悪夢の棲む家(下)ゴースト・ハント
小野不由美
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)憑依《ひょうい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)進退|窮《きわ》まって
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コソリ[#「コソリ」に傍点]
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[#地付き]イラストレーション/小林《こばやし》珠代《たまよ》
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八章(承前)
「ここで殺された女性です。たぶん三十代の方だと思いますわ」
真砂子《まさこ》は居間に座って、きっぱりと言う。
「お前ら、あのなあ!」
怒鳴《どな》り声は広田《ひろた》のものだ。これは隣のダイニングから聞こえた。麻衣《まい》が彼を閉め出してしまったのだ。
「広田さーん、夜分です、お静かにぃ」
「こら!」
「どういった経歴の方なのか、どういういきさつで亡《な》くなったのかは、よくわかりません。ただ、殺されたことだけは確かです。とても強い他者に対する恐怖を感じますから」
では、と強《こわ》ばった声は翠《みどり》のものだった。翠は隣に礼子《れいこ》を座らせて、その肩に腕をまわしている。礼子は茫然自失《ぼうぜんじしつ》したまま、じっと視線をあらぬ方向に据《す》えていた。
「……この家で、そんな事件が起こったんですか?」
真砂子はうなずいた。
「ええ。詳《くわ》しいことはわかりませんけれど、少なくともその女性が殺されたのは、この家での話だと思いますわ。彼女はとても子供のことを気にしています。子供だけは見逃《みのが》してほしい、と言って」
「それで、その子に、家から出るようにと警告しているんですね」
「ええ。子供はこの家に帰ってくるんです。あの女性は、帰ってこないで、と、そう言っています。たぶんここが親子の家だったのだと思いますわ」
「じゃあ、母は……」
「その方の霊が憑依《ひょうい》しているのだと思います。同じ母親だから、ではありませんかしら。――大丈夫です、その霊は必ずしも悪い霊ではありません。おかあさまや翠さんに危害をくわえるようなことはないと思いますわ」
「でも……」
翠は顔色を曇《くも》らせた。だからといって、礼子をこのままにはしておけない。
「降《お》ろせますか」
そう訊《き》いたのはナルだった。
「ええ。――ですけれど、これ以上のことがあたくしにわかるとは思えません。その女性の心は、ひとつのことでいっぱいなのですわ。そういう霊では、そのひとつのこと以外は、とても聞き取りにくいものですから」
言ってから、真砂子は首をかたむける。
「その女性が叫んでいるのはふたつです。――入ってきてはいけない、という声と」
「その子を見逃してほしい、と?」
「ええ」
「家に入ったとき、誰もいないような気がした、と言いましたね。――それは」
「わかりません」
「のぞいていた男の霊は?」
ひょっとしたら、と真砂子は言う。
「霊ではなく、その女性が警告のために見せた幻《まぼろし》なのかもしれませんわ。……どちらなのかは、はっきりしないんですの」
「あの姿見《すがたみ》をドアだと言いましたね」
「ドアのように見えました。一枚ガラスのドアです。ドアノブが見えましたわ」
「そう……」
うなずいてから、ナルは翠を見る。
「どうなさいますか」
「どう――とは」
「協力者の中には憑依《ひょうい》霊《れい》を落とすのが得意な者もいます。彼を呼びますか?」
翠は礼子の肩を抱いた手に力をこめた。
「呼んでください。お願いします」
「わかりました。――麻衣」
麻衣は笑う。
「ジョンね? おっけ。朝、一番に連絡する」
「同時に安原《やすはら》さんにも」
言ってナルは、居間の内部を見渡すようにした。
「この家で、絶対に何かあったはずだ……」
翠が思い描いたのは、鉈《なた》を持った男の姿だった。男は鉈を振りあげて、女に襲いかかろうとしている。
玄関の開く音がする。彼女の子供が帰ってきたのだ。彼女は叫ぶ。――「出ていって」。
男は彼女の側《そば》を離れて――ひょっとしたらすでにそのとき、女はもう虫の息だったのかもしれない――玄関のほうへ向かう。彼女は願う。その子だけは見逃して、と。
感じたのは恐怖よりも悲嘆だった。結局、それからその子は、どうなったのだろう。
やるせない気がしたのは、きっとその子も母親と同じ運命をたどったのではないかと、そんなふうに思えたからだった。
広田はふてくされてダイニングを出た。
どうして翠も礼子も、広田よりも霊能者を信頼しようとするのだろう、と苛立《いらだ》ちを抑《おさ》えきれない。
ダイニングから廊下へ出て、広田は目の前の洗面所のドアに目をとめた。ドアはほんの少しだけ開いている。廊下をのたくったコードが、その隙間《すきま》から洗面所の中に消えていた。連中がカメラを中に置いたのだ。
広田はそのドアを開けてみる。脱衣所の隅《すみ》に置かれた二台のカメラは、ガラス戸の開け放たれた風呂場の内部を映している。
軽く顔をしかめてから、広田は風呂場をのぞいてみる気になった。ひょっとしたら――連中がカメラを置いたのだから、ありえないことだろうが、何かの痕跡《こんせき》が残ってはいないだろうか。侵入してきた男がこの場に残したごく細かいものが、見落とされてはいないだろうか。
そのためには――と、広田はカメラを見た。軽く洗面所のドアから身を乗り出し、廊下の奥、ベースに向かって声をかけた。
「リン――。すまないが、風呂を使うから」
すぐにリンが顔を出す。広田に向かって軽くうなずいた。脱衣所に戻ると、カメラやその足元《あしもと》のビデオデッキの、素子《そし》の明かりが消えていた。
広田はほくそえむ。ドアをできるだけぴったりと閉めて、念のためにカメラにタオルをかけた。
――これで、よし。
心の中でうなずいて、広田は風呂場に踏みこんだ。
脱衣所も風呂場も、明かりがついたままだった。連中の持ってきたカメラの一方は夜間撮影ができるから、基本的に照明は必要ではない。ひょっとしたら、誰かが気味悪がって、明かりをつけたままにしているのかもしれなかった。
夜に使用された浴室の床《ゆか》の、白いタイルはまだ濡《ぬ》れていた。目地は黒か黒に近い灰色で、これはべつに汚れているせいではなく、そもそもそういう造作のようだった。
広田はほとんど床に顔をつけるようにして、タイルの表面をあらためたが、白いタイルは汚れがすぐに目立ってしまう。少なくとも泥《どろ》や、翠が見たという赤い血のようなものは見えなかった。
念のために、広田は目地を指でたどってみる。指先を確認して、赤いものがついていないかどうか調べる。目地に異常がなさそうなので、今度は排水溝をのぞきこんで、果ては銀色の丸い金具を外《はず》して、裏側や排水口の中までなでてみた。
「……ないな」
不審《ふしん》なものはどこにもない。腰を伸ばしながら、広田は浴槽の蓋《ふた》を取る。ステンレス製の浴槽の中に光が入って、空《から》の内部を鈍《にぶ》く輝かせた。
「――あった……」
それは、浴槽の底にあった。赤い染《し》みがいくつか落ちていたのだ。
――やはりな。
広田の顔に会心の笑みが浮かぶ。
やはりあいつらが仕掛けたことだったのだ。おそらくは、翠を脅《おど》かした男はこの中に隠れていた。そうして、芝居《しばい》に使った塗料を落としてしまったのだ。
広田は赤い色を指先に拾う。軽く鼻先に近づけると、微《かす》かに血の臭《にお》いがした。
広田は眉《まゆ》をひそめた。
――少なくとも、揮発性《きはつせい》の臭いはしない。ポスターカラーかそんなものか。血のような臭いがするから、犯人の男が怪我《けが》でもしたのかもしれない。
ハンカチを引っぱり出して、赤い染みを拭《ふ》いた。丁寧《ていねい》にたたんでズボンのポケットに戻す。
――これを倉橋《くらはし》検事に依頼して科研かどこかに持ちこんでもらえば、少なくともこれがなんだかわかるに違いない。
満足げに笑って、広田は身体を起こす。そっと浴槽の蓋を戻して、それから天井《てんじょう》近くの換気窓に気がついた。
それは縦が三十センチ、横が六十センチほどの回転窓だった。下に取っ手があって、これを押すと、上側が手前に下側が外側に回転するようになっていて、これにも鏡が入っている。蒸気抜きのためか、いまは開いていた。
これでは人の出入りには使えないだろうが、念のためということがある。広田は浴槽の縁《ふち》に足をかけて登る。バランスを取りながら、軽く伸び上がって換気窓をのぞきこんで、広田はあやうく声をあげそうになった。
広田は目線を合わせてしまったのだ。――窓の外からのぞきこんでいる誰かと。
さっと、見えていたものが消えた。本当に瞬《まばた》きする間のことで、広田はしばらく自分の見たものが何だったのか理解できなかった。
――人だ。
それはほんのわずかの時間をおいて、鮮明によみがえってきた。
換気窓の下側は、外に押し出される形に開いている。壁の厚み分、内側にへこんでいて、その壁の縁《ふち》と窓の縁がつくる隙間《すきま》はわずか三センチ程度。――そこに人間の目があったのだ。
――視線が合った。
確かに、広田はその目をのぞきこんだ。一瞬の間に、それは見えなくなってしまったけれども。
愕然《がくぜん》として、それからあわてて身を乗り出した。身を隠した誰かの姿が見えないだろうかと思ったのだ。その時の自分の足場が細い浴槽の縁で、自分の足が濡れていて滑《すべ》りやすいことは失念していた。
広田は見事にバランスを崩《くず》した。とっさに反対側に身体を引き戻そうとして、足が浴槽の蓋《ふた》を踏んだ。それはもろく、広田の体重を支えることはまったくできなかった。
「わ――」
我《われ》ながら情けない声とともに、広田は浴槽の中に転《ころ》がり落ちた。浴槽にひどく身体をぶつけずにすんだのは、蓋がたわんで折れ、クッションのかわりをしてくれたからだ。
「くそ……」
これはだいぶん情けないのではなかろうか。派手《はで》な音をたてたから、すぐに誰かが駆《か》けつけてくるだろう。いくらなんでも、こんなみっともない姿は見せられないと、広田はあわてて身体を起こす。手をついた場所には下敷きになった浴槽の蓋があって、ぶわりとした手応《てごた》えを返してきた。
そうして、その手が濡《ぬ》れる感触。まるで浴槽の底にいくらか水が溜《た》まっていて、それが折れた蓋の間から漏《も》れて、広田の手を濡らしたかのように。
広田は浴槽を這《は》い出しながら自分の手を見た。次いで浴槽の中に目を向けた。
――これは、なんだ?
この――彼の手を濡らしている、折れて落ちこんだ蓋の間に見える、この赤いものはなんだろう。
つん、と錆《さび》のような臭《にお》いがした。
広田はV字形に落ちこんだ蓋をそっと持ち上げた。
虚《うつ》ろな目がそこにあった。
――男の首だった。
「……――!!」
広田は飛び上がる。床《ゆか》を蹴《け》って後退《あとずさ》り、開いたままの戸にぶつかって、戸が派手《はで》な音をたてた。
――いまのは、なんだ。
広田は口元を押さえようとして、その手が赤く濡れているのを見て思いとどまった。
首だった。しかも、それは切断されて浴槽の隅《すみ》に転《ころ》がっていた。とろりと濁《にご》った目が一瞬のうちに脳裏《のうり》によみがえった。
どうした、と声が聞こえた。誰かが駆《か》けつけてきたのだろう。
広田には声が出せなかった。ほうほうの体《てい》で脱衣所に転がり出るのが精いっぱいだったのだ。
真っ先に洗面所に駆けつけて、滝川《たきがわ》は洗面所の床に座りこんでいる広田を見つけた。
「――どうした!?」
広田は滝川を見、いま自分が見たものを訴えようとして思いとどまった。なんとなく口に出すのが憚《はばか》られたのだ。それでただ、浴室を示した。
滝川は浴室をのぞきこむ。次いで不思議そうに広田を振り返った。
「……何をやっとったの、お前」
その口調があまりに何気なく、ただただ呆《あき》れた調子だったので、広田は怪訝《けげん》に思う。ふと自分の両手に視線を落として、そこにただ湿《しめ》り気をおびただけの手を発見した。
――馬鹿《ばか》な。
さっきまで、確かに赤いものがついていたのだ。そう思って身体を見回しても、なんの汚れも発見できなかった。乾《かわ》ききれないでいた水滴を吸って、ズボンのグレイは濃い色の染《し》みをつくってはいたけれども。
「いや……ちょっと」
広田は答える。声が妙にかすれた。
「ちょっと、って。理由もなくひとんちのものを破壊するのは感心せんぞ、俺は」
「……ああ」
言って広田は立ち上がる。まだ破《わ》れ鐘のような音をたてている心臓をなだめるように、ゆっくりと浴室に近づいた。
白いタイルとステンレス製の浴槽、折れて落ちこんだ白いプラスティックの蓋《ふた》。そのどこにも赤い色はなく、どんな汚れも発見できなかった。
――馬鹿な。
広田はもう一度独白した。確かに見たのだ。赤い色の粘《ねば》ったような艶《つや》も、鼻腔《びこう》を刺激した錆《さび》の臭《にお》いもはっきりと覚えている。あの男の首の様子、変色した肌の感じ、濁《にご》って白いゼラチンの膜が張ったような両目。
「何かあったの?」
麻衣に訊《き》かれて、広田は彼女を見返した。麻衣の背後には感情のうかがえない無表情でナルが立って、広田を見ている。
「なんでも……ない」
「なんでもないって、すごい音、したよ?」
「外の様子を見ようとして、足を滑《すべ》らせたんだ」
広田は換気窓を視線で示した。
「でも――」
「それだけだ」
広田は言い切った。
――気のせいだ、と自分に言い聞かせる。何も見ていない。何かを見たような気がしただけだ。いろんなことがあって、自分でも気がつかなかったけれど、疲れていたのだ。それでありもしないものを見たような気がした。
――ただ、それだけだ。
広田は自分に言い聞かせる。
――おれは、何も見ていない。
「あの……大丈夫ですか?」
ダイニングに戻ってから、翠に訊《き》かれて、広田は苦笑した。
「大丈夫です。それよりすみませんでした。蓋《ふた》、弁償しますんで」
「いいんです、そんなこと」
「いや、おれのせいですから。――勝手にコーヒー、もらってもいいですか?」
「淹《い》れます」
「ああ、自分でしますから」
広田は勝手に食器|棚《だな》からカップを取り出して、カウンターの上に置いた。
落ちつかなければいけない。――そう思うのに、手はまだ微《かす》かに震えていて、インスタントのコーヒーをカップに放りこむとき、白い陶器の縁《ふち》に少なからずこぼした。
――あんなものは、幻覚に過ぎない。ただの幻視だ。
自分に言い聞かせて、広田はふと疑問に思う。いったい、どこからどこまでが幻覚だったのだろうか。
両手についた血、浴槽の中の首、それが幻覚なのだとしたら、足を踏《ふ》み外《はず》したあの後から幻視は始まったのだろうか。
――それとも、そもそも窓の外に人の顔を見つけたところから幻覚だったのだろうか。
それがどんな人間だったのかはわからない。ただ、確かに窓の外には人間がいて、中をのぞきこんでいた。その目の様子、瞬《まばた》きをした動き――。
そこまでを考えて、広田はふと身体を硬直させた。――この家の左右にはほとんど隙間《すきま》がないのではなかったろうか。
そうだ――と広田は思う。笹倉家《ささくらけ》側がほんの十五センチほど、反対の家との間は二十センチほど、どちらにしても、人間が入りこめる幅ではない。
ましてや、家の中にいた広田でさえ浴槽の縁《ふち》を踏み台にしていたのに、窓の外のあいつは、どうやってあの窓をのぞきこんでいたのだろう。
また手が微《かす》かに震えだした。コーヒーをかき混《ま》ぜるスプーンがカップの底をひっかいて、耳障《みみざわ》りな音をたてた。
では、あの目を見たところから、すでに幻覚だったのだ。――では、浴槽の中で赤い染《し》みを見つけたのは? 浴室の中を探《さが》しまわったのは? そもそも風呂場に行ったことは?
ふいに足下《あしもと》の床がたわんだ気がした。
広田はいま、本当に起きているのだろうか。ひょっとしてスプーンを握《にぎ》っている感触も、コーヒーの匂《にお》いも、背後に感じる翠の気配もなにもかもが幻覚ではないのか。
「広田さん? どうかしたんですか?」
翠に声をかけられて、広田はあわてて夢想から醒《さ》めた。
――馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。どうかしてる。
「べつになにも。――翠さんは寝なくてもいいんですか?」
翠はええ、と曖昧《あいまい》にうなずく。
「それでなくても疲れているんですから、寝ないと身体が保《も》ちませんよ。――おばさんは?」
「休ませました。――そうですね、わたしも寝ます」
翠は微笑《わら》って立ち上がる。広田は翠がダイニングを出ていくのをじっと見守っていた。
――これは、現実だ。
――では、どこからが幻覚だった?
広田は軽く頭を振り、それからそれに思い至った。あわててズボンのポケットからハンカチを取り出す。
なぜかこわごわと開いてみたそれには、どんな汚れも見えなかった。
「――何があったのか、言う気になりましたか」
ハンカチを見つめてぼんやりしていた広田は、突然声をかけられて我に返った。
振り返ると、ダイニングの廊下へ通じる入り口にナルが立って広田を見ている。
「――なんのことだ」
広田はあわててハンカチをポケットに突っこむ。ナルはダイニングに入ってきて、広田の脇《わき》のカウンターにもたれた。ドアの向こう、廊下には滝川と麻衣、真砂子の姿も見える。三人もまた、ダイニングに入ってきて、ほとんど包囲されたような気がする広田である。
「浴室でなにがあったんです?」
「……べつに」
「何もなくて、あんな醜態《しゅうたい》をさらしたわけですか?」
醜態、という言葉が癇《かん》に触《さわ》って、広田はナルをねめつける。ナルは軽く眉《まゆ》を上げるようにした。
「ほとんど腰を抜かした、というふうに見えましたが? 震えてもおられたようだし?」
広田は怒声を呑《の》みこんだ。――まったく、これほど人の神経を逆なでするのが上手《うま》い人間を他に知らない。
「なんのことだか、わからんな」
「あなたは何かを浴室で見たんだ。――違いますか」
広田は強《し》いて笑ってみせる。
「ゴキブリがいたんだ。おれは嫌いなんだよ」
くすり、とナルは揶揄《やゆ》するような笑みを漏《も》らした。
「そんなことじゃないはずです。何か現実的でないものを見たんだ。そうでなかったら、あなたはそれを隠したりはしない」
広田はかろうじて視線を逸《そ》らさずにいられた。
「何も見てない」
なるほど、とつぶやいたナルの声には皮肉の色が明らかだった。
「それが、あなたがたのやり口ですか」
「――なに?」
「あなたは僕を疑って、ここに来た。疑惑の確証をつかむため、もしくは監視するために。――そんなものは広田さんの勝手です。好きなようにすればいい」
「もちろん、そうする」
「だが、僕は翠さんの依頼を受けてここに来たんです」
ナルの目の色は深い。剣呑《けんのん》な色に見えた。
「ここで何が起こっているのか、捜索するために。あなたが何かを見たのなら、それは捜査のための手がかりです。それを隠匿《いんとく》しようとするわけだ」
「おれは――」
「憶測で他者を糾弾《きゅうだん》し、捜査のためなら進退|窮《きわ》まっている人々を利用することも辞さない。先入観でもって事にあたり、都合の悪い手がかりは隠匿する。――それが検察とやらのやり口なわけですね」
広田はナルの侮蔑《ぶべつ》を露《あらわ》にした顔を、睨《にら》みすえた。
「なんだと」
「事実ではないのですか」
ぐ、と思わず広田は言葉に詰まる。
「捜査のためには手段を選ばないというのなら、それも結構。日本の司法機関は有能なのだそうで。なにしろ犯人の検挙率は世界一だということですから。たとえ他人を陥《おとしい》れても、有能のレッテルを守りたいというのなら、好きにすればいいでしょう。自ら品性をおとしめるのは、それこそ勝手というものです」
思わず握った拳《こぶし》が震える。広田は己《おのれ》の仕事に誇《ほこ》りを持っているのだ。
「――日本の司法機関を愚弄《ぐろう》する気か」
「侮辱《ぶじょく》されて腹を立てるプライドをお持ちなら、それに相応のことぐらいはやっていただきたいものですが」
「なにを――」
「優秀な日本の司法機関のおかげで、僕はわざわざこの国にまで来て兄を捜《さが》さなくてはならなかったのですよ」
「そんなことは」
言いかけた広田の言葉は、冷酷《れいこく》無比《むひ》な声に叩《たた》き落とされる。
「捜索願いだって提出してあった。それがどうです? 実際に見つかったのは一年以上が経《た》ってから。しかも僕が現地に来て捜さなければ、見つかったかどうかも怪《あや》しい」
「それは――」
「苦労して見つけたものといえば、相好《そうごう》の判別もつかない、腐乱《ふらん》して屍蝋《しろう》化したミイラ同然の死体だけ、死因も不明なら、個人特定の資料にもならない。おまけに解剖は不可能」
広田は歯をかみしめる。
「日本の司法機関は世界一だったのではなかったのですか。これがせめて、捜索願いを受理されてすぐに発見されていれば、せめて解剖なりともできたのに!」
まあまあ、と割って入ったのは滝川だった。
「それは言ってもしょーがなかろう? 解剖して死因を調べて、そんでどうする? 犯人を捜す手がかりだってろくに……」
「そんなことじゃない!」
殺気の籠《こ》もった目つきで睨《にら》みすえられて、滝川は思わず続く言葉を呑《の》みこんだ。
「は、……ハイ」
「ジーンは真性のサイキックだった。ジーンはいったい、どこで霊を見ていた? どこで霊の声を聞いていたんだ。徹底的に解剖すれば、何かの手がかりが出てきたかもしれない。その唯一《ゆいいつ》のチャンスを、こいつらは葬《ほうむ》り去ってくれたんだぞ!」
唖然《あぜん》として声も出ないとはこのことだ、とその場の誰もが思った。
「えーと……」
滝川は、かりこりと頭を掻《か》く。きまりわるい気分で戸口のほうを見た。
「……リンさんの様子でも見てくっかな……」
不自然なのは百も承知、他に言うべきことが思いつけなかったのだから致し方ない。
「お仕事、お仕事……っと」
愛想《あいそ》笑いを浮かべてドアに向かった滝川の後を追いかけてきたのは麻衣、さらにその後をついてきたのは真砂子だった。
「そ、そだね……」
「あたくしも」
三人してそそくさと部屋を出て、逃げるように廊下をベースへ向かって。
「……どう思う、あれ?」
麻衣がそっと二人に訊《き》くと、呆《あき》れかえったような声が返ってきた。
「いわゆる、アレだな。――マッド・サイエンティスト」
「……あたくし、ナルの家族でなくて、心底《しんそこ》よかったと思いますわ」
「俺もそう思う……」
「あたしも」
家族から虎視《こし》耽々《たんたん》と解剖の機会をうかがわれているなど、どう考えてもあまり楽しい状況ではない。
消息の絶えた兄を捜してはるばる日本まで。オフィスを置いて仕事にかこつけ、一年半もの間、日本各地を捜しまわってやっとのことで遺体を見つけた。さすがに兄弟に対してはその程度の情の持ちあわせがあったかと感じ入っていたというのに。
「――なぁ? もしも調査中に俺たちが倒れてお亡くなりあそばした場合にだな、あいつ、どうすると思う?」
「やるんじゃないの」
「やる気だろうなぁ……」
「ですわね……」
三人仲良く溜《た》め息《いき》をついた。
「あたし、ナルの目の前でだけは死にたくない」
「同感ですわ」
「……俺も」
翠は、うとうととした眠りから引き戻されて目を開けた。
身体は疲れている。切実に眠りたい。それでも眠りが浅くて、一晩中うたた寝でもしている状態になる。それがこのところ、続いていた。――こんなふうに、何度も目を覚ます。
また眠りそびれたんだわ、と思って、翠は密《ひそ》やかな溜《た》め息《いき》をついた。
二階奥の和室、翠の隣には礼子が寝ている。麻衣に自室を譲ったためと、礼子が心配だったためだ。
もう一度寝直そうと、翠は寝返りを打った。闇の中、横たわった礼子がぽっかりと目を開けてこちらを見ていた。
「……眠れないの?」
声が囁《ささや》く調子になるのは、翠が半分寝ているせいかもしれない。礼子の返答はない。ただじっと、ガラス玉のような目が、翠を見つめている。
「寝ないと身体を壊すよ?」
もう少しの辛抱《しんぼう》だ、と翠は自分に言い聞かせる。明日には憑依霊《ひょういれい》を落とす専門家とやらが到着して、礼子の状態を治してくれるだろう。この家で起こっていることも、きっと麻衣たちがなんとかしてくれる。異常現象の半分は笹倉家のせいだとわかったし、きっともうやむだろう。
「おかあさん、目だけでも閉じて休まないと――」
しっ、と礼子はつぶやいた。
「大きな声を出しちゃ、だめ」
ひそかな、ひそかな声だった。
「おかあさん?」
「コソリに見つかる。――だめだよ」
翠は瞬《まばた》いた。思わず身を起こそうとして、礼子に止められる。布団《ふとん》についた翠の手を礼子がしっかりと握《にぎ》ってきた。
「コソリがいるよ。……窓の外から、中をうかがってる。家のまわりをぐるぐる廻ってるよ」
――礼子ではない。
翠は身を硬《かた》くした。少なくとも、礼子の口調ではない。
「見つかったらダメだよ。怖《こわ》いことになるから」
言ってから、礼子は翠の顔をのぞきこむようにする。
「……おねえちゃんだけは、見つからないで」
翠は軽く唇を湿《しめ》す。喉《のど》が何かに塞《ふさ》がれたような気分がしていた。
「……コソリって、なに?」
「怖いもの」
「それがいるの? 家のまわりに?」
「……ぐるぐるまわって、中をのぞきこもうとしてる」
「あなたは、見つかったの?」
礼子は横たわったまま、うなずいた。枕《まくら》に頬《ほお》を寄せるふうに見えた。
「……痛かったよ」
礼子は瞬《まばた》きをした。暗い光を弾《はじ》いて、涙がこぼれ落ちた。
「見つかったらダメだよ。逃げてね」
翠はとにかくうなずいてみせた。
「……わかった」
礼子は涙をこぼしたまま、もういちどうなずく。安心したように目を閉じた。翠はその顔を見守る。見慣れた母親の、ここしばらくの間に老《ふ》けたような気のする顔。
――いつもの人じゃない。
もしも何かが本当に憑依《ひょうい》しているのだとしても、これはいつもの何かではない。ずいぶんと幼い物言いに聞こえた。まるで子供のように。
――痛かったよ。
思い出したのは、鉈《なた》だった。血で汚れた鉈。あれを振り下ろされたら痛いどころではないだろう。では、コソリとはあの男のことなのだろうか。そうして、この子は、あの鉈によって屠《ほふ》られてしまったのだろうか。
――入ってこないで。
――その子だけは、見逃《みのが》して。
――痛かったよ。
襲われた母親、帰ってきた子供、その子に向かっても振り下ろされた鉈。
やるせない気分で軽く息を吐いて、翠は布団《ふとん》の中に居場所を探す。少しでも寝やすそうな体勢を探してから目を閉じた。
それを感じたのは、その時だった。
――視線だ。
翠は全身を硬直させる。
誰かが、見ている。――礼子ではない。礼子は寝息をたてている。
視線をさまよわせて、足元の鏡台――それは父親が結婚してすぐに母親にプレゼントしたものだ――に映っている窓を認めた。
窓は翠の枕元にある。内側には障子《しょうじ》がついているが、その障子が開いていて、さらに鏡をはめこんだ窓が、ごくわずかに開いていた。
――そんなはずはない。
特に戸締まりは確認しなかったが、開いていれば気がついたはずだ。ましてや礼子が障子を開けるはずも、窓を開けるはずもなく、翠にもまた、開けた記憶がなかった。
(……どうして)
開いた窓の隙間《すきま》はわずかに一センチ程度。そこから誰かがのぞいている。――のぞいていると確信できた。
(のぞいているはず、ない)
窓の外には裏庭――ずっとよその裏庭だと思っていた――があるだけだ。人がのぞきこめるよう、足がかりになるものはない。
(気のせいだわ)
翠は自分に言い聞かせる。けれども、視線を無視して眠ることはできなかった。
(……閉めよう)
窓を閉めてしまえば安心できる。ぴったり窓を閉めて、障子《しょうじ》を閉めて。
翠はしばらく布団《ふとん》の中で逡巡《しゅんじゅん》し、ようやく勇気を奮《ふる》い起こして、身体を起こそうとした。
――誰かの手がそれを止めた。
小さな手が、背後から翠の肩に置かれていた。小さく――冷たい。
翠はとっさに頭だけを巡《めぐ》らせて、背後を振り返る。両眼が捕《と》らえたのは布団の脇《わき》に座っている子供の姿だった。
ひっ、と喉《のど》の奥が鳴った。
「……だめ」
子供はそう言った。かすかす、と空気を何かでかすめるような音が聞こえた。
「コソリがいる……」
パジャマを着た子供だった。男の子のように見えた。表情はわからない。ちょうど目元に真一文字に大きな傷が口を開けていた。顔はそこからあふれた血で汚れている。ふっくらとした頬《ほお》を伝い、顎先《あごさき》から滴《したた》って、あるいはさらに喉に向かって流れていた。
「……見つかっちゃう」
かすかす、と音がしているのは、喉に開いた深い傷から呼気が漏《も》れているからだ。首の横から喉元に向かうその傷のせいで、子供の首は傾いていた。
翠は悲鳴をあげた。――あげた自分を自覚していなかった。
広田はナルと二人、ダイニングで睨《にら》みあっていた。
二人で残されて、かえって追いつめられた気がする広田である。年齢にしてもいくつも下の、体格的にも自分よりも貧弱な相手にどうしてこれほど威圧感を感じなければならないのか、理不尽な気がしてしまう。
「――あくまで、何も見ていないと言い張るおつもりですか」
「……見てない」
「窓の外に何かがいたわけでは、ないのですね?」
「……なにも」
広田は懸命に平静を装《よそお》ったが、我ながら成功したとは思えなかった。
この調子で尋問されれば、遠からずありもしないものを見たと告白する羽目《はめ》になりそうだった。だからと言って、逃げ出すのは矜持《きょうじ》が許さない。
それで、ぱたぱたという足音が聞こえたとき、広田は安堵《あんど》の息を吐いた。
「――ナル、二階の温度が下がり始めたよ」
ナルは麻衣を振り返る。即座に広田の側を離れて、ダイニングを出ていった。
広田はその場に残されて、そっと息を吐く。やっと緊張から解放されて、その場に座りこみたい気がした。あの坊ちゃんと睨《にら》みあうには、莫大《ばくだい》な精神力を必要とするのだ。
何度か深く息を吐いてから、広田は壁ごしにベースのほうを見る。
――温度が下がり始めたというのは、何か異常が起こり始めたということだろうか。
広田は一瞬迷い、結局ダイニングを出た。何が起こっているのか、それが気になってしまったのだ。
ベースの前まで来て部屋をのぞきこむと、全員がモニターを見上げている。麻衣がちらりと広田に視線をよこした。
「どう……したんだ?」
おそるおそる訊《き》いてみた広田だったが、麻衣はあっさりモニターのひとつを示した。
「二階の気温が下がり始めたんです。まだ下がってます」
広田が見やった画面には、寒色の斑《まだら》だけが映っている。
「――これは?」
「サーモグラフィーの映像です。温度を色分けして映すカメラなんです。横にゲージがあるでしょ?」
画面の右側にゲージがあって、その色と比べてみると、十度を割りこんでいるのがわかる。他にもある同様の映像は十五度程度を示しているから、その映像だけが五度あまりも低いことになる。
「これは、どこだ?」
「その隣のが暗視カメラの映像ですよ。二階の階段ホール」
暗視カメラは広田が使っていた四畳半の襖《ふすま》を映している。
「あのカメラは一番温度の低いところを映すようになっているんです」
「じゃあ、あの辺《あた》りが一番低い?」
「中かもしれない」
そう言ったのはナルだった。彼は深い色の視線を広田に向ける。
「……アシスタントに使ってほしいという言葉はどうなりました?」
広田は憮然《ぶぜん》とうなずいた。
「使ってくれ」
「では、二階に上がって、あの襖《ふすま》を開けてきてください。――麻衣、一緒に行って開け方を教えてやれ」
開け方、とはどういう意味だろう。不審に思って首を傾ける広田の背中を麻衣が押す。
「行きましょ」
麻衣は二階に上がって、まっすぐに四畳半に近づく。手に小型の機械を持っていて、それを襖の表面に向けた。
「――なんだ、それは?」
「静電気を調べてるんです。帯電してないか、どうか」
「襖だぞ」
「するんですよ、襖でも。……やっぱ、してるな」
「してるのか?」
襖に向かって何げなく手を伸ばしかけた広田を麻衣は止める。
「だめですよ。壁の脇《わき》に銅線のついたペンライトぐらいの機械があるんで、取ってください」
広田は言われるままに周囲を見渡して、壁の隅《すみ》に置かれているそれを見つけた。
「これか?」
「そう。それを襖の引き手に当てて、ピピッ、って音がするまで待ちます。アースなんです」
「へえ」
軽く銅線のついていないほうの先端を当てると、ピッと短く音がする。
「まだですよ。二度鳴るまで。――異常現象の起こってる部屋は、妙なふうに帯電してることが多いんです。ひどいときには手を触れたとたん弾《はじ》き飛ばされちゃう」
「――そんなに?」
「そんなにするんです。――今、二度鳴ったでしょ? もう大丈夫です」
広田は襖の引き手に手をかける。開けたとたん、冷え冷えとした空気が流れてきた。
「すごい、低いな……」
麻衣は言って、ポケットから小さな別の機械を引っぱり出す。何度も見た、温度計だった。
「……ひえー。三度しかない」
広田がのぞきこんでも、液晶表示は三度少しを示しているのがわかる。実際に鳥肌が立つほどの冷気を感じるので、部屋の温度が極端に低いことは確かだろう。
――問題は、どうしてこんなに下がっているのか、ということだ。
今は十月だから、外気だって三度ということはないだろう。クーラーはあるが、スイッチは入っていないし、ましてやクーラーで三度まで下がるはずがない。使われていない部屋には箪笥《たんす》と小さな棚以外に家具もない。部屋を見回しても、気温を下げている仕掛けがあるとは思えなかった。
「どうして……気温が下がるんだ?」
広田の問いに、麻衣はあっけらかんと言ってのける。
「霊が現れると、気温が下がるんです。……これは、いるな」
「いる、って」
「そうとしか考えられないでしょ?」
広田は返答に困った。そんな馬鹿《ばか》な、と思うのだが、それではどうしてこんなに気温が下がっているのか、説明できない。
「降りましょ。あたしたちは、側にいないほうがいいです」
麻衣が言って、開けた襖《ふすま》はそのまま、踵《きびす》を返したところで悲鳴が聞こえた。
「――なに」
「奥のほう」
広田と麻衣は顔を見合わせた。
「――翠さんだ」
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九章
男は何度目かの溜《た》め息《いき》をついた。女は部屋の隅《すみ》に座ったまま、じっと視線を膝先《ひざさき》に注いでいる。息子は二階に上がったまま降りてこない。階段を昇る前に罵倒《ばとう》の言葉を吐き捨てていった。
すでに深夜を過ぎて、早朝と言ってもいい時間帯だったが、二人は居間に座ったまま動かない。横になったところで、眠れるとは思えなかった。
「……本当に、訴えるつもりだろうか」
男はつぶやく。女はふてくされたようにそっぽを向く。
「しないと言ってたけど。――あなたのせいよ。大丈夫だ、なんて言っておいて」
男は顔をしかめた。この台詞《せりふ》を、もう何度聞いただろう。
男は笹倉《ささくら》剛《たけし》という。
隣の家に様子をうかがいに行った妻の加津美《かづみ》は、血相を変えて戻ってきた。一昨日《おととい》から隣の阿川《あがわ》家には頻繁《ひんぱん》に人が出入りしていた。ひょっとして、引っ越しだろうか。あるいは、もっと他のことが。――そう思って加津美に訪問させた。まさか、自分たちの行為を見すかされるとは思わなかった。
剛は溜め息をついて、加津美から視線を逸《そ》らす。逸らした先の戸棚の下段、隠した機械の電源が入ったままなのを見つけた。
彼は立ち上がり、電源を切って戸棚を閉める。息子がアマチュア無線をやっている同級生から譲りうけた中古品だった。古い品だが、役に立った。――これまでは。
「訴えられたらおしまいなのよ、わかってるの?」
唐突《とうとつ》に加津美が吐き出して、剛は顔をしかめる。返す言葉は同様に吐き出す調子になった。
「そんなこと、言われなくてもわかっとる」
本当に告訴されれば、失うものは多い。残るもののほうが少ないくらいだ。
「だから、最初からあたしの実家に借金をしておけばよかったのよ」
「うるさい」
剛は言い捨てる。
念願の一戸建てに越したのは十三年前、何度も足を運んで懐《ふところ》と相談して、気に入って買った家だが、越したとたんに嫌《いや》になった。
なにしろ古いし、狭《せま》い。庭は広くとってあったが、そのかわりに寝室がふた間しかなかった。建て替えたかったが、余裕がなかった。当時の隣家の住人も嫌な人間で、小さなもめ事が絶えなかった。
我慢を重ねているうちに、隣家の住人はどんどん替わっていった。別れを惜《お》しむほど気持ちのいい住人が住んだためしはなかったから、出ていってくれるのはありがたかったが、気軽に越していける余裕のあることが羨《うらや》ましかった。郊外に真新しい家を手に入れて越していった者もいる。都内にマンションを買った者も、あるいは安くて設備のいい賃貸住宅に移っていった者も。剛たちだけが、いつまでもここに縫《ぬ》いとめられたように動けないままだった。
息子の潤《まさる》が小学校も高学年になると、自分の勉強部屋をほしがるようになった。今も二階に自室がありはするのだが、四畳半の和室は潤の気に入ってないらしい。剛たちの寝室と続き部屋になっているのが、嫌なのかもしれなかったし、ベランダに面しているから洗濯物を干す加津美が部屋を通るのが嫌なのかもしれなかった。
引っ越そう、という意見も何度も加津美から出たが、余裕がなかった。加津美の実家に頭を下げることは我慢できなかった。いっそのこと隣を借りようか、と思った。そうすれば隣の住人に嫌な思いをさせられることもなくなる。
だが、実際のところそんな余裕もなく――潤の教育費と、加津美の浪費|癖《へき》が家計を圧迫していた――剛たちはここで我慢を重ねていた。また何人かが隣に入り、出ていった。
このまま他人が居着かないようなら、格安で買えるのではないかと言い出したのは加津美だった。人が居着かない家だ、何かあるのじゃないか、と噂《うわさ》になったころだ。
「隣のほうが広いもの。家を買えれば、潤の勉強部屋ができるわ。こちらを売って隣を買えない?」
言って加津美は、さらに、
「ああ、こちらを担保にお金を借りて、隣も買えばいいのよ。とりあえず壁を抜いて行き来できるようにして、またお金が貯まったら建て直すの。二軒分の敷地があれば、結構大きな家が建つわ」
それは悪くない考えのように思われた。賃貸料を払うぐらいなら、ローンを支払ったほうがいい。自分のものになるなら、多少の我慢はする気にもなれる。
「そうしたら、もうお隣に悩まされることもないじゃない? なんだか、あの家って、嫌なひとばっかり入ってくるんだもの」
隣の住人がいなくなる、という考えは、かなり剛を喜ばせた。隣の持ち主に購入したいと申し入れをした。けんもほろろに断《ことわ》られた。
隣に住人が居着けば、購入は難しくなる。反対に居着かなければ、持ち主も手離す気になるかもしれない。かなり買い叩《たた》くことも可能だろう。
最初は「何か出るらしい」という噂《うわさ》を、隣家に越してきた住人に吹きこんだ。あまり信じてはもらえなかったので、ちょっとばかり小細工もした。棒の先で隣家の窓を叩いたり、屋根に向かって石を投げたりという程度だったそれは、徐々にエスカレートしていった。裏口から忍びこんで畳にちょっと水を垂《た》らす。あるいは、そのへんのものを動かしたりしておく。床下に汚物を投げこむ。家電品に細工をする――。
良心の痛みは感じなかった。剛たちは――加津美も潤も――隣の住人がことごとく嫌いだった。やかましい、高慢な人間ばかりだった。加津美も潤も小細工には積極的に協力した。ちょっとした嫌《いや》がらせは誰にとってもストレスの発散になったし、剛たちは徐々に巧妙になっていって、これまでは上手《うま》くいった。
――これまでは。
隣の住人を思い出して剛は口もとを歪《ゆが》めた。阿川|礼子《れいこ》と翠《みどり》。どちらも高慢そうな鼻持ちならない女たちだ。翠のほうは有名大学の法学部を卒業して、名の通った会社に勤めている。母娘《おやこ》ともにそれを鼻にかけているふうがあった。剛たちを見下しているような風情《ふぜい》が。
――あんな連中のせいで。
剛は居間の壁に視線を据《す》えて、暗澹《あんたん》たるものを見つめていた。
「……このへんかな」
言って滝川《たきがわ》は白い札を壁の四方と窓に貼《は》る。和紙には記号のような呪文《じゅもん》のような、そんな文字が書かれている。滝川が書いたのだが、若い外見に似合わず、枯《か》れた調子の達筆だった。
「これで、少なくともこの部屋にはもう、妙なもんは出ないと思いますよ」
滝川が笑って、翠は肩の力を抜いた。翠の悲鳴で目を覚ました礼子が、背中を撫《な》でてくれている。その掌《てのひら》が暖かい。
「……ありがとうございます」
「翠さん、これを」
真砂子《まさこ》がカップを差し出して、翠と礼子がそれを受け取る。甘めにしたミルクティーが翠に人心地《ひとごこち》をつかせた。
「……ごめんなさいね。驚かせて」
翠が言うと、真砂子は首を振る。
「いいえ。――大丈夫、今はここには何もいません。その男の子は姿を消したようですわ」
駆《か》けつけてきた人々に事情を話すと、ナルが滝川に呪符《じゅふ》を用意するよう言った。滝川が持参の硯《すずり》と筆でそれを用意して、真砂子がお茶を淹《い》れてくれた。ひと通り事情を聞いたナルは広田《ひろた》を連れてあちこちを新たに調べている。
労《ねぎら》ってもらっている。助けてもらっている。その感覚が翠を安堵《あんど》させる。
「ま、今日はゆっくり休むんですね。何だったら、俺が会社に連絡しときましょーか」
「滝川さんが?」
「こちらは渋谷《しぶや》医院の担当医ですが。阿川さんはしばらく安静を必要としますので――とかなんとか」
おどけた調子に、翠はくすくすと笑う。ようやく身体の中に凝《こご》った冷たいものが溶《と》けていこうとしていた。
「うん、笑えるようなら、大丈夫だ」
「すみません、ご迷惑をかけて」
「こりゃ、俺の仕事ですから。怯《おび》えて萎縮《いしゅく》したらダメですよ、こういうことは。呑《の》んでかからないと酷《ひど》い目にあいます」
「そんなものなんですか?」
「そんなものです。だから、図太くないと拝《おが》み屋は務《つと》まらない」
「まあ」
「辛気《しんき》くさくなったら、辛気くさいことが起こります。おかあさんと二人で、ぱーっと遊んでくるってのは、どうです。なんだったら俺が、いっぱつエスコートをば」
「――こら。この状況でなにをナンパしとるだ」
呆《あき》れたように言ったのは、ちょうど部屋に入ってきた麻衣だった。
「ナンパじゃないぞ。ちゃんとおかあさんも誘ったもーん」
麻衣は軽く滝川をねめつける。
「ほんっとにお気楽なんだからっ」
「だってお前、デートのお誘いは、老若《ろうにゃく》を問わず、女性に対する礼儀だぞ」
「破戒僧《はかいそう》」
「フェミニストと呼んでー」
翠も礼子も、軽く声をあげて笑った。
「馬鹿《ばか》なこと言ってないで、仮眠すれば? ジョンが来るよ」
「来るって?」
「朝、身体が空《あ》き次第来るって」
翠は滝川と麻衣を見比べた。
「ジョン?」
「あ、ウチの協力者の神父《しんぷ》さんです。憑依霊《ひょういれい》を落とすのが得意で」
言ってから麻衣は小さく笑った。
「いろいろと、おかしいこともあるでしょうけど、ホントいい人だし、有能な人なんで、安心してください」
「おかしい?」
「笑いをとっちゃうパーソナリティーなんですよね。かわいそうに」
首をかしげた翠に、会えばわかります、と笑う。
「そんなに時間はかからないと思いますけど、とにかく休んでください。体力が落ちると気力もメゲちゃうから」
「そうね。……ありがとう」
「あたしと真砂子は、翠さんの部屋で仮眠してます。なんかあったら、どんどん起こしてください。他の連中は起きてますから」
翠はうなずいた。救済のためにさしのべられる手が気持ちに暖かかった。
二階の四畳半には入って正面に窓があるだけ、この窓には鏡が入っていてカーテンが下げられている。他の二方には襖《ふすま》があって、右手のそれはベランダに面した短い廊下に続いているが、そこには古い箪笥《たんす》がひとつ置かれて、塞《ふさ》がれていた。
箪笥の脇《わき》に棚がひとつ。これにはアイロンが置かれていたから、取りこんだ洗濯物を始末する部屋に使っているのかもしれなかった。
そのさらに脇には三尺の押し入れ。これには細々《こまごま》したものが入っているだけで、上段は空《から》になっている。客用の布団《ふとん》が入っていたのを、運び出してしまったせいだろう。
一階の壁は湿気のために染《し》みが酷《ひど》かったが、二階はさほどでもない。壁もまだ真新しいし、襖も同様に新しい。改装の際に建具《たてぐ》も全部新しくしたのか、縁《ふち》の塗装まで新しかった。
「天井《てんじょう》も塗り替えてありますね」
リンはひと通り部屋を見渡して言う。ベースの機材は、不承不承《ふしょうぶしょう》ではあるが、広田が見守っている。
「――畳は?」
ナルの言葉に首を振った。
「建具を新しくしているぐらいですから、畳も新しくしているでしょう。たとえ上げたところで、下から何かが出てくるとは思えませんが」
明らかに異常に気温の下がった部屋。ひょっとしたらここで過去に何かがあったのかもしれないが、この状態では過去の痕跡《こんせき》を探すことは難しい。
「クローゼットの中は」
「板を塗り替えてあるようですが」
言ってから、リンはふと天井を見上げた。
「天井裏なら、手を加えてはいなかもしれませんね」
「上がれるか?」
「たぶん。――しかし、配線をいじっているかもしれませんし、そうでなくても、あまり天井裏には期待できないと思いますが」
「のぞいてみよう」
ナルが言ったので、リンは押し入れを開ける。こういった押し入れの天井板は固定されていないことが多い。後々の工事のためだと、二年ほど日本に留学していた間に聞いていた。
リンは押し入れの上段に上る。天井板を押し上げてみると、やはり動いた。
「ここから行けるようですよ」
「僕が上がる」
「とりあえず、のぞいてみます。ライトをください」
ナルからペンライトを受け取って、リンは立ち上がる。天井板を押し上げて横にずらした。
上はどこにでもありがちの天井裏だった。柱や梁《はり》はあまり太くない。家の造作自体はさほどよくないのだろう。それらの上を配線が這《は》っていたが、これには新しいものと古いものが混じっているようだった。
光の届く範囲を注意深く見渡して、特に異常のないのを確かめる。天井板を戻そうとして、かさり、という音を聞いた。
天井板は柱と梁《はり》に邪魔されて一方向にしか動かない。ちょうど動かした、その下に何かがある。軽く板を持ち上げ、手探りしてみると、埃《ほこり》にまみれた紙の感触に行き当たった。注意深く、それを引っ張り出してみる。
「――ナル、こんなものが」
リンが引っ張り出したのは、辞書ぐらいのサイズの紙箱だった。かなり古いものだろう、埃だらけの箱は湿気を吸ってすっかり歪《ゆが》み、蓋《ふた》はなかば腐《くさ》り落ちてしまっていた。
ナルが受け取って開けてみると、中には紙の束《たば》が埃と一緒に入っていた。
押し入れから降りてきたリンが、手元をのぞきこむようにする。
「何か関係があるでしょうか」
「どうだろう。かなり古そうだな」
ものが紙だけに傷《いた》みがひどい。ほとんど原形をとどめていなかったが、それが小さめのカードサイズの少々厚手の紙で、何かが印刷されていたらしいことだけは見てとれた。
ナルは軽く埃を吹く。
「……見てみるか」
「大丈夫ですか」
リンはナルを見る。――物から情報を読みとる、これはナルに与えられた特殊な才能のひとつだった。彼はこれで兄の死を確認し、その遺体を捜した。この才能は時にひどく彼自身にダメージを与えることがあった。それでそう訊《き》いたのだが。
ナルはリンの質問の意図を理解していたが、これにはイエスともノーとも答えなかった。大丈夫かどうかは、やってみなければナル自身にもわからない。
ナルは床に座り、軽く背中を壁に預けた。箱の中から紙を何枚か取り出す。意識を指先に凝《こ》らしてみた。
すぐに変調はきた。まったく努力は必要でなかった。
――そうか。
ナルはひそかにほぞをかんだ。
――持ち主は子供か。
子供とは同調しやすいのだ。しかも、この入りやすさからして、かなり強い思念が灼《や》きついている。
――まずい……か。
思う間もなく、急速な墜落感におそわれる。深い穴の中に墜落する感触、それと同時に一旦すべての感覚が失われ、ジグソーパズルのピースをはめこむようにして、それがランダムに戻ってきた。ほんのひと呼吸の間もなかった。
最初に見えたのは緑がかったほのかな光。まるで色つきのフィルターでもかけたようなその色は、死者に特有の色だ。
――この子は、死んでいる。
彼はふと目を覚ました。
しばらくきょとんと暗い天井を見上げる。ぼんやりと白い蛍光灯、染《し》みのついた天井。そうして、部屋のあちこちに闇がうずくまっている。
きしり、と音がして、彼は布団《ふとん》の中に横たわったまま瞬《まばた》いた。
床板がきしむ音だった。
彼の脇《わき》には襖《ふすま》がある。その襖の向こう、ちょっと広くなった廊下の向かい側は階段だった。二階まで吹き抜けの細く暗い縦穴に、斜めに駆け上がる階段。床板がきしむ音は、その暗い穴の底のほうから聞こえた気がした。
――誰かが階段の下にいる。
とくん、と心臓の音が闇の中に響いた。
――コソリ[#「コソリ」に傍点]だ。
彼は布団を握《にぎ》りしめた。
たとえば、コソリは夜に窓の外から家の中をそっとのぞいていたりする。特にちょっとだけカーテンが開いていたりすると、しめしめと寄ってきて彼を見張っていたりするのだ。
そうでなければ昼間、彼がひとりで留守番《るすばん》をしているときに、家の中をのぞいていたりする。どうかすると家の中まで入ってきて、隣の部屋でわざとらしい物音をたてたり、時にはもっとわざとらしく、彼の背後を横切ったりした。彼が横を向いている隙《すき》に毛むくじゃらの手をのばして、彼がちょっとそのへんに置いたものを隠したりして、際限なく悪戯《いたずら》をしていくのだ。きっと彼がひとりぼっちなので、大胆になるのに違いない。
それでもやっぱり、コソリが一番好きなのは真夜中なのだった。
コソリはみんなが寝静まると、家の中に入ってくる。そうして、本当に彼がちゃんと眠っているか、寝顔をのぞきこんでみたりする。時には屋根裏に潜《ひそ》んで、天井板の隙間や節穴《ふしあな》から彼を見張っていたりした。
――コソリがまた、来たんだ。
彼は息をひそめて全身を耳にした。
壁の向こうの暗い階段の、下に立って上を見上げているコソリの姿が想像できた。
コソリは恐ろしい姿をしている。実をいえば彼はまだコソリを一度も見たことがないけれども、血も凍《こお》るぐらい恐ろしい姿をしているのだとわかっていた。きっと裂《さ》けたように大きな口と、ギザギザの歯と、長い舌を持っている。目はぎらぎら輝いていて、爪《つめ》は長くて曲がっている。
きっといま、階段の下に立ちどまって鼻をフンフンいわせている。そうやって二階の様子をうかがっているのだ。
コソリはすばやくて、しかもとても隠れるのが上手《うま》い。けれども、彼は本当に注意深かったので、コソリがいるとすぐにわかった。きしり、という小さな音を耳ざとく聞きつけたり、さっと廊下を横切る影や暗がりに紛《まぎ》れこんだ影を目ざとく見つけることができた。眠っていても、コソリが来るとちゃんとわかって、目を覚ますことができる。――いまのように。
――眠ったフリをしなくちゃいけない。
彼はそっと布団を頭の上まで引き上げた。息が重くなった気がして、しっかりと閉じた瞼《まぶた》の奥で、赤や茶色の模様が光った。
――ぼくは、眠ってる。
息をひそめてうまく眠ったフリをしていればいいのだ。そうすればコソリは帰っていくのだから。
コソリの存在に気づいたことを、コソリにけっして知られてはならない。コソリは自分の存在に気がついたものを、引《ひ》き裂《さ》いて食べてしまうのだ。だから、たとえコソリが押し入れの中に隠れていることに気がついても、しらんぷりをしてないといけない。
そっと垣根《かきね》越しに家をのぞきこんでくる老婆や、帽子《ぼうし》を目深《まぶか》にかぶった中年の男や、もっと善良そうな誰かが、実はコソリが化《ば》けているのだと気づいても、ぜったいに気がついた様子を見せてはならないのだ。
きしり、と音がした。
彼はしっかり目を閉じて、ことさらのように息をひそめて眠ったふりをした。
――ぜったいに目を開けちゃ、いけない。
実をいえば、コソリは彼に自分を見つけてほしいのだ。そうしたら、コソリは彼を食べることができるのだから。
だからこうして、わざわざ音をたてたりするのだ。夢の中に入ってきて、嫌《いや》な夢や怖《こわ》い夢を見せて、彼が飛び起きてコソリを見つけるのを待っているのだ。
きしり、とまた音がした。それは階段を昇り始めた。きしり、みしり、と音をたてて、コソリはゆっくり昇ってくる。
彼は思わず目を開きそうになった。その足音が、あまりにリアルだったからだ。
――いつもと、ちがう。
コソリのたてる音はいつだって漠然《ばくぜん》としていた。どこから聞こえるのかよくわからなかったり、あっちで聞こえたかと思うと、今度はぜんぜん別の方向から聞こえたりした。コソリだ、と思って耳を澄ますとすぐに聞こえなくなって、気のせいかしらと思ったとたんに思いもかけないところから聞こえてきたりしたのだ。
いままで一度だって、こんなふうにリアルに聞こえたことはなかった。はっきりと、どこからどこへ向かっているのか、わかるようなことはなかったのだ。
どくん、と心臓が鳴った。血の気が引くのが自分でわかった。冷たいものが額《ひたい》から頬《ほお》をなでて、喉《のど》をきゅっと締《し》めると、おなかのほうへ流れていった。
――みつかったんだ。
彼は急速に背筋から凍《こご》えていった。
あんなにあんなに気をつけていたのに、コソリは彼が気づいたことをわかってしまったのだ。
――どうしよう。
彼はじわりと泣きそうになった。コソリは階段を昇りきってしまった。それが板のきしむ音で、はっきりとわかった。
大声をあげて両親を呼ぼうかと思ったけれど、舌が喉の奥に縮《ちぢ》こまっていて、息をするのも大変だった。
――それに。
ひょっとしたらコソリは、実はやっぱりわかっていないのかもしれない。わかったフリをして、彼が悲鳴をあげるのを待っているのかも。
――どう……しよう。
逃げるべきだろうか。それともこのまま、眠ったフリをしているべきだろうか。
もしもコソリが彼に気づいていないのだとしたら、布団をはねのけ、起きあがって逃げようとした瞬間に部屋に入ってはこないだろうか。
もしもコソリが彼に気づいているのだとしたら、このまま眠ったフリをしていると、みすみす捕《つか》まって、食べられてしまうのじゃないだろうか。
どちらも同じくらい危険な気がした。同じくらい怖《こわ》かった。混乱して叫びそうになった。半分泣きながら、ぎゅっと口を引き結んで、一生懸命にそれを耐えた。
みしり、と音がする。
――くる。
コソリは二階の廊下を、彼の部屋のほうへ近づいてきた。
彼は堅《かた》く目を閉じて、布団に鼻も口も押しつけて、そっとそっと息をした。苦しくて頭が痛んだ。
コソリはゆっくりと一歩一歩を歩いて、彼の部屋の前まで来た。
――くる……。
みしり、と立ち止まって、それきりしばらく音が絶えた。
すう、と彼は頭に風が当たるのを感じた。彼の部屋の襖《ふすま》が開いた証拠だった。
――ぼくのようすをうかがってる。
彼は震えながら、たすけて、と祈った。
――たすけてください。たすけてください。
きしり、と音がした。
部屋の中に入ってくるかと思われたそれは、彼の部屋の前を通り過ぎた。ゆっくりと足音が奥に向かって歩いていった。
今度は隣の部屋の襖が、ちょっとつっかえながら開く音がした。
――お姉ちゃんはいない。
彼は自分に言い聞かせる。
だから、大丈夫だ。彼女はコソリに捕《つか》まったりしない。
また、きしり、と足音がした。コソリはさらに奥に向かって歩いていった。廊下の突き当たりにある彼の両親の部屋に向かって。
――どっかにいっちゃえ。
彼は強く強く祈った。廊下の奥からかすかに小さな音がして、それきり物音が途絶《とだ》えた。
彼は思わず目を開いた。そっと布団から顔を出し、首を傾けて音の去った方角を見やった。そうして、何度も瞬《まばた》きしながら、音のしないように深呼吸をした。
――いなくなった。
コソリは行ってしまったのだ。やっぱりコソリは、彼が気がついていることをわかっていなかった。そうして彼が眠っているのだと思ったのだ。
彼が長い安堵《あんど》の息をついた時だった。
ガタン、と激しい音がした。
彼は布団の中で何センチか飛び上がった。
大きな声がした。
父親が怒鳴《どな》っている声、母親が叫ぶ声、まるで悲鳴みたいな恐ろしい声。
重い物が倒《たお》れたような音や、何かが投げつけられたような音や、入り乱れる足音。
――おとうさんと、おかあさんが、みつかったんだ。
彼は荒い息をした。
――行かなきゃ。行って助けてあげなくちゃ。
けれども、彼は動けなかった。
――わな、かもしれない。
わざとこんな音をたてて、彼が助けにいくのを、コソリは待っているのかもしれない。
――おかあさん、おとうさん。
走る足音がした。部屋の前まで来た。カエルみたいな声がして、何かが倒れる激しい音がした。
彼は目をまんまるに見開いて横たわっていた。もう、どうしたらいいのかわからなかった。
――コソリなんていないでしょ。あんたの空想じゃないの。
彼の姉はそう言った。父親も母親もそう言ったけれど、やっぱりコソリはいたのだ。そうしてとうとう恐ろしいことが起こってしまった。彼は間違っていなかった。けれども本当はやっぱりコソリなんていなくて、やっぱり空想で、だからこれは悪い夢なのかもしれない。
ゴトリ、と音がした。襖《ふすま》が動かされようとする音だった。
――みつかった。
みつかってしまった。コソリが来る。部屋の中に入ってくる。襖が開いて恐ろしい顔があって怖《こわ》い姿が立ってて爪《つめ》はするどくて怖い声で怖い姿で血みどろで――もう、取り返しがつかない。
やめて、と押し殺した声がした。
「やめて。子供じゃないの。見逃《みのが》してあげてよ」
――やめて。
「お願いよ――!」
――やめて。
何か鈍《にぶ》い音がして、短い悲鳴が聞こえた。どん、と襖が外から叩《たた》かれて、大きくふくらんでから内側へ倒れてきた。
彼は見ていた。襖といっしょに倒れた人。その向こうに立っている影。
犬が息をするような音がした。生臭《なまぐさ》い臭《にお》いといっしょに部屋の中に満ちた。
コソリは部屋の中に踏みこんできた。
ズボンをはいた足だった。上半身は裸《はだか》で、汚れて斑《まだら》になっていて、手には大きな鉈《なた》が握《にぎ》られていた。ベルトには包丁《ほうちょう》が差してあった。鉈はどろどろで、包丁はまだぴかぴかしていた。
「――やめて……!」
女の人の声がした。
彼はきょとんとコソリを見上げて、ただ肩で息をしながら横たわっていた。はじめて見るコソリの姿を見つめていた。
(――よせ)
コソリは腕を上げた。
(――逃げろ)
彼はただ見ていた。何を見ているのか、もう理解できていなかったのかもしれなかった。
(――カットしろ)
――回線を切断するのだ、これ以上進まないうちに!
「――ナル!」
彼は目を開けた。頬《ほお》の下に畳の感触があった。目が霞《かす》む。ひどく頭が痛んだ。
「大丈夫ですか」
ギリギリだったな、と独白する。
「――ナル?」
「……大丈夫だ」
肩に手がかけられたが、ごく軽く指先をあげて制した。いま身動きすると吐きそうな気がした。
「心配はいらない。……少し身体が驚いているだけだ」
何度か瞬《まばた》いて、視野が澄むのを待ってから身体を起こした。リンの心配そうな顔が間近にあった。
「ナル――?」
「ここで子供が殺された」
リンは軽く息をつく。それは安堵《あんど》の息のようでもあり、同時に諦観《ていかん》の息のようでもあった。
「じゃあ、これはその子供の?」
ナルはうなずく。まだ身体のどこかで神経が断裂したままのようだ。ひどく間延びした動作になった。口をきくのも辛《つら》かった。
「秘蔵の宝物、ということだな。おそらくここが彼の部屋だったんだろう」
「そうですか……」
空想|癖《へき》のある少年の、微笑《ほほえ》ましい秘密の隠された部屋。コソリは彼の悪夢の中から忍び出てきて、彼の部屋に踏みこんできた。片手に彼の両親を屠《ほふ》った鉈《なた》をさげて。
「犯人は男だ。共犯の女がいる。……殺されたのは、最低でも、両親と子供の三人」
「一家|惨殺《ざんさつ》、……ですか。よくも、それだけの事件が今まで翠さんたちの耳に入りませんでしたね」
ナルがゆるくうなずいたときに、その悲鳴は聞こえた。
ベースでぼんやりしていた広田《ひろた》は顔を上げた。スピーカーから悲鳴が聞こえた。二階から聞こえるのだと悟《さと》って、すぐさま居間を飛び出し、階段を駆け上がる。階段を昇りきると、翠の部屋の前にリンの姿が見えた。
「――どうした!?」
広田が駆けつけると、翠の部屋の布団《ふとん》の上に麻衣が身体を起こしていた。真砂子がその肩に腕をまわしている。翠と礼子が側で不安そうに見守っていた。
「――どうしたんだ?」
声をかけたが、麻衣の目は広田を見なかった。涙を浮かべた目が呆然《ぼうぜん》としたように広田の背後をさまよっている。
大丈夫か、と声をかけようとしたときに、背後から勢いよく駆けつけてきた足音が聞こえて、麻衣の視線は背後の誰かに向かって焦点を結んだ。
「どーしたっ!」
ほとんど押しのけるようにして滝川が飛びこんでいって、広田は顔をしかめた。麻衣は明らかにホッとしたようだった。
「……ぼーさん」
側に屈《かが》みこんだ男を見上げる。
「……夢、見たよ」
え、と滝川は麻衣の顔をのぞきこむ。
「男の子が殺される夢。コソリっていう化け物が来てね、お父さんとお母さんと、その子を殺しちゃうの」
なんだ夢か、と広田は息をつきかけたが、滝川も真砂子も険《けわ》しい顔をした。
「……そうか」
「鉈《なた》を持った男の人だった。上半身が裸《はだか》でね、返り血で血みどろになってた。ベルトに包丁を差してて……」
言いよどんで、麻衣は涙をこぼす。ぽんと滝川がうつむいた頭の上に手を置くと、麻衣は滝川を振り仰《あお》いだ。
「――どうして?」
「麻衣?」
「どうして、あたし、こんな夢、見るの? ――ナルがいない間だって何度も調査に行ったけど、夏以来、一度もこんなことなかったんだよ? なのに、どうしてっ!」
「……麻衣」
「こんなの、ないよ! どうしてあたし、こんな夢見るの? 方向を示してくれる人、いないのに!」
麻衣はうつむく。両手で顔を覆《おお》った。
「――もう、ジーン、いないのに……っ!」
軽く真砂子が麻衣の首を抱き寄せるようにしたとき、ごく静かな抑揚《よくよう》のない声がした。
「……どうした?」
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十章
麻衣《まい》を落ちつかせるのには、少しの時間がかかりそうだった。広田《ひろた》にはなにひとつできなくて、ただその様子を黙《だま》って見ているしかない。真砂子《まさこ》が、ここは任せてください、と言って、広田は仕方なく階下に降りた。礼子《れいこ》も翠《みどり》もいる。女性のことは女性に任せたほうがいいのだろう。
いつもは明るい、それこそ落ちこんだ様子さえ想像できないほど明るい子だから、泣かれると切なかった。
共に階下に降りたナルたちについてベースに行って、広田は訊《たず》ねる。
「……あれは、どういうことなんだ?」
広田には麻衣の混乱が理解できなかった。
これに対するナルの返答は、叩《たた》き落とすようにそっけなかった。
「あなたには関係がない」
「しかし――」
「あなたに説明をしても、理解できるとは思えない」
広田はむっと押し黙る。
「それよりも、広田さんはこの家で昔なにが起こったのか、調べてみようとは思わなかったんですか」
「何が――って。まさか、あれか? 谷山《たにやま》さんの言った、親子が殺されたという」
「それです」
広田は溜《た》め息《いき》をつく。
「……あれは、夢だ。本人がそう言ってたじゃないか」
ナルはごく冷たい一瞥《いちべつ》だけをよこす。広田は顔を歪《ゆが》めた。
「いいだろう。確かに、お前らは何かを見ているのだとしよう。――だが、それが気のせいや幻覚じゃないと、どうして言い切れるんだ?」
これに対しても返答はない。
「中井《なかい》だって、見たと主張していた。それをお前は一蹴《いっしゅう》してみせたろう。中井の経験談と同じように、幻覚じゃないとどうして言い切れる? ましてや本人も夢だと言っていることを、なぜ疑ってみないんだ?」
「あなたと議論する気はありません」
思わず怒って怒鳴《どな》ろうとした広田を、滝川《たきがわ》は止める。
「あのなぁ、広田さんや」
「――なんだ」
「お前さん、霊能者に思いっきり偏見を持ってるだろうが。頭っから霊能者なんてのは詐欺師《さぎし》だと思ってるじゃねぇの?」
広田はそれを否定はしない。
「霊を信じない人間がいてもいいと、俺は思うよ。そんなのは本人の勝手だからな。だから、否定派がいたっていいと思う。――けどな、頭っから人を詐欺師だとかペテン師だとか、疑ってかかるのは、なんか違うんじゃないのか?」
「――おれは」
「俺だって、ひょっとしたら目の前の人間が自分を騙《だま》すことがあるかもしれない、と思うことは否定せんよ。そりゃ、用心深さってもんだろう。肝《きも》の小さい心根《こころね》じゃあるが。――だがそれと、頭っから詐欺師だと決めてかかって、それが真実かどうか確かめてみようともしない、言い分なんぞ聞く耳も持たんというのとは、ぜんぜん別物じゃないのかね」
「しかし……」
「手前に都合のいいことしか聞こえん耳に、聞かせる言葉は持ち合せがねえな。議論するだけ無駄《むだ》だ」
「では、質問する」
「揚《あ》げ足を取るための質問を聞いてやるほど、俺たちは暇《ひま》じゃない」
広田は滝川をねめつけて、ナルに視線を移した。
「――質問だ。お前は研究者なのだろう。それを知らない人間に教えることも、使命のうちのはずだ。なぜ中井のは幻覚で、谷山さんの夢には意味があると思うんだ?」
ナルは溜《た》め息《いき》をついた。
「根本的には、言葉の定義上の問題ですね」
「……なに」
「そこには存在しないものを見た、これを幻視と呼ぶと、定義する」
「――ああ」
「ところが、ある人物が――たとえば原《はら》さんが見た幻視がたまたま、原さんには知り得なかった事柄についての正確な情報だったとする。これが偶然なのか、それとも偶然以外のものなのか、それはよくわからない。わからないけれども、通常の幻視とは性質の違うものだから、これを霊視と名付けて分類する」
「それはわかるが――」
「それを頻繁《ひんぱん》に起こす能力を霊能力と呼び、霊能力を持つ人間を霊能者と呼ぶ。――言葉というのは記号にすぎない。霊能者と言ったとき、霊能力という実体があって、それを指し示す言葉だと思われてしまうが、実はそんなものは存在しないことだってありうる」
広田はうなずく。ここまでには異論がない。
「原さんは霊能者と言われているが、これは彼女が霊能力を持っていると思われるからです。なぜかといえば、彼女がしばしば幻視を経験して、しかもその幻視が特に霊視と名付けられるものに相当するから。――つまりは原さんには知り得ないことを、見たから」
「――本当に知り得ないのか?」
「それを確認してみて、実際に知り得なかったという事実の積み重ねがあるから、彼女は霊能者と呼ばれているんです。原さんが霊能者であるという事実が先にあるわけじゃない。原さんは霊能者だから、彼女の幻覚は真実であると言っているわけではないんです」
広田は憮然《ぶぜん》とする。言葉遊びのように聞こえた。
「まずひとつの幻視が単なる幻視ではなく、霊視であったという事実がある。この事実が何度も積み重ねられて、原さんは霊能者と呼ばれている。彼女が幻視を経験したとき、それを霊視ではないか――事実なのではないかと思うのは、彼女が霊能者であるという事実に照らし合わせているのではなく、霊能者と呼ばれるに足《た》る実績があった、その実績に照らし合わせているんです」
広田は返答しない。
「中井さんが幻視を経験したという。けれども、中井さんには照らし合わせるべき実績がない。するとまず、中井さんの幻視が単なる幻視であるのか、それとも霊視であるのか、吟味《ぎんみ》するところから始めなくてはなりません。事実であるのか、それとも事実ではないのか、それは詳《くわ》しく調査してみなければわかりませんが、少なくとも中井さんの幻視は、ハイウェイ・ヒプノシスで説明がついてしまう。ならば実績がない以上、それはまず幻視であると定義されるべきです」
「中井は、自分自身、自分には霊能力があるとそう判断しているから、あんなことを言ったのじゃないのか? 過去に実績があった、だから自分には霊能力がある、そう思っていたのかもしれんだろう」
「十やそこらの経験では、実績と呼ばないんですよ、広田さん」
「百や二百かもしれんぞ? あるいは千や二千なのかも」
ナルはシニカルに笑う。
「世の中には、広田さんのような人間が実に多いのです、残念ながら」
「――え?」
「霊を見たと言えば、幻覚だと嘲笑《ちょうしょう》し、霊視だと言えばトリックだと弾劾《だんがい》する人間が。頭からペテンだと決めてかかって、罵倒《ばとう》する人間は数えきれません。――ですからね、多くの実績のある人間は、それをあんなふうに話のついでに言ったりはしないんですよ」
ナルは言って滝川とリンを見る。共に肯定が返ってきた。
確かに、と滝川は言う。
「俺だって調査の時でもなけりゃ、言わんわな。どういう扱い受けるかは、身に染《し》みてっからなぁ」
「放言はできません」
そう言ったのはリンだった。
「口に出した以上は、真実でなければならないのですから」
「そうだねぇ。一回でも事実に反することを言えば、百や二百の実績なんざふっとんじまう。霊能者を名乗って、それは通らんし、だいいち自分のアイデンティティーだって崩壊すっからねぇ」
言って滝川は苦笑する。
「自分の見たもんが幻覚だったんじゃないかと思う一瞬が一番|怖《こわ》いな。いまのが幻覚ならいままでのも幻覚じゃないか、つまりは俺はそもそも正気じゃないんじゃないかと疑ってしまうからな」
「そうですね」
広田は黙《だま》りこんだ。なぜだか、言うべき言葉が見つからなかった。
「ずいぶん殊勝《しゅしょう》なお話をしてらっしゃいますのね」
突然、声がかかって、振り返ると真砂子が戸口で苦笑めいた笑みを浮かべていた。
滝川は手を振る。
「ま、たまにはねぇ。――麻衣はどした」
「いちおう、落ちつきましたわ。翠さんがついてます」
「降りてこねぇの?」
「本当に落ちつくまで、ナルの顔は見ないほうがいいと思いますわ」
ナルは肩をすくめただけだったが、滝川は首をかしげたし、リンもまた不審《ふしん》そうにした。
「さっきのあれ、どういうこと? いつもの夢なんだろうが? それをどーしていまさら嬢ちゃんがあんなに動揺すんのか、わからんのだが、俺は」
「……麻衣にも、いろいろあるということですわ」
「いろいろ?」
滝川はナルと真砂子を見比べる。口を開いたのはナルのほうだった。
「リンが隣の部屋からあんなものを見つけた」
ナルはリンを見やる。リンは手近の棚から紙製の古い箱を取り上げて、滝川に差し出した。
「押し入れの上の天井裏から見つけたんだ」
滝川は箱を開く。
「ひえー。ライダー・カードじゃん。なつかしー」
ナルは滝川を見た。
「そーゆうのがあったのよ、昔。子供向けの番組のキャラクターを印刷してあんの。小学校ぐらいのとき、上級生の男の子が、こぞってコレクションしてたんだよな」
「ああ、なるほど……」
「――ひょっとして、サイコメトリした?」
「サイコメトリ?」
広田は滝川に問い返す。滝川はめいっぱいイヤミな笑みを浮かべた。
「お前さんが全否定してる超能力だ。ナル坊はこれで、兄貴の所在を知ったわけだな」
広田は顔をしかめる。
「したんか? どうだった」
「――子供が部屋で寝ていると、誰かが家に侵入してくる。それは両親の部屋に向かい、そこでひと騒ぎを起こしたあと、子供の部屋にやってくる」
「……コソリ」
真砂子がつぶやくと、ナルはうなずいた。
「その持ち主は男の子だ。その子は何かが家に忍びこんできたことに気がついていた。その何かを『コソリ』と呼んでいた」
「麻衣も同じことを言っていましたわ」
「だろうな。――どうやら同じものを見たな」
滝川は首をかしげる。
「それって……?」
「僕のヴィジョンを、麻衣に伝えたんだ。……誰かが」
「誰かって」
「過去の例からすると、ジーンが。どうやらあいつは麻衣の指導霊《コントロール》を気取っていたようだから。麻衣はひじょうにしばしば夢の形で霊視をしたが、あれはどうやらジーンが伝えていたものらしい」
「おい、でも……」
滝川は眉《まゆ》をひそめた。ユージンの死体はこの夏に発見された。もしも彼の霊がさまよっていたとしても、それは祖国に帰り埋葬《まいそう》された時点で浄化しているのがセオリーというものではないだろうか。
ナルは苦笑した。
「よほど麻衣が気にかかるらしい」
「出来の悪い弟も、なんじゃねぇの?」
滝川は言ったが、これには邪険《じゃけん》な色の視線が返ってきた。
「ジーンというのは、ユージンのことか? 死んだ?」
広田の問いにうなずいたのは真砂子である。
「そうですわ。広田さんはどうせ否定なさるんでしょうけど、彼はずっとこの世をさまよっていましたの。麻衣のそばにいて――それとも、ナルのそばに、なのかしら――ともかく、いて、麻衣に力を貸していたらしいんですの」
「力を貸す?」
「ナルの見たものを夢の形で伝えたり、いろいろと。詳《くわ》しいことを申し上げても、どうせ広田さんにはおわかりになりませんでしょ」
悪かったな、と広田は口の中で毒づいた。
「――夏に遺体が見つかって、それで浮かばれたのだと誰もが思っていたのに、いまさらまた以前と同じようなことが起こるんですもの。それで麻衣は動揺してしまったんですわ」
「そうか……」
一面の闇だった。どこかたぶん、真っ暗な部屋のように麻衣には感じられた。
「……ごめん……」
そう、微《かす》かな声が闇の向こうから聞こえた。
この声には聞き覚えがある。――いや、ひじょうによく聞いている声だ。皮肉を言う声、罵倒《ばとう》する声、昨日、今日とうんざりするくらいよく聞いた声だけれど、実はこの声はナルのものではない。麻衣はそれをわかっている。
――彼の声だ。
麻衣は目をしばたたく。嬉《うれ》しいのか悲しいのか、自分でもよくわからなかった。
「……どこ?」
周囲は真の闇で、なにも見えない。誰の姿も見えないのはもちろん、この闇がどこからどこまで続いているのかさえわからなかった。
麻衣は首をめぐらせる。返答はどこからもない。
「……どうして? どうして、まだこんな所にいるの?」
何度も夢で助けてもらった。もう二度と会えないだろうと思っていた。実際ダム湖から死体が引き上げられたあの夏以後に、麻衣は一度も彼の夢を見なかった。
「どうして?」
声だけが答えた。
「出られないんだ」
え、と麻衣は声のしたほうとおぼしき闇の中を見つめる。
「――出口は見えているのに、どうしてもそちらへ近づけない」
「なんで……」
「わからないんだ、僕にも。どうしてなのかはわからないけれど、最初からそうなんだ」
「……最初から?」
麻衣は目を見開く。瞳《ひとみ》はやはり暗闇だけを映した。
「身体を捜してほしかったんじゃないの? 家に帰りたかったんじゃ、なかったの?」
返答にはやや間があった。
「僕はもう帰れないことぐらい、最初から知ってる……」
そんな、と言いかけた口を麻衣はつぐむ。
――悲しいけれど、それが事実だ。
日本に来た彼は、この国で死んだ。少なくともナルはそう透視した。近づいてくる車。はねられて動けない彼に向かってくる車。いつかナルに聞いた光景は、いつの間にか麻衣自身のものになっている。エンジンの音や車体に反射した鈍《にぶ》い光まで思い描くことができた。
そして、ナルの示した場所から死体は引き上げられた。二年近く経過して。
「ごめん、……余計なことをした。怖《こわ》かっただろう?」
彼の声はナルと同じ声質で、同じトーンで、それでも少しだけ優《やさ》しい。
「ううん……」
「ナルは見ても言わないから。そう思ったんだけど、余計なことだった」
麻衣は首を垂《た》れて頭を振った。
「あたし、ひどいね。……今、すごく、うれしい」
麻衣は顔を覆《おお》う。
「こんなの、ひどいよね。でも、また会えて、本当にうれしいの……」
人が近づいてくる気配があった。顔を上げると、困ったような表情を浮かべた白い端整な顔が見えた。
「……ごめん」
そう言う彼はナルと同じ顔をしている。どれほどにも似ているけれど、目の前に見える人はナルではない。
――あんなに似ている双子《ふたご》も、珍しいんじゃないかしら。
そう言ったのは、ナルが彼の葬儀のために帰国していた間、オフィスを預かっていたまどかだ。
――本当に似ている。まるで同じ人間のように。
だからずっと、夢に現れる彼をナルだと思っていた。一度も疑ってみなかった。腹の立つことも多いけど、夢に見るぐらいなんだから、きっと好きなんだろうと思っていた。
――笑い話だ。
「笑って……?」
とてもとても、彼の笑顔が好きだったから。
「謝《あやま》るぐらいなら、笑って?」
すこし、困ったような笑顔。
「……ジーン……」
初めて呼んだ、彼の名前。
ふわりとした笑顔が彼の白い顔に浮かんだ。ナルが笑ったみたいだ、そう思うぐらいこの兄弟は似ている。
これが迷うということなのか、と思った。――そう彼は言った。
「自分でも意外な気がしたけど。どうして出られないのか、他に理由が考えられなかったから」
「そう……」
「いまもわからない。ずっと眠っていて、ときどきふいに覚醒《かくせい》する、そういう感じかな。夢うつつに麻衣たちを追っているのはわかっていたけど」
「ずっと側にいたんだ」
「たぶん。――けれど、よくはわからない。ほとんど僕は眠っているから。ぼんやりして、ものを考えるのも、なにかを見るのも億劫《おっくう》になる。それでずっと、うつらうつらしている感じ。……わかる?」
「なんとなく」
「それが、唐突《とうとつ》に目覚める。急速に覚醒して、さっきまで僕の中から溶《と》け出そうとしていたものが、一気に僕の中に戻ってきた気がする。すると、必ず調査中なんだ」
「……ふうん。不思議《ふしぎ》……」
闇の中にぽつんと二人、座っている。麻衣は横に座った彼の横顔を見る。
「ナルを呼ばなかったの?」
「呼んだよ。でも、少しも声が届かない。アンテナがずれたのかな。いつもどおりに呼びかけようとしても空振《からぶ》りする。……麻衣のほうが波長が近かった」
「そっか……」
「わりとすぐに、受信はできるようになったんだけど。ナルがうんと意識を凝《こ》らしていれば、だけどね」
そう、と麻衣はうなずく。
「声が届かないのがもどかしくて、麻衣を利用するような真似《まね》をした。――ごめん」
「ううん。あたしこそ、ごめんね。あたしがもっと早く、ナルにこの夢のことを言ってたら、ナルと連絡できたのにね」
くすり、と彼は笑う。
「ナルが僕の言い分を聞いてくれるかは、疑問だけどね」
「そう?」
「さっさと成仏《じょうぶつ》しろ、って怒鳴《どな》られるのが落ちかな」
くすくす、と麻衣は笑う。
「……ここで五人、死んでるよ」
唐突な言葉に、麻衣は笑いを呑《の》みこんだ。
「――五人、も?」
死んだのは、両親と子供だけではなかったのだろうか。
「みんな、殺されたんだな。老人が一人、中年の男女、男の子、女の子。今は母親以外の霊は息をひそめている。きっと部外者に萎縮《いしゅく》しているんだと思う」
「そう……」
「これから、激しくなるよ」
麻衣は瞬《まばた》いた。
「激しく?」
「うん。彼らは焦《あせ》りでいっぱいだから。早くなんとかしないと、とそう考えてる。急いで止めなければ、と。――帰ってきてはいけない、って」
「誰に対して?」
「女の子、かな。彼女に警告している。家に入ってはいけない、と」
「その……女の子もいるんだ?」
いる、とこの声は低く静かだった。
「じゃあ、……その子も死んじゃったんだ。……みんなの警告が間に合わなくて」
「そうだと思う。四人は自分たちが死んだことをわかっていない。惨劇の夜に閉じこめられて、出られないでいる。ただ、翌日に帰ってくる予定の、女の子のことを気にしている。帰ってきてはいけない、と」
「……女の子は?」
彼は少し、眉《まゆ》をひそめるようにした。
「……どうして、誰もいないのだろう」
「それが――その子?」
「おそらく。その子は不安の中に閉じこめられている。帰ってきた家に、家族の気配がないから。なんだかとても嫌《いや》な予感がするから」
「そしてその子も、自分が死んだことをわかっていない……?」
彼はただうなずいた。
「可哀想《かわいそう》……」
――コソリはやってきた。少年の家族を殺し尽くした。いまも彼らは、コソリの徘徊《はいかい》する悪夢の中に閉じこめられている。
ごめん、とまた声がした。
「本当にごめん……。ラインを繋《つな》いでみるまで、ナルがどういうヴィジョンを見ているのか、わからないんだ……」
「ううん、平気」
笑って麻衣は彼を見る。
「何か伝えることがある? ナルに?」
麻衣が訊《き》くと、彼は表情を硬《かた》くした。
「気をつけて、と」
「――え?」
「悪い思念を感じる。ここには殺された人々の魂《たましい》がさまよっている。――だけど、それだけじゃない」
「……それだけじゃない?」
「それが何かは、まだよくわからない。萎縮《いしゅく》しているのか、鳴りをひそめているのか、まだ表層に現れてないのか。悪い霊なのか、悪い意志なのか、それもはっきりしない。――でも、確かに暗い思念がこの家には漂《ただよ》っているから」
麻衣は身体を緊張させる。
「さまよっている一家がせっぱつまって牙《きば》をむくのか、それとももっと他のものなのか、わからない。けれども、これで終わりじゃない。何か暗いものが急速に傾こうとしている。気を抜いては危険だ。――そう伝えて」
「……わかった」
彼はひとつうなずいてから、音もなく立ち上がる。引かれたように、麻衣もまた立ち上がった。すっと彼が遠ざかる。ひょっとしたら、麻衣のほうが遠ざかったのかもしれなかった。
「……また、会うこと、あるよね?」
彼を呑《の》みこんだ闇に向かって呼びかけたけれど、返答はどこからもなかった。
「ユージンが?」
滝川の問いに、麻衣はうなずいた。
麻衣は短い夢から目を覚まして、まっすぐにベースに向かった。ずっと側についていてくれた翠と礼子には、少しでも休んでください、と言ったのだが、もう朝だからと、二人もまた起きだして台所に向かった。実際に、すでに早朝、二人以外の全員はベースで肩を寄せ合うようにしていた。
「出口は見えているのに、出られないんだって。最初からそうなんだ、ってそう言ってた」
舌打ちしたのは例によって広田だった。
「まったく――」
広田が呟《つぶや》いたとたん、全員の冷たい視線が突き刺さってきた。しぶしぶ広田は口をつぐむ。肯定派が五人に否定派が一人ではどう考えても分《ぶ》が悪い。だからといってこの場を出るのも追い出されるのもうれしくない。広田には連中を監視するという使命があるのだ。
死んだ兄の霊に出会ったという話を聞いても眉《まゆ》を軽くひそめただけのナルは、軽く溜《た》め息《いき》をついてみせた。
「……どういうことだろう。――にしても、本当に間抜けな奴だな」
「兄ちゃんに向かって、その言い方はありか?」
「率直な感想ですよ、谷山さん。――で? 奴は何か手がかりになりそうなことは言ってなかったか?」
「五人だって」
麻衣が言うと、全員が軽く首をかしげた。
「ここで死んだ、一家は五人だって。老人と夫婦、子供が二人」
「それが、全員、殺されたのか?」
やや気色《けしき》ばんだように言う滝川に、麻衣はうなずく。
「ジーンはそう言ってた。でね、まだ終わりじゃない、悪いことが起こるかもしれないから、気をつけてくれ、って」
と、麻衣はナルに伝言を伝える。
「そうか――」
麻衣が細々《こまごま》と死者からの伝言を伝え、あるいは夢に見た光景の話をしている間、広田は憮然《ぶぜん》として部屋の隅《すみ》に座っていた。
「悪いもの……」
話を聞いて釈然としないように呟《つぶや》いたナルに、滝川もまた首をかしげる。
「なんだろね、それは」
言ってから、真砂子を見た。
「真砂子ちゃんや。何かわからんかい」
これに対して、真砂子はどこかふてくされたようにそっぽを向いた。
「ユージンにわからないことが、あたくしにわかるはず、ございませんでしょ。あたくしは彼ほど有能じゃありませんもの。……どうせ、ここで死んだ人の数もわからなかったぐらいですし」
広田は思わず部屋の隅で苦笑した。なかなかプライドの高いお嬢さんである。
「誰もそんなこた、言ってないっしょ?」
なだめるように言ったのは滝川だが、真砂子はふくれたままだった。滝川はそれに肩をすくめて、そうしてナルを見る。
「わからんな。――ここにいる一家は、単に警告してるんじゃなかったのか? 無害だ、ってのが真砂子ちゃんの言い分だろう。いったい何がどう悪くなるんだ?」
ナルもまた首をかしげるようにした。
「状況を整理してみよう。――昔、ここでは一家が殺される事件があった。殺されたのはトータルで五人。老人と夫婦、子供が二人」
「侵入してきた犯人に殺されたわけな。凶器は鉈《なた》か。――ただ、凶行の夜、女の子だけがまだ家に帰ってきてなかったってわけだ。老人ってのは、問題の夜に殺されたんかな」
「そうじゃないのかな。二階には三部屋しかない。両親と姉と男の子が二階を使っていたようだから、老人は階下にいたはずだ」
「一階の部屋ってえと、……まさか、この部屋?」
滝川はベースの内部を見渡す。
「あり得るな。――犯人は階段を昇ってきたから、侵入路は一階からだろう。先に殺された可能性が高いな」
広田は思わず姿勢を正した。霊能力だのを信じないとはいえ、いま自分がいる場所で人が殺された可能性があると言われれば、なにやら粛然《しゅくぜん》とせざるをえない。
「犯人はまず一階で老人を殺してから、二階へ上がって夫婦を殺した。次いで息子を襲ったというわけだ」
「なるほどな。――娘はその夜、出かけていていなかった。だがじきに戻ってくる。殺された連中は娘に向かって警告する。――戻ってきてはいけない」
ナルはうなずく。
「……だが、結局その娘も殺されてしまったというわけだ。親子四人は惨劇の一夜の中に閉じこめられている。警告を発し続けているんだ」
「その家に、翠さん母娘《おやこ》が越してきたわけな。おっかさんのほうは殺された母親を引き寄せる。同じく、娘を持つ母親同士だからかな」
言ってから滝川は、まじまじとナルを見た。
「――で? それでどうして、何が危険だっていうんだ?」
ナルはこれには答えず、麻衣を見る。視線を受け取った麻衣は、あわてたように手を振った。
「あたしを見たって知らないよぉ。あたしは単なるメッセンジャーなんだから」
ナルはこれみよがしに溜《た》め息《いき》をつく。
「お前は本当に、役に立たないな」
「悪かったね」
とにかく、とナルは、麻衣に冷たい一瞥《いちべつ》をくれてからつぶやく。
「おかあさんに憑依《ひょうい》した霊のほうは、ジョンを待つ。その一方で、この家の過去を洗いなおす。――原さん」
「はい」
「一家を説得できませんか。もはや警告をしたところで意味がないのだと」
「麻衣のほうが適任でございましょ。ジーンもついているんですもの」
つん、という真砂子は、やはり拗《す》ねているようだった。
「アレはさほどあてにできません」
「アレだとー」
麻衣の抗議の声にはかまわず、ナルは真砂子を見る。真砂子はちょっと上目《うわめ》づかいにナルを見返した。
「やってみても、よろしゅうございますけど……あまり期待しないでくださいましね」
「お願いします。――リン、どうだ?」
無言でコンピュータの前に座っていたリンにナルは目を向ける。
「今朝がた、翠さんが子供に会った頃に、浴室でも温度が下がっていますね。これははっきりと異常だと言えるほどの数値ではありません」
「他には?」
「この部屋に何かが来たようでしたよ」
リンは平然と言う。
「誰かが部屋に入ってきた気が、何度かしましたから。それで温度計を置いてみましたが、これもやや低い数値が出ています」
「なるほど……」
「少なくとも、活性化しているのは確かなようですが」
「わかった」
言ってから、ナルは全員を見渡した。
「とりあえず、当面は浄霊《じょうれい》の方向でいく。何か悪いことが、という説は翠さんたちには伏せておく。――いたずらに不安を抱《いだ》かせても意味がない」
「それも一種の、手がかりの隠匿《いんとく》じゃないのか?」
広田は意地悪く言ってみた。ナルは上《うわ》っ面《つら》だけで笑った。
「麻衣が霊能力で幽霊に会って教えられた意見を、手がかりとして認定していただけるわけですか?」
これには広田は押し黙《だま》るしかなかった。
「これ以上のプレッシャーを与えても、しかたないだろう。とりあえず、その他の事情は僕から翠さんに説明する。――麻衣」
「はぁい」
ぴくんと姿勢を正した麻衣に、ナルは冷たい一瞥《いちべつ》をくれた。
「お前は寝ていろ。馬鹿《ばか》な浮遊霊に会ったら、情報はもっと正確によこせ、と伝えろ」
ベースにいた何人かが、呆《あき》れたような息をついた。
滝川が念のために呪符《じゅふ》を浴室に貼《は》りに行く、というので、広田はそれについて行った。どういうことをするのか、興味があったからだ。
片手に小瓶《こびん》をさげた滝川は、脱衣室を軽く見渡したあと、持参の硯《すずり》を床《ゆか》に置いて墨《すみ》を摺《す》りはじめた。
「――それは何だ?」
瓶を指した広田に、滝川はあっさりと答える。
「六甲《ろっこう》のおいしいお水」
「――は?」
「ミネラル・ウォーター。知らんの?」
「知ってる。そんなものがどうして必要なんだ?」
「いや、本当は清水《しみず》を使うんだけどね。この東京で、んなもんどーやって手に入れるのよ」
「それは、そうだが」
それでも、何かが違うのではないかと思う広田である。
「水道の水よりマシなんじゃねぇの? 気分の問題だけどさ」
「……いいかげんなんだな」
口調に軽蔑《けいべつ》をこめてみたが、滝川はからからと笑った。
「べつに気分のもんだってば。水がなけりゃ、泥水《どろみず》だって使うし、それでも特に問題はねぇもん。――高野山《こうやさん》から取り寄せた岩清水です、なんてのは胡散臭《うさんくさ》すぎるでしょーが」
逆ではなかろうか、と広田は思ったが、黙《だま》っていた。
「調査に行って、紙に困ったら、それこそトイレット・ペーパーでもレシートの裏でも使うもんな」
それにはかなり問題がある気がする。
「べつに勧《すす》めるわけじゃないが、もう少しそれらしい雰囲気《ふんいき》を作ったほうがよくはないのか?」
言って広田は滝川の姿を眺《なが》めた。どこからどう見ても、霊能者にも坊主《ぼうず》にも見えない。
「俺は霊能者キライだもん、基本的に」
「――なぜ」
滝川はにんまり笑う。
「ペテン師が多いから」
「お前がそれを言うのか?」
「だって、事実だもんさー。俺は高野山にいたけど、実際にちゃんと除霊ができる坊主なんて、自分の他には二人っきゃ知らんかったしな」
広田は目を見開いた。
「……そんな程度のものなのか?」
「そだねぇ。やっぱ、できるほうが珍しいってことだろーな。同業者にはよく会ったけどな、やっぱ本物はいなかったな。スカかペテン師ばっかりだ。だからキライ。俺ってまっとうな神経してるから、できもしねーことをできるってゆったり、それで人を騙《だま》して金儲《かねもう》けをたくらむ奴って嫌いなんだよな」
「……ここの連中は?」
「本物だと思うから、つきあってるわけだけど? ――あいつらと会ったのは調査の現場さ。依頼主が霊能者をかき集めて、そんでたまたま会ったのな。あの事件の依頼主は、少なくとも霊能者の選定眼に関しちゃ確かだったと思うぜ。よりによって当たりばっかり引き当てたわけだから」
言ってから、滝川は皮肉めいた表情をする。
「――といってもお前さんは、納得《なっとく》せんだろうけど」
広田は憮然《ぶぜん》とした。
「……お前呼ばわりはされたくない」
「あんただってしてるでしょーが」
「いくつだ、お前は」
「そういう、あんたこそいくつよ」
「二十四だ」
「じゃ、お前でいいじゃん、日本の伝統によると。俺のがちょい年上だからな」
「まさか」
「滝川さん、とお呼び。ついでにリンも年上だぞ。俺よか年上だからな」
リンが年上なのは想像がついていたが、滝川が上だとは思わなかった。同世代だとは思ったが、ひとつふたつ下だろうと思っていたのだ。
「これからは年長者への敬意をこめて、滝川さん、リンさん、と呼ぶように」
広田は滝川をねめつけた。
「貴様なんぞは、お前で充分だ。男のくせに髪を伸ばすだの染めるだの。不良少年のような真似《まね》をしおって」
「伸ばしたっていいじゃんかー。せっかくお山を下りて、坊主頭から解放されたんだからー。それにべつに染めてないぞ、俺。これが生まれつきなの。ガキの頃よりマシになったんだから、言わないでよっ」
どうだかな、と広田はつぶやく。
「リンといい、お前といい――」
滝川はにわかに真面目《まじめ》な顔をした。
「リン?」
「前髪。見るからに鬱陶《うっとう》しい」
「鬱陶しいのはお前の性格じゃねーの?」
言ってから、滝川はちらりと視線を機材のほうに向ける。立ち上がってから廊下に出て広田に手招きした。怪訝《けげん》に思った広田がついていくと、滝川はドアを閉める。声をひそめた。
「――お前、それ本人に言ったら馬鹿《ばか》者《もの》だからな」
「――なんだ、それは」
「あいつは、あっちの目が見えねーんだよ」
え、と広田は滝川の目を見た。
「全然見えないわけじゃない。明暗はわかるそうだが、それでかえって両目でものを見ると不都合なんだそうだ。そうでなきゃ、あんな軟派な髪にするかよ、あの洒落《しゃれ》っけのない男が」
広田はひどく後ろめたい気分で、滝川の常になく厳《きび》しい顔を見返した。
「……なぜ」
「生まれつきだとさ。あっちの目は青緑|虹彩《こうさい》なんだそーだ。中国では青眼つって、優秀な霊能者にはありがちなんだが。可視光線以外の光も見えると言ってる。それでよけいに両目だと不便なんだと」
「そう……だったのか」
「いろいろな、あんだよ、俺たちにも」
広田はうつむいた。
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十一章
「一家……五人、ですか」
台所で礼子《れいこ》と朝の用意をしているところを、翠《みどり》だけがナルに呼び出されて居間に行った。そこで聞いたのがそれだった。
「単なる情報のひとつにしかすぎません」
ナルはそうそっけなく答える。
「そういうことが過去にあったとお知らせしているのではなく、そういう噂《うわさ》を聞いたことがないか、うかがっているだけです」
いいえ、と翠は首を振った。
「ありません。この家で何かがあったと聞いたのは、隣の笹倉《ささくら》さんから、ここで自殺したひとがいるらしいと――それだけです」
「近所でも構いませんが」
「ありません」
言ってから、翠は深い溜《た》め息《いき》をついた。
「では、その一家のうちの、母親が母に憑《つ》いているんですね?」
「そのようですね」
「母が今朝、子供の口調で語った、あれはどういうことなんでしょう。まさか、殺された男の子までが憑いているんですか?」
「憑依《ひょうい》している、というより、たまたま窓口として使われた、ということだと思いますが。――いずれにせよ、おかあさんの憑依状態については、協力者が来れば問題なく解決するだろうと思っています」
「その方はいつ?」
翠が言うと、ナルは壁の時計を見上げた。じきに七時になろうとしている。
「身体が空《あ》き次第、と言っていましたから、もう着くでしょう」
そうですか、と翠は握《にぎ》り合わせた指をほどく。
「よろしくお願いします。……わたしも今日は家にいますから」
「そうしてください。翠さんもお休みになったほうがいいと思います」
「はい。――わたしが見た子も、その子なんですね? お風呂場で見たのが犯人?」
「詳《くわ》しいことはわかりませんが、その可能性は高いようです。これについては調査中です」
はい、と翠が軽くうなずいたところに、チャイムの音が聞こえた。
「その方かしら。――はい」
ドアの向こうにいたのは、金髪の少年だった。
ナルもリンも、日本人には見えるが日本人ではない。それでジョンという名の人物にも同様の想像をしていた翠は、かなりのところ面食《めんく》らってしまった。
金髪に碧眼《へきがん》。黒い神父服。その彼は明るい笑みを浮かべてから丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「朝|早《はよ》うからすんません。阿川《あがわ》翠さんのお宅はこちらでよろしおすやろか」
翠はさらに面食らい、一瞬返答に詰まってしまった。
「ボクは渋谷《しぶや》さんに紹介してもろた、ジョン・ブラウン、いいますです」
「ああ、ええ……はい、うかがってます」
翠は気をとりなおして笑む。さいでっか、とジョンも笑って、改めて頭を下げた。
「あんじょうよろしゅう、お願いします」
「こちらこそ」
答えて頭を下げながら、翠は笑いをかみ殺した。なるほど、麻衣が言っていたのはこのことだったのだ。
「――ああ、渋谷さん」
ジョンは翠の背後に向かって会釈《えしゃく》をする。
「お久しぶりです。お元気でおいやしたか」
滅多《めった》になく、ナルも苦笑するふうだった。
「おかげさまで。――悪いな、早朝から」
「かましまへん」
どうぞ、と翠はジョンを中へうながす。ちょうどダイニングから出てきた礼子がジョンを見て目を丸くした。
「お早うさんです。朝っぱらから、おさわがせして、かんにんしてください」
ジョンがそう言って礼子にも頭を下げたものだから、礼子もまたとっさに笑いをかみ殺すようにした。
「いいえ。――どうぞ、お上がりになって。朝ご飯はお済み?」
「へえ。済ませて来ましたです。おおきに」
たまりかねたように、礼子が笑いを漏《も》らした。ついそれにつられて、翠もまた笑ってしまう。真っ青な目が翠を振り返って、翠はあわてて笑いを呑《の》みこもうとする。
「……ごめんなさい」
「おかまいなく。ボクの言葉、変なんで、すんまへんです。我慢《がまん》せんと、笑うてしもてください」
くすくす、と礼子は本当に笑う。
「朝食がお済みなら、お茶をお淹《い》れしましょうね。――どうぞ」
「かまんといてください」
言ってジョンはナルを見る。
「それより渋谷さん、事情を聞かせてください」
ベースに戻っていた広田《ひろた》は、ナルが伴《ともな》ってきた金髪|碧眼《へきがん》の人物がいきなり、お早うさんです、などとのたまうのを聞いて目をパチクリさせた。
「ジョン・ブラウンいいます。あんじょう可愛《かわい》がっとくれやす」
そう言われ、丁寧《ていねい》に金色の頭を下げられてしまうと、笑いがこみあげてきてしかたがない。かろうじて笑わずに、会釈を返すことに成功した。
ナルは細かく事情を説明する。ジョンはおとなしくそれに耳を傾けていた。
「――そやったら、おかあさんを除霊させてもろたらええのんですね。わかりましたです」
ジョンのきちんとした神父服に、ひょっとして真っ当な聖職者なのではないかと見る目を改めた広田は、あっさりと発せられた除霊という言葉に眉根《まゆね》をよせた。やはりこいつも、霊能者のひとりか、とウンザリした気分で息を吐く。
「ブランさんとやら。きみは本当に神父なのか」
広田が言うと、麻衣《まい》の呆《あき》れ果てたような声が飛んできた。
「広田さんってば、くどいっ」
「事実の確認をしているんだ」
広田が言うと、麻衣はジョンを見る。
「この人は単なる頑固者《がんこもの》のわからず屋だから、返事なんてしなくていいからね」
その言葉に、広田はつぶやく。
「なんだ。やっぱりエセ神父か」
これには人数分の非難をこめた視線と、溜《た》め息《いき》が返ってきた。
ジョンは困ったように微笑《わら》う。
「ええと。……ボクは神父でんがな、です」
「神父が簡単に除霊なんか、してまわるものなのか?」
ジョンはさらに困ったような笑みを浮かべた。
「普通は、しませんですね。除霊ゆうのは、まぁ、悪魔|祓《ばら》いゆうことで、ほんまやったら上の許可がいるのんですけど」
「許可は?」
「こういうことは、急を要することが多いんで、いわゆる事後|承諾《しょうだく》、ゆうことになりますのんです」
「そんなことをして、構わないのか」
まあ、とこれには苦笑するふうだった。あまり誉《ほ》められたことでもないのだろう。
「神父にしては若いように思うが」
「ボクは若《わこ》う見られるようですのんですけど。けど、いちおう、ちゃんと司祭なんでおます」
司祭、と、これはメンバーからも驚いたような声があがった。仲間も知らなかったのだろうか。
「キリスト教には詳《くわ》しくないが、司祭というのはずいぶん偉《えら》いんじゃないのか」
「いわゆる神父ゆうのは、普通は司祭でおますね。ボクは神父ゆうても、教会の神父やなしに、修道会の神父ですよって。伝道に出るときに司祭職をもろたんでおます」
へえ、とつぶやいて、広田は善良そうなジョンの顔を見る。
「その聖職者が、困っている人の弱みにつけこんで、除霊だなんだと怪《あや》しげなマネをしてもいいのか」
これは広田も言いながら、我ながらややウンザリしていた。こういう問いを繰り返すことが、果てしなく無益なことに思えてきたからだ。
ジョンはおっとりと笑う。
「そこに困ってるお人がいやはったら、できるだけのことをさせてもらうのんは、人の義務なんと違いますやろか。ホンマに除霊できるのんか、自分でもわからへんのですけど、ボクにできると思えることを、精いっぱいやらせていただこ、と思てます」
そう言っていかにも善良そうに微笑《わら》われると、頭から罵倒《ばとう》する気勢をそがれてしまう広田である。
「困っている霊を追い払うのは、良心に悖《もと》る行為ではないわけか?」
そう皮肉を言うのが精いっぱいというところだった。
ジョンは困ったようにした。
「このお家《うち》にいやはる霊は、悪いことをしてるわけとちがいますけど、死んでなお苦しみ続けることは、やっぱり神さまの望んではることではない、と思てます。それに、翠さんもおかあさんも困っていやはるのんですやろ? お二人の心と身体の健康のことを考えても、やっぱり誰かがなんとかしてあげたほうが、ええのんに決まってます。……ボクはそう思てますです」
どうにもジョンに対しては、敵愾心《てきがいしん》がわきにくい。あ、そう、と非難するニュアンスをこめて相づちを打つのが精いっぱいの広田である。
「せやったら、渋谷さん」
ジョンはナルを見る。
「とにかく、おかあさんの除霊をさせとくれやす」
「なんや、調子がお悪い、ゆうことなんで、ちょっとしたお祈りをさせてもらいますです」
ジョンに言われて、礼子は頭を下げた。慢性的な頭痛と疲労感、不安。そんなものが治るならありがたいことだ、と思った。
礼子自身には、自分が奇態な行動をとっている自覚がない。時折ぼうっとして、変なことを言っているらしい、という程度の認識しかなかった。それでも、自分の不調の自覚はあるので、厳粛《げんしゅく》な気分でソファに座ったままうなだれた。
ジョンは持参の、銀色の小皿のような燭台《しょくだい》に蝋燭《ろうそく》を立てて火をつける。それをふたつテーブルの上に置いた。その間にもうひとつ、やはり銀色の小皿を置き、塩を盛る。
翠は礼子の横に立って、ジョンがそういった準備を丁寧《ていねい》な動作で行うのを見守っていた。
ジョンはすべての用意を調《ととの》えてから礼子の前に膝《ひざ》をついて、軽く両手の指を組んでうなだれる。
「天にまします我らの父よ」
これは訛《なま》りのない口調で、粛々《しゅくしゅく》とよく耳にする祈りの言葉が流れてきた。
祈りの言葉には宗派を超えて、なにやら人を厳粛な気分にさせる効果がある、と翠は思う。ことにそれが意味不明の呪文《じゅもん》ならともかく、理解できる言語での祈りは、ひとを無条件に敬虔《けいけん》にさせる。ジョンと同じくうなだれた礼子は、両手を重ねるようにして膝の上に置いていたが、その手がいつの間にか指を組むようにして合わさっている。ふと気づくと、翠もまた同じようにしていた。
「……我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなく汝《なんじ》のものなればなり。――アーメン」
ジョンは十字を切る。テーブルの上に置いた小瓶《こびん》を手に取った。中には水が入っている。聖水だろうか、と翠は思う。
ジョンはその小瓶《こびん》を軽く振る。蓋《ふた》をしていない瓶からは、透明に光を弾《はじ》いて、いくつかの水滴がこぼれた。そうして瓶の口に指を当てる。指先を濡《ぬ》らした。
「我は汝《なんじ》に言葉をかける者なり。我はキリストの御名《みな》において命ずる、身体のいかなる箇所に身を潜《ひそ》めていようとその姿をあらわし、汝が占有する身体より逃げ去るべし」
濡れた指先が礼子の胸元に降ろされて小さく十字を描く。
「我らは霊的な鞭《むち》と見えざる責《せ》め苦でもって、汝を追い立てる者なり。主によって清められたるこの身体より離れることを、我は汝に求める」
次いで礼子の額《ひたい》に十字を。その滴《しずく》が冷たかったのか、礼子が微《かす》かに震えた。
「離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧《ささ》げられたる身体をもはや求めるなかれ」
左右の耳の至近の距離に十字を描く。
「父と子と精霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」
最後に口に。そうしてジョンは聖書を取りあげ、栞《しおり》してあったページを開く。
「初めに、言《ことば》があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った」
翠は見守るうちに、礼子が激しく震えだしたのに気がついた。どうしたの、と声をかけようとして、ジョンに目線で止められる。
「成ったもので言によらずに成ったものは、なにひとつなかった。言の内に命があった」
翠は微《かす》かな嗚咽《おえつ》の音を聞いた。礼子が涙をこぼしているのだった。
「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
礼子自身にも、どうして自分が泣いているのか、理解できなかった。ただ、切なくやるせなく、涙があふれて止まらない。震えているのは、どういうわけか寒くてならないからだった。
暖かな手が目元に触れた。
「お安まりやす。……もう、大丈夫ですよって」
礼子に向かってかけられた言葉だったが、なんとなくそれが礼子以外の人間に向けられた言葉のように感じられた。急に寒気《さむけ》がやんだ。それと同時に、胸につかえていたものが、ふいに消えた気がした。あれほど切なかった気分が去っていった。
「お守り代わりに持っといておくれやす」
ジョンが言って、それをまぎれもなく自分にかけられた言葉だと感じて、礼子は目を開けた。彼が小さな十字架を、礼子の首にかけてくれているところだった。
「しばらく外《はず》さんといてください。――気分の悪い感じはありませんか?」
礼子は瞬《まばた》いた。悲しい気分も、切ない気分ももう感じなかった。部屋は暖かく、隙間風《すきまかぜ》もない。
「ええ。……変ね。どうしたのかしら」
礼子は脇《わき》に畳《たた》んでおいたエプロンを取り上げて、涙をぬぐった。
「緊張してはったんでしょう」
そう言うジョンの笑顔は暖かい。
「もう、大丈夫です」
「ありがとうございます。なんだか、とても気分が楽になったみたい」
「それは、よろしおました」
ジョンの笑顔を見ながら、翠はそっと手を合わせる。礼子の涙が、本当は誰の涙なのか、わかった気がしたからだ。
――彼女の警告は間に合わなかった。
けれどもう、すべては終わってしまったことなのだから、どうぞ安らいでください。
「やはり憑依《ひょうい》していたようだな」
ジョンがベースに戻ると、真っ先にナルがそう声をかけてきた。居間に置いたカメラは動いている。それを通して、ジョンの祈祷《きとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]を見守っていたのだ。
ベースの中に麻衣と真砂子はいない。戻ってくる途中、仮眠をとると微笑《わら》って二階へ上がっていくのにすれ違った。
「へえ。なんとか。……憑《つ》いておいやしたのは、気持ちの優《やさ》しいお人でしたんですやろ。ほとんど抵抗なかったですし」
広田は軽く溜《た》め息《いき》をつく。いちおう、ジョンが何をするか、ここからモニタを通して見ていた。何か妙な振る舞いがあれば、即座に出ていって止めさせるつもりだったが、単に祈りのことばを連ねるだけのさりげないもので、かえって気抜けしたほどだ。
本当なら霊能者なる人間を善良な市民の側に近づかせるのも嫌《いや》だが、いいかげん駄々《だだ》もこね疲れていて、実際にはジョンが何もしなかったのだとしても、礼子もすっきりしたようだし、それでもいいか、という気分になっていた。それこそ、プラシーボ効果というやつだ。
孤立無援の状態で、自説を主張し続けるのは気力を浪費する。それでちょっとした確認をするにとどめた。
「あの十字架はいくらするんだ?」
法外な値をふっかけられることを警戒しての言葉だったが、ジョンは広田を振り返ってキョトンとした。
「いくらやか、覚えてませんけど」
「そういう意味じゃない。あれはおばさんにプレゼントしたのか、売ったのか、という意味だ」
あのな、と呆《あき》れたのは滝川《たきがわ》で、ああ、と笑ったのはジョンだった。
「もちろん、さしあげたんでおます。あれをお守り代わりに、落ちついてくれはるとええんですけど」
「ジョン、相手にするこたねぇぞ、そんな奴」
「は?」
「お前は疑われてんだぞ、わかってんのか?」
「疑うて、何をですか?」
広田は居心地《いごこち》悪くて、ちょっと身動きした。滝川は軽く天井を仰《あお》ぐ。
「ま、いいけど」
「――?」
「気にすんな。しかしお前、本当に憑依霊《ひょういれい》を落とすの、上手《うま》いな。今度、コツを伝授して」
「ボクが教えるんですか? 滝川さんに?」
「やっぱ、宗派を混同するのはまずいかな」
「まずいんと、違いますやろか。どうですやろ」
「主《しゅ》の御名《みな》において、ってのを、御仏《みほとけ》の御名において、つーのではダメかな、やっぱ」
「うーん……」
「何をくだらないことを言ってる」
呆《あき》れたようにナルは言う。
「ジョン、浄化したと思うか?」
訊《き》かれて、ジョンは首をかしげた。
「どうですやろ。浄化した、ゆう感じはおまへんでしたけど」
「そうか……」
言って、ナルはモニタに目をやる。
浴室・洗面所の気温が若干《じゃっかん》低く、二階の四畳半――例の男の子が殺された部屋がかなり低い。二階の廊下にも温度の低い空気がわだかまっている。
ナルの視線を追いかけて、ジョンはモニタに目をやった。
「ずいぶん下がってますですね」
「昨日までほとんど変化がなかったんだが。徐々に活発になってきているな」
「お兄さんが言わはった、悪いことゆうのは、このことですやろか。このまま霊が活発になって、なんぞやらかすぞ、ゆう」
「どうだろう。……肝心《かんじん》のところで役に立たない奴だ」
「し、渋谷さん」
ジョンが焦《あせ》ったように言ったところで、チャイムが鳴った。
真っ先にベースから顔をのぞかせてみたのは広田だった。
まさか四人目の協力者が来たのだろうか。呼んだという話は聞いていないが。腕時計を見ると、まだ人が他家を訪問する時間ではない。それでそう思った。
ぱたぱたと居間から翠が走り出ていって、玄関のドアを開ける。そうして驚いたように声をあげた。
「――咲紀《さき》」
「朝早くからゴメンね。――広田くんは?」
ああ、と翠は背後に目をやって、不審そうにベースを出てきた広田を見つけた。
「中井《なかい》、お前、どうしたんだ」
咲紀は笑う。どこか挑戦的な笑みだった。
「ちょっとね。――彼、起きてる?」
「彼?」
咲紀は笑った。
「デイヴィス博士」
「調べさせてもらったわよ」
咲紀は襖《ふすま》の縁《ふち》にもたれてナルを見る。ベースの中のその他大勢には目もくれなかった。
「さようで」
ナルは返答したものの、咲紀のほうには視線を向けない。
「どうして否定派のフリをするの?」
「べつに僕は否定派ではありませんが」
「肯定派にも見えないわね」
「肯定派ではありませんね、確かに」
広田はもちろん、滝川もジョンも少しばかり目を見開いて、モニタを見上げる無表情をながめた。
「それが確かにあるのなら、肯定する証拠が出てこなくてはいけない。証拠がない以上、否定も肯定もしない」
咲紀は立ったままナルを見下ろす。
「そういう自分がサイキックでも?」
「サイキックでなかったら、とっくに否定派になってますよ」
広田は咲紀を見た。
「サイキック?」
「いわゆる、超能力者のことね」
「本当にこいつに、そんな能力があるとでも思っているのか?」
「あたしの評価じゃなくて、学会の評価よ。彼は専門家たちから認定された、正真正銘《しょうしんしょうめい》のサイキックなの。――でしょ?」
これに対するナルの返答はない。
「サイコメトリで有名」
「サイコメトリ――」
「対象物から、その物にまつわる情報やその物の持ち主に関する情報を読みとるESP。オランダのクロワゼなんかが、これで有名だったのよね。クロワゼは警察にも何度も協力してる。失踪《しっそう》者の持ち物から居場所をサイコメトリしたり、被害者の遺品から死体のありかや犯人の様子を透視したの」
なんたることだ、と広田は溜《た》め息《いき》をついた。秩序の守護たる警察が、そんな連中に力を借りるなんて。
「アメリカのフルコスもそうだった。そして、彼――オリヴァー・デイヴィスもね」
広田はナルを見る。
「警察に協力したことがあるのか?」
「あるのよ」
答えたのは咲紀のほうだ。
「イギリスで四度。アメリカで一度。最低でもそれだけはね。――他にも、PKを使う。かなり大きなものでも動かすと聞いたけど?」
ナルは肯定も否定もしない。
「イギリスにある心霊調査協会――略称SPRのプラット研究所に所属する新進|気鋭《きえい》の研究者。三年ほど前に『超常現象のシステム』という著書を著《あらわ》して――これは『超自然のシステム』というタイトルで翻訳されているけれども――この業績によって、ロンデンバーグ基金とアメリカ心霊協会――ASPRが設けている超心理学博士号を授与されてる。これはニューヨーク大学にロンデンバーグが設けている超心理学講座の教授職も同時に授与されるのが普通だけど、大学の年齢制限にひっかかって教授職のほうは棚上げになった形」
「三年前って、――いったいこいつは、いくつだったんだ」
現在どう考えても十七、八、その程度だろう。雰囲気が落ちついているのでもっと年上にも見えるが、単に外見だけを見ればもう少し下のようにも思える。
「デイヴィス博士のプロフィールについては、触れないのがこの業界での礼儀だそうよ。論文は発表されているけど、公演・シンポジウムにはいっさい出席しない。学位授与式にもSPRの重鎮《じゅうちん》、サー・ドリーが代理で出席してデイヴィス博士は現れなかった。おかげで彼がどういう人物なのか、知っているのはSPR関係者だけ」
「……なんで、そんな、胡散臭《うさんくさ》い」
「業界関係者は、そう思ってないようだけど? デイヴィス博士は研究者であると同時に、有名なサイキックでもあるわけ。でも、博士自身は超能力研究を行ってない。超能力者に対する実験には意味がない、というのが持論だそうで?」
咲紀は平然とそっぽを向いている横顔をちらりと見た。
「それで実験に駆り出されるのが嫌《いや》で、表舞台に現れないのだという説が濃厚。もうひとつある説は、あまりに若いから。それでかえって胡散臭く思われるので、表舞台に登場しない。――本当はどっちかな?」
これに対しての返答もなかった。
「とにかく、若いのは確かみたいね? 少し前までは出身大学もわからなかったけれど、最近になって実はトリニティ・カレッジの学生であることがわかってる。近々博士号取得の噂《うわさ》があるわ。春に上梓《じょうし》した宗教学の専門書で、功績を認められたせい」
「スキップってやつか?」
「なんじゃないの? 大学関係者には久々の天才だって評判。専門は哲学――宗教哲学だけど、高名な心理学者であるヒネルズ博士の愛弟子《まなでし》でもある。SPRの重鎮《じゅうちん》、サー・ドリーの秘蔵っ子だそうよ?」
――まったく気にくわない、と広田は憤然《ふんぜん》とする。
そんなことだから、つけあがるのだ。周囲の大人《おとな》がいけない。多少頭が良かろうと、子供をちやほやしては人格を歪《ゆが》めるもとだ。
――実際、こんなに歪んでいるじゃないか。
「これまでの心霊現象研究家とは少し毛色の違ったタイプで、旧来の研究作法に辟易《へきえき》している若手研究者の間では、ちょっとしたカリスマになりつつある」
咲紀は言って、皮肉げにナルを見た。
「そのあなたが、どうしてあたしの言葉をはなから否定するのか、その理由を教えてくれない?」
ナルの返答は簡単明瞭だった。
「僕が専門家だからですね」
「専門家なんだったら――」
ナルは咲紀を振り返る。たいそう見事な上っ面だけの笑いを浮かべた。
「専門家ですので、エセ霊能者にかかわりあっている暇はないんです」
顔を真っ赤にした咲紀はナルをねめつける。広田はその肩を叩《たた》いた。これ以上の争いは不毛というものだろう。咲紀が多少かみついたぐらいで音をあげるような坊やではない。
「中井、ちょっと」
「――なによっ」
「いいから、ちょっと来い」
広田は家の外に咲紀を引っ張っていった。玄関の物陰に連れていく。他に機材の監視のない場所がほとんどない。内緒話《ないしょばなし》には向かないのだ。
「――いったい、なんなわけ?」
咲紀は憤懣《ふんまん》やるかたない、という表情をしている。半分は八つ当たりだろうから、気にしない。
「あいつにあんまり構うな。お前が多少のことをしようと、果てしなく厚いツラの皮の表面を撫《な》でるようなもんだ」
「ほっといてよ」
「それよりも、調べてほしいことがある」
「何よ、それ」
「連中はこの家で昔、何かがあったと主張している。一家五人が殺されたんだと」
咲紀は怒りを忘れたように、ぽかんとした。
「……誰が言ったの、それ」
広田はかいつまんで、事情を話す。咲紀は徐々に興味深そうな表情を見せた。
「――へええ? 広田くん、それを信じるの? 珍しいじゃない」
「信じたわけじゃない。そんなことが本当にあったものかどうか、知りたいんだ。戻って調べてみてくれないか」
「どうして?」
咲紀の表情は楽しげだった。
「――どうして、って」
「だって、もしも過去に一家五人が殺されていたとしてよ? だったら、どうなの? べつにいいじゃない、どうだって」
「いいはずがないだろう。もしも過去に本当に事件があったなら、翠さんたちはとんでもない家に住んでることになるだろう」
咲紀は満面に笑みを浮かべて、広田の顔をのぞきこむ。
「とんでもない家って、どういうこと? 広田くんは幽霊なんて信じないんでしょ? だったら、ここで何が起ころうが何人死のうが、どうでもいいことなんじゃないの?」
我ながら広田はぽかんとしてしまった。
――確かにそうだ。
「宗旨《しゅうし》替えする気にでもなったの?」
にやにやと聞かれて、広田は渋《しぶ》い顔をする。
「そう言うわけじゃない」
「じゃ、どういうわけよ?」
思わず返答に詰まる広田である。内心で、いかん、と首を振った。
――おれは連中に、毒されてきたんじゃないのか。
それで、と咲紀の表情はさらに楽しげだった。
「もしもそんな事件が本当にあったら、広田くんは超能力を信じるわけね?」
「誰がそんなことを言ってる」
広田は憮然《ぶぜん》とした。
「連中が先に事件のことを知っていた可能性だってあるだろう。――とにかく、それが口からでまかせなのか、事実なのかを知りたい。単にそれだけだ」
「もしも、彼らには事件のことを知り得なかったとしたら?」
「ありえない」
「あったとしたら。――仮定の話。お星さまも消えちゃうわね?」
「なんだ、それは」
「もしも、彼が知り得ないことを知ったのなら、それは超能力だってことじゃない。彼は自分がお兄さんの死体を見つけられたのは、サイコメトリの能力の示唆《しさ》があったからだ、と言ってる。広田くんは超能力なんて信じない、だから彼が実の兄を殺して捨てたんじゃないかと目星をつけたわけでしょ? それが全部ご破算になりはしない?」
広田は咲紀を睨《にら》みつける。
「もしも万が一、奴が超能力とやらをもっていても、それを使って死体を捜したのか、使わないでも捜すことができたのか、そんなことはわからない。奴が犯人だという可能性が消えるわけじゃないからな」
咲紀は軽く口笛を吹いた。
「呆《あき》れた頑固者《がんこもの》ね、広田くんって」
「うるさい。――とにかく、調べてみてくれ。言っておくが、妙なものを信じているせいではないからな。ちょっとした確認だ」
はいはい、と咲紀は笑った。
「いいわ。そういうことにしてあげる。――でも、もしもそんな事件がなかったとしても、それを盾《たて》にとって連中を弾劾《だんがい》したりしないでね」
広田は首をかしげた。
「どうして」
「馬鹿《ばか》ね。どこからその情報を仕入れたっていう気? まさか自分は検察庁の人間だ、なんて――」
ああ、と広田は顔をしかめる。
「それなら、バレた」
咲紀は目を見開いた。
「バレた? ――翠には口止めしたわよ。それが、どうして」
「その……つい、かっとなって……」
広田は肩をすぼめる。咲紀が呆《あき》れ果てたように広田を見た。
「あの坊やに腹をたてて、ついうっかり容疑のことをまくしたてたわけね。秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》のバッジをふりかざして」
図星を指されて、さらに小さくなる広田である。
「まだ密偵中なのよ? それって守秘義務を破ったことになるんじゃないの」
「……面目《めんもく》ない」
咲紀は聞こえよがしに大仰《おおぎょう》な溜《ため》め息《いき》をついた。
「ま、済んだことはしかたないけど。ホントに瞬間湯沸かし器なんだから。とりあえず、この件に関しては、倉橋《くらはし》検事には黙《だま》っといてあげる。――そのかわり」
言って咲紀はにんまり笑った。
「もしもその事件が本当に出てきたら、否定的な態度を改めること。いい?」
広田は憮然《ぶぜん》として咲紀を見た。
「……考慮する」
妙に意気|揚々《ようよう》と戻っていった咲紀を見送って、広田は玄関のドアノブに手をかける。ふと右脇を見て、眉《まゆ》をひそめた。
広田の右手には狭い庭がある。庭と隣の境界線は生け垣、その生け垣の上に隣家の窓がある。その窓の中、カーテンが少し開いて、そこからこちらをのぞき見ている人影があったのだ。
またか、と顔をしかめると同時に、カーテンが閉められた。
――尋常《じんじょう》じゃない。
広田は胸のあたりに苦《にが》いものを覚える。
いくら土地が欲しいにせよ、四六時中監視し、頻繁《ひんぱん》に家に入りこんで小細工《こざいく》をしていく神経は理解を超えている。翠は告訴しないと言ったが、本当に連中を放置していていいのだろうか。
忌々《いまいま》しい気分で思いながら、ドアを開けた。玄関へ入り、後ろ手にドアを閉めた。家の中にその音が虚《うつ》ろに響いた。
――変だ、と思った。
なぜこんなに静かなのだろう。中で誰かが活動している、その気配がどこにもない。まるで誰もいなくなってしまったかのようだ。
どきり、とした。
(なにがあった?)
自分が外に出ている間に、なにが起こった。
(みんな、どこへ行ってしまった?)
広田はそう考え、ふと自分の思考に首をかしげた。――これは、どこかで聞いた話ではないだろうか。
真砂子《まさこ》だ、と思った。真砂子がそう言い、麻衣がそう言い、翠がそう言った。
「馬鹿馬鹿《ばかばか》しい」
広田は我ながら舌打ちする。三人の話に引きずられてしまったのだ。
――もちろん、誰もいなくなったりは、しない。現に広田が玄関先にいたのだから、誰も出ていったはずがない。みんな疲れて横になっているのだろう。それでこんなに、死に絶えたように静まっているのに違いない。
(実はおれは、ひどい小心者なのじゃないか?)
自分で自分を笑いながら、広田は靴を脱ぐ。
同時にどこからか、駄目《だめ》、という細い声がした。
(ああ、やっぱりいるんじゃないか)
翠だろうか、礼子だろうか。どちらの声だったか吟味《ぎんみ》しながら廊下に上がった。
――入ってこないで。
どこからか声が聞こえた気がして、広田は足を止める。まさかまた礼子の発作だろうか。ジョンが祈祷《きとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]して好転したのではなかったのか。
ぱたり、と小さな音がした。最初それは、どこから聞こえる何の音なのか、わからなかった。
ぱたたたた、と音がする。水がしたたる音だと思った。どこかで水が落ちている。どこか上のほう。
広田は天井を見上げ、そこには何の異常もないのを確かめてから、左手正面にある階段へ視線を向けた。
ぱたり、と滴《しずく》が階段の踏み板からしたたり落ちた。ぽつぽつと滴の間隔が短くなって、すぐにそれは一筋の糸のような流れになる。ひとつ下の踏み板の縁《ふち》から、またぱたりと滴《しずく》が落ちる。やがて細い流れになる。二階から水が流れてきているのだ。
広田はなぜだか呆然《ぼうぜん》とその光景を見ていた。階段は暗い。泥水《どろみず》のようだ、と思った。踏み板の縁から黒い滴が落ちる。糸になって、やがて幾筋もの糸がより合わさって、幅広い流れになる。
やがて流れの先端は、玄関からの光が届くあたりまで降りてきた。てらりと滴は光を弾《はじ》く。粘度の高い、黒というより濃い茶褐色《ちゃかっしょく》の――。
広田は慄然《りつぜん》とする。それは血糊《ちのり》に見えた。それ以外のものには見えなかった。
(なぜ、こんなに大量の血が)
思わず足を踏み出したとき、声がした。
「出て行きなさい」
ふと声のありかを探して転じた目が、廊下の奥に人影を捕《と》らえた。廊下の奥には薄闇が降りている。黄昏《たそがれ》の色をしたそこに、細く、ひどい猫背《ねこぜ》の人影が見えた。老人なのだ、とはすぐにわかった。何かをこらえるように前屈《まえかが》みになった老人の姿だ。
「いい子だから、家を出なさい」
老人の足元には濃い影がわだかまっている。それが長く手前に延《の》びてこようとしていた。
「じいちゃんと、かけっこをしよう。じいちゃんが追っていくから、お前は先にお行き。学校まで、どっちが速いか競争だ……」
影は廊下をまっすぐに延《の》びる。延びたその先端が光を弾《はじ》いて、やはりそれもまた暗い色をした液体なのだとわかった。階段から流れ落ちてきたものは、いまや廊下に達している。きゅっ、と音がした。どこかで水道の蛇口《じゃぐち》をひねった音だった。水の流れる音がした。同時に、二階から激しい音がして、広田は思わず裸足のまま玄関の三和土《さたき》に飛び降りた。その足元が滑《すべ》る。二階から流れ落ちた血がすでに玄関に到達していて、それに足元をすくわれたのだ。バランスを崩《くず》して、背後のドアにしたたかに背中をぶつけた。
二階で入り乱れる足音、重いものが倒れる音。誰かが叫ぶ声。高い悲鳴、低い呻《うめ》き。
どん、と音がして足元が揺れた。ドアが壁が音をたてて震えた。同時に高い音がして、頭上から何かが降り注いできた。鋭利《えいり》な痛みと、足元の血糊《ちのり》の中に散った破片で、それが頭上の照明の蛍光管だとわかった。
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十二章
「どう――したんです!?」
翠《みどり》の声を聞いて、広田《ひろた》は自失から醒《さ》めた。
居間のドアが開いて、そこから翠が飛び出してきたところだった。
「広田さん?」
さぞかし翠は奇妙に思っていることだろう、と広田は思った。自分でもそう思う。なぜ自分は三和土《さたき》に座りこんでいるのだろう。
記憶をたどって、広田は眩暈《めまい》を覚えた。
――自分はいったい、何を見たのだ。
身動きすると、掌《てのひら》に痛みが走った。見ると三和土に細かなガラスの破片がまかれている。
まあ、と翠は絶句して、広田と天井を見比べる。同じようにして広田もまた上向いた。天井にあった明かりの、電球がなくなっている。
「いったい、どうしたんです?」
三和土《さたき》に降りてきた翠が、広田に手を伸べる。翠の足元で踏みにじられたガラスが耳障《みみざわ》りな音をたてたが、そこにはそれ以外に何もなかった。
――何が起こったのか、訊《き》きたいのは自分のほうだ、と思った。
掃《は》き清められた階段、廊下。血糊《ちのり》などどこにもない。
(また、幻覚か? おれはいったい、どうしてしまったんだ?)
広田は翠の手を断《ことわ》って、身体を起こす。軽く身体を払うと、無数の破片がこぼれ落ちた。
「怪我《けが》はありません?」
「――ええ」
「つくづく、物を壊す奴だな」
そう言われて広田が顔を上げると、駆けつけてきたのだろう、滝川《たきがわ》が呆《あき》れかえったような表情をしていた。
「他人の家を粉砕すんのは、やめなさい、って」
「おれが壊したわけじゃない。電球が勝手に破裂したんだ」
憮然《ぶぜん》と答えながらも、足の震えを止められない。誰も見なかったのだろうか、今の光景を。カメラには映っていなかったのだろうか。あの物音は聞かなかったのだろうか。老人の声は聞こえなかったのか。
玄関先に集まった人々を困惑して見回したが、誰の顔にも不思議《ふしぎ》そうな色が浮かんでいるだけだった。広田は改めて一同を見回し、そこに冷ややかな一対《いっつい》の目を認めて背筋をひやりとさせた。
ナルは何も言わなかった。軽く階段|袖《そで》の壁にもたれるようにして腕を組んでいる。じっと闇の色の視線が広田に注がれたまま、無言で今度も何もなかったと言い張るつもりか、と問うている。
「少し切ってるみたい。手当をしますから」
翠に促《うなが》されて、広田は視線を断ち切った。彼の脇を通るとき、ナルはぽつりと言う。
「摂氏二度」
とっさに顔を上げた広田に、ナルは表情のない声を継ぐ。
「ついさっきまで。玄関の気温です」
広田は視線を逸《そ》らした。それと同時に、二階から軽い足音が聞こえてきた。
「ねえ、何があったの?」
麻衣《まい》が駆け下りてくるところだった。その後ろには真砂子《まさこ》の姿も見える。
「よう、お早う」
とぼけた声をかけたのは滝川だったが、麻衣はそれには構わず、駆け下りてきて全員を見渡す。
「いまの、音、聞いた?」
誰もが麻衣に視線を向けた。
「人の走る音と、悲鳴。聞こえなかった?」
いや、とこれはナルの返答だった。
「確かに聞いたよね?」
麻衣は真砂子を振り返る。真砂子はうなずいた。
「人の足音が入り乱れて走る音と、悲鳴でしたわ。二階の廊下です。てっきり何かあったのだと思って飛び起きたのですけど」
広田は結局、この件についても、完全|黙秘《もくひ》で通した。良心が痛まないでもなかったが、広田にはまず、自分で見たものを信じることができなかったのだ。手がかりを握《にぎ》り潰《つぶ》したいわけではない。自分は何も見ていないのだと、信じたかったのだ。
ほとんど自分で自分を扱いかねて、毛布を被《かぶ》ってふて寝を決めこんだ。起こされたのは午後三時、安原《やすはら》が駆けつけてきたからだった。
「見つかりました」
翠への挨拶《あいさつ》もそこそこにベースに飛びこんできた安原は、開口一番にそう言った。
「あったの?」
「この家なのか?」
麻衣と滝川の声に、安原はうなずく。
「やっぱり町名改正の罠《わな》でしたよ。しかも、まさかこんな大事件があったなんて夢にも思いませんでした」
滝川が揶揄《やゆ》するように笑う。
「さすがの天才・ヤスハラも?」
「弘法《こうぼう》にも筆の誤《あやま》り、というやつですね。ここって二度も町名が変わってるんですから」
「へいへい。――んで?」
安原は鞄《かばん》からコピーを綴《つづ》ったものとノートを引っ張り出す。コピーを膝《ひざ》の上に置いて、ノートを広げた。
「事件が起こったのは昭和四十九年、一九七四年のことです。当時、この家を所有していたのは川南辺《かわなべ》康彦《やすひこ》、四十歳です。川南辺康彦は父親の靖久《やすひさ》と同居中で、妻は俊子《としこ》、三十七歳、長女で十二歳の仁美《ひとみ》、長男で九歳の実《みのる》の一男一女とここに暮らしていたんです」
「五人家族?」
「そうです。隣に住んでいたのは、関口《せきぐち》和夫《かずお》、四十五歳。妻・光江《みつえ》、四十四歳と子供三人のこれも五人家族です。事件が発見されたのは、四十九年十月十二日の夕方。親戚《しんせき》の家に行っていた関口家の子供たちが帰宅して、父親と母親が死んでいるのを見つけたんです。父親のほうは自殺、母親のほうは他殺で、一見して無理心中のように思われました」
滝川は顔をしかめる。
「期待させといて、隣の話か?」
「まあまあ。――ところが、警察官が付近の住民に事情を聞いてまわったところ、隣の川南辺家の応答がない。不審《ふしん》に思って家の中に入ったら、一家の死体が見つかったというわけです」
「五人、全員?」
「全員です。死亡したのは、川南辺一家、関口光江ともに十月十日の深夜から十一日の早朝にかけて。ただし、長女の仁美は十一日の昼前、関口和夫は十一日の夜ごろであろうと推定されています」
「自殺したのは和夫だけで、しかも死んだのが最後なんだな?」
「そうです。捜査した結果、川南辺一家を殺したのは関口和夫と光江の二人であろうということになりました。二人は十日深夜に川南辺家に侵入、一家四人を殺害して、その後に一旦家に帰り、そこで和夫は妻・光江を殺害しています。和夫は川南辺家にとって返し、一家の死体を解体にかかりました」
「ちょい、待ち。一人|足《た》らんぞ」
「そうなんです。実はこの日、小学校六年生の長女、仁美だけは修学旅行中で留守《るす》だったんです。彼女は翌日に自宅に戻り、そこで関口に殺害されました。関口はその後自宅に帰り、夜に自殺しています」
ナルは冷えた声を出す。
「犯行の動機は」
「川南辺家と関口家は、土地境界線の問題でもめていたんです。思いあまった関口は川南辺一家殺害を思い立ち、子供たちに学校を休ませて親戚の家に行かせました。親戚には、隣家と話し合いをするので、とそう言っていたようです」
言って安原はコピーをナルに差し出す。
「前にも言ったように、このあたりは何度も町名改正や番地改正が行われています。一家五人、というのをキーワードに探したら、この事件が見つかったんです。国立国会図書館に行って、古い地図を当たってウラは取ってあります。間違いなくこの家ですよ」
「なるほど――」
「ただ、肝心《かんじん》の犯人が事件発覚と日をおかずに発見されてしまったので、新聞ではほとんど続報がありません。国会図書館で雑誌も当たってみたんですが、これ以上のことは出てこなかったんです」
「そうですか……」
ナルはゆっくりとコピーをめくっていく。それを見ながら広田はひどく落ちつかない気分でいた。
――本当に、事件があった。
呆然《ぼうぜん》とする自分の横に、やはり、と思う自分がいる。その反対側に、どうせ連中はずっと以前にこの事件についての調べが済んでいただけだ、と頑固《がんこ》に主張する自分がいるのだ。
それでも、夕方に咲紀《さき》から電話があったとき、広田はひとつの決意を固めていた。
夕方、どういうわけだか外で食事をしてくる、と言いおいて出ていった広田は、四時間ほどして戻ってきた。
まっすぐにベースに戻ってきた広田を見て、麻衣は内心でやれやれ、と思う。広田がいると気になってしかたがないし、広田も大人《おとな》げなく突っかかってくるものだから、イライラのしどおしになる。おまけにベースは狭《せま》くなる。はっきりいって、あまりありがたくはないのである。
ほぼ全員が同じことを考えたのだろう――ジョンだけは除外できる――、広田がベースに入ってきた瞬間、しらじらとした空気が流れた。
広田は部屋に入ってくるなり、入り口近くに座って襖《ふすま》を閉めた。そうして、ひどく真面目《まじめ》な顔でこう言ったのだった。
「――調書を持ってきた」
行き交《か》ったのは驚愕《きょうがく》の視線、口を開いたのは滝川だった。
「調書、って、お前――」
「中井《なかい》に調べさせた。奴が検察庁から調書を探し出したんだ」
「いいのか、そんなもん持ち出して」
広田は苦笑した。
「よくはないな。なので、見せることはできない。一応全部に目を通してきたので、おれがかいつまんで解説する。それで勘弁《かんべん》してくれ」
滝川は目をぱちくりさせた。
「そりゃ、ご奇特な。――しかし、どうした風の吹き回しだえ? 霊能力なんてのはないんじゃなかったのか?」
広田はこれには答えなかった。
ずっと否定してきた。宗旨《しゅうし》替えする気になったかな、と言ってひらひらと調書を振ってみせた咲紀に、否定はしないが肯定もしないことにした、と答えた。それが普遍的に存在するのか、普遍的に存在しないのかはわからない。これに答えを出すのには、長い時間がかかるだろう。
ただ、ここで何かが起こっていることは理解できる。調書に目を通して、いっそうその感を深めた。少なくとも翠はこの事件の詳細について知りはしないだろう。けれども、翠は知り得るはずのないことを語った。そのことが調書によって明らかになった。
事実の積み重ねがあって霊能者と呼ばれているのだ、とナルは言った。ならば自分もそのように構えてみよう、と思った。一見|不思議《ふしぎ》に思われる現象、それらの個々に当たってみて、それが何なのかを判断していく。その積み重ねの結果、やはり広田は否定論者に――今度こそ本当に筋金《すじがね》入りの否定論者になるのかもしれなかったし、反対に肯定派になるのかもしれない。それでいいのではないかと思った。
最初広田は、咲紀が調べた結果についても、他者に語る気がなかった。ただ、これまで隠匿《いんとく》するのはやめよう、と決意した。歩み寄りといえば、歩み寄りなのかもしれない。
広田は調書を開く。
「――事件が起こったのは四十九年、十月十一日の午前二時頃であろうと思われる。理由はやはり土地のトラブルが原因だ」
全員がしんと広田を注目した。
「川南辺家がこの土地を購入、新居を建てたのは事件の前年、四十八年のことだ。この隣の家――現在の笹倉《ささくら》家だ――を購入したのが関口で、四十九年夏に越してきた。ところが、この家が敷地境界線を越えて建てられているんだ。建物は敷地ぎりぎりで、軒《のき》は完全に川南辺家に越境している。このためにまったく東側の採光が望めなくなって、川南辺家は関口家に苦情を申し立てた」
滝川は頬杖《ほおづえ》をつく。
「……うーん。なるほどな」
「ところが、関口にしても迷惑な話だったんだ。関口は新築の建物を購入しただけで、建築自体にはかかわっていない。そんなことを言われても困る、というわけだ」
「そりゃ、そーだ」
「川南辺家は隣の家の基礎工事中に、隣家が極端に自分の家のほうに寄っていることに気がついた。建設業者に訊《き》くと、境界に目隠しのためのブロック塀を建てる、その基礎工事なのだと言われて、納得《なっとく》してしまった。ところが柱が立ち、屋根がのると、ブロック塀なんてのはとんでもない嘘《うそ》で、敷地ギリギリに壁が建てられていたんだな」
「……ふーむ」
「川南辺家はあわてて業者に工事の中止を求めたが、業者はこれに取り合わなかった。それどころか、居直って、中止させるなら家を買えだの、工事のしなおしの分の弁償をしろだのと言ってきたんだ。ご面相も恐持《こわも》てで、やくざとの関係をにおわせたりする。それで川南辺家は黙《だま》って家が建つのを見ているしかなかった」
「ひでー」
「そこへ関口が越してきた。関口は温厚なサラリーマンで、やや気弱なところがあったという。川南辺家はこの関口のところに苦情を持ちこんだ。川南辺家の言い分は、家の西側を取り壊して工事しなおしてほしい、というものだ。当然関口は突っぱねる。新居を購入したばかりで、とうていそんな余裕はないからだ」
「それって、業者に責任をとらせるわけにいかんの」
「むろん、関口はその方向に話を持っていった。ところがこれに対しても業者は知らないの一点張り、あげくの果てには、いかにも怖《こわ》そうな若い衆を連れてきて、脅《おど》しにかかった。川南辺家は業者を恐れて、関口になんとかしてくれと矢のような催促《さいそく》、関口は両者の間に挟《はさ》まって追いつめられる」
「……ふぅむ」
「この両家の最後の話し合いが、事件前日の十月十日の休日を利用してもたれている。川南辺家は十月末日に期限を切って、これまでに工事に着工しなければ、関口を訴えると主張していた」
「そこまでせんでもよかろうに……」
「川南辺のほうも、業者に脅された鬱憤《うっぷん》が関口に向かった形になったんだろうな。川南辺家が最後|通牒《つうちょう》を突きつけたのは、九月三十日、この時に関口は金の工面《くめん》がつくかどうか当たってみて、十月半ばに回答すると答えている。これに対して、十日にしてほしいと言ったのは川南辺家のほうだった。彼らは子供たちに大人《おとな》が争う姿を見せたくなかった。十日は弟の実は運動会で、姉の仁美のほうは修学旅行で家にいない。姉のほうは私立で、二人は学校が違ったからな」
「それで、あえて十日の祭日を話し合いの場に選んだわけだ」
「そう。関口のほうも、最初は十日は都合が悪いと言っていたのだが、この意見にいたく心を動かされたようで、用事のほうはキャンセルすると答えた」
「血も涙もあんじゃねぇの」
広田は微《かす》かに笑った。苦《にが》い笑みになった。
「――関口は、翌日の十月一日に親戚《しんせき》宅に電話を入れている。十月九日夜から十月十二日まで、子供たちを預かってほしい、と申し入れているんだ。理由は大人たちが言い争う姿を見せたくない、ということだったが、だったら十月十日当日だけでいい。学校を休ませてまで、あえて三日も家から出したのはなぜか。――この時点ですでに、関口は犯行を決意していたと思われる」
「――げ……」
人はその内側に、慈悲の顔と忿怒《ふんぬ》の顔を併《あわ》せ持つことができる。これがその事例だ。
広田はやるせなく溜《た》め息《いき》をついて、調書を繰った。
「問題の十月十日、川南辺家のほうは、それまでもずっと相談役で、話し合いにも同席してきた俊子の兄を呼んでいる。話し合いは川南辺一家が実の運動会に行って昼食を一緒に摂《と》って帰宅したのち、午後二時半から五時近くまでもたれている。話し合いは結局、川南辺家が関口を押し切る形で決着がついた。十月中に工事を開始すること、もしもこれに応じない場合は法廷に決着を持ち越すこと、これに関口は同意して、帰っていったんだ」
だが、この時の関口はすでに決意を固めていた。おそらく、この話し合いで妥協点が見いだせれば、両者はいまもここに住んでいただろう。
「関口と光江は夜中、凶器を携《たずさ》えて川南辺家に裏口から侵入した。三方を家に囲まれた裏庭に面したドアには、一応|鍵《かぎ》がついていたが、それがほとんど使用されないことを、関口たちは知っていたんだ」
それから後に、何が起こったのか、実際のところはわからない。現場検証の結果から捜査官が下した推理だけがそのよすがになる。
「関口たちは、まず裏口を入ってすぐの部屋――つまりはここにやってきて、ここで寝ていた祖父・靖久を金槌《かなづち》で襲った。これは殴打《おうだ》したが殺せず、用意した包丁《ほうちょう》で胸などを突いて死亡させた。靖久はほとんど抵抗をした形跡がなかった。次いで夫婦は二階に上がり、川南辺夫婦の寝室にいって、まず夫の康彦を鉈《なた》で殺害。飛び起きて逃げ出した妻の俊子を上の四畳半――実の部屋の前あたりまで追って、鉈で殴打、包丁で刺した。死因は失血死だから、俊子は倒れただけで即死したわけではなかった。俊子に意識があったかどうかはわからないが、倒れた俊子の目の前で関口たちは実の部屋に入っていった」
麻衣は広田の顔から視線を逸《そ》らして深くうつむいた。
――おねがい、と彼女の声がする。
――その子だけは、見逃《みのが》して。
もちろん、彼女には意識があったのだ。
「四人を殺したのち、関口たちは自宅に戻って、手を洗っている。おそらく次の作業――遺体処理に向かう準備をしたんだろう。が、ここで和夫と光江は口論になった。四人を殺して血に酔《よ》っていた関口はカッとなって、光江を所持した包丁で殺してしまう」
麻衣は目を伏せる。
まだ子供じゃないの、と光江は夫を止めようとした。それが口論の原因になったのかもしれない。
「このとき、関口はすでに完全に常軌《じょうき》を逸《いっ》していたんだと思う。関口は妻の死体を居間に放置して、川南辺家に向かう。まず実の死体を、用意したビニールシートに包んで裏庭に出した。次いで、祖父・靖久の死体を寝室でシーツに包み、これも裏庭に出して実の死体の上に重ねるようにして置いた。それから二階に上がったわけだが、川南辺夫婦の死体が問題だった。二人は関口ひとりで運搬するには重すぎたんだ」
実は小柄な少年で、靖久もまた枯れ枝のような老人だった。二人を運搬するのはできない相談ではなかったが、残る二人は裏庭に運び出し、脱衣所の窓に抱《かか》え上げて車庫の車に運ぶにはあまりに重かった。車のほうを川南辺家の表につければいいのだとは、思いつかなかったらしい。
「シートに包みかけてそれを悟《さと》り、関口は死体の解体を思いついた。二人の死体を風呂場へ運び、まず家中を掃除《そうじ》しようとした。とりあえず板張りで掃除のしやすい廊下と階段を掃除したが、暗いし、明かりをつけるわけにはいかないし、で、途中で投げ出したんだと思う。それでとりあえず途中で放棄《ほうき》して浴室に向かった」
一階の廊下はかなり綺麗《きれい》に拭《ふ》き清められていたが、階段、二階の廊下の順で雑になっていた。
「関口はまず、川南辺康彦の解体にかかった。最初に頭部を苦労して切断してこれを浴槽に放り込み、次に四肢《しし》を切断にかかったが、右足を切り落とし、左の足にかかったところで、仁美が帰ってきてしまったんだ」
麻衣は目を閉じてうずくまった。もう――聞きたくない。
広田はそんな麻衣を見やってから、声を落とす。
「仁美は夜行列車で帰り着いて、朝十時前に帰宅した。とりあえず彼女は洗面所に向かう。あるいは、迎えがないのを怪訝《けげん》に思って一階を捜し回り、洗面所に入って手を洗おうと思い立ったのかもしれない。――いずれにしても、彼女は洗面台に屈《かが》みこんだところを、背後から関口に殴打された。凶器は鉈《なた》だ。これは父親の解体の際に刃が折れて、ほとんどもうぼろぼろになっていた」
話だけの彼らは幸せだ。広田は死体検案書から死体写真にまで目を通した。少女の顔の半分は完全に陥没して、原形をとどめていなかった。
「――一家五人が死んだ家で、関口が何を考えていたのかはわからない。彼は掃除《そうじ》をしようとしたが、そのやり方は尋常《じんじょう》じゃなかった。襖《ふすま》を血で汚れた雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》くようなありさまで、しかもあちこちをやっては途中でやめ、を繰り返している。そのうちに疲れはてたのだろう、彼は全てを中途半端に投げ出したまま自宅に戻った。風呂を使い、服を着替えて洗濯し、それをゴミ箱に突っこんでから、鴨居《かもい》にベルトをかけて首を吊《つ》った。十月十一日、夜のことだ」
関口は気弱な男だった、と関係者の誰もが証言している。その気弱な男は悪夢のような一夜を過ごして自ら死を選んだ。
関口はおそらく、一家を殺してどこかに埋《う》め、蒸発または夜逃げを演出しようとしたのだろうと思われる。関口の車には新品のシャベルが二丁のせられていたし、川南辺家の貴重品は、まとめて紙袋に突っこんで、裏庭の死体の上に無造作《むぞうさ》に放り出してあった。
関口は自分の計画どおりにことが進まなくて、観念したのかもしれない。あるいは、怒りをぶつけるべき相手を殺し尽くしてしまって、我に返ったのかもしれなかったし、血の酩酊《めいてい》から醒《さ》めて、もとの気弱な男に戻ってしまったのかもしれない。
彼が何を考えたのかはいっさいわからない。関口は遺書を残さなかったのだ。
なるほど、と口を開いたのは例によって滝川だった。
「その五人の霊がさまよってるわけな。――背後事情はわかった。問題は、その五人の霊をどうするか、ってことだ」
「除霊するんじゃないの?」
そう言ったのは、麻衣だ。
「べつに悪いことをしてるわけじゃないけど、やっぱ翠さんとかおかあさんの気持ちを考えるとさー。……それに、このままさまよわせておくのは、可哀想な気がする」
「まあなぁ」
「楽にしてあげるべきなんじゃないかなぁ」
真砂子が溜《た》め息《いき》をついた。
「問題は、五人が浄化する気があるのか、ってことなのではありませんかしら。その最後に死んだ女の子は、きっと自分が死んだことをわからないでいるだけでしょうし、だったら上へあげてあげるのも不可能なことではありませんわ。――でも、四人の家族のほうはどうですかしら」
麻衣は首をかたむける。
「うーん……そうだねぇ。四人にしたら、化けて出ても、女の子を救いたいって気持ちだろうし、あなたたちは死んでるんだから、って説得しても、浄化はしないかもね」
「今日の午後、何度か語りかけてみようとしましたけど、少しも言葉が通じた感じはありませんでしたもの。ご両親の立場で考えればあたりまえでしょうけど。……あたくしだって、四人の状況に置かれたら、女の子を守ることで必死で、横合いから話しかける相手になんか、返事をする気もおきませんもの」
「だねぇ……」
麻衣と真砂子の会話を聞くともなく聞きながら、ナルは自分の思考に沈んでいる。
殺された五人。警告。――それだけなのだろうか、本当に。
なぜ、すべての窓に鏡が入っていなければならない?
――誰かがのぞいているから。
滝川の意見は極《きわ》めて妥当《だとう》なように思える。
鏡でなくちゃんとガラスの入っている窓は二か所だけ、庭とベランダに面しているので、ともにきちんと雨戸がある。これまた完全に視野を遮《さえぎ》ることができるということではないか。かえせば――完全に視野を遮ることができない窓には、鏡を入れて目隠《めかく》しにしている。
――姿見《すがたみ》の向こうに、コソリがいる。
――コソリは家の中をのぞきこんだりする。
――のぞく。
これがキーワードではないのか。――しかし、何を意味するのかがわからない。
「どったの、ナルちゃんや」
突然、滝川に声をかけられて、ナルは我に返る。
「なんぞ、また難しいことを考えとるのか?」
「単純なことだ」
「ひょっとして、窓が鏡になってる理由?」
ナルはまじまじと滝川を見た。滝川は天井を見上げて考えこむようにした。
「それだけが、釈然とせずに残っとるもんな。……はて、なんのまじないなんだろうな」
ナルは軽く息をつく。
「何かがのぞきこむから、というぼーさんの解釈は悪くないと思うんだが……」
「ふーむ?」
どきりとしたのは広田である。
のぞきこんでいる目を見た。風呂場での話だった。――もしも、あれに意味があるのだとしたら、ここで言うべきではないのか。
だが、と思う自分がいる。気のせいだったのだと思う。疲労が見せた幻《まぼろし》なのだ。
――だが、たとえ幻なのだとしても、とりあえず言って、この連中に事実の判定をさせるべきではないのか。
わずかの間、葛藤《かっとう》があった。幻だ、と咲紀の場合のようにニベもなく却下される可能性と、それは意義のある霊視だと持ち上げられてしまう可能性。どちらもが、同じように広田にとっては不本意である。
「コソリがのぞくんじゃないの?」
言ったのは麻衣だ。
「実くんに憑依《ひょうい》されちゃった人はさ、窓の外にコソリを見ちゃう。だから、ってのはダメかな」
むしろ、とジョンが声をあげた。
「そもそもこの場所に憑《つ》いてる化け物がコソリ、ゆうのはあきませんか? それが人を操《あやつ》って――」
「それじゃ、犯人が別の家の人間だった理由がわかりませんでしょ」
真砂子の抗議。あっというまにメンバーが様々な自説を披露《ひろう》しあって騒然となる。
広田は口を開いた。葛藤《かっとう》が蓋《ふた》をして、舌が重い。
「……おれは、のぞいてる奴を見たと、思う……」
全員が広田を振り返って、思わず身がすくむ。だがもう、口に出した以上、言わないわけにはいかない。
「風呂場の換気窓だ。そこから外をのぞいていたら、中をのぞきこんでいる奴と目が合ったんだ――」
メンバーの出す様々な自説が暴走して、見当はずれの仮説がまかり通り、それによって翠たちが不利益をこうむることだけは、避けなくてはならない。手がかりは必要だ。それを隠匿《いんとく》してはならない。――どんなに、それを口にすることが、矜持《きょうじ》を傷つけても。
「単なる幻《まぼろし》かもしれん。ただ、そういうものを見たと、報告だけしておく」
重い口でやっとそれだけを言って、広田は口を閉じた。忌々《いまいま》しくもメンバーを正視する気になれず、目を伏せる。揶揄《やゆ》の声が飛んでくるのを待った。
「――それだ。……わかった」
ナルの声だった。広田はナルの人形じみた顔を見返す。
「気になっていたのは、これだったんだ……」
ナルのつぶやきに、誰もが首をかしげた。
「――は? どーゆうことか聞いてもいいでしょうか、センセイ」
滝川が問うて、ナルは彼を見返した。
「誰かがのぞく、という。広田さんが目撃したのが、それだ。少なくとも人間じゃない。浴室の外には人がいられるような幅はないし、窓の位置も高い。あれをのぞきこむのには足場が絶対に必要だ」
「すると当然、人間じゃないもんがのぞいているわけな。――そこまではわかってら。それがどうしたって?」
「それは執拗《しつよう》に、家の中をのぞきこみ続ける。それを見ることが怖《こわ》くて、この家の持ち主は窓に鏡を入れてしまった。前の持ち主がこの家に住んだのはわずかに二か月。その二か月で鏡で封をしてしまいたくなるほど、それは頻繁《ひんぱん》に起こった。――あるいは、家を借りていた人々からひじょうに頻繁に連続的に訴えがあった」
「そういうことになるかな」
「――では、それは誰なんだ?」
「誰って」
「この家にこだわってる霊がいるんだ、ここで殺された五人の他にも。四人の家族はここから娘に警告を発している。娘はここに帰ってくる。一家は家の中に捕《と》らわれている。――では、外からのぞいているのは誰なんだ」
「ええと……」
「持ち主は、借り主からの出る、という訴えを聞きながら、この家に住もうとした。一家五人の霊はあまり重要ではなかったんだ。むしろ窓の外からのぞく霊のほうが問題だった。だから、窓を鏡で塞《ふさ》いで、それでよしとして家に住もうとした。――違うか?」
「そーいうことになるわな。しかし――」
「笹倉はなんであんな手のこんだ悪戯《いたずら》をしてまで、この家をほしがったんだ?」
「そりゃ、家を建て直したいからだしょ?」
「だったら、この家じゃなくてもいいじゃないか」
「それは――」
確かに、と広田は思う。最初に嫌《いや》がらせがあったから、その動機は土地ほしさだと簡単に納得《なっとく》してしまっていた。――だが、逆に考えてみると、おかしくはないか。
「この家じゃなくてもいいんだ。反対側の隣でも、裏でも。もっと言うなら、悪質な嫌がらせをするぐらいなら、いまの家を売却して他の土地を買ったほうが話が早い。たとえそれはできない事情があるのだとしても、だったらこの家だけでなくていい。嫌がらせを受けるのはこの家だけであってはならないんだ」
滝川はうなずく。
「その――とおりだ」
「どうして、周囲の家の中で笹倉の家と、この家だけが、いつまでも転売されずに残っている? それは理由があるからじゃないのか」
そういうことか、と広田は思った。加津美《かづみ》の態度を尋常《じんじょう》ではない、と思った。思い返してみると、あの尋常でなさには、あらぬことを口走る礼子の様子に通じるものがありはしなかったか。
ナルは言う。
「悪夢の中に閉じこめられているのはこの家だけじゃない。――笹倉家もまた閉ざされてるんだ。あの家で死んだ関口の怨念《おんねん》によって」
「しかし、どーする」
口火を切ったのは滝川である。
「どうやらお宅には自縛霊《じばくれい》がいるようなんで、除霊させてください、なんつって、うなずいてもらえると思うか?」
麻衣は溜《た》め息《いき》をつく。
「無理だよねぇ」
「だからといって、見過ごすわけにはいきませんですね」
そう言ったのはジョンだった。
「危険ゆうたら、この家の五人の誰に憑依《ひょうい》されるより、関口に憑依された状態のほうが危険でおます。殺さなければならない、ゆう強迫観念にとらわれてるわけですし」
「やっぱさー、有無を言わせずに押しこんで強制的に除霊するしかねぇんじゃねぇの?」
広田は滝川をねめつけた。
「許さんぞ、そんなことをしたら。ちゃんとお願いに行くんだな」
「じゃ、お前が行け」
「霊能者でもない俺が行ってどうする」
ナルはリンを振り返った。
「リン。このあたりに神社はあるか?」
「あったと思いますが」
リンはラックの脇《わき》にまとめた紙類の中から地図を探し出す。
「――ありますね、比較的近所にふたつ」
「寺院は」
「ひとつです。――松崎《まつざき》さんですか?」
「どこかに、使える樹《き》があるだろうか」
「それは松崎さん自身でなければ、わからないのでは」
広田はきょとんと麻衣を見た。麻衣は笑う。
「協力者」
「坊主《ぼうず》に神父《しんぷ》、……次は神主《かんぬし》か?」
「惜《お》しいっ。巫女《みこ》さんなの」
広田はなんとなく溜《た》め息《いき》をついた。
「ついでに説明しとくけど、綾子《あやこ》は――その巫女さんだけど――、いわゆる正式な神社の巫女さんじゃないからね。一応ちゃんと勉強もしたけど、半分以上|我流《がりゅう》なんだって」
「それは、巫女さんではなくて、単なる霊能者なんじゃないのか?」
「そうとも言う。でも、神さまが降りてくるんだから、やっぱ巫女なんだと思うよ。歴史の教科書で習う、シャーマンってやつ?」
「神さまぁ?」
「うん。近くにね、ちゃんと精霊の宿った樹があると、その精霊を降ろして、力を借りることができるんだ。――樹がないと、単なる役立たずだけどね」
「はあ……」
麻衣は広田に指を突きつける。
「まえもって解説はしたから、本人に向かっていろいろ訊《き》いて刺激しないように」
「……刺激って」
「あいつ、やかましいから。ぎゃんぎゃん言いだすと、すっごい騒音なんだから。みーんな迷惑するんだから、おとなしくしてること。――いい?」
わかったようなわからないような気分で、広田はうなずいた。
「――麻衣」
ナルに声をかけられて、麻衣はぴょこんと立ち上がる。
「了解。綾子を呼ぶのね?」
「んじゃ、除霊はするんだな」
滝川の声にナルはうなずく。
「とりあえず、笹倉さんの説得は広田さんに任せるとして」
「おい、こら」
広田の抗議には、文句のつけようのない慇懃無礼《いんぎんぶれい》な笑顔がかえってきた。
「僕は人使いが荒いんです。申し訳ありませんね」
広田は肩を落とす。
「わかった。……とりあえず、やってみる」
ナルは形だけ丁重に頭を下げる。
「あとは全員でできるかぎり、除霊の努力をする。まず関口、もしくは光江の笹倉家のほうが優先事項だ。――原さんと麻衣がこの家の霊の浄化を引き続き試みる」
「ええ。でも……」
「関口を除霊できれば、それを訴えて浄化を促《うなが》すことができるかもしれない。もう脅威《きょうい》はないのだ、と言って」
「そうですわね。――?」
真砂子はふいに顔を天井に向けた。
「どうしました」
「また、いますわ。二階です」
これにリンの声がかぶる。
「気温が低下し始めました。二階奥の七畳半、四畳半、浴室です。特に四畳半が急速に下がっています」
「活性化してるな。――とにかく、今夜をしのいで、明日、広田さんの説得を待つ」
すでに他家を訪問できる時間ではない。できるだけ神経を逆なでしないほうが正解だろう。
「もし、説得に成功しなかったら?」
広田の問いに、ナルは不穏《ふおん》な笑みを見せた。
「もちろん、説得してくださると信じてますよ、広田さん」
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十三章
翌日の夕方、広田《ひろた》がベースに戻ると、女の高笑いが響いてきた。ぎょっとして足を止め、おそるおそるのぞきこむと、部屋の中央に若い女が立っている。その姿を見て、広田は廻《まわ》れ右しそうになった。
――苦手《にがて》なタイプだ。
広田がもっとも恐れるタイプの女である。がっちりメイクして、最新流行の服装、なかなかの美人で、それを自分でもわかっていて武器にする、都会的な女。
「あ、広田さん、どうだった」
麻衣《まい》に見とがめられて、広田はベースの入り口に立ち尽くす。
「それが……どうも……」
広田がボソボソと言うと、麻衣はえええ、と抗議の声をあげる。
「ダメだったの?」
広田はうなずいた。
チャイムを押してもなかなか加津美《かづみ》は出てこなかった。窓が開いていたから、家にいることは確実である。それで何度もチャイムを繰り返し、やっとドアが開いたと思ったら、鼻先で閉じられてしまった。
それから小一時間、玄関の前で押し問答を繰り返し、やっとのことで加津美に会えて、それとなく話を持ち出したら、けんもほろろに断られた。さらに二時間、麻衣やジョンの手を借りて作った原稿をもとに説得を繰り返したのだが、最後には脅迫する気かと言って泣かれる始末。泣くわ喚《わめ》くわ、悲鳴をあげるわで、このままでは近所を通りかかった通行人に警察へ連絡されそうで、ほうほうの体《てい》で戻ってきたのだ。結局言いたいことの半分も言わせてもらえなかった。
「無能」
冷酷《れいこく》無比《むひ》の一言は当然ナルのものである。
「すまん……」
「その人が広田さん?」
これは部屋の中に立ってウエストに手を当てている女の声だった。彼女は広田を見やって華《はな》やかに笑う。
「お噂《うわさ》は、かねがね。……よろしくね」
含みたっぷりに言われれば、どんな噂を聞いたのか、知れようというものである。広田は憮然《ぶぜん》とうなずいた。
麻衣は溜《た》め息《いき》をつく。
「広田さんは玉砕《ぎょくさい》、――んで? 綾子《あやこ》もダメなのね」
綾子は手を振る。
「だめだめ、近所をひと通り見たけど、生きてる樹なんかありゃしないもの。――というわけで、あたしはアテにしないでよね」
「んじゃ、帰れば?」
「相変わらず礼儀がわかってないみたいねぇ?」
「では、お引きとりくださいませ」
「麻衣っ」
何に対してか、うんざりしたように滝川《たきがわ》が溜め息を落とした。
「んじゃ、やっぱ隣に押しこむしかねぇんじゃねえの?」
広田は滝川をねめつける。
「それはダメだと言ってるだろうが」
「ちぇー」
拗《す》ねた滝川のかわりに、麻衣が広田を睨《にら》み返してきた。
「だって、広田さん、説得できなかったんでしょ? だったら、他に方法がないじゃない」
「ダメだ」
「でも、このままほっとくわけにはいかないでしょ? 人助けなんだから、大目にみるということで……」
「ダメだと言ってる」
「石頭っ」
「なんと言われようと、そういう不法な行為を許すわけにはいかない」
綾子がぽつり、とうそぶいた。
「……法の番人を気取っちゃって。どうせ司法試験に挫折《ざせつ》して事務官になったクチでしょうに」
これは広田に聞こえたようだった。広田は剣呑《けんのん》な目つきをする。
「やかましい。ダメと言ったら、ダメだ。勝手にそんなことをしてみろ、全員送検してやるからな」
「単純なのが権力を持つとこれだから……」
「なんだと?」
「あら? 聞こえちゃった? やあね、ひとりごとよ」
怒鳴《どな》りあう広田と綾子を見やって、麻衣は息をつく。隣のジョンを見やった。
「綾子ってば……挑発してどーすんだろうね」
「さいですね」
降参、と両手を上げたのは滝川だった。滝川は顔をしかめてナルを見る。
「どーしましょう、先生」
ナルは溜《た》め息《いき》をつく。
「建物の外から除霊できるか、やってみるんだな」
「できんの、そんなこと」
「遠距離でも可能なはずだが? 高野山《こうやさん》の祈祷《きとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]はいちいち毎回出張してやるのか?」
滝川は頭を掻《か》く。
「そりゃ、そーだけど。しかし、合格祈願とか縁《えん》むすびだとかと一緒にされても困るんだがなー」
そうだ、と麻衣はジーンズの裾《すそ》を引っ張った。
「ねえ、ああいう祈祷[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]ってきくの?」
滝川は澄《す》まして片目をつぶる。
「それこそ、プラシーボってやつさ」
「は?」
「祈願したんだから、上手《うま》くいくかもしれない。そう思うから、受験生は安心して勉強し、ぶっさいくなおねーちゃんはニコニコして五割増し美人になる、と」
「つまり、きかないのね」
「祈祷《きとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]で願い事がかなうんなら、高野山の坊主《ぼうず》は今頃全員、国家公務員で金持ちで恋人を半ダースはもっとるぞ」
「そりゃ、そーだ」
ちらり、と綾子は冷たい視線を向ける。
「そこののんき者の父娘《おやこ》。――あんたたち真面目《まじめ》に考える気があるの?」
はあい、と二人は声をそろえる。
それに一瞥《いちべつ》をくれてから、綾子はナルを見る。
「言っとくけど、あたし離れた場所からの除霊なんてできないわよ」
「俺もやったことないんですけど、先生」
滝川は手を上げてから、リンに目をやった。
「リンさんは?」
これに対する返答は短く、しかもそっけなかった。
「ありますよ」
「あんの?」
「我々はよくそういうことをしますから。たぶん祈祷[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]というのは、どんなものでも作法が違うだけで基本的なシステムは同じだと思います。ですから、滝川さんたちにも不可能ではないと思いますが」
滝川は上目遣《うわめづか》いにリンを見る。
「それって……タイヘン?」
「時間がかかるのは確かですね」
「ちなみに、どのくらい?」
「最低で一晩、でしょうか」
「あー……」
滝川は言ってから、広田を恨《うら》めしげに見る。
「俺たちにそーんな大変なことをやれってか?」
「お前たちの、仕事じゃないのか?」
「俺、おまえキライ」
「おれもだ、生臭坊主《なまぐさぼうず》」
「失礼しちゃうわねっ。こんなにキヨラカに生きてるのにっ」
がし、と綾子は滝川の頭をはたく。
「いーかげんにしなさいっ! 何度脱線させれば気がすむのっ!」
「へーい」
麻衣は仁王《におう》立つ綾子を見上げた。
「綾子ってば、めずらしく前向き。いつもは逃げたがるのに」
「だって、外からなら危険はないじゃない」
きっぱり言われて、思わず肩が落ちてしまう麻衣である。
「おっけー。一晩外から頑張ってみればいいのね? ――でもまさか、前の道路からやれ、なんて言わないでしょうね?」
麻衣は頭を抱えた。道路に霊能者が四人並んで除霊にいそしむ図、なんてのは、はっきり言って世間の人にお見せできるものではない。
「方角のいいホテルか神社を探すことは不可能ではないと思いますが」
「できればホテルにしてくれない?」
「努力してみます」
霊能者連中は一晩出かけるために、ばたばたと準備をしている。
ベースに残ったナルは、これまでのデータに目を通している。
「急激に増えたな……」
昨夜異常のあったのは八か所。人影を見たという礼子《れいこ》の訴え、妙な物音を聞いた、という翠《みどり》の訴え。ラップ音と思われる異音が一晩を通して二十数回、ポルターガイストと思われる奇妙な震動が三。
「どう思う?」
ナルは背後に声をかける。まだコンピュータに向かっていたリンは、さあ、と返答を返した。
「萎縮《いしゅく》していた霊が、緊張を解《と》いてきたのか、――それともこれがジーンの言ったことなのか、そのあたりの判断に困りますね」
「悪いこと、というのは、なんだろう」
これにもリンは、さあ、と答えた。
「私にはなんとも。――ただ、ここにいる霊がさほど強いものだとは思えないのですが」
「確かにな……」
まだこれからエスカレートするのか。にしても、本当に強力な霊というものは、萎縮するより反発することのほうが多い。過去の経験から考えると、さほどの大物だとは思えない。
「やはり誰か残しておいたほうがいいのでは」
リンは言う。除霊にはリン、滝川、ジョン、綾子の四人が向かう。
「できるだけ力を分散させたくない。一気に決着をつけたいからな」
言いながら、実をいえばナル自身|釈然《しゃくぜん》としていない。こちらの霊は脅威《きょうい》だとは思えない。これにはほぼ確信がある。だが、何事にも絶対ということはありえない。こちらには翠と礼子がいるのだ。依頼主の利益は守らなくてはならない。万が一なにかが起こって、二人にもしものことがあれば、うかつでした、では済まないのだ。
「それは、わかりますが……」
「隣に関口《せきぐち》に憑依《ひょうい》された人間がいることのほうが脅威だ。――やはりそちらが最優先だろう」
ナルはデータを繰《く》る。どこかに見落としはないか。本当に除霊能力者のほとんどを出してしまってもいいのか。
「こちらの霊は多少暴れても、害意はないわけだし。原《はら》さんがいて、麻衣がいる。多少エスカレートしたとしても、なんとか一晩もちこたえるぐらいのことはできるだろう」
言いながら、我ながら自分に言い聞かせているという気がしてならなかった。
リンは軽く息を吐く。
「滅多《めった》なことはないと思いますが。――とにかく、できるだけ早く戻れるよう努力します」
「そうしてくれ」
「――念のために言っておきますが、おとうさんとの約束を忘れないでくださいね」
「PKを使わないこと、だろう? ――わかってる」
「もしも使ったら、有無《うむ》を言わせず強制送還しますよ、いいですね?」
ナルは軽く肩をすくめた。
「――ところで、リン?」
「はい」
「距離があっても除霊できるのか? そういう話ははじめて聞いたが」
「できるはずがありませんね」
あっさり言われてナルは苦笑した。
「……意外に狸《たぬき》だな」
「厭魅《えんみ》ならともかく、離れて除霊は不可能でしょう」
「……で?」
「一旦、我々は外に出て、夜中に戻ってきます。家の外から封じて、駄目《だめ》なようなら、なんとか押しこむなり笹倉《ささくら》一家を外に誘い出す手を考えます」
ナルは軽く肩をすくめる。
「広田さんは家に引き留《と》めておく。できるだけ早く眠らせるよ」
「そのようにお願いします」
どうすればいいんだ、と彼は独白した。
今日、同僚の教師が彼を見て不自然に視線を逸《そ》らした。
――ひょっとしたら、ばれてしまったのだろうか。
あの教師は家がここに近かったはずだ。ひょっとしたら礼子から何かを聞いたのかもしれない。あるいは、礼子が誰かに喋《しゃべ》ったことが、すでにそこまで広まっているのかもしれない。
――ばれたら終わりだ。
上には睨《にら》まれ、同輩にも後輩にも蔑《さげす》まれる。これから彼は一生をうだつの上がらないまま、嘲笑《ちょうしょう》と蔑視《べっし》に耐えて生きていかなければならないのだ。
――それどころか。
ヒヤリとした感覚が背筋を這《は》った。ひょっとしたら処分されてしまうかもしれない。降給、ひょっとして休職。最悪の場合は免職。
――告訴しますか。
隣の男はそう言ったという。訴えられれば、処分は間違いない。妻はどうするのだろう。息子の将来は。
だいいち、どうやって生活していくのだ。学校関係にはすぐに噂《うわさ》がひろまって、二度と教鞭《きょうべん》は執《と》れまい。この年では再就職もままならない。妻は結婚以来働いたことなどない女だ。彼と共に生活を支えることなどできまい。そのくせ、口汚く彼を罵《ののし》るに決まっているのだ。現在もそうしているように。
彼は顔を覆《おお》った。思考は勢いを増して暗いほうへと傾いていく。妻が青ざめて隣家から帰ってきた日以来、誰かに出会うごとに顔色をうかがって身の細る思いをし続けた、その疲労が傾斜の速度に勢いをつけた。
近所の人間に出会うことを恐れて、買い物にさえ出たがらなくなった妻、部屋にこもったまま、たまに出てくれば口汚く父親を母親を罵倒《ばとう》する息子。彼にしても同じように家の中に閉じこもっていたかったのだが、彼には仕事がある。否応《いやおう》なく人前に出なければならなかった苦痛、学校が体育祭の準備で活気にあふれている時期だっただけに、不安は彼の気分をとことんまで沈ませた。
自分はどうなるのだ。これまで必死に生きてきたのに。
――終わってしまう。
すべてが、なにもかもが崩壊してしまう。
「……くそ……」
彼は呻《うめ》いた。
――訴えないでくれ、と頼みに行こうか。
何度もそれは彼の脳裏《のうり》に浮かび上がってきたが、浮かび上がってくるたびに彼の矜持《きょうじ》を傷つけた。
――頼んで、きいてもらえる保証があるのか。これ幸いと無理難題をふっかけられはしないか。罵倒《ばとう》され嘲笑《ちょうしょう》されはしないか。
(……早く決断しなければ)
彼はふいにそう思った。
そうとも、早く決断しなければ。こんな緊張には耐えられない。家庭が崩壊するまえに、取り返しがつかなくなるまえに決断しなくては。
急に矢も盾《たて》もたまらない気がして、彼は髪をかきむしった。
(訴えるなんて……)
(ひどい……あんまりだ)
――そうだ、あんまりだ。どうしてそんな、人を脅《おど》すようなまねをあの女たちはするのだ。
(時間がない……)
(早く決断しなければ……)
(ほんのちょっとしたことじゃないか。なにも訴えなくてもいいじゃないか)
彼は呻く。
(……やめさせなければ)
(あの連中を止めなくては)
――反対に脅《おど》してやろうか。告訴などしたらただではおかない、とそう言って。
そう思ってから、彼は首を振る。そんなことをしては逆効果だ。かえってあの女たちを攻撃的にさせてしまう。
――では、どうすればいい。
(あんな連中、隣にいなければよかったのだ)
――そうだ、あいつらが越してきたのが悪い。
(……あんな連中、いなければいいのに)
(いなければいいのだ、いなくなれば。そうしたら告訴もできない)
彼は顔を上げた。ぼんやりと目の前の壁を見つめた。
――そうだ、いなくなればいい。いなくなってしまえば。
(……この世からいなくなってしまえば)
(あいつらさえいなければ安泰《あんたい》だ)
(この世に存在しないようにしてしまえれば)
こくり、と彼は息を呑《の》んだ。いつのまにか額《ひたい》を汗が流れていた。手足が冷えて震えたが、脳裏《のうり》に宿った言葉はそこで莫大《ばくだい》な熱量を放射していた。
「……殺してしまえば……」
そうすれば、彼はなにひとつ失わずにすむ。
人の目に怯《おび》えることも、あの母娘《おやこ》に嘲笑《ちょうしょう》されることも、職を失うことも、この不安も。
一切|合切《がっさい》から解放されるのだ。
――捕《つか》まったらどうする。
彼の中で弱い声がした。
(捕まらなければいいのだ。事件が発覚しなければ)
(死体を始末して、誰の目にも触れないようにしてしまえば……)
(大丈夫だ、うまくやれば)
彼は大きく震えた。暗がりの中に墜落していたから、ふいに射《さ》した一条の光から目を逸《そ》らすことができなかった。
(きっと他にも、うまくやった奴がいたはずだ)
(死体が見つかっていないから、そんな事件のあったことを誰も知らないだけだ)
彼は壁を見つめたまま笑った。ふいに身体の奥から笑いがこみ上げてきて、どうしても止められなかった。
(あの事件だって、あの事件だって……犯人が捕まったという話は聞かない)
逃げる奴もいるのだ。うまくやる奴も。
だとしたら、彼がうまくやれないわけがあるだろうか?
背後でみしり、と音がした。振り返ると彼の妻と息子が立っていた。
彼は何も言わなかった。ただ、じっと二人の目を見ただけだ。
――同じことを考えている。
不思議《ふしぎ》にそれが顔色からわかった。
彼は笑った。――これが家族の絆《きずな》というものだ。彼にはわかる。妻にも息子にもわかっているにちがいない。
――いい家族だ。
これを守らなくてはならない。
「……しかたない」
彼は言った。
妻も息子もうなずいた。彼はその一言で通じたことに満足した。
「急がないといけない。手遅れになる前でないと」
そうね、と妻は言う。息子もまたうなずいた。
「月末を過ぎたら[#「月末を過ぎたら」に傍点]、取り返しがつかない[#「取り返しがつかない」に傍点]」
やはり、二人はうなずいた。
(訴えますよ[#「訴えますよ」に傍点])
彼の脳裏《のうり》に声がよみがえる。
(今月末までに工事を始めなかったら[#「今月末までに工事を始めなかったら」に傍点]、訴えますからね[#「訴えますからね」に傍点])
彼は笑った。
――あんな偉《えら》そうな口をきけなくしてやる。
そうして、二度と彼と彼の家族の人生を脅《おびや》かすようなまねができないようにしてやるのだ。
広田は夜の庭を見渡す。空気はしんと冷えている。星がいくつか、見えていた。こんなに空気の悪い都会でも、秋になれば少しは空気が澄《す》むものらしい。
大きく息を吸ってから、広田は雨戸を閉める。きちんと戸締まりをしてから、居間で談笑していた翠と礼子におやすみ、と声をかけて、ベースに向かう。
ベースではナルが一人で機材を見守っていた。
「女の子たちは?」
広田が声をかけると、ナルは二階を示す。
「浄霊の努力を継続中」
モニタを見ると、二人は二階の四畳半にいる。少しの間見守っていると、二人は目を閉じてなにやら黙祷《もくとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]でもしているようにうつむいていたり、諦《あきら》めたように顔を上げて話しこんだりしている。どうやら、あまり努力は実っていないようだった。
「ジョレイ? ジョウレイ?」
「浄霊、のほうですね」
「違うものなのか?」
「除霊は霊を力任せに除くこと、浄霊は霊を浄化すること、というふうに分類するようだが、実際のところはどうだろうな」
「わからないのか?」
ナルは肩をすくめた。
「日本語の心霊用語は曖昧《あいまい》な言葉が多くて、難しい」
そんなものなのか、と広田はナルの横顔を見る。
「――訊《き》いてもいいか?」
ナルは視線を広田に向けて、無言で促《うなが》す。
「幽霊ってのは、いったい何なんだ?」
ナルは軽く肩をすくめる。
「さあ、――それがわかったらこんなところにいませんよ。帰って論文を書いてます」
「まったくわからないわけでは、ないんだろう?」
「まったくのほうが近いでしょうね」
「なぜ? それだけ現象が少ないってことなのか?」
「霊は電気計測器と折り合いが悪いから、かな。連中が動き始めると、すぐに機械が止まるので、有効なデータを記録できない」
「だが、こんなことをしていたら、いろいろと経験はあるだろう?」
広田が問うと、ナルは広田を見返す。広田はあわてて言い添《そ》えた。
「いや、べつに肯定論者になったわけじゃないが」
「人の経験談なんてのは、屑《くず》ですよ、広田さん。証拠として残るデータが取れなければ意味がない」
「そんなものなのか?」
「少なくとも、僕の流儀では」
「しかし、何か経験から導かれる仮説というか――そういうのがあるんじゃないのか?」
「そういうものに、興味がおありですか?」
シニカルな笑みを向けられて、広田は憮然《ぶぜん》とうつむいた。
「……そこに何かがあるなら、構成してる物質があるはずだろう。なら、その物質がいままで発見されていないのはなぜだ? これだけ科学が発達した中で、どうして原因も法則も発見されていないんだ?」
これは広田が常に抱いている疑問だ。そしてこの疑問を咲紀《さき》にぶつけて、満足できる応答があったためしがない。
彼女はいつも言うのだ、科学は万能じゃない、と。
本当にそうなのだろうか、と広田などは思う。たしかに科学は万能じゃない。現代の科学では理解できないことがらも多いが、心霊現象などというものは理解を端《はな》から拒絶しているように見える。
「不毛な議論は時間の無駄《むだ》だと思いますが」
「なにかあるのなら、教えてくれないか。本当に霊なんてものがあるのか? それは人間に魂なんてものがあるってことなのか?」
ナルはそっけない視線を寄こした。
「化学繊維に魂があるんですか?」
「――は?」
「そうでなければ、霊が服を着ているのはどういうわけです? 天然繊維なら魂があるんですか?」
「そりゃ、そうだ。――しかし、だったら?」
「情報」
広田は首をかしげた。
「すまないが、わからない」
「人の頭の中身などというものは、しょせんは電気的な情報の集まりです。それが死後も保存されて他者が読みとることができるとすれば、霊が服を着ていても不思議はありませんが」
「そうなんだろうか」
「人は自分の経験を思い出すとき、あたかもカメラで写した時のように第三者的な視点から思い出すことが多い。誰かと向き合って会話している風景を思い出すときには、正面を向いた相手の顔を思い出さずに、自分と相手とが向き合っている様子を思い出すものです」
「……そういえば、確かに」
「人間はそういうふうに情報を処理していくからです。だからその情報を取り出したとき、その中には彼自身についての情報も含まれている。――その情報が空間に灼《や》きついて人に受信される。受信した者はそれを自分の経験や知識で解読して、頭の中で再生する」
「……ああ、それで幽霊も服を着ているわけか。しかも、奈良時代の霊が江戸時代の服装をしていたりする」
「同じ霊を見ても、見た者によって証言が食い違っていたりね。外国人の霊の言葉が理解される、古い霊の言葉が理解される、こういった現象は、頭の中で解読されているんだと考えなければ、説明がつかない」
「そうだな。すると、憑依《ひょうい》は?」
「霊は情報だという論を推《お》し進めていくと、暗示、もしくは取り出された情報としての思念が他者に灼きつくこと、ということになりますが」
「除霊は?」
「なぜ単なる情報が保存されるか、が問題ですが。たとえば、強い思念はある種の場に灼きつく、とします。すると除霊とは固着した思念を消滅させるのではなく、場のほうを解体することになりますね」
言ってからナルは苦笑する。
「霊に関する目撃情報からすると、霊はどうやら物質じゃない。単なる情報の集まりに見える。これを論拠に引いて霊視とは死者の思念を受信するテレパシー現象だなどという学者もいるけれども、そのテレパシーが正体不明では、魂があるのだという主張となんら変わりはありません」
「……それはそうだな」
「しかも、ポルターガイストなどという現象もある。情報がどうやって気温を下げます? どうやって物体を動かすんです? 霊は情報だといえば、ある種の証言には整合するけれども、それで心霊現象のすべてが説明できるわけじゃない。むしろ説明できないことのほうが多い。――仮説どころか、戯言《ざれごと》です」
「道は遠そうだな」
ナルは溜《た》め息《いき》をついた。
「まったく。……ときどき否定派になれたら、どれだけすっきりするだろうかと思うことがあるが」
それが心底うんざりした調子だったので、広田は軽く笑った。
唐突《とうとつ》に明かりが消えたのは、その時だった。
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十四章
翠《みどり》はあわてて周囲を見回した。ぱたぱたと二階で音がして、それが階段のほうへ近づいて麻衣《まい》の声が聞こえる。
「――どうしたの?」
翠は廊下に出る。麻衣たちが階段を降りてきたところだった。廊下の奥から、ナルと広田《ひろた》も姿を現す。彼らの背後、ベースだけが明るかった。多数のモニタの明かりだ。二人が持ったハンドライトの光が、廊下の壁を薙《な》いだ。
「まさか、ブレーカー?」
麻衣の問いに、ナルは首を振った。
「そんなはずはない」
「じゃ、停電?」
麻衣は言ったが、現に横から弱い光が射《さ》している。玄関のドアの脇《わき》にある明かりとりから街灯の光が射しこんでいるのだった。
「停電じゃないみたいだねぇ。……どうしたんだろ」
麻衣が首をかしげたところで、廊下のほうから射していた光が消えた。
ナルはあわててベースに駆け戻る。部屋に入ってみるまでもなく、すべてのモニタが消えていた。
「どしたの?」
「別電源のほうもやられた」
「蝋燭《ろうそく》がありますよ。今、用意しましょうね」
礼子《れいこ》が言って、脇のダイニングに入っていく。全員がその後について、ダイニングを通り抜けて居間に向かった。
礼子はすぐにハンドライトの明かりを頼りに蝋燭を探し出した。火をつけてキャンドル・スタンドに立て、テーブルの上に置く。暗闇の中のその光は、妙に懐《なつ》かしい色に見えた。
「どうしたんだろうね」
麻衣の声に、広田も首をかしげた。
「どこかに問い合わせればいいんだろうが」
言って広田は電話機を見る。最近の電話は停電に弱いことを思い出した。
「翠さん、子機はどこにありますか」
「上です。親機も、電池《でんち》で動くはずです」
「お借りします」
広田は受話器を取り上げる。はたして、どこに電話をしたものか、とそう思いながら受話器を耳にあて、それがまったくの無音なのに気がついた。
「どうかしました?」
電池から電気の供給が行われていることを示すランプがついている。電池切れではない。
「――電話が切れてる」
広田の声に、え、と問い返しかけて、麻衣は背筋を硬直させた。ぞわり、と何かが背筋を這《は》い昇る。身体が小刻《こきざ》みに震え始めた。かたかたと歯が鳴る。
「――? 麻衣ちゃん、どうかした?」
礼子は間近の麻衣が急に身体を強《こわ》ばらせたのを感じた。彼女の顔をのぞきこむために顔を寄せると、歯の根が合わないほど震えているのがわかる。
「どうしたの?」
「……何か、来るよ」
闇に慣れた目は、麻衣の硬《かた》い横顔を捉《と》らえる。
「――何か?」
うん、と麻衣はうなずく。
「怖《こわ》いもの」
言ってから、麻衣は傍目《はため》にも大きく震えた。
「……コソリが来るよ」
え、と翠がつぶやいて、広田もまた息を詰めた。困惑してナルを見ると、彼は何か考えこむようにしている。
「どうした? どういうことなんだ?」
しまった、とナルが小さくつぶやくのが、広田の耳に届いた。
「――なに?」
「――事件があったのは何日だと言っていた?」
「十月十日深夜。正確には十一日の早朝」
「――今日は?」
はっと広田は目を見開いた。
「十月……十日。もう――十一日になった。――まさか」
「僕のミスだ。……こんなことを見落とすなんて」
ほとんど初めて、彼の顔に真情を露呈《ろてい》した表情が浮かんでいた。苦痛という名の。
「どういうことだ?」
「どうして四人の霊が活性化した? そんなものは十一日の朝にむけてに決まっているじゃないか。川南辺《かわなべ》一家は、娘が帰ってくる日に向けて警告を強くしていったんだ」
「まさか、それが関口《せきぐち》に当てはまるなんて、言わないだろうな?」
「当てはまる。関口は切羽《せっぱ》詰まってた。十日の夜にすべてを終わらせなければならないのだと」
「それじゃあ、毎年この家では死人が出てなきゃならない」
「トリガーがあるんだ!」
え、と広田はナルを見る。
「告訴するか、という広田さんの言葉ですよ。翠さんはしない、と言ったが、笹倉《ささくら》たちがそれを信じたという保証はない。むしろ今は疑心暗鬼《ぎしんあんき》の状態だろう。告訴されるかもしれないという恐れ、十月十日。――条件は揃《そろ》っている。連中が行動を起こさないほうが不思議《ふしぎ》なくらいだ」
「行動――」
「電線も電話線も、笹倉たちがやったんだ。それ以外に考えられない」
「大丈夫ですわ、戸締まりはしましたもの」
ね、と真砂子《まさこ》は翠を振り返る。
「ええ、ちゃんとしました。でしょう、広田さん」
広田もうなずく。翠たちが戸締まりをして、広田が最後まで開いていた居間の窓を閉めた。確かに戸締まりを確認した。
ナルはつぶやく。
「――姿見《すがたみ》……」
「……え?」
「あの姿見は、外から開くんだ――」
広田はまっすぐに庭に面した掃《は》き出し窓に向かう。
「おれが待ち伏せがないかどうか、確かめる。先導するから」
言って窓を開ける。雨戸に手をかけた。
――雨戸は動かなかった。
軽く何度か揺《ゆ》すってみる。麻衣が駆けつけてきて手を添《そ》え、声をあげた。
「開かないよ!」
びくともしない、という感触ではない。おそらく、外から何かで固定してあるのだ。
「このぶんじゃ、玄関もベランダの窓もやられてるな」
広田のつぶやきは、蝋燭《ろうそく》の光が揺れる室内にぽかんと浮いて消えた。
――落ちつけ、と言い聞かせながら、ナルは自分が充分に落ちついていることを自覚している。ただ、自覚以上に落ちつかなくてはならない。こんなときこそ、思考に穴があってはならないのだ。これ以上の失態を犯してはならない。
――一階にある家具は?
ダイニング・キッチンに食器|棚《だな》とテーブルと椅子《いす》。脱衣所に背の高い棚と洗濯機。台所の冷蔵庫、居間のAVボードと十八インチのカラーTV、ミニ・コンポ。ソファとローテーブル。ベースの四畳半に低いチェストがひとつ。
――これだけで入り口を封鎖できるか?
姿見の前にバリケードを築く。――しかしあのドアは外側に向けて開く。外は狭《せま》いながらも裏庭だ。ドアを開けて積み上げたものを運び出せば事が足《た》りる。それだけで、はたして連中を止められるだろうか。
――やらないよりはましだ。
「――広田さん」
ナルは居間のドアに近づく。このドアの外にすでに笹倉たちがいる可能性には気がついている。
「……どうした」
「来てください。家具を動かします」
「――家具?」
「姿見《すがたみ》の前にバリケードを築く。少しでも足止めになるかもしれない」
言いながらドアを開けた。充分注意はしたが、その注意を他の者に気づかれてはならない。すでに笹倉たちが家の中に入っている可能性に気づかれると、必ずパニックになる。土壇場《どたんば》で神経が切れると居直ってしまう麻衣はいいとして、他の三人がどう出るかわからない。その麻衣も、居直るまでが不安だ。
怯《おび》えて逆上した四人を抱《かか》えて、しかも侵入者に気を配ることはできない。なによりもまず、彼女たちを逆上させないこと。
「わかった」
後をついて来ようとする広田を止めて、ダイニングに続くドアを示す。
「テーブルを持ってきてください」
笹倉たちは廊下にいるかもしれないし、すでにダイニングで息をひそめているかもしれない。広田とナルがその二方を通れば、少なくとも居間の安全は確認できる。
うなずいた広田を見やリながら、ナルは背後で廊下の気配を探る。――誰もいない。いないように思える。
それでドアの外に踏み出した。少なくとも廊下には誰の姿も見えなかった。後ろ手にドアを閉めて、階段の上をうかがう。廊下を歩いて、脱衣所のドアを開け、次いで四畳半の襖《ふすま》を開けた。――少なくとも、ここまでには誰もいない。
姿見に目をやった。それには異常が見られない。
――外は裏庭。三方を壁に囲まれて、脱出路にはならない。これを塞《ふさ》いだからといって、退路を絶《た》ってしまうことはないはずだ。
そう一瞬のうちに思考して、四畳半のチェストに手をかけた。重いが引きずれないほどではない。すぐに背後で足音がして、広田の声が聞こえた。
「――これで塞ぐんだな? 姿見を」
うなずくと、少し遅れて麻衣たちが小走りに駆けてきた。
「――手伝う」
頼む、と言い置いて、ナルは二階へ向かう。
「――ナル?」
「二階の戸締まりを確認してくる」
――戸締まりと、そうしてすでに二階に誰かがいないかどうかを。
「――これでいい?」
無人の二階を確認してナルが階下に降りると、すでに姿見《すがたみ》の前にはテーブルとチェストでバリケードが築かれていた。
「チェストと壁の隙間《すきま》に何か物を」
外からバリケードを押し動かすことができないように、壁との間にベースからモニタを運んで置く。さらに廊下を塞《ふさ》ぐようにして、戸棚と冷蔵庫を動かして据《す》えた。
――これで連中が、諦《あきら》めてくれればいいが。
「二階へ。ベランダの雨戸をこじ開ける」
外へ向けての脱出路は三つだけ。玄関、居間の掃《は》き出し窓、二階のベランダ。どれも外から封鎖されている――ナルはそれを確認した――が、時間をかければこじ開けることは不可能ではない。それでも、連中が侵入してきたとき、二階のほうがいくらか安全性が高いだろう。
笹倉家の表のほうにはリンたちがすでに待機している可能性があるが、笹倉家の窓が阿川《あがわ》家の前庭に面している。連中があの窓から抜け出せば、リンたちの視線をかいくぐって庭に入ることが不可能ではない。せっかく雨戸を破っても、外で待ちかまえられては意味がない。ベランダからなら、少なくとも庭の人影を確認することができる。
ナルに促《うなが》されて麻衣は二階へ昇りながら、その階段の中ほどでふと背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
氷が滑《すべ》り落ちていく。思考は不要だった。
「……ナル、来たよ」
すぐ背後、広田に続いて最後に昇ってくるナルを見下ろす。
「――扉《とびら》の向こうにコソリがいる……」
全員が階段を昇りきったときに、誰もがゴトリという音を聞いた。
麻衣はわずかに産毛《うぶげ》を撫《な》でる風を感じたような気がした。
――扉が開いた……。
ひそやかに、ごく長い間隔で、重い物を動かす音がした。連中がバリケードを排除にかかっている音だ。
「来るよ……」
「あれは、そう簡単には越えられない」
ナルはごく軽く言って、麻衣にベランダの雨戸を示す。下から持ってきた包丁《ほうちょう》の類《たぐい》を示した。
「なんとか、こじ開けろ。ただし、静かにな」
「……うん。でも」
「広田さん、一応、階段の上に何か家具を」
箪笥《たんす》をふたつ階段の上に据《す》える間、階下での物音は少しずつ強くなって続いていた。最初は静かに。できるだけ息をひそめるように。それが徐々に苛立《いらだ》ちを露《あらわ》にしている。
そこにバリケードがある以上、連中はナルたちが侵入に気づいたことを理解している。そのうち形振《なりふ》り構わなくなるに違いない。
――何か、手段が。
撃退手段があればいいのだが。
リンがいれば話は早い。多少凶暴な手だが、彼には式《しき》がいる。滝川《たきがわ》でもジョンでも少なくとも腕力の足《た》しにはなる。だが、今はいない。この場にいるのはナルと広田だけだ。
――……がいれば。
彼がいれば、ナルには強力な武器が与えられるのに。
――何か……武器か……トラップを。
ナルは周囲を見渡す。すべての部屋は戸を開け放してある。どの部屋も見渡せたが、これといって手助けになりそうなものはない。
――笹倉家は三人。夫婦だけか、それとも。
もしも高校生の息子もこれに参加していれば、かなり手強《てごわ》い敵になる。二対三。彼らは必ず武器を持っている。
広田はどの程度使えるだろう。
――非常手段を使うか。
足止め、あるいは昏倒《こんとう》させれば事足《ことた》りる。人間だから強い霊を――霊の巣くった場を消すほどの力はいらない。それでも――一人。二人で限界。二人目で倒れずに済んでも、三人目に手を出せば、ナル自身の命が危《あや》うい。
――やってみるしかないか。
考えながら、なおも武器を探してさまよわせていた視線に、それは飛びこんできた。
ナルは瞠目《どうもく》する。足を踏み出した。
どこをどうすれば、雨戸が外《はず》れるのかわからない。それでも麻衣は懸命に、できるだけ静かにあらゆる隙間《すきま》に包丁《ほうちょう》の刃先を突き入れてみる。
家のどこかで音がしている。徐々に大きくなっているような気がする。頭の中にはひとつの思考だけが渦巻《うずま》いていた。
――コソリが来る。
手が震えた。脳裏《のうり》をよぎるのは、いつか見たコソリの姿だ。返り血をかぶった裸《はだか》の上半身、血を吸って汚れたズボン、ベルトに差した包丁、手に提《さ》げた血みどろの鉈《なた》。
――見つかってしまう。
雨戸は外《はず》れない。少しも外れる気配を見せなかった。
――どうしよう……。
泣きそうな気分で、助言を求めて背後を見やった。なのに、ついさっきまでいたナルの姿が見えない。思わずその姿を探すと、かつてそこで男の子が死んだ四畳半の、窓際《まどぎわ》にその姿が見えた。
思わず状況を忘れて唖然《あぜん》とした。
「なにやってるんだ……この非常時に」
ナルは窓をのぞきこんでいる。――正確には窓に入った鏡をのぞきこんでいるのだ。軽く鏡の表面に手を当てるようにして。
広田もまた、麻衣の呆《あき》れ顔に気づいて、その視線を追いかけ、同様に唖然とした。
「……自分の姿に見惚《みと》れてる場合か!」
まったく、こいつは、と独白しながら、声を低めて吐き捨てると、ナルは無表情に振り返った。
「――麻衣」
はい、と麻衣は屈《かが》みこんでいた身体を起こした。
「僕は広田さんと下に降りる。――広田さん、もちろん、来ていただけますね」
ナルの問いに、広田はうなずく。
「当たり前だ」
「僕らが降りたら、階段に服や毛布を投げ落としておけ。それでずいぶん足止めになる。そうして、家具を戻して階段の上にバリケードを築く。ありったけの家具を積んで封鎖しろ」
「――でも、ナルと広田さんは?」
これにはナルは返答しなかった。
「落ちついて、雨戸を壊せ。布団《ふとん》をクッションがわりにして、ベランダから飛び降りる。大した高さじゃないから、怪我《けが》をするようなことはない」
「――でも」
「のんびりと怯《おび》えてる暇《ひま》はないぞ。万が一にも火をつけられたら終わりだからな」
「でも、ナルは?」
訊《き》いたのは真砂子だった。
「僕は大丈夫です。祈るなら広田さんの無事を祈ってあげなさい」
「でも……」
すでにナルは階段の上に据《す》えた箪笥《たんす》に手をかけていた。
「無茶だよ、ナル!」
止めたのは麻衣だ。
麻衣にだって、連中が武器を持っているであろうことくらいは想像できる。いくら二人とはいえ、やってくる三人のうちの一人が女だとはいえ、素手《すで》で向かって危険でないはずがない。しかも、階段を封鎖してしまえば、犯人たちが昇ってくることはできないかわりに、ナルたちもまた戻ってくることはできないのだ。
「大丈夫だ。――広田さん」
ナルに促《うなが》されて、広田もまた箪笥《たんす》に手をかける。通り抜けられるほどの隙間《すきま》を作った。階下で苛立《いらだ》たしげに物音が続いている。
「武器は?」
広田の問いには、そっけない返答が返ってきた。
「不安なら、なにか持っていきなさい」
「おまえのことを言っているんだ!」
広田には柔道の心得も合気道《あいきどう》の心得もある。どう見てもひ弱そうな、気位ばかり高い相手のほうが不安だった。
彼はふと笑う。彼独特のシニカルな笑みだった。そして右手を示した。
「僕のことはご心配なく。スタンガンがありますから」
「スタン……ガン?」
確か、ずいぶん前から問題になっている護身用の武器だ。確か「気絶させる銃」という意味で、小型の本体の先端に二本の電極が出ていて、暴漢などに襲われた場合に、相手の身体にこれを当ててスイッチを押すと、約五万ボルトの電圧がかかり、相手の感覚をマヒさせ、あるいは平衡《へいこう》感覚を喪失《そうしつ》させ、さらには失神状態にさせる威力を持っている。
電流が極めて少ないため、殺傷能力はないものの、五秒間の使用で、三分間にわたり相手を気絶させることが可能だという。「ガン」とは名がついているものの、銃器ではないので銃刀法で取り締まることができない。悪用されることが多いので、輸入業者に販売の自粛《じしゅく》が呼びかけられている。
「――PKか?」
「その応用です」
ぴくんと身体を起こしたのは真砂子と麻衣とが同時だった。
「――PK?」
「ナル、ダメだよ! ぜったいに使っちゃ、だめ!」
PKはナルの身体に負荷をかける。倒れるだけならまだしも、ひどい場合には生命に危険が及ぶ。ぜったいにそれを使わせてはならない。
「いけませんわ。やめて」
「ダメだよ」
ナルは片手を上げた。白い指の先がまっすぐに鏡をさした。
「――ユージン」
広田も翠たちも、きょとんと彼の指し示したほうを見た。そこには鏡がある。鏡の中にはこちらを指さした彼が映っていた。
真砂子にも、ナルが何を示したのかわからなかった。ただ、隣にいた麻衣がさっと身体を硬直させるのだけがわかった。
「……麻衣?」
「……ほんとだ」
麻衣は呆然《ぼうぜん》としているように見えた。まじまじと鏡を凝視《ぎょうし》している。
「……なに?」
「あれは……ジーンだ……」
「――どこに……」
麻衣は真砂子を見る。軽く袂《たもと》を握《にぎ》った。
「鏡の中。……ナルが映ってるんじゃない。ジーンだよ、あれ」
え、と真砂子は鏡をあらためて見やったが、鏡の中の彼はすでに背を向けていた。
ナルは怪訝《けげん》そうに目を見開いている翠を振り返る。
「翠さん、電化製品を壊《こわ》しても構いませんか」
「……どうぞ」
「ついでに、水かなにか手を濡《ぬ》らすものがあると助かるのですが」
「化粧水ならありますけど」
「いただけますか」
ええ、とつぶやいて小走りに翠は部屋にとってかえす。ドレッサーから瓶《びん》を持ってきた。
それを受け取って、ナルは麻衣たちを振り返る。
「僕らが降りたら、即座に封鎖しろ。いいな?」
麻衣はとっさに抗議の声をあげた。ナルの言わんとすることはわかる。それでも、彼と広田の安全が確約されるわけではない。
「……でも!」
「封鎖するんだ」
「……でも、――だって」
「麻衣、依頼者は誰だ?」
はっと麻衣は言葉に詰まる。
「守るべき人間を間違えるな。お前はプロだろう」
麻衣は彼の無表情を見つめた。
「……了解」
物音は続いている。階段を降りきったとき、ゴトリとひときわ大きく音が響いた。
広田は階段の上を見やって、箪笥《たんす》と壁の隙間《すきま》から不安そうに顔をのぞかせている麻衣たちにうなずいてやった。隙間から毛布が投げ出されるのを見て、そっと視線を廊下のほうへ戻す。
音は続いている。まだ全部が排除されたわけではないらしい。息を詰めて階段の脇《わき》から顔を出すと、暗い廊下の奥に据《す》えられた冷蔵庫と戸棚《とだな》が見える。そのさらに奥にはテーブルが立てかけてあってチェストで重石《おもし》をしていたはずだが、そのテーブルは見えなかった。かわりに黒い穴が見える。
――ドアは外に向かって開かれているのだ。
ナルが軽く広田の腕をつついた。見やると居間を示されて、広田は彼の後に続いて、身を屈《かが》め、足音を殺して居間のドアに滑《すべ》りこみ、さらに気配を殺してダイニングに忍びこんだ。
「……本当に、大丈夫なのか」
声をひそめた広田の問いには、無言の肯定だけが返ってきた。
「ドアを」
それだけを言って、ナルはドアを示す。自分は背後の窓にもたれるようにした。広田はただうなずいて、廊下へ続くドアの陰に身をひそめる。自分の呼吸だけはどんなに息をひそめても大きく響いた。
ナルはそれにうなずいて、さらに深く背後の窓に背中をあずける。
――ナル。
呼ばれてナルは眉《まゆ》をひそめた。この声――それは単なるイメージの問題なのかもしれない――に覚えがある。どこから、と方向をうかがって、それが自分の背後からであることを悟《さと》る。背中を当てている鏡から聞こえるのだ。
「……喋《しゃべ》れたのか。上等だ」
ナルは微《かす》かに笑った。実際の声ではないし、いかなる波長の音波でもない。それは兄弟の間に存在するホット・ラインを通じてやってくる。
(……やっと繋《つな》がった……)
どこか安堵《あんど》したような聞こえざる声に、ナルは厳しい返答をする。
(のんきに構えてる場合か。――相手は)
(三人。憑依《ひょうい》の状態が深いよ)
(……どこにいるか、わかるか)
(わからない。現実世界のことはうまく見えない)
(役立たず)
苦笑したような気配が伝わってきた。
(チャージする。離れていてもトスできるか?)
(鏡の前にいてくれないとナルの居場所がわからない。接点があったほうが確実)
(本当に役立たずだな、お前は)
言いながら、後ろ手に左の手で鏡に触れた。
それがどういう理屈のものだかはわからない。ナルはこの力を経験によって知っているだけだ。
白い小さな光点をイメージする。できるだけ構えず、それが体内を巡《めぐ》るさまをイメージして一周させ、ジーンにトスする。戻ってきたそれは格段に強い光を放つ球体に育っている。そうやって何度も繰り返すうちに巨大な力に育っていくのだ。
鏡に触れた掌《てのひら》を接点に力をトスする。そこから同じようにして力が返ってくる。
(戻りが遅い)
以前には瞬時に返ってきていたのに、瞬《まばた》きをするほどの時間がかかっている。
(すごくナルが遠い。どうしてだかはわからないけど)
ナルは軽く顔をしかめた。これは理屈などない、感覚的な慣れだけが頼りのものだから、こうしたほんの小さな感覚のズレが結構大きく影響してしまう。
ゴトリと音がした。壁を重い何かが軽く叩《たた》く音。みしり、と板のきしむ音がした。
――来る。
ナルの体内にはコンデンサがある。その容量はナル自身も知らない。光点は体内を巡《めぐ》るたびにそこに力を蓄《たくわ》える。それは必要にして充分なだけ蓄積されようとしている。その証拠に右手の掌《てのひら》に負荷を感じ始めた。ポケットに忍ばせた翠の化粧水で掌を濡《ぬ》らす。こうしておかないと、放出の際にひどい火傷《やけど》を負うことがある。
小さく金属的な音がした。ドアのノブが動いた音だ。
剛《たけし》は目線で加津美《かづみ》と潤《まさる》に合図を送る。
居間にはほのかな明かりが見えた。おそらく連中はあそこに立てこもっているのだろう。加津美と潤がうなずいて、居間のドアのほうへ向かう。剛はダイニングに通じるドアの前でしばらく中の気配を探った。
額から滑《すべ》り落ちる汗を拭《ぬぐ》う。返り血のことを考えて上は脱いできた。寒くても当然なのだが、むしろ汗が止まらない。けっしてそれはバリケードを排除したせいだけではない。剛は右手の鉈《なた》を握《にぎ》りなおした。この鉈をいつ手に入れたのかは覚えていない。買った覚えはなかったのだが、何か武器になるものは、と家中を探したら、鉈が三丁、包装されたまま出てきた。衣装|箪笥《だんす》の中に隠してあったので、ひょっとしたら加津美が買っておいたのかもしれない。よくよく考えてみれば、微《かす》かに自分が買い求めた記憶があるようにも思うのだが、少なくともそれは今年や去年の話ではない。
――しかし、どうでもいいことだ、誰が用意したか、などということは。彼らは邪魔者の排除を決意した。決意した彼らの手の中に武器が放りこまれた。それだけのことだ。
鉈を握りなおし、ベルトに差した包丁に手を触れる。後ろから前に四丁の包丁が用意されていた。加津美には包丁の蒐集癖《しゅうしゅうへき》がある。意味もなく頻繁《ひんぱん》に包丁を買ってくるのだ。ずっと妙な癖《くせ》だと苦々《にがにが》しく思っていたが、それが役に立った。
反対に日曜大工の道具を蒐集していたのが潤だった。特にそれが趣味というわけでもないのに、道具だけはひとそろい持っている。金槌《かなづち》や鋸《のこぎり》はいくつもあった。その金槌のうちのひとつは、今、剛がベルトに挟《はさ》んで提《さ》げている。
(鋸は助かる)
剛はほくそえむ。
(死体を解体するのに必要だ。それも数があったほうがいい。――肉が絡《から》んですぐに使いものにならなくなるから)
そう独白し、まるで実際にそれで苦労したことを思い出したかのように、剛は軽く舌打ちをした。
(上手《うま》くやる。――今度は)
剛はドアノブに手をかけた。同じように居間のドアに手をかけている潤にうなずいて、そろそろとそれを回す。静かに引いた。
中の様子をうかがいながら、ドアを引き、半分までが開いたところで、目の前の窓に立つ人影を見つけた。
潤と同じ年頃の少年だった。その目がじっと動揺もなく剛に注がれている。
剛はドアを壁に叩きつける勢いで引き開けた。部屋の中には家具がない。鉈《なた》を振り上げて突進しようとしたが、その足元をすくわれてつんのめる。転《ころ》んだ拍子《ひょうし》に鉈が手の中から転がり出ていった。
あわてて身を起しながら、手放してしまった鉈を手探る。柄《え》に指先が触れたとき、駆け寄ってきた少年がそれを部屋の隅《すみ》に蹴《け》りこんだ。舌打ちをして腰の包丁を握《にぎ》ったところで、誰かが背後から剛の肩をつかみ、その場に組み伏せようとする。
少年が近づいてきた。剛は引き抜いた包丁を振り回して身をよじる。軽く手応えがあって、背後から微《かす》かな呻《うめ》きが聞こえるのと同時に、居間に通じるガラス戸が開いた。
「――離しなさいよォ!」
加津美が飛びこんできたのだ。
加津美は鉈を振り下ろす。それは少年には届かず、大きく空《くう》を切った。床に食いこまんばかりのそれを振り上げ、振り下ろす。少年には当たらなかったが、少なくとも部屋の隅に追いつめる役には立っている。
「やめなさい、加津美さん!」
剛を組み伏せている人物が怒声をあげた。加津美に気をとられたのか、肩をつかんだ力が緩《ゆる》む。剛は腕を無茶苦茶に振り回して、男をはねのけることに成功した。切っ先に軽い手応《てごた》えがある。かすかな血の臭《にお》いがして、剛は思わず笑った。
(――この臭いだ)
剛は身を翻《ひるがえ》して男に向かう。これが加津美の言っていた、広田だろう。翠たちに告訴をそそのかそうとした男。――だが、そんなことは許さない。
「やめなさい、笹倉さん! 何をしているのか、わかっているのか!」
わかっているとも、と剛はつぶやく。包丁を振り上げ、振り下ろし、二度目に切りかかったところで、突き出した腕をつかまれた。
「やめろ! 人を殺して、逃げおおせると思うのか!?」
思うさ、とうそぶいて、剛は取られた腕を抜こうともがく。広田の足を蹴《け》り上げた。
ぐ、というくぐもった声は、その広田ではなく、脇《わき》のほうから聞こえた。加津美がうまくやったのか、と見やったそこで、加津美が床に倒れこむのが見える。
――敵だ。
剛は涼《すず》しい顔で立っている少年を睨《にら》み、自分を捕《と》らえた広田を睨む。
――こいつらは、敵だ。こいつらを殺さなくては、自分のほうがやられてしまう。
(これは正当防衛だ)
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十五章
広田《ひろた》は剛《たけし》の手の中から、なんとか包丁《ほうちょう》をもぎ取る。それを部屋の隅《すみ》に投げこんで、剛の腹を蹴《け》り上げた。
うずくまろうとする剛の胸元をもう一度、すくい上げるように蹴り上げ、床に転《ころ》がったところに馬乗りになって、ベルトに挟《はさ》んだ凶器に手をかける。凶器をベルトから抜いて部屋の隅のほうへ滑《すべ》らせた。
凶器のひとつを抜くときに、粘《ねば》った感触がした。剛も自分が提《さ》げた凶器で怪我《けが》をしたらしかった。
「大丈夫か」
広田はナルを見やる。彼はまた鏡の前に戻っている。加津美《かづみ》はカウンターの下に倒れて、ぴくりとも動かない。完全に昏倒《こんとう》しているようだった。
「――もう一人いる。広田さん、気をつけなさい」
言って、ナルは広田のほうへやってくる。広田が押さえこんだ剛に手をかざし、離れて、と言う。軽く馬乗りになった腰を浮かせたところで、その手が剛の肩をつかむ。なにか硬《かた》いものが弾《はじ》けるような音がして、暗がりに小さく火花のような光が見えた。
それで剛は身動きすることも、呻《うめ》き声をあげることもやめた。
「もう一人――潤《まさる》はどこだ?」
「どこかで待ち伏せているな」
言ってナルは再び鏡の前に戻る。
「いちいち鏡にすり寄るな」
「チャージするのに、必要なんですよ」
ナルは軽く言って、視線を居間のほうに向ける。
潤は居間か。あるいはどこかに身をひそめたのか。待ち伏せされるのはうれしくない。
「剛のベルトを抜いてくれ」
広田はナルに声をかけて、転《ころ》がった加津美から、凶器を取り上げる。それをカウンター越しに台所のほうへ投げこんでから、加津美の細いベルトを抜いて、それでとりあえず加津美の手を後ろ手に括《くく》った。
「肉体労働はおまかせします」
「あのな」
広田は舌打ちをして、剛に寄る。剛のベルトも抜いて腕を括りあわせようとしたが、ベルトが太くて難儀をする。とりあえず括るには括ったが、これはあまりしっかりとはいかなかった。ひょっとしたら、すぐにほどけてしまうかもしれない。
そうしながらも、広田は耳をそばだてている。足音はしない。家の中の気配は死に絶えている。
「どうする」
広田が言うと、ナルは目線で廊下へ出るドアを示す。自分は居間のほうを指して鏡の前を離れる。
ふた手に分かれるということだと意を汲《く》んで、広田はドアに向かう。壁の陰に身を寄せて廊下の様子をうかがった。
剛が飛びこんできたとき開け放たれたドアは、そのまま開いている。
広田がそっとのぞきこむようにしたとき、背後から女の叫びが響いた。
「潤、気をつけるのよ!」
加津美が意識を取り戻したのだ。
「そっちに行くわ! 必ず全員、殺すのよ! そうでなきゃ、あたしたちはおしまいなんだから――!」
思わず加津美を振り返った広田の耳元を、重いものがかすめた。とっさに身を引き、ドアの縁《ふち》に鉈《なた》が食いこむのを目《ま》の当たりにする。
一歩下がり、身構えた。同時にナルが居間のほうへ飛びこんでいく。
「潤、居間よ! 居間に一人行ったわ!」
廊下を居間のほうへ走る足音が聞こえた。
広田はダイニングの床で身をよじっている加津美に一瞥《いちべつ》をくれて、廊下に飛び出していった。
かちゃん、と夜に小さな音が響く。
「あんた、ホント、こういうことだけ、思い切りがいいわね」
綾子《あやこ》の声は夜の中に潜《ひそ》む。
「竹を割ったよーな性格と言われてます」
滝川《たきがわ》は言って、割れたガラスの間から腕を突っこむ。笹倉《ささくら》家の勝手口のガラスを割ったのだ。
チャイムには返答がない。呼び出そうにも電話にも応答がない。こうなったらしかたがない、というわけで、即席の強盗団ができあがった。
滝川はロックをはずす。勝手口を開いた。ジョンが溜《た》め息《いき》をついて十字を切った。
中に一歩入ると、腐臭《ふしゅう》が充満していた。
踏みこんだところは台所だったが、その荒廃ぶりに誰もが唖然《あぜん》とした。床に散乱して積み上げられたもの、内容物が残った容器までが床にうずたかく堆積《たいせき》している。
足の踏み場もない、と言うが、ここのありさまはそれを超えていた。台所のシンクから隣のガラス戸まで――おそらくそちらが居間だろう――新聞や雑誌が散らばって比較的平らな道が続いている。その周囲は膝《ひざ》の高さにまでゴミが乱雑に積み上げられている。シンクの上だけはきちんと片づいていたが、そこには数丁の包丁《ほうちょう》が放り出されていた。
そっと居間のガラス戸を開ける。そこでは部屋の中央にゴミが積み上げられていた。ゴミの一番下にはTVも見えたが、ブラウン管が厚く汚れて、はたして使われていたのかどうか、怪《あや》しい。部屋の壁にはいつからそこに下げられているのか、埃《ほこり》を被《かぶ》った服が吊《つ》るされて壁面という壁面を覆《おお》っていた。
「尋常《じんじょう》じゃない……」
滝川のつぶやきには答える者がいない。むろん、否定の沈黙ではなかった。
居間の一方は襖《ふすま》で、これは開いていた。襖の向こうも居間と同じく四畳半程度の和室で、このふた部屋が続き間になっているのだった。その間仕切りの襖《ふすま》の、鴨居《かもい》にはなんのまじないだか、幅広の鮮《あざ》やかなリボンが結ばれていた。――この鴨居で、関口が首を吊《つ》ったのではなかったか。
そちらの部屋のありさまは比較的マシだったが、それでも様々なものが散乱していることには違いがない。大量のゴミ袋、ビジールシート。投げ出されたいくつもの鑿《のみ》や鋸《のこぎり》、ロープ、シャベル。
滝川は屈《かが》みこみ、鑿のひとつを手に取ってしげしげとながめる。次いで廊下に出る襖を乱暴に開いた。
「ちょっと、……しーっ」
綾子の声には構わない。無造作《むぞうさ》に足音をたてて滝川は二階に駆け上がる。
止めたものか、止めるために大声を出していいものか、困って綾子とジョンが顔を見合わせたところに、二階から声が降ってきた。
「――いない! 隣に戻れ!!」
え、と綾子とジョンはもう一度顔を見合わせてから廊下へ飛び出す。転がる勢いで滝川が二階から降りてきた。
「どういうことよ!」
叫んだ綾子には構わず、滝川は廊下のドアを開く。開けたそこは脱衣所で、その窓は開いている。窓の向こうは狭《せま》い裏庭だった。この脱衣所にもビニールシートやバット、鋸《のこぎり》が散乱している。
「――連中は翠《みどり》さんちに行ったんだ」
「まさか」
「夜逃げであるよう、祈ってろ」
言って滝川は窓から裏庭に飛び降りる。すぐさまリンがそれに続いた。
「ちょっと、ねえ、どういうこと」
滝川は窓の下から綾子に指をつきつける。
「お前はこの家から出ろ。公衆電話を探して警察を呼べ」
がたん、と大きな音がする。雨戸に屈《かが》みこみながら、真砂子《まさこ》は身をすくめた。
なにか怒鳴《どな》る声が聞こえる。二人は大丈夫なのだろうか。
雨戸は押せばぐらぐらと動く程度にはなっていた。一枚を外《はず》せれば、そう思って夢中で包丁《ほうちょう》を隙間《すきま》に突っこむ。
横に屈みこんでいた麻衣《まい》が突然に立ち上がった。
「――麻衣?」
「あたし、やっぱり下に行く」
「麻衣! ダメよ!」
真砂子の声には構わず、麻衣は階段の上を封鎖した家具に手をかける。
「麻衣、ってば」
「笹倉さんたちが憑依《ひょうい》されてるんなら、あたしにもできることがあると思う。あたしが降りたら、ここを元通りに封鎖して」
「麻衣、ダメだったら」
「あたし、非力だから、あたしにしかできないことがあるの。あたしの九字《くじ》でも足止めくらいはできるもん。むしろ、あたし程度じゃないとケガさせちゃう」
「麻衣ちゃん、やめて」
翠と礼子《れいこ》の制止に、麻衣は首を振ってみせる。
「依頼者を守るのがあたしたちの仕事なんです。少しでもマシな状況にする手伝いをしてきます。あたしが降りたら、ここ、必ず塞《ふさ》いでくださいね」
「でも――」
翠は麻衣の腕をつかもうとしたが、そのまえに麻衣は動かした家具の隙間《すきま》から外に滑《すべ》り出ていってしまった。
「麻衣ちゃん」
「ここ、塞いでください」
隙間から重ねてそう言い残して、麻衣は階段に足を踏み出す。散乱したものをかき分けるようにしてゆっくりと降りていった。
激しい音とともに、ガラスの破片が降り注いでくる。ナルはとっさに腕を上げてそれを避《さ》けた。潤の鉈《なた》が玄関の明かり取りを破ったのだ。
引き上げられた鉈が振り上げられ、ドアに食いこむ。これは身体を沈めて避けることができた。玄関の三和土《さたき》に座りこむ体勢になった、そのナルに覆《おお》い被《かぶ》さるようにして、潤は食いこんだ鉈を抜こうとしている。
その腹に向かって手を当てた。潤は呻《うめ》いて鉈を放し、二、三歩さがって段差に躓《つまず》いて転《ころ》んだが、昏倒《こんとう》させるには至らない。すでにチャージが切れているのだ。
まわりに力をトスできるような鏡面はない。これ以上は自分の力だけで凌《しの》がなくてはならない。これまでにもいくらか無理をしている。急速に貧血を起こしていく感覚がある。
潤が立ち上がった。さすがに足元が定まっていない。ベルトに挟《はさ》んだ包丁を引き抜いた。
広田は期待できない。居間でベルトをほどいて起きあがってきた剛ともみ合っている。
潤は千鳥足のまま包丁を振り上げる。うなりながらあたりの空気を滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に切り裂《さ》いた。
「――臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》、ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
小さく早い声が響いて、潤が背後から押されるようにつんのめった。下駄箱《げたばこ》に突っこんだ隙《すき》を見逃さず、ナルは廊下へ駆け上がる。
「大丈夫?」
麻衣の声に、ナルは怒鳴《どな》る。
「馬鹿《ばか》! どうして降りてきたんだ!」
「ナルが頼りないからに決まってんでしょ。ありがとう、って言いな――っ、ナル!」
麻衣はふらつきながら立ち上がった潤を示す。ナルは定まらない足元に足払いをかける。ドアに向かって倒れこんだ身体に駆け寄り、その手から包丁をもぎ取った。その身体を押さえこんで麻衣を見る。
「包丁を抜いてくれ」
麻衣がうなずいて駆け寄る。ベルトに挟《はさ》んである凶器を抜いて集めた。
広田は剛の振り下ろした鉈《なた》を避《さ》けて、ダイニングに転《ころ》がりこむ。罵声《ばせい》をあげている加津美の自暴自棄《じぼうじき》なタックルをかわし、廊下に向かって走り出る。勢い余って壁にぶつかり、とにかく右に曲がったところで、その壁面に鉈が振り下ろされた。
玄関にナルと潤がいるのが見えたが、間には剛がいる。それで奥に向かって走る。そちらにはバリケードに使ったものが散乱している。分《ぶ》がない、とはわかっていた。
案の定、暗がりの中、足元をとられて転びそうになる。かろうじて踏みとどまった間近を鈍器《どんき》が通り過ぎていく。ともかくも前に進んだ目の前にいきなり人影が現れて、広田はぎくりとした。
短い口笛。それと同時に背後の剛が声をあげる。振り返ると鉈を取り落とし、右手を胸に抱《かか》えこんで剛がその場に膝《ひざ》をつくところだった。
「リン――あんた」
「怪我《けが》は」
「なんとか」
立ち上がろうとした剛の背後から、高く麻衣の声がする。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
その声に押されたように、ふたたび剛が廊下につんのめった。
広田は駆け寄り、剛に馬乗りになる。リンが廊下を玄関に向かって駆けていく。
「広田さん、そのまま押さえといておくれやす」
「ジョン――」
ジョンは十字を切って聖水の瓶《びん》をかざす。
「主《しゅ》の御名《みな》によって命ずる――」
身を起こした潤にはねのけられて、ナルは廊下へ下がる。素手《すで》で相手が向かってくるのを認めて、居間のドアを開け放って中へ転《ころ》がりこんだ。居間には鏡がない。仕方なく窓へ駆け寄り、カーテンを開ける。はたして、部屋を映したガラスが鏡の代わりをするものかどうか。
トスした力は一拍をおいて返ってきた。潤がふらつきながら突進してくる。身をかわすとガラスに突っこみ、鈍《にぶ》い音をたててヒビを入れた。
その身体に掌《てのひら》を当てる。潤がその場に倒れこんだ。それと同時に駆けつけてきたのはリンだった。
――霊能者たちが戻ってきたのだ。
緊張を解《と》かれて膝《ひざ》から力が抜けそうになる。背後のガラスにもたれて身体を支えた。
「大丈夫ですか」
「ああ……」
「力を使いましたね」
冷ややかな声にナルは軽く両手を上げる。
「無事だったんだから、大目にみてくれ」
(――ナル)
緊張した声が背中越し、ガラスの向こうから聞こえた。
(奴はそいつから離れた。――コソリが来る)
ナルは目を見開く。
「どこだ」
(裏口)
ぐったりと力を抜き、あまつさえ寝息までたてているらしい剛を見やって、広田は廊下に座りこんだ。
肺が悲鳴をあげている。膝《ひざ》が震えてしばらくは動けそうにない。
「お若いの、立てるかね?」
滝川に太平楽《たいへいらく》な声で訊《き》かれて、広田は首を振った。
「しばらく、ほっといて、くれ」
「さようでござるか。――んで、こいつ、どうしよう」
「紐《ひも》か縄《なわ》があったら、括《くく》っておいたほうがいいと思うが」
「どこにあるかわかんなーい。――じゃ、どっかにつっこんどくか」
言って滝川は剛の足を持つ。情け容赦《ようしゃ》なく廊下を引きずって、脱衣所のドアを開け、中に押しこんだ。
「ほい、お若いの、どうせ座りこむなら、ここに座って重石《おもし》になっときなさい」
滝川に引っ張られて、脱衣所のドアの前に据《す》えられる。やたら腕力のある男だ、と顔をしかめながら、とにかくこれ以上動かないで済むのなら、何がどうでもいいという気分だった。
「なんで、戻ってきたんだ?」
「いろいろとねぇ」
滝川が言ったところで、居間のほうからナルの声が飛んでくる。
「ぼーさん! 来る!」
何がだ、と広田は廊下に飛び出してきたナルを振り返ったが、滝川は瞬時に身を翻《ひるがえ》した。ナルの示す裏口のほうを向いて身構える。
「どうしたんだ?」
「お前さんは、そこで休んでな」
廊下の奥、姿見《すがたみ》を装《よそお》ったドアは、外へ向かって開いている。暗い廊下にそれが切り取った四角い穴が、わずかに明るかった。
きしり、と床《ゆか》に降ろした広田の手の下で、床板が鳴った。ひやりとした空気が、濃厚に血の臭《にお》いを含んで、開いた裏口から流れてくる。
「……なんだ?」
言った広田の耳に、土を踏む足音が聞こえた。それは開け放たれた裏口に姿を現した。鉈《なた》を持った男の姿だった。まるで剛を真似《まね》たように、上半身は裸、ベルトに包丁を挟《はさ》んでいる。剛と違っているのは、その男の姿が相好《そうごう》の判断もつかないほど血で汚れていることだった。
男はぎしり、と音をたてて一段低くなった裏庭から廊下へ上がりこんでくる。広田には家がたわんだように思われた。いったいどれほどの質量があるというのか、床板が悲鳴をあげるように音をたてる。
「オンキリキリバザラバジリホラマンダマンダウンハッタ……」
滝川は低くつぶやいて両手を合わせる。指を組み合わせて印《いん》を結ぶ。
男はみしり、と音をたてて立ち止まったが、すぐに廊下へ向かって足を踏み出した。床板が盛大な悲鳴をあげる。冷気が流れてきて、いつのまにか滝川の息が白い。
「オンアミリトナウソバウンハッタ」
男はゆっくりと鉈を振り上げる。滝川もまた指をほどいて片手を上げた。
「臨兵闘者皆陳烈在前《りんぴょうとうしゃかいぢんれつざいぜん》――ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
なんだろう、と広田は思った。赤い光のようなもの。それが一気に廊下を貫《つらぬ》いて前後へ向かって駆け抜けていく。それこそ本当に幻影なのかもしれなかった。
男はよろけるようにして一歩を踏み出した。その手から鉈《なた》が落ちた。廊下に置かれた様々なものの間に落ちたはずだが、音はしなかった。さらに一歩を踏み出したが、膝《ひざ》を折った。そのままでさらに一歩、膝立ったまま前に進もうとしたようだったが、果たせずその場に倒れ伏した。
広田が声もなく見守る中で、その姿は次第に薄れて消えていった。
滝川は破顔《はがん》する。
「よし、終わった。――帰ろーぜ」
笹倉一家の三人は、人事|不省《ふせい》のまま脱衣所に放りこまれた。ドアには家具を置いて重石《おもし》にする。
麻衣が二階に声をかけて、ようやく雨戸を外《はず》した翠たちが降りてきた。
広田はダイニングの床《ゆか》に座りこんでいる。カウンターの上の小さな抽出《ひきだし》から、薬を出した翠が傷の手当をしてくれた。
あちこちを切ってはいたが、さほどの怪我《けが》でもなかった。運が良かったのかもしれない。
「もう大丈夫だと思いますよ」
言ったのは滝川だった。床に腰を下ろして、礼子が差し出した湯のみを受け取っている。
広田は問う。
「関口のほうはいいだろうが、この家の五人のほうは」
「さっきので、ついでに除霊されたんじゃねぇのかな」
「不確定なわけだな」
「ま、徐々に消えるって」
「消えたそうだ」
言ったのはナルだった。彼はやはり鏡の前に立って、軽くもたれるようにしている。
「じゃあ、大丈夫なのか?」
ナルはうなずく。鏡を見やった。
(――なんだな?)
これは鏡の向こうに向けての言葉である。
(大丈夫、すごく弱くなってる。このぶんだと、じきに消えてしまう……)
悲嘆を背負ったまま消えていくのはむごいようだが、ナルは霊を基本的に感情の残滓《ざんし》だと思っている。消えてしまうのが生者にとっても死者にとってもいいことだろう。
(そういえば、言いそびれたけど)
鏡の向こうから呼びかけられて、ナルは視線を向ける。
(なんだ?)
(――久しぶり)
ナルは苦笑した。
(うん……)
声が遠い。場が解体されていこうとしているのだ。
(……すごく、眠い……)
ナルは微《かす》かに笑う。ジーンは昔から起床時間にちゃんと起きたためしがなかったことを思い出した。
(おやすみ)
(……うん……)
それきり、かたわれの思考は途絶《とだ》えた。
「とんでもない光景だな」
滝川がひそひそと言って、鏡の前に立っているナルを見やる。麻衣と真砂子がうなずいて、広田もまた苦笑した。
「ああして鏡になついていると、正真正銘《しょうしんしょうめい》のナルシスくんだ」
「まったくですわね」
「はまりすぎて、ブキミ……」
綾子に呼ばれて付近の駐在が駆けつけてきたのは、午前六時。すぐにパトカーが呼ばれて、早朝の住宅街は騒然とした。
到着した捜査班が脱衣所の中の笹倉たちを引き起こし、彼らは悪い夢から醒《さ》めた、というようにきょとんとした。警官の尋問にはまともな返答ができないでいる。彼らにも何が起こったのかよくわかっていない、という風情《ふぜい》だった。それでも家の中の惨状を見れば、笹倉たちには言い訳の余地がない。
「捕《つか》まっちゃうの?」
麻衣が広田のシャツをひっぱる。その声に外へ連れ出されようとする笹倉たちが、怯《おび》えたような視線を投げた。係官に背中を押され、車に乗りこむまでの間、すがるようにして広田たちを見ていた。
「ねえ、罪になるの?」
麻衣は今度は側にいた滝川のジャケットを引っ張る。
「凶器持って人んちに入ってきたんだからなぁ。……おそらく殺人|未遂《みすい》ってことになんじゃねぇの?」
「だって、あの人たちのせいじゃないのに!」
滝川は困ったように麻衣を見た。
「心神耗弱《しんしんこうじゃく》が認められるかどうかが問題だろうな」
「憑依《ひょうい》って、認められるの?」
「認められた例はないと思うがな」
ムリなんじゃないの、と言ったのは綾子だった。
「あの三人はいまじゃ霊が落ちちゃってるわけだし、ここで精神鑑定なんてしても、問題が出てくるはずないもの」
そんな、と麻衣はつぶやいた。
「そんなの、酷《ひど》いよ。あの人たちのせいじゃないんだよ? あの人たち、そんなことするつもりなんてなかったのに。捕《つか》まって裁判なんかになったら新聞にだって名前が出て、みんなから白い目で見られるんじゃない。運悪く変な家に越してきただけなのに……!」
「それはまー、そうなんだけどな……」
溜《た》め息《いき》をついた滝川を見た麻衣は、すがるように広田に視線を移した。
「有罪に……なる?」
いまにも泣きそうな目に出合って、広田は苦笑した。
「ならない」
「――でも」
「彼らが罪に問われることはない。たぶん、不起訴に持ちこめると思う」
おいおい、と呆《あき》れたような声をあげたのは滝川だった。
広田は滝川に苦笑し、麻衣の半泣きの顔に笑ってやった。
「この世には霊がいるのかもしれない。憑依による事件があったり、霊による事件があるのかもしれない。それを、常識だけで裁《さば》くことはできない」
「でも、そんなの、通るの……?」
広田は笑った。
「それを考慮して事件にあたるために、ゼロ班があるんだ、谷山《たにやま》さん」
あ、と麻衣は小さな声をあげる。
「おれにはまだ、霊が本当にいるのかどうか、確信はつかめない。たとえいたとしても、けっして女性週刊誌やTVが騒ぐほどの数じゃないと思う。しかし、現行の法が、心霊現象なんてものをはなから無視した法であることも事実だ」
「……うん」
「憑依や祟《たた》りや呪《のろ》いなんてものは本当に存在するんだろうか。そこに呪いをかけた加害者がいて、呪いによって実際に死んだ被害者がいたとして、現行の法では罪にならないからと、見過ごしてしまっていいんだろうか。逆に、笹倉のように憑依《ひょうい》によって罪を犯さざるを得なかった者を、一刀両断に裁いていいものだろうか」
そうだね、と麻衣は瞬《まばた》く。
「心霊現象なんてものが、もしも本当にあるのだとして、それによって何かの事件が起こったときには、心霊現象の存在を無視した現行の法で裁いてはならない」
広田はきょとんとした目に涙を浮かべた少女に笑う。
「だから、おれたちはいるんだ」
こくんとうなずいた麻衣にうなずき返してから、広田はナルに目を向けた。
「たぶん、調査資料の提出を求めることがあると思う」
ナルはそっけなくうなずく。
「――どうぞ」
「ついでに言うが、お前に関しては疑いを解《と》いたわけではないからな」
ナルは皮肉げに笑う。
「ご勝手に。――望んで馬鹿《ばか》になりたいという者を、止める手段などありませんからね」
全員が脱力したように居間に座りこんでいた。事情聴取が長引いて、ずいぶんと日が昇っている。
「あたし、なーんもしてないのに、もう終わりなのー?」
足を投げ出してカーペットの上に座った綾子の声に、まあまあ、と同じく床に座りこんだ麻衣は笑う。
「撤収《てっしゅう》作業と家の中のお片づけがあるよん」
「つまんなーい」
「綾子がなんにもしないのは、いつものことじゃないかぁ」
麻衣は笑って綾子の肩を叩《たた》く。綾子は剣呑《けんのん》な目つきで麻衣を睨《にら》んだ。
「……あんたね」
「ハイ、綾子さん、お片づけをしましょーね」
「麻衣ちゃん、気にしないで。悪いわ」
翠の言葉に、麻衣は笑う。
「だいじょーぶです。綾子はこう見えても実は面倒《めんどう》見がよくて親切なんで、よろこんでやってくれますよ。――ね、綾子」
「麻衣、覚えてなさいよ」
低く言ってから、綾子は立ち上がる。
「――じゃ、ひと働きしよっか」
「……しっ……」
声をあげたのはナルだった。開け放したままの居間の戸口にもたれて、彼は廊下を見ている。軽く指の先で全員に黙《だま》るよう示した。
「……どうしたの?」
見上げる麻衣には答えず、ナルは立ったまま玄関のほうへ目を向けてみせた。なんとなく広田を含めた全員が、ドアから玄関をのぞきこむ。
昨夜の惨状をとどめて、ドアは傷だらけだったし、ドアの脇《わき》の明かり取りのガラスも割れてしまっている。
誰もが怪訝《けげん》そうに玄関のほうを見やった。口をきく者もなかったので、その微《かす》かな音は全員の耳に届いた。
小さな軽い音だった。広田は子供の足音だと感じた。体重の軽い小さな子が小走りにやってくる音のようだ。
足音はドアの前で立ち止まる。次いで、チャイムが鳴った。ドアの脇にあるそれを押せば、必ずガラスの割れた明かり取りからその姿が見えるはずだったが、そこにはなんの姿も見えなかった。
軽く腰を浮かしかけた広田を、ナルがとどめた。チャイムは二度、三度と鳴っている。
「……おい……」
つぶやいた広田を目線で黙《だま》らせて、ナルはふたたび視線を玄関に向ける。チャイムが鳴りやんでから少しの間をおいて、鍵穴《かぎあな》に鍵が差しこまれる音がした。
ドアが開いた。明るい陽射《ひざ》しがあふれて、ドアの閉じる音とともにまた玄関の中に薄暗がりが戻る。三和土《さたき》には女の子が立っていた。
――小柄な女の子だった。その顔に、広田は見覚えがあった。小作りの顔の輪郭《りんかく》、少しだけ生意気そうなラインの顎《あご》、茶目っけのある目元。
嫌《いや》というほど写真で見た。その無残《むざん》な死に顔も含めて。眠ったような顔半分、残りの半分は陥没して人の輪郭を失ってしまっていた。
「――ただいま」
まだ生気をいっぱいに浮かべて、少女は家の中をうかがうようにした。目の前にいる広田たちの姿が見えてはいないようだった。
「おかあさん、帰ったよ」
広田を含めて、誰も口を開かなかった。全員が、玄関で不安そうに荷物を下ろす少女を見守っていた。
「……おかあさん、いないの?」
言いながらそっと下ろした紙袋には、おそらく家族への土産《みやげ》が入っているのだろう。それは後にいま少女が置いた、その場所からそのまま発見された。貯金箱がひとつ、お茶がひと包み、大小の湯呑《ゆの》みがひと組。
「おかあさん、ってば」
少女は迷子《まいご》になった子供のような表情をしていた。いまにも泣きだしそうになったのが、広田の位置からも見て取れた。
「ねえ、どこ……?」
これは過去の幻影だ、と広田にはわかっている。それでも祈らずにはおれなかった。
――入ってくるな。
そのまま家を出ろ。家に帰ってきてはいけない。家を出て、二度と戻ってくるんじゃない。
だがしかし、どこか物怖《ものお》じしたように三和土《さたき》に立ちすくんでいた少女は、靴を脱いだ。白いソックスの足が、廊下の床板《ゆかいた》にのせられた。
彼女は悪夢に向かって足を踏み出してしまったのだ。
――戻れ。
少女はしかし、おずおずと廊下を歩いてきた。見守る広田たちには気づかずに、廊下を奥へ向かっていく。すぐにその姿が壁の陰に入って見えなくなる。
「おかあさん……? おじいちゃーん」
広田は目を閉じた。できるなら、悲鳴を聞きたくなかった。
廊下を奥へ進んでいった足音は、すぐにはたりとやんだ。いやいやながらもそばだてずにはいられなかった耳に、少女の悲鳴は聞こえなかった。代わりに聞こえたのは静かな声だった。
「これが彼女の悪夢だった……」
横を見ると、淡々と目を伏せたナルの横顔があった。
「……彼女には、自分が死んだことよりも、帰ってきた家で迎えてくれる者がいなかったことのほうが、何倍も忘れがたいことだった……」
広田はうなずいた。そうして玄関に視線を戻す。上がり口にぽつんと残された紙袋は、言葉もなく見守る広田の目の前で、少しずつ薄れて消えていったのだった。
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エピローグ
広田《ひろた》は偶然、電車の中で麻衣《まい》を見かけた。
「……きみ、谷山《たにやま》さん」
平日の夕方、少なくもない人混みの中で、麻衣は吊《つ》り革《かわ》にぶら下がるようにしていた。
「あれ、広田さん」
驚いたようにしてから、麻衣は笑う。
「いま、帰りですか?」
「ああ、まあ。……君は?」
「あたし、これからバイトなんです」
「こんな時間から?」
窓の外には黄昏《たそがれ》が流れている。薄藍《うすあい》の空にネオンサインが灯《とも》されていた。
「平日は学校があるから、夜だけなんでー」
「土日だけじゃないのか」
「最初はそうだったんですけど。あたしがいないと、所長は依頼者をすぐ追い返しちゃうし。ワガママだから」
麻衣がそう言って苦笑したとき、電車が渋谷《しぶや》の駅に入った。
「……そんじゃ」
言って麻衣は電車を降りる。広田はその後に続いた。
「――れ?」
不思議《ふしぎ》そうに広田を振り返った麻衣に、広田は憮然《ぶぜん》と答えた。
「オフィスまで送っていく。夜の道玄坂《どうげんざか》あたりはあまり雰囲気《ふんいき》のいい場所ではないだろう」
「でも、駅から近いですから」
「とにかく、送る」
「はあ、どうも……」
そういえば、と麻衣は改札を抜けながら言った。
「阿川《あがわ》さん、結局越しちゃったんですね」
「そのようだな」
広田はうなずいた。あの事件の後日、翠《みどり》から丁寧《ていねい》な礼状が届いた。それには転居先が記載してあった。やはりあのまま、あの家に住む気にはなれなかったらしい。
また賃貸住まいです、と葉書にはそう書かれていた。翠がそれを苦笑|混《ま》じりに書いたのか、それとも無念そうに書いたのか、それは文面からは読みとれなかった。
「相談にいらしたんですよ、翠さん。あの家を売っても人の迷惑にならないだろうか、って。大丈夫だって、言ったんですけど。律儀《りちぎ》なひとなんですよねぇ」
そうか、と広田は思う。それはかなり翠らしい行為に思えた。
「それで中井《なかい》に言ってきたんだな。弁護士を紹介してほしいと」
「へええ」
広田は麻衣に苦笑してみせた。
「事件のあったことを隠していたのはけしからん、と弁護士を立てて不動産屋にねじこんだらしい。それで結局不動産屋が買い取ることになりそうだが。彼女は外見に似合わず、剛胆《ごうたん》だな」
麻衣は軽く声をあげて笑った。
夜の渋谷には人があふれている。繁華街《はんかがい》というよりも、盛り場という雰囲気《ふんいき》がする。
あまり若い女の子がうろつく場所ではない、と広田は顔をしかめた。こういうことを咲紀《さき》に言うと、古いと言って罵倒《ばとう》されてしまうのだが。
「もっと、まともなバイトはないのか?」
広田はつい老婆心《ろうばしん》から麻衣にそう言ってしまった。麻衣は少し顔をしかめる。
「やっぱ、まともじゃないかなー」
「誰も堅《かた》いバイトだとは言わんだろうな」
「そうなんですけど。でも、あたし苦学生だしー。結構、時給いいからなー。条件も悪くないし」
「上司がアレで?」
「ま、そうなんだけど。でも、調査さえなかったら、オフィスで宿題やっててもいいし。苦学生にはなかなかおいしいバイトなんですよ」
「君みたいな若い女の子が、調査に行くのは感心しないがな。危険だろう」
「そりゃー、多少は。でも、そのぶん手当がつくしー」
「しかも夜の仕事で、泊まりこみで」
「夜遊びしてるわけじゃないですもん。お仕事、お仕事」
「男二人の間で徹夜だろう。この間は阿川さん母娘《おやこ》がいたからいいが、空《あ》き家《や》の調査だったりしたら……」
麻衣はいきなり笑いだした。
「うっそー。なんの心配してんですかー」
「いや、男というのは、だな」
「さては、広田さんは狼《おおかみ》になっちゃうタイプなんだな」
「とんでもない、……おれは」
麻衣はちろり、と広田を見る。
「ナルとリンさんもそう言うと思うな。もっとも、ナルだったら罵詈雑言《ばりぞうごん》つきだと思うけど」
広田は憮然《ぶぜん》とした。確かに、ゆえなく人を疑うことは、自分の品性をおとしめることだという気はした。
「でも、感心しない」
「んもー」
ふくれっつらをした麻衣を、広田は見る。
「君が調査に行く場所、あれは死の現場だろう。人の死や醜《みにくい》い感情が残った場所に乗りこんでいって、あえて悲惨な出来事にかかわる必要があるのか?」
無念の死がある場所だ。世間一般に言われるところからしても、ナルの言い分からしても、天寿を全《まっと》うし、己《おのれ》の人生に満足して死んでいったものは霊になどならない。
「そういうことばかりを見ていて、辛《つら》くはないのか? ……だから、あまり賛成できない」
麻衣はごく生真面目《きまじめ》そうな顔をして聞いている。
「君みたいな若い女の子が、あえてやらなくてもいいんじゃないだろうか」
広田が言うと、麻衣は軽く息をつく。よくわかんないんだけど、と前置きをしてから笑った。
「いろんな人がいるんだよね、死んだ人にも生きている人にも。ぎりぎりの心がそこには残ってるの。憎《にく》しみだったり、悲しみだったりして」
「それがわかっていても?」
麻衣はうなずく。
「それはね、どこにでもある感情なんだよ。誰も表には出さないだけで、今こうしてる間にも、誰かが同じように人を憎《にく》んだり運命を悲しんだりしてるの」
「……そうだな」
「確かに辛《つら》いよね。ときどき、もう絶対にやめてやる、って思うけど。……でも、それは誰も表に出したりはしない感情だから、関《かか》わるのをやめちゃうと、そういう気持ちがいっぱいあるのに見えなくなってしまう気がするんだ。そしたらあたし、見えないのに慣れて、忘れてしまう気がする」
広田は麻衣を見つめる。麻衣はちょっと笑って、坂を流れていく人の波を見渡した。
「そこそこに幸せそうで退屈そうな人たちばかり見てると、それが人の真実なんじゃないかって、そう思ってしまいそうな気がするの。そういう人たちにも実は辛いことや悲しいことがいっぱいあるんだって、忘れてしまうと思う。……それに」
麻衣は年相応のナイーブそうな表情をする。どんなに明るく見えたとしても、やはり彼女にも彼女なりの悲嘆があるのだ。
「あたし、辛いとき、誰かに可哀想《かわいそう》にね、って言ってほしい。同情されるの、嫌いじゃないんだよね。すごく優《やさ》しい気持ちだから」
「……そうか」
「そこに思いが残ってしまうほど辛かったんでしょ? 悲しかったんだよね。――あたし何もできないけど、可哀想にって言ってあげたい。あなたが辛くてあたしも辛いよ、ってせめてそう言ってあげたいの」
広田はただうなずいた。それは少女らしい感傷のようにも思えたが、不快な心のありようではなかった。
「君は……」
広田が言いさすと、麻衣が首をかしげて見上げてきた。広田はやや赤面する。思わず口をついて出そうになった言葉は、広田にとってかなり気恥ずかしい言葉であったからだ。
「……単純だって言いたいんでしょ、さては」
「いや……そういうことでは」
「いいよーだ。わかってるもーん」
「いや、その……そうではなく……、い、いい子、だね……と」
首まで赤くなった気が、我ながらする広田である。
麻衣はきょとんとしてから、少し赤くなった。うらめしげに広田を見る。
「照れながら言わないでくださいよー。あたしまで照れるじゃないですかー」
「……すまん」
「広田さん、実はモテないでしょ」
「――は?」
唐突な話についていけず、広田は思わず麻衣を見返す。
「もうちょっと厚顔無恥《こうがんむち》になんないと。女の子って、けっこう臆面《おくめん》もないタイプが好きなんだから」
「……ああ、そう……」
麻衣はポンと広田の腕を叩《たた》く。
「それに女の子で『いい子』呼ばわりされて、喜ぶ子なんていないぞ。……修行するように」
なんの修行だ、と思いながら広田はとりあえずうなずく。
「モトはいいんだから、がんばるべしっ」
「――へっ?」
きょとんとした広田に、麻衣は呆《あき》れたように笑った。
「彫《ほ》りの深い顔ってやつ? ちょっくらハーフっぽくって二枚目くんなんだから、あとは心がけの問題だぞぉ」
――そうなのか、と唖然《あぜん》とする広田である。残念ながら、面と向かってそのように言われたのは初めてのことだったのだ。
「――んじゃ、ありがとーございました」
麻衣はぴょんと跳《は》ねるようにして、脇《わき》のビルに入るエントランスの段差を越えた。オフィスのあるビルにたどり着いていた。
じゃあ、と手を振ってから、麻衣は広田に指を突きつける。
「それと、頭|堅《かた》いとこも直さないとダメだぞ。いまどき頑固一徹《がんこいってつ》くんは流行《はや》らないんだから」
「あ、……ああ」
「特に頭ごなしにガミガミ言うのやめないと、咲紀さんに愛想《あいそ》尽かされちゃうから」
うん、と何げなくうなずいてから、ハタと我に返る広田である。
「なんで、中井くんが出てくるんだ?」
「照れない、てれない。……がんばってねー」
「――おい!」
麻衣はちらちらと手を振って、小走りにエスカレーターのほうへ駆けていく。
それをあんぐりと見送ってから、広田は苦笑した。
――まったく、若い娘さんにはかなわない。
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あとがき
どうも、一か月ぶりです。まいどありがとうございます(さすがに下巻だけ読むひとは、いないであろう……)。
そういうわけで、久々のホラーでございました。
……上巻のあとがきで書くことを使いつくしてしまった。はて、どうしよう。
わたしはずっと、読者のみなさまから怪談や怖《こわ》い噂話《うわさばなし》を教えていただいています。なにしろもう五年ほどになりますから、大変な分量の怪談が集まりました。わざわざお便りをくださったみなさんには、心からお礼申しあげます。
たくさんの怪談や体験談に目を通していますと、いろんなことに気がついたりします。噂話などは特に、たいへん面白《おもしろ》い現象が起こって興味がつきません。以前、あとがきでお願いして「紫のネクタイ」という噂話についての情報を求めたところ、たまたまそれが噂の発生初期のことだったらしく、それが変化して広がっていく過程をまのあたりにすることができました。貴重な経験をさせていただいたと思っています。情報をお寄せくださったみなさん、本当にありがとうございました。
小野は引き続き、無期限に怪談や噂話を募集しております。小耳《こみみ》にはさんだ怖い話がありましたら、ぜひともご一報ください。
――お礼といえば、実は昨年、ネットで話をしていて、自分がキリスト教の内部事情に関して、たいへんな誤解をしていたことを知りました。丁寧《ていねい》に間違いをご指摘《してき》くださり、ご教授くださった点子さんに、この場を借りてお礼申しあげます。作家の秋津《あきつ》透《とおる》さんにも、お忙しいなか、わざわざお時間をさいていただき、詳《くわ》しいお話を聞かせていただきました。どうもありがとうございました。
本当にいちばんお礼を申しあげなくてはいけないのは、ご声援をくださる方々に対してです。特に旧シリーズを支持くださり、熱烈なファンコールをくださった方々には重ねて格別のお礼を申しあげます。ありがとうございました。
そうして、すでにご存じの方々にも、初めて小野の著作を手にとってくださった方々にも楽しんでいただけたら、とても嬉《うれ》しく思います。
[#地付き]小野不由美 拝
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底本:「悪夢の棲む家(下)ゴースト・ハント」講談社X文庫ホワイトハート
著者:小野不由美
一九九四年四月二〇日 第一刷発行
一九九四年五月二七日 第ニ刷発行
テキスト化:二〇〇五年九月
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