【悪霊はひとりぼっち】
【小野不由美】
プロローグ
「ふぅ……ん」
思わずつぶやきながら、あたしは新聞をデスクの上に広げた。活字の上に頬杖をつく。
新聞の三面に、大きな活字が並んでいた。
『生徒三十五人、集団ヒステリー』
昨日、千葉にある公立高校で起こった事件。授業中、あるクラスの生徒が眼に見えない黒犬に手足を噛まれた、と訴えて大騒ぎになったらしい。
「……はぁー」
あたし、谷山麻衣は十六歳の学生でアル。ま、自分で言うのもなんだけど、ごくフツウのマジメな学生だ(本当だってば)。けど、ちょっと変わったアルバイトをしているんだ、これが。そのバイト先が今新聞を読んでいるここ、『渋谷サイキック・リサーチ』。
東京は渋谷の一角にオフィスを構える、わが『渋谷サイキック・リサーチ』は、心霊現象の調査事務所だ。つまり、幽霊や超能力や、そういう心霊現象と呼ばれる不可思議な事件を調査する団体。
まぁ、こういうところでアルバイトなんかをやってると、幽霊屋敷やらに出かけることもあるわけで。当然、世にもめずらしい体験をすることになる。幽霊にお会いするとか、超能力少女とお友達になるとか。
そんなあたしだけど、この新聞記事にはみょうに感動してしまったのだ。
何度も記事を読んでいたら、千秋センパイに声をかけられた。
「どーしたの、麻衣」
読んでいた本から顔をあげて、あたしの顔を見ている。
笠井千秋。十八歳、都内の女子高校に在学中の超能力少女。スプーン曲げが得意だったけど、ちょっとスランプ。現在『渋谷サイキック・リサーチ』に不調脱出のためトレーニングに通っている。
「なんかあった?」
聞きながら新聞をのぞきこんでくる千秋センパイに、あたしは問題の記事を示した。
「ほら、これ。また緑陵《りょくりょう》高校だよ」
緑陵高校。近ごろ一週間とおかず新聞に登場する学校だった。
「またかぁ。今度はなに?」
「黒犬に噛まれるって、教室がパニックになったんだって」
「いぬ?」
「うん。先生には見えなかったんだけど、生徒がみんな噛まれたって騒ぎ出したって、噛まれたって訴えた学生の中には、本当に犬かなにかに噛まれたみたいなケガをしてる人もいたんだって」
「へぇぇ……原因は?」
「集団ヒステリーってことになってるよ。『同高校では近ごろ不可解な事件が続いており、これに動揺した生徒が軽いヒステリーを起こし、さらにそれが他の生徒にも伝染したと考えられる』……だって」
「でも、ケガした人もいるんでしょ? それは?」
「説明、ナシ」
「ま、ありがちだわね」
緑陵高校はここひと月ほどの間に、新聞にのっただけですでに四件の事件が起きている。
「最初は何だっけ」
「集団登校拒否だったかな」
あるクラスの女の子全員が、幽霊が出ると言って、学校を休んだのが最初だった。
次に報道されたのが、集団中毒事件。あるクラスの生徒が半数近く、急に吐き気を訴えて苦しみだした。食中毒の症状に似ていたけど、けっきょく食中毒ではなかったらしい。原因は不明のまま。
千秋センパイは天井をにらむ。
「んー、その次が更衣室の火事か」
「正確に言うと、ボヤ。秋以来、体育館の更衣室で何度かボヤが続いているのが、バレたんだよね。それを新聞にスッパぬかれたというわけ」
「放火じゃないの?」
「それが、教師が厳重に見張ってたらしいんだよね。鍵までかけて、ぜったいに人が入れるはずないのに、ボヤが起こったの」
話をしながら、あたしは新聞にハサミを入れる。問題の記事を切り抜くために。ハサミを使いながら、
「その次、四番目が除霊事件。
学生がこれは何かのタタリだって、自分たちで除霊をしようとしたんだ」
千秋センパイは指をはじく。
「何か月か前に、自殺した生徒がいたんだ」
「うん。九月ぐらいに自殺した男の子がいて、その子のタタリだって信じてたらしいのよね。その除霊をするって言って体育館に集まってて、それを先生はやめさせようとして、けっきょくケンカになったの」
「……で、今度で五回目か」
千秋センパイは、あたしが切り抜いた新聞記事をつまみあげる。目の前にかざしたところで、声がした。
「何が五回目?」
あたしと千秋センパイが声のした入り口のほうを見ると、ちょうどタカがコートを脱いでるところだった。
タカ。本名、高橋優子。十七歳、学生。千秋センパイの後輩。もともとは、我が『渋谷サイキック・リサーチ』に事件の依頼をしてきた人なのだけど、最近はアルバイトとして雑用をやりに来てる。
タカはちょこちょこ歩いてきて、あたしたちの手元をのぞきこむ。
「なぁに?」
千秋センパイが切り抜きを見せた。
「緑陵高校。まただってよ」
「またぁ? すごいねー」
タカの言葉に、あたしは身を乗り出してしまう。
「タカもそう思う? やっぱ、これってすごいよねぇ」
「だよねぇ」
千秋センパイはパチクリしている。
「すごい……?」
あたしはうなずく。
「だってさー、こういう不可解な現象というか」
「怪奇現象と言うか」
「心霊現象と言うか。そういうものって、社会の裏側でひっそり、こっそり起こるもんだ、って気がするじゃない」
「だよねー。けっきょく、ウチの学校の事件だって、表ザタにはならなかったし」
「うんうん。それがさー、こーんな大きな活字で新聞にのって」
「TVのワイド・ショーなんかに出て」
「すごいよねー」
「ねー」
うなずき合うあたしとタカを、千秋センパイはあきれたようにながめた。
「……そんなもんかね」
「そおゆうもんよ」
うなずいてタカは、あたしのカップをかすめ取る。
「こらこらっ」
「まぁまぁ」
言ってそれを飲み干してから、
「でも、所長も欲がないねー。これだけの大事件、メジャーになるチャンスなのに」
あたしと千秋センパイが、ビックリするようなことを言った。
「……なに、それ」
「あれ? まだ所長に聞いてない?」
聞いてないぞ、何も。
「昨日、来たよ。緑陵高校の校長」
えええーっっ!
タカはコロコロ笑っている。
「それがさー、ウチって学校関係者の間ではけっこう有名なんだって。ほら、麻衣の学校とあたしの学校と、ふたつも事件を解決したじゃない。それで事件の依頼に来たってわけ」
ほぇぇ……。そうだったのか。
うーむ、あたしは昨日、学校の用事でバイトを休んだんだよな。それはおしいことをした。せめて校長の顔くらい見ておきたかったなー。……べつに、見たからどうってもんじゃないけど。
千秋センパイが声をひそめる。
「で? 断ったの?」
「ウン。アッサリ。派手な事件はイヤなんだって」
それは、もったいない。
千秋センパイも。
「もったいないことをしたもんだ」
「だよね。こーんな大きな事件を解決したら、ここも一躍有名なのに。みんなしてTVの取材なんかうけたりしてー」
「所長なんか、一発で有名人だ」
「そうそう。所長って、顔いいから、ファンクラブなんかできたりして」
……ま、まさか。いや、……ありうるかもしれない。とにかく、顔だけは尋常でなくいいから。ただし性格が、おつりが来るくらい悪いけど。
考えこんでると、タカと千秋センパイが意味深な顔であたしのほうを見ていた。
「……なんだよー」
「よかったね、断ってもらえて」
タカが思いっきり声をひそめる。
「そうそう。これ以上、ライバルが増えずにすんで」
千秋センパイまでー。
やめろよー、当の本人が隣の部屋にいるのにー。聞こえたらどーすんだ。
我が『渋谷サイキック・リサーチ』の所長、渋沢一也。聞いて驚きの十七歳。若いみそらで、都心の一等地にゴーカな事務所なんか構えてくれちゃって。顔がよくて有能で、おシャカさまもハダシで逃げ出すナルシスト。略して「ナルちゃん」。
なんせ、とある女性(本人の名誉のために特に名を秘す)に交際を申し込まれて、「残念ですが、僕は鏡を見なれてますので」と答えたヤツ。つまり、鏡で自分のキレイな顔を見なれてるから、おまえなんかの相手はいやだ、と。
冗談じゃないよ。あたしは、そんなこと言われんのは死んでもやだ。
――てなことを、しみじみ考えていたときだった。
オフィスのドアが開いた。見ると、あたしと同じ年頃の男の子が立っていた。応対に立ったあたしに、彼はアゼンとするようなことを言ってくださった。
「緑陵高校の安原と申します」
所長室から出てきたやたらに顔のいい男の子を見て、安原さんはさすがに驚いたようだった。まぁ、これはいつものこと、彼は今まで来たどんなお客よりもすばやく立ち直った。
顔をひきしめ、目の前に座ったナルに頭を下げる。
「緑陵高校の生徒会長をしています、安原|修《おさむ》といいます。ここに」
彼はカバンの中から数枚の紙をとじたものを取り出した。それをまっすぐナルに突きつける。
「……生徒たちの署名を持ってきました。全校生徒を代表してお願いします」
長い身体を折って深く頭を下げた。
「校長からの依頼を、引き受けていただけないでしょうか」
ナルは受け取った署名をテーブルに置く。白い指を組んで膝にのせた。
「この件につきましては、昨日校長先生にお断りさせていただきました」
安原さんはナルをまっすぐに見る。
「聞いています。お断りになったのも聞きました。それでも、お願いしたいのです」
真剣な声で言う。
「ご存知のように、今学校はひどい状態です。それでなくてもみんな動揺しているところに、マスコミの取材です。そのうえ、最初はありがちな怪談でしかなかったのに、最近ではケガ人まで出るようになりました。このままでは何が起こるかわかりません。どうか、お力をお貸しください」
ナルは考えこむ。少しして口を開く。
「……正直言って、緑陵高校の事件には興味を持っています。しかし、僕はマスコミと関わりあいになるような事態は、避けたいのです」
「お気持ちはわかります。今、僕も迷惑をしてるひとりですから。だからいっそう、早く事件が解決されることを願ってるんです。
今学校には、くさるほどの怪談が飛びかっています。誰もが不安で、心細い重いをしています。その署名は」
と、安原さんは、テーブルに眼をやった。
「今朝、依頼が断られたと聞いてから、もう一度お願いしてみようと学校を出るまでの間に集めました。半日ほどで集めたものなんです。それでもそれだけの数が集まりました」
そう言って、彼はもう一度頭を下げる。
「それほど僕らは助けを必要としています。どうか、お願いします」
ナルは考えこむ。
あたしはジリジリしてしまう。助けてあげてよ。――でも、言えない。あたしなんかがなにか言っても、それで心を動かされる人じゃない。
ナルは闇色の眼を伏せて、じっと考えこんでいる。安原さんは、そのようすをじっと見守る。
やがてナルが顔をあげて、あたしのほうを振り向いた。
「麻衣、緑陵高校に電話をしてくれ」
あたしは、心の中で飛び上がった。
「校長に、まだ代わりの調査人が決まってないなら、お引き受けします、と」
はいっ! そうこなくっちゃ!
一章 死霊とあそぶな、子供たち
1
あたしたちが緑陵高校に向かったのは、その翌日のことだった。
オフィスから車で三時間、船橋も千葉も通り過ぎ、海のむこうに横須賀が見えたりするあたりに、その学校はあった。
今回、調査に出かけることになったのは、ナルと助手のリンさん、あたし。残念ながらタカは千秋センパイと留守番。
そして毎度おなじみの霊能者が四人。
ぼーさん、ジョン、綾子、真砂子。
けっきょく行動を共にすることが多いメンバーだけど、最初から協力態勢をとるのは、これが初めてだった。驚いたことに、ナルが自発的に連絡をとった。「協力を頼みたい」と言って。
全員のスケジュールを突き合わせ、予定を立てる。学校へはまず、ナルとあたし、ぼーさんの三人で行くことになった。あたしたちで簡単に予備調査をしてから、持ちこむ機材の打ち合わせをしてリンさんと綾子が来る。真砂子とジョンは、どうしても抜けられない用事があって翌日の到着。
緑陵高校は、なんだかイヤな学校だった。
と言っても、べつに気味が悪いとか、そういう意味ではない。
まず、指定された時間どおりに裏門に着くと、ひとりの先生が待っていたのだけど、この先生の態度が最悪。こっちがあいさつをしても、会釈ひとつ返さない。
裏門から裏口へと、裏道を経由して校長室に連れて行かれたんだけど、その校長というのがこれまた最悪。態度は横柄。口のききかたは無礼。おまけに依頼に来ていながら、まるであたしたちを信用していなのがアリアリ。
そしてトドメをさしてくれたのが、生活指導の松山先生だった。
「お前が所長だって?」
調査拠点になる会議室へ道案内しながら、彼はナルを振り返った。
……お前よ、お前。初対面の人間に向かって。
松山先生は値踏みするようにあたしたちをながめ、
「幽霊だなんだと大騒ぎするのは、馬鹿のすることだ」
そう、言い捨てた。
……なにもんだ、いつ。
あっけにとられて返事のできないあたしたちを、松山先生はあからさまに軽蔑する眼でながめ渡す。もう一度ナルに眼をとめて、
「お前はいくつだ」
そう、聞いた。
「十七歳です」
「高校は」
「ご想像にお任せします」
松山先生は鼻で笑う。あたしを振り返る。
「お前は」
「十六ですけど。高校一年です」
「今日は学校はどうしたんだ。サボリか。どこの高校だ、言ってみろ」
高校がわかったらどーすんの? 学校に連絡して処分でもさせようてーのか。第一、東京の学校の名前をあげて、あんたにどこの学校だかわかるのか。
「学校の許可はもらってますから」
あたしが言うと、松山先生は嫌な顔をした。
「管理の甘い学校だな。たるんでる」
よその学校のことに口出すなよな。あたしは母校を気に入ってるんだから。
松山は(もー呼び捨てにしちゃうよ、あたしは)、学校の廊下を足早に歩きながら、
「最近はオカルト・ブームだそうだが、そういうのは気持ちがたるんでるから流行する。自分の義務も果たせないやつにかぎって、超能力だのUFOだの、ありもしないことに逃避したがる。それだけならまだしも、それにつけこむサギ師まがいの連中までうろつくようになる。どうも近ごろの若い者は、現実をしっかりふまえるということができん。あきれたもんだ」
……サギ師。それはあたしたちのことかなー? きちんと真っ正直に勤労している人間に向かって、「サギ師」はないんでないかい?
さぁ、ナル、言い返すんだ。いつもの毒舌をこんな時に使わずにどーする。
しかしナルは何も言わない。ぼーさんまでが無言のまま。
松山は嘲るように笑う。
「最近のサギ寸前の新興宗教の中には、女を連れこんで悪どいことをするところもあるそうだな、え?」
言ってあたしたちを見渡す。
むかっ。モンクのひとつも言ってやろうと思ったら、ぼーさんがめずらしく、静かな、ごく丁寧な声を出した。
ぼーさん。本名、滝川法生。二十五歳。もと高野山のお坊さん。本業はスタジオ・ミュージシャン。そのかたわらバンド活動をおこない、さらにそのかたわら霊能者などをやっている、いわばマルチ・タレント(そんないいもんかって)
「最近流行している小さな宗教団体のことでしたら、新新興宗教と言うのが正しいと思いますが」
「なに?」
松山はちょっと虚をつかれた格好。
ぼーさんはすましたもんだ。
「ですから、最近――第三次宗教ブームと呼ばれている今日において、発生勃興しているカルト的なミニ宗教団体でしたら、新新興宗教というのが正しいのです」
松山が何か言おうとしたが、ぼーさんは言葉をはさむスキを与えない。
「新興宗教というのは、第二次宗教ブームまでに成立した新宗教団体のことを言うのが常識ですが」
「そんな、細かいことはどうでもいい!」
松山が怒鳴る。ぼーさんはニンマリと笑みをつくった。
「そうですね。――ただ、誤った知識の上に立った批判というのは、意味をなさないのではないかと思いまして。
いや、先生もちょっとまちがっただけでしょうが、もしご存知でなければ、お教えさしあげねばと思いましてね。仮にも教育者でいらっしゃるし、誤った知識をお持ちだと、たいへんなことですからねぇ」
一瞬、松山が言葉につまる。
よし。ぼーさん、よくやった。
しかし、松山も負けてない。
「人間としてまちがってはいけないところでまちがえなかったら、それで十分なんだ! なんだ、お前らは! エセ宗教の勧誘か、頭のおかしいオカルトかぶれか知らんが、学生のくせに学校にも行かずにフラフラしてる子供や、だらしなく髪を伸ばした男のように、道を踏みはずしてからでは遅いんだ!」
……んじゃ、何か? あたしらは人間として守らなければならない道を踏みはずしていると、こう言いたいわけ?
こっのやろーぉっっ!!
あたしが怒鳴るより先に、ナルが静かな声をはさんだ。
「ここですか?」
ドアを示す。ドアの上には「会議室」の札が下がっていた。
「……そうだ」
言って松山は乱暴にドアを開いた。
2
ドアを開けると、中では安原生徒会長が待っていた。
彼はナルの顔を見るなり立ち上がる。
「お待ちしてました」
ナルは安原さんに軽く会釈する。松山が声を投げた。
「安原。お前、授業は」
「三年生はもう、短縮授業ですから」
おや、安原さんは三年生か。三年生が一月も末のこの時期に、生徒会長なんてめずらしいな。
「受験はだいじょうぶなのか」
「ご心配なく」
安原さんはすましたもんだ。
ちょっとイヤな顔をしてから、松山はドッカとイスに腰を下ろした。
「で? 何をはじめるんだ?」
皮肉っぽい目つきであたしたちを見渡す。
「火をたいて、呪文でも唱えるのか?」
口元に浮かんだ薄笑い。本当にヤなヤツっ。
あたしたちは松山を無視する。
ぼーさんが、
「これからの活動方針は?」
と聞くと、ナルはチラと腕時計に眼をやって、
「そうだな、各事件にかかわった生徒たちに話を聞いてみようか」
言ってから、あたしに、
「ボヤの件はいい。他の三つの事件にかかわった生徒を探してきてくれ」
……どーやってぇ?
あたしが返事をするより早く、安原さんが言葉をはさんだ。
「僕が行きます」
「……そのほうが早いな。お願いします」
「はい」
イスにふんぞりかえって、それを見ていた松山。
「手っとり早くやってくれ。俺もいそがしいんでな」
ナルは松山に軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。お帰りくださって結構です。もうお手伝いいただくことはないと思いますから」
「そういうわけにはいかん。俺は学生を管理するのが仕事だから。
生徒というのは教師が眼を離すとロクなことをせん」
安原さんはムッとした表情をした。ナルは無表情のままだ。静かに、
「実際に事件にかかわった以上、彼らも依頼人のようなものです。依頼人のプライバシーは守ることにしていますので」
「子供にプライバシーがあるか」
……あるにきまってんだろ。
あたしは思わずムッカリきたが、ナルはあくまで平静をくずさない。
「年がいくつだろうと、依頼人は依頼人です。どうぞおひきとりください」
「俺がいちゃ、都合の悪いことでもやらかすつもりか」
おっさん、何者だ、こいつっ。
ぼーさんは、腹を立てた口ぶりで、
「校長は自由にやっていいとおっしゃってましたがね」
「自由にも限度がある。
俺は、霊能者なんかを学校に入れたやつの言い分が聞きたいんだ」
「では、校長室にどうぞ」
ナルの言葉に松山が一瞬キトョンとする。
……そら、そーだ。あたしたちを呼んだのはあくまで校長先生だもんな。
顔を赤くする松山。腰を浮かしてなにかを言おうとしたが、けっきょく口をへの字にまげて立ち上がった。ドスドスと部屋を出ていく。ドアを閉めるとき、
「かまわんさ、なにかあったら、校長の責任だからな」
聞こえよかじの捨てゼリフ。
なにかってのは、なにかなー?
そうして、松山は壁が揺れるほど乱暴にドアを閉めて、その場を退場したのだった。
3
「嫌なやつっっ! 自分の程度が低いからって、他人もいっしょだと思うなよなっ!」
思わずあたしは、松山の消えたほうに向かって怒鳴ってやった。
「教師、教師って、教師がなんぼのもんよっ! 教師は生徒のナレのはてじゃんっ!」
ぜいぜい。あたしは、あーゆー、品性の低い、礼儀知らずの、しかも権力でもって他人を抑圧するやつって大嫌いなんだっっ!
はた、と気づくと、安原さんがアッケにとられた表情であたしを見つめていた。
……あっあっ、これはマズかったかなー。
彼はクスクス笑う。
「いいことを言うね」
あ? うけました?
ぼーさんは溜め息をひとつ。
「ま、お友達になりたいタイプじゃないわな。
俺としちゃ、ナルちゃんの毒舌がいつ飛び出すかと楽しみにしてたんだが」
あ、それは言える。
ナルは軽く肩をすくめてから、ホレボレするほどキレイな顔で、
「豚に説教しても意味がない」
キッパリ言い捨てた。
……き、きつい。
ナルホド、ナルも怒ってたわけな。
「安原さん、申し訳ありませんが、関係者を集めてください。順番にここに来るよう段取りをつけてもらえますか」
「はい。任せといてください」
うなずいて安原さんは会議室を飛び出していった。
最初に安原さんが連れて来たのは、数人の女の子だった。例の登校拒否をやらかした、ニ−五の女の子たち。
「代表は……?」
中のひとりが、はい、と返事をする。
「お名前を」
「岡村和美です」
ナルがメモをとりはじめる。
「事件の起こった事情を聞かせてください」
岡村さんはうなずく。軽くせきばらいをしてから、
「LL教室に幽霊が出るんです。それで、あたしたち、怖くて授業に出るの嫌だったんです。でも、先生に言ってもしかられるだけだったので、しかたないので全員で学校を休みました」
そうキッパリ言った。
「LL教室に出るというのはどんな霊ですか?」
「子供です。男の子」
「岡村さんはそれを実際に見ましたか?」
「見ました」
彼女は短く答える。顔色がかわいそうになるくらい青い。よほど怖かったんだろう。
「最初、声が聞こえたんです。自分が吹きこんだテープの再生をしてると、聞いたこともない声が入っていました。子供の声の感じでした」
「何と言っているかわかりましたか?」
「いいえ、小さな声で、なにかしゃべってるな、という程度です。そしたら……」
彼女はちょっと言葉につまる。
「あたしの足を誰かがさわったんです」
ナルが無言で先をうながす。
「びっくりして下を見たら、机の下に男の子がいて、あたしの足をつかんでました」
そう言ってから彼女は早口に言葉をつなぐ。
「机の下には、子供が入れるようなスペースはないんです。そんなこと、わかってます。でも、いたんです。机の下にうずくまっていたんです。あたし、顔をはっきり覚えてます。六歳くらいの男の子で、気味の悪い笑いをうかべてました!」
最後は涙声になってしまっていた。
「びっくりして、悲鳴をあげて立ち上がったんです。先生に注意されて、男の子がいる、って言おうと思って、下を見たら、もう何もいませんでした。先生は信じてくれません。でも、いたんです!」
ナルはうなずく。それを見て、岡村さんはホッとしたように顔をなごませた。
ナルが他の女の子を見渡す。
「他に、実際に霊を見た人はいますか?」
聞かれて、五人いた女の子全員が手をあげた。
ナルはひとりひとり事情を聞く。全員が岡村さんと同じ体験をしていた。
「ここにいる以外にも見た人はいるんですか?」
ナルが聞くと、岡村さんはうなずく。
「あと、ふたりくらいいます。声を聞いた子はもっといます」
「どれくらい?」
彼女は他の子と顔を見合わせ、それから、ほとんどの子が聞いていると思う、と答えた。
「他のクラスの人はどうでしょうか?」
「何人か、見たという人を知っています。声を聞いた人もたくさんいるみたいです」
ナルはうなずく。
ぼーさんは学校が用意してくれた校舎の見取り図に、青い色でなにやら書きこみをしている。
ナルは少し考えこむ風情を見せてから、
「……最後に。
その他になにか、今学校で変なことが起こっているという話を聞いたことは?」
全員が顔を見合わせあう。すぐに、もう一度岡村さんがこわばった顔で口を開いた。
「坂内君を学校で見た、という人がいます」
「さかうち、と言うのは?」
「九月に死んだ、一年生です」
あ……。あの、自殺した子……。ありがちな怪談ではあるけれど。
「学校ですれちがったとか、教室に立ってたとか。
あと……。最近は、新・七不思議ってありますけど……」
他の子も口を開く。
「そうなんです。昔からあった、怪談が増えるとか、そういうヤツじゃなくて、新しいの」
中のひとりが指を折る。
「ひとつ、『開かずのロッカー』。それから……『いつの間にかバラバラになる人体模型』。あと、『飛び下りる男の人』。学校の屋上から男の人が飛び下りて、でも行ってみると誰もいないんだそうです……あとは」
「『焼却炉のおじいさん』焼却炉の蓋を開けると、中からおじいさんが顔を出すってやつ。『逆さ映しの鏡』」
「あるある。体育館のトイレの鏡が、ときどき逆さまに映っちゃううんでしょ?」
「『地学教室』は? 掃除のたびに蛍光灯が落ちるの」
「えー? 『化学実験室の足音』は? ちがうの?」
「『保健室』は? 奥から二番目のベッドにいつの間にか誰かが寝てるってやつ」
あたりは口々に報告される変事で騒然となった。
そりゃあ、七不思議って、たいがい七つ以上はあるものだけど。にしても、この数は異常。ぼーさんが書きこみをしてた図面は、あっという間に青く染まってしまった。
ナルがみんなを黙らせる。
「ありがとう。よく調べてみます」
4
続いてやって来たのは、霊の除霊会を企画したグループの子だった。男女八人ほどの人たち。
ナルは代表者は誰かと聞く。あいつだ、こいつだでちょっとモメたけど、すぐに荒木梢さんという女の子が代表して話をすることになった。
「……では、荒木さん。事情をお聞かせ願いたいのですが」
「何から話したらいいのかな。
……わたしのクラスは東棟にあるんですけど、東棟というのは、基本的に特別教室が集まっているんです。化学実験室とか、そういうやつ。わたしのクラスの隣は、音楽準備室なんです。楽器なんかがしまってある部屋です。そこで変な音がするんです」
「変な音、と言うと?」
「物をひきずる音です。本当によく聞こえるんです。先生にも聞こえるらしいんですけど、見に行ってもらっても、誰もいないって言うんです」
しっかりした人のようだ。ハキハキとものを言う。
「LL教室では変な声が聞こえるし。わたしは聞いたことないですけど、たくさんの人が聞いてます。
他にも、うちのクラスは地学教室の掃除当番なんですけど、掃除のたびに蛍光灯の電球が落ちるんです。蛍光管って言うのかな、あれが一本だけですけど。あれって割れると破片が飛び散るから、それでけが人をした人がたくさんいるんです。先生に言っても、気をつけるって言うばっかりでぜんぜんおさまらないし」
彼女は怖がっているというより、怒っているように見えた。
「他にも火事が起こったり、みんな去年の秋からなんです。もっと言うと、一年生が自殺してから。きっと関係があると思うんです。なのに学校は何もしてくれなくて……」
「それで、自分たちで何とかしようと思ったんですね?」
「そうです。だって、ほっといたら、次はどんな被害が出るかわからないでしょう? なのに先生は何もしてくれない。わたしたちにも何もさせてくれないんです。
別にわたしたち、新聞とかTVとが言ってるみたいに、坂内君のタタリだって決め付けてるわけじゃありません。でも、何かしないでいられないでしょ? 何をしたらいいかわからなくて、だから」
「……なるほど」
「荒木さんは、坂内君を知っていましたか?」
「いいえ。事件のあとで初めてそんな子がいたんだって知りました」
「遺書があったそうですが……内容を知っていますか?」
「知ってます。一時有名になりましたから。『ぼくは犬ではない』です」
……『犬ではない』……。
「意味がわかりますか?」
「わかる気がします。自分でも、わたしは犬か家畜みたいだって思うことあるから。髪の長さから持ち物の色まで決められて、言葉づかいから態度までモンク言われて、これじゃ犬かなんかのしつけみたいだって。あれはたぶんそういうことなんだと思います」
ああ、わかっちゃうなぁ。あたしの学校は校則がゆるい。でも厳しい学校はどんなに厳しいか知らないわけじゃない。前に、『トイレの時間は三分以内』という校則を聞いて、これが本当に、人間に対する規則なんだろうかと思ったことがあるもんな。
荒木さんは言う。
「それでわたし、きっと坂内君は学校のことうらんでるんだろうなと思ったんです。学校で坂内君の幽霊を見たって言う人もいるし。だから、坂内君のこと、全校の生徒できちんと慰めてあげたかったんです。でも、先生はそれも許してくれない。生徒が大勢集まると、ろくなことをしないと信じてるんです」
うう。松山なんかが言いそうなことだなぁ。
ナルは軽くうなずく。
「……それでは他に何か、この学校で奇妙なことが起こっている、というような話を知りませんか?」
ここでも計り売りできそうなほどの怪談が出てきた。それも自分や友達が実際に体験した話。
ぼーさんはウンザリしたように、途中で書きこみをやめてしまった。
荒木さんたちが帰っていったあと、次にやってきたのは宮崎雅代さんのグループ。彼女が代表のこのグループが、黒犬に噛まれたと訴えた人たちだった。
ウンザリしきったあたしとぼーさんをヨソに、ナルは根気よく質問を続ける。
「では、……宮崎さん?」
「はい」
友達に囲まれて小さくなっていた宮崎さんが首をあげる。彼女の足には白い包帯が巻かれていた。
「話を聞かせてください」
「はい……あの」
彼女は心細げにあたりを見まわす。それからゆっくりと話し始めた。
「この秋から、あたしたちのクラスでは変なことが起こってたんです。あの……変な声が聞こえてたんです。犬のうなり声みたいな、ハッハッていう息づかいみたいな……。それで気味が悪いね、って言ってたんですけど。そしたら……いつだったかな、足にケガをした子がいて。これは十二月くらいの話なんですけど。まるで犬に噛まれたみいに、牙のあとがついてたんです」
「その子はいま、この場にいますか?」
ナルが見渡すと、気の弱そうな男の子が手をあげた。
「どんな状況だったんですか?」
「ええと、犬の声が聞こえる、って言うのは有名な話だったんだけど、オレ……僕は聞いたことなかったんで、ウソだと思ってたんです。そしたら、授業中、なんか足が痛くなって。ズキッ、って突然。それで、授業終わってから見てみたら、足に歯形がついてたんですよね。ズボンはいてるから大したことなかったんだけど、ちょっと血が出てて、制服には牙が通ったあとに穴があいてたんです」
ナルはうなずく。もう一度宮崎さんを振り返って先をうながした。
「はい……。その事件が起こって、それからも時々そういうことは起こってたんですけど、犬を見た人はいなかったんですけど……。それがこないだ……」
「事件の当日、最初に噛まれた人は誰?」
ナルが聞くと、女の子のひとりが返事をした。
「あたしです」
「どういふうに?」
彼女は肩をすくめる。
「……別に。突然何かに噛まれたんです。それまでに噛まれてケガをした人、五人くらいいたんで、何が起こったのかすぐにわかった。びっくりして声をあげちゃって。先生にはどうしたって、聞かれたんで、噛まれたって言ったんです。そしたら、隣の席の子があたしの足元指さして。『犬がいる!』って。見たら、あたしの足元から黒い犬が走ってくところだったの」
「その犬はクラスのほとんどが見たんだね?」
宮崎さんはうなずく。そして、低い声で、つぶやいた。
「……本当はウソなんです」
……え?
「だから、先生には見えなかった、っていうの、ウソなんです。だって、先生も一緒になって逃げてたんですから。でも、新聞を見たら、先生には見えなかったって。後で聞いたら、見てないなんて言うんです」
宮崎さんの言葉に、その場にいた全員がうなずいた。
「犬が出没するようになった原因に、心あたりはある?」
ナルが聞くと、さっきとは別の男の子が口を開いた。
「最初は犬じゃなくて、キツネだって話だったんだよな」
「キツネ?」
「そう。一時期うちで……え?」
彼はまわりを見まわす。両隣に座った女の子がさかんに彼をつついていた。
「何ですか?」
ナルに聞かれて、その男の子はあたりをうかがう。
「隠したって、しょーがねぇだろ。ちゃんと調べてもらわないとさ」
そう言ってナルをまっすぐに見た。
「一時期、うちの学校でコックリさんがはやってたんだ。それで、これはキツネのたたりだって。こないだ犬の姿を見るまで、キツネだってみんな信じてたんです」
ナルの眼が険しくなった。
「うちの学校、厳しいんで、そういうの見つかったら説教くらうし。みんな隠してたけど、すごくはやってたんだ」
「すごくはやってた、とうのは、実際にはどの程度?」
荒木さんがポツリ……と口を開いた。
「たぶん、やったことない人のほうが少ないと思います」
「ここにいる人で、やったことのない人は?」
ナルの声に答えた人はいなかった。
ナルはわかりました、と軽くうなずいてから、他に学校で起こっている奇妙なことを知らないか、と聞いた。
そうしてここでも、メマイがするくらいたくさんの怪談が出てきたのだった。
5
最後にやって来たのが、集団中毒を起こした人たちのグループだった。
安原生徒会長は六人ほどの人たちを連れて来たあと、自分もイスに座りこんだ。
「……それは、安原さんも被害者だということですか?」
ナルの質問に安原さんは少し笑う。
「そうです。僕も『身体の弱い生徒』のひとりです。どうぞ、何でも聞いてください」
そうか、新聞には『何らかの原因で、身体の弱い生徒に被害が出たものと考えられる』って書いてあったっけ。関係者もつじつまを合わせるのに必死だったんだなぁ。安原さんも他の人も、身体が弱いようには絶対に見えないもん。
ナルもちょっと目元をなごませる。
「それでは、代表して安原さんからお聞きします。事件の詳しい状況は?」
「新聞でご存知かもしれませんが、事件が起こったのは十二月の十八日です。月曜日、二時間目の授業中でした」
簡単、明瞭。安原さんって、賢い人なんだ。
「クラスの半分近くの人間が倒れました。正確には十九人です。
授業が始まってすぐ、男子生徒のひとりが吐き気がすると言い出しました。彼が教室を出るか出ないかのうちに、次々と同じことを言う人間が現れたんです。
どうしたんだろうと思ったとき、僕もいきなり気分が悪くなって。授業が始まる前から、何だか教室の空気が悪いなと思ってたんです。みょうに生臭い臭いがして、窓を開けろとか臭いの元はどこだとか、休み時間に騒いだので印象に残ってます。
僕が気分が悪くなった時には、もう十人くらいが教室の外に出てました。みんな廊下に出て、窓にしがみついてたんです。教室の空気は何だか異常に臭い気がしました。空気が悪い、ってよく言うでしょう? あれが極端に進んで臭うほどになった、って感じでした」
「……なるほど。原因はよくわからない?」
「わかりません。ストーブなんかが変な燃え方をすると、ムカムカすることありますよね。特に頭痛はしなかったけど、あれに近い感じでした。
僕は一度、刺身にあたって食中毒を起こしたことあるんですけど、あれとは全然ちがいます。あれは食あたりとか、そんなもんではないですね。かと言って、学校はスチーム暖房だから、ガスの線は考えられないし」
……ふむふむ。
「……その臭いは今でもする?」
安原さんはうなずいた。
「僕らはもうマヒしててわからないんですけど、今でも微かに臭いがするようです。他のクラスのやつが教室に来ると時々、何の臭いだ、って聞きますから。
ハッキリわかるほど強くなるときもあります。あの事件のすぐあと、先生が真っ先に気分を悪くしたことがあって。あの時はヤバイと思ってみんな教室を出たんで、先生がひとり保健室に行っただけですんだんですけど。
それ以後も、思い出したように臭いが強くなることがあります。そうだな、あの事件から数えると七、八回くらい」
「被害者は?」
安原さんは首を振る。
「ありません。というか――。
僕も最初は、これが心霊現象だなんて思わなかったんです。僕らの教室は一階なので、床下か……もっと下、つまり地層に悪いガスがたまってて、それが原因なんじゃないかと思ってたんです。ところが、江田が……」
安原さんは隣の男の子を振り返る。
「こいつが、臭いが強くなったとき塩をまいたんです。すると、すーっと臭いが消えるんですよ。これは何か、自然現象にしては変なんじゃないかと思って」
ナルは江田、と呼ばれた男の子を見つめる。
「なぜ、塩を?」
「あのー、だって、清め塩、って言うじゃない。葬式とかから帰ると、塩をまくでしょ。それで、なんとなく学校でもやってみたんです。そしたら、一発で臭いが消えたんだよね」
「なんとなく……ですか?」
彼は頭をかく。
「まー、なんか、学校でやたら幽霊が出たとか、そういう話が多くて、それで中毒事件も原因はっきりしてなかったし、なんとなく幽霊とかそういうのに関係あんるんじゃないかと、そんな気がしたんで……」
ナルは白い指先で軽く机を叩く。
「これが心霊現象だとして、原因に心あたりがありますか?」
安原さんたちは、首をかしげた。
「わかりません」
「……そう。ありがとう」
軽くうなすいてナルは安原さんに、
「ところで、生徒会長の安原さんにお聞きしたいのですが」
「はい」
「あなたが、最初に異変に気づかれたのはいつごろでしたか?」
安原さんは少し考えこむ。
「これはぜったいに何かある、と思ったのは、例の登校拒否事件からです。ただ……そうだな、文化祭の前後から何かがおかしいような気がしてました」
「具体的には?」
「怪談が増えたんです。生徒の間のウワサ話で、秋ぐらいからやたら怪談ばかりが耳につくようになって。どこそこで誰が幽霊を見たとか、そんなウワサばかりを聞くようになったので、何か変だなと思っていました」
安原さんは真剣な眼をする。
「文化祭なんて、準備もお祭りのうちだから、みんな遅くまで学校に残るでしょう? それが、すごく居残りを嫌がるんです。特に女の子にその傾向が激しくて。普通は、用がなくても残って騒いでいるものだから、少し変だと思ってました」
ナルはうなずく。
「集団登校拒否より先に、ボヤが起こってますね。あれはどうでしたか?」
「正確な日付は覚えてませんが、最初にボヤが起こったのは、十月の半《なか》ばでした。体育館の男子更衣室でしたので、誰かイタズラ者が火の不始末でもやらかしたんだろうという話だったんです。それが、十日後にもう一度ボヤがあって。この時には先生も神経質になったんですけど、犯人はわからないままでした。そしたら次がまた……」
「十二日後?」
「はい。これは事故にしては変だということになって。放火じゃないかと言ってたんです。先生方は警備を強化したみたいですけど、また十二日後にボヤが起こりました。この日は先生が用心のために見回りをしていたんですけど、犯人はわかりませんでした」
「そしてまた十二日後?」
「はい。その時は男子校異質には鍵をかけて、もう使えないようにしてあったんです。なのに、またボヤがあって。そのころ例の登校拒否事件が起こったので、放火にしてはちょっと異常なんじゃないかと思ってました」
「以来、ずっと十二日周期ですか?」
「そうです。必ず十二日後の早朝です」
「鍵は?」
「かかってます」
「次の予定は?」
「前回が十一日でしたので二十三日。二日後です」
ナルは深く考えこむ。軽くボールペンで机を叩いていたけど、すぐに顔をあげた。
「……最後に」
そう言ってグループの全員を見渡した。彼らから学校の怪談を聞き出す。口々にあげる不思議な話を聞き終えてバインダーを閉じてから、ナルは立ち上がった。
「教室を見せてもらえますか」
「ええ、どうぞ」
6
安原さんら一行に先導されて、あたしたちはその教室――三−一の教室に向かった。
その教室は西棟の一階にあった。緑陵高校の校舎はコの字形に並んでいる。北には体育館があって、そこと続いて職員室や学食のある北棟、直角に曲がって特別教室のある東棟。さらに曲がって、普通の教室がある南棟。その南棟がちょっとだけ曲がって小さく西棟が建っている。一階にニクラスしかない。三階建ての校舎だ。
ドアを開けると、微かな臭いが鼻をついた。ひどく嫌な臭いだ。何かが腐ったような臭い。
安原さんは教室の中に入って、あたしたちを振り返る。
「僕はほとんど臭わないんですが、どうですか?」
ナルはうなずく。
「そんなに強い臭いじゃないが、はっきり臭いがあるね」
ぼーさんは教室の窓を開ける。
「窓を開けても、あまりかわらねぇな」
ナルは闇色の眼を細めるようにして、教室の中を見渡す。ひとつずつ机をなでるようにしながら、教室の中を歩き始めた。
「特に臭いの強い場所はないね」
安原さんがうなずく。
「そうなんです。臭いの元はどこだろうって、ずいぶん探したんですけど。教室全体が臭うんですよね」
ナルはうなずき、そしてふと立ち止まる。ドアのあたりに集まった安原さんたちを振り返った。
「ここで、何か変なことをしなかった?」
「へんなこと?」
安原さんが首をかしげる。ナルの厳しい眼。
「降霊術とか、そんなこと」
ナルがみんなの顔を見渡すと、軽いざわめきがはしった。
「ヲリキリさまのことじゃない?」
「だってあれは……」
それぞれが小声で言い合うのを、
「なに?」
安原さんが全員を代表した。
「最近……って言っても、二学期になってからなんですけど、はやってるんです。――そうなんだろう?」
最後の言葉は、後ろにいる女の子に向かって。
彼女はおそるおそるという感じでうなずいた。
「うちのクラスだけじゃないの。全校ではやってるんです。ヲリキリさまとか、権現《ごんげん》さま」
ヲリキリ……?
「なぁに?」
あたしはぼーさんに聞いたけど、ぼーさんも首をひねる。別の女の子が、
「あたし持ってる。まだ使ってないやつ」
声高く言って、机の中から紙を引っ張り出した。
「これです」
……あ!
紙に書かれた五十音。これって……コックリさんじゃ……。
ぼーさんも、
「コックリさんじゃねぇか」
女の子たちは騒然とする。紙を持った女の子が不満そうに頬をふくらませた。「ちがうよぉ。コックリさんって、キツネを呼ぶんでしょ? 真ん中に鳥居が書いてあって……。あれは危ないからしちゃダメだって聞いたことあるもん。これはね、ホラ」
彼女は真ん中の奇妙なマークを指さした。文字を円形に書いて、そのわきに「はい」と「いいえ」の字。丸く並んだ「鬼」の文字と、その中の格子縞が、みょうに印象に残った。
「ヲリキリさまなの。神様を呼ぶんだよ。恋愛とかさ、そういうのがよくわかるんだ。権現さまは……」
ぼーさんは彼女の言葉の途中で、有無を言わさず紙をひったくった。
「なによぉ!」
「権現さまは何だって?」
紙を手の中でクシャクシャに丸める。
「……権現さまも、神様を呼び出すの。神様だから、困ったこととかに……」
ぼーさんが投げた紙玉は、壁にはねるとゴミ箱の中に墜落した。
「何ですか? なんか悪かった?」
彼女は不安そうにぼーさんを見上げる。
「権現さま。太郎さん。ひとふでさま。キューピットさん。全部コックリさんの別名」
「えーっ!」
叫んだのは紙を持った彼女だけではない。
「お前らがやってるのはりっぱなコックリさんだ。名前をなんてつけようと、やってることは同じ。おもしろ半分に霊を呼び出して、オモチャにしてることになるんだ」
「そんなーぁ!」
ぼーさんは見るからに不機嫌だ。
「素人が降霊術なんかやるんじゃない。
霊を呼ぶのは素人でもできるが、霊を帰すのには訓練がいる。二度とやるな」
「だって……ヲリキリさまなら、怖くない、大丈夫だって……」
「そんなのはデマだ。こんな馬鹿なことをするから、変な騒動が起きるんだ」
ぼーさんににらまれて、女の子たちはシュンとなってしまった。
「まったく、どいつもこいつも。
黒犬が出たクラスでも、馬鹿な遊びをしてたそうじゃないか。おおかた、低級な浮遊霊でも呼んじまったんだろ。集団中毒はそいつのせいだ」
「でもぉ! ヲリキリさまなら、学校じゅうでやってるんだから!」
「ほう。そいつは運がよかったな。学校じゅうが倒れずにすんで」
女の子たちはうなだれてしまった。
ナルが声をはさむ。
「はやってる、と言ったね。それはどの程度?」
彼女たちは顔を見合わせる。
「本当に学校じゅう。みーんなやってるよねぇ」
「ここにいる人の中で、やったこのとない人は?」
安原さんも含め、手をあげた人はいなかった。
7
あたしたちはそのあと、手分けをして各教室に走った。まだ教室に残っている学生をつまかえて、コックリさんをやった経験の有無と、その回数を調べる。
実際にはどの程度はやっているのか、どのくらいの割合の学生がやっているのか、その頻度はだいたいどれくらいか。
陽が落ちる前までにはいちおうの質問を終えて、あたしたちはお茶にありつけた。
会議室には何もなかったので、安原さんが生徒会室からコーヒーのセットを持ってきてくれた。古い電気ポットでお湯をわかし、インスタント・コーヒーをいれてくれる。ホーローのカップはぬりがはげてて、年季が入ってる感じでほほえましい。きっと代々生徒会で使われてたものなんだろう。
「どうですか?」
コーヒーを配り環って、安原さんは自分も座る。それからあたしたちを見渡した。
ぼーさんはイスにふんぞりかえってメモの束をながめている。盛大に溜め息をついて、それを机に投げ出した。
「おおごとたぜ、かんべんしてくれよ」
「たいへんなんですか?」
ぼーさんはウンザリしたようにうなずいた。
「学校をあげてのコックリさんだぜ?」
メモの束を目線で示す。
安原さんのグループにまで協力を頼んでとったアンケート。全学生の、推定で九割以上が最低一度はコックリさんをやったことがあり、多い者は九月以降休み時間ごとに霊を呼び出していた。
十一月、十二月、異変が起こり始めてからはさすがに数は減っているようだけど、のべつにすると何回の降霊術がおこなわれたのか想像もつかない。
「……それで呼び出された霊が悪さをしてるわけだ。
いったい、どのくらいの数の霊がこの学校をさまよってると思う? たぶん、千のケタじゃねぇ、万のケタだぜ」
大げさに溜め息をひとつついたあとで、ナルを振り返る。
「ナルちゃん、本気でやんのかよ」
ナルもウンザリしたようすで窓の外をながめたまま、返事をしない。
「なー、あきらめて帰ろうぜー。生徒の責任なんだからよ、自分たちで除霊させりゃいいじゃねぇかー」
だだっ子みたいな口ぶり。
「俺、やなんだよ。コックリさんってさ。とんでもねぇ霊を呼び出してたりするからさー」
安原さんが、まぁまぁ、となだめに入る。
「お気持ちはわかりますが、お願いします」
「そーだ。除霊のやり方教えるから、君がやれ」
「あのー」
安原さんは困惑した表情だ。あたしはちょっとしかりつける口調。
「だめでしょ、ぼーさん。校長先生もよろしくって言ってたし」
「俺、この学校の先公キライ」
「あ、松山にいじめられたんで、すねてんだ」
「るせー」
あたしは、ぼーさんの頭をなでてやった。
「かわいそーに、ぼーさんったら、ナイーブなココロが傷ついちゃったのねー」
「そーなんだよ。ロコツにサギ師あつかいされてよー。いつものことだけどさー。
実はつらい商売なんだぜ、霊能者ってのは」
ぼーさんがヨヨと泣きマネをするので、
「じゃー、こうしよう。
あちこちの浮遊霊を集めて、松山に憑けて、それでもって引きあげる」
「お。いいねー、それ」
うーん、ぼーさん松山に言われたの、かなり気にしてるでしょ。
「申し訳ありません。松山はああいうやつなんです」
いえ、安原さんにあやまってもらうようなことでは。
「生徒側もね、あいつに関してはサジを投げてるんです。できるだけ、かかわりにならないようにしようって。人の意見なんか聞くヤツじゃないですから。こっちが大人になってガマンしてやらないと」
……なんか、安原さんって、すごくキツイことを言ってるような……気がする。
ぼーさんが顔をあげた。
「安原クン、まずくねぇの」
「何がです?」
「いや、俺たちのとこに依頼に来たろ? 松山になんか言われねぇ?」
「だいじょうぶです。僕は成績、いいから」
イヤミっぽくなく、サラッと言って笑う。
「以前はけっこう言われてましたけど。
いつだったか、将来の希望・文部省って書いたらピタッと何も言わなくなったんですよね。権力を振りかざすヤツは、権力に弱いから」
……ナルホドぉ。
みょうに感心したあたしとぼーさんをヨソに、ナルは聞いてるのか聞いてないのか、じっと窓の外を見ていた。
「どーした。また何か、難しいこと考えてんのか?
今回は浮遊霊のしわざだろ?」
ナルは考えこんだままだ。
「……だろうね。べつに深い意味はない。ただ、少し気になるだけだ」
「気になるって、何が」
「松山も言っていたが、日本は今オカルト・ブームなんだそうだ」
「のようだな。それが?」
「日本じゅうにコックリさんの流行している学校が、どれだけあると思う?」
……そっか。それがなぜ、緑陵高校にだけこうも変事が続くのか、と言いたいわけだ。
「ナルの言いたいことはわかるが、ここはやってる数が尋常じゃないと思うがなぁ」
ぼーさんの言葉に、ナルはさらに複雑な表情を作る。
「素人が降霊会をやったからと言って、必ず霊を呼べるものじゃない。むしろ、そういう例は少ないんだ。この学校は霊能者の専門学校か? そんなものがあっても、こうもうまくいくとは思えないな」
「まぁねぇ」
「そのうえ、この事態だ。
怪談の全部が単なるウワサにすぎないにしても、LL教室の子供は? 黒犬は? 火事は? コックリさんで浮遊霊が呼ばれて、というのはわかる。その霊の中にたまたま強いヤツがいて、害をおよぼすというのもわからないことはない。しかし、それだけにしては、この数は異常だ」
「ねぇ」
と、あたしはぼーさんに初歩的な質問をしてみる気になった。こういうとき、ナルは役に立たないので。
「コックリさんって、本当に霊を呼べるの?」
「まぁな。霊能者ならねぇ」
「霊能者でなきゃ、ダメ?」
「ダメだね。まずムリ」
「実を言うとぉ……あたしも昔やったことがあるんだけどぉ」
「ほう。麻衣までそんな馬鹿なことをやってたのか」
「若気のいたりとうことで。中学のとき、はやったんだよね。
それで、そのときも霊がきて……とゆーか、十円玉が動いて、けっこういろんなことを当てたんだよね。それってどういうことなの?」
「うーん……なんというか」
ぼーさんはナルを見る。ナルは軽く肩をすくめて、
「麻衣、指を机の上に置いてみろ。コックリさんをやってるときの要領で」
あたしはトンとテーブルに指をついた。
「震えてる。動かすな」
べつに震えるようなことは何もない。でも、自分の指先をみると、確かに震える手、というか、微かに動いている。
「そんなこと言われたって」
止めようとしても止まらない。
「わかったか?」
「は?」
「人間の身体はそういうふうにできているんだ」
あ、そーか。
「これを大勢でやると、お互いの震えが影響しあってコインがあちこちに動く。
コックリさんやウィジャ盤や……そんなものの原理はみんな同じだ。動かしていないつもりでも動かしている。誰も動かしたつもりはないから不思議に思える」
「ふうん」
わかってみるとつまんないな。
「でも、けっこうあたったりするのは?」
「こういうことをおろうという人間は、だいたいコインが動けばいなと思っている。ちがうか?」
「そら、まー。動いたほうがおもしろいもんねぇ」
「質問に対する答えが、当たればおもしろいと考えている。
麻衣の年は? と誰かが質問したとする。みんなは答えを知っている。十六だ。
だから、一、六と動けばすごいなと無意識のうちに考えるその期待が本人も意識しないうちにコインを動かしているんだ。だから十六と動いたりする」
「あたししか知らないことを当てたりすることもあるんだよ」
「たとえば?」
「今、あたしが右のポケットに入れているものを当てよ」
「うん。するとみんなは無意識のうちに推理するんだ。
女の子がポケットの中に入れているもの。ハンカチ、クシ、鏡……。それぞれの期待はバラバラだ。それで思いがけない文字に動くこともある。たとえば、『キ』。
すると、全員がふと考えてしまう。『キ』のつくもり。キーホルダー? それで次には『ー』に動く。最終的には『キーホルダー』という文字がつづられる」
「当たった」
不思議。
あたしは、ポケットからキーホルダーを取り出した。
「馬鹿。さっきから音がしていた」
「あ、そっか」
「やってるうちに、当然のことながら当たった答えや、当たらなかった答えが出てくる。 ここでおもしろいのは人間の心のメカニズムだ。たとえば、ぼーさんの母親の名前を質問したとする。その答えが『アヤコ』と出たとして、……ぼーさん、答えは?」
「昌代だよ」
「これは、はずれだな。
ところが、心のどこかで当たればおもしろいのに、と思っているから、つい言ってしまうんだ。『はずれているけど、わたしの知り合いにアヤコというのがいる。なぜわかったんだう』と」
「……あ、ナルホドー」
「『アヤヨ』と出れば、ちがったけど『ヨ』だけは当たったとか、『マサコ』と出れば『マサ』だけは当たったとか。
当たったか当たらなかったかだけでいうと、こういう場合はどれも当たってないんだが、不思議なもので人間はこれを『当たった』というふうに感じてしまう。
それに……もし、まったく当たってなくても、ああやっぱり当たらなかったな、ですむ。当たれば不思議なので誰も強く印象に残す。
実際に実験してみればわかるが、二ダースくらい質問して、そのうち三つくらい当たると、「けっこう当たった」という気がしてしまうんだ。その三つの正解のうち、厳密な正解は実はなかったりするんだが」
「……そういわれてみれば、そうかもなー」
あたしがやったときも、そんなカンジだった気がする。
ぼーさんがアングリとナルを見つめる。
「……なに?」
「今の講義を聞いてると、お前さんはコックリさんを信じてないみたいに聞こえるぜ」
「そうだな……僕自身はコックリさんには否定的」
「えーっっ! そうなのー!?」
「なんでまた……」
ぼーさんの声に、
「誰もが霊はなんでも知っていると思っている。
たとえば、麻衣の未来、ぼーさんの心、僕がポケットの中にひそかに隠し持っているもの、そんなものがわかって当然だと思っているが、本当にそうなんだろうか?」
「あっ」
わたしとぼーさんは仲よくハモってしまった。
「麻衣がもし、死んで霊になったとして、そんなものをわかる自信があるか?」
「……ない」
「だろう? 僕自身はこう思っている。
基本的に霊が人間よりも知っていることは、『死』についてと『死後の世界』についてだけだ、と」
……うーん、ナルホド……。『死』に関することだけは、経験したことのある人間じゃなきゃわかんないもんねぇ。
「だから、ぼーさんとちがって、僕はコックリさんというのは無害な遊びだと思っているんだ」
じっと話を聞いていた安原さんが口をはさむ。
「でも、もしもその場に霊感の強い人間がいたら?
本当に霊を呼ぶことになりませんか?」
ナルは肩をすくめる。
「なるね。しかし、霊能者というのは、悪霊を遠ざけることができる。本能的に悪い例は呼ばないでおくことができるんだ。
そうでなきゃ、霊能者なんてやってられない。
霊能者のほとんどは、悪霊にとり殺されなきゃならないから」
「それは……そうですね」
「とにかく……」
ナルは、気のないそぶりでメモの山をめくった。
「霊を呼ぶ作業は、ラジオのアンテナを調整する作業に似ている。大勢の人間がよってたかって霊を呼んで、その結果学校じゅうに浮遊霊《ふゆうれい》があふれた、というぼーさんの見解はある程度正しいと思う。
除霊をするにも大本がないんだから、それぞれをあたるしかない。
全員がそろうのを待って、手当たりしだいに除霊してみるしかないだろうな」
ナルの声は、心底ウンザリしている気配だった。
二章 陰《かげ》に踊る
1
綾子、リンさんの第二陣が到着したのは、夜になってからだった。
会議室に来るなり、綾子の悲鳴。
「ホテルじゃないーっっ!?」
そうなんだ。東京からは遠いので宿泊所の用意を頼《たの》んだわけ。そしたら、学校側が用意したのが宿直室だったという……。
松崎綾子。推定二十三歳。自称、巫女。意味もなく自信に満ちあふれているが、いまだかつて彼女の実力を確認した者はいない。一説には単なる役たたずとも。
綾子はあたしに詰めよる。
「どういうことよ」
「しかたないでしょーが。幸い、宿直室はふたつあるから。
あたしと綾子はふたりで、六畳ひと間」
ナルたちはもっと不幸だぞ。六畳に男三人、明日ジョンが来たら四人で寝るんだから。「おまけに暖房も切れてる!」
綾子はさらにモンクを言う。
「それもまた、しかたない。それとも帰る?」
あたしが聞くと綾子はそっぽを向いた。
ナルは我関せず、という顔で、リンさんと打ち合わせをしていた。
リンさん。本名、不詳。年齢、不明。出会って十か月近く経とうというのに、いまだ本名も年齢もわからない、という事実がリンさんのすべてを象徴している。よく考えてみれば、ナル以上にナゾの人。
「とにかく、目撃数が多すぎて機材がたりない」
ナルは不満そうに言う。
「明日、原さんに霊視してもらって、霊の存在を確認する。霊がいるということになれば、ぼーさん、松崎さん、ジョンの三人で除霊にあたる。あいまいなものについては、僕とリンさんとで調査を行う。麻衣は」
言ってあたしを振り返った。
「基本的には、ベースで情報の中継と整理をしてもらう」
「はーい」
「ただし、何かあったら報告するように」
???
言葉の意味がわからなくてキョトンとするあたしを、ぼーさんがつついた。
「第六感のオンナなんだろ?」
「あ、そっか」
そーゆうこともありましたね。前回やたらカンがよかったんだよなぁ。でもって潜在的にESPだ、なんて言われちゃってー。へっへっへっ。
「ナルちゃんよぉー。こいつぁーダメだわ」
なんだよー。ちょっと忘れてただけじゃん。あたしってばホラ、オクユカシイからー。「まぁ、麻衣が役にたたないのは、今に始まったことじゃないから。前回が特別だったのよねー」
綾子の思いっきしイヤミな口調。
「べーだ。やいてんでしょ。自分が一回も役にたったことないから」
綾子がムッとした顔をする。
にらみあうあたしたちを安原さんが笑った。
「霊能者って、もっと暗い人たちの集まりだと思ってたな」
「うちはトクベツなんです。そだ、安原さん、帰らなくていいんですか?」
「うん。僕みたいなのでも、いたら雑用くらいできるかな、と思って。いちおう、泊まるようにしてきたんですけど」
ぼーさんが情けない顔をした。六畳に男五人の図を想像したのかもしれない。
安原さんは笑う。
「ご心配なく。僕、寝袋借りてきましたから」
……うーん。なんて気のきく人なんだろう。
「安原さん」
ナルがシビアな声を出す。
「残ってくださるのはありがたいのですが、泊まりこみはやめたほうがいい。危険です」
「もちろん、足手まといになるようなら、言ってください。帰ります」
と、ニッコリ。
なんてスガスガしい人なんだろー。うーん、ファンになっちゃうなー。
ナルもちょっと口元で笑う。
「それでは、手を貸していただこうかな。腕力に自信はありますか?」
「まかせといてください」
ナルはうなずき、宣言する。
「では、リン。麻衣。機材を運ぶ」
……はぁぁぁい。
ぞろぞろとみんなして、校舎裏の駐車場にとめたワゴン車に機材を取りにいく。
「LL教室、ニ−四、三−一、更衣室、音楽準備室の五か所にカメラを。その他、怪談の報告された場所にマイクを置く」
ナルの支持どおり、機材を運んでセッティングする。駐車場と校舎とを往復しながら、安原さんは眼を丸くしていた。
「すごいですねぇ。最近の霊能者って、こんな機械をつかうんですね」
安原さんとふたり、足音がするという化学実験室に行って、マイクをセットしていた。
「うちは特別なんです」
あたしはニガ笑いしてしまう。ニガ笑いするしかないもんねぇ。
「正直言うと霊能者って、もっと見るからにアブナイ感じで、手をかざしたり呪文を唱えたりするもんなんだと思ってました」
「そういうことをするひともいますけど。少なくともナルは、霊能者じゃないから」
「そうなんですか?」
安原さんは驚いた顔だ。
「本人はそう言ってます。ゴースト・ハンターなんですって」
「あ、知ってる、それ」
あたしはテープ・デッキの用意をしていた手をとめた。
「めずらしい……。普通知らないですよ、そんなの」
安原さんは複雑な表情をする。
「ちょっと話題になったから……」
話題?
「坂内がね、入学早々の進路調査でそう書いたんだって。将来の希望、ゴースト・ハンターって。冗談のつもりだったんだろうけど」
「坂内……って、夏に死んだ子ですよね」
「うん。僕らの知るかぎりじゃ、学生が死んだのって、学校始まって以来のことだから。一時期、その話ばっかりだったな」
安原さんは苦い表情をする。
「なんか……たまんないよね。おんなじ学校にいて、一緒の空間で一日の半分を過ごして、ひょっとしたら廊下とかですれちがったこと、あったかもしれない。縁があったら、友達してたかもしれない、とか思うとね」
「そうですね……」
冗談にせよ、ゴースト・ハンターになりたかった男の子。彼があたしたちを見たら、なんて言っただろう。
「そっか……こういうのに興味のある子だったのか……」
少しめいったあたしを、はげますみたいに安原さんは笑う。
「さて。次はどこに行けばいいんでしょう、親方」
デッキをかつぎ上げる。
あたしはあわててメモをくった。
「えーと、『猫の鳴き声がする体育倉庫』です。……親方、はないですよ、安原さん」
「その、丁寧なしゃべりかた、やめてくれたら僕もやめます。ホントは谷山さんって、もっとオテンバな人でしょ」
……うう。ばれてるよなぁ。
「安原さんがやめてくれたら、あたしもやめます。あたしのほうが年下なんですから」
「僕、そういうの、嫌い。縦割り社会の風習って好きじゃない」
「あ、あたしもです」
「気が合いますね、親分」
「そうですね、子分。ナルシストの大親分にどやされないうちに、次行きましょう」
「そうしましょう」
怪談の横行する深夜の学校を、あたしと安原さんはヘラヘラ笑いながら小走りに歩いた。
2
初日の夜は機材のセッティングに終始した。
暗視カメラや、サーモグラフィー、集音マイクなどを、怪談の目撃霊が多い場所から順にセットしていった。何しろ、校舎を横断するほど長いケーブル(コードのことよ)などというものはないので、それぞれの場所で録画なり録音なりしたものをいちいち回収して、会議室でチェックしなければならない。いつもより準備もめんどうだったし、アフターケアもたいへんで、あたしはすっかりウンザリしてしまった。
準備を終えて眠ったのは、夜中の三時くらいだったろうか。
あたしたちを手伝ったりしない綾子は、はやばやと宿直室で布団にくるまっていた。あたしが部屋に入っても、起きる気配はない。それでもあたしはそっと着替えて、冷たい布団の中にもぐりこんだ。
……そして、不思議な夢を見た。
あたしは、夜の学校を歩いていた。
暗い教室、暗い廊下。人気が絶えて、コソとも物音がしない校舎。
どこだかはわからない。真の闇。
あたしは何となくあたりを見まわす。眼の前にドアがあるのに気づいた。
意味もなく開けてみる。すっと風がふいた。そこは屋上。
屋上を見渡すと、はしっこに人影が見えた。
「……誰?」
声をかけると、人影が振り向いた。
あたしぐらいの年齢の男のこだった。背は低めで、どことなく頼りなげ。彼は気の弱そうな眼であたしを見てから、すぐに視線を屋上の外に戻した。
手すりに腕をのせ、じっと下を見ている。
「何をしてるの?」
そばに近づいて聞く。彼は小さな声で答えた。
「見てる……」
何を、と聞いても返答はない。彼の視線を追う。彼はじっと校舎を見ているのだった。 一緒になって、ちょっとの間、校舎をながめた。
暗い、黒い窓。そこにチラと白いのもが見えた。
えっ、と思って眼をこらす。白い光。それがすうっと窓を横切っていく。丸くて、長く尾をひいて。まるで重みなんかないみたいに、白く流れる。
「……人魂だ」
つぶやいたとたん、その下の階にも白い光が現れた。眼を向けると、その下の階にも。隣の窓にも、その隣の窓にも。眼をそむければ、グラウンドにも。
あっという間に、学校は白い人魂でいっぱいになった。いたるところに白い尾をひいて飛んでいる。あたしの身体のまわりにも。まるで大きな雪が降るみたいに。
「あれ……見える?」
黙ってどこかを見ている男の子に声をかけた。
彼はうなずく。少し笑みを浮かべた。
「怖くない?」
「楽しい」
「……楽しい? こんなのが?」
だってあれ人魂でしょ? こんな風景が楽しいの?
彼はあたしを見返した。満足そうな笑みを浮かべる。
「すごく、楽しい」
……だって、あれは。
ふいに彼の表情に影がさす。上目づかいにあたしを見据えて、口元をほころばせた。そのにらみ据えるような眼の、暗い光。
彼は笑う。口の端をつりあげて。邪悪な色の笑み。
「すごく、楽しい。これ以上愉快な気分なんて、ないくらいだよ」
……あなた、誰?
誰なの?
ポンといきなり目が覚めてしまった。
身体を起こすと、あたりはまだ暗い。微かに綾子の寝息が聞こえる。
枕もとの腕時計を取って見た。ほんの十分と寝てない。
おやぁー? 今の夢はなんだったのかなー?
男の子の顔を思い出してみる。記憶にない顔だ。少なくとも知り合いじゃない。
「変なの……」
マクラを叩いて、もう一度横になった。今度はごく簡単に熟睡できた。
3
クタクタになっていたと言うのに、あたしたちは朝もはよから叩き起こされてしまった。
ブツクサ言いながらドアを開けると、外には数人の女の子が立っていた。彼女たちは霊能者が来たと聞いて、HRの前に状況を聞きにきたのだ。
……気持ちはわかるんだけどぉ……。
あたしは事情を説明する。昨日は予備調査の段階で、本格的な調査は今日からであること、したがって除霊もこれからなのだということ。
不満気な女の子たちにお引き取り願い、再び布団に潜り込む。
眠ろうとしたら、またノック。
けっきょくHR前に五組の生徒たちが顔を出して、あたしも綾子もすっかり目が覚めてしまった。
不幸はそれにとどまらなかった。
昨夜セッティングした機材までデータを回収に行ってみれば、黒山の人だかり。とっつかまって質問責めにされて。調査に支障をきたすから、機材にはさわらないでねー、とかアイソを振りまいたりなんかして。やりにくいこと、このうえない。
そのうえ制服の群れの中にいると、部外者のあたしたちは目立つ、目立つ。機材のチェックに走るたび、興味しんしんの生徒につかまってしまった。
全員がどんな小さな情報でもいいから聞きたがった。安原さんが言ったように、誰もが本当に不安なんだと思った。教室には空席が目立った。季節がらの風邪のせいと、学校を怖がって休んでいる生徒のぶん。そして学校にはおよそ活気というものがない。生徒たちは数人で群れをなし、お葬式のように小さな声で話をしていた。
それでもまぁ、生徒につかまった人間は幸せなのだ。松山に合った人間はもっと不幸だ。
彼はあたしたちを見つけると、ひとしきりイヤミを言う。こっちの血管が切れそうになるほど不愉快なことをさんざん言って、自分だけすっきりした顔で去っていくのだ。ふーんだ、ばかやろー。
そうしてその日の午後、第三陣、ジョンと一緒に来た真砂子が、さらに不愉快な爆弾を落としてくれたのであった。
ジョンと真砂子が着いたのは、三時頃だった。
ジョン・ブラウン。十九歳、オーストラリア出身のエクソシスト。不幸にして関西で日本語を学んだために、えてして笑いをとってしまう不幸な人。性格はきわめて良好、霊能者はにもったいない(?)かも。
原真砂子。十六歳。霊媒。小さいころから霊媒として活躍、TVなんかにも出演しちゃうメジャー・タレント。他にもイロイロ言いたいことはあるけど、今はパス。ナルによると実力はあるらしい。
ふたりをむかえ、授業を終わって手伝いに来てくれてた安原さんに紹介などして、ナルはふたりに状況を説明する。その脇であたしは昨日集めた情報の整理を、リンさんは昨夜集めたデータのチェックをしていた。
ナルがまっさきに真砂子に聞く。
「原さん、学校の状態はどうですか?」
真砂子はひどく憂鬱そうだった。言いにくそうにためらったあと、ナルにうながされてやっと口を開いた。
「よく……わかりません」
爆弾投下。
あっという間にあたしたちは騒然となった。
「ちょっと待て、真砂子ちゃん、またかよ」
ぼーさんの声に、真砂子はそっぽを向く。
「だって、あたくしにはよく見えないんですもの」
言ってから、すねたように、
「まったく見えないわけじゃ、ありませんのよ。存在は感じますわ」
ぼーさんが頭をかかえる。綾子とジョンは途方にくれたように首を振り、そしてナルは複雑な眼をする。
……つまりは、今回も真砂子はアテにできないってことかぁ?
ちょっと、カンベンしてよ。
霊を見るのには才能がいるらしい。はっきりとした目的を持った強い霊は、才能のあるなしにかかわらず見えることがある。でも、普通、ひっそりとただそこにいるだけ、みたいな霊を見るのには特殊な才能が必要なんだって。
今ここにいるメンバーの中に、その才能を持った人間は真砂子しかいない。つまり、真砂子がアテにならないということは、目かくしされるようなもので。
これは、困った。
「……存在は感じるんですね?」
ウンザリしたようにナルに言われ、真砂子はすねた顔をする。
「いつもなら、もっとはっきり霊姿が見えるんですの。それがここは……。ちょうど、チャンネルの調整が合ってないTVを見てるみたいですわ。何かひどい雑音が入って……。言っている意味がわかりますかしら」
……うーん、よくわかんねーなー。
「霊がいることはわかるんです。それもたくさんいますわ。どこにいるかもわかります。でも……どんな霊なのかよくかわりません。はっきり見える霊もいるのですけど」
真砂子は言って、うなだれる。
「あたくし、もともと浮遊霊と話をするのはニガテですの。場所や人に強い因縁を持っている霊なら、だいたいだいじょうぶなのですけど……」
ぼーさんが溜め息をつく。
「まぁ……コックリさんで呼び出された霊だから、学校にも生徒にも大した因縁がなくて当然だが……。またかよ、真砂子」
うらめしそうに真砂子を見る。
真砂子はぼーさんをにらみつける。
「このあいだは特別ですわ。
今回はまったく見えないわけでも、感じないわけでもありません!」
へいへい、とぼーさんは首をすくめる。
真砂子はふいに少しだけ眉《まゆ》をひそめた。
「特に強く感じる霊がいるのですけど……」
「どういう霊ですか?」
ナルに聞かれて、真砂子は遠くを見るように眼を細める。
「男の子です。あたくしと同じ年頃の……」
真砂子と……あたしと同じ年頃の男の子……?
「その子ははっきり見えますわ。強い感情を感じます。……その子は、なにか学校でつらいことがあったのではないかしら。学校にとらわれています」
……それは……まさか。
真砂子は眼を閉じ、少し首をかしげる。
「この近くにはいないのに、こんなに気配が強い……。きっと自殺した霊だと思います。そんなに昔の話ではありませんわ」
……坂内君だ……。では、彼は学校をさまよっているんだ……。
なんだか首の後ろがヒヤッとした。
ゆうべ見た夢。屋上に立っていた男の子。あれは……誰だったんだろう?
ナルはバインダーを開いて新聞の切り抜きを出した。
「それは、この子ではありませんか?」
真砂子は切り抜きを受け取って見つめる。ちょうど真砂子はあたしの横に立っていて、首を伸ばすと内容が見えた。とある高校一年生が、自殺したことを告げる記事。その生徒の顔写真。
突然、めまいがした。……あれは……あの写真は……。
真砂子がうなずく。
「この人ですわ。……そう、坂内さんとおっしゃるの……」
真砂子から受け取った切り抜きを、もとどおりに綴じながらナルは、
「……学校にうらみがある……というのは、本当かな」
ひとりごとのようにつぶやいた。すぐにリンさんを振り返って、
「リン、昨夜のようすはどうだ?」
呼びかけられてリンさんは、ヘッドホンをはずした。
「温度に異常があった場所が何か所かあります。特に低かったのは三−一、ニ−四の教室、LL教室です」
三−一は集団中毒を出した安原さんの教室。ニ−四は黒犬が出た教室だった。
「映像に異常はありませんが、マイクに音が入っている場所が三か所あります。美術準備室とニ−四の教室、それから体育倉庫ですが」
ナルがトン、と机を叩く。
「なるほど、初日から反応が出てくれるわけか」
いつだったろう。ナルが『霊はシャイだ』と言っていたのは。心霊現象は部外者を嫌う。部外者が入ってくると、一時的にしろナリをひそめるって。
それが初日から反応があった。……と言うことは……。
ナルが全員を見渡した。
「今あがった五か所を中心に除霊にかかる。
原さん、校内をまわって霊のいる場所をチェックしてください。松崎さん、原さんに同行して可能な限りでけっこうですから除霊を」
「OK」
綾子と真砂子が立ち上がる。その綾子を呼びとめて、
「ここの霊は甘く見ないほうがいい。用心してください。
ここには麻衣が残ります。こまめに連絡を入れてくださるよう。ぼーさんとジョンは」
言ってふたりに顔を向ける。
「まず、昨夜動きのあった五か所を。
それがすんだら、原さんの指示があった場所にむかってくれ」
「あいよ」
「はいです」
ふたりが、いいお返事をして席を立つ。
「僕とリンは不透明な場所の調査を続ける。安原さん、手伝ってください。――麻衣」
「はいっ」
元気よく返事をしたあたしに、ナルの冷たい視線。
「さぼって寝るなよ」
……はぁぁい。
4
何事もなかったかのように授業の続く校内に、みんなが出かけていった。
あたしはひとりで会議室に留守番。ぽつんと残されて、うら寂しいというか、心細いというか、ちょっと落ちつかない気分。
……いっつも留守番なんだもんなー。
心の中でブツクサ言いながら、あたしは昨日集まった情報の整理にかかった。
怪談とその場所。証言の内容。大きなカードにまとめながら、あたしは小さくアクビをひとつ。
……ああ、いかん。眠い。ゆうべも遅かったし、重労働だったし。おまけに今はヒマで……。寝てはダメだ。しっかりするんだ。寝ているところを見つかったら、ナルになんと言われることか。
猛烈に眠い。
関係はないけど、のども渇いた。冷たいものがほしい。
冷たいものでも飲んで、目を覚ましたい。
どうしよう。ちょっとだったら席をはずしてもいいかな。
たしか、この階の端に自販機が……。
あたしは立ち上がって、廊下に出た……。
あたしは、ぼーっとした頭で辺りを見まわす。
ガランとした廊下。眠いせいか、それとも曇った空のせいか、みょうに平坦に見える風景。廊下側の窓からは、薄い陽射しが入りこんでいる。廊下の奥はみょうに暗い。薄闇の色をして、そこだけ黄昏が降りたように見えた。
その暗がりの中で、白いものが動いた。
「…………?」
白いのは顔。顔だけが浮かんで見えるのは、着ている服が黒いせい。
……なんだ、ナルじゃん。おどかすなよな。
ナルがゆっくりと近づいてくる。歩みにあわせるように廊下に闇が降りた。塗りつぶしたような闇に、ナルの姿だけ、はっきりと見える。
「どうしたの?」
なんかあった?
ナルはちょっと笑う。ふんわりした笑顔。それをすぐにひきめしる。
「ここは危険だ……麻衣はいないほうがいい」
「まさか」
「本当。霊がそこかしこに浮遊している」
「そんなにたくさん?」
あたしはゆうべの夢を思い出す。雪かなんかみたいに学校じゅうをさまよっていた人魂。
「うん。みんなが祓っているけど、ほとんど効果がない」
少し眉をひそめて言ったあと、
「見てごらん」
と、白い白い指を伸ばして床を示した。指を追って、真っ黒な床を見る。
「え……?」
気がつくと、床が透き通っていた。
あたしの足元。真っ暗な床に白い線をひいたように、タイルの輪郭だけが格子の模様を描いている。その下には二階の廊下が透けて見える。これも真っ暗な色をしている。その床も透けて、さらに下には一階の廊下。
「えっっ!?」
あたしはその場に座りこみそうになった。高いくらい空中に宙づりになった気分。ナルの手が支えてくれなきゃ、そのまましたまで墜落したかも。
「だいじょうぶ、落ちついて」
「……どうなってるの!?」
あたしはあたりを見まわす。空が黒い。灰色のはずの校舎が黒い。反対に黒く見えるはずのものは白く見える。隣の校舎にならんだ窓、冬枯れの木立。
床も壁も、どこまでも透けて見えて、ネガを幾枚も重ねたよう。その陰画の世界に取り残された、あたしとナル。
「……ねぇ、これは……」
ナルはあたしの声をさえぎる。
「よく見て。たくさんの霊がさまよっている」
あたしは足元をながめる。真っ暗らな空間。床の線、壁の線、部屋の輪郭たけが白い。黒い紙に白い線で描かれた、透明な校舎。あたしの足の下、透けて見える。二階、一階、。廊下、教室。
そこに、半分透き通った蒼白い光のかたまりがふわふわしていた。ちょうど絵やなんかで見る人魂みたいに、白く尾をひいて流れるように動く。十、二十、……数え切れない。間近に見える二階の部屋だけでも、八つ。
「……こんなにたくさん……。あれが全部、霊?」
「そう。……ほら」
ナルが指をあげる。窓のほうを示す。白い輪郭だけを残して透けてしまった壁の向こうに体育館の建物。体育館も、白い線だけを残して透き通ってしまっている。
体育館の手前側にある小部屋。あれは更衣室だ。そこにふたりの人影。真砂子と綾子。
真砂子は、ロッカーのあたりにいる大きな人魂に近づき、足を止める。それは他のよりも大きくて、しかも色は暗く黒ずんで見えた。
真砂子がその人魂を示すと、綾子が玉串を振る。蒼黒い人魂はふわっとその場を逃げて、窓の外へただよっていった。真砂子も綾子も、それに気づいたようすがない。
「……どういうこと?」
「逃げた。別の場所に……ほら」
逃げた人魂はすうっと飛ぶと、あたしたちのいる東棟に逃げてくる。二階の端にある小部屋に入ると、部屋の隅でふわふわしていた白い人魂に近寄っていった。あれは、放送室だ……。
大きな黒っぽい人魂と、それよりひとまわり小さい白い人魂が並んでくるくるまわっている。しっぽをからませて。やがて小さな人魂が大きいほうに飲みこまれていくのが見えた。大きいほうのやつは、前よりほんの少し大きく暗くなったような気がする。
「気持ち悪い……」
「うん。嫌な光景だ。霊がたがいに食い合っている。だから……ここは危険だよ」
「……でも」
「ああやって成長していく……そうして」
ナルは指を下げる。まっすぐ足元を指さした。透けてしまった床から一階の部屋が見える。その部屋にも人魂。人魂と言うより、鬼火という言葉のほうが似あうかも。あたしの足元からかなり遠いそれは、黒ずんだ沼のように不吉で禍々しい色をしていた。しかも大きい。部屋の中央にぽっかりあいた穴のようだ。
「あれは邪悪だ。……わかるね?」
「……うん」
見ているだけで寒気がするような色。あれはとても邪悪な意志。
眼がはなせなくて、じっとそれに見入る。学校じゅうをさまよう白い人魂。それが暗い鬼火のそばまで来る。ドクンと脈打つように鬼火が収縮する。燃え広がった鬼火は白い小さな人魂をとらえ、その中に吸いこんでしまう。まるで食虫植物が弱虫をとらえて食べるみたいに。
「麻衣は帰ったほうがいい」
ナルがあたしに声をかける。
「だって、できないよ、あたしだけ帰るなんて」
ナルは心配そうな眼をした。
「誰かに退魔法を教えてもらうんだよ」
「あたしなんかでもできるかな」
「弱いやつなら。……気をつけて。危険な場所には近づかないこと」
「うん」
あたしは足元を見渡す。はるかに広がる奇妙な風景。暗い大きな鬼火は危険。あたしは位置を確認する。この棟の一階にふたつ。東棟に五つ。南棟に四つ。
見ているうちに少しずつ足元が曇ってきた。だんだん下に見えていた風景が霞んで、かわりに足元に色彩が戻る。すうっと床が見えてきた。
「…………?」
床。茶色、プラスティック・タイル。どこにでもある床。
「麻衣!」
へっっ!!
顔をあげるとナル。険のある表情。
「眠いんだったら、寝に行け。邪魔だ」
「きついんだね、急に」
「……? お前、起きてるか?」
いぶかしむ眼。起きてるか? もちろん……。
はっっ!!
あたしはあたりを見まわす。
会議室。長いテーブル。あたしの前に散乱したメモの山。ホワイト・ボードに貼られた学校の図面。入り口に立ってあたしをにらんでいるナル。
…………。
「すいません。ボーッとしてました」
ま、……まずい。
「メモの整理は」
「……まだです」
「他の連中から連絡は」
「……なかったと思うんだけど」
「思う?」
ナルが冷たい眼を向ける。
「お前は手伝いをしたいのか? それとも足を引っ張りたいのか?」
……こ、こいつっ。
しかし、仕事をさぼってイネムリこいてた調査員には、返す言葉などないのだった。
5
ナルが会議室を出ていってすぐに、ジョンとぼーさんが戻ってきた。
「どう?」
「さーねー。俺にわかれば、苦労はない」
……まったく、もー。
ジョンも首をかしげる。ホワイト・ボードに貼った学校の見取り図に、マジックで印をつけながら、
「いちおう、原さんの指示どおりに祈祷をやってるのですけど、手ごたえがないゆうか……」
ふっと頭をかすめるイメージ。ジョンが聖水をまく。その場所から蒼白い人魂が離れて、どこかへ逃げてしまう。
「逃げただけかも……」
ぼーさんが聞きとがめて、キョトンとする。
「はぁ?」
「なんでもない。
あ、そーだ。ねぇ、あたしにも退魔法ってできるかな」
ジョンとぼーさんが顔を見合わせた。
「できるわけない、とは思わんか?」
「……簡単なやつ」
あたしが言うと、ジョンが、
「ごく初歩的なやつやったら、塩をまいて、『主の御名において命ずる。悪霊よ退け』ゆうのがありますけど。でも、麻衣さんはキリスト教徒や……」
「ないね」
「そやったら、役にはたたへんかもしれませんです」
「……そっか」
あたしじゃムリか……。やっぱりねぇ。
「なんだってまた、急に」
ぼーさんが不思議そうに聞いてきた。
「ちょっとは役にたつかなー……なんて」
またまた顔を見合す、ジョンとぼーさん。
「麻衣に除霊させるようじゃ、俺たちも終わりだと思わんか?」
むかっ。
怒鳴りつけてやろうと思ったら、ぼーさんはいきなりあたしのほうに向き直って、
「指を内側に組む」
…………?
「こう」
ぼーさんは両手の指を、ちょうど普通組むのとは反対に内側に折りこむようにして組んでみせた。
「こう?」
「でもって、人差し指と親指をそろえて立てる」
まるで忍者かなんかの手つきみたい。けっこう指が痛いんだけど。
「これが不動明王印。印を組んだままで姿勢を正して、『ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン』」
「……はぁ?」
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
ぼーさんが素早くホワイト・ボードに書きつける。
「練習しな。三回続けて言えるように」
「うん。……なうまく、……さんまんだ、ばざらだん、かん……ね?」
「真言を唱えて、これで消えなきゃ、さらにこう」
ぼーさんが指を解く。右手の人差し指と中指を立てて握り、
「剣印をくんで、気合をいれる」
「うん。こう?」
ぼーさんのやったとおりにやってみる。
「そう。いちばん簡単なのはそれ。あせって舌を噛むなよ」
「あい」
「耶蘇教とちがって、信者でなきゃダメだなんて言わないからさ。まー、がんばってみるんだな」
ジョンへのあてつけか? ……一言多いんだ、あんたは。
「よし。ジョン、次行こうぜ。
『雨も降ってないのに水が落ちてくる』か……」
ぼーさんは、あたしがまとめたカードを一枚取りあげて見る。
「一階の印刷室な」
ホワイト・ボードに貼った図面に、指を置いて探す。
「ここか」
……そこは……。
あたしはふいにさっき見た夢を思い出す。
夢の中のナルの声。『あれは邪悪だ』。禍々しい色の鬼火。アレがいた部屋。
「そこはダメ」
あたしは思わず言ってしまった。
「へ?」
ぼーさんとジョンがあたしを振り返る。あたしはあわてて、
「そこはいいの。先に音楽準備室に行ってくれる?」
ぼーさんは怪訝そうな顔をしたけど、黙ってあたしが差し出したカードを手にとった。
「『物音のする音楽準備室』か。ジョン、行こう」
「ハイ」
6
ふたりの足音を確認しながら、あたしは自分で首をかしげる。
……なんであんなこと言っちゃったんだろ……。あんなのは夢だ。大した意味はない。
ないよねぇ。印刷室で起こってることなんて、ときどき水が落ちてきて水たまりになってる、ってその程度で、『邪悪だ』というほどひどいことが起こってるわけじゃない。
……なのに。
思わず深く考えこんだときだ。会議室のドアが開いて、安原さんが顔を出した。
彼はナルにこきつかわれ、機材をかついで走りまわっていたのだ。
「作業、終わりました?」
「うん。頼まれたぶんは」
安原さんはニッコリ笑う。
「コーヒーでもいれましょうか?」
「あ、僕がやる」
「いいんです。あたし、いつもやってますから」
「じゃ、なおさら。いつもやってることやっても、つまんないでしょ?」
……わー、どうもー。
安原さんはコーヒーをいれながら、
「あのさ、谷山さん。やっぱり、コックリさんが原因みたい?」
「みたいですよ」
「……ふうん。不公平だよね。コックリさんなんて、どこでもやってる遊びなのに」
「それは、ナルもそう言ってたけど」
「僕の妹が行ってる中学でだって、すごくはやってるらしいんだ。なんでうちだけ、こんな変なことが起こったのかな」
うんうん。
「でも、この学校ではやってるこっくりさんって、変わってますよね。ヲリキリさま――でしたっけ?」
「そう? 僕も詳しく知らないけど、何かいろいろとややこしいみたいだな。そこがウケてるらしいけど」
「ややこしいの?」
「うん。普通のコックリさんとちがって、なんかいろいろ決まりがあるらしくてね。一度使った紙は二度と使えない、とか」
「へぇー。ホントに変わってる」
「使ったら神社に捨てに行かなきゃならないとかね。あと、呪文を唱えたり……」
「ヲリキリさま、ヲリキリさま……って?」
「そんなんじゃないんだ。なんだっけ、何度か聞いただけだからなぁ。『おーをりきりってなんたら』とかいうやつ」
「なんですかーそれー」
あたしはウケてしまった。
「やっぱ、変わってるかな? うちの学校だけかもなー、こんなやり方」
「……いつも不思議なんだけど、コックリさんとか、ああいうのってみんなどこで聞いてくるのかなぁ」
安原さは首をかしげる。
「そうだねぇ。人づてなんだろうけど……。そのへん、調べてみたらおもしろいかもな。あなたはヲリキリさまを誰から習いましたか……なんて。実はちゃんと、発明した人がいたりして」
「ふつうのコックリさんをやってる人もいるんでしょ?」
「あまりいないんじゃないかな。秋ぐらいにはヲリキリさま一色だったな。もっともヲリキリさまを『コックリさん』とか『キューピッドさん』とか好き勝手に呼んでるヤツはいるみたいだけど。
ホラ、コックリさんてたたるっていうでしょ? だから誰もやらないんだよね。
ヲリキリさまはさ、たたられないように難しい手順があるんだって。約束事をまもっているかぎり、絶対に安全だって言ってたけど」
「それで、やってみたんですか?」
安原さんは笑う。
「僕は好奇心強くて。やっぱ、一回は参加してみたいじゃない」
「わかりますけど……」
「それにしても、すごい数。どうしてこんなにはやってるんでしょうね?」
「流行の原因を分析できれば苦労はない。……なんてね。手順が変わってるからじゃないかな。ホラ、用紙を見たでしょ? あれだって、ちょっと変わってるし。目新しいから」
「そうかなぁ……」
安原さんはちょっと真面目な顔をする。
「もっとべつの解釈はできるけどね。抑圧された学生が、ストレスのはけ口を求めたとか何とか。でも、そういう分析は不毛でしょ。だからどうした、ってことになるし」
「安原さんって……なんか、悟ってますねー」
「うん。僕は若年寄って言われてるから。あだ名がね、『越後屋』って言うんだ」
「え……えちごやぁ?」
「そう。人のいい爺さんみたいな顔をして、何をたくらんでるかわからないって」
……い、言えてるかも……しんない。
あたしは、ちょっと笑ってしまった。
「今日だね」
安原さんがふいに言った。
「え?」
「十二日目。今夜。正確には明日の早朝。また更衣室で火事がある」
それがもう避けられないことみたいに言う。
あたしは突然、さっき見た夢を思い出した。
「ひょっとしたら……更衣室じゃないかもしれない」
「え?」
安原さんは不審そうに聞き返す。
……あ、いけね。
あたしはあわてて手を振った。
「あのー、深い意味はないんですけどー。ひょっとしたら今度はべつのところかもなー、なんて。放送室とかー」
深い意味はない。だって、あれは夢。第一、真砂子と綾子が本当に更衣室へ行ったのかどうかさえ、わかりゃしないんだから。基本的に新聞にのった事件の舞台は、ぼーさんとジョンが除霊に行ったはず。
「谷山さんって、第六感の人なんでしょ?」
「だからー」
困るなぁー。
「そんな大したもんじゃないんですってば。こないだの事件であたし、ちょっとカンがよかったから。べつに、霊感とか、そういうんじゃ……」
ないんですよ。……ないと思う。……たぶん……。
7
陽が落ちて、あたりが暗くなったころ、ぼーさんとジョンが会議室に戻ってきた。
部屋に入って来るなり、ぼーさんの口笛。
「お。麻衣ちゃん、彼氏とふたりっきりかー? お安くないねぇ」
こら。誰が彼氏だ、おい。
「安原クンも手が早い。若いねぇ」
……あのなー。
「滝川さんこそ、ヤボですよ。せっかくいいところだったのに」
……へっ!?
もののみごとに、ジョンがホワイト・ボードに頭をぶつけた。ぼーさんもひきつった顔で安原さんを見る。
「もうちょっと、気をきかせてほしいなぁ」
ぼーさんは内緒話でもするみたいに、一方的に肩を組む。
「……少年。少しオジサンと話をしよう」
「はい」
「気持ちはわかるが、状況と場所を考えなきゃいかんぞ」
……あ、あのぉ……。
「やはり、こういうことにはだな、ムードというものが……」
「あ、そうですね。じゃ、次はがんばります」
……あのー、もしもし?
じとっと安原さんを見つめるぼーさん。
「……麻衣が好きか?」
「好きですよ」
…………。
「あ、でも渋谷さんも好きだな。キレイだし」
ゴン。ジョンがまたホワイト・ボードに激突した。
「でも、滝川さんはもっと好きです(ハート)」
ぼーさんの険悪なヨコ眼。
「……少年」
「はい?」
「お前、遊んでるだろ」
「もちろんです(ハート)」
えい、と伸ばされたぼーさんの拳は、安原さんがよけたために、机に追突した。
「大人で遊ぶなっ!」
「子供で遊ぼうとするからですよ」
……んだ、んだ。
笑いながら安原さんは、ふたりのぶんのコーヒーをいれてあげる。
「お仕事、どうですか?」
ぼーさんは聞かれたくないことを聞かれてしまった、という顔をする。
「俺、お仕事の話、したくない」
「たいへん?」
あたしの問いに、ぼーさんは首をすくめるだけ。掃除のたびに蛍光灯が落ちるという地学準備室にジョンが印をつける。『J』とマークが入った。ジョンが除霊したことを表している。他にも印をつけながら、ジョンがかわりに口を開いた。
「数が多いですよって」
ホワイト・ボードの学校の見取り図。問題のある場所にナンバーが打ってあって、除霊がいちおうすんだとこには赤でマークがついてる。
一日がかりでまだ五分の一。
「真砂子のようすはどう?」
あたしが聞くと、ジョンは困った顔をする。ということは、やっぱ調子が悪いんだ。
「……それはよわったね」
今回、またまた真砂子をアテにできないわけか。
ぼーさんも溜め息をつく。
「本人は、見えなくてもわかる、って言い張ってるけど、どうだかな」
「ねぇ、ナルは日本で一流だって言ってたでしょ? 一流でもこんなもんなの?」
「うーん……」
ぼーさんは苦い声でうなってから、
「真砂子は口寄せが得意なんだよなー」
「くちよせ?」
「ああ。霊を呼んで自分に乗り移らせる。でもっておつげをしたり、質問に答えたりするんだ。やることはコックリさんと似たようなもんだわな」
「あ、TVでよくやってるやつ」
「よく当たるらしいぜ。でもなー」
ぼーんさは苦い顔をする。
「ナルが言ってたろ。『霊が知っていることは死についてだけなんじゃないか』って」
ふむ。
「俺も今まで疑問に思ったことはなかったが、言われてみればそうかなと思うんだよな。
たとえば俺が、真砂子にじいさんの霊を呼んでもらう。じいさんが真砂子に乗り移って俺とじいさんしか知らないことを言ったり、こっちの質問に答えたりする。
『恋愛運はどうでしょうか?』『まだまだじゃ』ってな、ぐあいにさ」
「うん」
「俺は霊といしうのはそんなもんだと思っていたが、でも実際はどうなんだろうな」
……うーむ。それは難しいね。
ジョンが口をはさんだ。
「ボク、前に論文で呼んだことあるんですけど、霊媒には、ふた通りあるんやないか――そう言うた研究者がいはるんです」
「ふた通り?」
「ハイ、真の霊媒とESPと」
ぼーさんがうなずく。
「ああ、俺もどっかで聞いたな。デイビス博士じゃないか?」
「やと思います。博士が言うには、霊媒に霊能力があるとはかぎらへんと」
「はぁ……?」
よくわかんないんですが。
「だから……。たとえば、霊媒がボクのオバーサンの霊を呼んだとしますやろ?
オバーサンの霊は、霊媒の身体を借りてボクとオバーサンしか知らへんことをしゃべるわけです。
だからと言うて、その霊媒にオバーサンの霊が乗り移ったとはかぎらへんのやないかと」
「? でも、ジョンとオバーサンしか知らないことを知ってるわけでしょ?」
「ハイ。けど、霊が教えるとはかぎりません。
霊媒が、ESP……サイコメトリストの可能性もありますよって」
「サイ……? なに?」
安原さんがあたしの顔を見る。
「サイコメトリスト。サイコメトリーの能力者なんだって。
サイコメトリーっていうのは、物を通してそれに関係する事柄を知る超能力。
たとえばー、道でカバンを拾ったとするでしょ? そのカバンにまつわる、過去とか未来を知る能力なんだって。このカバンの持ち主はどういう人物なのか、いまどうしているのか、これからどうなるのか。――だよね?」
あたしが聞くと、ジョンはうなずく。
「ハイ。そんなもんです。デイビス博士は自分がサイコメトリストやから、そういう発想になったんですやろけど」
「デイビス博士って、念力の?」
「ハイオリヴァー・デイビス博士。イギリスのSRP――心霊調査教会の研究者です。
優秀なサイコメトリストで、かなりPKも使うゆう話です。PKとESPと両方できる少数派の超能力者なんです。
デイビス博士の兄弟にユージン・デイビスゆう人がいはるんですけど、ユージンは霊媒なんです。
ユージン・デイビスは完全な霊媒やと言わはるんです、博士は。
ユージンはドイツ語がしゃべれへんのですけど、ドイツ人の霊を呼ぶとドイツ語でしゃべります。ギリシア人ならギリシア語です。こうゆうのはめずらしいんです。霊が憑依したんやなかったら、ありえへんことですから。
けど、霊媒の中には、どこの国の人間を呼んだかて、日本語でしゃべる人もいます」
……たしかに。
「前に、あたし、TVでイタコが霊を呼ぶのを見たんだよね。あのとき、イタコが呼んだのがマリリン・モンローで、モンローを呼ぼうってことじたいお笑いなんだけど、そのモンローが、日本語でしゃべるんだよね。なんか変で笑えた」
「でしょう?
せやけど一方で、ユージン・デイビスのような霊媒とか、ローズマリー・ブラウンやフレデリック・トンプソンみたいな霊媒もいます」
「……は?」
ぼーさんが助けてくれる。
「ブラウン夫人は霊からメッセージを受け取って、作曲をするんだな。
本人は音楽的な素養は大してないらしいんだが、霊が降りてくると作曲をしてしまう。
その降りてくる霊というのが、ベートーベンだのショパンだのリストだのでさ、作曲した曲の中には、フル・オーケストラの曲まであるらしい。できあがった曲は、完全に各作曲家のスタイルで、音楽的にもかなり優れたものであるという話だ。
トンプソンのほうは絵を描く。ロバート・スウェイン・ギフォード画伯の霊が降りてきて、彼に絵を描かせるらしいんだ。
それは風景画で、生前ギフォード画伯がよく行った場所、しかも友人などにも描きたいと言っていた場所らしい。ところがトンプソンはそこへ行ったことも、写真を見たこともないというんだ。むろん、画風は完全にギフォード風」
「へぇ……」
「こういうのはたしかに、霊が降りてきたんだと考えなければ、説明がつかないわな。
こういう霊媒は普通、霊を呼び出して当てものをしたり予言をしたりすることはできない。口寄せをする霊媒とは全然タイプがちがう。……言われてみれば確かにそうだ」
ジョンがうなずく。
「せやけど、霊媒の中にはものを当てたり、予言をしたりするのが得意な人かています。
デイビス博士は、そうゆうのは霊媒ゆうよりも、ESPである可能性が高いんやないか、そう言うてはるんです。本人が霊に教えられていると信じてるだけなんやないかと」
「ふむふむ」
なるほど、とぼーさんがつぶやく。
「真砂子は後者のタイプの霊媒だな。当てものも予言も得意だ。
つまり、真砂子は霊媒というよりもサイコメトリストかもしれないというわけか。
たしかに本人も、因縁の強い霊なら得意だと言ってたな」
安原さんは関心したように溜め息をついた。
「複雑なんですね」
あたしはなんだか釈然としない。
「……それはわかるけど……。すると、どうなるわけ?
真砂子には霊を見る能力がないってことになっちゃうの?」
「まったくなくはないだろうな。でも、真砂子は霊を見ているというよりも、『学校』というものを通してサイコメトリーしているのかもしれんなぁ……。
――よくわからんけどさ」
ふにゃー。
「だから、真砂子に必ず霊が見えるとはかぎらない。
げんに今、真砂子には感じられない霊がウヨウヨしてるのかもしれんな」
……うーむ。
「麻衣、わかったか?」
「あ、……あたし、頭痛くなっちゃったー」
ぼーさんは溜め息をつく。
「俺もだ。……考えなれねーことを考えるもんじゃねぇな」
「んだね」
「そういうわけで麻衣」
ぼーさんはあたしをのぞきこむ。
「お前、なんか感じないか」
……あたし?
あたしが答えるより先に、安原さんが言ってしまった。
「あ、谷山さん、言ってたじゃないですか。火事が起こるのは放送室じゃないか、とか」
ジョンとぼーさんがあたしを振り返った。
……う。待ってよ。あれは単なる夢かも。
「麻衣?」
ぼーさんにうながされて、あたしはしぶしぶ話をする。
「居眠りしてて、見た夢なんだよねー」
「それで?」
「だからー……」
あたしは事情をオソルオソル話してみる。もちろん、ナルが出てきた話はぬいて。
ぼーさんは、真剣な顔で身を乗り出した。
「麻衣。寝ろ。寝てくれ」
「はぁー?」
「お前の夢には意味がある。情報収集だ。寝ろ、いい子だから」
「そーです。麻衣さん。寝てください」
そんな、ジョンまで。
「単なる夢かもしんないじゃん」
「そんなわけ、ないです。更衣室の除霊は、ホンマに原さんと松崎さんが行ったんです」
……え?
「で……でもー、偶然かもしれないしー」
「いいか? これはチャールズ・タートなんかがさかんに研究してるんだが、夢とESPというのは実は関係が深いんだ」
……はー?
「夢というのは一晩じゅう見るんじゃない。REM睡眠という特殊な睡眠状態の時に見るんだ」
「はぁ……」
「特に、寝入りばなのREM睡眠は、ESPが発現しやすい変性意識《アルタード・ステーツ》と呼ばれる状態なんだよ」
「さいです。正確には、d−ASC、分離性変性意識と言いますです」
……ちょっと。
「霊媒に霊が降りてくるとき、ESPがサイ能力を発揮するとき、この変性意識状態のときが最も多い。ナルも言ったように、お前は潜在的にサイキックだ。げんに綾子が除霊したのも当てた。意味があるに決まってる。寝ろ」
そんなぁ……。なにもそんな、難しい言葉を並べて、たたみかけるように言わなくてもいいじゃんかっ! 第一、寝ろって言われたって、そうそう簡単に寝られるもんかーっっ!
「まぁまぁ」
間に入ってくれたのは安原さんだ。
「谷山さんだって、そんなふうにつめよられても困りますよ」
そうそう。
「自分で、自分の能力を信じきれてないみたいだし」
うんうん。
「真砂子がアテにならないんだ。ワラをもつかむってやつだぜ、麻衣。はずれてるかもしれんのは真砂子の霊視も同じことだ」
「さいです。情報は多いほうがええのんに、きまってますです」
……だってぇ。
「今夜、わかります」
安原さんがきっぱり言う。
「今夜、正確には明日の早朝、火事が起これば谷山さんの夢がどの程度アテになるのか、わかります。火事が放送室で起こったら、谷山さんだって自分の力を信じられるでしょ?」
……まぁ、そうかも……。
「そうしたら、全面的に協力すると言うことで」
「少年、お前さんは、いつから麻衣のマネージャーになったんだ?」
「今からです」
……もー、好きにして……。
夕方いったん集まったみんなに、ぼーさんとジョンが事情の説明をした。
想像はできたことだけど、綾子と真砂子の冷たい視線。ナルとリンさんの無表情をくらった。
綾子がキビシイ顔つきで口を開くより先に、ナルが手をあげて黙らせてしまう。
「安原さんの言うとおりです。火事が起こってみればわかる。――リン」
背後霊のごとく、後ろにひかえているリンさんを振り向いた。
「放送室に機材を置く」
……ほんとにぃ? いいのぉ、あたしの夢なんか信じちゃってー。あたし、責任とらないよー。
あたしの不安をヨソに、機材が放送室に運ばれる。怪しいのはどのあたりだ、などとナルに聞かれて、あそこ、とか答えたりして、いっぱいの霊能者みたい。 我ながら半信半疑のまま、それでもなんかうれしくて。でも、これで火事が起こんなかったら、笑い者だよなー、とか、もとのミソッカスに逆もどりだよねーとか不安になったりして。
受験の結果を待つみたいにして、ドキドキ夜明けを待ったその日。明け方、正確には午前四時三十二分二十四秒、火の気のない壁が突然火の手をあげた。
放送室だった。
8
ちょうどその時、あたしたちは放送室のそばにいた。
火事の起こる時間がだいたい決まっていたので、中のようすを機材を通して見ていたのだ。むろん、放送室だけじゃない。更衣室のほうはリンさんとジョンがつめて、中のようすを見守っていた。
そして、火事を起こしたのは放送室のほうだけだった。
あたしとナル、ぼーさんと安原さんは、壁が火を噴くシーンをモニター(TVのことだよ)を通して目の当たりに見た。本当に突然、奥の壁が一面に火を噴いたのだ。
ウワサに聞いていたより、火の勢いは強かった。あっという間に天井を焦がし、部屋じゅうに燃え広がる。
ぼーさんと安原さんが、消火器を持って中に跳びこんだ。
「おみごと」
ぼーさんに拍手してもらって、あたしはおおいに困惑してしまった。
当たってしまった。どしよう。……そういう感じなんだよなぁ、実際。これ以後、あたしのカンはあてになるかも、って期待されるわけでしょ? 今後もあたりつづけるかもしれないし、これっきりかもしれない。あたらなかったら、どうしたらいいのよぉ。
困りきってるあたし心中をヨソに、ナルは極めて無表情に聞いてくる。
「他に鬼火を見たという場所はどこだ?」
「……印刷室と……LL教室と……」
夢で暗い鬼火を見た部屋を思い出しながら、だんだん声が小さくなってしまう。
……たいへんなことだ、これは。
いっきに肩にかかってきた、「責任」という文字。あたしがウソ八百を並べると、それだけみんなに迷惑をかける。自分でもウソなのかホントなのか、わからない。どーすりゃ、いいんだょぉ!
「麻衣?」
黙りこんでしまったあたしを、ナルがうながす。
「保健室のやつが大きかった気がする……。
でも、これはタマタマで、あとは全部スカかもしれないし……」
おそるおそる言ってみるあたしに、ナルのそっけない言葉。
「たいしてアテにはしてない」
……むかっ!
いや、ちがう。いーんだ、これで。アテにされたらおおごとだから。……と言いつつ、ちょっとは寂しかったりして。ああ、人間ってフクザツ。
複雑と言えば、駆けつけてきた真砂子と綾子は、ひじょうに複雑な顔であたしを見ている。意味もなく自信に満ちあふれた綾子はともかく、真砂子の気持ちはわかってしまうのよねぇ。
こんな気の重い責任を、あんたはずっとしょってきたんだね。あたしだって、自分のカンが百回当たれば、ちょっとは自信をもてると思う。で、自信の出たころにいきなりはずれて、綾子なんかが当てちゃったら、やっぱショックだと思うわけ。
ここはイヤミの百や二百、耐えてみせましょう。うん。
考えこんでいたら、ぼーさんに頭をぶたれた。
「あんまし、考えるな。いつもどおりでいいんだ。考えすぎるとかえってはずす」
「……うん……」
あたしは視線をそらす。放送室の中にポツンと立ってるカメラが眼に入った。
幸い火はすぐに消えたけど、置かれた機材は見るも無残なありさまだった。
「かわいそ……」
消火器で真っ白になったカメラをなでてやる。
「ね、ナル。このカメラ、だいじょうぶなの?」
ナルはちょっと肩をすくめる。
「だめだろうな。少なくとも調整に出さないと」
「うわー、もったいない……」
……このカメラくんはすごく高価なんだ。前に聞いて知ってるぞ。
ナルがサラッと言う。
「保険がかかってるから」
あ、そうなのか。それはよかっ……た……ん?
「――ナル。いま、なんて言った?」
「ん?」
「保険がかかってる、と言わなかったか、あんた」
あたしとナルの出会いを演出してくれたのは、このとほーもなく高価なカメラくんだった。不慮の事故でカメラを壊したあたしに、弁償するか、さもなくば手伝え、とナルは言ったのだ。それが、何だって? 保険がかかってる、だぁ?
「……じゃ、あたしが弁償する必要なんか、なかったんじゃない」
ナルはしらんぷりを決めこむ。
「単に人手がほしくて、だましたな、てめー」
ジョンがあわてて声をあげる。
「まぁ……ともかく、なにごとものうて、よろしおしたどす。せっ……せやけど、渋谷はん、残念どしたな。せっかくの自動発火やのに、録画のチャンスでしたんどすけど、このありさまやったら貴重なテープも……」
だいなしになったんだから、痛み分けということで。そうジョンは言いたかったんだろう(あいかわらず、あせると言葉が乱れるね、ジョン)。
しかし、そのジョンの視線も、あたしの視線も、その他の視線もナルの手にくぎづけになる。黒い、四角い――ビデオテープ。
ぼーさんの冷たい声。
「俺たちがお焦げになりながら献身的な消火活動をしている間に、お前はビデオテープの救出をやっていたわけな……」
ナルはすましたもんだ。
「テープ一個の重みが、人間の命よりも思いこともある、という実例だ」
……て、てめー。
ナルはリンさんを振り返る。
「リン、この機材のセッティングをしなおす」
このっ……マッド・サイエンティストがーっっ!
心の中で叫んだのは、あたしだけではなかったはずだ。
三章 碧い影
1
翌日、変化のしない教室の機材をかき集めてLL教室に追加し、残りを印刷室と保健室に置いた。
授業の続く校内を、あたしたちは走りまわる。データの回収、データのチェック。打ち合わせと、除霊。
あたしはビデオテープの回収を命じられて会議室を飛び出した。
ちょっくら怒ってるあたしは、ナルの命令なんか聞きたくない気分だったけど、ま、いいか。雑用は気が楽だもんな。
廊下を小走りに走って、渡り廊下にさしかかった時だ。
「どうだ、除霊とやらはすんだか」
ふいにぞんざいな声で話しかけられた。振り向くと後ろに松山。
げ。イヤなヤツに会っちゃったぜ。
「……鋭意努力中です」
松山は口元を歪めて笑う。
「今朝、火事があったな」
「……はぁ……」
「除霊なんか、できないんじゃないのか?」
……たしかに、あれは失敗だったけどさ。
返す言葉のないあたしに、松山はたたみかける。
「霊能者だかなんだか知らんが、その程度なんだろう。大勢の人間を集めて、右往左往しているようだが、エセ霊能者なんかにどうにかできるわけがないんだ」
……エセ、だと?
松山はあたしをにらみつける。
「幽霊なんかいないんだ。いいかげん、わかったろう。
全部、生徒の気の迷いなんだ。さっさと帰れ」
「……論旨が矛盾してますが、先生」
「なんだと?」
てめーは、幽霊を信じてるのか、信じてないのか? はっきりしろよな。
そう思ったけど、『豚に説教しても意味がない』のだ。あたしは軽く頭を下げる。
「何でもありません。――失礼します」
足早に立ち去ろうとしたら、松山の怒鳴り声。
「幽霊だなんだと、くだらないことにかぶれたあげく、学校をさぼって!
馬鹿な迷信に振りまわされるやつが、どういう末路をたどるか教えてやろうか?」
あたしは振り返る。松山は何を言おうとしてるんだ。まさか。
「どういう末路をたどるんですか……?」
松山は笑った。
「ウチの学校にもいたんだよ。オカルトにかぶれて悲惨な末路をたどったやつが」
「……それは、坂内くんのことでしょうか?」
死んでしまった一年生。将来の志望に、『ゴースト・ハンター』と書いた男の子。
松山は口元を歪めて笑う。
「自分もああならないように、気をつけるんだな。坂内もあの世で後悔してるだろうよ」
「つまり、先生は坂内君が死んだのが残念ではないんですね」
「……なに?」
「つまらないことにかぶれたから、自業自得だとおっしゃりたいんですね?」
「誰がそんなことを言った」
……あんただよ。
「そうとしか聞こえなかったものですから」
ザマーミロとしか聞こえない。これでも教師か、こいつっ。
「なんだ、お前は。その反抗的な態度は」
……むか。
「……仕事があるので失礼します」
あたしはもう一度会釈をして、松山に背を向けた。
つきあってられるか。
「おい、待てっ」
怒ったふうの松山が手を伸ばす。
あたしにさわったら、ひっぱたいてやるっ!
そのとき。
間近の教室から激しい物音と、大勢の人間があげる悲鳴が聞こえた。
渡り廊下を渡ってすぐの美術室。
あたしは教室にかけこむ。松山もそのあとを追ってきた。
「どうしました!?」
ドアを開いてあたしは驚く。
総立ちになった学生。何人かはその場でうずくまっている。教室じゅうに散乱したガラスの破片。微かにカーブのある乳白色の。
あたしは天井を見上げた。
三列、四本ずつ並んだ蛍光灯。その蛍光管が一本もない。
「どうしたんだ!」
松山は生徒に聞き、教団に座りこんだ教師に聞く。
どうした? そんなもの、見ればわかる。
蛍光灯が落ちたんだ。教室じゅうのすべての蛍光管が。
あたしはふと思い出す。――この美術室の真下には、地学教室があることを。
2
生徒が引き揚げた美術室。
からっぽの教室。乱暴に列を乱した机。倒れたイス。床となく机となく散乱した破片と、点々と落ちた血。
生徒の大多数は多少なりとも怪我をして、今自分たちの教室で手当てをうけている。
「ボクのせいです」
教室を呆然と見渡していたジョンがつぶやいた。
地学教室の除霊をしたのはジョンだった。
「しょうがないよ、まさか上の教室に逃げたなんて思わないもん」
あたしは精いっぱいなぐさめる。ジョンが黙って首を振った。
ナルは机に散らばった破片のひとつを手に取る。
「いきなり全部の蛍光管が落ちたのか」
破片をじっとながめる。
「……強くなっているんじゃないか?」
――たしかに。
地学教室では落ちる蛍光灯は常にひとつ。同時にふたつ以上の電灯が落ちたことはない。
あたしの頭の中に、ひとつのイメージがよみがえる。
玉串を振る綾子。逃げる鬼火。逃げた鬼火は別の場所に行って、そこにいた小さな鬼火にまとわりつく。争うようにもつれあう鬼火。そうして小さいほうは、逃げてきた鬼火に吸収されてしまう。
「今朝のボヤも、話に聞いていたよりも強かった。すぐそばに人がいたからよかったようなものの……そうでなければボヤぐらいではすまなかったろう」
ナルの声を聞きながら、あたしは思わずつぶやいていた。
「美術室って……なにか怪談あったっけ」
あたしの声に、ぼーさんが答えてくれる。
「ここはたしか……『向きが変わる石膏像』ってのがあったはずだ。
石膏像の向きがいつの間にか変わるんだと。勝手に後ろを向いてしまうらしい」
「それ、もう起こらないと思う」
「麻衣?」
みんなが怪訝そうにあたしのほうを見た。
「ここにいた霊は、地学教室から逃げてきた霊に吸収されちゃった気がする。だから、強くなったんだよ、きっと」
ナルがあたしに暗い眼を向けた。
「麻衣のカンか?」
「うん」
真砂子と綾子が、複雑な眼つきであたしを見た。
うるさいやい。だって、そんな気がするんだもん。
ぼーさんがあたしの頭をポンと叩いてから、
「どうする、ナルちゃん」
「……除霊は少し、待ったほうがいいかもしれない」
「そうだな。また逃げられちゃあ、かなわないからな」
ぼーさんがうなずくのに、
「アタシはやるわよ」
綾子が声高に宣言した。
「おいおい、よしな」
「霊が逃げられないように、結界をひいて除霊するわ。それなら問題ないでしょ?」
「そう簡単にいくかな」
ナルが静かな声をあげる。
「やってみせるわよ」
「では、もう少し無害な霊をどうぞ。ここの霊にまた逃げられては、あとがたいへんだ」
ムッとする綾子。しかしナルは構わない。
「麻衣の言い分が正しいなら……
今度逃げられると、次はこんなものではすまないだろう」
あたしは背中がゾクリとした。
もしも……霊同士が食い合って、成長していく、これがずっと続いたら……いったい何が起こるんだろう?
最後に残るのが、たったひとつの霊だとしたら――。
その時だった。真砂子が悲鳴をあげたのは。
「なに!?」
「どうした!?」
顔をおおい、うずくまった真砂子。駆け寄るみんな。
あたしも真砂子に向かって走り――突然、それが起こった。
いきなり視野が反転する。光が消えて、闇が降りる。透ける床、透ける壁。パァッと視野が広がって、あたしの眼の前に学校の全景。わかる。全部。どこで何が起こっているか。
そして悲鳴。真砂子の悲鳴じゃない。誰か……他の。
南棟の二階だ。あれはニ−四の教室。暗くうずくまったあの鬼火。
床に黒く穴をあけた、その中に白い人魂が吸い込まれていく。
……なに!? どうしたの!?
ふいに白い人魂が人間の形をつくった。暗い穴の中にのみこまれながら、悲鳴をあげる人間の姿。
……あれは……。坂内くん!?
坂内くんだ。両手をあげ、空気に爪を立てるようにして鬼火の中にのみこまれる。暗い炎がまとわりついて、火の海に沈んでいくよう。
……やめて。
眼を閉じる。耳をふさぐ。
それでも、見える。聞こえる。
……お願い、あれを誰か止めて!
お願い!!
始まったときと同じように、突然視界が正常に戻った。
床に座りこんで顔をおおったあたしと真砂子。それを呆然と見おろしているみんな。
「ど……どうしたんだ、いったい!?」
ぼーさんがあせった表情で問う。
あたしが答えるより先に、真砂子が答えた。
「坂内さんが……消えました」
パタパタとお人形のような頬に涙がこぼれる。
「麻衣さんの言うとおりです。ここでは霊が共食いをしています。
坂内さんは……吸収されました」
真砂子が涙を落としながらあたしを見る。震える手であたしの腕をつかんだ。
「……あなたも見たわね、麻衣?」
「うん……」
ガクガク震える手で真砂子の手をつかんだ。
「怖かった……」
「ええ」
「坂内くんはどうなったの?」
真砂子は答えない。ただ涙をこぼす。
……食われてしまったんだ。
浄化されることもなく。安らがないまま、あの化け物に食われてしまったんだ……。
3
「異常事態だ」
ナルが宣言した。
ちょうどあたしたちがあの残酷な幻を見たそのすぐあと、授業中だったあの教室に、巨大な黒い犬が姿を現した。
その犬はどこからともなく現れ、机をなぎ倒し、逃げる生徒と先生をその爪と牙にかけて風のように消えた。軽傷者六名、重傷者一名。
「こんな凶悪な霊なんてありかよ!」
ぼーさんはイライラと会議室を歩きまわる。
「霊だぁ!? 冗談じゃねぇ、ああいうのは怪物って言うんだ!」
あたしも、こんな例は初めて聞いた。霊が人を襲う。その結果、不可解な病気や事故が起こることはあるけれど。霊が実体化し、実際に危害を加えるなんて。
血のあとも生々しい教室に、ナルが機材を持ちこんだけど、すべての機材は教室に入ったとたん動きを止めてしまった。
「こんなはずはないんだ……」
ナルは眉をひそめる。
「第一、霊が食い合うなんて、そんな話は聞いたことがない」
「妖怪だわね……」
綾子が溜め息をついた。ぼーさんがぱっと振り返る。
「妖怪なら、巫女の管轄じゃないのか?」
「冗談でしょ。坊主の受け持ちなんじゃない?」
……そんな言い合いをしてる場合?
ナルはメモを見つめる。
学校じゅうを再調査したメモだ。
「三−一の反応も消えてる。あんなに反応が強かったのに」
今朝までは確かにあった異常な反応が、きれいさっぱり消えてしまった。もちろん、あの嫌な臭いもしない。完全に消えてしまっていた。
「あそこの霊も食われたのか……」
それきり口をつぐんで考えこんでしまう。
誰もがしんと黙り込んだとき、安原さんが顔を出した。
安原さんはあたしたちの異様なムードに気がついたのだろう。
「――ちょっと、いいですか?」
誰にともなく聞いた。
「あの……たいへんでしたね」
「安原少年、耳が早いな」
ぼーさんの声に、安原さんは苦笑を返した。
「もう学校じゅうの人間が知ってます。救急車来てたし。
――それより、ちょっと気になることを聞いたんですけど」
「なんですか?」
ナルの声はうっとうしそうだ。安原さんは申し訳なさそうな顔をする。
「……関係ないことかもしれないので、取り込み中ならあとでも……」
「いえ。お聞きします」
気をとりなおすように言って、ナルはイスをすすめる。
「すみません……」
意味もなく安原さんは長い身体を小さくする。
「あの……実は僕、コックリさんの発生ルートをたどってみたんです」
……え?
「きのう、谷山さんと話してて、彼女があんまり変わってるって言うから。
コックリさんをやってた連中に、あのやり方を誰から習ったのか聞いて、順番にたどっていったんですけど……」
……ひえー、本当に調べたの?
ナルの眼の色が深くなる。
「それで、わかりましたか?」
「はっきりわかったわけじゃ、ありません。ただ、ヲリキリさまがはやり始めたのは、二学期以降みたいなんです。そして、ルートはふたつあるようです。一年生から聞いた、というのと、美術部のやつから聞いた、というのと」
そう言って、安原さんちょっと顔を曇らせた。
「それで、気になって、一年で美術部、っていうのが、その……」
ちょっと口ごもる。
「意味ないのかもしれませんけど、死んだ坂内が、美術部だったんです」
みんなが少しはっとした。
ナルは深く考え込んでしまう。
「……わからないな……。意味があるのか、ないのか……」
低くつぶやく。軽く指先で机を叩いた。
「ともかく、あれは二学期以降、一年生か美術部の間からはやり始めたわけだ……。それが学校じゅうに広がって無数の降霊術が行われた。それで呼ばれた霊が……」
言いかけて軽く首を振る。
「やはり、おかしい。そもそもそんなに霊を呼び出せたところが。何の訓練もない素人が、一万や二万の降霊術を行ったところで、食い合うほども霊を呼べるもんか」
「あの……」
オズオズと安原さんが口をはさんだ。
「アレと関係はないんでしょうか」
「アレ?」
ナルに聞き返されて、安原さんは、
「お聞きじゃないんですか? この学校って、お墓の上に建ってるんですよ」
身を乗り出していたみんなは、ガックリしたようすだ。ぼーさんが、
「ま、ありがちだわな」
溜め息をついて、首をのけぞらせた。
「あ、馬鹿にしたでしょ。ちがうんですよ。本当なんです。ここは緑陵遺跡って言って、奈良時代、墓地があったところなんです。グラウンドを掘ると、墓誌とかお骨とか遺物がでてくるんですから」
あたしたちは顔を見合わせる。
「……ホントなの、安原さん」
「ホント、ホント。それって何か関係あるのかな」
ナルはさらに深く考え込んでしまった。
「……なるほど、古い墓地というのは、霊がさまよい出てたたりをおこなわないように、結界をひいた場所だ」
遺跡に埋葬された霊が、大挙してさまよい出てきた……などということはないだろうが、降霊術で呼び出されて学校に入ってきた浮遊霊が、結界のせいで出られなくなってしまった……という可能性はある。
それで、こんなにたくさんの霊がさまよっているのか。たしかに……学校で霊を拾った人間が、それを家まで連れて帰った……という話はまだ聞いてないな」
「そうだね」
あたしはメモをくる。たしかに、霊が起こす怪奇現象の舞台は学校に限られていて、学校の外まで霊がついてきたという話は出てない。
ナルは指先で机を叩く。
「それで事情の半分は納得がいった。
しかし、あと半分……。どうしてここの学生は、こんなに簡単に霊を呼び集められたのか?」
ぼーさんが声をあげた。
「その遺跡の中に、なにか霊を呼び集めるものがあるってことはないかね」
「うん……。だいたい、呪術に使う道具というのは、それ自体に霊に作用を及ぼす習性をもっているが……。でも、ここはどうだろう。霊を閉じこめる場所だから」
「呼び集める……とは、すこし性格がちがうよな」
「そうだな。霊を墓に閉じこめ、墓地に閉じこめる、そういう呪術を施した場所ではあるだろうが、集めるというのとは、ちがうと思うんだが。……どうもわからないな、この学校は」
ナルはつぶやき、眉をひそめて考えこんでしまった。
4
学校に夜の闇が落ちる。学校というのは、夜にむかない場所だとつくづく思う。ガランとした大きな空間が闇をはらむと、危険なほど寂しい。
ポツンと会議室に取り残されてたあたしは、ナルに命じられてLL教室までビデオテープの回収に行った。
人気のない学校。長い廊下。無機的に並ぶ窓。暗い明かり。
建物を下りて東棟の一階へ。長い廊下を、懐中電灯の明かりを頼りに進む。東棟のいちばん奥、南棟に曲がる手前の教室。
ドアを開けてすぐのところに暗視カメラとサーモグラフィー。チョンと立って、孤独な作業を続けている。あたしは、カメラに接続したビデオ・デッキにかがみこんで、ビデオカセットを抜いた。いや、抜こうとした。
その途端、すうっと吸いこまれるように懐中電灯の明かりが消えた。
「え!?」
真っ暗な部屋。あたしはビビってしまって、急いでビデオを回収しようとする。イジェクトボタンを押すけど、ウンともスンともいわない。電源が切れたんだ。
「停電?」
言いかけて、そんなはずはないことに気づく。懐中電灯は停電になんの関係もない。
……まずい。
あたしはあわてて身を起こした。ここを出よう。立ち上がったとたん、ゾッと背中を流れ落ちるもの。冷たい濡れた空気が背筋をはい降りて、あたしは身震いする。
遠くに見える碧いライト。あれが非常口のライトだ。あそこに北棟に戻る渡り廊下がある。
あたしはライトに向かって長い廊下を駆け抜ける。足音は空虚な余韻をひいて、校舎の中にこだました。
一息に駆け抜けて、力任せにとびを開けて、渡り廊下に転がり出た。
短い廊下だけの空間。窓から見える。外灯に照らされたグラウンド。ガランと音がしそうなほど、広い虚ろな空間。それでも明かりがないよりはあったほうがマシなわけで。
あたしは意味もなくおびえてしまった自分が照れくさくて、閉めたドアにもたれて肩で息をしながらひとり笑いした。
あたしの正面には北棟の入り口が見える。真っ暗な校舎。そこに閉じたガラスのドア。ドアの上には非常灯があるのだろう。緑の光が降っている。
ふとあたしは眼を引きつけられ、そのまま凍りついてしまう。
そこに小さな人影があった。誰か――子供がガラスに両手をついてこちらを見ている。 子供なんかいるわけがない。
こんな深夜の高校に。
じゃあ、あれはなに? はっきりとした黒いシルエット。両手をついて、額をつけてこちらをのぞきこむようにして。
声にならない悲鳴をあげて、あたしはもと来た東棟に飛びこむ。ドアを閉めるとき、反対側にある北棟のドアが開くのがはっきり見えた。
……来る!
ドアのすぐ脇には階段がある。あたしはそれを駆け上がった。
戻りたい。会議室に戻りたい。
二階を上がりきり、三階へ。踊り場で身をひるがえしてさらに上に向かう。早く、会議室へ戻ろう。そう思って階段の手すりをつかむ。ふとあげた目線の先、黒い階段の上に三階の壁。そこにも非常灯があるのか緑色に輝いて見える。そうして、そこに小さな人影。
ドキンと鼓動が大きく鳴る。
階段の上にしゃがみこんで、あたしを見おろしている小さな影。
逆光になってどんな人物なのかわからない。だけど、子供だ。それだけはわかる。
子供が階段の上にしゃがみこんでる。あたしを黙って見おろしている。背後の光で頬のあたりがわずかに見える。笑っているような、頬の線。
あたしは子供とにらみあったまま、そろそろと下がる。パッと振り返ると一目散に階段を駆け下りた。
一段ぬかしで駆け下りて、二階の渡り廊下のドアに飛びつく。階段を振り返りながら開けようとして、ハッと転がるように飛び退った。
ドアの外は明るい。そこに真っ黒な影。
あたしのお腹のあたりまでしかない。細い腕、細い足。明らかに子供のシルエット。でも、子供って、あんなに頭が大きいものだった!?
あたしはじりじりと後ろ下がる。子供の影はじっとしている。
二歩、三歩と後ろへ下がる。影が動いた。
細い手が上がって、ドアの引き手にかかる。
あたしは転ぶようにまわれ右して、暗い廊下を駆け出した。走るあたしの背後で、ドアが開く重い音がした。
……追いかけてくる。
息がきれる。足がもつれる。
みんなはどこ。
誰かいないの。
廊下側の窓から、ななめに薄い光が差しこむ廊下。両側に同じように並んだ窓。窓。窓。
あたし、すこしも前に進んでない気がする。
たまらず後ろを振り向いた。とたんに膝がくだけそうになる。
いる。
ドアのほうからゆっくり歩いてくる子供の影。
あたしは走った。すぐに反対側のつきあたりにある非常灯が見えてきた。
ドキンと心臓が鳴る。
非常灯の緑の光。その真下に誰かがいる。
誰か? もちろん、子供だ。膝をかかえてうずくまっている。緑の光にさらされて、なのに闇のようにただ黒い。
あたしは振り返る。
そこにも……子供の影。
ゆっくりと歩いてくる。微かに耳の奥で、子供の笑い声が聞こえた気がした。
……どうしよう!
ちょうどあたしは教室のドアの前にいた。ドアに飛びつき、教室の中に駆けこむ。飛びこむとき、ドアに貼られた、『生物準備室』という文字が見て取れた。
中はカーテンをひいてあるのか、それともそもそも窓がないのか、それさえわからないほど真っ暗だった。
ドアを閉めてその場に座りこむ。震える手で探ると、内側には鍵がついていた。折れ曲がった鍵を伸ばして差しこむだけの簡単なやつ。そんなものでもないよりいい。ガタガタ震える手で鍵を閉めて、あたしはやっと力を抜く。
……だいじょうぶ。
もう、だいじょうぶなはず。
息があがってわき腹が痛い。スキップする自分の鼓動で、耳なりがする。喉が切れるかと思うほど荒く息をする。しばらくそうして、ガタガタ震える自分の膝を抱いていた。
……どうしよう、閉じこめられた。誰か近くにいないだろうか。
呼吸が静かになってから、あたしは耳を澄ました。誰かの声が聞こえないか、気配が感じられないか。
ふいにコトッと音がする。
あたしは飛び上がった。ドアにぶつかって、ドアが激しい音がする。
カタン、……コト。
なにか堅いものが動く音。近く。たぶん、この部屋の中で!
どこ? もう足が動かない。金縛りにあったように、自分の手足が思うようにならない。
カタ……コト。
近くだ。どこか、この部屋の……どこか上のほう。あたしとは正反対の奥のほう。
あたしは闇に眼をこらす。微かに見える棚の姿。棚があるんだ。部屋の両側に。その棚の上で音がしている。
カタ。
小さな音に続いて、なにかが砕ける激しい音がした。
……なに!?
ガラスの砕けるような音。それと同時にただよってきた甘い刺激臭。
……これは……。
あたしはドアに飛びつく。
ホルマリンの臭いだ!
鍵を抜いてドアを揺する。びくともしない。
背後で、またガラスの砕ける音がした。小さな液体の飛沫が、あたしの足に飛んでくる。ホルマリンのにおいが強くなった。
「ナル! ナル!! 誰かーっっ!!」
いないの!? 誰か、誰でもいい、ここから出して!
ガシャンとまた、ガラスの砕ける音。
さらに強くなる甘い香り。あたまがクラクラする……。
誰かいないの!? 助けてよぉっ!
ホルマリン! 生物準備室にあって、ホルマリンのガラスびんの中に入ってるもの!
やだ、やだーっっ!
立て続けに後ろでガラスの砕ける音がした。ホルマリンの臭いで息がつまる。耳なりがする。めまいと、吐き気。
ぐらっと地面が揺れて、床があたしにぶつかってきた。
……いや、ちがう。
あたしが……床に……。
あたし……。
…………
四章 さなぎ
1
風がふいてる。
夜の風だ。そのすこし湿った風にふかれている気がする。やんわり流されている感じがする。
……確かな感覚じゃ、ないけれど。
眼を開ける。
あたりは夜で……風が流れてて、そうしてあたしはその大気の中に、あぶくみたいに丸くなって浮かんでいる。そんな気がする。
はるか下に白い光。微かな、眼に優しい光が見える。感じる。
意識を光に向けると、すっと視覚がもどってきた。眼下に学校。
……なんてこった。あたし、宙に浮いてる。
学校は夜の中に透き通って見える。その学校にいくつかの鬼火が、暗い炎を灯していた。
あたしは驚いてしまった。数が少ない。あんなに浮遊していた白い人魂が、うんと減ってしまっている。いつか見た暗い鬼火でさえこんなに少ない。恐ろしくなるくらい大きなやつが四つ。それよりも小さなやつがいくつか……。
場所を見きわめようと眼をこらすその目の前で、小さな人魂は食われ続ける。
あの鬼火のようなやつでさえ、フラと動き漂い出すと、大きな鬼火に引き寄せられるように近づいてのみこまれていく。
こうして見ている間にも、目に見えて減っていく。
眼の底に、坂内くんがのみこまれていった。あのようすがよみがえる。
……怖い。気味が悪い。
見たくなくて視線をそらすと、東棟の二階に人影が見えた。
……あたしがいる。二階の教室。小さな部屋の中。あたしがいるのが見える。
床に横たわったあたしと、それをとりまいている人たち。綾子と、ぼーさんと、真砂子と、ジョンでしょ、リンさんでしょ、安原さんでしょ、それから、ナル……。
綾子があたしを揺すっている。ぼーさんがそれをとめる。生物準備室。床にひろがった液体。その中に散乱したグロテスクなもの。キラキラ光っているのは、ガラスの破片だ。
こんなに遠いのによく見える……。
ナルとリンさんがなにか話す。そうしてリンさんはあたしの身体の下に手をいれて、抱えあげる。
……ちぇ。あたし、ナルのほうがいいなぁ。
思ったけど、ナルの細腕にあたしの体重四十とンキロはきついよねぇ。
……あたしの身体は運ばれていく。粛々と。一階の端にある保健室に。
…………。
ちょっと、待ってよ、おいっ!
これってヤバくない!?
自分が空に浮いてて、自分の身体が他人に運ばれているのを見る。
――たんまーっっ! あたし、まさか、もしかして、死んだのっ!?
そんな馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な。
やだよぉ、あたし、まだ死にたくないっ。
思い残すことが、いっぱ――――いあるんだからっっ。
保健室のベッドに横たえられたあたしの身体。ナルがあたし(身体のほうね)の顔をのぞきこんで頬に触れる。あっ、あっ、ぁっ、あんなに顔が近いーっ。……ちがうって。
なにか言ってる。
なに? 聞こえないよぉ。
なに!?
「麻衣!」
……ぱちくり。
「麻衣!?」
軽く頬を叩く手。目の前、至近距離にとっても長いまつげの眼。
その綺麗に澄んだ眼がふっと遠ざかって、ペチッとオデコをぶたれた。
「気がついたか?」
あたしは見まわす。ドギマギするくらい近くにナルの顔。そして、その背後からのぞきこんでる、ぼーさんと綾子と、真砂子とジョン、安原さんとリンさん。
「…………」
「気分は?」
ナルがベッドに軽く腰をおろす。
「麻衣?」
ペチ、ともういちどオデコをぶたれる。
「……あたし、生きてるんじゃない」
かすれた声を出したら、いきなりみんなが息を吐いた。
「あたりまえだ」
ナルがあたしを軽くにらむ。
「ホルマリンを吸って、倒れただけだ。……気分は?」
……気分?
「……吐きそう……」
胸がムカつく。最悪の車酔いみたい。あたまがグラグラするよぉ。
「いったい、なんだってあんなところにいたんだ。僕はLL教室に行けと言ったんだぞ」
だって、教室で停電で、怖くて逃げたら子供に追っかけられて、んでもって、あそこしか行くとこなくて……。
「あたしのせいじゃ、なーいっ」
言ったとたん、ペタンと冷たいものが額に。綾子が濡れたタオルをのっけてくれたんだ。
「どう?」
「……気持ちいい」
「本当にもー、ビックリしたわよぉ。なんだって、ひとりで学校をフラフラしてたのっ」
「……だって、ビデオが……」
「ナルもナルよっ」
綾子がナルをにらみつける。
「麻衣をひとりで、あんなとこに行かせるなんてっ
ナルが肩をすくめた。
綾子はそれをチラと冷たい眼で見やってから、あたしのほうにかがみこむ。
「なにがあったの、言ってごらん」
「あのね」
あたしはLL教室で停電にあって、生物準備室に逃げこむまでを微にいり細にいり話してやった。――べつにみんなを怖がらせようとか、同情してもらおうとか思ったわけではないのよ。ベラベラ話してないと、吐きそうなんだいっ。
話を聞き終わると、綾子が真砂子を振り返った。
「真砂子、まだそれ、いる?」
真砂子は首を振る。
「いいえ、いないと思いますわ。もうだいじょうぶ」
……ほっ。
ぼーさんが腕をのばして、あたしの頭をポンと叩いた。
「びっくりしたぞ。ホルマリン標本の散乱する中に倒れてるんだから。俺は一瞬スプラッタなことが起こったのかと思ったぜ」
……うー。想像したくもない。やめてよぉ。
「まったく、なんのために退魔法を覚えたんだか。やってみなかったのか?」
「……あ。忘れてた」
「馬鹿なやつだなぁ」
「そのとおりで……」
あたしとぼーさんの会話を聞きながら、ナルが立ち上がる。
「まぁ、ケガがないのなら問題はないな。松崎さん、ついててください」
綾子を振り返ってから、全員を見渡す。
「作業に戻ろう」
……置いてっちゃうの?
あたしはたぶん、すごくナサケナイ顔をしたんだろう。綾子があたしをにらみつけた。
「……あら、アタシじゃ不満?」
「……とんでもない」
ひとりにしないでクダサイ。
綾子はこれみよがしに溜め息をひとつ。
「いいわよ、行って。麻衣にはアタシがついてる」
ナルがうなずいて、そうして全員が部屋を出て行った。綾子はそれを見送ってから、
「どう? まだ気分悪い?」
「……ムカムカする」
「ちょっと、寝なさい。治るから」
言ってタオルを取り替えてくれる。ひやっこくて気持ちいいよー。
「……ありがと」
「あら、素直じゃない」
「たまにはね」
ペシッと頭をはたかれた。
……綾子、ありがと。
あたしは笑って、それから眼を閉じた。
2
霧が出ている。細かな水滴が流れる。ミルク色の霧。
霧の間に見えかくれするのは、深い樹影。
……どこだろう、ここ。
あたしはあたりを見まわした。大きな木、ねっとりとたちこめた霧。――暗い。
ふむ。と、あたしは納得する。
もはや慣れたぞ。こりゃ、あたし寝とぼけてるんだ。
……さて、それはいいとして。(よくないか? ま、いいや)ここはどこなんだろう。
見まわしていると、霧がゆらっと流れた。微かに薄くなって、すぐ眼の前に鳥居があるのが見える。
神社だ。
あたしは鳥居をくぐる。中には石の参道。右手に小さな赤い鳥居。陶器製のキツネが二匹向かい合った奥に、小さな祠がある。
お稲荷さんかな?
ゆらっともう一度霧が流れて、正面に大きな建物があるのに気づく。
あ、これが本殿なんだ。
暗いお社。……その前に立っているのは……。
「ナル?」
霧の中。とけこむようなナルの姿。
ナルの表情は硬い。あたしの夢の中でしか見られない、ふんわりした笑顔が見えない。
「そこは危険だ」
ナルが口を開く。
そこって?
「わかってるね? 危険な場所だ。起きて、出るんだ。そこにいちゃ、いけない」
「……わかんないよ、これはなに?」
これはなんなの、この神社は?
「危険なんだ。退魔法を覚えてるね」
「……うん」
ナルがふいに顔をあげた。空を見上げる。あたしもつられて振り返った。深い木立。木製の鳥居。正面の家並みの向こうに学校。
「……わかる?」
ナルが聞く。
同時に鳥居が家並みが、学校が透けて見える。学校の一階。真正面に黒く脈打つもの。ほとんど何かの胎児のような姿をした、みょうに生々しいあの暗い鬼火。
「……生まれる……?」
あたしはつぶやく。
「そう。今までは眠っていた。じきに孵化する。そうしたら、もう誰にも手出しできない」
誰にも手出しできない……。
あたしは眼をこらす。あれは印刷室だ。それだけじゃない。あたしにはわかる。あれと同じものがLL教室にも。ニ−四の教室にも。そして、保健室にも。ああ、他にいた霊があんなに少ない。ほとんどもう、その四つしかいないと言っていいほど。たったこれだけの、わずかな時間に。
あたしは悟ってしまう。全校の生徒数の約九割。およそ六百の生徒が、四か月――約百二十日間に渡って呼びつづけた霊。何千という霊の。それがわずかの間に、こんなに減ってしまったんだ。 呼んだ霊は片っ端から食い合い、ここまで減った。より強い霊が成長を続け……そしてとうとうこんなになるまで。
ふいにすっと視界が澄んで、あたしは印刷室の風景を間近に見た。やってくる。ジョンと安原さん。そこは危険なのに。
「あたし、もどる」
と言うと、ナルがうなずいた。
「……気をつけて」
霧がふと深くなる。
「そこは……」
ナルの姿がのみこまれる。声だけが霧の中から。
「……あれと同じくらい危険……だから……」
あたしはポンと眼を覚ました。同時にいきなり身を起こす。そばに座っていた綾子が振り返った。
「どうしのた?」
「起きる」
「ちょっと、いいの? まだいくらも寝てないわよ」
「うん。いいの。起きる」
あたしはベッドを降りる。床に足をつこうとしたら、グラッと眼がまわった。とたんにまた吐きそうになる。
「だから、ムリよ、まだ。おとなしく寝てなさい」
ダメだ。、これは。あたし、立てない。
「綾子」
鬼火。孵化する。そしたら誰も手出しできない。
「印刷室に行って」
「……ちょっと」
綾子は怪訝そうだ。あたしはうなずいてみせる。寝とぼけてるわけでも、うわごとを言ってるんでもない。
「ジョンと安原さんが行ったの。あそこは危険なのに。だから、行ってふたりを止めて」「ちょっと、麻衣……」
綾子は言ってから、気おされたようにうなずいた。
「わかった。行くわ」
うなずいてから、綾子は不安そうな顔をする。
「ひとりになっても、だいじょうぶ? 退魔法を使えるんだったね?」
「――うん」
「なに? 九字? 不動明王呪?」
「不動明王の印を結ぶやつ」
「じゃ、これを覚えて」
綾子が片手で剣印をつくる。
「こう。いい? 臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前」
綾子は手を横、縦と交互に動かす。空中に格子縞を描くように。その真ん中をポンと剣印で祓って、
「……九字よ。覚えた?」
「うん。横が先ね? 覚えた」
「不動明王呪を唱えたあとにやりなさい」
「うん」
あたしはこわばる顔で笑ってやった。綾子は心配そうにあたしを見てから、保健室を駆け出していった。
3
あたしはグッタリとなって、ベッドに身を沈める。頭が痛い。めまいがする。吐き気と……。
……さて。
クラクラする頭をこらえて、あたしは部屋に気配を探る。
ここは印刷室と同じくらい危険。
息を整えていると、ふいに保健室の明かりが消えた。
……来た。
「なにをして……遊んでくれるのかなぁ」
この部屋はたしか……。あたしは首をまわして奥のほうにならんだベッドを見る。窓から街灯の明かり。白く布団が光をはじく。
ドキンと心臓がなった。奥から二番目の……あたしのベッドから三つ奥の……ベッドに誰かが寝ていた。布団が人の形に盛り上がっている。
「でたな、化け物」
すごい。あたし居直ってる。ホルマリンで頭のどっかが壊れたのかもしれない。
あたしはゆるゆると身を起こす。
奥のそいつも、ゆるゆると身を起こした。
空気が歪むのがわかった。空気、気配。そんなもの。それが歪んでねじれる。
ぼんやりと白い布団の下に何か黒いもの。
あたしが身を起こす速度で、そいつも身を起こす。
あたしはベッドの上に起きあがった。そいつはベッドの上にうずくまる。
あたしは手を組む。今度は忘れない。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
布団の下の黒い身体が盛り上がる。ドォーンと地の底から、低い深い音がした。
やつの身体はベッドほども大きくなってる。ふたたび、地の底から地響きのような音。それはふたたびゆっくりと身を起こし始めた。生臭い臭気が部屋に満ちる。黒い。ただ黒い影のようなもの。輪郭はない。ただ大きいのだけがわかる。
三度真言をくりかえし、あたしは指を組み返る。剣印を結ぶ。そいつに突きつける。
「臨」
横に空を切る。
「兵」
縦に。
「闘」
手を動かしたとき、ドンッとベッドが揺れた。あたしはベッドから放り出される。床に叩きつけられてしたたか腰を打った。
足元から冷気がはいあがってくる。ねっとりとした、氷のような空気。やつはベッドを降りる。大きな背中にまとわりついてた布団が落ちた。身体を沈めると、もう闇にとけて見えなくなる。
……どこ?
あたりを見まわしながら、あたしは床に座ったまま戸口のほうへにじりよる。
……どこ……?
部屋に広がった薄闇。もう何の姿も見えない。手を後ろ手に、ドアを探る。ドアの堅い手触りを頼りに、そろそろと立ち上がる。ドアを開けようとしたとたん、ふたたび部屋が大きく揺れた。床を踏みしめそこなって、その場に転ぶ。
同時に、ドォンという身体を震わすような衝撃音がした。身体がふっと宙に浮く。えっ、と思う間もなく、落下して床に叩きつけられる。
あたしはうめきながら身を起こす。周囲に眼を配りながら、できるだけ素早くもう一度ドアに手を伸ばす。
ガリッと堅いものが手に触れた。ささくれだったコンクリートのカンジ。ドアの手触りはない。
え!?
思わず振り返る。
「あ……」
ドアはある。あたしの頭の高さに。部屋を振り返る。なんてこと。部屋一面の床が、床下まで落ちていた!
カリ……とささやかな音が部屋の角でした。
あたしは再び指を組み直す。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
口早に。
カリ……。カリ……。小さな音があちらこちらでもする。小さな生き物が床でもひっかいているような音。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン」
姿は見えない。小さななにか。近づいてくる。数が増える。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
サワサワと微かな音。近づいてくる。もうほんの近くまで。
あたしは指を解くなり剣印を結んで横になぐ。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、烈、在、前」
横に立てに横に縦に横に――。
剣印を見えない何かに振り下ろす。
「消えろーっっ!」
ドンッと部屋が身震いして、はたと音が途絶えた。気配が消える。いまだ!
あたしは飛び上がってギザギザした壁に足をかける。力任せにドアを開けると、柱に手をかけて壁をけった。そのとたん、なにかに足をつかまれて再び床に叩きつけられる。
……いたいっ!
だめだ! あたしなんかじゃ。自分が逃げるスキも作ることさえできない。
そこに誰かの足音が届いた。
「助けて!」
「麻衣!?」
ナルの声!
ちぎれた床の断面に背をつけて、あたしは叫ぶ。
「ナル!」
「どうした!?」
「気をつけて!」
あたしの頭上でドアがあいた。人影が飛びこんできそうになって踏みとどまる。
「ナルっ!」
あたしは見上げる。ナルは驚いたように部屋を見まわして、すぐにあたしのほうに手を伸ばした。
「来い!」
その手に向かって手を伸ばす。と、同時に何かに足をすくわれた。ナルの白い手に届かずにあたしは横転する。ナルが部屋に飛び降りてきた。あたしを引き起こし、壁におしつけ楯になってくれる。
「綾子は!?」
「印刷室」
あたしがナルの背中に答えたとたん、バタバタと足音がして、ぼーさんたちの声がした。
「なんだ!? 今の音は!?」
その声と同時に、再び部屋が揺れた。ナルともども床に投げ出される。床に転がったとたん、メキっと上で音がした。
パンッと何かが弾ける音。そうして振り仰いだあたしは見た。
天井が落ちてくる……!
「きゃぁぁっ!!」
眼を閉じる。思わず両手をあげた。鈍い激しい衝撃音。
そして、ふっと意識が途切れた。
4
頬の下に冷たい床の感触。ぱらっと何かが額をかすめて落ちる。
あたしは眼を開けた。真っ暗で何も見えない。背中に重み。暖かい。手にも足にも力が入らない。がんばって腕に力をこめるより先に、背中にかかった重みが消えた。
同時に降ってくる声。
「麻衣っ!」
綾子の悲鳴。
「……だいじょうぶだ」
あたしの顔のすぐ上でナルの声。顔をあげるとナルが身を起こすところだった。ドアから身を乗り出す
影。
「ナル!? 何があったんですか!?」
リンさんの声。
「天井が落ちた。床も落ちてるけど」
まるでなんでもないことのように答える。
「だいじょうぶなんですか!?」
「ああ」
答えながらナルがあたしを引き起こす。抱えるようにして上に押し上げる。あたしの腕をリンさんがつかんだ。そのまま引き揚げられて、廊下の床に降ろされる。身動きするたびにパラパラ何かの破片が落ちた。
うまく状況を把握できないで、ボーッとしているあたしの背中を安原さんが叩く。
「……ケガは?」
「……わかんない。ないと思う」
ほっと安原さんは息を吐いた。
ボンヤリ振り返ると、さしのべたリンさんの腕をつかんで、ナルが出てくるところだった。
「ケガはありませんか?」
「ああ。そんなたいしたことじゃない」
本当になんでもないことのように言う。ぼーさんが、
「そんなたいしたことじゃないって、天井が落ちたんだろーが」
「こういう建物の天井なんて、やわな板がはってあるだけだ。たいしたことない。――麻衣、ケガは?」
「だいじょうぶ」
綾子がナルを振り仰いだ。
「なんだって、こんなことまでできるのよ……」
震える声。
ナルは答えず、頭からかぶったほこりをたたく。ぼーさんがハンドライトで保健室の中を照らした。
きれいに壁の形どおりに落ちた床。そこをおおうように散乱している。天井に張ってあったボード。
「冗談じゃねぇぜ……」
ぼーさんがつぶやく。
「孵化したんだ」
綾子の手を借りて立ち上がりながら、あたしは思わずつぶやいていた。
「孵化ぁ?」
みんなが振り返る。
「うん。今までは眠っていたの。それが力を蓄え終わって孵化したんだ。
もうどうにもできないんだよ」
「麻衣、あんた、頭うってない?」
綾子があたしをかるく揺する。
「…………」
あたしは答えなかった。答える必要はないと思った。だって、あたしは知ってる。それが事実なんだから……。
歩き出しながら、ナルが溜め息をついた。
「いくらなんでも手に負えない。――学校を閉鎖したほうがいい」
ぼーさんがつぶやく。
「うんと言うかね、学校側が」
「この床を見れば、言わざるをえないさ。多少の分別があればね」
5
あたしたちは事務室に向かった。ナルはそこから、校長に電話をかける。
もう一回寝ろと言って、あたしは宿直室に連れていかれてしまった。ジョンと綾子、安原さんの護衛つきでむりやり布団の中に押しこめられてしまう。
しょうがないので、あたしは眠った。眠ってすぐに短い夢を見た。
そこは誰かの部屋だった。
六畳くらいの洋間で、机とベッドと、オーディオなんかがのっかった棚と、そしてぎっしり本が詰め込まれた本棚。
ひかれるように本の背文字を眼でひろった。『オカルト』『サイキック』『高等魔術の教理と祭儀』『神秘学概論』『憑霊信仰論』……。
オフィスの書棚みたいだ。難しい本がいっぱい……。
いったい、誰の部屋なんだろう。
部屋はきちんと整理されてた。まるで人が住んでないかのように。
あたしは机に近づく。学習机の上には学生鞄が置いてある。その脇にはこまごましたもの。フデバコやお財布。パス・ケース。
あたしはパス・ケースを手に取ってみる。開いてみると、中には十月で期限の切れた定期が入ったままになっていた。名前が読める。
――坂内智明……。
翌日眼を覚ましたのは、お昼を過ぎてからだった。眼を開けると、狭い宿直室に七人の人間が額を集めて難しい顔をしていた。ナル、リンさん、ぼーさん、ジョン、綾子、真砂子、安原さん。そこで初めて、あたしはその後の事情を聞いたのだった。
校長は、数人の教師を従えて学校に駆けつけた。彼らは床の落ちた保健室を見てさすがに顔色をかえたけど、それでも学校の閉鎖には頑として首を縦に振らなかったらしい。一緒に来ていた松山は、まるであたしたちが故意にやったんだと言わんばかりだったそうだ。
そのうえ、ナルたちを会議室に待たせると、教師たちを集めて緊急職員会議というものを始めてしまったのだった。
けっきょく朝まで会議をやって、出た結論が、「調査を打ち切ってお引き取りください」。
ナルが何度、学校は危険な状態であること、調査を続けなければさらに危険になることを言ってもダメだった。
「どうやら、教師どもは俺たちがなにかしたと思ってるらしいんだな」
ぼーさんが溜め息をついた。
「なにかって……まさか」
「いや、床を壊したんだろうとは言わなかったぜ、校長は。松山は近いことを言ってたけどよ。
校長自身はどうやら、学校で霊的に変なことが起こってるとわかっているらしい。ただ、俺たちが下手に手出しをしたから、かえって悪くなったんじゃねぇかって。どうやらしばらくは、ようすをみるつもりらしいぜ」
だってあんなに危険なのに。
「……そんな、馬鹿な……」
答える人はいない。誰が黙りこんでしまった。
じゃあ、どうなるの? 調査は終わり? 確かに学校で成長している、あの霊たちはどうなるの?
「ま、進展きわまれり、とはこのことだ。
依頼を打ち切られてしまえば、俺たちは学校には入れん。どうしようもない」
ぼーさんの声にナルは唇をかむ。
「あれは、危険だ……あれを放っておくのか」
あたしはなんなくと口を開いた。
「それに……、このままいくとどうなるわけ?
やっぱ最後にいちばん強い霊が残るわけでしょ?」
「――なんて言った?」
ナルに見返されてあたしは意味もなく身構えてしまう。
「……だから」
「だから?」
「このまま霊が減って……というか、食い合っていったらどうなるのかしら、って。
最後に残った霊は強力すぎて、もうあたしたちじゃ、逆立ちしてもかなわないかもしれないでしょ?」
「食い合って、最後に残った霊……?」
ナルが愕然とした表情を作る。
「――どうしたの?」
険しい眼。
「……なんてことだ……。もしかしたらこれは……霊を使った蟲毒《こどく》だ……」
「こどく?」
その言葉を聞いたとたん、リンさんまでがハッとした表情を作る。
キョトンとするあたしたち。
「つかぬことをうかがいますが……」
「無知」
「申し訳ありません」
「蟲毒というのは、呪詛の一種だ」
あたしは思わず腰を浮かす。
「呪詛ぉ!?」
「そう。呪詛には人形を使ったもの、呪符を使ったもの、いろんなタイプの方法があるが、その中に生き物を使う蟲毒という方法がある」
ナルは指先で畳を叩く。
「伝承はたくさん残っているが、実際のところは知らない。たぶん、ほとんど現存しないのだろう。中国に伝わる古い呪法だ。
蟲毒に使うのは普通昆虫。金蚕《きんさん》という虫が代表的だが、これが実際に何という昆虫なのかは確かじゃない。他にもヘビやガマ、ムカデなんかを使う。
これらの虫をつかまえてつぼの中に入れ、土の中に埋める。何か月かして掘り起こすと、虫は共食いをして一匹だけが残っている。その残った虫を使う呪法だ」
「残酷……」
「――うん。
一説にはその虫を殺して魂を使うとも、その虫から毒を取るともいう。その虫は呪法を使った者の家にとりついて、その家に莫大な財産をもたらしてくれる。
そのかわり……その虫に、定期的にひとりの人間を殺して与えなければならないんだ。それを怠ると、虫は主人を食い殺す」
げ……。
「虫を養うことができなければ、その虫がもたらしてくれた財産に利子をつけて金製銀製の品物に代え、道に捨てる。これを嫁金蚕《かきんさん》と言うんだが。
金銀に眼がくらんでそれを拾った者は、その虫を養わねばならない。
えてして拾った者はその意味をわからずに拾うから、けっきょくは虫に食い殺されてしまう。
それでこれを呪札にも使った。蟲法をおこなって、その虫を多少の金銀とともに憎い相手に送りつける。相手は意味がわからず、虫を養うことを怠って食い殺されてしまう。
そもそもの形は、こうだったはずだ。これが後に、猫鬼《びょうき》――猫を殺し、その魂を使って人を呪う呪法――と融合して、生き残った虫を殺し、その魂で憎い相手を殺す邪法になった」
「ちょ……、ちょっと待ってよ。
つぼの中にいれて共食いをさせる……んでしょ? それって、今学校で起こってることと同じじゃない!」
「だから、蟲毒だと言っている。
緑陵高校のある場所は、もともと古い墓地だった。最近の墓地はともかく、古代の墓地は死者の霊がさまよい出てこないよう、いわば結界がはられていた神聖な場所だ。
そこに霊が呼びこまれて出られなくなった。つまりは学校に閉じこめられているわけだ。そこで霊は食い合いをしている。蟲毒とまったく同じ」
……背筋が寒い。これは恐ろしいことだ。
「……じゃ、このままいくとどうなるの?」
「最強の霊が残る」
「それで?」
ナルは闇色の視線を中にさまよわす。
「……わからない。
もしこれが、だれかが意図的にやっていることだしたら、最後に残った霊は呪詛の道具として使われる。呪われた誰かがむごたらしい方法で死ぬだけだ。ただ……」
「ただ?」
「もしも、これが偶然に起こったことだとしたら、――たまたま学校が霊的に閉ざされた場所だったために起こったことだとしたら、何が起こるかわからない」
ぼーさんが低い声をあげる。
「蟲毒で使う虫は、食わせてやらなきゃならないんだろう?」
「おそらく」
「だったら、最強の霊が残ったら、それがとりついた学校は、やはり食わせてやらなきゃならないんじゃないかの? ……定期的に人間ひとりを」
「ちょっと! やめてよっ!」
綾子が悲鳴をあげる。
「それができなきゃ、主人が食われる。この場合、主人は誰だ?」
霊を集めたのは学校じゅうの生徒たちだ。まさか……。
ナルが静かに答える。
「霊を呼んだ学生全部だろうね」
そんな!
あたしはナルをのぞきこむ。
「ねぇ、何とかする方法はないの!?」
「できるだろ?」
ぼーさんも、ナルを期待をこめた眼で見る。
「僕にはできない。でも……リン?」
ナルはリンさんを振り返る。
みんながその視線を追うように、いっせいにリンさんを振り返った。
「リン、できるか?」
この状況をなんとかできるか。
リンさんは少し首をかたむける。
「蟲毒というのは、すでに失われたとされている呪法です。わたしも今まで、蟲毒には出会ったことがありません。
この蟲毒が呪詛として行われているのなら、それは単なる呪詛と同じです。打ち破るのは簡単ですが、偶然に起こった蟲毒だということになると、わたしでは役にたたないと思います」
淡々と何の感情もない声で、リンさんは言ってのける。
「リン……」
さすがにナルも困った表情だ。リンさんは首を振る。
「蟲毒の害をまぬがれる方法はありません。唯一の方法が」
「嫁金蚕《かきんさん》」
「はい」
「つまり……他人に転嫁するしかないわけか」
「だと思います。誰かに転嫁してもよいのですか?」
だれかに霊を押しつける。それしか方法がない。……そんな。
ナルはリンさんを見上げる。
「まだ共食いが終わったわけじゃない。勝者は決定していない。つまり蟲毒は完成していないんだ。今ならなんとかできないか?」
リンさんは無表情に首を振った。
「どうにもなりません。作用しはじめた呪法を、途中で止めることはできません。
呪詛というのは、最初からやらないか、最後までやってしまうか、どちらかしかないのです。絶対に引き返すことはできません」
ナルが長い溜め息をつく。
「申し訳ありませんが、ナル。もしこれが蟲毒を利用した呪詛ではなく、偶然の産物だとしたら、とる方法はふたつです」
「誰かに転嫁するか、それともあきらめて霊を養うか」
「はい」
霊を養うって……そんなこと、できるわけないじゃない! 定期的にひとりの人間を殺すって!? 冗談じゃないっ!
だからと言って、転嫁もできない。だれかに押しつけるなんて。
あたしたちは絶望的な気分で押し黙った。
ナルがやがてキッパリと顔をあげる。
「まだ蟲毒だと決まったわけじゃない。
誰かが呪詛をおこなっている場合が残っている。これが呪詛なら、リンが始末をつけられる。……ギリギリまで調べてみよう」
ナルはあたしたちを見渡す。あたしたちは、力をこめてうなずいた。
五章 それを見ていた
1
ナルは、もう一度校長を説得するためにひとりで部屋を出て行った。せめて時間をかせがなければ。調査を打ち切られ、学校が閉め出されてしまったら、あたしたちにできることはなくなってしまう。
その間にあたしたちは額を寄せ合う。何か、解決の糸口を見つけないと。
「調べるはいいが、問題はどうやって、なにを調べるかってことだよなー」
ぼーさんが、ぼやく。
「学校に入れなくなったら、お手上げだよなぁ」
「言えてる」
綾子も溜め息をつく。
「どーすりゃ、いいんだ?」
「ボヤいてないで、自分の頭を使いなさいよ」
「そういうお前こそ……ワリィ、綾子にゃ使える脳ミソはなかったな」
「ちょっと、それ、どういうことよ」
……あんたら、状況がわかってんのか? 仲よくケンカしてる場合じゃないでしょーが。
ぼーさんは、軽くうなるようにして考えこんでいたけど、
「もう一度、事情を整理してみよう」
言って、腕を深く組み直す。
「夏休みが終わったころから、学校でコックリさんがはやった。――これが始まりだ」
綾子があとを次ぐ。
「呼び出された霊が校内にまんえん」
「学校がたまたま霊的に閉ざされた空間だったために……」
安原さんのあとをジョンが次ぐ。
「霊同士が食い合って、蟲毒の状態になってしもたんですね」
……伝言ゲームか、これは。
「やっぱなー」
ぼーさんが頭をかきむしる。
「なぁんか、おかしいんだよなー。そんなに霊を呼び出せたことじたいがさ。
そんなはずはねぇんだよ。霊能者でもない人間が一万や二万の降霊術をおこなったからって、食い合うほども霊を呼べるもんか。
絶対そこにはなにかあるはずなんだ。簡単に霊を呼べたわけが。……ってこれはナルが言ってたんだっけか」
緊張感の持続しないヤツ。
「ねぇ」
あたしはちょっくら聞いてみる。
「ヲリキリさまって、すごく変わってない? あたし、ああいうコックリさんは始めて聞いたよ」
ぼーさんはうなずく。
「ああ、俺も初めてだな」
「キューピットさん、とか権現さま、っていうのはよく聞くんだけどねぇ」
綾子も首をかしげる。
「でもまぁ、呼び方なんて……」
「ちがうっ、やり方も変わってるでしょ。
……あ、そうか、綾子は実際には見てないんだ、あの紙」
「紙ぃ!?」
「うん。ヲリキリさまの紙。
五十音があって、数字あって、『はい』と『いいえ』があるとこまでは普通なの。
ホラ、コックリさんだと真ん中に鳥居を書くでしょ? ヲリキリさまはそのかわりに、変わったマークが書いてあるんだ」
「へぇー。どんな?」
「んー。よく覚えてないなぁ。複雑な模様。文字をねぇ、丸く書いて……『鬼』っていう字で、ちょっと気味が悪かったな」
「ふぅん、変わってる」
綾子がつぶやいたとき、じっとあたしたちの会話を聞いていたリンさんが、いきなりあたしの腕をつかんだ。
「『鬼』ですって!?」
ちょっと問いつめるように聞いてから、あわててあたしの腕を放す。
「なんだ、どうした?」
ぼーさんが怪訝そうな顔をした。
「どんな模様でしたか? できるかぎり詳しく思い出してください」
「……覚えてないよぉ。――そだ、安原さんはどうです? やったことあるんでしょ?」
安原さんも考えこむ。
「僕も一度やっただけだからなぁ……」
言いながらも、そのへんに散らばっていたメモ用紙を手に取る。
「ええと、『鬼』っていう字を丸く書くんです。でもってその中に格子縞《こうしじま》がふたつ……」
安原さんは考え考え絵を描く。
『鬼』という字を円形に並べて、その中に四角い升目《ますめ》をふたつ。真ん中に人の形。
「中に字が書いてあったんだけど……よくわからないな」
あたしに見せる。
「うん……確か、そんな形だったよね」
リンさんはすこし眼を見開くようにして、やがて低い声を出した。
「……この紙が手に入りませんか」
「そのへんの学生をつかまえておどせば、言うことを聞くヤツもいると思いますけど。――どうしたんですか?」
リンさんは答えず、安原さんが放り出したマジックをつかむと、きちょうめんな手つきで文字を書きつけ始めた。
「安原さん、それはこういう形ではありませんか?」
……これだ。
「そうです。ここと、ここに……」
安原さんは人形の両脇の空白を指さす。
「文字が書いてあったけど」
それはなに?
「ヲリキリさま……と言っていましたね。
それは呪文からきているのではありませんか?
『をん、をりきりてい、めいりてい、めいわやしまいれ、そわか』……」
「あ、それです!」
「そして、使い終わったらどこかへ埋めるとか」
「そう。たしかそんなこと言ってたな。一回しか使えないんだって。終わったらちゃんと神社に持ってかなきゃいけないとか」
「神社……」
リンさんは小さくつぶやくように復唱したあと、安原さんを見据える。
「その神社がどこだかわかりませんか?」
「詳しくは……でも、近くに神社はひとつしかないから」
あたしはふと窓の外に眼をやる。あの樹が生い茂った場所は神社だ。夢で見た。濃い霧の……。たぶん。
「連れていってください、早く」
……ちょっと、リンさん!
「おい、リン」
ぼーさんの静止の声にも構わない。
リンさんは安原さんをひきずる勢いで、宿直室を飛び出した。
2
けっきょく全員でついていって、小さな神社にたどりついた。
あたしは驚く。
……夢で見たのと同じだ……。
黒ずんだ木の鳥居。しおれた旗をあげたお稲荷さん。ゆがんだ瓦屋根の小さな本殿。ただ……あの深い霧はないけれど……。
リンさんはまっすぐお稲荷さんに近づく。小さな小さな祠のまわりをまわるようにして、何かを調べる。
石を組んで台座を作り、その上に木で作った小さな祠をのせてある。その前に置いたお賽銭箱まで小さくてかわいらしい。
リンさんは、ぐるりと見てまわったあと、
「こっちではない」
つぶやいてから、今度は本殿のほうに向かう。一段高くなったお社の床下をのぞきこんで、
「ブラウンさん」
ジョンを呼ぶ。
「すみませんが、わたしでは入れない。この床下に入ってみてください」
床下は犬か猫でも入らないように、一面金網でおおってあった。正面の階段の陰の部分に小さな穴。一メートル九十近いリンさんでは、まず潜りこめない小さな穴。
ジョンはうなずいて中に潜りこむ。きっとドロだらけになるね、かわいそ。
「何かありませんか?」
リンさんの声にジョンが答える。
「紙がありますです。……ぎょおさん」
「一枚でいい、持ってきてください」
すぐにジョンがはい出てくる。ケホケホ軽く咳をして、握った紙をリンさんに差し出す。
「これです」
リンさんはくしゃくしゃになった紙を開く。そして、
「やはり……」
低い声でつぶやいてから、リンさんは紙をあたしたちに差し出す。汚れた紙。真ん中にマーク。五十音。
「……これ!」
「これがヲリキリさまの紙ですか?」
あたしとぼーさんはうなずく。安原さんも、
「まちがいありません。……あの、これが……?」
なんでこんなとこに埋めてあるんだろう?
リンさんの無表情な横顔。
「狂わすには四つ辻……」
「え!?」
「殺すには宮の下」
……なに!?
リンさんはまっすぐな眼を向ける。
「これは呪符です。神社の下に埋めてあるからには、人を呪い殺すためのもの」
…………。
耳鳴りがした。
なんだって? 呪い殺す?
大急ぎで学校に戻り、ナルを探す。会議室に戻ってくるところをつかまえた。校長はうんと言わなかったらしいけど、今はそんなこと、問題じゃない。問題は、あの紙。
「呪符?」
ナルの声にリンさんがうなずく。
「はい。これを十字路に埋めれば人を狂わせ、神社の下に埋めれば殺すことができます」
ナルは考えこんだように、指先で机を叩いている。リンさんはその横顔に向かって言葉をつなぐ。
「誰かが……この呪符をコックリさんの道具だといつわって広めた……。何も知らない学生たちは、すすんで呪殺に手を貸していたんです」
ナルの低い、どこか鋭い声。
「確かか」
「はい。作ったのも呪法をおこなったのも素人だからよかった。わたしなら、これ一枚で殺してみせますよ」
……ぞっ……。
「すると……」
ナルはあたしの手から紙を取りあげる。
「何も知らない生徒たちは、それとは知らず、毎日のように呪符を作って呪殺の儀式をおこなった。……。たまたまこれが降霊術の道具として使われたために、霊が集まり……その結果、霊同士食い合って、蟲毒の様相を呈してしまった……」
「はい。そういうことだと思います」
「蟲毒が完成したらどうなる」
「この人物は死にます」
……誰だろう? その呪殺の対象となった人物は?
「死ぬのは誰かな」
「マツヤマ・ヒデハル氏です」
……まつやま?
「松山ぁ!?」
あたしたちはいっせいに声をあげた。
まさに、ちょうどその時だった。あたしたちの声に答えるように、松山が会議室に姿を現したのは。
3
松山は驚いたように立ち止まり、それからあたしたちを見渡す。
「なんだ、その無礼な呼び方は」
全員が松山を見る。もはや怒っている場合じゃない。
松山もう一度あたしたちを見渡し、それからナルに向かって、
「帰る準備はすんだか?」
そう楽しそうに聞いた。
ナルは表情を変えない。
「申し訳ありませんが、席をはずしていただけませんか?」
「なんでだ? またよからぬ相談か?」
……こいつっ! そんなことを言ってる場合じゃないっつーのにっ!
「先生はお聞きにならないほうがいいと思います」
「ほう。なぜだ?」
ナルが静かに、紙をあげる。松山にそれを示した。
「……なんだ、それは」
「呪符です」
「呪符だぁ!?」
「先生は学内で、コックリさんが流行していたことをご存知ですか?」
松山は口を曲げる。
「もちろんだ。馬鹿な生徒を何人かつかまえたことがある」
「これはそのコックリさんに使われていた紙です」
「呪符じゃないのか」
「呪符だと申しあげました。誰かがこの呪符を、新式のコックリさんだといつわって広めました」
松山は不服そうに鼻をならす。
「それで?」
「これは呪符の中でも、呪殺に用いられるものです。人を呪い殺すためのもの。そして、呪殺の対象は……松山先生だと思われます」
松山の顔が一瞬でこわばった。ナルはリンさんを振り返る。
「……そうだな、リン?」
「はい」
「その理由は?」
ナルに聞かれて、リンさんはヲリキリさまの紙を広げた。ぼーさんに向かって、
「滝川さん、梵字は読めますか」
「……あ、ああ、たぶん」
リンさんは中央のマークを示す。人形の右脇に書いてある。ミミズののたくったような字を指で示す。
「ここには呪う相手の名前を書きます」
「……なるほど……松山秀晴としか読めねぇや」
松山は何かを口の中で叫んだ。顔色が悪い。リンさんはそれを完璧に無視した。
「べつにこれは梵字である必要はないのです。げんにこちら」
と、人形の左を示して、
「こちらには年齢を書きます、ご覧のとおり」
そこには「當歳伍拾参」と書かれている。
「ナル、読めますか」
「僕は漢字は苦手なんだが」
「今年五十三歳、という意味です」
「……確かに、そのくらいのお年のようだ」
そう言って松山を見る。いかがですか、と聞かれて、松山は首を縦に振った。
リンさんは続ける。
「このようにして漢字で書いてもよかったのです。むしろ、そのほうが正式ですし。しかし」
「松山、と明記してあれば、誰もが怪しむ」
「はい」
「それでわざわざ梵字を使ったわけか」
「だと思います」
ナルは暗い視線を自分の手元に落とす。もはや松山のことは眼中にないようだった。
「相手が松山……犯人は誰だ?」
……聞くまでもない。誰もがそう思ったはずだ。
「ヲリキリさまは美術部と一年生の間からはやり始めた。そしてこれは、誰もが簡単に知ることができるような呪法じゃない。よほどこういうことに興味のある人物でないと」
ナルのつぶやく声に、松山が突然大声をあげた。
「坂内か!? 坂内なんだな!」
……坂内くん。ゴースト・ハンターになりたかった男の子。そして死んだ……。
ナルはうなずく。
「だろうと思います。これが始まったのが、九月。二学期になってからです。はっきり流行し始めたのが九月の半ば。その頃、坂内君が死にました。彼はおそらく……自分で火種をまいて、それに火が着くのを見届けて死んだのだと思います」
夢を見た。屋上に坂内くんがいた。彼は楽しそうに言った。「見てる……」。
あれは……こういうことだったんだ……。でも、その坂内くんも、けっきょく……。
松山が悲鳴じみた叫び声をあげた。
「なんだってあの馬鹿は、こんなことをしたんだ! どうして俺に……」
安原さんが松山をにらむ。
「わかりませんか?」
「……何を……」
「本当に先生には、自分が選ばれた理由がわからないのですか?」
松山が黙りこんだ。
「坂内君は遺書を残しました。『ぼくは犬ではない』それが前文です。僕らは、学校が僕らを犬のように飼い慣らそうとしていると、知っていました。その代表は誰だと聞かれたとき、僕でも松山先生をあげます。あなたは学校の象徴だったんです」
安原さんに言われて、松山は顔を真っ赤にする。怒りの形相をあらわにした。
何かを怒鳴ろうとした松山を、ナルは無表情に押しとどめる。
「犯人がわかったところで、意味はありません。――そうなんだろう、リン?」
ナルの視線を追って、松山の青い顔がリンさんを見る。
「はい。もう呪法は動き出しています。呪者だろうと止められない。霊が食い合って蟲毒が完成する。それを待つだけです」
「どうにもならんのか!?」
松山が悲鳴をあげる。
さすがの松山も、そんなくだらない、とは言えなかったようだ。あたしたちは複雑な思いでうろたえきった松山を見た。
「解決策は?」
ナルがそっけなくリンさんに聞く。
「ありません」
「呪詛を返すことができるだろう」
……呪詛を返す?
「それは、できます。返していいのですか?」
ナルは考えこむ。
長い沈黙。
「……やむを得ない」
ナルは松山を見る。冷たい暗い視線。
「死んだからと言って心が痛む相手じゃないが、死ぬとわかって見殺しにはできない。
――呪詛を返す」
「……それを、お望みなら」
ナルは一瞬、暗い眼をする。
「そうだ」
松山が明らかにホッとした表情をした。
「ちょ……ちょっと待ってよ! 話が見えないっ!」
あたしは思わず叫んでしまった。
「どういうこと? ねぇ!?」
「麻衣」
ナルの低い声。
「『呪詛を返す』とは、呪詛を呪った本人に送り返すことを言う」
……うん。
「学校に残った霊は、どうやら四つ。あの中から勝者が決まる。
どれももう、僕たちの手には負えないし、僕も命をかける気にはなれない。
松山を見殺しにするか? 蟲毒が完成すれば、松山を待っているのは死だけだ。それもおそらく残虐な死」
……食い合う霊。そのうちもっとも邪悪な霊が残る。それが松山に向かって……。
「だめ。……そんなの、よくない」
「だったら、黙ってろ。他に異議のある者は?」
誰も答えない。誰だって死んでしまえと言えるわけがない。ましてや本人を目の前にして。
「そういうことだ」
ナルがリンさんを見上げる。
「はい」
松山が低い笑いをもらす。安心しきった笑い。自分がサギ師よばわりした人間に頼って、救われた笑い。カンに触るけど怒るようなことじゃない。
ナルはそんな松山を振り返る。
「そもそもの原因はあなたです。覚えておいてください」
ナルが厳しい眼をすると、松山は笑いひっこめて視線をそらせた。
ぼーさんが低い声できく。
「でもな、ナルちゃん。坂内は死んでんだぜ。死人に呪詛を返すなんてできんのか」
「死人に呪詛は返せないし、そもそも坂内くんは関係ない」
ナルは堅い声で言う。
「呪詛をおこなったのは、彼ではない」
その場がしんと凍りついた。
「呪詛を返せば、呪詛は呪者自身に返る。
それとは知らなかったとは言え、呪詛をおこなったのは学生たちだ」
――――。
なに? なんだって?
学生が呪者? 呪詛が呪者に返る?
呪殺の法が学生に返るの!?
部屋にいた誰もが叫び声をあげた。
「ナル……ちょっと……待って」
声がかすれる。
「そんな……それじゃ、みんなは……」
あたしの視線は自然、安原さんに向かう。青い顔をしたその人に。
「あの四つの悪霊が……ヲリキリさまをした人のところに返るの?」
ナルが振り返る。闇より深い視線に射抜かれて、あたしは身動きできなくなる。
「そう言ったはずだ」
「やめて! ナルっ!」
「なにを?」
有無を言わさぬ冷たい眼。
「呪詛を返すのを? 松山を殺せって?」
……そうは言ってない……。
「お前まで馬鹿になるなよ。
知らぬとはいえ、生徒は呪詛をおこなった。法では罰せられなくとも、これは殺人の手助けに他ならない。呪詛は彼らに返る。原因となったこの人はそれを後悔する。これでフェアと言うものだろう」
……そんなの、ちがう。なにか、とても歪んでいる。
「安原さん……わかりますか」
一度だけヲリキリさまに参加した安原さん。この人のもとにも呪詛は返る。
「……わかります」
うなずく顔は血の気がない。
「呪詛が返ったら、僕らはどうなるんでしょうか」
「呪者の数があまりに多い。力は分散され、効力は弱まるはずです。……理屈では。そうなるよう祈ってください」
……ちょっと待ってよ、そんな残酷な。
安原さんはうなずく。
「解決をお願いしたのは僕らです。それしか方法がないのでしたら」
「ありません」
「では、よろしくお願いします」
安原さんは青い顔にちょっと笑みを浮かべた。
そんな潔い。潔すぎる。
「松山は!?」
あたしは叫ぶ。松山がビクッと身体を震わせた。
「松山だけ守られて、他のみんなは守ってもらえないの!?
この人だけ安全圏にいて何の罰もなし!? そんなのズルいっ!」
「馬鹿か、お前は」
冷たい、冷たい声。
「誰だろうと、どんな人間だろうと、他人から殺されていい理由なんかない」
ナルの言い分は正しい。混乱したあたしの頭でもわかる。でも……。
「そうだよ。みんなだって殺されていい理由なんかない。安原さんだって! 一回しかしてないのに! 呪うつもりなんかなかったのにっ!!」
「誰でも、自分のしたことの責任は負わなければならないんだ」
「みんな知らなかったんじゃない!」
「無知は言い訳にはならない」
冷酷な声。吐き気がするほど綺麗な無表情。
「あたし……ナルなんて大っ嫌いだからね」
「馬鹿に嫌われるとは……光栄だね」
ゆるぎもしない冷酷な眼。
あたし、嫌いだ、ナルなんか。理は通っても情がない。嫌い、嫌い、嫌いっ!
ナルは影のようにひかえていたリンさんを振り返る。
「リン、準備を始める」
「はい」
4
ナルはリンさんを連れて会議室を出て行った。
残されたのはあたしたち。
いつの間にか夕闇が降りて、電灯をつけ忘れた部屋はたがいの表情が見えないほど暗い。
誰もが口をきかない。あたしだって何も言えない。
コソコソと松山が部屋を出ていったけど、何を言おうという気も起こらなかった。
……ナルは正しい。理屈としては極めて正しい。あたしたちに選べる道はいくつもない。その中から最善の……少なくともナルにとっては最善の道を彼はとったのだし、たぶんそれはまちがいではない。それがどんなに冷酷でも。
頭が納得しても心は納得できない。
みんな知らなかったんだ。誰ひとり、松山を殺したいほど憎んでたわけじゃなかった。
……なのに。
あたしはイヤだ。こんなのは認めない。認めることなんて、決してできない。
ナルを止めなければ。やめさせなければ。
あたしはこわばった足を動かして立ち上がった。
「麻衣」
綾子があわててあたしの腕をつかむ。
「あきらめな。しょうがないよ、もう」
「やだ」
「……やだって、あんたねっ!」
あたしは力任せに綾子の腕をほどく。そうして勢いあまったように駆け出した。
他に方法がないなんて言わせないっ!
絶対になんとかなるはずだ!!
「麻衣っ!」
「麻衣さんっ!」
声をのこして会議室を飛び出した。
「……いない……」
あたしは受話器を戻した。学校の近くの電話ボックス。
あたりをさんざん探しまわったけど、ナルの姿は見えなかった。駐車場に車がないのに気がついて、オフィスに戻ったのかと思ったのだけど。
オフィスに電話をしても何の返答もなかった。基本的に、あたしやタカは電話をとらないことになってる。何度もタカの家に電話をし、オフィスから戻ったタカをつかまえた。
『どうしたの? 調査、進んでる? たいへんだよ、事務所の前まで新聞記者とか来て。所長の言いつけどおり、ノーコメントで通してるけど』
何も知らないタカの無邪気《むじゃき》な声。
「タカ……タカ!」
ああ、そんなことは重要じゃないの!
『……どしたの、麻衣?』
タカの声が不安そうになる。
「ナルは? オフィスに戻らなかった?」
『ううん。戻ってないよ。そっちにいないの?』
「いない。探してるの。ナルを止めなきゃ……」
言葉が途切れる。……どうしよう。
『わかった。所長がいないのね?』
タカがキッパリした声をあげた。事情なんて、何も説明してないのに。
『つかまえたいのね? あたし、今からオフィスに行く』
……タカ。
『この際だ。あたし電話とるから。着いた頃に電話して。今夜は一晩じゅう、詰めてるから』
「……ありがとう」
もう一度あたりを探しまわって、時間を見計らって電話をした。ナルはオフィスに戻っていない。タカがいない間に戻ったようもないと言う。
こんなときに、せめて自宅の連絡先を知っていれば。
絶望的な気分で受話器を置く。見上げる目線の先に真っ暗な校舎。会議室に灯りはない。みんなはどこに行ったんだろう。
あたしは夜の学校を見上げる。外灯に照らされた巨大なコンクリートの箱。点々とあいた暗い穴。所々に見える血のように赤い光は火災報知機のランプ。
「ナルを見つけなきゃ」
見つけて、止めなくては。
松山を見捨てろと言うんじゃない。誰だって死んでいいわけがない。
でも、他に方法があるはずだ。なきゃ、いけない。
あたしは電話ボックスを出て、校門に近寄った。冷たく光をはじく。鋼鉄の門扉。
「……残った四つの霊を」
門に手を触れる。
「除霊してしまえばいいんだ」
あいつらを消してしまえば。そうすれば。
あたしは腕に力をこめた。渾身の力で門をよじのぼる。上までのぼると一気に飛び下り、地面に足がつくやいなや、グラウンドを駆け出した。
5
表玄関が開いていた。あたしはそこから校舎に入る。
あたし、何も持ってない。あたしにできるのは、チャチな退魔法だけ。なにもできるはずがない。
「……でも、やってみなきゃ、わからない」
そうだ、やってみなきゃ、わからない。
あたしは真っ暗な廊下をヒタヒタと歩く。自分の足音が廊下にこだまして、誰かがつけてきている気分。
そんなの無視して、まっすぐ印刷室に向かった。ここに、まずひとつ……。
勇気を奮い起こしてドアを開く。
開いたとたん、めまいがした。
置いてあったはずの機材はない。そして、床一面にたまった水。暗い光をゆらめかす。 空気が歪んでいる。いきなり吐き気がする。
あたしは一歩、中に踏みこんだ。ズッと足が沈む。水を含んだスポンジでも踏んだみたいに。
印を結んで手を構えた。ド素人のあたしが、付け焼き刃の退魔法。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
とたんに、ザワッと部屋の中で人の気配がした。
真っ暗な部屋。廊下から入る微かな光でかろうじて見える。天井からしたたる水滴。部屋の向こう側の壁に、ほのかに浮かんだあたしの影。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン」
ゴボッ。陰を含んだ音が足元からした。床の上、部屋いっぱいに広がった水たまり。おそらく水深五ミリもないそこに、白い泡がたつ。まるで水の底にいる誰かが息を吐いたように。天井からしたたった水滴が、あたしの頬《ほお》にあたった。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、カン!」
不動明王印を放って剣印を結ぶ。
臨。――横に。
再び水滴。頬に額に。
兵――縦に。
ゴフッとすぐ足元で気泡があがった。水面が揺れる。部屋ごと揺すられているみたいに。
闘――横。
水滴が降る。雨のように。頬を髪を濡らしてすべり落ちる。足元が泡立つ。足が沈む。
者。――縦。
雨が降りかかる。肌をすべる水滴が生暖かい。ふわっと臭い。ねばっこい。
皆。――横
正面の壁に映ったあたしの影が、ふくれあがって動いた。あれはもう、あたしの影じゃない。微かな光を横切る水滴。間断なく降り注ぐ。
陳。――縦。
額に落ちた水滴がタラタラすべって、まぶたへ。ツッとまぶたをすべった瞬間、右目の視野が真っ赤に染まった。
烈。――横。
一文字に動かした手が夜目にも紅い。これは全部、この、糸をひくように降るものは全部、血だ! あたしは全身、血に濡れている。
在。――縦。
壁に映った影があたしを振り向く。低く身をかがめて身構える。ゴボッともう一度音がして、足元に白いものが浮上する。白い人間の顔。鼻先だけを水面に出して。
「前!」
剣印を振り下ろす。
「消えろーっっ!」
ザフッと床一面があわ立った。足元から臘のように白い人間が身を起こす。同時に壁に張りついていた影が壁から飛び立った。
あたしは足をとられながら飛び退る。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
もう一度。できるまで、何度でも!
あたしの肩先を、真っ黒なものが空を切る勢いで飛び過ぎる。目の前の視野いっぱいに、のっぺりした臘のような人影が立ちふさがる。部屋からあふれた血が、廊下へ流れ出ていく。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
ヌゥと目の前の人間が両手をあげた。おもわずまた一歩、後ろに下がる。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
逃れようとまた一歩下がったあたしの背後から突き出る手。後ろ!? 思う間もなく臘人形がのしかかってくる。
「臨!」
横一文字に空を切る。臘人形の胸が真一文字に切り裂《さ》かれてドウと落ちた。同時に後ろから伸びた手が、あたしの首をすくって引き倒す。
――ああ、だめだ! やっぱり、あたしなんかじゃ!!
倒れる自分の視野が、血で真っ赤だ。
激しい勢いで引き倒されて、あたしは廊下側の壁に叩きつけられた。息が止まる。
「オン、キリキリ、バザラ、バシリ、ホラ、マンダ、マンダ、ウン、ハッタ!」
ガリッと堅いものをひっかく音。金色の光が廊下の床に一本の線を引く。
「ぼーさんっ!?」
金色の法具で床に線を描いたぼーさんが、あたしを振り返った。
印刷室からあふれでてくる血。ぼーさんがひいた線。その細い傷の中に吸いこまれるように消えていく。崖を流れ落ちていくように。
有無を言わさず、ぼーさんがあたしの腕をつかんだ。そのまま抱えあげるように引き立てて印刷室の前を離れる。廊下の先には非常灯の碧光。その下になつかしい顔。
ジョン、綾子、真砂子。
あたし、怖かったよ。
放り出されるようにみんなのほうに突き飛ばされて、あたしは広げた綾子の腕の中に飛びこむ。綾子があたしを抱えたまま、床に転がった。
「この……馬鹿っ!!」
肩で息をしているぼーさん。あたしの前に仁王立ちになって。
「おまえ程度の退魔法で、太刀打ちできる相手かっ! そんなに死にたいのか、大馬鹿者が!!」
ぼーさんに怒鳴られて、あたしは縮みあがる。小さくなったあたしの背中を綾子がギュッと抱いた。
「……もういいよ。よかった、間にあって」
綾子の声があんまり優しいので、あたしは涙が出てくる。
「行きましょう。早く学校を出たほうがいいです」
ジョンがあたしと綾子を立たせる。真砂子があたしの腕の下に肩を入れた。きれいな山吹色の着物に赤いものがベットリとつく。
涙が止まらない。あたしは泣きじゃくりながら、みんなに抱きかかえられて暗い学校を出た。
4
ぼーさんの車で綾子のマンションまで連れていかれた。
ジャングルみたいに緑だらけの部屋に着くなり、風呂場に放りこまれた。鏡を見ると、血の池で泳ぎでもしたように全身が真っ赤だった。
頭からお湯をかぶって全身を泡だらけにして。お風呂場の中も、名前のわからない鉢植えだらけだった。綾子と観葉植物かぁ。なんだか似合ってない気がしておもしろい。
綾子が出してくれた服に着替えて風呂場を出ると、綾子は真砂子の着物のシミぬきをしていた。
「落ちついた?」
「……うん。ごめん」
綾子はシミぬきに使っていた布をジョンに渡すと、キッチンに立った。ホット・ミルクを作ってくれる。ちょっとお砂糖が入って、かすかにお酒の匂い。カップを渡してくれた綾子かも、床に座って煙草をふかしているぼーさんも血だらけだ。
綾子はバスタオルをとると、あたしの頭にかぶせてクシャクシャやる。
「寿命が縮んだわよ」
「ごめん」
「……ったく。短気で無思慮なんだからっ」
……うん。
「アタシたちにできないものが、あんたにできるわけないでしょーがっ」
……はい。
「麻衣さんのキモチはわかりますけど、あれはもうどうにもなりませんです」
ジョンが柔らかな声で言う。あたしは綾子にゴシゴシ髪をふかれながら、カップの中のミルクが揺れるのを見ていた。
「……とにかく、無事でよかったです」
ひょいとぼーさんが立ち上がる。
「悪ぃ、風呂借りるぜ」
「いいけど、汚さないでよね」
「着替えがあるとうれしーんだがなー」
「男物の服なんてあるわけないでしょ。毛布でもかぶってれば?」
「へいへい」
ヒラヒラ手を振るぼーさんは、頭からバケツで血をかぶったようなぐあい。
「ぼーさん」
あたしはその、真っ赤になった背中を呼び止める。
「ありがと。……ごめんね」
ぼーさんは笑う。すかさず綾子が、
「なにニヤケてんのよっ、ジェイソンみたいなナリで」
クスッとジョンがふきだした。たしかに、返り血を浴びた殺人鬼みたいだ。
「こら、麻衣まで笑うんじゃねぇ」
それでも、ぼーさんが風呂場に消えると、思わず大笑いしてしまったあたしたちだった。
グダグダつまらないことを話し合って(それは本当に幽霊も怪現象も関係ない、くだらない会話だった)、そのままいつの間にか寝こけてしまったあたし。
翌朝は綾子に起こされた。
「麻衣……行くわよ」
声をかけられて眼が覚める。
「学校?」
すでに身繕いをすませた綾子がうなずく。ぼーさんもジョンも真砂子も、すでに出かける準備ができていた。みんな、そもそも寝たんだろうか。
「最後まできちんと見届けたいじゃない。蟲毒が完成するまで、時間はあまりないと思う。だとしたらたぶんナルは、今日にでもやるはず」
「――うん」
あたしは重い身体を起こした。
ナルは呪詛を返す。呪詛をおこなった学生たちに……。
7
朝の、シンと静まり返った学校。
構内に入るなり、あたしたちは少し驚く。
「まったく、人の気配がない――」
ぼーさんが校舎を見上げた。まるで休日のよう。
「ナルはどこかしら」
綾子の声に、
「さてな。とにかく会議室に行ってみるか」
「教師に見つかったら、つまみ出されるんじゃない?」
「そんときゃ、そんときさ」
あたしたちはそっと玄関に近づく。玄関の脇には事務室。そこにも人影はない。
「どういうことだ?」
ぼーさんがあたりを見まわす。眼の前には体育館。ふいにそこに近づくと、下のほうにある明りとりの窓をのぞきこむ。
「……ここだ」
ひそかな声。あたしも身をかがめて中をのぞきこんだ。体育館の中には学生たち。どうやら全校朝礼の最中らしい。窓が閉まっているせいか、中の物音は聞こえない。整然と並んだ学生の姿が見えるだけだ。
「行きましょ、今よ」
綾子にうながされて、あたしたちは玄関にかけこんだ。
玄関脇の階段を上がって三階へ。会議室の前まで来て中をうかがう。そっとドアを開けてのぞきこむと、ナルとリンさんの姿が見えた。
「よぉ」
ぼーさんがドアを大きく開く。ナルは振り返って眉をひそめた。
「何をしにきたのかな?」
「どーゆー按配かと思ってさ」
「手伝ってもらうことはないんだが?」
「単なるギャラリーってやつだ」
「見せ物ではないんだがな」
ナルは溜め息をつく。リンさんは机に向かったまま、顔もあげない。机の上にはろうそくと金属でできた平らな鉢。その中には白い紙に漢字をかきつけたお札。香炉からは微かに不思議な香りのする煙がたなびいていた。背筋を伸ばしてイスに座ったままピクリとも動かない。その手にはまっすぐに金色の刀が握られている。
リンさんは呪詛を……このあまりに大がかりな呪詛を、呪者に返そうとしている。呪者。ヲリキリさまをやって霊を呼びだした全ての学生。……もちろん、安原さんも。
ふっとリンさんが息をついた。
あたしは意味もなく身体を震わせた。それがなんだか作業がひとくぎりした。合図に思えて。
「リンさん、やめて!」
あたしは思わず叫んでいた。
「お願い、ナル、やめさせて!」
ナルのピシャリとした冷たい声。
「まだそんな、馬鹿なことを言っているのか」
「馬鹿じゃない! 誰も悪くない! みんな松山を呪い殺そうとしたりしてない!」
ナルの冷たい眼があたしを見据える。
「出て行け。邪魔だ」
「やだっ!」
あたしはリンさんの肩に手をかける。
「お願い! リンさん、やめて!!」
リンさんは薄く眼を閉じたまま、身じろぎもしない。あたしの手をナルがつかんだ。
「出て行け」
「やっ! みんないるんだよ、体育館に。なんにも知らないんでしょ? 自分たちが何をしたか、自分たちに何が起こるか」
ナルが有無をいわさずあたしの手を引っ張って、会議室から引きずり出す。
「ナル、ちょっと、やめさないよ、乱暴な」
綾子が制す。その肩をも突いて、
「全員、外へ出ろ! リンの邪魔をするな!」
「ちょっと、ナル」
ナルは、暗い闇の色の視線であたしたちをながめわたす。
「全員、外へ出ろと言っている」
最初に真砂子が動いた。次いでぼーさんが。次にはジョンと綾子が。あたしはひとりでその場にふんばる。そのあたしの腕を抜けるほど引っ張って、ナルがあたしを会議室から引きずり出す。
「ナルっ! どうしてよっ! なんで松山は助けて、みんなは見殺しにするの!? みんな悪気なんてなかった、松山を呪う気なんてなかったのにっ!!」
あたしの言葉なんか、氷のような無表情で無視する。無理矢理外へ引きずって、部屋から放り出すとドアを閉めてその前に立ちはだかる。
「冷血漢」
ナルは答えない。
「みんなは何も知らないで呪詛に手を貸したかもしれない。松山を殺そうとしたかもしれない。でも、そのみんなを殺そうとしてる、あんたはなによっ」
無反応。
「人殺し。事件が解決できれば、あとはどうなってもいいんだね」
吐き気がするくらい綺麗な無表情。
「誰が死のうと泣こうと、どうだっていいんだね」
「麻衣」
なんの反応もないナルの代わりに、ぼーさんがあたしの肩を叩いた。
「もうよせ。しかたないんだ」
「しかたなくなんか、ないっ!」
もしも呪詛が返ったら、みんなはどうなるの? 岡村さんは、その友達は、荒木さんは、友達は、宮崎さん、友達、三−一の人たち。……安原さん……。
そんなこと、しちゃだめなんだ!
「……麻衣」
「いやっ!」
ナルはまったくなんの感情も浮かべない。平然とした声で、
「ぼーさん、麻衣を連れていってくれ」
「ああ。――さあ、麻衣」
「やだってば!」
身をよじるあたしを抱えて、ぼーさんは会議室を離れる。
いやだ、いやだ、いやだ!
こんなことしちゃ、いけない。ぜったいにいけない!
ぼーさんはあたしを階段まで連れていって無理矢理|座《すわ》らせる。
「ぼーさん、止めて! やめさせてっ!」
パンと軽く頬をぶたれた。
「ナルを信じろ」
……ぼーさん。
「ナルが俺たちの期待を裏切ったことがあるか?」
「……だって」
「あるか?」
「……ない……」
「だったら信じろ。だいじょうぶだ」
「でも」
「あの中には安原少年だっているんだ。俺が心配じゃないと思うのか」
ぼーさんの真剣な眼。あたしをのぞきこむ悲しい色。
「……うん……」
「いい子だ」
あたしは自分の膝に顔を埋めた。パタパタ落ちた涙が、スカートに染みて足を濡らした。あたしの頭をぼーさんがクシャクシャなでてくれた。
どのくらい、そうしてたろう。
ふいに背後でざわめきが起こった。人の気配。口々に話す声。思わず腰を浮かす。
振り返ると、ナルたちが廊下を曲がってくるところだった。
「終わったの? 本当に?」
綾子がナルに問い正す。
「ああ」
ナルの返答を聞くやいなや、あたしは階段を駆け下りた。
「麻衣!」
ぼーさんの声。立ち止まっていられない。
終わったの? じゃあ、みんなは? 体育館にいたみんなは!?
飛び下りる勢いであたしは階段を駆け下りる。玄関に飛び出すと、体育館に走った。後ろから誰《だれ》かが追いかけて来る足音。呼び止める声。
あたしは体育館にかけより、重い鉄製の扉に手をかける。力任せに引き開けた。
…………。
…………。
……これは……なに!?
あたしは呆然と体育館の風景に見入る。
体育館の床を埋めつくして整然と散らばる……人形の群れ。
「……だって、さっきは」
あたしはつぶやく。
だって、さっきは人間がいた。たしかに学生が並んでいた。
あたしは踏みこむ。足元の人形を拾いあげようとする。人の形に板を切って、そこに札をはった
人形。指でふれると、ボロリと腕の部分がもげて落ちた。
落ちた破片を、横から伸びた白い手が拾った。
「……ナル」
ナルはその破片を見つめる。すぐに視線をそらして、あたりの人形を確認する。
どの人形もどこかしら壊れている。そのように見える。
「ナル……これは」
ぼーさんがうわずった声を出した。
ナルがぼーさんにうなずく。
「人形を確認してくれ。壊れていないやつを集めるんだ」
「……ああ」
ぼんやりと、安心してもいいのかな、というように複雑な表情をするぼーさん。
「松崎さん、原さん、……麻衣」
「――はい」
「手分けして、壊れてない人形の名札を調べて電話してくれ。名札に名前が書いてある。名簿で調べて電話をして、安否をたずねる。事務室の電話を使ってくれ」
「……はい」
それと同時にぼーさんとジョンが、猛然と人形の群れの中に突っこんだ。
……まさか、これは。
いつかナルが使った人形。リンさんが作ったと言っていた。人に見立ててその身代わりとして使う。
人形に恨みをこめて釘を打てば、相手を呪い殺す道具として使える。そのかわり。
病気の部分におしあてて病気を移し、水に流して清めれば、病気を治す道具として使える。
身代わり……。
これが返った呪詛を、学生たちの身代わりになって引き受けてくれたんだ。
このおそらくは学生の人数分である、人形が。
8
事務室から電話をした結果、人形が無傷で残っていて、身体に異常のあった学生はひとりもいなかった。
「なにか異常はありませんか? ……ないんですね?」
あたしは、最後のひとりの学生の家に電話をかける。
「つかぬことをうかがいますが、学校ではやっていた、ヲリキリさまという遊びをしましたか? ――はい。ああ、やってないんですね。わかりました。ありがとう」
電話を切る。
真砂子と綾子があたしを見つめる。
「だいじょうぶだって」
綾子が手を打った。
「やった!」
ヲリキリさまを――呪詛をやった子に返るはずだった呪詛は、全部人形が引き受けてくれた。その結果人形はどこかしら壊れ……壊れなかったのは、呪詛にかかわらなかった学生のものだけ。
綾子があたしに抱きついてくる。
「よかった、よかったね、麻衣」
「うん……」
あたしたちは、おたがいをパタパタ叩きあった。
「どうでしたか?」
ジョンが事務室に顔を出す。
「だいじょうぶっ! 全員無事!!」
パッとジョンが顔を輝かせた。
「だいじょうぶですて」
やってきたぼーさんを振り返る。ぼーさんはうなずいて、事務室の中に入ってきた。胸になにか抱えている。
「麻衣……」
立ち上がって迎えるあたしに、ぼーさんは腕の中のものを差し出す。
どこかしら壊れた人形。名札が読める。「荒木梢」「岡村和美」「宮崎雅代」……「安原修」。
……みんなだいじょうぶだね。人形が引き受けてくれた。無事なんだね……。
受け取った人形をそっと抱く。あたしの頭をぼーさんがかきまわした。
あたしは事務室を飛び出す。
ナルはどこだろう。
体育館をのぞく、あたりを見まわす。
……いた。
ひとりでグラウンドをながめている。
あたしは駆《か》け寄る。
「ナル!」
振り返るのは、いつもどおりの綺麗な無表情。
「どうだった?」
「全員、無事。みんなヲリキリさまはしてないって」
「そう」
口元に微かに満足そうな笑み。
「人形が……身代わりになったんだね?」
「よく、わかったな」
……むっ。わかるとも、それくらい。
「今日、学校は?」
「校長にたのんで、休校にしてもらった。全員家に待機しているように言って」
そっか。
「よく校長がウンと言ったね」
「松山がこっちの味方をしてくれたからな」
……ナルホド。
「ね、人形が身代わりになるんだったら、松山の人形を作るのじゃいけなかったの?」
あたしはナルの脇に立つ。
「四つのものが一人に向かうのと、六百人に向かうのと、どっちが安全だと思う?」
……そうかぁ……。
「……言ってくれれば、よかったのに」
人形に転嫁……振り替えるつもりだったのなら、そう言ってくれれば。
「転嫁は難しい。いくらリンでも全員助かるとは断言できないからな」
「……だって」
あたし、ナルにひどいことを言った。あやまらなきゃ、いけない。嫌いなんて言ってゴメン。
……ううん。嫌いだ。あたし、ナルなんて嫌い。すこしもあたしのことを安心させてくれないとこ。言ってくれたらよかったのに。せめて、「できるかぎりのことはするから、信じてくれ」って言ってくれたら。何があっても信じていられたのに。安心していられたのに。
「……悪かった」
え?
ナルの横顔。とても綺麗な。
「ずいぶん酷いもの言いをした。すまない」
……ナル。
「麻衣はすぐ他人にのめりこむから……。つらかったろう、悪かった」
…………。
涙が出そうだ。大声で泣きたい。悲しいのかうれしいのか、自分でもよくわからない。
だから、ありったけの声を張り上げた。
「ずるいっっっ!!」
「……は?」
キョトンとするナル。
「あたし、あやまろうと思ってたのにっ! 先に言うなんて絶対にずるいっっっ!!」
「あのな……」
「ナルってば、そーやっていっっもオイシイとこばっかとってくっ! ずるーいっっ!」
「こら」
「だって、ずるいもんっ」
ナルはあきれたような顔をする。白い手がのびる。あたしのオデコをピンとはじいた。
そうして微かに笑うと、事務室のほうへ行ってしまった。あたしはその猫のようにひそやかな足音を、とてもあたたかい思いで聞いていた。
「……焼き捨てて浄化してしまいましょう」
リンさんが体育館の中に積み上げた人形の山を見つめる。ナルがうなずいた。
「そのほうが安全だな。――ぼーさん、頼む」
「あいよ」
あたしたちが人形を集めている間に、校庭の片隅でぼーさんが護摩を積み上げた。その上に人形の山を作る。
ぼーさんが火を放った。炎はすべてをのみこんで天を焦がすように見えた。
エピローグ
まいど、まいど、東京。渋谷。道玄坂。
『渋谷サイキック・リサーチ』。そのオフィス。――の下の喫茶店。
今日は慰労会なのだ。うちあげと言うか、かつてないほど厳しかった事件のぶじ解決を祝って。
ええ、いちおう、ナルとリンさんにも声はかけたんですけどね。来るわきゃないよなぁ。あのふたりが。
「今回の、がんばったで賞は麻衣かな、やっぱり」
ぼーさんの声に綾子が笑う。
「無謀でしたで賞、のまちがいじゃない?」
「言えてる!」
冷たい声を出したのは、タカと千秋センパイ。そして、安原さん。
「……あーんな無謀なことをするなんてっ! 麻衣ってばなに考えてるのっ!」
タカに怒鳴られ、
「そうそう。もうちょっと自分を大切に……と言うか、身のほどをわきまえて、と言うか……」
千秋センパイにお小言をくらい、
「ですよね。話を聞いて寿命が縮みました。あんなことをするとわかってたら、鎖でつないどいたのに」
安原さんにまで言われ。
「……あたしは犬か?」
言い返してみたら、全員の声。
「そうっ!」
……そんな、力をこめて言わなくたって……。
「麻衣ってば、身のほどをわきまえずに、誰にでも吠えかかるから」
綾子が言えば、真砂子が、
「あら、逆ですわよ。相手かまわずじゃれかかるんですわ」
「それは、言えてる。よくいるじゃねぇか。泥棒見ても吠えずに尻尾ふる、とほーもなく人なつこい犬」
ぼーさんってばひどい、しくしくしく。
そういえば、とジョンが安原さんを振り返る。
「……あの一年生の慰霊祭があったんですって?」
安原さんがうなずいた。
「ええ。全校で。……学校では、彼のタタリだってことになってますから。生徒会の主催でやって……やっと僕も引退できたし」
「そっか、安原少年は三年生のブンザイで生徒会長やってたんだっけか」
ぼーさんの言葉にちょっと不満気。
「そうですよ。入試のまっただ中なのに、もー。次の生徒会長候補がいなかったから。ま、なんとかなりましたけど」
あたしは聞いてみる。
「松山……なにか言ってきた?」
ワビを入れる、とかなんとか。
「なにも。でも、いちおうなにか考えてはいるんじゃないかな。慰霊祭のときもたいしてモンク言わなかったし」
「たいして……ってことは、ちょっとは言ったわけ?」
「言ってたよ。やっぱ、あの年になるとね、そう簡単に変わったりしないよ。なにがあろうとね。大人ってそういう生き物だから」
……うん。そうかもなぁ。
ぼーさんがストローの袋を安原さんに飛ばす。
「少年たちは、そういうオトナにならないようにしなさい」
「おや、もう大人のような口ぶりですね」
「老成したミリョクを感じるだろ?」
「そうですね(ハート)」
あのー、もしもし?
「ハートマークを飛ばすなよ、おめーは」
「うれしいでしょ(ハート)」
……うくく。ぼーさん、また安原さんに遊ばれてやんの。
「でも、安原少年、あのあとびびったろ?」
「ああ、呪詛を返すって言われたあと?」
「そ。潔いと言ってたけどさー。ここだけの話にしてやるから」
ぼーさんに言われて安原さんは天井をにらむ。
「でも、僕、信じてましたから」
「誰を?」
ぼーさんの質問。しんとみんなが安原さんを注目する。
「自分を」
……あらあらあら。
「――だってこの若さで死ぬほど悪いこと、した覚えないですから」
……ま、そりゃそうでしょうが。
「ここだけの話ですが、何があっても自分だけは助かるはずだという、確信がありました」
「……お前さんは長生きするよ」
「むろん、そのつもりです」
きっぱり言われてぼーさんが頭をかかえる。
ま、安原さんのほうが役者が上だわね。
笑ってると、つんつんと服を引っ張られて、タカが首をかしげている。
「麻衣は?」
「あたし?」
「だからー、最後に除霊に行ったとき。これで死ぬかもと思わなかったの?」
…………。
千秋センパイが、
「恐怖感に正義感が打ち勝った、というやつじゃないの?」
……あう。
「ちがうと思うな。谷山さんの場合……」
行ったのは安原さんだ。そして、申しあわせたように全員が、
「何も考えてなかった!」
――そうですともっ! あたしはなにも考えてませんでしたよっ! どーせ、身のほどを知りませんよーだっ。
ぼーさんの感心したような一言。
「ま、この中でいちばん長生きするのは麻衣だな」
「言えてるー」
「だよねー」
人をサカナにして笑ってればぁ?
はいはい。どーせあたしは長生きしますよ。
そうよ、長生きしてやる。核戦争が起ころうが、恐怖の魔王が降ってこようが生き延びて、長生きしてやるっ! 人類が滅亡してあたしひとりが生き残ったら、労せずして地球の支配者よっ!
夕陽を背に高笑いしてやるわ。
谷山麻衣、十六歳。カンが当たろうとどーしようと、あいかわらず地位の向上しない、薄幸の少女であった。
……ってか。
ちぇっ。
あとがき
ごっ、ごめんなさい!
なんと、いきなりおワビですだ。もうしわけありません。小野は……小野はみなさまにお返事が書けなくなってしまいましたーっっ。
ど……努力はしたんですよ。んでも、書いても書いても次のお手紙が来てしまう。ワープロを導入し、コピー機まで導入したのにお返事を書き終わらない。一度なんか、今たまってる分のお返事を書き終わるまで次のお手紙は読まないぞ、と決心したりなんかしたんですが、たまっていく一方の未開封のお手紙を前にして、決意はもろくもくずれ去ってしまった……。
かくて、たまりまくった未返信のお手紙に手を合わせつつ、小野は涙ながらに敗北宣言をする決心をしたのでした……。お返事を待っててくださったみなさま、本当にごめんなさい(ナミダ)←冷や汗マークです。
「お返事待ってます」とか書かれていると、もうしわけなくて涙が出てしまいます。さらにもうしわけないのは、返信用切手を同封してくださってる方、ああ、この切手の山をどうしたらいいのであろう……とほほ。
反対に「お返事はいいです」なんて書いてくださる優しいみなさま、そのお心づかいがうれしくて、でも、本当にそのお言葉に甘えてしまう自分が悲しい……しくしくしく。
デビュー以来文通みたくしてきたファンの方とか、果ては友達にいたるまで、最近めっきり返事が書けません。こんなわたしを許してください。
でも、みなさまのお手紙はしっかり読んでます。きちんと整理してあるんですよ。二度目にお手紙をくださった方もすぐわかるようになってます。怪談なんかの情報をいただいたぶんは、きちんと分類して整理しています。みなさま、本当にありがとうございます。でもって、本当にごめんなさい。
そおゆうわけで、小野は「あとがき」のイベント・アイディアを募集いたします。あとがきの中でこういう話をしてほしいな、とか、こういう質問に答えて、とかありましたらどうぞ教えてやってくださいませ。
そしてお願い。どうぞ、どうぞ、返信用の切手を同封するのだけはやめてくださいね。切手をいただいてお返事できないと、自分が泥棒《どろぼう》になった気がします……。
というわけで、ここからが「あとがき」の本番です。
みなさま、まいどありがとうございます。この本で初めてお目にかかった方、どうもはじめまして。
またまた本が出るの、遅《おそ》かったですね……。いいの、もういいわけはしないわ。みなさま、煮《に》るなる焼くなり、ワラ人形つくるなり、好きにしてください。(でも、あんましひどくしないで、プリーズ(ナミダ))
でもって、たくさんのお手紙をありがとうございました。イラストもパロディ小説もパロディマンガも(楽しかった(ハート))、オリジナルの小説も、アニメ・グッズも情報も、いろいろなプレゼントも、どうもどうもありがとう! バレンタインデーにはチョコレートまでいただいてしまいました。ありがとうございました。
そしてモチロン、たくさんの怪談も。みなさまに教えていただいた怪談は小野の財産です。本当にわざわざありがとうございました。――あ、怪談をお送りくださるみなさま、情報整理のつごう上、住所氏名を明記してくださるとうれしいな。どうかお願いします。
そして、いただいたお手紙の中で意外に多かった、小野に関するご質問にふたつばかりお答えします。
小野の誕生日についてのご質問が多かったんです。小野はクリスマス・イブの生まれです。――あ、誕生日がわかったからといって、プレゼントを送ろうとかそういうことは考えないでくださいね。何度も言いますけど、お客さまはみなさまのほうなんですから(お手紙くださるだけでうれしい(ハート))。
それと、「ファン・クラブはないんですか?」というご質問も多数いただきました。もうしわけありませんが、そんなものはありません。(あと、サインして、というのも多かったんですが、作家には芸能人のようなカッコいいサインなんてないんです。単に名前を書くだけ。作家というのはジミな商売なんですよ……あ、単にわたしがジミなのか(ナミダ))
それからそれから。メンバーについてのご質問も、たくさんいただきました。一番多かったのは「真砂子《まさこ》」が知っている秘密は何ですか」というやつですね。――これについては、お答えできません、あしからず。そのうち明らかにしますので、お楽しみに(ハート)。
さらに、「ナルと真砂子は兄妹じゃないの?」というご質問も多数いただきました。これについては……お答えしちゃおうかな。――違いまぁす。これに近いご意見で、「ナルと真砂子は親の決めた婚約者では?」というのもかなりの数ありましたが、これも残念ながらハズレです。
そして、ナゼだかとっても多かった「メンバーの誕生日を教えて」というリクエスト。
ど、どーするんですかぁ、こんなの知って。――そう思っていたら、数人の方から理由を教えていただきました。占いをするのだそうで……。そーか、そういう楽しみ方もあったのかぁ。ちょっと感動してしまった小野でした。
――というわけで、メンバーの誕生日です。
麻衣《まい》は七月三日、ナルは九月十九日です。ぼーさんが一月二十二日、ジョンは一月五日。リンさんが一月十一日、綾子《あやこ》が六月七日で真砂子が七月二十四日、――このようになっております(以前、一部の方々にお教えしたのと変わってしまいました。すみません)。
でもって、これも多かったんですよ、「各キャラの声は、どんな声優さんをイメージしてますか」というご質問。リクエストしてくださったみなさま、意見を聞かせてくださったみなさま、ありがとう。よくぞ聞いてくださいました!
多かったのはナル――佐々木望さん、ぼーさん――井上和彦さん、というご意見。ふっふっふ。キミたちは重大な見逃しをしているのだよ。わたしは……小野は、塩沢兼人さんの大ファンなんだーっっ!
思い起こせばあれは三作目、『悪霊なんかこわくない』が出た直後でございました……。友達と話をしていたのですが、そこで聞かれたんです。「蓮《れん》(副主人公の男の子)の声は誰《だれ》がいい?」わたしは即答しました。「塩沢さん」。「イメージじゃないなぁ。ちょっと大人《おとな》っぽすぎるよぉ。……じゃ、信《しん》さんは?」――「塩沢さん」――「……(ここでちょっと凶悪な沈黙)草《そう》さんは?」――「塩沢さん」。そうして彼女はキレてしまったのです。「じゃあ、なにかい!? 杳《はるか》(主人公の女の子ね)も塩沢さんなのかっ!?」――対するわたしの答え。「いいよ、それでも」。
そのあとしっかりバトーされました、はい。それで小野はムッカリきたわけです。だって本当に、いつも登場人物はみーんな塩沢さんの声をイメージして書いてたんだもん(女の子は除《のぞ》く)。それをイメージじゃない、とか言われるとフクレたくもなろーってもんです。
よぉし、それなら、塩沢さんの声にピッタリな男の子を書いてやろうじゃないか。――こうして、ナルの性格はあのように決まったわけなのでした。
したがってっ! ナルの声は塩沢さん以外は不許可ですよ。へっへっへ。
ぼーさん――井上和彦さん、というのはいいなぁ。梁田清之さんもいい。麻衣は安原めぐみさん。リンさんは小杉十郎太さんなんか、しぶくていいよね。速水奨さんでもステキだけど。綾子は島本須美さん(この意見も多かった)。真砂子は渡辺菜生子さん。でもってジョンは草尾毅さんをイメージしているのですよ、実は。
というところで、ここらで恒例と化した人気投票の結果を発表いたしませう。だれだれに一票、という感じで書いていただいてないので正確な数字はわかりませんが、今回もナルがトップです。二位が巻き返しをはかってきた麻衣。三位がジョン……もしくは、これはびっくり、リンさんでした。
そうそう、ナルや麻衣以外の人物も活躍させてください、というお手紙をたくさんいただきました。今回、リンさんはちょっくら活躍しましたね。次は誰かなー、っと。
おや、今回はあとがきが長いぞっ(本文も長いのに……)
みなさま、アニメの情報をありがとうございました。あれもこれも見てますが、今ビデオでエアチェックしてるのは『パトレイバー』と『桃伝』でもって『エクスカイザー』だっ! エクスカイザーはいいなぁ。すっかりはまってます。――おっと、そうだ。ラビも好きよ(ハート)。
さて、最後に、たくさんの方にありがとうを。
特に今回は、返事も出さないのに何度もおたよりをくださった方々に。
寂《さび》しい作業だと思うんです。なのにいつもおたよりをくださってありがとう。四回以上お便りをくださった方のお名前は全部覚えてます。そのうち何らかの形でお礼したいと思っているので、期待せずに待っててね。これからもよろしく。
それからそれから。今回お名前を貸してくださったみなさま、本当にありがとうございました。おかげさまで助かりました。
みなさんのご声援でこのシリーズも、折り返し地点までたどり着くことができました。いましばらくおつきあいくださいね。どうぞ、よろしく。
小野不由美
P.S.「紫のネクタイ」・「花子さん」について何かご存じの方、ご一報ください。