【悪霊だってヘイキ!上】
【小野不由美】
プロローグ
真っ青な空に入道雲が背のびをしている。海の色は明るい。
海岸線ぞいのアスファルト道路は、陽射《ひざ》しのせいで白く見える。
ガードレールのすぐ下まで透明な波が打ち寄せてるけど、あそこへ飛びこんだらきっと気持ちがいいだろうけど、とりあえずあたしは電話ボックスで受話器をにぎっている。
「そっち、どう?」
『暑《あつ》いよぉ』
泣きそうな声をあげているのは職場の同僚。と、いってもバイトの、なんだけど。
『クーラーがあっても、きくまでは地獄《じごく》だわね。そっちは?』
「北陸《ほくりく》なんだからもう少し涼《すず》しいと思ったのに、ぜーんぜん」
能登《のと》半島の夏は、やっぱり夏だった。
『残念でしたー』
明るい笑い声が受話器から聞こえてきた。
『かえって東京より暑かったりするでしょー』
「するする」
『でも、海があるんだから、泳げるじゃない。プールと違《ちが》ってタダだもんねぇ』
「んー。そうなんだけどねぇ。やっぱ、悪いじゃない。泳げないのが四人いると」
総勢八人のうち、ひとりは入院中、三人は怪我人《けがにん》で海水浴は厳《きび》しい。
『ノリオ、そんなに悪いの? 真っ先に泳ぎそうなのに』
「疲れてるみたいだよ。抜糸《ばっし》はしたんだけどね。泳ぐ、って聞いても、やめとくって言うし。腕が痺《しび》れるって、仕事もキャンセルしたみたいだもんね。ジョンはもういいみたいなんだけどねぇ」
『かわいそー。お見舞いに行ってあげたいっ』
「来れば?」
『バイト代をポイポイ使わなきゃよかったよぉ』
「あはははー」
『あああ。浪費家のオノレが情けないっ。ノリオのお見舞いを服やケーキにしたかと思うと自分が憎《にく》いわ』
「ま、いわゆる後悔《こうかい》先に立たず、っつーやつね」
『うるさいっ。――所長は?』
「ニ、三日で退院できるみたいよ。今日の検査ではっきりするはずだし」
『まぁ、入院してなくても、あんまり所長が水着を着て泳ぐとも思えんわな』
「うん、そうなんだけどね」
『麻衣《まい》はいいよねー。ベッタリ看病《かんびょう》できてー』
「なんの、なんの。綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》がベッタリでんがな、だんさん」
『ほんじゃあんたは、毎日何してまんのや』
「ぼーさんの看病」
『ずっるーいっ!』
特大の声にあたしは思わず受話器を耳から離した。なんて声を出すんだ、こいつは。
「冗談《じょうだん》だって。宿題してるってばさ」
『なに、宿題持っていったの?』
「下宿のおばちゃんに送ってもらった。正解だったぞぉ。安原《やすはら》さん、いるしぃ」
『安原さんは肋骨《ろっこつ》折ったんだっけ。じゃあ、海水浴は無理だよねぇ』
「あたりまえだって。おかげで無料奉仕の家庭教師してる」
『どこまでもおいしいやつっ。帰ってきたらおごってねぇ』
「んー、パフェぐらいなら」
『タワケもの。ケーキバイキングじゃ』
「んげげ、そんな殺生《せっしょう》な」
『ならん。特別手当が入るであろう。格別のお慈悲《じひ》によって、振込みがあるまでは待ってつかわす』
「はは、お代官さま。ありがたきお言葉《ことば》」
『くるしゅうない。その日が来るのを楽しみにしておるぞ。――つーことで、またね。夏バテすんなよ』
「だーいじょおぶ。タカも元気でね」
『任せときなっ。ミナサマによろしく』
「うん。じゃあねぇ」
受話器をおくと、カードを吐き出して緑の電話がピーピー鳴く。それよりも大きな声で蝉《せみ》が鳴いていた。
あたし、谷山《たにやま》麻衣は高校二年生でアル。
東京の高校生がなんで能登にいるかというと、それはバイトのせいが半分。あたしは『渋谷《しぶや》サイキック・リサーチ』というところで、心霊現象の調査員をやっている。といっても、調査員を名のるほど大したことはできないんだけど。
夏休みに入って、はるばる能登まで調査に来たのはよかったが、負傷者が続出、所長に至ってはご入院あそばして、そんで調査も終わったというのにまだ能登にいるわけ。
調査に来たのが料亭で、そこが宿を提供してくれたおかげで居心地《いごこち》がよかった、というのもある。ついダラダラと所長の退院を待って、けっきょく半月いついている。長い夏休みになってしまった。
ボックスを出て、日陰《ひかげ》を選びながら海岸ぞいの道を歩いていると、クラクションが鳴った。
陽射《ひざ》しをよけて伏《ふ》せていた顔を上げる。見慣れた車が徐行してくるのが見えた。
「あれー? お見舞い?」
車には男ひとり、女ふたり、計三人の人影が見えるる運転席から顔を出したのは、男ひとりのほうだ。
これがタカごひいきのノリオこと、ぼーさん。滝川法生《たきがわほうしょう》という。もと高野山《こうやさん》のお坊さんだ。本業はすたじお・みゅーじしゃん、とかいうものらしいけど、あたしにはよくわからない。スタジオに入ってるの、見たことないしね。「Bs.NORIO TAKIGAWA」と書かれたCDはタカに何枚か見せられたけど、どうもぼーさんと結びつかない。
「ナル坊、退院できるってよ。荷物をまとめに行くけど、麻衣も行くか?」
「行くーっ」
退院の準備に女三人は必要ないだろうけど、ぼーさんの車はクーラーが入ってる。暑い道路を歩いて戻るより、クーラーの入った車でクーラーの入った病院に行って、クーラーの入った車で帰るほうがだんぜんお得だ。
「暑かったー」
後《うし》ろの座席に乗りこんで言うと、隣の女が呆《あき》れたような声を出す。
「馬鹿《ばか》じゃないの。この暑いのにわざわざ電話ボックスまで来て」
「だってオフィスに電話したかったんだもん。お店には公衆電話、ないしさー」
「きっと、料亭にはそういう無粋《ぶすい》なものはないのよ。お店の電話を使ってくれって、言ってたじゃない」
「綾子と違って小心者だから、およその電話で長距離はかけにくいわけさ。んでも、はるばるこんなとこまで歩かないと、電話ボックスがないんだもんなー」
お店から十分は歩いたぞ。
「アタシが厚かましいような口ぶりねぇ?」
「とんでもない。綾子が厚かましいとか心臓に毛が生《は》えてるとか、ツラの皮厚いとか、ぜーんぜん思ってませーん」
「……麻衣、今晩ゆっくりおハナシしようね」
「やだもん」
軽く拳《こぶし》が飛んできた。
綾子は松崎《まつざき》綾子という。自称、巫女《みこ》。巫女さんとは思えないほど派手《はで》なカッコをして、性格もきつい。けど、お父さんもお母さんもいないあたしに、もう着れなくなったからといってたくさん高そうな服をくれたりするんだな。だから、ひょっとしたら単に口の悪い世話好きのおねーさんなのかもしれない。「アタシに似合ってたものが、あんたに似あうとも思えないけど」って、一言つけるあたりが綾子の綾子たるゆえんだろう、うん。
綾子の横でくすくす笑っているのが、真砂子。原《はら》真砂子という。ワイドショーなんかにしばしば出演しているメジャー霊媒師《れいばいし》。あたしが一介《いっかい》の女子高生だというのに、同い年のくせして差をつけてくれちゃうよ、まったく。現在入院中のわが『渋谷サイキック・リサーチ』の所長にことのほかご執心《しゅうしん》。TVの録画があるといって東京に帰っては、その日のうちに飛行機で戻ってくるんだから泣かせるねぇ。
「そーか、退院できるのか。よかったね」
これで真砂子も落ち着いて生活できようというものだ。東京都と能登を往復してれば当然だろうが、ちょっくらやせたみたいだもんな。ホントに、ケナゲなんだから。
「自主退院らしいですわよ」
「自主退院?」
あたしは真砂子を見返す。
「ええ。ナルが退院するって宣言して、お医者さまも止めなかったというのが本当らしいんですの」
「ありゃりゃ」
何を考えてるんだろうな、あの坊ちゃんは。
古今《ここん》まれなるナルシストであるところから、「ナルちゃん」と呼び親しまれているわが所長は、ふざけるな、と言いたいくらい若い。十七歳で渋谷にオフィスを構える所長、ってんだから、世間《せけん》のサラリーマンのおじさんたちにもうしわけない話だ。若くて顔はいが、性格が悪い。とにかく我《が》が強くて強くて、手におえない。
「どーして、そうわがままなんだろうねぇ。早死にするぞ」
「ですわよねぇ」
「まぁ、ナルのわがままは今に始まったことじゃないから」
そう言ったのは綾子だ。
「他人に迷惑《めいわく》がかかるわけじゃなし、自分の身体《からだ》にさわりがあるだけなんだから、ナルにしたら上出来なんじゃない?」
ひどい言われようだけど、事実だからしかたないのだ。
「もうちょっと身体のことを考えればいいのにねぇ。そんなに丈夫でもないんだから」
「ナルが丈夫じゃないのは気功《きこう》のせいでしょ。前に入院したもそのせいだし。気功《きこう》なんて、使わないで、おとなしくしてれば問題ないんじゃないの?」
「どーだかなぁ。あたしはナルがじつは白血病《はっけつびょう》で骨肉腫《こつにくしゅ》でも驚かないねっ。なんだって秘密のナルちゃんだしー」
「縁起《えんぎ》でもない……。何年前のドラマよ、それ」
「ひゃはははは」
ほんっとうにナゾが多いんだ。あの坊ちゃんは。本人が隠《かく》してるみたいだから当然なんだけどさ。
半分ヤケで笑って、あたしはふと身を乗り出した。
「ぼーさん、静かだねぇ」
「あー?」
「いつもどこ見て運転してんだ、ってくらいしゃべるのに」
バック・ミラーの中の顔が苦笑する。
「俺《おれ》だってもの思うことぐらいあるわけよ」
「わかった。仕事を休んだんで、生活費のことを考えてる」
「そうそう。帰りのガソリン代をどうしようかと……。って、そんなはずがないだろうっ」
「違うの?」
「俺が考えのは金のことだけか?」
「にしては、最近元気ないもん」
「元気がないんじゃなくて、思索《しさく》にふけってるの。渋《しぶ》いだろ?」
「似合わない」
「るさい」
「――だいじょうぶ? まだしんどい?」
「子供のお守《も》りで疲れてんだよ。修学旅行を引率する教師の気分がよくわかる。今日このごろのぼーさんなんだ」
「子供、ってのは誰《だれ》のことかなー?」
「さぁて、誰だろうなぁ?」
ちえっ、かわいくない。
んでも、心優しい少女であるあたしは、ぼーさんが珍《めずら》しくもぼーっとしてたりすると、やっぱ心配になるわけよ。今度の調査では本当にくたびれたみたいだし、怪我《けが》もいっぱいしたし。背中の傷なんて十五針も縫《ぬ》ったんだから。
怪我をしたのは留守番のふたりも同様だ。
安原さんは、フルネームを安原|修《おさむ》という。この春みごと難関を突破した花の大学生だ。昔、うちに依頼に来たのが縁《えん》で、こきつかわれるようになってしまった。今回は肋骨《ろっこつ》折って、まだコルセットをしてる。せっかくの夏休みにゴロゴロしてるしかないなんて、かわいそーな話だ。
もうひとりの留守番はジョン。ジョン・ブラウンがフルネーム。オーストラリアから来た神父《しんぷ》さんだ。ジョンもいっぱい怪我をして、あちこち縫《ぬ》われてしまった。安原さんやぼーさんほどひどくはないんだけどね。
夏にせっかく海のそばにいて、男三人は泳ぐわけにもいかず、かといってナルの世話は女が三人もいれば十分だし、それでひがな一日寄り集まってなにやら世間話をしている。ちょっと哀《あわ》れをもよおす図だ。
てなことを思っていると正面に高い建物が見えてきた。周囲の建物に比べてひとつだけ高いそれが、所長が入院している病院なのだ。
玄関から中に入ると、ちょうど受付のところにリンさんがいた。
リンさんは本名を林興除《りんこうじょ》という(たぶん)。名前からわかるとおり、中国の人だ(と思う)。正確には香港《ほんこん》の出身(らしい)。わが『渋谷サイキック・リサーチ』の調査員というか、所長秘書というか。ま、そんなやつだ(ということになってる)。中国にある巫蟲道《ふこどう》の導師(推定)。いちいちカッコがつくところからもわかるように、無口で無愛想《ぶあいそ》なナゾのお人。どういういきさつで『渋谷サイキック・リサーチ』に勤めるようになったのかはわからない。
そのリンさんは受け付けにお金を差し出していた。
「よお。清算か?」
ぼーさんは気軽に声をかけてたけど、はしたなくもリンさんの手元に視線が釘付《くぎづ》けになってしまう。
貧乏人のあたしから見ると、思わず二、三歩さがってしまうほどの厚みがある。三枚や五枚なら、遠めに見て厚みがあるように見えるはずもない。おそらくあれがナルの入院治療費代なんだろう。やっぱりナルか、ナルの家族が出したんだろうか。だとしたら、本当にお金持ち屋さんなのかもしれない。
「本当に退院すんだな。だいじょうぶなのか?」
「本人がそう言うんですから」
そっけない口調だったけど、返事をするだけでも大進歩。近頃のリンさんは話しかけると短いながらもしゃべってくれる。
あたしはひそひそと綾子に耳打ちをした。
「ねぇ、入院ってあんなにかかるんだね」
ああ、と綾子はうなずく。
「ナルは保険に入ってないみたいだからね」
――げっっ。
「まじ? 全額負担?」
保険証を持っていくと、もし国民健康保険なら三割負担だ。つまり、実際にかかったお金の三割だけ患者が負担して国が七割持ってくれるわけ。お医者さんに行って三千円払ったとすると、実際にかかった治療費は一万円。それを全額自分ではらったら、やっぱゲンナリくるよねぇ。
「ベッドだけでも個室なら一日一万はするでしょ。保険がきかなきゃ、治療費なんて何をやっても万の単位が近いしねぇ」
そういう綾子の家はお医者さんだ。
「オロカな……。健康保険ぐらい入ればいいのに」
「そういうあんたはどうなの? 貧乏人なんだから、身体には気をつけなさいよ」
「よけいなお世話」
口は悪いが、心配をしてくれてんだよな。綾子ってフクザツ。
てなことを言っているうちにリンさんが清算を済《す》ませて、あたしたちは病室に向かった。半月通った病院とも、顔見知りになった守衛さんともこれでお別れだ。
『渋谷一也《しぶやかずや》』と名札の出た個室が目的地だった。軽くノックしてドアを開けると、患者はすでに服に着替えていてベッドに座《すわ》ってファイルをめくっている。ファイルというのは、仕事の記録をとじたやつだ。齢《よわい》十七にしてワーカホリックなんだからなぁ。
リンさんが声をかけて、ナルがファイルを閉じる。
「――ああ」
機嫌《きげん》も悪いが、顔色も悪い。
調査中に倒れたナルは、倒れた時には呼吸がほとんど止まってた。リンさんとぼーさんと、駆けつけた緊急隊員の人たちで人工呼吸しなかったらヤバかったという話。救急車で運ばれて、集中治療室に入って、どこからどう見ても九死《きゅうし》に一生を得たという感じだ。それを、本当に退院なんてしていのかね。本当によくなかったら、お医者さまがとめるだろうけどさ。
綾子は用意してあったお菓子《かし》を持って、お医者さまと看護婦さんのところへ挨拶《あいさつ》に出ていく。リンさんが荷物の世話をやいて、真砂子がお茶をいれて、あたしは壁にもたれてそれを見ていた。
それにしても、とあたしは思う。
――けっきょく全員残るんだもんなぁ。
ナルが入院して、はや十六日、お守《も》り役のリンさんが残るのは当然としても、ほかに仕事も予定もあるはずの連中がみんな残っちゃった。よほど暇《ひま》なのか、よほどナルが心配だったのか。こーんなわがままで、秘密主義のやつなのに。
かくいうあたししも残ったんだけどさ。やっぱ、気になるもんね。
前に入院したときは、見舞いなんていらないから来るなって言われてたんだけど、今回はそんなことは言われなかった。そのせいもあるかもしれない。調査に来た旅先で、しかも容態も前回より悪かった。だからあたしたちもなんとなく心配で先に帰る気になれなかったし、ひょっとしたら、ナルだって心細くて……。
――って、それだけはないだろーな。
んでも前回は「見舞いなんかに来られると寝られない。邪魔だから来るな」ってすっぱり言われたことを思うと、少しは心境の変化があったんだろう。仲間のありがたみをわかったかな。そんなことは、ないかなぁ。
ナルが入院したことを知ってるのか知らないのか、ナルの家族は一度も姿を現さなかった。ふつう、息子が入院したら、お母さんぐらい来るよねぇ。安原さんちだって、品のいいお母さんが来たもん。なのに家族は来ない。連絡があった様子《ようす》もなし。考えてみるまでもなく不思議《ふしぎ》な話だ。
ナルのお父さんはどうやら大学の先生らしい。超心理学者らしいけど、そんな先生のいる大学があるんだろうか。ちゃんとお母さんもいるようだけど、どういう人なのかは不明。なんにしても平凡な親だとは思えない。でなきゃ普通、息子が学校にも行かずに心霊現象の調査事務所なんて開いてたら怒《おこ》るよねぇ。
――でもって、病院にも現れない、と。
入院したことを知らないなんてことがありえるだろうか? たとえオフィスを構えてゴースト・ハントなんてうさんくさいことをやってるのは黙認してるにしても、こんなに長い間帰ってこなかったらおかしいと思うんではなかろーか。
本当にナゾだ。
家がどこにあるのか、どういう家庭なのか、兄弟はいるのか、ナルのことは何ひとつわからない。イライラするんだよね、これが。本当に秘密主義なんだから。
「ナル坊、これ運《はこ》んじゃって、いいのか?」
「忘れ物はありません? 先生にご挨拶《あいさつ》はなさいましたの?」
あたしはちょっと笑ってしまう。
みんながよってたかって世話をやいているのを見ていると、まるで即席の家族みたいだ。
すると、ぼーさんがお父さんで、綾子がお母さんで、リンさんが気難しいお祖父《じい》さんだな。おおらかな長男としっかりものの次男が、ジョンと安原さん。のんびりした娘とおしゃまな娘があたしと真砂子だ。きっとナルはわがままいっぱいに育った末っ子だな(あたしよか年上だけど)。こりゃ、はまってておかしーや。
「ヘラヘラひりとで笑ってないで、働け」
こつんと頭を叩《たた》かれて、気がつくとぼーさんだった。
「これ、車に放りこんできてくれ」
「はーい、パパ」
「はぁ?」
くすくす。内緒《ないしょ》だから、教えてあげなーい。
一章 八月十一日
あたしたちが能登《のと》を離れることになったのは、その翌日だった。
さて、これから日本列島を横断してはるばる東京へ戻らなくてはなりません。もー、ウンザリ。車で戻るのって、たいへんなんだよねぇ。
能登から東京に帰るには北と南とふたつルートがある。
来たときに通ったのは、飛騨《ひだ》を通る南回りルート。来た時と同じじゃ芸がない、という大多数の意見で、帰りは新潟《にいがた》へ北上してから白馬《はくば》を経由して松本《まつもと》へ出る北回りルートになった。
「まーったく、なによ、あれっ!」
車の中でブツブツ言っているのは綾子《あやこ》だ。
「あの面食いっ」
綾子はご機嫌《きげん》ナナメである。問題は車に分乗するときに起こった。
ぼーさんの車には五人しか乗れない。普通のセダンだから当然だ。うちのオフィスの車ワゴン車だけど、調査機材を積んであるので三人しか乗れない。あたしたちは総勢八人。数は合うから問題はないはずだったんだけど。
オフィスの車はリンさんが運転する。すると当然、ナルも同乗。もうひとり、誰《だれ》が乗るか、ってのが問題だったわけさ。
綾子はなんにしろ、そういうとき自分が特別扱いされるのが好きな性格だ。真砂子《まさこ》はナルの側だったら、針《はり》のむしろの上にだって座りたいやつだ。かくて熾烈《しれつ》な戦いが起こるはずだったのだが。
問題は簡単に決着がついた。当のナルが真砂子に乗るか、と声をかけることによって。――それで綾子はめいっぱい機嫌を悪くしているというわけ。
「まぁまぁ。より美人なほうを乗せたってわけじゃないんだから」
「そんなの、当たり前よっ」
はいはい。
「原《はら》さんがいちばんお小さいからと違《ちが》いますか」
そうなだめたのはジョンだ。
「そうだよ、きっと。やっぱ、三人じゃ狭《せま》いからさぁ」
全治一か月の安原《やすはら》さんに助手席を譲《ゆず》ったので、綾子をなだめるのは両脇に座ったあたしとジョンの役目になってしまうわけだ。
「あら、アタシが真砂子より太いって言いたいわけ?」
身長が違えばそりゃ、サイズも違うだろう、と思ったけど言わない。狭い車内でいつでも騒《さわ》がれたんじゃ、たまったもんじゃないからな。
「そ、そんなことは、おまへんですね、はい」
「あ、あれじゃない? 真砂子ってナルの弱みを握《にぎ》ってるからさぁ、ナルが無言の圧力に負けたんだよ、ね」
「あれがそんな、殊勝《しゅしょう》なやつ!? 世話をしてやった恩もわすれてっ」
世話してくれなんて、ナルは言ってないぞ。そりゃ、世話するな、とも言わなかったけどさ。
「まぁまぁ。そうカリカリせず」
「うるさいっ」
うるさいのはおまえだって。
「――ちょっと、なにトロトロ走ってんのよっ。前の車なんか抜きなさいよ」
綾子のヒスは対岸の火事を決め込んだぼーさんにも向かう。
「おまえはなー。黄色いラインが見えんのかっ」
ぼーさんの苦情もなんのその。
「見えてるわよっ! 道ぐらいゆずらせなさいよ!」
ヒスを起こした綾子は無敵だ。これを鎮《しず》められるのは、ナルの毒舌しかない。あたしはちょっと後ろを向いて、リア・ウインドウから見える後ろのワゴン車に恨《うら》みがましい視線を向けてしまう。
「どーしろってんだ」
ぼーさんが言うやいなや、綾子が後部座席から身を乗り出してハンドルに手を伸ばし、クラクションを乱暴に鳴らしたからたまらない。
「お、おまえっ、危ないだろうが!」
「そんな、ムチャな」
「綾子ぉ」
「やー、これは剛毅《ごうき》だ」
かくて車の中は大騒ぎになってしまったわけ。
――そうして無謀《むぼう》な運転を重ねて、えんえん六時間。ふと気がつくとあたしたちは道を間違ってしまっていたのだ。
「ちょっとぉ、ここ、どこよ」
「おまえが騒ぐからだろーが! あの状況でどうやって標識を見ろってんだ」
「方向|音痴《おんち》」
「ここから歩いて帰るか?」
道を間違ったようだ、と気がついて大騒ぎになって、間道《かんどう》を通って戻ろうとしたら、道はどんどん細くなって、いつの間《ま》にか砂利道《じゃりみち》になってしまった。完全に進退|窮《きわ》まって、道に車を停《と》めてさらに大騒ぎ。
溜《た》め息《いき》をついたのは真砂子《まさこ》だ。
「松本のほうへ行かないので、おかしいと思いましたわ」
「わかってたら教えてくれよ、真砂子ちゃん」
「リンさんがクラクションを鳴らしましたわよ。それでも無視なさるから、近道があるのかしら、と言ってたんですの」
聞こえるわけないよ、あの状況で、綾子《あやこ》はがなり通しだし、ぼーさんはヤケクソでおかしなテープを大音量でかけるし(ヤマモトなんとかという、その人のテープは楽しかったんだけど)。
「とにかく、県道まで戻らないと」
ルートマップを開いていた安原《やすはら》さんがそう言った。
「車の方向を変える場所がないぞ」
「このまままっすぐ奥に行くと、キャンプ場があります。そこから県道に戻る道に出られますよ」
「それしかないわな」
やれやれ、と思ったんだけど。
――ひょんなことから意外なことが起こることがある。ひょうたんからコマ、というやつだ。
ちょっとしたことが、とんでもないことになって、それで人生が変わってしまうことだってあるわけ。あたしなんかが言うと、おもはゆいけどね。
この時、道を間違えたのは本当にひょんなことなんだけど、このまま本道に戻れたらなんでもない失敗談だったんだけど、この時はそれで終わらなかった。
今度はリンさんが先行して、砂利道を抜けて、川辺にあるキャンプ場をすぎて。そうしてやっとアスファルトの道路に戻れたとき、前を行く車が急に停まった。
「? どうしたんだろ?」
「また、間違えたのかぁ?」
同じく車を急停車させたぼーさんの声に、安原さんがマップを見直す。
「そんなはず、ないんですけど」
停まった前の車からナルが外へ降りるのが見えた。
綾子が眉《まゆ》をひそめる。
「ちょっと、ぐあいでも悪くなったんじゃないの? 馬鹿《ばか》坊主がひどい道を通らせるから」
「誰のせいだ、誰の」
あたしはあわてて車を降りる。本当にそうなら、つまんないケンカにかかわってる場合じゃない。
ナルはガードレールの際に立ってる。
その下は急斜面を隔《へだ》てて広い湖だ。遠く、水面がちょっと曲がった先に、コンクリートの線が水をせき止めてるのが少しだけ見えるから、湖というよりダムなんだろう。
「ナル、だいじょうぶ!?」
ナルは応えない。振り向かない。視線をじっと風景に注ぐだけ。
リンさんもまたあわてたように車を降りてきて、かたわらからナルをのぞきこんだ。
「……どうしました?」
問いかけに返答は、やはりなかった。まるであたしやリンさんの声なんか耳に入っていないようだ。
ただ見開かれた眼《め》が風景を見渡す。確認するように何度も。
変だ。どうしたの?
「ナル?」
少し屈《かが》みこむようにしてガードレールを握る手の、指先は力がかかって白い。
それを怪訝《けげん》そうに見守っていたリンさんが、はっとしたように息をのんだ。
「ここですか?」
……??? 言葉の意味がわからず、あたしはキョトンとしてしまった。
ナルの唇が動いた。
どこか放心したような呟《つぶや》き。
「……やっと、見つけた……」
いったい、何が起こったわけ?
あたしたちがキョトンとしている間に、ナルもリンさんも車に戻ってしまった。あわててあたしたちも車に戻る。分乗しているから、車が動き出してしまえば何が起こったのか聞きたくても聞けないわけで。首をかしげているあたしたちの前で、オフィスの車はさっき通ったキャンプ場に戻ってしまった。
のみならず、ナルがそこに泊《と》まると言い出して、あたしたちは驚かないではいられなかった。
「どーいうこと?」
「僕はここに用がある。麻衣《まい》たちは東京に帰れ」
ナルはごく冷淡に言う。説明はいっさいなし。
「帰れ、たって……」
あたしたちは顔を見合わせる。このままじゃ、はいそうですか、と帰れるはずがない。せめて用がなんなのか、説明ぐらいしてくれなきゃ。
「いると邪魔《じゃま》だ。戻れ」
ありゃりゃ、すっぱり言われちゃったよ。
邪魔と言われれば帰るしかないわけだけど。
「……ナルはいつ戻るわけ?」
「わからない」
「わからない、って。その間、オフィスはどうするの?」
今だってタカがひとり留守番で、開店休業の状態なのに。
そう思ったあたしに、ナルはさらに驚くようなことを言ってくれた。
「閉めていい。高橋《たかはし》さんにもそう言ってくれ」
「し、閉めるって」
所長がいなければ調査はできない。電話も取れないし、郵便も見れない。だから、今だってタカは、単にやってきた客に事情を説明して追い返す役目しかしてないわけだけど。それでも開けてるのと閉めてるのでは大違いじゃない?
「麻衣もほかのバイトを探すんだな」
……え!?
「あのオフィスは戻りしだい閉鎖《へいさ》する」
……しーん。
一瞬のあとの大パニック。
「閉鎖!?」
「閉鎖するって、廃業《はいぎょう》するってこと!?」
「ど、どうして」
「説明しなさいよ」
「ナルっ!」
ナルが顔をしかめて手を上げる。
「怒鳴《どな》らなくても聞こえます。もう少し静かにできませんか」
「質問っ」
あたしは手をあげた。
「オフィスを閉鎖するってことは、やめちゃうってこと? どうして?」
「僕には僕の事情がある」
「その事情を説明してください、所長。あたしは解雇《かいこ》されることになるんだから、聞く権利があると思う」
「説明する必要を感じない」
おまえの必要じゃなくってっ!
怒鳴ろうとしたところに、すっとぼけた声を出したのはぼーさんだ。
「もー、投げちゃったよ、俺《おれ》は」
「へ?」
「だから、この夏は投げた。――バンガロー取るけど、泊まるやつは手ぇあげろ」
呆《あき》れて顔を見合わせたあたしたち。ナルは邪険《じゃけん》な声を出す。
「ぼーさん、邪魔だ」
「おまえの都合《つごう》ばかり言われても聞けねぇな。なに? 全員帰るわけ?」
「残ります」
お行儀《ぎょうぎ》よく手をあげたのは安原《やすはら》さんと、驚いたことにジョンだ。
「真砂子《まさこ》ちゃんは」
「あたくしは、そもそも残るつもりでしたわ」
ぼーさんはうなずく。
「麻衣と綾子《あやこ》は?」
あたしは綾子を見る。綾子はあたしを見る。
「どうする、麻衣」
「どうする、たって」
ナルがああすっぱり帰れ、っていうものを。
そっとそばによってきたのは真砂子だ。
「残るって、言いなさい。このまま帰ったら、もう会えないかもしれませんわ」
「――え?」
……会えないって、ナルに?
見返したあたしに、真砂子はうなずく。
「の、残りたいけど」
あたしはあわてて手をあげた。ぼーさんは軽く片方の眉《まゆ》を上げる。
「麻衣は残るわけな。――宿泊費は出世払いにしといてやるよ」
ありがとー、パパ。うるる。
「こんなとこに残るのぉ? ホテルもないのよ? きっと虫だってすごいんだから」
「綾子は帰るのか?」
「残るわよっ!」
全員一致。おそるおそる見ると、ナルは明らかに不機嫌《ふきげん》な顔をしていた。
そういういきさつで、あたしたちはここに留《とど》まることになったわけ。
女三人と男三人に別れてバンガローをひとつずつ借りた。シーズンだってのに、キャンプする人は少ない。ヘンピなところだから、しかたないけど。
「自炊しなきゃいけないのよ? あんたたち料理なんてできるの?」
小さな台所に立って綾子《あやこ》は溜《た》め息《いき》をもらした。
「あたし、うんと簡単なものならできる」
あたしが言うと、真砂子《まさこ》が気まずそうにする。
「あたくしは……あまり……」
うん。顔を見たら、聞かないでもわかったけどね。
六畳の和室に小さな板の間のキッチンつき。これじゃ、東京のアパートと大差ないわけだけど、広いベランダがあってそこでご飯が食べられるよう、丸太でできたテーブルとベンチがあるのがバンガローふうだ。
「男どもはできるのかしら」
「さー? ナルやリンさんは、どうするつもりなんだろうね」
「ホント。なんにしても、買い出しに行かなきゃならないわ。馬鹿坊主に車出してもらって、買い物してきて。メモを作るから」
「はぁい」
本当に世話好きだよな、綾子ってば。さすが、ママ。
おつかいに行く子供みたいに、綾子が書いてくれたメモを握ってあたしは隣のバンガローに走る。勝手口みたいにそっけない玄関をノックしながら開ける。開けたそこが台所だ。
「だから、ナルは決定打だと思うわけだよ」
――?
耳に飛び込んできた声は、ぼーさんのものだ。
「あのー」
台所と六畳の間のガラス戸は閉めてある。それでも、模様《もよう》ガラスに人影が映っていた。その人影があわてたように動いて、すぐに戸が開く。
「――なんだ、麻衣《まい》か」
「ねぇ、綾子が買い物に行けって」
「あ――ああ。今、行く」
調査の結果、料理と言えるほどの料理ができるのは、綾子ママとぼーさんパパだけであることが判明した。
ついでに、果敢《かかん》にもナルとリンさんにも調査を試みるあたしなのだ。
すぐ近くのバンガローに行って、今度はちゃんとノック。ドアを開けたのはナルで、あたしの顔を見るなりめいっぱい不機嫌《ふきげん》な顔になってしまう。
そんなにロコツにしなくてもいいじゃんかー。
「あのさー、綾子がご飯はどうするの、って。綾子が作るけど、一緒《いっしょ》に食べる?」
「勝手にするから、かまうな」
――はいはい。
溜め息が出ちゃうよ、まったく。どーしてこいつは……むにゃむにゃ。
「それはどうも、お邪魔さんで……」
カラマツの林をとぼとぼ歩いて駐車場に行って、車ではぼーさんとジョンが待っていた。
「ナル、どうするって?」
ぼーさんに聞かれて、あたしはしょぼんと答える。
「かまうな、って」
「ふうん」
大っきな掌《てのひら》がぱふぱふ叩《たた》くので、あたしはなんとなくうつむいてしまった。
「あのさー」
「うん?」
「真砂子が、もう会えないかもしれないから残れって言ったんだー」
ぼーさんはちょっと眉《まゆ》をひそめる。
「――そうか」
「オフィスを閉めちゃったら、確かにもう会うこともないもんね」
ぼーさんは答えない。かわりに、少ししてから、
「なぁ。これだけは覚えておかないといかんわな」
「なに?」
「……別れのない人間関係はない」
溜め息が落ちた。
「そうだね」
家も知らない。電話番号も知らない。
オフィスを閉めてしまったら、もう会うこともない。ナルのほうから連絡してくれるとは思えない。今までだって、仕事のことじゃなきゃ、電話のひとつもくれたことないから。
「ひょっとしたらあたし、全然ナルと知り合いじゃなかったのかもしれないね」
ぱふ、と軽く頭を叩かれる。その重みにあたしはふと思いついた。
「よく考えたら、ぼーさんの家もジョンの家も知らないんだ、あたし」
オフィスで会うだけで、調査の時に一緒で、それ以外の時間みんながどこで何をしてるのかぜんぜん知らないに等しい。綾子の家は一回だけ行ったことがあるけど、夜中で調査の途中だったし、もう一度行けと言われても行けない。
「オフィス以外のところで、会ったこともなかったもんね」
家に電話をもらったこともないし、あたしだって電話番号なんて知らない。
オフィスがなくなったら、みんなとも会えなくなるんだろうか。――その可能性は大きいよなぁ。
あたしはなんのかんの言いながら、今日までみんなにかまってもらったし、一緒にいろんなことを経験してきたけど、じゃあみんなを友達なのかって聞かれると、うんとは言えない。
オフィスで集まって一緒に仕事をする仲間だった。それ以外のつきあい方をしてこなかった。きっとそれでいいんだと思ってたから、あたしもみんなのことを聞かなかったし、自分のことを話さなかった。多分みんなもそうだったんだろう。だから、よく考えてみたら、あたしたちは呆《あき》れるぐらいお互いのことを知らない。
だからって、今からあわてて親しくしてオトモダチできるとも思えない。みんなはあたしより年上の大人《おとな》で、きっと大人なりの生活とか人間関係とかあるんだろうし、高校生と遊んでもきっと楽しくないよねぇ。高校生といえば、真砂子だって高校生だけど、ちゃんと仕事を持ってるわけだし。
「麻衣さん――」
ジョンが言いかけたときに、綾子の声が割りこんできた。
「ちょっと! いつまで油を売ってるの!」
ふりかえると、駐車場のキャンプ場がわの入り口で綾子が恐《こわ》い顔をしている。
「田舎《いなか》のお店は閉まるのが早いんだから!」
「はぁい」
「ついでに、固形ブイヨンも買ってきて」
「はいはいはい」
「投げやりな返事をしないっ!」
あー、やかましい。
「イエッサー」
ママはママでもママ母だ、コイツなんか。
ナルとリンさんは、あたしたちを無視することに決めたらしい。ひょっとしたら眼中にないんだろうか。
いちおうご飯ができたんで声をかけても、いらない、というそっけない返事。そんで、しかたなくあたしたちだけで夕飯を食べたわけだけど。
ナルがどうしてここに留まっているのかわからない。だからあたしたちも、自分たちがなんのためにここに残っているのかわからない。まるでダダをこねてるみたいな行為だと思った。
早めのご飯のあとに、ぼーさんたちはあっさり自分たちのバンガローへ引き上げてしまって、あたしはお風呂の順番を待つ間、ちょっとテラスに出てみる。外はもう暗い。林の中を通る風は涼《すず》しくて気持ちよかった。
ぼんやりしていると、真砂子《まさこ》が顔をのぞかせた。
「そんなところでぼーっとしていると、ヤブ蚊《か》の餌食《えじき》ですわよ」
「だいじょうぶ。防虫スプレーしたから」
言うとブタさんの蚊取り線香入れ(っていうのかな)を持って真砂子も出てくる。
「スプレーしてくれば?」
「平気ですわよ。蚊は血の気の多いほうへいくものですもの」
「血の気が多くて悪かったにゃー」
「あら、悪いなんて言ってませんわ。ヤブ蚊に好かれてよかったですわね」
「ぜんぜんうれしくないっ」
くすくすと真砂子が笑う。
「ねぇ、真砂子?」
あたしは浴衣《ゆかた》を着た真砂子を見つめる。
「どうして、もう会えないかも、って思うの?」
「……カンですわ」
「嘘《うそ》だ」
あたしが言い切ると、真砂子はちょっとあたしを見る。
「……言えません」
「真砂子が知ってる、ナルの弱みに関係あり?」
「存じあげません」
「……ケチ」
真砂子はちょっと溜《た》め息《いき》をつく。
「あたくし、たぶん麻衣《まい》が知りたいことを全部知っていると思いますわ」
あたしはあわてて真砂子を見返した。
「でも、言えないんですの。言わない、とナルともリンさんとも約束したんですもの」
「どうして、真砂子だけ知ってるの?」
「あたくしは、たまたま知っていたんですわ」
あたしはちょっと首をかしげる。
「ねぇ、最初に会ったときに、真砂子、こう言ってたよね?」
「え?」
「どこかで会ったことがあるか、って。ナルに」
「そんなことを言いましたかしら……」
「言った。そういうこと? 真砂子とナルはどこかで会ってたの?」
真砂子は少し考えるようにする。
「そういう言い方はできますわね」
どこまでも不透明。あたしは溜め息をつく。
「ナルはずっとここを捜してたんですの……」
真砂子の声に、お人形さんのような顔を見返した。頭の中で、ナルの声がする。
(……やっと、見つけた……)
「オフィスがあったのも、全部、そのため。だから、もう会えないかも」
「……あたしが?」
真砂子はぽつんと言った。
「いいえ。あたくしもです」
二章 八月十二日
「どうせ、いらないって言うよ」
「いちおう声ぐらいかければいいでしょ。べつに減《へ》るわけじゃないんだから」
山の中のしんとした朝。綾子《あやこ》は朝食の準備で流しに向かったまま言う。
「減るもん」
「何が?」
……う。なんだろうなぁ。
「イヤミを言われたり邪険《じゃけん》にされたり、馬鹿《ばか》にされたぐらいで減るプライドなら、ゴミに出しちゃいなさい。そんなの、あっても役にたたないから」
「ナイーブな心が傷つくの」
「そんなヤワな心で、殺伐《さつばつ》とした現代社会を生き延びられるわけがないでしょ。ズ太い人間の勝ち。ダダをこねずに行く」
「綾子が行けばいいじゃない」
綾子はふりかえって、おたまを上げた。
「あんたが料理する?」
「……できない」
「だったら、つべこべ言わずにいっといで。あのふたり、昨日《きのう》の夕飯だって食べたかどうか怪《あや》しいんだから」
「はぁい」
どうせいらないって言うに決まってるのになぁ。
そう思いながらも仕方なく、あたしは外に出るわけさ。山の朝は気持ちいい。下草が露《つゆ》で濡《ぬ》れてなければ、もっと気持ちいいのに。
ざかざか草を踏《ふ》んで問題のふたりが使っているバンガローに行ってみたら、そこには先客がいた。ぼーさんだ。
「白黒をはっきりさせておきたいんだがな」
玄関先に立ったぼーさんのセリフ。
「ヒマがない」
「どこまでも自分本位なヤツだね、おまえは。それじゃあ、みんな納得《なっとく》するわけがねぇだうが」
「納得してもらいたいとは思ってない」
「あのなー」
玄関先に立ったナルが、ふいに視線をこちらに向けた。次いでぼーさんもふりかえる。
「よう」
ちょっと気まずい雰囲気。
「あのー、取り込み中?」
「いや」
そう言ったのはナルだ。ぼーさんがちょっと溜《た》め息《いき》をついたのが聞こえた。
「なんだ」
ぶっきらぼうにナルに聞かれて、あたしは、
「朝ご飯、食べる気があったらおいでって、綾子が」
「――放っておいてくれないか」
うん。そう言うと思ったよ。
「あっそ。――そんだけ。邪魔してごめん!」
そそくさとその場を逃げ出すと、ぼーさんがついてきた。
「……なにか用があったの?」
「こっちはな。ナル坊は聞く耳持たんとよ」
……どうして、ああも自分勝手なんだろうなぁ。情けはないし、秘密主義だし、無愛想だし。ぶつぶつ。
「ふぅん」
呟《つぶや》いたところに、リンさんがやってくるのが見えた。リンさんは足早に林の中を歩いてきて、あたしとぼーさんに気づくと、ちょっと目線で会釈《えしゃく》する。そのまま黙《だま》って通り過ぎるのを、あたしはなんとなく足をとめて見送った。
ぼーさんもじっとリンさんの背中を見ている。カラマツの幹《みき》の間にバンガローの玄関と、そこにまだ立っているナルが見える。そして、リンさんの声が聞こえた。
「二、三日中に向こうを発《た》つそうです」
……向こうを発つ?
「業者に連絡をしてダイバーを大至急よこしてもらいました。そちらのほうは午後には到着すると」
……だいばー。
あたしはぼーさんを見る。ぼーさんはあたしを見る。
「ダイバー、って」
「水の中に潜《もぐ》る連中だろうな、やっぱり」
「だよね」
玄関のドアがナルとリンさんを呑《の》みこんで閉じてしまう。
「なんでダイバーなんて、呼んだんだろ」
「そりゃ、やっぱダイビングの免許を持ってないからだろうな」
「あれ、免許いるの?」
「ああ」
……その、免許の必要な特殊技能者がなんで必要なわけ?
「ナルはここを捜してたみたいだったよな」
「だったね」
「すると、探し物は、正確にはここの水の中にあるわけだ」
「うん……」
なんだろう。なんだか、少し嫌《いや》な感じがする。
「俺も混《ま》ぜてもらおうかなー」
「ぼーさん、免許持ってんの?」
「持ってるぜ。取っただけで、一度も使ってないけどな」
「でも、仲間に入れてくれるとは思えないよね」
ナルの性格から考えて。
ぼーさんは苦笑した。
「まったくだ」
その午後には本当に五人くらいのダイバーが来て、ダム湖に潜《もぐ》り始めた。
あたしはすることもないので、それを岸から見物する。
キャンプ場は川尻のほう、ダムの奥にあって、その川はあまり深くも広くもない。川の両脇がカラマツの林で、林の中にバンガローやテントがぽつぽつと見える。
川の流れこむあたりから、なだらかな浅瀬になっているのが水の色でわかった。いちおう泳げるらしいけど、水はずいぶん濁《にご》っている。水際に行ってみると底はドロ。しかもここは高い山の上で涼《すず》しい。水も冷たいだろうし、水泳は遠慮《えんりょ》したい気分だ。
岸からずいぶん離れたところには、一艘《いっそう》のボートが浮かんでいた。あたしはそれをぼんやり見ている。そのボートから潜っていった人影は、今は見えない。留守番らしく、ふたりの人がボートの上にいる。
川の脇には桟橋《さんばし》があって、そこに手漕《てこ》ぎの貸しボートが何艘か繋《つな》がれてるけど、作業に使われているのはそれとは別のモーターボートだ。
湖には今日、強い風が吹いている。雲行きも少し怪《あや》しい。風にあおられてボートは不安定に揺《ゆ》れていた。
キャンプ場だけあって、ここにいるのはあたしたちだけではないわけで。水辺ではもの珍しそうに何人かの人が集まって、ボートを眺《なが》めていた。少し離れているけれど、風に乗って声が届いている。
「なにやってんだ、あれ?」
「さー」
大学生くらいの男女のグループだった。
「なぁ、泳ぎに行かねーの」
「ね、ちょっとヤな話、聞いたわよ、あたし」
「なに」
「売店のおばさんが言ってたんだけど、あれ、死体を探してるんですって」
聞くともなしに聞いていたあたしは、瞬間、その声の主を見た。赤い水着の上に白いパーカーを着た女の人だった。
「げ」
「ウソだろー」
「知らないわよ。あたしも聞いただけだし。でも、気持ち悪くない?」
「ちょっと、最低じゃない、それ」
「やっぱ、泳ぐの、やめとかない?」
……死体。
脈《みゃく》が上がった。
ナルはここを探してた。あのダイバーたちはナルが呼んだ人たちだ。ということは、つまり、ナルは死体を探してたわけ?
なんだか胸が重い。どうしてだか、わからない。
誰かに言わないと、我慢《がまん》できない。
それであわててバンガローに戻ろうとして、あたしはかなり離れたところに人影を見つけた。黒い影のように立って、湖を見ている姿。
表情のない白い横顔がボートを見ている。
あたしは少し迷って近づいてみる。草を踏む足音を聞きつけたのか、すぐにナルがふりかえった。漆黒《しっこく》の視線を向けて、すぐにそっけなく湖のほうを向いてしまう。
なんとなく気後《きおく》れがするんだけど。これを確認するのはなんだか怖《こわ》いんだけど。でも、聞かずにはいられない。
「ね……、あのダイバーを呼んだのはナルなんでしょ?」
そう聞くと、表情のない顔があたしを見る。少し眉《まゆ》をひそめてから、すぐに単調な声がかえってきた。
「ああ」
「死体を探しているって聞いた……」
ナルは軽く溜《た》め息《いき》を落とす。
「もう噂《うわさ》になってるのか」
「本当……なの」
「そういうことだな」
「ナルはここを探してたんだよね」
返答はない。
「ということは、死体を探してた、ってこと?」
あたしは思考を反芻《はんすう》する。どこかで否定してほしいと思ってる。
「…………」
「そうなの?」
「――そうだ」
あたしは目を見開く。
「じゃ、今までずっと地図を見て考えこんでたのも? しょっちゅう旅行に行ってたのも? 全部死体を探すためなの?」
「ああ」
あたしはうつむく。妙な旅行だと思ってた。どこへ行っても観光名所に行った様子がない。そのはずだ。旅行の目的がぜんぜ観光のためじゃない。
「どうして、死体を探してるのか聞いてもいい?」
ひょっとしたら返答はないかも、と思ったけど、そっけない声が返ってきた。
「放置しておけないだろう」
「それは、そうだけど。……そうじゃなくて」
なんと言ったらいいのかわからない。
「どういう事情なの?」
どういういきさつで、死体を探すことになったのか。どうして、ここに死体があるってわかったのか。その死体はどういう人なのか。
真砂子《まさこ》は、オフィスを開いてたのもこのためだった、と言った。だとしたら、死体を探すためにわざわざオフィスを開いてたわけ? だから、死体のありかがわかったら、もうオフィスは必要ないの?
ナルは気が乗らないと仕事をしなかった。ぜんぜん儲《もう》けようってカンジには見えなかった。それは、そもそも別のことが目的だったから? でも、どうして死体を探すのにオフィスを持っている必要があったわけ?
ナルは少しの間、あたしを黙《だま》って見る。
「おまえには、関係ない」
……そう言われると思ったけどね。
あたしはちょっと溜め息を落とした。どうせ、あたしは赤の他人だ。
「どういう関係の人? 誰なの?」
往生際《おうじょうぎわ》悪く聞くと、これには返答があった。
たった一言。
二音節。
「兄」
この話を聞いて、みんなは愕然《がくぜん》とした表情を作った。
「死体!?」
あたしはうなずく。なんだか涙が出そうな気がした。
ぼーさんはちょっと狼狽《ろうばい》している。
「ナルのにーちゃんが? この湖に?」
「うん……」
「死んでいたのか……」
呟《つぶや》いた言葉をあたしは聞き逃さなかった。
「え?」
「いや――なんでもない」
ぼーさんはちょっと気まずそうにする。なんだか意味あり気な視線でジョンと安原《やすはら》さんを見た。
……えーいっ! どうしてみんな、そう秘密を持ちたがるのっ!
「本当に、なんでもない」
「あのねー」
あたしはちょっとムカついてしまう。
どうして言ってくれないわけ?
ナルだって、言ってくれたらよかったじゃない。まさかお兄さんの死体を探していただなんて、夢にも思わなかった。だから、旅行から帰ってきたナルにどうだった、とかマヌケな質問をいっぱいして。
モンクのひとつも言ってやろうと思ったら、急にぼーさんが声をあげた。
「――リン!」
ふりかえると、テラスのてすり越しに近づいてくるリンさんが見えた。
「ナルを見ませんでしたか?」
「あたし、見た。水辺にいたよ」
「どうも」
そう言って戻ろうとするリンさんをぼーさんは呼びとめる。
「ナルの兄貴がここに沈んでるんだって?」
リンさんは怪訝《けげん》そうにした。
「……それを、誰から?」
「麻衣《まい》がナルから聞いたってよ」
リンさんはちょっとあたしを見る。それから視線を戻してうなずいた。
「そうですが」
「……お悔《く》やみを言っとく」
リンさんはただ軽く会釈する。
「なんで亡《な》くなったのか、聞いてもいいかね?」
リンさんは低い声で答える。
「……事故だと聞いています」
「事故って?」
リンさんは首を振る。
「詳《くわ》しいことは、私にも。ナルは言いたがらないので。ただ、殺された、と」
しんとした沈黙が降りた。
その言葉は、声をあげることさえ許さないほどのインパクトを持っている。
「殺された……? 犯人は」
低いぼーさんの問いに、リンさんはまたも首を振る。言えないのだろうか、知らないのだろうか。
「まさか自分で殺したんじゃないでしょうねぇ」
言ったのは綾子《あやこ》だ。
「まさか」
リンさんは綾子をねめつける。
「じゃ、なんでこの湖に死体があるなんてわかるわけ?」
「ナルは知っているんです。それだけです」
……??
ひょっとして、なにかすごく複雑な事情がでもあるんだろうか。
考えこんだあたしは、話題の人物がやってきたのに気がつかなかった。
「ここだったのか」
「ナル」
「どうだった?」
「まどかが一緒ですから、だいじょうぶそうです」
「そうか」
あたしたちはただ、そのいつもどおりの白い顔を見る。自分がナルの立場で、こうまで淡淡《たんたん》としていられるだろうか。
「ご愁傷《しゅうしょう》さま」
ぼーさんの声にも、ごくそっけない声が返ってくるだけ。
「どうも」
「見つかりそうかい?」
「水の透明度が低いから、難航しそうだな。湖底には障害物が多いようだし」
まるで調査の報告のように、何気ない表情で言う。
「ダムだからなぁ。……早く見つかるといいな」
「多少の時間は覚悟《かくご》してる。だから、先に帰ったほうがいいと思うけど?」
「悪いな。勝手にさせてもらう」
ナルは軽く肩をすくめる。踵《きびす》を返そうとしたときだった。
こちらへ向かって歩いてくる三人の人影が見えた。
知らない顔だった。老人、と呼びたいようなおじさんとふつうのおじさん、おばさんがひとり。おばさんはキャンプ場の受付のところで見たような気もする。
そのおばさんはおじさんたちに向かって何か言って、それで戻ってしまったから、単に案内してきただけなのかもしれない。残されたふたりの男の人は、なんだか複雑な表情をしていた。
「渋谷《しぶや》サイキック・リサーチのかたですか?」
あたしはちょっとぽかんとする。ナルが露骨《ろこつ》に不審《ふしん》げな視線を向けた。
「そうですが」
年上のおじさんはテラスのすぐわきまできて、汗をかいている様子もないのにハンカチで額をぬぐう。
「霊能者の方とか」
「それに近い者ではありますね」
彼は偉《えら》そうに答える若いヤツを困惑《こんわく》したように見た。
「失礼ですが、君は……」
「渋谷サイキック・リサーチの、責任者ですが」
おじさんはふたりそろって、あんぐり口を開けた。
「こ、これはずいぶんお若い……」
「どうも。――ご用件をどうぞ」
おじさんたちは顔を見合わせた。すぐに年上のほうが、
「お取り込み中のところを申しわけないんですが、ぜひ助けていただきたいことがありまして」
――なんてこったい。依頼人かぁ?
少し考え込むようにしてからナルはうなずく。珍しくリンさんが口を挟《はさ》んだ。「ナル、今は」
ナルは手をあげてそれをとどめる。
「かまわない」
「しかし」
「どうせ待っているだけですることがない。――依頼の内容をうかがいます」
まさか、こんなところで仕事をするハメになろうとは。
バンガローの中にふたりのおじさんを迎《むか》えて、あたしたちは困惑《こんわく》しつつ座《すわ》っている。
おじさんたちは居心地《いごこち》悪そうに何度も座り直してから、おずおずと名刺を出した。
「わたしはここらの村長で、松沼《まつぬま》と申します。これは助役の畑田《はただ》と」
「所長の渋谷《しぶや》です」
「じつは……少しばかりうちの村は困ったことを抱えておりまして。これは霊能者の方でも呼んだほうがいいのだろうか、とそんな話をしてましたときに、ここの事務所に勤《つと》めております姪《めい》にそちらさまの話をうかがいましたんです。どうやらバンガローに泊まっている客が、専門家らしいと……」
にゃるほど。そんで唐突《とうとつ》に依頼人が現れたわけか。
「困ったこと、というのは?」
「それが、ですね」
村長さんはすごく言いにくそうにする。助役さんのほうをすがるように見てから、
「じつはこの近くに廃校になった小学校がありまして。そこで、その……常《つね》ならざることが起こっているようなのです」
ナルは溜《た》め息《いき》を落とす。
「失礼ですが、それだけではなぜお困りなのか、わからないんですが」
「はあ……」
言って村長さんは額《ひたい》をぬぐう。今度は本当に汗が光っていた。
「それがですね……」
歯切れの悪い村長さんを押し退《の》けるようにして身を乗りだしたのは、助役さんだ。
「これはくれぐれも内密にお願いしたいのですが」
「依頼人の秘密は守ります」
「その廃校で幽霊《ゆうれい》を見た、とそのように言う者が多いわけです。詳《くわ》しいことは存じませんが、人魂《ひとだま》を見たとか、祟《たた》りがあるとか。なにせ古い建物ですから、危険のないよう取り壊すなりしたいのですが、そんなことをしたら祟りがあるに違いないと、そういう者もおりまして」
なあんだ。たいしたことじゃないのね。……って、馴《な》れちゃってる自分が恐いわ。
「廃校になったのはいつですか?」
「五年前です。正確に申しますと、五年前の五月」
「なるほど」
「ちょっと、いいですか」
口をはさんだのは、ぼーさんだ。
「妙な時期に廃校になったんですね。五月、ですか?」
はい、と助役さんはうなずいた。
「ご覧《らん》になればおわかりのように、ここらは過疎化《かそか》が進んでおります。子供の数も減って、小学校といいましても、もともと生徒が全校で二十人に足りない分校でした。それで、数年のうちには本校に合併という話もあったのですが。――それが、突然廃校になりましたのは、ダムができることになりまして、学区の生徒がどっと転出しましたからで」
「このダムですか?」
「さようです」
助役さんはうかがうような目つきで、あたしたちを見渡してから、
「じつは廃校の近くにリゾート施設を、という計画もありまして。しかし、あんなものが近くにあったのでは、サマになりません。そこに幽霊が出るなどという噂《うわさ》でもたとうものなら……。ですから、なんとしても内密に願いたいのです。それと、確実な解決を。この村はご覧のとおり、山の中でろくな畑もありません。ゴルフ場やキャンプ場や、そういう施設がですね、唯一《ゆいいつ》の財源なわけです。観光収入が断《た》たれると死活問題なのです」
ナルはシニカルな笑いを浮かべる。
「なるほど……」
ナルはぞんざいな手つきでファイルを閉じる。
「怪談話が出てくる原因に何か心当たりは?」
助役さんは首を横に振る。
「いえ。とんでもない。原因がわかれば、供養《くよう》なりなんなりするのですが」
「その学校で何か事故があったというようなことは?」
「ありません」
「その幽霊を見たという人に会えますか?」
「いえ……。そういう噂があるだけで、誰が見たのかは私にも――」
ナルは苦笑したし、あたしの周囲からも声のない失笑《しっしょう》がもれた。
「まったく単なる噂なわけですね。……そんなに気になさることでもないように思いますが」
「そ、それはそうなのでしょうが。念のために、ですね」
「いちおう、調べてはみます。――ただし、泊まりこみはできません。こちらの作業の進行状況が気になりますので。ダムでの作業がすみましたら、場合によっては調査を途中で打ち切ることになる可能性もありますが、よろしいですか?」
「……結構です」
ナルは軽く会釈する。
「では、本日中にこれからお願いする資料を集めていただきます」
「本当に何かいるのかね」
帰っていったふたりを見送って言ったのはぼーさんだ。
安原《やすはら》さんが指を折って、
「いるとしたら、学校で死んだ人の霊か……。違《ちが》うか。だったら、心あたり、ありそうですもんねぇ」
「だな」
「あとは、学校以外の場所で死んだ、学校関係者……」
そう言って安原さんは首をかしげる。
「しかし、どうして学校なんでしょう」
「どうして、って?」
あたしが聞くと、
「だから、誰か学校関係者が学校以外の場所で死んだとして、どうしてその幽霊が学校に出るのかって。よく、事故の現場に地縛霊《じばくれい》がいるとか言うじゃない。でも、学校は現場じゃないよね」
「そう……だけど」
救済を求めてみんなを見ると、綾子《あやこ》が、
「人が死ぬと霊になるわよね。普通はあの世へ行くわけだけど、心残りなこととか、自分が死んだことをわかってなかったりすると、あの世へ行くことができないわけ。そういう霊はこの世に残ってフラフラしてるわけだけど、それを浮遊霊《ふゆうれい》っていうのよね。心残りなことがある霊はそれがある場所へ行くし、死んだことをわかってないと、とにかく家に帰ろうとしたりするわけ」
「ふむふむ」
「ところが、生きている人には霊が見えないでしょ? この世のことに干渉《かんしょう》できないわけじゃない。家に帰っても家族に無視される。それがつらいから、また場所を移動する。通い馴《な》れた学校とか、思い出の場所とかね。最初からこだわりがあって、ひとつの場所を離れられない霊もいるけどね。そういうことをくりかえしているうちに、だんだん動けなくなってしまって、地縛霊のできあがり」
……へえぇ。
感心したところに、ぼーさんの声が割って入った。
「そういう考え方をする連中もいる、と」
「ちょっと、なによ、それ」
「世の中にはいろんな意見がある、ってこと。――なぁ、ジョン」
ジョンを見ると、困ったように微笑《わら》う。
「さいですね」
「どこが間違ってるっていうのよ」
「間違ってる、というわけやおまへんです。ただ、霊のことはようわかっていないので、いろんな意見があってどれが正しいのかはっきりせえへんのです」
あたしは首をかしげる。
「じゃ、他の考え方もあるの?」
「おますね。地縛霊とか浮遊霊とか、あるいは背後霊《はいごれい》とか守護霊《しゅごれい》とか、そういうのはわりあい日本に独特の分類で、あまり欧米では言いません。幽霊の目撃談にしても、欧米と日本ではずいぶん違いますし」
「へえぇ」
「日本の幽霊は悪さをする幽霊が多いです。人に何か祟《たた》りを残していきますね」
「うん。幽霊だもん」
「けど、欧米やとそうともかぎらへんのです。ただ出現する霊ゆうのが多いんです。祟る霊の話は少ないし、ましてや血筋《ちすじ》にとりつく霊の話はもっと少ないです」
「へえぇ、そうなのか」
よく考えたら、幽霊についてしみじみ聞いたことがなかったなぁ。いっぱいつきあってきたのに。
ぼーさんがナルを見る。
「いかがですか、先生」
ナルは軽く肩をすくめた。
「いわゆる幽霊に関する研究というのは、心霊現象全般の中で最も混沌《こんとん》としているのが現状だな。なぜなら、幽霊は実験室に現れてくれないからだ」
「うに?」
「超能力は、実験室に能力者を呼んで実験することができる。幽霊に対してはそれができないので、いきおい実験のしやすい霊が対象になってしまう。霊媒《れいばい》の呼び出す霊なんかだな。あるいは、そこへ行けば観測がしやすいポルターガイスト」
「ふぅん」
「その他の霊については、たまたま幽霊を見る好運に恵まれた人間の証言を収集するしか研究の方法がない。証言を集めるのは簡単だが、証言の何パーセントが真実なのか、確かめる方法がほとんどない。日本にも欧米にも目撃談ならいくらでもあるが、それが人の証言である以上、すべてを信用するわけにはいかない」
「うん」
「たとえば、日本の幽霊は祟《たた》る。欧米の幽霊は祟らない、とする。これは、日本と欧米の幽霊に違いがあることを示しているんだろうか?」
「幽霊が、幽霊である以上、あんまり性質に差がある気はしないよねぇ。日本の猫もアメリカのネコもネズミを食べるのといっしょで」
「喩《たと》えは悪いがそのとおりだ。これには、こういう考え方ができる。欧米ではたたりをなす凶悪な霊は『悪魔』という言葉で呼ばれてしまうからだ、と。祟る霊は『悪魔』と呼ばれて、祟らない霊が『幽霊』と言う言葉の範囲に残るからだ」
「そっか、ナルホロ」
「これはあくまで、ひとつの考え方だな。もっと違う考え方もできる。ここに幽霊が出る。それを目撃した人間は、何か祟りがあるんじゃないかと恐れる。そこで、風邪《かぜ》をひいても、それは幽霊のせいになる。そうして祟る幽霊談ができあがる」
「ありがち」
「うん。そうだとすると、日本の幽霊が祟って欧米の幽霊が祟らないのは、日本人の精神的な何かに原因があることになってしまう。――そんなふうに、いったん『人』というフィルターを通してしまうと、真実は限りなく屈折してしまう。口から語られる目撃談は、誤解や曲解や想像や誤《あやま》りが混沌《こんとん》としていて、何が真実なのかわからない。だから、幽霊についての研究も、そのほとんどが目撃談を基礎にしている以上、混沌としてしまうんだ」
……へえぇ。
「系統だった研究がむずかしいから、いろんな人間がやってきて勝手なことを言う。人間の中には『魂《たましい》』というものがあって、それが死後も残るのだという意見がある。幽霊とは、生きている者と死んでいる者の間に交《か》わされるテレパシーだと言う人間もいる。生き物は観測不能な粒子による『匂い』のようなものを放射していて、死後もその粒子が浮遊して残っている、それがある種の人間には幽霊に見えるのだと言う者もいる」
「け、けっこう、いいかげんなのね……」
「実際、日本でよく使用される『地縛霊』だの『浮遊霊』だの『守護霊』だのは科学的に認められた用語じゃない。誰が使用を始めたのかわからないんだ。だから、実際にはその言葉が何を意味するのか、はっきりとはわからない。確認する方法がないから」
「そうなのかぁ」
「出自《しゅつじ》のはっきりしない、意味もはっきりしない、ほとんど流行語のような言葉が、なんの疑問ももたれずに通用してしまうところに、霊に対する研究の難しさがあると思うね」
「……ということは、だ。何もわからないの?」
あたしが聞くと、ナルは首を傾ける。
「はっきり言ってやろうか?」
「うん」
「なにひとつわからないし、幽霊が本当に存在するという証拠もない」
……えーっっ!?
「じゃあ、あたしたちがやっているのはなんなわけ?」
「麻衣《まい》がやっていることは、雑用だろう」
……そうじゃなくて。
「僕がやっているのはデータの収集だな。録画、録音、計器の観測データ。たとえば、霊姿《れいし》がはっきり映ったテープはないが、奇妙な光や靄《もや》が映ったテープなら無数にある。これを徹底的に分析してそれがなんなのかを探る。既知《きち》の科学でふるいにかけて、それでも解説できなければそれは『何か』だ。科学的に新しい現象だということになる。『何か』を集めていくと、共通性が出てくる。そこから『何か』についての法則が導き出され、『何か』がどんな存在なのかがわかる」
ひえー……。
「僕が探している『何か』は、一般に幽霊と呼ばれているものだ。データを収集し、分析して、そこから幽霊を狩《か》り出すことが、僕が今行っていること。じつを言えば実際に調査に来てデータを収集するのは、そのほんの一段階でしかない」
「それで『ゴースト・ハント』なんだ。――でも、除霊は?」
「除霊については、おまけだな。調査をさせてもらうかわりに、除霊をして相手の不都合《ふつごう》を解決してやる、というのが真実に近いかもしれない」
「にゃるほどー」
でも、とあたしは腕組みをする。
「あたし、今までいっぱい幽霊を見てきたよ? みんなだって見てるでしょ? ナルだって見たよね。みんなに見えた、ってことはそれがいるって証拠じゃないの?」
「僕が一度でも、みんなに何を見て何を経験したか、正式に証言を求めたか?」
「うんにゃ」
「僕は何度も霊を見たと感じたことがある。みんなが見たと信じていることも知っている。だけど、それが『人』を通したデータである限り興味がない。そんなものをいくら積み上げていっても、なんの証明にもならないと思うからだ」
ふにー。
あたしは頭を抱えてしまう。わかったようでわからない。要は、ナルとあたしたちは根本的に立っている場所が違う、ということだ。
「さみーなー」
唐突に言ったのはぼーさんだ。
「やっぱ山の上は冷えるねー」
あんまり気温は低い気がしないけど。人の体温で少し暑《あつ》いくらいだ。
「窓、閉めようか? ひょっとして風邪《かぜ》でもひいたんじゃない?」
綾子がぼーさんの額に手を当てる。
「熱はないわね」
「そお? なんか、熱っぽい気がすんだけどなー」
言ってぼーさんはナルを見る。
「熱の上のタワゴトなんだけどさ」
「僕にタワゴトにつきあえと?」
「――やっぱ、おまえはすげーや。そう、思う」
……あんぐり。
要はそれが言いたかったわけね。おじさんってば、素直じゃないんだからー。
ジョンもうなずく。
「ボクもそう思います」
ナルは微《かす》かに笑った。
「それは……どうも」
三章 八月十三日 午前七時−午前十一時
その学校は車で山を迂回《うかい》して、ちょうど三十分のところにあった。
広い道を降りてちょっと細い道に入ると、山の斜面に校舎が見える。うねりながら山の奥へ延びる道の脇に、扉を閉めた校門があった。
道をはさんで校門の正面には、二、三軒の家が寄り集まるようにして建《た》っていたけど、人の気配《けはい》はない。窓ガラスも割れ放題で、もう誰も住んでいないのだとわかる。一軒には文房具の広告が出てるし、もう一軒の家の前にはアイスクリームを入れるボックスが放置してあったので、文房具屋さんと駄菓子屋《だがしや》さんだったんだろう。
学校は小高いところにあるので、家並みの正面にある校門から上に向かってちょっと急な坂が延びている。坂のふもとにある校門の鍵《かぎ》は開けてあって、門扉《もんぴ》も内側に開いていた。
車で上がるとすぐ校庭で、雑草だらけの校庭からあたりを見回しても、正面の家以外には建物は見えない。起伏の大きな山が重なっているばかり。学校に通う子供たちは通学がたいへんだっだろうなぁ。
「なんか、すごーく寂《さび》しいところだね」
誰にともなく言うと、バラバラに肯定《こうてい》の言葉が返ってきた。
「学校が静かだと、意味もなく気味悪いのよねぇ」
綾子《あやこ》の言葉にうなずく。特に荒廃《こうはい》の色が深いので、よけいに寂しい。
斜面に建った学校は、木造の二階建て、ガラスはほとんど割れてしまっている。背後に迫った森は、屋根におおいかぶさるみたいだった。雑草があちこちに草むらを作ったせいで、とぎれて見えるトラック。鎖《くさり》が切れてかしいだブランコ。倒れた鉄棒。水が溜まった砂場と、腐《くさ》った沼の色になってる小さなプール。
「なんか、こういう姿を見てしまうと、子供がいて活気のあったころなんて想像がつかないわね」
「そだね」
なんだか嫌《いや》な感じがした。廃屋《はいおく》になった校舎には、奇妙な威圧感がある。
「どう思います?」
聞いてきたのは真砂子《まさこ》だ。
「やなカンジ。こっちに倒《たお》れてきそう」
「ですわね」
「何か見える?」
真砂子は黒目がちな目を校舎に向ける。
「ちょっと距離がありますもの。麻衣《まい》はどう?」
「あたし今、起きてるもん」
「ああ、誰かさんは寝ボケていないと使いものにならないんでしたっけ」
「よけいなお世話。個性よ、個性」
「便利な言葉ですわね」
るさいっ。
「そこの雀《すずめ》」
ぴしゃっとした声が飛んでくる。こういうときだけ口が早いんだから、うちの所長は。
「はぁい」
にらんだ顔に最敬礼して、直立不動。調査員はつつしんで所長命令をお待ちしますです、はい。
「外から集音マイクを置く。それでとりあえず一日様子を見てから、状況によってはカメラを据《す》えてみる。カメラは?」
「チェック終了が、三台」
前回の調査でどれもけっこう傷《いた》んでいる。おまけにこの暑い季節に車に積んでた時間が長い。さすがにリンさんといろいろ手入れはしてたんだけど、チェックしてみないことには、動くかどうか疑問なありさま。
「マイクは?」
「いつでも置けます」
「どこか、外から設置できるところに追尾カメラを置く」
「アイアイサー」
さーて、お仕事、お仕事。
ぼーっとナルの退院を待って半月。目的もなしにダラダラしていたあたしたちは、あわてて気を引き締めなきゃならなかった。なにしろもー、タルミきってたもんで。渇《かつ》を入れてゆうべ遅くまでミーティングをして、朝一番にここへやってきたのだった。
よし、気合をいれていくぞー。
所長命令で、校舎内は立ち入り厳禁。用心深い性格なんだ。
「ぼーさん、ここ」
例によってこき使われて、荷物持ちと化しているぼーさんに、指示。ぼーさんからスタンドを受け取って、窓に向けて立てる。倒れるといけないので、いちおう脚《あし》は軽く埋める。穴を掘るのもぼーさんの役目だ。
「へいへい。ここか?」
スタンドの高さを調節して、マイクを屋内につっこんで、ガラスが邪魔なところは申しわけないけど割ってしまう。
「安原《やすはら》さん、マイクください」
ケガ人までこき使う所長の意地汚さはサスガだ。
「おーい、嬢ちゃんや。マイク、とどかねぇぞ」
「もうひとつの下のガラスを割らないとダメですねぇ」
「はぁい」
あたしはそのへんの石を拾《ひろ》う。建物はありがちなことに少し高くなっているので、ひょいと手を伸ばして割る、というわけにはいかない。んでも、ガラスって割ってはいけないものだから、それをあえて割るのって、けっこうカイカン。
「ピッチャー、振りかぶって投げましたっ」
安原さん、安原さん、マイクで遊ばないように。
「ボール」
……むむ。
「今の投球《とうきゅう》、いかがですか、滝川《たきがわ》さん」
「いけませんねぇ。肩に力が入ってるようです」
「そうですね。2球目も――ボール」
うるさいぞ、外野っ。
「3球目に注目しましょう」
「投げましたが、またもボール。追いつめられました。ボール、三つです」
「以外にノーコンですね、このピッチャー」
「そのようですね」
「今度こそっ」
よし。あたったぞ、ザマーミロ。
「おぉーっと、必殺の一撃が炸裂《さくれつ》! ガラスはもんどりうって地に落ちたっ」
「遺恨《いこん》をこめた怒りの鉄拳《てっけん》、というところでしょうねぇ」
「いやー、さすがです、ボンバー・谷山《たにやま》」
「それじゃねプロレス中継だよー」
誰がボンバー・谷山やねん。まったく、この漫才《まんざい》コンビは。
「よーし、終了、っと」
スタンドに重しをのせた手をはたくと、ぼーさんが校舎を見上げている。
「なんか感じる?」
「いや、なーんか懐《なつ》かしいな、と思ってさ」
……懐かしい?
あたしが首をかしげると、ぼーさんは軽く笑う。
「廃屋《はいおく》になった木造校舎。なんかデジャ・ヴな感じがしねぇ?」
「あ」
……そうか。
「本当だ」
安原《やすはら》さんはきょとんとしてる。
「あのね、あたしたちが最初に会ったのも、こういう校舎の調査だったの」
「ああ、それで」
「うん。あれがこのメンバーでの初めての調査だったんだよね」
「リンは欠けてたけどな」
「そうそう」
やー、これは懐かしいや。
そうして、と、あたしはちょっと校舎を見上げた。
ひょっとしなくても、このメンバーでやる最後の調査――。
「何かいると思います?」
そう聞いたのは安原さんだ。
「気味悪い気もするけど、あたしはぜんぜん感じない」
「滝川《たきがわ》さんはどうです?」
ぼーさんは苦笑する。
「俺に聞くな」
「ぼーさんはぜんぜん見えない人だもんねぇ」
「悪かったな」
安原さんがちょっと首をかしげる。
「考えてみると不思議ですよねぇ。ふつう、霊能者って、見えてあたりまえじゃありません?」
「それは、そだね」
「原《はら》さんはいちおう見えるし、松崎《まつざき》さんはちょっと特殊な霊能者だからいいとして。ブラウンさんもエクソシストですもんね。あんまりエクソシストがほいほい霊を見るとも思えないし……。でも、滝川さんが見えないのは妙な気がするなぁ」
「昔は見えたんだけどな」
ほーさんはアッサリ言う。
ほー。そいつは初耳。
「おじさんになったら見えなくなったわけ?」
「どうせ俺は年寄りだよ。――昔、除霊で事故ってなー。頭打ったら、おツムの中の配線が変わっちまったらしーんだわ」
……へー。そんなことがあるんだ。
安原さんが手を叩《たた》く。
「なるほど、それが滝川さんの秘密だったんですね」
あたしはパチクリした。
「なに?」
「いやぁ、僕、ずーっとここの人たちには秘密が多いなぁ、と思ってまして」
「そりゃ、ナルとリンさんは」
「だけじゃなくて」
うにゃ?
「松崎さんは特殊な能力の持ち主でしょ? 原さんは霊媒《れいばい》のように見えて、じつはサイコメトリー? ……の能力者なんじゃないか、と」
「うん」
「そのうえ谷山《たにやま》さんは親兄弟がいない。滝川さんは見えてたけど、見えなくなった、と。ね、みーんな何か秘密があるんですよ」
「そうかー」
「ぺつに秘密にしてたわけじゃねーぞ」
ぼーさんが苦笑する。
「あとはブラウンさんだけですね」
「うん」
ああ、それなら、とぼーさんが言った。
「ぼーさん、知ってるの?」
「本人に確かめたことはねぇけどな」
「なになに?」
「ジョンはエクソシストじゃない」
……ぽかーん。
「そ、それ、どういうこと?」
「悪魔|祓《ばら》いってのはな、誰でもできるってわけにはいかないの。特にカトリックだと色々ややこしいことがあるらしいぜ。俺もよくは知らんけどさ。司祭《しさい》ってクラス以上の神父《しんぷ》じゃねぇとできねぇとか」
「ジョンが、その司祭なんでしょ?」
「あんなに若い司祭がいるもんかい。司祭ってのは偉《えら》いんだぞ」
「へえぇ」
「しかも、悪魔祓いをするのには、上の了承がいる。ちゃんと、これこれこういう悪魔がいるようなんですが、ってお伺《うかが》いをたてて、許可をもらってからじゃねぇとできねーの。しかも、一定期間の断食《だんじき》をする必要がある」
「そんなややこしいことをしてる様子は……」
「ねえだろ?」
「うん」
「教会にいるのは確かなようだから、神父なのは間違いねぇだろうが。にしても、許可もなしにふらふら悪魔祓いをしてまわるなんてのは、下手《へた》をすりゃ破門になろうかって大問題だ。なんか事情があんだろ」
へえぇぇ。
「それ、いつ気がついたの?」
「これか? これは最初に会ったときからわかってたぜ。ナル坊もわかってんじゃねぇの。ずいぶん若い、って不審《ふしん》そうに言ってたからさ」
そうかー。そうだったのかー。みんなイロイロあるんだなー。
「あとは少年だけだな」
「僕は霊能者じゃありません。単なる少年探偵団ですから」
……ぶ。
「少年探偵団。うまい」
「でしょー。BDバッジを作ろうかなー」
「なぁに、それ」
「少年探偵団が持ってる七つ道具のひとつでして」
「でも、ひとりだよ?」
「谷山さん、入りません?」
ぼーさんが笑う。
「ほんじゃ、小林《こばやし》くん、戻るか」
「はい。明智《あけち》先生」
「それはナルだろ」
「そですか? 渋谷《しぶや》さんはむしろ……」
「怪人二十面相?」
「言えてる」
けっきょくどこにいても、バカ笑いしてしまうあたしたちなのだった。
校舎は南北に長くなってる。その西側にずらっと教室が並んでいる構造だ。東側が校庭で、西側はフェンスにそって花壇のある細長い裏庭がある。北側の端にはちょっと校庭に出っぱる形に玄関があって、南側の端には講堂がL字形に接続されている。
裏庭に一階の窓へ向けて集音マイクを六本。その玄関のすぐ内側と、講堂の出入り口のすぐ内側に追尾カメラ。玄関の前と、講堂に入る渡り廊下《ろうか》にスポットを設置する。
「なーるほど、うちの学校の調査のとき、校舎の裏手に車を停《と》めてあったのは、こういうわけだったのかー」
あたしはしみじみ呟《つぶや》いて機材を見る。
校舎から講堂へはコンクリートの道でつながってて、そこには屋根がついてる(もっともあちこち穴があいてたけど)。その渡り廊下から講堂の入り口に向かってコンクリート製の階段が三段。その階段を昇りきったところのドアを開け放してあって、すぐ内側にガランとした講堂の内部に向けてカメラが置いてある。その脇にビデオとモニターなんかが積んであるわけ。これがスポット。
マイクからもカメラからもケーブルが伸びている。あたしたちが調査に使うケーブルはとんでもなく長いけど、それでも長さには限界があるから、録音機材のほうをマイクに近づけてあげないといけないわけだ。それで今回は二か所に分散。
いつもはどどーっと機材を運び込んでベースを設営するわけだけど、ベースを作れないときに仮に設ける小さなベースをスポットと呼んでるらしいんだな。
ちなみに、電気はもう通ってないので、業者に来てもらって電柱から電源を引いてもらってある。廃屋《はいおく》の調査はイロイロとたいへんだ。
「麻衣《まい》、テープ」
ナルに言われて、あたしはあわてて腕に抱えていたテープを渡す。最近、音の録音にはビデオデッキとビデオテープを使う。
「何かわかりそう?」
「さてな。なんにしろ初日から動きがあるなんて、期待はしていない」
「ふぅん」
安原《やすすら》さんがぼーっと周囲を見渡している。
「本当に何かあるんでしょうか、ここ。雰囲気《ふんいき》だけはそれらしいですけど」
「さあ。……調べてみればわかるだろう。どうせヒマをもてあましていたし」
ヒマつぶしかぁ? それにつきあわされて労働する、あたしたちの立場はどーにゃるのかなー?
やれやれ、と溜《た》め息《いき》をついてから、あたしはふと考えこんでしまう。
ナルがヒマなのは、お兄さんの死体が上がってくるのを待っているからだ。
どうしてこう淡々と、何事もなかったかのようにしていられるんだろう。やっぱりあたしたちとは、根本的に精神構造が違《ちが》うのかなぁ。
ナルは連絡用のマイクに向かう。
「リン、こっちは終わった。そっちは?」
「終わりました。録音を始めていきます」
「わかった」
言ってからナルはあたしたちをふりかえった。
「まぁ、なにかあれば儲《もう》けもの、というところかな。――もっとも」
言って、闇色《やみいろ》の瞳《ひとみ》をあらぬ方向へ向ける。
「気になることがないわけじゃないが」
……うにゃ?
あたしが首をかしげていると、安原さんがうなずいた。
「どう考えても、わざわざ村長が直々《じきじき》に腰を上げて依頼に来るような事件じゃありませんもんね」
「そうだな」
あたしは首を傾げる。
「ふみ?」
「村長さんたちを案内してきたおばさんにも、あとで話を聞いてみたじゃないですか。だけど、幽霊が出るなんて噂《うわさ》は聞いてないって、そう言ってたでしょう?」
「うん。ほかの職員のひとも以下同文」
でも、と言って、安原さんはちょっと難しい顔をした。
「本当になんの噂もないのなら、どうしてわざわざ依頼にきたのか、ってのが問題だよね。ゆうべの村長さんや助役さんの様子も、なんだか釈然としなかったし」
安原さんの声にナルはうなずく。
「安原さん、探偵のまねごとをする気はありますか?」
「やりましょう。付近の聞きこみですね?」
ナルはちょっと笑ってうなずく。そのとき、
「ねぇ、休憩にしない?」
とーとつに声をかけてきたのは、綾子《あやこ》だ。
時計を見るともう十時を少し過ぎてる。風が出てきた。台風でも来そうな、ぬるい重い風だ。
「スタンドをもう一回見てくるね」
風で倒されちゃあ、なんにもならないもんね。
「あ、僕も行きます」
「急げ」
はいはい。あんたは動かないわけね?
安原さんと小走りに裏庭に行って、スタンドの重しを確認する。不安定なところはそのへんから石を拾って足《た》して。
「うん、これならだいじょうぶかな」
呟《つぶや》いたときだった。
(……ん――……)
何かの音が――声に似た音が遠くから聞こえた気がした。
「……?」
周囲を見渡しても、安原さん以外には誰の姿も見えない。
「どうか、しました?」
「今、何か聞こえなかった?」
「いいえ……?」
あれ? 気のせいかな? ――それとも、風で樹《き》がざわざわいってるのが、そんなふうに聞こえただけだろうか。
(……ぁ――)
まただ。
「ね、安原さん。今の、聞こえた?」
安原さんも不審《ふしん》そうな顔をする。
「人の声、みたいだったね」
「なんだろ……」
安原さんは軽く土を払って立ち上がる。
「行きましょう。――ちょっとヤな感じだ」
「うん……そだね」
あわてて戻る背後で、枝がざわついていた。
あたしたちは、玄関のところにあるコンクリート製の階段に座りこんで、ティー・ブレイク。入り口の上に小さな軒《のき》があるけど、日陰を作ってくれるほどの大きさはない。風はふいてるけどなんだかぬるくて、少しも涼《すず》しくなかった。
「麻衣《まい》、ジュースにします? ウーロン茶にします?」
「ウーロン茶ー」
喉《のど》が渇《かわ》いてるけど、水道はぜんぜん出ない。プールのどろどろした水を飲むのは、自殺行為だという気がするし。
「ひょっとして、水では苦労しそうだね」
よく考えたら、自給自足の調査というのは初めてだ。いちおう飲み物はこの事態を予測してペット・ボトルを何本か持ってきたけど、この人数では到底足《た》りると思えない。
「そうですわね。お昼の買い出しもありますし、その時に買ってこなければなりませんわね。――はい」
ちょっと笑いをこらえるふうで真砂子《まさこ》が渡してくれたのは、子供がハミガキの時に使うようなプラスチックのカップだ。綺麗《きれい》な青のやつで、けろっぴがプリントしてある。
「俺もー」
ぼーさんの声に差し出されるカップ。
「どうぞ、滝川《たきがわ》さん」
「……なんだ、こりゃ」
ぼーさんは真砂子にカップを渡されて、一瞬肩を落とす。
「紙コップを使い捨てていくのも、不経済でしょ。それが滝川さんのカップですわよ」
「これが、ナルで、こっちがリンさんだよ」
あたしは得意げにカップを渡しちゃう。全員バラバラのカップで模様《もよう》が違うわけ。
「で、安原《やすはら》さんと、ジョン」
それぞれが渡されたカップを見て呆《あき》れた顔をする一瞬。互いの視線が互いの手元に交錯《こうさ》したりして。
笑いをかみ殺す真砂子に、こらえきれずに笑っちゃうあたしと綾子《あやこ》。
「……これを選ぶのに時間をくってたんだな、おまえらは」
ゲンナリしたように言うぼーさんのカップは、恐竜のプリントだ。
「へっへっへー」
調査に来ることが決まって、廃校だってんで、水道は使えない可能性が高いから何か飲み物がいるね、と言ったのは綾子だ。するとコップも必要、と言ったのは真砂子。紙コップはかえって不経済だから、安いカップを買おう、と言ったのはあたし。
そして、ぼーさんの運転で夕飯の買い出しに行ったとき、ハミガキ・コップが並んでいる棚《たな》の前を通りかかって、思わず目を見交わしたのは三人が同時だった。
「か、かわいらしくて、よろしいどすね」
ペンギンのプリントのジョンは、ちょっとひきつりぎみ。
憮然《ぶぜん》としているナルがキツネで、リンさんがウシだ。どーだ、似合わないだろー。
「どういう局面でも遊び心を失わないのは、いいことですよねー」
カニのカップの安原さんは、きわめてらしいことを言って、そうしてふいに空を見上げる。すっと陽射しが陰《かげ》った。
「あれー。雲が出てきたね」
間近の山の上から灰色の厚い雲がのぞいていた。
「ひょっとして、雨ですやろか。降る、いう予報はおまへんでしたのに」
ジョンの声にぼーさんが立ち上がる。
「雨が降ったら面倒だ。今のうちに昼飯の買い出しに行っておこうぜ」
「そうですわね」
真砂子もまた立ち上がる。ついでに安原さんも立ち上がって、
「このチャンスに、ちょっと聞き込みをしておきます」
買い出しなら三人が無難な線だろうな。というわけで、あたしたちはお留守番。
「お疲れさまー」
言って手を振ったまではよかったのだが。
ぼーさんの車が見えなくなって、ほんのわずか後、ジョンが心配そうに空を見上げた。
「なんや、本格的に曇《くも》ってきましたね」
ナルとリンさんが立ち上がる。
「――? もう休憩終わり?」
「スポットに行ってる。もしも降り出したら、すぐに機材を回収する」
そっか。水に濡れたらおおごとだもんね。
あああ、せっかくセッティングしたのにー。
陽射しが陰って、ちょっと涼《すず》しくなって。ほっと一息ついたのもつかのま、厚い雲が頭上を覆《おお》って、強まった風に濡れた空気が混じり始めた。山の向こうは暗い。
「これは、アカンです。降りますよ」
ジョンが立ち上がったのにならって、あたしたちも立ち上がる。駆け出したところに、大粒の雨が落ちてきて堅《かた》い音をたてた。
「うげー。ついてないっ」
パラパラというよりは、パタパタ雨が落ちてくる中を走る。スポットに行くとすでにナルがコネクタを外《はず》していた。
「裏庭に行って、雨がかかるようだったらマイクを回収しろ」
「はーい!」
ジョンと一緒に走ってる間に、どんどん雨粒が増《ふ》えてくる。裏庭にまわったときには、本格的に降り始めていた。
「ひゃー」
「これは回収せぇへんとあきませんね」
ジョンが言って、手近のマイクを外《はず》しにかかる。
「ねー、これ、雨があがったらまたセットするんだよねっ」
「さ、さいですね」
軽口をたたきながら回収してる間にもどんどん雨が強くなる。マイクを抱えて戻るときには本格的な土砂降《どしゃぶ》りになっていた。
スポットまで走っていって、そこにマイクを放り込んで、ナルと一緒に玄関に駆け戻る。渡り廊下の屋根は穴だらけのうえに、風のせいで雨足《あまあし》が流れて吹きこんでくるので、雨宿りには向かない。
玄関の小さな軒《のき》の下に駆けこんだときには、ズブ濡れになってしまっていた。
その軒の下もほとんど雨宿りの役には立たなかった。玄関のドアを入ってすぐのところにみんなが集まってて、あたしも中に飛びこんだ。
「ひどーい」
風にあおられてドアが閉まる。かろうじてガラスが残っていたせいで、はた、と風が止《や》んだ。雨の音が少しだけ低くなって、ほっと一息。
「ひと泳ぎした気分でおます」
「水着を着てるときにしてほしかったっ」
「ひょっとしたら、今日は調査になりませんですね」
そう言ってナルを見るジョンも、見られたナルも髪から滴《しずく》が落ちている。
「……そうだな」
「いままでの調査がいかに恵まれてたか、痛感しちゃったわ、あたし」
「さいですね」
ズブ濡れで気持ち悪いけど、タオルなんてものはないのでガマンするしかない。
「ねえ、ふと考えてみると、建物の中にいるけど、だいじょうぶだよね」
「ばっかねぇ。何かあったら飛び出せばすむことじゃない」
そう言ったのは綾子《あやこ》だ。たしかに、古い木の枠《わく》のドアまで一メートル半ぐらい。二歩で充分外に飛び出せる距離だ。
「そだよねー」
いかん。ナルがあんまり用心するから、ちょいと臆病になってるわ。
「午前中、ぜーんぜん、なんにもなかったしね」
強烈な霊になると、霊能者が来たことに反発して、最初から何かかましてくれることもあるんだけど。
「本来はこういうものだ」
ナルはそっけなく言う。
「へえぇ。どれくらいの間、おとなしいものなの?」
「除霊にかかるまでは、全く反応がないこともあるな」
……ふぅん、そうなのかー。
あたしはちょっとの間、汚れたガラスから外を見る。両開きのドアの上半分にはガラスが入っている。その大きなガラスに切りとられて、外のひどい雨が見える。
こういう天気の時に建物の中にいると、それだけでなんかほっとするから不思議《ふしぎ》だ。特にひとりじゃなくて誰かと一緒だと、よけいにそんな気がする。
「どーする、ナル。今日は諦《あきら》めてかえる?」
「どうしようか……」
どうも通り雨という感じではなさそうだ。
「帰るにしたって、車まで走る間にズブ濡れになりそうねぇ」
そういう綾子はあんまり濡れてない。
「綾子も濡れちゃえー。不公平だぞ」
「やあよ」
「ま、なんにしても、ぼーさんたちが帰ってくるのを、待たなきゃねー」
「そうねぇ」
ふいにナルが足を踏み出す。
「どしたの?」
「ファイルをとってくる」
雨宿りの間ぐらい仕事のことを忘れればいいのになー。まったく。
「濡れるよ」
「ここまで濡れたらおなじだ」
そりゃ、そーだ。
ナルは、ドアに手をかける。
「――?」
「どうかした?」
ナルはドアを強く押す。どこか引っかかっているのか、ぎしぎしたわむだけで扉は動かない。綾子はここぞとばかりに笑った。
「非力ねぇ」
「たてつけが悪いんだよ。古いから」
あたしは言って手を伸ばす。よいしょ、と力を入れたのだけど。
「――? 動かないよ」
ナルがちょっと乱暴にドアを揺する。外開きのドアに肩を当ててめいっぱい押す。少し真剣な表情になっていた。
「鍵がかかっちゃったのかな……」
自分で言いながら、そんなはずのないことがわかっている。
リンさんとジョンが駆けよって、三人がかりでドアを押した。すぐに結論が出た。
「――開かない」
四章 八月十三日 午前十一時−午後三時
「なーに、マジになってんの」
いちように強《こわ》ばったあたしたちの間で、空《から》元気のような声がする。
「雨で木が湿気を吸って、ちょっときつくなっただけでしょ。ドアが開かないんなら、窓なりなんなり使えばすむことじゃない!」
綾子《あやこ》の声に、あたしは思い出す。たしかに、窓ならいっぱいある。ガラスだっていっぱい割れてる。閉じこめられた、なんていう状況じゃない。
「麻衣《まい》、ジョン、ちょっとさがってて」
綾子は足元からなにかの汚れた空《あ》きびんを拾った。
「そのガラスを割っちゃいましょ。外から引っ張れば開くかもよ」
「誰が外に出るの、そんなとこから」
「アタシじゃないことは、たしかね」
口調は軽いけど、表情が少し硬《かた》い。わきへどくと、綾子がそれをガラスに向かって投げる。思わず身がすくむような激《はげ》しい音がして、ガラスの破片が飛び散った。
ぶつけたガラスのびんと、ぶつけられたガラス。――くだけたのは、びんだけ。
「……うそ」
ちょっと不安そうな表情をする綾子に、あたしは背後を示した。
「ほかにも窓ならいっぱいあるよ。あっちを試してみよ?」
「そ、そうね」
歩き始めたあたしと綾子を止めたのはナルだった。
「勝手にうろろするな」
「あ?」
「僕は下を調べる。ジョンは二階を調べてくれ。――麻衣」
「あい」
「ジョンと一緒に行け。絶対に離れるな。松崎《まつざき》さんも一緒に行っていただけますか」
「行ってあげようじゃないの。麻衣、探検に行こ」
「うん」
あたしはジョンと綾子を追っかける。濡れた服が張りついて、絡《から》みついたように重かった。
玄関の正面に廊下《ろうか》を挟《はさ》んで階段がある。その階段を半分|昇《のぼ》っていくと、真ん中の踊り場のところで階段がとぎれていた。踊り場からさらに上に昇る階段のところにベニア板で壁が作ってあって、完全に塞《ふさ》がれてしまっている。
「あれ。これで行き止まりですね」
「短い探検だったわね」
「ドアがあるわよ」
綾子が示したところに、小さなドアがあって、そこに小さなとめがねがついてた。とめがねには南京錠《なんきんじょう》がついてたけど、軽く引っ張るととめがねのほうが板から抜けてしまう。板が腐《くさ》っているんだ。
板の表面に爪をかけると手前に開く。身を屈《かが》めないといけないぐらいの小さなドアだった。ドアの奥はもちろん階段の続きになっている。
「……どうする?」
あたしはジョンを見る。この先に行くか、という意味だ。中に入って、このドアまで開かなくなったら、すごく困る。
「麻衣さんと松崎さんはここにいて、ドアを開けといておくれやす。ボクが行ってきますよって」
「でも、離れるな、って」
ジョンは微笑《わら》う。
「ちょっと昇って、廊下の窓の様子をひとつだけ見てきます。それが開けばそこから出られますし、それが開かへんのやったらほかの窓も開かへんでしょう」
階段を昇りきってすぐのところに、窓が見えている。
「あそこまで、だね?」
「ハイ。あそこまでです。あの窓だけ試して、戻ってきます」
「うん……」
あたしはしっかりドアを背中で支える。綾子がさらにドアの縁《ふち》をつかんだ。
ジョンが身を屈《かが》めて中に入っていく。中は外以上にホコリがすごかった。
窓以外に光が入ってくる場所がない。その窓も雨のせいで暗くて、校舎の中は夕方みたいな感じだった。
階段を昇りきったところから、廊下が横にのびているのが下からもわかる。総二階建ての建物だから、その右側に一階の教室と同じく七つの教室が並んでいるんだろう。
「どうしてこんなにいっぱい教室があるんだろうね」
「この校舎が建った時には、これくらいの生徒がいたってことなんでしょ」
「そっか。生徒が減ったんで、二階を使わないように封鎖《ふうさ》しちゃったわけだ」
「でしょうね」
しゃべりながら、あたしはジョンの後ろ姿をしっかり見てる。ジョンは正面の窓によって、しばらくそれをガタガタいわせていた。すぐに、踵《きびす》を返して降りてくる。窓は開かない。なんとなくそういう気はしたので、動揺はしなかった。
「ダメ?」
ジョンは苦笑を浮かべる。
「ダメです。なんや、ここの窓はいっせいにおヘソを曲げたようですね」
言いながら、ドアをくぐって出てくる。あたしは自分がすごく緊張していたのを発見した。ジョンが外に出てきて、ほっと緊張が解《と》ける。綾子も軽く息を吐いた。
下に降りると、ナルたちはまだ廊下の窓を試しているところだった。ジョンが事情を説明すると、ナルは厳しい顔をする。
「下はどないです?」
「開かない」
「ちょっと乱暴な方法、というのはいかがですやろ」
「そうしよう」
リンさんはすぐ近くの教室のドアを開けて、手近にあったイスを引っ張ってくる。ジョンがふと思いついたようにズボンのポケットから小瓶《こびん》を出し、軽く滴《しずく》を散らして十字を切った。
「離れていてください」
リンさんがイスを振り上げて、振り下ろす。耳を覆《おお》っても頭に刺さるようなすごい音がした。
「……あ」
あたしは原型を粉砕されたイスと窓を見比べる。窓はイスをたたきつけられた瞬間、たわむように揺れたけど、それだけ。木の枠にもガラスにも、なんの被害もなかった。
三十センチ四方ぐらいのガラスが八枚入った窓の、そのうちの一枚は最初から割れている。あたしはそこから手を出してみる。問題なく手はすりぬけた。窓の桟《さん》さえなければ出られるのに。
折れたイスの脚を拾って、それでガラスを叩《たた》いてみる。強く叩いても、ヒビひとつ入らない。一見してもろそうな桟を叩いても、これまたビクともしなかった。
ナルがごく何気ない声を出した。
「完全に、閉じこめられたな」
「で? どーすんの?」
あたしの問いにナルは肩をすくめる。
あたしたちはとりあえず玄関に戻って、上がり口あたりに座っている。
「相手の目的がわからないことにはな……」
「相手、って」
「解説が必要なのか? ――僕らを超常的な力でここに閉じこめた相手だ、もちろん」
「それって、やっぱ人間じゃないよね」
「常識的に判断すると、そういうことになるな」
「……少なくとも、ここに何かがいるのは本当だったんだ」
「のようだな。まさか本当にいるとは思わなかったが」
「だよね」
あい変わらず、雨の音が続いている。外に滝でもあるような感じだ。
「まぁ、なんとかなるんじゃない?」
溜《た》め息《いき》まじりに言ったのは綾子《あやこ》だ。
「そのうち、買い出し部隊も帰ってくるでしょ。外からだったらなんとかなるかもしれないじゃない」
「ならなかったりして」
あたしが言うと綾子は嫌《いや》そうにする。
「なんとかさせればいいのよ。幸いガラスのないところから、水と食料は差し入れてもらえるわ。けっこう粘《ねば》れると思うわよ」
ナルが苦笑する。
「問題は僕らがどのくらいもつか、ということだな」
「なによ、それ」
「相手が何をしかけてくるかわからない。単に僕たちを困らせて喜んでるだけだとは思えないんだが?」
綾子が押し黙って、かわりに声をあげたのはジョンだ。
「さいですね。ここでボンヤリしていてもしょうがおへん。なんぞ手を考えへんと」
……うん。そだね。
ナルはうなずいて、あたしたちを見る。
「誰か、ライターを持ってるか?」
「持ってるわよ」
綾子の声にうなずいて、さらに玄関を見渡す。
「その靴箱を廊下《ろうか》においてバリケードにする」
「幽霊にバリケードが役にたつの? 教室のほうがいいんじゃない?」
あたしが聞くと、ナルは肩をすくめる。
「気休めでもないよりはましだろう。教室はダメだ。陽が落ちてからのことを考えておきたい」
……うにゃ?
あたしが首をかしげると、ナルは心底|軽蔑《けいべつ》したような表情をする。
「真っ暗な中にいたいか?」
あ、そっか。こりゃ、失礼しました。そうよね、ライターがあっても板張りの床の上で焚き火《び》はできないもんね。
玄関の踏み板の両側に、あたしの顎先《あごさき》までの高さのゲタ箱が、ふたつずつ、合計で四つ並んでいた。もともとはたくさん生徒がいたせいだろう。玄関はもっと広い。横のほうに使ってなかったゲタ箱を積み上げてあって、数えてみると十数個ある。
そのほとんどを廊下に移動させた。
「完全に塞《ふさ》がないでください。いざというとき、向こうがわへ出られませんから」
リンさんがそう言う。
「塞がないと意味がないんじゃないの?」
塞いでも、意味があるかどうか疑問だけどさ。
「だいじょうぶです」
廊下の両側に天井近くまでゲタ箱を積み上げて、真ん中を人が通れるくらいあける。その隙間《すきま》の少し手前に、今度は廊下の真ん中にゲタ箱を積み上げる。ちょうど、入り口を屏風《びょうぶ》で隠したような形になった。
「これでいいの?」
「ええ。誰かテープを持っていますか」
「あたし、持ってる。ビニールテープだけど」
あたしがテープを渡すと、リンさんは上着の懐《ふところ》から護符《ごふ》を出して、屏風みたいに積み上げたゲタ箱の廊下側に貼《は》った。
「あのー、聞いてもいい?」
返事はない。リンさんはただあたしを見る。
「どうして、これでだいじょうぶなの?」
「悪霊はまっすぐにしか進めない、という俗信《ぞくしん》があります。それで門の前や内側にこういう壁を作って悪霊よけにする風習があるんです。これを影壁《えいへき》とか屏風《びょうぶ》とかいいますが」
「へえぇ」
「まっすぐにしか進めないというのは俗信にすぎませんが、影壁はたしかに効果があります。霊にはこれが、ひとつらなりの壁に見えるらしいので」
「壁を通りぬける幽霊、っているよね」
「います。壁を通りぬける霊なら、こんなものは簡単に越えてくるでしょうが、だとしたら塞《ふさ》いでしまっていても同じです」
あ、そっか。そうだよね。
「二階にもドアがあったと言っていましたね」
「うん。小さいのだけど」
「そこにも影壁を立てて封じておいたほうがいいでしょう」
ボロボロになった踏み板を折って、それで小さな焚き火《び》をする。
まだ校舎の中は暗いというほどではないけど、なんとなく火があると安心するのは事実だ。濡れた服が寒かったので、よけいに火がありがたい。
外に向かっての出入り口は玄関のドアだけだけど、これは何度試してもビクともしない。内側に向かっての出入り口は二か所で、これは両方とも護符でいちおう封じてある。
あたしたちは焚き火を囲んで、コンクリートに座っている。ドロだらけだけど、そんなことを気にしても、もうしかたないという気がする。
「麻衣《まい》、何か飲む?」
綾子《あやこ》が声をかけてきた。
「甘いの」
「カップは?」
「カエルの。――ねぇ、ナル」
ナルは何やら考えごとをしている風情《ふぜい》。
「一階に教室が七つでしょ。生徒が二十人くらいだったっけ。七つもの教室を、なんに使ってたんだろうね」
「いちばん奥ふたつがぶちぬけで、もと職員室だな。そこを教室に使っていたらしい。隣《となり》がもと保健室で、教師が控《ひか》え室に使っていた」
「そこに住んでたわけ?」
「いや。教師の住宅は、正門の向かいにあった、奥の家だったらしいな。奥から四番目の部屋はもと家庭科室で、小鳥やなんかの動物を飼っていた。残り三教室はもと理科室と図工室、音楽室だったらしいが、当時は使われていない。もともとはもう少し大きな建物だったらしいんだが、一郭《いっかく》を取り壊《こわ》してプールを作ったらしいな」
そっか。そういえば、ミーティングの時にそういう話が出てたな。
「学区の広さは?」
綾子の問いにナルは渋《しぶ》い顔をする。
「まったくミーティングの話を聞いていらっしゃらなかったわけですね」
「おほほほ」
「この周囲八集落。ただし、このうち三集落はすでにない」
「田舎《いなか》の過疎化《かそか》って、本当にひどいのね」
そだねぇ。都会にいるとピンとこないけど。
「ただし、二集落はダムの底だ」
「そうか……」
ダムの一言であたしは思いだした。
ダムで行われている作業はどうなったんだろう。この土砂降《どしゃぶ》りで中断したんだろうけど、それまでに見つかったりしてないんだろうか。――もっとも、見つかったら誰かここへ連絡に来るだろうけど。
ガラスの外を見ると、ようやく雨が少し小降りになっている。すぐ外に車が見えるのが、すごく皮肉だ。
「何が目的でアタシたちを閉じこめたのか、ってのか問題だわよね。なんにしても、あんまし無事に出してもらえそうにはないし」
「だろう」
腕時計を見ると、すでに閉じこめられて二時間近くがたっている。外は雨だから暗くなるのは普段より早いだろう。あたしは焚《た》き火《び》を見る。日が暮れたら、照明はこれだけが頼りになってしまう。――いや、ぼーさんたちが帰ってくれば、相当な援助を期待できるわけだけど。
「ぼーさんたち、遅いね」
あたしが言うと、綾子もうなずく。
「そうね。――安原《やすはら》クンが聞き込みをしてみるって言ってたから、そのせいじゃないの?」
「うん……」
「ひょっとしたら、夕方までかかるかもよ」
「まさか。お昼を買い出しに行ったんだよ?」
「アタシに言わないでよ。――とにかく、けっきょくこのままじゃ、対策の立てようがないってことよね」
綾子の言葉に、ナルは興味なさそうに肩をすくめた。
「せっかく閉じこめたんだ、そのうち向こうから何かしかけてくるだろう。焦《あせ》ることはない」
……怖《こわ》いことを平然と言ってくれるなぁ。とほほ。
「キャンプ場の人たちは、幽霊が出るなんて噂《うわさ》は聞いたことがない、って言ってたのになー」
ブツクサ言うと、綾子が息をついた。
「まぁ……何か噂があっても隠すってのはよくあることだけどね」
「でも、幽霊が出るような心当たりはない、って助役さんも言ってたじゃない」
「そうだねぇ」
「ひっかけられたのかもしれないな」
言ったのはナルだ。
「ふみ?」
ナルはちょっと皮肉っぽい笑い方をする。
「助役も、秘密にしてくれ、と言っていただろう。観光収入が絶《た》たれると死活問題だとか」
「言ってたね」
「出るという噂しかない、と言っていたが本当のところはどうかな。実際は噂だけじゃなかったかもしれない」
「だけじゃない、って。本当に幽霊が出たり、祟《たた》りがあったり、ってこと?」
「そういうことだ。何か深刻な問題があった可能性が高いな。だから村長自身が出向いて依頼にやってきた」
「……うん」
「しかしそれを正直に言って、その『問題』が外部にもれると困る。客足に影響が出ると死活問題だから。――それで、詳しいことは伏せておく」
き、きたねー。
「幸い、キャンプ場には彼の親族がいる。それで親族にも固《かた》く口止めをしておく。――そうでなくても、キャンプ場の職員は観光収入で食べているわけだから、口止めされなくても自主的に口をつぐんだだろうが」
「……うん」
これだから大人《おとな》のすることはー。
「深刻な問題って、なんだと思う?」
さあ、と言ってからナルは立ち上がる。
「ちょっと中を調べてみよう」
ナルの断固とした主張で、全員で校舎の探検に向かう。
「用心はしておいたほうがいい。絶対にひとりで離れるな」
……あい。
全員でそろそろと影壁《えいへき》の外に出て、まず一階の教室を手前から見てまわる。教室にはいろんなものがあった。使ってなかった部屋の隅《すみ》には机やイスが積み上げてあるし、ほとんど体育倉庫のように跳び箱なんかが積み上げてある教室だった。
ちょっと雰囲気が違うのは四つ目の教室で。
四つ目の教室はきちんと整理されて、そこに鳥篭《とりかご》や檻《おり》や水槽《すいそう》が置き去りにされていた。きちんと整理されているだけに、厚くホコリをかぶった様子が荒《すさ》んだ印象だ。
「嫌《いや》なかんじね」
ヘドロをこびりつかせたまま、カラカラになってる水槽をのぞこんで綾子《あやこ》が顔をしかめる。教室の中には微《かす》かに腐臭《ふしゅう》が漂《ただよ》っていた。「渋谷《しぶや》さん」
声をあげたのはジョンで、ジョンはホコリの山のそばに屈《かが》みこんでいた。
「これを――」
それは教室の隅で。そこにちょうどミカン箱の半分ぐらいの大きさのホコリの山がある。よく見ると本当に何かの箱で、そのダンボール箱が腐《くさ》って崩れかけたところにホコリがつもったらしい。箱の中にはなにかぶわぶわしたものが入っていて、それも厚くホコリをかぶっている。そうしてそのホコリの中から伸びた鎖《くさり》。
錆《さ》びた鎖は箱の中から教室の壁に向かって伸びている。壁に大きな釘《くぎ》が打ってあって、そこに端を結びつけてあるのだ。
「……なぁに?」
ナルが指の先で鎖をひっぱると、ホコリの中から退色した赤いものが出てきた。
「首輪、じゃないの」
「犬かなにか、いたんだね」
あたしはそう息をつきかけたのだけど。
「リン。何か――」
ナルが全部を言うまでもなく、リンさんはボールペンを差し出す。ナルはそれを受け取って、ホコリの中をかきまわし始める。
「どうしたの?」
言ってからあたしは気がついた。首輪は完全な丸になっている。猫の首にもつけられそうな、小さな丸だ。きっと犬なら仔犬《こいぬ》だったんだろう。――でも、どうして丸のままなんだろう。
ここは廃校になった。飼っていた動物がいたら、誰かが連れていくなりするだろう。そうでなければ放してやるとか。誰かが連れていったのなら首輪を残すはずがないし、ましてや、首輪を外《はず》したのなら丸のまんま、なんてことがありそうな気がしない。
ナルがかきまわしたホコリの中から、灰色の小さな破片を拾いだした。
「……それ」
「何かの骨だな」
げっ。
ナルはそれを箱の中に放りこみ、手を叩《たた》いてホコリを払う。
「どうやら、村長たちはそうとうなタヌキだな」
「ですね」
ジョンもうなずく。
「どういうこと?」
あたしが聞くと、
「廃校になった、という話だったが、単に生徒が減っただけとは思えない。きちんと手順を踏んで廃校になったのなら、飼っていた動物を放置しておくはずがない。しかも――」
首輪は箱の中にあった。まるで寝床に丸くなって死んだみたいに。
「箱はダンボールだ。軽いものだから、犬が暴《あば》れれば動く。それがきちんと教室の隅に残っている。倒れた様子もないし、底に敷いた毛布もそのまま。この犬は、飢えて暴れるヒマもなく死んだんだと思うね」
「でも、なんで」
「……さあ」
そっけない声が、窓の外の雨の音に溶《と》けこんだ。
きちんと机の上にならべられた三つの水槽《すいそう》。鳥篭《とりかご》が四つ。ちょうどウサギか何かを飼《か》うのに使いそうな檻《おり》がひとつ。どれも厚くホコリをかぶってるけど、そのホコリの底に小さな灰色の骨が埋《う》もれているのだとしたら。
ふいにゾクッとしたのは、湿ったままの服のせいばかりでもない。
その隣《となり》は先生の控え室だったはずだけど、ほとんど物置のようなありさまだった。
さらにその隣が、教室。
教室に使われていたもと職員室は、普通の教室の倍の広さがある。そこにホコリをかぶった小さな机が十八個、前のほうに寄せて置いてあった。
「生徒が十八人だったんだね」
「村長がそろえてくれた資料によれば、十八人のうち、いっきに十四人がダムの工事のせいで引っ越して、けっきょく廃校になったということだったんだが」
「ふぅん?」
あたしは小さな机を見て回る。ふと気がついて中をのぞきこんでみた。
「……ねえ、中に道具が残ったままだよ」
綾子《あやこ》もジョンもそれぞれ机の中をのぞきこんだ。
「やだ。ここもよ」
「こっちもです」
ちょっと勇気を奮《ふる》い起こして、あたしは机の中のものをひっぱり出してみる。カビて変色した教科書だった。ページはくっついてしまってほとんど開かない。
さらに調べてみると、十八個の机の、ほとんどに何かしら持ち物が残ったままだった。
「転校したり、廃校になって学校を出ていくのに、荷物を残す?」
綾子が言ったけど、もういまさらだという気がする。
あたしにもわかる。――村長さんが、助役さんが依頼のときに言った言葉のほとんどが信用できないってこと。
「本当になにもかも残ってるね。まるで、突然全員が死んじゃったみたいに」
黒板の端には『五月十八日(水)』と大きな文字で日付が書いてあるのがごく薄く読み取れる。その下に『にっちょく』として、『たけうち あい』という文字が書いてあった。
「廃校になったのって、五月だっけ」
「そうだな……」
五月十八日で止まった日付。
教室の後ろにはお習字や絵がはられたままだ。どれもホコリで汚れてカビだらけで、よけいに痛ましい気がする。
教壇の脇に先生用の机があって、机の上には本や紙が置かれたままホコリをかぶっていた。
あたしはそのホコリを、なんとなく指先でかき混ぜてみる。机の上には立ててならべてある本が何冊か。きっと、先生が使っていた教科書やなんかだろう。その脇には紙の束《たば》が置いてあるので、テストか何かかもしれない。机の中央には本かノートみたいなのが二冊重ねて置いてある。
「出席簿だよ」
声をあげると、全員が集まってきた。
中を開いてみたけど、シミだらけで読めない。それでも、十八人の生徒がひとりも欠けずにいたことだけはわかった。最後のページには「五月」と書いてある。出欠の印が途切《とぎ》れた日付は読み取れない。
「十八日ですやろね」
ジョンが黒板を見ながら言うので、
「そうとは限らないよ。あの日付と当番って、一日の終わりに次の日のぶんに書き直してた記憶があるもん」
「へえぇ。やったら、十七日かもしれへんわけですね」
「うん。十八日が水曜日ってことは、十五日が日曜日。ということは」
出欠の印が途切れたところまで、曜日を割り当てながら数えていくと、十六日で終わっている計算になる。
「あれ、十六日までしかない」
「ということは」
綾子が天井をにらむ。
「十六日の出席をとった以降に、何かあったわけだ。荷物も、飼ってた動物も全部残して、学校が放置されるようなことが」
「うん。……あれ、これ、日誌だぁ」
出席簿の下にあったのは日誌だった。
「なつかしー」
「あー、こんなんだったわねぇ」
「そうそう」
これもやっぱりカビのシミだらけだったけど、そっとめくると中のほうは読めないこともない。最後のページはかろうじて全部が読めた。
「――五月十六日月曜日。当番。四年、みちやまあゆみ」
「やっぱ十六日が最後かぁ」
「あたしはいよいよ、えんそくです、だって」
「そっか」
綾子は指を弾《はじ》く。
「十七日は遠足だったわけね。学校以外の場所に集合だったんだわ。登校しないことがわかってたから、黒板には十八日の日付と当番を書いておいたんだ」
「ありうる。そして、その遠足で何か起きた?」
「でしょうね。――ほら、ここ」
綾子の珊瑚色《さんごいろ》にマニキュアされた指が文面を示す。
「バスの席順でちょっとケンカになりました、って」
「バスで遠足……」
ひょっとして、まさか。
「そのバスが事故?」
考えられることだ。生徒たちを乗せたバスが事故にあって、それが原因でたくさんの生徒が死んでしまう。ひょっとしたら――十八人全部が。そうして、全校生徒を失った学校は廃校になる……。
「ほんまに、そうなんですやろか……」
痛《いた》ましそうにそう言って、ジョンは教室を見回した。
対する所長の声は淡々としている。
「……それにしても、荷物から何から残っているのは奇妙な気がするが……」
あたしは首をかしげた。
「だよね。いわば、遺品なんだから、家族が引き取りにきそうだけど」
「第一、もしも急に全校生徒が死んだからって、飼ってた動物を放置するなんてことはありえないわよ」
そう言うのは綾子で、これにはうなずくしかない。
――不幸な事故で廃校になった校舎。だとしたら子供たちの魂《たましい》がさまよっていても不思議《ふしぎ》はないけれど。でも、それだけじゃない。まだ……何かある。
単に子供たちの幽霊が出るだけなら、村長さんたちが隠すはずがない。
「あの話、本当なのかしらね」
綾子が唐突に言った。
「なにが?」
「このあたりにリゾート施設、ってやつ。校庭から見た限りじゃ、とてもそんなのに適した地理条件とも思えなかったんだけど」
「あのタヌキたちの言うことが信用できるわけにゃいじゃん」
「うん。……よね。すると、なんで村長まで出てきて、調査の依頼なんかするわけ? 近くにリゾート施設をってのなら、ちょっとは納得できるわよ? でも、その計画もないんだったら、多少幽霊が出ようとわざわざ旅行中の霊能者をつかまえてまで調査させる必要なんてないじゃない」
「まさか……あたしたちみたいに、入ったきり出られなくなって、どうにかなった人がほかにも……」
「だったら、出入り口を打ちつけるなりなんなりして、塞《ふさ》でしまったほうが早いわよ」
「それは、そうだね……」
その時だった。細い声が雨の音に混じって聞こえたのは。
五章 八月十三日 午後三時−午後五時三十分
あたしはあたりを見回した。
「どうしたの、麻衣《まい》」
聞いてきた綾子《あやこ》に、何か音が、と言いかけたときに、微《かす》かな音が耳に入る。
(――ぁ……)
ジョンがピクンと顔を上げた。
(――ぁぁ……ぁ……)
雨の音にまじってはっきりしない。けれど人の声に聞こえる。
声と同時にきしみがする。あたしは頭上を見上げた。声は上から聞こえた気がする。
「誰かの声が……しなかった?」
綾子も天井を見上げている。
「したよね。上で何か音がしてる」
あたしが言ったときに、またきしみと一緒に人の声がした。細い声だ。子供なのか大人《おとな》なのか、男なのか女なのかわからない。
「二階に何かいるわ……」
まずナルが廊下《ろうか》の様子をうかがって、あたしたちも後に続いた。きしきしという微かな音は、誰かが二階で足音を忍ばせて歩いているような感じに聞こえる。
そろそろと全員で歩いて階段の下まで行く。一、二段昇って、二階の様子をうかがった。確かに二階で音がしている。細い、何かを叫《さけ》んでいるような遠い声と。
「様子を見てきます」
リンさんが言って、階段を昇っていく。それをナルが呼び止めた。
「バラバラにならないほうがいい」
「ですが。ドアがありますから」
そう言ってリンさんは目の前にある影壁《えいへき》を見る。その向こうにあの小さなドアがある。
「ここで全員で行って二階に閉じこめられてしまうと、さらに事態が難しくなります」
「だが――」
「だいじょうぶです。――ブラウンさん」
「ハイ」
「この場をお願いします。松崎《まつざき》さんも」
綾子はおまけで不満そうだ。不満に思う余裕があるんだから、神経が太い。
「はいはい」
あたしたちはうなずいて、影壁《えいへき》の端に回ってリンさんが開けた鍵をしっかりつかんだ、ドアを開けると、いっそうはっきり声が聞こえる。何を言っているのかはわからないけど、確かに何かを叫んでいる人の声だ。
「ここにいるね」
「お願いします」
言ってリンさんはドアをくぐる。そっと階段を昇っていった。あたしたちはドアが閉じてしまわないよう支えながら、細長い後ろ姿が廊下を見渡し、曲がっていくのをじっと見送る。リンさんの姿が壁に隠れたとたん、なんだかすごく不安な気分になった。
「ねぇ、本当にひとりで行かせてよかったのかな」
「だいじょうぶよ、あたしやあんたじゃないんだから」
……そうだけど。リンさんはあたしたちより、ずっとすごいんだから。それをわかっているのに、どうしてこんなに嫌《いや》な感じがするんだろう。
「松崎さんの言わはるとおりですよ」
ジョンにやんわりなだめられて。
「うん……」
不安な気分でうなずいたときだった。何かが――何かとほうもなく大きなものが、校舎を駆け抜けていったような衝撃を感じた。
「なに!?」
どんっ、と低くひどい振動があって、建物がぎしぎし揺《ゆ》れる。あたりを見回す間《ま》もなく、もう一度。立て続けに何度か衝撃が走って、あたしは思わず座りこむ。
影壁が倒れる。天井からホコリが落ちてきて目を開けていられない。
「なによ、これ!?」
綾子の声と同時に、足音が駆け抜けていった。何人かの人間が走る足音に聞こえたけど、リンさんが駆け戻ってくる足音のはずがない。それは明らかに二階の廊下を手前から奥へ走っていって、足音と一緒に笑い声がした。子供が数人で歓声をあげる声だった。
「リンさん!」
だいじょうぶ、と声をかけようと身を起こして、血の気が引く。
ドアが閉じていた。
「リンさんっ!」
あわてて汚れた板の表面に爪《つめ》をかけた。予想に反して、ドアはあっさり開いた。
……よかった。
座りこみたぐらい安心する。
「リンさん、だいじょうぶ!? 戻ってきて!」
向こう側へ首を突っこむようにして叫んだけど、返答はない。
「リンさん、ってば!」
「――リン!」
ナルの声にも返答はなかった。しんとしずまりかえって、雨の音だけがする。
……何か、おかしい。
「見てこよう」
ナルがドアをくぐりぬけて、ジョンがそれに続く。またドアが閉じてしまわないよう、今度は綾子としっかり押さえる。それをジョンがふりかえった。
「おふたりだけ残せませんです。一緒に来ておくれやす」
ナルを見ると、うなずいた。綾子が、
「でも、これ」
ドアを示すのにかまわず、あたしは階段に踏み出す。
「リンさんのほうが心配だよ」
「うん。――そうね」
あたしたちは全員で二階を調べていった。
まっすぐ伸びた廊下の片側に、教室が七つ並んでいる。どの教室もほとんどからっぽの状態だった。廊下側の窓から見れば、人がいるかいなか一目瞭然《いちもくりょうぜん》だけど、いちおう全部の教室に入って確認してみる。
それでも、どこにもリンさんの姿は見えなかった。
「そんな……」
そう呟《つぶや》いたきり、声が出ない。
「窓から外に出たということはおまへんですよね」
ジョンに言われて、改めて二階にある全部の窓を確認する。確認しながらみんな、ここは二階で、外に出るには飛び降りなきゃいけないことや、窓を開けて出たのなら窓が開いているはずだということや、ましてやリンさんがひとりで逃げ出すはずのないことがわかっている。
「ナル! ねぇ、これ!」
途中で声をあげたのは綾子だ。
「なに?」
床を指し示す綾子のそばにかけよって、あたしたちはホコリの上に落ちた黒いシミを見つけた。
「これ……」
その拳《こぶし》大のシミのそばにナルが屈《かが》みこむ。軽く指で触《ふ》れて、指を見つめる。
「……血のようだな」
「血――って、リンさんの!?」
「わからない。まだ新しいのは確かだが」
どうしてそう、落ち着いてしまうわけ!?
「もう一度探してみよう? どこか盲点に入った場所があるかもしれないじゃない」
綾子の声にあたしたちはうなずく。
全部の窓を徹底的に調べて、もう一度全部の教室を調べなおして、あたしたちは認めざるを得なかった。
窓は開かない。そして、――リンさんは消えてしまった。
あたしたちは二階の廊下に立ったまま、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた。
誰も口をきかなった。重い重い沈黙が降りる。沈みこみそうになる気分をむりに振り切って、あたしはナルを見る。その何か考えこむような横顔を。
「ねぇ、リンさんならだいじょうぶだよね……」
あたしの問いに対するナルの返答はそっけなかった。
「わからない」
「わからない、って、そんな!」
「それが事実だ。何が起こったのかわからない。リンがどうなったのかもわからない。僕らにわかるのは、リンが校舎の中にいない、ということだけだ」
校舎の中はもちろん、窓ごしに外までくいいるように眺《なが》めて探したのに、どこにもリンさんの長身は発見できなかった。
「そんな……」
何度目かに呟《つぶや》いて、それ以上の言葉が出てこない。
――ひとりで行かせなきゃよかった。誰かがついて行ったら。ううん、そもそも行かせなきゃよかったんだ。
「とにかく、絶対にひとりになるな」
……いまさら言っても、もう遅い。
うつむいたあたしの肩を綾子《あやこ》が揺する。
「だいじょうぶよ、きっと。リンには式《しき》がついてるもの」
「うん……」
「とにかく、注意のうえにも注意することだ。絶対にひとりにならないこと。できるだけ人の側にいること」
ナルのきっぱりした声に、あたしたちはうなずく。
「周囲の人間から目を離さないこと。何かが起こったときには、近くの人間の腕でも服でもつかむように」
……う、うん。
ナルの言葉を心の中で復唱するようにしてうなずいたとき、窓の外から雨の音ではない水の音が聞こえた。
あたしたちははっと、窓のほうを見る。
勢いよく水を撒《ま》くようなその音は、車が水をはねあげる音だ。
「ぼーさんたちだ!」
あたしは窓に駆け寄る。汚れたガラス越しに、校庭に上がってくる白い車が見えた。
「ぼーさん!」
「楽勝じゃない」
綾子の声も明るい。
「破戒僧《はかいそう》に外からドアを開けてもらいましょ」
「でも、開きますやろか……」
不安そうに言ったのは、ジョンだ。
「外からも開かへん可能性のほうが高いと思うんですけど」
「そんなの! 開かないなら、人なり業者なり呼んでもらえばすむことでしょ? どんな力で校舎を封鎖してるのか知らないけど、ブルドーザーか何かをぶつければ出口ぐらいできるわよ」
か、過激な……。
「――まずい」
低く言ったのはナルで、意味がわからなくてふりかえったときには、もうナルは階段のほうにむかって駆け出していた。
「どうしたのぉ?」
「開いてしまったらどうする!」
――へ?
わけもわからず、とにかく走りながら、あたしたちは一瞬顔を見合わせる。
――開いてしまったら?
ドアが外から開けば問題ないじゃん。
「――あ!」
声をあげたのはジョンで。
「は?」
「ドアが開いてしもうて、滝川《たきがわ》さんたちまで閉じこめられたら」
ドアが問題なく開く。何も知らない三人が、深く考えずに中に入ってきて、そうして閉じこめられてしまったら――。
急がなきゃ。ぼーさんたちがドアの外にたどりつくまでに、ドアの前に待機してなきゃ。
猛然《もうぜん》とダッシュしはじめたあたしだけど、それはいくらも続かなかった。 どんっ、と再び校舎を揺《ゆ》るがせる音がする。何か巨大な重たいものが、校舎の中を荒っぽく駆け抜けていく衝撃。
振動に足をとられて横転する。座りこみながら、あたしはとっさに側にいた綾子に手を伸ばす。
――離れちゃいけない。絶対に。
どしっ、と音がして、窓ガラスが悲鳴をあげる。建物が歪《ゆが》んで嫌《いや》な音をたてる。
続いて始まったのは激しい連打だった。教室中の壁を天井を床を、外から大きな鎚《つち》か何かで力任せに叩《たた》くような音がする。思わず耳を覆《おお》った掌《てのひら》ごしに綾子の声。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
はたと音が途絶《とだ》える。だけどそれは一瞬しか続かなかった。
ほっと息をつく間もなく、また始まる。耳を覆いたくなるようなひどい騒音と床を下から突き上げるような衝撃。
真っ先にナルが動く。階段は目の前だ。
誰かが玄関に駆け降りようとするあたしたちを邪魔している。ジョンに促《うなが》されて、あたしも立ち上がった。
階段を壁にしがみつくようにして降りると、壁を叩く音がついてくる。床下から叩《たた》き上げられて何度も足をとられて階段を転がり落ちそうになり、降ってくるホコリと何かの破片に目をしばたたきながら、とにかく下へ向かって急ぐ。
そして、小さなドア。ナルがその前で立ち止まる。ジョンと並んであたしもそこにとびついて。
薄いベニアでできた、半分腐《くさ》ったドア。――それが、開かない……。
「……やっぱりっ!」
「そこをどいておくれやす」
ジョンの声にあわてて身を引いたあたしの頬《ほお》に水滴が当たった。
小瓶《こびん》を振ったジョンが宙に十字を描く。
「主《しゅ》の御名《みな》において命ずる。悪《あ》しき力よ、退《しりぞ》け」
同時にナルがドアに蹴《け》りを入れると、小さなドアが吹き飛んだ。
そこを飛び出して倒れたままの陰壁《えいへき》を越えて、踊り場を回って。
そうして、あたしたちは、ぜんぜん間に合わなかったことを悟《さと》った。
「――にぎやかですねぇ」
傘の滴《しずく》を払って、安原《やすはら》さんが笑う。真砂子《まさこ》もぼーさんも呆《あき》れたように玄関からあたしたちを見上げていて――。
音がいつの間にかやんでいる。耳に聞こえるのは雨の音だけ。
そうして、あたしたちを見上げる三人の、その背後のドアは閉まっている。
「ぼーさんっ、ドア!」
あたしが背後を示して、ぼーさんは怪訝《けげん》そうに背後をふりかえる。
「――へ?」
一瞬きょとんと瞬《まばた》きしてから、ぼーさんはひょいと腕を伸ばす。
そうして、本当に予想できたことだけれど、ドアはもう開かなかった。
「――なんだ?」
残りの階段を駆け降りて、ぽかんとしている安原《やすはら》さんと真砂子《まさこ》の脇をかけぬけてドアに飛びつく。あたしと、ジョンと、ぼーさんと三人がかりで押しても、もうドアはびくともしなかった。
「――開かない」
「そんなはずございませんでしょう? たった今そこから――」
真砂子の声に、あたしは首を振ってみせた。
「開かないの。あたしたち、閉じこめられたの」
「――え?」
「真砂子たちが出かけたあともそうだったの。窓は動かないし、ガラスも割れないの」
しん、と沈黙が降りる。
「……そりゃ、難儀だなぁ」
ぼーさんの声にようやく息をついた。
「ほんで? なに? 頭数、足りねぇじゃねーの」
ぼーさんがあたしたちを見渡して、あたしはふいに胸を押さえた。
――リンさんは消えてしまった。
「リンと綾子《あやこ》は?」
……え!?
あたしは全員の顔を確認する。ナル、ぼーさん、ジョン、安原さん、真砂子。
……綾子がいない。
「どうして!?」
ふりかえったジョンの顔も呆然《ぼうぜん》としている。
「いつの間《ま》に」
「廊下《ろうか》にいたときはいたよ」
「下へ走ってくる時にもいはりました。あの騒ぎで座りこんではったのを立たせて……」 ジョンが階段をふり仰《あお》ぐ。
「麻衣さんを立たせて……」
金色の髪をむしるようにしてかきあげる。
「あかん。ボク、あの時、手を離して先に行ってしもうたんや……」
「ジョンのせいじゃないよ」
「けど」
「あたしも、手を握ろうと思って、離した……」
何が起こったの。リンさんも綾子もどうなってしまったの。
どっと後悔《こうかい》がこみあげる。調査に来ていちばんつらいのは、自分の力が足りなかったことを思い知らされるこういう一瞬だ。
「すんだことを考えてもしゃーねぇやな」
「ぼーさん、でも……」
「後悔《こうかい》は意義のあることだが、やることをやってからでいい。――綾子を探しにいくほうが先決でしょ」
「――うん」
ぼーさんはナルを見る。
「どうする。一階と二階と、分かれるかい?」
「分かれないほうがいいだろうな」
「はいな。ほんじゃ、二階だ」
全員で二階へ上がっていく。ドアをなくした二階との間の壁を越えて、さらに階段を昇っていく。階段を昇りきったところで、先頭のぼーさんが足を止めた。
「――どうしたの?」
階段を昇りきったところは少しだけ広くなってて、廊下は右へむかって延びている。その左側。そこにはいろんな色があふれていた。
「……!」
あたしたちは思わず立ち止まって、壁を見渡してしまう。
「こんな――」
「えげつないことをやってくれるぜ」
ぼーさんが吐き捨てるように言って、天井から下がったものをむしった。
色紙だった。
細く切った色紙をわっかにつないで鎖《くさり》を作ってある。それが何本か下がっていて天井と壁を飾っている。ティッシュのような薄い紙で作った花が、いくつか四角く壁に止めてある。花で飾られたそこには細く切った金の色紙で、文字が描いてあった。
『あやこちゃん おめでとう』
むしってみると、色紙はどれも退色して、まだらになっていた。ティッシュのような薄い紙にもたくさんのシミがついている。あたしたちはそれを全部はずして燃やした。
玄関に戻って、消えた焚《た》き火《び》をもう一回燃やしつけて。あたしたちが買い出し組に、いなかった間の事情を説明すると、今度は安原《やすはら》さんが口を開いた。
「僕ら、完全にハメられたんですよ」
「……だろうね」
あたしはうなずいたけど、安原さんは首を横に振る。
「買い出しにいったスーパーで、雨宿りしてる人たちに話をきいたわけです。するとですね、たいがいの人が口を聞きたがらない。たまに聞く人がいても、学校には近寄るな、とそればっかりです」
「……へえ」
「これには何かあるな、というわけで、地元の図書館に行ってきました。なんといっても廃校になった五年前の五月があやしいと、いうわけで。当時の新聞をひっくりかえしたら、簡単に出てきました。――ここに、コピーをとってきてあります」
安原さんはポケットから折り畳んだ紙を引っ張り出して開いた。
「山津波《やまつなみ》です」
「え?」
「覚えてませんか? 五年前。土砂崩れが起こって、車や家が巻きこまれてたくさんの人が死んだんです」
「そう言われてみれば……あったような……」
漠然《ばくぜん》と覚えているような気がする。崩れて扇形に茶色の土砂が広がった上空からの風景とか、土砂の中からクレーンで釣り上げたられたひしゃげた車とかの映像。
「ええと……?」
困ったようにジョンが口をはさんで、あたしと安原さんはジョンを見返した。
「そっか、ジョンは知らないんだ」
「ボクは五年前やったら、まだ日本にいませんでしたし」
「思い出した……。たしか、ドライブウェイに面したガケが崩れたんだよね」
「そう、それです」
「いっとき、ニュースやワイドショーはそればっかりだったから、覚えてる。よくある、森林伐採のせいで地盤が緩《ゆる》んで、ってやつ。長雨で緩んだ山が崩れて、バスと車の何台か、道路わきの家を呑《の》みこんだの。その中に遠足のバスも混じってて、全員が死亡。分校の生徒全員だったんで、閉校になったのよ。『悲しみの閉門』なんていって、喪章《もしょう》をつけたオジサンが学校の門に鎖《くさり》を巻いて鍵をかけるシーンを覚えてる」
安原さんはうなずいた。
「死亡が二十六人。重軽傷者が十一人の大惨事ですよ。死者のうち、遠足の帰りだった小学生が十八人。引率の教師がひとり。バスの運転手とガイド。同じく崖《がけ》崩れに巻き込まれた車が二台で、ともに運転手が死亡。道路脇の家屋四棟が巻き込まれて、住人の死者が三人。合計で二十六人、とうわけです」
……こういう話は嫌《いや》だ。すごくつらい。
「この結果、学校は全校生徒を一気に失った形になりました。翌年の新入生がひとりしかいなかったこともあって、事実上の廃校になってます。ダムができたのはその翌年で、たしかに集落がひとつ移転してますが、実際に移転が行われたのはもっと前の話だし、廃校には関係ありません」
「……じゃ、なにからなにまで大嘘だったんじゃない」
「そういうことになるね。――いちおう、合同で慰霊祭《いれいさい》が行われて、現場付近には大きな慰霊碑《ひ》も立っているようです。これでとりあえず、この事件はカタがついた格好になるわけですが。問題はそこからなんですよね」
――ふみ?
「図書館に来てた若い連中をつかまえて聞いてみたんですが、そいつらの証言によると、『死んだ小学生が寂《さび》しがって仲間を呼ぶ』という噂があるらしいんです。『だから、この近辺では子供が山に迷いこんで消息を絶《た》つことが多い』らしいんです」
「うそ……」
「実際、滝川《たきがわ》さんと原《はら》さんに手伝ってもらって新聞をチェックしたんですが、確かに小学生くらいの子供の失踪《しっそう》事件がすごく多いんです。それも、五年前からひんぱんに起こってる。五年前の六月をかわきりに、四か月から三か月にひとりの割合で消えてたんですが、これが一昨年でぴたっと止まっているんです」
……ふに?
安原さんはちょっと顔をしかめる。
「正確には一昨年の十月を最後に、新聞のうえでは一年半に及んで、失踪事件が止《や》んでるわけです。――なにやら、怪《あや》しげでしょう?」
「怪しげ?」
ナルが口を開いた。
「村長たちが依頼にきたのは、その失踪事件に関係があるだろうな。……だとしたら、失踪事件は止んでないんだ。間隔があいているのかもしれないが、少なくとも完全に終わったはずがない。それが新聞に出てないということは、報道されないよう手をまわしていると考えたほうがいいだろうな」
安原さんはコピーで軽く手を叩《たた》いた。
「ご名答です。――帰り道、近くの集落で聞いてみたんです。『こないだ失踪した子供の消息はわかったのか』って。カマをかけてみたわけですが。その返答が『そんなことを聞いてどうするんだ』でした。――失踪事件などなかった、とは言いませんでしたよ」
「なるほど……」
ナルが呟《つぶや》く。
「少なくとも『こないだ』と呼んでさしつかえない頃に、失踪事件があったわけだ……。――消えた子供たちの行方《ゆくえ》はどうなっていますか」
安原さんはさらに渋《しぶ》い顔をする。
「それがまた、うさんくさいんです。最初の頃の子供は全員死体で見つかってます」
「最初の頃?」
「五年前の六月以来……約一年の間、ですね」
「それ以後は?」
「見つかってません」
ナルは皮肉っぽく笑う。
「ひょっとして、死体が見つかったのはどこですか、という質問を待ってますか?」
安原さんはきまり悪そうに頭をかいた。
「やだなぁ。わかってるんなら、意地悪しないでくださいよ。――待ってます」
「どこです?」
「勝矢字勝矢支野田《かつやあざかつやしのだ》の山腹です」
「それは、この学校の所在地と一致しますか?」
「一致します」
「……なるほど、そういうことか」
――意味不明。
「あのー、失礼ですが」
おそるおそる聞いたのに、ナルの言葉は非情だったのだ。
「おまえは本当に頭が悪いな」
――余計なお世話だいっ。
「つまり、こういうことだ」
言ってナルは闇色《やみいろ》の目を、すっかり黄昏《たそがれ》た校舎の片隅に向ける。
「五年前、五月、この学校に通う生徒全員か死亡するという事故があった。それから一か月後、子供が失踪。その死体がこの学校から見つかる」
「……うん」
「悲劇のあとだけに、無用な詮索《せんさく》はされないよう、廃校で見つかったことは伏せて地名だけを発表したわけだ」
「ふむ?」
「ところが、約一年の間、同じことが続いた。これはおかしいと地元の人間なら思うし、地元の人間でなくても必ず死体が見つかると勝矢支野田という場所がどこなのか興味を持つ者もいるだろう。――それで彼らは死体を発見しないことに決めたわけだ」
安原さんが口をはさんだ。
「あるいは、死体を発見しても見て見ぬふりをした。さらに可能性だけで言うなら、死体を隠した」
「……そこまでするかな。――それはともかく。ところが、さらに失踪事件は続く。村の財政は観光収入でまかなわれてる。客足に影響が出ては、と新聞等に記事が出ないよう手をまわす。それでも、失踪事件は続く」
「それで、あたしたちの出番ってわけ?」
「そういうことだな。村長たちにしてみれば、失踪事件は防ぎたいが、だからといって内部の事情を人に知られるのは恐い、というところだろう。霊能者を探しにいくのは恐いし、霊能者に手の内を明かすわけにもいかない。どうしたものかと思っていたところに、たまたま霊能者のほうからやってきた、というわけだ」
ああっ、胸がムカムカするっ。
「それでぇ? 失踪事件を知られるのが恐いから嘘《うそ》八百ならべて、あたしたちをここへ来させたわけね? 正確な事情も知らされずに、ここがどんなに危険なところかも教えられずに。それさえ前もって聞いていたら、うかうかと閉じこめられたりしなかったのにっ! なんて卑怯《ひきょう》なのっ!」
リンさんだって、綾子《あやこ》だって……。
「まだワン・ピース足りないな」
ナルは安原さんを見る。
「何か手の内を隠しているのでは?」
安原さんは照れたように笑った。
「――当たりです。失踪事件の被害者は、新聞に報道されたかぎり、観光客がほとんどです。このへんのキャンプ場だの、スキー場だのから子供がいつのまにか姿を消す、というのがパターンです」
「……ああ、なるほどね。それは確実に客足に響くだろうな」
……卑怯な。そんでもって何も知らないでやってきた人たちが、どんどん犠牲者になっていくわけだ。なんて、卑怯な……!
「……けど、ということは」
ジョンが控え目な声を出した。
「――ん?」
「失踪した被害者の何人かは、まだここにいるとゆうことやないんですやろか」
まだ……ここにいる……。
「それはー、つまりー」
「いくらなんでも、死体を発見して見て見ぬフリをしたり、ましてや死体をどこぞに隠したりはせえへんはずです。校舎を探したら死体があるかもしれへんけど、探さんようにしよ、見つけてもええことはなんにもないし、ということなんとちがいますか?」
ということは……。
ナルがうなずいた。
「過去四年間に失踪した被害者の死体は、校舎の中にある可能性が高いな」
「うそ……っ」
あわてて立ち上がって左右を見回したあたしの腕をぼーさんが叩《たた》く。
「何度も校舎の中を見てまわったざんしょ? 簡単に見つかる場所にあるなら、とっくに見つけてるって」
「そ、それはそうだけど」
「死体が腐乱《ふらん》した臭《にお》いっつーのは、ちょっとやそっとじゃ消えねーの。どこか目につく場所にあったら、のんびり座ってられんぞ、きっと」
「……うん……」
「その場所がどこだか、探したほうがいいかもしれないな」
そんな恐ろしいことを言ったのは、当然ナルで。
「冗談っ」
「冗談じゃない。敵がもしも、動物が巣穴に獲物《えもの》をためこむようにして、どこかに獲物をためこむ習性があったとしたら、リンも松崎《まつざき》さんもそこにいる可能性がある」
……あ!
そうか、と思って、とたんに背筋が冷えた。
それは生きたまま? ……それとも。
あたしはあわてて頭を振る。そんなこと、ありえない。ふたりは死んだりしない。考えちゃだめだ。そんな不吉なこと。
「文字通りの墓場だな。考えただけでゾクゾクしちゃうねぇ」
「恐くて?」
「愉快《ゆかい》で」
おじさん、正直《しょうじき》じゃないぞ。
「楽しくてクセになると困るけど、探しにいったほうがいいだろーな」
ナルはうなずく。すぐに真砂子《まさこ》に目をやって、
「原《はら》さん、何か感じますか」
真砂子はうなずいた。
「はっきり感じるのは存在感の薄い霊だけです。たぶん、失踪した被害者の霊でしょう。数は二十人以上です」
「すぱっと解答が出るのは久々だな、真砂子ちゃんや」
ぼーさんが笑う。真砂子はつん、とそっぽを向いた。
「全部が子供ですか」
「存在感がないのでよくわかりません。ただ……もう少し暗くなって、活性化してくるとはっきりすると思いますわ」
「それは、どこにいます?」
「どことも申しあげられません。校舎中をさまよっています」
「ほかには?」
真砂子はちょっと眉《まゆ》をひそめた。
「とても大きな歪《ゆが》みを感じますわ。この場に強い因縁《いんねん》がある霊の集団です。ただ、互いの存在が混沌《こんとん》とまじりあっている感じでうまく把握《はあく》できませんの。場所もよくわかりません。とてもうまく隠れていますわ」
「なるほど……。リンか松崎さんの気配は感じますか」
真砂子は首を横に振った。
「さっきからそれが見つからないかと思ってはいるのですけど……」
「そうですか。――これは、手当たりしだい探してみるしかないな」
……うん。
「全員、何を持ってる?」
ナルに聞かれて、あたしはちょっときょとんとする。あわてて体を探ってみたけど、持っているといえるのは腕時計だけ。あとは、ケーブルをまとめるのに使うビニールテープぐらい。
「と、時計ぐらいしか……」
「馬鹿《ばか》。誰がそんなことを聞いている」
あっさりナルに言われてしまった。
……だってー。
「聖水とロザリオだけはありますです」
そう答えたのはジョンだ。ぼーさんは、デニムのベストの背中に手を突っ込む。ベルトにはさんであった独鈷杵《とっこしょ》を引っ張り出した。
「こんだけ。――それと、オイルライターだな」
「数珠《じゅず》と、塩を少し」
そう言ったのは真砂子。
……そーか、そういう意味の質問だったわけね(赤面)。あたしは何も持ってない。安原《やすはら》さんが何か持っているはずもない。
「最低限の装備、というわけだな」
ナルはそう言ってから、
「とにかく、絶対に離れないこと。ぼーさんかジョンのどちらかの位置を常に確認して、距離を作るな。必ず手を伸ばしたら届く範囲に誰かがいるようにすること。何かあったら手近の人間をつかまえて離さないこと」
――うん。わかった。
「もう一度、全部の教室を調べてみる。床も壁も、全部を叩《たた》いてみてでも、異常がないのかチェックする」
はい、とあたしはおとなしく手をあげた。
「もしも、どこにも異常が見つからなかったら?」
「その場合は校舎の外に死体置き場があるとみなして、脱出方法を探す」
「……了解」
あたしたちはまず、リンさんと綾子《あやこ》が消えた二階に向かった。
目には見えない場所には死体が隠されているかも、と言われても、じゃあどこを探したらいいのか、実際には雲をつかむような話だ。とにかく少しでも妙な場所がないか、階段の踏み板を一段ずつ持ち上がらないか試してみたり、ホコリの上に残った足跡を数えるようにして何かの痕跡《こんせき》がないか探してみるしかなかった。
リンさんが消えたとき血痕《けっこん》の見つかった教室と、『あやこちゃん おめでとう』という悪質なメッセージが見つかったあたりはとくに丁寧《ていねい》に。
板を一枚一枚押したり引いたりしながら調べてみても、なんの異常も発見できない。
雨が少し小降りになっていた。雲越しの明かりは頼りない。それでも本格的に日が暮れてしまえば、調べることさえでくなってしまう。
焦《あせ》りながら一階へ。いちばん手前の教室に入って、積み上げてあるガラクタを全部動かすようにして。
「……なんにもないよぉ」
這《は》うようにしてホコリの上に何かが落ちてないか、床板に異常はないか調べて、腰も首もギシギシいっている。
「綾子……返事しろよなー」
なんだか泣きたい。
「いっつもあんだけうるさいんだから、こういう時だってちゃんと自己主張しろよー」
「……麻衣《まい》」
真砂子《まさこ》に軽くたしなめるように呼ばれた。
「うん。――しゃべってないとメゲそうなの」
真砂子はちょっと困ったように笑っただけで、それ以上は何も言わなかった。
邪魔になる箱をかかえあげて、手近の机の上にのせる。ついでにちょっと両手を上げて、のけぞって背筋を伸ばしてやる。うーん、と伸びをして、あたしはそれに気がついた。
「ナル」
「……どうした?」
あたしは天井を示す。まだ様子がわかる程度には明るい。それで、いくつも大きなシミのついた天井板の、板と板の間の隙間《すきま》が妙に太いのに気がついた。板の合わせ目にしてはえらく太くて汚れた灰色で、しかもなんだか盛り上がってるように見える。――ころなしかさわさわ揺《ゆ》れているようでもあった。
「なんだ? あれは」
全員で見上げたとき、あたしの目はさらに円を描いて飛ぶ黒いものを捕らえる。黒い小さなものが、いくつも天井近くを飛んでいる。
……虫だ。
思ったとたん、ぐうっと吐き気がこみ上げた。
「……麻衣、あれ……」
「やめて」
真砂子と抱き合うようにして。
――気分が悪い。本当に吐《は》きそう。
二階の天井板もシミだらけだった。外の雨が漏《も》って入るのだろう、濡れた色のシミから水滴を落としているところだってあった。
でも、ここのはぜんぜんシミの色が違う。黒いようなこげ茶のその色。……そして、虫。板の隙間にびっしり集まってうごめいている無数の虫。
ぼーさんが机の上にのぼり、腕を伸ばして軽く天井板を叩《たた》いた。とたんに聞こえる、ふわぁんというような羽音。思わず身を縮《ちぢ》めて耳を塞《ふさ》いだ目の前にも、黒い虫が飛んでくる。
「こいつぁー愉快《ゆかい》すぎるぜ。――ジョン、麻衣と真砂子を頼む。廊下《ろうか》に出てろ。少年も行け」
「ハイっ」
ジョンがあたしたちの背中をかばうようにして、廊下に押し出した。ドアを出たところで、思わず天井を見上げてしまう。廊下の天井も教室と大差なかった。
「ナル坊、なんか、棒《ぼう》あるか」
机の脇に立ったナルが、デッキブラシらしき長い棒を渡した。あたしたちはそれをしっかり手を握りあってドアのところから食い入るように見ている。
「ぼーさん……止《や》めときなよ」
あたしの声にちょっとだけふりかえって、
「そいうわけにはいかんでしょーが」
言って、棒の先で、手近の隅から天井板を軽く押し上げていく。
「普通、一枚くらい動くやつがあるんだが……。――これか」
窓際の、黒板側の隅の板が動いた。とたんに黒い虫が盛大に飛び立つのが見える。ぼーさんはちょっと離れた机の上から、棒でその一メートル四方程度の板を押し上げる。ふっと風がふくようにして、ものすごい臭気が流れてきた。
「……う!」
ダメだ。本当に吐きそう。あわててハンカチを引っ張りだして顔を覆《おお》ったけど、そんなものでまにあうような臭いじゃない。臭気から逃げるように机を飛び降りたぼさーんが、顔をしかめて天井を見上げる。
「上のようだな」
さすがに眉《まゆ》をひそめてるナルがうなずく。
「どうする、ナル坊」
「確認しないわけにはいかないだろう。……上にいられるとも思えないが」
それがリンさんと綾子のことを言っているのだとわかって、あたしはめまいを感じる。意識のある人間が――たとえ気を失ってても――このすごい臭気がこもった空間にいられるとは思えない。
「……やっぱ、俺が行くんだよな?」
「おじけづいたんなら、僕が行ってもいいが?」
「ぼーさん、やめて」
あたしは声をあげる。そりゃ、確認してみないわけにはいかないんだろうけど。でも、でも。
ぼーさんは机を教室の隅に運《はこ》ぶ。
「ちょい、のぞくだけ」
「のぞくだけ、だね?」
「俺がのったら、天井が落ちるよ」
ナルが教室の、廊下に面した窓を一枚外す。それを机の上にのせた椅子にのぼったぼーさんの足元に斜めにすえた。窓からのとぼしい光がガラスに反射して、天井に当たる。
「やっぱ、ライターはまずいかな」
「使わないほうが無難だとは思う。――中の空気も吸わないほうが無難だな」
ぼーさんが渋《しぶ》い顔をして、それから片手でそろそろと天井板を持ち上げる。天井の中に顔を突っ込んで、しばらくしてから、そっと天井を戻しながら身を屈《かが》めた。
「ぼーさん……?」
天井板をぴったりもとに戻して、ぼーさんは肩で息をしながら床に座りこんでしまう。
「いやー、滅多《めった》に見られんものを見ちゃったわ……」
「綾子と、リンさんは?」
そう聞いたとき、
突然かたかたと天井裏を何かが駆け抜ける小さな音がした。はっと見上げた目に天井が揺れるのが見えた。
いや、揺れるのではなく――中央の天井が動くのが。
すっと横にスライドする。ぽっかり黒い穴が開いて、そこから何かが滑《すべ》り出てくる。
それを一瞬だけ視線で捕らえて、あたしはとっさに悲鳴を上げて目を固く閉じた。
「いや――――っ!!」
濡れた堅《かた》いものが落ちた音がした。
六章 八月十三日 午後五時三十分――午後八時
「ダイジョウブです。だいじょうぶ」
ジョンの声がして、あたしはちょっと目を開く。
「目を開けてもどうもないです。そのまま、中が見えへん位置まで下がってください」
優《やさ》しい声にはげまされて、おそるおそる目を開けると、目の前にジョンがいた。
ちょうどジョンの身体が入り口を塞《ふさ》いでいて、中の様子は見えない。あたしは軽く息をついて――すごい臭いがした――真砂子《まさこ》と安原《やすはら》さんの手を握ったまま、そろそろとその場を下がる。壁ぞいに下がって、中が見えそうもない位置で立ち止まった。
「ジョン、そいつら連《つ》れて、玄関に戻れ」
ぼーさんの声が教室の中から聞こえて。
「ハイです。――さぁ、戻りまひょ」
その口調《くちょう》がおかしくて、なんだか泣き笑いになった。ジョンに背中をおされるまま、バリケードの内側に戻る。玄関の、校庭に向かって右側には窓がある。その窓のガラスの割れたところから鼻先を突き出すようにして、しばらく息をした。
濡れた、雨の匂《にお》いのする空気がすごくおいしかった。
ぼーさんとナルは、かなりの時間が経《た》って玄関の中が暗くなってから戻ってきた。ふたりがバリケードの内側にはいってくるなり、微《かす》かにあの嫌《いや》な臭いがする。ずいぶん時間がかかったので、ちょっと心配だったからホッとした。
「どないです?」
ジョンが声をかけて、ぼーさんは肩をすくめる。
「ま、前を通っても、お嬢さんがたが腰をぬかすことはねえと思うよ。隣の教室にあった体操マットをかぶせといたから」
……よ、よかった……。ありがとー。
「やっぱり……死体だったの……ね」
そう言うと、ぼーさんはゲンナリしたようにうなずく。
「あれで生きてるはずがねぇ。――大人《おとな》だったぜ」
あたしたちはきょとんとした。
「大人?」
ぼーさんもナルも、ぐったりしたように土間に座りこんだ。
「……水くれ。――そう、大人。失踪したのは子供ばっかじゃねえってことだな」
「滝川《たきがわ》さん、カップ、どれでしたっけ」
安原《やすはら》さんの問いに、
「トリケラトプス。――失踪する子供が出る。それを探しに大人がここにやってくる。その連中が俺たちみたいに閉じこめられて、全員とはいわんがひとりぐらいは消えたとする。すると、二度とここに死体を探しにこようとは思わんだろ。それで死体を放置してたんじゃないか、――ってのがナル坊の意見」
……ますます、卑怯《ひきょう》な。それを言ってくれたら、こんな酷《ひど》い経験をせずにすんだのに。村長も助役もぜったい許さんっ。
安原さんはお茶を入れたカップを、ぼーさんとナルに渡して、
「どうぞ。渋谷《しぶや》さんはキツネでしたよね。――それで、リンさんと松崎《まつざき》さんは?」
「端まで見えたわけじゃねぇから、確実なこた言えんが、いないようだった」
「……死体だけ……?」
「生きた人間はいないように見えたな」
奇妙な言い方に、あたしはぼーさんをまじまじと見る。
「生きた動物ならいたわけ?」
聞くと、ぼーさんはちょっと険しい顔をした。
「何かがいた。――はっきり見えたわけじゃねぇが」
「何か?」
「それがなんだかわからんから、『何か』という」
……なんだよ、それはー。
「なんだかわからんが、俺の知ってる言葉で表現するなら、あれは餓鬼《がき》に見えた」
「え?」
「――子供くらいの大きさの鬼だ」
誰もが一瞬しんと押し黙った。
「餓鬼って……?」
「梵語《ぼんご》でプレタ。音写して薜《へい》れい多《た》。正確な意味は死者の霊のことだな。漢文に翻訳《ほんやく》するなら単に『鬼』と言ったほうが正しい。『鬼』ってのは、実際には死者の意味だからな。それを、子孫が食べ物を供《そな》えて供養してくれるのを待ってるから『餓鬼』という字を当てる。――これがそもそも」
「そもそも、ということは先があるんだ?」
「これが仏教に入って、生前の悪行の報《むく》いを受けて餓鬼道に落ち、飢餓《きが》に苦しみ続ける霊を言う。身体はやせ細って、喉《のど》は針のように細くなる。なんとか食べ物を見つけても喉を通らないうえに、無理にも食べようとすると食べ物が火に変わってしまって食べることができない」
「ひど……」
「そのために、常に空腹に苦しんでいるというわけだ。弔《とむら》うもののない無縁仏《むえんぼとけ》のことも『餓鬼』と言うけどな。手足は枝のよう、腹だけが太鼓《たいこ》みたいにふくれた小鬼の姿で描かれるのが普通だな」
……やっぱぼーさんはお坊さんなのね、と、あたしは当たり前のことに感動してしまった。
「その、餓鬼がいたの? 上に」
「そういうふうに見えただけだ。死んだ子供に餓鬼道に落ちるほどの罪があったとは到底思えん。第一、餓鬼道なんてのを、俺は信じない。単なる想像の産物だ。……ただ、死んだ子供たちは何かに餓《かつ》えているのかもしれん。それであんなふうに見えたのかも」
言ってごく真面目《まじめ》な視線を天井に向ける。
「だったら、ここは滝川《たきがわ》さんの独壇場《どくだんじょう》ですね」
安原《やすはら》さんに言われてぼーさんは眉《まゆ》をひそめた。
「施餓鬼会ってのがあるじゃないですか。あれって餓鬼を慰《なぐさ》める行事でしょう?」
「残念でした。その場合の餓鬼は単に死者の意味。盆にお供えをする、アレだよ」
「ありゃー。なんだ、そうなのか」
「ねぇ……? その……死体が落ちてくる前に、誰かが天井板を動かしたように見えたよね」
あたしが聞くと、ぼーさんはそっけなくうなずく。
「そのようだったな」
「ひょっとして、それをやったのが……?」
「かもしれん。実際のところは俺にゃーわからんよ。確実にわかるのは、ここは危険だから早く出たほうがいいってことだけだ」
誰もがむっつり黙《だま》ってしまった。そんなことはわかってるけど、外に出る方法がない。重いものが頭上にのしかかってきた気がする。
ふたりはどこへ消えたんだろう。いま、どうしているんだろう。ふたりを助ける方法は?
「少し、リラックスしましょう。こうやって黙りこんでいても、すこしもマシにならないんですから。ペンギンのカップは誰でしたっけ」
安原さんが言って、ジョンが手をあげた。
「ボクです。すんまへん」
「いえいえ。ウサギのは誰の?」
――ウサギ。
真砂子《まさこ》が少し嫌《いや》な顔をした。
「……松崎《まつざき》さんですわ」
「あっと……」
安原さんはちょっと気まずそうにする。全部のカップにお茶をいれてしまったのだ。
「すみません」
誰の手にも渡らないふたつのカップが切ない。
「内心、動揺してるな、少年」
「やぁ。これはバレてしまいましたね」
「まだまだ修行が足りんのう」
「なにぶん、若輩者《じゃくはいもの》でして。ぼく、早く滝川さんみたいなステキなおじさまになりたい」
「気持ち悪いから、やめろって」
安原さんはニンマリする。
「へえぇ、そちらを取りましたか」
「あ?」
「気持ち悪いと抗議してくるか、まだ若いと抗議してくるか、興味|津々《しんしん》だったんですが」
「おまえなー」
「おじさんであることを認めましたね」
「どーせオイラは日本一さっ」
「――それは、富士山」
「どーせ、俺は桃太郎の子分……」
「それはキジさん」
「ど、どーせ俺は朝ご飯……」
「それはクロワッサン。――ちょっと苦しかったですね」
「うーん」
くっくっく。
人間、こういう状況でも笑えるからすごいよなぁ。
笑いながら、そうしみじみ思ったときだ。
横から手が伸びて、ちょうどあたしと安原さんの間に置かれたカップを取り上げた。
「これ、あたしのだよ」
カップを取ったのは小さな女の子だ。
――――。
――この子は……。
あれ? あたし……。
「ウシさんのは、タカトくんのでしょ」
女の子が見たほうに、もう少し小さな男の子がいる。
あたしはなんとなくキョトンとしてみんなの顔を見る。安原《やすはら》さんが少し目をぱちぱちさせてから、苦笑した。
「やだな。どうしたんですか。ぼーっとして」
「え? ……そう、そだね」
「麻衣《まい》おねーちゃん、変なの」
マリコちゃんは笑う。
……そう、この子はマリコちゃんだ。あたし、何をぼーっとしてたんだろ。
「ごめん。ちょっとくたびれてたかなー」
「半分寝ぼけてたんじゃねぇのか?」
苦笑したのはぼーさんだ。
「ちがわいっ。――ごめん、タカトくんはこれね。はい」
「ありがと」
あたしはタカトくんに笑って、それから何かが胸の中につかえたような気分にとらわれた。なんだろう……この感じ。みんなを見渡すと、誰もが何かを気にかけているような顔をしている。
「どしたの? 麻衣おねーちゃんもみんなも、ちょっと変だよ」
「そ、そかなー」
とにかく、と何かをふっきるみたいな声を出したのはぼーさんだ。
「じきに陽が落ちるぞ。それまでに何か有効な対策を考えねーと」
ナルがうなずく。
「とにかく絶対に相手の手に乗らないようにしないと」
ナルの声は、自分に言いきかせるような響きをしている。どこか釈然としない表情に見えるのが不思議《ふしぎ》だ。
「さっき死体を落としてきたのも、一種の陽動《ようどう》だと思う」
「陽動?」
「あれに驚いて全員が前後を見失って逃げ出していたら、誰かが消えていただろうということだ」
「そっか」
ぼーさんが、いきなり笑った。
「そりゃ、考えすぎじゃねえーの? 消えるって、どうやって消すんだよ」
あたしはちょっと驚いてしまう。
「なに、ふざけてるの? げんにリンさんも、あ……」
……あれ?
マリコちゃんが不思議そうに見上げてくる。
「麻衣おねーちゃん、リンさんってだぁれ?」
「えーと……」
ぼーさんが苦笑する。
「完全に寝ぼけてるんじゃねーのか、おまえ」
「あれー?」
真砂子《まさこ》も呆《あき》れた顔をする。
「麻衣は目を開けたまま眠るのが得意ですものね」
「うるさーいっ。ちょっとボケただけじゃんっ」
「ちょっと? 大ボケですわよ。誰ですって?」
あたしは首をかしげる。
「誰、って言った?」
「自分で言って忘れたんですの?」
「えーと……」
ありゃー? あたし今、誰って言ったんだっけ?
「大馬鹿者《おおばかもの》は無視しよう」
ナルの冷たいお言葉。
「ぼーさん、ここに結界《けっかい》をしけるか?」
「やってもいいが、そこまでする必要があるのか?」
ナルは眉《まゆ》をひそめる。
「それはそうだが……。用心に越したことはないだろう」
でも、と声をあげたのは安原さんだ。
「そうやって結界の中に閉じこもって用心していれば危険は減るでしょうが、ここから出られなければ、どのみち行き着く先は同じじゃないですか?」
「そうだな……」
ぼーさんがうなずく。
「安原少年に賛成だな。閉じこもるより積極的に出て、除霊にかかったほうが早いと思うぞ。俺はここでひからびて死ぬのはごめんだからな」
ジョンもうなずく。
「さいですね。――ここには小さなお子さんもいるんやし、とにかく校舎を出ることを考えないと」
そうだよねぇ。
あたしはおとなしく座っているふたりを見る。マリコちゃんは十一歳、タカトくんは九つだ。何よりもふたりを守ってあげないと。
「安全策はわかるが、夜になって活性化するとやっかいだ。ちと積極的に脱出する方法を考えねぇか?」
ナルは少しためらうようにしてから、うなずく。
「――そうだな」
「まず、脱出路を探る。幸いこの建物は木造だ。壁に穴をあけられないか、やってみる」
ナルの宣言に対してぼーさんが首をかしげる。
「どうやって? 道具はないぜ」
「まず家捜《やさが》しをして何か道具になるものがないか、探すんだな。それでダメなら火を使う」
「燃やしてみるのか? 過激だな」
「焦《こ》がすだけだ。少しでももろくなるように。――これでダメなら、霊を追いつめる方法でいく」
「追いつめる?」
「特定の場所に霊を追いこんでいくんだ。そこで一気に除霊をする」
「――あいよ」
「全員で校舎内を調べる。――原《はら》さん、ついでに各教室の様子を見てもらえますか」
「ええ。……わかりましたわ」
教室の様子を見ていく真砂子《まさこ》について、あたしたちも真っ暗な教室を家捜ししていく。見つけた空《あ》きカンに木くずを入れて燃やして、カンテラ代わりにしてはいるけど、探し物はほとんど手探りが頼りだ。
ジョンの言葉で、マリコちゃんとタカトくんも家捜しに参加している。
「さあ、お子たち。何か堅《かた》いものを探すのを手伝ってください」
「はぁい」
「うんっ」
放置された道具をかき分ける手を休めて、あたしはふと熱心に探し物をしているふたりを見つめた。ジョンと何かを話しながら、子供らしい熱心さでホコリだらけになって手を動かしている子供。ときどき脱線して遊び始めては、ジョンに軽くたしなめられてあわてて作業に戻る。
それは微笑《ほほえ》ましい光景だ。……すくなくともそのはずなのに。……どうしてなんだろう……何か、すごく……。
「どうかしましたか? 谷山《たにやま》さん」
安原《やすはら》さんが聞いてきた。
「なんだか、気分が悪いの……」
「だいじょうぶ? 風邪かな」
「ううん。そんなんじゃなくて。なんだか、胸の中がモヤモヤするの。何かが喉《のど》にひっかかってるみたいで、すごく気持ち悪い……」
安原さんもふいに不安げな顔をする。
「谷山さんも?」
「も、ってことは安原さんも?」
「うん。なんか、こう……。どっかに何かが引っかかってる感じなんだよね」
「うん……」
ね、と安原さんは声をひそめた。視線がジョンのそばにいるふたりの子供に向かう。
「マリコちゃんとタカトくんを見てると、変な気分がしたりしませんか?」
「安原さんも? あたしもそうなの。ふたりを見てると、何か嫌《いや》なことでもおこりそうでドキドキする……」
「僕もです。どうしてでしょうね」
「危険だから、じゃないかな。こんなところにあんな小さい子がいるから」
「そうか。……そうだよね」
とても危険。それは確かだ。でも……それ以上何か……。
あたしはひとつ頭を振って、箱の中に入った雑多なものをかき分ける作業を再開した。
「やだな。いろいろあったから、ちょっと気弱になってるみたい」
「僕もそうみたいだな」
言って、安原さんはふいに怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どうしたの?」
「いや、今、何かひっかかったんだけど……」
首をかしげると、背後から声がする。
「何かありましたか?」
ジョンが立ち上がってこちらを見ている。その両脇にはジョンに手を引かれたマリコちゃんとタカトくん。カンテラの光が背後になって、揺らめく光で三人の表情は陰っている。
それはなんだかすごく不安な構図に見えた。
一階のどの部屋にも、壁を壊《こわ》せそうな道具はなかった。
二階に上がるとき、ドアを――すでにドアはなくて脇にたてかけてあるだけだから、正確には入り口を――越えるのがなんだかとても嫌《いや》なことに思えた。自分でもその理由はわからない。
ほとんど何もない部屋を家捜《やさが》ししながら、あたしはいちばん奥の教室にたどりつく。そこにも、壁を壊せそうな道具はなかった。
「こりゃ、危険な方法に頼るしかねぇみたいだな」
ぼーさんの言葉にナルがうなずく。
「ああ」
だいじょうぶなのかなぁ、火なんか使って。
そう思いながら教室を出ようとしたとき、マリコちゃんとタカトくんの後ろを歩いていた安原《やすはら》さんが急に立ち止まった。
「安原さん?」
安原さんはすごく奇妙な表情をしている。
「どうしたの、おにぃちゃん」
マリコちゃんが声をかけると、安原さんは一、二歩その場をさがる。教室の中に安原さんだけが取り残された。
「どうしたの? おにぃちゃん、へん」
タカトくんはくすくす笑う。
あたしは廊下を先に行こうとするナルたちに声をかけた。
「ナル、待って。――どうしたの、安原さん? ナルたち、行っちゃうよ」
「谷山《たにやま》さん。……車」
「え?」
「どうして車が二台あるんです!?」
……どうして……二台……?
ぽかんと考えこんだのと同時だった。
その瞬間のことをどういうふうに形容したらいいのか、わからない。突然、教室の壁が火を噴《ふ》いたのだ。――安原さんを呑《の》みこんだまま。
充満していたガスに誰かが火をつけたように見えた。実際、そんな音がした。目の前がまぶしいほど明るくなったと思ったら、目の前に炎の壁ができていた。
「――や――ぁぁっ!!」
「安原さん!?」
「おいっ!!」
半分開いた教室のドアの、その向こうには炎が充満していた。廊下《ろうか》がわの窓からも、教室の中が幾重《いくえ》もの炎で満たされているのがわかる。
――そんな。
――そんな、馬鹿な!
「安原さんっ!!」
「麻衣《まい》、ダメ! 離れて!!」
真砂子《まさこ》が腕にすがりつく。
「でも! だって!!」
「お願いですわ! 無茶をしないで……!」
真砂子が腕に額《ひたい》をつける。真砂子と炎の海になった教室を見比べて、あたしは深い溜《た》め息《いき》をついた。溜め息というより、嗚咽《おえつ》だった。しがみついてくる真砂子にしがみついて、目を閉じた。
火は数分の間燃えつづけて、唐突《とうとつ》に弱まって消えた。
消えたあとにはガランとした教室が残された。焦《こ》げあともなければ、煙《けむり》も何もない。火事があったのが嘘《うそ》のようだったけど、そのかわりあるはずのものが消えていた。安原さんの姿はもちろん、床の上に散らばっていたガラクタも、壁に貼《は》ったままになっていた地図も、たまったホコリも。
誰かが完全に掃除をしたように、本当になにひとつ残っていなかった。
「どうやら、火で脱出路をはかるのは無駄らしいな」
ナルの冷静な声に、あたしは顔を上げる。呆《あき》れた。呆れたというより、不快だった。
――そんなことを淡々《たんたん》と言っている場合!?
「そのようだな。やれやれ」
ぼーさんの声にあたしはふりかえる。真砂子も驚いたようにしていた。
「ぼーさん!」
ぼーさんは軽く息をついて、あたしと真砂子の頭を小突《こづ》く。
「おまえたちもいい加減に泣きやめ」
そんな、と絶句するあたしに向かって、ジョンが困ったように微笑《わら》う。
「驚かはったんでしょう。無理もないです」
「驚く……って、そんな――」
あたしの服を誰かが引っ張った。
「麻衣おねーちゃん、どうしたの?」
「マリコちゃん、今――」
言いかけてあたしは言葉を失う。マリコちゃんの顔を見たとたん、何を言いたかったのか、忘れてしまった。
あたしを三人の子供たちが不思議《ふしぎ》そうに見上げていた。
七章 八月十三日 午後八時−午後十一時
玄関で、ナルとぼーさんとジョンが除霊の打ち合わせをしている。あたしはぼんやりガラスの外を見ていた。と、言っても外はもう暗いので、鏡《かがみ》を見るがごとし。
「醜態《しゅうたい》ですわね」
隣《となり》に座っていた真砂子《まさこ》が小声で言う。
「……うん」
「自分でも呆《あき》れてしまいますわ。規模が大きいとはいえ、発火現象ぐらいで泣き出してしまうなんて」
真砂子の声は本当に忌《い》ま忌《い》ましそうだ。
「そうだね……」
「麻衣《まい》おねーちゃん、真砂子おねーちゃん、ジュースのんでいい?」
タカトくんが聞いている。
「いいよ。いれたげる。タカトくんはどれだっけ」
「ウシさん」
「ウシさんね、はい。マリコちゃんは?」
「ウサギ」
「おっけー。ツグミくんはカニさんだっけ?」
「うんっ」
「ツグミ、こぼしちゃ、だめよ」
マリコちゃんは世話をやく。ツグミくんはマリコちゃんの弟だ。
それを少し微笑《ほほえ》ましい気分で見てから、あたしは視線をガラスの外に戻す。なんでだか、すごく憂鬱《ゆううつ》で、意味もなく気分が沈んでしまう。暗がりの中に雨が降っている。焚《た》き火《び》の光に照らされてガラスを横切る滴《しずく》が薄赤く光る。その向こうに二台の車が黒い影の形で見えた。
……二台の……車……。
あたしはふと、誰にともなく聞いてみる。
「ねぇ、車を運転してきたの、誰だっけ?」
ぼーさんが呆《あき》れたような顔をした。
「おまえはもうアルツハイマーか? 俺だよ」
「もうひとりは?」
ぼーさんはふと眉《まゆ》をひそめる。すぐにジョンが笑った。
「麻衣さん。ボクです」
「ジョン、車の運転できたっけ」
ジョンもちょっと奇妙な表情をした。
「ええ……そうやと……。そうです」
「麻衣、だいじょうぶか? 本当にボケてんじゃねぇだろうなー」
「ちがわいっ。ちょっとド忘れしただけじゃない」
「熱でもあんじゃねぇのか?」
――ふーんだ。ちょっとしたミスじゃん。
あたしは視線をガラスの外に戻す。
……そっか。ぼーさんと、ジョンだったよな。
ああ、あたしは本当にどうしたんだろう。どうもおツムの調子がおかしいわ。
「ねぇ、麻衣おねーちゃん」
マリコちゃんがあたしの手を引いた。
「ツグミがお金を落としたんだって」
「お金? どこで?」
ツグミくんは泣きそうな顔をする。
「にかい。ぼくのちょきんなの。ごひゃくえんもあったんだよ」
「ありゃー。それは大変だ」
タカトくんが首をかしげた。
「にかいのいりぐちをはいったところに、メダルみたいなのがおちてたよ。あれかなぁ」
「みにいっていい?」
「あ、一緒に行ったげる」
「麻衣」
ぴしゃりとナルの声が飛んでくる。
「勝手にふらふら歩くんじゃない」
「でも、ちょっとだけ」
「駄目《だめ》」
……なんだよー、けちー。
「あたくしも行きますわ」
真砂子が言うと、ツグミくんが真一文字《まいちもんじ》に口を結んで首を横にふる。
「いいの。ぼくのだから、ぼくがいくの」
「でも、ひとりじゃあぶないから」
「いいのっ」
「あたしはべつに、ツグミくんのへそくりを盗《と》ったりしないぞー」
「だめーっ!」
……やれやれ。
「ツグミくん」
ナルの声は相手が子供だろうと、優《やさ》しさのかけらもない。
「ここはあぶないところなんだ。ひとりで出歩かせるわけにはいかない」
「いやーっ」
「泣いても駄目だ」
「おねぇちゃんと、タカトくんがいくもん」
「駄目だ」
ツグミくんは泣きべそをかいている。
「ねぇ、ちょっと上までだから」
「麻衣に子供を守る力があるのか」
……ないけどさ。ぶつぶつ。
「あたくしが行きますわ。あたくしと一緒に行くか、行かないか、どちらにします?」
真砂子がツグミくんの前に屈《かが》み込む。
「どっちもいやー」
「ワガママはいけませんわ。もう暗いでしょ? 子供だけで行ったら危険ですの。ね? あたくしだけ、連《つ》れていってくださいな」
「……真砂子おねーちゃんだけ?」
「ええ、あたくしだけです」
「おねーちゃんだけならいいよ」
「そのかわり、二階の入り口のところだけですわよ。そこになくても諦《あきら》めてくださいね?」
「いやだもん」
「じゃあ、行っちゃいけません」
ツグミくんは、涙をこぼしながらうなずく。
「ナル、よろしいでしょう? すぐに戻りますわ」
ぼーさんが立ち上がる。
「俺も行ってくるわ」
「だめっ。真砂子おねーちゃんといくのっ。おねーちゃんだけだって、やくそくしたもんっ! ほかのひとはきちゃだめ!」
「はいはいはい」
ぼーさんは苦笑する。真砂子に向かってライターを投げた。
「ほらよ」
「どうも。――さ、ツグミくん」
「うんっ」
真砂子に手を引かれて、ツグミくんはうれしそうに階段へ歩いていく。そのあとを小走りにマリコちゃんとタカトくんが追いかける。
もう建物の中は暗い。階段を少し昇ったところで、真砂子がライターの火をつけた。オレンジの揺《ゆ》れる明かりに照らされた、真砂子の顔が踊り場を横切る。なんだか目が離せなくて、あたはじっとそれを見ている。いつの間《ま》にか、手をしっかり握っていた。
……どうしたんだろう、あたし。すごく、不安だ。
踊り場の壁に黄色っぽい光が、影と交《ま》じってゆらゆら揺れる。どうして炎の光って、あんなに不安な輝き方をするんだろう。あたしだけじゃない。ナルもぼーさんもジョンも、階段のほうをじっと見てる。
あった、とすぐに声がして、あたしは息を吐《は》いた。壁を照らした光が強くなって、すぐに光が降りてくる。オレンジの光に照らされて、降りてくる人影もオレンジがかかって揺れて見える。
だいじょうぶ。全員、ちゃんと降りてきた。
ほっと息をついて、あたしは階段を降りてくる四人の子供を見守る。
なぜだかふと、とてもとても嫌《いや》な感じがした。
雨は続いている。校舎の外にも完全な闇《やみ》が落ちた。玄関で燃やされている焚《た》き火《び》だけが、唯一《ゆいいつ》の光源だ。決して大きい焚き火ではないので、玄関のすみずみにまで光は届かない。建物の隅に、階段の下に、黒々と闇がうずくまっている。
あたしは焚き火に向かって身を縮《ちぢ》めている。焚き火の周囲に見える人影を何度も見渡した。ナルと、ぼーさんと、ジョンと、そして四人の子供たち。マリコちゃん、ツグミくん、タカトくん、ミカちゃん。
……誰も欠けてない。なのにどうして、こんなに頼りない気がするんだろう。
「教室をひとつずつ清めて、封じていく。最終的に一階奥の教室だけを残す」
「それしかねえわな」
「問題は、あの子たちだ」
ナルがあたしと、周囲にいる四人の子供たちを見る。
「さいですね」
「力を分散したくないが、一緒に連れていけるか?」
「ちーっと厳しいなぁ」
「ボクか滝川《たきがわ》さんが残るしか……。どっちかというと、教室を封じていくのは滝川さんのほうが適任やと思いますけど」
「俺とナルだけ、ってのも若干不安があるな」
「なんとかなるだろう」
ぼーさんはナルを見る。
「なんとかなるのか? 退魔法は」
「できないが、いざとなればなんとかなる」
「冗談《じょうだん》じゃねぇって、なんとかされちゃ困るの」
……どこかで、こんな会話を聞いたなぁ。ずいぶん前だ。誰かがおんなじことを言ってナルを叱《しか》った。ぼーさんだったかな……。
「救急車を呼ぶ方法はねえんだからな」
「さいですよ、渋谷《しぶや》さん」
ナルは気功法《きこうほう》を使えるけど、使えば倒れてしまうというやっかいな体質。やっと退院したところなのに、同じことを繰り返されちゃたまらない。
「ジョン、こっちひとりでなんとかなるか?」
「はいです」
「麻衣《まい》。悪《わり》ぃがつきあってくれや」
「うん。あたしでも役にたつんなら」
「いねぇよりマシだろ。ナルを任す」
「う、うん……」
不安だなー。あたしにできるんかなー。
「ほんじゃ、ジョン。チビさんたちを頼むぞ」
「ハイ」
あたしたちはまず二階に上がっていく。途中にある、ドアのところにジョンと子供たちが待機する。階段を昇って二階の廊下《ろうか》へ曲がっていくとき、あたしはちょっとジョンをふりかえった。
いちばん手前の教室に入って、ぼーさんが祈祷《きとう》をする。部屋を清めて霊を追い払い、部屋を封じる呪法《じゅほう》だ。黙々《もくもく》とそれを行《おこな》って七つ目の教室を出たとき、あたしはぼーさんに聞いてみる。
「ね、できたと思う?」
間近にいてもよく顔が見えない。そうそうライターは使えない。オイルが切れてしまうから。
「わからん。どうも、手ごたえがねぇな。なんの反応もねえし。……麻衣は何か感じないのか?」
「だから、あたし今、起きてるってば」
「ホント、おまえの能力ってのはややこしいな」
「しょーがないじゃないのよー。あたしのせいじゃないもん」
「たのむぜ、なんとかがんばってくれよ。おまえしか霊視の能力がねぇんだからさー」
あたしはちょっと足を止める。
「どうした?」
「なんだか……変……」
「なにが。――おい、戻るぞ」
「あたしたち、今までどうやって除霊してたわけ?」
「どうやって、って」
「ハンディつきのあたしとナルと、ぼーさんとジョンとで、どうやってやってきたのか、すごく不思議《ふしぎ》な気がする。いまさらだけど」
「そりゃ、本当にいまさらだぜ」
「だって、ジョンもぼーさんもナルも見えないんでしょ?」
「おまえがいたろうが」
「でも、あたしだって、寝ボケてないとダメなんだよ?」
すぐ隣《となり》から静かな声がする。
「何をムキになってる」
「だってなんか変じゃない? いつもこんなに霊能者のやりくりに苦労してたっけ?」
「やりくり、って、おまえねぇ」
ぼーさんの呆《あき》れた声に、ナルが低い声をもらす。
「たしかにそうだな…。いつもどうしてたんだろう」
なんだかじわじわと不安が足元から這《は》い上がってくる。
不安を代弁するように、ナルが言った。
「戻ろう。……ジョンが気になる」
階段の上まで行くと、薄い明かりの形に入り口が見える。そこに黒い影が五つ。
あたしはちょっとホッとする。ひょっとしたらもうないはずのドアが閉まってるんじゃないか、たとえ開いてても誰もいないんじゃないか――そんな気がしてた。
階段をひとつ降りる。焚《た》き火《び》の明かりは、それも踊り場の壁の照り返しでしかない明かりは、すごく薄い。闇《やみ》に馴《な》れた目にはずいぶん明るく感じるけれど。
こっちを見上げている。五つの人影。どれも小さい。子供だ。
マリコちゃんとツグミくん。タカトくんとミカちゃん。アイちゃん。
よかった。心配だった。子供だけで――。
あたしは半分まで降りた階段の途中で立ち止まる。
「待って!」
ぼーさんとナルがふりかえった。
……やっぱり変だ。
だって、子供だけを残したりするはずがない。あたしたちはそんなことしない。少なくともあたしとぼーさんは、そういうことのできない性格だ。ナルだってしない。すごくすごく用心深い性格だから。
あたしは手を伸ばす。ぼーさんとナルの服をしっかりつかんだ。
「ねぇ、戻ろう」
後退《あとずさ》りしながら、引っ張る。
「おい、麻衣《まい》」
「どうしたんだ」
「変だよ……」
子供たちはものも言わずにこっちを見上げている。
(アイちゃん……)
「変、って何が……」
「こんなの、おかしいよ。絶対に何か間違ってる」
「おかしい、って、おまえ」
「あたしのカン。……それじゃ、ダメ? ねぇ、戻ろう」
「チビさんたちをどうすんだ」
子供たちがふと顔を見合わせるようにする。
「お願い、戻ろう!」
「麻衣」
(二台の……車……)
(どうして)
心臓が強く鳴った。
「どうして、車が二台なの!?」
「それは……」
「一台を運転したのが、ぼーさんで、じゃあ、もう一台は誰なの!?」
はっ、と息を呑《の》む気配が伝わってきた。
「あたしもナルも、免許なんてまだ取れないのに!!」
突然ナルがあたしの腕をつかむ。抜けるほどに引っ張った。
「麻衣、来い! ぼーさんっ!」
ぼーさんを見て、あたしを引っ張ったまま上へ向かって駆け上がる。声に弾《はじ》かれたようにぼーさんが印《いん》を構えた。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
入り口に集まっていた子供たちが飛んできた。
子供の身体がゴムのように伸びたように見えた。階段の半分を身体を伸ばして一瞬のうちに飛んできて、そうしてぼーさんを捕まえる。捕まえたところから、黒く変色して形を変えた。
「ぼーさんっ!!」
まるで闇が粘液《ねんえき》になったみたいだった。粘《ねば》って絡《から》みついて、ぼーさんを呑《の》みこもうとしている――。
「ナル!」
ぼーさんが何かを投げた。それはあたしの足元に突き刺さる。闇の中に微《かす》かに金の色をしている。――独鈷杵《どっこしょ》だ。とっさにそれを拾い上げる。
「ぼーさんっ!」
あたしの腕をナルが引っ張る。あたしはそれを振りほどいた。振りほどいた手を独鈷杵を握ったまま不動明王印《ふどうみょうおういん》に組む。
「麻衣!」
――邪魔しないで!
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
指をほどいて剣印へ。独鈷杵ごと左手から抜いて構える。
「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》っ!」
闇に描いた九字の中央を切り払う。
――だけど、それはぜんぜん間に合わなかった。気合を発射したときには、すでにぼーさんの姿は闇の中に沈んで見えなかった。
「麻衣、来い!」
腕を引かれるまま、逃げるしか、なかった。
あたしとナルは近くの教室の中に逃げ込んだ。ぼーさんが清めた場所だ。だから、少なくともしばらくは安全なはず。
教室の中に入るなり、あたしは座りこんだ。握ったままの独鈷杵を両手で抱きかかえる。次から次へ涙がこぼれた。
「どうしよう……」
どうしようもないんだって、わかっているけど。
「どうし……よう……」
ナルの冷静な声が響く。
「誰かもうひとり、運転のできる人間がいたはずだ。車が二台あるんだから。その人物は、下に子供たちといたはずなんだ。子供だけを残すはずがない」
「……そうだよね。なのに、あたしたちはその存在を忘れた……?」
「そのようだな」
もうひとり、仲間がいたんだ。――そう思って記憶を探っても、なんだか靄《もや》でもかかってるようではっきりしない。長い間、一緒に行動してきた。いろんなことを経験して、喧嘩《けんか》したり笑ったりした。――そんな気分だけが残っている。
「僕らは村長に除霊を依頼されてここへ来た。その途中であの子たちに道案内を頼んで、結果として一緒に閉じこめられた……?」
「そうだったと思うよ」
「五人の子供を残して除霊にかかったような気がしているが、これは嘘《うそ》だ。実際にはもうひとりの仲間が下にいた」
「うん。絶対にそうだよ。子供だけを残すなんて考えられないもん」
「だとしたらそのひとりは霊能者として有能だった。少なくともぼーさん程度にはあてになると思っていたから、子供と一緒に残したはずだ」
「そうだよね」
「その人物は車の運転ができた……?」
ナルの声にあたしはふと思い出す。
(ボクです)
甦《よみがえ》った声のイントネーションが違うのは、彼が関西なまりでしゃべったからだ。
「……ジョンだ」
「そうか……下にはジョンがいたんだ」
「でも、待ってよ。ジョンに車の運転ができた? あたし、なんだか覚えがない」
「自分でそう、言ってたろう」
「言ってたけど、でも、それも間違いだった、ってことはない?」
下にいるのが五人の子供だったと思っていたように、ジョンは車の運転ができるんだと、ジョン自身もあたしたちも、そう思いこんでいた可能性は?
そうか、とナルがつぶやく。
「僕らは総勢八人でいた。それはカップが示している」
「……うん」
「下には子供が五人いた。僕と麻衣《まい》とぼーさんで三人。合計で八人。ジョンを入れるとひとり多い」
「そうだね」
「だとしたら、下に残っていたジョンは子供にとって代わられた可能性がある」
……そうか。ジョンが四人の子供と下に残る。子供たちはジョンをどうにかして、そうしてジョンの代わりに子供がひとり増える。
「でも、……だとしたら」
「そうだ。――消えたのはジョンだけじゃない。僕ら三人のほかの五人。この全員が、あの連中にとって代わられたと考えたほうがいい」
「……あ」
「僕らは八人いたんだ。子供はひとりもいなかった。そのうちの五人が、連中にとって代わられた――」
あたしと、ナルと、ぼーさんと、あと五人。ジョンと――。
「……真砂子《まさこ》と、綾子《あやこ》」
「安原《やすはら》さんと、リン」
……そうだったんだ。ライターをかかげて行ったのは真砂子。炎に包まれた教室と安原さん。廊下《ろうか》を消えていったリンさん。そうして、『あやこちゃん おめでとう』というあの悪意に満ちた悪戯《いたずら》。
「……桐島裕紀《きりしまゆうき》だ」
ナルが唐突に言った。
「――? 誰?」
「新聞のコピーを読まなかったのか。死んだ教師だ」
「桐島先生が、なに?」
「この現象の犯人。糸を引いているのは桐島だ。ほかに有り得ない。子供があんな姑息《こそく》なことをするか? 陽動《ようどう》のあげくにひとりずつ消す。警戒が強まれば子供を中に放りこんで仲間だと錯誤《さくご》させて警戒を解《と》く。子供の意志じゃない。子供の手管《てくだ》じゃない。――桐島が背後にいるんだ」
「桐島先生なら……控え室が震源地《しんげんち》?」
「即断するのは危険だが、いずれにしても一階のほうが可能性が高い。彼が校舎の中に捕らわれるとすれば、使っていた教室か控え室か、そのどちらかだろう」
「……うん。そうだよね」
そのどちらかを除霊すれば。――でも、どうやって?
ナルには絶対、させられない。あたしにできるとは思えない。
「……僕がやるか、麻衣がやるかのどちらかしかないな」
「ナルは駄目だよ!」
「では、麻衣がやってみるか?」
「あたしに……できると思う?」
「除霊は厳しいと思う」
……やっぱりなぁ。
「説得してくれ」
「――え?」
「桐島を説得するんだ。僕は霊と意志の疎通《そつう》ができない。麻衣なら、できる可能性がある」
「説得なんて、あたしにできるかな」
すぐ間近の人影が笑った気配がある。
「いつも僕をどやしつけている覇気《はき》でやれば」
……あう。
「やってみる」
「一階に行く。霊と交信がしやすいよう、僕が暗示でトランス状態に入れる」
「トランス状態?」
「霊能力を発現しやすい状態。霊媒《れいばい》なんかが、霊を降ろすときの状態がこれだ」
「……わかった」
左の腕に触《ふ》れる手がある。それがあたしの掌《てのひら》を探し出して握る。ひんやりした、けれどもたしかに体温のある手だ。
「降りるぞ。手を離すな」
「うん」
手を引かれて立ち上がって、あたしは右手に独鈷杵《どっこしょ》を握ったままなのに気がついた。
「……みんな、だいじょうぶだと思う?」
低い声が答える。
「それは、わからない」
「これ」
あたしはナルに向かって独鈷杵をさしだした。左手に握った手はそのまま、もう一方の手がそれに触《ふ》れた。
「なに……?」
気がついてなかったのか。
「ぼーさんの。ナルに、って投げてよこしたんだよ、これ」
「ぼーさんが、僕に?」
ナルが独鈷杵を取り上げる。
「……そういうことか」
「なに?」
「なんでもない。どうやら僕は、ぼーさんを見くびっていたらしいな」
……はにゃ?
「まだ、間に合う」
「えーと?」
「――とにかく、行こう」
「……うん」
手を引かれて階段を降りる。校舎の中はもの音ひとつしなかった。雨の音も聞こえない。ひょっとしたら止《や》んだのかもしれない。
自分たちの足音だけがついてくる中を、一階へ向かって降りていく。階段の途中ですごく寂《さび》しい気がしたけど、指先が一階と二階の間の壁に触れて大きく息を吐《は》いた。
そこをくぐり抜けたナルに続いて、あたしも出ようとした時だった。
突然、激しい音がした。目の前の闇《やみ》にさらに黒いものが突進してきて、鼻先を掠めて通り過ぎていった。思わず後ろにさがって、階段の段差に足をとられて転んでしまう。
「いたた……」
段の角にぶつけた腰をさすって、ようやく何が起こったのかわかった。
あたしが出ようとしたときに何かが倒れてきたんだ。おそらくは――立て直しておいた影壁《えいへき》。それでとっさにナルの手を離してしまった。
「ナル! だいじょうぶ!?」
「だいじょうぶだ。……麻衣《まい》は」
くぐもった声がした。
「へいき」
階段に座り込んだまま両手で手探りすると、入り口にゲタ箱が倒れかかっているのがわかった。マッチ一本の明かりでもあればひと目ですむのに、指で触《さわ》って確認しないと、外に出られるのか出られないのかわからない。そのまだるっこしいことといったら。
入り口の形を確認するように手を動かしていると、片手に誰かの手が触れた。
「出られるか?」
安心してナルの手をつかむ。手を差し込めるぐらいだから、どうしようもなく入り口を塞《ふさ》がれたわけじゃないんだ。
「うん」
引き起こしてくれる手に従って立ち上がった。倒れた影壁も、べつに入り口を塞ぐというわけでもなくて、ちょっと足を上げて踏み越えれば問題はなさそうだった。そう思って入り口をくぐろうとしたのだけど。
ごちん、と堅《かた》いものが額に当たった。とっさに空《あ》いた手でそれを確認する。ごつごつした木の手触り。……影壁?
あわてて手探りをする。あたしが思った以上に、入り口は塞がれてしまっていた。複雑な形に入り組んで重なったゲタ箱の感触。
「……ちょい、待ち」
「どうした?」
その声を聞いた瞬間、あたしはぽかんとし、次いで頭から水を浴びせられた気分になった。
かち、と歯が鳴った。一度鳴ると止まらなかった。
「麻衣?」
声は少し離れた位置から聞こえる。右手。少し下方。
――まるでナルは踊り場を越えて一階へ向かう階段を降り始めているようだ。
だったら――今、あたしが握っているこの手は?
ナルの片手が二メートル近く伸びるのでなかったら、握っていられるはずのない、でも、実際にあたしの左手の中にあるこの手は――?
振りほどきたかったのに、左手がうまく動かない。凍《こご》えたような手を苦労して緩《ゆる》めて開くと、あたしの手を握った力が強くなる。
「……ナル」
助けて、という声は声にならない。
「どうしたんだ」
その声はさらに離れてしまっている。
――あたしは一歩も動けないでいるのに!
急に左手を握った手がしぼんだ気がした。確かな手の感触が縮《ちぢ》んだようにしぼんで、かさかさとした、しかも細い――細すぎる感触にとってかわる。それが力をこめてあたしの手を握る。尖《とが》った爪が肌に食いこむ感じがして鋭《するど》い痛みがした。
とっさに手を振りほどこうとしたけど、骨がぎしぎしいうほどの力で、とうてい振りほどけない。
「誰!?」
するりと闇が溶ける。目の前に黒い人影があらわれ、それがさらにバラバラにほどけて、七つの小さな影にとって代わる。七つの手が、あたしの手を握っている。
「おねぇちゃん」
「どうしたの」
「おねぇちゃん、だれとまちがえたの」
子供の笑い声が踊り場に響いた。あたしは空《あ》いた右手を振り上げる。
横から、縦《たて》へ。
「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》!」
ふっと手をつかんだ力が緩《ゆる》む。それを振りほどいて、あたしは身をひるがえす。二階へのドアは開いたままだった。そこへ飛び込んで二階へ向かって駆け上がった。
教室に飛び込んでドアを閉める。しばらくドアにもたれて肩で息をしていた。
耳を澄《す》ます。追ってくる足音はもちろん、ナルの声も聞こえない。なんの物音もしない。聞こえるのは自分の息と鼓動《こどう》だけ。
「……しっかりしろ」
しっかりしなきゃ。とうとうあたしひとりになったんだから。もう、ほかには誰もいないんだから。
「落ち着け……!」
もう、ナルもぼーさんもジョンも、真砂子《まさこ》も綾子《あやこ》も安原《やすはら》さんもリンさんもいないんだから。
「……どうする」
自分に聞く。どうするもこうするもない。たとえあたしひとりになっても、ちゃんとやらなきゃ。除霊する。除霊ができないなら、説得する。みんながどうなったのか、考えてもしかたがない。とにくか、やるべきことをやって、ここを抜け出して、そうしてそれでもみんなの姿が見つからなかったら探すだけだ。
その場に座り込む。
「ナルはいない……」
だから、暗示でトランス状態に入れてくれる人もいない。
「自分で、やらなきゃ」
眠ればいいんだ。眠れないなら、できるだけ眠ったような状態にする。
目を閉じる。深く何度も息をして、できるだけ体から力を抜く。
――だめだ。震《ふる》えてちゃ。緊張しないで、リラックスして。できるだけ何も考えないように。
……そう思えば思うほど緊張してしまう自分を感じる。どうしても目を閉じ続けていることができない。目を閉じても開けていても、目に見えるのは闇しかないのだけれど。頭の中を記憶と想像が駆《か》け回る。楽しいこと、悲しいこと、怖《こわ》いこと……。
「羊《ひつじ》が一匹……」
羊を数えてみようとしても、羊の姿を思い浮かべることができない。
「お願い、落ち着いて……」
目の前の闇に何かチラチラするものがある。瞼《まぶた》を閉じたときに見えるあれだ。何度も深呼吸しながら、あたしはその模様《もよう》を見るともなく見ている。
やがてその中に赤いものが見えた気がして、あたしは目を見開いた。
赤い小さな光が見える。部屋の中を見渡すと、部屋じゅうに赤い光の粉が薄く舞っていた。ごくごく小さな光だ。それでも確かに、見える。
「これ……」
こんな色を何度も見たことがある。
「これ、ぼーさんの色だ……」
身を起こしてふりかえると、ドアにも窓にも光の粉がまとわりついて、うすく光っている。無数のごく小さな、赤い色の蛍《ほたる》がいるみたいに。
……ぼーさんが封じた跡なんだ、これ。
「すごい……綺麗《きれい》……」
あたしは立ち上がる。なんだかひどく暖かい気分がした。
……ひとりじゃない。ちゃんと守ってもらってる。
視線の端《はし》に白い光を感じた気がして、あたしはそちらを見る。床の下にはこれは大きく、白い光が見える。
……あれはリンさんだ。きっと、リンさんの護符だ。一階の影壁《えいへき》に貼《は》った護符《ごふ》が、あんなふうに光を放っている。階段の下の護符は見えない。そういえば、あの影壁が倒れたとき、もとにもどしただけで護符をちゃんと確認しなかった。
「それで、真砂子は二階に消えたんだ……」
二階の入り口は開いていたから。
「そう」
声がして、あたしは顔を上げる。目の前にナルが立っていた。
「……よかった。ちゃんと眠れたんだ」
ナルはちょっと微笑《わら》う。夢の中でしか見られない柔《やわ》らかい笑顔だ。うなずいてから、口を開いた。
「――それじゃあ、始めよう」
あとがき
ど――――――も、お待たせいたしました(平身低頭《へいしんていとう》)。
いつ出るのか、本当に出るのか、病気なのか、引退するって本当ですか、等々、みなさまには数々のご心配をおかけしましたシリーズ最終話でございます。
いやぁ、やっと終わった。やっと出た。これで小野《おの》もひと安心でございます。
――へ?「この、ってはの何だ?」
…………。
……えーと、これは……。……。
はい、反省してますっ。ごめんなさい、本当に本当にごめんなさい。
こんだけ待たせてさらに下巻を待たせるのか、てめー、――そういう罵声《ばせい》が聞こえそう……ああああ。
みなさまのお怒《いか》りはごもっともでございます。これについてはただひたすらおワビするしかございませんです、はい。お好きなだけポカポカ殴っちゃってくださいまし。
いえね、ここだけの話ですが、最終巻だと思うと妙に気合が入っちゃって。書いてみたら、伸びる、伸びる。こんなに長くちゃ、一冊の本では無理ね、そういうことになりまして……。なんとも面目《めんもく》ないことで。
――は?「んで、下巻はいつだ? また一年後か?」
やですよぉ、そんな皮肉《ひにく》なんか、おっしゃっちゃあ。ははは……(苦しい笑い)。
来月です(きっぱり)
まちがいなく来月です。ほんっと――――に、来月ですっ(じつはもう原稿は渡してあるんだな)。お小遣《こづか》いを貯《》めて待っててね(ハート)。
そういうわけで、恒例《こうれい》の人気投票も、来月まわし。あとがきも「あとがき」に続きます。
それでは、また。
――下巻はまくるぜっ☆
(おいおい、いいのか、そんなこと言って……。←影の声)
それだけを言いに出てきた
小野不由美