【悪霊がいっぱい!?】
小野不由美
プロローグ
真っ暗な部屋。青いペンライトの光がボウと浮かぶ。部屋全体を照らすにはあまりに小さな光。青い光に照らされて浮かぶのは、ペンライトを持つ女の子の顔だけだ。
おりしも外では雨が降ってる。どこかさびしい雨音に、低い女の子の声がかぶる。
「……これは前に、あたしの伯父《おじ》さんから聞いた話なの。
伯父さんがね、夏に友達と山に行ったの。で、ある山の頂上を目ざして歩いてたんだって」
彼女はちょっと言葉を切った。
「……それがね、その日は天気もよくて、山だって何度も来たことのあるところなのに、道に迷ってしまったんだって。
三時間くらいで頂上に着《つ》くはずなのに、いくら歩いても頂上に着かないの。
おかしいなぁと思って、それでも歩いて行くと、全然知らない尾根の上に出て、自分たちがどこにいるのかわからなくなっちゃって。とにかくもどろうってことになって、来た道を引き返したんだけど、しばらく歩くと同じ場所に出てしまうの。
何度歩いても同じ尾根に出てしまって、そのうち日も暮れて、しかたないからその場所でキャンプすることになったんだって」
誰《だれ》も口を開く者はいない。
「夜になって、たき火を囲んで話をしてたら、人の声がしたの。誰かが助けを求める声。伯父さんたちは、ふたりで探したんだけど、声の主《ぬし》は見つからないの。こっちから呼んでも返事はないし。
気のせいかと思ってすわると、また声がするんだって。今度は前より近くから、また探したんだけど、やっぱり誰もいないの。
何度もそれをくりかえしているうちに、声はどんどん近くなって、最後にはたき火のすぐ近くで声がするようになったんだって。息づかいや足音や、服がこすれる音まで聞こえるのに、誰の姿も見えないの。さすがに気味が悪くなって、伯父さんの友達が『なむあみだぶつ』って唱《とな》えたの。そしたら音がピタッとやんだんだって。
でね、その夜は眠れなくて、夜が明けるのをふたりで待ったの。したら、前の日には全然気がつかなかったのに、キャンプのすぐそばにケルンがあったのよ」
「けるん?」
「うん。山でね、人が死んだとき、その場所にお墓のかわりに石を積むの。それがケルン。
――そのケルンは、人の背丈ぐらいあって、絶対に気がつかないわけがないんだって。なのに、前の日、伯父さんたちは全然気がつかなかったのよ。
きっと死んだ人がさびしがって、伯父さんたちを呼んだんだろう……って。
伯父さんは、友達が『なむあみだぶつ』って言ってくれなかったら、あのあと、何が起こったんだろうね――って、今も言ってる」
祐梨《ゆうり》が口をつぐむと、あたりはしーんとして、雨の音だけがさびしい。
彼女は静かにペンライトの光を消した。
部屋の中に残っている明かりは、あとふたつになった。
「次、麻衣《まい》だよ」
恵子が闇《やみ》の中からうながす。
あたしは、ひと呼吸してから口を開いた。
「……これはあたしが、小学生のころに聞いた話なんだ。
ある女の人が、夜の道を家に帰ろうとしてたんだって。でね、それは秋のもう肌《はだ》寒いころで、途中でトイレに行きたくなったんだとさ。ちょうど公園にさしかかって、だから、公園の公衆トイレを使うことにしたんだ。
夜の公衆トイレって気味悪いじゃない? 明かりだって暗いし。
その人はいやだな、と思いながら、トイレに入ったのよ。そしたら、どこからともなく声が聞こえるんだって」
あたしは細い、震《ふる》えるような声をつくった。
「赤いマントをかぶせましょうか……」
「いやっ!」
誰《だれ》かが悲鳴をあげる。
「その女の人はびっくりして、あわててトイレを出ようとしたんだって。
でも、なぜだかトイレのドアが開かない。
ドアをゆすってるとまた声がするんだ……『赤いマントをかぶせましょうか……』って。思いっきり叩《たた》いたけど、ドアは開かないのよ。それで、三度目に声が聞こえたとき、その人は『いやです』って答えたの。そしたらドアがすっと開いたんだって」
誰もが口を開かない。聞こえるのは少し荒い息の音と、雨の音。
あたしは続ける。
「女の人はあわててトイレを出て、もうこわくてこわくてひとりでは帰れなくて、そしたら、巡回してるおまわりさんのふたり組を見かけたんだって。
それでその女の人はおまわりさんに声をかけて、事情を話して家までついてきてもらおうと思ったわけ。事情を言うとおまわりさんは、『それはチカンでもトイレのどこかに隠れていたんだろう。つかまえなきゃいけない』って言って、もう一回トイレを調べてみよう、ってことになったの。
トイレに行くと、おまわりさんは女の人に中に入るように言って、『また声が聞こえたら、はい、って言ってごらんなさい』って言うんだって。
それでその女の人はドアの外で待ってると、少ししてトイレの中から『赤いマントをかぶせましょうか……』っていう、気味の悪い声が聞こえたんだ。そうして、女の人が『はい』って答える声。そして次の瞬間にものすごい悲鳴が聞こえたんだって」
あわててトイレのドアを開けたら、そこには女の人が死んでたの」
雨の音。雨の音……。
「女の人は、まるで赤いマントかなんかをかぶってるみたいだったって。
血で真っ赤に染まってね。その体は、コンパスの針みたいなもので突《つ》かれたように、全身小さな穴だらけだったんだって……」
みんなが悲鳴をあげた。
「やだ!」
「いや!」
あたしは悲鳴をしりめに、ペンライトの明かりを消した。
残った明かりは、あとひとつ。
たったひとつ残った青い光に照らされて、ミチルが口を開いた。
「あたしはこの学校の話をするね……」
ミチルの白い顔に髪がかかって、そこに青い光。
「麻衣、旧校舎の話、知ってる?」
あたしを振り向く。あたしは首を振る。
「知らない。
旧校舎って、あれでしょ、グラウンドの反対側にある木造の建物。半分崩れた」
「……そう。
あれは、崩れてるんじゃないの。取り壊そうとして、あそこまでで工事がストップしちゃったの……」
「なぜ……?」
ミチルは幽霊《ゆうれい》みたいな笑顔をつくった。
「たたり……」
「たた――り?」
「そうよ。……そもそも……。
あの校舎を使ってる間、この学校には変なことが多かったんだって。毎年、先生が死んだり、生徒が死んだり……。おまけに、火事とか事故とか、本当にイヤなことだらけだったのよ……」
旧校舎、あれを見たのは入学してすぐだった。半分崩《くず》れた古い建物。割れたガラスや壁《かべ》にからまったツタ……。たしかに、気味の悪い建物だ……。
「新校舎ができたのが十年ちょっと前。
そのとき、旧校舎を取り壊そうとしたんだけど、工事を始めると不思議《ふしぎ》なことが起きるの。機械は止まるし、作業員は病気に事故。それでもムリに西側の壁を壊したとき、屋根が落ちたの。二階ごと。一階の部屋で作業をしていた人は、みーんな死んだわ……」
病気、けが、事故……。
「それで、工事はいったん取りやめ。長いこと西側がすこし崩れたままで、放っておかれたの。
それからだってイヤなこと続きだったわ。近所の子供が旧校舎の中で死んでいたり、中に入った先生が三日後に自殺したり……。
……体育館を立て直すんで、旧校舎を取り壊そうと工事が再開されたのが去年。でも、旧校舎の半分を壊しただけで中止になったの。前のときと同じよ。機械は壊れる。作業員は……」
……げー。
「一度なんか、工事のトラックが急に暴走して、グラウンドで体育の授業をしてるところに突っこんだの。あのときは、二人が死んで七人が大ケガ。新聞にも載《の》ったくらいよ」
……これは……イヤだなぁ。
ミチルは、低い声でさらに続ける。
「クラブの先輩の友達は、旧校舎で人影を見たって……。
白い人影が、旧校舎の二階から、のぞいてたんだって。夜、学校の近くを通って……ホラ、旧校舎の塀ぞいに道があるじゃない。あの道で犬を散歩させてて、視線を感じたんだって。振り向くと、半分壊れてる教室の窓に白い影が……」
「うそぉ……」
恵子が声をあげる。
「ホント。……で、その人影が、手をあげてね、手招《てまね》きするんだって。
それを見たとたん、旧校舎の中に行かなきゃ、って気になって、フラフラと歩き出していたんだって」
「そ、それで……?」
「それだけよ。歩き出したら、急に犬がすごい勢いで鳴き出して、それで我《われ》にかえったんだって。あらためて見たら、もう人影はなかった……って」
「ひゃー……」
「……消すよ」
ミチルが静かに言う。部屋の中はまた、しんと静まりかえった。
かすかに音がして、ミチルのペンライトが消えた。あたりは闇《やみ》と雨の音に包みこまれる。
恵子が闇の中でかすかな声をあげる。
「いち……」
声は震《ふる》えている。こうして怪談をしながら明かりを消していって、最後に数を数えると、ひとりふえると言う。ふえたひとりは霊なんだと。
祐梨の声。
「にぃ……」
あたし。
「さん」
ミチルの声は低い。
「し……」
あたしたちは全員で四人。五人めの声が聞こえるか。
あたしたちは耳を澄《す》ました。雨の音。雨の……。
「ご」
きゃああっ!!
あたりは悲鳴の渦《うず》になった。周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、阿鼻叫喚《あびきょうかん》。
な、なによーっ! 今の声はーっ!!
恵子たちがしゃにむに抱きついてくる。
「いやーっ、いやーっ!」
そのとき、パッと暗い明かりがついた。
部屋のドアの近くにある非常灯だ。
小さなグリーンの光の下で見える、無愛想な机の群れ。学校の地下にある視聴覚教室。
あたしたちが振り向くと、ドアのところに背の高い男のコがたたずんでいるのが眼に入った。
壮絶にキレイな顔。夜よりも暗い髪と、闇《やみ》よりも深い眼と。似合いすぎる黒い服。薄明かりの中、闇にとけこむようで、顔と手だけが月光のように白い。
制服じゃない。転校生だろうか。
恵子が声をあげた。
「い……、今『ご』って言ったの、あなたですか?」
「そう……悪かった?」
静かな、よくとおる声。
ミチルが浮かしかけた腰をおろす。
「あー、おどろいたー。腰がぬけるかと思ったぁ……」
「失礼。明かりがついていないんで、誰《だれ》もいないと思ったんだ。なのに、いきなり声がするから、つい……」
「そんなぁー! いいんですよー!」
恵子が黄色い歓声をあげて、
「転校生ですか?」
彼はすこし間《ま》をおく。
「……そんなものかな……」
なんだ、この間は?
「一年生?」
「……今年で、十七」
妙な答え方をするやつだ。
「じゃ、あたしたちより、一年先輩ですね」
そう言う恵子の声ははずんでいる。……こいつってば、メンくいだからなー。
たしかに見てくれはいい。背は高い。足も長い。再度言うが、顔もいい。
……しかしあたしは、なーんとなく不穏《ふおん》なものを感じた。単なるカンだけど、こいつとは気が合わない。カンだけどね……。
ミチルも、おとっときの笑顔をつくっている。
「こっちこそ驚かせてゴメンナサイ!
……あたしたち怪談をしてたんです」
「へえ」
彼は言って、それからわらった。
「仲間にいれてくれない?」
みんながうれしげな悲鳴をあげた。
「どーぞ、どーぞっ。すわってください」
ミチルが彼の腕を引っ張った。
「お名前は?」
「渋谷《しぶや》……」
恵子は、目がハート形になってる。
「渋谷先輩も怪談、好きなんですか?」
「まあね」
彼はわらった。
みんなはまた黄色い声をあげたけど、あたしはやっぱり不穏《ふおん》なものを感じていた。なんだろう、すごく気にくわない。
「渋谷さんとやら」
あたしが言うと彼はあたしのほう振り向いた。
ん? というように笑みをうかべる。あたしは思った。こいつ、ウラがある。眼がわらっていない。
「なんで、こんなところにいるんですか」
「ちょっと用事があって」
「では……それをすれば。あたしたちは帰りますから」
「えーっ!」
恵子とミチルの不満そうな声。おとなしい祐梨までがあたしの制服を引っ張る。
「もー、麻衣ったらー。気にしないでくださいね、センパイ。
あ、用事ってなんですか? あたしたちも手伝いまーす!」
「……いや、テープのダビングだから……」
渋谷センパイは、ふたたび口元だけに笑みをうかべる。
「本当は、急いでやらないとまずいんだ。
でも、今度怪談をするときは仲間にいれて」
「じゃ、明日の放課後!」
恵子がシッポを振る。
「うん。どこ?」
「あしたちの教室! 一−Fです!」
彼はわらって、うなずくように手をあげた。
「じゃ、あたしたち、失礼しまーす」
ミチルが妙にしとやかに立ちあがる。
「気をつけて」
「はーい(ハート)」
はしゃいだみんなの声、ホクホクした恵子たちと一緒に、ひとり釈然《しゃくぜん》としない思いであたしは視聴覚教室をあとにした。
一章 気圧低下
1
翌日はいいお天気で、校門ぞいの桜並木が白いトンネルみたいにキレイだった。
天気がいいと、あたしはなんとなく気分がよくなってしまう。朝、眼が覚《さ》めて、ポカンと晴れた空を見たとたん、急に元気な気分になって、いつもより早くに登校してしまった。
桜並木をくぐって、校舎のほうに歩きかけてから、あたしはふいに旧校舎を見てみたくなった。
校舎とはグラウンドをはさんだ向かい側にある旧校舎。木造の半分壊《こわ》れかけた建物。いやなウワサのある校舎。どこから見てもりっぱな幽霊《ゆうれい》屋敷。
ウワサは本当だろうか。
旧校舎を見あげて考える。
本当かもしれない。長い間ほうっておかれて、ホコリでくもった窓ガラス。半分以上が割れて、そこから薄暗い校舎の中が見える。
暗い穴が窓に口を開けている。穴はどこか別の――あたしの知ってる世界とは、別のところにつながってる気がする。
ゆがんだ瓦《かわら》屋根。建物の半分にかけられた青いシート。その青い色も薄汚《うすよご》れて、もとの色がキレイなだけに、荒廃《こうはい》の気配が深い。
あたしは少し旧校舎に近づいてみた。
玄関にはまった昔ふうのドアのガラスも、くもったうえに割れている。そこに透明なビニールをはってあるのが、かえってさびしい。
あたしはガラスの中をのぞきこんだ。
玄関の中は黄昏《たそがれ》の色。うすら明かりの中に、ガタガタになった靴箱が傾いた墓石のように立っている。ひどいホコリ。蜘蛛《くも》の巣。その糸の上にもホコリ。完全な廃屋《はいおく》。
割れたガラスが散らばった床には、古ぼけたボールやら、ゴミやらが散乱している。荒廃。廃屋。幽霊屋敷。いやなウワサのある旧校舎。
のぞきこんでいて、あたしはふと玄関の中に妙なものがあるのに気がついた。
何だろう?
黒い機械。
やけに大きいけど、ビデオカメラのようだ。三脚の上にすえた。
なんでこんなものが、と思うと、確かめずにはおれないのがあたしだ。
あたしは思わずドアのノブに手をかけた。
ほこりっぽい、ザラザラした感触。
ドアは嫌《いや》なきしみをたてて、内側に開いた。
ドアを入ってすぐのところ。やっぱりビデオカメラだ。落し物――のわけ、ないよなぁ。
あたしはカメラに近寄ってみた。
なんでこんなところにカメラがあるわけ?
狐《きつね》につままれたような、とは、このことだ。いわば、友達の家に行って、居間の真ん中に車がとめてあるのを見た気分。
うーん、なんだ、こりゃ?
ついビデオに手を差し出したときだ。
「誰《だれ》だ?」
鋭《するど》い男の声。
不吉なうわさのある旧校舎。その薄暗い玄関で、中は完全な廃屋で、そこに奇妙なものを見てさらに奇妙な気分になっていたとき。
そんなときいきなり声をかけられて、驚くなというほうがムリじゃない?
もちろんあたしは驚いた。驚いたなんてもんじゃない。文字どおり飛びあがった。横っとびに飛びあがって、思わず崩《くず》れかけた靴箱に激突する。
そのとたん、靴箱がグラッと揺《ゆ》れた。
視野のはしで、ドアのところに立っている男の姿を見とめる間《ま》もあらばこそ。
ドッと傾いてきた靴箱をよけてふたたび横っとびに逃げる。
はずみでつまずいて転《ころ》んで、制服のスカートをかすめるように靴箱が倒れて、そのうえまきぞえで倒れたビデオカメラの直撃まで受けそうになって、思わず息をのむ。 ……びっくりしたぁ……。
やれやれ、はさまれるかと思ったぞー。
ほっと息をついて、あたしを死ぬほど驚かせた男にモンクのひとつも言ってやろうと、振り向いたのだが……。
やばい。
いまや完全に壊《こわ》れた。もと壊れそうだった靴箱。倒れてる男の人。
「だいじょうぶですか?」
あたしは駆《か》け寄る。それと同時に声がした。
「どうした?」
男のコの声。
ドアのところに駆け寄ってきたのは、なんと昨日の不穏《ふおん》な転校生。渋谷氏だった。今日も制服ではない。あいかわらずの黒ずくめ。
彼は、あたしの姿と倒れた男の人を見比べながら、駆け寄ってきた。
「リン?」
知り合いなんだろうか。男の人に声をかけてから、あたしを見る。厳しい眼つき。
「どうしたんだ?」
「はぁ、それが……」
あたしが答えようとしたとき、男の人が体を起こした。
「ケガは?」
渋谷氏が彼に問いかける。
「ええ……」
くぐもった声。
横顔をおおうほど長い前髪の下から、赤いものがしたたる。
あたしの声は、我ながらうわずってしまう。
「……どこか切ったんですか?」
地が彼のあごさきから、床にしたたって黒い水玉模様を描く。
どうしよう!
「あの、すいません! あたし、びっくりして……」
あわてて手をかけようとするあたしを渋谷氏が制す。
落ち着いた手つきでケガのようすを見てから、
「少し切ったな……。ほかは?」
「だいじょうぶです」
男の人は身を起こそうとする。体重を足にかけたとき少し顔をゆがめた。
「立てるか? 足は?」
「……なんでもありません」
それでも、かなり痛そうな表情だ。額《ひたい》にアブラ汗が浮いている。
あたしは、どうしていいかわからなくて、オロオロするだけ。
「本当にすいません。
でも、急に声をかけられてびっくりして……」
「言いわけはいい」
冷たい声で言ってのけたのは、渋谷氏だ。
あたしをとんでもなく冷たい眼つきでにらんでから、
「昨日会ったコだね」
「はい」
そんなキビシイ眼で見なくてもいいじゃないかー。あたしだってびっくりして、そのうえ転んで、じゅうぶん被害者なんだからー。
「いいわけより、病院のほうが先だ
このあたりに医者は?」
「校門を出てまっすぐのところ……」
「そっちから支えてくれ」
言いながら渋谷氏が男の人に肩をかす。
あたしも及ばずながら力をかそうと、男の人の腕に手をかけたとたん、振り払われてしまった。
なんだ、こいつっ!
彼はあたしをにらむ。
「けっこうです。あなたの手は必要ではありません」
……てめー、なんだよ、その態度は。そもそもあんたが急に声をかけるから、こんなことになったんだろ。ひとが親切に手をかしてやろうとしてるのにぃ。
「リン、歩けるか?」
「はい、だいじょうぶです」
渋谷氏があたしを見すえる。
「名前は?」
「谷山……ですけど」
「では、谷山さん。この場はだいじょうぶのようですから、どうぞ教室へ」
「でも」
「親切で教えてあげますが、さっきチャイムが鳴りましたよ」
げ。
あんなに早起きしたのに遅刻かぁ?
早起きして死ぬほど驚いて、さらに陰険《いんけん》なふたり組にガンつけられて、そのうえ遅刻ってか?
ああっ、旧校舎なんて寄るんじゃなかった。
やはり旧校舎は不吉な場所だったのだ!
2
あわてて走ったけど、もちろん完全な遅刻だった。最後のしあげとばかりに先生にイヤミを言われて、最低のキブン。
おかげで一日中気分が悪かった。
そして、放課後のことだ。
あたしが帰りじたくをしていると、恵子たちがあたしの机のまわりに集まってきた。
「あれー、麻衣《まい》ったら、帰るのー?」
「なんで?」
「だって、ほらー、昨日の転校生、来るって言ってたじゃない」
「渋谷氏?」
「そう。会わないの?」
冗談じゃない。あいつの顔はしばらく見たくないぞ。
「帰る」
あたしが宣言すると、恵子たちの白い眼。
「なんでー? 麻衣って変わってるー」
ミチルまでがうなずいて、
「ヘンなヤツっ。
もう一回、あのお姿をおがみたいと思わない?」
思わねーよ。
しかし、恵子たちは「変だ変だ」と騒《さわ》ぐ。
あたしは、あんたらみたいに、顔がよけりゃそれでよし、なんて思わないのっ。
ミチルは、さんざんひとのことを変人あつかいしたあと、
「ま、いいわ。ライバルは少ないほうが」
「言えてる。いまのとこ、あの先輩に眼をつけてるの、あたしたちだけみたいよ。やったねっ」
恵子は本当にうれしそうだ。
「本当に来てくれるかしら」
祐梨《ゆうり》が、ぼうっと言う。
「来るんじゃない? きのう、かなり乗り気だったもん」
言いながら、ミチルは制服をのばしたりさすったり、整えるのに余念がない。
恵子も負けじと色つきリップなんか取り出して、
「でもさー。昨日は驚いたねー。雰囲気《ふんいき》もりあがってたじゃない? あたし、本当に幽霊が出たのかと思った」
「あたしもー」
「今日は、とっときの話をするぞー」
「でも、場所はどうする? ここじゃムードないじゃない? また視聴覚教室、使おうか」
あんたらって、ヒマだなー。
「やっぱ、暗くないとねー。
視聴覚教室か、体育館のミキサー室かな」
「あ、いいね、それ」
……そんな話をしてたとき。
「ちょっと」
声をかけてきたのは、クラス委員の黒田直子《くろだなおこ》女史だった。
ちょっと神経質なかんじで、とっつきにくい。入学して半月。あたしはまだ彼女と話をしたことがなかった。
「あ、黒田さん、さよなら」
祐梨が無邪気《むじゃき》な笑顔を向ける。
「さよなら、じゃないわ。あなたたち、今してたの何の話?」
黒田女史はなんだか機嫌《きげん》が悪い。
べつにあたしたちはあんたの悪口を言ってたわけじゃないぞ。
それであたしは、
「今日、怪談をするの。その話」
とたんに、恵子があたしをつついた。
黒田女史はあたしたちをキリッとにらんだ。
なんなんだ、こいつはー。
ちょうどそのときだ。渋谷氏がドアのとこから顔を出した。
「谷山さん、いるかな?」
黒田女史は振り向く。
「何年生? 何の御用ですか」
「ああ、彼女たちと約束があって……」
「約束? 怪談の?」
「そうだけど……?」
渋谷氏の返答を聞くと、黒田女史はあたしたちのほうをキッとにらんだ。
「そんなことはやめなさいって言ってるでしょ!」
……あ? なんだ、こいつは?
彼女は眼をつりあげる。
「どうりで、今朝《けさ》学校にきたら頭が痛くなったはずだわ」
「はー?」
あたしは首をかしげた。なんのこと?
「谷山さん、わたし、霊感が強いのよね。霊が集まってると、頭痛がするのよ。
今日も一日頭が痛い。霊が集まってるんだわ」
「……はぁ……」
「知らないの? 怪談をするとね、霊が集まってくるの。そういう霊はたいがい低級霊よ。低級霊でも集まれば強い霊を呼ぶわ。そうなったら大変なのよ」
「……はー」
……なんなんだ、こいつは?
「だから……怪談なんかをおもしろがってしちゃだめ、ってあれほど言ったのに」
そうして、渋谷氏を振りかえると、
「あなたも、年長者がそんなことじゃ困るわ
いちおう、わたしが除霊しておきますけど」
黒田女史は思いっきりえらそうな口をきいた。
渋谷氏は肩をすくめる。
「君の気のせいだと思いますが?」
「これだから、霊感のない人は困るのよ」
女史の口調《くちょう》はあくまできつい。
渋谷氏は女史を見つめる。
「君、霊感があるんだったら、旧校舎について何か感じない?」
「旧校舎? ああ、あそこには、戦争で死んだ人の霊が集まってるみたいね」
黒田女史はアッサリ言った。
「戦争で死んだ……?」
「ええ。あたし、旧校舎の窓からのぞいてる人影を何度も見たわ
戦争中の人みたいだったわよ」
「へぇ。いつの戦争?」
「もちろん、第二次大戦よ。
戦争中、旧校舎のあった場所には病院があったようよ。看護婦らしき霊を見たもの。それが空襲を受けたのね。霊の中には、包帯を巻いたひともいたわ」
「ふうん。すごい」
渋谷氏は皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「大戦中、このあたりに病院があったとは知らなかったな。
この学校は、戦前からここにあったって聞いてたんだけど。
昔は医学部でもあったの?」
……こいつ、性格が悪い……
黒田女史は口をゆがめた。サッと顔が赤くなる。
「そんなこと……あたしが知るわけないでしょ。
とにかくあたしは見たのよ。霊感のない人にはわからないわ」
女史はあくまでつっぱる。
「校長先生が、旧校舎の取り壊《こわ》しができなくて困るってボヤいてたな。
君が除霊してあげれば?」
「……かんたんに言わないで。できたらやってるわ」
「そう」
そっけなく答えると、渋谷氏はあたしたちのほうを振り向く。
「ここはマズいから、場所を変えない?」
「まだ、そんなことを!」
黒田女史は渋谷氏にかみつきそうな勢い。
当の渋谷氏は澄《す》ましたもんだが、あたしのまわりにいた恵子たちのほうがソワソワしだした。
「あのぅ……」
おそるおそる声を出したのは祐梨だ。
「今日はやめません?」
「そうよね。……あたしもなんだか気が乗らないや」
恵子までが弱腰になる。
どうしたんだ、まだ誰《だれ》も眼をつけてない先輩と親しくなるチャンスだぞ。
しかし、ミチルまでもが。
「……渋谷先輩ゴメンナサイ。やっぱり……」
「そう」
渋谷氏はうなずく。
「じゃあ、またいつか」
そう言って手をあげる。そうして、満足げな黒田女史を見つめてごく静かな声で、
「キミもホドホドにね」
「……何の話?」
「わからないなら、いい。――谷山さん、ちょっと」
渋谷氏はあたしを呼ぶ。
恵子たちが驚いたような視線を投げた。
「なんでしょ?」
「すこし時間をくれないか?」
口元だけのわらい。恵子たちは渋谷氏の不穏《ふおん》な眼つきに気がつかない。教室を出るあたしの背中を、うらめしげに見つめていた。
5
「彼女、何者?」
渋谷氏はどこへ行くつもりなのか、先にスタスタ歩きながら聞く。
「知らない。あたしも今日初めてしゃべったから。なんか、アブナイ人だなー」
「……うん。本当に霊能者かな」
考えこむふぜい。
「本人がそう言うんだし、そうなんでしょう?
――ところで、今朝《けさ》の人、だいじょうぶでしたか?」
「それなんだけど」
渋谷氏が振り向く。冷ややかな表情。
「左足をネンザした。かなりひどい状態で、しばらく立てない」
「……それは、……どうももうしわけ……」
言いながら、なんであたしがあやまらなきゃいけないんだ、という気になる。
「あのう……知り合いなんですか?」
「そう見えなかった?」
渋谷氏の馬鹿《ばか》にしたような視線。
「……どういうお知り合いで?」
あたしは聞いてみる。
なんかヘンな感じだったんだよなぁ。男の人はどう見ても二十五は越えてる。その人が十七の渋谷氏相手に丁寧《ていねい》語でしゃべって、反対に渋谷氏のほうはぞんざいな口調。これって逆じゃない?
渋谷氏は、静かな声でさりげなく答える。
「助手」
ほう。なんてえらそうな助手だ。主人に対してあんな口調でしゃべるか、ふつー。
「なかなか厳しい性格の御主人のようで」
あたしは少しイヤミっぽく言ってやる。
足をネンザしようが骨を折ろうが、手をかそうとして、振り払われたウラミは忘れないぞ、あたしは。
「でも、御主人様のケガはあたしだけのせいじゃありませんからね。御主人があたしを驚かすから……」
「逆」
逆って……何が? あたしは彼を驚かしたりはしてないぞ。
渋谷氏はそっけなく言う。
「主人は僕《ぼく》。彼が助手」
え!?
えーっっ!
……なんてこった。えらそうなわけだ。
十七の分際《ぶんざい》で、りっぱな大人《おとな》を助手に使ってるのか? 何者だ、こいつっ。
あたしは渋谷氏をマジマジと見つめる。
渋谷氏が、シラジラとあたしを見かえす。
「助手が動けないので困ってる。
君に責任があると思うが、谷山さん?」
「ちょっと、冗談じゃないわよっ!
言っとくけど、あたしも被害者なんだからねっ。死ぬほど驚いて、遅刻して」
渋谷氏の視線は冷たい。
「彼はケガをした。……君は?」
……そりゃ、ピンピンしてるけどさー。
「カメラも壊《こわ》れたんだ」
あ、あのビデオカメラ。そういや、みごとに倒れてたもんなー。精密機械だし……。
「リンは……彼は、君がカメラに触《さわ》っていたので、とめようとしたんだ。
その結果があれ」
「それは……どうも……」
どうもヤバい雰囲気《ふんいき》。不可抗力だもん。あたしのせいじゃないもん。……なんて言っても聞いてはくれそうにないカンジ。
「カメラの弁償《べんしょう》をしてもらってもいいんだが……」
弁償!? 冗談じゃないっ!
「わざと倒《たお》したわけじゃありませんっ!」
「他人のものに勝手に触るのはいけないことだと、教えられなかったのかな?」
……だって……なんでビデオカメラなんかあるのかなーと思ったんだもん。
「弁償って、いかほど……」
渋谷氏がサラッと言ってくれたのは、とんでもない額だった。夢のような大金。
「冗談きついわよっ! なんでビデオカメラがそんなにするの! んなわけないでしょーがっ!」
「西ドイツ製の特注品。保証書を見せようか?」
外国製。特注品。
……眼の前が暗くなった。
どうしよう!
渋谷氏は、
「それがいやなら」
……なんですか? 弁償しないですむならんでもするわっ!
「助手の代理をしてくれないかな?」
「それって……あたしが渋谷さんの助手をつとめるっ、て意味ですか?」
「そのとおり」
「やりますっ」
やるとも、助手でも下女でも。
渋谷氏がうなずく。
そのときあたしは、ふと疑問を感じた。
「……ところで、渋谷さんって、何をしているんですか?」
高校二年生。十七歳の学生が、助手を使って、とんでもなく高価なカメラを使って、いったい何をしているわけ?
「ゴースト・ハント」
「はぁ!?」
「直訳すれば、幽霊退治かな。
この学校の校長の以来で旧校舎を調査に来た。『渋谷サイキック・リサーチ』の者だ」
「さいきっく・りさーち、って?」
「英語の授業を受けてないのか?」
受けてるよ。悪かったね。どーせあたしは英語が苦手《にがて》さっ。
「心霊現象の調査事務所。その、僕は所長」
げ……げーっっ。
所長日 こいつ、十七の分際《ぶんざい》で!
しかもなんだって? 旧校舎の調査? 心霊現象の調査事務所!?
冗談だろーっ!?
二章 暴風雨注意報
1
「聞く気があるなら、かんたんに事情を説明してもいいが?」
渋谷氏は、旧校舎近くの植えこみにあるベンチに腰《こし》をおろす。
「聞かなきゃ、やってられません」
あたしの声は我ながら不機嫌《ふきげん》。なんてことに、まきこまれたんだ。
「ここの校長が、旧校舎がたたられているらしいと、調査を依頼に来たのが一週間前かな。
今度、体育館の建て直しをするらしいね。そのために旧校舎を取り壊《こわ》したいと」
あ、そういえば、入学のときのパンフレットにそんなことを書いてあったな。近々、デカイ体育館を建てるとか。
「しかし、過去に何度も旧校舎を取り壊そうとして、そのたび事故が起こっては中止になってる」
「あ、それで調査をしてほしいって、依頼されたんだ?」
「そういうこと」
「ふうん、それでわざわざ転校してきたの?」
ご苦労なやつ。
しかし渋谷氏は、軽蔑《けいべつ》するようにあたしを見すえる。
「だれが調査のために転校なんかするんだ?」
「だって……きのう、転校生だって」
「僕は『そんなもの』とアイマイに言ったつもりだったが?」
……たしかに……
「あれはあの場の話」
「うそつき」
あたしは小さな声で言う。
渋谷氏はあたしを冷ややかににらむ。
「怪談をしてただろう。だから」
「ナルホド。怪談の場で旧校舎の話が出るかもしれないもんね。そしたら、情報収集になる」
「へぇ、猿《さる》よりは知恵があるじゃないか」
渋谷氏は感心した声。
おまえなー。ひとを祖先とくらべるな、祖先と。
「生徒の間のウワサを集めたかったんだ。
きのう怪談をしたときに、旧校舎の話は出なかった?」
「うん、ミチルが話してくれたけど」
「どんな話か、覚えているかな?」
忘れてるんじゃないの、と言いたげな口調。
「あたしはまだ、昨日のことを忘れるほどボケてない」
ふん。失礼なやつだ。
「ええと……」
「待った」
渋谷氏は黒いジャケットの懐《ふところ》に手をさしいれる。小さなマイクロ・テープレコーダーを取り出して、
「始めて」
言って、録音ボタンを押す。
へぇぇ。なんかおもしろいなー。
あたしはそう思いながら、ミチルの話してくれた旧校舎にまつわる話を語り始めた。
2
話が終わって、渋谷氏は立ちあがる。
「さて、ついてきてもらおうか」
「旧校舎に行くの?」
「他にどこに行くんだ?」
そりゃ、そーだが。
「あのー、ミチルの話って、どの程度本当のことだと思う?」
あの話が本当なら、あたしはイヤだよ、旧校舎に入るなんて。
渋谷氏はふたたびベンチに腰をおろす。手に持っていたブリーフケースからファイルを取り出して、
「旧校舎が使われてた間、死人が多かったのは事実」
「そうなの?」
あたしが聞くと、彼はページをくる。細かい字で、ビッシリとメモがとってある。
チラッとのぞきこんだけど、お医者さんのカルテのようだ。横文字だらけであたしには読めない。
「旧校舎が校舎として使われていた三年前……つまり今から十八年前までは、ほぼ一年に一人から二人の割合で死人が出てる」
げー。
「新校舎ができて、旧校舎は取り壊《こわ》すことになった。西側の取り壊しの際、屋根が落ちたんだ。原因は作業上の不手際《ふてぎわ》だということになっている」
「本当だったんだ、その話……」
「半分はね」
「半分?」
「君が聞いた話では、その事故で作業員が死んだことになっているが、そういう事実はない。けが人を五人ばかり出したが、死者はいなかった」
「そうなの?」
……なーんだ。
「工事は、当初の予定どおり、旧校舎の三分の一を取り壊して終了」
「え? 事故のせいで取りやめになったんじゃないの?」
「残念ながら、ちがうね。
その後、旧校舎の中で死んだ子供が一人いるな。
そんなに前のことじゃない。六年前か」
「子供って……」
「近所にすんでいた七歳になる女の子が、校舎の中で死体で見つかったんだ。
犯人は一月《ひとつき》後に逮捕されている。営利目的の誘拐《ゆうかい》だった。
自殺した教師もたしかにいるが、これには遺書があった。原因はノイローゼだということになっている」
「……へぇ、すごーい。よく調べたねぇ」
あたしは本当に関心したのに、
「当然だ。僕《ぼく》の情報収集能力をバカにしてもらっては困る」
……さよーで。おくゆかしさのカケラもないやつね。
「グランド整備のために、取り壊しが再開されたのが去年」
「トラックの暴走は?」
「これ」
渋谷氏はページにクリップでとめてあった、新聞のコピーを差し出した。
『校舎解体中 トラック暴走
生徒ら九人死傷』
黒い大きな見出し。
「ガレキを積んで校庭を出ようとしたトラックが暴走したんだ。ちょうど体育の授業中でトラックは近くにあったバレーコートの中に突《つ》っ込んだ。
七人が重軽傷、二人が死亡」
……記事の下に、死んだ二人の学生の写真が載《の》っている。こういうのはイヤだ。胸が痛くなる。
渋谷氏が淡々とした声を続ける。
「運転手は、昼食のとき酒を飲んで、酩酊《めいてい》状態だった。これが原因の事故」
「……ふうん」
「このときは、さすがに工事が取りやめになった。旧校舎は不吉だという、ウワサのせいもかなりあったようだね」
うう。背中が寒い。
「調べた限りでは、ウワサの域を出ないな。
不吉だ不吉だと言うわりに、どの事故も原因ははっきりしている。
僕《ぼく》はそんなに大した事件ではないと、ふんでるんだが」
そう言って、渋谷氏は立ちあがる。
あたしは、イヤだ。旧校舎の調査? それをあたしが手伝うの?
さっさと来ないか、と言うように、立ちあがった渋谷氏があたしを振りかえる。
あたしは、あとに従った。
3
植えこみのまわりを歩いて旧校舎の前まで来ると、渋谷氏は校舎の裏手にまわりこんだ。
校舎の裏手、新校舎からはめだたないあたりに一台のワゴン車がとまっていた。グレー・メタリックの車。
渋谷氏はワゴンのスライド・ドアをあける。車の中は、シートもなんにもなくて、そのかわりになんだかわからん機械だらけだった。
「機材を運ぶ」
渋谷氏が宣言する。
「これ……全部?」
冗談だろー。
渋谷氏の答えはニベもない。
「必要なだけ全部」
うぇぇ。
車の中にはパイプ製の棚《たな》が固定してあって、そこにはステレオ・コンポみたいな機械や、たくさんの小型テレビ、タイプライターみたいな機械がギッシリ詰まっている。
機械に弱いあたしは、見るだけでメマイがする。
「これだけの機械、渋谷さんだけで使えるの?」
助手の彼がいないのに。
「君とは頭のデキがちがう」
……ったく、すこしは謙遜《けんそん》とかしないか? 自信家だなー、こいつってば。
「機材を運ぶ前に、マイクを回収する。来い」
へえへえ。どーせあたしはあんたの助手代理。旧校舎のタタリで死ぬのが早いか、それとも過酷《かこく》な労働が原因で死ぬのが早いか。
……う、自分で考えて、本当にこわくなってしまった。
渋谷氏は旧校舎の裏手にまわりこむ。
裏手は塀《へい》にはさまれて、幅二メートルぐいの広い路地になっている。
そこにポツポツとマイクスタンドが立って、旧校舎の窓のほうを向いていた。
「マイクってこれのこと?」
あたしは手近のやつを示した。
「そう。マイクをはずして集めていってくれ。僕《ぼく》がスタンドを回収する」
「いいけど……、このマイク、何に使うの?」
……おっと、渋谷氏の軽蔑《けいべつ》の眼。
「マイクはふつう、音をひろうのに使うと思うが?」
「そんなこと、知ってらい」
……まったく、こいつはもー。
「よく調査されていない幽霊屋敷に入るのは危険だ。だから最初は、建物の外からできる限りの調査をしてみる」
「へぇ」
「窓の外から中の音をひろったり、ビデオを置いたりするんだ」
……なんか、すごいなー。
「ねぇ、幽霊屋敷って、危険?」
「そういうものもある」
「こわくない?」
「べつに」
ふーん。気味が悪くないのかなぁ……。
「どうして、十七やそこらで、こんなことやってるわけ?」
渋谷氏の答えは短い。
「必要とされているから」
……自信家ならではのお答えだ。
あたしはちょっとイジワルしたい気分。
「でも、今までに解決できなかった事件って、あったでしょ?」
「ないね」
渋谷氏はアッサリ言ってのける。
「僕《ぼく》は有能だから」
……本当に自信家だ、こいつっ。
こういう物言いをされると、人間、反感がわいてくるもんだ。
「あらぁ、すごいのねー。
顔がよくて、しかも有能だなんて」
思いっきり皮肉な口調で言ってやった。
渋谷氏はあたしの顔をまじまじと見つめる。
「僕の顔……いいと思うか?」
「いいんじゃない?
恵子たちも騒《さわ》いでたことだし」
「ふうん」
と、渋谷氏はこともなげに言う。
「趣味は悪くないな」
こいつ!
んじゃなにか? あんたの顔をいいと思う人間は趣味がよくて、悪いと思う人間は趣味が悪いのか?
このっ! なんちゅうナルシストだ!
ふん。これからはナルシストのナルちゃんと呼んでやるわっ。
4
マイクを回収すると、機械を設置せよと言われた。
「校舎の中に入れるの……?」
「あたりまえだ」
「あたし、荷物番したいな」
ナルちゃんの冷たい眼。
ちょっと言ってみただけじゃんよー。
ウムを言わさず、スチールパイプを何本か渡される。
「心配しなくても、ひとりで行かせやしない。一緒について行くから」
「あい」
あたしはシブシブ旧校舎に向かった。
今にも倒れそうな建物。暗い口を開けた玄関。その玄関のドアに手をかけた。
玄関の中にはまだかすかに夕暮れの明かりが残っている。かすかにオレンジの光。今朝《けさ》あたしが不慮《ふりょ》の事故で粉砕《ふんさい》した靴《くつ》箱が、壊《こわ》れたまま転《ころ》がっている。
かすかに残っている黒い水玉。あれは助手さんの血のあとだ。
「い……行くよ」
「早くしろ」
ナルちゃんがパイプの山を担いであたしのあとに続く。あたしは中に踏《ふ》みこんだ。
カランとしたほこりの匂《にお》い。足を踏《ふ》み出すたびに床板がきしむ。
玄関の奥。正面は階段だった。踏み板が反《そ》ってゆがんだ階段。その左右は廊下《ろうか》で、左には、教室がどうやら二つ。右には三つ。ほこりで汚れて読めなくなった教室表示の板が、傾《かし》いでブランとぶらさがっている。
「ここを使うか」
ナルちゃんが玄関を入ってすぐの教室をのぞきこむ。昔の実験室だ。教室の中には大きな実験机が並んでいる。
ナルちゃんは、実験室に入っていく。
学校というのは、人間がたくさんいる場所だ。イヤでもムリヤリ集められる場所だ。そういう先入観があるから、無人の教室は気味が悪い。ましてや、長い間使っていなかったのがひと目でわかるほど荒廃していたりしたら。
そのうえ、ここにはイヤなウワサがある。暴走したトラック。死んだ子供。窓から手招《てまね》きする白い影。
いやだなと思いながら、あたしはドアをくぐる。
教室の中は玄関よりも明るかった。ほんの少しホッとする。
ほこりの積もった床。壁ぎわに積みあげたガラクタ。
ナルちゃんがパイプ類を机の上に広げる。
「棚《たな》を組み立ててくれ」
「ナ……渋谷さんは?」
「機材を取ってくる」
「外に出ちゃうの?」
「機材は外にあるからな」
うー。
「あたしひとりでここに残って、棚を組み立てるのぉ?」
いやだよぉ。
「それともおまえが機材を運ぶか?
重いもので四十キロ近くあるが」
「棚がいい」
あたしがシブシブ言うと、ナルちゃんはうなずいて、教室を出て行った。
教室の中はまだ明るい。そして、コソとも音がしない。あたしが動くと、足元で床がギシッと鳴る。それだけ。
なんとなく、あたしはあたりをうかがった。
まだ明るいもん、だいじょうぶだよね?
変なものが出たりしないよね?
おびえているときにかぎって、物音はするものだ。ふいに天井《てんじょう》のほうでパシッという乾《かわ》いた音がして、あたしは飛びあがった。
天井を見あげる。染《し》みだらけの天井。
息を整える。耳を澄《す》ます。
だいじょうぶ、だいじょうぶ……。
自分に言い聞かせながら、あたりをうかがっていると、軽い足音がしてナルちゃんがもどってきた。
ボーッとしているあたしを見て冷たい声。
「さっさとしないか」
きらいだ、こんなやつ。
あたしが悪戦苦闘して棚《たな》を組み立てている間に、ナルちゃんが次々に機械を運んでくる。あっというまに、教室は機械だらけになった。
棚を組み立て終わると、機械を棚に収める作業。
あたしは、ナルちゃんの横に立って、「それ」とか「あれ」とかいうものを手渡した。「ねー。それ、何?」
あたしは、ナルちゃんの脇《わき》においてあるゴツイ機械を指さす。
「……テープレコーダー以外のもんに見えるか?」
「見えないね」
「テープレコーダー。ただし、これは少し特別なやつで最高二十四時間まで録音ができる。これと集音マイクで音をひろう」
「……なんで?」
あたしが聞くとナルちゃんは、冷たい眼であたしをにらんだ。
「僕《ぼく》は素人《しろうと》と話をするのはきらいだ」
おまえなー。
「あたしが素人なのは、わかりきったことだろ。モンクあんなら、手伝わねーぞ」
思いっきり乱暴に言ってやったら、ナルちゃんのブ厚いツラの皮にも、かすかにキズをつけたようだ。ちょっとマジッとあたしを見てから、
「ラップ音とか変な音がしないかやってみるんだ」
「あ、なるほど」
「今日は一日、窓の外から一階の部屋の音をひろってみた」
「さっきのマイクでだね?」
「そう。今夜は部屋の中にテープレコーダーをセットしてみる」
「……あのー。泊《と》まりこんだりしないの?」
「今日はまだしない」
言いながら、五台のテープレコーダーにテープをセットしていく。テープはカセットじゃなくて、リールに巻いたやつだ。
「霊がいるとしたらどの程度のやつか、確かめてからでなければ、泊まりこみはしない」
「石橋を叩《たた》いて渡るタイプなんだー」
「あ?」
「用心深いのね」
「当然だ。ホーンテッド・ハウス……幽霊屋敷には、とてつもなく危険なやつがある。下手《へた》に手出しをすると取りかえしがつかない」
「脅《おど》かさないでよ。……これは?」
あたしは、ビデオにしてはえらくゴツイ機械を示した。
「おまえとは話をしたくない」
「いいよ、そんなら。
そのかわり、無知からとんでもないミスをするかもね」
言いながらあたしは足を振りあげる。
「おっと、このビデオみたいなのは踏み台かな?」
踏んでやるぞー。
ナルちゃんが、ため息をついた。
勝った。と、あたしは思った。
「赤外線カメラ。聞かれる前にいっとくけど、こっちはサーモ・グラフィー、これが超高感度カメラ」
「ほー」
「さらに言っといてやるけど」
「うるさい」
「赤外線カメラは暗いところを撮影するのに使う。超高感度カメラもだ。サーモ・グラフィーは熱感カメラと言って、温度を映《うつ》すカメラだ」
「へぇ……」
「ついでに教えとくが、サーモ・グラフィーでは温度を調べる。霊が現れると、そこだけ温度が低くなるんだ」
「はいはい」
「わかったか? わかったらそのくだらん質問をやめてとっとと働け!」
5
機械を棚《たな》に収め終わると、ナルちゃんが配線をする。その間あたしは温度計を各教室に置いて来るよう命じられた。
気味が悪いのでイヤだったけど、ナルちゃんに逆らうのはもっと勇気がいる。しょうことなく温度計を置いてまわったあと、こんどはそれで測った温度をボードに書きこんでいく。
明るくなかったらとてもできない作業だ。
あたしが、けなげにも恐怖と闘《たたか》いながら記録をとったボード。それを見ながらナルちゃんは、
「異常はないな……特に低い場所はない。
強《し》いて言えば、一階の奥の部屋が低いが、問題になるほどの温度じゃない……」
実験室はもはや科学研究所の様相を呈《てい》している。棚《たな》の上や机の上に積みあげられたTVや機械。
あたしはナルちゃんに質問した。
「ねぇ? 霊が出る場所は温度が低くなるっていったよね? じゃ、幽霊はいないってこと?」
「まだわからない。幽霊はシャイだから」
「はー?」
「心霊現象は、部外者が来るとナリをひそめるのが普通なんだ」
「へぇぇ」
「……とにかく、これじゃあ、ターゲットの決めようがないな。とりあえず、一階と二階の廊下《ろうか》に四台、玄関に一台、暗視カメラを置いてみよう」
うぇぇ……。まだ作業があるのか……。
あたしはナルちゃんを手伝って、ビデオカメラを設置する。やけに大きいカメラだ。
二階の廊下と一階の廊下。西と東に三脚を置いてすえつける。
それが終わってからやっと、
「お疲れ。もう帰っていいぞ」
「ホント?」
「おまえさんにやってもらうことは、終わった。僕《ぼく》も出る。完全に陽《ひ》が落ちる前に」
ほー。用心深いこと。
「機械は? このままほっといていいの?」
「かまわない。あとはカメラが自動的にやってくれる」
へー。
「なんか、霊能者って雰囲気《ふんいき》じゃないねぇ」
「あたりまえだ」
「だって、幽霊退治……って」
「ゴースト・ハンター。霊能者と一緒にしてもらっては困る」
あー、そーかい。
なんのことやら。どーせ霊能者の一種だろーに。
いいかげん、ナルちゃんと根性の悪い会話をするのにも疲れたので、あたしはただ手をあげる。
「んじゃ、お先」
もー、手やら腰やらが痛いよー。
ナルちゃんの声が背中から追いかけてきた。
「明日の放課後、車のところに」
げっ。こいつ、明日もこき使うつもりか。
三章 暴風雨警報
1
翌朝も、おそろしくいい天気だった。
今日は金曜で、いよいよ週末は近いし、天気はいいし、いつものあたしなら完全にハイになってるところだ。
なのに気が重いわ。あいつのせいだ。あのナルシストのっ。
せっかくの花金に、なんで幽霊退治の手伝いなんかしなくちゃいけないんだよぉ。
あーあ、あたしは不幸だ……。
ちっ、桜の白さが眼にしみちゃうわ。
「麻衣ーっ」
校門を入ったとたん、いきなりすごい勢いで恵子に背中を突《つ》き飛ばされた。
「……なんなんだよ、おまえは。
朝もはよから、ケンカをうる気か?」
「おはよ。ねぇ、渋谷さんの話って、何だったの?」
「ははん、それが気になってあたしを待ち伏せしてたわけ?」
「そうだよっ。ねぇ、何だったの?」
ふふふん。どーしよーかな。教えてやろうか。いや、それはもったいない。
それであたしは、意味ありげに微笑《ほほえ》んでやった。恵子のぎょっとした表情。
「まさかー」
「ひ・み・つ(ハート)」
へっへっへっ。ハートマークなんか飛ばしちゃうゼ。あたしを思いっきり突《つ》き飛ばした罰《ばつ》だ。しばらく気をもんでな。
しかしまぁ、それも長くは続かなかった。HRの前に、恵子のうらみがましい声と、ミチルの凶暴な声と、祐梨《ゆうり》の無言の圧力に負けて、あたしは真相を白状した。
「……なーんだ……」
ホッとした表情の恵子。ミチルが身を乗り出す。
「じゃ、渋谷さんって、転校生じゃないの?」
「ちがう。単なるウソツキ」
「そうなのかぁ……」
祐梨がしょんぼりした声を出すと、ミチルは手を振って、
「落胆するのは早い。
この高校の人間じゃないってことは、つまり……」
恵子があとを続ける。
「ライバルがいない!」
「そうっ!」
やったー、なんてウカレてるけど、こいつらバカか。この学校にいなくても、他の場所にいるかもしれないじゃん。この学校にいれば、足を引っ張ったり、蹴落《けお》としたりできるが、見たことも聞いたこともない人間をライバルにもって、どーやって闘《たたか》うんだ?
「ちょっと、谷山さん」
いきなり声をかけてきたのは、昨日と同じく黒田女史だった。
「おはよー。なんでしょーか」
「あのひと、霊能者なの?」
「ちがうそーです」
「だって、旧校舎を調べに来たって、今、言ってたじゃない」
……うーん、こういうのは立ち聞きの一種じゃないのかな?
そう思ったけど、いちおう答えてやった。
「霊能者じゃなくて、ゴースト・ハンターだそーです」
「ゴースト・ハンター?」
黒田女史が眉《まゆ》をひそめるのと同時に、恵子たちがあたしの制服を乱暴に引っ張る。
「ねぇ、それって、なによー」
「くわしくは知らん。
幽霊退治ぐらいの意味だそーな」
「霊能者とどうちがうわけ?」
「だから、知らねーって。
でも、ビデオカメラとか、高価な機械を山のように持ってたぞ。ちょっと、霊能者ってムードじゃなかったな」
「へー」
黒田女史はしばらく考えこんだあと、
「谷山さん、あのひとに紹介してくれない?」
「は?」
どーゆーことかなー?
「ホラ、あたしにも霊能力があるじゃない?
何かお手伝いできるかもしれないわ」
ミチルがかすかに不満の声をあげた。
あたしは答える。
「でも……黒田さん、彼にはもう会ってるでしょ? いまさら紹介なんて、必要ないじゃないですか。放課後、旧校舎に行けば会えますよ」
「それはわかってるわ、でも……」
「あんまし、あいつとはかかわらないほうがいいんじゃないかなー」
「あら、どうして?」
黒田女史の声にはトゲがある。
「素人《しろうと》と話をするのはきらいだそーです」
「わたし、あなたほど素人じゃないわ」
「はー。でも、ナルちゃんはプロだから。
ちゃんと事務所を持ってるくらいだし」
「麻衣っ」
ミチルがあたしのえりくび引っ張る。
「ナルちゃん、ってなによ、親しそーに」
「ナルシストのナルちゃん。
言っとくけど、あいつに夢を持ってるとガッカリするぞ。すっげー性格、悪いから」
「あの顔で?」
「あのね、女で顔のいいのは性格が悪いと決まってるのに、どうして男だと逆なわけ? 男だろーと女だろーと、顔のいいのは性格がゆがんでるに決まってるじゃない」
「そっかなぁ」
「恐怖のナルシスト。
これからはナルシストのナルちゃんと呼んでやって」
だから、中途半端な霊感ぐらいで近づくといじめられるよ、と教えてやろうと思ったのに、振り向いたら黒田女史はいなかった。いつのまにか自分の席にもどって、教科書を広げている。
あたしがアゼンとしてると、
「あいつ、あんなヤツなのよ」
ミチルがヒソヒソと言う。
「黒田女史、内進組だっけ?」
ミチルたちも付属中学からの内進者だ。
「そ。中等部のころから、有名だったんだ。
神がかって、アブナイって。霊感があるとか言ってさー、これはするなとか、こうしろとかうるさいんだ」
「へー」
「まぁ、そこがスゴイって集まってる、とりまきグループもいたけどね」
「……ふうん」
「なんだろーね、あいつ。まさか、渋谷さんに一目ボレじゃないだろーな」
「えーっ!」
恵子の悲鳴。女史ににらまれて、あわてて口をふさぐ。
……黒田女史はよくわからん。
あんまし、かかわりあいにならないでおこうっと。
2
放課後、恵子たちの「ずるい」コールに送られて、あたしは旧校舎に向かった。
裏手にまわると、昨日と同じ場所にグレー・メタリックのワゴンがとまっていた。その後部席にすわって、なにやらしているナルちゃんの姿が見える。
「こんちはー」
声をかけると、彼が機械から顔をあげた。
「なにしてんの?」
「昨日集めたデータのチェック」
へー。よくわからんが、言葉のひびきがすごそうだ。
「何かわかった?」
ナルちゃんは、棚《たな》に並んでTVの画面に眼をやる。
「とくに異常はないね……」
「異常なし? じゃ、旧校舎に幽霊はいないわけ?」
「さてな。いないのか、今はナリをひそめているのか……。
どちらにしても、そう危険ではないだろう」
……そんな話をしていたときだ。
「へぇ、いっぱしの装備じゃない」
突然背後から、声をかけられた。あわてて振りかえると、車の側《そば》にハデな女と、とぼけた顔の男が立っていた。
「子供のおもちゃにしては、高級すぎるカンジね?」
バカにするように、女のほうがニッコリわらう。
「あなたがたは?」
ナルちゃんがにらむ。
子供のおもちゃ、と言ったな。ナルシストのプライドにケチをつけると、あとがこわいぞぉ。
女のほうがナルちゃんをながめる。美人のうちかもしれないが、品がない。なんだか知らないが、キャバいねーちゃんだな。
「アタシは、松崎綾子《まつざきあやこ》。よろしくね」
真っ赤な唇《くちびる》をゆがめてわらう。
ナルの冷たい声。
「あなたのお名前には、興味はないんですが」
綾子さんとやらは、気を悪くしたようだ。
軽くナルちゃんをにらむ。
「ずいぶん、ナマイキじゃない。
でもボウヤ、顔はいいわね」
「おかげさまで」
……こらこら。
綾子は肩をすくめて、
「ま、子供じゃ顔がよくてもしょうがないか。ましてや顔で除霊できるわけでもないし」
ナルちゃんの眼光が鋭《するど》くなる。
「同業者……ですか?」
「そんなものかな。――あたしは巫女《みこ》よ」
巫女? 冗談ダロ?
しかしこういうとき、ナルちゃんの口は鋭いのだった。
「巫女とは、清純な乙女《おとめ》がなるもんだと思ってました」
そう言って、あたしでさえ思わず見とれるほど、あでやかな笑顔をつくる。
おもしろそうにナルちゃんと巫女さんのやりとりを見ていた男が、かすかな笑い声をあげた。
「あら、そう見えない?」
巫女さんは、はっきりムカついたようだ。眼光鋭くナルちゃんをにらみつけたが、相手が悪かった。
ナルちゃんは、
「少なくとも、乙女というにはお年をめされすぎだと思いますが」
と、ニッコリ。
ぱちぱち。おみごと。
男のほうが、ついにふきだした。
巫女さんは口元をゆがめる。そら、十代の男のコに「おばん」と言われりゃ、かえす言葉はなかろう。
大笑いした男が、
「そのうえ、清純と言うには化粧が濃《こ》い」
と得意そうに言ったが、これはデキのいい皮肉じゃないな。口の悪さにかけては、ナルちゃんのほうが上だ。
しかしこいつら、仲間じゃないのだろーか。
巫女さんはキッと男を振りかえる。
「あら、もとがいいから濃いように見えるだけよ」
余裕ありそうに言ってやったが、残念ながら完全に顔がこわばってた。
「とにかく……」
巫女さんは、ひきつったわらいを浮かべる。
「子供の遊びはこれまでよ。
あとはあたしにまかせなさい」
ナルちゃんを見すえる。あざわらう眼。
「校長は、あんたじゃたよりないんですってよ。
いくらなんでも十七じゃねぇ」
げ、あの校長、ナルちゃんじゃたよりないってんで、他のゴースト・ハンターをやとったわけか?
ナルちゃんは、かすかに笑いを浮かべるだけ。
「お手並みを拝見しましょう。
大先輩のようですから」
綾子は露骨に顔をしかめてプイッと顔をそむける。
その横顔に軽蔑《けいべつ》もあわらな一瞥《いちべつ》をくれてから、ナルちゃんは闇色の眼を男に向ける。
「……あなたは? 松崎さんの助手というわけではなさそうですが」
男は巫女さんより年上だろう。とぼけた眼つきで軽く宙をにらんでから、
「女の助手なんかできるか。
俺《おれ》は高野山《こうやさん》の坊主《ぼうず》。滝川法生《たきがわほうしょう》ってもんだ」
高野山のおぼーさん。
わぁ。なんかカッコイイんじゃない?
ナルちゃんは、興味なさそうに視線をTVにもどす。
「高野山では長髪が解禁になったんですか?」
静かに言われて、グッとつまる男。
あ、たしかに、ぼーさんって、マンガの世界はともかく、ふつーは文字どおり坊主頭だよなぁ。
男はと言えば、髪があるだけでなく、ボサボサの髪を肩先まで伸ばして、ご丁寧《ていねい》に後ろでくくっている。
巫女さんが煙草《たばこ》に火をつけて、煙をぼーさんに向けて吹く。
「破戒僧」
「……高野山にいたのは本当なんだぜ。
今は山を降りてるけど……」
ぼーさんは、すこしきまりわるげだ。
そのようすが妙にかわいらしくて、あたしは思わず笑ってしまった。
ぼーさんと眼が合う。
「大口あけて笑ってる嬢ちゃんは?」
……大口なんて……あけてないもん。
「あたしは単なる善良な学生です。
荷物持ちにやとわれただけで……」
「へえ。で、坊やは?」
ナルちゃんはTVから眼をあげない。ぜーんぜん。おまえたちには興味がない、と全身が言っている。
「校長からお聞きでは? 僕《ぼく》の年までご存じのようですから」
「まぁ、聞いてはいるが、渋谷に事務所を構える心霊調査の専門家」
「補足することはありませんね」
ぼーさんがニヤリとわらう。
「……仮にも一等地に事務所を構えてるんだから信頼できるだろうと思ったのに、所長があんな子供だなんて、これではサギだと校長が言ってたぜ」
「そうですか」
ナルちゃんはあくまでもそっけない。
巫女《みこ》さんはドスッと車にもたれて、
「校長か……。心配性のオヤジ……」
「まったくだ」
「悪霊なんか、すぐに追っ払ってやるわ
――そういうわけで、子供の時間は終わり」
巫女さんはナルを見てわらう。
「そうだといいんですが」
ナルちゃんは興味なさそうな声。
ぼーさんのほうまで皮肉な口をきく。
「ま、残念だろうが、子供にはムリな事件さ。
しかしあの校長も大げさだね。旧校舎ひとつにこれだけの人数を集めるとは」
「まったくね。子供の霊能者に、アタシとあなた……」
巫女さんはニッコリどくのあるわらいを浮かべた。
「誰《だれ》か一人でよかったのに」
「そう。俺《おれ》だけでよかったんだ」
ぼーさんもわらう。
「それはどうかしら。
ところでボウヤ、名前を聞いてもいいかしら?」
「渋谷一也といいますが」
「渋谷一也? ……知らないわねぇ」
「聞いたことがないな。三流だろう」
「言っておくけど、アタシ、滝川法生なんてのも聞いたことがないわよ」
「そりゃ、勉強がたりないねぇ。
実は俺も、松崎ナントカなんて聞いたことがないんだよなー」
……ふ、不毛だ……。
なんなんだ、こいつらはー。
しかし、なにかい? ナルちゃんといい、こいつらといい、霊能者ってのは性格の悪いやつばっかりなのか?
2
巫女《みこ》さんとぼーさんは本格的に口ゲンカを始めてしまうし、ナルちゃんは我関《われかん》せずという感じで機械をいじってるし、ヤレヤレと思ってグラウンドを眺《なが》めたら、制服姿の女のコがこちらに近づいてくるのが眼に入った。
わ。黒田女史だ。
ひえー、本当に来たんだー。
黒田女史はあたしを見るなり、軽く手をあげた。
「谷山さん」
うー。女史はニガテだよー。
黒田女史は車の中を見やってから、言い合いしている巫女さんとぼーさんを見くらべた。
「この人たちは?」
「旧校舎を調査に来たひとたち。
校長がかき集めたみたいよ。
巫女さんと、お坊さんだって」
「そう……」
当の二人が、黒田女史に気がついて振りかえる。女史は会釈《えしゃく》をしてから、
「旧校舎の除霊にきたんですか?」
巫女さんの値ぶみするような眼。
「そうだけどぉ?」
女史は笑顔をつくった。
「ああ、よかったわ。旧校舎は悪い霊の巣で、わたし、困ってたんです」
巫女さんは黒田女史をねめつける。
「あんたが……どうしたって?」
「わたし、霊感が強くて……それで、すごく悩まされて……」
「自己|顕示欲《けんじよく》」
「……え?」
「めだちたがりね、あんた。そんなに自分に注目してほしい?」
黒田女史ひるんだ。あたしは思わず、
「そういう言い方はないでしょう?」
「本当のことよ。そのコ、霊感なんてないわよ」
「なんでわかるんですか」
「見ればわかるわ」
「……そんな!」
「そのコはただめだちたいだけよ。つきあうとバカを見るわ」
巫女《みこ》さんは見下した眼で女史をながめてからそっぽを向いた。
女史が能面のようなわらいを浮かべる。
「……あたしは霊感が強いの。
霊を呼んで、あなたに憑《つ》けてあげるわ」
「黒田さん!」
「……本当に強いんだからね……」
女史の眼はすわってる。これは、ヤバイ。ぞっとするような眼つき。
「……ニセ巫女。今に後悔するわ」
「……楽しみにしてるわ」
にらみえかえす巫女さん。
黒田女史はフイッと踵《きびす》をかえすと、グラウンドのほうに駆《か》けて行った。
3
事態は混迷する。
とりあえず、あたしはぼーさんと巫女さんを無視することに決めた。かかわってらんないよ、あんな性格の悪いやつら。
それで、
「ところで、ナルちゃん、今日はあたし、何をすればいいの?」
ナルちゃんが、少し驚いたようにあたしを振りかえる。
「いま……なんて言った?」
「なにが?」
「おまえ、『ナル』って言わなかったか」
おっと、しまった。口がすべっちまったぜい。
「ごめん、ちょっとしたミス」
「どこで聞いた?」
「おや? ひょっとしてナルってゆーんだ、ニックネーム」
ナルちゃんは、えも言われぬ表情をする。
「誰《だれ》でも考えつくのねー。
ナルシストのナルちゃん」
へっへっへっ。一本とった気分だぞー。
「はぁ?」
「まーまー。それより、なにをするの」
「そうだな……これといって反応がないんで、次の手の打ちようがないんだが……」
考えこんでから、
「麻衣の先輩の……」
「あー、ひとのこと、呼び捨てにしたー」
「……おまえもさっき言ったろうが」
「でもー」
「麻衣の先輩が人影を見た教室がどこだかわかるか?」
「あたしの先輩じゃありませーん。ミチルの先輩の友達でーす」
おちゃらけたら、ナルににらまれた。
「どっちでもいい。わかるか?」
「二階。一番西の壊れかけた教室だって言ってた」
「よし。そこに機材を置いてみよう。
動きがあるといいが……」
ナルちゃんが言いながら立ちあがる。車を降りて、旧校舎に向かおうとしたら、ふたたび人影。
もー、今度はなんだよー。
そう思ったら、なんと事態の元凶、校長の姿が見えた。
一般に校長はタヌキ、教頭はキツネと言われるが、うちの場合もそうだ。校長はタヌキに似ている。
校長が何の用だろう、と思っていると、その横にもう一人、人影が見える。
「ちょっと、校長の横にいるの、何者よ」
巫女《みこ》さんがつぶやく。
「まさか……もう一人の霊能者……ってんじゃねえだろうな」
それだ。あたしも人影を見たとたん、いやーな予感がしたんだよなー。
これ以上性格の悪いやつがふえたら、あたしはおりるぞ。
校長は横の人物と、なにやら話しながらやってくる。
小さな影。学生だろうか、若そうだ。
そして……お? き、金髪だっ。
なんと、ガイジンさんではないかっ!
校長があたしたちに気がついた。タヌキじみた笑顔をつくって、
「やあ、おそろいですな」
ニコヤカな声。
足早にやって来ると、
「もうひと方、お着《つ》きになりましてね。
紹介しましょう」
……うえー。やっぱり霊能者だぁ……。
ガイジンさんはふけて見えると、俗に言う。すると……。あたしは、ガイジンさんを見ながら思った。ひょっとしたら、十二、三かもしれない。男のコだろーか、女のコだろーか。ガイジンさんにしては、背が低いな。あたしと同じらいしかない。きっとまだ子供なんだな。
校長がお月サマみたいにわらう。
「ジョン・ブラウンさん。
どうか、みなさんで仲よくやってくださいよ」
……転校生じゃねーって、どんな紹介の仕方だ。
でも、ジョンっというのは、男の名前だよなぁ。ということは、少年であったか。うーん、かわいいなぁ。
ブラウン少年は、深々と頭を下げた。
「もうかりまっか」
…………?
い……いまの、エイゴかなぁ。あたし、ニガテだから、よくわかんなかったやー。
巫女《みこ》さんもぼーさんも、ナルまでもがキョトンとしている。
「ブラウンいいます。かわいがっとくれやす」
……へ……へんだなー。日本語に聞こえるやー。それもかなり偏《かたよ》った日本語……。
校長が苦笑、としか言いようのない表情を浮かべた。
「その……ブラウン君は、関西のほうで日本語を学んだようで……」
ぼーさんがふきだした。巫女さんもそれに続く。笑っちゃ悪いよ、ガイジンさんなんだもん、これだけしゃべれるなんて、すごいんだからぁ……ぷくくく。
ブラウン少年は、対応に困っている。その困惑した顔が金髪で真っ青な瞳《ひとみ》で、いかにもガイジンさんしてるので、かえって笑えてしまう。ご……ごめんね。あははっ。
校長は困ったようにあたしたちをながめたあと、
「それじゃ、そういうことで……」
なんて言って、さっさと引きかえしてしまった。
ブラウン少年がその背に向かって、
「おおきにさんどす」
などといったので、あたりは本格的な笑いの渦《うず》につつまれてしまった。
ナルちゃんは笑わない。少し硬《かた》い表情で、
「ブラウンさん? どちらからいらしたんですか?」
「わてはオーストラリアから、おこしやしたのどす」
……うわぁぁ。言葉がムチャクチャだぁ。
悪いけど、笑いが止まらないよー。
ブラウン少年は、あたしたちを困ったように見渡して、
「わてのニホンゴ、なんぞ、変どすやろか」
ナルが苦笑する。
「かなり」
ブラウン少年はタメ息をついた。
「ニホンゴはむずかしおす、どすなぁ」
「おいっ、ボウズ!」
大声をあげたのは、ぼーさんだ。ぼーさんが「ボウズ」なんか言うと、変だなー。
「たのむから、その変な京都弁はやめてくれ」
「せやけど、丁寧《ていねい》な言葉ゆうたら、京都の言葉とちがうのんどすか」
「誰《だれ》だよ! こいつに日本語を教えたのは!」
ぼーさんは笑いすぎて肩で息をしている。
「いいか? 京都弁は方言の一種。
悪いことは言わないからやめろ。な?
それじゃ漫才だよ」
「はぁ」
ブラウン少年はうなずいて、
「そやったら、なかようにいかせてもらいますです。
あんさんら、全部が霊能者でっか?」
……やっぱり、なんか変だよー。
ナルが答える。
「まぁ、そんなもの。
彼女は松崎さん、巫女《みこ》をしておられる。
彼が滝川さん。前には高野山《こうやさん》におられたそうだ」
「あんさんは?」
「ゴースト・ハンター……」
「ああ! せやったら、車の中の機材は、あんさんのものですか? ごっつうえらい装備やなーと思うたんです」
「君は?」
「へぇ。わては、いわゆるエクソシスト、ちゅーやつでんがな、です」
「エクソシスト?」
巫女《みこ》さんもぼーさんも、ピタリと笑いやんだ。強敵を見る眼でブラウン少年に視線を集める。
「たしかあれは、カトリックの司祭以上でないとできないと思っていたが……。
ずいぶん若い司祭さんだね」
「ハイ。ようご存じで。
せやけど、わてはもう十九でんがな、です。若《わこ》う見られてかなんのです」
だめだ、これは笑いをとってるわ。
にしても、十九……。ナルより年上かー? えらく童顔のガイジンさんだなー。
「その『わて』というのは、やめたほうがいいね」
ナルがふたたび苦笑する。
「僕《ぼく》、もしくは、わたし。『あんさん』もやめるべき。あなた、とか」
ブラウン少年、もとい、ブラウンさんがうなずいた。
「ハイ。おおきに。
せや、あなたは、お名前は?」
「渋谷一也」
「渋谷さん。あんじょうたのみます、です」
ナルは軽く会釈《えしゃく》だけして、あたしを振りかえる。
「麻衣。仕事にかかろう」
「はーい」
3
ナルちゃんが旧校舎に向かうと、全員がなぜだかゾロゾロとついてきた。
実験室では機械が自動的に作業を続けている。無機的な音が教室に満ちていた。
「こいつは……」
ぼーさんが感動したような声をあげて絶句する。
「これだけの機材をよく集めたな」
ナルは無視。巫女《みこ》さんは鼻先でわらう。
「関係ないわ。
もうボウヤの出る幕じゃないわよ。荷物をまとめて帰る準備をすれば?」
ナルちゃんはキッパリ巫女《みこ》さんを無視する。
巫女さんはムキになる。
「これだけの機械を集めてムダ骨なんて、ご苦労様ね」
いじわるく言うと、ぼーさんが、
「そりゃ、失礼だよ、キミィ。
いやあ、俺《おれ》は見直しましたよ。仮にもこれだけの機材を持ってる事務所の所長さんだからなー。こりゃ、有能にちがいないや。」
イヤミな口調。
ナルが振りかえる。あまりにも冷ややかな眼。
「……あなたがたは、旧校舎の除霊に来たのでは? それともあそびに来たんですか?」
巫女さんがつまる。
クルッと背を向けて、
「これだから子供はイヤなのよ。
どーせ地霊かなんかなのに、大騒《さわ》ぎしちゃって」
聞こえよがしに言って姿を消した。ぼーさんも肩をすくめて実験室を出る。
「君は?」
ナルはブラウンさんに眼をやる。ブラウンさんは困ったようだ。
「……協力するのと、ちがうんですか」
「そういう状況ではなさそうだね」
「わて、……ボク、こういう雰囲気《ふんいき》は、かなんのです。ボクはできるだけ協力しますよって、ここにいてもよろしやろか」
「どうぞ」
そっけなく言って、ナルはコンピュータをいじる。
積みあげた十個近くあるテレビの画面が変わる。あたしの眼の前のテレビに映っているのは、一階の廊下《ろうか》だ。
画面の端にはなんだかわからない数字のられつ。刻々と変わっていく。
他には玄関が一つ。二階と一階の廊下が一つずつ。あと、わけのわかんない青や黄色のまだら模様のがいくつか。
「これ、なに?」
ナルちゃんの不快そうな眼。
聞いたらへるのかよっ。
答えてくれたのは、ブラウンさんだ。
「サーモ・グラフィー、ちがうかな、です。
……温度を眼に見えるようにする機械です」
「へー」
まぁ、霊能者の一種なのに、なんて親切な。
(あたしは完全に、霊能者は性格が悪いという偏見をいだいたぞー。)
ブラウンさんは、画面を指さして、
「こういう黄色いところは、温度が高いです。反対に青っぽいところは低いです」
ふうん。まだら模様だ。ヘンなのー。
「ありがと。ブラウンさんは親切ね」
ナルにあてつけるように言ってやった。
ブラウンさんはちょっと赤くなった。
「そんな……。それより、アナタのお名前、聞いてへんかったですね。アナタは渋谷さんのアシスタントでっかです?」
「うん、そんなもの。谷山麻衣です」
「ボクはジョンと呼んどくれやす。よろしゅうに、です」
……やっぱり、なんか変な日本語だなー。
視線をTVにもどすと、画面の中にぼーさんが現れたところだった。
ぼーさんは、あたりを見まわしながら廊下《ろうか》を奥へ歩く。
別のTVには、巫女《みこ》さんが歩いているのが映っている。
そして別のTVには……。
玄関の映像、暗い土間。黒々とした影を落とす靴《くつ》箱の列。その間に人の影。
「ナル!」
あたしは玄関が移っているTVを指す。
靴箱の間の暗がりに立って、何かを見透かすように上を向いている着物姿の少女……。
まるで日本人形が立ってるみたいだ。肩で切りそろえた黒髪。あたしと同じ年頃だろうか。淡い桜色の着物。
少女はあらぬ方向を見つめながら、すべるように歩く。そうして画面の端から出て行った。
「い、……今の、何なの?」
ナルは答えず、立ちあがってドアを振り向く。表情に変化はない。
実験室のドアが開いた。
暗がりに等身大の人形が立っている。
「……!」
悲鳴が出そうになる。
ジョンがあたしの肩をやさしく叩《たた》く。
「ダイジョウブ、麻衣さん、あれは幽霊やないです」
え?
ナルが苦《にが》いわらいをもらす。
「校長はよほど工事をしたいらしいですね。
あなたまで引っ張り出すとは……」
彼女は表情を変えない。
「知り合い?」
「いや。でも顔は知ってる。有名人だから」
「だれ?」
あたしはナルに聞いたのに、
「あたくしのことでしたら、自分で申しあげますわ」
お人形さんが、紅《あか》い小さな口を開いた。
「原《はら》真砂子《まさこ》と申しますの」
「誰?」
知らないよー。ナルがタメ息をつく。
「有名な霊媒師《れいばいし》。口寄せがうまい。たぶん、日本では一流」
「口寄せって?」
「無知」
「あのねー」
今度も、助け舟を出してくれたのはジョンだった。
「霊を呼んで、話をさせるんですのや、です
自分の口をつかうです」
「へ? ああ、よくTVでやってるやつね?
霊能者が、霊のかわりにしゃべるやつ」
「ハイ」
ナルちゃんが、霊媒さんに深い色の眼を向ける。
「あなたの見立てはいかがですか、原さん?」
霊媒さんはお人形のような首をかしげた。
「さぁ……。あなたは? 霊能者には見えませんけれど……」
「ゴースト・ハンターです。渋谷と申しますが」
……なんだナルちゃん、ひょっとしてメンくいか? ずいぶんあたしたちに対するときと、態度がちがうじゃないか。
霊媒さんは、不思議そうにナルちゃんを見つめる。
「あたくし、どこかでお会いしたことがあったかしら?」
おや、ナンパの常套句《じょうとうく》。
「初めてお目にかかると思いますよ」
「……そう……?」
言って彼女は濡《ぬ》れたような黒眼がちの瞳《ひとみ》を、機材の山に向ける。
「……霊はいないと思いますわ。
校長先生は、たいへん恐《おそ》れておいででしたけど。何もないわ。霊の気配は感じませんもの」
「そうですか……」
ナルは考えこむようすをした。
……校長先生はそんなに工事をしたいんだろうか。そんなにこの旧校舎がこわいんだろうか。
ゴースト・ハンターに巫女《みこ》、坊主《ぼうず》に神父。そして霊媒《れいばい》。よくもこれだけ集めたもんだ、と思う。旧校舎の怪談のために。
しかし、こいつら、……本当に役にたつのかね?
そのときだった。
建物のどこからか、激しく何かを叩《たた》く音。女の叫び声。
あたしたちはハッとする。
「松崎さんの声とちがうやろか……」
と、ジョン。
ナルが教室を飛び出す。あたしたちもあとに続いた。
実験室を出たところでぼーさんに会う。
「なんだ、今の声は!?」
「わからない、一階のようだったけど」
廊下《ろうか》を見渡す。実験室があるのとは反対側、一階西側の教室から巫女《みこ》さんが助けを呼ぶ声が聞こえた。
「どうした!?」
ナルが真っ先に教室の扉《とびら》に手をかける。力をこめるが開かない。
中から巫女さんがドアを叩《たた》く。
「開けて! ちょっと、開けてよ!?」
ナルとぼーさんがドアを引く。ドアは大きくたわむけれど動かない。
「蹴やぶろう」
ぼーさんが宣言して中に声をかける。
「綾子! そこをどいてろ!」
「なによ! 簡単に呼び捨てにしないで!」
……余裕あるじゃないか。
ぼーさんが体重を乗せてドアを蹴る。メキッと木が折れる音。もう一度蹴ると、ドアが内側に倒れた。
中には巫女さんが青い顔をして立っている。
「何があった?」
ナルの静かな声。
「わからないわ……。中を見てたら、いつのまにかドアが閉まってて、開かなくなったのよ」
「自分で閉めたんじゃねぇのか?」
「ちがうわよ!」
言い合うところに割ってはいったのは真砂子の声だった。
「だらしのないことですわね」
「なによ、あんた」
巫女さんが真砂子をにらむ。
「仮にも霊能者なのでしょ?
扉が閉まったくらいのことで、声をあげるなんて、自分で情けなくなりません?」
すずやかに言ってのける。
ぼーさんが軽く口笛をふく。
「あんた……、たしか原真砂子さん?」
「ええ」
「TVで見るより美人だねぇ」
真砂子は、汚いものを見るようにぼーさんをながめて、顔をそむけた。
こいつも、たいがい性格の悪いやつだなー。
4
「これで、この校舎に何かがいるってことは、ハッキリしたわ」
巫女《みこ》さんが、えらそうに宣言する。
実験室で、ジョンに買ってこさせた缶コーヒーなんか飲んで、一息ついたとき。
「気のせいじゃありませんこと」
真砂子の冷たい声。
「小娘はだまってなさい。
あたしは、顔で売ってるエセ霊能者とはわけがちがうんだから」
真砂子は小さく含みわらいをもらした。
「容姿をおほめいただいて光栄ですわ」
うーん、このノリは……だれかに似てるなぁ。
巫女さんは真砂子を無視して、
「あたしの見たところじゃ、地霊ね」
「地霊って?」
なあに?
巫女さんは、ウンザリしたようにあたしを見る。
「助手の教育がなってないんじゃない、渋谷クン?」
「本人のデキが悪いもので、教育のかいがありません」
と、これはナル。てのひらの上で、一本の釘《くぎ》をころがしている。
こいつー。言いたいように言ってくれるじゃない。
巫女さんが教師ぶって、
「地霊。その地、その場所に住む霊」
「地縛霊《じばくれい》みたいなもの?」
「難しい言葉を知ってるじゃない。
でも地縛霊とはちがう。地縛霊は、何か因縁《いんねん》があってその場所に捕らわれている人間の霊のことで、地霊は、土地そのものの霊。精霊のことね」
「へー」
霊にもいろいろあるんだなぁ。
「むかし、ここに神社かなにかあったんじゃない? そういうことって多いのよ」
「俺《おれ》は地縛霊《じばくれい》のほうだと思うがな」
口をはさんだのは、ぼーさんだ。
「この校舎、過去になんかあったんじゃねぇの? その霊が校舎に住みついてる。すみかをなくすことをおそれて工事を妨害している、そういう感じだな」
「君はどう思う、ジョン?」
ナルがジョンを振りかえる。
「ボクには、わかりまへんです。
ふつう、ホーンテッド・ハウスの原因は、スピリットかゴーストでんがな、です」
ナルちゃんが、指につまんだ釘《くぎ》を見つめながらうなずく。
「スピリット……精霊だね。ゴーストは幽霊。
聞いてるか、麻衣?」
……よけいなお世話。どーせあたしは、英語が苦手《にがて》だってば。
「原因がスピリットやったら、そこが地霊のゆかりの場所。それか、家にスピリット。ええと、悪魔を呼び出したことがあるとか、なんやです」
ふむふむ。
「ゴーストが原因やったら、それは家で死んだおひと……地縛霊ゆうことになりまんがなです」
「地霊だと思わない?」
巫女《みこ》さんが身を乗り出す。
「いや、地縛霊だよな」
ぼーさんも身を乗り出してジョンにせまる。
ジョンはスカイ・ブルーの眼をくもらせた。困惑の表情。
「そんなん、まだわかるわけおまへんです」
パッと巫女さんが立ちあがる。
「とにかく、祓《はらい》い落とせばいいんでしょ?
あたしは明日、除霊するわよ」
宣言する。
「こんなチンケな事件にかかわってられないわ。あたしは忙しいんだから。さっさと済ませて帰ろっと」
巫女さんはニコヤカにわらうと、ヒラヒラ手を振って実験室を出て行った。
その背を見送りながらぼーさんが、
「どう思う?」
誰《だれ》にともなく聞く。
口を開いたのは真砂子だ。
「ムダですのにねぇ。霊はいなと言ってあげてますのに」
あたしはいちおう、言ってみる。
「でも、いろんなウワサがあるのよ、ここ。
それはどうなるの?」
「気のせいじゃありませんの?
こんな古い建物があったら、変なウワサの一つくらい流れますわ。学校の七|不思議《ふしぎ》みたいなものですわよ」
うーん。自信の発言。ますます誰かに性格似てる気がするぞー、こいつ。
あたしは思わず逆《さか》らいたくなってしまう。
「じゃあ、さっき巫女《みこ》さんが閉じこめられたのは?」
「あれはあの方の気の迷いですわ」
と、やわらかな声でキッパリ。
そーなのかなぁ。
たしかに、ふつう人は、無意識のうちに、ドアを閉めてたり、開けてたりする。でも、あのドア、ナルとぼーさんふたりがかりでも、開かなかったわけじゃない? そんなドアを巫女さんが無意識のうちに閉めたりできるものかしらん?
そこであたしは、ふと笑いたい気分になってしまった。
ひょっとしたら巫女さん、教室に閉じこめられて、けっこうビビったのかもしれない。悲鳴らしき声をあげてたもんな。
なんのかんの言って、こわいからさっさと除霊して帰りたいのかもね?
窓から茜《あかね》色の光がさしこんでくる。
いつのまにかガラスが薔薇《ばら》色に輝いていた。
「ナル、陽《ひ》が暮れるよ」
ナルもふと窓を見あげて、
「ああ……。準備をして僕《ぼく》らも引き揚げるか」
言いながら立ちあがる。
「二階西側の教室に機材を入れる」
へーい。
ぼーさんが不思議そうに、
「おや、ボウヤは泊まりこみはしないのかい?」
「今日はまだ……。
そうだな、明日には泊まりこんでみようか」
げ。あたしは……どうなるのかな?
そう不安に思っていると、ナルがあたしに眼を向けた。
「明日は、授業が終わったらここへ」
「あのー、明日は土曜なんだけどー」
「関係ない。できたら泊まる準備をしておいてくれ」
げげげ。いやだよ、いやだよぉ。
「泊まるのは、ちょっと……」
「カメラを弁償するか?」
「……用意しておきます」
けっ。どーせあんたが主人だよっ。
四章 中心気圧九一二ミリバール
1
「いま、なんて言った?」
翌日の朝。ミチルがあたしの顔をのぞきこむ。
「ライバル登場」
「何者よっ」
こらっ! 恵子、首をしめるな。
「原《はら》真砂子《まさこ》っていうの。知ってる?」
「原真砂子って、TVによく出てる?」
祐梨《ゆうり》が聞く。
「知ってる?」
「うん……。ワイドショーの心霊特集なんかに、よく出てくるの……。あたしたちと同い年かな。キレイなコだよね……」
「まーね。日本人形みたいなコだったけど?」
「そいつが、渋谷さんに急接近?」
「いや、むしろあれはナルちゃんのほうが……」
「うそーっ!」
恵子がふたたびあたしの首をしめようとする。
「だってー、あの口の悪いナルが、イヤミの一つも言わないんだもん。ナルはメンくいなんだ、きっと」
「えー……」
ガックリする恵子。
「ま、悪いことは言わないから、ナルはやめときなって。ウラオモテはあるし、ウソつきだし、口は悪いしナルシストだし」
「でも顔がいいもん」
……顔さえよけりゃ、いいのか?
ウンザリしていると、こっちのようすをうかがっているふぜいの黒田女史と眼が合った。
こいつも、変なやつだよなぁ。霊能力があると、性格、曲がるのかな?
黒田女史は、なにか言いたげな表情をしている。
なんか言われるかと思ったけど、そのままフイと教室を出て行った。
……うーむ。
授業が終わると、恵子たちが話をしろとうるさいし、だからと言って一から話をするのも面倒《めんどう》なので、さっさと旧校舎に向かう。
今日もいい天気でよかった。
泊まりこみだってのに、雨でも降って、ムードだされちゃかなわないもんなぁ。
それでも、あれだけアクの強い霊能力者の集団が右往左往してると思うと、妙に心強いというか、あんましこわい気がしない。
よかったのか、わるかったのか。
心の中でブツクサ言いながら旧校舎に入る。ぜーんぜんヘイキだ。こわくないぞぉ。
「こんにちはっ!」
元気よくドアを開けたら、ナルはいない。そのかわりに、機械の前に不穏《ふおん》な人物が立っていた。
うえ。黒田女史。
「……なにをしてるの?」
「べつに。ようすを見にきただけよ。
渋谷さんは、いないのね」
女史はそのへんの機械に触《さわ》る。
「触んないほうがいいよ、ナルが怒るから」
「そう?」
黒田女史はやめない。機械のフチを指でなでながら、
「ね、昨日、どうだった?」
「どうって……べつに。ナルちゃんは異常なしだって」
「他には?」
「巫女《みこ》さんが、教室に閉じこめられるって事件があったけど。心霊現象かどうかは、意見がわかれてる」
「なぜ?」
女史が眼をあげる。
「……霊媒《れいばい》さんがね、旧校舎には霊なんていないって言うの。巫女さんは地霊だって騒《さわ》いでたけど」
「そう……霊媒って、原真砂子でしょ」
「だけど」
「あいつ、ニセものよ」
「はぁ!?」
ニセものって……。
「ちょっとキレイなんで、TVでチヤホヤされてるだけでしょ? 霊能力なんてないわ」
「はあ……」
女史は何が言いたいんだろう?
「霊はいるわよ。それも強い霊が」
「それって、女史が感じてるだけでしょ?」
黒田女史は、あたしの顔をマジマジと見つめる。
「わたし……さっき、襲われたの」
え!?
「廊下《ろうか》を歩いてたら、急に誰《だれ》かがすごい力で髪を引っ張ったの。逃げようとしたら、首をしめられて……」
「う……そ」
「ホントよ」
女史はわらう。不吉なわらい。
「声が聞こえたの。
『おまえの霊感は強いから、邪魔だ』って」
あたりの空気がシンと凍《こお》りつく。
黒田女史はもの言いたげな表情。
あたしにはかえす言葉がない。あたしにはわからない。霊を見たことはない。感じたこともない。女史の言葉の真偽《しんぎ》を、判定することができない。
対立する意見。「霊はいない」という真砂子の声。「幽霊屋敷の中には、危険なものもある」というナルの声。
イヤなウワサ。半分壊《こわ》れたまま廃墟《はいきょ》になった旧校舎。
あたしと女史が黙りこんでいるところに、ナルが帰ってきた。
あたしたちを見くらべる。
「どうした?」
女史の話を聞き終わったナルは、少し考えこむ。
「それはいつごろ?」
「さっきよ。こわくなって、外に出ようと思ってすぐに、ここにたくさん機械があるのに気がついたの。それで中に入ったら、谷山さんが……」
ナルは真っ白な指をコンピューターのキーボードに置く。
「ビデオを再生してみよう。場所?」
「二階の廊下《ろうか》……」
ナルはビデオを巻きもどす。
大小十台以上のTVモニター。それに再生された映像が映る。画面の端に数字のられつ。
刻々と変わっていく。
この数字、時間のカウントをしているんだ。
数字が「13:12:26」を示したとき、スピーカーに軽い足音が入ってきた。
玄関のカメラに女史の姿が入ってくる。
女史はあたりを見まわして、それから階段を上る。少し緊張したしぐさ。
玄関の映像から女史の姿が見えなくなる。少しして、二階のカメラの一台が、階段を上ってくる女史の姿をとらえる。
女史は階段を上りきって左右を見渡す。
そのときだ。
パッと画面に白い横線が入った。二度、三度。そしてあとは砂嵐。放送の終わったTVみたいにザーッと砂嵐みたいなのが現れて、それきり画面が映らない。
「なによー、これ。壊《こわ》れてるよー」
ナルちゃんは他のTVの画面を見渡す。他のビデオは異常ない。二階の廊下《ろうか》、階段のあたりを映した一台だけが、なにも映してない。
「……壊《こわ》れているわけはないんだが」
言ってナルちゃんは、機械をいじる。
画面は変わらず。
「意味深《いみしん》だな」
ナルがつぶやく。
「……はぁ?」
「霊が現れると、えてしてビデオやカメラは正常に作動しなくなる」
言ってから、ナルは画面に眼をやり、
「これは――どっちだろう。霊か、電波障害か……あるいは……」
考えこむ。すぐに女史を振りかえって、
「黒田さん、声がしたと言ったね。
どんな声だった?」
「かすれてたけど、女のコの声だったと思うわ」
「そう……」
「ねぇ、ナル?
真砂子は霊はいないって言ってたでしょ?
どうしてなの?」
「さぁ……。彼女の才能は信用できると思っていたんだが……」
……本当にぃ? 単に真砂子の顔がいいから、信用したいだけなんじゃないのぉ?
黒田女史が首をかしげる。
「原さんって、本当に霊感、あるのかしら」
「さてな……。女性の霊媒《れいばい》というのは、好・不調の波が激しいのがふつうだけれど。
それとも、君と波長が合ったかな」
「え?」
「旧校舎に霊がいたとして、その霊は君とひどく波長が合うのかもしれない」
女史は微笑《ほほえ》む。不思議《ふしぎ》な笑み。
「そうかもね」
女史が答えたところで、ドヤドヤと人の声と足音が玄関のほうから聞こえた。
巫女《みこ》さんにぼーさん、ジョンと真砂子。校長と教頭、そして生活指導の先生。
先頭にいる巫女さんは白い着物に袴《はかま》姿。
巫女さんの除霊が始まるのだ。
2
「まぁ、よく見てるのね」
巫女《みこ》さんはナルに流し眼をくれて、勝《か》ち誇ったようにわらう。
えらそうに先生とジョンをこき使って、玄関に白木の祭壇を作らせる。あらら、ジョンったら、かわいそうに。
その作業を見守りながらぼーさんが
「できると思うか?」
「さて」
ナルの眼は冷たい。
「まぁ、見物ぐらいしてみるか。ボウヤはどうする」
「神道《しんとう》式の除霊というのは、見たことがないな。見物してみようか」
巫女さんは、玄関に作った白木の祭壇の前に立つ。三人の先生が、巫女さんの後ろに神妙な顔をして並んだ。
あたしたちはと言えば、なんとなくそこに並ぶ気がしなくて、実験室の廊下《ろうか》がわの窓からそのようすを見守っている。
巫女さんは手を叩《たた》き、白い紙のビラビラがついた棒を振る。……祓《はら》い串《ぐし》っていうやつかな。
「つつしんでかんじょうたてまつる、みやしろなきこのところに、こうりんちんざしたまいて……」
わー、なんて言ってるの?
「しんぐうのはらいかずかずかずかず、たいらけくやすらけく、きこしめしてねがうところをかんのうのうじゅなさしめたまえ……」
あたしはヒソヒソと、
「これ、なに?
なんて言ってるの?」
ナルに聞く。ナルはうるさそうに、
「黙ってろ。日本人のくせに、祝詞《のりと》も知らないのか」
「ノリト?」
「神道《しんとう》の呪文《じゅもん》、そういうもの」
へー。こういうのって初めてだもんなぁ。
綾子は泰然《たいぜん》と儀式を行う。
成功するだろうか。
「ちはやふるここくもたかまのはらなり、あつまりたまえよものかみがみ……」
祝詞《のりと》の声って単調……。
なんて言ってるのか、せめてわかるようにしてほしーよぉ。
「なむほんぞんかいまりしてん、らいりんえこうきこうしゅごしたまえ」
あぁ……ねむいなぁ……。
あたしは不謹慎なことに、儀式の半分を眠ってしまった。
まぁ、ぼーさんは最初から最後まで眠っていたから許されるだろう。うん。
3
「これでなんの心配もありませんわ。
今日からでも工事にかかれます」
式のあとで、巫女《みこ》さんは校長にニッコリわらう。
……ホントかな。
しかし、校長はうれしそうだ。満面に笑みをたたえて、巫女さんをヨイショしている。
真砂子《まさこ》やぼーさんのケイベツの眼差《まなざ》し。
「どうですか、今夜一席設けますが」
「いちおう、除霊したあとは泊まりこんでようすを見ることにしていますから」
「いやぁ、なるほど、さすがはプロですなぁ」
鼻の下がのびてるぜ、校長。
「それでは、お昼がまだでしょう? どこかでお昼でも」
デレデレ言っていたときだ。
……ギッ。 突然|天井《てんじょう》でイヤな音がした。
先生たちと巫女さんが、ハタと立ち止まって天井を見あげる。
バキッ。……何かが折れるような音。
そして同時に、ドアの上の明かりとりにはまったガラスがひび割れた。
パンッ。白く曇《くも》って、次の瞬間には内側にはじける。ガラスの破片がすぐ下にいた校長たちの真上に降り注いだ。
「なんの心配もありませんわ、だって」
黒田女史が、皮肉な言葉を巫女さんに投げつける。
「どこが、除霊なんてできてないじゃない」
クツクツわらう。
巫女《みこ》さんは女史をにらんだけど、なにも言わなかった。ガラスの破片をかぶって、巫女さんこそケガはなかったけど、校長はハゲあがった頭を血だらけにしていた。かえす言葉など、あるわけない。
「あれは事故ですわ」
冷たい言葉を投げるのは真砂子だ。
巫女さんは真砂子の言葉にうなずく。
「そうよねぇ。アタシはちゃんと……」
「……除霊できた、という意味ではありませんわよ。
初めから霊なんていませんの、ここには」
三すくみ。
霊はいないという真砂子と、霊はいるけど除霊できたという巫女さんと、霊はいて、除霊できていないという黒田女史と。
女三人がにらみあってる横で、男のほうといえば、首をひねるばかり。
ジョンが、
「偶然ですやろか」
と首をかしげると、ぼーさんが、
「やっぱり、なんかいるんじゃねぇのか?
巫女さんじゃ手におえないような、強いのが」
ナルは視線を落とす。
「……だったら、もっと機械に反応があってもいいはずなんだけど」
あーあ、なんかイライラしてくるぞー。
あたしにも霊能力があればいいのに。そしたら、こんなやつら出し抜いて、さっさと解決してやるわ。
ぼーっとTVの画面を見る。
あたしはふと、二階西の教室が変なのに気がついた。
昨日機械をすえつけたので覚えている。
教室には古い机が山のようにあった。それを黒板の前に積みあげてあったんだ。古いイスがいくつも、その前に乱雑に置いてあったっけ。
……なのに……。
「ナル」
あたしは、ぼーさんたちと話こんでいるナルを呼ぶ。
「どうした?」
あたしは画面を指さす。いつのまにか、教室の中央に出ているひとのつイス。
昨日はなかった。あんなところにイスなんて。
ナルは形のいい眉《まゆ》をひそめてから、
「だれか西の教室に行ったか?」
後ろの霊能者の集団に聞く。
彼らは顔を見合わす。
「いや……?」
4
全員が注目するなか、ナルがビデオを巻きもどす。
再生画面。
時間を見ると、ちょうど玄関でガラスが割れたところだった。
一台のカメラが玄関をとらえている。カメラは祭壇のほうに向けてあったので、ガラスが割れるシーンは映っていない。ただ音だけがビデオに収まっている。
ちょうどその間、西の教室の画面では、イスが動いた。誰《だれ》も手を触《ふ》れないのに。
黒板の前、乱雑に置かれたイスたち。ホコリをかぶったそれが、突然ズッと動く。さらに動く。ひっかかり、ひっかかり、床の上をすべって、イスは教室の中央よりで止まった。
移動した距離、およそ五十センチ。
「どういうこと?」
あたしはナルを見あげる。
「……わからない」
ナルが言うと、後ろから黒田女史の声。
「ポルターガイストじゃないかしら」
「ポルターガイストって?」
「『騒がしい霊』っていう意味だったかしら。霊が者を動かしたり、音をたてたりするのよ。――そうでしたよね、渋谷さん」
「そう。詳《くわ》しいね」
「常識だわ」
……ゴメンな、常識なくって。
「ポルターガイストとは思えないんだが」
「なぜ?」
「ポルターガイストが動かした物は、ふつう暖かく感じられるものなんだ」
「それが……?」
「サーモ・グラフィーを見ると、あのイスに温度の上昇は見られない。
そんな例はあまりないんだ」
黒田女史はキョトンとしている。
サーモ・グラフィー。物の温度を色分けして眼に見えるようにして映す装置……だっけ。
ふーん、そうなのか。
ジョンがナルに視線を向ける。
「そやけど……。
ポルターガイストの条件は、満たしとるのとちがいますでっか?
ボクはポルターガイスト、ゆう気がしてまんのやです」
ナルが微《かす》かにわらいを浮かべる。
「ティザーヌだね」
「なによ、それ」
言ったのは巫女《みこ》さんだ。真砂子《まさこ》が軽蔑《けいべつ》の眼を向ける。
「本当に霊能者ですの?」
「なによぉ」
ウンザリしたように、ナルが手を上げた。
「さすがに原さんはご存じですね。
E・ティザーヌ。フランスの警察官だったが、彼がポルターガイストの分類をしたんだ」
「へぇ」
感心したように声をあげたところを見ると、ぼーさんも知らなかったな。黒田女史もポカンとしている。
「全部で九項目あるんだが。
爆撃、ドアの開閉、騒音、ノック、……。
九項目のうち、ここで起こった現象は、ドアが勝手に閉まる、物が動く、ガラスが割れたことも数に入れても、三項目。
僕《ぼく》は、ポルターガイストにしては弱いと思うね」
「黒田女史が襲われたのは?」
あたしは思わず聞いた。
とたんに、ぼーさんたちが声をあげる。
「なんだって?」
……そーいや、こいつら、女史の話を聞いてなかったっけ。
あたしが口をすべらせたせいで、女史はもう一度話をしなきゃならないし、ナルはビデオを……不思議《ふしぎ》なことに何も映ってないビデオを再生しなきゃならないし。
黒田女史はなんだか得意そうだったが、ナルは迷惑そうにあたしをねめつけた。
5
「真砂子ちゃん、感想?」
しんとしたなかから、ぼーさんが少しおどけた声をあげる。
「その方の気のせいですわ」
弱い声。黒田女史が真砂子をにらむ。
「気のせいなんかじゃないわ。
あなたも、いいかげんに認めたら?
旧校舎には、よくない霊がいるのよ」
真砂子は静かに立ちあがる。
「……逃げるの!?」
「……逃げる? なぜ?」
黒田女史を見つめる。
「もう一度中を見てきますわ」
「正直じゃないわね」
巫女《みこ》さんが人の悪い笑顔をつくって、
「素直にまちがいでしたって、言えば?」
「……この校舎に霊はいませんわ」
真砂子はそっけなく言って、実験室を出て行く。それを見送ってからジョンが、
「ショックやったようですでんな」
「当然だろうね」
答えたのはナルだ。
「ふつうの人にはわからない真実が見えるから、霊能者なんだ。
まちがえたらそれはもう霊能力とは言えない」
ほー。かばうじゃない。
あんた、本当にメンくいなんだな。
「ナルって、メンくいなのね」
あたしは一瞬、自分が口をすべらせたのかと思ってギクッとした。
あたしの考えているようなことを言ってくれたのは、黒田女史だった。
「どういうことかな?」
ナルの冷たい視線。
「ずいぶん彼女をかばうじゃない?」
「彼女の仕事は僕《ぼく》も知っているし、才能については高く評価している。だから相応の敬意をはらっているだけだが?」
……ふうん?
「そうかしら?」
あやや、女史とシンクロしてるわ。
ひょっとしてあたし、女史と気が合うのかなぁ。やーね。
巫女《みこ》さんがカリカリした声を出す。
「だったら、アタシたちにも、もう少し敬意をはらってほしいものね」
「松崎さんのどこを、高く評価すればいいのでしょうか?」
ナルの冷たい声。
……おまえ、やっぱり態度がちがうぞー。
ぼーさんがわらう。
「まー、あのザマじゃしようがないわな。
除霊はできない。閉じこめられて悲鳴はあげる」
「アタシがいつ、悲鳴をあげたのよ?」
「こないだ教室に閉じこめられて、悲鳴をあげてたじゃねぇか」
「あげてないわよっ!」
「ほー、じゃああれは鳴き声だったのか?
キャンキャン吠《ほ》えてたが」
……また始まった。
巫女《みこ》さんが犬なら、ぼーさんは猿《さる》だな。犬猿《けんえん》の仲。あー、うるせー。
巫女さんは、ぼーさんにつかみかかる勢いだ。
ミシッ。
乾いた木がひび割れるような音。
……巫女さん、校舎を壊《こわ》すなよ。
パシ。
全員がおし黙った。
旧校舎はボロいんだから、乱暴にすると壊れるよー。
天井《てんじょう》のあたりで、木がはぜるような音がする。
ぼーさんが周囲を見渡す。
「ラップ音か?」
え? ラップ音……って、ひょっとしてアレでしょうか、幽霊が出て来るときに起こるという……。
背筋がゾクとする。
パシッ……メキ……。
西側の天井近くで音がする。
パキ。
小さな音に続くように、激しい音をたてて西側の黒板に亀裂が走った。
どこかで小さく悲鳴。
そして、あたりはふたたびしんとする。
突然声をあげたのはジョンだった。
「原さんっ!」
え?
ジョンはなるのTVにかじりついている。
パッと身を起こし、
「原さんが、二階の教室から落ちたです!」
五章 最大風速六十八ノット
1
夕暮れが近いグラウンド。
救急車が校門を出て行く。
遠巻きに旧校舎をながめる人たちの顔に、強い西日があたる。
真砂子《まさこ》は二階、西側の教室から落ちたのだ。
西側の教室は半分を壊《こわ》したまま放っておかれていた。西側の壁はなかったけれど、いちおうそこにはベニヤ板がはってあって、風雨は入ってこないようになっていた。そのベニヤ板が裂《さ》けたのだ。
真砂子はそこから放り出され……三メートル下の地面に落下した。
西側には鉄パイプや古い工事道具が残されたままになっていた。
たまたま真砂子はそんなものの間、やわらかい地面の上に落ちたが、工具の上に落ちたらどうなっていたかわからない。
「どうなっておるんですか」
校長がナルたちを責める
「除霊をしてくださいと、お呼びしたんですよ。前にも助手の方が事故でけがをされたとか、そのうえこれでは、また不吉なウワサが……」
ナルは校長を制す。
「助手がけがをしたのは、ソコツ者の学生のせいです」
……それは、あたしのことかなぁ?
「原さんは意識をなくす前に、やはり霊はいないと言ってました。
本人が、あれは自分の不注意から起こった事故だと言っていたのです。どうか、よけいな不安をお持ちになりませんよう」
「しかし……」
「調査にもどります」
ナルは一礼して、旧校舎に入っていく。
……事故? 真砂子はたしかにそう言った。
でも……。
「あれは真砂子の強がりだと思うわ」
厳しい声で言ったのは巫女《みこ》さんだ。
いつのまにか、ミーティング・ルームのようなあつかいを受けている実験室。
「旧校舎には悪霊がいる。アタシはそう思うわ」
「そう。綾子が除霊しそびれたやつがな」
ぼーさんに言われて、巫女さんは頬《ほお》をふくらませる。
「……いいわよ、認める。
アタシは除霊に失敗したわ。危険だわ」
あたしは思わず、
「危険なの?」
巫女さんは肩をすくめる。
「除霊に失敗した霊と言うのは、手負いの熊といっしょよ。とても凶暴になる……」
「それじゃ、真砂子のケガは巫女さんのせいなんじゃない!」
「なによ!」
……だって、そうだろ!
ナルがあたしたちの間にはいる。
「早まるな。
ビデオを見る限り、あれは事故としか言いようがない。原さんの言うとおり、本人の不注意が巻き起こした事故だ」
そう。真砂子はあの壁がヤワなベニヤ板一枚でできているなんて、思ってもみなかったようなのだ。
何気なくベニヤ板にもたれて、そしてそこが裂《さ》けて落ちた。ビデオにはその過程がしっかり映っていた。
でも……。
「ねぇ、ナル?
幽霊屋敷って、事故とか自殺とか続くから不吉だって言われるわけでしょ?
事故にも自殺にも、ちゃんとした理由があるかもしれないけどさ、それがなぜだか続くってとこが不吉なわけで……」
あたしが言うと、ナルは腕を組む。
「たしかにそうだね。
でも……この校舎はどこか変だ
納得できない」
「なぜ?」
ツケツケと問うのは黒田女史だ。
「機械に反応がなさすぎ。
気温の低下も、イオンの偏《かたよ》りもない。静電気量も正常。データは完全に正常値を示しているんだ」
「でも、巫女《みこ》さんか閉じこめられたのは?
わたしが襲われたのは?
ビデオが消えてたり、ガラスや黒板が割れたり、イスが動いたりしたのは?」
「だから、納得がいかないと言ってる」
ぼーさんが口をはさむ。
「おまえさんの知らないパターンかもしれないぜ。
ここには強力な霊がいて、それは、いないふりをできるぐらい強い力を持っているのかもしれないじゃねーか」
ナルは考えこむようにして、
「ぼーさんの意見は?」
「地縛《じばく》霊」
「アタシは付喪神《つくもがみ》を押すな」
声をはさんだのは巫女さんだ。
「つくもがみ?」
あたしが聞くと、
「生き物じゃなくてもね、霊が宿ることがあるの。机やイス、大きいものでは家なんかでもね。もともと霊をもたないものが、長い時間の間に、まわりの人間の感情を吸って霊を宿すのよ」
へえぇ。
「この校舎は、ここで学んだ学生や教師の感情を吸って霊を宿したのだと思うの。特にこの校舎に関する恐怖を吸って」
……なんだか、こわい。
幸い、真砂子のケガはそんなに大したものじゃなかった。でも……。
ぼーさんが馬鹿《ばか》にしたような視線を巫女さんに向ける。
「地霊という意見はどこに行ったのかな?」
「もちろん、地霊も一役かってるわ。
この土地の精霊が核になって、そこに人間のマイナスの感情を取りこんで付喪神化したの。……手ごわい気がするわ」
「ほおお」
ナルはふたりにかまわない。
「君は、ジョン?」
「ボクにはわかりませんです。
せやけど、危険やとゆうのんには賛成でんがなです。除霊をやります」
「そう……」
「ナルは?」
ぼーさんがナルの顔色をうかがう。
「僕《ぼく》は……今のところは意見を保留する。
少し調査の角度を変えてみようと思う」
「ほお?」
「麻衣《まい》」
「へい」
「僕は車にもどる。
麻衣はここにいて、機材を見ていろ。変化があったら呼んでくれ」
ナルは機械のスイッチを指さす。
「このマイクが車に通じてるから」
「はーい」
ずるいなぁ。じぶんだけ、校舎を出ちゃうわけ?
2
ナルが実験室を出ると、ぼーさんが巫女《みこ》さんに、
「どうなのかねぇ、あのボウヤ」
「どうって?」
「やたらたいそうな機械を持ちこんで、ハデにやらかしてるけど、本当に有能なのか、ってこと」
「アタシにわかるわけ、ないでしょ」
「あなたたちよりは有能なんじゃない?」
挑戦的に言ったのは、黒田女史だ。
「そういや、お嬢ちゃんは?
帰らなくてもいいのかい?」
「あなたがたの無能ぶりを拝見してからにするわ」
あざわらう。
「今度は誰《だれ》が何をするの? 成功するといいね」
ぼーさんと巫女《みこ》さんが顔をしかめる。敵意をこめた眼。
……女史も、わざわざ敵を作ることはあるまいに。
ジョンが立ちあがる。
「ボクが」
「ほう、いよいよ、エクソシストのおでましか?」
からかうようにぼーさんが言ったけど、ジョンは軽くうなずいた。
ジョンはケンカを買わないよ。あんたらとちがって性格いいもん。
「手伝おうか?」
「よろしいです。それより、祈祷《きとう》を始めたら、機械に注意せえや、です。
何か反応があるかもしれへんです」
「うん」
……脅《おど》かさないでほしいなぁ。
画面には、二階の教室が映っている。ミチルの先輩が人影を見た部屋。真砂子がそこから落ちた部屋。
陽《ひ》が落ちた教室。かすかな残照で明るい。
突然、画面が途切れて、白黒になる。
……え?
粒子の荒い、白黒の映像。カメラが変わったらしく、部屋を映す角度も変わる。
あたしはあわてて、車に通じるマイクのスイッチを入れる。
「ナル」
『どうした?』
「ビデオの画面が白黒になっちゃったの」
『心配ない。暗くなったんで、暗視カメラに切り替わったんだ。ようすは?』
「ジョンがお祓《はら》いを始めるって……あ、現れた」
教室に古めかしい服(あれが神父さんの制服だろうか)に着替えてキラキラした布をかけたジョンが現れる。金髪がはえて荘厳《そうごん》な印象。
彼は部屋に入ると、水の入ったびんを取り出す。指をひたし、水で柱に十字架を記す。
あちこちの壁や柱に十字を書き終わると、彼は教壇に小さな祭壇を設ける。銀色の燭台《しょくだい》。銀色のキリスト像。
ロウソクに火を点《とも》すと、あたりが明るくなる。ジョンは指を組んで頭を垂《た》れる。
かすかな声がスピーカーから流れてくる。
『天にましますわれらの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさしめたまえ。われらの日用の糧《かて》を、今日も与えたまえ。われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪もゆるしたまえ。われらをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン』
ジョンは、水をまく。
あれが聖水というものだろうか。
そして聖書を広げる。
『主よ、なんじはいにしえより、世々《よよ》われらの住《す》み家《か》にてましませり……』
画面に変化はない。どこも異常があるとは思えない。
『山いまだなりいでず、なんじいまだ地と世界とを造りたまわざりしとき、永遠よりとこしえまで、なんじは神なり』
画面のようすに眼をやっていたぼーさんが立ちあがった。
「俺《おれ》も商売にかかるかな」
「そうね、アタシも」
巫女《みこ》さんまでが立ちあがる。
……どっかに行っちゃうのぉ?
「黒田さんは? ここにいるよね」
「あなたが心細いならいてあげてもいいわ」
「いてくれる……?」
ああ、情けない。だけど、こわいもんはこわいんだもん。しょうがないよね。
3
あたりは本格的に暗くなってきた。
実験室の中の明かりは、TVからもれる光だけ。TVがいくつもあるせいで、かなり明るいのだけど、なんだか奇妙な明るさ。
一階西の廊下《ろうか》の映像に、ぼーさんが現れた。こいつも坊主《ぼうず》の制服に着替えている。なにやら荷物を手に持って、いちばん西の教室に行く。
その真上の教室、二階の西奥の部屋ではジョンの祈祷《きとう》が続いている。
彼は祭壇の銀色の器から白い砂のようなものをつかみ出す。それを床にまく。塩だろうか。
『初めに言《ことば》があった。言は神と共にあった。言は神であった……』
ふと、ジョンが視線をさまよわす。言葉が一瞬とぎれる。
……なに?
スピーカのボリュームをあげる。
ジョンの言葉の合間に、何かが折れるような音がはっきり入る。
「ラップ音じゃない?」
黒田女史が身を乗り出す。
『……この言《ことば》は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった……』
なにかが起こっている?
あたしは画面の中をのぞきこむ。
なにか……。
『……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった……』
ジョンが何度も天井《てんじょう》に視線を投げる。
『光は暗闇《くらやみ》の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった……』
天井……。
「あ!」
あたしは思わず立ちあがる。
教室の天井。西の端。ベニヤ板をはった壁のあたり。ちょうど真砂子が落ちた裂け目の、その真上のあたり。
天井が内側にたわんでいる……。
何かが天井《てんじょう》を突き破って、落ちてきそうだ。
いけない!
あたしはイスを蹴《け》った。
「谷山さん!?」
女史の声を背に、実験室を駆け出す。
西の教室の近くまで来ると、廊下《ろうか》からも教室の中で激しい音がしているのが聞こえた。
「ジョン、ジョンっ!」
教室のドアを開けると、驚いたようにジョンが振りかえる。
「麻衣さん……」
「ジョン、あぶないよ、出て!」
「え!?」
あたしがたわんだ天井を指さす暇さえなかった。
板が裂ける嫌《いや》な音。地響きと激しく物が降ってくる音。ドッと土ぼこりがあがり、床が揺《ゆ》れる。燭台《しょくだい》が倒れて明かりが消えた。あたりは真っ暗になった――。
4
懐中電灯の明かりが交錯する。
教室の西側を埋めたガレキの山。板キレ、角材、砕《くだ》けた瓦《かわら》。
……西側の屋根が落ちたのだ。
「麻衣さんが声をかけてくれへんかったら、ボクは危なかったです」
少し震《ふる》えるジョンの声。
ナルが折れた角材の一つを手に取る。
じっと見入る。
「ここは危険だ、下に降りよう」
ぼーさんの声も緊張している。
巫女《みこ》さんは寒いのか自分の肩を抱く。
「……アタシ、今日はもう帰るわ」
「いくじがないのね」
黒田女史のわらい。巫女さんはかまわない。
「命あってのモノダネよ。
真砂子だって、落ちる場所が悪かったらヤバかったわ。ジョンもそう。
アタシはリコウだから引きぎわを知ってるの」
「怖気《おじけ》ついたわけね?」
「なんとでも言って。とにかく今夜は引くわ。続きは明日にする」
……そんなぁ。
「そのほうがいいかもしれないな」
つぶやいたのはナルだ。
「おいおい、ナルちゃん」
ぼーさんのあきれた声。
「おまえさんまで臆病風《おくびょうかぜ》か?」
「なんとでも。ここは巫女《みこ》さんの意見が正しい。……麻衣、帰っていいぞ」
「ホント?」
あら、我ながら声がわらってるわ。
「本当。君も……」
手にしていた角材を放り出して、ナルは黒田女史を振りかえる。
「黒田さんも今日は帰ったほうがいいね」
「おいおい。女じゃあるまいし……」
なおも言うぼーさんを、ナルは視線でとどめる。
「いちおう忠告しておくが、ぼーさんも今夜は引いたほうがいいと思うけど?」
ジョンがため息をつく。
「ボクは……ご忠告に従って、今日のとこは帰らせてもらいますです」
「それがいいね」
ぼーさんが軽く舌打ちをした。
「しょーがねぇな。今夜は帰るか」
あ、自分だけ残るの、こわいんだ。ふふん。
ぼーさんの言葉に促されて、あたしたちはドヤドヤと教室を出る。
階段を降りて玄関に出たところでナルが手をあげた。
「じゃあ」
「ナルは? 帰らないの?」
「少し調べたいことがあるから」
……残るの? ……勇気あるなぁ。
あたしたちはナルに見送られて旧校舎をあとにした。
六章 風雨弱まるも波高し
1
翌朝、起きるやいなや、学校に向かった。
ナルはだいじょうぶだろうか。
なんとなく気になるよねー。旧校舎に一人で残って。あのあと、屋根がまた落ちたりして……それとも……。
まー、にくまれっ子世にはばかる、とは言うけどさ。
旧校舎に入るとまっすぐ実験室に向かう。
ナルはいない。……いないだけじゃない。
機材は半分残してかたづけられている。残った機械もほとんどが動いていない。
どういうこと?
あたしは外に飛び出す。
実験室でなかったら車だろう。
旧校舎をまわりこんで裏手に出ると、グレーのワゴンがあいかわらずの場所にとまっていた。
中をのぞきこむと、機械にもたれるようにしてナルが眠っていた。
あたしは窓を叩《たた》いた。
「ナル!」
彼がかすかにまばたきして眼を開ける。すこしボーッとしてから、あたしのほうをふりあおいだ。
……こいつ、本当に顔いいな。
半分寝トボケた顔が鑑賞に堪《た》えるというのは、めったにないことだ。
「……麻衣《まい》か」
「おはよ」
「おはよ、じゃない。なんだ、こんな朝っぱらから」
うー、ひとが心配して来てやったのにぃ。
「朝っぱらって、もう十一時すぎたよ」
「まだ昼前じゃないか……」
まだ昼前、って、おまえ、どんな生活してんだ?
「コーヒー、いれてきたけど、飲む?」
「……めずしらく気がきくな」
素直にありがとうと言えないのかねぇ。
いいけど。もう慣《な》れたから。
あたしは持って来たポットからコーヒーをカップに注ぐ。それを差し出して、
「ゆうべ、何かわかった?」
「ああ」
……え?
あたしはどうやら、何も期待してなかったらしい。自分で聞いておきながら驚いてしまった。
「ああ、って……何かわかったの?」
「うん」
ナルは無表情。
問いつめようと思った矢先、ナルを呼ぶ声が聞こえた。
霊能者の集団のお着きだ。
2
真っ先にぼーさんが、
「おい、どーしたんだ」
「なにが?」
「実験室の機材!」
巫女《みこ》さんはあくまでもいじわるっぽい。
「もう帰る準備?」
答えるナルの声のそっけなさ。
「そう」
「……冗談でしょ?」
巫女さん、驚いてら。だろうなー。
「本気だから、かたづけたんだけど?」
しんとみんなが、おしだまってしまう。
次の瞬間、いっせいに騒《さわ》ぎ始めた。
ナルが頭をかかえる。
「たのむから、起きぬけに騒がないでくれ……。
さっき寝たところなんだ」
げ。徹夜かぁ?
ぼーさんがナルの顔をのぞきこむ。
「……帰るって、なんで?」
「事件は解決したと判断したから」
「除霊したのか?」
「してない」
はぁ!?
ナルは眠そうに手近にあった書類を引き寄せる。それをぼーさんに差し出した。
「なんだ?」
「旧校舎は、昨夜一晩で、最大〇・二インチ以上沈んでる」
「なにぃ!?」
ぼーさんがグラフをひったくった。
じっと眼を落としてから、きまりわるげに瞬《まばた》きして、
「……見てもわからねーよなー、やっぱり」
巫女《みこ》さんが口をはさむ。
「どういうことよ、それ」
「だから、建物が沈んでいるんだ。
地盤沈下」
「じゃあ、なに? あの怪現象の原因は、それだって言うの!?」
ナルは答えるかわりに、書類の山から紙を引っ張り出す。
「古地図。地図、地図……。地層図、水脈図」
言いながら、足元に放り出す。
「なに?」
「見ればわかる」
あたしたちはそれをのぞきこむ。
「地図だね……」
「地図だな」
うー、わかんないよぉ!
ナルはやっと眼が覚めたふぜいだ。
軽くのびをして、
「ここはもともと湿地なんだ。
それを埋《う》め立てて、このあたり一帯の土地はできた。それだけでなく……井戸の印からするに、この学校の真下をかなり大きな水脈が通っているらしい」
全員が地図をのぞきこむ。地図の上に、ナルがつけたらしい赤い印が無数に入っている。
「その印のついた井戸のうち、二つが今も残っていた。神社にあったんだけど。
水量の確認をしたら、二つともほとんど枯《か》れかけていた。
そういうこと」
「はぁ?」
「だから、ここはもともと地盤が弱いんだ。湿地を埋め立てた場所だから。そこに地下水脈。しかも水量が減って枯れかけている。
そのせいで起こった地盤沈下。それもかなり激しい勢いで沈みつつある。
とくに激しいのが……」
ナルは旧校舎の見取図を出す。青く塗《ぬ》った取り壊《こわ》された部分を指して、
「このあたり。
建物の一方が急速に沈んでいるので、あちこちにねじれやひずみができている。
校長は旧校舎を取り壊したいらしいが、あわてる必要はないんだ。校舎が倒壊するのも時間の問題」
しんとした間《ま》。
ぼーさんがガックリと肩を落とした。
「なんてこった。
それじゃあ、イスが動いたり、屋根が落ちたのはそのせいってわけか?」
「そうだね。
水準器を置いてみたら、あの教室は西側の床が東側より三インチも低かった」
「三インチ……七センチ半ってとこか……。とんでもねぇ」
巫女《みこ》さんが不満げな声をあげる。
「でも、ラップ音が……」
言いかけてから、
「まさか?」
ナルがうなずく。
「ラップ音じゃないだろうね。
柱か梁《はり》か……実際に建物がひずんでる音だろう」
「……冗談じゃないわ。それじゃ、アタシたち、すごく危険な場所にいたことになるんじゃない?」
「みたいだな」
「それ、キケンやでです。
校長先生にゆうて、立ち入り禁止にしてもろたほうがいいのんとちゃうんかいです」
ガクッとぼーさんがコケた。
「ジョン! たのむから、大阪弁にデスをつけるのはやめてくれっ!」
「もうしわけ、おまへん……」
いじめんなよー、ジョンのせいじゃないんだからー。教えたやつが悪いんだ。
「ジョンの言うとおりだ」
ナルは、あくまでもクールな声。
「校長に言って、旧校舎の付近は立ち入り禁止にしてもらったほうがいい。
あの建物は、遠からず倒壊するだろう」
3
午後、あたしとナルとで機材のあとかたづけをしていたら、黒田女史がやってきた。
「……どうしたの?」
女史は、かたづけられた実験室の中を見るなり声をあげた。
あたしは事情を説明する。
この建物は、地盤沈下のせいでひずんでいること。ラップ音もポルターガイストも、そのせいだということ。
「でも、……じゃあ、あたしが襲われたのはどうなるの?」
女史はナルを見つめる。
そーいや、あったな、そういうことが。あれ? あれはどうなるの?
ナルはそっけなく答える。
「……たぶん、君についてきた浮遊霊のしわざだろうね」
「……そんな」
浮遊霊。へえぇ。そうか。
「で、もう帰るんですか?」
「仕事は終わったからね。今日中に報告書を作成して終わり」
……終わり。
そっかー。ナルはゴースト・ハンターだっけ。旧校舎の調査に来たんだよね。つまり、調査が終われば帰る。もう会うこともない。
ははは。恵子たちはガッカリするだろうが、あたしはうれしいぞ。こんなヤツと縁が切れて。うれしいなー……。
…………?
「あたし、霊はいると思うけどな」
黒田女史がしつこく言った。
「いない」
「ずいぶん自信があるのね。
そりゃ、地盤沈下は起こってるかもしれないけど、霊だってやっぱりいるのかもしれないじゃない」
女史はどうしても、霊がいることにしたいらしい。
「いない。調査の結果も、完全にシロたと出ている」
「あなたには、わからないだけかもしれないでしょ」
「黒田さん」
出た。ナルの冷たい眼。
「では、あなたが除霊すればいい。
僕《ぼく》は自分の仕事が終わったと判断したし、だから帰るだけだ」
黒田女史はひるむ。眼をふせて顔をそむけた。
あたしはつぶやく。
「残念だな」
「僕《ぼく》が帰るのが?」
……だれがそんなことを言っておるっ!
「ナルシスト!
なんであたしが、あんたがいないのが残念なのよ! 冗談じゃないって!
あたしはね、ただ……!」
「どならなくてもいいと思うが」
「……あたしはただ、夢が消えた気がするの」
「はぁ?」
「だから、学校の片隅《かたすみ》に古い旧校舎があって、いかにもそれが何かありそうで、幽霊が出るなんてウワサがあって……。そういうのって、一種のロマンじゃない?」
「そのわりには、おびえてなかったか?」
「……それと、これとは話が別。
こわいから、楽しいって心理もあるじゃない?
それがさー、地盤沈下のせいでした、なんて、ロマンも何もないじゃない。せめて、地縛霊《じばくれい》がいたけど退治されました、って言うんだったらいいけどさ。
これで旧校舎が取り壊《こわ》されて、ピカピカの体育館なんか建って、ウワサも消えて、……なんかさびしいよ。
本当に人が死んだりするのは困るけど、無害な怪談ならあったほうがいいな」
「……そんなものかな」
「そんなもんよ」
しかしそのときだった。
ピシ……!
鋭《するど》い音がする。はっと振りかえったあたしたちの眼の前で、実験室の窓ガラスにヒビが入った。
「麻衣! 外へ出ろ!」
「うんっ!」
建物が壊れる!?
とっさに足が動かない。
見ている眼の前でヒビが、ガラスというガラスに伝染し、真っ白に曇《くも》ったかと思うと外に向かってはじけた。
同時に壁がゆがむ音がする。
ゆがむ音……?
……ちがう、そんな感じじゃない、これは……誰《だれ》かが壁を叩《たた》いている音だ……。
でも誰が!? こんな大きい音で!?
「なにごと!?」
校舎の中を見てまわっていた、巫女《みこ》さんが実験室に飛びこんできた。
「……倒壊する……?」
初めて聞く、ナルの自信なさそうな声。
誰《だれ》かが激しく壁を叩《たた》く。西から、東から。その度に床がかすかに揺《ゆ》れ、天井《てんじょう》からホコリが落ちてくる。
「ちょっと、これ叩いている音じゃないの?」
巫女さんの声にナルは答えない。
バンッ!
突然、実験室のドアが閉まった。おそろしい勢い。はずみでドアにはまったガラスが砕《くだ》ける。
閉まったかと思うとふたたび開く。
誰も手を触《ふ》れている者はいない。
勝手に開いたり閉まったりするドア。その衝撃で廊下《ろうか》側の窓ガラスにも亀裂がはしる。
何度めかにドアが閉まったとき、激しい音をたててガラスが砕けた。窓際《まどぎわ》にいた黒田女史がモロに破片をかぶる。
女史の悲鳴。
建物のどこからか、ぼーさんとジョンの声。
ナルがあたしの腕をつかんで駆《か》け出す。倒れた女史を引きずるようにして助け起こす。廊下《ろうか》側の窓を開けて、外に押し出す。巫女《みこ》さんを振りかえって、
「外に出ろ!」
「窓から!?」
うろたえた声。
「そんなことを言ってる場合か!」
あたしは窓を越える。ドアはすごい勢いで閉じたり開いたりして、使いものにはならない。
ナルが巫女さんを押す。
「ちょっと、やめてよ!」
かまわずに窓に追いつめる。あたしのほうを見て、
「走れ! この建物はもろいんだ!」
……ゆがんだ古い校舎。突然の大|騒《さわ》ぎ。壁を叩き、ドアを乱暴に開け閉めする誰か。その衝撃。
ただでさえもろい建物が、もしやこれで……。
あたしは、窓を越えてきた黒田女史の手をつかんで走った。外へ。
建物の外へ。
4
あたしたちが、こけつまろびつしながら玄関から外に飛び出し、前後してぼーさんとジョンが駆《か》け出してきて、それからしばらくして建物は静かになった。
あたしたちは、呆然《ぼうぜん》と旧校舎を見あげる。
音がやんで、やっとお互い顔を見合す余裕ができる。
痛みに気づいて自分の手を見ると、てのひらに小さな切り傷ができていた。窓を越えるときに切ったんだな。
女史は? 女史はモロに破片をかぶった。そう思って振り向く。女史はあちこちにキズだらけだった。
「だいじょうぶ?」
女史の髪の間で、ガラスの細かい破片がキラキラ光っている。あたしはハンカチを出して、それをはらってやった。
「動いちゃダメだよ。服の中に破片は入ってない?」
女史がぼんやりとうなずく。
巫女《みこ》さんもハンカチを出して、女史の血をぬぐってくれる。
ぼーさんがナルを振りかえった。
「……今のは何だ?」
ナルの答えはない。じっと旧校舎を見あげている。
「今のも地盤沈下のせいなのか?」
「さあ……」
ナルのつぶやき。
「どこが!? りっぱなポルターガイストじゃねえか!」
無言のナル。手が真っ赤だ。あたしたちを外に出してくれるのに、かなり切ったみたいだ。
「ナル……手」
「え?」
言って自分の手を見て、やっとケガに気づく。
「だいじょうぶだ、たいしたことはない」
巫女さんは、女史の服についたガラスの破片をはらってやって、ナルに向き直る。
「建物が沈んだりゆがんだりで、あんなことが起こる? あれ、そんな音じゃなかったわよ。ぜったい、誰《だれ》かが壁を叩《たた》いている音だったわ」
ぼーさんがわらう。
「それにしちゃ、ハデすぎたがね。
巨人でもいたんじゃねぇのか? 途方《とほう》もなく大きな手で叩《たた》いてるカンジだったぜ」
「そうよね」
お、こいつら、ナルをいじめる段になって結託《けったく》したなっ。
巫女さんが、これみよがしにホコリを払って、
「馬鹿馬鹿《ばかばか》し。もうすこしで子供の冗談にひっかかるとこだったわ」
「……まぁ許してやれよ。しかたないさ。年が年なんだから」
ナルは無言。黙って旧校舎を見あげている。無表情、でも少しだけ眉《まゆ》が厳しい。
「さあ、仕事をしよっと」
「そうだな、俺《おれ》たちだけでも、しっかりしないとな」
イ……イヤミなやつらっ。
いつもケンカばっかりしてるくせに、こんなときだけなれ合いやがって。
ふたりは高笑いしながら旧校舎に消える。ジョンは無言で黒田女史の手当てを始めた。
「ナル?」
「ん?」
気のない声。振り向いてもくれない。
「手当てしないと……」
どこか血管を切ったんだ。左の手のひらから糸をひく赤いもの。指先からしたたって、地面に黒い血だまりをつくる。
「だいじょうぶだ。すぐに乾く」
「でも……」
言いかけたけど、次の言葉が出てこない。
振りかえりもしないナル。そっけない言葉と無表情。
「あのさ……」
「黒田さんの手当てをしてやれ」
「でも」
「今は放っておいてくれたほうがありがたい。
自己|嫌悪《けんお》で吐《は》き気がしそうだ」
……うん。
あんたって……本当にプライド高いなぁ。
5
手当てがすんで、黒田女史を家に帰す。彼女を見送って振りかえると、ナルがいつのまにか消えていた。
「ナルを知らない?」
旧校舎の玄関から中に声をかげる。
巫女《みこ》さんとぼーさんは、実験室の中を見まわしていた。ふたりがこっちを向く。
「来てないぜ、いないのか?」
「うん……どこに行ったんだろ」
巫女さんがわらう。
「けっこうかわいいとこあるじゃない。
恥ずかしくて逃げ出すなんて」
……ナルは逃げ出したりしないぞ。
ぼーさんまでがわらう。
「言えてる。子供らしくていいじゃねぇか」
……こいつらはーっ。
「やっぱり付喪神《つくもがみ》ね。
今度こそ祓《はら》い落としてやるわ」
意気ごむ巫女《みこ》さんに、ぼーさんが、
「おっと。おまえはリタイアしたんだ。そうだろう?」
「ちょっとミスっただけじゃない」
「力量不足さ。次は俺《おれ》の番だ。
見てな、女子供との力の差を見せてやるよ」
……けっこうな性格。なんだ、おまえは。今まで何もしなくて、みんながイロイロやってるのに難くせつけるだけで。それでなにか? ――おんな子供との力の差、だって?
ぼーさんは、本格的に除霊する気になったらしい。黒染めの衣に着替えて、実験室に祭壇をしつらえる。
「見物しないの?」
巫女さんの声をあたしは無視する。無視してナルの置いていった機材をまとめる。
ジョンが手伝ってくれながら、
「よろしいのんですか、かたづけてしもうて」
「いいの。必要ならまた運べばいいんだから。
それより、ここ、いつ壊《こわ》れるかわからないから」
巫女さんがわらった。
「ボウヤの地盤沈下説をまだ信じてるの?」
あたしは思わず巫女さんをにらみつける。
「ちがうって、証拠でもあるわけ?
わらうんだったら、悪霊がいるって証明を見せなよ」
巫女さんは一瞬けおされたように瞬《まばた》きしてから、口元をゆがめる。
「……ずいぶん肩をもつじゃない?」
「いちおう、あたしのボスだからね」
……代理とは言え、あたしはナルの助手なんだから。
あたしはカメラを抱えて立ちあがった。外へ運びだす。
ぼーさんは儀式を始めたようだ。後ろから声が追いかけてくる。
「オン、スンバ、ニスンバ、ウン、バザラ、ウン、ハッタ」
ふん、そんなわけのわからない呪文《じゅもん》で、旧校舎の悪霊がやっつけられるもんか。
「ジャク、ウン、バン、コク」
……ナルはどこへ行ったんだろう?
結局、機材を運び終わって、車で待っていたけどナルは帰ってこなかった。
陽《ひ》が落ちる。
あのあと、巫女《みこ》さんがもう一度お祓《はら》いをしたようだ。ぼーさんも巫女さんも、今夜は泊まりこむらしい。
完全に陽《ひ》が落ちる。あたりは薄暗くなった。
どうしよう。帰ろうか。それとも、ナルの帰りを待とうか。
どうしよう。
さんざん考えたあと、あたしはナルを待つことに決めた。別にナルが心配なわけじゃない。でも、こんな高価な機材を放りっぱなしにはしておけないじゃない。
よしっ! 待つぞっ!
七章 洪水高潮警報
1
いったん家に帰ってから、あたしはジョンに手伝ってもらって、テープレコーダーとマイクを旧校舎にセットした。
本当はカメラを置たかったんだけど、あたしではやり方がわからない。結局あきらめて、二十四時間録音可能というレコーダーを使うことにした。二階と一階の西の部屋、女史が襲われたという二階の階段をあがってすぐの廊下《ろうか》、それから実験室にレコーダーをすえる。
ぼーさんと巫女《みこ》さんは、時折思いだしたように校舎の中を見てまわった。
……ナルは今夜、帰ってこないつもりなんだろうか。
そう思って一階の階段にすわっていたとき、玄関のところに人影が見えた。
「ナル?」
人影が入ってくる。女のコ。黒田女史だ。
「黒田さん……」
女史はあたりを見まわす。
「どう?」
「黒田さんが帰ったあとに、ぼーさんと巫女《みこ》さんがお祓《はら》いをしたよ。
今、二人が見まわりにまわってる」
「……ふうん。ナルは?」
「いない。どっかに行っちゃった」
「……そう」
「ねぇ」
あたしは身を乗り出す。
「黒田さん、ここに霊がいるって行ってたよね。それ、どういう霊だかわかる?」
女史は首をかしげた。
「あたしは、ここでケガをした霊をたくさん見たけど?」
「……そう言ってたっけ。
なんか手がかりがないかなぁ」
手がかりさえあれば。
あたしは考えこむ。
イヤなウワサのある旧校舎。ウワサはウワサでしかない。あたしには霊能力はない。ここで死んだ人たちの霊が、今もさまよっているのか、確かめようがない。
「どうしたの?」
黒田女史があたしをのぞきこむ。
「うん。本当に悪霊がいるのかな、と思って」
「あたしは見たのよ」
「……そう。そうだね……」
ちぇ、わからないや。あたしでは。
考えこんでいたら、巫女さんが階段を降りてきた。
「あら」
巫女さんは女史の姿を見て眉《まゆ》をしかめる。
「子供の遊ぶ時間じゃないわよ」
「……除霊できそう?」
「あなたに何か関係あるの?」
巫女さんは冷たい。
「ナルが……あたしはこの建物と波長が合うんだろうって」
「それが? ナルの言葉が信用できると思う?」
……失礼なやつっ。
巫女《みこ》さんはあたしと黒田女史を見比べて、
「除霊は終わったの。
念のために残ってるけどね。成功したのはわかってるのよ。手ごたえがあったもの。
子供はさっさと家に帰って寝れば?」
「前にもそう言って、失敗したね」
あたしは言ってやった。
ムッとする巫女さん。
「今度はだいじょうぶよ。現にもう、何の動きもないわ」
「ふうん?」
……勝手に言ってろ、ばぁか。
「まだ除霊できてないわ」
言ったのは黒田女史だ。
「へぇ? なぜ?」
巫女さんの眼つきが険しくなる。
「感じるもの。まだ霊がたくさんいる……」
巫女さんがわらう。
「また霊感ゴッコ?
多少霊感があるからって、いい気にならないほうがいいんじゃない?
こっちはプロなんだからね」
「プロと言うわりには、たいしたことはできてないじゃない?」
にらみ合う二人。ちょうどそこへ、廊下《ろうか》の奥からぼーさんとジョンがやってくる。巫女さんと黒田女史を見比べて、顔を見合わせた。
2
ぼーさんは、黒田女史の「除霊できていない」という発言を聞いてわらう。
「綾子はともかく、俺《おれ》がやったんだから、まちがいない。もう霊はいないぜ」
「ちょっと、その『綾子はともかく』ってなによ」
「本当のことだろうが」
「ひとの手柄を横取りしないでよね」
「そんな必要はない」
……また始めやがった。あんたらの協力はナルをいじめるときだけか?
ぼーさんと巫女《みこ》さんは、ハデに口ゲンカを始める。ウンザリしてそっぽを向いたら、ジョンが天井《てんじょう》を見つめているのに気がついた。
つられてあたしも天井を見あげる。
ん……? なんだろう。足音?
二階から足音が聞こえる……。
あたしたちのようすに気がついたのか、巫女さんとぼーさんが天井を見あげる。
パタパタパタ……。
誰《だれ》かが走っている音。右へ、左へ。
ぼーさんが立ちあがった。
「なんの音だ……?」
「誰かが走ってるみたいな音ね……」
巫女さんは言って、全員を見渡す。
誰も欠けていない。ナルは初めからいない。では、あの足音は……?
足音が階段のほうへ近づいてくる。いつのまにか全員が腰を浮かしている。
階段は半分上がったところが踊り場になっていて、そこから反対に折れ曲がってさらに上がるようになっている。あたしたちがいる階段の下からは、階段の半分しか見えない。あとの半分は手すりが見えるだけ。
パタパタという足音が、階段の上に来た。階段にかかる。あたしたちの真上。足音は乱暴に階段を降りてきた。一段、二段、三段……。階段を半分降りる。踊り場にさしかかる。姿が見えるばすだ。姿が……。
全員が固唾《かたず》を飲むなか、足音は途絶《とだ》えた。
パタと消えてそのまま。あとはコソとも音がしない。
ぼーさんがダッと立ちあがって階段を駆《か》け上がった。踊り場が見えるあたりまで駆け上がって、それから首を振りながら降りて来る。
あたしは聞く。
「誰《だれ》かいた?」
「……いや」
「じゃあ、今の足音は何?」
「気のせいだろう」
「気のせい? あれが? あたし、ちゃんと聞いたわよ」
「…………」
「除霊に成功したんじゃなかったの?
プロなんでしょ? おんな子供とはちがうんでしょ? だったら今のは何なんのよ!?」
巫女さんがあたしをにらむ。
「風の音よ」
てめえっ。ナルがそんなくだらない、いいわけをしたか? あんたらがさんざん言いたい放題言って、そのとき、ナルがひとことでも言いのがれをしたかっ!
胸がムカつく。あたしはぼーさんと巫女《みこ》さんを力いっぱいにらんだ。ふたりがそっぽを向く。
そのとき、二階からドアが開いたり閉まったりする音がし始めた。
バン! ドンッ!
建物を揺《ゆ》るがすような激しい音。
そして激しいノックの音。乱暴な足音。まるで大勢の人間が大暴れしているようだった。校舎中を駆けぬけ、すべてのドアを乱暴に開けて閉める。
その振動で床が揺れた。
突然、あたしたちの頭上で形だけ残っていた蛍光灯《けいこうとう》がはじけた。細かい破片が降ってくる。あわててその場を立って、あたしたちは逃げる。玄関へ廊下《ろうか》へちりぢりになったとき、今度は玄関に乱立した靴《くつ》箱がガタガタと揺れ出した。身震《みぶる》いするように揺れて、ひび割れた音をたてる。
あたしは思わず、靴箱を押さえる。何でそんなことをしたのかわからない。倒れると思ったのだろうか。
靴《くつ》箱を押さえて、それが暖かいのに気づいた。ぬるま湯ぐらいの温度。
……ナルはなんて言った?
ポルターガイストが動かしたものは、温度が……。
あたしの手の中で靴箱がもがく。それはそういう感じだった。暴《あば》れるように揺《ゆ》れが激しくなったかと思うと、あたしのほうに倒れかかってきた。とっさに手でささえる。ささえきれずにしたたかに体を打つ。
ガクッと体を押し倒されて、思わず悲鳴が喉《のど》をついた。
……それからあとは、覚えていない……。
3
頭がズキズキする。
涼《すず》しい風が顔にあたる。……気持ちいいなぁ。そう思ったところで眼が覚めた。
あたしはポカッと眼を開ける。
暗い狭い場所。闇《やみ》に眼が慣れると、それがナルの車の中なのがわかった。
車だ……。動いている?
ハッと気がついて身を起こそうとすると、全身に力が入らない。
……えーと。
そっか、あたしは靴箱の直撃を受けたんだ。うーむ、これはあたしがけがをさせた助手さんのタタリだろーか。……なんてね。
周囲に眼をやる。人の気配はない。運転席にも誰《だれ》もいない。
でも、動いてない、この車?
いや……ちがう、これはめまいなんだ。
へんなの、寝てるのに、めまい。
車に酔ったときみたいだ。頭が痛くてグラグラするよぉ。
……だれが運んでくれたんだろう。ひとりでいると心細いなぁ。そう思ってがんばって起きあがろうとしたら、ムッと吐《は》き気がして、あたしはあわてて横になった。
変だな……あたし、けがでもしてるんだろうか。
足音、騒音、暖かかった靴箱。
あれからどうなったんだろう。あたしは、どれくらい寝てたんだろう。みんなは……? …………。
ああ、だめだ、すごく眠い。
眼が勝手に閉じちゃうよ……。
トロトロしかけてハッと目覚める。
いかん、あたし、やっぱりどっかおかしいみたい。けがでもしたのかな。力が入らない。
気があせってくる。
起きなきゃ。誰《だれ》かを呼ばなきゃ。みんなはどうしているんだろう。物音しない夜。近くには誰もいない。人の気配はない。他にけが人はいなかったのだろうか。
ムリにも起きようとして体を持ちあげたとき、白い手があたしの額《ひたい》に触《ふ》れた。
「だれ……」
自分の声の力のなさ。視線を手にそって動かす。闇《やみ》の中にほのかに白い顔。
「ナル……?」
……もどって来たの? よかった。
ナルの静かな声。
「動いちゃ、ダメだ」
言って微笑《ほほえ》む。あたしは少し驚いた。ナルにこんな笑顔ができるとは思わなかった。
暖かい笑顔。
「いつも、そんなふうに笑ってればいいのに」
思わず言葉にしてしまう。ああ、あたし、やっぱりどこかおかしいらしい。でもナルは、首をかしげてわらっただけだった。
あたしは聞く。
「近くに誰《だれ》かいる?」
「いない」
静かな声。
「……そっか」
……眠い……。
「あのね、残念だけど、やっぱりポルターガイストみたい……。残念だね……」
ナルは首を振る。
「それよりお休み。まだ起きるのはムリだよ」
「ん……」
……ナルはどうしちゃったんだろう。えらく優しい……。
「……アリガトね」
ナルは首を振って微笑《ほほえ》んだ……。
……眼が覚めた。
あたりを見まわす。車の中。月の光。かすかに見てとれる。棚《たな》に詰めこまれた機材。
頭がズキズキする。
硬い床の上で寝てたので、ついでに背中も痛い。
……ナル?
そう言えばナルは?
ナルはいなかった。どこに行ったのかな。
……それとも……夢だったのかなー。
えーと。
あたしは寝転《ねころ》がったまま車の中を見まわす。機材だらけの後部席。どう考えてもあたしが寝ていて、なおかつ、人がいられるだけのスペースはありそうにない。
おやぁ???
考えこんでいたとき、頭上から声が降ってきた。ぼーさんが車の窓からのぞきこんでいる。
「おいっ! 嬢ちゃん、だいじょうぶかっ!?」
4
幸か不幸か、ケガをしたのはあたしだけだった。
将棋《しょうぎ》倒しになった靴《くつ》箱の下敷きになったのだ。靴箱の下から掘り起こされてみると、完全に意識がなかった。呼べど叩《たた》けど、眼を覚まさない。巫女さんに至っては、あたしが死んだと思ったらしい。
ひとを勝手に殺すんじゃない、と怒鳴《どな》つけてやりたい気分だ。だけど巫女さん、あたしが気絶してるだけだと知って、よかった、と泣いてたらしいので、特別に許す。
みんなは車の前に集まっている。夜風が冷たい。
「今……何時?」
「四時。もうすぐ夜が明けるな」
……すると、あたしは相当に長いこと眠っていたんだ……。
「ナルは? もどった?」
「いや」
うーん、やっぱり夢であったか。
……なんであんな夢を見たのかなぁ?
ジョンがしみじみ言う。
「それでも、麻衣《まい》さん、大きなけがやなくてよかったでんなです」
「ゴメンネ」
「ごっついポルターガイストです。
あんなえらいのを見るのは、ボク、初めてでっせ」
「あれから何かあった?」
ぼーさんは肩をすくめる。
「あれきり、何も。祈祷《きとう》をしても反応なし」
「ふうん……。あれ? 黒田女史は?」
「とっくに帰った」
「そっか」
巫女《みこ》さんがつぶやく。
「でも、ちょっとヤバい感じね。
除霊もいっこうに、効《き》き目ないみたいだし……」
「へぇ、除霊の失敗を認めるの?」
あたしが言うと、巫女さんがツンとそっぽを向く。
へっへっへっ。
そのまま皮肉っぽい、きこえよがしのつぶやき。
「ナルはどっかに行ったまま帰ってこないし、その助手はお荷物。エクソシストはたよりにならないし、ぼーさんは無能で……」
「おまえは?」
ぼーさんが鋭《するど》くつっこむ。
「……非力」
巫女さんがシブシブ言った。
「なんか、危険な気がするのよね。
あたしたち、自分の身の安全を考えるべきじゃない?」
「言えてるな」
「へぇ、巫女さんは逃げたいんだ」
あたしは巫女さんに言ってやる。
「……だから何よ」
負けない巫女さん。
「あんたのボスだって、案外、ガラスが割れたのを見て逃げたのかもよ? 今ごろ家で震《ふる》えてたりしてね?」
……げ。
「……巫女さん、それ本気で言ってるの?」
ぼーさんが、いかにもおもしろそうに、
「へー、かばうじゃないか」
「かばうも何も……。エグい想像させないでくれる?
ナルが逃げだして震えてる図なんて、あたしには想像つかないよぉ」
考えるだけでこわいぜ。
ぼーさんがわらう。
「それは、そうだな。でも今ごろ、ふとんをかぶって泣いてたりしてな。昼間、俺《おれ》たちがいじめたから」
やめてよぉ!
「もっと悪いよ、背筋が寒くなるような光景だぁ。
ふとんかぶって泣く!?
あのとんでもなくえらそうで、信じられないくらい自信家の、天上天下|唯我独尊《ゆいがどくそん》的ナルシストが?」
あたしが言うと、ぼーさんが眼をパチクリさせた。
「……それは言えてるな……」
「渋谷さんの場合」
と、ジョンまでが、
「怒って、ワラ人形でもつくってるゆうのんほうが似合ってますね」
小さく巫女《みこ》さんが吹き出して、思わず全員がつられて大笑いする。
東側に見える体育館の屋根の向こうが、かすかに白み始めた。
八章 警報解除
1
ナルは結局、もどって来なかった。
あたしは、けなげで感心な少女だから、あのあと用意してあった制服に着替えて、ちゃんと授業に出席したのだった。
教室に入ると、真っ先に黒田女史に声をかけられた。
「谷山さん……だいじょうぶ?」
「うん。心配かけてゴメン」
言って、席につく。すわるなり、恵子たちにつかまった。
「ちょっと、麻衣《まい》、きのう大変だったんだって?」
「なんで知ってるのぉ?」
「黒田女史。さっきからずいぶん得意そうに言ってまわってるぜ」
……あれあれ。
祐梨《ゆうり》がションボリつぶやく。
「霊感のあるひとはいいな……。あたしも協力できたらいいのに……」
よしな、あぶないから。
ミチルが、
「でもまー、いいわ。
渋谷さんの、うるわしのお声を拝聴できたしー」
恵子も相好《そうごう》ほ崩《くず》す。
「言えてるー。あたし、ビックリしちゃったー。突然、電話がかかってくるんだもん」
……え?
あたしは、ガバッと恵子のほうに身を乗り出す。
「何だって?」
「だからー、あたしたち三人に電話がかかってきたの」
「ナルが? いつ!?」
恵子がパチクリする。
「昨日の夜。あんた、知らなかったの?」
「知らない。ナルは昨日の午後から行方不明《ゆくえふめい》なの。電話って、どこから?」
「聞いてないよぉ、そんなこと」
「なんて言ってた?」
恵子たちは眼を見交わす。
ミチルが声をひそめて、
「いろいろ質問してったよ。旧校舎のこととか、あんたのこととか」
「あたし?」
「そ。あと、先生のこととかね、それから黒田女史のこと」
……なんのことだぁ?
ナルのやつ、行方をくらまして、いったい何をやってたんだ?
キョトンとしてたとき、先生が入ってきた。
先生は顔を出すなり、
「黒田、谷山、校長が呼んでるぞ。
すぐに行くように」
……はぁ!?
2
女史とあたしが校長室をノックする。
中にはいると、八人の人間が集まっていた。
その中にナルの顔。
……こいつっ、こんなところにいたのか?
しかし、校長の前のことゆえ、とりあえず、
「遅《おそ》くなりまして……」
とだけ挨拶《あいさつ》して、勧められたイスにかける。
なんだ、この集まりは?
ナル、巫女《みこ》さん、ぼーさん、ジョン。そして校長、教頭、生活指導の先生。……おっとおまけに真砂子だぁ。
ナルが立ちあがる。
「とりあえず、今回の事件の関係者はこれだけですね?」
校長がうなずく。
ナルが全員に楽にするように言って、部屋の明かりを消した。カーテンを締め切った部屋。真っ暗になる。
「これから……ちょっとしたことにつきあっていただきます」
ナルがそう言うと、スイッチか何かを入れた。カチリと小さな音がする。それと同時に白い光が明滅し始める。
校長のデスクの上に置いたライトが、ストロボのように光っては消える。
「光に注目してください」
部屋に明滅する白い光。
ナルが静かに語る。
「光にあわせて息をしてください。ゆっくりと……肩の力をぬいて……」
不思議《ふしぎ》な気分。単調な光の明滅。ストロボに照らされる世界は、みょうに現実感を失って見える……。
「……自分の呼吸が聞こえますか」
静かに聞く。
「心の中で呼吸をかぞえてください……」
彼は言葉を重ねていく。
……なんだか眠い……。ゆうべ、寝たりなかったのかなぁ。半分眠っているみたいな気分……。
ナルの静かな声が響く。どこからか、まるで沈んでくるように。
――今夜……何かが起こります……。
――それは旧校舎の二階にあったイスです……。イスが動きます……。
――今夜は旧校舎……実験室の中にあります……。
実験室……イス。
…………。
「結構です」
パッと部屋の明かりがついた。
あたしたちはまぶしくて眼をしばたたいた。
「……え?」
「お時間をいただけて、ありがとうございました」
軽く頭を下げるナルの脇《わき》に古ボケたイスがある。
……イス……。
校長室を出て、校舎を出て行こうとするナルを、あたしは呼び止めた。
「ナル!」
ナルが振り向く。深い闇《やみ》の色。あいかわらずの自信の色。
「昨日……あれから、どこへ行ってたの?」
「いろいろ。
……けがをしたって?」
「ん。だいじょうぶ。アタマにコブができたくらい」
「そりゃ、御愁傷《ごしゅうしょう》様。
それ以上、馬鹿《ばか》にならなきゃいいけどな」
……あのなー。
「ねえ、さっきのはなんだったの?」
ナルは答えない。そのかわりに、
「授業にもどらなくていいのか?」
「そんなもん!」
「……なるほど、馬鹿になるわけだ」
……こいつー。
手をあげて立ち去ろうとする。あたしは、聞きたいことがもう一つあったのを思いだした。
「ナル!」
「なんだ?」
ウンザリした声。
「……つかぬことを聞くけど」
「無知」
まだ何も言ってないだろーがっ!
これだもんなー。
「ゆうべさー、帰ってきた……よね?」
「旧校舎に?」
けげんな顔。
「……帰ってきてない?」
「さっきもどったところだけど?」
あやや。やっぱり夢だったか。
だよなー。ナルがあんなに優しいわけないよなー。
ナルは不思議《ふしぎ》そうな顔をする。あたしは手を振って追い払った。
夢だよなー、やっぱり。うんうん、そうか。
……でも、なんであたしは、よりによってあんな夢を見たんだろーか?
……?
……まさか……。
ちょっと、まてよ、おいっ!
あ、あたし、……もしかしてー!?
うわー……。
3
放課後、旧校舎に行く
まず、車のところに行ったら、ナルは車の中でゴソゴソしている。
車の窓からナルの顔が見えたとたん、心臓が小躍《こおど》りする。
うえぇ、どうしちゃったんだよー。
声をかけそびれてしまう。
いつもどおりに声をかけるんだ。ほらっ!
自分を鼓舞《こぶ》していると、ナルのほうがあたしに気づいた。深い色の瞳《ひとみ》があたしを振りかえる。
いかん……赤面してしまう。
ナルは車の中でテープを聞いていたらしい。あたしに気がつくと、ヘッドフォンをはずして、
「ゆうべ、レコーダーをセットしてくれたの、麻衣《まい》か?」
「うん……。ビデオのほうがよかったんだけど、わかんなくて」
「レコーダーでも、おまえにしちゃ上出来だ。
なかなかおもしろい音が入っている」
「ゆうべの、ポルターガイスト、録音されてた?」
「ちゃんと」
よかった。
「あ、そうだ、靴《くつ》箱ね……」
ん? というようにナルが振りかえる。こっちを見なくていいよー。
「あの……えっと……靴箱……暖かかったの」
「倒れたやつ?」
「うん。たしか、ポルターガイストの動かしたものは温度が上昇する……って言ってなかったっけ」
「よく覚えていたな。感心、感心」
わーい、ほめられた。……ちがうって。
ナルは立ちあがる。すごい量のコード類をあたしに差し出す。
「…………?」
「機材を置く」
はぁ!?
ちょうど通りかかったジョンまでこき使って、ナルはえらくゴツイ機械を運ぶ。
ジョンがかついでいるのは、暗視カメラだ。ナルがかついでいるのは、……初めて見る機械。
「ねぇー、どーしたのー?」
実験室の前に来ると、機材を降ろす。
あたしに三脚を組み立てるように言って、自分は中に入って行く。
ナルは部屋のすみからイスを引っ張り出す。古い壊《こわ》れかけたようなイス。
床の真ん中にそれを置いて、そのまわりにチョークで円を描く。
「それ、何?」
円の中のイス。何かのおマジナイだろーか。
それを終えるとさっさと出て行く。
もう一度車までもどって、ふたたび機械を運ぶ。結局、さらに二往復させられて、あたしはドッとつかれてしまった。
「ねぇ、何なのよぉー」
あたしはナルに聞く。ナルは無表情で暗視カメラの位置を決めている。
「ねぇー」
あたしを無視して廊下《ろうか》に置いた機械のほうへ。
……なんだよー、こいつはよー。
なんだかたいそうな機械だ。ナルはややこしそうなその機械をせっせといじる。
「ねー、渋谷《しぶや》さまー、それはなにー? なにが起こってるのー、教えてよぉー」
彼はタメイキをつくと、壁にもたれて腕を組んだ。
「これはレーダー」
「レーダーって、あの飛行機とかについてる?」
「そう」
……ひえええ。
「そんなもの使って、何をするわけ?」
「言えない。言ったら効果がないから」
「でも、あたしは助手だから……」
「ダメ」
うー、ケチぃ。
「明日になったら教えてやる。
それまで聞くな」
「じゃ、一つだけ」
「なんだ?」
「解決のメドはたった?」
「わからない。でもたぶん……」
それきりナルは口を閉ざしてしまった。何を聞いても答えない。
見かねたジョンが、
「麻衣さん、渋谷さんには、なんぞ考えがあるんやで、です。
明日になったら教えてくれはる、ゆうんですから、待ったらどないやです」
「……うん……」
ナルはしらんぷり。今度は釘《くぎ》とかなづちを出して、実験室の窓という窓を大きなべニヤ板でおおって、打ちつけはじめる。
……台風でも来るのかなー?
それが終わると、太いマジックをあたしとジョンに差し出して、
「二人でその板にサインしてくれ。大きく」
は?
聞いても答えてくれないんだろうなー。
あたしはしかたなく、ペコペコしたベニヤ板に力いっぱい大きな字で名前を書く。
「窓は閉まってるな?」
「うん」
打ちつけられた窓はびくともしない。
それからナルは、あたしたちを実験室の外に出す。ドアを閉めて外から板で打ちつける。ペンをふたたび差し出して、
「サインしてくれ」
あきらめてあたしはジョンのサインの下に、自分の名前を書いた。
その間、廊下《ろうか》に置いた機械にひざまずく。スイッチ類が並んでいる前面のパネルにカバーをかけ、その上に紙を貼《は》る。さらにそこにあたしとジョンに名前を書かせる。
そしてあたしは、家に帰されてしまった。
何だよ、そりゃ。
さんざん人に、いろんなことをやらせておいてー。
4
翌日は早々に学校に行く。
まっすぐ旧校舎に向かった。
ナルはもう来てて、車の中でなにやらしてた。その脇《わき》に人影。
おや?
おっと、あれは負傷した助手さんではないかぁっ!
あたしは車にかけよって窓を叩《たた》く。
「おはよ」
助手さんに会釈《えしゃく》する。
「もう、いいんですか?」
助手の彼は冷たい目。
……あたしも靴《くつ》箱をぶつけられて大きなコブをつくったから、あいこということに……してくれないかなぁ。
ナルが車のドアを開けて、
「えらく早いじゃないか」
「そりゃ、もー」
さあっ、明日になったぞ、昨日のあれは何だ、言うんだ、言わんか。
ナルは少しウンザリした顔つき。
「ねえっ、結果は? 昨日のあれはなに?」
ナルはため息をひとつ。
「麻衣は口は堅いほうか」
「言うなといわれれば、ぜったいに言わない」
すこし考えるようなナル。
「ちょっと待て。じきにみんなが来る」
みんな……って? まさか巫女《みこ》さんたち?
何を考えてるの、あんた?
霊能者の御一行様が到着する前に、軽いもめごとがあった。
授業の前に黒田女子が顔を出したのだ。
女史はあたしと同じように、昨日のあれは何だったのかと、厳しい口調《くちょう》でナルを問いつめる。あたしが、それはみんなが集まってから、と言ってしまったのが原因で、ナルと女史の押し問答になってしまった。
残る、と言う女史と、帰れ、というナルと。
けっきょく、女史がかたくなな態度で勝利をおさめて、ナルにため息をつかせた。
授業開始のチャイムが鳴って、少ししてから巫女《みこ》さんたちが集まり始めた。
あたしたちは授業をさぼっちゃったわけだねー。
まー、いいけどさー。
巫女さん、ぼーさん、ジョン、真砂子《まさこ》、と全員がそろったところで、ナルは旧校舎に向かう。
片手に杖《つえ》をもって、足を引きずっている助手さんが、あとから八ミリビデオを持って続く。
「今日は何を見せてくれるんだい?」
ぼーさんのわらう声。巫女さんも、
「やめたほうがいいんじゃない?
また恥《はじ》をかくだけよ?」
ナルは、無表情。
「実験の証人になってほしいだけです」
「へ?」
パチクリする巫女さんとぼーさん。
実験室の前では、機材が昨日のまま、おとなしくしている。ナルがあたしとジョンに声をかける。
「二人とも、悪いが機材を確認してくれ。
昨日サインしてもらった紙が、破れていないかどうか」
なんだ?
いつのまにか助手さんがビデオをまわしている。
あたしは機械に貼《は》られた紙を確認する。破られていない。たしかにあたしの字。
「だいじょうぶだな?」
「うん」
「ハイ、たしかに、昨日のままでんがなです」
「ドアのサインは?
ふたりの字だね?」
「うん」
「へえ」
うなずいて、ナルは釘《くぎ》ぬきを手にとる。ドアと板の間にさしこんで、乱暴に引きはがす。ベニヤ板が裂《さ》けて落ちた。
あたしたちが、意味がわからず顔を見合わせるなか、彼は実験室に入って行く。
……おや?
部屋の真ん中にチョークで円。
たしかイスが……その円の中に置かれてなかったっけ?
イスはない。それは窓際《まどぎわ》に倒れていた。
「渋谷さん、イスが動いてまっせです」
「そうだな」
ナルの満足そうな微笑《ほほえ》み。
巫女さんが割りこんでくる。
「ちょっと、なによ、それ」
ナルは答えず、部屋の中に置いた暗視カメラに歩み寄る。カメラに接続したビデオをのぞきこみ、会心の笑みをもらす。
「ねぇ、ナルちゃん」
じりじりした巫女さん。
ナルは、自信に満ちた視線をあたしたちに投げる。
「どうも、ご協力ありがとうございました。
僕《ぼく》は、本日中に撤退します」
え? えぇーっ!?
「まさか、事件は解決した、なんて言うんじゃないでしょうね?」
巫女《みこ》さんがいじわるっぽくわらう。
「そのつもりだけど」
「地盤沈下?」
……皮肉なやつ。
しかし、ナルはうなずく。
「そう」
「は!」
あざわらうように声をあげたのは、ぼーさんだ。
「いい加減に認めたらどうだ?
地盤沈下であんなことが起こるかよ」
「校長から依頼を受けた件については、地盤沈下で全てが説明できたと考えている」
「じゃあ、実験室のガラスが割れたのは?
おとといの騒《さわ》ぎは!?」
……そうだよー。あれは地盤沈下どころの騒ぎじゃなかったよー。
「あれはポルターガイストだね」
「ほら!」
巫女さんとぼーさんの勝ち誇《ほこ》った声。
「おまえさんは、除霊できないんだ。そうなんだな? それで調査だけして帰るつもりなんだ」
ぼーさんが指を突《つ》きつける。
ナルは涼《すず》しい顔。
「除霊の必要はない。ないと考えているんだが」
ナルは、ビデオテープを巻きもどす。
「ご覧になりますか?」
それは、実験室に置いたイスの映像だった(当然だけど)。イスを画面の真ん中にとらえている。じっとイスを見守る。
「なによ、これ」
女史の不満そうな声。
ナルの返答はない。
「ねぇ……」
女史のさらなる声が終わらないうちに、ゴトッとイスが揺《ゆ》れた。
揺れる椅子。そして、ズルッと動く。床の上を。イスを動かしているものはない。ただイスだけが動く。ズルズルと窓際《まどぎわ》まで移動してから、大きく揺れてイスが倒れた。それきりもう動かない。
ガチッとナルがビデオの再生ボタンをはずす。
「今の……なに?」
と、あたし。
「見てのとおり」
「イスが動かなかった?」
「動いたね」
……。どういうこと?
ぼーさんが吐《は》き捨てるように言う。
「りっぱな、ポルターガイストじゃねぇか!
除霊をしないと……」
ナルの冷たい声。
「その必要はありません」
眼を白黒させているあたしをながめて、ナルが言葉を発する。
「昨日、全員に暗示をかけた」
「え?」
「催眠術みたいなもの。
夜、このイスが動くと」
……あの光。ストロボみたいな。
「あれ、催眠術だったの?」
あたしが聞くと、ナルは軽くうなずく。
「……まあな。
そのうえでイスをここに置く。
この部屋の窓は全部内側から鍵《かぎ》をかけた。さらに麻衣とジョンに手伝ってもらって、板を張った。ドアにも鍵をかけて封をした。すると、人は入れないし、ムリに入れば絶対にわかる」
「うん」
封をした板が破れるもんね。破れたからと言って、取りかえるわけにはいかない、あたしとジョンで名前を書いてあるから。
ナルはすこし言いよどむ。チラッとあたしたちを見渡してから視線をあげる。闇《やみ》よりも深い眼。
「ポルターガイストの半分は、人間が犯人である場合だ。たいていはロー・ティーンの子供。霊感の強い女性の場合もある」
「イタズラだって言うの?」
あたしが聞くと、
「阿呆《あほう》」
……なにもそんな、キッパリ言わなくてもいいじゃんよー。
「一種の超能力。本人も無意識のうちにやってることが多い。
何かの原因でストレスがたまった者が、注目してほしい、かまってほしいという無意識の欲求でやる」
「へぇー」
「そういう場合、暗示をかけると、まずそのとおりのことが起こるんだ」
暗示……イスが動くって?
ぼーさんが割りこんでくる。
「じゃあ、このイスが動いたのは……人間のせいだって言うのか?」
「そのとおり」
「霊のしわざじゃないの? 旧校舎の大騒《さわ》ぎも?」
これは巫女《みこ》さん。
「おそらくは。
少なくとも僕《ぼく》は、いままでこの方法で失敗したことはない」
「……だれ?」
「それは……」
ナルは口をつぐむ。
かまってほしい。注目してほしい。
自己顕示欲の強いやつなら、いっぱいいる。いまあたしの眼の前に。
でも……。
あたしはそっと視線を向ける。ある人物に。
全員の眼が、チラホラと彼女のほうに集まった。
黒田女史のほうに。
「……わたし……?」
女史のうろたえる声。すぐに、
「バカな……!」
首を振る。
ナルはうなずいた。
「君が最有力候補だな」
「わたしがやったって言うの? あのポルターガイスト」
女史の眼はどこかおびえた色。
「他の誰《だれ》より、君がやったと考えるのが自然なんだ」
言ってナルはあたしたちを見渡した。
5
「君には、最初からひっかかりを覚えてた。
たとえば君は、旧校舎で戦争中の霊を見たと言ってた。看護婦らしき霊も見たと。
でも、ここに病院が建っていたという事実はない。このあたりは戦争中、空襲を受けたこともないらしいし、学校が病院として使用されたという話も聞けなかった」
「そんなこと、……」
「――すると、君のカンちがい、もしくは故意のウソという結果になるわけだ。
巫女《みこ》さんも言ってたじゃないか、黒田さんには霊能力がないと」
ナルは、巫女さんに視線を向ける。
「そうよね、アタシ、ぜったいちがうって思ったのよね」
「黒田さんが……故意にやっているのか、それとも見えるつもりで、真実でないものを見ているのか……それはわからないが」
「ウソなんかじゃないわ!」
女史の叫び。
「最初は、霊感ゴッコをしてると思ったんだけどね」
ナルはデッキからテープを抜き出す。
それを指先でもてあそぶ。
「さっきも言ったが、ポルターガイストの原因の半分は、人間の無意識によるものだ。
旧校舎でポルターガイストとしか考えようのない現象が起こったとき、すごく困った。機材で測定した結果からは、霊がいるとは思えなかったから。
原さんの判断も、霊はいないということだったし」
「ええ。いませんでしたわ」
真砂子がうなずく。
「霊でなければ、人間が原因のはずだ。
これが普通の家なら、その家に住んでいる人間の中に犯人がいる。ローティーンの子供。あるいは霊感の強い女性。
極端にストレスがたまった者が、無意識でやる。無意識の底流にあるのは、自分のことをおざなりにしている家族に、ふりむいてほしい、かまってほしいという願望だ。
だから、犯人である人物がポルターガイストの標的になることが多い。中には大ケガをする者だっている。ケガをすれば同情してもらえる、かまってもらえるという無意識のせいだ。
しかし……、旧校舎には住人はいない」
みんなは、シンとおしだまる。
「では、逆に考えてみればいい。
ポルターガイストによって注目をあびた者、同情された者が犯人ではないのか?
すると……該当するのは、黒田さんと……麻衣だけになる」
……あたし!?
おのぉれぇ。あたしも犯人だと疑ってたのかぁ!?
「ふたりを比べてみれば、断然あやしいのは黒田さんだ」
言って、ナルは女史の青い顔を見すえる。
「君は霊感が強いので有名だったらしいね。それで周囲の注目をあびる存在だった。中学のころから」
「…………」
……ミチルたちがそう言ってたっけ。
「君は、旧校舎に悪霊が住んでいると言っていた。
ところが……もし、旧校舎に霊はいなかったということになったら? 霊などいず、地盤沈下のせいだったと、みんながわかってしまったら?」
ぼーさんが答える。
「権威の失墜《しっつい》、つまり、信用をなくす」
巫女《みこ》さんも、
「……霊感があるなんて言って、なぁんだ、ウソだったのか、ということになるわけね」
「……そう。黒田さんにとっては、周囲の注目を集め続けるために、旧校舎の悪霊は必要な存在だった。旧校舎には、霊が住んでいなければならなかったんだ。彼女のために」
全員のもの言いたげな視線が、女史に集まる。
「……なんか、そういう心理ってわかってしまうな」
あたしはつぶやいた。女史がはっと顔をあげる。あたしはちょっとわらいかえした。誰《だれ》だって特別な存在になりたい。誰もが一目置いてくれるような、そんな存在に。特別な才能がほしい。それを認めてもらいたい。
彼女が望んだ才能は、霊能力という才能だったんだ……。
「このままでは、自分は立場をなくす、と黒田さんは猛烈な不安に襲われる。それは彼女の無意識に、大きなプレッシャーをかける。
無意識は考える。霊がいるはずだ。いなくてはならない。ポルターガイストが起こるはずだ。そうでなくてはならない。
そして……」
ぼーさんが後を継《つ》ぐ。
「……無意識はそれを行う」
あたしは、ふと、
「でも、そんなこと、人間にできるものなの?
テストの前とかさー、学校が壊《こわ》れてしまえばいい、なんて真剣に思うけど、壊れたことなんてないよ」
「それは才能の問題」
へ?
ナルの視線が女史に向かう。
ほんの少し、やわらかな眼の色。
「彼女は潜在的なサイキックだと思う」
「さいきっく?」
「いわゆる超能力者。
本人も意識していないし、誰《だれ》も気づいていないが、おそらくある程度のPKを持ってる。麻衣のために言っておくが、PKというのは、念力のことだ」
……うるせー、このやろー。
「ふうん……」
巫女《みこ》さんが、女史に眼をやってからナルに向かって首をかしげる。
「でも、その説からすると、彼女のストレスが高まったのは、ナルの地盤沈下説が出てからでしょ? じゃあ、あたしが教室に閉じこめられたのは? 彼女が襲われたのは?
彼女が襲われたというのが、ウソかカンちがいにしても、ビデオが消えていたのは?
これを説明してくれなきゃ、納得できないな」
真砂子《まさこ》がつぶやく。
「閉じこめられたのは、自分でやったことだわ」
「ちょっと、あたしが自分で閉めて、忘れたって言うの?」
「そうじゃありませんの」
ナルがふたりを制すように手をあげる。
「……説明しようか?」
黒田女史に向けられた声。
女史がうつむいて首をうなずかせる。
「巫女さんが閉じこめられた件については」
ナルがポケットから一本の釘《くぎ》を取り出す。
「なによ」
「釘ですが」
「見ればわかるよ」
「これが、敷居《しきい》にささっていた」
……え?
「ドアが開かなかったのは、おそらくこの釘のせい。
これには早くに気づいていたんだ。でも、あえて言う必要はないと思っていた」
巫女《みこ》さんがナルの手から釘をとりあげる。じっと見つめて、
「だれかが、ワザとやったって言うの?」
「そう」
「誰《だれ》が……あんたねっ!?」
巫女さんが女史をにらむ。女史がびくっと身体をちぢめた。あたしは思わず肩をたたく。
……気にしなさんなって。
ナルが、
「ちょっとした、イタズラのつもりじゃなかったのかな。
あの直前、巫女さんにたっぷりイヤミを言われていたし」
……ははぁん。
「じゃ、ビデオの故障は?」
「それについては詳しくテープを調べてみた。
あれは霊障《れいしょう》じゃない。故意に消されたもの」
「それも彼女?」
「麻衣が実験室に着いたときには、黒田さんはすでにいたそうだから、たぶんそうなんだろうね」
「…………」
巫女《みこ》さんが唇《くちびる》を噛《か》む。
女史がさらに身をちぢめた。
あたしだけに聞こえた。ごめんなさい、という声。
ジョンがさびしげにというか、少し悲しいニュアンスの声で女史をはげます。
「気にすることおまへんです。ちょっとしたイタズラでしたんやし」
「そういう問題? 悪質よ!」
ナルはそっけない。
「巫女さんに霊感がないと決め付けられたのが、悔《くや》しくてたまらなかったんだろう。
これにこりて、少しは口をつつしめば?」
……人のことが言えるのか?
「以上でいいかな。納得できましたか」
巫女さんがえらそうに腕組をする。
「いちおう、わかったわ。
でも、それでどうするわけ?
このままでは帰れないのよ。アタシたち。校長は工事をできるようにしてくれって、依頼してきたんだから」
「除霊は終わったと言って帰るだけ」
「黒田さんが工事の邪魔をしたら?」
巫女さんは露骨に女史をにらむ。
「校長にはこう報告するつもりでいる。
旧校舎には、戦争中死んだ人々の霊が憑《つ》いていた。除霊をしたので、工事をしてかまわないと――それでいいかな、黒田さん?」
女史が泣きそうな表情でうなずいた。
「……戦争中死んだ人……ねぇ」
巫女さんは不満そうだ。
ぼーさんが、
「それで、だいじょうぶだと思うか?」
ナルは肩をすくめる。
「だいじょうぶなんじゃない?」
真砂子が言う。
「それでも不安は残りますわ。校長先生に、本当の話をしてはどうですの?
今の話を、そのまま報告すれば?」
「彼女はじゅうぶんに抑圧されてる。これ以上、追いつめる必要はないんじゃない?」
……ほー、けっこう優しいことを言うじゃないか。
巫女《みこ》さんのしんねりむっつりした声。
「それで、誰《だれ》が除霊したことになるの?」
とたんに降りるじっとりした沈黙。
ナルはあっさりしている。
「全員が協力してやった、と。それでかまわないでしょう?」
「……へぇ」
巫女さんはナルをしみじみ見つめた。
「……いいところあるのねぇ。手柄をわけてくれるわけ?」
ナルは軽く肩をすくめるだけ。それから、あたしのほうに鋭《するど》い視線を向けて、
「麻衣、この件については他言無用だぞ」
「わかってるって」
巫女さんはみょうに感動したようすだ。
「あんたって、けっこうフェミニストなのね」
「それは、もう」
「ふうん。……彼女はいるの?」
「……質問の主旨をわかりかねますが」
「アタシ、ガマンしてあげてもいいわよ、年下でも」
「それは、どうも」
……イロケ巫女。どこが巫女なんだ? どこがっ!?
ナルは微笑《ほほえ》む。
「お言葉はありがたいのですが、残念です。僕《ぼく》は鏡を見慣れているもんで」
とたんに巫女さんが顔を赤らめた。
……は?
一瞬おいて、ぼーさんがバカ笑いする。巫女さんはそっぽを向いた。
……鏡で自分の顔を見慣れてるから、巫女さんじゃダメだっていうわけか?
そらまー、巫女さんのほうが完全に負けてるが。……そこまで言うか?
さっさと水仙《すいせん》になれ、こいつっ。
6
ナルがふいにカメラをかかえて歩き出した。
不思議《ふしぎ》そうにそれを見る全員を、ナルは闇《やみ》色の眼で見返す。
「帰る準備をしないんですか?」
「あ、そうか」
巫女《みこ》さんが、ポンと立ちあがる。
「なんか、たいした事件じゃなかったわねぇ」
との声に、ぼーさんのつっこみ。
「そのワリにゃ、ビビってなかったか?」
「冗談、やめてよね」
……帰る準備。
ナルの声を聞いたとたん、胸の中がスカスカした。
あたしは単なる学生だ。助手さんがケガをして、代理の助手にやとわれた。
つまり……あたしとナルをつなぐものなんて、なーんにもないってこと。
ひょっとしなくても、もう会えないんだ。
そう思ったとたん、ふいに喉《のど》がつまった。もう会うこともない。あたしはあたしの生活に、ナルはナルの生活に帰る。もう、会う理由がない。
何か言わなきゃいけない気がして、もどかしい。
実験室の中の機材を廊下《ろうか》に運び出し始めたナルをながめてたら、彼が振りかえった。
「ふたりとも、授業に出なくていいのか?」
「今日はいいや、もう」
あたしが言うと、ナルの軽蔑《けいべつ》の眼。
「もう少し、利口《りこう》になる努力をしたほうがいいんじゃないか?」
……こいつー。
あたし、なにを気にしてるんだろ。
ナルはあたしと別れることなんか、全然気にしてない。もうちょっと気にしてくれてもいいと思うんだけど。臨時とは言え、助手をやってたんだから。
……そんなの、なんでもないことか。だって本当の助手さんも、杖《つえ》をたよりにとはいえ、歩けるようになったことだしね。
うーむ、ちょっとムカムカしてきたぞー。
……どーしてあたしだけが、こんなさびしい気分にならなきゃいけないわけ?
理不尽《りふじん》な腹だちを覚えてナルの背中をにらんだら、ナルが振りかえった。
「授業に出ないんだったら、機材の撤収を手伝ってくれ」
へーい。最後までコキ使ってくれるな、おまえ。
女史は何も言わず、深々と頭を下げて教室にもどっていった。
あたしは、ナルを手伝って機材を車に積みこみながら、なにか言いたい気がしてならない。
でも、まさか「住所を教えてください」なんて、言える状況じゃないよねぇ。
最後に残っていたコード類を巻いて、ナルがかかえる。それで実験室の周辺に残っているものはなくなった。
「麻衣も、もうもどっていいぞ」
いつもどおりのナル。
……ふうん……。
おまえ、本当になんにも感じてないのな。
ああっ、こんなやつキライだ!
「そ。じゃあ、授業に行くわ」
「うん」
「それとも、見送りしようか?」
あたしはそっと言ってみたのに、
「なぜ?」
……なぜ、と聞かれても。
「やっぱさー、短い間とはいえ、ボスだったわけだしー」
「必要ない。それより、授業にもどれば?
それ以上馬鹿《ばか》になったら、手がつけられないぞ」
……こいつはっ!
そーかい、いいよ、わかったよ!
あたしは授業に行くからね! 見送りだってしてやらないからね! ほんでもって、これっきりになっても、ナルのことなんか、今後いっさい思い出さない!
絶対に思い出してやらないぞ、ばかやろー。
しぶしぶ授業にもどって、なんとなく落ち着かない気分で授業を受けた。あたしの席は窓際《まどぎわ》で、季節は春で、開け放した窓からは旧校舎が向かい。ついつい視線が旧校舎に向いてしまう。
ぼーっとながめていたときだった。
音もなく、旧校舎の窓ガラスがゆがんだ。まばらに残ったガラスが白くにごる。ピンという高い音は遅れて届いた。その音に合わせたように、ガラスが砕けて流れ落ちる。あたしは思わず腰を浮かした。
グラウンドをはさんだ向こう側の旧校舎。腰を浮かしてそれを見つめるあたしに注意しようとした先生。けれども先生の声は、激しいガラスが割れる音に途切《とぎ》れた。教室のあちこちにざわめきが起こる。
あたしの眼には、旧校舎が身震《みぶる》いしたように見えた。壊《こわ》れかけた西側の屋根がうねって、軽くふくらんでから沈み始めた。屋根瓦《がわら》が流れ落ちて、薄黄色の砂煙があがる。西側に倒れこむように沈みこんで、自らがあげた煙の中に崩《くず》れ落ちる。
ゆっくりと建物があげる最後の声が響きわたってきた。
旧校舎の西側、すでにとり壊されていたあたりの地面が、静かに沈んだ。砂時計のようにすりばち状に沈んでいって、まるい大きな穴が開いた。旧校舎は、玄関から西側が完全に倒壊して、ほこりの海に沈んだ船みたいだった。
あたしは、先生と学生とが鈴なりになった窓際《まどぎわ》をそっとはなれて駆《か》け出した。
旧校舎に駆けつける。
いつもの場所に、グレーの車はなかった。
もちろん、駆けつけた人たちの中にも、探す顔はなかった。
性格のよろしくないゴーストハンターたちは、立ち去ったのだ。
数日して、わずかに残った旧校舎の取り壊し工事が始まった。それと同時に、黒田女史の霊感についてのウワサが、学内を流れていったのだった……。
エピローグ
「ねぇ、渋谷《しぶや》さんって、今ごろどーしてんのかなー」
恵子がぼうっと窓の外をながめる。
窓の外には、足場を組んで、解体中の旧校舎。今のところ工事はつつがなく続いている。
「麻衣《まい》ったらー、どーして住所とか、せめて電話番号でも聞いておかないのよー」
……るさい。
ミチルも気が抜けたように、外の景色に眼をやる。
「電話帳を、探してみたのになー」
……そう。『渋谷サイキック・リサーチ』なんて事務所のナンバーは載《の》ってなかったのだ。もっとも、完全に調べあげたとは言い難《がた》い。
電話帳のどこを探したらいいのか、いまいちよくわからなかったのだ。タウン・ページに「霊能者」なんて項目はないし、ふつう、事務所の電話番号を、ハロー・ページに載《の》せたりはしないだろう。(でもとりあえず調べた)。番号案内に聞けば、「所在地がわからなければ調べられません」との冷たい返事。
恵子が誰《だれ》にともなく言う。
「だからー、校長が呼んだんだから、校長なら連絡先を知ってるはずじゃない。
校長に聞いてみようよー」
「あんたが聞けば」
ミチルがそっけなく言う。
「えー。聞けないよぉ」
「あたしだって、ヤだよ」
「でもぉ」
……あたしだって、それは考えた。校長に聞こうか。でも、なんて言って?
まぁ、聞く方法がないわけじゃない。忘れものを届けたいとか、なんとか。
けどさ。電話をかけて、それからなんて言うの? ナルは、例によって例の声で、「何の用だ?」と聞いてくるに決まってるのに。
「ねぇ、麻衣ー。校長に聞きなよー」
「用事などない」
「もー、冷たいんだから」
恵子がうらめしげだ。
あー、やめてくれ。
あたしは今、本当はナルの話はしたくないんだよっ。あんたらがグダグダ言うんで、しかたなくつきあってやってるんだからっ。
「そうだ、麻衣……」
ミチルが身を乗り出す。
「うるさい」
「ちょっと、聞きなよ、あたしに名案が……」
うるさいっ!
もう話したくないのっ。せつなくて泣けてくるから。
「あたしは関係ない。そういう相談はファンクラブ内でやってよね」
「なによー、冷たいなー」
そこに突然、アナウンスが入った。
『一−Fの谷山麻衣さん、至急事務室まで来てください』
……なにごと?
まー、いい。救いの神だ。
あたしはそう思って立ちあがる。ミチルたちの視線を振り切って。
首をかしげながら事務室に出頭する。
「あのー、谷山ですけど」
「あ、谷山麻衣さん? 電話」
事務のおねーちゃんが、カウンターの電話を指さした。
電話? 学校に?
「はぁい、お電話、かわりましたが」
どなたー?
『麻衣か?』
…………。
この……声……。
あたしは思わず、腰がぬけそうになった。
『麻衣?』
「そう! そうですっ!」
『どならなくても聞こえる』
……あー、このえらそうなものの言い方。
ナルだぁ……。
「どうして、学校に電話なんか……」
『自宅の電話番号を知らなかったからだ、とは思わないか?』
なんてえらそうなのー。泣けるくらい、うれしいよー。どーして、ナルが電話をくれるのよー
「……どうしたの?」
あたしは心の中で感動を悟《さと》られないよう、努めて平静を保つ。
『ギャランティ』
「……はぁ?」
『だから、助手をやってくれた給料。
いらなきゃ、別にいいけど?』
……あ、そ……。
急速に力が抜けていく。眼の前がたそがれてくる。
……事務的な用事なわけね。
「お金をいただけるとは、想像だにいたしませんでした。
くれるもんなら、もちろんいただきますとも」
もらうわ。ぜったいもらってやる。
ナルのばかー。
『じゃ、振りこむ。口座番号はわかるか』
……口座番号。
「わかるわけないでしょ、ここ、学校だよ?」
『……じゃ、郵送しようか?』
……郵送。
あーあ、せめて、お金を渡すから会おうとか言ってくれないのかなー、こいつは。
「なんでもいいよ、もー」
『じゃ、住所を』
へいへい。あたしは、だらーっと住所を言ってやる。
郵便でお金が送られてきて、それでもって差出人の住所が書いてないとか。
あるいは、住所が書いてあって、ついうっかり訪ねたら、「何の用だ?」と冷たく聞かれるとか。
どーせ、そんなことなんだろ。
『――OK。じゃ、一週間以内に郵送するから』
「はいはい」
『それと、麻衣?』
「なーにー」
声が完全に力を失ってるわ。ははは……。
『おまえの高校、バイト禁止?』
「ちがうよ」
『……へえ。だったら』
「あー?」
『うちでバイトしないか?』
……へ? ……バイト……?
……バイト!?
「ナルの事務所で!?」
あたしは思わず、受話器を渾身《こんしん》の力で握りしめる。
『――事務なんだけど、手が足りないんだ。この間までいたコがやめたんで』
「……やる!」
やる! ぜっいにやる!
『じゃ、一度事務所に来てくれ。所在地は……』
あたしは大急ぎでメモをとる。
……夢だ。これは夢だ。
『都合のいい日でいいけど』
「じゃ、あさっての土曜日」
今からだっていいよっ。
『うん。土曜日な。時間は麻衣の都合のいいようでいい』
ああ、うれしい、どうしよう。
『ああ、――それから、最後になったけど』
「うん?」
『――この間はお疲れさん。
助かったよ。ありがとう』
……我ながら情けない。
あたしは涙が出そうになった。イヤミぬきのほめ言葉。初めて聞いた。
感動のあまり口がきけない。
『それじゃ、また土曜日に』
「うん」
あたしはやっと出た言葉に力をこめる。
「土曜に、またね!」
あとがき
まいどありがとうございます。
小野です。
ええっと、小野の本を初めて手にとってくださったお客様。ようこそいらっしゃいませ。わたしが店主の小野でございます。
いかがでしたか? 感想を聞かせていただけるとうれしいです。そのときちょこっと、みなさまの知っている怪談などを書き加えていただけると、もっとうれしく思います。
小野は広くみなさまから、こわい話を募集しております。
どうぞ、よろしく。
本当は、小野は、あとがきがニガテです。
それでも今回は、この場をかりてお礼を言わなきゃならないひとがたくさんいます。
まずは、サカネ、あなたのことだよ。
今回の話は、あなたとバカ話をしてたときにできたんだったね。「書いていい?」と言ったら、快諾《かいだく》してくれたあなたに、最大の感謝を。
おまけに、いつも身から出たサビ的なグチにつきあってくれて、ありがとう。そのうえ、資料探しにまでつきあわせてゴメンね。わたしはあなたがいないと、一日たりとも作家なんていうたいそーな商売、続けられません。
読者のみなさま。もしあなたのまわりに、「サカネ」と呼ばれる背の高いおねーさんがいたら、その方はたいへん親切な方です。ぜひ、仲良くしましょう。
――それから、さをりさん、尚子さん、いつもお手紙をありがとうございます。お手紙の話をネタに使わせてもらおうと、承諾までいただきながら結局話が変わってしまって、使えませんでした。でも、いずれ必ず使うことでしょう。ここでお礼を言ってしまいます。どうも、ありがとう。
そして次は典子ちゃんだよー。
「君を眠らせない」、どうもありがとう。この作品を書いているときのBGMは、このテープのみ! でした。
それから……ラストは、いつもご声援をくださるみなさまへ。
暖かいお便りをありがとうございました。おかげさまで四作目です。
「四作目はまだか」というおしかりを、たくさんいただきました。はっきり言って、うれしかったです。
ほらー、できたよー。
本当にみなさま、わたしのような者に、いろいろとありがとうございました。
こころからの感謝を捧げます。
あ、そうだ、山口のオカルトちゃん、ポシくん、村田ますみ様、浅賀磨美様、沖縄のサリーちゃん。どうもお手紙ありがとうございました。住所不明につきお返事が書けなかったので、この場をかりてお礼申し上げます。
最近、みなさまへのお返事が遅れがちです、申しわけありません。心をひろーくもって、気長に待っていてくださるとうれしいな(ハート)
前作から半年以上時間があきました。
どーも、あいすいません。小野の責任です。
まあ、いろいろとありましたが……引越しもしたし、二月九日には、小野を半月の間ゾンビにしてしまうようなショッキングなこともありましたが(せりさん、そのせつは、ありがとう。おかげで立ち直れました)、それでも原稿が遅れたのはいけなかったと思います。どうも申しわけありません。
すべて小野が悪いんです……九十八パーセントは。
あとの二パーセントのうちの半分は、さとおさん、きやなかさん、まどかさん、あなたがたで分けあってくださいねー。
そして残りの半分は、ツリ眉タレ眼で、極端に寝起きの悪いあなたに(ハート)
それでは、失礼いたします。
どうかみなさま、お元気で。
またお会いできるとうれしいです。
一九八九年六月
小野 不由美