悪夢の棲む家(上)ゴースト・ハント
小野不由美
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)分析医《セラピスト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)剣術|指南役《しなんやく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どこ[#「どこ」に傍点]
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[#地付き]イラストレーション/小林《こばやし》珠代《たまよ》
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プロローグ
長いまっすぐな廊下《ろうか》の奥は、闇の中に沈みこんでいた。
翠《みどり》は玄関の三和土《さたき》に立ちつくした。背後の明かりとりからは明るい真昼の陽光が射《さ》しこんで、廊下の床板を光らせている。それでもその光は、奥深い家を貫いた長い廊下の向こう側には到達できていなかった。翠の身体が光を遮《さえぎ》っているせいもあって、廊下の奥のほうには闇がよどんでいる。それで、その廊下は行く先の知れない横穴のように見えた。
どうしたはずみでか、ふいに物音が途絶えることがある。ちょうどそれが今だった。
家の中はしんと物音ひとつなく、人の気配《けはい》もなくて、よそよそしいような、それでいてなにかを緊張して待っているような、そんな空気が満ちている。
外の音も聞こえない。
――まるで、誰もいなくなってしまったかのように[#「誰もいなくなってしまったかのように」に傍点]。
(おかあさんは[#「おかあさんは」に傍点]、どこ[#「どこ」に傍点]?)
翠は突然、不安に思った。
(おかあさんは[#「おかあさんは」に傍点]、どこ[#「どこ」に傍点]?)
どうしてこんなに静かなんだろう。まるで誰もいない家のように、こんなによそよそしくて、こんなに暗くて、こんなに寂《さび》しい気配がするのだろう。
(――どこ[#「どこ」に傍点]?)
「――どうしたの?」
いきなり背後から声をかけられて、翠は激しく瞬《まばた》いた。
「ね、翠、まだ綺麗《きれい》でしょう」
母親の声に、翠は背後を振り返る。母親は玄関のドアに内側から鍵《かぎ》をかけながら、笑っていた。
「とても建って二十年の家には見えないでしょう? 改装したばかりらしいけど、もともとしっかりした建物だったのねえ」
ドア一枚を隔《へだ》てた家の外では雑多な音がしていた。明かりとりの小窓の、模様ガラスを通して射しこむ光は白い。
「元の持ち主の人がね、ずっと貸家《かしや》にしてたのを、自分が住むことになって、それで改装したんですって。照明からカーテンレールから、全部|揃《そろ》ってるし、キッチンもお風呂もすごくいいのになってるのよ」
「……そう」
翠はやっと言った。母親の礼子《れいこ》は、どこか自慢そうに下駄箱《げたばこ》を開けてみせた。
「ほら、下駄箱まであるの。作りつけよ」
「うん」
先に立った礼子に続いて靴を脱ぎながら、翠はあらためて廊下に目をやった。長い廊下はあいかわらず暗かったが、礼子が照明のスイッチを入れると、黄味を帯びた白熱灯の光が降り注いで、奥までが見渡せるようになった。
「全部すんで、引っ越すばかりになってたのに、急に遠方の息子さんと同居することになってね、それで手放すことにしたんですって。――こっちが居間よ」
礼子は廊下の右にあるガラスの入ったドアを開いた。はしゃいだ様子で中を示す礼子に笑ってから、翠はもう一度廊下を見渡す。
翠は一瞬ぎょっとした。廊下の奥に人影が見えたからだ。よくよく見ればそれは自分の姿で、翠はそっと息を吐いた。廊下の突き当たりには大きな姿見《すがたみ》があったのだ。
手前に階段。廊下の右にはドアがふたつと、襖《ふすま》がひとつ。左にはドアがひとつ、襖がひとつ。廊下の奥はT字形になっているようで、その突き当たりの壁に姿見がある。
――暗いはずだ、と翠は眉《まゆ》をひそめる。奥に向かって細長い家で、それを貫く長い廊下に明かりとりひとつないものだから、気味悪いほど暗く思えたのだろう。それで唐突に不安な気分になってしまったのだ。
翠は照れかくしのように笑ってみた。
誰もいないようで当然、この家にはまだ誰も住んでいないのだ。それをわかっていたのに、急に不安になってしまって、母親の居場所を確認したくなるなんて。
(どうかしてる)
「――翠? 見ないの?」
礼子が居間のドアから首を突き出していた。
「廊下を見てただけ。――そこが居間なんだ?」
翠の父親はたいへんな倹約家で、定年退職したら郊外に家を買おうと、こつこつ貯蓄をしていたが、定年までに十年を残して急死した。父親の夢は母親の夢でもあったので、一周忌を過ぎて突然家を買いたいと言い出した礼子の言葉に、翠は反対しなかった。
一家の大黒柱が死んでしまい、残されたのが専業主婦の礼子と就職して二年の翠では、買える家などたかがしれている。しかも翠がこの先結婚すれば、買った家には住めなくなる。それは承知していたけれど、翠は母親にこの先、家賃の心配をさせたくなかったのだ。住む場所さえあれば、あとはかつかつでも生活できる。そう思ったから、賛成した。
勤めがあって時間の割《さ》けない翠のぶんまで駆け回って、礼子がひとりで探し出したのがこの家だった。
「――ね、いいでしょ?」
礼子は得意げに雨戸を開ける。居間いっぱいに光が射《さ》しこんで、悪くない感じだった。部屋の片隅が掃《は》き出し窓になっていて、小さな庭に面していた。
「花ぐらいは植えられるわよ」
礼子の声ははしゃいでいる。長い間マンションで生活していたから、庭のある家がうれしいのだろう。
「そうだね。――こっち、南?」
「そう。陽《ひ》当たりはいいわよ。ちょっと狭《せま》いけど、庭が広いと手入れが大変だものねえ」
「うん。このくらいがちょうどいいかもね」
「こっちがダイニング・キッチンなの」
言っていそいそと礼子は次の部屋に続くガラス戸を開ける。
「へえ、広いんだ」
「昔は茶の間と台所とふた部屋だったのを、改装してダイニング・キッチンにしたんですって。だから、キッチンもずいぶん広いでしょ?」
六畳ほどの細長いダイニングの奥にはカウンターがある。その向こうがキッチンだった。かなり広くて、女ふたりで水仕事をしてもらくらく動けそうだ。
「水まわりも、すごくぜいたくな造りなのよ」
カウンターの向こう側から礼子は手招きする。心底《しんそこ》うれしそうだったが、翠は右手の壁を見て首をかしげた。ちょうど窓のありそうな位置に鏡がはめこまれていたのだ。鏡のせいでダイニングはよけいに広く見える。そのかわりに明かりの射しこむ窓がない。
「ねえ、どうしてあんなところに鏡があるの?」
翠が声をかけると、礼子は、ああ、と鏡を見やる。
「窓なの、本当は」
「え?」
翠は言って、鏡を検分する。見ると鏡の周囲にはアルミサッシの窓枠《まどわく》があって、単なる鏡なのではなく、引き違いの窓の、ガラスの代わりに鏡が入っているのだとわかった。
「開けた外が、すぐ隣の壁なのよ」
翠は窓を開けてみる。確かに窓の外は、十五センチほどの空間を隔《へだ》てて、隣家の壁が迫っていた。
「――呆《あき》れた。こんなの、違法建築なんじゃないの」
「隣の家がむちゃな建て方をしてるんじゃないの? ――どうせ光も入らないし、それに窓の下は排水溝で、夏場なんかは開けておくと臭《にお》いが入ってくるんですって。それでそんなふうにしたみたいよ。でも、ちょっとシャレた感じじゃない?」
「……そうかしら」
嬉々《きき》としてキッチンの戸棚を開け閉めしている礼子のほうを見ると、キッチンの窓も同様に鏡が張ってあった。――つまり、ダイニング・キッチンでは陽光をあきらめなくてはならない、ということだ。
礼子はしかし、いっこうに気にしている様子がなかった。
「面白《おもしろ》いのよ、ここ。他の部屋も全部そんなふうなの」
え、と翠は礼子の顔を見返した。
「――全部?」
「三方の家がくっついて建っててね、それでぜんぜん光が入らないし、風も通らないのよ。それで鏡を入れてあるの。――変わってるでしょ?」
「――ちょっと、待ってよ。全部? じゃあ、ぜんぜん窓がないの?」
「居間にあったでしょ?」
「あれだけ?」
「二階のベランダに面したところも窓になってるわよ」
翠はあわてて廊下に出た。
廊下の右、ダイニング・キッチンのさらに奥にあるのが和室の四畳半、廊下を曲がったところに、小さな押し入れ。左側は玄関のほうから洗面所に浴室、小さな納戸《なんど》。廊下を左に折れてトイレ。どこにも透き通ったガラスの入った窓がない。
二階は階段を上ってすぐが四畳半の和室、その奥が六畳の洋間でさらに奥が七畳半の和室になっていたが、光の入る窓はベランダに面した掃《は》き出し窓だけ、三つの部屋にはやはり鏡入りの窓しかなかった。
そこに鏡があって、実はそれが窓でないのは、洗面所の鏡とあの姿見だけだった。洗面所の鏡は洗面ユニットに付属の鏡だから、さすがに違う。姿見のほうは壁に埋《う》めこまれていて、一見して窓のような造作だが、高さが床面から天井《てんじょう》近くまであって、周囲の縁《ふち》もアルミサッシ製ではなく白木製になっていた。
たとえ窓を開けても、三方から建物が迫っているうえに、窓の外がすぐ隣家の窓で開けられなかったり、壁ぎりぎりまで隣家の庇《ひさし》が突き出ていてほとんど光が入ってこない。そうでない窓にまで鏡が入れられていて、翠は呆《あき》れかえってしまった。
階段を駆けおりると、礼子がにこやかにやってくるところだった。
「――ね? 良かったでしょ?」
「良かった? 冗談じゃないわよ、おかあさん。本当にぜんぜん光の入る窓がないじゃない」
礼子はきょとんと目を見開いた。
「あっても役に立たないもの」
「本当にこんな家に住む気?」
「採光が悪いから、あんなに安かったのよ。――べつに構わないでしょ? マンションだってこんなものなんだから」
「それはそうだけど……」
だからといって、全部のガラスを鏡にする必要があるのだろうか。
――まるで、窓の外に見てはいけないものでもあるみたい。
翠は唐突にそう思った。
「お値段があれだけなんですもの、多少のことは仕方ないわよ。収納も多いし、部屋も多いし。いいじゃないの」
「……でも、賃貸《ちんたい》じゃないのよ。暮らしてみて気に入らなくても、簡単に引っ越すわけにはいかないんだから……」
「売り家なんだから、なにもかも気に入るようにはいきませんよ」
たしなめるように言われて、翠は溜《た》め息《いき》をついた。確かに破格に安いのだ、この家は。母娘《おやこ》に残されたものからいえば、立地条件といい、広さといい、この家は願ってもない掘り出し物だった。
「あのお値段でこれだけの家は見つからないわよ。ちょっと買い物には不便だけど、駅まで近いし都心へも便利だし」
「それは、そうだけど……」
翠はあきらめ悪くつぶやく。
「贅沢《ぜいたく》言わないで。翠だって、通勤に一時間も二時間もかけるの、いやでしょう?」
うん、とあいまいにうなずいて、翠は礼子の顔を見た。
「……ねえ、安すぎない?」
矛盾した言葉なのは承知のうえで翠は聞いた。確かに、あの値段でこの家が買えるなら安いと思う。採光が悪いから、古いからという理由は納得《なっとく》できるが、それにしては価格が安すぎる気がするのだ。いまどき売り家というのも珍しいし、内装も設備も値段のわりに良すぎる。
「まさか、まだ他になにかあるんじゃないでしょうね?」
「なにか、ってなにが」
「だから。どこか建物に悪いところがあるとか、安売りしなきゃならない原因が他にもあるんじゃないの、って」
「馬鹿《ばか》ね。持ち主さんの事情は言ったでしょ? 息子さんのところに行くのに、大急ぎで売ってしまいたいんですって。なにがしかのお金になればそれでいいから、って」
「でも……」
「運がよかったわよ、わたしたち。これなら倍してもおかしくないんですもの」
そうね、と翠はつぶやいた。溜め息は胸のなかにしまっておく。父親が死んで以来、ひさびさに生き生きとしている礼子の顔を見ると、それ以上の異論は唱《とな》えにくかった。
「おかあさんは気に入ってるんだ……」
「掘り出し物よ」
礼子は満面の笑みを浮かべて、さらに言う。
「きっと後悔するわ[#「きっと後悔するわ」に傍点]」
え、と翠は礼子の顔を見た。
「あら、……いやだ」
礼子はかすかに赤くなった。
「いやあね、年をとると。――後悔なんてしませんよ、きっとね」
翠は微笑《ほほえ》む。
「まあ、いいわ。おかあさんのいいようで」
礼子も笑顔をみせた。
「じゃあ[#「じゃあ」に傍点]、早く出て[#「早く出て」に傍点]。悪いことが起こらないうちに[#「悪いことが起こらないうちに」に傍点]」
「――おかあさん?」
礼子はわずかに瞬《まばた》きし、狼狽《ろうばい》したように口もとを押さえた。
「いやだわ。――早く出て手続きを済ませましょう、って言いたかったの。翠の気が変わらないうちに、って」
「おかあさん、だいじょうぶ? やぁよ、もうボケただなんて」
礼子は顔をしかめてみせる。
「あなたこそ、いやなことを言わないで。まだそんな年じゃないわよ」
翠は笑った。礼子も笑い出したとき、どこかで戸の開く音がした。小さく女の子の声が聞こえる。
――ただいま。
礼子は翠を見る。
「近所に女の子がいるのね。隣かしら」
「けっこう音が響くなぁ」
――おかあさん、帰ったよ。
「そうやって、小姑《こじゅうと》みたいにいちゃもんをつけないの」
「はいはい」
――おかあさん、どこ?
礼子が笑いながら玄関に降りて、翠もそれに続いた。明かりを消すと、長い廊下の奥にはまた暗闇がまいもどった。
――おかあさん、ってば。
――ねえ、どこ……?
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一章
東京は渋谷《しぶや》、道玄坂《どうげんざか》。
そのビルに近づいて、広田《ひろた》は思わず廻《まわ》れ右をしそうになった。
いかん、とすぐに気を取り直したものの、踏みこむのにちょっとばかり躊躇《ちゅうちょ》をする。
広田のもっとも苦手なタイプの場所だった。赤い煉瓦《れんが》ふうのタイル貼りになった凝《こ》った外見、一階は道玄坂に面して小さいながらも広場の様相、その中央に小さな洒落《しゃれ》た噴水があって、人待ち顔の若者がたむろしている。
広場に面した小さなテナントがブティックや喫茶店であることからも察せられるとおり、噴水の縁《ふち》に腰をおろし、あるいは脇《わき》に立って腕時計に目をやっている人種は圧倒的に女性が多い。
噴水の脇《わき》、少し奥まったところに喫茶店の看板が見えていたが、そこへ辿《たど》り着くにはこの広場を横断しなくてはならないらしい。
広田は憮然《ぶぜん》とした。
姓は広田、名は正義《せいぎ》、祖父も父も剣道自慢の警察官、血筋を辿れば古くは某藩|抱《かか》えの剣術|指南役《しなんやく》の家柄、家業も堅《かた》いが家風も堅い。そういう家に育ったものだから、広田はあかぬけた場所がどうにもこうにも苦手である。生をうけて四半世紀、この年になるまでディスコに行ったこともなければ、デートなるものをしたこともない。見合いは一度したが、相手から丁重《ていちょう》にお断りされてしまった。どうやら歌舞《かぶ》音曲《おんぎょく》に疎《うと》かったのが敗因だったらしい。
――そんなことは、ともかく。
若い女性が好んでたむろしそうな場所が、広田は総じて苦手である。自分がその場所に似合わないことがわかっているので、どうにも気後《きおく》れがする。気後れを見すかされるのか、とことんその場に似合わないのか、女性が含みありげな視線を寄こしたりすることが多いので、できることなら足を踏み入れたくないと切に願ってしまうのだ。
今も噴水に座った娘さんが三人、広田のほうをチラチラと見ては、なにごとか耳打ちしあっては笑っている。耳まで赤くなるのを感じながら、広田はなかば憤然として広場に足を踏み入れた。ぼーっと立っていて、気後れを見すかされるのは恥だと感じたからである。逃げるわけにはいかない。広田は約束があってここに来たのだから。
小走りになろうとする足を強《し》いてなだめ、俯《うつむ》こうとする首をはげまして、広田は広場を横断にかかった。
「Dolphin」と文字の書かれたイルカ形の板が下がったドアを開けると、ウエイトレスが華やかな声をかけてきた。
「いらっしゃいませ」
どうもと会釈しながら、さして広くもない店内を広田は見渡す。隅《すみ》のほうに軽く手をあげる同僚の姿を見つけた。
「――広田くん、ここ」
店内にはあまり大きくはない音量でピアノ曲が流れていたから、同僚の声は小さいがよく通った。広田は軽くうなずいて隅のテーブルに向かった。
同僚は中井《なかい》咲紀《さき》といって、広田と同期だった。その咲紀から、友達の相談にのってやってほしい、と言われて待ち合わせ場所を指定されたのは昨日のこと、それでわざわざこの休日に、最も苦手な場所に出かけてきたのだった。
咲紀の前には髪の長い娘さんが座っていて、広田のほうを振り返って軽く会釈をした。綺麗《きれい》だけれどもおとなしげな雰囲気で、広田はやや安心する。元気のよいお嬢さんが、広田はあまり得意ではないのである。
「わざわざ、悪かったわね」
咲紀は言って、自分の隣の席を示した。広田は、いや、とだけ答えて腰をおろす。
「――翠《みどり》、これが同僚の広田くん」
これ呼ばわりで紹介して、咲紀は広田のほうを見た。
「この子は阿川《あがわ》翠さん。大学のゼミが一緒だったの」
どうも、と広田が会釈すると、彼女もまた軽く頭を下げた。きちんとしたお嬢さんだという印象を受けた。ただ、あまり顔色が芳《かんば》しくない。相談ごとがあるということなので、悩み疲れているのだろうか。
時候の挨拶《あいさつ》ていどの雑談をしながら、オーダーしたものがテーブルに届けられるのを待ってから、咲紀はやや低めた声を出した。
「――それでね、相談ごとなんだけど」
咲紀は言って、翠を見る。翠は少し身体を緊張させた。
「やっぱり、本人から聞いたほうがいいと思うんだよね。――翠、広田くんに事情を話してくれる?」
翠は、咲紀にそういわれてほんの少し迷った。言うべきか否かではなく、他人に語ることが無条件にはばかられたのだ。
「……実は……わたしの家はこの春に引っ越したんですけど……。その家が、少し問題があるみたいなんです」
広田は首をかしげた。
「問題というと、隣近所のトラブルとか、登記上の問題とかですか」
「そういうのではなくて……」
翠はティーカップを意味もなく持ち上げた。空《から》になったカップの底には細かな茶滓《ちゃかす》が歪《ゆが》んだ円を描いていた。
翠が新しい家に越して最初に気になったのは、とにかく電気系統にトラブルが多いことだった。
信じられないほど頻繁《ひんぱん》にブレーカーが落ちる。これまで故障ひとつなかった電化製品が次々に故障して、何度修理に出しても同じ故障が頻発する。電話には雑音が入るし、テレビの画像にも歪《ゆが》みが出て、これまた何度業者に依頼しても直らない。
次は水、だった。梅雨《つゆ》に入って、家の中のあちこちで雨漏《あまも》りがしはじめた。これまた何度業者に依頼しても直らなかった。見た目ほどしっかりした建物ではないのだ。そもそも古いせいだ、と言い放たれてしまえば、翠にも礼子にも返す言葉がない。真新しい壁は染《し》みだらけになって、しかも湿気がすごくて壁といわず床といわずカビだらけになってしまった。
「……それは、建物に問題があるんじゃないんですか」
広田は翠の話を聞いて、そう口をはさんだが、翠は首を横に振った。
「そうなのかもしれません。修理にきたひとも、そう言うんですけど……」
ふむ、と広田は腕を組む。不安そうに長い睫《まつげ》を伏せている翠の顔を見返した。
「その頃からだと思います。ひどい臭《にお》いがするようになったんです」
「臭いというと」
「何かが腐《くさ》ったような臭いです。――最初は鼠《ねずみ》でも死んでて、その臭いじゃないか、って言ってたんです。そうでなきゃ、下水の臭いが上がってくるのかしら、って。それで母と臭いの出所を探したんですけど、ぜんぜんわからないんです。とにかく家じゅう、どこに行っても臭って」
翠はかすかに鼻先にその臭いがよみがえった気がして眉根《まゆね》を寄せた。
その頃までは、翠もやはり、と思っていた。やはり建物に問題があって、それであんなに安かったのだ、と。
おかしい、と思うようになったのは、梅雨の終わり、母親の礼子《れいこ》が夜も早々に雨戸を閉めているのを見てからだった。
「――おかあさん、雨戸なんか引いたら暑《あつ》いじゃない」
翠は居間で映りの悪いテレビを観ていた。クーラーをつける踏ん切りがつくほど暑くはないが、かなり蒸《む》す夜だった。
「クーラーにしない?」
礼子はそそくさと雨戸を閉めながらそう言う。
「もったいないわよ」
「いいじゃない。暑いのを我慢《がまん》することなんかないわよ」
「臭いがこもるでしょ。やめてよ」
翠の語調がややきつかったのは、家の中がトラブル続きで、慢性的にいらいらしているからだった。
礼子は困ったように翠を見、黙って雨戸の残りを閉めてしまった。
「おかあさん、ってば」
「嫌《いや》なのよ、なんとなく」
「なんとなくって、なにが」
礼子はカーテンまでもぴったり閉める。
「誰かがのぞいてる気がするんだもの」
翠はあわてて礼子の顔を見直した。礼子の表情は険しい。
「窓がちょっと開いてても、カーテンにちょっと隙間《すきま》があっても、なんだか外から監視されてるような気がするの。――だから」
翠は軽く手を振った。それは翠にも覚えのある気分だったからだ。季節がら、できれば窓を開けておきたいが、夜に窓を開けていると落ちつかない気分がする。誰かにのぞかれている、という気がしてならないのだ。気のせいにちがいない、と無理にもあちこちの窓を開けていたが、ふと気がつくといつの間《ま》にかぴったり閉ざされている。それは礼子のしわざだったのだと理解した。
「気のせいよ」
「だと思うんだけど。……でも、落ちつかないんですもの」
礼子は言って、伏せていた目をあげる。
「ねえ、――お隣がのぞいているんじゃないかしら」
「やめてよ、変なこと言い出すの」
でも、と礼子は言って口を閉ざした。翠はひどく落ちつかない気分になる。本当に監視されている可能性があるのだろうか?
左隣の家に住んでいるのは若夫婦で、共働きなのだろう、夜遅くまで留守《るす》にしているようだった。右隣は中年の夫婦と高校生ぐらいの息子の三人家族で、彼らが翠は好きになれない。隣同士なのだから、道で会えば挨拶ぐらいするが、妙に愛想《あいそ》がよくて、意味もなく話しかけてきては母娘《おやこ》の事情や家の中の様子を聞きたがる。まるで詮索《せんさく》されているようで、どうしても気持ちよく会話ができなかった。
「いくらなんでも、他人の家をのぞいたりしないわよ」
「……そうかしら……」
不服そうに言って、礼子はしばらく窓にもたれて立ったまま、俯《うつむ》いている。少しの時間をおいて、低く言葉をもらした。
「家の中にまで、入ってきてる気がするのよ……」
おかあさん、と翠は語調をきつくする。
「そんなこと、できるはずないでしょ。どうかしてるんじゃない」
「だって、家の中のものの位置が変わっていることがあるのよ」
「気のせいなんじゃないの?」
「気のせいなんかじゃないわよ。ちょっとしたものの場所が変わってるの。泥棒《どろぼう》にでも入られたんじゃないかと思って、なくなったものがないかどうか、調べてみたことが何度もあるんだから」
「勘違いよ」
「違いますよ。確かに誰かが動かしてるの。――そりゃあ、あなたがいる時間なら、翠がいじったのかしら、と思うわよ。でも、あなたが出かけてる間に頻繁《ひんぱん》に起こるんですもの。誰かが入ってきてるんじゃなきゃ、どうしてそんなことが起こるの?」
「野良猫《のらねこ》でも入ってきてるんじゃないの」
「猫がお鍋《なべ》の位置を変える? 洗濯物を取りこんでる間に、煮物をしてたお鍋が別のコンロの上に移動してたりするのよ? 熱いお鍋を持ち上げて動かして、それまで使ってたコンロの火を消して、横のコンロの火をつけるの? そんなの、人間でなきゃできるはずないじゃない」
翠は顔をしかめた。――もしもそれが本当なら、明らかに人間の仕業《しわざ》だ。けれど、誰が何のためにそんなことをするというのだろう。侵入者がいるなら、その人物は自分が侵入した痕跡《こんせき》を残したくないはずだ。動かすつもりもなしに何かを動かしてしまったというのならともかく、そんなこれ見よがしなことをするだろうか。
「本当に、おかあさんの勘違いじゃないの?」
「違います、ってば。気になるから、ものの位置には注意しているもの。絶対に気のせいなんかじゃないわ」
強い語調で言い切ってから、礼子は窓際に座りこんだ。
「……気味が悪いわ」
「だからって、簡単に人を疑うのはどうかと思うわよ」
「それは、そうだけど。お隣の笹倉《ささくら》さんったら、合《あ》い鍵《かぎ》を預かりましょうか、なんてしつこく言うんだもの」
翠は瞬《まばた》いた。
「合い鍵を? どうしてよ」
「買い物に出ているときに、雨が降ったりしたら洗濯物が心配でしょう、ですって。……あの奥さん、ちょっと変だわ」
「普通、言わないわよね、そんな親しいわけでもないのに」
「でしょう? 変なトラブルだって続くし、誰かが嫌《いや》がらせにやってるんじゃないかしら、って」
でも、と翠は爪《つめ》を噛《か》んだ。
「合い鍵をほしがるくらいなんだから、うちの鍵を持ってるわけじゃないでしょ? おかあさん、昼間鍵をかけてないの?」
「かけてますよ。チェーンだってしてるわ」
「だったら、人が入ってこれるはず、ないじゃない」
「だって他に考えられないでしょ!」
いつの間にか声高になっていた翠と礼子は、唐突に響いてきた小さな音に声を途切らせた。コツコツと、小さな音がダイニングのほうからしている。翠と礼子は顔を見合わせ、それから二人してダイニングをのぞきこんだ。
コツ、とそれはガラスを叩《たた》く音に聞こえた。ダイニングにある窓を誰かが外から叩いているようだった。
翠はひとつ息をのんで、鏡の入った窓に近づく。ノックの音は続いている。窓の向こうは笹倉家の外壁だった。
「――はい?」
返事をするのも妙な感じだ、と思いながら、翠は窓のラッチ錠を外《はず》す。そっと窓に手をかけると、はたりと音がやんだ。
翠は窓を開ける。サッシの外には網戸《あみど》、その向こうには古びた外壁。家の間にのびる隙間《すきま》は暗い。
「はい?」
言って翠は窓の外を見渡した。
――誰の姿も、何の影もなかった。
梅雨があけ、本格的な夏に入ると、母娘《おやこ》の悩みは深刻になった。
昼夜をとわず、窓を叩く者がいるのだ。カツコツとガラスを叩く音がして、窓を開けてみると誰もいない。隣家の窓がこちらに面していたりするが、手の届く範囲に窓がなくても、やはりノックの音がする。
あいかわらず、トラブルは続いていた。雨戸はできるだけ早い時間に閉め、窓もぴったり閉めるようになって、クーラーに頼って生活するようになったものの、そのクーラーも五度つけると一度はなにかトラブルがある。冷房のはずが暖房になっていたり、原因もなく止まったりするのだ。これまた何度修理を呼んで直してもらっても、同じ故障が起こった。
「……お風呂にはったお湯が真っ赤だったり……」
翠は溜め息まじりにこぼした。
「赤い水、ですか」
「ええ。たぶん水道そのものから赤錆《あかさび》まじりの水が出てるんだと思うんです。家鳴《やな》りがしたり……。これも、大工《だいく》さんを呼んでも、原因がはっきりしないんです」
「……なるほど」
「テレビの調子はおかしくなる一方で……。何度チャンネルを調整しても、アンテナの位置を直しても、変な模様が出るし、色は斑《まだら》になるし。電話の混線はどんどんひどくなって、どうかすると相手の声なんか聞こえないんです」
咲紀が声をはさんだ。
「翠ったら、うちに電話してくるのに、公衆電話から電話してきたの。雑音がひどくて話ができないんですって」
翠はうなずく。
「そうなんです。――おまけに、最近じゃ、電話がかかってきたり」
広田は眉《まゆ》を寄せた。
「――混線で?」
「だと思います。電話が鳴って、受話器を取るでしょう? そうすると雑音がひどくて、しかも相手の声がすごく遠いんです。ちょうど、混線してる電話みたいに。――わかります?」
「はい」
「声は聞こえるし、声の調子もわかるんですけど、なんて言ってるのかわからないんです。こちらの声は聞こえないみたいで、応答が完全にすれちがってしまって。相手も不審《ふしん》に思うんじゃないかしら、聞こえないの、とかなんとか、そんな台詞《せりふ》を怒鳴《どな》ってるうちに諦《あきら》めたみたいに切れてしまうんです。電話の相手に心あたりがないので、うちにかかってきたんじゃないんだと思うんです」
広田は眉をひそめた。
「――それで?」
「それだけです。そういうことが続いて、母もわたしもノイローゼになりそうなんです。どこの業者も何度も呼ぶんで、すごく嫌《いや》な顔をするし。渋るのを、無理にもお願いして、やっと来てもらってもすぐにまた壊れるし……」
やはり、後悔することになったわけだ、と翠は溜め息をついた。これが賃貸の家ならさっさと出ていく。翠も礼子ももうウンザリしているのだ。だけどそれは簡単にはできない。
「なるほど。それはお困りでしょう」
広田の声に、翠はわずかに言い淀《よど》んでから、再び軽い溜め息をついて口を開いた。
「……しかも、母が変なんです、最近」
翠は両肘《りょうひじ》をテーブルについて掌《てのひら》で頬《ほお》を支える。このまま顔を覆《おお》ってしまいたかった。
「窓の外から誰かがのぞいてる、って言って譲らないんです。窓の外に誰かがいた、とか。いるはずないんです。人が入れるような広さはないし、二階だったりするんだから。電話の混線の声だって、出ていけ、って言ってるって」
礼子があまりに真剣に訴えるので、翠も何度も耳を澄ませてみたが、何かを怒鳴《どな》っているのがわかるだけで、何と言っているのかはどうしても聞きとれなかった。
「浴槽の水も、血だって言い張るし。確かに赤いし、金臭《かなくさ》い臭《にお》いがするけど、そんなの錆《さび》なら当然でしょう。そう言っても、血だって言ってきかないんです。……隣の家の音がけっこう響いてくるんですけど、それだって隣のせいじゃなくて、家の中に何かがいるんだ、って」
「何か?」
翠はうなずく。
「人の足音がしたり、声が聞こえたりするんです。隣の音が響いてきてるのよ、って言っても、母は家の中から聞こえるって譲らないんです。家の中から聞こえてるはず、ないでしょう? だって、家にはわたしと母しかいないんだから」
広田はなにもコメントせずに、じっと翠の顔を見つめた。
「そんなはず、ないでしょう? ……でも」
翠は掌《てのひら》で顔を覆《おお》う。
「……でも、わたしにも家の中でしてるように聞こえるんです」
黙って聞いていた咲紀は息を吐く。
「それで、あたしのところに電話してきた、ってわけ」
広田は黙りこむ。
「これって完全に異常だと思うのよね。家に何かが憑《つ》いてるとしか思えないじゃない? しかも、金縛《かなしば》りが起こったり、変な人影を見たりしてるんですって」
広田は咲紀ではなくて、翠に視線を向けた。
「そうなんですか?」
翠は小さくうなずいた。
「母は何度も金縛りにあった、って言ってます」
「阿川さんは?」
「わたしも……何度か……。でも、よくあることですから……」
広田はうなずく。
「確かに、よくあることです。――人影は?」
翠は首を横に振った。
「わたしは見ていません。でも、母は見たような気がする、って。家の中に鏡が多いんです。その鏡の中に人が映ってたって。それで嫌《いや》がって鏡に全部カーテンをつけてしまったんです」
ね、と咲紀は言う。
「変でしょ? それにね、以前住んでたひとの中に、自殺したひとがいるんですって」
「そうなんですか?」
広田に問われて、翠はうなずいた。いつの話かは知らないが、そんなことがあったのだと、隣の笹倉夫人から聞いた。
「絶対なにかあると思うのよ」
広田はちらりと咲紀を見る。それからひとつ溜め息をついた。
「――阿川さん」
はい、と翠は顔を上げる。
「おれは特に変だとは思いません」
広田は翠を見やった。繊細そうなお嬢さんだ。いもしない魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》に怯《おび》えて白い顔をさらに白くしているのが不憫《ふびん》でならなかった。
――むろん、広田は幽霊などというものを信じない。そんなものは人の怯懦《きょうだ》が見せる幻だと思っている。
「阿川さんはひどい欠陥|家屋《かおく》をつかまされたんです。電化製品の故障なんて、電気系統に問題があるからに決まっています。雨が漏《も》るのも隣の家の声が聞こえるのも、壁に問題があるからでしょう。なにかあるんじゃないかと怯《おび》えているから、鏡の中に人影を見たりする。――そういうことじゃないんですか」
翠は泣きそうな目で広田を見上げた。
「何度もそう電気工事の人や、大工さんに言いました。でも、みんなちゃんと直した、これで問題ないはずだ、って言うんです。なのに同じことが何度も起こるんですよ?」
「調べ方が悪いんでしょう。工務店を変えてみましたか?」
「いいえ、それはまだ……。越したばかりでどこにお願いすればいいのか、よくわからないものですから……。でも、お願いしてるのは、不動産屋さんに紹介していただいた、いわば、ずっとわたしの家のメンテナンスをしている所ばかりなんです。なのに、答えはいつも同じです。故障なんか起こるはずがない、って」
広田は溜め息をついた。
「ときどきね、機械運の悪い人間というのがいるんです。おれの友達でも、買った機械買った機械、初期不良で壊れてた、って奴がいます。代品を持ってこさせたら、それまで初期不良で壊れてた、なんてこともありました。阿川さんも運が悪かったということじゃないんですか」
「……でも」
「世の中では、結構不思議なことが起こります。けれどね、それは幽霊や祟《たた》りのせいではないんです。そういうもののせいにするのは、失礼ですが愚《おろ》かなことだと思います」
「そうでしょうか……」
翠はそうつぶやいたが、咲紀は明らかに不快そうにした。
「広田くんって、すぐにそれね」
広田もまた不快感を露《あらわ》にした声を出した。
「本当のことだ」
「偶然とか、運が悪かったで済ませられる問題? これだけのトラブルが短い期間に連続して、しかも修理しても修理しても直らないなんて変じゃない。専門家だってそんなはずないって言ってるのよ?」
「そういうこともあるんだ。深い意味があるような気がするが、実は意味なんてない」
咲紀は常にこうなのだ。なんでもかんでも超常的なもののせいにしたがる。おかげで広田とは喧嘩《けんか》が絶えない。
咲紀は軽く息をついた。
「……ま、いいわ。広田くんがそう言うのは想像がついてたから」
「わかっていておれを呼んだのか?」
そう、と咲紀はいたずらっぽく笑う。
「意味があるのか、意味がないのか、これを機会に確かめてみる気はない?」
広田は眉《まゆ》をひそめた。
「――どういうことだ?」
「まず、広田くんが翠の家に泊まりこむの。翠はお母さんと二人っきりだし、女二人で得体《えたい》の知れない家にいるのって、気味が悪いし心細いじゃない。広田くんが泊まりこんであげれば翠だって安心だし、ひょっとしたら広田くんだって貴重な体験ができるかもしれない」
「お前な……」
「それとも、怖《こわ》い?」
「怖いはずがないだろう」
言って広田は翠を見る。
「だがな、阿川さんだって、女二人の家に男に入って欲しくはないだろうが」
咲紀は翠を見た。翠は小さくなるようにして俯《うつむ》く。
「わたしは……いらしてくださると助かります。あの……狭《せま》いですけど」
言って翠は広田の顔色をうかがうようにする。
「わたしも母も不安なんです。誰か頼りになる方がいてくださると、本当に助かります」
ですって、と咲紀は広田をうかがう。
「……広田さんが、ご迷惑でなければですけど……」
「おれはべつに構いませんが」
「じゃ、決まりね」
咲紀は軽く手を叩いた。そうしてさらに意味ありげに広田の顔をのぞきこむ。
「広田くんは、しばらく翠んちの居候《いそうろう》兼用心棒になる。――そのうえで、さらに専門家に調べてもらう、ってのはどう?」
「専門家?」
広田が問い返すと、咲紀は含みのある表情で真っ向から広田の目を見る。
「――『渋谷サイキック・リサーチ』ってとこ」
広田は眉《まゆ》をひそめた。どこかで聞いたことのある名前だった。
「広田くんが言ってたとこよ。こんなところがあるんだって」
言いながら、咲紀はそっと目配せをする。翠をはばかるようなその表情で、広田はその名前を思い出した。
「中井――」
「そこに依頼して調べてもらう。――どう?」
「しかし、どこにあるかわかってるのか?」
咲紀は笑った。
「もちろん、わかってるわよ」
言って指で天井《てんじょう》を示した。
「――この二階」
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二章
エスカレーターを上がって広田《ひろた》はホッとした。道玄坂《どうげんざか》に面した開放型のホール。白い石のオブジェを中心にほっと息をつけるほどの空間が広がっていて、恐れたような女性の群れの姿はなかった。一階とはガラリと印象が変わって、なかなかに静謐《せいひつ》な風情《ふぜい》である。
広場に面してはテナントが三つ。インテリア・デザインの店、矯正《きょうせい》歯科、なにやら業務内容の判然としない企画会社のオフィス。そうして少し奥まったところにブルーグレイのドアが見える。
広田はちょっと足を止めて店構えを検分した。
ドアはペイントされた木枠のもの、上半分に模様《もよう》入りの磨《す》りガラスが入っていて、そこに金の洒落《しゃれ》た字体でロゴとオフィス名が書かれている。
――いわく、「Shibuya Psychic Research」。
業務内容を示すようなものは一切見えない。ドアの脇《わき》には大きな窓があるが、ドアと同じくブルーグレイにペイントされた桟《さん》には大きな模様入りの磨《す》りガラスが入っているし、さらに内側にはロールスクリーンが下がっていて、中の様子はまったく見えない。かろうじて白い布に観葉植物の影が薄い緑に映っているだけである。
広田はややひるむ。これのどこが拝《おが》み屋の事務所なのだろう。
拝み屋といえば、しわくちゃの老婆が死んだ家族を呼びだしたり、憑《つ》き物《もの》だのを煙で燻《いぶ》しだしたり、祓《はら》い串《ぐし》や数珠《じゅず》を鳴らして先祖|供養《くよう》をすすめたり、法外な高値で掛《か》け軸《じく》や壷《つぼ》を売りつけたりするところではなかったろうか。やはり店構えはそれにふさわしく、重々しくも胡散臭《うさんくさ》い和風の構えだろうと思っていたのに。
「ここ?」
同じように意外に思ったのだろう、翠《みどり》が咲紀《さき》に訊《き》くと、咲紀は肩をすくめて答えた。
「みたいね。――渋谷《しぶや》心霊調査事務所、って訳すのかしら」
「ぜんぜんそういう感じじゃないのね」
「喫茶店かなにかみたい。これが昨今の流行なのかな。ちょっと意外ね」
咲紀が足を踏み出して、翠と広田がそれに続く。ドアを押すと軽やかなベルの音がした。
「こんにちは」
オフィスの中に踏みこんだ広田たちに声をかけてきたのは、大学生くらいの若い男の子だった。いかにも明るそうな好感の持てる風貌《ふうぼう》をしている。服装もスーツとはいかないまでもスクエアな上下で、ビジネス色が漂《ただよ》っている。細い縁《ふち》の眼鏡《めがね》もなかなか知的な感じで、どう考えても拝み屋の受付としては不適格な気がする。
拝み屋の事務所だ、と気負いこんでいた広田は、かなりのところ気抜けしてしまった。
「ご相談ですか?」
物腰も口調もきびきびしていて、さらに拝み屋の雰囲気ではない。なにやらがっかりした気分で、広田は肩の力を抜いた。
咲紀が翠の代わりに彼に答える。
「――そうなんですけど。所長さんはおいでになります?」
それが、と彼は困ったような笑みを浮かべた。
「あいにく所長は旅行中でして。本日戻ってくる予定だったんですが、飛行機が遅れまして、まだこちらには」
「遅くなりそう?」
「いえ、空港に問い合わせたら、飛行機はもう到着しているそうですので、たぶん成田《なりた》からこちらに移動している途中だと思うんですが」
「待たせてもらったほうがいいのかしら? それとも、出直したほうがいい?」
「待っていただければ、もうすぐ調査員が来ます。依頼をお受けするかどうかは、所長に相談してみないと何とも申しあげられませんが、とりあえず内容をうかがえると、こちらから追って連絡をさしあげられますが」
「じゃあ、待たせてもらおうかな。――翠、広田くん、いい?」
翠も広田も同様にうなずく。正面のソファを勧《すす》められて腰をおろした。
オフィスにも怪《あや》しげな雰囲気がどこにもなかった。左手に見える窓は大きい。道玄坂の並木が枝をのぞかせていて、その緑越しに明るい光が入っている。休日の午後、坂をゆく人々の喧騒《けんそう》がガラス越しに伝わってきていた。オフィスの内装も上品だが明るい雰囲気、これ見よがしな小道具もなくて、本当に何かの事務所という体裁《ていさい》である。
「どうも間が悪くて申し訳ありません。――お茶をどうぞ」
若者が紅茶をテーブルの上に並べる。ありがとう、と咲紀が声をかけた。
「――あなたは、バイト?」
「そうです。――あ、僕は安原《やすはら》と申します」
「ここ、あまり心霊現象の調査事務所、って雰囲気じゃないのね?」
「はあ、皆さん、そうおっしゃいます」
「安原くんもお祓《はら》いをしたりするの?」
「いえ、僕は単なる事務員ですから」
咲紀はオフィスの中を見渡す。ドアを入ってすぐのところにひとつ、ドアの左手、ホールに面した窓の前にふたつ、デスクが据《す》えられていた。
「調査員はじゃあ、二人?」
ええ、と安原はうなずく。
「その人達がお祓いをするんだ? それともお祓いをするのは所長さんだけ?」
安原は少し困ったようにした。
「そういうこともしますが。……いちおう、うちは調査事務所ですので。お祓いをする、というより、事件を調査して原因を究明するのが業務なんです。もしも手の及ぶ範囲のことでしたら、解決までお引き受けしますが、いわゆる霊能者さんとは少し違うので……」
「じゃあ、お祓いはしないの?」
安原はさらに困った様子を見せた。
「調査員はそういうこともしますけれど」
「二人とも?」
「一人半、というところですか」
「え?」
安原は笑った。
「一人はまだ、こと除霊に関しては半人前なんです」
なるほどね、と咲紀は笑う。
「じきに戻ってくるのは、一人前さん? 半人前さん?」
「半人前のほうです。ただ、実際の調査に彼女だけが行くことはありませんから。必ずもう一人の調査員と所長が同行しますし、イレギュラーでその他の同業者が同行することもありますので、ご安心ください」
「彼女、ってことは女の人なんだ? それで一人前さんのほうは、しばらく戻ってこないのね?」
「はあ。彼は所長に同行してますので」
「調査?」
「いえ。私用です」
「あなたは事務員? バイトはあなたひとり?」
「はい。時々ヘルパーが入りますけど、彼女は受験生なんで、基本的には僕だけです」
受験生ねえ、と咲紀が含みありげにつぶやくと、安原は首をかしげた。
「あの……ですね」
「なあに?」
「先ほどから僕のほうが調査されているような気がするんですが」
咲紀は笑った。
「だって、怪《あや》しげな団体だったらたまらないわ。――そうでしょ?」
「はあ、ごもっともで。――ついでに、もうひとつお訊きしてもいいですか?」
「どうぞ」
「こちらへは、どなたのご紹介で?」
「紹介がないといけないの?」
いえ、と安原は小さく手を振る。
「そういうわけじゃありません。ただ、ご紹介以外の依頼の方は珍しいので」
「ああ、そうなんだ? ――あたしは違うわ。こういう事務所があるようだって、人づてに聞いただけ」
「そうなんですか」
安原が言ったところに、ドアの開く音がした。同時に元気な少女の声が飛びこんでくる。
「こんちはー」
高校生ぐらいの女の子だった。
「安原さん、ナル、戻ってきた?」
言ってから、翠たちに目を留め、あ、とつぶやいて少女はぺこりと頭を下げる。
「し……失礼しました」
安原も、すみません、と咲紀たちに詫《わ》びた。
「谷山《たにやま》さん、依頼の方だよ」
「あ、はい。すみません、少々お待ちください」
少女は頭を下げて、あわててデスクにバッグを置き、コートを脱ぎにかかる。広田はあんぐり口を開けて少女を見守った。咲紀も同様に驚いたようにしてから、安原に向かって声を低めた。
「まさか……彼女が調査員?」
「はい。――だいじょうぶです。彼女は若いですけど、ちゃんと責任は果たしますから。うちの所長は、無能な人間に調査員の肩書きを与えるほど甘くないんです」
「ふうん?」
咲紀がつぶやいたところに、少女が戻ってきた。
「お待たせしました」
そう言って頭を下げ、失礼します、と前のソファに座る。テーブルの上にファイルを置いた。
「わたしは調査員の谷山|麻衣《まい》と申します。ご依頼の内容をうかがわせてください」
咲紀に促《うなが》されて、翠は事情を少女に語った。
怪《あや》しげなところではないようだが、あまり頼りになりそうなところでもないようだ、という独白は胸の中にしまっておく。
翠は疲れていたし、心底《しんそこ》うんざりしていた。あてにできない相手に面倒な事情を語るのには気力がいる。それでも丁寧《ていねい》に説明をしたのは、聞き手の少女が真剣で、しかも手際《てぎわ》がよかったからだ。呆《あき》れるほど若いが、慣れているのは確かなようだった。
「その家にお住まいなのは、阿川《あがわ》翠さんとお母さんの礼子さん、お二人だけなんですね?」
「……ええ」
「頻繁《ひんぱん》に出入りなさる方がおられますか?」
いません、と言ってから、翠は思い出したように広田を見た。広田はうなずく。
「彼女が心細がるので、明日からでもおれが泊まりこむことになっている」
広田はちらりと咲紀を見た。変な噂《うわさ》になってもいけないので、従兄弟《いとこ》だということにしようと、喫茶店で申し合わせが成立している。
少女は広田のほうを見て軽く首をかしげた。
「失礼ですが?」
「おれは広田|正義《せいぎ》。翠さんの従兄弟《いとこ》にあたる。ついでに言うと、こいつは中井《なかい》咲紀、おれの同僚だ」
「申し訳ありませんが、広田さんのお年とご職業を」
「二十四。公務員」
はい、と言って麻衣はメモを取り、ファイルを閉じた。
「――お時間を取らせてすみませんでした。所長に相談させていただきます」
「谷山さん」
ぺこりと頭を下げた麻衣に広田は声をかける。
「きみはどう思う? やはりこれは心霊現象なんだろうか?」
世の中の、何もかもを――それこそ写真に写った森の影や現像ムラまで、霊とやらのせいにしたがる霊能者連中を、広田は心底|軽蔑《けいべつ》している。今、目の前にいる少女が、あの連中と同じ人種なのかどうかを知りたかった。
麻衣は少しも構えたところのない様子で首を傾げた。
「あたしにはなんとも……。でも、どう考えても変だと思いますけど」
「単に建物のせいじゃなく?」
「お話をうかがったかぎりでは、ポルターガイストみたいな感じもするんですけど。でも、現場にうかがって調査してみないことには断言はできません」
「ポルターガイストというのは何だ? よく耳にはするが」
「ええと……騒がしい霊、っていうんです。ノックの音がしたり、ものが移動したり、騒音がしたりしてますよね。ポルターガイスト現象でよく起こる九つの現象、というのがありまして、その中の三つなんです、これ」
「では、やはり家になにかいるのだと?」
麻衣はさらに首を傾げる。
「どうでしょう。……ポルターガイストは最近ではRSPKといいまして……」
「なに?」
「リカレント・スポンティニアス・サイコキネシスで、RSPK。頻発性自発的PKっていうんです。PKというのはいわゆる念力のことで、よくいう超能力、あれの一種です。つまり霊のしわざではなくて、人のしわざだったりすることが多いんです。人の無意識がやっちゃうんですよね。……ただ、そういう場合には必ずフォーカス――焦点という、ええと、騒霊現象の被害が集中するひととか、必ず現象に関係するひとがいるものなんです。阿川さんのお家《うち》の場合はそれがはっきりしませんから、ポルターガイストにしては、ちょっと変だな、という感じです」
「詳《くわ》しいのねえ」
本気で感心したような声をあげたのは咲紀だった。麻衣は咲紀のほうを見てあわてて手を振る。
「とんっでもない。所長に言わせると、あたしなんか見習い以下ですから」
「でも、調査員なんでしょ?」
「はあ。調査活動に従事するという意味では、確かに調査員です。こうしてお話をうかがったり、調査機材を運んだり。おかげですっかり腕力ついちゃって」
あまりに屈託《くったく》のない様子に、誰もが軽く笑った。
「では、谷山さん。心霊現象ではない可能性もあるということか?」
広田が問うと、麻衣は真面目《まじめ》な顔をする。
「皆無ではないと思います。以前にした調査でも、心霊的なことが原因じゃなくて、地盤沈下が原因だった、という例もありましたし」
「そうか……」
広田はちょっと息をつく。少なくともこの少女は、思ったよりまともそうだ、と思った。
麻衣は翠にあらためて向き直る。
「――あ、ええと、もしも依頼をお引き受けした場合、調査機材をどっと運びこんでベースというのを設営するんですが、構いませんか?」
「ええ」
「申し訳ありませんが、その場合、たくさんの電力を使いますけど」
「構わないわ」
「個人住宅の場合、電力会社のほうに連絡していただいて、別に電源を確保していただくようお願いすることになっているんですけど、それは」
「やります」
「調査中はできるだけ泊まりこみで作業をさせていただけるよう、お願いしているんですが」
「どうぞ。――狭《せま》いですけど」
「昼夜を問わず人がうろうろすることになりますし、大きな機材があちこちにごろごろすることになります。はっきり申しあげてかなり邪魔になりますけど」
翠は小さく笑った。
「気にしないことにするわ」
「あと、調査費用はこういうことになっているんですが」
麻衣は書類を差し出した。翠は受け取って目を通す。前もって咲紀から相場を聞いていたが、それに比べると驚くほど安かった。
「経費を負担するのは構いませんけど……本当に謝礼は、こちらの勝手な額でいいの?」
「はい。いちおうこの事務所の設立目的は心霊現象の研究のほうにあるので、営利目的の調査はやりません。お礼をいただく場合は、研究活動への援助という名目で寄付をいただくことになってるんです」
言って麻衣は小さく舌を出した。
「過去に、ゼロ、なんて例もありましたから。本当にお気持ちでいいんですよ」
「まあ」
「それでなくても、けっこう経費が大きいんで。消耗品《しょうもうひん》なんていっても、馬鹿《ばか》にならないんです。調査が長引くとビデオテープだけで五百本ぐらい使いますし。同業者に協力してもらった場合、そのギャランティの半分を持っていただくことになったり」
翠はうなずいた。
「いくらかかっても構いません。とにかく、早く原因がはっきりするなり、解決するなりしてほしいの」
わかります、と少女は言う。いたわるような語調の声が、ささくれた気分に優しかった。
「所長さんは調査を引き受けてくれるかしら?」
麻衣は困ったように笑った。
「それは……なんとも。うちの所長は、予断を許さない性格をしているもんで……」
「難しいひと?」
麻衣はさらに苦笑した。
「たいへん難しいです。――でも、つつかない限り、依頼者にかみついたりはしませんから」
そう、と翠は少し笑う。頼りになるかどうかはともかく、ひとをリラックスさせる子だ、とそう思う。ここに来る誰もが翠のように切羽《せっぱ》詰まっているのだとしたら、こういう子が対応してくれるのはありがたいことだ。
「できるだけ、お引き受けするよう、所長を説得します」
「お願いね」
「ハイ」
麻衣がうなずいたとき、再びドアの開く音がした。
「おかえりなさい」
入り口に近いデスクを離れてすぐさま迎《むか》えに立ったのは安原で、ソファから立ち上がって姿勢を正したのは麻衣だった。
「おかえりなさい。――所長、依頼の方です」
たしかに気むずかしそうな人物だ、と広田は入ってきた二人を見て思った。どちらが所長でどちらが調査員かはすぐにわかる。とっつきの悪そうな非常に長身の男(平均身長より高い広田より、さらにかなり高かった)、むろんこちらが所長だろう。というのは、もう一人の調査員とおぼしきほうは、麻衣と同年代の少年だったからだ。ともに非情にスクエアな服装で、どうやらこれがこのオフィスの流儀らしいと想像がついた。
――あまり一人前、というふうにも見えないけれど、と咲紀も調査員とおぼしき少年のほうを見てそう思った。一目見たら忘れられないタイプであるが。ケチのつけようのない美貌《びぼう》、とでも言ったらいいのだろうか。表情がないせいで、できすぎた人形のようにも見える。黒一色の身なりと白い肌の対比がよけいにそういう印象を与えた。
二人ともが、ちらりと広田たちのほうに視線を寄こしたが、口を開いたのは少年のほうだった。コートを脱ぎながらいかにも邪険な声を出した。
「――依頼書は」
「取らせていただきました」
「それを回してくれ。後日連絡をさせていただくから」
「でも、せっかくご本人がいらっしゃるんですから」
これにはどこかウンザリした様子の声が答えた。
「疲れてるんだ」
麻衣はぴくんと眉根《まゆね》を寄せて、それから広田たちのほうを見る。
「ちょっと、失礼をします」
ぺこりと頭を下げたかと思うと、ファイルを抱《かか》えてつかつかと二人のほうに歩み寄った。
「つかぬことをお訊きしますけど、何時間飛行機に乗っていたんですか。二十四時間ですか、四十八時間ですか」
二人は怪訝《けげん》そうに麻衣を振り返ったし、広田たちもまたきょとんと仁王立つ少女を見た。
「それはそれは長旅でお疲れでしょうとも。――でも、阿川さんはもう何か月も飛行機に乗っている以上の緊張を強《し》いられる生活をしているんです。せめてこの場で依頼書に目を通してください、所長」
さっきまでの優しげな様子はどこへやら、麻衣がファイルを乱暴に突きつけたのは少年のほうで、広田たちは三人してぽかんとした。――所長? 彼が?
麻衣、と冷々とした調子で叱《しか》る彼には構わず、彼女はファイルを押しつける。
「それとも、そぉぉんなにお疲れなんでしたら、あたしが読み上げましょうか? それでしたら、お疲れの所長にお休みいただきながら、依頼の説明ができますけど」
言って麻衣はにっこりと笑った。
「なんでしたら、安原さんに朗読してもらって、その間、肩をお揉《も》みしてもよろしゅうございますが」
所長、と呼ばれた少年は溜め息をついた。憮然《ぶぜん》としてファイルを取り上げる。
「――お茶」
「はぁいっ」
「失礼しました。――所長の渋谷です」
そう言ってソファに腰をおろした彼はファイルを開く。開いた口のふさがらない広田たちの目の前でゆっくりとファイルを繰りはじめた。
――いくらなんでも、これは若すぎる。
広田は呆《あき》れ果て、さらには憤《いきどお》りすら感じてしまった。
「きみが所長? ――本当に?」
返答はそっけなく、しかも露骨に鬱陶《うっとう》しそうだった。
「そうですが」
「渋谷――なんていうんだ?」
「名前が重要ですか」
彼はファイルから目をあげない。
「いくつなんだ? ずいぶん若く見えるが」
「年齢にご不満があるのでしたら、断《ことわ》っていただいても結構です」
「経歴は?」
広田くん、と小声でたしなめるように呼んだのは咲紀だった。
彼はやっと目線をあげて広田を見る。広田は男に生まれ落ちたので、男の美醜《びしゅう》には頓着《とんちゃく》がない。ただ猛烈に人形じみた無表情が神経を逆なでした。
「経歴についても同様ですね。年齢や経歴をお気になさるのでしたら、他をお訪ねください。もっとも、あなたは依頼者の阿川翠さんではないようですが」
広田は沸《わ》き上がってきた怒りを極力|鎮《しず》める。こんな若造を相手に、大人《おとな》げなくわめき散らすようなマネだけはしたくないものだ。
「紹介したのはおれなんだ。妙な連中だったら申し訳がたたない」
「では、もっと安心できる団体を探されてはいかがです。信頼できる場所かどうか、前もって確認もせずに紹介なさるのは、あまり親切な行為とも思えませんが」
さらに怒りの圧力が高まった気がする広田である。声のボリュームが上がりそうになるのを必死でこらえる。
「だから、今確認しているんだろうが」
彼は興味なさそうに広田を見てからファイルに目を戻し、感情の色のうかがえない声を出した。
「それで、阿川さん。依頼を取り下げられますか」
翠は首を振る。
「――いえ。よろしくお願いします」
完全に無視された形になって、広田の心中はさらに穏やかでない。――生意気《なまいき》な、と睨《にら》み据《す》えた目元には怒気《どき》が露《あらわ》に漂《ただよ》ってしまう。隣に座った咲紀が、ごく軽く肘《ひじ》でつついてきて落ちつけと伝えていたが、あいにく広田の理性には作用しなかった。
「たしか、――ここの所長は外国人だと聞いていたんだが」
彼は広田を見た。せっかく手持ちのカードを晒《さら》したというのに、期待したような表情の変化はいっさい見えなかった。
「責任者の国籍が重要ですか?」
「きみは外国人には見えんな? おれは、所長に彼女を紹介したいんだ。渋谷とかいうバイトの若造ではなく、オリヴァー・デイヴィスという本当の責任者に」
彼の表情には変化がなかった。むしろ麻衣や安原のほうが驚いた顔をする。
広田は笑った。
「デイヴィス氏を呼んでくれなか?」
彼はファイルを閉じた。やはりどんな表情も見えなかった。
「――阿川さん。あなたの従兄弟《いとこ》さんはこちらに不満がおありのようです。本日はいったんお帰りになって、よくご相談なさってはいかがですか」
翠は困ったように彼と広田を見比べた。
「依頼させていただくのは、わたしです。……ひとつ、お訊きしてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「あなたが、責任者ですね?」
「そうです」
簡潔な返答に、翠はうなずく。
「では、よろしくお願いします」
「……翠さん」
とがめる声を出す広田を、翠は見返した。
「広田さんには他人事《ひとごと》かもしれませんけれど、わたしも母も、もう我慢がならないんです。助けてもらえるのなら、どんな人にだってすがりたい気分なんです」
「しかし」
「わたしは、少なくともここが気に入りました。お願いですから、わたしの好きなようにさせてください」
思いもよらず気丈な翠の態度に、広田は不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。
「……わかりました」
では、と言って、彼はファイルに目を通しながら、翠に対して細かな質問を始めた。
「おとうさんが亡くなられて一年半、――おかあさんに再婚のご予定は」
翠は目を丸くする。
「ありません」
「翠さんは、おつきあいしている男性は」
「いませんけど……。そんなことが必要なんですか?」
「必要だからお聞きしているんです。――おとうさんが亡くなられた原因は」
「事故です。車の」
「家を購入するときに、おかあさんか翠さんか、どちらか反対はなさいませんでしたか」
「母は気に入っていたんです。わたしは採光が悪いのが気になりましたが、あえて反対するほど嫌《いや》だとは思いませんでした」
彼はただ、うなずく。
「テレビの周囲にスピーカーはありますか」
「あります」
「いつごろの製品ですか? 大きさは」
「二年ほど前に買ったものです。大きさはすごく厚い辞書くらいの」
「アンテナ線は同軸ケーブル?」
「だと思います」
「電話回線はひとつですか? 親子電話になっているようなことは」
「ひとつです。電話機もひとつ。コードレスの子機がありますけど」
「親機と子機で、混線の状況に変化はありますか」
「子機のほうがひどいです」
彼はうなずいてメモにチェックを入れてく。
――この少年のほうも、手慣れているのは確かだ、と翠は思う。
「閉めたはずのドアが勝手に開いていたり、逆に開いているはずのドアが閉まっていたようなことがありますか」
「そういう気がしたことは、何度かあります」
「抽出《ひきだし》やケースの中から、入れた覚えのないものが出てきたことは」
「ないと思います」
「元の持ち主にお会いになったことはありますか」
「一度だけお会いしました」
「転居先は」
「知りません。不動産屋に聞けばわかると思いますけど」
「かつてお宅かその周辺で、なにかの事件または事故があったという噂《うわさ》をお聞きになったことは」
「……前にお住まいの方が、自殺なさった、という話は聞きました」
まるで医者の診断でも受けているようだ、と翠は思う。細かな質問をしながら彼がメモを書きこんでいくのは横文字で、それがカルテを連想させるのでいっそうそういう気がした。
「おかあさんを神経科の医師、または分析医《セラピスト》のところに連れていかれたことは」
「……そんな、ありません!」
特に気もなさそうにうなずいて、彼はファイルを閉じる。
「――わかりました」
「引き受けていただけるでしょうか」
彼は少し考える様子をする。
「ひょっとしたら心霊現象ではない可能性が若干《じゃっかん》あります。それでも構いませんか」
「心霊現象ではない、と言いますと」
「一見して騒霊現象のようですが、これには疑問が残ります。お宅で頻発している電気系統トラブルについては、症状をお聞きするかぎり、物理的に説明がつきそうですが、これは詳《くわ》しく調査してみないと断言できません」
「調査してください」
「なんでしたら、一度予備調査を行って、その結果次第ということでも構いませんが」
いえ、と翠は首を振る。
「母がとても気に病《や》んでて心配なんです。徹底的に調査してください」
彼はうなずいた。
「では、お引き受けします。――リン」
彼は背後に座ってメモを取っていた長身の男に声をかけてから、翠のほうを見返した。
「詳しい段取りについては、調査員から聞いてください」
「……本当に、あの連中に任せる気なんですか?」
道玄坂《どうげんざか》を下りながら、広田が不満そうに聞いてきた。
「そのつもりです。心配いただいて申し訳ないですけど、次を探すあてもありませんし」
「なんだったら、他を探してきますが。もっと信用のおけそうなところを」
翠は首を振った。
「わたしは、こういうことに詳《くわ》しくありませんし。どういう霊能者なら信用できて、そうじゃないのか、わかりません。こう言ってはなんですけど、どこに頼んだって賭《かけ》のようなものですから。あそこにお願いしてみます」
「しかし」
言い募《つの》る広田に、翠は微笑《ほほえ》んだ。
「霊能者って、もっと怪《あや》しげなムードのものかと思ってたんです。見るからにエキセントリックな人達がいるのかしら、って。バイトの子も調査員の女の子も、ごく普通で、感じよかった。興信所みたいなものだと思えば、どの子も礼儀正しかったし、しっかりしてたし、上等なんじゃないかと思うんです。みんな若かったですけどね」
「しかし、やはりかなり胡散臭《うさんくさ》いと思いますよ。所長もあいつではないと思うし」
「本人が責任者だって言ってたでしょう?」
「あそこの責任者は外国人なんです」
「外人だからって、片言《かたこと》の日本語を喋《しゃべ》って金髪に碧眼《へきがん》だとは限りません。うちの会社にも海外支社から来ている社員がいますけど、全員が外国人に見えるわけじゃありません」
「しかし、自分で渋谷、と」
「日本名じゃないんですか? 彼、メモを英語で取ってましたもの」
「英語だったんですか、あれは」
彼が何か書きこみをしているのは広田も見ていたが、広田の座った位置からは手元までは見えなかった。
「ええ。――彼が外国籍ということはあり得ると思います」
「まさか……」
「とにかく、信用できるかどうか、調査を始めてもらえばわかります」
広田は溜め息をついた。
「――そうですか。後悔することにならなければいいんですが」
翠は苦笑した。
「後悔なら家を買ってから死ぬほどしましたもの、このうえの後悔なんて、痛くもかゆくもありません」
咲紀は受話器を取る。向かい側のホームから翠を乗せた電車が出ていくところだった。電車の姿が見えなくなる前に、相手が出た。
「――あ、倉橋《くらはし》さん? 中井です」
言って咲紀は何となく周囲に目をやる。脇に立った広田は、生真面目《きまじめ》そうに電車を見送っていた。
「依頼が成立しました。近日中に調査に入るようです」
電話の向こうからは、そう、とそっけない声が返ってくる。
「やっぱり、調査現場に立ち合ってみようと思うんですけど。瞬間湯沸し器の広田くんだけじゃ危なっかしくって」
広田が咲紀を振り返ったが、咲紀はこれに軽く顔をしかめてみせた。受話器の向こうの人物は、これに対しても気のない返答をしただけだった。
「ただ、所長はデイヴィスではなく、渋谷と名乗ってました。高校生ぐらいの男の子です。それで間違いないのか、資料をあたってみます」
そう、とだけ返答がある。咲紀は構わずに電話を切った。
「いいのか? 友達を巻きこんで」
広田の声は憮然《ぶぜん》としている。
「彼女の不利になるようなことは、してないわよ。連中が本物だったら翠は助かるはずだし、偽物《にでもの》だったとしてもあたしや広田くんが側についてるんだもの、特に不都合なことにはならないでしょう?」
電車がホームに入ってくる。咲紀はちょうど目に入ったヘッドライトに顔をしかめた。
「それに、彼にこだわったのは、広田くんでしょ? 調べるチャンスを与えてあげたのよ。感謝してね」
広田はさらに憮然とした。
「……必ず尻尾《しっぽ》を捕まえてやる」
つぶやいた広田の声は、ベルの音と騒音、雑踏の喧噪《けんそう》にかき消されて、咲紀の耳にも届かなかった。
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三章
「お待ちしてました」
翠《みどり》は大きくドアを開いて訪問者を迎え入れた。
やって来たのは所長の少年、調査員の少女と青年の計三人で、門から庭に乗り入れるようにして、グレイのワゴン車が停まっている。
笑顔を浮かべている翠の脇《わき》で頭を下げながら、礼子《れいこ》はぼんやり、無駄だわ、と思っていた。
前もって聞いてはいたけれど、本当に若い。こんな子供二人に若い男一人でなにができるというのだろう。
――出ていって[#「出ていって」に傍点]、と礼子は内心で訴える。
玄関に入らないで。このまま廻《まわ》れ右して家を出て。そうして二度と戻ってこないで。
切実にそんなふうに思えるのに、それを口に出すのがひどく億劫《おっくう》だった。
――ああ、こんな家に越してくるのじゃなかった。
礼子は家の中に入ってきた三人をぼんやりと見つめる。そのうちの少女が、にこりと笑って頭を下げてきたが、それに笑ってやれる気にはなれなかった。
――出ていってちょうだい[#「出ていってちょうだい」に傍点]。そうして[#「そうして」に傍点]、帰ってこないで[#「帰ってこないで」に傍点]。
少女は怪訝《けげん》そうにしてから、廊下を奥へ向かう翠に呼ばれて、礼子の脇を小走りにすり抜けていった。
翠が三人を案内したのは、一階の奥にある四畳半の和室だった。
「ここでいいかしら」
そう訊《き》いた翠に、所長の少年は無表情にうなずく。サイズ、とだけ短く調査員の少女に声をかけて部屋を出ていった。少女はメジャーを取り出す。部屋の寸法をざっと測《はか》りながら、だいじょうぶかな、とつぶやくのが聞こえた。
「ここじゃ狭《せま》い?」
翠が訊くと、彼女は笑って振り返る。
「だいじょうぶです。なんとかしますし」
「機材って、そんなにあるの?」
「それはもー、ウンザリするほど」
そう笑ってから麻衣《まい》は少し声を低めた。
「……おかあさん、かなり疲れた様子でしたね」
疲れはてた表情、とでもいうのだろうか。ぐったりと疲れて無気力になってしまった、そういう表情のように麻衣には見えたのだ。
そうなの、と翠は苦笑する。
「ごめんなさいね、愛想《あいそ》なしで」
「そんなの、気にしないでください」
「近頃、ずっとああで。始終ぼんやりしてるし、口数も減ってしまって」
本当に疲れてるんですね、と麻衣の声は心底《しんそこ》同情してくれているようだった。
「年だしね。――何か手伝うことある?」
「とんでもない。せっかくお仕事、休んだんですから羽をのばしててください。翠さんも疲れてるでしょう? たいへんですね」
「わたしはそんなでもないんだけど」
「疲れてなきゃ、ふつー霊能者なんて胡散臭《うさんくさ》い連中に頼ったりはしませんよ」
麻衣はあっけらかんと笑った。
「特にうちは、群を抜いて胡散臭いからなー」
「そうは見えなかったけど?」
「翠さんって心が広いんですねぇ。普通、所長がアレで、調査員がコレじゃ、逃げ腰になりますよ?」
翠は軽く笑った。
「確かに、平均年齢は低そうだけど。――この間は、連れが失礼な物言いをしてごめんなさいね」
そんな、と麻衣は手を振る。
「失礼なのはこっちです。うちの所長は礼儀と慇懃無礼《いんぎんぶれい》の区別がつかないもんで。――従兄弟《いとこ》の広田《ひろた》さんでしたっけ、怒ってらっしゃったでしょう?」
まあね、と翠は苦笑する。
「でも、依頼するのはわたしだから」
「もう少し早く依頼にいらっしゃると、広田さんを怒らせずにすんだんですけど」
「うん?」
「ついこないだまで、所長が出かけてて、それで代理の所長がいたんです。彼女だったら人当たりもいいし、喧嘩《けんか》を売るようなことはなかったんですけどねぇ」
翠は首をかしげた。
「その人がデイヴィスさん? ――違うわよね、オリヴァーって、男性の名前だし」
それ、と麻衣は指をあげた。
「その名前、どこから聞かれたんです?」
え、と翠は麻衣を見返した。麻衣はさらに声を低くする。
「ええと、それは確かにうちの所長の名前なんです。ああ見えても日本人じゃないんで」
「ハーフ?」
「よくは知らないんです。所長はそういうプライベートなことって言わないから」
「へえ?」
「実際、本名が横文字だってことも、ずっと知らなかったぐらいなんですよね。公私ともに所長は絶対に本名を名乗りませんし。渋谷《しぶや》一也《かずや》で通しちゃって」
「日本名?」
麻衣は首をすくめた。
「そんなもんです。いちおう、これって秘密になってるんですけど」
「オフレコにしとくわ」
「すみません。――どうしてその名前が漏《も》れたのか、バイトの安原《やすはら》さんと不思議《ふしぎ》がってたんですよ、実は」
翠は首を傾ける。
「広田さんが言ったのよね、これ。彼、どうして知ったのかしら。……今度それとなく聞いておくわ」
「いえ、べつに調べてほしいわけでは」
「そう? ――そういえば、もうひとりの調査員さんは何て呼べばいいの?」
先日、オフィスではとうとう名前を聞かないままだった。本人も名乗らなかったし、なにしろ無愛想《ぶあいそう》で必要最低限のことしか言わないタイプのようだったから、翠も聞けなかったのだ。
「あ、リンさん? 林《りん》興徐《こうじょ》っていいます。――リンさんも外国の人なんですよね、そーいえば」
言ってから麻衣は小さく笑う。
「――ね、胡散臭《うさんくさ》いでしょう?」
翠は笑った。
「平気よ」
「翠さんって、本当に太っ腹なんですねぇ。普通、ナルのあの対応を見ただけで、逃げ腰になるもんですけど」
「――ナル? 所長さん?」
あ、と麻衣は小さく舌を出す。
「ええ、まあ」
「ニックネーム?」
「そです。……これはここだけの話ですが」
「うん?」
「ナルシストのナルちゃん、とゆー」
翠は笑った。
「たしかに、綺麗《きれい》な容姿だものね。最初に見たとき、驚いちゃった」
「で、みんな、次には性格の悪さに驚くんですよー」
「そうなの?」
「いやもー、プライドは高いし、負けず嫌いだし我《が》は強いし。世の中で自分が一番顔が良くて賢《かしこ》くて偉《えら》いと思ってるんですよね。人を人とも思わないし、やかましいし」
「へえ?」
翠が言ったところで、背後から厳しい声が飛んできた。噂《うわさ》の人物の声だった。
「――麻衣! なにをさぼっている!」
顔をしかめてから麻衣は笑う。
「ね? やかましいでしょ?」
翠はしばらく部屋の前の廊下に立って、のぞきこんだ部屋の中が異常なありさまになっていくのを唖然《あぜん》として見ていた。
スチール製のラックが組み立てられ、そこに大小のテレビ――らしきもの――が押し込まれ、床の上をコードの類が覆《おお》っていく。
運びこんだ機材をメモと照らし合わせてチェックしてから、麻衣がクリップボードを持って廊下に出てきた。
「すみませんけど、翠さん」
麻衣はぽかんとしている翠を見て笑う。
「予備調査をするんで、お家《うち》の中を案内していただけますか?」
「ええ。――どこから?」
なんとなく足を居間のほうに向けながら、翠は背後を振り返った。襖《ふすま》を開け放した部屋の中、床の上は並べて置かれた機材で足の踏み場もないありさまで、残ったふたりがそれに屈《かが》みこんでコード類を接続している。
「……あれが、全部機材?」
翠はそっと麻衣に訊《たず》ねた。
「はい。びっくりしました?」
「ちょっとね。――もっと広い部屋のほうがよかったかしら」
「気にしないでください。そんなにカメラが多くありませんから、だいじょうぶです」
「そう――?」
「そうだ、ところで、従兄弟《いとこ》さんは? 今はこちらに住んでるんですよね?」
麻衣に問われて、翠は苦笑した。
「仕事。咲紀《さき》が様子を見にくるって言ってたから、一緒に戻ってくると思うわ」
言って翠は居間のドアを開ける。
「――ここが居間」
麻衣は部屋を見渡し、ポケットから取り出した小さな機械を手近の棚《たな》の上に置いた。そうしてメジャーを引っぱり出す。
「何をしてるの、って訊《き》いてもいいかしら?」
麻衣は壁にメジャーを当てながら、屈託《くったく》なげに答えた。
「ええと、部屋の気温とサイズを計るんです。お家《うち》の図面はないってことだったんで」
建物の建築図面があったら欲しい、と調査員のリンに言われたことを、翠は思い出した。あいにく図面のようなものはない。不動産屋から手渡された書類の中にもそんなものは混《ま》じっていなかった。
「図面を作らないといけないんで」
それは霊能者のやり方としては変わっているように思われたが、なんとなく理解できなくはない。それでも気温が必要だというのは、翠にはかなり意外だった。
「気温も調査に関係があるの?」
「心霊的な現象が起こっている現場では、しばしば気温が下がるんです。――単に、どの部屋を重点的に調べるか、とゆー計画をたてる指標にするだけなんですけど」
「へぇぇ。……こう言ったら失礼かもしれないけど、ずいぶん変わってる感じね?」
麻衣は壁の寸法をボードに書きこみながら笑った。
「みなさん、そうおっしゃいます」
「あんなにたくさんの機材も必要?」
「調査のためには。……と、いっても、正確には半分くらい、らしいですけど」
「どういうこと?」
麻衣は困ったように首を傾げる。
「えーと、つまり。ウチの場合、除霊とかそういうこともしますけど、第一目的は心霊現象の調査ってやつで。機材の半分はここで何が起こってるか調べて除霊なんかの資料にするわけですけど、あとの半分はなんとゆーか、純粋に調査に使う機材なんです。いろんな機材で調べてみて、幽霊がどういうもんだか研究しようという、平たく言うとそういうことらしいです」
「らしい?」
翠が問い返すと、麻衣は小さく舌を出す。
「あたし、ミソッカスなんで、実を言うとそのへんのややこしいことはさっぱり。正直言って、いまだにあの機材の半分がた、何だかわかってなかったりして」
そうなの、と翠は笑いをこぼした。
「じゃあ、お祓《はら》いはまだしないのね?」
麻衣は悪戯《いたずら》っぽく顔をしかめてみせた。
「除霊までには、ウンザリするほど長い道のりがあるんです。ノロマですみません」
ううん、とつぶやいて、翠は居間を見渡す。翠はここで過ごすことが多かった。外の見える窓のある部屋はここだけだからだった。反対に礼子は居間にいることを嫌《いや》がった。外から見られている気がするかららしい。
「ねえ、谷山《たにやま》さん?」
はい、と顔を上げた少女の顔を翠は真っ向からのぞきこんだ。
「谷山さんは除霊もできるのよね? いわゆる霊能者なんでしょ?」
「どうかなぁ」
麻衣は曖昧《あいまい》に答える。イエスともノーとも取れる表情だった。
「違うの?」
「あたし、まだ半人前なんで」
「……でも、普通の人とは半人前ぶん、違うのよね?」
「さー。どうでしょう」
「この家、やっぱり何かいる? どこか変なところがあるの? 半人前ぶんでいいから、聞かせてもらえない?」
麻衣は困った顔をした。
「ウチの所長はやかましいんで、うかつなことを言うと叱られちゃうんです」
「わたしにとって、今一番気になることなの。何でもないトラブルなんだったら、それに越したことはないけど、もしそうでないんだったら、覚悟《かくご》をしておきたい」
翠が言うと、麻衣は少し迷うようにする。
「……あたしの個人的な印象でいいですか? あたし、本当に半人前でぜんぜんアテにならないですけど」
「いいわ」
麻衣はちらりと居間のドアのほうを見た。
「家に入るとき、ちょっと変な気分がしました」
「変な……気分?」
「意味のあることかどうか、わかりませんけど。玄関から入るとき、すごく不安な気分がしたんです。……なんだか、家の中に誰もいないような気がして」
翠は眉《まゆ》をひそめた。
「目の前に翠さんがいて、出迎えてくれたのに、玄関にはおかあさんだっていたのに、どういうわけだか、そんな感じがしたんですよね。誰もいないお家《うち》に入っていくような感じ。いるはずの人がいなくて、すごく不安になるような――感じがしたんです」
麻衣は照れたように笑う。
「どうして誰もいないんだろう、って。――変でしょ? 目の前に翠さんもおかあさんもいたのに。……ちょっと変な感じだったから、ひょっとしたら、って思いました」
「ひょっとしたら、何かいるかもしれない……?」
麻衣はうなずく。それから、苦笑した。
「でも、ぜーんぜん、あたしはアテになりませんから。お家暗いし、それでちょっとビビっちゃっただけなのかもしれないし」
言ってから、麻衣は心配そうにした。
「もしかしたら、おかあさんがあんまり暗い顔をしてるんで、不安になっちゃったのかもしれないです」
翠は息を吐いた。礼子の顔色が思い出されて、しぜん、重い溜め息になった。
「……そうね」
麻衣はいたわるような声を出した。
「あの……がんばりますから」
翠は心配そうな少女に微笑《わら》う。
「ありがとう」
「ただいまー」
麻衣が部屋に入るなり、冷酷《れいこく》無比《むひ》な声が飛んできた。
「遅い。――結果は」
部屋の中の機材はすでに稼動《かどう》を始めている。それをちらりと確認して、麻衣はボードに目をやった。
「特に気温の低い部屋はありません、ボス」
そう言って、ボードを差し出す。
「本当に窓がないんだね、この家。湿気もすごいし。ついでだから、採光と湿度も計っときましたです」
ボードを受け取ったほうは、麻衣を見て無表情に言ってのける。
「ちょっと見ない間に、猿《さる》よりは利口《りこう》になったらしいな」
「あのねー」
この所長の国籍はイギリスにある。私用でしばらく帰国していたのだが、その間にオフィスを管理していた所長代理のもとで勉強して、ちょっとは進歩した気でいたのに、この言いぐさ。誉《ほ》めてくれるなどと思ったわけではないものの。
「人を祖先と比較するのはやめてってば。ついでに自分の怠慢《たいまん》を棚に上げて、部下を無能呼ばわりするのはやめてください、所長」
「僕が努力すれば、麻衣のIQが上がるのか?」
麻衣は上司の無表情を睨《にら》みつける。
「あのねー。ナルが面倒臭《めんどうくさ》がってなーんにも説明しないから、いつまでたってもあたしが仕事を覚えられなかっただけでしょーが。ちゃんといちいち説明してくれれば、あたしだってこのくらいの気は利《き》くようになるんだい」
彼はちらりと視線をあげる。整った口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「ついでに床の傾斜を計っておく気には、ならなかったか?」
う、と麻衣はつまる。家の中で怪音がしているのだから、家が歪《ゆが》んでいる場合を考えて床や壁に極端な傾斜がないかどうか、調べてみる必要がある。そのことを思い出した。
「……ごめん」
素直に詫《わ》びたのに、対する返答はけんもほろろである。
「もっとも、麻衣にそこまでの期待はしてないが」
麻衣は上司の澄ました顔を睨《ね》めつけた。
「あんた、まだ根に持ってるな。あたしが帰国してすぐに働かせたんで」
「いいえ、べつに。ロンドンから成田《なりた》まではたかだか十六時間ですから。――もっとも、途中、モスクワでほんの十時間ばかり待たされましたが」
「……悪かったよ」
心の中で舌を出して、麻衣はわずかにあいた畳の上に座りこんだ。ビデオカメラはすでにセッティングを終わって、壁際《かべぎわ》に並べてある。
「――で? これからの調査方針は?」
そうだな、とナルは麻衣から受け取ったクリップボードを、無言でコンピュータの操作を行っていたリンに渡す。彼がデータ入力を行うのだ。
「――とにかく一日、様子を見る。さほど切羽《せっぱ》詰まった状況ではないだろう」
「やっぱ、ポルターガイスト?」
「さあ。それは今夜、暗示実験をしてみる。あとは阿川《あがわ》夫人と広田氏に事情を訊《き》く、とりあえずはそれで終わりだろうな」
麻衣は少し身を乗り出した。
「おかあさんの様子、気がついた?」
「かなり参っている様子ではあったな」
「だいじょうぶなのかな……」
どこかうつろな印象の顔つきが気になった。精も根《こん》も尽き果てた、という風情《ふぜい》。それほど疲れているのなら、一日も早い救済が必要だし、それ以外の理由であんな顔をしているのだったら、さらに救済が必要だ。
「ねえ、ナル? もしRSPKだったとして、その犯人が異常に疲れちゃうとか、そういうことってあるわけ?」
「普通は、あるな」
「やっぱ、ポルターガイストを起こすのって、体力を使うんだ。気力の問題かもしれないけど」
「馬鹿《ばか》。逆だ」
「あ?」
「RSPKでは犯人にしばしば被害が集中する。一番の被害者になるから、最も消耗《しょうもう》するということだろうな」
「なるほど。じゃ、特にポルターガイストを起こすこと自体で、疲れたりはしないんだ」
「RSPKというのは、余剰《よじょう》エネルギーがあるから起こるんだ、という説もあるからな。本人にはその意味での自覚がないことが多い」
「ふうん」
麻衣はつぶやいて、あらためて若い上司の顔をのぞきこんだ。
「RSPKの犯人は思春期の子供か、女性よね? ――すると、おかあさんや翠さんが犯人の可能性もある?」
「否定はできないな。それにしてはどちらも焦点ではないのが気になるが」
「大人《おとな》の女性の場合、霊感のある人なんだよね。どっちかというとおかあさんのほうが霊感はありそうだけど」
ナルは皮肉げに笑った。
「外見と霊感の有無を関連づける前に、鏡を見てきたほうがよくないか?」
「よけいなお世話。どうせあたしはノンキそうな顔してるよっ」
「それに、霊感のある女性、という言い方は必ずしも正しくない。正確には、霊感があると訴える女性、と言うべきだろうな。ヒステリー傾向のある女性に、自分には霊感があると思いこみたがるタイプがいる。このタイプの女性は自己《じこ》顕示欲《けんじよく》が強くて、常に周囲から注目されていないと欲求不満に陥《おちい》る。その抑圧《よくあつ》されたエネルギーがRSPKの形で発現すると、しぜん周囲の注目を集めるために焦点は自分に向く、というわけだ」
「へぇぇ……」
でも、と麻衣はつぶやいた。
「おかあさんも翠さんも、あんまりそういうタイプじゃなさそうだね」
麻衣が同意を求めた相手はしかし、低く言い切った。
「第一印象だけでは、わからない」
チャイムが鳴ったのは、渋谷サイキック・リサーチのメンバーが居間に置いた機材の微調整をしているときだった。
ぼんやりとダイニングに座っていた礼子は、チャイムに反応しなかった。その様子に眉《まゆ》をひそめてから玄関に出ていった翠は、戻ってきたときには咲紀と広田を連れていた。
「おじゃまします」
咲紀はそう明るい声を出したが、広田のほうは顔に厳しい色を浮かべていた。
「とにかく、お茶でも淹《い》れますね。どうぞ、渋谷さんたちも休憩してください」
そう言って翠はダイニングに向かう。広田はあいかわらず胡散臭《うさんくさ》げな表情でまじまじと麻衣たちを見ていた。
やれやれ、と麻衣は内心で溜め息をつく。こういう表情には慣れている。心霊現象研究という職種じたい胡散臭いのに、そのメンバーの三分の二が未成年では多少露骨に疑いの目で見られても文句は言えない。
げんなりしながら調査を続けていると、広田がぶっきらぼうな声を出した。
「――渋谷くんとやら。きみの本名がデイヴィスなのか?」
麻衣の背後からの返答はなかった。彼が得意の黙殺を決めこんだのを悟《さと》って、麻衣は軽く溜め息をつく。しぶしぶ、広田のほうに向き直った。
「あの、失礼ですけど、その名前をどこからお聞きになったんですか?」
どうでもいいだろう、と広田の声は投げ出すような調子だった。
「どうして名前を偽《いつわ》る必要があるんだ? 人間というのは、自分に都合《つごう》の悪い事実を秘匿《ひとく》するために嘘《うそ》をつく。何か人に知られては都合の悪い、後ろ暗い事情があるということじゃないのか」
「都合の悪いことが全部、悪いことだとは限らないんじゃないですか?」
広田は笑った。返答はなくても、彼が実際にどう思っているかは明らかだった。麻衣は溜め息をついて手元に視線を戻した。こういうタイプの人間と、言い争っても意味がない。
「不良建築をつかまされて困っている人の、その弱みにつけこんで、嘘八百の商売をする。それがお前たちだ。幽霊だの霊能力だのと嘘をつくのはご愛嬌《あいきょう》だが、人の不幸につけこむような卑怯千万《ひきょうせんばん》なやりくちには我慢できん」
「――広田さん!」
広田の物言いを止めたのは、トレイを持って戻ってきた翠だった。広田は翠を見る。
「騙《だま》されているのがわからないんですか、阿川さんは。こいつらは人の不幸にたかるハイエナのような連中です。こういった連中はあなたを助けたりしない。ますます良くない事態を招くだけです」
「わたしが、お願いしたんです」
翠の声はきっぱりとしていた。
「広田さんがご心配くださるのは、ありがたく思いますけど、わたしの好きにさせてくださいませんか?」
「医者や弁護士を頼ればよかったのに、こういう連中にすがったために、身を滅ぼす人間がどれだけいるか知っていますか。そのどの場合も、本人が好んでこういう連中を家の中に引き入れるんです。幽霊だとか、そういった馬鹿馬鹿しいものを信じたために」
「わたしだって、無条件に信じているわけじゃありません。どういうことなのか、調査をお願いしただけです」
「それが泥沼への第一歩なんだ。幽霊なんかいないんです。この家で何かが起こっているとしたら、それは建物のせいです。阿川さんが駆《か》けこむべきところは、弁護士のところなんですよ」
「――弁護士に何ができるの?」
そう言った声は翠のものではなかった。誰もが一瞬声の主を捜して、ダイニングへ続くガラス戸の前に立っている礼子を見つけた。
礼子はぼんやりと居間の内部を見ている。声にも力がなく、表情にもまた意志の力を感じさせるものがなかった。
「弁護士や警察や、そんな人たちに何ができるの? 起こってしまったことを止めることはできないんじゃないの。死んだ人を生き返らせることはできないのよ」
「あの……阿川さん」
広田の声はやや狼狽《ろうばい》していたし、翠も咲紀も不安そうな表情で礼子を見ていた。
「だから、危険には近づかないことなの。ここにいちゃいけないわ。お願いだから、出ていって。早く外に出て、二度と戻ってこないで」
抑揚《よくよう》のない声で言って、礼子は口をつぐんだ。言うべきことを言ってしまったというより、ネジか電池《でんち》でも切れてしまった、という様子だ。
「……おかあさん」
翠はそっと礼子の肩に手を置く。
「ちょっと休もう? たくさん人が来たから、疲れちゃったよね」
翠が礼子をダイニングのほうに押し戻すと、礼子は抵抗なくそれに従った。居間には、いちように眉《まゆ》をひそめた人々が残されたのだった。
「……だいじょうぶなのかなぁ……」
麻衣はインカムに向かって軽くつぶやいた。
何が、とぶっきらぼうな声はヘッドフォンから聞こえる。雑音がひどかった。
「翠さんのおかあさん。さっきのあれって、危なくない?」
『どうだかな。――麻衣、速すぎる』
薄情者、とつぶやいて、麻衣は目の前、二階のホールに置かれたカメラを見る。
三脚の上に可動アームがあって、その先にビデオカメラはセットされている。カメラは人の視線のように麻衣の右手を追いかける。適当に動かしている右手には小さな布袋がぶらさげられていた。袋の中にはドライアイスの欠片《かけら》とベアリングの球を混合したものが入っている。部屋の隅、天井《てんじょう》近くに設置したサーモグラフィーとこのカメラは連動していて、今最も温度の低い場所――麻衣の右手にさげられた袋を追いかけているのだ。
ごくゆっくりと腕を動かしながら、麻衣はインカムにささやく。
「ノイローゼかなんかかなぁ……」
『無知な人間が気安く言葉を使うんじゃない。――チェック終了。戻っていい』
「無知ってなんだよ」
『ノイローゼがどういう症状だが、わかって使っているのか?』
麻衣は顔をしかめたが、事実だったので反論はしなかった。
「いまのとこ、異常は?」
『機材のことか? それとも事態のことか?』
「どっちも」
これには、ない、とぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
階段を下りて居間のドアの前を通る。ドアは小さなガラスが何枚か入ったもので、中にニ、三人の人間が集まって話しこんでいるのがぼんやりと見えた。広田が何か厳しい声で話しているようだったから、また翠を説得しようとしているのかもしれない。
「ねえ、ナル? どうして、広田さんがあんたの名前を知ってんの?」
『僕に聞くな』
首をすくめながら、麻衣は廊下で足を止める。正面に大きな姿見があって、そこに自分の姿が映っていた。
「どっかでバレるようなこと、した?」
『さあ。――黙っているだけで、隠しているわけじゃないから、どこからか漏《も》れることだってあるだろう』
「隠してるくせにー」
言いながら襖《ふすま》を開けると、当の本人が麻衣を振り返る。
「知らせずに済むに越したことはないと思っているだけだ」
「偽名を使えば、黙秘じゃなくて秘匿《ひとく》だって。――れ? 居間は?」
ラックに押しこめられたモニタの中に、居間の映像がない。その他の場所に設置したカメラは正常に映像を送ってきている。
「密談中」
「あ、なるほど。カメラを動かしたらノゾキ行為だもんね。マイクに音が入っちゃうし」
「夕暮れまでには切り上げてもらえると、助かるんだがな」
麻衣は溜め息をついた。
「広田さんって、なんとゆーか、アタマ堅《かた》いひとだねぇ」
「馬鹿はどこにでもいる」
あっさりした物言いに、麻衣は顔をしかめる。
「あんた、自分以外の人間は全部馬鹿だと思ってるだろ」
「あいにく、自分より賢《かしこ》い人間に滅多《めった》にお目にかからないもので」
「この、ナルシストっ」
「ほんの事実認識ですよ、谷山さん」
麻衣はナルの澄ました横顔を睨《ね》めつけた。
「大化の改新が何年だかゆってみろ」
「あいにく、極東の島国の歴史には興味がないんです」
「……ああ言えばこう言う。じゃ、シェークスピアの生まれた年は」
「あいにく、禿《は》げたご老人にも興味がないんです」
にっこりと上《うわ》っ面《つら》だけで笑われて、麻衣は溜め息をつく。単に心霊現象に関係ないことは知らないんじゃないの、と思ったが、もはや脱力していたので口にはしなかった。
「――インカムの雑音がひどいんですけど、所長」
「電波状況がよくないな。それについては調べてみる」
「あたし、何をしたらいい?」
「アネモメータを持っていって――」
ナルが入り口のほうを見て、麻衣もそちらに目をやった。けたたましい物音が廊下のほうからしてきた。
「こら、中井《なかい》!」
「うるさい、石頭。広田くんと話しなんか、したくないわ」
広田と咲紀の声だった。どかどかと足音が近づいてくる。麻衣は思わず部屋の中の二人を見やった。
ナルは軽く息を吐いてつぶやく。
「本当にこの家は雑音がひどいな」
広田は前を行く先に声を投げつけた。
「石頭はどっちだ!」
広田にしては常識を述べているつもりなのである。それを、悪《あ》し様《ざま》に言われても納得できようはずがない。
幽霊なんてものはいないのだ。この家で起こっている怪現象は何かしかるべき理由あってのことで、翠が助けを求めるべき相手は霊能者なんかではない。この世の誰も、あんな連中を頼って、つけあがらせてはならないのだ。
咲紀は軽蔑《けいべつ》の色も露《あらわ》に広田を振り返る。
「そんなに幽霊を否定したいんだったら、帰れば? ここにいたって不愉快なだけでしょ」
「中井――」
咲紀は広田の声を無視してそっぽを向き、奥の部屋の前で立ち止まった。開けっ放しの襖《ふすま》ごしに、部屋の中が見える。四畳半の和室はどこかの実験室のようなありさまになっていた。
咲紀はきょとんと顔を上げた麻衣に笑いかけた。
「すごい機械ね」
「はあ、どーも……」
「最近の霊能者さんって、こんなのを使うんだ」
咲紀は言って、部屋の中に入っていく。
「でも、かえってありがたみがないね」
「そーですか?」
ちょっとでも科学的に見せて、被害者を信頼させようという肚《はら》だろう、と広田は声にはせずに毒づく。いかにも霊能者的な雰囲気をつくらない連中の流儀は、いまのところ翠の信頼をかちえることに貢献している。
咲紀はあらためて部屋の中を見渡した。大小のモニタと機械、コンピュータ。
「谷山さん、だっけ。あなたも調査員さんもまだお祓《はら》いはしないんだ?」
はあ、と麻衣は所在なげな様子だった。所長の少年も調査員も、ちらりと咲紀に視線を寄こしたきりで、興味なさそうに機械のほうを向いている。
「さっきはごめんなさいね。広田くんって、本当に頭が堅《かた》くって」
お気になさらず、と麻衣は、咲紀と咲紀の背後で怒りの思念を放射している広田とを見比べ、困ったように笑った。
「常識家のつもりなのよね。あたしなんかは、単にわからず屋なだけなんじゃないかと思ってるんだけど」
はあ、とさらに困ったようにしたのは麻衣で、こら、と怒った声を出したのは広田である。
「やっぱり、ポルターガーストみたい?」
咲紀は部屋の中の三人を見渡して、ちゃっかり麻衣のそばに座りこんだ。
「――ああ、RSPKって言うんだっけ」
「……まだ、調査、始まったばかりなんで」
「ポルターガイストって、本当にPKのせいなの? 幽霊が関係してることはないわけ?」
「ないことも、ないです」
「こういう調査をしてると、やっぱり見ちゃったりする?」
「不本意ながら」
麻衣は笑った。
「そっか。あたしもけっこう、見るひとなのよね」
「そうなんですか?」
「うん。一番印象に残ってるのは免許を取ったばっかりのころかな」
友達を乗せてドライブに行ったことがある。その帰りの夜中、長いトンネルを抜けたところで、道に立つ女の姿を見たのだ。女は道路の、車線の上にぼんやり立っていた。咲紀はあわててハンドルを切って彼女を避《さ》けた。悪態をついたら、隣にいた友人はどうしたの、と訊《き》く。彼女はその女を見ていなかったのだ。
その話をすると、麻衣はへえ、とつぶやいた。
「馬鹿な、と思って後ろを見たら、もう誰もいないの。道はまっすぐで、隠れるところもないのに。――ってそこまで考えて、そこが高速だったのを思い出したのね」
「ふわぁ」
「後で聞いたら、そのトンネルは出るので有名なんですって」
「そういう場所ってあるんですよね」
なにやら感心した様子で麻衣は言う。またか、という吐き捨てるような声は背後から、部屋の入り口で腕を組んだ広田のものだった。
「気のせいだ、そんなのは」
咲紀は広田を振り返る。
「気のせいなんかじゃないわ。確かに見たんだから」
「じゃあ、半分寝ていたんだろう」
「失礼ね、起きてたわよ。初めての長距離ドライブで緊張してたんだから」
「ハイウェイ・ヒプノシスですね」
静かな口調が割って入って、咲紀は一瞬きょとんとした。え、と声の主を振り返る。
彼は興味もなさそうにモニタを見守っていた。
「……なに?」
「高速道路催眠現象。そういう現象があるんです。あなたが見たのは幻覚ですね」
唖然《あぜん》としたのは、咲紀も広田も同様だった。まさか霊能者から否定されるとは思わなかったのだ。
「幻覚じゃないわ」
「幻覚というのは、見ている本人には幻覚だとは認知されにくいものなんです」
そういう声はどこまでもそっけない。
「違うってば」
「そらみろ」
広田と咲紀はみごとにハモった。咲紀は広田を睨《ね》めつけて、涼《すず》しい顔をしている少年に視線を戻す。
「あたしは、確かに見たの」
「その女を見る前に、中井さんとお友達は黙りこんでいませんでしたか」
「……いたけど」
眠っているのかしら、と思ったことを覚えている。
「車の中は狭《せま》い。視野は前方に固定されているし、特に同乗者が眠っていたりすると、一人でいるのと変わらない状態になります。おまけにハイウェイの景色には変化がない。カーブのアールも緩《ゆる》やかだし、視覚的な刺激にとぼしい」
「それはそうだけど」
「人間の大脳は刺激が単調になると、慢性化を起こして覚醒《かくせい》状態でいることができなくなるんです。注意力は低下して、意識の範囲がせばまる。徐々に意識は変成してきて、一種の催眠状態に陥《おちい》ります。結果、幻覚や幻聴におそわれることがある。これを高速道路催眠現象というんです」
「でも」
「中井さんは初めてのドライブで緊張していたんでしょう。それが帰り際《ぎわ》、ドライビングに慣れると同時に疲れが出てきた。それで同乗者がいるにもかかわらず黙りこんでいたのではないんですか」
「それは、そうだけど……」
「しかも深夜で、車の流れはスムーズだし、周囲は暗くて昼間以上に感覚刺激にとぼしい。それが原因で幻覚を見たんですよ」
「でも、あのトンネルは」
「トンネル内の単調に並んでいるナトリウム灯、あれには催眠効果があるんです。催眠術に使うフリッカーと似たようなものですからね。だから、トンネルを出たあたりに事故が多い。それだけのことでしょう」
咲紀は黙りこんだ。だって自分は見たんだ、としか言いようがなかった。
「何もかも霊のせいにするのは、感心しませんね」
「でも、見たんだもの。――だいたい、あたしは見やすいの。金縛《かなしば》りにもよくあうし」
「あんなものは、単なる寝ぼけですよ」
少年は言い捨てた。
「レム睡眠中には脳幹網様体《のうかんもうようたい》の下行《かこう》システムの機能が低下して筋肉が緊張を失います。この状態のときに目覚めると、いわゆる金縛りにあいやすいし、半分眠っているので文字どおり夢うつつの状態になって幻覚を見やすい。それだけのことです」
「……あなたは、霊能者なんじゃないの?」
「僕は研究者のつもりですが」
「だったらどうして、そうやって否定するわけ? そんなふうに何もかも否定したら、幽霊なんていない、って話になっちゃうじゃない」
「幽霊好きの野次馬《やじうま》にもてはやされるぐらいなら、否定されたほうがましですね」
咲紀は声を荒げた。
「いい加減にしてよ! あなたに突っかかったのは広田くんでしょ? あたしに八つ当たりするのは、やめてくれない? あたしはあなたの味方なのよ」
「味方?」
問い返してきた顔には軽蔑《けいべつ》の色が露《あらわ》だった。冷徹な色の視線が突き刺さる。言葉は吐き捨てる調子だった。
「冗談じゃない。否定派の人間は敵ではないんですよ、中井さん。特に相手が恥知らずでも馬鹿でもないかぎり、有無を言わせぬ証拠さえ揃《そろ》えれば納得してもらえるんですから。僕らが真に戦わなければならないのは、あなたのような妄信的《もうしんてき》な輩《やから》だ。根拠もなく心霊現象を崇《あが》めたてて、なにもかもを神秘という言葉に負わせようとする連中なんだ」
咲紀は口もとを歪《ゆが》める。
「あたしたちのような寛大な人間が、あなたたちのような人間の存在を支えてきたのよ。それを忘れないでね」
「あなたがたのような人間がいなければ、心霊研究は五十年分は進歩していた。中井さんが妄信をやめるよう、世界中の人間を教化してくだされば、それを証明してさしあげます」
「あたしが妄信者《もうしんしゃ》なんだったら、研究なんてのを後生大事《ごしょうだいじ》にやってるあなたも妄信者の一種じゃないの?」
「僕は科学法則を追いかけているんです」
「科学が万能だと思わないことね。人智を越えたものを認めないのは傲慢《ごうまん》だわ。科学なんて自然の端っこをかじっただけのものじゃないの。そんな言葉で、心霊現象をおとしめるのは感心しないわ」
「あなたが知っている科学が、端っこをかじっただけのものなんでしょう。そうやって、科学に関する無知を自ら暴露されることも、感心できた行為ではありませんね」
「この世にはね、科学なんかじゃ計《はか》りきれないものがあるの!」
「それは、卑怯者《ひきょうもの》の意見ですね」
声は苛烈《かれつ》でどこまでも容赦《ようしゃ》がない。
「自らの責任において生きることをしない卑劣漢《ひれつかん》の意見だ。運命やら神やらに、自分の責任を押しつけたいだけでしょう」
「あのねーっっ!」
叫んだのは咲紀ではなく麻衣だった。咲紀も広田もきょとんと麻衣を振り返った。
「黙って聞いてれば、ベラベラと。あんたには謙虚《けんきょ》さとか礼儀正しさとかはないわけ? 自分と意見の折り合わない相手を、暴言を吐いてやりこめようとすることこそ、卑劣《ひれつ》だとか卑怯《ひきょう》だとか言うんだよっ!」
「暴言? 率直な意見と言ってもらいたいんだが」
「どこがよっ!」
真剣に怒っている様子の麻衣を、広田は思わず唖然《あぜん》と見つめてしまった。
「中井さんの言い分はわかったし、あんたの言い分もわかった。あたしには真偽の判定はできないけどね、二人の態度を見比べたら、中井さんの意見を尊重したくなるよ。あんたのほうが断然印象悪いもん。それこそ、自分のやってることに泥を塗る行為なんじゃないの?」
もっともだ、と広田は思う。広田は徹頭徹尾否定派だし、咲紀の態度を苦々しくは思っていたが、だからといって咲紀がやりこめられるのを見て、愉快な気分はしなかった。もっと正直に言うと、思わず咲紀の味方をしてしまいたくなる程度には不愉快だったのだ。
「中井さんに謝《あやま》りなさいっ」
「断る。間違ったことは言ってない」
「とーへんぼくっ」
「それを暴言と呼ぶんじゃないのか?」
「お前なんか、とーへんぼくでも誉《ほ》めすぎだい。――そういう態度ばっかとってると、いつか後悔する羽目《はめ》になるんだからね」
「望むところだな。一度後悔してみたいと思っていたんだ」
「てめーがこの世で一番|偉《えら》いのかぁ!」
「そうなんじゃないのか?」
広田は口を開けた。
――こいつの不遜《ふそん》さは尋常《じんじょう》じゃない。
呆《あき》れているのか感心しているのか自分でもわからない広田の目の前で、咲紀はふいと踵《きびす》を返した。足どりも荒く廊下を戻っていく。
「――中井?」
「帰るわ」
短く言って、咲紀は居間に向かう。すぐにバッグを持って出てくると、恨《うら》みをこめた一瞥《いちべつ》を広田のほうに投げて玄関を出ていった。あわてたように居間から出てきた翠が、困った顔をして広田と玄関を見比べていた。
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四章
「――何かあったの?」
翠《みどり》の声に、居間から台所へぬける仕切り戸の前でハンディ・サイズの機械を操作していた麻衣《まい》は軽く手を振った。
「天上天下《てんじょうてんげ》唯我独尊《ゆいがどくそん》の大たわけ者が、中井《なかい》さんにかみついちゃったんです」
「――え?」
不思議そうに首をかしげた翠は、麻衣と広田《ひろた》を見比べた。
「中井と、ええと、渋谷《しぶや》くんが喧嘩《けんか》しただけです」
まあ、と翠は目を丸くする。
「というか、一方的に中井がやりこめられたんですが」
すいません、と麻衣は広田を振り返った。
「本っ当に礼儀を知らないやつで。心底この世には自分より偉《えら》い人間はいないと思ってるんです、あいつ」
「いや。中井も調子に乗ってた感じもあったし。――そもそもおれが失礼なことを言ったからだな。申し訳ない」
あまりの傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さを目《ま》の当たりにして、思わず我が身を省みてしまった広田である。
「気にしないでください。ナルのあれは、八つ当たりなんかじゃないんですから。ナルはいつでも、誰に対してもああなんです」
「――ナル?」
「あ、ナルシストのナルちゃん。どーぞ、広田さんもそう呼んでやってください」
「それは言い得て妙だな」
「でしょ」
麻衣はそう言って胸を張る。
「ほんっとにもー、どうしようもないほどおナルなんだからっ」
ぶつぶつ言う麻衣を身やって、広田はふむ、と考えこむ。
あの少年の傲岸不遜《ごうがんふそん》さも特筆に値《あたい》するが、振り返ってみると、あの騒ぎを存在していないかのように無視していたリンという調査員も只者《ただもの》ではないのではなかろうか。
「……きみのところのメンバーはなかなかクセがあるね」
「そーなんです。それでいっつも苦労しちゃって。仕事の苦労より人間関係の苦労のほうが多いんだから、まったく」
仕事の苦労、という言葉に触発されて、思わず広田は疑問を口にしてしまった。
「きみたちは、幽霊なんてのを信じているのか?」
所長の口調《くちょう》は否定的に聞こえた。目の前の少女も霊能者というほど尋常《じんじょう》でないタイプには見えない。
「信じるもなにも」
麻衣はそう言って苦笑する。
「……なんて言っても、こればっかりは経験のない人には信じられませんよね」
「ああ。……そうだな」
「あたしは、いるんだと思ってます。いるんだって知ってる、って言ってもいいです。でも、本当はどうでもいいことなんじゃないかと思うんですよね」
言ってから、麻衣は翠を身やって、軽く首をすくめた。
「――ごめんなさい」
いいのよ、と翠は微笑《わら》う。
「でも、どうでもいいって?」
「だから、絶対間違いなく見ちゃったら、いるんだってわかるでしょ? 見たことも感じたこともない人は霊とは無縁な人なわけだし、そういう人にとっては、いない、でいいと思うんです」
「そうだな……」
広田はつぶやく。
「ただし、この家にいるのかいないのかは、まだわかりません。でも何かが起こってるのは確実なんだから、徹底的に調べるのは悪いことじゃないでしょう?」
「それは、そうだが」
「あたしたち、なんでもかんでも幽霊のせいにしようなんて思ってないです。何が起こってるのか調べてるんですから。ナルは偉《えら》そうだけど、そういうとこだけはフェアなんです。ないものをあるなんて言い張ったりはしません。だから、ちょっとだけ信用してもらえませんか?」
正面からまっすぐな目に見つめられると、詐欺師《さぎし》呼ばわりはできない性分《しょうぶん》の広田である。
「……わかった」
よかった、と笑って、麻衣はあらためて手元の機械に視線を向けた。
「――それは、なんだ?」
「あ、あんまり動かさないでくださいね。――これは空気の流れを調べる機械です。異臭や異音があるときには、空気の流れがポイントになるんで」
「へえ……」
「これでたとえば、臭《にお》いのモトをたどるでしょ? でもって臭いの原因がなかったら、それは不思議《ふしぎ》な臭いだということになります」
「床下《ゆかした》や地面の下に原因があることだって、あるだろう?」
「もちろん、そのあたりも徹底的に調べます。これはあたしの経験じゃないけど、下水管に亀裂《きれつ》が入ってて、汚水が床下に染《し》み出したせいで臭った、ってこともあったみたいですよ」
「なるほどなぁ……」
麻衣は機械のデジタル表示をメモに書き移[#「移」は底本のママ]した。
「――そうだ、翠さん。おかあさんは?」
それが、と翠は険しい顔をする。
「上で休ませてるわ。もっとも、横になっただけで、天井《てんじょう》をじっと見てるの」
そうですか、と麻衣も表情を曇《くも》らせた。
「本当に最近ひどいのよ。さっきも変なことを言い出すし。ごめんなさいね、驚いたでしょう?」
「気にしないでください」
「原因がはっきりすれば、母も少し安心して落ち着くと思うの。……よろしくね」
「ハイ」
翠は笑って、そうして居間の窓に目をやった。狭《せま》い庭に面した窓の外、生《い》け垣《がき》越しに見える空はずいぶんと暗くなっている。
「ちょっと、寒くなってきたわね」
言って翠はコントローラーを手に取る。エアコンのほうに向けてスイッチを押したとたん、いきなり部屋の中が暗くなった。
とっさのことに、麻衣は瞬《まばた》く。暗くなった部屋、一瞬聞こえてそれきり消えてしまったエアコンの動作音。
「――まただわ」
翠はいらついたようにつぶやいた。
「ごめんなさい。ブレーカーが落ちたみたい。いま元に戻すわ」
「おれがやります」
言ったのは広田で、彼は慣れた様子で居間を出ていった。翠はエアコンの元電源を切る。うんざりしたような溜め息をついた。
「エアコンをつけたぐらいで、落ちちゃうんですか?」
「そうなの。……炊飯器《すいはんき》を使っているせいかな。麻衣ちゃんとこの機械には影響ないかしら」
「うちのは全部別電源ですから。こんな簡単に落ちるんじゃ、大変ですね。ご飯を炊《た》くたびにエアコンを切らなきゃ」
「そうなのよ」
翠が溜め息をついたときに、部屋の電灯がついた。それと同時に居間のドアが開く。顔を出したのは戻ってきた広田ではなく、ナルだった。
「ブレーカーですか」
「ええ、エアコンをつけたら、急に」
「ブレーカーはどこです?」
「脱衣所です」
「どうも。――あとで電化製品をひと通り見せていただけますか」
「ええ」
「それから、麻衣」
ぴくん、と麻衣は姿勢を正した。
「はい、所長」
「いったい、いつまでかかってるんだ? さぼってるんじゃない」
麻衣は一瞬だけ、何かに対して同意を求めるような目つきで翠を見た。
「……はぁい」
翠が出してくれた食事のあと、麻衣が調査拠点――メンバーは「ベース」と呼ぶ――で次のセッティングの指示を受けていたとき、軽く襖《ふすま》を叩く音がした。
ナルもリンも返答をしない。当然、こういう場合に返答をするのは麻衣の役目である。
「――はい?」
顔をのぞかせたのは、広田で、しかもその広田が部屋に入ってきて畳の上にきちんと正座したので、麻衣は首をかしげた。
「――渋谷くん」
広田の目はまっすぐにナルの横顔に据《す》えられている。
「実は、頼みがあるんだが」
「ちょうどいい」
そう言ってナルは広田のほうに向き直る。
「僕もお聞きしたいことがあります」
「先にそれを聞こう」
ナルはうなずいて手元のファイルを引き寄せる。
「広田さんはここに滞在して、何日になりますか」
「五日だ」
「その間、何かの異常現象をご覧になりましたか? ――たとえば、先日翠さんがおっしゃっていたような」
広田は軽く考えこむようにする。
「ブレーカーが落ちるのは三度ほど経験した。さっきのが四度目だ。TVの映りが悪いのも見ているし、電話の調子が悪いのもわかった。なんとかならないかといじってみたが、効果はなかった」
「ノックの音や、人の声は」
「聞いてない。人の気配を感じたり、視線を感じたこともない。――ああ、妙な電話が何度かかかってきたようだ。おれが出たわけじゃないが」
ナルはうなずいてファイルを閉じる。
「――以上です。広田さんのお話をうかがいましょう」
「ひとつ聞いても構わないか」
「――どうぞ」
「さっき谷山《たにやま》さんが」
広田はそう言って、麻衣のほうに視線を寄こした。
「きみたちは単に調べているだけだ、と言っていた。決してムリに幽霊のせいにする気はないと。――それは本当だろうか」
「僕は心霊現象について調べているんです。心霊現象でもないものにかかわりあって、時間を無駄《むだ》にしたくはありません」
なるほど、とつぶやいてから、広田は軽く頭を下げた。
「――では、おれを手伝いに使ってもらえないだろうか」
麻衣はちょっと目を見開いて広田をながめてしまった。驚くのに充分なほど意外な申し出ではある。
「なぜ、と一応、理由をお聞きしましょう」
「おれもここで何が起こっているのか知りたいからだ。外野でいるより、きみたちを手伝ったほうが真実に近いのじゃないかと思った。だからだ」
ナルは軽く笑う。決して笑わない目元が不穏な気配をつくった。
「……監視ですか」
「それは否定しない。監視されては不都合なことがあるのか?」
「素人《しろうと》さんに邪魔をされては困ることなら、いくらでもありますが」
「命じてくれれば、できるだけ邪魔はしないようにする」
「僕は人使いが荒いですよ」
「構わない」
皮肉げに笑って、ナルは麻衣を見た。
「麻衣。――ということなので、アシスタントに使え。ポーターができてよかったな」
「け、けど……」
麻衣は広田に目を向ける。こんな年長者をアシスタント扱いするのには抵抗がある。
「谷山さん、構わない。こき使ってくれ」
「でも、広田さん、お勤《つと》めがあるでしょ?」
麻衣に言われて、広田はふいに思い当たったように軽く手をあげた。
「そういえば、きみら学校は」
麻衣はちらりと上司を見たが、助け舟は期待できそうになかった。
「仕事のために休業中です。ちゃんと学校には届けてますから」
そうか、と広田はそれで納得したようだった。
「おれもしばらく休める。だから気にせずに使ってくれ」
「はあ……」
手伝ってくれるというなら、それを拒《こば》む理由はない。機械は概して重いので、はっきりいって麻衣一人の手にはあまるのだ。
「――では、さっそく」
ナルが言って、広田はちょっと居ずまいを正した。
「今夜は我々と一緒に下で休んでいただきます。いま広田さんが使っている二階の四畳半を調査に使いたいので」
「――わかった」
「麻衣、翠さんとおかあさんを居間に集めてくれ」
「はあい」
「それが済んだら、広田さんの部屋に暗示実験のセッティング」
はい、と返答をして、麻衣は気の毒そうに広田を見る。
「じゃ、お言葉にあまえて、遠慮なく」
「ああ」
「そこの機材一式を運んでくださいます?」
広田が振り返ると、壁際《かべぎわ》にひとまとめにして、とうてい一度や二度では運べない程度の数の機材が積んであった。
広田は一瞬ひるんだものの、憮然《ぶぜん》とうなずいた。男に二言はないのである。
広田が二階に機材を運び上げると、麻衣はその機材を接続しはじめる。
「――いったい、なにが始まるんだ?」
「暗示実験です。――これは翠さんにもおかあさんにも秘密にしてくださいね」
広田は眉《まゆ》をひそめた。
「なぜだ?」
麻衣は広田の語気にやや棘《とげ》があるのを感じたのか、きょとんと顔を見上げてから、ほのかに苦笑した。
「ええと、これから暗示実験というのをやるんです。ここで起こっているのがRSPKかどうか調べるんですけど。翠さんとおかあさんに暗示をかけて、その影響があるかどうかを見るんです。何が目的の実験なのか、本人たちが知ってしまうと効果がないらしいんで」
「――暗示?」
「そんなに、変な暗示じゃありません。ただ単に、今夜この部屋に置いたものが動く、って言葉を印象づけるだけで」
「申し訳ないが」
広田は困惑してしまった。
「それに何の意味があるんだ?」
「えーっとですね、RSPKというのは、人が無意識に起こす現象なんです。必ず犯人――って言い方が悪いんですけど、犯人がいるものなんですよ。だから、暗示を与えておくと、そのとおりのことが起こるんです」
「翠さんかおかあさんが犯人だと言うのか」
だから、と麻衣は顔をしかめた。
「言葉が悪いのは認めます。もしもRSPKなんだったら、誰の無意識が行ってるか確かめてみよう、ってそういうことなんです。もしも暗示どおりのことが起きなかったら、少なくともこの家で起きてる変なことに、翠さんやおかあさんの無意識は関係してない、ってわかります。こうして、考えられることをひとつずつ消去していくんです」
ふむ、と広田はうなる。まだ釈然としなかった。
「暗示ってのは催眠術みたいなもんじゃないのか。誰がやるんだ? 危険はないのか?」
「ナルがやります。だいじょうぶ、ナルはちゃんと専門家に弟子入りして勉強したことがあるんです。こういう事件のときには必ずやる実験なんです。慣れてますから心配しないでください」
「……わかった。で? ここにある大層な機械は?」
カメラを配線しながら、麻衣は目線で部屋の隅に運び上げておいた機材を示す。
「まず、そこにある台を部屋の中央に置いてください」
「これは?」
「振動なんかが伝わりにくくなってる台なんです。その上に暗示に使ったものを置きます。だいたい花瓶《かびん》とか、そんなものですけど」
「ここでいいのか?」
広田がスチール製の五十センチ四方ほどの台を据《す》えると、麻衣はうなずく。
「そこの小さい機械をお願いします。二五一一って数字の入ったやつ」
「ブリュエルケアーとメーカー名が入った?」
「二個あるでしょう? それを台の上と、台の下に置いてください。振動計なんです。もうひと組、同じものが二個あるやつがあるんですけど」
「これか?」
「それです。それは傾斜計。それも同じように設置して、振動計と傾斜計のケーブルをこちらにください」
言われたとおりにしてコードを渡すと、麻衣がそれをカメラの下に置いた機械に接続していく。
「あとは、その大きい機械。位置センサです。それを台の横、部屋の端あたりに置いてケーブルをください」
これまた同じようにして、広田は部屋を見渡した。中央に置かれた台と、その上と周囲に配置された機械。どれからも配線が延びていて、麻衣が角度を決めているカメラの下にある機械につながれている。
「――リンさん?」
麻衣はインカムに向かって声をかける。
「カーソル線がぜんぜん落ちつかないんだけど。――いい? だいじょうぶ? ――わかった、切っとく」
「どうした?」
広田が声をかけると、麻衣は顔をしかめた。
「なんか、機材の調子がよくないんです。インカムも雑音がひどいし。機械にトラブルの多いお家《うち》だから心配だなぁ」
「なるほど。きみは女の子なのに、機械のことに詳《くわ》しいな」
「機械全般に詳しいわけじゃないですよ。慣れです、慣れ。鬼のよーな教官にしごかれまくってますから」
広田は苦笑した。
「彼の下で働くのは大変だろうな。――で?」
広田は部屋の中央に配置された機械類を振り返る。
「――ああ、それ? ええと、その台の上に対象物をのせます。でもって、位置センサとカメラで監視するんです。本当なら部屋を密封するんですけど、家の電源はすぐにブレーカーが落ちて信頼できないんで、下から電源を引っ張ってきてます。ケーブル類のぶん、どうしても隙間《すきま》があいて完全に密封はできないんで、これは略式」
「へえ」
「あとは一晩放っておくだけ。対象物が動いたらビデオかセンサに記録されます。部屋には人が入れないから、誰かが故意に動かすことはできないでしょ? 地震やなんかだったら、機械に記録されてしまうし。これでもしも対象物が動いたら、それは見えない力によって、ということになるんです」
ふうむ、と再び広田はうなった。
「なんというか――まったくきみたちは、霊能者らしくないな」
「でしょう」
麻衣は笑ってから、ちょっと広田を睨《ね》めつけるようにした。
「その、霊能者っていうの、ナルの前では言わないほうがいいですよ。皮肉の餌食《えじき》になりますから。本人は霊能者のつもり、ないらしいですし」
「だが、霊能者は霊能者なんじゃないのか?」
「ゴースト・ハンターと言ってほしいよーです。ようは霊能者って言葉が嫌いなんだと思うけど」
「なぜ?」
麻衣はあっけらかんと笑った。
「そりゃ、とうぜん、胡散臭《うさんくさ》いからでしょう。呼び名を変えたところで、うちが胡散臭いのには変わりはないんですけどね」
広田は苦笑した。
「谷山さんは、自分たちが胡散臭いと認めるわけだ」
「だって、うちぐらい胡散臭いところは、ちょっと他にないと思いますよ。調査員はこうだし、所長はアレだし」
「他人からそう見られるのがわかっててやっているのか?」
麻衣は笑った。
「うち、バイト料だけはすごくいいんです」
「若い女の子はわからんな。そんなに金が欲しいもんかね」
「あたし、みなしごなんで」
麻衣はさらりと言ってのけた。
「苦学してるんで、お金はほしーですねぇ」
めいっぱい広田はあせってしまった。
「……す、すまない」
「謝《あやま》ることないですよ。謝られたら居心地《いごこち》悪くなっちゃう」
「そうだな、すまん」
思わずふたたび謝ってしまった広田に、麻衣は声をあげて笑った。
翠は不思議な気分を味わっていた。空気の底にでもゆっくりと沈んでいくような気分。
居間の中は暗い。ひとつだけ点《とも》っている明かりは翠の正面にある。小さな電球ほどの明かりの前をメトロノームのように棒が左右に動いていた。棒が明かりの前を通ると光が遮《さえぎ》られるので、明かりは明滅しているようにも見える。
礼子とともに暗い居間に集められて、光を見ているように言われた。礼子の姿は離れているので、光を注視している翠の視野には入ってこない。
聞こえるのは、その機械がたてる規則正しい微《かす》かな音と、そうしてナルの声だけだった。もともと感情のうかがえない声が、さらに抑揚《よくよう》を欠いて聞こえる。姿は視野の中にない。ただ平坦な声だけが時折聞こえて、ゆっくりと間延びした調子で、たいして意味もなさそうなことを囁《ささや》いていく。
次第にぼんやりしていくのを翠は感じた。最初に脳裏に浮かんだのはこの家に越してきてからの様々な記憶。思い出すと同時に疲労感が翠の中に蓄積していく。何度も壊れる機械、何度もかけられる電話、何度も繰りかえされる修理屋の言葉。激しい徒労感。
これまでの疲労が一気に噴き出してきたようで、やがてはものを考えることさえ億劫《おっくう》になる。まるで疲労の水の中に沈んでいくように、翠の意識はたゆたい始める。
そこに声だけが降ってくるのだ。
……像……。
……ハヌマン……。
死んだ父親がバリ島で買ってきた人形だ。半神の猿《さる》・ハヌマンの像。
……ハヌマンが動く……。
……今夜。
翠はぼんやりと沈んでくる言葉を受けとめた。浮かんだのはいつか見た、極彩色《ごくさいしき》のバリの踊りだった。
――半神の猿が踊る。
「――結構です。お疲れさまでした」
突然、きっぱりとした声が降ってきて、同時に部屋の明かりがついた。
翠は思わず目をしばたたく。やっと光に慣れた目が拾ったのは、ナルとその手元に置かれたハヌマン。
強い明かりに目をしばたたいた瞬間に、それまで頭に浮かんでいた思考は霧散《むさん》霧消《むしょう》してしまった。ただ――ハヌマンに視線が引きつけられる。それに何かの意味があるような気がして。
「申し訳ありませんが、これを今夜お借りします」
ええ、と翠はぼんやりうなずいた。振り返ると、礼子も同じように怪訝《けげん》な表情でハヌマンを見ている。
「二階の四畳半――広田さんの部屋を今夜調査にお借りしますので、申し訳ありませんが、入らないでください」
「わかりました」
言ってから、翠はナルの目を正面から捕《と》らえる。
「――なにか、わかりましたか?」
家中のあちこちに機械を向け、家電品という家電品をチェックして、果ては屋根にまで登っていた。
「まだ、お話できるようなことは、なにも」
そうですか、と翠はやや落胆した気分で目を伏せた。
「今夜はいつもどおりにしていただいて結構です。もし、なにかあったら、ベースに必ず誰かがいますから」
「はい」
「カメラも動いてますので、カメラに向かって合図していただいても結構です。ささいなことでも構いません、気になることがあったら知らせてください」
「わかりました」
翠がうなずいたとき、ふいに礼子が立ち上がった。
「――おかあさん?」
礼子はダイニングに続くガラス戸を見ている。怯《おび》えた表情が浮かんでいた。
「……誰かがいるわ」
翠はとっさにガラス戸を見る。ダイニングは暗い。明かりを消してあるので、ガラス越しに見えるのは黒い色だけだった。
「誰かがあそこからのぞいているわ」
ナルはガラス戸に近づく。そっとそれを開けた。もちろん、その向こうには誰の姿もない。
ナルはインカムを取り上げる。
「リン――ダイニングのマイクに音が入っているか? ……ああ、わかった」
言って彼は礼子を振り返る。
「こちらの部屋には誰もいません」
「さっきまではいたの」
「家の中に大勢の人間がいて、あちこちをうろついています。お二人だけの生活になれていらっしゃると人の気配や物音が気になるかと思いますが、しばらくの間我慢してください」
「でも、いたのよ」
「音は意外に壁をよく伝わります。ダイニング・キッチンの向こうはベースです。うちのそこつな調査員が何か大きな音をたてたのかもしれません。上下の音はもっとよく抜けます。夜分に気になることもあるかと思いますが、それは我々が調査のためにやっていることですから」
「でも……」
「落ちついてください。今、家の中には三台のカメラと五本のマイクが稼動《かどう》しています。誰かが侵入してくれば、必ずどれかに引っかかります。機械の監視《かんし》網《もう》をくぐり抜けて誰かが家の中をうろつくことはできません」
「……そう」
うなずいた礼子の背中を翠は軽く撫《な》でる。
「あんまり怯《おび》えて騒いじゃだめよ?」
「いいんですよ」
ナルはそう言う。
「どんなことでも言ってくださっていいんです。それを調べるためにいるんですから。気のせいだと思っても言ってください。調べます。そのかわり、我々はプロだということを信じてください。異常だと思われたら徹底的に調べます。異常ではないと思われたらそのように申しあげます。そのときには、その言葉を信頼していただきたいのです」
礼子はうなずいた。
「そう――そうね。わかりました」
久しぶりに礼子の表情に落ちついた色が戻っていた。翠は感謝をこめてナルを見る。対する視線はそっけなかったが、それを不快には思わなかった。
「……六回目」
麻衣はベースに戻ってきたナルを見上げて、指を立ててみせた。
時計は午前三時を指している。翠と礼子が二階に上がったのは夜の十一時。それから四時間の間に、礼子は六度異常を訴えてきた。
人がいる、声が聞こえる、物音がする。――そう訴えるのだが、機材に異常は認められない。ナルが行って説明すれば落ちつくのだが、すぐにまたそれを繰り返すのだ。
「おかさん、あの調子じゃ、今までもほとんど寝てないんじゃないの?」
「だろうな」
戻ってきたナルは溜め息をつく。部屋の中は三人の人間と家具と機材で、ほとんど余ったスペースはない。さっきまでは広田も起きていたから、いっそう狭《せま》かった。
「どうするの? おかあさん、そうとうまいってるよ、あれ」
「ちょっと安心させておいたほうがいいだろうな」
ナルは考えこむようにする。
「薬を処方しようか。……偽薬《ぎやく》を」
「くすり? ギヤクってなに?」
「無知」
「わるかったね」
「まがいものの薬、かな」
「ええええ」
言って麻衣は指をつきつける。
「そういう詐欺《さぎ》的行為はよくないと思う」
ナルは嫌《いや》そうにその手を払いのけた。
「そんな意味じゃない。知らないのなら黙ってろ」
「でもね」
口を挟《はさ》んだのはリンだった。
「――どうします」
「派手《はで》なほうがいいだろうな。――できるか?」
「わたしは適任でないと思いますが」
「そうだな……」
「ふに? 話が見えないんですけどー」
首をかしげた麻衣に、ナルは命じる。
「麻衣、朝一番にぼーさんに連絡を取れ」
「ぼーさんが薬なの?」
ぼーさん、と呼ばれるのは文字どおりの坊主《ぼうず》で、いわゆる霊能者、渋谷サイキック・リサーチの協力者でもある。
ナルはうなずく。
「あの年代の人なら、仏教か神道《しんとう》の儀式のほうが馴染《なじ》みが深いだろう。どちらでも構わないが、ぼーさんのほうがまだしも見た目の説得力があるからな」
麻衣は笑った。
協力者の中には坊主もいれば巫女《みこ》もいる。坊主のほうもとても僧侶《そうりょ》には見えない男だが、巫女のほうはいっそうそういうタイプには見えない。
「長髪の坊主と化粧の濃《こ》い巫女じゃ、五十歩百歩だけどねぇ」
くすくすと笑ってから、麻衣は首を傾けた。
「なるほど、まだ心霊現象かどうかわからないけど、とりあえずおかあさんを安心させるためにお祓《はら》いをするんだ?」
「へえ。理解できたか」
「あたりまえだいっ。――ったく、人をよほどの馬鹿だと思ってんな、おまえっ」
「事実だろう?」
「へいへい。好きに言ってればぁ? ――電話してくる」
「時計を見たほうがよくないか?」
「ぼーさんがこの時間に寝てるわけないもん。むしろ朝に電話したら、寝入りばなを起こすことになっちゃう」
言って出ていく麻衣を見送って、ナルはリンに視線を向けた。
「――どう思う」
「意外に偽薬《ぎやく》が決定打になるかもしれませんね」
「この家に自殺した人間がいる、という話だったが」
「年が特定できないのでは、わたしにもよくわかりません。調べてみますか? あまり必要とも思われませんが」
「調べるよう、安原《やすはら》さんには頼んであるが」
モニターの画面のひとつに、麻衣が電話をかけているのが見えた。音声は切ってあるので聞こえない。電話があるのは居間である。麻衣の足下《あしもと》に布団《ふとん》をかぶった広田の姿が見えていた。
「機材に異常は?」
ナルの問いにリンはわずかに苦笑するふうを見せた。
「心霊的な異常ですか? ――ありません」
そのときに、画面の中の麻衣がなにやらカメラに向かって言っているのが見えた。居間に置いてあったインカムを示している。
「リン、スピーカー。――どうした、麻衣」
スピーカーに音が入った。電話の呼び出しベルが聞こえた。
『どーしよ?』
「……お前が取れ」
インカムに向かって命じると、麻衣はうなずいて受話器を取る。身を起こした広田が寝ぼけ眼《まなこ》で麻衣を見ていた。
「リン、電話の音声」
リンが機械を操作する。電話の音声を拾えるよう、翠の許可を得て回線を機材に繋いでいる。
電話の音声がスピーカーに入った。ひどい雑音と、麻衣の、もしもし、と呼びかける声。相手の声は遠い。雑音のせいもあって、ほとんど聞き取れなかった。
「――録音しているか?」
「回線接続と同時に録音を開始しています」
二人は無言でスピーカーの音声に耳を澄ます。通話は約二分で切れた。
「雑音をカットして、相手の声だけを抽出《ちゅうしゅつ》できるか?」
「やります」
時計を見ると、すでに午前三時半が近い。普通の状況ならば他人の家に電話をする時間ではないだろう。――ましてや、相手は翠や礼子なのだから。
「電話がかかったら、無条件に録音するようにする。深夜はこちらで電話を取れるように切り換えろ」
「――はい」
その後、電話は一時間おきに四度かかってきた。
「お母さんが寝たら、今度は電話かぁ……」
麻衣のぼやきは無視される。
翠が出勤のために起きてきたのは七時。続いて礼子が起きてきて、その後に調査に使った二階の四畳半は開封された。
ハヌマンの像は、昨夜セットした位置からまったく動いていなかった。
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五章
チャイムが鳴ったのは夕方、四時近くだった。留守番役を自任している広田《ひろた》はあわててインターフォンを取る。あわてなくても、渋谷《しぶや》サイキック・リサーチの三人は昼前までごそごそと家の中を嗅《か》ぎ回っていたようで、広田が起きるのと入れ違いに仮眠をとっているのだが。
インターフォンを取ると、女の声が、笹倉《ささくら》ですが、と答えた。
笹倉一家は翠《みどり》の家の右隣に住んでいる。すでに広田も何度か夫人の加津美《かづみ》を見かけていた。
「――はい」
玄関に向かってドアを開ける。加津美はあら、と目を見開いた。
「広田さん、でしたっけ。――奥さんは?」
「おばさんはいま、買い物に出てます。……何か?」
広田はあまり加津美に対して、いい印象を持っていなかった。礼子《れいこ》が笹倉一家を神経過敏なほどに警戒しているせいもあるのだが、広田自身、数日前に初めて加津美と顔を合わせた際に根掘り葉掘り、おそろしく立ち入ったことまで質問されたのが不愉快だったせいもある。
「じゃあ、待たせてもらおうかしら」
加津美は言って、広田が押し開いているドアに手をかけ、さらに開こうとする。広田はあわててそれを止めた。
「……困ります」
「あら、どうして?」
加津美は不快そうに広田を見上げてきた。がっしりしているが、背丈の低い女である。
「ご用でしたら、おれがお聞きしますけど」
「すぐ帰るんでしょう?」
「少し時間がかかるかもしれません」
だったら、と加津美は上目遣《うわめづか》いに広田を見る。
「やっぱり中で待ってるわ。あなた、おなかはすいてない? なんだったら夕飯までもつよう、お台所を借りて軽く何か作ってあげましょうか?」
「結構です」
広田は呆《あき》れた気分で加津美を見下ろした。
まるで翠や礼子と親しいかのような口振りだが、二人と笹倉一家の間には回覧版を持って行く以上のつきあいがないことを、広田はすでに聞いて知っている。
加津美は鼻白んだような顔をしてから、玄関の隅《すみ》に立っているカメラに目をとめた。
「――あれは、なぁに?」
「預《あず》かりもののカメラです」
「あら、お客さん?」
加津美は広田とドアの間から家の中をのぞきこむようにした。いいかげんにしろ、と怒鳴《どな》りたい気分だったが、広田はかろうじてこらえた。阿川《あがわ》一家の対人関係を悪くしては申し訳ないと思ったからだ。
「ええ。いま、ちょっと来客中なんで」
「昨日、ずいぶん人が出入りしてたものねぇ。あれはどういう方? ご親戚《しんせき》?」
広田は大きく息をついて、大声を出したい気分を耐えた。
「おれの友達です」
「お泊まりだったの? いつまでいらっしゃるの?」
「わかりません」
「なんだか、荷物を運びこんだり、屋根に上がったりしてたわねぇ」
本当に監視しているのではないだろうか、と広田は思う。
「――とにかく、おれ、友達の相手をしなきゃならないんで」
言ってドアを閉めようとした広田の手を、加津美はつかんだ。
「――待ってよ。本当は、あの人たち、誰なの? お友達じゃないでしょ? 高校生ぐらいの子もいたものねぇ」
加津美の目は正面から広田の目をのぞきこんでいて離れない。
――この女、どこかおかしいんじゃないのか。
とうてい隣家の住人が示す興味の範囲内だとは思われなった。
「高校時代の友達と、……ええと、クラブの後輩です。家の中で機械の故障が多いんで、来てもらったんです。そう、おれ、電気クラブだったんで」
はたしてそんなクラブがあるのだろうか――少なくとも広田の学校にはなかった――それはよくわからないが、とにかく適当に答える。
「これから、ちょっとまたみんなでゴソゴソやるんで」
そう、と加津美は広田の腕を放す。
広田は自分が冷や汗をかいていたのに気がついた。慣れない嘘《うそ》をついたせいなのかもしれなかったし、加津美の常軌《じょうき》を逸《いっ》した好奇心が気味悪かったのかもしれない。
加津美はまだ家の中をのぞきこむようにしている。
いくら他人の家に興味があるからとはいえ、普通ここまでするだろうか。
「――それじゃ」
「あなた、本当に翠さんの従兄弟《いとこ》?」
広田はドアを閉めかけた手をぎくりと止めた。
「どうして、いきなり下宿なんか始めたの? 本当はなにか目的があるんじゃないの?」
「――なんの話ですか」
「そうなんじゃないの?」
「いい加減にしてください」
加津美はもう一度広田の腕に手をかけた。掌《てのひら》の温度はシャツ越しにも生ぬるく感じられた。
「本当は用心棒なんじゃないの? この家でなにか起こってるんじゃない? 昔ここで、自殺したひとがいるのを知ってる?」
「いい加減にしてください」
「前の人もね、それで出ていったのよ。気味が悪いって。――本当はあなた、そのことが理由でここにいるんじゃないの? ついこの間も、そのことを聞きにきた男の子がいたわ。あれはあなたのお友達じゃないの?」
前の住人が本当に気味が悪かったのは家自体ではなく、ひょっとしたらこの隣家の住人ではなかったろうか。広田は女の粘《ねば》るような視線を受けながらそう思った。
「ねえ、何で隠すの? なにかまずいことでもあったの?」
勘弁《かんべん》してくれ、と広田が思ったときに、ふいに背後から静かな声が投げかけられた。
「広田さん、どうしたんです。まだですか?」
振り返ると、玄関先にナルが立っていた。
ありがたく広田はナルに縋《すが》ることにした。加津美の手をやんわり振りほどいて、軽く相手の肩を押す。
「そういうことなんで、これで」
止めようとする加津美の手を振りきって、広田はドアを閉めた。すかさず鍵《かぎ》をかけて、思わず安堵《あんど》の息をついてしまったのだった。
「――あれは、誰です?」
ほうほうのていで居間に戻った広田にナルは訊《き》く。
彼はさっきまでここでソファに横になっていたはずだが――リンのほうはベースで仮眠しているようだった――、いつのまにか起きていたらしい。
カーテンは閉まっている。広田はそれを確認して軽く息をついた。加津美が庭先から家の中をのぞいているような気がしてならなかったからだ。
「笹倉夫人だ。右隣の」
広田は居間のカーペットの上に座りこむ。
「正直、助かった」
「ずいぶんと好奇心が旺盛《おうせい》な方のようでしたが」
広田はナルを見る。
「いつから聞いてた?」
「ほぼ、最初からでしょう。チャイムの音で目が覚めましたから」
「立ち聞きは感心しないな」
「ほんの情報収集ですよ。おかげで助かったんでしょう?」
広田は顔をしかめる。
「どういう方だか、ご存じですか」
「笹倉加津美というらしい。亭主と息子の三人家族だ。亭主は公立中学の教師で、息子はいま高校生。――そのくらいなら、翠さんに聞いたが」
「ずいぶん家の中のことが気になるようですね」
「そのようだな。おばさんはかなり嫌《いや》がってるみたいだが」
「その『おばさん』は、中年女性一般に対する呼称ですか? それとも両親の姉妹に対する呼称ですか?」
言われて広田はナルを見返した。
「――それは……当然……」
「何かを秘匿《ひとく》する者は、悪事を隠すために秘匿するのだ、というのが広田さんの持論のように思いましたが?」
「あの女の言いがかりだ」
「翠さんの呼ぶ『広田さん』という呼称は、あまり従兄弟《いとこ》に対するものとも思えませんが」
端正な顔に浮かんだ底意地の悪そうな笑いを見て、広田は憮然《ぶぜん》とした。
「気がついてたんだな」
「広田さんはあまり嘘《うそ》がお上手《じょうず》ではないようですからね」
「本当に、おまえは性格が悪いな」
「聡《さと》いと言っていただきたいものですね。――従兄弟を詐称《さしょう》した理由をお聞きしても?」
「中井《なかい》から紹介されたんだ。心細いだろうから用心棒をしてくれ、と言って。世間体《せけんてい》が悪いから従兄弟ということにしようという話になって」
もともと嘘をつける性格ではないので、喋《しゃべ》りながら内心で安堵《あんど》していたりする。
ナルは軽く笑った。
「――そういうことにしておいてあげましょう」
「……おい」
「それだけが理由ではないようにお見受けしますが」
広田はナルを睨《ね》めつける。それに向かって彼は笑った。
「……というところで、お茶をください」
「――おれに言ってるのか?」
「もちろんですよ。僕は人使いが荒い、と言いませんでしたか?」
思わずつまる広田である。
「……わかった」
広田が台所で緑茶を淹《い》れている間、ナルはしげしげとダイニングの鏡――窓に見入っていた。
光は入らないから意味はないのだが、翠は毎朝鏡の上に吊《つ》るされたカーテンを開ける。閉まったままだと息がつまるのだと言っていた。
「――水仙になっても知らんぞ」
言って憮然《ぶぜん》と広田はテーブルに湯飲みを置く。
「望むところです」
軽く言って、ナルはテーブルにつく。
「……どうして鏡なんだろう……」
まるでつぶやいたような声だった。
「それは採光が悪いからだろう?」
「それでも鏡にする必要はどこにもないでしょう。どんなに採光が悪くても、ガラスにするものなのじゃないかな」
「ボロ隠しのつもりなんだろう。窓の外がすぐ隣の壁ではなんだし」
「賃貸するのならわかりますが。前の持ち主は自分たちが住むつもりで改築したんでしょう。だったらなおさら、そんなことをするものかな……」
広田はふと我が身のこととして考えてみた。すると確かに、どんなに採光が悪くても、たとえ窓から見えるのが隣の壁でも、鏡にしてしまうよりはマシなのではないかという気がした。――少なくても広田なら、鏡にしようなどとは考えつきもしないだろう。
「……まるで、窓の外を見たくないようだ……」
ナルの声に、広田は顔を上げた。しぜん、声が険しくなる。
「幽霊が見えるせいだ、なんて馬鹿なことを言いたいんじゃないだろうな?」
「……そこまでは言ってませんが?」
広田は顔をしかめた。
「前の持ち主にはなにか、窓を塞《ふさ》ぎたくなる理由があったんだ……」
「前の持ち主に聞けばいいだろう」
「そうできればね」
広田は眉《まゆ》をひそめる。
「――できないのか?」
「不動産屋は転居先を知らないと言っていました。彼らは連絡先を残していかなかったんです」
「……なんだって?」
「ここを売却した不動産屋は、この家が貸し出されていた間、ずっと仲介《ちゅうかい》をしていた。長いつきあいがあったはずなんです。にもかかわらず、転居葉書を出す、と言い残したきり、持ち主からの連絡はないとか」
「この家がひどい物件だということをわかってたからじゃないのか? 後でもめごとになるのを警戒して、あえて住所を知らせなかった」
「その可能性もあります」
ふむ、と広田は考えこむ。少し考えてみたが、その他には持ち主が連絡先を残さなかった事情の想像がつかなかった。
「――そういえば」
広田は、ふと思い出す。
「ゆうべの暗示実験の結果は?」
「動いていませんでした」
「すると、――ええと、RSPK? それではないんだな?」
「違うようですね」
広田は軽く笑ってみせる。
「お前が暗示に失敗したという可能性は?」
「ありえませんよ」
あっさり言われて、広田はやや脱力した。
「お前、本当に自信家だな」
「僕は事実に対しては謙虚《けんきょ》なんです」
広田がさらに脱力したときだった。コツンと硬《かた》い音がした。
広田は周囲を見回す。コツコツ、とどこかをノックする音だった。それはナルの背後の窓のほうから聞こえたように思った。
思わず広田が腰を浮かすと、ナルはそれを指の先で留める。それで半腰になったまま、しばらく息をひそめていた。
カツコツと、あきらかにノックの間隔で音はして、ほんのわずか続いてやんだ。
広田は立ち上がった。ナルはもう止めなかった。
広田は鏡の入った窓を開ける。ラッチ錠を外《はず》して窓を開けるその短い間に、ガラスならば誰が叩いていたのか見えたのに、とそう思った。
窓の外にはほんのわずかの距離をおいて、隣家の壁が立ちふさがっている。隣家との間の隙間《すきま》にはもちろん人の入れるほどの幅はなく、しかもどんな生き物の姿もなかった。少し離れたところにある隣家の窓も閉じている。上を見てみたが、二階の窓も閉まっていた。
「誰かいましたか?」
背後から聞かれて、いや、と広田は答える。忌々《いまいま》しい気分で窓を閉めた。
麻衣はよいせ、と背伸びをした。チャイムの音を聞いたように思うが、はて、あれは夢だったろうか現実だったろうか。
麻衣が割り当ててもらったのは、翠の部屋だった。翠が礼子の使っている和室に移って、自室の洋間を明け渡してくれたのだ。
友達の部屋には何度も行った経験があるけれども、OLの部屋というのは、またぜんぜん雰囲気が違っていておもしろかった。
最大の違いはドレッサーよね、とのんきなことを納得しながら服に着替える。穴に転落したり高い所に昇ったりが絶えないから、基本的に調査の時にはスカートをはかない。
洗面道具の入ったポーチを持って部屋を出る。二階のホールに置かれたカメラに向かってひょっとして起きて画面を見守っているかもしれない誰かに向かってオハヨウ、と声をかけた。
目が覚めて真っ先にしなければならないことは、とにかくベースに行って指示をもらうことだ。顔を洗ってからベースに向かう途中、麻衣は廊下で足を止めた。
「んー……」
なぜだかはわからない。どうしても姿見に近づくと足が止まる。べつに服のしわを直したいとか、そんなことでは決してない。
姿見は廊下の真っ正面、壁の中に埋《う》めこまれるようにしてついている。きっちり床の高さから、ちょうど麻衣が軽く手をあげた高さまで。白木の縁《ふち》がついていて、大きい。
首をかしげたりのぞきこんだり、ためつすがめつしていたときに、鏡の中に光が射《さ》した。麻衣の背後に映っている玄関のドアが開いたのだ。
麻衣はぎくりとした。理由は麻衣自身にもわからない。血の気が引くほど驚いて、跳《は》ねるようにして振り返っていた。思ってもみなかった言葉が脳裏《のうり》をよぎった。
――入っちゃ[#「入っちゃ」に傍点]、だめ[#「だめ」に傍点]。
自分の思考の意外さに、麻衣は振り返ったまま硬直してしまった。
――入らないで[#「入らないで」に傍点]。そのまま出ていって[#「そのまま出ていって」に傍点]。
ドアを開けたのは礼子で、振り返った麻衣が目に入ったのか、笑みを浮かべた。
「ただいま。――どうしたの?」
麻衣には答えられなかった。
――早く。
(おかえりなさいって、言わなきゃ)
――出ていって、戻ってこないで。
(言わないと、おかあさんが気にする……)
「お……かえり……なさい」
声を出すのには意志の力が必要だった。
買い物袋を提《さ》げた礼子は、居間のドアの前を通り過ぎて、ダイニング・キッチンのドアの前までやってくる。
「どうかしたの?」
「お……驚いちゃって……。考えごとをしてたから……」
あら、と礼子は笑う。
「ごめんなさいね」
「いえ」
麻衣はかろうじて笑った。礼子が首をちょっとかしげて、ダイニング・キッチンのドアを開け、そうして中に入るまで、必死で笑顔をつくっていた。
(足……震《ふる》えてる、あたし)
背中に汗の浮いた感触がある。
――どうして、いつも姿見の前で足が止まるのか。
(……わかった)
礼子の姿が消えて、麻衣はようやく無理な笑顔を止めることができた。
(あたし、姿見が怖《こわ》い……)
なぜいきなり、こんな気分になったのかわからなかった。鳥肌が立つほど怖くて、ベースに行くのには姿見のほうへ行かないといけないのに、振り返ることが怖くてできなかった。
カラリと襖《ふすま》の開く音がした。麻衣のわずかに後ろのほうである。
「どうしました?」
リンの声を聞いて、麻衣は震える。
「――谷山《たにやま》さん?」
麻衣は声のほうを振り返る。そこにいるのが誰だかわかっているのに、やはり怖《こわ》くてたまらなかった。
「どうしたんです」
そこにあるのは、やはりリンの長身で、それでようやく麻衣は息を吐いた。
「何かあったのですか?」
リンの前髪は長くて片目を覆《おお》っている。それで、見えるほうの片目を見返した。
「……あたし、あの姿見が怖い」
リンは姿見のほうを振り返った。
「どうしてだかわからないけど、すごく怖いの」
リンは軽く眉《まゆ》をひそめてから、麻衣の背中に手をかけた。軽くベースのほうに押す。
「とにかく、中にお入りなさい。真っ青ですよ」
(姿見の向こうに……)
ベースに向かって足を踏み出しながら、それは唐突に脳裏に浮かんだ。
(……コソリ[#「コソリ」に傍点]がいる……)
腰が抜けたように座りこんでしまった麻衣に困惑したのか、リンはナルを呼ぶ。
ダイニングにいた彼はすぐに広田とともにベースにやってきた。
「――コソリとは何だ?」
ナルに訊《き》かれても、麻衣には首を振るしかなかった。
「わかんないよぉ。とーとつにそう思っただけなんだもん」
ナルは顔をしかめる。広田は深い溜め息をついた。
「霊感ごっこか? ――谷山さんはもう少しマシな子だと思っていたんだが」
麻衣は広田を睨《にら》む。
「なんだとー」
「起きたばかりで寝ぼけてたんじゃないのか?」
「あたしは立ったまま寝ぼけるほど器用じゃない」
「どうだかな」
やれやれ、というように息を吐いた広田を麻衣は真っ正面から睨みすえた。
「いーよ? 寝ぼけたってことでも。あたしの寝ぼけは、広田さんの寝ぼけとはわけが違うんだから」
「ほう」
広田の顔には揶揄《やゆ》する色が明らかである。
「半|覚醒《かくせい》状態の意識をASCとゆってね、変成意識状態と呼ぶの。アルタード・ステーツ・オブ・コンシャスネスの頭文字。研究者によっては分離性変成意識、d−ASC、ディスクリート・アルタード・ステーツとゆうけどね」
広田はパチクリと目を見開いた。
「――は?」
「変成意識状態のときに、超能力や霊能力は鋭敏《えいびん》になんの。そりゃーあたしはご覧のとおりの凡庸《ぼんよう》な女の子ですけどー? 意識が変成しちゃうとタダモノじゃないのよ」
すごまれて思わず腰が引けてしまう広田である。
「……はあ」
「寝ぼけてるときのあたしは第六感のオンナなの。寝ぼけのせいにしたいんなら、それでもいいけどぉ? そこんとこよーく考えてから言ってよね」
「――麻衣」
ナルの静かな声が割って入った。
「自分で言ってて、情けなくならなかったか?」
「……なった」
本当に情けなさそうに言って麻衣は顔をしかめる。
「えーん、どうせあたしは、起きてるときは無能だよーぉ。しょうがないじゃないかー。体質なんだからー」
「ついでにお聞きしますが、変成意識状態というのは、催眠家の意識をも示すんですが、半覚醒状態による霊感と催眠状態による幻覚をどう区別するんですか?」
「えーとぉ……」
思いきり皮肉げな笑みを、ナルは浮かべる。
「できれば素人《しろうと》さんに、聞きかじりの受け売りでものを言って欲しくないのですが?」
「……反省」
うなだれた麻衣を見やって、ナルは広田に視線を移す。
「この馬鹿者の言葉は無視してください」
「……ええと……」
「ついでに、麻衣の妙な発言も、無視してくださって結構です。彼女は単に、こういう感じがした、というそれだけのことを述べたにすぎない。それが意味のあることなのか、単なる戯《ざ》れ言《ごと》にすぎないのかは、調査を進めてみればわかります」
「そりゃ当然……」
戯《ざ》れ言《ごと》のほうだろう、と言いかけた言葉は遮《さえぎ》られる。
「ちなみに、僕が彼女に詳しく話を聞いたのは、過去に彼女の戯れ言が単なる戯れ言ではなかったという実績が数多くあるからです。――だが、これもあなたには関係のない話ですから、無視していただいて結構です」
「あ、ああ」
うなずきながらも、広田はなにやら棘《とげ》を感じて釈然としない。
「それから、広田さん」
言ってナルはめいっぱい胡乱《うろん》な笑みを浮かべる。
「お茶をみっつ。大至急」
思わず頭に血が上りそうになったが、怒鳴《どな》る前に機先を制されてしまった。
「僕は人使いがたいへん荒いんです」
「……わかった」
ひそかに拳《こぶし》を握った広田に、麻衣がにっこりと笑いかける。
「あたしココア。ちゃんとミルクだてにしてね? お砂糖はひとつだからね」
増した怒りをぐっと鎮《しず》めて、広田はうなずく。部屋を出た背にさらに麻衣の声が追いかけてきた。
「おかあさんは疲れてるんだから、使っちゃだめだよー」
怒りを通り越してがっくり脱力してしまう広田だった。
「広田さん、わたしが……」
礼子はミルクパンをかきまぜている広田を困惑して見やった。
「いいんですっ。おれがやりますっ」
なにやら怒っているらしいのだが、理由がわからないので途方にくれる。広田は乱暴にミルクのパックを傾ける。
「あの……広田さん」
「いいんです、おれがやりますからっ」
「いえ、ミルクはもっと少しずつ入れないとダマになりますよ?」
広田は肩を落とした。
それを見やって礼子が首をかしげたとき、電話のベルが鳴った。
礼子はわずかに全身を緊張させる。何度もかかってきた正体不明の電話。そのせいで、もう無条件に電話に対して構えてしまう。
広田が不審《ふしん》そうに顔を上げたので、礼子はあわてて受話器を取る。おそるおそる耳に当てた。
「……はい。……阿川《あがわ》です」
ああ、まただ、と受話器を耳に当てた瞬間に思った。ひどい雑音。その背後から遠く聞こえる不明瞭《ふめいりょう》な声。
翠は何度聞いても、何を言っているのかわからない、と言う。けれど礼子には何となくわかってしまうのだ。
――出ていけ。
――出ていかないと、祟《たた》り殺してやる。
礼子は受話器を置いた。
いったい、こんなことがいつまで続くのだろう。
「どうかしたんですか?」
広田がそばに寄ってきて、礼子は顔を上げた。苦労してなんとか笑った。
「悪戯《いたずら》電話みたいなの」
また、鈍《にぶ》い頭痛が襲ってこようとしているのを感じた。このところ、ずっと悩まされている柔らかなもので頭を締められるような頭痛。薬を飲むほどには苦しくないが、いつまでも続いて決してとれない。昨夜から少し楽になっていたのに。
「だいじょうぶですか?」
広田は礼子の顔をのぞきこんだ。顔色が悪いような気がする。広田のほうに目をやって、ええ、と答えた礼子は、いっこうにだいじょうぶなようには見えなかった。
「おばさん、気分でも悪いんですか?」
いいえ、と首を振りかけた礼子は、突然背後を振り返った。ただいま、と声がする。翠の声だった。
「……だめ」
礼子はつぶやく。次いで叫んだ。
「だめ! 翠、入ってこないで!」
「おばさん?」
「だめよ、このまま出ていって――――!」
――おねがい、おねがいよ。
――あの子だけは[#「あの子だけは」に傍点]、見逃して[#「見逃して」に傍点]。
翠が部屋に駆けこんでくるのと同時に、麻衣とナルがダイニングに飛びこんできた。
広田は、叫ぶなりうずくまってしまった礼子のそばに立ち尽くして、おろおろと三人を見比べてしまった。
「おかあさん?」
「だいじょうぶですか!?」
麻衣と翠に支えられて礼子は顔を上げたが、その顔はどこか虚《うつ》ろでなにかが灼《や》け切れたような表情に見えた。
「おかあさん……ちょっと、横になろう?」
翠が言うと、礼子は表情のそげおちた顔でつぶやく。
「食事の用意を……しなきゃ」
「わたしがするから。だからね? ちょっと休んで?」
翠は礼子を抱えるようにして二階に連れていった。
――だめ。翠、入ってこないで。
――だめよ、このまま出ていって。
再生されてベースのスピーカーから聞こえてくる声に耳を傾けて、広田は考えこんでしまう。
これは麻衣が言っていたのと同じ言葉ではないだろうか。――いや、これはもともと礼子がいつだったか、取り乱したときに口走った言葉だから、それを麻衣が覚えていて、つい繰り返したのかもしれない。
きっとそうなのだろう。――だが……。
「ぼーさんは何時に着くと言ってた?」
ナルは麻衣に問う。
「夕方。時間は言ってなかった。仕事があるから、終わってからしかこれないって」
「誰だって?」
広田は口を挟《はさ》んだ。
「あ、協力者が来るんです」
麻衣は言ってから、ちょっと広田の顔を見上げてきた。
「広田さんの大っ嫌いな霊能者ですけど」
広田は憮然《ぶぜん》として、これには返答をしなかった。
「いつもうちに協力してくれる人なんです。応援を頼んだんですけど、霊能者は副業で、本業のほうの仕事があるんで、夕方まで来れないって」
「もうとっくに夕方だが?」
「そうですねぇ。仕事が長引いてるのかなぁ」
「いったい、なんだってこのうえ霊能者が必要なんだ?」
「それは――」
麻衣が言いかけたときに、チャイムの音がした。ぱっと顔色を明るくして麻衣は立ち上がる。
「ぼーさんだっ」
ひと声言うなり、部屋を駆け出していった。
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六章
「こんばんはー」
のんきそうな声をあげてベースに入ってきたのは、いつぞや渋谷《しぶや》サイキック・リサーチのオフィスで会った安原《やすはら》だった。背後にもう一人、男を従えている。
軽く頭を下げてから、広田《ひろた》はあらためて安原と背後の男を見比べた。
男のほうは広田と同年代ぐらいだろうか。あまり霊能者には見えない。のんきそうな顔をしていた。こいつもずいぶん上背のある男だ、と思った。やや色の薄めの髪を伸ばして、くくっているのが印象に残った。――広田は男の長髪や毛染めが大嫌いなのである。
よう、と笑った男に、ナルはそっけなくうなずいて安原を見た。
「――お願いしたものは揃《そろ》いましたか」
「はい。全部」
言って安原は手に提《さ》げた紙袋を上げてみせた。
「お疲れさまです」
広田の不審そうな様子に気がついたのか、安原は男を見やってから笑った。
「あ、こちらは滝川《たきがわ》さんといいまして。もと高野山《こうやさん》のお坊さんで、うちの協力者というか、助《すけ》っ人《と》というか。――ま、とにかくそういう人です」
軽く頭を下げた滝川に、広田もまた軽く会釈を返す。どこが坊主《ぼうず》だ、という独白は口にしなかった。
「こちらは、依頼者さんの従兄弟《いとこ》さんで、広田さん」
どうも、とあらためて会釈をした広田に、ナルは声をかける。
「――広田さん。お茶をください。人数分、ここへ」
またか、と思ったが、先ほどはあの騒ぎでお茶のことなど失念していたから、しかたなく立ち上がる。
憮然《ぶぜん》とした気分に追い打ちをかけたのは、坊主の滝川だった。
「あ、俺、アイスコーヒーにしてねー」
返答もせずに広田は部屋を出る。よほど不機嫌《ふきげん》そうに見えたのか、麻衣《まい》が追いかけてきて軽く腕を叩いた。
「こんどはあたしが手伝いますって」
「よー、ナルちゃん。久しぶり」
狭《せま》い部屋の中に腰をおろしながら言ったのは滝川だった。
「故郷の空気はどうだった?」
「東京より成分的にかなりマシ、というところですか。――先日は花束をどうも」
「――花束?」
襖《ふすま》を閉めながら安原が口をはさんだ。
「ま、まさかプロポーズですか。だったら滝川さんをけーべつしちゃうな、僕」
滝川はにんまり笑う。
「差別はいかんぞ、青少年」
「花束を贈るセンスを軽蔑《けいべつ》するんです。赤いバラに指輪なんか添えてあったら、さいてーですね」
「アホか。――献花《けんか》」
ああ、と安原はつぶやいた。
「お葬式のお花ですか? そっか、最近じゃ海外に花が送れるんですよね」
言って安原はナルに向かって軽く頭を下げる。
彼が帰国していたのは、日本で客死した兄の葬儀のためだった。日本で失踪《しっそう》した兄を捜《さが》しに来日し、結局その遺骨を抱《かか》えて帰国したのだ。――安原はあらためてそれを思い出した。
「本当に御愁傷《ごしゅうしょう》さまです。何の御|供養《くよう》もさしあげず、失礼しました。――って、これ、いまさらですけど」
ナルはこれには苦笑しただけだった。
滝川はナルを見る。
「にしても、ずいぶん早く戻ってきたんじゃねぇの。俺はまた半年ぐらいは戻らないんだと思ってたんだが」
「そうのんびりはしていられない。あのオフィスの責任者は僕なんだから」
「あ、そか」
言って、滝川は機材の前に座っているリンに向かって手をあげる。
「リンさんもお変わりなく」
これに対しては儀礼的な会釈が返ってきただけである。
それより、と安原は襖《ふすま》の向こうに目配《めくば》せした。
「どーしたんですか、広田さん。何だってあのひとがお茶くみするんです?」
ナルは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「調査を手伝いたいと善意の申し出があったので、ありがたく受けさせてもらっただけです」
「へえ……。奇特なひとですねぇ」
「善意の人間にお茶くみさせるか?」
滝川はナルをしんねりと見たが、当のナルは涼《すず》しい顔をしている。
「あいかわらずだねぇ」
「おかげさまで」
まあまあ、と安原は笑った。
「滝川さんも、すぐに広田さんには冷たくなるんじゃないですかー?」
「なによ、それ」
「広田さんはたいへんな否定派らしいですよ。昨日の夕方、谷山《たにやま》さんが電話でボヤいてました。いろいろ僕らに対して含むところもあるみたいだし、さっきも滝川さんを睨《にら》んでたし」
「おやまあ。否定派とは可哀想《かわいそう》に」
「おや? 可哀想なんですか?」
「そりゃもー。俺は同情を禁じえんな。さぞかし辛《つら》い一日を過ごしたことだろーて」
「はあ?」
「ナル坊にいじめられて」
ぷ、と笑いかけて、安原はあわてて笑いをかみ殺した。
「僕は何も言ってませんからね。言ったのは滝川さんですから。――あ、これが頼まれた品物です」
安原は紙袋をとりあげてナルに手渡す。
「――んで?」
滝川がナルとリンを見比べた。
「俺はわざわざ打ち上げを返上してやってきたんだが?」
これに対してナルは簡潔《かんけつ》に答えた。
「除霊をしてもらいたい」
「お相手は?」
「いない」
「は――ぁ?」
滝川は声をあげたし、安原もまた不審《ふしん》そうにした。
「いないって、それどういうことよ」
「言葉どおりだ。相手はいないが、派手《はで》なパフォーマンスをやってほしい」
言ってからナルはシニカルに笑う。
「なんでしたら、ドライアイスでもレーザーでも、演出用に用意しますが?」
「いらんわ」
「できるだけ、密教式にそれらしく、派手な儀式をやってもらいたい。除霊をした、という印象を強く与えられるように」
「ちょっと待て、こら」
滝川は頭を掻《か》く。
「もうちょっとちゃんと説明せんか? 何のために、んなことをすんのよ」
「いま、言っただろう。除霊をした、と思わせるためだ」
「あのな。依頼の内容は安原に聞いたけど?」
阿川家の所在がわからないので、安原に道案内をさせた、その道中でだいたいの事情は聞いている。
「この家ではつまりポルターガイストだか何だかが起こってるわけでしょーが。形だけの除霊をしてどーすんの。状況が改善できなきゃ、依頼者だって納得せんだろーに」
それについては、とナルは安原が持ってきた紙袋を見やる。
「演出用の道具を用意した。あれで問題はないはずだ」
「つまりなにか?」
滝川は憮然《ぶぜん》として腕を組む。
「俺に嘘《うそ》っこの除霊をぶちかませ、と? 成功したかのようにお前らが演出をしてくれるってわけか?」
「そういうことだ」
「俺をなめとんのか、このガキ」
滝川がすごんだときに、いきなり襖《ふすま》が開いた。そこには怒気《どき》を露《あらわ》にした広田がトレイを片手に仁王《におう》立ちしていた。
「――聞いたぞ、このペテン師ども!」
乱暴にトレイを畳の上に置いて、広田は部屋の中の四人を見渡した。
やはり、と思う。だから言わないことではない。霊能者なんて連中を信用してはならないのだ。翠《みどり》も礼子《れいこ》もあやうくカモにされるところだった。
「やはりそういう肚《はら》づもりだったんだな、貴様ら」
広田が睨《にら》みつけると、ナルは軽く溜め息をつく。
「……そういう、とは?」
「体《てい》よく翠さんたちを騙《だま》して、金を巻き上げるつもりだったんだろう!」
「巻き上げるもなにも、うちの謝礼は志納ですが」
「そんな台詞《せりふ》に騙されると思うか!」
「阿川《あがわ》さんからは依頼書を書類の形でいただいています。そこにきちんと明記してありますが」
「そんなことでごまかされると思ったら、大間違いだからな!」
広田が怒鳴《どな》ったとき、背後から気抜けするほどのんきな声がかかった。
「――なんの騒ぎ?」
振り返ると、麻衣がきょとんとカップを持って廊下に立っている。
広田は構わず、ナルの側に足音も荒く歩み寄った。
「――やはり阿川さん母娘《おやこ》を騙すつもりだったんだな。こんな得体《えたい》の知れん男を使って、小道具で演出して、それで除霊はしたと言って、謝礼を巻き上げるつもりだったんだろう」
「へ? ぼーさんは偽薬《ぎやく》じゃなかったの?」
麻衣の声が割って入って、広田は振り返る。
「偽薬?」
ほとんど胸ぐらをつかまんばかりにしていた、ナルを見やった。
「――なんだ、それは」
ナルは露骨に鬱陶《うっとう》しそうにした。
「いま説明します。――どうしてこう、どいつもこいつも単純なんだ」
「こら!」
「――座りなさい」
厳しい目つきで見られて、思わず広田は気圧《けお》される。しぶしぶその場に座った。
「偽薬《ぎやく》というと、怪《あや》しげなものだと勘違いする馬鹿者がいるが」
ナルは言って麻衣のほうをちらりと見た。
「実は、怪しげなものでも何でもない。れっきとした医学・薬学上の用語だ。患者に薬理学的には不活性の物質――たとえば、蒸留水や乳糖、でんぷんや生理食塩水を薬だと偽《いつ》って与えると、患者は薬を飲んだという心理的な効果から本当に治癒《ちゆ》することがある」
ひょっとして、と滝川は声をあげた。
「プラシーボ効果、ってやつ?」
「そう。プラセボ効果とか、偽薬効果とも言うな。そうやって投薬される薬を偽薬と言う。大量に投薬されると危険な副作用のある薬、あるいは習慣性のある薬などの場合、偽薬を何割か混ぜることができると、患者にとっては有益なことになる。――また、新薬の実験にもこの偽薬が使われる。薬と偽薬を混ぜて心理効果抜きの、実際の効果を見極めるために」
「なるほどぉ」
そう言ったのは麻衣だ。
「それで、ぼーさんが偽薬なんだ」
先生、と滝川はおとなしく手をあげた。
「俺にはもひとつ、わかりません」
「いま説明する。――依頼者の母親である礼子さんは、引っ越して以来の怪現象のせいで、かなり心理的にまいっている。風のせいで音をたてても、何かがいると騒ぐほどだ。依頼者の翠さんの最大の不安も礼子さんの状態にある。それで、偽薬を与えて安心させたいんだ。それにはできるだけ派手な儀式のほうがいい。確かに除霊をしたと強く印象づけるために」
なるほど、と滝川はつぶやいた。
「それでか。しかし俺にまさか、祈祷《きとう》[#「祷」の字は旧字体。「示+壽」]の真似事《まねごと》だけして帰れとおしゃる? ――俺にもいちおー、プライドってもんがあるんですがね」
滝川の言葉にナルは肩をすくめた。
「ぼーさんに手伝ってもらうほどの事件じゃないと思うんだが」
「ほう」
たとえば、とナルは紙袋の中から小さな電気部品を引っぱり出した。
「ブレーカーが頻繁《ひんぱん》に落ちる件については、これが原因」
「なんだ、そりゃ」
「ブレーカーの動作部だ。この家のブレーカーを分解して調べてみたら、三十アンペアと表示してあったにもかかわらず、内部の部品じたいは五アンペアしかなかった」
へえ、と滝川はつぶやいたが、麻衣は首をかしげた。
「五アンペアって、どのくらい?」
ナルは露骨に嫌《いや》な顔をする。
「お前は学校で何を習ってるんだ」
「電気に弱いのは女の子の常だいっ」
「電流と電圧の積は電力に等しい。日本の家庭用電圧は百ボルトだから、五百ワット。おおむね倍から四倍の電流でブレーカーは落ちてしまうから、クーラーが二台も動くと落ちる計算になるな」
「ほえええ」
「テレビの色ムラは磁石《じしゃく》のせい。フレームを開けたら、内部に強力な磁石が入っていた。画面の雑音はアンテナ回線の腐食《ふしょく》のせい。これは故意に腐食させた形跡がある。その他の電気系統のトラブルも似たり寄ったりだな。どれもこれも一見しただけではわからないように、うまく偽装してあった」
「つまり、故意に誰かが小細工《こざいく》をしてる、って意味か?」
滝川の言葉にナルはうなずく。
「電話の雑音とTV画面のビート障害は無線電波のせいだ。基本波の混入とイメージ混信が確認されている。ところが、音声が流れている様子がないんだ。あえてただ電波を流しているだけとしか考えられない」
「ふーむ」
「単純な細工から手の込んだ細工まで。明らかに誰かの故意だな。ご苦労なことだ」
「電気系統以外は」
「徹底的に調べたわけじゃないが、電気系統の例から考えても同様だろうな。少なくとも、翠さんの訴えの範囲内では、作為的に起こせないトラブルは起きていない」
「すると、なにか?」
滝川は腕を組む。
「誰かが故意にやってるんだな? 家の中に侵入してきて?」
「そういうことになるな」
「しかし、何のために?」
ナルは肩をすくめた。
「そんなものは、犯人に訊《き》いてみなければわからないが」
言ってナルは窮屈《きゅうくつ》そうに壁際《かべぎわ》に座っている安原を見た。
「――安原さん、どうでした」
唐突に話をふられて、安原はあわてて背筋を伸ばした。
買い物をしてほしいと電話があったのは、今朝早くのこと、滝川に地図と一緒に持たせてほしいと言われたのを、自分が配達にきたのは、同時に報告することがあったからである。
安原はあせって持参の鞄《かばん》を開く。中からノートを引っぱり出した。
「ええと、……まず、自殺者の件についてですが、これは図書館の新聞をひっくり返してみましたが、発見できませんでした。もちろん、新聞や区報のお悔《く》やみ欄までチェックしてあります」
「やはりな……」
「ことが自殺では新聞に載《の》ってなかった可能性もありますから、付近の聞きこみも行ってみました」
「どうでした?」
それが、と安原は顔をしかめてから、眼鏡《めがね》を押し上げる。
「このあたりは、ここ二十年ほどの間に急激に開発された地区なんですね。田圃《たんぼ》や畑ばっかりだった所に家が建って町ができて、という具合で、人の流入も激しいし、地名や番地も何度も改正されています。――どうも、新聞なんかの調査もこのへんで不安が残るんですが、それはともかく。そう言うわけで、代々このあたりに住んでいる人物というのを発見できなかったんですよ」
「なるほど」
「で、結局、何年前の話だかわかりませんが、この家で自殺があったという話を知っていたのは、一人だけでした」
ナルは薄く笑う。
「ひょっとして、隣の笹倉《ささくら》さんだけ?」
「ご名答です。ちなみに笹倉一家――中学教師の夫・剛《たけし》、妻・加津美《かづみ》、高校生の長男・潤《まさる》の三人家族ですが――彼らは六年前に隣の家に越してきたようです。それで、この近所のそれ以前から住んでいた人を探して聞いてみたんですが、誰ひとり自殺事件について知っている人がいないんです」
広田は身を乗り出した。脳裏《のうり》に加津美のあまりに不自然な様子がよみがえった。それでは加津美が言っていた、話を聞きにきた男というのは安原のことだったのだ。
「ひょっとして、笹倉が嘘《うそ》をついている可能性がある、ということか?」
安原はうなずく。
「大いに怪《あや》しいですね」
「しかし、なぜ?」
「それなんですが。それについては、この家を斡旋《あっせん》した不動産屋で面白《おもしろ》い話を聞きました。この付近の家は、ほとんどが昭和四十七年あたりの建築ブームの頃に建てられているんです。敷地も狭《せま》いし、建物もあまり程度がよろしくない、と。それが近年の土地狂乱で、転売されたり買い集められたりで、どんどん町が改編されていってるんですよね。この家も隣の家も建築ブームの頃に建てられて、土地狂乱に取り残された家なんです」
「それが――?」
「昭和四十七年あたりの建築ブームは、田中《たなか》角栄《かくえい》の日本列島改造論が出て、その角栄が首相に就任したせいで急激に促進されたものなんです。ところが、前年の四十六年にはドル・ショックが、翌年の四十八年にはオイル・ショックが起こって、世間は決して景気のいい状態じゃなかった。資材は足《た》りない、景気は悪いということで、この頃に建てられた建築物というのは、かなり粗悪なものが多いんです。コンクリートに海砂が混ぜられて、鉄筋が腐食《ふしょく》している、なんて問題が起こってるのもこの頃のやつですよね」
「ふうむ……」
「笹倉家もこの例に漏《も》れず、というところでそれで笹倉氏は家を建て替えたい、とそう思っているようです。一人息子がいて、彼も高校生、独立した自分の部屋をほしがっているし、将来息子が結婚したときのことを考えても同居が可能なように、と。ところが残念なことに、それにはちょっと土地が狭すぎる、というわけです」
「……なるほど」
「この家は確かにずっと貸家《かしや》になってまして、売却の仲介《ちゅうかい》をした不動産屋が賃貸の仲介もしていたんですけど、その不動産屋に何度も笹倉氏から購入の申し入れがあったそうです。ところが、所有者はずっと売る気がなかった。笹倉氏の提示した金額もお話にならないほど安かったと言うんです」
言って、安原は広田の顔を見る。
「そのうえですね、笹倉一家はなかなかアクの強い人達のようで」
広田は顔をしかめた。あれをアクが強い、で済ませていいものだろうか。
「所有者と不動産屋の心証が、あまりよろしくなかったんです。それでこの家を売却することになったとき、あえて笹倉氏には売らなかった、というわけです」
広田は口を開けた。
「よく調べたな、そんな内部の事情を」
安原は快活に笑う。
「つい口が滑《すべ》る、って言うじゃないですか。僕、そういうふうにもっていくの、得意なんです」
広田は密《ひそ》かに頭をかかえた。どうしてこう、渋谷サイキック・リサーチの連中はひと癖《くせ》もふた癖《くせ》もあるのだろう。
「……つまり、笹倉があえて土地を手放させるために、仕組んでいるんだと?」
「その可能性は濃厚なんじゃないでしょうか」
ナルは口を挟《はさ》んだ。
「この家の価値が安かったことについては、何かわかりましたか」
それなんですけど、と安原はノートを繰《く》る。
「どうも、はっきりしないんですよ。不動産屋の言い分は阿川さんの説明のとおりです。ただね、近所の人の話によると、持ち主夫婦は二か月ほどですが、この家に住んでるんですよ」
広田は首をかしげる。
「そんな話は聞いてないが、あり得ることなんじゃないのか?」
「まだ、あります。――近所の人の証言によると、ここは人の居着《いつ》かない家らしいんです」
広田は眉《まゆ》をひそめた。
「それは、建物に問題があるからだろう」
「不動産屋はそのへんのことは口が堅《かた》いですからねぇ。それで、出入りの施工業者をあたってみたんですけど……」
「いったい、一日、二日でどうやってそれだけの調査をしたんだ?」
「やだなー。依頼が来てすぐに動き始めたに決まってるじゃないですか。――それはおいといて。この家は何度か持ち主が替わっているみたいです。一番長く持っていたのが、以前の持ち主で竹中《たけなか》という人。竹中氏は十三年間ずっとここを賃貸にしていたんですが、その間不動産屋は変わってませんし、それで出入りの施工業者も変わっていません。この業者によると、二年以上この家に住んでいた人はいない、と言うんです」
「――なぜ」
「理由はさまざまだったようですが。ただ、家が変だ、何かいる、出る、と訴えたひとがいたようですね。雨漏《あまも》りやなんかの家自体のトラブルも多くて、担当者は思いっきり嫌《いや》な顔をしてましたが」
「それは、ずっと笹倉が何かやってたということか?」
それが、と安原は難しい顔をした。
「その業者の話によると、賃貸になった当初からちらほらとそんな話を聞いた、と言うんです。十三年前ですから、六年前に越してきた笹倉氏は関係ありません」
「――馬鹿な」
安原は肩をすくめるようにした。
「僕に言われたって困ります。――とにかく、人の動きが激しいんで、よくわからないんですよ。あまり近所づきあいも盛んな土地じゃないみたいだし。もうちょっと調査半径を広げてみますが」
言ってから、安原はナルを見た。
「ひょっとして、もう必要ありません?」
いや、とナルはつぶやく。何か考えこむようにしていた。
「とりあえず続けてください」
「了解しました」
「で?」
言ったのは滝川だった。
「なんだかよーわからんが、とにかく家の中のトラブルについては、ちゃんと足のある犯人がいる、と。ただ、おかーちゃんが怯《おび》えてるんで、安心させるために俺が除霊したフリをすりゃいいわけだな?」
ナルはうなずく。
「そういうことだ」
「けど、また被害が続いたらどーすんの。犯人を捕《つか》まえて締め上げておいたほうがいいんじゃねぇのか?」
「それはそうなんだが……」
「拝《おが》み屋の俺が言うのもなんだが、よほど迷信深いタイプでないかぎり、幽霊がいたけど除霊しました、と言われるより、誰かのイタズラで犯人はコイツです、って言われたほうがずっと安心すると思うんだが」
確かに、と広田はうなずく。それが真っ当な人間の反応というものだろう。――咲紀《さき》のようなタイプはどうだか知らないが。
「証拠はあるのか?」
広田が問うと、ナルは首を横に振る。
「直接証拠はないな。犯人が侵入してきたところを、カメラに捕《と》らえられればいいんだが」
そうか、と考えこんだところに、足音がした。ベースから顔を出してみると、ちょうど翠が階段を降りてこちらにやってくるところだった。
「――おばさんは、だいじょうぶですか」
広田が声をかけると、翠は少し困ったように笑って背後を見た。軽い足音がしている。すぐに礼子も階段を降りてきて姿を現した。
「起きていいんですか?」
広田が聞くと、礼子は微笑《ほほえ》む。
「ええ。……ごめんなさいね、ちょっとぼうっとしちゃって」
「いえ……」
「みなさん、おなかがすいたでしょう。ちょっと待っててくださいね」
言ってから、礼子はベースのほうを見る。
「さっきチャイムが鳴ったようだけど。呼んだって言った方がいらしたのかしら」
「あ、ええ……」
広田が言ったところで、チャイムが鳴った。翠が玄関に降りてドアを開ける。
「――はい?」
「ねえ、もうお夕飯は済んだ?」
その声は家の中に飛びこんできた。
「さっき翠さんが帰ってくるところが見えたもんだから」
笹倉加津美だった。
彼女はドアの間から家の中を見回すようにして、手に持った包みを差し出した。
「お客さんがたくさんいるみたいだから。ご飯の用意も大変でしょう? そう思って差し入れに来てあげたのよ」
翠と礼子は一瞬目を見交わす。
「できあがりじゃないんだけど。下ごしらえだけしてきたから、ちょっと火を貸してもらえれば、すぐに仕上げてあげるわ」
翠は困ったように微笑《ほほえ》む。
「いえ、いいです。申し訳ないし、そんなことをしていただく理由もありませんから」
なにを言ってるのよ、と加津美は笑う。
「困ったときはお互いさま。お隣同士じゃないの」
「いえ、それにもう、母が支度《したく》にとりかかってますから」
「ほんの一品ぶんよ。お台所を借りるわねぇ」
家の中に入って来ようとした加津美を翠はとどめる。
「あの、――ちょっと待ってください」
弱り切って翠が加津美を制したとき、広田の声が割って入った。
「上がってもらいなさい、翠さん」
え、と翠は背後を振り返る。腕を組んだ広田の顔を見た。その背後の廊下にナルが姿を見せている。
「ちょうどいい。上がっていただきなさい」
翠も礼子も困惑したようにし、反対に加津美は満面に笑みを浮かべた。
「そうでしょ。大勢のご飯って大変ですものねぇ」
嬉々《きき》として玄関に入ってきて、上がりこんでくる。
「お台所、こっちだったかしら?」
言って加津美は勝手に居間のほうへ入っていった。
翠が困惑したように広田を見る。
「広田さん……」
声をひそめた翠に、広田はうなずいた。そうして背後を振り返る。壁にもたれるようにして立っていたナルを見た。
「渋谷くん。こういうことは、さっさと白黒をつけてしまったほうがいいと思う」
ナルは軽く息を吐いてからうなずいた。
翠も礼子も、しばらくの間、広田とナルを見比べていた。
いそいそと台所に入った加津美は、広田に呼ばれて眉《まゆ》をひそめた。
「すみませんが、ちょっと来てください」
「あら、――でも」
「料理は後でいいですから。少しお話ししたいんです」
そう、とダイニングを横切りながら、加津美はゆるゆると顔が強《こわ》ばるのを感じた。広田の表情が険しかったからだ。
居間に行くと、翠と礼子、それに昨日出入りしていた高校生ぐらいの少年が広田とともに待っていた。居間の隅《すみ》にはカメラが据《す》えてある。それが自分のほうを向いているようで、加津美は無意識のうちに首をすくめた。
「なに――かしら?」
「座ってください」
そう言った広田の声はさらに厳しい。加津美は不安な気持ちで腰をおろした。
実は、と広田は切り出す。
「このところ、こちらのお宅では電化製品の故障が相次いでまして」
まあ、と加津美はつぶやく。たいへんね、と言いながら、その目はおどおどと部屋の中をさまよっていた。
「いろいろ調べてみたら、それが全部、誰かが故意にやった悪質な嫌《いや》がらせだとわかったんです」
さっと加津美の顔から血の気が引くのが広田には見えた。
「あ……そう、それが、なにか」
「犯人は笹倉さんではないかと思われるのですが」
広田は言い切った。加津美の顔からさらに血の気が引き、すぐに今度は紅潮《こうちょう》していく。
「冗談じゃないわ。とんでもない」
広田はナルに目配《めくば》せしたが、ナルには協力する気がないようだった。それで自ら、聞いた話をかいつまんで話す。翠も礼子も目を丸くし、同時に加津美も目を見開いていった。
「あたしじゃないわ」
加津美は言った。
「言いがかりだわ。証拠でもあるの? ――証拠を出してごらんなさいよ」
「お宅が犯人だとしか、考えられないんです」
「証拠はないんでしょう? 名誉《めいよ》毀損《きそん》だわ。出るところに出てもいいのよ」
加津美は顔を真っ赤にして震《ふる》えている。
「証拠を出しなさいよ」
広田は内心、溜め息をつく。証拠はないのだ。だが、これだけ脅《おど》しておけば、二度と妙な嫌《いや》がらせはしないだろう。
そう思ったところで、ナルがカメラのほうに呼びかけた。
「リン、テープを持ってこさせてくれ」
カメラは動いていたのだ。
すぐに麻衣が廊下《ろうか》を駆けてきて、二本のカセットテープと一本のビデオテープを持ってきた。
「オーディオをお借りします」
ナルはテープを受け取って、カセットデッキに放りこむ。プレイボタンを押すと、スピーカーから流れてきたのは、一種の騒音だった。
雑踏の音だ。街の音といってもいい。雑然とした街の騒音。そこに硬質の音が長く入る。
「――これは?」
広田はナルを見る。
「ベルの音です。今朝、あちこちで拾《ひろ》ってきたサンプルからすると、駅の電車到着のベルの音です。これは実は、今朝何度かかかってきた怪電話から抽出《ちゅうしゅつ》しました。午前五時五十六分にかかってきたものです」
「それが?」
「この家では昨日以来、常にマイクが音を拾っています。ちょうど同じ時刻に家の中で拾った音を調べてみると、同じベルの音が入っていました」
広田はまじまじとナルを見る。
「なんだって?」
「音の状態を調べると、音源までの距離がわかります。状態がきわめて似ていることからしても、怪電話がかけられた場所はこの家からそんなに離れたところではありません」
「どのくらい近い?」
「音の状態から割り出した距離はほとんど一致します。ですが、測定距離には誤差があるから、その範囲内。誤差がプラスマイナス約八フィートですから、誤差の範囲はほぼ五メートル。測定した居間から直径五メートル以内、ということになります」
直径五メートルといえば表の道路か、阿川家の中、あるいは笹倉家しかありえない。
「それがなによ」
加津美はほとんど腰を浮かしながら言う。この場を逃げ出したいのだろうが、ドアの前には広田がいる。
「もう一本テープがあります」
ナルはテープを替える。今度は男の声が入っていた。
男はしゃがれた声で喋《しゃべ》る。
――出ていけ。出ていかないと祟《たた》りがあるぞ。さっさと出ていってしまえ。
「これは、怪電話の最後の一本から抽出《ちゅうしゅつ》した声です。これ自体は単なる悪戯《いたずら》電話のようですが、これからこの男性の声の特徴を割り出すことができます」
加津美は青ざめた。
「比較すれば同一人物かどうか数値的に判断できる。――笹倉さん、お宅のご主人と息子さんの声を録音することに同意していただけますか」
「冗談じゃないわ!」
加津美は立ち上がる。
「いやよ! 冗談じゃない! あたしは何も知らないわ。あたしたちは何もしてない。とんだ言いがかりだわ! あなたたちこそ、あたしたちを陥《おとしい》れようとしてるんじゃないの」
加津美は叫ぶ。
「あたしたちがやったって言うんなら、どうやって入ったのか、言ってごらんなさいよ! 戸締りのしてある家にどうやって入ったのよ!」
翠が困惑したように口を挟《はさ》んだ。
「あの……笹倉さんは合《あ》い鍵《かぎ》を持っていません。持っているなら、合い鍵を預かろうなんて言わないでしょう?」
ナルは薄く笑う。
「カモフラージュ、ということも考えられますよ」
加津美は笑う。
「馬鹿みたい。三流の推理《すいり》小説じゃないの」
「合い鍵は必要ない。侵入路があるんです」
「まさか」
ナルが今度はビデオテープをセットする。TV画面に映し出されたのはモノクロの、ひじょうにコントラストの強い粗《あら》い映像だった。
「これは超音波の反射を映像化したものです。――ここに」
ナルが指さしたあたりに大小の陰影が見えていた。
「なんだ、これは?」
広田が問うと、ナルはそっけなく答える。
「おそらく、シリンダー錠《じょう》のあとですよ。これが鍵穴《かぎあな》とノブの軸のあと」
「ドア? こんなものがどこに」
「廊下の突き当たりにある姿見」
あ、と広田はつぶやく。
「誰かが侵入したのなら、侵入路がなければなりません。そう思ってみると、あの姿見は大きさといい形状といい、ドアに酷似《こくじ》しています。もしも一枚ガラスの入ったドアに、他の窓と同じように鏡を入れたらどうなるか? 一見して姿見のように見えないでしょうか」
「……確かに」
「鏡面に超音波を当ててみると、鏡の向こうには何もないことがわかります。あるべきはずの壁がない。鏡が外に露出しているんです。枠《わく》の部分を調べてみると、表層から一・五ミリのあたりに断層がある。おそらく、もともとの枠の上に化粧版を張ったんでしょう。蝶番《ちょうつがい》が見えないから、外開きのドアだったはずです」
「しかし、なんでそんなものが」
「あのドア――裏口の外はごく狭《せま》い裏庭になっているんです。幅は建物の幅、奥行きはわずか八十センチ程度しかありません。三方に隣接して建物が建てられて、裏庭は庭としての用を足さなくなった。それで塞《ふさ》いだ、ということでしょうね」
翠は声をあげた。
「あの庭は裏の建物のものじゃなかったんですか」
家の裏に庭のあることは二階の窓から見えているので知っていたが、まさか自宅の地所だとは思わなかった。裏口もないし、不動産屋も何も言わなかったので、深く考えてみたことがなかったのだ。
「庭に降りてみたんですか」
「もちろんです。間違いなくドアでした。鏡の裏側はむき出しのまま、枠《わく》はアルミサッシ製でしたが、ノブは外《はず》されたまま塞がれてさえいなかった。ドアの開口部のほうの壁に二か所、ボルト穴らしい穴がありました。おそらく勝手に開かないように、外側から金属板かなにかで固定してあったんでしょう。しかし、それは外されていた。そのかわりに二か所、裏のビルの壁面を利用して心張《しんば》り棒《ぼう》をかませてありました」
広田は唸《うな》る。
「なるほど……」
「裏のビルは裏庭に面しては換気窓程度しかありません。左隣の家にはいかなる開口部もなく、ただ笹倉家だけが、裏庭に面して窓を持っています」
「出入りできるのは、笹倉家の人間だけ、ということか」
「最も疑わしい、と言うべきでしょうね。声を録音して比較してみることです。さらに確実なのは、笹倉家の通話記録を調べること。できれば直接証拠になるでしょう」
加津美は棒立ちになっている。
広田は唖然《あぜん》としている翠を見た。
「翠さん、告訴なさいますか」
え、と翠は目を見開く。
「笹倉さんが同意してくれなければ、電話局に通話記録を提出させることはできません。翠さんが告訴なさって、問題が裁判所に持ちこまれればそれが可能になります」
翠は広田と加津美を見比べた。しばらく迷うようにしてから、きっぱりと首を横に振る。
「わたしは悪戯《いたずら》さえやめていただければいいんです。それさえ約束していただければ、告訴する気はありません」
「――約束します!」
叫んだのは加津美だった。
「約束するわ。だから、訴えないで。主人は教師なの。こんなことが学校に知れたら」
翠は加津美を見上げ、そうしてうなずいた。
「……わかりました」
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七章
「俺の出番ってこんだけ? ただ来ただけ?」
滝川《たきがわ》のぼやきに、安原《やすはら》は笑う。
「まぁ、まぁ。働かずにすんでよかったじゃないですか」
「そらそーだが、おじさんはちょっと切ないぞ」
「働きたいんなら、これから撤収作業があると思いますよ?」
「俺、もっと自分を活《い》かせるお仕事がしたい」
「腕力を活かせるお仕事じゃないですか」
「しくしくしく。そんなんじゃ、やだもん」
「滝川さん泣きまねをしても、同情するのは僕ぐらいだと思いますが」
「少年は同情してくれるのね」
「そりゃ、同情だけならいくらでも。僕、善意と愛想《あいそ》は惜《お》しまないことにしてるんです」
「こ、こいつ」
くすくすと麻衣《まい》は笑う。
「被害もなく事件が片づいたんだから、よかったじゃない」
言ってから、機材の前で考えこんでいるナルを振り返った。
「ナル、撤収準備をしていいんだよね?」
言いながら、麻衣の手はすでに機材のコネクタにかかっている。
「いや。――せめてもう一晩様子を見る」
「ええぇ。なんで?」
家に帰ってゆっくり眠れると喜んだだけに、麻衣はやや落胆を隠せない。
「釈然としないからだ」
「釈然としない、って、なにが」
「わからない」
「なんだよ、それー」
抗議の声をあげた麻衣に、ナルは構わない。
それは小さな棘《とげ》のようなものだ。なぜこの家には住人が居着《いつ》かず、なぜ出ていった彼らは「出る」などと言ったのか。――なぜ窓にはことごとく、ガラスでなく鏡が入っているのか。
安原の調査、麻衣の言動、安すぎる家の価格、礼子《れいこ》のもの言い。
何もかもに、小さなひっかかりを覚える。どれもなぜ気にかかるのかわからないような些細《ささい》なことばかりだが、それがこれだけの数集まると、どうしても釈然としないのだ。
「なに、ナル坊。ひょっとして安原の聞きこんできた、出るって噂《うわさ》を真《ま》に受けてんの?」
滝川は考えこんだ横顔をのぞきこむ。
「……真に受けてるわけじゃないが……」
言ってナルは滝川を見る。
「ぼーさん、窓ガラスのかわりに鏡を入れるとしたら、どういうときだ?」
滝川はきょとんとする。
「鏡がなくて、鏡をかける壁面の余裕もないとき」
「それは、あるとしたら?」
「部屋が狭《せま》いんで、広く見せたいとき、かな」
「さほど狭くはないとしたら」
「うーん。……インテリア」
「家中の窓がほとんど全てそうだとしたら?」
滝川はぽかんとした。
「家中全部? んなアホな」
「だとしたら、そんなことをした理由はなんだろう?」
滝川は考えこむ。
「すっとんきょーな理由でよければ、何かの目的があって鏡像をたがいに反射させようとしている」
「窓だけだ。他の窓が鏡の中に映りこむような窓はない」
「鏡に映った像によって、家の中を監視するため」
「他には?」
「鏡が主眼なんじゃねぇとしたら、……外を見たくないから」
言ってから、滝川は言い直した。
「違うな。だったら、カーテンなりブラインドなりをつけりゃいい。――外から誰かがのぞいているから」
「なぜ?」
「外からのぞかれているんじゃないかと不安になった場合には、カーテンの隙間《すきま》とかブラインドの隙間が嫌《いや》なもんじゃねぇかな」
「……なるほどね」
「このナゾナゾは何なのかにゃー? まさか、この家の窓って、全部鏡なのか」
「そのとおり」
「すると、窓の外にはのぞき見する人間がいられるような空間がないわけだ」
麻衣が滝川をつついた。
「どして、わかるの?」
「え? ナル坊はこれにこだわってんじゃねぇの? 外からのぞくとしたら、霊しか考えられんから撤収の決心がつかんのだろ?」
「あ、なるほど。ぼーさん、かしこい」
「ほほほ。見直して?」
滝川が言ったと同時に、突然あたりが暗くなった。
「――あ?」
軽く溜め息をついたのはナルだった。部屋の電灯は消えて、廊下も真っ暗になってしまっていたが、ベースの中は別電源で動いているモニタのせいで明るい。
「ブレーカーが落ちたんだ。――リン」
ナルはさきほど引っぱり出した電気部品を投げる。
「つけ替えてくれ。うっとうしくてかなわない」
はい、と返事をしてリンが立ち上がったときだった。
――女の悲鳴が聞こえたのは。
翠《みどり》は手を振った。小麦粉で汚れてしまったのだ。
台所には礼子と、手伝うと言って邪魔をしている広田《ひろた》がいて手狭《てぜま》だったので、ダイニングを出てすぐ向かいの洗面所に手を洗いに行った。
脱衣所にある洗面台の蛇口《じゃぐち》をひねる。手を洗いながら久々に笑みが浮かんだ。
――よかった。
不安の正体が明らかになったのが嬉《うれ》しい。隣に奇妙な人物が住んでいることは気になるが、加津美《かづみ》の様子からすると、もう二度と嫌《いや》がらせはないだろう。礼子も安心したのか、明るい顔をしていた。――なによりもそれが嬉しい。
笑って水を止めようとして、ふと顔を上げて、翠はびくりとした。
最初は何に驚いたのか、自分でもわからなかったが、すぐにそれは知れた。
洗面台の鏡の中には、翠と翠の背後の浴室の戸が映っている。浴室の戸は横に開くガラス戸で、磨《す》りガラスが二枚入っている。
――そのガラスに人影が映っていたのだ。
翠は棒を呑《の》んだように動けなくなった。
洗面台に向かって屈《かが》みこんだまま凍《こお》りついた自分の、その屈めた頭に覆《おお》い被《かぶ》さるようにして見える浴室の人影。
浴室は暗い。それで輪郭《りんかく》はさだかではないが、磨《す》りガラスを通して、確かにそこに誰かがいるのだとわかる。おぼろに顔の陰影が見えて、その人物が背を向けているのではなく、こちらを向いているのだとわかった。
誰かは戸のすぐ向こう側にじっと立っている。ぴくりとも動かない。――まるで様子をうかがっているかのように。
――広田ではない。
彼は台所にいたのだから。礼子でもない。
――渋谷《しぶや》サイキック・リサーチの面々は?
自問自答して、違う、と思わざるをえなかった。だったらどうして、こちらをじっと見ているのだろう。なぜ、さっきからぴくりとも動かないのだろう。
誰かが風呂を使っていて、翠がいるので出てこれないわけではないはずだ。浴室は暗いし、脱いだ服が見えない。だいいち、風呂を使うなら、ひとこと断《ことわ》るはずだ。
――では、誰が。
翠は動けない。動くと悪いことが起こりそうな気がした。上目遣《うわめづか》いに鏡を見たまま、金縛《かなしば》りにあったように身動きひとつできずにいる。
鼓動《こどう》が速まった。
――いったい、誰がいるっていうの。
ゆらり、と初めて人影が動いた。翠は声をあげそうになったが、喉《のど》の奥のほうで息が鳴っただけだった。それも流れ続けている水の音に消されて、ほとんど翠の耳には聞こえなかった。
それは、手を上げる。片手が戸の引き手にかかったように見えた。
鼓動が激しい。今にも心臓が喉をつきやぶってしまいそうだ。
音もなく戸がわずかに開いた。細い隙間《すきま》からは浴室の闇しか見えなかった。さらに戸が開く。ゆるゆると動いて、そこにいる人陰を露《あらわ》にしていく。
翠は大きく震えて顔を上げた。そのせいで背後の姿は翠自身の陰に入ってしまった。
鏡に映っているのは、翠の顔だけ。――でもその自分の背後にいたものを、一瞬だけ見てしまったものを、翠は忘れることができなかった。
――男。全身を赤茶色のもので汚した。
――そして。
それは背後にいる。翠のちょうど頭の陰に。
――それは手に何かを持っていた。
何か、棒のようなもの。棒の先に平たい何かがついていた。そして恐ろしく汚れていた。
見なければよかった。あんな一瞬だったのに、どうして自分はそれに目を留めてしまったのだろう。
足下《あしもと》から震えがたちのぼってきた。
――あれは――鉈《なた》だ。
その男は鉈を手に提《さ》げているのだ。
心臓が爆発してしまいそうだった。喉元までせりあがって、悲鳴を押し出してしまいそうだった。
――後ろにいる。ちょうど自分の陰に。
そして突然、明かりが消えた。
何が起こったのか、把握《はあく》するまでに少しかかった。翠は弾《はじ》かれたように振り返った。なにかが耳元をかすめた。ひょっとしたら翠自身の髪だったのかもしれないし、他のなにかだったかもしれなかったが、翠はそれを重い凶器がかすめた衝撃だと感じた。
最大級の悲鳴をあげていた。
「――翠さん!?」
広田は洗面所に飛びこもうとして、あやうく何かにつまずきそうになった。とっさに踏みとどまった足元、ドアの下にうずくまるようにして翠が座りこんでいたのだった。
強いライトが廊下のほうから射《さ》す。
「翠さん、どうしたんです!?」
「誰か……いました」
翠は脱衣所の中を見る。同時にハンド・ライトの光が脱衣所の中をないで、誰もいない空間を奇妙なコントラストで浮かび上がらせた。
「誰もいませんよ」
「いたんです。お風呂場から出てきて――鉈《なた》を持った男が――やめて!」
翠が声をあげたのは、リンが翠の脇《わき》を通って脱衣所の中に入ってきたからだ。彼はハンド・ライトを部屋の隅《すみ》から隅へ向けた。浴室の戸は閉まったまま、ガラスが光を反射して濡れたように光った。
リンは浴室の戸に手をかける。軽い音をたてて開けると、中に光を当てた。
「――誰もいません」
「いたの……。さっき、確かに見たんです」
広田にしがみついた手が震えていた。
「浴室からこちらをうかがっていたんです。戸を開けて出てきて、鉈を持ってて――血で汚れてて――」
広田さん、とひどく冷静な声がした。
「翠さんを居間へ。ブレーカーを直しますから、ついていてあげてください」
明かりがつくまでにはずいぶん時間がかかった。麻衣が駆けてきて、いったん切ってあった照明のスイッチを入れると明るい光が降り注いで、翠はそれでやっと肩の力を抜いた。
「もう、ブレーカーが落ちるようなことはないと思います」
真っ先に麻衣の笑顔が飛びこんできて、翠はかなりほっとした。
「……ありがとう」
「あと、申し訳ありませんけど、脱衣所にカメラを置きます。お風呂を使うときには切りますので、そう言ってください」
翠は麻衣の顔を見た。
「まだ、調査を続けるの……?」
「翠さんが見たものが何なのか、調べないといけないでしょう?」
翠はほっと息をつく。実を言えば、気のせいだと言い放たれて、麻衣たちが帰ってしまうことが怖《こわ》かった。
「ありがとう」
「本当にやかましいし、かさばるしで、申し訳ないんですけど、もうちょっと調べさせてくださいね」
「ううん……よろしく」
「鉈《なた》を持った男、ねぇ。――この家、昔なにがあったわけ?」
滝川の声に、安原は困ったようにノートを見る。ベースの中には麻衣と広田がいない。礼子と翠につきそって台所を手伝っている。
「おかしいな……何もないはずなんですけど」
「お前、何年の新聞から調べた」
「この家が建ったのが昭和四十七年以降らしいですから、一応幅をとって四十五年から」
「家が建つ以前に問題があんじゃねぇのか? 潔《いさぎよ》く、発行された新聞を全部調べろよ」
安原はうらめしげに滝川を見た。
「……いま、思いっきり簡単そうに言いましたね」
「それがお務《つと》めだろ? 少年探偵団」
安原は鞄《かばん》の中にノートを放りこんだ。
「所長にやれと言われればやりますけどね。――でも、時間がかかってしょうがないでしょう、そんなことしたら。登記簿をたどるとか何とか、もうちょっと有効でマシな方法を探してみます」
言って安原は立ち上がる。
「所長、というわけで、僕は帰ります。引き続き調査をして、何かわかったら連絡しますから」
ナルはうなずく。出ていく安原を見送ってから、滝川を見た。
「滝川さんは、お帰りにならないんですか?」
「俺むきの展開になってきたんで、もうちょっと様子を見てる」
軽く笑ってから、ナルはふと、
「ぼーさん、『コソリ』という言葉を知っているか?」
「こっそり、の小さい『つ』がとれたやつ」
「姿見の向こうにコソリがいる。――この場合は?」
滝川は考えこむ。
「人の呼び名か、化け物の呼び名っぽいな。それ、なに」
「麻衣がそういうインスピレーションを得たんだそうだ。姿見が怖《こわ》いと言って」
「……化け物にそういうやつはいないんじゃねぇかな。サトリなら有名だが。ただ、妖怪の名前は地方によって変わるからな。擬音が呼び名になった化け物も多いし。どこかの地方には流布《るふ》している名前なのかもしれんが」
「そう……」
ナルは考えこむ。滝川は腕を組んだ。
「来るな、戻れ、か。おばさんがそう言って、麻衣がそう言うわけね。――これは当然意味があるわな」
「当然、と言えるかな。麻衣が礼子さんの言葉に引きずられた可能性もある」
「自分の部下を信用しなさいって。――誰かが家に入ってくる。それに対する警告だ。違うか?」
「だろうな」
「そこで翠さんが、鉈《なた》を持った男の姿を見るわけだ。すると、鉈の男がいるから、誰かが誰かに警告を発している、そういうことにならんか?」
「……どうだろう」
「想像するとそれしかねぇじゃん。鉈を持った男が家の中にいる。仮にAが殺されようとしているとする。そこにBがやってくる。Aは警告する。――入ってくるな。戻れ」
ナルはこれには返答しない。息をついてから、機材を見守っているリンを見た。
「――どう思う?」
リンは首を振った。
「わたしでは何とも。正体不明の霊のことは管轄《かんかつ》外です」
滝川はちらりとナルを見る。
「真砂子《まさこ》ちゃんを呼べば?」
ナルは一瞬、嫌《いや》そうに眉《まゆ》をひそめたが、すぐに何やら考えこむようにした。
「……そうだな。……少しでも情報の足《た》しになるかもしれない……」
もう一人霊能者が来る、という話を聞いて、広田は顔をしかめてしまった。
このうえ訳のわからない人間が増えるのか、という気分と、やはりこいつらはしょせん霊能者で、やっぱり信用してはならないのではないか、という疑惑。
やって来るのが原《はら》真砂子という霊能者だと聞いて、疑惑はさらに深まった。
どこかで聞いた名前だ、と思い、すぐに咲紀《さき》が時折その名を口にしていたのを思い出した。TVのワイドショーやスペシャル番組で見かける霊能者である。
広田は特に、TV番組に出て馬鹿なタレントに悲鳴をあげさせたり感心させたりしている霊能者を心底《しんそこ》嫌っていたから、よけいに渋谷サイキック・リサーチの連中までが胡散臭《うさんくさ》く思えた。
その真砂子は連絡を受けてすぐにやってきたらしく、十二時少し前に到着した。
「夜遅くに、お疲れさまー」
迎えに出た麻衣が玄関に迎え入れると、真砂子はちょっとぼんやりしていて我に返った、というように瞬《まばた》きした。
「ああ……ええ。こんばんは」
市松《いちまつ》人形のような少女だ、と広田は思った。咲紀から話は聞いていたし、なんどかTVでも見ていたが、あまり容姿は印象に残っていなかった。近くで見ると、小柄で綺麗《きれい》な少女だ。艶《つや》やかにまっすぐな髪を肩で切りそろえて、それがいまどき珍しい和服姿に似合っている。
小作りな白い顔に、化粧をしているわけでもないのに唇だけが赤くて、本当に人形のように見えた。
「……ナルは?」
真砂子が言って、麻衣は頬《ほお》をふくらませた。
「久しぶりに会って、第一声がそれか?」
「つい先々週お会いしましたでしょ」
「ほんの二週間前には、一緒に遊んだ仲なのにっ。女の友情って本当にモロいのね」
真砂子はあでやかに笑ってみせる。
「それが世間の常識というものでしてよ」
「はいはい」
「よー、真砂子ちゃん」
礼子と翠と一緒に居間から出てきて、手を振ったのは滝川だった。
「お久しぶり」
「滝川さんもいらしてましたの?」
「いらしてたのよ。暇《ひま》だけどね」
「他のみなさんは?」
「いまんとこ、俺だけ」
滝川の台詞《せりふ》に広田はにわかに嫌《いや》な予感をおぼえる。傍《かたわ》らの麻衣に声をかけた。
「――渋谷サイキック・リサーチの協力者ってのは、いったいどれだけいるんだ?」
「四人だよ」
思わず広田は顔をひきつらせてしまう。
「まさか……全員が来るなんてことはないよな?」
「さー? 今後の展開しだいじゃないかな?」
はやうんざりしてしまった広田には構わず、麻衣は真砂子を示す。
「翠さん、こちらが原真砂子さんです。こちらが依頼者の阿川《あがわ》翠さんと、おかあさんの礼子さん」
翠も礼子もていねいに頭を下げた。
「夜遅くにありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、おじゃまさせていただきます」
「でもって、翠さんの従兄弟《いとこ》さんで、広田さん」
どうも、と頭を下げた広田に、真砂子は軽く会釈を返す。麻衣が奥を示した。
「ベース、こっち」
うなずいて後についていった真砂子が、突然足を止めたのは、ベースの手前まで来たときだった。
お茶を、と言ってその場から台所に向かいかけていた翠と礼子もまた、足を止めた。それほど真砂子の立ち止まり方は唐突だったのだ。
どうしたの、と麻衣は真砂子を振り返る。翠もまた、怪訝《けげん》に思って真砂子の姿を見守った。
真砂子はまっすぐに指を上げた。姿見を示した。
「……のぞいていますわ」
え、と翠は姿見を見る。そこには白熱灯のやや色味がかった明かりに照らされた廊下と、そこに立つ人々だけが映っていた。
「そのドアから、霊がのぞいています」
きっぱりと、真砂子はドアだと言い切った。
「男性です。中の様子をうかがっています。手になにか、棒のようなものを持っていますわ」
翠は震えた。鏡の中に、さっき見たものが重なって見えた。鏡の向こうに立っている人影。ぴくりとも動かず、じっと様子をうかがっている姿。
思わず目を閉じた。そうでなければ、またあれを見てしまいそうな気がした。
――血で汚れた身体。
その手に提《さ》げられた――血みどろの鉈《なた》。
「声も聞こえます。これはあの男性には関係がありませんわ。誰の声だかわかりません。男性のようでも女性のようでもあります」
翠は、じっと目線をどこかに据《す》えている真砂子の横顔を見る。
「入ってきてはいけないと言っていますわ。戻るように、と。戻って、二度と帰ってきてはならない、って」
翠は目を見開いた。それは何度も礼子が口にした言葉だ。
「ひょっとしたら、あれも気のせいではなかったのかもしれないわ……」
これはひとりごちる調子だった。
「――あれ?」
麻衣が真砂子に問う。
「家に入ったとき、変な気分がしたんですの。家の中に誰もいないような気が」
翠はそれを聞いて眉《まゆ》をひそめた。それはかつて麻衣が言っていたことではなかったか。――それに……。
「どうして誰もいないのかしら、と思ったんですわ。――目の前に麻衣がいましたのに」
麻衣は真砂子を見る。
「それ……あたしもこの家に来たとき、同じことを思った……」
わたしもだわ、と翠はつぶやいた。麻衣と真砂子が――いつの間にかベースから出てきて様子を見守っていたナルが、いっせいに翠を振り返る。
「この家に最初に来たときだわ。母と一緒に家を見に来たとき。――母が横にいるのに、どうして誰もいないのかしら、って。おかあさんはどこに行ったのかしら、って思った……」
しんと短い沈黙が降りた。翠はあの時の奇妙な気分を、妙に鮮明に思い出していた。
「――馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように行ったのは、広田だった。
「何を言ってるんです、翠さんまで。こんな連中につられて、変なことを言い出すもんじゃありません」
翠は広田を振り返った。
「でも、わたしは確かに覚えてます。そんな感じがしたんです」
広田は頭を振る。やれやれ、という様子に見えた。
「妙な雰囲気に呑《の》まれたんでしょう。――あるいは、この連中が翠さんの話を聞いて、そう言っているのかもしれない」
「それは違います。わたし、今までそのことを忘れていたんです。だから、誰にも話したりはしてません」
「では、雰囲気に呑まれて、そんな気がしているだけです」
でも、と翠は言ったが、広田はすでに目線を渋谷サイキック・リサーチのメンバーのほうに向けていた。
「お前ら、これはやりすぎだ」
「ちょっと、広田さん!」
麻衣が声をあげたが、ナルはそれを制す。
「どういうことです?」
「霊能者を呼びつけて、それらしい演出をしようとしたんだろうが、これはやりすぎだ。こんな陳腐《ちんぷ》な演出に騙《だま》されたりしないからな」
「でも――」
言った翠を広田は見る。
「翠さん。まさか、あの小娘をすごい、なんて思ったりしてないでしょうね?」
「思いました。だって――」
「いいですか。あの小娘の言ったことは、事前に連中が教えたのだと考えると、不思議《ふしぎ》なことでもすごいことでもないんです」
「あたくしは、何も聞いていませんわ」
真砂子が言ったが、これは広田によって黙殺された。
「誰かがのぞいていると言っておばさんが怯《おび》えていること、姿見が実はドアであること、翠さんが見た男の姿、この連中が結託《けったく》していれば、事前に知ることができるんです」
こんな単純な詐欺《さぎ》に引っかかるなんて、翠は人がよすぎる、と広田は思う。
「おれにはわかった。これがこいつらの手口なんだ。最初は大層な機材を持ちこんだり、まともそうなことを言っておいて被害者に信用させる。すっかり信頼されたところで、にわかにオカルトめいた演出をして騙しにかかる」
翠はまっすぐに広田を見た。
「わたし、実を言えば幽霊なんて信じていませんでした。――でも、今は少し違います。わたしはついさっき、現実の人ではない人影を見たんです」
「翠さんの気のせいです」
「いいえ、確かに見ました」
「では、誰か実際の人間だったんです」
「そんなはずがありません。家の中にはカメラがいくつもあって、監視されているんですよ? どうやって入ってくるんです?」
「やつらの仲間だった、というのはどうです?」
広田はとっさに言ったが、口に出してみると奇妙に確信が持てた。
「そうだ――仲間なんだ。協力者が四人いると言っていた。そのなかの一人だったんだ、あれは」
「だったら、どこに消えたんです? わたしは洗面所の出口に駆け寄って、広田さんが来るまでドアにしがみついていたんですよ?」
「風呂場の中、というのはどうです。開いているはずの風呂場の戸が、閉まっていたんでしょう」
「そんなこと、ありえないのを知っているでしょう? リンさんが中をあらためました。誰もいませんでした」
「翠さんは中を見たんですか?」
翠ははっと口をつぐんだ。
「あの時にはブレーカーが落ちて、あたりは真っ暗だった。こいつらの持っていたハンド・ライトだけが光だったんだ。リンが中に入って、風呂場の中をあらためた。誰もいないと言ったので、おれたちは一緒に中を確認したような気分になっていたが、戸口のところに固まっていたおれたちには、浴室の中全部は見渡せていなかったんだ」
「……でも」
「浴室の隅に男がいたら? あるいは空《から》の風呂桶《ふろおけ》の中にいたら? 前もって打ち合わせておいて、あえてリンがそちらにはライトを向けなかったら? ――おれたちはすぐに翠さんを抱えて居間に戻りました。おれもおばさんも翠さんが心配だった。あの間に誰かがそっと家を抜け出していっても、気がつかなかっただろう」
広田は平然と廊下に立っているナルを見る。
「悪質だ。――きわめて、悪質だと思う」
「うがちすぎではないでしょうか」
言ったのは礼子だった。視線を向けると、礼子は困ったような笑みを見せている。
「あたしには、渋谷さんたちはそういう人たちには見えません。広田さんは、疑いすぎのように思いますけど」
広田はひた、と礼子に目を据《す》える。
「こいつらを信用してはいけません。――そもそも、あいつは渋谷などという名前ではありません」
え、と礼子は目を見開いた。
「オリヴァー・デイヴィスというんです」
言って広田はナルを振り返る。
「――そうだな?」
ナルの表情に変化は見えなかった。
「――ですが? それがなにか」
「どうして名前を偽《いつわ》る必要がある」
ナルはごくわずかに皮肉げな笑みを浮かべた。
「ごらんのとおり、僕はあまり外国人には見えませんので。本名を名乗ると、かえって不審《ふしん》に思われてしまうからです」
まあ、と礼子は声をあげる。
「本当にそうねぇ。渋谷さんは日本語がお上手《じょうず》ね?」
「実母が日系人ですから」
「そうなの」
礼子は笑って、広田を見る。
「ね? あまり人を頭から疑うもんじゃ、ありませんよ」
広田は眉《まゆ》をひそめる。これほど礼子は連中に毒されているのだ、と思った。
――詐欺師《さぎし》は人を信頼させるのが上手《うま》いから詐欺師でいられるのだ、という。まさに、それだ。
「おばさん、そいつは人殺しです」
誰もがきょとんと広田を見た。
広田は忌々《いまいま》しい気分で全員を見渡す。
「おれは実は仕事でここに来ました」
それで翠は悟《さと》ったようだが、礼子も、その他の連中も釈然としない様子だった。
「――おれは、東京地検特捜部の者だ」
一瞬の沈黙があった。次いで全員が声をあげる。麻衣や真砂子、滝川でさえ呆然《ぼうぜん》としてしまった。声をあげなかったのは、ナルとリンぐらいなものである。
「……お前、脱税でもしたのか」
若干《じゃっかん》うろたえた様子の問いは滝川のものだった。ナルは肩をすくめる。
「身に覚えがないが」
「じゃ、贈収賄《ぞうしゅうわい》」
「日本の政治家に金を贈って、それで拝《おが》み屋の便宜《べんぎ》を図《はか》ってもらえるものなのか?」
「……ムリだろうな……どー考えても」
のんきな会話に、広田は舌打ちをした。
「そういった容疑ではない。幸か不幸か、だが」
広田はナルを見据《みす》える。
「おれがきみに対し内偵《ないてい》を進めていたのは他でもない、この夏、遺体が発見されたきみの実兄、ユージン・デイヴィス死体|遺棄《いき》事件の重要参考人としてだ」
唖然《あぜん》として滝川は広田を見た。
「……そいつぁ、つまり、ナル坊が兄貴を殺した疑いがあるって意味か?」
「むろん、そういう意味だ」
「こいつは確かに性格にも情緒《じょうちょ》にも問題があるが、だからといって人を殺すほど病《や》んではいないと思うぞ」
「彼は被害者の死体がある場所を知っていた。何故だ?」
長野《ながの》県の警察に死体発見の報が入ったのは、夏のおわりのことだ。ダムの中に沈んでいた死体をダイバーが発見したという。そのダイバーを雇《やと》って、死体を捜索させたのはナルだった。
彼は最初からダイバーに死体を探してほしいと依頼していた。死体が銀色のシートに包まれていることまでを事前に通告して。
「納得いかんのはわかるが、こいつは知ってたんだ。奴には特殊な才能があってだな――」
「超能力で知った、と言うのだろう。調書にもそうあった。――だが」
広田は表情のないナルの顔を見やった。
「そんなものは、存在しない。ましてや、こいつにそんな力があるなんて証拠がどこにある。もしも超能力なんてものがなかったとしたら、こいつは何故兄貴の死体があそこにあることを知っていた? ――こいつ自身が犯人もしくは犯人の共犯者だからに決まっているだろうが」
東京地検特捜部には三つの部署がある。「知能犯係」「財務経済係」「直告係」の三つがそれである。選挙違反や贈収賄《ぞうしゅうわい》、業務上横領などを担当するのは知能犯係で、やはりこれが花形部署とのイメージが強い。財務経済係は脱税などの経済事件をあつかい、直告係は告訴・告発事件のうち比較的小規模な事件を担当する。この直告係の中に、担当検事一名、検察事務官二名の小さな部署が存在した。
表向きにはなんの名称もないこの部署を、心霊事件班、通称をゼロ班という。洒落《しゃれ》っけのないエリートたちの、霊と零《ゼロ》をひっかけたくだらない地口《じぐち》である(と、咲紀《さき》は主張している)。
そうして、広田と咲紀がこのゼロ班に所属するたった二名の検察事務官なのだった。
このあたりのことを思い返すと、ぐつぐつと煮詰まってくる広田である。苦労して公務員試験にパスし、念願かなって検察事務官になり、憧《あこが》れの花形部署、東京地検特捜部に配属されてみれば、汚職とも疑惑とも関係のない閑職《かんしょく》、担当検事の倉橋《くらはし》は狸《たぬき》と呼ばれている。べつに喰《く》わせ者だという意味ではない。信楽焼《しがらきやき》の狸の置物のように、そこにいるだけ、なんの役にも立たないとの意味である。
だからと言って、仕事に対して投げやりになることなどできない。広田は律儀《りちぎ》な性格なのである。彼は彼なりの真摯《しんし》さで日々仕事に努めている。
ゼロ班は心霊現象や超能力、呪詛《ずそ》に関係すると思われる事件を担当することになっている。現場の捜査官がわけがわからない、と投げ出した事件をそれなりの視点から洗いなおすのが仕事なのだ。日本で唯一《ゆいいつ》の部署であるために、しばしば管轄《かんかつ》外の事件も高等検察局経由でまわされてきた。
来る日も来る日も各方面から送られてくる書類や調書に目を通し、これは事件の臭《にお》いがする、と広田が目星をつけたのがユージン・デイヴィスなる外国人の死体|遺棄《いき》事件だった。
あんぐりと、開いた口が塞《ふさ》がらない麻衣と滝川である。
「理屈としちゃあ、完璧《かんぺき》だ。だが、ちっとばかり狭量な理屈じゃないかえ?」
そう言ったのは滝川で、平然とした声を出したのは当のナルだった。
「……それはどうも、ご苦労なことです」
広田はナルを睨《にら》みすえる。
「――それで? もちろん、兄が死亡した当時に僕が日本にいたか否かについても、すでに調べていらっしゃるのでしょうね?」
「もちろん、調べさせてもらった。――だがな、この世には偽造のパスポートというものもあるからな」
なるほど、とナルは笑う。
「僕が疑わしいと言うのなら、いくらでも調べればいいでしょう。そんなものは、そちらさまの勝手です」
「勝手、だと」
「僕はあいにく日本の法律に詳《くわ》しくないのですが、あなたは現在何らかの強制力をもってこの場にいるのですか」
「まだ内偵中だ」
「では、仕事に戻らせていただいてもよろしいでしょうか。時間を浪費するのは嫌いなもので」
「浪費、と言うのか」
ナルはみごとに上面《うわつら》だけの笑みを浮かべる。
「狭量で低能|愚劣《ぐれつ》な人物や、そんな人間になにがしかの役目をあたえていられる程度の組織の相手では、浪費以外のなにものでもありませんね」
怒りのあまり、目の前に緋《ひ》の幕が下りた気がする広田である。
貴様、と怒鳴《どな》りかけて、広田は腕を掴《つか》[#「掴」の字は旧字体。「てへん+國」]まれた。
「お願い、――許して」
礼子だった。必死の形相《ぎょうそう》で広田の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。「てへん+國」]んでいる。
「あの子だけは見逃して!」
広田は顔をしかめた。礼子の爪《つめ》が食いこんだせいだった。
「お願いだから、殺さないで!!」
驚いた広田の耳に凛《りん》とした声が聞こえた。
「ナル。――その方の背後に、女性がいます」
真砂子の目はまっすぐに礼子に向かっていた。
「この家で殺された方の霊です」
[#地付き]『悪夢の棲む家(下)』に続く
[#改ページ]
あとがき
初めての方には、はじめまして。
初めてでない方には、まいどどうもありがとうございます。
あとがきのお時間になってしまいました。作者の小野《おの》です。
一年ぶりの著作になってしまいました。最後に書いたのがファンタジーでしたので、ファンタジー以外は久々になります。
この本を手にとって、「なんだ、例のシリーズではないのか」とがっかりなさった方も少々いらっしゃるのではないかと思います。そういう方にはまことに申し訳ありません。じつは私は本来、ホラーの人間だということになっているんですよね。ですから、むしろ今回の作品のほうが本道《ほんどう》でして、十二国のシリーズのほうも忘れたわけではございませんし、近々出版の予定がありますので、ご容赦《ようしゃ》ください。
――なんて、書き方をすると、「あれれ?」と思う方もいらっしゃるかと思います。「なんだか、以前のあとがきと違う」と思っているアナタ。――そう、アナタのことですよ(笑)。
いやぁ、すっかりお待たせしましたが、出るんじゃないかともっぱらのウワサだった続編が出ちゃいました。たくさんの脅迫《きょうはく》や泣《な》き脅《おど》しをいただきまして、本当にありがとう(ハート)[#「(ハート)」は底本では記号のハートマーク] おかげさまでまた例の連中が出てきちゃったよん。
……なんだか、久々にやると、我ながらクラクラしますね。
私がデビューしましたのは、一九八八年のことですから、もう六年も前のことになってしまいます。デビュー作はこの作品と同じくX文庫、ただしピンクの表紙で有名なティーンズハートからの発行でした。当時は恋愛モノの全盛期で、ご多分にもれず私も恋愛モノを書いていたわけですけど、当時を振り返ると、よくもあれで生き残ってこれたなぁ、と自分でも呆《あき》れてしまいます。なにしろ恋愛モノぐらい私から縁遠《えんどお》いものはないし、実際、デビューの話を聞いた友人たちも、おおいに驚くやら呆れるやら、という感じだったのでした。
内容も恋愛モノにはほど遠いシロモノで、それなりに苦心|惨憺《さんたん》したのですけど、やはり乙女心《おとめごころ》をくすぐる作品には、ほど遠かったように思います。当時からおつきあいくださっている奇特なファンの方々には感謝の言葉もありません。
……ともあれ、なんとかデビューをしたものの、恋愛モノを書くのに四苦《しく》八苦《はっく》して、とにかく少しでも自分でも書きやすいものを、それでいて読者の方々にも楽しんでいただけるものを、と探しだしたのがホラーというジャンルだったんです。
もともと私は大のホラー映画ファンでした。キングやソールなんかのホラー小説も大好きでしたし、昔なつかしい恐怖マンガなんかも大好きです。どこそこに幽霊が出ると聞けば行ってみたい、人が集まれば百物語をしたいタイプですから、そもそも恐怖に興味があったのだと思います。ホラーだったら書いてみたい、書けるかもしれない、それに女の子は結構そういうことに興味があるものだ、そんなことをあれこれと考えて、ホラー――というより怪談ですが――そういう話を書きました。
これがわりあい好評をいただいて、ティーンズハートでシリーズをひとつ持たせていただきました。ホラーを足がかりにして、ホラー色の強いファンタジー、ホラー色のないファンタジーと、今日まで書き進んできましたから、ホラーのおかげで浮沈《ふちん》の激しいジュニア小説界をなんとか生き延びてきたと言っても過言ではない気がします。
そういうわけですので、やはり私にとって、自分のホーム・グラウンドはホラーです。しんと物音の絶えた夜更けに、話をどう持っていけば怖《こわ》いかな、と考えているのがいちばん楽しいし、いちばん仕事をしている気がします。
この作品は、いちおうティーンズハートの通称「悪霊シリーズ」の続編にあたります。幸《さいわ》いにもご好評をいただきまして、シリーズ終了のおりには、たくさんの「やめないで」というお便りをいただきました。「悪霊シリーズ」は丸五年間、私の作家としての生活を支えてくれたシリーズですから、私自身もかなりの愛着があったりします。そういうわけで、続編を書いてみる気になったわけです。
もちろん、この作品が初めてという方のことを考えて、できるだけ前シリーズをご存じない方にも不都合《ふつごう》がないよう、配慮をいたしました。「悪霊シリーズ」をご存じの方には続編として楽しんでいただけるよう、そうでない方には独立した作品として楽しんでいただけるよう、できる限りのことをしたつもりです。そのせいで若干名、なんのために出てきたんだ、こいつ、というキャラクターもできてしまいましたが。そこのところは続編モノということで、ご寛恕《かんじょ》ください。
ただし、なにしろ続編のことですから、もしも両方を読んでいただけるのでしたら、順番的にはやはりティーンズハートのほうからお読みになるほうが楽しいのではないのでしょうか。少々手に入りにくいかと思いますが、たぶん書店に注文すればまだ大丈夫なのではないかと思います(そうでなかったらどうしよう……)。もしも上巻をお読みになってご興味が湧《わ》かれましたらどうぞ、よろしく。――おや、めずらしい。営業努力をしているぞ(笑)。
この作品を書くにあたって、前シリーズを読み返していて、初期の作品のあまりの改行の多さに我ながら愕然《がくぜん》としました。対象読者年齢がホワイトハートとはかなり違っていたせいもあって、ずいぶん似合わない無理もしています。本当に読みながら、苦笑のこぼれることしきりでした。巻を追うごとに、編集さんに諦《あきら》められたのをいいことに改行を取るわ、漢字は増やすわで、その変化を見ていても自分の悪戦苦闘ぶりが如実《にょじつ》にあらわれていて、苦笑してしまいます。
じつはむかしは、主人公はふつうの女の子でなければいけないとか、その女の子の一人称でなければならないとか、そういうきまりごとがあったんです。そういえば、「では一人称でしか書けない小説を書こう」と思って、前シリーズのプロットをたてたんだったなぁ、なんてことを思い出してしみじみしてしまいました。私は推理小説畑の人たちに小説を書く作法《さほう》を教えてもらいましたから、三人称の地の文で嘘の記述をすることができません。そこのところに引っかけてシリーズ全体のネタを考えたんだったか、と懐《なつ》かしく思い出しました。
あとがきのノリもぜんぜん違います。「できるだけ軽く」と言われてましたので、そのように努力しております。それが前述のようなやつでして(笑)、タイトルも軽かったですね。『悪霊がいっぱい!?』とか。ちなみにタイトルを列記すると、『悪霊がいっぱい!?』から始まって、『悪霊がホントにいっぱい!』『悪霊がいっぱいで眠れない』『悪霊はひとりぼっち』『悪霊になりたくない!』『悪霊とよばないで』『悪霊だってヘイキ! 上[#「上」は底本では○に上]・下[#「上」は底本では○に下]』という順の全七作・八冊になってます。我ながら、どれがどれだかわからないようなタイトルですが(笑)。
続編をという話は以前からあったのですけど、全シリーズの八冊で、一人称でやれるホラーには、ある種の壁みたいなものがあることを発見しました(もちろん利点もあるんですけど)。壁があるよりないほうが面白《おもしろ》いのじゃないかと、ティーンズハートではなく、ホワイトハートのほうに持ってこさせていただきました。
ホワイトハートということもあり、イラストが代わったせいもあって、前シリーズとはかなり様変わりしています。それでも、物語の骨子《こっし》を作る作法は変わっていません。これはファンタジーを書くときにも同様です。三つ子の魂百までというやつかもしれませんね。
ともかくも、上巻がお気にめして、下巻でもお会いできるといいのですけど。念のために申し添えますと、例によって上下巻同時に原稿を入れてありますので、下巻は来月の発行になります。どうぞ、よろしく。
[#地付き]小野不由美 拝
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底本:「悪夢の棲む家(上)ゴースト・ハント」講談社X文庫ホワイトハート
著者:小野不由美
一九九四年三月二〇日 第一刷発行
一九九四年五月二七日 第ニ刷発行
テキスト化:二〇〇五年八月
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