屍鬼(下)
小野不由美
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)躊躇《ためら》う
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)開くのを|躊躇《ためら》う
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、Unicodeによる文字コード番号)
(例)掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]
感嘆符が二つ、もしくは感嘆符と疑問符が一文字の大きさで並べられている場合は半角記号で「!!」「!?」と表記。
(例)「――でも、なんで!?」
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
(例)[#ここから4字下げ]村は死によって[#ここで字下げ終わり]
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[#ここから3字下げ]
屍鬼(下)
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#ここから5字下げ]
第三部 幽鬼の宮
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
一章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
唐突に敏夫が静信を訪ねてきたのは、ちょうど夕餉の最中だった。気心の知れた檀家衆がそうするように、庭を廻って茶の間に顔を出すと、脇のほうを指さして「待っているから」と言う。お茶でも、と立ち上がりかけた美和子に笑って、「お構いなく」と手を振った。
「どうしたのかしらね、敏夫くん」
首を傾げる美和子や池辺に曖昧に返事をし、静信は早々に食事を終える。美和子に急須と湯飲み、ポットをもらって自室に戻った。敏夫が示したのは事務所のほうではなく、静信の自室のほうだったからだ。
部屋に戻ると、縁側から上がり込んだ敏夫がぼんやりと庭を見ていた。開け放した障子から秋めいて冷えた風が通っている。声をかけると振り返り、笑う。
「相変わらず本の他には何もない部屋だな」
敏夫は縁側の掃き出し窓を閉め、部屋に入って障子を閉める。静信は苦笑した。裏庭に面した六畳ふた間が静信の自室だが、もう長いこと寝るときにしか使っていない。寝るのも得てして事務所に近い納戸で仮眠を取って済ますことが多かったから、ほとんど書庫になっていると言っても過言ではなかった。床脇はもちろん、床の間や付け書院にまで溢れた本と、畳んで重ねたままの布団、机代わりの炬燵台は処分しそびれた原稿のコピーや校正刷りで埋もれている。
敏夫は書棚にもたれ、手近のコピーを指先でめくった。
「人の住処ってやつは、本人の精神構造をよく示しているもんだと思うがな。察するに、お前の精神は物置化してるんだ。そうでなきゃ、本当に住処を放棄して物置にしちまったんだな」
静信はその膝先、サイズを揃えて積み上げてあった本の上に湯飲みを置いた。「ほとんど事務所にいるからな。――どうしたんだ?
静信が訊くと、敏夫は珍しく口を開くのを|躊躇《ためら》うふうを見せた。
「なあ……お前、この村は死によって包囲されている、と言ってたよな。いや、書いていた、と言うべきか」
「何だ、急に」
「実際いま現在、そう言う状態にあるとは思わないか」
静信は眉を|顰《ひそ》めた。
「どういう――」
「村中に死が溢れている。今のところ、どれだけの人間が例のあれに汚染されているのか想像もつかない。それは村を内側から蝕んでいる。だから、包囲されている、というのはそぐわないのかもしれないが、だが、おれには村が包囲されているように見える。それがしぜりじりと狭まっている」
敏夫は軽く言葉を切った。
「調べても調べても、行く先々で壁に突き当たる感じがおれはしている。出口を探しているのに見当たらない、そういう感じだ。状況はどんどん逼迫してくる。なのに探せば探すほど障害物が増えて、出口が遠のいている感じがするんだよ。だから包囲されている気がする」
その感覚は良く分かったので、静信は頷いた。
「お前、この村で何が起こっているんだと思う?」
「何って」
敏夫はコピーの束から視線を外して顔を上げた。
「おれは、ひょっとしたら病因と感染ルートが分かったんじゃないかという気がする。いろんなことが何もかも整合する答えを見つけたような気がするんだ。失踪者も、転居者も、通勤者が辞めていたわけも含めて」
静信は思わず身を乗り出した。
「本当に?」
「おそらくな。――起き上がりだよ」
静信は一瞬、その言葉を捉えそびれた。
「何?」
「鬼なんだ。吸血鬼だよ」
静信は瞬いた。敏夫は何かの比喩としてその言葉を使っているのだろうか。それとも敏夫一流の冗談だろうか。
どう受け止めたものか困って敏夫の顔を見たが、敏夫は真面目そのものだった。
「貧血に始まる諸症状、それは最終的に多臓器不全に至る。どの患者も顕著なのは、皮膚の蒼白に虚脱、冷汗、脈拍の触知不良、呼吸不全だ。pallor,prostation,perspiration,pulselessness,pulmonary insufficiency――5P」敏夫は呟いた。「出血性ショックだ」
静信は反射的に頭を振る。
「敏夫――」
言いかけた言葉を、敏夫は遮った。
「それは必ず貧血から始まる。正球性正色素性貧血。造血レベルの問題じゃない。大量の赤血球を喪失しているんだ。この場合、普通は出血か溶血を疑う。だが、出血が起こっている形跡なかった。全身をくまなくCTにかけても内出血は発見できなかったんだ。外傷もない。結婚もなかった。だから出血ではあり得ない。ならば溶血でなければならないはずだが、クリームス試験の結果は陰性。脾臓の腫大もビリルビンやLDHの上昇もなし。そこでおれは溶血の特殊な事例だと考えた。だが、常識では考えられないような特殊な溶血があり得るなら、常識を外れた特殊な出血であってなぜいけない。外傷はない。内出血もないが、それでも患者は血液を喪失しているんだ。血液が血管外に漏出して、循環血液量が減少している。結果として貧血が起こるが、溶血が起こっているわけでもないし、身体のどこに異常があるわけでもないから、貧血以外の症状は見られない」
「しかし」
「しかし、何だ? だが、そのうちに血液量の絶対的不足から組織の循環不全が起こり始める。一次性MODS。さらに血液量は減少する。各種メディエーターが活性化して、生体を侵襲するようになる。SIRSが出現。肺が損傷され、消化管出血、イレウス、あるいは腎不全の傾向が現れる。心筋虚血が起こり、心機能は低下、心不全症状を現す。二次性MODS。――多臓器不全だ」
「敏夫」
「実に教科書的だよ。出血性ショックそのままの症状だ。問題は外傷も血痕も、内出血もない、その一点に尽きる。失血なら疑った。だからこそ徹底的に内出血を探した。だが、内出血はついに見つけられなかった。外出血は考慮しなかった。傷がなかったからだ。しかしながら、患者は無傷だったわけじゃない。あのセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]。膿んだ虫さされのような痕。あの、必ず表出血管に近い位置にあった傷から患者の血液は失われたんだ。吸血によって」
「敏夫、それは駄目だ」静信は頭を振った。「どうかしている」
「なぜだ? ここに症例がある。それは貧血で始まり、医学的な常識では考えられないほど急激に増悪してMOFに至り、患者を死に至らしめる。これは明らかに伝染性を持っているが、該当する伝染病は存在しない。単に既存の伝染病に相当しないだけじゃない、明らかに何かがおかしいんだ。失血か溶血が起こっていなければならないのに、出血もなければ溶血もない。症状は医学的な常識を逸脱している」
「だから――」
「ここで、吸血鬼という非常識な存在を代入すると、この不可解な方程式の解を求めることができる。症状としては綺麗に整合するわけだ。吸血鬼の存在を否定すれば、世界に対するある種の整合性は守られるけども、非常識な症例が残る。現象としちゃ、どちらも大差はないんだが、さて、お前はどちらを選ぶ?」
静信は返答に窮した。
「それだけじゃない。石田さんは失踪した。しかも一連の経過を纏めた報告書とデータを持ってだ。その一方で膨大な転居者がいる。唐突に深夜、逃げ出すように村を出ている尋常でない様子の転出者たち。小池さんの話を聞く限り、連中は転居以前に発症していたと考えられる。実際のところ、全ての転居者が発症していたと考えたほうが疫病としても整合するんだ。石田さんは引越したわけじゃないが、夜間に唐突に姿を消した点では同じだ。おそらくは転居の一例――それも変則例なんだろうと思う」
「それは……確かに」と、静信は認めないわけにはいかなかった。
「だが、疾病と転居に何の関係があっていうんだ? 辞職者にしてもそうだ。この疾病にかかった者は、発症すると不思議に辞職したくなるものらしい。しかしながら、罹患者を転居させ、辞職させるような疾病なんか、あるはずがないじゃないか。病原体が感染者に命じるのか? 転居しろ、辞職しろ?」敏夫は言って低く笑ってから、ふいに表情を引き締めた。「――あるはずがない。病原体に意思はないんだ。だが、意志を持つ病原体があったとしたら? 汚染の本体そのもの、疾病の元凶そのものが意志を持ち、罹患者を支配していたとしたら?」
静信は返答することができなかった。そんなものは、あり得ない。言えて当然の言葉がどうしても喉を越さなかった。
「それは山入に始まった。村に侵入し、汚染は拡大し、こうしている間にも被害は広がっている。それは貧血を引き起こす。病状は夜に悪化する。それは意思を待ち、石田さんの例を見ても分かるように、恣意的に犠牲者を選ぶ。それは罹患者の行動を規制し支配することができる。――吸血鬼だ。他にどう考えればいいんだ?」
静信は無言でただ首だけを横に振った。反駁しようにも、言葉が見つからなかった。口にすることができるとしたら「そんなものが存在するはずはない」という言葉だけで、それが信念の表明に過ぎないことは、「はずがない」という言葉自身が露呈している。
敏夫は軽く息を吐いた。そもそも賛同を期待していなかったのか、特に静信を咎めるような表情は見せなかった。
「安森の奥さんに入院してもらうことにした。おれはしばらく不寝番をするつもりだが、できれば交代要員が欲しい」
静信は迷った末に頷いた。敏夫を信じることにした、というわけではない。信じる、信じない以前に、それはあまりにも荒唐無稽でついていけない、というのが正直なところだった。ただ、節子が発症したのなら、入院させるのは悪いことはではないだろうと思えた。入院させる以上、容態が急変したときのために宿直は必要だろう。それでなくても激務の続いている敏夫一人の手には余るだろうことは理解できた。
「……分かった」
敏夫は肩の荷を降ろしたように再び息を吐き、ふと思いついたように言った。
「お前、明日にでも溝辺町へ行ってくれないか」
「溝辺町に? 何をしに」
「資料になるものが欲しいんだ。なにしろ相手が相手だから、医学書じゃあ何の参考にもならん。かといって、いつも通りに田代書店に頼むわけにもいかんだろう」
静信は微かな悪心を感じた。
「吸血鬼に関する……資料?」
そうだ、と怪訝そうにした敏夫に、静信は苦いものを呑み下す。
「それなら、ある……ここに」
「え?」
なんという符号だろう。それとも、これにも何かの意味があるのだろうか。
「書いていたんだ。だから」静信は背筋が粟立つのを自覚した。「起き上がりの話なんだ。……『屍鬼』という」
[#ここから2字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「こんちは」
夏野が縁側から声をかけると、今でじっとテレビを見ていた葵が振り返った。台所のほうでは、葵の母親が夕飯の片付けものをする音がしている。
「保っちゃんは?」
「上だと思うけど。――あんた、正雄くんのお通夜に行った?」
「いや」と、夏野は答えた。夕方、保から電話をもらったけれども、あえて通夜には以下なかった。「おれが弔問に行っても、正雄は嬉しかねぇだろ。嫌がらせだよ、むしろ」
「冷たいんだから……」
かもな、とだけ言って、夏野は勝手に上がり込む。階段のほうへ向かう途中、静子が台所から顔を出した。
「あら、夏野くん」
「お邪魔しまぁす」
声だけを残して、保の部屋に向かう。保はベッドに寝転がっていた。妙に煩いロックが流れている。
「――よう」
「ビデオ、見せて」
夏野が言うと、保は起き上がって呆れた顔をする。
「お前、おれんちをなんだと思ってんだよ」
「避難所」
夏野はそれを実は、本音としていったのだが、もちろん保がそうと気づくはずもなかった。
「なんだ、親父さんと喧嘩でもしたんか?」
「慰めに来てやったんだろ。今晩、泊めてくれよな」
「慰めに来たって態度か、それが」
保は深い息を吐いたが、夏野の返答はない。澄ました顔で笑っただけだった。
「んで? ――ビデオって何? まさか、慰安ビデオとか言わねえだろうな」
「そういう冗句が言えるようなら、慰めなんていらねえんじゃねーの」
夏野は笑う。保はその側に屈み込み、夏野が紙袋の中から引っ張り出したレンタルビデオのタイトルを検めた。
「なんだよ、これ」保は呆れた。「不祝儀があったばっかりの家に、ホラービデオをわざわざ借りて持ってくるか?」
「コメディなら良かったんか?」
保は顔を|顰《しか》め、夏野を小突いた。実際のところ、コメディを見ても笑える気はしなかったし、愛と涙の感動巨編など考えただけでも吐き気がする。一緒にビデオを見る気にはそもそもなれない。それを思うと、何だろうと一緒か、という気もした。ともかくも、誰かがいてくれるのはありがたい。とりあえず気が紛れるから。
何かを頭に流し込んでいないと、たまらない。死んだ兄、死んだ――正雄。
徹の通夜での気まずい諍いを、とうとう解くことができないままになった。おまけに、と保は思う。正雄の兄の宗貴は、博巳の通夜に出てこない正雄を悪し様に言っていた。不調を訴えていたのを、仮病だと思ったようだった。実を言えば保もそう思った。きっと例によって拗ねているんだろう、と。だが、正雄は本当に具合が悪かったのだ――徹と同じく。
今になってみると、正雄が不憫に思えた。何もあんなに寄って|集《たか》って冷たくあしらうことはなかったのに、という気がしてならない。それでなくても徹の死が胸に重い。正雄の死はいっそう心に重かった。
何かで頭をいっぱいにしておかないと、悔いで胸が悪くなる。だから今は夏野の存在がありがたかった。
その夏野は、保が気乗りしなさそうにビデオのタイトルを検めるのを興味深く見た。吸血鬼もの、ゾンビもの。保はそれにどう反応するだろうか、と思ったが、何の反応も示さなかった。――ならば、別にそれでいい。
「おれ、勝手に見てるから、構わないでいいし」
夏野が言うと、保は呆れたように嘆息した。
「お前って、本っ当に好き勝手に生きてるな。ひとりで見るんなら手前んちで見ろ、っての」
「おれんち、部屋にテレビねえんだもん」
「父ちゃん母ちゃんと見ろよ」
「御冗談」
「お前、飯は?」
「食ってない。けど、気にしなくていいよ。小母さんには食ったって言っといて」
「気ぃ遣うじゃないか、一人前に」
保は笑って部屋を出て行った。階下に降り、静子に声をかけるのが聞こえた。
夏野は軽く息を吐く。
それが何なのか、夏野にも分からない。吸血鬼なのか、ゾンビなのか。「起き上がり」、そう呼ぶのが最もふさわしい気がした。「吸血鬼」と呼べるほどロマンチックではない。窓の外に死んだはずの恵がいる、という想像はもっと殺伐とした印象を与えた。同時に、ゾンビというほど|禍禍《まがまが》しくもない。これはもっと散文的なことだ。そういう気がする。墓から起き上がった死体、それが死を媒介する、――そう考えたほうがしっくりきた。
窓の外にいたのは恵だ。死んで埋葬されたのに、起き上がってきた。村で続く死、そこにはおそらく起き上がってきた連中が関係している。それは伝染するのかもしれない。起き上がりに襲われて死ねば、その死体もまた起き上がる。
死の連鎖。どこかでそれを止めなければならない。少なくとも、そうしなければ近いうちに夏野自身が死ぬ破目になるのだろう。実際、この三日、無事でいられたのが不思議なくらいだ。今夜はとりあえず、こうして保の家に転がり込んでやり過ごすことができるとしても、これもいつまでも続けられない。自分のみを守るためには手を打つ必要があったし、そうでなくても、誰かがこの連鎖を断ち切らなければならなかった。
(保っちゃんは無反応だった)
吸血鬼やゾンビという表象に何の反応も見せなかった。保は全く疑っていないのだ。一連の死を異常だとは思っていない。そんな保に、窓辺を訪れる誰かのことや、いま夏野が何を考えているかを言ったところで真面目に聞いてはもらえないだろう。そもそも――と、夏野は思う。誰か一人でも真面目に耳を貸してくれる人間がいるのだろうか?
(いるわけ、ない……)
自分だって窓の外の監視者がなければ、とても真面目に受け止める気にはなれなかったろう。
誰かに救援を求めることはできない。協力を求めることも。誰も夏野を保護してはくれないだろうし、脅威を取り除いてもくれないだろう。夏野の代わりに行動してくれる者はいない。そしておそらく、たとえ半信半疑、冗談半分にせよ、手を貸してくれる者もいない。信じてなんかいないくせに、面白がって茶化し半分に付き合ってくれる――そういう人間がいるとしたら、徹しか思い浮かばなかった。
そう思って、夏野は鋭利な痛みに似たものが胸郭を貫くのを感じた。徹がいたら、自分は言ったかもしれない。信じてもらえないことは承知のうえで。そうすれば徹は例によって兄貴ぶった顔をして、年端もいかない弟の馬鹿に付き合うような顔をして、それでも手を貸してくれたのに違いない。だが――徹はいない。おそらくは連中に奪い取られてしまった。だから夏野は、独りでこれに立ち向かわねばならない。
徹の喪失が身に滲みた。もう、どこにもいないのだ、という思い。思うと同時に、何か恐ろしい予感のようなものを感じた。
(びびってるのか、おれ)
そうかもしれない。連中が徹に何かをしたのだ、と考えることも、だから徹はもういないのだ、と考えることも、何か恐ろしいものを孕んでいるような気がして、じっと正視していることができなかった。
肝要なのは、自分が独りだということだ。援助は期待できない。夏野自身の手でどうにかしなくてはならない。けれども実際、どうすればいいのか、夏野には分からなかった。誰もこういう場合、どうすればいいのか教えてはくれない。「起き上がり」とは何で、どう対処すればいいのか、さっぱり分からなかった。
分かっているのは、これがとてつもなく異常なことだ、ということだった。そして直感として、村に起こっている全ての異常は、これに関連しているのだという気がした。異常にも色合いがあるとすれば、死も、転居も、何もかもが同じ色合いをしている。
――そしてもうひとつ。
夏野は適当なビデオを保のデッキにセットして、窓のほうに目をやった。同じ色合いをしているものがもうひとつある。それがあの兼正の地所に移築された家だ。
少なくともあの家が――住人が、ではなく――村に登場してからだ、異常ことが起こるようになったのは。
死の感染。どこかに起点があるはずだ。だとしたら、それはあの家だとしか思えなかった。住人は滅多に村に姿を現さず、たまに現れれば夜に限られている。
恵を墓穴の中に戻すだけでは完全とは言えない。本当に安全を――正常な状態を取り戻そうと思うなら、あの連中をも何とかしなければ。
それは想像するだに自分の手に余ることだという気がしたが、夏野には退路がない。大人がどうにかしてくれると思うほど、夏野はおめでたくはなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
山道には夜の|幄《とばり》が降りていた。昭はあちこちにできた闇に首を竦めながら、それでも立ち去る踏ん切りがつかず、林の中に身を潜めたまま桐敷家のほうを窺っていた。
古い石造り建物には明かりが点っている。いかにも明るく照らされた室内を見ると、暗闇に潜んでいる自分のほうが、よからぬ振る舞いをしている気がした。
(けど、あいつらが何かしてるんだ)
それについては確信がある。何の根拠もないけれども、昭の直感が間違いないと言っている。そう思って、事あるごとに監視しているのに、兼正の連中は尻尾を出さない。怪しい人影や振る舞いはおろか、そもそも家の近辺や窓辺に住人の姿を見ることすらなかった。――それが一層、怪しいと思う。
まるで意図的に身を潜めているようだ。そして、おそらくはそう言うことなのだろう。連中は何を企んでいる。だからああも周到に姿を隠し、滅多なことでは村人の前に現れまいとするのに違いない。
確信だけはあったのに、何の変化もなくて、昭はだんだん馬鹿馬鹿しくなっているのも事実だった。別に疑いを解いたわけでもないし、こうして見張っていることを子供じみた振る舞いだとも思わないが、こうも何も起こらないと連中はもう何もする気がないのじゃないかという気がする。あるいは、自分では駄目なのかも。連中の尻尾を捕まえて、連中をやっつけるのは、昭でない誰かの役まわりで、昭はお呼びじゃないのかもしれない。
「ちぇ……」
昭は呟き、草叢の中で体勢を変えた。拗ねたように桐敷家に背を向ける。見張るといっても学校から帰って夕飯までのわずかの間だけ、今日のように口煩い母親がいないときには夕飯の後にも出かけることができたが、その頻度は決して高くなかった。一日中――朝から深夜まで、見張っているわけにはいかない。連中をやっつけるのは昭ではなく、一晩中でも張り込みをしてられる誰かなのじゃないかという疑いが濃厚だった。
昭は腕時計に目をやる。戻らない母親が帰ってきてしまう。昭自身は一晩中ここにいて、張り込みを続けてもいい。けれどもそんなこと、親が許してくれるとも思えなかったし、第一、昭自身、いくら何でも一晩中ここで張り込んでいるのは退屈だろうな、という気がする。何かが起こるというならともかく、空振りになる可能性が高いとあっては、親に叱られることを覚悟でここに居坐る意味など、ありそうになかった。
帰ろうかどうしようか、迷っているとき、斜面の下のほうで物音がした。昭はとっさに身を縮める。真っ先に思い浮かんだのは野犬のことだったが、それは明らかに人の歩く音だった。大股に斜面を登ってくる誰かが下生えを掻き分ける音。
鼓動が鳴った。ひょっとしたらすごいことが起こるかもしれない、と思った。身を縮め、できるだけ身動きしないよう息を殺しながら窺っていると、やがて木立の向こう、すっかり藍色に染まった中を黒い人影が登ってくるのがかろうじて見えた。顔は見えなかったし、特徴も分からない。分かったのは、それが大人で、たぶん男だということだけだった。
男は斜面を登る。しっかりした足取りで、しかも傾斜のわりに速かった。足音は明瞭なのに、不思議に息づかいは聞こえない。麓から下生えを掻き分けつつ斜面を登ってきたのだとしたら、息が弾んでいて当然なのに。
よほど体力のある奴だ、と昭は思った。それは乱暴で破壊的な奴だというイメージと難なく結びついた。
見つかったら酷い目に遭うかもしれない、昭は半ば恐ろしく、半ばわくわくする気分で斜面を登る人影を目で追った。男は傾斜など気にした様子もない、着実な足取りで斜面を登りきり、林から出た。
いつの間にか月が昇っていた。そうなのだろうと思う。林から出た人影が乏しい明かりに照らし出された。やはり男で、がっしりとした背中を持っていた。
男は足を止め、すぐさま桐敷家の門へと向かって歩き出す。周囲を窺うようにしながら、通用門に近づいた。
(誰もいないか確かめてる……)
いよいよ怪しい、と思う。あいつが誰だか分からないが、少なくとも出入りするところを見られたくないのだろう。何か後ろ暗いことがあるからに違いない。
男はチャイムを押した。インターフォンに何かを言って待つ間も、さかんに左右を見渡している。何度も足を踏み替える。早く中に入りたいと苛立っているのが分かった。
昭はわずかに身を乗り出した。なんとかして顔を確かめる方法はないだろうか。
塀の中で足音がした。かちりと錠を外すような音がして、通用門が開いた。中と外で何かを言っているのは聞こえたが、内容までは聞こえない。昭がさらに身を乗り出したとき、背を向けていた男が振り返った。
昭はぎょっとしてその場に凍り付いた。見つかったのだと思った。振り返った男の顔は翳っている。特に目許はまったく見えなかった。視線がどこに向かっているかは分からないが、少なくとも昭のそれとは交わらなかったと思う。凍り付いたのが幸いしたのかもしれない。男は背後を一瞥しただけで、通用門の中に消えていった。
昭はしばらく息を殺し、よほどしばらくしてから息を吐いた。そろそろと隠れ家を抜け出す。足も手も痺れていた。
(すげえ……)
何だか分からないが、すごいものを目撃したような気がする。周囲の目を忍ぶようにして桐敷家に入っていった怪しい男。これはひょっとしたら、重大な手がかりかもしれない。
林の中、音を立てないように遠ざかりながら、昭は男の後ろ姿を反芻した。頭の形、髪型、がっしりした首から肩の線、白っぽいシャツと、黒っぽいズボン。身を屈めてインターフォンに囁きかけた姿勢、それから、背後を振り返った顔つき。
道に沿って林を下りながら、昭はちょっと首を傾げた。どこかで見た顔だ、という気がしたからだ。なにしろ暗かったし、顔は翳って表情も定かではない。だから漠然とした印象でしかないのだけれども、昭は確かにどこかであの男を見たことがある。それも、何度も。――そう、よく知っている顔だ。おそらくは。
ちょっと背後を振り返り、じゅうぶん桐敷家が遠ざかったのを見て取って、昭は道路に出た。足早に坂を下る。
誰だったろう。よく知っている顔だ。少なくとも桐敷家の人間ではない。村の者で、それも昭が何度も顔を合わせているような奴。
記憶を探り、はた、と昭は足を止めた。坂の下、曲がり角は目の前だった。付近の路上には誰もいない。近くの家の窓には明かりが点っていたけれども、光は昭まで届かない。道の両脇の林の下はすでに真っ暗で、昭は坂の途中で孤立していた。
足下から震えが立ち上ってきた。今になって鼓動が跳ね上がる。
確信はない。――でも。
(……似てる)
それも、すごく。あまりに斜面を登ってくる足取りが軽軽と逞しく、それとその人物のどこか気弱な雰囲気とがそぐわなかったので結びつくのに時間がかかった。けれども思い返してみると、振り返った顔立ちは、昭と親しかったある人物にあまりに似ている。
(……でも)
昭は前方の曲がり角を凝視した。角にある家を見つめ、明るい角を睨み据えたが、昭の全身全霊は背後に向いていた。耳も鼻も皮膚も――本当は目でさえ、背後を何とか把握しようとしている。自分の後ろに誰かいないか。誰かが――あの人物が|蹤《つ》けてきてはいないか。周囲の林の中には誰もいないか。さっきまで昭がそうしていたように、身を潜めてはいないだろうか。
昭は全身の神経を使って背後を探りながら、足許から下の道までの距離を探った。必死で駆けて、あそこまで何秒かかるだろう。林の中に潜んだ誰かが――あるいは、そっと気配を殺して蹤けてきた誰かが、駆けだした昭を捕らえるのには何秒かかるだろう。
振り返って――あるいは周囲をよくよく見て、確認するのは恐ろしすぎてできなかった。昭は逡巡した末、目を瞑って一息に地面を蹴った。ジャンプするように最初の一歩、それから全速力で坂を駆け下る。
息をするのも忘れ、坂の下で交わる道に飛び降りるように駆けつけて、そしてやっと背後を振り返った。坂のどこにも誰の姿もなかったし、林の中を迫ってくる物音もなかった。
昭は息をつき、そして身を翻した。全速力で家へと駆け戻った。
家の明かりが見えたとき、昭は安堵のあまり泣きそうになった。後ろも見ず玄関に飛び込んで、緊張から解放された反動で飛び跳ねながら茶の間に駆け込む。
中に入ってみると、外出していた母親はすでに戻っていた。咎めるような目で昭を見た。
「何をしてたの。いま何時だと思ってるの」
母親が目を剥いたが、昭にはどうでもいいことだった。駆け戻ってくる間にも、これからどうしよう、という思いばかりが空まわりしている。
――そう、かおりだけには教えてやろう。自分ひとりでは持て余す。だかといって、親に言えるはずもなかったし、友達も論外だ。誰も昭の言うことなど、信じてはくれないだろう。
かおりなら説得できる、という気がした。これは、かおりにも関係のあることだ。恵に関係のあることだから。
それで昭は、かおりをひっぱって二階に駆け上がった。母親の小言など、今日は真面目に聞く気になれない。
「かおり、来いってば」
「だから、何なの?」
「いいから」
かおりを部屋に引きずり込んで、母親がついてきてないのを確かめて襖をぴったり閉めた。それでも大事を取って、かおりを部屋の隅に坐らせる。
「どうしたのよ」
「かおり、おれ、大変なものを見た」
かおりは首を傾げた。昭の様子は明らかにおかしかった。ひどく興奮していて、なのに真っ青なのだ。震えてもいる。しかも自分でそれに気づいていないようだった。
「あんた――大丈夫なの?」
「おれは大丈夫。でも、怖かった」
口で言う以上に、昭は切羽詰まって見えた。
「具合でも悪いんじゃないの」
「そんなんじゃない。大変なものを見たんだよ」
「見たって?」
「おれ、兼正を張ってたんだ。あいつら、絶対に怪しいと思って。そしたら男が斜面を登ってきたんだ。誰だったと思う?」
かおりは首を傾げる。そのかおりの腕を、昭は痛いほどの力で掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。やはり手は、小刻みに震えている。
「――康幸兄ちゃんだった」
かおりは、ぽかんとした。
「何て言ったの?」
「大塚製材の康幸兄ちゃんだよ。絶対に間違いない。兼正の中に入っていったんだ。こそこそ周囲を窺って」
「馬鹿なこと言わないで」
「本当だって。おれ、見たんだ」
「似た人と見間違えたのよ」
「違う。そりゃ、はっきり顔を見たわけじゃないけど、絶対にそうだったんだ」
「やめてよ!」かおりは昭の手を振り解いた。
「そんなの、やだ。馬鹿な作り話、しないでよ!」
「かおり」
階下から、母親が何か怒鳴るのが聞こえた。それで、かおりも昭も、慌てて口を噤んだ。しばらく身を縮め、母親がそれきり黙ったのを確認する。
「かおり……本当なんだ。おれ、本当に見たんだよ。絶対に康幸兄ちゃんだった」
かおりは、真っ青になった昭の顔をまじまじと見る。
「だって、康幸兄さんは……」
昭は頷いた。
「死んだ」
かおりは身を|竦《すく》めた。
「だったら、康幸兄さんのはずないじゃない」
「でも、そうだったんだ。康幸兄ちゃん、起き上がったんだよ。……鬼だ、かおり」
「そんなの信じられない」
「でも、そういうことなんだよ。あいつら、鬼なんだ」
あいつら、と、かおりは復唱した。昭は頷く。青い顔に、目ばかりが異様に輝いて見えた。
「兼正の連中。恵、坂を登っていったんだろう? そして死んだ。連中にやられたんだ。康幸兄ちゃんも。だから起き上がったんだ」
そんな、と否定しかけて、かおりは口を押さえた。恵は坂を登っていった――そして、大塚康幸は材木置き場にいた。桐敷千鶴と。照れたような、|含羞《はにか》んだような笑み。あれが、かおりの見た最後の笑顔になった。
「そんな……」
「絶対に嘘じゃないって。なあ、おれと一緒に行こう」
かおりは飛び上がった。
「行く、ってどこへ」
「兼正だよ。今から行って見張ってたら、康幸兄ちゃんが出てくるの、見られるかもしれない。そしたら、かおりにだって間違いなく分かるだろ」
「やだ……いや」
「なんで」
「もう遅いし。――そう、こんな時間なんだから、お母さんがだしてくれないもん」
「だから抜け出して」
「駄目よ!」
「かおり、信じてくれよ」
かおりは首を振った。
「信じる。信じてあげてもいいわ。でも、だったら余計にこんな時間に行くなんて駄目。そんな危ないことできない」
昭は言葉に窮したように黙った。
「怖いわ。……駄目。できない。あんたも行っちゃ駄目。ね?」
昭は頷いた。顔色はさらに白かった。
「でも……だったら、どうするんだよ。このまま放っとくのか? あいつら、こうしている間も誰かを襲ってるのかもしれないじゃないか。そしたらその誰かも鬼になって起き上がって、どんどん鬼が増えていったら、おれたち、どうなるんだ?」
「……でも」
「こんなの、大人に言っても信じてくれないよ。おれのほうがおかしくなったと思われちまう。かおりにしか言えない。大人は分かってないんだ。でもってこの先も分からない。そしたら、おれたち……」
「でも、あたしたちにだって、どうにもできないじゃない」
「そんなことないよ。何とかできるはずだよ。――何とかしなきゃ」
「でもね」
「とにかく来てくれよ。明日でもいい。明るいうちにさ。そしたら怖くないだろ? かおりにも確かめて欲しいんだ。一緒に偵察に行こう。このままにしておけないよ」
「……でも」
「頼むよ、姉ちゃん」
かおりは迷い、頷いた。うっすらと涙を浮かべている昭の白い顔を見ると、そうするしかなかった。
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静信は敏夫と共に、病院の二階にあるナースステーションに陣取った。しばらく使われていなかったのに、荒廃の色はどこにもない。ここなら一応、仮眠スペースがあり、術後の患者が収容される回復室とはドア一枚で仕切られている。
その回復室に安森節子は収容されていた。つい先ほどまで、夫の徳次郎が見舞いに来ていたが、その徳次郎も帰って、節子は穏やかに眠っているようだった。回復室のドアには大きく切ったガラス窓が設けられているが、内側には古風な布製の衝立を置いてあるので節子の姿は見えない。その姿はスタンドの投げかける暗い光で、衝立に映ったおぼろな影絵として見えるばかりだった。
「訃報は必ず明け方に来る……」
呟くように言った敏夫は、ナースステーションの椅子に腰を据え、静信の私室から持ち込んできた本を開いてている。とりあえずページをめくっていたが、活字を目で追っているふうではなかった。
「もちろん例外もあるが、容態が急変するのは必ず夜だった、という言い方はできる。この患者は夜に、がくんと悪くなるんだ。容態を悪化させるような何かが、夜に起こっている」
静信は息を吐いたが、口は挟まなかった。敏夫が何を想定しているのかは分かるが、それはあまりに現実感を欠いている。ともかくも、こうして見張っていれば敏夫も気が済むだろう、という気がした。節子の容態が悪化すれば、それが非現実的な何かのせいではなく、もっと常識に即した何かが原因だと分かるだろうし、それが明らかになるのは患者にとって悪いことではない。
もしも――と、静信は微かに困惑した。
(もしも悪くならなかったら……)
このまま何事もなく、節子の容態も悪化することがなかったら。それでは敏夫の荒唐無稽な夢想を断ち切ることはできないが、患者にとって、悪化する機序が明らかになるよりも有益であるのは間違いない。
「連中、病院にまで来ると思うか?」
敏夫に問われて、静信は苦笑し、頭を振った。節子を夜間に訪ねてくるような何かがいるはずはない、という意味だったが、敏夫は別の意味に受け取ったようだった。
「――だよな。おれは昼間のうちに節子さんを入院させた。連中が千里眼でも備えてない限り、節子さんが家からここに移動したことなんて分かるはずがない」
言って、敏夫はちらりと静信を見る。
「まったく信じてないって顔をしてるぜ」
「信じろ、というほうが無理だろう」
静信は苦笑した。心外そうに「いいか」と言いかけた敏夫を制す。
「敏夫の言い分は理解してる。明らかに伝染していると思われる疾病があって、この病気は医学的に妙なところがある、というわけだろう? 非常識な存在を想定すれば、病気としての整合性は得られるが、世界に対する整合性は失われる。世界に対する整合性を優先すれば病気としての整合性が失われる。それだって畢竟、世界に対する整合性が失われるということなんだ。――言ってることは分かる。けれども、ぼくは門外漢だから。この病気がどう妙なのか、どれだけ妙なのかピンとこない。吸血鬼なんていう荒唐無稽な存在に縋らないと説明がつかないほど、妙な現象には見えないんだ」
敏夫は静信に指を突きつける。
「そうとも、お前は門外漢なんだ。そしておれはこれでも一応、医者なんだがな? その医者であるおれが妙だと言っている。それじゃあ信用できないか?」
静信は苦笑して首を振る。
「権威の保証を鵜呑みにできるほど純真じゃないよ」
「まったく」と、敏夫は小さく舌打ちをする。「そりゃあ、おれは御覧の通り、うだつのあがらない町医者だ。研究者じゃないし血液疾患の専門家でもない。だから分からないことだってある。だが、分からないことと、解が存在し得ないことは同義じゃない」
言って敏夫はマグカップを突きつける。静信はそれを受け取って、敏夫の部屋から持ち出してきたコーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、突き返した。
「解が存在しないのか? 本当に?」
「全ての可能性が消去されることを、他に何て言えばいいんだ?」
「本当に全てと言い切れるのか?」
「おれをとことこ無能だと思っているらしいな」
静信は溜息をついた。
「分かった。これは明らかに異常なんだな? そして伝染する。貧血に始まって――」言いかけて、静信は首を傾げた。「普通、吸血鬼に襲われた場合、死因は失血しなんじゃないのか?」
「ホラー映画の中じゃあな。よく全身の血液が一滴残らず失われていた、とか言うわけだが。――けれども、現実問題として考えるとどうだろうな」敏夫はマグカップに口をつけて、「吸血鬼ってのは、そもそも何だろう? 亡霊のように形を持たない連中なのか、それともまがりなりにも形を持っているのか。村の伝承で言う『鬼』は、起き上がった死体のことだ。とすると、吸血鬼の身体ってのは、構造的には人間とさほどの違いはないということになる」
「ああ」
「人間の全血液量は、一説には体重のほぼ八パーセントだ。体重が七〇キロの成人男子の場合、全血液量は約五六〇〇ミリリットルだとされる。別の説では一キロあたり七〇ミリリットルで算出する。この場合は四九〇〇ミリリットルということになる。約五リットルと言えば簡単そうだが、一リットルパック五本ぶんだぞ? それだけの分量を一気に吸飲できるもんかね。ちなみに、ひどい胃拡張の患者でも胃の容量は最大四リットルってとこだが」
そう、と静信は呟く。確かに、全身の血液が一滴残らず失われていた、という俗説はあまり実際的とも思えなかった。
「しかし失血死は、必ずしも全ての血液が失われた場合にのみ起こるわけじゃないだろう?」
「もちろん違う。どのていど出血すると死亡するか、これも確実なことは言えないが、一般に循環血液量の五〇%以上が失われると心停止に至るとされている。全血液量を五リットルと考えると、二・五リットルだ。半分とはいえ、大層な量だぞ」
「……確かに」
「これまでの症例から考えると、連中は犠牲者を一気にやっつけてるわけじゃない。循環血液量の二〇パーセントを失うと人はショック症状を呈するようになるが、例の疫病には貧血が出ているだけの期間がある。血液量が五リットルの場合なら、二〇パーセントといえば一リットルだ。一気に一リットルということはない。せいぜいが五〇〇ミリリットル、あるいはそれ以下――」敏夫はちょっと皮肉げに笑ってマグカップをかざす。「こいつに二杯ていどの御食事、というわけだ」
静信は苦いものを呑み下した。カップに二杯分の血液、というイメージは、妙に生々しくて嫌悪感を誘った。
「仮に一回の吸血量がその程度だとするなら、単純計算で二度目の襲撃で軽症ショックに陥る。五度目の襲撃で心停止に至る、ってことだな」
「数度……」
「悪くない。実際には、それほど単純じゃないだろうが。――初回襲撃の直後では、喪失した血液を補おうとして、血管外から血管内へと赤血球や機能的細胞外液の移動が起こる。骨髄では血球が作られて失われた血球を補おうとする。生体には出血に対する予備能力があるんだ。血液は希釈されるし、急ごしらえの赤血球は幼若なまま放出されるから酸素運搬能の低い網赤血球が増える。だから貧血傾向が現れるわけだが、とりあえず身体は踏み留まろうとする。襲撃がこれきりなら、おそらく犠牲者は死亡には至らない」
「だが、襲撃が続く……?」
「続くんだ。二度目、三度目と続くと、生体の予備能力を超える。ある程度を越えると、本格的に酸素不足の状態になる。細胞は悲鳴を上げる。救済のためのメデイエーターが活性化される。このために血管浸透性は亢進して、血管から細胞間質へと水分が漏出するようになる。ただでさえ少ない血液量はさらに不足することになるんだ。水分が減ることで血液は濃縮され、一見して貧血は軽減したように見えるが、活性化された白血球は血管に付着しやすくなる。好中球は遊走を始め、細胞を手当たり次第に食い荒らすようになる。生体を守るための防衛機構がパニックを起こして、当たるを幸いに迎撃システムを作動させた結果、自らを傷害し始めるんだ。こうなるともう、転がるように悪くなる一方だ。いったん喫水線を越えてしまえば、それ以上の襲撃がなくても生体は自滅する」
「ある程度までは、防衛機構のおかけで被害は遅滞し、ある程度を越えると、防衛機構によって被害が加速される……」
「そういうことだな。遅滞と加速と、プラス・マイナス・ゼロで、やはり数回の襲撃でアウトだ。発症してから数日以内。……帳尻は合う」
静信は無言で頭を振った。それに構わず敏夫は続ける。
「防衛機構が暴走し始めたとき、そもそも身体のどこかに不具合があれば、そこが真っ先に陥落する。勝負はそれだけ早くなる。あとは運次第だ。いずれにしても辿り着く先は決まってる。――MOF」
「納得できない」
静信が言うと、敏夫は心外そうに眉を上げた。
「なぜ?」
「帳尻が合うことは認める。だ゛か、数回の襲撃の間、なぜ犠牲者は黙っているんだ? それも襲撃の末期ならともかく、当初には貧血傾向の他に、さほどの被害があるわけじゃない。死んだはずの誰かが来て自分を襲ったというのに、なぜそれを訴えないんだ」
敏夫は渋面を作った。
「そこを指摘されると痛いな。だが、言えない――というより、言わせない何かがあるんだろう。発症した患者に顕著なのは、貧血傾向と勘定の鈍磨なんだ。コミュニケーションを取ることが非常に困難になる。いまから思うと、意識の混濁が起こるのが早すぎる。もっと深刻なショック状態に陥っているのならともかく、たかだか貧血であそこまで意識レベルが低下するのはおかしい。連中が何かしているんだ。そうとしか考えられん」
「しかし――」
「ある種の昆虫がそうであるように、吸血の際には麻薬のような物質を注入するのかもしれない。そうでなくなても、連中は犠牲者を自分の意に沿わせて動かすことができる。できるのでなければおかしいんだ。犠牲者のうち、村外に通勤する者は例外なく死の直前に辞職している。間違いなく本人が辞職しているんだが、何だってそんなことをしたんだ? 本人の意思とも思えない。もちろん連中がそうさせているんだ」
静信は沈黙した。古典的な吸血鬼像にそういうものがあったか。襲撃された犠牲者は、吸血鬼の意のままになる。呼ばれればみすみす窓辺に向かい、庇護を抜け出すのだ。
「奴らに襲われた連中は、連中の|傀儡《かいらい》と化す。そうでなきゃ辻褄が合わんし、連中だってそのために犠牲者を殺さずにおくんだろう」
「殺さずにおく?」
「そうなんじゃないのか? 連中が一回の襲撃で実際にどれだけの血液を吸飲するのかは知らないが、少なくとも複数で襲えば、一気に失血による心停止にまでもっていけるわけじゃないか。それをして怪しまれたくないのか、それとも傀儡と化した状態を利用したいのか、あるいはその両方か。いずれにしても、連中はあえて犠牲者を殺さないでいるんだ」
何にせよ、と敏夫はカルテを無目的に掻きまわした。
「例の症状とは極めて良く整合する。最初の襲撃の後、患者は無自覚だ。周囲もそれに気づかない。若干、感情の鈍磨が起こっており、コミュニケーションが取りにくく、そのために倦怠感でもありそうな感じ、塞いでいる感じがするが、顕著な症状は現れない。――ああ、喉が乾くようでしきりに水を欲しがる、というのはあったか。循環血液量を補おうとしているんだな」
「襲撃が続けば、血液は希釈され、貧血が起こる?」
「そういうことだ。おそらく、襲撃直後に血液検査をしても、貧血は出ないだろう。血液そのものが減るから、単位容積当たりのヘモグロビン量は変わらないし、赤血球が占める容積の比率も変わらないはずだ。しかしながら、循環血液量が減少しているから、生体は何とかこれを維持しようとして細胞外液を補充し始める。血液は希釈されるから単位容積あたりの血球数は総じて減少する。しかも網赤血球が増加するから赤血球容積――ヘマトクリット値だけでなく、ヘモグロビン量も下がる。患者は明らかな貧血を呈する」
「そのうちに予備能力では追いつかなくなるわけだな? それで循環不全が起こる」
「そう。心拍出量は減少するから、血圧、脈圧は下がる。脈を取ると、触知は不良で弱いように感じる。脳も虚血を起こすから、意識レベルは低下し虚脱したように見える。腎臓への循環血液量の不足から、尿量は減少し、ためにBUNは上昇する」
「BUN?」
「血中の尿素窒素量だ。組織やタンパク質に含まれるアミノ酸は、体内で脱アミノ化される。その結果、アンモニアが生成されるんだが、これは肝臓で尿素に合成されるんだ。血中に放出された尿素は、腎臓で濾過され排出されるが、一部は再吸収される。腎臓で濾過された水分の全てが尿として排出されるわけじゃない。再吸収が起こるんだが、このとき身体が脱水状態にあると、水分不足を補おうとして余計に再吸収されるんだな」
「ああ――循環血液量が減少するというのは、脱水状態になるということでもあるんだ」
「そういうこと。再吸収される際、尿素も一緒に再吸収されるから、血中の尿素量は増えることになるわけだ。この尿素量は、腎臓の濾過機能が低下した場合にも増える。だからBUNというのは、腎機能の重要な目安のひとつになるんだが、再吸収が促進されている場合、クレアチニンは上昇しない。クレアチニンも体内で生成される不要物の一種だ。これも尿素と同じく腎臓で濾過されて排出されるが、クレアチニンのほうは尿素と違って再吸収されない。だから再吸収では血清クレアチニンは上昇しないんだ。腎機能が低下して濾過機能が下がっている場合にのみ、上昇する」
敏夫はすぐにこれには気づいた。クレアチニンは上昇せず、BUNだけが上昇している。これは循環血液量の減少のせいだと思ったのだが、肝心の出血が認められなかった。
「とにかく、今年の夏は暑かったし……」敏夫は自嘲する。「それからくる脱水だろうと思ったわけだ。口渇もあったし、とにかく内出血の形跡が見つからなかったからな。その後で腎機能の低下が起こった。これはMOFの前兆だったんだが、実際に腎機能の低下があったから、クレアチニンが上昇しないことのほうが変だと思ったわけだ。たまたまその時、低値を示したのか、と。本来なら、腎機能の正確な実態を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]むためには、クレアチニンクリアランスというのを行う。一日の尿を集めて、排出されたクレアチニン値と血中のクレアチニン濃度を比較するんだ。入院患者なら、即座にやってみただろう。だが、患者を入院させることができなかったし、クリアランスをやってみるほどの時間の余裕がなかった」
静信は黙って耳を傾ける。敏夫はこういう言い訳を好まない。今も言い訳をしたいわけではなく、それをそれだけ悔いている、吐露せずにはいられない、ということなのだろうと了解した。
「血液は希釈され、貧血が現れる。組織は低酸素状態になり、生体の代償機構が作動する。血圧を維持するために交感神経が緊張する。呼吸、脈拍は早くなって血管は収縮する。このために皮膚呼吸温度は低下し、末梢温と中枢温の体温格差が増大する。手足が異常に冷たい感じがするし、冷や汗をかくようになる。血液の中心化が起こる。重要臓器に優先的に血流を振り分けようとするんだ。このために、顧みられなかった他の末梢組織ではさらに血流低下を招くことになる。それで顔面や手足は蒼白になる。――ここでようやく、周囲は異常に気づく。顔色が悪い、息が荒い、交感神経が緊張して消化器系は虚血傾向を起こすから食欲が落ちる。なんとなく怠そう、疲れているふう。バテているのだろうか、風邪でも引いたのだろうか、と疑う」
静信は頷かざるを得なかった。確かにそれこそが、夏以来、村で続いてきた疾病そのものだからだ。
「だが、その症状が他愛もないものだから、周囲は寝ていれば治るだろうと軽視する。とりあえず風邪薬を与え、寝かしつけようとするのが関の山だ。しかし、事態はもっと深刻なんだ。貧血は顕著になってる。血流の減少とヘモグロビンの減少から細胞では低酸素状態になる。飽和酸素濃度は低下する。このために、生体嫌気性代謝へと移行する。乳酸が過剰に生産され、血液のpHは下がり、重炭酸イオンは減少して代謝性アシドーシスが発生する。これが進行すると不整脈が起こり、血圧は下降し、意識障害が起こる」
「そう……」
「本来的には、代謝性アシドーシスは血液ガスを分析すれば、すぐにそれと分かるし、それを診れば心拍出量が低下してることは分かるものなんだ。ところが、これと同時に、マクロファージや補体系が活性化され、サイトカイン誘導が起こって好中球が活性化する。あちこちの毛細血管壁が損傷を受け始める。肺組織も例外じゃないが、これによって肺不全の様相を呈するようになる。肺の機能が損傷されると、呼吸性のアシドーシスが発現するんだ。分かってしまえば順番は明らかだが、何が起こっているのか分からないとき、アシドーシスが何に由来するものかが不明瞭になってしまう」
「原因と結果が錯綜し始めるんだ」
「そう。とにかく不具合がある、だから生体は何とかこれを防御しようとする。各種のメディエーターが活性化されるが、原因と結果が錯綜していて、生体自身にも、どこをどう救えばいいのか分からない。手当たり次第に防御しようとして、反対に組織を侵襲し始める。――SIRSだ。身体の中はガタガタになる。血管浸透性は亢進して、血管から細胞へと水分が流出するようになる。細胞が侵襲されるせいで毛細血管は次々に傷害されていく。血小板は凝集して減少する。肺傷害、腎不全、心筋虚血から来る心機能低下。ここからさらに心原性ショックを併発することがあるし、血小板の減少から凝血因子が活性化されて血栓を生じ、これがそれこそ心臓の冠動脈を直撃することもある。あるいはそういう血栓のせいで、今後は逆に線溶が活性化されて極端な出血傾向が起こるようになったりもする。生体は統一的な自己保持の能力を完全に失ってしまう。結果」
「――MOF」
敏夫は頷く。
「いったんSIRSが出現し始めると、もうこちらにも何が何なのか分からない。分かるのは、どこもかしこも悪い、ということだ。検査結果ひとつにしても滅茶苦茶な値を取り始めるから因果関係を明らかにして原因を辿っていくことが難しい」
「代謝性アシドーシスと呼吸性アシドーシスの場合のように?」
「そう。だから対症療法的に当たらざるを得ないんだが、得てして患者はここに至って初めて病院に担ぎ込まれてきたりするし、おまけにこれに、さらに襲撃が重なったりするわけだがら、経過が非常早くて打つ手を考えているうちに不可逆的なところまで進行してしまう」
まったく、と呟いて敏夫は大きく息をつく。
「……どうにもならんはずだよ」
静信は押し黙った。敏夫の無力感を思うと、かけるべき言葉がなかった。
「当初に適切な手当さえしておけば良かったんだ。全血の輸血、またはリンゲル液の輸液、とにかく循環血液量を補って、防衛システムが暴走する前に安定した状態に持っていかないといけなかった。逆に言うなら、たったそれだけのことだったんだ。実際、全血の輸血には効果が見られた。ありとあらゆる方法を試してみて、効果があったのは確かにそれだけだったんだ……」
少しの間、ナースステーションの中には沈黙が流れた。敏夫は渋面のまま、じっと床の一点を見つめている。回復室のほうからは、何の気配も物音もしなかった。
「とりあえず、手当の方法は分かったと思う。実際に効果があった例もあるから、これは有効だと思われる。だが、行田の婆さんはそれでも死亡した。年齢の割には良く保ったと言えるが、それにしたって、たかが一日か二日、引き延ばせたに過ぎない。襲撃を断ち切らせなければ回復させる方法はないんだ」
「それで節子さんを入院させたのか?」
敏夫は頷く。
「そうだ。工務店をせっついて、昼間のうちに入院させた。節子さんを襲っていた何者かは、節子さんを見失うだろう。もっとも」と、敏夫は苦々しげにする。「溝辺町の病院に運んでも、助からなかった例がある。幹康がその典型例だ。昼間のうちに救急車で国立に運ばせたが、結局のところ死亡している。ひょっとしたら、すでに手当をしてもどうにもならない段階に入っていたのかもしれないが、そうでない可能性もある」
「連中が幹康を追って国立にまで出向いた可能性だ。だとしたら、ここにも来る」
静信は思わず回復室のドアを見やった。建物の中は森閑と物音が絶え、風が樅を揺らす音だけが聞こえていた。その音は建物の中にも忍び込み、埋めるもののない空間に|谺《こだま》してそこここにある空洞の存在を強調していた。
「戸締まりは」
別段、敏夫の言い分を鵜呑みにしたわけではないが、静信はそう問わずにいられなかった。
「してるさ、もちろん。今日に限ったことじゃない。劇薬なんかがあるからな。母屋のほうの戸締まりなんぞは確認したこともないが、病院のほうは完全に締め切る。戸締まりを忘れやすい場所には、最初から鉄格子を嵌めるなりしてあるし」言って、敏夫は目線で隣の回復室を示す。「向こうの部屋のように、そもそも人が侵入できるほど窓の開かない部屋も多い」
静信は頷いた。回復室には窓があるが、嵌め殺しのガラス窓の両脇に細い回転窓がついているだけ、そこから人間が出入りすることは不可能だろう。――だが、と静信は思った。それは溝辺町の病院も同様だろう。入院施設があれば、夜間も完全に締め切るわけにはいかないだろうが、そのぶん夜にも宿直や見回りがあるわけだから、侵入はたやすくないはずだ。もしも幹康を追っていった何者かがいたとしたら、その何者かは、そういった環境の中でも襲撃が可能だった、ということにはならないか。
静信はそこまでを考え、不安を覚えるとともに、いつの間にか襲撃者の存在を受け入れ始めている自分に気が付いた。困惑して目線を上げると、心得たふうの敏夫と目が合う。静信は思わず溜息をついたが、それが何に対するものなのかは、自分でも分からなかった。
敏夫は微かに笑って立ち上がり、隣の回復室を覗き込んだ。節子は眠っている。穏やかな夜、何の異常も変化もなかった。
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二章
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「悪くない」
朝いちばんに回復室に入ってモニターを調べ、敏夫は静信にそう言った。
「容態は安定している。少なくとも悪化はしてない」
静信は頷いた。これまで訃報は夜明けに集中してきた。それはおそらく夜に悪化する。一夜をしのぐことができたのは、安森節子にとって吉報であることは疑いがなかった。問題は――と、静信は思う。それが何に起因するのか、ということだった。
昨夜、格別の異常はなかった。奇異なことは何ひとつ起こらなかったが、だからこそ節子の容態は安定しているのかもしれない。そうなのかそうでないのかを確かめる術を、静信も敏夫も持たなかった。
節子はよく眠っている。寝息は穏やかで、寝顔も柔和だった。敏夫が声をかけたが、目覚める気配はない。
「あら、律ちゃん、おはよう」
律子が裏口から入ると、ちょうど職員用の裏階段を使って清美が降りてくるところだった。手にはトレイを持っている。トレイの上には、入院患者用の食器が並んでいた。
「おはようございます。節子さんの朝食ですか?」
「口を付ける気には、なれなかったみたいだけどね」
「節子さん、いかがです?」
「昨日と変わったふうはないけど、バイタルサインは安定してるわ。入院させたのが良かったのかしら」
そうですか、と律子は呟き、更衣室にはいる。やすよが白衣に着替えているところだった。敏夫は律子たちに泊まり込むことはない、と言う。夜勤は必要ないから、交代で食事の用意だけを頼むと言った。
「やすよさん、本当にわたしたち、夜に詰めてないでいいんでしょうか」
「いいんじゃないの。先生が必要ないって言うんだし」
「そうですよね」
律子は頷いたが、釈然としなかったし、やすよもどこか不審気な表情だった。結局のところ、敏夫が自分で面倒を見るということなのだろうが、それでは敏夫の負担は減らない。そのうちに、とは言っていたものの、それでなくても往診で走り回っている敏夫が入院患者の様子まで見ていたのでは、寝る暇もないのではないだろうか。
実際、朝のミーティングで、敏夫はひどく眠そうにしていた。特に安森節子の経過に対する報告はない。武藤が様子を訊くと、安定している、とだけ答えた。
昼前には例の患者がやってきた。律子にも今では、一目でそれと分かる。問診の必要すらないほどだ。妙に弛緩した表情と、憑かれたような目の色。敏夫は丁寧に診察をし、患者の容態が差し迫ってはいないことを確認すると、翌日の予約を入れて患者を帰した。律子は首を傾げた。いつもなら必ず胸部と腹部のレントゲンを撮るのに、敏夫はなぜかそれを指示しなかった。
「あの……先生、XPは」
律子は言ったが、敏夫はいい、と言う。確かに、よほど病状が悪化していればともかく、これまでX線で内出血が確認されたことはない。無駄と言えば無駄なのかもしれなかった。敏夫も内出血はないものだ、と踏ん切りをつけたのかもしれない。けれども何の説明もなく検査項目が減ったことに、律子は首を傾げないではいられなかった。
「先生、投げちゃったんでしょうか」
昼休み、言ったのは聡子だった。
「まさか」清美は笑った。「そういう気性の人じゃないでしょ」
「でも、検査項目、減ってますよね」
「ある程度症例が集まって、検査の方針が立ってきたってことなんじゃないの? 節子さんを入院させたのだって、それなりに治療の目途が立ったってことなんだろうし。確かに節子さん、容態は安定してるしね」
「だったらいいんだけどねえ」やすよは息を吐く。「まあ、あたしらがツベコベ言ってもしょうがない。そのうち何か言うでしょ」
聡子が頷いたときだった。外に食事に出ていた十和田が休憩室に戻ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま。――あの、クレオールで妙な噂を聞いたんですけど」
「妙な噂?」
「ええ。ほら、兼正の――桐敷さん? あそこに医者がいるって話だったじゃないですか。江渕っていいませんでしたっけ」
「そんな名前だったかしらね。それが?」
「下外場に――ええと、国道沿いの楠スタンドの隣に空き家があったじゃないですか。コンビニの」
「ああ、あったわねえ」
律子も頷く。村に初めてコンビニができたのは二年ほど前のこと、律子などはわりに便利に使っていたが、半年も経たないうちに採算が取れなくなったのか、閉めてしまった。
「あそこ、ちょっと前から工事が始まったんだそうです。改装するらしくて。溝辺町の建設会社が入ってるんですけどね、ほら、看板みたいなのがあるでしょう。誰が何のために工事をしてるかって書いてある板」
「ああ、あれね」
「それに、江渕クリニックって書いてあったって言うんですよ」
律子は瞬いた。
「それ――やっぱり、兼正のお医者さんが、診療所を開くってことなのかしら」
「なんじゃないかって。クレオールじゃ、若先生は知ってるんだろうかって、ハラハラしてましたけど」
やすよは渋い顔をした。
「別に縄張りがどうこうなんて言う気はないけど。確かに、先生に何の断りもないとしたら失礼な話だわね」
「ですよね」
「いいじゃない」清美は投げ遣りな声で言う。「患者が少し分散してくれれば、こっちも助かるってもんだわ」
そうですねえ、と雪は頷く。
「けど、江渕さん、村の状況を分かってるのかな。分かってなくて開業って、それ危ないんじゃないかなあ」
「このままずっと若先生に挨拶なし、なんてことはないわよ。挨拶があれば、その時に先生が何か言うでしょ」
律子は軽く眉を顰めた。村に伝染病が流行っていることを知らない医者が開業するのは危険なことに思える。とはいえ、今の段階で敏夫はそれを気軽に言ってやれるだろうか。まだスタッフしか知らないことだ。うかつに注意すれば、村に話が漏れてしまう。それでなくても、村の者も近頃、怪しんでいる様子なのに。
「最初からそのつもりだったのかねえ」武藤が首を傾げた。「――いやさ、その江渕といくかいう医者。こんな辺鄙なとこに越してきたのは、診療所でもやろうっていう心づもりがあったからかね」
やすよは浮かない顔で、さあね、と答える。
「そうでなきゃ、やたら病人が多いのを見てその気になったのかもね。いずれにしても、その話を聞いたら、大奥さんがカンカンになるのは間違いないわ。そうなる前に、若先生の耳に入れておいたほうがいいかもね」
そうね、と清美が溜息をついた。
「――江渕さんが?」
やすよが話をすると、敏夫は目を見開いた。
「らしいんですよ。江渕クリニック、って書いてあっただけなんで、桐敷さんとこの江渕さんとは別人ってこともあり得ますけどね」
敏夫は唸った。
「それはないだろう。偶然にしちゃあ、できすぎだ」
「一言、例の病気のこと、耳に入れておいたほうがいいんじゃないですかね」
そうだな、と敏夫は答えたが、あまり真剣に吟味している様子でもなかった。やすよはその様子に、聡子が指摘したような違和感を感じる。
「先生、節子さん、どうなんです?」
「どうって。悪くない」
「そうじゃなく。何か、具体的な治療方針が決まったんですか?」
「別にそういうわけじゃないが。――どうした」
「みんな先生を心配してるんですよ。突然、入院だなんて。おまけに先生ひとりで当直するなんて無茶でしょう。おまけに若御院を引っぱりこんだりして。まさか医療行為、させてませんよね?」
「させるわけがないだろう」敏夫は心外そうに口を開けた。「そこまで信用がないのか、おれは?」
「信用されるような行動を、常日頃から取ってないからですよ。だったらいいですけど、それはそれで妙な話でしょう。聡ちゃん、心配してましたよ。何で自分たちに手伝わせずに若御院に手伝わせるんだろうって」
「ああ……それは、そういうことじゃないんだ」
やすよは上目遣いに敏夫を見る。
「先生、検査項目も減らしたでしょう。なんだか辻褄が合わないように見えるんですよ。あたしらにしたら」
敏夫は首を傾げ、曖昧に頷いた。
「ああ……そうか。うん、そうだろうな」
「で、どうなんです?」
やすよは訊いたが、敏夫は言葉を濁した。
「まだ上手く言えない。勘のようなものなんだ。やすよさん、何とかみんなを|宥《なだ》めといてくれ。説明できるようになったら説明するから」
「本当ですね?」
「本当だ」敏夫は言って、軽くやすよを拝む。「それと、江渕クリニックの話だが」
「大奥さんの耳に入らないように、ってんでしょう?」
「うん。いずれ耳にはいるだろうが、先延ばしにできればありがたい。それこそ工事が終わってからならいいんだがな。そうでないと、工事を中止させろだなんだと言い出しかねない」
やすよは溜息をついた。
「はいはい。心得てますよ」
「済まないな」
やすよはもう一度、大仰に溜息をついて控え室を出て行った。溜息が出るのは、敏夫も同様だった。
とりあえず昼食を摂るために、家のほうに戻った。寝不足で足許が怪しい。足を引きずりながら居間に入ると、珍しい顔が見えた。
「――恭子」
あら、と恭子は振り返る。目許に険が露わだった。
「本当にお疲れのようじゃない」
「どうしたんだ、お前」
「お義母さんに呼ばれたのよ」恭子は言って、ソファに坐り足を組む。「帰ってこいって、あなたが言ってるって」
「――おれが?」
敏夫はダイニングのほうを窺った。キッチンで孝江が昼の用意をしている音がする。
「最近、仕事が忙しくて疲労困憊してる、こういう時ぐらい家にいろって怒ってるって。店を閉めて帰ってこいって、そりゃあすごい剣幕だったんだから」
敏夫はソファに身体を投げ出して頭を抱えた。疲労困憊しているのは事実だが、だからこそ恭子には家にいて欲しくない。この火急の事態の最中に、恭子と孝江の間に挟まれるのかと思うと暗澹たる気分がした。
「……戻っていいぞ。別にいなくていい。いても構ってやれん。本当に忙しいんだ」
「そうみたいね」と、恭子は恨みがましい溜息をつく。「だからって右から左に帰るわけにもいかないでしょ。第一、店に張り紙してきちゃったわよ。しばらく閉めるって」
敏夫は呻いた。
「適当にお袋の機嫌を見て帰っていい」
「言われなくてもそうするわ」
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夏野は保の家で朝まで過ごし、学校に行った。土曜だから昼間での辛抱だとは思ったが、けっきょく授業はほとんど寝て過ごした。家に戻り、鞄を放り出す。――今夜はどうしよう。やはり保のところに駆け込むしかないのだろうか。
思いながら、服を着替える。ジーンズのポケットに何気なく手を突っこむと、紙片が指に触れた。葉書の小さな断片だった。
夏野はその断片を指先で何度もひっくり返した。一辺が二センチ半ほどの三角形。昨日、葉書を破り捨てた窓の下に残っていたのは、この小さな断片とそれより小さな欠片が三つほどだった。雑草の間に残された、白い切片。
これを寄越したのは誰だろう。書いたのは清水恵だ。切片の端に「恵」という文字の左隅がかろうじて残っていた。けれども恵はこれを投函できない。できないはずだ。
夏野はどういうわけか、恵の葬式で会った少女を思い出していた。渡したいものがある、と彼女は言わなかったか。何を、とは訊かなかったけれども、ひょっとしたら彼女が渡したかったものは、これではないかという気がした。
(何て言ったっけ……)
名前を聞いたような気もするが、覚えていない。顔も漠然としていた。ただ、学校で見かけたことはないように思う。中学校の制服を着ていたような気がする。恵の友人だとすれば外場の幼なじみなのだろうし、そうでなければ親戚なのかもしれない。
夏野は名前を記憶していない自分に苛立ちながら、その紙片をゴミ箱の中に落とした。部屋の窓に鍵をかけ、カーテンを引いてから家を出る。
恵だったような気がする。直感に過ぎないが、どうしてもそういう気がしてならない。誰かが拾い集めたように消えていた葉書の断片は、それを示していないだろうか。
一方で、恵だ、と確信する自分がおり、もう一方で、そんなはずはない、という常識に舞い戻りたがる自分がいる。恵だけないはずだ。だって恵は死んだ(外場を出た……)のだから。
二つの思念の間をゆらゆらと揺れながら歩くと、前方に黒い集団が見えた。また葬式か、と思う、その行列の中に見知った顔を発見する。村迫宗貴だ。では、と夏野は複雑な思いで、抱え上げられ粛々と運ばれていく棺を見送った。あの中には正雄が入っているわけだ。
通夜や葬式に出るほどの義理はない。正雄だってそんなことは望まないだろう。少なくとも自分の中で、いまさら葬儀に参列するのは納得がいかなかった。自分は正雄の死を嘆いていない。あれは正雄の死を悼む儀式で、だから自分には参加する資格がないのだという気がした。参加するために正雄の死を悼んでいるふりをするのは、あまりに偽善的で自分を許せない。
無言で葬列を見送り、夏野は踵を返した。単に葬列とは遠ざかる方へと歩き、気づくと兼正の地所に向かって延びる坂の下まで来ていた。特に理由もなく、坂を登る。登りながら顔を上げると、屋敷の偉容が待ちかまえるように聳えていた。
夏野はなんとなく、その門の前まで登り、そこで何をすればいいのか見失った。引き返すのはいかにも馬鹿馬鹿しく、かといってさらに坂を登り、林道を一周して村に戻る気にもなれない。それで屋敷を一瞥して、手近な辺りから樅の林の中に入り込んだ。斜面を下って、どこに出るか歩いてみよう。
やっかいな茂みを避け、蛇行しながらぶらぶらと斜面を下った。木立の合間に人影を見たのは、だから完全な偶然だった。夏野は足を止める。林の向こうに二人の姿が見えた。一方は夏野と大差ない年頃の女の子で、もう一方は中学一年か小学校の六年生、そのくらいの男の子だ。二人は幹の影に潜むようにして、林の外を覗いている。林道のほうを――あるいは、林道の向こうに見える兼正の屋敷を窺っているらしい。
夏野の位置からは、少女の顔は見えなかった。長い髪を三つ編みにした後ろ姿と、ふっくらとした頬の線が見えるだけだ。見覚えがあるという気はしなかったが、不思議にあの子ではないか、という気がした。恵の葬儀で、何かを渡したいと言っていた少女。
(そんなわけ、ないか)
単にそのことを考えていたから、結びついただけだ。そんな偶然があるはずがない。そう思いながらも、夏野はその少女を見知らぬ不審な人物だとは、もう思っていなかった。
(あいつら、何をしてるんだ?)
まるで兼正の様子を探っているようだ。夏野は首を傾げ、そして少女と子供の背後に人影を見た。少女たちとの距離は十メートル程度。草叢の中に身を隠すようにして、二人の後ろ姿を見つめている若い男。
根拠はなかったが辰巳だ、と思った。そういう名字の兼正の若い使用人。村の者ではない。匂いが違う。それは同じく「村の者」ではない夏野の直感だった。
「おい、そこのあんたら」夏野はとっさに声を上げた。「何してんだよ」
我ながら、どうして声をかけたのか分からなかった。辰巳には気づかないふりで、まっすぐに視線を、飛び上がるようにして振り返った少女たちのほうへ向ける。自分でも仰々しいと思いながら、ことさらのようにさりげなく手を挙げ、盛大に足音を立てて少女たちのほうに歩み寄った。視野の端に見えていた人影が、ちらりと動いて緑の間に消えた。
「あんた、清水の友達だよな」
夏野に声をかけられ、かおりは片手で昭の手を握り、もう片方の手で胸を押さえた。手の下で、心臓がひきつけを起こしている感じがする。夏野はまるで奇遇だ、とでも言い出しそうな様子で、身軽に下生えの濃いところを避けて歩いてきた。
「清水の葬式で会わなかったか? 人違いだったらごめん、なんだけど」
「いえ……」
かおりは声が震えるのを自覚した。桐敷家の様子を窺っていたことを悟られただろうか。夏野はそれを怪しいと思わなかっただろうか。かおりの手を握ってくる昭の手の力も痛いほど強い。汗ばんで震えているのは、自分の手だろうか昭の手だろうか。
「人違い?」
「いえ――ええと、そうです。会いました」
やっぱりな、と夏野は言って、林の中に目をやる。
「ちょうどいいところで会った。おれ、あんたに訊きたいことがあったんだ」
うん、と頷き、夏野は林道のほうを示す。
「こっち」
「あの、あたしは」
「いいから来いよ。――あんた、名前、なんて言ったっけ」
先に立って歩きながら、夏野が問う。かおりは問いかけるように見上げてくる昭の視線から目を逸らしながら答えた。
「田中です。田中、かおり……」
「そっちの小っこいのは?」
昭は憤然としたようにかおりの手を放した。
「田中昭」
「そう」
林道に出ると、桐敷家の脇だった。夏野はさっさと坂の下を目指す。かおりは林の中に戻りたかったが、夏野の歩調はそれを言い出す隙を与えない感じがした。
昭と顔を見合わせ、あたふたと夏野の背を追いかけた。坂をほとんど下りきったところで夏野が訊いた。
「あんたら、あんなところで何をしてたんだ?」
振り返らないまま、まるで押し殺したような小声で言う。
「あたしたち、別に……」
坂を下りきり、下の道に出てから夏野はようやく振り返った。
「ひょっとして、清水の葉書を投函したの、あんたじゃないか?」
かおりは虚を衝かれて瞬く。
「いつか、渡したいものがあるって言ってただろ。あれって清水の残暑見舞いのことじゃないのか」
一瞬、身を竦め、昭と夏野を見比べたが、夏野は別段、責めている様子ではなかった。
「違うのか?」
「……そう、だけど」
怒るかと思ったが、夏野は頷いただけだった。四つ角を門前のほうに曲がっていく。なおりは思わず夏野を追いかけて横に並んだ。
「だって結城さん、受け取ってくれる気がないみたいだったんだもん。でも、恵はあなたに受け取って欲しくて一生懸命、書いたんだから。だからあたしが恵の代わりにポストに入れたのよ。別に、悪いことをしたわけじゃないでしょ」
「それは別にいいよ」
かおりは平然とした夏野の横顔を見上げた。
「……驚いた?」
「まあな」
「訊きたいことって、それ?」
そう、と言って、夏野は背後に目をやる。
「あんたら、気がついてたか? さっきあたたちの後ろに、桐敷の若いのがいたぜ」
かおりは息を呑んだ。
「さっき……?」
「うん。辰巳とかいう奴じゃないかな。まるであんたらの様子を窺っているみたいだった」
かおりはむ昭を振り返る。昭は青い顔で首を左右に振った。
「気が付いてなかった……」
妙にひやりとした気分がした。
「何だって、あんなところにいたんだ?」
「別に、理由なんか……」
「兼正の屋敷の様子を窺ってたろ」
別に、とかおりは口の中で呟く。
「それより、ねえ、どこに行くの」
「別に、宛なんかないけど。――田中、だっけ。田中は清水の友達か?」
「そうよ。恵よりひとつ下だけど。幼なじみだったの。家も近かったし」
「ふうん。……で、何だってあの家の様子なんか窺ってたんだ? あんな、こそこそとさ」
「だから、別に」
「覗きが趣味か・せ 清水と一緒だな」
冷ややかな語調に、かおりは瞬き、そして夏野をねめつけた。
「そんなんじゃない。恵だってそんなこと、してないもん」
「そうか? よくいたぜ、清水の奴。おれんちの裏に隠れてさ」
かおりは息を呑んだ。夏野は気づいていたのだ。重大な秘密を見透かされた気がして、かおりは恥じ入り、恥じ入る自分をさらに恥じた。それと同時に、夏野に対する怒りが湧き上がる。昭の声がそれに拍車をかけた。
「へええ。恵ってそんなことしてたんだ」
「あんたは黙ってなさい」かおりは昭を睨む。首を竦めた昭から夏野に視線を移した。「結城さんって、酷い人なんだね」
「酷い? 何で」
「だって、恵が結城さんの家を訪ねていたの、知ってたんじゃない。だったらお葬式のとき、どうしてあんな酷いこと言ったの」
「知ってたからに決まってるだろ」
「恵は――恵は結城さんのことが好きだったんだよ。それこそ、ああやって結城さんの家を訪ねていくぐらい。声をかけたくてもかけられなくて、結城さんの部屋を遠目に見て、それだけで胸がいっぱいになるくらい真剣だったんだから」
なるほど、と夏野は軽蔑したようにかおりを振り返った。
「あんたも清水と同類か」
「どうして、そんな酷い言い方するのよ」
「酷い? そうやって家を張られて、部屋の中を覗き込まれて、それをおれに、ありがたがれって言うのかよ」
そんな、と言いかけ、かおりは言葉を失った。
「あんた、自分だったら喜ぶのかよ。クラスの男がさ、しょっちゅう家の近辺に現れて、自分の部屋をじっと覗き込んでるんだぜ。そういうの、気味が悪いと思わずに、感激しちゃうわけ?」
「だって、恵は……」
「おれはそういうの、気味が悪いんだよな。だから清水は嫌いだった。それが正直な気持ち」
かおりは唇を 噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだ。どうせ男の子には、女の子の繊細な気持ちなんか分からないんだ、と思ったけれども、それを言うのは気後れがした。
「まさか、あんたじゃないよな」
「なにが?」
いや、と夏野は口ごもる。
「あんた、おれんちに来たりしてないよな?」
「自惚れないでよ」
「別に自惚れてるわけじゃないさ。違うだろ、って確認してるんだろ」
「違う。頼まれたって行かない、結城さんのところなんか」
「そう」と、夏野の返答は素っ気ない。まるで呟くように、「じゃあ……あれ、誰なんだろうな」
かおりは首を傾げた。
「誰か来るの?」
「うん。それも夜に。ちょうど清水がいつもいたとこなんだよ。まるで――清水がまた来てるみたいなんだ」
「恵かもね。……結城さんに酷いことをされたから、心残りなんだわ」
皮肉のつもりで言ったのに、夏野の返答は妙に真剣な響きをしていた。
「そうかもな」
かおりは急に申し訳ない気分を感じた。夏野に対して――そして、恵に対して。
「冗談よ。恵じゃないわ。恵なら怨んだりしないもん」
「そうかな」
「そうよ。でも、ひょっとしたら、結城さんに訴えたいことがあるのかもね」
「何を?」
「さあ……。伝えられなかったことを伝えたいのかもしれないし、ひょっとしたら、もっと別のことかも」
「もっと別の?」
かおりは、ちらりと夏野を見る。
「たとえば、自分は病気で死んだんじゃない、とか」
「病気だったんだろ」
「そうだけど。……でも、本当にそうとは限らないでしょ。尾崎の先生が恵のこと、診察してたの。単なる貧血だって言ってたんですって。恵が急にあんなことになって、先生もすごく驚いてたらしいの。そんなはずはない、って」
ふうん、と相槌は素っ気なかったが、夏野は妙に真剣な表情のままだった。かおりの言葉を真剣に聞いて、何やら吟味している感じ。少なくとも、馬鹿なことを言っている、という様子ではなかった。
「恵……いなくなったでしょ、あの少し前」
「いなくなった?」夏野は、かおりを振り返り、「ああ、帰ってこない、とか言って親父が探しに出てたな。そういうことがあったっけ」
「山で倒れてるのを見つかったの。それ以来、具合が悪くて寝込んでた。そのまま死んだの。十五日だった」
「そう」
「あたし、十三日にお見舞いに行ったの、お盆の迎え火の日の夜。その時は、それが最後になるとは思わなかったんだけど……その時にね、桐敷の奥さんにあったのよ。恵の家に行く途中で」
夏野は足を止めて、かおりたちを振り返った。ちょうど門前の御旅所のすぐ近くまで来ていた。夏野は御旅所を示す。
「坐ってかないか?」
かおりは頷き、御旅所についていった。御旅所には誰の姿もない。夏野は水の枯れた手水に腰掛けた。昭がちゃっかり夏野の隣に並ぶ。かおりは手水の脇の、何のためにあるのか分からない石に腰を下ろした。
「……それで?」
「それだけ。初めてだったの、桐敷の人を見るの。ほら、越してきてから、ずっと姿を現さなかったでしょ、あの人たち。それであたし、恵にそう言ったの。さっき、そこで桐敷の奥さんにあったよ、って。綺麗な人だったって。そしたら、恵、……知ってるって」
「知ってる?」
かおりは頷きながら、どうしてこんな話を夏野にしているのだろう、と自分でも不思議に思っていた。
「確かに、そう言ったの。桐敷の奥さんにあったことがあるふうだった。でも、恵がいなくなった日、あたし坂の下で恵に会ってるの。恵は桐敷のお屋敷に興味があったのよ。夏の間、何度も坂の下で見かけた。恵はどんな人が住んでいるのか知りたがってた。桐敷の人とは誰とも会ったことがないふうだったの」
夏野は真剣な顔で耳を傾けている。
「でも、変じゃない? 恵がいなくなったの、十一日なの。それから具合が悪くて寝てた。なのに十三日にあったとき、恵は桐敷の奥さんと会ったことがあるふうだったの。だったら、いつ桐敷の奥さんと会ったの?」
「十二日か十三日――だろうな、普通」
「そんなはずないのよ。恵は十二日も十三日にも表に出てないと思う。出ていたら、あの残暑見舞いも投函したはずだもの。恵の家を出たすぐ角に、ポストがあるんだから」
夏野は軽く首を傾げた。
「忘れてただけじゃないのか?」
「そうかもしれないんだけど……。あれ、残暑見舞いだったでしょ?」
「ああ」
「暑中見舞いじゃなかった。何度も書き直してたら、残暑見舞いになっゃった、って書いてあったでしょ」
「あったな」
「残暑見舞いになるのって、立秋を過ぎてからだよね」
「そうなのか?」
「そうなんだって」と、かおりは昭を見た。昭は興味深そうに、かおりと夏野を見比べている。「調べてみたら、立秋は八月八日だったの。でも、恵は誤解してたんだよね。お盆に入ったら残暑見舞いだって思ってたの」む
なるほどな、と夏野は呟く。
「あれは残暑見舞いだった。清水は盆を区切りに暑中見舞いから切り替わると思っていたから、あれを書き上げたのは盆の直前だったんだ。十二日か十一日、そうでなきゃ、十日か。このへんだと、どうかすると配達に二日かかることがあるんだよな、いったん溝辺の本局に戻されるから」
「うん。そう――そうなの」
「清水は暑中見舞いを書いてて、配達にかかる最長二日を見込んだら、盆に入ってから着いてしまうことに気づいた。それで残暑見舞いに書き換えたんだ。十日に投函すれば十二日には着くから、書き換える必要はない。十一日だ。十一日だと微妙な線だよな。二日かれば十三日だけど、早ければ十二日に着いてしまう」
かおりは励まされた気がした。ずっと胸の中に抱えていたことを、理解してもらえるかもしれない、という期待。
「十日には完成しなかった。だから投函できなかった。十一日には完成してたけど微妙なタイミングだった。だから清水は一日待って投函しようとしたんだ。ところが十一日、清水は行方不明になって、それきり寝込んでしまった。もしも表に出られるなら、ポストは近いんだから投函しただろう。けども清水はそれを投函できなかった」
「すけえ」と、昭が口を挟んだ。「兄ちゃん、頭の回転、速いのな。かおりとは大違いだ」
かおりは軽く昭を小突く。夏野はそれにはお構いなしにひとりごちる調子で続ける。
「清水は十二、十三日と表に出ていない可能性が高い。ところが、十一日には会ったことのない人間に、十三日には会ったことがあるふうだった。桐敷の奥さんに清水が会ったんだとしたら、十一日だ。田中にあって別れた後……」
かおりは力を込めて頷いた。
「そう――そしてあたし、恵と別れたとき、恵が坂を登っていくのを見た」
「坂の上……」夏野は呟く。「それであんた、桐敷の家を窺ってたのか。清水はあの日、坂を登っていった。そして桐敷の奥さんにあったんだ。そうして行方が分からなくなって、見つかったときには具合が悪かった。医者も驚くほど悪化して……死んだ」
かおりは頷く。昭が目を輝かせて身を乗り出した。
「あいつらが恵に何かしたんだよ。そう思うだろ?」
「何を?」
ええと、と口ごもる。かおりも首を振った。
「分からないけど……でも、恵はそれを伝えたくて、成仏できないのかも……」
「そうでなきゃ、起き上がってきたのかもな」
かおりは瞬いた。真面目な顔で地面を見つめている夏野を見返した。
「――え?」
「死んで、起き上がったのかも。おれは、このところ夜にやってくるの、清水じゃないかと思うんだ」
「まさか」
「そうか?」夏野は、かおりを見た。「あんた、吸血鬼って信じる?」
かおりが何を答えるより早く、昭が弾かれたように立ち上がった。
「おれ、見たんだ。だから兼正に行こうって、かおりを引っぱってきたんだ」
「見た?」
昭は重々しく頷く。
「製材所の康幸兄ちゃん。――死んだんだ。八月に。なのにおれ、つい昨日、斜面を登って兼正の家に入っていくところを見たんだ」
夏野は問うように、かおりを見る。
「昭はそう言ってるわ。でも、あたしは見たわけじゃないから……」
「絶対に、間違いじゃなかったって」
「と、昭は言ってるけど、あたしには分からない。でも、十一日に恵に何かがあったのは確かだと思う。それも、坂の上で。ひょっとしたら桐敷の奥さんが恵に何かをしたんだと思うの。そうして死んじゃった。――死んで、土の中に葬られてしまった……」
ああ、夏野は頷く。
「それにね、あたしが桐敷の奥さんを見たとき、奥さん、一人じゃなかった。大塚製材の材木置き場にいたの。康幸兄さんと」
「本当か?」
「うん。……だから、変だと思う。恵も康幸兄さんも、桐敷の奥さんと会ってるの、死ぬ前に。でも、あたし信じられない」
「言いたいことがあって死人が化けて出てくるものなら、墓から起き上がってきても変じゃないだろ」
その――通りだ。かおりはシャツの胸を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「でも、駄目。そんなこと信じられないよ」
「おれもだ」夏野は低く言う。「だから、確かめてみようと思うんだ」
昭は夏野を見上げる。
「確かめるって? どうやって」
「清水の墓を暴くんだ」
そんな、とかおりは悲鳴を上げた。
「嘘でしょ?」
「何で? そうしたら、一発で分かるだろ。清水が起き上がったのかどうか。なにも清水の死体を確認してみなくてもさ、棺桶を見れば分かると思うんだ。起き上がったんなら蓋が開いてるとか、何か痕跡があるはずだから。掘ってみなくても、墓の様子を見てみれば分かるかもしれない」
昭が興奮した様子で跳ねた。
「そうだよ! そうすればいいんだ」
「駄目よ、そんな。そんなこと……」
「だったら、かおりは引っ込んでろよ」昭は言って、夏野を仰いだ。「おれ、手伝うよ。今から?」
「それなりの道具がいるだろ。それ集めて準備してたら陽が落ちる。明日にしたほうがいいかもな」
「そっか。じゃあ、明日。日曜だもんな。ラッキーだ」
夏野はただ頷いた。
「そんなの……そこまでして確かめなくても……」
かおりの言葉に、夏野は淡々と答えた。
「そういうわけにはいかないんだ。もしも夜に来てるのが清水なら、次に襲われるのは、おれだと思うから」
夏野は言って、かおりを見つめた。
「あんた、清水の墓がどこにあるか知ってるだろ?」
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元子が「ちぐさ」から帰ると、姑の登美子が待ちかねていたように玄関先まで出てきて迎えた。
「ああ、元子さん。いま、『ちぐさ』に電話しようと思ってたのよ」
登美子のその台詞に、元子はすっと血の気が引くのを感じた。
「何か……あったんですか」
まさか、茂樹か志保梨に何か。一瞬の間に最悪の想像が脳裏を駆け巡って、膝から力が抜けていく。
「時夫ちゃんが亡くなったんだって」
え、と元子は呟く。「時夫」が誰だったか理解するまでに何秒か、ようやく把握して、とっさに元子は誰に対してか、感謝した。よかった、神様は――そんなものが存在するとして――そこまで意地悪ではないんだ、と子供のようなことを思った。
「時夫さんって、消防士の?」
外場地区に住む前田時夫は、夫の従兄弟だった。勇よりも少し年上で、溝辺町の消防署に勤めている。元子が最初に思ったのは、仕事上の事故だろうか、ということだった。
「そう、その時夫ちゃんよ。なんでも具合が悪かったらしいのよ。なにしろ消防士やってるぐらいだもの、そりゃあ身体は丈夫な人だったんだけど、それが一昨日から寝付いてたらしくてねえ」
「まあ……。どこが悪かったんですか?」
玄関を上がって茶の間に向かいながら訊くと、それがねえ、と登美子は渋面を作る。
「分からないんですって。時夫ちゃんも辛抱強い人だったからね。何も言わなかったらしいのよ。親が心配して尾崎の医者を呼んだらしいんだけどね」
登美子はそう言ったが「尾崎の医者」と口にするとき、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。舅の巌が死んだ際のいざこざを、未だに忘れてはいないらしい。
「呼びはしたものの、どうにもならなかったみたいね」と、登美子はどこか棘のある口調で言って鼻を鳴らした。「時夫ちゃんは黙って辛抱してたようだけど、もうずっと悪かったらしいのよ。ひょっとしたら溝辺の医者にかかってたのかもしれないけど、利香さんにも何も漏らさなかったようだから」
言いながら、登美子は茶の間に坐り込んで急須に湯を注いだ。
「そう……」利香は時夫の妻だった。たしか元子と同い年だ。「それは利香さん、突然のことでさぞかし気落ちしてるでしょうね。お悔やみに行かないと……」
「今日はちょっと気分が良かったらしくて、無理して仕事に出たみたいなのよ。時夫ちゃんも真面目な性分だったから」
「責任の重いお仕事ですものね」
「というより、引き継ぎがあったみたいよ。消防署を辞めるはずだったんですって」
「まあ――なぜ?」
「それが分からないんだって。ただ、職場の人には身体がきつくて、と言ってたらしいから、本当にずっと具合が悪かったのかもね。辞めるったって右から左にってわけにはいかないでしょ。とりあえずいろいろ、整理したり引き継いだりしないといけないし。それで無理して出たらしいんだけど」
そうですか、と元子は登美子が手渡してくれた湯飲みの中を覗き込んだ。時夫はいかにも消防士らしい男で、本人もそれを天職だと思っているふうだった。それを辞めるというのだから、よほど身体が辛かったのだろう。きっと利香は安心したに違いない。時夫が殉職することを、何よりも恐れていたから。なのに、死んでしまったのだ――。
怖い、と思った。どうして人は死ぬのだろう。それは物陰から襲いかかってくる。どうしてそれを事前に察知し、回避することができないのだろう。元子は神様なんて信じてはいなかったけれども、時折、自分たちが誰かの掌の上にいるような気がしてならなかった。その誰かはあまり親切ではない。むしろ意地悪だ。その行為は気まぐれで、どこか毒を含んでいる。
(見逃して……)
自分の周囲にいる大切な人たちだけは。元子は湯飲みを包み込む両手に力を込める。
(お願いだから、酷いことをしないで)
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「かず子、軍手は」
大川かず子は、夫にそう問われて、夫の背後からカウンターの下を覗き込んだ。
「その箱の中」
「ないぞ」
大川に言われ、かず子はあら、と声を上げた。夫が不機嫌になるのが分かった。もともと夫は、些細なことでも苛立つ性分だが、それがこのところひどい。周囲の全てが夫を常に苛立たせているようなところがあった。
「切らしてたのかしら。ごめんなさいね」かず子はことさらのように笑い、こまごまとした言い訳を並べた。「なんだか近頃、ばたばたすることが多くて、うっかりしてたわ。でも、変ね。確かにまだ残りがあったと思ったんだけど。松村さんか篤が持っていったのかもしれないわね。本当にもう切れてるはずはないんだけど」
大川の顔が怒気を含んで歪んだ。その兆候を見取って、かず子は慌てて踵を返す。
「いま買ってくるわ。本当に変ね。まだあったはずなんだけど、誰が持っていったのかしら。最後のを持ち出した人が、言ってくれればよかったのに」
言いながら、かず子はそそくさと店を出た。夕暮れ、小規模な商店街も、そろそろ店終いの支度にかかっている。中にはいくつか、すでにシャッターを降ろしている店もあった。住人が転居してしまった店だ。何の挨拶もなく、逃げ出すようにいなくなった。続く弔事(村迫米穀店でも立て続けにお葬式があって……)、転居、そして不穏な噂。「こう」であるべきものが、すこしも「こう」でない不調和が、かず子の夫を不機嫌にしている。
かず子は小走りに少し先にある後藤田衣料品店に駆け込んだ。ごく小さな店先には、軍手のような雑貨から、何の変哲もない下着類、老人しか見向きしそうにない衣類や作業着が並んでいる。
「ごめんなさい。軍手を二十足ばかりくれるかしら」
暗い店の中で店番をしていたのは、後藤田久美だった。久美はどんよりと顔を上げ、億劫そうに頷く。その久美の背後、一段上がった茶の間の中に、見慣れない女の姿を認めた。
「あら、お客さん?」
かず子は茶の間を覗き込んだ。見慣れない女は、かず子に気づいたのか、視線を寄越しはしたものの、ニコリでもなくテレビに目を戻す。何だか暗い女だ、と思った。年の頃はかず子と同じ頃合いだろうか。
「従姉妹よ」と、久美が答えた。
「あら、久美さん、あんたの?」
「……そう。店を譲ることにしたの」
「え?」と、かず子は、棚の抽斗から軍手を引っ張り出す久美を見つめた。「何て言ったの」
「店を従姉妹に譲ることにしたの。村を出ることにしたから」
「そんな、……まあ、どうして」
「娘が結婚するの。それであたしも」
かず子はぽかんとした。久美の娘、響子はもう四十になる寡婦だ。もちろん再婚ということもあるが、それにしては久美が浮かない顔で、声にも少しも晴れがましい音色がないのが気になった。
「……一緒に行くの?」
「そう。娘と一緒に行くのよ」
「それは、おめでた|事《ごと》じゃない。よかったわねえ」
かず子は無理に燥いだ声を上げてみたが、久美は陰鬱な顔をして頷いただけだった。
「それで、いつ?」
「さあ。今晩にでも」
「今晩?」
そう、と呟いて、久美は軍手を突きつけるように差し出した。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
広沢は、自分の中に蓄積していく割り切れないものに困惑していた。所用があって溝辺町に出た帰り、街灯もまばらな国道を車で走りながら、村に戻ることを憂鬱に思っている自分に気づいていた。
村には家がある。妻も幼い娘もいる。自分が生まれ育った村、妻の生まれ育った村、娘が生まれ、これから育つことになる土地。強固な地縁と血縁、自分の居場所、なのにそこに戻ることに気後れがする。家に帰りたいという意思より、帰らねばならないという義務感のほうが大きい。そんなことは初めてだった。
少しずつ人家が減り、街灯が途絶える。暗黒のほうが増えていく道行きも、その気分に拍車をかけた。文明から――外界から切り離された山間の村。暗黒の中に孤立し、死によって包囲された彼の郷里。
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村は死によって包囲されている。
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かつては、静謐で敬虔な気分を誘ったフレーズが、いまは禍々しく思われた。「死」に対する広沢自身のイメージが変容していた。それは静かに佇む神聖な何かではない。もっと貪欲で荒々しく、しかも狡猾に身を潜め、背後から忍び寄ってくる何かだ。飢えた野獣のように潜伏し、村を包囲している。
夏以来、増え続ける死者。死に事は不思議に続くことがある――そんなとを言っていられる局面はすでに遠ざかっていた。明らかに異常だ。疫病、という声が静かに蔓延していた。クレオールの長谷川らは、暗に尾崎の医師がそれを認めたことを、そっと耳打ちしてくれた。なるほどそうだったのか、と腑に落ちる反面、本当に疫病なのだろうか、という気がした。疫病でなければなんだと問われても答えに窮するしかないのだが、「疫病」という言葉は、村を包囲した何かを表現するのには、どこか不適切な気がしてならなかった。
そう思うのは、
生徒の数が確実に減っているからだ。そもそも一学年一クラスの小さな中学、生徒の減少は目を逸らそうとしても明らかだった。死んだ者はいない。全員が転出しているのだから疫病とは関係がないはずだ。都会の学校へと転校していったのだが、どれもが唐突で、しかも正式な手続きを欠いていた。突然、学校に来なくなる。近親者らしき人間から電話がある、あるいは書類が送られてくる。前後の事情を聞こうとしても、すでに一家の所在は分からず、連絡のしようもない。小池董子のように、祖父が村に残されているにもかかわらず、一家の所在が祖父にも分からない、そういうことまでがあった。突然、生徒がいなくなる。死ではないが、それは村に蔓延する死に印象として似ている。――あまりにも。
広沢は暗澹として気分で村に戻った。村の入口の手前でハンドルを切る。煌々と明かりを付けたスタンドに車を入れた。
楠スタンドは、楠親子が家族だけで営業していた。楠正也とその妻、長男夫婦と次男。車を停めると、その正也が足を引きずるようにして近づいてきた。広沢は窓を開け、イグニション・キーを抜いて差し出す。楠はむっつりとそれを受け取った。触れた手は、夜気にすっかり冷えている。
「こんばんは。――レギュラー、満タンで」
楠は頷く。同じく足を引きずるようにして次男の章二がやってくる。楠はキーを章二にわたし、自分は雑巾を取った。
「なんだか顔色がお悪いですね」
車を降りた広沢が言うと、楠は、そですか、とだけ答えた。口が重い。ひどく億劫そうだった。フロントガラスを拭く手も力をなくしているように見える。
「朝晩、急に冷え込むようになりましたからね。大丈夫ですか?」
「……ええ」
ぷつり、と力なく会話が途切れる。どうもおかしい、という気がした。スタンドの建物には明かりが点り、中を見通すことができたが、人影が見えない。今夜、店にいるのは楠と章二だけのようだった。
話の接ぎ穂を失って、広沢がなんとなくそう問うと、楠は頷いた。
「やめることにしたんで」
え、と広沢は楠を見返した。楠は大儀そうに頷く。
「商売を畳んで引越すことにしたんです」
でも、と広沢は呟いた。村にスタンドは一軒だけ、村の住人のほとんどが何かれと世話になっている。しかも楠スタンドはプロパンも扱っていた。村の全ての世帯がスタンドの顧客だと言ってもいい。楠に商売を閉められては村の誰もが迷惑をするし、楠もそれなりの商売をしていたはずだ。閉める理由が想像できない。
「甥が譲ってくれって言うんで、そうすることにしました」
「ああ……そうですか。でも、なんでまた、急に」
楠は力なく雑巾をバケツに落とし込んだ。茫洋と視線をさまよわせ、呟く。
「外場は怖い……」
広沢は眉を顰め、楠に真意を問いただそうとしたが、楠のほうは背中を見せ、建物へと戻っていった。
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村に再び夜が巡ってきた。静信は暗い村の夜景を窓から見つめ、息をひとつ吐いて窓に背を向けた。ナースステーションの中は明るく、合理的な秩序で整合している。
安森節子は良好な経過を見せているらしかった。静信がやってきて枕辺を訪ねたときにはよく眠っていたが、顔には血色も戻り、寝息もしごく穏やかだった。敏夫に寄れば明らかに快方に向かっているらしい。
(何事もなかった……昨夜)
そして、秋晴れの今日一日。快方に向かいつつある節子。
(ひどく暗示的な)
敏夫はコーヒーメーカーに向かい、いかにも濃そうな液体をカップに注ぎ分けている。それを詰め所のテーブルの上に置いた。
「どう思う? 連中、今夜も節子さんをそっとしといてくれると思うか」
さあ、と静信は呟いた。静信の困惑には構わず、敏夫はすぐ手近の戸棚の中に隠した本を引っぱり出した。昨夜も開いていた本だが、一向に読み進んだ様子がない。
「連中にはどの程度の能力があるんだろうな。蝙蝠に化けたり、壁抜けしたりできると思うか?」
「さあ……」
「映画なんかじゃ、撃退するのには十字架を使うんだよな。十字架にニンニク、鏡に映らない、日の光に弱い。――どうだ?」
静信は溜息をついて敏夫の前に坐り、原稿のためにメモを取っていたノートを開いた。
「吸血鬼をどう定義するのかが問題だと思うんだが」
「吸血鬼は吸血鬼だろう」
静信は軽く頭を振った。
「ぼくたちが一般に了解している吸血鬼像は、フィクションとして創作されたものだ。そもそもの原型はスラブ民族に伝わるヴァンピールで、これをモデルにして吸血鬼は造形されたと思われる。とはいえ、実際のところ、ヴァンピールと吸血鬼は甚だしく乖離していて、ほとんど原形を留めないまでに改竄されていると言っていい」
「ふうん……」
「ヴァンピールは『起き上がり』なんだ。埋葬されたはずの死者が墓穴から甦って生者の安全を脅かす。ヴァンピールに取り憑かれた者はヴァンピールになる」
「それだ」
敏夫は身を乗り出したが、静信は苦笑した。
「と言えるかどうか。ヴァンピールに関しては、こういう有名な話がある」
十八世紀の初め、セルビアのメドヴェギアという村で奇妙な事件が起こり、ベオグラードから派遣された軍医によって調査報告書が作成されている。この村では、三か月ほどの間に、立て続けに十数名の死者が出ていた。これはヴァンピールのせいだと村人は主張していたんだ。その五年ほど前、村にアルノルド・パオレという男がいて死んだ。この男は生前、ヴァンピールに取り憑かれたことがある、と語っていた。スラブ民族の間には、ヴァンピールに取り憑かれた者は、祟りをなしているヴァンピールの墓の土を取って食べ、あるいはその血を身体に塗ると祟りから逃れることができるという伝承がある。パオレもそのようにして災厄を逃れたというんだ。
ところがこのパオレが死んだ。死後ひと月ほどして、村ではパオレがヴァンピールになって徘徊しているという噂が立った。実際に数人の村人が死んで、人々はパオレの死体を発掘するんだが、するとパオレの死体は腐敗した様子もなく、まるで健康な様子をしていた。爪や髭は伸び、生前に比べて太ってさえいる。肌は血色もよく紅潮していて、ところによっては古い皮膚が剥がれ落ちて新しいつやつやした皮膚が現れている」
「表皮剥離だ」敏夫は呆れたように言った。「そりゃあ、腐敗現象だろう。表皮が剥離して真皮が露出しているんだ」
「おそらくは」と、静信は苦笑した。
「血色がいいってのも、腐敗のせいじゃないのか。腐敗すると血色素浸潤のために皮膚は汚穢赤色から暗褐色を呈する。腐敗ガスが体内に留まるから膨満する。皺や弛みも引き延ばされるから、そりゃあ、つやつやしてふっくらとするさ。いわゆる巨人様観だ。――爪や髪が伸びるのだって、死体は乾燥するから皮膚が萎縮してそう見えるだけだろう」
「たぶん。けれども当時は、そういう死体現象についての知識がなかったということなんだろう。現代から見れば単に腐敗しているだけの死体が、当時にはむしろ生き生きとして見えた。死体のくせにまるで生きているようだ、と思われたんだな。しかもパオレの口や耳から鮮血が溢れて、棺の中は血塗れだった。これはパオレがまさしくヴァンピールになって血を啜った証拠だとして、人々は村に伝わる慣習の通り心臓に杭を打った。するとパオレは苦悶の声を上げ、死体からは大量の血が流れ出した。人々はパオレの死体を焼いて、その灰を埋葬した」
敏夫は息を吐いた。
「そりゃあ、完全に単なる死体だ。体内の腐敗ガスが杭を打った衝撃で漏れて、声帯を震わせたって事だろう。鮮血が溢れてたって話にしても、腐敗性浸出液が漏れてたって事じゃないのか」
「だろうな。――ヴァンピール談において、実際に血を吸われたと訴える被害者や、吸血の現場を目撃したという証言は少ないんだ。けれども得てしてヴァンピールの墓の中からは大量の血液のような液体が発見されるし、杭を打つとそれが溢れ出る。それだけの大量の血がどこから来たのか、観察者は説明しなければならなかった。彼らは人間の腐敗現象についての知識がなかった。だからそれはヴァンピールの体内に死後、取り込まれたものに違いない、と考えたんだ。つまり、吸血が行われたに違いない、ということなんだな。そして、その吸血によって死体は腐敗することもなく、生き生きとした姿を保っているのだ、と考えたわけだ。吸血はフォークロアの中においても、事実ではなく推測に過ぎない」
敏夫は考え込むように眉根を寄せた。
「つまり、こういうことか? 当時は、死体現象についての具体的な知識がなかった。腐敗して膨満した死体は、連中の『死体』というイメージとはかけ離れていた。しかも死体は土の中だ。土中の死体は空気中に放置された死体よりも遙かに腐敗現象の進行が遅い。とっくに骨になっているとばかり思ったのに、そうではない。それどころか生前より健康そうに見える。これは異常だということになる。なぜそんな異常なことが起こったのか、説明の必要に迫られる。その結果、誕生したのがヴァンピールという化け物だと?」
「そういうことなんじゃないのかな。異常な死体を指し示すために、ヴァンピールという言葉が必要だった。棺の中に溢れた血液を説明するために、ヴァンピールは血を啜るという性格づけが必要だった。健康そうに見える外見を説明するために、ヴァンピールは墓を抜け出してどこからか栄養を摂っている、という性格づけが必要だったんだ。そうして誕生したのがヴァンピールだった」
「ふうん」
「それはともかく、杭を打たれ、焼かれてパオレは滅ぼされたんだが、村人の間には、ヴァンピールによって殺された犠牲者は、ヴァンピールになるという伝承があった。それで、パオレの犠牲者だとされる数人の死者も、パオレと同じく墓から掘り出されて杭を打たれたんだ。
ところが、この事件から数年を経て、村で十数人の死者が連続して出たわけだ。不審な急死が続いたんだな。そこで誰かが、数年前のパオレ事件を思い出した。もちろん、すでにパオレもパオレの犠牲者もいない。村人によって処置されてしまった。けれども伝承によれば、ヴァンピールに襲われた家畜を食べると、やはりヴァンピールになるとされる。パオレは家畜の血を吸っていたに違いない。そしてその家畜を食べた者がヴァンピールになって再び村を汚染しているのだろう、というわけだ。そこで、軍医の立ち会いのもと、疑わしい墓が暴かれ、死体が解剖されることになった。死体の中には、腐敗せずに異常な様子を示しているものがあった。そこでヴァンピールだと見なされた十数の死体は、全て首を切断されて焼かれ、灰は川に流されたんだ。軍医は死体の検分と解剖に立ち会い、一連の経過を報告書に纏めて上申した」
「そういう報告書が残っているわけか? 公的文書として?」
「そう。ヨーロッパの人々はこのヴァンピールという伝承と凄惨な風習に驚いたんだろう。方々からヴァンピールに関する報告が収集されることになるわけだが、しかしかながら、『甦る死者』という伝承は、そもそもスラブ民族の間にだけあったものじゃない。エジプトにもローマにもケルトにもあった。ヨーロッパ全土にあったのだし、実を言えばアジアにも広くあった。それは普遍的な伝承だったんだ。ただ、ヨーロッパではすでに迷信として忘れ去られていたものが、スラブ民族の間ではまだリアリティをもって語られており、それをもとにした習慣が生き残っていた、ということなんだ」
「ふうん……」
「十六世紀、ヨーロッパはオスマントルコ帝国の侵攻にさらされていた。オスマントルコはバルカン半島から東ヨーロッパを支配下に置き、オーストリアを包囲するところにまで迫っていた。ヨーロッパにとって東方に控えた巨大な帝国は脅威だった。かろうじて勢力が拮抗したのが十六世紀、それが十八世紀に入って逆転し始める。十八世紀初頭、セルビアとワラキアがオーストリアに割譲されて、ヨーロッパに編入されるんだが、このときヨーロッパは占領地の住民の間に残るヴァンピールの伝承とそれにまつわる奇妙な風習に出会うんだ。二百年を経て再会した、と言ってもいいんだと思う」
「ああ……なるほど」
「だが、それはもともとスラブ民族にだけあったものじゃない。人は死を恐れる。死者を恐れる。死は得てして伝染する。ゆえに死の拡大を恐れる。その畏怖が、象徴としての化け物やフォークロアの形で世界中の至るところに残っているんだ。スラブではそれがヴァンピールだった。
異常な死体だと思われるもの。そこに説明が付与された。ヴァンピールは墓から起き上がって人や家畜を襲い血を啜る――全て異常な死体の様子を説明するために付与された要素だ。生前の過ち、無念の死、早すぎる死は死者をヴァンピールにする――人はなぜヴァンピールが生まれたのか、説明しなければならなかったんだ。飲酒、悪徳、悪魔、あらゆる理由づけが動員された。
ヴァンピールの犠牲者はヴァンピールになる。そういう形で死は伝染する。実際のところ、死はしばしば伝染したんだ。この伝染を食い止めるために、あらゆる種類の悪霊祓いの方法が導入された。芳香、鋭利な金属、厄払いのための魔術はヴァンピールを追い払い、滅ぼすために有効だとされた。確かに、ヴァンピールを追い払うのには、ニンニクの匂いが有効だとされていた。だが、これをもって本当にヴァンピールはニンニクに弱いという性質を持っているのだと考えてもいいんだろうか?」
敏夫は溜息をついた。
「……シミリア・シミリブス・クーラントゥル」
静信は頷く。
「そう。類似のものは、類似のものによって治療される。汚物によって引き起こされる病は、汚物をもって治す。昔、悪臭は病気の原因だとされていた。実際、ヴァンピールはすさまじい悪臭を放っていたんだろうと思う。だから、同じく強い匂いで対抗して、ヴァンピールの呪いを打ち払おうということなんだろう」
「なるほどな……」
「ヴァンピールに対しては、ニンニクが有効だとされている。お前は村で起こっている一連の死が、吸血鬼によるものだという。もしも仮にそうなのだとしても、村にいる連中に対してニンニクは有効だと考えていいか、これは疑問だと思う。ヴァンピールに対してニンニクが有効だとされるのは、実験の結果でも観察の結果でもない。強い芳香は強い悪臭による被害を駆逐できるはずだ、という当時の常識の表現形に過ぎないからだ」
「だが……」と、敏夫は呟いて、寝不足で充血した目を静信に向けた。「伝説には得てして真実が隠されていることがある。世界各地に『甦った死者』についての伝承がある、とお前は言ったな? そうだろう、この村にもある。それは普遍的な現象だったんじゃないのか? みんな、死者は時に起き上がることがあることを知っていた。起き上がった死体が死を呼ぶことも。だからこそ、至るところで伝説として語り伝えられている。だとしたら、連中に対抗する手段もまた、伝説の中に含まれて残っているはずだ」
「もちろん」と静信は溜息をついた。「普遍的にあった現象なんだ。死なない人間はいない。死とその結果として表れる死体、それこそが世界のあらゆる地域で実際に起こっていたことなんだ。ヴァンピールはそういう死者に対する畏怖が形を得たものに過ぎないから、世界の至るところにヴァンピールに類似した伝説がある」
「だがな」
「神を持たない民族はいないように、死を恐れない民族もいなかったんだ。人は常に死を恐れる。死への畏怖が死を司る何かの存在を求めさせた。死体のでない社会もない。そして死者はいつだって、死を想起させるという意味に置いて、死に触れ、呪われた存在だったんだ。人は常にこの呪いが、生者の上に及ばないよう祈った。死者が起き上がり、墓場からさまよい出て生者の間に立ち戻り、その呪われた指で生者に触れることがないよう、あらゆる防御を講じてたんだ。それこそ、縄文時代においては、死者を屈葬にして身動きならないようにし、|甕棺《かめかん》の上には石を置いて蓋をしたみたいに」
敏夫は沈黙する。
「そして実際、死者というのは死を励起する存在なんだ。死は時として連続する。疫病ならなおさらだ。システムは分からなくても、死者と死の連鎖という現象は理解してる。そこで、最初の死者が生者をしに引き込んだのだと説明し、死体に杭を打って、死の連鎖を断ち切るんだ」
静信は自分の両手を見る。自分がここに存在する、ということ。自明のこととして近くされるそれは、死という現象を前にして揺らぐ。だから人は死を恐れずにいられない。
「……人は生まれて死ぬ。誰もそこから逃れることはできない。それを知っているから死を無視することもまたできないんだ。医学や死に対する知識がなかったときにも、人はそれを無視できないゆえに、様々な方法で説明し、体系づけて未知のものから既知のものへと組み込もうとしてきた。その結果が、吸血鬼でありヴァンピールであり、起き上がりだったんだ……」
たから、それらの伝承をもって、吸血鬼の実存の証左だとすることはできない。――そのはずだ。
「敏夫は吸血鬼がいる、と言う。ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。吸血鬼が古来、密かに存在し続けたのかもしれないし、だとしたらそれが伝説として残っていても不思議はない。その伝説の中に含まれているデータは経験則として学習された真実なのかもしれないし、ならば伝説に言われる撃退法は真実、撃退法として有効なんだろう。だが、敏夫のいう吸血鬼とはどれを指しているんだ?
ヴァンピールは甦った死体だ。そして人の血を吸う。ギリシアの吸血鬼はヴリコラカス。これは甦った死体だけれども、必ずしも血を吸うとは限らない。あるいはラミアという女吸血鬼がいる。これは主に子供の血を常食とする魔物だが、別に甦った死体というわけじゃない。
血液は常に、生命の源だとされてきた。人は血液と生命の間に、ある種の因果関係を感じていたんだ。不自然な死や衰弱は、多く血液の不足や血液の汚染と関連づけられた。そこで吸血の魔物が登場する。この魔物は人を襲い血を吸う。血を吸われた犠牲者は衰弱し、死亡する。理解できない死を、魔物に由来することだとして説明しようとしたんだな。
一方で、そういう『吸血の魔物』がいて、その一方で、『甦る死者』についての伝承がある。人は常に死体を恐れる。それが起き上がり、墓を抜け出して戻ってくるのではないかと恐れるんだ。そのために、死者が蘇ることのないよう、死体には呪術を施し、家に戻ってくることがないように様々な魔除けを施した。それでも死者は様々な理由で甦ってくる。死体そのものが甦ることもあれば、死者の霊魂だけが戻ってくることもある。霊魂だけが戻って来るにしても、生者にとっては死者の蘇りには違いない。戻ってきた亡霊は、やはり生者に祟りをなす。死を媒介し、生者の安全を脅かすんだ。
村で言う『起き上がり』は、『甦る死者』だ。けれども実体は持たない。というより、実体のない亡霊と、実体を持つヴァンピールの間の存在としてイメージされている。それは甦った死体なのだけれども、ヴァンピールほど生々しい肉体を持つわけではない。半透明な存在、と言えばいいのかな。そして死を媒介するが、血を吸うことはない。
敏夫の言う吸血鬼の条件とは何だ? 起き上がりのように甦った死体であることだろうか。だったら、血を吸わずに凶事を引き起こすだけの魔物でも、敏夫の言う吸血鬼であると考えて伝承を掘り起こしてみなければならない。血を吸っても死体でなければ吸血鬼ではないということになる。それとも血を吸うという属性のほうが重要なんだろうか。それとも、その両方を兼ね備えていなければならないのか?」
敏夫はむっつりと沈黙する。
「甦った死者に関する伝説は、世界中、至るところにある。血を吸う魔物についての伝説も、やはり世界中、至るところにある。伝説を参照しようとするなら、まず、何が吸血鬼なのか定義を明らかにしなければならない。そのうえで世界中の伝承の中から、合致するものを探し出さなければ意味がないんだ。けれども、それ自体に意味があるとは思えない。なぜなら、伝説における吸血鬼は、人の畏怖が形を取ったものにすぎないからだ。起き上がりは疫病の暗喩だ。予防方法や撃退方法が伝わっていたとしても、それは単なる厄よけの範囲を出なかったり、疫病を防ぐ知恵が伝説の形を借りて表現されたものに過ぎないだろう」
「……だが、この村で起こってることは、疫病なんかじゃない。そうだろう」
今度は静信が沈黙する番だった。
「何かの暗喩でも象徴でもない。実際に吸血によって人を死に至らしめている連中がいるんだ。そして、その死は連続する。汚染は拡大している。でなければ、伝染病のように被害に波が現れる理由が説明できない。ピークが来るたびに犠牲者数が増えている。明らかに伝染しているんだ。連中に捕まった犠牲者は、連中と同じく吸血の民になってさらに汚染を拡大させる。――吸血鬼だ。他に考えられない」
静信が溜息をついたときだった。微かに硬質の音がした。とっさに静信も敏夫も背筋を硬直させ、周囲を見まわす。静信が声をかけようとしたとき、再度、それはした。ごく小さくガラスが打ち鳴らされる音だった。敏夫がそろそろと立ち上がり、回復室のドアに向かう。ガラス窓から中を覗き込み、音を立てないようにドアを開いた。
かん、と高い音がした。今度ははっきりと聞こえた。ガラスに物がぶつけられる音だ。おそらくは回復室の窓。そこに向かって小石かなにかがぶつけられている。バラバラと壁を打って硬い物が転がり落ちる音も聞こえた。
回復室の窓は嵌め殺しで、脇に換気用の小窓がついてはいるものの、人が出入りすることはできない。もちろんここは二階で、容易に人が窓に近づくことはできないが、それでも静信は窓の外に誰かがいるのではないかという気がしてならなかった。
かん、と高い音がするそして、唐突に妙にはっきりとした声がした。間違いなく眠っているはずの節子の声だった。
「ここよ」
敏夫が弾かれたように回復室に駆け込んだ。静信もそれに続く。スタンドの明かりは点いたままだ。その明かりの中で、節子がぽっかりと目を開いて天井を見ていた。飛び込んできた静信たちに気づいた様子はない。
敏夫は節子を一瞥し、そして窓に駆け寄る。ブラインドを引き開けた。
静信もまた窓辺により、窓の外を見る。ちょうど静信が窓の外を覗き見たとき、小石が飛んできてガラスを叩いたが、小石を投げた人間の姿は見えなかった。窓の下には裏庭が見える。こちら側には通用口の常夜灯の他には、明かりらしい明かりもないので、真っ暗だった。植え込みや物陰、闇の濃淡だけが広がる。そのどこかに誰かが潜んでいたとしても、見えるはずもなかった。
「ここにいるわ」
もう一度、妙にはっきりと節子が言った。敏夫は換気窓を引き開ける。
「ここは、おれの病院だ!」敏夫は窓の外に向かって怒鳴った。「勝手に侵入することは許さない。さっさと消えろ!」
敏夫の声は闇に吸い込まれる。反応はない。まるで観客のいない舞台上の台詞のように敏夫この声は虚空に浮いた。思わず苦笑を漏らしそうになったとき、下の闇のどこかで葉擦れの音がした。植え込みが揺れる音――そして微かな足音のようなもの。
静信は目を凝らす。染みのように黒い影を見たようにも思ったが、これは網膜の悪戯かもしれない。光の届かない庭の端を辿って、土手道のほうへと移動していく物音を聞いたようにも思うが、これまた気のせいなのかもしれなかった。
しばらくして、敏夫が息を吐いた。静信が振り返ると、節子は何事もなかったかのように目を閉じ、眠っている。
敏夫の台詞のせいか、あるいは単に、人影に恐れをなして逃げていったのか。
確実のなのは、訪問者がいた、ということだった。
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三章
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静信は何度目か、ブラインドの間から外を窺い見た。ようやく夜明けがやってきて、窓の外の風景が見て取れるようになった。ついにあれきり、訪問者は戻ってこなかった。
安堵の息を吐いてベッドを振り返ると、節子が薄く目を開けた。すぐさまそれに気づいて敏夫が枕許に屈み込む。
「おはよう。気分はどうです」
節子は眩しげに瞬いた。少しの間、ぼうっとしたふうに視線を周囲に巡らせていたが、やがて頷く。
「お陰様で……おはようございます」
「昨日よりは楽なようですね」
「はい」と、意外にしっかりした声で節子は答えた。枕許にいる静信に目を留め、驚いたように敏夫を見る。敏夫は笑った。
「単なる見舞客です。面会謝絶にしておいたほうが良かったかな」
そんな、と節子は微かに笑う。
「まあ……若御院、済みません」
「いえ。お加減はいかがです?」
「少し良いからしら。なんだか、久々に頭が軽くなったような気がします」
「そのようですね」と、言いながら、敏夫は節子の顔を覗き込む。「……うん、実際、かなり良いようだ」
「ぐっすり寝たせいから。このところ、目が覚めても寝た気がしなかったんですけど」
「そうですか? 昨夜、夜中に目を覚ましたのを覚えてますか」
「わたしがですか?」節子は瞬いた。「いいえ。起きましたか、わたし?」
「のようでしたよ。誰かに何かを言っているような声が聞こえましたから」
いやだわ、と節子は笑う。
「寝言だったのかしら」
「それにしちゃあ、ずいぶんはっきりした声でしたよ。病室に誰かいるのかと思った」
節子は軽く眉を寄せ、白い天井を見つめる。
「そういえば……夢を見たかしら。よく覚えてないけど、誰かが訪ねてくる夢を見たような気がするわ」
「誰か?」
ことさらのように軽く、敏夫は節子に問い返した。節子は苦笑する。
「覚えてないんですけどね。奈緒ちゃんだったかもしれないわ。ほら、じきに奈緒ちゃんの四十九日だから」
「……ああ」
「それが気になっていたせいかしら。忌明けは済ませたんですけどね」節子は、どこか寂しげに微笑んだ。「でも、供養してやりたかったんですよ。いちおう節目ですものね。それで気にかかってたんだと思うんです。一昨日だったかしら、その前の日だったかしら。その頃にもね、ずいぶんはっきりした夢を見たんですよ。奈緒ちゃんが帰ってくる夢で。嬉しいやら切ないやらでね」
「この間、診察に来たときには、そんな話はしてませんでしたね」
「単なる夢ですもの。わたしも今まで忘れていました。
――奈緒ちゃんが戻ってきたんだと思って嬉しくて。けれども幹康と進のことを何て言うと思って。どんなに悲しむだろうと思ったら不憫で不憫で」節子は言って、視線を宙にさまよわせて瞬いた。「でも、よく考えたら奈緒ちゃんだって死んだはずじゃないですか。その奈緒ちゃんが帰ってきたんだから、幹康も進も帰ってくるんだわ、って気がついて。全部悪い夢だったんだ、と思って胸を撫で下ろしたら、そっちのほうが夢でねえ……」
「……そう」
「奈緒ちゃんがお迎えに来たのかと思いましたよ。わたしも、もう長くないのかしら、なんて。そう思って目が覚めたのか、目が覚めてからそう思ったんだったか……」
「そういう気弱なことを考えちゃいかんな。あんたには徳次郎さんも、他の息子さんもいるんだからね」
「そうですね」
話をしている間に、少し息が上がってきたらしく、節子は浅く速い息をつきながら頷いた。
「もう少し寝たほうがいいな。食欲はありますか」
「いえ……」
「とりあえず重湯を出すんで、できるだけ食べてください。点滴のせいで空腹感はないかもしれないけど」
ええ、と節子は頷いた。敏夫は静信を促し、回復室を出る。ちらりと静信を見て呟いた。
「……奈緒さんか」
「節子さんは夢だと言っている」
「含蓄が深いよ。そうだろう? ――奈緒さんの様子を見る必要があるかもしれない」
静信は敏夫の顔を見た。
「様子って」
敏夫は頷き、低く答える。
「墓を暴いてみるんだ」
絶句した静信に、敏夫は皮肉っぽく笑う。
「主がいれば、どんなに元気そうでもヴァンピールだとは言わないさ。――お前、何時なら身体が空く?」
「ちょっと待ってくれ」
言いかけた静信を、電話の音が遮った。敏夫は受話器を取り、短く受け答えをする。早朝の電話、内容は静信にも想像がつく。案の定、敏夫は受話器を置くと、静信に戻るよう促した。
「下外場の橋本の婆さんが亡くなったそうだ。おれは出かけてくる。じきに寺にも連絡が行くだろう」
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静信が寺に駆け戻ると、ちょうど寝間着姿の美和子が受話器を置いたところだった。
「あら、いまお帰り?」
「ええ――敏夫のところに。本橋の鶴子さんが亡くなったと聞いたんですけど」
「そうなの」と、美和子不安そうに頬に手を当てた。「敏夫くんのところにも連絡があったのね。亡くなったんですって、鶴子さん。あの方も、もうお歳だったんだけど……」
美和子は憂い顔だった。
「どうしてこんなに続くのかしら。悪い病気が流行ってるんじゃないかって檀家の人たちも心配してるわ。……どうなの?」
静信は視線を逸らした。
「ぼくでは何とも言えません」
「そう……。あなたもあまり無理をしないで、自分のことも考えてね。それが自分の責任を果たすってことですよ」
分かってます、と静信は頷いた。美和子が奥に引き退がるのと入れ違いに池辺が起き出してきて、訃報を聞いて顔色を曇らせた。なにか言いたそうに静信を見たが、特に言葉は口にしなかった。光男がやってきて鶴見がやってきた。勤行に参加する檀家の人々も集まってきたが、近頃、見知った顔が減っているような気がする。そのぶん、あまり見かけない檀家衆の顔が増えていて、だからあまり人が減った気はしないのだが、明らかになにかの変化が起きようとしていた。
勤行を終えた頃に、それを見計らったように下外場の世話役である松尾誠二がやってきた。
弔組の世話役は概して経験の豊かな老人が多いが、誠二はやっと初老にさしかかったところだった。一昨年、体調を崩した父親から世話役を引き継いだばかりだった。
誠二は渋い顔でやってきて、鶴子の訃報を改めて伝える。鶴子は独居老人、しばらく姿を見かけないのを隣家の住人が訝しんで家を訪れ、死体を発見した。
「一昨日に亡くなってたらしいんですよ。なんとも寒々しい話で」
そうですか、と静信は相槌を打つに留めた。
「子供は娘さんばっかり三人でしてね。長女が上外場で所帯を持ってるんで、喪主に立ってもらうことになりました。それはいいんですが……」言って誠二は言葉を濁し、静信の顔を窺うように見る。「あの、できたら今夜をお通夜で、明日を葬儀ってことにしたいんですがね。いかがでしょう」
構いませんが、と言いかけ、静信は黒板を見た。
「でも、明日は」
「ええ、友引なんですよ」
「それは承知してるんです。ですがね――若御院、最近、流行り病じゃないって噂があるのを御存じですか」
「ええ……それは」
「もちろん、伝染病なんかじゃないってことは分かってます。というか、尾崎の若先生も何も言わないし役所からも何も言ってこん以上、伝染病ではないんだと考えるしかないんでしょう。でも、実際、今年は変ですよ。こんなに死人が続くなんて考えられんです」
「……はい」
「まるで伝染病みたいでしょう。そうじゃないのか、そうなのだけど事情があって言えないのか。役所や病院にも事情があるのかもしれないです。そこんのところは、わたしなんかには窺い知れないわけですけど」
誠二は言って、ひときわ重い溜息をついた。
「……薄情な、と思わんでください。友引を避けて葬式を繰り延べしたくないんですよ。そうやって延ばしているうちに、また次の訃報が入るかもしれないんでね」
静信が誠二の顔を見返すと、誠二は恥じ入るように笑う。
「正直言って、一日二軒の葬式はきついです。二軒で済むって保証もないしね。それでなくても夏以来、弔組の人たちも駆り出され続けてて、疲れてるんですよ。辟易してるって言うんですかね。墓地の整理だって工務店に頼まないといけないんですが、工務店だって日に幾つも予定が重なったんじゃ身動きが取れんでしょう。なので繰り延べたくないんですよ。これは何も、わたしだけの意見じゃないんで……」
静信は頷いた。事態はそこまで進行しているのか、という気がした。確かに、夏以来の葬式の数を考えると、世話役や弔組で率先して働く人々の苦労は並大抵ではないだろう。辟易していても無理はない。
「……了解しました。確かに、おっしゃる通りかもしれないです。御遺族がそれでいいとおっしゃるのでしたら、こちらから不満を言うようなことでもありませんし」
誠二は心底、肩の荷を降ろしたように表情を緩めた。
「若御院がそう言ってくだすって安心しました。なにしろ年寄りの中には、とんでもないって言うものもいますんで」と言って、誠二は苦笑する。「歳を取ると、口を出すだけで実際に動く必要はないわけですからね。なんとでも言えるんでしょうが、実際に身体を動かすほうにしたらねえ。そうそう仕事だって休めないって人もいますしね」
そうでしょうね、と静信は頷く。誠二は深々と頭を下げた。
「そういうことで、よろしくお願いします。喪主さんが、戒名も相応で、式も最低限でいいってことですんで」
「かしこまりました」
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「あんたたち、どこ行くの?」
母親に訊かれて、かおりはぎくりとした。慌てて手提げを身体の陰に隠す。
「ちょっと」と、答えたのは昭だった。
母親の佐知子は不審そうに二人を見比べる。
「すぐに帰ってきてよ。お母さん、弔組の用で出かけるから。留守番してて」
「弔組?」
佐知子は、さも飽き飽きしたというように息を吐いた。
「亡くなったんですって。本橋のお婆ちゃん。――なんだか、こんな用で引っぱり出されてばっかりで嫌になるわ」
昭は、かおりに目配せをする。かおりは、昭の言わんとするところを悟って妙に緊張した。本橋鶴子の死も「あれ」のせいだと昭は言いたいのだ。
「……行ってらっしゃい」
「できるだけ家にいてね。頼むわよ」
曖昧に頷いて、かおりは昭と家を出た。弔組の用なら帰りは遅いし、夕飯時までに帰れば母親には分からないだろう。
昭はどことなく|燥《はしゃ》いだ足取りで山の麓にある|祠《ほこら》へと向かう。村を南から押さえる末の山の麓だ。昭は妙に意気揚々としていたくせに、山際の祠が近づくにつれて顔色を翳らせた。やがて不安そうに、かおりを見る。
「なあ、かおり。あの人、来ると思う?」
「結城さん? 来るんじゃない? 自分で言いだしたことだもん」
そうだよな、と昭は呟く。
「……逃げ出したりしないよな」
「昭、怖いの?」
かおりが問うと、昭は唇をとがらす。
「そんな分けないだろ。でもさ、大人って調子いいからさ。やるとか行くとか約束しといて、すぐに反故にするだろ」
「結城さんはまだ高校一年だよ」
「そのくらいの奴のほうが、怪しいんだよ。ノリだけで適当なこと言ってさ」
「そうかもね」と、かおりは答えた。「その時は真剣でも、帰ってから馬鹿馬鹿しくなって思い直したりしてるかもしれないし」
だったらいいのだけど、と思う。かおりは昨夜、眠れなかった。時間が経てば経つほど、自分たちのしようとしていることが馬鹿馬鹿しく思えた。昭のような子供じゃあるまいし、吸血鬼だの起き上がりだのだなんて。そんなことを真面目に考えること自体、すごく自分が子供っぽい愚かなことをしている気がしたし、にもかかわらず恵の墓を暴く、という行為はあまりにも重大事でありすぎる。
「だったらガッカリだな。見所のある奴だと思ったのに。――でも、来てないよな。そういうもんだもんな」
ひとりごちる昭を連れ、かおりは黙々と歩く。手提げの中に入れてきたスコップだの熊手だのが、耳障りな音を立てた。
南にある末の山と西の山が交わるあたり、ちょうど水路の脇にその祠はある。祠と言っても、板で三方と屋根を覆っただけの小さなものだ。もともとはそこに石の柱が納まっていたが、それが折られたのは夏の話だ。収穫の終わった田圃越しに、祠が見えてきたが、その周囲には誰もいなかった。近づくと、石の端やらが見えた。それは半ばからわずかに屈曲して立っている。折れた部分を補修してあるのだが、歪んでいるのだ。
「やっぱりな……」と、昭は寂しげな溜息をついた。「かおり、どうする?」
「どうする、って。結城さんがいないんじゃ、仕方ないじゃない」
「そういうわけにはいかないだろ。おれたちだけでも何とかしないと」
でも、と言いかけたときには祠は間近で、そして、その背後から夏のがひょろりとした身体を現した。昭が小さく声を上げた。
夏のは目線で促すようにして、祠の裏を示す。昭は小走りにそこに向かった。
「へーえ。本当に来てたんだ」
昭が祠の陰に回り込んで言うと、夏のは何のことだ、というような目で昭を見た。
「兄ちゃん、見処あるじゃん」
「これ持て」
夏のは二本あるシャベルの一本を昭に寄越す。もう一本、鍬が用意されていた。
「持ってくのか? 隠しようないぜ、こんなもん」
「堂々としてりゃいいんだよ。穴掘りの手伝いに行くんだって顔をしてりゃ、誰も気にしない」
「そんなものかなあ」
昭は言って、感心したようにシャベルを見た。かおりはなんとなく手提げを背後に隠した。確かに、本気で墓を掘るつもりなら、こんな小さなスコップなんて何の役にも立たないだろう。子供の玩具みたいなものだ。ぜんぜん実際的じゃない。そんなものを後生大事に携えてきた自分たちが妙に恥ずかしかった。
「でもこれ、どうしたんだ?」
「近所から借りた」
「何て言って」
「何も。変に言い訳すると怪しまれるんだよ、こういうことは。何も言わずに、貸してくれ、って言やいいんだ。そしたら勝手に相手のほうで善意に解釈してくれるんだから」
「兄ちゃんって、大胆……」
「行くぞ」夏のは昭に声をかけて、かおりを見る。「どっち?」
かおりは、祠に近い林道を示した。
「あれを上がっていって、ちょっと入ったところ」
夏のは頷き、鍬とシャベルを何気なく提げて先に立つ。少しも気負ったところがない様子で林道を登っていった。昭がひどく嬉しそうにそれに続いた。
林道には人気がなかった。鳥が啼いて、風が吹いて、そういうさわやかな秋の日だ。自分たちが何をしようとしているのかを考えると、あまりにもそぐわなくて奇妙な感じがした。林道の途中から折れて小道に入る。いつの間にか下生えが生い茂っていたけれども、枝が払われているので、すぐそれと分かった。
かつて恵の棺が運ばれていった小道だ。大人たちは粛々と棺を運び、黒い穴の中に恵を連れていった。恵は埋められ――そしてそこで土に帰ったはずだった。
かおりは、ぞくりとして身体を震わせる。木立の下に|蟠《わだかま》った冷気のせいなのかもしれなかったし、あるいは、土に帰ると言うことが何を意味するのか、思い浮かべてしまったからかもしれない。それは腐敗する、ということだ。恵の身体は腐敗し、ぐずぐずになって、それを地中の虫だのがばらばらにして、土に還してしまう。
(もしも恵が、ちゃんと棺の中にいたら?)
それはいないことよりも、恐ろしいことのような気がした。腐り果てた恵なんか見たくない。人間が死んで、おぞましい汚いものになってしまうことなんか、信じたくなかった。それは「起き上がる」ことより、何倍も恐ろしいことだ。
思っているうちに、小道の先が開けた。駐車スペースほどの空間があって、そこに二本、角卒塔婆が立っている。一本は古く、一本は新しい。古いほうは恵の祖母のもの、新しいのは恵自身のものだ。こんもりと塚になっていたはずの土は、なだらかな盛り上がりになっている。
「うん」夏野は誰にともなく言って、腕まくりする。軍手をして、躊躇なく新しい角卒塔婆へと歩み寄った。
「本当にやるのか?」
訊いたのは、昭だった。夏野は角卒塔婆に手をかけ、昭を振り返る。
「帰るか?」
「別に怖いわけじゃないけどさ。墓を掘るのはいいけど、なんか、卒塔婆を倒すのって、こう……」
「こんなものは、単なる角材だ。別に神聖なものでも何でもない」
夏野は言い放って、外場を突いた。呆気ないほど簡単に、角卒塔婆は倒れて転がった。
「うわ……! 兄ちゃん、無理するなあ」
昭が半ば呆れたように、半ば感心したように言ったが、夏野の顔は険しかった。倒れた角卒塔婆に屈み込む。
「そんなに力、入れてねえぞ、おれ」
「だって」
「もともと土が緩いんだ。しっかり立ってなかった」
そんなはずは、と、かおりは言いかけた。恵の埋葬の時、外場を建てる様子を見ていた。何度も塚を突き固めて、深く卒塔婆を差して、しっかりと立っているか、大人たちが確認していたのを覚えている。
「見ろよ」と、夏野は角卒塔婆の根本を示した。「こことここ、二箇所、土の跡がある」
かおりは恐る恐る近づいた。真っ白だった卒塔婆は風雨に汚れている。墨の色も流れて、それはもうかなり痛んでいる、という印象を与える。恵の死はそのように、時間に穢され、醜いものに変容している。そんな気がした。卒塔婆の根本は土の色を吸って汚い色に変じている。そして――確かに二箇所、その色には変わり目があった。
「……ほんとだ」
昭が呟く。わずかに三センチほどの段差。土の色が根本は濃く、それより上は、かなり薄い。
「誰かが、差し直したんだ」
夏野の声に、昭は顔を上げる。
「……誰が・せ」
「知るもんか」
「おれたちの他にも、恵の墓を|弄《いじ》った奴がいるってことだよな」
だろうな、と呟いて、夏野は卒塔婆を傍らに動かした。かなり重そうな手つきだった。そうして、地面に放り出してあったシャベルを手に取る。――本当に掘る気だ。
かおりは、やめよう、と叫びかけ、そしてふいに口を噤んだ。ほんの少し離れた、枯れた草の間に白いものを見つけたからだ。それは四角い包みに見えた。小さな、箱。汚れて退職したリボンがついている。かおりは側に寄ってそれを拾い上げた。
「どうした?」
「これ……」かおりはそれを示した。間違いない。白のレースペーパー、水色のリボン。恵へのプレゼントだ。
「なんだ、これ?」
手許を覗き込んだ昭と夏野を、かおりは見上げた。
「これ……あたしが恵の誕生日に用意したプレゼントだよ。でも、あたし、これを恵のお墓に入れた……」
夏野は眉を顰めた。
「埋めるのを待っててもらって、棺の上に載せて埋めたの。確かに、穴の中に入れた。く」
夏野は倒れた角卒塔婆を振り返った。
「それがそのへんに落ちてる、ってことは、誰かが清水の墓を掘り返したんだ」
「まさか」
かおりは足が震えるのを感じた。まさか、本当に?
けれども、かおりは確かにこれを恵の墓の中に入れた。棺に入れることを思い浮かばなくて、ここに来てから思い出して、慌てて家に取りに戻った。たしかお寺の若御院が、待っているから、と言ってくれて。そして墓穴の中に入れた。棺の上に置いて。土が被せられ、塚が作られて――。
誰かが土を掘らなければ、これが外に出てくるはずがない。墓は暴かれたのだ。誰かが恵の墓を掘り、そして埋め戻し、角卒塔婆を立て直した。
夏野は決心したように、シャベルを土に突き立てた。昭が及び腰でそれに続く。かおりは震えながら二人の作業見守り、そして自分も鍬を手に取った。
がつんと手応えがして、鍬の先がなにかに当たったのは小半時以上も穴を掘り進んでからのことだった。かおりは思わず鍬を放り出した。夏野がその辺りの土を掘り上げる。すぐにシャベルを放して手で土を掻き、しぎにその手も止めた。
かおりは声にならない悲鳴を上げた。昭がしがみついてくる。夏野がなにかを言いたげに、かおりたちを見た。
土の中には、汚れた棺の蓋が現れていた。――その蓋がずれている。
かおりがさっき感じた、妙な手応えは鍬の先が蓋に当たってずらした手応えだったのか、それとも蓋はそもそもずれていたのか。いずれにしても、穴の底、かおりたちの前には、底辺が五センチほどの細長い三角に間隙が現れていた。
かおりは歯の根も合わないほど震えながら、その黒い隙間を見つめる。
「蓋……打ち付けるよな?」
夏野に言われて、かおりは頷いた。もちろん、棺の蓋は釘で打ち付けた。かおりが間近で見ていたのだから確かだ。
「開いてるわ……」
夏野が間隙に手をかけた。
「に、兄ちゃん」
「やめて!」
かおりの悲鳴には構わず、手をかけて蓋を持ち上げ、動かないと見ると、そこへシャベルの先をねじこむ。無理矢理に棺を裂くようにして蓋をこじ開けた。土が雪崩を打って棺の中に落ち込み――そてし、中に恵はいなかった。
蓋が裂かれたように口を開け、棺の中には土塊が流れ込んでいる。その下で黒ずみ、腐臭を放っているのは、かおりたちが中に入れた花だ。けれども恵の姿はなかった。どこにもない。
「――恵!」
かおりは叫んで、しゃがみ込んだ。
間違いない。恵は、起き上がったのだ。
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恵の墓を埋め戻し、塚を作って卒塔婆を立て直すまでに日が翳った。林の中には、薄闇が漂い始めている。枯れ草でシャベルや鍬を拭い、なんとか始末を付けて山を下りると、村は夕焼けの中、錆びた色をしていた。
「なあ……どうすんの、これから」
昭は夏野を見上げた。
「さあな」と、夏野の返答は素っ気ない。そのくせ厳しい表情で暮れなずむ周囲を睨んでいる。
昭は待ち合わせた祠の脇の斜面に坐り込んだ。かおりが力尽きようにそれに続く。夏野はようやく汚れた軍手をしたままなのに気づいたのか、それを外し、祠の裏に向かって投げた。
「恵……どこに行ったのかな」
かおりが、ぽつりと言う。――問題はそれだ、と昭も思った。
「兼正じゃないのかな。康幸兄ちゃんも兼正に入っていったし、きっとあそこが連中の巣なんだぜ。あそこにみんなで乗り込んでさ、やっつけるんだよ、やっぱり」
同意を求めて夏野を見たが、夏野は「まさか」と素っ気ない。
「なんで」
「まず、連中が何なのか分からないだろ」
「ゾンビなんだろ? 死人が甦ったわけだし。――いや、吸血鬼なのかな。恵、貧血で死んだんだよな」
「そもそも、そこからどうなのかはっきりしないんだ。もしも吸血鬼なら昼間には出歩けない。杭を打てば死ぬ。けれどもそんなのは映画や小説の中の話だろ。本当にそれで撃退できるのかどうか分からないじゃないか」
「そっか。――ゾンビなら?」
「昼間にだって出歩けるだろうし、確か首を切るしかないって話だったよな、映画の中では。でも、これだって本当なのかどうか分からないんだ」
「夜にしか出歩けないんじゃねえかな。だって、兼正の連中、昼間に出歩いてるって話、聞いたことねえもん。で、恵が死んだのって貧血のせいだろ。やっぱ吸血鬼なんじゃ」
かおりが口を挟んだ。
「吸血鬼だったら、昼間は棺の中にいるものなんじゃないの……?」
夏野は頷いた。
「そういうことになってるな。だけど清水はいなかった。墓を抜け出してどこかに行った。たぶん隠れてるんだろう。たしかに兼正にいるのかもしれないけど、だとしたらあそこは連中の巣窟だ」
「だから、忍び込むんだよ。昼間に。連中が寝てる間にさ」
「辰巳とかいう若いのはどうなんだ?」
「あれ? そういえば、あいつだけは昼間もうろうろしてるよな」
「お前らが兼正を見張ってるとき、あいつがお前らの背後にいたんだ。辰巳も連中の仲間だとすると、お前らが怪しんでることを連中は気づいてる。だとしたら、あっちだって用心してるだろうし、辰巳は昼間にだって動いていられる。うかつに乗り込んだら返り討ちだ」
「じゃあ、こういうのは?」昭は身を乗り出した。「夕方とかさ、夜明けに兼正を見張ってるんだよ。そして連中が出入りするところを捕まえてやっつける。こっちは、こう――十字架とかいっぱいつけてさ」
「そういうものが、本当に効果あるのかな」
そうか、と昭は呟いた。
なんだか、すごくややこしい。映画の中の吸血鬼なら十字架で撃退できるはずだ。けれども、恵たちが映画の吸血鬼と同じだという保証なんかない。十字架を突きつけて――それが何の効果もなかったら。
「連中がみんな兼正に集まってるとしたら、夕暮れや夜明けの遭遇率は高いだろうさ。でも、それってのは、危険率も高いってことだ。一人を倒してる間に、二人も三人も帰ってきたらどうしようもないしな」
「そっか……だいたい、連中が何人いるかも分からないな。夏からこっち、いったい何人、死んだんだろう」
「うーん」
昭が首を傾げた横で、かおりは小さく呟くように言う。
「本橋のお婆ちゃんも、起き上がるのかな」
「本橋?」
かおりは頷く。
「今日、亡くなったらしいの。近所のお祖母さんなんだけど」
夏野は考え込む。そう――こうしている間にも死者は増えている。その全部が起き上がるのだとしたら? 昭の言うように桐敷家の周辺で待ちかまえ、少しずつ相手の数を減らしていくことも可能だが、それ以上の勢いで相手が増えていくのだとしたら、何の意味もない。まず水際で甦生を食い止めなければいけない。
夏野は、かおりを振り返った。
「その婆さんの墓、分かる?」
「知らない――けど、まさか」
「そっか」と昭が興奮した声を上げた。「墓で起き上がるところを待ってて、やっつけるんだな」
「起き上がる前に片をつけるんだよ」
「でも……そんな」
「他に手がないだろ。お前んちの弟の言うように」
「昭だよ、昭」
夏野はちらりと昭を見て苦笑する。
「昭の言うように、簡単に兼正に乗り込んでいくわけにはいかないんだ。じゃあ、どうすりゃいいのかって話になると五里霧中。そうやってる間にも連中の仲間は増えていく。でることからやってくしかないじゃないか」
「そうだけど……でも、橋本のお婆ちゃんのお墓なんて知らないわ」
「今日が通夜なんだろ」と、昭が言う。「だったら、葬式って明日じゃないか。葬式の行列を蹤けていけばいいんだから簡単だよ」
「なるほどな」
「母ちゃんが弔組で出ていくし、そうすりゃ、だいたい何時頃に葬式が始まるか、分かるだろ。その頃に近所に行って、行列の後をついていけばいいんだ」
「うん」と、夏野は言って昭を軽く小突いた。「冴えてるじゃないか」
「へへ」
昭は嬉しそうに笑う。かおりは何となく、つまらない感じがした。
「明日、母ちゃんが出たら電話するよ。兄ちゃんち、電話番号は?」
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「あら、若御院」
静信が病院の裏口から入ると、ちょうど国広律子が帰り支度をして出てきたところだった。もう九時が近い。まだスタッフがいたのか、と気まずい思いがすると同時に、敏夫だけが際限のない苦役に就いているわけではないことに改めて思い至った。
「今晩も先生に付き合うんですか?」
静信は曖昧に言葉を濁した。
「節子さんの具合、良くなってましたよね。ずいぶん」
「みたいですね」
律子は首を傾げた。
「若御院も大変ですね。お寺もお忙しいでしょうに、毎晩、当直のお手伝いなんて」
「いや……そういうことじゃ」
静信は律子の口調に、どことはなく様子を窺う調子を感じた。そう、律子が不審に思わないはずがない。どう考えても入院患者の様子を観察するのに坊主の手は必要ない。素人に付き合わせるぐらいなら、看護婦を付けるのが当たり前というものだろう。
「先生も、若御院に手伝わせるぐらいだったら、わたしたちを使ってくれればいいのに」
「そうじゃないんです」静信はとっさに言った。「あの……いま書いている原稿にアドバイスをしてもらっていて」
「あら」
「医者の意見を聞きたかったものだから。それでぼくが敏夫に付き合わせているんです」
「なんだ、そうなんですか」
「そのお詫びに当直に付き合ってる、というのが本当なんです。手伝うより邪魔をしてる感じですけど」
「そっか。……でも、大変なのには違いないですよね。若御院も、あまり無理をなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、冷や汗の出る思いで裏階段を上がった。――そう、本当に看護婦が不審に思わないはずはないのだ。そのうちに誰かが、何をしているのだ、と言い出すだろう。複雑な気分でナースステーションにはいると、節子の笑い声が聞こえた。
「いやだわ、先生、そんな子供みたいな」
「まあ、いいじゃないか。あんたが気弱にならないようにおまじないだよ。ここに幹康たちがいると思って、気張るんだな。お迎えが来た、なんて後ろ向きなことは考えないようにすることだ」
「はいはい。――あら、若御院」
節子が、回復室を覗き込んだ静信に気づいて笑った。
「見てくださいよ。先生ったら、こんなものを持っていらしたんですよ」
節子は枕許のテーブルを示す。そこには小さな本尊と燭台、香炉や花立てや数珠が載っていた。
「敏夫……こんなものをどこから」
敏夫が澄ました顔で笑う。
「仏壇のを失敬してきたんだ」
「そんなことをして」
「一晩くらい、構わんさ。どうせお袋は見もしないんだから。仏さんだって、お袋みたいな不信心者の側にいるより、節子さんを見守っているほうがいいだろう」
言ってから、敏夫は数珠を節子に握らせる。
「いいかい。あんたには徳次郎さんがいるんだ。徳次郎さんは前の奥さんを亡くしてる。幹康も、可愛い内孫も嫁も亡くした家族の縁の薄い人だ。せっかく気立てのいい後添いを貰ってたっていうのにその人まで具合が悪い。あんたがどうにかなると、徳次郎さんはあの家に一人で残されることになる。そこのところをよく考えて」
「……ええ」
「奈緒さんや幹康さんが夢枕に立ったら、徳次郎さんを残してはいけないから三十年後にまた、と言ってやるんだな。あんたのほうで急がなくても、向こうは親子三人だ。のんびり待っててくれるさ」
そうですね、と節子は目頭を押さえた。敏夫は頷き、隣にいるから、と言い置いて明かりを消し、回復室を出る。静信もそれに従った。
「節子さん……いいようだな」
小声で問うと、敏夫は頷く。
「意識も清明だし不具合も改善されてる。もともと後期に入っていたわけでもなかったし、回復する最初の例になるかもしれない」
ただ、と敏夫は声を低めた。
「症状が治まったらといって、原因が絶たれたわけじゃないからな。治れば入院させておくわけにもいかないが、家に戻してから画心配だ」
静信は俯いた。入院初日、節子のまわりには異常なことなど何もなかった。二日目の昨夜、訪問者があった。誰だか定かでないあの人物は、夜の闇に紛れて去っていった。それは敏夫の台詞のせいかもしれなかったし、そうでないのかもしれなかった。
敏夫は回復室を振り返る。
「あれが効果あるといいんだが。――どう思う?」
あれ、とは数珠や本尊のことだろう。
「さあ……」
「進くんは死の前夜、ママ、と言ったんだそうだよ。幹康がそれを聞いてる。進くんはなぜ奈緒さんを呼んだんだ? 単に子供が母親を恋しがって呼んだだけか? それとも、本当に母親の姿を見たのか? 節子さんはなぜ、奈緒さんが戻ってくる夢を見たんだ。幹康でも進くんでもなく」
「だからと言って、奈緒さんが甦ったんだと結びつけるは、短絡すぎはしないか?」
敏夫は皮肉気に笑う。
「進くんはまだ幼かった。母親が死んだということをきちんと理解できていなかった。だから苦しくて単純に母親を呼んだのかもしれない。節子さんのところを襲った不幸は、奈緒さんに始まる。節子さんの無意識は始まりが修正されれば、その後に続いた不幸も修正できると期待したのかもしれない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらも確証がないことにかけちゃ同じだ」
「だが」
「確証が必要だというのは分かる。おれだって望むところだ。吸血鬼なのかそうでないのか、確かめてみれば、否定的な結果になってもすっきりするってもんだ。――奈緒さんの墓を暴いてみよう」
「敏夫」静信は息を吐いた。「それは無茶だ。どうやって徳次郎さんや節子さんを説得するんだ。たとえ事情を説明したところで、同意を得られるはずがないだろう」
敏夫は目を見開いた。
「当たり前だ。それこそ奈緒さんに他殺の疑いでもあって、裁判所から発掘の命令があればともかく、あるいは伝染病の疑いがあって保健所の命令があればともかく、そんなことが許されるはずがないじゃないか」
静信は瞬いた。だから、と敏夫は声を低める。
「秘密裏にやるんだ。他に手があるか?」
静信は口を開いた。
「暴挙だ」
「確かめてみることが必要なんだ。墓を暴いてみれば、奈緒さんなのかそうでないのかは分かる」
「墓を暴いたところで、その程度のことしか分からない、と言うべきだ」静信は敏夫をねめつけた。「仮に奈緒さんが棺の中にいなくても、遺体が甦ったということの直接的な証拠にはならない。遺体が眠っていたとしても、お前は吸血鬼だという仮定を放棄する気にはならないだろう。奈緒さんじゃなかった、と言い出すたげのことじゃないのか?」
「それは……」
「死者の尊厳を無視して、遺族の気持ちを踏みにじって得られるのはその程度のことでしかない。絶対に同意できない」
敏夫は苛立ったように机を叩いた。
「じゃあ、お前は手を拱いていろと言うのか。他にどうしろというんだ」
静信は答える言葉を持たなかった。
「夏以来、いったいどれだけの人間が死んだと思う。それもまだ増えているんだ。激化しながら続いている。原因は分からない、対応策も分からない。石田さんの行方も分からない。書類を抱いて消えたままだ。そりゃあ、データは俺たちの手許にあるさ。おれが纏めて兼正に渡りをつけるだけのことなのかもしれない。けれども兼正なら――行政ならなんとかできるのか? 原因を探し出して死を止めてくれるのか。それはいつだ?
目の前でこれだけの人間が死んでいるんだぞ。そしておれたちは――おれは、仮定にすぎないとはいえ、原因究明と解決に至る手掛かりを見つけたのかもしれない。途方もない仮定だが、少なくとも症状的には整合するんだ。なのに何もせず、黙って事態を見守っているのか? よろしくお願いします、と他人に荷物を引き渡して、誰かが安全を授けてくれるまで待っていろというのか!」
「敏夫」静信は敏夫を制し、回復室のほうを見た。敏夫は慌てたように声を低める。
「……おれは重い荷物を兼正に渡す。たぶん兼正はその荷物をさらに誰かに手渡すんだし、その誰かも自分以外の誰かに手渡すんだろう。荷物が自分の目の前から消えれば、それでおれの役目は終わりなのか? 役目は果たした、やるべきことはやった、と枕を高くして眠れるわけか? 目の前でそれが続いていてもか」
「……悪かった」
「なんとかしなきゃならないんだ。八方塞がりな現状を打破できるなら、どんな些細な手掛かりでもいいから欲しい。どんな荒唐無稽な想像でも、確かめてみる値打ちがある。そのくらい事態は逼迫しているんだ。今回の波は高い。じきにピークを過ぎるだろうが、たぶん半月経たずに次の波が来る。これのピークは今度の比じゃないんだ。二の倍は四、四の倍は八、八の倍は十六、十六の倍は三十二だ。その次は六十四、その次は百二十八。二百五十六、五百十二、――総じて千二十二。外場の人口がどれだけだと思ってる、千三百だぞ。五百十二の次はないんだ」
静信は愕然とした。最初に後藤田秀司、そして山入の三人で四。八月半ばに次のピークがあって、静信たちが異常を察知したとき、すでに死者の総計は十に上がっていた。調べている間にも死者は増え続け、一気に二十を数えた。まさか倍々で犠牲者が増えているということはないだろうが、一度のピークあたりの犠牲者は、確かに鼠算式に増えることになる。
「いまのところ、助かった例は一例もない。ただの一例も、だ。致死率百パーセント。発症したら助からない。おまけに不審な転出がある。この調子で蔓延していけば、来年の今頃、村は廃墟になっている」
「……済まない」
静信が言うと、敏夫は激昂したことを恥じるように押し黙った。静信も不明を恥じて押し黙らざるを得なかった。回復室からも、何の物音もしなかった。
静信は俯く。夏以来の死者。膨大な数の村人が死んだ。異常すぎた夏、秋に入ったというのに、それが鎮火する様子はない。疫病だと思った。だが、それは確実に伝染し拡大しているとしか思えないのに、伝染病だとも思えなかった。不審な転居者。辞職。村は確かに何者かによって(死によって)包囲されている。そもそも、これが尋常の事態だと考えることのほうに無理があるのかもしれなかった。
「……何かが村を徘徊していて、それが人を襲い血を吸っている、という敏夫の指摘には整合性があるように思う。ぼくには詳しいことは分からないけれども」
「ああ……」
「何者かによって吸血が行われている。そのために犠牲者は貧血から出血性のショックを起こして死亡する。この死は連続する。連続するのは当然だ。何者かが徘徊していれば、それがいる限り当然、連続することになる。ただ連続するだけでなく、それは伝染しているように見える」
「伝染しているんだ。鼠算式に増えている患者がそれを証明している」
静信は頷いた。
「節子さんは奈緒さんの夢を見たという。節子さんを襲ったのは、すでに何者かの犠牲になった奈緒さんなのかもしれない。だとしたら、何者かに襲われ死んだ者は、同じ何かとして甦るということだ。そして自らが汚染源になる。それは甦った死者だ。一度は死亡を確認された屍体で、けれども起き上がり、移動し、行動する。犠牲者を選び、襲撃を行い、生者の安全を脅かす。――屍鬼だ」
「……屍鬼」
「屍鬼は人を襲い、血液を摂取する。非常に知的で生産的な存在だし、計画的に行動するのだと見なしていいと思う。少なくとも、思考能力を失った生ける屍――ゾンビのような存在ではない。昨夜、節子さんを訪ねてきた誰かが屍鬼だとするなら、それは宙を漂い、壁を通り抜けて犠牲者を来訪することはできない。霊的な存在ではなく、限定された肉体を持つ存在だ。村で言う『鬼』とは違うし、ヴァンピールとも違っている。ヴァンピールは、棺の中で発見される姿こそ生々しいが、祟りをなすときには、むしろ霊的な存在だと解釈したほうがいいんだと思う。けれども屍鬼はそういう存在じゃない。徹頭徹尾、肉体に閉じこめられた存在だ。自らの身体を使って移動し、犠牲者を襲撃する。襲撃された犠牲者は死亡したのち、屍鬼として甦る」
敏夫は頷いた。
「そうだとしか思えない」
「一連の死は、山入に始まった。最初に不調が確認されたのは、大川義五郎さんだ」
「義五郎爺さんが最初の犠牲者だろう。義五郎さんは七月の末に村の外に出かけ、一泊して戻ってきたときには様子がおかしかった。伝染病なら潜伏期間が必要だが、吸血鬼――屍鬼による襲撃なら潜伏期間は必要ない。おそらく義五郎さんは出かけた先で襲われたんだ。そして災厄を山入に持ち帰った。義五郎さんは八月の頭に死亡した。そして甦生し、秀正さんと三重子婆さんを襲い、秀司さんを襲った」
「それはない」静信は敏夫を遮る。「義五郎さんは遺体で発見されている。秀正さんも、三重子さんもだ。しかも手違いで三人は火葬にされているんだ。義五郎さんの死亡が屍鬼による襲撃によるものだとしても、義五郎さんは起き上がることができない。秀正さんも三重子さんもだ」
敏夫は虚を突かれたように瞬き、すぐに指を上げた。
「襲われた者の全てが、必ず起き上がるとは限らないとしたら? 起き上がる者もいるし、起き上がることのない者もいる。三重子婆さんは起き上がらなかった。秀正さんもおそらく。だが、義五郎さんが言い切れない」
「死体があったじゃないか」
「バラバラになった死体がな。義五郎さんは山入で死亡し、そして起き上がっていたとしたら? そして秀正さんを襲い、三重子さんを襲い、秀司さんを襲った。三重子さんは秀正さんが死んだのを見て危機感を抱き、義五郎爺さんのなれの果てを倒した。義五郎爺さんは、起き上がることのない死体に戻った。だが、その時点で三重子婆さんの容態は不可逆的な段階に入っていた――。
おれたちは不思議だった。なんだって三重子婆さんは、義五郎爺さんと秀正さんの死を通報しなかったんだ? できなかったんじゃないのか。義五郎さんが死んだ、死んで起き上がって自分の亭主を襲っている、それを他人に通報できるか? 言ったところで信じてもらえるとは思えない。だから三重子婆さんは誰にも連絡できなかった」
静信は考え込みそして首を振った。
「……駄目だ。やっぱりそれは違う。納得がいかない」
「頭から否定しようというんじゃない。それでは帳尻が合わないんだ。いいか? 義五郎さんは七月末、どこかに出かけた。戻ってきたときには様子がおかしかった。確かに村の外で何かが起こったのかもしれない。だが、義五郎さんが寝込んですぐ、秀正さんも寝込んでいるんだ。三重子さんが病院に立ち寄って、そう言っていたんじゃないのか? この時点で、義五郎さんは死んでない。起き上がっていたはずもない。にもかかわらず秀正さんが倒れている。――では、秀正さんを襲ったのは誰なんだ?」
「義五郎爺さんが、すでに起き上がって戻ってきたとしたら?」
「たった一日で死んで起き上がったって? そんなことが起こるものなら、通夜の最中に起き上がった者がいたはずだ。そうじゃないのか?」
敏夫は返答に窮したように黙り込み、恨めしげに静信を見た。
「他に解釈の仕様があれば教えて欲しいもんだな」
「それをやっているんだろう。――山入の三人は遺体で発見されている。義五郎さんも秀正さんも相好の区別がついたとは言いにくい状態だったが、警察が解剖しているんだ、本人に間違いないことなんか確かめているだろう。義五郎さんが甦り、自分は行方をくらまして他人の死体を置いて逃げたということは考えにくい。それでなくても、義五郎さんが死亡する以前に秀正さんは体調を崩している。三重子さんを襲ったのは義五郎さんなのかもしれないが、秀正さんを襲ったのだけは義五郎さんではあり得ない。
「考えられるのは、義五郎さんとは別に屍鬼がいた、という可能性だな。村に屍鬼が侵入していたんだ。山入に、と言ってもいい。それが義五郎さんを襲い、秀正さんを襲い、三重子さんを襲った」
「としか考えようがないんだが……。じゃあ、義五郎さんが出かけたのは? あれは関係ないんだろうか?」
敏夫は唸った。
「どうも分からんな」
静信は頷き、さらに記憶を辿った。
「後藤田秀司さんは、秀正さんの具合が悪いことを聞いて、『ちぐさ』から山入に向かった。このとき、すでに三重子さんは容態が悪く、秀正さんは死亡していたと推定される。なのに秀司さんは二人の様子について何の報告もしなかった。そして、山入から帰ってすぐに寝込んでしまった」
「やはり山入だ。屍鬼がいたんだ。そいつが秀司さんを襲った。屍鬼は犠牲者を操ることができるんだ。だから秀司さんは何も言わなかった。違うか?」
「なのかもしれない。三重子さんも同様だ。だから秀正さんの死を誰にも報告しなかった……」
「義五郎さん、秀正さんは秀司さんが山入に行った時点で死亡していただろうが、腐乱した死体が残っていたぐらいだから、二人は屍鬼じゃない。三重子さんはまだ死亡していない。やっぱり山入にはその当時、三人以外の奴がいたんだ。そいつが後藤田の秀司さんを襲った」
「だろうな。そして秀司さんは死亡した。それから広沢高俊さん、清水恵ちゃん。安森義一さん。後藤田ふきさん。清水隆司さん、安森奈緒さん……」
「だが少なくとも、義一さん、恵ちゃんは山入には行ってない。そう、だからおれたちは感染ルートを特定できなかった。犠牲者同士の中には接点を持たない者があったんだ。媒介動物がいるのじゃないか、と思ったわけが、ある意味でそれは正しかったんだ。
今やこの病気は村全体に広がっている。むらなく広がっていすぎる。もっと偏りがあるべきなんだ。しかも、丸安で発症したのは義一さんだけだ。直接伝播するものなら、義一さんから奈緒さんに移ったと考えられる。なぜ家族じゃなく奈緒さんなんだ。接触の頻度は家族のほうが断然、多いんだぞ。しかも奈緒さんからは、進くん、幹康、節子さんと三人が発症しているんだ。これが逆なら分かる。丸安で症例が四、工務店で一、というなら。ところがそうじゃない。この病原体は伝播する際、ひどく恣意的に犠牲者を運ぶんだ。
だが、媒介している者が人の形をし、人のように意志を持っていると考えれば、恣意的なのは当然だ。丸安では何らかの理由で、義一さんしか襲撃できなかった。いや、むしろむらのない広がり方を考えると、連中は偏りが出ないように犠牲者を選んでいるんだ。だが、工務店では襲撃を促す事情があった。だから工務店でだけ、妙な偏りが出た」
「襲撃を促す事情……」
「それが何だかは分からんが。ただ、ひとつだけ確実に言えることがある。秀司さんは山入で襲われた。その後、三重子さんが死んで山入の住人は絶えた。被害の舞台は山入から村に移った。この時点で、屍鬼は山入から村に移動している」敏夫は言って、ひとり頷いた。「越してきたんだ。村に入ってきた」
「越してきた?」
「兼正の連中さ。他に考えられるか? 昼間には決して出てこない住人、夜にだけ姿を見せる。いかにも採光の悪い、機密性の高い洋館は何のための代物だ?」
「それは、違う」静信は反射的に否定した。「そんなはずはない。――そうとも、桐敷家の人々が越してきたのは、山入の死体が発見された後のことだ。それ以前にはいなかった。駐在の高見さんだってそれを確認したんじゃないのか」
「襲撃の現場は山入だったんだ。連中は山入に潜伏してたんじゃないのか? そもそも三重子さんの家にいたのかもしれない」
「けれども」
「いや――それができるなら、そもそもあんな大層な家を移築して、悪目立ちする必要なんかないか。あの家は連中にとって必要だったんだろう、おそらくは。確かに高見さんは、誰もいないようだ、と言っていた。なにしろメーターがまったく動いてなかったからな。だが、連中が屍鬼なら電気やガスや水道を使う必要があるのか? 人間が数日とはいえ、まったく電気も水道も使わずに隠れているのは至難の業だ。あの猛暑の最中ならなおさらだろう。だが、本当に身を隠そうと思えば、人間だって蝋燭を用意するなり水を持ち込むなりするんじゃないのか。ましてや相手が人間でないなら、メーターが動いてないことなんざ、何の証明にもならない」
「しかし」
「怪談話があったろう。いるはずのない家で人影を見た、物音を聞いたとかいう。そっちのほうが事実だったんじゃないのか。連中はそもそも、山入に入り込んだ。被害者が三人、桐敷家の住人は六人だ。一部が山入に入り込み、他の者は屋敷に入ったのかもしれないし、全員がすでに屋敷にいて山入に通っていたのかもしれない。だから、山入で三人が死ぬ以前から、屋敷には人のいる気配があった、そういうことじゃないのか? すでにその頃から連中は確かにいたんだ。そして着々と村の連中を襲っていた。連中が表立って転居してくる前にも犠牲は出てる。秀司さんだけじゃない、前原の婆さんを始め、不審な転出者がいたんだ」
「それは……」
「そうして、ある程度の被害が出てから、これ見よがしに越してきた。それこそお前の言うように、一連の死が始まった当時、まだ村にはいなかったという不在証明のために、あえて賑々しく引越の真似事をしてみせたんじゃないのか。そこから高俊さんを襲い、恵ちゃんを襲い、義一さんを襲った。――恵ちゃんは失踪した晩、最後に兼正に向かって坂を登っていったのを目撃されている。おそらく恵ちゃんは兼正の屋敷に辿り着いたんだ。家に帰ろうとして出てきたときには足許が定まらず、道を失った。そうでなければ、意識のないまま外に放り出されたんだ。疑わしくない程度に屋敷からは距離を置いた山の中に遺棄された」
けれども、と呟きながら、静信は退路を見失った自分を自覚していた。
「もしも屍鬼がいるとすれば、外場は仲間を増やすには絶好の場所だ。なにしろ未だに土葬だからな。火葬にされてしまえば、起き上がる間もあるまい。そう、屍鬼なんて連中がいながら、その存在がこれまで知られてなかったのは、そのせいかもしれない。火葬の風習が抑止力として働いていた。よほど特殊な事情がない限り、連中は起き上がることができなかった。だから数が極端に少ない。人目につくほど増えることができなかった」
「そう……それはそうかも……でも」
「だが、村じゃ土葬だ。しかも墓地は山の中に分散してる。滅多なことじゃあ、起き上がってきた死人が目撃されることもない。連中に取っちゃあ、村の時代錯誤の風習は願ったり叶ったりだったんだろうさ」皮肉気に言って、敏夫は言葉を切った。ふいに何かに思い至った、という顔をした。「そうか。虫送りだ」
「……え?」
敏夫は軽く身を乗り出して静信の顔を見る。
「虫送りの日、トラックがやってきて引き返した」
静信は首を傾げる。そう言えば、そんな話もあった。それが、と問うと、敏夫は確信したように頷いた。
「あれが始まりだったんだ。虫送りは、悪鬼邪霊を追い払う儀式だ。そこにたまたま、屍鬼が来合わせた、というわけだ。連中は村に入ろうとしたが、入れなかった。そうとも、そもそも連中は招待されなくては入り込めないんだ」
ばかな、と言いかけ、静信は言葉を失った。確かに虫送りは疫霊を祓う儀式だ。村の内部の穢れを道祖神に移して、村の堺に連れていき祀り捨てる。そう、村には境界があるのだ。境界の内部は「ウチ」であり、境界の外部は「ソト」だ。虫送りはソトから悪霊がウチに入ってくるのを防ぎ、ウチの内部にある悪霊をソトへと追い出す。もしも吸血鬼なるものが存在していて、招待されなければ「ウチ」には侵入できないものだとしたら、同様に村の「ウチ」にも招待がなければ侵入できないことになりはしないか。
「だから連中は引き返した。そして、義五郎さんをソトに呼び出したんだ。どうやってか、義五郎爺さんに自分たちを招待させた。そうして入ってきたんだ」
「どうやって」と、言いかけ、静信は記憶の中に意味ありげな断片を見つけた。「道祖神……壊された」
「え?」
静信は軽く額を押さえる。脳裏に褪せた赤い色が甦った。山入の小さな祠。倒され、首が折れていた石地蔵の赤い前垂れ。村のあちこちで、なぜだかつづいた道祖神の破壊。
「道祖神が壊されていたんだ。おそらくは、村中の」
「そうか。それで境が壊れたんだ。連中は遮蔽物を取り払った。それで越してきたんだ。この村に」
――人間なら誰だって、神様に見放された感じには覚えがあると思うわ。
静信は俯いた。敏夫は言葉を重ねる。
「だとしたら、呪術は有効なんだ。やっぱり。連中は村に正面から侵入しようとして、虫送りに行き当たって失敗した。土葬なんていう時代錯誤の風習を後生大事に守っている村は、同時に虫送りなんていう風習も後生大事に守っていたんだ。それで連中は入ってこれなかった。だから義五郎さんを呼び出し、襲って、招待させた。連中は犠牲者を意に添わせて操ることができる。そうでないと辞職の説明がつかない。
それはおそらく、極端な感情の鈍磨と無関係じゃないんだ。患者はいつだって他人事のような顔をしてる。自分の状況に無関心だ。節子さんは奈緒さんが戻ってくる夢を見た、と言った。もしも奈緒さんが屍鬼になって節子さんを訪ねてきていたのだとしたら、犠牲者にとっちゃあ現実はそんなふうに変容してしまうということなんだろう。現実に対する正確な認識能力を失って、それは夢のように感じられる。夢の中で、死んだはずの嫁が入れてくれと窓に向かって小石を投げる。犠牲者は清明な意識を失い。夢と現実の境目を喪失したままそれに従う。まるで憑かれたように」
静信は俯いた。
(沙子……きみは)
「そうか」と、敏夫が声を上げた。「あの車だ」
「……車?」
「下外場の坊やを撥ねた。運転手は酩酊しているようだった、という話があったろう。運転手は発症していたんだ。犠牲者だった。多くの犠牲者が辞表を出したように、操られ、車を運転して山入に向かった。そして義五郎さんを外に呼び出したんだ。義五郎さんは出ていき、襲われた。そして連中は招待をもぎ取ったんだ。その頃にはまだ村の道祖神は破壊されていない。招待があれば道祖神は遮蔽物としての意味をなさないのかもしれないが、後で塚が破壊されている以上、やはり都合の悪いものではあるんだろう。ならば招待だけでは正面から村に侵入できなかったはずだ。おそらくは別のルートから――林道を経由して山越えで直接山入に入り込んだんだ。ひょっとしたら義五郎さんは山入の地蔵を破壊してそれを助けた」
「村の道祖神は?」
「あれは八月の頭だった。ちょうどその頃、罹患した奴がいるだろう。――秀司さんだ」
どうだ、というように、敏夫は満足げな笑みを浮かべて静信を見た。静信は返答できなかった。
神様に見放された感じが分かる、と沙子は言った。
――まさしく、沙子は「神様に見放された」存在だったのだ。
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「いい匂い」背後から声がして、律子は振り返った。妹の緑が台所の入口、珠暖簾をかき分けて首を突っこんでいる。「こんな時間にどうしたの? 夜食?」
「そう」と、答えながら律子はサンドイッチの耳を落とす。「ただし、あんたやわたしの分じゃないんだから、つまみ食いはしないの」
はやくも側に来て伸ばしていた緑の手を、律子は叩いた。
「けち」
「先生がね、泊まり込みなの。工務店の奥さんが入院してて、このところずっとそうなのよ。で、差し入れ」
「奥さんも悪いの? あの家、どうかしてる。次々に」
うん、と律子は頷いた。安森節子も死ぬのだろうか。そうすればもう、工務店のあの家に残るのは安森徳次郎だけだということになる。なんて寒々しい話だろう。
「でも、わざわざ差し入れとはお姉ちゃんもマメだね」
「だって給食係はいないもの。奥さんも、そういうことをする人じゃないし」
「若奥さん? 帰ってきてるんだ」
「みたいよ」
「いい御身分よねえ。好きなときに出ていって帰ってきて。あたしもそういう理解のある旦那さんが欲しいもんだわ」
口調のわりに、緑の言葉には真剣味がない。
「でも、それこそ大奥さんが御飯くらい食べさせるでしょ。自分の息子のことなんだから。なにもお姉ちゃんがそこまでしなくても」
「そうかもしれないけど」と、律子は笑いながら、そんなことはあり得ないことを確信していた。敏夫が泊まり込んでいるだけならまだしも、静信がいるのだから。孝江は例によって気づかないふりをするのだろう。「まあ、いいじゃない。夜食ぐらいにはなるわよ」
緑は思わせぶりな表情で律子の顔を覗き込んだ。
「お姉ちゃん、先生には親切なんだあ」
「そりゃそうよ。昇級やボーナスに響くもの」言って、律子は声を低める。「お母さんに聞こえるでしょ。やめてよ」
「了解」緑は小さく舌を出した。
律子は背後を振り返ったが、母親が台所を覗き込む様子はなかった。テレビの音がしており、その合間に軽い鼾が聞こえる。うたた寝をしているのだろう。それを確認して、律子は手早くサンドイッチをアルミホイルで包む。ポットにスープというのも大層な話なので、インスタントで我慢してもらおう。
「帰ってから入るから、お風呂のお湯は残しといてね」
「はいはい。気をつけて」
手を振る緑に頷き、差し入れを収めた紙袋を提げて律子は勝手口から家を出た。犬小屋から太郎が顔を出す。
「あんたも散歩に行く?」
声をかけたが、太郎は尻尾を巻いて後退りし、小屋の中に逃げ込んでしまった。心細げな、鼻にかかった鳴き声が短く聞こえた。
夜の中に出てみると、薄いジャケットだけでは頼りなかった。このところ、朝晩にはぐっと冷え込むようになった。身体から体温が引き剥がされていく感覚は、何かを喪失していく感覚と似ていて、だから深まる秋には独特の心細さがつきまとっている。
(心細い……)
心の中で言葉にしてみると、いっそう身に迫った感じがした。ジャケットは少し薄すぎた。寝静まった集落、夜道には|人気《ひとけ》がない。もっと早くに思いついていたら良かった。そうしたらこんな夜中の道を歩かずに済んだのに。いや、それとも緑か太郎についてきてもらえば良かっただろうか。
律子は無意識のうちに、油断なく周囲に視線を配っている自分に気づいた。
――近頃、夜道が怖いのはなぜだろう。
いや、そもそも人はどうして夜の暗がりが怖いのだろうか。暗がりには危険が潜んでいても分からない。それが怖いというなら、昼間の背後だって同様に怖いはずだ。背後、物陰、光が当たっていても見えないものはいくらでもある。にもかかわらず、それは怖いと思わない。人は夜を恐れる。そう――「まるで太古の昔、天敵がいて、それが夜行性だった、その名残のように」。
気が付くと、足が速まっている。項のあたりが焦げるような緊張感があって、それから逃げるように足を急がせた。
(どうってことないわ……そんなに大した距離じゃないもの)
通い慣れた道、ほんの十五分ほどの行程。怖いことなど何もないはずだ。ここは村の中で、都会の裏道じゃない。
寺の前を過ぎて丸安製材に続く坂道にさしかかった。坂の頂上には街灯が立ち、製材所の事務所前の街灯と、その先に点された病院の玄関灯とで明るい。律子は小走りに坂を登り、街灯の下で息をついた。尾崎医院は目の前だ。二階の一室に明かりが点っているのが、ブラインド越しに漏れていた。二階の角部屋――ナースステーションだ。それを確認して息をつく。
(どうかしてる)
律子は今さらながら自分に苦笑した。子供みたいにびくびくしていた自分がおかしかった。紙袋を手の中で持ち換え、律子は残る道のりを歩き出す。そのとき、視野の端に白いものが見えた。
ついさっきまでは、あれほど何かに出会いそうな気がしていたのに、いったん息をついてしまい、目の前に見慣れた病院の建物があると、目にしたそれが異常なものであるかもしれない可能性は不思議なほど念頭に浮かばなかった。律子はごく当たり前に、誰かがいるのかしら、と思った。
(こんな時間に)
珍しいことだ、と視線を向けると、丸安製材の材木置き場を歩いている陰がある。誰だろう、淳子だろうか。――淳子を思い浮かべたのにも理由などない。あれは丸安製材の地所だから、丸安製材の誰かなのだろうと思い、中では淳子が最も律子にとって思い浮かべやすい相手だったというだけのことだった。
足を止めてしげしげと見ると、それは実際、若い女のようだった。淳子がどうして、こんな時間に材木置き場を歩いているのだろうかと思い、次いで、淳子ではないことに気づいた。淳子はショートカットだ。少なくともあの人物の髪は長い。
人影は材木置き場を抜けて、病院のほうに近づき、建物の裏手に回り込もうとしている。尾崎恭子だろうか、と思う。
律子は小首を傾げて人影を見つめ、なんだ、と思った。
(若奥さんじゃない。あれは)
奈緒さんだわ、と律子は思い、同時にそう思った自分に違和感を感じた。人影は建物の裏手に回って姿を消した。
(でも……安森の奈緒さんは……)
すっと氷で背筋を撫でられたような気がした。
(奈緒さんは……)
足に力が入らない。膝が震えている。(馬鹿な)そんなことがあるはずがない。あれは似ているだけの他人だ。(きっと、そう)
けれども律子はその場を動きたくなかった。ほんの少し先には尾崎医院の玄関灯がある。一息に駆けて逃げ込みたかったが、玄関は戸締まりをされている。律子は裏口の鍵しか持っておらず、裏口に辿り着くには人気のない、暗く細い土手道を歩くか、駐車場を横切り、建物と生け垣の間の障害物の多い路地を歩いて建物の裏手に回らなければならない。あの、奈緒に似た、まったくの別人に違いない誰かが消えたあたりへ。
律子はその場で二度ほど足を踏み直した。
――駄目だ、行けない。
あの土手道には、とても足を踏み入れられない。律子は無意識のうちに紙袋を何度か持ち換え、それから後退った。(そんなはずはない)製材所の街灯の下に逃げ込み、土手道のほうを見つめ、身を翻して坂を駆け下りた。(……でも)もう二度と、こんな夜中に出歩くまい、と決意しながら。
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静信は、唐突に我に返った。一瞬、検討識を失い、周囲を見まわす。白い壁の小さな部屋、向かい側では開いたドアの前に陣取った敏夫が、椅子に坐ったまま首を垂れている。疲れているのだろう、起こすには忍びなく、それと同時に、同様に疲れている自分、つい眠っていた自分にも思い至った。
せめて自分だけでも起きていないと、と思う。目を向けると回復室のドアは開いている。さっき敏夫が節子の様子を見に行った際、何かあったら聞こえるようにと、開け放しておいたものだ。暗い病室を白い衝立がかろうじて区切っていた。
異常はない、何も。
耳を澄ますと、微かに規則正しいパルス音や酸素の音が聞こえるような気もしたが、同時にそれが詰め所にまで届くはずがないことも自覚していた。まだ半分、夢の中にいる。目を覚まさないと。
静信は腕に額を載せたまま、コーヒーメーカーに視線を向けた。――あるいは、向けたつもりになった。
(コーヒーでも淹れよう……)
身体を起こして、立ち上がって、豆をセットし、水を汲む。それで目が覚めるだろう、おそらくは。そうしよう、と決意しながら、静信は目を閉じた。身体は泥が詰まったように重く、自重でひしゃげていきそうだった。
起きないと、と思いながら、静信は眠りに引き込まれていく。駄目だ、と泡のように思念が浮かぶその前に、静信は風が通るのを感じた。
風は回復室の暗闇から静かに流れてきた。詰め所の中へと流れ込み、暖かい小さな渦になって消えていった。
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四章
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静信が再び目を開けたとき、時計は午前五時を指していた。三時間ほど眠ってしまった自分に気づいた。
回復室を振り返ると、衝立の向こうには暗闇が蟠っている。静信は何となく違和感を感じて身を起こした。
夜明けまでにはまだ間がある。暗いのは当然のことだ。スタンドの明かりを消したのは敏夫で、二時頃に様子を見に行ったとき、明かりを消して、代わりにドアを開け放しておいた。最後に見たときから何も変わっていない。違和感のあろうはずがなかった。
静信は節々が痛むのに顔を顰めながら身を起こす。ひどく寒いな、と思った。回復室のほうに歩きながら、ごく冷たい空気の流れを感じた。そして、妙にはっきりと聞こえる戸外の音。あるかなしかの風に揺れる樹木が立てる音。――風の音。
静信は目を見開いた。違和感の正体に気づいた。風が通っている。回復室に駆け込み、開いた換気窓に真っ先に気づいた。
(窓が開いている――なぜ)
敏夫は開けてない。思いながら視線を巡らせると、ベッドの上には節子の姿はなかった。
「節子さん」
回復室にはナースステーションではなく廊下に直接出るドアがある。そのドアも開いている。どこもかしこも開け放されて、空洞と化した空間に冷えた微かな風が通っていた。
眠ってはいけなかった。|臍《ほぞ》をかみながら敏夫を起こした。
「敏夫、節子さんがいない」
椅子で寝入っていた敏夫は、不審そうに静信を見てから飛び起きた。
「……いない?」
「いないんだ。窓が開いてる。廊下側のドアも」
敏夫は回復室に飛び込んだ。ベッドの上は|蛻《もぬけ》の殻だった。白いシーツの上に、敏夫が握らせた数珠が置き去りにされている。確かに窓が開いていた。廊下側のドアも開いていて、節子の姿はどこにもない。廊下に飛び出して左右を見ても節子はいない。
「敏夫」
静信に呼ばれて振り返ると、静信は硬い表情でベッドサイドの枕頭台を指していた。その上には敏夫が家から持ち出してきた仏具があったはずだ。本尊と花立て、香炉。それが存在しない。駆け戻り、枕頭台の周辺を探したが、それらのものは見当たらなかった。
「済まない……眠ってしまっていて」
静信は呟いたが、そもそも敏夫に静信を責める資格があるはずもない。
「二階を見てくれ」
言うと頷き、静信は二階を奥へと走っていく。敏夫は回復室を出、手術室を覗き込み、あるいはナースステーション内の小区画や物陰を覗き込んでから裏階段を見下ろした。冷えた風が階下から吹き上げてきていた。敏夫は裏階段を半分下り、そして通用口が開いているのを目にする。裏口のドアが開き、土間に寝間着を着た女の下半身がのぞいている。
階段を駆け下りた。間違いなく節子だった。節子は半身を建物の外に乗り出すようにして倒れている。駆け寄って脈に触れたが、脈拍は触知できなかった。
物音が背後からして、振り返ると静信が顔色を失って立っていた。
「節子さんは……」
敏夫は首を振る。
(そんなはずはない)
昨日までは順調に回復する兆しをみせていた。バイタルサインも安定していたし、正常値に戻りつつあった。貧血も改善されていたし、意識も清明さを取り戻していた。どう考えてもこれほど急激に死ぬはずがない。
敏夫は下駄箱の上に置いた懐中電灯を取って周囲を照らした。通用口の周辺には砂利が敷かれている。それがひどく踏み荒らされているような気もしたが、これは確かとは言えなかった。さらに光を外辺へ向ける。土手道に上がるあたりの土がやはり踏み荒らされているように見えた。そして、そこで何かが光る。懐中電灯の明かりを反射するものがあった。
敏夫は外に出る。植え込みを回り込み、周囲を照らす。光を弾いたのは金色の小さな本尊だった。さほど離れていない場所に香炉を見つけ、花立てを見つけた。振り返ると、頭上に開いた換気窓が見える。回復室の窓だ。
「こんなところに?」
怪訝そうな静信の声が背後でした。敏夫は頷く。窓から投げ捨てられたのだ。位置から考えてそれしかあるまい。周辺の土の上には香炉の灰が撒かれている。そこに足跡が見えた。
「ひとりじゃない……」
敏夫は静信に入り乱れた足跡を照らして見せた。明らかに靴底のデザインが違うものが三つほど。足跡の上に灰が撒かれたのではない。灰の上を誰かが踏んだのだし、だとしたらそれは明け方のことだ。
「明け方に誰かが来たんだ。それもひとりじゃない、たぶん複数だ」
敏夫は、通用口に倒れたままの節子を振り返った。節子は回復しつつあった。五〇〇ミリリットル程度の出血なら持ちこたえただろう。少なくとも急死することはなかったはずだ。
「複数で一気に片をつけたな」
「敏夫」
驚いたように言う静信を敏夫は促す。
「とりあえず、節子さんを病室に運ぼう。手を貸してくれ」
静信は呆然とした気分で、敏夫が節子の遺体を検めるのを見守っていた。
「特に内出血を起こしている様子はない。これといって外傷もないし、重大な不具合の兆候も見えない」
敏夫は布団を節子にかけてやりながら言った。
「原因不明だ、と言いたいところだが。おそらくは失血死だろうな」
敏夫は軽く節子の腕を示す。左の肘の内側に赤く産んだようなセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]がいくつか、重なるように並んでいた。
静信はベッドサイドの椅子に坐り込んだ。あそこで眠らなければ、と自分をどれほど責めても責め足りない気がした。疲れていたんだ、というのは言い訳にもならない。自分も敏夫も疲れていたのは承知の上だ。もっと計画的に交代で仮眠を取るべきだった。せめて節子の枕許に陣取っているべきだった。悔やまれることをあげつらい始めたら、きりがない。
チンと硬い音がした。敏夫が花立てを弾いた音だった。
「誰かがこれを放り出した」敏夫は呟く。「窓には内側から鍵をかけてあった。廊下側のドアもだ。詰め所を通って誰かが病室に入ったんでないかぎり、誰かが内側から開けたんだし、それをできた人間は節子さんしかいない」
静信は頷いた。――だが、詰め所を通って部外者が侵入できるものだろうか。そんなことがあれば必ず目が覚めたはずだとは、静信にも断言できない。だが、不安定な状態で眠っている男二人の間を通って回復室に入り込むことが心理的にできるだろうか。そういう推測は、侵入してきた誰かが人間的な心理を持っているのでなければ意味を成さないのだけれども。
「通用口にも内側から鍵をかけてあったはずだ。戸締まりはしているはずなんだ」
「実際に戸締まりを確認したわけじゃないだろう。ひょっとしたら律子さんがかけ忘れたのかもしれない。あるいは、彼女は帰るときにぼくと会ったから、あとの出入りを考えて開けておいてくれたのかも」
「それもなくはないな。けれども回復室に関するかぎり、ドアと窓を開けたのは節子さんだろう。窓から人は出入りできない。ここは二階だし、たとえ梯子を使っても大人が出入りできるほど、そもそも窓が開かない」
敏夫は壁にもたれて俯いた。
「……節子さんはたぶん、誰かに呼ばれたんだ。ひょっとしたらまた夢だと思ったのかもしれない」
「節子さんの意識は清明だった」
そうだな、と敏夫は息を吐く。
「すでにそういう暗示が埋め込まれているのか。あるいは、清明だったからこそ、誰かに呼ばれてかえって無視できなかったのかもしれない。いずれにしても、節子さんはドアを開け、裏口を開けた。それが不可能でないくらい、節子さんの容態は良かった」
「仏具が捨てられていたのは?」
「分からないな。……ただ、連中は複数でやってきた。とはいえ、節子さんの状態はかなり良かったし、操られているのでもなければ、複数相手にドアを開けて招き入れたりはしないだろう。おれたちだって、いくら何でも複数の人間が入ってくれば気づいた」
それはどうだか分からない、と静信は思ったが、異論は唱えなかった。万一と言うことはあるが、確かに可能性としては、目覚めた可能性のほうが遙かに高い。
「複数でやってきたのは、一気に片をつけるためだろう。節子さんは入院していて、簡単に手出しができなかった。だから、長々と悠長な襲い方をしてられなかった。だが、大勢で押し込むこともできない。だから中の一人がまず侵入する。そうでなければ節子さん外に呼び出す」
敏夫は首を傾げた。
「仏具を捨てたのは節子さんか、それとも侵入者か……ひょっとしたら、中の一人が病室にまでやってきて、あれに気づいて捨てさせたのかもしれない。いずれにもしても、あれはここにあっては都合の悪いものだったんだ」
静信は答えなかった。可能性は無限にある。今の状況からは、想像以上のことは言い様がない。
「おれたちに分かることは、どうやら仏具は連中にとって都合が悪いものである可能性が高い、ということだ。虫送りや道祖神のことを考えても呪術は有効だ。……たぶん」
「そうだな」
「そして、やはり連中の行動は人間ていどには制限されているんだ。壁を這ってよじ登り、煙になって室内に侵入するようなことはできない。病院に隔離され、不寝番がつけば連中は焦る。その程度には人間的だ。……あとはもう、何を言っても無限にある可能性のひとつでしかない」
静信は頷いた。
「……徳次郎さんに連絡をしないと」
「ああ……」と、敏夫は虚脱したように呟き、「やはり奈緒さんの墓、暴いてみよう」
静信はもう異論は唱えなかった。
「いつなら身体が空く?」
「今日は節子さんの弔いがあるだろうから。あとは法事がいくつあったかな。節子さんの通夜以外は、鶴見さんか誰かに代わってもらえると思う」
「昼間はまずいな。埋葬の下検分に誰かが墓地に来る可能性がある」
「夜に?」
敏夫は問いかけるような目をして静信を見つめ、無言のまま深く頷く。
「……今夜、墓を暴けば、その形跡が節子さんの埋葬の際に発見されるかもしれない」
「やむを得ないだろう。節子さんの埋葬が済むまで待っていられない」敏夫は言って、苦笑する。「なんとかして内視鏡を使う手もあるが、あまりそういうことには使いたくないしな。それにしたってまったく墓を荒らさないわけにはいかないんだし、だったらもう五十歩百歩だろう」
分かった、とだけ静信は呟いた。
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「安森の奥さん、亡くなったんだって?」
清美が休憩室に入ってくるなり、そう言った。休憩室の中には、律子と聡子、やすよの三人だけがいる。武藤は節子の処置について敏夫と話をしているようだし、清美は雪から節子の話を聞いたのだろう。
「あんなに調子が良さそうだったのにねえ」
清美は溜息をついた。本当に、とやすよは雑巾を使いながら頷く。
「ひょっとしたら、治るんじゃないかと思ったんだけどね。やっぱり例のやつに罹ったら駄目ってことなのかねえ」
呟いたところに電話が鳴った。間近にいた律子が受話器を取った。十和田ですけど、と妙に歯切れの悪い声がした。そう言えば、今日はまだ姿を見ていなかったことに、律子はその時になって気づいた。
「あの……済みません、ぼく、辞めます」
え、と律子は問い返した。
「先生に伝えてください。……怖いんです、もう村には居たくありません」
律子はどきりとした。「怖い」という言葉に反応して、脳裏を昨夜見た白い人影が過ったが、軽く頭を振って思い出さないようにする。
「本当に済みません。許してください」
律子はかける言葉を持たなかった。十和田を責めるわけにはいかない。最前線にいるのだ。律子ら看護婦はそれでもまがりなりに知識がある。何をして何をすべきでないのかは心得ているし、正体不明の疫病とはいえ、決して化け物と同義ではない。だが事務の十和田ではそうはいかないだろう。
「……分かりました。でも、できたら先生にもそう連絡してください。言いにくかったら手紙ででも」
そうします、と十和田は言って、電話を切った。律子が受話器を置くと、三人が窺うように律子を見ていた。
「十和田さん。……辞めるそうです」
清美が大きく息を吐いて椅子に坐り込んだ。
「やれやれ。武藤さんも可哀想に。静子さんが来てくれるようになって、楽になったばっかりなのにね」
「まったくだわ」と、やすよも頷く。「だからって無理に引き留めて、万一のことがあったら、こっちだって責任の取りようもないしねえ」
ひとりごちるように言いながら、倦怠感に襲われたように雑巾を放り出した。
「疫病だもんね」清美は頬杖をつく。「実を言うと、うちのも辞めろって言うのよね」
「あらま」
「亭主がね。……最近、噂になってるでしょ、流行り病だって。どうなんだ、って訊かれたら、こっちだって、そうかもしれない程度のことは言わないわけにはいかないじゃない。そしたら、以来、辞められないのかって。子供もいるしね、まだ小さいし。本当に大丈夫なのか、って念押しされても答えられないし」
「無理もないわよね、旦那さんにしたら。もともと無理にあんたが働かなくても、食うくらいは食えるんだし」
「そうなのよ。こっちも、仕事を続けられるかどうか、旦那次第のところもあるのよねえ。とにかく他の人に迷惑がかかるから、辞めるなら代わりの看護婦が見つかってからだ、とは言ってあるんだけど」
「せめて感染ルートが分かってればね。こっちだって気のつけようがあるんだけど。そうでなきゃ、治療法なりとも分かってて回復の見込みがあるとかね」
「そうよねえ。安森の奥さんがいいようだから、ちょっと期待してたんだけど」
「致死率百パーセントだもんね、今のところ。あたしでも怖いわ。起きて怠かったりすると、我ながらぎょっとするもの」
律子は二人の会話に内心で頷きながらも、昨夜見た人影を忘れることができなかった。奈緒に似た、奈緒ではないはずの誰か。病院に向かって消えていって、そして節子は死んだ――。
「本当に伝染病なのかしら……」
律子は思わず口にしていた。清美とやすよはきょとんとする。対して、頷いたのは井崎聡子だった。
「なんだか、伝染病にしては妙ですよね。そんな感じ、しません?」
清美もやすよも、顔を合わせた。律子自身、聡子が頷いたことに驚いた。
「あの、聡ちゃん。わたしはちょっと言ってみただけだから……」
「そうですか? あたし、何か妙な感じがするんですよ。今朝、先生に呼ばれて節子さんの病室に行ったらお線香のに匂いがしてたんです」
「そりゃあ……」やすよは瞬く。「亡くなられたわけだから」
「そうですよね。だから先生が節子さんのために焚いたのかなって思ったんですよ。でも、香炉はなかったんです。もう片付けちゃったみたいで。お線香焚くなら、遺体を家族が引き取りにくるまで焚いたままにしておくものなんじゃないですか」
「まあ……それはそうだけど」
「死後の処置もみんな済んでました。あたしたちに任せてくれればいいのに。そもそも、節子さん入院させて、当直はしなくていいって、何だか変じゃありません? 若御院に手伝ってもらうって、若御院は何にもできないのに。何かさせたら、おおごとですよ」
「そうねえ」
やすよが言い、律子は口を挟んだ。
「あれは、そういうことじゃないみたいです。昨日、聞いたんですけど」
静信のほうが、敏夫の手を借りるために来ているのだ、そのついでに当直に付き合っているのだ、と律子は説明したが、聡子はいっそう険しい顔をした。
「それって、もっと変じゃありません? わざわざ患者を入院させたのって、目が離せないからじゃないですか。そこで暢気に小説の話だなんて」
「その程度のことなんじゃないの」
「だったら入院させる必要ないでしょう?」
「経過を観察したかったんじゃないかしらね。危険な状態の患者を治療するっていうより」
やすよが言ったが、聡子は首を振る。
「それでも何か変な感じがするんです。突然、節子さんを入院させてみたり、そのくせ、当直はいいって言ってみたり。あたしたちには何も言わないのに、素人のお坊さんには当直に付き合わせて。いきなり検査項目を減らしたり――最近、先生が何を考えてるのか分からないんです、あたし」
やすよは唸ったし、清美も不安そうに首を傾げた。律子も頷かざるを得なかった。そう、最近の敏夫は言動が脈絡を欠いている。そんなふうに見えてならない」
「……伝染病じゃないのかも」
聡子は呟いた。清美が声を低める。
「たとえば、中毒とか?」
聡子はちらりと上目遣いに清美を見た。
「……起き上がりってありましたよね」
律子は殴りつけられたような気がした。
「起き上がり……」
「馬鹿な」と、清美は笑った。「やあねえ。何を言い出すかと思ったら。聡ちゃん、雪ちゃんの思考回路が移ったんじゃないの」
聡子はなおも上目遣いに清美を見、そして大きく息を吐いて自分でも笑った。
「そうですよねえ。馬鹿な、ですよねえ」
やすよも声を上げて笑う。
「分かんないわよォ。本当に仏さんが起き上がってるのかも。そのせいで人が死んで、死んだ人がまた起き上がって。それでも伝染病みたいなもんよね、確かに」
聡子は照れたように赤くなりながら笑う。
「なァんだ。それで若御院を呼んだんでね。御祈祷するのに」
「だったら話は簡単だわ」清美はさらに笑う。「また虫送りをやればいいのよ。それで一件落着でしょ?」
「名案だわ」と、三人は笑い崩れた。律子は笑顔を作りながら、表情が強張るのを感じていた。
奈緒に似た人影。絶対に奈緒であるはずのない誰か。病院に消え、節子は死んだ。
(起き上がり……)
馬鹿な、と思う。三人の笑い声を聞いていると、本当に馬鹿馬鹿しく思える。そんなこと、あるはずがない。真剣に考えるなんて、本当にお笑い草だ。
(けれど……)
けれども、と思いながら、三人に付き合ううち、律子の笑みは本当の笑いに変わっていった。
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竹村タツはいつものように文具店の店先に坐り、村道のほうを見ながら、微かな違和感のようなものの所在を探っていた。月曜日、祭日。小学校では運動会が開かれている。楽しげな音楽や歓声が店先にまで飛び込んできていた。例によって広沢武子が大川浪江を相手に油を売っており、今日は珍しく足を止めた伊藤郁美が、二人の会話を小馬鹿にしたように聞いている。あまりにもいつも通り、なのにどこか何かが違うという気がしてならなかった。
――人通りが少ないような気がする。
タツはそう結論づけた。朝、学校へと向かう子供の数がほんの少しだけ足りないような気がする。父兄の数も、やはり例年より少ないような気がしてならない。それだけじゃない、祭日ともなれば、溝辺町やさらに遠方まで出かける車がしきりに村道を通っていくものだが、行楽シーズンであるにもかかわらず、その数は少なすぎるように思われた。
今日だけじゃない。このところ、通勤のために往来する車の数も減っているように思う。バスに乗って高校に向かう者、職場に向かう者の数も減っている気がしてならない。
確かなこととは言えないので、タツはこれを誰にも言ったことはなかった。数のうえでどれだけとは言えない。それは長年、昇降しなれた階段の、数が一段、足りないのに似ている。別に段数を数えて上がり下りしているわけではないものの、いつもの調子に一段、足りない。だから妙に間が余った感じがして違和感がある。――そんなふう。
葬式が出ているのだから、当たり前か、とも思う。引越も多い。確実に村の人間が減っているのだ。だから減ったように感じるのは当然なのかもしれないが、漫然と通りを見守っていて違和感を感じるなんて、いったい、実数にしてどれだけの人間が減っているのだろう。
考え込んでいるところに、佐藤笈太郎がやってきた。その足取りで分かる。笈太郎は何かを知らせにやってきたのだ。
「タツさん、タツさん」タツの想像通り、笈太郎は店先に辿り着く前から、もう声を張り上げている。「あんた、聞いたかい」
「何を」
「葬儀社ができるんだよ」
え、とタツは珍しく声を上げた。どうせ訃報か、誰かが引越したという話だろうと思っていた。完全に意表を突かれて、声が出た。
「ほら、上外場に大きな木工所があったろう。広兼の。兼正の遠縁にあたる竹村だよ。婆さんがひとり残って木工所はずいぶん前に閉めてた。そこに葬儀屋ができるんだとさ。さっき木工所の寄り合いに行ったら、そう言ってた」
「ムネさんが葬儀社をやるのかい?」
「いんや。ムネさんは、なんでも施設に入ったらしいよ。あの人もずっと足が悪くて、不便してたからね。介護つきの老人ホームに入ることにしたんだと。その後にさ、親戚の男がやってきて、木工所の造作を始めたんだよ。造作してるのは溝辺町の大工なんだけどね、その棟梁が言うには、葬儀屋ができるとさ」
あらまあ、と武子は呆れた声を上げた。
「この村で余所者が葬儀やなんてやったって、商売になるはずがないじゃないか」
「そうかしら」と笑ったのは、郁美だった。「なにしろ死人が多いんだから」
「多少、多くたって」と、武子は鼻を鳴らす。「村にはちゃんと弔組ってもんがあるんだから」
「いくら弔組があったって、こうも頻繁に駆り出されちゃ、そのうちみんな音を上げるわよ。どうせまだまだ続くんだから」
「およし」タツは郁美を遮った。「そう簡単に続くなんて言うもんじゃない。忌み言葉ってもんがあるのを知らないのかい」
郁美は小馬鹿にしたように笑い、口を噤んだ。タツはその笑みに嫌悪を感じた。違和感を感じるほどの死者と転出。これは無責任に囃していい次元を過ぎている。何か本当に良くないことが起こっているのだ、確実に。
郁美は不快そうに視線を逸らしたタツの顔を一瞥した。タツは分かっていない。タケムラにたむろする老人たちの誰も、村で何が起こっているのか分かっていない。自分だけが事態を理解しているのだ、という確信があった。災厄が村にやってきた。郁美の予言通りだ。これはまだまだ止まらない、おそらくは。そういう予感がするのだから、きっとそうなるに違いない。この夏が酷い夏になったように。
思っていると、村道をあたふたと大塚弥栄子がやってくるのが見えた。郁美は訃報だ、という予感を抱いた。弥栄子は誰かの死亡を伝えるためにやってくるのに違いない。
実際、弥栄子は店先にやってくるなり、下外場の老女の葬儀があることを伝えた。やはり、と郁美は誰に対してか、溜飲が下がる気分がした。
「こりゃあ、冗談ごとじゃない。どうなってるんだい、いったい」
笈太郎は本気で不安になったふうだった。武子も浪江も、怯えたように訃報をもたらした弥栄子を見た。
「だから、言ったじゃない」
郁美は笑う。小声を聞きつけたのか、武子は郁美をねめつけた。
「予感だとか厄がどうこうっていう寝言なら、余所に行ってやっとくれ。あんたの出任せを信じるくらいなら、鬼が出たって思った方がマシだよ」
郁美は一瞬、ムッと武子を睨み、そしてはたと腑に落ちるものを感じた。兼正が厄を背負ってやってきた。兼正の土地を造作したことで災厄は加速された。――そうだ、と思った。そういうことだったのだ。
「起き上がりだわ」
ひとりごちた郁美を、タツらは呆れ果てたように見る。構うものか、と郁美は思う。どうせタツたちも、誰が正しかったのか知るだろう。
兼正が夜にしか現れないのはなぜか、なぜそもそも夜中に引越などしたのか。連中は夜にしか出歩けないのだ、鬼だから。起き上がりが村に入り込んだ。そして死を撒き散らしている。鬼の触れた者は鬼として甦り、次々に生者を引いていく――。
(好きにはさせないわ)郁美は北のほうへ目をやった。(誰も気が付かないだろうと思ったんだろうけど、そうはいかないのよ。この村にはあたしっていう者がいるんだから)
郁美は薄く笑った。タツはその笑みを見つめ、さらに深まった嫌悪感を持て余す。この女は災厄を喜んでいる。
(鬼だって? 馬鹿馬鹿しい)
タツは心中で吐き捨て、視線を村道に戻した。人通りが減ったと思われる道。
(……鬼)
だが、確かに、鬼が跳梁しているのかようだ。墓所から起き上がり、生者を山へと引いていく。引かれた死者は鬼として甦り、さらに生者を引き、そうして死は村に蔓延していくのだ。
そうか、とタツは理解した。死の連鎖と蔓延。鬼とは疫病の別名なのだ。村で伝染病が出たという噂は聞かない。けれども近頃は新種の疫病が見つかることがある。まるで退廃した人間に対する罰のように、得体の知れない伝染病が人を襲うことがあるのだ。
それだったのだ、とタツは独り納得した。休みにも開けるようになった尾崎医院。――そういうことだったのだ。
「死んだって? また?」
矢野加奈美は、カウンターの中で洗い物をしていた手を止めた。顔を上げて見返した元子は、テーブルを拭きながら、困惑したように頷いた。
「ええ。橋本のお婆ちゃん。隣の人が様子を見に行ったら、亡くなってたんですって」
加奈美は眉を顰めた。まただ。元子の舅も死んだばかり、それ以前から、ひんぱんに葬式の話を聞く。店の客の間で、どこそこの誰が死んだという話が出なかった日が、この夏以来、いったいどれだけあっただろう。後藤田親子も死んだ。山入でも老人が死んだ。これは明らかに多すぎる。
「嫌になっちゃうわ。昨日もお葬式だったんだもの」
元子は思い詰めた顔で息を吐いた。そういえば、と加奈美は思う。昨日は元子の親戚筋で葬式があったのだ。確か外場に住む、消防署に勤めていた男。元子の夫、前田勇の従兄弟が死んだ。
「本当に鬼でも居て、人を攫っているみたい……」
元子はひとりごちた。加奈美は元子の横顔に、いつもの危うい表情が漂うのを見て、ことさらに明るい声を上げた。
「いやあねえ。そんな年寄りみたいなことを言わないでよ」
そうね、と元子は笑ったが、やはり眉根が不安をたたえたように寄せられていた。
(……鬼)
加奈美は窓の外、すっかり秋めいた風景を見渡した。いつもの秋と変わらないのどかな風景だ。子供の頃から少しも変化がない。穏やかで落ち着いて安定している。――だが、目に見えないところで、不穏なことが起こっている。それは鬼が跳梁するような種類のことだ。
(まさか……)加奈美は元子に声をかけようとして思いとどまった。(伝染病?)
加奈美はひそかに息を呑んだ。悪い病気でも、とは夏以来、誰もが一度は口にしたことだ。だが、言った加奈美自身、それを信じていなかった。そんなことがあるはずはないと思いながら聞いたし、口にした。言葉にするのを躊躇うほどのリアリティはなかった。――これまでは。
もしも、だとしたら。加奈美は片づけをしている元子の横顔を窺う。
これは元子には言えない。舅の巌が死んだばかりだ。元子はそれが子供たちに移っていないか、不安で胸の塞がれる思いがすることだろう。そう思い、加奈美はハタと自分の年老いた母親のことを思った。
母親の妙は、後藤田ふきと仲が良かった。ふきが死んでからは、気落ちしてしまい、不憫になったほどだ。その母親は大丈夫なのだろうか。
(……だいじょうぶも)
そのはずだ。ふきが死んだのは八月、これだけの期間、無事なのだから、妙は災厄を免れたのに違いない。
加奈美は安堵の息を吐いたが、それでも背筋の下のほうに鈍い悪寒めいたものが張り付いた気がした。
郁美はタケムラから家へと戻る。その足取りは力強く、軽かった。
(鬼だ――そうだったんだわ)
タケムラを出ると、周囲を|憚《はばか》るようにして弥栄子が郁美を追ってきた。そうして、お札をもらえないか、と聞いてきたのが、いっそう郁美を心地よくさせていた。
自分は理解している、把握している。自分自身が心強く、誇らしかった。自分の内側を生気に溢れた何かが満たしているのを、はっきりと感じた。力が注がれている。おそらくは鬼に対峙するために。事態を把握できているのは郁美だけだ。だからこれを収拾できるのも自分だけなのに違いない。
自分の使命を悟った気分で、郁美は家に戻った。うっそりと姿を現した娘に、弾けるように言葉を向ける。
「分かったわ。鬼よ。やっぱりあたしが正しかったんだわ」
娘の玉恵は、きょとんとした。
「お母さん」
「兼正よ。連中が元凶だったんだわ。あたしの言った通りだったのよ」
郁美は娘に笑みを向けたが、玉恵は幾度か瞬いて、そして顔をくしゃくしゃに歪めた。
「お母さん、もうやめて」
「やめてって」
「そういうことを言うのは、やめてよ」
郁美は娘をねめつけた。泣きじゃくり始めた愚鈍な顔を呆れ果てた思いで見る。
「あんたには分からないのよ。本当に、父親似にて取り柄のない娘なんだから」
「お母さんは変なのよ!」
玉恵は叫んだ。泣きながら地団駄を踏む。
「もういい加減にして。村の人がお母さんやあたしのことを何て言ってるか知ってる? 何であたしが笑い者にされなきゃならないの。お母さんが妙なことばっかり言うから、あたしは」
玉恵は土間に|蹲《うずくま》った。声を上げて泣き始める。郁美はそれを冷ややかに見守った。
弱気で愚鈍だった夫。これといって取り柄はなく、郁美には何ひとつ与えてくれなかった。そうなることは分かっていた。気の利いたことも言えず、小柄で凡庸な容姿の男に|娶《めあわ》せられると知って郁美は泣いた。嫌がる郁美に両親は白無垢を着せ、無理矢理、家から送り出したのだった。夫との暮らしは、郁美が想像したとおりのものだった。何の華やぎもなく誉れもない。本当に夫は何ひとつ、郁美に素晴らしいものを与えてはくれなかった。村での閉塞した暮らし、小うるさい親族――そんな愚にもつかないものの他には。利発で可愛かった息子は生まれていくらも経たずに死んだ。長男によく似た次男も、生まれて三日と生きていなかった。残ったのは、父親に似て利発さの欠片もない不器量な娘だけ。足かせにも似た夫が死んだとき、郁美の女としての人生は終わっていた。
(けれども、これじゃ終わらないから)
侮られ軽んじられただけで終わってたまるものか。
郁美は玉恵を見限って家の奥に向かう。寝間を少し整理しよう。郁美を頼ってきた連中が、がっかりしないように。家の中を磨き、光を入れ、ここに郁美が居ることを村の連中に悟らせるのだ。
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先頭に|幢《はた》を掲げた葬列は、粛々と山に向かう。遠目に見守るかおりたちの目の前で、恵の墓へ向かうあの林道を登っていった。
「行くぞ、昭」
駆けだした夏野に続いて、昭も張り切ってついていく。かおりは渋々その後に続いた。かおりたちが林道の登り口まで来たとき、葬列の末尾がカーブを曲がっていくところだった。夏野はこちら、と林の中を示す。すでに枯れ始めた下草を掻き分け、カーブの先へ向かって葬列の先まわりをするように斜面を登り始めた。
道を使わず、しかも目立たないよう、できるだけ音を立てず、体勢を低くして葬列の後を蹤けていくのは難行事だった。すぐに足も腰も痛み、服はちぎれた枯れ葉にまみれ、手足は引っ掻き傷だらけになっていった。
(……バカみたい)と、かおりは次第に手の中で重みを増していく鍬を持ち換えた。
何だって自分は、ついてきたのだろう。昭はすっかり夏野と意気投合したようで、何だか勝手に話を進めていくし、かおりなんて少しもお呼びじゃないふうだ。山を登ったり、穴を掘ったり、そういうことをするのなら、男同士で勝手にやればいい。いつもは端からかおりを馬鹿にしてかかる昭が、妙に夏野に敬服している様子なのもつまらなかった。
そう思う、かおりの中には、もうひとりのかおりがいる。何を暢気なことを考えているの、と叱責する声がする。恵はいなかった。起き上がったのだ。
(それがどうしたの?)
死んで腐っていくよりいいじゃないか、という気がする。起き上がったというのなら、恵は本当には死んでなかった、ということだ。恵がまだどこかで生きているのなら、かおりは会いたい。
(……本当に?)
恵は鬼になったのだ。恵がかおりと会うことがあれば、それはかおりが鬼に捕まるときだ。絶対に捕まらないという保証があるのならともかく、そうでなければ会えるはずがない。かおりは鬼になんかなりたくない。死んで起き上がれば、それは「死ぬ」のとは違うのかもしれないし、結局のところ「死んでない」ということなのかもしれなかったけれど、途中で一度「死」を通り抜けるのは想像するだに怖かった。
けれども、たとえ恵が鬼になったのだろうと、別に自分を捕まえに来るのでなければ、それでいいじゃないか、という気がする。かおりを捕まえに来ないなら、それは恵が「まだ生きている」ということだ。死んだと思った。失ってしまって、この世のどこにもいなくなったのだと思った。それがそうじゃないのなら、むしろめでたいぐらいのことだ。
(……本当に?)
かおりは自分が鬼にはなりたくない。だったら恵も、鬼になってしまった自分を喜んではいないのじゃないだろうか。自分が鬼になるなんて嫌だ。恵だってそうなのだとしたら、これは恵にとって酷いことだ。
(本当にそうなの?)
もちろん、そうだ。だからこそ、かおりは桐敷家の人々を恨んだのだ。起き上がるにしろ、そうでないにしろ、恵は死んだ。恵だって死ぬことは辛く恐ろしいことだったに違いない。なのに死んだ。桐敷家の連中が襲って殺した。だったら許さない、と思っていたのだが、今になってみると、自分が連中を「許さない」からどうするつもりだったのか分からなかった。
復讐したかったのだろうか(そんなこと、できるはずがない)。それとも、罪を認めて謝罪させたかったのだろうか(連中がそんなこと、するはずがない)。あるいは単に、言い逃れできないようにして糾弾したかったのだろうか(そんなことして、どうなるの?)
かおりはゆうべ、眠れなかった。窓の外に恵がいるのじゃないか、家の中に入ってくるのじゃないかと思うと、怖くて怖くてたまらなかった。かおりの中には恵を懐かしみ、恵が死んだことを悲しむ自分がいて、いつだってずっと恵がもとのように生き返ってくれることを望んでいるのに、本当に恵が墓穴から起き上がって、目の前に現れるかもしれないと思うと、怖くて怖くてたまらないのだった。
(あたしは、恵に死んでてほしいの? それとも生きててほしいの?)
どちらなのか分からない。恵が起き上がったことが、どうして怖いことなのかも分からない。そもそも恵は今、死んでいるのだろうか、生きているのだろうか。それがはっきりしないし、それが恵にとって酷いことなのかそうでないのかすら分からなかった。
放っておけばいいのよ、と思う自分がいる。恵は死んでないということだ。それでいいじゃないか、と思う。その一方で、そういうわけにはいかない、と思う自分がいる。夏野や昭が言うとおり、こうしている間にも誰かが死に、鬼は増えていこうとしている。そうやってどんどん増えていったら、この村はどうなるのだろう。そこに住む、かおりや昭や、かおりの両親は?
それは恐ろしいことだ。だから誰かが止めないといけない。そう思うと、思考はぐるりと最初の場所に戻ってくる。
(でも、起き上がるんなら、生きてるってことと一緒なんじゃないの?)
かおりはぼうっとしていて、あやうく先で足を止めた夏野にぶつかりそうになった。小声を上げたかおりに、夏野は黙るよう示す。葬列は林の中の小道を曲がっていこうとしている。恵の墓よりずいぶんと登ったところだった。
西山のほうに向かって曲がっていく林道から、葬列は逸れて尾根のほうに向かっていた。最後の一人が小道を曲がったのを見届け、夏野は林道に出る。小道の入口まで進み、その手前でまた林の中に入った。
林の中をそろそろと蹤つけていくと、ほど近いところで葬列の鈴の音が止まる。墓所に出たのだ。木立の間から葬列が解け、今度は穴を中心に丸く集まったのを見届けたところで、夏野はもと来た林道のほうを示した。
「どうしたの? やめるんか?」
林道に出るなり、小声で聞いたのは昭だった。夏野は林道をさらに登っていく。
「あんなとこで待ってられないだろ。墓を確認したんだから、しばらく時間を潰そう」
「あ、そっか」
妙に感心したように昭が頷いたとき、前方に林道が少し開けている場所が現れた。トラックが離合するためにの広場だ。いつ倒され、どうして放置されているのか、材木が二、三本、隅のほうに積み上げてあった。
鳥が鳴いている。風に乗って、読経の声が聞こえる。この声が絶えたら、埋葬が終わったということだ。かおりは耳を澄ます。声はどこか枯れたガラガラとした声だ。いつかのあの若御院の、よく通る張りのある声ではない。お寺が忙しくて、若御院は来られないのだと、かおりの母親が言っていた。普通、お葬式の時には、お坊さんは複数いる。ひとりということはあまりないらしいけれども、若御院が来られないだけでなく、お坊さんが一人しか来られない。お葬式や法事で立て込んでいて、どうしても手が足りないのだという。葬儀の始まりも遅かった。これもお寺の都合だ。そんな話は聞いたことがない、いったいどうなっているのだ、と母親は自分のことのように憤慨していた。
(たくさんのお葬式……)
考えてみれば、たくさんの人間が死んだのだ、夏以来。かおりの知っているだけでも、恵に大塚康幸、本橋鶴子で三人目。他にも山入で三人の老人が死んだらしいし、それ以上にたくさんの人が死んでいるのに違いない。
読経の声が絶えるまでには、かなりの時間がかかった。夏野が何度も腕時計に目をやる。時間を確認するまでもなく、影は次第に伸び、木立の下には薄暮が漂い、夜に傾いていくのがよく分かった。
ようやく読経の声が絶え、葬列に参加した人たちが林道を下る声が聞こえた頃には、空の色が変わっていた。
かおりたちは林の中を墓所へ急いだ。そっと覗くと、まだ複数の男たちが残って、後始末をしている。木陰で男たちが山を下りるのを待ち、ようやく|人気《ひとけ》が絶えたときには、辺りのあらゆるものに陰がまとわりついていた。
「どうする……?」
昭は不安そうに周囲を見まわしながら夏野に訊いた。林の中、下生えの奥はもう見通せない。空だけはまだ茜色を留めていたけれども、木立に囲まれた墓所の中は薄暗かった。そこに盛られた塚、差された角卒塔婆の文字は、側に寄らなければ読み取れない。今から墓を暴いていたら、肝心の棺に辿り着いた頃には手許が見えないほど暗くなっているのに違いない。
「出直したほうがいいじゃないかなあ。ほら、墓の位置は分かったわけだしさ」
昭が言うと、夏野はじっと角卒塔婆を見つめる。それから意を決したように、昭を振り返った。
「お前らはいいから、もう帰れ」
「兄ちゃんは?」
「やるべきことをやっていく」
でも、と昭とかおりは同時に声を上げた。夏野はきっぱりと首を横に振った。
「明日にはもういないかもしれない」誰かが、とは夏野は言わなかった。「今日のうちに片づけておかないと」
「いくらなんでも、今晩のうちに起き上がることはないんじゃないかな」
昭は周囲を見渡して言う。
「なぜ?」
「なぜって――何となくだけど」
「そういうのを希望的観測っていうんだ。そうだといいなって話だろ。得てして、そういう予想は外れることになってる」
夏野は言いながら、角卒塔婆に手をかける。恵のそれと違って、それは多少、揺すっただけでは倒れそうになかった。
「兄ちゃん、でも、まずいよ」
「いいから。お前たちは帰れよ。急がないと家に帰るまでに陽が落ちるぞ」
昭は上目遣いに夏野を見た。
「いや……兄ちゃんがやるっていうなら、おれも手伝うけどさ、もちろん」
「いいから帰れって」
夏野は角卒塔婆の周囲を掘り始めた。昭もそれに続く。
「言っとくけど、べつにいれ、怖じ気づいてるわけじゃないからな」
「そんなことを言ってるわけじゃない。今から作業してたら完全に陽が落ちるだろうが。危ないから帰れって言ってるんだ」
「危ないのは兄ちゃんも一緒だろ」
「おれは何とかなる」
「じゃ、おれだって何とかなるよ」
でも、とかおりは声を上げた。
「ねえ……明日にしようよ」
「怖いんだったら、かおりだけ帰れよ。おれ、兄ちゃんを手伝って帰るから」
「いらねえよ」と、夏野は土を掘りながら言う。角卒塔婆が揺れ始めた。「それより、お前は姉ちゃんを家に送り届けろ。もうこんなに暗いのに、女の子だけで帰せないだろうが」
昭はちらりと、かおりを見た。
「大丈夫だよ、かおりはか弱くなんかないし。おれより体格、いいんだもん、あいつ」
「そういう問題じゃない。こういうことには向き不向きがあるんだ」夏野は手を止めて、かおりを示す。「姉ちゃん、今ももうびびってるじゃないか。これで何かあったら竦んで動けないに決まってるだろうが。お前、怖じ気づいてないたんだろ? そういう奴がついててやらないでどうするんだよ」
「そう言うんだったら、兄ちゃんがかおりを送っていけばいいだろ。そうしろよ、おれ、兄ちゃんが戻ってくるまで一人でやってるからさ」
「昭……」
夏野は溜息をつく。意地になったようにシャベルを使う昭を、呆れたように見た。
「大丈夫」かおりは言って、昨日と同じように鍬を握った。「あたしも平気だから」
かおりは言ったが、もちろん強がりでしかなかった。暗くなるのは怖い。今も周囲のどこかに誰かが潜んでいそうで、風が枝を鳴らすたびにびくびくしている。しかも穴の中には――棺の中には確実に死体が横たわっているのだ。それを暴き出すなんて、考えるだけでも恐ろしい。けれども、かおりは一人で家に帰りたくなかった。薄暗い山道を物影に怯えながら、物音にびくびくしながら一人で帰されるなんて、たまらない。そのくらいなら、暗くなってもここに三人でいたほうがいい。三人で山を下りて、せめて街灯があって人家があるところまで一緒のほうが。
夏野は溜息をつき、それからまたシャベルを使い始めた。かおりも必死になって鍬を使う。墓を暴いているのだという罪悪感や躊躇は、一刻も早く安全な家に帰りたいという意識の前に消し飛んでいた。
土は、恵の墓のそれよりも柔らかかった。掘り進めるのに苦はなかったし、作業は恵のときよりも数段、早く進んだ。それでも陽が落ちるのは早い。土の色は濃くなり、汗を拭うために顔を上げるたび、林の中の闇色が濃くなり、墓地も薄墨を塗り重ねたように見通しが悪くなっている。
何度目かに顔を上げたときだった。かおりはすぐ近くで下草を掻き分ける音を聞いたように思った。土を掘る音にまぎれていたが、確かに草叢が鳴る音だったと思う。周囲を見渡したが、木立の間はほとんど見通しが利かない。すぐ近くで作業をしている昭や夏野の表情でさえ、見て取りにくかった。
(気のせい……?)
かおりは、周囲を何度も見まわす。微かにまた、どこかで音がした。音の出所を探そうとしたが、どこなのか分からない。
「……どした?」
昭が顔を上げた。表情は分からないが、声に不安そうな色が滲んでいた。
「音が……」
かおりが言った時だった。突然、右手の草叢が鳴って、人影が飛び出してきた。かおりには声を上げることも身構えることもできなかった。
男だった。知らない誰か。掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]みかかるように伸ばされた手。閃光のように思念が浮かんだ。帰ればよかった、逃げなければ、捕まる、殺される。手の中の鍬、足許が悪い――。
背後から引き倒された。男の手は空を掻いた。かおりが尻餅をつくまでの間に、誰かがかおりと身体を入れ替え、そして男が仰向けに転んだ。鈍く激しい音を聞き、同時に|饐《す》えたような臭いを嗅いだ。
男は盛大に転んだまま、動かなくなった。倒れたかおりの前には夏野がいて、肩で息をしている。両手でシャベルを握っていた。
「なに……ねえ……!」
かおりは身もがいて起きあがる。その脇で昭が硬直したように立ち竦んでいた。男は動かない。かおりは夏野の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「な……殴ったの? 大丈夫なの?」
夏野は息を荒げたまま、かおりの手を振り解いて男のほうへ近寄る。両手でシャベルを構えたままだった。じっと男の顔を覗き込み、それから側に膝をつく。さらに顔を覗き込み、シャベルを放した片手で顔に触れた。
かおりも恐る恐る側に寄る。昭が遺体ほどかおりの手を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んできた。
「……兄ちゃん」
夏野は軍手を|啣《くわ》えて脱いだ。素手で男の顔に触れ、軽く鼻先にかざす。次いで首筋に触れた。辺りには饐えた臭気が漂っている。
「ねえ……どうしたの? 何が起こったの」
「兄ちゃん、その人、誰」
「分からない」
夏野の声は掠れていた。
「その人、大丈夫なの?」
「……死んでる」
かおりは硬直した。激しい目眩がする。悪い夢の中に踏み込んでしまった気がした。
「うそ……」
「息をしてない」
昭が、かおりの手を放して夏野の側に駆け寄った。
「兄ちゃん、殺したの」
「……かもしれない」言って、夏野は男の胸に耳を当てる。「――駄目だ。やっぱり死んでる」
「嘘でしょう、ねえ!」
かおりも近づき、そして息を呑んだ。男の顔には見覚えがない。少なくとも知らない誰かであることは確実だった。左耳の上のほうの髪が変なふうに逆立っていた。血で汚れているようにも見えたが、すでにあらゆる色彩が薄闇の中に溶け込んでいた。
足から力が抜けた。大変なことになった、という気がした。これは誰だろう。どうしてこんなところに現れたのだろう。あんなふうに飛びかかってくるなんて。
坐り込んだ足首に、ひやりとしたものが触れた。妙に柔らかいそれは、男の手だった。着ているものはごく普通のシャツとズボンで、どこという特徴もない。
「姉ちゃん、どうしよう」
昭が腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んできた。
「そんなの……」
分かるはずがない。誰だろう。墓を暴いているところを見つかったのだろうか。それで飛び出してきたのだろうか。
「兄ちゃんは悪くないよ。だって……こいつが飛びかかってきたんだもん。かおりを庇って殴ったんだろ。だから」
そうだ、とかおりは思う。あんなふうに飛びかかってこないで、まず声をかけていてくれたら。あれじゃあ、かおりだって怖い人が襲ってきたのだと思うし、とっさに夏野がかおりを庇って殴ったことは責められない。
――でも、それを大人にどう説明すればいいのだろう。それを説明しようとすれば、なぜ三人がこんなところにいたのか、何をしていたのかを説明せねばならない。
「せ……正当防衛だよ。兄ちゃんのせいじゃないよ」
夏野はじっと男の顔を見ている。ふっと息をついて、かおりたちを振り返った。
「こいつ、何とかしないと」
「何とかって」
夏野が半分掘り進んだ穴を見て、かおりは背筋が凍る気がした。まさか、このまま埋めてしまおうというのだろうか。
「駄目よ、そんな……」
「冷たい」と、夏野は恐ろしく淡々とした声で言った。「少しも体温がない」
「死んでるんでしょ。……でも、だらかって隠すわけには」
「そうじゃないんだ。冷たいんだ、もう」
え、とかおりは呟いた。ついさっき触れた男の手の温度を思い出した。
「こんなに早く、体温が消えるはずがない。倒れてから何分も経っていないんだぜ?」
かおりは、男をまじまじと見つめ、それからそっと手を伸ばして、男の手に触れてみた。やはりそれは冷たかった。|躙《にじ》り寄って顔に触れる。昭も同じようにして、夏野を見上げた。
「そもそも体温がなかったんだ、こいつ」
「まさか……」
かおりは男を凝視した。
「だと思う。死んでるのは確かだけど、少なくとも、絶対に、ついさっき死んだわけじゃない」
――これが。
ごく普通の人間に見える。昭や夏野とは何の違いもない。体温がないことを除いては。
「ねえ……」昭がおずおずとした声を上げた。「……だったらさ、こいつ、本当に死んでるの?」
かおりはどきりとした。体温がない、そもそも死んでいた。――だったら今、息をしてない、鼓動がないからといって死んだと言っていいのだろうか。
夏野は昭を見返し、そして男の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。シャベルを放して両手を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、昭に足を持つよう指示する。
「その穴の中に放り込もう」
「う……うん」
昭は男の足を握り、そして嫌そうに顔を歪めた。
「そんで、どうすんの?」
「どうしようもないだろ。とにかく、今日のところは、このままにしておくしか」
言って男を穴の縁まで引きずり、中へと転がし込む。
「土、かけとこう」
「本橋のばあちゃんは?」
「……わからない」夏野は大きく息を吐いた。「さすがに今は考えられない。落ち着いてから明日までゆっくり考えてみる」
「そ、そうだな」
昭はシャベルを拾って、土を掬い始めた。かおりもそれに倣う。
「ざっとでいい。明日、また来るから」
「でも、こんな状態を見つかったら?」
「おれたちがやったんだって、分からなきゃ構うもんか。むしろ、こいつが起き上がりなら、大人に見つけてもらった方が、ありがたいぐらいだ」
そうかもしれない、とかおりは心の中で頷いた。この男が誰にせよ、すでに死んだ誰かのはずだ。大人たちが墓が暴かれているのを見つけ、そこでとっくに死んだはずの誰かを見つける。とうに埋葬され、土に還っているはずの誰か。そうすれば、村で何が起こっているのか、ひょっとしたら理解してくれるかもしれない。
とりあえず、男の身体を覆う程度に土を被せた。辺りはすっかり夜だ。
「――行こう」
夏野が言い、おかりも昭もそれに続いた。
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静信は|杣道《そまみち》を登りながら、何度も手の中でシャベルを握りなおした。横に並んだ敏夫も、何も言わない。無言で先を照らしながら、黙々と坂を登っている。
いくらも経たずに少し開けた場所に出た。ちょうど西山と北山の交わるあたり、いつぞや清水恵が見つかった場所とさほど離れていない。そこが安森家の墓所だった。かなりの広さがあるところに、真新しい角卒塔婆が四本、立っている。三本は安森奈緒、進、幹康のもの、もう一本は安森義一のものだ。そもそもこの墓所は安森本家のもの。安森工務店の人間もここに一緒に埋葬される。
敏夫の持った懐中電灯の明かりが角卒塔婆を検め、そのうちの一基で留まった。静信自身の字で「安森奈緒」と俗名と忌日を裏書きしてある。
奈緒の塚はかなり土が下がっていた。そこにまざらに雑草が生え、それが立ち枯れている。そのすぐ近くには黒々と穴が開いていた。昼間に弔組の男衆が来て節子のために用意した墓穴だった。
節子の通夜は静信自身が執り行った。奈緒の通夜もだ。埋葬式を行ったのも静信自身、それをこれから暴く。
「下手に弄ると、明日の埋葬で大騒ぎになるな」
敏夫が言って、静信は頷いた。敏夫はともかく、自分はその現場に立ち会わねばならない。それを思うと胃が痛む思いだった。
「とんだ重労働になるが、こんなもんでどうだ?」
敏夫は言って、肩にかけたナイロンタフタの旅行鞄の中から小菊の束を引っぱり出した。
「これは」
「お袋の鉢植えから切ってきた」敏夫は笑う。「帰りしな、全部の墓の草を毟って端と線香を供えておく。それで誤魔化せんかな?」
なるほど、と静信は頷いた。墓を暴いて埋め戻せば、奈緒の墓だけ異様に整う、という言い方もできるわけだ。同じように他の墓も整え、いかにも誰かが墓参りに来たふうを装う。それで誤魔化せるかどうか疑問だが、何もしないよりはましだろう。
「やろう」
敏夫が宣言した。懐中電灯を適当な場所に置き、手許を照らす。奈緒の墓の周囲にビニールシートを敷き詰めて、敏夫が塚にスコップを入れた。掘り上げた土はシートの上に零す。シートの外に零さないことが肝要だ。節子の墓から掘り上げた土を踏み荒らさないよう、足許には気をつけた。
いくらもしないうちに、角卒塔婆が揺れ始めた。静信はそれを倒し、丁寧に抱えて汚れない場所に横たえる。さらに無言でシャベルを使う。想像した以上の重労働になった。禁を犯している、という思いが、神経に|鑢《やすり》をかける。山道を登ってくるときから、静信は常に誰かの視線を感じていた。誰かが側にいて自分たちを見ている、という気がしてならず、時には物音や人の気配を察知するのだが、振り返ってみても誰の姿もない。気のせいだとは了解していた。
棺を掘り当てるまでには、かなりかかった。棺を覆った土を除け、蓋を露わにする。敏夫が目配せをしてから、シャベルの先を蓋の下に差し入れた。梃の原理でこじ開けようということだったが、シャベルの先をこじいれるまでもなく蓋がずれた。ずっ、というその音を、静信は慄然とする思いで聞いた。
「……開いてる」
敏夫の声は喉に絡んで嗄れている。こんなに簡単に蓋が開くはずはない。釘で打ち付けてあるのだから。静信はハンドライトを手に取り、棺の表面を検めた。釘を打った箇所が裂けている。誰かがすでに棺を暴いているのだ。
敏夫でさえ、シャベルを構えたまま棺を凝視していた。不思議に手が止まる。たぶん、この棺は空だろう。中に奈緒さんはいない、おそらくは。そう思うのに、かえってそのことが恐ろしく思える。本当に棺を開けていいのか、開けて後悔しないのか、と身内で問う声があった。――これを開けたら、もう逃れられない。
微かに、敏夫外気を呑み下す音がした。敏夫はシャベルの先を蓋の下に差し入れる。抵抗なく蓋は持ち上がり、そして棺の中の空洞を露わにした。
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――屍鬼だ。
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やはり、と目眩がする思いだった。棺の中には奈緒がいない。
ふいに静信は視線を感じた。墓所を取り巻いた樅の中から誰かが見ている、という直感。それも一人や二人ではない。樅の下の暗闇の中に、無数の何かが潜んで息を殺し、静信と敏夫を見守っている。ハンドライトの光を向けた。闇は後退したが、払拭はできなかった。闇が下がったその分、闇の中に潜む者も後退したという気がした。ざわざわと移動する音が聞こえたような気もしたが、それは風にそよぐ枝の音にすぎない。
「どうした?」
敏夫に問われて、いや、と静信は答えた。分かっている、これは罪悪感がもたらす幻覚の一種だ。
「やはり奈緒さんだったんだ」
「ああ……」
敏夫は頷いて、蓋を戻した。丁寧に合わせ、再びシャベルを使い始める。土を零さないよう気を配りながら、墓穴の中に注ぎ込んでいく。土を盛っては突き固め、やがてシートの上の土を掬えなくなるとシートごと持ち上げて土を塚に落としていった。角卒塔婆を立て直し、塚を突き固めて均す。シートを使い、足跡やシャベルの跡を残さないよう気をつけた。何度もライトを当て、墓が暴かれた形跡が見当たらないことを確認して、他の墓に取りかかる。敏夫は顔を地面に擦りつけるようにして草を毟り取りながら、この下にも空の棺があるんだと思うか、と静信に訊いた。
「……分からない」
「暴いてる時間はないな。だが、いずれやらなきゃならんかもしれん」
塚を整え、花を供え線香を供えた。土塊を落としていないか確認し、見つけたものは手で払って雑草の間に均し込む。四時間が経過していた。
忘れ物がないか確認し、帰る間際に敏夫が節子の墓穴を覗き込んだ。
「節子さん……起きあがると思うか」
「分からない」
奈緒だ。それは分かった。屍鬼だというのも確かだろう。――だが、それが分かったからといって、自分たちはどうすればいいのだろう? 節子は死んだ。節子もまた甦生するのかもしれない。いったい、これまでにどれだけの死者が甦生して、村にはどれだけの屍鬼が暗躍しているのか。
敏夫とは明日の夜、訪ねると約束して山道の途中で別れた。くれぐれも気をつけて戻れ、と互いに声をかけ、静信は怠い身体と痛む節々を騙しながら寺へと向かう。杣道沿いに戻りながら、ふと顔を上げた。
静信は北山に入っていた。足を引きずって道を逸れ、杣道すらない斜面を登る。すぐに見知った小道に出た。後戻りするように辿ると、一軒の廃屋に出る。
静信は黒々としたそのフォルムを見上げた。教会そのものに見えるが、これは教会ではない。沙子は最初、おっかなびっくり近寄ってきて、「教会じゃない」と驚いていた。これが本当に教会なら、沙子は入れないのかもしれない。沙子のあの反応は、入れるはずのない場所に入れたことによるものなのかも。
神様に見捨てられた感じが分かる、と沙子は言った。そうだろう、沙子は死体が起きあがるはずもない、という摂理を裏切った瞬間、神に見放された生き物になったのだ。人を襲い|贄《にえ》を求める。神の秩序に|悖《もと》り、敵対する秩序の中に取り込まれた生。
「けれど……それは、きみのせいじゃない」
静信は呟いた。
沙子が屍鬼なら、誰かが沙子を襲ったのだ。そして沙子は死んだ。死んで起き上がった。起きあがった沙子や奈緒を責めることは誰にもできない。沙子も奈緒も被害者であることに違いはないのだ。
襲ったのは正志郎か、千鶴か。いずれにしても暗黒が沙子を襲い、暗黒の中に捕らえた。もはや沙子はこの暗黒から出ることはできず、闇の秩序の中で生きていくしかない。今も、そしてこれからも、神の光輝の届かぬ世界に囚われて逃れられない。
――死はいつだって酷いことなのよ。
「その通りだ……本当に」
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夜陰は山の端々を塗りつぶしていた。当然のことのように山の中に人の気配はなく、ときおり小動物が下生えを揺らして乾いた音を立てた。
末の山にある墓所もまた、闇に塗りつぶされている。墨色の中にいっそう濃く、黒々と穴が口を開けていた。その底で蠢く者がある。
身動きをしているのは男だった。男が身を震わせるたび、身体を覆った土が零れた。やがて男は身を起こす。しばらく、呆然としたように穴の底に坐ったまま、闇を見ていた。風が鳴って、林がどよめく。
男はそろそろと片手を上げた。左耳の上に触れた。そこでは乾いた血と土で固められた髪が逆立っている。男はしばらく髪を撫でつけ、そしておもむろに立ち上がった。自分の置かれた状況を把握しようとするかのように周囲を見まわし、穴を這い出る。
男はゆらゆらと墓地を出た。次第に足は速まり、林道と斜面を経由して西山をまっすぐに北上していく。
男は健脚で、疲れを知らなかった。小走りになっていても、息ひとつ弾ませない。というより、そもそも男は呼吸をしていなかった。足取りにも迷いがない。濃い闇の降りた林の中を、草叢に足を取られることもなく、飛ぶように抜けていく。
男は一度も休むことなく、西山の中程にある小屋へとたどり着いた。うち捨てられて久しい風情の作業小屋だったが、穴の開いたトタン屋根には継ぎが当たっていたし、反った板壁の隙間も漆喰で埋めてある。
男は扉を開け、中に二重になったもう一枚の扉を開けた。中には蝋燭が一本ぶんの明かりもなかったが、数人の人影があることを、男は見て取った。
「……高俊?」
中の一人が口を開いた。広沢高俊は、おずおずと中に進んだ。
「妙な子供を見た」高俊は言った。「末の山で墓を暴いてました」
相手は低く驚いたような声を上げる。
「墓を掘っていたんです。子供が三人。高校生ぐらいの男が一人、中学生か小学生ぐらいの男が一人、その間くらいの女が一人だった。高校生ぐらいの奴は、工房の息子だと思う。前に見たことがある。
「……それで?」
若い男の声が、囁くように先を促す。
「襲おうとしたら、反対にやられた。スコップで殴られたんです。今まで気を失ってた」
「……高校生?」
「そうです」
そうか、と男は短い沈黙を作った。
「ここで気づかれるのは嬉しくないな。話を広められないように手を打っておく必要があるかもしれないね」
「三人ともですか」
「中学生の男女は待ったほうがいい。いまここで手出しをするのはまずいだろうから」
「放っておくんですか」
「お仕置きは必要だろうね、余計な口を利かないように。ただ、外堀から埋めていったほうがいいな。どこの誰だか分かるかい?」
「いえ」
「それを確認するのが先決だな。工房の息子を見張っていれば、きっと周辺に姿を現すだろうが……」言って、男は軽く言葉を切った。「小学生か中学生ぐらいの男と、中学生ぐらいの女と言ったね。その女の子は、ひょっとして髪の長い、お下げ髪の?」
「ええ、そうです」
「なるほど……」と彼は笑う。「あの子供たちか」
「心当たりがあるんですか、辰巳さん」
ああ、と辰巳は笑う。
「下外場の姉弟だね。屋敷の周辺をうろついていた。ああ、あそこにやってきたのが工房の息子か」
「どうします?」
「工房の息子は殺してしまおう」
辰巳は低く言って、吟味するように宙を見つめ、やがて改めて頷いた。
「殺したほうがいいだろうな。どうせ高校生だ。村外に通学しているから、屋敷の人たちも反対はしないだろう。処置はぼくが采配する。高俊は気にしなくていい」
「墓が暴かれてます」
「それはまずいな。埋めて元の通りにしておくんだ」
はい、と高俊は頷く。踵を返そうとした高俊を、辰巳は思い出したように呼び止めた。
「ああ――それから」
振り返った高俊に、辰巳は憐愍を含ませて微笑む。
「きみのお母さんは駄目だった」
高俊はわずかに目を瞑り、そうして目を伏せた。
「……そうですか」
「腐臭がしていた。彼女は起き上がらない。……残念だったね」
いえ、と高俊は呟いた。
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五章
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静信が衣を整え、納戸から出て寺務所に向かうと、美和子が困り果てた顔をして振り返った。
「ああ――静信、角くんから何か連絡がなかった?」
いえ、と静信は答える。昨夜の、口にはできない用件を済ませ、寺に戻ってからシャワーだけを使って寺務所で仮眠を取った。朝の勤行を終わらせてから改めて納戸で寝ていたので、そもそも角と顔を合わせるチャンスがない。
「どうしたんだろな」
すでに今朝をつけた鶴見が首を傾げる。これから安森節子の葬儀だ。
「まだいらしてないんですか?」
「そうなんだ」
鶴見と角が同行することになっていたのに、その角が来ないのでは予定に差し障りが出る。
「角くんのところに電話したら、おっ母さんは、ずいぶん前に家を出たというんだが」
「事故でなきゃいいんですが」と、光男が口を挟んだ。「で、どうしますか。もう出てもらわんと工務店との約束に間に合わんのですが」
光男は言って池辺を見たが、池辺は困惑したように予定表を見た。静信と鶴見が出かけている間、池辺は法事をこなさなくてはならない。
「電話して、法事の予定を変えられないか、訊いてみましょうか」
光男は言ったが、静信は首を振った。
「そういうわけにはいかないでしょう。今からじゃあ、近隣のお寺さんに助けてもらうわけにもいかない。徳次郎さんにはぼくから説明してお詫びします。村もこういう状況だからぼくと鶴見さんとで、何とか堪えていただきましょう」
光男も池辺も、頷くしかなかった。光男は静信と鶴見を送り出し、池辺を送り出して、再度、角の実家に連絡をした。また角の母親が出て、出かけたきり角は戻ってないこと、戻ったら確実に連絡させることを約束した。
その角から電話があったのは、夕刻が近づいてからだった。ちょうどその頃、静信は節子の埋葬につきあい、自分たちの蛮行の形跡を墓所に探して、とりあえず何の痕跡もなく、誰も不審を言い出さないことに安堵していた。
受話器を取ったのは、例によって光男だった。
「あんた――角くん」
光男の声は無意識のうちに責める調子になる。角は意気消沈したように、済みません、と答えた。
「わたしに謝ってもらっても困る。先様の気持ちを考えてもらわんと。若御院だって言いにくいことを言って頭を下げてくれたんだからな」
はい、と角の声を悄然と小さい。
「んで? 何がどうしたんだ。事故か何かでもあったのかい」
「そういうわけじゃ……」角は歯切れ悪く口ごもり、そして言う。「済みませんけど、ぼく、しばらくそちらには行けません」
「ちょっと、角くん」
「済みません。若御院にも奥さんにもよろしく言ってください」
光男は溜息をついた。
「角くん。あんだが若御院たちに顔を合わせづらい気持ちは分かるよ。わたしも、頭ごなしにきついことを言ったかもしれんな。けど、だかってそういうことを言い出すのは大人げがなさすぎはしないかい」
「……違います」角はさらに口ごもる。「気まずいからとかじゃなく……」
光男は首を傾げて角の言葉を待った。角は抑揚のない声で、かねてから用意してあった台詞を読み上げるようにして言う。
「忙しすぎるんです。始終、駆り出されて疲れました。外場は変です。だから嫌になったんです。戻りたくありません。外場に行くこと自体が嫌です」
光男は絶句した。
「角くん」
「済みません。そういうことです。もう呼ばないでください」
光男の返答を待たず、角は電話を切った。ぽかんとしたまま受話器を握りしめた光男を、ちょうど戻ってきた池辺が不審そうに見た。
「……どうしたんです?」
「ああ……いや。お帰り」
光男は言って、受話器を置く。もう一度、掛け直したものかどうか迷った。池辺はそんな光男を窺うように見ている。言葉を発する間もなく、鶴見が戻ってきた声が聞こえた。埋葬に立ち会う静信と別れ、一足先に戻ってきたのだろう。
「なんだい」鶴見は寺務所に戻ってきて、妙な空気に気づいたのか渋い顔をする。「また誰か?」
「いや」と、光男は答えた。「その……角くんが、辞めるそうだ」
池辺も鶴見も、言葉にならない声を上げた。
「辞めるって、この時期に」
鶴見の声には怒りが含まれている。
「外場が嫌なんだってさ。忙しすぎる、変だと言ってた。しばらく来ないってことだったが、もう来ないってことだろうな」
「そんな、勝手な」
鶴見は吼えるように言ったが、池辺は力なく呟く。
「そうか……角さん、怖じ気づいちゃったんですね」
「おい、池辺くん」
池辺は椅子に腰を下ろして、予定表を見た。朝から三軒の法事をこなして戻ってきた池辺は、ようやく身体が空いたことを確認した。
「ちょっと前に、角くんと言ってたんですよ。この数は尋常じゃない、って。若御院は確かなことじゃないなんて言ってたようですけど、間違いなく伝染病ですよ。けれども、伝染病だって話を行ったお宅で聞いたことがない。若御院が言っていたのは、伝染するかどうかは分からない、ではなく、何という伝染病なのか分からない、って意味なんじゃないんですか。伝染してるのなんて確実なことだし、それも半端な規模の話じゃない。いまだに拡大してるんですから。けれども病名は分からない。エマージング・ウイルスとかいうんですよね。最近、そういう新種の病気があるんでしょう?」
光男も鶴見も黙り込んだ。
「正直言って、おれも怖いんです。なんだか大変なことが起こってるような気がして。でも、これだけの方が亡くなっている以上、誰かが弔わないといけないわけでしょう。だから、逃げ出すわけにはいかないよな、って話をしたんですけど……」
そう、とだけ光男は言った。「怖い」というのは無理もないのかもしなかった。光男自身は村で生まれて村で育った。この寺が居場所だし、もとより村が住処で骨を埋める気でいる。逃げだそうにも逃げ出す場所さえないのだが、角も池辺もそうではない。角は村に来なければいいだけ、池辺だって帰る家がある。
同じことを考えたのか、鶴見が大きく息を吐いた。
「おれは村の者だからね。逃げ出す場所もないから、逃げるなんてことは頭に思い浮かびもしなかったが。……そうだな、君らにしたら、そうかもしれんなあ」
「ぼくはそんなつもり、ないですから」
そうか、と鶴見は笑う。光男は溜息を零した。
「……いったい、どうしてこんなことになっちまったんだろうねえ。こんなことは、これまでなかったんだが」
「兼正の御仁かね」
言ったのは、鶴見だった。光男は驚いて鶴見の顔を見る。鶴見は心外そうに太い眉を上げた。
「あの家が越してきて以来だろう。いかにも金持ちそうな御仁だ、どっか海外にでも旅行に行って、そこから何か持ち込んだんじゃないのかね」
「越してくる前からじゃないですか?」池辺は心許なさそうに首を傾ける。「そう、前ですよ。山入の事件があったとき、まだ越してきてませんでしたから。山入の通夜の日だったでしょう、越してきたのって」
「そうだったかな」
光男は顔を顰めた。
「そういうことをうかつに言うもんじゃない。頼むから檀家衆にそんなデマを吹き込まないでおくれよ。……まあ、兼正の一家も、かくべつ村の連中と付き合おうなんて気はなさそうだし、いまさら村の連中が病気を怖がって遠巻きにしたところで痛くも痒くもないだろうが」
池辺は殊勝に頷いたが、鶴見はさらに渋面を作った。
「……なあるほど。そういうことだったんだな」
「はあ?」
「いや、近頃、村の連中がさ」鶴見は声を低める。「距離があるというか。いや、全部ってわけじゃないし、檀家衆の話じゃない。ただ買い物に行ったり出かけたりするとな、身を引く連中がいるんだよ。どことなしに距離を作られてる感じがする。配達を頼んでも、渋々だったりな」
そういえば、と光男も思いを巡らせた。寺に品物を納めにくる中にも、何のかんのと言って配達を渋る者がいるように思う。
「つまり、そういうことさ」
「だから、流行り病だよ。みんなそれを口には出さないが疑ってるんだ。あるいは、単に縁起が悪いってことなのかもしれないが、おれたちは真っ先に死人のところに行く。始終死人と接触してる。だから、あまり関わり合いになりたくないんだろう」
光男は大きく息を吐いた。そういうことか、と思う。言われてみれば、確かにそういう様子だった。寺はいつの間にか忌避されているのだ。
「角くんが嫌がるのも無理はないか……」光男は首を振った。「だが、これを若御院や奥さんにどう伝えたもんかな」
同意するように、鶴見と池辺が曖昧な声を上げた。光男は重い腰を励まして上げる。何にせよ、美和子か静信かどちらかに報告しないわけにはいかない。
気後れする気分で厨房に向かうと、美和子と克江が、厨房の後始末をしていた。そういえば、最近、手伝いに来る檀家衆の数も減ったように思う。あまりにキリがないので単に足が遠のいたのかもしれないが、それ以外にも寺に出入りすることを躊躇う理由があるのかもしれなかった。
光男は美和子に声をかけ、口ごもりながら角の辞意を伝えた。美和子はいたく傷ついた顔を見せた。
「そのう……どうも、村じゃ伝染病じゃないかって思ってる連中もいるみたいで。まさかとは思うんですが」
美和子は顔を強張らせた。
「光男さん、そんな」
「単なる噂だとは思うんですけどね。まあ、そういうわけで角くんも……」
「光男さん」美和子は光男の手を引いて、厨房の隣にある控え座敷の上がり框に坐らせる。「……静信は大丈夫なのかしら」
「奥さん」
「疫病かもしれないんでしょ? 確かにそうだわ。どう考えても亡くなられる人が多すぎるもの。それに静信は、このところ敏夫くんと密に連絡を取って何かをしているみたいだし。そのことなのじゃないかしら」
「ええ……そうなのかもしれないです」
「大丈夫かしら。それでなくてもあの子、最近、いつ寝てるのか分からないような状態で。朝から晩まで駆り出されて」
そうですね、と光男は答えた。疫病だとしたら村の大事だ。静信ひとりの身の上を気遣っている場合ではないが、大丈夫だろうかと言い出す美和子の気持ちはよく分かった。美和子にとってはたった一人の子供だ。それもやっとのことで授かった一人息子。静信が生まれるまで、美和子は跡継ぎを望む檀家の声に急かされてかなり辛い思いをしている。やっとのことで得た一人息子は、幸いなことに出来がよく、檀家衆の評判も上々だが、その息子を失ったら、と思えば不安になるのも無理はなかった。
光男もまた、微妙に立場は違えど、同じ不安を感じる。たった一人の跡取りなのだ。信明はすでに住職としての役目を果たすことができない。実質上、背心が住職だが、その静信には妻も子もまだいない。それどころか|晋山《しんざん》式もまだで、正式に寺を継承しているわけでさえないのだ。寺は村の要だ。檀家にとって、寺の存続は何より大事な優先事項だ。もしも静信に何事かあれば。信明はあの状態、下手をすれば本山からの斡旋で、見ず知らずの余所者が住職としてやってこないとも限らない。
「そういうことじゃないよ」
口を挟んだのは、黙々と流しを掃除していた克江だった。
「奥さん、心配せんでもいい。こりゃあ、疫病とか、そういうことじゃないから」
「母ちゃん、そんな安請け合いを」
「安請け合いじゃないさ」克江は手を止めて、光男と美和子を振り返った。「お前には分からないのかい。あたしには、ちゃあんと分かってる。こりゃあ疫病なんてもんじゃない。だから若御院は大丈夫だよ。心配ない」
「でも…・・克江さん」
克江は美和子に太鼓判を押すように頷いた。
「これはね、寺は避けて通るのさ。若御院や御院にだけは手出しできない。それより光男、お前のほうこそ用心おし」
「用心って」
「身を慎んでりゃ心配はない。ちゃんと信心して、真っ当に暮らせってことさ」
「母ちゃん」
光男は克江に説明を求めようとしたが、克江は首を振った。
「あたしが何を考えてるか口にしたら、お前はあたしを|虚仮《こけ》にするだろうさ。でも分かってるんだよ、ちゃんとね」
そう言ったきり、黙々と掃除をする。美和子が不安そうに光男を見てきたが、光男も首を傾げるばかりだった。
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夏野はバスを降りると、まっすぐに村道を上がった。公民館のグラウンドの隅に、かおりと昭の姿が見えた。
「兄ちゃん」
真っ先に声を上げたのは、昭だった。夏野は頷く。夕暮れの迫ったグラウンドには、人影がない。ベンチやジャングルジムが設けられた一郭も同様だった。夏野は鞄をベンチに放り出す。昭が横にやってきて腰を下ろした。
「なあ、どうするか、思いついた?」
「いや」と夏野は短く答える。「でも、もういいんだ」
「いいって、なんで」
「今朝、行ってみたんだ」
夏野が言うと、昭はかおりと顔を見合わせる。夏野は誰にともなく頷いた。
とてもじっとしていることが出なかった。何よりも、シャベルの先が正体不明の男に当たった時の嫌な手応えが手に張り付いていて、それを忘れることができなかった。
冷静に考えれば事態は明らかだと思われた。夏野たちは新仏の墓を暴こうとしており、それを通りがかった誰かが見とがめたのなら、襲ってくる前に|誰何《すいか》するだろう。夏野らが屈強で不審な大人だというのならともかく、一人は女の子で、一人は子供だ。まず、何をしているのかと声をかけてくるのが当然だし、駆けつけてくるにしても飛びかかることはない。
だが、男は問答無用で、かおりに飛びかかってきた。あれはどう考えても、かおりを襲おうとしたのだし、あそこで自分が男を排除したことは正しかったのだという気がした。男がもう冷たかったことにも疑問の余地がない。だいたい、いくら打ち所が悪かったにせよ、一撃でああも簡単に絶命するとも思えない。男はそもそも死んでいたのだ。
――だが、両手に残った感触が、そういう理屈を拒む。夏野は人間に向かって、明らかに重大な障害を与えうるような凶器を振り上げたのだし、その結果、男は倒れた。倒れた男はもう動かなかった。身を起こし、大丈夫だ、と示してくれることはなかったのだ。
それを思うと、怖くて震えが止まらなかった。取り返しのつかないことをした。逸れも絶対にしてはならないことをした、と思う。怖いのはその「罪」そのものだった。罪の意識から逃れることができず。必ずこの罪には罰が与えられるはずだという確信からも逃れることができなかった。善悪は夏野の人格の奥深いところに刷り込まれ、生理的な感覚として馴染んでいる。それは理屈を超越する。どう言い聞かせても、あれは許されないことだという意識から逃れられなかった。
眠ることができず、落ち着いていることもできず、深夜にあの墓所に行って、男の死をもう一度確認したいという衝動を感じた。それを抑えることができたのは、正確に言うなら夏野は「男の死」を確認したかったのではなく、「男の生」を確認したかったからだ。男が死んでいないことが確認できれば、夏野は罪の意識から逃れることができる。その期待が捨てられず、なんとしても成就したく、だからこそ墓場へ駆け登ってみたくて溜まらなかったのだった。だがそれは「男の死」を確認することになるのかもしれなかった。それが怖かった。だからこそ、出かけてみたいという衝動をかろうじて抑えることができた。
けれどもそれも夜明けまで、曙光が射すとそれ以上の我慢はできなかった。家を抜け出し、自転車を駆って林道へ向かい、本橋家の墓所に向かった。――そうしないではいられなかった。
「……兄ちゃん?」
昭に促され、夏野は息を吐く。
「あいつは、いなかった」
え、と昭とかおりが声を上げた。
「じゃあ……あいつ、死んでなかったんだ、やっぱり」
夏野は首を振る。
「分からない。墓、元に戻ってたんだ」
「それ――どういう」
「だから、墓が元通りになってた。塚を作って角卒塔婆が立て直されていたんだ。あいつの姿はなかった。一緒に埋められているのか、それともあれからもういちど動き出して、姿を消したのかは、分からない」
「誰が、そんな」
「さあな。けれども、そいつが夜のうちにそれをしたのは確かだ。本橋の婆さんの家族じゃないだろ。いくら何でも夜に墓参りに行くとは思えないからな。それも葬式の夜に」
昭は頷いた。
「あいつが?」
「それも分からない。とりあえず棒を突っこんで探ってみたけど、塚のすぐ下に死体が埋まってるふうじゃなかった。確かとは言えないけど」
「本橋の婆ちゃんが起き上がったんじゃ」
「かもな。とにかく、塚が壊されたら分かるようにはしておいた。そのへんの小石を目印に置いてきたんだ。もしもこの先、婆さんが起き上がって塚が壊れるようなことがあれば、その後に埋め戻しても、見れば分かる」
昭は神妙に頷き、そして夏野の顔を覗き込む。
「なあ、どうするんだ、これから? やっぱ、本橋の婆ちゃんの墓、もう一回、掘り起こすのか?」
本橋鶴子の死体には手を触れてない。水際で食い止めなければならないとすれば、あれをあのままにしておけない。昭はそう考えたのだが、夏野は妙に淡々と昭を振り返った。
「なあ……昭、昨日、おっかなかったか?」
「べつに」
昭は言ったが、これはもちろん嘘だ。怖くて怖くて寝られなかった。かおりが音を上げて、夜に泊めてと言ってきた。そうでなかったら昭のほうが、かおりの部屋に逃げ込んでいたかもしれない。
「剛胆だな」夏野は、昭の強がりを見透かしたように笑う。「……おれは、怖かったよ」
「まさか」
「怖かったんだ。もう一度、墓を暴いて、婆さんの死体を確かめて、起き上がってこないように杭を打つ。――そういうことが、自分にできるかどうか分からない」
「でも、……やるんだろ?」
「やらないとな」
夏野の声は掠れたように低かった。
結城は、「済みません」という声に玄関を振り返った。
すでに窓の外は暗い。梓は台所で夕飯の用意のために立ち働いている。それで結城自身が立った。
玄関のドアを開けると、小学生ぐらいの女の子が立っていた。何となく、荒んだ風情のある子だという印象を受けた。それは子供らしからぬ、暗い表情のせいだったかもしれない。
「はい?」
「ここ、結城さんち?」
「そうだよ。きみは?」
「しずか」とだけ、少女は言った。「お兄ちゃん、いますか」
結城は首を傾げた。
「お兄ちゃん――夏野かい?」
少女は頷く。
「夏野はまだ学校から帰ってないんだけど。何か用事かな?」
少女はまた頷いた。
「大切なようがあるので、待っててもいいですか」
少女は窺うように結城を見上げて言う。正直に言って、結城が感じたのは、微かな嫌悪感だった。それは少女の台詞が、まるで言い含められたことを棒読みしているように聞こえたせいかもしれなかったし、何となくまとわりついて見える荒んだ気配のせいかもしれなかった。あまり息子と仲良くしてもらいたいタイプの子供ではない、という感覚。
「用っていうのは何だい?」
結城は訊いたが、少女首を横に振った。
「それはどうしても急ぐのかい? もう夕飯時だろう。明日にしてはどうだい?」
「だめ」少女は短く言う。「大切な用があるので、待ってる」
結城は困惑した。
「でも、夏野は何時に帰ってくるか分からないよ。君はどこの子だい? 中外場?」
「門前」
「名字は何ていうんだい?」
「松尾。松尾、静」
「松尾か――。門前のどのへん?」
「上外場との境。境松」
地名なのか、屋号なのか、結城には分からなかった。少女はそれで分かるはずだ、というふうだったし、結城自身、それ以上――たとえば誰それの家の隣だなどと説明されたところで分からない。
「ずいぶん遠いね。もう真っ暗だし、今日は帰ったほうがいいんじゃないかな。お嬢ちゃんが来たことは伝えておくから」
「待ってる」
「本当に、何時に帰ってくるか分からないんだ。寄り道をして夜遅くに帰ってくることもあるしね」
「大事なようなので、待ってる」
少女は結城を睨み据えるようにして繰り返す。結城は息を吐いた。
「そう……」
結城は周囲を見る。暗い道のどこにも、息子の姿は見えなかった。少女はじっと結城を見ている。上目遣いに何かを待つ表情だった。結城がそれを与えないことに不満を抱き、苛立っているふう。
「きみは夏野の知り合いかい?」
少女は頷いた。癇を立てた子供独特の口調で、「大事な用なの」と繰り返す。
分かったよ、と結城は根負けしてドアを開いた。
「とにかく、中で待っているといい」
結城が言うと、少女は礼も言わずに玄関の中に滑り込んでくる。さっさと結城を置いて家の中に上がり込んだ。
「ちょっと、きみ」
少女は振り返る。明かりの下で見ても、別になんということはない、村にはいくらでもいそうな女の子だった。
「お兄ちゃんを待ってる。お部屋に行っていいでしょ」
とっさに結城が感じたのは不快感だった。子供は夏野の部屋で待っている、と言ってるのだと言うことは分かったが、あまりにも傍若無人なように思えた。そればかりではない。理由の明らかではない嫌悪感。結城はこの少女が気に入らなかった。夏野がもしも、親しくしているのだとしたら、なぜ、と問いたい気がした。少女はどこか奇妙で、結城の常識を逸脱したところがあり、どことは言えないが禍々しい感じがした。
「いいでしょ。どっち?」
少女は苛立ち、足を踏みならすようにして言った。駄目だ、いい加減にしろ、と言いたい気がしたが、結城はそれを堪えた。
少女はどことなく汚れていた。精神に障害があるように見えなくもなかった。有り体にいえば、気味が悪い。――だからこそ、結城は拒むことができなかった。こんな小さな女の子に対して、外見が気にくわないからといって、不快感を抱く自分自身に抵抗があった。
「廊下を左に行った奥だよ」
少女はくるりと背を向ける。さっさと廊下を奥に向かい、曲がり角で思い出したように振り返った。
「お兄ちゃんも一緒なの、後で来るの。いい?む
結城はかろうじて頷いた。
「ああ。どうぞ」
少女は頷き。く、やっと笑った。その笑みが暗くて、やはり結城は気にくわなかった。玄関を閉め、何気なく廊下を辿る。曲がり角まで来ると、夏野の部屋のドアが閉じるところだった。
「なあに、あの子」
背後から声がした。梓だった。
「……気味の悪い子ね」
「そんなことを言うもんじゃない」
結城は言ったが、それは自分自身の内面の声に他ならなかった。
梓がとりあえずお茶を運んでいくと、暗い部屋の中に、子供がひとり、ぽつねんと坐っていた。
梓は嫌悪感を抑え、明かりを点ける。ことさらのように明るい声を出して、暗くて怖くないの、お茶はいかが、夕飯は、と声をかけたが、子供は黙って坐っているだけだった。にっと笑ってはみせるが、とりたてて返答もなく、梓と話をしようという様子もない。聞きたいことは色々とあったが、|這々《ほうほう》の体で梓は退散した。
「何なのかしら、あの子……」
結城にいっても、結城は生返事しかしない。
「ああいう子がいるのね、この村にも。なんか、ずいぶんと印象の違うとこだわ、ここ」
「――何が?」
「だから、風光明媚でのどかなところだと思ってたんだけど、そうでもないな、って気がして。外場って、卒塔婆から来てるのよね、確か。いかにもそういう感じ」
梓は言ってみたが、結城の返答はなかった。もっと違うものを期待して越してきたはずだった。けれども実際に来てみると、なかなか村の共同社会の中には入れず、一年も経ってやっとのことで入ってみると、不祝儀の手伝いに駆り出されてばかりだ。村社会の度し難さを、梓はようやく理解していた。
何となく溜息をついたとき、玄関の開く音がした。廊下を覗くと、やっと夏野が帰ってきたところだった。
「おかえりなさい。夏野くんにお客さんよ」
「――客? 保っちゃん?」
梓は首を振りながら迎えに出る。声を低めた。
「小さな女の子。誰なの、あれ」
「女の子? さあ」
「あんたの知り合いなんでしょ。なんでも門前の子だって。松尾静とか言うみたいよ」
夏野は怪訝そうな顔をした。
「誰、それ」
「誰――って。あんたを訪ねてきたのよ。用があるから待ってるって」梓は言って、背後からやってきた結城を振り返った。「なんでしょ?」
結城は頷く。
「あの子じゃなく、そのお兄さんのほうが用事があるのかもしれないけれどね」
「松尾――覚えがないな」
「明日にしたらどうかと言ったんだが、大事なようだからと言って聞かないんだ。お兄さんも来るけどいいか、と言ったけど、そっちのほうはまだ来てないな」
夏野は首を傾げている。
「どこ?」
「お前の部屋だ」
夏野は不快そうに結城を見た。
「部屋に入れるなよ、勝手に」
「あの子のほうが、部屋で待ってると言ったんだ。いいかと訊かれて、無下に駄目だとも言えないだろう」
結城が言うと、夏野ははっとしたように目を見開いた。結城は一瞬、夏野が何かに怯えたかのように感じた。
「あの子はどういう子なんだ」
「だから、知らないって」
言いながら、夏野は廊下を急ぐ。叩きつけるようにドアを開いた。そうしてそのまま、廊下に立ち竦む。
「――夏野?」
「女の子がいたって? ――それ、どういう子?」
結城は首を傾げた。
「どういうも」言いかけて夏野の部屋の前まで行き、中を覗いて結城は口を開けた。
部屋の中には誰もいなかった。窓が開いて風が通っている。床の上には梓が運んだ紅茶が、手をつけられることがないまま冷めていた。
「そんな……」
夏野は窓の外を窺う。
「門前の松尾静と名乗ったんだ。大事な用があるから待たせてくれ、――部屋で待ってるって」
「どんな子?」
「どんなと言われても。何だか、薄気味の悪い子供だったけれども」
そう、と夏野の声は低かった。
「……兄ちゃんが来るって?」
「そう言ってた。お兄ちゃんがあとから来るけどいいか、と」
夏野は妙に白い顔を結城に向けた。
「何て答えたの」
「いや」結城は口ごもる。なぜだか分からない、自分がひどい失態を演じた気がした。「断るわけにもいかないから、いいよ、と」
そう、と息子の声は一層、低かった。
「昭、電話よ」
母親に呼ばれて、昭は箸を置いた。廊下に出て受話器を取る。
「はあい」
「――昭か?」
夏野の声だった。
「お前、帰ったら客、来てなかったか」
「いいや? べつに」
そうか、と夏野は呟く。
「いいか? 親父さんとお袋さんに頼むんだ。誰かがお前と姉ちゃんと、どっちかを訪ねてきても絶対に家に入れるなって」
「……なに、それ」
「いいから。理由は適当に考えろ。大事な用だとか言われて、家で待ってると言われても、追い返してくれ、と言ってもらうんだ。絶対に家の中に入れるんじゃない。いいな?」
「う……うん」
昭はとりあえず頷いた。夏野はもう一度、念を押して通話を切った。昭は少しの間、受話器を見つめて、夏野がどうして唐突にこんな電話をかけてきたのか、その意味を考えていた。
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「どうだった。墓荒らしの話はでたか?」
部屋に入るなり敏夫に言われ、静信は失笑した。
「出なかったな。夜中にお参りに来たらしい情け深い誰かの話なら出たけど」
「なるほど」と敏夫は本に目を落としたまま笑う。ひとしきり笑ってから、「……で、どうする」
静信は何を言わんとしているのかを悟って俯いた。
屍鬼だ。確証はないが、間違いないと言ってもいいだろう。しかし、――これからどうすればいいのか。屍鬼がいる、気をつけろと言って、他人が果たして信じてくれるものだろうか。こうしている間にも襲撃が行われている。被害は増えているのに、それを食い止める手だてが静信たちにはなかった。
「呪術が効力を持つのは確かなんだろうな。でもってたぶん、招待がなければ入ってこれない。屍鬼を寄せ付けないためには、怪しい奴を招かないことだ。できれば護符だの破魔矢だので身を守る。――そういう呼びかけをして、聞いてもらえると思うか?」
静信は無言で首を振った。静信は溜息をつく。
「こういうとき、おれは信用がないからな。また尾崎の不良医師の悪ふざけが始まった、と思われるのが関の山だろう。おれに比べて、お前は人望があるが……」
その先を敏夫は言わなかったが、静信は頷いた。静信は別の意味で信用がないのだ。得体の知れない小説家という副業。誰も実体は分からないまま、何かしら奇矯なイメージを抱いているらしい。おまけに静信にはそれを否定できない前科がある。いまだに檀家が嫁を取れ、跡継ぎを早くと急かさないのは、腫れ物に触るような気分を拭えないせいだと、静信自身、了解していた。ここで屍鬼が、などと言いだそうものなら、ついに、と言われるのが落ちだろう。
石田はいない。兼正も代替わりして、息子は先代ほどの人望がない。あったとしても、兼正にせよ石田にせよ、説得することは途方もない難行事だったに違いないし、たとえそれができたにしても、村人を説得するのは不可能に近いだろう。せめて同じような疑惑を抱いている人間が他にもいれば、と静信は思った。そういう人間が何人かいて、手を携えることができれば、村人に疑心を吹き込むことぐらいはできるかもしれない。けれども単に、静信と敏夫が声高に叫んだぐらいでは、荒唐無稽すぎる現実を納得させることはできないだろう。
「打つ手がないな……」
「ああ」
「何もしないわけにはいかない。どうだ、また墓荒らしをする気があるか?」
「節子さん?」
「節子さんが起き上がるかどうかも確認しなきゃならんが、とりあえず、死人の最初から辿ってみたほうがいいかもな。山入の三人は火葬にされているから、最初の死体は後藤田の秀司さんか」
静信は俯いた。どうあっても墓を荒らすことには抵抗がある。だが、とりあえず墓を暴いて死体を確認するくらいしか、できることがないのも事実だった。
「幸か不幸か、後藤田の縁者は本家だけだ。後藤田の爺さんが死んだ時点で付き合いも希薄になっていたようだし、墓参りする人間もいないだろう。奈緒さんのときほど気を遣わなくていい。労働としては若干、楽だと思うがどうだ?」
静信は考え込み、そして頷いた。頷くしかなかった。
敏夫はすでに用意をしていた。懐中電灯を掲げ、夜陰にまぎれて静信と敏夫は後藤田の墓所に向かう。埋葬があってそれきり墓を訪ねる者もなかったようで、秋草に覆われた墓所は荒廃の色が深かった。
今度は委細構わず、手当たり次第にシャベルを使って棺を掘り出した。それでも地中、深いところに埋められた棺を掘り出すのは、うんざりするような重労働だった。
棺を掘り当て、蓋を半分がた掘り出したところで、秀司の棺が空であることは予想できた。奈緒のそれと同じように、蓋の一部が裂けている。ほとんど蓋を打ち壊すようにして中を覗いた。やはり秀司はいなかった。
静信がそれを埋め戻す一方で、敏夫はふきの墓に手をかけた。静信がとりあえず掘り上げた土を戻し、塚らしきものを作ったところで、敏夫がふきの棺を掘り当てた。
「……おい」
敏夫は棺の蓋を懐中電灯で照らして示す。きちんと釘が打たれ、蓋が壊されている様子がない。さすがに敏夫も及び腰になるのが見て取れた。
「……どうする?」
「どうもこうも」と、敏夫は汗を拭って泥だらけになった顔を顰める。「このまま確認しないわけにはいかんだろう」
静信は頷いた。敏夫が自棄を起こしたように乱暴にシャベルの先を蓋の下にねじ込む。蓋が裂ける音がして、同時に腐臭が漂い溢れてきた。敏夫は汚れたタオルを顔にあてる。シャベルの先を蓋の下に差し入れたまま、柄に膝を当てて無理にも蓋を持ち上げた。静信も同じく脱いだトレーナーで顔を覆い、懐中電灯の光をわずかな間隙に射し入れる。
敏夫はすぐにシャベルを放して蓋を落とした。静信も目を背け、そして今さらのように墓に向かって手を合わせる。敏夫は何も言わなかったし、静信も何も言わなかった。二人で黙々と墓を埋め戻した。
こちらの墓ばかりは、秀司のそれのようにとりあえず埋めればいいとはいかなかったが、そもそも掘り上げるときから要領を心得ていたので、埋め戻す時にもさほどの時間はかからなかった。塚を作り、角卒塔婆を立て直し、再度、手を合わせて墓所を出る。膝も手も疲労で痙攣を起こしたように震えていた。
「……全ての死人が甦るわけじゃないってことだな」
敏夫はまだ肩で息をしながら、杣道を下り、林道に出たところで坐り込んだ。草叢に身体を投げ出す。
「実際にはどの程度にしろ、百パーセントじゃない。これは助かる」
同じようにして夜の林の中に坐り込みながら、静信は頷いた。
「しかし、問題は変わらない。これからどうすりゃいいんだ、おれたちは」
静信は沈黙した。もしも全ての死者が甦るわけではないのなら、現在、最も急がねばならないことは屍鬼の実数を把握することだ。村にはどれくらいの屍鬼が潜んでいて、それらの屍鬼はどの程度の犠牲者を出しているのか。
屍鬼の実数を把握しようと思えば、実際に墓を暴いて空の棺を数えてみればいい。――いや、と思う。それでも実数は分からない。不審な転出者がある。そのうちの幾人かは村から出て行く前、発症していたことが明らかだ。おそらくは、ほとんど全てがそうだったのだろう。屍鬼に襲われ、本人の意思とは関係なく、引っ越すと言葉を残して出ていった。荷物を運び出したのは高砂運送。夜にしか現れない引越屋。おそらく彼らはこの地上のどこかに越したわけではあるまい。たぶん彼らは見つからない。きっと、石田も。
秀司とふきの墓を暴くのは後先に気を配らなくてもよかったから手軽に済んだが、奈緒の墓を暴くのには四時間がかかった。実際問題として、敏夫と静信だけで全ての墓を秘密裏に暴いてみることは不可能だし、労力に見合うだけの意味があるとは思えなかった。しかも、と静信は喉を鳴らした。まだ鼻に腐臭がこびりついている。
途方もない数の死者、それに相応の墓、墓の中にはある割合で腐乱した死体が眠っている。それを暴き、確認することを思うと、さすがに絶望的な気分になった。何とかしてそれだけは回避したい、と思ってしまう自分を、静信は否定する気になれなかった。
同じことを考えたのか、敏夫が呟く。
「まず、屍鬼をこれ以上増やさないことだ」言って静信を見る。「吸血の場合、そもそも甦らないよう、杭を打ってから埋葬するんだよな、確か」
静信は渋面を作った。生理的な嫌悪感を感じる。それは死体を損なうことだ。もしも死体が確実に甦生するものなら、それは予防策ではあるのかもしれない。だが、甦らない者もいる。これに杭を打つのは、死体損壊に他ならないし、「杭を打つ」という行為そのものに酷い抵抗を感じた。
「静信、他になにか穏当な手はないのか」
「……ヴァンピールの場合、杭を打って埋葬するのが一般的だ。そうでなければ首を切る。あるいは、死体の足に穴を開ける。俯せに埋葬する、という伝承もあるけれども」
「どれも不可能だろうな」
「あとは鎌を首筋に構えるとか、塚に杭を打ち込むとか……。もしも死体が起き上がった時、それが自動的に死体に危害を加えるよう、セットしておくんだ。あとは網を入れる、穀物や種を撒く」
「へえ?」
「ヴァンピールは、それを全部拾わないと身動きができない、という俗信がある。しかも一年に一粒しか拾えないんだそうだ。……けれども、屍鬼の場合、それが当てはまるもんかな」
「第一、どれも|胡乱《うろん》だ。もっと何か、棺の中に入れても不審でないものじゃないと」
「十字架、イコン、メダル……」
「本尊とか守り札とか?」
「だが、守り刀なら死体に抱かせるし、数珠だって握らせる。奈緒さんの棺の中にも秀司さんの棺の中にも守り刀と数珠が取り残されていた。効果があるかどうかは疑問だ」
敏夫は唸った。
「他にどうすればいいんだ? もしも薬物で事足りることならな。それこそ、パラコートでも注射してそれで甦生を阻止できるもんなら、患者が死んだ時点で、何食わぬ顔をして処置できるんだが。だが、どうすれば甦生しないようにできるのかが分からない。エンバーミングする習慣があればな。――もっとも、エンバーミングで甦生を阻止できるのかどうか分からないが。確実なのは火葬だろう、やはり」
静信もこれには同意せざるを得なかった。
「けれども、火葬は……」
「村の連中はうんと言わないだろうな。うんと言わせるためには、事態をぶちまけなきゃならんが、屍鬼だ吸血鬼だと言ったところで信用してくれるとも思えん。次善の策として、大々的に疫病だ、と言う手もあるが」
静信は少し、その場合の行く末について考えてみた。
疫病だ。だから土葬は危険だ。火葬にする必要がある。そう訴えて、村人の何割がそれに従ってくれるだろう。
「無理なんじゃないかな……。それこそ、行政のほうから強制されないことには」
人間は、自分だけは、という思考回路から逃れられない。それは事態を舐める、という行為とも、ある種の傲慢とも別次元の事柄だ。村人の中には死後の身体を依然として個人と見なす思考回路が歴然として存在する。死体を損なうことは、生きている家族を損なうことと同様の抵抗を感じさせるはずだ。問題は、それができるかできないかではなく、絶対的に不本意なことだ、ということだった。火葬は不本意だ。たぶん、誰もそれを選択したくない。しかしながら誰も自分や、生き残った他の家族が失われることなど望んでいない。疫病は脅威だ。それは生者を損なう。脅威をそのまま放置することも、やはり不本意なのに違いない。村人の選択肢は、ここで二つに限られる。生者の安全を重く見て、火葬という不本意な選択を行うか、あるいは死体を損ないたくない、という思いのほうを重くて見て、生者の安全を脅威にさらすか。
そして、と静信は思う。人間というのは複数ある選択肢の全てに対してネガティブであるとき、得てして存在しない第三の――ポジティブな選択肢を捏造するのだ。おそらく、村人は考える。「そんなことは起こらないはずだ」――必ず自分たちに危険が及ぶと決まったものとは限らない。自分の家族だけはそれを免れる可能性は皆無ではない。もしもそれが起こらなければ、自分は不本意な選択を回避できる。
それを分かっているのか、敏夫も溜息をついて頷いた。
「疫病だと大騒ぎして見せたところで無駄だろうな……。だとしたら、秘密裏におれたちがやるしかないって話になるんだが」
静信は頭を振った。それこそ不本意な選択というものだ。
「とにかく水際で堰き止めなきゃならん。死体に処置できないなら、死体を作らないようにすることが必要だ」
「ああ」と、静信は頷いたが、そのために何をする必要があるかを考えると、さらに辟易とせざるを得なかった。呪術は有効だ。患者を守るためには、敏夫による救命処置と、襲撃を回避するための呪法が不可欠だ。それをやれるのは、神社か寺しかなく、専業の宮司がいない神社にそれは期待できない。寺がやるしかない。つつまりは、寺が疫病退散祈願の祈祷をやれ、ということだ。犠牲者の家に乗り込んでいって、疫病退散のための祈祷を行う。だが、静信はそういう現世利益の思想に馴染まなかった。
「虫送りをやる必要があるんだ、もう一度。道祖神を改めて立てて、村を挙げて再度、虫送りを行う」
「なんて説明して?」
全ての解決策の前にはこの難問が立ち塞がっていた。
「とにかくやるしかない。そのうえで屍鬼の数を減らす必要がある」
静信は敏夫の顔を見た。敏夫は心外そうに眉を上げる。
「何を驚いてる。当然だろう。屍鬼を根絶する必要がある。連中が一人でも生きているかぎり、汚染は広がる一方なんだ」
「でも」
「でも、何だ?」
静信は急速に確信が揺らぐのを感じた。屍鬼だと思った、それは誤解ではないか、という気がする。――いや、静信は屍鬼ではない、という可能性に縋りたいのだ。それこそ、不本意な選択肢を拒絶するために。
「秀司さんは甦生したのかもしれない。そうして、今も人を襲っているのかも」
「かも、じゃないだろう」
「けれども、確認したわけじゃない。ぼくたちが確認したのは、墓に死体がない、という事実だけだ」
「おいおい」敏夫は目を見開く。「それ以上の事実が必要なのか」
「それは、そうなのだけれど……」静信は俯く。「秀司さんは甦生した、でもいい。そして今も汚染を広げている。汚染を食い止めなければならないのは確かだけど、そのために秀司さんをもう一度、殺すのか?」
「他に手があるのか?」
「けれども、秀司さんは生きているわけだろう? それを殺す? ぼくらが?」
「殺すも何もない。秀司さんはそもそも死んでるんだ」
「でも、今は生きてる。そういうことじゃないのか? 秀司さんが甦ったのは、別に秀司さんの責任じゃないだろう。不幸な事故のようなもので、だから」
「お前、いったい何を言い出したんだ?」
「だから」静信は口ごもる。自分でもどういえばいいのか分からなかった。「秀司さんは死んだのだけど、甦生した。起き上がったということは、生き返ったということじゃいないのか? いわば、いったん心停止した患者が甦生したような者で、それをもう一度、死んだ状態すると言うことは、殺すということじゃないのか? それは殺人とどう違うんだ?」
「おいおい。相手は屍鬼だぞ?」
「屍鬼だろうと何だろうと、そういうことなんじゃないのか? もちろん、屍鬼は人を襲う。汚染を拡大する。けれども例えば、殺人犯だからと言って、ぼくらが勝手に処刑していいのか? 生かしておいては為にならないと言って、人を殺す権利は、ぼくらにはないはずだ」
「問題をすり替えるな」
「すり替える?」
「屍鬼による襲撃と、殺人を一緒にするなと言ってるんだ。社会の中に組み込まれた殺人と襲撃を同レベルで考えてどうする。確かにおれたちには殺人犯を処罰する権利などない。それは国家に委譲されているんだ。だが、屍鬼を裁く法がどこにある? 国家はそれを代行してはくれないんだぞ」
「けれど」
「お前のそれは、単なる怯懦だよ。要は自分が屍鬼をどうにかするのが怖いんだろう。抵抗があるのは分かるしさ。じゃあ、屍鬼を殺すのは怖いから嫌だといって、屍鬼が人を殺すのを放置するのか? 屍鬼が死ぬことは酷くて、人が死ぬことは酷くないのか」
「それは……」
「このまま犠牲者が増えるのを黙って見てろと言うのか。屍鬼を一人生かしておけば、そこから鼠算式に屍鬼が増えていく。犠牲は拡大していくんだ。それは同義に悖ることじゃないのか、お前の中では?」
静信は返す言葉を持たなかった。確かにそうだ。敏夫の言っていることは正しい。屍鬼を死んだ状態に戻すことが殺人なら、屍鬼が人を襲うことも同じく殺人だ。屍鬼を殺すことが罪なら、屍鬼が人を殺すことも同様に罪だ。屍鬼を殺人者と置き換えてみれば、理は明らかだろう。もちろん、防衛のために屍鬼を狩ることは容認されなければならない。
(……本当に?)
理は明らかだ、と思いつつ、静信は納得できなかった。そもそも屍鬼と殺人者を置換することに迷いがあった。その迷いを、静信はうまく表現することができなかった。
「村を見殺しにするのか」
敏夫に問われて、静信は俯いた。
「少し考えさせてくれ」
「――おい!」
静信は立ち上がり、敏夫を残して林道を下った。文字通り、逃げるように。
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聖堂の祭壇は、これまでそうであったように、そしてこれからもそうあり続けるように、空洞を掲げて立ち枯れていた。ランプの明かりを受け、埃にまみれた燭台だけが空虚な光を放っている。
仕えるべき神が見えない――沙子の指摘は正しいと思う。人の世界の常識的な正義を、そのまま正義として信じるなら、屍鬼は撲滅すべきなのだ。屍鬼は人を狩る。これは悪でその悪を恒常的になす屍鬼は敵だ。悪を根絶するために、屍鬼を狩らねばならないし、それは正義を守るための聖戦に他ならない。なのに静信は、そこで躓く。屍鬼が人にとって敵対する者であることは間違いないが、屍鬼が人を狩ることを、すなわち悪だと言えるのか。
静信の中の良心は囁く。それは彼らの罪ではない。奈緒も秀司も屍鬼に変容することを望んだわけではないだろう。ましてや殺戮を望んで屍鬼になったわけではないのだ。それを罪だと咎め、敵対するからといって悪だと断じていいものなのか。
そう考えてしまう自分が少数派であることは知っている。大多数の信仰を得られない神は、絶対者の名に値しない。だが、大多数が示す正義は静信にとって正義ではない。罪のないものを罰することに躊躇しない神は、神ではない。――少なくとも、静信にとっては。
空洞の教会、空洞の祭壇、司祭はいても神がいない。信仰に対する堅い決意だけがある。まさしく、静信はこの廃墟を建てた隠遁者に共鳴しているのだ。この世に自分だけではないことを確認するために、ここに足を運ばないではいられない。
それが分かっても、自分がどうすべきなのかは分からなかった。村は災厄の中に落とし込まれている。こうしている間にも被害者は増え続けている。屍鬼として起き上がった者に罪はないが、屍鬼の犠牲者として命を失おうとしている者にも罪があったわけではない。理不尽に他者から殺害されることを肯定することはできない。容認は肯定と同義だろう。とうてい容認はできないし、誰かがこの災厄を止めねばならない。そしてそれができるのは、事態の真相に気づいている敏夫と静信だけなのだった。
静信は深い溜息をつき、吐き出したそれのぶん力を失って首を垂れた。背後でカタリと、小さく扉の開く音がした。
「こんばんは」
静信は無言で背後を振り返った。少女の形をした「それ」は、いつものように祠の中に滑り込んでくると、ごく軽い足取りで身廊を近づいてきた。
「……また落ち込んでるの?」
うん、と静信は頷いた。
「尾崎先生とまだ仲直りできないの?」
「いや。もっと別のことだよ」
沙子は首を傾げる。間近のベンチに腰を下ろした。手を伸ばせば届く範囲。静信は唐突に、自分がなぜ今日まで無事でいられたのか疑問に思う。沙子はいつでも静信を犠牲者の列に加えることができた。意図的にそれをしなかったのだろう。敏夫が恣意的に他を助け、他を助けないように、沙子も恣意的に他を殺し、他を殺さないのだと感じた。
「村の様子はそんなに酷いの?」
「そうだね。酷いよ」
大変ね、と沙子の声は本心から静信に同情を寄せているように聞こえた。
「敏夫は暗礁に乗り上げている。いや、乗り上げていた、というべきかな。伝染病が蔓延しているように見えるのに、伝染病に対する反応が出ない。新種の疫病なのかもしれないが、そもそも疫病として不整合がある。だから対策も救済策も立てられない」
「それは本当に大変だわ。でも、過去形なのね?」
静信は頷いた。
「疫病だけじゃないんだ。このところ、村では転出が多い。住人が不審な状況で姿を消す。ぼくらに協力してくれていた役場の人も消えた。まるで失踪としか思えない状況で」
「……変ね。でも、それは疫病とは無関係よね?」
「普通は無関係だろうね。この疫病で死ぬ者は、死の直前に辞職していることがある。村の外に勤めに出ている人間は、ほぼ例外なく発症してから辞職しているんだ。これだって普通は疫病とは無関係だ」
沙子はわずかに眉を顰めた。
「……普通でない症状。普通でない転居や辞職、これらのものに整合性を持たせるには、普通でない何かを想定するしかない。敏夫はそう結論づけた。普通でない何かの存在を想定すれば、状況は明らかだった。――だからもう過去形なんだよ」
沙子はまじまじと静信を見る。痛々しい沈黙が訪れた。この瞬間、聖堂の中に響いているのは、自分の押し殺した息づかいだけのように思われた。そしてそれは、おそらく間違いではないだろう。
沙子は視線を逸らし、それから顔を上げた。白い顔には、邪気の無さそうな笑みが浮かんでいる。
「普通ではない何かって?」
「……アベル」
沙子の笑みが、一瞬だけ微かに歪んだ。
「それは本当に普通じゃないわ」
「他によって殺戮された者。殺害され、葬られ、なのに墓穴から甦ってきた者。……屍鬼だ」
沙子は俯き、くすくすと声を立てて笑う。
「驚いた。尾崎先生は意外にロマンチストだったのね」
「これはもっと散文的なことだよ。極めて殺伐とした現実だ。無慈悲で無機的な」
「……そう?」
「ぼくは君が屍鬼だと思う……」
沙子は顔を上げ、微笑んだ。
「本当に室井さんはロマンチストだわ」
「そうかい?」
ええ、と沙子は立ち上がる。静信は一瞬、身を硬くした。息を詰めたまま、沙子が背を向け身廊を戸口へと向かっていくのを見守る。沙子は歩き、そして歩みを止めて振り返った。
「ねえ、室井さん、カインはどこから放逐されたんだと思う?」
静信は首を傾げた。
「この間、ふっと思ったの。神はアダムとエバを創り、エデンに園を造って住まわせた。けれどもアダムとエバは禁断の木の実を取ったせいでエデンの園を追放されるの。そうやって追放された土地でカインは生まれたのよね?」
「そして、エデンの東、ノドの地に追われた……」
「でしょ? カインがいたのはどこ?」
「エデンだろうね。エデンという土地の中に園があって、アダムとエバは園を追われた。けれどもまだエデンの中だ」
沙子は首を振った。
「そういう意味じゃないの。エデンの園は楽園よね? アダムとエバは罪によって楽園を追放されたわけだから、楽園の外は流刑地なんじゃないの? ノドはそのさらせに外でしょ? 流刑地の外って、いったい何なのかしら」
静信は瞬いた。
「祝福された土地と、されない土地。楽園と流刑地――世界がそうやって二分されると、流刑地の外は楽園だってことにならない?」
沙子は遠くから微笑む。
「面白いでしょ? カインは罪によって流刑地を追われ、楽園に放逐されたことになるの。神は罪を犯したカインを狂気とみなして、楽園で保護することにしたのかもしれないわね? そうてなければ、流刑地の罪人を殺して裁くことで、罪を許されて楽園に呼び戻されたのかも」
静信は腰を浮かした。
「罰されるべき流刑地の罪人を殺した者は、殺戮者なの? それとも正義の人なの?」
沙子は小さく笑い、身を翻した。呼び止める間もなく、傾いた扉の間から滑り出ていく。
静信は言葉を失って立ちつくした。
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今になって彼は不思議に思う。
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(楽園と、それを取り巻く流刑地)
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丘の周囲に荒野が存在するのだろうか、それとも荒野に丘が存在するのだろうか。
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(罪人を殺した者は……
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丘の裾野に巡らされた高い城壁は、神の秩序の終端を示すのか、
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その罪は)
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それとも、神の奇蹟の限界を示すのか。
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彼が目を開けると、見慣れない小部屋の中だった。彼はしばらく横たわったまま周囲を窺い、自分がなぜ、こんな寂れた部屋の煎餅布団の上に横たわっているのかを考えた。
彼はついさっきまで眠っていた。そして目覚めた。それだけは思い出すことができたが、それ以外の記憶は存在することが確かであるにもかかわらず、はっきりと捕らえることができなかった。なぜこんな見覚えのない部屋で目覚めることになったのか不思議でならなかったが、ならばいったい、どういう部屋で目覚めるはずだったのかを考えてみても、不思議なほど何も思い浮かばないのだった。
彼は釈然としないまま身を起こした。三畳に布団が一組だけ。他には何もない部屋だった。いかにも古びた板張りの天井、しかも電球は外され、埃にまみれている。明かりがないばかりか、見まわしても窓は存在しない。それでも、どこからか明かりが漏れてきているのか、周囲が見て取れないほど暗くはなかった。何もかも色彩こそ失っていたものの、蒼褪めた景色は細部まで明瞭だった。
三方の壁には漆喰が塗られている。それが随所で剥がれ落ちていた。残る一方にはベニア板が張られている。板は新しいようだったが、単に打ち付けられているだけのそれは、剥げ落ちた漆喰以上に荒んだ印象を与えた。布団はカビ臭かったし、周囲の畳は|毳《けば》立ち波打って、腐敗した湿気の臭気を放っている。
うち捨てられたどこかのようだ、と彼は思った。家の奥に隠され忘れ去られた、今はもう使われていない納戸のような場所。――そう思うのは、周囲の物音と気配から、ここがそれなりの大きさのある建物の奥まった場所だという感じがしたからだった。とこか遠くに人がいる。それも同じ建物の中だ、という気がした。
彼は立ち上がり、漆喰の壁の端にあるドアに近づいた。そのドアの周辺だけが妙に新しい造作であることが分かった。彼はドアノブに手をかけたけれども、ドアは開かなかった。鍵がかかっているようだが、内側には錠らしきものは見当たらない。
(何で……)
鍵がかかっているのだろう。それも外から。こんな荒んだ部屋の中で、自分ひとりで、しかも部屋には見覚えがなく、とても人を泊めたり住まわせたりするような部屋とも思えない。座敷牢というものがあるなら、ここがそれなのかもしれなかった。
(でも、何で?)
彼はなぜ、自分がそんな場所に囚われているのか、理解できなかった。ましてやここがどこなのか、彼には見当もつかなかった。何が起こったのだろう。何かが自分の身の上に起こって、それで尋常でない場所にいることだけは確実だったが、その何かが起こる以前、自分はどういう場所で何をしていたのか、思い出そうとしても、やはり曖昧模糊としてはっきりとしないのだった。
ドアをなんどか押しながら、彼が首を捻っていると、ドアの向こうで足音がした。彼は思わず部屋の端まで退った。鍵を外す音がしてドアが開いた。ドアの向こうにもやはり光はなかったが、それでも青味を帯びた薄闇の中、入ってきた人影の相好は見て取れた。
「目が覚めたね」
笑って言った若い男に、彼は見覚えがあった。あることは確かなのに、それが誰だか思い出せなかった。危険な人物だとは思わなかったが、彼は本能的に退った。はっきりとはしない不安のようなもの、違和感のようなものを感じた。それが何に由来するものなのかは分からない。
男が何気ない仕草で近づいてきて、彼はとっさに「来るな」と呟いた。――呟こうとしたのだが、声にならなかった。声が出ない、と彼は激しく動揺した。同時に、何か確固とした空洞のようなものを自分の身内に感じて、彼はさらに狼狽した。
何かがおかしい。まるで悪い夢の中に迷い込んでしまったように、違和感と不安が彼を取り巻き、現実的な感触から彼を隔絶しているように思われた。
「怯えなくていいんだよ、村迫正雄くん」
男は言った。それで彼は、それが自分の名前だと言うことを思いだした。
「ぼくは君の味方だ。だから怯える必要はない。心配はいらないから、落ち着くんだ」
正雄は首を振った。いつの間にか部屋の隅に追いつめられていた。それ以上、近づくなと言いたかったが、やはり声は出なかった。声帯が麻痺しているのでもない、言葉にならないのでもない、文字通り「声が出ない」という感触がした。
男はそれを心得ているかのように頷く。
「ぼくは辰巳という。前にもあったね? きみの味方だ。だから怖がる必要はないんだ。ゆっくり深呼吸してごらん。そうして喋る。いいね?」
正雄は闇雲に首を振りながら、それでも深く息を吸い、そして吐いた。何だか妙な感触がした。それを言葉にするのは難しい。強いて言うなら、これは深呼吸じゃない、という感じ。ではどうすればいいのか、思い巡らせてみても途方に暮れるような違和感。
「落ち着くんだ」辰巳との距離は、もう腕を伸ばせば届くほどしかなかった。「大丈夫だ。何も心配することはない。きみの不安を取り除くために、ぼくは来たんだからね」
正雄は首を振り、その場に蹲った。積もり積もった不安と違和感が、何かを越えようとしている、という切羽詰まった予感がした。
「……来るな」
ようやく声が出たが、その声は掠れていた。今にも泣きそうな自分を、その声から自覚した。
「来るなってば」
分かった、と辰巳は笑った。自ら一歩退り、間合いを開いて床に坐る。壁に背を押し当てて蹲った正雄の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。何もしない」
「……ここ、どこなんだよ」
「家だよ」
「違う」
「じゃあ、安全な場所だ、と言い換えようか。これからね、ここがきみの家になるんだよ、正雄くん」
何を言っているのか分からない、との意を込めて、正雄はひたすら首を振った。辰巳はなおも微笑んでいる。正雄に同情しているふうですらあった。
「うん。きみがひどく混乱しているのは分かっているよ。見覚えのない場所を家だと言われれば、いっそう混乱するだろうね。――そう、きみはこの部屋に見覚えがない。自分に何が起こったのか分からないし、異常なことが起こった気がして不安になっている。何かがおかしいという気がするんだろう?」
言い当てられ、正雄は頷いた。意味もなく辰巳が恐ろしかったが、同時に自分の表現しにくい不安を理解してくれているふうなのに安堵もした。
「無理もないと思うよ。――いいかい? 君は甦生したんだ」
正雄は首を傾げた。
「本当に良かったと、ぼくは思うよ」言って辰巳は微笑む。「でもきみは甦生と言われてもピンと来ないだろうね。いや――心配しなくていいんだ。みんなそうなんだから。みんな最初は混乱する。けれどもすぐに落ち着いて、自分が大変な幸運に恵まれたんだってことを理解して喜ぶようになる」
辰巳は言って、正雄を見た。
「きみの着ているそれが何だか分かるかい?」
正雄は自分を見下ろした。白い着物のようなものを着ている。それがあちこち、泥で汚れていた。
「これ……」
「|経帷子《きょうかたびら》だよ。そして、左前になってる。打ち合わせが逆になっているんだ。なぜだか分かるかい?」
正雄は呆然と帷子を見下ろした。左前は死に装束ではなかっただろうか。それとも逆だっただろうか。必死で記憶を探ったが、判然としなかった。
「そう、それは死に装束なんだよ。……君は一度、埋葬されたんだ」
馬鹿な、と正雄は呟いた。辰巳は同情するように微笑む。
「うん、馬鹿なと言いたい気持ちは分かる。でも、本当なんだよ。君は死んだと見なされて埋葬されたんだ。けれども甦生した。つまりは本当には死んでいなかったんだ。棺の中で目覚めるところを、ぼくが助けた。ここに運んであげたんだ」
「……そんな」
「覚えてないかい? 君は体調が悪かったんだ。怠くて辛くて堪らなかった。そして、そのうちもっと悪くなった。身動きができなくなって、君は意識を失った」
正雄は目を見開いた。――そう、体調が悪かったのだ。その辛さには覚えがあった。辛くて辛くて、そのうちに身動きができなくなった。なのに家族は誰も、正雄の不調に気づいてはくれなかった。喉が乾いても水を与えてくれる者はなく、呻いても大丈夫かと顔を覗き込んでくれる者はなかった。このまま死ぬに違いない、と正雄は苦しい息の下で思った。――そして。
「……おれ」
意識を失ったのを、死んだと誤解されてしまったのだろうか。それを思った瞬間、全身が総毛立った。生きながら埋葬されてしまったのだ。助け出されていなければ、狭い棺の中で目を覚ますことになったのに違いない。誰もそれに気づかず、誰も助け出してくれず、蓋を持ち上げることも地上に出ることもできず――狭い棺の中で再度、死を迎えることになったら。
「……た、助けてくれたの?」
「そうだよ。ぼくが墓から君を掘り出してきたんだ。ぼくは鼻が利くんだよ。だから分かったんだ、きみの墓からは死臭がしなかったからね。腐敗臭がなかったんだよ。だから甦生するんだって分かったんだ」
正雄は息を吐いた。埋葬されたことは覚えていなかったが、助け出してもらえて良かったと心底から思った。
「ありが……とう」
「うん。本当に甦生できて良かったよ。きみは自分がなぜ体調を崩したのか、覚えているかい?」
正雄は瞬き、首を傾げた。体調を崩すのに理由があるだろうか、と思い、それと同時に脳裏を一人の男の顔が過ぎった。
「……おれ」
「誰かが君をあんなふうにしたんだ。……違うかい?」
辰巳に囁かれ、正雄は頷いた。震えが立ち上ってきた。あれは徹の死んだ日、武藤家からの帰りだった。裏庭に誰かがいた。そいつが正雄に飛びかかってきた。羽交い締めにされ、そして――。
「おれ……襲われたんだ」
誰に、と辰巳は身を乗り出して囁くように問う。
「……柚木さんだった……図書館の」
「そうだ」辰巳は笑った。「そうなんだよ。そして君は死んだんだ。分かるかい? 死んで、起き上がった」
正雄は悲鳴を上げた。柚木の顔、襲われた瞬間の感触、驚嘆と恐怖――その後の苦しみ。孤立した部屋の中、苦しい息と家族の無視、助けを求める相手はなく、大丈夫かと問うてくれる者もなかった。正雄は一人で部屋に横たわっていた。その心細さと恐ろしさ。夜が怖かった。窓の外にいる誰か。それが中に入れてくれと言い、正雄は決して入れてはならないこと、入れれば自分がもっと恐ろしい場所に追いつめられていくことを分かっていながら、まるで操れらたように来訪者のために窓を開けた。誰か来て止めてくれと心の中で悲鳴を上げながら、けれども決して誰も助けてはくれないことに絶望しながら、最後には本当に満足に息をすることもできず、自分の喉を掻き毟るようにして意識が途絶えるまでの短いような長い時間を迎えた。
正雄は今さらのように叫んだ。恐怖を訴え、救済を求める悲鳴が――かつては決して喉を突き破ることのなかった悲鳴が、今になって喉を破って溢れ出した。
「大丈夫だ」辰巳は正雄の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。それを振り解いて後退り、壁に突き当たって正雄は足掻いた。辰巳はそれを捕らえ、肩に腕を廻し、|宥《なだ》めるように手先で叩く。「――怖がることはないんだ。もう大丈夫なんだから。きみは死んだ。けれども起き上がったんだ。怖い思いも、辛い思いも終わったんだ」
「おれ、……」正雄は身もがいた。「……嫌だ。畜生、冗談じゃねえよ。く、放せよ!」
「死んだほうが良かったのかい。きみの甥みたいに? 博巳くんだっけ? あの子みたいに本当に死んだほうが良かったのかい」
「……博巳」
正雄は目を見開いた。――そう、博巳が死んだのだ。家族はそれを嘆き悲しみ、正雄が苦しんでいるのに気づこうともしなかった。宗秀も、宗貴も、智寿子も。
「博巳……死んだのか?」
「残念ながらね」辰巳は頷く。「死者の全てが甦生するわけじゃないんだ。博巳くんは甦生しなかった。きみを掘り上げた時、博巳くんの墓からは肉の腐った臭いがしてたよ」
正雄は身を縮めた。腐る――腐敗する。そう、土に還るとは、そういうことだ。この身体が、微生物や昆虫の住処になって、食い荒らされとろけて、見るもおぞましい物体になり果てる。
「だが、きみは幸運にも甦生した。だからもう腐ることもないし、死ぬこともないんだ。きみは運が良かったんだよ。なにしろ、甦生するのは数人に一人なんだから。甦生できずに腐敗していく者のほうが多いんだ」
正雄は自分の両手を見た。確かにそこに存在する。かつてと何の変わりもない。けれども身体のあちこちに拭いがたい違和感があった。
「おれ、死んだの……? 嘘だろ?」
「死んだんだ。よく気をつけてごらん。きみは息をしていない」
「そんなこと」
「してないんだ。しているような気がするのは、喋るために空気を吸って吐いているからだよ。試しに止めてごらん。別に苦しくはないから」
正雄は狼狽しながらも息を止めた。身体には何の変化も起こらなかった。息苦しくないのはもちろん、息を詰めているときの、あの鼻梁から耳の後ろにかけてが重苦しくなる感じすらない。
「……おれ」
自分の身内に感じていた違和感の正体。正雄の身体のどこかに空洞があった。身体感覚の何かか確実に損なわれていた。
「脈もないんだ。鼓動もない。きみは変容してしまったんだ。分かるだろう?」
「何だよ……これ。何なんだよ」
「きみはもう死ななくていいんだ。そして、ぼくは味方だ。味方だから、埋葬されたきみをこうして安全な場所に運んでやったんだ」
「嫌だ! おれ」
「いいかい。きみはこれを受け入れなくてはならない。もちろん、きみにはこれを拒む自由もある。きみがどうしても嫌だというのなら殺してあげるよ。どうする?」
正雄は身震いした。
「……嫌だ」
「そう、死にたくはないだろう? 二度とあんな思いをしたくないだろう?」
正雄は頷く。自分が呼吸をしていようとしていまいと、そういうことはどうでも良かった。ともかくも自分はここに「いる」。存在しており、存在している自分を自覚していた。それをもう一度、失うことだけは耐えられない。このままでいれば失わずに済むのであれば、このままで構わない。
「きみは死なずに済んだ。けれども、完全な不死身になったわけじゃない。きみが幸運にも甦生した命を大切にしたいと思うなら、きみは三つのことを心得ておく必要がある」
「……三つのこと?」
「そうだ。ひとつは、飢えないようにすることだ。飢餓はきみを殺す。生きている人間と同じだ」
正雄は頷いた。
「ただし、きみはもう食事はできない。普通の食事はね。非常に特殊なものしか受け付けなくなったんだ、と言ってもいい。それが何だか分かるかい?」
正雄は首を振った。辰巳は低く笑う。
「柚木さんも起き上がったんだ。甦生した。そして、食事をしたんだよ」
正雄はぽかんと口を開け、そして無意識のうちに右手で首に触れた。柚木は確か――。
「きみは生き延びるために、人の血液を必要とする」
「……血」正雄は|眥《まなじり》が裂けるほど目を見開いた。「……吸血鬼」
「なんと呼んでもいいけどね。きみの身体はもう液体以外のものは受け付けないんだ。身体の中に入れても、それを消化することができない。固形物は駄目だ。食うんじゃないぞ。胃の中で腐って酷い臭いを出すからな」
「おれは……」
「きみが生きるためには、人間の血液が必要だ。それが得られないと、君は飢えて死ぬ。まずこれを肝に銘じておくんだ」
「そんな……」
「きみが食事をするためには、人を襲わねばならない。だが、人間は易々とは襲わせてくれない。襲撃を受ければきみのように死ぬわけだからね。生命に危害を加えるものが襲ってくると分かれば抵抗する。きみはもう死なないのだけれど、不死身になったわけじゃない。心臓に杭を打たれたり、首を切断されたり、あるいは頭を潰されれば死ぬ。連中にそれをさせないために、きみは充分に気をつけて用心深くあらねばならないんだ」
「おれ……人を襲わないといけないのか? 襲って殺さないと?」
そう、と辰巳は低く笑う。
「だが、気にしなくていいんだよ。人間が生き延びるために家畜を殺すのと一緒なんだから。きみはこれまで、生きるために、動物を殺してそれを摂取してきた。これからは生きるために人を殺すんだ。それは当然のことなんだよ。仕方ないんだ。気に病むことはない」
正雄は目を見開く。
「二つ目。きみの身体は変容している。気をつけなければいけないのは、きみの身体は日光に弱いということだ。焼けただれてしまうんだよ、身体が。きみの身体は陽光を嫌う。陽光の溢れた昼間を嫌う。きみは夜明けと同時に眠る。これは抵抗できない深い昏睡だ。夜明けが近くなると耐えられないほど眠くなり、夜明けを過ぎると、意識を失う。そのまま日没まで目覚めないが、そのときうかつな場所で倒れると、眠っている間に焼け死ぬことになる。きみは時間に気をつけなければいけない。夜明けまでに必ず、安全な場所に帰ってくるんだ」
「そんな……おれ、自信がないよ」
「心配しなくていいんだ。ぼくは味方だと言ったろう? しばらく新しい生活に慣れるまで、ぼくも充分に気をつけてあげるし、仲間も面倒を見てくれる」
「……仲間」
「そう、仲間がいるんだよ。しばらくは必ず誰かと一緒に行動するんだね。甦って長い先輩と。いろいろと教えてくれる。だから心配しなくていいんだよ」
「わ……分かった」
「三つ目。ぼくらはきみの面倒を見る。新しい生活に慣れるまで、面倒を見てあげるし、必要なものは与えてあげる。きみを守ってあげるし、支えてあげるよ。仲間は家族のようなものだ。けれども、そのための条件が一つある。必ずぼくの言うことを聞くんだ。ぼくはきみが安全に生き延びるにはどうすればいいか知ってる。そのための知識も必要なものも、一切をきみに与えてあげる。だが、きみがもしもぼくの意に逆らって仲間を危険に曝すようなことがあれば、容赦なく庇護から外す。ぼくたちは結束していなければならないんだ。反逆は許さない。いいね?」
「そんな……」
「いいかい。ぼくは仲間の中でも少し特殊で、昼間にも眠らない。出歩くことができる。その気になれば、きみが眠ってしまったあとに陽当たりの良い場所に放り出しておくこともできるんだよ。杭を打って首を落として殺すことができる。それを忘れないことだ」
正雄は身を縮めた。
「怯えなくていい。ぼくは別に酷いことをしたいわけじゃない。仲間の安全が優先なんだ。人間がぼくたちの存在に気づけば、必ず反撃に出てくるんだからね。それをさせないために、ぼくたちは用心深くなければならないし、誰かが身勝手な行動をすれば仲間全部を危険に曝すことになるから、身勝手を諫めなきゃならない」
「でも、おれ」
甦生したくてしたわけじゃない、と言いかけた正雄を、辰巳は制した。
「数が多くなって仲間ができるとね、どうしてもリーダーが必要になるんだ。誰かがちゃんと全体の利害を考えて、纏めていかなければならないんだよ。桐敷家にいる人々がそれを請け負う。ぼくは彼らの意向を君たちに伝える。だからぼくの言うことには逆らわないこと。それがきみ自身を守ることでもあるんだ。分かるね?」
正雄は頷いた。辰巳は笑って、紙袋を引き寄せた。中から一抱えの衣服を差し出す。
「とりいえず、これに着替えて。生活に必要なものはおいおい揃えてあげるから」
正雄は言われるまま、白装束を脱いで、ごく普通のコットンパンツとトレーナーに着替えた。こういうものは、どうやって手に入れてくるのだろう、と思う。辰巳が昼間に買っておくのだろうか、そのための資金は桐敷家から出ているのだろうか。
やはり――と、正雄は思う。桐敷家が全ての元凶だったわけだ。夏以来つづいていた良くない出来事、特に連続していた死に事の元凶は桐敷家にあったのだ。
(吸血鬼……)
馬鹿みたいだ。そんなものがいるなんてこともお笑いだが、自分がそんなものになってしまったなんてさらにお笑いだ。けれども服を着る間も、ともすれば正雄は呼吸を忘れた。喋るのでなければ必要ないのだ。意識していなければ、身体は停止した状態であろうとする。
「おれ……本当に死んだんだ」
「そうだよ」と、辰巳の声は優しい。「甦生できて良かった」
正雄は頷いた。この歳で死ぬなんて、真っ平御免だ。正雄は死にたくなかった。まだ何も得てない。楽しい思いもいい目も見てない。そのまま死ぬなんて冗談じゃない、と思った。辰巳は数人に一人、と言った。正雄は厳しい賭に勝ったのだ。
(博巳は死んだ……生き返らなかった)
何となく、悪い気はしなかった。正雄は博巳が気にくわなかった。生意気なちび。家中の関心を一身に集めて、好き勝手にやっていたけれども、もういない。有り体に言えば勝ち誇った気分だった。
正雄は一度死んだ。恐怖がやってきて正雄を捕らえた。だが、誰も正雄の恐怖を理解しなかったし、博巳にかまけていた家族は正雄を振り返らなかった。正雄は鈍磨した思考の中で、最後まで顧みられることのない自分を確認して死亡したのだった。――そう、家の中で、正雄は孤独だった。ひとりきりで死んだのだ。
それまでの自分の惨めな境遇。けれども正雄はもうあの家に帰る必要がない。宗秀も宗貴も関係ないのだ。宗貴は死んでない。誰ももう正雄と宗貴と比べない。さまざまな圧迫から解放されたのだ、と思ったら笑みが浮かんだ。
「何が起きたのか腑に落ちてきたかい?」
辰巳に言われ、正雄は頷く。
「おれは仲間になったんだよね?」
「そうだよ。大切な仲間だ」
そういってもらうのは、気分が良かった。
「大切なの、本当に」
「もちろんだとも。ぼくらは数が少ないんだからね」
「うん」
正雄は「特別な子供」だった。兄弟の中で特別、歳が離れていて、特別甘やかされていて、特別我が儘に育った、と言われてきた。しかしながら、実際のところ、正雄は少しも「特別」ではなかった。だから正雄は「特別」な存在になりたかった。なれるはずだと思っていた。けれどもそれを妨げられていた。周囲の無理解や無慈悲によって。そしてやっと本当に「特別」になったのだ。
辰巳はじっと正雄の顔を見ている。心中の変化を見透かすように。そして訊いた。
「食事ができそうかい?」
「食事……」
正雄は、どきりとした。
「最初のひとりを襲うのには、ちょっとばかり勇気がいる。だから、最初から襲え、とは言わないよ。その踏ん切りがつかないのなら、必要なものだけを持ってきてあげる」
「……血を?」
「そう」と辰巳は笑う。「コップに入れてね。それに口をつけるのだって勇気が要らないわけじゃないけどね。けれどもじきに慣れる。きみはもう変わってしまったから、嫌な臭いや味は感じないはずだ。むしろ、みんな最初は嫌な顔をするけれども、味は悪くない、と言うからね。気分的に嫌な感じがするだけで、別に嫌な飲み物じゃない」
正雄は頷いたが、喉の辺りにおぞましさのようなものを感じた。
「ただ、ずっとというわけにはいかない。最初のひとりを襲うまでは子供みたいなものだから。きみがずっと子供のままでも面倒は見てあげるけど、子供の取り分は少ないものなんだ。覚えがあるだろう? 子供でいると、人生の美味しいところを取り逃がすんだよ」
「……うん」
「最初のひとりを襲って殺す。それがまあ、ぼくらなりのイニシエーションというところかな」
「……殺す」
「ぼくらが食事をすると、家畜は死ぬことになるんだよ。それを怖がっていたら、食事はできない。そのかわり、きちんと獲物を襲えるようになれば、きみはそれで一人前だ。年齢は関係ない。甦ってどれだけ経ったかもね。きみは一人前の仲間として扱われるし、きみが特別、利口に振る舞うことができ、仲間のために有益であるなら、仲間の中でも重要な位置を占めることができるよ」
「おれが?」
「そうだよ。きみが、だ」
辰巳は言って、励ますように肩に腕を廻した。
「きみが甦生することが分かっていたから、きみのための餌食を用意してある。捕らえて抵抗できないようにしてあるんだ。そいつを襲うのは安全だ。だから心配はないんだよ。けれどもその踏ん切りがつかないのなら、とりあえず必要なものだけを与えてあげる。――どっちにする?」
「おれ……」
「獲物は抵抗できない。きみに危害を加えることはないよ。最初は少し恨みがましい目で見るかもしれないけれども、一度襲えば、穏和しくなる。ぼくらが襲うとね、あいつらはいい気分になってしまうんだよ。あとは本当に無抵抗だ。別に恨み言を言うわけでもないし、恨みがましい目で見るわけでもない。人によっては喜々として襲われてくれる」
「本当に……?」
「本当だとも。襲っているとそいつは死んでしまうけれども、きみがその結果を恐れる必要はないんだ。それはぼくたちが生きるためには仕方のないことで、当然のことなんだからね。人を襲わないと、きみが死ぬことになるんだ。誰も、他人を死なすぐらいなら自分が死ね、と言ってきみを責める権利はないんだよ。そういうものだろう?」
「……うん」
「だから死なせることを恐れなくていいんだ。殺すことを躊躇する必要はない。きみが誰をどれだけ殺したって、仲間はきみを責めたりしない。むしろちゃんとした奴だと認めてくれるんだ」
「それ……人を殺してもいい、ってこと?」
「そうだよ」辰巳は笑う。「きみはね、殺す特権を手に入れたんだ」
正雄は身震いした。
「……けど、知り合いや近しい人間を襲うのは許されないよね」
「なぜだい? ぼくらは歓迎するよ。特に血縁はね。きみは甦生した。甦生するかどうかはね、遺伝するんだ。たぶん体質の問題なんだと思う。一人でも甦生した一家は、そうでない家族に比べて甦生しやすい。だから、家族を襲ってもいいんだよ。仲間は多いに越したことはないんだからね」
「でも、……たとえば気に入らない奴がいて、だからってそれだけで襲ったりしちゃ、いけないんだよね?」
「どうしていけないんだい? どうせ誰かを襲わなきゃいけないんだよ」
正雄は目を見開いた。一瞬、脳裏を過ぎったのは、夏野の顔だった。殺してもいいのだ。抹殺してしまえる。博巳がすでに死んでいるのが、ほんの少し残念な気がした。
じわじわと歓喜に似たものがこみ上げてきた。正雄はそれによって自分が高みに押し上げられるような心地がした。
「どうする? 勇気を出して、襲ってみるかい?」
優しげな声で囁かれ、正雄は頷いた。
「……やってみる」
辰巳は低く笑った。
「きみは感心な少年だな」
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(門前、境松――松尾、静)
音量を絞ったCDの音に耳を澄ませながら、夏野はベッドに坐って木を削っている。夏野は門前に知人を持たない。何度思い返してみても松尾静という名前には覚えがなかった。ましてや小学生ぐらいの女の子だという。まったく訪ねてくる理由が見当たらない。
(『お兄ちゃん』か……)
夏夫静と名乗った少女は「あとでお兄ちゃんが来る」と言ったらしい。夏野は何となく、その「お兄ちゃん」が、本橋鶴子の墓で遭遇したあの男ではないかという気がしていた。その可能性はある。連中にしたら、夏野は重大な秘密に気づいた証人だ。
松尾静がどういう子供にしろ、果たした役割は明らかだと思う。夏野に用があるといい、待たせてくれと言った。そうすることによって家の中に招き入れられたのだ。そして静は、「お兄ちゃん」の招待をも、もぎ取った。
明かりはスタンドとオーディオのものだけ。室内灯を消してあるのは、部屋が煌々と明るいのは、周囲の闇が深く感じられるからであり、闇の中に自分だけが浮き上がるようで不用心な気がしてならないからだった。
暗い明かりの中、五センチばかりの木片を削り、十センチばかりのそれと十文字に組み合わせる。さて、こんなものが本当に役に立つのだろうか。
(信仰心の問題)
そういう話もあったな、と思う。いくら十字架を使っても、信仰心がなければ役には立たない。――けれども、夏野はそもそも、宗派を問わず、信仰心を持たない。とりあえず恵の葬儀の日に親から渡された数珠があるだけで、その他には守り札の類すら持っていなかった。
やはり、保のところに転がり込むべきだっただろうか、と思う。だが、明らかに自分を目指して子供がやってきた以上、保を頼って巻き込むわけにはいかない、という気がした。それに、と思う。武藤家ではすでに犠牲が出ている。あの家はもう、連中に対して閉じてはいないだろう。ならばなおさら、保を頼って、危険に曝すわけにはいかない。
思いながら、二本の木片を組んで針金で巻く。こんなものでもないよりはましだろう。今の夏野は、家の外にいるのと大差ない。とりあえず壁に囲まれているけれども、相手が実際にはどういう生き物であるのか分からない以上、それで安心することはできなかった。
ただ、と両手に今も残る感触を思い出す。男を(『お兄ちゃん』……)殴ったときのあの手応え。そこには、はっきりとした身体の感触があった。煙になって部屋に侵入してくるとか、壁を通り抜けてくるなどとは思えない、そういう想像を許さないひどくリアルな感触が。それを思うと、壁や窓ガラスは障壁の役割をなすかもしれない。鍵は鍵として有効だという気がした。問題は、家の中の全ての開口部を閉ざすことができるわけではない、ということだ。
窓はクレセント錠をかけているが、夏野の部屋には鍵がない。とりあえずノブの下に炬燵の天板をかませてあるものの、それがどのていど有効なのかは分からなかった。玄関は戸締まりをした。工房の戸口もだ。だが、さすがに両親の寝室の窓までは施錠できない。この村に越してきて以来、両親は鍵をかける習慣を放棄していた。裏口や、いくつかの窓は、そもそも鍵がきちんとかからない。
明日になったら、鍵を何とかしないと、と思っていたところだったので、軽く窓ガラスをノックされて、夏野は驚いた。微かに――そして遠慮がちに、指先で叩く音。
恐怖は感じなかった。来た、と思っただけだ。だからといって、もちろんノックに答えてやる気も窓を開けてやる気もない。夏野はカーテンを睨み付けて、じっとベッドに坐っている。これを無視し続けたら、相手は次にどういう手に出てくるだろう、とぼんやり思った。
ノックの音は何度も間隔を開けて、執拗に続いた。無視を続けると、窓を外から開けようとする音がする。幾度かごく軽く窓を揺すり、開かないことを確認すると、物音が途絶えた。明らかに忍ばせたふうの足音が、窓辺を離れていく。
夏野は軽く息を吐き、そして今度は家の中の物音に耳を澄ませた。裏口が開く音がしないか、廊下をやってくる足音はしないか。それらの音は聞こえないまま、また足音が窓辺に舞い戻ってきた。ためらいがちに窓ガラスをノックする。――それからまた足音が。裏庭を遠ざかり、今度は裏口が開くのが聞こえた。実際にドアが開く音がしたわけではないが、どこかでドアが引き開けられ、それが作る空気の流れが、家の中の建具を揺する微かな音が確かにした。
全身を耳にして、夏野は家の中の気配を探る。もともとが古い建物はよく軋む。廊下も例外ではないが、廊下をやってくる足音は聞こえなかった。かわりに裏庭をやってくる足音が、再び聞こえた。――どうやら、裏口から忍び込む決心はつかなかったらしい。
また、ノックの音がした。夏野は壁に背中を預けたまま、息を潜めてそれを無視する。そして、声がした。
夏野は壁から背中を離した。ごく低く、押し殺した声が、夏野、と呼んだ。男の声か女の声かも分からない。囁くような、あたりを忍ぶ声だが、明らかに聞き慣れた調子が含まれていた。
――夏野。
窓の外から小声がする。夏野は一瞬、それを保だと思った。親しい誰かが自分を呼ぶときの声の調子。そして、そんなふうに呼ぶ人間は、保以外に思い浮かばない。
夏野はそろそろとベッドを下りた。夏野が立ち上がった気配を感じ取ったのか、密やかなノックがやんだ。
「……誰だ」
低く言うと、おれだ、と押し殺した声がする。やはりその声には親しげな調子があった。見知らぬ誰かではない、夏野が良く知っている誰か。
夏野はカーテンを開ける。窓ガラスは暗い鏡のようだった。スタンドの明かりに翳った室内が映っている。それと|朧《おぼろ》に二重写しに、外の闇が見えた。間近まで迫った林の木立。
視野の端に白いものが現れた。それは明らかに男の手で、それが窓ガラスの下のほうをノックする。誰かが窓の下に屈み込んでいる。ガラスに額をつけるようにして見ると、確かに蹲った人間の身体の一部が見て取れた。
夏野は十字架を手の中で持ち直す。相手が窓の下に屈み込んでいるせいで、それを手放す踏ん切りは突かなかった。知り合いなら、どうして隠れているのだろう。本当に保ならさっさと開けろと立ち上がって急かすだろう。不安のようなものが胸に兆した。何かが喉元まで出てきているのに、どうしても声にならない、そういう感じ。もやもやとしたものが|蟠《わだかま》り、今にも形を成そうとしている。
ノックしている手。ごく普通の、触れれば暖かく柔らかいだろう手。筋の立った指が窓ガラスを叩く。
「……誰だよ」
おれだ、とまた押し殺した声がした。夏野はそろそろと手を伸ばし、クレセント錠に手をかける。それをしてはいけない、と胸の中で囁く者があった。同時に、自分は何か重大な間違いを犯している、という気がした。こうして立て籠もり、身を守る以前に、何か忘れてはならない重大なことを忘れてはいないか。形が見えそうで見えない何か。窓を開ければ、その形が定まるという直感。
かたり、と音がして錠が外れた。それと同時に手が引っ込んだ。窓の外の誰かは立ち上がらない。夏野は十字架を握っていない方の手で窓を開いた。
窓の縁に手をかけ、誰だと声をかけようとしたのと、手首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれるのが同時だった。とっさに引き剥がそうとする力と、引き寄せようとする力が拮抗した一瞬、窓の外にいた者は中腰に立ち上がり、そして夏野の手を突き放すように放して両腕で顔を覆った。
夏野は一瞬、呆けた。
窓の外にいた者は、顔を背け、|形振《なりふ》り構わずに足音を立てて、裏庭を逃げていく。
掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれた手首。その氷のような温度。顔を覆い隠すまでの一瞬、スタンドの明かりが照らし出した顔。
「……徹ちゃん……」
反射的に、夏野は身を昼がしていた。邪魔な炬燵の天板を除け、部屋を出る。廊下を走って裏口に向かうと、裏口は細く開いたままだった。とにかくそのへんの履物を引っかけ裏庭に飛び出した。
戸外には風の音と夜気が充満していた。闇に彩られた濃厚な夜。
逃げ出した人影が消えたほうへと後を追った。これだったんだ、と思った。
死は伝染する。鬼が触れたものは死に、そして起き上がる。徹を奪っていったのが連中なら、もちろん徹が甦生していても何の不思議もない。夏野はこれを思い出そうとしていた。――いや、ずっとこれを思い出すまいとしていた。
考えたくなかった。信じたくなかった。それは恵でも、他の誰でも良かったが、絶対に徹でだけはあってはならなかった。
表に駆け出すと、人気のない道だけが横たわっていた。玄関先の暗い明かりが、雑多な樹木に埋もれた前庭と低い生け垣を照らしている。同じく低い門扉は、わずかに開いて今も微かに揺れていた。
それを引き開け、道に出て左右を見渡す。街灯すら満足にない道は暗く、右も左も薄墨を暈かし込むようにして闇の中に消えている。目に見える範囲内の、どこにも人影はなかったし、足音もまた聞こえなかった。風と、夜風に揺すられる林の音だけが響いている。
夏野は肩でしていた息が治まるまで、何度も左右を見比べた。何の気配もないことに落胆し、息をつく。
――徹が。
村に蔓延する死を食い止め、何とか常態を呼び戻さねばならない。それは途方に暮れるような難行事だと分かっていたが、その一方で何となる、という気がしていたのも確かだ。今はとっかかりが見えないが、何かひとつ契機が見つかれば何とかなる。夏野はそういう気がしていたけれども、今やそれはまったくの不可能事に思えた。
誰もこれを止められない。事態は回復不可能なところにまで進行している。なぜそう思うのかは説明できなかったが、両手に甦った生々しい感触とともに、そう確信していた。
(……どうしよう)
自分はどうすればいいのだろう。どうにかする方法など、存在するのだろうか。焦りにも似たものが浮かんだ。それは見事なまでに絶望と貼り合わされていた。
虚脱したような気分で、夏野は踵を返す。門扉を閉め、玄関に近づき、他ならぬ自分が内側から施錠したことを思い出した。そういう自分の振るまいがいかにも愚かしく、溜息混じりに裏庭に向かう。どうやら両親を起こさないで済んだふうなのがせめてもだ。
自嘲する気分で悄然と裏庭へと曲がった夏野は、背後の庭木の陰に、人影が潜んでいるのに気づかなかった。それが音も立てずに忍び出たことにも、その両手が伸ばされたことにも。
背後からパジャマの襟を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで引き倒された。背中を支えた動きは転びかけた者を受け止めるように優しげなくせに、羽交い締める腕も、口許を覆う手も、覗き込んできた顔も芯に滲み入るほど冷たかった。
[#改段]
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六章
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十月十二日。伊藤郁美は足早に村道を北へと向かった。外場の集落を過ぎ、上外場に入るちょうど境目に、清水園芸店はある。店と言っても店舗はない。人家の裏手に畑が広がっているばかり、控えめな看板がなければそれとは分からない。その看板も今は花輪に隠されていた。花輪の下には鯨幕、白と黒で喪の装いを終えた軒先には、忌中の張り紙と提灯が出ている。清水祐の葬儀だった。
郁美が人波を掻き分け、家に入ると、抹香の匂いと不安なざわめきが辺りには満ちていた。
「まだ高校生なのに……」
「この間、父親が死んだばっかりなのに」
「裕美さんはどうするんだろうな。血の繋がらない爺さんと二人で残されて」
「実家に帰るんじゃないのかい」
「にしては、実家の人の姿が見えないね」
「同級生の姿もだよ」
不審そうに座敷を見渡していた老女は、郁美に目を留めると、ぴたりと口を噤んだ。郁美は怪訝そうな視線を受け流し、座敷に上がり込むと、まっすぐに祭壇の前に進む。祭壇の前に安置された棺の側、母親の裕美と祖父の雅司が悄然と座っていた。
「どうも御愁傷様」
郁美が言って二人の前に進むと、清水雅司が訝しむように顔を上げた。盛んに瞬いて郁美を見上げてくる。どこの誰だろうと、記憶を探っている顔だった。
「あたしは伊藤ってもんです。お孫さんが亡くなったと聞いて、僭越ながら駆けつけてきたんですよ」
「ああ……これはどうも」
「まだ高校生だっていうのに、残念なことでしたねえ」
郁美が言うと、雅司は深く俯き、頷く。隣に坐った裕美は、放心したような顔で郁美を見ていた。
「夏には息子さんが亡くなったそうじゃないですか。隆司さんというんでしたっけ」
「ええ……」
いたく気落ちしたふうの老人に、郁美は頷いて見せた。
「隆司さんが、息子さんを引いていったんですね」
「そうかもしれません」
「清水さん、あたしは、そのままの意味で言ってるんですよ。隆司さんが起き上がって引いていったんです。鬼ですよ」
は、と雅司は瞬いた。
「隆司さんが浮かばれてないんですよ。埋葬の仕方が悪かったんだと思うわ。近頃の坊主は金勘定以外、できやしないんですから。ちゃんと死者を慰めて送るなんて、できやしないんですよ。供養の仕方が悪いんです。恨みと無念が残っちゃったの。だから隆司さんは浮かばれなかったんですよ。それで起き上がって、お孫さんを引いていったんだわ」
雅司はぽかんとして、それから郁美を睨み据えた。祭壇の周辺では、いつの間にか雑然とした声がやんでいた。
「あんた――何の話をしてるんだい」
「聞いた通りですよ。分からないの? こんな葬式をしたって意味がないんですよ。近頃の坊主は、何も分かっちゃいないんだから。お寺なんかに頼るから、隆司さんは浮かばれないのよ。ちゃんと供養をやり直さないと、雅司さんも裕美さんも引かれる羽目になりますよ」
雅司は顔を紅潮させた。拳を握って中腰になる。
「あんたは何者だい。何をしに来たんだ」
「忠告に来たんですよ。親切でね。起き上がりなの。鬼なのよ」
「馬鹿馬鹿しい」
「でなかったら、どうしてこんなに死人が続くの?」
雅司は言葉に詰まった。
「隆司さんが死んだばかりで、今度はお孫さん。こんなことがどうして起こるの? 隆司さんが引いてるからに決まってるでしょ。ちゃんと供養ができてたら、隆司さんが起き上がるわけがないじゃないの。つまり」
「帰ってくれ!」
雅司に怒鳴られて、郁美は鼻白んだ。
「――そう。あたしは親切で入ってあげてるんだけど、あんたはものの道理の分からない人みたいね」
郁美は雅司を冷たく見て、ぼんやりと郁美を見上げてくる裕美に視線を移した。
「奥さん、あんたはどうなの? 実家に帰っても無駄よ。隆司さんは追ってくるわよ。次はあんたかもしれないわ。心がけを変えるなら今のうちよ」
「ちょっと、あんた」
背後から腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれた。振り返ると、村迫米穀店の宗秀が郁美を睨んでいる。
「あんた、不幸があったばかりの人に、なんてことを言うんだ。戯言もいい加減にしろ」
郁美は宗秀の視線を真正面から捕らえた。
「そういえば、あんたのところも死人が続いたんだったね」
宗秀は怯む。孫の博巳に続いて、末の息子の正雄が死んだ。文字通り、立て続けの不幸だった。
「その頑迷な頭を何とかしないと、まだまだ続くことになるよ」
「馬鹿馬鹿しい」
宗秀は吐き捨てたが、脳裏を残された孫娘が掠めた。とにかく、と郁美の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで引き、座敷の外に押し出した。
「ここは死んだ人を悼む場所だ。ちっとは時と場所ってものを考えてくれ」
無理矢理押しだし、障子を閉めたが、そうやって閉め出そうとしているものが本当は何なのか、宗秀自身も疑問に思った。
ふん、と郁美は閉まった障子を見つめる。頑迷な分からず屋だ。それならそれでもいい。じきに誰が正しかったのか、身をもって知ることになるだろう。踵を返すと、物見高い観客が郁美を取り巻いていた。
「あんたらもね、気をつけたほうがいいね」
それだけを言って、郁美は表に向かう。後を小柄な老婆が一人、追ってきた。
「あんたまさか、あれを本気で言ってるんじゃないよねえ」
郁美は足を止める。老婆の後ろには、数歩遅れて、数人の老人が追ってきていた。物見高さ半分、けれどもどこか不安げな表情だった。
「本気でなきゃ、わざわざ足を運んだりしないわよ。もっとも、誰も信じちゃくれないみたいだけどね」
「だってあんた……そんな、鬼だなんて」
「じゃあ聞くけど、他の何だって言うの?」
老婆は視線を逸らした。
「この夏以来、どれだけの人間が死んだか、分かってるの? ようく思い出してごらんなさいよ。何回、弔組の用で出た? 何度、葬式に出たの? それ以外にも誰それが死んだって話を聞かなかった? 葬式を見かけなかったの」
老人たちは沈黙する。
「こんなに死人が続くのが、当たり前のことなの。これが普通だというなら、あんたたちのほうがどうかしているわ」
「そりゃあ、……でも」
「この家だってそうよ。父親が死んで、四十九日が明けるか明けないかのうちに息子が死んで。その葬式を取り仕切ってる世話役の家じゃ、孫の初七日も明けないうちに息子が死んでんのよ。そういうことが、そうそう頻繁に起こるもんかしらね」
老人たちは口々に「でも」と呟いたが、はっきりと異論を唱えられる者は誰もいなかった。
「引かれてるのよ。鬼だわ。それもこれも、兼正に妙な家が建ってからよ」
はっとしたように、老人たちは西の山を見上げた。秋めいて明るく澄んだ空を背景に、山はこっくりとした緑に輝いている。
「でも……それとこれとは」
「関係ないと思うの? 村じゃこれまでずっと、死人を土葬にしてきたんじゃない。なのにこれまでは、誰も起き上がってきたりしなかった。あの連中が起こしてんのよ。連中がそもそも鬼だから。そうでなくて、なんでああもぴったり門を閉じて隠れてる必要があるのよ」
郁美は、俯いた老人たちを睥睨した。
「信じたくなきゃ、信じなくてもいいわ。じきに家で死人が続いて、いやでも分かることになるんだから。そうなってからじゃ、あたしにはどうにもしてあげられないけどね」
踵を返し、傲然と首を上げて立ち去る郁美を、老人たちは困惑しながら見送った。その場には、矛盾に満ちた郁美の言い分の、齟齬を指摘できる者はいなかった。できたとしても、しなかったろう。それは論理ではなく直感の領域にある。――この村は、近頃明らかにおかしい。
老人たちは頭を振って、葬儀場に戻ったが、そのうちの幾人かが、さっきのは誰だと周囲の人に尋ねた。訊いたものは、水口の伊藤郁美、という名前を胸の中にしまい込んだ。まるで守り札のように。
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昭は学校から帰ってすぐ、服を着替えるなり山に入った。まっすぐに林道を駆け上がり、本橋家の墓所に向かう。墓所に足を踏み入れるのには度胸が要ったが、まだ空は明るい。しかも山のどこかで、微かにモーター音がしていた。誰かが働いている音だ。
それらのものに励まされ、昭は墓所に踏み込む。本橋鶴子の墓は、確かに夏野が言った通り、何事もなかったかのように整えられていた。
「外場の正面に立って右……」
昭は周囲を窺いながら、角卒塔婆の正面に廻り込む。向かって右の地面を見ると、白っぽい石が三つ、三十センチほどの間隔で正三角形を描いていた。
昭は胸を撫で下ろした。石が動いていないということは、塚は壊されていないと言うことだ。塚の下に眠るものは、少なくとも起き出していない。――それがまだいるとすれば、だが。
「兄ちゃんって、すげえ」
ひとりなのをいいことに、口にしてみる。たかだか小石を置いただけで、ちゃんとした警報装置にしてしまったのはすごいと思う。もしも誰かが――連中が、墓を掘り起こしに来ても、たかだか小さな石のことだ、気が付きもしないだろう。
「かおりの恩人だしな」
かおりが襲われたときには助けてくれた。あのとき、昭はすっかり竦んで動けなかった。夏野がいなかったら、きっとかおりの次には自分が襲われていたのだろう。
思いながら、大任を果たした気分で意気揚々と墓所を出た。下りの傾斜に背中を押されて飛ぶように山を降りる。実際にやったのは、墓所に行って墓を確かめるだけの些細なことだが、これは重大なことなんだ、と昭は自分に得々と説明した。監視なんだから、すごく大切なことなんだ。
夏野は溝辺町の高校に通っているから、陽が落ちる前に戻ってこられるとは限らない。むしろ五時半には陽が落ちてしまうことを考えると、ほとんど間に合わないと言っても良かった。だから自分が行く、と監視を買って出たのは昭自身で、夏野がそれを「任せる」と言った。充分に気をつけろ、日が暮れたらその日はもう諦めろ、ぐずぐずと時間を潰さずに確認したらすぐに山を下りろ、と念押しされるのは、さも重大なことを割り振られているようで気分が良かったし、そのうえで「頼んだぞ」と言われれば、なお気分が良かった。夏野の役に立ったのだと思うと、何となく自分が誇らしい。
今日は異常なしだ、と昭は達成感でいっぱいになって家に戻った。帰ると、ちょうどかおりが私服に着替えて、外に出てくるところだった。
「おかえり」かおりは言って、ラブを小屋から出す。「どうだった?」
「異常なし」昭はちょっと胸を張った。
かおりは周囲を窺うようにして訊く。
「……お墓は?」
「兄ちゃんの言う通り、元通りになってたぜ。けど、目印は動いてなかった」
そう、とかおりは息を吐いた。ラブを連れて公民館のほうへと歩き出す。昭はその後について行きかけ、思い出して廻れ右をした。家の中に駆け込み、茶の間にいる母親に声をかける。
「おれ、かおりとラブの散歩に行ってくる」
「お姉ちゃん、でしょ」母親は相変わらず同じような小言を言った。「夕飯までに帰ってきなさいよ」
「分かってるって」
「少しも分かってないじゃない」
母親の尖った声に顔を顰め、昭は心中で舌を出した。何も分かってないくせに。母親という生き物は、どうしてこう鈍感で暢気なんだろう。どうでもいいようなことで水を注して、大切なことの邪魔をする。昭はときどき、母親には物事の順番ってものが分からないのじゃないかと思う。
「夕飯までに帰るよ。――おれが出てる間に誰か来ても入れるなよな」
「朝に聞いたわよ。出かけてるから出直してくれって言うんでしょ」母親の佐知子は、いなすように言って、テレビ欄を開いた新聞を畳んだ。「昭、誰かと喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃねえよ」
身を翻して表に出ながら、そうとも言えるかもしな、と昭はひとりごちた。喧嘩と言えば喧嘩なのかもしれない。昭たちに敵がいるのは確かだ。
道路に駆け出すと、かおりがラブと待っていた。昭は駆け寄り、かおりと肩を並べ、公民館のほうへと足を向ける。
「どうしたの?」
「母ちゃんに、もう一回、念を押しといた」
「ばかね」かおりは呆れたように言う。「何度も念を押したら、お母さん、変に思うじゃない」
「念を押しとかないと、すぐに忘れるんだよ。おれたちの言うことなんかより、洗濯物を取り込んでないとか、バケツの水を捨ててないとか、そういうことのほうが重要だと思ってんだから」
そうかもね、と、かおりは頷いた。
「兄ちゃんがわざわざ電話してきたことなんだから、絶対に重要なことなんだ。だから念押ししといたんだよ」
「結城さん……」かおりは呟いた。「どうしてわざわざ、そんなことを電話してきたのかしら」
「思い出したんだろ」
昭は言ったが、これには我ながら自信がなかった。夏野の様子はどこか変だった。少なくとも昭は、変な感じを受けた。
「お客がなかったか、って聞いたのよね?」
「うん」
「それって、結城さんのところには、お客があったってことかしら」
かもな、と言って、昭はかおりを見る。
「そんなの、兄ちゃんにあって聞けば分かるだろ」
昭に言われ、かおりはそうね、と頷いた。それは確かにそうなのだけど。――なんだろう、この胸騒ぎみたいな落ち着かない感じは。
ラブを連れて公民館のグラウンドに向かう。サッカーボールを持った子供が数人、グラウンドを出てくるところだった。そのあとには閑散とした空間が残されている。
なんだか、最近、人の姿を見かけない、とかおりは思う。こんな時、いつもなら必ずグラウンドの端っこに一人でボールを追いかけたり遊んだりしている子供を見かけるものなのだが、あまりそういう姿を見かけることがなくなった。陽が落ちて、あれで果たしてボールが見えているのかしら、と思う頃にまで子供たちが残っている姿を見ることもない。そういえば、母親はそもそもあんなに夕飯時に帰れと言うことに煩かっただろうか。かおりはともかく、昭はしょっちゅう、夕飯に遅れていたような気がする。
最近、村が寂しい。夕暮れ時には特に。思いながらグラウンドの隅のベンチに腰を下ろすと、昭とふたり取り残されたようで、グラウンドが広いだけに、いかにも心細かった。
ラブの綱を放してやると、ラブは昨日と同様、|人気《ひとけ》の絶えたグラウンドを勝手に散歩している。あちこちの臭いを嗅ぎ、寄る辺を探しているように見えた。
夏野がやってきた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。どことなく意気消沈したような足取りでやってきた夏野は、億劫そうに鞄をベンチに投げ出した。
「兄ちゃん、石、動いてなかったぜ」
昭は得意満面に報告をする。ベンチに腰を下ろし、そうか、と答えた夏野はひどく疲れているように見えた。
「結城さん、どうしたの?」
「……寝不足なんだ」
夏野は言ったが、疲れている以上に、何か心配事でもあるふうに見えた。
「昨日、何かあったの?」
かおりが訊くと、夏野はぎょっとしたように顔を上げる。
「何か、って」
「だから、昭にわざわざ電話してきたでしょう?」
「おれ、ちゃんと母ちゃんに念押ししといたから」
これまた得意そうに言う昭を、かおりはねめつけた。
「あんたは黙ってなさい。――ねえ、なんであんな電話をしてきたの? 昨日、何があったの?」
夏野は答えなかった。膝の上に肘をついて、じっと地面を見ている。薄暮の中、夏野の表情は翳っている。
「……ちょっとな」
ようやく夏野は言った。それから、顔を上げ、かおりを見る。
「あんた、もしも清水が――」言いかけ、すぐに顔を伏せた。「いや、……いいや。何でもない」
「なによ?」
夏野は首を横に振る。わずかに苦笑するふうだった。
「昭、とにかく気をつけろよ。夜には出歩かないほうがいい。もしも夕方に出歩くなら、何か身を守るものを持ってろ」
「バットとか?」
「そんなもんでも、ないよりマシだろ。あとは十字架とかお守りとかさ。どの程度、効くのかは分からないけど」
分かった、と昭は神妙に頷く。
「で、結局、どうするか決めた?」
夏野はこれに対しても、妙な間を作った。
「……どうしようもないだろ。週末にならなきゃ」
「週末まで何もしないのか?」
「できないんじゃないか。学校、行って帰ったら、日没までほとんど時間が残されてないんだから」
「そりゃそうだけどさ。いいのか? そんな悠長にしててさ」
「仕方ない、って言ってるんだ。とにかく墓を監視して――あとは新仏が出てないか、注意することだな。実際にここ最近、どこの誰が死んだのか正確なところが分かればいいんだけど」
「なあ。おれ、思ったんだけどさ。恵の父ちゃんと母ちゃんに、恵がいないって言ってみるの、どうかな」
「それはおれも考えた。けど、どうやって言うんだよ。おれたち、墓を暴いてみたけれど誰もいませんでした、って正直に言うのか?」
「うーん……。そうだよなあ」
「匿名の投書って駄目かしら」かおりは首を傾げた。「墓には誰もいないぞって、手紙を書いて郵便受けに投げ込むの」
昭は呆れたように、かおりを見る。
「そんなの、悪戯だと思われるに決まってるじゃないか」
「そうだけど……。でも、なんどか続いたら、気になるかもしれないでしょ?」
「なるかなあ」
「なるまでやってみるのよ」
「気の長い話。その気になる前に、おれたちが手紙を出してるんだってバレそうだよな」
そうだけど、とかおりは溜息をついた。
「あたしたちだけじゃ、できることなんて限られてるじゃない。それこそ、結城さんの言うように学校だってあるんだし。やっぱり大人が動かないと、どうにもならないと思う。何か変だって思ってもらわないと」
かおりは同意を求めて夏野を見たが、夏野は前屈みに項垂れてしまっていた。
「……どうしたの?」
「兄ちゃん、どうしたんだ?」
「……寝不足だって言ったろ」
顔も上げずに、掠れた声が言う。
「大丈夫か?」
昭が問うと頷く。顔を上げた。
「悪い。おれ、今日は帰るわ」言って、立ち上がろうとして、立ち眩みに襲われたようにたたらを踏んだ。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
かおりはラブを呼んだ。
「おいで、ラブ。――昭、結城さんを送っていこう。疲れてるんだよ」
「いい……大丈夫だ」
「駄目だよ。兄ちゃん、冷や汗をかいてるよ。行こうぜ、かおり」
昭は言って、夏野の鞄を抱える。かおりはラブの首輪に引き綱を付け、先に立った。
結城は昨日の再現のように、済みません、という女の子の声を聞いた。同じことを思ったのか、台所にいた梓も不審そうな顔つきで振り返った。
梓が玄関に向かおうとするのを制して、結城が玄関に出る。ドアを開けると、昨日の女の子ではない、十五かそこらの少女が息を弾ませて立っていた。
「あの、結城さんのお父さんですか」
頷きながら、結城は微かに不快な感じを受けた。目の前の少女が不快だったわけではない。まるで忠実に昨日をトレースしているかのような状況が、昨日の不快感を呼び覚ましたせいだった。
「結城さんが、――あの、あっち。来てください」
少女は狼狽しているように見えた。けれども以前として、結城には不快感が募った。
「きみは誰だい」
「田中といいます。あの、結城――夏野さんの知り合いで」
「聞いたことがないな」
少女は一瞬、結城の物言いに傷ついた顔をしたが、すぐに背後を示した。
「結城さん、動けなくなっちゃったんです。とにかく来てたください」
結城は眉を顰めた。少女は先に立って門を抜け、道の片側を示している。半信半疑でついていくと、道の先に蹲っている制服姿と、それを覗き込んでいる少年と犬の姿が見えた。
本当だったのか、と思いながら、結城は駆け出す。少年がほっとしたように顔を上げた。
「――どうした」
「兄ちゃん、具合悪そうで、おれたち送ってきたんだけど、ここまで来て」
結城は息子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで引き起こそうとしたが、夏野はそれを嫌がるように腕を引いた。
「どうした。大丈夫か」
「……目眩がするんだ……」
とにかく立て、と励まして、結城は息子の腕の下に肩を入れる。少女が犬と鞄を引き受け、少年が反対側から夏野を支えた。玄関に戻ると、梓が立ち竦んでいた。
「どうしたの」
「分からない。――貧血か?」
上がり框に坐らせた息子に問うて、結城はひそかにぎくりとした。まさか、と思った。清水や武藤の顔が脳裏を掠めた。
梓が靴を脱がせる。結城が再度、息子を支えようとすると、夏野は手を振った。
「大丈夫。自分で歩ける」
それを無視して、腕を支えた。梓を目線で押しとどめ、とにかく部屋に連れて行く。ベッドまで連れていくと、夏野は自分からそこに倒れ込んだ。
「大丈夫なのか」
「……大丈夫。……参った」
「どこか悪いのか」
結城は息子の顔を覗き込む。もともと白い顔が、今は見事に血色を失っていた。
「目眩がするだけだよ。先週から、ちょっと調子が悪かったんだ」
「先週から?」
夏野は神妙に頷いた。
「尾崎の先生に来てもらおう」
「そんな大したことじゃないと思うけど」と、夏野の声は微かに息が弾んではいるものの、平静だった。「なんか、寝られなくてさ」
結城はその苦笑するような顔をじっと見る。尾崎敏夫はなんと言っていただろう。貧血、そして感情の欠落。コミュニケーションが取りにくくなる。まるで他人事のような。――それが最大の特徴だと言っていなかっただろうか。
「調子悪かったんだけど、じっとしてらんなくて。……やっぱ、参ってんのかな、いろいろと」
「いろいろ?」
「うん。……徹ちゃんとか、村迫の正雄とか。じっとしてると、そういうことばっかり考えてさ。自分でもちょっとヤバいな、とは思ってたんだけど」
結城は息を吐いた。少なくとも、敏夫が言ったような、奇妙な振る舞いは見えない。確かに具合は悪そうだが、明らかに例のものとは違っている。
確かに――と結城は思う。このところ、夏野はどこか様子がおかしかった。今朝、起きてみると家中のどこもかしこも戸締まりがされていて、それも夏野の仕業だと本人が言っていた。無理もない、と思う。夏野はこの年になって、初めて身近な人間の死に出会った。それも建て続けに、同年配の者が死んでいる。それで影響を受けないほうがどうかしているし、本人や結城が考えていた以上に、それは夏野を動揺させていたのだろう。
「……大丈夫か?」
「うん。寝るよう、努力してみるよ」
「医者に診てもらったほうが良くないか?」
「今晩も寝られないようなら、診てもらう。そしたら薬かなんか、くれるよな」
父さんのホイワトホースでもいいけど、と笑うので、結城も笑った。
「調子に乗るんじゃない」
明かりを消して部屋を出ると、梓が不安そうな表情で部屋の様子を窺っていた。
「……どう?」
「寝られなかったようだな。平気そうにしていたが、徹くんのことがショックだったんだろう」
「……まあ」梓は呟いて、頷く。「そうね。あんなに仲が良かったんですもの」
「ああ。心配は無さそうだ。本人も、今夜も寝られないようなら病院に行くと言っているし」
そう、と梓は安堵したように息を吐いた。二人で廊下を戻ると、玄関先に子供が二人、不安そうな顔で立ち竦んでいた。犬は外に繋いでいるのか姿が見えない。微かに甘えるような声が聞こえていた。
「済まなかったね。ありがとう」
「結城さん、どうですか?」
「寝不足だったようだ。……とにかく、お上がりなさい」
結城が言うと、二人は顔を見合わせ、それから軽く頭を下げて上がり込んできた。
「ええと、田中さん、と言ったね?」
「はい。田中かおりです。こっちは弟の昭」
「きみは夏野の同級生?」
「いえ。一級下です。あの、恵が――清水恵って子が同級生だったんたです。あたしの幼なじみなんですけど」
ああ、と結城は呟いた。
「清水さんの知り合い?」
「はい。お母さんと、恵のところのお母さんが仲良くて。あたしも家も近いし、歳もひとつ違いだったんで、恵とは仲が良かったんですけど」
「そう……恵ちゃんは残念だったね」
はい、と少女は項垂れて頷いた。
「悪かったね、ありがとう。助かったよ」
結城は姉弟にお茶を振る舞って帰した。二人は言葉少なに犬の散歩の途中で夏野に会ったこと、話をしていたら具合が悪そうだったので家まで送ろうとしたこと、その途中で夏野がしゃがみ込んでしまったことを語った。かおりの様子は親しげで、昭はさらに親しげだった。「兄ちゃん」と呼び、いかにも懐いているふうを見せる。夏野は村に馴染もうとしなかったが、それでもいつの間にか地縁の中に入り込んで居場所を見つけていたのだと結城は思った。
夏野の家の玄関を出て、それと同時に昭は大きく息を吐いた。かおりも同様に息を吐く。生意気ばかり言うくせに、昭は人見知りをする。特に大人に対しては。だから、かおりが愛想を振りまく役で、それですっかり疲れてしまった。
ラブの引き綱を取り、家へと促す。
「なあ……かおり」昭が俯いたまま小声で呼んだ。「兄ちゃん、大丈夫だと思う?」
「大丈夫だって、お父さんが言っていたじゃない」
「そだな。……寝られなかったって」
「あたしたちと会う前からそうだったのね。親しい人が亡くなったから、って言ってた。だったら当たり前よね。あたしも恵が死んでしばらく、眠れなかったもん」
「うん」
「でも……この村じゃ、最近、親しい人に死なれてない人なんて、いないのかもしれないね」
かおりは言って、改めてこの事態はあまりにも異常だ、と思った。なぜ大人は誰も変だと叫び出さないのか、かおりには不思議な気がする。
「結城さんのお父さんは知らないけど……他に恵のこととか、あの男の人のこととか、いろいろあったし……」
かおりは、夏野の青ざめた顔を思い出した。
「……それだけかな」
昭が言って、かおりは首を傾げる。
「それだけって?」
「兄ちゃん、昨日、なんであんな電話、くれたんだろう? 誰か客はいなかったか、なんてさ。かおりが言ってたじゃないか。それって兄ちゃんのところには客があったってことじゃないかって」
「ああ……うん」
「恵がまた来たんじゃないかな」
かおりは目を見開いた。
「……やめてよ」
「兄ちゃんが具合が悪いの、それでなんじゃないのかな。恵か――墓でやっつけたあいつか――誰かが」
「やめて!」
昭は顔を上げた。
「おれ、見たんだ。かおりが兄ちゃんの父さん、呼びに言ってる間に」
「見たって」
「首。――ここんとこ」昭は自分の首の付け根あたりを示した。「兄ちゃんが蹲ってるとき、見えたんだよ。夏にさ、虫に刺されて膿むことってあるだろ。そういうのがさ、ふたつ。ここんとこにあったんだ」
かおりは棒立ちになった。
「……うそ」
「誰かが仕返しに来たんだと思う。だから兄ちゃん、電話してきたんだよ、注意しろって。――かおり、どうしよう」
かおりは引き綱を握りしめる。そんなことを問われても、もちろん、かおりにはどうすればいいのか分からなかった。
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敏夫は自室の時計を見上げた。夜十時を廻ったのに、静信からは連絡がない。昨日、考えさせてくれと言って別れたまま、それきりになっていた。いまさら何を考えることがある、と敏夫は苛立つ思いがする。村で起こっていることは今や明らかだ。少なくとも現時点で真相に気づいているのは敏夫と静信だけ、自分たちが行動しなくて、どうやってこの惨禍を止めるというのか。今日の午後には、門前の田茂広也がやってきた。田茂定市の孫、まだ高校生。例のあれだ。こうしている間にも着実に惨禍は広がっている。
村の窮状など関係ない、誰が死のうと知ったことではないというなら勝手にすればいい、そうではなく、救いたいというくせに、行動する段になると怖じ気づいて後込みするのが忌々しい。気分的に抵抗があるのは分かるが、これは二者択一の問題だ。
敏夫は時計を何度もねめつけ、いっそのこと今日は休んでしまおうかと思う。疲労は皮膚のように全身に張り付いている。腕も足も身が張って痛んだ。夏以来、不眠不休でやってきた。今日ぐらい休んでも許されるかもしれない、と思ってしまうのは、静信の態度に気落ちしているせい、そして、今後の方策が見えないことに落胆しているせいだった。
何かをしなければならない、と気ばかりが焦る。なのに何をすればいいのか分からない。とりあえず敏夫に今できることは、秀司に続く犠牲者――恵の墓を暴くぐらいのことだったが、それをやって何になるのか、と思う。それよりも節子だ、という気がする。水際で食い止めなければ被害は拡大する一方だ。節子が起き上がることのないよう、事前に釘を刺しておく。そうは思ってみても、つい最近まで患者として付き合いの深かった相手――たとえ死体といえども――に杭を打つことを思うと、さすがの敏夫にも躊躇われる。少しでも先送りにしたいという気持ちから逃れることはできなかった。
(連中は何で起き上がるのか……)
それが分かれば、杭以外にも、連中を止める方策が見つかるかもしれない。毒物でも、あるいはそれ以外のものでも。注射して済むことならどんなにいいだろうかと思う。注射でなくてもいい、検死の際、密かに敏夫が処置できるようなことなら。――だが、杭は駄目だ。村では未だに近親者が|湯灌《ゆかん》する。そうでなくても白装束に着替えさせる。死体に傷をつければ必ず見とがめられるだろう。
(とにかく恵ちゃんか……あるいは節子さんか……・)
敏夫はカーテン越し、窓の外を見る。すでに暗い。そう簡単に連中に出くわすとも思えなかったが、一人で出かけるのは危険なことのようにも思えた。
ひとつ息を吐いて、敏夫は起きあがる。とりあえず、せめて節子の墓を確認するぐらいのことはしておこう。出かけたくない、休みたいという欲求は切実だったが、焦りがそれを許さない。
ブルゾンを羽織って私室を出、病院に向かおうとした。とりあえず夜歩きに必要なものは病院の控え室に置いてある。渡り廊下に出ようとしたところで、背後から孝江に声をかけられた。
「出かけるの?」
敏夫は曖昧に頷く。
「このところ、連日出かけるじゃないの。どこに行っているの」
「まあ、ちょっと」
「往診というわけじゃなさそうね」
まあ、とこれにも曖昧に答えた。孝江は厳しい顔で廊下を示す。
「ちょっと来なさい」
「悪いけど」急ぐから、と敏夫は言おうとしたが、孝江がぴしゃりとそれを遮った。
「いいから来なさい。話があるのよ」
内心で舌打ちしたところに、階段から軽い足音がした。寝室から恭子が降りてきたところだった。眠っていたのか、目をすがめて怪訝そうに敏夫と孝江を見ている。
「とにかく敏夫、ちょっと来てちょうだい」
敏夫は不承不承、頷く。恭子のもの問いたげな視線を受けながら孝江の後について、座敷のほうへ向かった。奥の座敷に近い書院が孝江の私室だった。父親の死の前から、孝江は一人そこに住まっている。
「坐りなさい」と、言って孝江は座卓を示す。仕方なく敏夫が腰を据えると、ポットの湯を急須に注ぎながら、孝江は冷えた声を出した。「どこに出かけるところだったの」
「……寺」
「ゆうべは?」
「寺だよ。ちょっと三役で寄合があるんだ」
「嘘をおっしゃい。ゆうべ田茂さんから電話がありましたよ」
敏夫は舌打ちをした。孝江は突きつける調子で湯飲みを差し出す。
「あなたまさか、村の内に手を付けたりしていないわね?」
「母さん」
敏夫は唖然と口を開けた。「村の内に手を付ける」というのは、孝江独特の隠語だ。村の女に手を付けていないか、と訊いている。どうしてだかは分からない。孝江にとってそれは、絶対の忌みごとのようだった。それこそ高校生の頃から、煩く言われる。
「そういうことじゃない。本当に静信に用があるんだ。まだ田茂さんに話を通しちゃいないが、近々、三役を招集しなきゃならんかもしれん」
どうだか、と孝江は低く呟いた。
「その田茂さんから聞いたんですけどね、下外場に診療所ができるそうじゃないの。あなた、それは知ってたの?」
それか、と敏夫は溜息をついた。
「ああ、まあ……」
「兼正の医者からは挨拶があったの?」
「いや。だがじきにあるだろう」
「なんて答えるつもり?」
「何て――って。おれに止める権利はないよ」
「医師会には話は通ってるの?」
「最近、連絡を取ってないから知らない」
父親は医者同士の付き合いに熱心で、医師会でもそれなりの人脈を持っていたが、敏夫はそういうことに時間を浪費するのが好きではない。そもそも敏夫自身が地域の医師が作るネットワークから外れている。かろうじて患者を引き受けてもらう病院とつながりがあるだけ、同じ大学出身の医師によしみがある程度だったし、それも地元で開業している医者というわけではない。
「黙認するつもり? 村に医者は二軒も必要ないでしょう。後から来て、何の挨拶もなしに診療所だなんて、とんでもない話ですよ。きちっと筋道は通してもらわないと」
だから、と敏夫は溜息をつく。
「おれが口を出すような筋合いのことじゃない」
「冗談じゃないわ。あなたが口を出すべきことですよ。いったい何を考えてるの。尾崎がいるのに開業だなんて。尾崎じゃ力不足だと言われているも同然じゃないの」
「それでも構わないだろう。実際のところ、力不足なんだろうよ。最近じゃ、完全に業務はオーバーフローしてるんだ。江渕さんが開業してくれれば、むしろ助かる」
言って、敏夫は内心でぎょっとした。桐敷家は屍鬼の巣窟だ、おそらくは。江渕が連中の仲間でないということがあるだろうか? 江渕もまた、起き上がったのかもしれない。だとしたらその江渕が診療所など開いて、いったい何をするつもりなのだろう?
そこに行った患者は、どんな不調が原因で訪ねた者であれ、出てきたときには蒼白の顔をし、虚ろな目をしているだろう。――おそらくはそうに違いない。それとももっと他に目的があるのだろうか。
孝江は何やら言っていたが、もはや敏夫の耳には入っていなかった。
連中は越してきた。――侵入してきた。それきりずっとあの屋敷に閉じこもって沈黙を守ってきた。それが初めて動いた。これは何を意味しているのだろう。
敏夫はこれまで、単純に連中は村にやってきたのだと思っていた。だが、おかしくはないか。なぜ連中は、そもそもこの村に越してこようなどと考えたのだろう。あんな屋敷を構えてまで越してくるからには、それなりの目的があったはずだ。江渕の開業はその目的の一部だろうか。だとしたら、江渕がこれから果たそうとしている役割は何だ。
「敏夫! 聞いてるの?」
孝江の叱責には生返事を帰した。静信の意見を聞いてみたかったが、この調子では今夜は出られそうにない。妙な焦りを感じた。増加する犠牲者――死者。ひょっとしたらそれ以上に、敏夫たちが恐れねばならないことがあるのではないのか。一刻も早く手を打って、進行を食い止めなければならない何かが。
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夏野は夜の中で息を殺していた。辺りには枯れた草の臭いが立ち込めている。葉を枯らした木苺の枝越し、自分の部屋の薄暗い明かりが見えていた。
山間の村の夜は寒い。夜陰にはすでに晩秋の気配が忍び入っていた。パーカーの襟を掻き合わせ、懐に握った樅の杭を握りしめる。そもそもは本橋鶴子に使うはずだった杭だ。それは使命を果たすことがないまま、こうしていま、夏野の懐の中で暖められている。
父親の工房からくすねてきた杭と木槌。自分で作った素人細工の十字架、それだけが夏野の獲物だった。草叢の中に蹲り、足が痺れないよう何度もそっと体勢を変えながら、しんしんと更ける夜を見つめている。
微かな足音が裏庭で聞こえたのは、腕時計の針が午前二時を過ぎた頃だった。明らかに足音を忍ばせるふうで、黒黒とした影がひとつ、スタンドの明かりで浮かび上がった窓に近づいていく。それは身を屈め、じっと窓を見上げ、それから腕を窓ガラスに向かって伸ばした。
闇になれていた目には、ほの暗い明かりの下でも、その人影の特徴を見て取ることができた。夏野は少しの間、その見慣れた影が、腕を伸ばし、そのくせ面伏せて窓を叩くのを見ていた。湧き上がってきたのは奇妙な感慨だった。
徹の訃報、武藤家の座敷に安置されていた徹は、徹でないもののように見えた。明らかに抜け殻であり、それは物体にすぎなかった。夏野が「徹」として認識しているものは、そこには存在しなかった。明らかに徹なのに、徹ではなかった「それ」。――そして、いま目の前にいるものは、徹とは異質のものになりながら、夏野が記憶している「徹」そのままだった。
幾度目か、徹が窓を叩いた。夏野、と囁くように呼んでいるのが聞こえる。夏野は立ち上がった。
「……ここだよ」
徹は弾かれたように振り返った。まるで、恐ろしいものに出会った人間そのままの反応をした。も夏野はそろそろと足場を探りながら後退する。枯れた下生えが足許で折れた。徹は窓の下で金縛りにあったように動かない。怯えたような顔をして、後退る夏野を見てるのがおかしかった。
さらに足場を探りながら、二歩、三歩と退る。ようやく徹が身を起こした。どこか決然とした顔で立ち上がり、林のほうへと踏み込んでくる。夏野はポケットの中に握ったものをかざした。
「……こういうの、効く?」
徹が一瞬、それを見て怯んだ。夏野にはそれが信仰の対象が持つ効果なのか、それとも異様なものを突きつけられた人間の反応なのか、分からなかった。夏野は退る。徹は躊躇するように足を踏み出した。夏野は足を速める。徹の足も速くなる。間合いが近づいたところで、さらに手を突き出すと、明らかに嫌そうな顔をして怯む。――効果はあるのだ、こんなものでも。少なくとも相手の嫌悪感は誘うらしい。
夏野は半身に構えて斜面を登った。間合いを詰められそうになると、改めてただ木片を十字に組んだだけの十字架をかざす。それで相手が怯み、歩みが止まる。また間合いが開く。それを繰り返すうちに、次第にペースが上がっていく。
前方にわずかに木立が切れた場所があって、夏野は一気に斜面を駆け上がった。広場とも呼べないほどの小さな切れ目を駆け抜け、反対側の木立に飛びついて後ろを振り返った。家からはかなり離れただろう。少なくとも、もう物音は届かない。
幹に背中を預けて肩で息をしていると、徹が切れ目に姿を現す。
「こんなもんが怖いのかよ」
息は弾んだまま、いっこうに治まる気配がなかった。動悸も治まらず、身体は暖まったはずなのに、冷や汗が浮かぶ。懐に突っこんだままの手は、ささくれた杭を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んでいる。木槌はベルトに差してあった。
「単に木を組んだだけのもんじゃねえか。それでも怖いのかよ」
「……夏野」
「そっちの名前で呼ぶな、ってば」
徹はいかにも複雑そうな表情をした。――したのだと思う。暗くてしかとは見届けられなかったけれども。
「これ見ると、どういう気分がするわけ? それとも生きてる頃から、こんなもんが怖かったのか?」
「……夏野」
「呼ぶなってば」
十字架を投げつける。それは狙いを逸れて、徹の脇の離れたところを飛んでいった。
「徹ちゃんみたいな顔してんじゃねえよ。あんたもう、別物だろうが」
杭を両手で握り、腰だめにする。夜気に冷えた手が激しく震えた。十字架が消えたほうを見送った徹は、夏野を振り返る。どこか悄然としたふうで夏野を見上げてきた。
「……おれは」
徹は言いかけ、そして口を噤んだ。変わりに足を踏み出す。留めるものを、もはや夏野は持たない。
「お前……誰かに言ったか?」
「何を」
「おれのこと」
「言ってねえよ」
そうか、と徹は呟く。
「やっぱりおれを襲うわけ?」
「……叱られるんだよ」
徹はゆっくりと斜面を登ってくる。
「お前を襲わないと、葵たちが襲われるんだ。お前、襲って、夜明けまでに報告に行かないと……」
「扱き使われてんのかよ、そんなもんになってまで」
「……そうだよ。おれには選択権なんてないんだ。連中の下っ端として組み込まれてる」
「お前が妙なことに首を突っこむからだよ。連中を怒らせるようなことをするから。広沢の高俊さんを、お前、のしたろう」
「あれ、そういう奴なの」
徹は頷く。
「まだ、バレちゃ困るんだ。なのにお前、墓を掘ったりしてただろ? 気が付いてもさ、家で布団を被ってりゃ良かったんだよ。高俊さん見て、悲鳴上げて逃げるようなら、連中に警戒されずに済んだんだ。なのにお前、妙に無鉄砲なとこあるから」
徹はさらに足を踏み出す。
「気が付かれてもいいんだ、連中は。部屋に閉じ籠もって震えてるような奴ならさ。けどお前は連中を狩ろうとしてるから。狩人は駄目なんだ。……許されない」
夏野は杭を握りしめる。斜面の上、徹との間に足許を掬うようなものはない。後一歩。それで躱しきれない距離になる。
「そんで? 三下よろしく使われてんのかよ。あんた、本当に人間とは別物になっちまったんだな」
「……そうだ」
「汚ねえよ……そうだろ?」
両手の中の杭。たとえこれが他のどんな凶器でも。
「あたんは噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みついてそれで終わりなんじゃないか。こっちは、これ、突き刺さないといけないんだぜ」
徹は足を止めた。
「せめて、もうちょっと吸血鬼っぽくしたらどうなんだよ。そんな……生きてる頃のまんまの姿でさ」
夏野の両手は、高俊を殴ったときの感触を覚えている。善悪は理屈を越え、夏野の中に刷り込まれている。せめて銃なら。相手の息の根を止める凶器が自分の手と切り離されていれば。目標を見届けることなく、スイッチひとつで済むことなら。
「……こんなもん、刺せるわけないじゃないか!」
夏野にはできない。自分の手で凶器を握り、相手を殺すためにそれを使うことはできない。敵だと思えば、どんな惨いことでもできる。――できるはずだ。けれども目の前に自分と同じ人間としか思えないものが存在して、それを意図的に傷つけることはできない。してはならないことだという刷り込みが、どうあっても行動を拒む。ましてや相手に人格があって、さらにそれが自分の知り合いで、かつては親しかった誰かだということになれば、故意に傷つけることなど、できるとは思えなかった。
「お前……人が好いな」
「そういう問題じゃない! 怖いんだよ、理屈抜きに。そんな怖いこと、できるかよ!」
相手が恵でもできなかっただろう。おそらく、本橋鶴子でもできない。夏野の理性は高俊が起き上がりだと分かっていたが、その場でとどめを刺すことは、やはりできなかった。――思い浮かばなかった。嫌なのだ。生理的に我慢できない。煙条件に怖い。忌避してしまう。
想像ではなく、実感として知った、「甦った死者」というものの恐ろしさ。かつての知人、それも親しい――その死に際して、死なないでくれ、生き返ってくれと願わずにいられなかった相手に対して、どうして凶器を振り上げられるだろう。かつて殺したいほど憎んでいたならともかく、相手がかつての人格を喪失して、単に「起き上がった死体」になり果てているのならともかく。
相手に人格が生じれば、敵はもう敵ではなくなる。それが「甦った死者」である以上、それは必ずつきまとうのだし、だとしたら夏野は狩人になれない。そして狩人になれないなら、遅かれ早かれ犠牲者になるしかないのだ。
俯いた夏野の首に徹が手を当てて揺らした。慰撫するような仕草には覚えがあったが、その掌は夜気と同じ温度をしていた。目の前の胸に額を当て、そして耳を当てる。温もりもなく、何の音もしなかった。――この身体には虚無が巣くっている。
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山には真の闇が落ちている。樅の樹形を照らす月明かりもなく、林の中には星明かりさえ届かない。徹はそこに逃げ込むように走り込んだ。それを追ってくる小さい影があった。
「また言い聞かせなかったの? どうしてよ」
徹は、押し黙ったまま山の斜面を駆け登る。ついてきた子供は、背後から子供特有の甲高い声を浴びせかけてきた。
「あたし言うよ。辰巳さんだって、絶対に怒るからね。でもってあんたんとこのお父さんもお母さんも兄弟も山入に連れて来ちゃうんだから」
「……夏野は何も言わない」
「そんなこと、どうして断言できるの? ゆうべだってそうだよ。あたしがあんなに言い聞かせたのに!」
おおむね狩りに慣れない者は、すでに慣れている者としばらくの間、行動を共にする。徹に静を付けたのは辰巳だった。静は十一、これかもずっと十一のままだ。外見は幼いが、すでに徹の数倍の犠牲者を葬っていた。特に抵抗はないらしい。むしろ、小さいのに大人並みに狩りができる自分を自覚していて、誇っているようなところがある。
「せっかく教えてあげたのに。ちゃんと言い聞かせないとダメよ、って。ぜんぶ忘れるって言うの。これは夢だって。そうじゃないと、あんたに酷いことをされたって広めちゃうんだから」
静が迷わずに済むのは子供だからだ、と徹は思う。大人が是とすることは是なのだ。獲物を襲うことは肯定されているし、上手く襲うことができれば大人は褒める。それが静の中に歪んだ――けれども、迷う余地のない確固とした価値観を作っていた。静は人を襲うことを躊躇しない。むしろ何かのゲームのように楽しんでいる風情すらあった。
「ひきかえして、ちゃんと言い聞かせてきなさいよ! 辰巳さんも気を悪くしてたから。あたしまで叱られたんだよ。ちゃんと世話しないとダメだって」
昨夜、徹は夏野を襲った。襲ってしまったという衝撃で犠牲者に暗示をかけるのを忘れていた。ともかくもその場を逃げ出したい一心で、夏野を家の中に押し込んでその場を離れたのだった。待ち合わせていた場所で静と落ち合い、静に「ちゃんとやった」と訊かれるまで、自分が重大な過失を犯したことに気づかなかった。
「きっといまごろは、おおさわぎしてるから。あつまって、あんたをやっつけようって相談してるよ。ぜったいそうだから」
「夏野は言わない。言うんだったら、昨日の時点で言ってるさ。……第一、言ったところで誰も信じない」
「ぜったいって言えるの? あんたのせいであたしたちまで危ないことになるんだから。あしたにはもう、広まってるから。みんなぜーんぶ知ってるんだよ。あたしたちが行くのを分かってて、それで杭を持って待ちかまえているんだから。だからちゃんとやらないとダメって言ったのに」
徹は黙り込む。足を急がせた。静は小走りについてきて、徹に煩く絡んだ。
危険は分かっている。昨夜は衝撃のあまりそれをしなかったが、今夜は故意にそれをしなかった。相手の意思を抹殺して人形のような傀儡にしてしまうことに抵抗があった。そうなれば、もう夏野じゃない。おそらく夏野は何も言わないだろう。
「辰巳さんに言うから。おうちの人を山入に連れていってもらうからね」
徹は黙り込むしかなかった。――あの檻。
贄を捕らえた檻。うち捨てられ、殺されるためだけに集められた犠牲者。家族の誰にもあんな思いだけはさせられない。
「もう済んだことだ。辰巳さんにはおれから説明するよ」
徹は深く俯いたまま山を登り、細い山道に出た。西山の南の方から無灯の車がやってきて徹と静を追い抜いていった。
いつの間にか、北山と西山の合する辺りにまで来ていた。村のほうから三々五々、集まってくる人々の姿があった。
誰も明かりは持っていないが、特に足許を確かめる様子もなく下生えの間の細い踏み分け道を辿ってくる。一人で黙々と歩く者もいたが、数人で連れ立っている者もあった。それらの人々は、快活に声を交わしている。山から下りるときには誰も口を利かない。林の中には彼らが草を掻き分ける乾いた音だけが、密かな波音のように満ちていた。なのに帰りには誰もが、|箍《たが》が外れたように陽気だ。だが、徹はとてもそんな気分にはなれなかった。
人々の目から――静の糾弾から逃れるようにひたすらに足を速めた。
[#改段]
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七章
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丸安製材の安森厚子が安森徳次郎を連れて尾崎医院に来院したのは、節子の葬儀の翌々日、十月十三日、午前十時を廻ろうかという頃だった。
「節子さんが亡くなって、とうとう徳次郎叔父さん、一人になっちゃいましたからね、わたしらが通ってお世話をしてたんですけど、お葬式以来、顔色が優れなくて。無理もないとは思ったんですけど、気落ちしたにしちゃ具合が悪そうに見えたもんで」
安森厚子の言葉に、敏夫は頷いた。例のあれだ。確実にその兆候が出ている。血液検査の結果からすると、それも前期の終わりというところだ。襲撃は二回から三回、と敏夫は胸の中で目算をつける。節子が死んだ直後から立て続けに始まっている、おそらくは。
「処置室へ」敏夫は清美に指示する。「乳酸加リンゲル液を千ミリ、十五分」
「カテーテルは」
「十八G」
周囲で交わされる指示にも、徳次郎は反応しない。むしろ付き添った厚子のほうが不安そうにしている。敏夫がカテーテル針を挿入するときにも、わずかに顔を顰めただけでとりたてて感情の起伏を見せなかった。
「節子さんがね」処置をしながら、敏夫は徳次郎に話しかけた。「奈緒さんの夢を見たって言ってましたよ。お迎えだろうか、なんて言っててね。そういう気弱なことを言うようじゃあ駄目だよ、と言ったんだけども」
敏夫が言うと、徳次郎がわずかに反応を見せた。
「ああ……奈緒ちゃんなあ。……わしも見たなあ」
徳次郎は、どこか幸福そうな顔をした。
「奈緒さんの夢を?」
ウン、と徳次郎は頷く。頷いたきり、それ以上の反応はない。
「気弱になっちゃあ、駄目だよ」敏夫は徳次郎に言って、厚子を見やる。「入院してもらったほうがいいと思うんですけどね」
それに厚子が答える前に、徳次郎が割って入った。
「嫌だ」
「徳次郎さん」
「わしは御免だ。入院はせん。どこにもいかん。仏壇を守らにゃならんから」
仏壇の世話だったら自分が、と厚子が徳次郎を|宥《なだ》めたが、徳次郎はきっぱりと「嫌だ」と言う。
「入院しても節子は助からなかったし、仏壇や仕事があるら家を空けるわけにはいかん。ほっといてくれ」
敏夫は眉を顰めた。徳次郎の言う内容に、ではない。その口調に違和感があった。この時期の患者がこうまで明確に意思を表明することは珍しい。大概はどうでも勝手にしろ、という態度を示す。まるで他人事のように振る舞うものだ。それがこれだけきっぱりと意思表示をするのは妙だし、にもかかわらず、その口調が抑揚を欠いて、まるで暗記した台詞を読み上げているように聞こえるのも奇妙な気がした。
それはあんたの意思なのか、と敏夫は問いたい気がした。それとも誰か――奈緒からそう言うよう言い含められたのか。周囲に厚子や看護婦たちがいなかったら、ぜひとも聞きたいところだ。
「節子さんの件についちゃ、こちらもお詫びするしかないが、徳次郎さんも入院が必要なんだよ。入院してもらわないと、適切な処置ができないんだ。気持ちは分かるが、せめて二晩ほど泊まっていってくれないかね。その後で、どうしても家に戻りたいというなら、好きにさせてあげるから」
襲撃が二日以上あけば、意識は清明さを取り戻すのではないか、という気が、敏夫はしている。だが、徳次郎は「嫌だ」と言い張る。言葉を尽くして説得しようとしたが、そもそも敏夫の言い分など聞く耳を持たないという風情だった。厚子がせめて丸安製材で預かると言っても、家を出るのは嫌だという。本人があくまでも否と言うのに、無理強いはできない。仕方なく、リンゲル液の輸液と、濃厚赤血球製剤の投与だけをして帰した。
「大丈夫なんでしょうか、徳次郎さん」
心配そうに言う清美に、敏夫は曖昧に返事をして控え室に入った。ほんの少し逡巡してから受話器を取る。三度コールすると、光男が電話に出た。
「尾崎です。静信は?」
「いま、お勤めですが。どうしました」
「済みませんが、終わったら連絡をくれるように伝えてくれますか。安森の徳次郎さんが倒れた、と」
「徳次郎さんが。――大丈夫なんですか」
「あまり大丈夫じゃないんだがね。入院を勧めてるんだが、本人がうんと言わない。できたら静信からも説得して欲しいんですよ。どうしても嫌だというなら、夜にちゃんと眠れるよう、少し手を貸してやって欲しい、と伝えてください。そう言えば分かるんで」
はあ、と光男は釈然としないふうだったが、診察時間の途中なんで、と言って敏夫は受話器を置いた。
入院は嫌だ、家にいると言い張ったのが、徳次郎の意思だとは思えない。おそらくは、そう言えと指示されたのだという気がした。節子を病院に収容されて、連中は困ったのだろう。連中がもし、それなりに集団としての意志を持つなら、これからやってくる患者は全員が入院を拒否することになるだろう。
考え込んでいると、電話が鳴った。女の切羽詰まった声がした。
「あの――下外場の前田です」
「前田? 巌さんとこの?」
はい、と女は答える。前田元子だ。
「どうしました」
「主人の様子がおかしいんです」と、元子は声を潜めているふうだった。「いえ、別に倒れたとか、そういうわけじゃなく。義父と同じなんです。貧血のように見えるんですけど……」
敏夫は頷いた。
「連れてきてください、早急に」
「それが」と、元子は口ごもった。「うちは……」
そうか、と敏夫は舌打ちをする。元子の姑、登美子は医者を嫌う。その結果、巌が死亡することになり、かおって頑なにしてしまったおそれがあった。
「お姑さんが?」
主人も、と元子は深い息を吐いた。敏夫は事情を了解する。
「今日、ご主人はお勤めは?」
「なんとか頼んで休ませました」
「では、午後に伺います」
よろしくお願いします、と元子は安堵の息を吐きながら受話器を置いた。敏夫が煩いことを言わず、こちらの事情を察してくれたようなのが嬉しかった。受話器を置いて、元子は茶の間を窺う。姑の登美子は畑に出ている。夫の勇が、いかにも気怠げに横になっていた。床に入ってくれと頼んでも、その必要はないと言い張る。仕事を休ませるのですら、登美子の目を盗み、夫の腕に縋って頼み込まねばならなかった。車を運転できるわけでもない元子に、夫を病院に引きずっていくことはできない。敏夫が意を察してくれて、心の底から安堵した。
元子は茶の間に入り、夫の顔を覗き込んだ。勇は怪訝そうに元子を見上げてきたが、すぐに億劫そうに目を閉じてしまう。
「……お昼はお粥にしましょうか?」
「いらん」
勇の言葉はぶっきらぼうで低い。
「でも」
「一日二日、食わなかったからって大事はない」
そう、と元子は溜息を落とす。顔色の悪い頬、夫の顔にも口振りにも、巌と同じ種類の倦怠感が滲み出ている。
(まさか……この人も)
元子は思い、首を振った。
そんなことがあるはずはない、巌とは違う。心配のしすぎだ。午後には医者が来てくれるのだし、巌のようなことにはならないはずだ。
(お願い、それだけは)
ここで勇に先立たれてしまったら。元子はその先を考えたくもなかった。不思議に加奈美の顔が脳裏を掠めた。瞬間的に、嫌だ、と思った。
(それだけは……いや)
自分は何に怯えているのだろう。正体は見えないまま、元子は食い入るように勇の寝顔を見下ろしていた。
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「ありがとうございました」
竹村源一は静信に頭を下げた。源一は外場の商店街で金物屋を営んでいる。この日は亡妻の十三回忌だった。
本堂から、お|斎《とき》に使う座敷のほうへと向かいながら、源一はしきりに礼を言い、そして近頃、村に不祝儀が多いことを訴えた。
「どうなっとるんですかね。先日も清水さんとこの息子さんが亡くなってねえ」
静信は源一の顔を見る。
「清水? どちらの清水さんです?」
「植木屋の清水ですよ。雅司さんの」
「でも、清水隆司さんは夏に――」
言いかけると、源一は、いやいやと手を振る。「お孫さんです、なんと言ったかな。ええと、祐くん」
「お孫さんが亡くなられたんですか?」
「そうなんですわ。つい昨日が葬式で。息子に続いて二人目でしょう。雅司のとっつぁん、そりゃあもう、気落ちしちゃってね。あの家も嫁さんと二人きりになりますからね。しかも、ゆうべのうちに嫁さんが実家に戻っちゃったらしくてね。実家に帰ることになるだろうとは、雅司さんも思ってたみたいだけど、まさか葬式が済んだその晩にねえ。人情も地に落ちたもんですわ」
そうですか、と静信は目を伏せた。雅司とは付き合いが皆無ではないが、清水は寺の檀家ではない。以前、死んだ清水隆司の足跡を辿るために会ったとき、残された嫁と孫が不憫だ、孫が大学に行って村を出たら嫁をどうしようか、と言っていたが、その孫が大学に行くまでもなく亡くなったということか。
(しかも、ゆうべのうちに……)
それは源一の言う通り、単に実家に帰ったという、それだけのことかもしれなかった。ただ、この村では夜に人が消えることがある。――非常にしばしば。
胸の奥が痛んだ。静信はまだ、屍鬼を狩ることに対して踏ん切りがつかない。いったん生き返った者を再び殺す、という認識から抜け出すことができなかった。だが、こうしている間にも惨禍は拡大している。死んだ隆司や祐、残された雅司や、実家に帰ったという雅司の嫁のことを思うと、妙な屈託に囚われている場合ではない、という気がして、後込みしている自分が後ろめたい。
「まあ、こんな按配だから仕方ないのかもしれませんが。でも、やっぱり葬儀屋ってのは使う気がしませんねえ」
静信は首を傾げた。物思いをしていたので、言葉を聞き漏らしたのか、源一が何を言っているのか分からなかった。静信の視線を受けて、ああ、と源一は呟く。
「若御院は御存じなかったですか。葬儀屋ができるんですよ。――もうできたんだったか。なあ、そうだよなあ、叔母さん」
源一が振り返った先には、タケムラ文具店のタツがいた。タツは源一の叔母にあたる。
「できるんだよ。そう聞いたけど、ちょっと前の話だから、もう開いてるかもね」
ぶっきらぼうに言って、タツはそっぽを向く。中庭を眺めるように目をやった。
「上外場のいちばん下のほうに、広兼があったでしょう。わりに大きな木工所ですよ。婆さんが一人残って、木工所は閉めてましたけど」
「ああ……」
「その婆さんが、何でも施設にはいることにしたとかで引越して、空き家になってたんですけどね。そこが最近、造作を始めたらしいんですわ。看板が上がってね。それが外場葬儀社っていうそうで。――そなんだよなあ、叔母さん」
源一はまたタツを振り返る。タツは大して面白くも無さそうな顔で頷いた。
「叔母さんは事情通でね」源一は笑う。「しかし、そうか。若御院も御存じなかったんですか。葬儀屋をやるならやるで、寺に一言、挨拶ぐらいありそうなもんですけどねえ」
「そんなことは」と、静信は言葉を濁した。別に何もかも寺を通さなければならないというものでもない。だが――と静信は妙な気がした。村を出て行くものは枚挙に暇がない。それこそ古びた櫛の歯が欠けるように、村には空き家が増えている。そこに転入がある。それも葬儀屋だというところが、なぜとは言えないが意識に引っかかった。
座敷に向かう源一らを見送り、静信は寺務所に戻った。多忙のことでもあり、お斎は遠慮させてもらうことになっていた。
寺務所に戻ると、光男のメモが机の上に載っていた。敏夫からか、と静信は少し後ろめたい気持ちがし、メモの内容に目を通して、眉を寄せた。安森徳次郎が発症した――。
静信は受話器を取り、尾崎医院に電話しながら無意識のうちに周囲を窺う。寺務所の中にも付近にも、人影はない。
電話に出たのは、看護婦の聡子だった。敏夫に代わって欲しいというと、少しの間待たされて、敏夫が出た。
「敏夫、徳次郎さんが……」
「例のあれだ。間違いない。おそらく二日目か三日目だろう。徳次郎さんも、奈緒さんが戻ってくる夢を見たそうだ」
静信は沈黙した。敏夫が何を言っているのか、明らかだった。静信は振り返る。徳次郎とは通夜と葬儀であったばかりだ。その時、すでに具合の悪い様子があっただろうか。何しろ場合が場合だから、沈んで口数が少ないのは当たり前のこと、多少呆然として見えるのも当たり前の範疇だろう。言われてみれば確かに例の前駆症状のようではあったが、判然としなかった。静信は改めて、この病の度し難さに溜息をついた。
「とりあえず処置をしたが、本人は入院が嫌だという。家を離れたくないと言い張るんだ。だが、それが徳次郎さんの意思なのか、それとも誰かにそう答えるよう言い含められたのかは分からない。あの段階の患者にしちゃ、意思が明確すぎる。にもかかわらず、嫌だというのが妙に棒読みで変な調子だったから、後者である可能性は高い」
「そう……」
「悪いが、お前からも説得できないか。話をしてみてくれないか。それが駄目なら、妙な夢を見ないように何とか処置できないか」
静信は頷いた。
「……やってみる」
「あと、ちょっと話があるんだが。今日は何時なら身体が空く?」
「夕方には。徳次郎さんの件もあるし、夜には顔を出すよ」
頼む、と言い置いて、敏夫は電話を切った。静信も受話器を置き、予定表を見る。今日は比較的、予定が少ない。三時からまた法事があるが、それまでに徳次郎の様子を見てこれるだろう、と算段をした。
納戸で平服に着替え、出かけることを告げようと美和子か光男を捜す。奥に向かうと、当の光男が血相を変えて走ってくるところだった。
「ああ、若御院」
「どうしました」
「御院が」
光男の声を聞いて、静信は一瞬、血の気が引いたような気がした。まさか、父親に何か、と棒立ちになった静信を、光男が手招く。
「御院がどうしても出かけるとおっしゃるんです。止めてくださいよ」
光男の言に、静信は思わず息を吐いた。
「――出かける?」
「ええ。わたしがお昼を運んでいって、そのときに徳次郎さんの具合が悪いらしいって話をしたんですよ。若御院、メモは御覧になりましたか」
「ええ。それでこれからお訪ねしようと思ってたんですが」
光男は頷く。
「そうしたら、どうしても徳次郎さんを見舞いに行くとおっしゃって。そりゃあ、徳次郎さんとは長い付き合いですから心配なのは分かりますけど、そんなことをおっしゃられても。お見舞いの電話にしたらどうです、と言ったんですけど、連れていってくれないなら、這ってでも行くと」
そんな、と静信は目を見開いた。それは、まったく信明らしくない振る舞いだった。およそ信明はこれまで、そんな我の通し方を周囲に対してしたことがない。
ともかくも光男について離れに向かった。
「やめてください」と、美和子の悲痛な声が聞こえた。「いま、光男さんが静信を呼びに行ってますから、少し待って」
病室にはいると、ベッドから下りようとする信明と、それを止めようとする美和子が揉み合うようにしている。美和子は静信を見て、安堵したように息を吐いた。
「お父さん、どうしたんです」
「徳次郎さんの、見舞いに、行く」
信明の言葉は断固とした調子だった。
「どうなさったんです、急に」
「どうという、わけじゃない。具合が悪いというから、見舞いに、行くんだ」
「見舞いに行くのは結構ですが、もう具合はいいんですか?」
風邪をひいたらしく――これは本当に風邪のようだった――、昨日までひどく咳き込んでいた。たいして高くはないが熱もあった。
「もういい」と言いながら、信明の声は咳き込みそうに掠れている。
「お父さん。どうしたんです。徳次郎さんは具合が良くないんです。そこに風邪を引き込んだお父さんが窺ったら、徳次郎さんにも移しかねないし、お父さんの身体にも障るかもしれません。せめて風邪が治ってからではいけませんか」
「嫌だ。行く」
頑是無い物言いになるのは、そもそも言葉が不自由なせいだが、声にも頑是無い響きがあった。これほど癇の立った父親を、静信は初めて見た。静信は小さく溜息をつく。
「じゃあ、お連れしますから、暖かくしてください。ちょうどぼくも徳次郎さんをお訪ねしようと思っていたところですから」
静信が言うと、ようやく信明は表情を和らげて頷いた。困惑したような美和子に頷き、車椅子を用意させる。
信明と徳次郎は、そもそも付き合いが深い。とりたてて親密というふうには見えなかったが、それなりの友誼があったのかもしれなかった。だから心配で居ても立ってもいられないのかも。にもかかわらず、自由にならない自分の肢体に苛立ったのだと、静信は無理にも考えようとした。
――だが、実際のところ、信明と徳次郎の面談は淡々としたものにならざるを得なかった。当の徳次郎は顔色が悪い。敏夫が言うところの「他人事のような顔」が顕著だった。車椅子を使って旧来の知己がやってきても、喜ぶでもなく迷惑がるでもない。静信が「父がどうしてもと言うので」と言ったときにも、「そう」と短く答えたきりだった。一方、信明も徳次郎のそんな表情を見下ろしたきりで、とりたてて何を言うわけでもない。だからそれは、まるで決別のための会見のように見えた。ひょっとしたら父親は、徳次郎の余命を悟って別れを言うために来たのかもしれなかった。
「もういい」と、力なく言う信明を車に乗せ、静信はいったん一人で徳次郎の枕許に戻った。
「徳次郎さん、やはり入院なさってはいかがですか」
声をかけると、終始、他人事のように上滑りした返答しかしなかった徳次郎が、奇妙なほどきっぱりと「嫌だ」と答える。
「けれどもお加減が良くないようです。おひとりでは水を飲むのにもお困りでしょう」
「わしは御免だ。入院はせん。どこにもいかん。仏壇を守らにゃならんから」
「けれど」
「入院しても節子は助からなかったし、仏壇や仕事があるから家を空けるわけにはいかん。ほっといてくれ」
静信は渋面を作る。徳次郎の口振りは、まるで台詞を棒読みにしている印象を与えた。
では、と静信は徳次郎の顔を覗き込む。
「せめて仏間に移られてはいかがでしょう。節子さんも、幹康くんも、そのほうが喜ばれるのじゃないですか」
徳次郎は怪訝そうに静信を見た。
「仏壇をお守りになるのでしょう? せめて間近に移られたほうが」
「ああ……そうだな」
静信は頷き、雑用を片付けている安森厚子に声をかけた。徳次郎を仏間に移す旨を告げて手を貸してもらう。厚子の手によるのだろう、仏壇は綺麗に掃除され、生き生きとした花が活けられていた。
静信は軽く手を合わせ、仏壇に線香を上げる。それが効果あるものかどうか分からなかったが、抹香を紙に包んだものを枕の下に忍ばせ、徳次郎手には念珠をさせた。縁側に面した付け書院には、般若心経一巻、開いて載せて守り本尊を置いておく。
「お気を強く持ってください。お寂しいとは思いますが、決して自暴自棄にはならないように」
頷くだけは頷く徳次郎を残し、厚子に挨拶をして車に戻った。信明は妙に神妙な様子で静信を待っていた。
「節子さんや、幹康くんも、あんな様子だったのか」
父親は後部座席から、バックミラー越しにじっと静信を見る。
「……はい」
「あれが、村に蔓延している?」
「……なのだと思います」
そうか、と信明は呟いた。
「それがどうかしましたか?」
いや、と信明の返答は短い。何かを納得したように深く頷き、目を閉じた。
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「こんばんわ」
昭が玄関から声をかけると、手を拭いながら梓が出てきた。
「あら」と、彼女は微笑む。
「兄ちゃん、具合、どうですか?」
昭の問いに、梓は少し困ったようにした。
「お見舞いに来てくれたの? ……たぶん、寝ていると思うんだけど」
「だったら、いいです」口を挟んだのは、かおりだった。「あの、これ……お見舞い」
かおりはゼリーの入った袋を差し出した。梓は家の奥を示す。
「とにかく上がってちょうだい」
明らかとかおりは、礼を言って上がり込んだ。梓は先に立ち、廊下を奥のほうへと向かう。
「やっぱり眠れないみたいなのよ。ゆうべも、夜中に目が覚めて散歩してたみたいだし」
「散歩、ですか? 夜中に?」
そうなの、と梓は困ったように笑う。
「明け方にふらふら戻ってきて、寝られないから歩いてきた、って。じっとしてられないみたいなのね。朝には死んだように寝てたけど、でも別に熱があるとか、そういうのじゃないから」
かおりはそっと昭を見た。昭は口を真一文字に結んで微かに頷いた。
「夏野?」梓はドアを開ける。返答はなかったが二人を振り返って微笑んだ。「起きてるみたい。どうぞ。――かおりちゃんと昭くん。お見舞いに来てくれたわよ」
声をかけ、梓は廊下を戻っていく。かおりと昭は部屋に入ってドアを閉めた。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
昭がベッドサイドに駆け寄り、顔を覗き込む。微かに夏野が頷くふうを見せた。
「石、動いてなかった」
重大なことのように報告する昭に、そう、とだけ答える。顔色は青く、投げ出された腕は弛緩したように力ない。
「兄ちゃん、本当に大丈夫なのか?」
「ああ……悪いな」
薄目を開けてそう言った夏野を見たとたん、かおりは足が震えるのを感じた。――似ていた、恵に。盂蘭盆の夜、最後にあった恵。力なく横たわっていた様子と、あまりにも似ている。
「……恵、なの?」
かおりは訊いた。夏野は少し壁を見て、いや、と呟くように答えた。そうして億劫そうに目を閉じる。
「恵なんじゃないの? 他の誰か? こないだ昭に電話してきたのは、お客があったせいなんでしょ? それで――」
かおりが言いかけたとき、廊下を歩いてくる足音がした。梓がお茶を持って入ってきた。
「お茶でもどうぞ」梓は微笑む。かおりにはその笑みが切なかった。彼女は事態の重大性に気づかないまま、夏野の顔を覗き込んだ。「ちょっと顔色が良くなったかな。かおりちゃんたちが、ゼリー持ってきてくれたんだけど、食べる?」
いや、と夏野の返答は、またも短かった。
「そう? お粥を炊いているから、夕飯は食べるのよ」梓は言って、かおりを見る。「あまり長くならないようにしてあげてね」
はい、とかおりは頷き、出ていく梓を見送った。何も気づいてない。単に少し具合が悪いのだと思っている。そんなことじゃない、これはもっと大変なことなのに。
かおりはトレイを押しのけ、首に下げた十字架を外した。たまたま持っていたものだ。安物の|鍍金《めっき》細工で、こんなものが役に立つのかどうか、分からないけれども。
それを首にかけてやろうとすると、夏野はわずかに首を振って嫌がる。
「……自分たちに使えよ。……おれはもう、いいから」
「もう、なんて言わないでよ」
「そうだよ」と昭も勢い込む。「おれたち、兄ちゃんの言う通り、ちゃんと身を守ってるぜ? 客も断ってもらってる。だから、兄ちゃんも頑張んないと駄目だ」
かおりが鎖をかけている傍らで、昭が念珠を夏野の手首に填[#「填」の字は旧漢字。Unicode:U+5861]める。
「おれたち三人しかいないんだぜ。大人は誰も気がついてない。兄ちゃんがいなくなったら、おれたち、どうすればいいんだよ」
そうよ、とかおりは呟く。守り袋を枕の下に忍ばせ、破魔矢をヘッドボードの上に置く。お札は台所から剥がしてきたもので、ひょっとしたらぜんぜん意味のないものかもしれないけど、とにかくそれを窓ガラスに貼った。昭が鉛筆で作った十字架を枕許に置く。これらのものが昭と二人、ゆうべ家中をひっくり返して探し出したものの全てだった。この程度のことしかできない自分たちの子供っぽさが哀しかった。
夏野はかおりたちを目で追い、何も言わずに、目を閉じた。すぐに浅い寝息が聞こえた。昭と二人、項垂れて部屋を出る。手を付けないままのトレイを梓に返した。
「あの……お邪魔しました」
梓は笑う。
「夏野くん、ちゃんとお相手できた?」
はい、とかおりは無理にも微笑んだ。その時、廊下に出てきたのは結城だった。結城はおや、と梓同様に微笑む。
「いらっしゃい」
お見舞いに来てくれたのよ、と梓が報告すると、結城は笑う。
「それはありがとう。夏野のやつ、起きたかい?」
「はい。いっぱいお話しできて……元気そうで、安心しました」
こんなのは嘘だ。けれども、何も分かってない大人にたいして、どう言えばいいのだろう。これは大人には言えないことだ。そう思うから、つい反射的に隠した。事実と逆のことを答えてしまう。子供っぽい嘘だ。
そうか、と結城は笑った。
二人の子供が帰って、しばらくして梓が夕飯を食卓に並べ始めた。結城は黙って立ち上がり、息子の部屋へと向かう。
明け方まで寝られなかったようだが、それで限界が来たのか、今日は一日、よく寝ていた。なんどか工房から戻って様子を見たが、声をかけても目を覚まさないほど熟睡している様子に安堵した。昼に目を覚ましたとき、食欲はないが気分はいい、と言っていた。見舞客の相手ができるようなら、元気を取り戻しているのだろう。
軽くノックをし、部屋を覗き込む。夏野はまだ眠っているようだった。これまでの不足を取り戻しているのかもしれない。
そう思いながら枕許に近づき、結城は枕のすぐ脇に恭しく置かれたものに気づいた。鉛筆が二本、十字に組んである。子供っぽい造作だった。
いったい、何の呪いだろう、と結城は思った。首を傾げてみると、ヘッドボードの上には破魔矢が一本、置かれている。
「何だ、これは」
結城は呟き、夏野に声をかけた。顔色は相変わらず良くない。昨日よりもましだったが、健康な血色には遠かった。軽く揺すってみたが、嫌そうに寝返りを打っただけで、息子は起きようとしない。その手に念珠を見つけて、結城は眉根を寄せた。
(何だ、これは……)
結城の胸の中で、もやもやしたものが渦を巻いた。
「夏野」
結城はさらに息子を呼ぶ。ようやく夏野が薄目を開いた。
「これは何だ?」
破魔矢を示したが、夏野は何の興味も示さなかった。果たして焦点を結んでいるのか、じっと目線だけを向け、億劫そうに目を閉じようとする。
「お前が置いたのか?」
夏野は目を開けない。いや、と呟くように答えた。
「夏野、ちょっと起きなさい」
言ったが、夏野の返答はない。薄目を開けたが閉じる。怠くてとても受け答えはする気になれないという仕草だった。
よほど眠いのだ、と結城は自分に言い聞かせる。昨日は元気だった。顔色は悪かったし具合も悪そうだったが、結城の返答にはちゃんと答えたし、笑いもしたし、冗談も言った。もちろん「あれ」であるはずがない。昨日よりも悪化したように見えるのは、明け方まで眠れずにうろついていたせい、客人の相手をして疲れ、寝入ったところを起こされたせいだろう。――そうに違いない。
(じゃあ、これは何だ?)
そこにあるものは、何かを示しているように見えた。隠された何かのメッセージを持っているような気が。
「馬鹿馬鹿しい……」
梓がこんな物を置くはずもなく、鉛筆を見れば明らかにこれを置いたのはあの姉弟だろう。
「いったい、なんでこんな」
結城は手当たり次第にあたりを探る。枕の下から守り袋を、窓から札を見つけた。
「……馬鹿なことを」
そのとき、自分の胸にせり上がってきたものが何なのか、結城にもよく分からなかった。それらのものが何らかの意味を持っているように見えるのが、耐えられないほど不快だった。――そう、村には迷信深い連中がいる。一連の惨禍を何かの祟りであるかのように言って、守り札だのを後生大事にする者もいた。鬼だと言い、起き上がりだという。結城は断じてそういう蒙昧を許せなかった。
その中に取り込まれている息子が腹立たしく、引きずり込もうとしている姉弟が腹立たしい。息子が村に溶け込むことを願っていたはずなのに、まるで村人のような振る舞いの中にいる息子の姿は許せなかった。
破魔矢を下り、集めたものをひとまとめに捻ってゴミ箱に突っこんだ。
訪ねてきた得体の知れない子供、訪ねてきた姉弟。死と病。村には結城の理解できないものが横溢している。そのこと自体が我慢できない。
単なる寝不足だ、と結城は息子の青褪めた寝顔を見た。初めて身近な人間の死に出会って、動揺していた。しっかりした子だから、弱音も吐かずに耐えて限界がきた。そういうことだ。それを村にはびこっている得体の知れないものと一緒くたにして欲しくはなかったし、勝手に馬鹿な騒ぎの中に引きずり込んで欲しくない。結城は憤然として常態に戻った息子の部屋を確認し、廊下に出た。
ドアを背後で閉めながら、自分でも自分の怒りを不審に思った。まるで痛いところを突かれて狼狽えでもしているふう。――何かに怯えてでもいるような。
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子供は暗闇の中で、ぐったりと丸くなって正雄を待っていた。三歳程度の女の子、正雄はその子がどこの誰なのか知らない。一昨夜、辰巳に聞いてみたが、辰巳は「知る必要はない」と言った。
その辰巳が、ドアの内側に設けられた格子戸を開ける。しっかりした真新しいドアと格子戸で二重に仕切られたこの小部屋は、間違いなく檻だった。古く傾いた家、廃屋と思しい建物の一郭にあって、もとは納戸か何かだったのだろう。今は毳立った畳が三枚敷かれただけの、がらんとした何もない部屋だった。窓もなく、布団の一枚もない。弱々しい光を放つ裸電球がひとつ、下がっているだけ。横手の壁には塗り壁を突き崩して穴が開いていた。大人なら身を屈めなければ通り抜けられないだろうその穴は、隣の厠に続いている。目隠しとなるものは布の一枚すらない。それが何より雄弁に、この檻の性質を物語っていた。
部屋の中には腐臭が漂っている。畳には大小の染みが点点と落ちていた。その畳の上に丸くなって、子供は部屋の隅で獣のように蹲っている。辰巳に促されて正雄が中に入るとぐったりと顔を上げたが、一昨夜のように泣きじゃくるわけではなかった。昨夜もこうだった。おとなしいというより、明らかに弱っている。正雄は子供の側に膝をつく。無意識のうちに舌の先で前歯の内側に触れた。
下顎の犬歯に挟まれた四本の前歯――中央の二本と側面の二本、その側面の二本の裏側に、新しい歯が小さく先端を出していた。犬歯よりも鋭利なそれは、前歯同士を強く噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせると伸びて上顎を刺す。同時に何か苦いものが口の中に広がった。刺した瞬間には痛みがあるが、この苦い味がすると、すぐに口腔が麻痺したように痛みを感じなくなる。同時にふわりと、軽い酩酊感がした。
幾度か前歯を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせ、正雄は子供の腕を引く。抵抗のない身体を膝の上に抱き上げた。幼女の身体はずっしりと重く、しかも熱かった。おとなしく横抱きにされたまま、子供は小さな口を開いて速い呼吸を繰り返す。本当に熱があるのかもしれなかった。そもそも最初に正雄が襲う前から、どこかぐったりしたふうだった。檻に囚われている間に体調を崩していたのかもしれない。実際、一昨夜から今夜まで、檻の中には子供に食事をさせた痕跡がなかった。
顎に手をかけ、上向かせる。されるままに顔を上げた子供は、かくんと上向いて喉を曝した。小さな首筋には、二つの傷がついている。昨夜、正雄がつけた傷だ。昨夜には釘でも刺したような生々しい傷口を見せていたが、今はもう虫刺されの痕のようにしか見えなかった。わずかに膿んで赤く盛り上がっている。小さく萎縮した瘡蓋が、その中央にある。
正雄は何となく子供の喉を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]むようにして手を這わせ、親指でその傷口を撫でた。掌の下、体温は高く、はっきりと呼気と脈拍が伝わってきていた。手に力を込めれば、それらのものは断ち切ることができる。それと同様に、いま正雄は、子供の生命を文字通り手中にしていた。
格子戸の外で佇む辰巳は、正雄を急かすでもない。正雄は何度か指の腹で傷痕を撫で、それからそこに顔を近づけた。幼女は虚ろな目を開いたまま、あらぬほうを見つめている。抵抗するわけでも身を捩るわけでもなかった。落ち着いて教えられた通り、舌の先で脈拍を探る。小さく皮膚が痙攣しているかのようなそこを探り当て、思い切って歯を当てた。
前歯を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせた瞬間、妙な手応えがあった。口腔の中にわずかな苦みを伴い、血の臭いが広がる。自分の血はかつてのまま、生臭い味をしているのに、不思議に犠牲者の血は甘かった。それは糖類ではなく脂肪のような種類の甘さだ。意外にさらりとして、想像してたよりもはるかに飲み下しやすい。とはいえ、水のよう、というわけにはいかなかった。
傷口から溢れる血液は、かなりの勢いを持っていたが、水道の蛇口を捻ったほどではない。水のように飲めるわけではないので、これでいいのかもしれない。
食事にはそれなりの時間がかかる。途中で一度、子供がわずかに身を捩り、今にも泣きそうな声を上げた。弱い声が泣きじゃくり始める予兆のように響いてやむ。それきり、もう声を上げるでもなく、身動きするでもなかった。飢えが満たされた頃になって、子供の拍動がやんでいるのに気づいた。舌先に脈拍が感じられない。正雄は顔を上げた。
「辰巳さん」
辰巳は正雄の声に何かの響きを感じ取ったのか、格子戸を開けて檻の中に入ってくる。正雄の腕の中を覗き込み、軽く子供の首筋に手を当てた。そして正雄に頷く。
「小さかったからな。きみが襲う前にもう、ずいぶん参っていたし」
やはり、と正雄は思わず膝の上の身体を押しのけた。それは畳の上に崩れ落ち、まだ止まってはいない血が畳表に零れて新しい染みを付け加えた。
正雄はしばらく、その死体を凝視していた。不思議なほど、自分が殺したのだという実感がなかった。食事をしていたら動かなくなった。その程度の思いしか湧かない。それは子供の死体が、ほんのわずかも損なわれていないせいかもしれなかったし、まだ温かいせいかもしれない。あるいは吸血という行為が、人を害するというイメージとはかけ離れているせいなのかもしれなかった。
「……怖いかい?」
辰巳に問われ、正雄は首を振った。
「いや、意外に呆気ないね」
そうか、と辰巳は笑む。
「きみは向いているのかもしれないな。おめでとう、これできみは本当に仲間だ」
正雄は頷き、死体に目をやった。
「これ、どうするの?」
「しばらく放置して様子を見る。甦るかもしれないからね」
「起き上がるかな?」
さあね、と辰巳は死体を軽々と抱え上げて正雄を檻の外へと促した。
「駄目な確率のほうが高いだろうな。父親も母親も起き上がらなかったから」
「両親――死んだの? 村の奴なんだろう? どこのなんていう奴?」
「知らなくていい」辰巳は言って、格子戸を閉めた。錠が付けてあったが、それは閉めない。「家畜の出自を気にしたって意味がないだろう」
部屋を出ると、古びた廊下だった。辰巳は死体を抱えたまま部屋を出て、ドアの脇の釘に鍵を下げた。廊下の一方にはアルミサッシの掃き出し窓が並んでいるが、ガラスの外には白々とした闇が下りている。窓の外に立てまわされた雨戸が、内側から塗り込められているのだった。
この建物がどこにある、どんな家なのか、正雄には分からない。正雄はまだこの建物を出ることを許されていなかった。廊下の途中に設けられた堅牢なドア、その向こうには行ってはならないと言われていたし、それには鍵かかっている。全ての窓は内側から打ち付けられ、塗り込められ、外を覗くことのできるような隙間もない。正雄は檻の中に閉じこめられているわけではなかったが、虜囚の一種であるのは間違いがなかった。
辰巳は死体を抱えたまま廊下を歩いた。途中に面する壁にはドアが二つ。ひとつは正雄が目覚めた部屋で、もうひとつは昨夜、使うようにと言われた部屋だった。こちらのほうは目覚めた部屋よりひとまわり広く、しかもきちんと手入れがなされ、最低限の家具も置かれていた。そのドアの先で、廊下は区切られている。
辰巳は鍵を使って廊下を区切ったドアを開けた。正雄を促す。
「……いいの?」
「君はもう仲間だと言ったろう?」
正雄は恐る恐る、ドアの外に足を踏み出した。正雄の背後でドアを閉め、辰巳は鍵をかけてその鍵を壁の釘に下げる。――では、と正雄は思った。このドアの向こうにあったのは、新入りのための施設なのだ。
振り返った正雄の脇で、辰巳は別の襖を開いた。茶の間とおぼしき小部屋の奥にはガラス戸が閉じており、その向こうは台所になっている。とはいえ、この台所はほとんど使われている様子がなかった。あちこちに熱く埃が積もり、流しにはバケツや漆喰のこびりついた鏝が散乱している。板張りの床の上には三体の死体が並んでいた。辰巳は抱えた子供の死体を、その脇に横たえた。
「村で消費された羊の死体は、とりあえずここに集められる」
「羊?」
辰巳は微かに笑った。
「家畜のことさ」言って、辰巳は三体の死体を覗き込んだ。「ここでしばらく様子を見るんだが――駄目だな。奥の二体は腐敗が始まっている」
中年の男、そして若い女の死体だった。そのどちらにも、正雄は見覚えがなかった。
「どうするの?」
「誰かに言って運び出させる。山の中に埋めるんだ。そのへんに放置しておくのも見苦しいからね」
言って、辰巳は正雄を振り返った。
「きみのように、起き上がる望みのある者は、君が目覚めたあの部屋に運び込まれる。ごくまれに途中で死体に逆戻りしてしまう者もいるが、ほとんどは起き上がるね。それから最初の羊を食い尽くすまでは、奥の部屋に滞在してもらうことになる」
「中には、起き上がったことを喜ばない者もいるからだよ」辰巳は言いながら、茶の間を通り抜け、廊下に戻った。「だから覚悟がつくまでは奥にいてもらう。君はまだ起き上がって三晩しか経っていないけれども、幸い、呑み込みがいいようだ。少し早いけれど、表に出してもいいだろう」
角を曲がってまたドアを抜けた。廊下の至るところにドアが設けられている、という印象だった。
「なんでこんなにドアがあるわけ」
「遮光のためだよ」辰巳は笑う。「もともとが廃屋でね。建物がかなり傷んでいたし、何の弾みで光が漏れるか分かったものじゃないからね」
正雄は奇妙な感じを受けた。自分の身体の中に感じていた違和感は、少しずつ消えていた。だからいっそう、そこまで光を恐れる必要があるのか、という気がした。
玄関に辿り着いた。上がり框の先には壁が築かれ、ここにも堅牢なドアが閉じている。辰巳はそれを開けた。|三和土《たたき》の向こうに、内外から板で裏打ちされたガラス戸が閉じている。ドアに外から鍵をかけ、この鍵も近くの釘に下げて、辰巳はガラス戸を開いた。
「とりあえず、そこにある靴を使うといい。サイズが合わないだろうけど、後で世話をする者に言えば、何とかしてくれる」
「世話係みたいなのがいるんだ」
「いるよ。村に下りて犠牲者を襲う勇気のない役立たずがね」
辰巳の声は冷ややかだった。「役立たず」という言葉に込められた侮蔑を嗅ぎ取り、正雄は背筋を緊張させた。正雄はこれまで特別、駄目な子供だった。けれども甦生して第二の生を得たのだ。断固として「役立たず」にはなりたくなかった。
「仕方ないので攫ってきた羊で養ってやっている。その代わりに連中は、他の者の面倒をみるんだ」
ガラス戸の外には、冷えた夜気が広がっていた。暗い夜の中だった。出てきたばかりの建物の周辺には、荒れた棚田と建物がいくつか並んでいる。だらだと登る坂の左右に点在する家と田畑、それを取り巻く暗い山、蓋するのは満天の星空。どもこれもが蒼褪めて見えるのは、正雄の視覚が変容しているからだった。
「ここ……どこ?」
正雄はその風景に見覚えがなかった。山の中のごく小さな集落だということだけが分かった。
「どこだと思う?」
正雄は風景を見渡した。真っ暗な集落の畦や地所を、徘徊する黒い人影が遠目に見える。
「分からない。村の近く?」
「すぐ近くだね」
正雄は首を傾げ、そして思い至った。
「――山入」
辰巳は笑う。
「そう。御名答」
夏の最中、老人が死んだ。それきり住人が絶えた山間の集落。正雄が出てきた建物は、その集落の最も下にあった。一軒だけ、周囲の建物とはわずかに距離を保っていたが、すぐ間近の田圃は|均《なら》され、コンクリート・ブロックが積まれている。建物が建てられようとしているようだった。
「吸血鬼の村……」
正雄が呟くと、辰巳がやんわりと訂正する。
「屍鬼、と言うんだそうだよ。なんと呼んだところで実情が変わる訳じゃないが、上の人は吸血鬼という呼び名が嫌いなんだ」
「上の人?」
辰巳は頷く。
「桐敷家の人々」
そうか、と正雄は頷いた。養われ、雑用をこなす人々を最下層に、桐敷家を頂点とする階層がここにはあるわけだ、と納得した。
辰巳は先に立って、細い坂を登る。真っ暗な夜の中、真昼のように往来する人影があるのが異常だった。明かりひとつ持たず、青い闇の中を蠢く黒い影。それは所用でもありげに足早に道を横切り、あるいは建物に出入りをする。
「あいにく、一人に一部屋を与えてあげられるほどの余裕はない。基本的に四軒ほどの家に分散して共同生活をすることになる。他の家にも手を入れて、住居として使えるように造作をしているけれども、なかなか追いつかなくてね」
「へえ……」
「賄いに訊けば、余裕のある建物を教えてくれるだろう。ここ以外にも、隠れ家になる場所がないわけじゃないが、君はまだ仲間になってわずかだから勧めない。しばらくは山入にいたほうが安全だ」
正雄は頷き、それから、と問う。
「それから?」
「どうすればいいんだ? 食事は自分の手で何とかしないといけないんだよね? それ以外には何をすればいいわけ?」
辰巳は笑った。
「特に義務のようなものはないよ。君に求められているのは、基本的に、自分の食い|扶持《ぶち》は自分で何とかする、ということだけだ。まあ、山入の采配は、|佳枝《よしえ》さんが執っている。他はあの人に訊くんだね」
「佳枝?」
辰巳は闇の中、黒々と聳える家を示した。
「あの家。――あそこも、もともとは村迫というんじゃなかったかな。蔵のあるあの家にいる。あそこが集会場代わりになっていてね、佳枝さんと佳枝さんの手伝いをしている人たちが住んでいる。夜に起きたらまず、あそこに顔を出すようにするといい。そうすれば、することがあれば、割り振ってくれるだろう」
正雄は頷いた。
「あとは時間をどう使おうと、君の勝手だ。好きにしていい。ただし最初のうちは、狩りをするのが精一杯で、なかなか時間の余裕を見つけられないと思うけどね。しばらくの間、狩りに出るときは誰かと行動を共にするように。まだ一人で行動しては駄目だ」
「襲う相手は好きに決めていいの?」
「まったくの自由とはいかないな。いろいろとね、ぼくらには長期的な展望というものがあるんだよ。――誰か、襲いたい奴がいるかい?」
正雄は頷いた。
「知り合い」
「歳は?」
「幾つだったかな。高一」
「高校生なら構わない。村外に通勤や通学する人間は片づけておく必要があるから。なんといったかな――君の友達かい? 武藤保、とかいう」
「違うよ。結城」
「なるほどな。――しかし、それは駄目だ」
「どうして」
「彼はもう、襲われているんだよ。別の仲間が襲っている。割り込みは駄目だ。暗示が効きにくくなるからね」
正雄は苛立つものを感じた。
「自由にしていいって言ったのに」
「都合があるとも言ったろう。彼は駄目だ。第一、君が襲うまでもなく、じきに死ぬ。もう三夜目か、それくらいにはなるはずだからね」
「だったら、止めだけでも刺させてよ」
「駄目だ。彼はね、ちょっと特別なんだよ。デリケートな取り扱いを要するんだ。ぼくが直接、襲撃を采配している。駄目だ。彼は諦めるんだね」
そんな、と正雄は辰巳をねめつけた。辰巳は正雄を冷ややかに見る。
「教えてやったろう。逆らわないことだ」
正雄は返答に詰まり、そっぽを向いた。
甦生してもやはり正雄の思う通りには物事は進まない。それが腹立たしかった。正雄は「特別」だと言われてきたが、これはネガティブな評価でしかなく、誰一人として「特別」なようには扱ってくれなかった。そして、夏野は「特別」なように見えた。都会から転入してきた少年。行動も思考回路も村の者とは違っている。友人のような父母、一人っ子。成績は良くて、宗貴のように協調性のあるタイプではなかったけれども、それでも人望はあった。やりたいように勝手にやっているにもかかわらず、周囲からは大事にされていたし愛されていた。何の悩みもなく、なんの不運に出会うこともなく、周囲を見下して生きていた奴――そう、正雄は夏野を捉えている。
夏野を見ていると、自分は少しも「特別」ではないのだと感じなければならなかった。年下のくせに正雄を見下すいわれのない軽蔑のようなものを、正雄は常に夏野から感じていた。
――ここでもあいつが特別なのかよ。
正雄は苛立った。そんな正雄を一瞥し、辰巳はまっすぐに蔵のある家に向かう。周囲には人影が多い。それらの人人は辰巳に向かって一礼し、怯えたように逃げていった。辰巳はここでは畏怖されているのだと悟った。
辰巳は家のガラス戸を開ける。それは外から見ると、単なる廃屋の戸にしか見えなかったが、中に入ると内側からしっかりと裏打ちされている。三和土の先、上がり|框《かまち》の前にドアがしつらえられているのも、正雄が出てきた建物と同様だった。ひとつだけ違うのは、ドアを開けると明るい照明が点っていたことだ。
明かりが目に滲みて、正雄は瞬く。辰巳が低く笑った。
「明かりは必要ないはずなんだけどね。けれども、みんな不思議に明かりを欲しがるな」
目が光になれると、色彩が戻ってきた。黒い床板、白い壁。そして襖。壁はきちんと塗られている。つい最近、塗られたのだろう、目に痛いほど白かった。そのせいか、あるいは単純に明かりのせいか、真っ直ぐに延びる広い廊下には、どこか心安げな気配が漂っている。
「廃屋なのに電気が通ってるんだ」
「器用な者がいてね。架線からこっそり引いてきているんだ」
またドアを抜けた。とたんに人の話し声が押し寄せてきた。廊下の左右に面した襖が開け放され、両方の部屋に人影が見える。座卓を囲んでくつろいでいるふうなのが、奇妙だった。茶の間らしい部屋のほうでは、中年の女が坐り机に向かっている。正雄らを認めて腰を上げた。笑顔を浮かべて廊下に出てくる。
「もう出てきたの? 早かったのね」
辰巳は正雄を振り返った。
「佳枝さんだよ。――彼を頼む、佳枝さん。それから、下の家。奥の二つは駄目だ。運び出して埋めたほうがいい」
佳枝は頷いた。
「人をやるわ。羊の残骸は?」
「脇に並べておいたよ。おそらく駄目だろうと思うけどね」
そう、と佳枝は頷いた。正雄に目をやり、にこりと笑む。
「少し辰巳さんと話があるから。今日はもう食事は済んでいるのね? だったら、誰かとおしゃべりでもしていて」
佳枝は座敷のほうを示した。
「外に出てもいいけど、あまり建物を離れないでね。話が終わったら声をかけるわ」
正雄は頷いた。茶の間の襖が閉められる。所在なく座敷を覗き込み、なんとなく新入りには入りにくいものを感じて表に出た。ドアと戸と、二重に遮断され、家の外に出ると中の明かりはまったく見えない。見上げた家は単なる廃屋にしか見えなかった。廃屋にしては大きい、それだけだ。
地所の隅で、女が三人ほど立ち話をしている。その脇で子供が一人遊んでいた。納屋の前にもたむろする人影が見える。あまにも日常的な風景。建物が廃屋じみており、灯火がまったくないことだけが日常性を欠いている。あまりにも単純な、けれども根本的な異常。だからこそいっそう異様な感じがした。
正雄はおずおずと納屋のほうに近づいてみる。納屋の手前、枯れた小さな池の縁に、一人の男が腰を下ろしているのに気づいた。男は正雄に気づき、悄然と垂れていた顔を上げた。明かりはなかったが、正雄の目は相手の容貌を見て取っていた。
「――徹ちゃん」
徹は唖然と腰を浮かし、そして顔を背けた。
正雄は小走りに徹の側に駆け寄る。もう会えないのだと思っていた。文字通り、永久の別れが来たのだと。だが、そうではなかったのだ。
「そうか、徹ちゃんも起き上がってたんだ」
正雄は笑った。徹はしかし、にこりともせず、まるで忌まわしいものを見たように顔を背ける。
「……何だよ」
正雄が口を曲げると、徹は深い溜息をついた。両手に顔を埋め、低く吐き出す。
「何でお前まで起き上がんだよ」
「……おれ、起き上がったの、悪かったみたいだな」
徹は正雄を見上げ、そして顔を歪めた。
「お前、自分に何が起こったか分かってるのか?」
「分かってるよ。死なずに済んだんだ。徹ちゃんはそれ、喜んでくれないんだな。まるでおれなんか死んだほうが良かったみたい」
「そうじゃない」
そんな意味じゃない、と徹は口の中で繰り返すように言って立ち上がった。正雄を避けるように面伏せ、足早に地所を出ていく。
「何だよ……それ」正雄は徹を憤然と見送った。「おれが死んでないのが気に入らないのかよ!」
徹は振り返らない。裏切られた気分でそれを見送っていると、唐突に間近で声がした。
「気にしないほうがいいわよ」
振り返ると、同世代の少女が立っている。その顔には見覚えがあった。
「お前……清水か?」
「そう。あんた、村迫の米屋の息子ね」
正雄はふてくされて頷く。恵は髪を掻き上げた。
「気にしないほうがいいわ。あの人はちょっと今、ナーヴァスになってるの。甦生したのを悔やんでる」
「何で?」
「獲物を指定されたからでしょ。知り合いを襲うよう命じられて、それで気が咎めているのよ」
「……知り合い?」
「そう。辰巳さんの意地悪。徹ちゃん、最初から餌食を襲うのに及び腰だったから」
恵はそう言えば、武藤家の兄弟と付き合いが古かったのだと思い出した。
「辰巳さんは、そういう人には意地悪をしたがるの。人殺しは嫌だなんていう人にはね、わざわざ知り合いを襲わせるのよ。知り合いを襲うのは、それでなくても複雑な気分がするものだし、いつもの狩りと少し違う。人殺しをするんだって気がする」
「仕方ないだろ。もう襲わないと生きていけないんだから」
そうね、と恵は肩を竦めた。
「仕方ないけど気は咎めるわ。徹ちゃんは最初から人殺しを嫌がってたから、だからわざわざ知り合いを襲わせて人殺しをさせてるの。村に、いちゃ都合の悪い人が現れて、それで双方に対して嫌がらせをしてるのよ。そういう皮肉の好きな人だから、辰巳さんて」
「都合の悪い人?」
「――ハンター」
正雄は首を傾げた。
「あたしたちの存在に気がついた人がいたってこと。怯えて家に隠れてればいいのに、屍鬼をなんとかしなきゃって思っちゃったのね。だからハンター。狩人は駄目なの。許されない。粛正されるのよ」
正雄は眉を顰めた。
「それ……まさか、夏野か?」
恵は眉を顰めた。
「そう。知ってるの? ……知ってるわよね。あんた、徹ちゃんのところに始終、出入りしてたんだもの」
正雄は頷く。そうだったのか、と複雑な気分で思った。夏野を徹が襲っている――それが徹にとってひどく残酷なことだというのは分かる。だが、夏野のほうは気にしないだろう。きっと徹だろうと誰だろうと、平然と狩るのに違いない。そういう奴だと、正雄は思っている。
「獲物を指定されることがあるんだ……」
「あるわよ。獲物を選んでも駄目って言われることもあるし」
「自由にしていい、って言ったのにな」
恵は顔を歪めた。
「そんなの、本当のはずがないじゃない」
正雄が見返すと、恵は自嘲するように笑みを零す。
「あたしたちはね、飼い犬なのよ」
「辰巳さんは仲間だって言った」
「口だけよ。ここは飼い犬の住処なの。自分の我を通したいと思ったら、兼正に行かなきゃだめ」
「兼正……?」
「あそこが飼い主の住処なのよ」
そうか、と正雄は前歯を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせた。鋭利な歯が上顎を刺し、苦いものが広がる。同時に麻痺するような酩酊感。
「それ、やめたほうがいいわよ」
言われて、正雄は恵を見返した。
「自分の口の中を刺してるでしょ。それをやる癖がつくと、やめられなくなるの。口の中がぐずぐずになってる人もいるもの。アル中みたいになって、分別がなくなって使い物にならなくなる。そうなったら|木偶《でく》の仲間入りよ」
「木偶?」
「養ってもらわないと食事もできない人たち。佳枝さんがそう呼ぶの。奴隷みたいなもんよね」
そうか、と正雄は口を歪めた。自分は仲間になったのだ、起き上がったのだという高揚感は、いまや見る影もなく萎んでいた。
「起き上がったっていいことなんか、何もないわ。飼い犬みたいに扱われて、狭い家の中に押し込められて。毎晩、山道を越えて村まではるばる狩りをしに行くの。その狩りだっていちいち指図される」
恵は低く吐き出した。
――こんなはずじゃなかったのに。
恵はお屋敷の住人の仲間になった。仲間に加えたのは桐敷千鶴だ。なのに恵の生活は、少しもお屋敷の住人のようではなかった。山の中に隠れ、夜になると下生えを掻き分けてさまよい出、あさましい食事をする。人目を避け、山に戻り、惨めな建物の中で死人のように眠る。
(村を出たい……)
けれども、出る方法なんかどこにもない。恵たちは厳しく監視されており、行動の自由はない。だから、せめて。
恵は夏野を仲間にしたかった。せめてここに夏野がいればどんなにかいいだろう。なのに誰を襲うかでさえ、佳枝に指示されねばならないのだ。狩りの合間、恵はしばしば夏野の家を訪ねていたが、それだって辰巳や佳枝にしれれば、厳しい叱責を食らうだろう。
「くそ……。なんだよ、調子のいいことばっかり言いやがって。あの野郎」
「そういう口の利き方はしないことね。上の人に逆らわないことよ。特に辰巳にはね」
「あんな奴」
ふん、と正雄は鼻を鳴らした。
「干されるわよ。部屋に閉じこめられて、食事をさせてもらえない」
「そのくらい」
「甘く考えないほうがいいわね。そりゃあ、一晩二晩、食事をしなくても平気だけど。でも人と違ってこの身体は、飢えたからってぐったりしたりはしないから。起き上がってからの飢餓は、人だった頃の比じゃないの。ものすごく苦しいんだから」
まさか、と正雄は恵を見た。恵は素っ気なく頷く。そう――苦しいのだ、本当に。
「それだけじゃない。寝てる間に外に引き出されることもあるの。あたしたち、陽の光が当たると身体が焼け爛れちゃうから。辰巳は平気なの。昼間にも起きてられるし外を歩ける。そりゃあ火傷ぐらい、すぐに治るけど、身体に火をつけられるようなもんだもの。あれをやられて、その後も辰巳に逆らえた人なんて一人もいないわ」
「そんな……じゃあ、おれたち本当に飼い犬のようなもんじゃないか」
「だからそう言ってるでしょ」
正雄が顔をさらに歪めた。開いた口が、今にも罵倒を撒き散らしそうに見えたが、恵はそれを止める。地所を横切って、辰巳と佳枝がやってくるのが見えた。
「――こんばんは」
恵が声をかけると、辰巳は頷く。まっすぐに恵を目指して近づいてきた。
「君は今、空いてるんだって?」
「空いてます」
「じゃあ、頼みがあるんだけどな」
「襲うんですか、誰かを?」
辰巳は頷く。
「君の友達に田中かおりという子がいるね」
恵は眉を寄せた。
「まさか……かおりを?」
「その父親を。君なら誰が父親なのか分かるだろう?」
「分かりますけど。……かおり、何かしたんですか」
辰巳は微笑んだ。
「工房の結城くんと結託してね」
恵は目を|瞠《みは》った。
「結城……」
「手に手を取って、狩人ごっこをしてたんだよ。それでお仕置きが必要なんだ」
恵は手を握りしめた。胸の中にどす黒いものが満ちた。脅され、囚われた自分の惨めな暮らし。こんなはずではなかったのに。戻れるものなら、今からでも人に戻りたい。そのほうが数段ましだった。そして人のまま留まっているかおりが、恵のものを奪おうとしている。暖かい家に留まり、両親の庇護の下、夏野に接近して――。
「やります」
恵は呟いた。
恵はもう、夏野に会うことも言葉を交わすこともできないのに。
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「今に後悔するからね!」
郁美はアスファルトに両手を突き、背後に向かって毒づいた。大川富雄が軽蔑も露わに郁美を見下ろし、物も言わずに店のシャッターに手をかける。起き上がり、駆け寄って大川を蹴りつけてやりたかったが、店の照明を背負い、逆光になった大川は、いかにも巨大に見えた。郁美が小さく、道路に倒れ伏していればなおのこと。憤りで息をついている間に、シャッターは閉じた。ドアが閉じるよりも、それは郁美に拒絶された、という気分を促させた。
「なによ! 人が親切で教えてやってるんじゃないの。おまけにあたしは客なんだから」
郁美は立ち上がり、シャッターを軽く蹴った。大川酒店のカウンターで呑んだ酒が、郁美の感情に強い起伏をつけていた。
カウンターで飲んでいるうち、村での不審事の話になった。近頃の村ではよくあることだ。郁美は同じく飲みに来ていた西田老人に、兼正だ、起き上がりだと教えてやったが、これは侮蔑めいた笑いを持って受け流された。大川があからさまに揶揄し、清水園芸に郁美が乗り込んでいったことを責めるに至って、口論になった。いや、最初は口論などというものではなかったのだ。皮肉の応酬のような物。口調軽いが、明らかにその場の雰囲気は険悪になっていった。残っていた西田老人が|這這《ほうほう》の体で逃げ出し、大川が郁美を追い返しにかかった。郁美だってそれ以上、大川の顔など見ていたくなかったが、郁美には所持金がなかった。
「なによ、この守銭奴が」
郁美はシャッターに向かって吐き捨てた。郁美は時折、ここに飲みに来るが、酒代を持ってきたことは一度もなかった。カウンターでたむろする連中に声をかければ、一緒に飲んでいかないか、という話になる。持ち合わせがないから、と言えば、たいがい誰かが奢ってくれた。今夜も、西田老人がそう言っていたのだ。それが郁美のぶんの勘定を忘れて先に帰ってしまったものだから。
そういうことは、これまでにもままあったことだ。大川も心得ていて、郁美から代金を取ったことがない。奢ると言っていた誰かに後から請求するのかもしれなかったし、どうにか辻褄を合わせていたのかもしれない。そもそも郁美は酒に強くない。飲むと言っても日本酒か焼酎をコップに一杯、長々と時間をかけて舐める程度だ。だからこれまで、特に代金を払えと強く迫られたことはなかった。
「たった一杯の安酒じゃないの。それを、何よ! 人を泥棒みたいに!」
金を払えと迫られ、西田老人の奢りだと主張すれば、たかりのように言われた。あげくには郁美の振る舞いを気違い沙汰だと非難し、店の外に文字通り突き出した。
「伯父さんのことを言われたのが気に入らないんでしょう! 本当のことじゃないの。あんたんとこの伯父さんが、鬼になって害毒を流してんのよ! ちょっとは村の人に済まないと思ったらどうなのよ!」
郁美はもう一度、シャッターを蹴った。神がかったことをいう、と胡乱な目で見られることには平然としていられたが、たかりのように言われ、盗人のように言われたのは、この上ない侮辱だと感じた。
「あたしを馬鹿にしてるんじゃないわよ! 今に後悔するからね!」
近頃ではぽつぽつと村人が相談にやってくるようになっていた。郁美の前で殊勝に頭を下げ、手を合わせる。郁美の書いた札を持って礼を言って帰っていく。それが郁美の自我を肥大させていた。自分はひとかどの人間になったのだ、という高揚感。それを正面から非難するのではなく、まるで卑劣な足払いをかけるように、たかり呼ばわりして侮辱した大川が許せない。
郁美がもう一度、シャッターを蹴ったとき、店のすぐ脇の路地からうっそりと大川篤が現れた。父親似の息子は、郁美を凄むようにして見据えた。
「何してやがんだ」
ふん、と郁美は鼻を鳴らす。篤の若く大きな体に気後れを感じたが、それを見透かされたくはなかった。
「あんたの知ったことじゃないわ」
「いま、店のシャッターを蹴ってただろうが」
「それが何よ。あんたの親父もあたしに暴力をふるったんだからね。おあいこよ」
「勝手なことをいってんじゃねえ」篤はずいと前に出てくる。「只飲みしようとしやがったくせによ」
冗談じゃない、と郁美は言いかけたが、篤の蹴りが飛んできて、言葉は悲鳴になった。
「いかれた婆ァのくせに、意気がんじゃねえぞ」
「やめて! やめてよ!」
郁美は路面に転がって身を縮めた。篤がいかにも馬鹿にしたように笑った。郁美は悲鳴を上げたが、夜道には|人気《ひとけ》がない。店は村道に面した角地で、向かいは公民館だ。何事だろうと窓を開ける物も、道に飛び出してくる物もない。篤、とどこからか加害者を止める声がしたが、それは大川の声で、それがいっそう郁美の矜恃を傷つけた。
「相手にすんじゃねえ」
大川の怒声がシャッターの奥から響く。それでようやく、蹴りがやんだ。おそるおそる顔を上げた郁美に、突然、水が勢いをつけて浴びせかけられた。
「飲みたきゃ、こんなもんでもたらふく飲めよ」
篤が笑う。郁美は両手を振りまわし、ホースの水を避けながら、這ってその場を逃げ出した。悔し涙が滲んだ。篤の哄笑を聞きながら角を曲がって村道に逃れたときには、嗚咽になった。
「ちくしょう……覚えといで」
郁美は歯ぎしりをする。ずぶ濡れになった自分の有様が、救いようもなく惨めな気分にさせた。
「誰が正しいのか分からせてやるから――偉いのは誰なのか、絶対に思い知らせてやるからね」
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「徳次郎さんはどうだった」と、私室に入るなり敏夫に問われ、静信は首を振った。
「入院は嫌だそうだ。確かに台詞を言い含められたような口調だった」
それで、と問うので、効果があるかどうかは分からないが、仏間に移し抹香と念珠を身につけさせ、縁側に面して経典を置いておいた、と説明した。
「それで撃退できると思うか?」
「分からない。……あの家はすでに屍鬼に対して開かれている。経典で塞いできたのは付け書院だけだから、さほどの効果は期待できないかもしれない」
それこそ、襖に経文なり曼荼羅なりを書写すれば、それなりに効果があるのかもしれなかったが、試してみるわけにもいくまい。――そう言うと、敏夫は苦笑した。
「まったくだ。あまり素っ頓狂な振る舞いをするわけにはいかんしな。それでなくても信じがたい事態だってのに、このうえ奇矯なことをやったんじゃ、それこそついてくる者もこなくなる」
静信は頷いた。
「入院は嫌だという以上、徳次郎さんにしてやれるのはそこまでか。入院を拒絶されると痛いな。徳次郎さんは同居する家族も絶えたような有様だから、そこまでできたが、これで家族がいたら手も足も出ん」
「ああ……」
「ところでお前、桐敷家の江渕さんが診療所を開くって話は聞いたか?」
いや、と静信は目を見開いた。
「――本当に?」
「下外場にコンビニがあったろう。あそこを改装して診療所にするようだ。しかし、何のために?」
「まさか、そこを汚染の拠点にするため?」
さあな、と敏夫は呟いた。
「だいたい――そもそも連中は、何だってこんな村に越してくる気になったんだろう。おれは不思議に、今日までそれを考えてみたことがなかったんだ。いるもんはいるんだから、という気がしていたんだが」
「屍鬼が増えるのには、絶好の場所だと言ったのはお前じゃなかったか?」
「そう。……確かにそうだ。ここじゃ未だに死人を土葬にする。屍鬼にとっちゃ火葬は都合が悪い。しかし連中はどうして、村じゃ未だに土葬だと知ったんだろうな」
さあ、と言いかけ、静信はかつてそれを自分自身が書いて発表したことを思い出した。確か去年の春の話だ。そのエッセイを沙子も読んだと言わなかっただろうか。
「……まさか」
「うん?」
それがそもそもの元凶だったのだろうか。屍鬼にとって火葬は都合が悪かろう。仲間を増やすのに火葬は大きな障害になるはずだ。屍鬼という存在がありながら、今日までそれが知られていなかったのは、ひとえに火葬の風習のせいだろう、という敏夫の推測は正しいのだろうと思う。
――だが、土葬にする場所があれば、屍鬼はそこで増殖できる。静信の書いたエッセイが目に留まる。村では未だに土葬にする、墓所は山の中だと、静信はそう書いた覚えがあった。
「どうした?」
「ぼくが書いたせいかもしれない」
敏夫は険しい表情をした。
「村は死によって包囲されている、――あれか」
静信は頷いた。
「しかし、あれには村の名前は書いてなかっただろう」
「読めば著者の住んでいる村だということは分かる。著者の略歴を参照すれば、だいたいの住所は分かるし、あとは地理的な条件を考慮しながら地図を探せば、見つけることは可能だ」静信は俯く。「……そう言ったんだ。桐敷の娘さん自身が」
「……おい」
「確かにそうだろうと思う。エッセイを読む。どこなのか探す。そして――」
「関係者をあたる、あるいは実際の状況を確かめる。前に妙なリゾート開発の話があったろう。調査員だって男が来て、しばらく徳田屋に滞在してあちこちを調べていった」
確かに、と静信は呟いた。敏夫はさらに記憶を探るようにする。
「実際に調べた結果も、好ましい立地条件に見えた。連中は村に侵入をもくろむ。兼正の家を手に入れて――」言いかけて、敏夫は大きく息を吐いた。「兼正の先代は急死したんだ。誰にも何も言わず、独断で地所を桐敷氏に譲っていた」
そもそも、そこから始まっていたわけだ、と静信は暗澹たる気分になった。同様の気分がするのか、敏夫はいかにも苦々しげな表情をする。
「連中は周到だ。おれたちが考えていた以上に。こっちはやっと屍鬼の存在に気づいたばかり、とりあえず奈緒さんと秀司さんが墓にいないことは確かめたが、実際に撃退する方法も水際で増殖を止める方法も見当がつかない。まったくの五里霧中だってのに、連中は一年以上も前から準備をして用意万端、整えていたんだ。――だが、なぜだ?」
「なぜ?」
「連中は計画的に村に侵入してきた。だが、それは何のためだ? 準備に一年以上もかけているんだぞ。単純な思いつきなんかじゃない。それなりの目的があって、そのために計画を立て、それを着々と実行に移しているんだ。だが、その目的ってのは何なんだ?」
「だから、それは増殖――」
「増殖してどうするんだ? 火葬は屍鬼が増えることを確実に抑止してきたんだろう。その意味で、外場は屍鬼にとって有利な土地なのかもしれん。だが、屍鬼がそんなに増えてどうする。自らの勢力を拡大すべく動くのは、人間にとって第二の本能みたいなもんだが、無目的に増えたところで肉食獣だけが増えるようなもんだ。連中はそのうち、この村の人間を食い尽くすぞ」
確かに、と静信は呟いた。
「おまけに江渕クリニックだ。そこを汚染の――増殖の拠点にすれば、確かに今以上の速度で増殖していけるのかもしれん。だが、今でも連中は、やりすぎてる。これ以上死人が増えれば、絶対に誰かが注目するぞ」
「葬儀社……」
「え?」
「葬儀社ができるんだそうだ。できたんだったかな。上外場の木工所を改装して葬儀社ができる」
「埋葬を請け負う?」
「おそらく」
敏夫は唸った。
江渕クリニック、外場葬儀社、双方は相似形を描く。無関係だとは思えない。もしも外場葬儀社の設置に桐敷家が一枚噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んでいるとしたら、その目的は何だろう。自分たちで葬儀を行い、埋葬を行う。すると確実に言えるのは、起き上がる仲間を墓から救い出す労力が減る、ということだ。秘密裏に墓を暴く苦労は、静信も身に滲みている。連中は恐らくそれを続けてきた。どうやってか、墓の下の死体が起き上がるかどうかを確認し、起き上がるとあれば墓を暴いて救い出し、墓を埋め戻してきたのだろう。連中が埋葬を代行することができるようになれば、その労力を軽減すべく前もって何らかの処置ができる。事態が露見する危険性は飛躍的に減少するだろう。増殖は加速する。――けれども敏夫の言う通りだ。そんなに増えてどうしようというのだろう?
「何か目的があるんだ」敏夫はじっと目を凝らす。「目的があって、そのために連中は周到に計画して、それを推進している。おれたちがどうしていいか、方策さえ見つけられずにいる間に」
それきり敏夫は沈黙した。静信は、敏夫が「だから屍鬼を狩ることが必要だ」と言い出すのではないかと背筋を寒くしていたが、幸いなことに何も言わなかった。
実際のところ、敏夫もそれを言いたかったが、幼なじみの気性は分かっているから、あえて持ち出さなかった。それだけでなく、屍鬼が何を考えているのか、狩ると簡単に言うものの、実際にどうやって狩ればいいのかを考えざるを得なかった。連中は極めて周到で計画的だ。敏夫が静信の手を借りて、場当たり的に対抗して、それで事態を止められるものだろうか。
後ろめたいふうに敏夫を見る静信を送り出し、敏夫はしばらく自室で考え込む。連中が何を考えているのかは分からないが、対抗するなら、こちらも計画的に当たる必要がある、そう思えてならなかった。
じっと考え込んでいたときだった。家のどこかで何かが盛大に倒れる音がした。敏夫は腰を浮かす。棚か机か、そんなものが倒れた音に聞こえた。自室を出て居間のほうに向かうと、寝間着姿の母親が狼狽したように廊下をやってくるところだった。
「何の音? 何かが割れたようだったけど」
「さあ」と、敏夫は答え、手近の部屋を覗く。どこにも異常がないのを見て取って二階に上がった。階段にいちばん近いのは、かつての敏夫の私室――現在では夫婦の寝室という名目でベッドが置かれている部屋だった。ドアを開けると、とたんに強い化粧品の臭いがして、鏡台に突っ伏した恭子の姿が見えた。
「――おい」
敏夫は飛び込む。恭子はドレッサーに突っ伏して、夜着の胸のあたりを握り締めている。払い落とされたのだろう、化粧品の瓶が床に散乱し、蓋の開いたいくつかがカーペットに染みを作っていた。
「敏夫、なにごとなの」
金切り声を上げる孝江を制して、スタンドの光を向け、恭子の顔を覗き込む。一目でチアノーゼだと分かった。呼吸困難を起こしている。気道を確保し、呼吸を観察する。自発呼吸はある。非常速いが喘鳴が交じって浅い。――大丈夫だ、とわずかに息をついた。一刻を争う状況ではない。敏夫一人でも処置できる範囲内だ。
「母さん、足を抱えてくれ。処置室に運ぶ」
「いやですよ、わたしは」
嫌悪を露わにした母親を、敏夫は怒鳴りつけた。
「抱えるんだ! 死なせたいのか!」
孝江は怯えたように目を見開き、恨みがましい目をしてから恭子の足を抱えた。四苦八苦して階段を降ろし、病院棟に運んでストレッチャーに移す。
「敏夫……恭子さんは」
「大事はないと思うが、なんとも言えない。処置をするから、やすよさんに電話してくれ。事情を言って大至急、手を貸してほしいと」
孝江は、おろおろと頷く。
「橋口さんね」
逃げるように母屋に帰っていく孝江を見送り、敏夫は自分の妻を見下ろした。気道を確保するために手をかけたときに気づいた。頸部静脈に沿った二つのセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]。
なぜ、気づかなかった。そう言えば、このところ恭子は妙に穏和しかった。帰ってくれば孝江と諍いが絶えないのに、今回はそれがない。まるで存在しないかのように部屋に引き籠もったまま、敏夫もその存在を失念していた。
あれだ。――しかも後期に入っている。
どうして、と自分を責めたい気がした。なぜ連中が自分たちを避けて通ってくれるなどと思ったのか。連中が犠牲者をどうやって選んでいるにしろ、確率から言っても、自分たちだけが無事に済むはずがない。いつ身辺に被害が及んでも不思議はなかったのだ。むしろ、これまで無事で済んだことのほうが幸運だった。
そこまで考えて、敏夫はぎょっと宙を睨んだ。――これまで無事だったのだろうか、本当に?
「徹くんがいる……」
そう、武藤の息子はもちろん連中の餌食になったのだ。そして?
「……やられた」
突然の辞職。
レントゲン技師の下山、そして十和田。彼らが犠牲になったのではないと、どうして言えるだろう?
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田中は疲れた体を引きずるようにして役場を後にした。もう十一時を過ぎている。村にとっては深夜と言っていい時間帯だった。
(何かがおかしい……)
田中はこのところ、何度もそう胸の内で呟く。いつの間にか習い性になっていた。
そう、おかしい。田中は背後を振り返る。小さな出張所には煌々と明かりがついている。こんな夜遅くまで役場に明かりがついていること自体、おかしいと思う。
もちろん、窓口は五時で閉まっている。受付時間が変更になったわけではない。ただ、役場の人員が減っていた。保健係の石田は失踪したまま行方がしれない。他にも退職した者があり、辞めて転居した者がいる。欠員を埋めるべく、新しい職員が二人、入っていたが、それらは全員、臨時雇用で、しかも夜にしか現れない。
そもそも、と田中は思う。あれはちょうど石田が消えた後だっただろうか。所長が辞職した。体調を崩したといって突然、辞職し、後任の所長がやってきた。今泉というその新所長は、着任したなり体調を崩し寝込んでいる。欠勤が続いたまま、まだ一度も役所に現れていなかった。もう十日近くになる。
所長の決裁がなければ役場は動かない。次長の小川が新所長の家に日参して、とりあえず判をもらっていたが、昼間は寝ているのか、戸締まりをしたまま応答がない。夕飯時になると起き出してくるようなので、小川はわざわざ全ての業務が終わった後に所長の家を訪ねていた。人でも足りない。補充されるのは夕方になってからだ。所長の決裁がもらえるのも夕刻を過ぎてから、なので勢い残業が増える。昼間は窓口にやってくる住民の相手をしながら、することもなく暇を潰し、実際の業務は窓口が閉まってから――その状態がもう五日ほど続いていた。
(そして、死亡届……)
田中の手許には、どうすればいいのか分からない死亡届のコピーが溜まっていた。石田がいない。だからそれをどうしていいのか分からない。もうコピーする必要もないようなものだったが、なとんなく田中はそれをやめられなかった。時折、思い切って自分が尾崎なりに届けようかとも思う。けれども尾崎の敏夫から問い合わせや指示があったことはなく、石田と尾崎がやっていた何事かは、石田の失踪を契機に、完全に棚上げになっている様子だった。
そのこと自体に不安がある。これは棚上げにしていいようなことではないはずだ。それとも何か状況が変わったのだろうか。ひょっとしたら事態は出張所の手を離れ、溝辺町のほうに掌握されることになったのかも。コピーを持って町のほうに連絡をし、確認してみるのもひとつの手だが、それも|躊躇《ためら》われた。形の上では溝辺町に併合されていても、村は村だという気概が今も村人のどこかにある。内部のことは内部で処理する、外部の助けは借りない。それをすれば、余計に面倒で良くないことが起こるだけだという思考回路が、確かに田中の中にも存在していた。
考え込み、何度も首を捻り、そのたびに何かがおかしい、と繰り返しながら、田中は夜道を歩いた。街灯の乏しい村の小道は、すっかり人通りが絶えている。時間のせいもあるがそれ以上に、田中は夜が変化しているのを感じていた。左右の家は灯りを落とし、静まり返っている。それは不思議に寝静まっている、というより明かりを消して息を潜めている、という印象を与えた。人通りがないのは、人々が眠っているからでも家の中で団欒に興じているからでもない、単に夜を恐れて家の中に引き籠もっているのだ、という気がした。そんなふうに感じさせる何かが、冷えた夜気の中に漂っている。
奇妙な心細さ――禍々しさ。選るが怖い、闇に不安を覚えるのは、そもそも自分の存在が脆く希薄に思えるからだ。そう感じても無理もないだけの死と変事が、この村には続いている。
田中は足早に家路を辿った。自分の足音がそれを蹤けてきた。まるで誰かに追われているような気がする。そんな不安が胸の中に淀んで拭えない。
家並みが途切れた。月光を浴びて広がっているのは田畑だった。そのうちのいくつかは放置され、荒れている。中にはひとつ、稲が刈り取られることのないまま放置されている田もあった。耕作者が転出していったのだろう。だが、役所にはただの一軒も届けが出ていない。
(何かがおかしい)
確信はあったが、何がどうおかしいのか、明確に現すことができなかった。それは尋常でない事態、これを表現する言葉を田中は持たない。言葉にならないような道の異常――そんな感覚。
(おかしい……)
何度目かに呟き、田中は止めた足を急がせた。細い道の前方に人影が見えたのは、その時だった。
こんな時間に出歩く者がいたのか、と思った。何気なく足を運び、距離が縮まる。相手の相好が見て取れるほどになったとき、田中は足を止めた。思わず、ぽかんと口を開けた。
「……こんばんは」
相手の声は屈託なく、近づいてくる足取りにも異常なものは何もなかった。見知った相手、日常的な仕草、あまりにも違和感がなく、かえって田中は混乱した。
「……恵ちゃん?」
恵は笑った。笑っていつも通りに会釈をする。何ひとつ変わらない、以前と。だが、何かがおかしい――圧倒的に。混乱した田中は、何がおかしいのか、それを捉まえることができなかった。会うはずのない人間に会ったという気分、だが、恵は娘の親友だ。村で生まれ、村で育った。家もこの近辺、会っていけないはずがない。いや、それとも会うはずがない理由があっただろうか。混乱した一瞬、田中はそれを恵の失踪と結びつけた。そんなことがあった、という記憶と、会うはずがないという違和感が、ほんのわずかの時間、結びついて不幸な過ちを形作る。
田中は相変わらず足を止め、ぽかんとしたまま、恵に向かって手を挙げた。
「無事だったのかい。かおりが心配してたんだよ」
そう、と恵は呟く。もう間近に来ていた。立ち話でもするような調子で足を止める。田中に息がかかるほどの距離。恵はふいに俯いた。田中は混乱したまま、恵の視線の先を追いかけた。項垂れた首に腕が巻きついてきた。その冷えた温度に、田中はようやく悟った。
――恵は、死んだ。
声を上げ、押しのけようとすると同時に首筋に痛みがあった。なおも恵を押し戻そうとしたが、首に絡みついた腕がそれを許さない。恵だ、という恐怖と、恵だという躊躇。殴ってでも蹴ってでも振り解こうという行為に出ることができないまま、柔らかな酩酊感が押し寄せてきた。現実が遠ざかった。温度が、臭いが、音が遠ざかり、かわりに恵の腕の感触、首筋に押し当てられた唇の感触が全てになった。現実と非現実が逆転し、田中を呑み込む。田中はぽかんと口を開けたまま、路面に佇んでいた。月の光を浴び、荒れた田は稲穂をつけたまま風に揺れている。
恵が離れた。
「……これは夢なの」
田中は頷いた。そうだ、夢だ。恵は死んだのだから。
「戸籍を破棄して」
田中はあらぬほうを見たまま眉を顰めた。
「破棄するのよ。誰も死んでないの。全部、間違いだったのよ。村では不幸なことなんて、なにも起こっていない」
田中は瞬き、そして頷いた。恵が絡めた腕を解いた。
「また会いに来るわ。今度は小父さんちに。窓を叩いて合図したら入れてね」
そう言い残して、するりと田中の側を離れ、畦道へと駆けていく。田中はその場に坐り込んだ。しばらくそのまま月を見上げ、そうして我に返った。
酷い目眩がする。一瞬、我を失って朦朧とし、腰が砕けて坐り込んだ。その自覚だけがあった。
――朦朧とした一瞬の間に、何か夢を見たような気がする。
田中はそう思ったが、気のせいかもしれなかった。何とか立ち上がり、よろめきながら家路を急いだ。疲れている、眠りたい。明日も仕事が待っている。
「……そうだ」
田中は呟いた。
「間違いを訂正しとかないと……」
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八章
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「――恭子さんが?」
静信は敏夫からの電話に、思わず声を上げた。
「それで、容態は?」
良くない、と敏夫の声は低い。自分を責めているのがよく分かる声音だった。
「おれたちも例外じゃないってことだ」敏夫の声は自嘲を含んでいる。「お前も気をつけろよ」
「ああ……それは」
「本当に分かってるか? おれは今朝、下山さんに電話をしたんだ」
「レントゲンの?」
「そう。徹くんの葬式の翌日だったかな、辞めたんだよ、突然。それでふと思って電話してみたわけなんだが」
静信はどきりとした。
「……亡くなってたよ。今月の九日。急性心不全だそうだ」
「そうか……」
「連中は、おれたちだけを見逃してくれるわけじゃない。気をつけろ。お前も、お前の周囲の人間もだ」
分かった、と答えて静信は電話を切った。
恭子が発症した。しかも後期に入っているという。入院の措置を取ったというが、たとえ今夜から不寝番をしたとしても、すでに後期に入っているだけに、容態はどう変化するか分からない。
(下山さんも……)
思って静信は、はっとした。
「……角さん」
あの辞職の仕方は、いかにも唐突だった。連絡してその後の様子を訊く必要がある。たとえもう間に合わないものにしても。
思ったときだった。寺務所の戸を軽く叩く音がした。振り返ると、見慣れない初老の女が中を覗いている。静信は軽く会釈をした。どこかで見た顔だが、と記憶を探る前に女は部屋に入ってくる。睨み付けるというより、むしろ増悪さえ窺わせる表情をして、小さな体で静信の前に立ち塞がった。
「もう我慢できないわ」
「……あの?」
「あんたはいったい、何をしてるの。これだから既成宗教は宛になりゃしない。あんた、それでも坊主なの」
瞬いていると、光男が寺務所に現れた。
「伊藤さん」
光男の驚いたような声に、静信は思い出す。水口の伊藤郁美だ。いっぷう変わった――。
郁美は大きく足を踏み鳴らした。
「まさか、本当に村で何が起こってるか、分かってないなんていう気じゃないでしょうね」
「あの……失礼ですが」
「起き上がりでしょう、簡単なことじゃないの!」
静信は言葉に詰まった。
「あんたたちが死人を葬ってるんでしょ。そんなことだから、仏さんが起き上がってくるのよ。あんたたちがろくでなしで、そもそも能なしだから。金儲けのことしか頭になくて、だから、みんな成仏できないんだ。分かってるの」
「伊藤さん、ちょっと」
光男が間に割って入ろうとしたが、郁美は光男を突いて静信との間合いを詰めてきた。小柄な女が、静信の喉元に顎を擦りつけるようにして見上げてくる。
「兼正が元凶なのよ。あいつらは良くない。それが入ってきてこの村は呪われたの。成仏できない死人が起き上がって、どんどん不幸を広げている。いい加減で目を覚まして、村のために役立とうって気になったらどうなのよ」
「伊藤さん、少し待ってください」
静信は郁美を落ち着かせようと軽く手を挙げたが、郁美はその手を叩き落とした。
「こんなになっても見てるだけなの。そりゃあ、あんたらにしたら、死人が出てくれたほうがありがたいんでしょうよ。葬式ひとつで笑いが止まらないほど儲かるんだろうからね。この|似非《えせ》坊主が」
光男が郁美を押し除けた。
「伊藤さん、あんた、いきなり押しかけてきて何を言い出すんです。言うに事欠いて、それはどういう」
「あたしは本当のことを言ってるだけよ」
「伊藤さん!」
郁美は光男に指を突きつける。
「あたしを殴る? 叩き出すんでしょ。あんたらの遣り口ってのはそんなもんよ。村の者から浄財を吸い上げて、金勘定しながらふんぞり返ってる。坊主が効いて呆れるわ。起用のひとつもできないくせに。何が若御院よ。偉そうにお為ごかしを言いながら、自分はにっちもさっちもいないで首括ろうとしたんじゃないの」
光男が硬直した。静信は血の気が引くのを感じた。無意識のうちに腕時計を握る。――そう、村の誰もが知っている。その情報の細部の正確さはさておき。誰も口に出しては言わないだけだ。
「訳の分からない三文小説書いて、チヤホヤされてるだけが能なの? あんたも坊主だってんなら、兼正にねじこんで村を何とかしてごらんなさいよ」
「いい加減にしなさいよ、あんた!」
「……やめてください、光男さん」
静信は気色ばんだ光男を止める。見ると、寺務所の入口で池辺と美和子が青い顔をして立ち竦んでいた。
静信は郁美に目を移し、軽く頭を下げた。
「……おっしゃる通りなのかもしれません」
言って、郁美に椅子を勧める。
「おかけになってください。申し訳ありませんが、どうして起き上がりなのか、兼正なのか、説明してくださいませんか」
郁美は鼻を鳴らした。
「そんなことは子供でも分かることじゃない。起き上がりに決まってるわ。兼正よ、だってあの家が建ってからなんだからね」
「憶測で人を裁くことはできないんですよ」
「憶測? 事実じゃないの。分かってるわよ。結局あんた、何もしたくないんでしょう。ふんぞりかえる以外のことは、何ひとつする気がないんだ」
「そんなつもりはありません。けれども」
「言い訳なら結構」郁美はぴしゃりと言う。「村を何とかする気はあるの、ないの?」
「もちろん、あります」
「じゃあ、あたしと一緒にいらっしゃい。兼正を叩き出すのよ。あたしが手本を見せてあげるわ」
「伊藤さん、いけません」
静信が言うと、郁美は目を剥く。静信は言うべき言葉を懸命に探した。
郁美を暴走させてはいけない。憶測と先入観だけを根拠にする糾弾は、かえって村の者にそっぽを向かせる結果になる。郁美が声高に叫べば叫ぶほど、村の者は郁美の言葉に対して否定的になってしまう。――だが、郁美が言っているこれは真実だ。郁美が自覚している以上に、郁美の糾弾は事態を正確に射抜いている。
「落ち着いてください。村で不幸が続いているのは確かですが、それと桐敷さんの間にどうして関係があるんですか? 桐敷さんを責め立てれば災厄はやむのですか、本当に?」
なるほど、と郁美は軽蔑を露わに静信を見る。
「いよいよ性根が腐ってるらしいわね」
「起き上がりと伊藤さんはおっしゃいますが、本当に起き上がった者がいることを照明できますか? 誰かを御覧になったのですか?」
「もう結構」
郁美は踵を返した。呼び止める静信の声には構わず、寺務所を出行く。静信は後を追おうとしたが、光男と池辺に止められた。
「いけませんよ、若御院。関わり合いになっちゃあ」
「けれども」
「下手に関わり合うと、若御院まで一緒になって妙なことを言っているのだと思われてしまいます。ああいうのと寺が一緒くたにされたら大事ですよ」
「光男さん、そういう言い方は」
静信は咎めようとしたが、光男は断固とした顔で首を横に振る。
「駄目です。若御院、自覚なすってください。もしも若御院が伊藤さんに同意したと思われたら、檀家が追随してしまいます。若御院はそんなつもり、ないかもしれないですけど、寺の影響力を侮っては駄目です」
「けれど」
静信は光男と郁美が消えたほうを見比べた。
「あの人は、兼正をつるし上げろと言ってるんです。それに寺が同意したと思われたら最後、檀家衆の中に、何も考えずに吊し上げに参加する者が出ます。そこのところを自覚して自重してください」
静信は言葉に詰まった。寺の敵は村の敵だと自重するように笑った大塚隆之、浩子の顔が目に浮かんだ。
「……はい」
光男は息を吐いた。
郁美は山門を一瞥し、軽蔑を込めて唾を吐いた。誰も彼も、真っ当な見識というものを失っている。郁美が親切に真実を指摘してやっているというのに、聞く耳を持つ人間さえいない。それどころか、と郁美は無意識のうちに体の疼く場所を押さえた。人を非難し、迫害するのだ。
郁美は、|眥《まなじり》を上げて西山を見上げた。抜けるような空の下、濃い緑の山腹に黒い屋根が見えた。そもそも郁美の中に渦巻いていた怒りが、吐き戻したくなるほどに高まって破壊的な気分に駆り立てた。寺が黙りを決め込むなら、いよいよ郁美だけでも兼正を何とかしなければならない。――そう、必ず何とかして見せて、二度と郁美を軽々しく扱うことなどできないようにしてやる。
郁美は石段を駆け下り、門前町の店先を手当たり次第に叩いてまわった。
「兼正よ! いい加減に気づきなさい、あんたたち!」
安森厚子は、工務店からの帰り道、御旅所の前に数人の人間が集まっているのに気づいて足を止めた。
何かしら、と覗き込むと、六人ほどの男女を前に、伊藤郁美が金切り声を上げていた。
「起き上がりなのよ、あんたたちだって分かってるでしょう?」
厚子は一瞬、ぎょつとした。郁美の言葉の中で「起き上がり」という言葉だけが色鮮やかに浮き上がって聞こえた。
「まあ……なあに?」
厚子は人垣を作った老人に向かって問いかけてみたが、厚子自身、郁美が何を指して「起き上がり」だと言っているのか分かっていた。いま村で蔓延している「あれ」だ。工務店の人間を殺し尽くそうとしている何か。まるで、と心のどこかで思っていた。まるで鬼でも徘徊しているようだ、とは。
老人は、竹村吾平だった。吾平老人は呆れたように肩を竦める。
「兼正の連中は起き上がりだと」
「あら、まあ」と、厚子は笑った。その声は我ながら取ってつけたように聞こえた。聞きとがめたように、郁美が厚子に目を留める。人垣を割って近づいてきた。
「あんた、丸安の厚子さんね」
「ええ。こんにちは」厚子は、ことさらに笑ってみせる。「どうなさったんですか?」
「分かってんでしょう? 鬼よ。起き上がりなのよ。あんたんとこは鬼に魅入られたんだ」
「あらまあ、怖いことをむ
「本当のことでしょうが。工務店で残って息してるのが何人いるの、言ってごらんなさいよ」
それは、と厚子は笑みが強張るのを感じた。
「工務店の連中はみんなやられたんだ。工務店だけじゃない。あんたんとこの義一さんも魅入られたのよ。工務店が死に絶えたら、今度はあんたんちの番だ。それでも笑ってられるの」
「よしてください、そんな、縁起でもない」
「縁起でもない? 本当のことじゃないの。工務店と同じような目に遭うことになるよ。あたしには分かるんだからね。そしたら次は製材所の番だ。最初は嫁さん、次は息子だ。工務店と同じよ」
「冗談じゃないわ」
厚子は断ち切るように言って踵を返す。その背に郁美が言葉を吐きかけてきた。
「兼正の連中を叩き出さないかぎり、必ずそうなるからね。どうして分からないのよ。誰か一人でも兼正の連中を昼間に見た者がいるっていうのむ
厚子は一瞬、足を止め、そして心の中で耳を塞いでその場を立ち去った。
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敏夫は思わず、電話の受話器を見つめてしまった。
「待ってくれ、もういちど言え。静信、何だって?」
だから、と静信の言葉は他聞を憚るように小さく早い。
「郁美さんがてらに来たんだ。兼正が元凶だ、起き上がりだと言って」
「馬鹿な――根拠は」
「自分には分かる、の一点張りだ。兼正に押しかけるつもりのように見えた」
「冗談じゃない」
敏夫は絶句する。それだけは避けたい。郁美のような女が先頭に立って糾弾して、そうすればかえって真実の信憑性が下がる。もしも郁美説が広がれば、どんなに言葉を尽くして敏夫らが説明したところで、村の連中は端から眉に唾をつけるだろう。
とにかく、と言いかけたところに、待合室のほうから金切り声が聞こえた。患者たちがざわめくのが控え室にまで伝わってくる。
「……こっちにおいでなすったようだ。あの婆さん、村中で辻説法する気だぞ」
郁美の言葉の内容までは聞き取れない。それでも「鬼」「起き上がり」という単語は聞き取ることができた。いったん電話を切り、敏夫は控え室を出る。血相を変えて武藤が走ってくるところだった。
「先生――」
「聞こえてるよ、あの声じゃあ」
敏夫は小走りに待合室に向かう。待合室では郁美が口角に泡を溜めて檄を飛ばしていた。ぽかんとしたように、あるいは困惑したように患者たちが郁美を見ている。その郁美の背後に、いかにも物見高そうな顔をした連中が三人ほど従っているのを見て、敏夫は苦々しい気分になった。――信じたわけではあるまい。けれども興味を抱いて成り行きを確かめようとしている者がいる。
「あんたたちは風邪でも引いたと思ってるんでしょうけど、そんなことじゃない。病院に通ったって治るもんじゃないのよ。いい加減に目を覚ましなさい! 病院に来たってみんな死んで山に運び上げられてるんじゃないの!」
敏夫は呻いた。それは事実であるだけに質が悪かった。
「郁美さん、勝手に妙なアジテーションをされちゃ、困るんだがね」
郁美は振り返る。
「出てきなすったね、この藪医者が」
「あんたがおれをどう評価しようと勝手だが、ここは病院なんだ。静かにしてもらえんかね。それとも、あんたにはその程度の常識もないのか?」
「常識のないのはどっちよ。直せもしないくせに医者面してさ。医者だ病院だって言うなら、ちっとは患者を治してごらんなさいよ」
「おれにも治せない患者がいることは認めるさ。だが、あんたに治せる患者がいないことも、認めて欲しいもんだな」
「ふん。治せるか治せないか、見てれば分かるわ。兼正が全部の元凶なのよ。そこさえ分かってりゃ、みんな綺麗さっぱり治るんだから。これ以上、家族の死に目に遭わずに済むのよ」
敏夫は郁美をまじまじと見た。郁美は愚かだが、事態を正確に把握している。これを放置しておくのもひとつの手かもしれない、と思った。
「……で? あんたは兼正をどうしようっていうんだい。まさか家の前に押しかけていって自分が呪文を唱えたら、兼正が家ごと消えてなくなるなんて言うんじゃないだろうな」
患者の何人かが軽く笑った。郁美は殺気立った目で敏夫をねめつける。敏夫はあえて笑ってみせた。郁美を挑発するのはひとつの手だ。この狂信者は兼正に押しかける。住人を引きずり出して糾弾しようとするだろう。そうでなければ、そうするよう挑発してやればいい。だが、兼正の住人は出てこられない。たとえ辰巳が出てきたとしても、郁美が御祈祷とやらを始めれば狼狽するだろう。――そう、郁美は正しいところを突いているのだ。上手くいけば連中が本当に尋常でないことを、村の連中の目の前に提示できるかもしれない。
「こう言っちゃあ何だがね、あんたの御祈祷とやらで逃げ出すのは、ヤモリやゴキブリだけだと思うがね」
「分かってないくせに、馬鹿にするんじゃないよ!」
「いいかい、郁美さん。あんたが何を信じようと、あんたの自由だ。だが、起き上がりの鬼なんてものは世迷い言の中にして存在しないんだ。そういうものが人病気にすることは、あり得ない。ましてや兼正の連中が元凶ってのは、どういう意味だい。まさか連中も起き上がりだとでも言うつもりか?」
「鬼よ。起き上がりだ。あいつらが鬼を作ってるのよ」
「これは驚いたな。おれは兼正の若いのに会ったが、奴は死人のようには見えなかったがな。あんたよりよっぽど真っ当な人間に見えたよ」
「そう見えるだけよ。あいつらは本当は鬼なのよ。みんな、死んで起き上がった亡者なんだ」
「亡者が昼間に出歩くのかい。おれが辰巳くんに会ったのは昼間のことだったがな」
「そういうのもいるんでしょうよ。けども昼間に出歩くのなんて、あの若いのぐらいじゃないの。他の連中は昼間にはうろうろできないのよ、死人だからね」
正解だよ、郁美さん、と敏夫は胸の中で呟いた。
「別に影がないわけでもない、昼間にも出歩く、快活な好青年だよ彼は。あたんは彼を死人だと言うが、それをどうやって照明する気だ? あんたが御幣を振ったら、化けの皮が剥がれるのかな?」
「そうよ」と、郁美は胸を張る。
「まあ、あんたがそうしたいと言うなら、やってみるんだな。そうすりゃ、はっきりするだろうよ。もっとも、桐敷さんはあんたに付き合ってくれるほど暇じゃないと思うがね」
「暇があろうとなかろうと、引っぱり出すだけよ。この村の人間は、うかうかと騙される馬鹿ばっかりじゃないってことを連中に思い知らせてやるんだから」
「なるほど。桐敷に押しかけて、住人を引っぱり出して吊し上げようというわけだ。桐敷さんも大変な災難だ」
敏夫が言うと、意を得たように郁美は笑う。
「あたしは村の者のためを思って言ってるのよ。行って連中を引きずり出して、本当のところってやつを見せてあげるわ」
「だったら、こんなところでつべこべ言ってないで、さっさと行ってくれないか。診察の続きをさせてもらいたいんだがね。桐敷さんがあんたの戯れ言に付き合ってくれるようなら知らせてくれ。兼正の御仁が生きてるか死んでるか、脈ぐらいは取ってやるよ」
郁美は敏夫をねめつける。見てなさいよ、と捨てぜりふを残して踵を返した。興味を誘われたのか、入口近くの者が二人ほど、その後についていった。他の患者は呆れたように口を開けて、郁美たちの後ろ姿を見送っている。後についていこうか、それとも残ろうか、迷っているふうの患者に、敏夫は笑いかけた。
「気になるのなら追いかけていって、郁美さんが無茶をしないよう、見張ってくれ」
それで三人ほどがさらに立ち上がり、玄関を出て行った。
敏夫は薄く笑ってそれを見送る。
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結城は工房にいて、表の騒ぎを聞きつけた。不審に思って家の前に出ると、ずいぶんと上のほうの路上に人集りがしている。
「……なあに?」
梓も染料で濡れた手を振りながら工房を出てきた。さあ、と結城は呟いて、とりあえずそちらに向かい、様子を見てみる。家の前の道を二百メートルほど上に向かうと、兼正に向かう坂と交わる。その入口に人垣ができていた。中心にいるのは六十に近い女だ。熱に浮かされたように、何事かを怒鳴っている。遠巻きにした人々が、彼女を呆れたように見守っていた。その中に田代の姿を見つけて、結城は声をかけた。
「田代さん、何の騒ぎです?」
「ああ」と田代は、人垣の中心にいる女を苦笑するように見た。「伊藤の郁美さんですよ。ちょっと危ない人でね。神がかっているというか」
結城は思わず郁美を見た。確かに、郁美の表情は神がかりのそれと言って言えないこともなかった。
「なんでもね、桐敷さんとこが元凶なんだそうですよ、村で死に事が続いているのの」
結城は胸に鈍い痛みを感じた。家の奥で寝ている息子の姿が目に浮かんだ。
「桐敷さんとこの人たちは起き上がりなんだそうです。鬼なんですってさ」
「まさか……」
「本当にねえ。そういうことをまだ信じてる人がいるんだからなあ」
田代は笑ったが、その笑い声は、必要以上に明るく、どこか作り物めいて聞こえた。結城も梓も、また笑ったが、それは田代と同じような響きをしていた。
郁美は叫ぶ。兼正は鬼の巣窟だ。連中がやってきて村は呪われたのだ。兼正の連中は人間のように見えるが実は死人だ。自分がそれをこれから証明してみせるから、みんなで兼正を村から追い出そう。それで不幸は止まる。病人も治るのだ、医者や寺には何もできない、何も分かってないし分かる気もないのだと、郁美はヒステリックに声を上げた。
「郁美さんのほうが倒れそうだな。あの人、あの調子で商店街を練り歩いてきたんですからねえ」
結城は苦笑した。
「けれど、郁美さんの後ろにいる連中は何です? まさか郁美さんの言うことを――」
「真に受けたわけじゃないでしょう」田代は軽く頭を振った。「単に面白がって見物してるだけじゃないかな。かく言うぼくもそうですけどね」
「それは……」
面白がるのは少しばかり不謹慎ではないかという気がした。郁美の言葉を総合すると、要は桐敷家の人々を引きずり出して吊し上げようという、アジテーションに聞こえる。
結城の意を悟ったように、田代は小声で言う。
「ついていったほうがいいと思うんですよ。とんでもないことをしでかさないか見張ってないと、――こう言っちゃあ何だが、あの人は何をやるか分からない」
なるほど、と結城は呟いた。
「あなたも行ってみるの?」
梓に問われて、結城は頷いた。
「そう……行ってみたほうがいいだろうな。確かにああいうタイプの人間は危険だ」
もちろん、起き上がりなんてことがあるはずはない。そんなのは(破魔矢……)迷信にすぎない。それは広沢が言っていたように、疫病の(十字架)暗喩なのだろう。
結城は無意識のうちに表情を硬くした。もちろん、絶対にあり得ない。
「つべこべ言ってないで、さっさと確かめてみろや」
人垣から野次が飛んだ。
「よせって。けしかけちゃあ、婆さんも引っ込みがつかなくなるだろうが」
「尾崎の若先生を呼んだほうがいいんじゃないか。医者が必要だぞ、ありゃあ」
どっと笑い崩れる声がしたが、それは田代や結城らのものと同じく、白々しいほど明るかった。軽口や野次がひきもきらないにもかかわらず、人垣の間にはある種の緊張が漂っている。結城もそれを共有していた。
郁美が野次を飛ばした男たちを殺気立ってねめつけた。
「すぐに誰が正しいのか分かるわ」
言って、郁美は坂の上を見上げる。眥を上げて坂を登り始めた。人垣が崩れる。半数はその場に残って郁美を見送っていたが、半数は郁美を追って坂を登った。誰かが硬い声で、大事になるかもしれない、三役に連絡しろ、と言っているのが聞こえた。結城は田代と目を見交わし、顔を引き締めて坂を登る人々を追った。
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郁美は一気に坂を登る。他でもない自分が村を救ってみせる、もう誰にも自分を馬鹿にはさせない、という決然としたものに支配されていた。
門扉は常にそうであるようにぴったりと閉じている。そもそもこうやって外界に対し、頑なに門戸を閉ざしているのが、後ろ暗いところがあることの証だ。陽射しに白い塀は高く、御丁寧に塀の上には鉄柵までが巡らせてある。何か引け目がなければ、ここまでするものか、と自らの確信にさらに手応えを感じた。
郁美は手にした玉串の柄で何度か門を叩き、それから気づいてインターフォンを押した。数度押すと、若い声が聞こえる。
「あんたたちが何者だか、あたしには分かってるんだ。さっさと村を出て行け!」
訝るような声が聞こえた。郁美は門を見上げ、声を張り上げる。
「しらばっくれてもお見通しなんだからね。村にいるのはものの分からない馬鹿ばっかりだと思ってるんでしょうけど、そうはいかない。全部あんたたちのせいだ。違うというなら、出てきて申し開きしてごらん」
郁美にとって、事態はあまりにも明らかだった。この家ができてからだ、村に不幸が続くようになったのは。大勢の人間が死んだ。恐れをなしたようにさらに大勢の人間が村を出て行ったが、これだって連中が|拐《かどわ》かしたに決まっている。誰も気づかなかったが、郁美にはお見通しだ。それは郁美が特殊な能力を授けられているから。その能力をもってすれば、屋敷の連中を叩き出すことは可能だし、こうやって来ただけでも連中は恐れをなして逃げ出すに違いない。
(いまごろ慌てているでしょうよ)
郁美は笑った。郁美が村人を引き連れて自分たちの悪を暴きにやってきた、およそ勝ち目はないと恐れ入っているだろう、――それが郁美の現状に対する認識だった。中の連中は尻尾を巻いて逃げ出し、村人は自分に感謝する。寺も尾崎も面目をなくす。もう誰も郁美を侮ることはできない。
郁美は口を極めて屋敷の住人を罵った。いや、郁美の主観としては、叱りとばし、一喝しただけだ。そして、通用門が開いた。
現れたのは辰巳だった。辰巳は、郁美の目からすると恐れを露わにして、他の村人の目からすると困惑した様子で通用門から半身をのぞかせた。
「あの……申し訳ありませんが、いったい何の騒ぎなんですか」
「やかましい!」
郁美は御幣を振る。郁美には辰巳が嫌悪を露わにし、逃げ腰になってたたらを踏んだように見えたが、村人には御幣で顔を打たれそうになって慌てて身を引いたように見えた。辰巳は恐ろしいものを見るような目で郁美を見た。郁美は自分の力に恐れ入ったのだと思ったが、多くの村人は、それを異常な女に出会って怯えたのだと解釈した。
「これはどういうことですか。どなたか、分かるように説明してください」
辰巳は門の前に集まった人々を見渡した。誰が答えるより早く、郁美が鬼だと叫ぶ。矢継ぎ早に責め立て、御幣を振り、辰巳は通用門の中に逃げ込んだ。郁美はそれを追おうとしたが、掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ腕を振り切られ、鼻先で扉を閉められる。
「逃げるの! 恐れをなしたか!」
郁美は背後を振り返った。村人に向かって閉ざされた通用門を示す。
「見なさい、逃げたじゃないの。後ろ暗いところがなかったら逃げるもんか。これが証拠よ!」
結城は人混みの中で顔を歪めた。郁美の狂乱は嫌悪感を誘った。もう誰かが止めるべきではないかと思え、周囲を見渡したが、少なくともまだ止めようとしているふうに見える人間はいない。人垣の後ろ、白衣を着た人物を先頭に数人が坂を登ってくるのが見えた。誰かが本当に三役を呼んだのだろう。
先頭に立った敏夫が人垣に割って入ろうとしたときだった。門が開く音がして、結城は振り返った。通用門ではなく、正門のほうが開く。扉を引き明け、姿を現したのは桐敷正志郎だった。
郁美がわずかに怯んだように退り、周囲に詰めかけていた村人も二歩ほど退った。正志郎の周りにはわずかな空隙ができた。白いコンクリートのアプローチに、秋の陽射しを受け、黒い影を落として正志郎は立つ。門前に集まった人々をしごく冷静な顔で見渡した。
「これは何の騒ぎですか?」
正志郎の声は低く響き、良く通った。気後れの感じられない、堂々とした――どこか決然としたものを感じさせる声だった。
「突然、大勢で押しかけてきて家の前で気違いじみたことを喚き立てるのは、この村の流儀なのですか」
「気違いじみた、ですって」
郁美は金切り声を上げ、正志郎に向かって足を踏み出す。裏返った声で祝詞めいた呪文を唱えながら御幣を振ったが、当の正志郎は眉を顰め、さも軽蔑したような目で郁美を眺めていただけだった。
「悪霊退散、怨敵退散、害悪――」
言いかけた郁美の手を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、正志郎は御幣を取り上げる。
「馬鹿馬鹿しいことは、やめていただきたい」
「逆らうのか!」
正志郎は郁美の声には答えなかった。集まった人々を見渡す。
「見たところ、分別のある立派な大人ばかりが揃っておられるようだが。みなさんはこちらの方を支援するためにいらしたのですか。それとも単なる見物人ですか」言って、正志郎は人垣の中に目を留めた。「尾崎の先生もいらっしゃるようですね。……失礼だが、呆れた話だ」
敏夫は正志郎の視線を受けて、じわりと冷や汗が浮かぶのを感じた。時間は正午を廻った。太陽は中点にさしかかり、秋晴れの空には雲ひとつない。眩しいほどの陽射しが降り注ぎ、きちんと整えた髪と、堂々たる体躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]を照らしていた。
(そんな……はずは)
敏夫の狼狽をよそに、郁美は意味不明の金切り声を上げる。何かを懐から出してぶちまけた。同時に芳香が辺りに流れてきたから、あれはおそらく抹香だろう。正志郎は、さも迷惑そうにそれを払い落としたが怯んだ様子は見せなかった。郁美が上げる上擦った般若心経らしい経文にも、軽蔑を露わにするだけで期待されるような反応は見せなかった。
「このところ村で不幸が続いているのは小耳に挟んで知っていますが、それと我々と何の関係があるというのですか。疑うというなら、集団中毒か伝染病を疑うべきだと思うのですが、いかがでしょう」
敏夫は頷いて人垣を割って通った。
「その通りです。……済みませんね、桐敷さん。我々が見物のために集まったと思わないでください。大変なことになっている、と連絡を受けて飛んできた者もいるんで」
「誤魔化されるんじゃないわよ」
郁美が割って入った。
「あの若いのだって昼間にうろうろしてたんじゃない。昼間に出てきたからって鬼でないって話になるわけじゃないんだからね」言って郁美は正志郎に向き直る。「あたしが怖くないって言うなら、女房と娘も出してごらんなさいよ」
「お断りします」
ぴしゃりと正志郎は言う。
「家内と娘は体が弱いのです。難病を抱えて苦しんでいる。この村に来たのも、そもそも療養のためです。申し訳ないが、わたしは伝染病を疑っている。村では何かの伝染病が流行っているように見えるし、ですからみなさんと接触させるわけにはいきません。別にみなさんを汚いもののように言うわけではありませんが、妻と娘は免疫系に問題を抱えているのです。他愛もない感染症でも命取りになりかねない」
正志郎は言って、集まった者たちを見渡した。
「家人が家に閉じこもっているのは、それなりに事情があるからです。そこのところを御理解いただけないものでしょうか。これではまるで、魔女狩りのようだ。それともこの村では事情を抱えた弱者であろうと、余所者はこういう扱いを受けねばならないのですか」
いや、と言い訳するように上がる声があった。人垣は気後れしたようにじりじりと後退し、端々から崩れ始めている。郁美がさらに金切り声を上げたが、数人の男たちが背後から捕まえて引き下がらせた。
「お怒りは御もっともです」敏夫は狼狽を押し隠して軽く頭を下げる。「村には色々と迷信めいた言い伝えがあります。ほとんどの者は迷信だと了解しているが、それを頑なに信じている者もいる。古い小さい村というものは、そういうもたの゛ということで、御勘弁願えませんか」
正志郎は無言で会釈した。
「村には起き上がりという伝承がありましてね。墓場から死人が起き上がってきて、死を媒介するというんです。郁美さんは、あんたがたを、その起き上がりだと誤解したんですよ」
「わたしが死人に見えますか」
「見えませんね」敏夫は言って、軽く唇を舐める。「確認させてもらってもいいですか。そうすれば郁美さんも納得すると思う」
正志郎の顔には何の変化もなかった。
「どうぞ」
敏夫は頷き、正志郎の手を取る。脈を探るとすぐに規則正しい拍動が触知できた。頸部に触れても同じく正常な触知がある。顔を覗き込み、軽く正志郎の目許に手で|廂《ひさし》を作ってみる。瞳孔はそれにつれて少しだけ拡大する。手を放せば縮瞳する。どんな異常も発見できない。
「落ち着かれたもんですね」敏夫は我ながら声が微かに上擦るのを自覚していた。「脈拍も呼吸も体温も正常なようだ。もちろん瞳孔反射もある。どういう基準照らしてみても、医者として死亡診断書を出すわけにはいかないようです」
どうも、と正志郎は笑む。敏夫は寒々しいものを感じながら郁美を振り返った。
「郁美さん。桐敷氏は死人なんかじゃない。あんたと同じ人間だよ。これで分かっただろう?」
数人の男に取り押さえられた郁美は、敏夫をねめつけて歯を剥いた。何か言いたそうにしたが、実際には言葉を発しなかった。敏夫は正志郎に振り返る。
「郁美さんもこれで納得できたでしょう。申し訳ありませんでした」
いえ、と正志郎は答え、門前で対処に困っている人々を見渡し、踵を返す。門が再び閉ざされた。外界を拒絶するかのようなその振る舞いを責めることは、その場の誰にもできないように思われた。
「結城さん、行きましょう」
田代に促され、結城は我に返った。郁美は数人の男たちに向かって何かを怒鳴りながら、それでも坂をかなりのところまで下っている。門前に集まった人垣が崩れ、坂の下に向かって流れていくところだった。
――自分は、郁美を見張るために来たのであって、郁美の馬鹿馬鹿しい台詞を信じたわけではない。
自分にそう言い聞かせても、どこかしら自己嫌悪に似たやるせなさを感じないではいられなかった。愚かな振る舞いに荷担したと思う。――まったく、馬鹿げている。
正志郎の怒りはもっともだ、と感じた。正志郎は門前集まった人間の全てが、大なり小なり郁美の妄言を信じてやってきたのだろうと思ったはずだ。実際のところ、結城自身、まったく信じてなかったと言えるだろうか。冷静に考えれば、郁美はただの神がかった女だ。その女が妄言を掲げて桐敷家に押しかけたわけだが、桐敷家にすれば無視すれば済むこと、くどいようなら、つまみ出すなり警察に連絡をすれば済むことで、これは笑い話の次元の事件だという気がした。にもかかわらず、結城は大事になるのではないかと思った。今から考えると、自分がどうしてそんなふうに思ったのか分からない。
(馬鹿な、と思った……)
起き上がりなんて、あるはずがない。本当にそう信じるなら、郁美の行動など一笑に付してしまえたはずだ。それができなかったのは、心のどこかで信じそうになったからではなかったのか。だからこそ、冷静に考えれば放置しておけばいいようなことを、重大事のように感じてしまった。
(……そうかもしれない)
結城は思う。横たわった息子、枕許の破魔矢。それが暗に示していたのはこれではなかったか。そんなことは起こりえないと分かっていながら、結城はまさか息子が、と心のどこかで思わないではいられなかったのかもしれなかった。
(……馬鹿な)
本当に愚かだ。結城は田代に手を挙げ、家のほうへと戻りながら自嘲の笑みを零した。本当に、笑うしかないほど馬鹿げている。
敏夫は人波に押されて坂を下りながら、苦いものを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み殺していた。周囲の者たちは笑っている。それは半ば照れ隠しのようでもあり、自嘲のようでもあった。おそらくは――と敏夫は思う。郁美に対して「それ見たことか」と思っている。起き上がりなんているはずがなかったのだ、やっぱりそうだ、と笑い、うかつにもついてきた自分、心のどこかで信じそうになった自分を笑っているのだ。
(だが、郁美さんは正しかった……)
あまりにも手痛い、と思う。これで敏夫が同じように「起き上がりだ」と言いだしても信憑性はゼロに近い。それどころか、郁美の行動は、村の連中が自発的に吸血鬼なのかもしれない、起き上がりなのかもしれないと思いつく機会を奪い取ってしまった。もう誰も、そんなことを考えたり、真剣に吟味してみようとはしないだろう。
(……どうして)
どうして正志郎は出てくることができたのか、どこからどう見ても、死者ではない。それとも、そもそも屍鬼とはああいう生き物なのか。ならばなぜ、これまで夜にしか出てこなかった。犠牲者の死が明け方に集中していたのはなぜだ。
考え込みながら病院に戻ると、控え室で静信が待っていた。
「……よう」
「郁美さんは?」
「さあ。誰かが引きずっていったな。家に連れ戻したんだろう」
静信は声を低め、「どうだった」と訊く。敏夫は首を横に振った。
「桐敷氏が出てきて終わりだ」
静信が目を見開く。
「まさか」
「だが、出てきたんだ。別に日光なんて気にしてるふうじゃなかった。抹香も経文も御幣も効果無し。念のために脈を取らせてもらったが、脈拍等、正常。大層なおかんむりだったよ。これが村の流儀か、と言っていたな」
「じゃあ、ぼくらの誤解だったのか?」
「まさか」敏夫は低く吐き出した。「単に伝承とは違っただけだ。辰巳の例もある。あるいは個体差があるのかもしれない。だが、元凶は桐敷家にあるんだ。これだけは間違いがない」
静信は目を伏せる。
「本当に、そうなんだろうか? ぼくたちは予断によって重大な間違いを犯していないだろうか」
「それはない。これまで確かめてきたこと、考えてきたことは、概ね間違っていないはずだ」
「だが、確証があるわけじゃない……」
敏夫はソファに身を投げ出す。
「郁美さんが確証をくれると思ったんだがな。なんだってあいつは……」
真昼に出てきたのか。それができるのなら、なぜ今まで一度も昼間に出てこなかったのか。そう言おうとして、敏夫は自分が失言をしたことに気づいた。咄嗟に静信を振り仰ぐと、静信の顔色が変わっている。
「それは、どういう意味だ?」
しまった、と思ったが遅い。
「郁美さんが確証をくれる? まさかお前、そのために郁美さんを利用したのか」
「いや、そういうことじゃなく」
「律子さんが、郁美さんが病院に来たといっていた。待合室で患者を相手にひとしきり演説していったと。お前が追い返したと言っていたが、まさかお前」
敏夫は身を起こし、溜息混じりに告白する。
「……そう。ちょっとだけ煽ったんだ。郁美さんが確証をくれるんじゃないかと思ってな」
「どうして、そんなことを」
「どうして? 郁美さんを説得して止められるとでも思うのか? あの人は完全にそれを信じてたんだぞ。おれが多少、焚き付けようと焚き付けまいと、遅かれ早かれ桐敷家の連中を吊し上げるために坂の上に突進していったに決まってる。どうせ止められない。だから利用させてもらったんだ」
「どうして――お前はそういう」
敏夫は静信をねめつける。
「あいにく、おれは形振り構っちゃいられないんだ。お前が潔癖なんだってことは分かってるよ。おれの振る舞いは汚い手に見えるだろうさ。だが、そんなことを言っている場合か? 連中はおれなんかよりよほど周到に汚い手を使ってくるんだぞ」
「敏夫、それとことは」
「桐敷の旦那は真昼に出てきた。あいつはそもそも、昼間に動くことができたんだ。にもかかわらず、今日まで昼間に姿を現さなかった。おれたちは填[#「填」の字は旧字体。Unicode:U+5861]められたんだ。あいつはこの日のために、今日まであえて姿を現さなかった。連中は周到だよ。途方もなく周到だ」
静信は沈黙したが、敏夫の言に納得したからではないことは、その表情からよく分かった。
「たぶん、村の連中は桐敷家に漠然とした疑惑を感じてた。直感に論拠は必要ないんだ。にもかかわらず、これが真っ向から否定された。村の奴らは自分たちの疑惑を笑っただろう。連中はますます屍鬼だなんて信じようとしなくなるだろう。用心を怠り、死者を土葬にする。――それが何を意味するか、お前は分かっているか?」
「お前が招いたんだ」
静信の声音は低かった。
「お前が後先を考えず、郁美さんを焚き付けた結果だ。――違うのか」
「短慮は認めるさ。おれよりも連中のほうが一枚上手だった。連中は思っていた以上に周到だし、相当の覚悟をもって臨んでいる。しかも連中は昼間にも行動できる、呪術にも影響を受けないのだとしたら、思った以上に弱点がない。連中は刻々と増えているというのに。罵倒なら受けるが、考えなきゃならないのは今後のことなんだ」
静信は何も言わなかった。険しい表情をしたまま黙って目を伏せ、踵を返す。控え室のドアを閉めるとき、深い溜息をついたのが聞こえた。敏夫はそれを見送り、俯く。
「……勝手にしろ」
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正志郎は二階の窓から、何度目か、家の前の坂道を見下ろした。人垣が崩れた後にも、かなりの数の村人が留まって家を見上げていたが、それも三々五々散っていき、残っていた数名もいつの間にか姿を消している。西陽に照らされた静謐な坂道が無人のまま延びていた。わずかに笑み、窓辺から踵を返す。廊下を奥へと辿って、裏手に面した最も奥の部屋へと足を運んだ。
廊下に面した樫材のドアを開けると、中にはもう一枚、内開きのドアが行く手を遮っている。二枚のドアの間の一メートルほどの空間に滑り込むと、廊下側のドアを閉め、そして内側のドアを開けた。
中には真の闇が落ちている。ドアを閉めてドアの脇を探り、明かりを点ける。中は二間続きの主寝室だった。北に面して並んだ窓も寝室へ続くドアも、全てが二重になって完全に外光を遮っていた。正志郎は暖炉の前のアームチェアに腰を下ろしてマントルピースの上の時計を見上げた。日没まで、あと少し。
日没から少しして、寝室のドアが開いた。正志郎は微笑む。
「おはよう」
今に入ってきた沙子は、怪訝そうに正志郎を見た。
「待ちかまえてたの? 穏やかじゃないのね」
「うん。穏やかじゃないんだ。今日、妙なご婦人がいらしてね」
沙子はアームチェアのひとつに腰を下ろし、髪を掻き上げる。
「――誰?」
「何といったかな。少し変わった人物のようだった。我々は鬼だと気炎を上げてね。村の連中を扇動して家に押しかけてきたんだ」
「本当に穏やかじゃない話なのね」
正志郎は低く笑う。
「起き上がりだと言っていたよ。我々が夜にしか姿を現さないのがその証拠だと」
「それで?」
小首を傾げる少女に、正志郎が微笑む。
「退散願ったよ。わたしが出ていって。御幣やら何やらを振りまわしていたけどね。何の効果もないので心外そうだったよ。最終的には尾崎の医者が出てきて、わたしの脈を取っていった」
沙子は小さく声を上げて笑った。
「尾崎先生、驚いたでしょうね」
「のようだったな。あの顔は、ちょっときみにも見せてあげたかった」
くすくすと笑う沙子を正志郎は見る。
「それで? どうする?」
「勇気ある御婦人は何ておっしゃるの?」
「伊藤、郁美だったかな。水口の住人だったと思うよ。確か四十ぐらいの娘と二人暮らしだ。はぐれ者だね」
そう、と沙子は頷く。
「――殺すかい?」
「それはあまり利口じゃないわね。表だってわたしたちを糾弾した人間が死んだのでは、村の人たちもおかしいと思うでしょ?」
「だろうね」
沙子は時計を見上げ、立ち上がる。すぐ背後の窓辺向かい、重々しい樫の扉を開いた。観音開きになっその細長いドアを押し開けると、中はアルコーヴ状になっていて、その向こうに二重のカーテンを下げた窓がある。カーテンを開け、窓を上げる。さらにその外の板戸を開くと、窓の外は茜と藍で染まっていた。戸外にはまだ錆色の残照が漂っていたが、すでに夜の領域に踏み込んでいる。宵闇とともに冷ややかな風が部屋の中に吹き込んできた。
「……そうね。旅に出てもらうのがいいかしら」
正志郎は頷く。
「戻ってこない旅だね」
「そう」沙子は振り返って微笑んだ。「きっと、わたしたちの復讐が怖くなったのよ。それで村を出て行ったんだわ。彼女は信じてないの。たとえ誰が保証しても、わたしたちのことを無害だとは思ってない。けれども味方は得られないから、安全な土地に逃げ出すんだわ」
「――娘は?」
「家族はそれだけ?」
「そのようだよ」
「じゃあ、きっとすぐに娘さんを呼び寄せるんじゃないかしら。二人きりの親子なんですもの」
正志郎は頷いて立ち上がる。
「そう手配をするよ。――他には?」
いいえ、と沙子は軽く首を振る。
「ありがとう、正志郎。あなたのような理解者がいてくれて、とてもありがたいと思っているわ」
正志郎は振り返り、笑った。
「今日は自分でも、役に立ったという気がするよ。昼間に出歩くのを我慢した甲斐があったな」
「あなたはいつも、とても良くしてくれるわ」
だといいが、と呟き、部屋を出ようとして、正志郎は足を止めた。
「そういえば、診療所の内装が終わったそうだよ。外装にはまだ少し時間がかかるけれども、今日から診療を始められる」
「早かったのね。――葬儀社のほうは?」
「あれももう、いつでも営業できるよ。速見さんは今晩にも越してくると言っていた」
「そう」と、沙子は呟く。改めて部屋を出ようとした正志郎を呼び止めた。「……ねえ? 今日、その御婦人が来たとき、尾崎の先生は駆けつけてきていたのね?」
「そうだよ。誰かが呼んだ、というふうだったけど。それが?」
「来たのは尾崎先生だけ?」
沙子が問うと、正志郎は心得たようにやんわりと笑う。
「他にもたくさんの見物人がいたけれども、室井さんの姿はなかったようだったね」
そう、とだけ沙子は呟いた。正志郎はそれ以上何も言わず、部屋を出て行く。沙子は改めて窓辺に寄り、そこから見える山並みに目をやった。
間近の北山は黒々と聳えている。その中腹に明かりが幾つか見えた。何気なく北山の脇、西のほうへと視線を滑らせてみたが、西山と交わるあたりには、当然のことのように明かりはない。沙子は床に膝をつき、窓枠に肘を載せた。腕の上に頬を寄せて北山を眺めた。
「……今頃はもう耳に入っているわね」
たぶん敏夫から、あるいは檀家の誰かから。そしてそのうちに伊藤郁美が消えたことを聞く。たぶん、彼は何が起こったのかを理解するだろう。
「仕方ないのよ、室井さん。最初から何もかも全部、決まっていたことなの……」
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汐が引くように坂を下っていく人々の中を流され、家に戻って以来、結城は深い憂鬱に囚われていた。
愚かなことだ。――本当に愚かな。起き上がりなどいるわけがない。一瞬でも信じそうになった自分が途方もなく愚かしく思え、自嘲する気にもなれなかった。
自分に愛想が尽きる思いで鬱々と居間に坐っていた。チャイムが鳴ったとき、結城は明かりもない居間で俯いている自分を発見した。
「――はい」
玄関に出ると、田中の姉弟だった。結城は眉根を寄せた。この村に巣くう暗愚の具現に対峙したような気がした。
「あの……結城さんの具合は」
「寝ているんだよ、悪いけど」
結城の声は、我ながら突き放すようだった。かおりは弟のほうを困ったように見た。弟のほうは、いかにも生意気な口調で言う。
「おれたち、見舞いに来たんです。兄ちゃんの顔を見ていってもいいでしょう?」
結城は迷い、ともかくも頷いた。姉弟が心配してくれていることには疑いがない。二人は夏野の部屋のほうへ向かう。結城はその後についていった。夏野の部屋にはいると、夏野は眠っている。呼吸が荒い。朝からひどい熱が出ている。容態が悪化しているのは、一目瞭然だった。
姉弟は心配そうにベッドに屈み込み、そして結城のほうをちらちらと見る。結城はあえて席を外さなかった。じっと姉弟の様子を見守り、そして声をかける。
「もういいだろう。御覧の通り、具合が良くないんだ」
かおりは唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み、昭もまた迷うように夏野と結城を見比べた。
「入院させようと思っている。夏野には医者の手が必要だからね。だから君たちが明日やってきても、たぶん夏野はいないと思う」
ぱっと、かおりが顔を上げた。まるで責めるような目をしていた。
「帰ってくれ」
「あの――あたしたち、結城さんに……夏野さんに話があるんです」
「夏野は君たちと話ができるような状態にないよ」
「でも……あの」
「帰ってくれ。それから、この部屋に妙なものを持ち込むのは、やめてほしい」
昭が腰を浮かせた。かおりは弟の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで止める。部屋に入ったときに、昨日置いていったものが消えていたことには気づいていた。それがゴミ箱の中に移動していることも。そして夏野の容態は悪化している。かおりたちにも見れば分かる。夏野を助けることができなかった。――結城がそれを邪魔したのだ。
「あの……あたしたち」
かおりは言いかけたが、なんと言えばいいのか分からなかった。どう訴えれば理解してもらえるのだろう。これは必要なものなのに。そう訴えて聞いてもらえるとは思えなかった。――ゴミ箱を見れば。
かおりは勇気を鼓舞した。この人は分かってない。分かっているのは自分たちだけだという思いがあった。
「あの、看病させて欲しいんです。あたしたち、今晩、側についててあげたらいけませんか。御迷惑はかけません。お願いします」
「そんなことをしてもらう理由がないね」
勇気の答えは素っ気なかった。
「素人に看病してもらうまでもないよ。非常識なことを言ってないで、帰ってもらえないかね」
結城の物言いは無慈悲で、いっそ悪意でもあるのかと思われるほどだった。なけなしの結城を総動員し、それを呆気なく叩き落とされて、かおりにはもう言葉が出てこない。俯いたところを、結城に「さあ」と促され、仕方なく立ち上がった。昭の手を引くと、昭は身をよじる。
「……やだよ、おれ」
「昭……」
「兄ちゃん、具合が悪いじゃないか。おれ、帰れないよ。兄ちゃんについててやるんだ」
「その必要はない」
結城に叩きつけるように言われ、昭は震えた。怯えたふうの昭に対し、結城はあくまでも無慈悲だった。
「もう一度だけ言う。迷惑なんだ。帰ってくれ」
昭は俯き、立ち上がった。かおりはその手を引き、逃げるように夏野の部屋を出る。廊下を駆けて玄関から飛び出した。
「なんだよ、あいつ……」
昭が家を振り返った。
「兄ちゃん、具合が悪いのに! 何も分かってないくせにっ!」
「……昭」
「兄ちゃんが死んだら、あいつのせいだ。あいつが兄ちゃんを死なせるんだ」
逃げるように足を速める昭の腕を、かおりは掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「昭、待って」
「おれはもう知らない」
「待ってよ、ねえ。……それ本気で言ってないでしょ? 結城さんのことなんて知らない、死んでしまえって意味じゃないわよね?」
昭は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]む。
「だって他にどうしようもないじゃないか。姉ちゃんが置いた矢も、おれがつけてやった念珠もなかった。あいつに外されたんだ。だから兄ちゃん、悪くなってる。きっとゆうべも連中が来たんだ。このままだと兄ちゃんは殺されてしまう」
「そうだよ。だから、何とかしないと」
「何とかって、何をどうするっていうんだよ。あいつ、帰れって言ったじゃないか。迷惑だって。おれたちには、もうどうしようもないじゃないか」
かおりは俯く。
「姉ちゃん、看病させてくれって言ったのに、必要ないって。お守りも置いてもらえなくてさ、おれたち、ついててやることもできなくて」
「待って……」かおりは思い出した。「できなくはないと思う」
昭は今にも泣きそうな顔で瞬いた。
「そうよ。家の中が駄目なら、外にいればいいんだわ。恵は良く結城さんの部屋を見に行ってた。裏手に面してるの。林の中から部屋の窓が見えるんだって」
「……かおり」
「そこに行けば、外から見張ってられるわ。外からなら、お守りを置いても、見つからないかもしれない」
「おれたちが? 夜に外で待ってるの?」
「そうよ。……怖い?」
昭は口許を引き結ぶ。
「怖くなんかないよ」
かおりは頷いた。昭は怒っている。それは、かおりも同様だ。結城の頑迷さに腹が立つ。だから今は、恐怖を忘れていられた。怖くないわけではない。けれども結城がああだから、何としても自分たちで守ってみせる、という気がする。
「行こう、かおり。それ、どこ?」
結城は二人を送り出したあと、しばらく電話の前で逡巡していた。
敏夫に電話しようと思う。往診を頼む、あるいはとにかく容態を話して例のものかどうかを尋ねる。――だが、と思う。夏野が具合を悪くした当日、明らかに容態は敏夫が話していたそれとは違った。
……違う、と結城は思ったのだった。だから敏夫に連絡をしなかった。その翌日も。夏野の言葉を額面通りに受け取って、寝不足なのだろうと思っていた。おかしいと思い始めたのは昨日から。
そんなはずはない、と思う。いまさら「あれ」だなんてことは。敏夫に診てもらえば確かなことが分かるはずだが、結城は躊躇していた。もしも「あれ」だったら。事前に聞いておきながら、結城は三日を浪費したことになる。あれなら数日以内に決着がつく。だから初期症状が出たときに医者に診せなければ意味はない。敏夫は何と言っていた? 発症してから三日も四日も経ってから連絡してこられても打つ手はない、とは言わなかったか。その三日を、結城は消化してしまった。
いや、そもそも、と思う。発症したら助ける方法はないのだ。発症した当日に敏夫に見せたとしても、発症してしまった以上、夏野を助ける方法はない。これまでただの一例も、助かった例はないのだから。
電話をしようと思う。しても無駄だと思う。せめて確認しなければと思う一方で、そんな確認をして何になる、と思う。あと二日もすれば嫌でも分かる。
迷った末に、もう一度、と思った。もう一度、息子の容態を見てみよう。それで踏ん切りがつくかもしれない、と夏野の部屋に向かい、スタンドの明かりひとつが点った部屋の中に踏み込んだ。
浅い速い呼吸音がしていた。微かに喉の奥で喘鳴がしている。顔色は相変わらず良くない。唇は熱にひび割れている。
どうしようか、再度迷い、そうして結城は窓の外で物音を聞いた。夏野の部屋の外は裏庭だ。ごく狭い通路のような庭を隔てて裏山が迫っている。人が通る道理はなく、物音がするはずもないが、そこで確かに下生えを掻き分けるような音がしていた。
結城は息を詰めて耳を澄ます。もう陽は落ちている。部屋の中は暗く、窓に残った黄昏も頼りない。微かに草を掻き分ける音、そして囁くような声。「しっ」とそれを制する声が聞こえたように思った。誰かが窓の外にいる。それも二人以上だ。
結城はそっと窓辺に寄り、耳を澄ませ、そしてカーテンを開いた。とっさのことに隠れる暇がなかったのか、すぐ近くの茂みに中腰になって硬直した昭の姿が見えた。慌てて身を屈めた脇に、少女の顔が半分、見えている。
結城は窓を開けた。
「何だね、きみたちは」結城の声は苛立ちを映して尖る。「――出てきなさい」
そろそろと少女が立ち上がり、ふてくされたように弟がそれに続いた。
「そんなところで何をしているんだ。いったい何のつもりなんだ?」
二人は俯いた。返答はない。
「夏野のことは放っておいてくれ。そう言ってるだろう。それとも、親御さんに連絡して、やめさせてくれと頼まないと、理解してもらえないのかね」
結城の物言いは冷たく、容赦がなかった。それは結城の内面にある苛立ちを反映したものだったが、昭やかおりには、もちろん分からなかった。昭は窓を睨み付ける。立ち塞がる結城、窓の中には夏野がいるのに、昭たちは入れない。まるで自分たちのほうが吸血鬼になったみたいだ、と思った。
「帰ってくれ」
結城に言われ、昭は窓辺に駆け下りた。
「このまま放っといたら、大変なことになるんだ!」
昭の叫びに驚いたように結城が目を見開いた。
「兄ちゃん、死んでしまう。助ける方法を知ってるのは、おれたちだけなんだ!」
結城はぎょっとした。
「いい加減なことを言うんじゃない」
「本当なんだ。なのにどうして邪魔をするんだよ!」
昭は悔しい。何より自分の無力が。どうして自分は大人じゃないのだろう。なぜ大人は昭の言うことを真面目に取り合ってくれないのだろう。子供と言うだけで、端から馬鹿にし、取るに足らないもののように扱う。本当のことを分かってるのは昭のほうなのに。
「――起き上がりなんだ! このまま放っといたら、兄ちゃん殺されちゃうよ!」
結城はぽかんと口を開け、そして顔を歪めて笑った。敵意が薄れ、柔和な顔になったのが許せなかった。昭はあの顔を知っている。大人が昭を子供だと思い定め、昭の言葉を子供の無邪気な戯言だと受け止めた証左だ。目くじらを立てるのも大人気ない、可愛いもんじゃないか、と見下げたときの表情だ。
「なるほどな」と、結城は笑った。「昭くんの心配はありがたいが、そういうことじゃないから、帰りなさい」
「違う! 本当なんだ!」
「君は、あれからどうなったのか知らないんだな」
昭は瞬いた。結城が言っている「あれ」が何を意味するのか分からなかった。
「……あれから?」
結城は微笑む。結城には事態は明らかだった。この子供は伊藤郁美の糾弾を聞いたのだ。あるいは小耳に挟んだ。それを子供らしく真に受けて、飛んできたというわけだ。いや、もっと以前に耳にしていたのかもしれない。郁美のあの様子だと、かねてから「起き上がりだ」と騒いでいたのだろう。
「違ったんだよ、昭くん。あれは伊藤さんの誤解だったんだ。桐敷家の人たちは、別に起き上がりでも吸血鬼でもない。お医者さんがちゃんと確認したんだよ」
昭はぽかんと口を開けた。
「起き上がりなんてものはいないんだ。君たちは小さい頃から聞かされて育ったから、ひょっとしたらと思ったのかもしれないけれど、これはそういうことじゃないんだよ」
「でも――だって!」
言いかけた昭を、結城は制す。
「桐敷さんは真昼に門のところまで出てきたよ。影だってあった。郁美さんが御幣を振って呪文を唱えたりしたけれども、少しも苦にしてなかった。――迷惑そうだったけどね」と、言って結城は笑う。「尾崎医院の先生が脈を取って、ちゃんと人間だと確認した。とんでもない笑い話さ」
結城は失笑し、二人を促した。
「君たちが夏野のことを心配してくれるのはありがたく思うよ。けれども、これは起き上がりなんてことじゃないんだ。ある意味ではもっと怖いことなんだよ。夏野の具合が良くなったら、必ず連絡させるし、何かあれば連絡するから、きみたちは家に帰りなさい。心配をかけて済まないね」
結城は言って、窓を閉めた。昭は言葉が出てこなかった。さも理解ある大人のような顔で微笑み、結城はカーテンを閉めた。昭は動くことも叫ぶことも、満足に息をすることもできなかった。
「……昭」
かおりが肩に手をかけて促してきた。昭は泣きそうな顔をした姉を見上げた。
「……あいつ、おれに何も言わせてくれなかった」喉が震えた。「恵のことも、康幸兄ちゃんのことも」
「うん」
「最初からぜんぜん聞く気がないんだ、おれの言うことなんて。言いたいことなんて分かってる、って顔をして、ぜんぜん分かってないくせに、話もさせてくれなかった……!」
昭を捕らえたのは、あらゆる種類の怒りとあらゆる種類の悲しみが|綯《な》い交ぜになったものだった。昭は自分が子供であることに絶望した。
うん、と頷いて、かおりが泣き出した。かおりの手を引いて斜面を戻りながら、昭も泣いた。せめて最後に夏野の顔を見られればよかったのに、と思いながら。
結城はしばらく、窓の外を見ていた。夏野は薄目を開けて、そんな結城を見上げていた。真綿の詰まっているような頭で、可哀想に、と思ったが、それが昭に対するものなのか、昭に重ねた自分に対するものなのかは分からなかった。
ただ、強い悲しみが思念の表面を滑り、思考のとっかかりを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まえられずに、いつまでも滑り続けていた。
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「こんばんは」
男の声が玄関でして、伊藤玉恵は表に出た。戸を開いて、中年の男が顔を出している。
「郁美さんは、おいでですかね」
言われた瞬間、玉恵は身を竦めた。母親が今日しでかした騒動なら、近所の者がお為ごかしに注進に来たから知っている。きっとそれに対する苦情だろうと思った。
あんなことはやめてくれ、あんたの母親はおかしい、村を出ていけ――玉恵はいつからか、そう誰かに言われるのではないかと、ずっと恐れていた。
「母は出てます。……何の御用ですか」
「出てる? どこに行ったか分かる甲斐」
聞いてきた男の顔に、玉恵は見覚えがない。村の者ではあるらしいが、少なくとも近所の住人ではないだろう。
「分かりません」呟いて、玉恵は男を見た。「苦情なら母に言ってください。あたしに言われたって困ります」
男は目を見開いた。
「苦情? いいや、別に苦情を言いに来たわけじゃないよ。ちょっと郁美さんと話をしたいだけだ」
男は言って、玉恵をひたと見据えた。
「……中で待たせてもらってもいいかね」
「お断りします。帰ってください」
玉恵は震える手を握り締める。男が鼻白んだふうだったが、もうそういうことはどうでもよかった。
「母はどうかしてるんです。病気なんです。ほっといてください」
「娘さんが、そんなことを言っちゃあいかんな。郁美さんが聞いたら泣くよ」
「ほっといてよ!」
玉恵は叩きつける。戸に手をかけ、強引に閉めた。情けなくて涙が出た。玉恵には小さな頃から「あの母親」という言葉がついて回った。周囲の人間は揶揄し、距離を取り、玉恵は子供の頃から否応なく孤立していた。周囲の陰口、お為ごかしの忠告、侮蔑と奇異の目――玉恵のせいではないのに。自分の母親だ、それは分かっている。母ひとり子ひとり、だから見捨てられないし、見捨てる気もない。けれどももう、いい加減、静かな生活がしたかった。周囲が揶揄するから、母親がむきになる。周囲が|煽《おだ》てるから調子に乗る。もう構わないで欲しい。それ以上は望まない。周囲がそっとしておいてくれれば、郁美だってあそこまで奇矯な行動は取らないのだから。
「ちょっと、伊藤さん」
戸を叩く音がした。帰って、と玉恵は叫ぶ。母親を責めてほしくない、ましてや煽ててほしくない。
(みんな、あたしたちのことなんて忘れて)
「伊藤さん、何か誤解してるんじゃないかい。おれは別にあんたのお母さんを責めにきたんじゃないよ。なあ」
「帰ってください」
「これはないだろう。おれはあんたの母さんに用があってきたんだ。それを娘のあんたが追い払うのかい。とにかく、こんなところで声を張り上げてたんじゃ、みっともなくてしょうがない。あんたの言い分も聞くから、ちょっと中に入れてくれないかい」
玉恵は耐えかねて戸を開けた。戸を叩こうと手を挙げた男を突き飛ばす。
「帰ってってば!」
「おいおい。乱暴なことを」
「あたしたちに構わないで!」
追い払おうとする玉恵と、その場に留まろうとする客とで揉み合いになった。郁美が戻ってきたのは、まさにその最中だった。
郁美は袋ひとつを手に提げて、家の側まで戻り、玉恵の癇性の声を聞いた。玉恵は再三「帰って」と叫んでいた。男はそれを宥めようとしている。
何が起こったのかは分からなかったが、玉恵が男を追い払おうとし、男がそれに逆らっていることは明らかだった。郁美は袋の中に手を突っこみ、抹香の包みを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み出す。
「人の娘に妙な真似をしないでちょうだい」
はっとしたように振り返った二人に抹香を投げた。玉恵はかかってきたものを払うように手を挙げ顔を背けたが、男の反応は異常だった。狼狽した声を上げて飛び退り、まるで火でもかけられたかのように、身体を叩き、払い落とそうとする。郁美は悟った。
「……抹香の残りをぶちまける。男は奇声を上げ、身を捩って抹香を払い落とそうと手を振りまわした。
「何しに来たの。とっとと退散しなさい。お前みたいな不浄の者が、家に近づくんじゃないよ!」
郁美は数珠を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み出す。男はあわてふためいたように身を翻し、あたふたと夜道を駆け出した。身についたものを払い落としながら駆け去る男を見やり、郁美は得心する。
――報復だ。
やはり郁美は連中の痛いところを突いたのだ。だから連中が意趣返しにやってきた。そうに違いない。
郁美は、ぽかんとした娘に向き直った。
「あたしを訪ねてきたんでしょ」
「ええ……そう」
やはりね、と郁美はひとりごちる。
「いい、玉恵。あたしに客が来ても絶対に家に入れちゃ駄目だからね。特に夜の客は」
言いかけ、郁美は辰巳や正志郎の顔を思い浮かべた。あつかましくも昼日中に徘徊している連中。
「いいや、昼間でも。あたしがいないときに誰かが訪ねてきても家に入れちゃいけない。あんたも相手をしちゃだめ。家に閉じ籠もって無視しなさい。いいね?」
玉恵は困惑したように首を傾げ、そして頷いた。
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どうしてなのかは分からない。
彼はその丘で異端者だった。神の恩寵は弟の上にあり、光輝は彼を振り返らなかった。神の具現たる光輝だけではなく、賢者も、そして隣人でさえ。いや、決して彼は疎外されていたわけではない。ただ、弟と光輝がそうであったように、寸分の隙もなく調和することが彼にはできなかった。
彼は弟と同じように振る舞ってるつもりだったし、他の誰とも同じように――あるいはそれ以上に――敬虔であったつもりだったし、そうありたいと願っていた。にもかかわらず、世界と彼の間には越えがたい隔絶が横たわっていた。
それがいつから始まったことなのか、彼にも分からない。まるで生来、付与された性質のように、記憶にある限り最初から、彼と世界の関係は決定していた。
不幸な隣人に手を差し伸べれば、彼が手を述べた事実が隣人を傷つけた。憐れみを抑えて叱咤すれば、不幸な隣人をさらに追いつめ、激励すれば孤絶を感じさせた。どこかで何かを間違っているのだということは分かったが、それがどこなのか、彼には分からなかった。
彼は彼なりに懸命に考え、自分と世界の間の溝を埋めようと努力したが、努力は空転するばかりで、いたずらに溝を深めた。
世界は美しく調和していた。彼はその調和に焦がれたが、いったん彼がそこに入ると、全ての調和は台無しになった。だからこそ、彼は独りであらねばならなかった。彼は緑野の片隅に孤立していた。隣人たちは孤立した彼を憐れみ、手を引いて調和の中に引き戻そうとするのだが、それに従えば結局いつも必ず隣人たちを困惑させる結果になったので、いつの間にか彼は手を引かれてもそれを拒むようになった。すると今度は、救済を拒み、孤立し続ける存在があるという事実が、隣人たちを|苛《さいな》むのだった。、
彼の存在を喜び、良し、と言ってくれるのは、弟がただ一人だった。弟の慈愛は、世界に対しても、彼に対しても正常に作動した。誰もが弟を情け深い人格者として慕い、弟の存在は彼を含め、弟に関わる全ての人々を幸福にした。
そう、確かに彼は幸福だった。彼ひとりでいる限りにおいては確かに満たされていたのだし、弟が側にいるとき、あるいは彼の呼びかけに弟が手を振るとき、彼は多く、満たされていた。
時折の例外を除いては。
彼は時に、弟の姿を目にして苛立つことがあった。決して弟に対してではない。緑の野辺に立った優しげな羊飼いの姿を見ることは、彼にとって確かに好ましいことではあったのだ。それは一幅の絵のようで、彼をひどく和ませた。にもかかわらず、本当に時折、彼はふと、その絵を見守る自分を意識することがあった。
野辺に弟が立っている、そのこと自体は彼を安らがせるにもかかわらず、野辺に立つ弟を見守る自分、というものを意識した途端、彼は必ず暗澹とした心持ちになった。美しい絵の中に住まう弟と、決してその絵の中には居ない自分、その隔絶が彼を決まって打ちのめした。
野辺に立つ弟、その絵が美しければ美しいほど、それは残酷な効果をもたらした。彼は決して絵の中には入れず、絵の中の世界は彼抜きで瑕瑾なく調和していることを思い知らされねばならなかった。いや、それよりももっと悪い。彼はその光景を心から好ましいと感じるがゆえに、決してその中に立ち入ってはならない自分を否応なく自覚せねばならなかったのだった。
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静信は筆を止めた。
敏夫を責めるのは間違っている。どれほど極端に見えようと、敏夫は村人のために良しと思われることを行ったのだ。なにが良しであるか分かっていながら、行動することを恐れて引き籠もっている静信に、敏夫を責める資格などあるはずがなかった。
にもかかわらず、静信には敏夫の行為を許容することができない。できない自分を自覚するとき、静信は自分が異端者であることを直截に感じる。
(分かっている……)
静信はじっと原稿用紙を見下ろした。
(間違ってるのはぼくのほうだ)
敏夫はひとり、控え室で苦いものを持て余していた。
静信の気性は分かっている。うかつなことを口にした自分が忌々しく、同時にそもそも「短慮」と呼ばれても仕方ない行動を取ってしまった自分が腹立たしかった。連中に上手を取られたのが悔しい。それを容赦なく責める静信に対して屈託を抱かざるを得ない。
「綺麗事だけでどうにかなるのか」
餓鬼の頃からあいつはああだ、と心中で吐き出し、敏夫は控え室を出る。二階に上がってナースステーションに入り、乱暴にドアを閉めた。つい先日まで節子が居た病室に、今は恭子が眠っている。節子の死、恭子の発症、何もかもが自分の無能の証明のように思えて、胸が悪い。
さまざまなものを持て余しながら、敏夫は回復室に入る。モニターを見ると、不整脈が現れているのが分かる。恭子は良くない。処置をしているが、すでに不可逆的な段階に入っている。
こいつは死ぬのか、と敏夫は思った。自分が愚かにも初期症状を見過ごし、家族への注意を怠ったせいで自分の妻は死ぬ。我ながら呆れたことに、感じたことは屈辱感で、妻を喪失しようとしている感傷ではなかった。
(おれは、恭子を失うことを悲しんでない)
所詮はそういう人間なのだ、という気がした。そもそもどうして自分が恭子を妻に選んだのか、敏夫には思い出すことができなかった。出会いから結婚までのいきさつは思い出せても、そこには自分の生々しい感情が欠落している。今になって振り返ると、単純に父母が選んだ女を|娶《めあわ》せられるのが嫌だったにすぎない、という気がした。自分の立場は分かっていた。村に戻って父親の後を継がねばならない。そうして、村に尾崎を残さねばならないことは。だから父母から無理矢理娶らせられる前に、自分の手で適当な女を捕まえた。ただそれだけのことだったのだ、という気がしてならなかった。
「お互いさまか……」
敏夫は苦笑して恭子の枕許に坐る。医者なら誰でも良かった、とは当の恭子が言っていたことだ。村に帰ってきた当初、村に閉じこめられることを嫌って、そう言った。
敏夫を責めるように、心拍モニターが乱れ始めた。とりあえず処置をしたが、もういくらも持たないだろう。実家に危篤だと連絡したほうがいい。
ひとつ息を吐いて枕頭台の上のものを整え、そして敏夫は虚空を凝視した。
恭子は死ぬ、おそらくは。しばらく持たせることはできても、回復させることはできないだろう。死んだ恭子は甦るだろうか?
敏夫はしばらく、目を閉じた妻の顔を見ながら自問自答する。さまざまな可能性を考えてみた。
(おれは所詮、こういう奴だ……)
決して静信のようにはなれない。
心中で呟いて、敏夫は枕頭台の上のものを片づける。妻の腕に填[#「填」の字は旧字体。Unicode:U+5861]めた数珠を外した。
「恭子、頼む」
敏夫はこれまで、妻に何かを心から願ったことがないこれは最初で最後の懇願だ。
「……甦生してくれ」
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夏野は何度か眠り、何度か目覚めた。目覚めるごとに、少しずつ意識が覚醒していく。氷のように平らになった思念の表面が融け、徐々に起伏が現れて、表面を滑り続けていた感情はそれに引っかかり始めた。
可哀想に、と思った。あんなふうに扱われて、可哀想に。その憐愍は昭に向けたものだったが、同時に昭に象徴される自分の何かに対しても向けられたものだった。国道を見たいと思った。この閉塞から逃げるための、たった一筋の道。もしも今、自分の身体が思うように動くなら、夏野はあれを南へと下っていくだろう。それしかないのだ、という確信のようなものが芽生えていた。――だが、もう間に合わない。
何度か結城が部屋を覗きに来た。夏野は何度か重い瞼を上げ、その最も身近にいた他人の顔を見た。とうとう一度も、視線は交わらなかった。
「……父さん」何度目かに父親が来たとき、夏野は目を閉じたまま呟いた。「窓、開けといて」
しかし、と父親は制したようだった。
「息苦しいんだ。……少しだけでいいから風が通るようにしといて」
頷いた気配がし、窓の開く音がした。冷えた風が微かに吹き込んできた。
「気分はどうだ?」
「うん……しんどいけど、悪くないよ。明日には楽になりそうな気がする……」
そうか、と答える声がした。
また眠った。短い眠りのたびごとに、意識が清明になっていくのを自覚していた。それで深夜が近づいているのだと分かった。意識の麻痺は、時間が経つごとに薄れていく。そして麻痺が完全には取れきれないうちに次の襲撃がある。そういうことなのだと、学んでいた。
だから、徹がやってきたとき、目を開けないでもそれだと分かった。耳は周囲の物音を拾うことができたし、頭はそれがどの方向から聞こえる何に由来する音なのかを吟味することができた。だから、そろそろだ、と思っていたし、それで徹が窓辺にやってくるのを察知することができた。
窓辺に現れた。中の様子を覗いている。細く開けられた窓がさらに開く。冷えた夜気が通った。
「……急いだほうがいいよ」夏野は呟いた。「父さんが、様子を見に来るかもしれないから」
窓辺で身を硬くする気配がする。
「そこまで行ってやりたいけど、起きられないんだ」
四肢のどこも怠くて、力が入らない。というより、まるで四肢を失ったような気がした。そこに依然としてあることは知覚できたが、それは萎えて、まったく動こうとしない。
逡巡の末に、窓を乗り越えて人が入ってくる気配がした。家の中が寝静まったことぐらいは確認してきているだろうが、それでもかなりの度胸が要るに違いない。
ごめんな、と間近で囁く声がした。
「いいよ……何となく……おれ、ここから出られないような気がしてたんだ……」
そうか、と声がする。
それは屈み込んできた。水が落ちてきた。ひんやりした温度の、それはたぶん、涙だ。
――吸血鬼も泣いたりするのか、と思った。
[#改段]
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九章
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結城は息子の部屋を覗き込んで、最初、息子がよく眠っているのだと思った。点いたままのスタンドを消そうとベッドサイドに近づいて、寝息が聞こえないのに気づいた。死んでいるのだと、気づくまでには少しの時間がかかった。
真っ先に思ったのは「あれ」だったのだ、ということだった。敏夫が言っていた疫病。初期症状が少し違っていたから、つい見過ごしてしまった。あれほど注意していたのに。それ以外の可能性については、考えてみたくもなかった。
結城は少しの間、息子の枕許に坐って呆然として過ごし、やがて立ち上がって梓を呼んだ。同じく呆然としたふうの梓に電話をかけさせた。呼ばれて飛んできた敏夫は、ひどく複雑そうな表情で結城を見て、そして急性腎不全による敗血症、と診断書を出した。結城は敏夫が自分を責めているように感じた。なぜもっと早くに医者に診せなかったかと、問いかけているように思えてならない。
「しっかりしていたんです。倒れたときには。冗談も言えたし、笑っていた。とてもしっかりしていました。だから――」
そうですか、とだけ敏夫は言った。
「……それでどうします?」
結城は瞬く。
「息子さんを葬らねばならないでしょう。村ではこういう場合、真っ先に寺と弔組の世話役に連絡をするんですが、それとも、どこかの葬儀社に依頼しますか」
結城は俯いた。一方に旧来の習慣通り、葬儀社を頼って葬る方法があり、もう一方に、越してきた村の流儀に従う方法がある。
「……どうすればいいんでしょう」
「火葬を勧めたいところですがね。結城さんはそもそも、そういう習慣の所に住んでおられたわけだし」
結城は背筋を伸ばした。火葬にして遺骨にしてしまえば、本当にもう取り返しがつかない、と奇妙な危機感を覚えた。「取り返しがつかない」も何もない。すでに夏野の生死は決してしまったのだ。誰もこの結果を変えることはできない。結城はそれを重々承知していたが、火葬にすることは積極的に死を受け入れること、喜んで迎え入れ、普遍の事実として一部の隙もなく定着させることのように思われてならなかった。
「弔組にお願いします」
「しかしね」
「息子は……この村の一員として、地縁に入り込んでいたんです。居場所を見つけていた。村の一部として還してやりたいんですよ。夏野もそれを望んでいると思います」
「……そうですか」敏夫は深い息を吐いた。「では、おれから世話役のほうには連絡しておきます。寺はどうします」
結城が考え込んでいると、
「別に宣伝するわけじゃないが、村に葬るつもりなら、寺に墓所を借りないといけません。結城さんは墓所をお持ちじゃないんで。もちろん、これから求めることも、許可を取ることもできないわけじゃないが、許可を取るのは非常に煩雑になると思ったほうがいいでしょう。もうここ何十年も、新しい墓地の認可は出てないんで」
「認可が必要なんですか?」
「知事の許可が必要です。今から手続きをしたり、買い求めたりするより寺に頼んだほうが早いです」
「では――お願いします」
敏夫は頷いた。
「では、寺にはおれから連絡をしておきますんで。あとは世話役が全部、面倒を見てくれますから」
はい、と結城は頷いた。そのまま、結城は息子の枕許に坐っていた。他にどうすればいいのか、思いつかなかった。敏夫が去っていくらも経たない頃、玄関から声がした。立ち上がる気にもなれないでいると、それは勝手に上がってきて、結城を探すふうだった。
「結城さん――ああ」
ドアが開いた。結城が振り返ると広沢と武藤だった。
「武藤さんから連絡をもらって」
広沢の声に武藤は頷く。敏夫が連絡をしてきた。助けが必要だろう、と言われ、仕事を休んで同じ弔組に所属する広沢を誘い、駆けつけてきた。
虚脱したように坐り込んだ結城、ベッドに横たわったのは彼の息子だ。息子を失った父親。あまりにも生々しく自分の苦吟が甦ってきた。
「結城さん、わたしは」
あんたの気持ちは痛いほど分かる、と言いたかったが、それも躊躇われた。ただ結城の肩に手を置いた。それに促されたように結城は深く俯く。微かな嗚咽が聞こえた。
何度も頷きながら結城の肩を叩く武藤を見つめ、広沢は立ち上がる。結城は武藤に任せたほうがいいだろう、と判断した。子供を失った父親同士、通じる者があるだろう。同じ経験を共有してない自分には、かけてやれる言葉もない。――それよりも、と広沢は部屋を出る。葬儀の準備をしなくては。おっつけ、世話役がやってくるだろうが、それまでにもしなければならないことが幾つもある。
家の中を歩き、居間に梓を見つけた。梓もまた無防備に、物のように坐り込んでいた。
「あの、こんな時に何ですが、神棚はありますか。あれば半紙で蓋をしないといけないんですが」
「いいえ」と、梓は虚脱したように答える。
「夏野くんに着せる浴衣か寝間着のようなものはありますか?」
これにも、いいえ、と放心したふうな答えが返ってきた。広沢は、同情を込めて梓を見下ろし、ちょっと家の中を勝手に|弄《いじ》ります、電話を借ります、と断った。家に電話して妻に最低限のものを用意して持ってくるよう頼み、湯灌の用意をするために洗面所を探す。
梓は、広沢が立ち去った居間に、ひとりで残された。じっと坐り込み、居間のは誰で、なぜあんなに勢い込んでいるのか、その理由を理解しようとした。
息子が死んだのだ、と思い出すのには少し時間がかかった。「死んだ」という言葉は、梓の脳裏にぽっかりと浮かび、何の感興も思念も呼び起こすことがないまま、孤立して漂った。
「……連絡をしないと」
それは「死んだ」という思念とは、まったく無関係なところから浮かび上がってきた。梓は時計に目をやり、受話器を取る。学校に電話をかけた。
十数度のコールの後で、ようやく電話に出た事務員は、無機的な声をしていた。
「一年生の小出――いえ、結城の母親ですけれども」
ああ、と事務員は答える。両親が入籍してない夏野は、事務員によく覚えられている。
梓は口を開いた。言葉は考える必要もなく滑り出てきた。自分でも自分の声を奇妙なもののように聞いた。
「息子を転校させることになりました。急にこちらを引き払うことになりましたので。息子はもうこちらを発ってます。わたしが改めて後日、退学の手続きに参りますから」
事務員が何かを言ったが、梓はそれに耳を貸さなかった。言うべきことだけを言ってから、頓着なく受話器を置く。しばらくそのままで宙を見据えていた。
ひどく怠く、そして何もかもが現実感を欠いている。
そう感じながら、梓は手を動かした。シャツの袖の中に手を忍ばせ、肘の内側を掻く。小さく二つ、虫刺されのような痕があって、それがとてもむず痒かった。
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静信が結城夏野の訃報を受け取ったのは、勤行の前だった。村に土葬したいこと、ついては檀家に入って墓所を借り受けたいことを小池老に告げられた。
「結城さんちも、武藤さんとこと同じく、やはり土葬にしたいってことなんで。ひとつよろしく頼みます」
「それは構わないのですが」と、静信は受話器を握ったまま予定を書き込んだ黒板を見た。「実は……小池さん、明後日はもう予定がいっぱいで」
「明後日――ああ、明日は友引か」
「十七日もいっぱいなんです。近隣のお寺さんにお願いしていただくか――どうしてもうちでということになると、十八日か、あるいは明日かということになりますが」
「いくら何でも、十八日は無茶だろう」言って小池は思案するように言葉を切る。「十八は十八で、急の用ができるかもしれんし。明日で結構。結城さんには申し訳ないが、こればっかりは呑んでもらわんと」
はい、と静信は頷いた。予定を書き込み、光男に墓地の確保を依頼して本堂に行く。勤行を終えて寺務所に戻る静信を、呼び止めた者があった。
「あのう……若御院」
振り返ると、雑貨屋の千代だった。毎朝欠かさず、山門前を掃除してから勤行に参加していく敬虔な老女は、丁寧に頭を下げる。
「近頃、お忙しいみたいですねえ」
まあ、と曖昧に言葉を濁す静信の顔を、千代は物問いたげにじっと見た。
「……大丈夫ですよねえ」
そもそも寡黙な老女の、短い一言に静信は胸を衝かれた。そこには千代の不安と期待が託されている。
千代はそれだけで言うべきことは言った、というふうにじっと静信を見上げて言葉を待っている。
「……はい」
やっとのことで答えた静信に千代はもう一度、深々と頭を下げた。ゆっくりとした足取りで本堂を出て行く。苦しく嘘をついた静信を残したまま。
村は逼迫している。これほどまでに。寺が身動きできなくなるほどの死者。確かに敏夫の言う通り、|形振《ふりふ》り構っている場合ではないのかもしれない。誰かがこの惨禍を止めねばならない。このまま放置することは許されない。
敏夫が郁美を煽ったのは、明らかに短慮だったと思う。だが、焦った敏夫を責められない。そもそも、自分は敏夫の所行のせいで状況が不利に傾いたことに怒っているのではない。あの所行そのものに怒っているのだ。
敏夫の気持ちは分からないでもない。敏夫の性格も分かっている。郁美を煽ったのは敏夫らしく、しかも敏夫の身になれば妥当だと思えたのも無理はないのだろう。その結果は予測不可能だった。だから責めても始まらない。
(けれども……)
敏夫の拠って立つ場所が見えない。敏夫が村を救おうとしているのは分かるが、何をもってそう思うのか。平たい言葉で言うなら、正義ではないのか、村人に対する慈悲ではないのか、それと郁美を利用することがどうして並び立つのだろう。
自分の望む結果のためなら手段は選ばない――敏夫のそう言う振る舞いは、ひどくエゴイスティックに見える。ならば最初からエゴイスティックに振る舞えばいいのだ。村の連中など知ったことじゃない、これ以上の苦労はお断りだ、面倒や危険は御免被ると言えばいい。そうであれば、静信も理解できるし納得できる。
――そして、自分も。
村を救いたいのであれば、手段の是非を問うべきではない。それほどの余裕は村はないのだ。確かにこれは、二者択一だ。村を救いたいのであれば、屍鬼を根絶することが必要なのだし、根絶しなければ惨禍はやまない。にもかかわらず、手段の是非に拘る自分がいる。静信はそういう自分をも理解することができなかった。
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彼の手にかかると、全ては正常に動かなかった。彼は水を汲もうとして弾み車を回転させるのだが、彼が触れれば機構は本来の動きを拒み、水を汲まずに土を掘った。困惑する彼に微笑って、弟が手を触れる。するとそれは本来の働きを取り戻して水を汲み上げる。そんなふうだったのだ。
彼は弟を介すことなしに、世界と関わることができなかった。そして、弟の仲立ちがある限り、間接的にとは言え、美しい調和に触れることができたし、とりあえず自分はまったく無関係ではないのだと安堵することができた。
弟の周囲で調和した世界、彼はその絵の中に入ることはできなかったが、弟という存在を介して、その絵を鑑賞することは許された。だからこそ、弟が失われた時に、彼は世界までも喪失しなければならなかったのだ。
なのにどうして、弟の死を願うことがあるだろう。
――ならば、なぜ殺せしか。
悪霊の声に、彼は身を硬くした。
分からない。
弟の死は、隣人たちを悲嘆させた。草叢から見つけ出された亡骸は粛々と運ばれ、街に入り、神殿に入った。その間、沿道の人々は涙にかきくれてそれを見送ったのだった。だが、その誰よりも彼は泣いた。倒れた弟を呼び戻そうと抱き縋り、それが決して叶わぬことを確認して号泣した。
耐えがたい痛み、底知れぬ絶望、しかしながら、弟を彼から奪ったのは、彼自身だったのだ。
――なぜ、このような罪を。
汝は、と悪霊は勝ち誇ったように言う。
汝はその真情において、弟を妬んで居た。
己には得られざるものを得、成し得ぬを成す弟を羨み、成り代わることを渇望し、それが可能ならざることに憤った。己に対する劣等感のゆえに弟の慈善に優越感を嗅ぎ取り、それを勝者の傲慢なりと読み替え、自己を被害者として置き換えた。
それは違う、と彼は叫んだ。
彼はもちろん、やすやすと秩序に受け入れられ、ゆえに絵の中の住人であり得た弟を羨ましく思ってはいた。だがしかし、その一方で、秩序に受け入れられることのない己を心のどこかで諦めてもいた。彼が秩序の寵愛を得られないのは彼自身に由来することで、何も弟のせいではなかったし、彼自身、それを確かに理解していた。
たとえ弟が存在してもしなくても、彼が秩序に受け入れられることはなかっただろう。むしろ彼は弟がいなければ、たちゆかなかった。彼はそれを重々分かっていた。
――では、復讐ならん。
己を受け容れず、まつろわぬ世界に、寵童を屠るを以て復讐せんとした。
それも違う、と彼は呻く。
彼は世界に受容されないことに、確かに苦吟していた。実を言えば、弟を利用して復讐することを考えなかったわけではない。だがしかし、それは弟を屠ることによってでは断じてない。弟を|誑《たぶら》かし、慈愛深い弟のさらなる同情を得て、弟が兄を受け容れぬ世界を拒絶し、憎むようになれば、どれほど救われるだろうかと夢想はした。
肝要なのは、弟が寵愛を注ぐ世界を拒絶することで、弟の存在が消え失せることではなかった。――そんなにも、彼は弟に依存していた。
だが、同時に彼はそう言う夢想を抱く自分を恥じていた。それが罪深いことであり、そんな復讐は何者をも生まないことを理解していた。彼は秩序の寵愛が欲しいのであって、秩序から隔絶されたいわけではない。
弟が秩序の中に調和していればこそ、彼は弟の存在をよすがに、秩序の一部であり得たのだし、美しい調和に触れていることができたのだ。その接点たる弟が秩序を拒み、彼と二人、世界から隔絶して閉塞してしまえば、彼は弟を得ても世界を失う。
――では、何故に殺傷せしめたるや。
彼にはそれが、分からない。
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律子は休憩室に行って、その訃報を聞いた。
「結城――工房の夏野くんですか?」
清美は頷く。
「亡くなったらしいわ。腎不全だそうよ」
そうですか、と律子は呟いた。最後に見かけたのはいつだったろう。思い出そうとすると、遠目に国道から南を眺めている姿ばかりが甦った。
最後に会って会話をしたのは真夏だった。あの日、律子は決意をしたのだ。この村を出られない。夏野のように夜明け前の国道を無為に望む、ああいう生き方をしたくなかった。その日、律子は恋人に電話をし、工務店に電話をした。恋人は時間をかけて話し合おう、と言ったが、そのうち律子のほうが忙しくなってそのままになっている。とっくに連絡も来なくなっていたから、相手も諦めたのだろう。工務店のほうは、何度か相談をして、冬までには改築に取りかかりたいと言っていたのだが、設計士が工務店を辞め、そうしているうちに律子のほうに時間の余裕が亡くなり、当の工務店で不幸が続いて完全に棚上げになっていた。
どうしてこんなことになったのかしら、と律子は改めて思った。夏野にあったあの日、こんな事態は想像もしてみなかった。律子はいつか夏野が静かに南へと歩み去っていくのだという気がしていてたし、自分は村に残って骨を埋めるのだという気がしていた。あの日を起点にそれぞれの未来は、自明の方向へ伸びていくように見えたのに、その後、何ひとつ自明だと思われたようには動いていない。たったふた月かそこらしか立っていないのに、もう十年も前のことのような気がする。「ひと昔」と呼べるだけの断裂が、そこにはあった。
(とうとう行けなかったんだ……)
律子は何となくそう思う。ひどく感傷的な気分だった。あれほど南を恋い慕っているふうに見えたのに、飛び立つことがないまま死んでしまった。
「それで、先生は? まだ戻ってないの」
清美が聞いているのが聞こえた。
「二階よ」と、答えたのはやすよだった。やすよは視線を天井に向ける。「回復室。若奥さんにつきっきり」
「奥さん……どうなの?」
清美は、恭子が倒れたと聞いただけで、実際に恭子の姿は見てない。回復室に入れたまま、敏夫がひとりで一切合財の世話をしていた。ただやすよだけが、恭子が倒れた当初、呼ばれて処置に立ち会っている。
やすよは首を横に振った。
「後半に入ってるわね。あたしが見た時は呼吸不全を起こしてたけど、肺の中に血が溜まってるみたいだったわよ。黄疸も出てたしDICも出てるみたいだったし、ああなるともう、どうにもならないんじゃないかしら」
「そう……」
「若奥さんでなきゃ、溝辺町の病院に転院させるとこでしょ。それをしないのは、何とか自分で最後を引き延ばしてやりたいからじゃないのかねえ」
「あの人も人の子だ。意外に情があるじゃないの。昨日も何度も診察中に二階に上がって様子を見てたみたいだし。本音を言うとつきっきりでいたいんだろうけど」
「悔しいんでしょ。あんなになるまで気がつかなかったのが」
律子は二人の会話を聞きながら俯いた。あまり仲の良い夫婦には見えなかったが、これは外部からは窺い知れない種類のことだ。けれども、悔しいのだろう、というやすよの指摘には説得力がある。どうして初期の段階で家族が気づかない、連れてこないのだ、とあれほど苛立っていた当の敏夫が、妻の変調を見過ごしたのだから。
その敏夫は、受付開始時間を大幅に過ぎて、ようやく下に降りてきた。診察が始まっても敏夫は頻繁に席を外し、二階に様子を見に行く。誰か看護婦がついていましょうか、と提案したのは清美だ。この日はいつもに比べ、患者が少なかった。それだけの余裕があったのだが、敏夫は首を横に振る。構わないでいい、気にしないでくれ、と答えた。
昼が近づいても、患者は増えなかった。昨日、水口の伊藤郁美が兼正に押しかけていったという。これは単なる騒動で終わったようだが、そのせいでかえって村の者の漠然とした不安が解消されたのじゃないか、というのが清美の意見だった。単純に患者が少ないだけではない。この人珍しく、例の患者がなかった。貧血を呈している患者は一人もいない。
「小康状態ってことかしらね。ひとつピークが過ぎて、次のピークとの谷間に入ったのかも」
やすよ入ったが、そればかりでないことは昼休みが過ぎて分かった。江渕クリニックが開業したという。まだ外装工事が終わっていないのに、昨日から患者を受け付けている。
「どうも、あっちは夕方だけの営業みたいですよ」と、噂を聞きつけてきた雪は言った。「夕方五時から、十時までなんですって」
「へえ。夜間クリニックってやつかしら。都会ならともかく、こんな田舎でそんなことして成り立つのかねえ」
「ですねえ。都会なら通勤帰りのサラリーマンとかを当て込めるでしょうけど」
律子たちは一様に首を捻った。
そして、この日、パートの関口ミキは連絡のないまま仕事を休んだ。
美和子は郁美の糾弾が忘れられなかった。あまにも異常な様相。疫病だろうか、本当に。何かそういう、美和子の知る異常とは別の異常が進行しているように思えてならなかった。
「あの……克江さん」
美和子は庫裡の厨房で鍋を磨いている田所克江に声をかけた。
「こんなことを訊いて、どうかしていると思わないでくださいね」
前置きをして、美和子さんは村で何が起こっているか、分かってるって言いましたよね。いったい何が起こってるんでしょう?」
克江はちらりと美和子を見る。
「あんまり口にするようなことじゃないですからね」
「昨日、何とかいう方がいらしたでしょう。水口にお住まいの」
「伊藤郁美」
「そう。あの方が、起き上がりだって。……それ、どう思われます?」
克美は手を止めて、美和子をまじまじと見た。すぐに目を伏せ、鍋磨きを続ける。
「……郁美さんが正しいんじゃないですかね」
馬鹿な、と思うと同時に、やはり、という気分がした。美和子は洗剤にまみれた自分の手を見つめた。
「光男なんかは伝染病だと思ってるみたいですけどね、こんな伝染病があるもんですか。死人が必ず夜に出るのが証拠ですよ。鬼です。起き上がりですよ」
「でも……」
「あたしの言うことが迷信じみてるってのは分かってますけどね。他に考えようがないでしょう。そもそも、本当に鬼なんていないんだったら、どうして鬼がいる、なんていう伝説が残ってるんです?」
「それは、そうですけど」
「大丈夫ですよ」
美和子は意を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]みかねて克江を見つめた。
「だから、寺は大丈夫。鬼のことなんですから、ちゃんと仏法を護持して身を慎んでいれば心配なんかありゃしません。お経もろくに読めないような生臭坊主ならともかく、そういう不心得なものは、ここにはいませんから」
「そう――そうですね」
美和子は弱く微笑んだ。そう、鬼なんて馬鹿げている。けれども言い伝えがある以上、それが本当のことであっても不思議はないのだ。むしろ馬鹿げているからこそ、言い伝えでしかないのかも。これが鬼ならば、寺は大丈夫だ。夫も息子も、鬼のほうで避けて通るだろう。疫病なら寺を避けてはくれないが、鬼ならば。
(そうだわ、鬼なんだわ。きっとそう)
美和子は洗い物をしながら、自分に言い聞かせた。
池辺は厨房の戸口に立ち、困惑した気分で床を見つめていた。池辺の衣類力は、美和子の姿も克江の姿も見えなかったが、二人の会話は小声であるにもかかわらず、広い厨房に谺してよく響いた。
(馬鹿な……)
鬼だとか、起き上がりだとか。そんなものがこの世にいるはずがない。
(けれど、これだけの死人が)
今年は死人が多い。尋常の数ではない。伝染病だというが、伝染病ならもっとニュースになるなり、行政が介入してくるなり、それらしい動きがあるものではないだろうか。本当に伝染病だという、具体的な話はなにひとつない。ただそういう噂だけが蔓延している。
(でも、だからって、鬼だなんて)
そんなはずはない。そういう化け物は、おもちゃ箱の中に片づけられてしまったのだ。子供の頃にはそれを信じ、天井の染みまでが怖かったけれども、もうそんな馬鹿げたことに怯えるような歳ではない。
(あり得ない)
池辺はそっと踵を返した。廊下を寺務所へと戻る。庫裡の廊下は長く、しかもそこここに薄闇をまとわりつかせていた。床板は軋む。まるで誰かが跡を蹤けてくるかのように。けれども、振り返って誰もいないのをわざわざ確認してみるのは子供のすることだ。
強いて背後を意識しないよう努めて、池辺は寺務所に戻った。中では光男が鶴見の顔を覗き込んでいた。
「本当に大丈夫なのかい? なんだか顔色も良くないけど」
鶴見はぐったりとしたように椅子に坐り込んでいる。連日の疲労もあるだろう、季節柄、風邪をひいているのかもしれない。朝からどうもぼうっとしたふうだった。
池辺は鶴見の、熱に浮かされてでもいるような目を見、ふいにぞわりと悪寒を感じた。
――疫病だとは思えない。だからと言って、鬼だなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。
「今日はもう帰って休んだほうが良くないかい」
「そうですよ」と、池辺は口を挟んだ。「今日はもう法事の予定もないし、戻って休んでください」
「……いや」と、鶴見の声は覇気を欠いている。
「そう言わず」池辺は、知らず言葉に力を込めた。「ぜったいに風邪ですよ。そういう顔です。帰って暖かくして寝てください」
「ちょっと、聞いた?」
燥ぐように声を上げて、タケムラの店先に駆け込んできたのは、大塚弥栄子だった。店先の床几には、例によって笈太郎と武子、そして大川浪江がいた。
「遅いわよ。郁美さんでしょう?」
言ったのは、最初に情報を持ってきた浪江だった。
「あら、聞いてたの」
「聞いてるも何も。うちの店先の角に立ってさ、しばらく大声を張り上げてたんだから」
「あらまあ」
「あの人も、本格的におかしくなってきたわよね。もともと危ないとは思ってたけど」
「本当にねえ」と、弥栄子は頷く。「よりによって鬼、だもんねえ。そんなことを本気で言い出して兼正にまで押しかけたっていうんだから、本物だわ」
武子が笑った。
「なによう、あんた、ちょっとは信じてたくせに。知ってるわよ、郁美さんにお札を貰ったんでしょ」
あら、と弥栄子は怯む。
「別に信じたわけじゃないわよ。付き合いよ、付き合い。――信じるわけないでしょ、鬼だなんて。馬鹿馬鹿しくてお話しにならないわ」
「そうお?」
「そうよ。そりゃあ、あの人が今年はろくなことにならないって言って、本当に死人が大きくて気味が悪かったのは確かだけど。だからって、鬼はいくらなんでもないわよね」
武子は大仰に頷いた。
「本当に。だいたい、死人が多い多いって大騒ぎしてるけど、こういうことだってあるもんじゃない。今年は夏も厳しかったし、残暑もきつかったしさ。もとも老人ばっかりの村なんだし」
「そうよねえ」
笈太郎が笑った。
「それを、大騒ぎしたあげく、鬼だ、だからねえ。兼正にまで押しかけてさ、旦那にこっぴどく言われて追い返されたってんだから、言い物笑いの種だよ」
本当に、と老人たちは声を上げて笑った。タツはその笑いを眉を顰めて聞いた。
――こういうこともある? とんでもない。
村では変事が起こっている。この死人は異常だ。続くことは確かにあっても、これは明らかに度を過ぎている。そんなことは老人たちだって百も承知だったはずだ。
(……こりゃあ、まずいね)
タツは内心で独白した。この間まで、ここに来る誰もが不安を抱き、事態を訝しんでいたのに、今日はもう、「鬼なんているはずがない」というところから、一足飛びに「これは異常なことではない」というところに動いている。異常事態に直面し、それに非常識な答えを突きつけられ、その非常識な答えを否定するために、異常だという認識までが否定されようとしているように見えた。
だが、この現状は絶対に異常だ。鬼だろうと鬼でなかろうと、尋常でないことが村で起こっているのだけは間違いがない。
(村の連中が、みんなこの調子だとしたら)
タツは微かに肩をすぼめた。救いがたい何かの姿を、ちらりと垣間見たような気がした。
敏夫は何度か席を外しながらその日の診察を終えた。受付終了は午後六時。律子が後始末をしている時に、関口ミキから電話があった。誰もが漠然と予想していた通り、ミキは辞めるという。少しずつ寂しくなる。律子は肌寒い思いで私服に着替えた。
「……永田さん?」
病院を出て、清美に呼びかけたのは、清美がいつもとは別の方向に歩き出しからだった。清美は振り返って笑う。
「ちょっと、ミキさんの様子を見てくるわ」
「でも……」
「辞めるのは本人の自由だけどさ、あの人、もう歳でしょう。これからどうやって生活するのか、いろいろと気になるから」
そうですね、と微笑んで律子は清美に手を振った。清美も律子に手を振り、すっかり陽の落ちた道を急ぐ。陽が落ちると冷え込むようになった。真夏の熱波が嘘のようだ。
秋は急速にやってきた。患者に追われ、駆けまわっているうちに、もうこんなにも時間が経っていたのだ、という気が清美にはした。コートの襟を掻き合わせる。本格的に衣類の入れ替えをしなければ。余裕がなくて、とりあえず必要なものを奥から引っぱり出しているうちに、十月も半ばになってしまった。
清美はいつもとは逆に、中外場のほうへと向かう。途中、兼正へ登る坂の前を通り、ほんの一瞬、坂を見上げた。
(起き上がりねえ……)
苦笑混じりに肩を竦める。そのまま中外場の集落に向かい、うろ覚えで家並みを辿って関口ミキの家を探した。ミキは一人暮らしだった。酒飲みの夫は十年ほど前に肝臓を壊し、以来、家でぶらぶらしていた。ミキがパートをして家計を支えていたが、二年前、夫は肝硬変で死んでいる。清美ら看護婦たちが葬儀を助けた。子供はいるが、怠惰な父親を嫌い、みんな村外に出てしまっている。葬儀に集まった子供たちは誰も、母親には同情的なようだったが、同時に父親に対して毅然とした態度を取れなかった母親を見放しているようなところもあった。
気持ちは分かるけど、と清美は胸の中で呟いた。病院を恐れる気持ちは分かる。けれどもこれからミキはどうするのだろう。つましい家の中が思い出された。家財と呼べるほどの家財もなく、蓄えは全部、夫が死ぬまでに飲んでしまっていた。田圃も山もとっくに手放し、亭主が職を転々としていたせいで生活を支えられるほどの年金もない。
記憶を頼りに、路地の奥にある小さな家に辿り着いた。玄関のガラス戸に手をかけたが、戸締まりをしてある。清美は軽く戸を叩き、声をかけた。
「ミキさん、永田です」
玄関で人の気配がした。薄暗い明かりに、ガラス戸を透かして人影が見える。戸を開けたのは、見慣れない中年の女だった。
「どちらさん?」
「あの……関口ミキさんの家ですよね」
「そうですけど」
「わたし、病院の永田ですけど。ミキさんは――」
「いま、お風呂を使ってます」
「あの、失礼ですが?」
「わたしは姪です」
清美は首を傾げた。縁者なら葬儀の時に会ったはずだが、この女には見覚えがなかった。玄関を入ってすぐの茶の間ではテレビの音がする。中年の男らしい後ろ姿の一部が見えた。
「で、何の御用です?」
女の口調には暖かみがなかった。どうやら清美は招かれざる客のようだった。
「あの……ミキさんがパートを辞めるっていうんで、どうしたのかと来てみたんですけど……」
ああ、と女は素っ気ない口調で言った。
「辞めるよう言ったんです、わたしが。叔母も歳なんで、一緒に暮らすことにしたんです。わたしたちが生活の面倒は見るんで、もう無理に働く必要もないですから」
「まあ……そうなんですか」
それほどミキと親しいにしては、葬儀では見かけませんでしたね、と清美は言いたい気がしたが、もちろん口に出すことはできなかった。清美は少しの間、家の中を窺っていたが、女が切り口上に「それだけですか」と言うので、ミキに会うことは諦めた。
「どうも……お邪魔しました。ミキさんによろしくお伝えください。
女は慇懃に頷いて、ぴしゃりと戸を閉めた。内側から鍵をかける音がした。
清美は何となく、立ち去りがたいものを感じて立ちつくしていた。どうとは言えないのだが違和感を覚えた。
老後の面倒を見ようと言うほどミキに対して情がある、というふうに見えなかったせいなのかもしれない。それにしては、葬儀で顔を見なかった気がするのも釈然としなかったし、女の清美に対する態度には、親しい叔母の同僚に対する暖かみのようなものが欠けていた。男はついに背中を見せたまま振り返らなかった。普通は顔ぐらい覗かせるのではないか、という気がする。――そして、他にも何か、決定的な違和感のもとになるもの。
首を捻りながら路地を戻り、一軒の家の前まで来て、清美は違和感の由来に気づいた。その家からは醤油と魚を焼く臭いが漂ってきていた。――そう、ミキの家からはこの時間帯にもかかわらず、夕餉の臭いがまったくしなかったのだ。
清美は背後を振り返った。一瞬だけミキの家を見つめ、息を吐いて首を振る。だからどうだっていうの、と自分に言い聞かせながら、清美は家路を急いだ。
ミキの家から、女は清美を見守っていた。ガラス戸の隙間から外を窺い、清美が立ち去ったことを確認する。茶の間に戻ると、男が一人、無言でテレビを見ていた。茶の間の奥にある仏間には、布団が敷かれている。そこには喘鳴交じりに息をしている老女の姿があった。布団の脇の仏壇は空だ。本尊も仏具もなにひとつ残っていない。空洞だけがミキを見下ろしていた。
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「昭、あんた、こないだ、工房の息子から電話を受けてなかった?」
昭が母親の佐知子にそう言われたのは、夕飯の時だった。
「うん、そうだけど」
「やっぱり」と、佐知子は味噌汁を持った椀を並べ、エプロンを外した。「工房の息子さんね、亡くなったんだそうよ」
箸を取りかけ、昭は母親の顔を凝視した。
「……死んだ?」
「あたしも小耳に挟んだだけだけど。買い物に出たとき、そういう話を聞いたのよ。何でも今朝、亡くなったんですって。ひれでひょっとしたら、あんた親しかったんじゃないかと思って」
昭は愕然としたし、かおりもまた目を丸くした。
「そんな……何かあったら知らせてくれるって」
「取り込んでて忘れてるんでしょ。可哀想にねえ。まだ高校生だっていうじゃない」
昭は箸を叩きつけて立ち上がった。
「なんだよ、それ!」
「なによ」
「兄ちゃんちの父ちゃん、連絡をくれるって言ったじゃないか。大人なんてみんなそうなんだ。おれたちとの約束なんて、端から守る気がないんだ!」
言って、茶の間を駆けだしてしまった昭を、かおりはおろおろと見送った。父親も母親も、ぽかんとしている。
「まあ……何なの、あれ」
母親が呟く。そうして、我に返ったように、顔を大きく歪めた。
「何なのよ、あれは」
かおりには答えられなかった。昭の足音が廊下に響き、玄関のドアが乱暴に開け閉めされて外へと駆けだしていくのが聞こえた。きっと夏野の家に駆けつけるのだろう。あるいは、とにかくどこかで一人になりたいのだろうか。追いかけていっても、かけてやる言葉もないけれども、せめて側にいてやりたい気がして、かおりも箸を置く。立ち上がろうとしたとき、佐知子が大声を上げた。
「ほっときなさい!」
「……でも」
「放っておきなさい。何よ、いきなり。お箸を叩きつけて人を怒鳴りつけて。夕飯なんかいらないって言うんなら、勝手にすればいいんだわ。作ってる者の苦労も知らないで」
そうじゃない、とかおりは口にしかけた。昭は佐知子に怒ったのじゃない、夏野の父親に怒ったのだ。だが佐知子は、かおりに先を言わせなかった。
「いいから、あんたもさっさと食べてしまいなさい」言って、ぼうっとしたように箸を置いたままの父親を見た。「お父さんも。たまに家にいるからと思って、好物を用意してるんだから無駄にしないでちょうだいね」
ああ、と父親は呟いたが、それでも気乗りしないように皿を見ただけで、箸は手に取らなかった。かおりもまた、昭が――そして夏野が気になって、とても食事に手を付ける気になれない。
「そう。だったら、勝手にすればいいわ。あんたも昭も、お父さんも」佐知子は吐き出すように言った。「だいたい、人を何だと思ってるの。あたしは家政婦じゃないのよ。毎日毎日、御飯を用意して、別にそれで一銭のお金だって貰ったことはないんだから。なのにあんたたちときたら、ありがとうでもない。当然の顔して食べて、食べたくなきゃほったらかしで」
かおりは俯いた。
「お父さんは残業だ何だって言って夜中まで帰ってこない。残業ですって? 役場で何の残業なのよ。どうせ職場の人と飲み歩いてるんでしょ。こっちは残業だと思うから、御飯用意して待ってるのに、欲しくないとか言ってさっさと寝てしまうし、あんたたちはあんたたちで、食事の時間なんてお構いなしに遊び歩いて」
父親は俯き、困惑したように瞬いている。
「こっちは暖かいものを出そうと思って待ちかまえてるのに、いつまで経っても帰ってきやしない。留守番を頼んでも家にいないで遊び歩く、手伝いもしない。好きなように遊んだあげく、好きな時間に帰ってきて、それで御飯があるのが当たり前だと思ってるんでしょ?」
「……ごめんなさい」
「謝ってくれなくて結構。もう、勝手にすればいいんだわ」
叩きつけるように言って、佐知子は黙々食事を掻き込む。かおりは、ぼそぼそとそれを真似た。勝手にひとりで食事を終えると、佐知子は自分のぶんの食器を片づける。台所からは洗い物に八つ当たりをするような、盛大な物音がした。
「お父さん……ごめんね」かおりは小声で言う。「お母さん、怒らせちゃったから。お父さんまで怒られちゃったね」
「……いいんだ」
父親は、小声で言った。その声が、妙に力を失っているように、かおりには思われた。父親も端は手に取っているものの、やはり食事には手をつけてない。
「どうしたの? 食べないの? 残すとお母さん、また怒るよ」
そうだな、と父親は言ったが、やはり箸をつける気にはなれないようだった。
「お父さん、具合悪いの? 食欲ない?」
「……うん」
田中は呟いて箸を置く。ふらりと立ち上がった。
「……お父さん?」
「ちょっと病院に行ってくる」
「大丈夫?」
うん、と田中は頷き、鴨居の釘にかけた上着を手に取った。テレビの脇に置いたままの書類鞄から、小さなカードを引っぱり出した。
かおりは首を傾げた。診察券だった。「江渕クリニック」と書いてあるのが見て取れる。
「お父さん、具合が悪かったの? ずっと?」
ずっと病院にかかっていたのだろうか。それを黙っていたのだろうか。かおりは父親を見上げたが、父親は微笑んだ。
「大丈夫だよ。とにかくちょっと行ってくるな」
かおりは頷いた。父親が出ていって、茶の間に一人で残された。気まずい空気、佐知子の立てる破壊的な物音。これがいつもなら、慌ててかおりと父親で母親の機嫌を取り結ぼうとしただろう。料理を褒めながら、さも美味しそうに平らげて見せ、作ってくれたことに感謝し、その証として少し手伝いをすればいい。けれども、かおりも父親も食欲がないのは事実だった。決して母親のせいではないのだけれども、いつものように機嫌を取ってやることができず、母親はそれでいっそうに苛立っているような感じがした。
父親も中座してしまった。かおりもこの場を逃げ出したかったが、せめて自分くらいはちゃんと食事をしないと、という気分が先に立った。味気ない食事を懸命に詰め込む。昭と、父親のことを気にかけながら。
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深夜、敏夫は目を覚ました。ナースステーションの一郭にある仮眠スペースの中だった。
微かな物音を聞いたように思い、敏夫は息を詰める。いちおう、ベッドの枕許には、守り本尊と香炉を据えてある。数珠と抹香、桐敷正志郎の態度からすると、これがどれだけの効力を持つのか心許なかったが、何の用意もせず眠れるほど図太くはなれなかった。
ベッドの上に横たわったまま、息を殺して周囲の気配を窺った。ベッドの周囲にはカーテンを引いてあるので、外の様子は見えない。物音だけが頼りだった。
敏夫は耳をそばだてる。微かに足音めいた物音を聞いたようにも思うが、確証はない。誰かが歩き回っているとすれば、それは恭子ではあり得なかった。どう考えてももう、歩けるような状態ではない。誰かがいるとすれば、それは裏口から侵入してきた誰かだ。敏夫はあえて裏口の鍵を外しておいた。回復室にも特に鍵はかけてない。
物音が続いているようでもあり、幻聴のようでもあった。ナースステーションの中にひとつ残したスタンドの明かりのせいで、ベッドの周囲のカーテンは黄味を帯びた陰影の波を描いている。そこに映る影はない。ほんの少し、カーテンを開けて外を覗いてみたいという衝動に、敏夫は懸命に耐えた。
さらに耳を澄ましていると、今度ははっきりと微かな物音が聞こえた。それはドアを閉める音だ。同時に隙間から漏れた空気の動きでカーテンが揺れる。誰かがいる、これは確かだ。敏夫は懸命に呼吸を制御する。耳を澄ましてもそれ以外の音は聞こえなかったが、空に耳をそばだてていると、階下で裏口を開け閉てするのに特有の音がした。
敏夫は息を吐く。誰かが入ってきて出ていった。それは確かだ。そろそろとカーテンを開けると、ナースステーションは翳りを浮かべたまま沈黙している。ベッドを下り、回復室に向かう。小窓から覗くと、恭子は仮眠を取る前に見た通り、ベッドの上に横たわっていた。
そっとドアを開けた。すぐに、モニターに変化が現れているのに気がついた。拍動が弱い。しかも間隔が著しく開いている。じっと見守るうちに、ほどなく微細な反応が消えた。思い出したように二度、小さな弱い波を描き、そしてそれきり完全に絶えた。
敏夫は淡々とそれを見下ろした。心停止。午前二時十二分。少し迷ったが、甦生術は施さなかった。
――ここからが賭だ。
恭子は甦生するのかもしれなかったし、しないのかもしれなかった。死亡時間を前後させることは、死亡診断書を書くのが自分である以上、簡単なことだが、どうにかして死体現象をできるだけ遅らせなければならない。そもないと、葬儀の棺の中に腐敗を始めた死体が入ることになる。
ナースステーションの製氷器に向かい、ありったけの氷を用意する。小分けにして密封し、タオルで包んだそれを恭子の身体の周囲に隙間なく並べていく。何度も氷の配置を変え、布団を掛け直した。モニターの角度を変え、外から覗いただけではモニターが見えないよう調整する。
起き上がってくれ、と敏夫は妻である女の死体を見下ろした。
「……連中に対抗できるかどうかは、お前にかかっているんだ」
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物音に気づいたのは、玉恵のほうが先だった。台所の隅にある勝手口を、執拗に叩く音がしていた。玉恵は茶の間で身を起こす。しばらく布団の中に留まって、辺りを憚るような微かな音に首を傾げた。時計を見ると二時半が近い。こんな時間に人が訪ねてくる道理はなく、訪ねてくるような心当たりもなかった。
戸惑った末に、玉恵は隣室に向かい、郁美に声をかけた。
「お母さん」
「ああ」郁美も目覚めてはいたようだった。身を起こし、台所のほうを窺う。「相手にするんじゃない。どうせ鬼よ。あたしに復讐しに来たんだから」
まさか、と玉恵は呟いたが、勝手口を叩いている客が尋常の客だとも思えなかった。開けると良くないことが起こる、そういう気がしてならない。
しばらく二人、息を潜めていたが、戸を叩く音は、やまなかった。郁美がそろりと立ち上がった。
「……お母さん」
「大丈夫。ちょっと様子を見るだけだから」
明かりも点けず、郁美はそろそろと台所に下りる。勝手口は古い開き戸で、そもそも錠はついてない。ただしラッチが馬鹿になっていて戸を閉めても勝手に開くので、取っ手に紐をつけて壁の釘に引っかかるようにしてあった。誰かが戸を叩く。微かな力に押されて、戸が揺れる。玉恵と郁美はそれに見入り、やがて郁美が低く声を上げた。
「誰? こんな時間に」
戸を叩いていた音がやむ。
「明日にしてちょうだい。何時だと思ってるの。夜の客は構わないことにしてるのよ」
戸外の誰かは、前より強く忙しなく、再び戸を叩き始めた。
「誰なの。ちゃんと名乗ってごらん」
「……山崎です」と、女の声がした。「下外場の山崎和歌です。お願い、入れて」
「お断りよ。そこは開けられない。昼間に出直してちょうだい」
「お願い。逃げてきたんです。助けて」
玉恵は母親を見る。郁美は眉根を寄せて何やら考え込むふうだった。
「……下外場の山崎と言ったわね? あんたのところはつい最近、越したんじゃなかったの」
違う、と和歌は声を上げた。
「無理矢理、連れていかれたんです。主人も子供も捕まってる。あたしだけ何とか逃げてきたんです。お願い、助けて」
郁美は玉恵を振り返る。
「抹香を持っておいで」
「でも……」
いいから、と言いながら、郁美は流しから錆びた包丁を取る。塩の壺を捜した。玉恵は母親の部屋に取って返し、祭壇から抹香の箱を持ってくる。
「戸を開けておあげ。……気をつけてね」
玉恵は頷き、息を詰めて紐を外した。ガラス戸が外に向かって開く。小柄な中年の女が顔を覗かせた。髪を振り乱し、着ているものも微かに饐えた臭いがしていた。郁美はそれに向けて抹香を投げる。女は驚いたように身を竦めたが、昨日の夕方に来た男のように、それを嫌がるふうではなかった。郁美が陀羅尼を唱えても、神妙な顔でそれを聞いている。
「どうやら、鬼じゃなさそうだね」
郁美が呟いた。和歌は頷く。
「いいよ、お入り」
郁美が言うと、和歌は中に滑り込み、安堵したようにその場にしゃがみ込んだ。郁美に促され、玉恵は台所の明かりを点ける。明かりが点いてみると、和歌の様子はいっそう悲惨だった。玉恵にはよく事情が呑み込めないが、連れていかれた、逃げてきた、という言葉には説得力があった。
「それで? 何がどうしたって?」
和歌は坐り込んだまま顔を上げた。顔色は悪く、声にも虚脱したように張りがなかった。
「助けてください。主人と子供が捕まったままなんです。……殺されてしまう」
「最初から順を追って話してくれないと、分からないわよ」
和歌は頷く。
「あれは何日前かしら……。今日は何日なのか分からなくなってて」
「十五日。もう十六日になったね」
「じゃあ……五日前かしら。十日だったから。……十日の夜に、娘が兼正の奥さんを連れてきたんです」
「――兼正の」
和歌は力なく頷く。疲労困憊しているように見えた。玉恵は、休ませたほうがいいのではないかと思ったが、郁美は和歌の前に立ちはだかったままだった。
「お茶を差し上げて、その次の日から、主人の様子がおかしかったんです。妙に疲れたふうで。次の日もそうで、お医者に診せないと、と思っていたら、夜に」
和歌は身震いする。
「……夜に、知らない男の人たちが家に来て。あたしたちを縛って、荷物を運び出したんです。主人は見てるだけで……」
「運送屋?」
「ええ」と、和歌は頷く。「主人が誰かに引越すって話をしてるのが家の中からも聞こえました。あたしも子供たちも口を塞がれてて、声が出せなくて……そうして、荷物と一緒に荷台に載せられて」
玉恵は息を呑んだ。それでは、和歌たちは本当に拉致されたのだ。
「古い家に連れていかれて、閉じこめられました。酷いところで、御飯も水もろくにもらえなくて……」
「ご主人は?」
郁美は和歌の前に屈み込んだ。
「一緒でした。主人に何がどうしたの、って訊いても要領を得なくて。具合が悪かったんです。ぼうっとしてるみたいでした。熱が高くて……」
和歌は言葉を途切らせる。微かに啜り泣く声がした。
「しばらくして、主人は外に連れ出されました。ずいぶん経ってから、息子も。翌日からもしれないわ……分からない。とにかく真っ暗なところだったから」
「それきり会ってないの?」
和歌は頷き、顔を覆う。
「それで?」
「……娘と二人、ずいぶん長い間、放っておかれました。それから人が来て……兼正の若い人です。たぶん、そうだと思うんです。あたしは外に連れていかれました。真っ暗な廊下を引いていかれて、別の檻みたいなところに移されて。柱に縛り付けられました。前よりももっと酷い、本当に何もない部屋で」
「そこには、あんただけ?」
「……そうです。そこでも長いこと放っておかれて。そしたら人が入ってきたんです。それが……」
和歌は顔を覆って頭を振る。
「誰が入ってきたの?」
「信じてもらえないと思います。でも、確かなんです。あたし、分かったんですよ。娘と同級生だったから」
「誰が入ってきたの?」
「祐くんです。外場の。清水園芸の息子。本当なんです、間違いなかったわ」
玉恵は息を呑み、母親と和歌を見比べた。玉恵は清水園芸と付き合いがあったわけではない。けれども、そこの葬式に母親が乗り込んでいって一悶着あったことは、近所の者の噂話で聞いていた。
まさか、と玉恵は呟いたが、郁美は意を得たように頷いた。
「死んだ息子だね。雅司さんの孫の」
和歌は頷く。
「信じられないでしょうけど、本当に祐くんだったんです。あたし、びっくりして。そしたら――そうしたら」
「そしたら?」
和歌は涙で汚れた顔を上げた。皺くちゃになったブラウスの襟を開ける。首周りを緩めて示した。和歌の垢じみた首筋には、二つの小さな|瘢痕《はんこん》があった。
「これは……」
「噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだんです。嘘みたいでしょうけど、本当なんです。祐くんがここを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで」
玉恵は小さく声を上げて後退った。
「それって……」
馬鹿げた言葉が思い浮かんだ。本当に馬鹿げていたけれども、そうとしか思えないのが恐ろしかった。
「そう」と、郁美の声は低い。「なるほど、鬼だね。そうだったの」
「それからしばらく、ぼうっとしてました。身体が怠くて、何もする気になれなくて。でも、娘や息子のことが気になって。だんだん頭がはっきりしてきたんで、それで必死で逃げ出してきたんです。あのままあそこにいたら殺されると思って……」
「そう。よく逃げ出せたね」
和歌は頷いた。
「運が良かったんだと思います。途中で誰かが様子を見に来たとき、あんまり怠かったんで寝たふりをしてたんです。そうしたら、あたしが死にかけてるんだと思ったみたい。鍵をかけないで出ていって……」
そう、と郁美は和歌の腕を叩いた。
「そりゃあ、本当に運が良かったわ」
「でも、主人も子供たちも残されたままなんです。あたし、必死に村まで戻ってきて、でも、こんなこと、誰に言っても信じてもらえるはずがないし……」
「そうだね」
「郁美さんしかいないと思ったんです。祐くんのお葬式のとき、鬼だって言ってたんでしょう? だから、郁美さんなら信じてくれるかもしれないと思って、あたし」
郁美は頷いた。
「あんたは利口ね。その通りよ」
「お願いです、主人と子供たちを助けて」
和歌は郁美の腕に縋る。郁美は渋面を作った。
「そうしてやりたいのは山々だけど。あんたが連れていかれたのはどこ?」
わかりません、と和歌は俯き、首を振った。
「それも分からないんじゃ……」郁美は溜息をつく。「しかも、あたし一人じゃあね。村の連中はあたしたちの言うことなんて、絶対に信じちゃくれないんだから」
「あたし、証拠を持ってきました」
「証拠?」
郁美は勢い込む。和歌は間延びした動作で頷いた。
「逃げ出すとき、持って出たんです。棺書です。戒名を書いた札――」
玉恵は瞬いた。棺書は村では棺の中に納めて埋葬する。普通は埋葬した棺書など手にはいるはずがない。それがある、ということは埋葬された墓が暴かれたということだった。
「たくさんあったんです。だから、持てるだけ持って逃げ出しました。途中、神社に隠してきましたけど」
「そう。神社に隠したのは利口だったかもしれないわね。連中も、神社じゃ手出しできないだろうし」
「それがあれば、村の人も納得するんじゃないかしら。郁美さん、お願いだから手を貸してください」
郁美は頷いた。
「そうね。夜が明けたらすぐに――」
和歌は頭を振る。
「こうしている間にも、主人や子供たちが殺されようとしているのかも。だからこんな夜分に訪ねてきたんです。お願い、急いで」
でも、と郁美は口ごもる。
「郁美さんなら、あいつらが怖いなんてことないでしょう? 簡単に追い払ってしまえるわ。ましてや神社に行くんだもの。大丈夫でしょう、ねえ」
玉恵は母親と和歌を見比べた。何か、違和感のようなものを覚えた。和歌には同情するが、和歌の話には何か奇妙なところがある。だが、郁美は少しの間、考え込み、そして頷いた。
「分かったわ。案内して」
「お母さん」
玉恵は止めようとしたが、郁美は邪険に玉恵を振り返った。
「うるさいね。お黙り。お前には分からないだろうけど、これは大事なことなんだから」
「そうじゃなく……」
玉恵は言葉を継ごうとしたが、郁美はそれを許さなかった。自室に戻り、上着を取ってきて羽織る。和歌を促した。
「行きましょう。あたしがついてるから大丈夫よ」
「ありがとうございます」
和歌は拝むようにして、勝手口から外に出て行く。郁美を招くようにし、郁美もそれに続いた。
「お母さん、待って」
「あんたは家で穏和しくしてなさい。何もできないんだから」
「でも」
「誰かが来ても、入れるんじゃないわよ。いいわね」
郁美は言って、勝手口を閉める。玉恵は台所に残された。胸に不吉な予感のようなものが満ちていた。和歌の話は、どこかおかしい気がする。郁美が飛び出していったのは、過ちだという気がしてならない。
(そんなはずは……)
母親は自分よりしっかりしている。玉恵は愚図で、母親に比べてたら頭の回りも良くない。常にそう言われてきたし、自分でもそうなのだろうと思う。母親のすることに間違いがあるはずがない。――けれども。
和歌は、連れていかれたそこがどこなのか分からない、と言った。そうなのかもしれない。けれども、そこがどこだか分からないのなら、どうして村に戻ってくることができたのだろう。こんなことを信じてくれるのは郁美だけだと言う。それは確かにそうなのかもしれない。けれ゛ともその一方で証拠がある、と言い。それを使って村の者を説得してくれ、と言う。棺書があれば、できるだろう、というわけだが、そう思うなら、なぜそもそも棺書を持って、近親の親しい者のところに駆け込まないのか。
「お母さん……」
玉恵は堪らず、勝手口の外に踏み出したが、戸外には闇が満ちていた。恐ろしくて足が竦み、母親を追っていけない。近頃の夜は変だ。この村は何かがおかしい。
居ても立ってもいられず、玉恵は家の中をうろつきまわった。何度も外の様子を窺い、気まぐれに祭壇に手を合わせたりする。一時間が経ち、二時間が経った。母親が戻ってきたのは、夜明け前のことだった。
「――お母さん」
玉恵が迎えに出ると、母親は瘠せた顔を真っ青にしていた。狼狽した様子、和歌の姿は見えない。
「お母さん、和歌さんは?」
郁美は玉恵の問いに答えなかった。物も言わずに私室に戻り、そうしてそのへんを引っ掻きまわす。
「お母さんってば、どうしたの」
郁美は無言で着替えを引っぱり出し、紙袋を引っぱり出してそれに詰め込み始めた。
「お母さん?」
郁美は玉恵を振り返る。紙のように顔色がない。
「いい、今夜会ったことを誰にも言うんじゃないよ」
玉恵は頷く。
「言わないわ。でも」
「あたしはしばらく身を隠すから」
え、と言葉に詰まった玉恵から顔を逸らし、郁美は荷造りをする。少しの衣類と小物を紙袋の中に詰め込んだ。
「たいへんなものを手に入れたのよ。これを連中が知ったら、絶対にあたしをただじゃ置かないわ。あんたもよ。うかつなことを言ったら、連中があんたを狙ってくるよ。絶対に口を噤んでるのよ」
「……ええ。でも」
「ほとぼりが冷めるまで、あたしは身を隠してる。心配はないよ、すぐに連絡をするし、戻ってくるから」
「お母さん」
郁美は着替え、紙袋を提げて玄関に出る。
「いい? 絶対に今夜のことは黙っているの。誰かに聞かれたら、あたしはちょっと親戚の家に行ったとでも言ってちょうだい。余計なことを言うと、あんたも命がないからね」
玉恵はおろおろと頷いた。郁美は玄関の戸を開ける。夜明け前、辺りはまだ暗く、ただ夜空だけが曙光を忍ばせて白々とした蒼を含んでいた。
郁美はもう一度、脅すように口止めをして、そそくさと家を離れていった。その足取りは妙に縺れているように見えた。玉恵は呆然としたまま家に取り残された。身動きできずに母親の曲がっていったほうを見守っていると、遠くで微かに車のドアの閉まる音、走り出すエンジン音が聞こえた。
玉恵は胸を押さえる。妙にそこが痛い。車の音が消えると、辺りには無音が立ち込めた。母親の存在から永遠に切り離されてしまったような、そんな気がしてならなかった。
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十章
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武藤保は棺の中を見下ろして硬直した。別れのために手折った花が、どうしても指先を離れなかった。
さして広くはない座敷の中、その棺は安置されている。棺の中に横たわった顔は、格別に苦痛の色もなく穏やかで、けれども確実に何かを欠いて、隔絶された感じを与えた。
このところ姿を見かけなかった。以前は頻繁に遊びに来ていたのに。保は自分の悲しみで手一杯で、姿を見せない夏野が病みついていようとは想像してもみなかった。
(電話ぐらい、すればよかった)
どうしてるんだ、となぜ聞いてみようとしなかったのだろう。そうすればせめて見舞いにぐらいは来られたのに。
保は昨日の通夜以来、幾度となく繰り返した後悔をまたしないではいられなかった。兄を亡くして、正雄が逝って、保は気づいても良かったはずだ。永遠に側にいられる人間など、いないのだと。また、と言って別れた相手に本当にまた会えるとは限らない。今日会ったそれが、常に最後になるかもしれない、という無情な事実に、もっと早くに気づいてもよかった。
そして、これが本当に永久の別れだ。兄の徹のように――そして正雄のように、これ以後、結城夏野という存在は保の人生から消え失せる。
「……保」
姉の葵の涙交じりの声に促されて、保は白い菊の花を手放した。その痛みに、二、三歩退る。踵を返して座敷の片隅に逃げ込んだ。会葬者の姿は少なかった。越してきて間がないせいもあるだろう。不思議に、クラスメイトらしき者たちの姿も見かけなかった。そのせいで座敷には空洞が目立つ。そこに蹲った保の肩を、追いかけてきた葵が軽く叩いた。
「お寺に行けば会えるわよ。ナツは村に葬られるんだもの」
慰める口調の葵を見、保は傍らに集まった父親や広沢らの顔を見た。
「あいつ……寺で土葬されるって本当ですか」
「そうだよ」と、労るように言ったのは、広沢だった。「結城さんが、せっかく村の一員になったのだから、村に葬ってあげたいと言ってね」
そうか、と保は胸が締め付けられる気がした。
「……あいつ、最後の最後まで村を出られないんだ」
保、と葵が|窘《たしな》めるように言う。保とて、それが埋葬を決めた結城に対する批判のように聞こえることは承知していた。――でも。
「火葬にすればよかったんだ。そうすればあいつ、せめて煙になって村を離れていけたのに。姉さんだって知ってるじゃないか。夏野は本当に、村を出たがっていたんだ」
そのために黙々と準備して。なのにとうとう、出られなかった。
広沢らが、目を見交わし合った。呆然としたふうの梓の隣、喪主席に坐った結城が驚いたように顔を上げているのを見て、保は座敷を逃げ出す。その場に残っていたら、村に埋めるなんて酷いことはしないでくれ、と口走ってしまいそうだった。
「保……」
庭に出た保を葵が追いかけてくる。
「気持ちは分かるけど、駄目だよ、あんな。ナツのお父さんにしたら、良かれと思って決めたことなんだから」
「うん……分かってる」
「それにナツなら言うよ、死んだ後のことなんて知ったことじゃないって」
保はふと笑いかけ、そして泣きそうになって袖で顔を覆った。
「……うん」
懸命に涙を堪えて、何とか嗚咽を呑み込んで顔を上げると、葵のほうが蹲って顔を覆っていた。
「……あたし、もうやだよ。こんなことが、いつまで続くの」
保は頷く。本当にいつまで続くのだろう。兄を亡くして幼なじみを亡くして、夏野が死んで――そして、次は誰だろう。これで最後だとは思えなかった。きっとじきにまた誰かの訃報が入って、保は近しい存在を失う。それは両親のどちらかもしれなかったし、葵かもしれなかった。あるいは保自身かも。
「田茂の広ちゃんも、具合が悪いみたいだしなあ……」
ひとりごちると、葵が顔を上げる。
「そうなの?」
「うん。ここんとこ学校に来てないから」
葵は大きな溜息とも嗚咽ともつかないものを零した。
「……どうなってるんだろう」
ああ、と保は頷く。夏以来、死人が多いと言われてきた、それは事実だ。こんなに続けざまに人が死ぬなんて考えられない。学校で話をすると、同級生はみんな「祟られてるんじゃないのか」と言う。実際、そうなのだろうと思う。冗談ごとではなく、疫病神に祟られているのだ、この村は。それが静かに村を浸食し、人を間引いていっている。――鬼が山に引いていく。
保はふと、眉を顰めた。鬼が引く、とはこういうことだったのだ、と思う一方で、引っかかりを感じた。
「夏野……最後に会ったとき、妙なことをしてたな」
「妙なこと?」
「うん。ほら、正雄の通夜のあった日。夜に来たろ。あのときあいつ、ビデオをいっぱい借りてきててさ。それもホラーばっかり」
「……ナツが? ナツって、そんなのに興味があったっけ」
「ないと思うんだよな。あのときまで、そんな話、出たこともなかったし。それにあいつ、それを真面目に見てるって感じじゃなかったんだ。どんどん早送りしてさ。何か探すみたいに……」
そう、肝心のいかにも恐ろしげなシーンなどは、早送りしていた。夏野が執拗に見ていたのは、シーンとしては面白味のなさそうな会話の場面ばかりだった。たとえば、吸血鬼を狩る男が滔々と喋っているシーンとか。
ハッと保は目を見開いた。夏野がその日、どんなビデオを借りてきていたのかは覚えていない。けれども雑多なそれらには、ホラーという以上に顕著なひとつの傾向があった。
「あいつ……」
夏野は疑っていたのだ、と思った。これが鬼のせいなのではないかと。そして、死んだ。連続する死が鬼によるものなら、鬼に引かれていったのだ。――鬼の存在を疑っていた者は、鬼に引かれた。
「……どうしたの?」
葵が首を傾げている。保は背筋の寒いのを堪えて首を振った。
「いや、何でもない。つい考えすぎるんだ、……いろいろと」
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田茂定市は、深い息をつきながら社務所を出た。夕方から始まった世話方の寄合は、霜月神楽の相談よりも、続く死に事のほうで紛糾した。伝染病ではないのか、それも新種の未知のものではないのか、と言い出す者がいて、互いに不安をぶちまけ合うのに時間を取られた。きっとそうに違いない、と誰もが言いながら、にもかかわらず、誰もそれを本当には信じていないふうなのが奇妙だった。
ともかくも夜の十一時までをかけて、やっと出た結論は、こういう時だからこそ盛大に厳粛に祭りを執り行うべきだ、ということだった。
村で行われる里神楽は、霜月神楽と伊勢流の名を冠してはいるものの、内実は出雲流の神楽に伊勢流の|湯立《ゆだて》がつく。榊に弓、杖を持って舞う|採物《とりもの》が三演目、これに九番の神能が付いて、最後に清めの湯花を観客にも振りかけるのだが、古くは五座十二番の神事で、これに能から来た「式三番」が付いて都合、五座十三番の行事だった。村では専業の|大夫《たゆう》を呼ばない。村の者がそれぞれ伝承している。すでに消えた演目は、きちんと伝承している者がいない、ということで、中には安森誠一郎のように伝承者が最近、転居している例もあったが、うろ覚えに頼ってもいい、旧来通り五座十三番を復興しようという話になった。
(さて……こりゃあ、おおごとだ)
定市自身、五座十三番の全てを記憶していない。中には定市自身ですら、子供の頃に数度見ただけ、というものもあった。これは古老に聞けば覚えている者もいるのかもしれないが。
(そういや、婆さんが三輪と式三番を覚えてると言ってたかな)
妻からそんな話を聞いた覚えがある。神事には女は参加できない。場所によっては巫女が舞いを奉納することもあるが、外場の霜月神楽ではそれはない。女が舞いを奉納するのは大田植えのときだけだった。古い採物のひとつに「三輪」と通称される女舞があったが、これも女面をつけた男が踊って奉納する。妻によればこの「三輪」や鈴を持って舞う「式三番」を覚えている女の子は多かったらしい。おそらくは自分が踊ることはないと知りつつ、衣装も綺麗でなよやかな舞だから、憧れをもって覚えたのだろう。
(婆さんに頼むか。倅が覚えてくれりゃあ話は早いんだけどねえ)
あるいは、と考えて、定市は夜道で足を止めた。孫のどちらかが覚えてくれれば。だが、下の孫――広也はいま、病床に就いていた。敏夫の顔色から察するに、あまり状況は良くない。実際、日々悪くなるふうがあり、敏夫も国立に運んだほうがいいと言っていた。入院を、という話もあったが、当の広也が頑として嫌だと言う。
(村に蔓延している、あれ)
それが実際のところ何なのか、定市にも分からない。確かに定市自身、一次は伝染病に違いないとも思ったが、いまではそうではないのではないかと、という気分がしていた。少なくともただの伝染病ではない。だから寺と尾崎が結託して、にもかかわらず定市には何も言ってこないのだと思う。いずれ三役会議をと言っていたが、それも宙に浮いている。実際のところ、話題にできるほど、はっきりとしたことが分からないのだろう。
それでも、定市にも朧気に分かっていることがある。それは尋常ではないことで、しかも、起こったら止められない、ということだ。夏以来、溝辺町の病院に運ばれた病人は多かったが、生きて戻ってきた例はなかった。これは尾崎医院に入った場合も同様だった。安森節子は入院したらしいが死んだ。ただの一人も戻ってきてない。だから孫を病院に移す踏ん切りがつかなかった。家を出せばそれが永の別れになる、という経験則が、家族の誰をも縛っている。
定市は深い溜息をついた。孫は十七にしかならない。高校の二年生。陸上部に在籍する大柄な、心身共に健康な子供だ。にもかかわらず、倒れた。ひょっとしたらじきに、田茂でも葬式を出すことになるのかもしれなかった。定市は心のどこかでそれを覚悟している自分自身を理解してた。
もういちど、深い息を吐いて、定市は歩き出す。ちょうど村道を集落のほうに入り、上外場と門前の境に来ていた。目の前の家には明かりが点っている。夜分だというのに雨戸も引かず、前庭に光が溢れているのが、古今では物珍しかった。こんなふうに外に向けて開かれている家の様子を久々に見た、という気がした。庭先では深夜も近いというのに子供がひとり遊んでいた。その子供を見て、定市ははっと息を呑んだ。
「あんた……静ちゃんじゃないかい」
家の前の側溝に、木の葉を浮かべていた子供は顔を上げる。そういえばここは境松だ。境の松尾。息子の高志が行方不明になり、しばらくしてから高志に呼ばれたと、それだけを言い残して転出した一家。
「静ちゃん、戻ってきたんだねえ」
松尾静は立ち上がり、そして定市を見て頷く。
「他の家族は? 高志くんは――お父さんは一緒なのかい」
聞くと、静かは再び頷いた。
「お父さんと、お祖父ちゃんが一緒。でも、お祖母ちゃんとお母さんはお嫁さんだからダメだった」
定市は首を傾げた。
「お嫁さんだから、何だって?」
ううん、と静かは首を横に振る。
「父さんと祖父ちゃんだけかい。弟はどうした?」
「潤もダメだったって」
定市には、静の繰り返す「駄目」という言葉の意味が分からなかった。怪訝な思いで境松の建物を見る。煌々と明かりは点いているが、人影はない。いかにも気安げに家は開かれていながら、不穏なほど閑散としていた。
「父ちゃんと祖父ちゃんは起きてるかね」
挨拶をして事情を聞いてみようと思ったのだが、静かは頭を振った。
「出かけてる」
そうか、と思い、明日にでも出直そうと思った。なにしろ静の話では要領を得ない。
「あんまり遅くまで遊んでるんじゃないよ」
定市は声をかけ、踵を返そうとした。
「ねえ」と、静かが声をかけてきた。「お爺ちゃんのところに遊びに行ってもいい?」
定市は振り返る。
「こんな時間にかい」
こっくり頷いた静に、定市は妙な違和感を覚えていた。こんな時間に子供が一人で留守番というのは釈然としない。ましてや境松が戻ってきているのも不自然なら、家族の全員ではないらしいのも不自然だ。ましてやこの時間に遊びに、と言う静はどこかおかしい。
定市は答えに窮した。静はどこか穿つような目つきで定市を見つめ、それから首を傾げた。
「……そうか。いい」
「うん?」
「もういいの。お爺ちゃん、田茂の御隠居でしょ? お爺ちゃんちは、もういいの」
「それは――」
どういう意味か、と訊こうとしたが、静は身を翻して家の中に駆け込む。定市はぽかんとし、同時になにやら、うそ寒いものを感じて、慌てて家に戻った。
定市の家は、開け放されてはいないものの、それでもまだ明かりが点いていた。玄関を入り、真っ直ぐ茶の間に向かうと、嫁が顔を覆うようにして卓袱台に頬杖をついている。その疲れ果てた様子、落胆した様子に声をかけることができず、定市はそっと家の奥に向かった。孫の部屋にも明かりが点き、定市の妻が目を瞬いて枕許に坐っている。
「ただいま。……どうだい」
定市が声をかけると、妻のキヨは首を横に振った。横たわった孫の広也は、息が荒い。譫言のように「水」と呟き、キヨが慌てて吸い飲みをあてがった。
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重く辛い儀式が終わった、と結城は思った。寺から家に戻り、黄昏の落ちた居間に坐り込んで、ようやく息をついた。
広沢らの慰撫はありがたかったが、今は結城のほうにそれを受け止めるだけの余裕がなかった。
訃報を聞いて駆けつけてきた結城の両親は、結城を責めた。孫を自分たちの手の届かないとところに連れ去り、そこで死なせたという。死に目に会えなかったことも、両親を嘆かせた。なぜ具合を悪くしたときにすぐに医者に診せなかったのか、すぐさま知らせてはくれなかったのだ、と両親は結城を罵り、暗に梓を責めた。なぜ医者に診せなかった、と言う台詞は、両親が思っている以上に結城の胸を|刳《えぐ》った。
(なぜ……)
本当に、なぜ自分は、すぐさま医者に連絡をしなかったのだろう。連絡したところでどうなったものでもないのだと結城の理性は懸命に訴えたが、もしも医者に診せていれば助かったのではないか、という疑念からは逃れることができなかった。確かに尾崎敏夫にはどうにもできなかったかもしれない。けれどもたとえば設備の整った大学病院なら。すぐに駆けつけられる距離に住んでいれば。いや、そもそもこんな村に越してこず、都会にいたままなら、夏野が死ぬことはなかっただろう。結城自身、そう思わないではいられなかったから、それをあからさまに責める両親の言葉は聞くに耐えなかった。
梓の両親も駆けつけてきてはいたが、梓の両親と結城の両親は折り合いが良くない。そもそも梓の両親は結城すらも疎んじていて、そちらはそちらで、なぜ結城のような男についてきたのだと梓を責めていたようだった。そういう確執が葬儀の場で一気に噴き出して、それでなくても辛い葬儀が、耐え難い苦痛そのものになった。両家が牽制し合った結果、どちらも村には留まらず、早々に戻ってくれたのだけが救いだ。
やってきた人々の、これみよがしの憐愍、そして親がどうして助けてやれなかったのかと暗に責める目。田中姉弟は一言も口をきかず、葬儀の間中、遠くから結城を恨むような目で見ていた。
――子供を失った親は惨めだ。
結城はそう思い、深い溜息をついた。
そんな結城を、梓は見つめていた。ダイニングに坐り込み、悄然と俯いた結城を見ても何の感慨も湧かない。湧かない自分に違和感を感じたものの、それ以上の思念は浮かばなかった。
梓は黙って踵を返えし[#「返えし」は原文ママ]、寝室へと向かう。家の中はもの寂しく、確実にひとつの空洞を抱え込んでいた。足許が危うい。ひどく脱力しているような気がした。目眩を堪えて部屋に戻り、梓は押入から旅行鞄を引き出した。中には最小限の着替えと、申し訳程度の日用品が入っている。昨夜のうちに準備したものだ。それを検め、何か不足はないか考えた。
――通帳と印鑑、と囁く声があった。なぜ自分がそれを必要なのか、梓には思い浮かべることができなかったが、それを携行せねばならないのだ、ということは思い出した。
通帳と印鑑、カード、保険証、運転免許証。半ばよろめきながら、梓は居間に取って返し、それらを持って部屋に戻った。鞄の中に詰め込む。そして文机で手紙を書いた。別に書きたいことがあったわけではないが、手紙を書かねばならないのだ、ということは了解していた。
梓はどんよりと濁った目で便せんにペンを走らせた。文字はしっかりしていたが、梓の視線は自分が書き出した文字に焦点を結んではいなかった。
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こんな村にはいられない。
貴方にも村にも、もう我慢ができません。
さようなら。
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書いて便せんの上にペンを載せ、梓は旅行鞄を抱えた。部屋を出て夏野の部屋の間近を通るときに、理由を捉えることのできない深い悲しみが胸の中に湧き上がってきた。なぜだか悲しい。居場所がないほど。そうして家を歩み去ることは、不思議に誰かに対する憐愍のようなものに彩られていた。
そんな自分を無感動に感じ取りながら、梓は家を出た。ドアの軋む微かな音は身を切るようで、低い門扉の冷えた感触はただひたすら寒々としていた。
真っ暗な夜道を歩く。ひたひたと自分の足音は頼りなく、もの悲しい。ほんの少し歩くと、人気の絶えたあたりに一台の車が待っていた。梓は車の間近でぼんやりと足を止めた。助手席のドアが促すように開いた。
「さあ」と、ハンドルを握った辰巳に声をかけられ、梓は車に乗り込む。なぜかしら、助手席でひしと鞄を抱き締めずにいられなかった。
「用意はちゃんと?」
訊かれ、頷く。理由もないのに、涙が零れて鞄に抱き縋った手の甲を叩いた。
辰巳はそれを視野の端でとらえ、微かに笑う。特に声はかけずに車を出した。どこへ、という呟くような声は、しばらく走ってから聞こえた。
「溝辺町へ行くんですよ。息子さんの転校手続きをしないと」
ああ、と梓は呟く。そうだった。明日の昼間、届けを出すために高校に行かなくては。
(……それからどこへ?)
梓の心中の声を呼んだように、辰巳が低く笑った。
「それから息子さんの後を追うんです。……そうでしょう?」
梓は瞬き、そして頷いた。
結城は、梓が消えたことに、その翌日になってやっと気づいた。
呆然とダイニングに坐り込み、そのまま居間で泥酔して眠り、ソファで目覚めてみると、家の中は静まり返って、結城ひとりが取り残されたような気がした。それが事実そのものであったことを、結城は私室を覗いてやっと理解した。
突き放すような手紙が一枚。慌ててあちこちを見てみたが、貴重品の一切は消えていた。そういえば、と結城は思う。梓の両親は昨夜、溝辺町で一泊し、今朝早くに発つと言っていたか。どこに泊まるとも聞いていなかったが、梓を連れて帰るつもりだったのだろうと、ぼんやりと思った。
衝撃なかった。それに傷つくほどの余力は、結城には残されていなかった。
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かおりが学校から帰ると、玄関に父親の靴が出ていた。このところ残業で帰りが遅かったから、珍しいな、とかおりは思う。
「ただいま。お父さん、帰ってるの?」
台所に顔を出して、母親に訊くと、佐知子の顔は不機嫌そのものだった。
「帰ってるわよ。具合が悪いんですって」
突き放すように言って、佐知子は小芋を洗う。
「役所の人に抱えられて帰ってきたわ。そんなに具合が悪いんだったら、朝にそう言えばいいのに」
かおりは母親の頑な背中を見つめた。
父親は具合が悪い、と言っていたのだ。一昨日、病院に行って戻ってくると早々に寝付き、昨日の日曜も朝からそう言って、なかなか起きてこなかった。母親はそれで機嫌が悪かった。自分が不機嫌なものだから、父親はそうやって自分を避けているのだと思ったようだった。少しも熱なんかないじゃない、と佐知子は父親を罵っていたのだった。
「そう言えばいいのに、当てつけがましく無理をして、これ見よがしに役所の人に抱えられて帰ってくるんだから」
かおりは母親の機嫌を取り結ぼうと、何か父親のために口添えをしようとしてみたが、肝心の言葉が思い浮かばなかった。それで黙って台所を出た。
昭も帰っているようだったが、こそとも気配がしなかった。二階に上がって鞄をお気、制服を脱いでから隣の部屋を覗いてみると、昭は布団の上に寝転がっている。かおりを見て顔を上げたが、何も言わず、ふてくされたように寝返りを打った。
夏野はもういない。昨日、寺の墓地に埋葬されてしまった。かおりと昭は葬式に行ったが、夏野の父親は、かおりと昭に対して何を言うでもなかった。来てくれてありがとうでもなく、容態が変わったら知らせると言った、それを反故にしたことを詫びるでもない。徹底して問題外の存在として扱われたことが、昭を深く傷つけていた。
弟の心情は分かったので、かおりはちょっと息を吐いて昭の部屋の襖を閉めた。階段を下りて今度は父親の部屋を覗く。父親もまた展べた布団の上に横になっていたが、昭とは違って本当に具合が悪そうだった。顔色が悪く、息が荒い。枕許に坐って、試しに父親の額に手を当ててみると、熱はさほどでもないようだった。父親は薄く目を開けた。
「起こした? ごめんね。具合、どう?」
父親は何も言わなかった。微かに頷いたが、それが何を意味する素振りなのか、かおりには分からなかった。ただ、父親の手が伸びてきて、かおりの手を労るように軽く叩く。かおりはちょっと微笑んだ。
「早く元気になってね」
父親は頷き、また目を閉じた。
夕飯の用意をする間も、母親の機嫌は悪いままだった。夏野の訃報が入り、昭が夕飯の席を立ってからこちら、悪くなる一方だった。意気消沈した昭の態度を拗ねているのだと誤解したせいであり、自分が不機嫌だから、父親はたいして悪くもない具合を、さも悪そうに言って自分を避けているのだと思っているせいでもあったろう。あげくに、かおりたちが昨日、言いつけられた庭掃除をすっぽかして夏野の葬儀に行ったので、余計に拍車をかけてしまった。
おかげで、家の中の空気が重い。父親はとうとう夕飯に出てこず、昭はおざなりに手をつけただけで押し黙っていた。母親は、自分の気分を上向かせるために誰も何をする気もなさそうだと思ったのか、いっそう荒れて不機嫌だった。かおりひとりが、懸命に味のしない夕飯を掻き込み、料理を褒め、後片づけを手伝ってみたけれども、佐知子の機嫌を取り結ぶことはできなかった。
早々に寝ることにして部屋に戻ったときには、芯から疲れた気分がした。布団の中に潜り込んで明かりを消すと、風の音が耳につく。夏野は死んだのだ、と改めて思った。たぶん、恵が起き上がったことに気づいたせいで、報復を受けたのだ。
夏野に電話を貰い、それで用心していたせいか、かおりや昭を訪ねてくる者はいなかった。けれども夏野は死んだのだ。今度こそ自分たちの番かもしれない。
それを思うと恐ろしかった。それ以上に、夏野は死ぬと分かっていながら、本当に死なせてしまったことが辛かった。自分たちには何もできなかった。それが悲しい。どうにかする方法があっただろうか、かおりたちがもう少し利口に振る舞えれば、夏野を助けることができたのではないだろうか。それとも、かおりたちがどう足掻こうと、どうすることもできなかったのだろうか。――死とはそういうものなのだろうか。
いろんなものが|鬩《せめ》ぎ合って、目は冴えるばかり、布団の中で二転三転を繰り返しても少しも眠れなかった。不機嫌な母親の背中、寝付いた父親、意気消沈した弟、いろんなものが順番に浮かんでは消え、それぞれが微妙に色の違う焦りを、かおりの中に残していった。耐え難くて、いっそ起きてしまおうかと思ったときだった。
こん、と小さく鈍い音がした。
かおりは起き上がる。また音がする。それは窓のほうからで、雨戸を誰かが叩く音のような気がした。
(そんなはず、ない)
かおりの部屋は二階だ。窓の外は玄関の屋根で、足場がないわけではないし、その玄関の屋根も庭木を伝って登れないわけではないけれども(実際、昭がそうやって何度か登ってみせたことがある)、時間が時間だ。
かおりは枕許の時計に目をやる。もう午前一時が近い。
こん、とまた雨戸を叩く音がした。ひょっとして、昭だろうか。部屋を抜け出して、閉め出されてしまったのだろうか。昔は寝る前に戸締まりなどしたことがなかったが、いつの頃からだろう、母親は夜にはあちこちの鍵をかけるようになった(そういえば、自分もいつの間に雨戸を閉めるようになったのだろう……?)。ついいつもの習慣で、夜に部屋を抜け出して、それで戻れなくなってしまったのだろうか、と思う。
「……昭なの?」
かおりは起き出して窓に近づく。声をかけたとたん、音がやんだ。窓を開けようとしたときだった。
「……は死んだよ」
雨戸のすぐ外から声がした。かおりは文字通り跳び上がり、その場で息を詰めた。
押し殺した女の声だった。――女?
(違う、これは)
「聞いてる? かおり」
かおりは拳を口に当て、とっさに悲鳴を押し殺した。それは間違いなく恵の声だった。震えが立ちのぼる。歯がかたかたと鳴った。
「あんたの父親は死んだからね」
雨戸の外で、人の身動きする気配がした。
「……ざまあみろ」
かおりは短く悲鳴を上げた。耐えられなかった。慌てて明かりを手探り、点けた。部屋は何事もなかったかのようにいつものまま、なにひとつ歪んでもいないし、変わってもいない。
かおりは、その場でたたらを踏んだ。どうしていいか分からず、次の行動に迷い、そして部屋を飛び出すとまず昭の部屋に行った。明かりを点けると、昭は眠っていた。
「昭、……起きて!」
眠りは浅かったようだった。二、三度揺すると昭は不服そうな声を上げる。
「恵。――恵が」
昭が弾かれたように起きあがった。
「……なに?」
「恵がいたの。窓の外にいた。……お父さんが死んだ、って」
「そんな」
「確かに恵の声だったよ!」
昭は布団を跳ね除けた。部屋を飛び出す。かおりもそれに続き、階段を駆け下りた。両親の部屋に行くと、布団が二つ。一方には人影があるが、もう一方には人影がない。かおりは奥の風呂場のほうへ向かい、昭は向かいの座敷のほうへと向かった。かおりが洗面所を覗き込むまでもなく、昭の叫ぶ声がした。
かおりは駆け戻る。暗い座敷にはいると、縁側の障子が開き、雨戸も窓も開いているのが見て取れた。縁側に昭が蹲り、その足許に倒れた人影がある。
「父ちゃん、……父さん」
昭は父親を揺する。傾いた月の光が射し込んでいた。ずいぶんと明るいその光で、父親が薄く目を開けたまま、縁側から半身を乗り出すようにして突っ伏しているのが見て取れた。かおりも側に膝をつき、一緒になって父親を揺すった。父親はぴくりでもない。
(死んでる……)
本当に、死んでいる。
「恵、ざまあみろ、って」
かおりは昭の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「――でも、なんで!?」
昭が殴られたように目を瞠った。昭が口を開く前に、不審そうな声を上げ、母親が座敷に入ってきた。
佐知子は物音に目覚め、不機嫌の絶頂で起きあがった。こんな時間に騒いでいる子供たち。時々自分の産んだ子が、佐知子には許し難い存在に思えることがある。
布団を出て座敷に向かい、そして娘の悲鳴じみた声を聞いた。内容は聞き取れなかったが、その声音は切迫した色をしていた。それをようやく不審に思って、佐知子は夫が倒れているのを発見する。
子供たちは泣きながら、良和が死んだ、と訴えた。佐知子にも夫は死んでいるように見えたが、そんなはずはない、と思う。死んでいるわけではないだろう、けれども本当に、のっぴきならないほど容態が悪いのは確かだ。佐知子は正体不明の怒りを感じた。なぜだか、何かに手ひどく裏切られ、自分が踏みにじられたように感じた。
ともかくも、電話に駆け寄り、救急車を呼ぼうと思う。いや、夫のあの様子では、尾崎医院に連絡したほうが早いだろうか。
(死んでるはずはないわ)
けれども、きっと一刻を争うのに違いない。ともかくも誰かに少しでも早く処置をしてもらわなければ。やはり尾崎医院に電話しようと、佐知子はアドレス帳を開きながら受話器を取る。そのとき、電話台の前の壁に名刺が一枚、貼ってあるのに気づいた。
「これ、何かしら」
佐知子は、青い顔をしてついてきた子供たちに問いかけた。「江渕クリニック」と読める。かおりが小さく声を上げた。
「お医者さん。お父さんが行ってた病院だよ」
「お父さんが?」
「うん。診察券を持ってた」
では、夫がこれを貼ったのだろうか。
「だったら、そこに電話したほうがいいよ、きっと。父ちゃんのこと、分かってるはずだもん」
昭が言って、佐知子は頷いた。クリニックの電話番号の下には、御丁寧にも「緊急時の連絡先」として、電話番号がもうひとつ書いてあった。その言葉が妙に心強く思え、佐知子は電話をする。電話した相手は、すぐに出た。あまりに早くて、佐知子は何をどう伝えたらいいのか、整理できないままだった。
「あの……夜分に……その、田中といいますが」
ああ、と電話の相手は心得た声を出した。
「田中良和さんの御家族ですか? まさか、良和さんの容態に何か?」
「はい」と、佐知子は救われた思いで声を上げた。「倒れてしまって。その……」
夫の状態をどう伝えようか、佐知子は言葉を探そうとしたが、それを探し出すまでもなく、相手は「すぐに窺います」と言った。
佐知子は受話器を置く。玄関のチャイムが鳴ったのは、本当にそれからすぐのことだった。
「江渕と申しますが」その初老の男は、そう言って、佐知子に案内されるまま座敷に向かった。どうしていいのか分からず、としあえず座布団を並べたところに夫を寝かせてあったが、江渕はその枕許に膝をつき、てきぱきと体を検め始める。佐知子は子供たちを両脇に坐らせ、それを食い入るように見た。江渕はさほどの時間をかけなかった。
「残念ですが、亡くなっておられます。急性心不全ですな」
江渕は申し訳なさそうに言った。かおりが声を上げて泣き出した。呆然と見守る佐知子の目の前で、江渕は書類を出し、書き込みを始める。さらりとそれを佐知子に手渡した。夫の死亡診断書だった。
「そんな……」
まさか夫が死んだなんて。この夏以来、あちらでもこちらでも死に事が続いて、けれどもそれが本当に自分たちを襲うなんて、夢にも思っていなかった。
書類を手にして呆然とするしかない佐知子に、江渕はそうだ、ともう一通の書類を出した。
「実はですね、御主人は外場葬儀社と契約を結んでおられまして」
「外場――葬儀社?」
佐知子は激しく困惑した。そもそも葬儀社という言葉に馴染みがなく、村に葬儀社があるなんてことも知らなかった。夫がなぜそんなところと契約をしたのか理解できなかったし、ましてやそれを医者の江渕がなぜ知っているのか、どうしてわざわざ書類を見せてまでそれを佐知子に告げるのか、そもそもなぜ、江渕がそんな書類を持っているのか、何もかもが佐知子の理解を超えている。
江渕は労るように微笑った。
「外場葬儀社というのができたんですが、御存じなかったですか。いわばまあ、互助会みたいなもんなんですけど、うちが斡旋のお手伝いをしてしましてね。御主人もまさかこんなことになるとは思っておられなかったんでしょうが、契約をなさったんですよ。最初に来られた日だったかな。御覧の通りです」
佐知子は書類に目を落とした。コピーらしいそれには、確かに夫の筆跡で必要事項が書き込まれ、判が捺されている。
「まあ……どうして、こんな」
「さあ」と江渕は微笑う。「パンフレットを御覧になってましたから、気に入られたんじゃないですか」
「でも、必要ありません。弔組がありますから。……そうだわ、世話役に連絡をしないと」
佐知子が立ち上がりかけると、江渕はそうですか、と残念そうに言う。
「まあ、もちろん強制のものじゃないと思いますが。ただ、それは勿体ない話だな。たしか御主人は、契約料を払ってらっしゃったはずですが」
「契約料?」
「ええ。わたしも詳しいことは知りませんけどね。確か入金なさってしまたよ。うちで速見さん――葬儀社の社長さんとお引き合わせしたとき、お金を渡してらっしゃいましたから。葬儀社に頼まれれば、葬儀にかかる費用は一切ないはずなんですけどね。まあ、反故になさるのはご自由ですが」
「そんな……」
佐知子を捉えたのは疑念だった。この医者は何かおかしい。この契約書だって油断がならない、という感じがした。第一、きっと少なくはないだろう額面を、夫が佐知子に無断で支払えるはずがない。
そう思いはしたが、佐知子は立ち上がった。寝室に行って|抽斗《ひきだし》を探り、通帳を取り出す。中を検めてみて佐知子は驚いた。三日前、三百万の定期が一本、解約されて引き出されている。
「まさか」
佐知子は目を瞠った。こんなに、という思い。そして怒りを感じた。――なんて、勝手なことを。佐知子は座敷に取って返す。江渕の前に坐り込んだ。
「その契約、解約できないんですか」
「できなくはないと思いますが。ただ、契約内容にもよりますが、全額が返ってくることは滅多にないんじゃないですかねえ」
「そんな。これは主人がわたしに何の相談もなく勝手にやったことなのよ。葬儀社なんて必要ないんです。村には弔組があるんですから。弔組に頼めば、あんなに法外なお金はかからないし」
江渕は苦笑した。
「それは速見さんと相談してもらわないと。わたしにおっしゃられてもねえ。まあ、解約なさるんなら、早い方がいいと思いますけどね。そこに連絡先が書いてありますし、連絡されてはいかがです。――では」
江渕は立ち上がる。佐知子は江渕を送り出すと、すぐさま電話に飛びついた。佐知子を突き動かしていたのは、ただひたすら夫の勝手な振る舞いに対する怒りだった。
(あたしに一言もなく、こんな勝手な)
そんなことは許さない。
この電話にも、相手はすぐに出た。佐知子が名乗ると、すぐさま誰だか分かった様子なのも同様だった。
「解約して欲しいんです。夫が勝手にやったことですから」
「それは構いませんけど」と、欠伸まじりに男の声が言う。「その場合は、手数料だけいただきますけど、いいですかね」
手数料じたいは大した金額でもなかったので、佐知子は承知した旨を伝えた。
「じゃあ、書類を用意しますんで、御主人と一緒にいらしてください」
佐知子は一瞬、頷きかけ、それがもはや不可能であることを、改めて思い出した。
「あの……主人は亡くなりました」
そうだ、夫は死んだのだ、と今さらのように呆然とする。突然、死んで、座敷に放置されている。
「それは困ったな」と、速見は言った。「約款を御覧になれば分かると思うんですが、ご契約者が亡くなられて以後の解約はできないんです」
「――え?」
「その……そもそも、ご葬儀のための契約なんでねえ。御主人が亡くなられたのなら、解約はできませんのです。もちろん、反故にされるのは御自由ですが、その場合は、お預り金の返却はできないことになってますんで」
「そんな。これは主人が勝手に」
「しかし、御主人が契約なさったものですから。ちゃんと判子もいただいてますしねえ。ご葬儀にうちを使っていただけば、お預り金は精算して、余分はお返しするシステムになっているんですが」
そんな、ともう一度、佐知子は呟いた。言葉をなくした佐知子に、速見はシステムを説明する。ほとんどの言葉は右から左に素通りしていったが、狼狽した佐知子にも、契約を反故にすれば大損することになること、対して、葬儀社に依頼すれば損失はないことは理解できた。
「どうなさいますか?」
速見は欠伸まじりに訊いてきた。佐知子は頷いた。
「分かりました。そちらにお願いします」
そうですか、と言った速見の声は、どこか舌なめずりしそうな声音をしていた。
「では、早速、伺います」
佐知子は溜息をつき、電話を切った。居間の戸口に、かおりが立って佐知子を見ていた。どうしたの、と問いかけると、かおりは身を翻して駆け出す。二階へと駆け上がる足音が聞こえた。
佐知子は首を傾げながら、座敷に戻った。いつの間にか、布団が敷き展べられていた。寝室から運んできたのだろう、展べられた布団に夫は横たわっている。お世辞にも整然と、とは言えなかった。斜めに敷かれた布団はシーツも何もくしゃくしゃになっている。夫の身体は寝乱れたパジャマのまま横たわり、掛け布団をかけられて、そこに昭が突っ伏して泣きじゃくっていた。
佐知子は溜息をついた。
「浴衣を着せておかないと。――それとも、必要ないのかしら。手を貸してちょうだい。とにかく、ちゃんとしとかないと。布団がぐちゃぐちゃじゃないの」
「ほっとけよ!」
昭が声を上げて、佐知子は眉を顰めた。
「母ちゃんは金の心配をしてればいいじゃないか!」
佐知子はその場に棒立ちになった。
「おれとかおりで一生懸命やったんだから、これでいいんだ。父ちゃんだって、きっとこれでいいって言ってくれる。座布団の上に放り出されてるより、何倍もましだって」
昭は父親の体にしがみついた。昭だってちゃんとしてやりたかったのだ。だが、父親の体は重かった。物のように手荒く扱うこともできず、だから、かおりと一生懸命に整えようとしてもこれが精一杯だった。
「……なんなの、その言い草は」
佐知子は怒りのあまり吐き気を覚えた。
「お葬式にいくらかかると思ってるの。お父さんが死んで、これからの生活をどうするのよ。お父さんったら、勝手に定期を解約して。あれはあんたたちの将来のために――」
「うるさい! あっち行ってろよ。触るな!」
「そう。だったら好きにすればいいわ。葬儀社の人が来て、みっともないところを見られて情けない思いをするのは、お父さんなんだから」
昭の返答はない。佐知子は怒りで身震いしながら居間に戻った。そこで声を上げて泣いた。
葬儀社の速見がやってきたのは、それから幾らもしない頃のことだった。速見は若い男と二人連れでやってくると、佐知子に一通り悔やみを言った。契約書の原本と約款を示し、契約内容を説明する。
最初は投げ遣りだった佐知子は、速見の説明を聞くにつれ、その内容に悪心を感じた。
「あの……いま、なんて?」
速見は細い目をさらに細めた。速見は五十代の小男で、常に笑っているかのような細い目をしていた。それでかえって、感情を窺うことができない。
「ですから、御主人は無宗教で、という御意向でしたので、お坊さんも戒名もありませんのです」
「そんな。困ります」
「困りますと言われましても、そういうことになってますのでねえ」速見はいい、どこか楽しげに見える表情で笑う。
「いや、お気に召さないのでしたら、契約を反故にしてもらってもいいんですけどね。ええ、うちとしちゃあ、損はないですから」
佐知子は押し黙った。
「そういうわけで、特に祭壇もありません。いや、もちろん、御供養のための祭壇はそれはもう荘厳なのを用意させていただいてます。ですが、まあ普通の仏式の祭壇とはちょっと違うと申しますか」
「じゃあ、お経はないんですか? お焼香も?」
「ええ。お経の代わりに、厳粛な音楽を流させていただきますから。御焼香の代わりに参列者に献花をしていただいて、その際に個人とお別れをしていただこうという、そういうことになっておりますので」
「そう……ですか」
「御心配はいりません。決して仏式に比べて見劣りするようなもんじゃありませんから。献花の間は会場の照明を落として、こう――個人のお顔にだけスポットライトを」
佐知子は嫌悪に口を歪めた。速見は構わずに得々と続ける。
「一通り献花が終わったら御家族で棺に釘を打っていただいて、最後に棺がですね、すうっと下に下がって」
「――は?」
速見は目を細める。
「ですからね、舞台で言うすっぽん、それがありましてですね」
「あの、そんな大層なことをするんですか? うちの座敷は御覧の通り――」
「いやだなあ」と、速見は笑う。「奥さん、ちゃんと聞いてくださらないと困ります。会場はこちらではなくて、葬儀社の斎場を使っていただくんですよ」
それが契約ですので、と速見は言い添えた。
「だったら仕方ありませんけど、でも、そういう軽々しい演出は……」
「そうは言われましても、そういう契約になっておりますから。そうしていただかないと困りますんです」言って、速見は目を細める。妙に不穏な顔に見えた。「――手前どもにも段取りってものがございますのでね」
佐知子はなぜだか、ひやりとしたものを感じた。子供たちが側にいないのが、どういうわけか心細かった。
「これから、御主人を運ばせていただきますんで。――御心配なく。湯灌から御装束の用意から納棺まで、全部わたくしどもがさせていただきますので。通夜は六時からですが、斎場は開いておりますから、いからお使いいただいても結構です。御親族の控え室や仮眠をお取りいただく部屋もございますし、お着替えもそちらでしていただけます。もちろん、お泊まりいただいても結構ですが、なにしろ御葬儀が夕刻のことですので」
え、と佐知子は速見の顔を見た。速見は、にっと目を細める。
「そう申し上げませんでしたか。演出の都合がございましてね、葬儀は明日の六時からです。うちではそれをお勧めしてるんですよ。そうするとお勤めがおありの方も、列席していただけますし。こちらは土葬ということですので、墓所までは照明を用意してございます。野辺の送りに同行なさる方には、蝋燭型のライトをお持ちいただいて――」
「やめてください、そんな」
「そういう契約でございますので」
速見の顔は笑っていたが、妙に有無を言わせないものが漂っている。佐知子はまたひやりとしたものを感じ、仕方なく頷いた。
「では、御主人をお預かりさせていただきます」
速見は言って、若い助手と見える男を促した。二人は車から担架のようなものを持ち出すと、夫の体をそれに乗せ、車に運び込んだ。異常なまでに手際が良く、佐知子はろくに夫に別れを言う暇もなかった。
「――では、斎場で」
速見は慇懃に頭を下げる。
佐知子はどこか呆然とした気分で座敷に戻った。座敷には、夜明け前の白々とした空気と、抜け殻のようになった夫の夜具が残されていた。
夫はもういない。二度と家に帰ってくることはないのだ。速見らに連れ去られてしまった。
まるで夫を略奪されてしまったような気分が、不思議に佐知子にはした。
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十月十七日、その日、寺務所にかかってきた最初の電話も、やはり訃報だった。静信は予感を感じながら受話器を取った。田茂定市の沈痛な声が、田茂広也の死亡を伝えた。
「今朝方、いよいよ具合が良くなくてね。痙攣し始めたんで救急車を呼んだんですが、病院に着くまで保ちませんでした」
そうですか、と静信は相槌を打ち、定市に悔やみの言葉をかけた。
「ありがとうございます。けども、格別うちだけが不幸だってわけじゃありませんから。むしろうちは、今まで運良く死人を出さずに来ましたからね。まあ、高校生の広也じゃなく、わたしや婆さんのような年寄りなら良かったと思わないわけにはいきませんが」
抑制された声が静信を刳った。村に死が続いているからといって、自分が家族を亡くした悲しみが薄れるわけではないだろう。だが、ある種の諦観に達さざるを得ないほどの死が村に蔓延していることも確かだった。それを分かっていながら、静信は何もしていない。寺に引き籠もり、無為に時間を浪費している。
田茂広也は高校の二年生だったか。田茂の家には出入りすることが多かったから、もちろん面識がある。定市や細君のキヨに連れられて、寺に手伝いに来てくれることも多かった。溌剌とした礼儀正しい少年だった。その広也が死んだのだ、と思うと痛ましく、そんな悲劇は起こるべきではないと思えた。だが、その広也も甦生する可能性があるのだ。どんな少年だったかを知っているだけに、甦生した彼を自分が再び墓穴の中に突き落とすことは、どうあっても許されないことだと思えてならなかった。
静信は両手で顔を覆った。同時に、再び電話が鳴った。受話器を取ると、敏夫だった。敏夫は淡々と安森徳次郎の訃報を伝えた。特に責める言葉も、皮肉めいた言葉も口にしなかった。それでいっそう、罪悪感が募った。こうしている間にも、刻々と被害は増えている。これを黙って見ているのかと、敏夫が問うているような気がする。
「いま、電話が鳴りませんでしたか」
光男が寺務所に顔を出した。静信は頷いた。
「定市さんのところの広也くんと、安森の徳次郎さんが亡くなったそうです」
そうですか、と光男は諦観の滲む声で呟き、そして首を傾げた。
「若御院、こういう場合はどうなるんですかね」
「こういう場合?」
「弔組ですよ。徳次郎さんは世話役だったわけでしょう。その徳次郎さんが亡くなったわけで、普通は定市さんが助番ですよね。けれども定市さんも――」
ああ、と静信は呟いた。定市の家でも不幸があったわけだから、定市に世話役はできない。
「丸安も身内ですよね」
光男の困惑したような問いに、静信も同様に困惑しながら頷いた。序列からいえば、定市に次ぐのは製材所の安森一成だろうが、丸安製材は徳次郎の身内だ。葬儀を出す側になる。同様に田茂の身内も助番に立てない。こんなことは、静信の記憶にある限り、初めてのことだった。
「お父さんに相談してみます。徳次郎さんのことも伝えないといけないし」
「そうですね」と、光男は悄然とする。「さぞ気落ちなさるでしょうねえ。なにしろあの温厚な御院が、血相を変えて見舞いに行かれたぐらいですから」
静信は頷き、重い気分で離れへと向かった。病床の父親に声をかけ、徳次郎の逝去を報告する。ベッドの上で本を広げていた信明は静信のほうを振り返り、そして低く「そうか」とだけ呟いた。特に衝撃を受けた様子ではなく、嘆くでもなかった。やはり父親は、徳次郎に別れを告げるために、見舞いに行ったのではないか、という気がした。
「それから、定市さんのところの広也くんが。こういう場合、助番はどうなるんでしょう」
信明は考え込む様子を見せ、それから短く、竹村吾平老人に相談するように言った。静信は頷き、妙に淡々とした父親の様子に内心で首を傾げながら、こまごまとした相談をした。離れを出て、寺務所に戻ろうとしたところで血相を変えてやってくる美和子に会った。
「静信、徳次郎さんが――」
ええ、と静信は頷く。
「なんてことかしら。田茂さんのところのお孫さんも、ですって?」
「はい」
「あなた、どうするの?」
美和子に訊かれ、静信は瞬いた。
「どう――って」
美和子は青い顔で静信を近くの部屋に引き込む。
「お弔いに行くの? 行かないといけないの?」
静信は困惑した。
「行くも何も」
「それでなくても、このところ忙しいんだから、どこか近隣のお寺さんに代わってもらうわけにはいかないかしら。ほら、鶴見さんも具合が悪いようだし。あなたと池辺くんだけで、しかも二軒じゃあ、どうしようもないじゃないですか」
「ええ、ですからそれは相談して、どちらかは日をずらしてもらうしかないと、お父さんとも言っていたんですが」
「仏様に対してそれは失礼ですよ。近隣のどこかに代わってもらいなさい。そのほうがよほど筋が通ってるわ」
静信は首を傾げて美和子を見つめた。美和子は気後れしたように目を逸らす。
「別にわたしは、あなたに行ってほしくないからこんなことを言っているわけじゃないのよ。……もちろん、あなたが行かないといけないことは分かってるわ。でも」
言葉を切って、顔を覆った美和子を、静信は底冷えのする気分で見つめた。
「でも……。とうとう工務店には誰もいなくなってしまったのね。田茂さんのところも、とうとうお葬式を出すことになって。そりゃあ、徳次郎さんにも定市さんにもお世話になってます。それは分かってますよ。でも、あなたも少し休まないと」
「お母さん」
「晋山式もまだなのよ」と、美和子は泣く。「ここであなたが倒れたら、檀家さんをどうするの。万一、本山から住職を迎えるようなことになったら、わたしは」
静信は苦いものを無理にも呑み下した。
「……充分に気をつけていますから」
「でも、伝染病だっていう噂も」
「大丈夫です。本当に、充分に気をつけていますから。自分の立場は分かっています。お母さんの立場も。だから心配しないでください」
泣き崩れた美和子を宥め、静信は先に寺務所に戻る。苦く重いものが胸の中に蟠って、遣り場のないのが辛かった。
美和子を責めることはできなかった。静信に兄弟はいない。静信が生まれるまで、美和子がどれだけ肩身の狭い思いをしたかは想像がつく。今も信明が住職としての責務を果たせないこと、静信が妻を持たず、したがって跡継ぎがないことで肩身の狭い思いをしているのだろう。住職の妻は寺を内側から支えることを求められている。信明が倒れ、静信はこんなふうで、だから美和子がその役目を充分に果たせていないという負い目を抱いていることは想像に難くない。
期待を背負っているのは美和子も同じ、それは期待であって、決して圧力ではないのだが、期待に応えたいという意思があり、そうはできていない自覚があれば、無言の期待はたちまちのうちに無言の脅迫として感じられるものであることを、静信は理解していた。
だが――と美和子に落胆する自分がいる。これほどの惨状を前にして、それしか言うことはないのか、考えることはないのか、と思わないわけにはいかなかった。そう思うことが美和子にとって理不尽な振る舞いであることは理解している。分かっていながら、あなたはそんな人だったのか、と言いたい自分を自覚していた。
分かっている。静信は美和子ではない。美和子の真情は分からない。想像するしかないが、その想像の真偽を確かめる方法などない。人と人はそれほど隔絶されているのだ。美和子の立場は分かるが、そんなことを考えている場合か、と思う。だが、そう思うのは傲慢だろう。そんなことを考えている場合ではない、なのにそう考えないではいられないほど切羽詰まっている、ということなのだ。つまりは静信の美和子に対する理解が、それだけ確実に不足している。
(けれども……)
静信は自分自身すら理解し、統御することができないでいる。その自分がどうして他人を理解できるはずがあるだろう?
静信は今に至るも、自分がなぜ死を選んだのかを知らない。そればかりではなく、なぜ自分だけが誰もが躓くことのない場所で躓くのか理解できなかった。美和子や敏夫に対して親愛の情を抱いていながら、やむにやまれぬ行為をなぜ許容してやることができないのかも、分からない。
(人にとって、いちばんの謎は自分なのかもしれない)
そして、人の認識はその心の在りようを映していくらでも歪む。自分の心に潜む歪みの在処すら知らない者が、現実を正しく把握できるはずがなかった。だから敏夫も、美和子も理解することができない。理解できないという隔絶感が、自分を忿らせるのだと思う。
(きっとたぶん、……彼もそうだったんだ)
彼もまた、
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弟をなぜ殺したのかを知らなかった。分からないのは、そればかりではない。彼は弟がなぜ自分を追ってくるのか、その理由もまた知らなかった。
彼がそれを理解することができないのは、結局のところ、生前の弟をも理解していなかったからに相違なかった。実際、彼は屍鬼でない弟を克明に思い描くことがもうできなかった。
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(ぼくの現実は、歪んだ鏡に映し込まれた歪んだ認識の集積にすぎない……)
静信が「美和子」として認識する「美和子」には、静信の「こうあってほしい」という無意識の期待が映し込まれている。静信が美和子を想起するとき、
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彼が弟のことを振り返るとき、
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思い起こされる美和子は、美和子という名の幻想にすぎないのではないか。
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それはまず麻布の下に隠された起伏の形で想起された。その下には、彼の凶行によって無惨に損なわれた遺骸があったはずだが、不思議に彼はその変わり果てた姿を覚えていない。
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ひょっとしたら静信は、一度たりとも美和子本人を見たことがないのかもしれなかった。
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あるいは彼は、弟の骸から目を逸らし、一度も正視することがなかったのかもしれない。
屍鬼となった弟には損傷がなかった。ただ蒼褪めているばかり、それは起きあがった死体というよりも幽鬼そのもののようだったが、明らかに質感を伴い、荒野を住処とする悪霊たちのように存在感を欠いた幻影のようには見えなかった。
ただ、彼は自分の行為を覚えていた。涼やかな夕暮れ、彼は弟を緑野で襲った。手には鍬を持っていた。理由のない衝動に駆られての一撃、あとは自分の行為が恐ろしく、まるで弟の命を完全に絶やすことで自分の行為をも葬り去ろうとするかのように破壊を加えた。
おそらくはそうだったのだろうと思う。実を言えば、彼はその瞬間をも記憶していない。熱に浮かされたように変質し狭隘なものに感じられた自分の意識と、それを見事に塗りつぶしていた破滅的な衝動の色合いと、そして幾度かにわたる陰惨な手応えとを覚えているだけだった。
血塗られた弟の骸、それもまた漠然とした印象にすぎない。周囲の草には撒き散らされた血糊で赤錆色の|斑《ふ》ができていた。それだけを妙に生々しく鮮明に覚えている。弟の遺骸を草叢に引きずり込んだときの手応えと重み、草叢を背後に歩み去るときの妙に現実感を欠いた気分、どれもこれもがあまりにも曖昧模糊としていて、だから彼が麻布の下の起伏として覚えている弟の、その前に記憶している姿といえば、打ち掛かる凶器に気づき、驚いたように彼を振り返った像なのだった。
彼は再三再四、その像を取り出しては仔細に見つめ、振り返った弟の顔に、自分に対する増悪が、裏切りに対する怨恨が、あるいは己の運命に対する絶望が在りはしなかったかと検分してみるのだが、そのどれをも発見することができなかった。屍鬼と同じく、何の感情の色も伺えない空洞の目が、ただ驚愕に見開かれ、自分に向けられていたように思うばかりだった。そして同時に、その瞳に映った影を見て取ったかのように、不思議に彼はその瞬間の、殺意に圧倒され狂気を湛えて歪んだ自分の顔を弟の顔よりも鮮明に思い出すことになるのだった。
――なぜ。
彼は顔を歪めた男に問うたが、男はもちろん何を考えることもなかった。その口は何かを叫ぶかのように開かれてはいたものの、叫んだ声は彼の記憶から欠落している。実際のところ、彼は自分が声を発した覚えがなかった。彼はただ、叫ぶ形に口を開いて、声を発する代わりに凶器を振り下ろしたのかもしれなかった。
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(誰にとっても現実は、なにひとつ定かじゃない……)
人は昏い。
無明の闇に閉ざされて出られない。
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ベランダの外には闇より他に見るべき物もなかった。篤はその、物干し台ともベランダともつかないものの隅で空き缶を抱え込んでいる。旨くもない煙草を吸って灰を店からくすねてきたビールの缶の中に落とした。
もう覚えていない、いつからかそれが篤が煙草を吸うときのスタイルだった。夜のベランダに隠れて、ビールの空き缶の中に灰を落とす。もう二十歳は過ぎているのだから、以前そうしていたように隠れて吸う必要もないはずだが、祖母の浪江が煙草を嫌うので、いまだにこうして隠れるのが習い性になっている。
そういう自分を惨めだとも忌々しいとも思う。まるで祖母の顔色を窺っているようで気にくわない。だが、浪江は煩い。くどくどと煙草の害について説教されるのも面白くないし、果てには自分たちの健康も犠牲にするつもりかとヒステリックに喚かれるのも不快なだけだ。あけぐには父親を呼んで、反抗的だとか他人に対する思いやりがないとか、難癖めいたことを言い上げる。そうすると父親が篤を殴るという段取りになっている。
(……糞婆)
篤の人生には味わうべきものが何もない。生まれたときからずっと下り坂で、まだそれが継続中だった。このところ村で葬式が多い。見知った人間が死ぬ、あるいは出ていく。配送の顔ぶれが変わる、村の中が落ち着かない。それがどうした、と篤は思うが、父親はそれが気に入らないらしかった。世の中にはルールってものがあるんだ、と最近、しきりに零している。それが踏みにじられている、と父親は怒る。そのとばっちりを喰うのはいつでも篤だ。
村がどうしようと篤の知ったことじゃない。それが篤の父親を苛立たせ、おかげて篤がとばっちりを喰う。そうやって篤は貧乏籤ばかりを引いている。選りに選って父親の機嫌が悪いときに松村がどじを踏む。そのとばっちりが篤にまで来る。そんなときに限って母親は父親に文句を言い、祖母がまた余計なことを言う。弟と妹はそつなく立ち回り、二人に比べて、とまた篤が怒鳴られる。みんなで寄って|集《たか》って、篤に貧乏籤を押しつけている。
(どうせ死ぬんなら、そういう奴らを片づけてくれりゃあいいんだ)
父親も母親も、祖母も兄弟もいなくなれば、どんなに清清するだろう。そうしたら篤は店の有り金を持って、吐き気のするようなこの村から出て行ってやる。それを想像すると愉しかった。想像でしかないことが腹立たしかった。あり得ないことを承知の想像を思い描いているとき、その底に、さらにあり得ない望みがチラチラと見え隠れする。……いっそ、この手で片づけてやろうか。
その姿が垣間見えるとき、腹の底がぞわりと粟立つ感じがする。頭は夢想を追っていい気分で、そして腹の底で蠢く怖気のようなもの。篤はその、自分の五体が断裂するような奇妙な感覚をこそ、弄んでいるのかもしれなかった。
得体の知れない気分を味わって、夜を見るともなく見ている。ベランダの下は店の脇の路地、路地には店の倉庫が面している。そしてその路地の奥には二階に直接上がってくる裏階段があった。見るべきものは何もない。たまに野良猫が迷い込んでくるくらいだ。その野良猫も、最近、姿を見かけない。
なのにそこに音がした。女物の靴が立てる、細く硬い音だった。篤は少し身を起こし、手摺りの合間から下を覗き見た。女が一人、路地の入口に姿を現し、路地を覗き込むようにして上を仰いだ。
「……こんばんは」
女は笑った。篤よりも年上で、しかも見慣れない女だった。華やかな容姿で、どことなく勿体をつけたような物腰。村の女とは雰囲気が違う。それが誰なのか、容易に想像がついた。
「夜に人を見かけたのは、久しぶりだわ」と、その女はベランダの真下にやってきて篤を見上げた。「……何をしてるの?」
「べつに」と、篤は呟くように答える。
「この村は夜が早いのね」
「臆病者ばっかりなんだよ。夜はおっかないんだとさ」
まあ、と女は笑う。
「でも、あなたは平気なのね? 剛胆なのね」
もちろんだ、と篤は笑ってみせた。
「あなたなら下りてきて、話し相手になってもらえるかしら?」
「あたが上がってきなよ。奥に階段があるから」
「いいの?」
篤は頷く。歪んだ笑みを浮かべた。そう、篤は夜など恐れていない。夜に危険などあるはずがなかった。ましてやあの女が危険であるはずがない。対して力もなさそうな華奢な女だ。
――そうとも、危険なはずがない。
「女のほうは危険かもしれないがな」
篤は呟き、ひとりで笑った。
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月明かりが白く降っていた。木立の間の闇は青く、視界は陰鬱な明るさに満ちている。
奈緒は斜面を下る足を止め、少しの間、山と林とそして夜空を見比べた。風が吹いている。髪を揺らすほどの風だ。蒼褪めた景色はどこもかしこも秋の色を呈し、視覚はいかにも肌寒い刺激を感じ取っていたけれども、奈緒は格別、寒さを感じているわけでなかった。青い闇は、闇としての奥行きを失っている。そのように奈緒の世界も、山入の廃屋で目覚めて以来、ある種の奥行きを喪失していた。
奈緒はとぼとぼと山腹を下る。通い慣れた杣道を辿り、北山の外れに出た。途中、野犬に会い、威嚇してくる声を聞いたけれども、不思議に野犬が奈緒を襲うことはない。連中は威嚇するばかりで、決して奈緒に近づいてこようとはしなかった。
野良犬からも忌避される自分。そう、胸に呟きながら林を出ると、遠くに懐かしい家が見え、そこに明かりを見た。
奈緒は足を止める。提灯が家の前に下がっていた。陰紋の書き込まれたあれは忌中の提灯だ。――では、と奈緒は襟のあたりを握った。徳次郎が死んだのだ。
(……お義父さん)
奈緒は林の中に逃げ込んだ。――進、幹康、節子。誰一人、起き上がってこなかった。徳次郎は起き上がるだろうか。せめて徳次郎だけでも、自分の側に留まっていてくれるだろうか。
逃げるように遠ざかりながら、そうはなるまい、と奈緒はどこかで思っていた。ついに家族の誰もが起き上がらなかった。きっと徳次郎も、幹康らのいる安逸の国へ行ってしまうのだろう、自分を残して。
安森奈緒は、伯父夫婦の許で育った。実の父母は奈緒が六歳のとき、奈緒を捨ててどこかへ行ってしまった。それきり会ってない。消息はまったく分からなかった。
奈緒を引き取ってくれたのは、母方の伯父で、そして奈緒は伯父夫婦と折り合いが良くなかった。決して邪険にされたわけでも、虐待されたわけでもなかったが、奈緒は伯父夫婦が自分の親ではないことをあまりにも良く分かっていた。奈緒は両親が欲しかった。温かい家庭が欲しかった。無条件に自分を受け入れてくれ、自分の居場所となる家が欲しかった。幹康がそれを与えててくれた。
愛する息子と夫、優しかった義父母。奈緒は節子を実の母親のように思っていた。徳次郎を実の父親のように思っていた。だから、呼び寄せたかった。
(……なのに)
冷えた涙が頬を伝う。それに温度がないことを、奈緒自身、自覚しないわけにはいかなかった。
進も、幹康も、そして節子も起き上がらなかった。おそらくは、徳次郎も起き上がらないだろう。奈緒の「起き上がる」静信は、奈緒を捨てた実の父母から受け継いだ形質だ。酒に溺れ賭け事に溺れ、詐欺まがいの事件を起こし奈緒を捨てて逃げ出した、そんな男女から受け継いだ悪い種子。だからきっと、こんな生き物になってしまったのに違いない。
――奈緒ちゃんのせいじゃない。
そう言ってくれ、奈緒の存在を許してくれた幹康らには起き上がる性質がない。悪い種子を持たないのだ。だから人殺しをして生き延びるような、こんな生き物になったりしない。穏やかに目を閉じたまま、安穏としたどこかに集い、安らかに眠るのに違いない。奈緒はそこに辿り着けない。
奈緒は堪らず、手近の木の幹を叩いた。枝が手を掻き切ったけれども気にならない。こんなものは治る、いくらでも。だからこそ、奈緒には安息が訪れることがない。
(どうして)
なぜ、こんなことになったのだろう。幹を叩きながら林を抜けると、丸安の明かりが見えた。材木置き場には、まだ奈緒が暖かい血の通った人間だった夏の頃と同じく、整然と材木が積まれ、トラックやフォークリフトの轍跡が残っている。
虫の声はしない。夏草の臭いもしない。祖霊を迎える篝火もなく、集う親族の声も聞こえなかった。
(訪ねてきてください、と言ったのは、あたし)
確かに奈緒は、そう言った。男はその後、約束を違えず、奈緒の家を訪ねてきた。深夜に――一人の男を伴い。その無気力な顔をした貧相な男は、後藤田秀司といった。
(あの男――あんな奴)
あいつさえ来なければ。いや、そもそもうかつにも、自分が正志郎に声をかけたりしなければ。
(あいつの母親も起き上がらなかった)
奈緒は顔を歪めた。それだけが救いだ。秀司は母親が真実、死んだことを――他ならぬ自分が殺したことを知って、ぼろぼろになっていたのだ。慚愧と罪悪感で自分を刺すことを覚え、そこから抜け出せずに、いまや廃人同然の男。あの虚ろな汚らしい男が自分を襲った。暖かい家から、永遠に引き離してしまったのだ。
(あんな男が)
徳次郎は起き上がらない、おそらくは。奈緒の大切な家族の誰も、奈緒のような――あの男のような悪い種子は持っていないのだ。だから奈緒を置き去りにして、安穏と朽ちていく。
そんな性質を付与した父母が憎かった。正志郎が、秀司が憎い。なによりも自分が憎かった。
――そして。
奈緒は泣きながら丸安を見下ろす。寝静まった瓦屋根。
(あのとき正志郎を招いたのは、淳ちゃんだって一緒なのに)
同じなのに、同じでない。まだ温かい体をして、暖かい寝床に治まり、夫の温もりに寄り添っている。
(不公平だよ、淳ちゃん。淳ちゃんだってそう思うでしょ……?)
奈緒は離れの建物を見つめた。
(不公平で可哀想だって、思ってくれるよね?)
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十一章
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前田元子は、十八日の早朝、夫が死んでいるのを見つけた。
元子は呆然として坐り込んだ。しばらくの間、人を呼ぶことも思い浮かばなかった。ようやく誰かに知らせねばならないと、思いついたときに頭に浮かんだのは、幼なじみの顔だった。元子は夢うつつの気分で、加奈美に電話をかけた。
矢野加奈美は、電話に叩き起こされ、痛む頭を抱えて受話器を取った。昨夜は土曜、飲みに来た客につられて飲み過ぎた。胃の腑の底に不快感が蟠っている。電話の相手は元子だった。
「加奈美? あの、お父さんが変なの」
元子の声は虚脱したようで、妙に力がなかった。
「変って?」
欠伸まじりに問うと、「死んでいるみたいなんだけど」と、愕然とするような答えが返ってきた。
「何――ですって?」
「死んでるみたいなの」
元子の声には何の緊迫感もなかった。
「ちょっと、元子、冗談ならよしてよね」
「冗談じゃないと思うんだけど」
その言葉、語調に加奈美は眠気が吹き飛ぶのを感じた。元子の様子が危うい。本当に前田勇が死んだのだとしたら、この様子は異常だ、と思った。
「元子、悪いけど誰かに代わって」
「みんな寝てるわ。……お義母さんは起きてるかしら。まだよね。起きるには、まだちょっと早いもの」
「まだ誰にも知らせてないの」
そうなのよ、と元子の声は、世間話でもする調子だった。にもかかわらず、声には虚脱したように力がない。薄い氷のような冷静さ。いまにも壊れて奔流が噴き出してきそうな。
「いい? とにかく、すぐ行くわ。だから玄関を開けといて。いいわね?」
「ありがとう」元子は言って、力なく笑う。「助かったわ、あたし、どうしていいか分からなくて」
唐突に元子の声が途切れた。加奈美は受話器の向こうで、何かが軋み始めたのを感じる。
「元子! いいから。何も考えないで。すぐに行くから。いいわね」
うん、と元子の声は子供のような調子だった。加奈美は受話器を置き、すぐさま病院に電話をする。子機を抱えたまま着替えつつ、敏夫に連絡をして事情を伝える。
「なあに? 何の騒ぎなの?」
母親の妙が起きてきた。
「いいところに起きてくれたわ。悪いけど、下外場の世話役に連絡して。元子の旦那が亡くなったみたい」
まあ、と妙は絶句した。
「電話しといて。あたしは元子のところに行くから」
妙の返事を待たず、加奈美は駆けだした。顔を洗うのもそこそこに表に飛び出し、朝靄に包まれた道を小走りに急ぐ。元子の家に駆けつけると、元子は玄関の前に蹲って顔を膝に埋めていた。
「元子!」
元子は涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。
「加奈美……うちの人が」
「大丈夫よ、分かってる。大変だったわね」
「どうしよう。あたし――どうしよう」
加奈美の服を握り締めて泣きじゃくる元子の背中を撫でる。
「大丈夫よ。いま、尾崎の若先生が来てくれるわ。お義母さんは?」
元子は頭を振る。まだ起きてない、と言いたいのか、それともまだ伝えていない、と言いたいのか。
「起こして伝えないと。いいわ、あたしが」
家の中に入ろうとした加奈美を、元子が引き留めた。
「加奈美、どうしよう。勇さん、死んじゃったよ。他人になっちゃった。家に帰るくらいなら死んだほうがいい」
加奈美は眉を顰める。
「……元子?」
「あたしの子供なんだから。なのに勇さん、死んじゃったの。どうしよう、あたし」
「元子」加奈美は元子の肩を揺する。「しっかりして。大丈夫よ、あんたは心配しなくていいの。だから落ち着いて」
でも、と言いつのる元子を加奈美は強く揺すった。
「しっかりしなさい。茂樹くんと志保梨ちゃんは? 泣きやんで様子を見に行くの。いいね?」
子供の名前を出すと、元子はぴたりと泣きやんだ。頷いてみせると、ようやく元子は我に返ったように瞬く。
「ばたばたするから、二人とも起きちゃうわ。きっと心細いと思う。あんたが側についていてやらなきゃ」
元子は頷く。ようやく表情に強いものが戻った。加奈美は密かに息をつく。子供を支えることで、自分自身を維持させるのだ。今はこれしか考えつかない。
「さあ、行って」
加奈美が促すと、元子は家の中に駆け戻っていった。ようやく安堵の息をつき、加奈美は首を傾げる。元子は取り乱していたのだ。完全に言葉が脈絡を失っていた。――けれども、元子はあの言葉の断片で、何を伝えようとしていたのだろう?
首を捻りながら家に上がり込むと、姑の登美子が起きてきたところだった。
「何の騒ぎ?」
「朝早くにごめんなさい。元子から電話をもらって」
「あんた――加奈美さん。電話って」
「勇さんの様子が変だって。元子、すっかり取り乱していて」
まあ、と登美子は絶句し血相を変えた。泳ぐように廊下を奥へと向かう。部屋のひとつに飛び込み、敷き展べられた布団の枕許に膝をついて肩で息をした。
「――勇!」
加奈美はそっと登美子の肩越しに勇の顔を覗き込む。薄く開いた目、薄く開いた口、まるで臘でもかぶせたような生気のない肌。瞬くこともなく、呼吸している様子もない。確かに勇は死んでいるのだと思う。
「なんで元子さんは、あなたに連絡するんですか!」
唐突に登美子が振り返った。
「あたしに一言もなく、どうして赤の他人のあなたに」
「元子は取り乱してたんです。どうしていいか分からなかったんだわ」
「だったらあたしを呼べばいいじゃないの! あたしの息子なのよ!」
そうですね、と加奈美はとりあえず登美子を宥める。もう若先生が来ますから、とにかく今は落ち着いて、と言葉を尽くして宥める。登美子は息子を亡くした悲嘆より、それを今まで知らされなかった怒りで顔を紅潮させていた。いまにも元子を責めるために二階に駆け上がっていきそうで、それを押さえるのに四苦八苦していたから、玄関から敏夫の声が聞こえたときには救われた気分だった。
勇と登美子を敏夫に任せ、加奈美は二階へと上がる。子供部屋を覗き込むと、元子は子供たちの枕許に坐っていた。二人ともよく眠っている。
「若先生、来たよ」
加奈美が声をかけると、元子は振り返り、頷く。志保梨の布団を直して、子供部屋を出てきた。
「少しは落ち着いた?」
元子は涙を拭って頷く。
「ごめんなさい。すっかり動転しちゃって……」
「無理もないわよ」
元子は深い息をついた。
「二人に何て言って伝えたらいいのかしら」
「そうね……」
「お義母さん、起きたかしら」
うん、と頷いて加奈美は階段のいちばん上に腰を下ろす。
「あたしから伝えといた。お義母さんもすっかり動転しちゃったみたい。後で何か言われるかもしれないけど、気にしちゃだめよ。あんたも狼狽してたんだし、お義母さんも狼狽してるんだから。事が事だもの、平穏にはいかないわ。何かとね」
「そうね……」
元子も息を吐いて、加奈美の横に腰を下ろした。
「勇さん、具合が悪かったの?」
「そうなの。でも、うちの人もお義母さんも病院は嫌いだから……。若先生にお願いしてきてもらったんだけど、それきり病院に行かないで」
「そう……」
またか、と加奈美は思った。舅の巌の場合と大同小異だ。
「ねえ、加奈美。最近、変な噂があるのを知ってる?」
「うん?」
元子は真剣な顔で声を低めた。
「伝染病が流行ってるって」
「ああ……それ。そうね、そういうふうに言う人もいるわね」
「本当なのかしら。まさか……ねえ。うちの人、お義父さんから移ったんじゃ」
「元子」
「だったら、ひょっとしたら子供たちも」
「元子、大丈夫よ」加奈美は元子の手を握った。「大丈夫だって信じなきゃ。……本当はあたしにもなんとも言えない。噂があるのは本当だし、確かに伝染病だと考えないとおかしいぐらい人が死んでる。でも、伝染病なら気をつければ予防できるわ。ちゃんと気をつけてあげて。そうして、気をつけていれば大丈夫だって信じるの」
「だって、そんな……」
「他に方法はないでしょ? あんたが不安になって取り乱したら、茂樹くんと志保梨ちゃんが傷つくのよ。だからそう信じて。しっかりやることをやって、子供にも大丈夫って身をもって示してやらないと」
そうね、と元子は目を伏せた。少しの間、加奈美の手を握って考え込み、ややあって顔を上げる。
「ねえ……村で妙なことが続くのって、兼正が越してきてからよね?」
「違うわ」加奈美は言葉に力を込めた。「兼正が越してきたのは、山入の人たちが死んだ後よ。後藤田の秀司さんが死んだ後。だから余所者は関係ないの」
「でも、兼正の人たち、具合が悪いって聞いたわ。何でも、持病があって」
「それも関係ないわ。あの人たちの病気は移らないの。もしろ、他人から病気を移されやすいのよ」
「でも」
「免疫っていうのかしら。それに異常があるんですって。だから他人の病気が移りやすいし、移ると大変なことになるの。村で伝染病が流行ってるみたいだから、兼正の旦那さんはすごく心配してるみたいよ。向こうのほうが、移されるんじゃないかって怯えてるの。だから逆なの。違うのよ」
「……そうなの?」
加奈美は頷いた。店に来る客から聞いた話をかいつまんで聞かせた。水口の伊藤郁美が兼正に押しかけた顛末。
「まあ……」
「旦那さんは、かんかんだったみたいよ。郁美さんが奥さんと娘さんを出せって言ったら、村の人には会わせられないって。病気が移ると、おおごとだから」
「そう……」
元子は息を吐いた。ようやく、身内でざわめいていたものが、落ち着いてきたのを感じた。感謝を込め、元子は加奈美の手を握る。加奈美は微笑んで元子の手を叩き立ち上がる。階段を降りていった。
元子はそれを見送り、坐っていた。夫が死んだのだ、という認識が動かし難い事実として胸の中に湧き上がってきた。元子は残されてしまった。だからあれほど、病院に行ってくれと頼んだのに。
「……鬼」
巌が死んで、勇が死んで。本当に巌が勇を引いていったようだ。村に続く死者。伝説のように、死を広げていく何か。
(……まさかね)
本当に鬼だなんてことはあるまい。
(けれど……)
元子はふと宙を見据えた。村を跳梁している何か。それは村人を容赦なく引いていく。ひれは村の外からやってくる。樅の林、墓所から。村に侵入し――いつか元子から子供を奪っていくのかもしれない。
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「また亡くなったの?」
清美はコーヒーを淹れる手を止めて渋面を作った。律子は頷く。
「で、誰?」
「前田勇さんっていう人。下外場の人なんだそうですけど」
「知らないわ。でも、いつだったか、前田って人が亡くなったわよね。先生が看取ってる。その縁続きかしら」
「さあ。……先生も大変ですよね。それでなくても奥さんが大変なのに」
「そうねえ。本音を言うと、他人の往診なんてしてる場合じゃないんだろうけどね。若奥さん、どうだって?」
「変わりはないみたいですよ。何とか引き延ばしてるってところじゃないですか。すごく難しい顔をしてましたもん」
清美は息を吐いた。
「何しろ、分かったのが倒れてからだもんね。例の病気にしちゃ、よく保ってるわよ。先生が意地で保たせてるんだろうけど」
「そうですね」
律子が頷いたとき、井崎聡子が入ってきた。
「あら、おはよう」
声をかけた清美に、聡子は「おはようございます」と返して休憩室を見渡す。
「あの……雪ちゃん、来てます?」
「いいえ。どうしたの?」
「雪ちゃん、昨日、お休みだったじゃないですか」
ああ、と律子は頷いた。とりあえず律子らは交代で何とか二週に一度の休みを取っている。昨日は雪の休みになっていた。
「久々に実家に戻ってくるって、一昨日の夜、出かけたんですけど。ゆうべ、とうとう戻ってこなかったんです。それで実家から直接、出勤することにしたのかなと思ったんですけど」
律子は、清美らと顔を見合わせた。
「まだ来てないわ。連絡も来てないし。でも、ゆうべ戻ってないなら、直接出勤してくるつもりなんでしょ?」
「だと思うんですけど……」
聡子はどことなく不安げで、律子もまた曖昧模糊とした不安を感じないではいられなかった。ミーティングの時間になった。やはり雪は現れなかった。家に戻って里心がついたのかしらね」と清美は笑ったが、その笑顔は、やはりどこか強張っていた。いよいよ受け付け開始時間になり、それでも雪の姿は見えなかった。聡子がたまりかねたように、雪の実家に電話をかけた。
聡子の電話に出たのは、雪の母親だった。聡子が雪の所在を問うと、母親のほうが驚いた声を出した。
「あの……雪はそちらに戻りましたけど」
「そんな。戻ってきてないんです。病院にもまだ来てませんし」
「馬鹿な。だって、あの子はゆうべ――ええ、十時過ぎだったかしら。明日も仕事だから帰るって言って家を出たんですよ」
聡子は血の気が引くのを感じた。雪の家から外場までは通勤できる範囲内だ。なのにまだ着いてないなんてことはあり得ない。何かあったのだ、間違いなく。
「雪ちゃん、どうしたって?」
聡子が受話器を置くと同時に、律子が不安そうな顔で聞いてきた。聡子は首を横に振った。自分でも、自分が震えているのが分かった。
「ゆうべ、家を出たって。何かあったんだわ。どうしよう、律子さん」
律子の顔からも血の気が引いていった。その脇で会話を聞いていた清美たちの表情も強張っている。
「まさか事故……?」
「分かりません。とにかく親御さんが心当たりを当たってみるって。それでも見つからなかったら、警察に届けを出すそうです」
「まあ……」
律子は軽く両手で自分の腕を抱いた。とても寒々しく心細い。不安で恐ろしくてたまらない。
そうしているところに、ようやく敏夫が二階から降りてきた。受付開始時間をすでに十五分も過ぎている。
「あ、先生」
聡子が勢い込んで敏夫に駆け寄った。敏夫に事情を告げる。
「どうしましょう、先生。もしも雪ちゃんに何かあったんだったら……」
ああ、と敏夫は頷いたが、完全に上の空だった。聡子は鼻白んだ。言葉に窮した聡子を置いて、敏夫は診察室に入っていく。
「そんな……先生、冷たい」
軽く肩を叩かれた。やすよだった。
「まあ、先生も人の子だから。奥さんが危篤と言ってもいいような状態なんだし……」
「でも、雪ちゃんだって、これまでずっと勤めてきたんですよ? その雪ちゃんが行方不明になったっていうのに、そうか、って。そんな受け答えってありですか?」
「奥さんのことで頭がいっぱいなのよ。そもそも疲れてもいるんだし。聡ちゃんが腹が立つのは分かるけど、そこんとこは大目に見てあげないと」
「……そうですけど」
聡子は釈然としたふうではなかったし、そう言って慰めた、やすよ自身も釈然としていなかった。「冷たい」という聡子の言葉は不当ではない。いくら疲労困憊しているにしても、スタッフが行方不明になったというのに、あの対応はないだろう。
「疲れてるんだと思うわ」言ったのは、律子だった。「先生も、もう限界なんだろうと思うもの」
「ええ……そうですね」
聡子は低く言って口を噤んだ。看護婦たちも全員、それ以上の言葉を見つけられなかった。
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前田勇の訃報は、勤め先であるJAにももたらされた。
清水はそれを聞いて、まただ、と息の詰まる思いをする。実をいえば清水はこのところ、不信感のようなものに絡め取られて喘いでいた。それは些細な事柄が発する、何かがおかしいという漠然とした不安の積み重ね、違和感の積み重ねによるものだった。
たとえば、と電卓を叩く手を止め、清水は夜の職場を見渡した。外場JA信用事業部。一見して小さな銀行や信用金庫の支店と何の違いもない。夜も九時になろうかというのに、ぽつぽつと職員が残っているが、閑散とした印象は免れなかった。
村には金融機関の支店がない。存在するのはこのJAと、特定郵便局の二つだけだった。世帯のほとんどは郵便局に口座を持ち、農林業従事者のほとんどがJAに口座を持つ。農林組合員はJAに口座を持たざるを得ない。しかしながら、実際に使用するには郵便局のほうが何かと便利だ。それで双方に口座を持ち、預金を分配することが当たり前のように行われているが、最近になって、それが随所で滞り始めている感触があった。
ある者は、JAの口座に振り込まれる販売事業部からの入金を、いったんそっくり郵便局の口座に移し、融資の返済金や共済掛け金など、口座から引き落とされる必要額を月ごとに入金する。ところがその月々の入金が滞っているのだろう、引き落とせないことがある。どれも小口だが、明らかに増えていた。一切の入出金が止まって凍った口座も少なくない。特に、農協に所属せず口座だけを持つ、準組合員にそれが多かった。――これ自体は些細なことだ。別段、信用事業に支障を来すほどのことはない。
あるいはこういうこともある。JAは信用事業部の営業所だが、共済事業の窓口もここにある。共済事業部の職員は、頻繁に組合員・非組合員の家庭を巡って保険を売るし、場合によっては掛け金の集金もする。ところが、この夏以来、転出者が増えていた。訪ねていっても人がいない、掛け金の支払いが滞って宙に浮く。事前にも事後にも何の連絡もない。三名の外交員たちは音を上げている。――これだってやはり、些細なことになるのかもしれなかった。
職員が減っている。これもまた特筆するほどのことではないのかもしれない。所長が辞めた。他にも辞職した職員がいる。辞職せず、突然出てこなくなって職員が一人。補充はされているものの、いまや半数が新規雇用の職員で、仕事の能率は著しく下がっている。おかげで、こんな時間まで清水は残業させられる羽目になっていた。
残業が多いだけではない、あちこちに齟齬があって、それを何とか塗り隠すための煩雑な手間が多い。外場JAは、これらの小さな不具合を外部に悟られることを望んでいない。これが漏れれば外部から煩い介入がある。それを忌避する体質がもともとあって、齟齬が全て小さなものであるだけに、なんとか内部で処理しようと誰もが躍起になっていた。
そして死。――夏以来、村では死に事が続いている。清水の娘八月の半ばに死んだ。それ以外にも、どこの誰それが死んだという噂には事欠かない。こんなに人が死ぬものだろうか、という清水の疑問は、残暑の厳しい頃には笑いと同情を持って受け止められた。同僚の誰もが、清水は娘を亡くしたせいで、神経質になっているのだと、そう思っているようだった。だが、本格的な秋になると、同僚からは笑みが消えていった。笑みだけではない、同情の色も。
被害妄想じみている、と清水は自分でも思う。しかしながら、清水はこのところ、自分が孤立している、という感触を抱いていた。十月の初め、模様替えがあった。単に机の配置を変えただけだが、その際、清水の机は壁際の隅のほうに移された。他の職員との接触が減った。お茶を淹れてくれる女事務員は、清水の湯飲みだけを他の湯飲みと分けて扱う。湯沸かし室や洗面所にいつの間にか置かれた消毒薬、清水が何かを手渡そうとしても、相手は手を出してそれを受け取ることを躊躇う。
ちょうどその頃だったと思う。職員の間で、「伝染病」という言葉がやりとりされるようになったのは。近頃では、これに「新種の」という修飾語がつく。そして、それが誰かの口に上がると、職員たちは一様に清水から視線を逸らし、口を噤む。
忌避されている、と清水は感じていた。娘を亡くした。だから清水は汚染されている。おそらくはそう思われているのだろうと感じる。
こまごまとした違和感の蓄積、語句小さな不快感、齟齬、奇妙な印象を与える出来事。それらは積み重なり、清水と彼を取り巻く人と世界の間に、目に見えない障壁を築いていた。外界に裏切られ、疎外され、拒まれている感じ。何もかもが信用できない。所属しているという安堵感を剥奪され、清水は寄る辺を失っている。
(だが……なぜ?)
清水は娘を失っただけだ。高校一年にしかならない娘が突然奪い去られ、家の中には空洞ができた。清水は自分を被害者だと思っている。悲劇と災厄に魅入られたのは自分だと。にもかかわらず、周囲は清水を加害者のように扱う。なぜ、娘を失った上、こんな扱いを受けなければならないのか。
この夏、何かが狂った。清水はそう思わずにいられなかった。この村はどこかおかしい。伝染病だという声もあったが、清水はそれを信じていなかった。娘が伝染病で死んだのなら、どうして清水は無事なのだろう。妻も父親も無事だ。何の不具合もない。医者だって何も言ってこない。
同時に、伝染病だとしか言いようのない事態は理解している。確かに死が続きすぎる。娘を実際に失っているために、死の連続に対して清水が抱いている危機感は、周囲の人間よりもずっと深かった。連続する突然死、それは拡大しているように見える。このままでいけば、村は死滅するのではないのか。
夏以来、村はおかしい。
(兼正……)
そう、あの屋敷に転入者が来て以来。夜中に越してきた転入者、異常な家、恵は死の前、兼正に向かう坂を登っていった。
清水は自分の疑惑に理がないことを承知していた。にもかかわらず、日に日にそれは膨れ上がり、確信へと成長していく。
自分に降りかかっている苦痛、全ては兼正の連中に所以がある。転入者のせいで自分が苦況に置かれているという感触から、どうしても抜け出すことができなかった。
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田中良和の葬儀に参列した人々は、いちように「妙な葬式だ」と言い、あるいはそう言いたげな表情を露わにした。喪主の席に坐った佐知子は、その視線に苛立たざるを得なかった。子供たちは依然として佐知子に対して屈託がある様子で、それもまた佐知子を苛立たせた。
速見が言っていたように、夫を納めた棺は釘を打たれると斎場の床に沈み、そして別の戸口から運び出された。そういう|外連味《けれんみ》の強い演出も不快なら、陽の落ちた道を歩き、滅多に訪ねることのない墓所に登るのも、また不快だった。
参列者の好奇の目から解放され、佐知子は家に戻って息をつく。酷い目にあった、という気がした。けれども、これは始まりで、終わりではない。これから佐知子は二人の子供を――反抗的な子供を抱えて生きていかなければならないのだ。佐知子の実家は村内にあったが、今はもう家族はいない。年老いた母がいたけれども、都会に行った兄夫婦が手許に呼び寄せていた。家にいるのは遠縁の家族で頼りにできるはずもないし、仕事だ何だと言ってそそくさと佐知子を残して帰っていった兄夫婦のことを思えば、兄夫婦を頼りにできるはずがないことは明らかだった。母親だけは心配するように佐知子を見ていたが、兄に引っ張られて帰っていった。母親も佐知子を助けてはくれないだろう。兄夫婦から小遣いをもらい年金で暮らしている有様だから、金銭的にも宛にならなかった。孤立が胸に滲みた。佐知子はそれが、夫の裏切りのように思えてならなかった。
かおりは母親が荒れた様子で寝に行くのを見送った。
(お父さんは、ずっと具合が悪いって言っていたのに)
最後の最後まで労られることのなかった父親が可哀想だ。父親がひどく理不尽な扱いを受けたような気がしてならなかったけれども、実をいえば、それは父親の死因にひとつの疑問がまとわりついているからなのかもしれない。
(……恵の声)
間違いなく、恵の声だった。恵は父親の死を宣告した。それで様子を見に行ってみると、本当に父親は死んでいて――。
かおりは茶の間に坐って、体を震わせた。部屋に戻るのが怖かった。昨夜は親戚と一緒に斎場に泊まったから、怖いことを忘れていられた。けれども、今夜はもう一人だ。
(昭の部屋に泊めてもらおう)
そう思い、部屋を訪ねると、昭は例によって布団の上でぼんやりしている。
「ねえ、昭、こっちに寝ていい?」
利くと頷く。それでかおりは、昭の布団の隣に自分の夜具を運んできて並べた。寝支度をして、そこに潜り込んだところで、ようやく昭が口を開いた。
「なあ、かおり。これからどうする?」
「どうする、って。何が?」
「あいつら」
かおりは震えた。
「どうしようもないじゃない。あたしたちには、どうにもできないもん。結城さんももういないし……」
「でも、恵が父ちゃんを殺したんだ」
「やめてよ」かおりは布団の上に起き上がる。「そういう言い方、しないで」
「本当のことだろ。恵がやったんだ。きっとおれたちが余計なことに気づいたから。兄ちゃんが襲われたみたいに、父ちゃんが襲われたんだ。このまま放っておくのかよ」
「そうするしかないじゃない。触っちゃいけなかったんだよ。余計なことをしたから結城さんもお父さんも」
かおりは、言葉に詰まった。「死んだ」とか「殺された」とか、そういう単語は口にしたくもなかった。
「あたしたち、まだ子供なんだもの。何もできないんだから、しょうがないじゃない」
昭は、かおりをねめつけた。
「でも、大人は誰も分かってないんじゃないか。おれたちがどうにかしなかったら、どうにもなるはずがないだろ」
「だって」
「兄ちゃん殺されて、父ちゃん殺されて、それでこのまま放っとくのかよ」
昭を捕らえていたのは怒りだった。誰も何が重要なのか分かってない。重要なことほど理解してくれないのが大人だ。
「何とかしなきゃ、どんどん人が襲われていくんだ」
「じゃあ、あんた一人で結城さんのお墓に行けばいいんだわ。結城さんに杭を打てばいいのよ!」
かおりは叫んで、布団の中に潜り込んだ。昭は硬直した。
「そんなこと……」
できるはずがないじゃないか、という言葉を、昭は呑み込んだ。そう、夏野だって起き上がるかもしれないのだ。そうして犠牲者を襲っていくのかも。
(まさか)
昭は反射的に思ったが、夏野が起き上がるはずがない、という台詞にも、夏野が人を襲うなんてことをするはずがない、という台詞にも、意味がないことは明らかだった。夏野なら、やるべきだと言ったのじゃないか、という気が、昭にはした。昭は夏野を深く知るわけではないが、何が重要なのか、夏野はちゃんと分かっていた、という気がしていた。何が大事なことなのか心得ていて、怖じ気づいたり迷ったりせずに行動できる。昭がいつも、不甲斐なく直前で引き返すのとは違って。
――そう、夏野は本橋鶴子にも杭を打とうとしていた。水際で食い止めなければならない、と言っていた。ここに夏野がいれば、夏野にも杭を打つべきだと言っただろう。いや、それとももう遅いだろうか。夏野が埋葬されたのは日曜日のことだ。もう二日が経っている。
(兄ちゃんだって、そうしてくれって思ってる……)
夏野なら、起き上がることを望んでなんかいないはずだ。恵のような化け物になって、犠牲者を襲うことなんか望んでない。
それを防ぐためには、夏野の墓を暴くしかない。暴いて、棺を掘り出して、杭を打つ。
昭の脳裏に、いつか恵の――そして本橋鶴子の墓を暴いていたときのことが甦った。自分ひとりで、あれだけの作業ができるだろうか。墓まで行って逃げ帰ってくるのが精精なのじゃないだろうか。もう同行してくれる夏野はいないのだから。
(こないだみたいに、また変な奴が現れたら……?)
本橋鶴子の墓で襲われたとき、昭は動くことができなかった。かおりが危ないと思ったのに。
たとえ、誰も現れなくても。なんとか勇気を鼓舞して墓を掘り起こし、棺を開けることができたとしても、夏野に――自分の知り合いに杭を打つなんてことは、どう考えても、できそうになかった。
夏野は昭より、何倍も剛胆に見えた。けれどもその夏野でさえ、墓で襲われた翌日に会ったときに「怖い」と言っていた。
このことだったんだ、と昭は思った。自分が他人に、あるいは知り合いに杭を打つこと。そうやって、相手を損なうこと。夏野に対してそれはできない。――ましてや父親に対しても。
そう、夏野に起き上がる可能性があるように、もちろん父親にだって起き上がる可能性はあるのだ。今日の夕刻、すでに真っ暗になった中で、埋葬された父親。今なら、まだ間に合う。たとえ夏野がすでに起き上がっていたとしても、父親ならば、まだ。
昭は身を竦めた。
そんなことが、できるはずがない。
(でも、だったら、どうしたらいいんだよ、おれたちは)
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光男は座敷の掃除をしていて、短いブザー音を聞いた。あれは信明が人を呼んでいる音だ、と慌てて離れへと駆けつける。
「御院、どうしました」
病床の住職は、光男に頷き、枕許の棚を示した。そこには白い封筒が一通、載せられている。
「これを、出しといて、くれんかね」
一句一句、区切るように言われ、光男は頷く。きちんと封をした封書を取り上げた。表書きはない。手紙はワープロを使えば書けるが、表書きまでは信明の手には余るのだ。
「どちらにお出ししときますか」
光男が訊くと、信明は兼正、と答えた。
「ああ、はいはい」
光男は了解して頷いたが、信明は違う、というように手を振る。
「兼正の、屋敷のほうだ」
「何と、言ったか。越してきたほうだ」
光男は瞬いた。それは兼正の跡地に越してきた、あの転入者のことを言っているのだろうか。
「桐敷さんですか? 溝辺の兼正じゃなく?」
信明は頷く。光男は「何でまた」と、思わず口にしたが、信明は答えなかった。
「頼むよ、光男くん」
はあ、と光男は呟いた。何度も首を捻りながら寺務所に戻り、表書きをした。主人は桐敷正志郎といったか。とりあえずそれを投函に行き、戻ると法事から静信が戻っていた。
「ああ、お帰りなさい。ねえ、若御院」光男は手紙の件を静信に報告した。「いったい、何の御用なんでしょうね」
静信は首を傾げた。兼正ならともかく、桐敷家に信明が手紙を出す理由が思いつかなかった。静信はついでの用の際、信明にこれを尋ねてみた。信明は「単なる挨拶状だ」と、答えた。
「挨拶――ですか?」
信明は頷く。それ以上は何も言わなかった。単なる挨拶状とも思えない。そもそもそんなものを出す必要はないし、単なる挨拶状にしては、信明の様子がどこか重々しく、気になった。
離れから寺務所へと戻りかけ、静信はまさか、と思う。信明はひょっとしたら事態を把握しているのだろうか。そういえば、安森徳次郎の見舞いに行ったとき、妙に何かを得心した様子だった。昨日、徳次郎の訃報を伝えたときにも様子がおかしかった。必要以上に淡々としているように思われたのだ。ひょっとしたら信明は、見舞いに行くと言った時点で、徳次郎の余命が尽きていることを理解していたのかもしれない。桐敷家が全ての元凶だと気づいている、ということはあるだろうか。そして静信が何ひとつできないでいるのに苛立ち、自ら何らかの手を打つ気になったということは?
(まさか……)
静信は苦笑して首を振った。いくらなんでも、病床に寝たきりの信明がこの異常な真相に気づくということはないだろう。分かってるのではないか、だから行動を起こしたのではないかと疑うのは、間違いなく静信が何もしていない自分に自己嫌悪を感じているからだ。誰かに責められ糾弾される気がする。そうされそうな後ろめたさがある。
だが、手の不自由な信明がわざわざ手紙を書いた以上、それが単なる挨拶状ではないことは想像がついた。真相に気づいていてもいなくても、信明には何か目的があって、桐敷家にわざわざ手紙を書く気になったのだ。
病床の父親でさえ、何かをする気になっている。そして苦労して手紙を書いた。にもかかわらず、静信は寺に逃げ込んで自分の処し方を決めかねている。そういう自分が不甲斐なく許せないのに、どうすればいいのか分からない。屍鬼が「いなくなる」ことは望むところだが、それは「いなくする」ことと決して同義ではなかった。 静信は鬱々として聖堂に向かった。昼間のこの時間では、誰がいるはずもないことは分かっていた。たとえ夜であっても、もう静信以外の者がここを訪れることはないだろう。静信は、ぼんやりとベンチに身体を預け、横になる。
天井は高く、空疎だった。そこに何を思い描こうとしても、それは有意義な形を得ることができなかった。
(ぼくは何者なのだろう)
そして、荒野に放逐された彼は?
丘は楽園だったのか、それともそもそも流刑地だったのだろうか。かれは無辜の民だったのか、それとももとより罪人だったのか。彼は何を思い、弟を殺傷したのか。
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その惨劇の日、果たして自分に何が起こったのだろう、と彼は思わざるを得ない。
それは豊穣の秋、美しくよく晴れた日のことで、この頃、丘に住む者たちはその年の実りを感謝し、神への捧げものを携えて神殿に向かうことになっていた。彼もまた、弟とともに神殿に向こうことになったのだった。
よく肥えた羊の初子が一頭、それが慣習によって定められた献げ物だった。彼はその日弟に声をかけ、羊の中からそれを譲ってもらおうとしたが、少しの間、考えてやめた。
羊を飼うのは弟の生業であって、彼の生業ではなかった。彼は地を耕し、そこに穀物の種を撒いて生きている。種を根付かせ、穀物を育てるのは大地の恵み、そうやって得た収穫こそが、髪が彼に施してくれる恩寵だった。
弟に羊を譲ってもらい、それを捧げるのも違うし、自分が育てた穀物でもって羊を購うのも違うと思えた。彼は神の恩寵によって生きている。だからこそ、その恩寵に報いるのには、彼自身が神との関係において得た最善のものでなければならないと彼は判断した。
神によって恵まれ、神の介助によって得た彼の糧。それを感謝をもって神に返そうと彼は決意し、初子一頭分に相当するよりもなお多い穀物の袋を用意した。
弟は最初、彼が羊を連れるのではなく、穀物の袋を抱えているのを見て不思議そうにしたが、彼が意図を語ると、目を細めて頷いた。それで彼は弟と、献げ物を持って街に向かったのだった。
だがしかし、神殿の賢者は眉を顰めた。
供物は羊の初子と定められている。
彼は彼の判断について申し述べたが、賢者はそれを理解しなかった。弟が口添えした。
兄は兄の信仰において、最善のものを神に献じようとしている。信仰とは神と兄の間に交わされる神聖な契約であって、兄と神殿の間に交わされるものではあるまい。神殿の取り決めはひとつの目安であり、兄の用意したものは羊よりも高価だ。
賢者は弟の理性を褒め、彼と弟の献げ物を持って神殿に入った。塔の頂上の祭壇には、二つの供物が並べられた。
そして彼の供物は振り返られなかった。賢者は徐に、神が彼の判断を喜ばなかったことを伝えた。
神との契約は信仰の証の羊が一頭、何故それを惜しむのだ。
惜しんだわけではない。むしろ羊一頭に相当するよりも多くを彼は捧げた。彼は訴えたが、彼の真意は理解されなかった。
彼はうなだれて神殿を出た。
神は何故、彼の真意と信仰を拒むのか。
途中、店先を覗き、新しい鍬を求めたが、これは単に彼の鍬が傷んでいるせいに他ならず、少なくとも代価を支払った時点で、彼は特に凶器を求めたつもりはなかった。
真新しい鍬を杖突くようにして街道を歩いた。彼はその間、ずっと黙して、彼と周囲との不調和について考えていた。神さえ彼の心情を理解してはくれない。ならば他の誰が彼を理解できるだろう。それほどまでに彼の言動は周囲の理解を拒む。救いがたく隔絶している。
鬱々と森を抜け、緑野に出た。彼の愛してやまないその緑の地を見たとたん、意味のない衝動がおしよせた。
彼は叫びたかった。――何を、なのか彼自身にも分からなかった。叫ぶ言葉を持たなかったので、代わりに鍬を振り上げた。
そして弟めがけて振り下ろしたのだ。
弟は彼を振り返った。振り返って立ち止まり、一瞬、目を瞠って彼を見つめた。そうして緑野に倒れ込んでいった。彼は自分の行動に驚愕し、一瞬のうちに自分の罪を悟り、自分に下される罰について考えた。殺人者と呼ばれ、彼はこの地を追放される。二度と緑野には戻れず、秩序の中に彼の居場所を得る方法は永遠に失われる。そもそも弟がいなければ、この世界のどこにも彼の居場所はなかった。
彼は絶望に視野を閉ざされて呻いた。呻いて弟に駆け寄り、二度三度と鍬を打ち下ろした。弟はまったく動かなくなった。
串刺した鍬を抜き取り、投げ捨て、彼は弟の骸の側に膝をついた。弟の命を取り戻そうと身体に縋り、抱き上げたが、弟はすでに絶息していた。彼は号泣し、泣きながらその骸を野辺に隠した。そうして返り血もそのまま、一人で家に戻ったのだった。
振り返れば――彼は弟の死を受け容れたくなかったのだ。だから弟を野辺に隠した。骸を遠ざけることで、弟の死をも遠ざけようとした。彼はその夜、半ば本気で弟の帰りを待ち、翌日訪ねてきた隣人に、弟が戻ってこないと訴えることさえした。
実際、彼は夜を徹して、弟の帰宅を待っていた。生きた、温かい弟が扉を開いて家の中に戻ってくるのを待っていたが、もちろん、弟は戻ってこなかった。彼はそういう形で自分の罪がなかったことになることを望んだが、彼の罪がなかったことになることは、当然のようになかった。
三日目、神殿の賢者が噂を聞いて訪ねてきた。彼は弟を捜してくれ、と半ば本気で求めた。隣人たちが賢者の屍鬼で緑野に散り、そして弟の骸を見つけた。
[#ここで字下げ終わり]
聖堂からの帰り道、静信は墓場の中を突っ切っていて、真新しい墓の前に花が供えられているのに気づいた。それ自体は決して珍しいことではない。村では墓参よりも、位牌供養のほうを大事にするが、墓参もまったくしないというわけではなかった。盆や彼岸の節目には墓参し、供養のために板外場を立てる。気を引いたのは、今がそういう節目ではないせい、そして備えられた花束が、そのへんの野山から積んできた野菊や|女郎花《おみなえし》で作られていたからだった。
まるで子供がそうするように、野辺から摘んできた花が単に束ねただけで角卒塔婆の根本に置かれていた。どの花ももう萎れていて、さらにその脇には昨日のものだろう、枯れた花が横たわっている。
つましい花を持って日参している者がいるのだ、と思った。誰の墓だろう、と静信は卒塔婆を見た。卒塔婆には静信自身の字で、結城夏野と書かれていた。
[#ここから5字下げ]
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大川は店の前に立って、商店街のほうを一瞥した。頼りない雨が降っていて、景色はいかにもしけたふうだった。公民館の少し先に見える後藤田衣料品店は閉まっている。先日、妻が後藤田久美と会って、その時に店を親戚に譲って久美は娘と村を出て行くと言っていたらしいが、その言の通り、その夜のうちにトラックが来て引越していったらしいかった。
それ自体は些細なことなのかもしれない。だが、大川はそういったことの一切が気に入らなかった。後藤田響子が再婚するという。久美がそれに付いていくという。めでたいことだろうが、大川の気に喰わなかった。そういう場合にも、久美だけは村に残るべきだったし、残される母親のことを思って響子は再婚を諦めるなり相手を説得して同居するなりすべきだった。少なくとも、それが外場のルールだったはずだ。これまで村は、そんなふうに動いてきた。なのに最近、そのルールが少しも守られない。極めて無頓着に破られていく。大川はなぜだか、それが自分に対する侮辱のように思えてならなかった。
世の中には「かくあるべき姿」というものがあると思う。これまで――確実にどこかの時点まで、村はそれに従って動いてきた。それが頻々と覆されるようになり、今ではルールに従って動いているものなど何ひとつない、と言ってもいい。
後藤田母子は、親戚と称する見ず知らずの女に店を譲って夜中に村を出て行った。同じようにして出ていった店が他にも四件あり、同様にして店を譲られた店が一軒ある。荒物屋の|富幸《とみこう》は村を出、後にはやはり親戚と称する見ず知らずの夫婦者が入ってきた。だが、この二人は家に閉じこもったまま、周囲に挨拶をするでもない。店も基本的に閉めたままだ。時折、気まぐれのように店を開ける。それも夕刻を過ぎた頃になって。
八月の終わり、駐在の高見は死んで、後任の佐々木という警官がやってきた。だが、この佐々木も姿を見ることは滅多にない。夜間に時折、駐在所の中に坐っているのを見るが、普段は何をしているのか、まったく動向が知れなかった。九月の頭には郵便局の大沢が引越した。しばらくは長田が局長を代行し、九月の半ばには本局の斡旋で新しい局長が来たが、これもすぐに姿が見えなくなった。長田は再び局長を代行し、自分が局を引き継ぐかどうかを思案している。
九月には使用人の松村の娘が死んだ。以来、松村は仕事を休みがちだ。もともと覇気というものを持ち合わせず、小心で真面目なのだけが取り柄だったような男が、無断で仕事を休む。迂闊なミスも絶えず、大川は始終、松村を怒鳴り散らしている。以前ならそれで大川に怯え、少しは改まったものが、娘を失って以来、松村は大川の機嫌に無頓着だ。いくら怒鳴っても聞いているのかいないのか、頷くばかりでいっこうに行状は改まらない。どこか捨て鉢になった風情だった。出入りの業者は頻繁に顔ぶれが変わる。そのたびに取り決めてあった段取りが狂い、大川を苛立たせる。――そういう何もかもが大川は気に入らなかった。
村はあるべき状態にない。どこかで歯車が狂ったまま、それが修正される様子もなかった。それどころか、日に日に軋みは大きくなる。ルールの一切が踏みにじられていく。
「全く……どうなってるんだ」
大川は呟いて、カウンターに伝票が置いてあるのを見て顔を歪める。配達の伝票だ。ついさっき、篤に行け、と声をかけたのに、まだ出かけていないのだろうか。
「おい! 篤!」
大川は二階に向かって怒鳴る。いつもならうっそりと姿を見せるはずの息子が、いくら呼んでも現れない。まさか伝票を持って出るのを忘れて配達に行ってしまったのだろうか。怪訝に思いながら二階に上がると、息子はまだ部屋にいて、だらしなく横になっていた。
「篤! 配達だって言ってんだろうが!」
大川が部屋の入口で怒鳴ると、篤は目を上げたが、そこにはあるべきものがなかった。大川に対する恨みがましい目、ふてくされた――けれども、どこか怯え、屈服した表情が。
息子は無感動な目を大川に向け、億劫そうに寝返り打った。大川は篤にそうやって無視されることに慣れていなかった。
「手前、何をだらだらしてやがんだ。配達だって言ってるのが聞こえねえのか」
大川は篤の背中を蹴る。篤は身を丸めたものの、やはり無反応だった。カッと頭に血が昇る。大川が怒鳴れば従う。それが家族のルールだったはずだ。罵声を上げて篤を引きずり起こそうとしたとき、娘の瑞恵が顔を出した。
「お父さん、お兄ちゃんは具合が悪いんだよ」
大川は振り返った。学校から帰ってきたばかりらしく、制服のままの娘は大川を宥めるように微笑む。
「朝も具合が悪かったの。風邪なんじゃないかな。寝かせといてあげてよ。配達ならあたしと豊が手伝うから」
大川は呻いて篤を一瞥した。
「どうせ仮病に決まってる。――おい、篤、おれにはお見通しなんだからな」
篤の返答はない。まるくなるようにして大川に背を向けたままだった。その陽に灼けた首筋に季節外れの虫刺されの痕があることに、大川は気づかなかった。もちろん、自分が出ていった後に、息子が小さく「今に見てろ」とひっそり呟いたのにも。
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十二章
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敏夫は往診から戻り、とりあえず母屋に顔を出して遅い夕飯を掻き込んだ。母屋では、すでに寝支度をした母親が、複雑な表情で待っていた。
「おかえり」と、言う孝江に生返事をし、とにかく食事に取りかかる。食欲はなかったが、せめて何か詰め込まないことには、身体が持たない。
「また今夜も、恭子さんについてるの?」
ああ、と敏夫は頷いた。
「恭子さん、どうなの?」
さあ、とだけ敏夫は答えた。
「実家に連絡しないでいいの? 嫌ですよ、後になってあちらの家族からつべこべ言われるのは」
「まだそういう段階じゃない」
「でも」
敏夫はじっとテーブルの天板を見つめた。実際のところ、恭子の死後、すでに丸四日以上が経過している。
いくら死亡診断書を敏夫が書くにせよ、いくら大量の氷を使って死体現象を遅らせているにせよ、もう限界が近づいている。――いや、すでに限界を超えているのではないか、という気が敏夫にもした。そろそろ決断をしなければならない。
敏夫は甦生して欲しい、と切実に願う反面、どこかで恭子が甦生するはずなどないと思っている気がしてならなかった。やはり心の奥深いところで「起き上がり」などというものを信じ切れていないのかもしれなかったし、あるいはそうも好都合なことが起こるはずがない、と思っているのかもしれなかった。
(普通なら、とっくに埋葬されている……)
屍鬼の存在が知られていないのは、そもそも火葬の風習のせいで屍鬼が多くないせいだろう、という自分の推測を、敏夫は信じている。つまりは、ごく普通に通夜が行われ葬儀が行われるまでの間に、甦生することはあり得ない、ということだ。死亡の翌日が通夜で、さらにその翌日が葬儀という例は珍しくないし、友引に引っかかればさらに一日以上の日延べがされるのが普通だ。荼毘に附されるのが死後七十二時間以上経ってから、という例は決して少なくない。ということは、死後七十二時間程度で甦生することは、滅多にないと見てもいいのではないだろうか。逆に言うなら、最低でも丸三日、七十二時間以上は待ってみなければ意味がないということだ。だが、その七十二時間はすでに過ぎている。もう望みはない、と思いつつずるずると丸四日が過ぎ、五日目に入ろうとしていた。
(今夜一晩だ。朝まで待って、それで何の兆候もなければ、諦める……)
敏夫はそう、自分に言い聞かせた。それ以上はどう考えても危険だろう。さしもの敏夫も、死体を抱えている、というプレッシャーにそれ以上は耐えられそうになかった。
(そう……この調子で、もう一日は無理だ)
このところ診療時間中も、ほとんど上の空だった。看護婦の姿が見えなくなるたび、なさか回復室に行ってはいないだろうかと気にかかり、あるいは何かの手違いで、取り返しがつかないほど死体現象が進んでしまうのではないかという危惧がどうしても念頭から離れなかった。
敏夫は、わずかに苦笑する。
(意外に、おれは犯罪者には向いていないのかもしれないな……)
踏ん切りをつけて顔を上げると、不安そうな顔をした孝江と視線が合った。
「お前、大丈夫なの?」
孝江は息子の顔を覗き込んだ。寝不足のせいだろう、充血した目は熱でもあるように濁って潤み、目の下には隈が浮いている。息子は疲労困憊しているように見えた。
「誰か看護婦に手伝ってもらったらどう? そうでなきゃ、国立に運ぶとか」
いや、と敏夫は呟く。
「……たぶん、今夜が峠になるだろう。明日には向こうの両親に連絡することになるかもしれない」
夕飯が済むや否や、敏夫は手術室に駆けつけた。ナースステーションには鍵がない。回復室の廊下に面したドアには内鍵があるが、ナースステーションに通じるドアにも、やはり鍵がなかった。ちょっと恭子の様子を見てみようと思い立てば、誰でもナースステーションを通って回復室に入ることができる。死体を放置しておくのには、あまりに不安で、ナースステーションのほうも廊下に面したドアの内側、目立たないところに間に合わせの掛けがねをつけて内側から締め切ってあった。ナースステーションには手術室からも出入りができたが、手術室――その前室――には鍵をかけられる。とはいえ、合い鍵は事務室に常備されているから、これは自分の不安を宥めるための、ほんの気休めにすぎない。
二階に駆け上がり、前室の鍵を開けた。ほんの一呼吸、開くことを躊躇う。恭子の死体が横たわる回復室から、このドアの中までは、鍵というものは存在しないことを意識しないではいられなかった。
(馬鹿げてる……)
もしもこのドアを開けた向こうに、誰かがいるとすれば、それは恭子だ。もしも恭子が起き上がったのなら、何もこのドアの向こうに潜んでいる必要はない。内側から回復室のドアを開けて、廊下に直接出ることができるのだし、そこからどこへなりとも自由に行ける。だからこれは単なる怯えにすぎないのだが、それを分かっていても、扉を開くのには軽い抵抗があった。
自在扉を押すと、軽く軋んで内側に開く。がらんとした小部屋が冷え冷えと沈黙していた。これが前室、右手には手術室に向かう扉があり、奥には滅菌洗浄室に向かうドアがある。扉を押し開いた敏夫の肩越し、廊下から射し込む光で、狭い室内は薄暗いとはいえ、見渡すことができる。もちろん、誰の姿も気配もない。明かりを点けても、やはり誰の姿もなかった。付属のシャワー室のカーテンは開いている。誰が隠れる物陰も、ここには存在しない。
前室を横切り、洗浄室にはいる。照明のステッチはドアのすぐ左手にある。薄暗い室内には流しや器具戸棚、既消毒ハッチやオートクレーブなど、物陰には事欠かないが、もちろんそこにだって誰がいるはずもない。洗浄室を抜け、ナースステーションに続くドアの前に立った。ほんの少し中の物音を窺い、何の気配もないことを確認しないではいられなかった。敏夫にも、自分が恭子の甦生をあり得ることだと信じているのか、それともあり得ないことだと信じているのか、よく分からなかった。
思い切ってドアを開ける。ナースステーションの明かりを点けると、無人の室内が目に入った。もちろんやはり、誰もいない。
軽く息を吐いた。敏夫にはそれが安堵の息のようでもあり、同時に落胆の息でもあるような気がした。壁の時計に目をやる。日付が変わろうとしている。
(明日の朝までだ……)
自分に言い聞かせ、回復室に向かう。ドアを開けると、暗い回復室の中に横たわる人影が見えた。敏夫の妻だった女の死体だ。廊下からの明かりは、衝立で遮られており、ナースステーションからの光は、敏夫自身の影で遮られている。枕許のモニターは壁を照らし、だから恭子の姿は影にしか見えない。明かりを点けるまでのほんの一瞬、腐敗し巨人様に膨らんだ死体の顔を思い浮かべた。そうなっていたら、敏夫に退路はない。不安が見せる埒もない夢想だ。
回復室の明かりを点けると、枕辺に夜までもなくガーゼをかけられた恭子の顔がはっきりと見えた。敏夫は枕許に近づき、ガーゼを取って息を吐く。少なくともさほどに酷いことにはなっていないように思われた。
体温は十度以下になるように気をつけている。それが良かったのか、四日が過ぎたにもかかわらず、まだ皮膚に腐敗網は現れていなかった。腹部の膨満もほとんどない。念のため、腹腔にドレナージチューブを留置して、腐敗性浸出液とガスを排除できるようにしてあったが、さほどの排出はない。乾燥を防ぐために、効果のほどは疑問だがとりあえず生理食塩水を注射し、湿らせたガーゼで顔を覆っていた。そのせいか、皮膚の革皮様化も最低限に抑えられているようだった。とりあえずこれなら、まだ誤魔化せるだろう。
敏夫は改めて安堵の息をつき、枕許に寄ってバイタルサインをチェックした。心拍も呼吸も停止したまま。次いで床にのたうっているグラフ用紙を拾い上げた。脳波計から吐き出されたグラフには平坦な線が並んでいる。こんなものか、と苦笑しながらグラフを辿った。敏夫はふと、紙をたぐる手を止めた。
思わず、グラフと恭子を見比べた。ごく微細な波がほんの一瞬、現れている。さらにグラフを辿ると、そこにもまたひとつ。敏夫が往診に出かけ、遅い夕食を摂っている間に、たったの三回だけ、その揺れは現れていた。本当にごく微かな波だ。機械のせいだろうかと思った。それは甦生の兆候だとか考えるにはあまりにも微細でありすぎる。
どう受け止めていいのか分からず、何度もグラフと恭子とを見比べているうちに、グラフが目の前で小さな波を描いた。それきりまた平坦な直線に戻る。
まじまじと死体を見下ろした。軽く頸部に触れてみるが、肌はすっかり冷えている。もちろん脈拍はない。心臓も完全に停止している。呼吸もしてない。血圧もゼロ。瞳孔反射を確認しようとして、瞼に手をかけた。氷のせいで芯から冷えた肌に触れ、瞼を持ち上げて敏夫は身を硬くする。ペンライトを持つ手が震えた。光を入れてみても瞳孔反射はない。それが混濁した角膜越しに見て取れた。――そう、角膜が澄んできている。夕刻に見たときには確かに、完全に白濁していたのに。
敏夫は軽く息を呑んだ。死後約四十八時間で、角膜は完全に混濁し、瞳孔が見通せなくなる。低温状態にあれば若干、混濁が遅れることはあるようだが、いったん混濁していたものが再び澄む、ということがあるだろうか。
敏夫は恭子の顔を覗き込んだ。脳波計の針がまた動く音がした。その音のせいか、恭子の容貌は、どこか穏やかすぎるように見えた。臘のような色艶をしていた肌が、妙に自然な艶を取り戻しているように見える。
「まさか……」
恐る恐る布団を剥ぐ。その身体を固定してあるベルトを外す。軽く腕を持ち上げてみた。硬直は完全解けている。死後硬直が完全に緩解するのは三日から四日ていどのことだが、恭子の死体は低温に保ってある。これほど早く硬直が解けるはずがなかった。腕の下に現れた死斑も、薄くなっているように思われる。もともと紫斑は薄かったが、これほどまでに薄かっただろうか。思い悩む敏夫の脇で、また脳波計の針が動いた。
何度も深く息をし、動脈に留置したカテーテルから採血する。血液は暗紅色を呈しているが、光に透かしてみると、糸のように鮮紅色の液体が混じっていた。顕微鏡にかけると赤血球は完全に融解しているが、鮮紅色の部分には小さな赤い顆粒が見える。
敏夫は改めて妻を見下ろした。
この死体は完全に死んではいない。死んでないだけでなく、極めてゆっくりと――物体としては迅速に――腐敗とは別種の変化が進行している。
敏夫は恭子に屈み込み、じっとその容貌を見つめ、そして両手でその頬を包み込んだ。少しの間、額を彼女に押し当てていた。
明け方が近づいた頃から、脳波が頻繁に波を描き始めた。ごく微細な波形が連なっては途絶え、それはもう直線には見えなくなった。同時に硬直は完全に解け、死斑は明らかに消退していく。肌が透明感を取り戻し、角膜も白濁が取れていった。それでもまだ、脈拍はない。呼吸も完全に停止している。血圧も依然としてゼロ、恭子は間違いなく死体のままだった。
瞳孔反射がわずかに現れたのは、辺りが白んでからだった。ほんのわずかだが、明らかに光を入れると瞳孔が縮小する。暁光が訪れ、朝日が射し込み始めた頃、敏夫は恭子の肌が血色を取り戻したように感じた。依然としてバイタルサインには何の変化も起こらない。
異常を感じたのは、午前七時になろうかという頃だった。頬が血色を取り戻したように見えた。それが徐々に赤い色を濃くし、そして明らかに異常な赤味を呈し始めた。よく観察しようと回復室のブラインドを上げたときだった。目の前でみるみるうちに水疱が現れた。額から頬にかけて、光の当たるほうがより濃く紅斑を呈し、そこに小さな水疱が生じて広がっていく。見守るうちに、そのうちのいくつかが弾けて表皮がめくれ、真皮が露出した。陽射しのせいか、と敏夫はようやく悟った。
恭子は何の反応も見せない。呻き声を上げるでもなく、身動きするでもなかった。にもかかわらず、白い顔がフィルムを早送りするように赤らみ膨張し、水疱に覆われて弾けていく。ほとんど数分の間に見るも無惨な有様になり、さらには弾けてめくれた表皮が黒ずみ始めた。――炭化しようとしているのだ。
敏夫は慌ててブラインドを下げる。それでも進行を止められず、狼狽えてストレッチャーを取りにいった。恭子の身体をベッドから移し、回復室から手術室へと運ぶ。前室にも手術室にも窓はない。完全に遮光された室内に運び込むと、それでようやく異常な反応が止まった。
「これが、屍鬼か」
敏夫はひとりごちる。だから連中は夜に跋扈するのだ。では――と敏夫は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだ。桐敷正志郎も辰巳も屍鬼ではない。ホラー映画に見る吸血鬼には得てして人間の下僕がいる。おそらくは、それに類するものなのだろう。実際のところ、敏夫らは完全に正志郎に謀られたのだ。夜にしか姿を現さない、それは故意に演出されたものだった。
一敗を喫したが、敏夫には逆転のチャンスがある。手術台に拘束された恭子がそれだ。敏夫は薄く笑う。回復室と手術室を元のように締め切り、それから電話の受話器を手に取った。コール六回で、相手は出た。
「はい、橋口ですけど」
「やすよさん? 尾崎だが」
あら、とやすよは声を上げた。
「どうなすったんです、こんな時間に」
「急で悪いんだが、今日は休診にする」
「――え?」
敏夫は笑みを隠すのに苦労しなければならなかった。
「恭子の具合が良くない。どうやら危篤といっていい状態のようだ。とてもじゃないが、今日は患者の相手はできない」
やすよは絶句し、すぐに労るような声を出した。
「分かりました。みんなにはそう連絡します。先生、人手は?」
「いやるおれだけでいい。悪いが一人にしといてくれ。――いや、できることはもう幾らもないんだ。ただ目を離したくない」
「分かりました」と、やすよは沈痛な声で答えた。
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元子はその朝、いつもの時間に起き、子供たちを起こそうとして、志保梨がぐったりと生気を失っているのに気がついた。
顔色は蒼褪め、やんちゃな表情が見られない。口数も少なく、半ば夢でも見ているかのようだった。元子はこの表情に見覚えがあった。舅の巌を、そして夫の勇を奪っていったあれだ。
(そんなはず、ないわ)
だって志保梨は国道に行っていないのだから。舅や夫のように、失われてしまうなんてことがあるはずはない。元子は|瘧《おこり》のように震えながら、志保梨の身体を抱き上げた。たった六歳のこの子が、失われてしまうなんて、そんなことが許されるはずがない。
元子は志保梨を抱えて家を飛び出した。茂樹が不思議そうに「どこに行くの」と聞いてきたが、元子はこれに返事をすることもできなかった。後先を考えずに無我夢中で家を出た。
志保梨の身体は、集落を駆け抜けるうちに石のように重くなった。何度も滑り落ちそうになる身体を抱え直し、元子は走る。道行く村人が奇異なものを見るように元子を振り返ったが、元子はそれを認識していなかった。娘の重さに耐えかね、道に膝をつき、抱え上げようにも力を失った両の腕を自覚した。苦心惨憺して何とか背負い、息も絶え絶えになって門前の尾崎医院に辿り着く。元子は藁をも掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む思いで玄関に走り寄った。
元子を迎えたのは、一枚の張り紙だった。玄関には内側からカーテンが引かれており、貼られた紙には「本日休診」という文字が見えた。元子はその場にへたりこんだ。
「そんな……」
元子は玄関を叩く。声を張り上げた。
「お願い! 開けてください!」
だが、病院は静まり返ったまま、何の応答もない。通りがかった女が一人、元子に声を掛けてきた。
「どうしたの?」
元子は玄関の張り紙を示した。女は困ったように眉を寄せる。
「あら――珍しい」
「今日……今日は木曜日ですよね」
「ええ。最近はずっと、土日も開けてたのにねえ。どうしたのかしら」女は言って、不安そうに建物を見上げた。「若奥さんの具合が良くないって話を聞いたけど……それでかしらねえ」
「でも……うちの子だって具合が良くないんです」
「それは大変ねえ。でも、休診じゃあねえ」
そんな、と元子は目の前が暗くなる思いがした。なぜ診てもらえないのか、助けてもらえないのか。子供が危険だというのに。
志保梨の具合が実際にはどの程度悪いのか、誰かに請うて車に乗せてもらうべきではないのか、いや――それよりそもそも電話をするなり、あるいは救急車を呼ぶなりするべきではないのか、――そういったことを思慮することは、元子の念頭にも浮かばなかった。志保梨が危険だ、それしかない。舅や夫のように死んでいこうとしている。自分から引き離され、手の届かないところに行ってしまう。一刻も早く、安全な庇護してくれる場所に辿り着かなければ、自分は本当に娘を失ってしまうだろう。
そう思って駆けつけた病院が、選りにも選って休診だったという事実が、元子をいっそう逆上させた。誰か――元子に悪意を抱く誰かの手が、無慈悲にも元子から娘を奪い去ろうとしている。
「そういえば」と、女が首を傾げた。「確か、下外場にも病院ができたとか、言ってなかったかしら」
元子は女を振り返った。
「楠スタンドの辺りに、兼正のお医者さんがクリニックを開いたって聞いたような気がするけど」
元子は息を呑んだ。それはまぎれもなく余所者だ。しかも、スタンドに行くためにはあの恐ろしい国道に出なくてはならない。
「何だったら、誰かに詳しいことを訊いてあげましょうか?」
女の声に、元子は首を振った。背中の志保梨を引っ張り上げ、ふらつく足で立ち上がる。しっかりと背負い直して踵を返した。
「あら――ねえ、あなた」
女の声にも構わない。どこかに行かなければ。元子の娘を助けてくれる誰かのところへ駆けつけなければ、と絶望的な気分でそう思った。
(でも……)
余所者、――国道。まるで何かの罠のようだ。志保梨を救うためには医者に連れていく必要があるが、選りに選ってそれが、国道の余所者だなんて。それは元子から子供を奪うもの、なのに陥れられたように、そこに行くしかない。
元子は半ば泣きながら、それでも志保梨をしっかりと背負い直した。門前から下外場へと、よろめきながら駆けだしたが、元子の気分ほどには足は前に進んでくれなかった。
(でも、急がないと)
一刻も早く。でないと舅や夫の二の舞になる。取り返しがつかないことになってしまうに違いない。
喘ぎながら泣きじゃくりながら、無我夢中で元子は前に進む。中外場まで来たとき、前方に現れた老人が、怖いものにでも出会ったように飛び退って道を空けた。
本当に行ってもいいのか、とも思う。国道に出たとたん、暴走した車に出会うのではないのか。余所者に見せたりしていいのだろうか。診察室の中から冷たくなった志保梨が出てくることになったら。恐れる一方で、何とかしてでも医者に志保梨を診せたかった。そうしないと志保梨は奪われてしまう。
迷いが足を縺れさせた。元子を叱咤するように、背中の志保梨は重かった。これは娘の命の重みだ。投げ出すくらいなら死んだほうがましだ。
その一心で国道まで辿り着いた。注意の上にも注意を払い、スタンドの付近を探す。女の言っていたクリニックはすぐに分かった。看板が出ている。元子は泣きじゃくりながらそのドアに近づき、それが固く閉ざされているのを知って、その場に坐り込んだ。
(……なぜ)
ドアの脇に、診療時間が書いてあった。夕方の七時から十時まで、とあった。
「――そんな! ねえ、開けて!」
扉を叩きたかったが、両手は塞がっていた。娘から手を放すことなど絶対にできない。元子は頭を打ち付けた。額でドアを叩く。そうまでしても、元子のために扉を開いてくれるものは現れなかった。元子は声を上げて泣いた。志保梨が死んでしまう。元子から略奪されてしまう。
声にならない悲鳴を上げたとき、背後から頼もしい声が聞こえた。
「元子!」
加奈美の声だ。元子は振り返る。加奈美は駆け寄ってきて、元子の脇に膝をついた。加奈美の背後には数人の村人が呆気にとられたように立ち竦んでいた。
「あんた――どうしたの」
元子は金切り声を上げて泣いた。矢野加奈美は元子の狂乱と言っていい呈に狼狽する。元子らしき女が子供を背負い、泣きながら国道のほうに歩いていった、と聞いた。元子と加奈美が親しいことを知っている近所の者が、わざわざ知らせに来てくれたのだった。まさかと思い、半信半疑で出てきたものの。
元子がここまで取り乱す理由はひとつしか思い浮かばなかった。元子のいるここが、江渕クリニックの前だという事実がそれを補強する。加奈美はおそるおそる志保梨の顔を覗き込み、志保梨がぐったりしてるいようではあるものの、息をしていると知って安堵の息を吐いた。
「元子、大丈夫よ、しっかりしなさい」
元子は頭を振った。何かを懸命に訴えているが、言葉は聞き取れない。聞こえなくても何を言いたいのかは分かった。
「志保梨ちゃんは大丈夫よ。元子がそんなだから怯えてるわ。駄目よ、しっかりしないと」
加奈美は「大丈夫」と繰り返し、元子の肩を抱く。落ち着くまで揺すった。
「加奈美、志保梨が」
「うん。具合が悪いのね? 大丈夫よ、病院に連れていけば」
「でも、どこのお医者も」
「尾崎の若先生に来てもらいましょ」
加奈美が言うと、元子は首を振る。
「休診なの。診てくれないのよ」
まあ、と加奈美は口ごもった。珍しいこともあるものだ。――だが、無理もないのかもしれない。敏夫はこのところ、無休で病院を開けていると聞いていた。
「そう。じゃあ、溝辺町に連れていきましょう。ちょっとでも早いほうがいいわ。志保梨ちゃんを抱かせて。スタンドから救急車を呼びましょ」
元子が目を見開いた。
「救急車?」
「そうよ、それがいちばん早いでしょ? 国立や共済病院なら設備も揃ってるし、お医者さまだって揃ってるわ。だから大丈夫よ」
元子が呆然としたように頷いた。加奈美が微笑んで見せたとき、すぐ脇のほうから人の声が近づいてきた。目をやると、前田登美子が村人に先導されて駆けつけてくるところだった。誰かが知らせに行ったのだろう。
「元子さん――あんた」
加奈美は登美子を制した。
「志保梨ちゃんと元子を見ててください。あたし、救急車を呼んできます」
「やめてちょうだい!」
語気荒く言われ、加奈美は瞬いた。登美子は視線を元子に移す。ひったくるように志保梨を抱き寄せた。
「あんたって人は、何を考えてるの! 突然外に飛び出して、こんな恥さらしな」
「でも……志保梨が。志保梨の様子が」
加奈美は口を挟んだ。
「志保梨ちゃん、具合が悪いんです。それで元子は」
「あんたは他人なんだから、黙っててちょうだい!」
登美子にヒステリックに叩きつけられ、加奈美は言葉を見失った。
「なによ、熱なんかないじゃないの。この子がどうしたっていうのよ。こんな大騒ぎをして、みっともない」
「でもお義母さん」
「くだらないことで大騒ぎして。あんたって人は、本当に」登美子は元子を睨み、ぐつたりしたふうな志保梨を立たせる。「さあ、家に帰るのよ。今日は学校はお休みじゃないでしょう。急いで帰って、学校に行くの」
そんな、と元子は志保梨を捕まえようとした。その手を登美子が叩き落とす。
「あんたは」登美子は足を踏み鳴らした。
「あんたは」登美子は足を踏み鳴らした。「自分が大騒ぎすればするほど、ろくでもない結果になるんだってことが、いつになったら分かるの」
登美子は嫁を睨んだ。孫の手を引いて強引に家へと連れ戻す。登美子を支配していたのは、徹底的な拒絶だった。登美子にとっても可愛い孫だ。その孫が死ぬなんてことが起こっていいはずはない。具合が悪いなんていうのも嘘だ。例によって嫁が、過剰な思い込みで大騒ぎしているだけに違いない。そうでなければいけないのだ。
「お義母さん!」
元子の悲鳴を、登美子は背中で聞いた。家に帰って着替えさせて孫を学校にやらなければ。そうやって何もなかったように振る舞っていれば、なかったことになるに違いない。
元子は登美子を追おうとした。けれどももう、足が言うことを聞かなかった。加奈美に支えられ、思わず縋り付こうとしたのに、手には全く力が入らない。元子はただ殺意を込めて姑の背中を見た。
――誰も彼もが、元子から子供を奪っていこうとしている。
(余所者だけじゃない)
元子は初めて、全ての人間が敵なのだということを悟った。
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敏夫はその日一日を手術室で過ごし、恭子の側にいて経過を見守っていた。脳波は連続的な波形を現し始め、微細だった波は次第にくっきりとしたパターンを描き出した。昼を過ぎた頃から、時折――お笑いなことに夢でも見ているかのような反応を示したが、依然として心拍はゼロ、血圧もゼロ、呼吸も完全に止まったままだった。
無惨にもケロイド状になった顔の傷は、手術室に移してから治癒し始めた。紅斑は次第に消え、弾けた表皮も剥離して、真皮にも薄皮が張り始める。一日かかって、ほぼ以前の滑らかさを取り戻した。――いや、もとが乾燥で褐色を帯び、死体の色艶をしていたことを思えば、依然以上の滑らかさに戻ったと言えるのかもしれない。いま、この顔を見て恭子が死んでいると思う人間はいないだろう。青味を帯びてはいるものの、眠っているようにしか見えない。
敏夫は何度目か、血液を採取した。最初は動脈にカテーテルを挿入したままにしておいたが、これは押し出されてしまった。以来、いちいち注射針を刺して採血してるが、この針の痕が塞がるのも早い。血液から塗抹標本を作って顕微鏡にかけた頃には完全に塞がり、どこに針を刺したのか分からなくなっていた。
血液は異常だった。最初は暗紅色を呈していた血液は、次第に鮮紅色に変わっていった。暗紅色の部分には腐敗溶血した赤血球の断片が見えていたが、鮮紅色の部分にはそれが見えない。ただ赤い、顕微鏡をもってしてもごく小さな顆粒状にしか見えない何かが、ある密度で含まれている。それ以上の組織は見ることができなかった。それは次第に全身に及び、やがて静脈血までが同様の鮮紅色に変じた。
恭子の血液は、採血したまま放置していても凝固しない。分離もしなかった。それはただ、時間をかけて暗紅色に変じていく。試しに試験管の中に敏夫自身の血を一滴落としてみても凝固は起きない。それどころか暗紅色に変じた血液は、それでいったん鮮紅色を取り戻した。血清でも同じことが起こる。試験管に蓋をし、密閉すると暗紅色に変化するのが早かった。暗紅色に変じた血液をさらに長い間――半日以上――放置しておくと、組織が沈殿し分離する。そうなると血清を滴下しても、もう鮮紅色を取り戻さない。
根本的な変容が血液に起こっている。それは敏夫にも理解することができた。試しにさまざまな薬品を混入してみたが、何の反応も引き起こすことができなかった。これはただ、人間の血清に対してのみ、反応する。
これに対して、恭子の身体のほうは、依然として何の反応もなかった。ただ、脳波だけが当たり前のように存在しているが、心拍も呼吸も戻らない。変化は進行していたが、甦生の気配はなかった。念のためにアンビューバックを使って人工呼吸を施してみても、自発呼吸は再開しない。心マッサージを試み、硫酸アトロピンを投与して経皮ペーシングも試してみたが、心拍は停止したままだった。念のために|除細動器具《デフィブリレータ》も使ってみたが、やはり効果はない。エピネフリンを注射して通電量を最大まで上げてみても同様だった。
恭子の変化は早いのか、遅いのか。比較対照するものがないので何とも言えないが、丸四日を過ぎ五日目に入る辺りに重大な観察ポイントがある、とは言えそうだった。その死体が起き上がるかどうかは、脳波をモニターしていれば、予測することができる。脳波を取れない場合でも、血液を採取して色を観察していれば、目算を立てることができる。恭子の例から言うなら、死後五日目に入れば、顔色を見れば分かる。明らかに容貌が変化する。
(死後五日間の経過観察……)
敏夫は考え込む。問題は、それが可能かどうかだ。村では土葬にするために埋葬が早い。通夜は死亡の当日が原則だし、すると翌日には埋葬されることになる。屍鬼による犠牲者は夜半に死亡する例が多いが、通常の例で言うなら、三十六時間程度で埋葬されることになってしまう。それを五日まで引き延ばす方法が果たしてあるのか。しかも、恭子の変化は例外的に早い可能性がある。個体によっては、もっと緩やかに進行するのかも。そうなると、死者の容貌から起き上がるか否かを予測することは不可能に近い。患者が死亡して、まだ敏夫の支配下にある期間内に、起き上がるか否かを見極めることはできない、と言えるだろう。
死亡から五日、埋葬を引き延ばす方法はないか。それだけの猶予を持たせることができれば、会葬者の目の前で死体が起き上がることもあり得る。そうなれば、誰もが嫌でも現状を認識するだろう。
(どう考えても無理か……)
たとえ村人を何とか説得して埋葬を五日、引き延ばすことができるとしても、その間、何の防腐処置もしないで放置しておくことは許容されないだろう。最低限、ドライアイスを入れるぐらいのことはしなければならないが、あまりにも死体温度が下がると、それで変容もまた遅滞する可能性がある。それを考慮に入れれば、さらに埋葬を引き延ばさなければならない。こうなると鼬ごっこだ。
(やはり全ての死体に、甦生することがないよう処置をする必要がある)
果たして、どうすれば甦生を止められるのか。――そもそも、屍鬼を倒すためには、何をする必要があるのか。
とりあえず根本的に血液に変容が起こっていることは分かった。この血液を破壊することができれば、それで甦生を阻止できるかもしれない。しかしながら、さらに考え得る限りの薬物を混入してみても、これという反応を引き出すことはできなかった。
考え込んでいたときだった。背後で異音がした。それは喘鳴に似ていた。敏夫はゆっくりと背後を振り返る。時間は午後七時を過ぎようとしていた。――そう、手術室の中では分からなかったが、すでに陽が落ちている。
恭子も目を開けていた。モニターに目を移してみても、心拍もなければ呼吸も再開していない。にもかかわらず、それは縛められた体を揺すり、身動きができないことを確認すると、首だけを動かして敏夫のほうを振り返った。
敏夫はひとつ息を呑み下し、そして立ち上がった。
「……気分はどうだ?」
恭子は何かを言おうとするように唇を動かしたが、声にはならなかった。ほんの一瞬、モニターの呼吸が反応し、そしてまた平坦に戻った。
動いている。瞬き、敏夫を見つめているにもかかわらず、心拍は停止している。全く微動だにしていない。目の前の女は確かに死亡していた。
アンビューバックを使って人工呼吸をしてみたが、やはり呼吸は再開しなかった。怯えた顔をする恭子を宥め、心マッサージもしてみたが、声を上げはしたものの、やはり心拍は戻らない。おそらくは、この異常な死体に呼吸や拍動が戻ることはないのだろう。
恭子は何かを訴えている。時折、掠れた声になった。声が出たときだけ、胸郭が動く。当然のことながら、吸気しなければ発声できないのだ。
「心配はいらない。すぐに眠らせてやる」
恭子は明らかに怯えた顔をした。喘ぐように口を動かし、何かを訴えようとする。痙攣するように何度か胸郭が動いた。断続的に声が漏れる。その口をマスクで覆う。麻酔機の気化装置のスイッチを入れた。
麻酔しようとしたが、できなかった。途中から静脈麻酔に切り替えたが、やはり麻酔は効かない。恭子は声の上げ方を思い出したようだった。悲鳴が漏れないよう、口を塞がねばならなかった。
笑気ガスは効かない。チオペンタールもタケミンも効果がなかった。ペンタゾシン、モルヒネも効いた様子がない。麻酔薬のみならず、鎮痛剤も受け付けないらしい。ということになれば、おそらくモルヒネなどの大量投与によって決着をつけることはできないのに違いない。
いずれにしても、麻酔できないのなら、できるだけ穏便に死なせてやるしかないわけだ、と敏夫は思った。
口を塞がれた恭子は、身を捩るようにして拘束を抜け出そうとしていたが、これは徒労に終わっていた。別に恐ろしい怪力とやらになったわけではないらしい。煙になって逃げる様子もなく、蝙蝠になって逃げることもできないようだった。
「じきに楽にしてやる。だから少し堪えてくれ」
敏夫は仏壇から拝借してきていた本尊をかざしてみた。恭子は目に見えて反応する。塩を撒いてみたが、塩には特別、反応はない。抹香や線香などの芳香にはひどく嫌がる様子を見せたが、ごく普通の芳香剤や香料には何の反応もしない。同じ強い芳香を放つものにしても、抹香と芳香剤とでは成分が全く違うだろう。それを思うと、片方に反応し、もう片方に反応しないのは不思議でもないが、本尊になぜ反応するのか不思議だった。試しに身体に当ててみたが、小説や映画にあるように、焼け爛れた痕がつく、などということはなかった。純粋に恐怖しているように見える。あるいは脳に変容が起こって、そのせいである種の図形に恐怖反応が起こるのかもしれなかった。鈴の音も嫌がる。澄んだ金属の音は総じて恐怖心を喚起するようだった。
呪術は有効だ、おそらくは。尋常の嫌がり方ではないから、屍鬼のほうがよほど必死になればともかくも、これで襲撃をかなりのところ回避できるだろう。
(問題は……)
どうやって屍鬼を停止に至らしめるか、ということだった。敏夫にすれば、密かに処置できるような何らかの方法に存在して欲しい。事前に注射一本で済むならどんなに助かるだろう。
試しにバルビツールを投与してみたが、やはり効かなかった。農薬を探してきてパラコートを注射してみたが、やはり何の変化もない。クレゾールやステリハイドなどの消毒薬も無効、大量の空気を注射してみても、やはり何の効果もない。
仕方なく大腿静脈を切開して出血させてみようとしたが、開放創自体がすぐに塞がるのでそれほどの出血には至らない。外頸静脈を穿刺し、そこから血液を吸引してみようとしたが、すぐに血管を遮断されたように吸引できなくなった。前肘部を切開し、肘正皮静脈を露出して切断してみたが、やはり血管をどこかで遮断されたように出血しなくなる。諦めて放置しておくと、気づいたときには切開創自体が塞がっている。
怪我には恐ろしく強い。治癒再生能力が異常に高いようだった。なまじな方法では、負傷させることも難しいだろう。
口と鼻を塞いでも、そもそも呼吸してないだけあって、効果がない。血液自体は密封すると暗紅色に変じて分離するから、ガス交換は行っているのだろうが、あるいは皮膚呼吸で充分、ということなのかもしれなかった。皮膚全体を覆ってみれば――たとえば水の中に全身を浸けてみれば分かるのだろうが、あいにく手術室ではそれだけの設備がない。
かくなるうえは、と敏夫は脳波計に目をやった。最も最初に「死」から甦生したのは脳だった。脳を破壊すれば行動不能に陥るかもしれない。穿刺針とカテーテルを使い、鼻孔と内耳の二箇所から挿入して脳の組織を破壊してみようとしたが、やはり効果があるようには見えなかった。
(再生しているのか……)
そうなのかもしれない。破壊する端から再生しているのかも。驚異的な治癒能力を考えると、あり得ないことではないかもしれない。組織の破壊には意味がない。おそらくは、血液の遮断、――それによる酸素供給の停止が有効な手段になるのだろう。なるほど、古典的な方法が最も効果が高いはずだ。頭部の切断、心臓や肝臓の破壊、つまりは、大動脈大静脈が集中する箇所を杭のようなもので破壊する。細い針穴ぐらいなら治癒してしまうし、実際に留置した針は身体から押し出されて排出されてしまっている。杭のような摩擦の大きい太いものでなければ、恐らく排出され傷痕は治癒することになるだろう。
有効なのは杭だ。あるいは、頭部の完全破壊。それで駄目なら完全に不死だということになる。
敏夫は用意してあった杭を手に取った。
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静信は思案した末に寺務所を出た。時計を見るとすでに日付が変わって、二十一日の早朝に入っていた。
境内を抜け、墓所を抜け杣道から丸安の材木置き場に出る。二階に明かりの点った尾崎医院の建物を目指した。
屍鬼を狩ることには抵抗がある。だが、何とかして妥協案を探さなければならない。村の窮状をこれ以上、無視はできない。
屍鬼の生が優先か、人の生が優先か。静信の出すべき答えは決まっている。人が優先だ。なぜなら静信は人だからだ。屍鬼でありもしない静信が、屍鬼の生とヒ人の生を等価のもののように扱うのは、人としての分を超越した振る舞いに思える。人を俯瞰し、屍鬼をも俯瞰する神の思考だという気がした。だが、静信は人でしかないのだ。ならば人としての視点に留まってるべきだし、すると答えは決まっている。屍鬼は脅威であり、敵だ。殺さねば殺される。屍鬼を殲滅して自分たちの安全を守らなければならない。
静信は半ば自分に言い聞かせながら、尾崎医院の通用口に向かった。通用口には鍵がかかっている。ナースステーションには明かりが点っていたから、敏夫は恭子について上に詰めているのだろう。それでインターフォンのボタンを押した。応答には少し時間がかかった。静信が何を言うよりも早く、「静信か」という敏夫の声が聞こえた。
そう、と答える。この時間に電話もせず、突然に訪れるのは自分しかいまい。
「いいところに来た。いま、手が放せない。おれの部屋の窓が開いているから、あっちから廻ってきてくれ。手術室だ」
静信は首を傾げ、とりあえず裏手に廻った。敏夫の私室に入り込み、寝静まったふうの母屋を足音を忍ばせて横切り、病院へと向かう。待合室の片隅にある表階段から二階へと上がった。病室の前を通り過ぎると、ナースステーションにだけ明かりが点っているのが見える。回復室は暗く、覗き込んでも衝立しか見えない。人がいる気配はないが、すると恭子やはり手術室に移されているのか。それほど病状が悪いのだろうか、と思った。
たしかナースステーションから手術室に行けたはずだ、とドアに手を掛けたが、これは開かなかった。回復室に戻ってみたが、これも開かない。仕方なく廊下の奥にある自在扉を押した。前室に入る扉は難なく開いた。
前室にはシーツや衣類が丸めて放り出されていた。手術室のほうを覗くと、敏夫は白衣のまま手術台に屈み込んで静信を振り返った。手術台のうえには無影灯に照らされて、白い裸体が横たわっており、思わず静信は視線を逸らした。
「上を脱ぐか、術衣を着るかしろ。隣の洗浄室にある。ついでに前室のシーツや寝間着を洗浄室の洗濯機に放り込んでくれ」
「ああ、……でも」
急げ、と言ったきり、敏夫は再び恭子に向かって屈み込む。恭子の顔は白く、固く目を閉じている。
「恭子さんは、まさか」
「死んだ」
そうか、と静信は心中で呟いた。敏夫の白衣を見たとき、すでに救命のために処置をしてるのではないことは想像がついたが。
言われるまま前室に戻り、丸めてあった布類を抱えて洗浄室に入った。洗濯機を探して静信は立ち竦む。この林立する試験管は何なのだろう。そのほとんどには暗紅色の液体が入っており、大半は分離している。赤褐色の資料[#「資料」→「試料」? 原文ママ]を載せたプレパラート、点々と落ちた血痕のようなもの。
「――敏夫」
静信は洗浄室から手術室を覗き込んだ。角度が変わって、敏夫の手許が見えた。敏夫は恭子の胸のあたりを縫合している。拘束された恭子の肩先に赤黒く染まった杭が放り出してあった。
静信は息を呑んだ。敏夫は手許から目線を上げる。
「御覧の通りだ。恭子は死んだ」
「……甦生、したのか」
ああ、と敏夫は頷き、縫合糸を切った。
「今日――いや、もう昨日か――の夕方に起き上がった。ついさっき、永眠したところだ」
永眠、という言葉は、似つかわしく思えた。そう――起き上がった死体は眠りを破られたのだ。それを再び眠りにつかせる。それも、二度と目覚めることのない永遠の眠りに。どんな言葉を使っても、屍鬼を殺す、という事実には変わりがないが、確かに永眠させると言えば、狩る方の心理的抵抗は薄まる。言葉というものの呪術的な力。
「汚れるぞ」と、言った敏夫の白衣には、あちこちに血痕が飛んでいる。袖口も真っ赤だった。「術衣を着るかしろ。手袋をしとけよ。素手では危険かもしれない」
言いながら、敏夫は白衣を脱ぐ。それを静信に向かって差し出した。
「ついでにこいつも洗ってくれ」
頷いて白衣を手に取った静信についてきて、敏夫は洗浄室の椅子のひとつに腰を下ろした。手袋を外して捨てると、煙草に火を点ける。
「敏夫……」静信は洗濯機の周囲から洗剤らしきものを探しだし、それを適当に放り込んでスイッチを入れる。「その試験管は」
「恭子の血だ」言って敏夫は試験管に目をやった。「ほとんど死んでるようだな」
「死んで?」
「そういうのが正解だって気がするんだがな。これかおそらく、連中の本体だ。うまく言えんが、血液自体が生きている、という感じだな。だからって別に血液がアメーバみたいに動いて襲いかかってくるわけじゃないが」
敏夫はぐったりと椅子の背にもたれて煙を吐く。少しの間、何かを探すように煙を見ていた。
「……そう、生きてるんだと思う。そして、こいつらは飢えて死ぬんだ。あるいは窒息して死ぬ。死ぬと分離してしまう」
「血液が?」
敏夫は頷いた。
「その変色したやつ――まだ分離してないやつに人間の血清を入れると、鮮紅色を取り戻す。息を吹き返すんだ。連中が人を襲うのは、そういうことなんだと思う」
敏夫は言って、困惑したまま佇んだ静信を見て皮肉げに笑った。
「桐敷正志郎も辰巳も、屍鬼じゃない。おそらく人間だ」
「まさか」
「としか考えられん。恭子は日光に反応した。陽の光は駄目なんだ。焼け爛れてしまう」
静信は思わず、手術室のほうを見た。敏夫は脱力したように続ける。
「そんな顔をしなくても、もう痕なんか残っちゃいないさ。損傷に対する治癒力は驚異的だ。文字通り、みるみるうちに塞がってしまう。刃物やなんかで生半可に負わせた傷ぐらいでは、連中を止めることはできん」
「……杭は」
「有効だな。たぶん、至近から散弾銃か何かを使っても有効だろう。治癒する暇を与えず、一気に血管系を破壊するしか手はないと思う。あるいは、伝承通り、頭部を切断する。
連中の血液は生きてる。そして、脳が生きてるんだ。実際、恭子は最後まで呼吸も心拍も戻らなかった。ただ、本人が起き上がるより先に、脳波が現れた。一旦完全に消失していたものが、戻ったんだ。本当に消失していたのか、それとも、機械では拾えないような微細なレベルでかろうじて活動を維持していたのか、それは分からないが、少なくとも屍鬼は脳死ならぬ、脳生の死体だ、とは言えると思う。生かしているのはあの妙な血液だろう。確かなこととは言えないが」
静信は瞬いた。――そう、恭子が起き上がったということは、一度死んだ、ということに他ならない。
「恭子さんはいつ亡くなったんだ?」
「五日前……十六日だ。丸四日を過ぎた辺りから脳波が現れて、昨日の朝には太陽光線に対する反応が起こった。甦生したのは夕方を過ぎてからだ。比較対照するものがないから、全ての屍鬼がそれくらいで甦るとは言えないわけだが」
静信は息を呑んだ。
「……隠していたのか。恭子さんが亡くなったことを? なぜ?」
敏夫は呟いた。
「甦生しないかと思って」
静信は言葉を失った。
「亡くなったのに、何も言わず、遺体を隠匿していたのか? 起き上がるのを確認して杭を打って殺した……?」
「他に手がなかったんだ」と、敏夫は言って気怠げに目を閉じる。「一切の薬物は効かない。異常に治癒能力が高い。抹香なんかの芳香は有効なようだな。呪術も有効だ。どうやら恐怖刺激になるらしい。十字架、本尊、どちらも怯えた様子を見せた。ただし、仏像が怖いわけじゃないらしい。後背が怖いようだな。仏像の頭の後ろの、あの放射状のやつ。十字といい、ああいう直線の配置された図形が怖いんだろう。だが、それで喚起できるのは恐怖感だけのようだ。襲撃を回避する手としては有効だが、それで連中を永眠させることはできん」
静信は血の気が引いていくのを自覚した。
「一切の薬物が効かない? ……試したのか?」
ああ、と敏夫は頷く。
「だから、死後の処置で甦生を食い止める方法はないんだと思う。少なくとも、おれが密かに処置をすることはできない。起き上がるのを止めたければ、埋葬する際に杭を打つなり、頭を切断するなりすることだ。起き上がったやつを止める方法も、起き上がること自体を止める方法も、それしかない」
返す言葉を失った静信の前で、敏夫は気づいたように片手に目をやる。フィルターまで燃え尽きた煙草を流しに投げ込んで、身を起こした。
「手を貸してくれ。とにかくここと手術室を片づけないと。恭子の身体を清めて寝間着を着せて、回復室に戻さないといけない。――ああ、傷を包帯か何かで覆っておかないとな」
「……なぜ」
静信が呟くと、敏夫は立ち上がりかけたまま、怪訝そうに静信を見上げた。
「あのままじゃ他人に見せられないだろう」
敏夫は肩を竦める。静信が言いたかったのはそんなことではなかったが、とりたてて口は挟まなかった。
「他人の目から隠し通すこともできない。経帷子に着せ替えないといけないわけだし。傷が存在すること自体は、治療のために必要だったとか何とか、言い逃れることもできるだろうが、あまりどこにどんな傷があるのかは見られたくない。おれがやったのは死体破損だが、他人はそうは思っちゃくれんだろう。きっと恭子を殺したんだと思うだろうさ」
「その通り何じゃないのか」
敏夫は顔を上げ、手術室に向かいかけた足を止めて振り返った。
「何を言い出したんだ?」
「お前は恭子さんを殺したんだ。死亡を秘匿し、死体を密かに保存していた。甦生した彼女を実験材料に使い、果てに殺した」
「静信」敏夫は口を開けた。「そうじゃないだろう」
「そうじゃない? どう違うんだ?」
「いいか、恭子は」
「恭子さんは発病したんだ。正体不明の伝染病だ。ひょっとしたらそれは、屍鬼による襲撃の結果なのかもしれない。いずれにしても、彼女は死亡した。そして、起き上がった」
「その通りだ。恭子は屍鬼になったんだ」
「じゃあ訊くが、屍鬼とは何だ? それが何に由来するものかはともかく、患者は貧血を前駆症状とする疾病で死亡する。死ぬと奇妙な死体現象を起こす。どうやら一定時間の後、甦るらしい。――これは、本当に真の意味で死んではいなかった、ということを意味しないか?」
「恭子は死亡してた」
「甦る以上、本当に死んではいないんだ。死というのは不可逆性のものなんじゃないのか? 甦った以上、どんなに死に見えても、それは死じゃない。仮死に過ぎないんだ。仮死を過ぎて患者は甦生する。甦生した患者は、人を襲う。襲撃によってこの奇病は伝染していく」
「だから、吸血鬼だと言ってる」
「そういう症状のある病を『吸血鬼病』と名付けるのは勝手だ。だが、仮死から甦生した患者をお前が殺したという事実には、変わりがない」
「いいか」敏夫は静信に指を突きつける。「恭子は死んでた。目を覚ましたが、その間も呼吸は停止していたし、心拍も止まっていた。生き返ったんじゃない。あれは死体だ」
「その、医学的な根拠は? お前に断言させる『死』の定義とは何なんだ?」
静信が問うと、敏夫は何かを言おうとして口を噤んだ。
「本当に死だったのか、本当に死体だったのか? 客観的に、そう言いきって間違いのないものだったのか?」
「こいつは――」
「死は不可逆性のものだろう。可逆性の死を死と呼んでいいのか・せ 死の定義のほうを検討し直す必要がありはしないか? それをせずに、ただ心拍や呼吸がないという事実だけを取り上げて死体だと断定していいのか。死体に脳波が存在するのか? 死体がなぜ動くんだ」
それは、と敏夫は口ごもった。
「お前がすべきことは、恭子さんか本当に死体なのか、死体だとしたらどうして動くのか、なぜ死んだと思われたものが甦生したのか、その原因をつきとめて、治療の方法を探すことじゃなかったのか?」
なのに敏夫は、殺すための方法を探した。自分の妻を使って。そのためにそもそも死を秘匿し、死体を隠していたのだ。
「患者を救うためだというなら、いくらでも協力する。――だが、常識を逸脱した患者を抹殺するためだというなら、ぼくには協力できない」
敏夫は顔を上げ、真っ向から静信を睨み据えた。
「では訊くが、お前はどうしたいんだ。どうすればお気に召すんだ?」
「それは」
「村では死が続いているんだ。連中に襲われて犠牲者が死亡している。それを放置して見守っていろというのか? 屍鬼が殺されることは酷いことで、人が殺されるのは酷いことじゃないのか。餌にされることを拒んで、身を守るために敵を排除するのは、許されないことなのか? ――誰も自分や自分の家族が死ぬことなんて望んでないんだ。お前だってだからこそ、それを止めたいと言っていたんじゃなかったのか。疫病なら根絶すべきだが、屍鬼による襲撃なら放置しておくべきだとでも言う気なのか、お前は」
今度は静信が押し黙る番だった。
「こっちが屍鬼の立場を|慮《おもんばか》って譲歩を示せば、連中も譲歩してくれるのか。連中だって必要があって人を襲ってるんだろうが。連中は人を襲わなきゃ飢えるんだ。おそらく飢餓から血液が死亡し、本人も死亡する。それを避けるために必然として人を襲っているんだ。屍鬼を憐れんで狩ることはしない、だから襲撃をやめて飢えて死んでくれと言うつもりか。そんな無理難題を連中が受容するとでも思っているのか!」
「……それは」
「お前のそれは卑劣な怯懦だ。要は自分の手を汚したくないんだろう。屍鬼が起き上がることは、生き返ったと言えなくもない。そうだろうさ、脳が活動しているんだから名。たぶん本人は思考する。感情を持つ。その点にかけちゃあ、人と何ら変わらない。ひとつの人格を抹殺するという意味では、屍鬼を狩るのも人を殺すのも同じことなんだろう。そしてお前は屍鬼じゃない。だから自分の手を汚して餌を殺す必要がない。それだから、屍鬼が人を狩ることを容認できるんだ。屍鬼を狩ることは自分の手を汚すことだ。自分が殺戮者にならなければならない。だからそれは嫌だと言う。――違うのか」
「……その通りだよ」静信は息を吐く。「ぼくは自分が殺戮者になりたくないんだ。他者を殺害することは、どんな大義名分を掲げようと正義ではないと思うからだ。屍鬼が人を狩ることを容認しているわけじゃない。屍鬼だろうと人だろうと、他者を殺戮すべきではない、と思ってる。だが、甦生した恭子さんが自己の存続のために人を襲うか襲わないか、これは彼女の選択に任されるべきことだ。ぼくが口を出す筋合いのことじゃない。ぼくは彼女の行為に対して論評はできても、こうせよ、ああせよと命令はできない。ぼくが行動を意のままにすることが許されてるのは、ぼく自信に対してだけなんだ」
「そして自分は相手が屍鬼だろうところしたくない、それは自分の選択の自由だと言いたいわけだな?」敏夫は口許を歪めて笑う。「いま、この村で自体を正確に把握しているのは自分たちだけであることも、自分がここで屍鬼の行為を屍鬼の自由だと言って見逃すことが、間接的に他人の殺害を容認する行為に当たることも、お前は知ったことじゃない、というわけだ」
そういう意味じゃない、と言いたかったが、自分でも本当にそういう意味でないのかどうか、分からなかった。
「論評はできても命令はできない? ついさっき、おれを人殺しだと責めたのは単なる論評だったわけか?」
静信は俯いた。敏夫は吐き捨てる。
「知らないようだから教えてやる。お前のような奴を偽善者と言うんだ」
そうなのだろう、と静信は心の中でひとりごちた。
「おれは選択し、決断している。このまま汚染の拡大を放置できない。だから屍鬼を狩る。連中は敵だから、自分を含めた同族を守るために容赦しない。これがおれの正義だ。口を挟む気はないというなら、出て行け。おれはお前の論評など聞いている暇はないんだ」
静信には返す言葉がなかった。だから、その通りにした。
偽善者だという敏夫の指摘は間違っていないと思う。静信は屍鬼を狩りたくない。確かに自分の手を汚したくないのだ。罪と定められた行為に踏み込む勇気がない。ただ人を襲う、自分たちに対する脅威だから、というだけでは、罪に踏み込む決断ができるほどの殺意を抱くことができなかった。
人であろうとなかろうと変わらない。誰も殺したくなどない。実を言えば、全ての人が――屍鬼がそれを望んでくれることを望んでいる。そのように、自分が信奉する神の理念で世界が調和することを願っている。
(人には……)
静信は寺へと戻りながら、戯れに言い訳をしてみる。
(殺意を抱くことのできる者と、そうでない者がいるんだ……)
脅威に対して怯え、逃げまどうことしかできない草食獣と、脅威を威嚇し、打ち払おうとする肉食獣がいる。自分は肉食獣ではないから、そんな殺伐とした論理には従えないのだ、という言い訳は有効だろうか。
考えながら寺に戻った。悄然と寺務所の机に向かう。臆病で卑怯な羊だ、自分は。安全な場所に身を竦めて、細々と草は食むしか生きていく術を持たない。
思いながら抽斗を開けた。原稿を取り出し、そしてふと首を捻った。
(誰か……)
ほんのわずかの違和感。例えば原稿用紙の端、紙の角。それは編集者の手を経て戻ってきた原稿のように、別人の手を経た痕跡を留めているように思えた。
(誰かが弄った? ……まさか?)
静信の机には、光男も美和子も手を触れない。ましてや抽斗の中を検めるということはあり得なかった。
首を傾げながら原稿をめくってみる。ノンブルには欠落がない。これまでの仕上がりを見直すつもりで漫然と原稿用紙を眺め、そして静信は手を止めた。
原稿用紙の余白に文字が書かれている。鉛筆の薄い文字だ。もちろん静信の筆跡ではなく、そもそも静信は余白に書き込みをしない。
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彼はなぜ弟を殺したのか
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静信はじっとその文字を見つめた。
兄は魔が差したのだ。それ以上を書く気がなかった。かつて静信がそうしたように、意味のない衝動にかられただけだ。殺意がないだけに、放浪する兄の苦悶は深く――。
思いながらさらに原稿用紙を繰って、静信は再び書き込みに出会う。
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殺意のない殺人は事故であって殺人ではない
殺意のない殺人はない
理由のない殺意はない
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静信はどこか抉られた気分でその文字を見つめた。それらの文字は静信の視線を搦め取った。
(だが)静信は文字を見つめる。(……本当に理由などなかったんだ)
[#改段]
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十三章
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[#ここから5字下げ]
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静信が勤行を終えて寺務所に戻ったとき、電話が鳴った。静信はその電話が何を伝えるものか予測していたので、あえて受話器を取らなかった。光男が受話器を取り、そして少しのやりとりの後、受話器を置いて静信に告げた。
「尾崎の若奥さんが亡くなられたそうです」
そうですか、とだけ静信は答えた。
「具合が悪いとは小耳に挟んでましたけど、そんなに悪かったんですねえ」光男は誰にともなく言い、言葉を継ぐ。「吾平さんは二軒こなしたばっかりなんで、田茂の定市さんが助番に立ってくれるそうです。すぐに打ち合わせに来られるってことで」
「分かりました」
光男の言葉通り、定市はすぐに駆けつけてきて、葬儀に対するこまごまとした打ち合わせをした。自分の家でも一昨日、葬儀があったばかりだというのに。
この日のうちに通夜、翌日に葬儀、敏夫の好意で葬儀の規模は格別大きくなくてもいい、ということになった。
「なにしろ、御覧の有様なんで、寺も人手が足りないだろうし、内々で済ませるから格別の配慮は必要ないってことなんで」
池辺は敏夫の心遣いに感謝したようだった。
「正直言って助かりますよね。大々的にって言われても、角さんもいないし鶴見さんだって具合が良くないし」
静信は頷いた。折を見て、角の家に電話を入れ、角の様子を訊いてみた。角は死んだと言われるのではないかと懸念していたが、案に相違して、角はいない、と言われた。旅行がしたいと突然言いだし、出かけたきり音沙汰がないという。ひょっとしたら戻ってこない旅なのではないかと思えたが、それを口にするわけにもいかなかった。
とりあえず、その角の家に連絡して角の父親と兄に脇導師を頼んだ。またですか、と言葉のわりに深刻味のない口調で外界と村とがいかに隔絶しているかを思い知らされた。村ではもはや、「また」という言葉すら禁忌になっている。角のところの二人と池辺、静信とで四人。寺は空になるが、さすがに尾崎が相手では、いかに簡素に、と言われようともそれ以下の扱いはできない。
「とうとう、って感じですねえ」田茂定市は嘆息した。「本当に、葬式を出してない家のほうが少なくなったって気がします」
言って、ちらりと静信を見る。何かを問いかけるような眼差しだったが、静信に答えられることはなかった。
その訃報を律子に伝えたのは、橋口やすよだった。
「若奥さんがね、亡くなったんだわ」
律子は言葉に詰まった。昨日、危篤だといって休診にしたぐらいだから、覚悟はしていた。それでも、実際に死んだと聞けば心に重い。
「今夜がお通夜で、明日がお葬式。今日明日は休診にするそうだから」
「はい……ええ」
律子は着るものを選び、家を出た。手伝いに行かねばならない。だが、さすがに敏夫に何と言おうか、考えると気が重かった。よほど前駆症状を見落としたのが悔しかったのか、つきっきりで世話をしていた。その甲斐あってか、他のどの患者よりもよく保ったのに、さすがの敏夫もこの病には逆らえなかったということか。
(……病、か)
律子は密かに胸を押さえる。本当に単なる伝染病なのだろうか。その答えを、自分はもう知っている気がしたが、どうしてもそれを認める気にはなれなかった。
通い慣れた道を辿ると、病院が見えた。病院を通り過ぎ、隣にある門を入って母屋の玄関に向かう。こちらに来るのは何年ぶりだろう。すでに玄関の周辺は葬儀のために整えられようとしていた。
集まった人々の中に何かを采配している田茂定市の姿が見えて、律子は少し驚いた。定市のところではつい一昨日、葬儀があったばかりなのに。
(でも……徳次郎さんはもういないし……)
門前の弔組世話役は鬼籍に入った。ひょっとしたら竹村吾平なりが次の世話役に立つのかもしれないが、吾平老人も慣れない葬式の面倒を二軒続けてみたばかりだ。とりあえず定市が助番をするしかない、ということなのだろう。知らず、溜息が漏れた。こんなにも村は困窮しているのだと、そんな気がしてならなかった。
集まった人々に会釈をして玄関に入る。広々とした玄関ホールには、武藤とやすよがすでにやってきていた。敏夫の所在を訊くと、やすよは頭を振った。
「寝てるわ」
「寝てる……んですか?」
やすよは微かに笑う。
「疲労困憊してるんでしょ。いちばんに来て会ったときには酷い顔をしてたからね。だから寝てください、って言ったのよ」言って、やすよは声を低める。「こう言っちゃあ何だけど、せっかく診療も、容態を見守らないといけない患者もいないわけだからね。滅多にあることじゃないんだから、休んでもらわないと」
「そうですね」
「大奥さんなら座敷よ」
律子は頷いて、座敷に向かった。すでに組まれた祭壇の側には、尾崎孝江が控えていた。律子は孝江に悔やみを言ったが、孝江は淡々としたものだった。むしろ明らかに機嫌が良くない。
「さぞお力落としのことでしょうけど……」
常套句を口にした律子の言葉を、孝江は溜息でもって払い落とす。
「せめて子供を残してくれれば良かったんだけど。近頃の若い人は何を考えてるんだか、あの人も自分のことが忙しくて子供どころじゃなかったようだから」
「はあ……」
「敏夫も何もあそこまですることはないだろうに、人の好い子だから。これから通夜だ葬儀だと忙しいのに、倒れるような破目にならなきゃいいけど」
律子は返答に困って、曖昧に頷いた。型どおりの悔やみだけを述べて、早々に玄関へと退散した。どんやりとりがあったのか想像がついているのだろう、苦笑気味の武藤に、やすよはキッチンに行ったと聞いて、ダイニングへと向かう。キッチンではエプロンをつけたやすよが、お茶の用意に取りかかっていた。
「お疲れさん」やすよも苦笑している。「――まあ、先生の身体のほうが心配だってのは、間違ってないわよ」
「そうですね」
律子もエプロンを広げながら、曖昧に笑ってみせた。
「何でも、お葬式はできるだけ簡単にするみたいよ。とはいえ、相手が尾崎じゃ寺のほうも、はいそうですかってわけにはいかないだろうけど」
「それで奥さん、機嫌が悪かったんですね」
小声で笑い合っているところに、清美がやってきた。清美は渋い顔をしている。律子はその顔を見て、孝江だな、と思ったのだが、清美に渋面を作らせたのは、そんなことではなかったらしい。
「やすよちゃん、律ちゃん、ここはいいから」
え、と律子は首を傾げた。
「お勝手のほうは近所の女衆がするそうだから。あたしたちは、他の雑用をしてほしいって」言って、清美はダイニング坐り込む。「定市さんに拝まれちゃったわ。近所の人がそうしてくれって。看護婦は煮炊きに手を出さないで欲しいんだってよ」
「それは……いいですけど、どうして」
「伝染病よ」清美は低く呟く。「悪い病気が流行ってるって噂があるから。あたしたちが口に入るものに手を出して大丈夫なんだろうかって、近所の人が心配してるからって」
律子は言葉を失った。やすよも、まァ、と言ったきり、言葉を失う。
確かに、と律子は思う。看護婦たちは「悪い病気」と最前線で向き合っているのだ。これが通常の伝染病なら、真っ先に感染する可能性もあるし、看護婦自身がすでにキャリアだという可能性だってある。それを不安に思う気持ちは分からないではないものの。
しんと押し黙ったところに、聡子がやってきた。やすよはエプロンを外しながら聡子に声をかけた。
「お疲れさん。――どう? 雪ちゃんから何か連絡あった?」
いいえ、と聡子の表情は暗い。雪は姿を消したまま消息が分からない。
「実家のほうにも電話してみたんですけど、やっぱり何の連絡もないみたいです」
「そう……心配ねえ」
やすよは深い溜息をつく。律子も密かに息を吐いた。本当に――溜息をつくしかない。聡子に事情を話し、キッチンはそのままに再び玄関のほうに向かった。集まった人々が気まずげに視線を逸らし、田茂定市がいかにも申し訳なさそうに応接間のほうを示した。
「どうも済みませんな。帳面やら、事務のほうをお願いします」
やすよが頷く。定市は溜息をついた。
「……本当にねえ、この村はどうなってるんだか。うちでもつい一昨日、葬式があったでしょう。だもんで、どうも当たりが悪くてね」
「あら、定市さんも?」
そうなんですよ、と定市は苦笑した。
「死人が出た家を警戒する気持ちは、分からないんじゃないですけどね。丸安や工務店の人たちもそう言ってましたよ。特に工務店はさんざんなことだったから、番頭の武田さんが出入りするだけでも嫌な顔をする家もあるそうでね」
やすよは溜息をつく。
「世も末だわね」
「……そんなことをしても無駄なんだがな」
定市がぽつりと言った。律子たちが首を傾げると、言葉を漏らしたことに気づいたのか、定市は決まり悪げに笑う。
「いや、歳を取るとどうもものの分かりが悪くてね。なんだかね、そういう気がするんですよ。こりゃあ、本当に伝染病なんだろうかってね。なんだかもっと――別のことのような気がするんですわ」
「別のこと?」
「それが何なのか、分かりゃしないですけどね」と、定市は言葉を濁して笑った。分からないと言ってはいるが、定市には何か思い当たるものがあるふうだった。
そして、律子にも同じく思い当たるものがある。安森奈緒に似た誰か。もう記憶自体は摩耗して夢のように思えるものの、それは律子を縛り付けている。
息を吐いたとき、孝江の声がした。
「まあ、あなたたち、こんなところで何を暢気にしてるんです」
孝江は開けたままの戸口から応接室の中を覗き込み、眉を寄せた。
「あなたたちが率先して働いてくれないと困りますよ。お勝手のことなんて、近所の人たちじゃあ分からないんだから。やすよさん、あなたが行って、ちゃんと采配してくださいよ」
それが、とやすよは定市を見る。定市が孝江に事情を説明しようとした。それを孝江は遮る。
「事務のことなら、武藤さんがいるでしょう。もともとそれが専門なんですから任せておきなさい。やすよさんたちはお勝手のほうへ行ってちょうだい。近所の女衆に好き勝手に家の中を弄られたくありませんからね。第一、あなたたちが率先して働いてくれないと外聞だって悪いでしょう。お客さんじゃないんですからね」
「でも、あたしたち、別に使用人じゃないですから」
行ったのは聡子だった。孝江はそれをねめつける。
「誰がお給料を払っているのか、忘れているようね」
「確かに、先生からお給料をいただいてますけど。でもそれは、看護婦としての報酬を病院から貰ってるんで、別に尾崎のお家の使用人じゃないです」
「聡ちゃん」
清美が小声で|窘《たしな》めた。孝江の血相が変わるのが見えた。
「本当に敏夫も人が好いわ。こんな反抗的な看護婦を大事に面倒見てるんだから。主人だったら、さっさと辞めさせたところですけどね」
「別にあたしは困りません。看護婦を欲しがってる病院なんて、いくらでもあるんだから」
「何ですか、その言い方は。今日まで世話になっておいて。そう思うなら、さっさと辞めてどこへなりとも行けばいいでしょう」
「そうしてもいいですけど」と、聡子は投げ遣りに言う。「……雪ちゃん、行方不明になったっていうのに、先生は心配もしてない。そんなんだったら、もういいかな、って気もします」
「聡ちゃん」
清美がさらに窘めた。聡子は清美を涙の溜まった目で見返す。
「だって行方が知れないんですよ? こんなに長い間、連絡だってなくて、何かあったに決まってるじゃないですか。事故か、もっと悪いことか。なのに先生、そうか、って言ったきり、どうなった、って聞いてもくれないんですよ」
清美は無言で聡子の背中を撫でた。
「そりゃあ、先生が若奥さんのことで大変だったのは分かってます。奥さんのことなんだから、きっとすごく心配で、頭がいっぱいだったんでしょ? でも、雪ちゃんだってずっと働いてきたんですよ。先生が大変そうだから、越してこようって言って、休日も返上してずっとやってきたのに。――なのに」
顔を覆って泣き出した聡子の背を、律子も撫でる。聡子の心配は分かる、痛いほど。
孝江はそんな律子らを険しい顔で眺め渡した。
「仮にも院長の妻と、看護婦を同列に扱えるはずがないじゃないですか。でも、そういう物事の順番ってものが分かる子でもなさそうね」
言って、孝江は踵を返す。定市が困惑したように孝江が消えたほうと泣きじゃくる聡子を見比べていた。
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大川は朝食を摂りながら、何度も二階へと――天井へと目をやった。かず子はそんな夫をはらはらした気分で見る。
夫の機嫌が悪い。篤が起きてこないせいだ。次第に怒りを溜めていく夫の様子を見て、かず子はことさらに明るい声を上げた。
「篤ったら、どうしたのかしらねえ。具合が悪いっていってたけど、まだ気分が良くないのかしら。瑞恵、ちょっと見てきてよ」
制服姿の瑞恵は、頷く。立ち上がろうとしたところに、大川自身が立ち上がった。
「お前は飯を食ってろ。おれが叩き起こしてくる」
「いいよ、あたしがいく。お兄ちゃん、やっぱり具合が良くないんだと思うから」
いい、と言い捨てて、大川は茶の間を出た。どうせ具合が悪いなどと、篤の言い訳に決まっている。もともとが怠け者で小狡い言い訳をしては仕事をさぼりたがるのだ。近頃、村で不祝儀や病人が続いているのを見て、自分も具合が悪いといえば、甘い顔をしてもらえると思ったのに違いがなかった。
大川は二階に上がり、篤の部屋の襖を開けた。篤は布団に入るどころか、路地に面した物干し台に出て大の字になっている。
「篤、いつまでダラダラ寝てやがんだ!」
大川は怒鳴りながら部屋に踏み込んだが、息子は慌てて身を起こすでもなかった。開いたままの窓を潜り、物干しに出る。
(暢気に寝てやがる)
息子の顔を見て大川はそう思った。声をかけても起きる気配がないのを見て取って、乱暴に蹴りを入れる。それで飛び起きるだろうと思ったのに、篤は蹴られるまま手足を投げ出していた。
おかしい、とすぐに思った。大川は息子の側に屈み込む。寝間着代わりのジャージは夜露を吸ったのか湿気で思い。軽く叩いた頬は冷え冷えとしていた。
「おい、篤」
大川は声を上げ、息子を揺する。鼻先に手をかざし、襟首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで揺すり、ようやく息子が死んでいることに気づいた。
――ついに、来た。
大川はとっさにそう思った。家の周囲で蔓延していた「それ」、きわどいところで大川の家庭を掠めていったそれが、ついに。
大川は階段を駆け下りる。不安そうに妻子や母親が大川を見ていた。
「かず子、篤の様子を見てやれ。……どうも死んでるようだ」
かず子が悲鳴じみた声を上げた。瑞恵と豊と、先を争うようにして茶の間を出行く。浪江がおろおろとそれに続いた。
大川は苦いものを持て余しながら電話の受話器を取った。腑が煮えるほど腹立たしかった。起こるべきでないこと、ルールに反することが自分に降りかかってきたことが許せない。卑劣な、という憤りが喉元を灼いたが、それを誰に向ければいいのか分からなかった。
苛立ちながら尾崎医院に電話をする。すぐに応答があったが、聞き覚えのない女の声が、今日は休診だ、という。
「実は、倅が死んでるみたいなんですがね。ちょっと来てもらえませんか」
それが、と電話の向こうの女は困惑したふうだった。
「実はこちらでも不祝儀で。若奥さんが亡くなったんです。今日がお通夜で……」
大川は舌打ちをした。悔やみを言う相手に礼を言って電話を切った。溝辺町の救急病院に電話をするか、あるいは救急車を呼ぶか。そういえば、下外場にクリニックがあったという話もあったか。
考えていて、ふと不安になった。尾崎の若奥さん――というのは、溝辺町に店を持っていた恭子のことだろう。尾崎恭子が死んだのだとしたら、葬儀は大々的なものになる。先代が死んだときの葬儀も大層な代物だった。ひょっとしたら、寺はそれで手一杯かもしれない。
少し迷って、寺に電話を入れてみた。光男らしき男が電話に出たが、息子が死んだ旨を伝えると、やはり同様に困惑したようだった。
「大将、済みませんが……」
「尾崎の若奥さんが死んだって?」
「そうなんです。なにしろ、尾崎のことなんで、若御院が行かないわけにはいかないんで……」
「ああ、そうだろうな」
「他にも法事があって。日をずらしてもらえれば、何とかなるとは思うんですが」
「いや、いいんだ。尾崎のことじゃ仕方がない。あっちは檀家総代でもあるしな」
大川は言って電話を切ったが、腑を灼いたものが身内で沸騰して息が詰まった。何かに向かって怒鳴り散らし、拳を振り上げたかったが、あいにく、相手になるものがない。
寺と尾崎の関係は分かる。それでも大川は自分がないがしろにされた、という気がしてならなかった。憤懣やるかたなく、外場集落の世話役である村迫宗秀に電話をした。宗秀は事情を聞いて、それは、と絶句する。
「尾崎のことじゃあなあ」
「全くだ。だからって、こっちもいつまでも息子を可哀想な姿のまま放っておけないからね。弔いをしてくれるのは寺しかないってわけでもないし」
「そうだねえ。……そう言えば、上外場に葬儀屋ができたんだ。前に社長が挨拶に来て、名刺を置いてったよ。ひとつ連絡をしてみるかい」
「ああ、そういう話があったな。そうしてみるよ。仁義を欠いちゃあいるが、こればっかりはこっちも寺の都合が空くのを待ってられないからな」
そうだね、と宗秀は言って、外場葬儀社の電話番号を教えてくれた。葬儀社はすぐに出た。事情を伝えると、その男はどこか甲高い調子の声で、聞き返す。
「確かに死亡なさってるんですか? まだ救急車は呼ばれていない?」
「呼ぶもなにも、間違いなく死んでるよ。まだ医者には診せちゃいないんで、診断書はないがね」
「そうですか、承知いたしました。すぐに御令息を引き取りに伺います。いいえ、お構いなく。湯灌もうちでさせていただきます。そのときに、細かい説明もさせていただきますから。――ああ、死亡診断書も御心配なさいませんよう。江渕クリニックが出してくれますから。手が空き次第、先生に来てもらって一筆書いていただきます。役場への届けから何から一切合財、うちのほうでさせていただきますんで、御安心ください」
「そうかい。そりゃあ、助かるよ」
大川は言って、電話を叩きつけるように切った。二階からは女たちの泣き声が聞こえている。
「ろくでもない息子だったが」と、大川は口を歪めた。「……最後までろくでもねえ真似をしやがる」
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加藤実がクレオールの中に明かりを見つけてドアを開くと、客は広沢と田代だけだった。すでに九時、ドアには準備中の札が下がっていたが、マスターの長谷川は歓待するような笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃい。お久しぶりですね」
ええ、と加藤は呟く。店内にはどこか陰鬱なものが漂っている。そう思うのは広沢と田代が喪服姿だからなのかもしれなかった。
「広沢さん、今日は――ああ、病院の」
広沢は頷いた。尾崎医院の恭子が死んだと聞いた。加藤自身は、恭子はもちろん、尾崎敏夫ともあまり深い付き合いがない。
「大川酒店の篤くんも亡くなったそうですね」
加藤が言うと、これには長谷川が溜息交じりに頷いた。
「今日一日で二軒だからねえ。……まったく、どうなっているんだか」
「若奥さんもやっぱり?」
病気だったのか、と意を含ませて問うと、田代が暗い顔で頷いた。
「そう。身体を壊してたらしいな。敏夫がずいぶん必死になって治療をしたんだけど、駄目だったって」
「それは、若先生も気落ちしてるでしょうね」
うん、と田代は頷く。
「……いや、そういう様子を見せるような奴じゃないから。だからまあ、いつも通りだったけどね。このところ付きっきりだったらしくて、すごく疲れたふうではあったな。そっちのほうが、ひどかった」
そうですか、と加藤はスツールに腰を下ろして呟く。
「……参ったよ」と田代はひとりごちた。「すごく険悪な通夜でさ。弔組の連中は何とも冷ややかだし」
加藤が首を傾げると、広沢は苦笑した。
「ほら、伝染病だという噂がありますから。正直言って、手伝いたくなかったんでしょう。尾崎の通夜にしては弔問も少なくてね。寺も手一杯らしいから、ずいぶんとあっさりしたお通夜でした。それで大奥さんは、不機嫌だったし」
「そう。それで看護婦たちに当たるしね」と、田代は溜息をつく。「看護婦のほうもいろいろと気が立ってたみたいで、険悪な感じでねえ」
「――気が立ってる?」
「ほら、連日、忙しいから。日曜も病院を開けるようになって、このところ満足に休みもなかったみたいだし、疲れてるんじゃないかな。おまけに弔組からは邪険にされてさ。食べ物に触るな、って台所から追い出されたんだって。伝染病の噂があるんだから仕方ないんだけどさ。伝染病だとしたら病院は前線基地みたいなもんだからなあ」
「ああ……」
連続する死に対して、疫病だという噂があったが、加藤自身はそれについて懐疑的だった。村で死に事が続いているのは事実だが、調べるともなく本を繰っても村で頻発している死に該当するような疾病を発見できないでいる。それはともかく、看護婦にしたら理不尽で堪らないだろう。村のために休日も返上して働いてきたのに、それをもって排斥されるのでは気も荒れるだろう、という気がした。
「それだけじゃなく、看護婦がひとり行方不明になったらしいんだよ。雪ちゃんていう娘。みんな心配してるんだけど、敏夫はこのところ恭子さんのことで手一杯だったから。それでちょっと、敏夫に対しても険悪な感じだったな」
「行方不明?」
長谷川が頷いた。
「なんかの事件に巻き込まれたんでなきゃ、いいですけどねえ」
田代はうんざりしたように言う。
「本当に、この村はどうなってるんだろうな。この死人の数は尋常じゃないよ。ついこの間も結城さんとこの息子さんが亡くなったばかりだし、武藤さんのところだって――」
「結城さん、その後、いかがですか。葬式でお見かけしたときは、ずいぶん力を落としておられたようですが」
おまけに結城の妻は、彼を置き去りにして実家に帰ってしまったと聞いている。
広沢は首を振った。長谷川が苦笑するように答えた。
「……この程度の時間じゃあ、吹っ切れというほうが無理でしょう。たった一人のお子さんだったわけだし」
そうですね、と加藤は呟く。
「長谷川さんも、思い出してお辛かったでしょう」
長谷川も村に越してくる前に、一人息子を亡くしている。
「いや」と、長谷川は笑った。「わたしはもう、気持ちの整理がついてますから。それだけの時間が経ちましたからね」
長谷川は、それでもどこか寂しげな調子で笑う。加藤の前にグラスを出し、氷を入れた。
「……時間は親切です、こういうことにかけちゃあね。しかも平等だ。きっと結城さんにも親切にしてくれるでしょう」
「そうですね」
加藤は頷いたが、これは希望でしかないことを分かっていた。加藤にも息子がいる。死んだ妻が残していった、たった一人の子供だ。裕介に先立たれることを想像すると、その衝撃から立ち直る日など来るのだろうか、という気がする。
「せっかく村に越してきたのに。とんだことになってしまいましたね」
広沢が呟き、長谷川が頷いた。
「そうですねえ。結城さん、ひょっとしたら引っ越してしまうかもしれませんね」
それもありそうなことに思われた。加藤は村の住人だ。ここにしか居場所がないが、結城はそうではない。おそらくは結城も、こんな村に来なければ、という気がしていることだろう。あるいは葬儀の始末をつけて村を出て行くのかもしれない。そうであっても不思議はないように思われる。
「ぼくも一度、お訪ねしてみましょう」
加藤は呟いた。自分に何ができるとも、言えるとも思えないけれども。
「お忙しいみたいですね」
長谷川に言われ、加藤は頷いた。
「店のようではないんですけどね」
「ああ、工務店の? 加藤さんみたいに、なまじ手先が器用なのも考えものだな」
加藤は曖昧に笑った。加藤は電気店を営んでいる。特に看板は上げてないが、電気工事も請け負っていた。工務店の下請けを頼まれることもしばしばで、電気工事だけでなく、ちょっとした造作も見よう見まねでできなくはなかったから、人手が足りないときなどは工務店から造作を頼まれることもあった。
「工務店はいま、大変みたいですね」
広沢が言って、加藤は頷く。
「ええ。とうとう徳次郎さんが亡くなってしまいましたから」
そもそも安森工務店の社長は安森幹康だった。父親の徳次郎から事業を譲られていたのだが、その幹康が死んで工務店のほうもまた徳次郎が面倒を見るようになっていた。その矢先に徳次郎が倒れ、今は昔から工務店にいる武田が事業を采配していた。なにしろ従業員がそれなりにいるから、右から左に閉めるわけにも行かない。おそらくは徳次郎の娘婿か兄弟の誰かが工務店も、その親会社になる安森工業も継ぐことになるのだろう。
「やっぱり、それで?」
「それでというわけじゃありません。工務店のほうは番頭の武田さんが面倒を見ているし、別に徳次郎さんが亡くなったせいで忙しいわけではないんですが」
広沢は首を傾げた。加藤は苦笑する。
「……そもそも、このところ墓地の整理が多いですからね」
ああ、と広沢も長谷川も、気まずげに呟いた。
「それで手を取られがちなところに、小さな造作が多いらしくて。雨戸やサッシの施工が多いんです」
「――え?」
問い返してきた長谷川に、加藤は苦笑する。なぜ自分がこんな複雑な笑い方をしなければならないのか、それは加藤自身にもよく分からなかった。
「どうも近頃、みんな戸締まりに気を配るようになったみたいですよ。それが流行みたいです。古い雨戸を取り替えたり、窓をサッシにしたりする人が多いんです。鍵の取り付けですとかね」
「そう――ですか」
広沢もまた、加藤と同種の複雑な笑いを浮かべた。そういえば、と長谷川は首を傾げる。
「うちの隣も造作してたな。玄関の工事をしましてね、昔ながらのガラス戸をドアに変えたんですよ。……そうか、そういうのが流行ってるんですね」
加藤は頷いた。
「そのようです。家の中の襖をドアにしたり、窓をつぶしてしまう人もいますよ」
「窓をつぶす?」
瞬いた広沢に、加藤は頷いた。
「この村は、どうなってしまったんでしょうね」
家の外を徘徊する何かに怯えているよう。それから身を守ろうとしているような。それぞれに訊けば、古くなったから、建て付けが悪いから、子供が年頃になったから、とそれなりに妥当な理由がありはするのだけれども。
「……まるでみんな、家の中に立て籠もる準備をしているみたいです」
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静信は尾崎恭子の通夜を終えてから、聖堂に向かった。暗闇と静寂、祭壇には神の姿はなく、崩壊に瀕した空洞があるだけだった。少し待ってみたが、近づいてくる足音はなかった。
恭子の姿を見るのは、いたたまれない心地がした。敏夫の憔悴した顔を見るのも、同様にいたたまれなかった。かける言葉もなかったし、言葉をかけられることもなかった。静信も敏夫も、短い儀式の間中、儀礼的な言葉を交わしただけで、目を合わせることさえしなかった。
憔悴した姿を見れば、哀れに思う。実際のところ、敏夫は夏以来、過酷な状況におかれてきた。患者に追われ、ろくに休む暇もなく、無為に犠牲者を看取ってきたのだ。恭子に付いていた数日は、かつてないほどの心労を敏夫に負わせただろう。憔悴しているのも無理はない。――だが。
敏夫は恭子を実験材料に使ったのだ、と思う。それを忘れることはできなかった。自分の妻が死んだのに、甦生する可能性に賭けて死を秘匿した。敏夫が一階で診療を行っていた間、二階には恭子の死体が横たわっていたのだ、と思うと背筋が冷える。ましてや敏夫は甦生した恭子を生かしておく気もないくせに、甦生を待って死体を観察していたのだ。
そう――敏夫は、甦生しないかと思って、と答えた。甦生することを期待して死体を隠匿したのだが、それは甦生した恭子を救うつもりがあったからではない。敏夫はもとより心を決めている。屍鬼は敵であり、生かしておくことはできないのだ。端から殺すことを想定して、恭子の甦生を待っていた。そして甦生したと見るや、採血して血液を調べ、さまざまな薬物を投与し、どうすれば効果的に殺すことができるのかを実験したのだ。妻であった女を使って。
敏夫の行為は蛮行に等しい。あの手術室の中で何が行われたのかを考えると背筋が冷える。敏夫には正義と確信があっての行為だろうが、静信には常軌を逸して見えた。それとも、そう思うのは静信だけなのだろうか。
屍鬼という存在がなく、しかも村を救うのだという大義名分がなければ、敏夫の行為は狂気の末の暴挙にしか見えないだろう。いや、それがあってさえ、静信にはそうとしか見えない。何の罪悪感も抱いてないふうだった敏夫の感性を理解することができなかった。
そこまでする必要があるのか、と思う。妻だった女を生体実験に供してまで、打ち払う方法を模索しなければならないのか。屍鬼が人を襲うことは、それほどのことなのか、という気がした。そう――敏夫も言ったように、それは屍鬼にとって必然なのだ。人を襲わなければ自身が飢える。屍鬼は肉食獣と同義だ。命を狩って自分を生かす。だからと言って肉食獣を、肉食であるがゆえに悪と断じることがどうしてでるだろう。
だが――と、犠牲者のほうに目を転ずれば、そこには理不尽で悲惨な死がある。犠牲者に対して、ライオンが獲物を狩るようなもの、これは自然の摂理だ、と言うことができるとは思えなかった。
――自分の手を汚したくないだけだろう。
敏夫の言は正しい。静信は殺戮者になりたくないのだ。屍鬼に対して鷹揚でいられるのは、自分が屍鬼ではないから、彼らの殺戮が対岸の事象だからだ、という敏夫の指摘も、おそらくは間違っていない。
けれども、と静信は懐中電灯の薄明かりの中、空洞の祭壇を仰いだ。
祭壇には神がいない。良きことを指し示すことはない。静信自身が見つけなければならないが、立ち|竦《すく》んだまま動けない。
こんなところで竦むのは、おそらく静信だけなのだろう。その意味でも、確かに静信は異端者だった。
良きことを模索していても、それに辿り着くことができない。良かれと思っても、良かれとは判断されない。荒野をさまよう彼が、最善の供物を探して捧げたにもかかわらず、神が契約に背いた彼の真意を理解しなかったように。静信と世界とは、そのように隔絶されていた。
鬱々と考え込み、来たときよりもいっそう鬱々とした気分で夜道を戻った。
物音を聞いたのは、ちょうど墓場にさしかかったところだった。前方を誰かが横切った気がした。いや、誰かが静信の姿に驚き、身を隠したのを見たように思った。
静信は懐中電灯の明かりを向ける。枯れた秋草が夜風にそよぎ、墓所に植えられ境界線の役割をする樹木が黒く|蹲《うずくま》っている。
あの辺りだった、と光を向けた間近に、真新しい外場が立っている。結城夏野の墓だった。その根本には、小さな花束が置かれていた。明らかに真新しい。ついさっき誰かが供えたばかりのようだった。
どれもその辺りから摘んできた野草ばかり。それが夜のうちに供えられている。この村で、夜の墓地を恐れないのは何者だろう。何のために、わざわざ夏野の墓前に花を供えていくのだろう。
「……誰です?」
静信は暗闇に向かって呼びかける自分の滑稽さを理解していた。
「誰かいるんでしょう?」
暗闇の中、返答はない。立ち枯れた草が風にそよぎ、乾いた音を立てている。
「御礼を言います。夏野くんもたぶん、喜んでいるでしょう。……けれども、昼間にしたほうがいい。それとも夜でなければ墓参できないのですか」
ふいに微かな声がした。一瞬、静信はそれを小動物の泣き声のように思ったが、断続的に続く声で、それがまぎれもなく人間のものであり、しかも懸命に何かを|怺《こら》えようとしている声であることを悟った。
「どなたです? 夜道は危険です。なんなら、お宅まで送っていきますが」
駄目です、と微かな声がした。静信は知らず、息を呑み身を硬くする。
(出られない……行ってください)
「若御院、行ってください。おれを見ないでください」
静信はいつの間にか詰めていた息を吐いた。それは確かに人の声で、まぎれもなく声帯を有する肉体から発された音だった。意思の疎通が可能な誰かが暗闇に潜んでいる。その人物はそして、格別、静信に害意を抱いているわけではない。
「どなたです?」
静信は重ねて訊いた。その声は若い。どこかで聞き覚えがあるようにも思ったが、具体的な顔は思い浮かばなかった。
「夜は危険です」
「おれは夜にしか出歩けないんです、もう」
「出ていらっしゃい」
「駄目です……とても顔を合わせられない」
「なぜです?」
暗闇からは、微かに嗚咽めいた声が聞こえた。
「……夏野を殺したのは、おれだからです」
静信は、はたと思い至った。
「きみは――ひょっとして武藤さんの」
「その先は言わないでください。できたら、忘れてください。少なくとも親父やうちの家族には何も言わないでほしいんです」
静信は頷いた。
「……分かりました」
「若御院は驚かないんですか。おれが怖くない?」
「そうですね……怖くはないです」
そうか、と彼は呟く。
「お願いですから、親父たちには何も言わないでください。おれも、もう来ません」
「約束します。きみのことは忘れることにする。わたしのほうが墓地に近づかないことにします」
だから墓参をやめる必要はない、と言いたかったのだが、彼は啜り泣くような声を漏らした。
「もう来ません。夏野に詫びたかったのも本当だけど、実はおれ、待っていたんです。夏野が起き上がらないかと思って。……でも、たぶん夏野は起き上がらない。もう駄目みたいです。今になっても起き上がらないなら、夏野はたぶん死んだままなんだ」
彼は微かに泣き声を漏らした。
「おれが殺したんです。もうこの世のどこにも夏野はいない。永遠。……そうしたのはおれだ。分かってるんです。でもおれは、夏野がいなくなったのが悲しい。すごく悲しいんです」
「分かります」
静信が言うと、彼は密かな声で泣いた。
「弟がひとり増えたみたいな感じだったんですよ、若御院。あいつ、ひねくれたとこもあったし生意気なことも言うけど、いい奴だった。でも死んじゃったんです。おれが殺したから。殺したくなんか、なかったんです。でも、夏野を襲わないと、妹や弟を襲わせる、って言われて……」
静信は黙ったまま眉を顰める。
「おれはあんなこと、したくなかった。けど、仕方なかったんです。連中はそういうことを平気で命じる。どんな酷いことだって気にしないんだ。でも、おれはもうそういう連中の中まで、連中に色々助けてもらわなきゃ、どうにもならないんです」
微かな嗚咽が風音に混じる。
「鬼なんです、本当に。憐れみなんてぜんぜんない。あんな連中、ひとり残らず死んでしまえばいい。本当にそう思うんですよ、おれ。けれども自分もその仲間なんです。おれだって同じように夏野を襲って殺した」
「そう強要されたのでしょう?」
「そうです。おれは家族を守りたかった。だから夏野を襲いました。けど、そうやって言い訳しても駄目なんです。……だって今だって別の人を襲ってきた帰りなんだから」
静信は息を呑んだ。
「情けない話でしょう? おれ、夏野の墓参りに来て、殺して悪かったって思いながら、それを命じた連中を怨んでいながら、他の人間を襲ってるんですよ。そんなこと、すまいと思ったんです。夏野は仕方なかった、けれどももう命じられてるわけでも脅されてるわけでもないんだから、これ以上は人殺しはすまいと思ったんです。でも、腹が空くんですよ。――笑っちゃうでしょう? ものすごく腹が空くんですよ。なんか喰わないと死んでしまう、と思うんです。我慢できなくて自分から殺しに行ったんです」
静信は思わず項垂れた。
「腹が空くと、人殺しが何だ、という気分になってしまうんですよ。どうせ夏野だって殺したんだから、って。襲ってすごい、後悔したけど、だからもうやめようと思うんだけど、続けて襲わないと相手が正気に返って、誰から何をされたのか吹聴するぞ、って言われて。知られたくないんです、おれ。親父やお袋にこんなふうになってること。誰にも知られたくない。バレちゃうと、親父やお袋だってみんなから責められるでしょう? そういう目には遭わせたくない。そう思うと、続けて襲うしかないし、そうすると相手を殺すことになっゃうんです」
「それは……きみのせいじゃない」
屍鬼は人を襲わなければ生きていけないのだから。捕食者とは、そういうものなのだから。にもかかわらず彼の良心は死んでいない。生命としての在り方は根本的に変わっているのに意識は変容していないのだ。これは――あまりに惨い。
「おれは脅されて夏野を襲いました。けども最近、本当にそうなのかな、と思うんです。連中は夏野を襲わないと、おれの家族を襲わせると言った。連中はそういうことをして喜んでるんです。おれが夏野と仲良かったの知ってて、わざわざおれに命じる。おれはそれに逆らえなくて言いなりになったけど、家族を守るんだって自分に言い訳したんだけど、別にだからって他の連中が親父たちを襲うの、止められるわけじゃないんです。おれが守ってやれるわけじゃない。おれが他の人を襲うみたいに、他の仲間が襲うのかもしれない。それを思ったら、外場を出て逃げろ、って言うしかないんだけど、逃げろって言えば済むことなら、夏野を襲う前にそうすれば良かったんだ」
「それは……」
「そうしなきゃいけなかったんですよ、若御院。でも、おれはそうしなかった。脅されて夏野を襲ったけど、実は違うんじゃないかと思う。おれはきっと分かってたんだと思うんです。誰かを襲わないと生きていけないってこと。おれそは人を殺さないとやっていけない。他の仲間もそうなんです。外場にいる限り、襲われるんです。夏野だっていつ誰に襲われるか分かったもんじゃなかった。どうせ殺されるんなら、どうせ殺すしかないなら、自分が殺したほうがましだと思った気がするんです。少なくとも、どうせ殺すしかないなら、見ず知らずの他人じゃなく、おれのこと知ってる相手にしたかったのは確かだと思う」
言って彼は、自嘲するような笑いを漏らした。
「甘えてるんですよ。知り合いで、仲良かったから。赤の他人に酷いことするなんて、許されない感じがするじゃないですか。でも、夏野は弟分だから。他の人なら許されないことでも、許されるような気がしたんだ。けれども、だったら親父を襲いに行けば良かったんですよ。弟でも妹でも良かった。でも、家族に酷いことをするのは、それはそれで許されない感じがするから。だから、夏野を襲ったんだ」
彼の乾いた笑い声は、細く続いてやがて嗚咽めいた音色に変じた。
「そうやって殺しといて、起き上がってくれないか、毎晩、確認に来るんです。おれは夏野に死んでほしくない。夏野が可愛いからです。けどもこれだって違うんだ。夏野が甦って、死なないでいてくれたら、おれが夏野を殺したことだって帳消しになるから。夏野の存在がこの世から消えないで残れば、おれは夏野を襲ったことになっても殺したことにはならない。だから甦ってほしかったんですよ。……おれは、そういう奴なんだ」
それは人間ならば当たり前の真情だ、静信はそう慰めたかったが、言葉にはならなかった。当たり前だ、だから気にせずに襲い続けなさい、と言うのか? そんなことを勧められるはずもなく、だとしたら慰めには意味がない。
「本当は、甦らなくていいんだ。おれみたいな化け物になっちゃいけない。けども夏野が甦らないとおれは人殺しで、そしたらもう墓になんか来られる義理じゃないんです。本当に死んでしまわないでくれなんて、言う資格ない。ここでもおれ、夏野に甘えてるんですよ。あいつ、最後に窓を開けといてくれたから」
静信は闇を見つめる。
「ごめん、って言ったら、仕方ないって。だからおれ、墓に来ても許される気がして。でもおれは、そういうふうに言ってくれる奴を死なせたくない。死なせるの、惜しいと思うのに、殺したのはおれなんです」
静信は重い息を吐いた。彼の思考は抜け出せない穴の中に落ち込んでいる。救いのない暗い穴だ。そして彼の存在が続く限り、そこから抜け出すことはできない。彼がそこから救われることがあるとすれば、良心も慈悲も――彼の彼たる所以を全て放棄して、殺戮に心を動かされなくなったときだけであり、そうなればもう彼の人格は消滅するに等しい。
静信は息を吐いた。
「人が存在し続けるということは、それだけで悲しいことですね……」
「本当に、そうです」
彼は言って、そして闇の中、下生えを掻き分ける音がした。彼の気配は遠ざかっていく。やがて風音のなかに紛れて消えた。
静信は深い溜息をつき、そして寺務所に戻って原稿用紙を広げた。
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それが罪であることを彼は知っていたし、その罪によって、自分が秩序から受け入れられないのみならず、完全に拒絶されるだろうことを、理解していた。神は彼の罪を見逃さず、彼の罪を赦さないだろう。彼は裁かれ、楽園を追われる。
事実、彼はそのようにして、荒野に放逐された。
故郷を失い、神を失い、秩序に受容される可能性を失った。弟を失い、世界を失い、彼には苦吟と悔恨と呪いしか残らなかった。弟を屠ることで、彼が得たものはなかったし、救われるものもなかった。
誓って、お前を殺したいわけではなかったのだ。
彼は前方の、すでに薄闇に覆われた虚空に向かって叫ぶ。それに応えるように、遠方に蒼く鬼火が点った。
彼は引き寄せられるように歩み寄る。鬼火に取り巻かれ、屍鬼がそこに立っている。
弟の目は、やはりじっと彼を見つめていた。どんな非難の色もない双眸が彼をひたと見据えている。
今や弟は絵の中の人物のようには見えなかった。弟の立つ荒涼たる大地、暗澹とした夜、その光景は、少しも絵のようには思われない。それは陰鬱な一枚の絵画であり得たはずだ。にもかかわらず、少しもそのようには見えず、ゆえに彼もまた絵を見る自分という隔絶を、|些《いささ》かも感じなかった。
緑の丘、周囲を取り巻く荒野。それは逆に言えば、荒野の中、丘は完全隔絶された異界だったということだ。荒野の中の異物、その異物の中にあって、彼はある種の異端者だった。だからこそかえって、荒野にあることがふさわしいのかもしれない。むしろこの流離の地においては、弟のほうが異物だった。
荒涼たる大地を流離う男の絵、――彼はひょっとしたらそういう暗澹たる絵の中に入り込んだのかもしれなかったし、その絵を見ているのは弟のほうなのかもしれなかった。絵の中の住人にとって、鑑賞者は屍鬼となった弟のように異物感を感じさせるものなのかもしれない。ひょっとしたら、緑野に立つ弟を見守っていた彼は、弟の目からすると屍鬼のように見えていたのだろうか。
緑野に立つ弟の姿は、記憶の中にあってさえ彼を打ちのめした。もはや丘を追われ、戻る術もないというのに、彼のなかにはその絵の中に入りたいという焦燥が満ちた。
彼が弟に対して凶器を振り上げたのは、実はそうやって絵を破壊することによって、ひと思いに自分の苦吟と焦燥に終止符を打ちたい、という衝動によるものだったのかもしれない。
真実、世界から切り離されてしまえば、彼は完全に世界を喪失する。しかしながら少なくとも、彼はそれによって、なぜ自分が世界に受容されないのだろう、という苦吟からは開放されることになった。
世界が彼を拒むのは、彼が罪人だからだ。
なぜ、と理由を考えるのは、それを解き明かすことによって世界に受容されるのではないかという期待を捨てられないからに他ならない。期待を捨てられないにもかかわらず、それが依然として遠いことに苛立つのだ。
彼は弟を屠った殺戮者となることで、彼自身のなかに完全な絶望という、ひとつの安定を作ろうとしたのかもしれなかった。
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元子が目を覚ますと、枕許の時計は午前二時を過ぎていた。慌てて布団を跳ね除け、身を起こした。
身につけているのは部屋着のままだ。娘の志保梨が倒れて以来、元子はそうして寝間着に着替えることもないまま、座敷の隣で寝起きをしている。志保梨は座敷に寝かせてあった。部屋の襖は一枚だけ開いたままにしてある。そこからスタンドの明かりが点った座敷と、そこに展べた布団に横たわる志保梨の姿が見えた。
寝過ごしてしまった。十二時には交代するから起こしてくれと、姑の登美子に頼んでおいたのに。座敷にはいると、登美子は志保梨の枕許で眠っている。元子は何となく溜息をついた。
「お義母さん、代わりますから、起きて寝に行ってください」
軽く登美子を揺すったが、座布団を枕に横になった登美子には反応がない。とりあえず登美子はそのままに、志保梨の顔を覗き込んだ。
志保梨は小さく、喘ぐように唇を開いていた。小さな顔は血色が悪く、古びた紙のような色艶をしていた。長い睫毛は固く閉ざされている。その寝顔がいかにもいたいけで、元子は胸が痛むのを感じる。これほど幼く頼りなく、しかも愛しい。
そっと手を伸ばして小さな頬を撫でた。熱は下がったようだった。安堵して、元子は異常に気づいた。あまりにも呼吸が静かすぎはしないだろうか。
まさか、と思った。気のせいだわ。
思い過ごしを確認するために手をかざして志保梨の鼻先に持っていった。呼気は感じられなかった。
喉の奥で声にならない悲鳴がつかえた。吐き出せなくて息が詰まる。
指先で探り、耳を寄せてみる。軽く頬を叩き、身体を揺する。
元子は登美子を振り返った。
「――お義母さん!」
登美子を揺すり、胸を叩いた。登美子のほうは安らかな寝息を立てていた。
「お義母さん! 起きて!」
元子の登美子を揺する手は、次第に荒くなった。襟首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、力任せに揺する。
「なんで寝てるの! どうして起こしてくれなかったのよ!」
登美子がうっすらと目を開けた。
「起きなさいよ、何を暢気に寝てるのよ! あたしが代わるから起こしてって」
「なに……」
登美子は寝ぼけた声を出す。異常を察知した様子がなく、眠そうにまた目を閉じた。元子は息が詰まった。揺する手が勢い余って登美子の頭を座布団に打ち付けた。
「起きなさいよ! 寝ぼけてるんじゃないわよ、志保梨が――あんたのせいで!」
元子は襟首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだまま登美子の頭を引き上げ、座布団に叩きつける。登美子は呻き、顔を歪めたが、抵抗するでも悲鳴を上げるでもない。悲鳴を上げたのは元子のほうだった。
「この糞婆ァ、志保梨を死なせたわね!」
元子は登美子を投げ捨て、志保梨の身体を掻き抱いた。志保梨、と叫んで泣き崩れる。
登美子は呆然としたように身を起こした。元子と孫を、怪訝そうに見た。首を傾げ、緩慢な動作で首筋を掻いた。
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十四章
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二十二日、早朝。安森和也は異様な物音を聞いて目を覚ました。飛び起きてみると、隣に寝ていた妻の淳子が痙攣している。慌てて救急車を呼んだが、共済病院に到着するまでもなく、妻は死んだ。急性心不全、と診断された。
安森厚子は嫁の急死に自失しながらも、どこかでひとつの言葉を反芻していた。伊藤郁美が言った「起き上がり」という言葉が忘れられない。何かがいる。それが自分たちの死を望んでいる。それは夜に現れる者で、鬼のような種類の何かだ、という気がしてならなかった。それは分家の人々を食らい尽くし、いよいよ厚子の家に忍び込んできた。これから鬼は厚子の周囲で猛威を振るい、厚子の家庭を根こそぎ破壊するだろう、という予感がしてならなかった。
(そんなはずはないわ……)
起き上がりだなんて。そんなものを信じるのは、郁美のような狂信者だけだ。そして、郁美の糾弾がどんな茶番に終わったか、厚子だって知っている。
だが、厚子は嫁の遺体を連れて村に戻りながら、車の窓から見た村の風景に、どこか禍々しいものを感じないではいられなかった。死んでいく人々、村を捨てて出ていく人々。対するに、やってくる余所者たち。多くは駐在の佐々木のように得体が知れず、兼正のあの住人のように、姿を見かけることがない。いるはずなのにいない新住人、そこここにできた空き家と、そこに潜む暗闇の気配。村の中に侵入し、あちこちに潜んでいる「死」。
(鬼だなんて、あり得ない)
厚子は自分にそう言い聞かせる。絶対にそれだけはないと断言できる。
(けれども……)
工務店では死に事が続いた。厚子の家でも死人はこれで義一に続いて二人目だ。別に迷信じみたことを信じるわけではないものの、何となく験が悪い気がすることは確かだ。
そう――今度、チャンスがあったら、溝辺町に行って神社に参拝し、お祓いをしてもらおう。単なる気休めにすぎないが、気休めには気休めなりの意味があるものだ。
思っていると、夫の一成がぽつりと言った。
「淳ちゃんの葬儀は、どうするかなあ」
どうするって、厚子は瞬いた。一成は憂鬱そうにハンドルを握って前方を見ている。
「どうも最近、いろんなことを|蔑《ないがし》ろにしてきた気がするるんだよ。考えてみれば、仏事も神事も機械的にこなしていた気がする」
「そうね――本当にそうだわ」
「やっぱり身は慎まんとな。だから淳ちゃんの葬式もそれなりにきっちりしてやりたいんだけどな。ただ、淳ちゃんは外場葬儀社と契約したとか言ってたろう」
厚子は渋面を作った。そう、淳子は何を思ったのか、尾崎医院にはかからず、江渕クリニックに自ら行き、そしてそこで外場葬儀社の契約書に判をついていた。厚子は前を行く息子の車に目をやる。息子の和也もそれを聞いて驚いていたが、厚子らも驚き、狼狽した。縁起でもない、と思ったし、契約によれば無宗派葬儀だという。僧侶を呼ばない、ということらしいが、寺との関係からいってもそんなことができるはずがなかった。
「なあ。淳ちゃんのやりたいように、やってやったらどうかなあ」
「そんな、まさか」
「でも叔父さんの葬儀がああだったろう。若御院しか来れなくてさ。寺も手一杯なんだよ。それを考えると寺に頼むのも悪いし、ああいう寂しいことになるのは淳ちゃんが可哀想な気がしないかい」
「……そうねえ」
「葬儀社の葬式は変わってるらしいが、なんでも、何もかもやってくれるそうだよ。そうしたら、おれたちも余計なことを考えずに淳ちゃんのことだけ考えてやれるってもんじゃないかな」
そうかもしれない、と厚子は思い、手の中の死亡診断書が入った封筒に目を落とした。土葬にする村では、出張所のほうに届けを出さないと埋葬許可が下りない。もう何度、同じものを提出し、同じ書類を受け取っただろう。何度、辛く神経のすり減る儀式を執り行っただろう。正直に言うなら、このところの葬式続きで、厚子ももう葬式には辟易していた。淳子の死を軽んじるわけではないが、何もかも人に任せられるものなら任せて、ただ可哀想な嫁のことを追慕してやりたい、という気がした。
「そうね。……和也に相談してみましょう」
「うん。――なあ、淳ちゃんの葬式が終わったら、八幡さまに参拝に行くか」
厚子は力を込めて頷いた。
「ええ、それがいいと思うわ」
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二十二日は、爽やかと呼びたいような秋晴れの一日なった。律子は喪服に着替えて家を出る。尾崎家も喪の装い、参列者も陰鬱な白と黒。まありに見慣れた、まるで村の一部であるかのようなその光景。
応接間に行って、スタッフと会い、今日の仕事の分担を決める。座敷に顔を出して敏夫に挨拶をしたが、敏夫の顔色は昨日よりもずっと良かった。とはいえ、憔悴の色は拭えていない。どこか気落ちしたふうでもあり、虚脱しているふうでもあった。
「身体は大丈夫ですか?」
律子が訊くと、苦笑めいた笑みを零す。どこか皮肉な色の漂う、いつもの通りの笑みだった。
「死にゃあしないだろう。おれたみいなのは長生きすることになってるんだ」
そうですね、と律子は呟いて笑った。
「だがまあ、これなら診察室に詰めているほうが楽かな。早く拷問に終わってほしい気分でいっぱいだよ」
相変わらずの言いように、ひっそりと微笑んで持ち場に戻った。駆けつけてきた恭子の両親が泣き崩れているのが哀れだった。
武藤と妻の静子が受付に立ち、律子らは応接室に控える。聡子の姿が見えなかった。
「やすよさん、聡ちゃんは」
「来てないわねえ。ひょっとしたら、今日は来ないかもね」
そうね、と清美は溜息をつく。
「昨日の様子からすると、そうかもねえ。ひょっとしたら聡ちゃんもやめるのかしら。寂しくなるわね」
「まさか……」
律子は言ってみたが、やすよも清美も、もうそれを覚悟しているふうだった。
「先生には先生の事情があるんだけど、聡ちゃんにしたら、堪らないでしょ。雪ちゃんとは仲が良かっただけに。奥さんもああで、村の人ともいろいろあって、きっといっぱい屈託ができちゃったと思うのよね」
清美が言うと、やすよも頷く。
「思うところはあるだろうねえ。これが普通の状況だったらさ、給料のためだと思って我慢するんだろうけど。でも、仕事はあの有様でしょ。わざわざ実家を離れて休日を返上して、危険を承知できつい仕事をしてたわけだし。いろいろ思うところができて、それでもあれを続けられるかっていうと、やっぱりねェ」
「……そうですね」
「聡ちゃんはそもそも、村の人間じゃないしさ。これまでだって、良くやってくれたわよ。でも、さすがにもう嫌気がさしてるんじゃないかしらねえ。そうだとしても、責めるわけにゃいかないわよね」
律子は頷いた。仕方ないこととは思いつつ、心寂しい。大切なものを喪失しつつある、という気がしてならなかった。孤立していく。いろんなものから切り離されていく。
脳裏に国道が浮かんだ。朝霧のなかに消えていく道の先に存在するのは、あの夏の日に律子が手にしていた「日常」だった。
喪服を着た人の群が、北へと向かって流れていく。タツはそれを店先から眺めていた。
ついに尾崎医院でも葬式だ。つい先日は田茂でも葬式があったらしいし、それはとうとう村の中枢に到達した、という感じがした。
「尾崎でも葬式だなんてねえ」
弥栄子は感慨深げだ。そうだね、と武子は葬式に向かう人々を目で追う。妙な沈黙が降りたところに、笈太郎がやってきた。
「タツさん、タツさん」
笈太郎は勢い込んでいる。
「伊藤の郁美さんが消えたって聞いたかい」
「いや」タツは目を見開いた。「消えたって。いなくなったのかい? そういや、近頃、姿を見かけないけど」
「そうなんだってさ。いやね、おれも郁美さんの姿を見かけないが、どうしんだろうと思ってね。行ってみたら家が蛻の殻なんだよ。近所の者の話じゃあ、どうやら一週間ほど前に親戚の家に行くとか言って出ていったらしいのさ」
タツは瞬いた。
「兼正に直談判に行った、その頃じゃないか」
「うん、そうみたいだよ。その翌々日から姿が見えないらしいからね。娘の玉恵さんが残ってて、親戚のとこに行ったって、そう言ってたらしいんだが」
「あんな騒ぎをしでかして、村にいられなくなったのねえ」
弥栄子が溜息まじりに言う。武子が肩を竦めた。
「あの人がそんなに殊勝な性分だとは知らなかったわ」
「さすがの郁美さんでも、恥ずかしくていられなくなったんだろうなあ」笈太郎は言う。「時期が時期だけにさ、親戚の家に用があって、ってのは怪しいと思うよ、おれは。でも、つい一昨日だかに、玉恵さんも母親のとこに行くっていって出ていったらしいけどね」
「あらまあ」と、弥栄子は嘆息する。「そりゃあ、寂しくなるわねえ」
武子が鼻白んだように弥栄子を見た。
「なによ、あんた、嫌ってたくせに」
「そうだけど」
タツは眉を顰めた。郁美の親戚の話というのは、聞いたことがない。いないわけではないだろうが、疎遠なのではないだろうか。兼正に押しかけた、その翌々日、というところが気になった。別段、村の者が姿を消すのは、近頃では珍しいことではないものの、妙にタイミングが良くはないか。
(こりゃあ……)
タツは葬儀に向かう人々を見つめた。
郁美は恥をかいたからといって、姿を隠すような女ではない、と思う。恥だと思えば、その恥を隠すためにいきりたつ、そういう女だと、タツは了解していた。
(只事じゃないかもね)
兼正に押しかけて、住人を吊し上げた。そして姿を消した。ひょっとしたら兼正の住人に何かをされたのかもしれない。あれ以上、妙なことを言わないように。――なぜなら、郁美は正しかったから。
タツは笈太郎たちのほうをチラリと見た。これは口に出さないほうがいいだろう。想像にしかすぎないし、もしも当たっていれば、今度はタツが姿を消すことになる。
登美子の様子がおかしいのではないか、――そう気づいたのは加奈美だった。
志保梨の通夜だった。立て続け、三度目の葬儀に、元子の親族たちは暗澹とした顔をしている。通夜にやってきた溝辺町の僧侶も、怪訝な顔をしていた。元子は身も世もなく泣き伏したまま、その側に坐った登美子は精彩を欠いている。気落ちしているのは当然のこと、虚脱しても無理はないと思えたが、それにしても妙に茫洋とした顔をしているのが気になった。孫の通夜が行われていることを、理解していないようだ、と思う。
精神的な衝撃を契機に、老人がボケ始めるという話もあるが、ひょっとしてそれだろうか、と思った。そう疑いたくなるほど、登美子は反応が鈍く、感情も摩耗しているように見えた。
「ねえ」加奈美は、元子にそっと訊く。「お義母さん、大丈夫なの? 何か変じゃない?」
元子は頭を振ったが、そもそも加奈美の言葉など端から聞いていない印象を受けた。
「ねえ、それより茂樹は大丈夫だと思う? 村を出たほうがいいかしら。もしも、茂樹にまで万が一のことがあったら、あたし」
泣きながら加奈美のスカートを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。これに対して、加奈美は答える言葉を持たなかった。いま、この村で他人の安全を保証できる人間がいるのだろうか?
沈黙する加奈美の顔を食い入るように見て、元子は泣き崩れる。
「酷いわ。あたしの子供なのよ。なのにどうして、誰もかれもあたしから奪っていこうとするの」
「元子、誰もそんなこと考えてないわ」
嘘よ、と元子は声を上げて泣く。加奈美はそんな元子の様子に危機感を覚えないではいられなかった。
「……茂樹くんを連れて、一度、村を離れたほうがいいかもね」
ぴくり、と元子は顔を上げる。加奈美は微笑んだ。実家にでも帰ってみれば、と勧めたいところだが、あいにく元子は村の出身だ。両親はもういないが、兄が村に残って家を継いでいる。
「……やっぱり、そう思う?」
「別に、誰かがどうこうという話じゃないわよ。でも、元子もいろんなことがあったし、少し落ち着いて気持ちを整理する時間が必要だと思うの。親戚の家にでも行って、しばらくぼうっとするのがいいんじゃないかしら」
そうね、と頷き賭け、元子は急に顔を歪めた。
「――でも、駄目よ。できない。そんなこと、させてくれないわ、お義母さんが」
「言ってみるだけでも、言ってみたら?」
駄目、と元子は怯えた顔をした。
「……駄目よ。そんなこと、できない」
「なぜ?」
問いかけたが、元子は拒むように頭を振る。駄目、と頑是無く繰り返した。
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大川は憮然として斎場に坐っていた。派手な祭壇はスポットライトで照らされ、妙な音楽が流れている。速見が粛粛と「別れの辞」なるものを述べていたが、ひどく上滑りで軽薄なものに思えた。
それ以上に大川を憮然とさせるのは、集まった人々の奇異の目立った。客は一様に夜間の葬儀に怪訝な顔をしている。その内実がこれなのだから、どれほど呆れているだろうと思うと腹が立った。尾崎が葬式だから、と誰もが納得し同情めいた顔をするのも気に喰わない。なぜ息子を失ったうえ、こんな屈辱を忍ばねばならないのか、と思えてならなかった。
「まったく、こんなみっともない……」
大川の後ろで母親の浪江が零している。好きで頼んだわけじゃない、と大川は気が荒れるのを感じた。口を開けば、尋常じゃない、恐ろしいと繰り返す使用人の松村。大川の顔色を窺うばかりで、何か言いたげにしながら口を開かない妻。それとは反対に、あんなろくでなしのためにひたすら悲しんで、奇妙な葬式にも会葬者の奇妙な目にも頓着する様子のない子供たち。親戚は大川を責めるような目で見ながら、しきりに首を捻っている。つい先月、地縁続きで葬儀があったばかりだから、こんなに葬式が続くなんて、と不安そうな心持ちだった。村はどうなっているのか、妙な噂があるが本当か、と従兄弟の大川長太郎などは盛んに言う。――そうやって誰もが自分のことにかまけ、大川の苦苦しい気分を忖度するふうでないのが忌々しかった。
苦虫を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みつぶした気分で式次第を耐える。弔問客に大川が謝辞を述べると、式は献花に移った。会葬者が白い花を棺の中に入れていく。一通りそれが済むと、いよいよ棺に蓋がなされて、遺族に石が渡された。棺に釘を打っていく。
大川は早く終わってほしい一心で釘を叩いた。息子との別れ、などという感慨は、身の置き場のない羞恥と苛立ちに消し飛んでいる。
「それでは、いよいよお別れでございます」
速見が意気揚々と言って、すると会場にはわずかにスモークが焚かれ、棺は台の下へと沈んでいった。大川は辟易すると同時に、こんな茶番もあと少しだ、と安堵する思いがした。
出棺だと促され、大川は会葬者の後について会場を出る。斎場の裏手にあるホールで待っていると、二枚扉の向こうから粛々と白布に七条袈裟を掛けられた棺が運び出されてきた。会葬者に蝋燭型のライトが手渡される。大川が棺を載せた輿の引き綱を取り、豊を筆頭に親族の男たちが輿を担ぎ上げた。かず子は遺影を抱き、浪江と瑞恵が花束を持って葬列は前に進み始める。大川の家の墓所は川を渡った水口から東山に入ったところにある。上外場にある斎場から、途中、村道を通って二之橋までを進まなければならないのが苦痛だった。道路際に立った人々が、奇異の目で葬列を見送っているのがよく分かる。
橋を渡り、山の中に入ってようやく息をついた。林道を逸れ、舗装していない杣道に入ると暗いだけに足場が悪い。杣道の両脇に照明が幾つか据えられていたが、あまり助けにはなっていなかった。
輿を抱えている連中が転ばなきゃいいが、と思ったとき、背後で豊の小さな声がした。引き綱を後ろに引かれる感触があり、とっさに大川は振り返って輿に手を伸ばす。後ろざまに転びそうになった豊らは、踏みとどまろうとした反動で前のめりになり、輿がぐっと大川の身体にのしかかってきた。大川はそれを懸命に支える。棺を落とすような無様な真似だけはどうあってもしたくなかった。
輿はかろうじて持ち堪えた。安堵の息が周辺から漏れる。もう墓所は目の前だった。
大川も安堵し、手の中の引き綱に目を落とした。よく持ち堪えた。――だが、妙に輿は軽くはなかっただろうか。
輿そのものの重さがあり、棺そのものの重みがある。棺そのものが存外に重いものだ。そこに体格の良い篤が納まっている。大川自身も巨漢だから、弔組に出ると、輿担ぎに駆り出されることが多い。このところ葬式も続いていた。身体で輿の重みは知っているが、それにしては、どうも輿が軽いように思えてならなかった。
(まさかな……)
大川は頭を振る。
あと少しの辛抱だ。それでこの、忌々しい儀式が終わる。
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電話が鳴っている。
結城はその音に気づいていたが、じっと息子のベッドに坐り込んだまま、それをただ聞いていた。
おそらくは広沢か、そうでなければ武藤だろう。二人は再三、結城の様子を見に来てくれたし、頻繁に食事にも誘ってくれたが、結城には出かける気がしなかった。工房は閉めたまま、広沢や武藤に引きずり出されるのでなければ、二人が差し入れてくれる弁当で過ごす。葬儀の日からずっとその状態で、二人は何度も梓に連絡を取れと勧めてくれたが、もちろんそんなことをする気にもなれなかった。
梓がいなくなってみると、家の中の荒廃は早かった。梓がいる頃には、結城もそれなりに掃除をしたし、時には食事を作ることもあった。後片づけを手伝うことは頻繁だったが、もう自分ひとりだけなのだと思うと、何をする気にもなれない。居間にも台所にもゴミや酒瓶が堆積していき、いまやかつての整然とした様子を留めているのは夏野の部屋だけだった。ここだけは結城も投げ遣りに扱う気になれず、いきおい夏野の部屋で過ごす時間が増えた。家の中の荒廃を食い止めようという気には一向になれなかったが、やはり荒廃の直中にはいたくないらしい、と自嘲を込めて自分を振り返る。
息子を亡くした衝撃は大きかった。無為に手を|拱《こまね」いて死なせてしまった悔恨は深い。おそらくは梓に見捨てられたことも結城を意気消沈させているのだろう。支える相手も支えてくれる相手もないと、立ち上がる踏ん切りが見つからなかった。
それよりもなお、さらに結城を苛んだのは、葬儀の日、武藤保が漏らした一言だった。夏野は村を出たがっていた、と保は言った。結城はその時まで、息子がそれほど都会に戻りたがっていたことを知らなかった。それは日に日に結城の中で重く冷えた核となって育っていった。ことに息子の部屋にいて、中断されてしまった様々なことを目にするにつけ、それは重く冷え固まっていく。
その意味で、息子の部屋にいるのも、結城にとっては辛いことだった。だがしかし、不思議に結城は夜になると、どうしてもここにいないではいられないのだった。
今夜も、薄暗い中に坐っている。ベッドの枕許にある目覚まし時計が――二度と持ち主を起こすことのない小さな機械が、未だに時を刻んでいる。その朧に蒼い光で、すでに日付が変わったことを知る。
これで何日が経ったのだろう。葬儀が日曜だったから、もう八日目に入った。
それだけの間、こうして坐り込んでいたわけだ、と結城は自嘲の笑みを零した。こんな状態でも不思議なほどはっきりと日付を自覚している自分がおかしかった。
(もう八日だ……)
いい加減に立ち直らなくては。広沢も武藤も心配してくれている。
もう踏ん切りをつけてもいいだろう、と自分に言い聞かせた。
「こうして坐っていても、夏野が帰ってくるわけじゃない……」
自分に向かって呟いた言葉は、思いもかけないほど深い喪失感を結城に突きつけた。それに狼狽え、そして結城は自分がそれを待っていたことを自覚する。
「……そうか」
結城は顔を両手で覆う。
自分はそれを待っていたのだ。そこに一縷の望みをかけて、自分は愚かにも夏野を土葬にした。ひょっとしたら、万が一、何かの奇蹟でもいい、夏野が起き上がって帰って来はしないだろうか、と期待して。
だが、今日まで一度も、何の異変もなかった。あるはずがない、起き上がりなど存在しないのだ。いくら待っても、夏野は帰ってこない。――永遠に。
それを納得して、結城はひとしきり泣いた。自分の手の甲を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みながら、村を出て行こうかと思う。結城はここで何も得なかった。全てを失った。
(だが、村には夏野が眠っている)
夏野を置いては出ていけない。強引に連れてきた。村に綴じ籠めた。こんな村に来なければ、おそらくは死ぬことはなかっただろう息子。その息子を村に残し、自分だけが出ていくことなど、できるはずがなかった。
結城はすでに、息子の死体によって村に結びつけられていた。二度と解くことはできず、この桎梏は死ぬまで結城をこの悔恨に満たされた場所に繋ぎ留めるだろう。
結城はそんな形で、自分があれほど望んでいた地縁を得たことを知った。やっと得たそれは、重荷でしかなかった。
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徹は山道を、足を引きずるようにして歩いた。徹が襲っていた老人は、今日の襲撃の途中で痙攣を起こした。おそらく、死んでしまうのだろう。
(また殺した)
罪を重ねていく――こうやって。
西山の斜面を登る途中で、一人の男に会った。村から引きあげてきた彼を、後藤田秀司というのだと、徹は仲間の噂で知っていた。この夏、村で最初に甦った男。年老いた母親を憐れみ襲って、殺したという自責の念でぼろぼろになっていった男。仲間の多くは、秀司に対して蔑む色を隠さなかったし、正雄などは露骨に軽蔑して邪険に扱っているようだったが、徹には彼の気持ちが良く分かった。自分の凶器で自分を刺して、それで束の間、酔った気分になり、そして退廃の中に落ち込んでいった。自分もできることなら、そうなってしまいたい。歯止めをかけるのは、そうやって常に千鳥足で歩く秀司が、そうなることでかえって殺戮に対する罪悪感を失ってしまっていることだった。罪の意識を逃れるために自傷する。だからもう罪の意識がない、そういうことなのだろう。徹もまた罪を忘れることを望んでいたが、さらなる罪へと無制限に踏み込むことは恐ろしかった。だから秀司のようになりたい一方、秀司のようにだけはなりたくない。
ふらふらと歩く男を、蒼褪めた視野の中で見送り、徹は黙々と歩く。西山の林道まで来たとき、徹は少しの間、迷った。このまま北山に向かって墓地に顔を出そうか、それともこのまま山入に引きあげようか。
おそらく夏野は甦生しない。そもそも甦生の望みがあれば、夏野はとうに山入に移されているだろう。だから彼は、平穏な眠りについたのだ。
もう行っても無駄だ、と思いながら、心のどこかで諦めることができなかった。徹は杣道を広い、北山にある寺の墓所へと行かずにおれなかった。あとわずかで寺に出る、ちょうどそこで待ち受けている人の姿があった。
その男が誰で、どういう存在なのか、徹たちはみんな分かっている。
「お墓参りかね?」
正志郎は薄く微笑んだ。この男は徹たちの仲間ではない。少なくとも彼は人だった。にもかかわらず、兼正の住人たちを庇護しており、そのことによって仲間として受け入れられている。
徹は俯いた。叱責があるだろうことは、覚悟していた。
「あまり寺に近づくのはどうだろうな。あそこの若御院は、我々の存在に気が付いているからね」
正志郎は、「我々」と言ったが、正志郎と徹は同一の存在ではない。
「……兼正に行きなさい。沙子が呼んでる」
徹は頷き、唯々諾々と踵を返した。墓場に通っていることを知られていたのだ。
兼正の住人からの呼び出しは、制裁を意味していた。佳枝の呼び出しなら叱責だけで済むが、辰巳の呼び出しなら制裁がつく。兼正に呼び出されるのは最悪だった。正志郎か、あるいは沙子から叱責があり、辰巳の制裁がある。場合によっては重大なペナルティが課せられた。それらを拒む権利は、徹たちにはない。罰を恐れて逃げ出せばどうなるか、誰もが嫌でも知っている。徹も一度だけ、逃げた仲間の埋葬に参加したことがあった。
捨て鉢な気分で兼正に向かい、まるで生のある客のように呼び鈴を押した。若い女の声が答えたが、その声に徹は聞き覚えがなかった。兼正に住む側近たち。徹らには、ほとんど接点がない。
通用口を開けてくれた女の顔に、徹は見覚えがあった。もともとは中外場にいた三村安美だ。初秋の頃、突然引越した三村家の家族のうち、安美だけが山入にいたが、最近、姿を見かけないな、と思っていた。都会に行ったのかと思っていたが、こんなところにいたのか、と思った。
「武藤ですけど。……桐敷の旦那さんに来るように言われて」
そう、と安美は頷いた。中へと招かれ、徹は通用門を潜る。ごくありきたりな「家」の顔をした建物に近づき、玄関から中へと踏み込んだ。
兼正の屋敷に来るのは初めてだった。いつか来ることになるだろう、という予感はしていた。広いホールに入って安美はすぐ脇の部屋を示す。
「そこで待ってて」
はい、と項垂れたまま、徹はその、応接室のような内装の部屋で所在なく立っていた。
ほんの少しして、食器の立てる微かな音がした。振り返ると沙子がコーヒーカップをふたつ、トレイに載せて入ってくるところだった。徹は密かに笑う。まるで、人間の客のようだ。応接室に通されて、コーヒーを振る舞われる。きっと沙子は、坐れというのだろう。
「坐って」
果たして、沙子がそう言って、徹は泣きそうな気分で笑った。沙子は怪訝そうにしてカップをテーブルに置く。徹はすでに通常の食物を受け付けないが、水分などは摂って摂れないこともなかった。おそらくは必要ないのだろうが、山入でも飲みもだけはふんだんに与えられる。人が集まったとき、そこにせめて酒ぐらいないと、居場所を見つけられないものらしい。飲んでも酔いはしないのだが、山入における酒の消費量は、決して少なくないと思う。
「……お寺の墓場に通っているんですって?」
徹は頷いた。
「あなたは、彼を殺したことに苦しんでいるのね?」
「当たり前じゃないか」徹は目の前の少女を見返した。「夏野は知り合いだったんだ。どうして、あんたたちは平気でいられるんだ。これは人殺しなんだぞ」
沙子は微笑んだ。どこかに翳りの含まれた笑みだった。
「屍鬼とは人を狩るもの。人に敵対するもののことなの。仕方ないじゃない、人を襲わなければ屍鬼は死んでしまうのだもの」
「でも」
「人だって生き物を狩るでしょ? 命を狩って生きながらえているんじゃない。それと同じことだわ。これは殺人じゃないわ。単なる生きるための手続きなの」
「人は家畜じゃない。牛や豚とは違う」
そうね、と沙子は目を伏せた。
「確かに人は家畜とは違う――違うように見えるわ。家畜は喋らない、悲しんだり喜んだりしないわね。――でも、本当に?」
徹は瞬いた。
「家畜だって死にたくはないのよ。自分の死から逃れたいと思わない生き物はいないわ。きっと、いない。だって『生命』は生存のための機械なんだもの。全ての生き物は生きる。生存のために生存しているの。なのに死にたくないのも、死ぬことを悲しむのも人間だけだと思ってる。違うわ。死の恐怖は人間だけに存在するんじゃないわ。そんなはずはないでしょ? ただ、人間には人間的な悲しみや恐怖でなければ理解できないだけのことなのよ」
「でも」
「危害を加えられたり加えられそうになれば、鶏や牛だって逃げるでしょ? 生き物は全て死にたくないの。本質的には草や木だってそうよ。だって生命は、生きるためにプログラムされてるんだもの。生命を維持して自分の分身を残すために存在しているの。それが生命というものが本質的に持っている性質のなのよ」
沙子は言って、花瓶に活けられた花を示した。
「あの花だってそう。生きるために存在しているの。そのために存在しているのに、生きることを妨げられるのは生命にとって悲劇だわ。その点に関しては、人も動物も植物も、何ら違いはないのよ。――あの花は切り花ね。切り取られてしまった。死に瀕しているわ。けれども水を上げて、花を維持してる。死に対して抵抗しているの。全ての生命がそう。死を恐れてる。死に対して抵抗するの。それを人間は自分たちのために踏みにじる。家畜を殺し、たかだか自分の目を慰めるだけのために、こうして切ってくるのよ。
あなたが今やっていることと、これまでやってきたこととの間には、何の違いもないの。あなたは良心の呵責を覚えてるけど、それはいま行っていることが特別酷いことだからじゃないわ。これまでも同じように酷いことをしていたのだけど、制度があなたの良心を守ってくれていただけのことなの。家畜の死や植物の死で呵責を覚えなくていいよう、これはそういうものだ、と麻痺させてくれていただけ」
「そんなふうには思えないよ……」徹は顔を覆った。あんたの言ってることは分かるよ。きっと正しいんだろうと思う。でも、駄目なんだ」
「どうして?」
「だって人は死にたくないんだ。人を殺すのは酷いことなんだよ。これは理屈じゃないんだ。殺されようとして悲鳴を上げない人間はいないよ。助かろうとして懇願する。そういうもんだろう?」
「家畜だって殺される段になれば悲鳴を上げるんじゃない?」
「それは、そうだけど」
沙子は微笑んだ。
「あのね? 殺される家畜は悲鳴を上げるでしょう? でも、実はそれは『悲鳴』じゃないの」
徹は顔を上げた。
「それは『悲鳴のような声』なのよ。それが本当に悲鳴かどうかは分からない。だって人間は家畜の心を本当に理解することなんてできないだもの。ただ、家畜の断末魔の声が人の悲鳴に似た音色をしているから、それを悲鳴だと感じるだけなの」
「あんたはさっき言ったじゃないか。どんな生命だって死にたくないんだ、って」
「そう、死にたくないのよ。だってそれは、そもそもの存在意義に悖ることなんだもの。これはそれとは別次元の問題。
いい? 家畜が悲痛な声を上げるわね? 人はそれを『悲鳴』だと感じる。なぜなら、その声は『悲鳴』であるかのように『悲痛』だと感じられる音色をしているからよ。だから『悲鳴』だと認識するの。でも、人は真の意味で、家畜の心を理解することはできないの。殺される家畜は悲鳴を上げる。――それは死への恐怖の表明、文字通りの悲鳴なのかもしれないし、実は悲鳴なんかじゃ、ぜんぜんないのかもしれないわ。本当のところなんて分からない。人は人としか意思の疎通ができないのだもの。いい? 肝要なのはそこなのよ」
徹は瞬いた。
「本当のところは分からない。意思の疎通はできないの。だからと言って、何もかにも人間に倣って解釈して、悲嘆に満ちた音色の声や眼差しや、悲鳴なんていう人間のサインを動物の中にも読み取って、それで理解した気になるのは愚かだわ。
屍鬼は確かに、人の心を理解できる。人の恐怖も悲しみも理解できるわ。同じ体系の記号を共有する生き物だから、意思の疎通が可能なの。けれども、それだけのことよ。同じ体系の記号を共有していようといまいと、屍鬼が人を襲うのは襲わなければ生きていけないからよ。人が獣を狩るのと、植物を狩るのと何の違いもないんだわ。人は確かに怯える、悲しむ、恐怖するわ。けれども死に対して怯える人が特別なんじゃない、特別値打ちがあるわけでも、特別値打ちがないわけでもないわ。同じ体系の記号を共有している人と屍鬼の関係が特殊なだけのことなのよ」
「同じ記号……」
「獲物を哀れむ必要なんてないの。これはわたしたちが生きるために、当然のことなんだから。それは人が生命を狩るのと全く等質のこと。屍鬼と人の関係は特殊だから、特別酷いことに思えるかもしれないけれども、人が生命を狩るのと同じくらい酷いことで同じくらい当たり前のことなんだわ。――少しも変わらない。
わたしたちは屍鬼で、ここは狩り場だわ。人は獲物。それ以上の意味なんかない。ただ、わたしたちの獲物はとても強くて狡猾だから、油断をしたら逆襲してくる。人が獣を狩る以上に危険な狩りなの。だから注意が必要なんだわ。用心深くなければいけない、そうでなければわたしたちは生き残ることができないの」
「でも……」
「わたしたちだって死にたくないの。あなただってそうでしょう?」
徹は俯く。
「死にたくないから、結局、今も獲物を襲っているのよね?」
「……そうです」
「獲物を憐れむな、とは言わないわ。けれども、自分を責めては駄目。自分を責めるくらいなら、自分を憎んで殺せるほどでなければ駄目よ。……それしか選択の余地はないんだもの」
徹は顔を覆った。嗚咽が漏れた。微かに衣擦れの音がして、すぐに徹の肩に小さな感触の手が載せられた。掌は暖かみを持たなかったが、その柔らかく小さな感触が優しげだった。
よりによって、徹をこの苦しみの中に突き落とした首領に慰撫されている自分を皮肉だと思う。それでも徹はその小さな身体に縋らずにいられなかった。細い腕が徹を抱きかかえ、労るように撫でた。
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十五章
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寺務所の電話が鳴ったのは、二十三日、夜の九時のことだった。静信は何気なく受話器を取った。受話器の向こうから狼狽えたような女の声が流れてきた。
「あのう、鶴見ですけど」
ああ、と静信は声を上げた。鶴見は昨日、ついに出てくることができずに休んでいた。
「奥さんですか? 鶴見さんの具合はいかがです」
静信の問いに、ごく控えめな声が答えた。
「亡くなりました。それで、お伝えしといたほうがいいかと思って……」
「それは」と言いかけたきり、御愁傷様です、という言葉が喉に引っかかってうまく出てこなかった。なぜなら、静信はこうなることを知っていたからだ。恭子が死んだ。おそらくは病院の下山も十和田、パートの老女の辞職もそういうことだったのだろう。角も同様だし、だとしたら鶴見もそうなのだろうと思っていた。
静信の沈黙を誤解したのか、鶴見の妻女は続ける。
「昨日、あんまり様子がおかしいんで、共済病院に連れていったんです。そしたら、肝臓を壊してたらしくて。あのひと、お酒が好きでしたから。血液検査で注意するように言われてたんですけど、晩酌をやめられなくて」
そうですか、と呟いて、静信はやって悔やみを言った。
「それで、主人が息を引き取る前に、言い残したことがありまして」鶴見の妻は口ごもる。「あの、妙なふうに取って気を悪くしないでもらいたいんですけど、主人がその……寺は今大変だから、手を煩わせちゃいけないって。自分が死んだら、葬儀社に頼んでくれって言って。――それで、どうしたもんかと……」
これは鶴見の心遣いなのだろうか。それとも、という疑惑が心に重い。もしも心遣いだとすれば、いっそう胸に痛かった。屍鬼を悟ってなお、そこまでの気遣いをしてくれたのか、という思い。そんな人を亡くしてしまったのだ、という思いが錯綜して言葉が出なかった。
「どうしたもんでしょうねえ」
「……ありがとうございます。別に決して妙なふうに受け取ったりはしませんから、どうぞ、奥さんの気の済むようになさってください」
「そうですか? いえ、せっかく主人が言い残したことでもあるんで、やっぱり」
「分かります。もちろん、お弔いには伺わせていただきますから」
はい、と鶴見の妻は安堵したように息を吐き、そうしてようやく涙声になった。長い間、お世話になりまして、と彼女はいう。こちらこそ、と静信は返した。
電話を切り、奥へと向かう。茶の間では美和子がひとりで編み物をしていた。
「お母さん、鶴見さんが亡くなったそうです」
まあ、と美和子は硬直した。
「そんな……なんで」
「肝臓が悪かったそうです。池辺くんに伝えてくれますか。ぼくはお父さんに報告してきますから」
ええ、と美和子は立ち上がる。静信は離れへと向かった。部屋の外から声をかけたが、返答がなかった。眠っているのだろうか、と思い、戸を開ける。中の明かりは消されている。部屋に踏み込んで明かりを点け、静信は立ち竦んだ。
信明の姿がなかった。ベッドは寝乱れたまま、蛻の殻、部屋のどこにも信明がいない。静信は血の気が引くのを感じた。慌てて母屋に取って返すと、美和子が池辺と茶の間のほうに戻ってくるところだった。
「お母さん――お父さんがいません」
「そんな」
美和子は悲鳴を上げた。池辺も棒を飲んだように立ち竦む。
「だって、そんなはず……お父さんは自分の足ではどこにも」
静信は頷く。信明の姿が見えないことに気づいたとき、とっさに脳裏に浮かんだのは、どこかに倒れているのかもしれない、ということだった。信明はかつて一度、過度なリハビリを自分に課したあげく、転倒骨折したことがある。
その時のことが甦った。いるはずのない場所に信明が倒れて呻いていた。信明は密かに無茶とも言える歩行訓練をし、少しずつ距離を延ばして、そこで倒れたのだった。同じことが今度もないとは言えない。
美和子もそう思ったのだろう、慌ててその辺りを探し始めた。池辺が光男を呼び、光男と克江が駆けつけた。全員で寺中を探し回ったが、信明の姿はどこにもなかった。
「どう……しましょう」
光男に問われ、静信は俯く。
「とにかく、警察に」
信明が自力で寺を出られたとは思えない。誰かが信明を連れ出したのだ。おそらくは、拉致された。
光男が何度かダイヤルして、出ない、と受話器を叩きつけた。
「新しい駐在さんは、夜にしか見かけんと聞いたことならあるけどねえ」
おろおろという克江に、静信は眉を顰める。そう言えば、静信は新しい駐在にあったことがない。ろくに挨拶もないまま、静信のほうも疫病だ屍鬼だと駆けまわって失念したまま今日に至っている。
「今日に限って、早々と寝てるんでしょう。とにかく行って叩き起こしてきます」
光男が勢い込んで寺務所を出て行った。美和子は不安そうに静信の顔を見る。何に対してという宛もないまま、美和子に頷いて見せながら、静信は漠然と、光男は駐在には会えないだろう、と思っていた。いない、出てこないと言って戻ってくる。確信はないが、そういう気がした。
静信は受話器に手を触れ、一瞬、敏夫に連絡しようかと思った。信明がいない、攫われたのだと思う、と。しかしながら、迷っただけで手を下ろした。それを敏夫に言ってどうなるだろう。敏夫は医者だ。病人の治療はできても、それ以外のことにおいては素人にすぎない。信明の捜索ができるはずもなかった。焦らせるだけだ、益がない。
そこまでを考えて、静信は自分がひどく頑になっていることを自覚した。どうしてだかは分からない。けれども自分は明らかに、敏夫に対して頑迷な態度を取っている。
なぜそこまで自分は敏夫を責めるのだろう。敏夫の行為は軽率ではあったが、それでも敏夫が村人のために尽力していることは疑いがない。焦るあまりの蛮行だとも言える。これを屍鬼による災害だと考えようと、異常な疫病だと考えようと、村が危機的な状況に陥っていることには違いがなかった。救済が必要だ。誰かが行動しなければこの村は壊滅する。それももうあまり時間がない。
それを分かっていても、かつて「疫病だ」と思ったときのような焦燥感は起こってこなかった。
(このままでは村は……)
荒涼たる廃墟の風景が浮かんだ。それを思うと危機感を覚えるのに、そこに蠢き徘徊する屍鬼の姿を思うと、それもやむを得ない、という気持ちになるのだった。
信明がいない、と心の中で呟いてみる。攫われたか、それとも。いずれにしても、もう生きた信明には会えないだろう。静信は信明を敬愛していた。師父とも言うべき存在だった。失ったことは哀しい。もう会うことはないのだと納得するのは辛かったが、それでも信明を連れ去ったであろう屍鬼たちに対して怒りを覚えなかった。信明を攫った――そしてたぶん殺した屍鬼よりも、自分は依然として屍鬼を殺した敏夫に対して怒っている。
(ぼくは……)
身体のどこかに暗黒がある。それが屍鬼の暗躍を肯定している。かつて自分が死ぬことを良しとしたように、村が死ぬことを良しとしている。
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――されば汝は呪われ、此の地を離れ、永遠の|流離子《さすらいびと》となるべし。
彼は常に、世界との間にひとつの齟齬を感じ続けてきた。弟を屠ることで、彼はそれを誰の目にも見える断絶として露わにし、定着することには成功した。それは今から思えば、彼が丘で唯一、成功したことなのかもしれなかった。
隣人たちは最初、誰一人として彼の犯した罪に気づかなかった。賢者もまた、彼の罪には気づかなかった。彼は布に包まれた弟の遺骸に縋り付き、声を嗄らして泣いた。この悲嘆は真実だった。彼は弟と世界を喪失しようとしていた。心の底から、弟の甦生を願わずにはいられなかった。そんな彼を隣人たちは憐れみ、彼のための涙を添えたのだった。
だが、彼の罪は明らかになった。
草叢から街へと、神殿へと弟は運ばれ、彼の手の届かない奥深い一室で秘蹟を施され、高価な香油で清められ真新しい屍衣と布で覆われて出てきた。葬送に先立ち、彼と弟は賢者とともに塔に登った。神にその死を報告するためだった。
狭い塔の最上階は、さらに高い尖塔が建っている。誰も登ることのできぬその頂上に、清らかな光輝が点っていた。賢者はその麓の祭壇に弟の骸を供え、頭を垂れて神の子がその膝許に帰ったことを報告した。
声は尖塔の頂から神託として賢者の上に降った。賢者は光輝を仰ぎ、そして蒼白に変じた面を彼に向けた。それまであった、憐れみと労りの色は、もはやどこにもなかった。
――汝、何たる罪を犯せしか。
彼はただ呆然と賢者の顔を見つめていた。賢者はそれ以上に自失しているように見えた。
不思議にこの時まで、彼は自分の罪が露わになることを想像していなかった。それは決して罪を隠しおおせるだろうと侮っていた、という意味ではない。彼自身、弟を失ったという衝撃、世界との接点を失い、もはや弟とも世界とも触れることはないのだという衝撃に我を失っていたのだった。
彼の悲嘆は真実だったし、彼の涙も紛い物ではなかった。むしろ彼は神の奇蹟によって弟を呼び戻すことができるのではないかと期待して、この塔に登ってきた。
だが、光輝は彼の罪を見逃さなかった。それは隠しようもなく明らかになった。彼は他ならぬ自分自身が弟を殺傷し、彼から弟と世界とを略奪した犯人であることを、ついに知らされることになった。
こうして彼の罪と喪失は確定したのだった。
それまで彼を憐れみ、彼のために涙を流し、慰撫の声を投げていた人々は、|猝《にわか》に石を拾い、泣きながらそれを投じた。もはや涙は彼のためのものではなかった。彼には怒声が打ち寄せた。弾劾が、罵詈が、怨嗟が、呪詛が、彼の身を覆い、彼はその中で、ただひたすら呆然と立ち竦んでいるしかなかった。
彼はその場に打ち倒され、罪人の印を付けられて裁きの間に引きずり下ろされた。凶行の理由を問い、温情を下そうという場で、彼はただの一言も、自らを救うための言葉を発することができなかった。
なぜ、という問いには、沈黙をもって答えねばならなかった。弟をそうまで憎んでいたのかという問いには、否と答えねばならなかった。
賢者は沈痛な色で彼に神託を下した。
――されば汝は呪われ此の地を離れ、永久の流離子となるべし。
彼は諾々としてそれを受けた。神殿を引きずり出され、彼が通った後には罪を清めるための砂が撒かれた。もはや彼はそれほどまでに呪われていた。城壁までをそのようにして引き立てられ、かつての隣人たちが投じる石に追われ、彼は東にある門に達した。彼は初めてその門を見、そしてそれが開くのを見た。城壁の外には陰鬱なばかりの凍った荒野が広がっていた。
この暗黒を見よ。
丘の光輝にくらべ、この暗さはどうだ。門の内から賢者は荒野を指さした。
これは無明の闇、この昏さは汚れであり、呪いである。
そう言って示して、賢者は彼の背中を押した。たたらを踏んだ彼は荒野によろめき出、その背後で黄金の狭い門は閉じた。
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恵が「食事」を終えて山入に戻ると、村迫の地所に呆然と座っている男が目に入った。
恵は暗がりを見通して笑う。そうか、ついに起き上がったのか、と思った。
「……小父さん」
恵は、悄然と首を垂れた男に近づいた。男は途方に暮れたように顔を上げた。
「出てきたのね。起き上がったとは聞いてたけど」
「恵……ちゃん」
男は田中良和だった。田中は起き上がった。そして檻の中で最初の犠牲者を襲った。襲って――殺した。
「なかなか出てこないから、どうなることかと思ったの。よかったわ」
「きみは何を考えてるんだ」田中は顔を歪めた。「よかったはずがないじゃないか。こんな、恐ろしい」
「だって仕方ないことなんだもの。御飯を食べなかったら、あたしも小父さんも飢えて死んでしまうのよ? それとも小父さん、あたしに死ねっていうの? 飢えて死ねって?」
「君が、わたしを」
「飢えるの、辛いでしょ? だから小父さんも、襲ったんでしょ?」
それは、と田中は口ごもった。確かに、田中にはもう、恵を罵る資格がなかった。最初は躊躇し拒んだが、飢餓は辛かった。殺すわけじゃない、暴力を振るおうというわけじゃない、ほんの少し血をもらうだけだ、と自分を騙して襲ったが、結果として、若い娘がひとり、子供がひとり死んだ。ずいぶんと弱った二人を片づけて、初めて田中は外に出してもらえた。田中は殺戮を容認したわけではなかったが、すでにもう殺戮者の仲間だった。
「あれは……誰だったんだろう」
女の顔にも子供の顔にも、田中には見覚えがなかった。
さあ、と恵は素っ気なく呟く。
「村の人じゃないと思うわ。あそこには、村の者は運ばないもの」
田中が恵を見上げると、恵は屈託なげに首を傾けた。
「村の人を攫ってきて閉じ籠めてる家もあるけど、あれは村に狩りをしに行く甲斐性のない|木偶《でく》のために飼ってるの。やっぱり、起き上がったばかりの人に、知り合いを襲わせるのは刺激が強すぎるんじゃないかしら。だからじゃないの? 最初の家に運ばれるのは、都会から間引いてきた連中よ」
「都会……」
恵はさらに肩を竦めた。
「自動車道を使えば、夜の間に行って帰ってこれるもの。あたしは、まだ出してもらえたことがないけど、毎晩のように車が出ていくわ。帰ってこないこともあるから、向こうにも隠れ家があるみたいね」
そうか、と田中は力なく呟く。こういったことが、村で進行していたわけだ、と何度目かに思った。夏以来、田中の手許に集まっていた死亡届の写し。その実体。
「それで小父さんは、明日はどうするの?」
え、と田中は顔を上げた。
「だから、明日からは自分で食事をしないといけないでしょ? 誰か指示された?」「いや……でも」
「襲わないわけにはいかないのよ。でもって足がなかったら、村で調達するしかない。溝辺町はダメよ。この近辺の人は勝手に襲っちゃいけないの。村の人か、そうでない遠方の都会の人か、そのどちらかよ」
そんな、と呟いた田中に向かって、恵は屈み込んだ。
「家族がいいと思うわ」
田中は腰を浮かせた。恵は正体不明の笑みを浮かべて、二、三歩、後退る。
「小父さんは起き上がったんだもの。家族だって起き上がる可能性が高いのよ、知らないの? 家族のことが心配じゃないの? 小父さん一人じゃ寂しいでしょ? ここに小母さんや、かおりたちがいればって思わない?」
「……君は」
「嫌ならいいけど。でも、小父さんが襲わなかったら、他の誰かが襲うのよ。あたしが行ってしまうかも。だって、かおりなら、お人好しだから、あたしを入れてくれると思うもの。ちょっと泣き言を言ってねだればね」
「そんなことは」
「止めることはできないのよ。そのうちに絶対、誰かが襲うの。襲っちゃいなさいよ。自分の家族じゃない」
「……君は襲ったのかい?」
恵はさも嫌そうな顔をした。
「そんなことするはず、ないでしょ。あたしはあんな人たちに、ここに来てほしくないもの。やっと自由になったんだから」
恵は言って、身を翻した。軽く笑い声を立てる。
「明日、起きたら誘ってあげる。それまでに考えておいて」
「ひでえことするのな」
笑い含みの声に、恵は振り返った。集落の南にある沢を上がろうとしたところだった。ここから西山の林道へと抜ける裏道がある。沢の脇に続いた杣道がそれだった。かつて切り開かれ、やがて忘れられて下草に埋もれ、そしてまた仲間たちによって細く踏み分けられた死の道。
「女って、こええ」
にやにやと笑う正雄を、恵は冷たく一瞥した。正雄は薄笑いを浮かべたまま隣に並ぶ。
「そんなに田中って奴が憎いのか? 幼なじみだったんだろ?」
「余計なお世話よ」
「女ってホント、夏野みたいな中身のないスカした奴が好きだよな。嫉妬のあげく、ここまでするんだから恐れ入るよ」
「嫉妬してるのは、あんたでしょ」
正雄が薄笑いを引っ込めた。
「――どういう意味だよ」
さあね、と恵はそっぽを向く。正雄とはなぜかしら一緒になることが多かったが、恵は正雄が気に入らなかった。最初の頃はさほどにも思わなかったが、一緒にいればいるほど何もかもが癇に触る。
「嫉妬って、おれが誰に嫉妬してるって言うんだよ。ふざけるなよ、問題じゃねえよ、どいつもこいつも」
「そう。あたしだって別に、かおりに妬いてなんかないわよ」
「そうかなあ」
「そうよ」と、恵は足を止めた。「妬いてなんかない。あたしは怒ってるのよ。当然でしょ? 彼を殺されたんだもの。かおりが妙なことに巻き込まなかったら、殺されずに済んだのよ」
「夏野のほうが巻き込んだんじゃないのか?」
「そんなはずないじゃない。彼は、かおりなんか相手にしないわよ。田舎丸出しの冴えない奴なんだから」
「どうかなあ?」
「彼はあんたと違って都会育ちなんだから、かおりみたいな野暮ったい女の子なんかお呼びじゃないに決まってるわ。かおりのほうが巻き込んだのよ。あたしの仇でも討とうと思ったんじゃない。あいつ、そういう奴なんだから。勝手に親友気取りで、いっつも友情を押しつけてきて。そのくせ意気地なしなのよ。だから結城くんのことだって、誘ったんだわ。あたしの気持ち知ってたくせに、裏切り者」
「だから嫉妬だろ、そういうのは」
「あたしは、かおりがあたしを裏切ったことに怒ってるの。あげくに彼は死ぬようなことになったんだから。かおりが殺したようなもんよ。これは正当な怒りなの。あたんの嫉妬とは訳が違うわ」
「なんだよ、それ。おれは別に田中なんて奴、知りもしないんだからな。それでなんで嫉妬しないといけないんだよ」
「好きな子を取られて妬いてるほうが、健全なんじゃない。そういうときに嫉妬するのは、人間なら仕方のないことだもの。でも、あんたのはそれですらないんでしょ」
正雄は剣呑な表情を浮かべた。
「なりたかったんじゃないの、結城くんみたいに。羨ましかったんでしょ」
「ふざけんなよ、おれが何で――問題じゃねえよ、あんな生意気な奴」
「そう? 良かったわね、彼が起き上がらなくて。彼が起き上がってきたら、今頃、あんたの居場所なんかないわよ」
「なんだと」
「そうやって凄むところが小物の証拠じゃない。彼はそんなことしなかったもの。ヒステリックに喚いたり、他人を脅したりする必要なんてなかったんだから。起き上がったら今頃とっくにお屋敷にいるわ。そういう人だったもの」
正雄は増悪の籠もった目つきで恵を睨み、そして歪んだ笑いを浮かべた。
「そうかもな。そしてお前は取り残されるんだ」
「あたしは」
「夏野が連れていってくれると思うか? あいつ、そんな奴じゃないぜ。田中って奴だけじゃなく、お前だってお呼びじゃねえに決まってるさ」
「どういう意味よ!」
恵が思わず殴りかかろうとしたとき、軽く背中を押された。どけ、と短く声がして、俯いた人影が通る。正雄が顔を背けた。それをチラリと見やって、憂鬱そうな顔をしたまま徹は杣道を登っていく。
恵と正雄は、少しの間、口を噤んでその背中を見送った。徹が屋敷に呼ばれたらしい、という話を聞いた。無理もない、と二人は思った。徹はあからさまに狩りを嫌がっていたからだ。いずれそうなるだろうと、恵などは幾分、冷淡に思っていたし、なぜそんな目を付けられるような真似をするのか、正雄は理解に苦しんだ。――だが、戻ってきた徹に制裁はなく、そればかりか佳枝のいる本家に移って彼女を助けるようになった。都会から間引いてきた羊から贄を選んでも良く、だからもう村に降りる必要もない。いま、この道を辿っているのも、狩りのためではなく屋敷に行くか辰巳に会うか、なにかしかの用を佳枝に頼まれたからだろう。
「なんでなのよ」
恵は徹の背を見つめる。恵はよく働いている。佳枝の意を迎えるために、できる限りのことをしている。なのに恵には何の恩恵が施されることもない。
「……不公平だよな。徹ちゃん、辰巳さんに逆らってばっかりいたのに」
「上の人たちの考えることってさっぱり分からないわ。おまけに徹ちゃんてすごく嫌みよ、そう思わない? 正直に嬉しそうな顔をすればいいじゃない。なのに、不本意そうな顔して」
「だよな。しかもさ、おれたちなんて、もともと仲良かったんだから、少しは優遇してくれてもいいと思うんだよな。佳枝さんにちょっと口添えしてくれるとかさ。なのに最近、顔合わせてもそっぽ向くし、口も利こうとしないんだぜ」
「あたしもよ。あたしたちを見下してるんじゃない」
ふん、と正雄は鼻を鳴らす。膨れて杣道を登り始めた恵の隣に並び、同じく膨れた顔をして歩き始める。
――恵と正雄は結局のところ、よく似ている。
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尾崎医院は、葬儀の翌々日、二十四日から診察を再開した。それを決めたのは敏夫だ。村の状況を考えると、それ以上は悠長に休んでいられなかった。開けて早々、田代書店の息子が留美に連れられてやってきた。久々の例の被害者だった。田代孝――十歳。
休んだぶん、溜まった患者を捌きながら、敏夫は考え込む。水面下で襲撃は続いている。病院に犠牲者が姿を現さなくなっただけに事態は悪化している、と言えた。恭子のおかげで屍鬼の性質は掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだと思う。だが、敏夫には協力者がいない。屍鬼を一掃するために行動を起こそうにも、敏夫一人ではどうにもならないことは確実だった。かといって、敏夫が声高に屍鬼だと叫んだところで、村人が納得するはずがない。郁美に失敗例があるのだから、なおさらだった。思い悩みながら午前の診療を終え、昼を摂って控え室に戻ると、清美がやってきて複雑そうに一通の手紙を差し出した。
「――なんだ?」
「病院宛に来てました。特に親展とはなかったんで、武藤さんが開封したんですけど」
敏夫は封書を受け取り、中を検めた。それは聡子の辞表だった。型どおりの辞表には、短い私信が添えてある。そこには孝江にも敏夫にも我慢できない、と書いてあった。
敏夫は眉を顰める。聡子が激昂していることは分かったが、なぜなのかが分からなかった。困って清美を見ると、清美は目を逸らす。
「雪ちゃんのことが堪えたんですよ」
首を傾げる敏夫を、清美は溜息をついて、恨みがましく見た。
「心当たりがないってふうですね。だからなんですよ」
「どういうことだ?」
「雪ちゃんがいなくなったんです、先生、それを分かってますか?」
ああ、と敏夫は瞬いた。そういえば、そういう話を聞いたような気がする。そこでようやく、雪が消えた、という現象の異常さに思い至った。
「そりゃあ、奥さんのことがあって先生が大変だったのは分かってますよ、でも、聡ちゃんにしたら、先生が少しも気にしてないふうなのが我慢できなかったんだと思います。正直言って、あたしもそうです。聡ちゃんも雪ちゃんも先生のことを思って、わざわざ村に越してきて、休日も返上して働いてたんですよ。その看護婦が行方不明になったっていうのに、そうか、はないんじゃないですか」
「それは――」敏夫は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]む。「そう、済まなかった。恭子のことで……」
「あたしに謝られても困りますよ。もういまさら先生を責めてもしょうがないですけど。でも、若奥さんの葬儀の日にも色々と嫌なことがあったし、聡ちゃん、大奥さんとも揉めてましたから。だから我慢がならなかったんです。そこのところだけは分かってあげてくださいよ」
敏夫は清美を見据えた。
「それは、井崎くんが辞めたのはおれのせいだ、という意味か?」
「そう言ったつもりですけど、そう聞こえませんでしたか」
清美は低く言って、そして目を逸らした。
「あたしも納得はしていません。先生には同情しますから、それで辞めるのどうの、という気もありませんけど」
敏夫は口許を歪めた。
「覚えておこう」
清美は一礼して、控え室を出て行く。敏夫は清美を見送って、我知らず机の上に封書を叩きつけた。
清美の言い分は分かる。雪の件は耳に入っていたが、敏夫は完全に右から左に聞き流していた。恭子のことで頭がいっぱいだったのだ。明らかに自分の落ち度だという思いがあった。だからいっそう、腹立たしい。
――そう、敏夫は完全に恭子の死体を抱いて逆上していたのだ。今になってそう思う。振り返れば、そもそも恭子の死を隠匿したこと自体、恐ろしい博打だった。死体が起き上がる確率がどの程度のものだかは知らないが、恭子は起き上がらない可能性もあったのだ。いくら冷やしていたとはいえ、葬儀になれば看護婦たちだって恭子に対面したはずだ。弔問客には医者もいる。誰が恭子の死に顔を見て、昨夜死んだとは思えない、と言いだしても不思議はなかった。それを指摘されずに済んだのは、恭子が起き上がったせい、真実、通夜の前夜に死亡していたからだ。それを昨夜、改めて思い、敏夫は総毛立つ思いがした。自分はもう少しで、全てを失うところだった。
郁美を煽った件を静信に責められ、逼迫した状況に焦って、視野が狭窄していた。死体を隠匿しているという自覚が、自分自身で思っていたよりも敏夫を追いつめていた。連日の疲労のせいもあったろう、通夜と葬儀と、そのおかげで久々にゆっくりと休み、ようやく理性が戻ってみると、確かに自分の振る舞いは、ある種、常軌を逸していた。
静信が責めるのも無理はない。自分のやったことの是非はさておき、静信があれを許容できるはずなどなかったのだ。そこまで度を失っていた自分に対する嫌悪がある。だからいっそう、そこを責められると痛い。
「おれが軽率だったんだ」
分かっている。これは自分の落ち度だ。だが、敏夫は村を覆ったこの状況を何とか打破したいのだ。自分のための行為ではない。村のためだ。これ以上の死を食い止めるため。そこには嘘はないと自分では思っている。
「どうしろというんだ、おれに」
後悔で胸が灼ける。最善手は幾つもあったが、敏夫はそれをみすみす逃した。
ふと、もうやめてしまおうか、と思う。村人は誰も気づいていない。いや、気づく気がないのだと思う。誰も敏夫ほど自体を重要視してはいない。静信は分かっていながら手を引いた。だったら、敏夫がここで手を引いていけない理由が分からない。
成り行きに任せればいいのだ。なにも敏夫がこれ以上、自分を酷使せずとも、あるいは自分の手を汚さずとも、このままでいけば、早晩、外部の人間も異常に気づく。それを待ってなぜいけないのだ、という気がしてならなかった。
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加奈美は食器を片づける。このところ、元子はずっとパートを休んでいた。実際問題として、夫が死に、娘が死に、もうそれどころではないだろう。もともとさほどに人手が不足しているわけでなし、加奈美には不都合はないのだが。
(大丈夫なのかしら……)
食器を洗いながら、加奈美は元子のことを思った。登美子は明らかに様子がおかしかった。にもかかわらず、元子は登美子のことなど念頭にないように見える。あれ以後、日に何度も電話して、そのたびに登美子の様子を聞いてみるのだが、元子から答えが返ってきたことはなかった。元子の念頭にあるのは、茂樹のことだけ。たった一人、残された息子の無事だけを思案している。
(仕方ないわ、元子はもともとああだったんだもの)
志保梨を背負って江渕クリニックの前に蹲っていた姿が目に浮かんだ。友人でなければ及び腰になったろう。それほど元子の様子は尋常さを欠いていた。
ずっと、あれほど子供のことを心配していたのだから――と思う。思う一方で、不思議にも感じた。そもそも、なぜ元子はあそこまで神経質に子供のことを思うのだろう。
子供を失うのではないかという不安があるからではないのだろうか。国道があるから不安になったのではなく、不安があるから国道に反応しただけではないのか、という気がした。
それを思うと、加奈美の胸には重い悔いが湧き上がってくる。元子に訊いたことはないが、その不安の火種は、自分が付けたのではないかのか、という気がしていた。
加奈美が都会で家庭を持っている頃、決して元子はあんなふうではなかったと思う。それは徐々に進行した。
加奈美は離婚に際し、二人いた子供を夫の家に置いてきている。自分が望んでのことではない、夫の父母に奪われたのだ。
夫は大手証券会社に勤めていた。有名大学を卒業し、名の通った会社に勤める真面目で勤勉な男だと加奈美はそう思っていた。夫の女性関係が完全に破綻していることなど、加奈美には見抜けなかった。結婚すると決めた相手に対しては誠実な男を装っていたが、そうでない女に対して、夫の言動は常軌を逸していた。この人にとって彼女たちは玩具に過ぎず、人間ではないのだ、と悟らざるを得なかった。嫉妬があり、同じ女に対する憐愍があっった。「淫売同然」と言い放ち、だから何をしてもいいのだ、と平然としてる男に対する怒りがあった。耐えかねて離婚を切り出したが、夫は頷かず、舅姑も頑として同意しなかった。別れるなら子供を置いていけ、と再三言われ、それだけはと思って耐えたが、限界が来た。夫の人間性に対して疑問を抱くと、亀裂は深まるばかりで埋めようがなかった。調停に縋ったが、調停員は味方してはくれなかった。加奈美は泣きながら離婚届に判をついた。
そういった経過の全てを、元子に話したことはない。加奈美はそれを、母親以外の誰にも語らなかった。「あなたは妻として大事にされているのだから、そこまで怒ることはないじゃない」という、通り一遍の台詞など聞きたくもなかった。遊び相手だと割り切ると、人を人とも思わないでいられる男の精神構造が容認できなかったのだ、という加奈美の主張は、あまりに理解を得ることが難しかった。少なくとも調停員の理解を得ることができなかった、という事実が、今も加奈美を縛っている。
だから元子に語ったのは、夫の女性関係が離婚の理由であったこと、もともと夫の姑とは折り合いが悪く、離婚のいざこざで感情の齟齬が拡大して仇敵のような有様になったこと、結果として子供を置いてくることになったこと、それだけだった。
それが良くなかったのではないか、と近頃、加奈美は思う。同じく舅姑と確執のあった元子は、それで不運に火を点けられなかったか。元子が恐れているのは、他の何よりも、実は姑に子供を奪われることではないのか、とそういう気がしてならなかった。
姑さんとは上手くやらないと駄目よ、と加奈美は元子に言った気がする。いざというとき、こっちに同情してくれるかどうかは、平素の関係にかかっているのよ、と冗談めかしていった覚えがあった。離婚することなどあるまいと思っての他愛もない冗談だったのだが、それが元子を追いつめはしなかったか。考えると、思い当たる節がいくらもあった。後悔で、胃の腑が痛む。
苦い気分で食器を始末し、少し迷って店を閉めた。最近では夜の客は少ない。日によって一人、二人あればいいほう、ゼロという日も珍しくなかった。陽が落ちれば、人はそそくさと家に帰る。まるで逃げるように。
店を閉めて母屋に戻った。母親に相談してみよう、元子をどうしてやればいいのか。茶の間にはいると、母親はひとりぽつんと、点けっぱなしのテレビの前で横になっていた。
「ねえ、お母さん。ちょっといい?」
加奈美は声をかけたが、妙の反応はない。寝ているのだろうか、と顔を覗き込み、妙が虚ろな顔をして画面を眺めているのを認めた。
「ちょっと相談なんだけど」
加奈美は重ねていったが、妙は瞬いただけで何の返事もしなかった。様子が変だ、と声をかけると、億劫そうに目を閉じて寝返りを打つ。怠くて堪らないふう、心ここにあらずという感じ。――それは登美子の姿にとても良く似ていた。
「……お母さん?」
妙の顔色は悪い。蛍光灯のせいばかりではなさそうだった。額に手を当てると、微熱があるふう。それを指摘しても、反応はない。
加奈美は息を呑んだ。しばらく妙を凝視していた。
――夏以来。
村では何かが進行していた。明らかに異常な何か。それが村を蝕んでいる。
とうとう来たんだわ、と加奈美は思った。
それは妙を捕らえたのだ。
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二十五日、静信が起きてみると、池辺の姿が消えていた。寺務所には「辞めます」とだけ書いたメモが残されていた。困惑して見つめているうちに光男が来た。事情を述べると、じゃあ、と光男は声を上げる。
「ゆうべ見たあれは、気のせいじゃなかったんですね」
「ゆうべ?」
「ええ、真夜中に。最近どうも、眠りが浅くてねえ。何度も目が覚めるんですよ。それで台所で水を飲んでたら、トラックが」
静信は光男の顔を見返した。
「高砂松のついたトラックです。噂に聞いてたのより小さかったですけど。それが路地の前を横切っていくのが見えたんですよ。あの先はもう寺の私道しかないですから。それで、まさか、とは思ってたんですが」
そうですか、と静信は俯く。寺ももう、聖域ではないわけだ、と思った。おそらく実家に連絡をしても、池辺は戻ってなどいないだろう。
美和子は心配して何度も電話したら、と勧めたが、後でそうします、とだけ静信は答えた。美和子は不審そうに静信を見て、そして打ちのめされたように目を伏せた。
信明の行方は|杳《よう》として知れなかった。駐在に行った光男は、案に相違して新しい駐在に会えたらしい。佐々木というその警官は、事務的に失踪届を提出させて、それを引き出しにしまった、という。
信明がなぜ消えたのか、考えられることはひとつしかないが、同時に不思議にも思う。彼らは寺に侵入することができるのだろうか。――そう、考えてみれば、これまで寺に被害がなかったことのほうがおかしい。角は失踪し、鶴見も死んだ。そして、信明も失われた、そういうことだ。こうして村は浸食されていくのだ、極めて平等に。
父親を喪失したにもかかわらず、やはり屍鬼に対する怒りはなかった。早晩、静信も美和子も襲われることになるのかもしれなかったが、身を守るために屍鬼を狩るべきだとは思えなかった。思えない自分に落胆した。それは間接的に村が滅びることを是とすることだ、とは分かっている。
そう、自分は心のどこかで、それを肯定しているのだ。積極的に滅びてしまえと思っているわけではなかったが、滅びるならそれもやむを得ないは思っているのだと思う。そういう自分を疑問に思う。これでは敏夫を責められない。
としあえず、掃除は光男に任せ、静信は衣を改めて本堂へと向かう。朝の勤行に来る者も減っていた。見知った顔もまばらだった。徳次郎も節子もいない。そういえば、ここしばらく、雑貨屋の千代の姿も(……大丈夫ですよねえ?)見ていなかった。寺に残った僧侶は静信だけ、それにふさわしい、いかにも寂しい有様だった。それとは反対に、これまで姿を見たことのない檀家衆がぽつぽつと、熱心に通ってくるようになっていた。中には檀家ではないものの顔も見えた。彼らは何も言わない。突然、寺に来る気になった理由に言及することはなかった。熱心に手を合わせ、そして何を語るでもなく帰っていく。そうして来ていながら、ある日突然姿が見えなくなる。
寺は徐々にその機能を失いつつあった。静信の知らない場所で死者は増え、静信の手を経ないまま埋葬されている。
これが、と静信は読経しながら思う。
自分が是としてしまった村の有様だ。これを嘆く権利も憐れむ権利も、静信はすでに持っていない。
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タケムラには例によって、老人たちがたむろしている。話題はつい先日の、大川酒店の葬儀のことでもちきりだった。
「あんな異様なお葬式なんて初めてよ」
弥栄子は呆れたように言う。武子も鼻の付け根に皺を寄せて、露骨に嫌悪を示した。
「本当に。浪江さんの神経を疑ったわよ。あたしだったら、息子があんな葬式をやらかすって知ったら、どやしつけてやるけどね」
「寺が手一杯だったせいなんだろ」と、タツは口を挟んだ。「なにしろ尾崎も葬式だったからね」
「そりゃあ、そうだけど」と、武子は口を歪める。「それにしたって、あれはないわよ。あんなみっともない」
そうよねえ、と弥栄子が頷いたところに、笈太郎が腕組みをしながらやってきた。もう少しでタケムラの前を通り過ぎそうになり、武子に呼ばれて慌て手足を止める。
「何を考え込んでんのよ」
「ああ――」と、笈太郎は瞬き、首を傾げながら床几に腰を下ろした。「なあ、人のいるはずのない家で物音がするってのは、何なんだろうな」
「なによ、それ」
弥栄子が聞くと、笈太郎はさらに首を傾げる。
「いや、うちの隣さ。あそこは、ずいぶん前から人がいないだろ。山瀬のとっつぁんが死んで、かみさんは息子と同居するんで家を出ちまったからさ。副島の木工所に貸して倉庫にしてたんだけどさ、副島の親父さんも去年死んで廃業したから、そのまんまになってたんだよ」
ああ、とタツは頷いた。
「なんだけどさ、ちょいと前から人がいるような感じがするんだよ。ほら、うちの便所と隣の壁がくっついてるからさ。夜中に小便に行くとさ、隣から物音が聞こえるんだよ」
「気のせいじゃないの。そうでなきゃ、笈太郎さん、とうとうボケ始めたのよ」
弥栄子が笑う。
「冗談じゃないよ。確かに物音がする気がするんだよ。それもネズミでもいるってふうでない。人がごそごそやってる音に聞こえるんだがね。誰か越してきたのかと思ったんだが、そんな様子もないし、確かに昼間見ても誰いるようなふうじゃないし」
「裏の物音じゃないの」
武子が言った。笈太郎は首を傾げ、頷く。
「そうかもしれんなあ。音ってのはどうも、どっから聞こえるか、分かるようで分からないもんだからねえ。そうかもなあ。裏の音かもなあ」
「そうよ、きっと」
「何だか気味が悪くてさ。おれも歳かね。どういうわけだか、つまんないことでびくびくしちまうんだよ。隣だけじゃない、いろんこなことが気味悪くてさ」
「歳だよ、それは」と、武子が声を上げて笑ったが、タツはひそかに頷いた。
タツは近頃、気になって仕方のないことがある。車の勘定が合わないのだ。
どう見ても見覚えのない車が入ってくるのに出ていかない。あるいは、出ていくのに入ってきたのを見た覚えがないことがある。タツは近頃、寝間を道路側の二階に移した。窓は閉め切るが、雨戸は必ず一枚だけ開けておくことにしている。夜間の出入りが気になって仕方ないからだ。なのに、車の勘定が合わない。そもそも昼間の交通量が激減し、夜間の交通量ばかりが増えているのも気に入らなかった。
「気味悪いっていえば」と、弥栄子が声を低めた。「下外場の松尾がいなくなったんだよね」
「なぁに、世話役の?」
「違うわよ。あそこの分家。山根のほう。爺さんと婆さんと二人っきりでいた」
「ああ」
「いなくなったんだって。家具も何もかも残ってたらしいのよ。貴重品はなくなってたし、別に荒らされた様子もないから、例によって出ていったんだろうって話なんだけど」
ふうん、と武子も笈太郎も、どこか不安げに相槌を打った。弥栄子も同じく不安層ながら、自分がなぜそんなことを気味悪く思う必要があるのか分からない、というふうに見えた。
「何でもないことなのよね。別に珍しいことでもないし……」
弥栄子は自分に言い聞かすように言う。
「……やだわ、あたしも笈太郎さんの臆病が移ってるのかしらねえ」
田茂由起子は、夕飯の茶碗を片づけながら何気なく表のほうを見て、向かいの三安に明かりが点っているのを見た。
「まあ、……そんな」
由起子は呟く。卓袱台を拭いていた嫁が、なにか、というので縁側のほうを示した。
「明かりが。戻ってきたんだわ」
「あら、まさか」
「ちょっと、行って見てくるわ」
由起子はエプロンを外し、丸めてその場に放り出す。由起子の家は中外場の外れにあって、周囲は樅の林に囲まれている。向かいの三安がなければ離れ小島も同然だし、その三安が無人になってこのところ心細くてならなかった。その向かいに駆けつけると、あちこちの雨戸は開け放たれ、表座敷の縁側では女が掃除機をかけているのが見えた。
「あらまあ、――あんた、日向ちゃん」
日向子は顔を上げ、由起子に気づいて掃除機を止めた。座敷の明かりに逆光になっていたが、日向子が笑ったのが分かった。
「こんばんは、おひさしぶりです」
「おひさしぶりって」由起子は目を丸くした。日向子は八月の末に家出したはず。そしてどういうわけか三安の一家は日向子に呼ばれたと言って越していった。あまりにも異常な転居だった。「――あんた、どうしたの。戻ってきたの?」
そうなんです、と日向子は笑って、バケツの中の雑巾を絞る。
「長いこと、空けていたから掃除が大変」
「そうだろうねえ。……他の人は?」
「戻ってきてますよ」と、日向子はいう。由起子は何気なく家の中の様子を窺った。座敷には人影はなかったが、その向こうでは誰かが立ち働いている音がしている。二階のほうからも掃除機を使う音がしている。
「米子さん?」
由起子の視線を追って、日向子は微笑む。
「弘ちゃん」
「そう。――いきなりいなくなるから、どうしたのかと思ったわ。いったい、何がどうなってるの」
「いろいろ込み入った事情があって」日向子は言って、由起子の顔を覗き込むようにした。「小母さんとこも変わりはないですか? みなさん、お元気で?」
「ああ……ええ」
「会いたいわ。お話ししたいこともいっぱいあるし、またお邪魔してもいいですか」
そりゃあ、と由起子は頷いた。
「良かった。嬉しい」と、日向子は本当に嬉しそうに笑う。「とにかくざっと掃除をしちゃいますね。せめて掃除機だけでもかけておかないと、寝場所がなくって」
「ああ……そうでしょうねえ。手伝おうか?」
「いいんですよ。落ち着いたら改めて挨拶に行きます」
そう、と由起子は頷いて、踵を返した。驚きだわ、と思っていた。引越ていった顛末も尋常でなかったが、戻ってくるところがいっそう尋常でない。いったい何があったのだろう。
思って家の玄関に入りながら、由起子は三安を振り返った。黒々とした家の、あちこちに明かりが点っている。二階の窓から男が一人姿を現して、座布団を二枚、叩き合わせて埃を払うのが見えた。弘ちゃんだわ、と由起子は思って首を傾げた。――弘二はあんな体格だっただろうか。もっと頼りなげで、瘠せていて。
男が座布団をもって奥へと引っ込む。その横顔に光が当たって、顔がよく見えた。
「……そんな」
瞬いている間に、男の姿は部屋の奥に消え、再び現れて窓を閉めた。今度も、逆光になる前の一瞬、その顔がよく見えた。
――弘二じゃない。
(あたし、目がどうかしてるのかしら)
由起子は思わず目を擦る。あれは弘二ではない、別の男に見えた。それだけじゃない、その顔には見覚えがある。由起子の従姉妹は下外場に嫁いでいる。その向かいにあるのが大塚製材で、由起子は従姉妹を訪ねた折、製材所で頻繁に今の男を見なかったか。
(あれは……大塚の息子じゃあ……)
付き合いがあるわけではないから、確かとは言えない。――けれども。
(そんなはず、ないわよねえ)
ないはずだ。日向子は、二階にいるのは弘二だと言ったのだし。第一、大塚製材の息子は死んだという話を従姉妹はしていなかっただろうか。
「いやね、目がいかれたのかしら」
由起子は自分を笑った。胸の奥に言葉にしがたい不穏なものが湧いて淀んだ。
(そのうち分かるわ)
そう――日向子が来たら訊いてみれば済むことだ。
夜は平板に広がっていた。田圃を隔てて黄色い明かりが見えた。田中はそれをしばらく見つめる。恵から家族を襲え、と唆されて二日が経っていた。
昨夜、田中は恵に連れられ、山入から村へと下りてきたが、やはり村人を襲う決心はつかなかった。家の近くまで来て明かりを見ていた。もちろん家族を襲う決心などつくはずがない。そして今夜、昨夜と同じ場所まで来て、田中は飢えに苛まれている。
それは飢餓という名の苦痛だった。飢餓は田中を切り裂くように苛む。苦痛から逃れるためには、狩りをしなければならなかった。田中の胸の中にある善悪の天秤は、大きく傾こうとしていた。それを承知していたからこそ、田中は家に戻ってこずにいられなかった。飢餓に喘いでいる、その状態を憐れみ、飢えをしのぐために恐ろしい行為を成して、それを許してくれる者がいるとすれば、家族だとしか思えなかった。他人は田中を許さないだろう。襲うくらいなら飢えていろ、と指を突きつけるに違いない。
罪に踏み込むことは怖い。それは罪そのものを恐れてのことか、あるいはその結果としての罰を恐れてのことなのか、田中自身にも判然としない。いずれにしても、家族ならばその恐れが軽減することは確かだった。
同時に、妻子はこれからどうするのだろう、と思う。妻は実家を頼れまい。田中の父母はすでに死に、遠隔地に兄弟もいるが、宛にできるほど余裕のある暮らしをしている者はいなかった。妻は働いた経験がない。これからの生活をどう支えようというのだろう。子供たちはどうなるのか。これから高校へ進む。さらに進学を望んだとき、経済的な事情で諦めねばならないとしたら、いたく不憫な話だった。――確かに、山入に連れていけば、生活の心配はせずに済むのだ。将来の心配もせずに済む。
同時に田中は、甦って以来、深い孤絶を感じるようになった。その由来は分からない。この地上にひとりだという心細い感じがする。安堵できる何かから遠く隔てられ、二度とそこへは戻れない。その思いが、田中を家に引き寄せた。だが、つましく門を閉ざし、内部に温かく明かりの点った建物を見ると、自分の孤愁が身に滲みた。自分の家、家族たちの集う場所、そこを目前にしながら入っていくことのできない自分。
自分はここにいる。
死んでいない。まだ生きている。ここで、家の外で、家族の元に帰りたいと切実に願っている。
飢餓を忘れるほど哀しかった。帰宅する田中のために食事を用意して待っていた妻、茶の間で食卓を囲んでいた子供たち。あまりにもありふれた日常。切り離されてみると、それは「日常」と題された絵空事のように思えた。あれほど温かく安穏とした特殊な状態を、どうして何の感慨も持たずに過ごしていられたのか、分からない。
誰かが自分の存在に気づいてくれないだろうか。自分を呼び、よくぞ生きて戻ったと迎え入れてはくれないだろうか。子供じみた夢想から逃れることができず、田中はその場に釘付けになる。昨夜と同様に。違うのは、切羽詰まった苦痛が身内から田中を苛んで、それがもう耐え難いほどになっていることだった。
田中は周囲に目を配りながら、深夜の道を歩いた。家の中に明かりはあったが、家族は寝静まっているようだった。田中は正面からそっと二階を見上げた。子供たちの部屋の窓には、彼を拒むように雨戸が引かれている。
田中は裏手に廻る。路地には物置が据えられ、物干し竿が立っている。そこに面して同じように雨戸の引かれた掃き出し窓があった。その窓の中では、彼の妻が眠っている。
せめて妻の顔を見たい、と思った。自分の存在を知ってほしい。苦吟を理解し、慰めてほしい。妻に会い、慰撫されることで田中は救われたかった。おそるおそる雨戸を叩こうと手を伸ばしたが、実際に叩く勇気はなかった。子供たちに聞きとがめられるのが恐ろしい。――それ以外にも不安が。なぜかしら自分の家が凶々しいものに思われ、こうして近づいているだけでも胸苦しかった。
戻りたいのに恐ろしい。家そのものが悪意すらもって自分を拒んでいるように思われた。これが恵から忠告された「閉ざされている」ということなのだろう。
田中はもう招かれなければ自宅に入ることができないのだ、という。かつて田中は命じられて恵を家に招き入れた。その時点で屍鬼に向かって開かれていた家は、招待した田中自身が死亡したことによって再度、閉ざされた。いや、田中が甦生したことによって、と言うべきなのかもしれない。死者はその家の一員なのだ。依然として家に留まることを許され、家族として追慕される資格を有している。だが、屍鬼にはその資格がない。田中はもう家族の一員ではなく、完全な部外者だった。だからこそ、家に踏み込むためには、家族の誰かに家の中に招き入れてもらわなくてはならない。
その方策を見つけられないまま、田中はこわごわと路地を戻り、勝手口に向かう。鍵がかかっていたが、予備の鍵がどこにあるのかは知っている。勝手口に面した縁の下の、もう使われていない鉢の中を探った。鍵を手に取ったが、手は震えて鍵を鍵穴に差し込むことすらできなかった。意味もなく、家が恐ろしい。もはや動いてもいない心臓を冷えた手で鷲掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]みにされる気がして、苦しくてならなかった。
とても家には入れない、そう思ったとき、間近から低い声が聞こえた。地を這うような声は、勝手口に近い犬小屋の中から聞こえた。ラブか、と思った刹那、その犬は火の点いたような勢いで吠えたて始めた。
田中は跳び退り、慌てて小屋から離れた。切羽詰まったラブの声が、ここはもう田中の家ではなく、田中には足を踏み入れる資格のないことを、何よりも明らかに物語っていた。
逃げだそうと後退り始めたとき、遠くない場所で窓の開く音がした。雨戸は閉じたまま、窓だけが引き開けられる音がして懐かしい妻の声が聞こえた。
「昭なの?」と、寝ぼけたような妻の声は、どこか甘い。「何の騒ぎなの?」
声と共に雨戸が開いた。妻が顔を出した。違う、と田中は思った。
――佐知子。
田中は妻に会いたかった。会って慰撫されたかった。家庭が恋しく、その温かい集合の中心点となる女を恋い慕っていたが、それは妻という存在であって、佐知子ではない。
自分が甦ったことを喜んでくれるだろうか、――佐知子が? 自分を受け入れ、田中の罪を許し、孤絶を理解して慰めてくれるだろうか。佐知子は決してそれをしないことを、田中は想像できた。化け物と罵るだろう、自分を襲うつもりかとヒステリックに喚き立てるに違いない。田中の心情には一辺の斟酌もせず、田中が死んだせいで遭遇しなければならなかった心労を並べ、それがいかに不当なことであるかを態度で示す。苦渋を強いた田中を全身全霊で責めるだろう。
田中は身を屈め、寝間の窓のほうに忍び寄った。ラブがいっそう切迫した声で鳴いて、佐知子を窓辺に釘付けにした。
佐知子が、ラブ、と苛立ったように身を乗り出したのを見て躍り出た。腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで引き寄せ口を塞いだ。呼吸は必要ないはずなのに、押し殺した息で肩が激しく上下した。佐知子が目を瞠り、身じろぎしてくぐもった声を上げた。
田中は嗤う。
初めて、自分がこの女を憎んでいたことを悟った。
二十六日の未明、元子が起きたら、部屋で登美子が死んでいた。元子はその死体を、眉を顰めて見た。
特にどんな感慨もないまま、二階へと上がる。元子の姿を認めて寝床から起き上がった息子に、今日は学校を休んでいいから、と告げた。
「お休みしていいから、部屋でおとなしくしててほしいの。特にお祖母ちゃんの部屋には絶対に入らないで。お手洗いに行くときでなかったら、二階にいてちょうだい。いいわね?」
茂樹は不安そうに元子を見て、そうして頷いた。元子はくれぐれも、と念を押して、一階に降りる。
敏夫に連絡して、世話役に連絡して。――考えたが、それも億劫だった。ふと、葬儀社が村にできたことを思い出した。葬儀社ならなにもかもやってくれるだろう。自分が登美子を湯灌するのも、いつまでも登美子の死体が家にあるのも嫌だった。人が大勢、出入りするのも嫌だ。そんなことで、万が一にも茂樹に妙な病気が移るようなことがあったら。
元子は嫌悪を露わにして姑の死体を見た。早くどこか見えないところ――安全圏の外に出してしまいたくて堪らなかった。
元子は茶の間の抽斗を探って、志保梨の葬儀の後、放り込まれていた広告のチラシを引っぱり出した。電話すると、すぐに社長の速見が出た。
「姑が死んでいるんです。でも、手を触れたくないの。小さい子供もいるんで、早く何とかしてほしいんです」
元子がいうと、さくそうですか、と速見は愛想の良い返事をした。
「そうでしょうとも。お気持ちはお察ししますよ。すぐにご遺体を引き取りに参ります。心配はございません、手前どもで全部処置して、斎場のほうに安置させていただきますから」
「そう」と、元子は息を吐いた。「お願いね」
電話を切り、登美子の遺体はそのまま、丁寧に何度も手を洗って二階へ上がった。茂樹が祖母に近づかないよう、見張っておかなくては。
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かおりが目を覚ますと、夜の中で鳥の声がしていた。雀の声に混じって、高い空に鳶の鳴く、澄んだ声がしている。
かおりは、はっと身を起こした。慌てて枕許の時計を確認する。もう九時が近い。飛び起きて窓を開け、雨戸を開けた。
雨戸を開けると、晩秋の色を漂わせた陽光が部屋いっぱいに射し込んできた。かおりは咄嗟にカレンダーに目をやる。十月二十六日、水曜日。もちろん休日でも祭日でもない。
「やだ」
かおりは呟いて、慌ててパジャマを脱ぎ捨て、制服に袖を通した。鞄に荷物を押し込み、取るものも取りあえず部屋を出て、ふと思い返し、昭の部屋を覗く。雨戸の引かれた室内は暗く、昭は前後不覚に眠っている。
「昭、起きなさいよ!」
かおりは窓を開け、雨戸を開けた。射し込んだ陽光から逃れるように昭は布団に潜り込む。布団を引き剥がして揺すった。
「起きなさいってば。もう九時よ」
え、と昭が跳ね起きた。
なんで、と聞きたいのは、かおりのほうだった。目覚ましが鳴らなかったとは思えないから、きっと止めて寝てしまったのだろう。このところ寝付けなくて、朝起きるのが辛い。目覚ましを止めて寝入ってしまうことが再三だった。昭に至っては、いまだに自分で目覚ましをかけたこともないが、そうしていられたのは、昭やかおりが寝坊しても、必ず母親が起こしに来るからだ。
昭は起きて制服をひっつかみ、盛大に騒音を立てながら用意をする。母親に毒づく声を聞きながら、かおりは階下へと駆け下りた。降りながら、昭は子供だ、と思う。
子供でいることに傷つくくせに、自分で目覚ましをかけ、母親の手を借りずに起きることはできないし、それを考えたこともない。自分だったそうだ、と思う。母親が起こしてくれなければ、定時に起きて学校に行くことができない。そんな自分が大人には足りないことは良く分かる。どう足掻いても子供でしかない。自立できない、自活できない。だから父親の死を悼む間もなく、生活の心配をしては死んだ父親を責める母親を、酷いと思うのは間違っている。
複雑な気分を抱えて下に降りた。茶の間は暗く、台所にもまだ人の気配はない。洗面所に駆け込み、身繕いをしてから寝室を覗いた。雨戸は開いていたが、母親は眠っている。
「お母さん」
かおりは声をかけた。もう食事をする時間はないし、どうして起こしてくれなかったの、と母親を責めるのが間違っていることは分かる。だから起こしても意味はないのだけど、かといって声もかけず黙って家を出て行くことも気が咎めた。
「お母さん、もう九時だよ」
屈み込んでいうと、佐知子は目を開けた。かおりの背後の廊下を、昭がけたたましい足音を立て、駆け抜けていった。佐知子は億劫そうに瞬き、長い溜息をつく。
「あたし、学校に行くね」
そう、と佐知子は頷く。かおりは首を傾げた。
「お母さん? 具合でも悪いの?」
別に、と言ったが、佐知子の口調には倦怠が漂っている。起きる様子もなく、布団に身を横たえ、どこか虚ろな顔をして眩しそうに瞬きを繰り返していた。かおりは血の気が引くのを感じた。とっさのうちに恵と夏野と、そして父親の様子が浮かんだ。背後で悪態をつきながら戻ってくる昭の足音が聞こえる。
「……昭」
「なんだよ、もう。いっつも、起きろ起きろって煩いくせに」
「昭、ってば」
ふてくされて廊下を通り過ぎようとしていた昭が振り返った。怪訝そうにして寝室に入ってくる。
「どうしたんだ?」
昭は、かおりの硬い表情と母親を見比べた。母親はぼうっと天井を見上げている。すぐに目を閉じた。何か変だ、と思った瞬間、痛いほどの力でかおりに腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれた。
「昭、どうしよう」
強い力、怯えたような声で昭も事情を悟った。夏野を襲ったあれだ。昭たちから父親を奪ったものが、母親を次の標的に選んだ。
そうに違いないという確信が半分、まさかという期待が半分、昭は母親の身体を揺する。
「母ちゃん、起きろよ」
母親は目を開けたが、やはり虚ろな顔をして横たわったままだった。
「何時だと思ってんだよ。起きろよ」
「……勝手に行ってちょうだい」
佐知子は寝返りを打つ。声には覇気がなかった。
「お母さん、眠いのよ……」
顔を背けた首筋に、かつて夏野に見たのと同じ斑紋があった。昭は乱暴に部屋を横切り、雨戸を閉め、窓を閉める。しっかりと鍵をかけた。いまここでこんなことをしても意味がないと思いながら、そうせずにはいられなかった。ぴったりとカーテンを閉じる。
「昭……」
問いかけるように自分を見上げてくる姉の手を取って引き立たせる。寝室の外に押し出して、襖を閉めた。
「……何とかしないと」
「ねえ、こんなの嘘だよね。お母さんまで、そんな」
昭は首を振る。茶の間に戻ってその辺の棚を引っ掻きまわした。
「ねえ、昭」
「恵だろ。きっとあいつら、おれたちを皆殺しにする気なんだ」
「まさか」
かおりは悲鳴を上げたが、それは否定というより、信じたくないという叫びに聞こえた。おれだって信じたくないよ、とひとりごちながら、昭は抽斗を開け、物入れを探る。御札や守り袋の類は見つからなかった。そもそも夏野のところに、あるだけのものを|浚《さら》えて持っていった。いまさら何かが残っているはずもなかった。
「かおり、溝辺に行ってこい」
昭が言うと、かおりはきょとんとした。
「鈍いな。溝辺町の八幡さまだよ。前に初詣に行ったことあったろ。あそこだったら社務所があって、ずって開いて御守りとか売ってるじゃないか。村の神社って、そういうの置いてないんだから」
「でも、学校は?」
「行ってる場合じゃないだろ」
「叱られちゃうよ」
「おれたち、父親が死んだばっかりの可哀想な子供なんだぜ。そのうえ母ちゃんの具合も悪くて、だからいろいろ用事をしないといけないんだって言えば誰も文句なんか言わないだろ」
でも、とかおりは言いかけ、けっきょく頷いた。昭は、棚から母親の財布を取って、かおりに突きつける。
「御守りとか、破魔矢とか、できるだけ沢山」
「……あんたは?」
「おれ、他にすることがあるんだ」
かおりは釈然としない様子で頷き、財布を持って出かけていった。昭はひとり茶の間に残され、裏庭に出る。物置の中から、父親の工具箱と、家の修繕に使っていた角材を引っぱり出した。苦労して適当な長さに切り、木工用のカッターで削る。
今度は母親の番だ。連中からの報復なのは間違いない。そう言えばゆうべ、夢|現《うつつ》にラブの吠えたてる声を聞いたような気がする。母親が死んだら、今度こそは、かおりか昭の番だろう。母親だけで済むはずのないことを、昭は確信していた。
身を守らなければいけない。母親を、かおりを守らなければ。そのために杭を打つしかないのなら杭を打つのだ。たとえそれが、夏野だろうと父親だろうと。かおりが嫌だというのなら、自分だけでもやらなければ。ここで怖じ気づいたら、夏野だって昭に失望するに違いない。
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十六章
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元子は茂樹に斎場へ近づくことを許さなかった。茂樹は実家に預け、昨日の通夜も早々に終わってもらった。正直な気持ちを言えば、通夜や葬儀にさえ出たくはなかった。弔問客は誰も奇異の目で見ていたが、そんなことは気にならなかった。
そして元子はこの日の朝、用心をしたにもかかわらず、茂樹の様子がおかしいことに気がついた。
「どうしてよぉ!」
元子は叫び、泣き崩れる。登美子からは隔離していた。万全を期したつもりだ。実家に預けていたのになぜ、と元子は理不尽な運命に怒り狂った。
余所者ならいざ知らず、舅や姑ならともかく、もう元子から子供を奪っていくような者はいないはず。なのに茂樹は奪われようとしている。
「茂樹くんの調子が悪いんですって?」
実家のほうに顔を出した前田利香は、憐愍を込めて元子を見た。
「元子さんも災難ね。次から次へと」
言った利香も今月の頭に夫を亡くしたばかりだ。村内から嫁いだ利香は、前田姓こそ名乗っているものの、子供を連れて水口にある実家に戻っていた。
「……ねえ、元子さん、こんなことを言って、迷信じみた奴だと思わないでほしいんだけど。……ひょっとしたら伯父さんが引いていってるんじゃないかしら」
「お義父さんが?」
利香は気まずげに頷く。
「本当に馬鹿みたいね。……でも、気になってしょうがないの。伯父さんが出るって噂を聞いて……」
元子は目を見張った。
「すぐ近所の田丸のお婆ちゃんが、近所で見たっていうのよ。見間違いでしょう、って言ったんだけど、確かに伯父さんだったって」
田丸美津江は水口の下のほうに住んでいる。
「それで伯父さん、思い残すことでもあるのかしらね、なんて言ってたのよ。半分は冗談だったんだけど……でも、現にこうやって元子さんのとこで不幸が続いてるでしょう? ――だから」
「そう……」
そうなのか、と元子は思った。釈然とした気分だった。舅の巌は元子を嫌っていた。何をしても気にくわなかったのだ。だからきっと、と元子は確信する。
(そういうことだったんだわ……)
巌が引いているのだ。元子の大切な物を奪っていこうとしている。誰もかれもが元子から子供を奪っていこうとしている。摂理までが死人をわざわざ甦らせて、敵に味方をするのだ。
「そんなこと、させないわ……絶対」
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十月二十七日。外場に住む竹村昭子の訃報が入った。敏夫は病院を出て行く。帰りを待つスタッフに田代書店の子供も死んだと、連絡が入った。
「田代さんとこの……そうですか」
武藤はやるせなさそうに頭を振った。
「こないだ来たときに、そうじゃないかとは思ったんだけどね。やっぱりあれだったんだなあ」
「ええ……」
田代夫妻は、さぞかし気落ちしているだろう。――それとも、と律子は思う。ついに来るべきものが来た、と了解しているだろうか。
死者は勢いがついたまま止まらない。江渕クリニックが看取っている患者や外部の病院で死亡した患者もいるだろうから、死者の実数はこんな物ではないはずだった。しかも今日は清美が来ない。
律子は時計を見上げた。もう診察時間に入っている。いまだに清美からは何の連絡もなかった。来ませんね、という言葉を律子は呑み込んだ。もう何を言う必要もないように思えた。やすよも武藤も何も言わなかった。時折、時計を見上げていたから、誰も気にしてないわけではないだろう。武藤は何度目かに時計を見上げ、無言で首を振って事務室へと出て行った。休憩室には律子と、やすよだけが残された。
「……若先生があれはだけ奔走してるんだし」と、唐突にやすよが声を上げた。顔を見返すと、やすよは笑う。「そのうち何とかなるわよ。あの人は昔から往生際の悪い人でね。無駄なあがきってのが大好きなんだけど、最後には辻褄を合わせるから悪あがきも捨てたもんじゃない」
「そうなんですか?」
「そうよ。大学にはいるときもそうだったわねえ。高校三年のとき、志望校のランクを落としたら、って言われたみたいよ。でも、意地っぱりだから。悪あがきして、それでちゃんと合格したから。そういう人だからね」
律子は微笑んだ。
「酷い状況になればなるほど、ムキになるのよ。あの意地っぱりが、このままで済むわけがない。いずれ救済策が見つかるわよ」
「……そうですね」
敏夫がうんざりした気分で病院に戻ると、すでに受付時間が始まっている。そこには患者と訃報と、永田清美が病院を辞めるという報告が待っていた。
「――清美さんが?」 やすよは頷いた。
「ついさっき、電話があって」
やすよはそれ以上、何も言わなかったが、敏夫は昨日の気まずい会見を思い出さないではいられなかった。
「それは……痛いな。何とか説得できないか」
敏夫が言うと、やすよは頷く。
「とりあえず電話でも慰留してみたんですけど。まあ、あの人も旦那と子供がいますからねえ。伝染病だって話になって、ずいぶん旦那から辞めろってせっつかれてたらしいですし」
そうか、と敏夫は頷いた。
「実際のところ、どうなんです?」
「どう――とは?」
「本当に伝染病なんですか」
敏夫は言葉に詰まった。
「なんだかね、あたしには別のものに見えるんですよ、最近。だから何だって訊かれても困るんですけど」
「正直言って、分からない」
そうですか、とやすよは溜息をついた。それ以上は問わず、持ち場に戻る。敏夫もまた溜息をつかないではいられなかった。膠着した状態(何と言って協力者を募る?)、逼迫してくる様々な要因。蓄積した疲労は敏夫の中で、無気力の種子となって埋もれている。
(おれ一人じゃ、どうしようもないじゃないか)
倦怠が押し寄せてきた。
律子は仕事をこなしながら、清美のことを考えていた。雪の失踪、聡子に続いて清美の辞職。病院はずいぶん寂しくなった。スタッフだけではない、患者の数も減っている。スタッフが減っているから、相対的に仕事量は減りはしないのだが、絶対的な患者の数は減っていた。例の患者ばかりでなく、少し前には多かった、些細な不調を訴える患者も少ない。結局、近頃病院にやってくるのは、ずっと以前から通っているような慢性病の患者や怪我人がほとんどで、それもじりじりと減っている。――それが怖い、と思う。
葬式の数は減ってない。今朝も訃報が二つ入っている。死はやんでいないのだ。それで村人の不安が軽減されるはずもなかった。以前と同じく不安だろう。だったらもっと些細な不具合を訴えてやってくる患者が多くてもいいはずだ。それが減っているのはなぜか。また、例の患者が減っているのはなぜだろう。慢性病や理学療法に訪れる患者も減ったように思う。人そのものが減っているせいなのかもしれなかった。
(何か、とても怖いことが起こってる……)
律子にはそう思えてならなかった。不安な気分で仕事を終え、家に帰ったが、やはり落ち着かなかった。時計を見て意を決する。太郎の引綱を取って家を出た。
清美と話をしてみよう。辞める辞めないはもちろん清美の自由なのだが、律子には心細くてならない。目に見えないところで、何か怖いことが起こっている。そのはずなのに、目に見えないのがいっそう不安だった。
清美の家は、門前にある。律子の家とさほどには遠くない。太郎を頼りに、道路際の家々の明かりに励まされて夜道を歩き、清美の家の近くまで来たときだった。一台のトラックが前からやってきて律子とすれ違っていった。律子は思わずそれを見送った。
――高砂運送。
ふいに妙な予感を感じた。律子は小走りに枝道を折れ、清美の家へと向かった。清美の家には明かりがなく、雨戸も窓もぴったりと閉じている。玄関に駆けつけ、呼び鈴を押したが応答がなかった。
(……やっぱり)
隣家のドアを叩いた。老齢の男が顔を出し、律子が恐れていた通り、清美の一家はついさっき越していったと教えてくれた。
(そんな、馬鹿な)
引越す予定があったなら、清美は事前にそう言っただろう。今日、電話をしてきたときにだって、辞める理由としてそれを挙げたはずだ。引越すことになったから、辞めると言えば角も立たない。――なのに。
「……わたしたちが邪魔なのね」
敏夫を支えるスタッフが。尾崎医院の存在が。だから下山も十和田も、パートの二人も、雪も聡子も清美も。
(奈緒さんに似た誰か……)
似た誰か、ではない。あれは奈緒だったのだ、間違いなく。これは伝染病なんかじゃない。だから、病院を標的にしている。
ふいに涙がこみ上げてきた。清美には、たぶんもう会えない。雪にも、そしてきっと聡子にも。律子はそれを確信していた。
「みんな行って……そして誰もいなくなる」
律子は道に|蹲《うずくま》り、甘えた声を出す犬を抱いた。太郎はひとしきり、律子を|宥《なだ》めようとするかのように律子の頬を舐めていたが、ふいに怯えたように声音を変えた。
律子の背後に、人影が近づいていた。
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昭は不寝番をするつもりで部屋の窓を開け、家の前の道を見下ろして一夜を過ごした。過ごすつもりだったが、結局どこかの時点で寝入ったらしい。明け方の冷気に目を覚ましてみると、すでに夜は明けていて、昭の脇でも、かおりが眠っていた。
舌打ちしながら階下に向かう。母親は宥め|賺《すか》して座敷に移してあった。仏壇の前に布団を敷き、そこで寝かせ、雨戸や襖に御札を貼り、破魔矢を吊していたのだが、昭が降りてみると雨戸が一枚、開いていた。
母親は青い顔をして眠っている。容態は昨日より悪かった。貼ったはずの札は一枚残らず剥がされ、破魔矢どころか、仏壇の中の本尊や香炉までがなかった。
「母ちゃん、御札、知らないか?」
昭は母親を揺すり起こしたが、母親は億劫そうに首を振る。
昭は庭に飛び降りた。辺りを捜したが、それらのものの一切が見つからなかった。ただ、庭に香炉から零れたのか、ぶちまけたような灰の跡だけが残っていた。
札や破魔矢では連中を止められないのだと悟るしかなかった。しきりに水を欲しがる母親の枕許には、かおりが残り、昭は学校をさぼってバス停に向かう。今度は昭が、溝辺町の神社に行く肚だった。あんなものでは襲撃を止められないことは分かっている。けれども、それがそのまま残っていたわけではない、御丁寧に消えているのが気にかかった。本当に何の効力もないのなら、連中はそれを放ったらかしにしておくだろう。わざわざ除けたぐらいだから、嫌がらせ程度の効果はあるのかもしれない。
考えながら歩いていると、声をかけられた。タケムラの前だった。
「こんな時間に、どこに行くんだい」
声をかけてきた老人は、知り合いではないが、佐藤笈太郎ということぐらいは知っている。確か水口で木工をやっている老人だ。いつもタケムラの前にたむろしている。
「もう学校に行く時間だろうに」
「母ちゃんに用事、頼まれて」
おやまあ、と笈太郎は目を丸くする。
「学校をさぼってかい」
訳知り顔に口を開いたのは、下外場の大塚弥栄子だった。
「お母さんの具合が悪いんだって?」
「うん」
「お父さんが亡くなったばっかりだっていうのに、大変ねえ。それでなくても死人が出ると後々、雑用が尽きないのに」
ああそうか、と笈太郎が呟いて、黄ばんだ歯を見せて笑う。
「そうか、そりゃあ大変だな。おっ母さんの按配はどうだい」
「……分かんない」
そうか、と笈太郎はどこか悄然とした。弥栄子もわざわざ床几を立って、昭の背中を撫でる。
「今年は酷い年よねえ。なんだか得体が知れなくて。こんなときこそ昭ちゃんがしっかりしないとねえ。男の子だもんねえ」
昭は黙って頷いた。そこには、昭の決意が込められている。
「本当に得体が知れないよ。次から次へと死んじまってさ」笈太郎は溜息をついた。「金物店の嫁さんだって逝っちまって、タツさんとこの縁続きでも、とうとう葬式だよ。あんなに元気だったのにさ」
およし、と低く言ったのは、竹村タツだった。笈太郎は、はっと気づいたように、昭の顔を見る。
「いや、その。……母ちゃんだけでも治るといいなあ」
昭は頷き、そして老人たちの顔を見た。
「でも、治るもんなのかな」
「治るわよ」弥栄子は昭の肩を揺らす。「そんな縁起でもないこと、いうもんじゃないわ」
「でも、治った人、いるの? 夏からこっち、誰それが具合が悪いって話ばっかりでさ。治った人なんて一人もいないじゃないか」
昭が突きつけるようにいうと、老人たちは押し黙った。タツが軽く息を吐く。
「……その通りだね」
「ちょっと、タツさん」
弥栄子が慌てたように声をかけたが、タツは頓着しなかった。昭に向かって重々しく頷く。
「あんたの言う通りだよ」
「こんなに人がバタバタ死んでさ。次から次へと倒れて。なのにどうして、大人は何もしないんだ? どうして放っておくんだよ」
タツは何も言わなかった。放ってるわけじゃ、と笈太郎が下を向く。弥栄子は昭の肩に手をかけたまま、明らかに困惑した様子だった。昭には我慢ができなかった。
「この村、変だよ。絶対にどうかしてる。こんなに人が死んで、なのに大人は何もしない。何で誰も何とかしようとしないんだよ。いっつも大人だ大人だって威張ってるんじゃないか。だったら何とかしてみせろよ」
笈太郎がむっとしたように何かを言いかけたが、弥栄子がそれを制した。
「お父さんが死んだばっかりだもんね。お母さんまで具合が悪かったら、そう思うのも仕方ないわ。あたしたちだって、何も考えてないわけじゃないんだけどねえ」
弥栄子の憐愍を込めた声が不快だった。昭はポケットに両手を突っこみ、タケムラの前を離れようとした。
「そんなことを言うけど弥栄さん、おれたちにどうにかできるのかい」笈太郎が情けなく声を上げた。「確かに変だよ、この村はさ。けど、尾崎の若先生にもどうにもできないんだろう。しかもさ、何なんだいあれは、あちこちの家が空になったり、かと思うと、いつの間にか人が戻ってたりさ。しかも郁美さんのとこだって」
昭は足を止め振り返った。聞くともなく笈太郎の言葉に耳を傾ける。
「赤恥かいたんで、親子揃って出ていったんでしょ。当然なんじゃない?」
「そうじゃなくてさ。妙な噂があるんだよ、知らないのかい。最近、出入りするのがあるらしいんだよ。それも夜中にさ。もちろん郁美さんじゃないし、娘の玉恵でもない。田丸の婆さんは、前田の巌さんに似てたって」
「馬鹿な」弥栄子は笑いながら手を振る。「あの人は気が弱いんだから。巌さんのはずないじゃないの。あの人は月の始めに死んだんだからさ」
「そうとも。だから気味が悪いんじゃないか。冗談じゃない、おれは、こういう気色の悪いことに関わり合いになるのは真っ平だ。そりゃあ、強盗や何だってんなら、若い者の真似だってしてみようって気になるけどね」
昭は路面に落ちた自分の影を見つめた。前田巌――下外場の老人だ。名前の通り厳つい顔を思い出した。そう、死んだという話を聞いたことがある。そしてその巌に似た人影が夜に出入りしている家がある。
「それ、どこ?」
昭は老人たちに声をかけた。笈太郎は、昭の存在を失念していたのか、驚いたようにし、だから郁美さんの、と言った。
「水口の伊藤って家だよ。いちばん下にぽつんと一軒だけ離れてる。三猿の石碑のすぐ近くさ」
そう、と呟いて、昭は川の対岸に目をやった。川と山に挟まれたごく細長い土地に、家が建ち並んでいる。
昭は踵を返した。笈太郎が不審そうに声をかけてきたが、構わず走って家に取って返す。問いかけるように、かおりが出てきが、無視して二階に駆け上がった。
木槌はない。あるのは父親の金槌だけだが、これでも大丈夫なのに違いない。昭は机の下に突っこんでおいた箱を引き出し、そこから杭を二本、引っぱり出した。昨日一日かかって、七本の杭を作ってある。
それを金槌と一緒にデイパックの中に放り込んだ。念のために自分用に取っておいた守り札を胸ポケットに押し込む。
「おれは、やるよ」昭は高ぶって震える手でポケットの中身を確認するように押さえる。「兄ちゃんの仇は取ってやるから」
こうするべきだ、と言ったはずだ、夏野なら。昭はデイパックを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、階段を駆け下りる。かおりには構わず、家を飛び出した。
昭はまっすぐに水口に向かった。タツだけが三之橋を渡る昭を遠目に見た。
笈太郎の言っていた家は、すぐに分かった。水口の集落の外れ、どことなく荒んだ感じの小さな竹林の中、山を背に建っている。荒んだ感じがするのは伊藤家も同様だった。もう長いこと廃屋になっているように見える。どことなく気味悪く思いながら、昭は玄関の歪んだガラス戸に手をかけた。
当然のように、ガラス戸は開かなかった。昭は周囲を見渡し、人目がないことを確認すると、裏手へと廻った。すぐにじめじめとした路地の奥に勝手口を見つけたけれども、これもまた開かない。たた開かないばかりでなく、台所の窓も勝手口のガラスも、内側から板のような物で目張りされているようだった。昭はさらに裏へと廻り込み、斜面に面した建物を検める。窓が二箇所、そのどちらもやはり内側から板が張られている。
昭は腕時計を見た。まだ正午を少し廻ったところだ。連中が起き出すのには早い。時間なら充分にある。
それでも幾度か深呼吸をし、何度も周囲の様子を窺いながら、デイパックから金槌を引っぱり出した。もういちど自分に言い聞かせながら一呼吸、それから窓カラスのひとつに向かって金槌を振り上げた。
おっかなびっくりだったせいか、ガラスは小さな音を立ててひび割れた。軽く釘抜きのほうで叩くと、破片が落ちて桟と板の間に滑り落ちた。それで度胸が据わって、同じように何度か金槌を振り下ろす。ガラスの一枚が完全に落ちて、そこから腕を差し込んでみようとしたけれど、板のせいでそれができない。ただ、板はベニア板らしく、掌で押すと内側に撓んだ。
昭はもう一度息を吸う。それからベニア板に向かって尖った釘抜きのほうを打ち付けた。板が避ける音がして、先端が潜り込む。昭は次第に大胆になった。力任せに金槌の両端を使い分け、桟を壊し、板を裂く。すぐに板が裂けて外れ、桟が折れ、昭が潜り込めるほどの穴が開いた。
いつの間にか肩で息をしていた。汗を制服の袖で拭い、昭は窓によじ登る。ガラスの破片が掌を刺して、軽く舌打ちをした。穴の中に首を突っこみ、とりあえず中を見渡す。窓から射し込んだ光で、暗い部屋の中の様子が見て取れた。黴臭い茶の間だった。
昭は壁を蹴って中に潜り込んだ。家の中は暗い。窓には内側からベニア板が打ち付けられ、まるで隙間を目張りするように、板の縁にはガムテープがきっちりと貼られている。昭の破った部分から光が入っていなければ、本当に真っ暗だっただろう。
昭はデイパックから懐中電灯を取り出した。光を当ててみると、家の内部は廃屋と呼ぶほど荒れていないことが分かった。きっと埃が積もり、あちこちが朽ちているだろうと想像したのに、意外に中はこざっぱりしている。古いことは確かだが、まるで今も誰かが住んでいるように、あちこちに「家」の気配が漂っていて、自分が土足なのが気が咎めたほどだった。
(誰か、いるんだ……)
どこがどうとは言えない。けれども、人が住んでいるのだ、という気がした。茶の間には戸口が二つ。一方はガラス戸で、これは台所に面し、開いている。昭はそちらに明かりを向け、土間に板や石膏のような袋が積んであるのを見つけた。もう一方は隣の部屋に向かう襖だった。古びて染みが浮いた襖は、ぴったりと閉じている。
昭はそろそろと襖に手をかけた。滑りの悪い襖は、軽く抵抗してから音を立てて開いた。そっと中に明かりを向け、覗き込むと布団が見える。舐めるように照らしてみたが、布団の中には誰の姿もなかった。
この部屋には窓がないようだった。部屋の一方は土間に面し、向かい側にはさらに隣の部屋に向かうとおぼしき襖がある。もう一方には部屋の幅いっぱいの大きな仏壇らしき棚が見えたが、軸や仏像のようなものはなかった。ごたごたと物の置かれた棚や箪笥があちこちに据えてあって、床にはかろうじて布団を敷けるほどのスペースしかない。そこにいかにも寝乱れたふうの布団が放置してある。
(誰もいないのかよ……?)
昭は思いながら、布団を踏みにじって部屋を横切り、さらに向かい側の襖に手をかけた。誰の姿もないことで、どこか拍子抜けしたような気分があった。そろそろと、けれども先ほどよりはかなり無造作に襖を開く。
小さな家には、三間しか部屋がないようだった。六畳ほどの部屋の正面には内側から板の張られた窓、どうやらそれが表に面しているらしい。ぴったりと目張りされているようで、部屋の中には真の闇が降りている。懐中電灯の明かりで箪笥や坐り机が配置され、その合間にごたごたと物が積み上げてあるのが分かった。
土間に面してはガラスの入った障子、これを開けると玄関で、土間が台所までを廊下のように貫いていると分かる。玄関のガラス戸にも板が張られ、しっかり目張りされている。土間にも段ボール箱や物が積み上げてあるが、これといって不審なものは見えなかった。土間の反対側には妙に真新しいカーテンが吊されている。手をかけてみると、ゴム引きしたような手触りがして、裏側は黒い。そのカーテンの向こうは、窓ではなく襖になっていた。
昭は首を傾げた。天袋が見えるから押入だろうが、何だってカーテンなど吊してあるのだろう。昭は襖を開け、明かりを向けて、思わず飛び退った。
声にならない悲鳴が漏れた。押入の上段に横たわっている人影があった。
折りたたんだ毛布を敷き詰めたところに、濃い色の服を着た人間が横たわっている。片手が腹の上に載せられていたが、ぴくりでもなかった。――そう、まるで反応がない。
昭は震える手で光を向けた。やはり人影は全く身動きをしなかった。懐中電灯の先で襖を押し開けてみた。眠った男の顔が見えた。厳つい顔の老人で、昭はその顔に見覚えがあった。
(前田の……爺さんだ)
やはり、と思った。噂は本当だったのだ。死んだはずの老人がここに横たわっている。昭は光を顔に向け、表情を凝視したがピクリとも動かない。深く眠っている。――あるいは。
昭は懐中電灯の先で老人をつついてみた。やはり何の反応もなかった。二歩、三歩と側に寄ってみる。老人はこそとも動かず、そして寝息も聞こえない。腹の上に載せた手に、おっかなびっくり触ってみると冷たかった。死んでいる、と言うべきだろう、本来ならば。
(こいつが)
昭は息を呑み下す。口の中は干上がっていた。軽く揺すっても反応はない。そっと手を指でつまみ、持ち上げて放すとパタリと落ちる。前後不覚に眠っている――あるいは、本当に死んでいるのだ。
昭は緊張のあまり、笑いたい気がした。人形のように無抵抗に横たわっている。これが父親の――夏野の仇だ。夏以来、村に死を撒き散らし、昭の世界を引き裂いた元凶。
本当に昼間には、活動できないのだ、と思った。こんなふうに暗いところに潜んで眠っている。身動きできず、目覚めることもできない。日が暮れるまでは、昭の思うままだ。
「見つけたぞ」
昭は声に出してみた。やはり老人は、柔らかい人形のように横たわっている。
「やっつけてやるからな。……全員」
昭は老人の腹の上、筋張った手の側に懐中電灯を置き、デイパックから杭を取り出した。ベルトに差した金槌を抜く。身を乗り出し、顔を覗き込むようにして杭を構えた。切っ先が震えて、位置が定まらない。
こいつらは人殺しだ、と昭は自分に言い聞かせた。
「兄ちゃんも父ちゃんも死んだ。お前らが殺したんだ。だから、おれだって酷いことだなんて思わないからな」
そう、同情はしない。斟酌しない。これは正義であり、生者の正当な権利だ。
「お前らは鬼なんだ」
切っ先を老人の胸板に押し当てた。当てた一点を軸にして、杭は情けないほど揺れている。
やるんだ、と昭は自分を叱咤した。この禍々しい連中が、無抵抗でいる今のうちに。今なら鬼は抵抗できず、昭に危害を加えることはできない。昭が金槌を振り下ろすのを止められず、易々と息の根を止められて、灰になって消えていくだろう。
言い聞かせても、金槌を握った手が動かなかった。昭は強いて、父親の死に顔や、夏野の最後に見た顔を思い出そうとした。横たわった母親、父親の死体を置き去りに、怒りを露わにしていた母親と、それを見ていた自分のやるせなさ。無力感と絶望、怒りと悔しさ。昭を苦しめた全ての元凶。
「……やっつけるんだ」
まだ陽が高い、いまのうちに。
――昭は、辰巳の存在を完全に失念していた。真昼に外に姿を現すことのできる者がいることは、全く念頭に浮かばなかった。それだから、まさか自分の背後に気配を殺して近づいてくる人影があろうとは、想像だにしなかった。昭の注意は完全に震える杭の切っ先に向けられており、頑として動こうとしない金槌に向けられていた。
太い腕が伸ばされた。厚みのある手がそろりと昭の肩先に伸び、首筋を左右から掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]もうとしていたが、その手は気配も臭いも放射していなかった。構えられた手は、唐突に閉じて昭の首を捕らえ、締め上げた。悲鳴もなく、声もなく、ただ杭が倒れ、金槌が落下して鈍い音を立てた。
――何かが、突然、落ちかかってきたことは覚えている。
昭は誰かに肩を叩かれたような気がしてぼんやりと目を開けた。落ちかかってくるように、痛みと衝撃を伴って、首に堅いものが当たった。昭には何が起こったのか分からず、どうして急に血の気が引いていったのかも分からなかった。そしていま、なぜ喉がこんなに痛むのかも分からない。
昭は瞬いた。暗い部屋の中だった。自分の視野の下のほうに明かりがある。懐中電灯の明かりだった。見るともなく見て、時計を捕らえた。秒針の動く硬い音がしていた。
昭は、はたと我に返り、弾かれたように身動きをした。どっと汗が噴き出した。くぐもった声が漏れたが、悲鳴にはならなかった。口が固く貼り合わされている。
暗い部屋の中、ここは昭が忍び込んだあの部屋だ。すぐ近くに、わずかに開いたカーテンと、襖が見える。隙間は暗かったが、かろうじてそこに黒の濃淡で横たわる影がのぞいているのが分かった。
身動きしようとしたができなかった。昭は周囲を見まわし、身を捩って自分の姿を検める。おそらくガムテープのようなもので口が塞がれており、ロープで自分が座ったまま柱か何かに縛り付けられていることを確認した。両手は括り合わされ、投げ出された足の間に落ちている。その足先の床の上には、懐中電灯が置かれ(落ちて?)、頼りない光が、畳の上に置かれた四角い目覚まし時計を照らしていた。
(……時計)
昭は何気なくそれを見つめ、そして目を見開いた。悲鳴じみた声が漏れたが、それは蓋されて喉につかえ、逆流して昭を咳き込ませる。それすらもままならず、昭は少しの間、自分の咳で窒息しそうな気分を味わった。
苦痛で涙が滲む。何とかせきを鎮めて瞬くと、時計の文字盤が見て取れた。嘲るように懐中電灯で照らされたそれは、長針が六と七の間を、短針が四と五の間を示している。
昭は渾身の力で身もがいたが、戒めは弛む気配もなく、かえって腕に食い込んで抜き差しならない苦痛を与えた。絶望的な気分で時計と押入の間隙を見比べる。くぐもった悲鳴が間断なく塞がれた口から漏れた。足が畳を蹴り、叩く。断末魔のように。その衝撃で床に置かれた懐中電灯が転がったが、依然として文字盤には光が射していた。
――四時三十三分。
硬質の音を立てて、秒針が歯車のように動く。一秒ずつ。
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清水寛子は回覧板を持って家を出た。そこには、役所に夜間窓口が設けられた旨、告知が出ていた。
(都会でもないのに……)
夜でなければ役所に行けないような、そんな忙しい人間が、この村にいるのだろうか。第一、夜にわざわざ出かけるなんて。
(妙な感じ)
思いながら、隣家の呼び鈴を押した。ほんの少し前まで、呼び鈴など押さずともドアを開けて声をかければよかったのに、隣家の住人は近頃、昼間でも鍵をかける。別に隣家に影響されて、というわけでもなかったが、寛子も近頃では、そうすることが増えた。別に昼間、物騒なことが起こるなどと思っているわけではないものの。
すぐに玄関の中で足音がして、太田道代が顔を出した。道代は浩子の顔を見るなり、ああ、と呟いて笑みを浮かべる。寛子は目を伏せた。いつからだろう。道代が笑顔を装っている、という気がしてならない。寛子だと気づいたときの、ほんの一瞬の間。眉根が今にも寄せられそうになって、それを糊塗するようにわざとらしいまでの笑顔が浮かぶ。
自分は歓迎されてない。寛子はそう思う。それは最初、気のせいとしか思えなかったが、今では確信になっていた。
「あの、回覧板なんだけど」
寛子が言って、クリップボードを差し出すと、道代はほんのわずか、それと寛子を見比べた。
「ああ、そう。悪いわね。ポストに投げ込んでおいてくれれば良かったのに」
貼り付いたような笑みで言いながら、道代はなかなか手を出そうとしない。寛子はこんなとき、まるで自分が何かに汚染されているかのように感じる。
(何だっていうのよ)
寛子は道代に回覧板を突きつけた。道代は躊躇ったようにして、それを受け取る。受け取った手つきが、いかにも汚いものでも受け取るかのようだった。にもかかわらず、依然として道代の顔には笑顔が浮かんでいる。
寛子はその笑みから視線を逸らした。踵を返そうとして、ふと玄関脇の窓が目に留まった。
「あら、カーテンを変えたのね」
「ええ、そう……前のがずいぶん汚れちゃったから」
薄い花柄のカーテンは、いかにも厚い生地のそれに変わっていた。しかもガラスには、レース模様のシートが貼られていた。
「ずいぶん、お洒落ね」
「そう?」と、道代は窓に目をやる。「ほら、今まで何もかも開けっぴろげにしてきたけど、何だかそれって不用心な気がして」
「用心しないといけないような心当たりでもあるの?」
寛子は、道代に問うた。それは自分たちのことか、と問いたかったがそれはできなかった。
「そういうわけじゃないけど。ほら、あたしは奥さんと違って、ずぼらだから。家の中の掃除だっていい加減なもんだし、それが外から丸見えなのも外聞が悪い気がして」
「そう?」と、寛子は言いながら、軒に吊された草の束を示した。「ねえ、あれって|蓬《よもぎ》?」
「ええ、そう。……そうなの、干して草餅でも作ろうと思って」
寛子は首を傾げた。新芽を摘んできて草餅を作るというのは分かるが、干してまで蓬を蓄えようというのは理解できなかった。
「あら、いけない」道代は、取って付けたような声を上げた。「お風呂に水を張ってる途中だったわ」
そう、と寛子は苦労して笑う。
「ごめんなさい。お邪魔して」
「いいのよ。――じゃあ」
寛子の鼻先でドアが閉まり、そして鍵をかける音がした。寛子は少しの間、閉ざされたドアを見つめ、その外に閉め出されている自分について考えた。
(何なのよ、いったい)
泣きたい気がする。この村は最低だ、と思った。ひと思いに出て行けない我が身が恨めしかった。踵を返し、改めてドアを一瞥した。ドアの上にある採光窓に、びっしりと紙が貼られているのに気づいた。
寛子は首を傾げる。それは守り札だ。外に向けて、数枚の守り札が等間隔に貼られている。今まで一度だってあんなものを貼っているのは見たことがなかったのに。
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「こんばんは」と、加藤は玄関の戸を開けて中に声をかけた。手には大工道具の入った鞄を提げていた。
工務店からの依頼だった。裏口のドアの建て付けが悪く、鍵も壊れているので直してくれ、と依頼された。外場のごたごたと人家が集まったあたりにある、滝重造の家だった。
「滝さん、こんばんは。遅くなって済みません。安森工務店の者ですが」
とにかく、細かな造作が多い。依頼された仕事をこなしているうちに、思いの外、遅くなった。もともと、用があるので夕方以降に来てくれとは言われていたものの、すでに夕方どころか八時を過ぎていた。
「あのう――滝さん」
外場集落の混み合った辺りには珍しくない、棟割り長屋の一軒だった。間口は狭く、奥が深い。その奥の方から、うっそりと老人が一人姿を現した。
「ああ、済みません。滝さんはおられますか」
加藤が言うと、その老人は何やら深いげに眉根を寄せて頷く。
「わしが滝だが。工務店の人かね」
ええ、と答えながら、加藤は瞬いた。
「あの……滝重造さんは」
「わしだ」
そんな、という言葉を加藤は呑み込んだ。加藤は滝老人を知っている。母親のゆきえと同級生で、それで親交があるのだ。――だが、この老人はどう見ても滝ではない。
加藤は激しく困惑した。家はここで間違いない。これまでに何度も、アンテナの弘二や電化製品の納品に来たことがあるから確かだ。だが、この老人は絶対に滝ではない。なのに本人が滝だという。
どうなっているのだろう、と目眩のする気分でいると、滝は奥の方を示す。
「裏から廻ってきてくれるかい。裏口なんで」
はい、と加藤は頷いた。悪心のようなものを感じた。
鞄を提げて外に出て、そして建物を振り返る。確かにここだ。表札にも滝とある。どうなっているんだ、とまた心中で繰り返したとき、すぐ隣の家の前に女が三人、和やかに立ち話をしているのが目に入った。
「あの……済みません」
はい、と女の一人が振り返った。
「こちらは、滝さんのお宅ですよね?」
そうですけど、と女たちは不審そうにする。
「滝、重造さん?」
「そうよ」
「重造さんは、あんな方でしたっけ」
女たちは呆れたように加藤を見た。
「もちろん、そうよ。何なの?」
いえ、と加藤は口の中で呟いた。本当に悪心のようなものが込み上げてきた。それを呑み下し、鞄を提げて裏へと廻る。女たちは加藤のほうを胡乱なものを見る目で見て、それから中の一人の促す声で、揃って隣の家の中へと入っていった。加藤は思わず、鞄を取り落としそうになった。
(……そんな)
促した一人は、まるで自分の家に他の二人を誘うふうだった。だが、その女にも、加藤は見覚えがない。滝の隣は、老婆の一人暮らしではなかったか。あんな中年の女がいるなんて、滝は聞いたことがない。しかもあの女は村の別の場所で見かけた覚えがある。
(……越してきたんだ)
きっとそうに違いない。そう思いながら、加藤は思わず、懐の中から守り袋を引き出していた。母親のゆきえから最近になって渡されたものだ。どうしても身につけていろと言って聞かないから、とりあえず母親を宥めるつもりで身につけていた。ゆきえが縫ったもので、中に何が入っているのは知らないが、抹香を入れているのか、薫きしめてあるのか、強く香の匂いがしていた。
それを握りしめて、加藤は裏へと向かう。なぜだか、その小さな袋が、このうえなく心強かった。
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大川篤は暗い部屋の中で目を覚ました。全く見覚えのない部屋だった。
彼はしばらく検討識を失い、呆然としていた。何がどうなってるのか分からない。だが、気を取り直して周囲を検め、その結果ただひとつだけ確認した。それは、自分が閉じこめられている、ということだった。虜囚となっていることに対する恐怖が――その反動としての怒りが突き上げてきて、篤は力任せにドアを殴った。渾身の力で蹴り、何度も体当たりを繰り返すと、ボルトの嵌った受け座の部分から枠が裂けてドアが開いた。
部屋を飛び出したが、廊下もまた密閉されていた。篤は手当たり次第にその辺を叩き、喚いた。喚いたという自覚が篤自身にないまま、篤は怒声を撒き散らしていた。
捕らえられていた部屋のすぐ隣にはドアがあって、錠が下りているようだったが、ドアの脇には鍵がぶら下げてあった。鍵を開け、篤は中に踏み込む。牢獄のように格子の嵌められた室内には、老婆が一人蹲っていた。
その老婆は、篤のほうを見ると、怯えたように身を縮めた。逃げるように足掻いたが、牢獄の隅に身を寄せた彼女には、それ以上逃げる場所がどこにもなかった。
「おい、ここはどこだ」
篤は吼えたが、老婆は身を竦める。悲鳴じみた声を上げるだけで、篤に答えようとはしなかった。篤は檻を開け、中に踏み込む。篤は混乱していたし、恐ろしかった。実をいえば他人を見つけて安堵したのだし、その人物が自分と同じく閉じこめられていることに、連帯感めいたものを感じていた。それで中に踏み込んだのだが、老婆は悲鳴を上げて逃げる。篤は老婆が自信の混乱に対して解答を与えてくれ、安心感を与えてくれることを望んでいたが、老婆のほうはひたすら、篤から逃れ篤を拒むことしか考えていなかった。
「ここはどこなんだ」
篤が問えば、悲鳴を上げ、這って逃げる。
「なんで檻なんかあるんだよ。ひょっとしてあんたも捕まってんのか」
「やめて。勘弁しとくれよォ」
「なにもしねえよ。それより答えてくれ。ここはどこなんだよ!」
老婆は篤の大きな体躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]と吼えるような声が怖かった。暗闇の中に閉じこめられ、大きな他人の気配だけがある。篤は暗闇の中でも老婆の様子を見て取ることができたが、老婆のほうはそれができず、できないことを篤は理解していなかった。
「なあ、おい」
「やめてよォ」
老婆はしゃくりあげ、逃げ惑う。篤は苛立った。与えて欲しいものが与えられない。老婆は逆上していたし、篤はそんな老婆以上に逆上していた。
「おい、逃げんなよ!」
老婆の腕を捕まえた。老婆は身を捩って逃げようと泣きわめいた。逃がすまいと篤は老婆にのしかかり、それでいっそう、老婆は足掻く。死にものぐるいで逃げようとした。
恐怖と不安と、老婆の過剰な反応が篤を恐怖に陥れた。思うようにならない苛立ちと、恐怖の反動としての怒りが、もとより切れそうな篤の理性の|箍《たが》を外した。
「なんだよ、手前は!」
篤は老婆の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで揺さぶり、逃げようとする背中を押して壁に叩きつけた。とにかくこの篤に対する抵抗をやめさせたい一心で老婆を殴り、辺り構わず叩きつけ、力任せに身体に手を掛けて押さえ込んでいるうちに老婆は静かになった。
悲鳴がやんで、ようやく篤はほんの少しだけ落ち着いた。息をついてみると、老婆は額を割られ、ぐったりと力を失っていた。
篤は狼狽して彼女を放した。老婆はもののように投げ出され、こそとも身動きしなくなった。慌てて揺すったが反応はない。叩いても呻き声すら上げず、口を覆っても呼気が感じられない。
篤は悲鳴を上げた。
――殺した。
「冗談だろ、おれ」
そんなつもりじゃなかった、という言葉は喉を越さなかった。こいつがあんまり騒ぐから。少しも篤の言葉など聞いてくれなかったから。まるで篤が化け物であるかのように、遮二無二逃げ出そうとするから。
茫然自失し、はたと我に返った。大変なことになった。この場を逃げなければ。腰が抜けたように力のない下肢を励まして立ち上がろうとしたとき、人の声が聞こえた。篤は竦んだ。逃げなければ、という衝動があまりに大きくて、かえって身動きできなかった。
若い男を先頭に数人の男たちが戸口に姿を現した。彼らは驚いたように動きを止め、篤を注視した。
「ち……違うんだ。そんなつもりじゃなかったんだ。おれはちょっとこいつに話を聞こうと思って、それで」
若い男は眉を顰めただけで、檻の中に入ってくる。ひとりだけなら、体当たりして逃げ出せたかもしれない。だが、相手は複数で戸口には人の壁ができていた。篤は泣きそうな気分で若い男が老婆に向かって屈み込み、自分の犯した罪を検めるのを見ているしかなかった。
「……死んでるね」
「おれ、――おれは」
「辰巳さん、どうなってるんです」
戸口にいた連中が声をかけた。若い男は辰巳というらしかった。辰巳は篤を振り返る。
「きみが殺したんだね」
「そんなつもりじゃなかったんだ」
篤は縺れる舌で、何とか事情を説明しようとした。そんなつもりではなかった、老婆があまりに見境がないから。とにかく押さえつけて話をしたい一心で。
辰巳は手を振って篤の現を遮る。
「まあ、いい」言って、戸口のほうを振り返った。「運んでくれ。これは駄目だ。もう埋めてしまっていい」
篤は辰巳を凝視した。辰巳は軽く微笑む。
「そんなに慌てなくていい。どのみち、これはきみのために誂えたものだったんだから」
男たちが檻の中に入ってきて、淡々と死体を抱え上げた。誰も老婆を悼むでもなく、篤に対して非難がましい目を向けるでもなかった。むしろ、中の一人は感心したような呆れたような目を向けた。
「襲えと言われないうちから、獲物を襲った奴は初めてですねえ。肝の太いこった」
くすり、と辰巳も笑う。
「将来有望だよ。まったくね」
「……死んでるんだろ?」
「死んでるね。だが、人は誰でもいつかは死ぬんだ。違うかい?」
篤はようやく理解した。誰も篤を責める気はないのだということを。それも、篤が老婆を殺してしまった事情を察してのことではない。そもそも誰も老婆の生死に頓着していないのだ。老婆が死んだことなど、誰も気にとめてない。
「さあ。こんなところにいても仕方ない。隣にきみの部屋がある。少しの間、そこにいてもらわないといけないが、きみはすぐにここを出ることになりそうだ」
「おれは――」
「きみがいろいろと不審に思ってることは分かっている。取りたいことは教えてあげるよ、全部ね」
篤は辰巳に促されて檻を出た。檻のさらに隣にこぢんまりとした部屋があり、そこで服を渡されて、自分がようやく|経帷子《きょうかたびら》を来ていることに気が付いた。篤は辰巳から自分に何が起こったか、説明を受けた。そのほとんどが、篤にはピンと来なかった。聞きはしたものの、腑に落ちなかった。混乱ばかりが募る。
「おれは死んでない。おれはこうしてここに」
「いるのだけどね。けれどきみはもう死んでいるんだ。別物になってしまった」
「けど」
言いかけたところに若々しい声がした。小部屋を女が覗き込んでいる。その若く、華やかな顔立ちに篤は見覚えがあった。
「起きたのね」
女は笑う。辰巳は息を吐いた。
「まだ混乱しているようだ」
「あなたが小難しく説明をするからよ」女は笑い、篤に目をやる。「わたしを覚えてる?」
篤は首を振った。覚えているようでもあり、覚えがないようでもあった。
「そう? いいわ、じきに思い出すから」
「おれは――」
「何が起こったのかなんて問題じゃないわ。わたしたち、これから楽しくやるのよ、そうでしょ?」
篤はぽかんとし、それから頷いた。篤はただ、たったひとつのことだけを理解した。
自分は殺戮の特権を手に入れたのだ、ということ。
――復讐だ。
篤は快哉を叫ぶ。
これまで自分を馬鹿にしてきた奴らの全てに思い知らせてやる。
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十七章
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「お母さん、具合、どう?」
加奈美は朝食を携えて母親の寝間の襖を開け、そして妙の様子がおかしいのに気づいた。顔が不気味な色に紅潮している。息は喘ぐように早く荒い。
「お母さん!」
医者を呼ばなければ。――それとも、救急車を呼んだほうがいいだろうか。尾崎医院も不幸があったばかりだ。元子のところの志保梨のように、連れていったものの病院が閉まっている、などということがあったら。
迷っているうちに、妙が奇妙な声を漏らした。音を立てて妙の足が布団を蹴る。下から突き上げられたように、二、三度、腹を浮かせた。みるみる赤い顔が紫を帯びてくる。口から血の混じった泡を吹いた。
「お母さん!」
加奈美は慌てて泡を拭う。何度も揺すり、救急車を呼ばなければ、と思う。だが、立ち上がって電話口まで行くまでの間、妙から目を離す踏ん切りがつかない。たかがそれだけの時間の余裕すらないように見えた。
妙はもう一度、血泡を吹いて、そして喉の奥で押しつぶされたような声を上げた。見開かれた目が白目を剥き、弱く足が布団を蹴った。――そしてそれが最後だった。
妙は唐突に動かなくなった。懸命に揺すってみたが、布団の外に投げ出された手が、細かく痙攣しただけだった。それすらも、わずかの間にやんで、加奈美は妙の死亡を知る。胸に耳を押し当ててみたが、何の音も聞こえなかった。トレイからスプーンを取って、鼻先にあてがってみても、スプーンは曇らない。息をしてない。
加奈美は悄然と坐り込んだ。トレイの上の雑炊はまだ湯気を立てている。それだけの時間しか経っていなかった。ほんのわずかの間に、妙は越えがたいものを越えてしまった。
零れた涙に促されて、加奈美は立ち上がる。敏夫に電話を入れた。敏夫が駆けつけてきて、死亡を確認した。
「救急車を呼ぼうと思ったんですけど、電話をかける間、目を離してもいいか心配で」
加奈美が言うと、敏夫は同意するように頷く。
「救急車でも、駆けつけてくるのに二十分はかかるからな。おれでもそのくらいはかかる。……たぶんどっちにしても間に合わなかっただろうな」
そうですか、と加奈美は頷いた。ほんの少しだけ救われた気分だった。
敏夫に死亡診断書を書いてもらい、世話役に連絡をした。その間ずっと、とうとう、という気がしていた。加奈美の家でも葬式を出すことになった。――そう、今まで出さずに済んだことのほうが運が良かったのだ。加奈美は妙と二人きり、だら確率的に不幸を免れてきたのだろう。
寺に連絡をしてから、元子に電話をした。元子は無感動に「そう」とだけ言った。
切なかったが、茂樹の具合が悪いようだから無理もない。思えば、茂樹を失くせば、元子も一人になってしまうのだ。もちろん、実家の家族はいるのだけれども。
こんな悲劇は、いくらでもあったことだ。特に、この夏以来、毎日どこかであったのだ、とさえ思う。加奈美だけに降りかかってきたことではない。
けれども、涙が止まらなかった。
(どうしてこんなことになったのかしら)
何が原因で――こんな。
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かおりは|煌々《こうこう》と明かりのついた中、母親のどこか冷ややかな手を握っていた。
午前六時を過ぎた。母親は昏々と眠ったまま、そして昭は、とうとう帰ってこなかった。
「お母さん……」
かおりは何度目か、呼びかける。母親は煩わしさそうな声を上げたが、目は開けなかった。軽く開いた口からは、ごろごろという微かな音の混じった寝息が漏れている。
お母さん、と泣きそうな気分で、かおりはひしと母親の手を握った。縋るものはこれしかないのに、それは暖かみを欠き、しかも、かおりの手を握り返して支えてくれる力強さを欠いていた。
溝辺町に行くと言って家を出た昭。なのにすぐ戻ってきて、二階で何かをしているようだった。それからすぐに降りてきて、何も言わずに出ていったのが昼前のこと。それきり戻ってこないまま陽が落ち、夜になり、深夜を過ぎて朝になった。
昭、と呼びたい。けれども、声にできない。口に出したら泣き崩れてしまいそうな気がする。そして、それをしたら、昭は二度と戻ってこれない、という気がした。泣いては駄目だ。まるで昭に何か不幸なことが起こったような、そんな態度を取ったら、それが本当になる。きっと、そうなる。
だから今にもほころびそうになる自分を、母親の手に縋ることで支えている。せめて母親の手が温かく、力強かったらどんなに救われるだろう。
力のない手、ひんやりとした温度、うっすらと汗ばんでいるが、その汗も冷たい。かおりの手にも温度がない。指先は力がこもって白くなっていた。
「……お母さん」
何度呼んでも目を覚まさない。昨日までは呼べば目覚め、時には水が欲しいと口にしたのに、昨夜、かまおりがうつらうつらしている間に布団を抜け出し、裏口で坐り込んでいるのを見つけて以来、それすらも絶えてしまった。揺すっても、縋っても、微かなごろごろという湿った音が応えるばかりで、かおりは完全に一人、家の中に取り残されていた。
母親の様子がおかしい。明らかに、具合は悪化して、尋常の様子ではなくなっている。かおりには、どうしていいのか分からなかった。母親をどうにかしないといけないと思うのに、相談しようにも昭がいない。とうとう一晩、帰ってこなかった。どうにかしないといけないのに、母親は眠ったまま、かおりを助けてはくれない。
「あたし、どうしたらいいの、ねえ!」
かおりは母親の手を引いて揺すったが、やはり何の反応もなかった。勢い余って、汗で手が滑り、母親の手は力なく落ちて畳を叩く。かおりは横様に転び、そしてその場で泣きじゃくった。
自分が何とかしなければ。父親はいない。母親は昏倒している。昭は帰ってこない。かおりは本当に一人だ。
泣きながら廊下を這い、茶の間に向かった。電話に縋り付く。震える手で受話器を握ったが、どこに電話すればいいのか分からなかった。
両親の親族は、みんな村を出てしまっている。祖母は伯父の家に引き取られ、遠い町に住んでいた。電話したところで、すぐに駆けつけてこれる親族を、かおりは近辺に持っていない。
電話したほうがいいだろうか。こんな時間に、と言われないだろうか。母親の具合が悪い、昭が帰ってこないなどと言うと、どうしてももっと早くに連絡をしなかった、と叱られないだろうか。――実際、かおりは何度も連絡をして相談してみようと思ったのだが、躊躇しているうちに抜き差しならない事態になってしまった。どうしても踏ん切りがつかなかったのだ。いつか聞いた恵の声が、これは人に言ってはならないことなのだ、という理由のない重圧をかけている。
事態は、最初から、かおりに対処できる範囲を超えていた。それが時とともに、ますます解決不可能な難問と化している。ほんの少し躊躇している間に、次々に出口が塞がれて、もうどこにも行き場がないような気がした。
受話器を握ったまま、嗚咽するしかないかおりの耳に、隣家の戸が開く音が聞こえた。その微かな音に弾かれ、かおりは顔を上げる。足を縺れさせて立ち上がり、表に飛び出した。
大塚浩子は、雨戸を開けているところに、裏隣の家の少女が駆けつけてきて驚いた。――田中かおりだ。
「あら、かおりちゃん」
おはよう、と言いかけた声は、かおりの形相に凍り付いた。
「おばさん――」
かおりは浩子に駆け寄り、そしてにわかに泣き始めた。何事だ、と夫の隆之が顔をのぞかせる。浩子は分からない、と首を振り、とにかく泣きじゃくる少女を宥めようと家に上げた。慰撫し、落ち着かせ、切れ切れの言葉から事情を把握してみようとする。
「お母さん、病気で」
嗚咽の合間に言葉を聞いて、浩子は最初、田中佐知子が死んだのだと思った。それはあまりに違和感がなかった。浩子の息子が死んだのは夏、それ以来、村では死に事が続いている。かおりの父親も死んだ。もう誰が死んでも不思議はない、という気がしていた。
だが、詳しく話を聞いてみると、佐知子はまだ息があるらしい。問題は、隣家の息子――昭が昨夜、帰ってこなかった、ということだった。
「まあ……」
浩子は泣きじゃくる少女を不憫に思った。父親を亡くしたばかりで、母親が寝付いて、そのうえ弟が戻ってこない。きっと不安で押しつぶされそうだったろう、少女にとっては長かったに違いない昨夜を思うと哀れみで涙が出た。
「可哀想に。大丈夫よ。……ちょっと行ってお母さんの様子を見てあげましょうね」
浩子は言って、夫を見た。夫は頷き、茶の間で目を白黒させている舅に声をかける。
「おれが行って、駐在と話をしてこよう。――大丈夫だよ、かおりちゃん。お母さんの側に付いておいで。昭くんはおれが捜してやるから」
かおりは顔をくしゃくしゃにし、浩子のエプロン縋って、またひとしきり泣いた。隆之もその様子を胸の痛みと共に見守った。
隆之から息子を奪っていった「何か」。それが何かは隆之も浩子も知らない。疫病だという噂もあったが、隆之はそれを信じていなかった。根拠などない、とにかく違う、と思う。それが何なのかは分からない。――少なくとも隆之は分かっていないつもりだった。
分からないが「何か」だ。それは隆之から息子を奪い、目の前の少女から父親を奪い、今や母親をも奪おうとしている。きっとおそらく、弟も奪われてしまったのだろう。それは隆之の息子を襲い、隣家に襲いかかった。そうやっいまや村を席巻しようとしている。
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正雄はその夜、抜け道を通って山入へとやってくる車を見た。運転手は辰巳、助手席から降り立ったのは正雄よりもうんと年下の少女で、ではあれが桐敷沙子なのだと想像がついた。
「あれが……」
正雄が指さすと、恵が複雑そうに頷いた。恵は沙子を見るのは初めてではない。これで三度目になるだろうか。一度は直接対面したのに、歯牙にもかけられなかった。あれほど会うことを願っていたお屋敷の住人は、恵を振り返らない。恵を振り返ったのは桐敷千鶴だけで、それも単に餌として振り返ったに過ぎず、以後、千鶴も恵のことなど全く念頭に浮かばないらしかった。それらの苦い記憶が胸の中に淀んでいる。
「あんなにちっこいんだ」
正雄が言うと、恵はそっぽを向いた。低く、単なるガキよ、と言い捨てる。
「だけど、あいつがいちばん偉いんだろ」
「知ったことじゃないわ」
屋敷に君臨し、傲慢に仲間たちを見下ろすちび、と恵はさらに胸の中で呟いた。誰もがあんな子供の顔色を窺うのは、みんな辰巳が怖いからだ。そんな沙子に保護されて、勝手気ままに振る舞っている千鶴、恵だが値打ちのないもののように山奥の集落にうち捨てられている。
正雄は少し迷い、蔵のある家のほうを見る。山入を仕切る佳枝が住む本家、と呼ばれる家。辰巳と沙子は連れだって本家に入っていった。正雄が本家へと向かうと、何のかんのと言いながら恵も後を追ってきた。
本家の茶の間を覗き込むと、沙子が佳枝に何か話しているところだった。同時に辰巳が座敷のほうから柚木を連れてきた。かつては公民館の図書館で司書を務めていた男。――そして、正雄を仲間に引き込んだ。
正雄と恵ばかりでなく、茶の間を覗き込むようにして、周囲の廊下に人々か集まっていた。柚木は沙子の前に坐り、項垂れる。
「昨日、書店の子供が死んだと聞いたわ」
柚木は身を竦めた。
「孝くんというんですって? あなたね?」
「答えなさい」佳枝は険のある声で柚木を促す。「あたしがあれほど子供はいけないと言ったのに、あんたはそれを無視してその子を襲ったんでしょう」
はい、と柚木は首を竦めるようにして頷いた。
「子供は駄目よ。特に小さい子は駄目。何度言ったら分かるの? 小さい子供が死ぬと、親を攻撃的にしてしまうのよ」
まったく、と佳枝は見下げ果てたように柚木を見た。
「前にもそれで罰をくらってるのに。――駄目ですよ、お嬢さん。この人のこれは病気だわ。何度叱っても、小さい男の子ばかり襲いたがるんだもの」
へえ、と柱の影で正雄は口を歪めた。かつてよく見知っていた男の隠された顔を見た思いがした。それであいつは博巳を襲いに来ていたんだ、と思う。正雄はそれを目撃したために、とばっちりを食った。柚木の目的はあくまでも博巳だったのだ、と知ることは、どういうわけか面白くなかった。
「病気という言い方は正しいかもしれないわね」沙子は柚木を見て溜息をつく。「趣味や嗜好を云々する気はないけど、自分の不利益になることを分かっていてやめられないんじゃ、確かに病気みたいなものだわ。……どうなの? どうしてもやめられないの?」
柚木は身を小さくして黙り込んでいる。
「そう。もう一度だけチャンスをあげるわ。辰巳、連れていってよく言い聞かせて」
辰巳が柚木を引っ立てる。柚木はそれに抵抗しながら、沙子のほうを見て哀れな声を上げた。
「都会に――街に行かせてください」
だめよ、と沙子は目を逸らす。
「自分の損得も分からない人を、目の届かないところへやる気はないわ。あなたのしてることは、全員を危険に巻き込むことなの。どうしてもやめられないというなら、二度と迷惑なことができないようにするしかないわ」
「お願いです、わたしは」
「辰巳、連れていって。明日一日、よく考えてもらいましょう」
正雄は、引き立てられる柚木を見て口を歪めた。それが何を意味するのかは分かっている。どこか、山の奥の林の中にくくりつけられるのだ。樹影の濃い林の中は、昼間でも直射日光が射すことはない。それでも仲間は酷い火傷を負う。それは爛れて弾けた側から再生し、彼を一日、苦しめるだろう。中には一日を持ち堪えられず、本当に死んでしまう者もいる。
「……馬鹿なやつ」
恵の声には侮蔑が露わだった。正雄は頷く。本当に愚かだ。制裁を受けて、目を付けられて。屋敷の連中に逆らわず、真面目にやっていれば、本家に迎えられ――あるいは屋敷に迎えられることもあるのに。
正雄は柚木のようになる気はなかった。後藤田秀司のような木偶すれすれの脱落者になる気もない。徹のような例もあるけれども――と、正雄は顔を顰め、軽く口許を歪める。徹は佳枝の側で働いているけれども、それはきっと昇格ではないのに違いない。徹は完全に落伍者だった。従順に働く正雄が優遇されるならともかく、徹がそんな扱いを受けるなんて理不尽だ。そう、たぶんあれは佳枝の側近になったなどということではなく、佳枝に管理されているのだろう。
正雄は、そんなふうになる気はない。ずっと不当に扱われてきた。ここでこそは自分の真価を認めてもらって、居場所を得るのだ。改めて決意して、目の前を通り過ぎる辰巳に声をかけようとしたとき、先に恵が声を上げた。
「辰巳さん、手伝いましょうか」
こういうところが、正雄と恵は似ている。
「ありがとう。だが、ぼくだけで大丈夫だ。それより、食事に行かないのかい」
「これから行きます。ちょうど行こうとしたところに辰巳さんとお嬢さんの姿が見えたから。何かお手伝いすることがあるんじゃないかと思って」
辰巳はくすり、と笑った。
「気持ちだけ貰っておくよ」
去っていく辰巳を見送り、正雄は小声で言う。
「点数稼ぎ」
「自分だって同じことを言おうとしたくせに」
事実だったので、正雄は口を噤んだ。茶の間では、沙子が溜息をついている。佳枝が小さくなっていた。
「佳枝さん、困るわ。最近、統率が緩んでいるんじゃないの? まだ村の人に気づかれたくないの。疑うぶんにはいくら疑ってもらってもいいけど、公然と疑われたくはないのよ。まだ危険なの、分かってる?」
「分かってます。でも、人数が増えましたし……。それに全員があたしの目の届く範囲にいるってわけじゃありませんし」
「言い訳は聞きたくないわ。少し手綱を引き締めて」
佳枝は沙子を見る。
「それは、もちろん。でも、千鶴さんだって、好き勝手にしてるんですよ。あの人の連れてくる連中は質が悪いんです。それを千鶴さんが唆すものだから」
「あなたはいつから、千鶴のことを批判できる身分になったの?」
冷え冷えとした声だった。気圧されたように佳枝は黙り込んだ。
「全員の安全は、あなた自身の安全でもあるの。それを忘れないでちょうだい」
小池昌治はバスを降りた。最終バスは小池を置いて去っていく。暗い国道の脇に小池は一人、残された。
所用があって出かけたものの、帰りが思いの外、遅くなった。もう少しいいじゃないか、と引き留める相手を上手くいなす言葉が見つからなかったせいだ。相手は小池が最近、息子一家に失踪されたことを知っていた。息子に逃げ出された哀れな知人を励まそうとする相手の気遣いが分かるだけに、問答無用に切り上げにくく、しかも、暗くなってから村に帰るのは嫌なのだという本当のところは、とても口にできなかった。
だが、すでに九時を廻っている。辺りは暗く、国道の向かいに見える堀江自動車の廃車置き場は、邪な闇をあちこちに孕んでいるように見えてならなかった。小池は早々に切り上げて帰れなかった自分を悔いた。だが、部外者に対して、何と言えば良かったのだろう。子供のように夜が怖いなどと言って理解してもらえるものだろうか。小池は街の寄合で何度か村の異常を訴えた。もうこれだけの人間が死んでいる、村は変だ、と言ったのだが、それを聞いた連中は端から誇張された怪談話の一種だと決めてかかるか、さもなければ小池の神経が過敏に過ぎるという態度を取った。
実際のところ――と、小池は諦めて歩き始めた。
こんなに続くなんて妙だ、という話なら、山入で死体が発見された頃から人の口に上がっていたのだ。だが、小池もそれを信じていなかったし、誰も実際に心配などしていなかった。どれだけ人が死んでも、どれだけそれが続いても、それが対岸の出来事である限り、ちょっと不思議な話と変わらない。死は身に迫るまで対岸の出来事なのだ。――人は誰しも明日にだって死ぬかもしれないのにもかかわらず、誰もそんなことを信じていないのと同様に。
周囲に目を配りながら、街灯の下から街灯の下へと歩いた。まだ九時だというのに、道には人っ子ひとり見えなかった。時折、犬が不安そうに鳴く。それだけで、賑やかなテレビの音が窓辺から漏れ伝わってくることもなかった。村は死に絶えたように息を潜めている。
街灯を辿って村道を北に向かう。商店街の中を突っ切った。商店街の西の外れまで来て中外場の集落に入ると、もう街灯らしい街灯もない。あちこちの家に点った明かりだけが頼りだった。小池はできるだけ人家の多い道を選んで曲がった。
角をふたつほど折れて、ようやく家に近づいたときだった。前方から歩いてくる二人の人影が見えた。小池は一瞬、ぎくりとしたが、その二人が何やら談笑しているふうなのに息を吐いた。よかった、と思った。心強いばかりでなく、こうしてまだ夜歩きをする人間がいるのだという事実に安堵するものを感じた。
「こんばんは」
小池は声をかけつつ、二人組とすれ違った。愛想の良い、「こんばんは」という声が帰ってきた。二人は小池の目の前で、間近の家の明かりの中を横切った。
一瞬、照らされた二人の顔を見て、誰だったろう、と小池は思う。どちらもどこかで見た顔だが、どこの誰、とは思い浮かばなかった。
(誰だったか……)
首を傾げ、小池は足を止めた。一方が誰だったか、思い出した。(あれは)小池は思わず振り返る。(……大塚製材の)
二人組も足を止めて、小池のほうを振り返っていた。わずかに届く窓の明かりで、二人の相好が見て取れた。間違いない、大塚製材の息子だ。だが、大塚製材の康幸は死んだという話ではなかったろうか。それとも、大塚の誰か別の者と、勘違いしているのだろうか。怪訝に思い、そして小池は血の気が引くのを感じた。
(もう一人……あれは)
小池は一歩を退った。二人は顔を見合わせ、そして足を踏み出した。
(……たしか、広沢の高俊とかいう……)
広沢豊子の息子。夏に家人に黙って仕事を辞め、仕事に行くと言い置いて家を出て、溝辺町のパチンコ屋で倒れた。小池がその葬儀を采配した。
小池は声を上げ、身を翻して駆け出した。その背後から二人分の足音が追ってきた。道幅はかろうじて車が離合できるほど、その両側に家が建ち並んでいるのに、道に面した窓が開いている家は一軒もない。どの家もぴったりとカーテンが閉ざされ、あるいは雨戸が引かれている。
小池は恥も外聞もなく声を上げた。どこかの家に駆け込まなくては。玄関を叩き、戸を開けてもらうだけの時間の猶予があるだろうか。
小池の足は縺れる。背後の足音はそれに対して力強かった。誰か、と悲鳴じみて声を上げたところで、すぐ脇の小道から人影が現れた。
「おい、あんた――」
小池はよろめくようにして人影に縋り付く。どうしたんです、とその初老の男は小池の肩に手をかけた。
「あいつら」と、小池の背後を示す。振り返る一瞬、もう背後には誰の姿もないのではないかと思えたが、やはり二人の若い男は足早に小池のほうにやってくる。「あいつらは」
「済みません」と広沢高俊が言った。「おれの知り合いです」
そうかい、と答えた男は小池を後ろに押し出した。まさか、と声を上げる間もなく、高俊の手が小池の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「夜歩きするときは、気をつけないとな」
見知らぬ男は言ったが、これは小池に対する言葉ではなかった。そうですね、と高俊が答えた。
「お前ら――」
言いかけて、あとは悲鳴になった。起き上がりだ、というとっくに知っていた真実が、ようやく言葉になって溢れ出た。
誰か、という声に対して、すぐ近くの窓が開いた。
「何の騒ぎ?」
小池は救済を求めようとしたが、口を塞がれてままならなかった。窓から顔を出した女は、小池らに目を留め、あら、と声を上げる。
「高俊ちゃんじゃないの。下りてきたの」
小池は口を塞がれたまま目を瞠った。
「ええ。小母さんも戻っていたんですか」
「そうなのよ。幸い、亭主も目を覚ましてねえ」
「そりゃあ、幸運でしたね」
じゃあ、と高俊は快活な声を上げ、女に向かって手を挙げた。西のほうへと引きずって行かれる小池の頭上では、あれは誰だ、どういう人物だというありきたりの会話が交わされていた。
大川篤は意気揚々とハンドルを握る。助手席には千鶴が座っている。小さなジープは、山入と村を往復するために千鶴が与えてくれたものだ。
ヘッドライトは消してあったが、篤は夜目が利く。昼間に走るのと大差なかった。山入からの抜け道は、決して良い道ではなかったが、悪路を駆け抜けることに篤は大いに喜びを感じていた。歩いて山を越えるしかない連中を追い越していくのも気分がいい。誰も篤に指図できない。横には桐敷千鶴がいるのだから。
「荒っぽい運転なのね」
「怖いか?」
篤が言うと、鶴は笑って答えない。篤はそれに満足した。
「どこに行くの?」
「家だ。そう……まず婆だ」
篤は祖母の浪江の顔を思い浮かべた。口煩く、何かというと篤を見下した婆だ。まずはあいつから思い知らせてやる。
「……お父さんじゃないの?」
千鶴に指摘されて、篤はちら、と千鶴を見た。そう、父親も片づけなくてはいけない。必ず思い知らせてやる。そう思うのに、篤は自分がどこかで怯むのを感じた。
「親父は……親父はいいんだ。最後なんだ」篤は言い、言った言葉に我ながら納得した。「そう、最後だ。それまでたっぷりいたぶってやるんだ」
そう、と千鶴は微笑む。篤は車を西山の林道に向かって走らせる。
「なんで村道を使わないんだ? あっちの方が早いのに」
「あの道? あれは塞いでるのよ。通れないの。ずいぶん前に辰巳が発破をかけて壊したから」
「嘘だろ?」
「本当。村の人に山入に行ってほしくないんだもの。だから道を塞いで野犬を集めたの」
「野犬」と、篤は繰り返す。「ちくしょう、おれ、あの道で犬に咬まれたことがある」
あら、と千鶴は軽やかな声を上げて笑った。
「それは災難だったわね。山入になんて行こうとするからよ。気味が悪くなかったの? あなたの親戚が酷い姿で死んでたところでしょ?」
「別に」と、篤は笑ってみせる。「あんな爺、死んだって知ったことじゃねえ。むしろ、血だらけになってるって話だったから、それを見てやろうと思ったんだ」
「剛胆ね」と千鶴は含み笑う。「わたしはぞっとしたけど。沙子はああいうところ、容赦がないから」
「ああいうところ?」
「山入に人を寄せたくなかったのよ。だからわざわざ野犬を連れてきて、死体をバラバラにさせたの。できるだけ悲惨なことにしたかったんでしょ。買ってきた動物まで殺させて。あの日、死体が見つかってなかったら、夫婦者のほうまでどうにかしたと思うわ。――わたしはああいう血腥いのは駄目。我慢できないの」
「気弱なことを言うじゃないか」
「気弱なのよ」
篤は笑う。林道に出ると、兼正の脇を通って村に降りた。家の近くまで走り、村道の路肩に車を停める。
「……怖い?」
「何が」と、篤はうそぶいたが、実を言えばさっきから緊張で震えが来ていた。もう、ひとり殺している。浪江だって殺せるはずだ。だが、意図的に誰かを殺すのは初めてで、だから不安にならずにいられない。
「いい?」と、車を降りようとする篤を、千鶴は留めた。「まず、家に入らないといけないの。あなたはもう家の人間じゃない。だから、改めて誰かに入れてもらわないと駄目」
「押し込めばいいだろ」
「やってみるといいわ、できないから。あの剛胆な沙子でも辰巳でも、招待されてない家には入れないの。駄目なのよ、本能的に竦んでしまうの」
「おれは臆病者じゃねえ」
「自惚れないで」ぴしゃりと千鶴は言う。「あなたがどんなに剛胆だろうと、本能に忠実でない者は早死にすることになるのよ」
「おれは」
「黙って。用心深さを欠いた大胆さは無謀というのよ。身が竦んで襲撃に失敗したら終わりなの。虎を前に竦まないのは、愚かさであって大胆さではないの。竦むのが恥ずかしいことじゃない、無理に大胆なふうを装って、失敗すれば笑いものよ。わたしだって、そんなみっともない人に目をかけてはあげないわ」
篤は口を歪めた。
「……分かったよ」
「あなたのお祖母さんは、あなたを家に入れてくれると思う?」
いや、と篤は呟いた。
「そう。じゃあ、外におびき出すのね。窓を叩いて外に呼び出すの。これはわたしが手を貸してあげる。出てきたら、声を立てられないようにして襲いなさい。背後に回るのがいいわ。背後から顎を拘束して首を狙うの。それがいちばん安全。場所はここよ」
言って千鶴は、篤の首筋に指を這わせた。
「人間なら脈打ってるから分かるわ。殴っては駄目よ。傷が残るようなことをしては駄目。噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]めばそれでおとなしくなるから」
「……ああ」
「放したら、言い含めるの。明日も来るからって。窓を叩いた入れてくれって。これは夢で、実際になにも起こってない、忘れてしまうって言い聞かせる。でないと翌日には大騒ぎになるわ。いいわね?」
篤は頷いた。
「人にも寄るけど、普通は一度では死なない。だから絶対に言い聞かせるのを忘れないこと。そして、できるだけ痕跡は残さない」
「……分かった」
千鶴はくすりと笑う。助手席で身体を捻って背中を向けた。
「試してみて」
「……あんたに?」
「そう。あなたは羊を襲ってないから。場所はここよ。位置を覚えて」
千鶴は下ろしていた髪を掻き上げる。白々とした項を曝した。
大川浪江は、電話のベルで目を覚ました。執拗に電話が鳴っている。まさか、と浪江は暗闇の中で身を起こした。こんな深夜に電話だなんて、ろくな知らせでないに決まっている。
自分がそれを取るのは怖いようでもあり、しばらく様子を窺っていると、荒々しく襖が叩きつけられる音がし、重量感のある足音が茶の間に駆けていくのが聞こえた。息子が電話を取りにいったのだ、と理解したが、電話のベルの音は、富雄が茶の間に辿り着いた頃合いに切れた。受話器を叩きつける音がしたから、とりあえず電話に出たものの、切れてしまったのだろう。ほんの少しして、息子が毒づきながら戻ってくるのが聞こえた。
浪江は布団の上に坐ったまま、無意識のうちに耳を澄ました。また電話が鳴るのではないかという気がしてならなかったからだ。息子が電話に出るのと同時に電話を切ってしまった相手が、改めて電話をしてくるのではないかという気がする。それでじっと耳を澄ましていたのだが、それきり電話が鳴ることはなかった。
浪江は息を吐いて、改めて布団に横になった。
(何だったのかしらね……)
深夜の電話を人を不安にさせる。誰だったのだろうか、と気になってならなかった。考えながら横になっていると、今度は小さな音がした。
浪江は裏に面する座敷を寝間として使っている。その裏庭に面した窓が――正確には雨戸が、軽く叩かれるような音がした。浪江は最初、気のせいだと思った。それがごく微かに、執拗に続くのを聞いて、きっと何かの加減でこんな音がしているだけなのだろう、と自分に言い聞かせた。さらに音は続いた。辺りを|憚《はばか》るように、人を呼ぶ音だった。
浪江は再度、身を起こした。とっさに息子を呼ぼうかと思ったが、それも躊躇われた。妙な電話で起こされて機嫌を悪くしたばかりの息子を、さらに起こして、それがなんでもない風音だったりしたら。母親だから皮肉や聞こえよがしの不平くらいは言うが、あの息子を正面から怒らせるのは浪江とて避けたかった。激昂すると手がつけられない。――実際のところ、浪江は息子が本当に激昂したところを見たことがあるわけではないのだが、息子には常に、本気で怒らせたくはないと思わせるだけの何かが漂っている。
微かな音は続いていた。それは明らかにノックの音のように聞こえた。浪江はそろそろと布団を出て、窓際に這っていった。明らかに雨戸を叩く音がしている。
今は深夜だ、と当たり前のことを自分に確認した。こんな時間に真っ当な人間が訪ねてくるはずがない。ましてや、浪江は近頃、夜が何となく怖かった。だからこんな深夜に、ましてや不審な物音がするからと言って、窓を開けたり裏に出てみたりすることなど、したくはなかった。だが、なぜこんな音がするのか、確かめないでいられない気がするのはなぜだろう。それは来訪者などではなく、単なる風音、あるいはその他の無害な何かだと確認したかった。
(……そうに決まってるんだから)
浪江はおそるおそる、掃き出し窓のサッシを開けた。これくらいは大事ないはずだ。雨戸が引いてあるのだから。
「誰かいるの?」
小声で声をかけてみる。声にした瞬間、自分がとても愚かなことをしているという気がした。きっと風の音だ。声をかけても、それを聞く者などいるはずがない。
音は続いている。少し小さく、そのかわりに早くなったような気がした。べつだん、浪江の声を聞いて焦っているふうでもない。ただ続いているだけの様子が、いっそう風か何かの立てる音だという気にさせた。
「何か引っかかってるのかしらねえ」
浪江は小声で言い(誰に聞かせるために?)、ことさらのように笑ってみた。
「これで開けてみると、木の枝が引っかかってたりするのよ」
ひとりごちて(まるで言い訳をするみたい)浪江は雨戸に手をかける。端を一枚、ちょっとだけ動かしてみた。その途端に、音はやんだ。少し待ったが、もう何の音もしない。やれやれ、と浪江は失笑する。これは本当に何かの弾みであんな音がしていただけなのだ。雨戸を動かした表紙に、引っかかっていた枝か何かが落ちてしまったのに違いない。
浪江はそう思ってさらに雨戸を開けた。しんと冷えた夜の庭が広がっている。弱い風に庭木が枝を揺すっていた。やはり何もいない。――こんなことだろうと思った。浪江は狭い濡れ縁に軽く手をついて身を乗り出した。夜風は凍えて、霜でも降りそうな匂いがする。
身震いして、雨戸を閉めようとした。その途端に誰かが脇から飛び出してきた。声を上げる間もなく窓から引きずり出され、太い腕が浪江の口を蓋するように廻された。ようやく声を上げたが、それは鼻から抜けて、妙に頼りなくか細い音になった。
手を掛けていた雨戸が――そして濡れ縁から庭へと転がり落ちた身体が音を立てたはずだが、家人にそれが聞こえたかどうか。もしも聞こえて飛び起きたにしても、もう間に合わない、と浪江は思った。わけが分からないうちに半ば抱えるようにして連れ出され、すでに浪江の身体は並木の影に引き込まれようとしている。
完全に建物が見えなくなって、浪江は|蟀谷《こめかみ》のあたりが痺れるのを感じた。息が苦しい。口許を塞がれているせいかもしれない。あるいは首から顎に廻された腕のせいで血行を止められ、脳貧血を起こしそうになっているのかも。無意識のうちに手足を振りまわした。なんとかしてこの苦しいのから逃れたかった。
「……おとなしくしろ」その低い声は、恐慌状態に陥った浪江の耳に届くはずもないほど小さかったにもかかわらず、浪江を凍り付かせた。「じたばたするんじゃねえ。ぶっ殺すぞ」
生け垣と庭木の間の地面に下ろされた。どんな明かりもそこにはなかった。だから、自分を横から抱えたのが誰なのか、浪江には分からなかった。ただ、闇の中にさらに濃く、大きな人影を見たように思った。だが――この声は。
浪江の視線は、奇しくも正面から篤の顔を捉えた。浪江にはそれが分からなかったが、篤は祖母の目が真っ直ぐ自分を見上げてくるのを見た。|眥《まなじり》が避[#「避」→「裂」? 原文ママ]けるほど目を瞠って、篤を振り仰いでいる。
篤は笑いかけ、そして顔を強張らせた。祖母の顔つきが変わった。それは実を言えば、声の主に気づいた浪江がようやく事態の真相に気づいて呆然としたにすぎないのだが、篤はその表情の変化から――そして、依然として自分に据えられたままの浪江の目許の表情から、自分に多する侮りと、責める色を感じ取った。
――なによ、あんただったの。
これはどういう真似なの。妙なことをするんじゃないわよ。お父さんに言いつけるからね。富雄に叱ってもらわなきゃ。さっさと放しなさい。まったくお前って子は。豊や瑞恵を見習ったらどうなの、かず子さんの育て方が、お前に比べてあそこの家の子はだいたいお前は小さい頃から富雄[#「富雄」に傍点]いい若い者が富雄ってば[#「富雄ってば」に傍点]いい歳をしてちょっと来てちょうだい[#「ちょっと来てちょうだい」に傍点]何人満足にこの子ったら[#「この子ったら」に傍点]![#この段落の傍点付き文字は底本では太字表記]
篤は腕に力を込めた。二度と馬鹿にさせない、二度と偉そうな口が利けないようにしてやる、何がなんでも父親に告げ口などさせるものか。
忿怒と狼狽と、そして恐怖が篤の箍を外した。無我夢中で浪江を締め上げ、思いあまって篤は呻いた。荒れ狂うものを持て余し、言葉にならないまま吼え、そして同時に横面に軽い痛みを感じた。
「やめなさい」
低いが、きっぱりした女の声だった。それでようやく、篤は我に返った。千鶴が険しい表情で篤を見ている。思わず力の抜けた手から浪江の首が滑って落ち、祖母は庭の片隅の|頽《くずお》れた。
篤は何かを言おうとしたが、千鶴が指を立ててそれを制す。家のほうを窺うので篤もそれに倣った。見慣れた家は寝静まったまま、人の起き出してくる物音はない。少なくとも、庭に様子を見に出てくるような気配はなかった。千鶴が小さく息を吐く。篤を軽くねめつけて、膝を折った。
篤は呆然と足許を見下ろす。浪江が篤を責めるように見たまま、そこに倒れていた。千鶴は側に屈み込み、浪江の顔に触れる。
「まあ……また殺しちゃったの?」
千鶴は呆れたように言って、篤を見上げてきた。
「おれ……」
「困った人ね」と、千鶴は笑って浪江に目をやった。「……どうしたものかしらね。速見さんに相談してみるのがいいかしら。沙子に知れると厄介だわ」
言葉のわりに、困っているふうではなかった。微苦笑のようなものが浮かんでいる。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
「分かってるわ。でも、これはちょっと厄介なの。あなたのお祖母さんは病死体でなくて他殺体なんだもの。何とかしないと、警察に連絡されてしまうわ」
言って千鶴は首を傾げる。
「駐在の佐々木はいいのだけれど……でも、一一〇番されると面倒ね。仕方ないわ、速見さんに頼んで始末してもらいましょう。失踪も不自然だけど、他殺体が見つかるよりマシだわ、きっと」
さらに言い訳を言いつのろうとした篤を千鶴は制す。
「さあ、抱えて。車に運ぶの。わたしに死体なんか抱えさせないでね」
翌朝、大川浪江の姿が見えないことに気づいたのは、大川富雄の妻、かず子だった。浪江の部屋は荒らされた様子もなく、ただ窓が開き、雨戸が開いていた。衣類は消えていない。浪江は寝間着のまま出ていったらしかった。心当たりを捜したが、浪江の行方は知れなかった。駐在に報告しようとしたが、駐在の姿は見えなかった。駐在の佐々木は、昼間にいた例がない。
溝辺町の警察署に行ってはどうか、と言いだしたのは瑞恵だった。大川はそれを遮った。
「必要ねえ」
でも、という瑞恵に、黙れ、と命じる。
浪江が出ていくはずがない。ましてや夜中に着の身着のまま家を出るなどあり得ない。失踪ではない、おそらくは。浪江は決して、自分の意思で家を出て行ったのではあるまい。
大川はここにいたって、ようやく理解していた。少なくとも疫病ではない。いつか郁美が言っていたように、鬼かもしれない、起き上がりかもしれない。そのどちらにせよ、それ以上のものにせよ、大川にとっては大差なかった。肝要なのは、敵がいる、ということだ。
村の秩序と安全を脅かす敵がいる。それさえ理解できれば、大川にとっては充分だった。
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武藤は事務所で電卓を叩いていて、薬局のほうで何かが落ちるけたたましい音を聞いた。あわてて棚を迂回し、薬局を覗き込むと、律子がそこに倒れていた。
「律ちゃん」
声を上げて駆け寄る。物音を聞きつけたのか、待合室にいた患者がひとり、カウンターの中に駆け込んできた。敏夫を呼ぶように頼む。すぐに敏夫とやすよが駆けつけてきた。
「……大丈夫です」と、律子は身を起こした。その顔を覗き込んだ敏夫の血相が変わるのを、武藤は確かに見たと思った。
武藤は鳥肌が立つのを感じた。やはり、という気がしたのは、律子が今朝から、どこか調子が悪いように見えたせいだ。口数が少なかった、明らかに精彩を欠いていた。顔色が悪く、ひどく億劫そうに見えた。
敏夫と武藤で律子を支え、処置室に運んだ。ベッドに横たわった律子は、立ち眩みです、と何度も呟きながら、人形のように虚ろな目で天井を見ていた。
「なんだか疲れてて……」と、律子は天井に視線を据えたまま呟く。「あたし、辞めます」
そうか、と敏夫は律子の手を握った。何が起こったのか――起こっているのかは、分かりすぎるほど分かっていた。
これでいよいよ、武藤とやすよだけになるのか、と思った。看護婦が一人で病院が成り立つはずがない。とはいえ、患者の数もまた激減していたから、必ずしも不可能な事態ではないのかもしれない。だが、もう病院を維持しようという気力のほうが萎えていた。いよいよ閉めることになるわけだ、と思う。――それも悪くない。
「律ちゃん、入院しないかい」
いえ、と律子は言う。
「嫌です。家に帰してください。もう病院にはいたくありません」
やすよが目を逸らし、武藤もまた項垂れた。敏夫はやすよを振り返る。
「やすよさん、患者はどのくらい残ってる?」
「あと二人ってとこですかね。物療の人ばっかりですから、なんだったら先生、律ちゃん、送っていってやってくださいよ」
「そうしよう」と、敏夫は頷いた。家に送り届けて、そしてそれが律子との別れになるわけだ。
武藤の手を借り、律子を車に乗せて家に送った。土曜の夕刻、母親の康恵も妹の緑も家にいて、ぐったりした律子を驚いたように迎えた。
「忙しかったから」と、康恵は敏夫をねめつけた。「こうなると思ってたんですよ。この子ってば、人が好いから。そりゃあ、看護婦が大事な仕事だってことは分かってますけど、だからって何も休みなしでなんて」
「お母さん、やめなよ。若先生を責めるようなことじゃないでしょ」
「責めることですよ。――先生も医者なんだから、分かってたでしょう。こんな状態でいつまでも律子だって身体が続くはずないって。患者の健康のことは考えても働いている者の健康のことは考える気がないんですか」
敏夫は俯いた。そこを突かれると、返す言葉がなかった。――そう、こんな状態でスタッフの身体が保つはずがないことを敏夫は了解していて良かったはずだ。単純に健康のことばかりではなく、村に侵入し、癌細胞のように増殖していく危機が、律子たちを見逃してくれるはずのないことを、もっと真剣に考えても良かった。
鬱々としながら車を病院に走らせていると、自転車に乗った武藤が一軒の家に入っていくのが見えた。自転車の籠の中には、薬袋らしいものが入っている。わざわざ薬を配達に来たのか、と思った。こうしている間にも、やすよが患者の相手をしているのだろう。
思えば、武藤も息子を亡くしたのだ。喪が明けないうちから病院に出てきて、十和田が抜けたあと、ずっと無休で働いていた。武藤の妻の静子がパートで事務を手伝い、ついでに朝晩には掃除を手伝っていく。何の災厄にもまだ無縁なのは、やすよだけだが、同僚が自分を残して全員いなくなって、それで災厄に無縁と言えるだろうか。
土曜にもかかわらず、村には閑散と人気がなかった。夜間に人の姿が見えないのはもちろん、夕刻になるだけで、もはや人通りが減る。昼間はまだ特に減ったようには見えないが、街角で立ち話する者の姿を見かけなくなった。村の人口それ自体が減っているせいもあるが、何よりもみんな、用がなければ家から出たくないのだろう。
丸三ヶ月が経って、この有様だ、と敏夫は思った。惨憺たる、と形容しても間違いではないだろう。そう、敏夫がひとり焦り、悪あがきを繰り返している間に、村はここまで食い荒らされてしまったのだ。
病院に戻り、中待合いに診察を待つ患者の姿がないのを確認して、敏夫は控え室に戻った。放り出したままの資料を揃え、カルテやメモを掻き集める。それを一から整理し直した。
救済が必要だ。村にはこの災厄を逃れるだけの力がない。外部の注意を喚起し、救済を求めなければいけない。敏夫にできるのは、もはやそれだけなのだと、ようやくそう心得た。
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三十日、早朝、田中佐知子は支度で息を引き取った。これを看取ったのは、かおりと隣家の大塚浩子だった。
「大丈夫よ」と、浩子はかおりを撫でる。「しばらく小母さんのところにいらっしゃい。ひとりじゃ心細いでしょう?」
慰撫され、かおりは頷いた。けれども、とぼんやり思う。――次は自分の番だ。
どこに行こうと逃げられないのに違いない。恵は父親を奪い、母親と昭を奪った。残ったのは、かおりだけ。だからきっと次は自分なのだろう。
(恵……でも、どうして?)
どうしてなのかは分からない。かおりに分かるのは、全ては恵がもたらしたもので、だからきっと恵はかおりを憎んでいるのだろう、ということだけだった。
かおりには、夏野や昭のような行動力がない。そしてその二人でさえ、もうこの世のどこにもいない。おそらくは、じきにやってくる運命から逃れる術はないだろう。恐ろしくて堪らなかったが、同時に、早く終わってくれればいいのに、という気がした。どんなに恐ろしい結末でも、終わりがないまま、この悪夢の中に捕まっているよりよほどいい。
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三十一日、月曜。十月も終わりのこの日、前田茂樹は死亡した。
元子は息子の傍らに呆然と坐り、子供呼吸が徐々に浅くなり、絶えてしまうのに聞き入っていた。
――とうとう。
夜には一睡もせず、息子の枕許に陣取っていた。絶対に巌から守り抜いてみせるとそう思ったのに、疲労と倦怠が元子をしばしば不本意な眠りにつかせ、そうやって元子が目を離した隙に、茂樹の姿は布団の中から消え、そうして裏口や、縁側、庭先で発見されるのだった。
徐々に朦朧とし、言葉も身動きもなくなる息子を、元子はただ見つめているしかなかった。昨夜も茂樹は元子が手洗いに立った隙にいなくなり、玄関先に倒れていた。元子が抱き起こすと、「お祖父ちゃん、怖いよ」とだけ、弱々しい声で言った。
やはり巌だったのだ、と思った。巌が元子から全てを奪った。いっそのこと元子も連れていけばよかろうに、それをしないのは巌が元子を嫌っていたからに違いない。元子だけを除け者にして、元子には手の届かないどこかで勇と登美子と志保梨と茂樹と、五人でよろしくやるつもりだ。きっとそうなのに違いない。
「そんなこと、させないわ」
そう、せめて茂樹だけは。
「この子だけは、渡さない」
元子は茂樹を抱え、風呂場に運んだ。狭いタイルの上に布団を敷き展べ、そこに寝かせる。風呂場の窓には格子が入っている。それを握って確認して、窓をぴったりと閉め、さらに内側からガムテープで目張りした。窓ガラスにはありあわせの板を苦労して切ってあてがい、これもガムテープで張り付ける。風呂場が元子の家で唯一、内側から鍵のかかる部屋だった。ここにこうして茂樹と立て籠もっていれば、巌も茂樹を連れていけないはず。
自分が風呂場を出なければならないときの用心に、脱衣所の窓も同様にし、ドアには物置から取り出してきた鍵をつけた。こうすれば、自分が外に出ている間にも、誰も茂樹に触れることはできない。
「茂樹渡さないわ」
元子は風呂場で息子を掻き抱く。こうしていれば、やがて茂樹は起き上がるはず。巌に奪われることなく、元子の手許に留まっているはずだ。
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十八章
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三十一日、月曜を待って敏夫は役場に赴いた。もはや躊躇している場合ではない。資料を揃え、外部に助けを求めるのだ。事態をここまで悪化させたのは、そもそも自分の独断に原因があったことを、敏夫は認めないわけにはいかなかった。
出張所に入ると、役所の中は閑散としていた。もとよりさして広くもない事務所の中には誰の姿も見えなかった。敏夫は思わず、腕時計を見る。役所の時計と見比べたが、もちろん昼休みではなかった。主のいない机が放置されている。――もくそう、放置されている、という印象が強かった。
なぜ誰もいないのか、見まわしていると、奥のほうから老人が一人姿を現した。たしか、上外場の広沢隆文ではなかったかと思う。
「隆文さん」
「ああ、こりゃあ、若先生」
老人は破顔したが、敏夫は怪訝な気分を押さえられなかった。隆文は妻と二人、林業と農業で喰っていたはずだ。役所になぜ隆文がいるのか、釈然としなかった。
「どうして、あんたが」
「いやあね」と、隆文は禿げ上がった頭を撫でる。「このとろ山に入れなくてね。野犬が多いんですよ。危なくて危なくて。おれも歳だしね、もう山も田圃も諦めて年金でひっそり暮らそうかと思ってたら、役場で働かないかって話があって」
「ああ――そうか。で? 他の職員は?」
「はあ、それが。昼間は誰もいないんで」
「いない? 馬鹿な」
「なんですけどねえ。いないんですよ。なんでも所長が身体わるくて、夜にしか出てこれんのだそうです。いろいろと書類に判子をもらわないといけないのに、肝心の所長がそれじゃ、昼間にすることがないでしょう。それで職員は夜に出てくることにしたそうですよ。昼間はこうして、おれが留守番してるってわけで」
敏夫は唖然とした。
「そんな……馬鹿な」
「と言われても。何か書類のことでしたら、おれが預かっときます。証明書なんかでしたら、明日来てもらえれば渡しますけどね。急ぎでしたら夕方に出直してください。七時ぐらいになると職員がいるんで」
「隆文さん、死亡診断書の写しが欲しいんだがね。できたら戸籍の閲覧もさせてもらいたいんだが」
「じゃあ、夕方に出直してください」隆文は申し訳なさそうに苦笑する。「それは、おれじゃあ分かりません。おれは本当に単なる留守番なんで。そういうのは、勝手にいじれないんですよ。全部ロッカーの中で、鍵かかってますしね」
済みませんね、と隆文に拝まれて、敏夫はどこか朦朧とした気分で役所を出た。そういえば以前、役所の夜間受付がどうのこうの、という話を聞いたか。いったいこれはどういうことだ、と困惑したまま夕刻を待ち、改めて車に乗って病院を出た。役所まで陽の落ちた村を横切って歩いていく気にはなれなかった。
八時を過ぎていたが、役所には煌々と明かりが点っている。中に入る前から、ガラスのドア越しに、事務所が人であふれ、活況を呈しているのが見えた。立ち働く職員たち。二、三の利用者、喧噪と機械音。ありふれた役場の情景だった。――それが夜でさえなければ。
敏夫は役所の中に入る。立ち働いている人々の顔を見渡したが、そこには顔見知りは一人もいなかった。狼狽しながらカウンターに向かうと、中年の瘠せた男が顔を上げる。
「済まないが、保健係はいるかな」
男は微苦笑し、いない、と言う。
「以前の保健係が姿を消してしまいましてね。それきり後任が特に決まってないですよ。――何の御用で?」
「その……」敏夫は無意識のうちに、何度も周囲の様子を窺わないではいられなかった。「九月からこちらの死亡者数が知りたいんだ」
男は目を|眇《すが》める。
「そういうことなにはお答えできないんですがね。どうしてもってことなら、溝辺町のほうに問い合わせてくださいますか」
「おれは――尾崎だ。病院の」
「ええ、存じてますよ。けれども、お答えできないんです。そういう規則なんで」
「そんなはずはない。これまでだって、訊けば教えてもらえたんだ。死亡者数が知りたい。できたら死亡診断書の写しと一緒に」
「御冗談を。そういう文書を職員でもない方に見せられませんよ」
「これまでは」
「これまではどうだか知りませんけど」と、男は薄笑いを浮かべたまま、ぴしゃりと言う。「わたしは、そういう指示を受けてませんのでね。尾崎さんだけ別格だとか、特別扱いしろなんて指示もないですしねえ」
敏夫はその男の顔をまじまじと見た。男は揶揄するように笑う。蛍光灯のせいか、薄笑いを浮かべた顔は血色が悪かった。
「まあ、御不満でしたら、所長か町役場のほうに言ってください」
「では、所長を出してもらおう。保健係がいないんじゃ、そうするしかなさそうだ」
「所長はちょっと席を外してますが。じきに戻ってくるとは思いますけどね」
「じゃあ、待たせてもらおう」
「どうぞ御随意に。――もっとも、そうやって待ってらしても、あまり意味があるとも思えませんけどね」
「どういう意味だ……?」
「ですかね」と、男は低く笑う。「先生は九月からこちらの死亡者数を知りたいんでしょう? その死亡届の写しが欲しい?」
「……所長にかけあってもらって、それで所長がうんと言えば、死亡者数ぐらい、お出ししますけどね。けれども死亡届の写しはねえ。お出ししようがありませんから」
敏夫は首を傾げた。男は嘲るように笑う。
「なにしろ、ありませんのでね。肝心の死人がいなくちゃ、死亡届なんて出す人もいませんしねえ」
敏夫は一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
「……なんだって?」
「ですからね。九月からこちら、死亡した住民はいませんから。なので写しをお渡しできるような届け自体がないんですよ。――一枚も」
「……馬鹿な。ありえない。つい先日、おれの妻も」
そう言われましても、と男は笑う。
「八月にはねえ、四人ほど人死が続きましたけど。けれどもそれきり、今日まで死亡した住人はいないです」
「そんなことがあるはずはない。現に――」
「ああ、保健係の石田さんとねえ、戸籍を担当してた田中さんが何やらやってたみたいでね。町役場に送らないと行けない報告を、四の五の言って遅らせてたんですよ。それで役場のほうからせっつかれましてね。あわてて調べてみたら、あの人たち、何を思ったか死んでもいない人を死んだとか言って、虚偽のリストを作ってたんですよ。驚いて訂正して、役場のほうに正しい報告を上げといたんですけどね」
敏夫は口を開けた。――そう、報告を止めてくれと言ったのは他ならぬ敏夫だ。だが、それは石田の失踪で自然に解除されたものだと思っていた。
「そんなはずはない」敏夫は男をねめつける。「おれは医者だ。そのおれが、現に診断書を書いている。控えはおれの手許にある」
「それは困りましたね」と、男は笑った。「それじゃあ先生、文書偽造ですよ」
いいか、と敏夫は男に指を突きつける。
「そんなペテンが通用すると思ったら大間違いだ。現に村の人間で、国立や共済病院で看取られている者もいるんだ。九月からこちら、死人はいない、だって? いないはずがないだろう。安森幹康は九月に死んだんだ。救急車で息子の進と一緒に国立に運ばれて、どちらも国立で死亡が確認されてる。何だかったら、国立で看取った医者を連れてこようか?」
ああ、と男はさらに笑った。
「工務店の幹康さんね。だってあの人は、死亡の前に転出してますから」
敏夫は目を瞠った。男は挑戦的な眼差しで敏夫に視線を据える。薄笑いを浮かべたまま。
「八月の末に転出届が出てますね。まだ村にお住まいだったみたいですけど、役所の帳面の上では、奥さんも息子さんも外場の人じゃないんでね。ですから、死亡者はゼロです」
敏夫は言葉を失い、喉の奥で呻いた。無意識のうちに救済を求めて役場の中を見まわすと、職員がじっと敏夫と男のやりとりを見守り、薄笑いを浮かべている。
――そういう、ことだったのか。
敏夫は打ちのめされた気分で思った。続く転出、続く死亡、村外に通勤する者、村外から通勤する者は例外なく死の直前に辞職していた。何もかも、死を隠蔽するためだったのだ、とようやく悟った。
敏夫は無言で踵を返した。文字通り逃げるように役場を駆け出して、車に乗り込む。
公式には、村の死亡者はゼロだ。そう言いきる以上、全てがそれで整合しているのに違いない。敏夫の手許にはカルテと死亡診断書の写しがあるが、肝心の戸籍上では死亡したことになってないのなら、確かにそれを振りかざしたところで、下手をすれば敏夫のほうが私文書虚偽記載の罪に問われかねない。――いや、死亡していないものを死んだとして死亡診断書を発行したことになるのだから、別の罪を構成するのだろうか。
そこまでを考えて、敏夫は笑った。
(ナンセンスだ)
ステアリングを握り、軽く額をその手に当てる。
役所の戸籍と、敏夫の持っている文書と、二つの帳尻が合わない。それを振りかざして外部の注意を促すことはできるだろう。どちらが正しいか争うことは不可能ではなく、人々の記憶から幾多の死を抹消できるはずもない以上、敏夫のほうが正しいことを認定させることも不可能ではない。公に捜査されれば、こんなペテンはたちまち明らかになる。――だが。
(連中はおそらく、そんなことはさせてくれない)
石田が消えたように、敏夫も消えるだけだ。診断書の写しとカルテを抱いて。そうして事態表向き、いっそう整合していく。
「……やられた」
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十一月に入って最初の日、夕刻になって敏夫のもとに訃報が届いた。患者の一人が、上外場の国広で娘が死んだようだ、という。律子だ、と悟り、敏夫は病院を閉めるや否や国広家に駆けつけた。
六時が近い。黄昏の落ちた道では、家へと急ぐ村人が俯き加減に歩いていた。立ち止まって声を掛け合う者もなく、ましてや立ち話をする者たちの姿もない。国広家に辿り着くと、すでに家には明かりが点っていたが、喪中の提灯もなく鯨幕もない。不幸を伺わせるようなものは見えなかった。
「済みません。こんばんは」
玄関から敏夫が声をかけても返答がない。敏夫は建物の脇に廻る。表に面した縁側から、茶の間にいる康恵と緑の姿が見て取れた。
「国広さん、こんばんは」
縁側のガラス窓を叩いて声をかけると、ようやく二人が振り返る。敏夫はガラス戸に手をかけた。鍵はかかっていなかったようで、それは難なく開く。
「律ちゃんの具合はどうです」
死にました、と康恵の声は素っ気なかった。
「いつ……今日ですか?」
「ええ、昼前に」
「しかし、通夜は」
「葬儀社に頼んでますから」
短くて言って、康恵はそっぽを向いた。敏夫は首を傾げた。葬儀社に依頼してあるが、明日になるということか。――まさか葬儀社に依頼したから、自分たちでは通夜は行わない、という意味ではあるまい。
思いながら、さらに怪訝な気がするのは、この間には敏夫を責めた母親と妹が、ぼうっと坐っていることだった。顔色が悪く、姿勢にも倦怠感が漂っている。娘が姉が死んだばかりだというのに、何の感情も見えない。
「律ちゃんは、何で亡くなったんですか」
敏夫の問いに答えるものはなかった。緑が座布団を枕に、気怠げに身体を投げ出した。
「おたくは寺の檀家でしょう。なんで葬儀社なんですか。律ちゃんを看取って死亡診断書を出したのは誰です」
江渕さんですよ、と康恵は気のない声で答え、いかにも億劫そうに立ち上がって家の奥に消えた。
――発症している。
敏夫は二人の様子から確信する。康恵も緑も両方だ。間違いない。なおも縁側から問いかけたが、緑は横になったまま返答すらしなかった。埒が明かず、敏夫は窓を閉めて地所を出、周囲を見渡した。家の横手のほうから、さも哀しげな犬の鳴き声が聞こえていた。
すでに陽が落ちて、薄闇が漂い始めている。通りがかる人の姿はない。隣の家に明かりが点り、道に面した窓のカーテンが開いているのを認めて、敏夫は隣家に向かう。玄関先から声をかけた。たしか隣は、田村弘岳の家のはずだった。村には残り少ない木工所で働く老人で、腰部脊椎症でしばしば病院にもやってくる。
「田村さん、済みません」
隣の住人なら、詳しい様子が分からないか。敏夫が何度か声をかけると、一人の老人が姿を現した。弘岳より少し若いだろうか。
「済みません、田村さんはおられますかね」
「田村はおれだけど」
敏夫はぽかんとした。
「いや……あの、田村弘岳さんは」
「おれだ」
その田村弘岳とは似ても似つかない、若々しさを残した老人は言った。
「悪い冗談だな。あんたは弘岳さんじゃない」
「なんだい、あんたは。失礼なことを言うじゃないか。おれが田村弘岳だよ。本人が言うんだから間違いない」
「しかし」
「嘘だというなら、おれが田村じゃないって証拠を出してくれるかね」
敏夫は返答に窮した。病院に帰れば田村のカルテがあるが、もちろんカルテには写真など貼られていない。保険証番号も控えてあるが、保険証にはやはり写真など貼付されてはいないのだ。田村の患部レントゲン像なら残っているが、それだけで田村本人だと言い張る者を、違うと証明することはできない。もちろん、目の前の男をレントゲンにかければ、像が一致しないこと証明できるだろう。だが、何よりまず、男がそんなことを了解してくれるとも思えない。
救いになるものはないか、敏夫は周囲を見渡す。田村のさらに隣家はぴったりと雨戸が閉じている。向かいも同様の有様だ。田圃を隔てたさらに向こうに明かりの点っている家が見えたが、外部を拒絶するようにカーテンが引かれている。
「不審に思うんだったら、隣に聞いてくれ」と、男は律子の家のほうを顎でしゃくった。「長い付き合いなんだからな。そうでなきゃ、すぐそこの篠田の家にでも行って訊いて
みるんだな」
男はぴしゃりと玄関の戸を閉じた。
律子の家はあの有様だ。おそらく訊けば、田村に間違いないと、康恵も緑も証言するだろう。篠田は――と、敏夫は考え、そもそも篠田母子が九月に転居していることを思い出した。田茂定市が作ったリストの中に、篠田母子の名前があった。敏夫は仮に発症し、死亡した者としてグラフに二を書き込んだ。
敏夫は泥濘を泳ぎ渡る気分で車に戻った。病院に戻る間にも、軽い目眩が止まらなかった。病院に戻り、つい田村のカルテを探し出してみたものの、やはりそれはあの男が田村でないことを証明する何の支えにもなりそうになかった。
田村のレントゲン像は、あの男のものとは一致しないことが確実だ。だが、あの男がレントゲンを撮らせてくれるはずもなく、それをさせてくれたところで、レントゲン像が一致しない、という以上のことを証明できない。田村の患部像は保険証番号に結びつけられてはいるものの、あの男が田村の保険証を所持しており、レントゲンのほうが間違っている、これは自分のものではないと主張した場合、敏夫はそうでないことをどうやって証明すればいいのだろう。
敏夫は一人、事務局の椅子に腰を下ろした。ふと気づくと、そこはかつて十和田が使っていた席だった。十和田はいない。辞めると言葉だけを残して消えた。捜せば実家の連絡先が分かるはずだが、もしも連絡したとして、どんな消息が帰ってくるのだろう。失踪したと言われるのか、あるいは死んだと言われるのか。
村の九月以降の死者は公式にはゼロだ。それ以外にも転居が続いていたが、篠田家のように住人が戻ってきているとしたら。そうやって戻ってきた住人は、ひょっとしたら夜にしか姿を現さないのかもしれず、あるいは田村のように似ても似つかない顔をしているのかもしれない。
――いや、と敏夫は思う。田村は独居老人だが、家族がいないわけではない。村を出ているものの、子供がいる。その子供を村に呼び寄せれば、あの男が田村でないという証言が得られるはずだ。
(しかし、そんなことをさせてくれるのか?)
例えば呼び寄せた子供が襲われ、その人物が虚ろな目をして村から離れたどこかの町で死亡することになったとして、誰かその異常に気づいてくれるだろうか。
(この村の住人でないもので、異常なことが起こっていることを、証言できる者がいるのか?)
村外から村に通勤していた者は、この夏以来の惨状をそれなりに理解しているはずだ。少なくとも葬儀が続いていたことを知っている。だが、十和田はもういない。下山も、雪も聡子もいない。
「そうか」と、敏夫はひとりごちた。「村ではゼロでも、溝辺町ではゼロじゃない」
そう、かえって村の外部、周辺に死人が集中していることになりはしないか。屍鬼に襲われた連中の死は、明らかに余剰死だ。村の周辺で死と失踪が続いているはず。そこを指摘すれば――。
そこまでを思って、敏夫は軽く机を叩いた。頭を抱える。たとえば十和田が、あるいは下山が死の直前に転出していたら? そうやって死が拡散し、死亡者数が不審を招かない程度に均されていれば、敏夫が何を指摘しても無駄というものだろう。そして連中は、おそらく、その程度のことはやっている。
役場のあの異常な様子。高見の後にやってきたという駐在の顔を、敏夫は見たことがない。村外から通勤してくる者は姿を消し、村外に通勤していた者は死亡の前に辞職している。
「そればかりじゃない……」
夏以来、病院に薬品を納めるプロパーの顔ぶれが頻繁に変わった。村に出入りする者もまた、連中に調整されているのだ。
気が付いてみれば、いつの間にか村は外部から隔絶されている。至るところで人の流れは寸断され、村は孤立し、ブラックボックスと化している。
「だが、あれだけの人間が死んでいるんだぞ!」
人々の記憶から、その死は抹消できない。生きていた痕跡、死んだ痕跡を完全に拭い去ることもまた不可能だ。敏夫の手許にはカルテがあり、死亡診断書の控えがある。|診療報酬明細書《レセプト》もあり、それは保険金支払基金に提出され、支払いを受けている。支払基金にはレセプトが残っているはずだ。死んだ者に対し、生命保険などの支払いも行われているはず。それに際しては死亡診断書や戸籍の除票が発行されており、それが随所に残されているはずだった。――だが、肝心の役所の戸籍そのものが死亡者数ゼロである場合、齟齬のある二つのデータを付き合わせた者は、その齟齬をどう解釈するだろう。
敏夫は軽く笑った。低く、歪んだ笑いになった。
死んだと言って死亡保険金の支払いを受けた者が、戸籍上死亡しておらず、しかも本人は転出して行方を眩ましている。
「おれが失踪すれば完璧だ……」
死んでいないという公式の「事実」がある。その一方に死んだという主張があって、その主張に関わる人物は全員が転出して行方が分からないとすれば、それが世間的にどう解釈されるかは、あまりにも明らかだろう。
「これが連中の狙いだったんだ」
やがて村には住人など存在しなくなる。転出が続き、村は穏便に解体されていく。そしてその廃墟と化した山奥の集落には、不思議に夜だけ住人の姿が見えるようになるのだ。
あまり遠い未来のことではない。この異常な状況を引っぱれば引っぱるほど齟齬は蓄積し、不審を招くことになるからだ。連中は先を急ぐだろう。
「村にはおそらく、ほとんど時間は残されていない」
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寺務所の電話が短くなって、すぐに沈黙した。光男はベルの音に腰を浮かしたが、ほんの二度ほど鳴って途切れるまでに受話器を取ることができなかった。誰だろうか、と光男は考え込んだが、もちろん分かるはずもない。間に合わなかった自分を責めたい気もしたが、取ったところであまり意味はないのだと思い直した。
静信と美和子と克江と自分と。寺に残されたのは、今やたったそれだけだった。静信は読経できるが、光男は読経できない。それこそ門前の何とかで真似事ができないわけではないが、誰も光男の読経など望んでいないだろうし、それは光男自身の良心に悖ることだった。
(第一、その必要もない……)
死者は依然、出続けているはずだ。だが、近頃になってぴっりと訃報が入ってこなくなった。誰も死人が出たと寺に連絡してこない。連絡してこられたところで、読経できるのは静信だけ、葬儀ともなれば僧侶一人というわけにもいかないが、鶴見も池辺も角ももういない。近郊の寺に手伝いを頼むことは可能だが、もはやその必要もなかった。
(いったい……)と、光男は夕闇の降りた窓の外を見た。
死者はどうしているのだろう。こうしている間にも、どこかの家で誰かが息を引き取っているはずだ。その遺体はどうなってしまうのだろう。光男には見えないところで生じたそれは、同じく光男には見えない暗闇の中に引き込まれて消えていく。
光男は息を吐いて、使う宛を失った机に雑巾をかけた。寺は光男の一部だから――あるいは、光男は寺の一部だから、こうなっても疎かに放置はできない。むしろ徐々に死に絶えようとしているのにも似て、荒廃が忍び寄ってくることが我慢できなかった。ことさらのように朝夕、掃除をする。どこもかしこも磨き上げているのに、どこからともなく寂れた色が立ちのぼってくるのだった。
躍起になって掃除を終え、やはりどこか荒んだ色を拭い取れなかったことに落胆しながら、光男は美和子に帰宅を告げた。寺務所の明かりを点けたまま玄関に出る。土間を整理し、必要もないのに履物を拾えて庫裡を出、山門を閉めて潜り戸から出た。山門前の石段も、石段下の短い門前町も閑散としている。並んだ店の全てがもう閉まっていたが、そのうち半数は、このところ開いているのを見かけたことがなかった。明かりも乏しい。玄関先の街灯や、窓の明かりが欠けているせいだった。もともと暗い夜道には、あちこちに暗黒が|蟠《わだかま》っている。
光男は、刃物でも突きつけられたような気分で家までの道のりを急いだ。俯き、ひたすらに足を急がせる。家に向かう路地を曲がってやっと顔を上げた。路地の左右に並んでいる家も、やはり明かりが乏しい。歯が抜けるようにして窓の明かりが欠けている。路地の奥に見える黄色い明かりが裕恵の待つ家で、いつものことながら、明かりが点いていることに光男はほっと息をついた。近づけば、夕飯の支度をする匂いが漂ってくる。ささやかな平常に辿り着いて緊張を解いたとき、脇のほうから茂みを掻き分ける音がした。
光男の家と一つ手前の隣家は、細い側溝で区切られている。垣根のようなものはなく、双方から庭木が枝を重ね合っている。その茂みの間に人影があった。会釈しようとして、その人影が隣家の誰でもないことに光男は気づいた。裏口に手をかけた人物は、光男を振り返った。そして側溝を飛び越え、大股に歩み寄ってくる。光男は動けなかった。足下から震えが立ち上がってきたが、それが単純な恐怖によるものなのか、それとももっと意義の深い畏怖によるものなのか、光男自身にも分からなかった。ただ、そういうことだったのか、と思った。
夏以来、続いていた死の連続。村に蔓延していた奇妙な事柄。心のどこかで、やはり、と思った。振り返ってみれば、光男はいつからか、こういうことだと分かっていた。
その男は大股に歩み寄ってくると、光男の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「光男さん、おれに会ったことは言っちゃあいけない」
「鶴見さん……あんた」
その先をどう言えばいいのか、光男には分からなかった。
「あんたは何も見ていない。いいな?」
「あんた、まさか」
鶴見は、以前と変わらない、けれどもどこか憂鬱そうな顔で頷いた。それが何を肯定するものなのか、光男にはやはり分からなかった。
「おっ母さんが大切だろう?」と鶴見は翳った顔で低く言った。「だったら何も見なかったことにすることだ」
「黙っていれば、お袋は安全なのかい」
さあな、と鶴見の声は低い。
「あんた、寺には手を出さないよな?」
「おれはもう寺には出入りできない。おっかなくてな」鶴見の声は掠れたように低かった。「……そうだな、おれならおっ母さんを寺に住まわせるよ」
光男は頷いた。鶴見は踵を返す。その肩を落としたように見える背に、光男は呼びかけた。
「御院は? 池辺くんや、角くんは?」
さあ、と鶴見は振り返らないまま答えた。
「顔を見ないな。……きっと逝っちまったんだろう」
そうかい、と光男は答え、鶴見の行方を見守ることなく家の中に逃げ込んだ。泣きたいような気もしたが、不思議に涙は出てこなかった。何を嘆けばいいのか、分からなかったせいなのかもしれない。
明るい茶の間では母親の克江が夕飯を用意して待っていた。湯気の立ち上るそれを母親と食べ、それから光男は荷物を纏めた。母親を急かし、寺へと向かう。
すでに寺には静信と美和子しかいない。そして光男は寺の一部で、寺を維持する責務を負っている。――負うと決めたのだ、十五の歳に。
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十一月二日、敏夫はクレオールに広沢らを呼び出した。村の崩壊まで時間がない。この現状を打破しようと思うなら、何がなんでも敏夫には協力者が必要だった。説得できる者がいるとすれば、広沢らだろう。そう思い、昨夜のうちに電話をかけ、とりあえず説得できる見込みのある者をクレオールに集めたのだった。
見せに向かうと、クレオールにはいつかのように準備中の札が下がっていた。あのとき、呼び出されたのは敏夫のほうで、ここで疫病の可能性があることを敏夫は示唆した。それを今日、撤回しなければならない。
ドアを開けると中には、長谷川はもちろん、広沢と田代、結城がテーブルを囲んで揃っていた。
「済まなかったね、広沢さん。平日なのに」
いえ、と広沢は笑う。
「この時間をお願いしたのはわたしですから」
そうだな、と敏夫は頷く。空いた椅子のひとつに腰を下ろした。
「しかし、広沢さん。なんだってこの時間なんだい? いや、こうして集まるなら夜のほうが自然なんじゃないのかい。そうすれば仕事をサボらなくてもいい」
「それはそうですが……」と、広沢は歯切れ悪く呟いた。「別に深い意図はないんですけどね」
「そうかい? おれはまた、広沢さんは夜に外出するのを嫌がってるのかと思ったよ」
敏夫は言って、広沢をはじめとする四人の顔を見まわした。それぞれが視線を逸らす。
「……夜には人通りが絶えるからな。もともとこの村じゃ、夜は早かったが、それにしても最近は異常だよ。陽が落ちると誰も外を出歩こうとしないんだ。いつもは診療時間のぎりぎりまで患者が来るんだが、患者さえ陽が落ちると来るのを嫌がる。なんでなんだろうな」
「冷え込むようになったせいじゃないですか」と、さりげなさそうな声で言ったのは長谷川だった。「陽が落ちると、風が冷たいですからね」
そうだね、と同意したのは田代だった。敏夫は四者四様の表情を窺う。誰もが夜を恐れているくせに、それを互いから隠そうとしている。
「結城さんはもう落ち着かれましたか」
「ええ、まあ」
「奥さんから連絡は?」
ありません、と結城の声は低い。
「連絡を取ってみたんですか? 実家のほうに?」
「いえ。……特に連絡をすることもないですから」
「連絡してみたらどうです。ひょっとしたら奥さんは実家に帰ったわけじゃないのかもしれない。そうしたら、失踪届を出す必要があるんじゃないですか」
結城は険しい表情で敏夫を見返す。
「どうしてそんなことを急に。――まさか、わたしが梓に対して冷たいと、そういうことをおっしゃるためにわざわざ呼び出したんですか」
まさか、と敏夫は肩を竦めた。
「おれはそんなに暇じゃない。家庭内の事情に|嘴《くちばし》を挟むほど酔狂でもないです。だがね、結城さん。夏以来、村に転出者が続いていることは御存じでしょう」
「ええ。それは」
「住人が次々に姿を消す。それも夜中に、突然、引越してしまうんですよ。なんの事情の説明もなく、極めて異常な状況で。――たとえば」と、敏夫は二、三の異常な例を挙げた。家出した嫁と同居すると言って消えた三安、小池老を残して消えた息子一家。翌日の診療に来ると言っておきながら消えた広沢豊子ら、ついに診察に来ることのなかった前原セツ。
「小池さんのところの保雄くん一家は、引越す前、例の病気を発症していたと考えられる。広沢の豊子さんもそうだし、前原の婆さんもそうだ。例の病気にかかった人間は、不思議に引越をしたくなるらしいんだな。それだけじゃない、村外に通勤している者は、急に仕事を辞めたくなるらしい」
広沢は困惑したように瞬いた。
「たしか……武藤さんのところの」
「そう、徹くんも辞職してたんだ。――広沢さん、これをどう解釈したらいいんだろうね。結城さんはどうです。奥さんが消える前、顔色はどうでした。妙に感情が鈍麻している様子はありませんでしたか」
「そんな」と、言いかけたなり、結城は口を噤んだ。視線がテーブルの上をさまよう。結城は明らかに狼狽していた。
「沢山の住人が奇妙な引越をして村から消えた。そのほとんどが、行く先が分からない。結城さん、ここから電話してみませんか。奥さんの実家に」
結城は怯えたように敏夫を見て、そうして首を横に振った。
「そう。――じゃあ、こういうのはどうです。誰か最近、役場に行きましたか。マサさんはどうだい。孝くんが亡くなったとき、役場に行ったろう?」
「行ったけど……」
「死亡届を出して、埋葬許可証をもらった。違うかい」
「もちろんだよ。なんか、昼間は職員がいないらしくて、発行は夕方だったけど、確かに貰った」
「だろう? ところが月曜、おれが行って聞いたところによると、この村じゃあ、九月以降の死亡者はゼロなんだそうだよ」
馬鹿な、とこれは人数分の声が上がった。
「そう、馬鹿な、だろう。あれだけの人間が死んだんだ。マサさんのところの坊やも亡くなってるし、結城さんのところの夏野くんも亡くなってる。なのに誰も死んでいないんだそうだ」
「そんなことが起こるはずがない」
結城の声に、敏夫は頷いた。
「そう、起こるはずがないんだ。それが起こってる。この村は夏以来、ずっとそうだったんだ。どれだけの人間が死んだと思う? どれだけの人間が消えたと? 起こるはずのないことだ。常識に照らして、これだけの人間がこの短期間に、死んだり移動したりするなんてことはあり得ない。だが、その起こるはずのないことが継続しているんだ、夏以来ずっと」
「いったい」と、長谷川が頭を抱えた。「何がどうなってるんです。何か変ですよ、この村は。そう――先生に指摘されるまでもなく、絶対に変だと思ってた」
敏夫は頷く。
「そう、変なんだ。あれだけの人間が死んで、明らかに伝染しているふうなのに、伝染病ではない。これは感染症じゃないんだ。まったく病原体が発見できなかった」
「まさか」
「事実だよ。実際のところ、伝染病のはずがない。伝染病で患者が辞職するかい。引越をするのかい。そんな症状を呈す病気がどこにあるんだ」
「これはどういうことなんです? 何が起こってるんですか」
長谷川の問いに、敏夫は問い返す。
「その答えは知ってるんじゃないのかい」
まさか、と長谷川は目に見えて狼狽した。
「わたしに分かるわけがない」
「そうかい? ――あんたらは、伊藤の郁美さんがやらかした騒ぎを覚えてるかい」
四人がいっせいに息を呑んだふうを見せて、押し黙った。覚えているのだ、と敏夫は確信する。誰もがあれを覚えていて、それを疑っている。なのに口に出せないでいるのだ。
「なんだって、昼間に集まることになったんだ? どうして夜じゃいけなかったんだ? あんたらだって疑っているんだ。違うのか?」
それは、と田代が口ごもり、沈黙が降りた。全員があらぬ方向を見つめ、懸命に狼狽を隠そうとしている。敏夫はその彼らに向かって、丁寧に説明をした。伝染病だと思われた疾病の特徴、その異常な症状のあらまし。それはあり得ない症状であること、ただひとつ、循環血液減少性ショックであると解釈すれば、全ての症状が整合すること。多くの失踪者、辞職者。今や村は外部と切断され、孤立していること。外部にこの異常を知らせ、証明してみせる手段の失われていること。それは村を包囲し、今や息の根を止めようと喉首に手をかけている。
「馬鹿馬鹿しい」
結城が吐き捨てて立ち上がった。
「あんたはいったい、何を言いたいんだ? まさか本当に郁美さんのように起き上がりだなんだと言い出すつもりなんじゃないだろうな」
「そう言うつもりだよ。別に無根拠に言ってるわけじゃない。お望みとあれば証明してみせる」
「桐敷さんを呼び出すのか? そして抹香でも巻いてみるのか」
「おれは少なくとも、後藤田秀司と安森奈緒の死体が墓にないことを知っている」
結城が口を開けた。広沢らも、それは同様だった。
「暴挙は承知だ。だが、確証が必要だったんだ。棺の中は|蛻《もぬけ》の殻だったんだ。お望みなら、今から行ってもう一度暴いてみてもいい。そうすれば確かに二人が起き上がったことを自分たちの目で確認できるだろう」
沈黙が降りた。それを破ったのは、やはり結城だった。
「話にならない」
「結城さん」
「死体がない? そんなことがあるはずはない。あんた、歳は幾つなんだ?」
「おい――」
「ひとつ訊きたいんだが」結城は敏夫をねめつけた。どうしてだか、増悪のようなものがそこには込められていた。「あんたはずっと、寺の若御院とつるんでいたろう。どうしてこの席には若御院がいないんだ?」
「それは……」
「全部あんたの妄想だよ。忙しかったんでどうかしてるんだ。それで若御院は付き合いきれなくなったんだろう。だからこの場にいない。違うのか」
敏夫は呆れて言葉を失った。それこそ妄想に近い邪推だが、静信がこの場にいない訳を敏夫は説明できなかった。
「わたしは少し休養することを勧めるね」
言い捨てて、結城は店を出ていった。敏夫は呆気にとられてそれを見送り、広沢らを振り返ったが、広沢らはまるで見苦しいものから目を逸らすようにして、敏夫から視線を背けた。
「マサさん、おれは」
田代は強張った表情で笑った。
「結城さんは息子さんを亡くしてから、気が立っているんだよ。悪気があってあんな物言いをしたわけじゃないんだ、気にするな」
敏夫はわずかに安堵しかけたが、田代はそこで敏夫から視線を逸らした。
「お前も疲れてるんじゃないかな。恭子さんのこともあったしな。いや――おれはお前を非難する気はないよ。お前が大勢の患者を抱えて奔走してたのは分かってる。明らかに伝染してるのに、伝染病じゃないということになると、対処できなくてすげえ焦ったろうな。その気持ちは分かるんだよ、うん」
「マサさんも、結城さんに一票かい」
「妄想だなんていう気はないよ。死体が消えたのは本当かもな。おれは昔、聞いたことがある。死体の盗掘ってあるんだよな。あれは遺骨だったかな。人骨ってのは肺病に効くって俗信があるらしいじゃないか。――なんかそういうことじゃないのかな」
敏夫は言葉を失った。長谷川が微笑んで頷く。
「そういう話がありますねえ。そういや、アメリカでもあったんでしょう? 墓場から死体を掘り出してどうこうという。ホラー映画のモデルになった事件で」
「ああ、そう。エド・ゲイン」田代はことさらのように明るい声を上げた。「トビー・フーパーが監督で」
「ヒッチコックの『サイコ』もあれがモデルでしょう」と広沢が温厚に声を挟んだ。敏夫は呆然とその場の様子を見守る。彼らは故意に、話題を別の場所にスライドさせようとしていた。
「……それが、あんたらの答えか?」
敏夫の声で、作り物めいた談笑が消えた。沈黙がおり、ようやくのことで広沢がそれを破った。
「……申し訳ないけれども、わたしには荒唐無稽に聞こえます。先生にはそれなりに確信と覚悟があってのことだとは分かるんですが」言って、広沢は何に対してか首を振った。「ひょっとしたら、我々は頑迷で嗜好の柔軟さを欠いているのかもしれない。けれども理解して欲しいのですがね。我々は近代合理主義の洗礼を受けているんですよ。洗脳されている、と言ってもいいのですけどね。この世には化け物や魔法は存在しない。それが我々の世界に対する認識なんです。何もそれが唯一の真実だ、などという気はありません。けれども、我々はそれが事実だという前提の元に世界を把握しているんです。それは幻想かもしれないのだけれど、我々にとっては所与の事実です。いまさらそれを覆せと言われても、それはできない。それをすると、我々は世界そのものを失う」
「これは、そう言うレベルの話じゃない」
「そう言うレベルの話なんですよ。鬼なんてものは存在しない、それが我々――少なくともわたしにとって、問答無用の心理なんです。全てはそこから始まる。鬼なんてものがいない以上、これは伝染病なのだし、転居も辞職も、それなりの故あってのことなんです。そうでなければならないのだし、そのために何もかもが整合する説明を捏造しなくてはならない。説明できないのだとすれば、どこかに事実誤認があるんです。そうでなければ我々は世界を――ひいては自分自身を喪失してしまう」
長谷川が同意を示すようにひとつ頷き、無言で席を立ってカウンターの中に入った。
「……手を貸して欲しいんだ。おれひとりではこれを食い止められない」
「食い止めるべき何かがあるとすれば、それは先生がひとりで背負うべきことでもないし、背負いきれるものでもないでしょう。これだけの死者が出ているんです。先生の言うとおり戸籍が改竄されているとしても――もしも、それが事実だとしても、それが虚偽である以上、かえってそれが外部の注目を引く契機になるでしょう。この事態がこのまま放置されるなんてことは、あり得ない」
「ずいぶんと人が好いんだな」
「別にわたしは、誰かが我々を助けるために外部から手を差し伸べてくれるだろう、と言いたい訳ではないです。放置されない、と言っているんですよ。世間の好奇の目、世間の疑惑、そういったものを押しとどめることはできないと思うんです。誰かが齟齬に気づきます。もしも本当に改竄があれば。明らかに事実にそぐわないんですか。誰もが怪しむし、奇異の目で見る。だからこのまま放置されるなんてことはあり得ない」
「誰が齟齬に気づくというんだ? 村は外部と切断されてる。ブラックボックスになっているんだ」
「確かに、武藤さんのところの徹くんは死亡の前に辞職していました。しかしながら、職場にはちゃんと人間関係があったんですよ。そのうち誰かが、辞めた彼はどうしているだろうかと思って連絡を取ることもあるでしょうし、それ以外にも、さまざまな手続きが必要になることだってあるんでしょう。徹くんが死んだという事実は、外部に漏れる。いまもう、漏れているでしょう。何人もの人間が武藤徹という人間の死亡を知っている」
「だが、それは他人事なんだ」
「職場の同僚なんですよ」
「元同僚と言うべきだ――この村では夏以来、尋常でない数の死が続いていた。おれがおかしいと思ったのは八月の終わりだ。それに対して、結城さんやあんたらが、おかしいんじゃないかと言ってきたのは十月に入ってからのことだろう。どうしてこんなタイムラグができたんだと思うんだ?
あんたらが訊いてきた時点で、すでに死者は三十に上がろうとしてたんだ。だが、あんたらはそこに至るまで疑問を抱かなかった。もちろん、あんたらの知らない死者もいただろう。だが、あんたらだって頻繁に葬式を見たはずだ。誰それが死んだという噂を聞いていたはずだ。なのに、それは意識に引っかかっていなかったんだ。直接自分が関わった死人でなければ、感情のうちにはいらない。そういうことじゃないのか?」
「それは……」
「いいか。身内の死は重大事だ。誰もそれを無視できないし、忘れることだってできない。それが続けば異常だと思う。だが、身内でなければ他人事で、それは無視することが可能だし、忘れることも可能だ。身内の死でなければ、死は死として認識されないんだ。死としての重大性を剥奪されてしまう。徹くんの同僚だって、徹くんが死んだことぐらい聞いているだろうさ。だが、徹くんはもう同僚じゃない。彼らの身内じゃないんだ。武藤徹が死んだことを知識として知っていても、誰もそれを重大で痛ましい死というものだという認識はしてない。そんな、意味を剥奪された死なんか、どれほど続いたところでせいぜいが悪趣味な冗談の種か、そうでなければ怪談話の種になるだけだ。
あんたらだってこの夏、さんざん口にしたんじゃないのか。どうかしてる、悪い病気でも流行ってるんじゃないかって。それを自分でも、何パーセント信じていた? それがあんたにとって無視できない事実になったのは、いつの時点だ?」
広沢は押し黙った。敏夫は長谷川を振り返ったが、長谷川は洗い物を始めている。田代が立ち上がり、店番をしないと、と言い残して店を出た。広沢も息をひとつ吐いて、席を立つ。授業があるので、と言い残して去った。
後には敏夫ひとりが残された。敏夫はしばらく空席になった四つの椅子を見つめ、そして俯いて店を出た。
店の外は、白々しいほどの上天気だった。空は冴えて高く、冷えた空気は余剰のものを凍結させ、結晶として払い落としたように澄んでいる。そこに妙に陽気な笛の音が流れていた。霜月神楽が近いのだ。家々の落葉樹は色を変えようとしていた。山を覆った樅の色だけが深い。
打ちのめされた気分で病院に戻った。閑散とした待合室には患者の姿はなく、事務局には武藤が残って電卓を叩いていた。
「ああ、おかえりなさい」
うん、と生返事をし、敏夫は周囲を見る。
「やすよさんは?」
「薬の配達がてら、年寄りの様子を見てくるって出ましたよ」
そうか、と敏夫はカウンターに頬杖をついた。
「……なあ、武藤さん。あんたはそこにいて、夏以来、何が起こってきたか見ていたよな?」
「はあ」と、武藤は顔を上げて敏夫を見る。
「村は鬼に侵略されてる、ってのはどうだい」
武藤は瞬いた。
「御冗談を」
敏夫は、そうか、と苦笑した。敏夫には活路がなく、しかも完全に孤立していた。
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結城は家に戻るなり、苛立ちに任せて下駄箱の上のものを払い落とした。
「……鬼だって? 馬鹿馬鹿しい!」
結城はその場に吐き捨てた。敏夫に対し、何という愚かな、という憤りを捨てられない。
「そんなものがいるはずはないだろう」
まったく、あまりにも馬鹿げていて話にならない。なんという蒙昧、あれが村に唯一の医者だ。そんな村に好きこのんで越してきた自分を心の底から嫌悪した。
「いまどき、子供だって信じるものか」
結城は足取りも荒く居間に向かう。まだ陽は高いが飲まずにいられなかった。あまりにも愚かで、腹立たしくて我慢できない。
「よりによって医者が、なんてことだ」
テーブルを叩いたが、その音はいかにも虚ろに響いた。完全な空洞と化した家、そこでひとり罵声を上げている自分。冷ややかに己を観察する自己が、本当におろかなのはどちらだ、と問いかけているような気がする。
「……馬鹿馬鹿しい」
結城の声は、空洞に谺して耳に舞い戻ってきてみると、いかにも頼りなく、覇気を欠いていた。不思議に、いつか息子を送ってきた姉弟の顔が漠然と脳裏を過ぎった。
そんなことがあるはずはない。そんなものが存在するはずなどないのだ。
「あり得ない」
あの姉弟のほうが正しかったなんてことがあるはずはない。だったら自分は、息子を助けようとした恩人を家から追い出したことになる。息子を守るための品物を自ら破棄し、みすみす息子を死に追いやった。
「そんなはずがないだろう」
結城はグラスに口をつけ、呷る。どういうわけかグラスを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ手の震えがやまなかった。
これはもっと別の事態だ。おそらくは新種の疫病。おそろしく致死率が高く、一旦、発病すれば、どんなに最先端の医療をもってしても助けられない。
――そういうことに決まっている。
長谷川はグラスを洗い終え、そして閑散とした店の中を見た。昼時には病院の若い者が頻繁に食事に来たものだが、最近ではそれもない。清水や結城は身内で不幸があって以来、足が遠のいていたし、他にも明らかに常連客の数が減っていた。夜は早めに閉めるようにしている。妻が夕刻には戻ってくれ、というせいもあったし、どういうわけだか夜間の客が減ったせいもある。長谷川自身、歳のせいなのか、近頃、夜に店を開けておくのが億劫だった。
疲れているんだ、と思う。敏夫も自分も。あるいは村の者は全部。
妙に気力の萎える感じ、身内を覆った虚無感とその底で燻っているような焦りには覚えがあった。息子を亡くしたときがそうだった。何もかもが疎ましく虚しく、そして抜き差しならぬ威圧感を与える。何もかもを投げ出してしまいたい、という衝動。
長谷川はしばらくひとりでカウンターに座り、物憂いサックスの音に耳を傾けていた。やがて立ち上がり、ステレオのスイッチを切る。――店を畳もう、と思っていた。
このまま村に残るもよし、あるいは、どこかに引越すもよし。もともと長谷川は根無し草だ。都会で根を捨て、この村に流れてきた。またここから漂い出ていってもいいだろう。さほどに不安はない。どこに行っても、何とかなるものだ。
とりあえずその前に、しばらく妻を連れて旅行にでも行こう。そう、明日にでも。ゆっくり二人で温泉にでも入って、そしてこれからのことを相談してみよう、と思った。
田代は店に戻り、それからふと思いついて、役場へと向かった。留守居の老人に戸籍謄本の発行を頼んで、店に戻り、夕刻に店を閉めてから役場に寄る。
陽が落ちてから、ようやく役場らしい喧噪に満たされた事務所の様子には強いて注目しないようにし、謄本を受け取った。田代の息子は確かに死亡によって抹消されていた。
「そうだよな」と、田代は呟いて苦笑する。謄本を出してくれた職員が怪訝そうに首を傾げた。いや、と口ごもり、田代は言ってみる。
「なんか……村で死人が続きますね」
そうですね、と職員は頷いた。
「本当に立て続けにねえ。どうなってるんですかね」
「ずいぶん亡くなっておられるんじゃないですか、夏以来こっち」
「そうなんですよ。町役場のほうからも調べるように言ってきてるぐらいでしてね」
田代は、ほっと息を吐いた。
「そうですよね、――そうでしょうね」
武藤が家に帰ると、キッチンでは妻の静子が食事の用意をしていた。寝間で着替え、少しの間考え込んで台所を覗いた。食卓を整えていた妻の静子と話をした。
それから風呂を使い、上がってダイニングに行くと、もう食事の用意はできていて、保などはすでに箸をつけている。旺盛な食欲を微笑ましく見て、武藤はひとつだけ空いた席を寂しい思いで見やった。悲しみと痛みが綯い交ぜになったものが、胸の奥から喉のあたりにまで満ちる。
ごく当たり前の夕食だった。とりとめのない会話の断片が行き交い、茶碗がやりとりされる。保が箸を置いて立ち上がろうとしたとき、武藤は少し待つように言った。
「どうしたの?」
「少し、話があるんだ」
保は父親の顔を見返した。どこか疲れたような、放心したような色を浮かべた、このところずっとそうだった通りの父親。
保は怪訝に思いながら、自分席について焙じ茶を啜っていた。姉が箸を置き母親が最後に何やら心得た顔で箸を置いた。
うん、と父親は誰に対してか、頷いた。そうして保と葵を見る。
「お前たち、家を出てみる気はないか」
「……なんで」
保は瞬く。どうしてそんなことを父親が急に言いだしたのか、分からなかった。
「溝辺町にアパートでも借りて、二人で下宿生活をしてみるっていうのはどうだろうね」
「それは……いいけど」
保は姉の顔を見た。葵は首を傾げつつ頷く。母親は何もかも心得ているふうで、黙って湯飲みに口をつけていた。
「尾崎の若奥さんも亡くなったろう。徹が逝って、夏野くんも正雄くんも死んで、それ以外にも、村じゃあ葬式が多い。この村はちっとばかり変だよ。この頃な」
保は頷いた。
「何がどうなってるのか分からないし、わたしはそういうことが分かるような聡明な質でもないんだがね。だが、そうだな。わたしは臆病なんだよ。だからお前たちを徹の二の舞にしたくはないんだ」
言って、父親は微笑み、瞬いた。
「親っていうのは、そういう生き物なのさ。子供に対しちゃあね。危ないものは持たせたくないし、危ないところには行かせたくない。どんな些細な危険からも遠ざけておかないと安心してられないんだ」
「それは分かるけど……でも」
「お母さんは家を離れるのは嫌だというしね。わたしも仕事があるからね」
父親が言うと、母親が笑う。
「お父さんのいるところが、わたしの職場だもの。あなたの世話をするのが仕事なんですからね」
父親も声を上げて笑った。
「なんだそうだ。だから、お前たちも二人で暮らしてごらん。人間、先々何があるか分からないもんだし、今のうちに一人でも生活できるよう、練習をしてみなさい」
そう言って微笑む。葵が何かを隠すように俯いた。保はそれを見、改めて両親の顔を見る。父親はどこか晴れ晴れとした表情をしていた。
村が変なのは事実だ、と思う。こんなに次々に人が死んで。だから村を出て行け、と父親は行っている。自分はここに踏みとどまるつもりだ。職場が病院でなければ、あるいは父親も一緒に出ていこうと言ったのかもしれない。だが、病院だから。職員が減っていると聞いたけれども、そのせいもあるのだろう。村に残ってあの場所を支えるつもりなのだ、と理解した。それに伴う危険は承知している。だから一人でも生活できるよう練習してみろ、と言っている。
保は掠れた声で、ようよう言った。
「……うん。分かった」
そうか、と父親が頷き、母親が、明日の放課後、待ち合わせて一緒にアパートを探しに行こうと言った。保は頷きながら、皮肉だ、と切なく思っていた。
(おれのほうが出ていくことになったよ、……夏野)
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十九章
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矢野妙は目覚めた。しばらくのあいだ記憶が混沌として、闇を見つめているしかなかった。小さな小屋の中だった。青い闇が降りていて何もかもが陰鬱なふうに翳って見えた。小屋が荒んでいるようなのもその気分に拍車をかけた。長い間使われていない物置小屋という風情の建物だった。そのわりに、ついさっきまで誰かがそこにいたような、人の気配の残滓とでも言うべきものがそこここに残っている。それは土間に何気なく置かれた真新しい空き瓶のせいなのかもしれなかったし、おおざっぱに畳んで放り出されたさほどに古びてはいない新聞のせいなのかもしれない。いずれにしても妙は小屋の土間に直接寝ていて、この時周囲には誰もいなかった。妙はここがどこで、自分がどうしてこんなところにいるのか、さっぱり理解することができなかった。
妙はふらつく足取りで立ち上がり、戸を開けて表に出た。小屋はかろうじて舗装された細い道の端に建っている。道の両脇には樅の林が迫っていて、山の中なのだと想像がついた。
何となく周囲を見渡し、妙はぎくりと身を竦めた。樅の林の上、月明かりで鉄塔が銀に輝いていた。鉄骨が錯綜する巨大な形状は、不思議に気味悪いものに感じられた。竦むほどの威圧感を放射している。
ありふれた鉄塔に竦むなんて、どうかしている。妙は思いながら、それでもそれが見えない――鉄塔から見下ろされることのない場所に行きたくて、道の傾斜が下がるほうへと歩き始めた。
鉄塔があるから、おそらくは西山だ。この道は林道で、あの小屋は林道沿いに良くある道具小屋だろう。それは理解できたものの、妙はなぜ自分がそんな場所にいたのか、理解することができなかった。とにかく家に帰ろうと思う。夜道は怖い。不思議に辺りは蒼褪めて、決して暗くはなかったのだが、夜は恐ろしいものだという知識が妙を怯えさせていた。
(早く……帰らないと)
樅に覆われた山は、死の領分だから。
妙は足を急がせた。最初はふらついて千鳥足になったが、次第に歩調はしゃんとしてきて、いつもよりずっと足が軽いような気がした。なんだかとても気分がいい。なのにとてもどこかが変だ。下着を一枚、着け忘れているような、理由不明の心許なさがあった。
ともかくも足を急がせているうち、林道を降りて村に出た。ちょうど末の山と交わる辺りだった。小さな祠が田圃を隔てて見える。末の山に沿って急ぎ、国道に出た。妙はいつの間にか飛ぶように家の前へと辿り着いていた。無事に家まで戻ってこれた。
安堵して駆け寄ろうとし、妙はまた竦む。寝静まった建物、明かりはなく窓も閉ざされ、雨戸もぴったりと引き回されている。禍々しい感じがしてならなかった。それは鉄塔に感じたものと同種の感覚だ。近寄ると怖いことが起こる、という不吉な予感に似たものを感じる。そこが自分の家で、今が危険なものの徘徊する夜でなければ、近寄りたくなかった。
(どうかしてるわ)
そう、あれは自分の家だ。きっと加奈美がたった一人で(自分はなぜあんな小屋にいたのだろう?)眠っている。怖いことなどあるはずがない。なのにどうして、こんなに身が竦むような思いがするのだろう。
妙は躊躇い、それからようよう、家へと近づいた。畏怖のようなもの、気後れのようなもの。近づきたくない、という切実な気分を押さえ込むことができたのは、それが極めて不吉な予感に似ていたせいだった。良くないことの気配がする。そしてあの家の中には加奈美が一人で眠っている。加奈美に何か――。
裏手に廻って、加奈美の部屋の窓辺に歩み寄った。雨戸のないガラス窓の内側には、ぴったりとカーテンが閉ざされている。その窓を、勇気を鼓舞して叩いた。異様な気配のようなものが立ち込めていて、家の中に入ることなど考えただけで身が竦んだが、だからこそいっそう、加奈美の顔を見たくて、たまらなかった。
広沢高俊と大塚康幸と、死体をひとつ穴の中に埋めて小屋へと戻った。
「あれは誰なんだ?」
高俊は康幸に問う。高俊はその若い女の人相に見覚えがなかったが、康幸は知っているのだろう、埋めた後に手を合わせていた。
「丸安の嫁さん。――淳子だったかな」
「へえ」と高俊は呟く。「残念だったね」
仲間の知人が起き上がらなければ、そう悔やみを言う。それが仲間同士の礼儀のようなものだった。
「別に良く知ってたわけじゃないんだ。同じ製材所同士で、丸安とは行き来があったってだけでむ
「ああ、そう」
二人は甦生して長い。犠牲者を襲うのはルーティーンワークに過ぎず、その結果、生じた死体の処理も不要物を処分するのと同義だった。高俊も康幸も、すでに犠牲者を人間だとは認識していなかった。それは家畜のようなもの、そう意図的に割り切るようにしているうちに、もはやそれが当たり前のことになっている。――ただ、知り合いだけは別だ。それなりの親交があったものは、家畜とは違う。少なくとも放牧された羊と、庭で飼われているペット程度の違いがあった。
「それより、どうだい。日向ちゃんは」
高俊が聞くと、康幸は照れたように笑う。
「うん、いい子だよ。気がつくし、良くしてくれる」
康幸は今では三安と通称される安森家で暮らしていた。三安の嫁、日向子が甦生していて、日向子との二人暮らしだ。高俊はかつての住まいと遠い上外場で暮らしている。遠いといっても村の中のことだが、少なくとも周囲には、かつて付き合いのあった者はいない。知り合いの――ちょうど高俊の母親ぐらいの女で甦生したのがいて、その女との、やはり二人暮らしだった。
山入は完全に飽和している。仲間のうち、それなりに経験があって特に失点もない者は、徐々に村に降りてそこで暮らすようになっている。山入に比べれば別天地だ。家は住み心地が良く、食料は近所から間引いてくればいい。家の中に上手く隠しておけば、狩りに出ることさえせずに済む。できた死体は葬儀屋に運べば速見が処理してくれる。
とりあえずは仕事もある。高俊は役場で働いていたし、康幸は近くに点在する山小屋の管理をしている。山の中には作業後やや、道具小屋が点在している。そのうちの五つほどを分担し、そこに手を入れ、運び込まれた死体の面倒を見る。甦生しないか見守って、甦生すれば近所から羊を引いてきて与え、最初の羊を襲うところまで面倒を見て山入に送る。腐敗が始まったら処分する。――今夜葬った女のように。
かつてはそれは、山入の特定の家でのみ行われていたことだった。辰巳などがあらかじめ甦生しそうな者に目星をつけ、山入に運び込み、その後の面倒も全部見ていたが、さすがに近頃は死体が多い。とても辰巳一人の手には負えず、あらかじめ甦生するかどうかを確認することもままならない。とりあえず全ての死体を見守っているしかないが、そうすると山入では収容しきれない。それで山小屋に入れ、割り当てられた者が面倒を見る、そういうことになっていた。
「たいへんだな、五箇所もあるんだろ」
高俊が言うと、康幸は笑う。
「そうでもないよ。順番に巡って様子を見るだけだから。仕事があるっていうのはいいよ。それなりに張りも出るしな。小屋の壁を塗ったり、板を張ったりするのも面白い。最近、上手くなったんだ」
「へえ」
「でも御免な。遊びに来てくれたのに手伝わせて」
「べつにいいよ。そんなに大した手間じゃないし」
「もうじき広本が空きそうなんだってさ。お前んちの近くに小さい製材所があるだろ。広沢の製材所」
「ああ、あそこ」
「あれが空いたら、そのうち任せてもらえないか、辰巳さんに頼んでるんだ。造作するのにいるだろ、材木が」
「そうだな。康幸さん、それが本業だもんな。そうなるといいな、近くだし」
うん、と康幸は頷く。西の山のいちばん下にある小屋が目の前だった。康幸は扉を開け、そして中に踏み込み、硬直する。
「……どうした?」
「いない」
高俊は、え、と声を上げて小屋の中を覗き込んだ。確かに誰もいない。女の死体を運び出す前、その隣には老婆の死体が横たわっていたのに。
「起き上がったんだ」と、康幸は呟き、高俊を振り返った。「お前、小屋を出るとき、鍵かけたか?」
高俊は首を振った。死体は高俊が担いで出た。戸を閉めといてくれ、と言われたので、扉を閉めたが、鍵はかけていない。
「閉めといてくれって言われただけだったから……」
「戸を閉めとくだけじゃ意味がないだろ」
――その通りだ。高俊は顔が強張るのを感じた。
「どうしよう、康幸さん」
「どうしようって。おれだって困るよ、こんな。広本の話だってしたばっかりなのに。辰巳さんにこっぴどく叱られる。下手すると山入に連れ戻されるかもしれない」
高俊はシャベルを小屋に放り込む。
「捜さないと」
「……見つからなかったら?」
「怖いこと言うなよ。村の連中に見つかったらおおごとだ。おれ、辰巳さんに吊されちゃうよ」
「でも、おれたちが出てすぐに起き上がって小屋を出たんなら、どこまで行ってるか想像もつかないよ。山の中を、うろついてるかもしれないし」
「そりゃ、そうだけど」
高俊は身震いする。下手をすると高俊まで責任を問われる。辰巳の叱責だけは避けたかった。懲罰は御免だし、康幸の言うとおり、村に住む資格を取り消されて山入に連れ戻されるかもしれない。
「朝になったら焼け死ぬよ、きっと。顔が焼け爛れたらさ、どこの誰だか分からないだろ。婆さんも、起き上がらなかった、埋めたって言えば」
「でも」
「おれが証人になるよ。二人で口裏を合わせたら分かんないよ。辰巳さんだってもう死体がどれだけあるのか把握しちゃいないだろ」
――そうかもしれない、と康幸は思った。どうあっても、ここで失敗して辰巳に叱責され、恩恵を失うような事態は避けたかった。
「……とにかく、捜すだけは捜そう。どっかそのへんにいるかもしれないし」
矢野加奈美は、窓を叩く音で目を覚ました。枕許のスタンドが点いたままになっている。身を起こし、時計を観た。午前四時を過ぎていた。誰かが窓を叩いている。ガラスが割れそうな勢いだった。
(こんな時間に……誰?)
夜明け前に訪ねてくるような知人の心当たりはない。――元子を別にすれば。茂樹の具合が悪いと聞いた。加奈美は何度も電話したが、元子はそのたびに手が放せない、と言って電話を切る。そのたびに自分が切り捨てられるような気分がした。元子は加奈美を含む外界を自分自身から遮断しようとしているように思われてならなかった。
(茂樹くんに何か)
容態が変わったのかもしれない。それでもう、電話することも念頭に浮かばず、駆けてきたのかも。元子ならあり得ないことではなかった。
加奈美は起き出し、カーテンを開ける。元子の姿を捜して窓を覗き込み、そこに妙を見つけて仰天した。妙が窓を叩く手を止めた。声もなく、唇が加奈美、と綴る。
「……なんで」
だって、母親は死んだ。加奈美は身を裂かれるような痛みと共に、野辺に棺を送ったのだ。
愕然としながら、それでも足は無意識のうちに動き、小走りに裏口へと向かっていた。何もかも間違いだったのだ、という悲しいのか嬉しいのか分からない気分と、きっとこれは夢で自分はひどい落胆をすることになるに違いない、という気分が交互に加奈美を揺すって、悪酔いしそうだった。こんなことはあり得ない、だからこれは夢か幻覚に違いない。だから裏口を開けても、妙などそこにはいないのに違いなかった。加奈美は母親を失った。自分の一部を喪失してしまった。それはもう取り返しのつかないことで、けれどもそれが全部間違いで、何かの僥倖で妙が帰ってきたのだったら、どんなにどんなに嬉しいだろう。
(……神様)
祈るような気分で鍵を開けた。ドアを開いて裸足のまま裏庭に出ると、妙が呆然とした風情で佇んでいた。本当に帰ってきてくれたのだ、と思い、だからこれはきっと夢に違いないと思った。なんて嬉しい――そして残酷な夢なのだろう。自分はきっと、目が覚めてから声を嗄らしてなくに違いない。あらゆる摂理を恨んで身悶えするだろう。
そう思う間にも、加奈美は、お母さん、と声をかけて駆け寄っていた。その手を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]むと夜風と同じ温度をしていた。それでも確かに、そこには手が。
「……お母さん」
妙の手が加奈美の手を握り返す。加奈美は涙を零し、そして妙を二度と自分の側から切り離されまいと思って家へと促した。妙の手の感触が、夢だとは思えないほど確かだった。それとも自分は、確かに手の感触がする、という気分になっているだけなのだろうか。
|経帷子《きょうかたびら》を着た妙の手を引き、肩を抱えて家に入れた。その骨の感触の露わな肩も、やはり確かな手応えがした。本当かもしれない、と思う。思うと同時に、すっと背筋を寒いものが撫でた。もしもこれが夢でなく、本当に妙が帰ってきたのだとしたら。
加奈美は妙を放し、慌てて裏口を閉めて鍵をかけた。二度と妙を自分の側から放すまいと思うと同時に、早く世間の目から隔離しなくては、という気がした。裏口を閉めて振り返る一瞬、妙が消えているのではないかと疑ったが、妙はそこに立って加奈美を見ていた。加奈美は初めて悪寒めいたものを感じた。
――これはどういうことなのだろう。なぜ妙がここにいる。帰ってくるはずなどないのに。
「……どうして?」
聞いたが、答えはなかった。妙は首を振った。妙もまた加奈美以上に呆然としているように見えた。
とにかく、と促した。白装束のままではまずい。近所の者がこれを見たら、妙が起き上がってきたのだと思うだろう。
――そう思い、加奈美は悟った。
妙は起き上がってきたのだ。震えが立ち上ってきたが、それは決して妙が怖かったからではない。起き上がってきたのだ、という事実そのものが怖かった。
おそるおそる手を伸ばし、妙の顔に触れた。妙は涙を零していたが、その涙にも温度はなく、妙の鼻も口も呼気を零してはいなかった。肌は冷え冷えとして、触感以外の感触を持たない。
(起き上がりだ)
これが、村で続いていたことだったのだ、とようやく悟った。妙は墓から起き上がり、死を媒介するために山を下りてきた。加奈美を引くために戻ってきたのだ。
だからと言って、目の前に母親がいて、どうして家から閉め出せるだろう? 山へ帰れと追い払うことなど、加奈美にはできなかった。
「とにかく……着替えよう? 泥だらけだよ」
加奈美が手を引くと、妙はこくんと子供じみた仕草で頷いた。加奈美は妙を洗面所に連れていき、顔を洗わせ、着替えさせた。経帷子を脱いでいつもの寝間着に着替えてみると、それは母親そのものだった。明かりの点いた茶の間に坐らせてみると、母親が死んだという記憶のほうが嘘に思えた。
加奈美は何度も声をかけ、何が起こったのか聞こうとしたが、妙はただ頭を振った。呆然としているようだったが、次第にそれは焦りの色を露わにする。加奈美はやがて、妙が声を出すことができないのだと悟った。声が出ないことで、妙自身も狼狽している。
「いいよ……いいの。とにかく寝て? 落ち着いてからゆっくり考えよう?」
加奈美が言うと、妙は頷く。いつの間にか、あたりにはほのかな明かりが漂い始めていた。夜が明ける。
「ちょっと待っててね。布団を敷いてくるから」
加奈美は言い残し、妙の寝間へと向かった。二度とここに主は戻ることはなのだと、奇妙な感慨を持って片づけたばかりの部屋に布団を展べた。
茶の間に引き返すと、妙は炬燵台に突っ伏していた。慌てて駆け寄ると、ぐったりとしている。眠っているというより意識がないように見える。――いや、それよりも死んでいるように。
体温はなく、呼吸もなかった。胸に手を当てても鼓動も感じられない。ついさっきまで起きていた、そのことが嘘のようだった。
これは死体だ。間違いなく、妙は死んでいる。起き上がって山を下りてきた、というのが嘘だったのだろうか。それともそもそも妙が死んだという記憶のほうが間違いだったのだろうか。ひょっとしたら妙は、いまここで初めて死んだのかも。あるいは気の狂った自分が妙を墓から運び下ろしてきたのかも。
埒もない考えが脳裏で渦を巻いて、加奈美はしばらく身動きができなかった。確かなのは今、目の前に母親の死体がある、ということだった。
(とりあえず……運んで)
そう、寝間に運んで、そして誰かに相談してみよう。――でも、誰に?
加奈美は考えながら、妙の身体を抱え、引きずるようにして寝間に運んだ。布団に横たえる。そうしてみると、本当にそれは妙の死体にしか見えなかった。
たったいま、ここで息を引き取ったふう。
目眩がした。悪心がこみ上げて、加奈美は窓を開ける。雨戸を少し開いて、庭に向かって吐いた。どこからが夢でどこからが嘘で、何が本当なのだろう。加奈美の居場所はどこなのだ。いったい何が現実なのだ。
半ば泣きながら喘ぎ、しばらく窓辺で息をしていた。庭の向こう、白々と明け始めた村の景色には、なにひとつ変わりがない。いつもの朝、いつもの秋の景色だった。なにひとつ異常なことなどなく、加奈美の知る、かくある姿は寸分も損なわれていない。では、加奈美の背後にある布団の中には、誰の姿もないはずだ。なのに振り返るとそこには妙がいて、ならば妙は寝息を立てていなければならないのに、やはり息も脈もなかった。
(……どうよしう)
どうしたらいいのだろう。どう理解し、受け止め、自分の中で整えればいいのだろう。途方に暮れるあまり、泣かずにいられなかった。泣いている加奈美の背後から曙光が射した。夜は本当に払拭され、朝に塗り替えられようとしていた。
異音を聞いたのはその時だった。加奈美は顔を上げた。ずっと声を出さなかった妙が、目を開けて短い断続的な呻き声を上げている。
「……お母さん?」
妙は苦痛に満ちた声を上げ、顔を覆った。駆け寄った加奈美の目の前で、妙の手が顔が赤く膨れ上がり、水膨れを生じていく。それが弾け、妙は悲鳴を上げた。火傷だ、と加奈美は思った。――でも、なぜ。
理由は分からないが、悲鳴が漏れるのは怖かった。慌てて雨戸を閉め、窓を閉めると、妙は唐突に穏和しくなった。ぱたりと顔を覆った手が落ちる。その手も顔も爛れていたが、声を上げることもなく、もう瞼も穏やかに閉じている。
「……朝日? 光のせい?」
加奈美は窓と妙を見比べ、改めて戸締まりをした。雨戸をぴったりと閉じ、なんとなくそれでも不安でガムテープで目張りをする。ガラス窓を閉じた上でガラスには新聞紙を貼り、そうしてカーテンをぴったり閉じて、中央を粗く縫い合わせた。そうすることで、加奈美は無意識のうちに、妙の存在を外部から隠蔽しようとしていた。
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静信が考え込んでいると、済みません、と小声が輿寄せのほうでした。気のせいだろうか、と思いながら事務所を出ると、輿寄せの土間に、十五、六の少女が立っていた。静信には、その少女が誰なのか分からなかった。
「どちらさんでしょ」
訊いたが、少女は口を噤んだまま俯いている。
「どうしました?」
重ねて問うと、少女はようやく顔を上げた。
「あの、……あたし」言いかけたが、心許なげに再び俯く。「若御院は覚えてないと思うんですけど、以前、恵のお葬式のとき会って……」
「清水恵さん?」
はい、と少女は頷く。夏以来、数え切れないほどの葬儀があり、記憶しきれないほどの関係者に会った。静信は少女の顔に、確かに見覚えがあるような気もしたが、あまりにも膨大な顔の群の中に埋没して、どこで会ったどの人物だと特定することはできなかった。
「とにかく、お上がりなさい。そこは寒いでしょう」
冷えた風が吹いていた。少女は逡巡したふうを見せ、それから頷き、靴を脱いだ。静信は事務所に少女を通し、暖房を少し強くする。俯いたままの少女に煎茶を淹れて出した。
「こんなものしかないのでけど。召し上がって温まってください」
「ありがとうございます」と、少女の声は消え入りそうだった。
「清水恵さんのお友達ですか?」
「はい。……あたし、幼なじみで……」
気後れしたような口振りに、何となく聞き覚えがあった。そういえば、恵の埋葬の時、プレゼントを墓に入れたいと、同じように気後れしたふうに言った少女がいなかっただろうか。
「間違っていたら申し訳ないのですけど、恵ちゃんの埋葬の時、プレゼントを取りに戻られた方ですか?」
少女は両手で湯飲みを包み込んだまま、顔を上げる。やっと表情を和らげた。
「そうです。あの……あたし、田中かおりといいます」
少女はほっとしたように息を吐いた。
「あたし、お願いがあって来たんです。その……戒名をもらうのって、どうすればいいんでしょう」
「どなたか、御不幸でも?」
少女は俯く。迷ったように口を開きかけ、閉ざした。
「やっぱりずっと、お得意じゃないと駄目ですか……?」
「いえ、ずっと檀家でないといけないということはありません。ですが、おつきあいのあるお寺さんが別にあるなら、そちらに頼まれてほうがいいとは思いますが。どなたか、亡くなられたのですか?」
「母が。……でも、そうじゃないんです。あたし、自分の戒名が欲しいんです」
静信が瞬いた。
「あなたの?」
「いつ、死んでもいいように。そういうのって無理ですか」
少女は顔を上げ、真正面から静信を見る。痛々しいほど真摯な顔に見えた。静信は少女の傍らに腰を下ろした。
「無理ではありませんよ。生前に戒名を受けられる方もおられますから。けれども、あなたのような若い方が、そういうことを言ってこられるのは初めてです。田中さんはお幾つですか?」
「……十五です」
「いつ死んでもいい、というお歳ではないですね」
柔らかく言うと、少女は俯いた。
「そうおっしゃるからには、それなりの理由があおりなのでしょうし、戒名をお出しするのは、いつこうに構いません。ですが、あなたのような若い方が死を覚悟したふうなのは、痛々しい気がします。――お母さんが亡くなられたのですか?」
「……はい」
「他の御家族は?」
「父も死にました。弟も死にました。もう家族はいません。今は、近所の人が面倒を見てくれてます」
「それは御愁傷様です。さぞ、お辛かったでしょう」
「次はあたしなんです。分かり切っているんだから、きちんとしておきたいんです」
かおりは顔を上げて、泥のついた両手を示した。
「墓穴は掘ってきました。お墓も用意したんです。立派なのじゃないけど、お父さんとお母さんのを見て、同じように自分で書いたんです。最後に死んだ日を入れたら、それでいいようにしとこうと思って。でないと小母さんに迷惑をかけるから。でも、お墓を見たら戒名があって、自分の戒名ってどうやってつければいいのか分からなくて、それで」
静信は青白い少女の顔を見た。この少女は自らを埋葬しようとしているのだ。家族を失い、一人だけ残され、生き延びる気概を失って一緒に葬られてしまおうとしている。自分の墓を自分で用意するというのは、自分自身に対する決別の儀式だとしか思えなかった。
「あなたの命は、あなたが思っている以上に尊いものなのですよ」
静信が言うと、かおりは怪訝そうに首を傾げた。
「家族を亡くされて、さぞお辛かったでしょう。十五で御両親を亡くされれば、自分がこの先どうなるのか、分からないだろうと思います。おかりさんは、自分の人生が先行きのないものに感じられるだろうと思います。何の希望も持てない、苦しい予感だけがする。そのぶん、自分の人生が値打ちを失ったように感じられるだろうし、人生の値打ちがなくなれば、命の値打ちもなくなったように感じられるかもしれません。けれども、値打ちのない命など、ないんですよ」
「あたし……」
「かおりさんの命は、あなたに付与されたたったひとつの尊いものです。人はいずれ死にます。それがずっと先のことだとは、ぼくも言いません。悲しいかな、人間はいつ死ぬか分からないものだし、ぼくもあなたも、もういくらも生きていられないのかもしれない。この村では、近頃、人の寿命は短いのです。人は呆気なく死ぬ。とても、脆い」
「……はい」
「ですが、明日にも死ぬかもしれないと知ることと、いつ死んでもいいと心を決めることは別物なんです。明日にも死ぬかもしれないと知ることは、命の脆さを悟ってそれを引き受けること。いつ死んでもいいと心を決めることは、命の脆さに絶望してあらかじめ投げ出すことです。けれども、どんなに脆くても、いつ死んでもいいと投げ出して構わないほど安い命などないんですよ」
言って、静信は苦笑した。村の崩壊を是としてしまった人間の言う台詞ではない。自嘲せずにいられなかった。
「……こんなことしか言えないで済みません。ぼくは、かおりさんが今、どんな状況におられるのか分からない。どれだけ辛かったから、どれだけ辛いか分からない。そんな人間が、訳知り顔をしても、かおりさんにしたら何を言う、という気持ちがなさるでしょう。……けれども、ぼくはそう思うので、あなだが十五の若さで自分の墓を用意しようとしていることが、とても痛々しいことのような気がするんです。戒名が必要なら用意してさしあげますが、そういうことでしかお役に立てないのはとても悲しいし、残念です」
「でも……あたし」かおりは俯いた。「次はあたしなんです。それもじきに決まってるんです。だって……恵はあたしのこと、怒ってるんだもの」
「清水恵さんは、かおりさんのお友達だったのではないのですか?」
「そうです。だから余計に怒ってるんだと思います。お父さんもお母さんも、昭も、だから……」かおりは両手を強く握り合わせた。「次は、あたしなんです」
かおりは静信を見る。静信は首を軽く傾げたまま、言葉を挟まなかった。かおりには静信の沈黙が、先を促すもののように見えた。返答に困っているのでもなく、かおりが何を言い出したのとかと身を引いているのでもなく、これから何を言おうとしているのか、待ち受けているような気が。
「分かんないんです、あたし、恵が何を考えてるのか。でも、怒ってるのは確かなんです。だから、お父さんもお母さんも死んだんです。昭――弟も」
「恵さんが怒ると、かおりさんの御家族が亡くなるのですか? なぜ?」
「分かりません。でも、恵が」
かおりは言いかけ、口を噤んだ。こんなことを言っても、大人には信じてもらえない。今だってきっととても変に思っているに違いない。そう思って静信を見たが、静信は首を軽く傾げたまま、かおりの言葉を待っている。
「若御院は笑うと思います。ぜったいに信じられないと思うから。でも、恵が――恵が言ったんです。お父さんが死んだ、って。そしたら、本当にお父さんが死んでて、同じようにお母さんと昭も死んで」
「清水恵ちゃんが予言したんですか?」
「予言でなくて、宣言だと思います。あんたの父親は死んだ、って。そしたらお父さんが本当に死んでて。恵はそうやって、あたしに復讐してるんです。ざまあみろ、って言ったもの。理由は分からないけど、でも、きっと結城さんが死んじゃったから」
「結城――夏野くん?」
「そうです。恵は結城さんのこと、好きだったの。でも、あたし、結城さんが危ないの、分かっていたけど助けてあげられなかった。だから怒っているのかもしれません。あたしが変なことに巻き込んだせいだと思ってるのかも。分からないけど、とにかく恵は」
かおりは言いかけ、言い過ぎたことに気がついた。
「……恵は、変わっちゃったんです」
そうですか、と静信は言った。笑うでもなく、嫌な顔をするでもなく、ごく真面目に頷いた。
「それで、次は自分だと、かおりさんは思うんですね」
「ええ」
「恵ちゃんが起き上がって、今度こそは自分に直接、復讐しにくると」
「そうです」と、かおりは瞬いた。「信じられないでしょうけど、あたしはそう思うんです。……いえ、本当は恵かどうか、分かりません。でも、次はあたしです。それは確か。あたしは、気がついたから。結城さんも昭も、それで死んだんだもの」
「夏野くんは、それで死んだんですか?」
「そうです」
静信は軽く額を押さえた。
「信じられないでしょうけど、そうなんです。あたし」
「いえ、違います。可哀想なことをした、と思って」
かおりは首を傾げた。
「彼は気づいていたんだ。そして、あなたも、弟さんも。それを知っていたら、手を貸してあげられたかもしれないのに」
かおりは、ぽかんとした。
「きっと他にもいたんだ。そして粛正されていった。そんな人間が、ぼくらの知らないところで沢山いたに違いない。なのにぼくには、何もできなかった……」
結城夏野の死は、確実に屍鬼からの報復だ。気づいてはいけないことに気づいて、夏野は粛正された。それもあえて知人に襲わせるという、被害者にとっても加害者にとっても惨い方法で。
そして、かおりの不幸も同様なのかもしれなかった。この少女は、知ってはならないことを知ったために、父母と弟を亡くしたのだ。哀れみを込めて静信は孤立した少女を見つめ、そして孤立したのは、かおりだけではないことに気づいた。
信明の失踪、角の死、池辺、鶴見。寺もまた人が確実に減っている。かおりの家ほどの惨状を呈してないのは、ひとえにここが寺であり、屍鬼にとっては忌まわしい場所であるからに違いない。そうでなければ今頃は、静信しか残っていないのかもしれなかったし、あるいは静信自身、いなかったのかもしれなかった。
静信は軽く目頭を押さえた。信明は生きていない。なぜなら、それは報復だからだ。知りすぎた静信に対する粛正。
(沙子……そこまでしないといけないのか)
静信は心中で呟いたが、不思議に怒りはなかった。むしろ存在したのは、沙子に対する哀れみのようなものだった。そう思うのは、どうしてだか、そこまでする沙子を沙子自身、決して肯定してはいないだろうという気がしてならないからだった。
徹の声が耳の奥に残っている。たぶん、あの延長線上に沙子はいる。そうでなければ「神様に見捨てられた」という気持ちなど抱かないだろう。知りすぎた者には粛正が必要だ。これは沙子が自己の存続を確保するための必然なのだろう。だが、沙子はたぶん、粛正する自分を悲しんでいる。
思って、静信は自嘲した。
(こうして……ぼくは逸脱する……)
ここで沙子を憎むのが、当然というものなのだろう。父親を殺した。それも静信がただ知りすぎた、そのことのために。屍鬼の悪事に気づいたから、粛正をもってする。それも当人ではなく、その家族を襲う。これは悪事を塗り重ねる行為で、だから屍鬼は極悪非道な存在だと認識するのが正しいのに違いない。
屍鬼は殺戮者だ。静信は父親を奪われた被害者で、だから屍鬼を罵り石を投じなければいけない。彼の隣人が、弟を殺した彼を罵ったように。
(彼の罪は露わになり……)
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彼は裁きの間に引き出された。隣人たちは彼を唾棄し、罵った。
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だが、誰も彼が罪に踏み込んだことを嘆かない。
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荒野に追われた今になって、彼はふと思う。そうやって弟のために彼を責めた隣人たちの中に、彼が罪に踏み込んだことを嘆く者はいなかった。
いや、彼が罪人であったことを思えば、それは当然のことなのかもしれない。しかしながら、丘を離れ、それを外から眺め渡すこの荒野にあって振り返ると、なぜそれが当然だとされるのか、その根拠が彼には見つけられなかった。
彼にとって、弟の殺傷という事件は、まぎれもなく悲劇だった。弟の本意ではなかったのだから。弟を失ったことで、最も傷つき喪失する者が多かったのは彼自身だった。それを他者に理解させることは難しい。実際、彼は賢者に対しても神に対しても、そういった真情に関しては一切、口を噤んだ。だから隣人たちにとっては、彼は明らかな罪人であり、嫉妬によって、あるいは恨みによって弟を屠らんとして屠った殺人者であり、その罪を隠そうとした卑劣漢であり、神を侮って平然と塔に登った反逆者なのかもしれなかった。――しかしながら、なぜ、そうであることで、彼は罵られなくてはならなかったのだろう。
罵られるほどの罪でないと言いたいわけではない。彼は単純に不思議に思う。彼の知る隣人たちは、慈愛に満ち、神の栄光を信じ、敬虔で利他的だった。緑野の片隅に孤立する彼に手を差し伸べ、彼が調和を破壊することを恐れてそれを拒めば、傷つくほどに隣人たちは善良だった。少なくとも、彼はそう思っていた。
ならば、なぜ隣人たちは、秩序という調和から最終的にはみ出した彼にも手を差し伸べようとしなかったのだろう。弟に嫉妬する貧しさを憐れみ、嫉妬から罪に踏み込んだ彼を悲しむことがなかったのだろう。罪を隠そうとした愚かさ、神を侮った蒙昧、その全てを隣人たちは彼のために悲しんでも良かったはずだ。
しかしながら、彼らはそれを怒った。彼を罵倒し、石を投げた。なぜ怒ったのか、なぜ罵ったのか、なぜ石を投げて罪人をさらに裁こうとしたのか。
彼が秩序の的だからだ。彼が罪人で、彼らの秩序を踏みにじったからだ。
つまりは隣人達は、同じ秩序を共有する同胞に対する慈悲は持ち合わせてはいても、敵に垂れる慈悲は持たない、そういうことではないのだろうか。隣人達は人を憎み、咎め、罵る。無慈悲も持ち合わせていたのだが、同胞に対してはそれが向けられることがなかっただけなのだった。しかしながら、他を峻別し、慈悲と無慈悲を使い分ける者を、真に善良だということが、果たしてできるのだろうか。
本当に彼らに罪はなかったのか。彼は初めてそのことを疑問に思っていた。
彼は丘を振り返る。丘は広大な荒野の中に、小さく頑に閉じていた。丘の周囲に荒野があるのではない、と彼は確信していた。荒野に丘があるのだ。外界を拒絶し、罪とするところのものを荒野に放逐することで、それはかろうじて楽園としての己を保っている。
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加奈美は何度か母親の寝顔を見た末に家を出た。家のあちこちには、厳重に戸締まりをした。
妙の存在は、加奈美一人で抱え込むには大きすぎた。悩んだ末に元子に相談しようと、元子の家を訪ねたが、元子の家も同様に戸締まりされていて、いつも通りに家の中を覗き込むことを許さなかった。仕方なく呼び鈴を押してみる。ひょっとしたら元子はいないのではないかと思えたが、しばらくして家の中で人の動く気配がし、玄関の戸を開けて元子が顔を覗かせた。
ああ、と元子は加奈美の顔を見ていった。
「いま、取り込んでるの」
元子はまるで外界に危険なものでも潜んでいて、その所在を探るように細い隙間から顔の半分だけを見せている。
「……そう。茂樹くんの具合はどう?」
「いまは寝てるわ」
それだけだった。加奈美がそれ以上、声をかける間もなく元子は戸を閉じてしまう。ちょっと待って、と言いかけたものの、加奈美にもその先、なんと言えばいいのか分からなかった。死んだ母親が起き上がって戻ってきた、などと言って信じてもらえるだろうか。――いや、妙の死体が家にあることは、見せれば誰にも理解してもらえるだろう。だが、それが朝には確かに動いて生きた人間のように振る舞っていたことを、どう説明して理解してもらえばいいのか。
(夜になれば……)
また動き始めるだろうか。そうすれば話は簡単だが、そうと決まったものでもない。ひょっとしたらあれきり、妙は死んだままなのかもしれなかった。
加奈美は呻いて|蟀谷《こめかみ》に指を当てた。ともすれば思考は脈絡を失いそうになる。何が現実で何が事実なのか、切り分けていくよすがを見失いそうになるからだ。
今の自分には冷静に対処することができない。そしてそれは、元子も同様だろう。茂樹の容態が悪いときに、あの元子が冷静でいられるはずがない。そう――元子を頼っても意味がない。だが、元子以外の誰に相談できるというのだろう。
途方に暮れた思いで、足を引きずりながら家に戻った。どこからか、太鼓の音が響いてきていた。霜月神楽の準備で下集落は浮き足立っている。それがかえって加奈美を孤独な気分にした。雨戸を閉め切った家に帰り、加奈美は何度も妙の枕許と茶の間を往復しながら、妙が起き上がってきたことが現実なのか夢の一種なのかを考えていた。妙が死んだという記憶は果たして正しいのだろうか。妙がいま家の中で死んでいるという事実のほうが正しいのだろうか。一人、茶の間に坐っていると、自分の記憶に過ちはないと思う。ならば妙は起き上がってきたのだ。それとも自分が知らないうちに妙の死体を掘り上げてきたのだろうか。もしも加奈美がそれをして、しかもその記憶がないのだとすれば、そもそも妙が死んだという、その記憶自体、信じる値打ちがあるだろうか。
そう思うと、居ても立ってもいられず、妙の姿を見に行かないでいられなかった。暗い部屋の中、妙はやはり死んでいるが、火傷の跡は薄れている。確かに死んでいる、と思う。確かに起き上がったのだという気がする。けれども――。
そもそも妙の存在をどう受け止めればいいのか、それすら判らないまま、日没がやってきた。何度目かに様子を伺いに行くと、妙はボンヤリとした様子で布団の上に起き上がっていた。
「……お母さん、気分、どう?」
訊くと頷く。今はもう、ほとんど見えない火傷の痕に目をやって、ひりひりするわ、と答えた。今度はちゃんと低いながらも声が出ていた。
加奈美はそこに触れながら、改めて確認する。起き上がっている妙の手には体温がなかった。呼気も脈拍も感じられない。間違いなく死んでいる。
(でも、本当に死んでいるの?)
死んでいるのなら動かないはず。動くのなら呼吸だって脈拍だってあるはずだ。生死の境目が曖昧模糊としたものに変じて、加奈美はやはり妙の存在をどう受け止めていいのか分からない。
「なにか欲しいもの、ある?」
加奈美が問うと、妙は「お腹がすいた」と答えた。加奈美は頷き、もう少し寝ているように言って(だって、健康でないのは確かだもの、病人みたいなものじゃないの?)台所に立った。とにかくできるだけ緩く粥を作った。作る間に妙は起きだしてきて、茶の間でいつも通りに坐ってテレビを見ている。
粥を差し出すと、妙はどこか釈然としない様子で、それでも「ありがとう」と言って口をつけた。
「……変ね。あたし、ぼうっとしてるわ」
妙は呟く。
「今日は何日なの? あたし、昨日は何をしてたんだったかしら」
加奈美はこれに答えられず、そう、とだけ相槌を打った。妙は首を傾げながら、粥を啜っていたが、味がしない、と言う。
「なんだか、ちっとも食べている気がしないわ。それにすごく熱いわよ、これ」
「そう……? もうずいぶん冷めたと思うんだけど」
「そうかしらねえ。加奈美、普通の御飯はないの? これじゃ何だかお湯でも啜ってるみたい」
「ああ……ちょっと待って」
ジャーの中に昨晩炊いたものが残っていた。それを茶碗によそい、あり合わせのものを添えて出すと、妙はそれも平らげる。機械的に口に運び、やはり食べた気がしない、と言う。
「でも……」
「胃は重くなったんだけど、食べた気がしないのよ」
訴えるので、カップ麺を探し出してそれも与えた。妙は熱いと不服を言いながらもそれも平らげ、そしてそれから全部を吐き戻した。
「――お母さん!」
妙は呻き、そうして不安そうにする。自分はどこか具合でも悪いのだろうか、と訴えた。
「……若先生に診てもらったほうがいいのかしらねえ」
そんなことを言う妙を宥めて掃除をした。不思議に涙が溢れて止まらなかった。
「どうしたの? ごめんなさいね、せっかく加奈美が用意してくれたのに」
「いいのよ」
「胃の調子がおかしいのかしら。でも、お腹が空いたわ。すごくひもじいのよ、なぜかしら」
「もう駄目よ。また吐いちゃうわよ。やっぱり休んでないと駄目」
「でも……」
「きっと胃が弱ってるの。お母さん、昨日まで寝てたんだもの。だから急には受け付けないのよ。とにかく様子を見て、それからね?」
加奈美が言うと、妙は不承不承、というように頷いた。
「変ね。……気分はいいんだけど」
妙は呟き、そして加奈美を振り返った。
「でも、あたし何か変じゃない? 自分でそんな感じがするんだけど、気のせいかしら」
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千鶴は屋敷を出ようと階段を下りていて、正志郎に呼び止められた。
「どこに行くんだ?」
千鶴は手摺りを握ったまま振り返る。
「どこ? ――食事に行くの」
男は渋面を作っている。対外的には、夫である人間の牡。だが、千鶴とこの男は同類ではなかった。
「若い新入りと一緒になって、ずいぶん派手なことをしているようだね」
「そう? 新入りの面倒を見ているだけよ」
「甚だしくマナーの良くない新入りのようだ。きみはそれに車まで与えて、何をしているんだ?」
「何って。食事をしてるだけよ」
そうか、と男は低く呟く。
「――沙子が呼んでいる」
千鶴は瞬間的に身を竦めた。篤の件だとは想像がつく。確かに篤の所行は派手と言ってよかった。最初の一人を殺して以来、彼は被害者を殺さないでいられないのだ。とりあえず襲うことができるようになったものの、相手が無抵抗になれば、余計に相手に対する私怨を押さえきれなくなるらしい。そのたびに速見に処置を頼んできたが、さすがに速見も事態を伏せておけなくなったのか。頼りにならない男だ。
千鶴は拗ねて正志郎を見上げた。
「わたし、出かけたいの。沙子にはそう言っておいて」
「沙子のところに行くんだ」
「ひょっとして、わたしがあの坊やを構うから妬いてるの? だったら無用の心配だわ。篤は面白いけど、別にそれだけのことよ」
「沙子は彼の所行を、面白いとは思っていないようだね。おとなしく行ったほうがいいんじゃないかい?」
千鶴は手摺りを放して身を起こした。正志郎が二階を示す。千鶴は踵を返して、二階に戻り、沙子の部屋向かった。千鶴は沙子に反抗する術を持たない。沙子こそがこの屋敷の主人だからだ。千鶴を仲間に加え、辰巳を仲間に加えた。正志郎を最初襲ったのは千鶴だが、ある種の契約をもって人のまま仲間に迎えたのは沙子だ。そんな沙子に反抗してみたい気もしないでもないが、夢想することはあっても、実際にそれを意図したことはなかった。かつてはあったのかもしれない。だが、すでにそういう反抗心も摩耗するほど長い間、千鶴は沙子に依存してきていた。沙子が千鶴の安全を確保し、居場所を作り、必要なものを与えてくれる。それらを自分の才覚だけで得る自信が、千鶴にはなかった。
しおしかおと沙子の部屋に向かい、中に入った。少女の形をした千鶴の「母」は、厳しい目で千鶴を振り返る。反射的に身が竦んだ。
「……あなたはいったい、何をしてるの?」
千鶴は俯く。
「大川篤と言ったわね? 彼は危険だわ。このまま野放しにはできない。辰巳に預けるわ。いいわね?」
「……そう決めたんだったら、わたしにノーと言う権利はないんでしょ?」
拗ねて沙子を見ると、沙子は溜息をつく。
「どうしてあんな無軌道を側で見てるの? まるであなたも楽しんでいるみたいね。あんな野蛮な人殺しが楽しいの?」
別に、と千鶴は呟く。
「楽しいわけじゃないわ。……でも、つまらないんだもの、何もかも。こんな田舎に引き籠もって、獲物を狩るくらいしかすることがないんだもの」
都会にいれば、ごく普通の女みたいな顔をして遊ぶ場所がいくらでもあった。この村ではそれすらない。
「もう少しの辛抱なの。我慢できない?」
千鶴、と沙子は手招きする。千鶴は側により、沙子の足許に坐り込んだ。膝に頬を載せる。
「つまらないわ、こんなところ。食べて寝るだけなんて、馬鹿みたい。街に帰りたいわ」
沙子の手が千鶴の髪を撫でる。
「もう少し辛抱して。……自嘲してちょうだい、お願いよ。あなたがあまり無軌道なことをすると、処罰しなければ示しがつかないわ。これだけ仲間が増えると、統率が必要なの」
千鶴はぴくりと顔を上げた。
「まさかわたしも辰巳にお仕置きさせるの? ……酷いことをしないで」
「しないわ。でも、あなたがそんなふうじゃ、いつかそうしないわけにはいかなくなるわ」
「大目に見て。わたしは特別でしょう?」
「そう、特別、ずっと一緒なんですもの。でも、だからこそあなたを妬む人もいるのよ。あなたの御乱行をわざわざ御注進に来る人がいるの。そんな好きを作らないで」
「……恵? あの娘でしょう」
「誰でもいいわ。あなたが隙さえ作らなければいいの。酷いことはしたくなのよ。させないで」
髪を撫でられ、千鶴は頬を沙子の膝に落とす。
「つまらないの。……とても退屈でつまらない。食べて寝るだけなんて、自分が生きてないみたいだわ。まるで食べるために存在しているみたい」
「もう少しだけ。もう少しで終わるから。そうしたら、真っ先に街へ帰してあげるわ」
嘘ばっかり、と千鶴は呟く。
「嘘じゃないわ」
「嘘よ。わたしを放してくれないくせに。沙子はここに残るんでしょう? だったらわたしもここにいないといけないんだわ」
「千鶴がお馬鹿さんだからよ。少し好きにさせると、こんなことをしでかすんだもの。だから目を離せないの。どうせパートナーを探すんだったら、もっと用心深い人にして。そうしたら、あなたをその人に預けて、一緒に街に戻してあげるわ」
「本当に?」
ええ、とその少女は母親の顔で頷く。
「でも、言っておくけど篤は駄目よ。とても任せておけないわ。どうして正志郎じゃ駄目なの?」
「正志郎なんてつまらない。人間のくせに敵の下僕に成り下がるなんて。そんな男は嫌なんだもの」
そう、と沙子は息を吐く。
「ねえ、沙子。尾崎を襲っちゃ駄目?」
「尾崎の――先生?」
「わたし、彼が欲しいの。とても興味があるの」
「彼はハンターなのよ?」
「そう。だから面白いの。彼は敵を察知してるの。そうして対抗しようとしてるのよ。だからいいのよ。――駄目? もういいでしょう? 江渕だっているんだし。最近、尾崎が看取っている犠牲者なんていないわ。役所だってあんなふうなんだし、もう彼は必要ないでしょ?」
「そう……そうね」
「寺と医者は必要だったんでしょう? それは犠牲者を看取ってもらって、村の中で全部を処理してもらうためだったんでしょ? だったらもう必要ないじゃない。それよりもそろそろ片づけておかないと、やっかいなことになりはしない?」
沙子は千鶴の髪を撫でたまま、何かを考え込んでいる。千鶴はその膝に縋って揺らした。
「お願いよ、沙子。そうしたらわたし、篤のことなんか二度と構わないわ」
「そう……」と、沙子は呟く。「いいわ。――そうね、もう潮時かもしれないわ」
敏夫はベッドの中で転々と寝返りを打っていた。焦りが大きい。広沢たちを説得できなかった。戦略を間違えたのかもしれない。かえって広沢のような理性的な者ほど、現実を直視することが難しいのかも。あるいは大川や――そう、母親の孝江のような、最初から予断を抱きやすい者のほうが煽るには良かったのかもしれない。
(これから……どうする)
たぶん時間は残されていない。ひょっとしたら、来年には村はもう存在しないのかもしれなかった。年の瀬を区切りに、さまざまな事務手続きが一旦、締められる。それ以前にそれを改竄し、整合させられるようにしておかないと、みすみす齟齬を外部に対して露呈してしまう。どんなに長くても来年の三月。それ以後、村はたぶん存在しなくなる。
急がなければ、と思う一方で、倦怠感が押し寄せてくる。あれほど理を説いたのに、理解を得られなかったことが敏夫を萎えさせていた。愚か者と呼ばれ、気違い沙汰だと言われたほうがましだった。あんなふうに同情めいて宥められるなんて。
軽く呻いて反転したとき、闇の中でドアが開く音がした。一瞬、静信かとも思ったが、そうでないことも理解していた。静信だけはあり得ないし、さすがの静信も勝手に部屋の中に忍び込んできたりはしない。だとすれば、こんな夜に訪ねてくる者など限られている。
敏夫は跳ね起きた。ベッドに近寄ってこようとしていた人影が、驚いたように後退った。
「……起きていたの?」
とっさに手を伸ばして枕許のスタンドを点ける。明かりを浴びて浮かび上がった女の顔には見覚えがなかった。
「……誰だ」
「お茶をいただきに来たの。そう誘ってくださったんでしょう?」
女は笑う。辰巳だ、と敏夫は思った。確かに敏夫は、かつて一度だけ辰巳に会ったとき、そう言った覚えがある。
「時間ってものを考えて欲しいんだがね。――どうやって入り込んできたんだ」
女は鍵の束を示した。
「奥様が合い鍵を作らせてくれたの」
「……なるほどな。あんたは桐敷の奥さんかね」
そう、と女は笑う。
「千鶴といいますの。よろしく」
「自己紹介なら、忍び込んでくる前にして欲しかったな。あいにく、時間が時間だし、おれはちょっとあんたたちに対して含むところがあるんでね。お茶を飲む件はキャンセルにしてもらいたいな。正体は取り消すよ。未来永劫、家の中には立ち入ってもらいたくない」
「取り消しは利かないの。残念だったわね」
そうか、と敏夫は呟く。スタンドを点けたまま枕許に置いてあった手にはスイッチを握っている。
「どうも無礼で気に入らないな。おれは眠いんだよ、千鶴さん」
スイッチを入れた。ベッドサイドの床に置いたプロジェクターの明かりが点った。空いた壁面をスクリーン代わりに白い光と錯綜する赤い直線が現れた。それは千鶴の白い顔の上をも赤い傷のように横切る。千鶴が明らかに怯んだ。
「籠目文様ってのは、間を祓うんだそうだ。……嫌いなんだろう、こういう図形は」
千鶴は身を翻し、ドアの外へと逃げ出す。その影から声だけがした。
「……沙子が言っていたわ」
「沙子? 娘さんかい」
「あなたの奥さんの葬儀はおかしいって」
敏夫は苦笑した。
「……なるほどな」
「どう考えても、あんなに持つはずがない。そもそも奥さんを襲った男は、襲ってる間に死んだようだと言ってたのよ。仮にかろうじて生きていたとしても、お葬式が遅すぎるって」
「うん。まあ、そうかもしれないな。……恭子はいい家内だったよ。最後の最後によくしてくれた。あれこそを内助の功っていうのかね」
くすり、とドアの向こうで笑う声がする。
「平然としたものね」
「おれはこういう人間だからね」
「……おやすみなさい」
ああ、と敏夫は呟く。気配の絶えた廊下のほうを窺いながら、壁に赤く浮き上がった文様を見ていた。
「いよいよ、おれの番か」
退路はもうどこにもなかった。
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信明の自室――病室は、信明が消えた日のまま、きちんと片づけられていた。美和子は掃除を欠かさない。戻ってくると信じているのか、あるいは戻ってこないのでは、という懸念をそうやって拒絶しているのかもしれなかった。
信明が瘠せた身体を横たえていたベッド、脇に積まれた本とスケッチブック。スケッチブックは、信明が文字を書く練習に使っていたものだ。ここにひっそりと横たわり、それでも決して自分の運命に呑まれてしまうことのなかった師父。
静信はぼんやりとベッドに腰を下ろした。必要なものは、全てベッドの上から手が届くように配置されている。美和子の手を煩わせまいとし、萎縮した四肢に甘えまいとした。懸命に自分であり続けようとした父親は、静信にとって大きな支えであり、敬愛の対象であり続けた。
だが、もういない。おそらくはもう生きていないだろう。ここから拉致され、殺されてしまった。
(あの人がきみに何をできたというんだ……)
ここで横たわっているしかなかった。信明が沙子にとって脅威であったはずはない。生かしておいても、もはや何もできなかったのだ。殺す必要があったとは思えない。それをする理由があるとすればひとつ、静信に対する報復だけだ。
(無駄なことを……)
報復などしなくても、静信はとっくに傍観者になり果てている。確かに静信は屍鬼の存在を理解していたが、気が付いているというなら、すでに村の者の全てが気付いているのだと思う。もはや静信の口を封じることに意味はないし、そもそも静信にもう何をする気もなかった。失われていく命を惜しいと思わないわけではなかったが、自分になにができるのかと問うても、答えを見つけることができない。
溜息をついて、何となく枕許の本を手に取った。時代小説の叙情的な一節を読み、そしてそれをベッドの脇の棚に収める。枕許の本を集め、きちんと揃えて棚に収めた。もう片づけてもいいだろう。栞されたページの先を読む者は、永遠に帰ってこない。
棚を整理し、枕許を整理した。枕頭台の脇には、静信が譲ったワープロが取り残されていた。なんとなくそれを膝の上に広げる。
信明はさまざまな文書を残していた。日記、随筆めいたもの、手紙。信明は細やかに檀家の人々の様子について気を配っていた。実際、信明は檀家にとって一種の精神的な医者であり続けた。師父の気配を追うようにして、残された文書に目を通した。言葉遣いから、行間から立ち上がってくる気配が慕わしくてならなかった。
やがて静信は、ひとつの文書に辿り着いた。静信は瞬いた。
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面識も得ませんうちに、突然のお便り、失礼します。お手紙を差し上げたのは、一度拙宅にお招きいたしたく思ったからです。
妻の部屋ではありません。息子の部屋も事務所も御勘弁ください。居間にはお招きいたしません。どうぞ愚僧の部屋においでください。
愚僧は離れに起居しております。いつなりともご遠慮なく。お待ちしております。
[#ここで字下げ終わり]
静信はしばらく、その液晶の文字を把握しかねてただ見つめた。
(これは……)スクロールさせるまでもない、短い文面。(招待状だ)
宛名はない。誰に出したものかは分からない。けれども執拗に自分の部屋でなければ困る、と訴えているのが、屍鬼の存在を意識させた。――けれども。
文書が作成されたのは十月十五日。最終更新日は十月十八日になっている。静信は記憶を辿り、ちょうどその頃、光男が信明から手紙を頼まれた、と言っていたのを思い出した。宛名は桐敷正志郎となっていた。光男はそれを訝り、静信に報告した。静信は信明に意図を問うたが、信明はただの挨拶だ、と答えた。
「これが……あの」
おそらくは、そうだろう。これが桐敷家に宛てたものだ。
思えば、安森徳次郎が倒れて以来、信明はどこかおかしかった。徳次郎が倒れたのは、十月の十三日、信明はかつてないほどの頑迷さで見舞いに行く、と言い張った。そうやって徳次郎を訪ね、妙に得心した顔で戻ってきて、それから何かを深く考え込むように沈黙していた。その二日後に、信明はこの文書を書いた。書いたまま、なぜだか放置されたままの文書は、十八日になって更新された。徳次郎が死んだ翌日だ。
「でも、なぜ?」
信明はおそらく、桐敷家に巣くっているのが何者なのかを察知していたのだ。だからこんなにも執拗に、自室以外は困ると念を押している。それを知りながら出された招待状は、畢竟、自らの死を招くものだ。
[#ここから4字下げ]
――なせ。何故このような罪を。
[#ここで字下げ終わり]
――何があったんだ?
(何も……)
[#ここから4字下げ]
殺意のない殺人はない
[#ここで字下げ終わり]
――何か理由があったんだろう?
(何も)
「……お父さん、どうして」
それは招かれない限り、家の中に入り込むことができない。
[#改丁]
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第四部 傷ついた祈り
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
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一章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は事務所の黒板に向かい、チョークを取って躊躇したあげく、結局、何も書かずにそれを戻した。机の上を整理し暖房を消して、事務所を出る。そっと丁寧に事務所の戸を閉めた。
庫裡の外に出ると凍てついた風が真っ向から吹き付けてきた。陽は落ち、空は東から西の山際にかけて藍と茜のグラデーション、天上には星、そして辺りは凍り付いたように静かだった。
寺を出るまで、美和子にも光男にも、そして克江にも出会わなかった。鶴見も池辺もいない。角も出ることもないし、檀家衆の姿を境内で見かけることも絶えた。すでに寺は死に絶えようとしている。光男が頑までに境内を整えていたから荒んだ色は見えなかったが、廃墟につきものの空虚な寂しさが漂い、辺りをくまなく覆っていた。
墓地から山に入ると、その色はいっそう明らかだった。枯れた草叢は風に揺すられて乾いた音を立てている。ここではもう、あらゆるものが枯渇していた。
[#ここから4字下げ]
荒涼たる大地は硬く凍って
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虚しく死に絶え
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幾重にも|迂曲《うね》る。
空は暗澹と垂れ込め、
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暮れなずみ、
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雲と大地とで
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(影色の藍と血色の茜とで)
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世界は見事に二分されていた。
駆けるのは刃物のような風ばかり、光は
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光輝は
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空のどこにもなく、ましてや地にあるはずもない。
[#ここで字下げ終わり]
麓から巻き上げてくる風には、何の音も何の匂いも含まれていなかった。樅の間から見下ろした村にも寺と同様の空虚な寂しさが漂っている。五感に触れる全てのものが、ただただ完全な死を、荒廃の始まりを、それを告げる弔いの瞬間を待っているように思われた。
材木置き場には人の気配が絶えていた。それを突っ切り土手道に登り、尾崎医院の建物を見る。窓に明かりが点いていたが、それは暗黒の海に浮かぶブイの明かりのように、隔絶された孤立を思わせるだけで、なんの温もりも感じさせなかった。静信は少しの間足を止め、小さい頃から通い慣れた窓を見た。去来するものから目を伏せ、俯く。静信はもう、その窓に向かって何を思う権利も持たなかった。
風から顔を逸らすようにして深く俯き、静信は土手道を辿る。収穫されないまま放置された稲が枯れてそよぐ田圃の間の畦道を拾い、樅林の縁を辿り、門前の端にある坂の下に出た。
道も村も閑散としていた。人の姿を見かけないのはもちろん、その気配さえ感じなかった。明かりのない窓、聞こえない物音、いまや窓辺に住人の姿が映ることはなく、テレビの音が漏れ聞こえてくることもなく、夕餉の匂いが風の中に混じることもなかった。廃墟じみた村は、完全な廃墟となるときを無為に待っている。こうして歩く自分の姿は廃墟をさすらう亡霊のように見えるだろう。日没を過ぎて人影のあるはずもない場所をさまよう影、そのあり得べからざる姿を目撃する者もいない。
静信は坂に足を載せた。夜にこの坂を登ることが何を意味するのかは、充分すぎるほど分かっていた。にもかかわらず、どうしても来ないでいることができなかった。信明の残した短い文書が、静信をそうしないではいられないところに追い込んでいる。
樅の間、坂を登ると、千裂石のように屋敷が立ち塞がっていた。静信は黒いスレートの屋根を見上げ、灰色の外壁を見つめる。全ての雨戸はぴったりと閉ざされていたが、隙間からは黄味を帯びた光が漏れている。それが暖かな色に見えるのが皮肉だった。
静信は少しその屋敷を見あげた。風雪に曝され、太古の昔からここで村を見下ろしていたかのような威容。屋敷の背後に広がる山の端には、赤く残照が縁取りを施している。
[#ここから4字下げ]
この楼閣は彼を呑み込み、彼の運命にひとつの決着をつけ、そして何事もなかったかのように丘を睥睨し続けるに違いない。
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静信は不思議なほど淡々とした気分でインターフォンのボタンを押した。呼び鈴の音は聞こえなかったし、それに対する応答もなかった。静信はしばらくの間、その場に放置され、風の音を聞いていた。やがて、微かな音がして、門柱脇の潜り戸が開いた。顔を覗かせたのは辰巳だった。おや、と彼は驚いたように目を軽く見開き、かつてのように朗らかな笑みを浮かべた。
「室井さんでしたか。驚いたな」
「突然、済みません」
「いいえ」と、辰巳は潜り戸をいっぱいにまで開いた。「――どうぞ」
辰巳は屈託のない笑顔を浮かべている。静信は彼と潜り戸の間隙を一瞬、見つめ、そうして穏和しくそれを潜った。静信の背後で辰巳が扉を閉め、硬い音を立てて鍵をかける。振り返りたい気がしたが、あえてそれを堪えた。
「気になりますか?」くすり、と辰巳の笑い声がする。「鍵をかけておかないと、不用心ですから。……いろいろとね」
静信の脇からそう言って、辰巳は先に立つ。明かりの点された玄関を示した。
「けれどもお客様は久々だな。最近は、訪ねてこられる方もありませんから。旦那様に御用ですか?」
「たぶん、沙子さんのほうだと思います」
「思います?」
静信は無言で頷いた。辰巳は興味深げな顔をして玄関のドアを開けた。ホールには明かりが点され、暖炉には火が入っていた。暖炉の温もりだけではこれだけの空間を暖められるはずもないが、スチームも通っているのだろう、広いホールはほっとするほど暖かい。どこもかしこも人が起居する暖かな気配が漂っていた。まるで死者の国を通り抜けて生者の家に辿り着いたようだ、と静信は思う。――なんという反転だろう。
「どうぞ」と辰巳は左手のドアを示す。「こちらで、少しお待ちください」
おそれいります、と頭を下げながら、静信はふいに笑いたい気がした。訪問すると客とそれを受け入れる家人、そんな図式を忠実に辿っている自分たちがおかしい。
通されたのは、張り出し窓のある部屋だった。暖炉には火が入っていなかったが、室内はきちんと暖房されている。これはいったい、誰のための暖房なのだろう。彼らも寒さを感じるのだろうか。それとも正志郎のためのものだろうか。あるいは――何の意味もない、冬には部屋を暖めておくものだ、という図式を単純になぞっただけの行為なのかもしれない。静信と辰巳が、とりあえずそう振る舞うしかなかったように、そうしないではいられないのかも。
静信は所在なく、暖かな室内に立っていた。背後のドアが再び開くまでには、少しの時間がかかった。
「お待たせしました」
辰巳の快活な声がして、振り返ると辰巳と沙子が入ってくるところだった。辰巳は銀のトレイの上にカップとポットを載せており、和服の沙子が慎ましやかにその背後に従っている。辰巳は静信に椅子を勧め、沙子はテーブルを挟んだ向かい側に坐る。テーブルの上には茶器が整えられる。挨拶と社交辞令。辰巳は静信の斜め後ろ、ドアとの間に控えている。現実の模倣、図式の再現。それを離れてしまうと、どう振る舞えばいいのか、お互いに分からない――おそらくは。
「それで」と、沙子が均衡を破った。「わたしに御用がおありなのでしょ?」
沙子は微笑んでいたが、表情にも声音にも、どこかしら固さが漂っていた。
静信は頷く。
「ぼくは父の消息を知りたい」
沙子は首を傾げてみせた。
「お父様は――」
「父は先月の末に姿を消した。一人で移動できるはずもないのだけれど、それきり行方が分からない。ひょっとしたら君は父の行方を知っているんじゃないと思うんだ」
「それは御心配ね」沙子は困惑したように微笑む。「でも、わたしは室井さんのお父様を存じ上げないわ」
「そうだろうか?」
沙子は視線を逸らした。
「昨日、父の部屋を整理していて、ぼくは父の残した文書を見つけた。招待状だった。思い返せば、父は失踪に先立って、手紙の投函を寺の者に頼んでいる。宛名は桐敷氏だったけれども、ぼくはあの手紙が、結局のところ君の手に渡ったのじゃないかと思っているんだ」
「室井さんのお父様から手紙をいただく理由がないわ。わたしは一度もお会いしたことがないんだもの」
「うん。君と父には一面識もなかったことは知っている。だからこそ、父はあの招待状を出したのだと思う。父は桐敷氏に手紙を書いたが、それはこの家の事情を知らないからで、父は結果として桐敷氏ではなく君を招待したことになるんだと思う。本当に父を訪ねてきたのが誰かは知らないけれども、そんなことはどうでもいい。ぼくはそういうことを知りたいわけじゃない」
「心当たりがないのだけど」沙子は微笑む。「もしも、正体があったとして、じゃあ室井さんは何を知りたいのかしら」
「ぼくは、なぜ父が君を招待したのかを知りたい」
静信は呟いた。
「先月の十三日、安森の徳次郎さんが倒れた。父はそれを聞いて見舞いに行こうとした。倒れて以来、ただの一度も周囲に手を焼かせたことがない父が、制止を振り切って連れていってくれないのなら這ってでも行く、と言い張って聞かなかった。父と徳次郎さんの友誼は長かった。傍目にはそう見えなくても、それほどの交友があったのだろうとぼくたちは納得したのだけれども、実際に連れていってみると、どこかおかしかった。心配でたまらなくて顔を見に来た、というふうではなかったんだ。ぼくは最初、父が全てを承知していて徳次郎さんに別れを告げるために行ったのじゃないかと思った。でも、今は少し違う。父は何かを確かめるために徳次郎さんに会いに行ったんじゃないだろうか。そして本人に会って確信を得た。帰ってからの父はずっと何かを思案しているようだった。その徳次郎さんが死んで、父はそれに興味を示さなかった。這ってでも見舞いに行く、と言った人が、悲しむわけでもなく通夜や葬儀に行きたがるわけでもない。頷いただけだ。ぼくはそれが不思議だった。父の考えていることが分からなかった。父は何も言わず、その翌々日、寺の者に手紙を投函するように頼んだ。桐敷氏宛の手紙だ」
「そう……」
「父は招待状を書いていたんだ。文書ファイルの作成日は十五日になっている。徳次郎さんを見舞いに行った、その二日後だ。父はいったい、徳次郎さんのところで何を確認し、何を思ってあの招待状を作ったのだろう。招待状を作っておきながら、父はそれを放置していた。ひょっとしたら、それを本当に出す決心がつかなかったのかもしれない。徳次郎さんの訃報を聞き、二日の間考えて、それを投函させた。父はその間、何を考え、何を思ってそれを出す決意をしたのだろう。ぼくはそれを、どうしても知りたい」
信明は徳次郎のところで何かを確信したのだ。そして招待状を書いた。招待状を書いた時点で信明は、自分が招待する相手が何者なのかを理解していたのだと思われる。相手が屍鬼であることを承知で、信明は手紙を書き、それを投函させた。それは自殺行為に等しい。信明はそれと承知で殺戮者を招いたのだ。
静信は自分の中に正体不明の暗黒を飼っている。かつて自分は、それによって死を選ぼうとした。そして静信は今に至るも、自分がなぜ死のうとしたのか分からない。自分の中に死に至る暗黒があることを知っていながら、その暗黒の正体が分からないのだった。信明はおよそ、そういった暗黒には無縁であるように思えた。檀家の敬愛を受け、病床にありながらそれを受け止め続けていた父。にもかかわらず、信明の中にも静信と同種の暗黒があって、それは信明に手紙を書かせたのだ。信明の中にも衝動は潜んでいた。静信はその衝動の正体を知らなかったが、信明は分かっていたのかもしれない。――だから、それを知りたかった。
[#ここから4字下げ]
殺意のない殺人は事故であって殺人ではない
殺意のない殺人はない
理由のない殺意はない
[#ここで字下げ終わり]
「ぼくは父が、なぜ死のうとしたのかを知りたい」静信は呟いた。「どうしても、それを知らないではいられないんだ」
沙子は少しの間、黙っていた。沈黙を断ち切ったのは小さな溜息で、その複雑な声音が何を示すものであるのか、静信には分からなかった。
「それは、お父様しか知らないことなのじゃないのかしら」
「そうなのかもしれない。けれども、ぼくはひょっとしたら君が父からそれについて何かを聞いているのじゃないかと思っているんだ」
もしも沙子があの招待状を受け取ったとしたら、そうして信明を訪ねたのだとしたら、なぜ自分を招いたのかと信明に問いかけられずにいただろうか。
「もしも何かを知っているなら教えて欲しい。……それとも頼めば、父自身からそれを聞くことができるのだろうか」
沙子の返答はない。目を逸らしたまま、ひどく迷っているふうだった。
「ぼくは知らないでいることに耐えられない。知っているなら教えてほしい」沙子は目を上げた。静信を見る。「父はなぜ、君を招いたんだ?」
「……お父様は疲れていらしたの」
信明は疲れていた。病床に縛られ、不全感と痛みに耐え続けることに心底、飽いていたのだった。
――だが、と信明は古びた天井を見上げた。
廃屋の天井は醜い染みに覆われ、腐りかけて撓んでいる。今にも自分へ向かって落ちてきそうだった。目覚めて以来、暗闇でも信明の目は利く。だが、変わったのはそれくらいで、やはり信明は今も病床に縫い留められ、他者の手を借りなければ起きあがることもできないのだった。
(……こんなはずではなかった)
手紙を書き、自ら屍鬼を招き、その前に自分を差し出したときには、こんなことになるとは思わなかったのだ。
信明が脳卒中で倒れたのは昨年のはじめ、六十五歳の時だった。突然、昏睡状態に陥り、かろうじて一命は取り留めたものの四肢に麻痺が残った。当初、さほどでもなかった麻痺は入院生活の間に悪化して、退院する頃には寝たきりの状態になってしまったのだった。それまでの信明は年齢の割に健康で、自分の歳を軽んじているところがあった。同年配の者が次第に減っていっても、自分だけは、という侮りがどこかにあったように思う。自分ももう、いつ死んでもおかしくない歳になったのだと、病床につなぎ止められてようやく腑に落ちたようなところがあった。
自分の死期を自覚してみると、思い残すことは多かった。とにかく息子の静信に寺を継がせなくてはならない。せめて晋山式には坐って立ち会いたいと半ば使命感でリハビリに励み、その甲斐あって坐れるようになって欲が出た。せめて歩くことができるよう、それが無理なら自力で車椅子に乗れるよう、無理したあげくに転倒した。加齢と寝たきりの生活のせいで信明の骨は脆くなっていた。両足を骨折し、同時に脊椎錐体を骨折した。骨折が治った頃には腱は萎縮し関節は変形したまま固まって、もはや立つことはおろか、坐ることも車椅子を使うこともできないようになっていた。錐体骨折による痛みは激烈だった。治っても体調によって痛み、痛み始めると身動きもままならない。痛みに耐えながらベッドに横たわり、ある日、唐突に自分の人生は終わったのだと自覚した。
信明は生きていたが、人生はすでに終焉を迎えていた。気づけば寺は息子の手によって遺漏なく運営されている。信明は寺に必要なかった。家族にとっても寺にとっても、荷物でしかない病人が一人残っただけ、檀家から送られた高価なベッドに横になり、食事から下の世話まで受ける。信明はもう誰にとっても必要でなかったし、もう何事もなす事ができず、同時に何も求められていなかった。
いや、それよりも悪い。
そのようになっても、信明は住職であり、檀家は彼に敬愛に値する住職であることを要求した。信明はどんなに絶望に駆られたときにも鷹揚に笑っていなければならなかったし、身内を灼かれるほどの焦燥を感じていても声を荒げることも、癇癪を起こすことも許されなかった。寺を運営しているのがもはや信明でない以上、そうやってせめても住職としての演技を全うしていなければ、信明は存在意義を失う。本当に不要な存在になってしまう。その一心で、信明は敬愛に値する住職を演じ続けていたが、それがもはや演技でしかないことを、信明自身が一番よく分かっていた。――そうしてふと、信明は思ったのだ。いったい、自分はこれまで、そうでなかったことが一度でもあっただろうか、と。
信明は五人兄弟の中の唯一の男子だった。姉と妹があわせて四人、寺を継げるのは信明しかいなかった。家族の期待があり、檀家の期待があった。幼い頃から信明はただ、良き「若さん」であることだけを期待されていたし、長じては良き「若御院」、良き「御院」であることだけを期待された。それ以外の可能性については、考えてみることさえ許されなかったのだった。
そうやって思い返してみると、ベッドに横たわっている自分の姿はいかにも象徴的だった。檀家は敬愛すべき住職に対して、高価なベッドを買い与えた。それは檀家の住職に対する敬愛の表れだったが、同時にそこに穏和しく横たわり、敬愛に値する住職であり続けよ、という無言の要求でもあった。
――もしもお前が敬愛に値するものなら、我々はこうしてお前に褒賞を与えるだろう。だが、それを裏切れば、我々はお前を見捨て、二度と振り返らない。
信明はそうやって、それまでの人生を歩んできたのだった。敬愛という報償、その下に無言で潜んでいる要求。檀家が用意してくれた狭い場所から自分の意思で離れることは許されなかった。自分の足で立ってベッドを離れることは、すなわち自分の存在が無に帰することを意味していた。そこに唯々諾々と横たわっているしかなかった。せめても信明にできることは、お粗末な住職ではなく、敬愛に値する良き住職を演じることだったし、だからこそそれを懸命に貫いてきたのだが、そうすればそうするほど身動きならなくなるのだ。寝たきりの生活が、信明の足を動き得ない形に硬直させてしまったように。
信明は六十五で倒れ、病床に縛り付けられたが、実際のところ、彼は生まれたときからそのようにして縛り付けられてきたのだった。彼はようやくそのことに気付いたが、もはや彼の四肢は動かず、どれほど願っても病床を離れることはできなかった。おそらくは、そうやって死んでいく。ただの一度も、彼自身ではあり得ないまま。
(なんと、虚しい……)
信明は歯ぎしりする思いで天井を見つめていた。あまりの虚しさに自ら生を終えることも考えたが、彼の身体ではそれすら自由にならなかった。そんな彼を嗤うように、村では死が蔓延し始めた。
信明がそれに思い至ったのは、いつ頃だっただろう。明らかに死人が多すぎることに気づき、それはあっさりと鬼の伝承に結びついた。それは疫病なのかもしれない、あるいは邪悪な意志を持つ誰かなのかも。ひょっとしたら本当に超常的な何かなのかもしれなかったが、信明にとってそれは「鬼」という言葉で一括してしまえることだった。
鬼が村にやってきた。そして猛威を奮っている。鬼が触れたものは死に感染し、そうして死んだ者は鬼として起きあがる。死は拡大再生産されていく。信明はその図式を早くから直感していたが、あえて誰かに警告することはしなかった。良識が邪魔したせいもある、敬愛に値する住職が口走ることではない、と思ったせいもあるだろう。だが、まずなによりも、信明は死が蔓延していくことに暗い興味を覚えていた。これがどこまで広がるのか、見届けてやりたいという思いがあった。
そう――信明は、己をただ一つの鋳型に押し込み、それ以外の生き方を許さなかった世界の全てを恨んでいたのだ。
檀家は彼に良き住職であることを求めた。彼らは良き住職を欲していたのだ。寺と墓を守るものが必要で、どうせそれが必要である以上、慈愛深い良きものであったほうが都合が良かった。ただそれだけのために、信明は矯正され刈り込まれ、彼らの欲するものであることを強要されてきたのだった。信明は体のいい|贄《にえ》であり、自分の存在に疑問を持つことさえ許されなかった。信明である必要などなかったのだ。彼らが求める振る舞いができる誰かが、寺に坐っていれば良かった。読経をし、説教してそこに存在していれば、それは信明だろうと静信だろうと、他の誰だろうと構わなかったのだ。
彼はあまりの虚しさに身を切り裂かれる思いがした。どうしてもっと早く、これに気づかなかったのか。彼の人生は終わろうとしていた。事実、すでにもう終わったも同然だった。修正のチャンスは万にひとつも残されていなかった。
――いや、信明にはたったひとつ、可能性が残されていた。村には鬼が|跋扈《ばっこ》している。死んで甦れば、信明はやり直すことができるのではないか。
徳次郎を見舞いに行って徳次郎の首に鬱血点を見つけた。頸動脈のうえに残された二つの小さな斑痕。信明は寺に戻り、考え込み、徳次郎の訃報に触れて決意を固めた。屍鬼を招こう。そうして、この病床に囚われ、寺に囚われた人生に終止符を打ち、第二の人生を得るのだ。
信明はそのとき、死者の全てが必ずしも屍鬼として甦るものではないことを知らなかった。信明が知っていたのは、自分が虜囚であり、必要のない人間だということだった。信明自身は必要ない。全ての人々にとって必要なのは住職であって、信明自身ではないのだ。信明は、自分自身として生きることを許されなかった。敬愛という名の檻に捕らえられ、他者に献身すべく求められ、そうやって生きてきた果てに辿り着いたのが、檀家から送られたベッドだったのだ。それに縛り付けられ、無為に死を待つだけの人生。信明は虚しかった。彼を捕らえたものが憎かった。だから、屍鬼を招いた。
(だが、こんなはずではなかった……)
信明は目を瞑る。目尻から冷えた涙が溢れ、蟀谷を滑り落ちた。
幸運にも、信明は甦った。――だが、本当にこれを幸運と呼べるのだろうか。信明は甦生したが、若返ったわけではなかった。自分が変容したことは理解している。おそろしく夜目が利き、自分でもすでに鼓動が絶え、呼吸を必要としていないことは分かっている。排泄は止まった。もう屈辱的な方法の世話になる必要もない。だが、それだけだった。彼は以前として動くことができず、立ち上がることも歩くこともできなかった。信明は第二の生を得たが、この生は最初から病床に結びつけられ、いかなる可能性も持たなかった。
(こんなはずでは、なかったんだ)
――甦生以前の損傷は保持される、と医師の江渕は言った。
「屍鬼は損傷に対する強い治癒能力を持っているが、甦生以前に遡って損傷を修復することはできない。なくした腕が、また生えてくることがないのと同様にね。室井さんの場合には」と、江渕の声は冷たかった。「長い間の寝たきりの生活、それによって弱った部分の回復は期待できる。けれども、損失を埋めることはできないんだ。あなたの脳は出血によって器質的に損なわれている。その後の骨折による損傷、これらはもうどうすることもできない」
信明は衝撃を受けた。では、自分は何のために甦生したのか。自ら屍鬼を招くような振る舞いをしたことの意味は。
「痛みは止まったろう。せめてそれを感謝するんだね」
実際、あの痛みは止まっていた。けれども代わりに頭痛に似た飢餓があった。信明は獲物を狩ることができない身体的にできないだけでなく、心情的にできなかった。哀れな虜囚を目の前に突きつけられれば、とても恐ろしくて襲うことができず、飢餓に耐えかねて贄を襲う決意をしたときには周囲には誰もいない。自ら立ち上がって決意を実行に移すことが、信明には不可能だった。
信明は屍鬼の群の中にあって、明らかに不要物であり、邪魔者以外の何者でもなかったのだった。屍鬼の群れにおいては、住職であったことには何の意味もなかった。信明は住職でしかあり得ない自分を拒んだが、住職という外皮を剥がしてみると、肢体不自由な無益な老人が残ったにすぎなかった。
(あんな手紙を出さなければ)
信明は不自由な手でかろうじて顔を覆った。廃屋の埃にまみれた納戸には、信明の他には誰もいなかったが、そうせずにはいられなかった。
ここに起き捨てられている自分。どこにも行けず、何者にもなれない。沙子は信明を見捨てない、と言った。
「人間の世界と同じよ。弱者は保護を受けるの。心配はいらないわ」
沙子はそう保証したし、最低限の世話はさせると言ったが、それが徹底しているとも思えない。それとも沙子は最初から、この程度のことを「最低限」と呼んでいたのだろうか。こんな生が続くのだろうか。無期限に?
信明は嗚咽した。
(あんな手紙さえ出さなければ)
どうせ数年も待たずに、全てが消えてしまっただろうに。
お父様は、と沙子は呟いた。
「住職でしかあり得ない自分に辟易してらしたのよ。演技し続けることに疲れていた。そうしてそれを強要する檀家も村も憎んでいたの」
静信は瞬いた。テーブルの向かい側に坐った沙子を見つめる。
「父が――そう言ったのだろうか」
「ええ」と、沙子は微笑む。「お父様の気持ちは分かるわ。だって、そうじゃない? 結局のところ、村の人たちがお父様に求めていたのは、自分たちにとって都合がよい住職だったんですもの。誰でもいい、それが必要だったからお父様にそれを求めた。飴と鞭で無理矢理そこに押し込んだんですもの。良き住職であろうとする以外、何も望まないようスポイルしてしまったの、自分たちのためにね」
静信は沈黙した。答える言葉を持たなかった。
「お父様はそれに抵抗したかったんだと思うわ。――室井さんと同じに」
静信は首を振った。
「……違う」
沙子は首を傾げた。
「違う?」
「ぼくは、そうじゃない」
静信はそれを確信していた。静信は自分の中に存在する暗黒の正体を知らない。けれどもそれは、沙子が言ったようなことではないと断言できた。
「お父様は、身体が不自由になって初めて、それに気づいた、と言っておられたわ」
沙子は哀れむように笑う。静信は重ねて首を振った。
「ぼくは、ぼくでなくていいことなど、ずっと以前から分かっていた。君の言うとおりだ。村の人たちは自分たちの望む住職が欲しいだけなんだ。けれどもそれをこそ期待と言うんじゃないのか。彼らが自分たちにとって都合の良いものを期待するのは当然のことで、その期待に応えるかどうかは、ぼくや父の自由意思に任されている。ぼくは村人の期待を投げ捨て、逃げ出しても良かった。けれども、ぼくはぼくの意思でそれをしなかった。彼らが誰でもいい、良き住職を望むというなら、ぼくがそれになってみたかったんだ」
沙子は怪訝そうに瞬いた。
「寺の住職は信仰の要だ。それは実は、積極的に何かを施すことができるわけじゃない。ただそこに存在することによって、目に見えないものを束ねるだけの役割しか果たしていないんだ。だが、それは確実に必要なものだ。要を失えば信仰は寄る辺を失う。誰かがその任に就かねばならないのだし、ぼくはそれになりたかった」
お前でなくてもいいんだ、と敏夫に指摘されたのは、幾つのときのことだったろう。連中の期待通りに振る舞ってやる義務がどこにある、と吐き捨てるように言った敏夫は、どうあっても医学部に進まねばならないというプレッシャーに荒れていた。――そう、だから高校生の頃だ。おそらく三年ではない。そのころには敏夫も、ある種の諦観に達していた。一年かそのくらい。ひょっとしたら中学校の終わりだったかもしれない。
静信はそれまで、そういったことを考えたことがなかった。指摘されて目から鱗が落ちる思いだったが、それでいいのだ、と納得した。静信は信仰を肯定していたし、それを束ねる存在が必要だと言うことが理解できた。自分がそれになることには、何の違和感もなかった。むしろ自分がそれを望んでいることを了解した。
「では、あなたはなぜ自分を殺そうとしたの――室井さん?」
沙子は問う。
「分からない……」
そう、と沙子は目を伏せた。短い沈黙の後、視線を上げる。静信を見つめ、どこか自嘲するように微笑った。
「お役に立てなくて残念だわ。本当に、とても残念に思ってるの。――あなたはとても高い代償を払って、ここに来たんだもの」
背後から、静信の両肩に手が置かれた。その手は、静信をその場に押し留めるように肩を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んでいたが、そもそも静信は立ち上がる気力を失うほど虚脱していた。
「帰れないことは覚悟していらしたんでしょ?」
沙子の問いに、静信は頷いた。
「それは、消極的な自殺行為だわ。今度はなぜ?」
静信は虚を衝かれて瞬いた。信明の真意を知りたかったからだ。だが、自分はなぜ、そうまでして信明の真意を知りたいと望んだのだろう。
静信は呆然と答えた。
「……ぼくはそれを知らない」
そう、と沙子は呟いて立ち上がる。まっすぐに間近へとやってきて、軽く屈み込んだ。辰巳が静信の二の腕の付け根を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んでいたが、もちろん静信にはそれを振り解く気も、これから自分に襲いかかるであろうものから逃れようという意思もなかった。
沙子はひどく複雑な顔をしているように思われた。
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最低限の清掃を終え、病院の戸締まりをし、敏夫が母屋の私室に戻ると、すでにそこには客人が待ちかまえていた。
「ずいぶんと仕事熱心なのね?」
千鶴はベッドに腰掛けたまま笑う。
「きみもだ。熱心なことだな」
答えながら視線を滑らせる。プロジェクターが消えていた。そればかりでなく、明らかに家捜しされた形跡があり、棚の上からはとしあえず護身用にと用意したものが消えていた。
千鶴が合い鍵を持っていることを考慮して、部屋には急ごしらえの錠をつけ、そのうえで窓にも鍵をかけておいたが、肝心の窓ガラスが切られていた。窓には籠目文様を描いた紙を貼っておいたのだが、それも剥がされている。
「誰かがきみを入れるために露払いをしたようだな。正志郎氏かい?」
千鶴はただ笑う。忍び込んできたのが正志郎のような人間なら、予防措置には意味がないだろう。そういう存在がいるのは厄介だ――非常に。
「女房の夜這いを手伝うとは、奇特な亭主だな」
「正志郎は、わたしにとても親切なの」
「それを親切と言うかね。――言っておくが、お袋がまだ起きてるぜ」
「でしょうね。だから尾崎さんも、大声を上げてお母様を危険な場所に呼び寄せたりはしないわよね」
千鶴の笑みを見ると、どこか近辺に仲間がいるのだろうと想像がついた。ここで敏夫が大声を上げればそいつが孝江を襲うのだろう。――いや、こうしている間にも、すでに孝江は襲われているのかもしれなかった。
身を守ってくれるものはない。揉み合いになれば力のうえでは敏夫の勝ちだろうが、それも飛び込んでくる千鶴の仲間がいなければ、の話だ。数が多く、しかも連中はすでに夜を支配している。その中には昼間にも動き回り、呪術を忌避しない者がいる。一旦、家が開かれてしまうと、屍鬼を撃退することは非常な難問だった。敏夫にはすでに退路がないことを悟らざるを得なかった。
――だが、連中は一度の襲撃で犠牲者を殺さない。そのはずだ。特に敏夫を殺しはしないだろう。こいつらは何よりもまず、犠牲者のカルテや診断書の控えを破棄したいはずだ。自室から病院の保管庫に移しておいてよかった、と思わないでいられなかった。家捜しした際にそれを見つけられていたら、本当にここで寄って集って殺されかねなかった。
敏夫は少しずつ場所を変えて手を伸ばす。千鶴が興味深そうに首を傾げた。電話の子機をテーブルのうえに放り出してある。それが唯一の頼みの綱だ。敏夫が何に向かって手を伸ばしているのか悟ったのか、千鶴は軽く微笑んだ。
「警察を呼んでみる? 念のために言っておくけど、一一〇番に通報しても、最初に駆けつけてくるのは駐在の佐々木よ?」
ああ、と敏夫は頷く。
「それとも誰か人を呼ぶ? 一番近所の人を呼んでも間に合わないんじゃないかしら」
分かっているさ、と内心でひとりごちた。今夜の襲撃は避けられない。だが、二度目以降を切り抜けることができれば、敏夫にはまだ活路が残されている。思いながらダイヤルした。千鶴との間合いを計りながら呼び出し音に耳を澄ます。コール五回で相手が出た。
「はい」という声は女のものだった。
「……静信はいますか」
「出かけているみたいですけど」美和子は言って、ふいに不安そうな声を上げた。「敏夫くんのところではないの?」
「いえ」敏夫は反射的に答えながら千鶴との間合いを確認する。そうして、ふと、千鶴の顔に意味ありげな笑みが浮かんでいるのに気づいた。
――こいつは、静信が家にいないことを知っている。
だから|嗤《わら》っている。家にいないならどこにいる?
美和子が何かを問う声は聞こえたけれども、敏夫は通話を切った。電話がいったん切れ、再び回線音が流れるのを、上の空で聞いた。
「静信はどこだ」
「室井さんなら屋敷よ」
敏夫は受話器を持った手を凍らせた。
「……捕らえたのか」
「室井さんは自分から沙子を訪ねてきたの」千鶴は言って、低く笑う。「よく似た親子だわ。室井さんのお父さんもね、自分から沙子を招いたのよ。わざわざ正志郎に手紙を寄越して。自分の身体が自由になれば、室井さんのように家を訪ねてきたんでしょうね」
なぜ、と敏夫は呟いた。
「さあ? あの親子が何を考えたかなんて、わたしには分からないし、興味もないわ。わたしが知っているのは、室井さんはすでにわたしたちの手の中にあって、それは室井さん自身が望んだことだ、ってこ。彼は甦生するかもしれない。父親もそうだったから」
「……そう」
敏夫の声は、敏夫自身をもぎょっとさせるほど低かった。
自ら屍鬼を訪ねるということが、何を意味するのか知らない静信ではあるまい。――静信は屍鬼の側に下ったのだ。
敏夫は子機を床に叩きつけた。全てが突然、どうでもいい種類のことに思われた。それを見て取ったように千鶴は笑う。
「ショックだった?」
「……のようだな」
「あなたは一人になったの。正真正銘の孤立無援。気分はどう?」
「悪くない」
千鶴は笑った。笑ったまま立ち上がり、一歩を踏み出す。敏夫は退った。
「やめてくれ」
「命乞い?」
「そうだ。死にたくない。見逃してくれ」
千鶴は歩み寄りながら眉根を寄せた。微かに苛立ちのようなものが浮かぶ。敏夫は足を踏み出し、その腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。冷えた――体温のない、けれども柔らかな二の腕。
「千鶴、おれは外場が滅びるところを見たい」
屍鬼は忌まわしいことを聞いたかのように眉を顰めた。
「もう、うんざりだ」敏夫は吐き捨てる。「この夏以来、いったいどれだけの人間が死んだと思う。それに対して、村の連中が何をした。何も、だ。変だ、おかしい、どうかしていると言いながら、何が起こっているのか知ろうとするわけでもなく、食い止めるために指一本、動かすわけでもない。声高に不平を言うだけだ。そうすれば誰かが連中の口に旨いものを放り込んでくれるものだと思ってる」
敏夫は腕を放り出した。
「だからおれが結果を放り込んでやろうとしたんじゃないか。原因を探し、敵がいることを確認した。外場は屍鬼に侵略されている。答えはあまりにも明白だ。死にたくなかったら、屍鬼を滅ぼして脅威を取り除くしかないんだ。そのための方法も探してやった。あとは実行に移すだけだ。なのに、それは嫌だという」
静信は協力できない、と言明した。村に脅威があり、放置すれば惨禍はやまない。それを分かっていて、脅威を取り除くために行動することを拒んだ。それは翻せば、村の連中など死んでも構わないということだ。
もちろん、敏夫にも分かっている。静信は屍鬼による殺戮を肯定したわけではない。静信はそのため錦を殺すことを拒んだのだ。だが、殺戮を止めるためには敵を排除するしかない以上、それを拒むということは殺戮を止める手だてをも放棄する、ということに他ならない。
静信の気持ちは分かる。共感は手着ないが理解はしている。昔から静信は結果よりも過程に拘るところがあり、過程に納得がいかなければどんなに望んだ結果でも放り出してしまいかねない人間だった。敏夫は逆だ。問題は望む結果が得られるかどうかであり、過程は問題ではない、と思っている。だから静信が敏夫について来れない、これは理解できなくもない。そういう奴だ、と分かっている。
「相手が屍鬼だろうと人間だろうと、殺戮は御免だ、と言うなら勝手にするさ。屍鬼を殺すことを拒んで殺されるのも、屍鬼を殺して生き延びるのもそいつの勝手だ。――だが、そいつが決定権を持っているのは自分の命に関してだけだ。他人の命に対してまで、勝手に先行きを決める権利はないんだ!」
屍鬼の存在を理解しており、このまま放置すれば殺戮はやまないであろうことを了解していながら戦線を離脱するということは、自分の命だけでなく他人の命まで投げ出すに等しい行為だ。しかも屍鬼に襲われれば自身も屍鬼として甦生する可能性がある。静信が自分を投げ出すのは勝手だが、それによって屍鬼が一体増えれば、そのぶん脅威は増す。静信が選んだのはそういうことだ。静信は自身の命の譲渡契約書に、外場の住人の全てを付記してサインをしたのだ。
「世の中は二極対立で割り切れない。黒と白の間には、必ず中立としてのグレイがあるもんだ。だが、この件に関しては黒か白しかない。屍鬼は人間にとって天敵だ。戦って脅威を排除するか、唯々諾々と殺されるかだ。共存はあり得ない。あるとしたら、桐敷正志郎のように、屍鬼の奴隷になるしかないんだ」
そして、と敏夫は思う。常に穏当な中立を堅持してきた静信なら、それを貫くために第二の正志郎になろうとしても不思議はない。静信が自ら桐敷家を訪ねた理由は、それ以外、敏夫には想像できなかった。
千鶴は興味深げに瞬いた。
「それが許せないのね」
「とんでもない」敏夫は口許を歪める。「馬鹿な選択だが、それでも静信は奴自身であるために選択をしたんだ。だが、村の連中はそれすらしないのさ」
村の者は理解している。村に脅威が存在すること、自分たちの生命が脅かされていること。これを放置すればさらに酷いことが起こりかねないこと。その脅威は常識では考えられない種類のものであり、外部に助けを求めても理解は得られないこと。
「村の連中は怯えている。当たり前だろう、自分と自分の家族の命が危険に曝されているんだ。にもかかわらず、奴らは危険が存在することを認めるのを拒むんだ。おれだって、屍鬼だ吸血鬼だという指摘が、どれだけ信じがたいものであるかは分かっている。だが、冷静に考えれば、そうでしかあり得ないことは分かるはずだ。だが、連中は、この期に及んでも、そんなものはいるはずがない、と言い張るんだ」
そんなものはいるはずがない、と確信しているなら、なぜ誰も夜に道を歩こうとしない。窓を閉め、鍵をかけて家の中に閉じ籠もる。誰も山に入ろうとしなくなったのはなぜだ。玄関に貼られた護符、これ見よがしに上げられた破魔矢、窓辺に吊された除虫菊や蓬は何を意味している。
「連中だって分かっているんだよ、もう。本当は知っている。鬼が村を襲っているんだ。にもかかわらずそれを認めない。認めようとしないのは、正気を疑われたくないからでも鬼を信じてないからでもない。連中は、そういう脅威が現実に存在することを認めたくないのさ」
敏夫は笑う。
「現実に鬼が目の前にいるのに、目を瞑って『これは夢だ』と言い聞かせているんだ。それを認めれば、連中は鬼に対峙しなきゃならん。それが怖いものだから、そんなものにがあるはずはないと自分に言い聞かせてる。鬼なんていない、だから自分が鬼と対峙するなんて恐ろしいことをする必要はない、というわけだ。鬼がいないなら、どうしてこれだけの人間が死んでいくんだ。なぜ連中の命は脅かされねばならないんだ。連中は、それが分からない、という。分からなくて不安だから、どうなっているんだ、教えてくれ、と叫ぶ。この殺戮を止めてくれ、自分たちの不安を取り除いて、安全を取り戻してくれと喚くくせに、鬼だ、だから鬼を倒せといえば、そんなものはあるはずがない、と眼鏡に否定するんだ!
どうなっているんだ、と言う。だからおれは教えてやった。これは屍鬼だ。どうにかしてくれ、と言うから、おれはどうにかする方法を教えてやった。ところが連中は、そんなものはあり得ないとほざく。おれの出した答えが気に入らないんだ。そうやって喚いていれば、誰かが自分にとって都合の良い答えを放り込んでくれると思っている」敏夫は、おどけて両手を広げた。「これは新種の疫病です、御心配なく、すでにワクチンがあります。これは悪の組織の陰謀です。御心配なく、すでに正義のエージェントが是正に乗り出しました」
千鶴は微かに笑った。敏夫もまた乾いた声で笑った。我ながら自嘲のようにしか聞こえなかった。
「自分の頭で考える気はない。自分の身体は指一本だって動かすつもりはない。喚いていれば現実のほうが連中の都合に合わせてくれると思ってるんだ。それ以外のことなんて考えてみたくもない。連中は世界の何たるかを分かってない。世界はベビーベッドじゃないんだ。周囲にいるのは泣けば飛んできてミルクやおむつを与えてくれる母親やベビー・シッターじゃない。自分の頭で考えて、自分の足で歩いていかなければ、自分の安全でさえ手に入らないってことを認める気がないんだ!」
「……そうね」
「だったら好きにするがいい。好きなだけ喚いていればいいさ。だが、おれには連中より分別があるからといって、連中の面倒を見てやらなければならない義理などない。警告はした。危機を回避する方法も示した。最低限の義理は果たした。それが気に入らないと言うなら勝手にゴミ箱の中に放り込んで忘れるがいいさ。連中が自分にとって都合の良い現実しか現実と呼びたくないというなら、そうすればいい。おれはその結果を連中がどう受け止めるのか、見物させてもらう」
敏夫は千鶴の腕を改めて掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「見届けたいんだ。連中が、現実は拒絶しても変えられないと知ったときにどういう顔をするのか。連中は鬼が夢の中のモンスターだと信じている。それ以外の可能性は信じたくないんだ。にもかかわらずそのモンスターが自分を捕らえて喰らいついてきたとき、連中がそれまでも拒めるものかを見てみたい。それを見届けてからなら、喜んで餌食になってやる」
「それをどこまで信じてもいいのかしら? いいように騙される馬鹿な女にはなりたくないわ」
「信じてくれ」
「確証もなしに信じるわけにはいかないの。あなたは敵だったんですもの。沙子はそういう愚かな振る舞いを許さないのよ」
「沙子……」
「そうね――あなたが誠意を見せてくれたら、考えてもいいわ」千鶴は言って、敏夫の首に冷えた指を滑らせる。極めて正確に外頸静脈を辿った。「血をくれる?」
「好きにしろ」
千鶴は笑う。敏夫の首に改めて腕を廻し、顔を寄せてきた。無意識のうちに息を詰めて待つと、冷えた柔らかなものが押し当てられる。そして鋭い針を刺されたような微かな痛み。だが、その痛みも触感もすぐに遠ざかり希薄になる。軽い酩酊感があった。――悪くない気分だった。
やがて千鶴は顔を離した。腕を首に絡めたまま囁く。
「全ての資料を破棄するの。リストを上げるわ。それの指示通りに患者のカルテを訂正して。この村では異常なことなんて起こってない。誰も死んでないの……分かるでしょ?」
敏夫は頷いた。
「……ああ」
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美和子は電話が切れた後も、しばらく受話器を握ったまま立ち竦んでいた。時計に目をやると九時になろうかとしている。夕刻に出たらしいが、それきり夕飯にも戻ってきていない。てっきり敏夫のところだと思っていたのに、そうでないとすると。
「どうしました?」
光男が茶の間の側を通りがかって声をかけてきた。寺の人手が減っている。通っていたのでは仕事をさばけないからと言って、光男は母親の克江ともども、寺に越してきている。
「……光男さん、静信を見なかった?」
「いえ。若御院なら病院じゃないんですか」
「それが行ってないようなの。でも、こんな時間まで他のどこに」
光男は美和子の青い顔を見つめ、そしてついに来るべきときが来たのだと悟った。鶴見はああ言っていたが、災厄が寺を避けてはくれないことは、これまでの事態からも明らかだ。いつかこうなると思っていた。事実上、これで寺は終わったのだ。
美和子は一旦、受話器を置き、そして改めてそれを取り上げた。
「駐在は何番だったかしら。それとも田茂さんにお願いしたほうが」
言いかけた美和子を、光男は遮る。
「どこか散歩に行ってるんですよ」
「光男さん、でも」
「まだ着いてないだけで、今頃は尾崎にいるのかもしれません。まだ九時じゃないですか。騒ぐようなことじゃありませんよ。若御院は子供じゃないんですから」
けれども、と言いつのる美和子に、光男は笑ってみせる。
「ガレージに車がありましたよ。村の中に居るんでしょう。村の中にいて、何の心配があるっていうんです?」
「ええ……それは。でも」
美和子は口ごもった。
光男はあえて素っ気ないふうを装った。騒ぎ立てないほうがいい。静信が帰ってこないということは、信明のように連れていかれたということだ。これが連中の意思だ。逆らわないほうがいい。下手に逆らい、連中にとって不都合な行動を起こせば、今度は美和子が犠牲になる。
「近頃、妙なことが続きますからね。奥さんが心配なのは分かりますけど、変に心配すると本当のことになっちゃいますよ」
「光男さん、でもね」
「ちょっと帰りが遅くなっただけでしょう。ひょっとしたら今夜はお泊まりかもしれませんね。別に珍しいことじゃないでしょう。それとも、奥さんは何かあったっていうんですか? 何か帰ってこれないような事故でもあったって?」
美和子は俯いた。そんなことに起こってほしいわけではない。ここで不安を言い立てるのは、まるでそれを望んでいるように思えて、口を噤まないではいられなかった。
「村の中なんですよ。何が起こるっていうんです。若御院は無茶をするような性格じゃないし、仮にも手にも寺の若さんに対して滅多なことをする者もいないでしょう。何の心配もないじゃないですか」
「そうね……」と、美和子は震える手を握る。「そうだわよねえ」
「そうですとも」
光男の力強い肯定に、美和子も頷いた。そう、滅多なことなどあるものじゃない。すでに美和子は信明を失っている。このうえ息子まで失うなんてことが、あるはずがなかった。
かおりは、ひとりで自宅に戻っていた。大塚浩子らは何もあんな寂しい家に帰らなくても、と何度も引き留めてくれたが、少し考えたいことがある、家の中の整理もしたいし、だからしばらく家に戻る、と言って出てきた。寂しくて我慢できなくなったら戻るから、と言い置いて。
ひとりで家にいることが危険だということは分かっている。かおりはつい昨日まで、恵による襲撃は避けられないことだと思っていたし、それが運命なら仕方ないと思っていた。だが、昨日静信に会い、静信らも屍鬼を疑っていたことを聞いて、気持ちが変わった。
静信に――あるいは医者の敏夫に相談していれば、夏野のは死なずに済んだのだ。夏野も、昭も、きっと父親も母親も失わずに済んだんだ。それが悔しい。
(こんなの、ないよ)
感じているのは悲しみより何より、対象不明の怒りだった。こんなのは全部、間違っている。
このまま恵に殺されるのは違う。そんなことは起こるべきじゃないし、そんなことは許さない。なぜこんな酷いことを、と恵を責めたい。一矢報いてやりたい。かおりの得た苦しみを、恵にも投げ帰してやりたい。
かおりは大塚家から貰ってきた護符を、窓という窓に貼った。護符や曼荼羅が大塚家にはいくらでもあった。それらで家を荘厳し、昭の部屋から杭を持ってきて武装した。昭が用意していたそれ。
絶対に恵の好き勝手にはさせない。これ以上、かおりに酷いことはさせない。恵と対決するのだ。場合によっては恵なんて許さない。
そのためにも大塚家にいるわけにはいかなかった。だから家に帰ってきた。来るならさっさと来ればいいのに、という捨て鉢な勇気で、かおりはむしろ高ぶっていた。
しんとした家の中、あらゆる明かりを点して、まんじりともせずに坐っている。窓の外を徘徊する物音を聞いたのは、日付が変わってからだった。ラブの吠える声が聞こえた。この家に近づく権利のない誰かが家の周囲を徘徊している。
それはあちこちを叩き、中へ入る方策を探しているようだった。戸締まりはしてある。慣れない大工道具を引っぱり出して、打ち付けられる場所は打ち付けておいた。ただ座敷の縁側だけを戸締まりもせずに放置してある。雨戸も引いてなければカーテンも引いてない。かおりは杭を隠し持って、じっと窓から外の様子を窺っていた。
それは窓辺の、明かりの届くすぐ側まで何度もやってきたように聞こえた。迷うように遠ざかっては近づいてきて、そしてやがて消えた。はたりと音がやんで、かおりは無音と孤独の中に取り残された。
律子が目を覚ますと、そこは青い闇の中だった。薄い異臭のする布団が展べられ、律子はそこに横たわっている。最初、記憶は混沌としていた。とりあえず律子は、自分の体を検め、そして自分が死んでいることを発見した。少なくとも呼吸がなく、脈がない。何度指を当てて探ってみても、脈拍を触知することができなかった。
律子は恐慌をきたし、閉ざされた部屋の中で悲鳴を上げて暴れた。それが治まってみると、空虚な自覚がやってきた。自分は死んでいるのだと、認識すればそれを核にして記憶はするすると解けた。自分は鬼に引かれ、鬼として起きあがったのだと理解した。
呆然としているところで扉が開いた。中年の見たことのない女がひとり、どこかで見たような若い男が一人、入ってきた。
「……誰?」
律子はすでに、声の出し方を心得ていた。
「倉橋佳枝というの。よろしくね」
「あなたも鬼なの? 起きあがったの?」
佳枝は目を見開いた。
「おや。何も説明していないのに、分かったの?」
「だって脈がないもの。自分がどうなったかぐらい、覚えてる。ひどい過呼吸だったの。自分で処置しようとして袋を探したんだけど、手の届く範囲に見つからなかった。探しに行こうとして意識を失ったの。わたしはあれで死んだんでしょう?」
「でしょうね」
「……彼は」律子は佳枝の背後に憂鬱そうな顔をして佇んだ青年を見た。「武藤さんのところの」
「知り合い?」
いえ、と律子は呟いた。直接、顔を見知っているわけではない。それでも武藤とは親交があるし、何より律子は彼の葬儀で彼の遺影を見ていた。徹は狼狽したように顔を背けた。その仕草は、彼が自分の素性を知られたくなかったのだと端的に訴えていた。
「何が起こったのか分かっているなら話は早いわ。あなたは変わってしまったの。そう、鬼になってしまった。吸血鬼、というやつね。仲間は屍鬼と言うわ」
「……屍鬼」
「これに着替えなさい。後のことは彼に聞いて。あなたにだけ構っていられないの。近頃は起きあがる人が多いから」
律子は着替えを受け取りながら身を竦めた。起きあがる者が多いということは、死ぬ者がそれだけ多いということだ。――そうだろう。鬼に引かれた者が鬼として起きあがれば、犠牲者は鼠算式に増えていく。
「……佳枝さん、おれ」
徹は出ていこうとする佳枝を呼び止めた。沙子に佳枝を手伝うよう命じられているが、知り合いの甦生には立ち会いたくなかった。
「お願い。この人は分かってるから、そんなに大変じゃないわ。最低限のことだけ教えてあげて、食事をさせればいいのよ。そのくらいのこと、できるでしょ? 今夜は他にも三人、起きる人がいるかもしれないの。ここだけじゃなく、あちちの小屋にもいるわ。あたしと辰巳さんだけじゃ、手に負えないの」
「ええ……はい」
「お願いね」
佳枝は言って、そそくさと出ていく。甦生を待つ者が多いのは事実だった。いや――そもそも死体が多く、それが甦生するかどうかを見極められる者の数が限られているために、事前に甦生するかどうかを確認しきれないのだ。だからとりあえず死体を集めて隠す。それを全部、見張らなければならない。山入だけでは収容するのに追いつかず、村に設けた隠れ家や山の中の小屋にまで死体が溢れて、しかも仲間たちにももうその実数を把握できていなかった。
徹が溜息をつく。
「とにかく、それに着替えてくれ。何だったら、おれは外に出てるから……」
「結構よ」と、律子は答えた。思い切るようにひとつ首を振って、佳枝が渡した着替えを差し出す。「これ、いらないからって」
「いらないって」
「わたしは死んだんだから、経帷子で充分だわ。生きている人のふりなんてしたくないの」
「生きてるようなもんだよ。これから、あんたはそれを受け入れなきゃならない」
「着替えて、人の顔をして、人を襲うの?」
徹はわずかの間ののち、頷いた。
「……そうだよ」
「それはしたくないの。そういう選択の自由はないのかしら」
徹は律子の微笑んでさえいる顔を見つめた。
「誰も襲いたくない。殺したくないの。生きているふりなんてしたくない。わたしは死んだの」
「襲わないと、飢えて死ぬんだよ」
でしょうね、と律子は頷いた。
「……それでいいわ」
徹は軽く笑った。
「そう言うんだよ、みんな。人を襲うなんて冗談じゃない、そんなことはできないって。けれども、結局みんな飢えに負けて襲うんだ。だからそういうことは断言しないほうがいいよ」
「そう? じゃあ、できるかどうか、やってみるわ。それともそういうことは、ここでは許されないの?」
「許されないと思うよ」
「でも、無理矢理わたしを襲うことはできても、襲わせることなんてできないわよね?」
「あんだが拒むと、あんたの周囲の人間が襲われることになるんだよ」
律子は目を見開き、そして考え込むようにしばらく宙を見ていた。
「……だったら仕方ないわ。わたしには、やめてってお願いすることしかできないもの」
「家族を犠牲にするのかい?」
「わたしが誰かを襲っても、誰かが犠牲になるのよ。だったら同じことなんじゃないかしら。――それに、たぶんわたしの家族はもう襲われてると思うわ。最後に見たとき、二人ともそんな顔をしていたもの」
「もしもそうじゃなかったら?」
「言ったでしょう? わたしが誰かを襲っても、誰かがわたしの家族を襲っても、犠牲が出るという意味では同じだわ。わたしは自分が人を襲うのは嫌なの。そんなふうに人を殺したくない」
沢山の犠牲者を見た。あの虚ろな目をした患者たち。敏夫の努力も虚しく、命は失われていった。その元凶にはなりたくない。
「きっとじきに、今の言葉を撤回したくなると思うよ」
「そうかもしれないわ。……でも、とりあえずやってみたいの。自分を嫌いになりたくないから」
徹は顔を背け、律子の視線から逃げるようにして部屋を出た。
「着替え……置いておくから」
妙は飢餓に呻いていた。加奈美は母親の無惨な声を聞きながら、それでもそれをどうしてやったらいいのか分からないでいた。
あれ以来、ありとあらゆるものを様々に加工して与えてみたが、妙はそれらの全てを受け付けなかった。口に入れては吐き戻すことを繰り返し、家の中には異臭が薄く充満していた。
加奈美、と妙が呼ぶ。この苦痛を何とかしてほしいと訴えている。なのに加奈美にはどうすることもできない。本当に、試せるだけの食材は全て試した。できるだけ軟らかく煮てそれをすりつぶし、裏ごしすることまでしてみたが、まったく受け付けなかった。コンソメのように薄くしてゼリーで固めてみたが、それでさえ吐き戻すものをどうしてやったらいいのだろう。
「加奈美……あたし、どうしたのかしら。具合が変なのかしら。このまま死ぬの?」
加奈美はもう少しで笑いそうになった。|箍《たが》が外れそうな自分を感じる。ここで笑い出したら二度と笑いが止まらないだろう。そんな気がする。
「気弱なことを言わないで。お母さんが無茶をして、無理に食べようとするからよ。胃が弱ってるのよ。とにかくスープで我慢して?」
「だってひもじいんだもの」
「とにかく、スープから始めましょ? ね?」
でも、と言い募る妙を宥めて、加奈美はキッチンに立つ。辺りには物が散乱し、放置された食物が溢れていた。とりあえずシンクの上にスペースを作ろうとして、調理道具をまとめにかかる。シンクの中のものを浚えていて指先に痛みを感じた。包丁が汚水の中に沈んだままだった。
小さく声を上げ、水の中から手を引き出す。人差し指と中指の先がざっくりと切れていた。慌てて流水で洗う。声を聞きつけたのか、妙がどうしたの、と近づいてきた。
「切ったの。大丈夫、そんなに大した傷じゃないから。絆創膏を取ってくれる?」
加奈美はことさらのように笑って振り返ったが、妙は異様な表情を浮かべて加奈美の手先を凝視していた。
「お母さん。救急箱を取って」
ええ、と頷いたものの、妙はその場を動かない。食い入るように加奈美の手先を見つめている。傷口から溢れた血が、指を伝う。関節を這い、軽く曲げた指の付け根から滴り落ちようとする。妙が手を伸ばしてそれを受けた。妙の掌に点々と血が落ちる。妙がそれを口に運ぼうとして、加奈美は仰天した。
「――お母さん!」
だって、と妙は口の中で呟く。加奈美が思わず掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ手を追い、懸命にそれを舐めようとする。無理にもぎ離すと、反対にその手を握った加奈美の手を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、傷口に吸い付こうとする。
「お母さん、やめて!」
妙は何が飢えを止めてくれるのかを悟った。悟ったことを加奈美も悟った。起きあがってきた母親、続いていた死、それらが何を意味していたのか、ようやく何もかもを理解していた。
「お母さん、やめて。それだけは駄目!」
これで血の味を覚えてしまったら。そうしたら妙は本当の化け物になってしまう、と思った。せっかく戻ってきたのに、遠く隔たった別の物になってしまう。
「お母さん、お願い……!」
妙はかろうじて動きを止めた。加奈美の手を離し、血の付いた自分の両手を眺め、それを服にこすりつけて拭う。拭った手で顔を覆い、その場に蹲って嗚咽し始めた。加奈美もまたその場に蹲り、母親の肩を抱いて泣いた。
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微かにドアの開く音を聞いたように思って、静信は目を開けた。周囲は暗く、風の音だけが壁を隔てた遠くで響いていた。
「気分はいかが?」
微かに沙子の声がして、小さく何かのスイッチを入れる音がした。すぐ側で眩しくスタンドの明かりが点って、静信は軽く目をしばたたく。
小さな部屋の中だった。静信はベッドに寝ていたが、そのすぐ上まで斜めになった天井が迫っていた。高いところに天窓のような小さな窓が切られていて、板戸がぴったりと閉じていた。おそらく屋根裏部屋なのだろう。部屋はあまり広くない。ベッドの脇に小さな枕頭台があって、そこにはスタンドがひとつだけ置かれている。その脇には小型の机とも、引き出しのついたテーブルともつかない台があって、それに向かって据えられた椅子に沙子が腰を下ろしていた。
身を起こそうとしたが、目眩がひどかった。両手と両足も括られているようだったので、あっさりと努力を放棄した。まだ半分、夢|現《うつつ》の状態にあるようで、何もかもが現実感を欠き、ひどく薄く頼りなく思われたが、これは単純に目が覚めきっていないせいばかりではなかったかもしれない。
「縛られていることを屈辱的だと思わないでもらえると嬉しいんだけど」
「……いや。事情は分かるよ」
そう、と沙子は微笑む。
スチームが入っているのだろう、掛け物は毛布だけだったが、寒くはなかった。さほどに悪い気分でもない。無理に身動きしようとすると目眩がしたが、穏和しく横になっているぶんには、惰眠を貪っているようでむしろ心地が良かった。なるほど、これでは犠牲者は積極的に不調を訴えないはずだ、と妙な納得をし、同時にそれを理解している自分を不思議に思う。静信は自分に何が起こったのかを理解していたし、問われれば証言できるだろう。犠牲者はそれができない、ということではなかったのだろうか。
「何が起こったのか、分かる?」
そう訊いたのは沙子のほうだった。静信は頷く。
「分かっては具合が悪いんじゃないのかい?」
「いいの。室井さんはもう逃げられないんだもの。忘れるよう言い聞かせる必要なんてないでしょう?」
「そうか……」
「怒ってる?」
「何を?」
見返したが、沙子は答えなかった。
「きみがぼくを襲ったことなら、当然のことだと心得てるよ。……覚悟してきたんだ。むしろまだ生きていることのほうに驚いている」
そう、と沙子は呟いた。
「今は何時だろう」
「五時を過ぎたかしら。じきに夜が明けるわ」
では、母親や光男はさぞかし心配しているだろう、と思った。静信がもう戻らないことを美和子は理解しているだろうか。自分はこんな形で、最後の最後に美和子らを裏切ったのだと思った。父親と同じく、円満な存続を願う人々を裏切り、あえて落胆させた。静信はそのことに対し、済まないとも哀れだとも感じていたが、父親はそうではなかったのだろうか。自分をスポイルした何かに対する復讐なのだから、心を痛めたりはしなかったのかもしれないが、そこまで冷徹になりきれていただろうか、とも思う。
「父はなぜ、秩序を憎んだのだろう」
静信が呟くと、沙子は首を傾げた。それは、と言いかけた沙子を、静信は遮る。
「うん……父の気持ちは分かったと思うんだ。父は良き住職であることを周囲に強要されて、自分をそこに押し込んだものを憎んだ。けれども、誰も父に対して鞭を振りかざしてかくあれと強制したわけじゃない。周囲は父に期待しただけなんだ」
「期待という名の強要ではないのかしら。良き住職であってほしい、という望みそのものは期待にすぎないけれど、そうでなければ許さないという無言の圧力を伴っていれば強要だと思うわ。良き住職であれば褒め称えて大事にする、――そうすることは、必然的に、良き住職でなければ褒め言葉も何もかも与えてはやらない、という脅しを含んでいるものだと思うの。他人の肯定がほしくない人間なんていないでしょ? 肯定を得ようと思うと、他人の期待通りに振る舞うしかない。それどころか、期待通りでなければ、住職のくせに、と言われて否定されるのだとしたら、期待に背くことは自分にとってとても辛いこと――懲罰を覚悟しなければならないことになるんだと思うの」
「……そうなんだろうな。肯定がほしければ期待通りに振る舞うしかない。否定されたくなければ、やはり期待通りに振る舞うしかない。そこには最初から選択の余地がないんだ……。自己の存在を否定されることが苦痛でない人間はいないから」
「ええ」
「でも、父は周囲の肯定が欲しかったのだろう? それは父が周囲を肯定していたということなんじゃないだろうか。父は周囲の肯定を欲する程度には、周囲のものを愛していたんだ。だとしたら、周囲の期待通りであることは父にとって喜びだったはずだ。なぜそうじゃなかったのだろう」
「さあ……。肯定を得るために積極的に周囲の期待に応えようとするか、否定されないために周囲の期待に|阿《おもね》るか、という違いなのかもしれないわ」
「周囲の期待に阿る……」
「自分の存在を否定されることほど辛いことはないもの。否定から逃れようとして、周囲の期待に阿る。彼は肯定されるのだけど、彼の中には周囲に阿ることなく生きてみたいという渇望が潜んでいて、ずっと解けない。自分自身として生きてみたい、それを肯定してほしいという周囲に対する期待が、お父様の中にはなかったかしら。なのに期待する物は得られない。そこで自分自身であることを受け入れてくれない連中なんて要らない、と言ってしまえればいいのだけど、そのためには周囲の肯定など必要としないほどの自己肯定が必要だわ。けれどもお父様はかつて一度たりとも自分自身であったことがなかった。そんな人に、周囲の否定に揺らがないほど強い自己肯定なんてできるものかしら」
そうかもしれない、と静信は思う。ひょっとしたら父は、周囲の期待に応えていなければ成り立たなかったのかもしれない。阿っている自分を知っていたから、その束縛を離れ、期待に背いて自分自身であってみたかったけれども、期待されることがなければ、信明自身にもどこへ行けばいいのか分からなかったのかも。
「父はここに至って周囲の期待を投げ捨てた……。けれどそうして、父はかくありたいと思うような自己を獲得できたんだろうか」
「どうでしょうね。右へ行けといわれてこれに従い、右に進む。あるいはこれに逆らって左に進む。どちらにしても、こちらに行けという声がなければ進む方向を決められないということよね。もう誰も自分に期待してくれなくて、こちらへ行けと要求してくれなかったら、自分でもどこへ行けばいいのか分からないでしょうね」
「もしも周囲に背くために自分を投げ捨てたとして、それでもしも甦生すれば、父はひどく途方に暮れるのじゃないだろうか」
「たぶん」
「あれほど憎んだ期待がなければ、成り立たない自分を自覚したとき、父は何を思うんだろう……」
「そうね」と沙子は目を逸らし、呟く。「わたしだったら、死にたいぐらい自分に失望すると思うわ」
死にたいぐらい、と静信は呟いた。
「そうか……死にたかったのかもしれない」
「――え?」
「彼の弟。だから彼に自ら殺されることを望んで、抵抗をしなかったのかも……」
慈愛深い神の寵童、慈愛深い住職、そうであることが実は、当人たちを苦しめていた。それは彼らが求めたことではなかったからだ。ただ周囲から拒絶されないためだけに、自分を殺してそれを演じた。
慈愛の具現であった父、
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光輝の具現であった弟、
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秩序の寵愛と、
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神の寵愛と
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周囲の敬愛を
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隣人の敬愛を一身に受けていた彼の同胞。それは彼の内実によるものか、それとも内実を謀った演技によるものだったのだろうか。
おそらく、彼はその答えを知っていた。
そう、もちろん弟もまた、光輝の具現を演じていたのだ。いや、弟のみならず、おそらく隣人たちの誰もがそうだったのだろう。
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丘は沙子が指摘したとおり、そもそも楽園を追放された罪人たちが住まう流刑地だったのだ。
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丘の全ては、造反を押し隠すための信仰、逸脱を押し隠すための規律によって見事なまでに調和していた。本質的に造反者であり、逸脱者でなければ、調和の中に居場所がないよう、全ては頑に整合していたのだから。
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だから彼の弟もまた、本質的に造反者であり逸脱者だったのだ。弟の中には神に対する――神の作った秩序に対する抜き差しならない増悪があった。
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その増悪を押し隠し、良き隣人を演じることによって、弟は秩序に調和し神の寵愛を得ていたのだろう。秩序を憎めば憎むほど、それを隠すため、弟はより強く自律せねばならなかった。皮肉にも、抜きんでて強い増悪こそが、弟をして光輝の具現たらしめていたのだ。
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それほどの増悪があって、増悪そのものが自覚されていれば、弟が秩序との調和を願ったはずがなく、神の寵愛を欲したはずがない。弟は秩序に背きたかった。神に造反してみたかったのだ。――だが、その衝動はあっても、弟はそれを実行に移すことができなかった。なぜなら、この抑圧と抑圧に対する増悪がなければ成り立たない己を知っていたからだ。
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弟の中には秩序に対する嫌悪と侮蔑があったが、秩序を求める演技を拒むことができなかった。秩序を離れた自己を想像することができなかったからだ。背くために背いても、弟はその先、自分が何を求め、どうあればいいのか分からなかった。それゆえに演技を拒むことができない己を唾棄し、自身をそこまで歪めた秩序を心の底から憎んでいた。
そんな弟にとって、兄は毅然と生きる光輝だった。兄は秩序を恐れず、己の在りように逆らわなかった。――そのように見えた。弟には兄が秩序に迎え入れられたく、それが決して成されないことに苛立っていることが分からなかった。弟の目から見た兄は、秩序を拒絶し、昂然と兄そのものであろうとしているように見えた。そして、その兄と比して、秩序を憎みつつ阿るしかない己に絶望していたのだった。
ゆえに弟は、彼が凶刃を振り上げたとき、すすんでこれを受けたのだ。
弟は兄のようになりたかったが、それは決して得られなかった。弟もまた、どんなに秩序を憎んでいても、秩序に背くことのできない己の不甲斐なさに落胆していた。背いたところで、何物を得ることもできない己の在りように絶望していた。兄は凶器を握ることすら、躊躇わない。――躊躇わないように思われた。
すすんで兄に屠られ、殺人という名の反秩序が成立することに荷担することによって、弟は初めて秩序に背いた。背いて以後、己がどこに行くべきかを思い煩い、それを描き出すことのできない自己の不甲斐なさに失望する必要もなかった。
これによって弟は秩序から、やっと解き放たれたのだった。
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静信は傾いた白い天井を見上げて、それらを語った。沙子は黙って静信が語るそれに耳を傾けていた。
やがて小さく息を吐く。
「室井さん、これだけは信じてほしいの」
静信が沙子に目を移すと、沙子は指を組む。
「わたし、とてもあなたの作品が好きだったの。これだけは偽りのない本当だったの」
静信は軽く微笑んで頷いた。沙子はひどく複雑そうな顔をして、そして膝の上に置いた手を見つめるように俯いた。
[#改段]
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二章
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屋敷のどこかで六時を打つ時計の音がした。もう外は薄明るいはずだが、部屋の端々に落ちた闇の色が薄まる気配はない。天窓の周囲からも漏れてくる明かりは見えなかった。板戸だけで遮光できるとも思えないから、あるいは板戸が内外の二重になっているか、そもそも塗り込めるかどうにかしてあるのかもしれなかった。
静信は鐘の音を聞くともなく聞き、机のほうを見る。ついさっきまで何かを考え込むように俯いていた沙子は、眠ってしまったのか、さらに深く項垂れ、ぴくりでもない。そんなところで寝て構わないのか、と声をかけようとしたとき、ふらりと均衡を崩したように傾いて、そのまま床の上に倒れ込んだ。
「――沙子」
声をかけたが、返答はない。それどころか、何の反応もなかった。怠い身体を無理にも起こし、何とか近寄ろうとしてみたが、括られた手足でベッドを降りようと足掻いている間に部屋のドアが開いた。辰巳が片手にトレイを抱えている。
「ここにお邪魔していたんですね」
辰巳は言って、廊下の向こうに声をかけた。
「ここにいた」
すぐに廊下から正志郎が顔を出した。辰巳に頷いて、床に倒れた沙子の身体を抱き上げる。特に驚いた様子もなく廊下の外へと運び出していった。
「……大丈夫なのかい?」
静信の問いに、辰巳は微笑む。
「室井さんに御心配いただくのは妙な感じですね。――大丈夫です。単に眠っただけですから」
「でも」
辰巳は肩を竦めた。スタンドを動かし、トレイを枕頭台の上に載せる。魔法瓶がひとつとサンドイッチか何か、そんなものがナプキンを被せられ、載せられているようだった。
「彼女たちが眠るときはあんなもんですよ。夜明けが近くなると、文字通り墜落するように前後不覚になる。どこで倒れ込んでもいいよう、家の中は遮光を考えてますから」
「光には弱いんだね」
そうですね、と言って辰巳は静信の手足にかけた紐を解く。
「きみも正志郎氏も人間なのかい?」
「さあ、どうでしょう。なぜ?」
「眠るふうじゃないから。昼間に出歩くことができるようだし」
そうでなく、と辰巳は顔を上げた。
「そんなことを訊いてどうするんです? ひょっとして彼のような協力者になりたい?」
ああ、と静信は苦笑した。
「別にそういう意味じゃない。単に不思議だったから。もしもきみたちが人間なのだとしたら、屍鬼と人間は共存できるということになるんじゃないかと思って」
「下僕になることを共存、と言って差し支えないのであれば、共存は可能なんでしょうね」
「下僕なのかい?」
そうですね、と呟きながら辰巳はポットからコーヒーをカップに注ぎ、皿の上に被せたナプキンを取ってどうぞ、と言う。自分は椅子を引き寄せて見張るように腰を下ろした。
「その言葉で正しいんじゃないかな。彼は決して我々を裏切らない。少なくともそういう信頼関係を築くことには成功してますね。ただ、彼が裏切ってそれで我々が困るかというと、そんなこともないですし」
辰巳の答えはあまりにも日常めいていて、しかもいつかのように快活だった。
「我々はべつだん正志郎を必要としてはいないけど、役に立つから側に置いて生かしてるんです。本人もそれを望んでいますしね。彼が与えてくれる経済的な裏付けだけでも、我々には助けになってます。とはいえ、別に彼が死んで困るというものでもないですけど。千鶴は正式に彼の妻だから、正志郎が死んだって、まるまる千鶴と沙子が相続するだけですからね」
「奥さんには戸籍があるんだね」
「捏造する方法なんか、いくらでもありますよ。――まあ、だから正志郎がいないと困るというものでもない。千鶴や沙子に財産を残してくれた連中なんて、正志郎だけでもないですし。ただ、非常食料としては役に立ってますよ。その点では貴重かな。正志郎には逃げる意思がないから、食料に困ったときには、彼で食いつなげますからね。そういう形でならね、共存は可能だと思いますけど。理想を言うなら屍鬼ひとり当たりに、五人くらいの人間がいて襲撃を許してくれれば、屍鬼も飢えずに済むし、人間のほうも天寿を全うできる」
「それを受け入れる人間はいないだろうな……」
「でしょうね。一度や二度、襲ったぐらいでは死なないんですけど。とりあえず飢えをしのぐ程度に襲っておいて、それなりに手当てしてしばらく放っておけば、それでまた回復する」
辰巳は言って、苦笑するように笑みを零す。「だから、正志郎がいると、どうしても食料を得られないときには便利ですね。――その程度のことだから、対等の関係ではないでしょう。役に立つ間は生かしておくんだし、そうでなくなったら殺してしまえばいい。あれは隷属と呼ぶべきなんじゃないかな。正志郎が隷属していて、我々はそれを許している」
「我々ということは、きみは人間ではないんだね」
「沙子は人狼と言いますよ。ほら、映画じゃあ、吸血鬼には狼男の下男がつきものでしょう? だから人狼なんだそうです。べつに狼に変身するわけじゃありませんけどね」
「屍鬼ではない?」
「違うんじゃないかな。御存じの通り、ぼくは昼間にも出歩けますし。ごく普通の食事でも持ち堪えることができますしね。第一ぼくは、未だかつて死んだ経験がありませんから」
静信は瞬いた。
「そういうのもね、たまにいるんです。数は少ないけど。葬儀屋の速見なんかもそうですね。死なないで、ただ変わってしまうんですよ」
そう、と静信は呟いた。
「君たちの仲間はどのくらいいるんだい?」
「さあ。もうずいぶんな数になるんじゃないですか。村だけじゃなく、外からも犠牲者を連れてきていますしね。甦生する確率はそんなに高くもないけど、母数が大きければそれなりの数になるわけで」
辰巳はくすりと笑った。
「興味ありますか? 自分の甦生する確率に」
静信はただ首を振る。辰巳は首を傾げた。
「数人に一人、というところじゃないかな」
「そう……」静信は目を伏せ、「きみは、ぼくの父がどうなったか知らないか?」
「起きあがっていらっしゃいましたよ」あっさり言って、辰巳は苦笑する。「ただ、残念ながら簡単にお引き合わせできませんけどね。起き上がりはしたのだけど、やっぱり寝たきりなんです。江渕によると、生前の損傷は再生できないんだそうで」
「そう……」
では、と思った。父親は第二の生を望んだのに、そういった形でしかそれを得られなかったわけだ。
「ですから室井さんも甦生する確率が高い、というと少しは慰めになりますか?」
「いや。……あまり興味はないな、正直を言うと」
「それじゃあ、自分の生き死にに興味がないように聞こえますよ」
「そんなつもりはないけれども」と、静信は自分の手を見た。「甦生はしたくないな。ぼくは臆病だから自分の手を汚したくないんだよ。甦生するくらいなら死にたいと思うけれども、死にたいか、と訊かれると、ノーと答える。ぼくは死にたくないんだ。……怖い」
「そうは見えませんね」
「ぼくが落ち着いていられるのは、まだ自分が死ぬんだってことを信じていないからじゃないかな。別にこれは阿るわけではないんだけど、きみたちがぼくに対してそこまで酷いことをするわけがないと、思っているのかもしれない」
「だったら、そんな甘い期待は捨てたほうがいい、とお勧めしますよ」辰巳は言って、軽く笑う。「前に何かで読んだんですけど。連続殺人ってあるじゃないですか。快楽殺人者? そういう人間でもね、被害者と話をしてコミュニケーションを取っていると殺せなくなるんだそうです。被害者はモノから人間になってしまう。共感可能な人間を殺すことは、そういう連中にとってさえ辛いことなんでしょうね。だから、反対に被害者はできるだけコミュニケーションを取ろうとしてみるといいんだそうです。……けれども、我々にそれは通用しない」
静信は苦笑する。
「べつにぼくが話をしたがるのは、そういう意味じゃないよ。他にすることがないから。せめて紙と鉛筆があれば、黙って穏和しくしているけれど」
訊いておきます、と辰巳は笑う。
「……確かにそういう奴もいますけどね。というより、そういう時代もある、と言ったほうがいいのかな。最初はね、嫌がるんですよ、みんな。人を意図的に襲うなんてことは、誰にとっても怖いことなんでしょう。純粋に罪を犯すことを恐れる者もいるし、罰を恐れる者もいる。重大事すぎて背負いきれないんでしょうね。
けれども人間の心とはよくしたもので――我々を人間と呼んでよければ、の話ですけど――慣れてしまうんです。罰を恐れていた者は慣れるのが早い。罰されることがない間は、それはしても良いことなんですよ。すぐに罰なんか下されないことを確認して、意に介さなくなる。そうでない者は少し時間がかかりますが、それでも少しのことです。すぐに共感を断ち切ることを覚える。これは餌だと割り切るようになるんです」
「悲劇的だね」
「悲劇ですか?」
「じゃないのかな」静信は徹を思い出す。「命の在り方は根本的に変わってしまったのに、意識が変わっていないわけだから」
「そうですね。そうかもしれない。……だから、みんな自分を守るために、割り切ることを学ぶんですね。これは単なる餌だって。そう割り切った奴は、人間を餌として扱う。話しかけたりしないし、話しかけられても答えないんです。何かの弾みで会話してしまうと、襲えなくなったり、いまさらのように罪悪感を抱いて苦しんだりするんです。……ところが、それにも慣れる。よくしたもので。会話して、コミュニケーションを楽しんで、好い奴だな、と思って、じゃあ、夜明けも近づいてきたことだし、そろそろやろうか、と思う」
「そう……」
「沙子は言うんですよ、屍鬼と人間の関係は特殊だって。確かにそうだと思いますよ。同じ体系の記号を共有している捕食者と被捕食者なんて、屍鬼と人間くらいのものでしょうから。その特殊性を楽しむようになるんです。会って話をして、趣味が合うことを確認して、相手に好感を持っても、それと襲うこととは別なんです。いや、むしろ、相手に好感を持つと襲うことも嬉しかったりする。嫌な奴に喰わせてもらうなんて、気持ち悪いじゃないですか。どうせ喰わせてもらうなら、気持ちの良い奴がいいと思うのかな。楽しい時間の仕上げに相手を襲う。それで何の矛盾も感じなくなるんです」
「きみのように?」
そうですよ、と辰巳は破顔する。
「頭では倒錯した行為だな、と思うんですけどね。頭で思っているだけで、疑問はないです。|薹《とう》が立ってくると、そうなるんですよ。だから、室井さんも妙な期待はしないほうがいいと思うな」
「心しておくよ」
「本気で忠告してるんだけどな」
「ちゃんと聞いているつもりだけど」静信は苦笑する。「ぼくはまだ、状況を舐めてるんじゃないかな。知識として、一度や二度の襲撃では死なないと知っているから。現実に怠いだけで、特に苦痛もないし、むしろ気分は悪くない。軽い酩酊が続いている感じがするね」
「ああ……そうか」
「だから自分が死にかけてるんだってことを、差し迫ったこととして感じられないんじゃないかな。いまは、死ぬことは怖いけれども自分で選んできたんだからしょうがない、という気分になっているね。でも、ずっとこのままでいられるとも思えない。きっとこれから、あがくんだと思う。だから、ぼくを正志郎氏と同じ者のように考えて、油断しないほうがいいと思うよ」
ふうん、と辰巳は呟く。
「室井さんは面白いな。……沙子の言っていた通り」
「きみと沙子は対等なのかい?」
「ぼくは単なる下男ですよ。狼男ってのは吸血鬼の使い魔ですからね」
「きみが誰かに使われている、というのも妙な気がするな。沙子が君たちの中でいちばん偉いように見えるのも、考えてみれば不思議な話だね」
「実績の問題ですね。沙子は生き残る術を知ってるんです。自分の身の安全を自分の才覚で得ることができる。我々にとって、それは最も重要なことです。眠って目を覚ますためにさえ、完全に遮光された空間が必要なんですから。それを手に入れることは想像するほど簡単なことではないんですよ。間違いなく安全な寝場所を自分の手で得る才覚のない者は、悲惨な死を迎えることになる。けれども沙子は安全に生きる術に精通していて、人間や人間のシステムを最大限、有効に使う手を知っている。沙子は安全をくれます。実際、ほとんどの屍鬼は沙子の庇護を離れたら生きていけない。そのことをみんな分かっているんですよ」
「そうか……」
「ぼくが沙子に対して馴れ馴れしいのは、それだけ付き合いが長いから」
「長いのかい?」
とても、とだけ辰巳は答えた。
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尾崎孝江は庭に薄煙が漂っているのを見て、庭に出た。煙の所在を探して、土手道沿いの裏庭に廻ると、敏夫が屈み込んで紙を燃やしている。
「どうしたの。駄目じゃないの、こんなに空気が乾いているのに」
村はもともと秋口から冬場にかけて乾燥する所だが、今年はそれがひどかった。消防団からもつい先日、焚き火に注意してくれと回覧が来たばかりだった。
「いやですよ、火事なんか出したら何て言われるか」
小言を言いかけて、孝江は言葉をとぎらせた。うっそりと屈み込んだ敏夫の膝先に積まれている書類の束は、明らかにカルテだった。
「おまえ――それはカルテじゃないの?」
孝江は病院のことに疎いが、それでもカルテが簡単に処分してはならないものであることぐらいは知っている。敏夫も死んだ夫もこんなふうに庭で焼き捨てていたことなど、一度もない。
「いいんだ」と、敏夫は呟いて、炎の中に新たに書類を放り込む。「……書き損じなんだ」
敏夫はそう言ったが、放り込まれて炎にめくれ上がったカルテには、検査結果の帳票が貼られている。それが燃え上がっていく。
「だって、お前」
孝江は言いかけ、そして敏夫の妙に生気のない顔に固唾を呑んだ。顔色が悪い。目の下には濃い隈ができている。そのくせ妙に目ばかりが異様な光を放っているのだ。――まるで、憑かれたように。
だから言わないことじゃない、と孝江は身震いした。罹患したのだ。あれだけの数の患者と接触して移らないはずがない。看護婦も次々に辞めて、それだけでも事態の深刻さが分かろうというものだ。
「敏夫……病院に行きましょう。ちょっと待ってて、いま救急車を」
「必要ない」
「必要なくなんか、ありませんよ。おまえ、そんな顔色で。医者に診てもらう必要があるわ」
「医者はおれだ。……心配ない。別に何でもないから。ちょっと疲れているだけだ」
「でも」
「余計なことをするな」
敏夫は孝江を睨んだ。その形相に孝江は一歩、退る。何でもないという様子には見えない。けれども。
孝江はふと思う。これに罹患して助かった患者はいない。必ず訃報が入るのだ。ならば、敏夫は移ってなどいない。――そうでなければならないのだ。
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昼食を持ってきたのは、正志郎だった。ほとんど手つかずで残された朝のトレイを見て、正志郎は眉を顰める。
「食べたほうが良くはないですか」
静信は身を起こした。手足の縛めは朝に解かれたままだった。ドアには鍵がかけられており、枕許には辰巳が、用があれば鳴らすように、と言って置いていった電池式のブザーが置いてある。二度ほどそれを鳴らしたが、そのたびにやってきたのはどこかで見たような気もする老婆で、正志郎がやってきたのはこれが初めてだった。
「食欲がない?」
訊かれて、静信は頷いた。喉は乾いたが特に食べ物は欲しくなかった。それよりもひたすら眠かった。
「食べないと保ちませんよ、と言ったところで――お笑いに聞こえるでしょうね」
「眠いんです。……それだけです」
答えながら、静信は正志郎の顔を間近から眺めた。
「どうしました?」
「ずっと以前――夏の盛りに事故があったんです。その車の運転手が、あなたではないかという噂があって」
「わたしですか」
「桐敷さんというより、兼正の住人ではないかという噂があったんです。でもあの男とあなたは似ても似つかないな、と思って……」
正志郎は、わずかに苦笑するふうを見せた。
「奇妙な人だ。こうやって虜囚になっていながら、自分の将来や身体の心配をせずに、そんなことを考えているんですか」
「先々のことで考えるべきことは、ぼくにはもうないんじゃないかな。考えることがあるとすれば、過去のことだけだから」
「……夏に事故?」
「ええ。黒い高級車が村に入ってきて、子供を引っかけて逃げていったんです。やっぱりあれは、山入の義五郎さんを誘い出すために山入に向かったのかな」
「ああ、あの男のことですか。そう――そうでしょうね。確かに山入に人を向かわせたことがありますよ」
「ひとつ訊きたいことがあるのですが、いいですか」
「何です?」
「なぜ、あなた方はこの村に来たんでしょう。ぼくは少し前から、それがとても気になっているんです」
「それは我々――沙子たちにとって、この村がいろいろと好都合だからですね」
「たとえば土葬だったり?」
ええ、と正志郎は頷く。
「それはひょっとして、ぼくの書いたエッセイが原因なんでしょうか」
「ああ……それで気になっているわけだ」
「そうです。だとすれば、村を現在の状況に追い込んだそもそもの元凶はぼくだということになります。どうなんでしょう?」
正志郎は無言で頷いた。静信は息を吐いた。やはりそうだったのだ、と思う。静信が屍鬼を呼び込んだのだ。にもかかわらず、静信は村を見捨てた。
「ただ」と、正志郎は言う。「自分のせいだと思うのはどうでしょうね。――土葬の風習が沙子たちにとって都合が良いことは事実です。ただ、それだけではないんですよ。いろいろな意味で、この村は沙子たちにとって理想的な場所だった。もちろんあなたがああしてエッセイに書かなければ、外場のような理想的な場所があることを沙子も知りようがなかったのだけれども、書いたこと自体を悔いても仕方がありません。何かがひとつ違っていれば、沙子はこの場所を諦めたでしょう」
「慰めてくれるんですか? なぜ?」
「さあ。……あなたは沙子の敵には見えないせいかもしれない。わたしと同じく屍鬼の側の人間に見える。そのせいなのかもしれません」
「そうですね。たぶんぼくは屍鬼の敵なのではなく、人の敵なんでしょう。べつに屍鬼が人を狩ることを歓迎したいわけではないけれども、ぼくにはそれが仕方のないことに見えます。肉食獣が生命を狩るのと同じく、避けられないことに。それを咎めることはできないような気がするんです。……けれども人が屍鬼を狩ることは仕方ないことのように見えない。抵抗するのは当然のことだとしても、そのために屍鬼を殲滅することを、どうしても受容できないんです」
「そう……」
「あなたはなぜ、屍鬼の側にいるんですか?」
さあ、と正志郎は言い、すぐに軽く息を吐いた。
「わたしはね、人でなしの子供なんですよ」
静信が首を傾げると、正志郎は苦笑する。
「わたしの父親はそういう人間だったんです。地位も財産もあって社会的にはひとかどの男だったけれども、家庭にあっては家族を虐げ、社会にあっては他人を虐げた。わたしは加害者である父を憎んでいました。だが、わたしは人でなしの子供だから、誰も被害者として憐れんではくれないんですよ。むしろ蔑み、憎む。親族も社会も、人でなしの子供だと言って指弾するんです」
正志郎はじっと足許に視線を落とした。
「誰もわたしの存在を許さない。けれども、わたしの主観においては、わたしもまた被害者です。社会はわたしを人でなしの子だと言って排除するけれども、わたしにはなぜ自分がそういう扱いを受けなければならないのか、分からなかった」
「だから、社会に背を向けることで拒絶したかった?」
「少し違います。――屍鬼の存在は世間一般の価値基準で言うなら、悪なんでしょうね。人を殺して生きているわけですから。文字通りの人でなしです。鬼そのものなのだけど、それは屍鬼の罪ではないです。沙子たちもまた被害者で、人を殺さなければ生きていけない生き物になってしまっただけなんです」
「……分かります」
「屍鬼が人を狩ってなぜいけないんです。人だって人を狩るんです。自分が生きるため、欲望を満たすため、優越感を満たすために人を狩って引き裂く。父はまさしくそういう種類の人間で、だからこそ悪だとされ人でなしだと呼ばれてきたんです。そしてわたしは、そんな父に狩られてきたのだし、そんな父を持ったためにずっと人の群によって狩られてきた。それに比べれば、屍鬼が人を狩るのは屍鬼としての必然で、べつだん屍鬼が冷酷なわけでも悪だからでもないんです」
「ええ」
「わたしはずっと、わたしを虐げたものに復讐したいと思っていました。父に対しても社会に対しても加害者になりたかった。そうすることで被害者の立場から抜け出したかったんですよ。けれどもわたしは人の範疇にあるから、それをすることは許されないんです。どんなに父が憎くても殺すことは許されなかったように。――わたしは人だから人の秩序に捕まっている。誰もわたしが意図的に人を殺し、社会秩序を壊すことを許してはくれないんですよ。人でなしの子と呼び、秩序から弾き出し、自分たちは平然とわたしを狩るくせに、わたしが加害者になることは許さない。それは悪なんです。無理にそれを貫けば制裁が待っている。わたしは被害者という立場から出られない」
「ひょっとして屍鬼になりたかったのですか?」
「そうですね。……そうです。屍鬼になりたいんですよ、わたしは。本当に人でない生き物になって、人の範疇を越えてしまいたいんです。そうすればもう誰も、わたしが加害者になっても悪だと指弾することはできない。そういって責める者はいるでしょうが、そんな糾弾はナンセンスです。屍鬼が人を狩るのは必然で、善悪の問題ではないんですから。少なくともわたしはそう思って、糾弾をあざ笑っていられる。けれども屍鬼として甦生するためには、一度死ななくてはならないんです。死んでも確実に起きあがるものなら、わたしはいつでも喜んで殺されます。けれども、確実に甦生するとは限らない……」
「だから、せめて協力者でいる?」
「そういうことです。甦生するのは数人に一人です。しかも甦生するかどうかは、個人の体質によるところが大きいらしい。何か資質のようなものがあるんです。甦生を促す因子があるのか、甦生を抑制する因子があるのか、どちらにせよ、とりあえず何かそういうものがあって、これは明らかに遺伝する」
「辰巳くんもそんなことを言ってました」
「親のどちらかが甦生した場合、子供もまた甦生することが多い。多いといっても、そうでない場合に比べてにすぎないのですが、明らかに確率は上がります。子が甦生した場合にも親のどちらかが甦生することが多い。甦生しやすい血統のようなものがあるんですね。ですから両親が二人とも甦生した場合には、その子供は非常な高確率で甦生する。中には稀に、辰巳のように死なないまま変容するものもいる」
「人狼ですか?」
「沙子はそう呼んでいます。両親がともに甦生したからといって、必ず子供が人狼になるというものではありませんが、人狼になった者の両親は必ずどちらも甦生します。逆に両親がともに甦生しなかった場合、子供も甦生しないことが多い。甦生する子供は稀です。そして、わたしの両親はともに甦生しなかった」
「御両親も犠牲になったのですか」
「わたしが依頼したのです」正志郎は自嘲するように笑った。「わたしは千鶴にあった。彼女に襲われて、初めて彼女が何物だかを知りました。わたしは嬉しかった。わたしが父を殺すことは罪ですが、千鶴が父を殺すことは必然であって罪ではない。だから懇願したのです。父母を襲ってくれたら、父母から受け継ぐものの全てを千鶴に譲る、と言って。――そして父母は死んだ。千鶴はわたしを自由にしてくれました。だが、父母は甦生しなかった。わたしにはほとんど甦生する望みがないのです。極めてその可能性が低いことが分かっていて、いちど死んでみる勇気が、わたしにはない……」
「そう……」
「だからせめて手を貸している。屍鬼は秩序に敵対するものです。殺人が必然であるほど、秩序に反する存在なんです。屍鬼は秩序を破壊する。破壊してほしいと、わたしは願っています。そうしたらもう、秩序はわたしを排斥できない」
「破壊するのですか、本当に?」
「少なくとも沙子はそれをしようとしているんです」
静信は首を傾げた。
「沙子はここに、屍鬼のコロニーを作ろうとしているんです。村を乗っ取り、住人をことごとく入れ替えて、屍鬼の村を作ろうとしている」
「……馬鹿な」
「そうですか? 沙子はずっとそれを望んでて、そして夢想にすぎないと思っていた。けれども、外場という特殊な場所があったんです。あることを、あなたが教えてくれた」
「……あのエッセイで?」
「そうです。土葬の風習、内部だけで完結した社会。村は地理的にも社会的にも孤立している。狩り場となる都会までは、自動車道を使えば夜のうちに行って帰ってこれる距離です」
「無茶だ。そんなことができるはずがない」
「けれども実際、これだけの死人が出て、まだ外部には漏れていないじゃないですか」
「それは」と、静信は口ごもった。
「これはあなたが村のことを書いたせいじゃない。極めて特殊な村の成り立ちが、あまりにも沙子にとって好都合だったんです。あれを読んで、沙子は夢想を実現させる望みがあることに気づいた。人を雇って調べさせてみると、これ以上は望むべくもないほど、村の在りようは我々にとって好都合だった。何かひとつでも、不都合や要因があれば、沙子は諦めたでしょう。だが、それがほとんどなかった。無視できる程度だったんです」
「そして、兼正の先代を襲い、この土地を手に入れ、屍鬼にとってぜひとも必要なこの機密性の高い遮光の能力の高い建物を移築した……」
「そういうことです。そうして準備したというのに、いよいよ越してきた段になってみたら、沙子たちは村に入ることができなかったんです」
「虫送り、ですね。あなたがたは深夜、村にやってこようとして祭りに出会い、引き返した……」
「ええ。村の誰かに招いてもらう必要があった。だから|傀儡《かいらい》をひとり村に差し向けて、ちょっとした儲け話を餌に山入の老人を呼び出してもらったんです」
そして、と静信は思う。義五郎は外で襲われ、屍鬼に言われるまま彼らを招き、村を開いた。彼らは村に侵入した。そこから何もかもは始まったのだ。
村と外部との接点を切断し、村を孤立に追い込んだ。住人を間引き、屍鬼と入れ替えていくことで、村を浸食していった――。
「成功するでしょうか」
「すると思っていますよ。そのために、丹念に準備をしたんですから。駐在の後任を得るために――そうやって作った仲間を正式に村に移動させるためだけにも、大変な手間がかかっているんですよ」
「けれども、敏夫がいる……」
「尾崎さんはじきにいなくなるんです。そうでなければ仲間になる」
静信は目を瞠った。
「……襲ったのですか?」
「ええ。我々を狩るほどの機知と行動力を持った人は、もう村にはいないんです」
静信は少し考え、では、村は終わったのだ、と思った。
「……我々を憎みますか? あなたの村を、我々は蹂躙した」
「あなたがたを責める権利を、ぼくは持ちません」
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澄んだ空に笛の音がしていた。傾いた陽を掠めて黒く鳥が旋回する。タツは店先から空を仰いでそれを見た。笛の音はひとしきり流れて調子を変え、またひとくさり続く。誰かがすぐ近くで今夜の本番に備えて稽古をしているらしかった。
今日は珍しく人通りが多かった。御神楽のせいだ。神楽を担当する下集落の者たちは妙に張り切っている。これで厄を落とすのだと盛んに口にしていた。
(落ちるもんかね……)
いくら厄が落ちたところで、死んだ者は帰っては来ないだろう。落とすとすればもっと早く、暑い盛りでなければならなかったという気が、タツにはしている。
タツは何度も膝先に置いた紙に目を落とした。紙片と道を見比べながら考え込んでいると、笈太郎がやってくるのが見えた。
「タツさん、タツさん」
笈太郎は息せき切ってやってきて、武子が死んだ、と伝えた。
「ゆうべ、死んだんだとさ。誰も知らなくてさ。なにしろそこの息子ときたら、弔組にも連絡してなかったらしいんだよ」
「そう」
そうか、とタツは思った。ついにそれはタツの周辺に及んできたわけだ。日がな一日、無駄話をするしか能のない年寄りだからといって避けてはくれない。村を襲った何かは完全に村に覆い被さり、あとはもう、この村は死滅していくだけなのだ、と思った。
笈太郎は武子の息子を責めている。ろくに医者にも診せず、葬式も葬儀社に頼んでごく内輪で簡単に済ませるつもりらしい。そのことに憤っていた。武子が蔑ろにされているように感じるのだろう。何度も掌で目許を拭っていたが、半ば悔し涙なのに違いない。
「別に武子さんを疎かにしてるわけじゃないんだろう。寺じゃあ、もう葬式なんかできないんじゃないのかい。病院だってそうさ。事務長が薬もって走り回ってるぐらいだもの、手が足りないんだろう」
「だってさ」
「弔組だって、いい加減、勘弁してほしいだろうよ。これほど続いたんじゃあね」
「第一、医者に診せてどうなるもんでもないだろ」タツが言うと、笈太郎は口を噤んだ。「もう駄目なんだよ、この村は。そういう気がしないかい」
「縁起でもない。知ってるかい、今年の神楽は全番でやるんだってさ。それで厄を落とそうって話しさ。落ちると思うよ、おれは。夏からこっち、ちょうど祭りのない季節だったからね。それも按配として良くなかったんだよ」
「そうかね……」
そうさ、と笈太郎は言って、床几から立ち上がった。
「行って若い者を手伝ってやらないと。そうさ、何かなんでも今年の霜月神楽は、うまいことやってもらわないとな」
自分自身に言い聞かすように言って、笈太郎は村道を北へ、神社のほうへと歩いていく。その背を見送り、タツはまた紙片に目を落とした。いつにない人出で賑わう村道を眺め、夕陽が射し始めると周囲のものを片づけにかかった。床几を片づけ、店の雨戸を閉める。あちこちの戸締まりを確認しながら二階に昇った。道を見下ろす二階の寝間には、鞄がひとつ、すでに荷造りを終えてある。タツはあちこちを確認し、整理して、そして昼間から膝先に置いていた紙片をもう一度、眺めた。そこには溝辺町すらも離れた場所にある老人ホームの入所心得が書いてある。対して良くもなく、安くもなく、おまけに見ず知らずの土地にある民間の施設だったが、タツが探し始めてから空きが見つかったのは、ここだけだった。
こんなところでも、村に残っているよりはいいのに違いない。
タツはそれを折り畳み、バッグの中に押し込んだ。壁に貼ったバスの時刻表に目をやり、旅行鞄ひとつを提げて家を出た。外には夕闇が迫っている。神社のほうから渓流沿いに祭り囃子が響いてきていた。普段はもう人通りの絶える時間だ。それが今日だけは途切れることなく人が北へと歩いていく。タツはその流れに逆らい、南へと向かう。国道に出てバス停に立った。
バスはいくらも経たずにやってきた。タツは乗り込み、最後尾に坐る。動き始めたバスの車窓から、しばらくの間、遠ざかる村の明かりを見ていた。
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千鶴は屋敷の潜り戸を抜け、林道を登って脇道へと入っていった。道は斜面を下り、やがて樅の林から吐き出されて細い畦道へと繋がる。そこまで来ると、尾崎医院の明かりはすぐ近くだった。
屋敷を出るとき、正志郎が恨めしげな視線を寄越していたが、千鶴はそれを無視してきた。戸籍の上では夫でも、千鶴にとって正志郎は単なる下僕にすぎない。死んでみる度胸もない男が、これから死のうとする犠牲者を羨むなんて馬鹿げている。
祭り囃子が流れていた。それが神事に属するものだとは分かっていたが、響いてくる笛の音は特に疎ましくも忌まわしくもなかった。むしろ妙に気分を高揚させる。プリミティブな何かを掻き立てる音色をしている、と思う。
それを聞きながら畦道を辿った。土手道から病院の裏庭に入り込み、明かりの点った窓を叩く。ベッドに横になっていた男は身を起こし、中へと促すように顎をしゃくった。千鶴は部屋の中に入り込んだ。ローテーブルの上には書類が揃えられている。俯いた男に目をやり、カルテをいくつか手に取った。どれもきちんと書き改められている。
「お疲れだったわね」
「そうでもなかった。少なくとも、きみの指示通りに何かをしようとする限り、苦はなかったよ。こういうのを憑かれたよう、と言うんだろう」
「気分はどう?」
「悪くない。怠いし眠いが、気分はいいな……」
千鶴は微笑む。そんなものだったかしら、と思った。千鶴が犠牲者だったのは、もう五十年も前のことだ。辰巳に襲われた当初、どんな気分だったのか、そんなことは忘れてしまった。胸を掻き毟って倒れたときの、自分は死のだろうかという恐怖なら、今も生々しく覚えているけれども。
「沙子もこれを見たら喜ぶと思うわ。沙子は役に立つ者にはとても寛容なの」
「人間にすぎない桐敷氏や辰巳を、生かしているみたいに?」
「そうね。――でも、辰巳は違うわ。あれは仲間なの。数は少ないけど、ああいうのもいるのよ」
「へえ……」
「脈もあるし、体温もある。本当は辰巳みたいな者がたくさんいてくれると助かるんだけど。でも、なかなか人狼は生まれないの。三十人かそこら襲ってやっと一人出る、というところ。でも、この村のおかけでずいぶん増えたわ。人狼に限らず、仲間もね」
「村を乗っ取れるぐらい?」
千鶴は笑った。
「そうね。早く村が閉じてしまえばいいのに。そうしたら、本当に自由に村の中を歩けるわ。買い物をして立ち話をして――おままごとみたいね」
「それがきみたちの望みか?」
「そうね。安全な拠点がほしいの。隠れていて安全なのじゃなくて、隠れる必要のない安全な場所が。もう少しだわ。もうじきそれが手にはいる」
「そう簡単にいくかね」
「沙子は最後の詰めが難しいんだ、と言うけれども、ここまで来たら成功したも同然でしょう? いちばんの脅威だったあなたも、もう敵ではないわけだし」
「いちばんの脅威はおれじゃない。村の連中だよ。屍鬼の存在に気づいていながら、目を閉じて耳を覆って息を潜めている連中。あいつらは現実を拒絶しているだけで、あんたたちを許容しているわけではないんだからな」
「そう?」
「成功させようと思うなら、もっと表に出ることだな」
まさか、と千鶴は呟いた。
「そのほうがいいんだよ。そもそも人間は、嘘くさい嘘のほうに騙されやすいんだ。見え透いた嘘を厚顔無恥に主張すれば、こんな嘘くさい嘘をここまで厚顔無恥に言ってのけたりはしないだろうと思う」言って、敏夫は投げ遣りに笑う。「だから表に出たほうがいいんだ。あんたたちが当たり前の人間の顔をしていれば連中はそれを信じる。連中はそのほうが都合がいいんだ。なによりもきみたちに単なる人間であってほしいんだよ。だからそうアピールすれば、それを信じる。むしろそう信じさせてほしいんだ。」
千鶴は首を傾げた。そう――いうものかもしれない。
「これからの仕上げがしやすいようにしてやろうか?」
「……どうやって?」
「おれが、村の重鎮にきみや桐敷氏を引き合わせるんだよ。静信がまだ生きているんなら、静信も使うと申し分ない。村にとっちゃ、尾崎と室井は偉いんだ。おれたちが保証を与えれば、連中は安心する。古老がきみたちを受け入れれば、いっそうのこと信用する」
「わたし、昼間には出歩けないのよ?」
「夜に出歩けばいいだろう、胸を張って。あんたが昼間に出歩けないことぐらい、おれがいくらでも保証してやるよ。SLEなんだろう? なんだったら診断書を書くぜ。診断書自体は江渕さんでも出せるだろうが、村じゃあ、そこに尾崎の名前があるかどうかで、重みがぜんぜん違ってくるんだ」
「前向きね。……でも、残念ながら、最近は村の夜道を歩いても、出会うのは仲間ばかりよ」
「今日はそうじゃない」
ああ、と千鶴は呟いた。
「お祭りなのね。お囃子が聞こえていたわ」
「霜月神楽だ。こういうときにこそ表に出るんだ。別に不自然じゃないだろう。村に転居してきた人間が、祭り囃子に浮かれて様子を見に出てくるんだ。そうでないほうが不自然なくらいだよ」
「駄目よ、神事は」
「肝心の場所に近寄らなきゃいいんだろう。見物に来たと言って、遠巻きにうろうろしていれば、それで事足りる。実際にきみたちを境内で見かけたかどうかなんて、誰も問題になんかしない」
千鶴は少し考えた。それは悪くない提案に思えた。第一、村がこんなに賑やかなのに、身を潜めてこそこそしているしかないなんて、あまりにもつまらない。
「尾崎先生が案内してくれるの?」
ああ、と敏夫は頷く。億劫そうに立ち上がった。
「辛そうね」
「気分は悪くないんだが、ナマケモノになった気がするな。――病院のほうへ廻ってくれ」
「なぜ?」
「おれとあんたが一緒に歩いてたんじゃ、唐突だろう。それらしい演出をするのさ」
千鶴は首を傾げ、とりあえず部屋から庭へと出て病院に廻った。裏口の前にいると、敏夫が大儀そうにドアを開ける。処置室に連れていって、千鶴の左手に包帯を巻いた。
「確かに、それらしい演出ね」
千鶴は掌と甲を覆った包帯を見る。
「包丁で切ったと言うんだな」
「ずいぶん深手みたい」
「そのくらいでなきゃ印象に残らんだろう。小芋の皮を剥こうとして包丁が滑ったんだ。親指の付け根を切った。そういう処置をしてある」
「細かいのねむ
「それがリアリティってもんさ。よくあるんだよ」
千鶴は笑った。
「そういえば、小芋は滑るのね。わたしも昔、よく切ったわ。……懐かしい」
台所に立って包丁を握ることなど絶えて久しい。自分が包丁を握っていて、そして怪我をして、この包帯の下に傷があるのだと想像するのは、妙に楽しかった。寄る辺を見つけたような安堵感がある。
「小芋を剥く屍鬼というのは、冗談のようだな」
「失礼ね。これでもわたしは昔、人間だったのよ」
「どのくらい昔?」
「さあ?」
「結婚してたのかい? 子供は?」
「夫は子供を与えてくれるほど、長い間側にいなかったわ。……そして南方で死んだの」
千鶴は目を細める。もう顔も忘れてしまった。思い起こそうとするとわずかに、漠然とした喜びと悲しみとが深い井戸の底の水面に波紋のように甦るだけ。これもじきに忘れてしまうのだろう。千鶴はじっと、包帯の下の、かつて存在したことのある傷を眺めた。
「そんなに嬉しいかい。まるで特大の宝石がついた指輪でも眺めてるふうだな」
敏夫は倦怠感の漂う顔で苦笑する。
「そうね。気分的には近いわ。……不思議ね。わたし、人間に戻りたいのかしら。そんなこと、もうとっくにどうでもよくなったと思ったのに」
千鶴は包帯をためつすがめつしてから、敏夫を促した。
「ねえ、行きましょう」
「包帯を見せびらかしに?」
「ええ、そう。とても自慢で嬉しいの。おかしい?」
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おはよう、と声がして、静信は机から顔を上げた。机の上には紙が広げられている。それに目を留め、沙子は首を傾ける。
「何かほしいものはないかと訊かれて。紙と鉛筆がほしいと言ったら桐敷さんが与えてくれたのだけど、いけなかっただろうか」
「正志郎が? いけなくはなけれど……いいの、起きて?」
うん、とだけ静信は答えた。
「お仕事中じゃあ、お邪魔かしら」
「別に、そういうことじゃないよ」と、静信は首を振る。別にもう、中断されて困るようなことはない。――少なくとも今は、ないつもりでいる。家を出たときに、何もかもここまでなのだと見切りをつけてきた。「……他にすることがないから」
「じゃあ、ここにいてお話しをしても構わない?」
どうぞ、と答え、静信は微かに笑った。沙子は首を傾ける。
「……なに?」
「いや。きみたちは面白いな、と思って。辰巳くんと桐敷さんがね、何かというと顔を出すんだよ。そして話をしていく。ぼくも退屈しているからありがたいのだけど、まるで会話に飢えてるみたいだね」
「そうなのかもしれないわ」沙子は微笑って目を伏せた。「これを言うと、とても妙な感じがすると思うんだけど、わたしたちは人恋しいの。……あまり人と話をする機会がないから」
「お互いがいるだろう?」
「そうね。でも、仲間は人じゃないもの。そういう意味で人恋しいの。人と話をすること自体は、いくらでもあるけど、そういうとき、わたしたちは自分が屍鬼だということを隠してる。正志郎だって、やっぱり自分を偽っているんだ。だから、何も隠さずに済む人と話ができるのが嬉しいの」
「仲間は駄目なのかい?」
「駄目じゃないわ。でも、違うの。たとえば室井さんなら、わたしたちが人を襲うことは仕方ないことだって言ってくれるでしょ? もちろん仲間と話していてもそういうわ。でも、同じ言葉でも意味が違うの。仲間が仕方がないって言うのは、そう考えないとやってられないという意味だもの」
「……そうか」
「正志郎は人だけど、人の陣営にはいない。……そうね、閉塞感があるんだと思うの。仲間と話をしているとき、わたしたちは常に心のどこかで、仲間とでなければこんなふうに話のできない自分を意識してるんだと思うわ。楽しくないわけではないのだけど、どこか虚しい……」
「なのに、仲間だけの村がほしいのかい?」
沙子は静信を見る。
「そんなことまで喋ったの? 正志郎ったら」
「聞いてはいけないことだったんなら、忘れるよ」
「そんなわけじゃないけど……」沙子は俯く。「呆れたでしょう、子供っぽくて」
「子供っぽい? なぜ?」
「……自分でそういう気がするわ。とても子供じみたことだって。わたし、ずっと一人だったの。一人で狩りをして、一人で隠れて。とても寂しくて心細かった。どこかで仲間に会わないかしら、ってそればかり考えてたわ。仲間に会って、いろんなことを分かち合えたらいいのに、って」
「誰か仲間が、きみを火葬から救ってくれたんじゃなかったのかい?」
「……違うわ。必ず火葬になるような時代じゃなかったの、って言ったら驚く?」
静信は瞬いたが、どちらとも答えなかった。沙子は笑う。
「だから勝手に起きあがったの」
「きみを襲った誰かがいたんだろう?」
「いたわ、もちろん。もう忘れちゃったけど」
「――本当に?」
沙子は目を逸らし、瞬く。
「お父様のお友達が、あの人を連れてきたの。異国からのお客様で、その人はしばらくうちに逗留することになった。兄弟やねえやは怖がってたけど、わたしは面白かった。言葉なんかこれっぽっちも分からなかったけど、身振り手振りで話をするのが楽しかったの。別に変だとも思わなかった。その人は昼間にも出歩けたんだもの」
「人狼だった?」
「たぶんね。でも、近所で不幸が続いて、それでお客様はいられなくなったの。きっとあの人のせいだって。理由なんかない。単にその人が異国の人だったから。そういう時代だったの。それでお父様も置いておけなくなって、その人は別のつてを頼って関西のほうに行くことになって。出発の準備をお手伝いしてたとき、あの人が来たの……」
「そう……それで?」
「それでおしまい。目が覚めたら棺桶の中だった。何も分からなくて怖かったわ。守り刀があったから、それで一生懸命、蓋を切って土を掘ったの。たくさん泣いたし叫んだわ。そしたら|隠坊《おんぼう》が来て助けてくれたの。家に連れていかれて、知らせを走らせてくれて、親切にしてもらって――その人をわたし襲ったの」
静信は息を潜めた。
「とてもお腹が空いてたんだもの。何がなんだか分からなくて、どうしてそうなるのか分からなかったけど、その人を襲った。そしたらやっと飢えが治まったの。それから眠くなって――それとも、迎えが先に来たんだったかしら。もう忘れちゃったわ。とにかく家に戻って、そしてすぐに納戸の中に入れられたの。いろんなことがあった気がするけど、覚えてない。……記憶って摩耗していくのね。
たくさん苦しい思いをしたことは覚えているわ。陽に焦がされたり、すごくひもじかったり。お父さまがひどく怒ったのもお母さまが泣いてたのも覚えてる。納戸みたいなところに入れられて、それから別の場所にやられたの。別宅の近くだったと思うわ。蔵の中に押し込められて、それきり誰にも会わなくなった。日に一度、人が御飯を運んでくるの。だから、その人を襲ってた。次から次へと顔ぶれが変わってたわ。……今から思うと怖い話ね」
「……そうだね」
沙子の両親は、彼女を養ったのだ。遠方にやって捨て置きながら、それでも次々に奉公人を入れて沙子に与えた。――そういうことなのだろう。
「そこでたくさんのことを知ったし、学んだわ。自分がどういう生き物だか理解した。それでそこを逃げ出したの。親切な人を犠牲にしながら家に逃げ戻ったら、もう家には別の人が住んでた。家族は越してたの。だから捜した。ずっとずっと捜したの。そうしてるうちにお母様が生きてるはずもないほど時間が経った。それでも諦めきれないでいたら、妹だって死んで当然なほど時間が経った。それでやっと諦めたの……」
嘘だ、と静信は思った。沙子は諦めていない。だから千鶴や正志郎を側に置いておくのだ。だからこそ村を襲った。二度と取り戻せないものだから、自分の手で作ることにしたのだ。
「わたし、ずっと一人で、とても寂しかった。心細かったの。ずっと仲間を作ることができるなんて知らなかったから、本当に仲間に会いたかった。それができるんだってやっと分かって、なのにみんなわたしを罵って逃げていくの。罵らなかったのは、辰巳だけ」
「……そう」
「辰巳がいて、仲間を作ることは前よりも簡単になったけど、やっぱり離れていく人がいて、食事に出かけたまま帰ってこない人もいたわ。ずっととても心細いままだった。千鶴がいて、正志郎がいても、江渕さんがいて佳枝さんがいても、わたしたち、この広い世界の片隅で、お互いの顔を見ながら閉塞してないといけないの。もっと自由に散歩ができて、ご近所の人と自分を偽ることなく立ち話ができて、お友達を作ったり仲違いしたりできたらどんなにいいだろう、と思ったわ」
「帰属する家と社会がほしかったんだね」
「……子供っぽいわね」
静信は答えなかった。確かに子供じみていると言って言えなくもなかったが、それは幼い望みであるだけに、根源的な望みであるように思われた。母体を慕うのに似ている。自分を抱きかかえ、庇護し、くるみこんでくれる何かが欲しいのだ。そう願わない人間など、果たしているのだろうか。
「でも」と、沙子は呟く。どこか決然としたものが浮かんでいた。「わたしたちには安心して休める場所が必要なの、これは確かだわ。どこかに根付いて、共同体の一部になって、自分の居場所を作る必要が。わたしたちは元々、人間なのだもの。群を作り、社会を作る生き物なの。けれども、人の社会はわたしたちの存在を受容してくれない。だから自分たちだけの社会を作るの。わたしたちの種が存続するために、自分たちのための、種の性質に応じた秩序が必要なのよ」
「それをここに作る?」
「作るわ。もうじき、できる……」
そうか、とだけ静信は呟いた。沙子は軽く息を吐き、そして少し躊躇う様子を見せる。
「室井さん、わたし、お腹が空いたの」
辰巳の言った通りだ、と思った。心情的な好悪は、行為に何の関係も持たないのだ。たぶん沙子は、こうして小さな友人のような顔をして、そのくせ静信を死に至らしめるのだろう。――それが沙子にとっての必然だから。
そうか、と改めて思った。やはり自分はここで死ぬのだ。不思議に、怒りも悔しさもなかった。ただ、自分が死んだら「自分」という存在はどこに行くのだろう、と思った。
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大川かず子は、店の前を片づけていて、商店街をやってくる男女を見て目を丸くした。男のほうは敏夫だが、横にいる女は見かけない顔だった。にもかかわらず、それが誰だか、かず子にはすぐに分かった。兼正の――あの。
談笑しながら近づいてきた二人は、かず子の姿に目を留めて会釈をした。女のほうは手に真新しい包帯をしていた。
「こんばんはむ
かず子は気を呑まれて、口ごもり、ただ頭だけを下げた。どういうことだろう。あの兼正の住人が村に降りてくるなんて。それもこんな祭りの晩に、敏夫と楽しげに話をしながらそぞろ歩きをしているなんて。
「あの……そちらは」
かず子が問うと、敏夫は兼正の、と答える。
「奥さんだよ。桐敷千鶴さん」
「あら、まあ……それはどうも」
口の中で答えながら、かず子は困惑していた。あの屋敷の住人は決して村には下りてこないはずだ。こんなふうに村の誰かと世間話をするなんてあり得ない。あるとすれば、それは夜の片隅でこっそりともたれ、そうしてその誰かはその後に急死するか、さもなければ消えるのだと、そんな気がしていた。
「奥さんが、この賑やかな音は何だって言うんでね」
ああ、とかず子は呟いた。
「今日は祭りなんですよ。御神楽で。そんな大した祭りじゃないんですけど。別に屋台が出るわけでもないし、近隣から見物客が来るわけでもないんで」
「わたし、御神楽って側で見たことがないんです」
そう言って、千鶴は笑った。とこにも翳りはなく、本当に楽しげに見えた。
「あらまあ」
「都会育ちだったものですから、お祭りや年中行事には本当に縁がなくて」
そうなんですか、とかず子は子供のように浮かれた千鶴子を見た。怪我をして病院に行って、それで祭りの話を聞いて出てきたということなのだろうか。かず子の視線に気づいたのか、千鶴は左手を示して笑う。
「みっともないでしょう? 小芋が手の中から逃げ出しちゃったんです」
「ああ」と、かず子は困惑したまま笑った。「わたしもよくやるんですよ」
「根がおっちょこちょいなのか、怪我が絶えなくて。娘なんて、料理してるんだか料理されてるんだか分からない、なんて意地悪をいうんです」
まあ、とかず子は声を上げて笑った。そうやって笑ってみると、いままで兼正の住人について感じてきた不信感が、いかにも馬鹿馬鹿しいものに思えた。そう、よくよく振り返ってみると、何の根拠もなかったことだ。村の様子が何やらおかしいのは確かだが、それと兼正の住人を積極的に結びつけるものなど、何もない。なのに自分はそこに何かの関係があるに違いないと、いつの間にか思いこんでいたらしい。自分でもそうとは意識しないままに。
「なんでもお体が悪いってうかがったんですけど、散歩に出てこられていいんですか」
「このところ調子がいいんです。引越した後は、疲れたのかずっと調子が悪くて寝たり起きたりだったんですけど」
「おまけに今年は暑かったですからねえ」
「そうなんですよ。本当にお天気続きで。お天気がいいと、身体に堪えてしまって」
「あら、そうなんですか?」
「光線過敏症ってのがあるんだよ。日光が当たると皮膚疾患が起こったり、体調を壊すことがあってね」
「まあ……そうなんですか。大変ですねえ」
「家の中で穏和しくしていればいいことなんですけど。でも、天気がいいと、ついお洗濯をしたくなったりするんです。シーツなんかを洗って、庭中に干すのって、とても楽しそうな気がして」
千鶴は子供が遊びの話をするように笑う。
「そういうことをするから、寝込む破目になるんだよ」
はい、と千鶴は敏夫に向かって首を竦める。その様子が本当に子供じみていて、微笑ましかった。自分が兼正の住人に対し、なぜかしら禍々しいイメージを持っていたのが本当に愚かしく思えた。
「じゃあ、今夜は楽しんでらしてくださいよ。一晩中やってますから」
かず子が笑うと、千鶴も笑う。
「ありがとうございます」
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敏夫は大川かず子が目に見えて警戒心を解いていくのを理解して、皮肉な気分にならずにはいられなかった。たったこれだけのことで、連中はあれほど明らかな嫌疑を投げてするのだ、と思う。どこまでも愚かな。――結局のところ、自分の見たいものを見ているだけ。
かず子に限らず、足を止めて話しかけてくる男女の誰もがそうだった。堂々としていれば、かえって誰も疑わない、と言ったのは敏夫自身だが、それがこうまで図に当たって、呆れずにはいられない。
呆れると言えば、それは千鶴に対しても同様だった。村で殺戮を|恣《ほしいまま》にしてきた女が――あの屋敷に住まい、そこから村に対して暴力的な支配力を行使してきた女が、自分の手に巻かれた包帯を得意げに見ている。心底嬉しそうなのが奇妙だった。
(なんて茶番だ……)
思いながら村道を北へ歩いていると、一之橋の袂に出た。加藤電気店のゆきえは、やはりかず子と同じようにうち解けた様子で立ち話をする。そのゆきえと別れ、千鶴は橋の袂で足を止めた。羨むように神社のほうを見ていた。
「行ってみるか?」
「……行ってみたいわ。でも、だめ」
「なぜ? 何か実害があるのかい」
「さあ……試してみたことがないから分からないわ。沙子は聖書を読んだりするから、実害はないんじゃないかしら。でも、駄目なの。もう足が竦んでる」
「試してみたらどうだい。少しでも近づけば近づくほど、村の者はきみたちに対する警戒心を捨てるんだ」
「本当にそうね」と、千鶴は小さく笑った。「みんな最初はとっても不審そうにして、それからだんだん、警戒心を解いていくのね。なんだ、って顔に書いてあるみたいだったわ」
「おれの言った通りだったろう」
「本当に。なんて簡単なのかしら」
「人間は単純な生き物なんだよ。……言ってみれば。怖ければ掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まっていればいい」
言って、敏夫は千鶴の手首を握った。千鶴は戯けて首を傾げる。
「これはなんだかスキャンダラスじゃない? こんな平和な村では、ちょっと問題だと思うんだけど」
「暗いから分かりゃしないさ。橋の向こうは人も多いし。第一、多少の噂になったところで構うものか」
そう、と千鶴は笑う。
「じゃあ、行けるところまで。でも無理強いはしないで。本当に怖いの」
ああ、と敏夫は頷いた。橋に向かって足を踏み出す。神社へと向かう善男善女が、やはり驚いたように敏夫と千鶴を見ていた。
「おや――若先生」橋の中程で声をかけてきたのは、外場の村迫宗秀だった。敏夫に会釈して、千鶴へと目をやる。「そちらは桐敷の奥さんですかね」
「そう。御神楽を見たことがないって言うんでね。でも、人混みに参ってるらしいな。……どうします、引き返しますか」
千鶴に向けて問うと、千鶴は迷うようにする。本当に腰が引けている。怖いものを見るように鳥居を見上げた。
「宗秀さん、そっちからもちょっと盾になってあげてください。身体の弱い方なんで心配だ」
ああ、と宗秀は頷いて、千鶴の脇に立つ。そうしているうちに、また顔見知りと出会う。話をしながら橋を渡っているうちに、徐々に敏夫の――千鶴の周囲には人垣ができはじめた。
「尾崎先生……だめです」
千鶴は足を止めて敏夫の手を引く。ちょうど橋を渡りきったところ、鳥居の真下にさしかかろうとしていた。
「どうしました」
「気分が悪くて……。せっかく連れてきていただいたんだけど、戻ります」
「戻るんじゃあ、かえって大変でしょう。社務所がある。休ませてもらいましょう」
「いえ、でも」
敏夫は周囲の人間を促した。
「ちょっと支えてあげてください。社務所へ」
はあ、と頷いて千鶴の腕に手をかけたのは、上外場の田茂定市だった。千鶴はそれを嫌がるように蹲る。
「いえ……だめ。帰ります」
「その様子じゃ無理ですよ」敏夫は言って、すぐ間近の人出の中に、清水の顔を見つけた。「清水さん、済みませんが手を貸してください」
清水は怪訝そうにして敏夫らのほうに歩み寄ってきた。
「お久しぶりです。――どうしたんですか」
「桐敷の奥さんが祭りを見たいと言ってね。ここまで来たんだけど、具合が悪いらしくて。社務所まで運びたいんだよ」
はあ、と清水は、敏夫のまわりにできていた人垣を見た。これだけの人数がいるじゃないか、とその顔には書いてあるようだった。
お願いします、と言って、敏夫は千鶴の手首を清水に引き渡す。千鶴を背後から引き立たせて鳥居の向こうへと押し出した。
「……いや! お願い、帰ります。家に帰して」
千鶴は頭を振った。威圧感のようなものが自分を取り巻いて押しつぶそうとするように感じられた。良くない予感のようなもの。とてもこれ以上は、前に進めない。妙に浮かれた祭り囃子が、帰って神経を炙るようだった。
「どうも妙だな」と、敏夫は言う。「あんたはまるで神社を怖がっているみたいだね、千鶴さん」
千鶴は顔を上げ、背後を振り返った。蹲った身体を無理にも引き立てられ、周囲には人垣ができている。それは完全に千鶴を包囲し、右から左から伸びた手が千鶴の身体を拘束していた。
千鶴の背後で薄く笑っている男を見る。
「……顔色が悪い。社務所で休んだほうがいい。それとも社務所には行けない理由でもあるのかい」
千鶴は目を見開いた。ようやく、騙されたのだ、と気が付いた。周囲を見ると、周囲の人間も不審そうに千鶴と敏夫を見比べている。先生、と中の誰かが困惑したように声をかけた。敏夫は千鶴の首筋に手を伸ばし、平然と社務所を示す。
「抱え上げてくれ。体温が下がって徐脈が出ている」
「……やめて」
「手当が必要なんだよ」
やめて、と千鶴は声を上げたが、男たちは迷ったように顔を見交わし合って、それから千鶴を抱え上げた。鳥居が頭上を通過していく。本殿の建物が近づき、祭り囃子は高まる。鐘の音がした。それが背筋を粟立てた。
「やめて! いや!」
千鶴は身もがいた。あまりの恐怖に、そうしないではいられなかった。人々の手を逃れ、地面に転がり落ち、遮二無二這って逃げ出そうとした。
清水は女のその様子を見て、何か不審なものを感じないではいられなかった。この狼狽ぶりは何なのだろう。まるで恐ろしいものから逃げようとして我を失っているように見える。あまりにも異様な様子に、手を出しかね、呆然と見ていると、敏夫が耳元で囁いた。
「逃がすな。――あんたの娘を殺した犯人だ」
清水は敏夫を振り返り、そして女を振り返った。とっさに腕を伸ばし、這って逃げようとする女の肩を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。
「運んでくれ。いよいよ様子がおかしい」
敏夫の声に、呆気にとられていた男たちが動いた。清水も狼狽したまま女を羽交い締め、そしてその匂いに気づいた。いかにも高そうな香水の匂いだった。清水はこの匂いに覚えがあった。
(娘を……殺した……)
恵の部屋に残っていた匂いだ。この夏、突然倒れて逝ってしまった一人娘。十六の誕生日を目前にして。――清水はどれほど苦しんだだろう。
「誰か、社務所に行って場所を空けてもらってくれ」
敏夫が指示しているのが聞こえた。女は清水の――周囲の手を振り解こうと手足を振りまわして暴れている。拳が当たった。鈍い痛みがあった。それが清水の空虚な胸の中に淀んで潜めていた何かを呼び覚ました。
(……この女が)
自分から娘を奪った。そう、まさしく兼正にあの異様な家が建ってからだ、すべての災厄が始まったのは。娘を失った痛み、空洞と化した家庭の冷えた空気が与えた痛み、職場や隣近所の者がまるで汚染されたものを見るようにして自分たちを見た。その排除されたことに対する痛み。もはやそれを嘆く気力さえ失っていたのに、今になってそれらの痛みが生々しく蘇り、対象不明の怒りとなって清水を身震いさせた。
「清水さん、頸」敏夫に言われ、清水は我に返った。敏夫を見返すと、敏夫は自分の頸部を指さしている。「脈を見てくれ。救急車を呼ぶかどうかを」
考えないと、という敏夫の声を聞きながら、清水は思わず、言われるままに女の首筋に手を当てた。女の肌は異様なまでに冷たかった。これほど声を上げ、暴れているのに汗もかいていなければ、温もりも感じられない。それはまるで、娘の肌のようだった。突然、死んだ恵。清水は娘に取り縋って泣いた。その時の肌の。
清水は夢中で手を動かした。首筋を探るが、何の脈動も感じられない。目を見開いて、たまらず腕を伸ばした。女の胸を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]むようにして探る。なのに何も感じられない。――心拍が、ない。
敏夫を振り返ると、敏夫は頷く。そうか、と思った。敏夫はこれを知っていたのだ。そして清水に理解させた。
「社務所に運んでくれ。本殿でも、舞殿でもいい」
清水は率先して抱え上げ、舞殿のほうに引きずった。女が悲鳴を上げる。周囲の者たちが、徐々に異常に気づき始めた。
「なんの騒ぎなんだい」
人混みから責めるような声が上がる。大川富雄だった。大川は明らかに神事を妨げる騒ぎに対して怒っている。大川も家族を失ったのだったか。息子が死んだと聞いた。女の飢え区でを引いているのは村迫宗秀だった。ここでも孫と息子が死んでいる。いや、女の身体に手をかけた者のうち、近親者の死を経験していない者などいないのだろう。それほどの災厄が村を襲った。その元凶がこの女だ。
「――鬼だ」
清水は吐き出した。
「こいつがうちの娘を殺したんだ」
「あんた、何を馬鹿な」
間近の誰かが言った。清水は声を張り上げる。
「馬鹿なもんか。こいつには脈がない!」
誰もが一瞬、呆気にとられた。手の力が緩んで、千鶴は身もがき、拘束を離れて逃げたそうとした。髪を振り乱し、着衣を乱したまま土の上を這い、人波をかいくぐっていこうとする。大川はその髪を捕らえた。何だって、と清水に大川が捕らえた千鶴の脈を取った。しん、と周囲の者が押し黙る。不審そうな喧噪が人垣の外から流れ込んだ。この騒ぎに気を取られたのか、妙に上の空の祭り囃子がそれに重なり、妙な緊張感を作った。
敏夫は顔を上げ、大川を見た。
「確かに脈がないな」
馬鹿な、と大川は捕らえた女を見る。
「嘘だと思うなら、胸に耳を当ててみるといい」
敏夫が言って、大川は女をその場に引き倒した。周囲から腕が伸び、悲鳴を上げる女の手足を拘束する。大川は真っ先に耳を当てた。悲鳴と喧噪に邪魔されて確かなことは分からなかったが、確かに何も聞こえなかったような気がした。
「本当だ!」
周囲にいた者たちが声を上げた。敏夫は一歩離れ、人々が千鶴に群がるのを薄く笑って見ていた。千鶴は無惨な贄のように、悲鳴を上げながら人々の間を引きずり回され、舞殿のほうへと押し出されていった。いつの間にか千鶴は前をはだけられ、集まった男女によって無慈悲な蹂躙を受けている。この騒ぎの中では心音など、していても確認できまい。なのに、本当だ、という叫びがあちこちでしていた。確認するまでもなく、誰もがもとより知っているのだ。ただ、確かにそれを確認したという形式が必要なだけのことで。
起き上がり、と叫んだ女の金切り声が、誰のものだったかは分からない。鬼だ、とさらに叫ぶ声があって、それで千鶴は鼓動を確かめようとする手から、憎しみを込めて振り上げられる手から手へと引き回されることになった。祭り囃子はやんでいる。いつの間にか舞い方も舞台を下り、代わりに千鶴がそこに追い上げられようとしていた。そして、投石が始まった。
その直径十五センチほどの、ひときわ大きな石を誰が投げたのか、それは永遠に分からないだろう。ひょっとしたら、投げた本人にも。
それは千鶴の側頭部を直撃し、千鶴は横倒しになって舞殿から転がり落ちた。千鶴は人垣の前に|頽《くずお》れ、何度か痙攣した挙げ句に動かなくなった。投石によって傷だらけになった身体がその場に残された。
敵を倒した、という高揚感に雄叫びを上げた者もいたが、千鶴が転がり落ちた周辺の人々は、むしろそれによって我に返った。証明のせいで、側頭部の損傷は明らかだった。
おい、と誰かが狼狽した声を上げた。
「死んだんじゃないのか……?」
まさか、という声と、そうだ、という声が錯綜する。ぱらぱらと千鶴の側に駆け寄る者があって、その体を検め、死んでいる、と声を上げた。罵声がやんで、潮騒にも似た不安の声がその場に広がっていった。
広沢は人の群の後ろから、その声を受け取った。広沢自身は石を投げなかった。身動きできないほど驚いていたからだ。ずっと意図的に直視すまいとしてきたことに直面し、やはり、という思いと、まさか、という思いに絡め取られ身動きができなかった。だが、目の前で千鶴が倒れ、死んだという声がすると、後悔が迫り上がってきた。大変なことが起こってしまった、という気がした。逆上した村人が寄って集って一人の女性を殺した。起き上がりなど存在するはずもないのに。――そういうことなのではないだろうか。
広沢の脳裏を掠めたのは、たとえば憑きものを落とすといって暴行を受け、誰かが死んだという新聞記事の断片だった。同様に愚かで狂信的な事件が起こった、しかもほとんど村ぐるみでそれを行ったのだ、という絶望的な気分が襲いかかってきた。
救いを求めて周囲を見渡すと、広沢のすぐそば、社務所の脇の暗がりに屈み込んでいる姿があった。祭りを行うために持ち寄ったさまざまな道具を積み上げてあるそこに蹲った人物は、広沢の目の前で鉈を置き、粗く削って尖らせた太い木の枝と、木槌を持って立ち上がった。――敏夫だった。
「……先生」
いったい何を、と駆け寄った広沢を、敏夫は押しのける。
「どいてくれ」
「先生、そんなものをどうする気です」
「打つんだ。吸血鬼を滅ぼすには、心臓に杭を打つ。子供でも知っている」
そんな、と広沢は声を上げた。広沢ばかりではなく、周囲にいた人々が、怖じけたように退った。人垣が割れ、|工《たく》まずして敏夫のために道を空けることになった。
「先生、そんな」
広沢は敏夫に追いすがる。人垣の間から武藤も飛び出してきて同じように敏夫を押し留めようとした。
「冗談じゃない。――駄目です。それよりも、奥さんに手当を」
敏夫は武藤と広沢を振り返る。
「――いいか。あいつは、あんなことでは死なないんだ。今は身動きを止めているだけだ、死んだわけじゃない」
「死んでるじゃないか」と、千鶴の脇に屈み込んでいた村迫宗貴が声を上げた。「脈もない。息もしてないんだ、敏夫」
女の周囲で人垣が崩れ、幾人かが屈み込んでそれを確認し、頷く。敏夫は笑って、その側に屈み込んだ。
「こいつらには、そもそも脈はないんだ。呼吸もしてない。屍鬼というのは、心臓死していながら、脳だけが生きている化け物なんだ。脳波を取って観察してみなければ本当に死んでいるかどうか判別がつかない。死んでいなければ、いずれ必ずまた起きあがる。動かなくなったからといって安心しないことだ」
「しかし、確かに」
「屍鬼を滅ぼそうと思うなら、心臓に杭を打つ。さらに確実を期すなら、頭を切断する」
「……そんな!」
「いま、分かる」
敏夫は杭を押し当てた。宗貴は怯んだ。ほとんど、力任せに杭を刺そうかという勢いだった。明らかに白い肌に杭の先端がめり込むのが見えた。声を上げて敏夫を留めようとしたとき、死んでいたように見えた女が目を開いて声を上げた。
人垣からどよめきが上がった。宗貴自身も、声を上げていたと思う。確かに脈もなく息もしていなかった。なのになぜ、この女は悲鳴を上げ、当てがわれた杭を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで押し戻そうとするのか。宗貴は思わず敏夫の掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ杭を支えた。幼い息子と歳の離れた弟の顔が、一瞬、脳裏を横切った。
敏夫が取り落とした木槌を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだのは清水だった。敏夫が促すように振り返って、清水は声を上げてそれを振り下ろした。千鶴が――腫れ上がった顔をした女の口が開いて悲鳴を撒き散らした。完全に沈黙するまでに、杭は身体を貫通して死体を地面に縫い止めた。
[#改段]
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三章
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村迫宗貴は、自分の膝が血溜まりに浸されているのを見つけて、声を上げて後ろに退った。その声に弾かれたように、清水が木槌を取り落とす。
「お前たち――なんてことを」
声を上げたのは、宗貴のすぐ背後にいた父親、村迫宗秀だった。
「なんてことをしたんだ! 人を殺すなんて」
「殺してない。父さん、確かにこいつは杭を打たれる前に死んでたんだ」
「だが、声を上げとった。悲鳴を上げて暴れて」
「だから変なんじゃないか。本当に死んでたんだ。心臓の音もしなかったし、息だってしてなかった」
「仮死状態ってことはないのかい」狼狽したように言ったのは、田茂定市だった。白装束に袴をつけた老人は、おろおろとその場の人々の顔を見渡した。「たまたまそんなふうに見えただけで……」
「それはないな」
きっぱりと言ったのは敏夫だった。敏夫は頓着なく死体の側を離れ、返り血で濡れた手をハンカチで拭った。顔を顰めてその赤く染まった布きれを足許に落とし、そして煙草を引っぱり出して|啣《くわ》える。
「だけど、先生」
「こいつらは、そもそも死んでいるんだ。起き上がった屍体なんだよ。この女が村に足を踏み入れたときから、この女はずっと屍体で、ずっと死んでたんだ」
「しかしね」
「この連中が、広也くんを殺したんだよ、定市さん」
定市は呻いた。
「起き上がった屍体だ。墓穴から甦り、山を下りてきて村に死をもたらす。犠牲者を襲って血を吸い、失血からくるショック死を招いてきたんだ」
「だが、こうして屍体が残ってる……」
「残るんだ」敏夫は煙を吐く。「こいつらは、一部で伝説の通りであり、一部で伝説とは異なる。日光に弱いのは確かだが、屍体が灰になって飛散することはない。呪具や呪符を恐れるが、鏡には映るし、影もある。吸血鬼というより、こいつらは『起き上がり』なんだ。鬼なのさ。墓穴から甦ってきた生きている屍体、――屍鬼だ」
「それを証明できますか」と、言ったのは結城だった。「確かに桐敷の奥さんは死んでいたのだと」
敏夫は肩を竦めた。
「こうなってから証明するのは難しいかもな。ただ、今ならまだ血液を採れば確認できるかもしれん。興味があるならやってみればいい。血液を採取して顕微鏡にかければ、赤血球も白血球も存在しないことが確認できる」
だが、と敏夫は煙草を投げ捨てた。
「あんたらは確認したんじゃないのかい。鼓動がしないと言って彼女を追い立て、石を投げたんだろう。それとも確認もしないのに、周囲の騒ぎに呑まれて石を投げたのか、あんたらは」
「わたしは投げてない」
結城は言ったが、敏夫の返答は素っ気なかった。
「止めずに見ていたら同罪だ」
「あの状況の中で――」
「やめるんだな、結城さん。止めもしないで見ていたくせに、いまさら宗貴さんや清水さんを責めるのはないんじゃないか。この場にいる人間は、みんな同罪だよ」
そうだ、と清水は結城に向かって叫んだ。
「第一、咎められる謂われなんかない。この女は確かに死んでたんだ。わたしは脈がないことを確認した。それだけじゃない。この女のつけてた香水は、確かに娘の部屋に残っていたものだったんだ」
「しかし清水さん」
「こいつが娘を殺したんだ!」
口ごもる結城を見やって、敏夫は新たな煙草に火を点ける。
「村では夏以来、死人が続いていた。不審事が続いた。ぜんぶ兼正の屋敷が建って以後のことだ。違うか?」
「それは……」
「患者の全員は、循環血液量減少性ショックから来る多臓器不全で死亡している。どの患者にも、首筋や肘の内側、表出血管に膿んだ虫さされのような痕があった」敏夫は言って襟に手をかけ、結城を見る。「……こういうやつだよ。見覚えはないかい、結城さん」
結城は敏夫の首筋を見て口を開けた。それは確かに虫さされの痕か何かのようにしか見えなかった。それがふたつ、冗談のように並んでいる。
「それは……」
敏夫はただ肩を竦める。
「この連中が越してきて、本格的に死が蔓延し始めたんだ。屍鬼は人を襲う。生存のために人血が必要なんだ。身体は確かに死んでいる。鼓動はないし、血圧もゼロ、呼吸もしてない。そのくせ、脳は生きている」
「どうして」
「知らんよ、おれは。ただ、こいつらの血液は動脈だろうと静脈だろうと、鮮紅色をしてる。静脈にまで動脈血が流れているんだ。血圧がゼロだから、血液中の成分は沈殿するはずだが、それはしない。実際のところ、屍鬼の血をとって顕微鏡にかけても、血球は見えない。倍率を最大まで上げても、顆粒状の赤い斑点が見えるだけだ。試験管に採って観察しても、分離はしない。しかも空気に接触している限り、鮮紅色をしている。――血液の組成が違うんだよ、根本的に」
「そのせいなのか?」
「おそらくね。連中の血液は、それ自体が生きている。試験管に取って長時間放置しておくと、次第に鮮紅色から暗赤色に変化していくが、そこに人間の血清を入れてやると、また鮮紅色を取り戻す」
結城は呻いた。
「屍鬼を滅ぼすには、心臓に杭を打つことだ。ただし、針や刃物では意味がない。屍鬼の心臓は動いていない。拍動は関係ないし、心臓自体を傷つけることには意味がない。血管系の破壊に意味があるんだ。心臓の破壊、摘出、大動静脈の破壊切断。ちょうど胸の真ん中、肋骨の上から三本目、第三真肋のあたり、ここは上大静脈と大動脈弓が交叉する。ここでなければ、背後からだ。臍の真裏からその上、背骨に沿う形でここに下大静脈と大動脈が併走する。効果的なのは、この三箇所。そうでなければ、頭部の破壊。頭を潰すか、あるいは頸を切断する。脳を身体から切り離すんだ。――屍鬼を滅ぼす手は、それしかない」
敏夫は言って周囲を見渡し、いかにも皮肉っぽく笑みを見せた。
「今にも吐き出しそうな顔をしてるな。――だが、それしか手がないんだ」
いいか、と敏夫は周囲の顔ぶれを確認するように見た。
「屍鬼は人を襲う。襲われた者は屍鬼として甦生する。幸か不幸か百パーセントじゃない。だが、そうやって増えていることは間違いがないんだ。この村は、屍鬼に侵略されている。連中を狩らなければ、自分たちが滅ぶ」
「まさか……」
「まさか? この中で最近、村の外に通勤する人間を見た者がいるかい。外から通勤してくる者はどうだ?」
人々は顔を見合わせる。
「役所が急に夜間業務なんてのを始めたのは、なぜなんだい。新しい駐在を昼間に見かけた者がいるか? JAはどうだ、郵便局はどうだ。なんだってこんなに人が死ぬんだ。次々に人が出ていって、そして得体の知れない連中が村に入ってきている。――違うか」
「け……警察を呼ぼう」
人垣の中で誰かが言った。
「警察? 何と言って? 村で吸血鬼が増えて困るんで、やっつけてくださいとお願いするのか?」
敏夫は鼻先で笑った。
「他の誰が信じるんだ。この村にいて実際に脅威に曝されているおれたち以外の誰が? 吸血鬼がいます、死人が生き返って人を襲います、――そんなことを誰が信じてくれると言うんだ」
「しかし」
「そりゃあ、こいつのように屍鬼を捕まえて差し出せば、存在を証明することはできるだろうさ。だが、外の連中が証明の機会そのものを与えてくれると思うか? 屍鬼の首に縄をつけて警察署に引っぱっていって、御覧の通り、殺しても殺しても甦ります、と実験してみせることが可能だとでも思うのか」
「実験は無理でも、村の現状を報告して」
「外場で一体、この夏以来、どれだけの人間が死んだ。目の前で家族が死んでいっても、あんたたちは信じなかったろう。違うかい、結城さん」
結城は目を伏せる。
「それは……しかし」
「みんな薄々は気づいていたはずだ。山から鬼が下りてきているんだ、ってことは。だが、あんたたちは信じなかった。信じたくなかったんだ。あんたたちは脅威から目を逸らした。――いいや、脅威が存在するかもしれないという不安そのものから目を逸らしたんだ。
おれはあんたたちを責めようとは思わない。そうやって不安そのものからの逃げ出すことこそが、人間らしさってものだろうと思うからだ。だが、おれたちはもう逃げられないんだ。村は完全に包囲されている。このところ、朝に村を出入りする人間の姿を見たか? これだけの死人が出ていて、誰か行政やマスコミだのから、事情を訊かれたことがあったか?」
「それは――」
「行政に直訴しに行くか? 屍鬼を引っぱっていくのか。データを取り揃えて、外部に救いを求めるか? それを連中が黙って見守っていてくれるとでも思うのか」
「でも、やってみる価値は」
言いかけた広沢を敏夫は遮る。
「死者と病状のデータを取り揃えて、疫病の疑いがある、と役所の石田さんに報告してもらおうとした。だが、石田さんはデータを持って消えた。――あれきり、行方が分からない。おれたちがやるしかないんだ。自分たちで片づけるしか。それ以外に打つ手があれば、とっくにおれがやってる」
「しかし」と、田茂定市は汗を袖で拭った。「しかし、……にしても」
「杭を打つって行為が、どれだけ残虐に見えるかは分かっている。だが、結局のところ、どんな死に方をしようと、死は死でしかないんだ。杭を打たれて屍鬼が殺されるのは惨くて、清水さんちの恵ちゃんが血を吸われて死ぬのは惨くないのか。冗談じゃないぞ」
「その通りだ」清水は声を張り上げる。「恵はまだ高校生だったんだぞ。十六を目前にして死んだんだ。恵が何をしたって言うんだ。殺された村の連中が何をした。罪もない人間が、餌食になっているんだぞ。――文字通り、餌だ」
「その通りだ」敏夫は頷く。「死を恐れない人間はいない。人間にとって、自己の死と家族の死以上の悲劇はないんだ。だが、屍鬼はそれをもたらす。屍鬼にとって人の死は、自分が存在するための必然なんだろう。屍鬼は犠牲者を憎まない、哀れまない。それは殺人や暴力のような負の関係でさえなく、捕食という散文的な行為でしかないんだ。それは人を食料の位置にまで突き落とす。屍鬼に襲われた被害者は、その生命だけでなく尊厳までも剥奪されることになる。――それは確かに、屍鬼にとっては人が牛や豚を襲うような種類のことなんだろう。これは人間にも天敵がいたという、それだけのことでしかないのかもしれない。だが、天敵に襲われて抵抗しない生き物はいない。それが自然の営みってものなのだろう。全ての生命は、自己の終焉に抵抗するんだ」
それは、と広沢は目を伏せる。
「屍鬼がそこにいる限り、必ず人を襲う。共存はあり得ない。自分や自分の家族を守りたかったら、連中を狩るしかないんだ。連中の数は多い。こちらも組織立って狩る必要がある。でなければ、こちらが粛正される」
「しかし……胸に杭を刺した死体が残るんですよ。どう申し開きをするんです」
「申し開きが必要なのか? 連中は死人なんだぞ。葬式だってやっているんだ。そもそも社会的にもとっくに死んでいる。連中は生きているんじゃない。死んだ者が起き上がったんだ。墓穴から這い出した者を、もういちど墓穴に戻すだけだ。――二度と甦ることがないように」
大川が前に出て、敏夫の前に立ち塞がった。
「どのくらいの数がいると思うね。その――屍鬼は」
「正直いって、分からない。ただ、十や二十ではないことだけは確実だ」
「杭を打つか、首を切り落とすしかないんだな?」
「おれたちに使える手はそれだけだろうな」
「なにか……その、薬物のようなものは使えないんですか?」声を上げたのは武藤だった。「杭を打つとか、そういう過激な手ではなく」
敏夫は首を振る。
「少なくとも、その辺にあるような劇薬を注射しても連中には効かんよ」
「いや、でも、試してみないと分からないんじゃないでしょうか」
広沢が口を挟んで、同意を求めるように武藤を見る。武藤が救いを見出したように頷いた。
「そ、そうです。試してみないと分からない」
敏夫は薄く笑う。
「試してみて言ってるんだ」
「試したって……先生」
「恭子は死ななかった。古典的に心臓に杭を打つしか手がなかった」
誰もが顔を見合わせる。敏夫は軽く言い添えた。
「食道や気管に塩酸を流し込んでも効かない。塩酸から農薬、何を注射しても全く効果は認められない。気道を塞いでも皮膚呼吸で生き延びる。ガラスケースの中だか、水槽の中に閉じこめれば、中の酸素を使い尽くした時点で窒息死するだろうが、それまでの断末魔を見ていられるか?」
「先生、そんな」
「……楽に死なせてやりたかった。だが、杭を打つことでしか、恭子を罪深い運命から救ってやる術はなかったんだ」
大川は頷く。
「消防団を招集したほうがいいんじゃないですかね。杭だけでもかなりの数がいる。誰か木工をやってるのに頼んで、用意してもらったほうがいいと思うがね。死体の始末も考えないといかん。まさかそのへんに放り出しておくわけにもいかんだろう。工務店に頼んで、どっかに穴を掘ってもらったほうが良くないかね」
「いや、それは……しかし」
定市は狼狽したように周囲を見る。頷いたのは清水だった。清水は千鶴の死体を示す。
「それもどっか目立たないところに移しておいたほうがいいんじゃないかね」
村迫宗秀も同意する。
「死体は神社に集めちゃどうだい。他に、人が集まって指示をやりとりする場所も必要だな」
「消防団の詰め所じゃ狭いか」言って、大川は社務所を示す。「社務所を開けてもらおう。詰め所から無線を持ってきたほうがいいだろうな」
行ってくる、と踵を返したのは、村迫宗貴と数人の人間だった。別の一群が、千鶴の身体に手をかける。女が一人、シーツか筵を持ってきたほうが、と声をかけて、女たちがぱらぱらと人垣から零れていった。別の一団が社務所に向かい、人が動き始める。その背に敏夫は声をかける。
「人手が必要だから事情を説明する必要があるが、警察に連絡なんかはさせないように注意しろ。外部の人間が入ってくると厄介だ」
了解の意を伝える声が方々から上がる。その中で、突然、武藤が膝をついた。
「わ……わたしにはできません。勘弁してください」
「武藤さん」
「腑抜けだと言われてもいい。わたしには、杭を打って人間を殺すなんてことはできない」
「連中は人間じゃない!」
清水の怒声に、武藤は首を振った。
「わたしの息子もね、死んだんですよ、清水さん。あんたんとこの恵ちゃんと同じだ。屍鬼に襲われて死んだんです。みんなは狩る、と軽く言うが、あんたんちの恵ちゃんも、屍鬼になってる可能性があるってことを分かってますか」
清水は言葉に詰まった。
「わたしゃ、さっきからそれが気になってならんのです。うちの徹も死んだ。ひょっとしたら屍鬼になって甦ったのかもしれません。杭を持って屍鬼を狩るというのは簡単だが、わたしは徹が目の前にいたら、とてもじゃないが狩れんです。たとえ徹が人を殺して生き延びていても、息子に杭を打って殺すなんてことは、どうあってもできないと思う。……あんたは、できますか、清水さん」
「わたしは……」
「徹じゃなく、恵ちゃんならできるでしょうかね。――いや、わたしは、それが恵ちゃんでも、とてもじゃないが杭など打って殺せません。あんたのところのお嬢さんを殺すなんてことはできんのです。……勘弁してください」
「じゃあ訊くが」敏夫は武藤を見る。「あんたはこのまま放置しておけというのか。共存はあり得ないんだぞ」
「それは分かります。屍鬼にとっちゃ、わたしらは餌でしかないんだと言うことも分かるんです。しかしだとしたら、これは仕方のないことじゃないんですか。人には天敵がいたってことでしょう。……わたしには殺せない。天敵のいない土地に行きます。罵ってください」
武藤は言って、拝むようにしてから踵を返した。人垣を掻き分けてその場を逃げ出す。大川と清水の声が聞こえた。
「――腑抜けが」
「あの人はしょせん余所者だ。もともと外場の人間じゃない。だから、外場がどうなろうと知ったことじゃないんだ」
「事態を甘く見ているんだ」敏夫が吐き出すのが聞こえた。「ぜんぜん、分かってない。外場は今や屍鬼の巣だ。このままおれたちが手を拱いていれば、外場は屍鬼に占拠される。連中は安全なコロニーを手に入れる。ここに屍鬼の社会を築く。ここを足場にして際限なく増殖していけるんだ。そうなれば、どこへ引越そうと、もう安全な土地などない」
「あんな腰抜けなんざ、いても邪魔になるだけだ。構うもんか」
武藤は面伏せ、足早に人混みの中を突っ切る。その傍らに集まり、一緒に神社を出て行こうとする者も、幾人かいた。
「あんたの言う通りだ、武藤さん」武藤が脇を見ると、郵便局の長田だった。「おれにも殺せん。とてもじゃないが、おんな恐ろしいことはできない」
武藤は頷いた。
「先生はどうかしてる。わたしにはついていけない。あの人は……自分の女房を、モルモットにしたんだ」
そうね、と女が声を上げた。
「このままで済むはずがないわ。これだけの死人が出て、誰も気づかないなんてことがあるはずがない。外の人間が気づけば、きっと何とかなるわ」
そうとも、と頷いたのは、大川酒店の松村だった。
「身を守りゃあいいんだ。わしらが屍鬼に襲われる隙を見せなきゃ、屍鬼は飢えて滅びる。餌をなくして、どっかへ移動するさ」
「これからどうします」
長田に問われて、武藤は首を振った。
「逃げ出しますよ。家に戻って荷造りして、一刻も早く村を出ます。幸い、子供が溝辺町にいるんでね」
「そこまで急がなくても」
「急ぎたいんです。わたしはこの後、村で起こることを見たくない」
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速見は葬儀社の二階の窓から外を覗いた。何かがおかしい、という気がした。
最前から、祭り囃子がやんでいる。賑やかな喧噪だけは相変わらず川の対岸から聞こえていたが、その声の調子が異様な音色を帯びているように思えてならなかった。
窓の外、川を隔てた下手のほうに明るく照明された神社が見えている。葬儀社からは距離もあり、それ以上のことは一切、見て取ることができなかった。ただ、川伝いにひどく興奮した人々の声だけが響いてきている。
「何の騒ぎですか」と、背後から声がする。葬儀社で起居している若者が二人、怪訝そうにしていた。
「何だろうな……嫌な感じだ」
一方は都会から間引いてきた人間で、もう一方は溝辺町から失踪してきた者だった。もともと溝辺町にいた木下は溝辺町役場に勤めていて、役場でちょっとした書類上の操作をしてから失踪していた。役場を辞め、知人に紹介された新しい職に就くために都会に出たことになっており、そこに借りたアパートの一室からも姿を消していた。――こういう者は多かった。村を外部から操作する過程で、かなりの数の仲間が副産物として生まれている。
「木下、お前さん、ちょっと様子を見てきてくれないか。どうも神社で不穏な気配がする」
はあ、と頷いて、木下は部屋を出た。もともとは木工所だった斎場の隣合って、速見の家は建っている。そんなに大きくもない二階屋だが、普段は人で賑わう。村に下りてきた連中が、溜まり場として使うからだ。だが、今日はその数が少ない。祭りの夜の人通りの多さに、仲間が夜歩きを控えているせいだった。深夜を過ぎれば、いつものように仲間が増えるのかもしれなかったが、とりあえず今のところは、みんな村を歩き回ることを避けているのだろう。
木下は左右を見まわし、人通りの途切れたところを狙って建物を出た。できるだけ人目につかないように行動する、それが習い性になっていた。村道を渡り、近くの石段から河原に下りた。夜に暗い河原を歩く者はいない。大手を振って河原を一之橋の下まで移動し、そこから神社のほうを窺った。河原よりも神社のほうがかなり高い位置にあるから見通しは利かないが、興奮したざわめきに包まれているのだけは分かった。屍鬼、という言葉が聞こえる。橋を渡る者は、殺すの殺されるのという殺伐とした単語を口に上せている。葬儀社、駐在という単語も聞こえた。何か不穏な――自分たちにとってありがたくないことが起こっているのだということは、その断片からも理解できた。
(まさか、バレたのか……?)
木下はおそるおそる、一之橋の袂から村道に上がってみた。橋の向こうへはどうあっても恐ろしくて近づけない。そればかりでなく、近づいてはならない、という切実な予感がした。集まった人々、橋を渡って出入りする人々の間には、祭りの夜にふさわしい陽気な調子がなかった。むしろどこか殺気立った気配が露わで、しかも頻繁に物騒な言葉を口にしている。神社に駆けてくる者の中には、角材やハンマーなどの武器とおぼしきものを携えている者もいた。いよいよ不穏だ、と木下は思わないわけにはいかなかった。
通りの様子を窺っていると、角の電気屋の前に子供が一人姿を現した。木下は何喰わぬ顔で子供に近づく。
「なあ、坊や、これは何の騒ぎなんだい?」
その子供――裕介はきょとんと木下を見上げた。
「分かんない。鬼が出たんだって」
「鬼?」
裕介は頷いた。店に飛び込んできた男が、父親の加藤実に、そんなことを行っていた。鬼がいたとか、神社に出たとか。細かいことは聞き取れなかった。裕介はただ、その会話から、鬼が神社に出て、やっつけられたようだ、とだけ理解した。
裕介がそう言うと、その若い男は険しい顔をした。
「坊や、ちょっと神社がどんなふうか見てきてくれないかい」
裕介は首を横に振る。神社には絶対に近づくな、と店を出ていく前に父親が強く言い置いていった。父親があんなふうに、強い調子で言うときには絶対なのだった。少なくとも裕介は父親との関係において、そう自分の中で了解していた。
そうか、と男は呟き、ありがとう、と声を残して河原のほうに下りていった。真っ暗な河原に下りるなんて、怖くないのかな、と裕介は思った。
木下は葬儀社に戻り、速見に事情を報告した。
「なんか変ですよ。漏れ聞いた限りじゃ、とんでもないことが起こってるみたいです」
速見は木下の強張った表情から、強い不安を受け取った。――一大事の気配がする。
速見は電話の受話器を取った。あちこちに電話して仲間たちの注意を促す。神社で何か不穏な事態が起こっているらしい。何とか事情を探る必要がある。その事情が明らかになるまでは外出を控えたほうがいい。
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「元凶が兼正なのは間違いがねえ」
大川は社務所に集まった人々を見渡した。
「首領はあいつかね。桐敷正志郎といったか」
「違うだろう」と、敏夫は口を挟んだ。「桐敷正志郎は人間だよ。昼間に出てきたのがその証拠だ。どうも辰巳は屍鬼の中でも特殊らしいが、正志郎はそれでもないらしい。人間なんだと思う」
「人間のくせに、鬼に荷担してやがるのか」
大川は吐き出す。
「――のようだな。千鶴の口振りじゃあ、あの家の中で最も権力を持っているのは桐敷沙子のようだった。正志郎の娘だよ」
「中学かそのくらいの娘がいるって話だったが、その?」
「らしいな。いずれにしても、兼正の連中が大本だ。それは間違いがない」
「兼正に行こう」と、清水が力説した。「まずあそこに行って、連中を根絶やしにするんだ。一気に焼き討ちにしてしまえばいい」
「それは駄目だ」敏夫は口調を荒げた。「いいか。これだけは心得ておいてくれ。外部の注目を引くようなことはするな。屍鬼は死体を残すんだ。あれを外部の人間に見られたら、おれたちが殺したのだと思われる。火は駄目だ。消防署の連中が駆けつけてきたら目も当てられない。特にこの乾燥だ。下手に火を使うと山火事になりかねない」
大川は頷いた。
「乾燥注意報が出ている。消防団のほうにも警戒要請があった。火はまずいだろう。確かに下手すると山に火が入っちまう」
「じゃあ――?」
敏夫は腕を組む。
「まず、夜のうちに連中と事を構えるのは得策じゃない。夜のうちに兼正を包囲して、連中が逃げられないようにしたうえで夜明けを待つんだ。朝日が射すのを待って攻勢に出る。そうすれば日光がおれたちに味方してくれるだろう」
「連中は全員、兼正にいるのかね」
「どうだろうな。屍鬼の実数が分からないからなんとも言えない。とりあえず、確実に拠点になっているのは兼正の屋敷、そして江渕クリニック、外場葬儀社だ。この三箇所は押さえておく必要がある。周囲を包囲して抜け出せないようにするんだ。――あとは村道か。村から出られないよう、道を塞いでおいたほうがいいな」
大川は地図を広げた。
「まず村道だな。交差点の手前に人をやって、道を塞がせよう。あとは農道だ。ここは車でも駐めておいて塞いでおくってのはどうだい」
「それがいいだろうな。近辺の家から車やトラクターを出してもらう。それで塞いで何人かずつ配置する。それでとりあえず連中が車で逃げ出そうとするのは防げるだろうし、ついでに外部から入ってくる者も追い返すことができる」
なるほど、と頷いて、大川は若い者に指示をする。
「兼正、江渕クリニック、葬儀社――他に連中が潜伏していそうなところはないか」
そういえば、と田茂定市が声を上げた。
「境松が戻ってきていたよ。何だか妙な按配だった」
「後藤田の服屋も妙だ」
うちの近所にも、という声が、社務所の中は騒然とする。敏夫は頷いた。
「細かい拠点がたくさんあるな。役場も妙だし、上外場にも妙な家があった。うちの看護婦の国広くんの家の隣だ。全部リストアップしておいたほうがいい。全部を夜のうちに包囲しておくのは無理にしても、夜が明けたら全部こじ開けて中を改めたほうがいいだろう」
大川は頷き、人混みの中から妻を呼んだ。
「かず子、お前、女衆を集めて、あちこちに怪しい場所はないか訊いてまわってこい。全部リストにするんだ。絶対にひとりでウロウロするなよ。何人かで集まって行くんだ」
かず子は頷く。
「ええ。……分かったわ」
「ついでに」と敏夫は言い添える。「これから一騒動あることを説明してくれ。別に細かいことを言う必要はない。夏からこっち続いていた災厄を何とかする、とだけ説明すればいい。――そう、虫送りをする、と言うんだ。それで分かるやつはピンと来るだろう。村を挙げて虫送りをする、手を貸してくれる気があったら神社に来るよう、そうでなかったら家に閉じこもって表に出ないよう、絶対に表を見ないよう言うんだ。そして決して、警察なんかに連絡をしないよう」
「言ってみますけど……大丈夫かしら」
「そうだな――むしろ電話を使わないように言ったほうがいいかもしれない。緊急の事態だから回線を開けておきたい、だから一切、電話は使うな、と」
「分かりました。そう言います」
頷いて、かず子は社務所を出て行く。それを見送って、敏夫らは細かい人員の配分にかかった。
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小さな溜息が聞こえた。
静信は|微睡《まどろ》みながら、それをただ聞いている。ひどく億劫で眠く、目を閉じて横になっている以外のことをしたくなかったが、目を閉じてもうつらうつらするばかりで、本格的な眠りはやってこない。断続的な眠りの合間に短い夢を何度も見た。自分の身体の奥底から融解していく夢であったり何者かに食い荒らされていく夢であったりした。二度目の襲撃があった。発症の機序が動き始めている。これから加速していく一方なのだという思いが、見せた悪夢なのかもしれなかった。
目を閉じていると、チャイムの音が遠くでした。いつの間にか祭り囃子がやんでいる。まだ終わるような時間ではあるまいに。
思っていると、ひどく慌ただしい足音が聞こえた。ドアが開いて辰巳の声がする。
「沙子――千鶴が」
どうしたの、と沙子が立ち上がる気配がした。静信はかろうじて頭を向け、薄目を開けて血相を変えた辰巳を見た。
「速見から連絡があった。千鶴がやられた」
「やられた――って」
「尾崎の医者だ。あいつが神社に千鶴を引っぱっていったんだ。村の連中は千鶴が何者だかを悟って千鶴を殺した。武装した連中が神社に集まっている」
沙子が小さく悲鳴を上げた。
「千鶴が――うそ」
「うそじゃない。坂の下にも人が集まり始めてる。どうする」
どうするって、と沙子は狼狽したように首を振る。
「まだ駄目よ。あと少しなのに」
「とりあえず脱出したほうがよくないかい? 速く逃げ出さないと退路を塞がれる」
「駄目よ――だって、あと少しなのに!」
「沙子」
「あとはもう、時期を見て一気に村を閉じてしまうだけだったのよ!」
沙子、と咎める辰巳に、沙子は手を挙げた。
「――分かってる。大丈夫よ、逆上したわけじゃない。まだ手はあるわ。この村はもう死にかけているのよ」
「しかし」
「どうせもう、閉じるだけだったの。その予定を繰り上げるだけのことよ。いいえ、わたしは逃げないわ。これだけの仲間たちが逃げ出すなんてできると思う? ここで一斉に逃げ出したら、村の人たちは追ってくる。この騒ぎが村の外まで波及してしまったら、わたしたちの存在が知れ渡ってしまうの。そうしたら村を逃げ出したところで、逃げ場はないのよ。屍鬼なんているはずがない、という常識が、わたしたちを守ってくれる最大の武器なんだから」
辰巳は硬い表情で頷く。
「閉じる準備が整っているわけじゃない。タイミングとしては理想的とはいかないけども、最悪でもないわ。だから大丈夫。――正志郎は?」
「連絡を聞いて飛び出していった。神社に様子を見に行ったんだろう」
「軽率だわ。戻ってきたらうかつな行動は取らないように言って。……とにかく正志郎はもう使えないわね。屍鬼でないふりは通用しない。江渕さんや佳枝さんに連絡をして、注意を促さないと」
「速見がやってくれてる。外部に連絡させないようにしないとまずくないかい?」
「ええ。そうね、もう志茂田の仕掛けは動くのね?」
「実験はしてないが、大丈夫だと思う」
「では、志茂田に連絡して電話を遮断して。そして無線ね。外部へ連絡できないようにしてちょうだい。電気も落として。明かりがなければ、それだけこちらに有利になるから」
辰巳は頷く。
「他には?」
「とにかく尾崎ね。どうせあの男が扇動しているんでしょう? 大丈夫、いくら村の人たちが集まっても、中心点を排除してしまえば集団なんて勝手に瓦解するわ。とにかくまず、尾崎を何とかするの」
「尾崎は神社にいる。仲間は近づけない」
「傀儡を使って。正志郎か傀儡を神社に行かせて尾崎を排除させるの。同時に村の様子を探らせて。村の結束点がどこにあるのか、確認して動向を探る。結束が解ければ敵じゃない。とにかく襲って数を減らす。襲った者には殺し合いをするよう言い聞かせて」
分かった、と辰巳が答える。静信は目を閉じた。
そうか、彼らは蜂起したのか、と思った。沙子は逃げるべきだ、とも思った。正義の名の下に団結した人間は恐ろしい。異物を排除するときの人間の冷酷さは、よく分かっている。もともと外場の住民は結束力が堅い。それを沙子は甘く見ていないか。扇動するのが敏夫ならば、なおさらだ。敏夫は目的のためには手段を選ばない。正面から敵にするのはあまりに危険だ。
だが、それらのことを説明するのは、あまりにも億劫に思われた。口を開くのさえ厭わしく、身体のどこもかしこもベッドの中に沈んでいきそうなほど重い。
(……瓦解するんだ)
たぶん屍鬼も――そして、村も。
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加奈美は自分の寝間に閉じ籠もって耳を塞いでいた。隣にある茶の間からは、妙の呻き声が聞こえていた。妙は飢餓に喘いでいる。その上を満たす方法を知りながら、それを堪えようとして床に蹲り、座布団の端を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]むようにして耐えているのだ。それを見守っておられず、こうして自室に逃げ込んだものの、妙の漏らす悲痛な声からは逃げることができなかった。耳を覆っても聞こえる。――聞こえるような気がする。
(お母さん、お願い……我慢して)
それでどうなるの、と加奈美の身内で囁く者がいる。おそらく、妙は血を得なければ飢えて死ぬのだ。死ぬまでそれを耐えていろというのか。
その声からも逃れるように布団を被って頭を覆ったとき、チャイムの音がした。加奈美は飛び上がり、茶の間に向かって妙にタオルを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]ませ、布団を着せ掛ける。それから慌てて玄関に出た。
「……どなた?」
戸は開けないまま、問う。松尾だけど、という声が聞こえた。下外場の世話役、松尾誠二の声だった。加奈美は総毛立つ。誠二は妙の葬儀を采配している。妙を見られたら、起き上がってきたことが即座にばれてしまう。――いや、すでにそれが分かっていて、それでやってきたのかもしれない。
「……なんですか」
加奈美の声は我ながら震えていた。開けてくれ、という誠二に、だめ、と答える。
「ごめなさい、いま、ちょっと開けられないの」
「加奈美さん、ちょっと頼みがあるんだが」
「何です?」
「あんたんとこの店をね、ちょっと消防団で使わせてもらいたいんだよ」
加奈美は首を傾げた。そっと戸を少しだけ開ける。誠二がほっとしたように顔を綻ばせた。他にも数人、男女が誠二の後ろにいる。
「……店を、消防団で?」
「そう。あんた、御神楽の騒動を知らんかな」
「いいえ。お祭りには行かなかったので……」
「ああ、だったらいいんだ。ちょっと騒動があってね。今年は死人が多かったろう。妙なことが多くてね。だからそれを何とかしようということになったんだ」
「……何とかって」
「うん。まあ、虫送りをするのさ。もう一回」
加奈美は首を傾げ、そしてはっとした。誠二は鬼を祓う、と言っているのだ。
「それで村の者が集まっているんだよ。あんたも手伝う気があったら、神社に行ってみてくれ。そうでなきゃ家の中に閉じ籠もってるんだ。表も見ちゃいけない。虫送りってのはそういうもんだ――そうだろう?」
「……ええ」
「電話が混み合うと思うんで、使わないようにしてくれ。できるだけ回線を開けておいてもらいたいんだ。でもって店を使わせてもらえると有り難いんだがね」
「分かりました」と、加奈美は言って、下駄箱の上の籠から店の鍵を取り出す。「どうぞ、使ってください」
「済まないね。ついでに、加奈美さん、あんたこのへんで変な場所を知らないかい。人がいるはずもないのに物音がするとか、夜に知らない連中が出入りするとか、住人の顔ぶれが変わっているとか」
「いいえ……江渕クリニックぐらいしか……」言って、加奈美は首を傾げる。「そう言えば、堀江自動車の廃車置き場で夜に人影を見たという話を聞いたことがありますけど」
そうか、と誠二は背後にいる女を振り返る。誠二の妻の有香子だ。有香子はそれをメモしている。
本当にやる気だ、と加奈美は思った。村を挙げて鬼を捕らえ、村から排除する気なのだ。鬼を集めて村の境に祀り捨てる。――火の中に投じて。
(鬼を焼き殺してしまう……)
「加奈美さんちは異常はないかい?」
ええ、と加奈美は頷いた。誠二は、そうか、と頷く。特に不審に思った様子はなかった。
「じゃあ、悪いけど使わせてもらうよ」
「どうぞ。あの……店の中のものは好きにしてもらって構いませんから」
誠二は破顔した。
「そうかい、ありがとう。なに、大事に使わせてもらうよ。済まないね」
いえ、と加奈美は言って誠二らを見送る。戸を閉めて鍵を掛け、茶の間へと駆けつけた。
布団の下からは微かに声が漏れている。それを剥ぐと、胎児のように身体を丸めた妙が、タオルを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで啜り泣いていた。
――鬼を狩るのだ。
とうとう村の人全部が気づいてしまったのだ。だから鬼を狩って災厄を取り除こうとしている。そしてここにも鬼がいる。哀れに呻いている、加奈美の母親。
(……殺すなんて)
できるはずがない。化け物になるまいとして、こうして泣きながら抵抗している母を、どうして鬼と呼び、殺すことができるだろう。
(でも、このままでいたら飢えて死ぬ)
飢餓のあげくに死なせることも、できるはずがなかった。
加奈美はよろめくようにして台所に向かう。包丁を手に取って少しの間逡巡した。
(お母さんが死ぬなんていや……。これ以上、お母さんが苦しむのだって見たくない)
たった一人の母親なのだ。高校生のときに父親が死んで、そこからは泥まみれになって田畑を作り、加奈美を都会の短大にまでやってくれた。都会で就職すると決めたときも、結婚すると決めたときにも、帰ってきて自分の面倒を見てくれなどということは口の端にも上せず、自分の苦労をあげつらって恩に着せるようなことも口にしなかった。良かったわね、と言ってくれ、その結婚に失敗して戻ってきたときには、大変だったわね、と慰めてくれた。加奈美は一晩、母親の膝に縋って泣いた。
(お母さん、だもの)
加奈美は嗚咽を堪え、包丁を指の先に当てる。少し迷って思い切って刃先を引いた。軽い痛みとともに、赤い一条の傷ができて、一瞬を置いて血が溢れ始めた。
加奈美はそれをリキュールグラスに受ける。傷口を下にして、血を絞り出すように指を揉んだ。血が止まってしまえば、さらに別の指を切る。泣きながら小さなグラスを満たした。
「……お母さん」
グラスを持って近づくと、タオルを啣えたまま妙が身を起こす。
「お母さん、これ……」
加奈美、と妙はタオルを離して呟いた。グラスと加奈美を見比べ、表情をくしゃくしゃにして泣く。
「ごめんね。苦しかったね。もういいよ……」
「でも、加奈美」
「お願いがあるの。約束して。これから、こうして食べさせてあげる。ひょっとしたらこれっぽっちじゃ足りないかもしれないし、毎日は無理かもしれない。でも、こうして用意してあげるから、ひもじくても我慢してほしいの。人を襲わないで。あたし以外の人を決して襲わないって約束して」
妙はタオルで顔を覆い、声を上げて泣きながら頷いた。
元子は風呂場の中に身を横たえていた。チャイムが鳴ったのが聞こえたが、表に出る気にはなれなかった。
風呂場の中には腐臭が充満している。横たわった元子の脇では、茂樹の小さな死体が徐々に融解していこうとしていた。皮膚は膨れ上がり、方々が裂けて相好も変わってしまっていた。
(まだなの……?)
元子は息子を掻き抱く。元子の手の下で、皮膚が弾けて破れた。汚水のような体液が手を汚す。また一団と腐臭がひどくなった。
もう一週間が経とうとしている。なのに茂樹は甦らない。待っているのに。まさかこのまま二度と起き上がらない、なんてことが。
(そんなはずはわいわ)
あり得ない、と思いながら、元子は茂樹を撫でて泣く。
茂樹が甦らないばかりでなく、この一週間、元子を夜に訪ねてくる者もなかった。巌は元子を意図的に排除したのだ。元子を連れていくつもりがない。
(酷い……酷いわ)
どうして、自分だけ。
「茂樹……お願い。起きてちょうだい。目を覚まして、お母さんを見て」
かおりは座敷で膝を抱き、じっと窓の外を見ていた。昨夜は引き返していった。今日はどうだろう。
膝に掛けた毛布の下には杭を用意してある。杭と金槌、けれども、かおり自身にもこんなものを恵に対して振りかざせるものなのか、心許なかった。
(……できるもん)
父親も母親も殺されて、たぶん、昭も殺されて。かおりから何もかもを奪っていった。恵がなぜそこまでかおりを憎むのか、かおりは知らないではいられない。何をしたっていうんだ、と恵を責めたい。そうでなければ自分が惨めすぎる。
決意を込めて膝を抱き、息を殺してやってくる誰かの足音を待っている。そうしていると、突然、部屋の明かりが消えた。
「……えっ?」
かおりは頭上を見上げる。それはブレーカーが落ちたような、唐突な消え方だった。慌てて周囲を見まわしたが、廊下の明かりも消えている。家中の明かりが消えているようだった。思わず立ち上がり、窓の外を窺う。近所の家の明かりも、街灯も消えていた。
「停電……?」
停電なんて何年ぶりだろう。来るんだ、とかおりは思った。きっと恵がこの闇に乗じてやってくる。ひょっとしたらこの停電も恵のせいなのかもしれない、とさえ思った。
果たして、それからいくらも経たずに、ラブが鳴き始め、人が庭に入ってくる音がした。昨夜、明かりの届かない範囲をうろうろとしていた誰かは、明かりがないことに安堵したのか、すぐ軒先にまでやってくる。かおりの様子を窺っているようだった。
(明かりがないのに見えるのかしら……)
そうなのかもしれない。夜にしか徘徊しない生き物だから、夜行性の獣のように、夜目が利くのかも。かおりは懐中電灯を引き寄せた。片手にそれを握り、もう片方の手に杭と金槌を握ってその場に倒れ込んだ。寝たふりをして息を殺す、それは何度か家の周りを徘徊し、あちこちの戸を揺すっていた。
(ぜったいに許さない)
みんな死んでしまったのだ、あいつらのせいで。だから、かおりには復讐する権利があるはず。
また、庭先で物音がした。それは軒端に近づいてきて、縁側の窓を揺すった。軽い音がして窓が開き、冷えた風が通った。風が出てきたようだった。樅の山が鳴っている。波の音のようだった。何かを村に打ち寄せ、何かを引いて水底へと連れ去る。
窓辺のそれは、迷うようにしてからそろそろと窓をさらに引き開けた。きしり、と屋鳴りがして、誰かが家の中に入り込んできた。薄目を開けてみると、藍色の窓を背に、黒い影法師が見えた。それは男のようにも思えたが、はっきりと輪郭を捕まえられたわけではない。
それはそろそろと近づいてくる。かおりは息を殺し、間合いを計った。手を伸ばせば届く、そのくらいの距離になり、相手が屈み込んでくる気配を察して飛び起きた。転がるように間合いを開けながら、懐中電灯を点ける。光が闇を薙いだ。それが一瞬、忍び込んできた誰かの顔を浮かび上がらせた。
「……お父さん」
まさか、という衝撃で光が揺れる。闇の中にいる誰かの姿を捕らえられない。それは座敷の中を無目的に照らし出し、そして何度か白い顔を捉えた。
「……うそ……!」
かおりは懐中電灯を取り落とした。――では、父親だったのだ。母親の佐知子を殺した。昭もそうだろうか。父親が殺したのだろうか。かおりをひとりぼっちにしたのは、本当に父親だったのだろうか。
かおりは手の中のものを持ち替え、握り直した。
「お父さん……酷いよ」
闇の中を何かが近づいてくる。懐中電灯の明かりは、あらぬ方向を照らしていた。それでも黒々とした影が、かおりに近づいてくることは分かる。間違いなく男で白っぽいシャツを着ていた。黒っぽいズボン、その体格と足取り。何もかも恵ではあり得ない。
「お父さんだったの? お母さんを殺したの、お父さんだったの?」
父親は何も言わなかった。ただ黙って間合いが詰められた。かおりは立ち上がり、腕を振り上げた。
「――そんなの、酷いよ!」
なんで、という叫びと共に、鈍い音がした。かおりは自分が金槌を振り上げ、振り下ろしたことをようやく理解した。黒い影がたたらを踏む。かおりはさらに金槌を振り下ろす。二撃目はかすり、三撃目は、めり込むような手応えと共に男の頭部に沈んだ。男が倒れた。それで明かりが父親の顔を捉えた。
怒りが、かおりを支配した。かおりは夢中で右手を振り下ろし、父親を叩いた。
「酷いよ! ――お父さんが、どうしてあたしに、なんでお父さんが」
人間じゃない、と思った。文字通りの鬼だ。本当に鬼になってしまったのだ。だから母親だって殺したのだし、きっと昭も。
「あんたなんか、お父さんじゃない!」
かおりは倒れた男の胸に杭を当てた。父親じゃない、鬼だ。かおりから全てを奪った敵だ。杭を叩いた。男が獣じみた声を上げた。人の悲鳴には聞こえなかった。途中でやめれば、こいつはきっとまた起き上がってくる。そして、かおりを襲う。危害を加えて酷いことをする。そんなことは許さない。
かおりは金槌を振り下ろしたが、狙いがうまく定まらなかった。杭の頭を叩き損ねてかすり、杭が傾いて外れる。慌てて構え直し、また叩いたものの、わずかに先がのめり込んだまま、動かなくなった。まるで岩盤の中に食い込んだようにそれ以上進まず、遮二無二金槌を振り下ろすと嫌な音を立てて杭が折れた。
男が呻いた。――まだ死んでない。起き上がってくる。何度でも起き上がって、かおりを苦しめる。
やめてよ、と叫んだ。いい加減にして。悲鳴を上げながら金槌を所構わず振り下ろした。こんなもの、いなくなればいい。消え失せてしまえば。全部、なかったことになればいいのに。呪詛をこめてその鈍器を振り下ろし、どれほど経ったか、よろめいて畳を叩いた。
かおりはそれで我に返った。目の前には顔を叩き潰され、窪んだ肉塊に変えた男が横たわっていた。当たりには血溜まりができている。
かおりは悲鳴を上げて金槌を取り落とし、そして思わず座敷を逃げ出した。廊下の隅に逃げ込み、懐中電灯の明かりに浮かび上がった男を見る。動き出さないだろうか。かおりを襲いに来ないだろうか。震えながら見守っていたが、男はもう微動だにしなかった。隆起しているべき場所が、完全に陥没している男の首をおぞましかった。その姿で起き上がり、動き出したらどうすればいいのだろう。――動き出さないとは限らない。目の前の身体の生死を確かめる方法がない。
実際、田中は完全に死んではいなかった。まだかろうじて残る細い意識が、恐ろしい苦痛と共に走り去っていく足音の振動を捉えていた。思考と呼べるほどの思考はもう紡がれていなかったが、ついに許されなかった自己を認識してはいた。――いや、やはりお前も許してはくれないのか、と悟った瞬間の絶望が、細く細く切れ切れに残っていた。田中の身体は駆けつけてくる振動を捉えた。それは間近に駆け寄ってきた。重いものが顔面に叩きつけられる衝撃は知覚できた。やはり、という細い諦観は、三度目に完全に叩きつぶされた。
かおりは昭のバットを放り出した。金属製のバットは、中程から歪んで曲がっている。震える手で懐中電灯を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、懸命に死体の様子を照らした。長いような時間を経てようやく、それがもう動かないことを確認した。――父親は死んだのだ。今度こそ、本当に死んでしまった。
かおりはもう一度、悲鳴を上げた。悲嘆が胸から溢れて悲鳴になった。懐中電灯を取り落とし、父親の身体に取り縋った。
「……お父さん」
身体を揺らし、縋り付く。父親の心音は聞こえず、温もりも感じられなかった。父親の身体は血に濡れて、畳にも酷い血溜まりができている。
「お父さん……!」
父親に詫びたいのか、父親を責めたいのか、かおりにも分からなかった。ただ、声を上げて泣き、そして自分の側に死体が存在することに思い至った。
怖かった。そこに死体があるということ自体が、怖くて堪らなかった。かおりは泣きじゃくりながら、父親の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで引きずった。座敷の押入の前まで引きずり、襖を開ける。下段に積み上げてあった座布団を引き出し、道具を引き出し、そこに父親を押し込んだ。
襖を閉め、それに背を当てて振り返ると、床に転がったままの懐中電灯の明かりが、畳の上を帯状に照らしていた。そこを血の痕が横切っている。
かおりは嗚咽しながら立ち上がり、懐中電灯を拾って雑巾を取ってきた。畳の血痕を拭い始めた。
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四章
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社務所の明かりが突然、消えた。
「――何だ」
大川の声がする。すぐさま何人かが懐中電灯を点ける。光の帯が交錯した。
「停電みたいだ。村の明かりが全部消えてる」
戸口のほうから声がする。敏夫は軽く舌打ちした。
「あちらさんも、こちらの動きに気づいたな」
「どうする、先生」
「とりあえず舞殿の篝火をこっちに持ってきてくれ」
社務所の座敷の縁側に沿い、篝火が設けられた。揺れる灯火は何もかもに陰影をつけ、それを踊らせてその場にいた者たちを不安なような猛ったような奇妙な気分に落とし込んだ。
「村一帯が停電してるようだ。タイミングがタイミングだから、偶然ということは考えられない。連中がやったんだろう。連中はそれだけ夜目が利くんだろうな」
大川は唸る。
「それだけこっちには不利ってことか」
「だろう。電話と無線はどうだ」
座敷の二方から、駄目だ、という声がすぐに返ってきた。
「電話のほうはウンともスンともいわない」
「無線も駄目です。雑音がひどくて」
敏夫は頷く。
「だろうな。連中も外部に連絡されたくないんだろう。無線が駄目だということになると、携帯電話も駄目だろう。外部に連絡できないのは大したことじゃないが、村の中でも連絡に困るな」
「伝令係がいるな。自転車やスクーターなんかの小回りが利くのを使って人間が伝令を運ぶしかない」
「何箇所か詰め所を設置しよう。詰め所ごとに留守居役と連絡係を置いて、何か連絡があれば、連絡係を動かして書く詰め所の留守居役に伝えさせる。情報や指令は留守居役から引き出してしてもらう」
「司令塔を置くってわけだ。連絡係は女子供でもいいですね。婦人会のほうに話を通して按配してもらおう。できるだけ人出を集めて、夜の間は何人かで動いてもらうってのでどうかね」
「そうするしかないな」
「詰め所はまずここと――村道を見張るのに『ちぐさ』を使うって話はどうなった」
誰かが、使わせてもらえるそうです、と声を返す。
「じゃあ、下外場は『ちぐさ』でいいだろう。外場は公民館があるし、門前は御旅所が使えるな。上外場は」
「広沢の隆文さんが木工所を貸してくれてます。あそこがちょうど葬儀社の斜め向かいなんで」
「じゃあ、そこだ。中外場は」
「うちを使ってください」と、結城が声を上げた。「工房はかなりの広さがあるし、兼正の坂までも、すぐですから」
「じゃあ、そうさせてもらおう。――若先生、兼正はどうします」
「坂の上と下だな。道を塞いでグループを配置する。人数は多いほどいい。おれも行こう」
「おれもいきます。ここは田茂の御隠居に頼もう」
田茂定市は頷く。
「それぞれの詰め所に誰か留守居役を置け。消防団の班長か世話役に采配してもらおう。おれは兼正に行くんで、外場は村迫の宗秀さんか宗貴くんに頼むんだな」
分かりました、と声を上げて、二人ほどが社務所を出て行く。
「――若先生、これでなんとかなりますかね」
「そう願いたいもんだな」言って敏夫は社務所の時計を見た。「三時か。まだ夜明けまで三時間ていどあるな。とにかく明かりもないし、夜が明けるまでは自重することだ」
「夜が明けるまでに時間がないからね」
佳枝は集めた仲間たちにそう言う。
「とにかく、まず第一に尾崎の医者よ。人が集まっているようだから、気をつけなさい。江渕と葬儀社、駐在なんかはマークされてるから、明け方に頼っては駄目。とにかくここまで戻ってくるか、そうでなければ隠れなさい、いいわね。ただし、絶対にここを知られないように。抜け道に入るときには気をつけて、人に見られないようにすること。山で仲間に会ったら、そう伝えてちょうだい」
集まった者たちは不運そうに頷く。その中に大川篤はいた。
篤を真っ先に捉えたのは、恐怖だった。悪い行いには悪い報い――きっと何か不快で痛いことが起こるに違いない、という神託のようなものを感じた。そしてそれは速やかに怒りに取って替わった。どこまでも追ってきて絡みつく、自分を窒息させそうな何者かに対する怒り。
篤はほんの少し前まで、千鶴の庇護を受けてよろしくやっていた。篤はこれまでの人生の中で初めて自分が報われたという感覚を得たが、これは続かなかった。あっさりと千鶴に見限られ、恩恵を取り上げられ、叱責を受けた。しばらく山入から出てはならない、と言い渡され、|木偶《でく》たちにまじって死体を埋めてきた。墓穴を掘ることを強いられていたのだった。
そのさらにほの少し前に、篤は生まれ変わった。これで貸しの多い人生とは手を切ったのだ、と思ったのだ。その少し前には、篤は死んでいた。その前にもやはり死んでいた。自分の取り分をむしり取られ、あらゆる種類の不快なことを強いられ、屍肉を野良犬に食いちぎられる死体のように略奪されていた。――そしてまた略奪が始まるのだ。
(ふざけるな)
これは不当だ。篤は自分の取り分を、まだ何一つ手に入れてない。千鶴はそれを小出しに舐めさせ、あっさりと取り上げた。それは束の間、篤の目の前を通り過ぎていった。そしてまた、貸しばかりが積もっていく。勝ちの目が絶対に出ない博打なんてイカサマだ。そんなルールがあるものか、と思った。篤は生まれ変わったのだから、貸しを取り立てる番になっていいはずだ。
(ルールってものが、あるだろうがよ、くそ)
ここで狩られて(また、この子ったら![#「また、この子ったら!」に傍点][#傍点部分は太字表記])殺されるなんて、イカサマの極致だ。
(おぼえてろよ)
あくまでも連中がイカサマをやるというなら、自分がルールってものを叩き込んでやるのだ。
「どういうことだよ、これ!」
正雄は人波が崩れ始めた廊下の隅で吐き捨てた。
「冗談じゃない、なんでおれが殺されないといけないんだよ! 単に飯を食っただけだろ!」
恵は正雄のヒステリックな声に顔を顰めた。正雄の声には怒り以上に恐怖が露わで、こんな声でがなり続けられたら恵まで身が竦みそうだった。
「だいたい何なんだよ、人を犬みたいに扱っておいてさ。あいつらがふんぞり返って好き放題にしてきたのって、こういうことが起こらないようにしてくれるためじゃなかったのかよ。どうせあの家の連中がヘマをやったに決まってるんだ。そのツケを何だっておれが払わなきゃならないんだよ!」
「やめて」と、恵は言ったが、正雄に同意する気分がなかったわけではない。佳枝はどういういきさつで村の連中が大挙して狩りに乗り出すことになったのか、その経過について触れていなかったが、誰のせい、と明らかにならないところに、兼正の誰かのせいではないか、という匂いを嗅ぎ取っていた。
「本当のことだろ。こういうときに何とかしてくれるためにあいつからがいるんだろう? だから言うことを聞けって脅して、人を扱き使ってきたんじゃないかよ。そもそもおれをこんなにしたのは、あいつらなんだぜ。勝手に仲間に引き込んでおいて、扱き使うだけ扱き使って、尻ぬぐいまでおれにさせるのかよ。虫のいいことばっかり言いやがって。冗談じゃねえ!」
そこ、と佳枝が厳しい声を上げ、恵らのほうを見た。恵は慌てて正雄の側を離れる。なのに正雄は同じことを繰り返しながら恵の後をついてきた。
「いやだ、冗談じゃねえよ! 村に降りるなんて、絶対に御免だ。杭を持って待ちかまえてるんだぜ、そんなところにどうして行かないとなんないんだよ。ふざけんじゃねえよ」
「やめてってば!」
恵は怒鳴った。正雄は怯えたように目を見開いて、それからいきなりのように顔を歪めた。
「あんたって、本当に口先だけの腑抜けね。偉そうな口を利くくせに内実は空っぽなんだから!」
「だって……何でだよ。いやだよ、おれ」言って、恵の腕を引く。「なあ、逃げよう」
「馬鹿じゃないの?」恵は正雄の腕を振り解いた。「そんなことだから、あんたは駄目なの。誰かさんと自分を引き比べて僻んでなきゃならないのよ!」
「だ……誰のことだよ」
「誰のことかしらね? 本当に、あんたなんかじゃなく、彼が起き上がったんだったら良かったのに。そしたらきっと、あたしだってみんなだって助けてくれたわ。馬鹿みたいに泣き言なんか言ってないで、やるべきことをやってのけてくれたに違いないのに」
「あいつだって逃げ出すさ、あいつはそういう奴なんだからな。仲間のためなんか、動くような奴かよ」
「彼は、かおりと、かおりんちのちび助を抱えて、鬼に対抗しようとしたわ」
「でもって殺されたんだろ」
「かおりたちが荷物になったからよ。――あんたは? あんたは何の荷物も抱えてない。それどころか、あんたのほうが荷物になりそうね」
「なんで荷物なんだよ、お前のこと、逃がしてやろうって言ってんだろ」
ふん、と恵は鼻先で笑う。
「そうは聞こえなかったけど? 第一、あの人たちが逃がしてくれると思うの、この人手の要るときに。ここで逃げ出したら裏切り者よ。折檻ぐらいじゃ済まないわ」
「だって」
「逃げるったってどうやって逃げるのよ。あんた、車の運転でもできるわけ? 逃げてどうするのよ。今日の夜が明けて、それからどうするわけ? 寝場所はあるの? お金は持ってるの?」
正雄は黙り込んだ。恵はそんな正雄を一瞥して背を向ける。
「どこに行くんだよ」
「決まってるでしょ。村よ」
「よせよ、危ないよ。絶対に危険だって」
正雄は前に廻り込んで止めようとする。恵はその胸を突いた。正雄が恵の心配をしているわけではないことなんか分かっている。正雄は自分だけが臆病者になりたくないのだ。
「ほっといてよ」
「だって、なあ――どこに行くんだよ」
「村だって言ってるでしょ」
「そんな、危ないだろ。危なすぎるよ」
「あんたって、本当に駄目ね。分からないの? これが最後のチャンスなのよ。あたしはこのまま犬みたいに山入に繋がれてるなんて御免なの」
正雄は瞬いた。
「佳枝さんの話を聞いてなかったの? 尾崎先生を何とかしろって言ってたでしょ」
「ここまで来て御機嫌取りかよ」
「そうよ。――本当に馬鹿じゃない。尾崎先生をなんとかしろってことは、先生を何とかすれば褒めてくれるってことじゃない」
恵は正雄を押し退ける。
「臆病者はついてこないで。足手まといだから。危なくなったら、逃げ出すしかないのよ。その時だって兼正の奴らが優先なのよ。それまでに尾崎を殺すの。そうしたら、万一何もかも駄目になっても、一緒に連れて逃げてくれるわ。ここでちゃんと働かなかったら、あたしたちここに置き捨てられるのよ、そうに決まってるでしょ」
正雄は目を丸くし、そして慌てた声を上げた。
「おれも行くよ」
伸ばしてきた手を振り払い、恵は駆け出す。
「こないで! あんたなんか邪魔なの」
徹は人混みを離れながら、とうとう始まったのだ、と思った。下の家に向かいながら、もっと早くにこうなるべきだった、と思う。屍鬼など滅びしてしまえばいいのだ。
建物の中に入ると、腐臭が薄く充満している。台所から茶の間まで、犠牲者の死体が並んでいた。鍵を開けて檻に向かう。中を覗き込むと、中年の女と律子が蹲っていた。女は橋口やすよだ。わざわざ同僚を連れてきて律子と閉じ籠めたのは、辰巳一流の嫌がらせだろう。ひとつ檻の中に閉じ籠め、律子が翻意するのを待っている。律子のほうは部屋の隅に蹲って、まるで自分で自分を抱き締めるようにして丸くなっていた。
諦めたほうがいい、と思う。どうせ屍鬼たちには逆らえないのだ。だが――と、その一方で思う。村人が屍鬼を狩るために乗り出した。ひょっとしたら、じきにこの苦痛から解放されることになるのかも。
(……解放……)
それは死を意味する。犠牲者を襲う痛み、かつての隣人たちが殺戮に遭い、それをただ見ているしかない痛みは、屍鬼である限り終わらない。この痛みが終わるときは自分の呪われた生が終わるときだ。村人に狩られて、終わる――。
徹は思わず檻の格子を握った。日光の中に引きずり出されるか、そうでなければ杭を打たれるか。あるいは首を落とされるかだ。それが狩られる、ということだった。制裁のせいで林の中に放置され、炭化した仲間の屍体を埋葬したことがある。そんなふうになりたくない、と思ってしまう自分が苦しい。
だが、それは恐怖だった。他者から自分が襲われ、惨い仕打ちを受け、苦しい死を迎える。自分の存在が終わってどこにもいなくなることは想像するだけで怖い。徹はかつて一度死んだのだが、その死は緩慢に訪れた。意識は混濁し、身体は疲弊して苦痛を感じ取る能力も摩耗していた。その状態で死を迎えることと、今の自分が杭をもって追われ、それを打ち込まれることを同じことだとは思えなかった。
どうせ自分を責めるなら、憎んで殺せるほどでなくては駄目だ、と沙子は言った。本当にそうなのだと思う。徹は自分を疎み、屍鬼である自分を呪っていたが、自分に対して殺意を感じるほど憎んではいなかった。
徹は檻を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。しばらくそれに額を当てている。やがて顔を上げてそれを揺すった。
「起きろ」
律子は蹲ったまま動かない。
「寝たふりをしてるんじゃない! 起きてるんだろうが。そいつを襲えよ!」
俯いていた、やすよが顔を上げ、小さな悲鳴を上げて身を縮めた。
「お前が襲わないんだったら、おれが襲うからな。目の前で絞め殺してやるぞ、いいのか」
律子がようやく身動きをした。白い顔が徹を振り返る。
「襲えよ。でなきゃその女が、ひと思いに殺してくれと言うようにしてやる!」
律子は憐れむような視線を投げた。徹は自分が泣いているのを分かっていた。そうしながら罵声を浴びせかける。殺してやりたいと思うほど、自分を憎んでしまいたかった。
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ドアの開く音がして、静信は目を覚ました。部屋には明かりがない。誰が入ってきたのか、静信では分からなかった。
「起きられますか」
そう訊いてきた声は辰巳のものだった。
「……ああ」
静信は身を起こす。目眩はしたが、起きあがれないほどではなかった。
「では、来てください」
暗闇の中から声がして、静信の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む者がある。それに促されて部屋を出、階段がある、段差があると注意されながら屋敷を下へと降りていった。建物の中は真の闇で、静信には全く何ひとつ見て取ることができなかった。もともと中の間取りがどうなっているかも知らず、だからその道行きの果てに、辿り着いた場所がどこなのかも分からない。ただ、屋根裏から二階、一階を経てもう一階、降りたように思った。ひょっとしたら地下室があるのかもしれない。
「……敏夫は」
「まだ、どうにかしたという報告はありません。とにかく人が集まっていて、近づけないんですよ。……安心しましたか?」
静信は答えなかった。どう答えていいのか、自分にも分からなかった。
「二時間ほどで夜が明けます。室井さんはここにいてもらいます」
言って、促された。そこにはやはりベッドのようなものがある。促されるまま腰を下ろした。
「屋敷の周囲を人が包囲してます。夜が明ければ中に踏み込んでくるでしょう。ここは滅多なことでは見つからないと思うけれど、あなたに声を上げたり妙な行動を取ってほしくない」
「しないと思うよ。……不安なら縛り上げて猿ぐつわを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]ませてもらって構わない」
辰巳は軽く息を吐く。まるで笑ったような調子の音色だった。
「あなたは変わった人だ」
「……だろうね」
「沙子をお願いしていいですか」
「ぼくに?」
「あなたに。沙子は夜が明けると身動きができないんです。きのう御覧になったように、ほとんど屍体と同義の存在になってしまう。ぼくは出ていかなければいけません。しなければならないことがある。正志郎もです。昼間に動ける存在は貴重です。全員、働いてもらわねばならない。そうでない者は昼間に身動きができない。誰かについていてもらうとすれば、あなたしかいない」
「ぼくは……」
「村人をどうこうしろとは言いません。積極的に村の人たちに敵対してもらうことまでは求めない。ただ、沙子に不利になることはしないでもらいたい。できれば、危険から遠ざける手伝いをしてもらいたいんですよ」
「それなら、約束できると思うよ。体力的におぼつかないけれども」
「注射をして、点滴の処置をしていきます。正志郎で慣れてますから、御心配なく。それでかなり改善されるはずです」
静信は頷く。
「明かりを置いていきます。電池は棚の中です。とりあえず食料も置いておきますから」
「……分かった」
「なんだい?」
「ぼくは必ずしも人の血を必要としない。けれども、人の血のほうが効率はいいんです。ぼくはこれから、かなりの無茶をしないといけない」
意を|忖《はか》って、静信は頷く。
「……どうぞ」
辰巳が出てしばらくしてから、明かりを持った沙子が部屋の中に入ってきた。その明かりで、ようやく自分のいる部屋の様子が分かった。八畳ほどの大きさで、ベッドがふたつに最低限の家財が揃っている。地下にあるのは、どうやらこの部屋だけではない様子で、壁を隔てた隣からも、微かな物音がしている。
「気分……酷い?」
「いや。こんなものじゃないかな」
「辰巳が呆れていたわ。自分の命に無頓着な人だって」
「そうかな……」
沙子はベッドサイドに明かりを置いて、床に座り込んだ。静信の横たわるベッドの上に頬を載せる。
「室井さんはわたしたちの味方なの? それとも、屍鬼も人間もどうでもいいの?」
「さあ……。どうでもいい、というのは違うだろうな。味方かと言われると、イエスと答える自信はないね。ただ――敵ではないと思う。たぶん」
「……なぜ?」
「前にも言ったろう? ぼくは理想主義者なんだよ」
「人道主義を屍鬼のうえにも施してくれるの?」
「何かを施せるほど、ぼくは偉くないよ。……ただ、ぼくには人と屍鬼の違いが分からないんだ」
静信は息を吐く。沙子の置いたライトの明かりで、点滴のパックとチューブとが鈍く輝いて見えた。
「……同じように考えて、同じように感情があって、同じように行動する。だったら人も屍鬼も同じものじゃないのかな。屍鬼は人を狩らないと生きていけないのだけど、人だって命を狩るのだし、確かに正志郎氏の言う通り人を狩るんだ。同じくらい残虐で同じくらい利己的な生き物なんだよ」
「そうかもね……」
「だからと言って、人は醜い、と言う気はないんだ。結局のところ、自らの生存のために命を狩るのは、生き物の宿命だと思うから。人が酷いんじゃない、人も屍鬼も同じなんだと思うんだよ。人が醜悪だというなら、同じくらい屍鬼も醜悪なんだろう。屍鬼が冷酷だというのなら、人も同じくらい冷酷なんだと思う……」
ただ、と静信は目を閉じた。身体が重い。自分の身体が少しも自分のもののようではなかった。
「ぼくは、どちらかと言えば、屍鬼のほうにシンパシイを感じてしまう……」
「……同じものなのに?」
「うん。屍鬼も人も似たようなものなのだけど、ひとつだけ違うところがある。屍鬼は自らの残虐性に自覚的で、人は無自覚だというところだ……」
自らの罪を理解している。屍鬼はどうしても、理解せざるを得ないのだ。善ではない自分に喘ぐ。善であることを疑う余地もない自明の事柄だとして確信している人間との間の、唯一にして圧倒的な差がそこにある。
「きみたちは死なないでいるために、人を狩っているだけだ。誰も望んで屍鬼になったわけじゃなく、望んで人を狩っているわけじゃない。きみたちはきみたちの在りように従って生きているだけなんだ。なのにきみたちの存在は凶器になり、否応なく秩序を逸脱する……」
「カインみたいね。……室井さんの書く、彼」
静信は頷く。
「きみの言ったとおり、ぼくはカインに自分を投影しているんだよ。だから、きみたちのほうに共感を抱かないでいられないんだと思う……」
「ねえ、教えてもらえるかしら。どうして彼は弟を殺したの?」
「……さあ」
「そうでなければ、質問を変えてもいいわ。どうして室井さんは、自分を殺そうと思ったの?」
分からない、と静信は呟く。
「……本当に、ぼくには分からないんだよ。きみは、どうしてだと思う?」
「あなたのほうは知らないけど、小説のほうなら答えられるわ。――彼は弟を殺さないと生きていけなかったからよ」
「きみたちのように?」
「そう。……でもね、人は、相手を殺さないと自分が生きていけないから殺すのよ。他人の目から見て、本当にそうかどうかは関係ないわ。いつだって理由はそれだけなのだと思うの」
「そうかも、しれない……」
「相手が存在していると、自分の存在が成り立たないの。だから相手の存在を抹消しようとするんだわ。そうせざるを得ないの。彼に殺意がなかったなんて嘘だと思うわ。弟を殺した以上、彼には殺意があったのよ。そして、理由のない殺意なんてない」
静信は苦笑した。
「やっぱりきみだったんだな……」
「やっぱり?」
「原稿に書き込みをしたろう?」
「……どうしても読みたかったの。だから襲った人にお願いして、ちょっとだけ持ち出してもらったの。――気を悪くした?」
「いや。……そうだね。あれが世に出ることはないだろうから。それまで村も、ぼくも保たない」
「……酷いことをしてるわね、わたし」
「仕方ないことだから」
「完成したところが見たいわ……」
そうだね、と静信も呟く。だが、完成はしないだろう。静信はあれを書き上げる時間の余裕がなく、何よりも彼がなぜ弟を殺したのか、その理由を知らない。
(……いや)
静信は気怠い眠りの中に引き込まれながら思う。知らないはずはない、それは自分の中に生じた殺意の写し絵なのだから。静信はかつて、確実に自己に対する殺意を抱いた。
(そして……)
村の崩壊を是として沙子の元に来た以上、村に対してもなにがしかの殺意を抱いているのだ――おそらくは。
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正志郎は、速見からの連絡を聞くなり、屋敷を飛び出していた。正志郎が坂を下ろうとしたときには、すでに坂の下に数人の武装した人間が集まっているのが見えた。やむを得ず山の中に入り、裏道伝いに人目を避けて神社へと近づく。なにしろ正志郎は村の中で悪目立ちする。人目を避けるしかなかったが、正志郎は屍鬼ではない。夜目が利かず、移動するのには恐ろしく時間を喰った。
村を大きく迂回している途中に、電気が落ちた。街灯も人家の窓もいっせいに明かりを失い、村は真の闇に包まれる。姿を隠してくれるのは有り難いが、周囲が見えないのは正志郎も同じだった。なんとか村道の、二之橋の袂に出た。橋を渡って水口に出る。水口からさらに山の中に入って、山から鎮守の森へと廻り込んだ。夜目の利かない自分が忌々しかったが、仲間内で神社にここまで接近できるのは自分しかいまい。良かったのか、悪かったのか――思いながら、鎮守の森の端から境内の様子を窺った。
境内には篝火が焚かれている。社務所から舞殿の当たりにかけて人が集まっていた。正志郎が潜んだ場所からさほど遠くない地面の上に、白い布をかけられたものがぽつんと寝かされていた。――あれが。
何とか近寄る方法はないか。いまのうちに取り返して処置をすれば、まだ甦生できるかもしれない。そう思って見守っているが、始終、誰かが近くに集まっていて、それができない。じりじりしているうちに、数人のグループがやってきた。張り番をしていた者たちに何かごとかを話しかけ、シーツをめくる。正志郎のいる場所からも、シーツの下にあるものの様子が見て取れた。
正志郎は呻いた。確かに千鶴だった。見るも哀れな姿になっており、明らかに杭が急所に刺さっている。あれではもう、助ける術は存在しないだろう。
正志郎は顔を覆った。尾崎の医者は、千鶴に御しきれるような男ではなかったのだ。千鶴には単純な――子供じみた愚かさがあった。その千鶴に敏夫の籠絡は荷が勝ちすぎるのではないかという気が、正志郎にはしていた。千鶴は敏夫を支配できるつもりでいたようだし、それは正志郎に対するようにたやすいことだと思っていたふうがあったが、そもそも千鶴による支配を求めていた正志郎と、千鶴に対して敵意を持っていた敏夫では事情が異なる。もともと千鶴は誰かを支配できたことなどないのだ。誰もが千鶴に支配されてやっていたのだし、そのほとんどは千鶴の影に沙子と辰巳の姿を見てのことにすぎない。それすらも理解できないほどの愚かさ――無邪気さが、やはり千鶴の命取りになったのだ、と思った。
千鶴はそういう女だった。だからいっそう、あの姿は不憫だった。千鶴は最後に何を思ったろう。せめて死が迅速であったことを祈らずにはいられない。
何とかせめて遺骸だけでも取り戻す方法はないか、未練がましく見つめていると、密かな声をかけられた。忌々しそうな顔をした辰巳が背後に潜んでいた。
「……駄目なようだな」
辰巳に言われ、正志郎は頷いた。辰巳は背後を示す。促されるままに後退し、神社の喧噪が届かないところまで山を南へと下った。
「沙子は千鶴に甘かったけど、千鶴が綻びになるんじゃないかと思ってた」
辰巳は息をついて言う。明らかに安堵した気配があるのは、神社から遠ざかったからだろう。さしもの辰巳も神域にいるのは辛いらしい。それを意外にも奇妙に思った。
「尾崎は狡猾なんだ。……千鶴には荷が重すぎた」
「そういうことだ。だから、尾崎は脅威なんだ」
辰巳は言って、正志郎を振り返る。
「千鶴の仇を討て。あの男を何とかして排除するんだ。あいつが神社に詰めている限り、ぼくらには手出しができない」
正志郎は辰巳を見る。
「沙子は逃げないと言う。だとしたら、力攻めにするしかない。ハンターを一人でも減らす、中心人物を排除して組織の瓦解を狙う。連中を血祭りに上げて、我々に逆らうとどうなるかを村の連中に思い知らせるしかない」
「逆効果にならないか?」
「覚悟のうえだよ。逃げないのだったら、他に手がない。確かに今、大挙して仲間が逃げ出せば、騒ぎは外部に波及する。外の人間が我々の存在に気づくような事態だけは避けなければ」辰巳は言って、苦笑する。「もっとも沙子の本音は、未練があって諦められないということのようだけど」
「沙子らしくない……」
正志郎は呟いた。沙子は狡猾だ。機を見るに敏で、用心深い。
「それだけ村に執着があるということだろう。そもそも、こんな夢想を実行に移すこと自体、沙子らしくなかったんだ」
正志郎は頷く。そうなのかもしれない、と思った。それだけ沙子は帰属する社会が欲しかったのだ。沙子は千鶴にだけは甘かった。――いや、正志郎にも甘いのだと思う。かりそめの父母に対する思い入れが、周到な沙子の弱点だった。たとえいっときの演技にしろ、父親が欲しかったのだし、母親が欲しかったのだろう。そのように、自分の帰属する社会が欲しかった。自分を受け入れてくれる隣人、安心して根付くことのできる土地、そんなものに対する頑是無いほどの執着を、正志郎も感じていた。
「正志郎、頼む」
正志郎は頷いた。
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篤は夜道を駆けて、まっすぐに尾崎医院に向かった。佳枝は尾崎敏夫を殺せと言った。敏夫なら病院だ、と決めてかかってまっすぐに下ってきたのだった。
最初、篤は病院のほうに向かい、どの窓も閉め切られ明かりもないのを確認して舌打ちをした。――そう、こんな時間に敏夫が病院にいるはずがない。
(まったく、糞野郎が)
忌々しい気分で思ったが、そういって侮辱したのが敏夫なのか、自分自身なのか、篤にも分からなかった。
ルールってものを教えてやる。
薄汚いイカサマで、篤にばかり貧乏籤を引かせるような、そんな真似は許さない。篤は何としても、ここらで勝ち点を上げたかった。そうして篤を見捨てた千鶴も、篤を馬鹿にした佳枝らも、みんな見返してやらなければ。
(舐めてんじゃねえぞ)
行き場のない怒りに突き動かされながら、篤は裏手に廻った。兼正のあの屋敷のように、どこか人を見下した感じのする建物がそこには寝静まっていた。篤には、この大きな家のどこに敏夫がいるのか分からなかった。
(構うもんか。どうせ医者と婆だけだ)
篤は手近の掃き出し窓に拳を叩きつける。盛大な音を立ててガラスが割れた。遠くどこからか喧噪が響いてきていたが、周囲には何の気配も物音もなかった。サッシを開け、中に踏み込む。中にはベッドがひとつ置いてあったが、誰の姿もなかった。
(どこだ)
篤は廊下に出る。青味を帯びた闇の中、長い廊下が延びている。手当たり次第に、手近の部屋を検めた。居間らしき部屋には誰もいなかった。食道らし部屋にも誰もいなかった。その奥は台所で、やはり無人だ。篤はふと思いついて流しの開きを開け、そこに刺さっていた包丁を持てるだけ引っぱり出してベルトに挟んだ。柳刃のうんと尖ったのを右手に握る。――殺していい、と言われたのだ。遠慮することはない。
他にも何か、武器になる者はないか、物色しているところで物音がした。どこか家の中で襖か障子の開く音がし、台所を出た廊下の奥の方で明かりが点いたのが見えた。ひたひたと足音が近づいてくる。篤は食器棚の陰に身を潜めた。
「――敏夫? 戻ったの?」
声と共に懐中電灯の明かりが射し込んできた。篤は食器棚の陰から踏み出した。寝間着に羽織の女は、篤を見て目を丸くした。尾崎孝江だ。篤は悲鳴を期待して笑った。にもかかわらず、孝江は険しい顔をした。
「なんです、あなたは」
孝江は、その風体の良くない若者に見覚えがあった。何度も配達できたことがある。大川酒店の長男だわ、と理解した。乱暴者で物の道理の分からないドラ息子だ。配達で何かと失態が多く、そのたびに怒鳴りつけた。孝江に叱られると恨みがましい目をして、人を脅すような顔つきをするくせに、満足に何か言い返すこともできない小心者だ。その臆病な不良息子がついに道に外れて泥棒に入ってきたのだ、と思った。
孝江は村のことに興味がなかった。だから、篤が死んだことを小耳に挟んでいながら、右から左に忘れていた。自分の値打ちを保証してくれる尾崎の威光を信じていた。だから露骨に、見下げ果てた顔をした。一喝してやれば、すごすごと引き下がるだろう。なぜなら、そうでなかったことなど、ただの一度もなかったからだ。
「何をしているんです。さっさと出ていきなさい」
孝江が言うと、篤は怯んだ。篤が怯んだのは、尾崎の威光を恐れたからでも、孝江に気圧されたからでもなかった。孝江の見下げた目が、祖母の顔に重なったからだった。
まったく、あんたはなんて子なの(富雄![#「富雄!」に傍点])ろくでもないことばかり(富雄![#「富雄!」に傍点])出来が悪くて頭が悪くて性根が悪くてどうしてお前みたいな(富雄ってば![#「富雄ってば!」に傍点])お父さんにようく叱ってもらわないと一度とっくり言い聞かせて性根を入れ替えて(なんとか言ってちょうだい、この子ったら![#「なんとか言ってちょうだい、この子ったら!」に傍点])[#この段落の傍点付き文字は底本では太字表記]
篤は吼えた。それは孝江には悲鳴の一種に聞こえた。事実そうだった。篤はこの罪に対する父親の罰を予感し、心の底から怯えていた。包丁を振り上げた。
「いい気になんなよ、糞婆ァ!」
父親が来る、篤を罰するために。拳が飛んでくるだけではない、杭を持って父親が来る。今度こそ間違いなく父親に殺される。
ヒッと孝江が声を上げた。懐中電灯が転がり落ちた。孝江は呆然としたように、切り裂かれた自分の胸許を見下ろした。寝間着の襟を押さえるように手を重ね、噴き出してきた赤いものを受け止めて、信じられないものを見るように血濡れた自分の手を見た。
「怖かねえぞ! おれは生まれ変わったんだからな!」
篤は包丁を突き出した。研ぎ澄まされた柳刃は、何の抵抗もなく孝江の腹に根本まで刺さった。薙ぎ払うように抜くと、孝江はその場に尻餅をついた。
「やれるもんならやってみやがれ! おれが手前をぶっ殺してやる! 人を殺したことなんかないだろうが。おれはもう何人も殺してんだからな」
「……やめて」
「手前なんかもう、問題じゃねえんだよ!」
孝江が背を向け、這うようにして廊下へと泳ぎ始めた。篤はその背に柳刃を振り下ろす。やめて、許して、助けて、と孝江が悲鳴を上げた。情けを請う泣き言なんか聞きたくない。
「惨めな声を上げてんじゃねえ!」
突き立てた柳刃は、背筋に沿って孝江の背中を一文字に裂いた。孝江はなおも前に進もうとしていたが、血糊で滑る床のうえで、ただ手足を動かしているに過ぎなかった。篤はその背中に柳刃を立てる。体重を乗せたその一撃で、孝江はとりあえず動かなくなった。
篤は肩で息をし(それが拭いがたい習性というものかもしれない)、孝江の身体を蹴りつけた。思う存分、蹴ってから、別の包丁を握って孝江の身体を跨ぎ越した。
「藪医者! 出てこい!」
手当たり次第に斬りつけながら、部屋を検める。一階は無人なのを見て取って、二階に上がり、家具に斬りつけ、ベッドを裂いた。どこにも敏夫の姿はなかった。腹立ち紛れに箪笥から引き出しを抜いて、ぶちまけているうちに、ふっと力が抜けるようになった。
くらり、と目眩がする。膝から力が抜ける。包丁を取り落とした。篤は喉の奥で悲鳴を上げた。
(まずい……)
夜明けが来る。とっさに時計を捜したが、力任せに払い落とした置き時計は、ガラスが割れ、針が飛んでいる。篤は辺りを見まわした。
隠れ家に戻らなければ。思ううちに、頭の芯が痺れるような感覚がした。大声を上げて首を振る。
――駄目だ、とても山入まで保たない。
他にどこか隠れ家はなかったか、病院の近くに仲間の潜んでいる場所は。思い出そうとするのに、記憶は次々に暗黒によって浸食されていく。確かあそこが、と思い浮かんだ刹那、そこには黒い穴が穿たれてしまう。
(どこか明かりの入らないところ)
篤はともかくも廊下に転がり出た。砕けそうになる膝を励まし、真向かいのドアを開ける。
(誰にも見つからないような)
篤を罰するためにやってきた、父親の目の届かないようなどこか。
朦朧としながら、壁に縋ってさらに隣の部屋に向かう。小部屋だった。窓があったが、雨戸が閉まっていた。部屋の一方には洋服ダンスが三竿、並んでいた。ドアを閉め、箪笥に縋り付いた。中に潜り込み、扉を閉める。ぴったりと閉まらない。閉めても閉めても、内側からでは上手くいかない。
脳裏を侵食するものに、大声を上げて抵抗しながら、必死で扉に爪をかけた。虚しく何度も閉めることを繰り返し、何度目かに、カチリと頼もしい音がした。
それが篤の限界だった。
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五章
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十一月六日、夜明けは六時をほんのわずか、過ぎた頃だった。
敏夫らは桐敷家の前に集まり、曙光が射すのを待って中に入った。門扉をこじ開け、玄関のドアを壊して邸内に雪崩れ込む。
「手分けして探すんだ」敏夫は人々に指示をする。「ひょっとしたら、犠牲者が囚われているかもしれない。人間を見つけたら、心拍を確認しろ」
広いホールの中に敏夫の声が谺した。
「ただし、必ず複数でいろよ。一人になるな。伏兵がいるかもしれない」
了解した意を伝える声が当たりに谺した。敏夫も大川とともに付近の部屋を探す。広い屋敷だったが、人数があったので全ての部屋を検めるのに、さほどの時間はかからなかった。
「誰もいない」大川が怒りにまかせてその辺りのものを叩き落とした。「ゆうべのうちに逃げ出したんだ」
敏夫は辺りを見渡す。たしかに、屋敷の中は|蛻《もぬけ》の殻だった。ガレージには車が残っていたが、どの部屋にも人影はない。
一階から三階の屋根裏部屋まで、部屋という部屋は全て検めた。だが、人の姿もなければ死体もなかった。ただ、私物が置かれ、明らかに使用されていた形跡のある部屋が八部屋あった。そのうちの一室で、敏夫はトレイと、ほとんど手のつけられていないサンドイッチの皿を見つける。屍鬼には必要のないものだろう。屋根裏にあったその部屋は狭く、正志郎の部屋とも思えない。ひょっとしたら辰巳の部屋なのかもしれなかったが、それにしては私物が全く存在しなかった。
(ここにいたのか……)
敏夫は幼なじみのことを思う。おそらくそうなのだろう。部屋には外から鍵がかけられる。明らかに一度、結んだ形跡のある縄が束ねられて棚の上に載せてあった。だが、本人の姿はない。どこにも。
(連れ去られたのか……あるいはついていったのか)
ひょっとしたら、すでにもうこの世にはいないのかもしれない。本人が選んだこととはいえ、それを思うと苦い気分がした。
「使っていた形跡のある部屋が八部屋ですね」
広沢が言って、敏夫は頷く。
「そのうちここは、囚人を捕らえてあった牢らしいな」
「住んでいた様子じゃありませんからね。とすると、七部屋が使われていたということですか。旦那に奥さんに娘、あとはあの若いの。他にも三人、いたということになりますね」
「だろう」
「医者と家政婦がいるという話でしたか。残る一人は誰でしょう」
「さあ。医者の江渕はここを出て江渕クリニックのほうに移ってるかもしれない。兼正の一家三人がここにいたのは確実だろうが、他の連中はどうかな」
「ああ、そうですね」
「いずれにしても、こんな程度の数じゃない。ここ以外にも隠れ家があるんだ。問題は、どこに消えたかだが」
村の外には出ていないだろう。道路は封鎖してあるし、何より車が残っている。どこかにもっと大人数を収容できる隠れ家があるはずだ。
「問題はこっちじゃねえのかい」
大川が棚を示した。二階の書斎らしき部屋だった。至る場所に書棚が置かれていたが、その間に、細長い戸棚がある。中は空だったが、明らかに何か長いものを立てて収納してあった形跡があった。
「これは……」
「たぶん銃があったんじゃないのかい。そういう按配だぜ、これは。刻みは五挺ぶんだ。五挺あったとは限らねえが、弾がぜんぜん見当たらない。連中がずらかるときに持ち出したんだ」
敏夫は頷く。周辺の棚を探したが、やはり弾は見つからなかった。銃を持たれては厄介だ。村で猟銃を所持していたのは、すでに村にいない兼正を除けば敏夫の父親だけだったと思う。敏夫自身は、公安委員会に申し出て認可を得るのが面倒で、父親の死後、全て処分してしまっている。
「猟銃が五挺か……」
大川が呟くのに、敏夫は言い添える。
「それに拳銃が一挺だ。駐在の佐々木がいる」
そうか、と大川は口を曲げた。
「とにかく、佐々木を見つけなきゃならん。――駐在所はどうだったって?」
「ゆうべのうちに、若い連中が踏み込んだらしいが、蛻の殻だったらしい。拳銃はどうだろう。保管庫の中まで確かめてるかな」
「確認しよう」と、敏夫は言って書斎を出る。隣の部屋から、ほら、と田代が言って手招きをした。
「どの窓も全部、二重になってる。あいつら、よほど日光が嫌なんだな」
全くだ、と呟いて大川は窓のひとつにハンマーを叩きつける。盛大な音がして内外二重の板戸が壊れ、ガラスが砕けた。
「ちょっと、大川さん」
「こうしといたほうがいいんじゃねえか。窓を壊しておきゃあ、万が一連中がここに逃げ込もうと戻ってきても、もう使えねえだろう」
確かに、と敏夫は頷いた。
「大将の言う通りだ。全部の窓を壊す。何も壊さなくてもいい。要は戸が閉まらなければいいんだ。蝶番を曲げてしまえば事足りる。人の隠れられそうな戸棚も全部だ。そうすればここはもう隠れ家としては使い物にならない。敵の拠点を潰していくんだ」
なるほど、と清水が言って、手当たり次第に|玄翁《げんのう》を打ち下ろし始めた。人々がそれに倣い、みるみるうちに整えられた家の中は無惨な有様になっていく。それは敏夫に、千鶴の姿を思い起こさせた。
松尾誠二らは、夜明けと共に江渕クリニックと看板の上げられた建物に押し込んだ。玄関を入ると、殺風景な待合室があり、カウンターがあった。診察室とおぼしき部屋に入って、誠二らは呆然とした。デスクがひとつ、衝立がひとつ。衝立の向こうには十枚ほど畳が敷かれ、それで全てだった。処置台もなければ、医療器具もない。そもそもここでは、全く診療など行われていなかったのだと、誠二らはこの光景から悟った。
実際のところ、「クリニック」と看板は上げられていたものの、この施設は医療施設としての認可など受けていなかった。建築業者は、医者が指導してダイエットや軽い運動をさせるだけの健康道場のようなものだ、と説明を受けていたのだった。 誠二はそういう事情を知らない。だが、部屋の隅には布団が積み上げられ、わずかに私物が散乱する様子を見れば、ここが診療所ではなかったことなど一目瞭然だった。ここは屍鬼の隠れ家に過ぎなかったのだ。
二階もまた同様だった。一階同様、完全な無人で、江渕の私室とおぼしき部屋が一室と、一階同様の座敷があるだけだった。ここで医療行為を行うことは、設備の上からも不可能だった。
「でも」と、声を上げたのは大塚製材の大塚隆之だった。「通ってた患者がいたんだ、たしかに」
誠二は吐き捨てる。
「そうとも。でもって、その患者はここで何をしてたんだか――江渕って奴に何をされてたんだろうな」
村迫宗貴らは、曙光が射すと同時に、外場葬儀社の中に踏み込んだ。自宅のほうには複数の人間が起居していた痕跡こそあったものの、人の姿はなく、斎場のほうにも人が潜んでいそうな様子はなかった。斎場の隅から隅までを検め、宗貴らは裏手の部屋に雪崩れ込んだ。入った途端、人々は鼻面を覆う。
倉庫のようなその部屋には死臭が漂っていた。ハンドライトで照らしてみると、ストレッチャーのような台車に乗せられた棺が三つ、そこには放置されている。どれも全く同じもので、同形の棺が倉庫の隅にも積み上げられていた。蓋を開けると、果たして中には死体が入っていた。
「……いたぞ」
父親の声に、宗貴は棺の中を覗き込む。中にいた顔には見覚えがあった。外場の西田老人だ。
「なんてこった……」
「ちょっとまってください」と、声を上げたのは加藤電気の加藤実だった。「これは、本当に屍鬼なんでしょうか」
「だって現に」
「でも」と加藤はハンドライトで死体の顔を照らす。ドライアイスらしきものが入れられ、棺の中には冷気が漂っている。そこに納まった西田の頭頂部は陥没して、血糊が瘤のように固まっていた。
「これは襲われた死体には見えません。事故か――そうでなければ殺された死体なのでは」
加藤が言ったところで、倉庫の隅を家探ししていた女が、地下がある、と声を上げた。行ってみると、コンクリートのスロープが地下に向かって降りていた。それを下りると、さらに腐臭が酷い。それもそのはず、わずか四畳半ほどの地下室には、四体の死体がコンクリートの床の上に並べられていた。上の死体は平服のままだったが、ここにある死体はどれもきちんと経帷子を着ている。
「なんなんだ……これは」
宗秀は呻く。竹村源一が、こりゃァ、と声を上げた。
「ちょっと、宗秀さん」
源一は死体のひとつを照らす。
「御覧よ、こりゃァ、塚原の倅だよ」
宗貴も覗き込み、それが近所の塚原一であることを確認した。そう、塚原は死んだのだ。死んだという話を聞いた。宗貴は葬儀に行ってない。それどころか葬儀自体が行われたのかどうかも知らなかった。このところの村では、そういうことが珍しくなかった。
「つい一昨日、葬式だったんだよ」と源一は死体を指さして言う。「おれは親父さんと仲良かったから、葬式に行ったんだ。間違いない。ここで葬式だったんだよ。確かに棺に入ってて、そうして山に運び上げて埋めたんだ。それが何だってこんなところにいるんだい」
「起き上がってきたんだ」と、誰かが声を上げた。
「違う」と、宗貴は言う。「敏夫は、起き上がるまでに四日から五日前後はかかるんじゃないかと言ってた。これはまだ起き上がってないよ」
「だったら何で、こんなところに死体が」
それは、と言いかけ、宗貴は口を噤んだ。まさか、と思う。狼狽して顔を上げると、加藤と目が合った。加藤は宗貴の意を察したように静かに頷く。
「……上にだって死体はあった。それもきちんと棺に収まってさ」宗貴は悪心を感じる。――なんという傍若無人な。
どういうことだい、と源一はもちろん、宗秀も瞬いている。
「分からないか? 棺がすり替えられているんだよ。斎場での葬式を見たことがないか? 式の最後に棺が床下に消えて、それが裏口から輿に載せられて出てくるんだ。棺はここに入るんだよ」と、宗貴は地下室の奥にある扉を示した。おそらくはそこが斎場の真下だろう。「でもって中の死体だけが取り出されて、ここにこうして並べられる。だからこの死体は経帷子を着てるんだ。そうして、空の棺が輿に載せて運び出される。そうでなきゃ、上の棺みたいに、都合の悪い死体が入った奴にすり替えられるんだ」
そうして、と宗貴は怒りを感じる。遺族は泣きながら、空の――あるいは赤の他人の死体が入った棺を埋葬して別れを惜しんできたのだ。
宗秀が唸った。
「……畜生、なんて真似をしやがる」
大川長太郎は、佐藤笈太郎に先導されて水口の最も下にある|荒《あば》ら|家《や》に向かった。
「ここ――ここだよ、郁美さんの家は。下外場の前田の父っつあんが出入りしてるって噂があったんだ」
長太郎は頷き、背後の連中を促した。傾いた玄関の戸に向かって玄翁や鉄パイプが振り下ろされる。長太郎自身も、怒りにまかせてそれに参加した。息子の茂が死んだ。鬼に引かれたのだ。なぜもっと早くに気づかなかった、という自身に対する怒りが、そのまま屍鬼という敵に対する怒りに転嫁されている。
その粗末なガラス戸は、以外に持ち堪えた。力任せに戸を破ってみると、それもそのはず、内側から板でしっかりと塞がれている。
「何かがいるのは間違いないみたいだな」
そればかりではない。中に踏み込んだ若い男が鼻を覆った。家の中には薄く腐臭が充満していた。
「まさか……死体でもあるんじゃ」
「かもしれんな」
長太郎は口を歪める。玄関脇の襖を開けると、中は手狭な四畳半、窓にはやはり内側から板が張られ、奥にはカーテンが下がっている。若い者が飛び込んで窓を破った。朝日が中に流れ込み、それで畳の上に散らばった土塊が見えた。笈太郎がカーテンを開ける。カーテンの向こうには襖があった。
「なんだって襖にカーテンなんか」
笈太郎が言いかけ、長太郎らは顔を見合わせた。そのカーテンも裏に黒い布で裏打ちされている。表地もゴム引きされているのか、妙な光沢があった。
長太郎は頷き、手にした鉄パイプの先で襖を開けた。中に横たわる人影が見え、そして異音がした。ぴくり、と人影が海老反った。異音は明らかに人の呻く声だった。
若い連中がカーテンを引き毟る。襖を引き倒した。押入の上段には確かに一人の老人がいて、それが苦悶の声を上げ、身もがいている。
「……巌の父っつぁんだ」
長太郎も頷いた。奥歯を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みしめる。確かにそれは前田巌に違いなく、そして巌は吼えるように声を上げていた。その顔に、手に赤い斑が浮かび、見守るうちに水疱を生じて弾けていく。
「こいつら、本当に」
誰かが震える声で言ったが、その先はなかった。本当にいたのだ、と言いたかったのかもしれないし、本当に日光に弱いのだ、と言いたかったのかもしれなかった。どうする、と別の声がした。目の前で恐ろしい声を上げ、身体を捻って苦悶しているこの老人をどうすればいいのか。身動きはしているが、ただ苦しみのあまり、身を捩っているだけのようだ。起きあがる気配はなく、長太郎らが側にいることを分かっているふうでもなかった。
長太郎は脇に手をやった。ベルトに提げた袋に杭と木槌を持っている。笈太郎がたまりかねたように悲鳴を上げて蹲り、耳を覆った。実際、その声は聞くに耐えなかった。
「こ……このままにしといたら、勝手に焼け死ぬんじゃないのかい」
そう言った誰かは、明らかに手を下すことを恐れている。長太郎は同意したかった。前田巌と付き合いがあったわけではないが、顔見知りではあったのだ。それが苦しんでいる。そこに杭を打つことは、あまりに残虐なことに思えてどうしても身体が動かない。こいつらが息子を――茂を殺したんだぞ、と自分に言い聞かせても、やはり手は凍り付いたように動かなかった。殺してやりたい、という意思はあったが、そう思うことと行為に踏み込むことの間には、恐ろしいほどの隔たりがあった。
蹲って念仏を唱えていた笈太郎が、ふいに声を上げた。
「なんだい、こりゃあ」
長太郎は声を上げている巌から顔を背ける。笈太郎が示す部屋の隅へと目をやった。畳が一枚、明らかに浮いている。角が隣の畳の上に乗っていた。周囲には大量の泥が零れている。土の色からすると、いま長太郎たちが靴の裏につけて持ち込んだものではないだろう。
長太郎は屈み込み、そして畳を持ち上げた。それを倒して放り出すと、畳の下の床板が切られている。一まわり小さな穴が開いて床下の土が見えた。それは妙に盛り上がっている。――そして腐臭が。
「こりゃあ」と、笈太郎は呻いて後退る。
長太郎は中を覗き込み、パイプの先で土を掻いた。白いものが土の下にあった。人がいる、この下に。
埋めてあるというより、ほとんど薄く土をかけてあるだけのようだった。おざなりな埋葬、という気が長太郎にはした。埋葬ではない、単に隠蔽しただけだ。おそらくは死体の処置に困ってここに放り込んだのだろう。なんて惨いことを、と思った。せめて地中深くに埋葬してやるというのならともかく。
これを、と誰かがちびた箒を差し出した。箒で土を払うと、中から死体の頭部が出てきた。腐敗し、すでに相好が変わっていたが、それがまだ少年と呼んでいい子供のものであることは分かった。
「こ……こりゃあ、田中の坊やだ」
「田中の――?」
「役場に勤めていた田中のとこの昭くんだよ。お父っつぁんが死んで、おっ母さんが倒れて――そうだ、間違いない。姉ちゃんと二人きりになったってのに」
笈太郎は喘いで畳の縁を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。最後に会ったのはタケムラの前田。そういえば、あのとき自分が巌の話をしたのではなかったのだろうか。――そう、昭から巌が出入りしていたというその家はどこだ、と訊かれた覚えがあった。ひょっとしたら、あの話を聞いて昭はここにやってきたのかもしれない。なぜ大人は何もしないんだ、と忿っていた子供は、大人の不甲斐なさに落胆して、自らここにやってきたのかも。
「そうかい、……坊やも殺されてたのかい」
笈太郎は洟をすする。畳の縁を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだまま、声を上げ続ける巌を振り返った。
「あんた……巌さん、この子を知ってたんじゃないのかい。同じ下外場だ、顔ぐらいは知ってたんだろう? まだ子供じゃないか、それをあんた、襲って殺したのかい。どうしてそんな惨いことができたんだよ」
長太郎は背後を見た。巌は口を開けたまま、その顔は焼け爛れて、弾けて、すでに炭化している。まだ身体を捻っていたが、もう悲鳴と言うほどの声は出ていなかった。これが息子を殺した。おそらくは、この子供も。目の前に無惨な死体がある、まだ年端もいかない少年の死体だ。埋葬されることもなく、放り込まれ土を被せられ――それが長太郎の何かを切った。
「この……化けもんが」
長太郎は足を踏み出す。周囲の二、三人がそれに従った。ひとつの死体が、越えられない一歩を越える後押しを確実にしていた。
杭を置いたのは長太郎だった。それに金槌を振り下ろしたのが誰だったのかは覚えていない。彼らは杭を打った。焼け爛れた屍体は改めて悲鳴を上げた。「助けてくれ」と聞こえたのが、いっそう彼らの怒りを煽った。一本目の杭を打っても巌の動きはやまない。身もがくように手足を振りまわしている。二本目、三本目の杭が打たれて、そして巌は動かなくなった。その焼け爛れ、所々が炭化した屍体を彼らは引きずり出す。路上に放り出すとき、確かに複数の者が快哉を上げた。
「他の部屋も検めろ。誰か、ここに屍体があるって連絡してこい」長太郎は言って、笈太郎を振り返る。「爺さん、他にどこが怪しいって?」
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元子はのろのろと歩き、表に出た。朝日が目を灼いた。空は嘲笑するように青く澄んで高かった。
元子は夢|現《うつつ》で道を歩き、畦道を辿った。村の様子が何か変だと感じたが、どう変なのかを確認する余裕はなかった。枯れ草に覆われた畦道を歩き、国道に出る。もう国道を恐れる必要はない。なぜなら、ここを駆け抜ける車が元子から奪っていけるものなど何ひとつ残っていないからだ。
足許が定まらないまま歩く元子の脇を、トラックが一台、駆け抜けていった。素知らぬ顔で元子を追い越し、ただ通り抜けていく。
ドライブインの中に入ると、車が何台も停まっていた。店にも人の姿が見えたが、元子はとりあえず興味を引かれなかった。ふらふらと加奈美の家のほうに近づく。玄関に手をかけ、開かないことを悟ると、力任せに戸を叩いた。
「加奈美、……加奈美ぃ」
慌ただしい足音がして、玄関の戸が開く。加奈美が顔を出して、驚いたように目を見開いた。
「……元子」
「加奈美、どうしよう、あたし」
元子はしゃくり上げる。加奈美は元子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで中へと促した。奇妙に周囲を憚るような仕草だったが、とりあえず元子はそれには気を留めなかった。
「どうしたの」と、加奈美は玄関に鍵を掛けて振り返る。「その臭いはなに?」
「臭い……」
「酷い臭いがしてるわ。どうしたの」
「茂樹が……」
元子が呟いて、その場に蹲った。
「加奈美、茂樹が死んじゃったよぉ」
死んでしまった。とうとう起き上がらなかった。
「待ってたのに、起きあがらなかった。とうとう起き上がらないで腐っちゃった」
加奈美が小さく悲鳴に似た声を上げた。
「待って……待ってたって、元子」
「起き上がるかと思ったんだもの。戻ってくると思ったんだもの。なのに起きあがらなかったの。あたし、ずっと茂樹を温めてて、冷えて固まらないようにして、ずっとずっと待って、神様にだっていっぱいお願いして」
「……元子」
「なのに、茂樹は死んじゃったの。とうとう起き上がってこなかった……!」
元子は|三和土《たたき》に額を擦りつけて泣いた。
「お義父さんにつれてかれちゃった。あたしから盗んでいったのよ、あの糞爺」
馬鹿、と元子は何度も金切り声を上げる。加奈美が元子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「とにかく上がって、人が変に思うわ」
「加奈美」
「うん。分かる。……辛かったね。とにかく上がって休んで。身体を洗ったほうがいいわ。着替えがいるね」
元子は泣きじゃくりながら、加奈美に手を引かれて上がり込んだ。居間の前まで来ると、辺りには雑巾や汚れた新聞が散乱し、汚物を擦り取った跡があった。どうしたのだろう、と思い、促されるままに洗面所のほうへ向かう。
「風呂場に行って。まだ停電してるのかしら。ひょっとしたらお湯は出ないかもしれないけど、とにかく顔を洗って身体を拭いたほうがいいわ。いま、着替えを持ってくるから」
加奈美は言って、元子を促す。その加奈美の手には包帯が巻かれていた。
加奈美は寝間のほうに戻っていく。元子は勝手知った家の中を風呂場のほうに向かった。途中、加奈美の母親、妙の部屋の前を通った。どういうわけか、妙の部屋の襖にはガムテープで目張りがされ、一部にはカーテンが付けられている。
(どうしたのかしら……)
元子はぼんやりと思う。そういえば、家の中が変に暗い。どうしてこんな、何もかも閉めきっているのだろう。元子は何気なくカーテンをめくる。何でもない襖がそこにはあって、ぴったりと閉じている。
何かしら予感のようなものがあった。元子は引かれるように襖を開けた。部屋の中は暗かった。微かに部屋の中に布団が敷かれ、そこに誰かが寝てでもいるように盛り上がっているのを見た。
(でも、この部屋は)
元子は首を傾げる。棒立ちになっていると、慌ただしい足音と悲鳴に似た声がした。
「――元子!」
加奈美は元子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み、部屋の中から引きずり出す。襖を閉めて背中を当てた。立ち塞がるように手を広げる。
「……加奈美、いまの……」
元子、と加奈美は手を伸ばした。
「お願い、何も見なかったことにして」
「だってあれ、加奈美の」
母親ではないだろうか。でも、加奈美の母親は――。
「お願いよ、元子。誰にも言わないで。起き上がってきたの。でも、何も悪いことなんかしてない。本当よ、まだ誰も襲ってないの。これからだって襲わせないわ。襲わないって約束したもの。だから、お願い」
元子は目を見開いた。足許から震えが立ち上がってきた。そして、耐え難いほどの胸の痛み。
「お願い、元子」
加奈美は泣き崩れる。元子は機械的に頷いた。奇妙にこの場にいることが耐え難いことに思われて、元子は踵を返す。
「――元子」
加奈美は這うようにして追ってくる。
「うん……分かった。黙ってる。大丈夫よ」
加奈美は涙を零す。ありがとう、と呟いた。それに頷き、元子はふらふらと玄関に戻る。朝日の中に出た。
空はやはり高かった。爽やかなほどの陽射しが降り注いでいる。山の緑は深く、あちこちが紅葉していた。のどかで平和な空きの景色だ。
――世界は何ひとつ変わってない。
日常は壊れていない。平和でのどかだ。なのに元子の世界は壊れてしまった。子供たちはすでにおらず、家族もいない。元子ひとりが取り残された。加奈美にだって母親が残されたというのに。
(あたしだけ……)
ふらりと元子は足を踏み出す。店の中で人が右往左往していた。一人が店から出てきて元子に目を留める。清水寛子だった。
「あら――元子さん」
おはよう、と元子は頷いた。なんていう日常。
「元子さん」と、寛子は近づいてくる。そして顔を顰めた。「まあ……何の臭い?」
「……臭い?」
加奈美もそう言っていた。何がそんなに臭うのだろうか。自分で検めてみても、嫌な臭いは感じない。むしろ甘い匂いがしていた。それはミルクの匂いだ、と思った。子供に乳を含ませて、それが零れて、立ちのぼっていたあの匂い。抱き上げた子供の――志保梨の、茂樹の――赤ん坊の肌からは、常にこの匂いがしていた。
(……茂樹)
変色して膨らんで、融けていった。
寛子は首を傾げ、そして頭を振る。
「それより、元子さん、あんた近所で変なことがなかった?」
「変な……こと」
「ええ。人がいないはずの家に人がいるとか。いるはずのない人を見たとか。分かるでしょう? そういう変なことよ」
「いるはずのないひと……」
「あたしたち、たいへんな災難に巻き込まれているの。虫送りをするのよ。鬼を集めて村の境に追い払わないといけないわ」
元子は頷いた。
「そうね。……虫送りね。そうだわ」
「でしょう? どこかそういう、心当たりはない?」
元子は頷いて手を挙げた。
「そこにいるわ。――加奈美の家。お母さんが戻ってきてたわ」
加奈美が元子を見送り、茶の間で頭を抱えて息をついた、それからわずかのことだった。いきなり玄関の戸が激しい勢いで打ち鳴らされた。それは戸を叩くというより、叩き壊そうとしているように思われた。
加奈美は慌てて立ち上がり、玄関へと駆けつける。外にはガラス戸越し、数人の男女が集まっているのが見て取れた。
「加奈美さん、開けてちょうだい!」
「何なんですか? そんなに乱暴にしないで」
加奈美は言いながら、三和土に下りる。下りた瞬間、これは良くないことだ、と理解した。開けてはいけない。それをすると怖いことが起こる。
竦んで動けないでいると、さらに戸が勢いをつけて叩かれる。開けろ、と怒鳴る男の声が聞こえた。松尾誠二の声に聞こえた。
開けないと変に思われる、けれども開けると怖いことになる、ふたつの思いに引き裂かれて、加奈美は身動きができない。竦んでいると激しい音がして、外からガラスが打ち破られた。破片が音を立てて三和土に降る。
「――やめて!」
加奈美は叫んだが、やはりその場を動けなかった。さらにハンマーのようなものが打ち下ろされて、そして戸が内側に倒れてきた。思わず飛び退ったところに、松尾誠二らが踏み込んできた。
「な……なんなの、これは」
加奈美は言って、踏み込んできた者たちの顔を見る。先頭に立ったのはハンマーを持った松尾誠二、他にも見知った顔ばかりだった。その末尾に清水寛子がいた。そのさらに後ろには、白い顔をした元子が陽射しを受けて立っていた。
くらり、と目眩がした。何が起こったのか分かった。加奈美はその場に坐り込んだ。
「中を検めさせてもらうよ、加奈美さん」
誠二らは言って、返答を待たずに土足のまま家の奥へと入っていく。加奈美は放心したように坐り込んだまま、元子から目を離せずにいた。
背後では誠二らが互いに呼び交わす声がしている。すぐにそれが怒声に変わった。ガラス戸の開く音、雨戸の開く音、そして妙の悲鳴が響いた。
加奈美は腰を浮かせかけたが、腰が抜けたように立ち上がることができなかった。足の感覚がない。自分のものではないようだ。妙の声が続いている。悲鳴を上げ、叫ぶ。加奈美は目を閉じ、耳を覆った。その指の間からねじ込まれるように、悲惨な断末魔の声がした。
「……やめて」
もう遅いということは分かっていた。それでも加奈美は叫ばずにいられなかった。
「やめて、お母さんに酷いことをしないで! 見逃してよ、――お願い!」
妙が何をしたというのだ。何もしてない、何ひとつ、咎められるようなことは。なのに――なのに。
加奈美は泣きながら顔を上げた。元子は朝日の中、何の表情もなく加奈美を見ていた。背後から足音が聞こえた。血の臭いがした。
「悪いんだけどね、加奈美さん。ちょっとあんたも調べさせてもらうよ」
誠二が言って、清水寛子が加奈美に触れた。手首を握り、首筋に触れ、脈を探しているようだったが、加奈美には抵抗する気になれば、そして白々とした顔で佇立している元子から視線を外すこともできなかった。
「大丈夫みたいね」
冷え冷えとした寛子の声を聞きながら、加奈美は目を閉じた。誠二が労るような声を出した。
「心配はいらないよ、加奈美さん。お母さんはおれたちがちゃんと葬るから」
加奈美は返答をしなかった。
(村を出よう……)
この連中が立ち去ったら、すぐに荷物をまとめて家を出よう。この村からできるだけ離れた、遠いどこかへ行くのだ。最低限の着替えと、貴重品、――そして妙の位牌を持って。
元子は泣き崩れた加奈美を無感動に見た。引きあげてくる人々を見、そして国道の橋のほうを振り返った。
橋の向こうは水口。そして巌を見た者がいると誰かが言っていた。元子は寛子と共に店のほうへと歩く。
――巌だけは、何があっても許さない。
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かおりはドアを叩く音で目が覚めた。
何気なく表に出ると、大人たちが集まって、何か異常なことはないか、と訊いた。
かおりは最初、自分が何を問われているのか分からなかった。
「ゆうべ……停電がありました」
「ああ、知ってる。他にはないかね。何か異常なものを見たとか、聞いたとか、噂でも何でもいいんだがね」
べつに、と答えたが、かおりの脳裏には押入の中に押し込んだ父親の屍体のことが閃いていた。
「本当にないかい? よく考えてごらん」
大人たちは執拗だった。ひょっとしたら大人たちは、かおりが父親を殺したことを、もう分かっていて、それでかおりを捕まえるために来たのかもしれない、とそんなことを思った。
「さあ……ないと思います」
言ったかおりに、女のひとりが目を留めた。
「かおりちゃん、あんた、服についてるそれ、血じゃないの」
え、とかおりは服を見下ろした。見下ろすと、確かに嫌な茶色の染みが、あちこちについている。
そうか、と思った。ゆうべは停電で明かりがなかったから、ちゃんと確認できなかったのだ。そもそも死体を隠すのが精一杯で、掃除をして、そしたらもう堪らず、雑巾を握ったまま今まで眠ってしまっていた。
かおりは大人たちを見渡す。険しい目が自分に注がれていた。刑事ドラマの犯人みたいだ、と思った。刑事はもう犯人が誰だか分かっていて、犯人を捕まえるためにやってきていて、なのに犯人はそれを知らず、しらばっくれようとして馬脚を露す。――そのまんまだわ、と思うと、おかしかった。
「……何があったんだい」
訊かれて、かおりは踵を返した。こっちです、と大人たちを振り返る。ばれているんだから隠しても仕方がない。捕まって大変なことになるのかもしれなかったが、もうどうでも良かった。これ以上、何かを隠したり、何かを思い煩ったり、不安になったり悲しんだりするのは面倒で嫌だった。
大人たちを先導して座敷に向かう。あんなに掃除したつもりだったのに、昼間の明かりの中で見ると、血痕が歴然としていた。こんなものなんな、と思い、かおりは押入の襖を開ける。大人たちが低くどよめいた。これは誰だ、と声が上がった。大人たちが答えを出すのを待つのが面倒で、かおりが教えてやろうとしたとき、中の一人が狼狽したように言った。
「こりゃあ……良和さんじゃないか」
「しかし、良和さんは」
「戻ってきたんだ」と言った男は、かおりの顔を覗き込んだ。「かおりちゃんがやったのかい? お父さんが襲いにきて?」
かおりは頷いた。まるでこの大人たちは、いろんな事情を分かっているみたいだ、と思った。
「そうか……」と言った男は、かおりに坐るよう促した。「おい、誰かこの子の面倒を見てやってくれ」
「隣の人を呼んでくるわ」と、女が言った。「たしか、大塚製材と仲が良かったはずだから」
男たちが父親の死体を引っぱり出した。
「よりによって娘を襲いに来るとはな」
「ここは奥さんも亡くなったろう。まさか奥さんも」
「なんてこった……」
運び出す大人たちが口々に言うのを、不思議な気分で聞いていた。首を傾けていると、かおりの側にいた男は、「もう心配ないから」と言う。
「……心配ない?」
男は頷いた。
「そうだ。もう大丈夫だから。――可哀想に、怖かったろうなあ。よくやっつける勇気があったね」
「やっつける」
男は運び出されていく死体のほうを見た。
「お父さんが襲ってきたんじゃ辛かったろう。酷い話だよ、まったく」
「……あたしを捕まえに来たんじゃないの?」
男は目を丸くして振り返った。
「違うさ。おれたちは、起き上がりを捕まえに来たんだよ。もう誰も、お嬢ちゃんみたいな思いをしないように、虫送りをやり直すんだ」
なんだ、と思った。では――かおりは、不思議に泣きたいような気がしてたまらなかった――やっと、大人たちも気がついたのだ。そんなことなどあり得ないと思っていた。あり得ないことが起こってくれるならもっと早くに起こってくれれば良かったのに。そう、昭が消えてしまう前に。佐知子が、父親が死ぬ前――夏野が殺されてしまう前に。
かおりの脳裏を、結城の顔が過ぎった。結城も気がついたのだろうか。あのとき、かおりや昭を追い払ったことを今頃は後悔しているだろうか。
(……後悔してたって)
同じだ。夏野はもう死んでしまったのだから。夏野が可哀想だと思った。昭も、自分も可哀想だ。
「――かおりちゃん!」
慌ただしい足音がして、大塚寛子が駆け込んできた。かおりの側に駆け寄ってきて膝をつく。
「なんて可哀想に。怖かったでしょう」
かおりは頷いた。
「もう大丈夫よ。本当になんてことでしょうね。とにかく、小母さんちに来なさい、ね?」
「本当によく頑張ったなあ」と、涙含みの声がして、顔を上げると大塚吉五郎だった。老人は、かおりの頭を軽く撫でる。「……可哀想にな」
うん、ともう一度、かおりは頷いた。急に涙が溢れてきて止まらなくなった。寛子に抱き寄せられるままに縋り付いて泣く。――本当に可哀想だ。
村を出るんだ、と思った。親戚を頼って村を出て、可哀想なのを置き去りにしてしまおう。何もかも全部、忘れるのだ。父親のことも、母親のことも。二人は病気で死んだ。弟は事故で死んだ。夏野には出会わなかった。恵なんて幼なじみは存在しなかった。
――そういうことだ。
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村の気配が何やら不穏だ。――光男は起きて以来、ずっとそう感じていた。美和子も克江も、村の異常な気配を感じ取っているようで、盛んに山の下のほうを気にしている。
「ちょっと様子を見てきます。どうもただごとじゃなさそうだ」
光男は言い置いて、庫裡を出た。山門を抜け、石段を降りて周囲を見渡す。周囲には何か殺伐としたものが漂っていた。いったい何が起こったのだろう、と辺りを覗き込んでいて、光男は複数の人間の上げる獣じみた快哉を耳にした。
光男の家のあるほうだった。小道を覗き込むと、道の突き当たり、まさしく光男の家のその玄関先に人が集まっているのが目に留まった。なにごとだろう、と足を踏み出そうとしたとき、ひとつ手前の家から人の身体のようなものが放り出されるのが目に入った。
とっさに電柱に身を寄せ、身体を隠したのはどうしてなのか、光男自身にも分からない。まるで死体のような何かが手前の家からまた放り出され、そして家の中から声高に何かを話し合う人々が出てきた。彼らは――光男の家の前にたむろした人々も含め――手に手に何かしら凶器めいたものを持っていた。そう、道に放り出されたのは間違いなく死体で、人々はそれを物のように冷淡に見下ろしている。
(……隣は……でも)
五日の夜、鶴見に会った。鶴見はあの家に出入りしていた。
人々が、死体の顔を確かめるようにそれらを転がした。中の一体は遠目にも鶴見であることが分かった。道路には血が零れている。光男は凍り付いたまま、身動きすることができなかった。鶴見の体を検めていた者はふいに何事か叫ぶと、間近に立った者から鉈を奪って振り上げた。光男は身を竦めて目を閉じる。目を開けたときには、鶴見の首はほとんど胴から切り離されていた。
(……なんてことだ……)
光男は泳ぐように参道を引き返した。鶴見だ、間違いない。鶴見は狩られたのだ。村人が鬼を狩るために集まっている。
それ自体は喜ぶべきことなのかもしれなかった。だが、光男には喜ぶことができなかった。あまりにも残虐な行為に度肝を抜かれたせいかもしれない。あるいは。
震える足を励まして石段を這うように上がり、山門を入って門扉を閉じた。内側から閂を掛ける。
「なんてこった……」
光男は呟いた。鶴見に対する哀悼の念が、いまさらのように湧き上がってきた。鶴見は起き上がった。そしてひょっとしたら、村で死を媒介していたのかもしれない。だが、鶴見は鶴見だ。光男に、寺に行け、と忠告してくれた。鶴見の光男に対する気遣いは失われていなかった。
「なんて……惨い……」
光男はひとしきり顔を覆い、なんとか自分を立て直して庫裡に戻った。庫裡では美和子と母親の克江が、不安そうな面持ちで待っていた。
「光男さん、どうでした?」
「村では狩りが始まってます。鬼を狩ってるんです」
美和子が悲鳴を上げる。
「みんなとうとう気づいたんでしょう。これは鬼のせいなんだって」言って、光男は美和子に頷く。「ですから、若御院もそのうち保護してもらえますよ。そう信じて待ってましょう。――いいや、表には出ないがいいです。相手は鬼とはいえ、惨いことになってる。奥さんも母ちゃんも、あんなものは見ないほうがいい」
光男は頷いて、美和子らを促した。戸締まりをしたほうがいい。進退窮まった鬼が逃げ込んでくるかもしれないから。
言いながら、光男は怯えていた。ハンターたちは、あれが鶴見だと気づいたはずだ。鶴見が鬼になっているなら、寺の他の連中も、とそうは思われないだろうか。疫病だという噂が流れた。そのとき寺は忌避された。死に汚染されたものとして。そのように、同種の思考回路が働けば、光男らも鬼だと思われ、狩られることになりはしないか。ましてや寺には信明がおらず、静信もまたいない。寺は大丈夫です、といって信じてもらえるものだろうか。
光男は恐ろしかった。死には慣れている、死体にも。鬼を怖いとも思わなかった。光男の知る鬼は、鶴見だけだからだ。むしろ、その鶴見に白昼、あれほどの惨い真似をしてのけた、狩人のほうが恐ろしかった。
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田代留美はガレージのシャッターを開け、買い物用の軽自動車を出した。明け方に帰ってきた夫は、軽く眠るとまた家を出て行った。留美は留めたが、夫は首を振って家を出て行った。
――鬼だという。
馬鹿馬鹿しくて笑いたかった。そんなことがあるはずがない。なのに夫は硬い表情をして出ていった。その前に子供たちを連れて溝辺町へ行け、と言い残していった。何もかもが済んだら連絡する、と言うが、いったい何が「済む」というのだろう。
村の者はみんな、どうかしている、と思いながら、それでも留美は言われるままに荷物をまとめ、子供たちを車に乗せた。下外場にある家から車を出し、村道へと向かう途中で戸板に死体が乗せられ、運ばれていくのを見た。――いや、正確にはシーツに覆われた身体と、そこから出た手足、戸板を伝って落ちる赤い血を見ただけだ。それでも怖気がした。村では恐ろしい――気違いじみたことが始まっている。
震えながら村道へと右折し、川沿いの道を走るわずかの間にも、戸板に乗せられた死体に出会った。子供たちが、あれはなに、と訊くのに寒気がした。こんな光景を子供たちには見せられない。一刻も早く村を出なくては。
(鬼だなんて……それを狩る、なんて)
鬼なんているはずがない。なのに戸板に死体が乗せられていく。狩られた鬼の死体だろうか。だが、鬼がいないものなら、あの死体は一体何だというのだろう?
何か恐ろしい愚行が始まっているのだ。いるはずもないものを、いると言って殺戮が行われている。そういうことではないのだろうか。こんなことが許されていいのか、なのに留美の夫はそれに関与しているのだ。吐き気のする思いで国道の手前まで出ると、トラックで道が塞がれていた。車を停めると、トラックの助手席から男が一人、飛び降りて駆け寄ってくる。
「あんた、誰だい」
「田代留美ですけど……田代書店の」
留美が言うと、男はトラックに駆け戻り、運転席にいた男と何事かを相談し合った。メモのような物と留美を見比べる。また男が駆け戻ってきた。
「どこに行くんだい?」
「溝辺町……」
何だろう、これは。まるで検問のような。
「通っていいけど、村で何が起こってるか、決して外で言わないように。それをすると、えらいことになるんだ、分かるだろう?」
分からない、と思ったが、留美は頷いた。とにかくこの場を離れたかった。男は頷いて、トラックのほうへ手を振った。トラックがバックして、車一台分、道を開ける。留美は身を竦めながらそれを通過した。
(こんなこと、許されない……)
留美は国道に出ながら思った。心の病に冒された者を、狐憑きだといって殺すようなものだ。あまりにも常軌を逸している。警察を呼ばなければ、と思う。そう、警察に行って、電話が通じないこと、停電していることを訴えて、そして村を止めてもらわなければ。そう決意しながらハンドルを握り、車を南へと向かわせる。自動車道の橋脚が見え、すぐにその下を潜って抜けた。
空は清々しいほどの秋晴れだった。しんしんと近づいてくる冬を漂わせて、どこか寂しげに晴れ上がっている。山は緑、そこに紅葉の赤や黄色が混じる。渓流の色は深く、世界は豊穣の季節の終幕を迎えている。ガードレール、道路標識、道端の小屋、あちこちに立った広告板。電柱に架線、整えられたアスファルトの道。
橋脚をくぐり抜けたとたん、別の世界に入り込んだ気がした。そこには日常があり、全てが正常で、何ひとつ損なわれたものがなかった。急に決意が萎えた。
(警察に行く? ……何をしに?)
村で恐ろしいことが起こっている、と思ったが、その恐ろしいこととは何だろう。鬼などいるはずがないし、村の隣人たちが――ましてや夫が、鬼でない者を鬼だと言って殺すような、そんな愚行をするはずがない。戸板の死体は、ただの死体だったのだろう。村では夏以来、死が続いた。留美の次男だって犠牲になっている。死体に遭遇することがあってもおかしくはない。いや、そもそも死体だったのかどうか分からない。急病人だったのかも。
――鬼がいるといって、村ぐるみで人を狩っています。
そんなことを言って、誰が信じてくれるだろう? 留美だって信じない。ましてや鬼がいるなんてこと、あるはずがない。死が続いたのだって偶然で、誰かに話せば、そう言うこともある、と言ってくれるのに違いない。
「……そうよね」
留美はひとりごちた。夫がそんな愚行に関与するはずがなく、関与している以上は、留美が想像しているような異常なことではないのだ。だから留美は夫に言われたホテルにチェックインして、夫からの連絡を待てばいい。そうすれば、後で夫が何もかも納得できるように説明してくれるだろう。
村迫智寿子は、荷物を提げ、娘の手を引いてガレージへと向かった。家を出て、車庫の前を通り過ぎ(そこには商売用のバンが入っている)、裏手の月極駐車場へと向かった。
昨夜遅く――ほとんど夜明けが近づいてから戻ってきた夫は、智香を連れてしばらく実家に帰っていろ、と言った。夫はなぜ、とは言わなかったが、神社で起こった騒動ならすでに耳にしていたし、とうとう虫送りが始まったのだということは知っていた。――いや、やっと、と言うべきだろうか。
まさか、そんなことだったなんて。――それとも自分はこれをとっくに分かっていたのだろうか。そうなのかもしれない。隣の主婦が駆け込んできて、神社で、といって話を聞かせてくれたとき、智寿子は何を思うより先に「やっぱり」と思った。いまさら、という思いがあった。今になってそれが分かって、それでどうなる。すでに智寿子は博巳を亡くしている。けれども同時に、これでようやく、とも思った。これで智香を失わずに済むのだ。
智寿子には自分でも、この事態を喜んでいるのか、悲しんでいるのか分からなかった。博巳のことを思うと、やるせなさが押し寄せてくるのだが、智香のことを思うと心底、良かった、と思う。同時に博巳のことを思うと村を離れたくない。虫送りに参加して、自分も鬼を狩るのだ、と思うのだが、智香のことを思うと一刻も早く村を離れなければ、という気がした。自分でもどうしたのか分からない。けれども夫が、そうせよ、と言ったのだから。どうしても気が済まなければ、実家に智香を預けて自分だけでも戻ってくればいい。そう言い聞かせて角を曲がり、三方を建物に囲まれた小さな駐車場に出て、智寿子は眉を顰めた。
ガソリンの匂いが漂っている。駐車場に残っている車は半分以下だった。隣の住人は村を出た。少なくとも昨夜には、そう言っていた。そのようにして使われた車があり、あるいは今現在、村の内部で用を足すために使われている車もあるのだろう。いずれにしても駐車場に残っているのは三台きり、そのどれもから黒い流れが生じている。車体の下から流れ出した液体は、アスファルトを黒く濡らして揮発性の強い匂いを放っていた。
智寿子は自分の車に駆け寄った。車の脇に屈み込んで車体の下を覗き込む。どこがどうなっているのか分からない。それでもガソリンが漏れていることは分かった。そればかりでなく、タイヤまでが切り裂かれている。
「ママ、どうしたの?」
不思議そうに言う智香に曖昧に答え、智寿子は他の車にも駆け寄ってみた。他の二台も同様だった。誰がこんなことを、と思い、その犯人など分かり切っている、と思った。
「ママ、おばあちゃんのところに行かないの?」
智香に訊かれ、そうね、と答える。
「でも車が故障してるみたい。ちょっとお家に帰ろうね」
不満そうに声を上げる智香の手を引き、智寿子は家に戻る。車庫のシャッターを開けると、配達に使っているバンは異常がなかった。犯人(犯人たち)は、車庫の中に忍び込んではこれなかったらしい。
――どうしよう。
これを使えば、村を出られる。智香を安全圏に連れていける。
(でも……博巳は?)
博巳はもう逃げられない。義弟も死んだ。智寿子は義弟を嫌っていたが、その死を喜ぶほど冷酷ではない。死んだと思うと、むしろ不憫だった。
「くるま、故障?」
智香が智寿子の手を引いた。智寿子は微笑む。
「うん、そうみたい。お祖母ちゃんのところ、行けなくなっちゃった」
「なぁんだ」
「智香、ママは車を修理したり、いろいろとしなきゃならないことがあるの。お向かいの小母ちゃんのところにいてくれる?」
智香は小さく膨れ、上目遣いに頷いた。
「必ずいてね。今日は表に遊びに出ないで。ママと約束して――いいわね?」
速見は左右を見渡し、道具の入った鞄を提げてその車庫から滑り出た。門の脇に屋根をつけただけの車庫だった。野球帽を被り直し、足早に隣の家に向かう。隣の車庫は建物の中に組み込まれていた。しかも住人がいるようで、二階の窓が開いている。ここは諦め、さらに次に向かう。ここは車庫すらなかった。家の前の駐車スペースに車が停めてあるだけだ。家には住人がいるようなので、やはりこれも諦める。
速見の中には焦りのようなものが生まれていた。
辰巳からは、車については何の指示も受けていない。とにかく住人を襲って傀儡を作り、尾崎を始めとするリーダー格の者たちを襲わせろ、とだけ命じられていた。そのために数人の人狼が村の内部に散っていたが、同時に彼らは村人の動向も探らねばならず、仲間の潜伏先を見張っていなければならなかった。昼間にも動ける者は、辰巳や速見を含めても六人しかいない。手に余ることは確実で、しかも辰巳や速見は村人に面が割れているために、目標に近づくこと自体が難しかった。
村では狩りが続いている。すでに戸板に乗せられた仲間の死体を遠目に見かけていた。なのに速見には、できることがない。沙子は常々、「屍鬼などいるはずがない、という常識が最大の武器だ」と言っていたが、その通りだと思う。一旦、自分たちの存在が明らかになると、ただ身動きするだけでもままならない。
――もしも、と速見は思う。村人が村を出て、外部に救済を求めたら。ゆうべのうちにも、かなりの数の車が村を出ていた。今頃はもう、そのうちのどれかが救済を求めてしかるべき所に駆け込んでいるのではないかと思うと胆が冷える。
速見自身は都会で生まれて都会で育った。そこで変容し村にやってきた。沙子に命じられて葬儀社に就職したのが半年前、ひととおり業務のことを覚えたところで村に呼ばれた。速見は田舎で生活したことがない。だからこの村の、ひとつの生き物のような在り方を理解して驚いた。都市では街がひとつの生物のように振る舞うことなどない。住民は確かに都市を成り立たせる細胞ではあるのだが、総体としての統一性を欠いている。そして速見の目には、溝辺町も村と大差ないものに見える。小さな地方都市。それもまた、この村のような振る舞いをするのだとしたら。
外部に村で何が起こっているか、漏れるのはまずい。溝辺町から大挙してハンターが乗り込んできたら、速見らには退路がない。電話も無線も遮断しているものの、アクセス方法が残っているのでは、完全に遮断したことにはならないのではないか。――早朝、仲間が眠っている隠れ家のひとつを見張りながら、速見はそのことに思い至った。
村に隠れ家は多数ある。速見が身を潜めて見張っていた家は、そのひとつにすぎず、そこに収容されているのも、わずかに三人のことでしかない。しかも村人は複数で行動している。たとえそこに踏み込んできても、仲間を守るために飛び出せば速見のほうが狩られる破目になりかねなかった。それよりも車を何とかするほうが先ではないか、そう思って村を徘徊しているものの、それもまた思うに任せない。
前方から人がやってきた。速見はできるだけさりげなく顔を伏せ、近くの家を訪ねるふりをする。チャイムを押したふりで佇んでいると、とりあえず自分だとは気づかれなかったようだ、その三人ほどのシーツを抱えた女たちは通り過ぎていった。
速見は息を吐く。女たちが角を曲がって消え失せたのを確認し、次の家に向かう。ここは車庫が独立しており、しかもシャッターのようなものはなかった。速見は車庫の中に滑り込んだ。
辰巳は建物と建物の間の、細い隙間に身を潜めている。辰巳の顔は村人の多くに知られている。明るい昼間には、ほとんど身動きが取れなかった。だから身を潜め、ただ待っているしかない。速見も同様だろうし、正志郎も同様だろう。一旦ことが露見すると、想像以上に彼らの分は悪かった。
(昼間に動けないのは致命的だ……)
改めてそれを思う。昼間でもせめて暗がりの中でなら、身動きくらいはできればいいのに。各人が自分の身を守り、隠れ家の暗闇に乗じて狩人の数を減らしてくれれば、辰巳らの分のほうが跳ね上がる。
(……彼らは弱い)
夕刻を待って形勢が逆転するのを期待するしかない。そう思いながら、建物に沿って流れる細い側溝を見つめている。側溝の中には泥が堆積し、わずかに水が流れている。その水面には油膜が張ってガソリン臭がしていた。誰の仕業だか分からないが、村のあちこちで車のタンクに穴を開けてまわっている者がいるらしい。それが是とすべきことなのかどうか、辰巳にもよく分からなかった。
足止めにはなる、確実に。確かに村の外部に助けを求められては目も当てられない。何とか村を逃げ出せても、自分たちの存在がばれてしまえば、逃げ場などないのだ。――少なくとも、沙子らにはない。脈を取られれば、一発で異類の生き物だということが分かってしまう。屍鬼の身体は死の直後の状態で凍結されている。死んではいないが、生きてもいない。人と屍鬼を|篩《ふる》い分けることは、あまりにたやすい。
だが、本当に外部に救済を求めるだろうか。それをしない気風がこの村にはあり、そもそも外部の人間に訴えるには、事態の実相は妄想めいている。誰も信じないだろうし、それ以上に、救済を求める方が救済を信じられまい。虚言や妄想扱いされるのが落ち、だから誰も外部に向かって村で起こっている異常を訴えたりはできないはずだ、という予想を前提に、そもそも辰巳らは行動を起こしたのだし、それには長い経験則から来る確信があった。被害者は呆れるほど、加害者のことを訴えない。そう学んでいたし、少なくともこれまでは予想通りに進んできている。
だとすると、誰かのこの行動は、仲間からも脱出の足を奪うことになるのかもしれなかった。いよいよ逃げ出すしかないとなったときに、全員を乗せられるほどの車両を辰巳らは持っていない。
(だが……まあ、同じか……)
どうせ逃げ出したところで、仲間の全てを収容できるような隠れ家があるわけでもないのだ。屍鬼には絶対に遮光された空間が必要だ。村で増殖した屍鬼たちには、自分の力でそれを確保するような才覚はあるまい。
(ここであらかたが死んでくれれば、身は軽くなるな。……逃げ出すのにも話は早い)
そんなことを考えていたとき、ようやく建物から物音がした。玄関を開ける音、誰かを急かす男の声。
「急ぐんだよ。そんな大荷物をどうする気だ」
だって、と女の声がする。
「とりあえず、身の回りのものと貴重品だけでいいと言っただろう」
「そうしたのよ。本当にそれだけなの」
「それでどうして、そんなに荷物ができるんだ。そんなもの、置いてこい」
「だって」
辰巳は密かに舌打ちした。長いあいだ身を潜めて待った結果がこれか。この家の夫婦は村を出ることにしたらしい。二人揃って家を出て車に乗り込む――そうすれば襲いかかる余地はどこにもない。
「ちょっと待って、あたしやっぱり」
「おい」
「もうひとつだけ。すぐよ、すぐだから」
ぱたぱたと家の中に駆け戻る足音がした。男が家を出てくる足音。僥倖だ、と辰巳は思った。身を潜めた隙間を滑り出る。車と塀のあいだに身を屈めると、男が車のほうへやってきて声を上げた。
「なんだ、この臭いは」
男が車のドアを開ける音がする。荷物を放り込み、ドアを閉める。乗り込んだ気配はない。男は不審そうに声を上げながら、ボンネットのほうに廻り込んだ。車体の下を覗き込む男の頭がちらりと見えた。
辰巳は身を起こし、車の前に飛び出す。驚いたように男が顔を上げるより、辰巳が男の首根っこを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで地面に叩きつけるほうが早かった。呻いた男の口を塞ぎ、車と塀の間を通って、身を潜めていた隙間へと引きずり込む。男はのけぞり、目を見開いて辰巳を見ていた。手足を振りまわすが、辰巳が襲いかかる妨げにはならなかった。男はすぐに抵抗しなくなった。膝が力を失い、羽交い締めた身体がずるりと落ちるまでにはいくらもかからない。まだ家の中では、ぱたぱたと駆けまわる音がしていた。
辰巳は目を閉じて坐り込んだ男の首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで揺する。松村安造だった。尾崎敏夫は大川と行動を共にしており、松村は大川酒店の従業員だ。ごく自然に敏夫に近づくことができ、油断させることができるかもしれない。できるかどうかは分からないが、敏夫に近づけそうな人物の家を巡って、在宅しているふうなのはこの家だけだったのだから仕方がない。敏夫の母親という線も考えたが、あいにく、誰かが先に手を下していた。
辰巳は目を開けた松村の手の中に、拳銃を押し込んだ。
「尾崎を撃つんだ。気取られるな。近寄って、話しかけて、至近の距離から撃て」
松村は虚ろに辰巳と手の中のものを見比べ、そして頷いた。
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安森厚子が数人の女たちと尾崎医院に向かったのは、ほんの流れというものだった。門前の集落を順番に巡り、不審なことがないか、訪ねてまわった。昨夜、門前の下のほうから始め、交代で休みを取りつつ、あるいは雑用に手を取られつつ、とりあえず上のほうまで辿り着いたのがこの時間だった。上のほうの集落を訪ねてまわり、寺に行くと、珍しく山門が閉じていた。私道のほうから登って光男と話をすると、その隣は厚子の家の製材所、さらに隣は尾崎医院だ。
自宅のほうに廻って呼び鈴を押した。返答はなかった。厚子は、孝江に対して苦手意識があったので、返答がないなら仕方ないと立ち去ろうとしたのだが、同行した女たちの中に、変だという者があった。こんな時間にまで寝ているはずはないし、ましてや孝江が一緒に働くために出かけるはずがない。言われてみればその通りなので、さらに呼び鈴を押し、次いでどこからか中を覗けないかと辺りを見まわした。窓のひとつが破られているのは、すぐに発見された。奥さん、と声をかけながら中に入り、手分けしてその辺を覗いているうちに、誰かが悲鳴を上げた。駆けつけてみると、孝江が死んでいた。
「これ……」
震える女に、厚子は頷く。辺りは血の海で、俯せに倒れた孝江の背中は刺し傷だらけだった。死んでいるのではなく殺されていると言うべきだ。すぐさま厚子は家を飛び出し、急を知らせに走った。
その頃、敏夫は大川らと中外場を巡っていた。中外場だけは中心となるべき者がいない。小池老はいつの間にか消息を絶っており、こういう場合、助番となりそうな人物もとうに死ぬか移転するかしていた。そのせいもあって、敏夫らのグループが必然的に中外場を担当するかのようになったのだった。
不審な場所のリストに目を通しながら、次に向かう場所を指示しているのは広沢だった。
「次は……三安ですね」
ああ、敏夫は頷く。奇妙な転居をした、中外場の外れにある安森家。
「あそこも無人じゃないのか?」
少なくともこれまで、中外場の不審と思われる家は、無人だった。
「嫁さんが帰ってきたのを見た者がいるそうです」
へえ、と言いながら、敏夫は小道を曲がる。二軒だけ外れて安森と田茂の家が建っていた。
田茂に様子を訊いてみようか、と言ったのは田代だったが、田茂の家には誰もいなかった。仕方なくまっすぐに三安に向かう。三安は固く戸締まりをされていた。
「済みません、安森さん」
大川が戸を叩く。家の中からは応答がない。仕方ない、と敏夫が言って、大川と清水が強引に戸を叩き壊す。ガラス戸には内側から板が張られていた。この家には何かある、と思わせるにはそれで充分だった。敏夫らは中に踏み込む。雨戸を閉め切り、あちこちを内側から目張りした建物内部は暗い。結城らが窓辺に駆け寄って、幾重にもされたカーテンを引き明け、窓を開け、雨戸を開けた。目張りされた窓を壊しながら部屋を検める。だが、やはり家の中は無人だった。
「やっぱりいませんね」広沢が溜息をつく。
「だが、連中の隠れ家としして使われていたことは間違いないようだ」
敏夫が言うと、これ、と田代が声を上げた。
一階の卓袱台の下にメモ用紙が一枚、落ちていた。それには、村の連中が気づいたから寝場所に注意するようにと、走り書きがしてあった。
「知らせが来たってわけだ……それで隠れた」
すでに屍鬼が発見され、死体となって運び出されてきているから、全ての屍鬼の許に伝令が届いたわけではないようだ。あるいは、単に他の隠れ家を思いつけなかっただけなのかもしれないが。
そう――と、敏夫は思う。右から左に安全な寝場所を確保できるはずもないのだ。恭子の例から言っても、連中はほんのわずかの日光でも我慢できないらしい。桐敷家といい、この家といい、偏執的なまでに遮光されている。これだけの造作をするのに一朝一夕で終わるはずがなく、知らせがあったからといって右から左に寝場所を見つけられるはずもない。
「どこか、あらかじめ決めた避難場所があるんだな」
「でしょうね」と、広沢は頷いた。
それがどこか、と考え込んでいるところで、ああ、と田代が声を上げた。メモ用紙を拾った炬燵台を脇に寄せる。
「どうしたんだ?」
「いや、一箇所、探してない場所があるな、と思って」
敏夫が首を傾げると、田代は炬燵台の下の畳を示す。半畳の畳だけが、軽く浮き上がっている。
「掘り炬燵。古い家だと、結構あるものなんですよ」
「ははあ」
田代は笑ってその畳を引きあげた。浮いているので特に手鉤は必要なかった。持ち上げて倒し、田代は声を上げた。
「敏夫――これ」
敏夫は中を覗き込み、ぎょっとした。半畳大の穴が開いていたが、中には壁も底もなかった。床下の土が露出し、そこに棺が置かれている。
「いた……」
結城がハンドライトで中を照らす。床下の一部が、ちょうど寝棺のおけるだけ、板で区切られているようだった。なるほどな、と敏夫は呟く。
――そう、そう簡単にこれだけの造作ができるはずもないのだ。かなりの日数がかかるであろうことは想像がつくし、かといって人目を憚る以上、連日のように通ってきて働くというわけにはいかないだろう。安全なのは、まず建物のどこかに一晩、二晩でできるような簡便な寝場所を作ることだ。そうすればそこを寝床に家に住み着くことができ、安全に造作することができる。造作が終わった後は緊急の避難場所として使える。目の前のこれのように。
敏夫がそう言うと、結城は頷いた。
「上手い手だ……あらかじめくらい場所を使うんだ」
「床下とか――天井裏?」
「あり得る」
「開けていいかね」と、大川が聞いて、敏夫は頷き、身を引く。大川は縁から身を乗り出し、棺の蓋をずらして開けた。中には若い女が横たわっていた。
「安森の……日向子さんだ」
広沢が息を呑む。
「家でした嫁さんか」と、敏夫が言う間もなく、日向子が声を上げた。呻き声を漏らし、目を開ける。果たして敏夫らが見えているのか、絶望的な表情で周囲を見渡し、そして両手で顔を押さえた。押さえる前に、確かにその眼球の表面が炙られたように濁るのを、敏夫は見ていた。
田代らが、たじたじとなって退る。日向子は苦悶の声を上げ、棺の中で身を捩る。その手が、顔が紅潮し、焼け爛れ始めた。
ふん、と軽く鼻を鳴らしたのは大川だった。
「結城さん、杭」
結城は肩に掛けたディパックを慌てて開く。田代が怖じけたように大川を見た。
「ど……どうするんです」
「どうするもこうするも」と、大川は目を剥く。「片づけないことには始まらんだろうが。とっととやっていかないと、日が暮れちまう」
「それは……そうですね」
「怖いんだったら、どっかそのへんを探してきたらどうかね。他にももっと隠れているかもしれない」
そうだね、と田代はあからさまに安堵した表情を浮かべて慌てふためいたように立ち上がった。広沢がそれに続き、二、三がさらに続く。結城は杭を取り出して握っていた。食い入るように苦悶する女を見る。そして敏夫を正面から見た。
「こいつらが……やったんですね」
「そうだ」
敏夫が頷くと、結城も頷く。嫌悪と意思が|鬩《せめ》ぎ合っているのがその表情から見て取れた。決意したように頷き、杭を女の胸に当てる。
「ここですか」
「もう少し」と、敏夫は手を添えて位置を決めてやる。「ここだ」
結城は穴の下に身を乗り出した不自然な姿勢のまま、杭を構えて支えた。大川が頷き、木槌を振り上げる。大川の手にかかると造作もなかった。迷いのない手つきで三度、それで杭は完全に身体を貫通する。血が棺の中に溢れ、辺りには生臭い臭気が立ち込めた。
「首はどうします」
造作もなげに大川が言って、敏夫は微かに眉を顰めた。この男は、この行為に何の気後れも疑問も感じていないのだと思った。――いや、むしろどこか喜々とした臭いさえ感じる。「ひと思いに落としたほうが」と言った清水も同様だった。清水に喜々とした色はないが、憑かれたような風情がある。怒りと恨み――それがこの男の回路をどこか一本切断している。
こんなものか、と思った。おそらくは、恭子に杭を打った自分もこんなふうだったのだろう。どこか常軌を逸してしまわなければ、およそできることではない。
「首はいい。大丈夫だ。間違いなく急所に入ってる」
敏夫が言ったところで、田代が駆け戻ってきた。
「敏夫、――いる!」
田代は奥を示した。敏夫は立ち上がり、田代の示したほうに向かう。座敷にある押入の襖を広沢らが外しているところだった。押入の下からはすでに苦悶の声が漏れてきていた。中を覗き込むと、大塚製材の康幸だった。
広沢は上をも示す。上段のさらに上。
「天袋をぶち抜いて天井裏をやっぱり仕切ってます。そこに一人」
敏夫は頷く。
「他の押入も見てくれ」
大川が上段に登り、天井の板を外したところに首を突っこんだ。清水園芸の息子だ、と抑揚のない声で言ってその身体を引きずり出した。力任せに穴から下へと引きずり落とす。畳の上に転がり落ちた少年は、悲鳴を上げてその場を転がる。座敷は明るい。薄煙を上げて少年は身悶え、みるみるうちに皮膚の表面が焼け爛れていく。やめてくれ、と叫んでいるようだった。助けてくれ、と。そう喚きながら這って逃げようとしていたが、清水の足許に向かってる。目が見えていないのだ。
田代らか顔を背けるようにして、他の場所を側鎖がしてくる、と言ってその場を去った。清水は無感動に、その少年を足蹴にした。水疱が弾け、皮膚のめくれ上がった手が清水の足を捕らえ縋り付いたが、清水はそれを足で蹴って外した。大塚康幸のほうはすでに顔の表面が炭化していこうとしている。日向子、と叫んでいるようにも聞こえた。
大川と清水、結城と敏夫とで処置をしている間に、田代らが別の場所を探してもう一箇所、同じように床下と天井裏が仕切られている場所を見つけてきた。幸か不幸か、そこは無人だった。三体の屍体を運びだそうとしているところにスクーターを苦の音が近づいてきて、安森和也が顔を出した。
「先生――若先生!」
「どうした」
「病院が、――大奥さんが」
敏夫は目を見開いた。
「母さんが? 襲われたのか?」
「分かりません。屍体で――刺されて」
ここを頼む、と和也に言い置いて敏夫は駆け出した。大川らがついてきたのは、自然な流れというものなのかもしれなかった。病院に駆けつけると、母屋の玄関で安森厚子が手招いていた。泣きながら台所、と言う厚子に礼を言って、敏夫は台所に向かう。中に入るまでもなかった。母親はその廊下側の戸口で息絶えていた。
そうか、と思った。無惨だとも思うし(その死対の様子は、そう言う感慨をもたらすに充分な有様だった)哀れにも思う。だが、それ以上の感情は出てこなかった。怒りはあったかもしれない。それも母親に対する怒りだ。この女は、とうとう愚かなままその埋め合わせをすることもなく逝ってしまったのだ、と何となく思った。それよりも強いのは脱力感だった。――これが屍鬼の報復であることは間違いない。襲わずに殺しているということは、犯人は正志郎か、と思った。
「ひでえことをしやがる」
大川が呻く。敏夫は力なく頷いた。
「……あんたらも家族には注意させたほうがいい」
大川はぱっと敏夫を見た。
「じゃあ――」
「おれに対する報復だろう。これ以上、余計なことをするな、という。……それとも警告かな」
敏夫は孝江の傍らの壁を顎で示した。血痕で汚れたそこに、掠れ掠れの血文字で「この女が生き返ることはない」と書いてあった。
「あれはどういう……」
「言葉通りさ。母は起き上がらない。襲われたのではなく、殺されたからだ」
そうか、と大川が呟くのと同時に、敏夫を取り囲んでいた人垣から不安そうな声が上がった。敏夫は自分が失言をしたことに気づいた。
「そうなんだわ」と、安森厚子が顔を歪めた。逆らったから仕返しされたのよ、奥さんは。ただ死んじゃったんだわ。殺されたら起き上がって生き返ることもできない……」
「おい」と、大川が厚子の胸を突いた。「それはどういう意味だ。殺されるのに比べたら、起き上がって鬼になって人殺しをしたほうがましだって意味かい」
そういうわけじゃ、と厚子はよろめきながら目を伏せる。集まった人々が顔を見合わせた。彼らが急速に不安になるのがよく分かった。
敏夫は軽く舌打ちしたが、もはや取り返しはつかない。それよりも問題は、犯人はどこに行ったのか、ということだった。
「とにかく、死体を運び出してくれ。それから、誰か、この落書きを消しておいてくれ。不愉快だ」
ええ、と女たちは頷く。敏夫はその足許に目を留めた。廊下の床には、とぎれとぎれに赤い汚れが続いていた。人垣を押し退けてそれを辿る。床に壁に、擦ったような汚れが続いて、それが階段に向かっていた。手摺りにはべっとりと血がついている。返り血を浴びた手で握ったのだろう。
「先生、どうしました」
大川に、敏夫は上を示した。
「上にいる……」
手摺りには、血の汚れが続いていた。
「まさか」
「分からない。だが、犯人がお袋を殺して、それから二階に上がったのは確かだ」
敏夫は階段に足を乗せる。やはり血の足跡らしき汚れが踏み板にも続いていた。往復したようには見えない。一人ぶんの足跡が上に登ってそれきりのように見えた。
二階の寝室は荒らされていた。到るところに血痕が残っている。それは衣装納戸に続いていた。正確には、衣装箪笥のひとつに辿り着いて終わっている。
「まさか……あそこに」
清水が言い、敏夫は頷いた。正志郎ではなく屍鬼なのか。二回を荒らしている最中に、夜明けが来て、慌てて隠れたということか。思いながら、敏夫は窓を開け、雨戸を開ける。薄暗かった室内に西日が射し込んだ。
大川が箪笥に歩み寄った。勢いをつけて扉を開く。吊したコート類に埋もれた人影が見えた。大川はそれに手をかけ、引きずり出してから呻き声を上げた。
その場の全員が息を呑んだ。清水は目を白黒させて、床に転がった身体と大川を見比べる。返り血で汚れていたが、間違いなく大川篤だった。
「お……大川さん」
清水が狼狽した声を上げる。結城と広沢が大川を部屋の外に連れ出そうとした。仁王立ちになった大川は、それを振り解く。顔を紅潮させて怒声を上げた。
「この糞餓鬼が!」
怒鳴って結城を振り返る。
「――杭」
「大川さん」
結城は止めたが、大川は結城に手を突き出す。大川の足許で篤が苦悶の声を上げ始めた。
「同情なんかしてもらう必要はねえ。この餓鬼、大奥さんを殺しやがったんだ。ろくでもねえ餓鬼だとは思っていたが、ここまで性根が腐っているとは思わなかった」
「……でも」
「いいや。手前の息子がやらかしたことだ。手前で片をつけるのが親の責任ってもんだ」
大川は吐き捨て、結城の手から杭を引ったくる。田代が、そんな、と呟いて部屋の外へと逃げ出した。
結城も清水も呻いた。二人は共に子供を失っている。起き上がっている可能性がある、というの武藤の言葉がいまさらのように胸に響いた。
「なんて顔をしてんだ」大川は周囲を見まわす。「こいつは大奥さん以外にも、人殺しをしてやがったに決まってるんだ。こういうとき、親が始末してやらないで誰がするんだ、え? 子供を躾けるのは親の役目だ。悪さが過ぎたら殴ってでも止めにゃならん。他人に仕置きしてもらうのは、それこそ筋違いってもんだろうが」
「そう……そうだよ、大川さん」
清水が頷く。敏夫も頷いて、杭を受け取り、構えた。大川は木槌を握る。その時だった。
「――父ちゃん!」
焼け爛れた篤の口から悲鳴が上がった。
「勘弁してくれよ、勘弁してくれよ、勘弁――」
誰か、と大川は顔を顰めて背後を見た。
「こいつを押さえといてくれ」
真っ青になった結城と清水がそれに従い、広沢がさらに手を貸す。篤はまだ何事かを叫んでいたが、もう言葉にはなっていなかった。大川は杭を支えた敏夫を見る。
「そこで間違いないかね。できたら、あんまり苦しめたくないんでね」
「間違いない」
大川は頷いた。木槌が振り上げられ、振り下ろされた。
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静信は乏しい明かりの中で蹲っていた。隣のベッドでは沙子が物のように眠っている。周囲はしんと静まり返っている。ずいぶん前に頭上で人が行き来する物音がしていたが、それも絶えてかなり経つ。今頃、地上では何が起こっているのだろう。いたたまれない気分のまま、寝息すら立てない沙子と無音の中に取り残されている。
点滴が落ちきっているのが見えたので、自分で針を抜いた。かなり気分は良かった。目眩は最低限、じっと蹲っている限り動悸はしない。意識も清明だと自覚していたが、身体の奥底に拭いがたい不快感がある。こうして一進一退を繰り返しながら、抜き差しならない場所に転がり落ちていくのだ、と思った。罹患した患者に残された時間は概ね数日以内。とりあえずこうして最低限の処置をしてもらえたとしても、襲撃が続く限り、いくらも変わらないだろう。一日、二日のことにすぎなかったとは、敏夫が言っていたことではなかっただろうか。
最大に見積もっても一週間。
(余命は一週間……)
やはり同様はしなかった。まだ自分でも信じ切れていないのか。どこかで自分が救われることを信じているのかもしれない。だが、自分で自分を振り返ってみても、自分があまりそんなことを信じているとは思えなかった。村人が蜂起した。屍鬼と人は対立している。沙子が獲物を得るのは、たやすいことではなくなるだろう。そうすれば静信こそが、もっとも安全で手軽な餌食だ。襲撃はやまないだろうし、沙子以外の者たちも養うことになるのかもしれなかった。だとしたら、明日か明後日の今頃には静信は死体になっているのかもしれない。
(半年、と言われたほうが焦るだろうな)
あるいは一年。何事かを成すには短く、ただ待つにはあまりに長い。最大でも一週間というのは、あまりにも短くて、だから焦る気にもなれないのかも。――それとも自分は、それ以前に沙子らが敗北して助け出されるだろうとでも思っているのだろうか。
静信は苦笑した。
今さら、助けを期待する権利はないだろう。むしろ救われることなど考えたくなかった。人の顔して人に助けられるのは、自分でもおよそ納得できない。屍鬼に協力して人を殺傷する気はないが、それでも静信は確かに、屍鬼の側に寝返ったのだと思う。
(殺意……村に対する)
あるはずだ。静信が目を逸らしているだけで。静信が村を愛していたのは確かだが、同時に村の崩壊を是とするほど憎んでもいたのだと思う。増悪でなくても、殺意の理由になるほどの何かが埋もれているのだ。
――そして自分に対する殺意が。
まだ静信は死んでいない。きっとその衝動は目的を果たすことができないまま、あの冬の日以来ずっと静信の中で眠り続けていたのに違いない。それこそが今、こうも淡々としている理由なのかもしれなかった。村が滅びることを仕方ないと思う程度に、静信は自身の存在が消え去ることも仕方ないと受け止めている。
(相手を殺さないと自分が生きていられない……)
自分を殺さないと自分が生きていられない?
(相手が存在していると、自分の存在が成り立たない)
自分が存在していると、自分の存在が成り立たない。
だから自分を抹殺しようとした。――弟を抹殺しようとした。
殺意はあったはずだ。だからこそ、彼は弟を殺した。それは必ずしも弟に対する殺意を意味しないが、彼の中には明らかに殺意に相当する高ぶりがあったのだ。おそらくそれは、彼が異端者であったことと無縁ではなく、それゆえに醸成された絶望にぴったりと張り合わされている。
「丘は」と静信は目を閉じる。「……流刑地だったんだ、きっと」
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かつて、彼の世界の全てで、彼はその世界の創造主であり、それを束ねる摂理そのものだった。
だが、その世界は広大な荒野の中に頼りないほど小さな閉ざされた空間のことでしかなかったのだ。広大な荒野に比してあまりにも小さな世界、それが神の御技の終端を示すにしろ奇蹟の限界を示すにしろ、神の栄光には限界があり、決して荒野の全てを奇蹟で覆うほどには全能でないことを、丘のありようが証明していた。
神は彼の信仰が分からなかった。契約を介することなしに、彼の心中を読み尽くせるほど全能ではなかったのだ。だからこそ、神に対する献げ物は契約の通りであらねばならなかったし、そうでない彼の献げ物が捨て置かれたのは、あるいは当然のことなのかもしれなかった。
そもそも、と彼は思う。
神は信仰の証として供物を求めた。供物は契約によって定められており、彼はその契約に背くことで神から拒まれることになったのだが、神が真に全能なら信仰の証など、どうして必要があるのだろう。
神は人の内実を見通すことができないのだ。彼の信仰をついに見通すことができなかったのと同様に。だからその証を欲しがる。その証には一定の形が定められていた。その形を遵守するかどうかでしか人の内実を量ることができなかった、そういうことではないだろうか。
神は人の自己に対する信仰を信じてはいないのだ。だから、信仰の証を求める。我を畏れ敬うならばその証としてこれを捧げよ、という命は、畏れ敬うことが疑わしい者たちを暗に想定しての宣旨だろう。いや、常に証を立てさせなければ、信仰を信じることができないという時点で、神は人を本質的に反逆者だと見なしていることになりはしないだろうか。
――そう、罰があるのはそこに罪が生じることを想定してのこと、秩序があるのは、必ず秩序に背く者があるのを想定してのことだ。
もとより、あの丘は流刑地だった。天井にある光輝の園、神の楽園を追われた罪人が野に下った。それがあの丘だったという。ならば丘の住人は罪人の末裔、丘は刑地に過ぎなかったのだ。
善なるものに背き、神に背くであろうことが想定されてればこそ、丘には秩序があり、信仰には証を求められた。住人に求められていた事前も慈愛も、全てが罪人に対する|枷《かせ》、本質的に善ではない者たちを善に押し込むための規律に過ぎなかった。
だが、彼は真実、善なる者でありたかった。れは真実、神を尊崇していた。だからこそ、彼は異端者であらねばならなかった。神は彼の信仰を理解しなかったのではない。そもそもあの流刑地に信仰が生じること自体を信じてはいなかったのだ。
神は自らへの尊崇と信仰を求めた。隣人に対しては慈善と敬愛を課した。そこで求められていたのは、堅固な信仰が存在することを証すための供物であり、確かな敬愛が存在することを証すための調和的な態度でしかなかった。その内実は問われなかった。神への信仰と隣人への敬愛が、真実そこに存在するかどうかは問題ではなかった。丘を覆った秩序が瑕瑾なく整合しさえすれば、それで良かったのだ。
彼は丘が流刑地であることを理解していなかった。神は彼を信じていなかった。神にとって彼は本質的に犯罪書であり、反逆者だった。そこに根本的な亀裂があったにもかかわらず、彼にはそれが分からなかったのだった。だから自分がなぜ、拒まれるのかもまた分からなかった。なぜただ死後の在りように逆割らず在ることが、彼を秩序から逸脱させていくのかが理解できなかった。
彼の中には絶望が蓄積していった。彼はただ彼自身であるがゆえに許されないのだと、そう理解するしかなかった。
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[#改段]
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六章
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西の山の稜線に向けて陽は傾こうとしていた。神社の境内には、次々に死体が積み上げられていく。
敏夫はその数を数えて首を傾げた。屍鬼でないものも含まれているが、総計で十六。だが、こんなものではないはずだ。実際のところ、死体の中には安森奈緒の姿も、後藤田秀司の姿もなかった。もちろん桐敷家の人々のものもない。
「こんなにいやがったのか。――先生、この屍体、どうします」
「どうするって」
「いっそ、火葬にしちまったほうが早くないですか」
敏夫は首を振った。
「人一人、荼毘にするのにどれだけの火力が必要だと思ってるんだ。そんなに盛大な焚き火をしたんじゃ、右から左に消防車が駆けつけてくる」
「ああ……そうか」
「この数なら、埋めるしかない。鎮守の森に埋めるのが一番だろう。工務店に頼むんだな」
なるほど、と呟いて大川は手近なものに指示する。敏夫は再び屍体の山に目を戻した。やはり、どう考えても少ない。むらのあちこちに運び切れていない死体が残っているのだろうが、それにしてもこの数は明らかに少なすぎた。
「……違う。こんなものじゃないんだ。最低でもこの数倍はいるはずだ。たかだか二十ということは、絶対にない。どこかにまだ隠れ家があるんだ、それもかなりの規模のものが」
「といっても、怪しいところは、ほとんど探したはずなんだがなあ……」
江渕クリニック、葬儀社、駐在所。あちこちに存在する不審な家。大川は数え上げた。
「怪しいところはほぼ回り終えたんだがな。床下や屋根裏も検めるのに、二周目を回らせてるところだけどね」
「それでかなりの数がまた出てくるのかもしれないが。……だが、それにしたって数は知れてる。ほとんどの連中は隠れ家ではない場所に隠れてるんだ。どこかに見落としがある。村を出たはずはないから、今も村のどこかに潜んでいるはずだ」
「と言ってもねえ」
敏夫は首を傾げる。どこかにまだ。
「廃屋、住人のいなくなった家。他にもどこか……」
「堀江自動車なら探した」
「廃車置き場か。そう、……他にもどこか……」
だが、神社などの聖域はあり得ない。連中はここに立ち入れない。山の中だろうか。林の中は屍鬼の隠れ家には向かないが、あちこちに散在する小屋なら。
「山小屋はどうだろう」
「ああ、そうか。それはうるかもしれない」
大川は人を呼ぶ。それを聞きながら、敏夫は首を捻っていた。それにしても足りない。あちこちに小屋はあるが、そのどれもが、屍鬼の二人や三人が入れれば上出来という有様だろう。
「神域じゃなくて、どこか暗い……完全に密閉される場所で村の内部の」
「そんな場所があるわけがねえ。墓穴の中に隠れてるんじゃないのかい。そうでなきゃ、山に穴を掘って塹壕みたいなもんでも作ってるんじゃ」
「塹壕……防空壕」
だが、村には防空壕はない。残っている家もあるのかもしれないが、たいして数ではないだろう。
「……防空壕」
何か引っかかるものを感じた。地下で、暗い穴の中。確かに屍鬼にとって、これ以上の隠れ場所はない。昨夜のうちに逃げ出して身を隠した連中がいるくらいだ、そこはもともあったもので、しかも出入りがさほどに難しくはないはずだ。
敏夫は顔を上げた。
「……地下だ」
「はあ?」
「地下の穴蔵だよ。そうだ、地下トンネルだ」
大川は、大丈夫か、というように敏夫を見た。敏夫は頷く。誰か、と周囲に声をかけた。
「水利組合の者はいないか! ――田茂さん」
田茂定市が人混みの中から憔悴した顔を出した。
「なにか」
「あんた、水利組合にも顔を出していたね」
「はあ」
「この時期、水口の取水口はどうなってるんだ?」
田茂は、ぽかんとした。渓流の国道の橋のほぼ真下といえる下のほうに取水口がある。農業用水のための取水口だ。外場の上水道は溝辺町から引いてきている。この揚水場は溝辺町の外れにあって、はるばるそこから水道管を使って水は運び戻されてきているのだった。だが、農業用水は水口で取り込まれている。これを外場首頭工という。
これは外場だけでなく、水利に見放された溝辺町西部の農地をも感慨するための大動脈だった。そもそも村には江戸時代から、御支度金で作られた水口堰があった。それを利用して溝辺町までを灌水しようという計画は明治期から続いている。今では水口堰はコンクリートで補強され、水は口径一・五メートルの揚水機によって取り込まれる。一部はポンプで東山の汲み上げられ、高低差を利用して村に配水されているが、ほとんどは幹線水路を通って溝辺町西部に向かっていた。これは一旦、バイパスのトンネルがある山へと上げられる。そこから溝辺町西部に向かって落とし込まれるのだ。山を越えたところからは三面コンクリートの用水路になっているが、山の麓までは埋設パイプラインになっている。距離にしてわずか一キロほどだが、そこにはコンクリート製の地下トンネルが存在していた。徐々に細くなってはいるものの、その直径は外場近辺では揚水機の口径に匹敵する。
「取水口は……」定市は言葉に詰まった。「閉めてます。今は農閑期なんで堰の水門も開けてるし、揚水機も止めてますんでね」
「人が出入りできるか?」
「……できます。ええ、できるはずですよ。水路には水が入ってません。取水口は閉まってるけど揚水機のあるポンプ小屋から出入りできる」
「村の視線はどうだ?」
「やっぱり水は入ってません。この時期には山から汲み下ろす地下水だけで充分なんで。ただ、こちらのほうは完全な埋設パイプラインで、口径も細い。川の底をサイフォンで通してるんで、とても人は出入りできない」
それだ、と大川が吼えた。
「連中、そこに逃げ込んでやがったんだ」
「だろう」と、敏夫は頷いた。「居住性は悪いだろうが、避難所としては充分に使える。長さがあるから、かなりの屍鬼が隠れられることは間違いない」
定市も頷く。
「あの地下トンネルには出口がないです。パイプラインに枝分かれしながら、先細りになってるだけなんで。入口を封鎖すれば、一網打尽にできるはずだ」
大川は大声を上げ、人を集め始めた。その時だった。――銃声がしたのは。
敏夫は最初、それが銃声だとは分からなかった。ただ、定市の顔半分が吹き飛んだのを見た。倒れ込んだその姿に、ようやく何が起こったのかを悟った。
周囲を窺った。間近の本殿の陰から、正志郎が銃を構えているのが見えた。とっさに身体を投げ出すのと、二発目の銃声がするのとが同時だった。敏夫は近くの石灯籠の陰に転がり込む。集まった人々が逃げ出し、そして倒れるのが目に入った。
正志郎は、ようやく見つけた、と思った。全弾を打ち尽くすと、装填してある別の銃に持ち換える。
屋敷から持ち出した銃を携え、敏夫の姿を探したが、夜が明けるまでは正志郎にも満足に身動きができなかった。ようやく夜が明けてみると、敏夫の所在が分からない。ハンターは方々に分散していて、人目を忍んで探し回ることも困難だった。それでここに潜んでいた。いずれ敏夫がやってくるのではないかと思っていたからだ。ようやく陽が傾いた頃になって、射程内に現れた。
最初の一射で逃したのが悔しい。完全にしとめたと思ったのに、年寄りが突然、弾道を遮った。敏夫は石灯籠の陰に身を潜め、いまや正志郎の位置からは狙うことができなかった。入りに任せて発砲したが、敏夫を殺さなければ意味がないのだと思い直した。
千鶴を殺した。このまま放置しておけば、沙子をも殺すだろう。それは自分が秩序に負けることだ。虐げられ、忍従を余儀なくされ、ここに到って、逃れようもなく組み伏せられる。それだけは我慢ができなかった。
弾を籠めた散弾銃を手に取り、正志郎はその場を駆け出す。石灯籠の背後を捕らえられるほうへとまわり込んだ。銃に恐れをなしたのか、集まった村人が蜘蛛の子を散らすように逃げる。間合いは充分に開いていた。正志郎は余裕を持って駆ける。敏夫の姿が見えた。正志郎に気づき、さらに死角にまわり込もうとする背に狙いを定めたとき、突然視野が白濁した。
「この、糞野郎が!」
大川は怒鳴って、消化器のノズルを正志郎に向ける。辺りはたちまち消化剤で請いスモークを焚いたような有様になった。大川を真似たのか、他の者も消化器を取ってくる。幸い、神社のあちこちには、消火器が幾つも設置されている。辺りは完全に白濁した。
人間のくせに、鬼の味方なんてしやがって、と大川は呟く。こいつは敵の一味だ。人間なんかじゃない。消化器を投げ出すと、足下に置いたハンマーを握った。
風が強い。消化剤の煙はすぐに吹き散らされて薄くなったが、男は消化剤が目に入ったのか、近づく大川らの姿が見えないようだった。大川は笑う。
くたばれ、と吼えてハンマーを振り下ろした。
秋の陽が傾く。それにつれて境内のあちこちに落ちた影も長くなった。屍体の群の中に、丁寧な所作と哀悼の声をもって田茂定市をはじめとする犠牲者たちが加えられた。犠牲者は三人、二人は即死で、一人もすぐに息を引き取った。重傷者はなく、軽症の者たちは敏夫が病院に連れ戻って処置をしている。犠牲者が並べられた後に、投げ捨てるようにして相好の区別がつかなくなった男の屍体が放り出された。誰もその屍体を振り返らなかった。
男たちの集団が武器と明かりを手に、神社を出ていく。前田元子はそれを見送り、そして並べられた屍体を山の中に運び込む作業に戻った。
一日、ここに詰めて休む間もなく屍体から目を離さず、巌を捜していた。自分から全てを奪った舅を絶対に許さない。――元子は思いながら、半ば顔が炭化した屍体にシーツをかけ、数人で抱え上げて次の運び手に渡した。背格好が巌に似ていたが、巌ではないだろう。とても舅が着そうにもないスウェットの上下を着ていた。
(絶対に、どこかにいるはず……)
見つけてみせる。まだ死んでないのなら元子が必ず殺してやる。
(あいつだけは、許さない)
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「こんなものがあったんだ……」
村迫宗貴の声は、コンクリートの壁面に|歪《いびつ》な音色で反響した。とても立って歩けるほどの高さはない。水の枯れたトンネルの中には腐臭が淀み、干からびた藻が剥がれ落ちて足許で乾いた音を立てていた。
「田圃を作ってなけりゃ、関係ないから知らないだろうな」と、言ったのは定市の息子で、定文だった。「作ってても水利組合の仕事をしてなきゃ、知らない者のほうが多いからね」
水利施設は、おおむね、受益地域の住民が維持管理の費用を負担する。ただし外場に限っては、そもそもそれが御支度金による村独自の施設であったために、水利権も優先的に設定されているし、維持管理のための賦課金もない。だから知らないでいる者も決して少なくはなかった。
「そうか……」と呟き、宗貴は足を止めた。懐中電灯が薙いだ闇の中に、人の姿が見えた。
いた、という密かな声は人数分、彼らは息を潜めて人影に近寄る。床に直接身を横たえ、三人の人影が眠っている。懐中電灯で照らしても、目を開け、身動きする気配はなかった。
宗貴は試しに、棒の先でつついてみた。その中年の男は、身動きする気配はない。文字通り死んだように横たわっている。
「図書館の柚木さんだ……」
宗貴は呟く。その奥にいる二人の男には見覚えがなかった。
「誰だろう」
「いちばん奥は、後藤田の秀司くんじゃないのかい」消防団の誰かが言う。「夏の最初に死んだんだ。山入で死体が見つかったちょうどその日が通夜だったんだ」
「そんなに前から……」
宗貴は呟いた。八月の初め、本当に何もかも、そこから始まっていたのだ。
「真ん中は……」と、誰かが言いかけたとき、定文が決然とした声を出した。
「名前なんか確かめる必要はない」
でも、と宗貴が振り返るのに、定文は硬い表情を向ける。
「こいつらは鬼で、いちゃならない連中だ。おれたちの敵で、親父を虫けらのようにおれの目の前で殺した。それで充分だろう」
しんと沈黙が降り、定文の声が反響となって震えて残った。
「どこの誰だか知る必要があるのかい。かつては知り合いだったんだろうさ。だが、もう別物なんだ、こいつらは。あんたらの知ってる、あの人やこの人が人を襲って殺すのかい。そんな連中だったのか」
「それは……」
「別物になったんだ。名前なんか確認したところで、妙な情が湧くだけだ。こいつらには情なんかないのに、かかずらってどうなるって言うんだ」
宗貴は頷いた。そうなのかもしれなかった。目の前で定市が倒れ、村人が倒れた。夏以来の災厄の果てに、斃れ伏してしまった者たち。宗貴は頷いて杭を手に取ったが、それでもそれを柚木に当てることができなかった。逡巡し、背後の誰かを振り返る。
「駄目だ……。柚木さんには世話になってる。とてもできない」
言うと、定文が杭を取り上げる。宗貴は穏和しくその役目を代わってもらった。宗貴は自分の息子と弟を殺したのが、柚木であることを知らなかった。定文は少し躊躇するふうを見せてから、杭を当てる。別の者が小槌を構えた。宗貴は目を逸らし、耳を塞ぐ。――そう、名前なんか知らないほうがいい。顔なんて見ないほうが。見れば耐え難い思いがするだけだ。
そこが地下トンネルのような狭い密閉された場所だけに、小槌の音も、杭が身体にめり込む音も明瞭だった。妙にエコーがかかっていかにも忌まわしい。呻くような声が谺し、すぐに沈黙が訪れた。
宗貴は謝意を示し、次の男に向かっては自分が杭を当てた。これは敵だ、それ以上でもそれ以下でもない、と自分に言い聞かせる。別の者が金槌を振り下ろす。誰が言うともなく、彼らはそうして平等に手を汚すことを、いつのまにか暗黙の了解にしていた。宗貴には、自分たちがそうして、共犯者になることで結束を作ろうとしているように思われてならなかった。
二人目もくぐもった呻き声を上げただけで静かになった。三人目は(秀司は)、魂消るような叫びを上げて、その場の者を縮み上がらせた。いまやトンネルの中には、血の臭いが充満している。細い流れを作っていた。
三人の屍体を入口のほうに向かって押しだし、さらに奥へと明かりを向ける。遠目に、さらに横たわる人影が見えた。近づくと、男女合わせて五人が身体を寄せ合うようにして眠っている。宗貴はもう、それが誰なのか忖度しようとはしなかった。数だけを確認し、屍体に紐をかけて、いったん入口のほうへ引き返す。なにしろ天井が低い。腰も肩もギシギシ軋んで、交代しないことにはとても留まっていられなかった。
宗貴らは屍体を引いて戻り、ポンプ小屋の中に控えていた別班に「五人」とだけ伝える。宗貴らが出るのと入れ違いに、それらの人々がパイプの中に入っていく。それを見送り、宗貴らは苦心して屍体をポンプ小屋に運び上げた。小屋の外に運び出すと、待ちかまえた女衆が、軽トラックの荷台に屍体を運び上げる。荷物のように積まれた屍体、トラックの荷台からは血が滴り落ちている。吐き気を催すような光景だった。日が翳っているのがいっそ有り難いほどだ。これで昼間のように燦々とした陽射しに照らされていたのでは堪らない。
屍体を運び上げているうちに、二班が上がってきた。何も言わず、トラックの周囲にいた三班の者たちが水路の中に潜っていく。人の声と足音、そして血の臭い。すぐに小屋で働いている宗貴たちの耳にも、呻き声や断末魔の声が届いた。宗貴は強いてそれを聞かないようにする。誰かが小声で歌を歌い出し、知らず、宗貴もそれに倣っていた。
それでもなお、すさまじい悲鳴が届いてきた。宗貴はそれを聞くまいと、無理にも声を張り上げる。周囲の者がそれに唱和し、小屋の中には曲調だけは明るい陰惨な歌声が満ちた。それを妨げるように悲鳴がする。入り乱れる足音と怒声で、それが尋常のものではないと気づくまでには少しの時間がかかった。
「おい。何か変だぞ」
定文が取水口の中を覗き込んだ。暗闇の中から、人の叫びと怒声、足音が響いてくる。呻き声と悲鳴、それが陰に籠もって反響し、地獄からの声が聞こえるとすればこれがそうか、と思わずにいられなかった。
変だ、と誰もが顔を見合わせたとき、三班の加藤が青い顔をして駆け戻ってきた。取水口の底から小屋まで伸びた鉄梯子を駆け昇り、背後を指さす。息も絶え絶えに、起きた、とだけ言った。
宗貴にはそれで充分だった。腕時計を見ると六時を過ぎている。陽が落ちて、連中の領分がやってきたのだ。
「被害は」
「分かりません。明かりが、なくて」
定文が小屋の外に声を掛けに行った。
「どうする」
聞かれて、宗貴は軽く息を呑んだ。
「……ここで待つんだ。人が出てくれば引きあげる。敵なら、顔を出したところで殴って、突き落とす」
江渕は目覚めた。とりあえず命があったのだ、と真っ先にそう思った。眠っている間に見つからずに済んだのだ。ありがたい、と江渕は心の中で呟く。
沙子から連絡が来てクリニックを逃げ出した。おそらく間一髪だったと思う。江渕が夜陰に紛れて逃げようとするのと入れ違うように、車がクリニックに横着けになったから。
だが、江渕は自分の周囲に充満した血の臭いに気づいた。仲間の血の臭いだ。それがパイプの中に充満している。慌てて身を捩って腹這いになり、周囲を窺うと緩やかにカーブしたトンネルの向こうに懐中電灯の明かりが見えた。杭を打つ、身の毛のよだつような音がしている。血の臭いが濃くなる。気づくと細く、パイプの底にも赤い流れができていた。
江渕から、その明かりまでには六人の仲間が横たわり、いましも目覚め、起きようと身動きをしていた。江渕は跳ね起きた。わずかに六人。日没があと少し遅かったら、今頃は江渕の胸にあの凶器が突き立っていた。前後不覚に眠っているところを、杭を打たれる衝撃で目覚める。いったい、どんな気分がするものだろう。おそらくはライオンのような肉食獣の牙がかかって目覚めるようなものだろう。その時の気分を知らずに済んで、良かったと心底、思う。
――だが、本当に良かったと言えるかどうか。断末魔の声と、槌の音が絶えた。足音と悲鳴、これは人間のほうの悲鳴だ。遠目に、身を起こした仲間が、ハンターの一人を引き倒したのが見えた。その調子だ、と江渕は呟いた。
「江渕さん……」
怯えたような声が、すぐ脇からした。
「行って明かりを叩き落とすんだ。明かりがなければ、あいつらは何も見えないんだからな。そうすれば、暗闇の紛れて逃げ出せるはずだ」
男は頷いて、前へと駆けていく。若い女が一人、江渕の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「こんなに血が……酷い」
ああ、と江渕は頷いた。自分の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ、この女を安森奈緒と言ったと思う。
「眠っている間に、相当、やられたようだな」
奈緒は頷く。蒼白の顔で目を見開き、零れ出る悲鳴を押さえようとするかのように拳を口に当てていた。
「こっちに来る」
「奥は行き止まりだ。明かりが消えたら、とにかく走るんだ。ハンターを突き飛ばして走れ」
奈緒は頷く。頷いたとたんに明かりが消えた。行け、と江渕は叫んで、一目散に出口へと駆ける。途中にいたハンターは力任せに突き飛ばした。背後で悲鳴がしたのは、それが踏みしだかれたためかもしれない。そんなことに頓着している余裕など、江渕にあるはずもなかった。
とにかく走り、身を屈めたまま出口に向かう。向かいかけて足を止めた。明かりが見える。松明の明かりだ。出口にハンターが待ちかまえている。――出られない。
「だ……駄目だ」
誰かが声を上げた。前に進もうとする者、奥に戻ろうとする者で、仲間が入り乱れる。それに突き倒されたのか、奈緒の悲鳴が聞こえた。
奥だ、という声があった。江渕が止める間もなく、奈緒を含め、三人ほどの仲間が奥に向かって駆け出す。馬鹿が、と江渕は狼狽した頭で思った。
奥は完全な行き止まりだということを江渕は知っていた。分岐するたびに先細りになり、いくらもしない辺りから這わなければ先に進めなくなる。さらに先に向かってもその余地すらなくて身動きが取れなくなるだけだ。江渕は呻いた。
「前に行け! とにかく、一人でもハンターの数を減らすんだ!」
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静信は人の声を聞いたように思って目を覚ました。薄暗いライトが点され、そのせいで周囲の様子は暗いながらも見えなくはない。間近に横たわっている小さな人影があった。そして足音と人の声。ドアの外からそれは聞こえる。
静信は半身を起こす。頭の奥の方に何か白濁したものがあった。軽く頭を振ってもひどい目眩がするだけで、芯から目覚めてくれない。寝返りを打って起き上がろうとする、たったそれだけの動作の間に、もう息が上がっていた。
すぐ隣のベッドでは沙子が寝ている。まだ目覚めていない。ハンターが入ってきたのなら、なんとか沙子を隠し、逃がさなければならない。
ドアに鍵がかかっていることを確認し、とりあえず沙子をベッドの影に抱え下ろす。床に下ろして毛布でくるもうとしたところで、沙子が目を開けた。
「室井さん……?」
では、もう日没なのか、と思う。腕時計に目をやると、確かにもう六時を過ぎていた。侵入者はいないか、できるだけ起きていようとしたのだが、やはり途中で寝てしまったらしい。それを思うと今さらのように背筋が冷える。
物音がする、隠れていろと言う間もなく鍵を使う音がした。ドアが開いて入ってきた辰巳を見て、静信は息を吐く。同様に辰巳も息を吐いた。
「どうやら、ここは見つからずに済んだようですね」
「……村は?」
沙子が訊くと、辰巳は首を振る。
「酷いことになってる。ハンターは昼間のうちに、隠れ家を暴いていった。中で眠っている連中を引きずり出して杭を打っていったんだ。パイプラインも見つかったようだ。おそらく、三割以上の連中がやられただろう」
「そんなに」と、沙子は息を呑んだ。
「きみたちは昼間には前後不覚で、目を覚まさないから分がない」
「……正志郎は?」
死んだよ、と辰巳は低く言った。沙子は目を見開き、そして顔を覆った。
「これは駄目だ。逃げたほうがいい、と言いたいところだけど、逃げようにも退路がないんだ。あちこちの道は塞がっている。屋敷の周辺にもハンターがたむろしている。何とか裏手から闇に乗じて忍び込んでこれたけど、次はどうだろうな。林道の上と下に腰を据えてる連中がいて、身動きができないんだ」
辰巳は早口に言ったが、沙子はほとんど聞いていないように見えた。
「……沙子?」
「正志郎は苦しんだかしら……」
辰巳は微かに笑う。
「正志郎にとっては千鶴が死んだことのほうが、何倍も苦しかったと思うよ」
「……そうね」
敏夫は、と静信は訊かないではいられなかった。
「お元気ですよ。腹が立つくらいね」
言って、辰巳は沙子を振り返る。
「さあ、しっかりしなさい。なんとか退路を見つけてくるから、迎えにくるまで動かないように」
「室井さんがいるでしょう。――ここにいるんだ、いいね?」
言って辰巳は静信に手招きする。ついてこようとする沙子を制し、部屋を出てドアを閉めた。
「食事をさせてください」
静信は苦笑した。
「それが物陰にわざわざ呼ぶようなことなのかい?」
「呼ぶようなことなんですよ。正志郎が死にましたからね。沙子はぼくが室井さんを襲うのを、黙って見ていられないでしょう」
「……なぜ?」静信は首を傾げた。「不思議だね。沙子は千鶴さんが死んだことよりも、正志郎氏が死んだことのほうに衝撃を受けているように見える」
「なのだと思いますよ。正志郎は沙子にとって重大だったんですから」
「父親のようなものだから?」
「屍鬼である自分を許してくれた『人間』だからですよ」
そうか、と静信は目を伏せる。
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奈緒は暗闇の中で泣きじゃくっていた。細いパイプの中、前にも後ろにも仲間が詰まっていて身動きができない。
パイプラインに入ってきたハンターに怯え、奥に逃げるとちょうど押入ほどの大きさの四角い小部屋があった。ひこから細いパイプが何本か出ていて、人が通れそうなものは一本だけ、それもマンホールほどの口径しかない。これでは身動きがならない、と誰かが言い、戻ろうとしたが、出口にはハンターが待ちかまえていた。煌々とヘッドライトらしき明かりが射し、強い光線と共に這い上がった仲間の身体が落ちてきた。前頭部を鉈のようなもので割られた江渕の屍体が落ちてきて、これは駄目だ、と誰かが言った。
選択肢はなかった。奥へと戻り、その細い穴の中に潜り込んだ。這わなければならなかったが、それでもまだ余裕があった。先に進むと、分岐路になっていた。腕の太さほどの細いパイプが二本、かろうじて人が入れるほどのパイプが一本。背後からハンドライトの明かりが追ってきていた。奈緒たちに選択肢はなかった。そこではもう、戻るために方向を変えることもままならなかった。無我夢中で先に進み、また分岐路がひとつ。それを過ぎたところで、先頭を行く男――駐在の佐々木だ――が身動きできなくなった。完全に身体がつかえて、虚しく足を蹴るだけ。
「先に行けよ」
奈緒の後ろにいた広沢高俊がせっつく。だが、奈緒にも進む術がなかった。
「佐々木さん、お願い、何とかして」
「何とかしたいさ! でもここに、コンクリートの塊があるんだ。目詰まりしてて――」
佐々木が言いかけたとき、背後から悲鳴が聞こえた。奈緒の後ろにはどれくらいの人数がいるのだろう。何とか確かめようとしたが、ハンドライトの明かりが見えるだけで、数を確認することはできなかった。
佐々木が苦悶の声を上げながら、かろうじて何十センチか先に進んだ。奈緒もそれに続くが、底にコンクリートの塊がへばりついていて、そこから口径が細くなっている。前を見ると、それがかなり先まで続いているのが、わずかな隙間から見て取れた。
「畜生、前に進んでくれよ!」
高俊が奈緒の足を叩いた。頭で太ももを押してくるが、奈緒の頭も佐々木の腰に押しつけられているような状態だ。佐々木が身を捩るたびに佐々木の靴が顔を蹴る。
背後からは悲鳴が聞こえている。明かりと共にそれが遠ざかる。ほんのしばらく、静かになる。そしてまた明かりが近づいてくる。悲鳴が起こる。前よりも一人分、近くなっている。
(お願い、やめて。……もう助けて!)
奈緒は懇願したが、誰に対する懇願なのか、自分でも分からなかった。誰が助けてくれるというのだろう。奈緒は人を襲って殺した。家族を襲い、淳子を襲った。それ以外の者も、たくさん襲って殺した。残虐非道な殺人犯が助命を願って、それを聞いてくれる者がどこにいるというのだろう? 奈緒でも笑う。実際、奈緒は非道な犯罪者を弁護する者がいることを、ずっと理不尽だと思ってきた。犯罪者にも人権はあるという。では殺されたものの人権はどうなるの、と思っていた。幼い子供を殺した者、無関係の罪もない他人を次々に殺傷した者、そんな凶悪犯を擁護する人間がいるのが信じられなかった。
(そんな酷いことを考えた報いね……)
だから、なおだって慈悲を懇願する資格はないのだし、誰も奈緒を擁護してはくれない。犯罪者なら隔離できる。構成のチャンスだってある。けれども奈緒にはそれがない。獲物から切り離されて閉じ籠められるということは、飢えて死ぬということだ。その習性を改める方法など端からどこにもなかった。殺し続けると分かり切っている犯罪者に対して妥当な罰は何だろう? 奈緒には死刑だとしか思えなかった。――殺さなければ殺し続ける。
(酷いことをした罰だわ……)
夫を死なせ、子供を死なせた。大事にしてくれた義父母を殺した。死ぬと分かっていて襲っていたのだから、奈緒は間違いなく殺人者だ。
(あたしが悪い人間だから)
奈緒を起き上がらせた「悪い種子」。全てはそのせいだ。そんなものを持っていた奈緒が悪い。
ひああ、と高俊が妙な声を上げた。何とか振り返ると、肩越しに高俊の必死の形相がちらりと見えた。
「行ってくれ! 行ってくれよ! 次はおれだ!」
奈緒は喉の奥で悲鳴を上げた。次は高俊。では、その次は奈緒自身だ。何が起こるのだろう、何をされるのだろう、それはどれだけ苦しく恐ろしいだろう。
奈緒は懸命に佐々木を押した。ずるりと佐々木の身体が進む。奈緒のほうが体格が細いだけ、いくぶん余裕があった。胸を擦られ、手足を掻かれる感触がするが、決して進めないほどではない。
「行ってよ、お願い!」
無理だ、と佐々木が喘ぐ。せめて奈緒が先頭なら。そうすれば少しは前に進めるのに。追っ手を振り切れるかもしれない。どこか広い場所に出るかもしれない。出口があるかもしれないのに。
パイプの中に人が引きずられる音と、悲鳴が谺していた。高俊の叫びがそれに重なる。すぐにライトが射して、高俊の身体越し、奈緒を照らした。
「来るわ! 佐々木さん、行って!」
佐々木は足掻く。奈緒の顔を蹴るようにして前に進もうとする。奈緒は押す。鼻が痛んで鼻血が伝い始めた。――大丈夫、こんなものはすぐに止まる。治る。
佐々木が苦悶の声を上げながらまた前に進んだ。コンクリートの塊の表面には、血と布の断片がついていた。身を削られているのだ。佐々木は本当に、これ以上前には進めない。
高俊が悲鳴を上げた。奈緒の腰を突き上げていた高俊の頭が、ふっと離れた。前に押し出そうとしていた圧力が消え、代わりに奈緒の足を高俊が掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。背後に向かって引きずられ、コンクリートの破片が下腹に食い込んだ。
「放して!」
「やめてくれ、おれだ、広沢高俊だ!」
高俊の手が奈緒の足に爪を立てる。奈緒は思わずそれを蹴り払った。手が離れる。高俊は奈緒を見てはいなかった。壁に爪を立てながら背後へと引きずられていく。
「おれだ。く、中外場の。同じ村の者だろう。なあ!」
高俊を引きずる者は無言だった。そう遠くないところにいる証拠に複数の息づかいが聞こえる。
助けてくれ、と声を上げながら、高俊は引かれていった。悲鳴がいつまでもパイプの中に谺していた。奈緒の背後には青いだけの闇が控えている。盾になってくれるものはもうない。
(……いや)
奈緒は確かに殺人者だ。――でも。
「いやよ! お願い、そこをどいて!」
佐々木を叩く。死にたくない。苦しい思いなんかしたくない。奈緒のせいじゃない、断じて起き上がったのは奈緒の意思なんかじゃなかった。殺したくて殺してるんじゃ意、奈緒だって被害者なのだ。
「どいてよ!」
佐々木を懸命に押した。高俊がいなくなって、踏ん張る場所が失せた。もう先ほどまでの勢いで、佐々木の身体を押すことはできなかった。佐々木はただ身もがいている。革靴の底が幾度となく奈緒の顔面を蹴った。
「そこをどいてってば!」
叫んだとき、光が当たった。――来る。
奈緒は悲鳴を上げて前に進もうとした。|徒《いたず》らに足掻き、周囲を蹴る。佐々木の身体はびくともしない。
「お願い、やめて、許して!」
足掻く足を、誰かが捕らえた。その男の顔に、奈緒は見覚えがあった。
「定文さん、あたしです、奈緒です! お願い、許して、酷いことをしないで」
定文は無言だった。奈緒は定文の視線を捕らえることができなかった。奈緒の足にロープが触れた。奈緒は遮二無二足を蹴り出す。定文の手や顔に当たったが、定文はやはり顔を歪めただけで、奈緒の顔を見なかった。代わりに手に持った鉄パイプのようなもので奈緒を突く。奈緒はその痛みに悲鳴を上げた。何度目かに嫌な音がして、左の膝に激痛が走り、痺れたように膝から下が動かなくなった。その足首にロープがかけられた。足首に食い込むほど強く締められ、定文が背後に退りながら、明かりを振った。がくん、と奈緒は背後に向かって引きずられ始めた。
コンクリートが身体を擦る。奈緒は悲鳴を撒き散らした。もう意味のある言葉など出てこなかった。周辺に爪を立て、足を突っ張ろうとした。何とか引きずられる動きに抵抗しようとするたび、後ろ向きに張っていく定文が奈緒を突いた。
分岐路を過ぎた。少し口径が太くなって、定文が下がる速度が増した。奈緒が引かれていく速度も増す。遠く、パイプを塞いだ佐々木が見えた。背後からは人の声と、胸が悪くなるほどの血の臭いが溢れてきていた。
奈緒は救済を求めて佐々木に向かって手を伸ばした。暗い穴の中を遠ざかっていくその影は、佐々木ではなく、幹康のそれに見えた。奈緒が屠った夫。奈緒は死んでも側には行けない。夫の逝った場所には辿り着けない。夫も子供も、義父母も。起き上がることなく、こんな思いをすることもなく、奈緒の手の届かない場所にただ遠ざかっていく――。
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篝火が揺れていた。神社の境内には、黙々としたいが積み上げられていく。もう、いちいち顔を確かめて、これは誰だと会話する者も、泣く者もいなかった。麻痺した顔で、疲れ切った表情で、ただひたすら身体を動かしている。逃げ出した者も多かった。尾崎医院で起こったことは明らかに人々を怖じけづかせていた。
境内の隅には、あちこちに人が蹲り、横たわっていた。疲労が極みに達し、眠り込んだ者たちだった。それらを見ながら、敏夫もまた、社務所の壁に身をもたせかけて、うとうとと|微睡《まどろ》んでいる。
屍体を抱えて戻ってきたばかりの者たちが、敏夫がもたれた濡れ縁のすぐ外、火を囲んで手を温めていた。
「呆れたぜ、あんな子供までいるんだからな。しかもそれが、何の悪いことをしたんだって言うんだ。別に悪いことなんかしてねえ、殺していいって言われたんだってさ。なのになんで罰をもらうんだって、ぎゃあぎゃあ泣き叫ぶんだぜ」
「まったく、後味が悪いったら、ありゃしねえ」
「――誰だ?」
「境松だよ。爺と親父と、孫娘が戻ってたんだ。床下に三人並んで隠れててよ」
「ふうん……」
敏夫はそれを聞くともなく聞き、目を閉じる。疲労が澱のように淀んで、身を起こしていることも辛かった。眠りそうになったとき、大川から声をかけられた。
「先生――済みません」
「……なんだ?」
大川は軽く頭を下げ、脇を示す。定文らが集まっていた。
「明日は月曜なんですよ。どうしたもんでしょうね」
「ああ……そうか」
敏夫は身を起こす。幸か不幸か、外部に通勤している者も、外部から通勤してくる者もほとんどいない。だが、そう――例えば郵便配達、宅配便、各店舗への配送など、村への出入りは皆無ではないだろう。
「……今日は配送はなかったのかい」
「村道を止めといた連中が、村は大事な神事の最中なんで、外部の人間は入れねえ、とか適当なことを言って追っ払ったようだけどね」
「それで行くしかないだろうな。百年に一度の大祭だとでも言ってやれ」
「変に思われませんかね」
「思うだろうさ。だからって、村の中でこんなことが起こっているとは想像もできんだろう」
「そりゃあ、そうだ」
「……兼正の連中は見つかったか?」
「駄目です。まだ出てきませんや。ただ、駐在の佐々木と江渕って医者は、パイプラインの中から見つかったみたいです。あと――」
大川は振り返る。安森一成が頷いた。
「葬儀屋の速見を見つけましたが取り逃がしました。工務店の車両置き場に潜り込んでいたんで。あいつだったんです、村のあちこちで車のタンクに穴を開けてまわってたのは」
「……ふうん」
「他にも二人ほど、あちこちの世話役に襲いかかってきた連中がいて、そいつらは閉じ籠めてあるんですが、それが――」
「うん?」
「脈があるんですよ。息もしてる。起き上がりじゃないんです。どう思いますか」
「さあ……」敏夫は首を捻る。傀儡か人狼か。セツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]があるかどうかを確かめれば判別できるかもしれないが、必ず首にあるとも限らない。そもそも――敏夫には人間と人狼を見極める方法など分からなかった。
閉じ籠めておけば、傀儡なら襲撃が遠のきさえすれば正気に戻る。だが、人狼がそれを装ったら?
「……神社に引っ立ててくるんだな。怖がったり妙な素振りをするようなら連中の仲間だ。辰巳って若いのが昼間にも出歩いていたろう。連中は人間と変わらないようだ。そういうのを人狼と言うらしいんだが」
「でも」と、大川は一成らを身体で遮るようにして顔を寄せてくる。「桐敷の旦那みたいな例もあるじゃないですかい」
「協力者か?」
大川は頷く。確かにそうだ。協力者が正志郎一人とは限らない。村の中からも協力者が出ていておかしくはないだろう。そう――少なくとも一人、寝返ったかもしれない者がいることを、敏夫は知っていた。
「……協力者だろうと、人間なら殺すわけにはいかんだろう」
「そうですかね」
「そりゃあ、殺人だ」
ふむ、と大川は頷いて顔を離したが、納得したようには見えなかった。敏夫は半ば眠気で朦朧とした頭で思う。この混乱の中、死んでしまえば屍鬼も人も違いなど分からない。ましてや人狼も傀儡も協力者も、区別する方法などないに等しい。不審な行動を取った者は片づけてしまったほうが話は早い。それを咎める方法もないだろう。こいつなら、やるかもしれない……。
敏夫は半ば目を閉じた。「大将」という声が聞こえた。
「松――お前、逃げ出したんじゃなかったのか」
敏夫は薄目を開けた。大川が振り返った先に、松村が見えた。社務所の中に入ってきて、こちらへとやってくる。
「へえ。こいつは驚いた。お前みたいな小心者が逃げも隠れもせずにやってくるとはよ」
はあ、と松村は頷く。寒いのか、懐に両手を突っこんでいた。松村の暗い顔を見て、敏夫は脳裏の片隅で、どこかで見た顔だな、と思った。
(どこかで見たも何もない……)
大川酒店の松村だ。敏夫も顔見知りで……。
松村は近づいてくる。敏夫は跳ね起き、濡れ縁から外へと転がり落ちた。
「大川さん、気をつけろ!」
え、と大川が振り返る。松村が懐から拳銃を出した。例のやつだ、と身を伏せながら敏夫は思った。夏からこちら、嫌というほど見た。発症した顔だ。
軽い銃声がした。立て続けに数発。人の悲鳴と怒鳴り声、入り乱れる足音。敏夫はそろそろと身を起こす。一成が倒れ、定文は唖然と立ち竦んでいた。松村は大川に組み敷かれている。弱々しくその場を逃げ出そうとしていた。敏夫は立ち上がる。大川がじっと敏夫を見た。
「こりゃあ、いったい」
駆け寄ってきた男に、大川は外に引きずり出せ、杭を持ってこい、と言う。
「しかし、大川さん」
大川は敏夫に意思をこめた視線を寄越し、そして男のほうを振り返った。
「兼正の旦那と同じだよ。協力者だ」
やはり、そういうことになったから、と敏夫は思ったが、異論は唱えなかった。黙って安森一成へと歩み寄る。下腹部に一発、そして――左目に一発。もちろん息はしていなかった。
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「室井さん……苦しい?」
薄暗がりの中で、沙子の声がする。いや、と静信は答えたが、先ほどから身体が怠く、辛かった。ただ怠いだけのことが、苦痛になり得るのだと、静信は初めて知った気がした。呻きが漏れそうになるのを堪えるのがやっとだった。意識はもうろうとしている。
「本当は苦しいんでしょう?」
「……いや」
「ごめんなさい。……わたしが殺してしまうのね」
「自分で死にに来たんだよ」
静信は呟く。息が苦しい。胸に|箍《たが》でも嵌められているようだった。呼吸は浅く、いくら息を継いでも少しも楽にならない。
辰巳に沙子を託されたけれども、どうやら静信のほうが保ちそうにない。そう淡々と思った。
「何か処置をする方法があるはずなんだけど……。辰巳がいないとわからないの」
「構わない」
苦しい息の下、沙子の泣く微かな声を聞いたように思った。
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七章
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正雄は悪心を堪えながら、山道を走っていた。自分の胃袋は用を成していないのに、吐き気がするなんて妙だ、とそんなことを頭の片隅で思っていた。
(村は駄目だ……)
恵の甘い言葉に乗って、今夜も村に下りてみたけれど、敏夫をどうにかするどころか、敏夫の所在を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]むことはもちろん、その姿を垣間見ることもできなかった。累々と道路のあちこちに積み上げられた屍体だけを見た。軽トラックがやってきて、それらの屍体は荷台に積まれ、運ばれていった。いったい、あとどれくらい仲間が残っているのだろう?
(おれたちは終わりだ)
悪心は悪夢のような光景のせい、身に迫った恐怖のせいであり、自分の置かれた状況のあまりの理不尽さに対するものだった。
(なんだって、あんな酷い目に遭わなきゃならないんだよ……)
自分は何もしていない。人を襲ったのは、そうしなければ自分が飢え死にするからだ。単に食事をしただけ、誰もが当然のことだという。あんな酷い目に遭うような、悪いことをしたわけじゃない。しかも自分が起き上がったのだって、そもそも柚木が自分を襲ったせいだ。自分は被害者で加害者は柚木だ。それを殺されるなんて、あまりにも理不尽だと叫びたい。
(酷いよ……おれが何をしたって言うんだよ)
叫びたい気分で山入まで駆け戻ると、本家には人が群がっていた。佳枝は硬い顔をしている。その佳枝に向かって、集まった者たちが人の名を口々に告げていた。
「境松は誰もいなかった。隠れ場所が暴かれていた」
「三安もだ。あちこちに血の痕が」
「ポンプ小屋のところに屍体が積み上げられてました。きっとパイプラインに逃げ込んだ連中だわ」
正雄は固唾を呑んだ。犠牲者の報告をしているのだと分かった。口々に挙げられる名を聞くと、村に下りて隠れ家で生活していた連中のほとんどなのではないかと思えた。
(無理だ……駄目だ)
屍鬼は駄目だ。人間に負ける。とても勝ち目なんかない。正雄はそろそろと後退り、人の輪を離れた。正雄は死にたくなかった。まだ何もいい思いをしてない。この若さで死んで、せっかく起き上がったのに、その果てに杭を打たれて殺されるような、そんなことがあっていいはずがない。
(畜生、柚木の野郎)
柚木が死んだかどうか、佳枝に訊いてみればよかった。せめてあいつが殺されていれば、溜飲なりとも下がるのに。思いながら物陰を拾い、正雄は集落を駆け下る。建物伝いに集落のいちばん下まで出て、そして辺りを見渡した。
正雄の目の前には、ちょっとした広場があった。一方には村へ下る道があり、もう一方には林道の入口が口を開けている。この林道は貫通している。よく都会に行く連中が通っている。確か東山の裏手をかなりの距離、迂回して自動車道の橋脚の下手に抜けていると聞いた。走り続ければとりあえず国道までは出られるはずだ。
(でも、それから?)
夜明けまでに安全な寝場所を探せるのか。探せるようなどこかに辿り着けるのか。
(行ってみりゃあ、何とかなる)
そう、このまま村で殺されるのを待っているなんて耐えられない。もう屋敷なんてどうでもいい。優遇されて村に下りていた連中はほとんどが殺されている。
林道には枯れ草が撒かれ、わざとらしくない程度に枝が倒し込まれて、一見すると全く使われていないかのようだった。そもそも林道の入口さえ、それと知って見なければ見落としそうなほど、うまくカモフラージュされている。
昨夜から人がこの辺りに集まって何かしていたのはこれだったのだ、と思った。
正雄は林道に忍び込む。落ちた枝を避け、小走りに進んだ。いくらも行かないうちに、左右から人影が現れた。
正雄は足を止める。喉の奥で悲鳴を上げた。
「どこに行くの?」
訊いてきたのは恵だった。数人を従え、勝ち誇るように笑っている。
「やっぱりあんたって、その程度の奴よね」恵は言って正雄を一瞥し、隣の男を見上げた。「ね? 言った通りでしょう? 絶対に逃げ出す奴がいるって」
「まったくだ。嬢ちゃんのお陰だな」
恵はにっこりと笑み、正雄に侮蔑の眼差しを向ける。正雄は恵に向かって吐き捨てた。
「点数稼ぎ」
「臆病者。……あんたは仲間を裏切ったのよ」
その通りだ、と二人の男が正雄の腕を取った。
「ちょっと思い知る必要がありそうだな? え?」
「お……おれ」
「今はお前を吊し上げてる余裕なんかねえ。戻れ。だが、この騒ぎが落ち着いたら、思い知らせてやるからな、それを忘れるな」
正雄は引きずられながら悲鳴を上げた。
「それが嫌なら、これからの振る舞いに気をつけるんだな。気を入れ替えて働けば、執り成してやる」
「分かった……分かったよ!」
林道の外に放り出され、正雄は背後を振り返る。遠目に恵が笑うのが見えた。
「くそ……あいつ」
いつもいつも、正雄のことを馬鹿にして。せっかく兄たちのいない場所に来たのに、恵だけは常に誰かと正雄を比べる。劣っていると決めつける。絶対に比較していることを忘れさせてくれない。
もしもここに夏野がいたら。
(絶対に殺してやるのに)
死んでまでも付きまとう。――まるで亡霊のように。これほど誰かを憎いと思ったことはなかった。
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徹は檻の外で耳を覆っていた。檻の中から、細い呻き声がしている。律子が飢餓に喘いでいる声だ。
「……ねえ」
密かな声がした。やすよの声だった。
「この声、律ちゃんじゃないの? 苦しんでるみたいだけど、大丈夫なの」
徹は口を歪める。
「大丈夫なもんか。喰ってないんだから。飢えて苦しんでるんだよ」
やすよが息を呑む気配がした。
「あんたも看護婦なんだろう。だったらその人を起こして、自分を襲って楽になれと言ってやれよ」
やすよの返答はなかった。
「患者を助けるのが仕事だろ? だったら、苦しんでるんだ、何とかしてやれよ!」
「それは律ちゃんが決めることだわね」
徹は檻を振り返った。
「自分の命が惜しいんだろう。たとえ知り合いでも、自分が死ぬくらいなら、飢えて死んでほしいんだよな」
さあ、とやすよは首を傾げた。
「そりゃァ、わたしは死にたくないわね。でもって、それは律ちゃんも、あんたも一緒でしょう。……でもね生死は患者さんが自分で選ぶもんだからね」
「……冷たいんだな」
やすよは息を吐く。
「苦しんでたら助けてやりたいわよ。人間だからね、何より患者さんが苦しんでる声を聞くのが辛いもの。けど、終末期の患者さんに対して、何もしちゃいけない、ということもあるわね。本人や家族が延命治療はしないでくれと言って、それで何もできないってことが」
「それと一緒だって?」
「一緒なんじゃないかしらね。律ちゃんは、延命のための輸血を拒否してるようなものよね。……あたしにはそういう理解の仕方しかできないんだけど」
「そうつ、喰わないと死ぬぜ」
「だからって、勝手に輸血はできないのよ。あたしたちからしたら、助かる方法があるんだったらそれを受けてちょっとでも長く生きようとするのが本当だと思うのよ。でも、本人に取ったらそうじゃない、ってことなんでしょ。生死を秤にかけて、自分の生き死に以上に大事なことだから拘ってるんじゃないかしらね。それを馬鹿だって言うのは簡単だけど」
やすよは律子の背中を撫でている。
律子が声を上げた。
「やすよさん……触らないで」
「律ちゃん」
「お願いだから、できるだけ離れてて……」
やすよは痛ましいものを見るような目で、律子の声がしたほうを見、そして黙って手を引いて下がった。暗闇の中、手探りをして、部屋の隅に身を引く。
「襲いたいんだろ? 腹が減ってるんだろ? だったら、襲えよ!」
「いや……」
「村では狩りが始まってるんだ。村の連中はおれたちを狩ろうとしている。あんたそうやって、我慢してても、連中がここに踏み込んできたら、あんただって殺されるんだぞ! 誰もあんたを褒めたりしないんだ!」
「いやなの……」
お願い、と律子は顔を上げた。
「わたしをここから出して、……わたしか、やすよさんか、どちらかを出して」
「駄目だ」
「襲いたくないの。それをしたら、わたし、自分を嫌いになる。……あなたみたいに、自分を憎んでしまわないといけなくなるの」
徹は凍り付いた。
「きっとわたしも、そうなると思う。自分を許せないと思うから。でも、許すしかなくて足掻くと思うの。自分に言い訳をして、仕方なかったんだって言い聞かせると思うの。でも、飢えて死ぬより、自己嫌悪から逃げるために、殺したくないって思ってる自分を抹殺するほうが、きっと何倍も苦しいと思う……」
徹は俯く。
「そんなふうに苦しいのは嫌なの。わたし、そういうエゴイストなの……。自分が苦しむのが嫌なの。なのに、このままじゃ」律子は短く呻く。「後で何倍も苦しいのが分かってて、襲ってしまう。それだけは嫌なの。お願いだから、やすよさんをどこかにやって」
「……そういうことをすると、おれが叱られるんだよ」
「分かってるわ」
「おれの家族が襲われる。報復されるんだ」
「でしょうね」
「おれだって制裁を受ける、きっと」
「分かってるわ。だからわたし、エゴイストなの。自分が苦しむのが嫌だから、あなたに苦しんでくれってお願いしてるの。お願い、やすよさんをどこかにやって」
徹は鍵を出した。震える手で格子の鍵を外し、扉を開く。
「……出ろ。あんたのほうが出るんだ」
律子は頷き、這うようにして近づいてくる。徹の足許に来ると、いきなり立ち上がって徹に掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]みかかってきた。
「やすよさん、逃げて……!」
あんた、と徹は律子の腕を引き剥がそうと掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。
「やすよさん、ここよ! あたしの声のするところ。ここにドアがあるわ。ここから逃げて」
徹は力任せに律子を振り解き、律子を檻の中に突き飛ばした。檻の隅から躍り出ようとしていた女が、竦んだように動きを止めた。
「冗談じゃない! ここでこいつを逃がしたら、おれたちは終わりだ! こいつが仲間を呼んで、おれたちはみんな殺されてしまう」
「知ってるわ! でも、嫌なの。わたしはそういうエゴイストなのよ。人を襲うくらいなら、死にたいの」
「あんただけが死ぬんじゃない。仲間も全部、殺されるんだ」
「そんなこと、分かってるわ。それでも嫌なの。罪を犯すくらいなら、罪もないのに殺されてしまう可哀想な被害者になったほうがましなのよ!」
律子は泣き崩れる。
「わたし……死にたくない。あなたにも死んでほしくないわ。やすよさんにも、他の誰にも死んでほしくない。人が死ぬのは嫌なの。それを平気でいられるぐらいなら、看護婦になったりしないわ。ずっと人を助けるために働いてきたの。それがあたしの誇りだったの。でも、並び立たないのよ、分かるでしょう? 自分が生きるということは、自分以外の誰かが死ぬということなの。自分以外の人を生かすということは、自分が死ぬということなのよ」
「それは……だから」
「本当はどうしたらいいのか、自分でも分からないの。死にたくないし、殺したくない。殺すということは、わたしにとって自分が死ぬことにとても似てる。どっちにしてもわたしは死ぬの、死にたくないのに。引き裂かれて、とても痛い。もうこの痛みから逃れたいのよ。それ以外、考えられないの……!」
徹は手の中の鍵を握る。
「なんで起き上がっちゃったの? せっかくいちど死んでいたのに」
徹はうなだれて、やすよのほうに向かう。気配を察したのか、暗闇の中で、やすよが身を縮めた。徹はその腕を取る。
「……こっち」
狼狽えたふうの、やすよを促した。
「出口はこっちだから」
「でも……」
左右を見まわす、やすよの背を押し、手の中に鍵の束を押しつける。
「これ。……頼みがあるんですけど、いいですか」
「なに?」
「もしも無事、村に戻れても、親父におれがいたことを言わないでほしいんです。誰にも言わないでください。知られたくない……」
「分かったわ」と、やすよは頷き、そして何かを言いかける。それを徹は遮った。
「礼なら言わないでください。ここには大勢の仲間がいて、みんなそれぞれに生きてるんです。感情があって、いろんなことを考えて生きてる。人を殺すのに慣れちゃった奴もいるけど、そうでない奴もいるんです。そいつら全部を危険な目に遭わせるということだから、これはぜんぜん感謝されるようなことじゃない」
「……そう」
「それに、無事に村まで戻れるとは限らない。野犬がいるんです。あいつらはおれたちには近づいてこないけど、人間なら襲うかもしれない。途中で別の仲間に会うかもしれない。べつにあんたに安全をあげたわけじゃないから……」
そうね、とやすよは言う。
「でも、やっぱりひとつだけお礼を言わせてもらうわ。律ちゃんに親切にしてくれて、ありがとうね」
「うん。……それならもらっときます」
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夜は無情に更けていく。正雄は寝場所に戻ろうと、廃屋のひとつに入ろうとして足を止めた。村の惨状が目の前をちらちらしていた。寝場所をこじ開けられ、殺された者たち。忍び込んだ家のひとつでは、床下の寝場所にゼリーのように固まった血が溜まっていた。
もしも山入にハンターが来たら。まだ村の連中は山入に気づいていない。完全に山入は外部になってしまっているのだ。だが――明日もそうだとは限らない。
いつもの寝場所に戻るのが不安だった。寝ている間に引き出され、杭を打たれるような、そんな恐ろしいことだけは避けたかった。
正雄は集落を突っ切り、抜け道に出た。西山へとまっすぐに南下する。兼正の周囲に集まっている人々を迂回して、夜の村に逃げ込んだ。人通りは多くなく、明かりのついた家はない。まだ停電したままのようだった。
そしてずっとこのままかもしれない。電力を落としたのは仲間だ。そしてまたそれを復帰されることのできる者はもういない。
村はまるで死に絶えたようだ。そして、それは事実だった。夏以来、たくさんの人間が死んだ。起き上がった者も死んだ。どこもかしこも屍体だらけだ。村を取り巻いている山にも無数の死体が眠っている。村は死で埋め尽くされている。きっと村自体も死ぬのだろう。一刻も早く逃げ出さなければ、正雄もその死に巻き込まれる。
人目を避け、物陰を縫って、何とか国道が見えるところまで移動した。だが、国道には昨夜と同じく、大勢の人間がいて周囲を見張っている。あれをかいくぐって逃げ出せるかどうか自信がなかった。――そもそも、村を逃げ出して、どうやって生きていけばいいのか、分からなかった。
(一人じゃ無理だ……)
では、二人なら? 正雄は一瞬、恵のことを思い出したが、恵と正雄が二人でいても、何の意味もないことは確かだった。必要なのは、昼間にも起きていられる誰かだ。日光を恐れない誰か。それさえいれば、正雄はとりあえず適当な狭い空間の中に入って、その人物にそれをシートや毛布で何重にも覆ってもらうことができる。それさえできれば、堅牢な寝場所などなくても生き延びることは不可能ではない。
誰かが必要だ。襲う必要がある。しかも、と正雄は思う。昨夜はまだ山入に羊がいた。それで飢えをしのげた。今夜は自力で獲物を捕らえなくてはならない。
(でも、そんなことができるのか?)
昨夜の食事を羊に頼らなければならなかったのは、獲物が見つからなかったからだ。人は集団で行動している。ひとり歩きをする獲物など見つけようがなかった。しかも村の連中はみんな、夜に窓を叩くのがどういう者なのか、知ってしまっている。誰も中に入れてくれないだろう。それどころか、窓辺に近づくのは命取りだ。
(いや……待てよ)
たった一軒、入れてくれる可能性のある家がある。正雄は村の中心に目をやった。父親ならば――兄ならば。近づいても追い払わずにいてくれるだろう。まさか正雄を襲いはすまい。決して家族は襲わないと約束すれば、匿ってくれるかもしれない。
(そうだ……そうだよ)
どうして今までそれに思い至らなかったのだろう。あの兄なら、あるいは兄嫁なら。思い出すと、懐かしくて胸がいっぱいになった。そこにいる間は不満ばかり感じたが、今から思うと、良いこともなかったわけではない。仮にも家族ならば、たとえどんなに酷い仕打ちをするにしても、命まで取るとは思えなかった。
戻ろう、と思った。家に戻るのだ。結局、安心していられる場所は家族の側しかない。良いことはなくても、愉快なことはなくても、そこまで酷いことは起こらない。
正雄は夜道を駆ける。周囲に目を配りながら家の裏手に続く小道に入った。これを最後に辿ったのは、徹の葬儀の帰りだったか。家に入る前に、正雄は柚木に襲われた。今度こそ、ちゃんと家に帰るのだ、と思った。
家の裏庭は、かつて見た様子から変わっていなかった。窓に明かりはなかったが、時折、懐中電灯のものらしい明かりが、窓の奥の方で揺れているのが見えた。家族があの窓の中にいる。正雄は窓辺に近づいた。
智寿子は箪笥の引き出しを探った。懐中電灯の明かりが頼りない。どうやら電池が切れようとしているらしい。
とりあえず着替えに戻ってきた。死体を運び続けて、着衣はどれも血糊と腐臭で耐えられない有様になっている。新しい衣類を引っぱり出し、寒さに震えながら、服を脱ごうとした。
その時だった。智寿子は窓が外から叩かれる音を聞いた。思わず身を硬くする。
智寿子は近くに置いていた鉄パイプを手に取った。今日一日で、屍鬼を行動不能にするのは、これで頭部を殴ることが有効なのだ、と村の誰もが学んでいた。まずこれで頭を狙って殴りかかる。相手がとりあえず倒れたところでを、急所を狙って刃物で刺す。充分に刺してからその傷口に杭を当てれば、とりあえず力のない女や老人にも、屍鬼を倒すことは不可能ではない。
智寿子はパイプを握りしめて、窓辺に寄った。窓を叩く音は続いている。
「……誰?」
おれ、と微かな声がした。
「……誰なの」
正雄、と窓の外から答えがした。智寿子は喉の奥で悲鳴を上げた。正雄が起き上がっていたのだ。脳裏にこれまでの確執が浮かんだ。特に鮮明に浮かび上がってきたのは、非常にしばしば博巳や智香が虐められていたことだった。そう、そんな少年だ――正雄は。
「……義姉さん? ……義姉さんだろ? 入れてくれよ。おれ、助けてほしいんだ」
この子は平気で嘘をつく。執拗に絡み、嫌な目つきで智寿子を見る。
「助けて……おれ、殺されちゃうよ。義姉さんしか助けてくれる人、いないんだ。おれ、義姉さんを襲ったりしないよ。兄さんも親父も、――そう、智香だって襲ったりしない。絶対だ、約束するよ。だから助けてよ」
嘘つきで残酷で、他人に対する共感や想像力を持たない。信じては駄目だ。正雄は平気で他人を利用する。そういう子だと、智寿子は思っている。
智寿子はパイプを握りしめた。息を押し殺して、窓の鍵を開ける。充分に窓とパイプを見比べ、確実な間合いを取った。智寿子はパイプを振り上げる。
「……いいわ、入ってらっしゃい」
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やすよは建物から逃げ出して、朧気な影からそれが山入であることを悟った。幸い、やすよがいた建物は集落のいちばん下にあった。やすよは身を屈め、物陰を拾うようにして道を下り、村道のほうへと抜け出した。――なんとか抜け出ることができた。
律子たちの命運が哀れだが、自分だって死にたくはなかった。なぜ、と思う。どうして人間は、ここまで自分の生に執着するのだろう。自分だけではない、夏以来、病院にやってきては死んでいった人々、残された人々のことを思うと、それが続くことは許容できなかった。そのためには、村に戻り、山入が起き上がりの巣であることを村の者に伝えなければならない。村の者は山入に殺到するだろう。そうすれば律子も、徹も死ぬことになる。
「どっちにしろ、どっちかが死ぬんだわ……」
共存する方法があればいいのに。そう思うのは、やすよがまだ、近親者を殺されていないせいなのだろうか。職場の同僚なら、武藤を残してみんな死んだ。――死んだのだろうと思う。雪も聡子も、清美も、他の者たちもきっと鬼に殺されたのだ。中にはやすよのいたあの檻の中にいて、暗闇の中で殺されていった者もいたのかもしれない。それでも、ややすよには律子を憎むことはできなかった。徹を憎むことができない。むしろ不憫でならなかった。律子たちを人に戻してやる方法があればいいのに。
それができないのであれば、どちらかが死ぬしかないのだ。どちらか、と言われれば、律子たちのほうだ、とやすよは思わないわけにはいかなかった。しょせん、やすよはまだ死んでいないのだから。そう思う自分が辛い。引き裂かれる苦しみ――律子はこれのことを言っていたのだと思う。
律子はこの痛みから逃れるために、やすよを逃がした。ハンターを呼んで、この痛みを終わらせてくれ、と言っていたのだと思う。そしてやすよも、この痛みを終わらせたい。律子も徹もそれを望んでいるのだ、というところに縋ることで。
重い身体を励まし、夜道を駆けた。途中、前方に小さな光が見えた。きらめく反射板のような光と、低い唸り声。山入のほうには多いと聞いていた。野犬だ。
やすよは石垣を上がり、山の中に逃げ込む。獣の足はやすよよりも数段、早かった。足許が見えず何度も転び、そのたびに生臭い息と、鈍い痛みを感じた。両手を振りまわし、なんとか逃れ、傷だらけになった手足を引きずって縋るように触れた木に登った。
北山は入らずの山だ。樅は切り出されるためのものでないから、ろくに枝打ちもされていない。おかげで手がかり足がかりになる枝が残っていた。やすよは懸命に上へと枝を登った。犬たちは根本に群がり、苛立ったように樹上を睨んで唸っている。
やすよは身を寄せていられる枝を探して身体を休めた。犬がどこかに行かないかぎり、身動きができない。とりあえず手頃な枝を揺すって折り取り、それを抱いてじっと息を潜めていた。
東のほうの空が微かに明るい。やすよはそこで、じっと救済の曙光が射すのを待った。
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辰巳が戻ってきたのは、夜明け間近になってからのことだった。辰巳は部屋に入ってきて静信に処置をしながら、村にいた仲間がほぼ壊滅したことを沙子らに告げた。
「山入は?」
「まだ無事だが、昨夜あちこちに食事に行った連中が山入に帰れないまま村に残っていた。数は相当減っているし、たぶんあそこも時間の問題だろう。そのうち誰かが山入のことを思い出す」
「そうね……」
「村中を掃除し終えて余力ができたんだろう。屋敷の周辺にびっしりと人が貼り付いてる。戻ってこれたのは運が良かった」
沙子は俯く。
「……わたしたち、おしまいなのね」
「そう悲観したものでもないよ。何とか生き延びる手を考えよう。運が良ければどうにかなるかもしれない」
沙子は微笑おうとしたが、それができなかった。励ますように静信が腕を叩いてくれたけれども、やはり慰めにはならない。
夜明けが来る。沙子は時計を見上げた。
午前四時。夜明けまで二時間。絶望的な睡魔がやってくる。
狩人が家を包囲している。いつ踏み込んでくるか分からないのに、夜が明けてしまえば沙子は無力だ。
寒気が背筋を伝った。麻酔されたように眠る自分。それを取り巻いた狩人の群れ。狩人はその手にあの恐ろしい凶器を持っている。木を削って作った無骨な杭。それが掲げられても、胸に押し当てられても、沙子は身動きをしない。眠っている。目を覚ますのはきっと、そのささくれだらけの杭が胸に食い込み、肉を突き破ったときだ。
沙子は胸を押さえた。あるはずのない頭痛が|鳩尾《みぞおち》から胸を刺した。
(ここ……)
痛みを訴えたこの場所。無骨で荒々しいあの凶器。大人の手で一握りほどもある材木が乱暴に削られ鈍い角度の切っ先を作る。それが胸に(……ここ)押し当てられ、その頭に鎚が振り下ろされ(痛い)、力任せに皮膚を裂き、肉を貫通し、胸骨を砕いて食い込んでくる。せめて銃弾なら、刃物なら。本来ならば刺さるはずもないあの鈍重な切っ先が振り下ろされる鎚の打撃で(……痛い)この身を貫く。(痛かった? ――千鶴)
刺さる痛みのほうが辛いだろうか、それとも鎚の衝撃のほうが辛いだろうか。目を覚ましたときには終わりだろうか。もしも目を覚まして、鎚の一振りごとに一寸、二寸と食い込んでいく杭の感触を感じていなければならないのだとしたら。
「室井さん……」
沙子は震える声で静信を呼んだ。静信は困憊した顔を上げた。
「ねえ、室生さん、杭って一撃で胸を貫くと思う?」
「沙子」
咎める調子の声には構わず、沙子は床に手をついて静信の顔を覗き込む。
「わたしの身体は子供だわ。骨だって細いし、胸だって薄い。大人が渾身の力で杭を打ち込んだら、一撃で背中まで突き抜けると思うの」
沙子は胸に当てた手で襟を握りしめた。
「突き、抜けるわよね……?」
静信は答えを知らなかったが、頷いた。沙子には彼の表情でそれが分かった。
「……わたし、怖いの」
事実、襟を握った右手を左手で押さえていなければ、布を裂いてしまいそうなほど、激しく手が震えている。
「笑う、でしょ? たくさん人を殺してきたの。本当に、ひっきりなしに殺してきたのよ? どんな残忍な人殺しだって、わたしほどたくさんの人を殺したりしてないと思うわ。わたしが殺されるのは、その報いなの。なのに、すごく、怖いの」
「沙子……」
振り下ろされる鎚、めり込む杭。一寸ごとに杭が食い込むのを感じているなんて耐えられない。いっそひと思いに首を切り落としてもらいたい。自分の体格なら、大の大人が思いきり斧を振り下ろせば、一撃で首なんか切断されてしまうだろう。――それとも外に引きずり出されるのだろうか。全身が焼け爛れていくのと、杭を打たれるのと、どちらのほうがましだろう。
「みんな、こんなふうに怖かったのよね。なのに死んだね。わたしが、殺した。そのわたしが、死ぬのが怖い、痛いのが怖いなんて、我ながら笑ってしまうわ」
静信は目を逸らした。
「怖いの。もう一時間もないの。夜が明けるのよ。外にはあれだけの狩人がいて、今にも踏み込んでくるかもしれないのに、わたし、もうじき眠ってしまう。眠ってしまったら逃げることも抵抗することもできないのに」
狩人たちはどんなに恐ろしいことだってできる。沙子は悲鳴を上げることも、救済を懇願することもできない。物のように横たわったまま、まさしく血祭りに上げられるのだ。
「……どうして?」
雨滴が注ぐように、冷えた涙が零れた。
「お話しの中の主人公なら、きっと助けが来てくれるの。誰かが助けてくれて、庇ってくれる。奇蹟だって起こるかもしれない。最後まで希望を捨てないでいいの。でも、わたしを助けてくれる人なんていないわ。誰も助けてくれない。どんな神様もわたしのために奇蹟を施してくれたりしない」
助けを求めて呼ぶ名もない、救済を求めて縋る神もいない。
「なぜなら、わたしは人殺しだからよ」
「――沙子」
「悪者はわたしなの。無慈悲で残忍な屍鬼の首領が倒されて、それで大団円なの。残された人たちは悪鬼の犠牲になった人たちの冥福を祈って、わたしの死体を投げ捨てる。魂があるなら未来永劫、地獄に落ちていろと罵るのよ。……でも、どうして?」
秒針は刻々と時を動かしていた。長い針が動き、短い針が目に見えない速度で時間を巻き取っていく。
「どうしてなの? わたし、悪いことなんかしてない。食事をしただけなの。食べないと飢えて死んでしまうんだもの。そうしなかったからいけないの? 飢えて死ななかったから、わたしが悪者なの? 答えてよ、室井さん」
「……それは」
目を逸らした相手の膝に縋った。暖かい身体。沙子は文字通り冷血の生き物だ。
「飢えて死にたくなかった、それが杭を打たれるほどの罪なの? あなたたちだってものを食べて生きているんじゃない。生き物の命を奪って飢えをしのいでいるんだわ。なのにあなたたちはよくて、わたしはだめなの? どうして?」
静信は何かを言いかけ、そして口を噤んだ。
「人の血でなくても生きられるなら、とっくにそうしていたわ。とても危険なことなんだもの。でも、人でないと駄目なの。人を狩るなということは、わたしに死ねということよ。わたしが生きていることがいけないの? この世に存在することが罪なの? 存在することさえ許されないほど、わたしは罪深いの?」
縋る気持ちで覗き込んだ相手は、無言のまま悼むような視線を帰してくる。
「でもわたし、好きでこんな生き物になったわけじゃないわ」
「……そうだね」
「誰も訊いてくれなかった。わたしだってこんな生にしがみつくより、いちど死んだあのときに死んだままでいたかったわ。でも、起き上がってしまったの。それはわたしの罪なの? 命があれば、それが惜しいわ。飢えて死んだりしたくない。それともそうするべきだったの? 飢えにのたうちながら死んでしまえばよかったの? それとも自分で陽射しの中に飛び出して燃えてしまえばよかったの? それしか許される方法はないの?」
「確かに、それはきみの責任じゃない」
「そうでしょう? わたしだって屍鬼になんかなりたくなかったわ。人を殺さないと生きていけない、危険な狩りをしなければ飢えるだけ、夜が明ければ動けない、人は昼も夜も動くことができるのに。人から身を守る方法なんてなにもないわ。人は呪術やおまじないや、いくらでも身を守ることができるのに。わたし、こんな弱い生き物は嫌だわ」
「……ああ」
「どうして、わたしたちはこんなに弱いの? 弱いくせにとても大きなリスクを背負ってる。人を襲えばわたしたちを憎むわ。増悪と正義で団結した人間ほど、強い生き物はこの世にいない。なのに人に憎まれずにいる方法なんてどこにもないの。あるとすれば自分で自分を殺すことだけ」
静信は頷く。
「……どうして、わたしたちには神様がいないの? 悪魔でも魔物でもいいわ。わたしに奇蹟を施してくれるなら、それがわたしの神様だわ。なのにそれさえ持てないの。誰も慈しんでくれない、哀れんでくれない。掲げられる正義もないの。なにひとつわたしを保証してくれない。イデオロギーの問題でも価値観の問題でもないの。人の血がないと生きていけない。――これはそういう殺伐とした摂理の問題なんだわ」
人を襲わずに済めば、どんなにいいだろう。憎まれずにいたい、敵対せずにいたい。そうすれば眠りにつくたびに狩人の存在を思い出して怯える必要なんてない。けれど沙子自身にもどうすることもできない。敵対を恐れれば生きていられない。生きていようと思えば敵対するしかない。屍鬼は人を襲って生きる――冷酷な摂理が厳然として立ち塞がっている。
「室井さん」沙子は泣きながら静信の膝に爪を立てた。「これが神様に見放される、ということよ……」
時は無情にも過ぎていく。静信は無言で膝に突っ伏して泣く沙子の声を聞いていた。処置をしてもらったのに身体は怠かった。まるで全身を皮膚から麻酔されたようだったが、そのくせ身体の奥のほうに痛みとも疼きともつかないものが、生々しく煮立っているような気がする。身体の表面と芯のほうが、まるで二分されたように断裂していた。それは意識も同様で、表面に起伏する喜怒哀楽は鈍磨しているのに、芯のほうが冷めている。思考するのには造作がなく、むしろこれまでになく清明な気さえした。
沙子の泣く声は、少しずつ虚ろな響きをするようになった。そのたびに沙子は静信の膝に爪を立てる。
「眠りたくない……」
「……大丈夫だよ。ぼくも辰巳くんもいるから」
沙子は頭を振る。
「いや……眠りたくないの、怖い」
「大丈夫」
いや、と沙子はひたすら首を振る。
「きっと朝になったら、村の人たちが雪崩れ込んでくるわ。そしてわたしたち、おしまいなの」
「大丈夫だよ」と、罪が声をかける。「逃がしてあげるから、心配しないでお休み」
「いや! ……これがお別れかもしれないの」
沙子は顔を上げた。
「もうこれきり、辰巳にも室井さんにも会えないかもしれないの。わたしが死ぬのかもしれない、辰巳や室井さんのほうが死ぬのかもしれないわ。……分からない? これっきりになるかもしれないの」
「大丈夫だよ」と、辰巳は繰り返して笑う。その笑顔を見て、辰巳は嘘をつくのが上手い、と静信は思った。
「そんなのは嘘よ。信じない」
「沙子」
「……どうして? これきりになるなら、せめてお別れの瞬間まで起きていたいわ。ちゃんと見つめて、お別れをしたいの。目が覚めたら、死んでいるなんて酷い。そんなのは嫌なの……!」
辰巳は苦笑するように息を吐き、静信に向かって首を振ってみせる。それがどういう意味なのか、静信には分からなかった。
沙子の懸念は正しいと思う。屋敷は包囲されている。いずれ地下室の存在が知れてハンターが乗り込んでくるだろう。人が雪崩れ込んでくれば、静信はおそらく沙子を庇わずにいられない。そうすればたぶん、屍鬼の仲間として殺されることになるのではないかと思う。その間に、辰巳が沙子を抱えて逃げられるだろうか。数の差を考えると、それも難しいだろうと思う。沙子がここで眠りにつくことは、たぶん別れを意味する。だが、沙子はこの眠りから逃れることができない。――せめて沙子の眠りが安らかに訪れますように、と思う。
沙子は泣きながら、睡魔に抵抗するように首を振り続けている。
「……沙子、ぼくはきみのおかげで、少しだけ自分のことが分かったように思う……」
沙子は顔を上げた。
「……自分のこと?」
「うん」
「じゃあ、教えて。室井さんはなぜ、自分を殺そうとしたの?」
静信は息をつく。
「……絶望していたからだよ」
「そんなの答えにならないわ。とても月並み」
沙子は改めて静信の膝に頭を乗せた。力無く膝の脇に垂らされ、床に縫い止められた手に沙子の髪がかかった。重いものを返すようにして掌を返すと、艶やかなそれを手の中に受け止めることができた。
「……うん。でも、そういうことなんだよ……」
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丘はひとつの「全き秩序」だった。
そして彼は、その秩序を愛していたし、秩序の支柱たる神を尊崇していた。
神の采配によって美しく整えられた楽園、緑の丘と深い森を、丘の頂上に毅然とそびえた街を、愛していた。敬虔で慈愛深く、多くを求めず、慎ましやかに生きる隣人たちを愛していた。彼らのささやかな懊悩と悲嘆、ささやかな歓喜、その全てを彼は無上のものと受け止め、それを丘に|普《あまね》くもたらした神の奇蹟を信じていた。
彼は心からその丘を敬愛していた。――不幸にして。
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「不幸にして?」
「そう。それは悲劇に他ならなかったんだ。
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なぜなら、丘が彼に求めたのは、「敬愛の演技」以外の何者でもなかったからだ。
丘はそもそも流刑地だった。彼はそもそも罪人として生まれた。神も秩序も、彼の中に信仰と敬愛が宿ることなど、端から信じてはいなかったのだ。
彼は真実、丘を敬愛していたが、丘は彼に「敬愛の演技」を求めた。彼は丘を否定する権利を持たなかったし、もちろん、否定する気も毛頭なかったのだが、丘は彼に丘を肯定する権利もまた与えなかったのだった。
丘は彼の内実に頓着しない。真実、丘に敬愛を捧げる彼に、形だけの敬愛の演技を求めることで、完膚無きまでに彼を拒絶したのだった。
彼は決して秩序に愛されることがなかった。そこに真実の敬愛があるゆえに、彼は神に供物を捧げるのにも、彼なりに考え得る限り最上の物を捧げようとしたが、そうやって捧げられた供物は、信仰の証として取り決められていたものを得てして逸脱した。彼の供物は無視され、投げ捨てられた。神は弟の捧げた供物をのみ喜んだ。彼はそのたびに悲嘆にくれ、次こそは神に喜ばれるものをと腐心して、いっそう取り決めを逸脱していくのだった。
彼は自己の中の真実を訴えることによって、秩序の寵愛を願ったが、決してそれが受け容れられることはなかった。秩序が彼に求めていたのは、秩序が彼に課したもの、それだけで、それ以上ではならなかったし、それ以下でもならなかったのだ。
彼の中には失望と悲嘆が蓄積し、やがて絶望に育っていった。彼の中には自分の敬愛が決して容れられないことに対する絶望が、種子のように凝っていた。
その一方で、彼は弟が秩序を憎んでいたことを知っていた。増悪を押し隠して秩序に媚びる弟、造反も逸脱もできない己を疎み続けていた弟を了解していたのだった。そうして、そんな弟こそが、秩序により神により隣人により肯定される、その事実にさらに深く悲嘆せざるを得なかった。弟を羨み妬み憎むより先に、それほどまでに内実を振り返ろうとしない秩序が、彼の真情を汲んで彼を受容することなどあり得ないことを、痛いほどに理解せざるを得なかったのだった。
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彼は、自分が決して秩序に愛されることなどあり得ないことを悟ったんだ……」
そもそも神が、流刑地に住まう罪人たちの末裔を愛すことなどあり得なかった。
「彼の信仰には意味がなかった。弟は秩序からの寵愛を得ていたけれども、それは単に模範囚に対する温情でしかなかった。彼の中には失望が蓄積し、……やがて絶望に育っていったんだと思う」
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彼は絶望によって弟を殺した。
弟を殺したからといって、彼が秩序に受け入れられるわけでは決してない。彼はそれすらも理解していた。懇願によっても脅迫によっても、秩序の寵愛を勝ち取ることはできないと彼は知っていた。――知らざるを得なかった。
どれほど願っても、何をしても決して得られない。そう悟ることを絶望とは言わないか。彼は絶望によって寵愛深い弟を殺した。彼は絶望のあまり、何かをせずにおれなかった。なぜ我をさほど憎みたまうか、と振り上げた拳は、どこかに振り下ろされなくてはならなかったのだ。
弟は彼と世界との接点だった。そして、それと同時に彼の絶望の接点だった。彼はそれを打ち壊すことで、彼を|嘖《さいな》む絶望から逃れようとしたのだった。
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「……だから」と、静信は呟く。「本当に憎しみでも恨みでもなかったんだ……」
「……ふうん……」
呟いた沙子の声は、睡魔の誘惑に絡め取られ、どこか穏やかで甘い。
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憎しみでも恨みでもなかった。妬みでもなかった、と彼は呟いた。
それは嘘だ、と彼を取り巻く悪霊は揶揄した。
汝は弟の、その本性において造反者たらんとした資質を看破し、その在り方を憎み、にもかかわらず秩序に肯定される弟を妬んだ。
それは違う、と彼は訴えた。彼は弟の内実を了解していた。それでもなお、弟を愛していたのだし、ゆえに弟のそういう在りようを不憫にも哀れにも思っていた。ただ彼は、真実、絶望していたのだ。
お前が憎かったわけではない、と彼は空洞の目をした屍鬼に言った。
知っている、と弟は答えた。その屍鬼は、初めて口を開いた。
貴方は私を憎まなかった。そもそも貴方は他者を憎むことができない。たとえ増悪が芽生えても、憎む己を許さないだろう。他者に対する増悪は生じた瞬間に自己に対する嫌悪に形を変え、自律すべき責務として昇華される。私は貴方のそういう在りようを、理解している。
ならばなぜ自分を追ってくるのか、と彼は問おうとし、そして突然、彼は荒野に弟と佇んでいる自分に気づいた。悪霊が呪詛を撒く夜、荒れ果てた大地の上、彼らは二つの寄り添った影だった。
振り返れば、弟は彼を責めたことが一度たりともなかった。どんな恨み言も言わず、黄昏から夜明けまでを黙って彼に付き従い。ただひたすら放浪する彼の道連れであり続けたのだった。
彼はようやく弟の真情を理解した。それは慈愛であって呪いではなかった。畏れを捨て、迷いを脱してみると、黙って彼に付き従う弟との旅路だけが残った。すでに彼を拒んだ秩序は遠く、弟は傍らにある。秩序は彼らを選別できない。彼は弟と自分を比して己に絶望する必要がなく、弟もまた彼と自分を比して己を疎む必要がなかった。もはや選別という無慈悲が彼と弟の間に亀裂を入れることはない。ようやく彼は、自己と弟を二つながら手にしていた。
彼はみたされ、喜びを感じた。彼は弟と寄り添い、鬼火を灯火に荒野を歩いた。心を苛むものも、苦しめるものもなかった。丘の上で彼には手に入れることを許されなかったものが、荒野にはあった。
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「そして彼は、弟が他ならぬ、そのために彼を追ってきたことを悟る」
「兄を救うために? ……天使のようね」
沙子は半ば眠ったような声で不満げに言ったが、静信は緩く首を振った。
「彼に対する慈悲でもなく、哀れみでもないんだ。弟は彼と共にあるため、ただそれだけのために荒野に兄を追ってきたんだ」
彼らは長く秩序によって分かたれていた。その二者は、凶器が一閃する瞬間に、真の意味で交わったのだ。殺戮の一瞬は、丘にあっては永遠に交わるはずのない、二つの相反する魂が、ようやく見出した、ただひとつの結論だった。
[#ここから4字下げ]
そう悟って、彼は傍らの弟を見つめた。弟もまた彼を見つめ、そして消えていった。
夜はまだ始まったばかり、夜明けの光は遠く、世界は暗黒によって幾重にも閉ざされていた。まだ屍鬼が墓に戻る刻限ではない。にもかかわらず、彼の弟は彼を見放して消えてしまった。彼は弟を呼んだ。初めて声に出して、吹き渡る風に向かって呼ばわった。
呼んだ声が風に巻かれて彼の耳に戻る。
それは、彼を呼んでいた。
荒れ果てた凍り付いた起伏。大地に突き当たり、虚空に跳ね返った声はまぎれもなく彼の声で彼自身を呼んでいた。
そして彼は、思い出した。
この名は自分の名、彼には弟がなかった。
彼は孤独に生まれ、同胞を持たなかった。彼が楽園を放逐されたのは弟を殺した罪によってではなく、自らを殺傷した罪によってだったのだ。
殺したのは彼、殺されたのもまた彼自身だった。弟は彼の絶望の中から生まれた。そして彼はその絶望によって、弟と自己とを殺傷したのだった。
彼は荒野を見渡し、いっかな遠くならない丘を振り返った。頂上の光輝は冷ややかに彼を照らして、彼の足下に罪の色濃い影を落とし、それを踏みしめる彼の足は半ば以上透けていた。彼は試しに片手を挙げた。丘に向かって掌をかざすと、掌越しに緑の丘と冴え冴えとした光輝が見えた。光は彼の掌を貫き、彼の目を貫き、脳裏を抉って彼の背後にある大地を刺した。彼はようやく理解した。
彼はとうに、荒野に住まう悪霊のひとつになり果てていたのだ。
彼は手を下ろした。喜びをもってそれを受け容れた。
すでに光輝は、彼を分かつことができない。
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「……それが、答え?」
どこか寝言めいて、沙子は呟く。静信は手の中の髪を指の先で撫でる。
「……たぶん」
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律子は檻の中で膝を抱えていた。徹もその向かいで膝を抱えた。徐々に睡魔がやってくるのが分かった。夜明けが来る。やすよは今、どこにいるだろうか。
無事に逃げてほしい、けれどもここに狩人が押しかけてくるのは怖い。いまさらのように、やすよが急を知らせれば、明日には大挙して村人がやってくるであろうことを自覚した。
ひょっとしたら、明日にはまた死ぬんだ、と思った。律子が律子でいられるのは知覚し、思考し、自分を自分として認識していられるのは――、今から眠りにつくまでのごく短い時間でしかないのだと、そう思った。たぶん三十分もないだろう。二十分、あるいは十五分。律子の乏しい経験からいっても、そのくらいで抗い難い睡魔がやってきて自分を捕らえてしまうことが予想できた。
(あとそれくらいの命なんだ……)
眠ってしまえば前後不覚で、殺される瞬間まで目は覚めない。もしも明日、死ぬのだとしたら、律子の「いのち」は、本当にそれくらいしか残されていないことになる。
律子は膝を抱いた。自分が招いたことなのに、膝も腕も音を立てるほど震えていた。否応なく眠る。眠ったらもう目覚めない。
「……ねえ?」
律子は声を上げた。膝を抱いて顔を伏せていた徹が、顔を上げた。
「側に行っちゃ、だめ……?」
徹は律子を見る。そうして頷いた。律子は、ありがとう、と言って場所を移動した。徹の隣に腰を下ろし、ぴったりと身体を寄せる。徹も震えているように感じた。それともこれは律子の震えが伝わっているのだろうか。しっかり身体を寄せ合い、徹の手を探って握ったのに、ほんの少しの温もりも得られなかった。……悲しい生き物だと思う。
「……怖いの」
「うん」とだけ徹は答えた。代わりに痛いほど、律子の手が握りしめられた。
律子はそれに縋り、目を閉じた。
[#改段]
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八章
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夜明けだ、と誰かの安堵するような声が社務所の外でした。敏夫もまた息をつく。なんとかこれで、一晩を持ち堪えたわけだ。
境内には屍体が積み上げられている。夜を徹して埋葬していたが、一向に減った気がしなかった。境内に蠅が集まり、死臭が充満している。
「埒が明かないな……何とかならないか」
「と言われても」と、田茂定文が渋面を作る。「なにしろブルドーザーが入りませんからね。あんな小さいショベルカーが一台きりじゃ、大車輪で働かせても、たかがしれてます」
「そうだな……」
考え込んだ敏夫の脇で、そういえば、と結城が声を上げた。うたた寝をしていたふうの広沢を見やり、声をかけかねたように敏夫を振り返った。
「前に広沢さんに、穴のことを聞いたんですが」
「穴?」
「ええ、どこかこのへんに、穴があると。祠があって入口が塞がれてて……地獄穴と言っていたんじゃなかったかな」
「そうか」と、定文が声を上げた。「そう、あります。地獄穴が。――先生、あそこに埋めるというのはどうですかね。穴の中に安置して、入口を一気に埋めてしまえば」
「その手があるか。祠の中から入れるんだったかな」
「入れます。親父の鍵があるんで見てきましょう。ひょっとしたら落盤で塞がっているかもしれませんが」
言って、定文は立ち上がる。敏夫と結城もそれに続いた。それは本殿の奥にある。本殿の裏手に苔むした崖があって、そこに寄せて小さな祠――というよりも御堂という体裁の建物が建っていた。
定文が古い錠前に鍵を差した。滑りが悪いのか、苦心惨憺して廻し、諦めたように金槌を取り出して錠前を叩く。金具ごと抜け落ちて、それで祠の戸が開いた。
中には小さな祭壇があり、その奥には格子戸が閉まっている。格子を透かして、横穴が口を開けているのが見えた。入口の部分では、ゆうに人が立って歩けるほどの高さがある。
定文は格子戸を押し開ける。冷えて淀んだ空気が吹き上がってきた。ハンドライトの明かりを向ける。かなりの幅と高さのある横穴が、光の届かない奥のほうまで続いていた。
「入口の辺りは大丈夫なようですね。これだけの広さがあれば、かなりの死体を安置できるでしょう」
「ああ」と、敏夫は頷く。「全部ここに納めて、最後に入口を工務店に塞いでもらおう。確かにそうすると格段に楽になる」
ええ、と定文が頷いたところに、人のざわめく声がした。田代が祠の入口に駆けつけてきた。
「敏夫、やすよさんが」
敏夫は振り返る。祠から飛び出すと、傷だらけになった橋口やすよが左右から支えられてやってくるところだった。
「やすよさん……その怪我は」
「野犬ですよ。あとは勝手に転んだんです」
やすよは力無く笑った。
「運の尽きかと何度も思いましたけど、意外に貯め込んでたみたいですね」
敏夫は失笑した。
「まあ、無事で何よりだ。しかし何だって」
「山入にしたんです」と、やすよは目を伏せた。「山入に連れてかれて、逃げてきたんです」
「――山入」
「……あそこは、起き上がりの巣です」
「なんだって」
やすよは顔を上げた。今にも泣きそうな表情に見えた。
「道が塞いであって、出入りできないようになってるんです。山入の建物全部に手が入ってて、死んだはずの人がうろうろしてます。たくさんいて起き上がりの村みたいなんです」
敏夫は口を開けた。
「……そういうことだったのか」
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人を満載した車が、山入に向かった。切り通しで進路を阻まれ、手に手にシャベルを持って駆け下りると、土砂を掻き分け始める。工務店のトラックが機材を下ろしにかかった。何人かがそれを踏み越えてさらに先へと向かう。
敏夫は徒歩で先を急ぐ。かなりの勾配の坂を登ってようやく山入の集落が見える辺りまで来たとき、悪路に強い車が追いついた。それに同乗するまでもなく、カーブを曲がったそこが山入だった。山に囲まれた窪地のような集落、だらだらと続く坂と、その左右に建つ古い建物。
敏夫はそれらを見渡して、息をひとつ吸った。十数軒ほどの建物には、どれも手が加えられていた。雨戸は外から打ち付けられ、倒れかけていた廃屋にも補強がなされている。住居だけでなく、それに付随する納屋や小屋までを含めると、建物はかなりの数に上る。しかもその合間、棚田のあちこちに、コンクリートブロックを積み上げた小屋ともトーチかともつかないものができていた。
「……なるほど、村だ」
「どうします?」
「もちろん、開けていくんだ。全部の建物を」
板を打ち付けられた雨戸が引き剥がされた。雨戸の内側には漆喰が塗ってある。それが剥がれ砕けて白い煙を上げた。雨戸を剥ぎ、壁を壊す。すぐに方々の建物から、すでに聞き慣れた苦悶の声が聞こえ始めた。殺伐とした槌の音と、血の臭い。屍体が運び出され、トラックの荷台に積み込まれていく。誰とっても、長い長い苦行になった。
大川は廃屋の汚い一郭で、横たわる室井信明を見つけた。老人は陽射しに苦悶の声を上げたが、四肢が自由にならないらしく、身悶えはできなかった。ただ両手をしっかりと合わせて合掌していた。まるで感謝しているようにも見えた。
松尾誠二が、村迫宗貴が、――あるいは他の多くの者たちが、かつての知人、隣人を見つけた。彼らは機械的に杭を打ち、白々とした表情で屍体を運び出した。結城はそうして積み上げられた屍体をトラックへ積み込みながら、すぐ下の建物から二体の屍体が運び出されてくるのを見た。一方はまだ経帷子を着ていた。運ばれてきたそれを見て、結城は呻いた。広沢も顔を背け、敏夫ですらが苦いものを呑み下すようにして視線を逸らす。国広律子と武藤徹だった。
「武藤さんに……何て言おう」
広沢が顔を覆うようにして俯いた。結城は首を振った。
「何も言う必要はないでしょう。知らないほうがいいこともある……」
そうですね、と広沢が零した。結城は微かに汗ばんだ手を握った。どうか――この屍体の群の中から息子を発見することがありませんように。田代は蹲り、二人に向かって手を合わせていたが、耐えかねたように立ち上がって、近くの草叢に嘔吐した。
「大丈夫ですか」
結城が声をかけると、田代は蹲ったまま首を振る。
「おれは……駄目だ。もう我慢できない」
「田代さん」
「これ以上は、とても」
そう呻いて啜り泣く。泣きたい気持ちは結城にもよく分かった。もうたくさんだ、と思った。屍鬼の集団はこれで瓦解しただろう。これだけ数が減り、村人がはっきりと敵対してしまった以上、村に留まってはいられまい。もう放っておけばいいじゃないか、という気がする。そうすれば勝手に逃げ出していく。
そして、と結城の中の自分が囁く。惨禍は村の外に広がるわけだ、と。それでもいいじゃないか、と思う自分がある。もうこれ以上、殺戮に手を貸したくない。そう思う一方で、それを留める自分がいる。この狩りが苦痛であればあるだけ、結城はそこから逃れられない。みすみす息子を死なせたという思いが、苦痛から身を引くことを自分に許さなかった。
「けれども、せめて桐敷家の人々だけは」
広沢が沈痛な口調で言う。桐敷沙子と、辰巳と、あの二人だけがまだ見つかっていない。あの二人だけはなんとしても仕留める必要があった。それをしないと、誰の中でも終わりにならない。
「ここにいるんだろ」と田代は泣く。「ここのどっかにいるよ。後はもう、やりたい奴に任せるよ」
広沢が首を傾げた。
「……いますかね」
「もう逃げた可能性も高いでしょうね」と、結城は言う。「首領なんだから、真っ先に逃げ出したでしょう。村を封鎖される前に」
「そんな暇があったでしょうかね」
「屋敷を逃げ出す暇がなかったなら、山入にやってくる暇もなかったんじゃないですか。だったらここにもいないということですよ。そもそも道だって塞がっていたわけだし」
広沢の声に、田代が顔を上げた。
「西山に抜ける道がなかったかな」
「ありましたね、そういえば。むかし山入に入る連中が使っていた……」
「そこを使って抜け出してきたんだよ。きっとどっか、そのへんにいるよ」
だからもう、こんなことはやめよう、と田代は訴える。
「でも、肝心の屋敷を抜け出すのが……」
広沢は俯いた。千鶴のあの悲劇がどの時点で屋敷に届いただろう。あれは神社の境内の中だ。屍鬼は境内には踏み込めない。知らせが走ったにしても、それとほぼ時を同じくして村人も桐敷家の周辺に駆けつけているのだ。屋敷から逃げる暇はなかったのではないか。
「屋敷から抜け出す通路でもあるんだろ」
田代が泣いて、広沢はふと顔を上げた。
「そうか……」呟いて、敏夫を捜す。トラックの側でメモを取っていた敏夫に駆け寄った。
「先生。屋敷です。まだいる可能性があります」
敏夫は首を傾げた。
「あの屋敷は――」
「地下室があるんです」
敏夫は眉を顰めた。
「わたしは工事を見てました。珍しい工事だったんだ。基礎工事の時、すごい量の土砂を上げてました。まるでビルでも建てるような基礎工事をしてたんです。地下室があるんだな、と思いました。思ったのを覚えてます。けれども、そんなものはなかった。隠されていたんじゃないですか」
「……確かか?」
「絶対に確かです。完全に包囲してあったのなら、抜け出せなくてまだ残っていても不思議じゃない。ひょっとしたら身を潜めて、包囲が緩むのを待っているのかもしれない」
敏夫は頷いた。大川を呼ぶ。その背に、広沢はさらに声をかけた。
「先生、済みませんが、田代さんの具合が悪いらしい。連れて帰ってもいいですかね」
「マサさんが?」
「もう参っているんでしょう。……実を言うと、わたしもそうです」
敏夫は顔を強張らせた。
「ただ、わたしは遺体を何とかするのにはお付き合いします。とても放っておけませんから。けれども、もう」
分かった、と敏夫は低く呟いた。広沢は頭を下げる。踵を返して田代の許に取って返した。
「田代さん、戻りましょう」
「でも……」
「わたしももう、限界です。殺しの現場は見たくない。神社に行って埋葬を手伝いますよ」言って、広沢は結城を見た。「結城さんはどうします」
結城は切実に頷きたかった。だが、無意識のうちに首が横に振られる。
「……わたしには脱落できません」
そうですか、と広沢は目を逸らした。
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ふいに戸外が騒がしくなったのが、地下にいる静信たちにも分かった。駆けつける車の音、人が大声で呼び交わすような声。
辰巳は静信にここを頼みます、と言い置いて地下室を出てみた。物陰から外の様子を覗き見る。陽光の中、車と人が門の前に殺到し、まるで踏み込む手はずを整えるかのような動きを見せていた。
(……ばれたか)
おそらくは地下室があることに気がついたのだろう。駆けつけてきた者から踏み込んできてくれるようなら、まだ付け入る隙もあるが、体制を整えているだけの冷静さがあるようなら、ほとんど辰巳らには望みがない。沙子は泣きながら眠りについた。確かに、あれが最後の眠りになるのかもしれなかった。最後の最後で静信が、沙子の目を恐怖から逸らしてくれたことだけが救いだ。思いながら地下に戻った。ベッドの上に坐り込み、沙子を見ていてた静信が顔を上げた。
「室井さん。どうやらここも駄目なようです。最後の最後までお願いして悪いんですが、沙子を頼みます」
静信は辰巳を見返してくる。その顔色は悪い。見事に土色に変わっていた。そもそも、静信も限界だろう。むしろ驚くほど良く保っている。手当はしているとは言え、もはや身を起こしているので精一杯なのに違いない。だが、他に頼れる者はいない。何よりも昼間に動ける者でなければ託す意味がなかった。
「体制が整うと同時に、連中は行動を起こすつもりでしょう。たぶん一斉に敷地内に入ってきて、屋敷を包囲し、一階を根こそぎ検めてここへの入口を探す。屋敷の中に踏み込まれてハンターがひしめくようになると身動きが取れません。ただ、それまでに車に辿り着けていれば、連中が家に踏み込んだのと同時に外に飛び出せるかもしれない。何とか悪あがきして一騒動起こしてみますから、その隙に沙子を逃がしてくれませんか」
「きみは……?」
「さあ。運が良ければ逃げ出せるでしょう。……無理かな、この数じゃあ」
言いながら、辰巳は大型のトランクを部屋の物入れから引っぱり出す。眠った沙子を抱え上げて、その中に納めた。何とか沙子が丸くなっていられる程度の大きさがあった。
「道路は封鎖されているんだろう?」
「されてます。けれども、山入の林道なら使えるかもしれません。山越えで別の林道に貫通させてあるんです。あれが知られていなければまだ使える。唯一の生命線です」
「けれども、山入には」
「村道は使えませんが、抜け道があります。――いや、村道ももう通行不可能ではないかもしれないな。山入のことがバレていたら、切り開かれているかもしれませんけど。どうせその場合も人で封鎖されているでしょうが、抜け道ならまだ大丈夫でしょう。かろうじて車一台なら通り抜けられる」
静信は頷いた。辰巳はトランクを締め、固くベルトを締める。
「遮光は万全とは言えません。空気穴がありますから。もしも車から降ろすなら、できるだけ暗いところに」
静信は頷く。辰巳が引き起こしたそれを二人で抱えて部屋を出た。短い廊下の突き当たりに階段がある。辰巳はそれを上がり、外の様子を見て頷く。
「今のうちです」
苦労して階段を昇った。上がったそこは洗面所だった。まるで配管を覗き込むための落とし蓋のような顔をして、洗面台の前にかろうじてトランクが通る程度の穴が開いている。
建物のその一郭は風呂場などの小部屋が多く、壁が多かった。窓は全てガラスが割られ、板戸も取り払われていたが、とりあえず外から姿が見えるようなことはなさそうだった。その一郭からガレージに向かう通路はすぐだった。
トランクを抱え上げ、四輪駆動車の後部シートに積み込んでゴム引きの布でくるむ。音がしないよう、できるだけそっとドアを閉めてから、辰巳がキーを寄越した。
「……お願いします」
周辺は騒がしいが、まだ邸内に人が踏み込んでくる様子はない。静信が聞き耳を立てていると、辰巳も屋敷のほうを見て頷いた。
「まだのようですね。尾崎の先生は慎重だ。まったく、食えない」
静信はガレージの床に坐り、辰巳を見上げた。
「今のうちに聞いてもいいだろうか」
「なんです?」
「ぼくは沙子を見ていると、屍鬼がとても哀れな生き物に見えるんだ。実際のところ、ぼくはなぜ君が沙子の支配下にあるのか分からない。君には本当に沙子が必要なんだろうか?」
「要不要は、恣意的に決めるものですよ」
「じゃあ、言葉を変えよう。君たちを見ていると、屍鬼と人狼は共生関係にあるように見えるんだ。人狼は屍鬼によって生まれる。その因果関係からすると、人狼が屍鬼に支配され、屍鬼に奉仕することは当然のことのように思えるんだ。
だが、実際のところ、人狼との共生関係がなければ成り立たないのは屍鬼のほうなんじゃないだろうか。彼らは太陽が出ている間、休眠する。眠るというより、活動を停止すると言ったほうがいいんだと思う。その間、屍鬼は全く無防備になる。昼間にも起きていて活動できて、自分たちを庇護してくれる存在が屍鬼には必要だ。しかしながら、人狼は屍鬼の庇護を必要としない。
君たちのほうが優れた生き物に見えるんだよ。種として優良種に見える。生存に適しているという意味においてね。むしろ屍鬼は人狼を生むために汚染を広げているのじゃないかと思うくらいに」
「屍鬼は不完全な人狼だと?」
「違うのだろうか」
「千鶴が生きていたら、さぞかし怒っただろうな」辰巳は声を上げて笑い、「けれどもぼくも、実をいうとそう思ってますよ」
やはり、と静信は頷く。
「どちらのほうが生存に有利かを考えると、それは明らかでしょう。屍鬼というのは人狼のなりそこないです。ぼくたちを生み出した何かは、人狼を作ろうとしている。屍鬼はそれに失敗した結果として生まれる副産物ですよ、たぶんね」
「だが、君は沙子に仕える。なぜだ?」
「個人的な感情の問題ですよ、単に」
静信は辰巳をじっと見つめる。辰巳は軽く苦笑した。
「沙子は、愚かだから」
「――愚か?」
辰巳は頷く。
「屍鬼とは何なんでしょうね。沙子も千鶴も、そして正志郎も、いろいろと理屈を付けるけれども、ぼくには単なる化け物に見える。人でも獣でもない、まあ、存在する言葉に当てはめると、化け物というのが順当なところでしょう。屍鬼は死から甦ったもの、人を狩るもの、人の形をしながら、人の範疇にはいないもののことです。人を襲い、殺して飢えをしのぐ。
それは屍鬼の属性なんです。罪でもなければ、殺戮の権利でもない。それは屍鬼という化け物の性質のひとつにすぎないんです。屍鬼が生きるためには吸血の行為が不可欠だけど、それを行えば人は死ぬ。それは結果にすぎないでしょう。人を殺さずに済ませようと思えば、人は狩人の存在に気づき、反撃に転じる。だから結果を頓着しても始まらないんです。それは一種の摂理であって、誰の罪でも悲劇でもないんだから」
「しかし、沙子は」
「苦しんでいるのは確かです。だから愚かだと言う。あなたも言っていたでしょう。身体は変容しているのに意識が変容してない、それが悲劇だって。そう思うんですよ、ぼくもね。
沙子が苦しいのは、人でないもののくせに、人の正義に拘るからです。正志郎が苦しかったのは、人でしかないくせに人の正義を拒んでいたからです。人には人の摂理があり、屍鬼には屍鬼の摂理がある。人と屍鬼は異類の生き物なんですよ。同じ価値観を共有できず、同じ秩序を共有はできない。それほど隔たった存在なんです」
「散文的だね」
「世界というのは散文的なものだと思いますがね。――屍鬼は屍鬼でしかないんです。腹が空いたら人を狩るんだ。生かしておいては危険だから、襲った以上は殺したほうがいい。人は人です。屍鬼を罵ればいいんだし、怯えればいい。苦しむのは屍鬼という天敵をいただいた人の定めってもんでしょう。
屍鬼でありながら、人であろうとして苦しむ沙子を、ぼくは愚かだと思う。同様に、人でありながら人であることを拒んで苦しむ正志郎を、ぼくは哀れんできたんです。そんなことには頓着しない千鶴は健全なんですよね。――けれども沙子以上に愚かだ」
静信は黙って頷いた。
「人はどこから来てどこへ行くんでしょうね。問われ尽くしたことだけれども」
「さあ……」
「ぼくには明らかだという気がするんですよ。そんなものは決まってる。胎から来たんです。そして土に還る。無に還るんです。真に不思議なのは人という命の由来ではないんです。人という器の中に宿った人格の由来なんですよ。それは、いつから芽生え、いつ終わるんでしょうね。
それは虚空に出現するんです。そして長い落下を開始する。たたひたすら終焉に向かって落ちていくだけ、けれども落下していく一刹那が、彼にとっては全てなんだ。より良く生きるという、心地よく生きるという。けれどもそんなものが何になるんです? ただひたすら落ちていくだけなのに。ビルから落下するときに、落ち方を競って何になるんです。花の色を競うようなもんです。枯れるだけのことなのに」
「良い色の花は、自分のコピーを後世に残すことができる、――普通はそう答えるのだろうね。だから種は繁殖するんだ、と。そういうことじゃないのかい?」
くすり、と辰巳は笑う。
「自我がなければね。自分の子供は自分じゃないです。遺伝子を継承してくれても、自我までは継承してくれないんですよ。人が自我を残そうと思えば、自分自身が永遠に生きながらえるしかないんです。そしてその自我こそが、人の人たる所以でしょう。にもかかわらず自我だけは残すことができないんだ。それは虚空に出現し、落下して消える。ただそれだけのものなんです」
「虚無的だね」
「ぼくは虚無主義者なんです。自我こそが自分を自分として成り立たせているのに、これは落下するだけのもの、滅び去るだけの運命のものです。虚しいからこそ、人はその自我の存続期間に意味を付与しないではいられないんじゃないかな。そうすることで落下の虚しさに耐えようとする。
ぼくはそれを否定するわけじゃないです。それこそが自我を持つ生命の定めだと思うんですよ。だから、そこに囚われて虚無感に喘ぐ沙子や正志郎を、ぼくは肯定する。否定するのは、落下だ落下だと認識してない愚かな連中なんです。どうせ散華するだけの命、咲き方に悩み、散り方に迷うのは悪いことじゃないでしょう。それこそが生きる意味を探すということなのじゃないかな」
「そうかもしれない」
「沙子の執着、正志郎の増悪、人として意味のある生に囚われた彼ら――それは愚かな営みだけど、不快だとは思わない。だからぼくは彼らの生き様を肯定する。だから手を貸すんですよ。実を言えば、ぼくは屍鬼じゃない。屍鬼とも人とも違う種類の生き物なのだけれども」
「君は善人だね」
「皮肉ですか? だったら、もう少し臓腑を抉るような言葉を考えてもらいたいな」辰巳は笑う。「ぼくは虚無主義者なんですよ。それでも昔は、ぼくだって生きることにそれなりの意味を探してた。自分がただ落ちていくだけの存在だと理解してたから。けれどもぼくは死なない。少なくとも自分の意思で、生存期間を引き延ばす余地が残されているんです。そうするとね、生きる意味なんてのは必要ないんですよ。意味を付与する必要なんてない。生きるってことは、時間が過ぎるってことと完全に同義です。それでぼくは徹底した虚無主義者になったんだな。
ぼくにとって沙子はね、滅びの象徴なんです。全てのものは滅びる。意味なんてものは飛散して消失する。けれども沙子がそれに抵抗して足掻くさまは見応えがある。落下していく様子そのものが、見ていて飽きないんです――綺麗だと思う」
言って辰巳は微笑む。
「実をいうと、それだけのことなんです。滝みたいなものかな。水が落ちていくだけのことだけど、あれは見応えがある。水が枯れれば惜しいと思う。末永く残ればいいのにと思う。――そういう感じ」
「驚いたな……それだけ?」
「それだけなんです。でもってぼくには、それだけで充分なんです。というより、それ以上のことはどうでもいい。自分の人生に意義を求める気なんてないですから。
沙子はここに屍鬼の社会を作ろうとした。屍鬼の連中は、ここに屍鬼の王道楽土が築かれるのだと思っていたようだし、沙子にもそういう気があったんでしょう。けれども、ぼくはそもそも、そんなものを信じてない。無理ですよ、あり得ない。生態系のバランスってものがあるでしょう。獲物の数に対して適正な屍鬼の数ってものがあるんです。そしてそれは、どんな肉食動物より少ない。屍鬼の社会なんて築けるはずがない。こんな狭い地域に社会を築けるほどの屍鬼が集まったら、崩壊することなんて目に見えてる。
けれども、そういうことを考えるから沙子は愉しい。それもね、沙子は別に屍鬼の救済のために立ち上がったわけですらないんですよ。単に沙子が寂しいんです。余りに若くて、世の中に見切りをつけられないうちに、親も家庭も社会ももぎ取られてしまった。それでそういうものが恋しくて忘れられないんです。千鶴を仲間に入れて、正志郎を迎えて、まるで家族みたいな顔をして。ここに社会を作ろうとしたのだって、そういうことなんですよ。帰属する社会が欲しかった。人間の続きをやりたかったんでしょう。失ったものを取り戻そうとしたんです。
可愛いじゃないですか。とてもいじらしいと思うな。沙子は純なんですよ。そういうところがね。だから、屍鬼のくせして人を殺す自分に悩む。化け物になって、人を殺さないと生きてられないくせに、人が恋しくて堪らないんですよ。そういう自分を嗤ってしまえないんです。恋しい自分に忠実で、状況に流され、自分を歪めることがない。
人殺しだってね、慣れてしまえばいいんです。あるいは、あくまでも屍鬼になることを拒めばいい。みんなそうしてる。なのに沙子だけはそうなれないんだ。なぜ自分は人を殺さなければならないのか、それは是か非か、そこを問い続けないではいられないんでしょう。目を瞑って、そんなものだと言ってしまえない。沙子の生き方――落ち方は、純粋で歪みがない。同じように足掻いても醜いところがない。だから見応えがするんでしょう」
「だが、ここで死ねば、君はそれを見ていられない」
「そうですね。――そうです。けれども、沙子が失われるよりいいな。そういう気分ですね」
「大した熱愛ぶりだね」
「それじゃあ、嫉妬に聞こえますよ、室井さん」辰巳は笑う。「ぼくはね、かつて、世界を憎んでいた。絶望していたんです。世界を滅ぼしてみたかった。沙子に会ったとき、沙子が救世主に見えたんです。沙子は人の秩序に反する。沙子は人の腐りきった世界を打ち壊すものです。そして反社会的な新秩序作るものだと思っていた。それでぼくは沙子を歓迎したんです。
けれども、ぼくは屍鬼にはならなかった。そして沙子を見ていると、新秩序なんてものも存在し得ないと分かった。沙子が求めているのは屍鬼にとって都合の良い秩序です。それは反秩序なんかじゃない。秩序を自分の居場所に引き寄せようという行為なんです。けれども、これは成功しないことが目に見えてた。沙子の望みを突き詰めると、マジョリティになることなんです。人と屍鬼の力関係が逆転して、屍鬼のほうがマジョリティになり、屍鬼の都合が正義になって世界がそれで整合する。――そうでなければ、沙子が真に望んでいるような世界は来ないんです。
けれども、そんな世界はあり得ない。屍鬼のほうがマジョリティになったら、滅びていくだけですよ。それも餌食を失って飢えて死ぬという極めてお粗末な結果になるだけ。屍鬼というのは圧倒的なマイノリティであることを運命づけられているんです。そうでなければ存続できない」
「そうだね……」
「ぼくは世界が滅びるところを見たかった。秩序に悖る沙子が反秩序の世界を築くのだと思ったけれども、これはあり得ないと分かった。沙子が秩序になれば、人は滅びるし、人が滅びれば屍鬼も滅ぶ。あとには何も残らない。世界の滅亡といえば、これ以上の滅亡はないです。だったらそれでいいか、という気がするんですよ。
実を言うと、ぼくは世界で最後から二番目に死ぬ人間になりたい。本当は最後に残る人間になりたいんですけどね。世界が滅んで完膚無きまでに消滅するところを見届けて死にたい。けれども、沙子はぼくをとても楽しませてくれたから、最後は譲ってやってもいいです。ぼくさえいなくなってしまえば、沙子も死ぬしかないのだけれど、そんなことは知ったことじゃない。最後を譲ってやる程度にはぼくは沙子を大事だと思っているけれども、世界の存続と引き替えにするほど大事なわけじゃないんだ」
「逆じゃないのかい?」
「逆?」
「きみは沙子にただ惹かれているように見えるよ。そして、沙子の望みが畢竟、世界の滅びでしかないから、それを肯定しているように見える」
「ああ……」辰巳は瞬いた。「そうかな。そうかもしれない。沙子の望みを叶えてやりたいけれども、沙子の死は見たくない。そういうことなのかな。……自分でもよく分からないですね」
「そう……」
「それはこれから分かるんじゃないかな」辰巳は言って、窓のほうを見た。「まだ世界は滅びていない。ぼくと沙子以外の連中があんなに残っている。ぼくが死んだ後も、連中は正義や秩序を信奉して、世界を整え続けていくんでしょう。沙子がそれを破壊する日はまだまだ来ない。その状況下で沙子のために死ぬことを、ぼくはどう思うのかな。今際のきわに、やはり悔しいと思うか、それともこれも善しと思うか」
辰巳は言って笑った。
「それで決着がつくんでしょう。たぶん」
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辰巳が白いセダンのドアを開ける。門の前に人が集まり、今にも入ってきそうな歓声が上がっていた。
「ぼくが正志郎の来るまで、正面に出ます。とりあえず坂の下に向かって村道を目指す。注意を引きつけてる間に林道を登ってください。分かれ道を下ってすぐのところに小屋があります。小屋の中は車で通り抜けられます。単なる空洞の門なんです。その裏側が抜け道に続いていますから」
静信は頷く。辰巳は笑う。
「お元気で……というのは、無理があるかな。運が良ければ、いずれどこかで」
言って、辰巳は車に乗り込む。静信もそれに倣い、運転席で身を縮めた。それでもまだ少しの時間がかかった。人の喧噪と歓声が、すぐ間近に雪崩れ込んできて、屋敷のほうに流れていくのが聞こえるまでに、五分以上の時間がかかった。同時にシャッターの開き始める音がし、辰巳が盛大にエンジンを噴かすのにまぎれ、静信もエンジンをかける。
人の声がした。ガレージの中に明かりが流れ込んできて、シャッターが開ききらぬ間にタイヤを軋ませて辰巳の車が出る。シャッターを引っ掻き、裂くような音がした。そして人の怒声と、衝撃音と悲鳴が。静信は目を閉じ、駆けつけた人垣をなぎ倒して走り去っていく白い車を思い浮かべる。またタイヤの軋む音がした。車は坂の下に向かい、人の声もそれに連れて下のほうへと流れていく。
静信は身を起こした。とりあえず前方には人の姿は見えなかった。クラッチを繋ぎ、車を出す。門扉のない門へと突進して、坂の上のほうへと曲がった。曲がった目の前に人がいるのが分かった。かろうじてハンドルを切ったが、接触は避けられなかった。衝撃があったが、それが人なのか、彼らの手にしていた武器なのか、そこまでは分からなかった。唖然としたように振り返る人の中に、敏夫を見たようにも思ったが、これは気のせいかもしれない。自分でも分からない。車を走らせることが無茶だと思えるほどの目眩がしていた。
ミラーで後方を確認する余裕もなかった。視線を動かすと視野が揺れる。とにかく前を睨んでハンドルに縋り付いているしかない。前方から車が現れたが、接触することを覚悟でそのまま突っ切る。相手のほうが、急ハンドルを切って林の中に突っこんでいった。
分岐路まではすぐだった。辰巳に言われた通りに曲がると、すぐ下に小屋が現れたが、同時に上ってくる車も姿を現した。上ってきた車は、進路を阻もうとするように蛇行する。それをかろうじて右にハンドルを切って避けたが、それで小屋を通り過ぎてしまった。リアが接触する音がした。盛大にリアタイヤが流れる。何とか体勢を立て直そうとして、立木にフロントをぶつけた。ハンドルで胸を打った。その痛みよりも衝撃で揺さぶられる目眩のほうがひどい。構わず車を走らせたものの、ほとんど視野が定まらず、何も見えてないも同然だった。
抜け道に入れなかった。何とかミラーを覗き込むと、接触した弾みだろう、上ってきた車が鼻先を立木にめり込ませて道を塞いでいた。足止めにはなるだろうが、しかしこの道には先がない――いや、と静信は思う。この車なら田圃に乗り入れられるだろう。田圃を突っ切って丸安の材木置き場に入ることができるはず。そうすれば門前の道に出られる。
思ったところで道が切れた。勢いに任せて田圃に乗り入れる。悪路に揺さぶられ、目眩で視野は定まらない。丸安の材木置き場に乗り入れたものの、当然の帰結のように何度もあちこちフェンダーをぶつけ、ついに目が霞み、満足に見えなくなった。
これ以上、車は使えない。村道には人も多いだろう。土手から転落するのが落ちだ。とにかくこの目眩が納まるまでの時間が静信には必要だった。沙子をどこかに隠し、夜を待つ。沙子が歩いてくれれば、その手を引いて、自分なら山を越えられるだろう。
ほとんど勘で、材木置き場を抜け、すぐ脇の坂道に車を乗り入れた。寺に向かう私道だ。沙子には辛いだろうが、眠っているのだから嫌がりようもあるまい。私道を登り、鐘楼脇から墓地のほうに乗り入れて止めた。車からトランクを引き出す。人の騒ぐ声は聞こえたけれども、近づいてくる声も車の音も聞こえなかった。
引きずるようにしてトランクを抱え、ふらつきながら本堂に向かう。火事場の何とやらとしか思えない勢いで階段を上がり、本堂に入った。ここだけは盲点になるはずだ。戒壇の裏側に廻り込んだ。背後の扉を開け、戒壇の下に潜り込む。古い位牌を納めておくための棚の間にトランクを隠し、その上に覆い被さるようにして倒れ込んだ。手を伸ばして手探りし、扉を閉めた。
閉めたそこで、意識が途絶えた。
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「くそ!」
大川は坂の上下を見比べて吼える。敏夫はどこか呆然とした顔で坂の上を見ていた。路面には数人が倒れて呻いている。その側に駆け寄るものがあり、付近に停めた車に乗り込む者がいる。次々にエンジンのかかる音が響いた。
「先生、怪我人を」
「あ……」敏夫は瞬く。「ああ、分かった」
「車の連中は坂の下に行け! 絶対に村から出すな!」
「車、見ましたか」
清水が肩で息をしながら駆けつけてきた。
「坂の上に向かった車。運転席に」
「清水さん」敏夫は声をかけたが、間に合わなかった。
「若御院が乗ってた」
大川は、ぽかんと口を開けた。
「そうだ――そもそも、これだけの騒ぎの間、若御院はもちろん寺の連中はどこにいたんだ?」
周囲の人間が呆気にとられたように口を開けた。敏夫は思わず顔を背けた。
「きっと、先に出た車は囮だよ。娘は若御院の車に乗ってたに違いない」
清水は力説する。
「しかし、坂の上は――」
大川が周囲を見渡すと、何人かが頷いた。
「行き止まりだ、林道だから」
「病院の裏手に出られるだろう」
「出られるが、出た先は畦道だ。車ではそれ以上、先に進めない」
「あの車なら田圃に乗り入れられるだろう」
そうか、と数人の声がした。大川は敏夫を見る。
「ここをお願いしてもいいですかね。おれたちは若御院の車を探します」
「ああ……」
敏夫は頷いた。――頷く以外に何ができるというのだろう。静信は村を裏切ったのだ。そして屍鬼の側に寝返った。そんなことならとうに分かっていた。今さら衝撃を受けるようなことではない。
馬鹿だと思う。だが、同時に静信らしい、とも思った。
(結局、あいつは頑固者で……)
いつだって自分に忠実なのだ、静信なりに。
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美和子は玄関のほうから、大勢の人間の呼ぶ声を聞いた。光男と克江と顔を見合わせ、おずおずと玄関に向かう。そっと開けてみると、大川を先頭に十数人の人間が立っていた。
「奥さん、若御院はどちらかね」
大川に居丈高に訊かれて、美和子は首を振った。
「分かりません。戻ってこないんです」
「そりゃァ、通らない。若御院は戻ってきたはずだ。それともあんたたち、隠し立てをするのかい」
美和子は光男を振り返った。
「いえ……でも、本当に」
「本当なんですよ、大川さん」光男が土間に降りてきた。「若御院は土曜から行方がしれないんです。どこかに出かけたか――連れていかれたまま戻ってこないんです。実を言うと、わたしらも心配していたようなわけで」
大川は背後の仲間たちを振り返った。清水は大川の視線を受け、きっぱりと首を横に振る。車が鐘楼の脇に乗り捨ててある。静信は必ず戻ってきたはずだ。
大川は美和子と光男に――その背後に立ち竦んでいる克江に視線を戻した。心なしか狼狽しているように見えるのは、気のせいだろうか。
「捜させてもらっていいかね」
光男は目を剥いた。
「大川さん、そりゃ、どういうことです」
「どうもこうもない。――それとも、あんたたちが匿っているのかい」
「匿うって」
「大川さん、用心しなさいよ」清水が口を挟んだ。「桐敷の亭主だって、昼間にうろうろしてたんだ。真昼に出てきたからって、信用も何もできたもんじゃない」
「なるほどな」
大川に見下ろされて、美和子は背筋が冷えるのを感じた。敵視されているのは確かだ。大川たちが静信を捜しているのも、決して静信にとっては喜ばしい理由によるものではあるまい。
「いったい、何があったんです?」
前に出たのは、清水だった。
「何があった? 奥さんは、あれだけの大騒ぎを知らないんですか? あの間、どこにいたんです? そういえばお見かけしてないような気がするが、知らないなんてことがあるもんなんですかね」
「村で何かあったようなのは知っていましたけれど」美和子は後退った。「けれどもわたしは、息子を待っていて」
「なるほど、高みの見物を決め込んでいたわけですか。寺は村とは別物らしい。下界の騒ぎなど知ったこっちゃないということですか」
「そんな……わたしは」
「それとも、何が起こっているか分かっているから出てこなかったんですか。ここに隠れて、成り行きを窺っていたんですかね」
「あんたね」光男は清水の前に割って入った。「どういうつもりだか知らないが、突然、押しかけてきて何の言いがかりだね。若御院はいない。わたしらだって捜しているんだ。あんたらも若御院を捜してるというなら、さっさと行って、見つかったらわたしらが心配していると伝えてくれんかね」
清水は目を細めた。光男は明らかに美和子を庇っている。そして美和子は怯えていた。しかしながら、なぜ美和子が檀家のものに怯える必要があるのだろう。後ろ暗いところがなければ、怯える必要などないはずだ。そうでなければ光男が自分たちに敵対する理由がない。
「やっぱり戻ってきてるんだな。あんたら、それを匿っているんだろう」
「何のことです」
「若御院を出してくれ」
「ですから――」
言いさした光男を、清水は突き飛ばした。
「あんたじゃ埒が明かん。奥さん、若御院を出してください」
「清水さん、わたしたちは本当に……」
「出せって言ってるんだ!」
「ちょっと」
割り込んだ光男が、清水の肩を突いて、それが清水を激昂させた。清水を支えた大川が、ずいと前に出る。
「どうやら、この連中も仲間のようだな」
清水は頷いたが、美和子にも光男にも、そしてもちろん克江にも何のことだか分からなかった。分かったのは、そこにいる十数の人々が自分たちを敵視しているということだけだった。
「いつの間にか、寺は乗っ取られていたらしい」
「そりゃあ、そうだ」と、大川の真後ろにいた男が怒鳴った。「よく考えりゃ、寺には墓がある。起き上がった連中は、真っ先に寺を襲ったはずだ」
「なるほどな」
大川が前に出て、美和子がさらに退った。委細は分からずとも、大川の破壊的な雰囲気がただ恐ろしかった。克江の腕を取り、固く手を握り合う。光男はそれを見て取り、再び間に割って入る。大川の動きを遮り、美和子らを振り返った。
「奥さん、逃げなさい。母ちゃんもだ」
だが、光男のそういう言動は、大川たちに確信を抱かせた。やはりそうだ。寺はいつの間にか連中の配下にあり、美和子らは連中の仲間になっていたのだ。静信は沙子を抱えてここに逃げ込み、目の前の二人はそれを隠そうとしている。こうして光男が邪魔をしている隙に、美和子と克江が静信を促して逃がすつもりだ、と大川は即断した。
「どけ!」
有無を言わせず、大川は光男を蹴り倒す。美和子らを捕らえようと駆け出すと、二人は悲鳴を上げて庫裡の奥へと逃げ込もうとした。大川の背後にいた連中が、どっと崩れ、庫裡の中に駆け込んだ。行く手を塞がれ、逃げ惑ううちに、美和子と克江の手が離れ、別方向へと遠ざかっていく。後に続こうとした大川の足を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだのは光男だった。もんどり打って転びそうになり、大川は、光男が襲ってきたのだと思った。斟酌なく光男の腕を蹴る。嫌な音がして、光男の肘があり得ない方向に曲がった。
美和子は克江を見失い、背中で光男の悲鳴を聞いた。振り返ったが、玄関はすでに廊下を曲がった向こう、そこで何が起こったのか分からなかった。けれどもあれは尋常の叫びではない。きっと酷いことが起こったに違いないと思うと、すぐ背後まで迫っている足音が怖い。とにかく闇雲にその場を逃げ出した。どこかに隠れ――あるいは、どこからか逃げ出さなくては。
(静信は……)
けれども、息子はどこに行ってしまったのだろう。いったい、何が起こったのか。
良い息子、良い跡取りだった。村はつい先頃まで、何の問題もなく平和に、人の輪によって纏まっていた。人々の慈愛と敬愛によって寺は支えられ、世界には寸分の隙間もなかったのに、いつの間にか何が忍び込んで、何もかもをこんな悪夢に変えてしまったのだろう。
背後から腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれ、悲鳴を上げてそれを振り解いた。泥濘を踏むような気持ちで足を縺れさせながら走り、そして背中に鈍い衝撃を感じた。突き倒されるようにして転がり、美和子は背中に頭痛を感じる。
(何が)何が起こり、そして何が(……いったい、何が)美和子の世界を侵食してしまったのだろう。
這って逃げようとした足に背中に、再度、衝撃が襲ってきた。悲鳴を上げたが、美和子を助け起こしてくれる手はなかった。ひたすらに、前へと這い進もうとした膝が滑った。まるで床の上に水か油でも零れているようだ。こんなに滑るなんて。
目眩を堪えた美和子の首を衝撃が襲った。世界はその瞬間に砕け、崩壊していった。
静信はうとうとと半ば眠り、騒がしい物音を聞いた。唐突に目覚め、そして庫裡のほうから入り乱れる足音と細い女の悲鳴が響くのを聞いた。
(なに……)
驚いて身を起こし、とっさに間近のトランクを庇う。音の所在を庫裡だと見切って、慌てて戒壇を抜け出し、本堂の戸を開けて周囲を窺った。
庫裡のほうで怒声が響いている。大勢の足音、何かを指示し合う声。それは本堂のほうに近づいたかと思うと、静信が板戸の影で息を殺しているうちに庫裡のさらに奥のほうへと移動していった。 静信は本堂を出た。家の中の気配に耳を澄ませながら、庫裡へと渡る。渡ったすぐそこに倒れた美和子を見つけた。
静信は呆然と立ち竦んだ。我に返って美和子の側に駆け寄り、抱き起こしたが、そもそも後頭部が陥没していた。それで息があるはずもなく、実際、助け起こしてみても驚いたように目を見張ったままに光を失った母親の目を覗き込んだだけだった。美和子を襲った迅速で残酷な死。――屍鬼ではない。明らかに人の襲った痕だ。
「……なぜ」
なぜ、美和子が襲われねばならないのか、静信には理解できなかった。理由があるとすれば、静信が沙子を庇った、そのことに対する報復だとしか考えられない。
自分のせいなのか、と愕然とし、同時に心底、絶望した。これが、美和子が信じ、頼りにしてきた世界の正体だ。秩序と、それを信奉する人々が、それらを自明として調和していた世界。この世界は秩序に悖るものの存在を認めず、受容する許容量がない。牙を剥き、排除し、そうすることでかろうじて形を保っている――その程度の脆い世界。
「……お母さん」
済みません、と詫びたかったのか、それとも憐れみたかったのか、静信は自分でも分からなかった。美和子を廊下の片側に横たわらせ、そして庫裡の奥を窺う。さかんにとを開け閉てする音、何かが叩き落とされ破壊される音が響いていた。家探しする音だ。捜しているのはトランクだろう。トランクの中に隠された、秩序の敵。
退路を確認しようと、輿寄せから外を窺い、境内には誰もいないことを確認する。なんとか沙子を、もっと安全な場所に移動させねば。死角になっている玄関先の様子を見ようと玄関に向かい、そこで静信は光男を見つけた。光男の遺体というより、残骸だった。駆け寄るまでもなく、息絶えていると分かる。分からざるを得ない。かろうじて皮一枚で首が繋がっているような状態では。
その有様を見れば、単に報復というよりも、光男と美和子が屍鬼に変じたのだと思われたことは確実だった。克江はどこに行ったのだろう。姿は見えないが、訪れたものは変わりはあるまい。少し落ち着いて確認すれば分かることを、その手間を惜しんだとしか思えない。もはや狩人ではない、単なる暴徒だ。
光男に軽く手を合わせ、静信は本堂へと足音を忍ばせて駆け戻る。戒壇の下に飛び込み、トランクを引き出した。重みは感じなかった。とにかくこれをどこか安全なところへ。切羽詰まって無理な姿勢で担ぎ上げ、本堂から表へと忍び出た。
小さく声が聞こえたのは、本堂の階段を下りたときだった。ガレージの側に一人の男が屈み込み、静信のほうを見ている。男は声を上げ、駆け寄ってきた。静信はトランクを手放し、同様に駆け寄る。仲間を呼ばせてはならない。絶対に。
男は山刀を持っていた。山で下生えを切り払うためのものだ。振りかぶられたそれが唸りを上げて振り下ろされ、とっさにそれを避ける。それが血濡れているのが目に留まった。美和子のものか光男のものか。血はまだ新しい。ぎらりとするような光沢を放っている。
どうして、と叫びたかった。美和子たちは無関係なのに。自分のせいだという負い目と、仲間を呼び寄せてしまうかもしれないという恐れがなかったら、静信は口を極めて男を弾劾したに違いなかった。
男は獣じみた唸り声を上げ、静信に斬りかかってくる。仲間を呼び集めることよりも、静信を何がなんでも打ち倒す、そのことのほうに気が向いているようだった。山刀を奪おうとする静信と揉み合いになった。幾許かの理性を残している静信のほうに分がなかった。
腕をかすられ、膝上をしたたかに叩かれた。山刀をもぎ取ろうとして失敗し、間合いを開けようと飛び退った足が縺れた。三撃目は腹を抉った。思わず静信は膝をついた。狙い澄ましたように首筋に向かってきた凶器を、どうして避けられたのか、静信にも分からなかった。
目標物を失った山刀は本堂の階段を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだ。抜くのに手間取っている男を突き倒し、胸ぐらを掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで石畳に叩きつける。男は呻いて動かなくなった。
死なせたわけではなさそうだった。男は目を閉じて微かに喉の奥で呻いている。静信は男が腰に下げた手拭いに目を留め、ともかくそれを口の中に押し込んだ。それ以上のことをしている余裕はなかった。
山刀を抜き、トランクへと駆け寄る。腹部から暖かいものが溢れて腰を伝い、足のほうにまで流れてくるのが分かった。それでもなおトランクを抱えることができたのは、我ながら驚嘆に値した。境内の端を拾うようにして墓地へと駆け込み、荒れた墓地の中を下る。村にはとても下りることができない。このまま山の中に入るしかなかった。幸い、寺の周囲は入らずの山だ。静信は山を朧気にとはいえ把握しているが、追っ手はそうではあるまい。問題は、静信自身がどこまで保つか、ということだった。
庫裡を家捜しし、清水はそこに誰もいないことを確認せざるを得なかった。
「いたか?」
仲間の声には、いない、と吐き捨てるように答えた。仲間が浮き足立つのが分かった。本当に静信がいなければ、彼らの行動には正義はなく、単なる蛮行になってしまう。
「本堂は――本堂はどうだ」
さっき見た、と言う者には、確かに隅まで捜したのか、と訊いた。相手が自信なさそうなのを見て取り、本堂へと向かう。
途中、絶命した美和子の死体の側を通った。何が何でも静信には寺にいてもらわねばならない。――いや、車があったのだから、確かに寺に逃げ込んだはずだ。
いないぞ、と同様に動揺した声が飛び交った。誰もが静信らの姿がないことに狼狽していた。
「清水さん、いたか」
大川に訊かれ、清水は首を振る。
「そんな馬鹿な」と、大川は怒ったように大股に庫裡へ戻っていく。その後を追い、そして清水はそれに気づいた。
「大川さん」
美和子の遺体だ。廊下の端に、まるで安置するように寄せられている。清水はそれを示した。
「大川さん、あれ。誰かが奥さんを動かしている」
廊下には美和子を動かした血の痕までが残っていた。大川は本堂からやってくる連中を呼び集める。誰か美和子を移動させたか、と訊いた。答える者はいなかった。
「……やっぱりいたんだ」
「誰が」
「若御院だよ。他に誰がこんなことをするんだ。わたしらが庫裡の奥を捜してる間に、どこかから出てきたに違いない」
半ば、安堵する心地で、清水は玄関に駆け出し、境内を見渡した。すぐにそれを発見した。本堂の階段の下に、仲間がひとり倒れている。駆け寄ると意識がない。単に気を失っているようだが、手拭いで猿ぐつわされているところからしても、誰かに襲われたことは確実だった。静信は寺に戻っていたのだ。そして、どこかに消えた。
(寺の下か……いや、それはない)
とても村には下りられなかっただろう。だとしたら、山しかない。しかしながら、一口に山を探すといっても、と独白し、清水は足許に点々と血痕が続いているのを見つけた。
「大川さん、墓地だ。墓地のほうに逃げ込んだんだ」
清水が血痕を示すと、行こう、と大川が仲間を促した。
静信は懸命に山道を進んでいたが、いかにも足場が悪く、しかもトランクを抱えての行程はあまりにも難行事だった。腹から伝わったものは足を濡らし、いまや片方の靴の中で足が滑るのを感じた。泥濘を踏むような音がしている。何度も木立の合間から空を見上げ、そこに夕暮れの気配を探したが、強い風に吹きちぎられたのか、雲ひとつない空は残酷なほど明るかった。
兼正の教会跡に出ることができれば、と静信は足を励ます。教会のどこかに隠れて夕暮れを待つことができるかもしれない。そうでなくても、あそこまで出れば、山入に抜ける小道へと出られる。少なくとも静信は、そのルートを知っていた。山入に出れば、屍鬼たちが使っていた車があるはずだ。山入の林道は村の外に貫通している、辰巳がそう言っていた。
何度もトランクを下ろし、引きずり、抱え上げを繰り返して、やがて静信は背後に人の声を聞いた。とっさに背後を振り返る。また遠い。ほとんど谺のようにしか聞こえない。けれども追ってきていることは確実だった。振り返った目に、点々と残る血痕が見えた。連中はこれを辿ってきている。
冷や汗が浮かんだ。このまま聖堂までは、とても辿り着けない。走ってくる追っ手の方がはるかに速い。
静信は意を決して、トランクを抱えて林の中に踏み込んだ。少なくともそれで、下生えが血痕を隠してくれるはずだ。見通しは利かず、日が暮れるのも早い。もはやそれに縋るしかなかった。
斜面をひとつ、必死の覚悟でトランクを抱え、駆け登った。それで奇蹟は尽きた。とてもこれを抱えて走ることはできなかった。少なくともこれで、道を行く連中の目からは隠れおおせたはずだ。軽くトランクにもたれて息をつき、さらにトランクを引きずるようにして斜面を登る。なんとか、山入へ。
絶え絶えになる呼気を整えて、斜面を登った。追っ手の声は聞こえなくなった。どうやら静信を見失ったらしい。それを確認して、膝から力が抜けた。奈緒も自分を励まして斜面を登っていると、林の中が黄昏れてくるのが分かった。次第に周囲が暗くなる。夕闇が忍び寄ってこようとしている。
上出来だ、と笑い、静信は何気なく腕時計に目をやった。それは単なる習慣のような動作だったが、静信は針を読み取ることができなかった。トランクを下ろし、改めて時計を凝視する。午後三時十二分。――まだ陽が落ちるような時間ではない。
そうか、と静信はトランクを抱えた。沙子が眠るそれを抱え上げる。陽が落ちているのではない、これは夕闇ではない。この薄暮は静信の視野に落ちているのだ。静信に沙子を託し、出ていった辰巳の顔、眠りたくないと怯えた沙子の顔を思い出して、自分を鼓舞しようとしたが、すぐにそれも限界が来た。
トランクが隠れるほどの茂みを見つけ、そこにトランクを押し込むので精一杯だった。ベルトを解き、ロックを外して沙子が出られるようにし、そこから重荷を捨て、斜面に縋って茂みを離れる。少しでも距離を作らなければ。追っ手が自分を発見し、そのすぐ側にトランクが残されているような事態だけは避けたい。
闇雲に足を進めたが、外界より早く静信の上に落日は訪れた。視野は薄暮に覆われて霞み、やがて明かりを失っていった。
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陽が落ちようとしている。大きく傾いた陽射しに、狩人の誰もが焦り始めた。元子もまた例外ではない。
山入。方々の家から屍体が次々に運び出され、小型トラックの上に乗せられていく。そのどこにも巌の姿はなかった。いないはずはない。必ず山入にいるはず。なのに巌は周到に元子から身を隠している。
夜が来る、と思うと元子は歯ぎしりしたい気分がした。巌は満々と逃げおおせたことに|北叟笑《ほくそえ》み、自分を取り逃がした元子を嘲笑うだろう。そうして夫を、娘を、そして息子を自分の手の届かないところに連れていくのだ。
すでに元子には自分がこうして山入に留まっている間に、村で巌が見つかっている可能性、――あるいは、とっくに巌が埋葬されている可能性を念頭に思い浮かべることができなかった。山入にいるに違いないと、頑に思いこんでいる。夫や志保梨が甦生したことを頭から信じて疑わず、いつの間にかそこには茂樹までもが含まれていた。もとより、元子は茂樹が甦生しなかったこと、自分があれほど抱き締めていたにもかかわらず、腐敗していったことを覚えている。茂樹は甦らなかった、元子の側では。――それはきっと、茂樹が山入で甦生したからに違いない、と元子はすでにそう信じていた。
夫と子供たちが巌と一緒に山入にいる。それは元子にとって疑う必要のない確信だった。そうでありながら、元子はこうして山入が暴かれている間に、夫や子供また杭を打たれ、屍体に変じているかもしれないという可能性は念頭に浮かびもしないのだった。巌が隠している。そしてこのまま見つからなければ、巌が連れていってしまう。元子の手の届かないところで、元子抜きで、元子の失った子供たちのいる家庭を維持していくのだ。
(許さないわ。……絶対にそんなことさせない)
トラックに屍体を積み込みながら、元子は声を上げた。元子の中で、巌はこの中にいない、という確信が育っていた。積み込まれる屍体を検めても無駄だ。この中に巌はいない。巌はまだ生きている。
元子はトラックの側を離れた。狩人が押し込んだ家のひとつに飛び込む。一緒になって辺りのものを動かし、打ち払い、潜んでいる屍鬼を探した。
駄目だ、と元子の間近で声がした。
「外に出よう」
元子はその男に喰ってかかった。
「まだ全部の敵を捕まえてないわ!」
「分かってるさ」と、男は渋面を作った。「だが、もう陽が落ちるんだ」
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九章
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風が強くなった。空は見事な血色に染まり、村はその瘴気に触れて錆び付いている。忌まわしい呪いのように、あらゆるものには陰影がまとわりつき、世界は前途のない予兆に翳っている。
沙子が目覚めたとき、世界はそのように崩壊の寸前にあった。トランクの中から這い出し、影色の梢の間から仰ぎ見た空の色に沙子は一瞬、呆けた。
――とりあえず、目覚めた。危険な半日が過ぎ去ったのだ。沙子は再び自分を手にした。意思と感情と感覚と、そして意のままになる五体を。
沙子はそれが自分にとって、喜ぶべきことなのか、それとも嘆くべきことなのか分からなかった。とりあえず意識を喪失している間の半日をやり過ごすことはできたけれども、これからの半日で、目覚めなければ良かったと思うことになるのかもしれない。
沙子は茂みを這い出した。付近には誰の姿もない。静信はどこへ行ったのだろう。なぜ自分はこんな山の中にいるのだろう。
「室井さん……?」
沙子の声は風に攫われた。そうやって呼び、姿を探している自分を、沙子は浅ましいと思う。沙子は静信を襲った。ひょっとしたら、すでに静信は死んでいるのかもしれなかった。だとしたら殺したのは沙子だ。そもそも頼ることのできる義理でもない。にもかかわらず静信の姿のないことが、沙子には心細くてならなかった。
「室井さん……」
沙子は再度、呼び、周囲を探した。斜面の上のほうから血の臭いが漂ってきていた。それに引かれて、沙子は斜面を登る。それでもずいぶんと捜しまわって、下草の間に倒れた姿をようやく見つけた。
「室井さん!」
沙子は駆け寄る。俯せた肩を揺すったが、静信は動かなかった。斜面の起伏を利用してかろうじて仰向かせると、腹部が血みどろになっているのが見えた。草も土も血を吸って黒々とした艶を帯びている。
沙子は息を呑み、傷に触れた。衣服は血を吸ってずっしりと重く、触れれば指圧で粘度を伴った液体が指を伝った。
「室井さん……ねえ」
沙子は静信の身体を揺する。まだ温かい。とても暖かい。微かに息をしているように見える。いや、確かに息をしている。触れれば脈も感じる。まだ死んでいない。
「よかった……」
沙子は誰かに感謝したが、だが、いくら揺すっても、静信の返答はなかった。目を開けることも、声を上げることもない。昏倒している。そしてこの傷からして、たぶん静信は助からない。すぐさま病院に運べばともかく、この状況で沙子にそれができるはずもなかった。
「だめ……だめよ、室井さん」
沙子は傷口を探り、両手で押さえた。もしもこの傷のせいで静信が死ねば、静信は甦らない。完全に死んでしまう。
「お願い、死なないで」
わたしを残して逝かないで、と沙子は自分の声を聞く。どこまでも沙子は欲深い。静信を喪失することはもちろん、何よりも自分がひとり残されることが恐ろしかった。
「室井さん、お願い!」
起きて、目を開けて。――必至で傷を探る沙子の耳に、微かな怒鳴り声が聞こえた。風に乗って、それは斜面の上から吹き下ろしてくる。ごく間近にいるのかと思われるほど、明瞭だった。
声がしたぞ。
声。
女の子の声だ。
やつだ。近くにいる。
沙子は身を竦めた。とっさに周囲を見たが、身を守る武器になりそうなものはない。どっちだ、と沙子を捜している声がする。山の下のほうだ、とそれは確実に沙子の所在を捕らえていた。
沙子は斜面と静信を見比べ、腰を浮かせた。静信を傷つけたのはあの連中だろうか。だとしたら、静信を病院に運び込むなんてことを連中はしないだろう。
(誰か……運んでくれそうな人)
この場を逃げ出し、誰かを呼び、そして急を伝えなければ、と沙子は思い、そんな自分を嗤った。できるはずがない。電話を切ったのは沙子自身だ。外部とは繋がらない。山を抱え下ろし、車に乗せ、近隣の街まで。それだけの時間、静信が持ち堪えられるとは思えなかった。
一人になってしまった。罪を背負ったまま。狩人が沙子を裁くためにやってくる。
斜面の上に、狩人の姿が見えた。沙子には見えたが、人間には沙子の姿は見えないだろう。沙子は逡巡し、そして結局、その場を立って幹伝いに斜面を下り始めた。斜面を下りてくる連中は、手に杭を持っている。あの恐ろしい凶器。なによりも、その凶器から逃げないでいられなかった。
まだ命が惜しいのか、と沙子の内側で声がする。死にかけている恩人を見捨ててまで逃げるのか。なぜそこまで惜しむ必要がある。――けれども、死にたくない、自分を喪失したくないという衝動に逆らうことはできなかった。傷つけられたくない、壊されたくない。どんな形であれ、「生」あるものの、それは根源的な本能だ。
沙子は斜面を下る。草叢を掻き分ける音は、風の音が消してくれるだろうと祈るしかなかった。
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山入は夜の中に沈んでいた。ハンドライトの光がその闇を切り取っていたが、それは広大な闇に対して、あまりにも心許なかった。人々は最も集落の下にある建物と、最も抜け道に近い建物に立て籠もっていた。建物の周囲には篝火を焚き、できるだけ密集して四方を見渡せる場所集まっている。
そこから住人ばかりが、ぱったりと肩と肩を寄せて出ていく。この異常な状態をいつまでも引っ張れない。早晩、外部の人間が村の異常に気づくだろう。これだけの屍体があれば、外部の人間を恐れなければならないのは、むしろ人間のほうだった。大量の屍体がある。それも惨殺された呈だ。何としても屍鬼の首領を挙げ、せめても大多数を駆除したことを確認して、一刻も早く村を常態に戻さねばならなかった。それを思うと、陽が落ちたからといって、続きは翌日に、と先送りにするわけにはいかなかった。そもそも村人の疲労と緊張も極に達している。誰もがもう、この悪夢のような惨殺戦を終わりにしたかった。
かといって駆除し尽くしてもいないのに、終わりにはできない。一匹でも屍鬼が残れば、それを起点としてまた汚染が始まる。嘘でもいい、狩り尽くしたという確証が彼らには必要だったし、そのためには少なくとも、首領である少女だけは何としても狩り出さねばならなかった。
闇に怯えながら、十人を越える者たちがぴったりと肩を寄せ合いながら安全地帯を出ていく。そして一時間かそこらして戻ってくる。屍体を一体、下げてくることもあったが、手ぶらのことのほうが圧倒的に多かった。
「こんなに暗くちゃあ」困憊したふうの男が、がっくりと土間に腰を下ろした。「探すどころか、足許も満足に見えやしねえ。ところが連中は夜目が利くときてる。おれたちが連中を探して右往左往している脇をついてきてたって分かりゃしねえ」
「だが、本当にいねえ。ひょっとしたら、もう山入にはいないってことなんじゃないのかい。御覧の通り、建物は全部潜みようもないようにしている。たとえ山の中に隠れていても、陽が上がれば勝手に死ぬんじゃないのか」
同意する声が多いのは、疲労で気力も体力も限界に来ている証拠だった。誰もが無言で、誰かがもう終わりにしようと言い出すのを待っている。
元子にはそんな、その場の空気を肌で感じ取ることができた。早晩、捜索は打ち切りになる。まだ巌が見つかっていないのに。
山入にいるはずだ、と元子は山に囲まれた窪地のような集落を見た。風が強く、篝火が小さい。これ以上、大きな火を焚くことができないのだ。
全ての建物を完全に捜索したとは言えない。床下、天井裏、あらゆるところが遮光されて区切られている。中には一見して戸口の見当たらない空間もあり、てっきり遮光のためだけに塞いであるのかと思えば、意外なところに出入り口があって屍鬼が潜んでいたりする。収容しきれないほど増えた屍鬼が、何とかして安全なねぐらを確保しようとした結果だ。
こうして人が見張っている。屍鬼は山入を出られていない。建物を出て山に逃げ込んだ可能性もあるが、たとえ山に逃げ込んでも、朝には建物の中に戻らねばなるまい。――絶対にどこかにいるはずだ。息を潜め、狩人が諦めるのを待っている。
人々の間には倦怠感が漂っていた。口数も少なく、だんだんグループを作って人が出ていく頻度も間遠になる。元子はそっと、その人の輪を離れた。
自分一人で建物の中に入っていき、巌を捜せるものではない。もしもそんなことをすれば、巌は喜々として元子を襲うだろう。襲って殺す。嗤いながら子供たちを連れて逃げる。
「そんなことは、させないわ……」
巌だけは逃がさない。元子は夜空を仰いだ。風の通り抜ける音が谺している。その気流が見えないのが不思議なほどだった。
この風、そして空気も山も何もかもが乾ききっている。ここで山入に火がつけば、建物とともに巌も燃え尽きてしまうのに違いない。山に火が入る、と村人は言うが、山が燃えたからそれがどうだというのだ。どうせもう、林業で喰っている者などたかがしれている。山に火が入って逃げ込んだ敵が焼き殺されれば、山を灰にする値打ちはあろうというものだ。
元子にももう、巌が果たして建物の中にいるのか、山の中にいるのか分からなかった。どこか、村にいるのだ。子供たちがどこにいるのかも分からなかった。分かっているのは、ここで敵を滅ぼさなければ、子供たちは永遠に連れ去られ、それは巌のせいであり、巌は元子を嘲笑い、勝ち誇るだろうということだった。
元子は風向きを見て、懐から拾った小瓶とライターを出した。小瓶には松明を作るのに使ったガソリンをくすねたものが入っており、ライターもまた誰かが目を離した隙に失敬してきたものだった。元子はそれを昼間のうちにポケットに忍ばせていた。すると、もうその時点から無意識のうちに、山入に火を放つことを考えていたのかもしれない。元子にはもう、どうでもいいことだった。単に必要な物を自分が持っていることを知っているというそれだけのことだ。
元子は最も風上の建物に向かった。身を低くし、物陰を伝い、そして建物の吹きさらしの縁側に枯れ草と木っ端を積み上げた。カーディガンを脱いでガソリンを吸わせ、木っ端の間に埋め、残りを間近の襖にかけた。そしてそこに火を点けた。
一瞬のうちに炎は襖を駆け上がり、元子の作った焚き火を燃え上がらせた。古い建物は乾ききって、あっさりと炎の蹂躙を受け入れた。
――これでもう、巌は好き勝手にできない。
元子は微笑む。巌は傲慢の罪によって滅び、二度と元子を虐げることができない。
元子は「巌」と呼んでいるそれが、いつの間にか運命とも神とも呼び習わされるものにすり替わっていることに気づいていなかった。――そしてそのまま、永遠に気づくことはなかった。
すでに火は、廃屋の廊下を火床に変えていた。その明かりを受け、元子の背後に忍び寄ってくる人影が揺れた。
村迫宗貴らは、突然、集落の一郭で点った明かりを見て腰を浮かした。
街灯のない夜は暗く、ゆえにいっそう、その明かりは強かった。もっとも風上にある家の一郭。
「なんだ……?」
口々に言う男たちを促して、宗貴は行ってみよう、と足を踏み出した。
「まさか……火事じゃないだろうな」
「まさか」
宗貴は言ったが、自然、足は速くなった。小道をひとつ登ったところで、それが本当に炎の明かりであることを知ってぞっと総毛立つのを感じた。
そんな、と宗貴は夜空を見上げる。紺青の闇を背に、山は黒い。その稜線は蠢いている。強い風に吹き煽られて山を覆った樅の梢が揺れているのだ。この乾燥、この風で火災になったら、おおごとになる。
背後に向かって声をかけた。
「おい、できるだけ来てくれ!」
大声を上げながら、周囲の数人と共に走る。駆けつけた家の裏手では火の手が上がっていた。炎は縁側を火の海に変え、襖や障子を駆け上がって、軒下を舐めるように屋根に向かって噴き上げている。その明かりを背景に、ふたつの黒い影があった。
「誰だ!」
一方が振り返った。その腕から、ずるりと女の身体が滑り落ちた。振り向いた顔を赤々と炎が照らす。速見だ、と即座に分かった。速見は鉈のような刃物を持っており、それが炎に照らされ、滑ったように煌めいた。女はその場に手足を投げ出し、こそとも動かない。
「……まさか、手前が火を」
誰かの罵声に、速見は首を振った。怯えたように火と宗貴らを見比べた。と、唐突に駆け出す。逃がすな、と宗貴は叫んで走り出した。追いついたのは丸安製材の安森和也だった。和也は速見に飛びかかり、引き倒す。そこに追いついた人々が殺到した。誰ともなく凶器を振り上げた。なんてことしやがる、と罵声が溢れた。それを掻き消すような悲鳴が、長く尾を引いて上がった。
宗貴はそれを見て取って、女に駆け寄る。首の付け根から胸元にかけて、深い傷が見えた。虚ろに開いた目で、すでに絶息しているのが分かる。可哀想に、と思い、なぜこんなところに一人で、と思った。思った瞬間、女の身体からガソリンの臭いを嗅いだようにも思ったが、これは確かとは言えなかった。
そうしている間にも、炎は廃屋を舐め、錆びたトタン板で覆われた藁葺きの屋根を駆け昇り始めていた。
「おい――人を集めるんだ! えらいことになるぞ」
宗貴の声に、男たちが声を張り上げる。駆けつけた者たちが近くの水道に取り付き、水を得ようとしたが肝心の水が出なかった。
「断水か?」
宗貴は声を上げた。
「だめだ――山入には上水道がない」
そう、ないのだ。山入の住人はわずかに三人、老人たちの住んでいた二軒の家は、井戸水に頼っていた。地下水を汲み上げているのは電動ポンプだ。停電したままでは水を汲み上げることができない。
「どっかに」と宗貴は叫ぶ。「釣瓶の残ってる井戸はないか! 誰か、手動のポンプが残ってる家をどこかで見なかったか」
声を張り上げてみたが、誰もが顔を見合わせた。とにかく谷川から水を汲んでくる、ポンプか釣瓶を探してみる、と声だけを残し、方々に村の者が散っていったが、そうしている間にも火は屋根を覆って火柱を夜空に上げ始めた。強い風に煽られ、火の粉が舞う。藁葺きの屋根は燃える端から崩れて火種を撒き散らし始めた。
「消防車」と、金切り声を上げ、女が一人、間近に飛んできた火の粉を踏み消す。その側にまた火のついた藁しべが降る。
電話は繋がらない。無線も繋がらない。電気は来てない。こなうるともう、手も足も出ない。消防団の車庫にはポンプ車が一台眠っているが、肝心の道は土砂で塞がったまま、土砂の山にせよ抜け道にせよ、ポンプ車が越えてこれるものかどうか心許なく、なによりも急を知らせることすらできないようでは、とうてい間に合うまい。
見ている間に、すぐ風下の家の屋根に火がついた。ここも昔ながらの藁葺き屋根だった。庭木にかかった火の粉が枝に留まり、枯れた葉を焦がし始める。
「駄目だ……」と、宗貴は呟いた。「おい! 水はいい。それより残った死体を家の中に放り込もう」
でも、と声を上げた者に、宗貴は怒鳴る。
「急げ! 運び下ろしてる間も、穴を掘って埋める間もないんだ」
宗貴は炎上する建物を見上げた。
「こうなったらもう、この火が何とかしてくれることを祈るしかないよ」
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恵は物陰へと身を潜め、大塚製材の材木置き場まで辿り着いていた。
恵が目を覚ますと、山入は無惨な有様になっていた。かろうじて逃げ出したが、逃げ出せ恵は運が良かった。眠っている間に寝場所を暴かれていたら――。
何とか山を抜け、村を縦断してここまで来たものの、村道は塞がれ、農道も塞がれている。けれども村には道なんていくらでもあるのだ。下外場の畦道を辿れば、国道に出ることができる。
そう――国道に出るのだ。
村を出るのだ。もう恵を村に縛り付ける者はない。佳枝もいない、おそらく桐敷家の者たちも。飼い主がいないのだ。自由になっていいはず。
あの国道を南に下り、人の多い町に逃げ込む。そしてどうにかして、もっと人の多い不夜城のような都市に向かうのだ。雑踏は恵を隠してくれる。夜のない町では居場所にも獲物にも困るまい。
(どうやって……?)
実際にどうやって生き延びるのか、恵には具体的なイメージは何ひとつなかった。これまでだって家を出ようと思うことがあった。けれどもこのイメージのなさが、恵を村に縛り付けてきたのだ。具体的なイメージがない。だから怖くて実行に移せなかった。今も寄る辺を失うことを思うと、怖くて不安でたまらなかったが、村に残っていても殺されるだけだ。
(……死にたくない)
何の楽しみもないまま。村に閉じ籠められたままで終わりたくない。この世のどこかに――それはたぶん都会のどこかだ――人生を謳歌している同じ年頃の少女がいる。あらゆる楽しみを享受し、華やかに暮らしている者たちが。こんな惨めな暮らししかしないまま、何ひとつ華やかなことも楽しいこともないままで終わってしまいたくなかった。やりたいことがある、望みがある。恵にはまだ可能性があるはずだ。それを全部、あんな恐ろしい凶器で断ち切られてしまうなんて我慢できない。
村を出るのだ。もっと早くにそうすればよかった。後先を考えない無謀な少女たちが都会に吸い寄せられ転落していくのを、恵は軽蔑をもって眺めていた。その踏ん切りが妬ましく、同時にあまりにも分かり切った凋落を蔑んでいた。だが、そのほうがどんなにましだっただろう。もっと早く、夏が来る前に逃げ出してしまえばよかった。こんな後悔は一度で充分だから、今度こそ恵は村を出て行くのだ。
周囲の様子を窺った。畦道には誰の姿もない。国道には畦道を見張るように何人かの人影が立っていたけれども、数は決して多くない。視野を掠め、国道を渡り、畦道に下りることができれば、夜陰に紛れて南へ下っていける。
恵は身を低くして、そろそろと国道のほうへ近づいた。なんとか国道を渡るのだ。向こう側の暗がりに飛び込んでしまえば、あとは歩くだけ。高架を越えるほど離れれば国道沿いに歩いていけるし、そうすれば運が良ければヒッチハイクもできるだろう。車の中に乗り込んでしまえば、どうにでもなる。上手く襲ってしまえば、都会に連れていってもらうことができる。しばらくはそいつで食い緊げるのだし、そいつの懐にあるもので当面をしのぐこともできるはずだ。
見逃して、と恵は祈る。沙子のように大それたこと何てしようとは思わない。ひっそりと都会の夜に紛れ、喰うために最低限の命を狩るだけだ。屍鬼がひとり、都会に紛れ込んだからといって、何だというのだろう? 事故で、暴力沙汰で、命なんて簡単に欠けていくのだ。自分ひとりの取り分ぐらい、見逃されてもいいはずだ。
(だから……お願い)
恵は左右を見渡し、思い切って畦道を飛び出した。前に進むことだけを考えて、一息に国道を駆け抜ける。田圃の中に飛び下りたとき、「誰かいたぞ」という声が聞こえた。もう遅い。恵は夜の中に飛び込むことができた。夜目の利かない人間なんか怖くない。
思った瞬間、眩しい明かりが射した。恵の前に黒々と長い影ができた。振り返るとヘッドライトが、正確に恵を狙っている。
「あそこだ!」
恵は悲鳴を上げた。田圃の中を遮二無二駆ける。車では追ってこられないはずだ、そう思う恵をエンジン音が追ってくる。たまらず振り返ると、オフロードのバイクが一台、田圃に下りてきたところだった。
恵は絶望的な悲鳴を上げた。どこか――身を隠せるところ。安全な場所。
走りながら周囲を見渡しても、そんな場所はどこにもない。収穫の終わった田が、あるいは放置されたまま稲の倒れた田が広がっている。
足が縺れた。エンジン音が迫ってきて、追い越しざま髪を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まれた。恵は宙に放り投げられるようにして、畦道に叩きつけられ、排水路の中に転がり落ちた。
慌てて身を起こそうとしたが、狭い排水路の中、身動きもままならない。かろうじて身体を捻り、身を起こそうとした胸元に切っ先が突きつけられた。恵はその感触で身体が凍り付いた気がした。
(これ……)
懐中電灯の明かりが恵の顔を照らす。
――恵ちゃんじゃないか。
無事だったのかい、と言ったのは田中だっただろうか。そう言ってくれればいいのに。
「……見たことがあるぞ」
――この子は知り合いだ、大丈夫だ。
そうしてこの胸を突いた切っ先がどけられる。助け起こされ、大丈夫か、と労られる。
「まだ娘じゃないのか」
「敵か? 味方か? どっちだ」
(敵じゃない……)
「逃げたんだから、化け物の仲間だろう」
ちがう、と恵は叫びたかった。なのに声が出なかった。歯の根が合わないほど震えている。この切っ先をどけてほしい。――こんなものを刺すなんて、そんな酷いことをしないで。
「即断するんじゃない」
その声に、恵は救われた気がした。男が排水路に屈み込んできた。松尾誠二だった。誠二は大きな手を差し伸べる。恵はそれに掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]まろうとしたが、誠二はその手を避けるようにして恵の首を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。そして懐中電灯で恵の顔を改めて照らす。
「……清水の恵ちゃんだね」
恵は泣きながら頷いた。――そうです、恵です。小さい頃からよく知っているでしょ。お宅の小母さんも、子供もよく知ってる。あの恵です、だから酷いことはしないで。
誠二は首を振った。
「屍鬼だ」
ちがう、と恵は叫んだ。酷いわ、なんでそんな嘘を言うの。あたしが何をしたの、どうして、こんな。叫んだのか、それとも叫んだつもりになっただけなのかは、恵にも分からない。
ぐっと鈍い痛みを伴い、杭の先が押し当てられた。あまりの痛みに恵は咳き込みそうになる。ヒッと風鳴りのような音を立てて吸い込まれた息はしかし、咳き込むまでもなく杭にハンマーが打ち下ろされる衝撃で押し出された。骨を軋ませる衝撃、胸骨が砕けた痛み、何かが、恵の身体を裂いてめり込んでくる。
(……うそ)
恵は口を開けた。悲鳴よりも先に、大量の血が逆流してきて溢れた。痛い、と思ったのが意味のある思考の最後だった。恵の意識は弾け飛んだ。ただ杭のめり込む衝撃だけが近くされていた。ハンマーが打ち下ろされるごとに杭は揺れて軋み、恵の骨を砕いて肉を裂いた。血が溢れて排水路に流れ込んだ。恵の身体が完全に停止し、意識が完全に絶えるまでには、十分よりも長い時間がかかった。
誠二は排水路の中で死んだ身体を見下ろした。
「大丈夫だったのかね。本人は違うと言ってたが」
誰かの声に、誠二は首を振った。
「違うも何も。こりゃあ清水の娘だよ。おれが葬式の采配をしたんだ」
そうか、と複雑そうな声がする。
「脈もなかった。間違えようなんかないさ」
だが、後味は悪い。知り合いで、しかもまだこんなに若い。死体が無惨なだけに虚無感と倦怠感を誘った。こんなことがいつまで続くのだろう。ここまでして守らなければならないものがあるのだろうか。
「おい……」
誠二は側にいた誰かに肘の先で小突かれた。振り返ると|矍鑠《かくしゃく》とした老人が一人、北の山を見上げている。
「どうした?」
「なんか、北山のほうが明るくねえか?」
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沙子は斜面を上がり下りして、完全に自分が山の中のどこにいるのか見失ってしまっていた。
――たかだかこれだけの山なのに。
常に北山を見ていれば大丈夫だろうと思った。それが甘かったことを、沙子は痛感しないわけにはいかなかった。斜面を上へ上へと登れば少なくとも山の稜線に出るはずだと思ったが、それですらおぼつかなかった。
それでもとにかく小走りに山を抜け、狩人を引き離したはずだった。なのに沙子は前方に狩人の姿を見つけて立ち竦む。狩人は斜面の上を振り仰ぎ、そして確実に沙子の姿を捉えた。
「――いたぞ」
清水といったと思う。恵の父親だ。肉親を奪われた増悪は深いだろう。沙子に怯えるとは思えなかった。
「いたぞ、こっちだ!」
清水は叫んだ。その瞬間、怒りで清水の顔が膨れ上がったように見えた。沙子は怒気から逃れるように進路を変える。夜目が利くことがせめてもの救いだ。下草を強引に掻き分け、幹から幹へと縋りながら、ひたすらに斜面を駆ける。息が荒い。呼吸する必要などないのに、喉元に喘ぎが蟠るのを、沙子は本当に不思議だと思う。これは身体が覚えている反射の名残なのだろうか。それとも、それなりの理由があってのことだろうか。
背後から、そして下から呼び交わす狩人の声が聞こえていた。彼らは沙子の所在を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んでいる。明らかに追ってきている。距離は近づいていないが、行方をくらましてしまえるほど離れてもいない。
沙子は声から逃れてまた斜面を登った。疲れない足、ある程度以上に弾むことはない呼気。狩人の疲労を誘い、追跡のスピードが緩むのを待つしかない。静信を――最後の庇護者を置き去りにして、沙子は斜面を駆け登る。本当に――なんて、浅ましい。
声が離れた。代わりに増えたように感じる。狩人が集まっている。包囲網を狭めて追ってきている。
ここはどこだろう。具体的な位置は分からないが、頂上まで出れば、その向こうは山入のはずだ。山入に行けばまだ仲間が残っているかもしれない。抜け道もあるし、少なくとも村から遠ざかることができるはず。
ひたすらに斜面を登って、稜線に出た。傾斜は下りに傾き、梢の間から窺い見える視野は広くなった。それに励まされながら斜面を下り、そして沙子は異臭を嗅いだ。
前方が微かに明るい。梢の間から見える山入は霧のようなものの中に沈んでいた。狭い谷間の底はガスに――いや、煙に満たされている。
まさか、と沙子は思わず足を止めた。吹き上げてくる風には焦げ臭い臭いが混じり、潮騒のような風音に混じって、別種の異音が響いていた。煙に満たされた谷間には、赤い明かりが滲んでいる。それが揺らぎ、時おり強くなり、煙に霞んでまた暗くなる。
「……火……」
馬鹿な、と思う。この風、この乾燥の中で火を使った者がいるのだ。狩人だろうか。それが山入に火を放ったのだろうか。そんなことをしたら。
呆然とした沙子の背後で、男の怒声が響いた。
「いたぞ! すぐ下だ!」
沙子は背後を振り返る。斜面の上に狩人の姿が見えた。何とか迂回路を探さなくては。沙子は身を屈め、煙の中に下りていった。
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明かりが、と敏夫に言ったのは結城だった。
「なんだか北のほうが明るくありませんか」
言われて見上げる。確かに北山の向こうが禍々しいほど明るかった。
「なんだ……あれは」
敏夫は境内を出る。一之橋の袂まで辿り着いたとき、盛大なエンジン音をさせて、山入のほうから車の群が戻ってきた。
敏夫、と村迫宗貴が車を降りる。
「タカさん、あれは」
「山入だ」
「――消火を」
言いかけた敏夫を宗貴が止めた。
「消火ができないんだ。水がない。第一、もう間に合わない。山入は諦めるしかない。すごい勢いで火の粉が飛んで、建物の半数以上が燃え始めてる。北山の斜面にも火が入った」
敏夫は呻いた。
「消防車が来るぞ」
「山入の屍体は火の中に投げ込んできた。すでに車に積んであった分だけは運んできたけど」
「とにかくそれだけでも境内に」
宗貴は頷いて、後ろの小型トラックに合図し、敏夫を振り返った。
「あの娘は?」
「まだだ。屋敷に隠れていたが逃がした」
敏夫はそれだけを言った。逃がした二台の車のうちの一台に、幼なじみの姿を見たことは口にしなかった。
「娘のほうは大川さんたちが捜してる」
「使用人は」
「分からない。車で飛び出してきて、村中を逃げ回ったあげく、三之橋から川に落ちた。車は中州の岩に当たって大破した。そのまま水の中だ。引きあげて運転手の姿を確認している余力がない」
「そう……」
とにくか、と敏夫は顔を上げた。
「外部連中がやってくる。何としても、それまでにこの屍体の山をなんとかしなきゃならん」
「住民の避難は」
「そんなことを言ってる場合か。とにかく屍体の処理が最優先だ。貴重品を運び出すのは構わないが、車で避難しようとする連中を村から出すな。道を塞ぐんだ。――松尾さんはいるかい」
「そんな。おい、敏夫」
責めるように宗貴が敏夫の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。敏夫はそれを振り解く。
「タカさんの言いそうなことぐらい分かる。女子供だけでも先に村を出せと言うんだろう。山に火が入ったのなら、下手をすると村にも飛び火する。避難させたいだろうが、そういうわけにはいかないんだ」
「どうして」
「車が足りないんだ!」
宗貴ははっと息を詰めた。
「連中が、かなりの数の車に穴を開けた。一軒に一台の車が行き渡るかどうか分からないんだ。しかも屍鬼を運んで始末するのにも車はいる。人手だっているんだ。屍体を始末して、火が北山を越えてくるのを何とか止めなければ、これほどの犠牲を払って守ったことの意味がない。――違うか」
「あ……ああ」
「人手は残しておいてもらいたい。女手だろうと今は必要なんだ。しかも女子供を避難させるのに、使える車を持っていかれてしまうと、屍体の処理をする車両にも困る。あげくに、村に火が及んだときに、踏み留まった者が逃げ出す手段がなくなってしまう」
宗貴は黙り込んだ。
「外の連中にあの屍体の山を見られたら、おれたちは終わりなんだ。しにかく、あれを始末することが最優先だ。怪我人と子供たちに貴重品だけ入れた荷物を持たせて、国道の周辺に待機させろ。世話をするものを残して、残りは全部、境内に集めてくれ」
その境内のほうから、松尾誠二が駆けつけてきた。誠二は北山を見上げ、顔色を失くす。敏夫は同じ指示を繰り返した。誠二は頷く。
「ドライブインに集めます。年寄りを世話係に残しましょう。手前だけ逃げ出そうとする奴がいたら、車から引きずり出してキーを取り上げます」
「それがいい。本格的に避難するとなったら、分乗しなけりゃならんから」
「ええ。――とにかく、村を駆けまわって、路上に屍体が残っていないか確かめないと」
「路上の血痕もなんとかしなきゃならん」
誠二は頷く。
「あと、押し込んだ跡もです。消防車が入ってきたとき人目につきそうな場所の家が、あまり極端に破損しているようなら、あまり怪しまれない程度にしておかないと」
「どのくらい猶予があると思う」
「分かりません。でも、今は夜だから煙は見えない可能性が高いです。北山が影になって、あの明かりもまだはっきりとは見えないかも。――ただ、北山のこちら側が燃え始めたら隠しようがないです」
「時間がない」
「急ぎますよ」
宗貴は物言いたげに敏夫を見る。
「……他に方法があるか?」
「いや……確かに、ない……」
でも、と間近の男が声を上げた。
「あの娘はどうするんです。あいつが元凶なんですよ」
敏夫は渋面を作った。
「大川さんらに期待するしかない。今からわざわざ人手は割けない」
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煙に咳き込みながら、沙子は何とか斜面を下ろうとしたが無理だった。いぶされて喉が痛む。耐えかねて斜面に沿い、迂回路を探した。
そこだ、と声がしたのは、その最中だった。見上げると、薄煙の向こうに厳つい男の姿が見えた。息も絶え絶えに、待ってくれ、どこだ、と呼び交わす声がする。沙子はほとんど追ってから逃げられていない。
「逃げ場はねえぞ」
男は恫喝した。沙子は身を翻し、斜面を下る。すぐに煙が押し寄せ、さすがの沙子も視界が定かでなくなった。喉が詰まる。この感触は久しぶりだ。
慌てて斜面を横ばいに走る。沙子にももう、自分がどこに向かっているのか分からなかった。ただひたすら、男から――男が手にしているであろう凶器から逃げる。逃げないではいられない自分を、醜いと思う。
これは報いだ。殺戮に対する罰。なのに必死で枯れた草叢を掻き分け、斜面を這い上がり、転がり下り、必死で活路を探している。こんな生など投げ捨ててしまえばいい。そうすれば自分以外の者たちにも平穏が訪れるというものだ。
(そして世界は調和する……)
汚らわしい殺戮者が取り除かれて、全き神の世界が修復されるのだ。
(なぜ?)
沙子は斜面を滑り落ちながら自問した。草叢に転がり込み、枯れた枝葉に掻き切られながら、さらに樅の中を遮二無二走る。青い闇は見通しが利いたが、一条の光も見えないことに変わりはなかった。山入からは遠ざかっているのだろう、煙の臭いは薄れたが、背後から風に乗って届く追っ手の声は、近づきもしない代わりに遠ざかりもしなかった。やっと振り切ったと思っても、別の方角から違う声が聞こえる。追っ手は信じられないほど執拗だった。当然のように、とも言える。そう、罪は必ず罰と張り合わされているものだから。
(なぜなの?)
繁みを掻き分けると、開けた場所に出た。沙子はやっと自分が今どこにいるのかを理解した。目の前には、異形の怪物の屍ような黒い建物が残骸を曝していた。
――なぜ。
沙子はその建物に駆け込む。青い闇、堆積した沈黙と絶望、高窓には信仰と決意が掲げられながら、それが見下ろす空間のどこにも信徒はおらず、空洞の祭壇は祈るべき対象を欠いたまま朽ちていこうとしている。
沙子はその祭壇に駆け寄った。
「なぜそんなに、わたしを疎むの!」
救済を求めて縋るべき神がいない。なぜなら沙子こそが神に敵対するものだからだ。
「でも……望んで敵になったわけじゃないわ」
死に瀕する自分を救ってもくれなかった。起き上がることを止めてもくれなかった。沙子を罪から遠ざけることはしなかったくせに、許しを施してくれることもしないのだ。
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なぜ、さほどに我を憎み給うか。
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「どうしてなの!」
がたり、と背後で音がした。沙子は祭壇に縋って振り返った。青い闇をハンドライトの光が切り裂く。戸口には厳つい男の影が立ち塞がっていた。
「どこに逃げようってんだ、え? 逃げ場はねえって言ってるだろうが」
大川は、怯えたように振り返る少女を見据えた。息が荒い。脇腹が痛むが、いまは獲物を捕捉した、という高揚感の前にさほどの苦痛を感じなかった。少女は身を翻し、小動物のように声を上げて廃屋の片隅に逃げ込もうとする。いたいけに見えるのが、おかしかった。さんざん村の者を殺したくせに。――だが、いかにも怯えたふうがいい。溜飲が下がるというものだ。
大川は足を踏み出す。恐怖を露わに、逃げ場を探すのが楽しい。いまにもと迂回しそうな荒ら家で、天井の一郭も落ちてはいるが、四方の壁は無事なようだった。袋の鼠だ。何が何でも捕まえてみせる。悲鳴も上がらないほど残虐に殺してやる。想像すると愉しくて、哄笑が喉をついた。それに怯えたように少女が足を止め、一瞬、身を竦めてまた物陰を探して走り始めのが、さらに笑いを誘った。
少女が転ぶ。足掻いて立ち上がり、逃げる。焦っているのか、少女の足が縺れだした。大川少女と戸口の間に立ち塞がりながら、着実に距離を詰めていった。仲間の声が耳に届かなくなったが、あんな子供一人、仲間の手などなくても大川ひとりで事足りる。さらに距離が詰まった。傾いたベンチを挟んで向き合い、大川は床を蹴った。ベンチを踏み台に、少女の身体を薙ぎ倒すようにして飛びかかり、床を転がってついに敵を捕らえた。
「捕まえたぞ、餓鬼!」
羽交い締めた腕の中で少女が悲鳴を上げて、大川は爆笑した。これで終わりだ。ついに敵は大川の支配下に堕ちたのだ。
少女の胴は、片腕で抱えられるほどしかなかった。身もがく身体を締め上げる。とっさにだろう、少女が大川の首に抱きつこうとしたのを見て取って、空いた片手で顔を突いた。そのまま手近の壁に後頭部を叩きつける。
「とうとう観念するしかなくなったようだな、え?」
荒い呼気の合間を突いて笑いが漏れる。哄笑は止まらなかった。首の付け根、顎を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで締め上げ、壁に押し付けて宙吊りにする。少女は細い手足を振りまわしたが、大川はその衝撃を毛ほどに感じなかった。
じたばたするな、と命じながら、大川は獲物が抵抗することを楽しんでいた。傷つけられまい、逃げようとして虚しい努力をしているのを踏みにじるのが愉しい。これがこの人殺しの末路だと思うと笑いが止まらなかった。かろうじて束縛を逃れた少女の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで振りまわす。床に叩きつけ、馬乗りになり、そして腰に帯びた杭を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。杭を構えた瞬間、少女が悲鳴を上げて海老反った。
「怖いか? これが怖いか」
嗤わせてくれる。なんて愉快な小娘だ。
大川は爆笑し、ふと思いついて杭を置いた。代わりにナイフを取り出して手近のベンチの端に突き刺し、細く木片を裂き取る。
「怖がらせちゃあ、可哀想だ。これならどうだ? これっぽっちなら怖かねえだろう」
大川が示した木片は十五センチほど、身をよじる少女の腕を捕まえて引き起こし、手近の壁に張り付ける。
「やめて、お願い!」
「そりゃあないだろう、お嬢ちゃん。あんたみたいな人殺しがそれを言うのは、お門違いってもんだ。そうだろう、え?」
「杭はいや! お願いよ!」
大川は笑った。笑って少女の腹を膝で突き上げて支え、木片を白い掌に突き立てた。体重をかけて薄い身体を壁に押しつけ、金槌を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。少女は目を見開き、悲鳴を上げた。木片は一撃で薄い掌を貫き、壁に縫い止めた。大川はまた爆笑した。
「お楽しみはこれからだ」大川は痙攣する身体を見下ろす。「あんたの餌食になった遺族を全員、呼んでくるってのはどうだ。全員にこういう小っこい杭を持たせて打たせてやるんだ。それでこそみんなも溜飲が下がるってもんだろう」
少女は喘ぐ。呻きながら嗚咽を漏らした。
「人殺しの化け物が。今までいったい、何人の人間を殺したんだ、え? 一度でも仏心を起こしてやったことがあるのか。家族のことを考えてやったことがあるか?」
少女の返答はない。苦痛のあまり答えられない、というように見えた。大川の声さえ耳に入っていないのかもしれない。
「お前はまだ死んでない。だが、みんな死んだんだ。お前が殺した。こんなもんで済むと思うなよ」
大川はさらにベンチから木片を削ぎ取った。先を尖らせるために少女の腹に当てた膝を緩めると、縫い止められた掌を支店に少女の身体が沈む。それを笑いながら先端を削り、再度、釘のような杭を作っていると、少女の掌のほうが裂けて身体が落ちた。
裂けた手を胸に抱き込み、悲鳴を上げて蹲る少女を大川は笑いながら見下ろす。少女の腰を踏んで、せっかく捕らえた獲物を逃がすような愚は犯さなかった。
惨いとは思わなかった。哀れみは必要ではない。これは正義だ。ここにいるのは残虐な化け物であって、慈悲の必要な子供などではない。誰も大川を責めはしないだろう。
木片から杭を削りだした。手許と少女を見比べるのに忙しく、大川は背後に近づいた人影に気づかなかった。廃屋の外で吹きすさぶ風の音が、背後の気配を完全に隠していた。
それに気づかなかったのは、沙子も同様だった。腰を踏み据えられた大川の足が緩んで、やっと頭上を仰ぎ見る余裕ができた。大川は前のめりにたたらを踏み、片手で頭を抱えて驚いたように背後を振り返った。暖かな血が、沙子の顔に降りかかってきた。
痛みのせいで目がかすみ、大川の背後にいる人物の顔はしかとは見届けられなかった。ただ、重い刃物が鈍く光って大川の側頭部に落ちた。大川は呻いて前のめりに泳ぎ、かろうじて近くのベンチに手をついて身体を支えたが、その後頭部に向かってまた刃物が振り下ろされた。
耐えかねたように、大川の身体が落ちた。軽く地響きがし、舞い上がった埃が渦を巻く。
沙子はいつの間にか、起こしていた上体を縮めた。救済などあるはずがない。沙子に奇蹟を施してくれる神はいない。なのに、誰かが確かに沙子を救ってくれたのだ。
沙子は呆然と人影を見上げた。
「……室井さん」
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静信は沙子を見下ろした。沙子の驚愕に見開かれた目が、ふいに悲嘆を浮かべるのを、確かに見たように思った。
静信はそれから目を逸らし、右手に握ったままの山刀を手放した。それは落下し、倒れた男の無惨な傷痕の近くの床板に突き立ってから倒れた。男の後頭部は藻が付着した岩礁のように見えた。滑らかな丸みが失われ、そこに付着して海草のように絡み合った髪は濡れている。おそらく生きてはいないだろう。その体格から、大川富雄だろう、と静信は目算をつけた。
風が樅の枝を揺すって潮騒のような音を立てていた。風には焦げ臭いにおいが混じっている。光源になるものもないのに視野は明るい。まるでフィルターをかけたように全てが青ざめ色彩を失っていたが、暗くはなかった。大川の傷の細部が見て取れる。それは限りなくおぞましい眺めのはずだったし、事実、静信はその凄惨な傷痕から目を逸らさずにはいられなかったが、同時にその傷痕は別の情動をも惹起した。それを明確に意識に乗せ、自覚することは無意識が拒んだ。
静信は床に蹲った沙子に視線を戻した。奇妙に明るい視野の中、自分のほうを見上げる沙子の複雑な表情も絵に描けるほど明瞭だった。枯れ草にまみれた乱れ髪と、泥や煤をなすりつけたような白い顔。見つめるうちに沙子は顔を歪め、俯いた。
「室井さん、……わたし」
屋外の風音に掻き消されても良さそうな微かな嗚咽もまた、明瞭だった。脇腹の焼け付くような痛みは鈍痛を残して引いていた。手を当ててみると血糊を吸った服から粘ついた液体が浸み出してきたが、手で堰き止めても溢れてくる、という感触はもうなかった。きっと止まっているのだろう。
信明は甦生した。美和子が死んだのは屍鬼に襲われたせいではなかったが、もしもそうなら、やはり甦生したのかもしれない。おそらくは、そういうことなのだろう。
変容に対して衝撃は受けなかった。少なくとも現在は、それを淡々と受け止めている自分を、静信は自覚していた。ひょっとしたら、静信はこれを予感していたのかもしれない。振り返ってみれば静信はこのところ、自分の身体に違和感を飼っていた。
「沙子」呼びかけた声もやはり淡々としていた。「怪我は」
沙子は俯き、顔を覆ったまま頭を振る。片手に酷い傷が見えたが、とりあえず、沙子は庇っている様子ではなかった。あるいはすでに塞がり始めているのかもしれなかった。
「では、立つんだ。急いで逃げないと火に追いつかれる」
沙子は再度、頭を振った。静信は膝をつき、沙子の髪から枯れ葉を払い落とす。乱れたそれを軽く撫でつけた。沙子は顔を上げた。
「逃げない。……室井さんも、ここにいて」
「沙子」
「そのほうがいいの。このままここにいて、全部を終わりにするの。ここがわたしたちの墓所になるのよ」沙子は静信の袖を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。「――それともわたしと一緒に死ぬのはいや?」
「立つんだ」
静信は沙子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。引きあげようとした沙子の身体は、思ったよりも数段、軽く、勢いあまって腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで抱き上げる格好になった。
「逃げても意味がないのよ、室井さん」
沙子は身を捩って静信から逃げ出す。内陣の奥へと走り込んだ。
「分からないの? あなた――血の臭いが変わってる」
静信はこれに返答をしなかった。そう、沙子にも分かって当然だろう。静信自身も、分かっていたのだから。黙ったまま沙子を促そうとすると、沙子は怖いものから身を引くようにして飛び退いた。
「逃げても自分からは逃げられないの。それから目を逸らさないで!」沙子は言って、ベンチの間に倒れ込んだ大川の死体に指を突きつけた。「あなたの犯した罪はあなたを追ってくるのよ。絶対に逃げられない。罪深いだけの命なの。あなたが生き延びようとする限り同じ罪が無限に作り出されて、永遠にあなたを追ってくるのよ」
静信は頷いた。「……だろうね」
「逃げられないの、絶対に。あなたはいま、この場を乗り越えることしか考えられないかもしれない。実際に人と火が追ってくるんだものね。それからは逃げることはできるかもしれない。けれども追っ手や火から逃げても、あなたは何者からも逃れたことにならないのよ。きっと後悔する。あのとき逃げなければ良かった、って。いまなら間に合う。あなた、まだ悔いるほど生きてない。傷ついて倒れたときのことを思い出しなさい。あのまま眠ってしまったと思えばいいのよ。そうすれば」
「来るんだ」
静信は沙子の腕を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで戸口へと引いた。戸口からのぞいた空が赤い。風に乗って火事場の臭いが吹き込んできている。狩人は山入の火災に気づいたろう。たとえまだ気づいてないにしても、じきに気づく。このまま北山を横切って上外場の集落に出ることができれば、火事場の混乱に乗じて車の一台ぐらいは手に入れることができるに違いない。
「わたしは、いや!」沙子が身を捩った。「お願い、ここにいて。わたし、ここから動きたくない!」
静信は黙って沙子を引きずった。沙子の足許で歪んだ床板が軋んだ。
「わたしはもう終わりにしたいの。でも、あなたが残ったら、わたしの罪は終わりにならない。なにもかも精算してしまいたいの。やっと踏ん切りがついたの。お願いだから、そうさせて」
「きみは自棄を起こしているだけだ」
「そうよ。自暴自棄になっているの。それでいいの。わたし、やっと自分を投げ捨てる気になれたの。気の迷いでも何でもいい、今はその決心がついてる。このままここにいれば、気が変わったときには手遅れになってるわ。それを望んでいるの――お願い」
静信は沙子を振り返る。沙子は断固としてその場を動くまいと、傾いた祭壇に縋った。
「沙子、ぼくは確かに君の犯した罪の具現だ。ぼくがこの世に生き延びている限り、君が死んでも君の罪は終わりにならない。ぼくを起点とする汚染が、君の罪を血脈のように伝えていくんだ」
「室井さん、だから」
静信はその場に膝をつく。
「ぼくは君が、なぜ十字架を恐れ、招待なしに人家に入り込むことができないのか知っていると思う」
沙子は祭壇に縋ったまま目を見開いた。
「ほんとうに?」
静信は頷く。
「たぶんね。実際の摂理は分からないが、その意味は分かったと思う」
「なぜ……? どうして?」
「世界は調和しているからだ」静信が言うと、沙子は身を引いた。「君たち抜きで、世界は閉じているから」
「……分からないわ」
「世界は君たち抜きで完璧に整合している。君たちはそこに二度と入ることができない。君は十字架を突きつけられたとき、何を思うだろう?」
「何を……」
「――自分が、圧倒的な少数であり、例外であり、秩序の外に、つまりは世界の外にあることを思い知るんだ」
静信は空洞の祭壇を見上げ、二人を無言で見下ろしている殉教者たちを見上げた。
信仰は人々を束ねる。同門の隣人は血の繋がりはなくとも信仰という|縁《えにし》によってまとめられた同朋だ。信仰は慈愛を説き、博愛を説く。同種の生き物に対する団結の要請。この団結は、小さくはバラックの家庭から、血縁集団へ、地縁集団へと繋がり、圧倒的多数の無意識という神性によって束ねられ縒り合わされ、太くモラルと法と常識という強固な絆をつくって、人々を調和の中に編み上げている。
「その中に、君たちは決して入れない。君は十字架が怖いんじゃない。その背後に、寸分の間隙なく束ねられた人類を見るんだ。そうしてそこから、永劫閉め出された自分の孤立を悟る」
「わたしたちは……」
「聞きなさい。――孤立は恐怖だ。君を守ってくれる法はなく、秩序も常識もモラルもなく、縋り付くべき神もいない。哀れんでくれる隣人もない、君のために義憤を感じてくれる同志もいない。君は世界に、ただ一人、守るものも保障を与えるものもなく、本当にまったく一人で立ち向かわねばならない」
「ええ、そうよ。でも」
沙子の縋る祭壇に神はいない。掲げられる何物も存在しない。
「屍鬼になるということは、孤絶を意味する。屍鬼は繁殖できない。血統は途絶し、家は崩壊する。遺伝は途絶える。血の絆も断たれる。捕食者と餌食には絆のありようがない」
「いいえ、でも」
「屍鬼になるということは、そういうことなんだ。血縁に象徴されるあらゆる縁からの隔絶。ばらばらになり、君はいかなる集団にももはや|縁《ゆかり》を持てない。君はここで、屍鬼だけの社会を、集団を作ろうとした。そんなことができるはずがないんだ。君たちは流浪の民だ。いかなる縁の中にも戻ることができない。屍鬼は徒党を組めない。なぜなら、獲物に対して捕食者の数があまりに増えれば、均衡が破壊されるからだ。同じテリトリーの中にあまりに多くの狩人がいれば、獲物は狩人の存在に気づく」
沙子は怯えたように静信を見上げる。
「わたしが悪かったというの? 法外な望みを抱いたからいけないって?」
「そうじゃない。――君たちは異端者だ。君は徹底した異端であり、首筋にはスティグマが捺された。二度と剥がすことのできないそのスティグマは、きみたちを暗黒の論理で聖別する。君たちは秩序を追われた者だ。神の論理で調和した世界に君たちは二度と立ち寄ることが許されない」
「酷いことを……言うのね」
「沙子」静信は泣くに泣けず乾いた少女の瞳を見る。「ぼくは君たちを哀れだと思う。君たちの存在は悲劇だ。それよりもっと本当に悲劇的なのは、君たちがすでに神の範疇を零れ落ちたにもかかわらず、信仰と思慕を捨てられないことなんだよ」
「……信仰……」
「君は、神様に見捨てられたという感じが分かる、と言った。そうとも、君たちは、死者が甦るはずもないという摂理を裏切った瞬間に、神に見放されたんだ。君は狩人になった。人を狩らねば生きていけない。人を狩るということは、人を殺すということで、それは絶対的な悪だ。――そう定めたのは誰だ?」
沙子は目を見開いた。
「それは君を見捨てた神の論理だ。本当は屍鬼でなくとも、あらゆる生命は命を狩るんだ。人が、生物が生きるためには、必ず何かを犠牲にする。何かの犠牲なしに生きることのできる者など、どこにもいない。有害であるものは有害であることによって、無害であるものは有益ではないことによって、やはり何かを犠牲にしていく。人が世界の中で生きるということは、世界から自分の取り分を搾取して、自分以外のあらゆる他者を、自分のために折り曲げるということなんだ。そうとも――この地上はそもそも罪人の住まう流刑地なんだよ」
静信は沙子の手を取って、そっとその祭壇から引き剥がした。
「にもかかわらず、君は神の論理に徹底的に縛られる。すでに神の範疇を逸脱したものは、神の調和で裁くことができず、神の摂理で言う罪が適用できるはずもない。なのに、君は依然、神を信仰していて、神の秩序の中に戻ることを切望していて、そのために君は神の秩序に悖る自分の行為を、どうあっても自主的に圧倒的な罪だとして受け止めなければならないんだ」
「……わたし」
「君たちは秩序を逸脱した自分を憎み、秩序を慕い、そこに戻ることを切望したあげく、自分たちを受け入れてくれる秩序を作ろうとした。しかしながら神の秩序を真似る限り、それはもう君たちを守るものとしては機能しないんだ。君たちは神の秩序を自分たちの手で再現しようと思った時点で、自らを罪人として排除し罰するシステムを作り出そうとしたことになるんだ」
沙子は顔を覆う。
「殺人は神の範疇の罪だ。君は甦ったときに神の掌から零れ落ちた。罪と咎められ、弾劾される権利でさえ失ってしまったんだ。――それが異端になるということなんだよ」
「それって、もっと酷いわ……室井さん」
うん、と静信は頷いた。
「君が甦ったこと自体が、とても酷いことなんだよ」
顔を覆った沙子の背を静信は抱く。
「きみは――」
言いさして、静信はすでに血糊の乾いた自分の腹を探った。
「――ぼくたちは生きていかなくてはいけない」
「わたし、こんな命はいやだわ」
「それでも、ぼくたちは死なないでいるなら、生きていくしかないんだ。もちろん、死なないでいることと、生きることは同義じゃない。死にたくないという望みと、生きたいという望みもまた同義じゃない」
「ええ、そう。そしてわたしは、生きたいとは思えない。ただ、死にたくないの。それってとても虚しいことだわ。そんな生にしがみついていなくてはいけないの?」
「けれども、生きるということは結局のところ、存続のための存続に奉仕するということなんだよ。ただ存続のために存在する、その虚しさを抱えて、それでも諦めずにいるということなんだ」
「あがく、ということ……」
静信は頷く。
「そう、ぼくは思う」
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山入の火災が北山の稜線を越えた。
敏夫はそれを絶望的な気分で見た。風は真っ向から吹き下ろしてくる。火の粉が舞って、すでに村に降り注いでいた。文字通り――早すぎる雪のように。
「これは駄目だ……」
敏夫は呟いた。部外者の介入は避けられない。北山の稜線を越えた以上、この明かりは溝辺町からも見えているに違いない。じきに消防車が駆けつけてくるだろう。
「尾崎さん……」
結城に問われ、敏夫は頷く。境内には、まだ屍体が残っており、しかもまだ村の各所にも残されたままだった。とても全部は集めきれない。
「こうなったらもう、火勢に任せるしかない。全てを火の中に投げ込んで、口を噤むんだ」
炎の蹂躙に任せ、全てを業火の中に葬る。村人は離散し、外場は消滅する。後には屍体が残されるが、誰も何もいわなければ、何が起こったのか、外部の人間が推測することはできないだろう。
敏夫は脱力してその場に腰を下ろした。自分のしたことは何だったのだろうか、と虚脱した頭の隅で思った。村を救いたかったはずだ。だが、その村は完全に崩壊して消え去るのだ。
「……負けなのかな、やはり」
敏夫が呟くと、結城が怪訝そうな表情で傍らから見下ろしてきた。
「勝ち負け……なんですか? 誰に対する?」
「さあ。誰だろう。おれは村を救いたくて、なのに失敗したわけで……」
「村を救うというのは、村の崩壊を食い止めるという意味ですか。それとも村を正常な状態に戻すという?」
敏夫は結城を見上げ、瞬いた。自分でも驚いたことに、敏夫自身、どちらなのか分からなかった。
「侵略を食い止める、なのかな。そういう意味では、まあ、何とかやるだけのことはやれたんだろう。屍鬼のほとんどは狩ったと思うから。だが……」
村の存続を守る、という意味なら完全に敏夫は敗北したのだ。村はもう存続できない。それどころか、敏夫の行為は消滅を促したとさえ言える。そして、炎の中に消え失せていく村が常態を取り戻すことなどあり得ない。敏夫が守ろうとしたものは完全に失われてしまった。
だが、と敏夫は思う。村を常態に引き戻すことなど、果たして可能だったのだろうか?
敏夫は疲弊していたし、なのに問題は山積していた。村の誰もがこの狩りをどれだけ続ければいいのか、と思っていただろうし、敏夫もやはりそう思っていた。どれだけの屍鬼を狩り出せば、全てを倒したと安堵できるのだろう。まだ残っているかもしれない、と疑心暗鬼に囚われながら、警戒を続けるのか。狩りを続けるのか。事態を揉み消すために、これからどれだけの労力が必要になっただろう。役場の人間は全員がいないも同然だ。それをどう報告し、言いくるめるのか。孝江の死だってある。それを外部にどう伝えるのか。
そうか、と思った。敏夫は村を救おうとしたが、どこかの時点で、村を救う術など失われていたのだ。敏夫がやったのは悪足掻きに等しい。ただこのまま諾々と滅んでいきはしないと、最後に矜恃をかけて一矢報いた、それだけのことなのかもしれなかった。
「……これで良かったのかもしれないな」
そうですね、と側に立っていた結城が呟いた。
「今から思うと、いっそのこと住民を避難させて一気に村を焼き払ってしまっても、同じことだったのかもしれないです」
「ああ……そうかな」
「よく考えたら、我々が村を侵略以前の状態に戻すことなんてできるはずもなかったんです。あれだけの人間が失われて、その欠落を埋める方法なんかなかったんですから。最後に敵に襲いかかってみせたのは、文字通りの抵抗にすぎなかったという気がします。それとも報復だったのかな。殴られたら殴り返してやるんだという」
「そうかもしれん」
「こうして冷静になってみると、屍鬼を狩って、それで何を取り戻せるつもりでいたんだろう、という気がしませんか。屍体を抱えて記憶を抱えて、このまま村に踏み留まれる者がどれだけいたんでしょうね。しかも周りは共犯者だらけなんですよ」
「……ああ」
「ここにいる限り、絶対に忘れられない。けれども村が残れば、意外に人は踏み留まろうとしたんじゃないかという気がします。地縁というのは強いものですね。わたしも息子がここにいる限り、離れられなかったと思う」
「そうかもしれない。そうして残っても、誰もがみんな悪夢の中に半分、足を突っこんだままだ。死ぬまで目覚めることはないんだろうし、それを思えば村が残っても常態が戻ってくることなんかあり得なかったんだろうな。村は変わる……かつてからは想像もつかないような、途方もなく|歪《いびつ》な姿に」
「それこそ起き上がりですね」
「そうだな……」
だったら荼毘にしてしまったほうがいいのだろう。畢竟、そのほうが村のためだ。だが、そこにしか辿り着けなかった自分が悔しい。そう――、確かに村を常態に引き戻す術など失われていたのだ、とうの昔に。自体はどこかの時点から修正不可能なところに踏み込んでいたのだし、もちろん敏夫にだってそれは分かっていた。それでも何かをしなければならないと――。
「そうか……」と、敏夫は呟いた。結城が問いかけるような声を上げたが、これには答えなかった。
自分は何かをしたかったのだ、この村で。村に唯一の病院、村人の生命を預かっているといいながら、実はそれはすでに敏夫の手の中にはなかった。病院としての意義を失った病院、医師としての意義を失った医師、尾崎としての意義を失った尾崎。
「参ったな……あいつの言った通りか」
そう、幼なじみの言ったように、自分はこの状況を支配したかったのだ。倦怠があった、辟易していた。何よりもただ虚しかった。だからこそ疫病を、あるいは敵を組み伏せることで自分の存在意義を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]み取りたかった。自分の振るまいが世界を改変し得ることを、確認してみたかったのだ。自分の存在は決して、世界にとって無価値な泡沫のひとつにすぎないわけではないことを、自分にも他者にも証明したかった。
それには成功したのだろうか? そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。どちらにしても、これで終わりではあるまい。自分はおそらく、生のある限り、そうやって泡沫にすぎない自己に抵抗し続けるのだ。そんなものなのかもしれんな、と敏夫は北の山を見上げた。そして敏夫と同じく、虚脱したように山を見上げてている人々に声をかける。
「全員を『ちぐさ』に集めよう。分乗する車の割り振りを決めないと」
「でも――先生」
「せめて着替えるぐらいは、着替えておいたほうがいいだろうな。みんな血だらけだ。車を出して、家に荷物を取りに行く者がいるようなら送ってやれ。とりあえず、その間に怪我人と子供を分乗させて、一足先に村から出す算段をしよう」
はい、と周囲の者が頷いた。敏夫はもう一度、北山を見上げる。火勢はもう山寺に迫ろうとしている。――全てを呑み込んでいく。
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終章
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「なんとかですね、室井さんにインタビューをさせていただきたいんですよ」
男は言って、喫茶店の狭いテーブルの上に本を置いた。カバーを外されたその本は、つい先だって津原自身が手がけたものだった。それを指の先で軽く叩き、男は煙草に火を点ける。フィルターを|啣《くわ》えた口許は笑っていたが、津原は男が、実は苛立っていることを了解していた。
「連絡先を教えていただけませんかね。電話でも繰り返したように、室井さんに執筆をしてもらおうとか、そういうことじゃないんですよ。わたしは別に出版社の人間じゃない、単なるライターですからね」
「それは再三、聞きましたから了解しています。そうではなく――」
津原が言いかけると、男は手を挙げて言葉を遮る。ちょうどそこにウェイトレスがコーヒーを運んできて、津原も言葉を続けるタイミングを失してしまった。
「室井さんに話を聞きたいだけなんです。別に何か書いてもらおうなどとは思ってない。もちろん、暴露記事を書きたいわけでもないです。差し障りがあるというなら、室井さんのお名前は伏せてもいい。わたしは単に外場に興味があるだけなんです」
男はいかにも年期の入ったふうな鞄の中から、フォルダを取り出した。台紙にきちんと貼り込んだ新聞の切り抜きをざっと示す。見るまでもなく、それが昨年に起こった例の事件のものだということは分かっていた。
「外場村に住んでいたんでしょう、室井さんは。少なくとも例の事件の直前まで外場に住んでいたことは間違いがないはずです」
「確かに、そうです」津原は答えながら、何度、同じやりとりをすればいいのだろう、という気がしていた。「しかし、電話でも申しあげたように、ぼくは――」
男は再度、手を挙げた。うんざりしたように煙を吐く。
「どうして所在を隠すのかな。……あちこちに訊いてまわったんですけどね、どこも教えてくれないんだ。知らない、の一点張りで。みんなあの事件の後に連絡を取ってない、と言うんです。しかし、そういうことがあり得るんですか? 普通、付き合いのある作家の住んでいる町が焼けたと聞いたら、見舞いの電話ぐらいするもんなんじゃないですか」
もっとも、と男は口許を歪める。
「火災のせいで電話は不通だったし、あの後、村は存在しなくなったと言っていい。なにしろ、四百戸からあった家屋がほぼ全焼して住人も離散したまま、四か月近く経ったというのに、戻ってきた者はいない。事実上の廃村ですよ。住人のほとんどは転出してますけど、室井さんは転出届を出してない。外場に住民票を置いたままです。だから、室井さん本人から新住所を知らされない限り、連絡先の知りようがない、というの他者の言い分は分かる。――しかし、おたくさんの場合それは通らない。つい先日、室井さんの新刊が出ているじゃないですか」
男は笑って、テーブルの上の本を示した。
「しかも、聞くところによると、津原さんは室井さんの先輩だそうで。同じ大学の卒業生で、同じ寮に入っていた。室井さんがデビューしたのだって、おたくさんの雑誌からだ。いろんな意味で旧知の間柄でしょう。しかも新刊だって出てる。相応のやりとりがあったはずですよ。原稿を受け取って、ゲラ刷りを出して著者校正を受け取って――違いますか?」
「それは、そうですが」
「そちらさんがね、神経質になるのも分からないわけじゃないです。なにしろ、とんでもない事件だったから。――実際、妙な事件だ」
男はフォルダから新聞の切り抜きを引き出す。ざっと広げて見せた。
「最初は単なる山林火災に見えたんです。続報が入ってみると、すでに村がひとつ火災に呑まれたらしい、という。折からの異常な乾燥と強風に煽られて、火は麓の市街地に迫っていた。最終的に少なくとも市街地への延焼は食い止めたわけですが、それまでに一千ヘクタールの山林と村がひとつ焼失している。しかしながら、市街地が大丈夫だと分かった段階で、我々としちゃ火事は終わった気分です。正直言って、どこか田舎の山が焼けているからって、我々には関係がない。村がひとつ焼けたようだけれども、住人は何とか避難したって話しだし、現場には報道陣はもちろん、消防車さえ満足に近づくことができなかった。遠目にヘリからの映像が入ったくらいで、そんなんじゃ、村が焼失したと言われたってピンと来ない」
男は切り抜きを繰りながら、自嘲めいて笑う。
「マスコミが取り上げない事件は事件じゃない。特にテレビですよ。実際にカメラが現場に入って、村が炎上しているところを映してなきゃ、集落がひとつ消えたって、その重大性がよく分からない。いつの間にか我々にとってのリアリティってのは、リアルな映像ってもんを抜きには成立しなくなっているんだな。『生々しい現実』ってやつは『臨場感あふれる映像』と同義なんです、お笑いなことに」
はあ、と津原は、とりあえずこれには頷いた。
「現場にカメラが入ることはできなかった。付近一帯に近づくことができなかったんですから。世間にとって、火災はリアルじゃなかったんです。市街地は無事だと聞いた時点で世間の興味は失せてしまった。実際に鎮火して、外場に報道陣が入れるようになるまでに一週間近くがかかったわけですが、その時にはすでに報道する値打ちがなかった。――その後に」
男は皮肉な笑みを浮かべて新聞記事の切り抜きを指の先で弾いた。
「報道する値打ちが生じたときには、何が起こったのか分からない状態になってしまっていた、というわけです」
「あの、ですから」
言いかけた津原を、男は何度目か、遮った。
「おたくさんがね、神経質になるのは分かりますとも。なにしろ妙な事件でしたからね。近辺の住人の証言を信じる限り、外場では昨年の夏以降、信じられない数の人間が死んでいたはずなんです。ところが戸籍を調べてみると、死人なんかでちゃいない。そういうね、怪談話のような事実が、鎮火して住民が離散した後になってゴロゴロ出てきた。焼け跡から出てきた、あの死体みたいにね」
男は口許を歪める。
「外場で何かが起こっていたんです。そのあげくに住人の誰かが放火して村は焼失し、あの惨状だけが残された。何が起こったのかは分からない。死人の数から考えても、外場村の住人の多く――ひょっしたらほとんどが関係していたはずなんだ。ところが、あの大火のせいで外場って村は、もはや存在しないも同然だし、肝心の住人だって離散しちゃってる。なんとか行方を探し出しても、何も知らないか、さもなければ頑強に口を閉ざす。完全に行方をくらました奴もいる。それどころかあの後、首を縊ったり病院に入った者も少なくない」
「……ええ」
「室井さんはその渦中にいたんですよ。しかも室井さんの家は、外場では威光のある寺だったっていうじゃないですか。寺の坊主が読経しなくて、誰が死者を葬るんです。室井さんは絶対に詳しいことを知ってるはずだ。ぼくはそれをですね、ぜひとも聞かせてもらいたいわけですよ」
言って男は津原の顔を覗き込む。
「ひょっとして、室井さん。そちらで書いてるんですか」
「何をです」
「ですから、例の事件を、ですよ」
いや、と津原は首を振った。
「じゃあ、こうしませんか。ぼくに室井さんのインタビューをさせてくれる。それをまとめて、そちらさんから本にする」
津原は少し、空になったカップの中を見つめた。
「……それはできないんです」
なんで、と相手は不満そうな声を上げた。
「どうしてそこまで頑強に隠すのかな。ひょっとして、室井さんを庇ってるんですか」
「そういうことじゃないです。室井は消息が分からないんです」
あのね、と苛立ちを露わにした相手を、今度は津原が遮った。
「本当に分からないんです。匿っているわけでもないです」
「でも」
「あの事件が新聞に出る前にですね、その本――『屍鬼』の原稿が送られてきました。住所は伊豆の旅館になってました。しばらくそこにいるということなので、そこで校正までやってもらいましたが、室井は校了と同時にそこを引き払いました」
「今、どこに」
「分かりません。それきり、音沙汰がありませんから。事件については何も聞いてません。いまは訊かないでくれ、というので無理には訊かなかったんです」
「そりゃあ、通らない。校了で接触が終わるわけじゃないでしょう」
「終わりだったんです。見本誌を送ろうにも送り先が分からなくて、念のためあちこちに発送してみましたが全部が転送されて戻ってきました。いつもの口座に印税を振り込もうとしたら、口座も解約されていました」
津原は呆気にとられたような男を見つめる。
「最近になって葉書が来ましたが、住所はありません。印税は適当に寄付してしほしいと」言って、津原は自分の手を見下ろす。「――あれが室井という作家の絶筆です」
津原は困惑したままの男を残して喫茶店を出た。暦の上では春になったが、陽の落ちた街を渡る風は冷たかった。肩をすぼめて足早に社に戻り、連絡板の書き込みを消す。自分の席に戻ると、机の上に津原宛の郵便物が積まれていた。ざっと差出人を検め、窓際にある棚の上に放り出していく。このところ、郵便物を検めるたびに必ず感じる落胆を今日も感じながら席に戻った。椅子に坐って息をつく。上司の手から返ってきた葉書は、今もそこにある。
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津原 様
書店で拙作を見ました。立派な本にしていただき、ありがとうございました。
連絡を絶って申し訳ありません。お手数ですが、印税等につきましては、寄付するなり何なりと、宜しいようになさってください。
津原さんにはお別れを申し上げます。これまでお世話になりました。
これ以後、室井は死んだものとお考えください。
これまでの御厚情に、心から感謝いたします。
[#地付き]室井 拝
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津原はしばらくその文面を眺め、それを再び抽斗の中にしまった。机の上に広げたものを適当に掻き集め、抱えて棚の上に置く。代わりに郵便物を抱え上げた。
窓の外を見たのは偶然だった。
ネオンが瞬く街路を見下ろし、細い小道を挟んだ向かい側に何気なく目をやる。三階下の喫茶店の前に、上を見上げている人影があった。視線が交わったように思ったが、確証はない。津原のほうを見上げた少女は、ふいに視線を路上に戻して、夜の道を大通りのほうへと歩いていった。
少女は白いコートのポケットに両手を入れて、雑踏を縫って歩いた。
大通りに出ると、停車灯を点けて歩道脇に停まった車に歩み寄る。少女が助手席のドアを開け車に乗り込むと、運転席で俯いた男が少女に何事かを話しかけた。少女は二言、三言、言葉を返す。男は頷いて、車を出した。
車両は都会の通りを流れるテールランプの一滴になり、そのままそこに埋没して消え去った。
底本:「屍鬼(下)」新潮社 小野不由美著
一九九八年九月三〇日 初版第一刷発行
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
【底本中の誤字等】
一六四〇行目:「お笑い草」→「お笑い種」の誤り?
四五七四行目:「一部の隙もなく」→「一分の隙もなく」の誤り
五一八七行目:「返えし」→「返し」の誤り?
五四七一行目:「忿らせる」が読めない。「いきどおらせる」「おこらせる」「いからせる」? 当て字はルビがないとどうにも……
六〇八七行目:「呈に」→「体に」の誤り?
六二〇三行目:「資料」→「試料」の誤り
八〇七七行目:「眥が避けるほど」→「眥が裂けるほど」の誤り
九〇八一行目:「千裂石」読み、意味不明。解説求ム。
一二六九一行目:「食い緊げる」読めず。「くいつなげる」かな?
テキスト化 二〇〇四年十月