっていこうではないか』
「え?ええッ!?」
首を上下左右に激しく動かすが、やはりどこにもそれらしき姿は見あたらない。
混乱する青年を余所に、声は尚も語り続ける。
『なんと……祭壇もなく、こんな衆人環視の中でサーヴァントの召喚を行うとは、我がマスターとなる者は中々に剛気な事よ!……いや、待
て……。祭壇が無いという事は、もしや召喚の呪文も無しか!?』
「え、ええと……すいません、色々魔力の流れとか弄ってるうちに……なんか、『繋がっちゃった』みたいですね。いや、すいません、こんな召喚の仕方で」
『ふむ……まあ良い、それだけ優秀な魔術師という事なのだろう』
どうやらサーヴァントらしき存在の声は、自らの頭の中に響いているようだ。
自分の中から、令呪を通して魔力が『どこか』に流れていく事を確認しながら、フラットは恐る恐る自分の頭の中に話しかけた。
「あ、あの……どうにも俺、いや、私、感動のタイミングを逃してしまったみたいなんですけど……サーヴァントって、みんなこういう感じなんですか?」
『いや、私が特殊なだけだ。特に気にしないでくれたまえ』
サーヴァントの声は思ったよりも気さくな調子で、奇妙な事に、紳士風ではあるが具体的な素性は全く感じさせない。
『何しろ私には、「素性」というものが無いのでな。姿も形も、如何様とでも言えるし――如何様にも言えぬという次第だ』
男なのか女なのか、老人なのか子供なのか、どのような職業についているのか、普通ならばどこか声に現れるものなのだが、頭の中に直接響くその声は驚く程に特徴が無く、まるで顔の無い怪物とでも会話しているような気分になる。
「あの……貴方の名前を聞かせて頂いて構いませんか?」
ふと、そう尋ねてみた。
自分が手にしたナイフの出自が事実ならば、その正体は自分の想像通りの筈だ。
だが、フラットの中ではどうしても頭の中の声と、その『英霊?』との印象が一致しない。
頭の中で『英霊?』としたのは、フラットにも、それが『英雄』と呼ばれる類の存在ではないと知っていたからだ。
だが、恐らく――英国産の映画や小説が普通に出回る国ならば、殆ど知らぬ者はいないだろう。もっとも、知名度ではシャーロック・ホームズやルパンに劣るだろうが――彼らと違い、その存在は過去に確実に実在した存在である。
何故か問いかけに返事は無く、フラットは不安げに視線を踊らせたのだが――
その視界の中に、不意に黒を貴重とした大柄な男の姿が目に入る。
「あ、やっと顕現してくれたんですか!」
「何を言っている?」
怪訝な顔をする男の姿を見て、フラットはアッと声をあげ、途端に顔を真っ青に染め上げた。
黒い服なのは当たり前だ。
腰に拳銃をぶら下げた警官が、厳めしい顔をして噴水に座る自分を見下ろしていたのだから。
「ナイフを握って独り言とは怪しい奴め」
「い、いや!あの!違うんです!」
大慌てで弁解を始めようとするフラットだったが――
「驚いたかね?」
と、眼前の警官が突然柔和な態度となり、手にした警棒をフラットに持たせる。
それは質感などは本物の警棒であったのだが――その質量が、途端に手の中から消え失せる。
驚いて前を見ると、そこには既に警官の姿など存在せず、代わりに扇情的な服装の女が一人佇んでいた。
そして、その女が、女の声のまま、先刻頭の中に響いたものと同じ口調の言葉を紡ぎ出す。
「自己紹介の前に、私の特性を理解してもらおうと思っただけだ」
「え?え?あれ!?」
更に驚くフラットの前から、一瞬にして女の姿が消え去り――
『驚かせて済まない。我がマスターよ。実際に見せた方が早いと思ってな』
声は再び、頭の中に。
周囲にいた家族連れの何人かはその『異常』の一端を目にしていたようで、目を擦る者や首を傾げる者、「ママ、お巡りさんが女の人になって消えちゃった」などと言って親に笑われる子供など様々だった。
その様子や、目の前に残るハイヒールの足跡などを見ても、今しがた見た者が幻覚などではないと確信できる。
訝しむ一般人達を置き去りとし――真実は、青年の頭の中でだけ明かされる。
『では、改めて自己紹介するとしよう。我が真名は――』
フラットはゴクリ、と息を呑み、相手の言葉の続きを待った。
彼はこのサーヴァントの正体を知っている。だが、真命はその『伝説』にとって、全く別の意味で重要な意味合いを持つ。
彼は期待を込めて相手の声が脳内に響くのを待ち続けたのだが――
サーヴァントの答えは、彼を別の意味で驚かせる結果となった。
『正直な話――私にも解らん[#「私にも解らん」に傍点]』
「ちょっとッ!?」
思わず中腰になる青年だが、中腰になった所で掴みかかる相手もいない事に気付き、恥ずかしそうに周囲を見回しながら腰を下ろす。
そんな青年の様子を相手にする事もなく、声は、やはり感情も特徴も感じられない調子で自らの願いを吐き出した。
『私の本名を知る者が居るとすれば――恐らくは、伝説ではない、真実の私と……あるいはその凶行を止めた者だけだろう』
[# unicode21d5]
フラットの持つナイフは、実際遺物などではなく、イミテーションに過ぎなかった。
だが、その英霊に限って言えば――
大衆向けとして作られたイミテーションだからこそ、より強く引き寄せられたとも言える。
そのサーヴァントに名前など無く、だが、確実にこの世界に存在した証はある。
だが、人々は誰もその正体を知らない。
姿すらも、本当の名前すらも、男なのか女なのか、
いや、果たして人間であるのかさえ――
恐怖の象徴として世界を恐れさせた、性別すら解らぬ『彼』は、やがて人々の手によって様々な姿を想像されてきた。
あるいは医者、
あるいは貴族、
あるいは娼婦、
あるいは肉屋、
あるいは悪魔、
あるいは妖怪、
あるいは陰謀、
あるいは狂気。
そもそも、『彼』が一人であるのかどうかも定かではなく、人々は、恐怖すらも利用して自由にその存在を描き出し――一つの『伝説』にまで昇華させた。
だが、彼は単なる伝説などではなく、確実に存在したのだ。
寧ろ、長く『時計塔』で過ごしたフラットにとっては、もっとも近い場所に存在した伝説であるとも言えた。
存在の証だけは、誰もが知っている。
ホワイトチャペルと呼ばれる倫敦の一画に残された――
五人の娼婦の凄絶なる死体という、この上ない存在の証明を。
[# unicode21d5]
『だが、人は私をこう呼ぶし、手紙にて私が名乗ったとされる字は存在する』
『すなわち――|切り裂きジャック《ジャック・ザ・リッパー》、と』
[# unicode21d5]
数ヶ月前――
エルメロイU世のプレイした『大英帝国ナイトウォーズ』というゲームだが――
彼は日本から通販でそのソフトを購入した際、てっきり英国の伝説にある騎士同士の戦いを描いたシミュレーションだとばかり思っていた。
だが、カタカナで書かれたナイトとは『夜』という意味のナイトであり、そのゲームは、とある実在の人物を主人公として、自らの内に潜むもう一人の自分の狂気と戦いながら倫敦の夜を彷徨い、次第に魔物達との戦争に巻き込まれていくというアドベンチャーゲームだった。
全く想定と違うゲームだったにも関わらず、彼はきちんとクリアするまでプレイし、『タイトルのセンスに難あり』という意見を始めとして、思う所を正確に書き連ねていった。
ふと、アンケートハガキの裏を見ると、そこには抽選で当たる賞品についての詳細が描かれている。
『ネットでアンケートに答えた人の中から抽選で100名様に、「ジャック・ザ・リッパーの銘入りナイフ」レプリカプレゼント!(歯止め処理済み)』
――ジャック・ザ・リッパーがナイフに銘なんぞ入れるか。
鼻で笑いながら、彼は商品自体からは興味を無くし、淡々とゲームへの評価を書き連ねた。
そのアンケートハガキが、数ヶ月後にどのような結果をもたらすのかも知らぬまま――
[# unicode21d5]
そして、時は数ヶ月後――
公園の噴水に座り、相変わらず頭の中の『何か』と会話を続けるフラット。
ほんの僅かな時間に状況に慣れてしまったようで、実に自然な感じで頭の中の声と会話する。
「つまり、貴方のその『誰でもない』という状況こそが、『誰にでもなれる』っていう能力なわけですか……」
『ああ、しかし君は運がいい。もしも他のクラスで顕現していならば、君のその身を乗っ取って狂気のままに……とりあえず、この公園の中を血の海にしていた事だろう』
「えッ……」
相手の言葉が冗談とは思えず、思わず周囲の家族連れなどの顔を見るフラット。魔術師ならば『魔術師の存在が公になる』などと別の心配をするのだろうが、彼は魔術師らしからぬ理由でその状況を免れた事に安堵した。
「あ、あの……ところで、貴方のクラスっていうのは何ですか?アサシンですか」
『おお、これは済まない。私のクラスは、バーサーカーだ』
「へ?」
相手の答えを聞き、ますます混乱するフラット。
うわべだけとはいえ、軽く聖杯戦争について調べてきたつもりだ。
だが、バーサーカーのクラスと言えば、正気を失わせる事によってその力を引き出すのが特徴であるクラスの筈である。
フラットの疑問を感じ取ったのだろう。ジャックは自らとクラスの関係について淡々と語り始めた。
『私は狂気の象徴として生み出された伝説だからな。狂気こそが私の波長と合う唯一のクラスであるといえよう』
「ああ……マイナス×マイナスはプラスって話ですね!」
通常の魔術師なら……いや、普通の人間ならば誰もが『そう都合良くいくのか?』と指摘する所を、フラットはすんなりと受け入れる。
これは逆にジャックが驚いたようで、ふむうと頭の中で唸り、補足するように言葉を吐いた。
『まあ、私が実在の人間の精神をそのまま移したものであれば、こうはいかなかったであろう。だが、狂気という記号の象徴として生み出された 私だからこそ罷り通った奇跡だろうな。あるいは、この聖杯戦争自体に何か特殊なものがあるのかもしれん』
「へー。やっぱりサーヴァントって凄いんですね!」
やはりあっさりと答える青年に、サーヴァントは一抹の不安を覚えつつ話を変えた。
『それにしても、さっき私が警官の姿を取った時――何故、催眠術などで切り抜けようとしなかったのかね?魔術師なら初歩の初歩だろう』
「え?……いや、でも、誤解はといておかないといけないと思って」
『君が優秀な魔術師なのか、途端に不安になってきたぞ』
頭の中に響く声に気まずさを感じたのか、今度はフラットの方が即座に話題を切り替える。
「ところで、貴方は聖杯を見つけたらどんな願い事を?」
『うむ……マスターには伝えておくべきだろうが……笑わないでくれたまえ』
マスターの問いに、正気を保ったバーサーカーは、少しだけ躊躇った後に答えを響かせた。
『……あの、ホワイトチャペルにて五人の娼婦を殺したのが誰だったのか――つまり、私は何者なのか。ただ、それを知りたいのだ』
「何者かって……」
『私は伝承に過ぎず、真実ではない。だが、自分が何者かも解らぬまま、ただ人々の紡ぎ出す物語や考察で自分の形を変容させていくというのは、とてもとても恐ろしい事なのだ。肉を持ち、名を持ち、過去を持つ君には理解出来ないことかもしれないが』
神妙な声色で語るサーヴァント。
自らの正体を知る。
奇妙な話ではあるが、恐らくはただそれだけがそのサーヴァントの全てなのだろう。
青年は暫し何かを考えていたが、疑問に思った事を素直に口にする。
「で、正体を知ったらどうするんですか?例えば、今後聖杯戦争じゃない所で、誰かに召喚されたとき……その、自分の正体だった人の姿を真似て現れるんですか?」
『そういう事になるのかもしれんな。結局は今の私と別人である事に変わりないが、私は殺人鬼であるという事を前提として語られし伝承だ。真実の存在する伝承なれば、私はより真実に近く在るべきだろう』
どこか寂しげな声色を乗せたサーヴァントの言葉に――
空気の読めない青年は、あまりにもストレートに自分の意見を吐き出した。
「それこそ、自分が無いみたいに思えますけど」
あっさりと――いともあっさりと告げた青年の言葉に、サーヴァントは驚いたような気配を青年の脳内に響かせた。
『……君はよく、空気が読めないとか言われる事は無いか?』
「アハハ、よく言われるんですよ!ありがとうございます!」
『いや、褒め言葉では……いや、よしとしよう。もうこの話をする事はなかろう。しかし……よくもまあ、私を呼び出そうなどと思ったものだ。英雄達ほどの力も、人間としての倫理観も期待できぬであろうに』
常識的といえば常識的な問いだった。
それを切り裂きジャック本人がするのはどうかという問いはともかく、普通に考えれば二の足を踏むであろう存在をサーヴァントとして召喚した事について――
あっさりと、やはりあっさりとその言葉を口にする。
「俺は好きっすよ、貴方みたいな、正体の分からない謎の怪人って」
『……』
「だって、かっこいいじゃないですか!」
魔術のセンスはあっても、魔術師としての性根が希薄である青年。
唯一、彼に魔術師らしい性根があるとすれは――
彼のセンスが、通常の人々のそれとは些か違っているという事だけだろう。
青年の答えをどう受け取ったのか――
本来は狂気と凶気しか存在しないはずのサーヴァントは、ほんの少しだけ前向きとも思える声色で戦いにアシを踏み込む事にした。
『さて、マスターよ、まずはどう動く?私の能力があれば、あらゆる所に進入し、敵のマスターを直接潰す事も可能であろう!私は貴方の指示通り動かせてもらうつもりだが?』
気合いの入ったサーヴァンとの言葉に対し、マスターである魔術師は、やはり魔術師らしからぬ爽やかな微笑みを顔面に貼り付ける。
「とりあえず、いい天気だから日向ぼっこしましょう。あったかくて超気持ちいいっすよ」
『なッ ……!?』
こうして――悲劇を知らぬ青年と、悲劇しか生み出さぬ悪霊との旅が始まった。
共通点はただ一つ。
お互いに、聖杯戦争の理念とは最も遠い所にいる存在。ただそれだけの事だった。
[#改頁]
プロローグ『アサシン』
とある国に、とある信仰篤き者がいた。
それだけの話。ただ、それだけの話だった。
信仰篤き者は、その常軌を逸する程の信仰心から、人々に『狂信者』と蔑まれた。
よりにもよって、同じ神を崇める者達からも同じ蔑みの言葉が与えられた。
だが、狂信者は人を憎まない。
自らが蔑まれるのは、まだ未熟だからだ。
信仰心が足りない。ただそれだけの事だ。
狂信者は尚も自らを追い込み続ける。
先人達の起こした奇跡を追い求め、その全てを再現して見せた。
だが、足りぬ。
まだまだ足りぬ。
世界は狂信者にそう叫び続けるかのようだった。
信仰者の誰もが狂信者を忌み始める。
――足りぬ。
――足りぬ。
――足りぬ。
結局、その狂信者は何を成すこともなく、ただ狂信者として生き、殉教する事すら許されず、ただ無為な人生を過ごして姿を消した。
だが、狂信者はそれでも世界に恨みを抱かない。
己の未熟を恥、再び信仰の渦へと身を落とす。
狂信者は恨みなど持たない。ただ異なる神を憎むのみ。
そうした、常人には度し難い狂信者がいた。
ただ、それだけの話だった。
それだけの話で終わる筈だった。
――偽りの聖杯が、その狂信者を選ぶ瞬間までは。
[# unicode21d5]
夜スノーフィールド東部湖沼地帯
いくつかの澄んだ湖が点在する、都市の東部に広がる湖沼地帯。
湖の合間にはいくつかの沼が広がり、その間を縫うように道路が張り巡らされている。
都市の四方に広がる土地の中では比較的開発が進んでいると言ってもいい区画だが、それでも、せいぜい釣り場やレジャー要の別荘が点在する程度だった。
そうした別荘地の一画。
結界が張られ、通常の人間には知覚することはできても、その建物を『気に掛ける』事が出来ぬ状態となっている、一際巨大な別荘が存在した。
決して趣味のいい建物とは言えず、西部の湖岸に建つペンションにしては、黒と灰色を基調としたデザインは些かゴシックに過ぎるだろう。
そして――
屋敷の地下には数人の魔術師達が存在し、今、まさに召喚の儀を終了した所だった。
顕現は無事に成功。
あとはサーヴァントの放つ『問い』を肯定し、契約を締結させるのみ。
だが――
――妙だな。
そのサーヴァントを召喚せし魔術師、ジェスター・カルトゥーレは訝しげにその英霊を睨め付けた。
彼の周囲には弟子の魔術師達が十人程度。
更に、その輪の中心には、明らかに人とも魔術師とも異なる気配を放つ姿が一つ。
どこまでも深く、それでいて純粋な威圧感を放つのは――
黒いローブに身を纏う、一人の『女』。
かなり若そうだが、顔を床に向けて伏せている為にその顔立ちは解らない。
だが、ジェスターはその時点で既に強い違和感を感じていた。
――私は、アサシンの英霊を召喚した筈だが。
通常は、英霊達の器となるクラスを完全に選ぶ事はできない。
ただ、例外はある。
アサシンとバーサーカーのクラスは、ある特殊な性質から、詠唱や下準備などによって任意に召喚する事が可能なのだ。
そして、ジェスターはそのルールに従い、『アサシン』のクラスを召喚した。
暗殺者の位を冠するサーヴァントは、やはりその性質から自然と一種類の英雄のみが召喚されるという約束事が存在し、一見すると、目の前の存在はその英霊に思えるのだが――
――聞いた話では、白い髑髏の面を付けていると……。
アサシンの名を冠する英霊は、皆一様に黒いローブに身を包み、顔面を覆い隠すように一枚の髑髏面をつけている。ジェスターは事前の情報収集でそこまで調べ上げていた。
だが、目の前の黒装束の女は、白い面をつけておらず、黒いローブの間からゆらりと素顔を晒している状態だ。
――さりとて、こちらから何か問いかけて良いものか……。
ジェスターは、実際に聖杯戦争を体験するのは初めての事だ。そもそも、本来の聖杯戦争とは違う贋作でもある。日本で行われたものと比べ、どのような差異が起こるのかは予想もつかない。
そもそも、この段階においても今回の聖杯戦争の『立役者』が存在を浮き上がらせない事が不気味ではある。これほどの大がかりな仕掛けを作り出すのだから、アインツベルンなどと同程度に名のしれた魔術師の家系によるものと考えていたのだが、今の所、それらしき魔術師の気配は感じられない。
余程上手く隠れているのか、それともどこかで高見の見物を決め込んでいるのか――
ジェスターは様々な疑問を胸中に押し込み、眼前のサーヴァントが動くのを待ち続けた。
すると――黒衣の女はゆっくりと顔を上げ、その瞳にジェスターの姿を映し出す。
「問おう……」
威圧感と同じ、どこまでも深く暗いが、淀みなく、その奥底まで透き通るような強い眼差し。
魔術師はホウ、と思わず声を上げ、薄く笑いながら相手の言葉の続きを待った。
「貴方が……聖杯を得る為に……私を呼び出した魔術師か……?」
女は口元に巻いた黒衣を擦り抜け、消え入るような声色をゆるりゆるりと紡ぎ出す。
ようやく放たれた問いに安堵しながら、ジェスターは自身に満ちた表情で一歩踏み出し、両手を広げながら彼女を迎え入れるべく口を開いた。
「ああ、その通りだ。私が――――――――――」
【……妄想心音《ザバーニーヤー》……】
女の呟きと共に、時が止まる。
トスリ、と、何かが胸に触れたような気がして、思わずジェスターは顔を下に傾ける。
――なんダ?
そしテ――自分の胸の前に赤いナニカが伸びており、やはり赤いナニカをツカンデいるコトに気付キ、続イテソレガジブンノ心臓デアるトキヅキ――――――
頷かせた首を戻す事無く、ジェスターの体はそのまま音を立てて倒れ伏した。
「なッ……!?」
ピクリとも動かなくなる主の様子を見て、弟子の魔術師達はあからさまに狼狽し、目の前の状況に目を剥いた。
女の背から唐突に現れた三本目の赤い腕が――主人である魔術師まで一直線に伸びより、一瞬にしてその胸板に触れたかと思うと――
あろうことか、その赤い手の中に一つの心臓が現れ、それを勢いよく握りつぶしたのだ。
次の瞬間、ジェスターはビクリと上半身を震わせ、そのまま床へと倒れたではないか。
「き、貴様!」
「ジェスター様に何を!?」
「サーヴァントではないのか!?」
口々に混乱の声をあげながら、手に武器を取り出したり、魔力を急激に収束させていく魔術師の見習い達。
その様子を無表情に眺めながら、黒衣の女はただ一言、やはり消え入るような声で呟いた。
「我らが神は……杯など持たない……」
彼女の言葉を聞いてか聞かずか、特殊な力を持つと思しき短刀を手にした男が音もなく跳躍し、女の背後にその刃を突き立てようとする。
刹那――
ゴギリ、という湿った怪音が響き渡り、女の肩が歪に曲がる。
異常な角度で後ろに回された左手は、やはり優しく男の頭に触れ――
【……空想電脳《ザバーニーヤ》……】
次の瞬間、男の頭そのものが爆弾にでもなったかのように、彼の体は激しい炸裂音を響かせて炎と共に四散した。
その衝撃音と閃光に、魔術師の弟子達は恐怖で体をすくませる。
ほんの一瞬、二人倒されただけだが――目の前にいるのは紛れもなくサーヴァントであり、自分達の手ではどうしようもない存在なのだと思い知らされた。
「異端の魔術師は……排除する……」
消え入る声で呟きながら、本の一瞬だけ間をあける。
それは、弟子達が構えをといて逃げ出すのを待っているかのようにも見えたのだが――弟子達はその道を選択せず、一斉に背後に飛び退り、間をあけたまま魔力を浴びせかける道を選ぶ。
だが、その光景を見た黒衣のサーヴァントは、哀れむようにも、寂しげとも受け取れる瞳で首を振り、さりとて一切の容赦なく――力ある言葉を口にした。
【……夢想髄液《ザバーニーヤ》……】
そして――部屋の中に沈黙が訪れた。
黒衣のサーヴァントの周囲にあるのは、魔術師達の屍。
彼女に魔力を解き放とうとしていた者達は、皆、何故か自らの体を焼き尽くして床に倒れ伏している。
一体何が起こったのか、それを唯一知るサーヴァントは、無音のまま階段を駆け上がる。
その姿を霊体と化し、誰にも見えぬ状態となった彼女は――
当てもなく、さりとて、明確な目的を持って夜の闇を駆けだした。
[# unicode21d5]
狂信者が求めた者は、証だった。
自分が確かに信仰者であったと、神の信徒であったという証を。
それを求める事自体が未熟だと気付いたのは、ずっとずっと先の事。
まだ若かった頃の『彼女』は、信仰の証として、一つの名を得るべく修練を積んだ。
信仰の徒の長たる証であるその名を手に入れる為には、神の奇跡とでも言うべき力を手に入れなければならない。
だが、その奇跡とは少々特殊な縛りがあった。
異端者や神敵より、速やかに、そして確実に命を消し去るための奇跡。
暗殺者の集団たる、存在自体が狂信的と言っても良い集団。
だが、彼女はその中をもってしても『狂信者』と蔑まれる存在だった。
過去の長達が名前を受け継ぐ為に手にした、堕天使《ザバーニーヤ》の名を冠する奇跡の数々。
誰もが彼女の所行に目を見開いた。
にわかに信じる者もいなかった。
まさか、まだ年若い女の身である信徒の一人が――
過去に存在した十八人の長の奇跡を、全てその身に習得させようとは[#「過去に存在した十八人の長の奇跡を、全てその身に習得させようとは」に傍点]。
それこそ、血の滲む修練をくぐり抜けた事は明らかだった。
彼女が誰よりも純粋に、疑い無くその血を流した事も明白だった。
だが、教団の者達は――彼女に|長の名《ハサン》を継がせる事を認めなかった。
「お前がしている事はなんだ?過去の奇跡を模写するだけの写経に過ぎぬ。お主自身が奇跡を生み出す事ができぬのは、己の中に未熟を残しているからであろう」
彼女には、確たる才があった。
それは、過去に存在したあらゆる技術を習得し、それを得る為の血の代償――時には己の体を切り刻み、組み直すといった苦痛にも耐える事ができる――言わば、努力の才はあったのだが――自らの創意工夫を用いて、新たなる業を造る才には恵まれていなかったのだ。
しかしそれは理由の半分に過ぎず、実際は、通常ならば一つ習得する事に一生を費やすと言われる『業』の数々。それをものの数年で全て習得した彼女の才に畏怖の感情を抱いたという事もあるのだろう。
「故に、お前は未熟。そんな者に我らが長の名を継がせる事などできぬ」
|牽強付会の論《こじつけ》としか取れぬその言葉にも、彼女は疑念一つ抱かず従った。
――そうか、まだ私は信仰が足りなかったのか。
――なんと私は未熟なのだろう。過去の長達の業を侮辱してしまった。
彼女は誰も恨む事なく、純粋に己の業を磨き続けた。
新たな長として、『百の貌』と字される者が選ばれた時――
有りと凡ゆる事柄をこなすその姿を見て、確かにそれは自分には無い能力であり、彼女はその長を羨むでもなく、ただ自分自身の未熟を恥じた。
彼女は結局何の証を得る事もできず、ただの狂信者として歴史の闇に消えていく。
その筈だったのだが――
如何なる運命の悪戯か、ジェスターという男によって呼び出された彼女は、聖杯より与えられた知識をもって、即座に自らの運命を知る。
自分が聖杯を望むのは、異端の証であるその存在を、その手で無へと帰するため。
彼女は同時に、歴代の長達の幾人かが、その聖杯を求めたという事を知り――
ただ、悲しんだ。
その長達を恨むつもりはない。蔑むつもりもない。
彼らは自分よりも確かに信仰が篤く、今でも敬意を払うべき存在だ。
憎むべきは、彼らを惑わせた『聖杯戦争』という存在そのもの。
彼女はそれを全て打ち壊すべく、夜の闇を切り裂き、聖杯の気配を求めて行く当てもなく駆け抜ける。
魔術師を殺したからには、魔力の供給もじきに終わるだろう。
現在はまだ魔力が流れ込んでくるが、残滓に過ぎまい。
それが途切れた時、自分は消える。
果たして数日後か、数時間後か、あるいは数秒後か――
だが、時間など関係はない。
最後に消え去る瞬間まで、
例えこの身が一時の幻であろうとも――
名前すら与えられなかったアサシンは、己の行為を疑わない。
せめて自分という存在に、信じた者に報いる為の信仰心がある事を信じて、
彼女は何の躊躇いも無く、聖杯戦争の全てを敵に回すと決意した[#「聖杯戦争の全てを敵に回すと決意した」に傍点]。
[# unicode21d5]
数分後
名無しの英霊が召喚された、湖岸の別荘の地下室。
そこには屍しか存在しない。
アサシンが去った事によって、それはより確実な事実となった。
「クハッ」
無邪気な笑い声が鳴り響く。
しかし、事実は変わらない。
この部屋には屍しか存在しない。
「クァハッ!クハハハハハハッ!」
子供のように、心の底から愉しそうな、それでいてどこか歪んだ笑いが木霊する。
だが、やはり事実は変わらない。
この部屋には、屍しか存在しない。
「いや、驚いた!聖杯もまた、とんだ異端児を呼び寄せたものだ!」
右手に令呪を輝かせたままの男が、バネ仕掛けの人形のように飛び起きようが――
「美しい……」
――聖杯の力で蜘蛛でも起こし、退屈な世を滅びと共に凌ごうかと思っていたが……。
――まさか、まだ私の中に『感動』という人の残滓が残っていようとは!
その男が、心の中で感動に打ち震えようが――
事実はやはり変わらない。
この部屋には、屍しか存在しない。
よって、それが事実である以上
――喜び噎ぶ魔術師、ジュスター・カルトゥーレが現段階でも屍である事に間違いはない。
「可憐か、醇美か?妖美、八面玲瓏、清楚、風光明媚、キュート。いかんな、せっかく時間がありあまっていたというのに、もっと詩吟を学んでおくべきだった!彼女の信念を形容する言葉が見つからん!」
ジュスターは驚喜に胸を躍らせながら、周囲に『ただの屍』が転がり続けている事も気にせず、この世の春が来たというべき表情で――やや鋭すぎるとも思える犬歯をニイ、と覗かせ、蕩けるような心持ちを独り言として屍達の祭壇に響かせる。
「まだまだ世の中に退屈する必要は無さそうだ……あの美しい暗殺者を!その信念を!名も無きまま薄れさせて良いものか!」
それは――彼女の記憶を知る者にしか語る事のできぬ発言だった。
魔力の通り道を通じ、マスターは夢などの形でサーヴァントの思念や記憶、過去を読み取る事があるという。
それが事実だとするならば、ジェスターは死にながらにして彼女の夢と信仰を覘き見たという事になるが――
彼はひたすらに笑いながら、その笑みの中へ徐々に邪悪な色を織り交ぜる。
「楽しいだろうなあ!儚いだろうなあ!美しいだろうな!あの美しきサーヴァントを屈服させ、信仰を砕き、その力を吸い尽くした時に彼女が見せる表情は!」
そして――
生きる屍、『吸血種』と呼ばれしその存在は、屍の目に生気を爛々と輝かせて、サーヴァントの血の味を想像し絶頂へと至る。
「この国では同じく異端の者同士、せいぜい仲良くしようじゃないか!クァハ……クァハハハハハハハハハハハ!」
こうして、正式な契約も交わされぬまま――
アサシンのマスターは、聖杯戦争の中へと毒の闇を染みこませた。
笑いながら、笑いながら――――
[#改頁]
プロローグ『キャスター』
暗い部屋だった。
僅かに漏れるカーテンの隙間からは、隣にそびえ立つ高層ビルの屋上が見える。
その背後に見える風景から見ても、その部屋もまた、スノーフィールドの中でもかなり高い場所に位置する部屋だと伺い知れる。
窓の外には星明かり。
その淡い光に照らされた室内は、近代的なオフィスのように感じられた。
机などは数台しか並べられていないものの、その上に乗るパソコンや、天井に設置されたエアコンなどが、この場所も『聖杯戦争』の舞台の一部であるという事を忘れさせる。
だが、蛍光灯を付ける事も無いまま――その部屋の主は、空間の中に凛とした声を響かせた。
この街そのものが、どうしようもない程に『聖杯戦争』なのだと示さんと。
「さて……他の五体のサーヴァントは顕現したらしいな」
思い調子の男の声に、部屋の暗闇から畏まった調子の声が響く。
「はい、現在、マスターともども正体が確認されているのは『英雄王』を従えたティーナ・チェルクただ一人です。我々が共闘を持ちかける予定だった繰丘《くるおか》夫妻とは連絡が取れなくなっており、他の魔術師に関しては、何人も街に入っている事は確認できるのですが……いかんせん、誰に令呪が宿ったのかまでは察知できませんのでね」
「そうか。意外と街全体の監視システムも使えぬものだな」
すかを食った苛立ちを隠しもせずに言う男に、報告係は淡々と言葉を繋げていく。
「ただ一人、堂々と日中の公園で召喚を行い、令呪を眺めている魔術師がいたのですが……結局サーヴァントは奇妙な幻影を見せただけで姿を現さず、日光浴をしている間に付けた監視はあっさりとまかれました。間抜けかと思ったら、どうやら相当に出来る[#「出来る」に傍点]魔術師のようです」
「英霊の性質なども解らぬままか?」
「はい、特に、最初に顕現した英霊に関しては、町中に監視の目を光らせていますが影も形も掴めません。顕現した事は確かなようなのですが、その際の『起点』すら掴めぬ状態です」
「ふむ……。国の連中[#「国の連中」に傍点]も、宣伝などと余計なマネをしてくれたものだ」
恐らくは、先日のランガルとファルデウスのやりとりについて言っているのだろう。
だが、部下の男は首を振りながらその言葉を否定する。
「いえ、それが……最初の顕現の時刻は、彼の『宣伝活動』とほぼ同時刻です」
「……ならば、それこそが繰丘《くるおか》の呼び出した英霊という可能性が一番大きいな」
男は静かに椅子から腰を上げ、苦虫をかみつぶしたような顔で語り続ける。
「まあ良い。どの道、英雄王が最大の障害となろう。それさえ排除できればいい」
「はッ」
そのまま部屋の中に沈黙が訪れるかと思ったのだが――不意に窓際の机に置かれた電話が音を立てる。
部屋の主らしき男は、進まぬ顔で受話器を手に取り、極めて事務的な声を口にする。
「……私だ」
『いよう、元気にしてるか、兄弟!』
受話器の奥から響く声に、男は露骨に眉間に皺を寄せて言葉を返す。
「キャスター[#「キャスター」に傍点]か……何の用だ」
『何の用だはねえだろうが!あれだ!ちょいと今、テレビで見たんだけどもよお!この国にゃ、抱くのに一晩何百万もかかる、すっげえいい女がいるってのは本当か!?』
「……そうだと言ったらどうするんだ?」
『今晩、ちょっと呼んでくれよ、兄弟』
ストレート極まりない通話相手の言葉に、部屋の主である男は露骨に頬を引きつらせた。
「貴様と兄弟になった覚えはない」
『なんでぇ、俺と兄弟の杯を交わしたのを忘れたとは言わせねえぞ?兄弟の杯を交わすってなかなかいい言葉だよな。ネットで調べたんだが、東洋人がよく使うらしいぜ。気に入った!』
「……貴様は英霊としてマスターたる私と契約した。それ以上でも以下でもない」
コメカミをひくつかせながら、男は受話器を強く握り込む。
その手の甲には、鎖を思わせるデザインの令呪がハッキリと浮かび上がっている。
つまり、今電話している相手は彼のサーヴァントであるという事だが、マスターと電話で会話をするという、些か奇妙な距離感に存在しているようだ。
英霊と呼ばれたサーヴァントは、『わかってねえな』と呟いた後、マシンガンのような勢いで言葉の塊をマスターに押しつける。
『勘違いするなよ?俺の仕事は英雄を生み出す事だ。決して俺自身は英雄なんかじゃない。ただし、英雄のように俺をもてはやすのはOKだ。女ならなお良しだな。確かに、女を100人抱いてガキを1000人生ませたなんてのは、モテない男どもにとっちゃ英雄って見られても仕方ないかもな!』
「3秒で看破できるホラ話をするのは止めたまえ。そんな嘘を並べ立てる暇があったら、とっとと作業の続きに取り掛かれ」
『っかー!まだやらせる気か?少しは俺の都合ってもんも考えて欲しいね!いいか?俺は別に聖杯に向ける願いなんざ、美味い飯といい女ぐらいのもんだ。それよりも俺はな、この戦争に乗っかる連中がどんなドラマを生みだし、どんな結末を迎えるのか、それが見てみたいだけだ!それなのにお前、これじゃ結末を見る前に発狂しちまうぞ!』
声高らかに不平を唱えるサーヴァントを、マスターは溜息を吐いて宥め賺す。
「女も飯も世話してやる。だからあんたは、とっとと『昇華』の作業を続けてくれ」
『やれやれ、つまらん野郎だねえ。そもそも、人を呼び出しといて専門外の仕事を押しつけてるって事を忘れるなよ?そもそもだ、模造品造り[#「模造品造り」に傍点]ならもっと適任がいるだろうが!昨日インターネットで調べたぞ。エルミア・デ・ホーリーとかいう奴とかな!それに、なんたらかんたらってのを使って無限にコピー作れる奴とかもいるって噂も聞いたぞ?』
「単なる贋作では意味がないのだ。原典を越えねば、英雄王の蔵には歯が立たぬ」
『はッ!俺のアレンジ力を評価してくれるってか!嬉しくて涙が出る!死ね!あぁあぁ、こんなこったら、贋作騒ぎん時にジョークで「本物よりも俺の方が面白ぇだろ?」なんて言わなきゃ良かったぜ。まさか100年以上も後に、クレオパトラや楊貴妃を抱いて寝てる所を叩き起こされてコキ使われるたぁ思ってなかった。こんな話売れねえよ、ふざけんな』
やはり一瞬で嘘と解る愚痴を言うサーヴァントに、マスターは感情を抑えながら語りかけた。
「勘違いするな。君を選んだのは、何もその逸話があるからではない。純粋に――伝説を上回る伝説を生み出す事ができる人物だと判断したからだ。いかに完成された伝説だろうと、それを上書きして真実とできるだけの力がある、そう思っただけだ」
『はッ!男に世辞を言われても嬉しくないねえ。今の台詞を台本にして、あんたの奥さんに読ませてくれや。もちろん俺のベッドの中でな!ああ、その前に、台本にしたら一回俺の所に持ってこい、俺は本来、伝説なんぞより、出来の悪い台本を直す方が得意――――――』
相手の言葉を最後まで聞かず、男は静かに受話器を置いた。
言葉の洪水が去り、部屋はまるで空気そのものが裏返ったかのように静まりかえる。
部屋の主である男は、今しがたの会話など存在しなかったとばかりに涼しい顔をしており、暗闇が続く部屋の奥に向かって怜悧な声を響かせた。
「英雄王ギルガメッシュ……奴の宝具の中で厄介なのは、無名の剣と無限の蔵だと聞く」
男は再び椅子から立ち上がり、手を後ろに組んだままゆっくりと部屋の中を歩み出す。
「ならば、こちらも数で押すしかあるまい。奴が剣を抜くより前に。如何なる手練手管を使ってでも虚を生みだし、正々堂々と謀殺すべし、だ」
一歩、また一歩と踏み出すごとに、男から異様な威圧感が漂い、暗闇そのものに焦眉の色を浮かばせる。
「だが、ただ数で押して勝てるわけもない。そもそも英霊には物理的な攻撃が通じない上に、純粋な腕力だけでも一流のアスリート達を圧倒的に上回る。ああ、私の召喚したキャスターは別だがね。恐らく、殴り合いならば私にも分がある……まあ、それはいいだろう」
そして、余計な事を言ったとばかりに目を反らし、気を取り直して歩を進める。
「だが……逆に言えば、人の身で宝具を使いこなす事ができたとすれば?」
聖杯戦争における『宝具』とは、それぞれの英雄が持つ、まさに神業とでも呼ぶべきワイルドカードだ。ヤマトタケルの伝説における天叢雲剣のように、それはまさに英雄達の象徴であり、各々の力を最大限に引き出す代物だ。
当然ながらガンショップや骨董品屋に並んでいる筈もなく、サーヴァントを召喚するという行為は、引いて言えば『宝具を召喚する』と言い換えても良い――それほどまでに、宝具の存在は戦争の行方を強く左右するのである。
「更に、それらの武具が、あらゆる宝具の原典を上回る力を持っていたとすれば?」
暗闇の奥まで辿り着いた男は、壁の寸前で立ち止まり――
令呪の浮かぶ右手を前に出し、スイッチを押して部屋の明かりを点灯させる。
そして、急激に光を取り戻した部屋の中に浮かび上がったのは――
広い部屋の左右に整列する、黒い制服姿の大集団だった。
黒い制服と言っても、当然ながら日本の学生などではなく――腰に下げた装備が特徴的な、まさに権力の象徴とでも言うべき集団だった。
男女がランダムに入り交じり、総勢三十人程で構成された警官達。
堅苦しい威圧感を与える制服に身を包んだの彼らの手には――それぞれ、全て違う種類の装備が握られていた。
なんと異様な光景だろうか。
無表情を決め込む制服警官達が、大真面目な顔をして剣や弓、盾、槍、鎖、鎌、棍といった物を握りしめている。しかも、腰には手錠と拳銃をぶら下げたままである。もはやそれは、似合わないという評価を通り越して滑稽な印象さえ受ける。中には金色の火縄銃のような武具を背負っている者までおり、これから警察が地域振興のショーを始めるとでも言い出しそうな雰囲気だった。
だが――多少センスのある魔術師がその光景を見れば、笑うどころが卒倒しかねない。
彼らが握るそれらの武器は、部屋に満ちる空気そのものを浸食するとでも言わんばかりに、魔力と英気が練り合わせれた力が滲みだしている。
その宝具は、全てが贋作。
されど、その力は伝説をも上回る。
「――『|二十八人の怪物《クラン・カラティン》』 ――」
「かつて、ケルトの伝承の中でクー・フーリンと相まみえた戦士の名。今日から、これが君達のコードネームのようなものになると思ってくれたまえ」
自らの左右に並ぶ圧倒的な『違和感』の列を満足げに眺めながら――
スノーフィールドの警察署長である男は、両手を広げて高らかに宣言する。
「安い言葉ではあるが、警察署長である私が保障しよう。魔術師たる私は確約しよう」
「君達は、正義だ[#「君達は、正義だ」に傍点]」
その言葉を聞き、警官の列は一斉に足を踏みならし、完璧に調和のとれた動きで、自分達のマスターたる警察署長であり、師でもある魔術師に対し、一斉に敬礼をして見せた。
ただその動きを見ただけで――眼力のある者には理解できただろう。
彼らが、決してただの警官ではなく、本来の警官としての修練の他に、何か特別な事を積み重ねている集団であると。
街のあらゆる所に、物理的な『網』を巡らせる警察機構。
彼らがサーヴァントを頼ったのは、手駒の魔術師達を協力させた『宝具の作成』というただ一点のみ。
すなわち、彼らは――
人間の手で英霊達を打ち倒すという、聖杯戦争の根本を揺らがす道を選んだのだ。
果たして如何なる結末が彼らに待ちかまえているのか――
キャスターとして呼び出されたとある男は、未だにその物語を書き上げてはいなかった。
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プロローグ『ライダー』
結論から言えば、『彼』は異質そのものだった。
今回の『偽りの聖杯戦争』において顕現したライダーのサーヴァント。
その存在は、まさにこの聖杯戦争が偽りであり、『聖杯』などという言葉からはもっとも遠き存在であるという事を証明していると言ってもいいだろう。
英霊とは名ばかりであり、その存在は英雄に類する物などではない。
ならば悪霊、邪霊の類か?と問われれば、それも素直に肯定する事はできないだろう。宗教や地域によっては、『彼』は『呪い』と呼ばれ、別の教義では『神罰』と表現される存在。
サーヴァントというものは、過去から未来、この地球上のあらゆる時代の中から選ばれる。
召喚すべき英霊達の留まる『座』には、時間の概念など存在しない。過去の伝説的英雄を呼び出す事もあれば、まだ生まれていない英雄の魂を呼び寄せる事もある。もしも天草四郎の生きた時代に聖杯戦争があれば、天草四郎が英雄の偶像として力を得た後世の自分自身を呼び出してしまうという可能性もあり得るのだ。
だが、そういう意味で言えば――『彼』は遙かな太古から存在し、恐らくは、遙かな未来までも存在していく事だろう。誰よりも短命であり、誰よりも長命とも言える存在だ。
そして、英霊ではなく、現在も物質的に存在し続ける方の『彼』は――
この瞬間も――確実に、この星に住まう生命を奪い続ける。
あるいは、自らを新たな生命の糧とする為に。
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なんてきれいなんだろう。
それが、目の前に広がる光景を見た、一人の少女の感懐だった。
場所は、見慣れていた筈の街の中。
自分が生まれ育った街。いくつものビルが天を擦るように聳え立ち、地を歩くこちらを青空ごと呑み込もうかという勢いだ。
片側三車線の幹線道路の交差点。スノーフィールド市の中心近くに存在するこの交差点は、南北と東西に貫くそれぞれの道路が交わり、上空から見れば街の中に巨大な十字架が浮かび上がっているように見える、まさしく『街の中心』とでも言うべき場所だ。
この大通りだけを見るならば、NYやシカゴと比肩しうる都市とも受け取る事ができるだろう。それほどまでに、この通りは突出した発展を遂げており、街の周囲に広がる様々な自然に対して、自らも自然の一部である――いや、自らこそが自然の完成系なのだと主張しているかのようだった。
だが――違和感は、ある。
その違和感こそが、少女が見慣れていた筈の光景を美しいと感じた理由であった。
少女が立つ場所は、街の中心である交差点の更に中心。
スクランブル交差点の横断歩道が交わる場所であるが、当然ながらいつまでも立っていられるような場所ではない。
しかし、彼女は既に10分以上もその場所に立ち続けていた。
信号は何度も入れ替わる。
しかし、彼女の周りにはクラクションの音一つ響かない。
それもその筈であり――
彼女の見る光景の中には、人間という存在が完全に消え去っていたのだから。
誰もいない交差点。
車は一台も走らない。
音すらも、臭いすらも存在しないという事に、果たして彼女は気付いているのだろうか。
道路の中心から見る、人気の無い幹線道路。
アスファルト色のレッドカーペットという矛盾したものを想像しながら、少女はその直線的なビル群の美しさに圧倒された。
人がいないというだけで、人間の象徴たるコンクリートの塊が、地面から生えた美しい自然物のようにも感じられる。
ビル群が樹木だとすれば、なんと雄大で調和の取れた森なのだろう。さながら、最も高い建物である市庁舎は長老の木と言った所だろうか。
何故、自分がこんな場所にいるのかは解らない。
解らぬなりに、彼女はこの状況について知ろうと、ただ街の中を彷徨い続けた。
しかし、それは同時に悲しみでもある。
人のいない世界というものを美しいと想い続ける事は出来たが――寂しいとも思う。
だが、最初は寂しさしか感じられなかったが、それは最初の数日で慣れてしまった。
そう――彼女は既に、この人のいない街を長く長く彷徨っている。
三ヶ月ほど過ごした時点で、いちいち日にちを数える事を止めた。
何故か空腹に襲われる事もなく、ただ、少女は街を彷徨い歩き、日が暮れたら眠る。
夜になれば、人が存在しない筈のビルに明かりが灯り、地上の星空となって少女の心を癒し続けた。人がいないビル明かりほど不気味な光景もないだろうが、少女は既に、人がいないという異常に慣れきってしまっていたのだ。
寂しさすら薄れ始め、余裕のできた少女の心には、無人の街というのがとても美しいと感じられた。
一頻り街を眺めた後、少女は自分の交差点の真ん中に仰向けに寝転がり、ぼんやりと空を眺め続ける。
――おとうさん。おかあさん。
思い出すのは、両親の顔。
――ごめんなさい、私、ちゃんとできなかった。
自然と出てきたのは、謝罪の言葉。
しかし、彼女は別に自分が今は何もしていないという事を思い出し――
二つの感情を思い出す。
一つは、人に会えぬというこの状況の寂しさ。
もう一つは――――
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スノーフィールド中央病院
スノーフィールド市の中央区に存在する、巨大な白塗りの建造物。
一見すると美術館のような外観をしているが、そこは街の中でも最高の設備を整えた大病院であった。
外科から心療内科に至るまで、実に多くの患者達が治療を求めてその門を叩く希望の城。
だが、当然のことながら、望む事もなくその場所を訪れる者達も数多く存在する。
「……やはり、娘さんが今後意識を取り戻す事は難しいと言わざるを得ません」
女医の言葉に、目の前にいた男女は互いに顔を見合わせた。
年齢は30前後だろうか。東洋人らしきその夫婦は、少なからず動揺した表情を見せ、夫の方が流暢な英語で尋ねかける。
「今日で娘が入院してから一年が経ちますが……それは、悪化した、という事ですか?」
「……いえ、肉体的には顕著な悪化事例はありません。ただ、意識の回復という点では、時間が掛かれば掛かる程に可能性が低くなります」
彼女の担当している患者は、既に一年近くも入院したまま、意識を取り戻していない。完全な植物状態となって、体の成長だけが緩やかに進んでいく状態の少女だ。
まだ年齢は10才と3ヶ月に過ぎない。
一体如何なる事があったのか、少女は突然意識を閉ざしたまま目を覚まさなくなったとの事で、両親が大あわてで病院に運び込んで来たのだ。
検査の結果、少女の体内、特に脳の周辺に未知の病巣が点在する事が確認された。
その病巣の一部を摘出して検査した結果――それは、未知の細菌によって引き起こされていると確認され、病院内は感染の可能性なども含めてちょっとしたパニック状態となった。
しかし、その細菌に感染性は認められず、一体何故少女の体を蝕んだのかも解らない状態である。更に設備が進んだ病院でも検査を行うという案もあったが、何故か受け入れを拒否され、この市内病院で経過を観察するという結果となった。
「細菌が変異している様子も見られませんが、逆に言えば、これからも彼女の脳の活動を阻害し続けるという事です。脳炎ほどのダメージを与えるわけでもなく、ただ、その活動だけを緩やかに阻害している状態です」
鎮痛な面持ちで語る女医に、妻の方が不安そうな声を紡ぎ出した。
「そうですか……」
「しかし、可能性が無いわけではありません、植物状態となり、10年以上経過してから意識を取り戻した患者の例もあります。細菌のDNA解析が進めば道が開ける可能性もあります。どうか、お気を落とさずに」
なんとか気落ちする励まそうとして言葉を吐き出した女医だったが――
患者の父親は、なおも不安そうな顔を崩さぬまま――一つの疑問を口にした。
「娘の意識はともかく……生殖機能は無事なんでしょうか?」
「……は?」
一瞬、何を質問されたのか解らなかった。
『意識はともかく』という言葉の意味が解らず、暫しの沈黙が空間を支配する。
だが、男はその沈黙を長くは許さず、細かく言葉を砕いて問い直した。
「卵巣と子宮、最悪でも卵巣だけでも正常に成長するのか、調べていただきたいのですが」
「え……いや、病巣が活動を阻害しているのは脳の一部だけですので、臓器などに顕著な異常は現れていませんが……」
相手の質問の意図が全く解らず、単純な事実だけを並べ立てたのだが――
ただのそれだけで、患者の両親は再び顔を見合わせ、その表情を輝かせた。
「そうですか!いや、それならば何よりです!入院費は変わらず出し続けますので、どうぞ今後とも娘を宜しくお願いします!」
「え?あの、いや……」
「本当に、先生には感謝しています!さあ、貴方、これで心配の種は無くなったでしょう?」
「ああ、そうだな、早く今夜の準備に戻るとしよう」
戸惑う女医を無視して、上機嫌で病院の外へと向かう若い夫婦。
何と声をかけていいかも解らぬまま、女医はただ、その背中を見送る事しかできなかった。
「全く……なんなのかしら、あの夫婦……」
もしかして、娘が意識不明になったというショックで精神的に混乱しているのではなかろうか。次に来院した時にはカウンセリングを勧めるべきだろうか。
そんな事を考えながら、女医は除菌室の扉を潜る。
体に除菌用のガスと紫外線を浴びた後、入った時とは反対側の扉が開かれ――その先に存在する一台のベッドに目を向けた。
ベッドの上に眠るのは、点滴を受け続ける一人の少女。
眠っているようにしか見えないが、その顔は力無く痩せ細っており、その意識が戻る傾向は見られない。
「……両親が見捨てたとしても、私は絶対に見捨てないわ」
呼吸音だけを響かせて眠る少女の姿を見ながら、女医は決意を新たに点滴の状態などをチェックし始めた。
そして――一つの異変を発見する事となる。
「……あら?」
異変に気付いたのは、姿勢の状態を確認していた時の事だ。
身動き一つしない彼女の右手に、赤い何かが浮かび上がっている。
「なに……これ……?」
少女の手を取ってみると、それは、閉じた鎖をイメージさせる、真紅に染まる紋様だった。
「タトゥー……?一体誰が?」
この病室への出入りは厳重にチェックされており、墨を入れる為の器具など持ち込めるものではない。そして――女医は、午前中に検診した時点では確かに何も異常は無かった事を思い出し、背中に空寒い物を走らせた。
「なんなの……これ……悪戯?」
魔術師の存在すら知らない彼女には知るよしも無かったのだが――
それは確かに、『令呪』と呼ばれる紋様だった。
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少女が思い出したものは――痛みと恐怖。
今でさえ幼い少女だったが、両親に何をされて来たのか――
それは決して虐待ではなく、冷静な愛を持っての行動だった。『お前を立派な魔術師にしてあげよう』と言う言葉と共に注がれた愛。それは、彼女の幼い行動にも理解できた。
だが、痛みは彼女を蝕んだ。
痛みが、痛みが、痛みが、痛みが痛みが痛みが痛みが痛みがどうしようもなく彼女の過去を支配し、楽しかった思い出も嬉しかった思い出も哀しかった思い出も存在する筈なのに、その全てが圧倒的な痛みの記憶に上書きされる。
「ごめんなさい、ちゃんとやりますから」
忘れようと思っても、痛みだけは克服できない。
いっそ虐待であれば心を閉ざす事ができたのかもしれない。
しかし、彼女は両親からの愛を確かに感じていた。
だからこそ、彼女は逃げる事もできず、ただひたすらに耐え続けた。
幼いながらに、耐える事こそが両親への愛に応える行為なのだと信じていたのだ。
しかし、彼女は知らなかった。
両親の愛情は、彼女という人格ではなく、彼女が紡ぐ『魔術師としての未来』にのみ注がれていたという事を。
彼女の両親は魔術師の家系であり、本来の『聖杯戦争』から技術を掠め取った者達の一画を担っている。
だが、彼の一族が入手したのは、聖杯戦争のシステムだけには留まらず――とある魔術師の『蟲使い』の魔術体系を一部入手し、それに独自の応用を加え始めたのだ。
彼らが目を付けたのは、より微小な蟲による細やかな肉体改造。
数十年に渡る試行錯誤の結果――元の『蟲使い』とは似て非なる技術が完成されつつあった。
魔術的に改良を加えた『細菌』の数々。
それら上手くを幼い頃から魔術師の体に用いれば、魔術師として後天的に魔術回路を増幅させられる。そうしたもくろみだった。
そして、技術が完成した後に最初に生まれた娘は――記念すべき最初の『献体』として選ばれ――実際に、多くの苦痛を代償として、肉体的には殆ど変異を促さぬまま、魔力回路だけを絶大的に増幅させる事に成功する。
あとは、成長の暁に一族の魔術を受け継がせれば全てが丸く収まる筈だったのだが――
運の悪い事に、細菌の一部が暴走し、まだ幼い少女から意識を奪い去った。
両親は魔術回路を増幅させた存在の血が受け継がれるのかどうか、それを確認する為に少女を入院させて生きながらえさせる事にしたが、彼女の人格については、既に両親にとってどうでも良い事だった。
そして、彼女は――
自分という人格が両親に既に捨てられているという事も気付かぬまま、自らの夢の中に生み出した、生と死の狭間の世界を彷徨い続ける。
細菌によって魔術的な改造を受けた結果だろうか、それは通常夢よりも圧倒的にリアルな映像を見せる。しかし、味も匂いもないその世界は、結局の所は夢に他ならなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……痛がってごめんなさい[#「痛がってごめんなさい」に傍点]……!」
過去の記憶が一瞬にしてフラッシュバックし、少女は誰もいない世界の中で、一人叫び続ける。魔力に満ちてはいるが、まだ何一つ覚えさせられてはいない無力な魔女。
彼女は夢の中で体中に力を振り上げただ、叫ぶ。
改造された体が、彼女の意思を後押しするように、夢の中で魔力回路を暴走させる。
このまま消えていく事を感じたのだろうか、まるで『捨てないで』と泣き叫ぶ子供のように
――細胞の全てが、啼き叫んだ。
「ちゃんとやりますから!ちゃんと、ちゃんとがまんしますから!」
何をちゃんとすればよいのかも解らぬまま――
「だから、だから捨てないで!捨てないで……!」
刹那――少女は、閃光を見る。
音の無い世界に生まれた、轟々たる風の音。
一体何が起こったのか解らず、少女は飛び起き、交差点の周囲を確認し――
その道の全てが、黒い霧に覆われている事に気づく。
理解できない『変化』に立ちすくんでいた彼女の耳に、一つの声が響き渡った。
まるで、蟲同士がギチギチとせめぎ合うように耳障りな音。
だが、たしかにその音は、言葉としての意味を持っていた。
「トオウ、アナタガ、ワタシノマスターカ」
少女はそれを知る筈もないのだが――
そのサーヴァントは、あまりにも異質だった。
本来、『彼』には英雄としての資質どころか――『人格』すらも存在しない。
そもそも『彼』は、人間ではないのだから。
だが、聖杯という存在により『知識』を与えられたその存在は、サーヴァントとして顕現した瞬間から、ただの知識の塊として現れる。感情の機微はなく、ただ聖杯戦争としての知識をシステム的に再現するロボットのような存在として。
恐怖の塊のような声で呟かれた言葉だが――
少女は、恐れなかった。
思い出した寂しさを埋める者が現れた。変化の無い世界に変化が訪れた。
ただその事が嬉しくて――少女は黒い霧に覆われた摩天楼を見上げながら、おずおずと自分の名前を吐き出した。
「だあれ?わたしは、くるおかつばきです」
そして、彼女は――この偽りの聖杯戦争の、記念すべき最初のマスターとして選ばれた。
夢の中での契約は、誰にも知られる事は無く――
現実世界での彼女は、相変わらず意識不明のままだったのだが。
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スノーヴェルク市繰丘邸
「さて、そろそろファルデウスが『宣伝』を開始する頃だろう」
病院から戻ってきた繰丘夫妻は、やや上機嫌さを残したまま、今晩行うべき『儀式』に備える事にした。
「もうすぐ土地の霊脈に力が満ち、私の手にも令呪が宿る。そうなれば、私の行為は完璧だ」
「そうね、宝具そのものと言える聖遺物も用意できたし……イザとなれば、その宝具そのものも手持ちの武器として扱えるでしょうしね」
「ああ、そうだな。かの始皇帝を呼び出すとあらば、それなりの敬意を示す為の準備を整えねばなるまい」
既に娘の名前など会話に出てくる事は無い。
彼らはどうやら、中国の歴史の中でも指折りの人物を呼び出すべき準備を進めてきたようだが――その全ては無用の長物となりはてる。
令呪が意識不明の娘に奪われたから、というわけではない。
それだけならば、彼らにも別の令呪が宿る可能性があったからだ。
だが、結果として彼らに令呪は宿らず――
別のものが、この瞬間彼らの体へと浮き上がる。
妙な違和感を感じ、男は自分の右腕を覗き見る。
「ん……?」
それは、黒い斑点だった。
一見痣のようにも見え、何処かにぶつけたかと眉を顰め、男は妻の方に目を向ける。
「なあ、これ、なんだと……おい!?」
そして、繰丘の名を受け継ぐ魔術師は驚愕する。
妻の顔面や腕にも、自分と同じような黒い斑点が浮き上がり――次の瞬間には、糸の切れた人形のようにその場へと崩れ落ちた。
「お、おい……!?」
妻に駆け寄ろうとするが、その視界がグニャリと歪み――全てのものが七色の軌跡を描きながら、上へ上へと落ちていく。
そして、落ちているのは自分の方だと気付いた時にはすでに遅く――魔術師は、既に立ち上がる事すらできずにいた。
意識を失いそうになりつつも、魔術師は確かに感じ取る。
自分の体中から、何かを通じて、魔力が何処かに吸い取られているという事を。
生命エネルギーを取られているわけではないので死ぬ事は無いだろうが、ここままでは昏睡状態に陥るに違いない。
――冗談じゃない。
――こんな状態で……敵に襲われたら……。
――いや、まさか……もう誰か……仕掛けて……。
最後まで聖杯戦争に彩られた彼の意識はとうとう闇の中に落ち込み、最後まで娘を思い浮かべる事はなかった。
そして、数分後――
体中に黒い斑点を浮かべたままの夫婦が、何事もなかったかのようにムクリと起き上がる。
「……そういえば、今日は椿の誕生日だったな」
「そうね、貴方、ケーキを作ってあげなくちゃ」
不健康極まりない顔色をしながら、とても穏やかな調子で妙な事を呟く夫婦。
彼らには現在、元の人格など残ってはおらず――
ただ、娘の望んでいた生活をトレースするだけの生き人形に過ぎなかった。
[# unicode21d5]
少女は踊る。少女は踊る。
目覚めの時を忘れる為に。
少女と踊る。少女と踊る。
彼女の全てを叶える為に。
「わあ!ありがとう!おとうさん!おかあさん!」
「いいんだよ、つばき。お前はよく頑張ったんだから」
「そうよ、貴方は私達の大事な宝物なんだから」
プレゼントを受け取った娘は、家の中で嬉しそうにハシャギ回る。
彼女は一頻り悦んだ後、傍らに立つ黒い霧の塊に微笑みかけた。
「ありがとう!あなたがここにお父さん達を呼んでくれたんだね!」
そんな彼女の言葉に、サーヴァントは頷きもせず、ただ立ち続けるのみだった。
現実の光景を、夢の中に投影させる。
それは恐らく、彼女が無意識の内に開花させた魔力。しかし、夢からは現実に影響を与えられない以上、物理的には全く意味の無い魔術であるとも言え、進んで開発する魔術師は少ないだろう。
サーヴァントはただ、彼女の無意識の魔術を手助けをしたに過ぎない。
マスターの理想のままに、自分の力で現実の彼らを操っただけだ。
もっとも、その際に魔力を吸収するという本能的な行為も存在したのだが。
彼には、人間の感情など理解できない。ただ、知識で知っているだけだ。
だが、それ故に――そのサーヴァントは強力な力を有し、少女をこの聖杯戦争最大にして最悪のダークホースへと仕立て上げた。
風に乗り、水に乗り、鳥に乗り、人に乗り――
それこそ世界を制覇したと言っても良いその存在は、確かにライダーのクラスを冠するのが相応しいとも思えた。
だが、それよりも何よりも――
人々がその『災厄』に与えた二つ名。擬似的な人格こそが――彼をライダーとして顕現させた最大の理由になるかもしれない。
かつて、黒死病の風を噴かせて三千万の命を奪い――
時にはスペイン風邪という名目で五千万の命を奪い――
様々な風を起こした『災厄』と言う名の騎手。
その二つ名に、このサーヴァントの存在自体に気付く者が現れるのか――
偽りの聖杯戦争は、いよいよ混沌の渦へとその座を投じつつあった。
[#改頁]
プロローグ『ランサー』
その森はどこまでも深く――
彼の姿は、まるで永遠に続く底なし沼を落ちているようだった。
――走る
――走る      ――走る
――走る  ――走る  ――走る
彼はただ、夜の森を風を裂いて駆け抜ける。
なんの為に走るのか、その理由を彼が一々考えているのかは解らない。
『逃げる』という単純にして一言で済む言葉があるのだが、恐らくはそれを意識しながら走れる程の余裕はないだろう。
敢えて言うなれば、その『逃げる』という行為の先に在るもの――
すなわち、『生きる』というただ一点の為だけに、大地を全力で蹴りつける。
思考ではなく、本能。
理性ではなく、衝動。
どこに逃げるべきなのかも理解できぬまま、彼はただ、前へ前へと己の身を躍らせる。
既にどれだけの時を掛け続けているのだろうか。
一歩踏み出すごとに足が悲鳴を上げ、その痛みは全身へと狂い無く放散する。
だが、それでも彼は足を止めない。体も脳味噌もブレーキを求めない。
既に脳内麻薬も切れかけたのか、ただ苦痛だけが彼の体を襲うが――
――――――――――――ッ
獰猛な本能は、それすらも乗り越える。
木々が風のように流れ、彼はまさに風となって夜の森を潜り抜けようとしていたのだが――
魔力を帯びた弾丸が、その風を撃ち落とした。
「ッ!」
痛みよりも先に、衝撃が彼の全身を包み込む。
踏み出したエネルギーは失われる事なく、彼の体を容赦なく地面に叩きつける。先刻まで足蹴にし続けた事のお返しだとでも言うように、大地は凶器となって彼の体を打ちすえる。
「.....ッ!」
声にならぬ悲鳴。
立ち上がろうにも、全身を襲う痙攣がそれを許さない。
全身の悲鳴が脳味噌に響くのと同時に、静かな声が鼓膜へと響き渡る。
「……手こずらせおって」
理知的な声ではあったが、その冷静な声色の裏にはあからさまな憤怒が見え隠れする。
手にした装飾銃を下げながら、魔術師らしき男は、倒れる逃亡者の腹をゆっくりと踏みつけ
――次いで、まだ熱を持ったままの銃口を足の銃創に突きこんだ。
ジュウ、と肉の焼ける音が響き、焦げた匂いが森の中に木霊する。
逃亡者は口を限界以上まで開け広げ、喉の奥から濡れた空気だけを吐き漏らした。
「全く、よりにもよってお前に『令呪』が宿るなどと……一体なんの冗談だ!?」
無音の悲鳴と共に体をのたうち回らせる逃亡者。彼の体には、確かに令呪と思しき鎖状の紋様が浮かび上がっている。
「何のために無理矢理お前を造ったと思っている?何のために限界まで魔力回路を『増設』してやったと思っている?なんの為に、今まで生かされて来たと思っている?」
魔術師は静かに首を振ると、のたうつ逃亡者の頭部をボールのように蹴り飛ばした。
「……聖杯戦争を勝ち抜くには、英雄を越える存在を手に入れなければならん」
歩み寄り――再び顔面を蹴り抜く。
「既に英雄を通り越し、『神』と呼ばれし格を手に入れた者を呼ばねば『王』と呼ばれる類の英雄どもに勝つ事はできん」
蹴り抜く。
「なれば……英雄の起源より更に過去――エジプトにて『神』となった者達を呼び寄せる」
踏みつける。
「貴様は、その為の触媒なのだぞ!神を呼ぶ触媒となる栄誉を何故受け入れん!?恩を仇で返しおって!」
既に悲鳴を上げる事もできず、逃亡者の視界は既に半分以上が血の赤と暗闇に染められつつあった。
それでも――
既に息をすること自体が苦痛となっていようと――
喉の奥から溢れる血を呑み込みながら、彼は尚も立ち上がろうとする。
あくまで諦めぬ様子の逃亡者を見て、魔術師は呆れたように溜息をつき――
逃げようとするその背に足を乗せ、なんの容赦もなく体重をかける。
「もう良い、スペアは何体か用意してある……令呪だけは返して貰うが、その後は死ね。だが、貴様に自由は無いぞ。窯に放り込んで、新たなモルモットの素体としてくれる」
男の右手が、逃亡者の令呪へと伸びる。
だが、実際、彼にとって令呪などというものはどうでもよい存在だった。
彼は『聖杯戦争』の意味すらも、名前すらも知らなかった。
ただ、彼は一個の生命として、体の内より沸き上がる本能に従っただけなのだ。
そして、その衝動はこの後に及んでも一滴たりとも失われてはいなかった。
――生きる。
と、ただそれだけを意識する。
――生きる。   生きる。 生きる。   生きる 生きる 生きる 生きる
――生きる。    生きる。  生きる。 生きる 生きる 生きる  生きる
『死にたくない』ではなく、ただ『生きる』とだけ願う。
その差異に彼自身気付いているのかどうか――
いや、そもそも彼の中に『死にたくない』という言葉があるのかどうかすら疑わしい。
彼は徐々に動かなくなる体の中で――
スノーフィールドという土地に住まう、ありとあらゆる生き物の中で、もっとも強くその意思を叫び上げた。
「――――――――――――――――」
だが、その『叫び声』の意味を魔術師は気付く事なく――故に、彼は気付かなかった。
その瞬間、まさに『儀式』は完遂されたのだという事を。
彼にしか紡げぬその叫びこそが、彼にとっての魔術であり、召喚の言葉であったのだと[#「彼にしか紡げぬその叫びこそが、彼にとっての魔術であり、召喚の言葉であったのだと」に傍点]。
魔術師は知らなかったのだ。
つい先刻、五体目のサーヴァントが北部の渓谷にて召喚され――
偽りの聖杯は、多少強引にでも六体目のサーヴァントの顕現を望んでいたという事に。
もっとも、最初に召喚されたライダーの経緯からして、この聖杯戦争において『召喚』の儀式については実に曖昧な定義が成されていると見ても良いだろうが。
ともあれ、この瞬間――
六体目のサーヴァントが、ついにスノーフィールドの森に降臨したのである。
森の中をまばゆい閃光が貫き、巻き起こる旋風が周囲の木々を激しく揺らめかせる。
力強い風に数メートル吹き飛ばされた魔術師は、何事かと銃を構え――次の瞬間、圧倒的な魔力を感じ、己の全身に巡る魔力回路を強ばらせた。
「なッ……」
魔術師の目の前に現れたのは――質素な貫頭衣を身に纏っていた。
『それ』が英霊であるというのは、目の前に存在する圧倒的な魔力の量を見れば一目瞭然だ。
しかしながら、不自然な点もある。
英雄と呼ばれる存在としては、あまりにも質素な外見だった。
コレと言って装備らしき装備を携えてはおらず、纏っている服もそれほど価値のあるものではないだろう。無論、英雄の価値が財力で決まるわけではないが――それにしても、武器一つすら持ち合わせていないとは如何なる事だろうか。
彼は静かに相手の姿を観察する。
――女?
――い、いや、男……?どっちだ……?
そのサーヴァントの顔は男女どちらとも受け取れ、そのどちらだとしても、実に端麗な顔立ちをしている事は確かだったのだが――
――そ……そもそも……人、なのか?
どこかしら違和感を感じさせるその雰囲気に、魔術師は思わず鼻白む。
確かに人間の顔をしているのだが、どこか、口では上手くいえない違和感がある。完成されすぎているとでも言うべきだろうか。見ただけでは解らないが、全体から放つ雰囲気がどこかマネキン人形や――魔術師達が造る魔術的な意味での『人形』を思わせる。
ゆるりとした服装のせいか、体型はよくわからない。それがますますその英霊の性別、ひいては『人間なのか否か』という事もあやふやにさせる。
その英霊は、僅かに残る風に艶やかな髪を靡かせつつ――
目の前に横たわる傷ついた逃亡者に問いかける。
「君が……僕を呼び出したマスターかい?」
と、実に柔らかい声色で。
声すらも中性的であり、ついぞ魔術師は、その英霊の正体を掴む事ができなかった。
逃亡者は突然の閃光と風に面を喰らっていたが――
眼前に現れた存在を見て、一目で確信する。
――目の前の者は、敵ではない。
ただ、それだけが確信できた。
逃亡者は一端逃げるという衝動を抑え、その救いの主をじっと見つめる。
まるで、相手の心の全てを推し量るかのような純粋な瞳で。
その瞳を正面から受け止めた英霊は、静かにその場に跪き、よろよろと立ち上がった逃亡者と同じ目線の高さで――
「―― ―― ――――――」
と、魔術師には理解できない言葉を口にする。
逃亡者はその言葉を聞き、自らも静かに言葉を返す。
「―――――― ――――――」
すると、英霊は静かに手を差し伸べ、逃亡者の傷ついた体を抱えあげた。
『ありがとう、契約は成立した』
長年の友に語るような言葉に――逃亡者は心から安堵する。
生きる事を許された。そんな感覚が彼の心を包み込む。
もう逃げる必要は無くなったのだと確信し――彼は、ようやく全身の力を抜いた。
「ばか……な……馬鹿な!そんな話があるか!」
魔術師は目の前の光景が理解できず、銃を振りかざしながら森に叫び声を響かせる。
「こんな馬鹿な話が認められるか!」
叫びながら彼が銃口を向けた先にあったもの。
それは――
唐突に現れた英雄に抱え上げられる、
銀色の毛並みを血と土に染めた狼の姿だった[#「銀色の毛並みを血と土に染めた狼の姿だった」に傍点]。
「獣がッ!そんな……さしたる能もない合成獣《キメラ》がマスターだとッ!?巫山戯るな!」
装飾銃をカタカタと震わせながら狙いを付ける魔術師だが、英霊はそんな彼に対して静かに言葉を紡ぎ出す。
「その銃を降ろして下さい。マスターは、貴方に殺意を抱いていない」
「なッ……」
存外に丁寧な言葉使いにも驚いたが、それよりも、その言葉の内容に動揺する。
「馬鹿な!適当な事を……」
「僕には、彼らの言葉が理解できますし……マスターが貴方に何をされたのかも、状況を見れば想像はつきます」
嘲笑を浮かべようとした魔術師に、サーヴァントは真剣な表情で語り続け――
「ですが、マスターは貴方に殺意を抱いていない。……この意味が、解りますね」
それだけ告げると、魔術師にあっさりと背を向け、ゆっくりと森の奥へと歩み始める。
「ま、待て、待ってくれ!お前も聖杯を望んでいるんだろう!?そんな犬畜生をマスターとするより、私と組んだ方がより確実に聖杯へと近づけるぞ?」
すると、英霊はその言葉にピタリと足を止め――
ただ、振り返る。
それだけだった。
しかし、次の瞬間――魔術師は『ひ……』と声を漏らし、銃を持ったまま自らも英霊と獣に背を向け、そのまま森の中を駆け出した。
英霊が魔術師に向けた視線には――それ程までに強い『拒絶』が込められていた。
彼は魔術師が姿を消した事を確認すると、瞬時に視線から険の色を消し去り、マスターとして認めた友を治療すべく、川の方へと歩き始めた。
水音も無く、視界にも無い状態だが――
確かにそちらに水の『気配』を感じ取り、大地の化身は優しく大地を蹴り――――
胸に優しく獣を抱きながら、ハヤブサを思わせる速度で森の中を跳躍した。
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その英雄は――当然ながら人の姿をしていた。
だが――彼は人ではなかった。
はるか太古――神の泥人形として地上に落とされた彼は、男も女の性別すらなく、ただ、妖怪じみた泥人形として森の中に顕現した。
人間としての知性もなく、ただ森の獣と戯れ続ける泥人形。
しかしながらその力は人智を越えており、一度怒りと解き放てば、当時国を治めていたとある英雄の力を上回るとすら噂された。
当の王はそれを鼻で笑い飛ばし、『獣と力比べなどできるか』と眼中にも入れなかった。
王は自分の力を絶対だと信じており、それを上回る者など存在しないと確信していた。だからこそ、王はそれをただの噂として一笑に付したのだ。
だが――聖娼として名高い娘がその獣と出会った事により、全ての運命は流転する。
男女の区別すらなかった泥の塊は、男女の垣根を越えたその女の美しさに、一目で心を奪われたのだ。
6日7晩共に過ごす内に、泥人形は徐々に己の姿を人間へと近づけていった。
自らと寝食を共に過ごす、美しい娼婦の姿を真似るように。
そして、人間の姿と知恵を手に入れた人形は、王の前に立つ事となり――――
天地を揺るがさんとした私闘の末、彼は一人の友を得た。
黄金の王と泥人形。これ以上無いという程に立場に差のある二人だったが――彼らは唯一無二の朋友として、多くの冒険を通じ、互いにその苦楽を共有する存在となったのである。
その黄金と大地の色に彩られた日々から幾星霜。
運命は再び流転し――――――
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10qほど移動した場所にあった小川で最低限の手当を済ませ、英霊は草地にマスターである銀狼の体を横たわらせた。
『しかし……安心したよ、この世の全てがウルクの街のようなものに埋め尽くされていると思ったけれど、世界は相変わらず美しいらしい』
周囲に広がる雄大な自然を前にして、彼は『獣の言葉』で傍らのマスターに語りかける。
だが、既にマスターたる狼は深い眠りに落ちていたようで、その言葉に対する返事はない。
英霊は微笑みながら静かに腰を下ろし、暫し川の音に心を委ねようとしたのだが――
ふと、その目を北の方角へと滑らせる。
彼のスキルである最高クラスの『気配感知』の力が――自分達のいる場所よりも遙か北に、とても懐かしい気配を捉えたのだ。
それはまさに、黄金の鎧を纏った英霊が、魔術師の結界が張られた洞窟から出てきた瞬間の事であった。
「まさか――」
最初は運命を信じられず、静かにその目を見開き――
「まさか……君なのか?」
北に感じる気配が、自分の知る『王』のものである事を確信し、ゆっくりとその身を起き上がらせる。
暫しの沈黙。
その間に、彼の胸に去来したものはなんだったのだろうか。
戸惑い、焦燥――やがて、圧倒的、歓喜。
聖杯戦争である以上、その『王』と殺し合うという運命もあり得る。
だが、それが何だというのだ。
自分達の間に織りなされた綿布は、たかが一度や二度の殺し合いなど物ともすまい。
いや、例え千度殺しあおうとも、決して裂かれる事は無いだろう。
「はは……」
自然と笑みが零れ、英霊は、静かにその両手を広げていく――
「あの広場での決闘の続きも……それはそれで楽しそうだね」
彼は両手を開ききると、自らの心中を全て吐き出すかのように――――
優しげな声のまま、喉の奥より歌を奏でる。
英雄エルキドゥ。
彼の唄声は大地そのものを震わせ――美しき大地の鳴動となって、スノーフィールド全土へと響き渡った。
そして、それこそが、全てのサーヴァントが揃った証であり――――
同時に、闘争を開始を告げる合図でもあった。
偽りの台座に集まった魔術師と英霊達。
これが偽りの聖杯戦争であると知りながら――彼らはそれでも、台座の上で踊り続ける。
真偽などは悲願の彼方。
聖杯ではなく――他でもない、彼ら自信の信念を通す為に――――
彼らだけの聖杯戦争。
その火蓋は、確かに切って落とされた。
[#改頁]
プロローグ『プレイヤー』
君は――半日前の大地の雄叫びなどを知ることもなく、スノーフィールドの街の中にやってきた旅行者だ。
街の入口付近にあったドラッグストアに入り、君は近くに平屋の安いモーテルでもないかと尋ねかける。
ドラッグストアの店番をしていたモヒカン刈の男は、君の両手と首筋を見て呟いた。
「ヘイ、いかしたタトゥーだな」
君は適当な愛想笑いをしながら店を出て、自らの両手に目を向けた。
右手と左手、それぞれの手に同じ紋様が浮き上がっている。
更に、君は知っている。
自分の両肩と背にも、それぞれ一つずつ同じ紋様が刻み込まれているという事を。
五つの令呪を持ったまま、のうのうと『戦争中』のこの町にやってきた流れ者。
それが君だ。
君は、男なのかもしれないし女なのかもしれない。
ただ、年はまだ二十代半ばと言った所だろう。
しかし、君にはいくつか制約がある。
一つ、君は――『エレベーターのある建物に入れない』
一つ、君は――『時折、血塗れの女の子の幻影を見る』
一つ、君は――かつて、日本の冬木市という街に住んでいた。
一つ、君は――どうやら何かから逃げてアメリカまできたようだ。
君がそれらの事象を克服できるかどうか、それもまた君の行動次第だ。
しかし、この令呪からは逃げられない。
それが死を意味するという事を、君は身をもって知っている。
そう、君は――
君こそは、失われた『セイバー』のクラスを補完する為にこの街にやってきた存在だ。
ただし、君は魔術師ではない、ただの人間に過ぎない。
何故、君がそのような状況になったのか――
それは三日前――
ラスベガスの街で出会った、一人の女の事から語る必要があるだろう。
その女は、白い髪に白い肌の――――――――――
[#改頁]
[#特大見出し]続きはキャラクターメイキングの後に
[#特大見出し]始まるゲーム本編にて!
[#改頁]
◆『FAKE/states night』
Name: 成田悪悟(成田良悟)
Date: 2008/04/01
悪悟屋
http://www2.tba.t-com.ne.jp/taoru/resistance/fake/warugoya.html
青空文庫TXT形式化
Name: null◆x99PdbAA4q
Date: 2009/03/18 (v01)
Date: 2010/01/21 (v02)