【悪霊になりたくない!】
小野不由美
プロローグ
東京、渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。
オフィスの窓際で、あたしはゾーキンを持ったまま手を止めた。
窓の下の並木は桜。白い花がちらほら咲き始めている。
「早いなぁ……」
思わずつぶやくと、後ろから問いかけられた。
「なにが?」
声をかけてきたのは職場の同僚。いかにも春らしく白いブラウスに白いカーディガンの彼女は、腕まくりをして床《ゆか》にモップをかけている。
「一年。あたしがここにバイトにくるようになって、もうすぐ一年なんだよね」
「へぇぇ」
感心したように言った彼女の名前は高橋優子《たかはしゆうこ》。略してタカ。都内某女子高校の最上級生になったばかり。
対するあたしは谷山麻衣《たにやままい》。めでたくこの春、都内某私立高校の二年生になった。
そしてここは『渋谷サイキック・リサーチ』、そのオフィス。幽霊《ゆうれい》や超能力や、そんな不可思議《ふかしぎ》な現象を調査する事務所。
「よく一年も続けたよなぁ。こんな変なバイト」
お仕事の内容が内容なので、幽霊に会うなんてしょっちゅうなわけで。バイトにくる前は人魂《ひとだま》でさえ見たことのなかったあたしとしては、格段の進歩。なんたって、最近じゃ怪談ぐらいじゃビビリもしない。ホラー映画なんか見ても、幽霊がリアルじゃないとか、ウンチクをたれるしまつだもんな。
「しかも、上司がアレで。うーん、我ながらえらいわ。あたしってば人間できてる」
所長は渋谷一也《しぶやかずや》。現在弱冠《じゃっかん》十七歳。こーんな一等地のオシャレなビルで、高級そうな事務所なんか構《かま》えてくれちゃう男の子。心霊現象の調査だとか言って、幽霊や超能力を相手に科学技術なんかをふりまわしてくれちゃって。秘密主義で性格が悪くて、くやしいことに才能があって顔がよくて。おシャカさまも裸足《はだし》で逃げ出すナルシスト。人呼んで「秘密のナルちゃん」。
タカは悪戯《いたずら》っぽく笑う。
「所長がアレだから、続いたんでしょ?」
……あう。
「そっか。一年なのかぁ。一年の間にちょっとはすすんだ?」
「なにが」
「ふたりのナカ」
「おタカさん、そいつは言わない約束でしょ」
「そうだったかねぇ。あたしゃ最近、とんと物覚えが悪くて……」
「ふっ。もう老人ボケか」
「言ったな」
「言ったとも」
あたしの返答に、タカはモップを構え、腰に手をあてて強気のポーズ。
「年長者をバカにすると痛い目を見るぞぉ」
そう宣言するなり、あたしの側《そば》に駆《か》け寄ってきた。ガラスをみがくのに開いていた窓から身を乗り出して、
「麻衣はぁー、ナルが好きなんだってーっ」
窓の下の坂道に向かって叫んだからたまらない。通行人が何人かキョトンとした顔でこっちを振り仰《ふお》いだ。
「こらっ! なんちゅーことをするだ」
「ふはは。まいったか」
「まいりました。いやぁ、お殿さまにはかないませんや」
「レディに向かって失礼な。女王さまとお呼び」
「モップ担《かつ》いだ女王さまかぁ?」
「似合うでしょ」
えっへん、と胸を張られちゃ負けを認めざるをえない。
「んで、どう? 進展あった?」
「どーも、こーも」
一年前、あたしとナルは他人だったが今では雇用者《こようしゃ》と被雇用者の関係である。バイトにきてからはお茶くみばかりしていたが、先月めでたく「調査員」の肩書きをもらい、お給料もよくなった。
「そんだけ」
きっぱりそう言うと、タカが頭をかかえる。
「なにしてたんだ、あんたは一年間も」
「バイト」
タカはぐぐぐ、と拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「この……甲斐性《かいしょうなし》なしっ」
「労働は尊《とうと》いんだぞ。ビジネスとプライベートを混同しちゃいかん」
「まぁ、なんてりっぱな心がけ。――そのうち誰かに取られるぞ」
……あう。
「今までフリーなほうが不思議《ふしぎ》なんだからね」
「だいじょうぶさっ。ナルは性格悪いもんね」
「胸張って言うと、ちょっと悲しくない、それ?」
ううう……。まーな。
まぁその、進展というのはあたしとしても望むところではあるわけよ。だがしかし、あの坊ちゃんにそんなもん期待しても、ムダだという気がひしひしとするわけ。齢《よわい》十七にしてワーカーホリックだもんな。すなわち仕事の鬼。とびきり美人で性格も二重丸の女の子より、凶悪な老婆《ろうば》の幽霊のほうを選ぶにちがいない。
そのうえだな、いまだ彼の住所も電話番号も知らないあたしが、状況の進展を期待していいものだろーか。
そう言うと、タカはしみじみ同情した眼であたしを見た。
「たしかにねぇ。住所くらい、教えてくれてもいいよねー。せめてどのへんか、とかさー」
「だろ?」
あたしはかつてナルに聞いてみたわけ。「緊急の用件があるときのために、自宅の連絡先を教えてください」って。
ナルは所長であたしはアルバイトなんだから、これは変な質問ではないよね。
ところがナルの返答ときたら。「用があれば、こちらから連絡する」
だーれーがーっ、お前の用件の話をしてんだよっ。あたしがナルに緊急の用があるときはどーすればいいんだ、と言ってるんじゃないかっ!
よぉし、かくなるうえはカマをかけてやれ、と思ったわけ。それで「でも、家は三鷹《みたか》のほうなんでしょ? 駅で見かけたことあるし」と言ってみたの。ひょっとしたら、「人違《ひとちが》いだろう、僕はXXのほうに住んでるから」とか答えてくれるかなーなんて、期待したわけさ。
だが、しかし、当然のことながら、誘導尋問なんかにひっかかかるヤツじゃなかったね。
アッサリ、一言「眼が悪いのか?」
さらに、一言。「僕に似た人間が、そんなにいるとは思えないが」。
どーせあんたは、尋常《じんじょう》でなく顔いいよっ。なんてあたしが怒《おこ》っても当然だと思う。
「人間、あきらめちゃおしまいだからね」
タカに頭をなでてもらって。
「うん。あたし、負けない」
泣きまねなんかして遊んでたら、オフィスのドアが開いた。
おっと、いけねぇ。遊んでる場合じゃなかったわ。お仕事、お仕事。
ドアを開けてオフィスの中に入ってきたのは、二十代半《なか》ばくらいの女の人だった。
「はい?」
あわててゾーキンをおいてあたしが声をかけると、彼女はニッコリ笑う。なんだかとても笑顔が印象的な人だった。
「所長にお目にかかりたいんですけど」
「今、旅行中なんですけど……」
ナルは現在北陸方面に出かけている。出かけていると言っても、仕事ではない。単なる趣味と言うべきだろう。
「じゃ、リン。います?」
リンというのは、リンさんのことだよなぁ。
リンさんというのはナルの助手。本名もわからなきゃ年齢もわからないという、ナル以上にナゾの人。
「はい。……あの、失礼ですが」
あたしが聞くと全部を言わせず、その人はまたもニッコリと笑う。
「わたし、森《もり》といいます。森まどか。そう言っていただければ、わかります」
これはびっくり。まさか、リンさんの知り合いだろうか。
あたしはとりあえずソファーをすすめて、資料室のリンさんを呼びに行った。
所長室の隣《となり》にある資料室は、ビデオとモニターが並んだ防音のよい狭《せま》い部屋だ。なにをしているのかは知らないが、リンさんはオフィスにいる時間の大部分をここで過ごす。すでに終了した事件のビデオやデータを何度も見ながらコンピュータをいじっていることが多いのだけど、今日のように超能力少女にスプーン曲《ま》げを教えることもある。
軽くノックしてドアを開けると、リンさんと超能力少女が顔を上げた。
超能力少女は名前を笠井千秋《かさいちあき》と言う。この春、都内某女子校が付属している短大に無事進学。部屋の隅《すみ》にある机に向かってスプーンとにらめっこしていた千秋センパイは、あたしの顔を見るとちょっと笑った。
対するに、リンさんは全くの無表情。
「リンさん?」
あたしが声をかけても、返事もしなけりゃニコリともしない。
「あの、お客様なんですけど、森さんとおっしゃって」
リンさんは、ちょっと怪訝《けげん》な顔をした。
「森まどかさんと」
パッとリンさんが立ち上がった。無表情な顔に明らかに驚いた気配が見える。ドアの脇《わき》に控《ひか》えたあたしを無視して、リンさんがオフィスに出ていった。
森さんはソファーに腰をおろしていた。
「まどか」
リンさんに呼ばれて、ニッコリとしか形容のしようのない笑顔を浮かべる。
「リン」
そううれしそうに言って立ち上がった。
こ……これはもしかして、リンさんの……?
「ごめんね、急に。元気だった?」
「ええ。どうぞ、座って。どうしたんですか、急に?」
彼女は屈託なく笑う。
「ん、驚かせてみようかなー、なんて思って、びっくりした?」
「しました。まさか、それだけでいらしたわけではないのでしょう?」
うむむ。これは不気味《ぶきみ》な。リンさんが微《かす》かに笑いを浮かべている。
「まぁね。ナルはいないの?」
「旅行です」
リンさんが低く答えると、森さんもちょっと苦《にが》い笑みを浮かべる。
「……そう。では」
森さんはきっぱりと宣言した。
「呼び戻してちょうだい。仕事です」
これはけっこう意外な展開だった。
「……なにもの?」
ヒソヒソと千秋センパイが聞く。
「……知らない。リンさんの恋人だったりして」
ボソボソとタカが言う。
「のわりには、なんか命令っぽい口調じゃなかった?」
コソコソとあたし。
あたしたちはキッチンで額《ひたい》をくっつけるようにして、お茶をいれながら密談をした。
「けっこう強気の態度じゃない? あのリンさんにむかって」
「だよね」
「少なくとも、つきあいの深い知人だと見たね」
こんな話をしたところで結論の出るはずもなく。しかしお茶を持っていったあたしの内心が、好奇心に満ちあふれていても責《せ》める人はいないと思う。
お茶をテーブルに置くと、森さんは例のニッコリ笑顔で会釈《えしゃく》してきた。あたしも笑って会釈を返す。リンさんは電話中だった。なにやら難《むずか》しい表情をしていたけど、軽く息をついて受話器を森さんにさしだした。
「どうぞ。ナルです」
険《けわ》しい口調から察するに、ナルは戻るのを拒絶したとみたね。森さんは立ち上がり、受話器を受け取る。いきなりきっぱりと言った。
「ナル? 戻ってきて」
ナルはノーと言ったらノーの人間。おそらく電話の向こうでは、ふざけるな、とか言ってるんだろう。しかし、森さんの笑顔は崩《くず》れない。
「戻ってきてくれる、でしょ?」
とニッコリ。わずかの時間の沈黙ののち、森さんは聞いているほうが舞い上がりそうな声で、
「ありがとう(ハート)」
そう、言った。
「帰ってくるんですか?」
思わずあたしが聞くと、森さんはうなずいた。
「ええ。今夜には着くって」
どしぇー。信じらんない。
ナルの旅行というのは短くても一週間。長いと十日以上に及ぶ。それが、二日で帰ってくるってか? たったあれだけでナルが動くか、ふつー?
意外な展開の後には予想外の事態が待っていたわけ。
リンさんは多少トホウにくれたような表情で資料室に引っ込んだ。あたしは改めて森さんにお茶をすすめた。
「……すごいですねぇ」
あたしがそういうと、森さんはキョトンとしている
「すごい? どうして?」
「たった二言でナルに言うことをきかせるんですもん」
森さんはくすくす笑った。
「……そうかなぁ。――あなた、ここの人?」
「はい。アルバイトです。谷山といいます」
「ふぅん。わたしにしたら、あなたのほうがすごいと思うけど」
へ?
「ナルもリンも人あたり悪いでしょ。すごく人見知りするし。そのふたりが人を雇《やと》うだけでも意外なのに、谷山さん、けっこうなじんでるみたいじゃない?」
はー。それは、まぁ。おかげさまで最近、めっきり口が悪くなっちゃって。
あたしはテレ笑いをひとつして、それから森さんの顔をのぞきこんだ。
「あの……どんな関係なんですかー、なんてお聞きしてもいいですか?」
「気になるー?」
なるとも。あのナルとリンさんが頭上がらないんだぞ。
「ひらたい言い方をするなら、師匠《ししょう》かな?」
「ししょう?」
「そ。ナルにゴースト・ハントを伝授したのはわたしなの」
どしぇー。
しかし、それはまぁそうよね。ナルだって誰かに習わなきゃ身につくはずないもんなぁ。
「じゃ、森さんもゴースト・ハンター?」
「以前はね、もっともすぐにナルにバトンタッチしちゃったけど」
「やめたんですか?」
「そう。わたし、いまひとつ、適性がなかったのよね」
「はぁ?」
「わたし、機械ダメなの。機械ってすぐに壊《こわ》れるんだもん」
森さんは子供みたいに頬《ほお》をふくらませる。
「すぐに……壊れます?」
「壊れない? ちょっといじったら、すぐに動かなくなるじゃない?」
「はぁ……」
「ナルやリンの言うことは聞くくせに。わたしを嫌《きら》ってるとしか思えないっ!」
そ……それはご愁傷《しゅうしょう》さまで。そうか、つまり機械と相性《あいしょう》悪い人なのね。それは、ゴースト・ハンターにはむかない性質だなぁ。
でも森さんってとっつきやすくていい人みたい。これはひょっとして、この人に聞けばいいんじゃないの? ナルはどこに住んでるんですか、リンさんの本名はなんといって、何歳ですか。ナルは学校どうしてるんですか、家族構成は、リンさんのプロフィールは。 しめしめ。そう思って質問を連射しようとしたとき、薄いコートを羽織《はお》ったリンさんが資料室から出てきた。
「まどか、とりあえず出ましょう。――谷山さん」
「は……はい!」
「私はこれで帰ります。笠井さんにそう言っておいてください」
「はぁ……どうも、お疲れさまでした」
ええい、先手を打たれてしまった。
かくて疑問だけを残してその女性はオフィスを出ていった。後には首をかしげまくるあたしと、タカと千秋センパイが残されたというわけ。
一章 その家
翌日、始業式を終えてオフィスに駆《か》つけると、そこは人であふれかえっていた。
「どーなってんの、これ」
オフィスに入るなり、思わず目を丸くしたあたしに、タカが肩をすくめる。
「知らないよぉ」
「ナル、戻ってきた?」
「みたいよ。あたしが来たときには所長室で打ち合わせ中で、まだ顔は見てないけど」
「んで、なんでみんながそろってるわけ?」
「あたしに聞かないように」
来客用のソファーに、客ではない四人の人間。すなわち、ぼーさん、綾子《あやこ》、真砂子《まさこ》、ジョン。わが『渋谷サイキック・リサーチ』の所員でもないのに、非常にしばしば協力態勢をとっている四人の霊能者。
あたしが軽く頭を下げると、
「よぉ」
例によってのんきそうに手を挙《あ》げたのはぼーさんだった。滝川法生《たきがわほうしょう》。もと高野山《こうやさん》のお坊さん。
「どーしたの、これ」
「俺に聞くな。呼ばれたんだよ、ナルちゃんに」
「まじ?」
「ああ。他の予定をキャンセルしても来いとさ」
「なんで、また」
「大仕事だって言ってたぜ、ゆうべの電話じゃ。仕事だっつってそんだけで電話切って、指定された時間に来てみりゃ本人は所長室にこもりきり」
「んじゃ、ぜんぜん事情わかんないんだ」
「そういうこと」
あたしは隣に座っているジョンの背中をつついた。ジョン・ブラウン。童顔、関西弁がチャーム・ポイントのエクソシスト。
「ジョンは? 何も聞いてない?」
ジョンはふわふわした金髪を横に振る。
「ボクのとこも、そおゆう感じで、なんにも言わはらへんのです」
「けど、全員を集めるくらいだから、そうとうの事件なんじゃないのぉ?」
そう口をはさんだのは綾子。派手《はで》な格好にだまされて、このひとをキャバクラのおねーさんだと思ってはいけない。松崎《まつざき》綾子。自称、巫女《みこ》。
ぼーさんとジョンと綾子と、四人で首をかしげていると、真砂子が小さく笑いをもらした。原|真砂子《まさこ》。十六歳のメジャー霊媒師《れいばいし》。
「何よ」
綾子がトゲを含んだ声で問い返す。真砂子は桜色の着物のたもとで口もとを押さえた。
「……じゃあ、みなさまのところには連絡がございませんでしたのね」
「連絡? 何の」
「この事件の依頼者からですわ。ずいぶんおおぜいの霊能者を集めているようでしたのに」
「依頼者って誰?」
「あたくしのところには、大橋《おおはし》という方から連絡がありましたけど」
そう言って、お人形さんみたいな顔をほころばせる。
つまり、その大橋さんとやらはあなたたちには用がなかったのね、といいたいわけだ。
綾子がロコツにムッとした顔をする。不服そうに口を開いたときに、所長室のドアが開いたので口ゲンカが始まらずにすんだ。
ドアを押しあけて出てきたのは黒ずくめのナル。
あやや、本当に帰ってきたのか。
そして、リンさんの長身、森さんのふんわりした姿。そして、
「……え?」
ジョンと綾子がハモり、
「少年!?」
ぼーさんが腰を浮かし、
「安原《やすはら》さん!」
あたしが声をあげた。
所長室から出てきた四人目の人物は、この春めでたく都内某一流国立大学にご入学あそばした、安原もと生徒会長だった。
ポカンとつっ立ったあたしたちに、ナルはうるさそうに手を振ってソファーに腰をおろすように言った。指示されるまま腰を下ろしたあたしたちが、ふと我にかえって口々に質問を始めると、めいっぱい不機嫌《ふきげん》そうな表情でもう一度手を振る。
「事情は順を追って説明します。少し静かにしていただけませんか」
そーぜつなほどキレイな顔をしかめられると、どーにも取りつくしまがない。しょうがなくて全員が口を閉じると、ナルはあたしたちを見渡した。
「うちに事件の依頼があった。引き受けることにする。それで全員に協力を頼みたい」
真砂子が口をはさんだ。
「それは……大橋さんとおっしゃる代理人さんからの依頼ではございませんか?」
「そうです」
「あたくしのところにも先週依頼がございましたわ」
ナルはうなずく。
「では、原さんは別行動になますね」
「もちろん、あたくしなりに協力はさせていただきますわ」
お人形さんはねっとりした口調でそう言って笑う。綾子が顔をしかめた。
ナルはただうなずき、それからもう一度あたしたちを見渡した。
「調査は五日後から。場所は諏訪《すわ》。――この中で参加できない者は?」
答えた人間はいなかった。それを確認してから、
「今回、もうひとつ協力を頼みたい」
ナルは安原《やすはら》さんを振り返る。安原|修《おさむ》。前回の事件で学校を代表して事件の依頼に来た生徒会長。
軽く会釈《えしゃく》する安原さんを見守ってから、ナルは爆弾発言をした。
「安原さんに、僕の身代わりを頼む」
――場内騒然。
「おい、そりゃ、いったい」
「どういうこと?」
「つまり、安原クンがあんたになりすます、ってわけ?」
すっとんきょうな綾子の声にナルは冷たい一瞥《いちべつ》を向ける。
「そう聞こえませんでしたか?」
「聞こえたわよ。でも、どうして?」
「事情なら説明します。そのくらいの時間も待てませんか」
冷たい言葉をくらって、綾子が黙《だま》りこんだ。そこで突然口をはさんだのは森さんだった。
「どーして、そういうものの言い方をするわけ?」
彼女はナルをあきれたようににらみつける。それからあたしたちを見まわして、
「ごめんなさいねー。この子、礼儀を知らなくて」
こっ……「この子」!
「性格異常者だと思ってガマンしてやってね」
あたしたちにどう反応しろというのだろう。全員がポカンとしていると、苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔でナルがせきばらいした。
「……けっこう大きな仕事になる。ハデな仕事と言ってもいい。依頼主は内密に処理したいようだが、どのていど秘密が守られるかはわからない。マスコミがかぎつければ大騒ぎになるのは目に見えてる。本来なら引き受けたくないんだが、多少事情があってやむをえない。それで、安原さんに僕の身代わりをお願いすることにした」
前回の仕事もハデな事件だった。マスコミに注目されてた異常現象だったので、事件の解決にあたったあたしたちまですっかり有名人。新聞記者だの、雑誌記者だのに押しかけられてすっかりウンザリしてしまった。マスコミ嫌《ぎら》いのナルにいたっては、事件の翌日からほとぼりが冷めるまで雲隠れを決めこんでいたほど。
「しかし、影武者を立てるほどのことなのか?」
ぼーさんの質問に対して、ナルはそっけなく答える。
「そうでなければ、わざわざ安原さんに来てもらったりしない」
ナルは軽く膝《ひざ》の上に指を組む。
「依頼主はかなりの数の霊能者を集めたようだ。そのほとんどが、マスコミでもてはやされてはいるが、うさんくさい連中。僕はああいった人間とかかわりあいになりたくない」
ぼーさんがニンマリ笑った。
「自分が嫌《いや》なことを他人に押しつけるわけか?」
「僕はべつに強制はしてない。気が進まないのだったら、帰ってもらってもかまわないが?」
ナルが冷たく言い放ったとき、またしても森さんが会話に割こんだ。
「どうして、ちゃんとお願いしないのっ。一緒に来てほしいわけでしょ? だからここに来てもらったんじゃないの?」
……そりゃそーだ。
「ひとにものをお願いするときには、それなりの口調ってもんがあるんじゃないの? いつもそう言ってるのに、学習効果のない子ね」
……いまだかつて、ここまでナルに対して強い人間がいただろうか。
森さんは、そっぽを向いたナルにお説教してからあたしたちに笑いかけた。
「本当に礼儀を知らない子でごめんなさい。気を悪くしないでね」
「まどか!」
おっと、ナルはめいっぱい不愉快《ふゆかい》そうですっ。
「なぁに?」
対する森さんは、ハートマークが飛びそうな笑顔。
「少し黙っていただけますか? これでは話が進まない」
「あら、そうね」
言って森さんはニッコリ笑う。
「だったら、口のきき方に気をつけてね(ハート)」
……つ、強い。この人はとほーもなく強いぞ。
苦《にが》りきった表情で、ナルが言葉につまる。
森さんがあらためて、あたしたちを見渡した。
「ナルは派手《はで》な舞台を嫌うのね。今度の事件も断《ことわ》るつもりだったらしいんだけど、わたしの事情で引き受けてもらったの。みなさんにはご迷惑だと思うけど、協力してください」
正面きってお願いされると、ノーとはいいにくいわけよね。全員が森さんの笑顔につられたようにうなずいてしまった。
ナルは不快そうに机を指先で叩《たた》く。
「とにかく、僕は前回みたいな馬鹿《ばか》騒ぎはごめんこうむる。馬鹿なマスコミにチヤホヤされて喜んでいるような馬鹿な連中とはなれあう気にもなれない」
……うーむ。これはちょっくら異常でないかい?
「それで? ナルちゃんは現場に行かないわけか?」
ぼーさんが聞くとナルは顔をしかめる。
「そうしたいところだが、行かないわけにはいかないだろう」
「質問」
あたしはお行儀《ぎょうぎ》よく手をあげた。
「んじゃ、ナルはどういうあつかいになるわけ?」
「僕はここの単なる調査員ということになるな」
……ほう。調査員といえば、あたしと同格ではないか。
「で、どんな依頼者なわけ?」
綾子が聞くとナルは険《けわ》しい表情で名前をあげた。全員がキョトンとした。
あたしだって名前を知っている超有名人。そりゃ、事件がマスコミにバレりゃ、大騒ぎになるのは確実だわ。
なにしろわが日本国の、もと首相の名前だもの。
打ち合わせと準備に三日。四日後あたしたちは、はるばる長野県の諏訪《すわ》に向かった。
調査の対象となるのは、一軒の古い洋館らしい。幽霊が出没するために長い間放置されているそうな。……ま、ありがちだけどね。
市内の手前で山に入り、深い緑に覆《おお》われた斜面をウネウネと上がると、ボロボロになった門扉が見えた。赤く錆《さび》の浮いた無愛想な鉄格子。門柱はレンガ造りらしかったけど、緑色の苔《こけ》がびっしりと生《は》えて半分|腐《くさ》ったように見えた。門があるだけで、塀《へい》はなかった。門の両脇は深い林。一歩でも中に入るのが嫌《いや》なくらい、暗くておどろおどろしい感じ。
開いている門から、先を走るわが『渋谷サイキック・リサーチ』のワゴン車が中に入っていく。リンさんの運転で、ナルが同乗。あたしはぼーさんの車。助手席には綾子《あやこ》、バック・シートにあたしとジョン、そして安原《やすはら》さん。
陰鬱《いんうつ》な感じの林の間を少し走ると、すぐに大きな建物が見えた。
――大きい。本当に大きかった。
「……すご……」
建物を見上げて思わずつぶやいたあたしに、安原さんがあいづちをうった。
「本当に。ホテルか博物館みたいだよね」
たしかに、その洋館は古いホテルか博物館のように見えた。お屋敷というより、まるでお城のようだった。古いさびれたお城。建物の周囲の庭も荒れた感じで、長いこと人がすんでなかったようすなのが外からもわかった。
綾子も、
「すごぉい。あるところはあるわねぇ」
などとわけのわかんない感動のしかたをしていた。
「でも手入れが悪い。これじゃ幽霊屋敷だわよ」
そう綾子が言うと、ぼーさんが失笑をもらした。
「もちろん、幽霊屋敷なんだろうが」
「あ、そっか」
たしかに、幽霊屋敷として、これ以上それらしい建物なんかないだろう。見捨てられた巨大な洋館。外国のホラー映画に出てくる幽霊屋敷そのまんま。
窓を数えると建物は基本的に二階建てのようだった。ところどころに三階がある。大きな急勾配《こうばい》の屋根はくすんだ青緑で、屋根裏部屋のものらしい窓が見える。レンガ色の煙突がいくつも突き出していたけど、その内の半分くらいは壊《こわ》れてしまっている。
窓も、いくらかはガラスが割れたままになってる。よろい戸がついてたけれど、無傷で残っているのは半分程度。複雑に凹凸をくりかえす壁《かべ》は、くすんだ灰色の石でできている。そこに縦横無尽《じゅうおうむじん》にツタがからまって、季節がらむきだしになった枝が、まるで亀裂《きれつ》のように見えた。
雑草の生えた砂利道《じゃりみち》がまっすぐ建物に向かっていた。リンさんの運転するワゴン車がとまって、ぼーさんがその隣に車をすべりこませた。
玄関みたいな石段の脇に、車が何台もとまっていた。どうやら芝生《しばふ》らしい枯《か》れた草は伸び放題で、車を降りると脛《すね》のあたりまでが露《つゆ》に濡《ぬ》れた葉っぱの間に埋《う》まってしまった。
「麻衣《まい》、第一印象は」
建物を見上げながらぼーさんが聞く。
「気持ち悪い……」
なんだか、すごい威圧感。霊能者の団体様が一緒でなきゃ、絶対に中に入りたくない。
「まぁ、これだけ立派な幽霊屋敷にはめったにお目にかかれんわな」
ぼーさんでさえ、少し緊張したようすだった。
車を降りたままぽかんと屋根を見上げていると、玄関にのぼったナルが厳《きび》しい声を飛ばしてきた。
「なにをしてる」
思わず首をすくめると、ぼーさんが小さな声で耳打ち。
「あの態度で、単なる調査員に見えると思うか?」
「だよね」
大嘘《おおうそ》がバレる日も近いとみたね。
石段をのぼったところが玄関だった。大きな扉《とびら》の中は、馬鹿《ばか》みたいに広いホールになっていた。電気は通じているらしく、キンキラしたシャンデリアには明かりがともっていた。正面には、おとぎ話に出てきそうな豪華で大きな階段がある。その下に男の人がふたり立っていた。四十すぎのおじさんと、六十くらいのおじいさん。
あたしたちが開いたままになっていた玄関を入ると、おじさんが前に出てきた。
「大橋《おおはし》と申します」
そう言って深々と頭を下げる。
「所長さんは……」
言われて、安原さんが一歩出た。
「僕です」
……ああ、あたしって正直者《しょうじきもの》だからこういうのってヤなのよね。しかし大橋さんは疑うようすもなく、改めて安原さんに頭を下げた。
「この件につきましては全権を一任されています。私を依頼主だと思っていただいて結構です」
安原さんも軽く頭を下げる。
「所長の渋谷一也《しぶやかずや》です」
良心の呵責《かしゃく》なんかまるでなさそうな、しれっとした顔。
「なるほど。お聞きしていたとおり、ずいぶんとお若くていらっしゃる」
そう言ってから、大橋さんがあたしたちのほうを見た。
「みなさんは?」
ぼーさんが軽く頭を下げる。
「滝川《たきがわ》と申しますが」
「滝川……何と」
「法生《ほうしょう》です」
大橋さんは、滝川法生さま、と小声でくりかえす。それから綾子を見た。
「松崎《まつざき》綾子です」
「ジョン・ブラウン、と、いいます」
安原さんが、
「親しくさせていただいている霊能者の方です。今回は特別に協力していただきます」
「さようですか。――他のお三方は?」
安原さんが軽く答える。
「僕のアシスタントです」
「お名前は」
大橋さんに聞かれて、あたしは一瞬、ナルとリンさんを見てしまった。あたしは聞かれても困らないけど、ナルとリンさんはどうするんだろう。
ナルが真っ先に口を開いた。
「鳴海《なるみ》、一夫《かずお》と言います」
……この大嘘《おおうそ》つき。
大橋さんがあたしを見る。
「あ、……谷山麻衣《たにやままい》です」
大橋さんの視線はリンさんのほうへ。ついでにあたしたちの視線もリンさんのほうに移動する。ついに名前を言うだろうか。それともいつもどおりつっぱねるんだろうか。その場に期待が盛り上がったとしても、これはもうしかたないことだと思う。全員が思わずまじまじとリンさんを注目してしまう。
リンさんはきわめて無表情に頭を下げた。
「林興除《りんこうじょ》と申しますが」
……げ、げーっっ!?
聞いた大橋さんよりも、あたしたちの間のほうに思わず驚いた声があがった。
「中国のほうですか」
「そのうち中国に戻りますね」
「香港《ほんこん》のご出身?」
「ええ」
な……なんとリンさんは外国の人だったのか! す、すごい。
やだなー、リンさんってば、言ってくれればいいのにー。……いや、まて。ひょっとして「林興除」というのが、ナルのようにこの場かぎりの偽名である可能性もあるぞ。
うーむ。奥が深い……。
大橋さんはあたしたちを見まわし、それから左にのびる廊下《ろうか》を掌《てのひら》で示した。
「どうぞ。皆さまおそろいです」
案内されるまま広い廊下を右に左に折れて、家の奥に向かう。妙に入り組んだ建物だった。もっとも、豪邸というのはこういうものなのかもしれない。あたし、庶民《しょみん》だからわかんないけど。
大橋さんが案内してくれた部屋は、ムカッとするくらい大きな部屋だった。豪華な部屋の真ん中に大きなテーブルがあって、そこに何人かの人間が座って待っていた。
……おっと、真砂子《まさこ》もいるぜ。
真砂子はすでに到着していて、いつもどおり着物姿でそこに座っている。あたしたちを見て(たぶん、ナルを見てというほうが正確だろーが)軽く笑みを浮かべた。
あたしたちが最後の到着らしい。最後尾のナルが部屋に入ると、ドアの所にいたおじいさんがドアを閉めた。
大橋さんはあたしたちをイスに座らせる。
「全員おそろいになったようなので、始めさせていただきます」
そう言って大橋さんは、
「まず、今回ご協力をお願いしたみなさまをご紹介させていただきます」
最初にいちばん上座《かみざ》にすわっているおじいさんを示した。
「三魂会《さんこんかい》の三橋芳名《みつはしほうめい》様」
おじいさんはいかがわしい顔で会釈する。
「澄明協会《ちょうめいきょうかい》の聖忍《ひじりしのぶ》様、その助手をなさっている上原美紀《うえはらみき》様、厚木秀雄《あつぎひでお》様」
三十くらいのおじさんと、おにーさん、おねーさんの三人組。
「防衛大学教授の五十智絵《いがらしちえ》博士とそのアシスタント、鈴木直子《すずきなおこ》様」
上品なおばあさんと、若いおねーさん。
「法専寺《ほうせんじ》ご住持《じゅうじ》、井村健照《いむらけんしょう》様」
住持というのは、坊さんの一種だとぼーさんが言ってた(おお。シャレみたい)。文字どおり坊主頭のおじいさん。
「霊能者の原真砂子様」
真砂子は説明不要だろう。
「南心霊調査会の所長、南麗明《みなみれいめい》様。所員の中原清明《なかはらきよあき》様、白石幸恵《しらいしゆきえ》様、福田三輪《ふくだみわ》様」
老《ふ》けたおじさんと若いおじさんとおばさんとおねーさん。
ああっ! もー、誰が誰やら。仕事がすむまでに、全員の名前を覚えきれるだろーか? とほほ
紹介されていないのはあたしたち。そしてもうひとり、温厚そうな紳士然とした外人さんだけになった。
「そのオブザーバーで、英国心理調査協会のオリヴァー・デイビス博士」
サッと全員の視線がその人に集まった。
デイビス博士。
あたしでも知っている。この業界の有名人。英国心霊調査協会、通称SPRの研究者。ESPとPK両方の能力を持つ超能力者でもある。
みなさまの視線は尊敬とライバル意識がまざりあった、それでもびっくりしたのだけはたしかな色をしている。
大橋さんは、ひそかなざわめきを無視して紹介を続けた。
「渋谷サイキック・リサーチの所長、渋谷一也《しぶやかずや》様とそのみなさま」
おっと、全員助手にされちまったい。
「滝川法生《たきがわほうしょう》様、ジョン・ブラウン様、松崎綾子《まつざきあやこ》様、鳴海一夫《なるみかずお》様、谷山麻衣《たにやままい》様、林興除《りんこうじょ》様」
ひとりずつ掌《てのひら》で示しながら、名前を間違いもなく言ってのけた。すごい。
「以上の二十方です」
それから大橋さんはいつの間にか部屋に入ってきていた、五人の男の人を紹介した。さっきのおじいさんたちだ。彼らがあたしたちのお世話をしてくれるのだとか。いわば職員ってとこかな。
大橋さんはさらに続ける。
「先生のご意向で、みなさまには調査の間、ここに泊《と》まりこんでいただきます」
先生、というのは当然大橋さんのご主人さまのことなんだろーな。
うーむ。政治家というのは公務員のはずである。しかし誰も町役場のおじさんを先生とは呼ばない。なぜであろうか。考えてみるとふしぎだなー。
「むろん、リタイアしてお帰りになっていただくぶんには構いませんが、それまでは申しわけありませんが出入りをなさらないようお願いいたします」
人目につかないよう、ということなんでしょーが、出入り禁止といういのはけっこうキビしい条件だよな。夜中にお腹《なか》がすいたりしたら、どうしたらいいんだろう。もっともコンビニまでそーとーありそうだけど。
情報収集にも不便だ。わが『渋谷サイキック・リサーチ』の場合、近所での聞きこみとか、役所での調べものなんかがけっこう重要なポイントになるので、それで今回は森さんが諏訪《すわ》市内のホテルに待機している。
「それでは、これからお泊りいただくお部屋に案内いたします。その後はご自由にどうぞ。わたくしどもでお役にたつことがあれば、なんなりとお申しつけください」
あたしが案内されたのは、その部屋(勝手に食堂と呼んじゃえ)の真上あたりの部屋だった。学校の教室くらいはありそうな部屋で、そこにブ厚いマットレスが三つ。つまり、綾子、真砂子と同室ってわけ。
綾子はともかく、真砂子がねぇ。ま、こんな陰気な家でひとりになるよりはいいけど。
ちなみにナルとぼーさん、ジョンは隣の部屋。さらに隣がリンさんと安原《やすはら》さん。どーせナルと安原さんはトレードするんだろう。
「けっこう、いいじゃない」
浮かれた声で言ったのは綾子だ。
部屋はこれまた豪華な内装で、しかもきちんと手入れされてた。じゃっかん壁《かべ》がくすんでいるのはしかたあるまい。窓ガラスは割れてないのが入ってるし、よろい戸も無事。すえおきの家具からなにから、きちんと掃除されていた。
「寝る暇《ひま》があればいいけどね」
あたしが言うと、綾子は顔をしかめる。
「やなこと言わないでよ。アタシは寝るわよ。睡眠不足は美容の大敵っ」
「お肌の曲がり角《かど》を過ぎると大変だねぇ」
綾子は顔を突き出した。
「ま・だ! まだ越えてないからねっ!」
「知ってる? 年より上に見られて喜べなくなったときが、年寄りの始まりなんだって」
「麻衣ぃ〜」
「はぁい(ハート)」
「あんた、本っ当にいい性格になったわね」
「そりゃもー、仮にも『渋谷サイキック・リサーチ』の調査員ですから」
そんなあたしたちを、真砂子が軽蔑《けいべつ》しきった目で見ていた。
「ふっ、くだらないことを言ってるわね、とか思ってるでしょー」
あたしが真砂子を指さすと、お人形さんはやんわり笑う。
「あら、わかりました?」
ホント、とっつきにくいんだから……。あんた、友達いないだろ。
「わかるとも。ね、この家、なにか感じる?」
あたしが聞くと、真砂子はちょっと真面目《まじめ》な顔でうなずいた。
「霊の姿は見えませんけど。でも、とても嫌《いや》なけはいがしますわ」
「嫌な気配かぁ……」
綾子は音をたててスーツ・ケースを閉じる。
「たしかに嫌な建物よね」
「へぇ、綾子でも嫌な気配とか感じるんだ」
あたしが言うと綾子はもう一度顔を突き出す。
「なぐるよ」
そうやって綾子とおちゃらけてると、真砂子がポツリと言った。
「血の……」
え?
「血の臭いがする気がしますわ」
真砂子はマットレスにきちんと腰掛けて、視線を遠くへさまよわせていた。ひどく緊張した表情をしていた。
荷物をしまって綾子《あやこ》たちと三人で食堂に入ると、なぜだか全員がそろっていた。つまり、二十人。お茶なんか飲んでる。
あたしと綾子、真砂子《まさこ》がイスに座ると、おじいさんがお茶はいかがですか、と聞いてくれた。こりゃ、本当にホテルに来たみたい。
コーヒーをお願いする。テーブルでは南心霊調査協会の南さんが、なにやら得意そうにまわりの人としゃべっている。
「まかせてください。なんら問題はありません。われわれにはデイビス博士の助言がありますし、最悪の場合でもアメリカのアレックス・タウナス氏や――ご存じですね、有名な超能力者でいらっしゃる――ユリ・ゲラー氏の助言やご協力をいただけることになっております」
アレックス・タウナス。ユリ・ゲラー。
ともに有名な超能力者じゃない。タウナスなんて、知る人ぞ知るって感じだし、ゲラーにいたっては超がつく有名人。有名すぎてペテンだなんだと言われるくらい。
こいつはちょっくらスゴいんでないかい?
南氏はとくとくと自分の交友関係の広さを自慢しはじめた。あたしでもよく名前を知っているような超能力者や研究者が彼のお友達らしい。
まわりの人々は半信半疑の表情だった。
「すごいよね」
あたしが隣に座ったジョンに小声で言うと、
「さいですね。けど、デイビス博士と知り合いなんですから」
そら、そーだ。博士だって知る人ぞ知る有名人だもんな。
博士は南さんの隣に座って、おっとりと微笑《ほほえ》みながら周囲の人がカタコトの英語で話しかけるのに答えている。
「博士ってどこの国の人?」
「イギリスのお人です」
「なるほどぉ。いかにも、イギリス紳士って感じよね」
「ですね。……けど」
ジョンはちょっと首をかしげた。
「けど?」
「いえ。思ったよりお年をとってはるんで。……てっきりもっと若いお方やと」
博士は四十くらいだろうか。あたしには十分若く見えるけど。なんか「博士」っていうと、おじいさんみたいな印象があるもんな。
「ね、ジョンって英語しゃべれる?」
ついそう聞いてしまうと、ジョンの真っ青な眼がパチクリした。
「ボク……英語の国の人ですけど」
……うん、知ってる。身近に英語に堪能《たんのう》な人間がマレなもんで、つい。
「……愚問《ぐもん》でした。ジョンがあんまし日本語がうまいからさー」
「おおきにさんです。それが、どないかしましたか?」
「あとでちょっと、通訳とかしてもらえるかなー、なんて」
あたしが言うと、ジョンがクス、と笑った。
「博士ですか?」
「うん。やっぱ有名人だし、ちょっとお話なんかしてみたいなー、なんて」
ジョンが笑う。
「ミーハーかしら」
「いえ。滝川《たきがわ》さんと同じことをいわはるから」
なんだー、ぼーさんもかー?
「ぼーさんも、けっこう有名人に弱いなぁ」
「滝川さんは博士に……なんて言うんでしたか、傾向?」
「傾倒?」
「そです。傾倒してはりますから」
うーむ。つまり博士のファンなのね。そういえば、よく博士のことをひきあいに出すもんなぁ。
そんなことをヒソヒソ話していたら、ナルが安原《やすはら》さんに声をかけた。
「それじゃ、所長。始めましょうか」
……うーん。どうも違和感あるなー。
「はい」
安原さんが『渋谷サイキック・リサーチ』の所長とも思えぬ、素直なお返事をして、あたしたちは、肉体労働をすべく立ち上がった。
まずは調査拠点にあたる部屋に機材を運《はこ》びこんだ。コンピュータ、さまざまな計器、いくつものモニター、などなど。ラックを組み立てたり、そこに機材を押しこんだり、配線をしたりと重労働をしていると、大橋さんが顔を出した。
「部屋はここでよろしかったでしょうか」
安原《やすはら》さんが会釈《えしゃく》する。
「はい。ありがとうございました」
「たいへんな機材ですね」
大橋さんは少し驚いたように機材をおさめたラックを見上げた。
「どうも。あの、少し質問をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
……むむ。安原さんが質問するんだろうか?
「ええ。なんでもお聞きになってください」
「じゃあ……」
そう言って、安原さんはナルを振り返った。
「鳴海《なるみ》くん、頼むね」
おっとー。その手があったか。
安原さんはしらじらしく笑う。
「僕は車で機材の調整をしておくから。――大橋さん、すみません。よろしくお願いします」
そう言って、安原さんは出ていった。ナルは大橋さんにイスをすすめて、自分も座る。お願いして準備してもらっておいたテーブルにファイルを広げた。
「まず、最初に依頼の内容をもう一度確認させてください」
うん。さすがにナルがビジネスを始めると、その場の雰囲気がひきしまる。機材の準備をしていたあたしたちの空気まで緊張した。
大橋さんがごく真面目《まじめ》に話を始めた。
「もともこの建物は、先生の奥様のご実家の所有になります。奥様はまったくここにいらしたことがありませんし、奥様のお父様……つまり、先代も結局ここにはお住まいにならなかったそうです。と言いますのも、幽霊が出るという話でしたので、それで忘れ去られた状態だったのですが、先々月、この家で少年がひとり、行方不明になりまして」
「……と、いいますと?」
「ここが空《あ》き家なのをいいことに、近郊の若者たちが出入りしていたらしいのです。いわゆる暴走族のグループがここに入りこみまして、そして中のひとりがいなくなったと、警察に届け出があったそうです。この屋敷はたいへん複雑な構造になっておりますので、どこかで具合でも悪くなって発見されていないのではと、警察が人手を集めて捜索したのですが、発見できませんでした。そればかりでなく」
大橋さんは困ったように苦笑した。
「捜索をしていた消防団の青年が姿を消したのです」
……うわー……。
「その時に、中の何人かが屋敷の中で人魂《ひとだま》を見たとかで。ここで増築の工事をしましたとき、作業員が消えたこともあるという話で、先代はくれぐれもこの建物には手を触れぬように、朽《く》ちるにまかせておけとのご遺言《ゆいごん》だったそうです」
大橋さんは自分でも半信半疑なのか、苦笑を浮かべたままだった。
「ですが、ここでふたりも行方不明になったとなると、悪い噂《うわさ》もたちますし、放っておくわけにもまいりません。かといって、これ以上の被害が出ても……。それで霊能者の方にお願いしてみようと、そういうことになりましたのです」
なるほど、と言ってからナルは部屋を見まわした。この部屋も広い豪華な部屋だった。いかにも外国の映画に出てくる豪邸のような。ひどく傷んではいるけど、掃除はきちんとされている。
「わりに古い建物のようですが……いつ頃の建築ですか?」
「最初の建築は明治十年頃と聞いております」
「明治十年というと……」
「今から百十年以上前ですね。一八七七年ですから。ただ、その後増築や改築をくりかえしまして、その当時の建物はほとんど残っていないというお話でした」
「いつ頃だかわかりますか?」
「あいにくと……。先々代――奥様のお祖父さまがこの家をお建《た》てになったのですが、その当時からひんぱんに改築が行われていたそうでした。先代にいたっては、ほとんど毎年のようにどこかしら手を入れてらっしゃったそうです」
ナルがメモをとっていた手を止めて顔をあげた。
「毎年のように? なのにここには住まなかったんですか?」
「はい。そのようにうかがっております」
……変なの。じゃ、なんのためにお金をかけて工事をしてたわけ?
「先々代はどういった方だったのですか?」
「美山鉦幸《みやまかねゆき》さまとおっしゃいまして、諏訪《すわ》一帯に広く土地をお持ちでした。後に製糸工場をお建てになりまして、慈善事業にも手をつくされました。孤児院や私立の慈善病院などを設立なそったそうです。もっとも、明治四十年、一九〇七年の恐慌で事業の大部分を手放され病院なども閉鎖のやむなきにいたったそうですが」
……日本史の授業か、これは。
「結局、その三年後にお亡《な》くなりになったそうです」
かわいそーに。きっとガックリきちゃったのねぇ。
「そのあとを先代の宏幸《ひろゆき》さまがお継《つ》ぎになりまして。先代も二十年ほど前に亡くなられましたが」
ナルは指先でテーブルを叩く。
「鉦幸氏はここにお住まいだったんですか?」
「さようで。先代は諏訪市内の本邸でお生まれになりまして、結局ここにはお住まいになられないままだったそうです。もともと別邸でございましたので」
「何度か滞在したことはあるわけですね?」
「そのようにうかがっております」
「大橋さんご自身は、ここでなにかを見たというようなことは」
「準備のために一週間ほどおりますが、そのようなことはございません」
「他の方も?」
「はい。そのような話は聞いておりません」
ナルは考えこむようすをする。少し眉《まゆ》をひそめてから、
「その……行方不明者と一緒だった人たちに話をうかがえませんか?」
「もうしわけありませんが、できるだけ内密に調査をしていただきたいので……」
ナルは軽く眉をひそめる。それでもその件に関してはなにも言わず、
「最後に。……怪談の原因について、なにかお心当たりは?」
「わたくしにはわかりかねます」
「ありがとうございました」
軽く頭を下げてから、ナルは、
「ああ、大橋さん。この家の平面図が手に入らないでしょうか」
「もうしわけありません。そのようなものはないと、うかがっております。なにしろ思いつくさまに増改築を重ねておりますので……」
「……そうですか。どうも」
「いかにも幽霊屋敷って感じじゃない?」
大橋さんが出ていくなり、綾子がなんだか弾《はず》んだ声をあげた。
ぼーさんもニンマリして、
「だよな。古い洋館。いわくありげな由緒《ゆいしょ》。……ナルちゃん、どうした」
ナルはすごく難《むず》しい顔をしている。
「気に入らないんだ」
「なにが」
「長いこと無人だった幽霊屋敷。建物は複雑で平面図もない。そこに泊まりこむんだぞ」
そうか。ナルはそういう場合、安全を確認するまで泊まりこみはしない主義だもんね。
「おっと、けっこう弱気な発言」
「慎重と言ってくれないかな? ――麻衣《まい》」
「はぁい」
「とりあえずこのあたり一帯に温度計を置いてみる。ぼーさんと行ってくれ。陽が暮れたらやめていい。日没後は必ず誰かと一緒にいるんだ。いいな?」
「……うん」
なんか、念を押されるとビビっちゃうなー。
「他の者も。しばらく、日没後はひとりで行動しないほうがいい」
そう言ってから、今度は綾子を見る。
「護符《ごふ》を書けますか」
「できるに決まってるでしょ。あたし、巫女《みこ》よ?」
「とてもそうとは思えねーけどな」
ぼーさんがチャチャをいれると、綾子がにらむ。
「あんたに言われるすじあいないわよっ」
……そら、そーだ。ぼーさんが坊主に見える奴がいたら、誉《ほ》めてつかわす。
パシ、とナルが机を叩く。
「護符を。人数分。各部屋の分と」
ぼーさんは首をかしげている。
「用心のしすぎじゃねぇの?」
「無思慮な人間が、怠惰《たいだ》の言いわけにするセリフだな」
ぼーさんは一瞬ムッとした顔をしてから、ニンマリと笑った。
「――そう。たしかに用心はしといたほうがいいわな」
ナルを楽しそうに見る。
「……なんだ?」
「その態度、用心してツネヒゴロから改めておかねーと、バレるぜ。調査員の鳴海《なるみ》くん」
綾子が手を叩いた。
「あ、言えてる。ぜったいに、調査員にしては偉《えら》そうだもんねー」
うんうん。
「アタシたちはれっきとした霊能者で、所長から協力を求められてるわけだし、やっぱゲストよね。それなりの態度で接してもらわないとー」
ナルはちょっと顔をしかめる。
「……心がけましょう。ずいぶん年上でいらっしゃることでもあるし」
こいつ、明らかに「ずいぶん年上」を強調したな。
ナルが立ち上がった。作り笑いミエミエの笑顔を浮かべる。
「では、作業にかかりたいのですが、手を貸していただけますか。松崎さま、滝川さま?」
これは寒い。はっきり言って背筋が寒いぞ。こちらを見ていたジョンが頭を抱えた。
「ま……麻衣。行こうか」
「はい、行きませう」
すたこらその場を逃げ出した。あたしとぼーさんだった。
二章 めかくし
車に行って温度計とボードを取ってきて、ついでにぽつねんとしてた安原《やすはら》代理所長を拾って、あたしたち三人は各部屋の気温をはかってまわる。心霊現象の起こっている場所というものは、気温が低くなるものなのだそーだ。
大橋さんに聞いた話をしながら歩いていると、
「だいじょうぶなのかな」
安原代理所長がその辺の戸棚を開けながらつぶやいた。
「なにが?」
「だから……ここで人が行方不明になったのって、二か月前なんでしょ? もしその人が家の中で迷子《まいご》になったんだとしたら、まず死んでるよね」
「……まぁねぇ」
「ウロウロしてて死体なんか発見したらやだなぁ」
……う。やなこと言うなぁ。
「こういう家だし、ネズミとか絶対いるよね。ネズミやゴキブリに喰《く》われてボロボロになった死体なんか見たい?」
「やめてよぉ」
あたし、ホラーはともかくスプラッタは嫌《きら》いなんだからー。
ぼーさんが豪快に笑った。
「俺たちがそのへんを歩いて見つけられるはずがねぇだろうが。警察が調べた後だぜ」
「あ、そうか」
「でもま、単なる迷子《まいご》なのかもしれんなぁ」
この屋敷はたしかに、複雑怪奇な構造をしていた。廊下《ろうか》は意味もなく曲《ま》がったり折れたりしてるし、幅だって気ままに狭《せま》くなったり広くなったり。好き勝手なところに短い階段があって、ちょこちょこと上がったり下りたり。あっという間に方角を見失ってしまう。
気温を書きこむボードのはしに略図を描いていなけりゃ、あたしたちだって迷子になっていたかもしれない。
「うーん。RPGをやってる気分になっちゃうなー」
安原さんは、あっちこっち出たり引っ込んだりして、「井」型になった部屋を見まわして感心したような声をだした。
「アールピージーってなに?」
「ロール・プレイング・ゲーム。谷山さん、ファミコンやらないの」
「持ってないもん。おもしろい?」
「そりゃもー、はまるはまる。ファミコンの二大ソフトに『DQ』と『FF』とあるんだけど。どっちかの新作が一月だか二月だかに出てたら、僕、ぜったい大学落ちてたな」
も……もしもし?
ぼーさんが片隅にあった窓から、外に向かって首を突き出した。
「おー。すげえ。この窓、隣の部屋に開いてるわ」
へ?
なんということもない、ふつうの窓だった。その窓の向こうが庭でなく、隣の部屋だという点をのぞいては。
「よろい戸まであるのに……」
「改築だか増築だかしたときにこうなったんだな。……得体《えたい》の知れん3Dダンジョンみてーだな」
ぼーさんが言うと、安原さんがポンと手を叩いた。
「滝川《たきがわ》さんも、ファミコンファン? 『女神転生』やりました?」
「ところが『U』終わってねーのよ、俺。魔獣合成にウツツをぬかしてるうちに、本来の目的を忘れちまって」
「わかる、わかる」
あたし、わかんなーい。
盛り上がるふたりを多少うらめしい気分で見ながら、あたしは温度計をすえる。温度計といっても、学校で使うアルコール温度計ではありませんぞ、念のため。
摂氏《せっし》四度。ずいぶん低いが、このあたりの部屋はみんな似たりよったりだ。 はかった温度をボードに書きこむ。なんという部屋なのかわからないので、略図に番号をふっておいた。
「オッケー。つぎ行こう」
そう声をかけて、あたしは自分がどこから来たのかわからなくなってしまった。「井」型の部屋は四方の同じ位置にドアがあって、そのどれから入ってきたのかわからなくなったわけ。ちっ。コンパスがいるな、これは。
「どっから来たんだっけ?」
あたしが聞くと、安原さんとぼーさんはたがいにちがう方向を指さした。
あてにならん奴ら。
いちいちドアを開けて確認しているとぼーさんが、
「ウインチェスター館だな、これは」
なんだ、それは?
安原さんが聞き返す。
「ウインチェスターって、ウインチェスター銃の?」
「なに、それ?」
セーターを引っ張ると、『渋谷サイキック・リサーチ』の所長とは思えぬ親切さで教えてくれた。
「古い銃に、そういう種類があったんだよね。それとも今でもあるのかな。……それですか?」
ぼーさんはうなずく。
「そ。ウインチェスター銃を製造したウインチェスター家の家さ。俺もよくは覚えてねぇんだけど、こういう複雑怪奇な家らしいぜ。開かない窓、上がれない階段、通れないドア」
「あ、おんなじ」
「だろ?」
安原さんは妙に納得した顔をする。
「金持ちの考えることってわからないよなぁ。なんだってこういう家にしたがるのか?」
「ウインチェスター館のほうはワケアリらしいけどな。たしか、家が完成したら悪いことが起こるとかなんとかで、完成しないよう果てしなく増築をくりかえしたんだとさ」
「へぇ。じゃ、この家もなんかワケアリなのかも」
「ワケがなかったら二笑邸だよ。ああ、ここだ、まだ入ってない部屋」
そう言って、ぼーさんがやたら細長いドアを開けた。
その部屋番号八番の部屋は、もっと奇妙な部屋だった。
だだっ広い部屋の真ん中に二畳くらいの小さい部屋があって、しかも、そこだけ床の高さが違ってたりするからめーわくな話だ。
その小部屋(八・五号室)で温度をはかる。
「ダンジョンならこういう部屋にはなんかあるんだよな」
「そう。宝箱とか、小ボスとか」
……なに言ってんだか。
のんきな話をうれしそうにしている安原《やすはら》さんとぼーさんをおいて外に出ると、広い部屋の角に三人の男女が集まっていた。
おや。有名超能力者とお友達の南さん。
南さんはあたしを見てニヤッと笑う。
「おやおや。お嬢さんも、もうお仕事ですかな」
「はぁ。まぁ……」
南さんはあたしが抱えたボードを見る。
「気温の計測ですか?」
そう言って、なんども首をうなずかせた。
「いいですねぇ。気温の計測は、心霊調査の基本ですよ。おたくの所長さんはお若いのに、なかなか物を知ってらっしゃる」
ニヤニヤして言う南さんは、右手にアルコール温度計を持っていた。
「……どうも。南さんもですか?」
あたしが聞くと、南さんはニンマリ笑う。
「そうです。我々の方法は、デイビス博士|直伝《じきでん》ですからな。ええ、企業秘密なんてことは言いません。これも心霊研究の発展のためですから、盗《ぬす》めるテクニックはどんどん盗んでいってください。人間、勉強ですよ」
「はぁ……」
よくしゃべるおっさんだ。
南さんはあたしにもう一度笑いかけながら、温度計を軽く振って、それをホコリをかぶった家具の上においた。
……あのー。アルコール温度計って振っても下がらないんですけどぉ。
南さんの両わきには、おばさんとおねーさんがいて、ふたりして目を閉じて合掌《がっしょう》していた。そのおばさんが目を開けて、
「会長、この部屋の向こう側の部屋に何かを感じます」
「ああ、そう」
南さんはニコニコして、温度計を取りあげるとメモ用紙に温度を書き込む。それから会釈《えしゃく》して、
「まぁ、お互いにがんばりましょう。除霊に成功したチームには賞金が出るようですし」
「はぁ……」
軽やかに手を振って、南さんはおばさんたちと部屋を出ていった。
うーむ。これはどうしたもんだろうか。
人を意味もなく疑うのはよくないとは重々承知なんですが。なーんか、うさんくさい気がするんだよなぁ……。
ゴースト・ハンターはレースじゃないと思うわけ。少なくともレースよりはボランティアに近いと思うぞ(ウチの場合は、だけど)。
それに第一、アルコール温度計でもってあんな気温のはかり方があるかい。地面に対して垂直に設置して、少なくとも数分から十分はおいとかないと。目盛りを読むときは視線を目盛りの高さまで持っていって、アルコールの上端と完全に水平になるように気をつける。――うちの所長はお若いけど、そういうことにはやかましいんだ。
そのうえ、うちでは正確を期してアルコール温度計は使わない。ちゃんと小数点以下二|桁《けた》まで出るデジタル温度計を使うんだい。
本当に、かのデイビス博士の指導なんだろうか? それとも博士って意外にファジーな人なのかしらん。博士っつーくらいだから、ウチの所長よりも厳格でやかましい人種なんだろうと思ってたけど、事実は逆なのかもしれないな。専門家ほどおおらかだ、と。
あたしは南さんが温度計を置いた棚にうちの温度計を置いて、気温の測定をやった。腕時計を見ながら正確に定時数をはかる。定時数というのはひらたく言えば、その温度計が正確な温度をはかるまでに必要な時間のことよ。
いつもは面倒なのでアバウトにやっちゃうんだけど、今はなんとなく丁寧《ていねい》にやりたい気分。やっぱいいかげんにやるよりは、正確にやるほうがいいはずだ。うんうん。
そのあたり一帯の十部屋ほどの温度を、三度計測してベースに戻る。広い部屋の中は機材で埋《う》まっていた。
「どうだった」
ビデオカメラの調整をしていたナルに聞かれ、あたしはボードをさしだす。
「特に低い場所はないけど。んでも、平面図製作班を作らなきゃ、絶対|迷子《まいご》がでるって断言するぞ、あたしは」
「僕には必要ないが、必要な人間がいそうだな」
誰のことだよ、おい。
「八号室で南さんに会ったよ。いいかげんなやり方で気温の測定してた」
「南氏に会ったって? いつ?」
聞いてきたのはぼーさんだ。
「八号室。ぼーさんと安原《やすはら》さん……じゃない、所長が小部屋で遊んでるとき」
「博士は?」
「いなかったよ」
「……なんだ」
どことなくガッカリしたようすのぼーさん。
「えらくこだわるじゃない」
綾子《あやこ》がニヤニヤ笑って隣のジョンを見た。
「滝川《たきがわ》さん、博士を尊敬してはりますから」
ぼーさんはなんだか照れた表情で、オイとかコラとか言ってる。ふ。かわいいやつ。
「そんなにスゴイ人なんだー」
にまにま笑ってぼーさんを見ると、ぼーさんはきまり悪げに頭をかいた。
「少なくとも、あれだけ厳密な研究者はあんましいねぇよなぁ……」
「そうなの?」
「そ。すっげー真面目《まじめ》な人なんだよ。まるで普通の科学論文みたいな。きちんとした論文書かくしさ」
「それって、珍しいの? 論文は論文でしょ?」
「それがまぁ、そうもいかねぇわけ。外国の研究者はまだマシだけどな。日本の研究者なんか、引用文献の出典も書かない奴がいるし」
よくわかんなーい。けどまぁ、ぼーさんの口調から察するに、たいしたことなのね。
「著作がひとつあってな、『超自然のシステム』っつー。それの序文に、こういうのがあって。『超自然現象研究に関して、科学だペテンだ、の議論があるが、著者はこれをいまだ科学ではないと感じる。ゆえに、まず超自然現象研究を科学として認知させるための研究をおこないたいと考えている』っての」
んー、と。つまり、超自然現象はまだ科学じゃないから、科学にするための研究をする、ってわけね。潔《いさぎよ》いじゃない。ふむふむ。
「超自然現象を信じる奴は、あたまっからこれは科学だって言いはるんだよな。反対派は、こんなのペテンだって決めつけるし。それがさ、思い切ったことを言うよな。博士本人はサイ能力者なんだから、超自然現象があるって知ってるわけだぜ?」
ジョンがうなずいた。
「さいですね。事実その本かて、すごくきちんとした研究書でしたし」
「だろ?」
ナルホド。それですっかり傾倒してる、と。うーん、けっこーかわいい性格。
「……でもさ」
あたしは首をかしげた。
「そのわりに、博士直伝だっつって、南さんはいいかげんな気温計測してたよ」
「そりゃ、南氏がいいかげんな性格なんだよ」
綾子が口をはさんだ。
「でもさー、あの南っての、なーんかうさんくさくない?」
「あ、綾子もそう思う?」
「思う、思う。なんか、卑屈《ひくつ》な感じで好きになれないのよね」
「だよねぇ。あたしもああいう、じぶんの自慢ばっかする人って好きじゃない」
ジョンがふいに小首をかしげた。
「ボクは博士に会うたことあれへんのですけど、たしか若いお人やと聞いたことがあったと思うんですけど」
ぼーさんはじゃっかんムキになった気配。
「なんだよ、疑ってんのかぁ? 『博士』にしちゃ、十分若かったじゃねぇか」
「それはどうですやろ……。博士はロンデンバーグ財団から博士号をもろうたんですよね。欧米には心霊研究を援助する財団がたくさんおますし。ロンデンバーグ財団はその中でも最近特に力をいれてるとこなんです。博士号を作って優秀な研究者に与えたり、大学に講座を作って、その教授にしたりしてます。デイビス博士はその博士号をもろたんで、いわゆる普通の博士号とはちょっと違うんで……」
ふぅん。ややこしいのね。
「それに、デイビス博士が来日したら、もっと大騒ぎになってるのと違いますか。来日したなんてウワサは聞いてませんし」
ぼーさんも眉《まゆ》をひそめた。
「そういや、そうだな……」
「そうよねぇ、一部でとはいえ、有名な超能力者だもんねぇ」
「あのー」
と、あたしはおそるおそる言ってみる。
「あたしは不勉強なんで、よくわからないんだけど、そんなすごい能力者なの」
当然のように軽蔑《けいべつ》の視線が返ってきた。ううう。
「すごいわよぉ。本人は霊に関する研究者で、あんまし超能力のほうでは活躍してないけど」
「へぇぇ」
ぼーさんが天井を仰《あお》いだ。
「何年か前に一度だけPKの公開実験をやったことがあるんだよ。それがビデオになってる。もっとも、ちゃんとした研究所じゃなきゃ手に入らないんで見てないけどな。どでかいアルミのかたまりを壁にたたきつけた、ってやつ」
「ほー」
「それに、以前富豪の息子が誘拐《ゆうかい》されたとき、その子を救出したんで有名なんだよな」
ジョンがうなずく。
「そですね。アメリカの自動車会社の息子はんでしたね。土の中に生き埋《う》めになってたのを見つけたんです。それでその富豪が大きな研究所をSPRに寄付したゆう話です」
ほえぇ。すごい。人命救助かぁ。かっこいいではないか。
てなことを話しているといきなり背後から声をかけられた。
「みなさん、楽しそうですね」
思いっきり冷たい声。
振り向くとナルが皮肉っぽい笑顔で立っていた。見ると、床に並べてあったカメラが減っている。
「よぉ、ナルちゃん。いつの間に。どこに行ってたんだい」
ぼーさんがひきつった顔で手をあげると、冷酷な視線を向ける。
「むろん、カメラを設置に行ったんですが。僕はここに仕事に来ているもので」
……わーったよ。サボってないで働けっつーんだろ。
「設置、やります」
あたしが言うと、ナルはさらに冷たい声で言う。
「おや、いいんですよ、谷山《たにやま》さん。女性には重労働ですから」
……寒い。凍《こご》え死にしそーだ。
「いえ。やります。やらせてくださいっ!」
「どこにカメラを置くの?」
全員でえっちらおっちらビデオ・デッキをかついで歩きながら聞くと、
「取りあえず全員が宿泊するあたりを中心に。そこからじょじょに半径を広げていって、安全圏を確保する」
ぼーさんがゲンナリした声をあげた。
「おいおい、そんなでこの家全部調べ終わるの、いつになると思ってるんだよ」
「しかたないでしょう。それとも逃げてお帰りになりますか、滝川《たきがわ》さま?」
ナルに視線をくらってぼーさんは頭をかかえる。
「……悪かった。俺が悪かったから、いつもどおりにしゃべってくれるか?」
ナルはめいっぱい皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「長丁場《ながちょうば》になるかもしれないが、やむをえないだろうな」
やれやれ、とぼーさんは小声で行って、それからあたしを振り向いた。
「そういや、麻衣《まい》。つねづね聞きたいと思ってたんだが、そんなに長く家をあけて親はなんにも言わねぇのか?」
……なに言ってんだ、いまさら。
「学校だってサボってるんだろうが? 先生にどやされてもしらんぞぉ」
「あのねぇ、いまさら聞く? 会ってもう一年だよ?」
「いや、いつも聞こうとは思ってたんだが」
「なにか言う人なんていないもん」
「おや、けっこうな家庭環境」
「うん。だってあたし、みなしごなの」
しぃん。
その場が凍《こお》りついた。全員の視線が集中する。おや?
ぼーさんがおそるおそる聞いてきた。
「孤児?」
「うん。そだよ」
「叔父《おじ》さんとか、叔母《おば》さんとか」
「全然いないの。天涯孤独の薄幸の少女なのさ。恐れいった?」
「……いった」
父は天涯孤独だった。母も天涯孤独だった。
あきれちゃうよ、まったく。ふたりともウカツなんだから。ともに天涯孤独ということはよ? ともに早死にの家系ってことじゃないか。そんなことも気がつかなかったのか、あんたらは。
ほれみろ、おとーさんはあたしが物心つく前に死んだし、おかーさんも中学ん時死んだじゃないか。まったく、もー。
面倒見《めんどうみ》のいい先生がお家《うち》に下宿させてくれなかったら、あたしゃ中学生にして路頭に迷ってたんだぞ。
「……それで?」
ぼーさんが聞く。
「なにが?」
「今どうやって生活してんだ?」
「ああ。今は自活よ。偉《えら》いだろ?」
「偉い……」
「学費は免除なの。うちの学校は貧乏《びんぼう》人に親切だからさ。生活費は奨学金《しょうがくきん》とバイト代。最近バイト代がいいから、生活、潤《うるお》っちゃってー」
へっへっへ。この冬なんかストーブ買ったもんねー。コタツはすでにあるのにさー。
いきなり、ぱふっとぼーさんがあたしの頭を抱きよせた。
「こらこらこらーっ!」
「おじさんの胸でお泣き」
なに考えてんだ、この坊さんは。
「いらん。放さんかい」
「生活に疲れたらいつでも言うんだぞ。おじさんが嫁《よめ》にもらってやるからな」
「それは定職についてから言うセリフでない?」
それとも、スタジオ・ミュージシャンというのは定職なのだろーか。ま、有休とか退職金とか聞いたことがないから、やっぱちがうんだろうな。
「かわいくない」
ポコンと頭をはたかれた。
「ごめんなさい。あたし苦労のしすぎで性格ほころびてんの。ああ、世間《せけん》が憎《にく》い……」
よよ、と泣きマネをしたらもう一回頭をはたかれた。なんだよぉ。
「それでバイト許可されてんのか」
「うん。もともとうちはバイト可だけどね。あたしの場合、生活のためですっつーと、休み放題なのさっ」
へっへっへ。
ぼーさんがうなずく。
「眠くて起きられない時もバイトだと言えば……」
「そうそう。好きなだけ休めるしー」
言ってからしまった、と思ったね。周囲の冷たい視線。
「なるほど、そうやって学校をサボってるわけだ。……馬鹿《ばか》になるはずだな」
と言ったのはナルでなくてぼーさんで、口調までナルに似てたので、思わずあたしは大笑いしてしまった。ナルは呆《あき》れた顔をしてたけど。
全員が宿泊することになっている二階の一角を中心に、五台の暗視カメラとサーモグラフィーをすえた。さらにその外側に十二本の集音マイクをセットする。ぼーさんとジョン、安原《やすはら》さんの三人で構成された邸内探検隊が、平面図を作りにメジャーとコンパスを持っていったあとで、あたしたちは機材の調整をする。ケーブルをつなぎ、角度を決めてチェックをしているとそれだけで夕暮れが近づいてきた。
その日、他の霊能者の方々が何をしていたのかは知らない。あたしたちは夕食のあとでベースでミーティングをして、各部屋をお祓《はら》いしたあとで早々にベッドに入って寝てしまった。
ナルが断固として夜間の調査をやめさせたせいだけれど、他の人たちは夜遅くまで邸内を調べていたようだった。
翌朝、叩《たた》き起こされて(誰に、とは聞かないように)食堂に行き、がっつくように朝ご飯を食べると、あたしたちはベースに集まった。
リンさんが、例によって昨夜機材が自動的に録画したテープの再生にかかる。特に妙なものが映っているテーブルはなかった。時折、通り過ぎる霊能者たちがめずらしそうにのぞきこんでいるのが映っていて、それが妙におかしかったくらい。集音マイクを通して録音されたテープも同様。サーモグラフィーも正常値。そのほかの、あたしにはいまだよく理解できない測定器にも異常は発見されなかった。
「動きなし……ですか?」
安原《やすはら》さんが聞くのに、ナルはうなずく。
「初日はこんなものでしょう。昨夜機材を置いた周辺は、さほど危険ではないだろうな」
ナルはあくまで慎重派。
綾子《あやこ》はちょっくら不満そうだ。
「いいのぉ!? そんなにノンキに構えてると、他の連中に手柄を横取りされるわよぉ」
「べつに手柄をたてたいとは思っていませんが」
「んじゃ、なんでこんなことしてるわけ?」
「いわば、ボランティアです。――安原さん、ぼーさん、ジョン。麻衣《まい》と四人で見取り図作成の続きをやってくれ」
まったく綾子を相手にしとらんな、こいつ。
今日は朝から行動をともにしている真砂子《まさこ》が、
「あたくしもなにかお手伝いできることがあれば……」
「松崎《まつざき》さんと不審《ふしん》な場所がないかチェックしてください。臭いがする、と言ってましたよね? その臭いがどのあたりでいちばん強いかも。十分注意して、不審な場所を発見しても勝手に踏《ふ》みこまないでください。まず報告を」
「わかりましたわ」
「昼には全員必ずここに戻るように。そうだな、十一時半。時計を合わせて、絶対に遅れないこと」
へいへい。生活指導の先生より口うるさいな、こいつは。
昨日ぼーさんと安原さん・ジョンの三人が努力したにもかかわらず、平面図のほうは白紙に近い状態だった。ようやく食堂とベース、宿泊所のある一角が書きこんであるだけ。
とりあえず、昨日中断していた食堂の北側の廊下《ろうか》を計測する。ざっと長さと幅、方向をはかって、グラフ用紙に書きこんだ。さらに廊下の両側の各部屋のサイズをはかる。
そうやって片はしから計測していって、ある部屋に入ったときだった。
「あれぇ?」
あたしはサイズを書きこみながら思わず首をかしげてしまった。
「どうした?」
ぼーさんが手もとをのぞきこんでくる。
「どっかで測量、まちがってるよぉ」
この部屋は教室ぐらいの広さの部屋だった。部屋の三方を廊下に囲まれていて、廊下と隣の部屋の測量はすでに済んでいるから部屋の外側の大きさはわかっているわけ。外側のサイズからすると、この部屋は長方形の部屋になるはず。ところがだ、実際に部屋の中をはかってみると、ほぼ正方形なんだよな。
そう言うとぼーさんが舌打ちをした。
「またかよ……。おい、はかりなおしだ」
ぼーさんと安原さん、ジョンの三人が外側のサイズをはかりに部屋を出る。少しして戻ってきた三人は不思議《ふしぎ》そうに首をかしげていた。
「……どしたの?」
「外のサイズはそれであってるぜ」
「そんなはずないよぉ。この部屋、はかるまでもなく正方形じゃない。じっさいはかった結果もほぼ正方形だしー」
「ところが外もあってるんだ、これが。二度はかったから間違いない」
ええー?
部屋の三方にはドアがある。ドアを開けてみると壁の厚さがだいたいわかる。壁はひどく薄いわけではなさそうだし、……すると。
あたしは一方だけドアがない壁を見た。
「この壁、まさか厚さが三メートルもあるの?」
「そうでなければ、ずっと最初のほうで間違っててそのままズレてきてるんだ」
ボタンをかけちがったみたいに、とぼーさんはいまいましげに言う。
安原さんが指をあげる。
「隠《かく》し部屋」
……まさか。かんべんしてよぉ。
「うーん、ますますダンジョンみたいですねぇ」
安原さんはなんだか満足しているようすだ。
「壁に穴ぁ開けてみりゃ、はっきりするんだがな」
なんて過激なことを言ってくれるのはぼーさん。
ジョンがふたりをなだめた。
「……とにかく、ここはおいといて、先に進みましょ。他の部分をはかっているうちに、どこでまちごうたのかわかるかもしれませんし」
んだんだ。
そうして作業を再開したわけなんだが、計測ミスがはっきりするどころか、はかればはかるどつじつまの合わない所が出てくる始末。何度もはかりなおして駆《か》けまわって、最後にはすっかりウンザリしてしまった。
なんだってこんなややこしい家を建《た》てたのよ。金持ちの考えることはわからねぇや。
四苦八苦しながら一階部分の平面図を作り終えたところで、約束の十一時半になった。ベースに戻ってできあがったぶんを渡すと、リンさんがそれをコンピュータに入力する。その間あたしたちは大あわてでご飯を食べて、三時のお茶にもう一度集まる約束をして、再び邸内探検の旅に出かけた。
朝あたしたちが調査を開始したときには全員寝ているようすだった他の霊能者たちも、さすがにひとりふたりとおきて調査を始めたようだった。白髭《しろひげ》を胸まで垂《た》らしたおじいさんが、拳《こぶし》ほどもある珠《たま》をつないだ巨大なお数珠《じゅず》を持ってうろうろしていた。
「あれ、誰だっけ」
階段を上がりながらぼーさんに聞くと、
「俺に聞くな」
さよーで。
「ナントカ会の三橋《みつはし》さんという人じゃなかったかな」
答えたのは安原《やすはら》代理所長だ。
「おお、さすがは最高学府の新入生。少年は賢《かしこ》いな」
「よく言いますよ、滝川《たきがわ》さんだって大卒でしょ」
大卒……、ってことは……。
「ぼーさん、大学卒業してんの!?」
ぼーさんが苦々《にがにが》しい表情をする。
「俺が大学出の学士さまじゃ、なんかおかしいか、え?」
「いや……はは。お坊さんでも大学行くのね」
「あのな。日本には坊主の行く大学ってのがあるんだよ」
「へぇぇ」
それはビックリ。
「そこで何するの? やっぱお経《きょう》読む練習とかしちゃうわけ?」
「……ま、そういうこともするけどな」
「袈裟《けさ》着ないと、登校できないとか」
あのな、とぼーさんは苦《にが》い顔をする。
「お嬢ちゃん。坊主の大学ったって、女の子もいるの。英語もやるし、ドイツ語もやるし、数学も体育もやるんだよ、わかったか?」
「ほぇぇ……」
不思議。どんな大学なのかしらん。行ってみたい気がするぞぉ。
安原さんも不思議そうに、
「やっぱ、朝のお勤《つと》めとかあるんですか? ホラ、キリスト教系の学校で朝のミサとかやるところ、あるじゃないですか」
「あるか、いまどき。たいして宗教色はないんだよ。花まつりの日に学食のお茶が甘茶になるくらいで」
「なに、それーっ」
「い、異様……っ」
思わずウケちゃったい。甘茶でオベント食べるのぉ? あわないと思うけどなー。
「よけいなおせわ。――?」
ぼーさんが、二階の廊下《ろうか》を曲《ま》がったところで足を止めた。
二階の北へ向かう廊下は狭《せま》い。おかげであたしたちはぼーさんの背中に玉突き衝突。
「てて。どうしたの」
ぼーさんは黙《だま》って目線を廊下の先にやった。そこに四人の人影。ふたりが床にうずくまって額《ひたい》を床につけたままぐるぐるまわっている。それを立って見おろしているのは、三十すぎのおじさんと大橋さん。
「……誰?」
こっそり安原さんに聞くと、
「ナントカ協会の聖《ひじり》さんじゃないですか」
と即答。やっぱ、安原さんってかしこいわ。
うずくまったふたりが廊下の幅いっぱいにグルグルしてて、とてもじゃないが通行不能。困惑してみていると聖さんが顔をあげてあたしたちのほうを見た。
「……ここは通れませんよ」
クチヒゲの下に皮肉っぽい笑み。
「ご覧のとおり、今重要なお告げが降りるところですからね」
……はぁ。
あいまいにうなずいたとき、後ろから背中をつつかれた。振り返ると安原さんが戻ろう、と指で示している。うなずいてもときた廊下を戻ったわけだけど。
霊能者にもいろいろいるのね。ウチのメンバーに、あんな恥《は》ずかしいことをするヤツがいなくてよかったぁ……。
四人がかりでメジャーを持って、順番に部屋を計測していった。一階と二階の計測を終えてわかることは、どうやらこの家は内側にいくほど変な部屋が多いってこと。建物の内側にいくと、部屋には窓というものがなくなってしまう。あっても隣の部屋に向かって開いていたり、開けたところが壁だったり。内側の部屋は電灯があってもかんじんの電球がないことが多かったので、二本だけ持ったハンド・ライトが頼り。
「増築をした先代さんってのは、まったくここに住む気がなかったんだなぁ」
ぼーさんはハンド・ライトの光を部屋の中にさまよわせた。四畳半くらいの部屋だった。作りつけのクローゼットらしい扉が見えるだけ。家具はない。
「でしょうね。こんな部屋、住みたい人間がいるとは思えないもんな」
安原さんは部屋を見まわした。
たしかに、窓も明かりもない狭い部屋はすごく息苦しい。あたしだったらこんな部屋、一日だって住みたくない。――もっとも、家賃がタダだったら考えるけど。
三時のお茶までに二階部分をなんとか調べ終わって、あたしたちはベースに集まった。新たに調べ終わったぶんをリンさんが入力する間に、お茶なぞいただく。ケーキとかサンドイッチとかが出て、あたしたちはすっかり感動してしまった。
「しかし、広い家よねぇ」
綾子があたしたちのほかは無人の食堂を見まわしながら言う。
「二十人からの人間が右往左往しててよ? ほとんど人に会わないんですもんねぇ」
「だよね。あたしたちは、えーと、三橋さんと聖さんに会ったよ」
「聖には会ったわ、アタシたちも。真砂子が鼻先で笑ったんで、あやうくケンカになるところよぉ」
……さもありなん。
「あと、なんとか言う先生には会ったな。もっともらしい機械を背負って歩いてたわよ」
「へぇぇ」
お茶を終わって再び平面図制作に出かける。三階に上がって部屋の測量をしていると、屋根裏部屋へ上がる階段部屋の入り口で坊主頭のおじいさんに会った。
井村《いむら》というお坊さんだろう、と安原さんが教えてくれた。
「渋谷《しぶや》サイキック・リサーチの連中か」
「はぁ、そうです」
安原さんが右代表で頭を下げる。
「子供がゾロゾロ集まって、本当に役にたつんか」
ずいぶんとぞんざいな口調だったけど、安原さん気にしたようすがない。他人事のように首をかしげて笑って、
「さあ、どうでしょう。努力はしますが」
「霊能者は経験だぞ。子供になにができる」
安原さんは、教師に注意された優等生のような顔でうなずいた。
「がんばります」
井村さんは鼻先で笑った。
「お前、いくつだ」
安原さんは優等生のようにハキハキとお返事をする。
「僕ですか? 今年で二百と三十二歳になりました」
……ぷ。
井村さんは一瞬ポカンとした。それから顔を真っ赤にする。
「なんだお前は、人を馬鹿《ばか》にしとるのか」
「とんでもない。僕のうち、代々長寿の家系なんです」
安原さんは優等生の笑顔。
「何年生まれだ、言ってみろ」
「え、僕ですか? 宝暦八年の生まれですけど。ちなみに、戌寅です」
あらー、かしこいわ。
「……デタラメをペラペラと」
井村さんは安原さんをにらみつけるが、にらまれた当人は気にしたようすがない。
「嫌《いや》だなあ、年寄りの言葉を疑うものじゃないですよ。僕らの若い頃なんて、年長者にそんな口のきき方をしたら殴《なぐ》られてましたけどね。いやぁ、近頃の若い人はいいなぁ」
……ぶぶ。
「若い頃と言えば、昔天明《てんめい》の大飢饉《だいききん》ってのがありましてね。いやぁ、あれはたいへんだったなぁ。――今の若い人は飢饉なんて知らないでしょうねぇ」
……ぶぶぶ。
「最近は日米貿易摩擦なんて言って騒いでますが、僕の若い頃なんて開国しろ、しないでもめ始めた頃でしたね。貿易摩擦なんてかわいいもんですよ。ホント、あの頃はお先真っ暗だと思いましたからねぇ」
歯ぎしりしそうな勢いでにらみつける井村さんをよそに、ひとりでうなずきながらしゃべりまくる安原さん。
「……なんて話をすると、両親に叱《しか》られましてね。ヒヨコのくせに聞いたふうな口をきくなって。なんせ、うちの両親は建武《けんむ》の中興のあたりの生まれでして。ふたことめには応仁《おうにん》の乱はたいへんだったって、近頃の若いものは苦労を知らないって、こうですからね。それも母方の爺《じい》さんに言わせると、源平合戦に比べりゃたいしたことないらしいですけど。父方のひい婆《ばあ》さんなんか、壬申《じんしん》の乱はたいへんだったって。――もしもし、聞いてます?」
井村さんは怒鳴《どな》るタイミングを逸して肩を震《ふる》わせるのみ。
「母方のひいひい婆さんは耶馬台国《やまたいこく》が滅亡したとき焼け出されたそうで、死ぬまでずっと若い頃は大変だったってそればっかりだったそうです。――あれ? 井村さん、どこ行くんですか? それでですね、父方のひいひいひい爺さんがですね」
呆《あき》れかえった顔つきで井村さんは廊下をドスドス戻っていってしまった。
井村さんの姿が見えなくなってから、あたしたちが大笑いしたことは言うまでもない。
夕方、日没までにギリギリで三階と屋根裏部屋の計測を終えると、あたしたちはベースに戻った。図面をリンさんにまかせてかきこむように夕食をとる。一心不乱に食事をしていると、突然声をかけられた。
「あのう、渋谷《しぶや》さん?」
なんとか言う大学の先生だった。
ナルはいない。今はベースにいる。そう言おうとしたら、あわてたように安原《やすはら》さんが顔をあげた。
「……はいっ」
あ、そうか。んもー、ややこしいっ。
「ごめんなさいね、お食事中」
「いいえ、かまいません」
彼女はコーヒーを持って、安原代理所長の隣にきちんと座る。
「廊下《ろうか》にある機材はおたくさまのものですよね?」
「はぁ、そうですが」
「ずいぶん科学的でいらっしゃいますのね」
「まぁ、いちおう」
先生はおっとりと上品な笑顔を浮かべた。
「おたくさまは怪《あや》しげな霊能者ではないと見こんでお願いするのですが」
やさしそうなもの言いのわりに、きついことを言ってないかい?
「今夜降霊会をやってみようと思いますの。できたら渋谷さんたちにも協力していただけないかと思いまして」
安原さんはちょっと考えこんだ。
「……わかりました。協力させていただきます」
そううなずいたところで、テーブルの向かい側にいた聖《ひじり》さんが大きな声をあげた。
「霊媒でしたらうちに優秀なのがいますよ、お手伝いしましょうか」
……うえ。あのグルグルまわる霊媒さん?
先生はやんわりと笑う。
「いえ。結構でございます」
あまりにキッパリとしたセリフに、聖さんは少しムッとしたようすだった。先生は気にしたふうもない。安原さんに微笑《ほほえ》みかけて、
「九時でよろしゅうございますか?」
「結構です。場所は?」
「ここでは騒がしゅうございますから、どこか、この近くの空き部屋で」
「かしこまりました」
先生は丁寧《ていねい》に頭を下げて食堂を出ていく。あたしたちは会釈《えしゃく》をしてそれを見送った。
……いいのかねぇ、勝手にそんなこと決めちゃって。そう聞きたい気持ちはやまやまだけど、テーブルの向こう側に聖さんが陣どってる。ちょうど先生と入れ違ったようにナルとリンさんが入ってきた。
安原さんはチラと聖さんに視線をやってから手をあげる。
「鳴海《なるみ》くん」
「はい、なんでしょう」
うう。ナルのこういう返事は気持ち悪いよぉ。
「さっき五十嵐《いがらし》博士が、今夜降霊会をするとおっしゃって。僕は参加してみるけど、君はどうする?」
……うーむ。ナイスな聞き方だ。
ナルはちょっと考えるようにして、
「僕も参加させていただきます。どうせ夜にはたいした作業はできませんし」
ご飯のあと、降霊会の時間まで全員(真砂子《まさこ》を含む)でベースに集まった。
しずしず(?)と安原さんの後を歩いていたナルは、ベースのドアを閉めるなり態度豹変《ひょうへん》。例によって傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な態度で平面図を出力するようリンさんに命じた。
リンさんがコンピュータを操作して、専用の画面に平面図を映し出す。あたしたちが苦心|惨憺《さんたん》して作った平面図が綺麗《きれい》な図面になって出てきた。
「部屋数は」
「屋根裏部屋まで含めて百六室です」
百……六ーっ!? そんなにあったの!? どーりで時間がかかったはずだよ……。
「これは?」
ナルは画面に指をおいた。白く描かれた平面図のまわりを、青い線がとりまいている。「建物の外周ですが」
建物の外周。――つーっことは、この家の外まわりの大きさ?
「ぜんぜん合ってないじゃないか」
ナルが冷たい視線をあたしたちに向ける。
「知らないよぉ。あたしたち、ちゃんとはかったもん」
ねぇ、とぼーさんたちを振り返ってうなずき合ったけど、ナルがそれでおさまるはずもない。確かに、建物の外周と平面図の輪郭《りんかく》はぜんぜん合ってないと言っていい。ひどい場所では平面図と外周の間に、三部屋ぶんの空白があったりする。
「そのうえ、これは?」
白い線で描かれた部屋と部屋の間に、青いすき間ができている。それは計測したけど寸法が合わなくてそのままになってる部分だ。
「だから、知らないってば、ちゃんとはかったらそうなっちゃったのっ」
あたしは事情を丁寧《ていねい》に語って聞かせた。あたしたちのせいじゃないもん。
ナルはひどく考えこみ、
「やっかいな話だな」
そう言ってから、
「明日、もう一度正確な計測をしてみよう」
計測をしてみよう、じゃないだろ。計測をしてみろ、だろ。実際に動くのは誰だと思ってるんだよ、もー。
九時には全員が食堂の隣にある八畳くらいの部屋に集まった。部屋には丸いテーブルとイスが何脚か運《はこ》びこまれていて、そこに五十嵐《いがらし》先生と助手のおねーさん、それに南さんとデイビス博士、助手のおばさんがすでに集まっていた。
「あっ……」
と言って、博士の顔を見たとたんにカチコチになるぼーさん。うくく。かわいーやつ。
南さんはもっともらしくビデオカメラをセットしていた。降霊会のようすをビデオに撮ろうということらしい。カメラったって、ごく普通のホーム・ビデオカメラだ。ファインダーをのぞいて、
「ちょっと暗いな。もっと明るくなりませんかねぇ」
なんて言っている。それを聞いて五十嵐先生が眼を丸くした。
「もっと明るく、って。降霊会の時にはろうそくの明かりだけになりますのよ」
「ええ? そうなんですか?」
「あたりまえでしょう。霊は明かりを嫌《きら》いますからね。ろうそくを一本、それだけです」
「それは困りましたねぇ……」
「暗視カメラはございませんの? 証拠になる記録ビデオを撮《と》ってくださるとおっしゃるから、お招《まね》きしたのに」
南さんはきまりわるげに、
「いや、今回は持ってきてないんです……」
なんてことを口の中でボソボソ言った。
突然、ナルが、
「所長、うちのカメラを持って来ましょうか。使ってないやつがありますから」
そう安原《やすはら》さんに言った。安原代理所長はおうようにうなずく。
「ああ、そうするといいね。五十嵐先生さえ気になさらなければ……」
五十嵐先生はニッコリと笑う。
「ええ。そうしていただけますと、嬉《うれ》しゅうございますわ」
「では、持って来ます。――麻衣《まい》」
……はぁい。そうくると思ったのよね……。やれやれ。
大騒ぎでまだ設置していなかった暗視カメラと、自動追尾カメラを持ってくる。自動追尾カメラと呼んでいるのは、サーモグラフィーと連動してその時部屋の中でもっとも温度の低い場所を自動的に撮影するようになっているやつだ。
「すばらしい機材でございますわね」
眼を輝かせて言う五十嵐先生に、安原さんはあくまでおうようとした風情《ふぜい》。
「ありがとうございます」
それに対して南さんは、なんだか不満そうにしていた。
十時近くになって、ようやくセッティングを完了。丸テーブルの上にろうそくを灯《とも》して、電灯を消して、降霊会が始まることになった。
「デイビス博士、南さん、渋谷《しぶや》さんどうぞ、テーブルへ」
五十嵐先生に言われて、三人がテーブルに近づく。ここで渋谷さんというのは安原さんのことだ。ああ、ややこしい。他には五十嵐先生とお弟子《でし》さんの鈴木さん、その五人が降霊術を行うことになった。あたしたちは周囲の壁《かべ》にもたれてただの見物。
テーブルの上にはろうそくと白い紙、鈴木さんが目隠しをしてマジックを握《にぎ》っている。
「隣の人の手を握ってくださいまし」
鈴木さんを除く四人がテーブルの上で、互いの手をつなぐ。握りあった手でできた円が鈴木さんのところで切れる形になった。
「深く息をして、霊に呼びかけてください。この家に住む霊に……」
ピンが落ちても物音が聞こえそうな沈黙《ちんもく》。焦点を決めかねた自動追尾カメラのアームが動く音、まわりつづけるビデオのモーター音、聞こえるのはそんな微《かす》かな音だけ。
「この家にお住まいの方、どうぞこの女性の手を借りて、お心を語ってお聞かせください」
深い沈黙。鈴木さんはピクリでもない。マジックを持った手が微かに震《ふる》えていた。静かな声で何度も五十嵐先生が呼びかけ、長い時間がたった。見守っているあたしたちにはウンザリするほどの時間が。
……本当に霊なんか来るのぉ?
そう心の中で呟《つぶや》いたときだった。突然ギシッと音をたてるほど強く、マジックが紙の上に降ろされた。はっと誰もが息を飲むなか、とんでもない勢いで鈴木さんの腕が動き出す。B4の紙をはみ出す勢いで黒い文字を書きつけはじめた。
全員が身を乗り出した。五十嵐先生が横から次々に紙をめくっていく。マジックは動き続ける。書いてある文字は判読できない。
そして、唐突《とうとつ》にドンッという衝撃。部屋が外から殴打されたような。天井から細かいホコリが降る。
「……な、なんですか」
南さんが腰を浮かした。五十嵐先生は厳《きび》しい声で、
「動いてはいけません。動揺せず、お静かに」
そうは言っても動揺せずにはいられない。テーブルの周りで落ち着いているのは、鈴木さんと太っぱらの安原さんだけだった。
ギシッと屋鳴りがする。パキ、という乾《かわ》いた音。タンッという堅《かた》い音がしてテーブルの片方が持ち上がり落ちて揺《ゆ》れた。同時にろうそくが横倒しになって明かりが消える。激しい勢いで誰かがイスを倒したようだったけど、誰のなのかはわからなかった。
「だいじょうぶです! お願いです、動かないで……」
五十嵐先生の悲鳴じみた声。
その声を合図にしたように、部屋中で壁や床を叩く音が鳴り響いた。誰かが叩いている? そんなはずはない。ひとりやふたりが叩いてる音じゃない。五人? 十人? ひょっとしたらそれ以上。
突然軽い衝撃があたしの肩にあたった。振り向いても真っ暗な部屋。なにも見えるはずがない。誰かが肩を叩いたような感じだった。続いて次々に衝撃が当たる。誰か男の人の悲鳴を皮切りに、部屋の中は狼狽《ろうばい》した声でいっぱいになった。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
ぼーさんの鋭利《えいり》な声。それと同時にピタと物音かやんだ。さっきまでの騒ぎが嘘《うそ》のように。次いでいきなり明かりが点《とも》る。ナルが電灯をつけたのだった。
「……なに、今の……」
綾子《あやこ》が言う。南さんはテーブルの下、デイビス博士も壁に張りついて、さすがの安原さんもじゃっかん硬直した表情でテーブルの縁《ふち》を握りしめていた。
「霊を呼べたようですね」
そうか、霊。じゃあの物音はラップ音とかいうやつね。――なんて、あたし、落ち着いてるなぁ。すっかり慣れてしまってるのね。
鈴木さんは目隠しをしたままボンヤリしていた。立ち上がっていた五十嵐先生が目隠しを取ってあげる。彼女はなにがなんだかわからない、という顔をしていた。
結局、あの大騒ぎの間席を立たなかったのは安原さんひとり、取り乱した悲鳴をあげなかったのはわが『渋谷サイキック・リサーチ』のメンバー。あたしらって肝《きも》がすわってるな。だてに修羅場《しゅらば》を何度もくぐってきたわけじゃないぜ。
安原さんがテーブルの上の紙を取りあげた。それをナルに差し出す。ナルが受け取ったそれには、
『助けて』
たった三文字。
床に散らばった紙を広い集めてみると、乱れた字でその三文字が散乱していた。
「助けて……?」
どういう意味? 霊が書いたの? なにから助けて欲しいの?
「おい」
ぼーさんが、自分が拾った紙をあたしたちに示した。そこには、
『死にたくない』
という六文字。しかもそれは赤い線で書かれていた。まるで血のような。
全員の手を調べてみたけど、ケガをしている人はひとりもいなかった。じゃ、あの血文字は誰が書いたんだろう。
「所長、ビデオを再生してみましょう」
そうナルが安原さんに声をかけて、あたしたちはベースに戻った。五十嵐先生と鈴木さんがついて来た。南さんとデイビス博士も一緒に部屋を出たはずだけど、いつの間にか姿を消していた。
ナルとリンさんが手際《てぎわ》よく、ビデオ・テープと計測データの入ったフロッピィ・ディスクをセットする。すぐに棚に埋めこまれたモニターに、降霊会のもようが再生された。妙に画面が白々としていて、映像の粒子があらい気がするのは超高感度カメラに特有の現象だ。
鈴木さんの手が動き出すまで、すごく長い時間が経った気がしてたけど、画面のクロックを見るとわずか六分ほどしか経っていなかった。六分と少しして鈴木さんの手が動き始める。
「どんな感じでした?」
五十嵐先生が聞くと、鈴木さんは首をかしげる。
「腕をマジックに引っ張られる感じでした。手を離したらマジックだけどこかに行ってしまうんじゃないかと思ったくらいです」
激しいラップ音がスピーカーから流れてきた。それと同時に部屋の四隅、天井の方からサーモグラフィーの映像がわずかに濃《こ》い青に変色していく。サーモグラフィーは温度を色分けにして映像にする装置。黄色いところは高く、青いところは低い……。画面の端のゲージと見比べると、三度ほど気温が低くなったのだとわかる。
画面ではテーブルが持ち上がって揺れた。ろうそくの明かりが消えたけど、カメラはドアのすき間から洩《も》れる廊下《ろうか》の明かり、そんなものできちんと撮影を続けていた。
テーブルから紙が舞い落ちる。鈴木さんの手はそれでも動き続けている。マジックを動かした勢いで、紙が次々にテーブルを滑《すべ》り落ちた。ビデオを見ると、イスを倒したのは南さん、悲鳴をあげたのはデイビス博士だとはっきりわかる。キョトンとしたように動かないのは安原さん。
「少年、けっこう落ち着いてるなぁ」
ぼーさんが言うと、
「ふっふっふ。僕は鈍感《どんかん》ですからね」
などと、安原さんがわけのわからない自慢のしかたをして胸を張った。
「ストップ!」
ナルがいきなり鋭《するど》い声をあげた。リンさんが再生を一時停止する。
「五十三秒まで巻き戻してコマ送りにしてくれ」
リンさんがコンピュータのキーを叩く。画面が再生状態のまま巻き戻されて床に舞い落ちた紙がテーブルの上に躍り上がった。
「なに?」
「紙だ」
そして、コマ落とし。紙が一枚、ゆっくりと舞い落ちていく。反転をくりかえす白い紙面。
「あ!」
あたしは思わず声をあげた。
十時十六分二秒。真っ白の紙は翻《ひるがえ》り、もう一度翻ったときにはそこに文字が描かれていた。あらい粒子の映像でも文字の並んだ漢字で、それが『死にたくない』という例の一枚だとわかる。
誰の身体《からだ》にもケガなんてなかったはずだ。あれはもちろん、あの部屋にいた人間が書いたものではなかったんだ。
降霊会に使った部屋に再度機材をセッティングして、あたしたちは部屋に引き上げた。ナルは断固として夜間の調査はやらないと言う。五十嵐先生《いがらしせんせい》はしばらく機材を眺《なが》めて感心した声を上げていたけど、ナルに諭《さと》されて鈴木さんと寝室に戻って行った。ナルはひどく神経質になっているように見える……。
真砂子《まさこ》も、降霊会の後はムッツリと黙《だま》りこんだままだった。部屋に戻り、かろうじてお湯の出る付属のお風呂場でシャワーを浴《あ》びると、さっさと寝ようとする。
「真砂子、どうしたの?」
「なんでもありませんわ」
真砂子はトンボ模様《もよう》の寝間着で布団に滑《すべ》りこむ。
「気分悪い?」
「血の臭いがしますの」
「まだする?」
真砂子はあたしをにらんだ。
「するなんてものじゃありませんわ。身体《からだ》にも髪にも染《し》みつくみたいですのよ。どうしてみなさん、平気そうにしているの!?」
悪かったね、霊感なくて。
「あの部屋……吐《は》きそうなほど臭いがしてましたのに」
「ね、それってラップ音が起こる前から?」
あたしが聞くと、真砂子ははたとしたように眼を見開いた。
「……後からですわ」
「じゃ、それって霊の臭いなんじゃないの?」
「かもしれませんわ……」
霊の臭い、というと変だけど、霊の運《はこ》んできた臭いと言うか。だとしたら、昨日から真砂子が臭うと言っていたのも、近くに霊がいたからじゃ……。
「ねぇ、霊の姿、見える?」
「見えますわ。でも、チラチラという感じでよくわからないんですの。見えたと思うと血の臭いがムッとして、気が散ってしまいますし……」
「いよいよ霊の臭いくさくない?」
「……そうかもしれませんわね」
とーとつですが、あたし真砂子と会話しているわ。我ながら珍《めずら》しいんでないかい?
「麻衣《まい》さんは?」
「へ?」
「……何か感じます?」
常にあたしをオミソあつかいしてきたとは思えぬ台詞《せりふ》。
「……どしたの。あたしにそんなことを聞くなんて」
思わず問い返したら、真砂子はムッとした顔をした。
「あたくし、その方に相応の敬意は払うことにしていますの。本人の性格と実力は別ものですわ」
「相応の……敬意? あたしに?」
真砂子はツンと不愉快《ふゆかい》そうにそっぽを向く。
「だって、前回の事件であたくしと同じ幻視を見たのは、あなただけなんですもの」
……ほう。そういうことか。ふっふっふ。なーんか、うれしいぞぉ。
「えへへ。ありがと。――でもさ、今回はダメ。なーんにも感じないのよね。ゆうべは夢も見ずにグッスリ寝ちゃったしなぁ」
あたしはナルに言わせると、じゃっかんのESPありなんだと。しかし、寝ているとき夢の中でしか出てくれないのがタマにキズ。ほとんど寝ぼけて人命救助をしたようなもので、誉《ほ》められても、いまいち他人事のような気がするのよねぇ。
「そうですの……。じゃあ、そんなに危険ではないのかもしれませんわね」
「どうだろうなぁ。夜は出歩かないようにしてるじゃない? 部屋にはしっかりお札が張ってあるし。そのせいかもしれない」
真砂子が小首をかしげて考えこんだところに、シャワーを使っていた綾子《あやこ》がバスルームから出てきた。
「なぁに? 仲よさそうじゃない」
えへへー、いいだろぉ、なんて言おうと思ったのに、
「ご冗談でしょ。あたくし、こんな方となれ合ったりいたしませんわ」
真砂子のムカつく一言。
こ、こいつ……っ。
「他人に向かって、こんな奴呼ばわりはないんじゃないかい?」
「そんな下品な言葉は使っていませんわ。こんな方、と言いましたのよ」
「こんな、で悪かったねぇ」
「別に悪いなんて申してませんでしょ。それはヒガミというものですわ」
「かわいくない性格」
「そのぶん、容姿と才能にめぐまれていますので」
ほっ……本っ当にかわいくないっ!
「なんであたしをそこまで嫌《きら》うわけ? 理由があったら聞かせてくんない?」
「ご自分の胸に手を当ててごらんなさいませ」
そう言って頭から布団を被《かぶ》ってしまう。
「そんなでわかるかっ!」
「あら、頭もご不自由ですのね」
も、はよけいなんだよっ。確かに頭は悪いけどさ。ま、顔もプロポーションも決して不自由してないとは言いませんが。
ええい、これが文句《もんく》を言わずにおらりょうか。こら、起きろっ。勝手に寝るな。あたしと正々堂々、話し合いをするのだっ。真砂子っ。
たたき起こしてやろうと思ったんだけど、
「あんたたち、いつの間にか仲よくなったわねぇ」
という綾子の一言で脱力してしまった。
どこが仲いいようにみえるのだ。
……も、いーや、好きにすればぁ? あたしは寝る。つきあってられるかい、ふん。
そうしてあたしたちは眠ったわけだけど。むろん、調査をやめて寝ていたのはあたしたちくらいで、他の霊能者の方々は今夜もやはり真夜中までがんばるつもりらしい。何度もいろんな足音が部屋の前を通りすぎた。
夢も見ずに眠った翌朝、あたしたちを驚かせるような情報が待っていた。
――鈴木直子さんが姿を消した、と。
三章 隠れ鬼
「誰か鈴木さんを見ませんでした? ねぇ、誰も?」
朝、食堂に集まったあたしたちにそう聞く五十嵐《いがらし》先生は、狼狽《ろうばい》しきったようすだった。
「勝手に帰るはずはないんですよ。誰も彼女が帰ったところを見てませんし。荷物だって残ってるんです。コンタクト・レンズのケースまで……」
安原《やすはら》さんが、五十嵐先生を自分の隣に座らせる。紅茶を頼んで、眼の前においてあげた。
「落ち着いてください。いいですか、深呼吸して。紅茶にお砂糖とミルクは?」
五十嵐先生は首を振る。
「一口、口をつけて。いいから、飲んで、深呼吸してください。ね?」
先生はおとなしく言われたとおりにした。深く息をつく。
「ごめんなさいまし。……すっかり取り乱してしまって……」
「いいえ。ご心配はわかります。鈴木さんはいつから姿が見えないんですか?」
「今朝《けさ》起きたら、いなかったんです。私は齢《とし》のせいでご不浄《ふじょう》が近うございます。明け方起きた時にはちゃんと寝ていたんですよ。それが……」
「明け方、というのは何時頃ですか?」
わかりません、と呟《つぶや》いて、五十嵐先生は首を振った。
「お目覚めになったのは?」
「今朝の七時でございます」
現在午前十時。三時間も姿が見えないなんて。
安原さんは職員のおじさんを呼ぶ。鈴木さんの姿を見なかったか聞いた。大橋さんを含め、職員の誰もが鈴木さんを見かけていない。家を出て行った可能性は? と大橋さんに聞くと、
「いちおう、玄関には内側から戸締りをしております。鍵《かぎ》が開いていたというようなことはございませんので、外に出て行かれたわけではないと存じますが」
「どうしましょう」
五十嵐先生は顔をおおう。安原さんは先生の肩をそっと叩いた。
「それなら、この家のどこかにいるんですよ。道に迷《まよ》ったのかもしれません。どこかでボンヤリしてるのかも。行方不明になったと考えるのは早すぎますよ。とにかく、捜してみましょう」
そう言ってナルを振り返った。
「鳴海《なるみ》君、いいですか?」
ナルがうなずいた。
午前中、あたしたちは鈴木さんの名前を呼びながら、家じゅうを手分けして歩いた。昨夜撮《と》ったビデオも再生してみたけど、鈴木さんの姿は映っていない。しかも、暗視カメラはテープの都合《つごう》で朝七時には切れてしまうので、鈴木さんの捜索にはほとんど役にたたなかった。
無数の部屋を歩きまわって、クローゼットの類《たぐい》まで全部開けて中をのぞいた。呼んで耳を澄ましても返答はない。その姿も、どこにも見えなかった。あたしと五十嵐先生は、まだ眠っている他の霊能者の方々も叩き起こし、彼女の消息を訪ねる。この家の中には鈴木さんの姿を見かけた人はいないようだった。
「降霊会のあと、お見かけしていませんねぇ」
そう言ったのは南さんだ。五十嵐先生は南さんのパジャマにすがりつく。
「博士に、デイビス博士に聞いていただけませんか。博士でしたら、なにかおわかりになるかも……」
言ってオロオロと上着のポケットを探る。
「そうだわ、これを入れたままでしたわ……」
ポケットの中から、小さな円筒状のものを取り出した。コンタクト・レンズのケースだ。
「これを博士に。博士でしたら、鈴木さんがどこにいるか、おわかりになるでしょう……?」
そうか、博士はサイコメトリスト。ある品物から、それにまつわる過去や未来を読みとるESP能力者だから。
南さんは不機嫌《ふきげん》そうにそれを受け取って、ベッドに腰掛けてこちらを見ている博士のほうへ持っていった。ケースを差し出し、英語でなにか言う。博士が首を横に振った。
「こんなものでは、透視できないそうです」
南さんは肩をすくめた。
「では……なにを使えば」
そう言う五十嵐先生に、南さんはケースを突き返す。
「博士の透視は、失踪当時身につけていたものに限られますからな」
失踪《しっそう》した人が身につけていたものなんて……そんなの、よほどの偶然でもなけりゃ、あるわけないじゃない!
顔をおおってしまった五十嵐先生の背中を、あたしはなでる。
なによ、ぼーさんには悪いけど、博士なんてぜんぜんたいしたことないじゃない。せめて、ケースを手に取って、サイコメトリする努力ぐらいしてくれてもいいんじゃない? 失踪したとき身につけてたものがホイホイそこらへんに落ちてたら、警察だってなんとかできるわよっ。
結局昼過ぎまで捜したけれど、鈴木さんの姿は見つからなかった。
南さんは言う。
「ゆうべ、降霊会で怖《こわ》い思いをしたんで、逃げて帰ったんじゃありませんか」
三橋さんは言う。
「最近の若い者は、無責任だからな」
ムッときたけど、ちがうとも言えない。そうだといいな、という気持ちが心にあるから。失踪したと考えるより、無責任に逃げ帰ったと思うほうがずっといい。
「……そうかもしれません」
そう言ったのはほかでもない五十嵐先生。
「そうですわね。帰ったのかもしれません。ええ、あとで家に電話してみますわ。ちょっと叱ってやらなくちゃ……」
結局その言葉をきっかけに、鈴木さんの捜索は打ち切りになってしまった。
「いいのかねぇ」
なんとなく集まったベースで、ぼーさんはそう言う。
「しかたないよ。見つからなかったのは事実だし……」
「見落としがあるのかもしれんだろう。この馬鹿《ばか》でかい家の全部を捜したと言いきれるか?」
「そんなぁ。じゃ、鈴木さんは隠れてるわけ? そうじゃなきゃ、あれだけ呼んだんだもん、返事くらいはするはずだよ」
「返事のできない事情があるのかもしれんだろ」
「どんな?」
「いや、それはわからんけどさ」
モゴモゴとぼーさんが言うのに、ナルがつぶやく。
「コンタクト・レンズがケースしかないんだから、本人が自分の意志で起きてどこかに行ったのは間違いないだろう。確かに、窓かどこかから出て帰った可能性もあるが……」
……うん。
「気になるのは、あの空白だな……。もしもあそこが隠し部屋でどこかに通路があるとしたら、そこから迷《まよ》いこんだ可能性がある。本当に計測ミスなのかどうか、もう一度調べたほうがいいだろうな」
あらためて昨夜の録画をチェックしなおしたけれど、不審な現象は記録されていなかった。手がかりを見失って、とりあえずもう一度家を計測しなおす。今度は壁の厚さまで正確にはかることになった。これでまだ図面が合わないようなら、正式の測量機材が必要になるだろう。
「どこに消えたのかねぇ」
二階の部屋だった。突然ぼーさんがそう言ったので、あたしはキョトンとしてしまった。
「……鈴木さん?」
聞きながらあたしは壁にピンを打つ。床から正確に一メートル。部屋の対角線になるように糸を張ると、ぼーさんが磁石をあてた。
「ああ。なんで消えたんだと思う?」
「なんで……って」
「自分の意志で消えたのか、それとも意志に反して消えさせられたのか」
「ここですでにふたりの人間が消えてたわけでしょ? 鈴木さんが三人目。……やっぱ霊のしわざなんじゃないのかなぁ。――何度?」
ぼーさんはライトで照らして磁石と糸のなす角を調べる。
「二十六度。――その霊がさ、ゆうべ言ってたわけだろうが。『助けて』ってさ」
「……うん」
あたしは平面図に対角線を引いて、そこに角度を書きこみながら、
「おまけに、死にたくない、だもんね。霊が死にたくないなんて、変な話ではあるよね」
「まぁ、霊ってのはえてして自分が死んだことをわかってないからさまよってるわけだが」
「ふうん……」
「俺が気になるのは、助けを求める霊の発言と、人間を消してしまう霊の行動がうまく結びつかない、ってこと」
「ですね」
床にメジャーをあてていたジョンが暗がりの中でうなずいた。
「助けてほしい霊ゆうのは、基本的に自分に気がついてほしくてなにかをするんですし。それは、じれて悪いことをする霊かていますけど、本音《ほんね》を言うたら自分を助けてほしいんで人を呼んでるんが普通ですよね」
「だろ? 人間を消してどうすんだよ。この家から人がいなくなりゃ、助けてくれる奴なんかいなくなるんだぜ」
ハンド・ライトを持ってジョンを手伝っていた安原《やすはら》さんが立ち上がる。
「三・二一メートル。――霊って、そんなに論理的に行動するもんなんですか?」
「そうとは言いきれねぇけどさ。霊ってのは嘘《うそ》つきなのが普通だし。けど、なーんか変な気がするんだよなぁ」
ジョンもうなずく。
「〇・三五メートルです。――霊にかて、霊なりの論理性ゆうのがおますし。けど、鈴木さんのことを助けてくれるお人やと思うて、連《つ》れていった可能性もあるのとちがいますか」
あたしは図面に数値を書きこみながら、
「ここにいる霊は助けてって言いたかったわけでしょ? きっと、ずっとそう言いたかったんだと思うんだよね。けど、今までは聞いてくれる人がいなかった。それが……」
ジョンが手を叩いた。
「あ、ゆうべ言葉を聞いてくれたんで、助けてくれる人なんやと思うたわけですね」
「……と、いうのはダメかしら」
「俺に聞くなよ」
隣の部屋に移動しながら、安原さんが、
「こういうのはどうです? ゆうべ霊の声を聞いたのも……と言うか、書きとったのも鈴木さん、消えたのも鈴木さん。たとえば、ゆうべの言葉は霊の言葉なんかじゃなくて、鈴木さんが勝手に書いたものでそれがバレるのが怖《こわ》くて逃げ出した」
「却下。それじゃ、あの血文字はどうなるの? ラップ音は?」
「あ、そうか。じゃ、こういうのは? 鈴木さんが勝手に書いたんで、霊が怒って暴《あば》れた。鈴木さんはそれで怖くなって逃げた」
「それじゃ血文字の意味が通じないよぉ」
「……あ、そうか。あれがトリックの可能性は薄いしなぁ」
ブツブツ言いながら床にメジャーをあてる。その時、ジョンが突然声をあげた。
「わっっ!」
「どうした!?」
ぼーさんが光を向けると、転《ころ》びそうになってあわてて体勢をたてなおしたジョンの姿が見えた。
「ここ、床が沈みます」
え?
光をあててジョンが示したあたりをしみじみ見ると、厚いホコリの表面に妙な段差があるのがわかった。
「なんでしょうか」
安原さんがそのへんのホコリをそっと払《はら》う。そこには木でできた四角い蓋《ふた》があった。安原さんが押すとぶよぶよ沈む。
「腐《くさ》ってますよ、これ。落ちなくてよかったですね」
そう言ってそっと持ち上げた。
蓋の下には鉄製の梯子《はしご》が見えた。それが下の真っ暗な空間に向かって降りている。
「……下に部屋があるぜ」
ぼーさんが縁《ふち》に膝《ひざ》をついて、下にライトの光を向ける。
あたしはジョンの持った明かりを頼りに平面図を見た。
「そこ、きのう変だって言ってた壁のあたりじゃないかな。ちょうど、あの真上くらいの位置だよ」
「変な壁……あの、厚み三メートルの壁か?」
「うん」
ぼーさんはじっと穴を見つめる。
「隠《かく》し部屋ってわけか。こんなんがあるんじゃ、平面図が合わないわけだぜ」
「まさか……ここに鈴木さんが」
「それはねぇだろ。だったらもっと足跡がつくとか、ホコリが動いてるはずだ」
「……そうだね」
ぼーさんはちょっと緊張した顔でうなずく。
「よし、降りてみるか。少年、ライト頼む」
ハンド・ライトを渡して、ぼーさんが身軽に梯子《はしご》を下りていった。勇気あるなぁ。
「どう? 誰かいる?」
「いや、人はいない。小さな部屋って感じだな」
上からのぞきこむと、細長い三畳くらいの部屋になっているようだった。ライトの光で、床に散乱するぶよぶよしたものが見える。
「……ぼーさん、なに、それ」
こんもり山になったものを示すと、ぼーさんが指の先でそれをつついた。
「……わからんが、布団みてぇだな」
布団? こんな部屋に?
「ひでぇ、湿気。この床もやべぇや。ブワブワしてらぁ」
そう言って、ぼーさんは梯子を上ってくる。上の部屋に戻ってきたとき、片手に布きれのようなものを持っていた。
「なに、それ?」
「わからん」
言いながらホコリを落とす。狭《せま》い部屋にムッとするほど濃《こ》いカビの臭いが広がった。
「コートだな」
厚い布地に丈長の服。たしかにコートのように見える。ひっくりかえして改めていたぼーさんがふと手を止めた。
「名札が縫《ぬ》い止めてある」
安原さんが光を当てた。
えり裏のすっかり変色した白い布に、なにか文字が書いてあるのが見てとれた。ライトの明かりでは文字は読めない。
「ここじゃだめだ。どっか明るいところに持っていってみよう」
建物の外側の、外に面した部屋にそれを持っていった。近くの部屋の洗面台で軽く名札の部分を洗う。変色した布に墨で書いたらしい文字がかろうじて読み取れた。
『美山慈善病院 付属保護施設』
「先々代が建《た》てたっつー、病院のことかな」
「だろうね」
先々代さんは慈善事業にも手をつくした偉《えら》い人だったんだ。
「なんでこんなもんが、あんなところにあるんだ?」
「解答一、あの部屋は不要のものを捨てるゴミ箱だった」
おっと、ぼーさんのけーべつの視線。
「却下。他には?」
「保護施設の患者さんが隠れ住んでいた」
……布団があったみたいだもんな。
「なんでこんなとこに隠れ住むんだよ」
「あたしに聞かないでくれる? あ、あの部屋が病室だかなんだかの可能性」
「あのな」
そうして考えこんだけど、むろんあたしたちにわかるはずもなかった。
しかし隠し部屋があることを見つけたのは、大手柄といえるだろう。
あたしたちはベースに戻って、コトのてんまつをナルに報告した。ナルはひどく嫌《いや》な顔をした。
「……隠《かく》し部屋か……やっかいだな」
ま、そうだとは思うけど。
「問題のコートは?」
「これ。汚れるよ」
ナルはかまわず、真っ白な手でコートを受け取る。えりもとを探って名札をみる。ついでポケットなんかをあらため始めた。何度もひっくり返してから、
「ここになにかある」
コートの内ポケットだった。なにか薄いものをひっぱり出した。
それは折りたたんだ紙片に見えた。ナルがそっとボロボロになったそれを開く。
「おい、これ……」
ぼーさんが身を乗り出した。
それはひどく黒ずんでしまっていたけど、紙幣《しへい》だとわかった。ナルが窓に向けて陽に透《す》かす。
「文字が書いてある」
そう言って紙幣をぼーさんにわたした。ぼーさんはそれを受け取り、同じように陽に透かしてみる。あたしもわきからのぞきこんだ。いくつかの文字が読み取れる。もとは二行の文章だったようだけど、切れ切れの文字しか拾えなかった。左右へ順に拾っていくと、「よ、げ、く、聞、た、さ、に、浦、る、居、死、皆、は、来、処……」
「意味不明」
あたしとぼーさんは思わず顔を見合わせた。
ナルはひどく暗い眼をしていた。
「……なんのためにこんなことを……?」
誰が、なんのために?
ふたつの文字が印象に残った。――『死』と『皆』。
残り時間、あわてて測量の続きをして、日暮れまでになんとか一階部分を終えた。そのデータをリンさんに任せて、あたしたちは食堂に向かう。大急ぎでご飯をかきこんでいると、五十嵐《いがらし》先生に声をかけられた。
先生は一日たつ間に、また鈴木さんのことが心配になってきたらしい。東京の自宅に電話しても彼女は帰ってなかったと言って、とても心配そうにしていた。警察に失踪届を出したほうがいいだろうか、と安原さんに聞く。安原さんなんて、五十嵐先生にしたら息子ほども若い相手なのに、その若い相手を頼りにしているようすが、先生の狼狽《ろうばい》を表しているようで、なんだか痛ましかった。
見ているのが辛《つら》くて、そっと食堂を抜け出した。ひとりでベースに戻る。ベースではリンさんが黙々と作業を続けていた。
「リンさん、あたしご飯終わったから交代しようか?」
そう声をかけたわけだが、
「けっこうです」
と、ニベもない返事。まったく……。
だからと言って、ふたりでいるのにしゃべらないのも気詰まりで、あたしは五十嵐先生の話をした。対するリンさんの返答はそっけない。おつきあいみたいにうなずくだけで、ホウでもハァでもない。
「……ときに、リンさんって中国の人だったのね」
苦しまぎれにそう言うと、リンさんはあたしをマジマジと見た。
「……それが?」
それが……って言われても困るんですけど。
「なんか、すごいな、と思って。もっと早く言ってくれればよかったのにー」
リンさんはあたしをひどく冷たい眼で見た。
「なぜですか?」
「なぜって……そんな深い意味があって言ったわけでは」
ないのよ。ちょっと言ってみただけで。
「……ホントに無愛想《ぶあいそ》なんだからなぁ……」
「私は日本人は嫌《きら》いです」
いきなりキッパリ言われて、あたしはビックリしてしまった。キョトンとリンさんを見てしまう。
「……なんで?」
どーしてそんな、ひとくくりに嫌いなんて言ってしまうわけ?
「日本人が昔、中国で何をしたか知らないのですか?」
うう。そりゃ、昔、日本人はいろいろとひどいことをしたんだけどさ。でもって大人《おとな》はいまだにあやまりもせず、そらっとぼけようとしてるけどさ。
リンさんは無表情のまま。
「私は日本人が嫌いだし、日本人に囲まれて生活するのも不愉快《ふゆかい》です」
……そこまで言う?
「リンさんの言い分はわかるし、もっともだと思うけど、でも、昔のことでしょ?」
「そういう言われ方はいっそう不愉快ですね」
ううう。確かに日本が悪いのよ。いわば、勝手に人の家に入りこんで、住んでる人に無体なことをしたんだから。たとえるなら、居直り強盗みたいなもんで。――それでも。
「でも、中国だって元寇《げんこう》とかやったでしょ? ヨーロッパだって、侵略したとかされたとか、そんな歴史ばっかなわけだし」
「だから日本のしたことが許されるんですか?」
「そんなこと言ってないっ! 悪いことは悪いのよっ。日本が中国に侵略したのはいけないことなのっ。でも、そうやって昔の恨《うら》みを覚えてるなら、日本にだって恨む権利はあるし、世界じゅう恨みだらけで、全部の国が永遠に憎《にく》み合っていかなきゃならないでしょ?」
リンさんは無言だ。
「そういうのって、不毛だと思うわけ。事実は事実でいいの。日本は悪いことをした、って事実があって、それを覚えているのは必要なことだと思うよ。でも、だから嫌いだとか恨むとか、そういうふうに言ってたら永遠に仲よくなれないでしょ? ずっと憎み合っていかないといけないじゃない」
ああっ、ちっともうまく言えない。
「リンさんがあたしを嫌いで、だから嫌いって言うのは仕方ないよ。でも、日本人だから嫌いって言い方は納得《なっとく》できない。リンさんのお父さんかお母さんが殺されたの? そうじゃないでしょ? そのくらい昔のことだと思うの。そんな昔のことにこだわって、たくさんの人間をひとくくりに嫌いなんて言うのは、馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことだよ。日本人のあたしがこういうこと言うの、すごくはきちがえてるってわかってる。それでも、あたしとリンさんの個人同士の問題として、あたしを嫌うなら、あたし自身の問題で嫌ってほしいよ。日本人だとか、女だとか、孤児だとか、そういう、あたしにもどうしようもなかったことで嫌ってほしくないのっ」
うう、こういうのって悲しいよぉ。でもあたしには、どーして戦争なんかしたんだ、ご先祖さんの馬鹿ーっ、としか言いようがないんだもん。
突然、リンさんが声をあげて笑った。
……へっっ!?
「……あのぉ……」
「同じことを言うんですね」
「はぁ?」
「昔、同じことを私に言った人がいるんです。それを思い出しました」
わぁ、リンさんの笑った顔って見たの、初めてだなぁ。
「それって、ナル?」
「まさか。ナルに言ったら、一言でしたよ。『けっこう馬鹿だな』って」
ナルなら、さもありなん。
「まどかに言ったら、泣かれて困りました」
……ああ、なんとなくわかるなぁ。
「――そうですね、私はあなたが嫌いではありません。べつに、日本人の全部が嫌いなわけでもありません。ただ、生理的な反発というものは、なかなか消えないものです」
「……うん」
「国同士の問題を個人の間に持ちこむのは、馬鹿げたことだと私も思います。おとなげないもの言いをしたとも思います。それでもどうにもならない問題があるのだということを、あなたは学ぶべきです」
「……よく考えてみる」
リンさんは軽く微笑《わら》った。
「無礼な発言をしました。申しわけありません」
「……ううん。こっちこそ、ごめんね」
なんに謝《あやま》ってるのか、自分でもよくわかんないけど。
世の中には難しい問題がいっぱいある。そういうことだなぁ。
全員が食事を済ませたあと、あたしたちはベースでミーティングをした。リンさんが今日計測したデータをまとめて平面図を出す。建物の外周はほぼ合った。だけど。
「まだ空白があるな」
ナルは画面の青い空白を指さす。大・小あわせて十八か所。小さいものは畳一枚ていど、大きいものは数部屋ぶん。
「小さいものはともかく、この大きいやつが気になるな」
その大きな空白は家の中心部にあった。凹凸したL字形で、はっきりした大きさはわからないけど、まわりの部屋と対比すると明らかに数部屋ぶんはあるように見える。
ナルは二階部分の平面図を手に取って見比べる。
「二階は正確な測量がまだだから、なんとも言えないが……どうやら二階にもこの部分があるようだな」
あたしは今日測量に使った平面図をひっぱり出した。たしかに、二階にも同じくらいの位置に大きな空白がある。一階の部分に比べると、半分ていどの大きさだったけど。ふと思いついて三階の平面図と見比べてみる。三階は建物の一部にしかない。ちょうど空白の上にあたる部分にかかっていて、空白は三階にまでとどいていないことがわかった。
「……隠し部屋じゃねぇのか? じゃないと大きすぎるぜ」
ぼーさんが言う。
たしかに、その空白は増築のつごうでできてしまったと考えるには、あまりに大きすぎた。問題はどこから入るのか……。
「三階があやしかないか? 二階にも入り口があったことだし、上から入る可能性はあると思うぜ」
安原《やすはら》さんは、
「でも、この空白のまわりって妙に変な部屋が多くて、他の場所以上に入り組んでませんか? むしろまわりのほうが怪《あや》しいと思うけどな」
そんなことを言いながら、ああでもないこうでもないと図面を見比べている時だった。
コツン。
思わずメンバーの大多数が腰を浮かせた。あわてて音の出所を探すと、庭に面した窓だった。窓ガラスに人の顔が映っていて、思わずビビってしまう。窓の外に人がいて、その人がガラスを叩いているんだとわかるまでは、けっこう怖《こわ》かった。
ナルが立ち上がる。
「まどか」
げげ。森さんかぁ。
窓を開けると、そこから森さんが部屋に入ってくる。けっこう元気な人だなぁ。
「どうしたんだ?」
「うん。調査結果を知らせようと思って。寒かった……」
「どうやって来たんだ?」
「近くまでレンタカーで。そっから歩いて来たの。外寒いわよ」
だろうな。標高高いから。
ナルの差し出した上着を着こんで、森さんはイスに座る。寒そうに手をこすり合わせるのが、リスかなんかみたいでかわいらしい。
「……そんな危険なことを。なにかあったらどうするんだ?」
「あら、ナルが助けに来てくれるでしょ?」
うーむ。あいかわらず、この人は強いな。
「……で?」
苦々《にがにが》しい表情のナル。森さんはセーターの下から大きなノートを取り出した。
「ええと、まず今朝《けさ》電話があった鈴木さんのことね」
ほう、連絡していたのか。
「この下の道路ってバスが時々通るだけなのね。それで、バス会社とタクシー会社に問い合わせてみたわけ。この家を出たんだったら、どっちかを使ったと思うのね。ヒッチ・ハイクって手もないではないけど」
そう言いながらノートを開く。
「問い合わせた結果、そういう人物を乗せたり、見かけた運転手はいないみたい。やっぱり、この家から出てないんじゃないかな」
……ふむふむ。
「この件についてわかるのはそこまでね。
それから、この家で消えたふたりの人間についてだけど」
……ほぉぉ。調べてもらっていたのか。
「最初に消えたのが松沼英樹《まつぬまひでき》、十八歳、無職。二月十三日のことね。彼は友人七名、計八名と夜ここに来て消息を絶《た》ったの。彼らはよくここに来ていたんだけど、夜に来たのはこの日が始めて。肝試《きもだめ》しのつもりで家を探検して、部屋のひとつで宴会をしていると、まるでトイレにでも行くような感じで部屋を出ていって、それきり戻らなかったんですって」
森さんはノートをめくっていく。
「失踪届が出されたのがその一週間後ね。事情を聞いた警察が付近の若い者を集めてここへ捜索に来たの。手分けをして家の周囲と中を捜したんだけど、松沼君は見つからず、それどころか、帰ろうとして人数を数えるとひとり足《た》りない。消えたのは吉川雅也《よしかわまさや》、二十一歳、農業。あわてて、家の中を捜索したんだけど見つからなくて、おまけに家の廊下《ろうか》を人魂《ひとだま》が通るのを数人が見たと騒ぎ出したんで、捜索を諦《あきら》めて帰ったの」
そう言って、森さんはポケットからマイクロ・カセットをいくつか出して、テーブルの上にパラパラ落とした。
「これが証言の録音ね。もっとも、ほとんど手がかりにはならないみたい」
「……なるほど」
「それから――」
と、森さんは両肘《ひじ》をついてノートを見つめる。
「持ち主について。この家を建《た》てたのは美山鉦幸《みやまかねゆき》。美山家は代々諏訪《すわ》の富豪ね。鉦幸は長男、十六で家をついで美山家の当主になったの。その頃の収入はほとんどは小作料。ここはもともと美山家の山荘があった場所らしいわ。十八の時ヨーロッパに外遊に行って、戻ってきたのが二十のとき。帰ってきてすぐ、ここにあった山荘に洋風のコテージを建てたようなの。一八七七年のことね」
森さんはページをめくる。
「それ以来、一九一〇年に腎臓《じんぞう》を患《わずら》って亡くなるまで、ここに住んでいたようよ。どちらかというと人づきあいは苦手《にがて》で、何度か外遊に出た他はここにこもりきりだったとか。市内の邸宅には妻子を住ませて自分はほとんど戻らなかったし、慈善事業には手を尽くしていたけど、だからと言って社交家ではなかったみたい」
これはけっこう意外なことだった。あたしはなんとなく鉦幸氏というのは、人あたりのいい好人物だと思っていたん。うんとシャイな人だったのかしらん?
「女史」
一息ついた森さんに、ぼーさんが声をかけた。
「女史はやめてよぉ。わたし、そんなに堅《かた》くありません」
「ではお嬢さん」
「はぁい(ハート)」
「美山氏は『美山慈善病院』ってのを持ってなかったか?」
森さんはノートをめくってメモを探す。
「あるわ。美山慈善病院。市街地のはずれにあった、けっこう大きな病院ね」
「そこに、付属の保護施設は?」
森さんはちょっと眼を丸くした。
「あります。よくご存じね。患者の家族や入院するほどでない療養者、病気は完治《かんち》したものの日常生活に不自由がある者、そういう人たちを収容したかなり大きな施設よ」
そう言って、ちょっと難しい顔をした。
「相当数の介助者がいてね。すごくサービスのいいところだったみたい。施設に入るのは無料でね。食費も無料。収入がない人には生活必需品の支給まであったらしいの。その施設にいれば、衣食住の心配はいらないってわけね」
おお、なんと親切な。
「働ける人は病院の掃除や、敷地内の整備なんかを手伝ってたらしいわ。美山氏が財産の大半をなくしたのは恐慌のせいなんだけど、それ以前にも、これで相当の額の財産を食いつぶしていたみたいね」
あのコートはそこにいた人のものだったんだ。おそらく、支給されたコート。だけど、そのコートがなんであんなところに? そして、文字が書かれた紙幣。支給されたコートを着ていたくらいなんだもの、けっして豊かな人ではなかったはず。なのにお札に文字を書いていたのはなぜなんだろう?
「他にも養老院や孤児院、結核《けっかく》療養患者のサナトリウムなんかがあったようよ。結局、明治四十一年あたりから次々に事業を手放して、鉦幸が死ぬ頃には農地と山林以外はほとんど残らなかったんですって」
ふうむ、あるとすれば慈善|貧乏《びんぼう》というやつだろうな。なんと奇特な。
「この鉦幸氏の長男が宏幸《ひろゆき》。宏幸のほうは奇妙な改築をのぞけば、わりに普通の経歴の持ち主ね。詳《くわ》しい経歴がわかったんで、鉦幸の経歴と一緒にここにおいとく」
森さんはノートの間にはさんだメモをナルにさしだした。
「明日はこの親子のひととなりについて、もう少し掘り下げてみたいと思います」
そう学校の先生みたいな口調で言うと、ナルが明らかに不快そうな顔をした。
「まどか、ここは危険だ。電話でいいから、近づくんじゃない」
森さんは首をかしげる。
「だって、直接会ったほうがいいじゃない?」
「とにかく、ここには来るんじゃない」
厳しい口調で言われて、森さんはうなずいた。
「はい、はい」
なんだか子供をあやすみたいな口調だった。
かえる森さんをリンが車で送っていった。奇妙な慈善家について話をしているうちにリンさんが窓から帰ってきて、あたしたちはさらに細かい打ち合わせをした。ミーティングが終わって部屋に引き上げたのは十一時。――そしてその夜、厚木秀雄《あつぎひでお》さんが消えた。
突然叩き起こされて、時計を見るとまだ夜中の三時半だった。
「厚木君を知りませんか」
聖《ひじり》さんの顔は強《こわ》ばっていた。
「……厚木さんって」
誰だったろう。
「うちの助手です。霊媒の」
あたしは首を傾《かし》げながら綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》を振り返った。ふたりはベッドの上に身を起こしたまま首を傾げる。
「除霊をしていて、ちょっと眼を離したスキにいなくなったんです。見かけていませんか。姿が見えなくなってもう二時間になるんです」
二時間も。
「ちょっと待ってください」
あたしはパジャマの上にカーディガンを羽織《はお》って、部屋を飛び出した。
「ベースに行きましょう」
聖さんを連《つ》れてペースへ行く。ベースにはナルとリンさんがすでに起きて集まっていた。
「ナル……厚木さんが」
「聞いてた。今、ビデオを再生してる」
この時間ならまだ暗視カメラは動いている。カメラのどれかが厚木さんの姿を捕らえてるかもしれない。
「ナル。ありました」
モニターは四号カメラのものだった。あたしはテーブルの上に山積みになったメモの中から、平面図の写しを引っ張り出す。四号カメラの位置を確認した。
「場所は?」
「屋敷の西、中央の方」
「位置なら言われなくても知ってるが」
うるさいわねっ。この非常時にっ。
「近くに空白もないし、変な部屋が連続してるわけでもないよ。図面で見るかぎり、怪《あや》しげな場所じゃないみたい」
四号のモニターに、廊下《ろうか》を遠ざかる厚木さんの姿が映っていた。カメラの置かれた廊下を東へ。そして突き当たりの廊下を北へ。
「あの廊下は行き止まりだよ。枝道はないから」
「よし、行ってみよう。リン、来い。麻衣《まい》はここに残れ。じきにぼーさんたちが来る」
「あいあいさー」
ほとんどナルと入れ違いに、ぼーさんとジョン、安原《やすはら》が起きてきた。
「ナル坊は」
「厚木さんを捜しに行った」
「よし。俺たちも行こう、ジョン」
ジョンに声をかけてぼーさんも出ていく。
「少年、麻衣を頼む」
「鋭意努力します」
「努力だけか?」
「谷山《たにやま》さんが暴走しはじめたら止められる人、いませんからね」
……なんだと?
まったくだ、と笑ってぼーさんは出ていく。それに軽く笑い返した安原所長代理の顔をあたしはねめつけた。
「だれが、暴走するって? だーれが王蟲《オーム》だって?」
「おや、だれかそんなこと言いました?」
「ほう。だれが言ったか、教えてあげようか?」
あたしは思わず拳《こぶし》を振り上げちゃったね。
「いやー、谷山さんって思慮《しりょ》深くておとなしくて、優しくて好きだなー」
「イヤミか。イヤミだな」
「だから、ね? 嘘《うそ》を言われるのっていやでしょう?」
「うん、まあね……ちがーうっ!」
思わず本気で殴《なぐ》ってやろかと思ったとき、綾子と真砂子が起きてきて、四人でじりじりしていると七時前、ナルたちが戻ってきた。厚木さんは見つからなかったと言う。あの廊下は袋小路なのに。
朝食の後ミーティングをして、今度は全員で袋小路を中心に隠《かく》し通路の捜索にあたる。どこかに抜け道があるはずだ。そうでなければ厚木さんが消えた理由がわからない。壁を叩いて、家具がある部屋は全部押しのけて。それでも抜け道は見つからなかった。
昼には申し合わせたように霊能者の全員が食堂に集まった。二十マイナス二名。全員がひどく疲れた顔をしていた。
「まったく、どうなってるんだ、この家は」
井村さんが吐《は》き捨てるように言う。
五十嵐《いがらし》先生は南さんのほうを見やった。
「デイビス博士になんとかしていただくわけにはまいりませんの?」
聖さんがハッと顔を上げる。
「そうだ……博士なら」
南さんは露骨に不快そうな顔をした。
「博士の透視は範囲がかぎられるんです。さっき聞いてみたかぎりでは何も感じないとのことでしてな」
「では、他の方を呼んでください」
五十嵐先生が強く言った。
「他にもお友達がいらっしゃるんでしょう? 誰か助けになる方を呼んでくださればいいじゃないですか」
「そういうことを急に言われましてもね。みんな外国に住んでいるんですから」
「緊急事態ですよ。あなただったらなんとかできるのではございませんの? それとも最初の日に、ゲラーやタウナスの協力を仰《あお》げると言ったのは口からでまかせですか?」
先生の追及は手厳しい。南さんはムッとしたようだ。
「よろしい。とりあえずアポだけは取ってみましょう。でも、全員忙しい方ばかりですからな、あてにしていただいても困りますよ」
「逃げ口上《こうじょう》か?」
言ったのは井村さんだ。
「なんですと?」
「そう言って逃げるつもりなんだろう。呼んだなんて言っても来やしないんだ。呼べるはずがないからな。そもそも知り合いなんかじゃないんだろう?」
「侮辱《ぶじょく》ですな」
じゃあ、と言って聖《ひじり》さんが立ち上がった。
「アポを取ってくださいよ、南さん。電話番号を教えてくだされば、私が電話をしてもいいですよ?」
そう言ってからニッと笑う。
「それがいい。私が電話します。電話番号を教えてください。失踪したのはうちの霊媒ですからな、私からお願いするのが礼儀ってものでしょう」
「他人に電話番号は教えるわけにはまいりません」
「では、あなたが電話をかけて、私に代わってください。私から一言お願いをするのがスジですから」
南さんはすごい形相《ぎょうそう》で立ち上がった。
「侮辱《ぶじょく》ですな。極めて侮辱です。お疑いになるのなら、けっこう。私としても忙しい友人たちをわずらわせる気にはなれませんし。私自身は、この事件は独力で解決できると思っておりますのでね」
横で困ったように周囲を見まわしていた博士を促《うなが》す。
「行きましょう。私だけならともかく、博士まで侮辱なさるとは。まったく、不愉快極まりない」
そう捨てぜりふを残して、南さんは食堂を出ていった。その後を助手の三人と博士がついていく。
あとには疑惑が残った。南さんに対する強い疑惑。
あの人を信用していいものだろうか?
気まずい食事のあと、霊能者たちは厚木《あつぎ》さんの捜索をしつつ除霊をするのだと言って邸内に散っていった。あたしたちはベースに引き上げて。
ぼーさんは頭をかかえた。
「袋小路に入ったのはこっちだよ。どこをどう捜せばいいんだ?」
万策尽きたとはこのことだ。家の中にいるはずなのに、捜す場所がない。
全員で肩を落として考えこんだとき、リンさんが声をかけた。
「ナル」
リンさんは計測したデータを元に、コンピュータで建物の立面図を作っていた。
「どうした?」
「これを見てください」
建物の西側の立面図がモニターに描かれていた。壁の石は白く、窓枠《まどわく》や窓ガラス、よろい戸なんかは青い線で描かれている。リンさんはモニターの脇に一枚のポラロイド写真を並べてかかげた。同じ角度に建物が映っている。細部はともかく、まったく同じものに見えた。
「この部分です」
リンさんは北側に見えてるわずかに張り出した棟を示す。
「あ!」
ぼーさんが声をあげて駆け寄った。
「……高いな」
ナルが静かに言う。
たしかに、写真と立面図は同じものに見えた。――ただし、北側に飛び出した棟の屋根の高さをのぞいては。
写真ではその部分の屋根は、周りの屋根より少しだけ高くなってる。なのに、コンピュータが描いた図面では、屋根の高さはむしろ低い。
「計測ミスか……それとも」
ナルに続けてぼーさんが、
「隠《かく》し部屋!」
「ありうる」
だけど、と安原《やすはら》さんが口をはさんだ。
「そこの部分、確かに屋根裏部屋まで調べましたよ。ホラ、屋根裏部屋の窓の外に狭《せま》いバルコニーがついてるでしょう? 平面図を作ったとき、このバルコニーに足をかけて屋根の上が見えないか、試してみたじゃないですか」
「そういえば、あったな、そんなことが」
そうそう。でもって、その不幸な役を仰《おお》せつかったジョンが、おっこちかけたのよね。
「では、下だ」
ナルがつぶやく。リンさんに平面図を出すように命じた。
モニターの画面が切り替わって、一階の平面図が現れる。問題の部分を拡大した。ナルはそれをじっとながめて、
「北棟のあたりは大きな袋小路になっている。ここと、ここ……合計八か所階段があるな。行き止まりにたどりつくまでに上がりが四か所、下りが四か所。この階段に化《ば》かされたんだ。よく数えてみろ。上がりの階段のほうが段数が多い」
よくよく図面を見ると、確かに上がりの階段のほうが段数が多い。
「おそらくこの部分は三階建てではなく、四階建てなんだ。一階を歩いているつもりで、いつの間にか二階を歩かされている。一階のさらに下に部屋があるんだ」
ひええ。
あたしたちは大あわてで北棟に駆けつけ、そこにある階段の段数と段の高さを正確にはかりなおしてみた。
その結果は。
上がり二十六段、下り十八段。しかも普通の階段に較べ、上がりの階段は一段あたり二センチ高く、下りの階段は二センチ低かった。
つまり、北棟に向かう途中通る八つの階段を上がり下りする間に、あたしたちは約四・五メートルを上がり、二メートルちょっとを下りていたわけ。その差、約二メートルとちょっと。建物じたいが地面から一メールほど上がったところにあるから、地面から約三メートル程度の空白が北棟の下にあることになるわけ。
「いったい、どうなってるんだ、この家は」
ぼーさんが頭を抱えたのも、無理からぬことと言えよう。
結局、建物全体の階段を計測しなおし、とあいなった。
ウンザリしながらあちこちをはかりなおす。一段ごとに高さが違っている可能性もあるので全部の段をはかったりして。ああ、嫌《いや》になっちゃうぜ。
しかも、はかってみると本当に途中で一段あたりの高さが変わってる階段があったりするからハタ迷惑。
ナルたちは今頃、空白のX階に入る方法を探しているはず。空白のX階、隠し部屋。そして、この家出三人の人間が消えた。なんらかの方法で彼らはそこに閉じこめられているのだとしたら、外に連絡する方法もなくて、ただ助けを待っているのだとしたら。
あたしは眼の前の壁をにらみつけた。
この壁を有無を言わさず破壊していったほうが早いのでは。いまは人の命がかかっているかもしれないんだから。
「麻衣《まい》」
……ん。
「麻衣っ」
……なぁに。――はっ!
「はいっ! はいはいっ!」
ぼーさんの呆《あき》れた顔。
「なにをぼーっとしてるんだ。十六・五二センチ」
「ああ、はいはい」
あたしはあわててボードに数値を書きこもうとした。あせるとありがちなことだけど、そのとたんボールペンがすべって手を飛び出してしまった。
「おっと」
ころころころころ。転《ころ》がったボールペンを追いかけてあたしは思わぬジョギングをするはめになった。
「つーかーまーえーたー」
ぜいぜい。やっと拾《ひろ》ったボールペンにガンつけちゃう。
「なにをして遊んでるんだ」
廊下の端からぼーさんが呼ぶ。
「ボールペンに遊ばれたのっ」
あわてて廊下を駆け寄って。
「えーと、何センチだっけ?」
「十六・五二」
「はいはい」
それをボードに書きこもうとして、ふいに安原さんが、
「谷山《たにやま》さん、今、ボールペンを追いかけて行かなかった?」
「そだよ。疲れちゃったよ、もー」
「廊下の端まで?」
「……ご覧になったとおり」
安原さんは廊下をながめ渡した。
「ということは、ひょっとしてこの廊下の床、傾斜してるんじゃない?」
「あ」
ぼーさんとジョンと、仲よく三人でハモっちゃった。
あたしは廊下を振り返る。廊下の長さ、約二〇メートル。この廊下が歩いても感じない程度の坂になっていたとしたら。
「水準測定器があったよな」
と、ぼーさん。
「あった、思います」
と、ジョン。
ベースに駆け戻って、居残りのリンさんに事情を話して水準測定器をもらって。夕暮れせまる家の中を問題の廊下に駆けつけた。
そして計測。
あたしのボールペンを転がした廊下は、なんと五度近い傾斜の坂道になっていた。安原さんの弁によれば、五度の傾斜が二〇メートル続いていれば、それで二メートル程度の高さをかせげると言う。
建物の廊下が全部傾斜していたら?
そんな建物を想像することは不可能だったけど、これだけは想像できる。あたしたちは明日、建物じゅうの床に水準測定器を置いてみるわけだ。
とりあえず、日没ギリギリまで階段の計測を行った。一段一段丁寧《ていねい》にはかって、ちゃんと表に結果を書きこんで。そしてその過程で、ジョンがそれを見つけたのだった。
それは建物の中央部に近い場所にある、短い階段の途中だった。グネグネと廊下《ろうか》が続いた後にある十段ほどの階段。その階段を昇った正面には部屋がひとつ。そこから廊下はちょっと細くなって左右に分かれている、そんな場所。廊下の幅はわりに広くて、両側の壁《かべ》は白い漆喰《しっくい》。あたしの足の付け根のあたりから胸のあたりまで、十センチ程度のでっぱりが続いていて、そこに綺麗《きれい》な唐草《からくさ》模様のレリーフが施《ほどこ》してあった。その飾りの下。
「ドアがあります」
階段の高さをはかるためにうずくまったジョンが言った。見ると、ジョンがしゃがみこんでいるそのすぐ脇の壁、レリーフの下にドアが半分のぞいていた。
ドアの色は漆喰と同じ白で、レリーフのでっぱりが邪魔になって今まで気づかずにいたんだ。
ドアは階段で半分隠《かく》されていた。それでも、高い位置に小さなドアノブが見える。ジョンがそれをつかんで廻《まわ》した。ドアは内側に向かって難なく開いた。
ハンド・ライトの明かりが、暗い部屋に差しこむ。
そこは三畳程度のごく狭い部屋だった。床にはホコリが堆積《たいせき》し、家具らしいものはなにもない。窓がひとつあったけど光は見えないので、塞《ふさ》がれているのは明らかだった。
ジョンが中に飛び降りる。ホコリが舞い上がって、軽くセキこんだ。
「なんかあるか……?」
ぼーさんが声をかけたけど、最初にライトで照らしてざっと見たとおり、そこにはホコリより他に何もなかった。いや、
「壁に額がかかってます」
ジョンが示した大きな額をのぞいては。
「それ以外ないか?」
「おまへんです」
ジョンが額をはずして部屋の外に差し出した。あたしそのホコリだらけの額を受け取る。次いでぼーさんと安原《やすはら》さんとで、ジョンを部屋から引っ張り上げた。
あたしはその場で額のホコリを払った。どうやら人物画らしかった。
さらに丁寧にホコリを落とすと、筆使いが凹凸になって残った油絵が現れた。ひとりの男性が描かれていた。痩《や》せた鋭利な顔の、四十くらいの男の人。きちんと髪をなでつけて、黒い着物に同じく黒い羽織を着ている。
「サインがあるな」
ぼーさんが画面の右下角を示す。そこには黄色くのたくった線が書いてあった。線というより線でできた模様だった。なんと書いてあるのかは、読めない。
「……こりゃ、花押だぞ」
「花押?」
「ああ、日本式のサイン。漢字なんかをデザイン的に崩《くず》したやつなんだが……。さすがに読めねぇな、こりゃ」
ぼーさんは額をはずしにかかった。裏返してみる。
「なんか描いてある」
カンバスの縦の枠木に黒くなにかの文字が書いてあった。
『明治参拾弐年 参月 自書像 浦戸《うらど》』
きちょうめんな楷書《かいしょ》の毛筆で、そうあった。
「明治三十二年 三月、自画像、浦戸、か」
ぼーさんは表のサインをしげしげ見る。
「なるほどこいつぁ、『浦』と書いてあるらしいな」
その花押は「浦」の文字をデザインしているのだ、と言う。
安原さんが首をひねった。
「変わってますね。普通サインっていうと、名前のほうじゃありません? 『俊樹』とか。これ、名字でしょ?」
「そうだな……」
浦戸さんの自画像かぁ。しかし、浦戸さんって誰なんだろう?
同じことを安原さんも考えたのか、
「自画像を飾るくらいなんだから、この浦戸って人、美山《みやま》氏と親しかったんでしょうね」
「それか、よほど有名な画家だったか」
んー、でも浦戸なんて聞いたことないなぁ。
「これは大橋氏に聞いたほうがよさそうだな」
そう言って、ぼーさんは絵を額に戻す。それからジョンの肩を叩いた。
「さ、ジョン。この部屋の計測しようか」
……お疲れさん。
ふたりは狭《せま》い部屋にメジャーを抱えてもぐりこんで、床の大きさと方向。そして傾斜、階段から床がどれくらい下がっているのかを計測しはじめた。
あたしはその間、もう一度絵をながめた。「浦戸」氏はなんだか冷たい人物のように見えた。そげた頬《ほお》、落ちくぼんだ眼、真一文字に結ばれた口、細い鼻筋、そんなものがそう思わせるのかもしれない。
ベースに戻ると、すでに陽は落ちてて、ナルにえらくどやされた。日暮れまでに戻れと言っただろう、と言って。なんだよー、あたしたちは一生懸命《いっしょうけんめい》働いていたのにー。本当にやかましいんだから。
こっそり綾子《あやこ》に聞いたら、X階への入り口は見つからなかったらしい。さてはそれで機嫌《きげん》が悪いな。まったくもー、わがままなんだから。
それでもまたまたジョンが見つけてしまった隠し部屋の話をして、問題の額を見せるとナルの態度がいささか変化する。
「明治三十二年、三月、自画像、浦戸」
口の中でくりかえす。
「サイン……浦」
ハッとナルは顔をあげた。テーブルの上を探って、封筒をひっぱり出す。中から紙幣を取り出した。
「どしたの?」
「『浦』だ」
ナルは紙幣を電灯に透《す》かした。
……あ。たしか紙幣に書かれた文字の中に『浦』という文字があったような。
ナルはあたしに紙幣をさしだした。あたしはそれを電灯に透かしてみる。ぼーさんが頭を寄せてきた。
シミ同士が重なった間にペンかなにかで書いた文字。真ん中のあたりに『浦』という字が見える。その隣によくよく見ると……。
「『戸』じゃねぇのか、横」
「ホントだ。これ、『戸』だよ」
……浦戸。
なるほど、とぼーさんはテーブルの上から封筒を取り上げた。そこには昨日読めた文字が書いてある。
『よ げ く 聞 た さ に 浦 る 居 死 皆 は 来 処』
ぼーさんが、その文字の『浦』のとなりに『戸』と書きこんだ。
『よ げ く 聞 た さ に 浦 る 居 死 皆 は 来 処』
「なんて書いてあるんだろうな……。『聞 た さ に』……これは『聞たさに』か? 『浦戸』『死』『皆 は 来 処』……『皆は来た処』……?」
「なにがなにやら」
「だな」
あたしとぼーさんはため息をついた。
「なんか手がかりが見つかると思ったんだけどなぁ」
そのとき、安原さんが、
「ちょっと、待ってください。これ、ちがいますよ。『戸』は左です」
「へ?」
安原さんは封筒を引き寄せ、ぼーさんの文字を消して、
『よ げ く 聞 た さ に 戸浦 る 居 死 皆 は 来 処』
そう書き直した。
「戸浦ぁ?」
だれもが首をかしげている。
「わかった!」
安原さんは指を鳴らした。
「これは、右から左に読むんですよ」
……え?
ぼーさんも、
「そうか。書かれた時代から考えて、そのほうが自然なんだ」
安原さんがメモ用紙に、文字を書き直す。
『処 来 は 皆 死 居 る 浦戸 に さ た 聞 く げ よ』
何度も紙幣を透かして見ながら、
「これとこれはつながってる……この間には一文字ある……」
つぶやきながら、さらにその下にもう一度清書を始めた。
『・処・来・・は皆死・・居る 浦戸に・さ・た・・聞く ・げよ』
「どうです?」
安原さんがさしだした紙が全員の間にまわった。
うう、これでもなにがなにやらわからないよぉ。
「最初の一文は読めそうなんだけどなぁ」
安原さんがぼやくと、ぼーさんがかたい声を出した。
「読めると思う」
え?
「『此処に来た ……は皆死んで居る』じゃないのか?」
「あ!」
「ここに来た者は、かもしれん。ここの間が二文字か三文字か、よくわからねぇけどさ」
ここに来た者はみな死んでいる……。
「じゃ、最後の一文は簡単よね」
綾子が苦々《にがにが》しげに言った。
「これはだれかにあてたメッセージなんだわ。『ここに来た者はみな死んでいる。……逃げよ』……」
警告。メッセージ。だれがだれにあてた? 少なくともあのコートの持ち主が、だれかにあてたものにはちがいない。反対に、受け取ったものかもしれないけれど。
全員が考えこんだとき、小さな音で窓が叩かれた。
誰もがハッと窓を振り返ると、そこに森さんが立っていた。
「まどか! ……あれほど、危険だから近づくなと」
窓を開けながら、ナルの声は冷たい。
森さんが手をあげた。
「ストップ。とりあえず、中に入れて?」
ナルはめいっぱい不快そうな顔で森さんを引き上げる。トン、と中に入って来た森さんは、こんばんは、なんか言って笑った。
「まどか。来るなと言ったはずだ」
「あら、もちろん危険はないから来たのよ。わたし、ナルほどお馬鹿《ばか》じゃありません」
……お馬鹿。ナルに向かって。勇気あるなぁ。
イスに座った森さんは、コンビニの袋の中から缶コーヒーを引っ張り出して、あたしたちに配《くば》ってくれた。
「……それで?」
ナルが冷えきった眼で見おろすと、コーヒーのリンク・プルをカリカリやってた森さんは、缶をナルに突きつけた。
「開けて(ハート)」
苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔でナルが缶を開ける。それを森さんに突き返して、
「どうして危険がないんだ?」
森さんは全然悪びれたとろこがない。
「ここ、子供の遊び場なのよ」
「……なんだって?」
「だから、この家の前庭って芝《しば》が生《は》えてて広いでしょ? 子供が遊びに来るらしいのよね」
と、ニッコリ。
「近くの子供が野球やサッカーの練習にちょうどいいって、よく使っていたらしいの。さすがに二月、失踪事件があってからはやめてるみたいだけどね。もちろん、行方不明になった子なんていないの。だから、庭まではそんなに危険じゃないのよ」
そう言ってから森さんは肩をすくめる。
「もっとも子供たちは、家の中には入らないことにしてたみたいだけど。幽霊屋敷だって有名だから。中には面白《おもしろ》がった子たちがちょっと潜《もぐ》りこむなんてことがあったらしいけど、全員家の奥までは行ってないの。せいぜい窓ぎわの部屋を歩きまわって、それで終わりだったみたい」
どうだ、というふうに森さんはナルの顔をのぞきこんだ。
「だから、危険なのはこの家なの。家の外はだいじょうぶなのよ」
「それは昼間の話だろう?」
「あら、ゴースト・ハントに多少の危険はつきものよ。いわくつきの家に泊《と》まりこむほど危険なことはしてないもん」
……そのとおりです。
「……それで?」
「それで?」
「まさか、僕らの顔を見に来たわけじゃないんだろう?」
「あ、そうそう」
森さんは手を叩いた。セーターの下からノートを引っ張り出して、
「ええと、厚木《あつぎ》さんも、このあたりでは目撃されてないわね。バスもタクシーも使ってない、と」
言いながらページをめくる。
「でもって、美山《みやま》親子のことなんだけど。まず、鉦幸《かねゆき》氏ね」
ナルの冷たい視線なんか、気にしてるようすもない。
「彼はすごく潔癖《けっぺき》な人だったみたいよ。と言うのが、昔製糸工場で不正事件があったらしいのね。職員の誰かが工員の給料をごまかしたとかなんとか。でね、その工員は有無を言わさずクビ。その長男がこれまた工場にいて、これもクビ。三男だかが病院の職員で、これもクビ。おまけに彼らが住んでた家というのが鉦幸氏の持ち家でね、家からも叩き出したって。――そのうえ」
「まだあるのか?」
ぼーさんがアングリした。森さんはコックリうなずいた。
「あるの。娘がお嫁《よめ》にいってて、その夫婦が住んでた家も鉦幸氏の貸家だったのね。この夫婦も追い出して。犯人の親がこれまた鉦幸氏の持ってる土地の小作人で。この親たちも追い出された、と」
「ひでぇ……」
「でしょ? 語り草になってるみたいよ」
そう言って、森さんはさらにページをめくる。
「それから、鉦幸氏は本当に人づきあいが悪かったらしいのね。まったくこの山荘に人を近寄らせなかったらしいの。急用なんかあっても連絡ができなかったらしいのね。鉦幸氏のほうから連絡してくるまで、まったくどうしようもなかったようなの」
おや、どっかの所長みたい。
「でね、この山荘っていうのは、当時から猟師《りょうし》でさえ避《さ》けて通るのが決まりだったんですって。それで、近づく人がいなかったそうなのよ」
……へぇ?
「女中なんかもいたらしいんだけど、これは諏訪《すわ》ではなく別の地方から雇《やと》って来ていたらしいって。ただ、人を寄せつけないことから、この山荘ではなにか怪《あや》しいことが行われていたんじゃないかと、そう言われていたそうよ」
「怪しいこと?」
ナルに聞かれて森さんはうなずく。
「どういうことかはよくわからないんだけど。――まぁ、鉦幸氏を覚えてる人はほとんどいないんで、そんなものかな。息子の宏幸《ひろゆき》氏もけっこう変わり者で有名だったんですって。なにしろ住みもしない家を延々改築した人ですもんね。その改築について、宏幸氏は気になることを言ってるのよね」
「気になること?」
「うん。彼は人に改築の理由を聞かれて、幽霊が出るから出ないようにするんだ、ってそう言ってたらしいの」
……幽霊が出るから出ないようにする……。
「わかったことは以上」
パタンとノートを閉じて、森さんは困ったように首を傾ける。
「なにしろ昔の話なんで、覚えてる人のほうが少ないのよ。年代のわりにはこれでもよく調べられたほうじゃないかと、我ながら思うわよ」
ナルは無言。お疲れさん、くらい言ってあげればいいのに。
ぼーさんが口をはさんだ。
「お嬢さん、鉦幸氏の交友関係はわかるかな?」
「ちょっとそこまでは……。ほとんど友人というのはいなかったと聞いたけど」
「おそらく、浦戸という人間がいるはずなんだ」
ぼーさんは部屋の隅に立てかけておいた額を持ち上げた。
「この絵の人物。裏にある制作年かん考えて、鉦幸氏の知人だと……」
言葉は最後までいえなかった。森さんはその絵を見てあっさりと、
「あら、それが鉦幸氏よ」
そう言った。
「鉦幸のペンネームが浦戸だったのか」
ぼーんさは、森さんが残していった写真のコピーをしげしげとながめた。
『美山製糸工場』と書かれた看板を門柱にかかげた、工場の前に立つ人物の写真だった。どこからどう見ても、自画像のモデルは鉦幸氏に間違いない。
「慈善家だったけど、変人だったんだな、このおっさんは」
「だよねぇ」
ナルはちょっと厳しい顔をする。
「変人ですまされるかな。『ここに来た者はみな死んでいる』か。ここ、というのは当然この山荘なんだろう。ここでなにがあったのか……。『浦戸・・さ・た・・聞く』――これらの意味がわかればな」
なんだかその声の調子が、妙に不安な気分にさせた。
「ひとつだけわかることがありますわ」
真砂子《まさこ》が言った。
「なに……?」
あたしが聞くと、
「あら、もうお忘れになりましたのは? 降霊会で霊が言った言葉ですわ」
……あ。
「『助けて』『死にたくない』――きっとあれはここに来て死んだ人たちの霊なんですわ」
真砂子の言葉はさらにあたしを不安な気分にさせた。
不安を抱いたまま、その夜は部屋に引き上げて。
――そしてあたしは夢を見た。
自分でもなんで眼が覚めたのかわからなかった。
夜中にふと眼を覚《さ》まして、おや、と思うといきなり手足が硬直して動かない。ナルに言わせるとある種の金縛《かなしば》りは心霊現象ではなく生理的な現象なんだって。頭は起きてるけど身体《からだ》が起きてない。身体の神経と脳の神経がうまくつながってない、そういう状態。身体がうんと疲れててそのくせ精神が興奮してるような、そういう時に起こる。
それであたしは金縛りだぁ、と思ってもひどく落ち着いていた。さりげなくあたりを見まわして、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が寝てるのを確認する。確認して、これはヤバい、と思った。あたまが動く。寝ぼけて起こった金縛りは、まるで身体が動かないのがふつうだから。
急速に背中が冷えた。綾子と真砂子を呼ぼうとした。むろん、声は出ない。せめてかすれた悲鳴だけでも、そう思ったけど息でさえうまくできない。どっと冷や汗が出て、頭がグラグラする。心の中で落ち着け、落ち着けと言い聞かせて、あたしは真言《しんごん》を唱《とな》えた。
ナウマクサンマンダバザラダンカン、ナウマクサンマンダバザラダンカン……。
突然ふっと身体が軽くなって。やれやれと力を抜いたとたんに、微《かす》かな音をたててドアが開いた。
まだ身体は思うように動かない。頭だけを動かしてドアのほうを見ると、黒い人影が部屋に入ってくるのが見えた。
とっさにちょっとホッとした。それはまちがいなく人間のシルエットに見えたから。人影はふたつ。そのふたりは静かにあたしのほうへ近づいてくる。
だれ。そう言おうとして、あたしは寝る前ドアに鍵《かぎ》をかけたのを思い出した。ナルが用心しろとくどいほど言うので、しっかり鍵をかけたはず。
……どうしてドアが開いたの?
人影があたしの両脇に立った。暗がりの中、微《かす》かに顔が見える。男。ふたりとも全く知らない人間に見えた。とっさに浮かんだのは強盗か痴漢《ちかん》だろうかという思考で。必死で綾子と真砂子を心の中で呼んでるうちに、その男があたしの腕を取った。
「なにすんのよっ!」
心の中で悲鳴をあげたけど、声はでない。両手を引っ張られてあたしは起き上がった。身体が動く。まったくあたしの思いどおりにはならないけれど。抵抗したのに、できない。指の一本でさえ思うように動かない。なのに自分の身体が相手のなすがままに動く。
あたしは手を引っ張られるまま立ち上がった。男たちに両腕を抱えられて歩く。内心パニックをおこしながら、部屋から引き出されていった。
部屋の外は真っ暗だった。廊下《ろうか》には明かりがついていたはずなのに。その、真っ暗で右も左もわからない廊下を連《つ》れて行かれる。えんえんと歩いて、男の人がドアを開けた。
どこの部屋だかはわからない。それはけっこう広い部屋で、光源は何なのか、わりに明るかった。まるで満月の下のような奇妙な明るさ。部屋の中には家具がきちんとそろっている。いかにも高そうな家具で、たしかにそこに人が住んでる気配があった。正面には暖炉《だんろ》。そこには火が入っている。暖炉の前の小さなテーブルには背の高いグラスが載《の》っている。それでも部屋の中に人影はなかった。
男たちはあたしを引きずって部屋の中を歩く。黙《だま》って右にあるクローゼットに連れて行った。そのクローゼットを開けると、そこは廊下だった。細い暗い廊下がずっと向こうまで続いている。その細さが暗さがなんだかとても気味悪くて、あたしは必死で腕を解《と》こうとしたけど、もちろん、声さえ出ない。
腕を捕まえられて歩いて行くと、その廊下はいつの間にか両側を生《い》け垣《がき》にはさまれた細い砂利《じゃり》道に変わっていた。
ざかざか砂利を踏《ふ》みながら、あたしは両側の男を見上げる。明るいのに顔は見えない。いや、確かに顔は見えているんだけど、どんな顔をしているのか理解できない。
……夢なんだ、これ。
そう、夢でなきゃ、こんなこと起こるはずがない。
あたしは両側の生け垣を見上げた。ずいぶん高い生け垣が、あたしの頭上のはるか上を延々と続いている。
これが夢ならちゃんと情報収集しなきゃ。そんなふうに決心するのって、なんだか妙な気がしたけど。
生け垣を曲《ま》がりくねって歩いていくと、道はいつの間にか細い廊下に戻っていた。微かに血の臭いがした。それだけじゃない。なにかが腐《くさ》った臭いもする。
廊下の突き当たりにはドアがあった。あたしは心の中でしりごみする。そこに入りたくない。なんだか嫌《いや》な臭いがする。そのドアの向こうから漂《ただ》ってくる気がする。
男たちがドアを開けた。そこにも広い部屋があった。
その部屋はホールになっているようだった。ガランとした室内に階段がひとつとドアがいくつか。ムッとするほど強い血の臭いがする。あたしは階段を上らされて、さらに三つほどのドアの前を行き過ぎ、いちばん奥の部屋に連れて行かれた。
その部屋はお風呂か何かのように見えた。白い陶器製のタイルを張った小さな部屋。その板張りの床の上で腕を解かれて、いきなり服を脱《ぬ》がされ始めた。
(やめてよ!)
心の中で叫んで、あたしは自分が着ているものが、いつの間にか着物になっているのに気づいた。紺色の着物。そうか、夢なんだ、これ。
そう思っても、他人に着ているものを脱がされるのはいい気分とは決して言えない。裸《はだか》にされてさらに奥の部屋に連れて行かれた。
その奥は十二畳はあろうかという部屋だった。白いタイル張りなのは小部屋と同じ。部屋の中央、壁よりに同じく白いバスタブがおいてあった。外国映画に出てくるような、床の上に置いたアンティークなバスタブ。
そして、その床の上に流れた赤いもの。
猛烈な血の臭いと激しい腐臭《ふしゅう》で、あたしは胸が詰まった。吐《は》きそうになるのをこらえる。足が生暖《なまあたた》かい流れを踏む。べたべたと粘度《ねんど》が強くて踏むたびに背筋がゾワゾワした。その広い部屋は一面が赤く染まっていた。かろうじてまだ白いタイルの上を踏むと、そこには赤い足跡が残った。よく見ると血溜《ちだ》りの中に白っぽいブヨブヨしたものが散っている。それはごく小さな肉片のように見えた。
(……いやだ)
夢だと思っても、気味が悪くて吐きそうだった。バスタブをのそぎこむと、そこには赤いものが少しだけ溜《た》まっている。赤い滴《しずく》が流れ落ちたあとが、白いすべすべした陶器の表面に縞模様《しまもよう》を描いていた。
(こんな夢、やだ)
男たちはあたしを部屋の置くへ連れて行く。そこには小さなベッドがあった。病院にでもありそうな、白いパイプのベッド。マットがあるはずの部分には白いタイルが張ってあって、パイプもタイルも真っ赤なものでドロドロになっていた。
「……いや」
声が出た。あたしは腕を引っ張られたまましりごみをした。
あんなところには寝たくない。ベッドの真下にある大きなタライは何なの。ベッドの足もとにある深いバケツのような桶《おけ》はなに? どうしてタイルが張ってあるの。どうしてベッドの枠《わく》に紐《ひも》がついてるの。どうしてあんなに汚れてるの!?
男たちが激しい力であたしをベッドの上に引きずり上げようとした。あたしはそれに悲鳴を上げて抵抗する。つかんだ腕を引っかいてかみついて、それでも猛烈な力でタイルの上にひっぱり上げられた。タイルの上に引きずり上げられたとたん、背中にずるっとした感触。生暖かい血の気味悪いなめらかさと、なにかやわらかなかけらを――まるで肉片のようななにかを――押しつぶしたおぞけのするような感覚。
「いやっ!」
逃げようとして身動きをすると、身体じゅうに血がからみつく。全身が血で濡《ぬ》れて、息がつまるほどの悪臭がまとわりついた。
ベッドの向きとは逆に、足もとの方に頭を向けて寝かされた。骨も関節もギシギシいうほどの力で押さえこまれる。
「いやっ! はなしてっ!!」
(夢だ……)
腕を抜けるほど引っ張られて、手首がパイプにくくりつけられる。
(こんなの、夢なんだから)
足がくくりつけられる。
「いや! 助けて!!」
胸の上に太い紐《ひも》が渡されて、上半身を押さえこまれた。がくっと喉《のど》が仰《の》け反《ぞ》ってベッドの外に首を垂《た》らした格好になる。
やだ。こんな姿勢は怖《こわ》い。必死で身動きしても身体が動かない。男たちが離れて行った。ベッドにくくりつけられて、頭を仰け反らせた格好のままあたしはその場に放置される。身体じゅうにからみついた血が、重力にしたがってすべり落ちていくのがわかった。
落ち着いて。これは夢なんだから。これは、絶対に夢なんだから。だって、こんなことあるはずがない。もうじき目が覚める。きっと目が覚めて、ああ夢だったんだ、って思う。
そうは思っても歯の根が合わないほど震《ふる》えた。ぎゅっと閉じてた眼を開けて、あたしはポカンとした。
――白い光。
その、大きな包丁のようなものはなに?
それでなにをするの? あたしをどうしようって言うの?
(助けて)
男のひとりがあたしの脇に立ち、もうひとりが顔の脇に立った。顔の側に立った男があたしの髪をつかんだ。グッと下に引っ張ってあたしは首筋が痙攣《けいれん》するほど喉を反らせる。
(いや)
もう声が出ない。あたしは自分に言い聞かせる。これは夢だ。だから、だいじょうぶ。これ以上怖いことは起こらない。きっとだいじょうぶ。
眼を閉じることも身動きすることもできなかった。ただガタガタ震《ふる》えながら、ただボンヤリと眼に映るものを見ていた。
(助けて)
白いタイル。赤いものが天井の近くまで飛んでいる。そのシミの形。
ふいに男があたしの髪を放した。男がちょっと身体を引く。
ほら、だいじょうぶ。やっぱり、怖いことなんて起こらないじゃない。だって、これは夢なんだから。
男が屈《かが》みこんで桶の位置を調整する気配がした。手に持った刃物がキラキラと視野を横切る。
あたし、もう目を覚ましたい。こんなところにこれ以上いるのは嫌《いや》だ。
男が目を起こした。
だいじょうぶ、これ以上怖いことは起こらない。こいつは離れて行ってしまう。きっと。
男の腕が伸びて、あたしの髪をつかんだ。首が折れるほどの力で大きく喉を反らす格好にされる。――もう一度。
(いや)
視界を白い光が横切った。
(死にたくない)
男が身を乗り出した。
(助けて)
反らした喉に冷たい指が当たる。
(あたし、死にたくない)
男の腕が上がって、凍《こお》るほど冷たいものが喉に当たった。細い鋭利なもの。
きっとこのまま男は動かない。このまま離れて行く。そうでなければ時間が止まるはず。助けが来るはず。目が覚めるはず。きっと。
怖い。見ていたくない。眼を閉じたいのにそれができない。あたしは硬直したまま壁のタイルを見ていた。
男の腕が動いた。
どうして目が覚めないの!! お願い、起きて!!
細い冷たい感触が喉をすべった。引っかいたほどのチリチリする痛みが走る。
どっと暖かいものが喉から溢《あふ》れて首を伝った。視野が真っ赤に染まる。やっと首を切り落とされたような激痛が来て、あたしは全身全霊で悲鳴をあげた。
助けて! あたし、殺されたくない!!
四章 手の鳴るほうへ
「麻衣《まい》っ!!」
激しい声がして、頬《ほお》をぶたれた。
「麻衣っ!?」
綾子《あやこ》の声だ。パッと眼を開けた。涙で潤《うる》んだ視野に綾子の顔が飛びこんできた。
そのとたん、あたしは悲鳴をあげていた。身体《からだ》の奥から悲鳴をあげる。喉《のど》でしゃがれてうまく声にならなかったけど、とにかく叫んだ。自分の内側に溜《た》まった怖《こわ》いのが全部外に出てしまうまで。
「麻衣! しっかりしてっ! 麻衣っ!!」
身体が痙攣《けいれん》したみたいに震《ふる》えた。必死で綾子にしがみついた。綾子のあったかい手があたしの背中を一生懸命撫《な》でる。
「しっかりして。夢だから、だいじょうぶだからね」
ほら、と、うながされて顔を上げると、目の前にコップがさしだされていた。
「お水……飲めます?」
真砂子《まさこ》のひどく心配そうな顔。あたしはやっと落ち着いて、そのコップを受け取った。手がひどく震《ふる》えて、コップの中身をほとんどこぼしてしまいそうだった。
「……うん。ごめん」
声が震えていた。涙がぱたぱた落ちた。
「どうしたの、いったい」
「怖い夢、見たの」
本当に、怖かった……。
「夢って……」
綾子が聞いてきたとき、激しい勢いでドアがノックされた。
「いま、悲鳴をあげなかったか!?」
まっさきに部屋の中にとびこんで来たのは、ぼーさんたちだった。
「……ごめん。あたしがうなされたの」
「……うなされたって……お前……」
青い顔をしたぼーさんがベッドの脇に膝《ひざ》をついた。安原《やすはら》さんもジョンも大きく息を吐《いき》く。
パフッとぼーさんが布団《ふとん》に顔を突っこむ。
「……かんべんしてくれよ」
「ごめん」
安原《やすはら》さんが、引きつった顔で笑った。
「だれかになにか起こったのかと……よかった」
ジョンもホッとしたように笑う。
「本当によかったです」
ぼーさんがいきなり顔を上げた。
「うなされたって、まさか例の夢か?」
「うん。だと思う」
「どんな?」
思い出したくない。思い出そうとするだけで、血の臭いが漂《ただよ》ってくる気がする。
「第六感のオンナだろ?」
「――あたしが殺される夢」
みんながまじまじとあたしの顔を見た。
「殺されるって……」
そばに座ったままの綾子があたしの顔をのぞきこむ。
「男の人がふたり来てね、あたしを変なタイル張りの部屋に引っ張って行ったの。手術台みたいなベッドがあって、部屋じゅう血だらけだった。そこで喉《のど》を裂《さ》かれたの」
あたし、血が噴《ふ》き出したときの感じをハッキリ覚えてる。
「もっと他の人もあそこで死んだんだと思う。処刑場だよ、あれ」
言ってるうちに、涙が出てきた。
本当に死ぬんだと思った。すごく、怖かった。
綾子が背中を叩く。次から次へ涙が出てきて止まらなかった。
馬鹿《ばか》みたいにひとしきり泣いて、顔を上げると開いたままのドアのところにリンさんが立ってた。ナルの姿はない。
どうして、いないんだろう。
どうして、いなかったんだろう。
いつだって夢の中にナルがいて、いろんなことを教えてくれたり助けてくれたりしたのに。いつだって微笑《わら》ってくれて。なのに、どうして。
……冷たいんだから。本当に冷たいんだから。
なんだか思考がメチャクチャで、意味もなくもう一度涙が出てきた。あわててうつむいて、必死で顔をこす。泣いてる場合じゃない。みんなに心配かけてる。
ポンと誰かに頭を叩かれて(そういうことをするのはぼーさんだと思う)、あたしはとにかくうなずいた。だいじょうぶ。もう落ち着く。
ふいに紅茶の匂《にお》いがした。小さく食器がなる音がして、あたしは顔を上げた。目の前にティー・カップがさしだされて、あたしはキョトンとしてしまった。
「だいじょうぶ?」
抑揚《よくよう》のない静かな声。顔を上げると、ナルがカップをさしだしていた。薄めのグレイのパジャマを着てる。それがなんだかめずらしくて、あたしは思わず落ち着いてしまった。
「……ありがと。だいじょうぶ」
そっとカップを受け取る。うん、だいじょうぶ。手の震えがおさまったみたい。
「みんなも、ごめんね。ありがと」
カップを支えたまま軽く頭を下げる。そっと背中を綾子にぶたれた。
ナルは脇に立ったまま、軽く息をひとつ。それから、
「なにがあった?」
そう聞いた。
あたしが丁寧《ていねい》に話を終えると、安原さんが低い声で言った。
「鈴木さんか厚木《あつぎ》さん……もう死んでるのかもしれないな」
「おいおい、少年。気安く言うなよ」
ぼーさんは目を丸くしてる。
「だって、谷山《たにやま》さんが見たの、どちらかのことかもしれないでしょ」
え?
「それはつまり……麻衣が誰かとシンクロして、いわばテレパシーを受けたってことか?」
「専門的なことはよくわかりませんけどね。実際に殺されたのは鈴木さんか厚木さんで、谷山さんは厚木さんの経験を、あたかも自分の経験のように感じ取ったんじゃないかって、そんな可能性もあるんじゃないかな。そういうことって、あるのかどうか僕にはわからないですけど」
ぼーさんが意見を求めるように綾子のベッドに座ったナルを見た。ナルはうっとおしそうな声で、
「そういうテレパシー夢の例がないわけじゃないが、麻衣にそこまでの能力があるかな」
……む。なんだよー、その言い方はー。
「それより、その部屋のほうが気になるな」
言いながら闇色の眼で宙を見つめる。
「その処刑室に該当《がいとう》するような部屋はなかったと思う。暖炉《だんろ》のある部屋でクローゼットのある部屋、というのも見覚えがない。生け垣というのも正体不明だ。もしそんな部屋が実在するなら、あの大きな空洞部分しかないわけだが……」
「しかし、麻衣が見たのは過去だという可能性もある。その場合、処刑室はすでに改築されてないこともありうるしな」
そういえば、着物着てたな、あたし……。
「いずれにしても、平面図の空白部分が気になる」
「もう、壁をブチ抜くしかないんじゃないの?」
思わずあたしがそう言うと、ぼーさんが盛大なため息をついた。
「何を考えてんだ、この嬢ちゃんは。ぶち抜くって、だれがブチ抜くんだよ」
……そりゃやっぱ、リンさんとぼーさんとジョンと安原さんと……。
ま、嫌《いや》がるわな、ふつー。
大橋さんが許可するかどうかはおいといても、人手が足りない。ここで作業員なんか雇《やと》ってさらに人が消えたら目もあてられないし。
そう思ってたわけだけど。
「その発想は悪くないな」
アッサリしたナルの一言。
「おいー、冗談じゃねぇよ。あの壁全部ブチ抜くのかぁ?」
ぼーさんの悲鳴にナルは不穏な笑いを浮かべた。
「隠《かく》し通路が見つからないなら、しかたない。いずれにしても夜が明けてからだ」
「失踪人捜しは」
「彼らは僕らの目に見える範囲内にいない。だとしたら目に見えないところにいるんだ。隠し部屋を発見できれば、おのずから解決する可能性がある」
それはそーなんですが。
ぼーさんが恨《うら》めしそうにあたしを見た。
ごめんよ。でもま、ボランティアですから。がんばってね。
あたしが悲鳴をあげた時間というのは夜中の二時で。それから軽く仮眠をとって、夜明けと同時に起床した。身づくろいをして朝ごはんを食べる。と、言ってもさすがのあたしも今朝《けさ》はものが喉を通らなかったんだな、これが。それからベースに集合した。
リンさんは機材のチェックを済ませている。それによると、昨夜も機材にはなんの動きもなかったそうな。
取りあえず、昨日やり残した二階以上の正確な調査を続けることになって。
「それでダメなら壁に穴をあける方向でいこう」
ナルの悲惨な言葉であたしたちは作業を開始した。
「なー、麻衣《まい》」
「ん?」
床に水準測定器を置きながら、あたしはぼーさんを振り返った。
「お前が夢で見た、その男たちって、どういう人物なのかわからないのか?」
「うん。それがさー、一生懸命《いっしょうけんめい》あいつらの顔を見たんだけど、全然顔つきが印象に残らないんだよね。なんか、見たはしから忘れていく感じで、見てるのはわかってたんだけど、どいう顔だかわからなかったの」
床にしゃがみこんだあたしのそばにぼーさんがしゃがみこんだ。
「なー、ここだけの話だが」
「うん」
声をひそめたもんで、ジョンや安原《やすはら》さんも寄ってくる。
「それって……ここの職員の中に思い当たる人物はいなかったか?」
「ええー!?」
しっ、とぼーさんが指を唇《くちびる》に当てる。
「まさかとは思うけどなぁ、ここの連中がなんかしてんじゃねぇだろうなぁ」
ええぇー……。
同じくしゃがみこんだ安原さんが身を乗り出す。
「あ、そういうのって映画なんかじゃありそうですよね」
「だろ?」
「隠《かく》し部屋のことも隠し通路も知ってるのに黙《だま》ってる、そういう可能性もありますよね」
「そうなんだよ。あいつらが失踪したふたりを隠しててさ、でもって……」
ぼーさんは首に手をあてる。
安原さんはウンウンうなずいて、
「すると僕たちは生《い》け贄《にえ》ってわけですね。マスコミに知られると困るなんて言ってここに閉じこめて、ひとりずつ消していく。最後には誰も残らない……」
「実は大橋ってのが殺人狂とかさ」
「ひょっとしたらここが、悪魔|崇拝《すうはい》の秘密教会かもしれませんよ」
同じくしゃがみこんだジョンは頭を抱えた。
「あいつら、変なことを目撃したりしてねぇって言ってたじゃねぇか。長いことここにいて準備をしてたんだろう? なんにもねぇってありうるか?」
「そうですよね。職員から失踪者は出てないし。考えてみれば、この家に直接的に関係のある人間は消えてませんよね。霊能者、忍びこんだ不良少年、捜索に来た消防団員……」
「だろ?」
あたしは思わずふたりの顔を見比べてしまった。
「ね、それ本気で言ってるの?」
「え?」
「いや……その」
「そーゆうくだらないことを言ってサボってても、問題は解決しないと思うけど」
ぼーさんと安原さんはそっぽを向いた。
「そんなの、ナルが納得《なっとく》するわけないもん。どーせ全部の床に水準測定器を置かなきゃならないわけだしー。いずれ壁を壊《こわ》さなきゃならないわけでしょ?」
「麻衣」
「なぁに?」
「お前は、本っ当にかわいくないな」
「よけいなおせわ」
ふーんだ。
そのときだった。
「ちょっと待ってください」
ジョンが深刻な顔で軽く手を上げた。
「どーしたの」
「さっきの、安原さんの話です。この家の関係者は消えてない、ゆう話」
「ちょっと、ジョン。あんなのギャグなんだから、マに受けちゃダメ」
ジョンの青い眼があたしをのぞきこむ。
「けど、それって事実と違いますか?」
「事実って……」
「ここに住んではった鉦幸《かねゆき》氏は無事でした。ときおり滞在した宏幸《ひろゆき》氏も無事でした。職員の皆さんかて、今日まで無事に過ごしてはります」
「おいおい、ジョン」
ぼーさんが呆《あき》れたように声をかける。対するジョンはまったく真面目《まじめ》なようすだった。
「消えたのは外部の人間ばかりです。これには本当に意味がないんですやろか」
「お前……まさか本気でここの連中が犯人だと……」
ジョンは首を横に振った。
「そんなんと違います。けど、関係はあるんやないかと思うんです」
関係って……。
「厚木さんは奇妙な消え方をしました。ほんまやったら消えるはずがないんです。これって、やっぱり霊の仕業《しわざ》なんとちがうんでしょうか」
「……かもしれんが」
「やったら、ここの霊は犠牲者に選《え》り好みをしてることになりませんか? ここの霊は美山《みやま》家に関係のある人間は犠牲にせぇへん、とか」
ぼーさんは考えこんだ。
「しかし、職員はたかが使用人だろ? 血筋ってわけでもねぇし」
「やったら、ここの霊は若いお人が好きなのかもしれません」
……え?
「職員の皆さんは全員年配の方ばかりですやろ。反対に消えたのは二十代以下の若い人ばかりなんと違いますか?」
「……言えてる」
ぼーさんがうなずいた。
あたしは立ち上がった。
「あたし、ナルに話してくる」
「待った」
ぼーさんが呼び止める。
「俺たちは全員三十前だろーが。ジョンの意見が正しかったら、全員が危険なんだぜ」
……そっか。
「ナルちゃんの言うとおりだ。絶対にひとりにならないほうがいい」
四人でベースに戻ると、ナルとリンさん、綾子《あやこ》と真砂子《まさこ》が戻っていて、何やら緊張した顔をしていた。
「……どうしたの?」
声をかけると綾子が深刻な顔で振り向く。
「よかったわ。帰ってきて。――また人が消えたのよ」
消えた? また!?
「誰だ?」
ぼーさんが聞くと、
「福田《ふくだ》さん、ですって」
「いくつだ?」
ぼーさんの質問の意図は、邸内探検隊にしかわからなかったろう。
綾子もちょっとポカンとした。
「年なんか知らないわよ。二十五か、そのくらいじゃないの?」
「南心霊調査会の女だろ? あの若いねぇちゃんか?」
「そうだけど……」
やっぱり……。
ナルが怪訝《けげん》そうにした。
「それが?」
ぼーさんがジョンの話を披露して、ナルはひどく考えこんでしまった。
「なるほどな……」
つぶやいて顔を上げ、あたしと安原《やすはら》さんに向かう。
「ふたりとも絶対にひとりになるんじゃない」
……うん。
それから綾子を振り向いて、
「松崎《まつざき》さん、どのていど信用してもいいですか?」
「なによ、それ」
「言葉の遊戯をやっている場合じゃない。麻衣《まい》も安原さんも必要なんです。しかし、ここは危険だ。あなたをどの程度アテにしてもいいんですか?」
綾子は不満そうに言う。
「退魔法ていどなら……アテにしてくれてもいいわ」
「わかりました」
ナルはあたしたちを見渡す。
「松崎さんと原さんは絶対に離れないように。お互いにフォローできますね?」
「できると思う……」
綾子がうなずくと真砂子が言い放つ。
「松崎さんでは不安ですわ」
「なによ、それっ!」
綾子に向かってナルは軽く手をあげる。真砂子を深い色の眼で見た。
「原《はら》さん。僕は基本的にこのメンバー以外を信用できない。アテにできる人間は少ないんです。あなたも霊能者のはしくれなら自分の身ぐらい守れますね」
「……ええ」
「安原さんは全く自分の防御ができない。彼の護衛には十分に信頼できる人間が必要なんです」
「はい……」
うなずく真砂子を見やってからナルは、
「ぼーさんとジョンは安原さんから離れるな。絶対に眼を離すんじゃない」
十分に信頼できる人間というのは、ふたりのことか……。
「待ってください」
リンさんが強い声をあげた。
「それは谷山《たにやま》さんを私が護衛するということですか?」
「そうだが」
「では、あなたは誰が護衛するんです」
「必要ない」
「はっきりと言わせていただきますが。あなたは退魔法は使えないはずです、ちがいますか?」
……そらそーだ。ナルは単なる超心理学研究者だもんな。
「もはやあなたの立場は安原さんと同じです。あなたには護衛が必要です」
「リン、なんとかなる」
「冗談じゃありません。なんとかされては困ります。ナルの護衛は私がします」
きっぱり言って、リンさんはあたしたちを見る。
「滝川《たきがわ》さんは安原さんを。ブラウンさんは谷山さんをお願いします」
「ぼーさんひとりではきつい」
「おいおい、ナルちゃん」
「見損《みそこ》なって言ってるんじゃない。ここはそれだけ危険である可能性があると言ってるんだ」
「では、誰かひとりを返してください。ナルをひとりにすることだけはできません。あなたに万が一のことがあったら、私は教授になんと言っておわびをすればいいのですか?」
教授?
「すこしはご両親の気持ちも考えてあげなさい」
「リン」
「あなたは、自分が十七の子供だということを忘れてはいませんか」
ナルが厳しい眼でリンさんを見た。
「僕に不満があるんだったら、帰ってもらってもいいんだが」
「なにかカン違いしていませんか。むろん、私は帰ってもいいのですよ」
リンさんの顔つきはさらに厳しい。
「忘れていただいては困ります。私はあなたのつきそいではありません。あなたを監視するためにいるのですからね」
……か、監視ぃ?
突然、安原さんが立ち上がった。
「僕が、外《はず》れます」
「おい、少年」
安原さんはぼーさんにうなずく。
「僕が外れれば、問題はないはずです。僕はいちおう『渋谷サイキック・リサーチ』の所長なんですから、後を調査員に任せたといってリタイアしても支障ないはずです」
……それはそうだけど。
「僕は、諏訪《すわ》市内に戻って森さんをアシストします。個人的に気になることがいくつかありますし」
深く考えてナルがうなずいた。
安原代理所長は、雑用をしに市内へ行く職員の車に乗って家を出て行った。他の霊能者からは聞こえよがしに逃げ出したと言われたけれど。
出会う人に皮肉を言われながら福田さんの捜索をした。手をつくして捜したにもかかわらず、やはり福田さんの姿も見つからなかった。
彼女は少し歩いてくると言いおいて、南さんのグループが使っているベースを出、そしてそのまま帰って来なかった。ちょうどその時玄関では職員が掃除をしていたので、少なくとも玄関から出て行ったということはありえない。ただ消えたと、そうとしか言いようがなかった。
南さんはひどく狼狽《ろうばい》していた。他の霊能者の人たちは、助けを呼ばないのかとさんざん揶揄《やゆ》した。ほかならぬ自分のところのメンバーがいなくなったのだから、博士の活躍も見られるだろう、他の協力者もやってくれるだろう、と言って。
あたしたちはその騒ぎを見るに耐《た》えなくて、結局、作業に戻った。残った測量を丁寧《ていねい》にやって。夕方に計測を終えて、そしてあたしたちは意外な事実を知った。
「この家は中央が高い構造になってますね」
リンさんがモニターに家の断面図を出しながら言う。
一階の床は家の中央に向かってごくわずか傾斜していて、中央付近は外辺部に比べて二メートル以上高くなっていることがわかった。
ぼーさんは首をかしげる。
「いったい、なんでこんな家を作ったんだ?」
だよなぁ。
「増改築をくりかえしたって、それだけでX階とかそんなもんができるか?」
ナルはそっけなく問い返す。
「……と言うと?」
「俺は、意図的にやられたもんなんじゃねぇかって気がするんだよ。なんか目的があって作ったに決まってるさ。こんな家」
「目的……ね」
ジョンも首をかしげた。
「この家、そもそもはどういう形をしてましたのやろな」
ナルはうなずいてプリント・アウトを手に取った。
「窓の配置から考えて、中央部の小さな建物に部屋をつけていって、外側に向けて大きくしていったらしい、というところまではわかるんだが……」
ぼーさんは盛大にため息をつく。
「じゃ、やっぱり中央部のあのデカイ空白が怪《あや》しいんだよな。だいたい、中庭でもねぇのに、二階まで吹き抜けってのは怪しすぎるぜ。問題はどこに抜け道があるかってことなんだが……」
ナルは紙を弾《はじ》いた。
「抜け道なんてなかったとしたら?」
え?
「抜け道がない……って、おい」
「あの空白は隠《かく》し部屋ではなく、閉ざされた部屋なのだとしたら?」
あ……!
そうか、恐怖映画によくあるパターン。壁を崩《くず》すとその向こうに閉ざされた部屋があって、そこになんかあるってやつ。空白が大きすぎて隠し部屋の可能性ばっか考えてきたけど、そもそもあの空白には人が出入りできないことだってありうるんだ……。
「抜け道は捜しつくした。これだけ古い汚れた家だ。そんなものがあって、失踪した連中が使ったのなら形跡がわかって当然だと思う。ホコリの乱れ、足跡、そんなもので。――ところがどう捜してみても、そんなものがあるとは思えない。建物が中から外へ向けて建てられていることといい、中にあるなにかを隠そうとして増築をしていったとしか思えないんだが」
「……言えてる」
ぼーさんは言って天井を睨《にら》んだ。
「しかし、隠すって、なにを? まさか、……処刑室」
「どうだろうな。そんなものがあるかどうか。明日壁の向こうを調べてみればわかる」
「本当にやんのか? 壁を崩《くず》して?」
「むろん。もう大橋さんの了解はとってある」
ぼーさんがゲンナリした顔をした。
そのときだった。例によって窓がノックされたのは。
「まどか……安原《やすはら》さん!」
ナルは呆《あき》れきった表情をした。
よいしょ、と窓を乗り越えてくるふたりを冷たい眼で眺《なが》める。
「こんばんはー」
「まいどー」
なんてノホホンとしたふたり。
「まったく……なにを考えているんだ」
ナルの視線は安原さんに向かう。
そらま、そーだ。この家が危険だから出て行ったのに、帰ってきたらなんにもならない。
安原さんはしかし、いっこうに気にしてないようすで、
「いえ、今日一日で調べたことを報告に」
森さんはニコニコして安原さんの顔を見た。
「安原くん、大活躍だったのよね、今日」
「そーです。僕、有能ですから」
ほくそえむ安原さん。
「えーとですね、まず、この家から市内に戻るとき、僕、煙突《えんとつ》の数を数えてみたんです」
……へ?
「なんか変な気がしたんですけど遠目でよくわからなかったんで、森さんに合ってから彼女にもう一度ここに来てもらったんですよね」
森さんはうなずく。
「そう。わたしが近くの山まで車で来て、そこからレンタルの双眼鏡でちゃんと数えたの。その結果は十二本」
リンさんがコンピュータに向かって暖炉《だんろ》の数を調べる。
「僕が調べた時の感じだと、十一か十本程度だと思うんですけど」
安原さんの言葉にリンさんはうなずいた。
「十一ですね」
……一本多い……。
「それで、よくよく見ると、家の中央にある煙突がどうも変なのよね。形も丸くて他のより太いのよ」
貴重《きちょう》な手がかり。やはりあの空白には確実になにかあるんだ。少なくとも煙突が。屋根に突き出る煙突が隠《かく》されている場所なんて限られてる。三階にはそんな空白はない。二階から突き出ていれば三階の窓から見えてしまう。ただ、一方向だけ窓のない面がある。煙突があるとしたらその方向しかありえない。
ナルがすばやく平面図をチェックした。あの大きな空洞の北にあるわりに大きな空洞。二階から突き抜けになった。煙突のある場所はそこだとわかった。
森さんはちょっと得意そうだった。
「賢《かしこ》いわたしは、ちゃんと証拠写真を撮《と》ってあります。今ラボに出してるから、明日にはできてくるわ。ちゃんと望遠の一眼レフを借りてたのよ、偉《えら》いでしょ?」
そう言ってナルの顔をのぞきこむ。ナルは冷たい視線を向けるだけ。
「なによぉ」
かわりにぼーさんが、
「えらい、えらい。それで?」
森さんはニッコリして、
「わたしがそういうことをしてる間に、安原くんは市内の聞きこみをしてくれたのよね。彼、探偵の素質あるわ」
ほー。
安原さんは胸を張った。
「なんでもソツなくこなします、天才ヤスハラですから」
そう言って笑ってから、
「まず、僕は美山《みやま》家の本邸に言ってみたんですよね。でもって、周囲の家を訪ねまして、できるだけお年寄りを探しました。そしたら、三軒先に齢《よわい》八十二のおばあちゃんがいまして。まだボケもせず、しっかりした人でね。まずその人に話を聞いてきたわけなんです」
ふむふむ。
「美山|鉦幸《かねゆき》氏が死んだのとほぼ入れ違いに生まれた人ですからね。まぁ、鉦幸氏を知ってるはずはないんですが、なにか知らないかというわけで。するとですね、彼女が言うには鉦幸氏と言うのは語り草になるくらいの変人だった、と言うんですね。とにかく人|嫌《ぎら》いで。けっこう気分に落差があって、優しいときは他人にものをバラまいたりけっこう親切なんですが、機嫌《きげん》の悪いときってのは人を追いかけまわして殴《なぐ》るような、そんな人だったらしいです」
……ふぅん……。
「前に潔癖《けっぺき》という話がでてましたが、おばあちゃんもそう言ってました。とても潔癖な人だったって。それで美山家の隣の家の人は、今でも柿《かき》ひとつ、美山家のものは勝手に取ったりしないそうです。昔ひどい目にあったことがあるとかで」
「……なるほど」
「彼女から聞けた話というのは、そのくらいなんですが。で、彼女に市内の老人ホームとお達者クラブを紹介してもらいまして。それでそこに行ってみたんです。でまぁ、いろいろな話を聞いたわけですが、鉦幸氏と言うのは評判が悪いんですよね」
「……慈善事業に手をつくした人物なんだろう?」
「それはそうなんですが、どうもあの慈善事業というのは、裏でなにか悪いことをやってる、そのカモフラージュじゃないかと。そういうふうに思われていたようです」
意外……。
「それと、宏幸《ひろゆき》氏の知人だったって人を見つけました。おばあちゃんなんですが、彼女の旦那《だんな》さんが晩年の宏幸氏の友人だったとか。彼女によると宏幸氏は父親を嫌っていたようですね。父親の話はほとんどしなかったし、だれかが話題にするとひどく怒《おこ》ったそうです」
……ふぅん。
「わずかに聞いた話によると、鉦幸氏は小さい頃から身体《からだ》が弱かったらしいんです」
「身体が弱かった?」
「ええ。病弱な人で、子供の頃は寝ていることのほうが多かったとか。何度かの外遊も、単なる外遊と言うより、その当時どこか具合が悪かったのを外国の医者にみせに行ったというのが正確らしいです」
……へぇ。
「小さい頃はあまり長生きしないだろうと言われていたわけですが、実際五十で死んだんですよね。ただ、宏幸氏に言わせると、もっと早く子供の頃に死んでればよかったんだ、とそういうことらしいです」
あたしは聞いた。
「鉦幸が子供の頃に死んでたら、宏幸氏は生まれてなかったわけでしょ?」
「そうですよ。すごいセリフでしょ?」
「……うん」
宏幸氏は本当に父親が嫌いだったんだ。
「それから、こういうのがあるんです。鉦幸氏は、下男ふたりとすんでいたって」
……胸がドキドキする。なんだろう、嫌《いや》な感じ。
「それでですね、その老人ホームにもうひとり、祖父が出入りの植木屋だったって人がいたんです。けっこう若いおじいちゃんですが。で、そのお祖父さんって人が山荘に行くのは気味悪くて嫌だったって、そう言ってたと言うんです」
「植木屋?」
「ええ、なんでもその当時、ここには生《い》け垣《がき》でできた迷路があったらしいんですよね」
……生け垣。生け垣の迷路。
「母屋《おもや》があって、離れがあって、その間を迷路がつないでいたって言ってたそうなんです」
ああ、なんか嫌だ。あたし、この話を聞きたくない。
「植木らしいのはその迷路だけだったようなんですが。それで、お祖父さんがいつも言っていたのは、この家は変だって。手入れしながら離れのほうに行くと、いつも墓場みたいな嫌な臭いがしてたって。おまけに行く度《たび》に女中の顔が変わってたって、そう言ってたと」
「女中の顔が変わってた……?」
目眩《めまい》がした。背中を冷たいものがなでていった感じがする。
「ええ。それで――? ……谷山《たにやま》さん?」
安原さんがあたしの顔をのぞきこむ。あたし、背筋がゾクゾクして寒くて寒くて言葉が出ない。ぼーさんが動きかけるのを真砂子《まさこ》が止めた。あたしのほうに近づいてくる。そっと腕を伸ばして、あたしの肩に手をおいた。
「この人はいけませんわ。あなたを救ったりはできないんですの。ここにいる誰も、あなたを助けてあげることはできません。だってあなたはもう死んでるんですもの」
そう言いながら、真砂子があたしの背中をたたく。
「さ、降りて。恐れないで光のほうへ行ってごらんなさいな。そこへ行けば、楽になれますから」
そう言ったとたん、急に寒気がやんだ。
「原《はら》さん」
ナルの問いかけに、真砂子は微笑《ほほえ》む。
「この家に住む霊に憑《つ》かれていたようですわ。だいじょうぶ。もう消えました。浄化《じょうか》したのかどうかはわかりませんけれど。……もうだいじょうぶでしょう?」
「うん。ありがと……」
なんだったの、今のは。
真砂子は言った。
「きっと、話をしていたので寄ってきたのですわ。それとも、最初からいたのかしら。今話をしていたお女中さんの霊のようです」
その言葉を聞いたとたん、ムッと血の臭いがした。喉《のど》を裂《さ》いた刃物の感じ。顔にかかった血糊《ちのり》の暖《あたた》かさ。白いタイル、赤いシミ。
「……その人だ……」
あたしは言っていた。みんなが怪訝《けげん》そうな顔をする。
「その人なの。ゆうべ……」
母屋から連《つ》れていかれた。男がふたりで引っ張って、離れに連れて行って。離れのある部屋で手術台の上に引きずり上げられて、喉を裂かれた。
「ゆうべ夢の中で殺されたの、その人なの」
涙が出た。霊の記憶を見てしまったんだ。あの人、殺されてしまったんだ、あんなふうに。あたし、怖《こわ》かった。痛かった。あたしのあれは夢だったけど、あの人にとっては現実だった。あんな怖い思いをして、痛い思いして、殺されてしまったんだ……!
思わず顔をおおってしまったあたしの背中を、みんなが叩いてくれた。
「……そういうことか」
ナルの低い声。
「そうやって殺された霊がこの家をさまってるわけか」
助けて、死にたくない、霊はそう言った。みんな自分が死んだことがわからなくて、怖い痛い思いを抱えたまま、この家をさまよってる。
酷《ひど》い。誰があんな。……ううん、犯人なんかわかってる。あの男たちはふたりの下男。だとしたらあれを命じた犯人がいるはず。その犯人なんて鉦幸《かねゆき》氏でしかありえない。
許せない。慈善家の顔をして、あんな酷《ひど》い、あんな残酷な、悲惨なことを。
そのときだった。
いきなり部屋の電灯が消えた。
「……なに!?」
モニターからゆっくり光が消えて、部屋が真っ暗になる。パシ、という乾いた音をかわきりに、あたりがたちまちラップ音でいっぱいになった。この部屋ではないどこからか、激しい音がする。そして、遠くで人の叫び声。
「動くな!」
鋭《するど》い声でナルが命じたとき、ふいに明かりがついた。ちょっとした停電が終わったように。それと同時にラップ音が止む。
今のはなんだったんだと言う間もなかった。部屋が明るくなって、あたしたちの眼に赤いものが飛びこんできた。
『助けて』
『助けて』
『死にたくない』
『痛い』
『痛い』
『怖い』
壁に書かれた無数の血文字だった。
あたしたちは唖然《あぜん》として部屋の中を眺《なが》めた。
大きさもまちまち、筆跡もさまざまの血文字。たったあれだけの間に、壁を埋《う》めつくすほどの数。
『痛い』
『助けて』
『死にたくない』
『怖い』
『痛い』
『浦戸』
……『浦戸』?
文字を眼で追っていって、あたしは硬直した。
「ね、ナル。これ……」
ナルはその文字に視線をやり、それからもう一度部屋を見渡す。
『浦戸』
『うらど』
その文字は他にも無数あった。
呆然《ぼうぜん》としているうちに、家のどこかであわただしい足音がする。森さんがすばやく安原《やすはら》さんをうながした。
「ナル。また、明日」
「まどか、危険だと言ってるだろう」
鋭《するど》い声のわきでぼーさんがのほほんと手を振った。
「お嬢さん、またな」
「うんっ(ハート)」
「気をつけてな」
「はーい」
明るい返事を残して、ふたりは窓から消えていった。
ほとんどそれを追いかけるようにして、大橋さんがドアを開けた。
「……ご無事ですか?」
「なにがあったんです?」
ナルの声に、
「あちこちに変な文字が。まるで血で書いたような……」
あわてて部屋を飛び出すと、廊下の壁にも血文字でいっぱいだった。
助けて、助けて、助けて、助けて、……。
怖い怖い怖い怖い……。
浦戸うらど浦戸うらど浦戸……。
「この家の霊って、いったいどれくらいいるのよ!?」
綾子《あやこ》が叫んだ。
ものすごい数。こんなにたくさんの……。
「浦戸、ってのは俺たちが思っている以上に意味のある言葉らしいな」
ぼーさんが壁の文字をにらんだ。
「単なるペンネームだとか、とてもそうは思えねぇ」
「……うん」
「あの文字の意味さえわかればな……」
あの文字。『浦戸に・さ・た・・聞く」。
なるが低い声を出した。
「原さん」
「はい?」
「ここで降霊術をやれる自信がありますか」
パッとみんなの眼が真砂子《まさこ》に集中した。
真砂子はお人形のように整った顔をすこしかたむける。
「……ありますわ」
この悲鳴をあげた霊を呼び出すことができれば。真砂子に憑依《ひょうい》させることができれば、そうすれば霊の口から直接、『浦戸』の意味を聞くことができる。これでなにがあったのか、全部聞くことができるはず。
――そこまで考えてあたしは硬直した。霊、この家の。殺された霊たち。あれを憑依《ひょうい》させるということは、あたしと同じ経験を真砂子がするということになりはしない?
「……だめ」
「麻衣《まい》?」
「真砂子……やっちゃだめだよ。霊を憑依させちゃだめ」
「どうさなったんですの、急に」
「あたしと同じ夢を見ることになるかもしれない。そんなの、だめだよ」
ナルが軽くため息をついた。
「麻衣……原さんはプロだ」
「プロだろうと、なんだろうと、あんな経験させられない!」
「いいかげんにしろ」
ナルの冷たい視線。あたしそれをまっすぐに見返す。
「自分が殺される気持ち、わかる? 自分が死んでいく瞬間の気分が想像できる? どんなに怖いか、ナルにわかる? あたし、ぜったいに真砂子に降霊術なんてさせないからね」
ふいにナルの眼の色が深くなった気がした。
あたしが眉《まゆ》をひそめると、ナルは軽く瞬《まばた》きする。もうあの不思議《ふしぎ》な色はなかった。
「……しかたない。多少不確実な方法になるが……リン」
「はい」
「呼べるか?」
リンさんは軽くうなずいた。
「やってみましょう」
「リンさん!」
あたしは、思わず止めてしまった。
「ダメだよ、そんなことしちゃ。あんな……」
あんな怖い、あんな辛《つら》い、そんな経験、誰にもしてほしくない。
リンさんは無表情に、
「ご心配なく。べつに霊を憑依させるわけではありません」
「……でも」
「霊をよんでみるだけです。私は霊媒ではありませんので、霊を憑依させることはできませんから」
「そうなの?」
「はい」
……なら、いいんだけど……。
「ただ、ナル」
リンさんはなるに表情のない顔を向ける。
「私にはここで過去に殺された霊を呼ぶことはできません。今呼べるのは」
リンさんの声はどこにも表情なんか感じさせない。
「死んでいると仮定して、ここで消えた三人の人間、それだけです」
「かまわない。やってみよう」
降霊会の場所には、いつだったか五十嵐《いがらし》先生の降霊会が開かれた部屋が選ばれた。リンさんとナルは準備のためにいなくなって、残ったあたしたちで機材をセッティングする。いつかの夜のように二台のカメラをセットしながら、あたしはぼーさんに聞いてみた。
「どうやって霊を呼ぶんだと思う?」
ぼーさんは、ちょっと考えるようすを見せた。
「霊を呼ぶには霊を憑依《ひょうい》させる『口よせ』と、霊そのものを呼ぶ『魂《たま》よばい』があるんだ。真《ま》砂《さ》子《こ》は『口よせ』のほうだな」
……へぇぇ。
「霊を憑依させるんじゃねぇって言うんだから、やっぱ『魂よばい』のほうじゃねぇのか?」
「そんなこと、できるの?」
ぼーさんは肩をすくめる。
「ふつーはまぁ、できねぇわな。『魂よばい』は『招魂《しょうこん》』と言って、もとも中国の巫蟲《ふこ》道にあった方法だ。――リンは中国人だって言ってたからなぁ」
「……あ」
「俺たちはずっとリンを陰陽師《おんみょうじ》だと思っていたが、こうなると事情はちがうわな。リンはおそらく陰陽師でなく、中国呪術の道士なんだと思うぜ。あっちじゃ招魂ってのはよくあることだからな」
……へぇぇ。
「『口よせ』を『摂魂《せっこん》』と言うんだが、ふつう『摂魂』よりも『招魂』のほうが難しいとされる。道士の格がぜんぜんちがうんだ」
つまり、真砂子さんよりリンさんのが優秀だというわけ?
「……ということは、真砂子に頼らなくてもリンさんがいれば十分だったんじゃないの?」
なんてこったい。あたしたちは真砂子しか霊の言葉を聞けないんだと思って、さんざん振り回されたっていうのに。
ぼーさんは首をすくめる。
「ところが、そう話はうまくいかない。招魂つったって、だれでもかれでも呼べるわけじゃねぇんだ。リンも言ってたろ? 自分が呼べるのは三人の霊だけだってさ」
「……もしも、三人が死んでたとして、よ」
生きてる可能性だってあるんだから。
「まぁ、なんでもいいが。たしか招魂には、呼び出す霊の名前とか生没年とか、そういう細かいデータが必要なはずだ。それで、今そんなデータがそろうのは三人のぶんだけだから、この三人の霊しか呼べないってわけさ」
あ、ナルホド。
しばらくしてリンさんが包みをかかえて戻ってきた。べつに服を着替えたりはしてない。
「掃除は?」
「すんでるよ」
リンさんは部屋に戻る前、この部屋を掃除しておくように指示していった。機材をおく前に言われたとおり、塩をまいて掃《は》き清め、ま新しい布で床をテーブルも水を替えながら三度ふいておいた。
リンさんはうなずき、包みを開く。薄い黄色の布をほどいて箱を取り出した。白木の箱を明けると、中にいくつもの箱が入っている。そのうちのいちばん大きな箱の中から金属製の平たい鉢《はち》を取り出し、そっとテーブルの上においた。そして、金色の太刀《たち》。金色の香炉《こうろ》をふたつ。燭台《しょくだい》をふたつ。ろうそくを二本。
なんとなくしゃべってはいけないような気がして、あたしたちはだまってそれを見守る。リンさんは丁寧《ていねい》に封をしたした白木の箱を開けて、中からお茶のはっぱのような抹香《まっこう》をつまみ出し、それを香炉に入れて火をつけた。薄い煙《けむり》があがって、不思議《ふしぎ》な匂いが漂《ただよ》いだす。
平たい箱を取り出し、蓋《ふた》を開いて鉢のわきにおく。中は硯箱《すずりばこ》になっていた。和紙らしい紙を取り出して広げ、テーブルの上をきちんとかたづけ、そしてあたしたちが用意しておいた水でゆっくりと墨《すみ》をすり始めた。
お香の匂いが部屋に満ちて、リンさんが墨をおいたころに、やっとナルが戻ってきた。
「誰を呼びましょう」
リンさんに聞かれて、ナルはメモをテーブルにおく。
「鈴木直子さんを」
ナルは手に彼女のものらしいブラウスを持っている。リンさんはそれを受け取ると、丁寧にたたんで鉢の中においた。それから紙にメモを見ながら文字を書きつける。名前を書き、生年月日を書き、そしてナルを見返した。
「没年はどうしましょう」
ナルは少し考えこんで、
「失踪日の翌日……というところかな」
リンさんはうなずいて、そのとおりに文字を書きつける。そうしてできたおふだを鉢の中にたたんでおいた服の上に乗せた。
「始めます」
もうひとつの香炉に線香を立て、ろうそくに火を灯してナルにうなずく。ナルが部屋の電灯を消した。
二本のろうそくの明かりに、ほの暗く室内が照らし出される。リンさんは姿勢を正した膝の上に太刀をのせ、軽く口を開いた。
不思議な音が発された。
ホーォと言っているようにも聞こえる。口の中で低い音が響《ひび》いて、それが呼吸と一緒に吐《は》き出される、そんな感じ。うなる、にしてはあまりに澄《す》んだキレイな音。口笛、にしてはあまりに柔《やわ》らかな低い音。
リンさんはゆっくりと音を吐く。途中で何度も音程が変わって、まるで歌っているよう。高くなったり低くなったり、弱くなったり強くなったり。震《ふる》える、伸びる。そのくりかえし。喉《のど》が音を出す。たったそれだけの不思議でキレイな音楽。
思わずぼうっと聞きほれてしまった。こんな不思議でキレイな音を他に知らない。すっかりなにかの演奏会にでも来ている気になってしまって。だから、ためいきが聞こえたとき、あたしは誰かが思わずもらしたんだと、この音に感動してため息をついたんだとそう思ってしまった。
リンさんが音をやめた。
もう一度、ためいきがした。ひどく悲しいためいきに聞こえた。
はっとあたりを見まわすと、リンさんの正面の壁に影が見えた。ろうそくだけの明かりに深い影を落とした壁。その表面にうっすらと人の影が見える。だれの影でもない。影を落とすような位置に人はいない。
眼を見張るうちに影が濃《こ》くなった。人の、女の人の横を向いた影なのだとわかる。
……だれ? まさか。
黒い影から色がにじみ出るようにして、じょじょに人の姿が現れ始めた。だれもが息をのんでコソという音もない。
「ナル」
リンさんは姿勢を正したまま振り向きもせずに呼ぶ。
「日がよくない。しゃべらせることはできないし、そんなに長くは呼んでもおけません」
ナルがうなずく。人影は、今やはっきりと若い女性の姿を現していた。暗くて、なんだか透《す》けるようで、けっして実体がそこにあるようには見えなかったけど、たしかにそれは人の姿で、しかもいなくなった鈴木さんなのだとわかった。彼女はうなだれ、横を向いて視線を足もとに落としていた。
「鈴木直子さんですね」
ナルが呼びかけると、彼女は視線を落としたままうなずいた。
……死んでいたんだ……。
ひどくやるせない気がした。やはり鈴木さんは、死んでいたんだ。
「この家にはあなたの他にも人がいますね」
鈴木さんはうなずく。
「僕らと五十嵐先生、霊能者たちの他にも人がいますね?」
これにも無言のうなずき。
「彼らもあなたも、すでに死んでいます。知っていますか?」
ふいに鈴木さんは顔を上げた。不思議そうな表情でナルを見つめる。
ああ、鈴木さんはわかってないんだ。自分が死んだこと、他の人たちが死んだこと。
「自分がなぜ死んだのかわかりますか?」
彼女はナルを見つめたままただ首を横に振る。
「では、誰かがあなたにひどいことをしませんでしたか?」
鈴木さんはうなずいた。表情が微《かす》かに歪《ゆが》む。
「それは誰です。僕ら以外の他の人たちですか?」
鈴木さんはひどく辛《つら》そうな顔でうなずいた。
……やっぱり、この家の霊が犯人なんだ……。
「浦戸《うらど》という人物を知っていますか?」
ふいに、彼女が大きく身体《からだ》を反《そ》らした。顔が歪む。なにかを言いたそうに口を開いた。声が出ないのか、もどかしそうに手をあげて喉《のど》をつかむ。片手をあげ、宙になにかを書こうとする。
「知っているんですね?」
鈴木さんはうなずき、そして首を横に振る。身をよじって腕を泳がせて、子供がかんしゃくを起こしたように全身でなにかを訴えようとした。足を踏みしめ、身を折るようにして身もだえする。突然、部屋のどこかで乾いた高い音がした。
思わず音の出所を探してあたりを見回した。続けざまに激しい音がする。ラップ音だ。「ナル。限界です」
リンさんのひそやかな声をきっかけにしたように、少しずつ鈴木さんの姿が薄まりはじめた。彼女は大きく口を開いて、なにかを必死で叫んでいるるその声は聞こえない。とどかない声の代わりをするように、高い音でラップ音がした。
ナルが次の質問を発する間もなかった。すうっと色を失って、鈴木さんの姿は影に戻った。影になっても彼女は身をよじり続けている。それでさえ、すぐに闇《やみ》に溶《と》けて見えなくなった。彼女の影が消えると同時に、ラップ音もやんでしまって、後には静寂《せいじゃく》だけが残された。
ナルが部屋の明かりをつけるまで、だれも声を出さなかった。
まぶしいほどの明かりが降って、とたんにあたりは興奮した声でいっぱいになる。
今のは本当にリンさんが呼んだのか、鈴木さんは本当に死んでいたのか、この家の悪霊が人をさらっていたのか、では他のふたりも死んでいるのか。そんな声が入り乱れるなか、ふいにナルの視線が壁に釘《くぎ》づけになった。全員の視線がそれを追って、興奮した声が鎮まってしまう。
いつの間に書かれたのだろう。白い壁の表面に赤い文字が描かれていた。
『ヴラド』
ヴラド? なんだろう、これは……? 鈴木さんの霊が残していったんだろうか?
ぼーさんがいきなりテーブルをたたいた。
「……浦戸ってのは、ヴラドのことだったのか」
あたしはパチクリした。
たしかに浦戸とヴラドって、音が似てるけど……。
「ヴラドってなに?」
ジョンがとても嫌《いや》そうな顔をした。
「ヴラドゆうのは……吸血鬼ドラキュラのことです」
吸血鬼。
「ドラキュラーっ!?」
あたしはナルを振り返った。
「どういうこと? 浦戸は鉦幸《かねゆき》氏のペンネームでしょ? 鉦幸は吸血鬼だったの? ここの霊は血を吸われて死んだ人たち?」
ナルはウンザリしたように口を開いた。
「世間《せけん》でよく知られるドラキュラの物語は、『吸血鬼ドラキュラ』という小説がもとになっている。これは知っているか?」
「……知らない」
ナルは露骨にため息をついた。
「一八九七年に出版された『吸血鬼ドラキュラ』はブラム・ストーカーという作家が書いた恐怖小説だ。ロンドンにドラキュラ伯爵《はくしゃく》と名乗る奇妙な男がやってくる。これが実は吸血鬼で、という物語。この小説が舞台や映画になり、そこから『吸血鬼もの』というジャンルが生まれた。ここまでは、いいか?」
「……うん」
「実は、このドラキュラ伯爵にはモデルがいる。本当にドラキュラと呼ばれた実在の人物がね。物語に出てくるドラキュラ伯爵はトランシルヴァニアの出身。トランシルヴァニアは長くハンガリーに属し、現在はルーマニアになっているところだ」
「……トランシルヴァニアって、実在の土地なの?」
あたしはてっきり架空の地名だとばかり……。
「もちろん。ドラキュラは十五世紀、とトランシルヴァニアに近いワラキア地方を統治した王だった。名前をヴラド。通称ヴラド・ツェペシュと言って、一般には『ヴラド串刺し公』と訳すようだね」
「くしざしぃ?」
ナルはうなずく。
「当時ヨーロッパは頻繁《ひんぱん》にオスマントルコの侵略を受けた。ワラキア地方はトルコに近いこともあってその前線地帯だったと言っていい。しかもワラキアの王座をめぐっても覇権《はけん》争いがつきなかった。ヴラドは潔癖《けっぺき》な王で怠惰《たいだ》と背任を嫌《きら》い、特に敵には容赦《ようしゃ》がなかったことで知られている。捕らえた敵の多くを串刺しにして処刑したことからそう呼ぶんだ」
げげげ。
「このヴラドの父親がヴラド二世。通称を『ヴラド・ドラクル』と言う。『ドラクル』はルーマニア語で『悪魔』を意味するから、普通『ヴラド悪魔公』と呼ぶようだね」
父が悪魔で、息子が串刺しかぁ?
「もっともこれは正確でない。『ドラクル』は悪魔を意味することばだが、同時に『龍』も意味するんだ。ヴラド二世は一四三一年、時のローマ皇帝ジギスムントによって『ドラクル』の称号を与えられた。称号なんだから、『悪魔』とは呼ばないだろう。たぶん、『ドラクド・ドラゴン公』と呼んだほうが正しいんだろうな」
たしかに、悪魔とドラゴンじゃえらい違いだよなぁ……。
「『龍の子』あるいは『悪魔の子』をルーマニア語で『ドラキュラ』と言う。したがってドラクルの子供であったヴラドは別名を『ドラキュラ』と言った。つまり、『ドラゴン公の子』というような意味でね。ヴラドの血|塗《ぬ》られた業績のせいで、普通は『悪魔の子』と呼ばれるが、実はそれはあまり正しくないんだ」
「……ふぅん」
「プラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』が出版されて、『ドラキュラ』とは吸血鬼の名前だということになった。一時期ヴラド・ツェペシュはその残虐性《ざんぎゃくせい》のためにヨーロッパじゅうで有名だったんだが、ストーカーが著書を発表するころにはほとんど忘れ去られていた。ブラム・ストーカーによって再びヴラドは脚光を浴びた。そしていまや全世界的に悪名がとどろいているというわけだ」
「なるほどねぇ」
こんな歴史があったとは知らなかった。
「ワラキア地方には今も『ドラキュラ伝説』が残っている。それによれば、ヴラドはドイツとトルコからハンガリーを守った救世主ということになっている。敵には確かに残忍だったが、彼はハンガリーを守った英雄だというわけだ。一概《いちがい》に信じるのもどうかと思うが、当時のヨーロッパ情勢を考えるとまるきりウソでもないような気がするな」
……ふうん。
ナルはちょっとシニカルな笑みを浮かべた。
「ヴラドに関しては有名な話がある。とある豪商が財産のすべてを馬車に乗せてワラキアの首都を通った。彼は首都に着くや、宮殿に行ってヴラドに自分の財産を守ってくれるよう頼んだんだ。これに対してヴラドは、その必要はない。どこだろうと置き去りにしておけ、と命じた。しかたなく承認は全財産をつんだ馬車を広場に置き去りにした」
ううむ。ヴラド公の命令には逆らえないもんなぁ。
「ところが一夜明けてみると、彼の財産はまったく減《へ》っていなかった。ヴラドは潔癖な王で、自国の国民にも嘘《うそ》や泥棒《どろぼう》、怠惰《たいだ》を決して許さなかった。そういった者は例外なく串刺しにされたので、商人の荷物に手をつける者などいなかった、というわけだ」
「……ナルホド。けっこう偉《えら》い人だったんだ」
ナルは肩をすくめる。
「それを偉いと言うかどうかは、人によるだろうな。……いずれにしても、たしかにヴラドは似てるよ。鉦幸にね」
ぼーさんは首をかしげた。
「ヴラドはハンガリーの救世主だった、と。鉦幸も自分は救世主だとでも言うつもりだったのかねぇ」
「さて、それはどうだろう?」
ナルの白い指先で森さんが持ってきたメモをめくる。
「鉦幸は一九〇〇年頃にもヨーロッパに外遊していた。その頃すでに『吸血鬼』は出版されていた。彼が『悪魔の子』の意味で『ヴラド』を名乗っている可能性のほうがむしろ高いと思う。――それに」
「それに?」
「麻衣《まい》が言っていたろう。浴室にバス・タブがあって、その中に血が溜たまっていたと」
……うん。
「ヴラドとよく混同される人物にバートリ・エルベジェットというのがいる。英語ふうに姓を後にするとエルベジェット・バートリかな。彼女は通称、『流血の伯爵夫人』と呼ばれる」
「お……女の人なの?」
「そうだ。エルベジェットは十七世紀ハンガリーに住んだ伯爵夫人だった。ヴラドとの関係ははっきりしないが、なんらかの血縁関係があったのではないかと想像されている」
「ふぅん……」
「彼女は自分の容色が衰《おとろ》えることを恐れて、若い女性を生《い》け贄《にえ》にした。若い女の生き血を浴びれば、自分の美貌は保たれると信じていたんだ。若い女を殺しては、しぼりとった血を浴槽に満たしてそれの中に身体《からだ》を浸《ひた》した。生け贄のひとりが脱走して犯罪がばれるまでのおよそ十年間の間だ」
「……そ、それって……」
ナルはうなずく。
「麻衣の夢に似てるだろう。エルベジェットとヴラドは混同されて、ヴラドが処刑した敵の血を浴びていたごとくに言われることが多い。鉦幸がこの話を聞いていたとしたら?」
だれひとり答える者はいない。ナルはさらに微《かす》かに笑う。
「彼女は公式に罪を追及されなかったが、その代わり彼女は寝室に閉じこめられ、すべての扉と窓を外から塗りこめられてしまった。けっきょく彼女はその牢獄《ろうごく》の中で死んだわけだが――なかなか暗示的だとは思わないか?」
塗りこめられた牢獄。塗りこめられた空間。
「でも……鉦幸は」
病気で死んだと、森さんが。
「もちろん、あの空間が鉦幸を閉じこめるものだとは思わない。だったらあんなに広い空間である必要はないから。ただ、暗示的だと――ひどく暗示的だと思うだけだ」
……たしかに。
「『ヴラド』は『ブラド』の発音のほうが近い。鉦幸はなんらかの理由でヴラド公の名を筆名に使おうと考えたが、うまく漢字をあてられなかった。それで『浦戸』という文字を選んだ……これはおそらくそんなに事実をはずれていないと思う」
……うん。
ぼーさんもうなずく。
「そして奴はそのとおり、ここで多くの使用人を殺した。殺された者の霊が、この家に今もさまよってるってわけだ。……ああ、そうか」
ぼーさんは軽く指を鳴らした。
「わかった。例の『浦戸・・さ・た・・聞く』ってやつ」
「え?」
聞き返すとぼーさんは苦《にが》い笑みを浮かべる。
「『浦戸に殺されたりと聞く』だよ。『ここに来た者はみな死んでいる。浦戸に殺されたりと聞く。逃げよ』だ。どうだい?」
警告。あの隠《かく》し部屋に住んでいた人物は、次にこの家に来る者のためにメッセージを残した。逃げろ、と。
あたしはふと首をかしげた。
「ねぇ、それはわかるけど……。あのコートはだれものなわけ?」
「誰って……」
「だって、女中だったらあんなところに住ませることないでしょ? それにあのコートは病院の付属施設の支給品だったじゃない。あのコートの持ち主はだれ? 本当に女中さんなの?」
全員が顔を見合わせた。
「まさか……」
ぼーさんがつぶやく。
「まさか、あいつ、施設の人間まで……?」
施設の人間にめぼしをつける。その人物をここへ連《つ》れてきて、事情を知らない使用人にわからないよう隠し部屋に閉じこめておく。そして……。
ひどい。そんなの、ひどすぎる。鉦幸は人間じゃない。本当に『悪魔の子』だったんだ。
あたしはハッとした。もしかしたら宏幸《ひろゆき》氏は、父親がここでなにをしてたか知っていたんじゃないだろうか。
あたしがそう言うと、ナルはうなずく。
「ありうるな。それでここを封印し、だれにも知られないように増築をくりかえして屋敷の奥深くに隠した……」
宏幸氏は言っていたという。「幽霊が出るから出ないようにするんだ」と。
ここでなにが行われていたか知っていたとすれば、この発言もうなずける気がする。宏幸氏はさぞ怖《こわ》かったろう。自分の父親が、父親の殺した人間の怨念《おんねん》が。
ナルは深く考えこむ表情で、
「消えたのは若い人間ばかり……」
ふにそうつぶやいた。
「鉦幸がなぜあんなことをしたのか、わかった」
え?
「鉦幸は病弱だった。彼は自分の身体をうらめしく思っていただろう。血は人の精気の源だとされる。エルベジェットがその精気によって自分の美貌を保てると信じたように、鉦幸は若い人間の精気によって自分の健康を守ることができると信じた」
「……うん」
「実際彼は、決して長命といえるほど長生きしたわけじゃない。さぞ無念だったろう。人を殺してまで長らえたかった自分の命は、結局長持ちしなかったわけだから」
……たしかに。
「奴に殺された人間の霊は、おそらく失踪には関係がない。鈴木さんは死んでた。殺した者がこの家にすむ幽霊なら、その悪霊は浦戸でしかありえない」
背筋が冷えた。
「浦戸はいるんだ……この家にまだ。この家で生け贄を求めている」
ベースに戻ると朝の四時だった。そのまま夜明けまでミーティングをして、陽が昇ると同時にあたしたちは作業を始めた。
「まず、煙突があると推定される場所から始める」
ナルが宣言して、あたしたちは問題の場所に向かった。全員が重い機材を手分けしてかかえている。
リンさんが大切そうに抱えているのはレーダー。これは本来、ポルターガイスト事件の暗示実験に使う。関係のあるもの――たとえば花瓶――が動くと暗示を与えて、花瓶をおいた部屋を封鎖する。もしもその花瓶が動けば、ポルターガイストの正体は人間の不可思議《ふかしぎ》な力だということになる。完全に密閉された部屋を作るためにはケーブル類を部屋の外に引き出すことができない。それで壁越しにレーダーで花瓶の動きをチェックして、無線で室内のビデオ・カメラに作業させるわけ。そのレーダーを今回は特殊な目的に使ってみる。すなわち、壁の厚みを知るために。もっといいレーダーがあれば、壁の向こうのようすまでわかるらしいのだけど。
空白に面した壁を全部チェックする。
「この壁がいちばん屈折率が低いようです」
リンさんが平面図を示した。レーダーってのは電磁波を放射してその反射を拾うわけだけど、電磁波の屈折率が低いってことは、それだけくみしやすい壁だというわけ。薄いとか、厚くてもスカスカだとか。
現場に急行して、大橋さんに借りた工具で壁を壊《こわ》しにかかる。思った以上に簡単に穴が開いた。壁の向こうに明かりは見えない。中のようすが見えるほどの穴をあけるとなると大作業になるわけだけど、この穴は三〇センチていど。そこに赤外線カメラの鼻面を突っこむ。モニターにカメラの映像を出した。
人の眼には見えない赤外線の光を浴びて、中のようすがはっきりと映し出された。中は八畳くらいの雑然とした部屋になっていた。部屋の正面、向こう側に大きななにか。
「……あれ、なに?」
ナルは考えこむ。
「焼却炉《しょうきゃくろ》かカマドのように見えるな……」
たしかに、部屋のようすは学校の焼却炉のまわり、あの感じにいちばん似てた。
「入ってみよう」
ナルが宣言して、あらためて壁に穴を開けにかかる。今度は気合を入れて、人が通れるほどの穴を開けた。ホコリとカビの嫌《いや》な臭いが流れ出してくる。
ホコリが舞う中にハンドライトの明かりが交錯する。焼却炉の姿が浮かびあがった。資格い巨大な箱のような形に壁が作られていて、正面の中央には錆《さび》のういた鉄製の蓋《ふた》がふたつ、レンガでできているらしい太い煙突がまっすぐ天井に伸びている。
あたしと真砂子《まさこ》、綾子《あやこ》を外に残して、他の四人がその部屋に入っていった。
「だいじょうぶ?」
声をかけるとぼーさんが、
「……ああ。床は石だな。しっかりしたもんだ」
……いや、そうではなくて。
「ひでぇ臭いがする」
たしかに、なにかひどい腐臭《ふしゅう》のような臭いがその部屋には充満していた。
「ドアがある」
ナルがつぶやいて部屋の右手に向かう。見るとライトに照らされてかたむいたドアが見えた。半分開いたようになっているドアの向こうには、レンガが積み上げられているのがわかる。ナルがドアを引くと、ドア自体がはずれてしまう。その向こうは完全な壁になっていた。
壁には窓もあったようだけど、その向こうも完全な壁。レンガで封じこめられた密室。
ぼーさんは壁ぎわに並んだ木箱をのぞきこむ。かがみこんで中のものを拾い出した。
「……石炭だな」
さらに隣の木箱を、ぼーさんがのぞきこんだときだった。
「……わっ!」
ジョンが悲鳴みたいな声をあげた。
「どうした!?」
ジョンは焼却炉の蓋を開けたところだった。ナルとぼーさんが駆けつける。後じさって硬直したジョンのわきから中に光を当てた。
「ねぇ、どうしたの?」
あたしたちが呼びかけても返答はない。ぼーさんが立ち上がってナルを見た。
「……どうする?」
ナルはじっと中をのぞきこんだまま、
「警察に連絡したほうがいいだろうな」
そう言って立ち上がり、こちらに出てきた。
……警察!?
「……ねぇってば。どうしたの!?」
穴から出てきたナルをつかまえて聞くと、ナルはひどく静かな声で言った。
「死体がある」
五章 人喰《ひとく》い
食堂で大橋さんをつかまえて、それを報告すると大騒ぎになった。すでに起きていた数人の霊能者たちもすっかり狼狽《ろうばい》してしまう。
「……死体……ですか」
ナルは大橋さんに聞かれてうなずく。
「二月に消えたふたりのうちのどちらかだと思います。警察に連絡をしたほうがいいと思いますが」
「待ってください」
大橋さんは顔をひきつらせていた。
「それは困ります。私の一存ではそれはできません」
そんなことを言ってる場合?
「とにかく、先生に連絡を取ります。どうにか指示があるまで伏せておいてください」
そう言って転《ころ》がるように食堂を出ていく。
「それは、どこですか?」
五十嵐《いがらし》先生が聞いてきた。
「建物の西の方です。この位置ですが」
ナルは平面図を示した。
先生はそれを見て驚いたようにテーブルについた南さんとデイビス博士を振り返る。愕然《がくぜん》としたままのふたりに、感心したように言った。
「すばらしいわ。博士の予言どおりでしたわね」
……え?
「なんですか? それは?」
ナルが聞くと五十嵐先生は満足そうに笑って、
「いえ、さっき博士が予言をなさったのです。失踪者の行方《ゆくえ》をお聞きしたら透視をしてくださったんです。すると、失踪者は西の方にいるとおっしゃって」
あたしたちは南さんとデイビス博士を振り返った。ふたりはなぜだかひどく困ったような顔をしている。反対に五十嵐先生はずいぶんと浮かれているように見えた。
「すばらしいことですわ。さすが博士でいらっしゃるわ」
ナルがひどく冷たい声を出した。
「先生、おわかりになっておられますか」
「……なにがです?」
「二月に失踪した人間が死んでいる以上、他の失踪者にもほとんど生存の望みはないと思われます」
とたんに先生の顔がこわばった。
「……鈴木さんは死んでいるとおっしゃるの?」
あたしたちはその答えを知ってる。でも、とても言えなかった。
「鈴木さんにかぎらず、厚木《あつぎ》さんも福田《ふくだ》さんもおそらくは」
「でも、二月の失踪はあれはずいぶん前のことでしたでしょう。きっと道に迷《まよ》って」
言いかけた先生をナルがさえぎった。
「あの部屋に迷いこむことはできません」
「……え?」
「あの部屋は外から完全に密閉されていました。僕らも壁に穴を開けて入ったんです。普通の人間が通常の方法で入ることはできません。迷いこんだりできるような場所ではないんです」
五十嵐先生は真っ青になった。
突然、三橋さんが立ち上がった。職員のおじさんを呼ぶ。
「君、私は帰るからな」
「あの……?」
困惑した表情のおじさんに言い捨てる。
「調査を打ち切って帰る、と言っているんだ。大橋くんにはリタイアしたと伝えてくれ」
目を丸くしたままのおじさんを残して、三橋さんはあわただしく食堂を出ていく。南さんが博士をうながして立ち上がり、その後に続いた。
急転直下のなりゆきだった。まず三橋さんが家を出ていった。その後に起きてきた井村《いむら》さんと聖《ひじり》さんも死体発見の報告に青ざめ、そして三橋さんがリタイアしたことを聞くと、井村さんもリタイアを宣言した。
大橋さんは困惑した表情だった。どうやら彼のご主人は警察を呼ぶとに反対したらしい。警察を呼び、解体業者を呼んで空白の部分を全部壊《こわ》してみるべきだと主張するナルを押しとどめながら、それでもどうしていいかわからないという顔をしていた。
二時間後、聖さんのところの霊媒だったおねーさんがいなくなっているのがわかった。失踪かと身構えたあたしたちだったけど、聖さんの車がなくなっているのが発見されて、彼女は逃げだしたのだとわかった。
そして職員のひとりは市内に雑用で出かけ、そのまま戻ってこなかった。
残されたあたしたちは食堂に集まっていた。聖さん、五十嵐先生、そして南さんの助手のおばさんがひとり。
白石《しらいし》さんというそのおばさんは、さかんに聖に帰らないのかと聞いていた。
聖さんは不快そうに言う。
「うちの厚木くんは消えたままなんですよ。たとえ死んでいるにしても、残して帰れるわけがないでしょう」
……そのとおり。
五十嵐先生もうなずく。
「とにかく、早く捜してあげないと……。かわいそうに……」
そう言って目頭《めがしら》を押さえる。
ちょうどそこへ南さんが顔を出した。
「白石くん」
南さんは白石さんに片手で手招きをする。もう片方の手にはカバンを持っていた。
「……南さん」
五十嵐先生は立ち上がる。
「まさか、南さんもお帰りになるんですか?」
南さんは顔をしかめた。
「しかたないでしょう」
「だっておたくの福田さんは消えたままじゃないですか!」
南さんは視線をそらす。
「捜して無事な姿が見つかるものなら残って捜しますがね。こんな危険なところにいて、さらに被害が出ちゃあ話にならない。我々はリタイアします」
……そんな、冷たい。
五十嵐先生は南さんのもとに駆《か》けつける。
「そんな」
南さんの手をとって、それから背後にいたデイビス博士を見やった。
「博士も帰るのですか!? あなたの力が必要になるかもしれないのに!?」
南さんも博士も答えない。
「お願いします。お帰りにならないでくださいまし。鈴木さんを捜してください」
五十嵐先生は博士の腕をつかむ。
「お願いします!」
博士はひどくうろたえた顔で手を振った。
「ワタシは違います」
先生もあたしたちも、博士の顔をまじまじと見てしまった。少しなまってはいるけど、ちゃんとした日本語だった。
「ワタシは、博士では、ないです」
「なんですって!?」
五十嵐先生は声をあげる。あたしは心の中で、やっぱり、と思ってた。
「ワタシ、名前をレイモンド・ウォール、いいます。デイビスでは、ないです」
「おい、きみ!」
南さんが制したけど、出てしまった言葉は取り消せない。
博士――いや、ウォールさんはひどく困った顔をしていた。
「あっち、言ったのも、うそです。そう言っただけです。ワタシはちがいます。南サンがデイビスと、言えと言っただけです」
南さんは怒ったように顔をそむける。ウォールさんは続けた。
「ワタシ、帰ります。もう、帰ります」
五十嵐先生は手を放した。彼はあわてたように背をそむけて廊下《ろうか》を去っていく。南さんがそれに続いた。もうだれも止める人はいなかった。
「……あのペテン師が!」
そう聖《ひじり》さんがつぶやいたけど、だれもそれに答える気にはなれないようだった。
ナルが静かな声で言う。
「おふた方もお帰りになったほうがいいと思います」
五十嵐《いがらし》先生は悲壮な顔で振り返る。
「どうして……どうして、そんなことを」
「ここは危険です。諏訪《すわ》市内に戻るだけでもいい。この家を出たほうがいいと思います」
そしてナルは愕然《がくぜん》とするようなことを言ってのけた。
「僕らも引き上げます」
「ちょっ……ちょっと待ってよ!」
あたしは思わず叫んでしまった。
「引き上げるって……じゃあ、他の失踪した人は? このまま放って帰るつもり?」
ナルは静かな声で言う。
「全員死んでいる。捜しても望みはない」
「でも……」
「家の中は捜しつくした。失踪者は閉ざされた部屋の中にいるとしか思えないし、事実そうだった。しかし、あそこには壁に穴でも開けないかぎり入れないんだ。浦戸《うらど》がどうやって犠牲者を壁のむこうに連《つ》れこんだのかはわからない。生身《なまみ》の人間は壁を通り抜けたりできないんだから、空間をねじ曲《ま》げるか時間をねじ曲げるかしたとしか思えない。それがどれだけの力を必要とすることかわかるか?」
……それは、なんとなく……。
「奴は恨《うら》みをはらしたくてさまよってるわけじゃない。この世に未練があるわけでも心残りがあるわけでもない。奴はただ単に生き延びたいだけなんだ。そのために獲物が必要だから狩っている。これはもう亡霊とは言わない。『鬼』でも『悪魔』でも『妖怪』でもいい。そういう化け物なんだ」
「……でも」
「僕は残念ながら幽霊を狩る方法は知っていても、化け物を狩る方法は知らない。除霊は不可能だ」
そう言ってナルは全員を見渡した。
「この中に、奴を狩る方法を知っている者がいるか?」
ぼーさんが口を開いた。
「正直《しょうじき》に言うが、俺にはできん。壁に人間を通すような力を持ってる奴を、ねじふせるほどの能力はない」
綾子《あやこ》もうなずく。
「アタシにも無理だわ。条件が悪すぎるもの」
ジョンも同じくうなずいた。
「神の栄光を恐れない者を、力で封じることはできないです」
ナルはうなずき、そして指を組む。
「ただ、ひとつだけ奴には弱点がある」
……え?
「奴はこの家から出ることができないんだ」
「……そうか」
ぼーさんが拳《こぶし》を握《にぎ》った。
「家の周囲は安全だとお嬢さんも言ってたな。浦戸は生前ここで殺戮《さつりく》をくりかえした。この家で、麻衣《まい》の言ってた処刑室で、それで奴は今もこの家にこだわってる。捕らわれてる言ってもいい。だから家の外まで人を狩りには行けねぇんだ」
「おそらくね」
ナルはうなずいた。
「だったら俺にも除霊できらぁ」
「――そうなの!?」
ぼーさんは笑う。
「もちろん。麻衣にだってできるぜ」
「……あたし?」
「燃やせばいいんだ。炎《ほのお》によって浄化できないものはねぇからな。奴が家にしばられてて逃げられないんなら、この家ごと燃やせばいいんだ」
「焼け跡に残ったりしないの?」
「しねぇだろうな。奴がこだわってるのはこの場所じゃなく、家そのものだからな」
……そう、そうなのか。
ナルは軽く息をついた。
「大橋さんがこちらの忠告どおり、警察を呼んで家を解体してくれれば失踪者は発見できる。それは僕らの仕事じゃない」
ぼーさんがニンマリする。
「そういうことで逃げて帰るわけか。ナルちゃんらしくもねぇけどな」
そうだ。たしかにナルらしくない。
「逃げるんじゃない。僕らの仕事は終了したんだ」
へっっ?
だれもが眼を見開いてナルを凝視《ぎょうし》した。
「僕がここに来たのは、大橋さんの依頼を受けたからじゃない。依頼じたいは、さして興味を引かれなかったし、現在もさほどおもしろい事件だとも思えない」
「でも……だったらどうして」
「僕は大橋さんの依頼を受けたわけじゃない。まどかの依頼を受けたんだ」
「まどか……って森さん?」
「そう。彼女が、南心霊調査教会の連中が、デイビスのニセモノを連れて歩いているようなので調べてほしいと」
開いた口が塞《ふさ》がらないとはこのことだ。
「僕らの仕事は今、終了した。ここに危険を冒《おか》して残る理由がない。残ったところでおもしろい現象が見られるとも思えないし。引き上げる」
「たばかったな……てめー」
ナルは涼《すず》しい顔だ。
「戦略上の秘密というやつだ。この中には腹芸のできない人間がいるだろう」
そう言ってあたしを見る。
「ええ、そうですとも。あたしはナルとちがって、嘘《うそ》ついて人をだますのが嫌《きら》いだからね」
あたしはそう言って、キョトンとしている五十嵐先生と聖さんを振り返った。
「そういうわけで、ごめんなさい。あたし嘘をついてました」
「麻衣!」
うるさい。いまさら止めたって遅いわっ。
「うちの所長もニセモノです。この偉《えら》そうな態度を見てもおわかりでしょうが、うちの所長はこいつなんです」
しっかりナルを指さす。ナルが苦《にが》い顔をした。
「こいつが、渋谷一也《しぶやかずや》です。みなさん、ごめんなさい」
五十嵐先生も聖さんも、ポカンとしている。
「麻衣!」
「なんだよ」
モンクがあるなら聞こうじゃないか。
ナルはあたしをいまいましげな表情で見て、それから軽くためいきをついた。
よし。勝ったぜ。
「……撤収の準備をする。荷物をまとめろ」
「はい、所長」
ザマァミロ。
あたしたちは大あわてで部屋に戻って、荷物をまとめ始めた。
あたしは服をカバンにつっこみながら、首をかしげた。
「……いいのかなぁ。本当に帰って」
「ナルがいいって言うんだから、いいんでしょ?」
綾子《あやこ》には悩みというものがなさそうだ。
「だって、浦戸《うらど》の霊は? 解体工事をしろって、工事の最中人が消えたらどうするの」
「まぁそうだけど」
綾子は丁寧《ていねい》に服をたたんでいく。
「でも、チマチマ解体すれば危険だろうけど、こう……ブルドーザーとか鉄球なんかでドカンと解体すればだいじょうぶでしょ? いわば家を小さくしていくわけだから」
「それは……そうだけど」
綾子は髪をかきあげた。
「ああ、気持ち悪い。ゆうべはお風呂に入れなかったし、今日もホコリだらけになったし」
本当にノンキだな、こいつは。
「あたしシャワー使うから、麻衣《まい》、時間をかせいどいて」
「あのなぁ……」
ナルにどやされるぞ。
「ナルをいなすのはお手のものでしょ。オネガイねぇ」
ヒラヒラ手を振ってバスルームに行ってしまう。
しょうがねぇなぁ、ったく……。
あたしは黙々《もくもく》と荷物をまとめていた真砂子《まさこ》を振り返った。
「真砂子、すんだ?」
真砂子はチラッとあたしを見て、すぐにそっぽを向く。
「真砂子?」
「あたくし、あなたなんかに呼びすてにしてほしくありませんわ」
……こいつ。
「また『なんか』をつけたな」
真砂子はフンと顔をそらして、返事もしない。
「どーしてあたしをそこまで嫌《きら》うわけ?」
真砂子はしらんぷり。
「理由ぐらい言ってくれてもいいんじゃない?」
「……あたくし?」
「そう。なんかナルの弱みを握《にぎ》ってるでしょ?」
真砂子はちょっとひるんだ。
「どーいう弱みなのかなー。教えて……くれないよねぇ」
「あたりまえですわ」
そう言った真砂子の顔がちょっと寂《さび》しそうに見えて、あたしは首を傾げてしまった。
「あなたに言ったりしたら、あたくし本当に嫌われてしまいますもの」
「……は?」
「だから……あたくし、ナルの弱みを知ってますわよ」
おお。断言するとは。
「それでナルはあたくしを嫌ってますの」
ちょっと待て。どうして話がそういう方向に行くんだ。
「ナルはプライドが高いんですもの。だれかが弱みを握ってるのをガマンできないんですわ」
「……それはわかる」
「だからあたくし嫌われてますの。それを話したら今以上に嫌われてしまいます」
その理論はわかるような気がする。
たしかになぁ。嫌うとはいかないまでも、けむたがってるようではあるもんなぁ。
真砂子は立ち上がった。スタスタと部屋を出ようとする。
「真砂子ぉ」
ひとりなるとナルにどやされるぞ。
真砂子はドアを開けて、あたしを振り返る。
「麻衣……やっぱり、嫌いよ」
あたしはタメイキをついた。
「さようで。――部屋から出ちゃダメだよ。ひとりになるなって言われてるでしょ」
「外の空気を吸いたいだけですわ。この部屋はだれかさんのせいで空気が悪いんですもの」
「わかったわかった。でも、ダメだよ。危ないでしょ」
「ちょっとひとりになりたい気分ですの」
真砂子はドアのすき間からすべり出る。
「ちょっと! 真砂子っ!」
「廊下《ろうか》にいますわ。だから来ないで」
ドアが軽い音をたてて閉まる。あたしは肩をすくめた。そうしてちょっと笑う。
うん。あたしは真砂子、好きだな。女の子らしくてかわいーじゃん。
綾子《あやこ》がお風呂からあがってきて、あたしはドアに向かって声をかけた。
「真砂子《まさこ》、戻るよ」
返答はない。
ドアを開けても、真砂子はすぐ近くの曲《ま》がり角で、そこにある窓からうつむきかげんに外を見ていた。
「真砂子」
声をかけるとハッと顔を上げ、あたしのほうを見てから窓を離れる。あわてたように袖《そで》で顔を押さえて、廊下を曲がって向こうへ行ってしまった。
「ちょっと、真砂子!」
……んもー、あのおんなっ。
あわてて綾子とふたりで部屋を出た。真砂子の後を追いかける。角を曲がると長めの廊下で、さらにむこうの角を薄藍色《あいいろ》のたもとが曲がっていくのが見えた。
「真砂子! ひとりになっちゃダメだって!」
走ってそれを追いかける。曲がったところは階段で、その両わきに向かって廊下がのびている。階段の上まで来てあたしは左右を見渡した。どっちに行ったんだろう。
「手分けして捜したほうが早いんじゃない?」
綾子に言われて首を振る。
「ダメだよ。ひとりになるなって言われたでしょ」
そう答えたところに軽い足音がして、ぼーさんとジョンが階段を上がってきた。
「こらぁ、荷物をまとめるのにいつまでかかってんだ」
「ぼーさん、真砂子がどっかに行っちゃったの!」
ジョンとぼーさんは顔を見合わせた。ダッと階段を駆《か》け上がってくる。
「……どっかに行ったって……」
「つい今さっき、こっちへ曲がるのが見えたんだけど」
「じゃ、階段を下りたんじゃねぇな。おいジョン、綾子と向こうを捜せ」
ぼーさんは右を指さす。左に向かって駆け出しながら、
「麻衣《まい》、来い!」
何度も名前を呼びながら捜したけど、真砂子の姿は見つからなかった。では廊下を右に行ったのだろうかと戻ってみると、綾子とジョンも見つからなかったと言う。さらにそのへんを捜したけど真砂子の姿はない。あわててベースに駆け降りると、ナルにそれを伝えた。
「原《はら》さんが……?」
「ほんのちょっと目を離したすきにいなくなったの! 捜して!」
ナルがまとめていたケーブルを放り出して立ち上がる。全員で二階に戻って真砂子を捜した。名前を呼んでもなんの返答もない。全部のドアを開けて、廊下を端から端まで走りまわったけど真砂子の姿は見つからなかった。一時間が過ぎて二時間が過ぎた。
真砂子は姿を消してしまった。
「どうしてひとりで行動させたんだ」
ナルに思いっきり叱《しか》られて。
……とめればよかった。もっと強く。後悔がどっと胸に押し寄せる。
ナルはベースで、平面図を広げる。
「いるとしたら、もうこの空白のどこかしかない」
図面上にいくつか残った空白を示す。
「……どうする?」
ぼーさんが聞く。
「壁を壊《こわ》して入ってみるしかないだろう」
全員でうなずいたときだった。例によって窓がノックされた。夕暮れにはまだ間がある。窓の外は明るくて、安原《やすはら》さんと森さんが立っているのがわかった。
ナルは手短に事情を説明する。手近の空白から手あたりしだいに壊すことにして、手順を決めた。全員で機材を持って行くよう命じて、ナルはリンさんを呼んだ。
「リン。来てくれ」
「ナル?」
「原さんの荷物を見てくる。先に行っててくれ」
あたしたちは機材をかついで手近にあった空白に向かった。今朝《けさ》やったように機材を配置していると、ややあってナルが戻ってくる。
こんなゆっくり調べてていいんだろうか。真砂子はどうしてるんだろうか。失踪した人たちはみんな死んでた。まさか、真砂子も……。
「ねぇ、いちいち調べてないで、手あたりしだいに壊したほうが早いんじゃないの?」
あたしが聞くとナルは、
「最終的にはこっちのほうが早い」
……それはわかる。でも。
あたしは機材の接続を手伝いながらジリジリしてしまう。こうしている間にも、真砂子が殺されようとしているかもしれない。あせったところで、壁を壊す早さが変わるはずもないのはたしかだけれど。
朝と同じ手順で壁の厚さを調べ、もっとも条件のいい場所に穴を開けてカメラを突っこむ。最初の空白の中の単なる空洞で、なにもないとわかった。機材を次の空洞に持っていく。駆けまわりたいほどイライラしながら、そうやって空白をひとつずつ調べていった。
「なぜ来たんです」
機材を運《はこ》びながらナルが安原さんに聞く。
「聞きこみから帰ったら、ホテルのフロントにメッセージが入ってたんです。撤収することになった、って。それで撤収を手伝えるかなと思って来たんですけど……」
来てよかったな、と安原さんはつぶやいた。
「それで? なにかわかりましたか?」
「え?」
「聞きこみ。なにか新しい情報は入りましたか?」
安原さんはうなずいた。
「また養老院めぐりをしたんですよ。今度は病院とか施設の関係者がいないかと思って。そうしたら、いました。生き証人が」
「生き証人って……」
ナルは機材を床に降ろしながら問い返す。
「明治四十年、施設が閉鎖されたときそこで介助者をやってたって人が」
「……本当に?」
「ええ。その当時彼は十三歳で、現在九十六歳。半分ボケてるんですけどね、昔のことはよく覚えてましたよ。と、いっても病院や施設に関する記憶なんて、いくつもないんです。ただ、その施設ではよく人がいなくなった、って、それだけですけど」
人が……いなくなった?
安原さんは手早くケーブルをほどきながら、
「施設では衣食住が保証されてましたけど、まったくタダってわけでもなかったようです。施設を出た人間はいちおう、施設にいた間支給されたものに相当する額のお金を返済する義務があったらしいんです。それで、夜逃げ同然に逃げ出す人も多かった。でもね、職員の間では有名だったそうです。その逃げ出した人の中には山荘に連《つ》れていかれて、そのまま帰ってこなかった人間もいるってのは」
ここに連れて来られた……。
「仕事をサボると、よく先輩に山荘に連れていかれるぞ、って脅《おど》されたらしいんです。それでおじいちゃんは、強く印象に残してたようなんですよね」
「……なるほど」
彼らはここに連れてこられ、そして処刑室に連れていかれた。浦戸の歪《ゆが》んだ欲望のために生《い》け贄《にえ》として捧げられた。
……真砂子は。真砂子はどうしているんだろうか。生け贄にされようとしてるんじゃないだろうか。それともまだ、ぶじでいるんだろうか。
お願いだからぶじでいて。どうぞだれか、真砂子を守って……。
空白を四つ開いて、中を確認したけれど真砂子の姿はなかった。調査は北棟のX階に面した部分にまで来た。時計はすでに深夜を過ぎている。
空白に面していると思われる十数の壁をいちいちレーダーを使って確認する。どの壁も厚くて、ヤワな工具なんかじゃ穴を開けられそうになかった。
辛抱《しんぼう》強く同じ行為をくりかえしているみんなを見ながら、あたしはひどく自分が疲れているのに気がついた。壁に背中をあずけ、ずるずると座りこむ。徹夜のあとの重労働で、疲れていないはずがない。それは全員が同じだろう。それでも真砂子のことを思うと作業をやめられない。それどころか気ばかりがあせって、小さな口論やミスが続いた。
ぼうっと座りこんでみんなを見る。綾子が隣に来て腰を降ろした。
「……疲れた?」
「うん……」
「少しウトウトすれば? アタシがついててあげる」
「でも」
「情報収集にもなるかもしれない。真砂子がぶじか、確かめてよ」
あたしはちょっと笑った。そんなふうに自分の力が思いどおりになったらいいね。
それでもあたしは膝《ひざ》を抱いて額《ひたい》を乗せた。眼を閉じてみた。眼を閉じるとそれだけでふうっと意識が遠くなりそうになる。あたし、すごく眠いんだ。こんなときなのに。こんな……ときなのに……。
気がつくと、あたしはひとりで暗い廊下《ろうか》を歩いていた。
その前の記憶がない。いつの間にこんなところに?
首をかしげて立ち止まって、あたしはふと思いあたる。
これ、夢なんだ……。
きっとたぶん、いつもの夢。
そう思ったとたん、静かに周囲の色が消えていった。すうっと吸いこまれるように光が消えて闇《やみ》が降りる。音もなくまわりの景色の光と影が反転する。それと同時に壁が床が、天井が透《す》けていった。
……やっぱりそうだ。あたし、ちゃんと夢を見ている。
陰画になった家の中には、白く尾をひいてたくさんの鬼火《おにび》が飛んでいた。
あれがぜんぶここで殺された人なんだ……。
すうっと光が寄ってくる。白い丸い光が魚のように泳いできて、あたしの身体《からだ》のまわりをくるくるまわった。あたしは手を伸ばしてみる。指先に光が触れて奇妙に温《あたた》かい感触がした。手に触れた光が、漂《ただよ》うように離れていく。
泳いで行くその先にナルの姿が見えた。
「……ナル」
廊下の向こう。白い顔と白い手。
「真砂子《まさこ》を知らない?」
あたしが聞くとナルはちょっと微笑《わらっ》た。その笑顔を見てあたしはひどく安心する。温かい笑顔。きっと真砂子はぶじなんだ。
白い手が動いて、右の方を指さした。
「……そっち?」
聞くとうなずく。そしてもう一度微笑してから、闇《やみ》に溶《と》け入るようにしてその姿が見えなくなった。
あたしはナルが示したほうへ歩く。影の廊下を小走りに歩いて真砂子の姿を捜した。
歩くうちにじょじょに色が戻ってきた。壁が不透明になって暗い廊下がはっきりと現れる。あたしはあたりを見まわした。
……夢から覚める?
だめ、まだ起きたくない。まだ真砂子を見つけていない。
走るようにして廊下を駆《か》け抜ける。すぐに目の前にドアが現れた。行き止まりのドア。どっかで見たことがある、と思いながらドアを開いた。中は小さなホールになっていた。ガランとしたホール。二階へ上がる階段。
……ここは……。
あたしはまっすぐ二階へ駆け上がった。記憶をたどって二階の廊下をまっすぐ奥へ向かう。廊下の突き当たりにあるドアに駆け寄った。
そのドアを開けるのは少しだけ勇気がいった。扉《とびら》を開くと、中は白いタイルを張った小部屋だった。なにもかも同じだった。ずいぶんと暗く感じることをのぞいては。迷《まよ》わずさらに奥へ通じる扉を開く。広い浴室に出た。――あるいは処刑室に。
白いタイルの上に、白い浴槽と白いベッド。そしてその奥の壁ぎわに人影が見えた。
「真砂子!?」
あたしは走る。人影は着物を着ている。床にうずくまって、胸に抱きこんだ膝の上に頭をのせてコソともしない。そばに駆け寄った。
「真砂子!」
呼ぶと切り下げた髪が揺《ゆ》れた。
「真砂子?」
真砂子が顔を上げた。
……よかった。生きてる。
「……麻衣《まい》?」
「だいじょうぶ? ケガは?」
真砂子はゆるゆると首を振った。
「ないわ……。どうしたの、あなた、こんな所に……」
「夢なの、これ」
こういうのも変な話だ。それでも真砂子は微笑《わらっ》た。
「そうでしたの……。あたくし、麻衣も死んだのかと思いましたわ」
「冗談やめて。あたしも、真砂子も死んだりしないよ」
真砂子どこか疲れた表情で微笑う。
「……そうですわね」
「辛《つら》くない? 平気?」
「怖《こわ》い思念がたくさん残ってて……とても疲れますわ」
「あきらめちゃ、だめだよ。ぜったい助けに来るからね」
「……ありがとう」
真砂子はそう言って軽く笑った。
「だいじょうぶですわ。さっきまでここにナルがいたんですのよ」
「ナルが?」
「おかしいでしょう? ここにいてくれて、はげましてくれたんですの。変なんですのよ。ナルがとっても素敵に微笑うんですの」
あたしはなんとなく微笑《ほほえ》んだ。
「……そうか。よかったね」
真砂子が微笑い返した。微笑ったまま、ふいに涙がこぼれ始める。
「真砂子?」
「これは夢なのね。麻衣の夢ではなくて、あたくしの夢なんでしょう?」
「ちがうよ。あたしの夢なの」
とっても奇妙な会話だと思った。
「あたくし、ひょっとしたら死んでいるのかもしれませんわ。自分でわからないだけなのかも。あたくし、ちゃんと人の姿をしてます?」
「うん。いつもどおりだよ」
「……そうなのかしら」
あたしはふと思いついてポケットに手を突っこんだ。右手にキーホルダーを握《にぎ》る。取り出して金具から一本の鍵《かぎ》を外した。
「これ……お守り」
「お守り?」
首をかしげるようにして、真砂子は鍵を受け取る。
「あたしのお守りなの。昔、住んでた家の鍵なんだけど」
お父さんとお母さんが住んでて、あたしが生まれた家。お父さんが死んだとき、お母さんがお守りがわりに持って出て、そして結局あたしに残された。
「……あたくしに?」
「うん。なにか物があると、あたしたちのこと信じてられるでしょ? 自分のことも信じていられるでしょ? 真砂子、死んでないよ。夢を見てるでもない。ちゃんと鍵の感触がするでしょ?」
「……ええ」
これはあたしの夢なのに、あたし馬鹿《ばか》みたいなことを力説してる。
「みんな、一生懸命《いっしょうけんめい》入り口を探してるの。きっとじきに見つかる。助けに来るから、信じて待ってて」
真砂子はうなずいて、それからあたしの腕を握った。
「ここは……怖いの」
「うん」
「あの男が来るんですの」
「浦戸《うらど》?」
真砂子はうなずいた。お人形のような顔が少しだむ歪《ゆが》んで、透明な涙がこぼれた。
「ほかにも男の霊がふたり。あたくしを殺しにくるの。必死で念じて来ないようにしてるの。でも、もうあたくし疲れてしまってて……」
「へこたれちゃ、ダメだよ。もう少しだからがんばって」
「幻《まぼろし》が見えるんですの……たくさん人が殺されて……とても怖い……」
「だいじょうぶ。ぜったい助けに来るから。だから、真砂子もがんばらなきゃだめだよ」
真砂子は子供みたいにうなずいた。
「待っていますわ。必ず、来るわね?」
「うん。必ず。できるだけ、早く。だから……」
言葉は最後まで言えなかった。ふいに視界がぼやけて、暗くなる。真砂子が心細そうな表情をしたのを最後に見た。
「麻衣《まい》、起きて」
あたしはポカッと目を覚《さ》ました。
「起きた? 次の部屋に移動するよ」
綾子があたしの顔をのぞきこんで立ち上がる。
「綾子……真砂子《まさこ》生きてた」
パッと綾子が振り返った。
「……麻衣?」
「生きてたよ。処刑室にいたの。怖《こわ》いって、辛《つら》いって言ってた。でも、元気そうだった」
なんだか涙がこぼれた。
綾子はあたしの顔をじっと見つめる。みんなの視線が集まっているのがわかった。
「……本当に?」
「うん」
だれもが対応に困った、という表情をしていた。あたしも、そう。よかった、と喜ぶほど自分の力を信じられないから。
複雑そうな表情のみんなに向かってナルが声をかける。
「移動しよう」
次の部屋で、リンさんが突破口を見つけた。
「壁の薄いところがあります」
どっとみんながモニターに集まる白い壁の真ん中に大きな四角形の薄い影が見えた。レーダーの映像は、電磁波を強く反射するところが白く見える。あの薄い影は、そこだけ壁が薄いことを表している。
ぼーさんは安原《やすはら》さんが腕まくりをして壁に取りついた。ツルハシやバールを振り上げる。かなり楽に小さな穴が開いた。ぼーさんがライトの光をあてて中をのぞきこむ。
「すぐそこにドアが見えるぜ」
全員で寄ってたかって穴を広げた。
壁の向こうは一メートル以上低くなっていた。石造りの階段があってポーチがあって。そして正面に両開きのドア。一目でここは玄関なのだとわかった。
この上に建物があるんだと、一階や二階や三階があるんだと思うとひどく奇妙な気がした。家の奥深くに隠《かく》されたもうひとつの玄関。
ぼーさんと安原さんが段差を飛び降りてドアに飛びつく。持っていた工具でドアをこじ開ける。錠というよりドアそのものを壊《こわ》して、扉《とびら》が内側に開いた。
ドアを入ったところは玄関ホールになっていた。ホコリのつもった絨毯《じゅうたん》の上に、ちゃんと家具も置かれている。どれもこれも雪が降りつもったようにホコリをかぶって、なんだか奇妙な世界に迷《まよ》いこんでしまった気がした。ホールからまっすぐ奥に向かって廊下がのび、右手には二階へ上がる階段があった。ライトをあててのぞきこむと、二階に上がりきったところで塞《ふさ》がれてしまっているのが見えた。おそらく、あれが北棟の一階の床なんだ。
「麻衣、夢で見たホールってのこれか?」
ぼーさんが聞いてくる。
「ちがうよ。こんなんじゃなかった」
ナルがライトで周囲を照らしながら言う。
「ひょっとして……鉦幸《かねゆき》が住んでた母屋《おもや》じゃないのか?」
「ありうる」
「じゃ、どこかに暖炉《だんろ》のある部屋があるはずだよ。暖炉の右にクローゼットがあるの!」
廊下を小走りにぬけながら両側のドアを開け放していった。
その部屋はいちばん奥に見つかった。
「……この部屋!」
奥の部屋は、夢で見たのとまったく同じ構造をしていた。暖炉。その前の低いテーブル。暖炉の右にクローゼット。
……本当にあったんだ。
ナルがクローゼットの扉を開けた。そこには夢とちがって、一枚のカーテンがかけられていた。カーテンを開く。その奥にも扉。ナルはさらにそれを開いた。扉の向こうに細い廊下があった。
「やった!」
綾子が手を叩く。
「えらい、麻衣!」
ナルは表情のない声をかけた。
「いくぞ」
廊下は十メートルくらいで途切れていた。そこにあったドアを開けると、三畳くらいの小さな部屋に出る。その部屋にあるもうひとつのドアを開けると、暗い空間に出た。
「え――?」
「あぁ!?」
巨大な空洞。ハンド・ライトの光があたりをなぎ、あたしたちは仰天《ぎょうてん》した。するなと言うほうがムリだ。
暗い、ポッカリと開いた空洞。巨大な虚《うつ》ろな空間。広さにして体育館ほど。天井まではすごく低い。上階の床が複雑に入り交じり凹凸をくりかえしているけれど、低い所であたしでも身をかがめるほど、高い所でもリンさんが手をあげれば指先がとどくほどの高さしかない。
そしてその空間には、白い骨のように枯《か》れ果てたなにかの樹木の姿が並んでいた。
「迷路だ……」
樹木は明らかに迷路の様相だった。しっかり葉がついていたころには、隣の通路は見えなかったのに違いない。今では枯れ落ちてしまったせいで白い枝を透《す》かしてずっとむこうまで見えるけれども。
迷路を歩くのは簡単だった。強くおすと折れてしまう樹木のせいだ。周囲に光をあてながら枝を折って周囲の壁に沿って歩きつづけ、ドアを見つけた。
磁石と平面図と見比べていたリンさんが、
「ナル、いちばん大きな空洞のあたりまできたようです」
そう言った。
北棟のX階。中央部の高すぎる床下。そして大きな二階まで吹き抜けの空洞。それらは全部つながっていたんだとわかった。
ドアを開けるとホールがった。がらんとした部屋に上に上がる殺風景《さっぷうけい》な階段。ホールに関してはドアが三つ。家具も絨毯《じゅうたん》もない。
ホールを見まわしたとたん、あたしはハンド・ライトを握《にぎ》りなおして駆《か》け出していた。
……ここだ、まちがいない。
「――真砂子《まさこ》!」
「麻衣《まい》!」
制止する声が聞こえたけど、足が止まらない。二階へ駆け上がり、廊下を駆け抜けて奥の部屋に走った。ドアを開ける。
「真砂子っ!」
小部屋をぬけてドアを開ける。ライトの光にタイルが鈍《にぶ》く光った。まっすぐに浴室を駆けぬける。足もとがすべって転《ころ》びそうになりながら、あたしは奥の壁をめざした。ベッドにぶつかりそうになって手をつく。濡《ぬ》れたタイルの冷たい感触がした。ライトを壁に向ける。
「真砂子!!」
「……麻衣」
弱い声が聞こえた。あたしは声のほうにライトを向ける。壁に身を寄せてうずくまっている真砂子の姿が見えた。
ああ、よかった。本当によかった……!
真砂子に駆け寄った。そばに膝《ひざ》をつく。
「よかった。だいじょうぶ?」
真砂子がうなずいた。
「早かったのね」
言ってから、ふと眉《まゆ》をひそめた。
「ケガをしましたの?」
「……え?」
真砂子が手を伸ばした。あたしの頬《ほお》に指を触《ふ》れて離す。見るとその指先が赤黒い。
……なに?
思わず自分でこすろうとして、あたしは手が真っ赤なのに気がついた。赤いコールタールのようなもの。
……どうして。
そう思ったとき、あたしはさっき自分がベッドに手をついたのを思い出した。あたし、手をついた。濡《ぬ》れたタイルの感触がした……。
思わずライトで闇をなぎ払う。背後のベッドに光を向けた。
白いベッドの上が濡れたように光った。黒いほど赤いもので。
真砂子が悲鳴を上げた。ベッドの上は血の海だった。赤いものがパイプを伝わって、床に流れ落ちて大きな血溜《だ》まりを作っていた。
……足、すべった、さっき。
よく考えてみると、長いこと封印されていた二階のこの部屋に、水なんてあるはずがないのに。
あたしは靴《くつ》の裏を見た。そこも赤いもので真っ赤になっていた。
おそるおそるライトの光を床に向けた。床には斑《まだら》に染まって見えるほどの血溜《だ》まりができていた。
……どうして。どうして。こんなに血が。
密閉された建物で、人が来るはずもない部屋で、なぜ!?
答えなんかひとつしかない!
叫び出しそうになったとき、ふいにタプンという微《かす》かな音がした。あたしは思わず飛び上がって、音のしたほうにライトを向ける。
音の出どころは浴槽だった。白い浴槽は糸を引いた血で赤い縞模様《しまもよう》になっていた。浴槽のふちのふたりに赤い水面が見えた。
ふいに吐《は》きそうになった。身体《からだ》がガクガク震《ふる》えた。
……あんなにたくさんの……血。
真砂子の手があたしの腕をつかむ。あたしの手が真砂子の手を握る。
タプンともう一度音がして、水面が揺《ゆ》れた。漣《さざなみ》がたって、水面がもり上がる。赤い流れにテラテラと光ながら、人の頭が水面に現れた。その人物はゆっくりと浮かび上がってきた。額《ひたい》が現れ、眼がのぞき、その眼がしばらくあたしたちを見る。そうしてゆっくり身体を起こした。
静かに血に濡れた男の上半身が現れた。痩《や》せた男だった。彼は浴槽のふちに手をかけて身を起こす。あたしたちを見たまま薄笑いを浮かべた。顔も肩も腕も、真っ赤に染まっている。粘度の高い血糊《ちのり》に濡れて、恐ろしい色に塗られた銅像のように見えた。
「……浦戸《うらど》!」
あたしは叫ぶ。男はさらに笑った。口の中まで血糊で汚れて、まるで血を吐いたよう。 あたしは真砂子の手を解いて両手を組んだ。指を絡ませ不動明王印《ふどうみょうおういん》を作る。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン、ナウマクサンマンダバザラダンカン」
この血は……これは……。
真言《しんごん》を唱《とな》えながら頭がグラグラした。失踪した人たち。その人たちの……。
男は血糊の中に身を起こしたまま、薄笑いをうかべてあたしたちを見ている。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
男がふいに不機嫌《ふきげん》そうな顔をした。ゆっくりと身体をかたむけて、立ち上がり始める。
指をほどいて剣印を結ぶ。空気を切る。横に縦に。
「臨兵闘者皆陳烈在前!」
身を起こしかけた男がふいに、ドッと後ろざまに倒れた。激しい音をたて、水面が砕《くだ》けるように泡立《あわだ》って、飛沫《しぶき》があたしのところにまで飛んできた。
あたしは真砂子の腕を引っ張る。立ち上がって浴槽をうかがう。駆け出そうとしたとき、突然背後から腕をつかまれた。
太い男の腕があたしの両腕を背後からつかんだ。背中に壁の感触があるのに。あたしの後ろに人なんていられるはずがないのに。ハンド・ライトが墜落して明かりが消える。その光が消える瞬間、真砂子の腕にも同じようにかかった生々しい男の手を見た。壁から生《は》えた二本の腕。
ギリッと腕が折れるかと思うほど強く締め上げられる。あまりの苦痛に悲鳴が声にならない。身をよじってもその手以外に感じられるのは、タイル張りの冷たい感触だけ。
もう一度タプンという音がした。眼を見開いても闇以外なにも見えない。人が浴槽の中で身を起こす水音がした。激しい血糊の音。
あれが浦戸。流血のヴラド。――『悪魔の子』
締め上げる力が強くなって息がつまった。ひた、とタイルを踏む音がした。ひた、ひた、と闇の中を近づいてくる。
そのとき、浴室に光がなだれこんだ。
ハンド・ライトの強い光が交錯した。あたしは眼の前に真っ赤な浦戸を見た。
「いやぁぁっ!!」
来ないで! 来ないでっ!!
「助けて!」
ぼーさんが金色の法具を構えた。それより先にリンさんが指笛を吹く。
高い鋭利な音と同時に、なにか白いものが飛来してきた。白い、微《かす》かに光を放つもの。鋭利な弧《こ》を描いてそれが浦戸に激突する。その刹那《せつな》、浦戸が顔を歪《ゆが》めてかき消えた。するとあたしの腕をつかんでた手の感触が消える。
あたしは真砂子の腕を引っ張って猛然とダッシュした。光のほうへ。みんなのいる所へ。
みんなに迎えられて滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に背中や頭を叩かれて、少し痛いのがなんだかうれしい。
その部屋は振り返ってみても血糊《ちのり》で一面が汚れていた。
「行きましょう。浦戸《うらと》は滅《ほろ》びていない。少し驚かせただけです」
リンさんにうながされて廊下《ろうか》を駆《か》け戻る。階段を駆け降りて、ホールをぬける。迷路の間をぬけてあたしたちは走った。X階をぬけて外に転《ころ》がり出て。穴の周囲に置き去りにされた機材もそのままに、あたしたちは家の外に向けて急いだ。いちばん近い窓から外に飛び降りたときには、どうして心臓マヒを起こさなかったのか不思議《ふしぎ》な気がした。
夜空はうっすらと明るんでた。伸びきった芝生《しばふ》の上に身体《からだ》を投げ出して、あたしたちはしばらく肩で息をした。
「まったく……ひとりで……行動するなと」
ぼーさんが切れ切れに言う。
「うん……ごめん」
「おかげで見つけたけどな」
え?
「二階にいたぜ、みんな」
あたしは身を起こしてぼーさんを見た。ぼーさんは転がったまま空を見ている。
「失踪した連中。……喉《のど》が痛そうだった」
みょうな言いまわしだけど意図は伝わった。やっぱりあの血糊はあの人たちの。
「浴室の隣の部屋に積み上げられてた。モノみたいにさ」
……ひどい。
「その手前の部屋には壁全体に棚があってな、そこに骨が積み上げてあった。見なくてよかったよ、お前。吐き気がしそうな数だった」
「……どうして、骨なんか……」
「知るか。けどあれは火葬にした骨だな。たぶん焼却炉で焼いて集めたんだろ。丁寧《ていねい》に並べてあったぜ。まるで陳列するみたいにさ」
……浦戸のしたことなんだろうか。いったい彼は、なにを考えてそれを並べていたんだろう。なんのために。あたしにはとても想像できない。
「宏幸《ひろゆき》氏はあれを隠《かく》したかったんだな。とてもひとりで処分できるような量じゃなかったからさ。もっともひとりでできたって、だれもやりたかねぇや」
殺された人たち。たくさんの……犠牲者。
「かわいそう……」
「……ああ」
そのまま黙《だま》って息をする。
しばらくしたころ、ふいに背中をつつかれた。
「麻衣《まい》……」
真砂子《まさこ》が声をかけてあたしの隣に座った。ひどく疲れた顔をしてたけど、それでも笑顔を浮かべていた。
「ありがとう」
うんにゃ、礼にはおよばねぇだ。そう言おうと思ったら、ぼーさんが厳しい声を出す。
「真砂子、礼なんか言うこたねぇぞ。そうやって甘やかすとつけあがる」
「……なんだよぉ」
「本当のことだろうが。ひとりで行動するなと言われたにもかかわらず、つっ走りやがって。多少痛い目みて当然だ、お前は。ぜんぜん懲《こ》りてねぇな」
う……。ごもっともでございます。
「そうですわね」
おいおい、真砂子まで同意するなよ。
「じゃあ、さっきのありがとうは、ゆうべの分だということにしておきますわ」
「ゆうべの分?」
なんだ、それは?
真砂子は微笑《わら》う。
「来てくれたでしょ?」
……おい、それはあたしの夢だぞ。
真砂子はやんわり笑って右手の拳《こぶし》を開いた。そこには一本の鍵《かぎ》が握《にぎ》られていた。
「えぇぇぇーっ!?」
あたしはあわててポケットを探った。キーホルダーをたしかめると、たしかにお守りの鍵だけがない。
「……うそ」
ぼーさんが身を乗り出した。
「どーしたんだ?」
真砂子が事情を語ると、全員が目を丸くした。
ぼーさんが口笛を吹く。
「こいつは驚いた……。嬢ちゃん、けっこう優秀なんじゃねぇか?」
……はぁ。
「過去視に透視に、今度は幽体離脱かぁ?」
「幽体離脱!?」
あ、あたしが?
「そうとしか思えんだろうが。いやぁ、どんどん芸が増えるね」
……芸はないだろ、芸は。
ぼーさんにかいぐりかいぐりされて。んでもちっともうれしくないぞ。
ナルがシビアな声を出して立ち上がる。
「麻衣の場合、意識的にその半分でもできれば、猫よりは役に立つんだがな」
猫、の一言で真砂子が小さく吹きだした。
おめーはなー。
放っておくといつまでもクスクス笑っている。
「真砂子、あのねぇ……」
「ご……ごめんあそばせ」
どーせあたしは犬猫クラス。ふん。
……しかし、幽体離脱。あの魂《たましい》だけが身体を抜け出してしまうという。
あたしって、ひょっとしたらすごいんでないかい?
夜が明けるころ、あたしたちはポツポツと立ち上がった。誰ともなく家に向かって歩き始める。黙りこくったまま玄関にまわって、ドアが閉まっていたのでノックして開けてもらった。
ドアを開けた大橋さんは目を丸くする。
「みなさん……どうして」
つぶやいて、深い息を吐《は》く。
「……よかった。いつの間にかお姿が見えないので、てっきりみなさんまでいなくなったのかと……」
言いかけて、安原《やすはら》さんと森さんに目を止めてキョトンとする。
安原さんはあいまいに笑って頭を下げ、森さんはきまり悪そうに手を振った。
「渋谷《しぶや》さん、いつの間に……あの、これは……」
あ、そっか大橋さんはまだ大嘘《おおうそ》を信じてるのか。
ナルが安原さんの肩を叩いて耳打ちをする。安原さんはうなずいて姿勢を正した。
「残りの失踪者を見つけました」
「本当ですか!? どこに……」
「屋敷の奥です。残念ながら、みなさん亡《な》くなっておられました」
安原さんの声に大橋さんは天井を仰《あお》ぐ。
「警察を呼ばれるよう要請します」
「……はい」
大橋さんはうなずいて、それから安原さんに、
「いかがでしょう、除霊のほうは」
安原さんは重々しく言う。
「除霊は不可能です」
「……では」
「後で報告書を提出しますが、厳重に封印して先代の遺言《ゆいごん》どおりこのまま朽《く》ちるにまかせるか、さもなくば炎《ほのお》による浄化しかないと思います」
「……わかりました」
大橋さんが深く頭を下げた。
明け方あたしたちは機材をまとめた。
「……そうだ、リンさん」
あたしはビデオテープの類《たぐい》をまとめながら聞いてみた。
「降霊術をやったとき、不思議《ふしぎ》な声を出してたでしょ? あれ、なぁに?」
リンさんはちょっとあたしを見てからごく無表情に、
「嘯《しょう》といいます」
ぶっきらぼうな言い方だけど、答えてくれただけで大進歩。
「へぇぇ。すごく綺麗《きれい》な音だったね」
リンさんの答えはない。ただ微《かす》かに笑いを浮かべてた。
「そういや、リンさんや」
ぼーさんが機材を棚から降ろしながら聞く。毎度毎度手伝わされるので、すっかり手際をのみこんでしまっているようなのがおかしかった。
「最後のあれはなんだ?」
ぼーさんが聞くと、リンさんは無表情に首を傾げる。
「最後の……?」
「麻衣《まい》と真砂子《まさこ》を助けるときに、なにか投げるかどうかしたろ?」
ああ、とつぶやいて、リンさんは答える。
「私の式《しき》です」
しき?
「式ってなぁに?」
リンさんの答えはない。ぼーさんの服を引っ張ると、
「中国の道士には妖怪や霊を捕らえて自分の支配下におくことができる連中がいる。それを役鬼《えきき》または使鬼《しき》と言ってな、使役される霊を式と言う。――これで正しいか?」
ぼーさんはリンさんを見た。リンさんは微《かす》かに口の端をあげて笑う。
「……まちがってはいないようです」
へぇぇ……。
「リンさんってすごい」
思わずつぶやくと、リンさんが軽く頭を下げるようすをした。
そうかぁ、霊を支配するのかぁ。なんかカッコいいなぁ。
そんなことを考えてひとりで感動していると、背中を軽く叩かれた。
振り返ると森さんがニコニコしている。
「お疲れさま。谷山《たにやま》さんてすごいのね」
あたしが……すごい? これはびっくり。
「そんな。とんでもない」
「そうそう」
ぼーさんが顔を突き出す。
「お嬢さん、こいつを誉《ほ》めてはいけませんぜ。調子に乗ると果てしなく暴走しますから」
「その、暴走ってのやめてくれる?」
「事実だろうが。お前もいい加減に自覚しろ」
あたしをにらみつけてから、森さんに笑いかける。
「こいつはね、もしもアトラスのごとき怪力があったとして、道ばたに草加《そうか》せんべいが割れなくて苦労しているばぁさんがいたりすると、それに同情して割ってやろうと勢いこんで、力あまって地球を割っちゃうようなやつなんです」
……どんなたとえだ、おい。
「言えてる」
安原《やすはら》さんと綾子《あやこ》が声をそろえて笑い出した。
……むっ。
モンクのひとつも言ってやろうと思ったそのときだった。カタンという高い音がしたのは。ナルの上着のポケットからなにかが転《ころ》がり落ちた音だった。
「……これ」
真砂子がキョトンとしてそれを拾う。ツゲでできた櫛《くし》だった。
ナルは明らかに狼狽《ろうばい》した。おっとこいつはめずらしい。
「これ、あたくしの櫛ですわ」
なーにーっ!?
「手提《てさ》げに入れて、部屋においてあったはずですのに」
ナルはそそくさとその場を離れようとする。
あたしは思わず言ってしまった。
「どーしてあんたがそんなものを持ってるわけ?」
背中を向けて機材をかたづけ始めたナルに呼びかけたけど、ウンでもスンでもない。
「おやすくないねぇ」
と、いかにも楽しそうなのはぼーさん。
「そんなに心配だったのねぇ」
と関心したようすだったのは森さん。
「いい話ですねぇ」
なんて、うなずいたのは安原さん。
あたしも一言、しらんぷり決めこんだナルに、なにか言ってやりたかったんだけど。
……なんかガックリきちゃった。そーか、そーか。よかったな、真砂子。
ああ、人生ってむなしい。
そうしてあたしたちは、諏訪《すわ》をあとにしたわけだけど。
東京に戻って十日後、諏訪市に近い山間部で小さな山火事があったと新聞に載《の》っていた。ハイカーの火の不始末が原因らしいと。近くにあった雑木林と別荘一棟を全焼して、折からの雨で鎮火《ちんか》したとあった。
エピローグ
東京、渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。
『渋谷サイキック・リサーチ』の調査員、谷山麻衣《たにやままい》はこのところ落ちこんでいる。
そーだ、あたしは脱力してんだ。
「ああっ、あの櫛《くし》が憎《にく》いっ」
力こぶしを作って言うと、タカが呆《あき》れたような声を出した。
「後ろ向き、せめて原《はら》さんを憎めば?」
「真砂子《まさこ》を憎んでもしょうがない。あの櫛さえなければ落ちこまずにすんだのにっ」
「櫛を恨むのはもっとしょーもないことだと思う」
千秋《ちあき》センパイもうなずいた。
「だよね」
いーの。ほっといて。あたしは今猛烈《もうれつ》に櫛を憎みたい気分なのっ。
千秋センパイがパフパフ頭をなでた。
「ま、そう悲観しなさんなって。たいした意味はないのかもしれないんだし」
「たいした意味がなきゃ、そう言うぞ、ナルは」
「……そうかも」
千秋センパイ、ぜんぜんフォローになってませんぜ。
ガックリ落ちんこだとき、オフィスのドアが開いた。
「こんにちはー」
森さんが顔を出した。
「あ、いらっしゃい」
「リンとナルは?」
「今、食事に出てます」
「あら」
森さんはちょっと残念そうにする。
「なにかご用だったんですか?」
あたしが聞くと首を振る。
「ううん。わたし今日帰るから、最後に食事をしたいなと思っただけ」
「お帰りですか? どちらへ」
タカが紅茶を出しながら聞く。森さんは悪戯《いたずら》っぽく笑った。
「ナイショ」
あー、この人も『渋谷サイキック・リサーチ』の関係者だね。ホントになんて秘密主義。
おっと、秘密主義で思い出したぜ。
あたしは森さんの顔をまじまじと見た。
「? どうしのた?」
この人はあたしたちの知らないことをいっぱい知っている人だ。そして今、ナルもリンさんもいない。はっきり言ってこれはチャンスだ。
「あのう……森さん」
「なぁに?」
「ナルの両親って、どんな人なんですか?」
両親がいるとリンさんは言ってた。実を言うとあたしはちょっくら驚いたわけよ。いや、ナルも人間なんだから親がいて当然なんだが。
森さんは首をかたむける。
「どんな人って……ふつうの人よ」
「ふつーの人は息子が、学校にも行かずにこんなことをしてたらとめません?」
ああ、と森さんはニッコリ笑う。
「ナルのお父さんは超心理学の研究者なの」
げっ。親子二代のパライサイコロジストかぁ?
「じゃ、教授かなんか……?」
「ええ。そう。――?」
森さんはあたしの顔をのぞきこんだ。
「ひょっとして、身元調査?」
「あ、いや……そんなわけでは」
あるんですが。
森さんはあたしの顔をまじまじと見て、それからナルホドとつぶやいた。
「ナルは聞かれるまで自分のことを言わない子だけれど、べつに秘密主義というわけではないのよ。ちょっと今は事情があるだけ」
「……事情?」
森さんは重々しくうなずいた。
「これは内緒《ないしょ》にしといてね」
「はい」
もちろん、貝のよーに口を閉ざしていますとも。
あたしたちは思わず身を乗り出した。
「――実は、ナルとリンさんはカケオチ中なの」
どんがらがっしゃん。
「……な、なんですってぇ?」
森さんは深刻そうにためいきをつく。
「道ならぬ恋に反対されて手に手を取って……ご両親に見つかったらどんな折檻《せっかん》が待っていることか……」
「あ、あのう……」
「きっと哀れに引き裂かれて……」
「もしもし?」
森さんは顔を上げる。
「それ……マジですか?」
あたしがおそるおそる聞いてみると、
「え? ちょっとは信じたの?」
驚いたように問い返されて。
……がっくり。傷心の人間で遊ばないでほしいのよね。
タカがひきつった笑いをもらす。
「そ、そうですよね。ありえませんよね。だって、所長さんは原《はら》さんが……」
言いかけて、あわててあたしのほうを見て口を押さえる。
原さんがなんだよ、気にせず言ってみろよ。
森さんはキョトンとした。
「そうなの?」
タカは身を乗り出した。
「そうなんじゃないですか? だって、原さんの櫛を持ってたんでしょ?」
そう言うと、森さんは一瞬目を見開いてそれからコロコロ笑った。
「ちがうわよぉ。誤解。それは完全な誤解」
「だって……森さんが、そんなに心配だったのね、って」
そう言ったんじゃないかぁ。
森さんは目を丸くする。
「わたし、そういう意味で言ったんじゃないわ。ナルだって仲間のことくらい心配するわよ。表に出すのへたな子だけど、べつにロボットじゃないんだから」
「……そ、そうなんですか」
あの冷血鉄面皮の下に暖《あたた》かいココロがある、とおっしゃるわけで?
森さんは心許《こころもと》なげに天井を見た。
「……そうだと……思うんだけど……ちがうかしら」
だめだ、これは。
タカと千秋センパイが頭をかかえた。
んでも、ちょっと安心したかもな。少なくとも気分は浮上した気がするぞぉ。
笑う角には福来る、待てばカイロのヒヨリあり、果報は寝て待て、棚からボタモチ、残り物には福がある。昔の人はよく言ったもんだ、うんうん。
ようは、あきらめるにはまだ早いかもしれないってことさっ。
森さんが立ち上がった。
「ナルとリンはいないことだし、思い切ってオフィスを閉めて、食事に行こう。おねーさんのオゴリで」
おお、例のニッコリ・スマイル。なんて神々しいんだろう。
「なにが食べたい?」
「オゴリでしたら、なんでも受けてたちます」
「あら、言ったわね」
ポンと背中をはたかれて。
あたしたちは意気揚揚《いきようよう》とオフィスを出た。
外には桜が咲いていた。
あとがき
どうも、こんにちは。小野《おの》でございます。
初めての方(いるのだろーか……)も、初めてでない方もどうぞ、よろしく。
毎度毎度たくさんのお便りをありがとうございます。返事も書けないのに、ミナサマ本当にありがとう。前回「お返事書けなくなったの」とあとがきに書いてしまって、「これでお手紙減《へ》るかなぁ」なんてことを思ったらとんでもなかった。やれやれありがたや。まことにまことに、ありがとうございます。
プレゼントもいっぱいもらってしまった……。本当にもうしわけないです。ありがとうございます。お小遣《こづか》いの中から小野などのために……。ぺこぺこ。お礼状くらい出したいのですが、ろくに出せない。まことに失礼なことでごめんなさい。でもって、宅配便で品物を送ってくださる方がいるんです。講談社のほうに送っていただきますと、うちに転送されるときに送り状がはがれてしまうことがあります。中にご住所とお名前を書いたメモを入れておいてくださいね(……おっと、てなことを言ってると催促《さいそく》しているようではないか。ちがいますからね、ね)。そういうわけで、たぶん中沢さんじゃないかな(ちがってたらゴメンナサイ)。修学旅行のお土産《みやげ》を送ってくださった方、ありがとうございました。どなただかわからなかったので、この場を借りてお礼申し上げます。あっと、真嶋さん、塩沢さんのカセットをありがとう! 小野はあれを放送当時録音しそびれていたんです。とーってもうれしかったです。
でもって、そんな方々にごめんなさい。
なんのお返しもできず、お返事も書けず、本当にごめんなさい。特に、返信用の切手を同封してくださった方にごめんなさい。やっぱりお返事書けないの、しくしく。これではまるでドロボウのようですね。きっといつか天罰《てんばつ》が下るにちがいないわ、めそめそ。
――お礼も言ったし、おわびも言ったぞ、ということで、恒例となってしまった人気投票です。今回は大番狂わせが起こってしまいました。
一位は例によってナル。そして二位が三位をかろうじて引き離して麻衣《まい》。でもって問題が第三位。なんてこったい、こいつは驚き、ジョンもぼーさんもけたおして、いきなり安原《やすはら》少年が乱入してしまいました。
読んでいる皆様も驚かれているでしょうが、誰より小野がいちばん驚いている。前回、ぼーさんと綾子《あやこ》の人気が急上昇していたのに、安原くんはそれよりも強かった。……そういうわけで、思わず今回も出場願ってしまったのでした。
おっとそうだ、森さん。「ナルは何を着て寝るんですか」という質問に対しての答えになったかな?
「どんな格好で寝るんでしょうか」という質問もありましたが……これはナゾだなぁ。たぶん大の字になったりせず、かといって枕《まくら》を抱き締めたりもせず、ごくふつーに寝るんだと思います。
リンさんは何者ですか、という質問をくださったみなさま。ちょっとは回答になったでしょうか。まだ不透明な部分がありますが、あと少しの辛抱《しんぼう》だからガマンしてね。
それからそれから、樽田春美さま、松本裕子さま、みんながナルのほうに注意を外《そ》らされて麻衣についての考察をついうっかり忘れていた中で、あなた方だけが麻衣に注目し、その家庭環境についてささやかな手がかりから見事な推理をなさいました。これを讃《たた》えてここに表彰いたします。ぱちぱちぱち(特に松本さん。鋭《するど》い、鋭すぎるっ)。
そうそう、長井さんのおたずねにあったのですが、「手紙が手元に届くまでどれだけかかるんですか?」というのが。
ええと、消印から見ると、早くても一週間、運が悪いと二週間以上かかるんじゃないかな。みなさまが講談社にくださったお手紙は、あるていどたまると小野のほうへ回送されるしくみになっております。だいたいお手紙は(よほど忙しくないかぎり)届いた当日に全部読みます。お名前を貸していただけるひと、そのほかチェックする事項を調べて封筒にマークをいれます。そのようになっているわけです。
それともうひとつ、結構いただくご質問。「夕香《ゆうか》のシリーズや杳《はるか》の話の続きはないんですか?」というの。――ありがとうございます。そう言っていただくのはありがたいのですが、あいにくその予定はありません。みんなきっと変な事件に巻き込まれたりせず、静かに生活してるんだと思います。
――ということで、最後になりましたが(今回は本文が長いので、実はあとがきを書くスペースがあまりないのです)お名前を貸してくださった方々、どうもありがとうございました。
前回うかつな書き方をしたら、「あと四作で終わりなんですか」というお便りをいっぱい戴《いただ》きました。もうしわけありません。あれは「三部作」の意味です。つまり、残すところはあと二本。ほんとうにあとちょっとになりました。どうぞよろしくおつきあいくださいませ。
P.S.実は、ファンクラブができました。入会希望の方は、62円切手を貼《は》った返信用封筒を同封のうえ、小野のほうまでお知らせください。責任を持って転送いたします。
小野不由美